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ジョブ
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ジョブ (job)
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ジョブ (job) コンピュータにさせる仕事の単位。バッチ処理、ジョブ制御言語、ジョブ管理システムを参照。
ジョブ (プロレス) - プロレスで、やられ役が予定通りに敗北すること。
ジョブ (ファイナルファンタジー) - ファイナルファンタジーシリーズに登場するキャラクタークラス。
また、このゲームによる初出以降のRPGにおいても使用される事が多くなったシステムの一種。=ジョブシステム。
勤め口。職業とされることもあるが、雇用関係のあるものに限って言うことが多い。
ヨブの英語読み。旧約聖書の登場人物。
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'''ジョブ''' (job)
*[[コンピュータ]]にさせる仕事の単位。[[バッチ処理]]、[[ジョブ制御言語]]、[[ジョブ管理システム]]を参照。
*[[ジョブ (プロレス)]] - [[プロレス]]で、やられ役が予定通りに敗北すること。
*[[ジョブ (ファイナルファンタジー)]] - [[ファイナルファンタジーシリーズ]]に登場する[[キャラクタークラス]]。
**また、このゲームによる初出以降の[[ロールプレイングゲーム|RPG]]においても使用される事が多くなった(例:[[MMORPG]]の『[[ピグブレイブ]]』他)システムの一種。=ジョブシステム。
*[[雇用|勤め口]]。[[職業]]とされることもあるが、雇用関係のあるものに限って言うことが多い。
*[[ヨブ]]の[[英語]]読み。[[旧約聖書]]の登場人物。
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13,343 |
柴田ヨクサル
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柴田 ヨクサル(しばた ヨクサル、1972年7月1日 - )は日本の漫画家。北海道留辺蘂町(現:北見市)出身。
高校卒業後、すぐに上京し、小林まこと、ハロルド作石、渡辺潤のアシスタントを経て1992年に『谷仮面』で『ヤングアニマル』誌上にてデビュー。代表作『エアマスター』はTVアニメにもなった長期連載作。
高校時代、アマレス部に所属しており、作品の随所に自身の経験を活かした描写が見られる。「描きたいものが描けない」を理由に『アニマル』から『週刊ヤングジャンプ』に移籍した。
自身の作品に、過去作品のキャラを登場させることもあり、『ハチワンダイバー』にも『エアマスター』のキャラが、『妖怪番長』の最終回や続編の『カイテンワン』にも『プリマックス』のキャラが登場した。『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』には覆面姿ではあるが『エアマスター』のキャラと思しきキャラが登場している。
強い意思を持ったキャラクター、シニカルさと熱血を共に持ち合わせた独特なトーンの作品で人気を集めている。デビュー作・ヒット作は格闘漫画作品であり、『ハチワンダイバー』は将棋作品であったが格闘の様相を呈したアクション漫画となっている。
トーベ・ヤンソンとスガシカオのファン。ペンネームの「ヨクサル」は、『ムーミンパパの思い出』に登場し、ムーミンパパの友人でもあったスナフキンの父から。
『近代将棋』2007年4月号のインタビューで、子供の時将棋のプロを目指していたことなどを明かした。その腕前は佐藤康光や渡辺明と将棋の飛車落ちで対戦をし、勝利を挙げているほどの実力である。
渡辺とは1勝1敗。また藤田綾と平手で指し勝利している。
2008年11月17日、第34回将棋の日にて、日本将棋連盟より感謝状が贈呈された。
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柴田 ヨクサルは日本の漫画家。北海道留辺蘂町出身。
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{{Infobox 漫画家
| 名前 = 柴田 ヨクサル
| ふりがな = しばた ヨクサル
| 画像 = <!-- 画像ファイル名 -->
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| 脚注 = <!-- 画像の説明文 -->
| 本名 = <!-- 必ず出典を付ける -->
| 生年 = {{生年月日と年齢|1972|7|1}}
| 生地 = [[日本]]・[[北海道]][[留辺蘂町]]<br />(現:北海道[[北見市]])
| 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1972|7|1|YYYY|YY|YY}} -->
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| 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 -->
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| 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 -->
| 活動期間 = [[1992年]] -
| ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など -->
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'''柴田 ヨクサル'''(しばた ヨクサル、[[1972年]][[7月1日]] - )は[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[留辺蘂町]](現:[[北見市]])出身。
== 人物 ==
高校卒業後、すぐに上京し、[[小林まこと]]、[[ハロルド作石]]、[[渡辺潤]]のアシスタントを経て[[1992年]]に『[[谷仮面]]』で『[[ヤングアニマル]]』誌上にてデビュー。代表作『[[エアマスター]]』は[[テレビアニメ|TVアニメ]]にもなった長期連載作。
高校時代、[[アマレス]]部に所属しており、作品の随所に自身の経験を活かした描写が見られる。「描きたいものが描けない」を理由に『アニマル』から『[[週刊ヤングジャンプ]]』に移籍した。
自身の作品に、過去作品のキャラを登場させることもあり、『[[ハチワンダイバー]]』にも『エアマスター』のキャラが、『[[妖怪番長]]』の最終回や続編の『[[妖怪番長|カイテンワン]]』にも『[[プリマックス]]』のキャラが登場した。『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』には覆面姿ではあるが『エアマスター』のキャラと思しきキャラが登場している。
強い意思を持ったキャラクター、シニカルさと熱血を共に持ち合わせた独特なトーンの作品で人気を集めている。デビュー作・ヒット作は[[格闘漫画]]作品であり、『ハチワンダイバー』は[[将棋]]作品であったが格闘の様相を呈したアクション漫画となっている。
[[トーベ・ヤンソン]]と[[スガシカオ]]のファン。ペンネームの「ヨクサル」は、『ムーミンパパの思い出』に登場し、ムーミンパパの友人でもあったスナフキンの父から<ref>{{cite news
|title=ユリイカムーミン特集に西村ツチカ、ヨクサル
|url=https://natalie.mu/comic/news/122287
|work=コミックナタリー
|date=2014-07-29
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160818023542/https://natalie.mu/comic/news/122287
|archivedate=2016-08-18
}}</ref>。
=== 将棋 ===
『[[近代将棋]]』2007年4月号のインタビューで、子供の時将棋のプロを目指していたことなどを明かした。その腕前は[[佐藤康光]]や[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]と将棋の飛車落ちで対戦をし、勝利を挙げているほどの実力である。
渡辺とは1勝1敗。また[[藤田綾]]と平手で指し勝利している。
[[2008年]]11月17日、第34回将棋の日にて、[[日本将棋連盟]]より感謝状が贈呈された。
== 作品リスト ==
=== 連載作品 ===
* [[谷仮面]] (『[[ヤングアニマル]]』1992年9号 - 1996年15号、[[白泉社]]刊、全12巻)※完全版全6巻
* [[エアマスター]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/100231/|title=エアマスター : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-12-01}}</ref>(『ヤングアニマル』1996年22号 - 2006年6号、白泉社刊、全28巻)
* [[ハチワンダイバー]](『[[週刊ヤングジャンプ]]』2006年41号 - 2014年33号、[[集英社]]刊、全35巻)
** [[ザンガード]](『ハチワンダイバー』のスピンオフ作品、『[[月刊ヤングジャンプ]]』他で不定期連載、集英社刊、全1巻)
* [[妖怪番長]](『[[イブニング]]』2015年4号 - 2017年10号、[[講談社]]刊、全7巻)
** カイテンワン(『妖怪番長』の続編、『イブニング』2017年11号 - 2019年3号、講談社刊、全5巻)
* [[プリマックス]](原作担当、作画・[[蒼木雅彦]]、『週刊ヤングジャンプ』2015年21・22号 - 2017年21号、集英社刊、全10巻)
* 巫鎖呱 MISAKO(『[[ミラクルジャンプ]]』2012年10号 - 15号、集英社刊)※雑誌リニューアルに伴い中断
* ブルーストライカー(原作担当、作画・沢真、『[[コミックDAYS]]』2018年4月30日 - 2019年10月14日、講談社刊、全4巻)
* [[東島丹三郎は仮面ライダーになりたい]](漫画担当、協力・[[石森プロ]]・[[東映]]、『[[月刊ヒーローズ]]』2018年6月号 - 2020年12月号、『ヒーローズ』2020年11月27日 - 、ヒーローズ刊、既刊13巻)
* ヒッツ(原作担当、作画・沢真、『月刊ヒーローズ』2020年8月号 - 2020年12月号、『ヒーローズ』2020年12月25日 - 、ヒーローズ刊、既刊4巻)
=== その他 ===
* [[テレビアニメ]]『[[さよなら絶望先生 (アニメ)|俗・さよなら絶望先生]]』第11話[[クレジットタイトル|エンドカード]]
* [[PlayStation Vita|PS Vita]]用ゲーム「[[Kingdom Conquest|SAMURAI & DRAGONS]]」キャラクターデザイン
* テレビアニメ『[[3月のライオン]]』第6話エンドカード
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://annex.s-manga.net/81diver/ ハチワンダイバー] - 公式サイト(ミニゲームあり)
* {{Wayback|date=20090412034907|url=http://manganohi.com/interview/14/4989.html|title=『柴田ヨクサル先生』 その1 | まんがのチカラ | まんが☆天国}} - インタビュー
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[[Category:日本の漫画家]]
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[[Category:北海道出身の人物]]
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エアマスター
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『エアマスター』(AIR MASTER)は、柴田ヨクサルによる日本の漫画、また同作を原作としたテレビアニメ。
『ヤングアニマル』(白泉社)にて、1996年22号から2006年6号まで連載された、女子高生コメディ格闘アクション。ギャグシーンや異常なキャラクターが次々に登場する異色格闘漫画だが、独特なバトル描写・独白がちりばめられた個性的な格闘シーンが繰り広げられる。単行本はジェッツコミックスより、全28巻。前作『谷仮面』の登場人物も何人か登場する(多くはゲストかおまけ漫画での登場だが、皆口由紀や静菜のように本編に主要キャラクターとして登場している例もある。なお、主人公の谷も1巻のおまけ漫画に登場している)。また、次作『ハチワンダイバー』にも、世界設定の関連性は明確にされていないが、『エアマスター』の登場人物が登場している。
「エアマスター」と呼ばれる連戦連勝、無敵のストリートファイター。その正体は、相川摩季という女子高校生だった。格闘家の父と体操選手の母から才能を引き継いだ彼女は、華麗な空中殺法の使い手へと成長し、ある種の伝説を作る存在にまでなっていた。
本作品では個性的な仲間たちとの友情、次々と現れる極めて個性的なライバルたちとの出会い・戦いの遍歴が描かれる。
ストーリーは導入となる「ストリートファイト四天王編」、北海道からやってきた不良集団とのバトルを描く「黒正義誠意連合編」、摩季がプロレスの舞台で戦う「女子プロレス編」、路上格闘家のランキングをめぐる「深道ランキング編」と展開し、最後にそれまでに登場した人物の多くが参加するバトルロイヤルが展開され、そこで終幕となった。
深道ランキングとは、日本中のストリートファイターの強さをランキングで格付し、彼らの路上での戦いを格闘マニア向けにインターネット配信し、その勝敗を会員の賭けの対象とするブックメーカーも行う組織である。日本中に会員が存在し、そのおかげでランカーたちの賞金は莫大な額になっている。深道の経営手腕やエンターテイナー性によって、絶大な人気と膨大な利益を上げている。しかしその実態は、究極を体現した男である渺茫を倒せる人材の発掘、深道本人の退屈を紛らわせることを目的とした組織である。深道自身がすべてのマッチメイクやスカウトを行い、イベントなども定期的に行っている模様である。試合が行われる場所には必ずと言っていいほどカメラマンか、監視カメラで撮影が行われている。
以下は本作にて行われたイベントの詳細を記述する。
試合は基本的にトーナメント方式で行われ、選手には深道お手製のGPSが渡され、自分の対戦相手の居場所がわかるようになっている。ランキングの低いものが高いものに挑んでいき、最終的に勝ち残った者が1位の渺茫に挑めるという形であった。しかし会員の要望に深道が答える形で、深道(弟)を坂本ジュリエッタに差し替えたり、本来当たるはずではなかった皆口由紀と相川摩季を急遽マッチメイクしたりしていた。
参加者はランカーなら誰でもOKな上に、グループ・部外者の参加さえも深道によって容認されていた。この企画の意図は、通常一対一で勝負した場合、渺茫が勝利することは目に見えているため、どうにかして渺茫は倒せないかという深道の願望によるものであった。結果的には、渺茫の最強を証明する結果に終わったが、深道の意思により敗退しながらも未だ戦う意思のあるランカーを集めて「ラスボス」である渺茫を倒す「深道クエスト」に発展していく。ただし、深道クエストに移行後も、バトルロイヤルのルールは継続している。
深道クエストとは、深道により企画されたバトルロイヤルが渺茫の優勝によって幕が下りる「想定通り」の結果をよしとせず、深道が組織したグループで渺茫を倒すことを目指した企画である。渺茫がエアマスターを倒した時点で、深道は渺茫の優勝を確信したが、その結果に満足しきれなかったため、自らメンバーを集めて渺茫を倒すことをめざしたのである。深道は長戸も誘うつもりだったが、金次郎の膝枕で天国に行きそうなほど幸せな顔をしていたため、遠慮したようである。
深道クエストに参加した月雄がその報酬である1100万を使い、購入、リフォームしたアパート。破格の家賃だが住人のほとんどが家賃催促を居留守を使って滞納しているため、ダメオーナーという理由で崎山にアパートを乗っ取られかけたこともある。
日本テレビにて、2003年4月2日から10月1日にかけて深夜枠でテレビアニメが放送された。アニメ版が放送された時点で、まだ原作が終了していなかったため、終盤のストーリーの変更など、独自の展開がなされている。アニメーション制作は東映アニメーション、監督は西尾大介。
なお、日本テレビが東映アニメの制作に参加するのは『キン肉マン キン肉星王位争奪編』以来約11年ぶりとなった。
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『エアマスター』は、柴田ヨクサルによる日本の漫画、また同作を原作としたテレビアニメ。 『ヤングアニマル』(白泉社)にて、1996年22号から2006年6号まで連載された、女子高生コメディ格闘アクション。ギャグシーンや異常なキャラクターが次々に登場する異色格闘漫画だが、独特なバトル描写・独白がちりばめられた個性的な格闘シーンが繰り広げられる。単行本はジェッツコミックスより、全28巻。前作『谷仮面』の登場人物も何人か登場する(多くはゲストかおまけ漫画での登場だが、皆口由紀や静菜のように本編に主要キャラクターとして登場している例もある。なお、主人公の谷も1巻のおまけ漫画に登場している)。また、次作『ハチワンダイバー』にも、世界設定の関連性は明確にされていないが、『エアマスター』の登場人物が登場している。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{otheruses|柴田ヨクサルの漫画作品|アニメ『[[機動新世紀ガンダムX]]』に登場する架空の兵器|ガンダムエアマスター}}
{{Infobox animanga/Header
|タイトル=エアマスター
|ジャンル=[[格闘漫画]]<br />[[ギャグ漫画]]<br />[[青年漫画]]
}}
{{Infobox animanga/Manga
|作者=[[柴田ヨクサル]]
|出版社=[[白泉社]]
|掲載誌=[[ヤングアニマル]]
|レーベル=[[ジェッツコミックス]]
|開始号=[[1996年]]22号
|終了号=[[2006年]]6号
|開始日=1996年[[11月8日]]
|終了日=2006年[[3月10日]]
|巻数=全28巻
|話数=全221話
}}
{{Infobox animanga/TVAnime
|原作=柴田ヨクサル
|シリーズディレクター=[[西尾大介]]
|シリーズ構成=[[横手美智子]]
|脚本=横手美智子、藤井文弥<br />広平虫、川崎美羽
|キャラクターデザイン=[[馬越嘉彦]]
|音楽=[[平野義久]]
|アニメーション制作=[[東映アニメーション]]
|製作=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[バップ|VAP]]<br />東映アニメーション
|放送局=日本テレビ
|放送開始=[[2003年]][[4月2日]]
|放送終了=[[10月1日]]
|話数=全27話
|その他=
}}
{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]、[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]]、[[Portal:アニメ|アニメ]]
}}
『'''エアマスター'''』(''AIR MASTER'')は、[[柴田ヨクサル]]による[[日本]]の[[漫画]]、また同作を原作としたテレビアニメ。
『[[ヤングアニマル]]』([[白泉社]])にて、[[1996年]]22号から[[2006年]]6号まで連載された、[[女子高校生|女子高生]]コメディ[[格闘技|格闘]]アクション。ギャグシーンや異常なキャラクターが次々に登場する異色格闘漫画だが、独特なバトル描写・独白がちりばめられた個性的な格闘シーンが繰り広げられる。単行本は[[ジェッツコミックス]]より、全28巻。前作『[[谷仮面]]』の登場人物も何人か登場する(多くはゲストかおまけ漫画での登場だが、皆口由紀や静菜のように本編に主要キャラクターとして登場している例もある。なお、主人公の谷も1巻のおまけ漫画に登場している)。また、次作『[[ハチワンダイバー]]』にも、世界設定の関連性は明確にされていないが、『エアマスター』の登場人物が登場している。
== ストーリー ==
「エアマスター」と呼ばれる連戦連勝、無敵の[[ストリートファイト|ストリートファイター]]。その正体は、相川摩季という女子高校生だった。格闘家の父と体操選手の母から才能を引き継いだ彼女は、華麗な空中殺法の使い手へと成長し、ある種の伝説を作る存在にまでなっていた。
本作品では個性的な仲間たちとの友情、次々と現れる極めて個性的なライバルたちとの出会い・戦いの遍歴が描かれる。
ストーリーは導入となる「ストリートファイト四天王編」、北海道からやってきた不良集団とのバトルを描く「黒正義誠意連合編」、摩季がプロレスの舞台で戦う「女子プロレス編」、路上格闘家のランキングをめぐる「深道ランキング編」と展開し、最後にそれまでに登場した人物の多くが参加する[[バトルロイヤル]]が展開され、そこで終幕となった。
== 登場人物 ==
; 相川 摩季(あいかわ まき)
: [[声優|声]] - [[朴璐美]]
: 主人公。身長184センチメートル。B88・W60・H87。16歳。「エアマスター」と呼ばれるストリートファイターで、戸的高校に通う女子高生。短い髪とピアスがトレードマーク。プロの格闘家・佐伯四郎を父親に、元体操選手・相川智を母親に持つ。幼少のころから、母から体操の指導を受けており、「体操の女王」呼ばれる程、体操選手として将来が期待されていたが、体操選手としては高すぎる身長のせいで着地を失敗することが多くなり、母を亡くしたことを機に引退する。傷心の中、[[ストリートファイト]]を目の当たりにし、ストリートファイトに体操をしているときと似た高揚を感じ、以後、多くのファイターたちと戦いを繰り広げていく。頭はあまり良くなく、料理は絶望的に下手。『[[ガラスの仮面]]』を愛読している。人見知りする性格で、幼いころから友人ができなかったため、高校生になってできた友人である美奈たちのことは大切に思っている。美奈や時田、坂本らに好意を寄せられているが、本人は色恋沙汰には疎いようである。「戦い」に関しては人一倍の興味と好奇心を持っているが、戦いにのみ没頭していく、もう1人の自分ともいうべき「エアマスター」の存在に、戸惑いを感じている。
: バトルロイヤルでは皆口、坂本・時田を倒した後、十五漢渺茫と対戦。先の3人との戦いで急成長し、十五漢渺茫とも互角に戦うが、急成長した力に体がついていけず敗北、意識はあるが体が動かない状態となる。そして深道クエストで死闘を繰り広げ、ついには壮絶に散った深道を見て、暴走した渺茫と闘い「エアマスター」ごと消えようと決意する。屋敷の勁と過去のライバルたちの思念により再び立ち上がるが、完調とはいえずに暴走した渺茫にあっさり吹き飛ばされたが、深道の「言葉」の力と過去のライバルたちの思いにより「これ以上は無いエアマスター」として復活、暴走した渺茫を降す。その後、過去の渺茫たちの思念体と精神世界において雌雄を決し、その全てを打ち破る(テレビアニメ版では、過去の渺茫たちの闘いはなく、渺茫との闘いもはっきりとした結末は描かれないまま、摩季自身が負けを認めている所で終了している)。
: 通称通り、両親譲りの運動神経と格闘センス、体操の経験を基に、高い跳躍力、身のこなし、強力な足技による空中殺法を操る。相手の攻撃に合わせて後ろに跳ぶ、空中で旋回するなどによって、その衝撃を吸収してしまうのが得意。技術の吸収にも長けており、かつての対戦相手の技を繰り出す。<!--物語中盤から後半において-->空気の流れを感じ取れるようになり、目に頼らずとも相手の動きに対応できる。空中で相手の首を両足でホールドし、スピンして首をひねった後、片足をキャッチして投げ飛ばし、頭から地面に叩きつけ、同時に膝関節を破壊する必殺技「エアスピンドライバー」を持つ。後に、時代劇映画のチャンバラからヒントを得た、両足で相手の首を刈り取る必殺技「エア・カット・ターミネーター」を編み出す。
:『ハチワンダイバー』にも、後述の皆口由紀の回想シーンと、最終話で皆口由紀が希望した闘う相手として登場している。
; 中ノ谷 美奈(なかのたに みな)
: 声 - [[ゆかな]]
: 資産家の娘で摩季たちとは別の名門高校に通っている。身長165センチメートル。B105・W61・H92。16歳。容姿端麗でなおも成長中の[[巨乳]]を持ち、麗一を初めとする多くの男を魅了し、全国の巨乳ファンが[[同人誌]]を作る程の存在だが、本人にとってはコンプレックスとなっている。成績は良く、日本舞踊なども嗜んでいる令嬢。生まれや育ちを鼻にかけず、摩季たちとは良い友人関係を築いている。摩季に対して恋愛感情を抱いている。弱気な性格で泣き虫だが、摩季が関わる事柄に対しては凄まじい行動力を見せる。
; 乾 蓮華(いぬい れんげ)
: 声 - [[金田朋子]]
: 摩季と同じ高校に通う女子高生。身長138センチメートルで年の割にかなり身長が低く、連載初期はそうでもなかったが、話が進むにつれて3頭身化していった。B62・W50・H60。16歳。かなりの大食漢であり、食べ物に対する執着心は強い。霊感が強く、[[降霊術]]を使うことができる。子供じみた言動が多く、その体格と相まって、周りからはよく子供扱いされており、崎山香織からは「バンビーノ」と呼ばれていた(イタリア語で「赤ん坊」という意味)。学業は極端に苦手でおまけページでは1ケタ台の赤点を取った様子が描かれた。根は心優しく、人懐っこい性格から、月雄、崎山などの個性的な人物とも親しくなった。仔猫の「ケッサク」とはいつも一緒。冥冥、未刊という名のよく似た妹がいる。
; 滝川 ユウ(たきがわ ユウ)
: 声 - [[鈴木麻里子]]
: 摩季と同じ高校に通う女子高生。身長164センチメートル。B87・W59・H88。16歳。父親が空手道場を開いており、彼女も空手を嗜んでいるため、そこらへんの男よりは十分強いが、摩季には劣る。ストリートファイターに絡まれて打ちのめされた際にみちるたちと共に摩季と初対面を果たす。成績はあまり良くない。苦手なものは親父の涙。趣味・特技は格闘ゲームで、国内でも十指に入る強さらしい。みちるとは馬が合うのかよく話している。
; 川本 みちる(かわもと みちる)
: 声 - [[浅野真澄]]
: 摩季と同じ高校に通う女子高生。身長163センチメートル。B80・W56・H82。16歳。貧しい中、バイトをしながら<ref>中学生時代にはすでにアルバイトをしており、高校入学時にユウたちが同い年であることを知って驚いていた。</ref>弟妹の面倒も見るしっかり者で、成績優秀。生活もかかっているパチンコの腕はプロ級であり、格闘ゲームではユウと互角の強さ。堅実な人との結婚を夢見ており、相手は時田しかいないと考えている。
; 時田 伸之助(ときた しんのすけ)
: 声 - [[関智一]]
: 摩季と同じ高校に通うストリートファイター。幼少から武術を嗜んでおり、礼儀正しく真面目な優等生で、偏差値は72で、これを見込まれ浦木から勉強仲間になることを半ば強要されたこともある。祖父母と共に寺で生活している。ファイトして以来、摩季に好意を抱くようになるが、奥手であり、なかなか告白に踏み出せない。顔立ちが整っており、そのストイックな性格もあってか異性から好意を寄せられることが多いが、本人は摩季以外は眼中にないようである。摩季にふさわしい男になろうと奮闘するが、敗戦を繰り返すようになる。修行のためインドへと渡り、そこで1つの答えに辿り着く。日本へ帰国後、深道ランキングの上位ランカーを倒し、3位の小西すら一蹴してその実力を見せ付ける。
: バトルロイヤルでは小西と再戦し勝利するが、左足のアキレス腱を断裂。その後、己の全てを賭けて摩季に挑むが、完敗する。
: インド修行前後で格闘スタイルが大きく異なる。修行前は、はめ込み式の[[三節棍]]を武器に、多角的、変則的な軌道の攻撃を得意としていた。しかし丸腰になると弱く、本人曰く「[[功夫]]は小学生並」。虚実を交えた攻撃で相手の不意を突く「無影棍」などの技を持つ。後に棍を封印し、功夫を一から練り直すことを決め、黒正義誠意連合編では素手でも戦えるようになっており、同時に[[酔拳]]の達人となっていた。インドでの過酷な修行を経て、変則的な動きで相手に自分を捉えさせない「同撃酔拳」を完成させる。相手の全攻撃にカウンターを与えることができ、その強烈な攻撃は小西曰く「一つの巨大なパンチ」であり、「食らえばどんな化け物ですら倒れる」とのこと。
: アニメ版では深道バトルロイヤルまで話が進まないため帰ってこない。
; 佐伯 四郎(さえき しろう)
: 声 - [[古川登志夫]]
: 「軟派な精密機械」の異名を持つプロの[[総合格闘技|総合格闘家]]で、摩季とみおりの父親。その名の通り卓越した格闘技術を持つ。私生活ではきわめて女性関係にだらしがない<!--おまけ漫画などで詳細に描写されている-->。作中ではジュリエッタのパワーや小西のテクニックの前に完敗しているが、バトルロイヤル中に妻から離婚を言い渡され、束縛がなくなったことで大幅にパワーアップして、シズナマン2(金次郎)を装甲ごと粉砕する。「十五漢渺茫」となった渺茫相手にも善戦し、[[グラウンドポジション#マウントポジション|マウントポジション]]をとるなどプロの意地を見せた。
: ジュリエッタとは飲み友達<!--単行本のおまけ漫画にたびたび登場している-->。ジュリエッタが摩季と結婚することは認めている様子。
; 佐伯 みおり(さえき みおり)
: 声 - [[広津佑希子]]
: 摩季の異母妹。母は女優である深加。幼いながらもその格闘センスはかなりのもので、しっかりと父親の血を受け継いでいる。美少女格闘家を自称する自信家。カイに良くなついている。姉のことは尊敬しているが、しょっちゅうバカ呼ばわりしている。両親の離婚の際は悲しんでいたが、四郎と一緒にファミレスに行くときははしゃいでいた。
=== ストリートファイト四天王編 ===
; 崎山 香織(さきやま かおり)
: 声 - [[土井美加]]
: 自称:未来のスーパー・モデル。身長179センチメートル。B86・W58・H85。20歳。当初はアルバイトを転々としつつモデルや深夜番組のアシスタントなどを行うことで芸能活動の下積みを行っていた。摩季の最大のライバルを自負している。その性格はどこまでも高飛車で傲慢。ストリートファイターではなかったが、摩季に挑むため路上の戦いの世界に入り、[[太極拳]]で戦う。ストーリー中盤で屋敷から[[浸透勁]]「双按」を学ぶが、感情が激昂したときにしか成功しない。女子プロレス編後は実緒とタッグを組み、再びチャンピオンとなっている。摩季に何かと勝負を挑んでくるが、それは単なる敵対心ではなかった。最終巻では念願がかなってハリウッドデビューを果たしている。
; ルチャマスター
: 声 - [[石塚運昇]]
: ストリートファイト四天王の1人で、本職は[[モデラー (模型)|プロモデラー]]の39歳という変り種。ファイターとしての在り方や、男としての在り方を語るなど、その性格は熱い。サンパギータ・カイの年の離れた兄であり、妹にプロレス英才教育を施したらしい。名前は[[メキシコ]]の[[プロレス]]「[[ルチャリブレ]]」に由来するもので、その名の通り空中殺法を得意とする二重マスクマン。職業柄か、かなりの[[ガンダムシリーズ|ガンダム]][[オタク]]らしく、自分のことを最終回のガンダムに例えたり、[[カラオケ]]でガンダムの[[主題歌]]を予約したりする。作中で摩季に初めてダメージを与えた初期の強敵だが、その後は金次郎の左腕を折ったこと以外はさほどの戦果はなく、ランキング7位の深道信彦やインド帰りの伸之助などに完敗する。最終的なランキングは21位。浦木には勝てるが、山木田とは相性が悪い。
; 浦木(うらき)
: ストリートファイト四天王の1人で、サブミッションの使い手。東大を目指しているもののすでに8浪している。一時期、伸之助に付きまとっていた。山木田には勝てるが、ルチャマスターとは相性が悪い。
: 深道バトルロイヤル後は月雄が買い取ったアパート月雄荘月雄荘の住人となっているが鬼気迫る対応で家賃は東大合格まで待たせている。
; 山木田(やまきだ)
: ストリートファイト四天王の1人で、仕事は[[ライフセービング|ライフセーバー]]。砂場においての戦いが得意で、ルチャマスターや月雄、伸之介の打撃攻撃をものともしないほどタフ。ルチャマスターには勝てるが、浦木とは相性が悪い。
: 深道バトルロイヤル後は月雄が買い取ったアパート月雄荘の住人となっているが居留守を使って家賃は滞納している。
; 坂本 ジュリエッタ(さかもと ジュリエッタ)
: 声 - [[堀内賢雄]]
: ストリートファイト四天王の1人で、四天王最強の人物。職業は[[ゴーストライター]]で、年齢は27 - 28歳。内海美加・野々楽子・石毛まさみという3人の女性と半同棲しているが、その扱いはかなり冷淡。[[沢田研二]]の歌をよく口ずさんでいる。両手をズボンのポケットに突っ込んだまま強烈な蹴りを放つという戦い方で、予備動作なしで最大の威力の蹴りを放つことができる。「エンドルフィン」「アドレナリン」を自由に操作できると発言している。摩季に一目惚れし、自分の理想の女性ジェニー<ref>沢田研二の歌「サムライ」の歌詞の中にジェニーという女性の名前が出てくる。「サムライ」は坂本が初登場の時に口ずさんでいた曲でもある。</ref>と重ね、愛情の全てをぶつけきって敗北。その後、当人のあずかり知らぬうちに深道ランキングに登録され、7位の深道信彦を瞬殺、3位の小西と引き分ける。
: 実は高度な「気」の使い手で、深道ランキング3位の小西と戦った際には両足の靭帯と右腕の関節を破壊された状態で立ちあがり小西を圧倒する。その気の錬成は摩季を目の前にした場合だと普段の2倍は力が出るらしい。最終話では、摩季の反撃により満身創痍になりながらも結ばれる。その際に摩季は子供を身ごもり、後にジュ季(後述)を出産しているが、テレビアニメ版では結ばれる前に摩季に叩きのめされ病院送りにされている。
; 武 月雄(たけ つきお)
: 声 - [[植村喜八郎]]
: 工事現場で働きながらストリートファイター狩りをしている男。パワーを生かした技が得意で、掘削機のようにパンチを加速して連打する百壱裂拳という必殺技を持つ。初期の実力者だったが、深道ランキング編のころから強敵が増えたため敗戦が多くなる。屋敷とは従兄弟同士で、昔は関西で暮らしていたらしい。実家は大勢の兄弟がいる大家族。「頑丈だけがとりえです。お母さん、ありがとう」と自分でも言うようにきわめてダメージ耐性が高い。そのおかげで深道ランキング24位の馬場を麗一とのコンビプレイで倒したり、元1位の渺茫相手に勝てないとわかりつつも何度も立ち向かう勇姿を見せた。最終章では十五漢渺茫に相撲勝負を挑み、深道のテンションを上げるのに一役買っている。バトルロイヤルで獲得した賞金で住んでいたアパートを買い取って大家になったが、住人の浦木や山木田、小西兄弟といった連中には居留守を使われてばかりで家賃はほとんど回収できていないようである。
; 三島 麗一(みしま れいいち)
: 声 - [[阪口大助]]
: [[BMX]]([[チャリ]])に乗って戦うストリートファイター。鍵っ子で、いつも月雄の家で一緒に朝食を食べている。美奈に好意を寄せている。黒正義誠意連合編で最後まで美奈を守れず、自分の弱さを改めて思い知る。ルチャマスターの言葉により意志の強さを取り戻すが、黒正義誠意連合編以降はストリートファイトより恋愛に興味を持ち出し、すっかりやられ役となる。深道ランキングでは月雄やルチャマスターもランキングに参戦したが、麗一は負けてランキング入りできていない。ステータス上では深道ランキングの上位ランカーと互角であるが、ツメが甘く、BMXが戦闘に耐えられずすぐに破壊されるため、実力を発揮できていない。自称「BMXに乗れば動きはエアマスターより早い」。BMXに乗らなくても、合コンに来ていた男子高校生4人を瞬殺するほどのケンカの実力はある。最終話では月雄が買い取ったアパートで一人暮らしを始めた模様で、唯一家賃を払い続けている。
=== 黒正義誠意連合編 ===
; 北枝 金次郎(きたえだ きんじろう)
: 声 - [[伊藤健太郎 (声優)|伊藤健太郎]]
: 黒正義誠意連合のリーダー。その強さと男気により、仲間から尊敬されている(一部からは求愛されている)。上京した折に摩季と戦い、互角の勝負を繰り広げるが、エアスピンドライバーの前に敗北。その後、摩季を追って深道ランキングに参戦し、10位のカワハラ、9位のカイを撃破。しかし4位の由紀に完敗したことがきっかけで、久坂静菜によってシズナマンへと改造される。それにより浸透勁による攻撃やシゲオの一撃をも無効化する装甲と、凄まじい攻撃力を手に入れるが、同時に持ち前の根性を失ってしまう。シズナマンとして臨んだバトルロイヤルでは尾形、佐伯に連敗。しかし、リーの「安いプライド」に触れ、トレードマークのハチマキを身に着けることによって精神面の復活を遂げる。直後に十五漢渺茫に戦いを挑み敗北するが、彼に脅威を感じさせるほどの実力を見せた。
:『ハチワンダイバー』にも、最終話にて菅田健太郎と将棋で対戦する真剣師として登場している。
; 長戸(ながと)
: 声 - [[郷里大輔]]
: 黒正義誠意連合の一員。天井に届く程の長身と長い手足を活かした長拳の使い手。男だが、金次郎を本気で愛しており、金次郎に近寄る女たちを影から殴り飛ばして排除してきた。強さはトップファイターにはおよばないが、その耐久力は作中でもトップクラス。バトルロイヤルでは佐伯、ジュリエッタ、リーなどトップクラスの破壊力を持つファイターに何度倒されても立ち上がり、十五漢渺茫の打撃を数発受けても何度でも復活するほどのタフネス。ノッた時の実力は確かで、バトルロイヤルの序盤で、金次郎を失神させた尾形を、その持前のタフさで撃破している。
: 変態性も作中でトップクラスであり、変人には慣れている深道でさえ理解不能と評した。「男でも子供ができるのを知っているか?」などと発言し、気絶している金次郎の乳首を吸おうとするなどの怪しい行動を取る。ジュリエッタとはどこかシンパシーを感じるところがあるようだが、ジュリエッタには否定されている。
:『ハチワンダイバー』にも、最終話にて菅田健太郎と将棋で対戦する真剣師として登場している。
; 花井(はない)
: 声 - [[高塚正也]]
: 黒正義誠意連合の一員で、橘とのコンビネーションを使う。アニメ版では第1話に橘とともに登場し、摩季に秒殺される。
; 橘(たちばな)
: 声 - [[龍谷修武]]
: 黒正義誠意連合の一員で、花井とのコンビネーションを使う。花井より一回り強く、一度に3本の煙草を吸うヘビースモーカー。強い相手に対して「おもしれェ!」と言うことが多い。アニメ版では第1話に花井とともに登場する。
; 佐山(さやま)
: 声 - [[稲田徹]]
: 黒正義誠意連合の一員。伸之助の棍を素手で折るなど、それなりの実力者。美奈を「THE女だ」などと言って拉致し、金次郎に無理やり「紹介」しようとしたなど、それなりに金次郎に対して忠誠心はある模様。ただし、怒った金次郎に制裁を受け、彼と一緒に美奈を返しに行った。
; 巌流(がんりゅう)
: 黒正義誠意連合の一員で、[[サンボ (格闘技)|サンボ]]の達人のはずだが摩季は元よりみおりのスピードにも対応できず、いいところがなかった。
; カリコロ
: 黒正義誠意連合の一員で、[[カポエイラ]]の達人。登場時は名前が不明で、作品末期の単行本描き下ろしにおいてようやく明らかになった。
=== 女子プロレス編 ===
; サンパギータ・カイ
: 声 - [[石塚理恵]]
: ルチャマスターの妹で、リングネームはスカイスター。幼少のころからプロレス英才教育を施されたようである。18歳。未だに超のつくアイドル好き。エアマスター率いるファミレスラーズに敗れるまでは師匠の早瀬実緒と全国タッグチャンピオンまで登りつめていた。その後は早瀬の計らいでタッグを解散し、深道ランキングに参戦する。屋敷(当時9位)には勝利するが金次郎(当時10位)に敗北。一度プロレス界に戻り、トミコとタッグを組んで崎山と実緒のタッグを倒し、再びチャンピオンに返り咲く。原作では途中、摩季たちによってアパートを壊され、追い出される悲劇に見舞われている。バトルロイヤルでは中盤でエアマスターに敗北するも、終盤に渺茫を倒すために深道たちと共に戦うが、深道の正体を知って1人で舞い上り、単身で渺茫に突っ込んで、玉砕した。兄同様に求道者的な格闘家であり、プロレス最強の名の下に戦う。作者が最も好きな女性キャラクター。
: 深道バトルロイヤル後は月雄が買い取ったアパート月雄荘の住人となっており、共に深道クエストに参加したため1100万円はあるはずだが他の住人と同じく居留守を使って家賃は滞納している。
; 早瀬 実緒(はやせ みお)
: 声 - [[葛城七穂]]
: カイのプロレス時代の師匠。カイからは実の姉のように慕われている。「ゾンビ」と称される程のタフさで女子プロレス界にその名を轟かせた。ファミレスラーズに負けてから、カイをさらに成長せるためにタッグを解散。その後は崎山と組んでチャンピオンに返り咲く。ネーミングセンスの悪さは人並み外れており、カイのリングネームを納得させるのに10時間かかっているほど。愛犬の名は犬太郎。
; 芹口 トミコ(せりぐち トミコ)
: 声 - [[夏樹リオ]]
: ファミレスラーズを結成し、崎山と摩季を女子プロレスに巻き込んだ張本人。登場時の実力は崎山と互角だが、摩季に瞬殺されたばかりか女子タッグトーナメント前に全治1か月のケガを負わされたことで、代役として摩季がプロレスデビューすることになった。後にパートナーを探していたカイに捕まって猛特訓を受けさせられ、実緒&崎山組と対戦。本人は開始8秒で倒され担架で運ばれるが、残ったカイが1人で試合に勝利したため、晴れてタッグチャンピオンの座を獲得できた。
: 深道バトルロイヤル後は月雄が買い取ったアパート月雄荘の住人となっているが居留守を使って家賃は滞納している。
; 的場 花美(まとば はなみ)
: 声 - [[橘U子]]
: 崎山の元同級生で、女子タッグトーナメント一回戦の相手。崎山とは深い因縁があり、過去を乗り越えた崎山の双按の初犠牲者となった。
=== 深道ランキング編 ===
; 深道(ふかみち)
: 声 - [[子安武人]]
: [[#深道ランキング|深道ランキング]]の主宰者。自称「弱者」であるものの、親指で相手の急所を穿つことにより確実にダメージを与える“鉄指功”や、撹乱の役目をする“花火”、相手の動きを先読みする“確定予測”を駆使して戦う、策略家タイプのストリートファイター。ゆえに、身体的能力で負けていても勝つことが多い。
: 打倒渺茫が彼の悲願であり、深道ランキングもそのために作成したものであった。常にサングラスと目深にかぶった帽子で顔を隠しているが、その正体はカイが愛してやまないアイドルの藪沢君(藪沢君と深道の登場は同じ回)。
: バトルロイヤルでは摩季が渺茫に倒された後、深道クエストを開始、メンバーを集めて渺茫に挑む。渺茫との死闘で散っていく仲間たちの姿にテンションを最大限まで引き上げ、自身も満身創痍となりながら十五漢渺茫を撃破する。その直後、暴走した渺茫に敗れる。
: その言葉は難解だが奥深いものが多く、這いずることしかできなかった摩季を言葉の力で復活させたこともある。
:『ハチワンダイバー』にも、最終話にて菅田健太郎と将棋で対戦する真剣師として登場している。
; 鬼頭(きとう)
: 声 - [[田中大文]]
: 深道ランキング編で度々現れる街の不良。「男とは?」を相手に問い続けて格好付けようとするが、全て裏目に出ている。その能力はBMXに乗らない麗一より弱い。
; 石井(いしい)
: 深道ランキング52位。カミソリパンチの使い手。
; マキハラ
: 深道ランキング46位。アメフトタックルの使い手。深道ランキングの撮影のバイトもやっている。根は優しいが報われない男。全国に6人ファンがいる。
; 原(はら)
: 深道ランキング36位。蹴りの軌道が変則かつ強烈な空手使い。金次郎に敗れた後に修行し直したルチャマスターには、あっさり倒された。さらに深道バトルロイヤルではその妹であるカイにあっさり倒された。
; 馬場(ばば)
: 声 - [[高塚正也]]
: 深道ランキング24位。ボクサータイプのストリートファイター。ボクサータイプではあるものの、完璧なストレートのみを求めるためか、ストレートばかり多用している。
: 深道(弟)とは仲が良いのか、よく行動を共にしている。ジュリエッタに話しかけただけで瞬殺されたり、バトルロイヤルで深道(弟)の巻き添えで倒されたり、本人の落ち度ではないのにひどい目に遭っている。
; 高橋(たかはし)
: 深道ランキング23位。松井、江藤とよく行動を共にしている。番外編で唯一、麗一に対して勝っている。借金があり、バトルロイヤル優勝賞金を手に入れたら返済をしようと考え、3人で隠れてやり過ごす作戦を実行するが、摩季に見つかった際には「他の奴に倒してもらえ」と見下されてしまう。タイムアップまで生き延び共に最後に残った屋敷と対峙するもあっさり3人とも撃退され、優勝を逃す。
; 松井(まつい)
: 深道ランキング22位。高橋、江藤とよく行動を共にしている。
; 江藤(えとう)
: 深道ランキング21位。高橋、松井とよく行動を共にしている。
; 岡島(おかじま)
: 深道ランキング17位。軍隊格闘技([[マーシャルアーツ]])の使い手。
; 戸叶(とかのう)
: 声 - [[沼田祐介]]
: 深道ランキング15位。相手の膝を蹴りで狙撃してバランスを崩し、一撃必殺の正拳突きを決めるスナイパー空手の創始者。儀式として戦う前にあいさつをする。
: また、あらゆるフェチを網羅している[[カメラ小僧]]でもある(自称「巨乳メェ〜ニア(マニア)」)。
: 深道バトルロイヤル後は月雄が買い取ったアパート月雄荘の住人となっているが居留守を使って家賃は滞納している。
: 当初は本名不明だったが、終盤の単行本で本名が明らかになる<ref>作者と交流があり、本作のファンサイトを経営している人物の名前をつけたようである。</ref>。
; パオ
: 深道ランキング14位。肥満体型だが、それに似合わない俊敏さを誇る。対戦相手の研究に熱心であり、ダブついた上着で相手の視界を奪って奇襲する戦法が得意。ブタといわれると怒る。
; 入来(いりき)
: 明確な順位は出ていないがパオより上位だった深道ランキングのランカー。暗器使い。摩季と戦う前にパオに負け、両腕を折られる。バトルロイヤルではパオと再び戦い、勝利している。
; 沢村(さわむら)
: 声 - [[園部啓一]]
: 深道ランキング11位。地の達人、通称「アスファルトマスター」。[[ブレイクダンス]]をストリートファイトに応用している。徹底した地上戦でエアマスターに対抗した。後にランカー狩りと化した小西に左手を折られる。折れた腕を包帯で厳重に固定してバトルロイヤルに参戦し小西に雪辱戦を挑むが、鬼気迫る小西に恐れをなし何もできずに敗れる。
; 河原(かわはら)
: 声 - [[野島健児 (声優)|野島健児]]
: 深道ランキング10位。[[ナジーム・ハメド|ハメド・スタイル]]という特殊なスタイルで戦うボクサー。戦いをシューティングゲームと同様だとしている。深道ランキングに参戦した金次郎に敗北し、リザーバーに。後にランカー狩りと化した小西に両手足を折られて戦線離脱した。
; ケアリー
: 声 - [[稲田徹]]
: 深道ランキング8位。220キログラムもの体重を誇る巨漢。河原を倒した金次郎に対戦を呼びかけるが、そこに現れた屋敷と対戦することになり、話術による騙まし討ちを受けて8位を奪われる。その後は上位ランクに復帰することはなかったが、屋敷が「近づくのもしんどい」などと評価していた通りの実力は見せていた。張り手で攻撃を得意とし、[[大銀杏]]に似た髪型をしている。バトルロイヤルでは摩季に瞬殺された。
; 屋敷 俊(やしき しゅん)
: 声 - [[田中一成]]
: 賞金を稼ぐために深道ランキングに参加している、相手の内臓に直接響く“浸透勁”の使い手。関西人で関西弁、女好き。ランキング9位として登場し、カイの居酒屋ボンバーの前に敗北するが、その後8位のケアリーを倒して返り咲いている。体力や体術的にはそれほど優れていないが、持ち前の根性と機転、話術などを駆使して、自分の最大の武器である“浸透勁”で勝負を決める格闘スタイル。ジュリエッタとの戦いでは、崎山に教わった太極拳を応用した受け流しを見せて奮戦するが、気を使い果たして敗北する。その後参加したバトルロイヤルでは、駒田シゲオと互角の勝負を演じ、渺茫にダメージを通すなど活躍し、最終的には優勝するまでに至った(渺茫がエアマスターといわば相討ちになったため)。
: 元々は深道の依頼に対する報酬やファイトマネー以外に収入を持たずヒモ生活を送っていたが、深道クエストの参加料100万円と渺茫撃退の報酬1000万円、さらに優勝賞金8000万円を手にしたことで予てよりの念願であるマイホーム購入を果たす。
: 深道ほどではないにしろ、奇襲や戦略に秀でており、一桁ランカーにふさわしい実力を持つ。その反面、ここ一番でヘタを打つ場合もある。ジュリエッタ戦では最後の一発に取っておいた気を使ってしまい、立ったまま失神。逆に深道クエストでは、渺茫に奇襲をかけ、蹴按で深刻なダメージを与えるといった大金星を挙げている。
: 従兄弟の月雄に小さいころいじめられており、浸透勁を習得したのも月雄を倒すためだった。いじめがトラウマとなっているため月雄には本来の実力を発揮できず、結局作中ではリベンジは果たせなかった。作者が最も好きな男性キャラクター。
: 浸透勁とは本来持続的に物理エネルギーが伝わる打撃の名称であり、貫通力のともなう打撃性質があるため、臓器にダメージを与えやすい。
; 駒田 シゲオ(こまだ シゲオ)
: 声 - [[三木眞一郎]]
: 格闘ゲーム「バーチャルファイティンガー」のキャラクターであるアキオを師と仰ぐ、我流[[八極拳]]の使い手。ゲームの方も相当やり込んでおり、そちらの実力は作中最強。初登場時のランキングは6位。摩季との初戦では、双方本気ではなかったとはいえ勝利を収めたが、その後新必殺技「エアカット・ターミネーター」を身につけた摩季に一撃で沈められる。リーにも一撃で敗れた後、一時はリーのスタイルを真似て一撃にこだわる姿勢を見せていた。しかし、結局は人生の原点である“師匠”アキオに戻り、バトルロイヤルでは自分にアキオを降臨させて屋敷と戦い、深道に「珠玉(アート)」と言わせるほどの名勝負を繰り広げた。アニメでは、アキオのモデルとなった『[[バーチャファイター]]』の結城晶と同じ声優が起用されている。
: 深道バトルロイヤル後は月雄が買い取ったアパート月雄荘の住人となっているが居留守を使って家賃は滞納している(シゲオの場合、家賃催促時はヘッドホンしてゲームプレイ中だったため気づかなかった可能性もある)。
:『ハチワンダイバー』にも、最終話にて菅田健太郎と将棋で対戦する真剣師として登場している。
; 尾形 小路(おがた こうじ)<!--25巻収録分にフルネーム記述あり-->
: 声 - [[緑川光]]
: 尾張忍者の末裔。深道ランキング5位で、エアマスターを敗北寸前に追い込むほど苦しめたが、新必殺技エアカット・ターミネーターに敗れた。足首だけを高速で動かして地面を滑るように移動したり、口笛の音で相手の三半規管を狂わせたりするなどの独自の能力を持つ。これらの能力を組み合わせることで変わり身の術や分身も使い、様々な格闘技を扱う渺茫すら見たことがない体術だと驚かせる。装備は静菜が提供している。
: バトルロイヤルでは、金次郎を倒されて激昂した長戸の前にいったんは敗れたが、終盤に復活して深道たちと共に渺茫と戦った。悪霊祓いの術すら織り交ぜて善戦するが、最後は深道に勝負を託して散る。一人称は「拙者」だが、「深道クエスト」終盤のみ「俺」と言っている。
: 実は熱い性格をしており、渺茫との戦いでは思い違いをしていた深道を正した。
: バトルロイヤルでは唯一手作り弁当と地元のお茶を持参していたが、飲食する前に長戸に敗北、残された弁当とお茶は佐伯四郎に食べられた。
:『ハチワンダイバー』にも、単行本のおまけ漫画にて崩落する鬼将会ビルから転落する菅田健太郎を助ける人物として登場している。
; 深道 信彦(ふかみち のぶひこ)
: 声 - [[松野太紀]]
: 通称“深道弟”。または“アホの方の深道”。強くて賢くてその上アイドルという非の打ち所のない兄を持つため、そうした呼ばれ方も半ばあきらめているらしい。変人揃いの登場人物の中では比較的常識人。深道ランキングの7位(初登場時)で、月雄、ルチャマスターを余裕で瞬殺するほど相応の実力はあるが、自己紹介中にジュリエッタに蹴り飛ばされてアーケードの屋根に埋められ、その後も摩季に簡単に倒され、決め台詞は滑り、必殺の宴会芸は場を盛り下げる。バトルロイヤルでは、危険性を理解しないまま会場に入ってしまったみおりを守るために参戦するが、みおりと決裂した姉の摩季によってリタイアさせられている。馬場とはよく行動を共にしている。
: 戦闘スタイルは兄と同じく花火を使い、打撃で倒すスタイルだが、[[ムエタイ]]のような組んでからの膝蹴りを主に使う。ただのムエタイ使いと違い、[[レスリング]]スタイルのタックルにも組み合いで対応でき、頑丈さが自慢の月雄でさえ2発で倒している。
; 皆口 由紀(みなぐち ゆき)
: 声 - [[小山茉美]]
: 深道ランキング4位。『谷仮面』に登場した格闘姉妹の姉。摩季が現れるまでは深道ランキング最強の女性であり、しかも得意な蹴り技を封印している。合気の技を駆使し、相手の力を利用したり体勢を崩したりした上で投げる技を多用していたが、先述のように蹴り技も得意で、[[貫手]]の威力も強い。初対決では摩季を威圧し、力で捻じ伏せて完勝。摩季以上の負けず嫌いで、通常時の精神面では摩季より強い。バトルロイヤルでは突然ジュリエッタに告白して深道を驚かせ、戦いでも圧倒する。その後、ジュリエッタが愛する摩季に殺意すら帯びて戦いを挑むが、エアマスターとして覚醒した摩季の前に敗れる。崎山とともに、摩季の精神的成長のキーキャラクター。同じ強者として初戦時から摩季とはシンパシーを感じ合っていたようであり、テレビアニメ版のクライマックスでは摩季と共闘して渺茫に挑んでいる。
:『ハチワンダイバー』では鬼将会の首魁谷生の命を狙う殺し屋として登場。将棋トーナメントに突如降臨し、将棋知識皆無ながらプロ棋士のバックアップを受けて仮面をかぶって「かなしいいろやねん」を名乗り、鬼将会の指し手「神」と対局する。ジョンスと同じく、回想のフラッシュバックにてエアマスターのワンシーンが用いられている。
; 小西 良徳(こにし よしのり)
: 声 - [[小西克幸]]
: 「[[関節技|サブミッション]]ハンター」を自称する関節技の達人で、『谷仮面』に登場したコニオの弟。当時のランキング3位だった稲垣直人([[截拳道|ジークンドー]]の達人)を瞬殺し、深道ランキング3位となる。佐伯四郎にも勝利した後、“完璧な自分”を目指してジュリエッタと戦い、その戦いの中でついに“完璧な自分”とシンクロするに至る。しかし、両足と右腕を折られながらも活動を止めないジュリエッタに蹴り飛ばされ、試合結果は引き分けに終わった。この戦いをきっかけに小西は精神的平衡を失い、ランキングを無視して次々に深道ランカーを狩り始める。その最中、インドから帰ってきた伸之助と出会い、同撃酔拳の前に何もできずに敗北する。獣の精神に至るまで先鋭化した状態で参戦したバトルロイヤルでは、伸之助との再戦中、乱入してきた渺茫の一瞬の隙を突いて[[裸絞|チョークスリーパー]]で締め落とす。渺茫から受けたダメージを物ともせず、伸之助のアキレス腱を破壊するが、最後は紙一重の差でとどめに持ち込めず、伸之助の圧倒的な散打の前に沈んだ<ref>小西のモデルは作者である柴田ヨクサルの友人で、同名のレスラー。実在の小西選手もレスリング・[[柔術]]・サンボなどを下地とした関節技の名手で、作中の小西と同じく「サブミッションハンター」の異名をとる。</ref>。
: 深道バトルロイヤル後は兄コニオと共に月雄が買い取ったアパート月雄荘の住人となっているが兄弟共々居留守を使って家賃は滞納している。
; ジョンス・リー
: 深道ランキング2位で、[[八極拳]]の使い手。八極拳士として一撃必殺の拳に誇りをもっており、現代の[[李書文]]を体現したかのような存在。[[ホスト (接客業)|ホスト]]風のスーツと白い[[ローファー]]がトレードマーク。渺茫と対戦するまでは、彼の打撃を3発以上受けて立っていたものはいなかったらしく、ランキング上位者の尾形小路や駒田シゲオを一撃で撃破するほどの実力者。
: 満を持して姿を現した1位の渺茫と対戦し、その圧倒的な耐久力と大技小技を使い分ける技術により敗北寸前まで追い込まれるものの、最大の勁を打ち込んで逆転勝利を収め、深道ランキング2位から1位に昇格する(ただし、その後渺茫は何事もなかったかのように立ちあがっている)。
: その後バトルロイヤルにおいて、先代の渺茫たちが集合した「十五漢渺茫」と対決。八極拳対決では勝利を収めたものの、全ての技を駆使し始めた渺茫に敗北する。
: テレビアニメ版には登場しない。『ハチワンダイバー』にも登場している。
; 渺茫(びょうぼう)
: 声 - [[西凛太朗]]
: 渺茫とは、その時代の“最強”を代々引き継いできた男たちの総称で、作中の渺茫は15代目の“渺十五”である。単体では正確無比な打撃と驚異的な打たれ強さを持つトップクラスのストリートファイターだが、歴代の渺茫が「集合」(憑依)して「十五漢渺茫」となることで過去の渺茫たちの技(風の拳、[[発勁]]など)が使えるようになり、耐久力も大幅にアップして、完璧な強さを持つようになる。集合してから最大の力を発揮するまでにはある程度ウォーミングアップも必要なようで、最大の力を発揮できる状態では、さらに筋肉の量が増し、まるで亀のように背筋が盛り上がっている。
: 渺茫としての「勝利を約束された力」に対して憂いを持っているが、それと同時にその強さに対するプライドも持っている。しかしながら、それでもなお強さに対して貪欲であり、自分より格下相手であっても、得るものがあれば学ぶ姿勢を見せている。
: 渺十五単体ではリーと小西に敗北しているが、バトルロイヤルの後半で「十五漢渺茫」となり、ウォーミングアップの段階で佐伯四郎や坂本ジュリエッタを撃破し、最大戦力を持ってリーや金次郎、摩季などの強敵を次々と撃破する。その後、深道クエストにて死力を尽くした深道によって一度は倒されるが、その後暴走し、「エアマスター」としての摩季と精神世界において雌雄を決することになる。
: テレビアニメ版では、摩季と皆口由紀の2人を相手に圧倒的な強さを見せ、皆口由紀を倒し、「エアマスター」として覚醒した摩季との最後の闘いでも摩季に勝利し(勝敗は描かれていないが、摩季自身が負けを認めている)、摩季にとって最後に倒すべき最強の相手として立ちはだかっている。
; 彰子
: 声 - [[皆口裕子]]
: 渺茫に影の如く寄り添う美少女。霊的な素養があり、渺茫が「十五漢渺茫」となるための触媒のような役割を果たす。心から渺茫を愛している様子。
=== その他 ===
; 姫森 聖子(ひめもり さとこ)
: 登場は原作のみ。摩季が通う学校の教師で、摩季のクラスの担任。クールな美女だが、摩季の父、佐伯四郎のことを学生時代から憧れ続けていたため、四郎の前では恋する乙女となってしまう。紐と棒を組み合わせた特製の武器を携帯しており、そこいらの不良程度なら簡単に倒せる力を持っている。
; 松林小路 梅乃(まつばやしこうじ うめの)
: 登場は原作のみ。中ノ谷美奈と同じ学校に通っている。バスト102センチの巨乳の持ち主で、才色兼備なお嬢様。美奈のことを一方的にライバル視していて、何かと張り合っているが、彼女からは相手にされていない。
; 内海 美加(うつみ みか)
: 声 - [[笠原留美]]
: ジュリエッタの(自称)恋人の1人。インディーズ時代から注目され、メジャーデビューした歌手。ジュリエッタの(自称)恋人たちは、お互いに張り合っているものの、仲は良い。
; 野々 楽子(のの らくこ)
: 声 - [[豊嶋真千子]]
: ジュリエッタの(自称)恋人の1人。ファッション誌の表紙を飾れる程の人気モデル。
; 石毛 まさみ(いしげ まさみ)
: 声 - [[井上美紀]]
: ジュリエッタの(自称)恋人の1人。南条レモンというペンネームの人気小説家で、3人の中で一番裕福。諸事情でジュリエッタから「代筆の代筆」を任されたこともある。
; カシオ
: 自称哲学者。ストリーファイトを研究しているらしい。集中すれば痛覚を伝えないようにできる。
: 深道バトルロイヤル後、月雄が買い取ったアパート月雄荘の住人となっているが居留守を使って家賃は滞納している。
; 美奈の兄
: 原作のみに登場。名前は不明。髪型・雰囲気・癖が[[ガルマ・ザビ]]に似ている。超[[シスターコンプレックス|シスコン]]で、妹と結婚したいと父親に告白したため、[[ロンドン]]へ留学させられた。父親に内緒で帰国し、その際、美奈から好きな人(摩季)がいると告げられ、相当なショックを受けたが、相手が女なのでまだ脈はあると思っている。結局、勝手に帰国したことが父親にバレてしまい、再びロンドンへ送り返された。深道バトルロイヤル中に美奈と共に買い物をしていたが置き去りにされている。
; ジュ季(ジュき)
: 原作の単行本26巻から28巻の描き下ろしに登場。摩季の夢の中に現れ、摩季と闘う。摩季よりも背が高く体格も上回っている。実は、坂本ジュリエッタとの間に産まれるであろう摩季の娘。
== 主な用語 ==
=== 深道ランキング ===
深道ランキングとは、日本中のストリートファイターの強さをランキングで格付し、彼らの路上での戦いを格闘マニア向けにインターネット配信し、その勝敗を会員の賭けの対象とするブックメーカーも行う組織である。日本中に会員が存在し、そのおかげでランカーたちの賞金は莫大な額になっている。深道の経営手腕やエンターテイナー性によって、絶大な人気と膨大な利益を上げている。しかしその実態は、究極を体現した男である渺茫を倒せる人材の発掘、深道本人の退屈を紛らわせることを目的とした組織である。深道自身がすべてのマッチメイクやスカウトを行い、イベントなども定期的に行っている模様である。試合が行われる場所には必ずと言っていいほどカメラマンか、監視カメラで撮影が行われている。
以下は本作にて行われたイベントの詳細を記述する。
=== 深道トーナメント ===
試合は基本的にトーナメント方式で行われ、選手には深道お手製のGPSが渡され、自分の対戦相手の居場所がわかるようになっている。ランキングの低いものが高いものに挑んでいき、最終的に勝ち残った者が1位の渺茫に挑めるという形であった。しかし会員の要望に深道が答える形で、深道(弟)を坂本ジュリエッタに差し替えたり、本来当たるはずではなかった皆口由紀と相川摩季を急遽マッチメイクしたりしていた。
; 参加資格
: ランキング10位以内(ただし、会員の要望により10位以下も参加させる可能性がある)
; 試合会場
: 町のどこか
=== 深道バトルロイヤル ===
参加者はランカーなら誰でもOKな上に、グループ・部外者の参加さえも深道によって容認されていた。この企画の意図は、通常一対一で勝負した場合、渺茫が勝利することは目に見えているため、どうにかして渺茫は倒せないかという深道の願望によるものであった。結果的には、渺茫の最強を証明する結果に終わったが、深道の意思により敗退しながらも未だ戦う意思のあるランカーを集めて「[[ラスボス]]」である渺茫を倒す「深道クエスト」に発展していく。ただし、深道クエストに移行後も、バトルロイヤルのルールは継続している。
; 参加資格
: ランカー全員
; 試合会場
: 街の中の廃校舎
; 勝利条件
: 最後に屋上に立っていた人
=== 深道クエスト ===
深道クエストとは、深道により企画されたバトルロイヤルが渺茫の優勝によって幕が下りる「想定通り」の結果をよしとせず、深道が組織したグループで渺茫を倒すことを目指した企画である。渺茫がエアマスターを倒した時点で、深道は渺茫の優勝を確信したが、その結果に満足しきれなかったため、自らメンバーを集めて渺茫を倒すことをめざしたのである。深道は長戸も誘うつもりだったが、金次郎の[[膝枕]]で天国に行きそうなほど幸せな顔をしていたため、遠慮したようである。
; メンバー
:* 深道(兄)
:* 尾形小路
:* 屋敷俊
:* 武月雄
:* サンパギータ・カイ
=== 栄光の月雄荘 ===
; 大家
: 武月雄
; 住人
: 浦木、山木田、コニオ、小西良徳、サンパギータ・カイ、芹口トミコ、戸叶、カシオ、駒田シゲオ、三島 麗一
; 家賃納入方法
: 直接受け渡し(大家による催促)
深道クエストに参加した月雄がその報酬である1100万を使い、購入、リフォームしたアパート。破格の家賃だが住人のほとんどが家賃催促を居留守を使って滞納しているため、ダメオーナーという理由で崎山にアパートを乗っ取られかけたこともある。
== 単行本 ==
{{節スタブ}}
== アニメ ==
[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]にて、[[2003年]][[4月2日]]から[[10月1日]]にかけて深夜枠で[[テレビアニメ]]が放送された。アニメ版が放送された時点で、まだ原作が終了していなかったため、終盤のストーリーの変更など、独自の展開がなされている。アニメーション制作は[[東映アニメーション]]、監督は[[西尾大介]]。
なお、日本テレビが東映アニメの制作に参加するのは『[[キン肉マン (テレビアニメ)#キン肉マン キン肉星王位争奪編(第2期)|キン肉マン キン肉星王位争奪編]]』以来約11年ぶりとなった<ref>日本テレビ系列としてはこの間の1997年4月から2000年9月にかけて[[読売テレビ|よみうりテレビ]]制作の[[金田一少年の事件簿 (アニメ)|『金田一少年の事件簿』(第1期)]]が放送されていた。</ref>。
=== スタッフ ===
* 原作 - [[柴田ヨクサル]]([[白泉社]]刊「[[ヤングアニマル]]」連載)
* シリーズディレクター - [[西尾大介]]
* シリーズ構成 - [[横手美智子]]
* キャラクターデザイン・総作画監督 - [[馬越嘉彦]]
* 美術デザイン - [[行信三]]
* 色彩設計 - 佐久間ヨシ子
* 音楽 - [[平野義久]]
* 音楽プロデューサー - 千石一成
* プロデューサー - 山下洋、田村学、木戸睦
* 製作担当 - 本間修
* 製作協力 - [[東映]]
* 製作 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[バップ|VAP]]、[[東映アニメーション]]
=== 主題歌 ===
; オープニングテーマ「[[烈の瞬]]」
: 作詞・作曲 - [[ジャパハリネット|鹿島公行]] / 編曲・歌 - [[ジャパハリネット]]
; エンディングテーマ「[[延髄突き割る|ROLLING1000tOON]]」
: 作詞・作曲 - [[マキシマム ザ ホルモン|マキシマムザ亮君]] / 編曲・歌 - [[マキシマム ザ ホルモン]]
=== 各話リスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!話数!!サブタイトル!!脚本!!演出!!作画監督!!美術監督!!放送日
|-
|1||飛べ! エアマスター||[[横手美智子]]||小村敏明||石川晋吾||杦浦正一郎||'''[[2003年]]'''<br />[[4月2日]]
|-
|2||吠えろ! 崎山香織!!||藤井文弥||伊藤尚往||山本郷<br />武田和久<br />袴田裕二||吉田智子||[[4月9日]]
|-
|3||挑め! 時田伸之助||広平虫||[[今村隆寛]]||黒柳賢治||杦浦正一郎||[[4月16日]]
|-
|4||目立て! 月雄と麗一||藤井文弥||[[古賀豪]]||飯島秀一<br />袴田裕二||吉田智子||[[4月23日]]
|-
|5||唱え! 坂本ジュリエッタ||rowspan="3"|横手美智子||吉澤孝男||[[大西陽一]]||杦浦正一郎||[[4月30日]]
|-
|6||ノってけ! 摩季||中島豊||南町三十郎||吉田智子||[[5月7日]]
|-
|7||二度と言わせるな!||伊藤尚往||岡本正弘<br />飯島秀一||杦浦正一郎||[[5月14日]]
|-
|8||轟け! 中ノ谷美奈||川崎美羽||大西景介||飯飼一幸||徳重賢||[[5月21日]]
|-
|9||進め! 黒正義誠意連合||rowspan="3"|広平虫||今村隆寛||世田二郎<br />武口憲二||清水まこと||[[5月28日]]
|-
|10||燃えろ! 北枝金次郎||吉澤孝男||大西陽一||[[飯島由樹子]]||[[6月4日]]
|-
|11||たたみこめ! 摩季対金次郎||[[石踊宏]]||渋谷一彦||常盤庄司||[[6月11日]]
|-
|12||名のれ! ファミレスラーズ||rowspan="3"|藤井文弥||中島豊||市川慶一||飯島由樹子||[[6月18日]]
|-
|13||輝け! スカイスター||古賀豪||黒柳賢治||吉田智子||[[6月25日]]
|-
|14||突きぬけろ! カイと摩季||大西景介||飯飼一幸||飯島由樹子||[[7月2日]]
|-
|15||征服せよ! 女帝ゴキ||川崎美羽||伊藤尚往||大西陽一||吉田智子||[[7月9日]]
|-
|16||戦え! 深道ランキング||rowspan="2"|横手美智子||[[西尾大介]]||飯島秀一<br />黒柳賢治<br />服部益美||飯島由樹子||[[7月16日]]
|-
|17||集え! ストリートファイターズ||吉澤孝男||石井久志||清水まこと||[[7月23日]]
|-
|18||コスプれ! 駒田シゲオ||広平虫||小山賢||小林一三||飯島由樹子||[[7月30日]]
|-
|19||忍べ! 尾形小路||川崎美羽||石踊宏||向山祐治||吉田智子||[[8月6日]]
|-
|20||ぶつかれ! カイ対金次郎||広平虫||今村隆寛||[[爲我井克美]]||飯島由樹子||[[8月13日]]
|-
|21||しゃべらせろ! 深道(弟)||川崎美羽||伊藤尚往||市川慶一||吉田智子||[[8月20日]]
|-
|22||打ち上げろ! 炎のランカー||広平虫||古賀豪||黒柳賢治||飯島由樹子||[[8月27日]]
|-
|23||切り裂け! 皆口由紀||川崎美羽<br />藤井文弥||吉澤孝男||服部益美||清水まこと||[[9月3日]]
|-
|24||焼け! 肉||藤井文弥||大西景介||飯飼一幸||飯島由樹子||[[9月10日]]
|-
|25||壊せ! 小西対ジュリエッタ||横手美智子||中島豊||渡辺秀樹||吉田智子||[[9月17日]]
|-
|26||感じろ! 闘いの風||広平虫||今村隆寛||市川慶一||飯島由樹子||[[9月24日]]
|-
|27||飛べ! 相川摩季||横手美智子||西尾大介||爲我井克美||清水まこと||[[10月1日]]
|}
=== 放送局 ===
{{注意|[[プロジェクト:放送または配信の番組#放送]]に基づき、本放送期間内の放送局および配信サイトのみを記載しています。}}
{{放送期間|media=テレビ
| 放送期間 | 放送時間 | 放送局 | 対象地域 | 備考
| [[2003年]][[4月2日]] - [[10月1日]] | 水曜 0:58 - 1:28(火曜深夜)<ref name="tsn">『[[アニメディア]]』2003年6月号の『TV STATION NETWORK』(p109 - 111)より。</ref>| [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] | [[広域放送|関東広域圏]] | '''製作局'''
| 不明 | 火曜 1:33 - 2:03(月曜深夜)<ref name="tsn" /> | [[長崎国際テレビ]] | [[長崎県]] |
| 2003年[[4月10日]] - [[10月9日]] | 木曜 1:28 - 1:58(水曜深夜)<ref name="tsn" /> | [[宮城テレビ放送|ミヤギテレビ]] | [[宮城県]] |
| 2003年[[6月8日]] - [[12月21日]] | 不明 | [[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]] | 近畿広域圏 |
| 2003年[[10月1日]] - [[2004年]][[4月7日]] | 火曜 2:38 - 3:08<ref>「TV STATION NETWORK」『[[アニメディア]]』2003年12月号、[[学研ホールディングス]]、110頁。</ref> | [[中京テレビ放送|中京テレビ]] | 中京広域圏 |
}}
=== 関連商品 ===
{{節スタブ}}
== 脚注 ==
<div class="references-small"><references /></div>
== 関連項目 ==
*[[日本テレビ系アニメ]]
*[[深夜アニメ一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20201101044412/https://www.vap.co.jp/airmaster/ アニメ公式ページ(VAP内)]
* [http://www.toei-anim.co.jp/tv/airmaster/ アニメ公式ページ(東映アニメーション内)]
* [https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/airmaster/ アニメ公式紹介ページ(東映アニメーション内)]
{{前後番組
|放送局=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]
|放送枠=[[日本テレビの深夜アニメ枠|火曜24:58枠]]
|前番組=[[花田少年史]]
|番組名=エアマスター
|次番組=[[SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK]]
}}
{{東映アニメーション}}
{{西尾大介監督作品}}
{{日本テレビの深夜アニメ枠}}
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{{Anime-stub}}
{{デフォルトソート:えあますたあ}}
[[Category:漫画作品 え|あますたあ]]
[[Category:1996年の漫画]]
[[Category:ヤングアニマルの漫画作品]]
[[Category:格闘技漫画]]
[[Category:ギャグ漫画]]
[[Category:スリラー漫画]]
[[Category:アニメ作品 え|あますたあ]]
[[Category:2003年のテレビアニメ]]
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[[Category:東映アニメーションのアニメ作品]]
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2023-05-20T22:15:14Z
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13,345 |
ヘルツ
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ヘルツ(英: hertz 記号: Hz)は、国際単位系(SI)における周波数(en:frequency)のSI組立単位である。その名前は、ドイツの物理学者で、電磁気学の分野で重要な貢献をしたハインリヒ・ヘルツに因む。
英語の frequency の日本語訳としては、周波数と振動数の2つの訳語があり得る。しかし日本の計量法は、計量の前提となる物象の状態の量(一般には物理量とみなして良い。)として、72量を定めているが、この中では「周波数」の語のみを用いている。また、国際単位系国際文書のSI組立単位の一覧表における hertz の物理量として仏語版のfréquence, 英語版のfrequencyを日本語版では、「周波数」とのみ訳出している。このため、この項目では「周波数」の語のみを用い、「振動数」の語を用いない。
1ヘルツは、「1秒間に1回の周波数」と定義される。
ヘルツとその記号 Hz はSI組立単位である s に与えられた固有の名称と記号であるが、一定周期で発生する現象にのみ使用される。ランダムに発生するような現象についてはヘルツではなく s(毎秒)を使用する。特に、1秒間に原子核が崩壊する数は、ベクレル (Bq) という単位で表される。
角速度・角周波数もsの次元を持っているが、常に、sではなく明示的な単位であるHz または rad/s(ラジアン毎秒)を用いて表現されることが推奨される。回転数はヘルツで表現することができ、60回転毎分 (rpm) = 1回転毎秒は1 Hzに等しい。1回転は2πradなので、角速度が2π rad/sの回転は1回転毎秒=1 Hzに等しい。
ヘルツという単位名称は、1930年に国際電気標準会議で制定され、1960年に国際度量衡総会(CGPM)で、それまでの単位名称「サイクル毎秒」を置き換えて採用された。
サイクル毎秒 (記号: c/s, cps) または略してサイクル(記号: c)という単位は、日本では1972年7月1日を以ってヘルツに変更された。サイクル・サイクル毎秒は使用されなくなったが、(旧)計量法には、全面改正される1997年9月30日まで残っていた。
一般的には、電波・電磁波・音波などの波の周波数を表すのに用いられることが多い。ラジオ放送では、テレビ放送などと違い、搬送波周波数表記で選局するのが一般的である。また、CPUなどのクロック周波数を表すのにも用いられる。
電磁波の周波数について使われる場合は、Hzは1秒あたりの電磁放射の振動の数を指す。
CPUのクロック信号の周波数(クロックスピード)を意味する。 1974年から2000年までに製造されたほとんどのCPUは、メガヘルツの範囲の速度で動いていた。それ以降の家庭用コンピュータで用いられているものはギガヘルツ (GHz; 10ヘルツ) の速度で動作しているが、多くの組み込み用コンピュータ、携帯ゲーム機などでは依然としてメガヘルツの速度で動いている。
さまざまなバス(たとえばCPUとシステムRAMを接続しているメモリバス)もまた、メガヘルツの範囲の周波数のクロック信号によって信号を転送している。
ヘルツの倍量・分量単位は、以下の通りである。分量単位は、定義はできるが実用されることは稀である。
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"text": "英語の frequency の日本語訳としては、周波数と振動数の2つの訳語があり得る。しかし日本の計量法は、計量の前提となる物象の状態の量(一般には物理量とみなして良い。)として、72量を定めているが、この中では「周波数」の語のみを用いている。また、国際単位系国際文書のSI組立単位の一覧表における hertz の物理量として仏語版のfréquence, 英語版のfrequencyを日本語版では、「周波数」とのみ訳出している。このため、この項目では「周波数」の語のみを用い、「振動数」の語を用いない。",
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"text": "1ヘルツは、「1秒間に1回の周波数」と定義される。",
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"text": "ヘルツとその記号 Hz はSI組立単位である s に与えられた固有の名称と記号であるが、一定周期で発生する現象にのみ使用される。ランダムに発生するような現象についてはヘルツではなく s(毎秒)を使用する。特に、1秒間に原子核が崩壊する数は、ベクレル (Bq) という単位で表される。",
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"text": "角速度・角周波数もsの次元を持っているが、常に、sではなく明示的な単位であるHz または rad/s(ラジアン毎秒)を用いて表現されることが推奨される。回転数はヘルツで表現することができ、60回転毎分 (rpm) = 1回転毎秒は1 Hzに等しい。1回転は2πradなので、角速度が2π rad/sの回転は1回転毎秒=1 Hzに等しい。",
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"text": "ヘルツという単位名称は、1930年に国際電気標準会議で制定され、1960年に国際度量衡総会(CGPM)で、それまでの単位名称「サイクル毎秒」を置き換えて採用された。",
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"text": "サイクル毎秒 (記号: c/s, cps) または略してサイクル(記号: c)という単位は、日本では1972年7月1日を以ってヘルツに変更された。サイクル・サイクル毎秒は使用されなくなったが、(旧)計量法には、全面改正される1997年9月30日まで残っていた。",
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"text": "一般的には、電波・電磁波・音波などの波の周波数を表すのに用いられることが多い。ラジオ放送では、テレビ放送などと違い、搬送波周波数表記で選局するのが一般的である。また、CPUなどのクロック周波数を表すのにも用いられる。",
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"text": "電磁波の周波数について使われる場合は、Hzは1秒あたりの電磁放射の振動の数を指す。",
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"text": "CPUのクロック信号の周波数(クロックスピード)を意味する。 1974年から2000年までに製造されたほとんどのCPUは、メガヘルツの範囲の速度で動いていた。それ以降の家庭用コンピュータで用いられているものはギガヘルツ (GHz; 10ヘルツ) の速度で動作しているが、多くの組み込み用コンピュータ、携帯ゲーム機などでは依然としてメガヘルツの速度で動いている。",
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"text": "さまざまなバス(たとえばCPUとシステムRAMを接続しているメモリバス)もまた、メガヘルツの範囲の周波数のクロック信号によって信号を転送している。",
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"text": "ヘルツの倍量・分量単位は、以下の通りである。分量単位は、定義はできるが実用されることは稀である。",
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] |
ヘルツは、国際単位系(SI)における周波数(en:frequency)のSI組立単位である。その名前は、ドイツの物理学者で、電磁気学の分野で重要な貢献をしたハインリヒ・ヘルツに因む。
|
{{代表的なトピック|ヘルツ (単位)}}
{{Otheruses|単位}}
{{単位
|名称=ヘルツ
|英字=hertz
|記号=Hz
|単位系=SI
|種類=[[SI組立単位]]
|物理量=[[周波数]]
|組立=s<sup>−1</sup>
|定義=1秒間に1回の周波数
|語源=[[ハインリヒ・ヘルツ]]
|画像=}}
'''ヘルツ'''({{lang-en-short|hertz}} 記号: '''Hz''')は、[[国際単位系]](SI)における[[周波数]]([[:en:frequency]])の[[SI組立単位]]である<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.106 表4、 [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月</ref>。その名前は、[[ドイツ]]の物理学者で、[[電磁気学]]の分野で重要な貢献をした[[ハインリヒ・ヘルツ]]に因む<ref>[https://www.tdupress.jp/book/b350333.html ハインリッヒ・ヘルツ] 東京電機大学出版局</ref><ref>[https://www.dainippon-tosho.co.jp/unit/list/Hz.html ヘルツ Hz] デジタルデータバンク、[[大日本図書]]</ref>。
== 用語(周波数と振動数) ==
英語の frequency の日本語訳としては、[[周波数]]と[[振動数]]の2つの訳語があり得る<ref group="注">{{Cite journal|和書 |title=物理教育用語委員会報告(2)(学会報告) |url=https://doi.org/10.20653/pesj.29.2_145 |author=[記載なし] |journal=物理教育 |volume=29 |issue=2 |pages=145-166 |year=1981 |doi=10.20653/pesj.29.2_145 |chapter=物理教育用語集一次案に関する意見等の募集について |publisher=日本物理教育学会
}}。 1981年時点での用語集であるが、振動数,周波数(frequency)、角振動数,角周波数(angular frequency) の用語を掲げている。</ref><ref group="注">[https://www.ince-j.or.jp/question/glossary 用語解説] 公益社団法人 日本騒音制御工学会の用語集。2つの用語を並列している。「周波数,振動数 frequency:周期の逆数。周期が1sの振動数を1ヘルツ(hertz,Hz)という。1Hz=1s<sup>-1</sup>」</ref>。しかし日本の[[計量法]]は、計量の前提となる[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]](一般には[[物理量]]とみなして良い。)として、72量を定めているが、この中では「周波数」の語のみを用いている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E6%B3%95 計量法] 第2条第1項第1号、「周波数」とある。なお、「角周波数」は物象の状態の量として定められていない。</ref>。また、[[国際単位系国際文書]]の[[SI組立単位]]の一覧表における hertz の物理量として仏語版のfréquence<ref>[https://www.bipm.org/documents/20126/41483022/SI-Brochure-9.pdf/fcf090b2-04e6-88cc-1149-c3e029ad8232 Le Système international d’unités] p.26, Tableau 4.</ref>, 英語版のfrequency<ref>[https://www.bipm.org/documents/20126/41483022/SI-Brochure-9.pdf/fcf090b2-04e6-88cc-1149-c3e029ad8232 The International System of Units] p.137, Table 4.</ref>を日本語版では、「周波数」とのみ訳出している<ref>[[#国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.106 「表4 固有の名称と記号を持つ22個のSI単位」</ref>。このため、この項目では「周波数」の語のみを用い、「振動数」の語を用いない。
== 定義 ==
1ヘルツは、「1[[秒]]間に1回の周波数」と定義される<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357_20190520_501CO0000000006&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E4%BB%A4 計量単位令] 別表第1、項番16、「周波数、ヘルツ、1秒間に1回の周波数」</ref>。
ヘルツとその記号 Hz は[[SI組立単位]]である s<sup>−1</sup> に与えられた固有の名称と記号であるが、一定周期で発生する現象にのみ使用される。ランダムに発生するような現象についてはヘルツではなく s<sup>−1</sup>([[毎秒]])を使用する。特に、1秒間に原子核が崩壊する数は、[[ベクレル]] (Bq) という単位で表される<ref>[[#国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.106 表4の注記(d) 「ヘルツは周期現象にのみ使用し、ベクレルは、放射性核種の放射能における確率過程にのみ使用すること。」</ref>。
[[角速度]]・[[角周波数]]もs<sup>−1</sup>の次元を持っているが、常に、s<sup>−1</sup>ではなく明示的な単位であるHz または rad/s([[ラジアン毎秒]])を用いて表現されることが推奨される<ref>[[#国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.110 、このため、「周波数」、「角周波数」、「角速度」と呼ばれる量は、常に、s<sup>−1</sup>ではなく、明示的な単位であるHz または rad/s を用いて表現されることが推奨される。</ref>。[[回転数]]はヘルツで表現することができ、60回転毎分 ([[rpm (単位)|rpm]]) = 1回転毎秒は1 Hzに等しい。1回転は2{{mvar|π}}[[ラジアン|rad]]なので、角速度が2{{mvar|π}} rad/sの回転は1回転毎秒=1 Hzに等しい。
== 歴史 ==
ヘルツという単位名称は、1930年に[[国際電気標準会議]]で制定され<ref>{{cite web|url=http://www.iec.ch/about/history/overview/ |title=IEC History |publisher=Iec.ch |date=1904-09-15 |accessdate=2012-04-28}}</ref>、[[1960年]]に[[国際度量衡総会]](CGPM)で、それまでの単位名称「[[サイクル (単位)|サイクル]]毎秒」を置き換えて採用された。
サイクル毎秒 (記号: c/s, cps) または略してサイクル(記号: c)という単位は、日本では[[1972年]][[7月1日]]を以ってヘルツに変更された。サイクル・サイクル毎秒は使用されなくなったが、(旧)[[計量法]]には、全面改正される[[1997年]][[9月30日]]まで残っていた[http://ja.wikisource.org/wiki/計量法_(昭和六十一年)]。
== 使用例 ==
一般的には、[[電波]]・[[電磁波]]・[[音波]]などの[[波動|波]]の周波数を表すのに用いられることが多い。[[ラジオ]]放送では、[[テレビ]]放送などと違い、[[搬送波]]周波数表記で選局するのが一般的である。また、[[CPU]]などの[[クロック周波数]]を表すのにも用いられる。
=== 電磁波 ===
電磁波の周波数について使われる場合は、Hzは1秒あたりの電磁放射の振動の数を指す。<!--無線通信に使われる電波の周波数のほとんどはMHzに含まれる。-->
*[[長波]](LF) 30 – 300 kHz
*[[中波]](MF) 300 – 3000 kHz
*[[短波]](HF) 3 – 30 MHz
*[[超短波]](VHF) 30 – 300 MHz
*[[極超短波]](UHF) 300 – 3000 MHz
*[[センチメートル波|極々超短波]](SHF) 3 – 30 GHz
=== CPU動作周波数 ===
CPUの[[クロック|クロック信号]]の周波数(クロックスピード)を意味する。
[[1974年]]から[[2000年]]までに製造されたほとんどの[[CPU]]は、メガヘルツの範囲の速度で動いていた。それ以降の家庭用コンピュータで用いられているものはギガヘルツ (GHz; 10<sup>9</sup>ヘルツ) の速度で動作しているが、多くの組み込み用コンピュータ、携帯ゲーム機などでは依然としてメガヘルツの速度で動いている。
さまざまな[[バス (コンピュータ)|バス]](たとえばCPUとシステムRAMを接続しているメモリバス)もまた、メガヘルツの範囲の周波数のクロック信号によって信号を転送している。
== 倍量・分量単位 ==
ヘルツの倍量・分量単位は、以下の通りである。分量単位は、定義はできるが実用されることは稀である。
{{SI multiples
|symbol=Hz
|unit=ヘルツ
|note=よく使われる単位を太字で示す
|k=|xk=[[キロヘルツ]]
|M=|xM=[[メガヘルツ]]
|G=|xG=[[ギガヘルツ]]
|T=|xT=[[テラヘルツ]]
}}
==符号位置==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13200|3390|-|ヘルツ記号|font=MacJapanese}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{Wiktionary}}
* [[SI組立単位]]
* [[振動数]] - [[:en:frequency]] のもう一つの訳語である。
* [[電波法]]
* [[計量法]]
* [[周波数の比較]]
* [[電波の周波数による分類]]
** [[アマチュア無線の周波数帯]]
* [[NMR]]
== 参考文献 ==
* (準拠すべき基本文献)[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_日本語版_r.pdf] {{Cite book |和書 |author=BIPM|authorlink=BIPM |date=2020-03 | translator = [[産業技術総合研究所]] 計量標準総合センター|title=国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版 |publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター |page= |id=|isbn= |ref=国際単位系(SI)第9版(2019) |quote= }}
{{SI units navbox}}
{{DEFAULTSORT:へるつ}}
[[Category:周波数の単位]]
[[Category:SI組立単位]]
[[Category:物理学のエポニム]]
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ALGOL
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■カテゴリ / ■テンプレート
ALGOL(アルゴル)は、命令型プログラミング言語ファミリーの1つ。名前「ALGOL」は「アルゴリズム言語」を意味する英語「algorithmic language」に由来する。1950年代中ごろに開発され、多くの言語に影響を及ぼし、ACMや教科書や学術論文などでアルゴリズム記述のデファクトスタンダードとして30年以上使われた。現代の多くの言語が「ALGOL系」あるいは「ALGOL風」(algol-like) とされているという意味で、ほぼ同世代の高水準言語である FORTRAN、LISP、COBOL に比べて最も成功したと言うこともできる。FORTRANで明らかとなった問題を防ぐよう設計され、BCPL、B、Pascal、Simula、Cといった様々なプログラミング言語に影響を与えた。ALGOLは「begin と end で囲む」という構文によるブロック構造を導入し、制御構造を自在に入れ子(ネスト)にできる初の広まった言語となった。また構文の形式的定義を真剣に検討した最初のプログラミング言語でもあり、"Algol 60 Report" で導入されたバッカス・ナウア記法は、その後のコンピュータ言語等の構文の形式的定義を示す手法として(プログラミング言語だけに限られず)定番の記法となっている。
次の3つの主要な仕様が存在する。後ろについている数は最初に発表された年を表している。
IAL (ALGOL 58) は後の様々なプログラミング言語(いわゆるALGOL系言語)に大きな影響を及ぼし、一般にそれらの先祖とみなされている。また、ALGOLの仕様で示された中間コードは ALGOL object code と呼ばれ、単純でコンパクトなスタックベースの命令セットアーキテクチャであり、計算機科学の分野でコンパイラ構築の教育に使われ、他の高水準言語の実装にも使われた。
1950年代後半、FORTRAN等の言語が米国で作られていたのに対抗して、ヨーロッパの学術研究者が世界共通のプログラミング言語として開発した。ALGOLは1958年にチューリッヒ工科大学で行われた国際会議で提案されたものが起源とされる。現代のプログラミング言語と比べて著しく異なる点のひとつに、reference syntax、publication syntax、implementation syntax という3種類の構文がある、ということが挙げられる。当時は文字コードの標準化以前であり、また数学の数式のように印刷したいという要望などもあったため、そのようなことになっている(違いは具象の違いであり、抽象構文は共通である)。これにより、キーワード名や小数点に使用する記号(カンマかピリオドか)を選ぶことなどもできた。
ALGOL 58 は主に欧米の計算機科学者がアルゴリズムの研究開発に用いた。商用アプリケーションにはあまり採用されていない。その原因は入出力機能が標準仕様に含まれていなかったためであり、またバロース以外の大手コンピュータメーカーがこの言語に興味を示さなかったためである。
ジョン・バッカスは ALGOL 58 を主たる対象としてプログラミング言語の文法を記述するバッカス正規記法 (Bakus normal form) を開発した。ピーター・ナウアはそれを ALGOL 60 向けに拡張・改訂。ドナルド・クヌースがバッカス・ナウア記法 (Bakus-Naur Form) と改称することを提案した。
ピーター・ナウアは ALGOL Bulletin という学術誌の編集者としてこの言語の国際的議論に参加し、1959年11月にヨーロッパの言語設計グループの一員に選ばれた。そして "Algol 60 Report" の編集者となり、1960年1月にパリで開催された ALGOL 60 についての国際会議の結果を発表した。
このパリでの会議(1960年1月1日から16日まで開催)には以下の人々が参加している。
アラン・パリスはこの会議について、「会合は疲れさせるもので、果てしなく、活発だった。ある人のよいアイデアが悪いアイデアと共に却下されると、その人は機嫌を損ねた。それにもかかわらず、期間中ずっと勤勉さが持続した。13人の作用は素晴らしいものだった」と評している。
ALGOL 60 はその後の多数の言語に影響を与えた。アントニー・ホーアは ALGOL 60 を「時代に先行していて、それまでの言語の改良だっただけでなく、その後のほぼ全ての後継者の先駆者となった言語」と評している。SchemeというLisp方言の設計者は、その静的スコープは ALGOL からの影響だと述べている。またSchemeの仕様の名称 "Revised Report on the Algorithmic Language Scheme" もALGOLへのオマージュである。
1968年には、後継として ALGOL 68 が開発された。ALGOL 68 では、2段階文法のワインハールデン記法で文法が記述された。ALGOL 60 の後継言語制定に至るまでの候補としてニクラウス・ヴィルトの ALGOL W、日本で設計された ALGOL N 等もあったが最終的に ALGOL 68 が後継として制定された。しかし、あまりに複雑かつ巨大な仕様のため ALGOL 68 コンパイラの実装は難しく、またワインハールデン記法が難解なこともあり実用的には、ほとんど普及しなかった。そのため単に ALGOL と言った場合にはALGOL 68 ではなくて ALGOL 60 やその方言を指すのが一般的である。
言語の標準化としては、IFIP TC2/WG2.1 において ALGOL 60 が制定された。その後、遅々として標準化作業はすすまず、1984年になって、ISOで ALGOL 60 相当の言語が標準化されたのみである。日本では、かつて ALGOL 60 の言語規格と入出力ライブラリ規格をそれぞれJIS規格で制定していたが (JIS C 6210-6219)、1983年(昭和58年)9月1日付で廃止された。
ピーター・ランディン(英語版)が指摘したように、ALGOLは命令型の副作用と(名前渡しの)ラムダ計算を一体に結合した初の言語である。この言語の最も見事な定式化はおそらくジョン・C・レイノルズ(英語版)によるもので、その文法および意味論の純粋さをよく表している。レイノルズの「理想化した」ALGOLも名前渡しの言語のコンテキストにおける「ローカル」な副作用の適切さについて説得力のある方法論的主張を行っており、MLのような値渡しの言語が使用する「グローバル」な副作用と対比される。ALGOLの概念的完全性により、PCF(英語版)やMLと共に意味論研究の主な対象とされるようになった。
これまでに ALGOL 60 の強化版、拡張版、派生版、サブ言語などが少なくとも70ほど存在した。
ALGOL 60 の実装に関する問題は、Nicholas Enticknap と Pat Woodroffe の書いた "The early days of Algol" で詳しく議論されている。
同時期の FORTRAN、COBOL と比べると、これらの言語が特定のハードウェア上で特定の目的を効率良くこなすための一種のドメイン特化型言語から始まったのに対し、ALGOL はいったんハードウェアの特性は置いておき、抽象的なアルゴリズムを手続きとして記述する事を目指している。初期の ALGOL 60 仕様では入出力手続きすら標準化されていなかった点から見ても、できる限り言語コアの抽象度を上げようとしていたことは想像に難くない。FORTRAN、COBOL が直系子孫以外に余り枝分かれをしていないのに対して、ALGOL 系が大きな多様性を獲得したのもこの抽象性による所が大と言える。従って ALGOL の策定をもって、ソフトウェアのモジュール化、計算機の汎用化が始まった瞬間と捉えても差し支えないであろう。
ALGOL 60 は、手続き型言語として再帰呼び出しが可能な初めてのプログラミング言語である。
公式の ALGOL 60 では入出力機能が定義されていなかったため、実際の処理系ではそれぞれに互換性のない方法で実装された。それに対して、ALGOL 68では transputのための豊富なライブラリが提供された。
ALGOL 60 では引数渡しに2種類の評価戦略が定義されている。一般的な値渡しと ALGOL に特徴的な名前渡しである。名前渡しは実際のところ、手続き型言語では扱いがかなり難しい。例えば、2つの引数の値を入れ替える手続きを書いたとき、ある整数変数とその整数変数を添え字とする配列要素をその引数として渡すことができない。すなわち swap(i, A[i]) という場合である(詳しくは引数#名前渡しを参照)。乱数関数を渡す場合にも問題が生じる。
しかし、ALGOLの設計者は名前渡しをデフォルトとした。また、言語処理系実装者たちは名前渡しの実現にThunk(サンク)(英語版)という興味深い技法を編み出した。現在、素朴な(ALGOLのような)名前渡しは完全に廃れたが、サンクは遅延(非正格)評価を実装する一般的な手法として知られる。ドナルド・クヌースは処理系が「再帰呼び出しと非局所的参照」を正しく実装しているかを評価するman or boy test(英語版)を考案した。このテストには名前呼び出しの例が含まれている(クヌースらは他にも、名前渡しの「悪用」とでも言うべきJensen's Device(英語版)と後に呼ばれるようになるような技法の一例を示した "ALGOL 60 Confidential"など、仕様のコーナーケースを暴き、コンピュータ・プログラミング言語設計の難しさをあらわにした)。
ALGOL の影響として、後の言語のうちの最も多くに影響があるものは、BEGIN/END(C 言語などでは{ })の入れ子によるブロック構造化、つまり次のような典型的な形の記法であろう。
俗に「ALGOL 文法」といった場合は、このブロック構造化記法のことを指していることがある(C言語のように他の記号を使うものも含めて指していることもあれば、そうではなくてBEGIN/ENDのようにキーワードを使う、という意味で言っていることもある)。後の静的スコープの言語についても、ALGOLからの影響と言われることがある。
次のコードは ALGOL 60 で n × m の2次元配列の中から絶対値が最大の要素を求め、その絶対値をyに、添え字をiとkに格納する手続きを記述したものである。なお、コード中で強調表示されている予約語の記法は処理系に依存する。例えば "INTEGER" は "integer" と書かれることもある(ストロッピング(英語版))。
次の例は Elliott 803 ALGOL で表を生成する方法を示したものである。
PUNCH(3) は紙テープのさん孔装置ではなくテレタイプ端末のプリンターへ出力を送るものである。SAMELINE は引数間で通常行われる復帰改行を抑制する。ALIGNED(1,6) は出力を小数点以上を1文字、小数点以下を6文字とするようフォーマットする。
次のコード例は上掲の ALGOL 60 のコード例の ALGOL 68 版である。
ALGOL 68 でも ALGOL 60 のストロッピング(英語版)を再利用している。
なお、lower (⌊) と upper (⌈) は配列の境界を示し、配列を走査する際の添え字の範囲指定に使える。
printf はファイル stand out に出力を送る。printf($p$); は改頁、printf($l$); は改行である。printf(($z-d.6d$,a,b,c)) は小数点以上を1桁、小数点以下を6桁にフォーマットして出力する。
ALGOLの各種実装における移植性の無さは、Hello World プログラムで簡単に示すことができる。
ALGOL 58 には入出力機能が存在しないので、例示できない。
ALGOL 60 にも入出力機能がないので、Hello World プログラムの移植性はない。以下に示すのはユニシスのメインフレームで今も使用可能なALGOLの実装に対応したもので、ミシガン大学の The Language Guide にあるコード例を単純化したものである。
インラインフォーマットを使ったさらに単純なプログラムは次のようになる。
Display文を使うとさらに次のように単純化される。
もう1つの例として Elliott Algol のコード例を示す。Elliott Algol は引用開始符号と引用終了符号とで異なる文字を使用する。
次は Elliott 803 Algol (A104) の例である。Elliott 803 は標準では5孔の紙テープを使用するので、大文字しか使えない。引用符として使える文字もないため、ポンド記号 (£) を引用開始、疑問符 (?) を引用終了に使用している。特殊シーケンスは二重引用内に置かれる(例えば、££L?? は改行指示である)。
ICT 1900シリーズのALGOLでは、紙テープまたはパンチカードを入力として利用可能である。紙テープは小文字も使用可能である。出力はラインプリンターに対して行う。
ALGOL 68 のコードは一般に太字または下線つきの小文字で予約語を表す(ただし、以下の例はシンタックスハイライトのために大文字にしている)。
"Algol 68 Report" では、入出力を "transput" と称している。
ALGOLは文字セットが急速に発展し多様化していた時代に登場した。また、ALGOLは大文字だけで記述できるよう定義されていた。
1960年の情報処理国際連合 (IFIP) で発表された ALGOL 60 では、当時のほとんどのコンピュータではサポートされていない数学記号がいくつか使われていた。例えば、×, ÷, ≤, ≥, ≠, ¬, ∨, ∧, ⊂, ≡, ␣, ⏨ などである。
1961年9月、初期のASCII文字セットが登場し、ALGOLのブーリアン演算子 "\/" と "/\" をサポートするためにバックスラッシュ (\) が初期段階で追加された。
1962年、ALCOR(英語版)は2つの珍しい文字、"᛭" (iron/runic cross) と "⏨" (Decimal Exponent Symbol) を浮動小数点形式で使用するためにALGOLの文字セットに加えた。
1964年、ソビエト連邦が策定したGOST規格 GOST 10859 で、ALGOL用の4ビット、5ビット、6ビット、7ビットの文字セットを定義した。
1968年の "Algol 68 Report" では既存のALGOL用文字セットに加えて、IBM 2741 端末(1965年に登場したAPL対応端末)で使用可能な →, ↓, ↑, □, ⌊, ⌈, ⎩, ⎧, ○, ⊥, ¢ という文字を加えた。このレポートはロシア語、ドイツ語、フランス語、ブルガリア語に翻訳され、それぞれの言語向けに文字セットが拡張された。例えばソビエト連邦のBESM-4はキリル文字が使用可能だった。ALGOLの使用する全ての文字はUnicode規格の一部になっており、その大部分は主要なフォントが対応している。
2009年10月、浮動小数点形式記述のための "⏨" (Decimal Exponent Symbol) が Unicode 5.2 に追加された。これはブランで使われたALGOLソフトウェアとの後方互換を保つためである。
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"text": "ALGOL(アルゴル)は、命令型プログラミング言語ファミリーの1つ。名前「ALGOL」は「アルゴリズム言語」を意味する英語「algorithmic language」に由来する。1950年代中ごろに開発され、多くの言語に影響を及ぼし、ACMや教科書や学術論文などでアルゴリズム記述のデファクトスタンダードとして30年以上使われた。現代の多くの言語が「ALGOL系」あるいは「ALGOL風」(algol-like) とされているという意味で、ほぼ同世代の高水準言語である FORTRAN、LISP、COBOL に比べて最も成功したと言うこともできる。FORTRANで明らかとなった問題を防ぐよう設計され、BCPL、B、Pascal、Simula、Cといった様々なプログラミング言語に影響を与えた。ALGOLは「begin と end で囲む」という構文によるブロック構造を導入し、制御構造を自在に入れ子(ネスト)にできる初の広まった言語となった。また構文の形式的定義を真剣に検討した最初のプログラミング言語でもあり、\"Algol 60 Report\" で導入されたバッカス・ナウア記法は、その後のコンピュータ言語等の構文の形式的定義を示す手法として(プログラミング言語だけに限られず)定番の記法となっている。",
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"text": "次の3つの主要な仕様が存在する。後ろについている数は最初に発表された年を表している。",
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"text": "IAL (ALGOL 58) は後の様々なプログラミング言語(いわゆるALGOL系言語)に大きな影響を及ぼし、一般にそれらの先祖とみなされている。また、ALGOLの仕様で示された中間コードは ALGOL object code と呼ばれ、単純でコンパクトなスタックベースの命令セットアーキテクチャであり、計算機科学の分野でコンパイラ構築の教育に使われ、他の高水準言語の実装にも使われた。",
"title": "主なバージョン"
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"text": "1950年代後半、FORTRAN等の言語が米国で作られていたのに対抗して、ヨーロッパの学術研究者が世界共通のプログラミング言語として開発した。ALGOLは1958年にチューリッヒ工科大学で行われた国際会議で提案されたものが起源とされる。現代のプログラミング言語と比べて著しく異なる点のひとつに、reference syntax、publication syntax、implementation syntax という3種類の構文がある、ということが挙げられる。当時は文字コードの標準化以前であり、また数学の数式のように印刷したいという要望などもあったため、そのようなことになっている(違いは具象の違いであり、抽象構文は共通である)。これにより、キーワード名や小数点に使用する記号(カンマかピリオドか)を選ぶことなどもできた。",
"title": "歴史"
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"text": "ALGOL 58 は主に欧米の計算機科学者がアルゴリズムの研究開発に用いた。商用アプリケーションにはあまり採用されていない。その原因は入出力機能が標準仕様に含まれていなかったためであり、またバロース以外の大手コンピュータメーカーがこの言語に興味を示さなかったためである。",
"title": "歴史"
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"text": "ジョン・バッカスは ALGOL 58 を主たる対象としてプログラミング言語の文法を記述するバッカス正規記法 (Bakus normal form) を開発した。ピーター・ナウアはそれを ALGOL 60 向けに拡張・改訂。ドナルド・クヌースがバッカス・ナウア記法 (Bakus-Naur Form) と改称することを提案した。",
"title": "歴史"
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"text": "ピーター・ナウアは ALGOL Bulletin という学術誌の編集者としてこの言語の国際的議論に参加し、1959年11月にヨーロッパの言語設計グループの一員に選ばれた。そして \"Algol 60 Report\" の編集者となり、1960年1月にパリで開催された ALGOL 60 についての国際会議の結果を発表した。",
"title": "歴史"
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"text": "このパリでの会議(1960年1月1日から16日まで開催)には以下の人々が参加している。",
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"text": "アラン・パリスはこの会議について、「会合は疲れさせるもので、果てしなく、活発だった。ある人のよいアイデアが悪いアイデアと共に却下されると、その人は機嫌を損ねた。それにもかかわらず、期間中ずっと勤勉さが持続した。13人の作用は素晴らしいものだった」と評している。",
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"text": "ALGOL 60 はその後の多数の言語に影響を与えた。アントニー・ホーアは ALGOL 60 を「時代に先行していて、それまでの言語の改良だっただけでなく、その後のほぼ全ての後継者の先駆者となった言語」と評している。SchemeというLisp方言の設計者は、その静的スコープは ALGOL からの影響だと述べている。またSchemeの仕様の名称 \"Revised Report on the Algorithmic Language Scheme\" もALGOLへのオマージュである。",
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"text": "1968年には、後継として ALGOL 68 が開発された。ALGOL 68 では、2段階文法のワインハールデン記法で文法が記述された。ALGOL 60 の後継言語制定に至るまでの候補としてニクラウス・ヴィルトの ALGOL W、日本で設計された ALGOL N 等もあったが最終的に ALGOL 68 が後継として制定された。しかし、あまりに複雑かつ巨大な仕様のため ALGOL 68 コンパイラの実装は難しく、またワインハールデン記法が難解なこともあり実用的には、ほとんど普及しなかった。そのため単に ALGOL と言った場合にはALGOL 68 ではなくて ALGOL 60 やその方言を指すのが一般的である。",
"title": "歴史"
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"text": "言語の標準化としては、IFIP TC2/WG2.1 において ALGOL 60 が制定された。その後、遅々として標準化作業はすすまず、1984年になって、ISOで ALGOL 60 相当の言語が標準化されたのみである。日本では、かつて ALGOL 60 の言語規格と入出力ライブラリ規格をそれぞれJIS規格で制定していたが (JIS C 6210-6219)、1983年(昭和58年)9月1日付で廃止された。",
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"text": "ピーター・ランディン(英語版)が指摘したように、ALGOLは命令型の副作用と(名前渡しの)ラムダ計算を一体に結合した初の言語である。この言語の最も見事な定式化はおそらくジョン・C・レイノルズ(英語版)によるもので、その文法および意味論の純粋さをよく表している。レイノルズの「理想化した」ALGOLも名前渡しの言語のコンテキストにおける「ローカル」な副作用の適切さについて説得力のある方法論的主張を行っており、MLのような値渡しの言語が使用する「グローバル」な副作用と対比される。ALGOLの概念的完全性により、PCF(英語版)やMLと共に意味論研究の主な対象とされるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "これまでに ALGOL 60 の強化版、拡張版、派生版、サブ言語などが少なくとも70ほど存在した。",
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"text": "ALGOL 60 の実装に関する問題は、Nicholas Enticknap と Pat Woodroffe の書いた \"The early days of Algol\" で詳しく議論されている。",
"title": "歴史"
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"text": "同時期の FORTRAN、COBOL と比べると、これらの言語が特定のハードウェア上で特定の目的を効率良くこなすための一種のドメイン特化型言語から始まったのに対し、ALGOL はいったんハードウェアの特性は置いておき、抽象的なアルゴリズムを手続きとして記述する事を目指している。初期の ALGOL 60 仕様では入出力手続きすら標準化されていなかった点から見ても、できる限り言語コアの抽象度を上げようとしていたことは想像に難くない。FORTRAN、COBOL が直系子孫以外に余り枝分かれをしていないのに対して、ALGOL 系が大きな多様性を獲得したのもこの抽象性による所が大と言える。従って ALGOL の策定をもって、ソフトウェアのモジュール化、計算機の汎用化が始まった瞬間と捉えても差し支えないであろう。",
"title": "特徴"
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"text": "ALGOL 60 は、手続き型言語として再帰呼び出しが可能な初めてのプログラミング言語である。",
"title": "特徴"
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"text": "公式の ALGOL 60 では入出力機能が定義されていなかったため、実際の処理系ではそれぞれに互換性のない方法で実装された。それに対して、ALGOL 68では transputのための豊富なライブラリが提供された。",
"title": "特徴"
},
{
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"text": "ALGOL 60 では引数渡しに2種類の評価戦略が定義されている。一般的な値渡しと ALGOL に特徴的な名前渡しである。名前渡しは実際のところ、手続き型言語では扱いがかなり難しい。例えば、2つの引数の値を入れ替える手続きを書いたとき、ある整数変数とその整数変数を添え字とする配列要素をその引数として渡すことができない。すなわち swap(i, A[i]) という場合である(詳しくは引数#名前渡しを参照)。乱数関数を渡す場合にも問題が生じる。",
"title": "特徴"
},
{
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"text": "しかし、ALGOLの設計者は名前渡しをデフォルトとした。また、言語処理系実装者たちは名前渡しの実現にThunk(サンク)(英語版)という興味深い技法を編み出した。現在、素朴な(ALGOLのような)名前渡しは完全に廃れたが、サンクは遅延(非正格)評価を実装する一般的な手法として知られる。ドナルド・クヌースは処理系が「再帰呼び出しと非局所的参照」を正しく実装しているかを評価するman or boy test(英語版)を考案した。このテストには名前呼び出しの例が含まれている(クヌースらは他にも、名前渡しの「悪用」とでも言うべきJensen's Device(英語版)と後に呼ばれるようになるような技法の一例を示した \"ALGOL 60 Confidential\"など、仕様のコーナーケースを暴き、コンピュータ・プログラミング言語設計の難しさをあらわにした)。",
"title": "特徴"
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"text": "ALGOL の影響として、後の言語のうちの最も多くに影響があるものは、BEGIN/END(C 言語などでは{ })の入れ子によるブロック構造化、つまり次のような典型的な形の記法であろう。",
"title": "特徴"
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"text": "俗に「ALGOL 文法」といった場合は、このブロック構造化記法のことを指していることがある(C言語のように他の記号を使うものも含めて指していることもあれば、そうではなくてBEGIN/ENDのようにキーワードを使う、という意味で言っていることもある)。後の静的スコープの言語についても、ALGOLからの影響と言われることがある。",
"title": "特徴"
},
{
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"text": "次のコードは ALGOL 60 で n × m の2次元配列の中から絶対値が最大の要素を求め、その絶対値をyに、添え字をiとkに格納する手続きを記述したものである。なお、コード中で強調表示されている予約語の記法は処理系に依存する。例えば \"INTEGER\" は \"integer\" と書かれることもある(ストロッピング(英語版))。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"text": "次の例は Elliott 803 ALGOL で表を生成する方法を示したものである。",
"title": "例と移植性問題"
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{
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"text": "PUNCH(3) は紙テープのさん孔装置ではなくテレタイプ端末のプリンターへ出力を送るものである。SAMELINE は引数間で通常行われる復帰改行を抑制する。ALIGNED(1,6) は出力を小数点以上を1文字、小数点以下を6文字とするようフォーマットする。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"text": "次のコード例は上掲の ALGOL 60 のコード例の ALGOL 68 版である。",
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{
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"text": "ALGOL 68 でも ALGOL 60 のストロッピング(英語版)を再利用している。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"text": "なお、lower (⌊) と upper (⌈) は配列の境界を示し、配列を走査する際の添え字の範囲指定に使える。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "printf はファイル stand out に出力を送る。printf($p$); は改頁、printf($l$); は改行である。printf(($z-d.6d$,a,b,c)) は小数点以上を1桁、小数点以下を6桁にフォーマットして出力する。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"text": "ALGOLの各種実装における移植性の無さは、Hello World プログラムで簡単に示すことができる。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "ALGOL 58 には入出力機能が存在しないので、例示できない。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "ALGOL 60 にも入出力機能がないので、Hello World プログラムの移植性はない。以下に示すのはユニシスのメインフレームで今も使用可能なALGOLの実装に対応したもので、ミシガン大学の The Language Guide にあるコード例を単純化したものである。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"text": "インラインフォーマットを使ったさらに単純なプログラムは次のようになる。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"text": "Display文を使うとさらに次のように単純化される。",
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{
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"text": "もう1つの例として Elliott Algol のコード例を示す。Elliott Algol は引用開始符号と引用終了符号とで異なる文字を使用する。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "次は Elliott 803 Algol (A104) の例である。Elliott 803 は標準では5孔の紙テープを使用するので、大文字しか使えない。引用符として使える文字もないため、ポンド記号 (£) を引用開始、疑問符 (?) を引用終了に使用している。特殊シーケンスは二重引用内に置かれる(例えば、££L?? は改行指示である)。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "ICT 1900シリーズのALGOLでは、紙テープまたはパンチカードを入力として利用可能である。紙テープは小文字も使用可能である。出力はラインプリンターに対して行う。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ALGOL 68 のコードは一般に太字または下線つきの小文字で予約語を表す(ただし、以下の例はシンタックスハイライトのために大文字にしている)。",
"title": "例と移植性問題"
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{
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"text": "\"Algol 68 Report\" では、入出力を \"transput\" と称している。",
"title": "例と移植性問題"
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{
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"text": "ALGOLは文字セットが急速に発展し多様化していた時代に登場した。また、ALGOLは大文字だけで記述できるよう定義されていた。",
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"text": "1960年の情報処理国際連合 (IFIP) で発表された ALGOL 60 では、当時のほとんどのコンピュータではサポートされていない数学記号がいくつか使われていた。例えば、×, ÷, ≤, ≥, ≠, ¬, ∨, ∧, ⊂, ≡, ␣, ⏨ などである。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"text": "1961年9月、初期のASCII文字セットが登場し、ALGOLのブーリアン演算子 \"\\/\" と \"/\\\" をサポートするためにバックスラッシュ (\\) が初期段階で追加された。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1962年、ALCOR(英語版)は2つの珍しい文字、\"᛭\" (iron/runic cross) と \"⏨\" (Decimal Exponent Symbol) を浮動小数点形式で使用するためにALGOLの文字セットに加えた。",
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},
{
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"text": "1964年、ソビエト連邦が策定したGOST規格 GOST 10859 で、ALGOL用の4ビット、5ビット、6ビット、7ビットの文字セットを定義した。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"text": "1968年の \"Algol 68 Report\" では既存のALGOL用文字セットに加えて、IBM 2741 端末(1965年に登場したAPL対応端末)で使用可能な →, ↓, ↑, □, ⌊, ⌈, ⎩, ⎧, ○, ⊥, ¢ という文字を加えた。このレポートはロシア語、ドイツ語、フランス語、ブルガリア語に翻訳され、それぞれの言語向けに文字セットが拡張された。例えばソビエト連邦のBESM-4はキリル文字が使用可能だった。ALGOLの使用する全ての文字はUnicode規格の一部になっており、その大部分は主要なフォントが対応している。",
"title": "例と移植性問題"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2009年10月、浮動小数点形式記述のための \"⏨\" (Decimal Exponent Symbol) が Unicode 5.2 に追加された。これはブランで使われたALGOLソフトウェアとの後方互換を保つためである。",
"title": "例と移植性問題"
}
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ALGOL(アルゴル)は、命令型プログラミング言語ファミリーの1つ。名前「ALGOL」は「アルゴリズム言語」を意味する英語「algorithmic language」に由来する。1950年代中ごろに開発され、多くの言語に影響を及ぼし、ACMや教科書や学術論文などでアルゴリズム記述のデファクトスタンダードとして30年以上使われた。現代の多くの言語が「ALGOL系」あるいは「ALGOL風」(algol-like) とされているという意味で、ほぼ同世代の高水準言語である FORTRAN、LISP、COBOL に比べて最も成功したと言うこともできる。FORTRANで明らかとなった問題を防ぐよう設計され、BCPL、B、Pascal、Simula、Cといった様々なプログラミング言語に影響を与えた。ALGOLは「begin と end で囲む」という構文によるブロック構造を導入し、制御構造を自在に入れ子(ネスト)にできる初の広まった言語となった。また構文の形式的定義を真剣に検討した最初のプログラミング言語でもあり、"Algol 60 Report" で導入されたバッカス・ナウア記法は、その後のコンピュータ言語等の構文の形式的定義を示す手法として(プログラミング言語だけに限られず)定番の記法となっている。
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{{Otheruses|プログラミング言語|[[ペルセウス座]]のβ星|アルゴル}}
{{Infobox プログラミング言語
| fetchwikidata = ALL
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| name = ALGOL
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| designer = {{仮リンク|フリードリッヒ・L・バウアー|en|Friedrich L. Bauer|label=バウアー}}、 [[ハインツ・ルティシュハウザー|ルティシュハウザー]]、 {{仮リンク|クラウス・サメルソン|en|Klaus Samelson|label=サメルソン}}、 [[ジョン・バッカス|バッカス]]、 [[アラン・パリス|パリス]]、 [[ピーター・ナウア|ナウア]]、 {{仮リンク|アドリアン・ファン・ワインハールデン|en|Adriaan van Wijngaarden|label=ファン・ワインハールデン}}、 [[ジョン・マッカーシー|マッカーシー]]他
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{{プログラミング言語}}
{{lang|en|'''ALGOL'''}}('''アルゴル''')は、[[命令型プログラミング|命令型]][[プログラミング言語]]ファミリーの1つ<ref group="注">ファミリー名は大文字/小文字をまじえて表記される場合 ([http://www.masswerk.at/algol60/report.htm ''Algol 60'']) と、全て大文字で表記される場合 (''ALGOL 68'') がある。本項目では ''ALGOL'' で統一する。</ref>。名前「{{lang|en|ALGOL}}」は「アルゴリズム言語」を意味する英語「{{lang|en|<u>algo</u>rithmic <u>l</u>anguage}}」に由来する{{Sfn|P.HAYES|1978|p=38}}。1950年代中ごろに開発され、多くの言語に影響を及ぼし、[[Association for Computing Machinery|ACM]]や教科書や学術論文などで[[アルゴリズム]]記述の[[デファクトスタンダード]]として30年以上使われた<ref>[http://calgo.acm.org/ ''Collected Algorithms of the ACM''] [[Association for Computing Machinery|ACM]]によるアルゴリズム集</ref>。現代の多くの言語が「ALGOL系」あるいは「ALGOL風」(algol-like) とされているという意味で<ref>{{Cite web| url= http://www.eecs.qmul.ac.uk/~ohearn/Algol/intro.html | title=Algol-like languages ,Introduction | author1=P. W. O'Hearn | author2=R. D. Tennent | date=September 1996 | accessdate= 2012-01-17}}</ref>、ほぼ同世代の[[高水準言語]]である [[FORTRAN]]、[[LISP]]、[[COBOL]] に比べて最も成功したと言うこともできる。[[FORTRAN]]で明らかとなった問題を防ぐよう設計され、[[BCPL]]、[[B言語|B]]、[[Pascal]]、[[Simula]]、[[C言語|C]]といった様々なプログラミング言語に影響を与えた。ALGOLは「<code>begin</code> と <code>end</code> で囲む」という構文による[[ブロック (プログラミング)|ブロック]]構造を導入し、[[制御構造]]を自在に入れ子([[ネスティング|ネスト]])にできる初の広まった言語となった。また構文の形式的定義を真剣に検討した最初のプログラミング言語でもあり、"Algol 60 Report"<ref name="Algol60Report" /> で導入された[[バッカス・ナウア記法]]は、その後のコンピュータ言語等の構文の形式的定義を示す手法として(プログラミング言語だけに限られず)定番の記法となっている。
== 主なバージョン ==
次の3つの主要な仕様が存在する。後ろについている数は最初に発表された年を表している。
; {{仮リンク|ALGOL 58|en|ALGOL 58}}
: 当初 '''IAL''' ('''I'''nternational '''A'''lgebraic '''L'''anguage) という名称で提案された<ref>{{citation|doi=10.1145/377924.594925|authorlink=アラン・パリス|last=Perlis|first=A.J.|last2=Samelson|first2=K.|title=Preliminary report: international algebraic language|journal=Communications of the ACM|volume=1|issue=12|year=1958|pages=8-22}}</ref>。
; {{仮リンク|ALGOL 60|en|ALGOL 60}}
: 1960年中ごろに ''X1 ALGOL 60'' として実装されたのが最初で、1963年に改訂された<ref name="Algol60Report">{{Cite book | title=Report on the Algorithmic Language ALGOL 60 | location=Copenhagen | month=May |year=1960 | doi=10.1145/367236.367262 | issn=0001-0782 | editor1-first=Peter |editor1-last=Naur | first1=J. W. |last1=Backus | first2=F. L. |last2=Bauer | first3=J. |last3=Green | first4=C. |last4=Katz | first5=J. |last5=McCarthy | first6=A. J. |last6=Perlis | first7=H. |last7=Rutishauser | first8=K. |last8=Samelson | first9=B. |last9=Vauquois | first10=J. H.|last10=Wegstein | first11=A. |last11=van Wijngaarden | first12=M. |last12=Woodger | unused_data=Ed. P. Naur}}</ref><ref>{{Cite web |title=Revised Report on the Algorithmic Language Algol 60 |year=1963 |url= http://www.masswerk.at/algol60/report.htm |accessdate= 2007-06-08 | archiveurl= https://web.archive.org/web/20070625171638/http://www.masswerk.at/algol60/report.htm| archivedate= 25 June 2007 | deadurl= no}}</ref>。
; {{仮リンク|ALGOL 68|en|ALGOL 68}}
: 1968年に発表され、1973年に改訂された<ref>{{Cite web |title=Revised Report on the Algorithmic Language ALGOL 68 |year=1973 |url= http://www.diegolucenapumar.com/sda3/home/Algol/Algol%2068/Algol68-RevisedReport.pdf |accessdate=2010-08-25}}</ref>。可変配列、スライス、並列性、演算子識別、その他の拡張可能な機能などが新たに導入されている。
IAL (ALGOL 58) は後の様々なプログラミング言語(いわゆるALGOL系言語)に大きな影響を及ぼし、一般にそれらの先祖とみなされている。また、ALGOLの仕様で示された[[中間コード]]は '''ALGOL object code''' と呼ばれ、単純でコンパクトなスタックベースの[[命令セット]]アーキテクチャであり、[[計算機科学]]の分野で[[コンパイラ]]構築の教育に使われ、他の高水準言語の実装にも使われた。
== 歴史 ==
1950年代後半、{{lang|en|[[FORTRAN]]}}等の言語が[[アメリカ合衆国|米国]]で作られていたのに対抗して、[[ヨーロッパ]]の学術研究者が世界共通のプログラミング言語として開発した。ALGOLは[[1958年]]に[[チューリッヒ工科大学]]で行われた国際会議で提案されたものが起源とされる。現代のプログラミング言語と比べて著しく異なる点のひとつに、reference syntax、publication syntax、implementation syntax という3種類の構文がある、ということが挙げられる。当時は[[文字コード]]の標準化以前であり、また数学の数式のように印刷したいという要望などもあったため、そのようなことになっている(違いは具象の違いであり、抽象構文は共通である)。これにより、キーワード名や小数点に使用する記号(カンマかピリオドか)を選ぶことなどもできた。
ALGOL 58 は主に欧米の計算機科学者が[[アルゴリズム]]の[[研究開発]]に用いた。商用アプリケーションにはあまり採用されていない。その原因は[[入出力]]機能が標準仕様に含まれていなかったためであり、また[[バロース]]以外の大手コンピュータメーカーがこの言語に興味を示さなかったためである。
[[ジョン・バッカス]]は ALGOL 58 を主たる対象としてプログラミング言語の文法を記述する[[バッカス・ナウア記法|バッカス正規記法]] (Bakus normal form) を開発した。[[ピーター・ナウア]]はそれを ALGOL 60 向けに拡張・改訂。[[ドナルド・クヌース]]が[[バッカス・ナウア記法]] (Bakus-Naur Form) と改称することを提案した<ref>{{Cite journal| last=Knuth | first=Donald E. | year=1964 | title=Backus Normal Form vs Backus Naur Form | journal=Communications of the ACM | volume=7 | issue=12 | pages=735–736 | doi = 10.1145/355588.365140 }}</ref>。
ピーター・ナウアは ''ALGOL Bulletin'' という学術誌の編集者としてこの言語の国際的議論に参加し、1959年11月にヨーロッパの言語設計グループの一員に選ばれた。そして "Algol 60 Report" の編集者となり、1960年1月にパリで開催された ALGOL 60 についての国際会議の結果を発表した<ref name="naur_acm">[http://awards.acm.org/citation.cfm?id=1024454&srt=all&aw=140&ao=AMTURING&yr=2005 ACM Award Citation / Peter Naur], 2005</ref>。
このパリでの会議(1960年1月1日から16日まで開催)には以下の人々が参加している。
; ヨーロッパからの参加者
: {{仮リンク|フリードリッヒ・L・バウアー|en|Friedrich L. Bauer}}、[[ピーター・ナウア]]、[[ハインツ・ルティシュハウザー]]、{{仮リンク|クラウス・サメルソン|en|Klaus Samelson}}、Bernard Vauquois、{{仮リンク|アドリアン・ファン・ワインハールデン|en|Adriaan van Wijngaarden}}、Michael Woodger
; アメリカからの参加者
: [[ジョン・バッカス]]、Julien Green、Charles Katz、[[ジョン・マッカーシー]]、[[アラン・パリス]]、Joseph Henry Wegstein
アラン・パリスはこの会議について、「会合は疲れさせるもので、果てしなく、活発だった。ある人のよいアイデアが悪いアイデアと共に却下されると、その人は機嫌を損ねた。それにもかかわらず、期間中ずっと勤勉さが持続した。13人の作用は素晴らしいものだった」と評している。
ALGOL 60 はその後の多数の言語に影響を与えた。[[アントニー・ホーア]]は ALGOL 60 を「時代に先行していて、それまでの言語の改良だっただけでなく、その後のほぼ全ての後継者の先駆者となった言語」と評している<ref>[http://www.eecs.umich.edu/~bchandra/courses/papers/Hoare_Hints.pdf "Hints on Programming Language Design"], C.A.R. Hoare, December 1973. Page 27. (なお、この言葉は間違って[[エドガー・ダイクストラ]]のものとされることがある。ダイクストラも ALGOL 60 [[コンパイラ]]の実装に参加していた)</ref>。[[Scheme]]というLisp方言の設計者は、その[[静的スコープ]]は ALGOL からの影響だと述べている。またSchemeの仕様の名称 "Revised Report on the Algorithmic Language Scheme" もALGOLへのオマージュである<ref name="r3rs">{{Cite web| author=Jonathan Rees and William Clinger (Editors), Hal Abelson, R. K. Dybvig et al. | title=Revised(3) Report on the Algorithmic Language Scheme, (Dedicated to the Memory of ALGOL 60) | url= http://groups.csail.mit.edu/mac/ftpdir/scheme-reports/r3rs-html/r3rs_toc.html |accessdate= 2009-10-20}}</ref>。
1968年には、後継として '''{{lang|en|ALGOL}} 68''' が開発された。{{lang|en|ALGOL}} 68 では、2段階文法のワインハールデン記法で文法が記述された。{{lang|en|ALGOL}} 60 の後継言語制定に至るまでの候補として[[ニクラウス・ヴィルト]]の {{lang|en|ALGOL W}}、日本で設計された {{lang|en|ALGOL N}} 等もあったが最終的に {{lang|en|ALGOL}} 68 が後継として制定された。しかし、あまりに複雑かつ巨大な仕様のため {{lang|en|ALGOL}} 68 コンパイラの実装は難しく、またワインハールデン記法が難解なこともあり実用的には、ほとんど普及しなかった。そのため単に ALGOL と言った場合にはALGOL 68 ではなくて ALGOL 60 やその方言を指すのが一般的である。
言語の標準化としては、IFIP TC2/WG2.1 において {{lang|en|ALGOL}} 60 が制定された。その後、遅々として標準化作業はすすまず、1984年になって、[[国際標準化機構|ISO]]で {{lang|en|ALGOL}} 60 相当の言語が標準化されたのみである。日本では、かつて {{lang|en|ALGOL}} 60 の言語規格と入出力ライブラリ規格をそれぞれ[[日本工業規格|JIS規格]]で制定していたが (JIS C 6210-6219)、[[1983年]](昭和58年)[[9月1日]]付で廃止された。
=== ALGOLとプログラミング言語研究 ===
{{仮リンク|ピーター・ランディン|en|Peter Landin}}が指摘したように、ALGOLは命令型の[[副作用 (プログラム)|副作用]]と([[評価戦略|名前渡し]]の)[[ラムダ計算]]を一体に結合した初の言語である。この言語の最も見事な定式化はおそらく{{仮リンク|ジョン・C・レイノルズ|en|John C. Reynolds}}によるもので、その文法および意味論の純粋さをよく表している。レイノルズの「理想化した」ALGOLも名前渡しの言語のコンテキストにおける「ローカル」な副作用の適切さについて説得力のある方法論的主張を行っており、[[ML (プログラミング言語)|ML]]のような値渡しの言語が使用する「グローバル」な副作用と対比される。ALGOLの概念的完全性により、{{仮リンク|Programming Computable Functions|en|Programming Computable Functions|label=PCF}}やMLと共に意味論研究の主な対象とされるようになった<ref>Peter O'Hearn and Robert D. Tennent. 1996. Algol-Like Languages. Birkhauser Boston Inc., Cambridge, MA, USA.</ref>。
=== 実装例 ===
これまでに ALGOL 60 の強化版、拡張版、派生版、サブ言語などが少なくとも70ほど存在した<ref>{{Cite web| url= http://hopl.murdoch.edu.au/showlanguage.prx?exp=1807 | title=The Encyclopedia of Computer Languages | accessdate=2012-01-20}}</ref>。
ALGOL 60 の実装に関する問題は、Nicholas Enticknap と Pat Woodroffe の書いた "[http://www.cs.man.ac.uk/CCS/res/res04.htm#d The early days of Algol]" で詳しく議論されている。
{|class="sortable wikitable" border="1" style="border-collapse: collapse;"
|+ ALGOL 60の実装例
|- style="position:sticky; top:0"
!|名称
!|年
!|作者
!|国
!|説明
!|対象システム
|-
| ZMMD-implementation|| 1958年 || Bauer, Rutishauser, Samelson, Bottenbruch || ドイツ || ALGOL 58 の実装 || [[:en:Z22 (computer)|Z22]] <br/> (後に[[コンラート・ツーゼ|ツーゼ]]のZ23<ref>[http://www.computerhistory.org/core/backissues/pdf/core_1_1.pdf Computer Museum History], Historical Zuse-Computer Z23, restored by the Konrad Zuse Schule in Hünfeld, for the Computer Museum History Center in Mountain View (California) USA</ref>向けに ALGOL 60 コンパイラを提供している)
|-
|X1 ALGOL 60 || 1960年8月<ref>{{Cite journal|url= http://www.dijkstrascry.com/node/4 |title=Dijkstra's Rallying Cry for Generalization: the Advent of the Recursive Procedure, late 1950s – early 1960s |last=Daylight |first=E. G. |journal=The Computer Journal |year=2011 |doi=10.1093/comjnl/bxr002}}</ref> || [[エドガー・ダイクストラ]]、 Jaap A. Zonneveld || オランダ || ALGOL 60 の世界初の実装<ref>{{Cite book| last1 = Kruseman Aretz | first1 = F.E.J. | chapter = The Dijkstra-Zonneveld ALGOL 60 compiler for the Electrologica X1 | title=Software Engineering | series = History of Computer Science | publisher = Centrum Wiskunde & Informatica | place = Kruislaan 413, 1098 SJ Amsterdam | date =30 June 2003 |url = http://oai.cwi.nl/oai/asset/4155/04155D.pdf }}</ref> || [[:en:Electrologica X1|Electrologica X1]]
|-
|[[:en:Elliott ALGOL|Elliott ALGOL]]|| 1960年代 || [[アントニー・ホーア]] || イギリス || || [[:en:Elliott 803|Elliott 803]] & Elliott 503
|-
|[[JOVIAL]]|| 1960年 || Jules Schwarz || アメリカ || [[Ada]]以前の [[アメリカ国防総省|DOD]] [[高水準言語|HOL]] || 各種
|-
|[[バロース B5000#ALGOL|Burroughs Algol]] <br/>(いくつか派生がある)|| 1961年 || [[バロース]](ホーアや[[エドガー・ダイクストラ|ダイクストラ]]も参加) || アメリカ || [[バロース]]のメインフレーム(および[[ユニシス]]の後継シリーズ)の基盤 || [[バロース B5000|バロースの大型機]] <br/>および中型機
|-
|Case ALGOL|| 1961年 || [[ケース・ウェスタン・リザーブ大学]]<ref>{{Cite web|last=Koffman|first=Eliot|title=All I Really Need to KnowI Learned in CS1|url= http://www.temple.edu/cis/directory/tenure/documents/KoffmanSIGCSESlides.pdf|accessdate= 2012-05-20}}</ref> || アメリカ || [[Simula]]は Case ALGOL のシミュレーション向け拡張として開発された。 || [[:en:UNIVAC 1107|UNIVAC 1107]]
|-
|GOGOL|| 1961年 || Bill McKeeman || アメリカ || ODIN[[タイムシェアリングシステム]]向け || [[PDP-1]]
|-
|RegneCentralen ALGOL|| 1961年 || [[ピーター・ナウア]]、Jørn Jensen || デンマーク || ALGOL 60 の完全実装 || [[DASK]] ([[:en:Regnecentralen|Regnecentralen]])
|-
|[[:en:Dartmouth ALGOL 30|Dartmouth ALGOL 30]]|| 1962年 || {{仮リンク|トーマス・ユージン・カーツ|en|Thomas Eugene Kurtz}} 他 || アメリカ || || [[:en:LGP-30|LGP-30]]
|-
|USS 90 Algol|| 1962年 || L. Petrone || イタリア || ||
|-
| Algol Translator || 1962年 || G. van der Mey, [[:en:Willem van der Poel|W.L. van der Poel]] || オランダ || [[KPN|オランダ国営電話会社]] || [[:en:ZEBRA (computer)|ZEBRA]]
|-
|Kidsgrove Algol|| 1963年 || F. G. Duncan || イギリス || || [[イングリッシュ・エレクトリック]] [[:en:English Electric KDF9|KDF9]]
|-
|VALGOL|| 1963年 || Val Schorre || アメリカ || [[:en:META II|META II]] [[コンパイラジェネレータ]]のテストとして開発 ||
|-
|[[Whetstone]]|| 1964年 || Brian Randell, L J Russell || イギリス || || [[イングリッシュ・エレクトリック]] [[:en:English Electric KDF9|KDF9]]
|-
|NU ALGOL|| 1965年 || || ノルウェー || || [[UNIVAC]]
|-
|ALGEK|| 1965年 || || [[ソビエト連邦]] || ALGOL 60 と[[COBOL]]に基づいた経済タスク用 || [[:en:Minsk family of computers|Minsk-22]]
|-
|MALGOL|| 1966年 || publ. A. Viil, M Kotli & M. Rakhendi || [[エストニア・ソビエト社会主義共和国]] || || [[:en:Minsk family of computers|Minsk-22]]
|-
|ALGAMS|| 1967年 || GAMS(中型機のための自動プログラミング)グループとコメコン科学アカデミーの共同開発 || [[経済相互援助会議|コメコン]] || || [[:en:Minsk family of computers|Minsk-22]]、後に [[:en:ES EVM|ES EVM]]、[[BESM]]
|-
|ALGOL/ZAM|| 1967年 || || ポーランド || || ZAM(ポーランド製)
|-
|[[Simula|Simula 67]]|| 1967年 || [[オーレ=ヨハン・ダール]]、[[クリステン・ニゴール]] || ノルウェー || ALGOL 60 にオブジェクト指向を導入 || [[:en:UNIVAC 1107|UNIVAC 1107]]
|-
|Chinese Algol|| 1972年 || || 中国 || 漢字を表示可能 ||
|-
|[[:en:DG/L|DG/L]]|| 1972年 || [[データゼネラル]] || アメリカ || || [[Eclipse (コンピュータ)|Eclipse]]ファミリ
|-
|[[:en:S-algol|S-algol]]|| 1979年 || [[:en:Ron Morrison|Ron Morrison]] || イギリス || 直交データ型を追加。教育向け || [[PDP-11]](後に [[Java仮想マシン|Java VM]] 上にも実装)
|}
== 特徴 ==
同時期の {{lang|en|FORTRAN}}、{{lang|en|[[COBOL]]}} と比べると、これらの言語が特定のハードウェア上で特定の目的を効率良くこなすための一種のドメイン特化型言語から始まったのに対し、{{lang|en|ALGOL}} はいったんハードウェアの特性は置いておき、抽象的なアルゴリズムを手続きとして記述する事を目指している。初期の {{lang|en|ALGOL}} 60 仕様では入出力手続きすら標準化されていなかった点から見ても、できる限り言語コアの抽象度を上げようとしていたことは想像に難くない。{{lang|en|FORTRAN}}、{{lang|en|COBOL}} が直系子孫以外に余り枝分かれをしていないのに対して、{{lang|en|ALGOL}} 系が大きな多様性を獲得したのもこの抽象性による所が大と言える。従って {{lang|en|ALGOL}} の策定をもって、ソフトウェアのモジュール化、計算機の汎用化が始まった瞬間と捉えても差し支えないであろう。
{{lang|en|ALGOL}} 60 は、[[手続き型言語]]として[[再帰呼び出し]]が可能な初めてのプログラミング言語である。
公式の {{lang|en|ALGOL}} 60 では[[入出力]]機能が定義されていなかったため、実際の処理系ではそれぞれに互換性のない方法で実装された。それに対して、{{lang|en|ALGOL}} 68では <code>transput</code><ref group="注">{{lang|en|ALGOL}} 68 の用語で入出力を意味する。</ref>のための豊富な[[ライブラリ]]が提供された。
{{lang|en|ALGOL}} 60 では[[引数]]渡しに2種類の[[評価戦略]]が定義されている。一般的な'''値渡し'''と {{lang|en|ALGOL}} に特徴的な'''名前渡し'''である。名前渡しは実際のところ、手続き型言語では扱いがかなり難しい。例えば、2つの引数の値を入れ替える手続きを書いたとき、ある整数変数とその整数変数を添え字とする配列要素をその引数として渡すことができない<ref>{{Cite book| last=Aho | first=Alfred V. | authorlink=アルフレッド・エイホ | coauthors=Ravi Sethi, Jeffrey D. Ullman | title=Compilers: Principles, Techniques, and Tools | year=1986 | edition=1st | publisher=Addison-Wesley | isbn=0-201-10194-7}}, Section 7.5, and references therein</ref>。すなわち swap(i, A[i]) という場合である(詳しくは[[引数#名前渡し]]を参照)。乱数関数を渡す場合にも問題が生じる。
しかし、ALGOLの設計者は名前渡しをデフォルトとした。また、言語処理系実装者たちは名前渡しの実現に{{仮リンク|Thunk(サンク)|en|Thunk (functional programming)}}という興味深い技法を編み出した。現在、素朴な(ALGOLのような)名前渡しは完全に廃れたが、サンクは[[遅延評価|遅延(非正格)評価]]を実装する一般的な手法として知られる。[[ドナルド・クヌース]]は処理系が「[[再帰呼び出し]]と非局所的参照」を正しく実装しているかを評価する{{仮リンク|man or boy test|en|Man or boy test}}を考案した。このテストには名前呼び出しの例が含まれている(クヌースらは他にも、名前渡しの「悪用」とでも言うべき{{仮リンク|Jensen's Device|en|Jensen's Device}}と後に呼ばれるようになるような技法の一例を示した "ALGOL 60 Confidential"<ref>https://doi.org/10.1145/366573.366599</ref>など、仕様のコーナーケースを暴き、コンピュータ・プログラミング言語設計の難しさをあらわにした)。
{{lang|en|ALGOL}} の影響として、後の言語のうちの最も多くに影響があるものは、<code>BEGIN</code>/<code>END</code>(C 言語などでは<code>{</code> <code>}</code>)の[[ネスティング|入れ子]]によるブロック構造化、つまり次のような典型的な形の記法であろう。
<pre>
BEGIN
X := 1 ;
IF (X > 0) THEN
BEGIN
:
END
END
</pre>
俗に「{{lang|en|ALGOL}} 文法」といった場合は、このブロック構造化記法のことを指していることがある(C言語のように他の記号を使うものも含めて指していることもあれば、そうではなくてBEGIN/ENDのようにキーワードを使う、という意味で言っていることもある)。<!--
[[式 (プログラミング)|式]]と[[文 (プログラミング)|文]]を持ち、字下げ(必須ではないが)されたブロック構造で手続きを記述していくという {{lang|en|ALGOL}} 系文法は、記述力と[[可読性]]のバランスが良好で、類似の文法をもつ言語は {{lang|en|Simula}}、{{lang|en|Pascal}}、{{lang|en|Modula}}、{{lang|en|[[Modula-2]]}}、{{lang|en|[[Modula-3]]}}、{{lang|en|[[Oberon]]}}、{{lang|en|[[Ada]]}}、{{lang|en|[[VHDL]]}}、{{lang|en|[[Verilog|Verilog-HDL]]}}、{{lang|en|[[Lola]]}}、{{lang|en|[[Eiffel]]}} など複数存在する。
--><!--
ほぼウソ。3項演算子のようにして文も書ければ(あるいは、if文のように式も書ければ)そのほうが同じようなものが重複する必要がなくてエレガントであるし、実際にLispのように全てS式にしてしまって構文の字面上は式とか文とか区別しない、というほうが記述力も可読性も高い。字下げはネスト構造を「見やすくするための補助」に過ぎず、真の構造とズレた字下げがされていた場合の「誤読性」の高さは言うまでもない。Perlが採用したような、ifやwhileの本体は無条件に複文とするような構文は、C言語を使い尽した設計者たちによる言語であるGoが採用したわけだが、Goが修正することを選んだC言語のそのような構文は、元をたどれば結局ALGOLから始まった「悪癖」だということになる。
-->後の[[静的スコープ]]の言語についても、ALGOLからの影響と言われることがある。
== 例と移植性問題 ==
=== コード例の比較 ===
==== ALGOL 60 ====
次のコードは {{lang|en|ALGOL}} 60 で <tt>n × m</tt> の2次元配列の中から絶対値が最大の要素を求め、その絶対値を<tt>y</tt>に、添え字を<tt>i</tt>と<tt>k</tt>に格納する手続きを記述したものである。なお、コード中で強調表示されている[[予約語]]の記法は処理系に依存する。例えば "INTEGER" は "integer" と書かれることもある({{仮リンク|ストロッピング|en|Stropping (syntax)}})。
<pre>
PROCEDURE Absmax(a) Size:(n, m) Result:(y) Subscripts:(i, k) ;
VALUE n, m ; ARRAY a ; INTEGER n, m, i, k ; REAL y ;
COMMENT The absolute greatest element of the matrix a, of size n by m
is transferred to y, and the subscripts of this element to i and k ;
BEGIN
INTEGER p, q ;
y := 0 ; i := k := 1 ;
FOR p := 1 STEP 1 UNTIL n DO
FOR q := 1 STEP 1 UNTIL m DO
IF abs (a[p, q]) > y THEN
BEGIN
y := abs (a[p, q]) ;
i := p; k := q
END
END Absmax
</pre>
次の例は Elliott 803 ALGOL<ref>[http://www.billp.org/ccs/A104/ "803 ALGOL"], the manual for Elliott 803 ALGOL</ref> で表を生成する方法を示したものである。
FLOATING POINT ALGOL TEST'
BEGIN REAL A,B,C,D'
READ D'
FOR A:= 0.0 STEP D UNTIL 6.3 DO
BEGIN
PRINT PUNCH(3),££L??'
B := SIN(A)'
C := COS(A)'
PRINT PUNCH(3),SAMELINE,ALIGNED(1,6),A,B,C'
END'
END'
PUNCH(3) は紙テープのさん孔装置ではなくテレタイプ端末のプリンターへ出力を送るものである。SAMELINE は引数間で通常行われる復帰改行を抑制する。ALIGNED(1,6) は出力を小数点以上を1文字、小数点以下を6文字とするようフォーマットする。
==== ALGOL 68 ====
次のコード例は上掲の ALGOL 60 のコード例の ALGOL 68 版である。
ALGOL 68 でも ALGOL 60 の{{仮リンク|ストロッピング|en|Stropping (syntax)}}を再利用している。
<pre>
PROC ABS max = ([,]real a, REF real y, REF int i, k)real:
COMMENT The absolute greatest element of the matrix a, of size ⌈a by 2⌈a
is transferred to y, and the subscripts of this element to i and k; COMMENT
BEGIN
real y := 0; i := ⌊a; k := 2⌊a;
FOR p FROM ⌊a TO ⌈a DO
FOR q FROM 2⌊a TO 2⌈a DO
IF ABS a[p, q] > y THEN
y := ABS a[p, q];
i := p; k := q
FI
OD
OD;
y
END # abs max #
</pre>
なお、lower (⌊) と upper (⌈) は配列の境界を示し、配列を走査する際の添え字の範囲指定に使える。
<pre>
floating point algol68 test:
(
real a,b,c,d;
printf(($pg$,"Enter d:"));
read(d);
FOR step FROM 0 WHILE a:=step*d; a <= 2*pi DO
printf($l$);
b := sin(a);
c := cos(a);
printf(($z-d.6d$,a,b,c))
OD
)
</pre>
''printf'' はファイル ''stand out'' に出力を送る。''printf($p$);'' は改頁、''printf($l$);'' は改行である。''printf(($z-d.6d$,a,b,c))'' は小数点以上を1桁、小数点以下を6桁にフォーマットして出力する。
=== Hello world の変遷 ===
ALGOLの各種実装における移植性の無さは、[[Hello World]] プログラムで簡単に示すことができる。
==== ALGOL 58 (IAL) ====
ALGOL 58 には入出力機能が存在しないので、例示できない。
==== ALGOL 60 ファミリ ====
ALGOL 60 にも入出力機能がないので、Hello World プログラムの移植性はない。以下に示すのは[[ユニシス]]のメインフレームで今も使用可能なALGOLの実装に対応したもので、[[ミシガン大学]]の [http://www.engin.umd.umich.edu/CIS/course.des/cis400/index.html The Language Guide] にあるコード例を単純化したものである<ref>[http://www.engin.umd.umich.edu/CIS/course.des/cis400/algol/hworld.html Hello world! ALGOL Example Program page]</ref>。
<pre>
BEGIN
FILE F(KIND=REMOTE);
EBCDIC ARRAY E[0:11];
REPLACE E BY "HELLO WORLD!";
WRITE(F, *, E);
END.
</pre>
インラインフォーマットを使ったさらに単純なプログラムは次のようになる。
<pre>
BEGIN
FILE F(KIND=REMOTE);
WRITE(F, <"HELLO WORLD!">);
END.
</pre>
Display文を使うとさらに次のように単純化される。
<pre>
BEGIN DISPLAY("HELLO WORLD!") END.
</pre>
もう1つの例として Elliott Algol のコード例を示す。Elliott Algol は引用開始符号と引用終了符号とで異なる文字を使用する。
'''program''' HiFolks;
'''begin'''
'''print''' ‘Hello world’;
'''end''';
次は Elliott 803 Algol (A104) の例である。Elliott 803 は標準では5孔の紙テープを使用するので、大文字しか使えない。引用符として使える文字もないため、ポンド記号 (£) を引用開始、疑問符 (?) を引用終了に使用している。特殊シーケンスは二重引用内に置かれる(例えば、££L?? は改行指示である)。
HIFOLKS'
BEGIN
PRINT £HELLO WORLD£L??'
END'
[[:en:ICT 1900 series|ICT 1900]]シリーズのALGOLでは、紙テープまたはパンチカードを入力として利用可能である。紙テープは小文字も使用可能である。出力はラインプリンターに対して行う。
'BEGIN'
'WRITE TEXT'("HELLO WORLD");
'END'
==== ALGOL 68 ====
ALGOL 68 のコードは一般に太字または下線つきの小文字で予約語を表す(ただし、以下の例はシンタックスハイライトのために大文字にしている)。
<pre>
BEGIN
printf(($gl$,"Hello, world!"))
END
</pre>
"Algol 68 Report" では、入出力を "transput" と称している。
=== ALGOLの特殊文字の変遷 ===
{{特殊文字|special=Unicode 6.0の[[その他の技術用記号]]ブロック収録文字}}
ALGOLは文字セットが急速に発展し多様化していた時代に登場した。また、ALGOLは大文字だけで記述できるよう定義されていた。
1960年の[[情報処理国際連合]] (IFIP) で発表された ALGOL 60 では、当時のほとんどのコンピュータではサポートされていない数学記号がいくつか使われていた。例えば、×, ÷, ≤, ≥, ≠, ¬, ∨, ∧, ⊂, ≡, ␣, <span style="font-family:'DejaVu Sans',Quivira,Symbola,'和田研中丸ゴシック2004絵文字','和田研細丸ゴシック2004絵文字','Nishiki-teki';">⏨</span><ref group="注" name="ten">対応フォントが少ない。フリーフォントでは、[[DejaVuフォント|DejaVu Sans]]、Quivira、[http://users.teilar.gr/~g1951d/ Symbola]、[[和田研フォント|和田研2004フォントの絵文字対応版]]、にしき的フォントなど。JIS X 0208の表記に置き換えるなら「<span style="font-size:40%;">10</span>」のような外見となる。</ref> などである。
1961年9月、初期の[[ASCII]]文字セットが登場し、ALGOLの[[ブーリアン型|ブーリアン]]演算子 "{{Backslash}}/" と "/{{Backslash}}" をサポートするために[[バックスラッシュ]] ({{Backslash}}) が初期段階で追加された<ref>[http://www.bobbemer.com/BACSLASH.HTM How ASCII Got Its Backslash], Bob Bemer</ref>。
1962年、{{仮リンク|ALCOR|en|ALCOR}}は2つの珍しい文字、"᛭" (iron/runic cross) と "⏨" ([https://unicode.org/charts/PDF/U2300.pdf Decimal Exponent Symbol]) を浮動小数点形式で使用するためにALGOLの文字セットに加えた<ref>{{Cite journal| last=Baumann | first=R. | year=1962 | title=ALGOL Manual of the ALCOR Group, Part 1 |journal=Elektronische Rechenanlagen |date=October 1961 | pages=206–212 | language=German| trans-title=ALGOL Manual of the ALCOR Group| accessdate= 2009-11-25}}</ref><ref>{{Cite journal| last=Baumann | first=R. | year=1962 | title=ALGOL Manual of the ALCOR Group, Part 2 |journal=Elektronische Rechenanlagen |volume=6 | date=December 1961 | pages=259–265 | language=German| trans-title=ALGOL Manual of the ALCOR Group| accessdate= 2009-11-25 }}</ref><ref>{{Cite journal| last=Baumann | first=R. | year=1962 | title=ALGOL Manual of the ALCOR Group, Part 3 |journal=Elektronische Rechenanlagen |volume=2 | date=April 1962 | language=German| trans-title=ALGOL Manual of the ALCOR Group| accessdate= 2009-11-25 }}</ref>。
1964年、ソビエト連邦が策定した[[GOST規格]] [[:en:GOST 10859|GOST 10859]] で、ALGOL用の4ビット、5ビット、6ビット、7ビットの文字セットを定義した<ref>{{Cite web|title=GOST 10859 standard|url= http://homepages.cwi.nl/~dik/english/codes/stand.html#gost10859|accessdate= 2007-06-05| archiveurl= https://web.archive.org/web/20070616201227/http://homepages.cwi.nl/~dik/english/codes/stand.html#gost10859| archivedate= 16 June 2007 | deadurl= no}}</ref>。
1968年の "Algol 68 Report" では既存のALGOL用文字セットに加えて、[[:en:IBM 2741|IBM 2741]] 端末(1965年に登場した[[APL]]対応端末)で使用可能な {{Unicode|→, ↓, ↑, □, ⌊, ⌈, ⎩, ⎧, ○, ⊥, ¢}} という文字を加えた。このレポートはロシア語、ドイツ語、フランス語、ブルガリア語に翻訳され、それぞれの言語向けに文字セットが拡張された。例えばソビエト連邦の[[BESM|BESM-4]]は[[キリル文字]]が使用可能だった。ALGOLの使用する全ての文字は[[Unicode]]規格の一部になっており、その大部分は主要な[[フォント]]が対応している。
2009年10月、浮動小数点形式記述のための "<span style="font-family:'DejaVu Sans',Quivira,Symbola,'和田研中丸ゴシック2004絵文字','和田研細丸ゴシック2004絵文字','Nishiki-teki';">⏨</span>" ([https://unicode.org/charts/PDF/U2300.pdf Decimal Exponent Symbol]) が Unicode 5.2 に追加された<ref group="注" name="ten"/>。これは[[ブラン (オービタ)|ブラン]]で使われたALGOLソフトウェアとの後方互換を保つためである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
{{refbegin}}
*{{citation
|title=Computer Architecture and Organization
|last=P.HAYES
|first=JOHN
|isbn=0-07-027363-4
|year=1978
|date=
|publisher=}}
{{refend}}
* F.L. Bauer, R. Baumann, M. Feliciano, K. Samelson, ''Introduction to Algol''. Prentice Hall, 1964, ISBN 0-13-477828-6
* [http://www.softwarepreservation.org/projects/ALGOL/book/Randell_ALGOL_60_Implementation_1964.pdf B. Randell and L.J. Russell, ''ALGOL 60 Implementation: The Translation and Use of ALGOL 60 Programs on a Computer''. Academic Press, 1964]. The design of the '''Whetstone Compiler'''. コンパイラの実装についての初期の解説の1つ。関連する論文として次がある。
** [http://www.cs.ncl.ac.uk/research/pubs/articles/papers/427.pdf Whetstone Algol Revisited] by B. Randell
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* [http://mailcom.com/unicode/DecimalExponent.ttf TrueType font containing U+23E8 Decimal Exponent Symbol](ttfファイル)
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ヒマラヤ山脈
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ヒマラヤ山脈(ヒマラヤさんみゃく、英: Himalayan Range)は、アジアの山脈で、地球上でもっとも標高の高い地域である。単にヒマラヤということもある。
ヒマラヤは、インド亜大陸とチベット高原を隔てている無数の山脈から構成される巨大な山脈である。西はパキスタン北部インダス川上流域から、東はブラマプトラ川大屈曲部まで続き、ブータン、中国、インド、ネパール、パキスタンの、東アジアおよび南アジアの5つの国にまたがる。いずれも最大級の大河であるインダス川、ガンジス川、ブラマプトラ川、黄河、長江の水源となって数々の古代文明を育み、このヒマラヤ水系には約7億5,000万人の人々が生活している(これにはバングラデシュの全人口が含まれる)。ヒマラヤは、広義の意味ではユーラシアプレートとインド・オーストラリアプレートの衝突によって形成された周辺の山脈である、カラコルム山脈、ヒンドゥークシュ山脈、天山山脈、崑崙山脈などを含む。
広義のヒマラヤには、最高峰エベレストを含む、地球上でもっとも高い14の8,000メートル級ピークがあり、7,200メートル以上の山が100峰以上存在する。一方で、アジアのこの地域以外には7,000メートル以上の山は存在せず、アンデス山脈アコンカグアの6,961メートルが最高標高である。
以下では狭義のヒマラヤについて解説する。
ヒマラヤ山脈(英語: Himalayan Range、中国語: 喜马拉雅山脉、チベット語: ཧི་མ་ལ་ཡcode: bo is deprecated )は、アジアの山脈であり、パキスタン・インド・チベット(中華人民共和国領)・ネパール・ブータンの国境付近に位置する。西端はアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈へとつながる。ヒマーラヤ(हिमालय、himālaya)は、サンスクリット語で、hima(ヒマ「雪」)+ ālaya(ア-ラヤ「すみか」)から「雪の住みか」の意。
エベレスト(8,848メートル)、カンチェンジュンガ(8,586メートル)、ナンガ・パルバット(8,125メートル)をはじめ、世界でも有数の標高の高い山が数多く属している。
プレートテクトニクスによると、ヒマラヤ山脈は、インド亜大陸のユーラシア大陸への衝突により形成された。インド亜大陸の北上は続いており、ヒマラヤ山脈の成長も続いている。
各山々の標高には数説あり、エベレストは、ネパールと中国が共同発表した8,848.86メートルが最新データである。測量技術の向上と地殻変動による推移が関係している。注として、上記のデータには山頂の積雪3.5メートルは含まれない。
ヒマラヤ山脈の全長は西のナンガ・パルバット(パキスタン)から、東のナムチャバルワまで実に2,400キロに及ぶ。地理学的には、ヒマラヤ山脈は標高と地質によって平行に走る3つの山脈に分類される。3つのうちでもっとも後に形成された山脈は外ヒマラヤ(シワリク山地)と呼ばれ、およそ1,200メートルほどの高さの山で構成されている。この山脈はヒマラヤ山脈の成長にともなって発生した土砂の流出物によって形成されたと考えられている。
この山脈の北隣に平行に走る形で、小ヒマラヤがある。小ヒマラヤは2,000メートルから5,000メートルの標高の山々で形成され、マハーバーラト山脈とも呼ばれる。小ヒマラヤと大ヒマラヤの間にはカシミール盆地およびカトマンズ盆地という2つの肥沃な盆地があり、ここでは古くから高い文明が栄えていた。もっとも北にあるのが大ヒマラヤで、3つの山脈の中でもっとも古い山脈である。6,000メートル以上のピークを多数有し、世界でもっとも高いエベレスト、3番目に高いカンチェンジュンガがこの山脈に属している。
ヒマラヤは、東西にはおよそ5つに区分される。もっとも西寄りに位置するのがパンジャーブ・ヒマラヤであり、インダス川からサトレジ川までのインダス水系に属する山々である。行政的にはインドのジャンム・カシミール州やヒマーチャル・プラデーシュ州、パキスタンのギルギット・バルティスタン州となる。次いでその東に位置するのがガルワール・ヒマラヤ(クマオン・ヒマラヤ)である。インドのウッタラーカンド州に属する区域で、ガンジス川本流の源流域にあたる。ガンジス本流の源流とされるガンゴートリー氷河もここに属する。その東には、ネパール・ヒマラヤが広がる。行政的にはネパールに属する区域で、エベレストやダウラギリ、マナスルなど、ヒマラヤでもっとも高い山々がそびえる区域である。その東はシッキム・ブータン・ヒマラヤで、行政的にはインドのシッキム州とブータン王国の区域となる。もっとも東に位置するのがアッサム・ヒマラヤであり、行政的にはインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となる。なお、この行政区域はすべてヒマラヤ南麓のものであり、ヒマラヤ北麓はすべて行政的には中国のチベット自治区に属する。
ネパールとブータンの国土のほとんどがヒマラヤ山脈である。パキスタンのバルティスターン、インドのジャンムー・カシミール州などの北部の地域がヒマラヤ山脈の中にある。チベット高原の南東部もヒマラヤ山脈に接しているが、チベット高原そのものは地理学的にはヒマラヤ山脈とは別の山系に分類される。
ヒマラヤ山脈の植物相と動物相は、気候、雨量、高度と地質によって分類することができる。気候は山脈の麓にある熱帯から始まり、氷床と雪に覆われた高山帯まで変化する一方、年間降水量は西より東の地域の方が多い傾向がある。気候、高度、雨量と地質の複雑な変化が多様な生態系を育んでいる。
ヒマラヤ山脈とデカン高原の間にはインダス川とガンジス川が流れる広い平野がある。この平野はヒンドゥスターン平野(またはインダス-ガンジス平原(en:Indo-Gangetic plain))と呼ばれ、森林地帯が広がっている。この平原の西部は乾燥しているが東部は雨量が豊富であるため、東西で植生が異なっている。北西部のパキスタンとインドにまたがるパンジャブ平野は有刺低木林に覆われている。インド東部のウッタル・プラデーシュ州のガンジス上流域にはガンジス上流域湿性落葉樹林帯(英語版)、ビハール州と西ベンガル州にまたがるガンジス平原にはガンジス下流域湿性落葉樹林帯(英語版)が広がっている。これらのモンスーン気候の落葉樹林は乾季になると落葉する。アッサム平野は湿性のブラマプトラ流域半常緑樹林(英語版)に覆われている。
砂と粘土からなる沖積平野にはテライ・ベルトと呼ばれる湿地帯が広がっている。テライ(英語版)とは季節的に湿性になる草地のことである。テライ・ベルトはモンスーンになると冠水し、肥沃な土砂が堆積する。乾季には水が引くが、ヒマラヤから流れてくる地下水で高い地下水位がある。テライ・ベルトの中心部にはテライ-デュアサバンナ・大草原地帯(英語版)がある。ここには世界でもっとも背の高い草で覆われた草原と、サバンナ、落葉樹林、および常緑樹林がモザイク状に広がっている。またテライ・ベルトはインドサイの生息域である。
テライベルトの標高の高い地域には、ヒマラヤ山脈から流れてきた岩石が堆積してできたババール(英語版)・ベルトと呼ばれる地域がある。ババールと低シワリク山脈は亜熱帯気候に属しており、この亜熱帯地域の最西部にはおもにヒマラヤマツ(英語版)(Chir Pine)を主植生とするヒマラヤ亜熱帯針葉樹林(英語版)がある。低シワリク山脈の中央部にはサラノキを主植生とするヒマラヤ亜熱帯広葉樹林(英語版)が広がっている。
ヒマラヤ山脈の中高度の地域には亜熱帯の森に代わって温帯性混交広葉樹林(英語版)がある。この地域の西部は西ヒマラヤ落葉樹林(英語版)と呼ばれ、東部のアッサム州およびアルナーチャル・プラデーシュ州の森は東ヒマラヤ落葉樹林(英語版)と呼ばれる。これらの広葉樹林より標高の高い地域には西ヒマラヤ亜高山帯針葉樹林(英語版)および東ヒマラヤ亜高山帯針葉樹林(英語版)が広がっている。
森林限界より標高の高い地域には北西ヒマラヤ高山灌木草原帯(英語版)と西ヒマラヤ高山灌木草原帯(英語版)、および東ヒマラヤ高山灌木草原帯(英語版)がある。この地域より標高が高くなるとツンドラ地帯となる。高山草原地帯は絶滅の危機にあるユキヒョウの夏の生息域となっている。ヒマラヤ山脈の最上部は万年雪に覆われている。
ヒマラヤ山脈は地球上で最も若い山脈の一つである。現代のプレートテクトニクス理論によると、ヒマラヤ山脈はインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの間の沈み込みで起きた大陸同士の衝突による造山運動から生じた。
衝突はおよそ7,000万年前後期白亜紀に始まった。そのころ、インド・オーストラリアプレートは年間15センチの速度で北上し、ユーラシアプレートと衝突した。
約5,000万年前、このインド・オーストラリアプレートの速い動きによって海底の堆積層が隆起し、周縁部には火山が発生してインド亜大陸とユーラシア大陸の間にあったテチス海を完全に閉ざした。これらの堆積岩は軽かったため、プレートの下には沈まずにヒマラヤ山脈を形成した。今もインド・オーストラリアプレートはチベット高地の下で水平に動いており、その動きは高地にさらに押し上げている。ミャンマーのアラカン山脈とベンガル湾のアンダマン・ニコバル諸島もこの衝突の結果として形成された。かつて海だった証拠として、高山地帯で貝などの化石が発見される。
今もインド・オーストラリアプレートは年間67ミリの速度で北上しており、今後1,000万年の間でアジア大陸に向かって1,500キロ移動するだろうと考えられている。この動きのうち約20ミリは、ヒマラヤの南の正面を圧縮することによって吸収される。結果として年に約5ミリの造山運動が発生し、ヒマラヤ山脈を地質学的に活発にしている。このインド亜大陸の動きにより、この地域は地震の多発地帯となっている。
ヒマラヤ山脈には非常に多くの氷河が存在し、面積は極地を除く地球上では最大である。ほかにおもな氷河としては、ガンゴートリー山系(英語版)のガンゴートリー氷河、ヤムノートリー(英語版)氷河、カンチェンジュンガ山系のゼム氷河(英語版)、エベレスト山系のクーンブ氷河(英語版)などがある。またカラコルム山脈にはシアチェン氷河、ビアフォ氷河、バルトロ氷河などがある。
ヒマラヤ山脈の麓は熱帯気候や亜熱帯気候に属するが、頂上部は万年雪に閉ざされている。これらの万年雪は巨大な2つの河川の水源となっている。西への流れはインダス盆地に流れ込み、インダス川はその西方水系の中でもっとも大きな河川である。インダス川はチベットでセンゲ川(英語版)とガル川(英語版)の合流地点から始まり、カーブル川、ジェルム川、シェナブ川、ビアス川、サトレジ川などの河川と合流したのち、パキスタンを南西方向に横切り、アラビア海に流れ込んでいる。
インダス川方面以外のヒマラヤ山脈の水源の多くはガンジス・ブラマプトラ川流域に流れ、両河川に合流する。ガンジス川はヒマラヤ南麓にあるガンゴートリー氷河に流れを発するバーギーラティー川(英語版)を源流としている。氷河の下からバギーラティー川が流れ出す地点はゴームク(牛の口)と呼ばれ、標高3,892メートルである。その後、下流でヒマラヤから流れ出したアラクナンダ川(英語版)と合流し、そこからガンジス川という名に変わる。アラクナンダ川のほうが長いが、ヒンドゥー教の文化や神話ではバーギーラティー川のほうが真のガンジスの源流であるとみなされている。その後、リシケーシュで山脈から離れ、ヤムナー川と合流したあと、北インドのヒンドスタン平原を南東に横切る。
ブラマプトラ川は、西チベットに発するヤルンツァンポ川が、チベットを東に流れ、アッサム平野を西に流れていく。ガンジス川とブラマプトラ川は、バングラデシュで合流し、世界最大のデルタ地形を形成して、ベンガル湾へ流れ出ている。
ヒマラヤ最東部の河川はエーヤワディー川を形成している。エーヤワディー川は東チベットから始まり、ミャンマーを南に縦断、アンダマン海に流れ込む。
サルウィン川、メコン川、長江と黄河は、ヒマラヤ山脈とは地質学的に区別されるチベット高原から始まるため、本来はヒマラヤ山脈を水源とする河川ではないと考えられている。一部の地理学者は、ヒマラヤ外縁水系の川と分類している。
近年、ヒマラヤ山脈の全域で顕著な氷河後退現象が観測されているが、世界的な気候変動の結果であると考えられている。この現象の長期的な影響は未知であるが、乾季の生活を氷河を水源とする北インドの河川に頼る数億の人々に甚大な影響を与えると見られている。
ヒマラヤ山脈には何百もの湖が点在している。大部分の湖は5,000メートル未満の高度に存在し、高度が上がるとともに湖の規模は小さくなっていく。最大の湖はインドとチベットの境界に横たわるパンゴン湖で、4,600メートルの高度に位置し、幅8キロ、長さは134キロに及ぶ。高い標高を持つ湖沼のなかで顕著なものとしては、標高5,148メートルにある北シッキムのグルドンマル湖(英語版)がある。そのほかのおもな湖沼としてはネパール北部のマナン郡(英語版)にあるティリチョ湖(英語版)、シッキム州とインドシナの境界にあるツォンゴ湖(英語版)などがある。
氷河活動に起因する湖沼はタルン(英語版)と呼ばる。タルンは5,500メートル以上のヒマラヤ山脈の上部で見つかる。
ヒマラヤ山脈はインド亜大陸とチベット高原の気候に重大な影響を及ぼしている。ヒマラヤ山脈は非常に冷たく乾燥した北極風がインド亜大陸に南に吹きつけるのを防ぎ、南アジアをほかの大陸の同じ緯度の地域より温暖にしている。
ヒマラヤ山脈は北上するモンスーンを遮断し、テライ・ベルトで大量の降雨を発生させる原因となっている。この降雨はヒマラヤ南面のほとんどの地域にあり、雨季の大量の降雨はヒンドスタン平原に豊富な水をもたらしている。またこれによって中央アジアは降雨量が少なくなり、タクラマカン砂漠やゴビ砂漠を形成する原因となっている。
冬季になるとイランの方から激しい気流が発生するが、ヒマラヤ山脈はその気流を遮断、カシミール地方に降雪を パンジャブ州と北インドに降雨をもたらす。
またその気流の一部は一部がブラマプトラ川流域に流れ込み、インド北東部とバングラデシュの温度を下げる。この風が原因となり、これらの地方に冬季の間、北東モンスーンが起きる。
ヒマラヤ山脈の地形は非常に険しく、人を容易に寄せつけないが、いくつかの道が存在する。
巨大なヒマラヤ山脈は、何万年もの間人々の交流を妨げる障壁となった。特にインド亜大陸の民族と中国・モンゴルの民族が混ざり合うのを妨げ、これらの地域が文化的、民族的、言語的に非常に異なっている直接の原因となった。ヒマラヤ山脈は軍の進撃や通商の妨げともなり、チンギス・カンはヒマラヤ山脈のためにモンゴル帝国をインド亜大陸に拡大することができなかった。また、急峻な地形と厳しい気候によって孤立した地域が生まれ、独特の文化が育まれた。これらの地域では、現代でも交通の便が悪いため古い文化・習慣が根強く残っている。
ヒマラヤに大きな影響を与えているのは、北のチベット系民族と南のインド系民族である。山脈の大部分はチベット系民族の居住地であるが、南からやってきたインド系民族も低地を中心に南麓には多く住んでいる。チベット系民族の多くは山岳地域に住み都市文明を持たなかったが、ネパールのカトマンズ盆地に住んでいるネワール人は例外的に肥沃な盆地に根を下ろし、カトマンズ、パタン、バクタプルの3都市を中心とした都市文明を築いた。カトマンズ盆地は18世紀にインド系民族のゴルカ朝によって制圧されたが、ネワールは力を失うことなく、カトマンズなどではネワールとインド系の文化が重層的に展開した姿が見られる。カトマンズ以外のネパールはインドと文化的なつながりが強く、チベットともややつながりがあるが、中国文化圏との共通性はほとんどない。宗教的にも仏教徒は少なく、ヒンドゥー教徒が多く住む。これに対し、その東隣にあたるシッキムやブータンはチベット文化圏であり、住民は仏教徒がほとんどである。しかし19世紀以降、地理的条件の似ているネパールからの移民が両国に大量に流入し、シッキムにおいてはネパール系が多数派となり、ブータンにおいても一定の勢力を持つようになった。これは両者の対立を引き起こし、この対立が原因でシッキムは独立を失い、ブータンでも深刻な民族紛争が勃発することとなった。ヒマラヤ地域に広く分布するチベット民族は顔つきこそモンゴロイドだが中国文化圏との共通性は低く、インド文化圏とも共通性は少ない。チベットは古くからその孤立した地形によって独立を保ち、独自のチベット文化圏を形成している。
ヒマラヤ西部のパンジャーブ・ヒマラヤではイスラーム教圏の影響が強い。カシミールはイスラーム系住民が多数を占める地域である。カシミールの北にあるラダックは19世紀よりジャンムー・カシミール藩王国領となっていたが、もともとチベットとのつながりの深い地域であり、住民もチベット系民族であって宗教もチベット仏教である。その西はパキスタン領のバルティスターンであるが、この地域は歴史的にラダックとつながりが深く住民もチベット系であるが、宗教はイスラーム教であり、インド・パキスタン分離独立の際起きた第1次印パ戦争ではパキスタン帰属を選択した。
ヒマラヤの20世紀後半の政治情勢は、南北の2大国である中国とインドの影響力拡大と角逐の歴史であるといえる。ヒマラヤ北麓のチベットは清朝時代から中国の影響下にあったが、半独立状態を保っていた。しかし1950年の中国のチベット侵攻により完全に中国領となり、1959年にはチベット動乱によってダライ・ラマ14世がインドへと亡命し、ヒマラヤ南麓のダラムシャーラーにチベット亡命政府を樹立した。
一方、南麓のインド側ではイギリス領インド帝国の支配のもと、ジャンムー・カシミール藩王国などいくつかの藩王国が存在し、また中国との間の緩衝国としてネパールとブータンが独立国として存在し、また両国の間にはシッキム王国がイギリスの保護国として存在していた。しかしインドで独立運動が盛んになり、1947年8月15日にインド・パキスタン分離独立が起こると、各地の藩王国はどちらかへの帰属を迫られるようになった。ジャンムー・カシミール藩王国は藩王がヒンドゥー教徒であるが住民の80パーセント以上はイスラーム教徒であり、藩王が態度を決めかねるなか、イスラーム系住民が蜂起してパキスタン帰属を要求。これに対し藩王はインドの介入を求め、これが引き金となって第一次印パ戦争が勃発した。この戦争の結果、カシミールはインド領のジャンムー・カシミール州とパキスタン領のアーザード・カシミールとに分断されることとなった。
その後、インドと中国はカシミール北東部(アクサイチン地区)やマクマホン・ラインなどの国境線をめぐって対立を深め、1962年には中印国境紛争が勃発した。この戦争で中国人民解放軍は勝利してアクサイチンやインド東北辺境地区を軍事占領し、東北辺境地区からは撤兵したもののアクサイチンは実効支配下に置いた。
この戦争ののち、インドはヒマラヤ地域への影響力を強化していく。1975年には先住民であるブティヤ人・レプチャ人(チベット系)と移民であるネパール系の間で政治的対立の生じていたシッキム王国を制圧し、シッキム州として自国領土へと組み入れた。さらに1987年には直轄領であった係争地・インド東北辺境地区をアルナーチャル・プラデーシュ州へと昇格させ、支配を強化した。この動きを見たブータン王国は自国のアイデンティティの強化に乗り出し、1985年には国籍法を改正するとともに、1989年には「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などを実施して自国文化の振興に努めるようになったが、これはブータン南部に住むネパール系住民を強く刺激し、民族間の衝突が繰り返され多数の難民が流出することとなった。
一方、ネパールにおいては民主化運動によって1991年に複数政党制が復活したものの、一向に進まない国土の開発に不満を持ったネパール共産党統一毛沢東主義派(マオイスト)が1996年に武力闘争を開始。さらに2001年6月1日にはネパール王族殺害事件が発生し、ビレンドラ国王が殺害されてギャネンドラ国王が即位した。ギャネンドラは専制的な政治スタイルをとって国勢の回復をめざしたが、国民の不満は高まる一方で、国土のかなりの部分をマオイストに征圧される事態となった。2006年には王制が打倒されて民主化され、マオイストとも和平が成立し、2008年には正式にネパールは共和国となった。
ヒマラヤは急峻な山岳地帯であり農業にあまり適した土地ではないが、北麓のチベット側ではヤクなどの牧畜やオオムギの栽培などが行われている。また、ヒマラヤ南麓、特にネパールやブータンにおいてはモンスーン期に増水しすべてのものが押し流される河谷を避け、山腹の斜面に段々畑を作って農耕を行っている。
ヒマラヤから流れ下る川は氷河を水源とする豊富な水量を持ち、険しい地形のため落差が激しく、水力発電の膨大な潜在能力を持っている。源流の多くが存在するネパール・ブータン両国において水力発電の開発が盛んに行われ、特にブータンでは電力が主要な輸出品となっている。2013年度のブータンの水力発電量は150万キロワットに及び、大型の原子力発電所1基分に相当するが、この数字はブータンの潜在水力発電量のわずか5%に過ぎず、ブータン政府はさらなる積極的な発電計画を推し進めている。インドにおいても、2006年にはガンジス川上流にあるリシケーシュのさらに上流(バギーラティー川)に、2,400メガワットの発電量を得る目的などでテーリ・ダムが完成し、首都デリーの主要な水源となっている。ヒマラヤからの河川でもっとも早く開発が進められたのはインダス川であり、パキスタン側にはタルベーラー・ダムやマングラー・ダムといった巨大ダムがヒマラヤ山脈西部に建設され、パンジャーブ州への灌漑用水を確保してこの地方を穀倉地帯とする一方、発電も行われている。また、ヒマラヤから流れ下る川の水源であるチベット高原を領有する中国もチベット開発を進める中でヤルンツァンポ川(ブラマプトラ川)の開発を進めており、2014年11月23日にはヤルンツァンポ川の本流にチベット初の大型水力発電所である蔵木水力発電所(英語版)を建設した。このダム建設に対して、ブラマプトラ川の水を生命線とするインドのアッサム・ベンガル地方では強い懸念を示している。
近年では、世界最高峰エベレストに年間数百人が登頂するなど、ヒマラヤ各峰への登山が盛んとなっている。特に8,000メートル級の高峰が集中するネパールでは、登山や麓から山々を眺める観光が一大産業となっている。登山客が支払う入山料はネパール政府の貴重な収入源となっているが、この収入が地元住民たちにきちんと還元されていないとして不満も根強い。2014年2月には、ネパール政府はより多くの登山客の誘致を目的として入山料の大幅値下げを行った。また最近、山脈中のトレッキングも盛んで、大ヒマラヤトレイルと称するトレッキング・ルートも徐々にではあるが整備されてきている。
ネパール政府は2014年、新たに104座の山への登山を解禁した。一方でヒマラヤ山脈とその周辺には、急峻さや厳しい天候で登頂に成功していない未踏峰や、宗教・政治上の理由で登山が禁止されている山々も存在する。後者の例としては、ネパールではマチャプチャレ、ブータンではガンカー・プンスムが知られている。
ヒンドゥー教においては、ヒマラヤはヒマヴァット神として神格化されており、雪の神としてマハーバーラタにも記載されている。彼はガンガーとサラスヴァティーの2人の河の女神の父であり、またシヴァ神の妻であるパールヴァティーも彼の娘である。
ヒマラヤの各地には、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教、仏教、イスラーム教の施設が点在している。著名な宗教施設としては、ブータンに初めて仏教をもたらしたパドマサンバヴァによって建設された僧院とされているパロのタクツァン僧院などがある。
チベット仏教の僧院の多くは、ダライ・ラマの本拠を含むヒマラヤに位置している。チベットにはかつて6,000以上の僧院があった。チベット人のイスラーム教徒もおり、ラサとシガツェにはモスクが建設されている。
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"text": "ヒマラヤは、インド亜大陸とチベット高原を隔てている無数の山脈から構成される巨大な山脈である。西はパキスタン北部インダス川上流域から、東はブラマプトラ川大屈曲部まで続き、ブータン、中国、インド、ネパール、パキスタンの、東アジアおよび南アジアの5つの国にまたがる。いずれも最大級の大河であるインダス川、ガンジス川、ブラマプトラ川、黄河、長江の水源となって数々の古代文明を育み、このヒマラヤ水系には約7億5,000万人の人々が生活している(これにはバングラデシュの全人口が含まれる)。ヒマラヤは、広義の意味ではユーラシアプレートとインド・オーストラリアプレートの衝突によって形成された周辺の山脈である、カラコルム山脈、ヒンドゥークシュ山脈、天山山脈、崑崙山脈などを含む。",
"title": null
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{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "広義のヒマラヤには、最高峰エベレストを含む、地球上でもっとも高い14の8,000メートル級ピークがあり、7,200メートル以上の山が100峰以上存在する。一方で、アジアのこの地域以外には7,000メートル以上の山は存在せず、アンデス山脈アコンカグアの6,961メートルが最高標高である。",
"title": null
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{
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"tag": "p",
"text": "以下では狭義のヒマラヤについて解説する。",
"title": null
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{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈(英語: Himalayan Range、中国語: 喜马拉雅山脉、チベット語: ཧི་མ་ལ་ཡcode: bo is deprecated )は、アジアの山脈であり、パキスタン・インド・チベット(中華人民共和国領)・ネパール・ブータンの国境付近に位置する。西端はアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈へとつながる。ヒマーラヤ(हिमालय、himālaya)は、サンスクリット語で、hima(ヒマ「雪」)+ ālaya(ア-ラヤ「すみか」)から「雪の住みか」の意。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "エベレスト(8,848メートル)、カンチェンジュンガ(8,586メートル)、ナンガ・パルバット(8,125メートル)をはじめ、世界でも有数の標高の高い山が数多く属している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "プレートテクトニクスによると、ヒマラヤ山脈は、インド亜大陸のユーラシア大陸への衝突により形成された。インド亜大陸の北上は続いており、ヒマラヤ山脈の成長も続いている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "各山々の標高には数説あり、エベレストは、ネパールと中国が共同発表した8,848.86メートルが最新データである。測量技術の向上と地殻変動による推移が関係している。注として、上記のデータには山頂の積雪3.5メートルは含まれない。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈の全長は西のナンガ・パルバット(パキスタン)から、東のナムチャバルワまで実に2,400キロに及ぶ。地理学的には、ヒマラヤ山脈は標高と地質によって平行に走る3つの山脈に分類される。3つのうちでもっとも後に形成された山脈は外ヒマラヤ(シワリク山地)と呼ばれ、およそ1,200メートルほどの高さの山で構成されている。この山脈はヒマラヤ山脈の成長にともなって発生した土砂の流出物によって形成されたと考えられている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "この山脈の北隣に平行に走る形で、小ヒマラヤがある。小ヒマラヤは2,000メートルから5,000メートルの標高の山々で形成され、マハーバーラト山脈とも呼ばれる。小ヒマラヤと大ヒマラヤの間にはカシミール盆地およびカトマンズ盆地という2つの肥沃な盆地があり、ここでは古くから高い文明が栄えていた。もっとも北にあるのが大ヒマラヤで、3つの山脈の中でもっとも古い山脈である。6,000メートル以上のピークを多数有し、世界でもっとも高いエベレスト、3番目に高いカンチェンジュンガがこの山脈に属している。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤは、東西にはおよそ5つに区分される。もっとも西寄りに位置するのがパンジャーブ・ヒマラヤであり、インダス川からサトレジ川までのインダス水系に属する山々である。行政的にはインドのジャンム・カシミール州やヒマーチャル・プラデーシュ州、パキスタンのギルギット・バルティスタン州となる。次いでその東に位置するのがガルワール・ヒマラヤ(クマオン・ヒマラヤ)である。インドのウッタラーカンド州に属する区域で、ガンジス川本流の源流域にあたる。ガンジス本流の源流とされるガンゴートリー氷河もここに属する。その東には、ネパール・ヒマラヤが広がる。行政的にはネパールに属する区域で、エベレストやダウラギリ、マナスルなど、ヒマラヤでもっとも高い山々がそびえる区域である。その東はシッキム・ブータン・ヒマラヤで、行政的にはインドのシッキム州とブータン王国の区域となる。もっとも東に位置するのがアッサム・ヒマラヤであり、行政的にはインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となる。なお、この行政区域はすべてヒマラヤ南麓のものであり、ヒマラヤ北麓はすべて行政的には中国のチベット自治区に属する。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ネパールとブータンの国土のほとんどがヒマラヤ山脈である。パキスタンのバルティスターン、インドのジャンムー・カシミール州などの北部の地域がヒマラヤ山脈の中にある。チベット高原の南東部もヒマラヤ山脈に接しているが、チベット高原そのものは地理学的にはヒマラヤ山脈とは別の山系に分類される。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈の植物相と動物相は、気候、雨量、高度と地質によって分類することができる。気候は山脈の麓にある熱帯から始まり、氷床と雪に覆われた高山帯まで変化する一方、年間降水量は西より東の地域の方が多い傾向がある。気候、高度、雨量と地質の複雑な変化が多様な生態系を育んでいる。",
"title": "自然"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈とデカン高原の間にはインダス川とガンジス川が流れる広い平野がある。この平野はヒンドゥスターン平野(またはインダス-ガンジス平原(en:Indo-Gangetic plain))と呼ばれ、森林地帯が広がっている。この平原の西部は乾燥しているが東部は雨量が豊富であるため、東西で植生が異なっている。北西部のパキスタンとインドにまたがるパンジャブ平野は有刺低木林に覆われている。インド東部のウッタル・プラデーシュ州のガンジス上流域にはガンジス上流域湿性落葉樹林帯(英語版)、ビハール州と西ベンガル州にまたがるガンジス平原にはガンジス下流域湿性落葉樹林帯(英語版)が広がっている。これらのモンスーン気候の落葉樹林は乾季になると落葉する。アッサム平野は湿性のブラマプトラ流域半常緑樹林(英語版)に覆われている。",
"title": "自然"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "砂と粘土からなる沖積平野にはテライ・ベルトと呼ばれる湿地帯が広がっている。テライ(英語版)とは季節的に湿性になる草地のことである。テライ・ベルトはモンスーンになると冠水し、肥沃な土砂が堆積する。乾季には水が引くが、ヒマラヤから流れてくる地下水で高い地下水位がある。テライ・ベルトの中心部にはテライ-デュアサバンナ・大草原地帯(英語版)がある。ここには世界でもっとも背の高い草で覆われた草原と、サバンナ、落葉樹林、および常緑樹林がモザイク状に広がっている。またテライ・ベルトはインドサイの生息域である。",
"title": "自然"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "テライベルトの標高の高い地域には、ヒマラヤ山脈から流れてきた岩石が堆積してできたババール(英語版)・ベルトと呼ばれる地域がある。ババールと低シワリク山脈は亜熱帯気候に属しており、この亜熱帯地域の最西部にはおもにヒマラヤマツ(英語版)(Chir Pine)を主植生とするヒマラヤ亜熱帯針葉樹林(英語版)がある。低シワリク山脈の中央部にはサラノキを主植生とするヒマラヤ亜熱帯広葉樹林(英語版)が広がっている。",
"title": "自然"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈の中高度の地域には亜熱帯の森に代わって温帯性混交広葉樹林(英語版)がある。この地域の西部は西ヒマラヤ落葉樹林(英語版)と呼ばれ、東部のアッサム州およびアルナーチャル・プラデーシュ州の森は東ヒマラヤ落葉樹林(英語版)と呼ばれる。これらの広葉樹林より標高の高い地域には西ヒマラヤ亜高山帯針葉樹林(英語版)および東ヒマラヤ亜高山帯針葉樹林(英語版)が広がっている。",
"title": "自然"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "森林限界より標高の高い地域には北西ヒマラヤ高山灌木草原帯(英語版)と西ヒマラヤ高山灌木草原帯(英語版)、および東ヒマラヤ高山灌木草原帯(英語版)がある。この地域より標高が高くなるとツンドラ地帯となる。高山草原地帯は絶滅の危機にあるユキヒョウの夏の生息域となっている。ヒマラヤ山脈の最上部は万年雪に覆われている。",
"title": "自然"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈は地球上で最も若い山脈の一つである。現代のプレートテクトニクス理論によると、ヒマラヤ山脈はインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの間の沈み込みで起きた大陸同士の衝突による造山運動から生じた。",
"title": "プレートテクトニクス"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "衝突はおよそ7,000万年前後期白亜紀に始まった。そのころ、インド・オーストラリアプレートは年間15センチの速度で北上し、ユーラシアプレートと衝突した。",
"title": "プレートテクトニクス"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "約5,000万年前、このインド・オーストラリアプレートの速い動きによって海底の堆積層が隆起し、周縁部には火山が発生してインド亜大陸とユーラシア大陸の間にあったテチス海を完全に閉ざした。これらの堆積岩は軽かったため、プレートの下には沈まずにヒマラヤ山脈を形成した。今もインド・オーストラリアプレートはチベット高地の下で水平に動いており、その動きは高地にさらに押し上げている。ミャンマーのアラカン山脈とベンガル湾のアンダマン・ニコバル諸島もこの衝突の結果として形成された。かつて海だった証拠として、高山地帯で貝などの化石が発見される。",
"title": "プレートテクトニクス"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "今もインド・オーストラリアプレートは年間67ミリの速度で北上しており、今後1,000万年の間でアジア大陸に向かって1,500キロ移動するだろうと考えられている。この動きのうち約20ミリは、ヒマラヤの南の正面を圧縮することによって吸収される。結果として年に約5ミリの造山運動が発生し、ヒマラヤ山脈を地質学的に活発にしている。このインド亜大陸の動きにより、この地域は地震の多発地帯となっている。",
"title": "プレートテクトニクス"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈には非常に多くの氷河が存在し、面積は極地を除く地球上では最大である。ほかにおもな氷河としては、ガンゴートリー山系(英語版)のガンゴートリー氷河、ヤムノートリー(英語版)氷河、カンチェンジュンガ山系のゼム氷河(英語版)、エベレスト山系のクーンブ氷河(英語版)などがある。またカラコルム山脈にはシアチェン氷河、ビアフォ氷河、バルトロ氷河などがある。",
"title": "氷河と河川"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈の麓は熱帯気候や亜熱帯気候に属するが、頂上部は万年雪に閉ざされている。これらの万年雪は巨大な2つの河川の水源となっている。西への流れはインダス盆地に流れ込み、インダス川はその西方水系の中でもっとも大きな河川である。インダス川はチベットでセンゲ川(英語版)とガル川(英語版)の合流地点から始まり、カーブル川、ジェルム川、シェナブ川、ビアス川、サトレジ川などの河川と合流したのち、パキスタンを南西方向に横切り、アラビア海に流れ込んでいる。",
"title": "氷河と河川"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "インダス川方面以外のヒマラヤ山脈の水源の多くはガンジス・ブラマプトラ川流域に流れ、両河川に合流する。ガンジス川はヒマラヤ南麓にあるガンゴートリー氷河に流れを発するバーギーラティー川(英語版)を源流としている。氷河の下からバギーラティー川が流れ出す地点はゴームク(牛の口)と呼ばれ、標高3,892メートルである。その後、下流でヒマラヤから流れ出したアラクナンダ川(英語版)と合流し、そこからガンジス川という名に変わる。アラクナンダ川のほうが長いが、ヒンドゥー教の文化や神話ではバーギーラティー川のほうが真のガンジスの源流であるとみなされている。その後、リシケーシュで山脈から離れ、ヤムナー川と合流したあと、北インドのヒンドスタン平原を南東に横切る。",
"title": "氷河と河川"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ブラマプトラ川は、西チベットに発するヤルンツァンポ川が、チベットを東に流れ、アッサム平野を西に流れていく。ガンジス川とブラマプトラ川は、バングラデシュで合流し、世界最大のデルタ地形を形成して、ベンガル湾へ流れ出ている。",
"title": "氷河と河川"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ最東部の河川はエーヤワディー川を形成している。エーヤワディー川は東チベットから始まり、ミャンマーを南に縦断、アンダマン海に流れ込む。",
"title": "氷河と河川"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "サルウィン川、メコン川、長江と黄河は、ヒマラヤ山脈とは地質学的に区別されるチベット高原から始まるため、本来はヒマラヤ山脈を水源とする河川ではないと考えられている。一部の地理学者は、ヒマラヤ外縁水系の川と分類している。",
"title": "氷河と河川"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "近年、ヒマラヤ山脈の全域で顕著な氷河後退現象が観測されているが、世界的な気候変動の結果であると考えられている。この現象の長期的な影響は未知であるが、乾季の生活を氷河を水源とする北インドの河川に頼る数億の人々に甚大な影響を与えると見られている。",
"title": "氷河と河川"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈には何百もの湖が点在している。大部分の湖は5,000メートル未満の高度に存在し、高度が上がるとともに湖の規模は小さくなっていく。最大の湖はインドとチベットの境界に横たわるパンゴン湖で、4,600メートルの高度に位置し、幅8キロ、長さは134キロに及ぶ。高い標高を持つ湖沼のなかで顕著なものとしては、標高5,148メートルにある北シッキムのグルドンマル湖(英語版)がある。そのほかのおもな湖沼としてはネパール北部のマナン郡(英語版)にあるティリチョ湖(英語版)、シッキム州とインドシナの境界にあるツォンゴ湖(英語版)などがある。",
"title": "湖沼"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "氷河活動に起因する湖沼はタルン(英語版)と呼ばる。タルンは5,500メートル以上のヒマラヤ山脈の上部で見つかる。",
"title": "湖沼"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈はインド亜大陸とチベット高原の気候に重大な影響を及ぼしている。ヒマラヤ山脈は非常に冷たく乾燥した北極風がインド亜大陸に南に吹きつけるのを防ぎ、南アジアをほかの大陸の同じ緯度の地域より温暖にしている。",
"title": "気候への影響"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈は北上するモンスーンを遮断し、テライ・ベルトで大量の降雨を発生させる原因となっている。この降雨はヒマラヤ南面のほとんどの地域にあり、雨季の大量の降雨はヒンドスタン平原に豊富な水をもたらしている。またこれによって中央アジアは降雨量が少なくなり、タクラマカン砂漠やゴビ砂漠を形成する原因となっている。",
"title": "気候への影響"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "冬季になるとイランの方から激しい気流が発生するが、ヒマラヤ山脈はその気流を遮断、カシミール地方に降雪を パンジャブ州と北インドに降雨をもたらす。",
"title": "気候への影響"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "またその気流の一部は一部がブラマプトラ川流域に流れ込み、インド北東部とバングラデシュの温度を下げる。この風が原因となり、これらの地方に冬季の間、北東モンスーンが起きる。",
"title": "気候への影響"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ山脈の地形は非常に険しく、人を容易に寄せつけないが、いくつかの道が存在する。",
"title": "ヒマラヤのおもな地上交通"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "巨大なヒマラヤ山脈は、何万年もの間人々の交流を妨げる障壁となった。特にインド亜大陸の民族と中国・モンゴルの民族が混ざり合うのを妨げ、これらの地域が文化的、民族的、言語的に非常に異なっている直接の原因となった。ヒマラヤ山脈は軍の進撃や通商の妨げともなり、チンギス・カンはヒマラヤ山脈のためにモンゴル帝国をインド亜大陸に拡大することができなかった。また、急峻な地形と厳しい気候によって孤立した地域が生まれ、独特の文化が育まれた。これらの地域では、現代でも交通の便が悪いため古い文化・習慣が根強く残っている。",
"title": "ヒマラヤの地政学と文化"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤに大きな影響を与えているのは、北のチベット系民族と南のインド系民族である。山脈の大部分はチベット系民族の居住地であるが、南からやってきたインド系民族も低地を中心に南麓には多く住んでいる。チベット系民族の多くは山岳地域に住み都市文明を持たなかったが、ネパールのカトマンズ盆地に住んでいるネワール人は例外的に肥沃な盆地に根を下ろし、カトマンズ、パタン、バクタプルの3都市を中心とした都市文明を築いた。カトマンズ盆地は18世紀にインド系民族のゴルカ朝によって制圧されたが、ネワールは力を失うことなく、カトマンズなどではネワールとインド系の文化が重層的に展開した姿が見られる。カトマンズ以外のネパールはインドと文化的なつながりが強く、チベットともややつながりがあるが、中国文化圏との共通性はほとんどない。宗教的にも仏教徒は少なく、ヒンドゥー教徒が多く住む。これに対し、その東隣にあたるシッキムやブータンはチベット文化圏であり、住民は仏教徒がほとんどである。しかし19世紀以降、地理的条件の似ているネパールからの移民が両国に大量に流入し、シッキムにおいてはネパール系が多数派となり、ブータンにおいても一定の勢力を持つようになった。これは両者の対立を引き起こし、この対立が原因でシッキムは独立を失い、ブータンでも深刻な民族紛争が勃発することとなった。ヒマラヤ地域に広く分布するチベット民族は顔つきこそモンゴロイドだが中国文化圏との共通性は低く、インド文化圏とも共通性は少ない。チベットは古くからその孤立した地形によって独立を保ち、独自のチベット文化圏を形成している。",
"title": "ヒマラヤの地政学と文化"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤ西部のパンジャーブ・ヒマラヤではイスラーム教圏の影響が強い。カシミールはイスラーム系住民が多数を占める地域である。カシミールの北にあるラダックは19世紀よりジャンムー・カシミール藩王国領となっていたが、もともとチベットとのつながりの深い地域であり、住民もチベット系民族であって宗教もチベット仏教である。その西はパキスタン領のバルティスターンであるが、この地域は歴史的にラダックとつながりが深く住民もチベット系であるが、宗教はイスラーム教であり、インド・パキスタン分離独立の際起きた第1次印パ戦争ではパキスタン帰属を選択した。",
"title": "ヒマラヤの地政学と文化"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤの20世紀後半の政治情勢は、南北の2大国である中国とインドの影響力拡大と角逐の歴史であるといえる。ヒマラヤ北麓のチベットは清朝時代から中国の影響下にあったが、半独立状態を保っていた。しかし1950年の中国のチベット侵攻により完全に中国領となり、1959年にはチベット動乱によってダライ・ラマ14世がインドへと亡命し、ヒマラヤ南麓のダラムシャーラーにチベット亡命政府を樹立した。",
"title": "政治情勢"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一方、南麓のインド側ではイギリス領インド帝国の支配のもと、ジャンムー・カシミール藩王国などいくつかの藩王国が存在し、また中国との間の緩衝国としてネパールとブータンが独立国として存在し、また両国の間にはシッキム王国がイギリスの保護国として存在していた。しかしインドで独立運動が盛んになり、1947年8月15日にインド・パキスタン分離独立が起こると、各地の藩王国はどちらかへの帰属を迫られるようになった。ジャンムー・カシミール藩王国は藩王がヒンドゥー教徒であるが住民の80パーセント以上はイスラーム教徒であり、藩王が態度を決めかねるなか、イスラーム系住民が蜂起してパキスタン帰属を要求。これに対し藩王はインドの介入を求め、これが引き金となって第一次印パ戦争が勃発した。この戦争の結果、カシミールはインド領のジャンムー・カシミール州とパキスタン領のアーザード・カシミールとに分断されることとなった。",
"title": "政治情勢"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "その後、インドと中国はカシミール北東部(アクサイチン地区)やマクマホン・ラインなどの国境線をめぐって対立を深め、1962年には中印国境紛争が勃発した。この戦争で中国人民解放軍は勝利してアクサイチンやインド東北辺境地区を軍事占領し、東北辺境地区からは撤兵したもののアクサイチンは実効支配下に置いた。",
"title": "政治情勢"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "この戦争ののち、インドはヒマラヤ地域への影響力を強化していく。1975年には先住民であるブティヤ人・レプチャ人(チベット系)と移民であるネパール系の間で政治的対立の生じていたシッキム王国を制圧し、シッキム州として自国領土へと組み入れた。さらに1987年には直轄領であった係争地・インド東北辺境地区をアルナーチャル・プラデーシュ州へと昇格させ、支配を強化した。この動きを見たブータン王国は自国のアイデンティティの強化に乗り出し、1985年には国籍法を改正するとともに、1989年には「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などを実施して自国文化の振興に努めるようになったが、これはブータン南部に住むネパール系住民を強く刺激し、民族間の衝突が繰り返され多数の難民が流出することとなった。",
"title": "政治情勢"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一方、ネパールにおいては民主化運動によって1991年に複数政党制が復活したものの、一向に進まない国土の開発に不満を持ったネパール共産党統一毛沢東主義派(マオイスト)が1996年に武力闘争を開始。さらに2001年6月1日にはネパール王族殺害事件が発生し、ビレンドラ国王が殺害されてギャネンドラ国王が即位した。ギャネンドラは専制的な政治スタイルをとって国勢の回復をめざしたが、国民の不満は高まる一方で、国土のかなりの部分をマオイストに征圧される事態となった。2006年には王制が打倒されて民主化され、マオイストとも和平が成立し、2008年には正式にネパールは共和国となった。",
"title": "政治情勢"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤは急峻な山岳地帯であり農業にあまり適した土地ではないが、北麓のチベット側ではヤクなどの牧畜やオオムギの栽培などが行われている。また、ヒマラヤ南麓、特にネパールやブータンにおいてはモンスーン期に増水しすべてのものが押し流される河谷を避け、山腹の斜面に段々畑を作って農耕を行っている。",
"title": "経済活動と登山"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ヒマラヤから流れ下る川は氷河を水源とする豊富な水量を持ち、険しい地形のため落差が激しく、水力発電の膨大な潜在能力を持っている。源流の多くが存在するネパール・ブータン両国において水力発電の開発が盛んに行われ、特にブータンでは電力が主要な輸出品となっている。2013年度のブータンの水力発電量は150万キロワットに及び、大型の原子力発電所1基分に相当するが、この数字はブータンの潜在水力発電量のわずか5%に過ぎず、ブータン政府はさらなる積極的な発電計画を推し進めている。インドにおいても、2006年にはガンジス川上流にあるリシケーシュのさらに上流(バギーラティー川)に、2,400メガワットの発電量を得る目的などでテーリ・ダムが完成し、首都デリーの主要な水源となっている。ヒマラヤからの河川でもっとも早く開発が進められたのはインダス川であり、パキスタン側にはタルベーラー・ダムやマングラー・ダムといった巨大ダムがヒマラヤ山脈西部に建設され、パンジャーブ州への灌漑用水を確保してこの地方を穀倉地帯とする一方、発電も行われている。また、ヒマラヤから流れ下る川の水源であるチベット高原を領有する中国もチベット開発を進める中でヤルンツァンポ川(ブラマプトラ川)の開発を進めており、2014年11月23日にはヤルンツァンポ川の本流にチベット初の大型水力発電所である蔵木水力発電所(英語版)を建設した。このダム建設に対して、ブラマプトラ川の水を生命線とするインドのアッサム・ベンガル地方では強い懸念を示している。",
"title": "経済活動と登山"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "近年では、世界最高峰エベレストに年間数百人が登頂するなど、ヒマラヤ各峰への登山が盛んとなっている。特に8,000メートル級の高峰が集中するネパールでは、登山や麓から山々を眺める観光が一大産業となっている。登山客が支払う入山料はネパール政府の貴重な収入源となっているが、この収入が地元住民たちにきちんと還元されていないとして不満も根強い。2014年2月には、ネパール政府はより多くの登山客の誘致を目的として入山料の大幅値下げを行った。また最近、山脈中のトレッキングも盛んで、大ヒマラヤトレイルと称するトレッキング・ルートも徐々にではあるが整備されてきている。",
"title": "経済活動と登山"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ネパール政府は2014年、新たに104座の山への登山を解禁した。一方でヒマラヤ山脈とその周辺には、急峻さや厳しい天候で登頂に成功していない未踏峰や、宗教・政治上の理由で登山が禁止されている山々も存在する。後者の例としては、ネパールではマチャプチャレ、ブータンではガンカー・プンスムが知られている。",
"title": "経済活動と登山"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教においては、ヒマラヤはヒマヴァット神として神格化されており、雪の神としてマハーバーラタにも記載されている。彼はガンガーとサラスヴァティーの2人の河の女神の父であり、またシヴァ神の妻であるパールヴァティーも彼の娘である。",
"title": "宗教"
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"text": "ヒマラヤの各地には、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教、仏教、イスラーム教の施設が点在している。著名な宗教施設としては、ブータンに初めて仏教をもたらしたパドマサンバヴァによって建設された僧院とされているパロのタクツァン僧院などがある。",
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"text": "チベット仏教の僧院の多くは、ダライ・ラマの本拠を含むヒマラヤに位置している。チベットにはかつて6,000以上の僧院があった。チベット人のイスラーム教徒もおり、ラサとシガツェにはモスクが建設されている。",
"title": "宗教"
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] |
ヒマラヤ山脈は、アジアの山脈で、地球上でもっとも標高の高い地域である。単にヒマラヤということもある。 ヒマラヤは、インド亜大陸とチベット高原を隔てている無数の山脈から構成される巨大な山脈である。西はパキスタン北部インダス川上流域から、東はブラマプトラ川大屈曲部まで続き、ブータン、中国、インド、ネパール、パキスタンの、東アジアおよび南アジアの5つの国にまたがる。いずれも最大級の大河であるインダス川、ガンジス川、ブラマプトラ川、黄河、長江の水源となって数々の古代文明を育み、このヒマラヤ水系には約7億5,000万人の人々が生活している(これにはバングラデシュの全人口が含まれる)。ヒマラヤは、広義の意味ではユーラシアプレートとインド・オーストラリアプレートの衝突によって形成された周辺の山脈である、カラコルム山脈、ヒンドゥークシュ山脈、天山山脈、崑崙山脈などを含む。 広義のヒマラヤには、最高峰エベレストを含む、地球上でもっとも高い14の8,000メートル級ピークがあり、7,200メートル以上の山が100峰以上存在する。一方で、アジアのこの地域以外には7,000メートル以上の山は存在せず、アンデス山脈アコンカグアの6,961メートルが最高標高である。 以下では狭義のヒマラヤについて解説する。
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{{redirect|ヒマラヤ|その他の用法|ヒマラヤ (曖昧さ回避)}}
{{redirect|ヒマラヤ山系|「ヒマラヤ山系」の通称を持つ作家|平山三郎}}
{{山系
|名称=ヒマラヤ山脈
|画像=[[File:Everest kalapatthar crop.jpg|300px]]
|画像キャプション = ネパール側の{{仮リンク|カラパタール|en|Kala Patthar}}から見た[[エベレスト]]
|所在地={{BHU}}<br/>{{CHN}}<br/>{{IND}}<br/>{{NEP}}<br/>{{PAK}}
| 緯度度 = 30 | 緯度分 = 00 | 緯度秒 = 00 | N(北緯)及びS(南緯) = N
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|最高峰=[[エベレスト]]
|標高=8,844m/8,848
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[[ファイル:Himalayas.jpg|thumb|250px|[[国際宇宙ステーション]]から撮影したヒマラヤ山脈。チベット高原から南方を見た図。エベレストが中央付近に見える]]
'''ヒマラヤ山脈'''(ヒマラヤさんみゃく、{{Lang-en-short|Himalayan Range}})は、[[アジア]]の[[山脈]]で、[[地球]]上でもっとも[[標高]]の高い地域である。単に'''ヒマラヤ'''ということもある。<!--英語版翻訳2006/10-->
ヒマラヤは、[[インド亜大陸]]と[[チベット高原]]を隔てている無数の山脈から構成される巨大な山脈である。西は[[パキスタン]]北部[[インダス川]]上流域から、東は[[ブラマプトラ川]]大屈曲部まで続き、[[ブータン]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[インド]]、[[ネパール]]、パキスタンの、[[東アジア]]および[[南アジア]]の5つの国にまたがる。いずれも最大級の大河であるインダス川、[[ガンジス川]]、ブラマプトラ川、[[黄河]]、[[長江]]の水源となって数々の[[古代文明]]を育み、このヒマラヤ水系には約7億5,000万人の人々が生活している(これには[[バングラデシュ]]の全[[人口]]が含まれる)。ヒマラヤは、広義の意味では[[ユーラシアプレート]]と[[インド・オーストラリアプレート]]の衝突によって形成された周辺の山脈である、[[カラコルム山脈]]、[[ヒンドゥークシュ山脈]]、[[天山山脈]]、[[崑崙山脈]]などを含む。
<!--英語版翻訳2006/10-->
広義のヒマラヤには、最高峰[[エベレスト]]を含む、地球上でもっとも高い14の[[8000メートル峰|8,000メートル級ピーク]]があり、[[世界の山一覧 (高さ順)|7,200メートル以上の山]]が100峰以上存在する。一方で、アジアのこの地域以外には7,000メートル以上の山は存在せず、[[アンデス山脈]][[アコンカグア]]の6,961メートルが最高標高である。
<!--英語版翻訳2006/10-->
以下では狭義のヒマラヤについて解説する。
== 概要 ==
[[File:Himalaya composite.jpg|thumb|250px|right|ヒマラヤ山脈の全景]]
'''ヒマラヤ山脈'''({{lang-en|''Himalayan Range''}}、{{lang-zh|'''喜马拉雅山脉'''}}、{{lang-bo|'''ཧི་མ་ལ་ཡ'''}})は、アジアの山脈であり、パキスタン・インド・[[チベット]](中華人民共和国領)・ネパール・ブータンの国境付近に位置する。西端はアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈へとつながる。'''ヒマーラヤ'''('''हिमालय'''、himālaya)は、[[サンスクリット語]]で、hima(ヒマ「雪」)+ ālaya(ア-ラヤ「すみか」)から「雪の住みか」の意<ref name=oed>{{cite web|url=http://oxforddictionaries.com/view/entry/m_en_gb0378930#m_en_gb0378930|title=Definition of Himalayas|work=Oxford Dictionaries Online|accessdate=2011-05-09}}</ref>。
エベレスト(8,848メートル)、[[カンチェンジュンガ]](8,586メートル)、[[ナンガ・パルバット]](8,125メートル)をはじめ、世界でも有数の標高の高い山が数多く属している。
[[プレートテクトニクス]]によると、ヒマラヤ山脈は、[[インド亜大陸]]の[[ユーラシア大陸]]への衝突により形成された。インド亜大陸の北上は続いており、ヒマラヤ山脈の成長も続いている。
各山々の[[標高]]には数説あり、エベレストは、ネパールと中国が共同発表した8,848.86メートルが最新データである。測量技術の向上と地殻変動による推移が関係している。注として、上記のデータには山頂の積雪3.5メートルは含まれない。
== 地理 ==
[[ファイル:yumthangnorth.jpg|thumb|250px|シッキムの{{仮リンク|ユムタン渓谷|en|Yumthang Valley}}]]
ヒマラヤ山脈の全長は西の[[ナンガ・パルバット]](パキスタン)から、東の[[ナムチャバルワ]]まで実に2,400キロに及ぶ。地理学的には、ヒマラヤ山脈は標高と地質によって平行に走る3つの山脈に分類される。3つのうちでもっとも後に形成された山脈は外ヒマラヤ(シワリク山地)と呼ばれ、およそ1,200メートルほどの高さの山で構成されている。この山脈はヒマラヤ山脈の成長にともなって発生した土砂の流出物によって形成されたと考えられている。
この山脈の北隣に平行に走る形で、小ヒマラヤがある。小ヒマラヤは2,000メートルから5,000メートルの標高の山々で形成され、マハーバーラト山脈とも呼ばれる。小ヒマラヤと大ヒマラヤの間には[[カシミール盆地]]および[[カトマンズ盆地]]という2つの肥沃な盆地があり、ここでは古くから高い文明が栄えていた。もっとも北にあるのが大ヒマラヤで、3つの山脈の中でもっとも古い山脈である。6,000メートル以上のピークを多数有し、世界でもっとも高いエベレスト、3番目に高いカンチェンジュンガがこの山脈に属している。
ヒマラヤは、東西にはおよそ5つに区分される。もっとも西寄りに位置するのがパンジャーブ・ヒマラヤであり、[[インダス川]]から[[サトレジ川]]までのインダス水系に属する山々である。行政的にはインドの[[ジャンム・カシミール州]]や[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]、[[パキスタン]]の[[ギルギット・バルティスタン]]となる。次いでその東に位置するのがガルワール・ヒマラヤ(クマオン・ヒマラヤ)である。インドの[[ウッタラーカンド州]]に属する区域で、ガンジス川本流の源流域にあたる。ガンジス本流の源流とされる[[ガンゴートリー氷河]]もここに属する。その東には、ネパール・ヒマラヤが広がる。行政的には[[ネパール]]に属する区域で、エベレストやダウラギリ、マナスルなど、ヒマラヤでもっとも高い山々がそびえる区域である。その東はシッキム・ブータン・ヒマラヤで、行政的にはインドの[[シッキム州]]と[[ブータン王国]]の区域となる。もっとも東に位置するのがアッサム・ヒマラヤであり、行政的にはインドの[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]となる。なお、この行政区域はすべてヒマラヤ南麓のものであり、ヒマラヤ北麓はすべて行政的には[[中国]]の[[チベット自治区]]に属する<ref>辛島昇・前田専学・江島惠教ら監修『南アジアを知る事典』p594 平凡社、1992.10、ISBN 4-582-12634-0</ref>。
ネパールとブータンの国土のほとんどがヒマラヤ山脈である。パキスタンの[[バルティスターン]]、インドの[[ジャンムー・カシミール州]]などの北部の地域がヒマラヤ山脈の中にある。[[チベット高原]]の南東部もヒマラヤ山脈に接しているが、チベット高原そのものは地理学的にはヒマラヤ山脈とは別の山系に分類される。
<!--英語版翻訳2006/10-->
== 自然 ==
[[ファイル:IndoGangeticPlain Map.png|thumb|250px|ヒンドスタン平野]]
[[File:Cedrus deodara Manali 2.jpg|thumb|250px|西ヒマラヤ亜高山帯針葉樹林(インドヒマーチャル・プラデーシュ州)]]
ヒマラヤ山脈の植物相と動物相は、気候、雨量、高度と地質によって分類することができる。気候は山脈の麓にある[[熱帯]]から始まり、氷床と雪に覆われた[[高山帯]]まで変化する一方、年間[[降水量]]は西より東の地域の方が多い傾向がある。気候、高度、雨量と地質の複雑な変化が多様な生態系を育んでいる。
<!--英語版翻訳2006/10-->
=== 低地森林帯 ===
ヒマラヤ山脈と[[デカン高原]]の間にはインダス川とガンジス川が流れる広い平野がある。この平野は[[ヒンドゥスターン平野]](またはインダス-ガンジス平原([[:en:Indo-Gangetic plain]]))と呼ばれ、[[森林]]地帯が広がっている。この平原の西部は乾燥しているが東部は雨量が豊富であるため、東西で植生が異なっている。北西部のパキスタンとインドにまたがる[[パンジャブ平野]]は有刺低木林に覆われている。インド東部の[[ウッタル・プラデーシュ州]]のガンジス上流域には{{仮リンク|ガンジス上流域湿性落葉樹林帯|en|Upper Gangetic Plains moist deciduous forests}}、[[ビハール州]]と[[西ベンガル州]]にまたがる[[ガンジス平原]]には{{仮リンク|ガンジス下流域湿性落葉樹林帯|en|Lower Gangetic plains moist deciduous forests}}が広がっている。これらの[[モンスーン気候]]の落葉樹林は乾季になると落葉する。[[アッサム平野]]は湿性の{{仮リンク|ブラマプトラ流域半常緑樹林|en|Brahmaputra Valley semi-evergreen forests}}に覆われている。
<!--訳注 GangeticはGangesの形容詞形 メモ:落葉雨林という言葉はあるのか-->
<!--英語版翻訳2006/10-->
=== テライ・ベルト(Terai belt) ===
[[砂]]と[[粘土]]からなる沖積平野にはテライ・ベルトと呼ばれる湿地帯が広がっている。{{仮リンク|テライ|en|Terai|redirect=1}}とは季節的に湿性になる[[草地]]のことである。テライ・ベルトはモンスーンになると冠水し、肥沃な土砂が堆積する。乾季には水が引くが、ヒマラヤから流れてくる地下水で高い地下水位がある。テライ・ベルトの中心部には{{仮リンク|テライ-デュアサバンナ・大草原地帯|en|Terai-Duar savanna and grasslands}}がある。ここには世界でもっとも背の高い草で覆われた草原と、[[サバナ (地理)|サバンナ]]、落葉樹林、および常緑樹林が[[モザイク]]状に広がっている。またテライ・ベルトは[[インドサイ]]の生息域である。
<!--英語版翻訳2006/10 要修正-->
=== ババール・ベルト(Bhabhar belt) ===
テライベルトの標高の高い地域には、ヒマラヤ山脈から流れてきた岩石が[[堆積]]してできた{{仮リンク|ババール (地域)|en|Bhabar|label=ババール}}・ベルトと呼ばれる地域がある。ババールと低シワリク山脈は[[亜熱帯]]気候に属しており、この亜熱帯地域の最西部にはおもに{{仮リンク|ヒマラヤマツ|en|Pinus roxburghii}}(Chir Pine)を主植生とする{{仮リンク|ヒマラヤ亜熱帯針葉樹林|en|Himalayan subtropical pine forests}}がある。低シワリク山脈の中央部には[[サラノキ]]を主植生とする{{仮リンク|ヒマラヤ亜熱帯広葉樹林|en|Himalayan subtropical broadleaf forests}}が広がっている。
<!--英語版翻訳2006/10 要修正-->
=== 山地森林帯(Montane forests) ===
ヒマラヤ山脈の中高度の地域には亜熱帯の森に代わって{{仮リンク|温帯性混交広葉樹林|en|Temperate broadleaf and mixed forest}}がある。この地域の西部は{{仮リンク|西ヒマラヤ落葉樹林|en|Western Himalayan broadleaf forests}}と呼ばれ、東部の[[アッサム州]]および[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]の森は{{仮リンク|東ヒマラヤ落葉樹林|en|Eastern Himalayan broadleaf forests}}と呼ばれる。これらの広葉樹林より標高の高い地域には{{仮リンク|西ヒマラヤ亜高山帯針葉樹林|en|Western Himalayan subalpine conifer forests}}および{{仮リンク|東ヒマラヤ亜高山帯針葉樹林|en|Eastern Himalayan subalpine conifer forests}}が広がっている。
<!--英語版翻訳2006/10 要修正-->
=== 高山帯(Alpine shrub and grasslands) ===
森林限界より標高の高い地域には{{仮リンク|北西ヒマラヤ高山灌木草原帯|en|Northwestern Himalayan alpine shrub and meadows}}と{{仮リンク|西ヒマラヤ高山灌木草原帯|en|Western Himalayan alpine shrub and meadows}}、および{{仮リンク|東ヒマラヤ高山灌木草原帯|en|Eastern Himalayan alpine shrub and meadows}}がある。この地域より標高が高くなると[[ツンドラ]]地帯となる。高山草原地帯は絶滅の危機にある[[ユキヒョウ]]の夏の生息域となっている。ヒマラヤ山脈の最上部は[[万年雪]]に覆われている。
<!--英語版翻訳2006/10 要修正-->
== プレートテクトニクス ==
[[Image:Himalaya-formation.gif|thumb|インド大陸は6,000キロ以上を移動し、4,000万年から5,000万年前にユーラシアプレートと衝突した]]
ヒマラヤ山脈は地球上で最も若い山脈の一つである。現代のプレートテクトニクス理論によると、ヒマラヤ山脈は[[インド・オーストラリアプレート]]と[[ユーラシアプレート]]の間の沈み込みで起きた大陸同士の衝突による造山運動から生じた。
衝突はおよそ7,000万年前後期[[白亜紀]]に始まった。そのころ、インド・オーストラリアプレートは年間15センチの速度で北上し、ユーラシアプレートと衝突した。
約5,000万年前、このインド・オーストラリアプレートの速い動きによって海底の堆積層が隆起し、周縁部には[[火山]]が発生してインド亜大陸とユーラシア大陸の間にあった[[テチス海]]を完全に閉ざした。これらの[[堆積岩]]は軽かったため、プレートの下には沈まずにヒマラヤ山脈を形成した。今もインド・オーストラリアプレートはチベット高地の下で水平に動いており、その動きは高地にさらに押し上げている。[[ミャンマー]]の[[アラカン山脈]]と[[ベンガル湾]]の[[アンダマン・ニコバル諸島]]もこの衝突の結果として形成された。かつて海だった証拠として、高山地帯で[[貝]]などの[[化石]]が発見される。
今もインド・オーストラリアプレートは年間67ミリの速度で北上しており、今後1,000万年の間で[[アジア大陸]]に向かって1,500キロ移動するだろうと考えられている。この動きのうち約20ミリは、ヒマラヤの南の正面を圧縮することによって吸収される。結果として年に約5ミリの[[造山運動]]が発生し、ヒマラヤ山脈を地質学的に活発にしている。このインド亜大陸の動きにより、この地域は[[地震]]の多発地帯となっている。
<!--英語版翻訳2006/10-->
== 氷河と河川 ==
[[ファイル:Glacial lakes, Bhutan.jpg|thumb|right|250px|ブータンの氷河湖]]
[[ファイル:Himalayan mountains from air 001.jpg|thumb|250px|right|航空機から見たヒマラヤ山脈。いたるところが氷河に覆われている]]
ヒマラヤ山脈には非常に多くの[[氷河]]が存在し、面積は極地を除く地球上では最大である。ほかにおもな氷河としては、{{仮リンク|ガンゴートリー山系|en|Gangotri Group}}の[[ガンゴートリー氷河]]、{{仮リンク|ヤムノートリー|en|Yamunotri}}氷河、[[カンチェンジュンガ]]山系の{{仮リンク|ゼム氷河|en|Zemu Glacier}}、エベレスト山系の{{仮リンク|クーンブ氷河|en|Khumbu Glacier}}などがある。また[[カラコルム山脈]]には[[シアチェン氷河]]、[[ビアフォ氷河]]、[[バルトロ氷河]]などがある。
ヒマラヤ山脈の麓は熱帯気候や亜熱帯気候に属するが、頂上部は万年雪に閉ざされている。これらの万年雪は巨大な2つの河川の水源となっている。西への流れは[[インダス盆地]]に流れ込み、インダス川はその西方水系の中でもっとも大きな河川である。インダス川はチベットで{{仮リンク|センゲ川|en|Sênggê Zangbo}}と{{仮リンク|ガル川|en|Gar Tsangpo}}の合流地点から始まり、[[カーブル川]]、[[ジェルム川]]、[[シェナブ川]]、[[ビアス川]]、[[サトレジ川]]などの河川と合流したのち、パキスタンを南西方向に横切り、[[アラビア海]]に流れ込んでいる。
インダス川方面以外のヒマラヤ山脈の水源の多くはガンジス・ブラマプトラ川流域に流れ、両河川に合流する。ガンジス川はヒマラヤ南麓にあるガンゴートリー氷河に流れを発する{{仮リンク|バーギーラティー川|en|Bhagirathi River}}を源流としている。氷河の下からバギーラティー川が流れ出す地点はゴームク(牛の口)と呼ばれ、標高3,892メートルである<ref name="Scientific Study">{{cite book|author1=C. R. Krishna Murti|author2=Gaṅgā Pariyojanā Nideśālaya|author3=India Environment Research Committee|title=The Ganga, a scientific study|url=https://books.google.co.jp/books?id=dxpxDSXb9k8C&pg=PA19&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=24 April 2011|year=1991|publisher=Northern Book Centre|isbn=978-81-7211-021-5|page=19}}</ref>。その後、下流でヒマラヤから流れ出した{{仮リンク|アラクナンダ川|en|Alaknanda River}}と合流し、そこからガンジス川という名に変わる。アラクナンダ川のほうが長いが、ヒンドゥー教の文化や神話ではバーギーラティー川のほうが真のガンジスの源流であるとみなされている<ref name="Britannica">{{cite encyclopedia |year= 2011 |title= Ganges River |encyclopedia= [[Encyclopædia Britannica]] |edition= Encyclopædia Britannica Online Library |url= http://www.library.eb.com/eb/article-48077 |accessdate=23 April 2011}}</ref><ref name="Penn2001">{{cite book|last=Penn|first=James R.|title=Rivers of the world: a social, geographical, and environmental sourcebook|url=https://books.google.co.jp/books?id=koacGt0fhUoC&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=23 April 2011|year=2001|publisher=ABC-CLIO|isbn=978-1-57607-042-0|page=88}}</ref>。その後、リシケーシュで山脈から離れ、[[ヤムナー川]]と合流したあと、[[北インド]]の[[ヒンドスタン平原]]を南東に横切る。
ブラマプトラ川は、西チベットに発する[[ヤルンツァンポ川]]が、チベットを東に流れ、[[アッサム平野]]を西に流れていく。ガンジス川とブラマプトラ川は、[[バングラデシュ]]で合流し、世界最大のデルタ地形を形成して、[[ベンガル湾]]へ流れ出ている<ref>{{cite web|url=http://www.gits4u.com/wb/wb6a.htm|title=Sunderbans the world's largest delta|publisher=gits4u.com|accessdate=2013-02-19}}</ref>。
ヒマラヤ最東部の河川は[[エーヤワディー川]]を形成している。エーヤワディー川は東チベットから始まり、ミャンマーを南に縦断、アンダマン海に流れ込む。
[[サルウィン川]]、[[メコン川]]、長江と[[黄河]]は、ヒマラヤ山脈とは地質学的に区別されるチベット高原から始まるため、本来はヒマラヤ山脈を水源とする河川ではないと考えられている。一部の地理学者は、ヒマラヤ外縁水系の川と分類している。
近年、ヒマラヤ山脈の全域で顕著な氷河後退現象が観測されているが、世界的な[[気候変動]]の結果であると考えられている<ref>{{cite web|url=http://www.planetark.com/dailynewsstory.cfm/newsid/42387/story.htm|title=Vanishing Himalayan Glaciers Threaten a Billion|date=June 5, 2007|publisher=Planet Ark|accessdate=2009-04-17}}</ref>。この現象の長期的な影響は未知であるが、乾季の生活を氷河を水源とする[[北インド]]の河川に頼る数億の人々に甚大な影響を与えると見られている<ref>{{cite web|url=http://english.peopledaily.com.cn/90001/90781/90879/6222327.html|title=Glaciers melting at alarming speed|date=July 24, 2007|publisher=People's Daily Online|accessdate=2009-04-17}}</ref>。
<!--翻訳 2006/10-->
== 湖沼 ==
[[File:Crows Lake in North Sikkim.jpg|thumb|250px|北シッキムに数百ある湖のうちのひとつ。この湖の高度は約5,000メートルである]]
ヒマラヤ山脈には何百もの湖が点在している。大部分の湖は5,000メートル未満の高度に存在し、高度が上がるとともに湖の規模は小さくなっていく。最大の湖はインドとチベットの境界に横たわる[[パンゴン湖]]で、4,600メートルの高度に位置し、幅8キロ、長さは134キロに及ぶ。高い標高を持つ湖沼のなかで顕著なものとしては、標高5,148メートルにある北シッキムの{{仮リンク|グルドンマル湖|en|Gurudongmar Lake}}がある。そのほかのおもな湖沼としてはネパール北部の{{仮リンク|マナン郡 (ネパール)|en|Manang District, Nepal|label=マナン郡}}にある{{仮リンク|ティリチョ湖|en|Tilicho Lake}}、シッキム州と[[インドシナ]]の境界にある{{仮リンク|ツォンゴ湖|en|Lake Tsomgo}}などがある。
氷河活動に起因する湖沼は{{仮リンク|タルン (湖)|en|Tarn (lake)|label=タルン}}と呼ばる。タルンは5,500メートル以上のヒマラヤ山脈の上部で見つかる<ref>{{cite web|url=http://www.highestlake.com/highest-lake-world.html|title=Highest Lake in the World|first=Carl|last=Drews|accessdate=2010-11-14}}</ref>。
<!--翻訳 2006/10-->
== 気候への影響 ==
ヒマラヤ山脈はインド亜大陸とチベット高原の気候に重大な影響を及ぼしている。ヒマラヤ山脈は非常に冷たく乾燥した北極風がインド亜大陸に南に吹きつけるのを防ぎ、南アジアをほかの大陸の同じ緯度の地域より温暖にしている。
ヒマラヤ山脈は北上する[[モンスーン]]を遮断し、テライ・ベルトで大量の降雨を発生させる原因となっている。この降雨はヒマラヤ南面のほとんどの地域にあり、雨季の大量の降雨はヒンドスタン平原に豊富な水をもたらしている。またこれによって[[中央アジア]]は降雨量が少なくなり、[[タクラマカン砂漠]]や[[ゴビ砂漠]]を形成する原因となっている<ref>{{cite news | last = Devitt | first = Terry | title = Climate shift linked to rise of Himalayas, Tibetan Plateau | newspaper = [[University of Wisconsin–Madison]] News | date = 3 May 2001 | url = http://www.news.wisc.edu/6138| accessdate = 1 November 2011}}</ref>。
冬季になると[[イラン]]の方から激しい気流が発生するが、ヒマラヤ山脈はその気流を遮断、カシミール地方に降雪を パンジャブ州と北インドに降雨をもたらす。
またその気流の一部は一部がブラマプトラ川流域に流れ込み、インド北東部と[[バングラデシュ]]の温度を下げる。この風が原因となり、これらの地方に冬季の間、北東モンスーンが起きる。<!--翻訳 2006/10-->
== ヒマラヤのおもな地上交通 ==
[[File:Bumla-Pass.jpg|thumb|250px|ブンラ峠]]
ヒマラヤ山脈の地形は非常に険しく、人を容易に寄せつけないが、いくつかの道が存在する。
;ヒマラヤ東部
:{{仮リンク|ブンラ峠|en|Bum La Pass}}によって、インドのアルナーチャル・プラデーシュ州とチベットの[[ツォナ県]]が結ばれている。[[ダライ・ラマ14世]]が1959年のインド[[亡命]]時に通ったルートでもある。
;ナトゥ・ラ峠とジェレプ・ラ峠
:[[ナトゥ・ラ峠]]と[[ジェレプ・ラ峠]]は、シッキムの[[ガントク]]とチベットの[[ラサ]]を結ぶルートであり、いずれもシッキム東部に位置している。また、ナトゥ・ラ峠はシルクロードの支道の一部であると考えられている。
;チベットとネパールを結ぶルート
:チベット側の[[ニャラム県]][[ダム鎮|ダム]]とネパール側の[[シンドゥ・パルチョーク郡]]{{仮リンク|コダリ|en|Kodari}}の間には{{仮リンク|中尼友誼橋|zh|中尼友谊桥|en|Sino-Nepal Friendship Bridge}}があり、中尼友誼橋によって中国の[[G318国道]]とネパールの{{仮リンク|アラニコ・ハイウェイ|en|Araniko Highway}}が接続している。このほかに、チベットの[[ディンキェ県]]や[[ドンパ県]]とネパールの[[ダウラギリ県]][[ムスタン郡]]を結ぶルートがある。
;ヒマラヤ西部
:インド、ネパール、チベットの[[三国国境]]付近には{{仮リンク|リプケーシュ峠|en|Lipulekh Pass}}があるほか、インドの[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]とチベットの[[ツァンダ県]]の境界には{{仮リンク|シプキ・ラ峠|en|Shipki La}}がある。
;カシミール-チベット・東トルキスタンルート
:[[カシミール]]の[[スリナガル]]から、[[ラダック]]の[[レー]]を経てチベットに至るルートで、{{仮リンク|国道1号 (インド)|en|National Highway 1 (India)|label=国道1号線}}に指定されている。インド側には自動車道の世界最高地点の[[カルドゥン・ラ]]がある。またラダックの北端には[[カラコルム峠]]があり、[[東トルキスタン]]とも結ばれていたが、いずれもインドと中国の政治問題のため、国境は閉鎖されている。
<!--翻訳 2006/10-->
== ヒマラヤの地政学と文化 ==
[[File:08IN1106 sunset concert on the gompa roof.jpg|thumb|250px|[[ザンスカール]]地方の僧院。[[日没]]を知らせる僧侶]]
巨大なヒマラヤ山脈は、何万年もの間人々の交流を妨げる障壁となった。特にインド亜大陸の民族と中国・[[モンゴル]]の民族が混ざり合うのを妨げ、これらの地域が文化的、民族的、言語的に非常に異なっている直接の原因となった。ヒマラヤ山脈は軍の進撃や通商の妨げともなり、[[チンギス・カン]]はヒマラヤ山脈のために[[モンゴル帝国]]をインド亜大陸に拡大することができなかった。また、急峻な地形と厳しい気候によって孤立した地域が生まれ、独特の文化が育まれた。これらの地域では、現代でも交通の便が悪いため古い文化・習慣が根強く残っている。
ヒマラヤに大きな影響を与えているのは、北のチベット系民族と南のインド系民族である。山脈の大部分はチベット系民族の居住地であるが、南からやってきたインド系民族も低地を中心に南麓には多く住んでいる。チベット系民族の多くは山岳地域に住み都市文明を持たなかったが、ネパールのカトマンズ盆地に住んでいる[[ネワール]]人は例外的に肥沃な盆地に根を下ろし、[[カトマンズ]]、[[パタン]]、[[バクタプル]]の3都市を中心とした都市文明を築いた<ref>「世界地理4 南アジア」p385 織田武雄編 朝倉書店 1978年6月23日初版第1刷</ref>。カトマンズ盆地は[[18世紀]]にインド系民族の[[ゴルカ朝]]によって制圧されたが、ネワールは力を失うことなく、カトマンズなどではネワールとインド系の文化が重層的に展開した姿が見られる。カトマンズ以外のネパールはインドと文化的なつながりが強く、チベットともややつながりがあるが、中国文化圏との共通性はほとんどない。宗教的にも仏教徒は少なく、ヒンドゥー教徒が多く住む。これに対し、その東隣にあたるシッキムやブータンはチベット文化圏であり、住民は仏教徒がほとんどである。しかし[[19世紀]]以降、地理的条件の似ているネパールからの移民が両国に大量に流入し、シッキムにおいてはネパール系が多数派となり、ブータンにおいても一定の勢力を持つようになった。これは両者の対立を引き起こし、この対立が原因でシッキムは独立を失い、ブータンでも深刻な民族紛争が勃発することとなった。ヒマラヤ地域に広く分布するチベット民族は顔つきこそ[[モンゴロイド]]だが中国文化圏との共通性は低く、インド文化圏とも共通性は少ない。チベットは古くからその孤立した地形によって独立を保ち、独自のチベット文化圏を形成している。
ヒマラヤ西部のパンジャーブ・ヒマラヤでは[[イスラーム教]]圏の影響が強い。[[カシミール]]はイスラーム系住民が多数を占める地域である。カシミールの北にある[[ラダック]]は19世紀より[[ジャンムー・カシュミール藩王国|ジャンムー・カシミール藩王国]]領となっていたが、もともとチベットとのつながりの深い地域であり、住民もチベット系民族であって宗教も[[チベット仏教]]である。その西はパキスタン領の[[バルティスターン]]であるが、この地域は歴史的にラダックとつながりが深く住民もチベット系であるが、宗教はイスラーム教であり、[[インド・パキスタン分離独立]]の際起きた[[第1次印パ戦争]]ではパキスタン帰属を選択した。
== 政治情勢 ==
[[File:Map Kashmir Standoff 2003.png|thumb|250px|インド、パキスタン、中国によって分割されたカシミール地区]]
[[ファイル:Khardung_La_ladakh_001.jpg|thumb|250px|カルドゥン・ラ(Khardung La)。[[インド軍]]の管理下にある。後ろに18,380 [[フィート|ft]](5,602メートル)と書いた看板が見える。]]
ヒマラヤの20世紀後半の政治情勢は、南北の2大国である中国とインドの影響力拡大と角逐の歴史であるといえる。ヒマラヤ北麓のチベットは[[清朝]]時代から中国の影響下にあったが、半独立状態を保っていた。しかし[[1950年]]の[[中華人民共和国によるチベット併合|中国のチベット侵攻]]により完全に中国領となり、[[1959年]]には[[チベット動乱]]によって[[ダライ・ラマ14世]]がインドへと亡命し、ヒマラヤ南麓の[[ダラムシャーラー]]に[[チベット亡命政府]]を樹立した。
一方、南麓のインド側ではイギリス領インド帝国の支配のもと、ジャンムー・カシミール藩王国などいくつかの[[藩王国]]が存在し、また中国との間の[[緩衝国]]として[[ネパール]]と[[ブータン]]が独立国として存在し、また両国の間には[[シッキム王国]]がイギリスの[[保護国]]として存在していた。しかしインドで独立運動が盛んになり、[[1947年]][[8月15日]]に[[インド・パキスタン分離独立]]が起こると、各地の藩王国はどちらかへの帰属を迫られるようになった。ジャンムー・カシミール藩王国は藩王が[[ヒンドゥー教徒]]であるが住民の80パーセント以上は[[イスラーム教徒]]であり、藩王が態度を決めかねるなか、イスラーム系住民が蜂起してパキスタン帰属を要求。これに対し藩王はインドの介入を求め、これが引き金となって[[第一次印パ戦争]]が勃発した。この戦争の結果、カシミールはインド領の[[ジャンムー・カシミール州]]とパキスタン領の[[アーザード・カシミール]]とに分断されることとなった。
その後、インドと中国はカシミール北東部([[アクサイチン]]地区)や[[マクマホン・ライン]]などの国境線をめぐって対立を深め、[[1962年]]には[[中印国境紛争]]が勃発した。この戦争で[[中国人民解放軍]]は勝利してアクサイチンやインド東北辺境地区を軍事占領し、東北辺境地区からは撤兵したもののアクサイチンは実効支配下に置いた。
この戦争ののち、インドはヒマラヤ地域への影響力を強化していく。[[1975年]]には先住民である[[ブティヤ人]]・[[レプチャ人]](チベット系)と移民であるネパール系の間で政治的対立の生じていたシッキム王国を制圧し、[[シッキム州]]として自国領土へと組み入れた。さらに[[1987年]]には直轄領であった係争地・インド東北辺境地区を[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]へと昇格させ、支配を強化した。この動きを見たブータン王国は自国のアイデンティティの強化に乗り出し、[[1985年]]には国籍法を改正するとともに、[[1989年]]には「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の[[民族衣装]]着用の強制(ネパール系住民は免除)、[[ゾンカ語]]の[[国語]]化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などを実施して自国文化の振興に努めるようになったが、これはブータン南部に住むネパール系住民を強く刺激し、民族間の衝突が繰り返され多数の[[難民]]が流出することとなった<ref>辛島昇・前田専学・江島惠教ら監修『南アジアを知る事典』p863 平凡社、1992.10、ISBN 4-582-12634-0</ref>。
一方、ネパールにおいては[[民主化運動]]によって[[1991年]]に[[複数政党制]]が復活したものの、一向に進まない国土の開発に不満を持った[[ネパール共産党統一毛沢東主義派]](マオイスト)が[[1996年]]に武力闘争を開始。さらに[[2001年]][[6月1日]]には[[ネパール王族殺害事件]]が発生し、[[ビレンドラ]]国王が殺害されて[[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ギャネンドラ]]国王が即位した。ギャネンドラは専制的な政治スタイルをとって国勢の回復をめざしたが、国民の不満は高まる一方で、国土のかなりの部分をマオイストに征圧される事態となった。[[2006年]]には王制が打倒されて民主化され、マオイストとも和平が成立し、[[2008年]]には正式にネパールは共和国となった。
== 経済活動と登山 ==
[[File:Trekkers in the Everest region.jpg|thumb|250px|ネパールのエベレスト街道を[[トレッキング]]中の[[観光客]]]]
===農業===
ヒマラヤは急峻な山岳地帯であり農業にあまり適した土地ではないが、北麓のチベット側では[[ヤク]]などの[[牧畜]]や[[オオムギ]]の栽培などが行われている。また、ヒマラヤ南麓、特にネパールやブータンにおいては[[モンスーン]]期に増水しすべてのものが押し流される河谷を避け、山腹の斜面に[[段々畑]]を作って農耕を行っている。
===水力発電と利水===
ヒマラヤから流れ下る川は氷河を水源とする豊富な水量を持ち、険しい地形のため落差が激しく、[[水力発電]]の膨大な潜在能力を持っている。源流の多くが存在するネパール・ブータン両国において水力発電の開発が盛んに行われ、特にブータンでは電力が主要な輸出品となっている<ref>「ビジュアル・データ・アトラス」p541 同朋舎出版 1995年4月26日初版第1刷</ref>。2013年度のブータンの水力発電量は150万キロワットに及び、大型の[[原子力発電所]]1基分に相当するが、この数字はブータンの潜在水力発電量のわずか5%に過ぎず、ブータン政府はさらなる積極的な発電計画を推し進めている<ref>{{cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2954758|title=水力発電はブータンの「白色金」、2020年までにGDPの5割を目指す|publisher=AFP|date=2013年07月08日|accessdate=2014年12月29日}}</ref>。インドにおいても、2006年には[[ガンジス川]]上流にある[[リシケーシュ]]のさらに上流(バギーラティー川)に、2,400メガワットの発電量を得る目的などで[[:en:Tehri Dam|テーリ・ダム]]が完成し、首都[[デリー]]の主要な水源となっている<ref>「ヒマラヤ世界」pp138-139 向一陽 中公新書 2009年10月25日発行</ref>。ヒマラヤからの河川でもっとも早く開発が進められたのはインダス川であり、パキスタン側には[[:en:Tarbela Dam|タルベーラー・ダム]]や[[:en:Mangla Dam|マングラー・ダム]]といった巨大ダムがヒマラヤ山脈西部に建設され、[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]への灌漑用水を確保してこの地方を穀倉地帯とする一方、発電も行われている。また、ヒマラヤから流れ下る川の水源であるチベット高原を領有する中国もチベット開発を進める中でヤルンツァンポ川([[ブラマプトラ川]])の開発を進めており、2014年11月23日にはヤルンツァンポ川の本流にチベット初の大型水力発電所である{{仮リンク|蔵木水力発電所|en|Zangmu Hydropower Station}}を建設した<ref>http://j.people.com.cn/n/2014/1124/c95952-8813117.html 「チベット初の大型水力発電所、正式に稼働開始」人民網日本語版 2014年11月24日 2014年12月29日閲覧</ref>。このダム建設に対して、ブラマプトラ川の水を生命線とするインドの[[アッサム]]・[[ベンガル]]地方では強い懸念を示している<ref>{{cite news|title=チベット自治区最大の水力発電所が稼働開始、中国 |newspaper=[[AFPBB]]|date=2014-11-25|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3032619 |accessdate=2019-07-27}}</ref>。
===観光と登山===
近年では、世界最高峰エベレストに年間数百人が登頂するなど、ヒマラヤ各峰への[[登山]]が盛んとなっている。特に8,000メートル級の高峰が集中するネパールでは、登山や麓から山々を眺める観光が一大産業となっている。登山客が支払う入山料はネパール政府の貴重な収入源となっているが、この収入が地元住民たちにきちんと還元されていないとして不満も根強い。2014年2月には、ネパール政府はより多くの登山客の誘致を目的として入山料の大幅値下げを行った<ref>{{cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3009742|title=エベレスト登山者にごみ収集を義務化へ、ネパール|publisher=AFPBB|date=2014年03月04日|accessdate=2014年12月29日}}</ref>。また最近、山脈中の[[トレッキング]]も盛んで、[[大ヒマラヤトレイル]]と称するトレッキング・ルートも徐々にではあるが整備されてきている。
ネパール政府は2014年、新たに104座の山への登山を解禁した<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASKC64VHBKC6UTQP023.html 「情報も写真も無し、ヒマラヤ未踏峰に世界初登頂 早大隊」]『朝日新聞』朝刊2017年11月8日(スポーツ面)</ref>。一方でヒマラヤ山脈とその周辺には、急峻さや厳しい天候で登頂に成功していない[[未踏峰]]や、宗教・政治上の理由で登山が禁止されている山々も存在する。後者の例としては、ネパールでは[[マチャプチャレ]]、ブータンでは[[ガンカー・プンスム]]が知られている。
== 宗教 ==
[[Image:Pass i n Ladakh.jpg|thumb|right|250px|[[ラダック]]の峠にある典型的な[[タルチョ]]と[[ストゥーパ]]]]
[[Image:Taktshang.jpg|250px|thumb|[[タクツァン僧院]]。「虎の巣」との異名でも知られている]]
[[ヒンドゥー教]]においては、ヒマラヤはヒマヴァット神として神格化されており、雪の神として[[マハーバーラタ]]にも記載されている。彼はガンガーとサラスヴァティーの2人の河の女神の父であり、また[[シヴァ]]神の妻である[[パールヴァティー]]も彼の娘である<ref>{{cite book|title=Dictionary of Hindu Lore and Legend|isbn=0-500-51088-1|first=Anna|last=Dallapiccola|year=2002}}</ref>。
ヒマラヤの各地には、ヒンドゥー教、[[ジャイナ教]]、[[シーク教]]、[[仏教]]、[[イスラーム教]]の施設が点在している。著名な宗教施設としては、ブータンに初めて仏教をもたらした[[パドマサンバヴァ]]によって建設された僧院とされている[[パロ (ブータン)|パロ]]の[[タクツァン僧院]]などがある<ref name="Pommaret">{{cite book|author=Pommaret, Francoise|title=Bhutan Himlayan Mountains Kingdom|edition=5th|publisher=Odyssey Books and Guides|year=2006|pages=136–7|isbn=978-9622178106}}</ref>。
[[チベット仏教]]の僧院の多くは、[[ダライ・ラマ]]の本拠を含むヒマラヤに位置している。チベットにはかつて6,000以上の僧院があった<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7307495.stm|title=Tibetan monks: A controlled life|publisher=BBC News|date=March 20, 2008}}</ref>。[[チベット人]]の[[イスラーム教徒]]もおり、[[ラサ市|ラサ]]と[[サムドゥプツェ区|シガツェ]]には[[モスク]]が建設されている<ref>{{cite news|url=http://english.peopledaily.com.cn/200510/27/eng20051027_217176.html|title=Mosques in Lhasa, Tibet|newspaper=People's Daily Online|date=October 27, 2005}}</ref>。
== ヒマラヤ山脈に関連した作品 ==
=== 映画 ===
*白き氷河の果てに ([[1978年]]、日本映画)
*[[ゴールデン・チャイルド]] ''The Golden Child''([[1986年]]、アメリカ映画)
*[[クンドゥン]] ''Kundun''([[1997年]]、アメリカ映画)
*[[セブン・イヤーズ・イン・チベット]] ''Seven Years in Tibet''(1997年、アメリカ映画)
*[[レッド・マウンテン]] ''LOC-Kargil''([[2003年]]、インド映画)
*[[きっと、うまくいく]] ''3 Idiots''([[2009年]]、インド映画)
*[[2012 (映画)|2012]] (2009年、アメリカ映画)
*[[ヒマラヤ〜地上8,000メートルの絆〜]]([[2016年]]、韓国映画)
*[[神々の山嶺|エヴェレスト 神々の山嶺]]([[2016年]]、日本映画)
=== 書籍 ===
*ブランシュ・クリスティーヌ・オルシャーク、アンドレアス・ゲルシュケ、アウグスト・ガンサー、 エミール・M・ビューラー著『ヒマラヤ - 自然・神秘・人間』(日本テレビ放送網、1989年、ISBN 4-8203-8843-6)
<!-- 特筆すべき一冊かどうかは疑問ですが、いちおう書式修正して残しておきます。 -->
=== ゲーム ===
*[[Far Cry 4]]([[2014年]]、[[ユービーアイソフト]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
<!-- 英語版[[:en:Himalayas]]を一部翻訳、参考。-->
== 関連項目 ==
{{commons&cat|Himalayas|Himalaya}}
{{ウィキプロジェクトリンク|山|[[ファイル:ロゴ_山.JPG|34px]]}}
*[[地球物理学]]
*[[山脈]]
*[[プレートテクトニクス]]
*[[プルームテクトニクス]]
*[[チベット]]
*[[ネパール]]
*[[ブータン]]
*[[ラダック]]
*[[ザンスカール]]
*[[チベット仏教|チベット仏教(ラマ教)]]
*[[8000m峰]]
*[[世界の山一覧 (高さ順)]]
*[[七大陸最高峰]]
*[[大ヒマラヤトレイル]]
== 外部リンク ==
* [https://www.himalaya-japan.net/ ヒマラヤ国際映画祭プロジェクト]
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank|ヒマラヤ[山脈]}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひまらやさんみやく}}
[[Category:ヒマラヤ山脈|*]]
[[Category:アジアの山地]]
[[Category:中国の山脈]]
[[Category:インドの山脈]]
[[Category:パキスタンの地形]]
[[Category:ネパールの地形]]
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三ノ輪橋停留場
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三ノ輪橋停留場(みのわばしていりゅうじょう)は、東京都荒川区南千住一丁目にある東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の停留場。駅番号はSA 01。
都電荒川線の始発停留場であり、停留場位置は日光街道(国道4号)の西側やや奥にある。関東の駅百選認定駅の一つ。
現在の停留場の歴史は以下の通りであるが、現在の停留場に先立って1911年(明治44年)に当時の東京鉄道によって日光街道上に三輪橋(三ノ輪橋)停留場が設けられた。これらは後に東京市電(→東京都電車)三ノ輪線となり、王子電気軌道が東京市電に統合され三河島線(後に荒川線)となった後は、場所が離れた2つの都電乗降場が存在する形態となった(両者の線路は接続されていなかった)。その後、日光街道の路線(21・31系統)が1969年(昭和44年)に廃止され、現在の停留場のみとなった。
なお、かつては近隣に21系統・31系統の運行を担当する三ノ輪電車営業所および車庫が存在したが、こちらも両系統の廃止とともに役目を終え、跡地は都営住宅となっている。
三ノ輪橋の名前は、かつて付近を流れていた石神井用水(音無川)と日光街道の交点に架かっていた橋に由来する。過去には路線図や方向幕で「三輪橋」と表記された例もあったが、現行の案内では「三ノ輪橋」で統一されている。
日光街道から行くとビルの中を通って当停留場に来る形となるが、このビルはかつて王子電気軌道が所有していたビルであり、地元では今でも「王電ビル」と呼ばれることがある。
降車ホームと乗車ホームが別々になっている。降車ホームで乗客を降ろした後、乗車ホームに電車が移動して乗客を乗せて発車する。
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三ノ輪橋停留場(みのわばしていりゅうじょう)は、東京都荒川区南千住一丁目にある東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の停留場。駅番号はSA 01。 都電荒川線の始発停留場であり、停留場位置は日光街道(国道4号)の西側やや奥にある。関東の駅百選認定駅の一つ。
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{{駅情報
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}}
'''三ノ輪橋停留場'''(みのわばしていりゅうじょう)は、[[東京都]][[荒川区]][[南千住]]一丁目にある[[東京都交通局]][[都電荒川線]](東京さくらトラム)の[[路面電車停留場|停留場]]。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''SA 01'''。
都電荒川線の始発停留場であり、停留場位置は[[日光街道]]([[国道4号]])の西側やや奥にある。[[関東の駅百選]]認定駅の一つ。
== 歴史 ==
現在の停留場の歴史は以下の通りであるが、現在の停留場に先立って[[1911年]]([[明治]]44年)に当時の東京鉄道によって日光街道上に三輪橋(三ノ輪橋)停留場が設けられた。これらは後に東京市電(→[[東京都電車]])三ノ輪線となり、[[王子電気軌道]]が東京市電に統合され三河島線(後に荒川線)となった後は、場所が離れた2つの都電乗降場が存在する形態となった(両者の線路は接続されていなかった)。その後、日光街道の路線(21・31系統)が[[1969年]]([[昭和]]44年)に廃止され、現在の停留場のみとなった<ref name="tokyo-np20201009">[https://www.tokyo-np.co.jp/article/60707 幻の停留場求めて 三ノ輪橋近くの「三輪橋」 都電ファンの2人が情報募集] 東京新聞 2020年10月9日</ref>。
なお、かつては近隣に21系統・31系統の運行を担当する三ノ輪電車営業所および車庫が存在したが、こちらも両系統の廃止とともに役目を終え、跡地は都営住宅となっている<ref name="tokyo-np20201009" />。
三ノ輪橋の名前は、かつて付近を流れていた[[石神井用水]](音無川)と日光街道の交点に架かっていた橋に由来する。過去には路線図や方向幕で「三輪橋」と表記された例もあったが、現行の案内では「三ノ輪橋」で統一されている。
日光街道から行くとビルの中を通って当停留場に来る形となるが、このビルはかつて王子電気軌道が所有していたビルであり、地元では今でも「王電ビル」と呼ばれることがある。
* [[1911年]]([[明治]]44年)
** [[4月16日]]:東京鉄道の停留場として開業。当時は終点。
** [[8月1日]]:[[東京市]]の東京鉄道買収に伴い、東京市電三ノ輪線の停留場となる。
* [[1912年]](明治45年)[[12月29日]]:三ノ輪線が千住大橋停留場まで延伸され、途中駅となる。
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月1日]]:王子電気軌道の停留場が開業、東京市電との接続地点となる。
* [[1942年]]([[昭和]]17年)[[2月1日]]:王子電気軌道が東京市に買収され、東京市電三河島線(現・荒川線)となる。
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]]:[[東京都制]]施行に伴い、東京都電車の停留場となる。
* [[1969年]](昭和44年)[[10月26日]]:三ノ輪線廃止。
* [[1978年]](昭和53年):[[ワンマン運転]]に伴う改修工事を実施。これにより、従来対向式ホーム2本だった構造が、1本の線路の両側に乗降を分離したホームを備える形となる。同時にホームのかさ上げを実施。
* [[1997年]]([[平成]]9年):[[関東の駅百選]]に認定。認定理由は「春には見事なバラが咲き揃う都内唯一の都電が走る停留場」。
* [[2007年]](平成19年)[[5月26日]]:[[東京都交通局9000形電車|9000形]]の営業運転開始に合わせて全面リニューアルを行い、レトロ風の外観になる<ref>「[https://web.archive.org/web/20070315204417/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/toden/2007/tdn_p_200702222_h.html 都電三ノ輪橋停留場をリニューアルします。]」東京都交通局、2007年2月22日(インターネットアーカイブ)。</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[10月21日]]:停留場近くに都交通局が案内所「三ノ輪橋おもいで館」を開設<ref>{{Cite news|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/toden/2018/tdn_p_201809278208_h.html|title=東京さくらトラム(都電荒川線)三ノ輪橋停留場からすぐ!都営交通案内所「三ノ輪橋おもいで館」オープン!~平成30年10月21日(日)~!|work=|publisher=東京都交通局|date=2018年9月27日|accessdate=2018年10月21日}}</ref>。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Minowabashi-Station-2005-10-24_1.jpg|リニューアル以前の停留場(2005年10月)
Minowabashi-Station-2005-10-24_2.jpg|リニューアル以前の乗車ホーム(2005年10月)
</gallery>
== 停留場構造 ==
[[ファイル:三之輪橋停留場.jpg|thumb|リニューアル後の停留場(2017年5月)]]
降車ホームと乗車ホームが別々になっている。降車ホームで乗客を降ろした後、乗車ホームに電車が移動して乗客を乗せて発車する。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" frame="hsides" rules="rows"
!乗車ホーム!!路線!!方向!!行先
|-
!南側
| rowspan="2" |[[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] 都電荒川線<br />(東京さくらトラム)
| style="text-align:center" |下り
|[[町屋駅#東京都交通局|町屋駅前]]・[[荒川遊園地前停留場|荒川遊園地前]]・[[早稲田停留場|早稲田]]方面
|-
!北側
| style="text-align:center" | -
|降車専用
|}
== 停留場周辺 ==
* [[東京メトロ日比谷線]][[三ノ輪駅]] - 徒歩3分程度。都電では乗換駅として案内されているが、[[東京地下鉄]]は正式な乗換案内としていない。
* [[浄閑寺]]
* [[南千住砂場]]
* [[三河島]]
* [[千束]]([[吉原 (東京都)|吉原]])
* [[山谷 (東京都)|山谷]]
== バス路線 ==
*三ノ輪橋
**[[都営バス]]
***<草43> [[都営バス千住営業所|千住車庫前]]・足立区役所
***<草43> [[浅草駅|浅草雷門]](千束・[[田原町駅 (東京都)|浅草寿町]]経由、平日のみ)
***<草43> 浅草寿町(千束経由、土曜・休日のみ)
== 隣の停留場 ==
; 東京都交通局
: [[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] 都電荒川線(東京さくらトラム)
:: '''三ノ輪橋停留場 (SA 01)''' - [[荒川一中前停留場]] (SA 02)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!-- === 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 === -->
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/toden/stations/minowabashi/ 三ノ輪橋停留場 | 都電 | 東京都交通局]
{{都電荒川線}}
{{関東の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:みのわはし}}
[[Category:荒川区の鉄道駅]]
[[Category:南千住]]
[[Category:日本の鉄道駅 み|のわはし]]
[[Category:都電の鉄道駅]]
[[Category:1913年開業の鉄道駅]]
|
2003-08-16T23:56:06Z
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13,356 |
三ノ輪駅
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三ノ輪駅(みのわえき)は、東京都台東区三ノ輪二丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)日比谷線の駅である。駅番号はH 20。台東区最北端の駅である。
過去に銀座線が浅草駅から当駅まで延伸する構想があり、同区間のルートについて都市計画決定が行われているが、運輸政策審議会答申における延伸構想は1985年に削除されている。
相対式ホーム2面2線を有する地下駅。南千住側はトンネル坑口が近距離(駅中心位置からトンネル坑口までは253 m)にあるため、冬場のホーム気温は外気温とほぼ変わらない。
1991年にホームの壁や床などの改装工事を行ってから30年が経過し、通路などの老朽化が著しくなっている。3番出入口は2011年にリニューアルされた。
バリアフリー設備として、北側改札口に車椅子専用の昇降機および南側改札口と各ホームを連絡するエレベーターが設置されている。
入谷寄りの1a・1b番出入口は中目黒方面ホーム、2番出入口は北千住方面ホームへの改札口のみ接続している。そのため、反対側のホームに移動するためには、改札内ではホームの南千住寄りにある3番出入口に接続する改札口への階段を迂回するか、改札外では中目黒寄りの地上部にある歩道橋を渡る必要がある。
1a・1b番出入口側の改札口と地上との間にはエレベーターが設置されている。地上部は駅前のマンションに直結している。2番出入口側の改札口と地上との間を結ぶエレベーターも設置工事が終了し2012年6月30日より使用できるようになった。
(出典:東京メトロ:構内図)
2020年2月7日よりスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。
曲は1番線が「タイムマシン」(大和優子作曲)、2番線が「星まつり」(福嶋尚哉作曲)である。
2022年度の1日平均乗降人員は39,685人で、東京メトロ全130駅中79位。11月の酉の市がある日は、鷲神社への参拝客で中目黒寄り改札が混雑する。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。
3番出口前は交差点(大関横丁)になっており、付近にはJR常磐線の高架がある。周辺は商店街やスーパーマーケットが立地し、2000年代以降はマンションなどの建設も盛んである。
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三ノ輪駅(みのわえき)は、東京都台東区三ノ輪二丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)日比谷線の駅である。駅番号はH 20。台東区最北端の駅である。
|
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{{駅情報
|社色 = #109ed4
|駅名 = 三ノ輪駅
|画像 = Minowa-station-building-Exit3.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 3番出入口(2019年5月)
|よみがな = みのわ
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|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
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}}上は三ノ輪橋停留場
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|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />39,685
|統計年度 = 2022年
|所属路線 = {{color|#b5b5ac|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]
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|電報略号 = ミワ
|起点駅 = [[北千住駅|北千住]]
|乗換 =
|備考 =
}}
'''三ノ輪駅'''(みのわえき)は、[[東京都]][[台東区]][[三ノ輪]]二丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''H 20'''<ref group="注釈">[[2020年]][[6月6日]]の[[虎ノ門ヒルズ駅]]開業に伴い、駅番号を「'''H 19'''」から「'''H 20'''」へ変更。</ref>。台東区最北端の駅である。
== 歴史 ==
過去に[[東京メトロ銀座線|銀座線]]が[[浅草駅]]から当駅まで延伸する構想があり、同区間のルートについて[[都市計画]]決定が行われている<ref>[http://www.city.taito.tokyo.jp/tosizukuri/tosikeikaku/tokeizu-n/minowa12.htm 台東区三ノ輪の都市計画図] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100904161147/http://www.city.taito.tokyo.jp/tosizukuri/tosikeikaku/tokeizu-n/minowa12.htm |date=2010年9月4日 }}</ref>が、運輸政策審議会答申における延伸構想は[[1985年]]に削除されている。
=== 年表 ===
* [[1961年]]([[昭和]]36年)[[3月28日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)日比谷線の駅として開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709092642/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|title=東京メトロニュースレター第78号 >「日比谷線の歩み」編|archivedate=2020-07-09|date=2020-06-02|page=2|accessdate=2020-07-09|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
* [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月7日]]:[[発車メロディ]]を導入<ref name="Train-melody"/>。
== 駅構造 ==
[[File:Hibiyasen_Minowa_eki_1.jpg|thumb|200px|3番出入口(2003年)]]
[[File:MinowaStation-platforms-train-Aug13-2015.jpg|thumb|200px|2番ホーム(2015年)]]
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]。南千住側は[[トンネル]]坑口が近距離(駅中心位置からトンネル坑口までは253 [[メートル|m]]{{Refnest|group="注釈"|「別図 日比谷線線路平面図および縦断面図(北千住・仲御徒町間)」では「南千住→三ノ輪の坑口は955 M」と書かれている<ref name="Hibiya-Const254-255">{{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hibiya.html/|date=1969-01-01|title=東京地下鉄道日比谷線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|pages=254 - 255}}</ref>。すなわち、南千住駅 - 三ノ輪駅間の距離は788 mで、南千住駅中心からトンネル坑口までの地上区間は535 m、坑口から三ノ輪駅(駅中心)までの地下区間は253 mである。}})にあるため、冬場のホーム[[気温]]は外気温とほぼ変わらない。
[[1991年]]にホームの壁や床などの改装工事を行ってから30年が経過し、通路などの老朽化が著しくなっている。3番出入口は[[2011年]]にリニューアルされた。
[[バリアフリー]]設備として、北側[[改札|改札口]]に[[車椅子]]専用の昇降機および南側改札口と各ホームを連絡する[[エレベーター]]が設置されている。
入谷寄りの1a・1b番出入口は中目黒方面ホーム、2番出入口は北千住方面ホームへの改札口のみ接続している。そのため、反対側のホームに移動するためには、改札内ではホームの南千住寄りにある3番出入口に接続する改札口への[[階段]]を迂回するか、改札外では中目黒寄りの地上部にある[[横断歩道橋|歩道橋]]を渡る必要がある。
1a・1b番出入口側の改札口と地上との間にはエレベーターが設置されている。地上部は駅前の[[マンション]]に直結している。2番出入口側の改札口と地上との間を結ぶエレベーターも設置工事が終了し[[2012年]][[6月30日]]より使用できるようになった。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!行先
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線
|[[中目黒駅|中目黒]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/minowa/timetable/hibiya/a/index.html |title=三ノ輪駅時刻表 中目黒方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|-
!2
|[[北千住駅|北千住]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/minowa/timetable/hibiya/b/index.html |title=三ノ輪駅時刻表 北千住・南栗橋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/minowa/index.html 東京メトロ:構内図])
=== 発車メロディ ===
2020年2月7日より[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の[[発車メロディ]](発車サイン音)を使用している<ref name="Train-melody"/>。
曲は1番線が「タイムマシン」(大和優子作曲)、2番線が「星まつり」([[福嶋尚哉]]作曲)である<ref name="Train-melody">{{Cite web|和書|title=東京メトロ日比谷線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/505|date=2020-02-07|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2020-02-07|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''39,685人'''で<ref>[https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html 東京メトロ 各駅の乗降人員ランキング]</ref>、東京メトロ全130駅中79位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。11月の[[酉の市]]がある日は、[[鷲神社 (台東区)|鷲神社]]への参拝客で中目黒寄り改札が混雑する。
近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| ||18,858
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| ||18,642
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| ||18,523
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| ||18,170
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| ||17,622
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| ||17,374
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| ||17,068
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| ||16,822
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
| ||16,781
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
| ||16,473
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|32,186||16,359
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|32,317||16,430
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|32,574||16,510
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|32,646||16,546
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|34,019||16,485
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|34,765||16,759
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|35,245||17,145
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|35,929||17,661
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|2020年(令和{{0}}2年)
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|2021年(令和{{0}}3年)
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== 駅周辺 ==
{{Main|三ノ輪|根岸 (台東区)|竜泉 (台東区)|下谷|千束|日本堤|東日暮里|南千住}}
3番出口前は[[交差点]](大関横丁)になっており、付近にはJR[[常磐線]]の[[高架橋|高架]]がある。周辺は[[商店街]]や[[スーパーマーケット]]が立地し、[[2000年代]]以降はマンションなどの建設も盛んである。
* [[下谷警察署|警視庁下谷警察署]]
* 台東区三ノ輪福祉センター
* 台東区立根岸図書館
** 台東区根岸社会教育館
* 台東区金杉区民館下谷分館
* [[一葉記念館]]
* [[東京都台東区立台東病院]] - 徒歩10分
* [[浄閑寺]]
* [[正宝院 (台東区)|正宝院]](飛不動尊、[[下谷七福神]])
* [[鷲神社 (台東区)|鷲神社]]
* 下谷三郵便局
* 東日暮里二郵便局
* 台東竜泉郵便局
* 台東日本堤郵便局
* [[ヨーク (小売業)|ヨークフーズ]]三ノ輪店
* [[Olympicグループ|オリンピック]]三ノ輪店
* 大関横丁交差点
*: [[国道4号]]と[[明治通り (東京都)|明治通り]]が交差し、[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]の終点かつ(道路名称としての)[[日光街道#東京都通称道路名|日光街道]]の起点。
* [[都電荒川線]](東京さくらトラム) [[三ノ輪橋停留場]] - 徒歩3分程度。ただし、一部の[[東京メトロ13000系電車|13000系]]車内における紙面路線図では乗換駅とされているものの、東京メトロは正式な乗換駅とはしていない(都電側では行っている)。
* [[山谷 (東京都)|山谷]] - 徒歩10分
* [[吉原 (東京都)|吉原]] - 徒歩10分
== バス路線 ==
; 三ノ輪駅前(めぐりんは「三ノ輪駅」)
* [[都営バス]]
** [[都営バス千住営業所#草43系統|草43]]:浅草雷門行(平日)・[[田原町駅 (東京都)|浅草寿町]]行(土曜・休日) / [[千住大橋]]経由 [[足立区役所]]行・千住車庫前(旧道側)行
** [[都営バス巣鴨営業所#草63・草64系統|草63]]:浅草寿町行 / [[西日暮里駅]]・[[巣鴨駅]]経由 [[池袋駅]]東口行
* [[めぐりん (台東区)|台東区循環バス「めぐりん」]]
** 北めぐりん(浅草回り):浅草警察署前・[[浅草駅]](循環)
** 北めぐりん(根岸回り):竜泉一丁目・下谷三丁目・[[鶯谷駅]]北・生涯学習センター北(循環)
** ぐるーりめぐりん:吉原大門・清川一丁目・浅草駅・[[田原町駅 (東京都)|田原町駅]]・[[蔵前駅|大江戸線蔵前駅]]・[[鳥越神社|鳥越神社前]]・[[新御徒町駅]]・台東区役所・[[上野駅|上野駅入谷口]](循環)
; 大関横丁
* 都営バス
** [[都営バス南千住営業所#里22系統|里22]]:[[三河島駅]]経由 [[日暮里駅]]行 / [[亀戸駅]]行・[[都営バス南千住営業所|南千住車庫]]行
** 草63:千束・浅草公園六区経由 浅草寿町行 / 西日暮里駅・巣鴨駅・[[高岩寺|とげぬき地蔵前]]経由 池袋駅東口行
** [[都営バス巣鴨営業所#草63・草64系統|草64]]:吉原大門・東武浅草駅経由 浅草雷門南行 / [[尾久駅]]・[[王子駅]]経由 池袋駅東口行・とげぬき地蔵前行<本数少ない>
== 隣の駅 ==
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線
:: [[入谷駅 (東京都)|入谷駅]] (H 19) - '''三ノ輪駅 (H 20)''' - [[南千住駅]] (H 21)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Minowa Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[地下鉄に乗って]] - 一節に当駅が登場している。
== 外部リンク ==
* [https://www.tokyometro.jp/station/minowa/index.html 三ノ輪駅/H20 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
{{東京メトロ日比谷線}}
{{DEFAULTSORT:みのわ}}
[[Category:台東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 み|のわ]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:1961年開業の鉄道駅]]
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東武伊勢崎線
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伊勢崎線(いせさきせん)は、東京都台東区の浅草駅から群馬県伊勢崎市の伊勢崎駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線である。また、押上駅から曳舟駅の区間も伊勢崎線の一部である。浅草駅 - 東武動物公園駅間及び押上駅 - 曳舟駅間には「東武スカイツリーライン」(TOBU SKYTREE Line)という路線愛称名が付けられている。駅ナンバリングの路線記号は浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間がTS、東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間がTI。
東武鉄道として最初に開業した北千住駅 - 久喜駅間を含む創業路線であり、東京の下町にある浅草駅から埼玉県の東部地域と利根地域を経て群馬県・栃木県の両毛地域を結ぶ。東武日光線や野田線(東武アーバンパークライン)などを含めて東武本線(路線群)を構成する路線の一つで、東武日光線や東上線とともに東武鉄道の主要幹線である。路線延長は114.5 kmで、JRや第三セクター鉄道を除く日本の私鉄の路線の中では最も長い。2012年には業平橋駅の貨物ターミナル跡地に東京スカイツリー及びそれを中核とする東京スカイツリータウンが開業し、それに伴い業平橋駅はとうきょうスカイツリー駅に駅名を変更した。路線愛称の「東武スカイツリーライン」は東武グループのシンボルである東京スカイツリー及び東京スカイツリータウンにつながる路線であることに由来する。
久喜駅以南は東京近郊の通勤・通学路線としての側面を有する一方で、東京都を起点とする関東大手私鉄の幹線・本線では唯一JR山手線との接続駅を持たず、起点の浅草駅は構造上の理由で7両編成以上の入線に制約があり、ターミナル駅としての機能が弱い。そのため北千住駅から東京メトロ日比谷線(7両編成)、押上駅から東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線(10両編成)との相互直通運転を行うことで、都心部への利便性と輸送力を確保している。そういった経緯から浅草駅に代わって多数の路線が結節する北千住駅が実質的なターミナル駅として機能しており、1日平均乗降人員は東武鉄道の駅でも東上線の池袋駅に次いで多い。北千住駅から北越谷駅までの複々線区間 (18.9km) は日本の私鉄最長である。
また、東武動物公園駅で日光線が分岐し、「けごん」・「きぬ」を始めとした日光・鬼怒川温泉方面に直通する特急列車が浅草駅から発着しており、観光路線としての側面も有する。東京 - 日光間の輸送においては、かつては国鉄(現・JR東日本)の東北本線(JR宇都宮線)・日光線と競合関係にあったが、現在は東武が完全に優位な状況にあり、JR新宿駅・池袋駅から途中で東武線に直通して東武日光駅に至る特急「日光」・「(スペーシア)きぬがわ」の設定など、日光・鬼怒川温泉方面の輸送において両社は協力関係にある。
一方で、輸送人員が少ない両毛地域は一部の駅が無人駅であり、末端区間はローカル線としての側面も有する。このため、合理化の一環として特急を除く全列車が館林駅で系統分離されており、館林駅以北の全ての一般列車でワンマン運転が実施されている。2006年のダイヤ改正以降、浅草駅 - 伊勢崎駅間の全線を直通する列車は特急「りょうもう」の1往復のみであり、大半の特急「りょうもう」は太田駅から桐生線に直通する。
ラインカラーは、東武スカイツリーライン区間が青、東武動物公園駅以北が赤となっている。各駅の駅名標には浅草駅 - 東武動物公園駅間がオレンジと青(■■;東武スカイツリーラインのラインカラー)、東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間が赤と黒(■■;伊勢崎線ラインカラー)が使われている。押上駅は東京地下鉄(東京メトロ)の管理駅のため、東武鉄道のラインカラーは駅番号のシンボルマークにとどまっている。
前述の通り、東京メトロ日比谷線及び東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線と相互直通運転を行うことで、都心直通による利便性の向上と長編成による輸送力の確保を実現している。
当路線は1899年(明治32年)に北千住駅 - 久喜間駅を開業したことに端を発する。開業当初は、2時間間隔で1日7往復の旅客・貨物混合列車の運転だった。その後も北へ路線を延伸し、1903年(明治36年)に利根川の右岸に位置していた川俣駅(足利町駅への延伸時に左岸に移転)まで開業したが、この当時、東武鉄道は経営難に陥っていた。その後、1905年(明治38年)に根津嘉一郎が東武鉄道の社長に就任した後は、彼の経営手腕によって利根川を架橋することが断行され、1907年(明治40年)に足利町駅(現・足利市駅)まで開業した。これ以降は貨物輸送によって経営難から逃れ、1910年(明治43年)に伊勢崎駅までの全線開業に辿り着いた。
その一方、都心側のターミナル駅選定には難航する。1902年(明治35年)に北千住駅から吾妻橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)へ延伸開業したものの、亀戸線が開業して総武鉄道両国橋駅(現・両国駅)への乗り入れを果たした1904年(明治37年)に曳舟駅 - 吾妻橋駅間を廃止した。これによって一時は両国橋駅がターミナル駅となったが、1907年(明治40年)に総武鉄道が国有化されると状況は急変し、東武鉄道は自社のターミナル駅を保有することを迫られた。そこで、廃止していた曳舟駅 - 吾妻橋駅間を1908年(明治41年)に再開業し、1910年(明治43年)に吾妻橋駅を浅草駅に改称した。これが、伊勢崎線の駅で初めての駅名改称となる。
大正に入ると、輸送量の増加により都心側の随所で複線化及び電化が行われた。1912年(明治45年)に浅草駅 - 鐘ヶ淵駅間が複線化されたのを皮切りに、1920年(大正9年)に東京市内の全区間が、1922年(大正11年)に当初開業区間である北千住駅 - 久喜駅間が複線化された。1924年(大正13年)に浅草駅 - 西新井駅間が電化されたことを機に、東武鉄道初の電車としてデハ1形が製造、運行された。
1923年(大正12年)には荒川放水路の工事により、鐘ヶ淵駅 - 西新井駅間の線形が変更された。この線形変更に際し、北千住駅 - 西新井駅間は開業当初のルートよりも北方に線形を取り、現在の小菅・五反野・梅島の各駅を経由するようになり、北千住駅 - 小菅駅間で架橋することとなった。鐘ヶ淵駅 - 堀切駅間は放水路の右岸に沿った直線的な経路となったものの、両駅の構内で急カーブを生じるようになった。なお、鐘ヶ淵付近の旧線は荒川の中となっているため痕跡は残っていないが、西新井駅付近は西新井工場の構内線路に流用され、小菅駅付近 - 西新井駅の旧線は大部分が道路(現在の梅田通り・亀田トレイン通りなど)に、一部は住宅地等に転用された。そのため、足立区梅田七丁目の梅田通り終点(梅島駅の南方)には「東武鉄道旧線路跡」の碑がある。
昭和に入ると、当時としては東京一の繁華街であった浅草への乗り入れで京成電気軌道(現・京成電鉄)と競合し、激しく争った。その結果、京成は1928年に京成電車疑獄事件が起きて乗り入れを断念し、当路線が1931年(昭和6年)に浅草雷門駅(現・浅草駅)への乗り入れを果たした。開業年度における一日平均乗車人員は10,255人であり、東武鉄道で最も乗車人員が多い駅となった。
しかし、第二次世界大戦後の復興によって山手線のターミナル駅に都市機能の拠点が形成されると、山手線と接続しない当路線は沿線開発で不利な状況に追い込まれた。1955年(昭和30年)頃に北千住から新橋や東京八重洲を結ぶ地下鉄道建設を運輸省(現・国土交通省)へ数回に渡り出願したが、全て却下された。
このような状況の下、当路線は1962年(昭和37年)に北千住駅を介して営団地下鉄日比谷線(現・東京メトロ日比谷線)との直通運転を開始した。東京の地下鉄と郊外電車で直通運転を開始したのは、京成押上線と都営地下鉄浅草線の直通運転に次いで2例目であった。日比谷線との直通運転により北千住駅 - 浅草駅間の通過人員が減少し、一時的な減収は避けられなかったものの、それを上回る勢いで沿線開発が進んだことにより輸送人員が瞬く間に増加していった。マンモス団地と謳われた草加松原団地や武里団地などの入居が開始されたのも、当路線が日比谷線との直通運転を果たした直後である。1966年(昭和41年)には乗り入れ区間が北春日部駅まで延長され、日比谷線直通列車が6両編成になった。さらに1981年(昭和56年)には東武動物公園駅まで延長され、同年に開園した東武動物公園の宣伝にも一役買った。
沿線開発が進むにつれてラッシュ時は激しく混雑するようになり、特に北千住駅では準急列車と日比谷線との乗換客の列でホームが埋め尽くされる事もあった。1969年(昭和44年)度の秋季交通量調査では、朝ラッシュの最混雑区間である小菅駅 → 北千住駅間の混雑率は248%を記録し、当該年度では大手私鉄の路線で最高値を計上した。輸送量を増強すべく、1971年(昭和46年)には日比谷線直通列車が8両編成になり、1972年(昭和47年)には地上車の8両編成が営業運転を開始したものの、これ以上の長編成化は浅草駅の制約により困難であった。当時の朝ラッシュ時の上りダイヤはせんげん台駅から北千住駅が平行ダイヤで、増発の余地もなかった。10両編成の列車が営業運転を開始したのは1986年(昭和61年)であるが、これは東武鉄道の主要幹線の一つである東上本線と比較しても10年ほど遅い時期である。
そこで運転本数の増加に努めるべく、関東私鉄初の複々線化が事業化(建設主体は日本鉄道建設公団)され、1974年(昭和49年)に北千住駅 - 竹ノ塚駅間で竣工し、供用を開始した。同区間ではラッシュ時の本数が大幅に増加しただけでなく、準急のスピードアップにも貢献した。複々線化は1988年(昭和63年)に草加駅まで延ばされ、その際に実施されたダイヤ改正で日中の準急が毎時4本から毎時6本に増発された。
平成に入ると、それまで増加傾向にあった輸送人員がピークを迎えたが、ラッシュ時の北千住駅は乗換客により混雑を極め、依然として危険な状態が続いていた。そこで北千住駅での乗換客を減らすべく、1988年(昭和63年)に浅草う回乗車制度が、1990年(平成2年)に押上う回乗車制度が導入された。これにより、北千住駅を経由する定期券を所持していれば、浅草駅・業平橋駅を経由しても都心に行き来出来るようになった。押上う回乗車制度が導入された時に行われたダイヤ改正に合わせて、業平橋駅に10両編成が入線出来る地上ホームが新設された。
朝ラッシュ時の混雑率は190%程度で推移する状況が続き、更なる輸送力の増加と北千住駅の抜本的改造が求められた。これが一段落したのが1997年(平成9年)であり、北千住駅の立体化と越谷駅までの複々線化が完工し、私鉄最長の複々線を持つ路線となった。複々線は2001年(平成13年)に北越谷駅まで延ばされ、その距離は18.9kmに及ぶ。これらの事業は特定都市鉄道整備事業計画に認定されたもので、総事業費は840億円であった。複々線が完成した2001年のダイヤ改正では、朝ラッシュ時における竹ノ塚駅 - 北千住駅間の上り列車で毎時45本が運行されるようになった。この一路線の一時間あたりの運行本数は関東私鉄において最大であった。
また、2003年(平成15年)には押上駅を介して営団地下鉄半蔵門線(現・東京メトロ半蔵門線)・東急田園都市線との直通運転を開始し、10両編成の優等列車が初めて都心へ直通するようになった。この直通運転に際して曳舟駅 - 押上駅間が新規に建設されたが、正式には曳舟駅 - 業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)間の複々線化として扱われており、押上駅は業平橋駅と同一駅扱いとしてみなされるようになった。この事業も特定都市鉄道整備事業計画に認定されたもので、総事業費は843億円であった。業平橋駅の地上ホームはこのダイヤ改正で廃止され、跡地に東京スカイツリータウンが建設された。
半蔵門線との直通開始により日中でも10両編成が運転されるようになったが、浅草駅発着の準急を基軸とした従来のダイヤを継承していたため、半蔵門線直通列車は少数に抑えられていた。しかし、2006年(平成18年)のダイヤ改正は種別名変更を伴うほどの大規模な白紙改正となり、半蔵門線直通列車の急行を基軸としたダイヤに刷新した。一方で日中は久喜駅と太田駅で一般列車の運用が分断され、特に太田駅 - 伊勢崎駅間で運用される普通列車は全列車がワンマン運転となり、3両編成に減車された。特急列車は従来のダイヤを継承したが、1日1往復の特急「りょうもう」を除いて浅草駅 - 伊勢崎駅間の直通列車は廃止された。
2013年(平成25年)のダイヤ改正で、東急東横線が東京メトロ副都心線と直通運転を開始したことに伴い、東横線と日比谷線の直通運転が終了となり、日比谷線の車両運用に余裕が生じたため、日比谷線との相互直通区間が日光線南栗橋駅まで延長された。朝ラッシュ時の混雑率も140%程度まで緩和したため、このダイヤ改正で上り区間急行列車の増解結運用が廃止された。また太田駅 - 伊勢崎駅間で運用されるワンマン列車のうち、一部が館林駅まで直通するようになった。
令和に入ると、快適通勤と利便性向上を図るために関東の大手私鉄では座席指定列車が増加した。これまで当路線で運行されていた特急列車はすべて浅草駅発着であり、都心部からは乗り換えを必要としていた。一方で、日比谷線直通列車は当初から普通列車のみの運転であったため、速達性に難点があった。東武鉄道の一般列車は20m車体が標準であるが、日比谷線直通列車は18m車体であったために扉位置が合わず、ホームドアの整備にも支障をきたしていた。
これらの弱点を補うために、2020年(令和2年)のダイヤ改正で日比谷線直通列車として初めての優等列車である「THライナー」を導入した。折しも新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、鉄道の移動需要が全国的に低下している時期での運行開始となった。このダイヤ改正を前に18m級3ドア車のメトロ03系・東武20000系が運用から離脱したため、一般列車はすべて20m級4ドア車に統一され、北越谷駅を皮切りにホームドアが整備されている。
都内区間では高架化事業が進み、西新井駅 - 竹ノ塚駅間の複々線区間に残された2箇所の踏切は2022年(令和4年)に除却された。
大手私鉄の路線で最も長い114.5kmの路線距離を有しており、区間によって沿線状況は大きく異なる。次点の近鉄大阪線(108.9km)が全線複線であるのとは対照的に、伊勢崎線は複々線区間から単線区間まで存在し、区間によって輸送密度が大きく異なる。東京都の浅草駅から群馬県の伊勢崎駅までの全区間が関東平野であり、中でも羽生以南は関東平野のほぼ中央を南北に縦貫することから加須低地・中川低地(中川低地の河畔砂丘群も参照)・東京低地で、駅間で利根川や荒川と始めとする多くの一級河川を渡る。トンネル区間は東京メトロ半蔵門線と直通する押上駅から曳舟駅までの一区間のみである。
東京の下町にある区間で、浅草寺・東京スカイツリーを始めとする有名観光地を通る。戦前の密集市街地が残されており、全体的にカーブが多い区間である。
浅草駅は頭端式ホーム3面4線を有するターミナル駅であり、江戸通りと馬道通りに挟まれた位置にある。関東では初めての百貨店併設のターミナルビルとして開業し、第1回関東の駅百選に選定された。駅舎は隅田川とほぼ平行しているが、ホーム先端で制限速度15km/hの急カーブにかかり、隅田川橋梁を渡る立地の制約により、入線可能な列車は1番線のみ8両編成、その他は6両編成までに限定される。2020年に隅田川橋梁沿いには「すみだリバーウォーク」という名称の遊歩道が整備され、線路横の遊歩道を歩いて隅田川を渡れるようになった。またそれと同時に線路高架下に「東京ミズマチ」と呼ばれる商業施設が開業し、レストランやカフェ・雑貨店・ホテルなどが利用出来る。隅田川の左岸側で隅田公園の南側を通り、北十間川と並行して東に進むととうきょうスカイツリー駅であり、改称前の駅名だった業平橋は駅の南西側に位置する。駅南側にあった貨物ヤードは土地区画整理事業によって東京スカイツリータウンとなった。押上駅の北側で進路を北東に変えると京成押上線と並走し、更に進路を北に変えると東京メトロ半蔵門線押上駅に直通する支線と東武亀戸線がそれぞれ合流し、曳舟駅となる。
明治通りと水戸街道を高架で立体交差すると東向島駅で、高架下に東武博物館がある。改称前の駅名だった玉ノ井は駅の北東側に位置していた。高架を降りながら進路を北東に変えると相対式ホームの内側に通過線を有する鐘ヶ淵駅であるが、駅構内で進路を北東から北西に変えるため、通過列車でも45km/hの速度制限を受ける。荒川の右岸側に並行する直線区間を進み、首都高速6号向島線を地上で立体交差すると堀切駅で、駅の西側に東京未来大学が隣接する。ホーム全体が曲線上にあり見通しが悪く、左カーブとなる下り線に気笛吹鳴標識が設置されている。進路を西に変える途中で川の手通りと京成本線の高架を斜めに立体交差すると牛田駅であり、道路を挟んで南側に位置する京成関屋駅と接続する。駅西側で墨堤通りと僅かに並走し、留置線を挟む形で上下線が離れる。進路を北に変えて大踏切通りを渡ると、常磐線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレスと並走して東京都足立区最大のターミナル駅である北千住駅に至る。伊勢崎線及び本線系統の駅では最も乗降人員が多い駅であり、朝ラッシュ時の最混雑区間も同駅までの上り線となっている。押上・浅草方面の列車は2面4線の地上ホームに(1階)、東京メトロ日比谷線に直通する列車は2面3線の高架ホーム(3階)に発着する。
東武鉄道の路線で最初に開業した区間であり、日光街道と並行して敷設された。日比谷線と半蔵門線の2路線が相互直通運転する区間であり、東京近郊のベッドタウンとして宅地開発が進められている。北千住駅から北越谷駅までの18.9kmは私鉄最長の複々線区間であり、緩急分離による高密度運転と優等列車の高速運転を実現している。
北千住駅の北側で進路を北東に変え、高架ホームからの線路が緩行線に合流する。複々線区間は外側が急行線、内側が緩行線であり、優等列車が停車しない駅は緩行線のみホームが設けられている。荒川放水路橋梁を渡ると首都高速中央環状線と交差し、小菅駅。東側に東京拘置所が近接する。進路を北西に変える途中で常磐線・東京メトロ千代田線・つくばエクスプレスの線路を交差し、直線区間に入ると五反野駅。直線区間のまま日光街道を立体交差すると梅島駅で、上下線のホームが縦に直列する形で設けられている。梅島駅の下り方に緩行線と急行線を連絡する渡り線が設けられており、THライナーはこの先の区間で急行線を走行する。下り急行線から大師線への連絡線が分岐し、地上に降りると西新井駅。伊勢崎線の都内区間では数少ない橋上駅であり、駅構内に大師線大師前駅の改札を有する。駅の北側で環七通りと地上で立体交差すると進路を北に変える。千住検車区竹ノ塚分室を通り過ぎると下り線が高架になり、竹ノ塚分室への車庫線が上り緩行線と並走する。エミエルタワー竹の塚の東側で上り線と車庫線が高架になり、竹ノ塚駅である。同駅は日暮里・舎人ライナーの開業前は特別区で最も北に位置する駅だった。
直線区間を進んで毛長川を渡ると埼玉県に入り、進路を北東に変えて草加バイパスを地上で立体交差する。上下線とも高架区間になると谷塚駅であり、駅構内で進路を北に変える。直線区間を進むと草加駅で、急行線に通過線が設けられている。多数のバス路線が乗り入れており、他路線と接続しない伊勢崎線の単独駅では最も乗降人員が多い駅である。伝右川を渡ると獨協大学前駅で、駅名の由来となった獨協大学は駅の南西側に、副駅名である草加松原は駅の東側に位置する。改称前の駅名だった松原団地は駅の西側に広がっていたが、老朽化に伴い建替事業が行われている。東京外環自動車道と立体交差すると新田駅、綾瀬川を渡ると蒲生駅である。高架が高くなると新越谷駅で、北側で武蔵野線の高架を越える関係でホームは駅ビルの4階にある。東口のロータリーで南越谷駅と接続し、伊勢崎線の駅では北千住駅に次いで乗降人員が多い駅である。高架が低くなると越谷駅で、草加駅と同様で急行線に通過線が設けられている。元荒川を渡ると北越谷駅である。同駅から先は再び複線区間となる。
北越谷駅の留置線を通り過ぎると高架を降りて、草加バイパスを地上で立体交差すると大袋駅。直線区間を進むと待避線を有するせんげん台駅で、終日にわたり急行列車との緩急接続が行われる。新方川を渡ると西側にある武里団地を通り過ぎ、武里駅。一ノ割駅の先まで直線区間が続き、野田線を地上で立体交差すると進路を北西に変えて春日部駅に至る。東武鉄道の基幹路線が交わる3面7線のターミナル駅で、一部のアーバンパークライナーは野田線と直通運転が行われている。改札口が東口と西口に分かれており市街地が分断されているが、駅を含む前後の区間で連続立体交差事業が行われている。再度進路を北に変え、岩槻春日部バイパスと立体交差すると北春日部駅であり、待避線を有する。直線区間となり、東側にある南栗橋車両管区春日部支所を通り過ぎると姫宮駅。姫宮落川を渡り、進路を北西に変えると東武動物公園駅である。東武スカイツリーラインの愛称区間はこの駅までであり、駅名の由来となった東武動物公園は駅の南西側に位置する。駅の所在地は宮代町であり、改称前の駅名だった杉戸は大落古利根川の対岸にある杉戸町にちなむ。
日光線と分岐した後は住宅街が駅間で途切れ、車窓からは田園地帯が広がる。大落古利根川と並走して直線区間を進むと和戸駅。首都圏中央連絡自動車道を地上で立体交差し、進路を北に変えると東北新幹線と立体交差し、宇都宮線と並走して久喜駅に至る。半蔵門線直通列車が乗り入れる終着駅であり、日中の運行系統も特急列車を除いて久喜駅を境に分断されている。
郊外に進むにつれてモータリゼーションの進展が著しくなる区間であるが、並行する東武日光線と比較すると各駅の乗降人員が多い。
久喜駅の北側で進路を北西に変え、直線区間を進むと鷲宮駅。らき☆すたの聖地巡礼により初詣の参拝者数が大幅に増加した鷲宮神社は駅の北側に位置する。青毛堀川と並行して田園地帯を抜け、東北自動車道を地上で立体交差すると花崎駅。埼玉県の県営公園の一つである加須はなさき公園は駅の南側に位置する。市街地を直線区間で進むと加須駅。進路を北西に変えて、加須羽生バイパスを地上で立体交差すると南羽生駅であり、この区間の駅間距離は伊勢崎線で最長である。進路を北に変えると羽生駅で、秩父鉄道秩父本線の乗換駅である。
羽生駅の北側で利根川を渡るが、利根川橋梁は単線のトラス橋が並列しており、上り線の橋梁は複線化の時に建設された。利根川の左岸側から群馬県に入るが、その先にある川俣駅は、利根川橋梁の架橋前は利根川の右岸側(埼玉県)に位置していた。直線区間を進むと茂林寺前駅で、駅の東側に分福茶釜の舞台となった茂林寺と花園の東武トレジャーガーデンがある。東毛広域幹線道路を地上で立体交差して南栗橋車両管区館林支所を通り過ぎると館林駅。切欠きホームを有する2面5線のターミナル駅で、佐野線と小泉線の乗換駅である。東口の旧駅舎は洒落た模様の窓がある洋館風の駅舎であり、第2回関東の駅百選に選定された。7両編成以上の列車が乗り入れられるのも館林駅までであり、2013年までは朝ラッシュ時の区間急行で当駅から10両編成に増結し、北千住駅で6両編成に解結する運用が存在した。
単線区間であり、合理化の一環として乗降人員が少ない一部の駅は無人駅となっている。また、すべての普通列車が3両編成のワンマン運転であり、ローカル線の風情が強くなる。工業団地を多数擁する太田市と伊勢崎市の人口は増加傾向であり、乗降人員も増加傾向にある。
館林駅の北側で進路を北東に変えると小泉線が西側に、佐野線が東側に分岐する。国道122号と並行し、多々良駅。矢場川を渡ると栃木県に入り、田園地帯に入る。県駅の周辺は数件の民家を除き田園風景が広がるが、南側に産業団地が造成されている。進路を北に変えると民謡の『八木節』ゆかりの地である八木宿をルーツとする市街地に入り、福居駅。足利バイパスを地上で立体交差すると東武和泉駅で、伊勢崎線の駅では唯一の単式ホームである。渡良瀬川と並走しながら高架区間に入り、進路を北西に変えると足利市駅である。接近メロディとして使用されている『渡良瀬橋』は、西側に実在する同名の橋で見る夕日をモデルに作詞された。進路を南西に変えると野州山辺駅の先で高架を降りる。矢場川を渡り、足利バイパスを地上で立体交差すると再度群馬県に入り、韮川駅の先で国道122号を地上で立体交差する。SUBARU群馬製作所本工場の東側で高架区間となり、進路を西に変えると小泉線と並走し、太田駅に至る。3面6線のターミナル駅であるが、伊勢崎線と桐生線に直通するりょうもう号が到着するホームは北側の2面4線である。高架化当初は太田駅 - 伊勢崎駅間のみ特急列車を除いてワンマン運転を行っており、運行系統も太田駅を境に分断されていた。
太田駅の西側で桐生線と平面交差し、進路を南西に変える。高架を降りると関東学園大学を通り過ぎて、細谷駅。西部工業団地を通り過ぎると木崎駅で、駅の北側にサッポロビール群馬工場が隣接する。東毛広域幹線道路を地上で立体交差すると田園風景が広がり、そのまま上武道路を地上で立体交差すると世良田駅である。駅北側に尾島工業団地が広がるが、伊勢崎線で最も乗降人員が少ない駅である。早川を渡ると市街地に入り、境町駅。進路を北西に変えて、再度東毛広域幹線道路を地上で立体交差し、粕川を渡ると剛志駅である。広瀬川と粕川に挟まれた市街地に入り、群馬県道293号香林羽黒線を高架で立体交差するが、すぐに地上区間になる。国道462号を地上で立体交差すると再度高架区間となり、進路を北に変えると新伊勢崎駅。伊勢崎市の中心市街地が西側に広がり、伊勢崎市役所の最寄り駅である。その中心市街地を囲うような線形で進路を西に変えると両毛線と並走し、終点の伊勢崎駅に至る。
館林駅 - 太田駅間においては、1994年10月に沿線自治体が「東武鉄道複線化促進期成同盟会」を結成し、毎年複線化の要望を行ってきた。2006年9月に東武鉄道は『上毛新聞』の取材に対して、10年間で3割近く利用者が減少しており、複線化は実現の見通しがないことを明らかにした。また、同区間では小泉線経由の方が距離が短いが(伊勢崎線経由は20.1km、小泉線経由の実キロは16.2km)、両駅間を結ぶ直通列車の運行は伊勢崎線経由に限られ、小泉線館林駅 - 東小泉駅 - 太田駅間の営業キロ数も伊勢崎線に合わせる形で割増されている。一方で所要時間は同区間までの前後の列車及び東小泉駅での乗り換え時間によって小泉線経由の方が早い場合もあれば、伊勢崎線経由の方が早い場合もある。
当線で運行される列車及び運行本数は以下の通り。
日中1時間あたりの運行本数は以下の通り(2022年3月12日現在)。
浅草駅発着で北関東各地域とを結ぶ下記の特急列車が運行されている。詳細は各記事を参照。
このうち、「りょうもう」・「リバティりょうもう」は、浅草から東武動物公園以北へ直通する。「りょうもう」の桐生線の赤城駅発着を主とするが、浅草駅 - 伊勢崎駅間全線を運行する列車もある。
このほか、東武宇都宮線直通の「しもつけ」が2020年6月5日まで(新型コロナウイルス感染拡大防止のため「しもつけ」含む一部の特急が同年4月25日から6月5日まで運休となったため、4月24日で運転終了)、「きりふり」が2022年3月6日まで設定されていた。
2020年6月6日に運転を開始した、東京メトロ日比谷線直通の有料座席指定列車。
急行列車は久喜駅・日光線南栗橋駅(一部東武動物公園駅)発着で、押上駅より東京メトロ半蔵門線に乗り入れ、渋谷駅を経由して東急電鉄田園都市線の中央林間駅(一部長津田駅)まで運行される列車である。曳舟駅 - 東武動物公園駅間は主要駅のみ停車して速達輸送の役割を担う。路線図上のシンボルカラーは濃ピンク■ 。
当種別は2003年3月19日の半蔵門線直通開始と同時に通勤準急として東武動物公園駅・南栗橋駅発着で運行を開始し、平日ダイヤで朝に上り4本・夕方に下り19本が、土休日ダイヤで上り1本・下り2本が設定された。2006年3月18日ダイヤ改正からは現行の急行に名称が変更され、東武動物公園駅 - 久喜駅間が運行区間として拡大されるとともに、ほぼ終日に渡り運行されるようになった。なお、それまでの別途料金が必要な急行(「しもつけ」・「きりふり」・「ゆのさと」)は全て特急に変更された。
全列車が10両編成で、終日約10分間隔で運行されている。主に草加駅とせんげん台駅で緩急接続を行う。かつては後述する区間急行(旧・準急)のように久喜駅や南栗橋駅以北へ直通する列車が多数存在したが、2006年3月18日のダイヤ改正による半蔵門線直通列車の大増発に伴い両駅を境にしての系統分割が行われた。このため久喜駅では館林駅・太田駅方面、南栗橋駅では新栃木駅方面の各駅停車に相互接続が考慮されている。また、曳舟駅では浅草駅発着列車との相互接続も考慮されている。
区間急行は主に浅草駅 - 館林駅間および日光線南栗橋駅間で運行される。北千住駅 - 東武動物公園駅間では主要駅のみ停車して速達輸送の役割を担い、その他の区間では各駅に停車する。路線図上のシンボルカラーは薄ピンク■。
2017年4月21日改正ダイヤでは、下り列車は浅草駅基準で平日が5 - 9・16 - 23時台、土休日が5 - 9・21 - 23時台、上り列車は東武動物公園駅基準で平日が5 - 9・22 - 23時台、土休日が5 - 9・23時台の運転となっている。基本的に6両編成であるが平日朝ラッシュ時の館林駅・南栗橋駅 - 浅草駅間、夕ラッシュ時に設定されている館林駅行きの一部列車では8両編成で運転される。なお、北千住駅発着も「区間急行」であり「急行」とはならない。
2006年3月17日までは準急として伊勢崎線・日光線・宇都宮線の全線で終日運転され、東武本線の特別料金不要の速達列車として最も長い歴史があった。2003年3月17日までは業平橋駅発着列車、2006年3月17日までは伊勢崎駅発着と東武宇都宮駅発着もあった。
2006年3月18日のダイヤ改正で、現行の区間急行に名称が変更された上で運行区間・本数が削減された。区間急行となった後も2009年6月5日までは東武日光駅発着(および会津田島駅発)の列車も存在していたが、翌6月6日のダイヤ改正を機に新栃木駅で系統分割された。さらに2013年3月16日のダイヤ改正によって、日光線新栃木駅発着の区間急行は南栗橋駅 - 新栃木駅間の普通列車や浅草駅 - 東武動物公園駅間の区間準急に置き換えられる形で大幅に削減され、南栗橋車両管区新栃木出張所への入出庫を兼ねた6050系の6両編成による1往復のみ(早朝の新栃木駅発・深夜の新栃木駅行き)となった。この列車も2017年4月21日のダイヤ改正で快速・区間快速が廃止され6050系が伊勢崎線から撤退したことに伴い消滅した。その後も運行区間の整理が順次行われている。
2013年3月16日以降は前述の通り最大でも8両編成での運行であるが、準急時代の1986年8月26日から2013年3月15日まではラッシュ時に10両編成での運行もされていた。同年3月16日のダイヤ改正で10両編成の運行が全廃された。10両編成で運行されていた当時には、南栗橋駅・館林駅及び北千住駅・曳舟駅で増解結作業を行い、新栃木駅・太田駅方面及び浅草駅方面へ直通運転を行う列車もあった。
平日朝の上りには地下鉄半蔵門線直通車両(30000系の直通対応車または50050型)が使用される北千住駅止まりの区間急行が1本存在したが、2013年3月16日のダイヤ改正で当該列車は半蔵門線直通の急行に変更された。
準急列車は久喜駅・日光線南栗橋駅(一部は北越谷駅・東武動物公園駅)発着で、押上駅より東京メトロ半蔵門線に乗り入れ、渋谷駅を経由して東急田園都市線の中央林間駅(一部は長津田駅)まで運行される列車である。その他に半蔵門線内発として清澄白河駅発の列車が早朝に設定されている。東急田園都市線内では急行や準急、または各駅停車として運転される。路線図上のシンボルカラーは緑■。
押上駅 - 新越谷駅間の停車駅は急行と同じで、新越谷駅 - 久喜駅・南栗橋駅間は各駅に停車する。全列車が10両編成であり、早朝から朝ラッシュまでと深夜に運行される。2003年3月19日の半蔵門線直通開始当初は区間準急として平日ラッシュ時以外に運行されていたが、当時既に存在していた浅草駅発着の区間準急(後述)と曳舟駅 - 北千住駅間で停車駅が異なるなどの観点から、2006年3月18日のダイヤ改正で現行の準急に名称が変更された上で早朝から朝ラッシュ後までと深夜のみの運行となった。かつては長津田駅 - 北越谷駅間のみ準急運転を行う下り列車があった。この当時、東急線内は上り(渋谷方面)かつ平日しか設定されなかった。その後、2014年6月21日のダイヤ改正で東急線の下り(中央林間方面)および土休日にも設定されたため、平日朝の久喜駅発長津田駅行きの1本は全区間で準急として東京メトロ車で運転されている。
準急(および区間準急)が運行される時間帯は、地下鉄日比谷線方面からの普通列車は大半が北越谷駅発着となり、新越谷駅 - 久喜駅・南栗橋駅間で各駅に停車する準急が同区間における各駅停車の役割を果たしている。また、せんげん台駅で特急の通過待ちを行う列車もあり、日光線方面では南栗橋駅で東武日光駅行きの急行と接続する列車も存在する。
急行同様、曳舟駅で浅草方面発着列車との接続が考慮されている。
列車種別案内などでは「準急」は「区間急行」の下位種別側に記されているが、準急が各駅に停車する越谷駅 - 東武動物公園駅間では区間急行はせんげん台駅と春日部駅のみに停車する一方で、準急が通過する曳舟駅 - 北千住駅間では区間急行は各駅に停車する。したがって、準急と区間急行はその緩急順位が全区間で一定しない。そのため、下り列車では曳舟駅で準急に抜かれた区間急行がせんげん台駅か春日部駅で準急を抜き返し、上り列車では北春日部駅またはせんげん台駅で区間急行に抜かれた準急が曳舟駅で追い付くダイヤになっている。かつて朝夕ラッシュ時の上り準急列車の一部では、せんげん台駅で抜かれた区間急行を鐘ヶ淵駅で抜き返し曳舟駅には準急の方が先に到着するというダイヤが組まれていたが、煩雑さの解消と利便性確保のため曳舟駅まで区間急行を先行させるように改めた。
区間準急列車は主に浅草駅 - 東武動物公園駅間(一部は久喜駅・館林駅・日光線南栗橋駅発着)で運行されている列車である。また運用の関係で北千住駅発着(始発は土休日のみ)、北越谷駅着、北春日部駅発着もある。路線図上のシンボルカラーは黄緑■。
急行線を走行する北千住駅 - 新越谷駅間の停車駅は急行と同じであるが、それ以外の区間では各駅に停車する。2013年までは日中にも運転されていたが、現在は朝ラッシュ時と夕ラッシュ時に運転されている北越谷駅発着の普通を補完する形で朝と夕方以降に運転されている。また、土休日運行の久喜駅行きは東武動物公園駅で後発の南栗橋駅行きとの接続を行う。基本的に6両編成であるが8両編成で運転される場合もある。なお、2013年3月15日までは平日朝の区間急行の折り返しと夜間の北千住駅発北春日部駅行きの1本のみは10両編成で運転されていた。
当種別は1997年3月25日に運行開始。北千住駅 - 南栗橋駅間で30分おきに運転され、浅草駅発北春日部駅行き(浅草駅 - 北千住駅間は各駅停車)の列車も深夜に1本のみ設定された。2003年3月19日から日中の北千住駅発着列車を延長・増発する形で曳舟駅 - 北千住駅間ノンストップの押上・半蔵門線方面直通列車(現・準急)が設定されたが、朝夕を中心に北千住駅発着と浅草駅発北春日部駅行きも残存した。準急の節で述べた停車駅の違いによる問題から、2006年3月18日のダイヤ改正から押上・半蔵門線方面への区間準急が準急に名称変更され、区間準急は浅草駅・北千住駅発着専用の種別となった。同時に運転区間も浅草駅 - 北千住駅間、東武動物公園駅 - 太田駅間に延長され浅草駅発着が主となった。北千住駅発着は朝夕に限定され、2009年6月6日に北千住行きが、2013年3月16日に北千住始発が廃止された。その後、北千住行きは2013年に、北千住始発は2017年4月21日にそれぞれ復活した。昼間時間帯の浅草駅 - 久喜駅間は廃止となり浅草駅 - 竹ノ塚駅間の普通列車に格下げされた。区間急行同様に北千住駅発着も「区間準急」であり「準急」とはならない。2020年6月6日のダイヤ改正で伊勢崎線太田駅発着が廃止され、館林駅発着に短縮となった。
普通列車は主に以下の区間で運行される(送り込み運用などで例外あり)。車内や駅でのアナウンスでは、各駅停車と称される(ごく一部の駅アナウンスでは「普通」を使用)。路線図上のシンボルカラーはグレー■。北千住駅 - 東武動物公園駅・南栗橋駅間の列車(大部分は日比谷線直通列車)は7両編成(70000系と東京メトロ13000系)、ワンマン運転区間では3両編成、その他は基本的に6 - 8両編成で運転される。
上記に含まれない東武動物公園駅 - 久喜駅間(途中駅は和戸駅のみ)では、特急以外の全列車が終日各駅に停車するため、普通列車はごくわずかである。この区間で完結する列車は平日の9時台に上りの久喜駅発東武動物公園駅行きが2本存在するのみであり、その他に下りは北春日部駅発館林駅行きが2本、東武動物公園駅発館林駅行きが4本、上りは館林駅発東武動物公園駅行きが平日1本、休日5本設定されている。
この節で単に『準急』と記したものは、2006年3月17日以前に設定されていた準急(2006年3月18日以降の区間急行)を示すこととする。
種別名変更された旧準急は「区間急行」、旧通勤準急は「急行」を参照。
1987年7月21日のダイヤ改正で廃止された種別である。北千住 - 太田・新大平下間で快速運転を行う種別で、休日にも運転されていた。廃止時は東武日光駅・東武宇都宮駅(新栃木駅で東武宇都宮駅発着2両を分割併合)発着の上下1往復のみ設定されていたが、所要時間は北千住駅 - 春日部駅間で上り35分(休日は31分)、下り31分であり、準急を追い抜かすことはなかった。この影響で北千住駅 - 春日部駅間の休日上りダイヤでは、前後の準急が14分開いた。
当種別が廃止された後、伊勢崎線では6往復だけ設定される準急A(後述)としてしばらく名残が見られ、日光線では東武日光駅・東武宇都宮駅発着の準急として2006年3月17日まで名残が見られた。
車両は、日光線方面発着列車であっても4扉通勤車が用いられ、種別表示に「通勤快速」がない車両では「快速」と表示されていた。かつて5000系が登場直後に充当された種別でもある。
2003年3月18日までは、浅草駅 - 伊勢崎駅間で運行されていた準急の一部(廃止時は日中のみに上下6本ずつ・1時間ごと)が北千住 - 太田間を速達運転する「準急A」として設定されており、北千住駅 - 東武動物公園駅間のみを速達運転する「準急B」と区別していた。ただし、種別表示では単に「準急」と書かれ、東武時刻表の当該路線のページや放送などの旅客案内上もAやBという呼称は用いず、「東武動物公園 - 北千住間準急」「太田まで準急」などと、準急運転区間の駅名を用いて案内されていた。また東武動物公園駅以北を各駅に停車する走る準急Bや普通との接続は考慮されていなかった。
準急Aの廃止により、準急の速達運転区間が北千住 - 東武動物公園間に統一された。また東武動物公園駅〜大田駅間の準急A通過駅は実質的に増便となった。準急Bの停車駅は現在の区間急行に引き継がれているが東武動物公園以北の乗り入れ区間が館林駅・南栗橋駅までに縮小されている。
2017年4月21日のダイヤ改正で廃止された種別である。快速・区間快速の停車駅は日光線内で違いがあるが、伊勢崎線(東武スカイツリーライン)内では同じである(下記参照)。東武動物公園駅から日光線・鬼怒川線・野岩鉄道会津鬼怒川線・会津鉄道会津線を経由して、栃木県の東武日光駅および福島県の会津田島駅に至る長距離列車であった。シンボルカラーは、以前は赤・オレンジであったが、区間快速設定後は快速が青■、区間快速が水色■。伊勢崎線内の停車駅は急行より少なかった。詳細は「東武日光線快速・区間快速」を参照のこと。廃止直前では6050系が充当されており、多客時には1800系が使用されることもあった。
前述した同じ「区間」のつく「区間急行」と「区間準急」は浅草駅 - 北千住駅間は各駅に停車するが、「区間快速」は浅草駅 - 北千住駅間では途中とうきょうスカイツリー駅のみ停車する。当初は2012年3月17日に業平橋駅から改称したとうきょうスカイツリー駅にも同日から一部の特急が停車していたが、快速や区間快速は通過していた。2013年3月16日より快速・区間快速ともに停車駅となったが、日中の運転本数が1時間に1本から2時間に1本に削減された。
この列車は、関東の大手私鉄の料金不要列車では唯一関東外の地域(福島県)まで乗り入れていた。浅草と日光及び福島を結ぶ料金不要の長距離列車として50年以上走り続けてきたが、2017年4月21日の特急「リバティ」運行開始に伴い廃止された。ダイヤ改正直後のゴールデンウィークは、かつての快速停車駅に加えて日光線の南栗橋駅と栗橋駅に停車する臨時列車として運転された。
以下の路線との相互直通運転が実施されている。
鬼怒川線新藤原駅を経由して、特急「リバティ会津」が浅草駅から野岩鉄道会津鬼怒川線経由会津鉄道会津線会津田島駅まで運行されている。1日4往復運転され、500系が充当される。2017年4月21日のダイヤ改正までは快速・区間快速列車が運行され、6050系が充当されていた。
観光シーズンには夜行列車(「尾瀬夜行」・「スノーパル」)も運行され、かつては300型・350型が充当されていたが、「尾瀬夜行」は2018年6月、「スノーパル」は同年12月の運用からいずれも500系に置き換えられた。
北千住駅を経由して、普通列車が日光線南栗橋駅から東京メトロ日比谷線中目黒駅まで運行されている。
戦前より、東武鉄道は独力で都心までの路線延伸を企図していた。戦前期には筑波高速度電気鉄道の免許を使って北千住駅 - 上野駅間の延伸を果たそうとしたが、買収価格を引き下げようとした結果京成電鉄に購入されてしまい失敗した。高度成長期には北千住駅から上野・新橋方面までの延伸を計画したが、「都心乗り入れは地下鉄との相互直通運転で」という都市政策上計画を断念し、1962年5月31日の北越谷駅から営団地下鉄日比谷線人形町駅まで相互直通運転開始により都心直結を実現した。
相互直通運転開始後、沿線の埼玉県草加市や越谷市などは東京近郊のベッドタウンとして人口が急増した。翌1963年2月28日には相互直通運転区間を東銀座駅まで延長し、1964年8月29日の日比谷線全通により中目黒駅までの乗り入れを開始した。1966年9月1日には北春日部駅まで相互直通運転区間が延長され、同年の武里団地開設もあって埼玉県春日部市の人口が急増した。さらに1981年3月16日からは、同日に杉戸駅から改称された東武動物公園駅まで相互直通運転区間を延伸した。これにより、日比谷線区間内でも「東武動物公園行きが参ります」と駅名が連呼され、日比谷線各駅の案内でも「北千住・東武動物公園方面」と表示されるようになり、3月28日に開業した東武動物公園の宣伝にも一役買った。
日比谷線は2013年3月15日まで東急東横線とも相互直通運転を行っていたが、当時から3社を直通する列車はなく、伊勢崎線方面からの列車は中目黒止まり(一部は南千住駅・霞ケ関駅・六本木駅折り返し)となっていた。
2013年3月16日には日光線南栗橋駅まで相互直通運転区間が延長された。ただし、それ以前にも例外として、2003年3月19日より朝に1本のみ南栗橋発中目黒行きの普通列車が設定されていた。この列車は東武鉄道の車両での運行であった。このほか、南栗橋車両管区への入庫のための間合い運用として、東武鉄道の日比谷線直通用車両による東武動物公園駅発南栗橋駅行きの普通列車が運行されていた。
北千住駅 - 東武動物公園駅間の各駅停車は、一部を除いて全列車が日比谷線直通列車である。
日比谷線では2社(2013年3月15日までは3社)の車両が使用されており、列車番号末尾アルファベットの「T」は東武所有車両(20000系列, 70000系・運用番号は01T - 37Tの奇数)、「S」は東京メトロ所有車両(03系, 13000系・運用番号は02S - 74Sの偶数と61S・63S)、「K」は東急所有車両(1000系・運用番号は81K - 87Kの奇数、偶数の両方)を示しているが、東武鉄道の車両は東急東横線に乗り入れることができず、東急の車両も伊勢崎線に乗り入れることができなかった。また東京メトロの車両は東武・東急への乗り入れが可能であるが、結局日比谷線経由で3社を直通する列車は設定されなかった。
各社間の走行距離調整の関係上、東武の車両(2013年3月15日までは東急の車両も)は日比谷線内のみで運転される列車にも使用されている。また2013年3月16日改正ダイヤでは、東武車2本が日比谷線内の千住検車区で、メトロ車2本が南栗橋車両管区春日部支所でそれぞれ夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。どの列車がどの会社の車両で運転されるかは、『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄などで分かる。
押上駅を経由して、急行・準急列車が久喜駅・日光線南栗橋駅から半蔵門線・田園都市線経由で中央林間駅まで運行されている。
日比谷線との直通運転開始後、沿線の人口が急増するとともに伊勢崎線も乗客が急増した。東武鉄道は北千住駅以北の複々線化で輸送力増強・混雑緩和を図ってきたが、北千住駅での日比谷線との乗り換えに伴う混雑が非常に激しくなり、抜本的な改良が求められた。同一ホームでの乗り換えから伊勢崎線(1階)と日比谷線(3階)に乗り場を分離する北千住駅重層化が1996年7月に完成し、ホームに乗客があふれる状況は軽減された。北千住駅の重層化と並行して、さらなる混雑緩和対策として「もう1つの都心直通ルート」を検討した結果、当時東京北東部への延伸計画のあった半蔵門線との直通運転を行うこととなった。当時の帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が水天宮前駅から押上駅まで延伸、東武鉄道が曳舟駅から押上駅までの連絡線(正式には業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅) - 曳舟駅間の線増扱い)建設を行い、2003年3月19日より直通運転が始まった。
半蔵門線直通列車は東急田園都市線まで乗り入れ、久喜駅・南栗橋駅 - 押上駅 - 渋谷駅 - 中央林間駅で運用される。これにより、東武の車両が営業運転としては初めて神奈川県内でも見られるようになった。一部に北越谷駅・東武動物公園駅や田園都市線の鷺沼駅・長津田駅発着列車が運行されるほか、平日の上り最終列車は押上止まり(押上駅で半蔵門線の押上発の列車に接続)となる。
車両は3社の車両が使用され、列車番号末尾アルファベットの「T」は東武車両(50000型、50050型・運用番号は50T - 82Tの偶数)、「S」は東京メトロ車両(8000系、08系、18000系・運用番号は51S - 93Sの奇数)、「K」は東急車両(5000系、2020系・運用番号は01K - 37Kの奇数、偶数の両方と45K)を表している。日比谷線・東横線と異なり、東急車の一部を除いて3社への乗り入れが可能であり、上述のような3社直通電車が運行される。ダイヤの乱れが生じた場合は、この限りではない。
なお、走行距離調整の関係などから東武車両は田園都市線から半蔵門線の押上駅で折り返す列車及び長津田駅 - 中央林間駅間の区間運転列車にも使用されているほか(後者は3社とも使用)、東武車両の2本が長津田車庫で、東急車両の2本が南栗橋車庫でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。前述の日比谷線直通列車と同様、どの列車がどの会社の車両で運転されるかは、『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄などで判る。
事故などのトラブルで直通運転が不可能となった場合、伊勢崎線から半蔵門線に直通する列車は北千住駅にて折り返す。また、半蔵門線側から伊勢崎線に直通する列車は、終着駅である押上にて折り返し運転を行う。このため、3社の車両には通常は使用しない「北千住」の行き先表示が用意されている。しかし、直通運転が中止された場合の東武線内での運用は、原則として東武の車両となっている。行き先が「北千住」となった場合、電車は北千住駅で折り返し運転を行うのではなく、一度、曳舟駅に回送される。一定時間待避した後折り返し、北千住駅へ向かう。この時、曳舟駅 - 押上駅間は不通となり両駅を結ぶ列車が運行されなくなるので、押上駅へ行くときはとうきょうスカイツリー駅からの徒歩連絡となる。それにあわせて大手町駅 - 北千住駅間では東京メトロ千代田線に乗るよう案内される。そのため、運行トラブルが発生すると北千住駅 - 押上駅 - 大手町駅間で通常時よりも所要時間がかかる。東京メトロ半蔵門線直通列車の運転再開までに要する時間は東京メトロ日比谷線直通列車の運転再開までに要する時間よりも長くなる傾向にあり、夜間にダイヤの乱れが生じた場合は東武・東京メトロ・東急の車両が各自の車両基地(南栗橋・鷺沼・長津田)に戻れないことがある。
前述の不通による影響を考慮し、2013年度より東武線の折り返し運転の設備が整備されることになった。具体的には曳舟駅2番線と押上駅1番線を繋ぐもので、整備は2013年10月末に完了し、北千住方面からの折り返しが可能になった。しかし、実際に使用されたことは2017年時点ではない。
2005年5月9日から半蔵門線・東急田園都市線での導入に合わせて、平日朝ラッシュ時間帯の上り優等列車を対象に女性専用車が設定された。2006年3月27日から日比谷線での導入に合わせて、平日朝ラッシュ時間帯の日比谷線に直通する上り普通列車にも女性専用車が設定された。混雑率が低い浅草駅行きの普通列車は女性専用車が設定されていない。
対象となる列車は、東武鉄道の公式サイトに掲載されているほか、駅構内へ掲出されている時刻表に記述されている。
女性専用車はいずれも最後尾の車両に設定されている。小児や身体の不自由な人とその介助者・保護者は性別を問わず乗車出来る。
なお、半蔵門線直通列車の場合、10号車(押上・渋谷方先頭車両)にも女性専用車のステッカーが掲出されているが、これは直通先の東急田園都市線方面からの列車が、始発駅→半蔵門線内(東武線直通列車は押上まで)で女性専用車となるためであり、東武線内では無関係である(同様に田園都市線方面からの列車の場合、1号車に女性専用車は設定されない)。
2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は小菅駅 → 北千住駅間であり、ピーク時(7:30 - 8:30)の混雑率は127%である。
混雑率は1995年度まで180%を超えていたが、北千住駅の改良工事が完了した1996年度に170%を下回った。その後も輸送力の増強と輸送人員の減少により混雑率は緩和傾向が続き、半蔵門線との直通運転を開始した2002年度のダイヤ改正では、ピーク1時間あたりの輸送力が私鉄最大の51,540人となり、混雑率が150%を下回った。その後のダイヤ改正は、輸送人員の減少に合わせて輸送力を削減したことで、混雑率は2012年度まで140%程度で推移していた。
2013年度のダイヤ改正では、朝ラッシュ時に運転されていた10両編成の区間急行が全て8両編成になり、輸送力が大幅に削減された。その一方で、輸送人員の減少に歯止めがかかったことにより、混雑率は150%程度で推移している。2017年度のダイヤ改正では、それまで朝ラッシュ時間帯のピーク時に運行されていなかった特急列車が初めて設定された。
種別や車両位置に関わらず全体的に混雑率が高く、北千住駅を7:40 - 8:10頃に到着する列車が最も混雑する。10両編成で運転される急行および準急は半蔵門線に直通し、8両編成で運転される区間急行より混雑率がやや高い傾向がある。7両編成で運転される普通は日比谷線に直通し、同様に混雑する。ピーク時の前後に運転されていた竹ノ塚駅始発浅草駅行きの普通列車は混雑率が非常に低かったが、2020年度のダイヤ改正で廃止された。
2008年度の一日平均通過人員は北千住駅 - 小菅駅間が526,730人であり、伊勢崎線で最も多い。北千住駅は伊勢崎線で最も乗降人員が多い駅であり、同駅を介して日比谷線との相互直通運転が行われている。牛田駅 - 北千住駅間の一日平均通過人員は153,984人であり、北千住駅 - 小菅駅間の3割程度になる。押上駅を介して半蔵門線との相互直通運転が行われているため、日比谷線と半蔵門線の直通列車が経由しない浅草駅 - とうきょうスカイツリー駅(押上駅)の一日平均通過人員は54,414人まで減少し、北千住駅 - 小菅駅間の1割程度になる。
埼玉県との都県境を跨ぐ竹ノ塚駅 - 谷塚駅間が395,703人、複々線区間の北端にあたる越谷駅 - 北越谷駅間が291,344人、東武スカイツリーラインの北端にあたる姫宮駅 - 東武動物公園駅間が130,805人であり、東武スカイツリーラインの愛称区間は東京圏の通勤路線として機能している。東武動物公園駅で日光線と分岐するため、東武動物公園 - 和戸間の一日平均通過人員は61,799人に減少する。
久喜駅でJR宇都宮線と接続するため、和戸駅 - 久喜駅間の一日平均通過人員が59,729人であるが久喜駅 - 鷲宮駅間で66,385人に増加する。その後も一日平均通過人員が減少し、群馬県との県境を跨ぐ羽生駅 - 川俣駅間が26,526人、複線区間の北端にあたる茂林寺前駅 - 館林間が24,518人で、北千住駅 - 小菅駅間の5%程度となる。館林駅で佐野線と小泉線に接続して単線区間となり、館林駅 - 多々良駅間は16,514人に減少する。単線区間は乗降人員が1,000人に満たない駅も存在する。太田駅より先は一日平均通過人員が8,000人を下回り、最も一日平均通過人員が少ない新伊勢崎駅 - 伊勢崎駅間が5,443人で、北千住駅 - 小菅駅間の1%程度となる。
2006年3月18日のダイヤ改正までは昼間の料金不要の速達列車は6両編成で運転されていたが、原則70km以上を超えるロングラン運転を行っていたことから上記のような通過人員の変動を大きく受けていた。複々線区間は輸送力不足であった反面、単線区間は輸送力過剰であった。2003年3月19日のダイヤ改正までは日中に東武動物公園駅 - 太田駅間で通過運転を行う料金不要の速達列車が毎時1本運転されていたが、もともと日中の運転本数が毎時3本程度と少ない区間であり、緩急接続を行わないため通過駅の利便性を低下させる要因となっていた。現在のダイヤは久喜駅と館林駅で運用を分離し、運行区間と時間帯によって編成数を3両編成から10両編成まで分けることにより、適正な輸送力の確保と車両運用の効率化が図られている。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
特に記述の無い駅は両方向の列車の待避が可能である。
また、回送列車のみ使用する待避線が西新井駅(下りのみ)、春日部駅(両方向の待避が可能)、東武動物公園駅(下りのみ。伊勢崎線列車は両方向の待避が可能)、足利市駅(両方向の待避が可能)に存在する。かつては大袋駅(上下線)、鷲宮駅(中線)、川俣駅(上りのみ)にも待避線が存在したが、せんげん台駅、久喜駅、羽生駅に待避機能が集約されたため、現在は架線や線路が撤去され2面2線構造となっている。
特に記述の無い駅は伊勢崎方面のみに設置。
また、複々線化工事の進捗に合わせて暫定的に越谷駅に留置線が設置されていた。かつては新伊勢崎駅にも留置線が存在したが、高架化により廃止された。
復活・営業再開した駅を除く。休止・廃止日は最終営業日の翌日。
伊勢崎線は1899年(明治32年)、東武鉄道で最初に開業した路線であり、東武鉄道の社名はこの時に開業した北千住駅 - 久喜駅間(以下「発祥区間」と表記)の地域を指す「武蔵国東部」に由来する。このことから現在でも発祥区間を中心として俗に「東武線」と呼ばれることがある。これは東武鉄道が複数の路線からなる広大な路線網を持つ前の名残でもある。
また、会社自体にも発祥路線意識が滲み出ており、1990年代までは駅表札に冠する社名表記では路線によって「東武線」・「東武野田線」・「東武東上線」と統一されず、発祥区間を持つ伊勢崎線を中心とする路線に絞って「東武線」が使われていた。2012年に導入された「東武スカイツリーライン」の区間愛称にもわざわざ「東武」を冠しているところにも現れている(野田線の愛称導入は2014年)。
館林駅以北は、足利市駅・太田駅・伊勢崎駅以外自動改札機設置駅がないが、2007年3月18日にICカード「PASMO」サービス開始により自動改札非設置駅には簡易型PASMO読取機が設置された。
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"text": "伊勢崎線(いせさきせん)は、東京都台東区の浅草駅から群馬県伊勢崎市の伊勢崎駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線である。また、押上駅から曳舟駅の区間も伊勢崎線の一部である。浅草駅 - 東武動物公園駅間及び押上駅 - 曳舟駅間には「東武スカイツリーライン」(TOBU SKYTREE Line)という路線愛称名が付けられている。駅ナンバリングの路線記号は浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間がTS、東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間がTI。",
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"text": "東武鉄道として最初に開業した北千住駅 - 久喜駅間を含む創業路線であり、東京の下町にある浅草駅から埼玉県の東部地域と利根地域を経て群馬県・栃木県の両毛地域を結ぶ。東武日光線や野田線(東武アーバンパークライン)などを含めて東武本線(路線群)を構成する路線の一つで、東武日光線や東上線とともに東武鉄道の主要幹線である。路線延長は114.5 kmで、JRや第三セクター鉄道を除く日本の私鉄の路線の中では最も長い。2012年には業平橋駅の貨物ターミナル跡地に東京スカイツリー及びそれを中核とする東京スカイツリータウンが開業し、それに伴い業平橋駅はとうきょうスカイツリー駅に駅名を変更した。路線愛称の「東武スカイツリーライン」は東武グループのシンボルである東京スカイツリー及び東京スカイツリータウンにつながる路線であることに由来する。",
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"text": "久喜駅以南は東京近郊の通勤・通学路線としての側面を有する一方で、東京都を起点とする関東大手私鉄の幹線・本線では唯一JR山手線との接続駅を持たず、起点の浅草駅は構造上の理由で7両編成以上の入線に制約があり、ターミナル駅としての機能が弱い。そのため北千住駅から東京メトロ日比谷線(7両編成)、押上駅から東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線(10両編成)との相互直通運転を行うことで、都心部への利便性と輸送力を確保している。そういった経緯から浅草駅に代わって多数の路線が結節する北千住駅が実質的なターミナル駅として機能しており、1日平均乗降人員は東武鉄道の駅でも東上線の池袋駅に次いで多い。北千住駅から北越谷駅までの複々線区間 (18.9km) は日本の私鉄最長である。",
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"text": "また、東武動物公園駅で日光線が分岐し、「けごん」・「きぬ」を始めとした日光・鬼怒川温泉方面に直通する特急列車が浅草駅から発着しており、観光路線としての側面も有する。東京 - 日光間の輸送においては、かつては国鉄(現・JR東日本)の東北本線(JR宇都宮線)・日光線と競合関係にあったが、現在は東武が完全に優位な状況にあり、JR新宿駅・池袋駅から途中で東武線に直通して東武日光駅に至る特急「日光」・「(スペーシア)きぬがわ」の設定など、日光・鬼怒川温泉方面の輸送において両社は協力関係にある。",
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"text": "一方で、輸送人員が少ない両毛地域は一部の駅が無人駅であり、末端区間はローカル線としての側面も有する。このため、合理化の一環として特急を除く全列車が館林駅で系統分離されており、館林駅以北の全ての一般列車でワンマン運転が実施されている。2006年のダイヤ改正以降、浅草駅 - 伊勢崎駅間の全線を直通する列車は特急「りょうもう」の1往復のみであり、大半の特急「りょうもう」は太田駅から桐生線に直通する。",
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"text": "ラインカラーは、東武スカイツリーライン区間が青、東武動物公園駅以北が赤となっている。各駅の駅名標には浅草駅 - 東武動物公園駅間がオレンジと青(■■;東武スカイツリーラインのラインカラー)、東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間が赤と黒(■■;伊勢崎線ラインカラー)が使われている。押上駅は東京地下鉄(東京メトロ)の管理駅のため、東武鉄道のラインカラーは駅番号のシンボルマークにとどまっている。",
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"text": "前述の通り、東京メトロ日比谷線及び東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線と相互直通運転を行うことで、都心直通による利便性の向上と長編成による輸送力の確保を実現している。",
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"text": "当路線は1899年(明治32年)に北千住駅 - 久喜間駅を開業したことに端を発する。開業当初は、2時間間隔で1日7往復の旅客・貨物混合列車の運転だった。その後も北へ路線を延伸し、1903年(明治36年)に利根川の右岸に位置していた川俣駅(足利町駅への延伸時に左岸に移転)まで開業したが、この当時、東武鉄道は経営難に陥っていた。その後、1905年(明治38年)に根津嘉一郎が東武鉄道の社長に就任した後は、彼の経営手腕によって利根川を架橋することが断行され、1907年(明治40年)に足利町駅(現・足利市駅)まで開業した。これ以降は貨物輸送によって経営難から逃れ、1910年(明治43年)に伊勢崎駅までの全線開業に辿り着いた。",
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"text": "その一方、都心側のターミナル駅選定には難航する。1902年(明治35年)に北千住駅から吾妻橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)へ延伸開業したものの、亀戸線が開業して総武鉄道両国橋駅(現・両国駅)への乗り入れを果たした1904年(明治37年)に曳舟駅 - 吾妻橋駅間を廃止した。これによって一時は両国橋駅がターミナル駅となったが、1907年(明治40年)に総武鉄道が国有化されると状況は急変し、東武鉄道は自社のターミナル駅を保有することを迫られた。そこで、廃止していた曳舟駅 - 吾妻橋駅間を1908年(明治41年)に再開業し、1910年(明治43年)に吾妻橋駅を浅草駅に改称した。これが、伊勢崎線の駅で初めての駅名改称となる。",
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"text": "大正に入ると、輸送量の増加により都心側の随所で複線化及び電化が行われた。1912年(明治45年)に浅草駅 - 鐘ヶ淵駅間が複線化されたのを皮切りに、1920年(大正9年)に東京市内の全区間が、1922年(大正11年)に当初開業区間である北千住駅 - 久喜駅間が複線化された。1924年(大正13年)に浅草駅 - 西新井駅間が電化されたことを機に、東武鉄道初の電車としてデハ1形が製造、運行された。",
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"text": "1923年(大正12年)には荒川放水路の工事により、鐘ヶ淵駅 - 西新井駅間の線形が変更された。この線形変更に際し、北千住駅 - 西新井駅間は開業当初のルートよりも北方に線形を取り、現在の小菅・五反野・梅島の各駅を経由するようになり、北千住駅 - 小菅駅間で架橋することとなった。鐘ヶ淵駅 - 堀切駅間は放水路の右岸に沿った直線的な経路となったものの、両駅の構内で急カーブを生じるようになった。なお、鐘ヶ淵付近の旧線は荒川の中となっているため痕跡は残っていないが、西新井駅付近は西新井工場の構内線路に流用され、小菅駅付近 - 西新井駅の旧線は大部分が道路(現在の梅田通り・亀田トレイン通りなど)に、一部は住宅地等に転用された。そのため、足立区梅田七丁目の梅田通り終点(梅島駅の南方)には「東武鉄道旧線路跡」の碑がある。",
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"text": "昭和に入ると、当時としては東京一の繁華街であった浅草への乗り入れで京成電気軌道(現・京成電鉄)と競合し、激しく争った。その結果、京成は1928年に京成電車疑獄事件が起きて乗り入れを断念し、当路線が1931年(昭和6年)に浅草雷門駅(現・浅草駅)への乗り入れを果たした。開業年度における一日平均乗車人員は10,255人であり、東武鉄道で最も乗車人員が多い駅となった。",
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"text": "しかし、第二次世界大戦後の復興によって山手線のターミナル駅に都市機能の拠点が形成されると、山手線と接続しない当路線は沿線開発で不利な状況に追い込まれた。1955年(昭和30年)頃に北千住から新橋や東京八重洲を結ぶ地下鉄道建設を運輸省(現・国土交通省)へ数回に渡り出願したが、全て却下された。",
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"text": "このような状況の下、当路線は1962年(昭和37年)に北千住駅を介して営団地下鉄日比谷線(現・東京メトロ日比谷線)との直通運転を開始した。東京の地下鉄と郊外電車で直通運転を開始したのは、京成押上線と都営地下鉄浅草線の直通運転に次いで2例目であった。日比谷線との直通運転により北千住駅 - 浅草駅間の通過人員が減少し、一時的な減収は避けられなかったものの、それを上回る勢いで沿線開発が進んだことにより輸送人員が瞬く間に増加していった。マンモス団地と謳われた草加松原団地や武里団地などの入居が開始されたのも、当路線が日比谷線との直通運転を果たした直後である。1966年(昭和41年)には乗り入れ区間が北春日部駅まで延長され、日比谷線直通列車が6両編成になった。さらに1981年(昭和56年)には東武動物公園駅まで延長され、同年に開園した東武動物公園の宣伝にも一役買った。",
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"text": "沿線開発が進むにつれてラッシュ時は激しく混雑するようになり、特に北千住駅では準急列車と日比谷線との乗換客の列でホームが埋め尽くされる事もあった。1969年(昭和44年)度の秋季交通量調査では、朝ラッシュの最混雑区間である小菅駅 → 北千住駅間の混雑率は248%を記録し、当該年度では大手私鉄の路線で最高値を計上した。輸送量を増強すべく、1971年(昭和46年)には日比谷線直通列車が8両編成になり、1972年(昭和47年)には地上車の8両編成が営業運転を開始したものの、これ以上の長編成化は浅草駅の制約により困難であった。当時の朝ラッシュ時の上りダイヤはせんげん台駅から北千住駅が平行ダイヤで、増発の余地もなかった。10両編成の列車が営業運転を開始したのは1986年(昭和61年)であるが、これは東武鉄道の主要幹線の一つである東上本線と比較しても10年ほど遅い時期である。",
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"text": "そこで運転本数の増加に努めるべく、関東私鉄初の複々線化が事業化(建設主体は日本鉄道建設公団)され、1974年(昭和49年)に北千住駅 - 竹ノ塚駅間で竣工し、供用を開始した。同区間ではラッシュ時の本数が大幅に増加しただけでなく、準急のスピードアップにも貢献した。複々線化は1988年(昭和63年)に草加駅まで延ばされ、その際に実施されたダイヤ改正で日中の準急が毎時4本から毎時6本に増発された。",
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"text": "平成に入ると、それまで増加傾向にあった輸送人員がピークを迎えたが、ラッシュ時の北千住駅は乗換客により混雑を極め、依然として危険な状態が続いていた。そこで北千住駅での乗換客を減らすべく、1988年(昭和63年)に浅草う回乗車制度が、1990年(平成2年)に押上う回乗車制度が導入された。これにより、北千住駅を経由する定期券を所持していれば、浅草駅・業平橋駅を経由しても都心に行き来出来るようになった。押上う回乗車制度が導入された時に行われたダイヤ改正に合わせて、業平橋駅に10両編成が入線出来る地上ホームが新設された。",
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"paragraph_id": 17,
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"text": "朝ラッシュ時の混雑率は190%程度で推移する状況が続き、更なる輸送力の増加と北千住駅の抜本的改造が求められた。これが一段落したのが1997年(平成9年)であり、北千住駅の立体化と越谷駅までの複々線化が完工し、私鉄最長の複々線を持つ路線となった。複々線は2001年(平成13年)に北越谷駅まで延ばされ、その距離は18.9kmに及ぶ。これらの事業は特定都市鉄道整備事業計画に認定されたもので、総事業費は840億円であった。複々線が完成した2001年のダイヤ改正では、朝ラッシュ時における竹ノ塚駅 - 北千住駅間の上り列車で毎時45本が運行されるようになった。この一路線の一時間あたりの運行本数は関東私鉄において最大であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "また、2003年(平成15年)には押上駅を介して営団地下鉄半蔵門線(現・東京メトロ半蔵門線)・東急田園都市線との直通運転を開始し、10両編成の優等列車が初めて都心へ直通するようになった。この直通運転に際して曳舟駅 - 押上駅間が新規に建設されたが、正式には曳舟駅 - 業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)間の複々線化として扱われており、押上駅は業平橋駅と同一駅扱いとしてみなされるようになった。この事業も特定都市鉄道整備事業計画に認定されたもので、総事業費は843億円であった。業平橋駅の地上ホームはこのダイヤ改正で廃止され、跡地に東京スカイツリータウンが建設された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "半蔵門線との直通開始により日中でも10両編成が運転されるようになったが、浅草駅発着の準急を基軸とした従来のダイヤを継承していたため、半蔵門線直通列車は少数に抑えられていた。しかし、2006年(平成18年)のダイヤ改正は種別名変更を伴うほどの大規模な白紙改正となり、半蔵門線直通列車の急行を基軸としたダイヤに刷新した。一方で日中は久喜駅と太田駅で一般列車の運用が分断され、特に太田駅 - 伊勢崎駅間で運用される普通列車は全列車がワンマン運転となり、3両編成に減車された。特急列車は従来のダイヤを継承したが、1日1往復の特急「りょうもう」を除いて浅草駅 - 伊勢崎駅間の直通列車は廃止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2013年(平成25年)のダイヤ改正で、東急東横線が東京メトロ副都心線と直通運転を開始したことに伴い、東横線と日比谷線の直通運転が終了となり、日比谷線の車両運用に余裕が生じたため、日比谷線との相互直通区間が日光線南栗橋駅まで延長された。朝ラッシュ時の混雑率も140%程度まで緩和したため、このダイヤ改正で上り区間急行列車の増解結運用が廃止された。また太田駅 - 伊勢崎駅間で運用されるワンマン列車のうち、一部が館林駅まで直通するようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "令和に入ると、快適通勤と利便性向上を図るために関東の大手私鉄では座席指定列車が増加した。これまで当路線で運行されていた特急列車はすべて浅草駅発着であり、都心部からは乗り換えを必要としていた。一方で、日比谷線直通列車は当初から普通列車のみの運転であったため、速達性に難点があった。東武鉄道の一般列車は20m車体が標準であるが、日比谷線直通列車は18m車体であったために扉位置が合わず、ホームドアの整備にも支障をきたしていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "これらの弱点を補うために、2020年(令和2年)のダイヤ改正で日比谷線直通列車として初めての優等列車である「THライナー」を導入した。折しも新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、鉄道の移動需要が全国的に低下している時期での運行開始となった。このダイヤ改正を前に18m級3ドア車のメトロ03系・東武20000系が運用から離脱したため、一般列車はすべて20m級4ドア車に統一され、北越谷駅を皮切りにホームドアが整備されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "都内区間では高架化事業が進み、西新井駅 - 竹ノ塚駅間の複々線区間に残された2箇所の踏切は2022年(令和4年)に除却された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "大手私鉄の路線で最も長い114.5kmの路線距離を有しており、区間によって沿線状況は大きく異なる。次点の近鉄大阪線(108.9km)が全線複線であるのとは対照的に、伊勢崎線は複々線区間から単線区間まで存在し、区間によって輸送密度が大きく異なる。東京都の浅草駅から群馬県の伊勢崎駅までの全区間が関東平野であり、中でも羽生以南は関東平野のほぼ中央を南北に縦貫することから加須低地・中川低地(中川低地の河畔砂丘群も参照)・東京低地で、駅間で利根川や荒川と始めとする多くの一級河川を渡る。トンネル区間は東京メトロ半蔵門線と直通する押上駅から曳舟駅までの一区間のみである。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "東京の下町にある区間で、浅草寺・東京スカイツリーを始めとする有名観光地を通る。戦前の密集市街地が残されており、全体的にカーブが多い区間である。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "浅草駅は頭端式ホーム3面4線を有するターミナル駅であり、江戸通りと馬道通りに挟まれた位置にある。関東では初めての百貨店併設のターミナルビルとして開業し、第1回関東の駅百選に選定された。駅舎は隅田川とほぼ平行しているが、ホーム先端で制限速度15km/hの急カーブにかかり、隅田川橋梁を渡る立地の制約により、入線可能な列車は1番線のみ8両編成、その他は6両編成までに限定される。2020年に隅田川橋梁沿いには「すみだリバーウォーク」という名称の遊歩道が整備され、線路横の遊歩道を歩いて隅田川を渡れるようになった。またそれと同時に線路高架下に「東京ミズマチ」と呼ばれる商業施設が開業し、レストランやカフェ・雑貨店・ホテルなどが利用出来る。隅田川の左岸側で隅田公園の南側を通り、北十間川と並行して東に進むととうきょうスカイツリー駅であり、改称前の駅名だった業平橋は駅の南西側に位置する。駅南側にあった貨物ヤードは土地区画整理事業によって東京スカイツリータウンとなった。押上駅の北側で進路を北東に変えると京成押上線と並走し、更に進路を北に変えると東京メトロ半蔵門線押上駅に直通する支線と東武亀戸線がそれぞれ合流し、曳舟駅となる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "明治通りと水戸街道を高架で立体交差すると東向島駅で、高架下に東武博物館がある。改称前の駅名だった玉ノ井は駅の北東側に位置していた。高架を降りながら進路を北東に変えると相対式ホームの内側に通過線を有する鐘ヶ淵駅であるが、駅構内で進路を北東から北西に変えるため、通過列車でも45km/hの速度制限を受ける。荒川の右岸側に並行する直線区間を進み、首都高速6号向島線を地上で立体交差すると堀切駅で、駅の西側に東京未来大学が隣接する。ホーム全体が曲線上にあり見通しが悪く、左カーブとなる下り線に気笛吹鳴標識が設置されている。進路を西に変える途中で川の手通りと京成本線の高架を斜めに立体交差すると牛田駅であり、道路を挟んで南側に位置する京成関屋駅と接続する。駅西側で墨堤通りと僅かに並走し、留置線を挟む形で上下線が離れる。進路を北に変えて大踏切通りを渡ると、常磐線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレスと並走して東京都足立区最大のターミナル駅である北千住駅に至る。伊勢崎線及び本線系統の駅では最も乗降人員が多い駅であり、朝ラッシュ時の最混雑区間も同駅までの上り線となっている。押上・浅草方面の列車は2面4線の地上ホームに(1階)、東京メトロ日比谷線に直通する列車は2面3線の高架ホーム(3階)に発着する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "東武鉄道の路線で最初に開業した区間であり、日光街道と並行して敷設された。日比谷線と半蔵門線の2路線が相互直通運転する区間であり、東京近郊のベッドタウンとして宅地開発が進められている。北千住駅から北越谷駅までの18.9kmは私鉄最長の複々線区間であり、緩急分離による高密度運転と優等列車の高速運転を実現している。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "北千住駅の北側で進路を北東に変え、高架ホームからの線路が緩行線に合流する。複々線区間は外側が急行線、内側が緩行線であり、優等列車が停車しない駅は緩行線のみホームが設けられている。荒川放水路橋梁を渡ると首都高速中央環状線と交差し、小菅駅。東側に東京拘置所が近接する。進路を北西に変える途中で常磐線・東京メトロ千代田線・つくばエクスプレスの線路を交差し、直線区間に入ると五反野駅。直線区間のまま日光街道を立体交差すると梅島駅で、上下線のホームが縦に直列する形で設けられている。梅島駅の下り方に緩行線と急行線を連絡する渡り線が設けられており、THライナーはこの先の区間で急行線を走行する。下り急行線から大師線への連絡線が分岐し、地上に降りると西新井駅。伊勢崎線の都内区間では数少ない橋上駅であり、駅構内に大師線大師前駅の改札を有する。駅の北側で環七通りと地上で立体交差すると進路を北に変える。千住検車区竹ノ塚分室を通り過ぎると下り線が高架になり、竹ノ塚分室への車庫線が上り緩行線と並走する。エミエルタワー竹の塚の東側で上り線と車庫線が高架になり、竹ノ塚駅である。同駅は日暮里・舎人ライナーの開業前は特別区で最も北に位置する駅だった。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "直線区間を進んで毛長川を渡ると埼玉県に入り、進路を北東に変えて草加バイパスを地上で立体交差する。上下線とも高架区間になると谷塚駅であり、駅構内で進路を北に変える。直線区間を進むと草加駅で、急行線に通過線が設けられている。多数のバス路線が乗り入れており、他路線と接続しない伊勢崎線の単独駅では最も乗降人員が多い駅である。伝右川を渡ると獨協大学前駅で、駅名の由来となった獨協大学は駅の南西側に、副駅名である草加松原は駅の東側に位置する。改称前の駅名だった松原団地は駅の西側に広がっていたが、老朽化に伴い建替事業が行われている。東京外環自動車道と立体交差すると新田駅、綾瀬川を渡ると蒲生駅である。高架が高くなると新越谷駅で、北側で武蔵野線の高架を越える関係でホームは駅ビルの4階にある。東口のロータリーで南越谷駅と接続し、伊勢崎線の駅では北千住駅に次いで乗降人員が多い駅である。高架が低くなると越谷駅で、草加駅と同様で急行線に通過線が設けられている。元荒川を渡ると北越谷駅である。同駅から先は再び複線区間となる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "北越谷駅の留置線を通り過ぎると高架を降りて、草加バイパスを地上で立体交差すると大袋駅。直線区間を進むと待避線を有するせんげん台駅で、終日にわたり急行列車との緩急接続が行われる。新方川を渡ると西側にある武里団地を通り過ぎ、武里駅。一ノ割駅の先まで直線区間が続き、野田線を地上で立体交差すると進路を北西に変えて春日部駅に至る。東武鉄道の基幹路線が交わる3面7線のターミナル駅で、一部のアーバンパークライナーは野田線と直通運転が行われている。改札口が東口と西口に分かれており市街地が分断されているが、駅を含む前後の区間で連続立体交差事業が行われている。再度進路を北に変え、岩槻春日部バイパスと立体交差すると北春日部駅であり、待避線を有する。直線区間となり、東側にある南栗橋車両管区春日部支所を通り過ぎると姫宮駅。姫宮落川を渡り、進路を北西に変えると東武動物公園駅である。東武スカイツリーラインの愛称区間はこの駅までであり、駅名の由来となった東武動物公園は駅の南西側に位置する。駅の所在地は宮代町であり、改称前の駅名だった杉戸は大落古利根川の対岸にある杉戸町にちなむ。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日光線と分岐した後は住宅街が駅間で途切れ、車窓からは田園地帯が広がる。大落古利根川と並走して直線区間を進むと和戸駅。首都圏中央連絡自動車道を地上で立体交差し、進路を北に変えると東北新幹線と立体交差し、宇都宮線と並走して久喜駅に至る。半蔵門線直通列車が乗り入れる終着駅であり、日中の運行系統も特急列車を除いて久喜駅を境に分断されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "郊外に進むにつれてモータリゼーションの進展が著しくなる区間であるが、並行する東武日光線と比較すると各駅の乗降人員が多い。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "久喜駅の北側で進路を北西に変え、直線区間を進むと鷲宮駅。らき☆すたの聖地巡礼により初詣の参拝者数が大幅に増加した鷲宮神社は駅の北側に位置する。青毛堀川と並行して田園地帯を抜け、東北自動車道を地上で立体交差すると花崎駅。埼玉県の県営公園の一つである加須はなさき公園は駅の南側に位置する。市街地を直線区間で進むと加須駅。進路を北西に変えて、加須羽生バイパスを地上で立体交差すると南羽生駅であり、この区間の駅間距離は伊勢崎線で最長である。進路を北に変えると羽生駅で、秩父鉄道秩父本線の乗換駅である。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "羽生駅の北側で利根川を渡るが、利根川橋梁は単線のトラス橋が並列しており、上り線の橋梁は複線化の時に建設された。利根川の左岸側から群馬県に入るが、その先にある川俣駅は、利根川橋梁の架橋前は利根川の右岸側(埼玉県)に位置していた。直線区間を進むと茂林寺前駅で、駅の東側に分福茶釜の舞台となった茂林寺と花園の東武トレジャーガーデンがある。東毛広域幹線道路を地上で立体交差して南栗橋車両管区館林支所を通り過ぎると館林駅。切欠きホームを有する2面5線のターミナル駅で、佐野線と小泉線の乗換駅である。東口の旧駅舎は洒落た模様の窓がある洋館風の駅舎であり、第2回関東の駅百選に選定された。7両編成以上の列車が乗り入れられるのも館林駅までであり、2013年までは朝ラッシュ時の区間急行で当駅から10両編成に増結し、北千住駅で6両編成に解結する運用が存在した。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "単線区間であり、合理化の一環として乗降人員が少ない一部の駅は無人駅となっている。また、すべての普通列車が3両編成のワンマン運転であり、ローカル線の風情が強くなる。工業団地を多数擁する太田市と伊勢崎市の人口は増加傾向であり、乗降人員も増加傾向にある。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "館林駅の北側で進路を北東に変えると小泉線が西側に、佐野線が東側に分岐する。国道122号と並行し、多々良駅。矢場川を渡ると栃木県に入り、田園地帯に入る。県駅の周辺は数件の民家を除き田園風景が広がるが、南側に産業団地が造成されている。進路を北に変えると民謡の『八木節』ゆかりの地である八木宿をルーツとする市街地に入り、福居駅。足利バイパスを地上で立体交差すると東武和泉駅で、伊勢崎線の駅では唯一の単式ホームである。渡良瀬川と並走しながら高架区間に入り、進路を北西に変えると足利市駅である。接近メロディとして使用されている『渡良瀬橋』は、西側に実在する同名の橋で見る夕日をモデルに作詞された。進路を南西に変えると野州山辺駅の先で高架を降りる。矢場川を渡り、足利バイパスを地上で立体交差すると再度群馬県に入り、韮川駅の先で国道122号を地上で立体交差する。SUBARU群馬製作所本工場の東側で高架区間となり、進路を西に変えると小泉線と並走し、太田駅に至る。3面6線のターミナル駅であるが、伊勢崎線と桐生線に直通するりょうもう号が到着するホームは北側の2面4線である。高架化当初は太田駅 - 伊勢崎駅間のみ特急列車を除いてワンマン運転を行っており、運行系統も太田駅を境に分断されていた。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "太田駅の西側で桐生線と平面交差し、進路を南西に変える。高架を降りると関東学園大学を通り過ぎて、細谷駅。西部工業団地を通り過ぎると木崎駅で、駅の北側にサッポロビール群馬工場が隣接する。東毛広域幹線道路を地上で立体交差すると田園風景が広がり、そのまま上武道路を地上で立体交差すると世良田駅である。駅北側に尾島工業団地が広がるが、伊勢崎線で最も乗降人員が少ない駅である。早川を渡ると市街地に入り、境町駅。進路を北西に変えて、再度東毛広域幹線道路を地上で立体交差し、粕川を渡ると剛志駅である。広瀬川と粕川に挟まれた市街地に入り、群馬県道293号香林羽黒線を高架で立体交差するが、すぐに地上区間になる。国道462号を地上で立体交差すると再度高架区間となり、進路を北に変えると新伊勢崎駅。伊勢崎市の中心市街地が西側に広がり、伊勢崎市役所の最寄り駅である。その中心市街地を囲うような線形で進路を西に変えると両毛線と並走し、終点の伊勢崎駅に至る。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "館林駅 - 太田駅間においては、1994年10月に沿線自治体が「東武鉄道複線化促進期成同盟会」を結成し、毎年複線化の要望を行ってきた。2006年9月に東武鉄道は『上毛新聞』の取材に対して、10年間で3割近く利用者が減少しており、複線化は実現の見通しがないことを明らかにした。また、同区間では小泉線経由の方が距離が短いが(伊勢崎線経由は20.1km、小泉線経由の実キロは16.2km)、両駅間を結ぶ直通列車の運行は伊勢崎線経由に限られ、小泉線館林駅 - 東小泉駅 - 太田駅間の営業キロ数も伊勢崎線に合わせる形で割増されている。一方で所要時間は同区間までの前後の列車及び東小泉駅での乗り換え時間によって小泉線経由の方が早い場合もあれば、伊勢崎線経由の方が早い場合もある。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "当線で運行される列車及び運行本数は以下の通り。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日中1時間あたりの運行本数は以下の通り(2022年3月12日現在)。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "浅草駅発着で北関東各地域とを結ぶ下記の特急列車が運行されている。詳細は各記事を参照。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このうち、「りょうもう」・「リバティりょうもう」は、浅草から東武動物公園以北へ直通する。「りょうもう」の桐生線の赤城駅発着を主とするが、浅草駅 - 伊勢崎駅間全線を運行する列車もある。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "このほか、東武宇都宮線直通の「しもつけ」が2020年6月5日まで(新型コロナウイルス感染拡大防止のため「しもつけ」含む一部の特急が同年4月25日から6月5日まで運休となったため、4月24日で運転終了)、「きりふり」が2022年3月6日まで設定されていた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2020年6月6日に運転を開始した、東京メトロ日比谷線直通の有料座席指定列車。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "急行列車は久喜駅・日光線南栗橋駅(一部東武動物公園駅)発着で、押上駅より東京メトロ半蔵門線に乗り入れ、渋谷駅を経由して東急電鉄田園都市線の中央林間駅(一部長津田駅)まで運行される列車である。曳舟駅 - 東武動物公園駅間は主要駅のみ停車して速達輸送の役割を担う。路線図上のシンボルカラーは濃ピンク■ 。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "当種別は2003年3月19日の半蔵門線直通開始と同時に通勤準急として東武動物公園駅・南栗橋駅発着で運行を開始し、平日ダイヤで朝に上り4本・夕方に下り19本が、土休日ダイヤで上り1本・下り2本が設定された。2006年3月18日ダイヤ改正からは現行の急行に名称が変更され、東武動物公園駅 - 久喜駅間が運行区間として拡大されるとともに、ほぼ終日に渡り運行されるようになった。なお、それまでの別途料金が必要な急行(「しもつけ」・「きりふり」・「ゆのさと」)は全て特急に変更された。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "全列車が10両編成で、終日約10分間隔で運行されている。主に草加駅とせんげん台駅で緩急接続を行う。かつては後述する区間急行(旧・準急)のように久喜駅や南栗橋駅以北へ直通する列車が多数存在したが、2006年3月18日のダイヤ改正による半蔵門線直通列車の大増発に伴い両駅を境にしての系統分割が行われた。このため久喜駅では館林駅・太田駅方面、南栗橋駅では新栃木駅方面の各駅停車に相互接続が考慮されている。また、曳舟駅では浅草駅発着列車との相互接続も考慮されている。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "区間急行は主に浅草駅 - 館林駅間および日光線南栗橋駅間で運行される。北千住駅 - 東武動物公園駅間では主要駅のみ停車して速達輸送の役割を担い、その他の区間では各駅に停車する。路線図上のシンボルカラーは薄ピンク■。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2017年4月21日改正ダイヤでは、下り列車は浅草駅基準で平日が5 - 9・16 - 23時台、土休日が5 - 9・21 - 23時台、上り列車は東武動物公園駅基準で平日が5 - 9・22 - 23時台、土休日が5 - 9・23時台の運転となっている。基本的に6両編成であるが平日朝ラッシュ時の館林駅・南栗橋駅 - 浅草駅間、夕ラッシュ時に設定されている館林駅行きの一部列車では8両編成で運転される。なお、北千住駅発着も「区間急行」であり「急行」とはならない。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2006年3月17日までは準急として伊勢崎線・日光線・宇都宮線の全線で終日運転され、東武本線の特別料金不要の速達列車として最も長い歴史があった。2003年3月17日までは業平橋駅発着列車、2006年3月17日までは伊勢崎駅発着と東武宇都宮駅発着もあった。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2006年3月18日のダイヤ改正で、現行の区間急行に名称が変更された上で運行区間・本数が削減された。区間急行となった後も2009年6月5日までは東武日光駅発着(および会津田島駅発)の列車も存在していたが、翌6月6日のダイヤ改正を機に新栃木駅で系統分割された。さらに2013年3月16日のダイヤ改正によって、日光線新栃木駅発着の区間急行は南栗橋駅 - 新栃木駅間の普通列車や浅草駅 - 東武動物公園駅間の区間準急に置き換えられる形で大幅に削減され、南栗橋車両管区新栃木出張所への入出庫を兼ねた6050系の6両編成による1往復のみ(早朝の新栃木駅発・深夜の新栃木駅行き)となった。この列車も2017年4月21日のダイヤ改正で快速・区間快速が廃止され6050系が伊勢崎線から撤退したことに伴い消滅した。その後も運行区間の整理が順次行われている。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2013年3月16日以降は前述の通り最大でも8両編成での運行であるが、準急時代の1986年8月26日から2013年3月15日まではラッシュ時に10両編成での運行もされていた。同年3月16日のダイヤ改正で10両編成の運行が全廃された。10両編成で運行されていた当時には、南栗橋駅・館林駅及び北千住駅・曳舟駅で増解結作業を行い、新栃木駅・太田駅方面及び浅草駅方面へ直通運転を行う列車もあった。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "平日朝の上りには地下鉄半蔵門線直通車両(30000系の直通対応車または50050型)が使用される北千住駅止まりの区間急行が1本存在したが、2013年3月16日のダイヤ改正で当該列車は半蔵門線直通の急行に変更された。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "準急列車は久喜駅・日光線南栗橋駅(一部は北越谷駅・東武動物公園駅)発着で、押上駅より東京メトロ半蔵門線に乗り入れ、渋谷駅を経由して東急田園都市線の中央林間駅(一部は長津田駅)まで運行される列車である。その他に半蔵門線内発として清澄白河駅発の列車が早朝に設定されている。東急田園都市線内では急行や準急、または各駅停車として運転される。路線図上のシンボルカラーは緑■。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "押上駅 - 新越谷駅間の停車駅は急行と同じで、新越谷駅 - 久喜駅・南栗橋駅間は各駅に停車する。全列車が10両編成であり、早朝から朝ラッシュまでと深夜に運行される。2003年3月19日の半蔵門線直通開始当初は区間準急として平日ラッシュ時以外に運行されていたが、当時既に存在していた浅草駅発着の区間準急(後述)と曳舟駅 - 北千住駅間で停車駅が異なるなどの観点から、2006年3月18日のダイヤ改正で現行の準急に名称が変更された上で早朝から朝ラッシュ後までと深夜のみの運行となった。かつては長津田駅 - 北越谷駅間のみ準急運転を行う下り列車があった。この当時、東急線内は上り(渋谷方面)かつ平日しか設定されなかった。その後、2014年6月21日のダイヤ改正で東急線の下り(中央林間方面)および土休日にも設定されたため、平日朝の久喜駅発長津田駅行きの1本は全区間で準急として東京メトロ車で運転されている。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "準急(および区間準急)が運行される時間帯は、地下鉄日比谷線方面からの普通列車は大半が北越谷駅発着となり、新越谷駅 - 久喜駅・南栗橋駅間で各駅に停車する準急が同区間における各駅停車の役割を果たしている。また、せんげん台駅で特急の通過待ちを行う列車もあり、日光線方面では南栗橋駅で東武日光駅行きの急行と接続する列車も存在する。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "急行同様、曳舟駅で浅草方面発着列車との接続が考慮されている。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "列車種別案内などでは「準急」は「区間急行」の下位種別側に記されているが、準急が各駅に停車する越谷駅 - 東武動物公園駅間では区間急行はせんげん台駅と春日部駅のみに停車する一方で、準急が通過する曳舟駅 - 北千住駅間では区間急行は各駅に停車する。したがって、準急と区間急行はその緩急順位が全区間で一定しない。そのため、下り列車では曳舟駅で準急に抜かれた区間急行がせんげん台駅か春日部駅で準急を抜き返し、上り列車では北春日部駅またはせんげん台駅で区間急行に抜かれた準急が曳舟駅で追い付くダイヤになっている。かつて朝夕ラッシュ時の上り準急列車の一部では、せんげん台駅で抜かれた区間急行を鐘ヶ淵駅で抜き返し曳舟駅には準急の方が先に到着するというダイヤが組まれていたが、煩雑さの解消と利便性確保のため曳舟駅まで区間急行を先行させるように改めた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "区間準急列車は主に浅草駅 - 東武動物公園駅間(一部は久喜駅・館林駅・日光線南栗橋駅発着)で運行されている列車である。また運用の関係で北千住駅発着(始発は土休日のみ)、北越谷駅着、北春日部駅発着もある。路線図上のシンボルカラーは黄緑■。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "急行線を走行する北千住駅 - 新越谷駅間の停車駅は急行と同じであるが、それ以外の区間では各駅に停車する。2013年までは日中にも運転されていたが、現在は朝ラッシュ時と夕ラッシュ時に運転されている北越谷駅発着の普通を補完する形で朝と夕方以降に運転されている。また、土休日運行の久喜駅行きは東武動物公園駅で後発の南栗橋駅行きとの接続を行う。基本的に6両編成であるが8両編成で運転される場合もある。なお、2013年3月15日までは平日朝の区間急行の折り返しと夜間の北千住駅発北春日部駅行きの1本のみは10両編成で運転されていた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "当種別は1997年3月25日に運行開始。北千住駅 - 南栗橋駅間で30分おきに運転され、浅草駅発北春日部駅行き(浅草駅 - 北千住駅間は各駅停車)の列車も深夜に1本のみ設定された。2003年3月19日から日中の北千住駅発着列車を延長・増発する形で曳舟駅 - 北千住駅間ノンストップの押上・半蔵門線方面直通列車(現・準急)が設定されたが、朝夕を中心に北千住駅発着と浅草駅発北春日部駅行きも残存した。準急の節で述べた停車駅の違いによる問題から、2006年3月18日のダイヤ改正から押上・半蔵門線方面への区間準急が準急に名称変更され、区間準急は浅草駅・北千住駅発着専用の種別となった。同時に運転区間も浅草駅 - 北千住駅間、東武動物公園駅 - 太田駅間に延長され浅草駅発着が主となった。北千住駅発着は朝夕に限定され、2009年6月6日に北千住行きが、2013年3月16日に北千住始発が廃止された。その後、北千住行きは2013年に、北千住始発は2017年4月21日にそれぞれ復活した。昼間時間帯の浅草駅 - 久喜駅間は廃止となり浅草駅 - 竹ノ塚駅間の普通列車に格下げされた。区間急行同様に北千住駅発着も「区間準急」であり「準急」とはならない。2020年6月6日のダイヤ改正で伊勢崎線太田駅発着が廃止され、館林駅発着に短縮となった。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "普通列車は主に以下の区間で運行される(送り込み運用などで例外あり)。車内や駅でのアナウンスでは、各駅停車と称される(ごく一部の駅アナウンスでは「普通」を使用)。路線図上のシンボルカラーはグレー■。北千住駅 - 東武動物公園駅・南栗橋駅間の列車(大部分は日比谷線直通列車)は7両編成(70000系と東京メトロ13000系)、ワンマン運転区間では3両編成、その他は基本的に6 - 8両編成で運転される。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "上記に含まれない東武動物公園駅 - 久喜駅間(途中駅は和戸駅のみ)では、特急以外の全列車が終日各駅に停車するため、普通列車はごくわずかである。この区間で完結する列車は平日の9時台に上りの久喜駅発東武動物公園駅行きが2本存在するのみであり、その他に下りは北春日部駅発館林駅行きが2本、東武動物公園駅発館林駅行きが4本、上りは館林駅発東武動物公園駅行きが平日1本、休日5本設定されている。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "この節で単に『準急』と記したものは、2006年3月17日以前に設定されていた準急(2006年3月18日以降の区間急行)を示すこととする。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "種別名変更された旧準急は「区間急行」、旧通勤準急は「急行」を参照。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1987年7月21日のダイヤ改正で廃止された種別である。北千住 - 太田・新大平下間で快速運転を行う種別で、休日にも運転されていた。廃止時は東武日光駅・東武宇都宮駅(新栃木駅で東武宇都宮駅発着2両を分割併合)発着の上下1往復のみ設定されていたが、所要時間は北千住駅 - 春日部駅間で上り35分(休日は31分)、下り31分であり、準急を追い抜かすことはなかった。この影響で北千住駅 - 春日部駅間の休日上りダイヤでは、前後の準急が14分開いた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "当種別が廃止された後、伊勢崎線では6往復だけ設定される準急A(後述)としてしばらく名残が見られ、日光線では東武日光駅・東武宇都宮駅発着の準急として2006年3月17日まで名残が見られた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "車両は、日光線方面発着列車であっても4扉通勤車が用いられ、種別表示に「通勤快速」がない車両では「快速」と表示されていた。かつて5000系が登場直後に充当された種別でもある。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2003年3月18日までは、浅草駅 - 伊勢崎駅間で運行されていた準急の一部(廃止時は日中のみに上下6本ずつ・1時間ごと)が北千住 - 太田間を速達運転する「準急A」として設定されており、北千住駅 - 東武動物公園駅間のみを速達運転する「準急B」と区別していた。ただし、種別表示では単に「準急」と書かれ、東武時刻表の当該路線のページや放送などの旅客案内上もAやBという呼称は用いず、「東武動物公園 - 北千住間準急」「太田まで準急」などと、準急運転区間の駅名を用いて案内されていた。また東武動物公園駅以北を各駅に停車する走る準急Bや普通との接続は考慮されていなかった。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "準急Aの廃止により、準急の速達運転区間が北千住 - 東武動物公園間に統一された。また東武動物公園駅〜大田駅間の準急A通過駅は実質的に増便となった。準急Bの停車駅は現在の区間急行に引き継がれているが東武動物公園以北の乗り入れ区間が館林駅・南栗橋駅までに縮小されている。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2017年4月21日のダイヤ改正で廃止された種別である。快速・区間快速の停車駅は日光線内で違いがあるが、伊勢崎線(東武スカイツリーライン)内では同じである(下記参照)。東武動物公園駅から日光線・鬼怒川線・野岩鉄道会津鬼怒川線・会津鉄道会津線を経由して、栃木県の東武日光駅および福島県の会津田島駅に至る長距離列車であった。シンボルカラーは、以前は赤・オレンジであったが、区間快速設定後は快速が青■、区間快速が水色■。伊勢崎線内の停車駅は急行より少なかった。詳細は「東武日光線快速・区間快速」を参照のこと。廃止直前では6050系が充当されており、多客時には1800系が使用されることもあった。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "前述した同じ「区間」のつく「区間急行」と「区間準急」は浅草駅 - 北千住駅間は各駅に停車するが、「区間快速」は浅草駅 - 北千住駅間では途中とうきょうスカイツリー駅のみ停車する。当初は2012年3月17日に業平橋駅から改称したとうきょうスカイツリー駅にも同日から一部の特急が停車していたが、快速や区間快速は通過していた。2013年3月16日より快速・区間快速ともに停車駅となったが、日中の運転本数が1時間に1本から2時間に1本に削減された。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "この列車は、関東の大手私鉄の料金不要列車では唯一関東外の地域(福島県)まで乗り入れていた。浅草と日光及び福島を結ぶ料金不要の長距離列車として50年以上走り続けてきたが、2017年4月21日の特急「リバティ」運行開始に伴い廃止された。ダイヤ改正直後のゴールデンウィークは、かつての快速停車駅に加えて日光線の南栗橋駅と栗橋駅に停車する臨時列車として運転された。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "以下の路線との相互直通運転が実施されている。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "鬼怒川線新藤原駅を経由して、特急「リバティ会津」が浅草駅から野岩鉄道会津鬼怒川線経由会津鉄道会津線会津田島駅まで運行されている。1日4往復運転され、500系が充当される。2017年4月21日のダイヤ改正までは快速・区間快速列車が運行され、6050系が充当されていた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "観光シーズンには夜行列車(「尾瀬夜行」・「スノーパル」)も運行され、かつては300型・350型が充当されていたが、「尾瀬夜行」は2018年6月、「スノーパル」は同年12月の運用からいずれも500系に置き換えられた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "北千住駅を経由して、普通列車が日光線南栗橋駅から東京メトロ日比谷線中目黒駅まで運行されている。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "戦前より、東武鉄道は独力で都心までの路線延伸を企図していた。戦前期には筑波高速度電気鉄道の免許を使って北千住駅 - 上野駅間の延伸を果たそうとしたが、買収価格を引き下げようとした結果京成電鉄に購入されてしまい失敗した。高度成長期には北千住駅から上野・新橋方面までの延伸を計画したが、「都心乗り入れは地下鉄との相互直通運転で」という都市政策上計画を断念し、1962年5月31日の北越谷駅から営団地下鉄日比谷線人形町駅まで相互直通運転開始により都心直結を実現した。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "相互直通運転開始後、沿線の埼玉県草加市や越谷市などは東京近郊のベッドタウンとして人口が急増した。翌1963年2月28日には相互直通運転区間を東銀座駅まで延長し、1964年8月29日の日比谷線全通により中目黒駅までの乗り入れを開始した。1966年9月1日には北春日部駅まで相互直通運転区間が延長され、同年の武里団地開設もあって埼玉県春日部市の人口が急増した。さらに1981年3月16日からは、同日に杉戸駅から改称された東武動物公園駅まで相互直通運転区間を延伸した。これにより、日比谷線区間内でも「東武動物公園行きが参ります」と駅名が連呼され、日比谷線各駅の案内でも「北千住・東武動物公園方面」と表示されるようになり、3月28日に開業した東武動物公園の宣伝にも一役買った。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "日比谷線は2013年3月15日まで東急東横線とも相互直通運転を行っていたが、当時から3社を直通する列車はなく、伊勢崎線方面からの列車は中目黒止まり(一部は南千住駅・霞ケ関駅・六本木駅折り返し)となっていた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "2013年3月16日には日光線南栗橋駅まで相互直通運転区間が延長された。ただし、それ以前にも例外として、2003年3月19日より朝に1本のみ南栗橋発中目黒行きの普通列車が設定されていた。この列車は東武鉄道の車両での運行であった。このほか、南栗橋車両管区への入庫のための間合い運用として、東武鉄道の日比谷線直通用車両による東武動物公園駅発南栗橋駅行きの普通列車が運行されていた。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "北千住駅 - 東武動物公園駅間の各駅停車は、一部を除いて全列車が日比谷線直通列車である。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "日比谷線では2社(2013年3月15日までは3社)の車両が使用されており、列車番号末尾アルファベットの「T」は東武所有車両(20000系列, 70000系・運用番号は01T - 37Tの奇数)、「S」は東京メトロ所有車両(03系, 13000系・運用番号は02S - 74Sの偶数と61S・63S)、「K」は東急所有車両(1000系・運用番号は81K - 87Kの奇数、偶数の両方)を示しているが、東武鉄道の車両は東急東横線に乗り入れることができず、東急の車両も伊勢崎線に乗り入れることができなかった。また東京メトロの車両は東武・東急への乗り入れが可能であるが、結局日比谷線経由で3社を直通する列車は設定されなかった。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "各社間の走行距離調整の関係上、東武の車両(2013年3月15日までは東急の車両も)は日比谷線内のみで運転される列車にも使用されている。また2013年3月16日改正ダイヤでは、東武車2本が日比谷線内の千住検車区で、メトロ車2本が南栗橋車両管区春日部支所でそれぞれ夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。どの列車がどの会社の車両で運転されるかは、『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄などで分かる。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "押上駅を経由して、急行・準急列車が久喜駅・日光線南栗橋駅から半蔵門線・田園都市線経由で中央林間駅まで運行されている。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "日比谷線との直通運転開始後、沿線の人口が急増するとともに伊勢崎線も乗客が急増した。東武鉄道は北千住駅以北の複々線化で輸送力増強・混雑緩和を図ってきたが、北千住駅での日比谷線との乗り換えに伴う混雑が非常に激しくなり、抜本的な改良が求められた。同一ホームでの乗り換えから伊勢崎線(1階)と日比谷線(3階)に乗り場を分離する北千住駅重層化が1996年7月に完成し、ホームに乗客があふれる状況は軽減された。北千住駅の重層化と並行して、さらなる混雑緩和対策として「もう1つの都心直通ルート」を検討した結果、当時東京北東部への延伸計画のあった半蔵門線との直通運転を行うこととなった。当時の帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が水天宮前駅から押上駅まで延伸、東武鉄道が曳舟駅から押上駅までの連絡線(正式には業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅) - 曳舟駅間の線増扱い)建設を行い、2003年3月19日より直通運転が始まった。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "半蔵門線直通列車は東急田園都市線まで乗り入れ、久喜駅・南栗橋駅 - 押上駅 - 渋谷駅 - 中央林間駅で運用される。これにより、東武の車両が営業運転としては初めて神奈川県内でも見られるようになった。一部に北越谷駅・東武動物公園駅や田園都市線の鷺沼駅・長津田駅発着列車が運行されるほか、平日の上り最終列車は押上止まり(押上駅で半蔵門線の押上発の列車に接続)となる。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "車両は3社の車両が使用され、列車番号末尾アルファベットの「T」は東武車両(50000型、50050型・運用番号は50T - 82Tの偶数)、「S」は東京メトロ車両(8000系、08系、18000系・運用番号は51S - 93Sの奇数)、「K」は東急車両(5000系、2020系・運用番号は01K - 37Kの奇数、偶数の両方と45K)を表している。日比谷線・東横線と異なり、東急車の一部を除いて3社への乗り入れが可能であり、上述のような3社直通電車が運行される。ダイヤの乱れが生じた場合は、この限りではない。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "なお、走行距離調整の関係などから東武車両は田園都市線から半蔵門線の押上駅で折り返す列車及び長津田駅 - 中央林間駅間の区間運転列車にも使用されているほか(後者は3社とも使用)、東武車両の2本が長津田車庫で、東急車両の2本が南栗橋車庫でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。前述の日比谷線直通列車と同様、どの列車がどの会社の車両で運転されるかは、『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄などで判る。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "事故などのトラブルで直通運転が不可能となった場合、伊勢崎線から半蔵門線に直通する列車は北千住駅にて折り返す。また、半蔵門線側から伊勢崎線に直通する列車は、終着駅である押上にて折り返し運転を行う。このため、3社の車両には通常は使用しない「北千住」の行き先表示が用意されている。しかし、直通運転が中止された場合の東武線内での運用は、原則として東武の車両となっている。行き先が「北千住」となった場合、電車は北千住駅で折り返し運転を行うのではなく、一度、曳舟駅に回送される。一定時間待避した後折り返し、北千住駅へ向かう。この時、曳舟駅 - 押上駅間は不通となり両駅を結ぶ列車が運行されなくなるので、押上駅へ行くときはとうきょうスカイツリー駅からの徒歩連絡となる。それにあわせて大手町駅 - 北千住駅間では東京メトロ千代田線に乗るよう案内される。そのため、運行トラブルが発生すると北千住駅 - 押上駅 - 大手町駅間で通常時よりも所要時間がかかる。東京メトロ半蔵門線直通列車の運転再開までに要する時間は東京メトロ日比谷線直通列車の運転再開までに要する時間よりも長くなる傾向にあり、夜間にダイヤの乱れが生じた場合は東武・東京メトロ・東急の車両が各自の車両基地(南栗橋・鷺沼・長津田)に戻れないことがある。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "前述の不通による影響を考慮し、2013年度より東武線の折り返し運転の設備が整備されることになった。具体的には曳舟駅2番線と押上駅1番線を繋ぐもので、整備は2013年10月末に完了し、北千住方面からの折り返しが可能になった。しかし、実際に使用されたことは2017年時点ではない。",
"title": "運行概況"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "2005年5月9日から半蔵門線・東急田園都市線での導入に合わせて、平日朝ラッシュ時間帯の上り優等列車を対象に女性専用車が設定された。2006年3月27日から日比谷線での導入に合わせて、平日朝ラッシュ時間帯の日比谷線に直通する上り普通列車にも女性専用車が設定された。混雑率が低い浅草駅行きの普通列車は女性専用車が設定されていない。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "対象となる列車は、東武鉄道の公式サイトに掲載されているほか、駅構内へ掲出されている時刻表に記述されている。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "女性専用車はいずれも最後尾の車両に設定されている。小児や身体の不自由な人とその介助者・保護者は性別を問わず乗車出来る。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "なお、半蔵門線直通列車の場合、10号車(押上・渋谷方先頭車両)にも女性専用車のステッカーが掲出されているが、これは直通先の東急田園都市線方面からの列車が、始発駅→半蔵門線内(東武線直通列車は押上まで)で女性専用車となるためであり、東武線内では無関係である(同様に田園都市線方面からの列車の場合、1号車に女性専用車は設定されない)。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は小菅駅 → 北千住駅間であり、ピーク時(7:30 - 8:30)の混雑率は127%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "混雑率は1995年度まで180%を超えていたが、北千住駅の改良工事が完了した1996年度に170%を下回った。その後も輸送力の増強と輸送人員の減少により混雑率は緩和傾向が続き、半蔵門線との直通運転を開始した2002年度のダイヤ改正では、ピーク1時間あたりの輸送力が私鉄最大の51,540人となり、混雑率が150%を下回った。その後のダイヤ改正は、輸送人員の減少に合わせて輸送力を削減したことで、混雑率は2012年度まで140%程度で推移していた。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2013年度のダイヤ改正では、朝ラッシュ時に運転されていた10両編成の区間急行が全て8両編成になり、輸送力が大幅に削減された。その一方で、輸送人員の減少に歯止めがかかったことにより、混雑率は150%程度で推移している。2017年度のダイヤ改正では、それまで朝ラッシュ時間帯のピーク時に運行されていなかった特急列車が初めて設定された。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "種別や車両位置に関わらず全体的に混雑率が高く、北千住駅を7:40 - 8:10頃に到着する列車が最も混雑する。10両編成で運転される急行および準急は半蔵門線に直通し、8両編成で運転される区間急行より混雑率がやや高い傾向がある。7両編成で運転される普通は日比谷線に直通し、同様に混雑する。ピーク時の前後に運転されていた竹ノ塚駅始発浅草駅行きの普通列車は混雑率が非常に低かったが、2020年度のダイヤ改正で廃止された。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "2008年度の一日平均通過人員は北千住駅 - 小菅駅間が526,730人であり、伊勢崎線で最も多い。北千住駅は伊勢崎線で最も乗降人員が多い駅であり、同駅を介して日比谷線との相互直通運転が行われている。牛田駅 - 北千住駅間の一日平均通過人員は153,984人であり、北千住駅 - 小菅駅間の3割程度になる。押上駅を介して半蔵門線との相互直通運転が行われているため、日比谷線と半蔵門線の直通列車が経由しない浅草駅 - とうきょうスカイツリー駅(押上駅)の一日平均通過人員は54,414人まで減少し、北千住駅 - 小菅駅間の1割程度になる。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "埼玉県との都県境を跨ぐ竹ノ塚駅 - 谷塚駅間が395,703人、複々線区間の北端にあたる越谷駅 - 北越谷駅間が291,344人、東武スカイツリーラインの北端にあたる姫宮駅 - 東武動物公園駅間が130,805人であり、東武スカイツリーラインの愛称区間は東京圏の通勤路線として機能している。東武動物公園駅で日光線と分岐するため、東武動物公園 - 和戸間の一日平均通過人員は61,799人に減少する。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "久喜駅でJR宇都宮線と接続するため、和戸駅 - 久喜駅間の一日平均通過人員が59,729人であるが久喜駅 - 鷲宮駅間で66,385人に増加する。その後も一日平均通過人員が減少し、群馬県との県境を跨ぐ羽生駅 - 川俣駅間が26,526人、複線区間の北端にあたる茂林寺前駅 - 館林間が24,518人で、北千住駅 - 小菅駅間の5%程度となる。館林駅で佐野線と小泉線に接続して単線区間となり、館林駅 - 多々良駅間は16,514人に減少する。単線区間は乗降人員が1,000人に満たない駅も存在する。太田駅より先は一日平均通過人員が8,000人を下回り、最も一日平均通過人員が少ない新伊勢崎駅 - 伊勢崎駅間が5,443人で、北千住駅 - 小菅駅間の1%程度となる。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "2006年3月18日のダイヤ改正までは昼間の料金不要の速達列車は6両編成で運転されていたが、原則70km以上を超えるロングラン運転を行っていたことから上記のような通過人員の変動を大きく受けていた。複々線区間は輸送力不足であった反面、単線区間は輸送力過剰であった。2003年3月19日のダイヤ改正までは日中に東武動物公園駅 - 太田駅間で通過運転を行う料金不要の速達列車が毎時1本運転されていたが、もともと日中の運転本数が毎時3本程度と少ない区間であり、緩急接続を行わないため通過駅の利便性を低下させる要因となっていた。現在のダイヤは久喜駅と館林駅で運用を分離し、運行区間と時間帯によって編成数を3両編成から10両編成まで分けることにより、適正な輸送力の確保と車両運用の効率化が図られている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "特に記述の無い駅は両方向の列車の待避が可能である。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "また、回送列車のみ使用する待避線が西新井駅(下りのみ)、春日部駅(両方向の待避が可能)、東武動物公園駅(下りのみ。伊勢崎線列車は両方向の待避が可能)、足利市駅(両方向の待避が可能)に存在する。かつては大袋駅(上下線)、鷲宮駅(中線)、川俣駅(上りのみ)にも待避線が存在したが、せんげん台駅、久喜駅、羽生駅に待避機能が集約されたため、現在は架線や線路が撤去され2面2線構造となっている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "特に記述の無い駅は伊勢崎方面のみに設置。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "また、複々線化工事の進捗に合わせて暫定的に越谷駅に留置線が設置されていた。かつては新伊勢崎駅にも留置線が存在したが、高架化により廃止された。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "復活・営業再開した駅を除く。休止・廃止日は最終営業日の翌日。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "伊勢崎線は1899年(明治32年)、東武鉄道で最初に開業した路線であり、東武鉄道の社名はこの時に開業した北千住駅 - 久喜駅間(以下「発祥区間」と表記)の地域を指す「武蔵国東部」に由来する。このことから現在でも発祥区間を中心として俗に「東武線」と呼ばれることがある。これは東武鉄道が複数の路線からなる広大な路線網を持つ前の名残でもある。",
"title": "名称について"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "また、会社自体にも発祥路線意識が滲み出ており、1990年代までは駅表札に冠する社名表記では路線によって「東武線」・「東武野田線」・「東武東上線」と統一されず、発祥区間を持つ伊勢崎線を中心とする路線に絞って「東武線」が使われていた。2012年に導入された「東武スカイツリーライン」の区間愛称にもわざわざ「東武」を冠しているところにも現れている(野田線の愛称導入は2014年)。",
"title": "名称について"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "館林駅以北は、足利市駅・太田駅・伊勢崎駅以外自動改札機設置駅がないが、2007年3月18日にICカード「PASMO」サービス開始により自動改札非設置駅には簡易型PASMO読取機が設置された。",
"title": "乗車カードの対応状況"
}
] |
伊勢崎線(いせさきせん)は、東京都台東区の浅草駅から群馬県伊勢崎市の伊勢崎駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線である。また、押上駅から曳舟駅の区間も伊勢崎線の一部である。浅草駅 - 東武動物公園駅間及び押上駅 - 曳舟駅間には「東武スカイツリーライン」という路線愛称名が付けられている。駅ナンバリングの路線記号は浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間がTS、東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間がTI。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Tōbu Tetsudō Logo.svg|50px|link=東武鉄道]] 伊勢崎線
|路線色=#0067c0
|路線色2=#ed1a3d
|ロゴ=[[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|40px|シンボルマーク]] [[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|40px|シンボルマーク]]
|画像=Tokyo Skytree & Tobu 100 series - 02.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[東京スカイツリー]]をバックに走る「[[東武200系電車|りょうもう]]」<br>(2018年11月)
|通称=東武スカイツリーライン(浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間)
|国= {{JPN}}
|所在地=[[東京都]]・[[埼玉県]]・[[栃木県]]・[[群馬県]]
|起点=[[浅草駅]]
|終点=[[伊勢崎駅]]
|駅数=55駅
|路線記号=TS(浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間)<br />TI(東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間)
|路線色3={{Color|orange|■}}オレンジと{{Color|#0067c0|■}}青(浅草駅 - 東武動物公園駅間及び押上駅 - 曳舟駅間)<br>{{Color|#ed1a3d|■}}赤と{{Color|black|■}}黒(東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間)
|開業={{start date and age|1899|8|27}}
|最終延伸={{start date and age|1931|5|25}}
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東武鉄道]]
|運営者=東武鉄道
|車両基地=[[南栗橋車両管区]]
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離=114.5 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複々線]](とうきょうスカイツリー・押上駅 - 曳舟駅間・北千住駅 - 北越谷駅間)<br />[[複線]](浅草駅 - とうきょうスカイツリー駅間・曳舟駅 - 北千住駅間・北越谷駅 - 館林駅間)<br />[[単線]](館林駅 - 伊勢崎駅間)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最大勾配= 35 ‰
|最小曲線半径= 100 m(浅草駅付近)
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|東武TSP式]](東武形[[自動列車停止装置|ATS]])
|最高速度=110 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="himitu">『東武鉄道のひみつ』([[PHP研究所]])</ref><br />(東武スカイツリーライン区間は100 km/h)
|路線図=[[File:Tobu Railway Linemap.svg|300px]]
|路線図表示=<!--collapsed-->
}}
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#0067c0}}
{{BS-table}} <!--モバイルビューでは表示がずれるので BS5に統一しています。-->
{{BS5||tSTR|O2=POINTERg@fq|tSTR+l|||||[[都営地下鉄|都営]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]|}}
{{BS5||tBHF|O2=HUBaq|tKBHFe|O3=HUBlg|||||[[東京地下鉄]][[東京メトロ銀座線|銀座線]]|}}
{{BS5||tSTR|KBHFa|O3=HUBe|||0.0|TS-01 [[浅草駅]]|[[Image:BSicon_exTRAM.svg|14px|都電]]''[[東京都電車|都電]]''|}}
{{BS5||tKRZW|hKRZWae||||[[隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)|隅田川橋梁]]|[[隅田川]]|}}
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{{BS5||tSTR|eBHF|||0.5|''[[隅田公園駅]]''|<ref group="図">1943年休止、1958年廃止</ref>|}}
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{{BS5|tSTR|tSTR|BHF|||1.1|TS-02 [[とうきょうスカイツリー駅]]|[[Image:BSicon_exTRAM.svg|14px|都電]]''都電''|}}
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{{BS5||ABZ+1l|STRq|O3=STRc4|STRq|STRq|||東京地下鉄[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]<ref group="直通先" name="chokutsu" />|}}
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{{BS5||STRq|ABZgr|||||[[東武桐生線|桐生線]]<ref group="直通先" name="chokutsu" />|}}
{{BS5|||BHF|||97.8|TI-19 [[細谷駅 (群馬県)|細谷駅]]||}}
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<references group="直通先" />
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|}
'''伊勢崎線'''(いせさきせん)は、[[東京都]][[台東区]]の[[浅草駅]]から[[群馬県]][[伊勢崎市]]の[[伊勢崎駅]]を結ぶ[[東武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。また、[[押上駅]]から[[曳舟駅]]の区間も伊勢崎線の一部である。浅草駅 - [[東武動物公園駅]]間及び押上駅 - 曳舟駅間には「'''東武スカイツリーライン'''」({{lang|en|TOBU SKYTREE Line}})という路線愛称名が付けられている<ref name="tobu20120209">{{Cite press release|和書|title=伊勢崎線 浅草・押上 ⇔ 東武動物公園間に路線愛称名を導入 「東武スカイツリーライン」誕生 ! 〜 あわせて駅ナンバリングを導入し、よりわかりやすくご案内します 〜|publisher=東武鉄道|date=2012-02-09|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/017af1e69f2ac63a8b2dea3d14de7a49/120209_1.pdf?date=20120313092459|format=PDF|accessdate=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120806220158/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/017af1e69f2ac63a8b2dea3d14de7a49/120209_1.pdf?date=20120313092459|archivedate=2012-08-06|quote=東京スカイツリータウンにつながる路線として 愛称名「東武スカイツリーライン」を導入します。}}</ref><ref group="注">路線愛称設定以降は、愛称区間外(東武動物公園以北)のみを狭義の伊勢崎線として扱う場合がある。また、他社の乗換案内でも同日より使用されているが、一部の路線では従来通り「東武伊勢崎線」あるいは「東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)」と案内される場合がある。</ref>。[[駅ナンバリング]]の路線記号は浅草駅 - 東武動物公園駅間および押上駅 - 曳舟駅間が'''TS'''、東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間が'''TI'''。
== 概要 ==
東武鉄道として最初に開業した[[北千住駅]] - [[久喜駅]]間を含む創業路線であり、[[東京]]の[[下町]]にある[[浅草駅]]から埼玉県の[[埼玉県#10地域区分|東部地域]]と[[埼玉県#10地域区分|利根地域]]を経て群馬県・栃木県の[[両毛]]地域を結ぶ。[[東武日光線]]や[[東武野田線|野田線]](東武アーバンパークライン)などを含めて[[東武本線]](路線群)を構成する路線の一つで、東武日光線や[[東武東上本線|東上線]]とともに東武鉄道の主要幹線である。路線延長は114.5 kmで<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.98</ref>、JRや[[第三セクター鉄道]]を除く日本の[[私鉄]]の路線の中では最も長い<ref group="注" name="next_longest">これに[[近鉄大阪線]]の108.9 kmが続く。伊勢崎線は単線区間が存在しているため、全線複線以上の路線の場合は近鉄大阪線が最長となる。</ref>。[[2012年]]には業平橋駅の貨物ターミナル跡地に[[東京スカイツリー]]及びそれを中核とする[[東京スカイツリータウン]]が開業し<ref>{{Cite web|和書|title=計画地の歴史|url=http://www.tokyo-skytreetown.jp/project/history.html|website=東京スカイツリータウン|accessdate=2021-11-07}}</ref>、それに伴い業平橋駅は[[とうきょうスカイツリー駅]]に駅名を変更した。路線愛称の「東武スカイツリーライン」は[[東武グループ]]のシンボルである東京スカイツリー及び東京スカイツリータウンにつながる路線であることに由来する<ref name="tobu20120209" />。
久喜駅以南は東京近郊の通勤・通学路線としての側面を有する一方で、東京都を起点とする関東[[大手私鉄]]の幹線・本線では唯一JR[[山手線]]との接続駅を持たず、起点の[[浅草駅]]は構造上の理由で7両編成以上の入線に制約があり、[[ターミナル駅]]としての機能が弱い<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【都市鉄道の歴史を探る】スペーシアとロマンスカーが並んだ? 東武の都心直通構想|url=https://trafficnews.jp/post/81540|website=乗りものニュース|date=2018-09-26|accessdate=2021-11-04|language=ja}}</ref>。そのため[[北千住駅]]から[[東京メトロ日比谷線]](7両編成)、[[押上駅]]から[[東京メトロ半蔵門線]]・[[東急田園都市線]](10両編成)との[[直通運転|相互直通運転]]を行うことで、都心部への利便性と輸送力を確保している。そういった経緯から浅草駅に代わって多数の路線が結節する北千住駅が実質的なターミナル駅として機能しており<ref name=":0" />、1日平均乗降人員は東武鉄道の駅でも[[東武東上本線|東上線]]の[[池袋駅]]に次いで多い。北千住駅から[[北越谷駅]]までの[[複々線]]区間 (18.9km) は日本の私鉄最長である。
また、[[東武動物公園駅]]で[[東武日光線|日光線]]が分岐し、[[けごん|「けごん」・「きぬ」]]を始めとした[[日光市|日光]]・[[鬼怒川温泉]]方面に直通する特急列車が浅草駅から発着しており、観光路線としての側面も有する。東京 - 日光間の輸送においては、かつては[[日本国有鉄道|国鉄]](現・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])の[[東北本線]](JR[[宇都宮線]])・[[日光線]]と競合関係にあったが、現在は東武が完全に優位な状況にあり、JR[[新宿駅]]・池袋駅から途中で東武線に直通して[[東武日光駅]]に至る特急[[日光 (列車)|「日光」・「(スペーシア)きぬがわ」]]の設定など、日光・鬼怒川温泉方面の輸送において両社は協力関係にある。
一方で、輸送人員が少ない[[両毛地域]]は一部の駅が[[無人駅]]であり、末端区間はローカル線としての側面も有する。このため、合理化の一環として特急を除く全列車が[[館林駅]]で系統分離されており、館林駅以北の全ての一般列車で[[ワンマン運転]]が実施されている<ref>{{Cite web|和書|title=南栗橋~東武宇都宮で直通運転 伊勢崎線・日光線でワンマン運転拡大 東武ダイヤ改正|url=https://trafficnews.jp/post/96209|website=乗りものニュース|accessdate=2021-11-01|language=ja}}</ref>。[[2006年]]のダイヤ改正以降、浅草駅 - [[伊勢崎駅]]間の全線を直通する列車は特急「[[りょうもう]]」の1往復のみであり、大半の特急「りょうもう」は[[太田駅 (群馬県)|太田駅]]から[[東武桐生線|桐生線]]に直通する。
ラインカラーは、東武スカイツリーライン区間が青、東武動物公園駅以北が赤となっている。各駅の[[駅名標]]には浅草駅 - 東武動物公園駅間がオレンジと青({{Color|orange|■}}{{Color|#0067c0|■}};東武スカイツリーラインのラインカラー)、東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間が赤と黒({{Color|#ed1a3d|■}}{{Color|black|■}};伊勢崎線ラインカラー)が使われている。押上駅は[[東京地下鉄]](東京メトロ)の管理駅のため、東武鉄道のラインカラーは駅番号のシンボルマークにとどまっている。
{{Main2|詳細な路線の概要については「[[#沿線概況]]」を}}
=== 相互直通運転 ===
{{Main2|詳細は「[[#他社線との相互直通運転]]」の節を}}
前述の通り、東京メトロ日比谷線及び東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線と[[直通運転|相互直通運転]]を行うことで、都心直通による利便性の向上と長編成による輸送力の確保を実現している。
; 東京メトロ日比谷線
: [[1962年]]に直通運転を開始。北千住駅を介し、日光線[[南栗橋駅]]まで相互直通運転を実施している。有料着席保証列車の「[[THライナー]]」に限り、久喜駅まで相互直通運転を実施している。当初から18m級3ドア車が運用に充当され、1990年からラッシュ時の対策として5ドア車が運用に充当された。その後の混雑緩和と[[ホームドア]]設置に伴い、[[2020年]]までに全列車が20m級4ドア車7両編成に置き換えられた。「THライナー」を除く全列車が[[各駅停車]]であり、北千住駅 - 北越谷駅間の複々線区間では内側2線の[[急行線|緩行線]]を走行する。
; 東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線
: [[2003年]]に直通運転を開始。押上駅を介し、久喜駅および日光線南栗橋駅まで相互直通運転を実施している。全列車が20m級4ドア車10両編成であるが、[[2005年]]から[[2017年]]までは東急車の一部において6ドア車を繋いだ編成も運用に充当されていた。全列車が[[急行列車|急行]]または[[準急列車|準急]]として運転され、北千住駅 - 北越谷駅間の複々線区間では外側2線の[[急行線]]を走行する。
=== 路線データ ===
*路線距離:114.5km
**旧[[日本国有鉄道|国鉄]]・JR及びこれらから継承された[[第三セクター鉄道]]を除けば一路線の営業キロとして日本最長<ref group="注" name="next_longest" />
*[[軌間]]:1067mm
*[[複線]]区間(合計54.4km):
**浅草駅 - とうきょうスカイツリー駅間 (1.1km)
**曳舟駅 - 北千住駅間 (4.7km)
**北越谷駅 - 館林駅間 (48.6km)
*[[複々線]]区間(合計20.2km):
**とうきょうスカイツリー駅(押上駅) - 曳舟駅間 (1.3km)
***押上駅 - 曳舟駅間はとうきょうスカイツリー駅 - 曳舟駅間の線増扱いで建設された([[京王新線]]と同じ)
**北千住駅 - 北越谷駅間 (18.9km)
***JR以外の日本の鉄道路線では最長の複々線区間。内側が緩行線、外側が急行線([[#区間準急|区間準急]]以上の種別)として運用されている。
*[[単線]]区間:館林駅 - 伊勢崎駅間 (39.9km)
*[[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化(直流1500V)
*[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
*保安装置:[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|東武TSP式]](東武形[[自動列車停止装置|ATS]])
*最高速度:110km/h<ref name="himitu" />(東武スカイツリーライン区間は100 km/h)
*最長編成及びホーム有効長
**10両:押上駅 - 北千住駅間(曳舟駅は1 - 4番線、北千住駅は1階ホーム1 - 4番線)・西新井駅(3 - 6番線)・草加駅(2・5番線)・新越谷駅 - 館林駅間(春日部駅は1・3・4番線、館林駅は2・5番線)※ただし、曳舟駅の1・4番線は浅草方面の発着のため、東向島駅 - 牛田駅間は停車列車の10両編成運用廃止及び半蔵門線・田園都市線直通車通過のため、西新井駅・新越谷駅・越谷駅の緩行線ホームは普通列車のみの発着のため、鷲宮駅 - 館林駅間は10両編成運用廃止のため、いずれも通常ダイヤでは8両編成まで。
**8両:浅草駅(1番線)・とうきょうスカイツリー駅・小菅駅 - 梅島駅間・竹ノ塚駅 - 蒲生駅間(草加駅は3・4番線)・館林駅(3番線)
**7両:北千住駅(3階ホーム5 - 7番線)
**6両:浅草駅(2 - 5番線)・北千住駅(特急専用ホーム)・春日部駅(7・8番線:[[東武野田線|野田線(東武アーバンパークライン)]]ホーム)・多々良駅 - 伊勢崎駅間(太田駅は1 - 4番線)※ただし館林駅 - 伊勢崎駅間は[[ワンマン運転]]のため、特急「りょうもう」以外は[[東武8000系電車|800型]]による3両編成で運転。
**4両:館林駅(1番線:[[東武佐野線|佐野線]]ホーム)
**3両:太田駅(7 - 10番線)
**2両:曳舟駅(5番線:[[東武亀戸線|亀戸線]]ホーム)・西新井駅(1・2番線:[[東武大師線|大師線]]ホーム)・館林駅(4番線:[[東武小泉線|小泉線]]ホーム)・太田駅(5・6番線:[[東武桐生線|桐生線]]及び小泉線ホーム)
*** なお、1990年から2003年までとうきょうスカイツリー駅(当時は業平橋駅)にあった地上ホーム(3 - 5番線)は10両対応だった。このホームの跡地に[[東京スカイツリータウン]]が建設されている。
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:全線([[PASMO]]エリア)
== 歴史 ==
=== 明治 ===
当路線は1899年(明治32年)に北千住駅 - 久喜間駅を開業したことに端を発する。開業当初は、2時間間隔で1日7往復の旅客・貨物混合列車の運転だった。その後も北へ路線を延伸し、1903年(明治36年)に[[利根川]]の右岸に位置していた[[川俣駅]](足利町駅への延伸時に左岸に移転)まで開業したが、この当時、東武鉄道は経営難に陥っていた。その後、1905年(明治38年)に[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]が東武鉄道の社長に就任した後は、彼の経営手腕によって利根川を架橋することが断行され、1907年(明治40年)に足利町駅(現・[[足利市駅]])まで開業した。これ以降は貨物輸送によって経営難から逃れ、1910年(明治43年)に伊勢崎駅までの全線開業に辿り着いた。
その一方、都心側の[[ターミナル駅]]選定には難航する。1902年(明治35年)に北千住駅から吾妻橋駅(現・[[とうきょうスカイツリー駅]])へ延伸開業したものの、[[東武亀戸線|亀戸線]]が開業して[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]両国橋駅(現・[[両国駅]])への乗り入れを果たした1904年(明治37年)に曳舟駅 - 吾妻橋駅間を廃止した。これによって一時は両国橋駅がターミナル駅となったが、1907年(明治40年)に総武鉄道が[[国有化]]されると状況は急変し、東武鉄道は自社のターミナル駅を保有することを迫られた。そこで、廃止していた曳舟駅 - 吾妻橋駅間を1908年(明治41年)に再開業し、1910年(明治43年)に吾妻橋駅を浅草駅に改称した。これが、伊勢崎線の駅で初めての駅名改称となる。
* [[1896年]]([[明治]]29年)[[6月22日]]:仮免状下付(千住 - 足利間)<ref>{{Cite journal |和書 |date=1896-07-03 |title=私設鉄道仮免状及免許状下付 |journal=[[官報]] |issue=3903 |page=7 |publisher=内閣官報局 |id={{NDLJP|2947183}} |url={{NDLDC|2947183/7}}}}</ref>。
* [[1897年]](明治30年)[[9月3日]]:本免許状下付(北千住 - 足利間)<ref>{{Cite journal |和書 |date=1897年9月20日 |title=私設鉄道敷設免許状又ハ仮免状下付 |journal=官報 |issue=4267 |page=9 |publisher=内閣官報局 |id={{NDLJP|2947554}} |url={{NDLDC|2947554/5}}}}</ref>。
* [[1899年]](明治32年)
** [[8月27日]]:北千住駅 - 久喜駅間開業。開業時の途中駅は西新井駅、草加駅、越ヶ谷駅(現・北越谷駅)、粕壁駅(現・春日部駅)、杉戸駅(現・東武動物公園駅)<ref>[{{NDLDC|2948141/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年8月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[12月20日]]:蒲生駅、新田駅、武里駅、和戸駅開業<ref>仮停車場[{{NDLDC|2948231/3}} 「仮停車場設置」『官報』1899年12月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1900年]](明治33年)[[3月21日]]:竹ノ塚駅開業<ref>仮停車場[{{NDLDC|2948308/4}} 「仮停車場設置」『官報』1900年3月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1902年]](明治35年)
** [[4月1日]]:吾妻橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅) - 北千住駅間開業<ref>[{{NDLDC|2948925/22}} 「運輸開始」『官報』1902年4月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[9月6日]]:久喜駅 - 加須駅間開業<ref>[{{NDLDC|2949061/8}} 「運輸開始」『官報』1902年9月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1903年]] (明治36年)
** [[4月23日]]:加須駅 - 川俣駅間開業<ref>[{{NDLDC|2949250/16}} 「運輸開始」『官報』1903年4月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。当時の川俣駅は利根川の右岸(埼玉県)にあった。
** [[9月13日]]:須影駅(現・南羽生駅)開業<ref>[{{NDLDC|2949372/7}} 「停車場開始」『官報』1903年9月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1904年]](明治37年)[[4月5日]]:曳舟駅 - 亀戸駅間(現・亀戸線)開業により、総武鉄道(現・JR[[総武本線]])両国橋駅(現・両国駅)まで直通運転開始。吾妻橋駅 - 曳舟駅間廃止。
* [[1905年]](明治38年)
** [[5月30日]]:本免許状下付(川俣 - 足利間)<ref>[{{NDLDC|2949908/22}} 「私設鉄道株式会社本免許状下付」『官報』1905年6月2日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[7月15日]]:白鬚駅(現・東向島駅)、堀切駅休止<ref>[{{NDLDC|2949936/14}} 「停車場閉鎖」『官報』1905年7月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1907年]](明治40年)[[8月27日]]:川俣駅 - 足利町駅(現・足利市駅)間開業。川俣駅を利根川の左岸(群馬県)に移転<ref>[{{NDLDC|2950610/5}} 「運輸開始並停車場位置変更」『官報』1905年9月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1908年]](明治41年)
** [[3月1日]]:吾妻橋駅 - 曳舟駅間が貨物線として再開業<ref>[{{NDLDC|2950755/19}} 「運輸開始」『官報』1908年3月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[4月8日]]:休止中の白鬚駅、堀切駅廃止<ref>[{{NDLDC|2950784/12}} 「停車場廃止」『官報』1908年4月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[8月31日]]:須影駅廃止<ref>[{{NDLDC|2950911/8}} 「停車場廃止」『官報』1908年9月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[12月25日]]:蒲生駅を南に1.2km移転。新田駅廃止<ref>[{{NDLDC|2951007/11}} 「停車場廃置」『官報』1909年1月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1909年]](明治42年)[[2月17日]]:足利町駅 - 太田駅間開業<ref>[{{NDLDC|2951046/6}} 「運輸開始」『官報』1909年2月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1910年]](明治43年)
** 3月1日:吾妻橋駅を浅草駅に改称<ref>[{{NDLDC|2951358/5}} 「停車場改称」『官報』1910年3月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[3月27日]]:太田駅 - 新伊勢崎駅間開業。浅草駅(現・とうきょうスカイツリー駅) - 曳舟駅間旅客営業開始<ref>[{{NDLDC|2951382/9}} 「運輸営業開始」『官報』1910年4月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。総武本線亀戸駅 - 両国橋駅間への乗り入れ廃止。
** [[7月13日]]:新伊勢崎駅 - 伊勢崎駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2951475/5}} 「運輸開始並哩程更正」『官報』1910年7月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。伊勢崎線全通。
* [[1912年]](明治45年)
** [[2月13日]]:浅草駅 - 鐘ヶ淵駅間複線化。
** [[7月3日]]:北千住駅 - 西新井駅間複線化。
=== 大正 ===
[[大正]]に入ると、輸送量の増加により都心側の随所で複線化及び[[鉄道の電化|電化]]が行われた。1912年(明治45年)に浅草駅 - 鐘ヶ淵駅間が複線化されたのを皮切りに、1920年(大正9年)に東京市内の全区間が、1922年(大正11年)に当初開業区間である北千住駅 - 久喜駅間が複線化された。1924年(大正13年)に浅草駅 - 西新井駅間が電化されたことを機に、東武鉄道初の電車として[[東武デハ1形電車|デハ1形]]が製造、運行された。
1923年(大正12年)には[[荒川 (関東)#荒川放水路|荒川放水路]]の工事により、鐘ヶ淵駅 - 西新井駅間の[[線形 (路線)|線形]]が変更された。この線形変更に際し、北千住駅 - 西新井駅間は開業当初のルートよりも北方に線形を取り、現在の小菅・五反野・梅島の各駅を経由するようになり、北千住駅 - 小菅駅間で架橋することとなった。鐘ヶ淵駅 - 堀切駅間は放水路の右岸に沿った直線的な経路となったものの、両駅の構内で急カーブを生じるようになった。なお、鐘ヶ淵付近の旧線は荒川の中となっているため痕跡は残っていないが、西新井駅付近は[[東武鉄道西新井工場|西新井工場]]の構内線路に流用され、小菅駅付近 - 西新井駅の旧線は大部分が道路(現在の梅田通り・亀田トレイン通りなど)に、一部は住宅地等に転用された。そのため、足立区[[梅田 (足立区)|梅田]]七丁目の梅田通り終点(梅島駅の南方)には「東武鉄道旧線路跡」の碑がある。
* [[1912年]]([[大正]]元年)[[12月18日]]:鐘ヶ淵駅 - 北千住駅間複線化。
* [[1918年]](大正7年)3月27日:全線を[[軽便鉄道法]]による[[軽便鉄道]]に指定<ref>[{{NDLDC|2953807/15}} 「軽便鉄道指定」『官報』1918年3月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1919年]](大正8年)[[11月20日]]:越ヶ谷駅を武州大沢駅(現・北越谷駅)に改称<ref>[{{NDLDC|2954315/10}} 「地方鉄道停車場名改称」『官報』1919年12月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1920年]](大正9年)
** [[3月5日]]:西新井駅 - 草加駅間複線化。
** [[4月17日]]:越ヶ谷駅(現・越谷駅)開業<ref>[{{NDLDC|2954437/6}} 「地方鉄道停車場設置」『官報』1920年5月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[12月26日]]:杉戸駅(現・東武動物公園駅) - 久喜駅間複線化。
* [[1921年]](大正10年)
** [[4月16日]]:武里駅 - 杉戸駅間複線化。
** [[10月20日]]:草加駅 - 越ヶ谷駅間、武州大沢駅 - 武里駅間複線化。
* [[1922年]](大正11年)[[5月1日]]:越ヶ谷駅 - 武州大沢駅間複線化。
* [[1923年]](大正12年)[[7月1日]]:荒川放水路開削により鐘ヶ淵駅 - 西新井駅間でルートを変更<ref>[{{NDLDC|2955394/7}} 「地方鉄道営業哩程変更」『官報』1923年6月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。それまでは鐘ヶ淵駅 - 牛田駅間は現ルートより東側を、北千住駅 - 西新井駅間は現ルートより西側を通っていた。
* [[1924年]](大正13年)
** [[8月25日]]:足利町駅を足利市駅に改称<ref>[{{NDLDC|2955761/3}} 「地方鉄道駅名改称」『官報』1924年9月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[10月1日]]:白鬚駅が玉ノ井駅(現・東向島駅)として再開業。堀切駅、千住駅(後の中千住駅)、小菅駅、五反野駅、梅島駅開業<ref>[{{NDLDC|2955788/9}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1924年10月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。浅草駅 - 西新井駅間電化。
* [[1925年]](大正14年)
** [[7月20日]]:野州山辺駅開業<ref>[{{NDLDC|2956030/6}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1925年8月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 10月1日:谷塚駅開業<ref>[{{NDLDC|2956099/8}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1925年10月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。西新井駅 - 越ヶ谷駅間電化。
** 11月10日:新田駅再開業<ref>[{{NDLDC|2956124/6}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1925年11月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1926年]](大正15年)
** [[6月6日]]:川俣駅 - 館林駅間複線化。
** 10月1日:大袋駅、一ノ割駅開業<ref>[{{NDLDC|2956394/6}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1926年10月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 越ヶ谷駅 - 粕壁(現・春日部駅)間電化。
** [[12月16日]]:粕壁駅 - 久喜駅間電化。
=== 昭和 ===
[[昭和]]に入ると、当時としては東京一<!-- 都内一→当時は「東京市」-->の繁華街であった[[浅草]]への乗り入れで京成電気軌道(現・[[京成電鉄]])と競合し、激しく争った。その結果、京成は1928年に[[京成電車疑獄事件]]が起きて乗り入れを断念し、当路線が1931年(昭和6年)に浅草雷門駅(現・浅草駅)への乗り入れを果たした。開業年度における一日平均乗車人員は10,255人であり、東武鉄道で最も乗車人員が多い駅となった<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/343?viewMode= 昭和6年東京府統計書]</ref><ref group="注">浅草雷門駅に次いで一日平均乗車人員が多かった駅は玉ノ井駅(現・東向島駅)の5,482人、業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)の5,002人。北千住駅の一日平均乗車人員は1,691人であり、堀切駅や鐘ヶ淵駅よりも乗降人員が少なかった。</ref>。
しかし、[[第二次世界大戦]]後の復興によって[[山手線]]のターミナル駅に都市機能の拠点が形成されると、山手線と接続しない当路線は沿線開発で不利な状況に追い込まれた。1955年(昭和30年)頃に北千住から[[新橋 (東京都港区)|新橋]]や[[八重洲|東京八重洲]]を結ぶ地下鉄道建設を[[運輸省]](現・[[国土交通省]])へ数回に渡り出願したが、全て却下された。
このような状況の下、当路線は1962年(昭和37年)に北千住駅を介して[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]日比谷線(現・東京メトロ日比谷線)との直通運転を開始した。[[東京の地下鉄]]と郊外電車で直通運転を開始したのは、[[京成押上線]]と[[都営地下鉄浅草線]]の直通運転に次いで2例目であった。日比谷線との直通運転により北千住駅 - 浅草駅間の通過人員が減少し、一時的な減収は避けられなかったものの、それを上回る勢いで沿線開発が進んだことにより輸送人員が瞬く間に増加していった。[[マンモス団地]]と謳われた[[草加松原団地]]や[[武里団地]]などの入居が開始されたのも、当路線が日比谷線との直通運転を果たした直後である。1966年(昭和41年)には乗り入れ区間が北春日部駅まで延長され、日比谷線直通列車が6両編成になった。さらに1981年(昭和56年)には東武動物公園駅まで延長され、同年に開園した[[東武動物公園]]の宣伝にも一役買った。
沿線開発が進むにつれて[[ラッシュ時]]は激しく混雑するようになり、特に北千住駅では準急列車と日比谷線との乗換客の列でホームが埋め尽くされる事もあった。[[1969年]](昭和44年)度の秋季交通量調査では、朝ラッシュの最混雑区間である小菅駅 → 北千住駅間の混雑率は248%を記録し、当該年度では大手私鉄の路線で最高値を計上した<ref>[https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa45/ind030101/frame.html 『昭和45年度運輸白書』第1節 旅客輸送/3 通勤通学輸送] - 国土交通省(2019年12月21日閲覧)</ref>。輸送量を増強すべく、1971年(昭和46年)には日比谷線直通列車が8両編成になり、1972年(昭和47年)には地上車の8両編成が営業運転を開始したものの、これ以上の長編成化は浅草駅の制約により困難であった。当時の朝ラッシュ時の上りダイヤは[[せんげん台駅]]から北千住駅が[[平行ダイヤ]]で、増発の余地もなかった。10両編成の列車が営業運転を開始したのは1986年(昭和61年)であるが、これは東武鉄道の主要幹線の一つである東上本線と比較しても10年ほど遅い時期である。
そこで運転本数の増加に努めるべく、関東私鉄初の複々線化が事業化(建設主体は[[日本鉄道建設公団]])され、1974年(昭和49年)に北千住駅 - 竹ノ塚駅間で竣工し、供用を開始した。同区間ではラッシュ時の本数が大幅に増加しただけでなく、[[準急]]のスピードアップにも貢献した。複々線化は1988年(昭和63年)に草加駅まで延ばされ、その際に実施されたダイヤ改正で日中の準急が毎時4本から毎時6本に増発された<ref name="交通880727">{{Cite news |title=東武鉄道 複々線区間 私鉄最長に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1988-07-27 |page=1 }}</ref>。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** 4月1日:久喜駅 - 羽生駅間複線化。久喜駅 - 館林駅間電化。花崎駅、須影駅(再開業)、茂林寺前駅開業。
** [[9月1日]]:姫宮駅開業。
** 10月1日:館林駅 - 伊勢崎駅間電化、全線(浅草駅 - 伊勢崎駅間)電化完成。細谷駅、世良田駅開業。
* [[1928年]](昭和3年)5月1日:県駅開業。
* [[1929年]](昭和4年)10月10日:浅草駅 - 東武日光駅間で特急を運転開始。
* [[1930年]](昭和5年)[[2月28日]]:千住駅を中千住駅に改称。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[3月13日]]:草加荷扱所(草加駅 - 新田駅間)開業。
** [[5月25日]]:浅草雷門駅(現・浅草駅) - 業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)間開業<ref>[{{NDLDC|2957795/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年6月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。同時に浅草駅を業平橋駅に改称。請地駅(業平橋駅 - 曳舟駅間)開業<ref>今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』[[新潮社]]、2008年、p.27</ref>。
* [[1932年]](昭和7年)
** 4月17日:[[臨時駅]]の競馬場前駅(野州山辺駅 - 韮川駅間)開業。
** 9月1日:牛田駅開業。
** [[10月25日]]:韮川駅開業。
* [[1935年]](昭和10年)
** [[9月20日]]:東武和泉駅開業。
** [[11月1日]]:千住線 中千住駅 - 千住駅間開業。
* [[1937年]](昭和12年)3月1日:中野駅を多々良駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2363883/94}} 地方鉄道、軌道事業の現況並に異動]」『電気協会雑誌』第184号、日本電気協会、1937年4月、附録5頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1939年]](昭和14年)[[2月1日]]:競馬場前駅廃止。
* [[1943年]](昭和18年)[[12月31日]]:隅田公園駅(浅草雷門駅 - 業平橋駅間)休止。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[4月15日]]:中千住駅休止。
** 5月20日:玉ノ井駅休止。
** 10月1日:浅草雷門駅を浅草駅に改称。
* [[1946年]](昭和21年)9月11日:請地駅休止。
* [[1949年]](昭和24年)
** 9月1日:粕壁駅を春日部駅に改称。
** 10月1日:玉ノ井駅営業再開。
** 10月20日:休止中の請地駅廃止。
* [[1953年]](昭和28年)4月1日:中千住駅(牛田駅 - 北千住駅間)を廃止して中千住[[信号場|信号所]]とする。
* [[1955年]](昭和30年)[[1月1日]]:鷲ノ宮駅を鷲宮駅に改称。
* [[1956年]](昭和31年)[[12月1日]]:越ヶ谷駅を越谷駅に、武州大沢駅を北越谷駅に改称。
* [[1958年]](昭和33年)[[10月22日]]:休止中の隅田公園駅廃止認可。
* [[1960年]](昭和35年)10月9日:特急[[けごん|「きぬ」・「けごん」]]・[[きりふり#だいや・おじか|「おじか」]]で「デラックスロマンスカー」[[東武1720系電車|1720系]]電車運用開始。
* [[1962年]](昭和37年)
** [[3月23日]]:中千住信号所を廃止して千住分岐点とする。
** [[5月31日]]:北越谷駅から営団(現・東京メトロ)日比谷線[[人形町駅]]までの相互直通運転開始。
** 12月1日:松原団地駅開業。
* [[1963年]](昭和38年)2月28日:営団日比谷線との相互直通運転区間を[[東銀座駅]]まで延長。
* [[1964年]](昭和39年)[[8月29日]]:営団日比谷線との相互直通運転区間を[[中目黒駅]]まで延長。
* [[1966年]](昭和41年)9月1日:北春日部駅開業。同時に営団日比谷線との相互直通運転区間を同駅まで延長し、日比谷線直通列車を6両編成化。
* [[1967年]](昭和42年)
** 2月21日:曳舟駅 - 鐘ヶ淵駅間高架化<ref>{{Cite news |和書|title=伊勢崎線曳舟-鐘ヶ淵間を高架運転 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1967-02-21 |page=1 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |date = 1967-04-01 |title = 2月のメモ帳 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 17 |issue = 4 |page = 82 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。
** 4月15日:せんげん台駅開業。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[3月30日]]:五反野駅 - 梅島駅間高架化。
** 4月1日:浅草駅 - 新栃木駅間にATSを設置し、使用開始<ref>{{Cite news |和書|title=ATS装置の使用開始 来月から関東の四私鉄が |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-03-27 |page=2 }}</ref>。
** 9月1日:須影駅を南羽生駅に改称。
* [[1969年]](昭和44年)9月20日:急行「りょうもう号」で[[東武1800系電車|1800系]]電車運用開始。
* [[1971年]](昭和46年)5月31日:日比谷線直通列車を8両編成化。
* [[1972年]](昭和47年)12月18日:地上車の8両編成運転開始。
* [[1973年]](昭和48年)
** [[4月10日]]:草加荷扱所廃止。
** [[7月24日]]:ダイヤ改正を実施。
* [[1974年]](昭和49年)
** [[7月2日]]:北千住駅 - 竹ノ塚駅間複々線化<ref>{{Cite news |title=二日から使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-06-30 |page=1 }}</ref>。この区間が関東私鉄初の複々線となる。<!--国有化されましたが日本鉄道上野-日暮里間が1906年に複々線化されています-->
***それに伴いダイヤ改正を実施し、普通・準急の曳舟行きが運行開始、下りは曳舟→業平橋まで回送の上で同駅貨物ホームで折り返し引き続き北春日部まで回送運転。
** [[7月23日]]:新越谷駅開業。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[8月30日]]:竹ノ塚駅 - 谷塚駅間の一部区間高架化。
** [[10月31日]]:太田駅 - 伊勢崎駅間を自動閉塞化。ダイヤ改正を実施。
* [[1980年]](昭和55年)
** 7月23日:東武和泉駅 - 韮川駅間高架化<ref>{{Cite news |title=単線高架を使用 東武鉄道 伊勢崎線東武和泉-韮川間 |newspaper=交通新聞 |date=1980-07-27 |publisher=交通協力会 |page=1 }}</ref>。
** [[8月5日]]:ダイヤ改正を実施。
* [[1981年]](昭和56年)[[3月16日]]:杉戸駅を東武動物公園駅に改称。ダイヤ改正を実施し、営団日比谷線との相互直通運転区間を同駅まで延長。
* [[1986年]](昭和61年)[[8月26日]]:ダイヤ改正を実施し、曳舟駅 - 東武動物公園駅間で朝ラッシュ時に上り準急列車の10両編成運転開始。下りはホーム未延伸の関係で[[回送]]の措置がとられる。
* [[1987年]](昭和62年)
** 5月1日:千住線の千住分岐点 - 千住駅間廃止。
** [[7月21日]]:ダイヤ改正を実施。
** [[12月21日]]:玉ノ井駅を東向島駅に改称。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[8月9日]]:竹ノ塚駅 - 草加駅間複々線化{{R|交通880727}}。ダイヤ改正を以下の内容で実施。
*** 草加発着の[[普通列車|普通]]を新設。
*** 日中の準急を毎時4本から毎時6本に増発{{R|交通880727}}。伊勢崎駅発着・太田駅発着・館林駅発着・東武宇都宮駅発着・新栃木駅発着・南栗橋駅発着をそれぞれ毎時1本設定。
*** 日中に毎時4本運転していた浅草駅発着の普通を毎時2本に減便。
*** 日中の日比谷線直通列車が毎時4本から毎時6本に増発。竹ノ塚駅発着が毎時2本、東武動物公園駅発着が毎時4本となる。
** [[11月21日]]:浅草う回乗車制度を導入。
** 12月1日:草加駅 - [[綾瀬川]]橋梁(新田駅 - 蒲生駅間)間を高架化<ref>{{Cite news |title=下りも高架化 東武伊勢崎線 草加駅-綾瀬川間 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1988-12-03 |page=1 }}</ref>。埼玉県[[草加市]]内の全[[踏切]]を除却。
=== 平成 ===
[[平成]]に入ると、それまで増加傾向にあった輸送人員がピークを迎えたが、ラッシュ時の北千住駅は乗換客により混雑を極め、依然として危険な状態が続いていた。そこで北千住駅での乗換客を減らすべく、1988年(昭和63年)に浅草う回乗車制度が、1990年(平成2年)に押上う回乗車制度が導入された。これにより、北千住駅を経由する[[定期乗車券|定期券]]を所持していれば、浅草駅・業平橋駅を経由しても都心に行き来出来るようになった。押上う回乗車制度が導入された時に行われたダイヤ改正に合わせて、業平橋駅に10両編成が入線出来る地上ホームが新設された。
朝ラッシュ時の混雑率は190%程度で推移する状況が続き、更なる輸送力の増加と北千住駅の抜本的改造が求められた。これが一段落したのが1997年(平成9年)であり、北千住駅の立体化と越谷駅までの複々線化が完工し、私鉄最長の複々線を持つ路線となった<ref>{{Cite news |title=東武伊勢崎線 25日から輸送力大幅増強 私鉄最長の複々線誕生 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-03-04 |page=2 }}</ref>。複々線は2001年(平成13年)に北越谷駅まで延ばされ<ref name="交通2001">{{Cite news |title=東武伊勢崎線の複々線化完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-04-02 |page=11 }}</ref>、その距離は18.9kmに及ぶ。これらの事業は[[特定都市鉄道整備事業]]計画に認定されたもので、総事業費は840億円であった。複々線が完成した2001年のダイヤ改正では、朝ラッシュ時における竹ノ塚駅 - 北千住駅間の上り列車で毎時45本が運行されるようになった。この一路線の一時間あたりの運行本数は関東私鉄において最大であった。
また、2003年(平成15年)には押上駅を介して営団地下鉄半蔵門線(現・東京メトロ半蔵門線)・東急田園都市線との直通運転を開始し、10両編成の優等列車が初めて都心へ直通するようになった。この直通運転に際して曳舟駅 - 押上駅間が新規に建設されたが、正式には曳舟駅 - 業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)間の複々線化として扱われており、押上駅は業平橋駅と同一駅扱いとしてみなされるようになった。この事業も特定都市鉄道整備事業計画に認定されたもので、総事業費は843億円であった。業平橋駅の地上ホームはこのダイヤ改正で廃止され、跡地に[[東京スカイツリータウン]]が建設された。
半蔵門線との直通開始により日中でも10両編成が運転されるようになったが、浅草駅発着の準急を基軸とした従来のダイヤを継承していたため、半蔵門線直通列車は少数に抑えられていた。しかし、2006年(平成18年)のダイヤ改正は種別名変更を伴うほどの大規模な白紙改正となり、半蔵門線直通列車の急行を基軸としたダイヤに刷新した。一方で日中は久喜駅と太田駅で一般列車の運用が分断され、特に太田駅 - 伊勢崎駅間で運用される普通列車は全列車がワンマン運転となり、3両編成に減車された。特急列車は従来のダイヤを継承したが、1日1往復の特急「りょうもう」を除いて浅草駅 - 伊勢崎駅間の直通列車は廃止された。
2013年(平成25年)のダイヤ改正で、[[東急東横線]]が[[東京メトロ副都心線]]と直通運転を開始したことに伴い、東横線と日比谷線の直通運転が終了となり、日比谷線の車両運用に余裕が生じたため、日比谷線との相互直通区間が日光線南栗橋駅まで延長された。朝ラッシュ時の混雑率も140%程度まで緩和したため、このダイヤ改正で上り区間急行列車の増解結運用が廃止された。また太田駅 - 伊勢崎駅間で運用されるワンマン列車のうち、一部が館林駅まで直通するようになった。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** [[6月1日]]:特急「きぬ」・「けごん」で「スペーシア」[[東武100系電車|100系]]電車が運用開始。
** [[9月25日]]:業平橋駅地上ホーム運用開始。押上う回乗車制度を導入。ダイヤ改正を以下の内容で実施。
*** 曳舟駅発着の全列車を業平橋駅発着に延長。
*** 朝ラッシュ時運転の上り準急列車の10両編成運転区間を業平橋駅 - 曳舟駅間と東武動物公園駅 - 館林駅間で拡大。下りは回送の措置が継続される。
* [[1991年]](平成3年)
** 浅草駅に当路線内で初めて[[発車メロディ]]が導入。曲名は『Passenger』。
** 2月1日:急行「りょうもう」で[[東武200系電車|200系]]電車が運用開始。
** [[12月9日]]:ダイヤ改正を以下の内容で実施。
*** 平日ダイヤの北春日部駅 - 南栗橋駅間の下り[[終電]]を最大約15分繰り下げて、北千住駅23:52発とする。種別を準急に変更。
*** 平日ダイヤの北越谷駅 - 北春日部駅間の下り終電を最大約37分繰り下げて、北千住駅0:38発とする。
*** 平日ダイヤの竹ノ塚駅 - 北越谷駅間の下り終電を約19分繰り下げて、北千住駅0:40発とする。
*** 平日ダイヤに浅草駅0:23発、北春日部駅行きの準急を新設。始発駅を0時台に出発する優等列車はこれが初めての設定となる。
* [[1992年]](平成4年)[[9月21日]]:羽生駅 - 川俣駅間複線化<ref name="kotsu19920818">{{Cite news |title=東武鉄道羽生-川俣間 来月21日から複線化 利根川橋梁 線増工事が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-08-18 |page=1 }}</ref>。これにより浅草駅 - 館林駅間が全て複線化<ref name="kotsu19920818"/>。ダイヤ改正により、羽生駅発着の全列車を館林駅発着に延長<ref name="kotsu19920818"/>。
* [[1993年]](平成5年)[[10月8日]]:綾瀬川 - [[元荒川]]間(越谷駅 - 北越谷駅間の橋梁)の下り線高架化<ref>{{Cite news |title=越谷地区の下り高架複々線化 10月8日から使用 東武鉄道 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-08-17 |page=1 }}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)
** [[8月2日]]:ダイヤ改正により、土曜日の8両・10両編成を6両編成に短縮(当時、土曜日は平日ダイヤで運行)。下り準急列車の8両編成運転開始。
** [[11月2日]]:綾瀬川 - 元荒川間(越谷駅 - 北越谷駅間の橋梁)の上り線が高架化<ref>{{Cite news |title=東武伊勢崎線複々線・立交化 3駅を高架駅に 来月2日上り線も |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-10-24 |page=1 }}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)[[2月16日]]:ダイヤ改正を実施。日中に設定されていた東武宇都宮駅発着の準急を南栗橋駅発着に短縮。
* [[1996年]](平成8年)[[7月23日]]:北千住駅の日比谷線ホームが高架化。ダイヤ改正を実施。
* [[1997年]](平成9年)
** [[3月25日]]:草加駅 - 越谷駅間複々線化<ref name="tobu19961219">[https://web.archive.org/web/19970802233842/http://www.tobu.co.jp/tobuland/news/kitasen3.html 平成9年3月25日(火)伊勢崎線・日光線でダイヤ改正を実施 北千住駅改良工事と草加?越谷間高架複々線が完成 新たに区間準急列車を設定し、お客様の利便が向上 下り特急・急行列車の北千住停車と定期券での乗車を実施] - 東武鉄道プレスリリース 1996年12月19日(1997年8月2日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。北千住駅が4面7線に立体化される<ref name="tobu19961219"/>。白紙ダイヤ改正を以下の内容で実施<ref name="tobu19961219"/>。
*** 準急が新越谷駅に停車<ref name="tobu19961219"/>。
*** 区間準急を新設<ref name="tobu19961219"/>。
*** 日中の浅草駅発着の普通を廃止。
*** 北千住駅の上り方(地上ホーム)に引き上げ線を新設し、一部の業平橋発着列車を北千住発着に変更。
*** 草加駅発着の普通が廃止され、越谷駅発着に変更。同時に北越谷駅発着を早朝・深夜をのぞき越谷駅発着に変更。
*** 日中の日比谷線直通列車が毎時8本に増発。越谷駅発着が毎時4本、東武動物公園駅発着が毎時4本となる。
*** 北春日部駅 - 大袋駅間の上り[[始発|初電]]を約7分繰り上げて、北春日部駅5:00発とする。
*** 北越谷駅 - 谷塚駅間の上り初電を約8分繰り上げて、北越谷駅5:06発とする。
*** 北春日部駅行きの下り終電の種別を準急から区間準急に変更<ref name="tobu19961219"/>。大袋駅、武里駅、一ノ割駅の下り終電が最大約16分繰り下げ。
*** 業平橋駅 - 館林駅間で下り準急列車と区間準急列車の10両編成運転開始。同時に夕ラッシュ時の運転開始。
*** 土曜日を平日ダイヤから日曜日・休日ダイヤへ変更<ref name="tobu19961219"/>。
** [[3月31日]]:浅草う回乗車制度・押上う回乗車制度を廃止。
* [[1999年]](平成11年)3月16日:ダイヤ改正を実施<ref name="tobu19981209">[https://web.archive.org/web/19990501072851/http://www.tobu.co.jp/news/1998/12/981208.html 平成11年3月16日(火)伊勢崎線・日光線でダイヤ改正を実施 急行りょうもう号がスピードアップし、特急「りょうもう号」に 特急スペーシアの一部が春日部に停車] - 東武鉄道プレスリリース 1998年12月9日(1999年5月1日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。りょうもう号の最高速度が110km/hに向上し、種別を特急に変更<ref name="tobu19981209"/>。
* [[2001年]](平成13年)[[3月28日]]:越谷駅 - 北越谷駅間高架複々線化<ref name="交通2001"/><ref name="tobu20001213">[https://web.archive.org/web/20010203202700/http://www.tobu.co.jp/news/2000/12/001212-1.html 民鉄最長となる北千住〜北越谷間19.0kmの複々線が完成 伊勢崎線の複々線(越谷〜北越谷間)が完成 完成に伴いダイヤ改正を実施 特急スペーシアの一部が栃木に停車] - 東武鉄道プレスリリース 2000年12月13日(2001年2月3日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。ダイヤ改正を以下の内容で実施。
** 越谷駅発着の普通が廃止され、北越谷駅発着に変更<ref name="交通2001"/>。
** 10両編成の運転を日中時間帯や土休日に拡大。
** 土休日ダイヤに浅草駅23:37発、南栗橋駅行きの準急を新設。北春日部駅 - 南栗橋駅間の下り終電を最大約15分繰り下げる。
* [[2003年]](平成15年)[[3月19日]]:押上駅 - 曳舟駅間開業(正式な扱いは業平橋駅 - 曳舟駅間の複々線化完成)<ref name="tobu20021210">[https://web.archive.org/web/20021212084738/http://www.tobu.co.jp/news/2002/12/021210.html 平成15年3月19日(水)(予定)、大手町・渋谷へ直通する準急列車運転開始 東武伊勢崎線・日光線、営団半蔵門線、東急田園都市線(南栗橋〜中央林間)の相互直通運転開始にともない、ダイヤ改正および特急・急行料金の値下げを実施します 都心へ乗り換えなしの新ルート誕生で、所要時間が大幅短縮] - 東武鉄道プレスリリース 2002年12月10日(2002年12月12日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。ダイヤ改正を以下の内容で実施。
** 日光線南栗橋駅から営団(現・東京メトロ)半蔵門線・東急田園都市線中央林間駅までの相互直通運転開始。
** 通勤準急を新設。平日朝ラッシュ時の上り列車に4本、平日夕ラッシュ時の下り列車に19本設定される。
** 区間準急は曳舟駅 - 北千住駅間が通過となり、半蔵門線直通の種別に変更される。ただし平日ダイヤに設定されていた浅草駅0:23発の下り列車に限り、曳舟駅 - 北千住駅間を各駅に停車する。
** 日中の伊勢崎駅発着に設定していた準急Aが廃止。これにより、一般列車が東武動物公園駅以北各駅停車に統一。
** 日中の日比谷線直通列車が毎時6本に減便。北越谷駅発着が毎時3本、東武動物公園駅発着が毎時3本となる。
** 日中の準急と各駅停車が緩急接続する駅を草加駅とせんげん台駅に統一。
** 朝ラッシュ時に10両編成で運転される準急浅草駅行きの後部4両を切り離す駅を曳舟駅から北千住駅に変更。
** 業平橋駅発着列車が廃止。
** [[東武5000系電車|5000系]]が館林駅以南から撤退、浅草駅 - 館林駅間での通勤型車両による列車の最高速度が従来の95km/hから100km/hに向上。
* [[2005年]](平成17年)[[5月9日]]:[[女性専用車両]]を館林駅 - 押上駅間で導入。
* [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:9年ぶりの白紙ダイヤ改正を以下の内容で実施<ref name="tobu20051216">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20060110195921/http://www.tobu.co.jp/news/2005/12/051216.pdf "より便利に" "より快適に" 3月18日 伊勢崎線・日光線でダイヤ改正を実施] - 東武鉄道プレスリリース 2005年12月16日(2006年1月10日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])}}</ref>。運転系統や種別体系が大きく変化した。
** 東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線との相互直通運転区間を久喜駅まで延長<ref name="tobu20051216"/>。
** 種別名を変更。浅草駅発着は、有料の急行が特急に、準急が区間急行になる。半蔵門線直通は、通勤準急が急行に、区間準急が準急になる<ref name="tobu20051216"/>。
** 全ての区間準急が浅草駅 - 北千住駅間の各駅に停車するようになり、浅草駅発着の種別に変更される<ref name="tobu20051216"/>。
** 区間快速を新設。日中の快速が区間快速に格下げ<ref name="tobu20051216"/>。
** 北千住駅の下り方(地上ホーム)に引き上げ線を新設し、浅草駅 - 北千住駅間の普通列車運転開始。
** 日中の半蔵門線直通列車が毎時3本から毎時6本に増発<ref name="tobu20051216"/>。久喜駅発着が毎時3本、南栗橋駅発着が毎時3本となる<ref name="tobu20051216"/>。
** 日中の浅草駅発着の普通が復活。
** 日中の浅草駅発着の普通・区間準急が全て曳舟駅で半蔵門線直通急行・準急と接続するようになる。
** 日中の久喜駅での系統分割ダイヤを開始。一般列車で同駅を跨ぐ際には対面乗り換えとなる<ref name="tobu20051216"/>。
** 夕ラッシュ時の半蔵門線直通列車が毎時4本から毎時6本に増発<ref name="tobu20051216"/>。種別を急行に統一<ref name="tobu20051216"/>。
** 太田駅 - 伊勢崎駅間の普通列車でワンマン運転を開始し、3両編成に短縮。これに伴い、1日1往復の特急「りょうもう」を除いて浅草駅 - 伊勢崎駅間直通列車が消滅。
** 館林駅 - 伊勢崎駅間において5000系完全撤退、全線での通勤車最高速度100km/h化。
** 東武動物公園駅 - 館林駅間の下り終電を約32分繰り下げて、浅草駅23:02発とする<ref name="tobu20051216"/>。
* [[2009年]](平成21年)6月6日:ダイヤ改正を以下の内容で実施<ref name="tobu20090410">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20110928084043/http://www.tobu.co.jp/file/1989/090410.pdf 6月6日(土) 伊勢崎線・日光線でダイヤ改正を実施 〜特急列車と地下鉄直通列車の増発で都心方面とのアクセスを向上します〜] - 東武鉄道プレスリリース 2009年4月10日(2011年9月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])}}</ref>。
** 土休日ダイヤの押上駅 - 曳舟駅間の下り終電を約20分繰り下げて、押上駅0:12発とする。
** 土休日ダイヤの北越谷駅 - 北春日部駅間の下り終電を約10分繰り下げて、浅草駅23:57発とする。
** 一般列車の4両編成運用が廃止。
* [[2010年]](平成22年)
** 1月 [[東武8000系電車|8000型]]通勤型車両が太田駅以南のツーマン運転列車<ref group="注">ワンマン運転ではない列車。つまり[[車掌]]が乗務する列車。</ref>から撤退<ref group="注">これにより太田駅以南の通勤型車両は最低水準が10000系に底上げされた。ただし館林駅 - 太田駅間の一部列車は太田駅以西への送り込み運用として800/850型も使用される。800/850型は8000型の改造車であるものの、電動車比率が高いため加速性能は10000系並み (2.5km/h/s) とされる。</ref>。
** [[3月17日]]:西新井駅に当路線内の中間駅で初めて発車メロディを導入。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]]:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])発生。東京メトロ日比谷線・東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線・[[野岩鉄道会津鬼怒川線]]・[[会津鉄道会津線]]との相互直通運転および特急列車を含む全列車が運休。
** [[3月12日]]:8時57分頃に北千住駅 - 東武動物公園駅間で、11時15分頃に全線で運転再開。
** [[3月14日]]:東北地方太平洋沖地震による発電所の停止に伴う電力供給逼迫のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から曳舟駅 - 押上駅間で運休し、東京メトロ日比谷線・東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線・野岩鉄道会津鬼怒川線・会津鉄道会津線との相互直通運転及び特急の運転が休止。
** [[3月20日]]:野岩鉄道会津鬼怒川線・会津鉄道会津線との相互直通運転が再開。
** [[3月22日]]:特急スペーシア「きぬ」の運転が再開。
** 3月28日:東京メトロ日比谷線との相互直通運転が再開。
** [[4月2日]]:曳舟駅 - 押上駅間で運転再開し、東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線との相互直通運転が再開される。特急「りょうもう」の運転が再開される。
** [[4月11日]]:東北地方太平洋沖地震の[[余震]]とみられる巨大地震が発生したため、曳舟駅 - 押上駅間で運休し、東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線・野岩鉄道会津鬼怒川線・会津鉄道会津線との相互直通運転および特急の運転を休止。
* [[2012年]](平成24年)
** 3月17日:業平橋駅をとうきょうスカイツリー駅に改称。同時に、浅草駅・押上駅 - 東武動物公園駅間に「東武スカイツリーライン」の路線愛称を付け、伊勢崎線を含む全路線全駅に[[駅ナンバリング]]を導入<ref name="tobu20120209"/>。ダイヤ改正を実施し、一部の特急がとうきょうスカイツリー駅に停車するようになる。
** [[5月22日]]:押上駅に「スカイツリー前」の副駅名を導入<ref>{{Cite press release|和書|title=押上駅に副駅名「スカイツリー前」を導入します!|publisher=東武鉄道|date=2012-02-09|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/017af1e69f2ac63a8b2dea3d14de7a49/120209_1.pdf?date=20120313092459|format=PDF|accessdate=2021-11-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120809040006/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/3a2406de29e9b7fbd7f60ed19f41d695/120209_2.pdf?date=20120313092503|archivedate=2012-08-09}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** 3月16日:ダイヤ改正を以下の内容で実施<ref name="tobu20130214">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/0246ff6eb40a2a1a4f4b9c182920225e/130214-1.pdf?date=20130214125102 |format=PDF|language=日本語|title=3月16日(土)東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線 ダイヤ改正 東京メトロ日比谷線との相互直通運転区間を南栗橋まで延伸するなど運行体系が変わります! |publisher=東武鉄道|date=2013-02-14|accessdate=2021-05-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130228031121/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/0246ff6eb40a2a1a4f4b9c182920225e/130214-1.pdf?date=20130214125102 |archivedate=2013-02-28}}</ref>。
*** 快速・区間快速がとうきょうスカイツリー駅に停車。
*** 東京メトロ日比谷線との相互直通運転区間が日光線南栗橋駅まで延長。
*** 館林駅 - 太田駅間の一部列車でワンマン運転を開始。
*** 朝ラッシュ時の区間急行を8両編成に短縮。これに伴い、館林駅・北千住駅での[[増解結]]作業と久喜駅 - 館林駅間の10両編成運用廃止。
*** 日中の半蔵門線直通列車の行先を変更。久喜駅発着が毎時4本、南栗橋駅発着が毎時2本となる。
*** 日中の日比谷線直通列車の運転区間を延長。東武動物公園駅発着が毎時4本、南栗橋駅発着が毎時2本となる。
*** 日中の浅草駅 - 久喜駅間の区間準急を浅草駅 - 竹ノ塚駅間の普通に格下げ。
*** 夕ラッシュ時の日光線方面の区間急行を浅草駅 - 東武動物公園駅間の区間準急に格下げ。
*** 土休日ダイヤの浅草駅 - 北千住駅間の下り終電を約14分繰り上げて、浅草駅0:09発とする。
** [[3月26日]]:浅草駅 - 館林駅間の全駅に発車メロディを導入。
** [[10月19日]]:新伊勢崎駅 - 伊勢崎駅間高架化。
* [[2015年]](平成27年)[[7月24日]]:[[足利市駅]]で列車接近メロディを導入。曲は[[森高千里]]の『[[渡良瀬橋 (曲)|渡良瀬橋]]』。
* [[2016年]](平成28年)[[5月29日]]:竹ノ塚駅付近の下り急行線が高架化<ref>{{PDFlink|[http://www.tobu.co.jp/pdf/corporation/construction_vol06.pdf 東武鉄道における高架化工事の現状 Vol.6]}} - 東武鉄道 p.2、2020年8月21日閲覧。</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** 4月1日:松原団地駅を獨協大学前駅に改称し、副駅名「草加松原」を付与<ref>[http://response.jp/article/2017/01/26/289237.html 東武鉄道、松原団地駅の改称は4月1日に…新駅名は「獨協大学前」] - [[Response.|レスポンス]](2017年1月26日)2019年12月21日閲覧</ref>。
** [[4月21日]]:ダイヤ改正を以下の内容で実施<ref name="tobu20170118">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/b71449315c885fe96933bd12d8f48b8a/170118_1.pdf?date=20170118121527|format=PDF|language=日本語|title=2017年4月21日(金) ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・東武アーバンパークライン 【特急列車概要】 |publisher=東武鉄道|date=2017-01-18|accessdate=2021-05-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170119052335/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/b71449315c885fe96933bd12d8f48b8a/170118_1.pdf?date=20170118121527 |archivedate=2017-01-11}}</ref><ref name="tobu20170228">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/2647e3941996778a3a8afbb919eccd2f/170228_4.pdf?date=20170228123705|format=PDF|language=日本語|title=2017年4月21日(金) ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線など 【特急列車以外の一般列車】 |publisher=東武鉄道|date=2017-02-28|accessdate=2021-05-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170301005722/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/2647e3941996778a3a8afbb919eccd2f/170228_4.pdf?date=20170228123705 |archivedate=2017-03-01}}</ref>。
*** 特急「リバティきぬ」・「リバティけごん」・「リバティ会津」・「リバティりょうもう」で「リバティ」[[東武500系電車|500系]]電車が運用開始。
*** 特急「スカイツリーライナー」・「アーバンパークライナー」を新設。
*** 全ての特急がとうきょうスカイツリー駅に停車。
*** 快速と区間快速、ならびに1往復のみ設定されていた新栃木駅発着の区間急行([[#区間急行|後述]]参照)を廃止。これに伴い6050系の浅草駅乗り入れが終了するとともに、東武スカイツリーライン(浅草駅 - 東武動物公園駅間)から日光線南栗橋駅以北へ乗り入れる特別料金不要の定期列車が全廃となる。
*** 東武動物公園駅 - 久喜駅間の下り終電を約17分繰り下げて、東武動物公園駅0:09発とする。
=== 令和 ===
[[令和]]に入ると、快適通勤と利便性向上を図るために関東の大手私鉄では座席指定列車が増加した。これまで当路線で運行されていた特急列車はすべて浅草駅発着であり、都心部からは乗り換えを必要としていた。一方で、日比谷線直通列車は当初から普通列車のみの運転であったため、速達性に難点があった。東武鉄道の一般列車は20m車体が標準であるが、日比谷線直通列車は18m車体であったために扉位置が合わず、ホームドアの整備にも支障をきたしていた。
これらの弱点を補うために、2020年(令和2年)のダイヤ改正で日比谷線直通列車として初めての優等列車である「[[THライナー]]」を導入した。折しも[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]により、鉄道の移動需要が全国的に低下している時期での運行開始となった。このダイヤ改正を前に18m級3ドア車のメトロ03系・東武20000系が運用から離脱したため、一般列車はすべて20m級4ドア車に統一され、北越谷駅を皮切りにホームドアが整備されている。
都内区間では高架化事業が進み、西新井駅 - 竹ノ塚駅間の複々線区間に残された2箇所の踏切は2022年(令和4年)に除却された。
* [[2019年]]([[令和]]元年)12月17日:春日部駅付近連続立体交差事業の都市計画事業認可を告示<ref>[https://www.pref.saitama.lg.jp/b1016/tetsudo/011217.html 東武鉄道伊勢崎線・野田線連続立体交差事業(春日部駅付近)都市計画事業認可の告示のお知らせ] - 埼玉県 県土整備部 鉄道高架建設事務所、2020年8月21日閲覧。</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** 6月6日:ダイヤ改正を以下の内容で実施<ref name="tobu20191219">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/4353a1a050835f139e2e94adf9cd5dc0/191219_2.pdf?date=20191219123402|format=PDF|language=日本語|title=2020年6月6日(土)東武鉄道・東京メトロダイヤ改正 東武線・日比谷線相互直通列車に初の座席指定制列車「THライナー」が誕生!|publisher=東武鉄道|date=2019-12-19|accessdate=2019-12-20}}</ref><ref name="tobu20200225">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/555685de09870d4935783c8360e9aa1d/200225_2%20.pdf?date=20200225145408|format=PDF|language=日本語|title=2020年6月6日(土) ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・東武アーバンパークライン【特急列車・THライナー・SL大樹概要が決定】|publisher=東武鉄道|date=2020-02-25|accessdate=2020-02-26}}</ref><ref name="tobu20200511">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/040328fbeb13f8e8d03628489a26122b/200511.pdf?date=20200511162158|format=PDF|language=日本語|title=2020年6月6日(土) ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線など【一般列車に関するお知らせ】 |publisher=東武鉄道|date=2020-05-11|accessdate=2020-05-11}}</ref>。
*** 日比谷線との直通列車に座席指定列車「THライナー」を新設。
*** 一部の特急が曳舟駅に停車。
*** 浅草駅を発着する普通を北千住駅発着に短縮。これに伴い、浅草駅を発着する日中の一般列車はすべて北千住行きとなる。
*** 館林駅 - 伊勢崎駅間において、特急列車を除く全列車でワンマン運転を開始。これに伴い、特急列車を除いて浅草駅 - 太田駅間直通列車が消滅。
*** 北千住駅 - 東武動物公園駅間の普通を一部を除いて日比谷線直通列車とする。
*** 朝ラッシュ時の東武動物公園駅 - 館林駅間において、東武動物公園駅7:43発の下り列車を1本増発。
*** 平日ダイヤの東武動物公園駅 - 北春日部駅間の上り終電を約8分繰り下げ、東武動物公園駅23:37発とする。
*** 土休日ダイヤの北越谷駅 - 竹ノ塚駅間で上り始発を約3分繰り上げ、北越谷駅5:01発とする。
*** 土休日ダイヤの竹ノ塚駅 - 北越谷駅間の下り終電を約3分繰り下げ、北千住駅0:29発とする。
*** 土休日ダイヤの北千住行き上り終電の種別を区間準急に格上げ。
*** 特急「スカイツリーライナー」の下り列車が廃止。
** [[6月7日]]:北越谷駅1番線でホームドアの稼働を開始。
** 9月26日:竹ノ塚駅付近の上り急行線が高架化<ref>{{PDFlink|1=[https://www.tobu.co.jp/monthly/pdf/MT2010_No_856.pdf#page=14 マンスリーとーぶ 2020年10月]}} - 東武鉄道 p.14、2020年10月4日閲覧。</ref>。
* [[2021年]](令和3年)
** 1月20日:新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う緊急事態宣言の発出および国・関係自治体からの要請に伴い、以下の列車を運休<ref name="tobu20200113">{{Cite press release|和書|title=終電付近の一部列車運転取りやめについて|publisher=東武鉄道|date=2021-1-13|url=https://www.tobu.co.jp/pdf/news_20210113.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-1-13|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
*** 上り:北千住駅0時19分発の列車を運休。終電が北千住駅 - 浅草駅間で12分程度(土休日ダイヤは16分程度)繰り上げ。
*** 下り:浅草駅0時23分発の列車を運休。平日ダイヤの終電は浅草駅 - 北千住駅間で14分程度、北千住駅 - 北越谷駅間で3分程度、北越谷駅 - 北春日部駅間で9分程度繰り上げ。
** 3月13日:ダイヤ改正を以下の内容で実施<ref name="tobu20200126">{{Cite press release|和書|title=2021年3月13日(土)にダイヤ改正を実施します|publisher=東武鉄道|date=2021-1-26|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20210126140455jW-dd1SriaYe3dhM3z0pXw.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-1-27|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
*** 平日ダイヤの浅草駅 - 北千住駅間の下り終電を約14分繰り上げ、浅草駅0:09発とする。
*** 平日ダイヤの押上駅 - 曳舟駅間の下り終電を約9分繰り上げ、押上駅0:13発とする。
*** 北千住駅 - 竹ノ塚駅間の下り終電を約6分(土休日ダイヤは約5分)繰り上げ、北千住駅0:34発とする。
*** 竹ノ塚駅 - 北越谷駅間の下り終電を約6分(土休日ダイヤは約4分)繰り上げ、北千住駅0:34発(土休日ダイヤは0:25発)とする。
*** 平日ダイヤの北春日部行き下り終電の種別を普通に格下げ。北越谷駅 - 北春日部駅間の下り終電の種別を約11分繰り上げ、北越谷駅0:51発とする。
*** 北千住駅 - 浅草駅間の上り終電を約12分(土休日ダイヤは約16分)繰り上げ、北千住駅0:07発(土休日ダイヤは0:03発)とする。
*** 土休日ダイヤの久喜駅 - 東武動物公園駅間において、久喜駅9:59発の上り列車を1本増発。
* [[2022年]](令和4年)
** 3月12日:ダイヤ改正を以下の内容で実施<ref name="tobu20211210">{{Cite press release|和書|title=東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線等にて2022年3月12日(土)ダイヤ改正を実施します~ご利用状況を踏まえた運転本数の見直しや最終列車の繰り上げ等を実施します~|publisher=東武鉄道|date=2021-12-10|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20211210120436z2ZpUL2macF_-vcgP5S43w.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-10||archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
*** 平日朝ラッシュ時の区間急行が毎時2本程度、普通が毎時1本程度減便。これに伴い、北千住駅発着の区間急行が消滅。
*** 日中の半蔵門線直通列車の行先を変更。久喜駅発着が毎時3本、南栗橋駅発着が毎時3本となる。
*** 日中の日比谷線直通列車の運転区間を短縮。北春日部駅発着が毎時2本、東武動物公園駅発着が毎時4本となる。
*** 平日夕ラッシュ時の区間急行を一部を除いて区間準急に格下げ。区間急行が毎時1本、区間準急が毎時5本となる。
*** 深夜帯の急行を一部を除いて準急に格下げ。
*** 平日ダイヤの北千住駅 - 浅草駅間の上り終電を約4分繰り上げ、北千住駅0:03発とする。
*** 平日ダイヤの竹ノ塚駅 - 北越谷駅間の下り終電を約8分繰り上げ、北千住駅0:26発とする。
*** 平日ダイヤの北越谷駅 - 北春日部駅間の下り終電を約7分繰り上げ、北越谷駅0:44発とする。
*** 平日ダイヤの東武動物公園駅 - 北越谷駅間の上り終電を約8分繰り上げ、東武動物公園駅23:29発とする。
*** 土休日ダイヤの東武動物公園駅 - 久喜駅の下り終電を約14分繰り上げ、東武動物公園駅23:55発とする。
*** 特急「スカイツリーライナー」の下り列車が復活。
** 3月20日:竹ノ塚駅付近の緩行線が高架化<ref name="tobu20211222">{{Cite press release|和書|title=2022年3月20日(日)から東武スカイツリーライン竹ノ塚駅付近(西新井~谷塚間)上下緩行線高架区間の使用を開始します 踏切2か所を廃止、安全性が向上します|publisher=東武鉄道|date=2021-12-22|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20211222123944V1h0PJ6i9HOM6eptgXOosQ.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-12-22||archiveurl= |archivedate= }}</ref>。これにより、北千住駅 - 北越谷駅間の複々線区間で踏切を除却。
** 11月27日:とうきょうスカイツリー駅 - 曳舟駅間の上り線を高架に切り替え<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20221003132257nY4zoTRKx1zYUacz79l5-Q.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221003063614/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20221003132257nY4zoTRKx1zYUacz79l5-Q.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年11月27日(日)より東武スカイツリーライン とうきょうスカイツリー駅付近 上り線高架区間の使用を開始します 〜上りホームの使用を同日開始し、改札口の位置も変わります〜|publisher=東武鉄道|date=2022-10-03|accessdate=2022-10-04|archivedate=2022-10-03}}</ref>。
* 2024年(令和6年)度:とうきょうスカイツリー駅 - 曳舟駅間の下り線を高架に切り替える予定<ref>[https://ssp.kaigiroku.net/tenant/sumida/SpMinuteView.html?power_user=false&tenant_id=396&council_id=495&schedule_id=7&view_years= 墨田区議会 令和4年地域産業都市委員会 09月22日 - 01号] - 墨田区、2022年11月27日閲覧。</ref>。
== 沿線概況 ==
大手私鉄の路線で最も長い114.5kmの路線距離を有しており、区間によって沿線状況は大きく異なる。次点の[[近鉄大阪線]](108.9km)が全線複線<ref group="注">大阪上本町 - 布施間は複々線であり、運転系統としての[[近鉄奈良線]]が乗り入れる。</ref>であるのとは対照的に、伊勢崎線は複々線区間から単線区間まで存在し、区間によって輸送密度が大きく異なる。東京都の浅草駅から群馬県の伊勢崎駅までの全区間が[[関東平野]]であり、中でも羽生以南は関東平野のほぼ中央を南北に縦貫することから[[低地|加須低地]]・中川低地([[中川低地の河畔砂丘群]]も参照)・東京低地で、駅間で[[利根川]]や[[荒川 (関東)|荒川]]と始めとする多くの一級河川を渡る。トンネル区間は東京メトロ半蔵門線と直通する押上駅から曳舟駅までの一区間のみである。
=== 浅草 - 北千住 ===
東京の[[下町]]にある区間で、[[浅草寺]]・[[東京スカイツリー]]を始めとする有名観光地を通る。戦前の密集市街地が残されており、全体的にカーブが多い区間である。
[[浅草駅]]は[[頭端式ホーム]]3面4線を有するターミナル駅であり、[[江戸通り]]と馬道通りに挟まれた位置にある。関東では初めての百貨店併設のターミナルビルとして開業し、第1回[[関東の駅百選]]に選定された。駅舎は[[隅田川]]とほぼ平行しているが、ホーム先端で制限速度15km/hの急カーブにかかり、[[隅田川橋梁 (東武伊勢崎線)|隅田川橋梁]]を渡る立地の制約により、入線可能な列車は1番線のみ8両編成、その他は6両編成までに限定される。[[2020年]]に隅田川橋梁沿いには「すみだリバーウォーク」という名称の遊歩道が整備され、線路横の遊歩道を歩いて隅田川を渡れるようになった<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=THE GATE HOTEL by HULIC|url=https://www.gate-hotel.jp/index.html|website=THE GATE HOTEL by HULIC |公式サイト|date=2021-05-31|accessdate=2021-11-07|language=ja}}</ref>。またそれと同時に線路高架下に「東京ミズマチ」と呼ばれる商業施設が開業し、レストランやカフェ・雑貨店・ホテルなどが利用出来る<ref name=":1" />。隅田川の左岸側で[[隅田公園]]の南側を通り、[[北十間川]]と並行して東に進むと[[とうきょうスカイツリー駅]]であり、改称前の駅名だった[[業平橋]]は駅の南西側に位置する。駅南側にあった[[操車場 (鉄道)|貨物ヤード]]は[[土地区画整理事業]]によって[[東京スカイツリータウン]]となった。[[押上駅]]の北側で進路を北東に変えると[[京成押上線]]と並走し、更に進路を北に変えると[[東京メトロ半蔵門線]]押上駅に直通する支線と[[東武亀戸線]]がそれぞれ合流し、[[曳舟駅]]となる。
[[明治通り (東京都)|明治通り]]と[[水戸街道]]を高架で[[立体交差]]すると[[東向島駅]]で、高架下に[[東武博物館]]がある。改称前の駅名だった[[玉の井|玉ノ井]]は駅の北東側に位置していた。高架を降りながら進路を北東に変えると相対式ホームの内側に通過線を有する[[鐘ヶ淵駅]]であるが、駅構内で進路を北東から北西に変えるため、通過列車でも45km/hの速度制限を受ける。[[荒川 (関東)|荒川]]の右岸側に並行する直線区間を進み、[[首都高速6号向島線]]を地上で立体交差すると[[堀切駅]]で、駅の西側に[[東京未来大学]]が隣接する。ホーム全体が曲線上にあり見通しが悪く、左カーブとなる下り線に気笛吹鳴標識が設置されている。進路を西に変える途中で川の手通りと[[京成本線]]の高架を斜めに立体交差すると[[牛田駅 (東京都)|牛田駅]]であり、道路を挟んで南側に位置する[[京成関屋駅]]と接続する。駅西側で墨堤通りと僅かに並走し、留置線を挟む形で上下線が離れる。進路を北に変えて大踏切通りを渡ると、[[常磐線]]・[[東京メトロ日比谷線]]・[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]と並走して東京都足立区最大のターミナル駅である[[北千住駅]]に至る。伊勢崎線及び本線系統の駅では最も乗降人員が多い駅であり、朝ラッシュ時の最混雑区間も同駅までの上り線となっている。押上・浅草方面の列車は2面4線の地上ホームに(1階)、東京メトロ日比谷線に直通する列車は2面3線の高架ホーム(3階)に発着する。
=== 北千住 - 久喜 ===
東武鉄道の路線で最初に開業した区間であり、[[日光街道]]と並行して敷設された。日比谷線と半蔵門線の2路線が相互直通運転する区間であり、東京近郊の[[ベッドタウン]]として宅地開発が進められている。北千住駅から北越谷駅までの18.9kmは私鉄最長の複々線区間であり、緩急分離による高密度運転と優等列車の高速運転を実現している。
北千住駅の北側で進路を北東に変え、高架ホームからの線路が緩行線に合流する。複々線区間は外側が急行線、内側が緩行線であり、優等列車が停車しない駅は緩行線のみホームが設けられている。荒川放水路橋梁を渡ると[[首都高速中央環状線]]と交差し、[[小菅駅]]。東側に[[東京拘置所]]が近接する。進路を北西に変える途中で常磐線・[[東京メトロ千代田線]]・つくばエクスプレスの線路を交差し、直線区間に入ると[[五反野駅]]。直線区間のまま[[日光街道]]を立体交差すると[[梅島駅]]で、上下線のホームが縦に直列する形で設けられている。梅島駅の下り方に緩行線と急行線を連絡する渡り線が設けられており、THライナーはこの先の区間で急行線を走行する。下り急行線から[[東武大師線|大師線]]への連絡線が分岐し、地上に降りると[[西新井駅]]。伊勢崎線の都内区間では数少ない[[橋上駅]]であり、駅構内に大師線[[大師前駅]]の改札を有する。駅の北側で[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]と地上で立体交差すると進路を北に変える。[[千住検車区竹ノ塚分室]]を通り過ぎると下り線が高架になり、竹ノ塚分室への車庫線が上り緩行線と並走する。[[エミエルタワー竹の塚]]の東側で上り線と車庫線が高架になり、[[竹ノ塚駅]]である。同駅は[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]の開業前は特別区で最も北に位置する駅だった。
直線区間を進んで[[毛長川]]を渡ると埼玉県に入り、進路を北東に変えて[[草加バイパス]]を地上で立体交差する。上下線とも高架区間になると[[谷塚駅]]であり、駅構内で進路を北に変える。直線区間を進むと[[草加駅]]で、急行線に通過線が設けられている。多数のバス路線が乗り入れており、他路線と接続しない伊勢崎線の単独駅では最も乗降人員が多い駅である。[[伝右川]]を渡ると[[獨協大学前駅]]で、駅名の由来となった[[獨協大学]]は駅の南西側に、副駅名である[[草加松原]]は駅の東側に位置する。改称前の駅名だった[[草加松原団地|松原団地]]は駅の西側に広がっていたが、老朽化に伴い建替事業が行われている。[[東京外環自動車道]]と立体交差すると[[新田駅 (埼玉県)|新田駅]]、[[綾瀬川]]を渡ると[[蒲生駅]]である。高架が高くなると[[新越谷駅]]で、北側で[[武蔵野線]]の高架を越える関係でホームは駅ビルの4階にある。東口のロータリーで[[南越谷駅]]と接続し、伊勢崎線の駅では北千住駅に次いで乗降人員が多い駅である。高架が低くなると[[越谷駅]]で、草加駅と同様で急行線に通過線が設けられている。[[元荒川]]を渡ると[[北越谷駅]]である。同駅から先は再び複線区間となる。
北越谷駅の留置線を通り過ぎると高架を降りて、草加バイパスを地上で立体交差すると[[大袋駅]]。直線区間を進むと待避線を有する[[せんげん台駅]]で、終日にわたり急行列車との緩急接続が行われる。[[新方川]]を渡ると西側にある[[武里団地]]を通り過ぎ、[[武里駅]]。[[一ノ割駅]]の先まで直線区間が続き、[[東武野田線|野田線]]を地上で立体交差すると進路を北西に変えて[[春日部駅]]に至る。東武鉄道の基幹路線が交わる3面7線のターミナル駅で、一部のアーバンパークライナーは野田線と直通運転が行われている。改札口が東口と西口に分かれており市街地が分断されているが、駅を含む前後の区間で連続立体交差事業が行われている。再度進路を北に変え、[[岩槻春日部バイパス]]と立体交差すると[[北春日部駅]]であり、待避線を有する。直線区間となり、東側にある[[南栗橋車両管区]]春日部支所を通り過ぎると[[姫宮駅]]。[[姫宮落川]]を渡り、進路を北西に変えると[[東武動物公園駅]]である。東武スカイツリーラインの愛称区間はこの駅までであり、駅名の由来となった[[東武動物公園]]は駅の南西側に位置する。駅の所在地は宮代町であり、改称前の駅名だった杉戸は[[大落古利根川]]の対岸にある杉戸町にちなむ。
[[東武日光線|日光線]]と分岐した後は住宅街が駅間で途切れ、車窓からは田園地帯が広がる。大落古利根川と並走して直線区間を進むと[[和戸駅]]。[[首都圏中央連絡自動車道]]を地上で立体交差し、進路を北に変えると[[東北新幹線]]と立体交差し、[[宇都宮線]]と並走して[[久喜駅]]に至る。半蔵門線直通列車が乗り入れる終着駅であり、日中の運行系統も特急列車を除いて久喜駅を境に分断されている。
=== 久喜 - 館林 ===
郊外に進むにつれて[[モータリゼーション]]の進展が著しくなる区間であるが、並行する東武日光線と比較すると各駅の乗降人員が多い。
久喜駅の北側で進路を北西に変え、直線区間を進むと[[鷲宮駅]]。[[らき☆すた]]の[[巡礼 (通俗)|聖地巡礼]]により[[初詣]]の参拝者数が大幅に増加した[[鷲宮神社]]は駅の北側に位置する。[[青毛堀川]]と並行して田園地帯を抜け、[[東北自動車道]]を地上で立体交差すると[[花崎駅]]。埼玉県の県営公園の一つである[[加須はなさき公園]]は駅の南側に位置する。市街地を直線区間で進むと[[加須駅]]。進路を北西に変えて、[[加須羽生バイパス]]を地上で立体交差すると[[南羽生駅]]であり、この区間の駅間距離は伊勢崎線で最長である。進路を北に変えると[[羽生駅]]で、[[秩父鉄道秩父本線]]の乗換駅である。
羽生駅の北側で[[利根川]]を渡るが、利根川橋梁は単線の[[トラス橋]]が並列しており、上り線の橋梁は複線化の時に建設された。利根川の左岸側から群馬県に入るが、その先にある[[川俣駅]]は、利根川橋梁の架橋前は利根川の右岸側(埼玉県)に位置していた。直線区間を進むと[[茂林寺前駅]]で、駅の東側に[[分福茶釜]]の舞台となった[[茂林寺]]と花園の[[東武トレジャーガーデン]]がある。[[東毛広域幹線道路]]を地上で立体交差して南栗橋車両管区館林支所を通り過ぎると[[館林駅]]。切欠きホームを有する2面5線のターミナル駅で、[[東武佐野線|佐野線]]と[[東武小泉線|小泉線]]の乗換駅である。東口の旧駅舎は洒落た模様の窓がある洋館風の駅舎であり、第2回関東の駅百選に選定された。7両編成以上の列車が乗り入れられるのも館林駅までであり、2013年までは朝ラッシュ時の区間急行で当駅から10両編成に増結し、北千住駅で6両編成に解結する運用が存在した。
=== 館林 - 伊勢崎 ===
単線区間であり、合理化の一環として乗降人員が少ない一部の駅は[[無人駅]]となっている。また、すべての普通列車が3両編成の[[ワンマン運転]]であり、ローカル線の風情が強くなる。工業団地を多数擁する太田市と伊勢崎市の人口は増加傾向であり、乗降人員も増加傾向にある。
館林駅の北側で進路を北東に変えると小泉線が西側に、佐野線が東側に分岐する。[[国道122号]]と並行し、[[多々良駅]]。[[矢場川]]を渡ると栃木県に入り、田園地帯に入る。[[県駅]]の周辺は数件の民家を除き田園風景が広がるが、南側に産業団地が造成されている。進路を北に変えると[[民謡]]の『[[八木節]]』ゆかりの地である[[八木宿]]をルーツとする市街地に入り、[[福居駅]]。[[足利バイパス]]を地上で立体交差すると[[東武和泉駅]]で、伊勢崎線の駅では唯一の単式ホームである。[[渡良瀬川]]と並走しながら高架区間に入り、進路を北西に変えると[[足利市駅]]である。接近メロディとして使用されている『[[渡良瀬橋 (曲)|渡良瀬橋]]』は、西側に[[渡良瀬橋|実在する同名の橋]]で見る夕日をモデルに作詞された。進路を南西に変えると[[野州山辺駅]]の先で高架を降りる。矢場川を渡り、足利バイパスを地上で立体交差すると再度群馬県に入り、[[韮川駅]]の先で国道122号を地上で立体交差する。[[SUBARU]]群馬製作所本工場の東側で高架区間となり、進路を西に変えると[[東武小泉線|小泉線]]と並走し、[[太田駅 (群馬県)|太田駅]]に至る。3面6線のターミナル駅であるが、伊勢崎線と[[東武桐生線|桐生線]]に直通するりょうもう号が到着するホームは北側の2面4線である。高架化当初は太田駅 - 伊勢崎駅間のみ特急列車を除いてワンマン運転を行っており、運行系統も太田駅を境に分断されていた。
太田駅の西側で桐生線と平面交差し、進路を南西に変える。高架を降りると[[関東学園大学]]を通り過ぎて、[[細谷駅 (群馬県)|細谷駅]]。西部工業団地を通り過ぎると[[木崎駅]]で、駅の北側に[[サッポロビール]]群馬工場が隣接する。東毛広域幹線道路を地上で立体交差すると田園風景が広がり、そのまま[[上武道路]]を地上で立体交差すると[[世良田駅]]である。駅北側に尾島工業団地が広がるが、伊勢崎線で最も乗降人員が少ない駅である。[[早川 (群馬県)|早川]]を渡ると市街地に入り、[[境町駅]]。進路を北西に変えて、再度東毛広域幹線道路を地上で立体交差し、粕川を渡ると[[剛志駅]]である。[[広瀬川 (群馬県)|広瀬川]]と粕川に挟まれた市街地に入り、[[群馬県道293号香林羽黒線]]を高架で立体交差するが、すぐに地上区間になる。[[国道462号]]を地上で立体交差すると再度高架区間となり、進路を北に変えると[[新伊勢崎駅]]。伊勢崎市の中心市街地が西側に広がり、伊勢崎市役所の最寄り駅である。その中心市街地を囲うような線形で進路を西に変えると[[両毛線]]と並走し、終点の[[伊勢崎駅]]に至る。
館林駅 - 太田駅間においては、1994年10月に沿線自治体が「東武鉄道複線化促進期成同盟会」を結成し、毎年複線化の要望を行ってきた{{要出典|date=2020年6月}}。2006年9月に東武鉄道は『[[上毛新聞]]』の取材に対して、10年間で3割近く利用者が減少しており、複線化は実現の見通しがないことを明らかにした{{要出典|date=2020年6月}}。また、同区間では小泉線経由の方が距離が短いが(伊勢崎線経由は20.1km、小泉線経由の実キロは16.2km)、両駅間を結ぶ直通列車の運行は伊勢崎線経由に限られ、小泉線館林駅 - 東小泉駅 - 太田駅間の[[営業キロ]]数も伊勢崎線に合わせる形で割増されている<ref>{{PDFlink|[https://www.tobu.co.jp/railway/ticket/regulation/pdf/book02-1.pdf 第2編 旅客営業(旅客営業規則)]}} - 東武鉄道 、2022年1月22日閲覧。</ref>。一方で所要時間は同区間までの前後の列車及び東小泉駅での乗り換え時間によって小泉線経由の方が早い場合もあれば、伊勢崎線経由の方が早い場合もある。
== 運行概況 ==
当線で運行される列車及び運行本数は以下の通り。
=== 運行本数 ===
日中1時間あたりの運行本数は以下の通り(2022年3月12日現在)。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+ 日中の運行パターン
|- style="line-height:110%;"
! colspan="2" |種別<br/>\<br/>駅名
! style="width:1em;"|{{縦書き|浅草}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|曳舟}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|北千住}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|北春日部}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|東武動物公園}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|久喜}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|館林}}
!…
! colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|太田}}
!…
! style="width:1em;"|{{縦書き|伊勢崎}}
|-
! rowspan="12" style="width:1em;"|運行範囲
| rowspan="3" style="background:#fd9;"|特急
| colspan="12" style="background:#fd9;"|1-2本
| colspan="12" style="text-align:left;"|→東武日光・鬼怒川温泉・会津田島
|-
| colspan="21" style="background:#fd9;"|0-1本
| colspan="3" style="text-align:left;"|
|-
| colspan="21" style="background:#fd9;"|1本
| colspan="3" style="text-align:left;"|→赤城
|-
| rowspan="2" style="background:#fac;"|急行
| colspan="2" rowspan="2" style="text-align:right;"|中央林間←
| colspan="13" style="background:#fac;"|3本
| colspan="9" style="text-align:left;"|
|-
| colspan="10" style="background:#fac;"|3本
| colspan="12" style="text-align:left;"|→南栗橋
|-
| rowspan="6" style="background:#ddd;"|普通
| colspan="6" style="background:#ddd;"|6本
| colspan="18" style="text-align:left;"|
|-
| colspan="5" rowspan="2" style="text-align:right;"|中目黒←
| colspan="7" style="background:#ddd;"|4本
| colspan="12" style="text-align:left;"|
|-
| colspan="4" style="background:#ddd;"|2本
| colspan="15" style="text-align:left;"|
|-
| colspan="14" style="text-align:left;"|
| colspan="5" style="background:#ddd;"|3本
| colspan="9" style="text-align:left;"|
|-
| colspan="17" rowspan="2" style="text-align:left;"|
| colspan="7" style="background:#ddd;"|1本
|-
| colspan="4" style="background:#ddd;"|1本
| colspan="3" style="text-align:left;"|
|}
=== 列車種別 ===
==== 特急 ====
浅草駅発着で北関東各地域とを結ぶ下記の[[特別急行列車|特急列車]]が運行されている。詳細は各記事を参照。
* 「[[けごん]]」・「[[けごん|リバティけごん]]」
* 「[[けごん|きぬ]]」・「[[けごん|リバティきぬ]]」
* 「[[けごん|スペーシアX]]」
* 「[[けごん|リバティ会津]]」
* 「[[りょうもう]]」・「[[りょうもう|リバティりょうもう]]」
* 「[[アーバンパークライナー#スカイツリーライナー|スカイツリーライナー]]」
* 「[[アーバンパークライナー]]」
このうち、「りょうもう」・「リバティりょうもう」は、浅草から東武動物公園以北へ直通する。「りょうもう」の[[東武桐生線|桐生線]]の[[赤城駅]]発着を主とするが、浅草駅 - [[伊勢崎駅]]間全線を運行する列車もある。
このほか、東武宇都宮線直通の「[[しもつけ (列車)|しもつけ]]」が2020年6月5日まで<ref name="tobu20200225" />([[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染拡大防止のため「しもつけ」含む一部の特急が同年4月25日から6月5日まで運休となったため<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/e07e94c503a66b3fd1a0a3c0177a4160_200421.pdf|format=PDF|title=特急列車の一部運休について|publisher=東武鉄道|date=2020-04-21|accessdate=2020-06-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/e07e94c503a66b3fd1a0a3c0177a4160_200421.pdf|format=PDF|title=6月6日(土) ダイヤ改正に合わせ、一部運休していた特急列車の運転を再開します|publisher=東武鉄道|date=2020-05-28|accessdate=2020-06-07}}</ref>、4月24日で運転終了)、「[[きりふり]]」が2022年3月6日まで設定されていた。
==== THライナー ====
{{Main|THライナー}}
2020年6月6日に運転を開始した、東京メトロ日比谷線直通の有料座席指定列車。
==== 急行 ====
[[ファイル:Tokyu-Series8500-8637F.jpg|thumb|250px|約10分間隔で半蔵門線・田園都市線へ直通する急行(2021年4月 和戸駅 - 東武動物公園駅間、車両は[[東急8500系電車|東急8500系]])]]
[[急行列車]]は[[久喜駅]]・日光線[[南栗橋駅]](一部[[東武動物公園駅]])発着で、[[押上駅]]より東京メトロ半蔵門線に乗り入れ、[[渋谷駅]]を経由して[[東急電鉄]][[東急田園都市線|田園都市線]]の[[中央林間駅]](一部[[長津田駅]])まで運行される列車である。曳舟駅 - 東武動物公園駅間は主要駅のみ停車して速達輸送の役割を担う。路線図上のシンボルカラーは濃ピンク{{Color|#FF3366|■}} 。
当種別は[[2003年]][[3月19日]]の半蔵門線直通開始と同時に'''通勤準急'''として東武動物公園駅・南栗橋駅発着で運行を開始し、平日ダイヤで朝に上り4本・夕方に下り19本が、土休日ダイヤで上り1本・下り2本が設定された。[[2006年]][[3月18日]]ダイヤ改正からは現行の急行に名称が変更され、東武動物公園駅 - 久喜駅間が運行区間として拡大されるとともに、ほぼ終日に渡り運行されるようになった。なお、それまでの別途料金が必要な急行<!--は初代ではありません。戦前の無料急行が初代です-->([[しもつけ (列車)|「しもつけ」]]・[[きりふり|「きりふり」・「ゆのさと」]])は全て特急に変更された。
全列車が10両編成で、終日約10分間隔で運行されている。主に[[草加駅]]と[[せんげん台駅]]で[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]を行う。かつては後述する区間急行(旧・準急)のように久喜駅や南栗橋駅以北へ直通する列車が多数存在したが、2006年3月18日のダイヤ改正による半蔵門線直通列車の大増発に伴い両駅を境にしての系統分割が行われた。このため久喜駅では館林駅・太田駅方面、南栗橋駅では[[新栃木駅]]方面の各駅停車に相互接続が考慮されている。また、曳舟駅では浅草駅発着列車との相互接続も考慮されている。
==== 区間急行 ====
[[ファイル:Tobu-Isesaki-Line-Series16654F.jpg|thumb|250px|区間急行に充当される10030型(2019年8月 西新井駅 - 竹ノ塚駅間)]]
区間急行は主に浅草駅 - 館林駅間および日光線南栗橋駅間で運行される。北千住駅 - 東武動物公園駅間では主要駅のみ停車して速達輸送の役割を担い、その他の区間では各駅に停車する。路線図上のシンボルカラーは薄ピンク{{Color|#f9f|■}}。
2017年4月21日改正ダイヤでは、下り列車は浅草駅基準で平日が5 - 9・16 - 23時台、土休日が5 - 9・21 - 23時台、上り列車は東武動物公園駅基準で平日が5 - 9・22 - 23時台、土休日が5 - 9・23時台の運転となっている。基本的に6両編成であるが平日朝ラッシュ時の館林駅・南栗橋駅 - 浅草駅間、夕ラッシュ時に設定されている館林駅行きの一部列車では8両編成で運転される。なお、北千住駅発着も「区間急行」であり「急行」とはならない。
2006年3月17日までは'''準急'''として伊勢崎線・日光線・[[東武宇都宮線|宇都宮線]]の全線で終日運転され、東武本線の特別料金不要の速達列車として最も長い歴史があった。2003年3月17日までは業平橋駅発着列車、2006年3月17日までは伊勢崎駅発着と[[東武宇都宮駅]]発着もあった。
2006年3月18日のダイヤ改正で、現行の区間急行に名称が変更された上で運行区間・本数が削減された。区間急行となった後も2009年6月5日までは[[東武日光駅]]発着(および[[会津田島駅]]発)の列車も存在していたが、翌6月6日のダイヤ改正を機に新栃木駅で系統分割された。さらに2013年3月16日のダイヤ改正によって、日光線新栃木駅発着の区間急行は南栗橋駅 - 新栃木駅間の普通列車<ref group="注">区間急行の削減に伴い本改正より6両から4両に編成が縮小された。</ref>や浅草駅 - 東武動物公園駅間の区間準急に置き換えられる形で大幅に削減され、[[南栗橋車両管区|南栗橋車両管区新栃木出張所]]への入出庫を兼ねた6050系の6両編成による1往復のみ(早朝の新栃木駅発・深夜の新栃木駅行き)となった。この列車も2017年4月21日のダイヤ改正で快速・区間快速が廃止され6050系が伊勢崎線から撤退したことに伴い消滅した<ref group="注">前述のとおり、この改正で特急を除き東武スカイツリーライン内からの日光線定期列車は全て南栗橋駅折り返しに統一されたため、改正前日の4月20日深夜(終着時点では4月21日午前0時)に運行された浅草駅発新栃木駅行き区間急行が東武スカイツリーラインから日光線南栗橋駅以北へ乗り入れた特別料金不要列車として最後の定期運行となった。</ref>。その後も運行区間の整理が順次行われている。
2013年3月16日以降は前述の通り最大でも8両編成での運行であるが、準急時代の1986年8月26日から2013年3月15日まではラッシュ時に10両編成での運行もされていた。同年3月16日のダイヤ改正で10両編成の運行が全廃された。10両編成で運行されていた当時には、南栗橋駅・館林駅及び北千住駅・曳舟駅で[[増解結]]作業を行い、新栃木駅・太田駅方面及び浅草駅方面へ直通運転を行う列車もあった。
平日朝の上りには地下鉄半蔵門線直通車両(30000系の直通対応車または50050型)が使用される北千住駅止まりの区間急行が1本存在したが、2013年3月16日のダイヤ改正で当該列車は半蔵門線直通の急行に変更された。
==== 準急 ====
[[ファイル:Tokyu2020tobu-wiki.jpg|thumb|250px|朝夕に運行される半蔵門線・田園都市線直通の準急(2018年10月 五反野駅、車両は[[東急2020系電車|東急2020系]])]]
[[準急列車]]は久喜駅・日光線南栗橋駅(一部は北越谷駅・東武動物公園駅)発着で、押上駅より東京メトロ半蔵門線に乗り入れ、[[渋谷駅]]を経由して東急田園都市線の[[中央林間駅]](一部は[[長津田駅]])まで運行される列車である。その他に半蔵門線内発として[[清澄白河駅]]発の列車が早朝に設定されている。東急田園都市線内では急行や準急、または各駅停車として運転される。路線図上のシンボルカラーは緑{{Color|#093|■}}。
押上駅 - [[新越谷駅]]間の停車駅は急行と同じで、新越谷駅 - 久喜駅・南栗橋駅間は各駅に停車する。全列車が10両編成であり、早朝から朝ラッシュまでと深夜に運行される。2003年3月19日の半蔵門線直通開始当初は'''区間準急'''として平日ラッシュ時以外に運行されていたが、当時既に存在していた浅草駅発着の区間準急(後述)と曳舟駅 - 北千住駅間で停車駅が異なるなどの観点から、2006年3月18日のダイヤ改正で現行の準急に名称が変更された上で早朝から朝ラッシュ後までと深夜のみの運行となった。かつては長津田駅 - 北越谷駅間のみ準急運転を行う下り列車があった。この当時、東急線内は上り(渋谷方面)かつ平日しか設定されなかった。その後、2014年6月21日のダイヤ改正で東急線の下り(中央林間方面)および土休日にも設定されたため、平日朝の久喜駅発長津田駅行きの1本は全区間で準急として東京メトロ車で運転されている。
準急(および区間準急)が運行される時間帯は、地下鉄日比谷線方面からの普通列車は大半が北越谷駅発着となり、新越谷駅 - 久喜駅・南栗橋駅間で各駅に停車する準急が同区間における各駅停車の役割を果たしている。また、せんげん台駅で特急の通過待ちを行う列車もあり、日光線方面では南栗橋駅で[[東武日光駅]]行きの急行と接続する列車も存在する。
急行同様、曳舟駅で浅草方面発着列車との接続が考慮されている。
列車種別案内などでは「準急」は「区間急行」の下位種別側に記されているが、準急が各駅に停車する越谷駅 - 東武動物公園駅間では区間急行はせんげん台駅と春日部駅のみに停車する一方で、準急が通過する曳舟駅 - 北千住駅間では区間急行は各駅に停車する。したがって、準急と区間急行はその緩急順位が全区間で一定しない。そのため、下り列車では曳舟駅で準急に抜かれた区間急行がせんげん台駅か春日部駅で準急を抜き返し、上り列車では北春日部駅またはせんげん台駅で区間急行に抜かれた準急が曳舟駅で追い付くダイヤになっている。かつて朝夕ラッシュ時の上り準急列車の一部では、せんげん台駅で抜かれた区間急行を鐘ヶ淵駅で抜き返し曳舟駅には準急の方が先に到着するというダイヤが組まれていたが、煩雑さの解消と利便性確保のため曳舟駅まで区間急行を先行させるように改めた。
==== 区間準急 ====
区間準急列車は主に浅草駅 - 東武動物公園駅間(一部は久喜駅・館林駅・日光線南栗橋駅発着)で運行されている列車である。また運用の関係で北千住駅発着(始発は土休日のみ)、北越谷駅着、北春日部駅発着もある。路線図上のシンボルカラーは黄緑{{Color|#0f0|■}}。
[[急行線]]を走行する北千住駅 - 新越谷駅間の停車駅は[[#急行|急行]]と同じであるが、それ以外の区間では各駅に停車する。2013年までは日中にも運転されていたが、現在は朝ラッシュ時と夕ラッシュ時に運転されている北越谷駅発着の普通を補完する形で朝と夕方以降に運転されている。また、土休日運行の久喜駅行きは東武動物公園駅で後発の南栗橋駅行きとの接続を行う。基本的に6両編成であるが8両編成で運転される場合もある。なお、2013年3月15日までは平日朝の区間急行の折り返しと夜間の北千住駅発北春日部駅行きの1本のみは10両編成で運転されていた。
当種別は[[1997年]][[3月25日]]に運行開始。北千住駅 - 南栗橋駅間で30分おきに運転され、浅草駅発北春日部駅行き(浅草駅 - 北千住駅間は各駅停車)の列車も深夜に1本のみ設定された。2003年3月19日から日中の北千住駅発着列車を延長・増発する形で曳舟駅 - 北千住駅間ノンストップの押上・半蔵門線方面直通列車(現・準急)が設定されたが、朝夕を中心に北千住駅発着と浅草駅発北春日部駅行きも残存した。[[#準急|準急]]の節で述べた停車駅の違いによる問題から、2006年3月18日のダイヤ改正から押上・半蔵門線方面への区間準急が準急に名称変更され、区間準急は浅草駅・北千住駅発着専用の種別となった。同時に運転区間も浅草駅 - 北千住駅間、東武動物公園駅 - 太田駅間に延長され浅草駅発着が主となった。北千住駅発着は朝夕に限定され、2009年6月6日に北千住行きが、2013年3月16日に北千住始発が廃止された。その後、北千住行きは2013年に、北千住始発は2017年4月21日にそれぞれ復活した。昼間時間帯の浅草駅 - 久喜駅間は廃止<ref group="注">これにより久喜始発・平日の久喜行きは消滅した(始発は2017年から土休日に再設定)。</ref>となり浅草駅 - 竹ノ塚駅間の普通列車に格下げされた。区間急行同様に北千住駅発着も「区間準急」であり「準急」とはならない。[[2020年]]6月6日のダイヤ改正で伊勢崎線太田駅発着が廃止され、館林駅発着に短縮となった。
==== 普通 ====
[[ファイル:Tobu-Series11447R.jpg|thumb|250px|館林駅 - 久喜駅間の普通で運用される10030型(2021年10月 鷲宮駅)]]
[[普通列車]]は主に以下の区間で運行される(送り込み運用などで例外あり)。車内や駅でのアナウンスでは、[[各駅停車]]と称される(ごく一部の駅アナウンスでは「普通」を使用)。路線図上のシンボルカラーはグレー{{Color|#444|■}}。北千住駅 - 東武動物公園駅・南栗橋駅間の列車(大部分は日比谷線直通列車)は7両編成(70000系と東京メトロ13000系)、ワンマン運転区間では3両編成、その他は基本的に6 - 8両編成で運転される。
#浅草駅 - 北千住駅間:2006年3月17日まで運行されていた浅草駅と日光線の[[南栗橋駅]]・[[新栃木駅]]を結ぶ準急を置き換える形で2006年3月18日のダイヤ改正で登場し、2020年6月5日までは日中は1時間に3本の運行であったが、翌日6日のダイヤ改正で竹ノ塚発着の普通を置き換える形で日中は1時間に6本の運行となった。いずれも曳舟駅で半蔵門線直通の[[#急行|急行]]と相互接続を行う。2020年6月6日のダイヤ改正までは竹ノ塚発着を始め北千住以北に乗り入れる列車もあったが、この改正で東向島駅 - 牛田駅間と小菅駅 - 梅島駅間を直通する列車がなくなった。浅草駅発着の[[#区間急行|区間急行]]や[[#区間準急|区間準急]]が運行される時間帯は運転本数が減少する。主に6両編成で運転される。
#(中目黒駅 - )北千住駅 - 東武動物公園駅・南栗橋駅間:早朝・深夜の一部列車を除く全列車が北千住駅から東京メトロ日比谷線に乗り入れる。日中は1時間あたり、北千住駅 - 北春日部駅が6本、北春日部駅 - 東武動物公園駅が4本の運行で、草加駅とせんげん台駅で急行と緩急接続を行う。北千住駅 - 北越谷駅間の複々線区間では[[緩行線]]を走行する。ラッシュ時は竹ノ塚駅・北越谷駅発着列車が多く、日光線南栗橋駅発着列車も設定される。車両運用等の詳細は「[[#東京メトロ日比谷線|日比谷線との直通運転]]」を参照。全列車7両編成で運転される。
#久喜駅 - 館林駅間:日中は急行の接続を受ける形で1時間に3本程度運行される。かつては太田駅まで直通する系統もあったが、2020年6月6日のダイヤ改正で全列車が館林駅で系統分離された。一部列車は車両の送り込みを兼ねて東武動物公園発着や北春日部始発の運行となっている。館林駅発着の区間急行や区間準急が運行される時間帯は運転本数が減少する。館林駅では各路線との接続が考慮されている。この区間は10両編成に対応しているが、日中は主に6両編成で運転される。
#館林駅 - 太田駅・伊勢崎駅間:日中は1時間に2本程度運行されるが、半数が館林駅 - 太田駅間での運行となる。特急「りょうもう」や3.との接続が図られたダイヤを組む。館林駅と太田駅では接続する各路線との接続が考慮されている。この区間は6両編成に対応しているが、全列車が3両編成で運転され、[[ワンマン]]運転を行っている。
上記に含まれない東武動物公園駅 - 久喜駅間(途中駅は和戸駅のみ)では、特急以外の全列車が終日各駅に停車するため、普通列車はごくわずかである。この区間で完結する列車は平日の9時台に上りの久喜駅発東武動物公園駅行きが2本存在するのみであり、その他に下りは北春日部駅発館林駅行きが2本、東武動物公園駅発館林駅行きが4本、上りは館林駅発東武動物公園駅行きが平日1本、休日5本設定されている<ref>{{Cite web|和書|title=和戸 {{!}} 東武伊勢崎線 {{!}} 浅草方面 時刻表 - NAVITIME|url=https://www.navitime.co.jp/diagram/timetable?node=00009108&lineId=00000798|website=www.navitime.co.jp|accessdate=2022-09-06}}</ref>。
==== 臨時列車 ====
;フラワーエクスプレス
:[[つつじが岡公園]]の[[ツツジ|つつじ]]・[[東武トレジャーガーデン]]の[[シバザクラ|芝桜]]や[[あしかがフラワーパーク]]の[[フジ (植物)|フジ]]の見頃であるゴールデンウィークに(東急線)長津田駅 - (押上駅経由) - 太田駅間で運行された。館林駅以北は10両編成非対応のため、館林駅で4両の[[増解結]]を行った。そのため、地下鉄対応で分割可能な唯一の形式である[[東武30000系電車|30000系]]で運転された。
:;停車駅
:長津田駅 - (東急田園都市線内急行・半蔵門線内各駅停車) - 押上駅 - 曳舟駅 - 北千住駅 - 春日部駅 - 東武動物公園駅 - 久喜駅 - 加須駅* - 羽生駅* - 茂林寺前駅(太田駅行のみ) - 館林駅 - 足利市駅 - 太田駅
::加須駅と羽生駅は2010年の運行では長津田駅行のみ停車。また、運行当初は中央林間駅発着もあった。
:2011年・2012年は「フラワーリレー号」として運行された。2011年は久喜駅 - 太田駅間の普通列車に、2012年は浅草駅 - 太田駅間・久喜駅 - 太田駅間の列車に[[ヘッドマーク]]を装着する形での運行となった。2013年以降は運行されていない。
;スカイツリートレイン
:[[東武6050系電車|6050系]]を改造した[[東武6050系電車#634型「スカイツリートレイン」|634型電車「スカイツリートレイン」]]を使用し、[[東京スカイツリータウン]]と日光・鬼怒川方面、太田方面、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面を結ぶ列車として2012年10月に登場した。全区間「[[スカイツリートレイン]]」の愛称が用いられる。当初は団体専用列車として運行されていたが、同年12月より土休日を中心に臨時特急として運行が開始された。土曜日と日曜日では運行区間が異なり、祝日はどちらかのダイヤで運行されていた。2017年4月16日をもって運転終了となり以後は団体専用列車となっている。
=== かつて運行されていた列車種別 ===
この節で単に『準急』と記したものは、2006年3月17日以前に設定されていた準急(2006年3月18日以降の区間急行)を示すこととする。
==== 旧準急・通勤準急 ====
種別名変更された旧準急は「[[#区間急行|区間急行]]」、旧通勤準急は「[[#急行|急行]]」を参照。
==== 通勤快速 ====
[[1987年]][[7月21日]]のダイヤ改正で廃止された種別である。北千住 - 太田・新大平下間で快速運転を行う種別で、休日にも運転されていた。廃止時は東武日光駅・東武宇都宮駅(新栃木駅で東武宇都宮駅発着2両を[[増解結|分割併合]])発着の上下1往復のみ設定されていたが、所要時間は北千住駅 - 春日部駅間で上り35分(休日は31分)、下り31分であり、準急を追い抜かすことはなかった。この影響で北千住駅 - 春日部駅間の休日上りダイヤでは、前後の準急が14分開いた。
当種別が廃止された後、伊勢崎線では6往復だけ設定される準急A(後述)としてしばらく名残が見られ、日光線では東武日光駅・東武宇都宮駅発着の準急として2006年3月17日まで名残が見られた。
車両は、日光線方面発着列車であっても4扉通勤車が用いられ、種別表示に「通勤快速」がない車両では「快速」と表示されていた。かつて[[東武5000系電車|5000系]]が登場直後に充当された種別でもある。
;停車駅
:浅草駅 - (各駅停車) - 北千住駅 - 春日部駅 - 東武動物公園駅
:(伊勢崎線) - 久喜駅 - 加須駅 - 羽生駅 - 館林駅 - 足利市駅 - 太田駅 - (各駅停車) - 伊勢崎駅
:(日光線直通) - [[幸手駅]] - [[新古河駅]] - [[藤岡駅]] - [[新大平下駅]]以北各駅停車
==== 準急A・B ====
[[2003年]][[3月18日]]までは、浅草駅 - 伊勢崎駅間で運行されていた準急の一部(廃止時は日中のみに上下6本ずつ・1時間ごと)が北千住 - [[太田駅 (群馬県)|太田]]間を速達運転する「準急A」として設定されており、北千住駅 - 東武動物公園駅間のみを速達運転する「準急B」と区別していた<ref>東武鉄道『東武時刻表』1988年10月号列車種別と停車駅案内図のページを参照。</ref>。ただし、種別表示では単に「準急」と書かれ、東武時刻表の当該路線のページや放送などの旅客案内上もAやBという呼称は用いず、「東武動物公園 - 北千住間準急」「太田まで準急」などと、準急運転区間の駅名を用いて案内されていた。また東武動物公園駅以北を各駅に停車する走る準急Bや普通との接続は考慮されていなかった。
準急Aの廃止により、準急の速達運転区間が北千住 - 東武動物公園間に統一された。また東武動物公園駅〜大田駅間の準急A通過駅は実質的に増便となった。準急Bの停車駅は現在の区間急行に引き継がれているが東武動物公園以北の乗り入れ区間が館林駅・南栗橋駅までに縮小されている。
;北千住駅 - 太田駅間準急(「準急A」)停車駅(廃止直前のダイヤ)
:浅草駅 - (各駅停車) - 北千住駅 - 西新井駅 - 草加駅 - 新越谷駅 - 越谷駅 - せんげん台駅 - 春日部駅 - 東武動物公園駅 - 久喜駅 - 加須駅 - 羽生駅 - 館林駅 - 足利市駅 - 太田駅 - (各駅停車) - 伊勢崎駅
;北千住 - 東武動物公園間準急(「準急B」)停車駅(廃止直前のダイヤ)
:浅草駅 - (各駅停車) - 北千住駅 - 西新井駅 - 草加駅 - 新越谷駅 - 越谷駅 - せんげん台駅 - 春日部駅 - 東武動物公園駅 - (各駅停車) - 伊勢崎駅
==== 快速・区間快速 ====
[[2017年]][[4月21日]]のダイヤ改正で廃止された種別である。[[快速列車|快速・区間快速]]の停車駅は[[東武日光線|日光線]]内で違いがあるが、伊勢崎線(東武スカイツリーライン)内では同じである(下記参照)。東武動物公園駅から日光線・[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]・[[野岩鉄道会津鬼怒川線]]・[[会津鉄道会津線]]を経由して、栃木県の東武日光駅および[[福島県]]の[[会津田島駅]]に至る長距離列車であった。シンボルカラーは、以前は赤・オレンジであったが、区間快速設定後は快速が青{{Color|#0000FF|■}}、区間快速が水色{{Color|#0066FF|■}}。伊勢崎線内の停車駅は急行より少なかった<ref group="注">{{要出典範囲|date=2020年1月9日|快速が急行より停車駅が少ない路線は他に[[神戸電鉄粟生線]]がある。かつては[[京成押上線]]や、「快速」ではなく「拝島快速」だが[[西武新宿線]]・[[西武拝島線|拝島線]](2012年6月29日に廃止され急行に代替)もそうであった。なお、2013年3月16日から[[東武東上本線|東武東上線]]で「快速」が新設されたが、こちらは伊勢崎線・日光線系統の快速・区間快速とは性格が大きく異なり、停車駅が急行より少ないが快速急行より多い設定である。但し、東上線の快速急行は当路線に設定されていた有料種別の快速急行とは違い、無料種別である}}。</ref>。詳細は「[[東武日光線#快速・区間快速|東武日光線快速・区間快速]]」を参照のこと。廃止直前では[[東武6050系電車|6050系]]が充当されており、多客時には[[東武1800系電車|1800系]]が使用されることもあった。
前述した同じ「区間」のつく「区間急行」と「区間準急」は浅草駅 - 北千住駅間は各駅に停車<!--「各駅停車」とする種別名と紛らわしい。以下同じ-->するが、「区間快速」は浅草駅 - 北千住駅間では途中とうきょうスカイツリー駅のみ停車する。当初は2012年3月17日に業平橋駅から改称したとうきょうスカイツリー駅にも同日から<!-- 同日と入れないと改称日以前から停車していたように(停車開始日と改称日が違うように)読める。-->一部の特急が停車していたが、快速や区間快速は通過していた。2013年3月16日より快速・区間快速ともに停車駅となったが、日中の運転本数が1時間に1本から2時間に1本に削減された。
この列車は、関東の[[大手私鉄]]の料金不要列車では唯一関東外の地域(福島県)まで乗り入れていた。浅草と日光及び福島を結ぶ料金不要の長距離列車として50年以上走り続けてきたが、2017年4月21日の特急「リバティ」運行開始に伴い廃止された<ref name="response20170228">{{Cite news |title=東武鉄道、日光方面の快速・区間快速を廃止 4月21日ダイヤ改正 |newspaper=[[Response.]] |date=2017-02-28 |url=https://response.jp/article/2017/02/28/291372.html |accessdate=2017-04-29 |publisher=株式会社イード }}</ref>。ダイヤ改正直後のゴールデンウィークは、かつての快速停車駅に加えて日光線の[[南栗橋駅]]と[[栗橋駅]]に停車する臨時列車として運転された<ref>[http://www.tobu.co.jp/file/pdf/48dcbc7d0f7beb83b9a34dab51cb5362/newsletter_170425_2.pdf GWに臨時列車を運転します。] 東武鉄道 2017年4月25日</ref>。
;快速・区間快速停車駅(廃止直前のダイヤ)
:浅草駅 - とうきょうスカイツリー駅 - 北千住駅 - 春日部駅 - 東武動物公園駅 - 板倉東洋大前駅 - 新大平下駅 - 栃木駅 - 新栃木駅 - 新鹿沼駅 - 下今市駅 - 東武日光駅
:*区間快速は新大平下駅から各駅停車
=== 他社線との相互直通運転 ===
以下の路線との[[直通運転|相互直通運転]]が実施されている。
==== 野岩鉄道会津鬼怒川線・会津鉄道会津線 ====
{{Main|東武日光線#快速・区間快速|野岩鉄道会津鬼怒川線#運転|会津鉄道会津線#浅草駅・鬼怒川温泉駅・新藤原駅発着列車}}
[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]][[新藤原駅]]を経由して、特急「リバティ会津」が浅草駅から[[野岩鉄道会津鬼怒川線]]経由[[会津鉄道会津線]][[会津田島駅]]まで運行されている。1日4往復運転され、[[東武500系電車|500系]]が充当される。2017年4月21日のダイヤ改正までは快速・区間快速列車が運行され、[[東武6050系電車|6050系]]が充当されていた。
観光シーズンには[[東武鉄道夜行列車|夜行列車(「尾瀬夜行」・「スノーパル」)]]も運行され、かつては[[東武300系電車|300型・350型]]が充当されていたが、「尾瀬夜行」は2018年6月、「スノーパル」は同年12月の運用からいずれも500系に置き換えられた。
==== 東京メトロ日比谷線 ====
[[ファイル:Tokyo-Metro Series13000 Series08.jpg|thumb|250px|東京メトロの乗り入れ車両。日比谷線は南栗橋駅まで、半蔵門線は南栗橋駅と久喜駅まで直通する(2021年8月 姫宮駅)]]
北千住駅を経由して、普通列車が日光線[[南栗橋駅]]から[[東京メトロ日比谷線]][[中目黒駅]]まで運行されている。
戦前より、東武鉄道は独力で[[都心]]までの路線延伸を企図していた。戦前期には[[筑波高速度電気鉄道]]の免許を使って北千住駅 - 上野駅間の延伸を果たそうとしたが、買収価格を引き下げようとした結果[[京成電鉄]]に購入されてしまい失敗した。[[高度成長期]]には北千住駅から[[上野駅|上野]]・[[新橋駅|新橋]]方面までの延伸を計画したが、「都心乗り入れは地下鉄との相互直通運転で」という都市政策上計画を断念し、[[1962年]][[5月31日]]の[[北越谷駅]]から[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]日比谷線[[人形町駅]]まで相互直通運転開始により都心直結を実現した。
相互直通運転開始後、沿線の埼玉県[[草加市]]や[[越谷市]]などは東京近郊の[[ベッドタウン]]として人口が急増した。翌[[1963年]][[2月28日]]には相互直通運転区間を[[東銀座駅]]まで延長し、[[1964年]][[8月29日]]の日比谷線全通により中目黒駅までの乗り入れを開始した。[[1966年]][[9月1日]]には[[北春日部駅]]まで相互直通運転区間が延長され、同年の[[武里団地]]開設もあって埼玉県[[春日部市]]の人口が急増した。さらに[[1981年]][[3月16日]]からは、同日に杉戸駅から改称された東武動物公園駅まで相互直通運転区間を延伸した。これにより、日比谷線区間内でも「東武動物公園行きが参ります」と駅名が連呼され、日比谷線各駅の案内でも「北千住・東武動物公園方面」と表示されるようになり、[[3月28日]]に開業した[[東武動物公園]]の宣伝にも一役買った<ref>渡部史絵・花上嘉成(2021):超!探求読本 誰も書かなかった東武鉄道、p.115、河出書房新社</ref>。
日比谷線は2013年3月15日まで東急[[東急東横線|東横線]]とも相互直通運転を行っていたが、当時から3社を直通する列車はなく、伊勢崎線方面からの列車は中目黒止まり(一部は[[南千住駅]]・[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]・[[六本木駅]]折り返し)となっていた。
[[2013年]]3月16日には日光線南栗橋駅まで相互直通運転区間が延長された。ただし、それ以前にも例外として、2003年3月19日より朝に1本のみ南栗橋発中目黒行きの普通列車が設定されていた。この列車は東武鉄道の車両での運行であった。このほか、[[南栗橋車両管区]]への入庫のための[[間合い運用]]として、東武鉄道の日比谷線直通用車両による東武動物公園駅発南栗橋駅行きの普通列車が運行されていた。
北千住駅 - 東武動物公園駅間の各駅停車は、一部を除いて全列車が日比谷線直通列車である。
日比谷線では2社(2013年3月15日までは3社)の車両が使用されており、列車番号末尾アルファベットの「'''T'''」は東武所有車両(20000系列, 70000系・運用番号は01T - 37Tの奇数)、「'''S'''」は東京メトロ所有車両(03系, 13000系・運用番号は02S - 74Sの偶数と61S・63S)、「'''K'''」は東急所有車両(1000系・運用番号は81K - 87Kの奇数、偶数の両方)を示しているが、東武鉄道の車両は東急東横線に乗り入れることができず、東急の車両も伊勢崎線に乗り入れることができなかった。また東京メトロの車両は東武・東急への乗り入れが可能であるが、結局日比谷線経由で3社を直通する列車は設定されなかった。
各社間の走行距離調整の関係上、東武の車両(2013年3月15日までは東急の車両も)は日比谷線内のみで運転される列車にも使用されている。また2013年3月16日改正ダイヤでは、東武車2本が日比谷線内の千住検車区で、メトロ車2本が南栗橋車両管区春日部支所でそれぞれ夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。どの列車がどの会社の車両で運転されるかは、『MY LINE 東京時刻表』([[交通新聞社]])の列車番号欄などで分かる。
==== 東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線 ====
[[ファイル:TRTA SERIES8000 8116F.JPG|thumb|right|240px|東京メトロ半蔵門線または東急田園都市線に輸送障害が発生した場合のみ運転される急行 北千住行き(2008年10月 せんげん台駅)]]
[[押上駅]]を経由して、[[#急行|急行]]・[[#準急|準急]]列車が[[久喜駅]]・[[東武日光線|日光線]][[南栗橋駅]]から半蔵門線・田園都市線経由で[[中央林間駅]]まで運行されている。
日比谷線との直通運転開始後、沿線の人口が急増するとともに伊勢崎線も乗客が急増した。東武鉄道は北千住駅以北の複々線化で輸送力増強・混雑緩和を図ってきたが、北千住駅での日比谷線との乗り換えに伴う混雑が非常に激しくなり、抜本的な改良が求められた。同一ホームでの乗り換えから伊勢崎線(1階)と日比谷線(3階)に乗り場を分離する北千住駅重層化が1996年7月に完成し、ホームに乗客があふれる状況は軽減された。北千住駅の重層化と並行して、さらなる混雑緩和対策として「もう1つの都心直通ルート」を検討した結果、当時東京北東部への延伸計画のあった半蔵門線との直通運転を行うこととなった。当時の[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)が[[水天宮前駅]]から押上駅まで延伸、東武鉄道が曳舟駅から押上駅までの連絡線(正式には業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅) - 曳舟駅間の線増扱い)建設を行い、[[2003年]][[3月19日]]より直通運転が始まった。
半蔵門線直通列車は東急田園都市線まで乗り入れ、久喜駅・南栗橋駅 - 押上駅 - [[渋谷駅]] - 中央林間駅で運用される。これにより、東武の車両が営業運転としては初めて[[神奈川県]]内でも見られるようになった。一部に北越谷駅・東武動物公園駅や田園都市線の[[鷺沼駅]]・[[長津田駅]]発着列車が運行されるほか、平日の上り最終列車は押上止まり(押上駅で半蔵門線の押上発の列車に接続)となる。
車両は3社の車両が使用され、[[列車番号]]末尾アルファベットの「'''T'''」は東武車両(50000型、50050型・運用番号は50T - 82Tの偶数)、「'''S'''」は東京メトロ車両(8000系、08系、18000系・運用番号は51S - 93Sの奇数)、「'''K'''」は東急車両(5000系、2020系・運用番号は01K - 37Kの奇数、偶数の両方と45K<ref group="注">38K - 44Kは東武線非乗り入れ運用である。</ref>)を表している。日比谷線・東横線と異なり、東急車の一部を除いて3社への乗り入れが可能であり、上述のような3社直通電車が運行される。ダイヤの乱れが生じた場合は、この限りではない。
なお、走行距離調整の関係などから東武車両は田園都市線から半蔵門線の押上駅で折り返す列車及び長津田駅 - 中央林間駅間の区間運転列車にも使用されているほか(後者は3社とも使用)、東武車両の2本が長津田車庫で、東急車両の2本が南栗橋車庫でそれぞれ運用終了・[[夜間滞泊|夜間留置]]となる「外泊運用」が組まれている。前述の日比谷線直通列車と同様、どの列車がどの会社の車両で運転されるかは、『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄などで判る。
事故などのトラブルで直通運転が不可能となった場合、伊勢崎線から半蔵門線に直通する列車は北千住駅にて折り返す。また、半蔵門線側から伊勢崎線に直通する列車は、終着駅である押上にて折り返し運転を行う<ref group="注">列車運行情報サイトでは、「直通運転の中止」などと表記される。</ref>。このため、3社の車両には通常は使用しない「北千住」の行き先表示が用意されている。しかし、直通運転が中止された場合の東武線内での運用は、原則として東武の車両となっている。行き先が「北千住」となった場合、電車は北千住駅で折り返し運転を行うのではなく、一度、曳舟駅に回送される。一定時間待避した後折り返し、北千住駅へ向かう。この時、曳舟駅 - 押上駅間は不通となり両駅を結ぶ列車が運行されなくなるので、押上駅へ行くときはとうきょうスカイツリー駅からの徒歩連絡となる。それにあわせて大手町駅 - 北千住駅間では[[東京メトロ千代田線]]に乗るよう案内される。そのため、運行トラブルが発生すると北千住駅 - 押上駅 - 大手町駅間で通常時よりも所要時間がかかる。東京メトロ半蔵門線直通列車の運転再開までに要する時間は東京メトロ日比谷線直通列車の運転再開までに要する時間よりも長くなる傾向にあり、夜間にダイヤの乱れが生じた場合は東武・東京メトロ・東急の車両が各自の[[車両基地]]([[南栗橋車両管区|南栗橋]]・[[鷺沼車両基地|鷺沼]]・[[長津田検車区|長津田]])に戻れないことがある。
前述の不通による影響を考慮し、2013年度より東武線の折り返し運転の設備が整備されることになった。具体的には曳舟駅2番線と押上駅1番線を繋ぐもので、整備は2013年10月末に完了し、北千住方面からの折り返しが可能になった。しかし、実際に使用されたことは2017年時点ではない。
== 使用車両 ==
=== 自社車両 ===
* 優等列車・団体列車用
**[[東武N100系電車|N100系]] - 特急「スペーシアX」で運用。日光線・鬼怒川線系統用。
**[[東武100系電車|100系]] - 特急「けごん」・「きぬ」・「スカイツリーライナー」で運用。日光線・鬼怒川線系統用。
**[[東武200系電車|200系]] - 特急「りょうもう」で運用。伊勢崎線系統用。
**[[東武500系電車|500系]] - 特急「リバティけごん」・「リバティきぬ」・「リバティ会津」・「リバティりょうもう」・「スカイツリーライナー」・「アーバンパークライナー」・「尾瀬夜行」・「スノーパル」で運用。
**[[東武6050系電車|6050系]] - 2017年4月以降、臨時列車で運用。
**[[東武6050系電車#634型「スカイツリートレイン」|634型]] - 臨時特急「スカイツリートレイン」および団体列車で運用。
**[[東武8000系電車|8000型]]8111F - 保有は[[東武博物館]]。2023年11月から[[東武野田線|野田線]]で一般列車にも運用。
* 線内一般列車用
**[[東武8000系電車|800型・850型]] - 2006年3月18日より運用開始。2022年現在伊勢崎線内では館林駅 - 伊勢崎駅間のみで運用。3両固定編成ワンマン対応。
**[[東武10000系電車|10000型・10030型・10050型・10080型]] - 区間急行・区間準急・普通(東京メトロ日比谷線直通運用を除く)での運用。浅草駅 - 曳舟駅間および久喜駅 - 館林駅間の一般列車は専らこの車両が運用される。2・4・6・8両固定編成があるが、伊勢崎線内では6両または8両で運転する。リニューアル車の一部は野田線に転属している。
* [[東京メトロ日比谷線]]直通車
**[[東武70000系電車|70000型]] - 20メートル級片側4扉の7両編成で、2017年7月7日より順次導入し<ref>{{Cite press release |和書 |title=東武スカイツリーライン・東京メトロ日比谷線直通 新型車両「70000系」7月7日(金)より運行開始します!|publisher=東武鉄道 |date=2017年6月22日 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/fff044630876dab31fd1ef42f8e0c589/170622新型車両70000系運行開始【HP用確定版】.pdf |format=PDF |language= 日本語 |accessdate=2017年6月23日}}</ref>、2020年3月28日をもって日比谷線直通運用の[[東武20000系電車|20000型・20050型・20070型]]を置き換えた<ref name="dot20200421">{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/92010|title=来年で”還暦”の日比谷線 車両更新は完了し、ただいま激変中|date=2020-04-21|accessdate=2020年6月6日|publisher=AERA}}</ref>。
**[[東武70000系電車|70090型]] - 2020年6月6日より「[[THライナー]]」で運用。「THライナー」としての運用時以外は東京メトロ日比谷線直通の一般列車(普通列車)として使用される。同年3月20日より一般列車で営業運転を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2020/03/21/190500.html|title=東武70090形営業運転を開始|website=鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース|publisher=交友社|accessdate=2020-3-23}}</ref><ref name="tobu20191219" /><ref name="tobu201903027">{{Cite press release |和書 |title=東武線・東京メトロ日比谷線相互直通列車に有料着席サービスを新たに導入します! |publisher=東武鉄道 |date=2019-03-26 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/b45e7ea444db6f7c2a3fa9bbed58dfb1/190326.pdf |format=PDF |accessdate=2019-03-27}}</ref>。
* [[東京メトロ半蔵門線]]・[[東急田園都市線]]直通車
**[[東武50000系電車|50000型・50050型]] - 急行・準急運用。東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線直通運用専用車両。10両固定編成。
<gallery>
ファイル:DSC_9698~2.jpg|東武N100系
ファイル:Tobu-Series100 orange.jpg|東武100系
ファイル:Tobu200.jpg|東武200系
ファイル:Tobu-Series500.jpg|東武500系
ファイル:Tobu Railway 634kei.JPG|東武634型
ファイル:Tobu-Noda-Line-Series8000-8111F.jpg|東武8000型8111F
ファイル:Tobu851-3 20200627.jpg|東武850型
ファイル:Tobu-railway-10609F-20090820.jpg|東武10000型
ファイル:Tobu 10030 11431 nishiarai.jpg|東武10030型
ファイル:Tobu-Series11459.jpg|東武10050型
ファイル:Tobu-Series70000-71701.jpg|東武70000型
ファイル:Tobu-Series70090-71792F.jpg|東武70090型
ファイル:Tobu-Series50000-51060F.jpg|東武50000型・50050型
</gallery>
==== かつて使用されていた車両 ====
{{See also|東武鉄道#過去の車両}}
*蒸気機関車
**[[国鉄5500形蒸気機関車|B1形]] - 開業時にイギリスの[[ベイヤー・ピーコック]]社から輸入。貨物機として運用され、1965年までに廃車。5号は開業当初の原型に復元され、6号は現役時のまま[[東武博物館]]に保存されている。
**[[国鉄5600形蒸気機関車|B3形]] - [[1914年]]にベイヤー・ピーコック社から6両輸入。1966年廃車。
**[[国鉄5500形蒸気機関車|B4形]] - 1922年に国鉄から6両譲渡される。1966年廃車。
*電車
**[[東武200系電車|250型]]
**[[東武300系電車|300型・350型]]
**[[東武1720系電車|1700系・1720系]]
**[[東武1800系電車|1800系]] - 1998年に定期運行終了。2018年に全廃。
**[[東武2000系電車|2000系]] - 1993年に定期運行終了。同年に全廃。
**[[東武3000系電車|3000系・3050系]] - 1996年に定期運行終了。同年に全廃。
**[[東武5000系電車|5000系・5050系・5070系]] - 2006年に定期運行終了。2007年に全廃。
**[[東武5700系電車|5700系]]
**[[東武6000系電車|6000系]]
**[[東武7300系電車|7300系]]
**[[東武7800系電車|7800系]]
**[[東武8000系電車|8000型]] - 長らく伊勢崎線と日光線の準急や、2006年3月18日以降は区間準急・区間急行・普通列車でも運行されていたが、2012年6月に運行を終了した<ref group="注">以降、8000型を改造した800型および850型のみが伊勢崎線館林駅 - 伊勢崎駅間で運行されている。</ref>。また、2006年3月17日までは1本のみ存在した浅草駅発東武日光駅・東武宇都宮駅行きの準急に使用されていた<ref group="注">ダイヤ改正前日の2006年3月17日のみ[[東武10000系電車|10000型]]が充当された。<!--10000型は4両編成がないため、途中の新栃木駅まで運用され車両交代をしたものと思われる。この日に10000型が充当された理由は不明だが翌日のダイヤ改正で大幅に運用形態が変更されることから車両の配置の関係と思われる。--></ref>。上りでは同じく準急の東武日光発浅草行きで、東武日光発は4両編成で途中の新栃木駅で後方に2両を連結して6両編成となる運用であった。<!--<ref group="注">『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2010年9月号(通巻593号)付録「大手私鉄車両ファイル 車両配置表」([[交友社]])によると、2010年4月1日時点では[[南栗橋車両管区]]春日部支所に配置されている4両編成4本と2両編成2本が休車となっている。</ref>。-->
**[[東武20000系電車|20000型・20050型・20070型]] - 上記の70000系導入に伴い、2020年3月27日に定期運行終了<ref name="dot20200421" />。4両固定編成化して日光線・宇都宮線のワンマン運転用に順次転属している。
**[[東武30000系電車|30000系]] - 伊勢崎線と半蔵門線との直通運転開始前は10000型などとの共通運用が組まれ、伊勢崎線内の全線で運用されていた。後述の50050型導入後は、大半の車両が半蔵門線直通の機能を外したうえで浅草駅発着などの本線内系統の運用に復帰したが、本線内系統専用車両を10000系に統一すること、[[東武東上本線|東上本線]]の[[川越市駅]] - [[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]間にT-DATCと呼ばれる[[自動列車制御装置|ATC]]が導入されることに伴い、T-DATC設置の対象外となった8000系と一部の10000系の代替が必要になったこと、半蔵門線に[[CBTC]]が導入されることなどから、本線内系統地上運用・東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線直通運用どちらにも対応できなくなり、最終的には2021年度までに全編成が東上本線に転出した。
<gallery>
TOBURAILWAY SERIES1800 1819F NIKKOLINE EXTRA.jpg|東武1800系
Tobu20000.jpg|東武20000型
Tobu-20050series.jpg|東武20050型
Tobu20070.jpg|東武20070型
Tobu 30000 Series.jpg|東武30000系
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=== 乗り入れ車両 ===
*東京メトロ日比谷線
**[[東京メトロ13000系電車|東京メトロ13000系]]
*東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線
**[[東京メトロ18000系電車|東京メトロ18000系]] - 急行・準急
**[[営団08系電車|東京メトロ08系]] - 同上
**[[営団8000系電車|東京メトロ8000系]] - 同上
**[[東急2020系電車|東急2020系]] - 同上
**[[東急5000系電車 (2代)|東急5000系]] - 同上
<gallery>
Tm13000.jpg|東京メトロ13000系
Tokyo-Metro Series18000-18004.jpg|東京メトロ18000系
Tokyo-Metro-Series08-103F.jpg|東京メトロ08系
東京メトロ半蔵門線8000系電車.jpg|東京メトロ8000系
Tokyu-Series2020-2126F.jpg|東急2020系
Tokyu-Series5000-5116F.jpg|東急5000系
</gallery>
==== かつての乗り入れ車両 ====
*東京メトロ日比谷線
**[[営団3000系電車|営団3000系]]
**[[営団03系電車|東京メトロ03系]]
*東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線
**[[東急8500系電車|東急8500系]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/230125_8637F.pdf |title=(お知らせ)8500系8637Fの運用離脱に伴う回送完了について |publisher=東急電鉄 |date=2023-01-25 |accessdate=2023-01-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230125083246/https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/230125_8637F.pdf |archivedate=2023-01-25 |format=PDF}}</ref>
*野岩鉄道会津鬼怒川線・会津鉄道会津線
**[[東武6050系電車|野岩鉄道6050系100番台]] - 東武鉄道6050系と同型・共通運用
**[[東武6050系電車|会津鉄道6050系200番台]] - 同上
<gallery>
Teito rapid transit authority 3000 3021.jpg|営団3000系
日比谷線03系電車.jpg|東京メトロ03系
Tokyu-Series8500-8619F.jpg|東急8500系
Yagan Railway - Series 60100.jpg|野岩鉄道6050系
AIZURAILWAY SERIES6050 62201F RPD.JPG|会津鉄道6050系
</gallery>
== 女性専用車 ==
{| style="float:right; margin:0em 0em 0em 1em; border:solid 1px #999; padding:1em; text-align:center;"
|-
|style="background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #0067c0;"|女性専用車
|-
|
|-
|style="font-size:80%;"|'''浅草・北千住行き'''
|-
|style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|館林・南栗橋|北千住・浅草}}
|-
|style="font-size:80%;"|
{| class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|-
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|}
|-
|
|-
|style="font-size:80%;"|'''半蔵門線直通列車'''
|-
|style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|久喜・南栗橋|北千住・渋谷・中央林間}}
|-
|style="font-size:80%;"|
{| class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|-
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|}
|-
|
|-
|style="font-size:80%;"|'''日比谷線直通列車'''
|-
|style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|南栗橋|北千住・中目黒}}
|-
|style="font-size:80%;"|
{| class="wikitable" style="margin:0em auto;"
|-
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|}
|}
[[2005年]][[5月9日]]から半蔵門線・東急田園都市線での導入に合わせて、平日朝ラッシュ時間帯の上り優等列車を対象に[[女性専用車両|女性専用車]]が設定された。[[2006年]][[3月27日]]から日比谷線での導入に合わせて、平日朝ラッシュ時間帯の日比谷線に直通する上り普通列車にも女性専用車が設定された。混雑率が低い浅草駅行きの普通列車は女性専用車が設定されていない。
対象となる列車は、東武鉄道の公式サイトに掲載されている<ref>[https://www.tobu.co.jp/railway/women/skytree_line/ 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・日比谷線直通・半蔵門線直通|女性専用車両|東武鉄道] - 東武鉄道</ref>ほか、駅構内へ掲出されている時刻表に記述されている。
* 浅草駅・北千住駅行きの場合:朝7:30から9:00までに北千住駅に到着する8両編成の区間急行の最後尾車両。6両編成には設定がない。実施区間は館林駅・南栗橋駅→北千住駅。浅草駅行きの場合は北千住駅で設定解除となる。設定開始当初から2013年3月15日までは、10両編成の区間急行・区間準急にも設定されていた。なお、車両側に女性専用車のステッカーは掲出されておらず、駅ホームでの乗車位置案内のみ行われている。
* 半蔵門線直通の場合:初電から9:20までに押上駅に到着する急行・準急の最後尾車両。実施区間は始発駅→渋谷駅。半蔵門線内で9:30を過ぎれば設定解除となる。
* 日比谷線直通の場合:朝7:30から9:00までに北千住駅に到着する普通の最後尾車両。実施区間は全区間。日比谷線内で9:00を過ぎれば設定解除となる。
女性専用車はいずれも最後尾の車両に設定されている。小児や身体の不自由な人とその介助者・保護者は性別を問わず乗車出来る。
なお、半蔵門線直通列車の場合、10号車(押上・渋谷方先頭車両)にも女性専用車のステッカーが掲出されているが、これは直通先の東急田園都市線方面からの列車が、始発駅→半蔵門線内(東武線直通列車は押上まで)で女性専用車となるためであり、東武線内では無関係である(同様に田園都市線方面からの列車の場合、1号車に女性専用車は設定されない)。
== 利用状況 ==
2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は[[小菅駅]] → 北千住駅間であり、ピーク時(7:30 - 8:30)の[[混雑率]]は'''127%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref>。
混雑率は1995年度まで180%を超えていたが、北千住駅の改良工事が完了した1996年度に170%を下回った。その後も輸送力の増強と輸送人員の減少により混雑率は緩和傾向が続き、半蔵門線との直通運転を開始した2002年度のダイヤ改正では、ピーク1時間あたりの輸送力が私鉄最大の51,540人となり<ref group="注">私鉄最大の運転本数は、1997年のダイヤ改正時点における[[京阪本線]]で、46本であった。</ref>、混雑率が150%を下回った。その後のダイヤ改正は、輸送人員の減少に合わせて輸送力を削減したことで、混雑率は2012年度まで140%程度で推移していた。
2013年度のダイヤ改正では、朝ラッシュ時に運転されていた10両編成の区間急行が全て8両編成になり、輸送力が大幅に削減された。その一方で、輸送人員の減少に歯止めがかかったことにより、混雑率は150%程度で推移している。2017年度のダイヤ改正では、それまで朝ラッシュ時間帯のピーク時に運行されていなかった特急列車が初めて設定された。
種別や車両位置に関わらず全体的に混雑率が高く、北千住駅を7:40 - 8:10頃に到着する列車が最も混雑する。10両編成で運転される急行および準急は半蔵門線に直通し、8両編成で運転される区間急行より混雑率がやや高い傾向がある。7両編成で運転される普通は日比谷線に直通し、同様に混雑する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/63f09a7491982c0eafc0bc8d730534a1/newsletter_170831.pdf |title=朝の混雑ピーク時間帯を避けた通勤・通学にご協力お願いいたします |publisher=東武鉄道 |page=2,3 |format=PDF |accessdate=2017-10-02}}</ref>。ピーク時の前後に運転されていた竹ノ塚駅始発浅草駅行きの普通列車は混雑率が非常に低かったが、2020年度のダイヤ改正で廃止された。
2008年度の一日平均通過人員は北千住駅 - 小菅駅間が526,730人であり、伊勢崎線で最も多い。北千住駅は伊勢崎線で最も乗降人員が多い駅であり、同駅を介して日比谷線との相互直通運転が行われている。牛田駅 - 北千住駅間の一日平均通過人員は153,984人であり、北千住駅 - 小菅駅間の3割程度になる。押上駅を介して半蔵門線との相互直通運転が行われているため、日比谷線と半蔵門線の直通列車が経由しない浅草駅 - とうきょうスカイツリー駅(押上駅)の一日平均通過人員は54,414人まで減少し、北千住駅 - 小菅駅間の1割程度になる。
[[埼玉県]]との都県境を跨ぐ竹ノ塚駅 - 谷塚駅間が395,703人、複々線区間の北端にあたる越谷駅 - 北越谷駅間が291,344人、東武スカイツリーラインの北端にあたる姫宮駅 - 東武動物公園駅間が130,805人であり、東武スカイツリーラインの愛称区間は東京圏の通勤路線として機能している。東武動物公園駅で日光線と分岐するため、東武動物公園 - 和戸間の一日平均通過人員は61,799人に減少する。
久喜駅でJR宇都宮線と接続するため、和戸駅 - 久喜駅間の一日平均通過人員が59,729人であるが久喜駅 - 鷲宮駅間で66,385人に増加する。その後も一日平均通過人員が減少し、[[群馬県]]との県境を跨ぐ羽生駅 - 川俣駅間が26,526人、複線区間の北端にあたる茂林寺前駅 - 館林間が24,518人で、北千住駅 - 小菅駅間の5%程度となる。館林駅で佐野線と小泉線に接続して単線区間となり、館林駅 - 多々良駅間は16,514人に減少する。単線区間は乗降人員が1,000人に満たない駅も存在する。太田駅より先は一日平均通過人員が8,000人を下回り、最も一日平均通過人員が少ない新伊勢崎駅 - 伊勢崎駅間が5,443人で、北千住駅 - 小菅駅間の1%程度となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report/0910/tobu.pdf|format=PDF|title=東武鉄道 平成20年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|date= |accessdate=2019-06-29|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
2006年3月18日のダイヤ改正までは昼間の料金不要の速達列車は6両編成で運転されていたが、原則70km以上を超えるロングラン運転を行っていたことから上記のような通過人員の変動を大きく受けていた。複々線区間は輸送力不足であった反面、単線区間は輸送力過剰であった。2003年3月19日のダイヤ改正までは日中に東武動物公園駅 - 太田駅間で通過運転を行う料金不要の速達列車が毎時1本運転されていたが、もともと日中の運転本数が毎時3本程度と少ない区間であり、緩急接続を行わないため通過駅の利便性を低下させる要因となっていた。現在のダイヤは久喜駅と館林駅で運用を分離し、運行区間と時間帯によって編成数を3両編成から10両編成まで分けることにより、適正な輸送力の確保と車両運用の効率化が図られている。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|最混雑区間(小菅駅 → 北千住駅間)輸送実績<ref>『都市交通年報』各年度版</ref><ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/data.html 公共交通関係データ集] - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/documents/mintetuitizikanrassyu.pdf 民鉄線のラッシュ1時間当り旅客輸送状況]}} - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/chika7/documents/458470_1.pdf 路線整備の意義・必要性等の整理]}} - 埼玉県</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|1955年(昭和30年)
| 13 || style="background-color: #ccffcc;"|5,725 || style="background-color: #ccffcc;"|13,020 || '''227'''
|
|-
|1958年(昭和33年)
| 16 || 8,810 || 19,550 || '''222'''
|
|-
|1959年(昭和34年)
| 17 || 8,830 || 16,453 || '''186'''
|
|-
|1960年(昭和35年)
| 17 || 10,400 || 17,140 || style="background-color: #ccffcc;"|'''165'''
|
|-
|1961年(昭和36年)
| 20 || 12,020 || 22,601 || '''188'''
|
|-
|1962年(昭和37年)
| 21 || 13,030 || 22,366 || '''172'''
|style="text-align:left;"|1962年5月31日、日比谷線直通運転開始
|-
|1963年(昭和38年)
| 22 || 13,087 || 29,639 || '''226'''
|
|-
|1964年(昭和39年)
| 22 || 13,848 || 33,135 || '''239'''
|
|-
|1965年(昭和40年)
| 24 || 16,964 || 37,393 || '''220'''
|
|-
|1966年(昭和41年)
| 26 || 19,920 || 46,001 || '''231'''
|
|-
|1967年(昭和42年)
| 26 || 20,760 || 47,673 || '''230'''
|
|-
|1968年(昭和43年)
| 28 || 22,350 || 51,578 || '''231'''
|
|-
|1969年(昭和44年)
| 28 || 22,260 || 55,306 || style="background-color: #ffcccc;"|'''248'''
|
|-
|1970年(昭和45年)
| 30 || 23,670 || 55,951 || '''236'''
|
|-
|1971年(昭和46年)
| 30 || 28,055 || 57,662 || '''206'''
|
|-
|1972年(昭和47年)
| 30 || 28,728 || 60,341 || '''210'''
|
|-
|1973年(昭和48年)
| 30 || 29,280 || 62,281 || '''213'''
|
|-
|1974年(昭和49年)
| 34 || 32,592 || 64,583 || '''198'''
|style="text-align:left;"|1974年7月2日、北千住駅 - 竹ノ塚駅間複々線化
|-
|1975年(昭和50年)
| 34 || 32,592 || 65,381 || '''201'''
|
|-
|1976年(昭和51年)
| 37 || 35,076 || 66,187 || '''189'''
|
|-
|1977年(昭和52年)
| 37 || 35,076 || 68,344 || '''195'''
|
|-
|1978年(昭和53年)
| 37 || 36,180 || 68,650 || '''190'''
|
|-
|1979年(昭和54年)
| 37 || 36,180 || 69,219 || '''191'''
|
|-
|1980年(昭和55年)
| 38 || 38,112 || 70,494 || '''185'''
|
|-
|1981年(昭和56年)
| 38 || 38,112 || 71,721 || '''188'''
|
|-
|1982年(昭和57年)
| 39 || 39,492 || 72,153 || '''183'''
|
|-
|1983年(昭和58年)
| 39 || 39,492 || 73,520 || '''186'''
|
|-
|1984年(昭和59年)
| 40 || 40,872 || 74,637 || '''183'''
|
|-
|1985年(昭和60年)
| 40 || 40,872 || 75,357 || '''184'''
|
|-
|1986年(昭和61年)
| 40 || 41,976 || 77,106 || '''184'''
|
|-
|1987年(昭和62年)
| 40 || 41,976 || 78,495 || '''187'''
|
|-
|1988年(昭和63年)
| 40 || 42,084 || 81,115 || '''190'''
|style="text-align:left;"|1988年8月9日、竹ノ塚駅 - 草加駅間複々線化
|-
|1989年(平成元年)
| 40 || 42,804 || 82,202 || '''192'''
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 40 || 43,356 || 84,663 || '''195'''
|
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| 40 || 43,356 || 85,819 || '''198'''
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| 40 || 43,908 || style="background-color: #ffcccc;"|86,273 || '''196'''
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| 40 || 43,908 || 85,824 || '''195'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 41 || 45,564 || 84,394 || '''185'''
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 41 || 45,564 || 83,493 || '''183'''
|
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 44 || 49,056 || 82,534 || '''168'''
|style="text-align:left;"|1997年3月25日、草加駅 - 越谷駅間複々線化
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 44 || 49,056 || 80,058 || '''163'''
|
|-
|1998年(平成10年)
| 44 || 49,056 || 78,854 || '''161'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 44 || 49,056 || 77,022 || '''157'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 45 || 50,436 || 76,541 || '''152'''
|style="text-align:left;"|2001年3月28日、越谷駅 - 北越谷駅間複々線化
|-
|2001年(平成13年)
| 45 || 50,436 || 75,850 || '''150'''
|
|-
|2002年(平成14年)
| 45 || 51,540 || 73,708 || '''143'''
|style="text-align:left;"|2003年3月19日、半蔵門線直通運転開始
|-
|2003年(平成15年)
| 45 || 51,540 || 73,517 || '''143'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 45 || 51,540 || 73,140 || '''142'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 44 || 50,712 || 70,635 || '''139'''
|style="text-align:left;"|2005年8月24日、[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]開業
|-
|2006年(平成18年)
| 44 || 50,712 || 72,426 || '''143'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 44 || 50,712 || 73,583 || '''145'''
|style="text-align:left;"|2008年3月30日、[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]開業
|-
|2008年(平成20年)
| 44 || 50,712 || 71,581 || '''141'''
|
|-
|2009年(平成21年)
| 42 || 49,056 || 68,541 || '''140'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 42 || 49,056 || 68,631 || '''140'''
|style="text-align:left;"|[[東日本大震災]]発生年度
|-
|2011年(平成23年)
| 42 || 49,056 || 66,359 || '''135'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 42 || 49,056 || 66,597 || '''136'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 40 || 44,364 || style="background-color: #ccffff;"|65,666 || '''148'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 40 || 44,364 || 65,964 || '''149'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 40 || 44,364 || 66,537 || '''150'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 40 || 44,364 || 66,543 || '''150'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 41 || 45,314 || 67,669 || '''149'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 41 || 45,314 || 67,956 || '''150'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 41 || 45,314 || 67,956 || '''150'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 38 || 41,798 || 43,527 || style="background-color: #ccffff;"|'''104'''
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 38 || 41,798 || 47,768 || '''114'''
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| 37 || 39,874 || 50,482 || '''127'''
|
|}
== 駅一覧 ==
* [[#特急|特急]]はそれぞれの列車記事を参照のこと。急行以下より記載する。
* [[#普通|普通列車]]は各駅に停車する(普通列車の設定のない押上駅を除く)。[[東京メトロ日比谷線]]直通列車はTHライナーを除き、北千住駅 - 東武動物公園駅 - 日光線南栗橋駅間で普通列車として運転。館林駅 - 伊勢崎駅間の普通列車ではワンマン運転が行われる。
* ( ) 内の英数字は[[駅ナンバリング|駅番号]]を表す。
* #印は上下[[待避駅|待避可能駅]]、#↓印は下りのみ待避可能駅、#↑印は上りのみ待避可能駅(詳細は[[#待避可能な途中駅|後節]]参照)
* ●:停車、◇:運転停車、|:通過、∥・空白:経由および運行せず
=== 浅草駅・押上駅 - 東武動物公園駅間(東武スカイツリーライン) ===
{|class="wikitable" rules="all"
|- style=
!style="width:4em;"|駅番号
!style="width:14.5em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em;"|累計<br />キロ
!style="width:1em; background:#dfd;"|{{縦書き|区間準急}}
!style="width:1em; background:#bf9;"|{{縦書き|準急}}
!style="width:1em; background:#fcf;"|{{縦書き|区間急行}}
!style="width:1em; background:#fac;"|{{縦書き|急行}}
!style="width:1em; background:#fab;"|[[THライナー|{{縦書き|THライナー}}]]
!接続路線
!colspan="2"|所在地
|-
|colspan="12" style="border-top:3px solid orange; border-bottom:3px solid #0067c0; padding:0; line-height:1px;"|
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="8"|'''押上駅から''' [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線]][[渋谷駅]]経由 [[File:Tokyu DT line symbol.svg|18px|DT]] [[東急田園都市線]][[中央林間駅]]まで<br />'''北千住駅から''' [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] [[東京メトロ日比谷線]][[中目黒駅]]まで(THライナーは[[恵比寿駅]]まで)
|-
!TS-01
|[[浅草駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="background:#dfd;"|●
|rowspan="2" style="width:1em; line-height:1em; text-align:center; vertical-align:bottom; font-size:88%;"|{{縦書き|半蔵門線直通}}
|style="background:#fcf;"|●
|rowspan="2" style="width:1em; line-height:1em; text-align:center; vertical-align:bottom; font-size:88%;"|{{縦書き|半蔵門線直通}}
|rowspan="8" style="width:1em; line-height:1em; text-align:center; vertical-align:bottom; font-size:88%;"|{{縦書き|日比谷線直通}}
|[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-19)<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-18)
|rowspan="14" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=6em}}
|[[台東区]]
|-
!TS-02
|[[とうきょうスカイツリー駅]]<ref group="*" name="same_station">とうきょうスカイツリー駅と押上駅は同じ駅としてみなされる。ただし改札内乗り換えはできない。</ref>
|style="text-align:right;"|1.1
|rowspan="2" style="text-align:right;"|1.1
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|
|rowspan="5"|[[墨田区]]
|-
!TS-03
|[[押上駅]]<ref group="*" name="same_station" />
|style="text-align:center;"| -
|∥
|style="background:#bf9;"|●
|∥
|style="background:#fac;"|●
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] (Z-14)(東武動物公園方面から直通運転:上記参照)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] 浅草線 (A-20)<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成押上線|押上線]] (KS45)
|-
!TS-04
|[[曳舟駅]] #↑
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|2.4
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"|●
|[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|18px|TS]] [[東武亀戸線|亀戸線]]
|-
!TS-05
|[[東向島駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|3.2
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"||
|
|-
!TS-06
|[[鐘ヶ淵駅]] #
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|4.2
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"||
|
|-
!TS-07
|[[堀切駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|5.3
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"||
|
|rowspan="8"|[[足立区]]
|-
!TS-08
|[[牛田駅 (東京都)|牛田駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|6.0
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"||
|京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]([[京成関屋駅]]:KS06)
|-
!TS-09
|[[北千住駅]] #
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|7.1
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"|●
|style="background:#fab;"|◇
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] (H-22)(東武動物公園方面から直通運転:上記参照)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] (C-18)<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JJ_line_symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐線]]([[常磐快速線|快速]]・[[上野東京ライン]]) (JJ 05)<br />[[首都圏新都市鉄道]]:[[ファイル:Tsukuba_Express_symbol.svg|18px|TX]] [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]] (TX05)
|-
!TS-10
|[[小菅駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|8.2
|style="background:#dfd;"||
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-11
|[[五反野駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|9.3
|style="background:#dfd;"||
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-12
|[[梅島駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|10.5
|style="background:#dfd;"||
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-13
|[[西新井駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|11.3
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"|●
|style="background:#fab;"||
|東武鉄道:[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|18px|TS]] [[東武大師線|大師線]]
|-
!TS-14
|[[竹ノ塚駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|13.4
|style="background:#dfd;"||
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-15
|[[谷塚駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|15.9
|style="background:#dfd;"||
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|rowspan="16" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[埼玉県]]|height=6em}}
|rowspan="4"|[[草加市]]
|-
!TS-16
|[[草加駅]] #
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|17.5
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"|●
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-17
|[[獨協大学前駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|19.2
|style="background:#dfd;"||
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-18
|[[新田駅_(埼玉県)|新田駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|20.5
|style="background:#dfd;"||
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-19
|[[蒲生駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|21.9
|style="background:#dfd;"||
|style="background:#bf9;"||
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|rowspan="6"|[[越谷市]]
|-
!TS-20
|[[新越谷駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|22.9
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"|●
|style="background:#fab;"|●
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JM line symbol.svg|18px|JM]] [[武蔵野線]]([[南越谷駅]]:JM 22)
|-
!TS-21
|[[越谷駅]] #
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|24.4
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"|●
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-22
|[[北越谷駅]] #
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|26.0
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-23
|[[大袋駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|28.5
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-24
|[[せんげん台駅]] #
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|29.8
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"|●
|style="background:#fab;"|●
|
|-
!TS-25
|[[武里駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|31.1
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[春日部市]]
|-
!TS-26
|[[一ノ割駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|33.0
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-27
|[[春日部駅]] #↓
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|35.3
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"|●
|style="background:#fab;"|●
|東武鉄道:[[ファイル:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|18px|TD]] [[東武野田線|野田線(東武アーバンパークライン)]](TD-10)
|-
!TS-28
|[[北春日部駅]] #
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|36.8
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TS-29
|[[姫宮駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|38.4
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"||
|style="background:#fac;"||
|style="background:#fab;"||
|
|rowspan="2"|[[南埼玉郡]]<br />[[宮代町]]
|-
!TS-30
|[[東武動物公園駅]] #↓
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|41.0
|style="background:#dfd;"|●
|style="background:#bf9;"|●
|style="background:#fcf;"|●
|style="background:#fac;"|●
|style="background:#fab;"|●
|東武鉄道:[[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|18px|TI]] 伊勢崎線(直通運転)・[[ファイル:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|18px|TN]] [[東武日光線|日光線]](浅草・北千住方面から[[南栗橋駅]]まで直通運転)
|-
|}
{{Reflist|group="*"}}
=== 東武動物公園駅 - 伊勢崎駅間 ===
* この区間では、区間準急・区間急行は東武動物公園駅 - 館林駅間、準急・急行は東武動物公園駅 - 久喜駅間で運転され、いずれも各駅に停車。
* 累計キロは浅草駅からのもの。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em;"|駅番号
!style="width:14.5em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em;"|累計<br />キロ
!style="width:1em; background:#fab;"|[[THライナー|{{縦書き|THライナー}}]]
!接続路線
!colspan="2"|所在地
|-
|colspan="8" style="border-top:3px solid #ed1a3d; border-bottom:3px solid black; padding:0; line-height:1px;"|
|-
!TS-30
|[[東武動物公園駅]] #↓
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|41.0
|style="background:#fab;"|●
|[[東武鉄道]]:[[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|18px|TS]] 伊勢崎線(東武スカイツリーライン)(直通運転)・[[ファイル:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|18px|TN]] [[東武日光線|日光線]]
|rowspan="8" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[埼玉県]]|height=6em}}
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[南埼玉郡]]<br />[[宮代町]]
|-
!TI-01
|[[和戸駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|43.9
|style="background:#fab;"||
|
|-
!TI-02
|[[久喜駅]] #
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|47.7
|style="background:#fab;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:{{Color|#f68b1e|■}}[[宇都宮線]]([[上野東京ライン]]・[[湘南新宿ライン]])
|rowspan="2"|[[久喜市]]
|-
!TI-03
|[[鷲宮駅]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|52.1
|
|
|-
!TI-04
|[[花崎駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|54.8
|
|
|rowspan="2"|[[加須市]]
|-
!TI-05
|[[加須駅]] #
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|58.5
|
|
|-
!TI-06
|[[南羽生駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|63.1
|
|
|rowspan="2"|[[羽生市]]
|-
!TI-07
|[[羽生駅]] #
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|66.2
|
|[[秩父鉄道]]:[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]] (CR01)
|-
!TI-08
|[[川俣駅]]
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|70.5
|
|
|rowspan="4" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[群馬県]]|height=6em}}
|[[邑楽郡]]<br />[[明和町 (群馬県)|明和町]]
|-
!TI-09
|[[茂林寺前駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|72.4
|
|
|rowspan="3"|[[館林市]]
|-
!TI-10
|[[館林駅]] #
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|74.6
|
|東武鉄道:[[ファイル:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|18px|TI]] [[東武佐野線|佐野線]]・[[ファイル:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|18px|TI]] [[東武小泉線|小泉線]]
|-
!TI-11
|[[多々良駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|78.6
|
|
|-
!TI-12
|[[県駅]]
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|81.8
|
|
|rowspan="5" colspan="2"|[[栃木県]]<br />[[足利市]]
|-
!TI-13
|[[福居駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|83.9
|
|
|-
!TI-14
|[[東武和泉駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|85.1
|
|
|-
!TI-15
|[[足利市駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|86.8
|
|
|-
!TI-16
|[[野州山辺駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|88.5
|
|
|-
!TI-17
|[[韮川駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|91.8
|
|
|rowspan="9" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|群馬県|height=6em}}
|rowspan="5"|[[太田市]]
|-
!TI-18
|[[太田駅 (群馬県)|太田駅]] #
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|94.7
|
|東武鉄道:[[ファイル:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|18px|TI]] [[東武桐生線|桐生線]]・[[ファイル:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|18px|TI]] 小泉線
|-
!TI-19
|[[細谷駅_(群馬県)|細谷駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|97.8
|
|
|-
!TI-20
|[[木崎駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|101.2
|
|
|-
!TI-21
|[[世良田駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|104.1
|
|
|-
!TI-22
|[[境町駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|106.3
|
|
|rowspan="4"|[[伊勢崎市]]
|-
!TI-23
|[[剛志駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|110.0
|
|
|-
!TI-24
|[[新伊勢崎駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|113.3
|
|
|-
!TI-25
|[[伊勢崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|114.5
|
|東日本旅客鉄道:{{Color|#ffd400|■}} [[両毛線]]
|}
{{Reflist|group="*"}}
=== 待避可能な途中駅 ===
<!-- 駅一覧に組み込むと表が複雑になると思うので、別記にしました。-->
特に記述の無い駅は両方向の列車の待避が可能である。
*[[曳舟駅]](上りのみ。下りは浅草駅発同士の待避は不可)
*[[鐘ヶ淵駅]](内側の通過線)
*[[北千住駅]]
*[[草加駅]](急行線外側の通過線)
*[[越谷駅]](急行線外側の通過線)
*[[北越谷駅]](夕方のラッシュ時に、中目黒方面始発の下り各駅停車の一部が急行や区間急行の通過待ちをするダイヤとなっている。そのほか、上り・下りとも、中目黒方面発着の各駅停車の一部が準急の待ち合わせをするダイヤとなっている。)
*[[せんげん台駅]]
*[[春日部駅]](下りのみ)
*[[北春日部駅]](外側の通過線)
*[[東武動物公園駅]](下りのみ。上りは伊勢崎線同士・日光線同士の待避は不可)
*[[久喜駅]]
*[[加須駅]]([[停車場#本線|中線]]。両方向の待避が可能)
*[[羽生駅]]
*[[館林駅]]
*[[太田駅 (群馬県)|太田駅]]
また、回送列車のみ使用する待避線が西新井駅(下りのみ)、春日部駅(両方向の待避が可能)、東武動物公園駅(下りのみ。伊勢崎線列車は両方向の待避が可能)、足利市駅(両方向の待避が可能)に存在する。かつては[[大袋駅]](上下線)、[[鷲宮駅]](中線)、[[川俣駅]](上りのみ)にも待避線が存在したが、せんげん台駅、久喜駅、羽生駅に待避機能が集約されたため、現在は架線や線路が撤去され2面2線構造となっている。
=== 留置線のある駅 ===
特に記述の無い駅は伊勢崎方面のみに設置。
*[[とうきょうスカイツリー駅]](地平に設置。特急「スペーシア」・「りょうもう」等の車内整備・洗浄、通勤列車の閑散時の車両留置に使用)
*[[北千住駅]](地平ホームは浅草・春日部両方向に、高架ホームは春日部方のみ[[留置線]]がある)
*[[竹ノ塚駅]](北千住方に東京メトロ千住検車区竹ノ塚分室を併設。2016年現在、高架化工事の進捗により本数の削減と[[草加駅]]への移設が行われる)
*[[草加駅]](同駅までの高架化完成時に暫定的に設置され[[越谷駅]]まで延長を機に廃止されたが、上記の通り再び設置。竹ノ塚駅 - 同駅間は回送)
*[[北越谷駅]](日比谷線直通列車の折り返しが多い。一部の半蔵門線直通列車も折り返す)
*[[春日部駅]](北千住方に設置。現在は野田線車両が留置され、伊勢崎線用としては原則使われない)
*[[北春日部駅]](南栗橋車両管区春日部支所を併設。一部の日比谷線直通列車が折り返す)
*[[東武動物公園駅]](南栗橋発着の一部列車を除き日比谷線直通列車は当駅が終着。一部の半蔵門線直通列車も折り返す)
*[[久喜駅]](春日部・館林両方向に留置線がある。半蔵門線直通列車は当駅が終着である。かつて[[日本国有鉄道|国鉄]]との[[貨物列車]]の受け渡しや新車の受け渡しを行った[[操車場 (鉄道)|貨物ヤード]]跡に設置)
*[[館林駅]](南栗橋車両管区館林出張所を併設。廃車前の車両留置等にも使われる。一部撤去作業が行われた)
*[[足利市駅]]
*[[太田駅 (群馬県)|太田駅]](館林・伊勢崎両方向に留置線がある)
また、複々線化工事の進捗に合わせて暫定的に越谷駅<!--・[[大袋駅]]の留置線は待避線使用の夜間留置-->に留置線が設置されていた。かつては[[新伊勢崎駅]]にも留置線が存在したが、高架化により廃止された。
=== 廃駅 ===
復活・営業再開した駅を除く。休止・廃止日は最終営業日の翌日。<!--廃止時の駅名標記に統一します(現駅名を括弧書き)-->
*[[隅田公園駅]](浅草駅 - 業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)間 1931年5月25日開業、1943年12月31日休止、1958年10月22日廃止認可)
*[[請地駅]](業平橋駅 - 曳舟駅間 1931年6月1日開業、1947年3月1日廃止)
*[[中千住駅]](牛田駅 - 北千住駅間 1924年10月1日開業、1953年信号所化、1962年3月23日廃止)
*草加荷扱所(草加駅 - 松原団地駅(現・獨協大学前駅)間 1931年3月13日開業、1973年4月10日廃止)
*競馬場前駅(随時営業、野州山辺駅 - 韮川駅間 1932年4月17日開業、1939年2月1日廃止)
== 名称について ==
[[ファイル:Tobusen hibiyasen.jpg|thumb|280px|以前の[[北千住駅]]では、東武伊勢崎線は「東武線」、東京メトロ日比谷線は「日比谷線」と表記していた(2007年)。愛称導入後は、東武スカイツリーラインと表記されている。]]
=== 東武鉄道発祥の路線 ===
伊勢崎線は1899年(明治32年)、東武鉄道で最初に開業した路線であり、東武鉄道の社名はこの時に開業した北千住駅 - 久喜駅間(以下「発祥区間」と表記)の地域を指す「[[武蔵国|'''武'''蔵国]]<ref group="注">現在の[[東京都区部|東京都特別区]]・[[多摩地域]]、埼玉県と[[神奈川県]]の一部</ref>'''東'''部」に由来する。このことから現在でも発祥区間を中心として俗に「東武線」と呼ばれることがある。これは東武鉄道が複数の路線からなる広大な路線網を持つ前の名残でもある。
また、会社自体にも発祥路線意識が滲み出ており、1990年代までは駅表札に冠する社名表記では路線によって「東武線」・「東武野田線」・「東武東上線」と統一されず、発祥区間を持つ伊勢崎線を中心とする路線に絞って「東武線」が使われていた。2012年に導入された「東武スカイツリーライン」の区間愛称にもわざわざ「東武」を冠しているところにも現れている(野田線の愛称導入は2014年)。
== 乗車カードの対応状況 ==
館林駅以北は、足利市駅・太田駅・伊勢崎駅以外[[自動改札機]]設置駅がないが、[[2007年]][[3月18日]]に[[ICカード]]「[[PASMO]]」サービス開始により自動改札非設置駅には簡易型PASMO読取機が設置された。
== 重大な踏切事故 ==
*越谷駅構内第79号踏切道における死傷事故(1966年) - 「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#東武伊勢崎線バス衝突事故|東武伊勢崎線バス衝突事故]]」の項目を参照。
*館林駅構内第309号踏切道における死傷事故(1969年) - 「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#東武伊勢崎線多々良 - 館林間踏切事故|東武伊勢崎線多々良 - 館林間踏切事故]]」の項目を参照。
**この事故では[[東武8000系電車|8000型]]のクハ8139が使用不能となり、翌[[1970年]](昭和45年)4月に車体を復旧名義で新製した。
*花崎駅構内第207号踏切道における死傷事故(1970年) - 「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#東武伊勢崎線花崎駅踏切衝突事故|東武伊勢崎線花崎駅踏切衝突事故]]」の項目を参照。
**この事故では[[東武7800系電車|7800系]]の1編成2両(モハ7808-クハ808)が大破し、廃車となっている。東武鉄道では唯一のケースとなる踏切事故による[[廃車 (鉄道)|事故廃車]]である。
*竹ノ塚駅構内第37号踏切道における死傷事故(2005年) - 「[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故|東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故]]」の項目を参照。
== 今後の予定 ==
* [[ホームドア]]については、2020年度末までに押上駅(東京メトロにより整備)・北千住駅(3階ホーム)・新越谷駅・北越谷駅、2021年度以降にとうきょうスカイツリー駅・北千住駅(1階ホーム)・小菅 - 蒲生間各駅・越谷駅・せんげん台駅・春日部駅・久喜駅に整備予定である<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|title=2018年度の鉄道事業設備投資計画|publisher=東武鉄道|date=2018-04-27|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/66e1f6bb5a290cd25df639f76cc41d82_180427_2.pdf|accessdate=2021-02-17}}</ref>。
* 春日部駅ジャンクション機能強化の一環で、野田線と伊勢崎線の相互乗り入れの強化によるアクセス性向上、都心からの速達性向上を図る<ref name="toubugroup2017">{{PDFlink|[http://www.tobu.co.jp/file/pdf/45b1654a4f72173989dec62a23761286/20170428-3.pdf 「東武グループ中期経営計画 2017〜2020」の策定について]}} 東武鉄道 2017年4月29日</ref>。
<!--* [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]直通列車の速達性向上を検討する<ref name="toubugroup2017" />。--><!-- 速達列車新設とは明記していない。 -->
<!--* 特急車両の地下鉄乗り入れを検討する<ref name="toubugroup2017" />。--><!-- 半蔵門線/日比谷線どちらかは明記していない(上記の日比谷線直通列車速達性向上=特急乗り入れを意味するのかはこのニュースリリースでは不明)。--><!--2022年までの中期経営計画から削除されているため2点除去-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*『私鉄電車ビジュアルガイド 東武鉄道』(編者・著者 東武鉄道研究会、出版・発行:中央書院 2003年) {{ISBN2|4-88732-142-2}}
*『MY LINE 東京時刻表』各号(交通新聞社)
*今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』新潮社、2008年、pp.27-28
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[千住馬車鉄道]]
*[[草加馬車鉄道]]
== 外部リンク ==
*[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/line/isezaki_line.html 東武伊勢崎線] - 東武鉄道
*{{Twitter|Tobu_skytrline|東武鉄道沿線情報 -スカイツリーラインエリア- 【公式】}}
*{{Twitter|Tobu_Kitakanto|東武鉄道沿線情報 -北関東エリア- 【公式】}}
{{東武鉄道の路線}}
{{デフォルトソート:とうふいせさきせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|いせさきせん]]
[[Category:東武鉄道の鉄道路線|いせさき]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:埼玉県の交通]]
[[Category:栃木県の交通]]
[[Category:群馬県の交通]]
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2003-08-17T00:24:18Z
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2023-12-17T16:11:41Z
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13,359 |
西新井駅
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西新井駅(にしあらいえき)は、東京都足立区西新井栄町二丁目にある、東武鉄道の駅である。駅番号はTS 13。
伊勢崎線(スカイツリーライン)と大師線が乗り入れている。伊勢崎線の当駅前後は「東武スカイツリーライン」の愛称区間に含まれている。大師線はこの駅が起点である。
島式ホーム3面6線の地上駅で、橋上駅舎を有している。
伊勢崎線は2面4線を使用する。方向別複々線配線により、急行線を走る急行・区間急行・準急・区間準急と緩行線を走る普通とはホーム対面で乗り換えることが可能である。
ホームの梅島寄りには、下り緩行線→急行線、上り急行線→緩行線へ転線できる片渡り線が設けられており、THライナー(当駅は通過)が使用する。
大師線ホームは1面2線であり、通常は頭端式の1番線を使用していたが、駅西口再開発工事に伴うTOSCA西館解体工事のため、2023年2月1日より1番線を使用停止とし、当面の間全列車が2番線からの発着に変更されている。
改札口は1か所だが、大師線ホームに入る部分に中間改札がある。これは大師前駅が無人駅であることから、当駅の大師線連絡口で大師前駅としての改札業務を行うためである。
発車標は、伊勢崎線ホームには設置されているが、大師線ホームには設置されていない。
2005年3月31日、改札口からホームを連絡するエレベーターが各ホーム竹ノ塚寄りに完成し、バリアフリー対応トイレも同時に改札口レベルに新設された。また、同時に下り線ホームの梅島寄りに設置されていたトイレは撤去された。
2010年3月より、伊勢崎線ホーム(3 - 6番線)に車掌のリモコン操作による発車メロディが導入された。なお、大師線ホームでは「Passenger」の発車メロディが導入されている。
2022年9月24日に新しい西口が開業し、エレベーターとエスカレーターが新設され、旧西口は駅ビル解体工事が進んでいて、西口ロータリーの改修も決まっている。
伊勢崎線下り(3・4番線)ホームには「西新井らーめん」と称する立ち食いのラーメン店がある。
2022年度の1日平均乗降人員は58,836人である。この値は、伊勢崎線・大師線間の乗換客を含まない。伊勢崎線の駅では春日部駅に次ぐ第7位である。2002年度以降に駅西口で複合都市開発が行われた他、半蔵門線沿線にも直通で行けるようになったため、利用者は増加傾向にある。近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表の通りである。
近年の路線別乗降人員の推移は下表の通りである。
関東の三大師の一つ、西新井大師(総持寺)は西へ約1km離れており、大師線の大師前駅が最寄駅となる。2004年3月には東口にエレベーターが新設され、同時にトスカ東館・旧西館店舗部分の小改造が行われ、店舗内エレベーターを使用して東西自由通路を24時間通行可能になった。
北側の竹ノ塚・大師前寄りの線路を東京都道318号環状七号線(環七通り)が跨いでいる(西新井陸橋)。西口周辺では、日清紡東京工場跡地を中心とした再開発事業が行われた(西新井ヌーヴェル)。自由通路には、トスカ系列の売店の他、ファミリーマートやQB HOUSE、東武トップツアーズ西新井支店、ゆうちょ銀行ATMなどがある。西口は大きなバスターミナルとなっている。
西新井栄町付近では、複合都市開発が行われた。
足立区コミュニティバスのはるかぜを含む路線バスが発着する。運行事業者は東武バスセントラル、東京都交通局、国際興業バス、日立自動車交通の計4社局である。
※ 王子駅から深夜バス深夜31系統(東武バスセントラル)が環七経由で西新井駅西口まで運行されている。
※ 旧西新井警察署前、西口徒歩7分環七通り上。西口ロータリー整備前は国際興業の路線の大半はここで折り返していた。
※ 1番乗場は環七西新井陸橋下、2番乗場は東口の階段降りて右側トスカ前となる。
駅名の由来となった「西新井」という地名はそれ自体で一単語であって、「西」を冠称した複合語ではない。詳細は「西新井#地名」を参照。駅名の漢字を見ただけでは複合語か否か分からないが、駅や車内に掲示する停車駅一覧などに表記されたローマ字では違いが現れる。東武鉄道では、方角などを冠称した駅名は Kita-senju(北千住)、Shin-koshigaya(新越谷)のようにハイフンを使って表記しているが、西新井はハイフンがなく Nishiarai である。
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"text": "大師線ホームは1面2線であり、通常は頭端式の1番線を使用していたが、駅西口再開発工事に伴うTOSCA西館解体工事のため、2023年2月1日より1番線を使用停止とし、当面の間全列車が2番線からの発着に変更されている。",
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"text": "2010年3月より、伊勢崎線ホーム(3 - 6番線)に車掌のリモコン操作による発車メロディが導入された。なお、大師線ホームでは「Passenger」の発車メロディが導入されている。",
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"text": "駅名の由来となった「西新井」という地名はそれ自体で一単語であって、「西」を冠称した複合語ではない。詳細は「西新井#地名」を参照。駅名の漢字を見ただけでは複合語か否か分からないが、駅や車内に掲示する停車駅一覧などに表記されたローマ字では違いが現れる。東武鉄道では、方角などを冠称した駅名は Kita-senju(北千住)、Shin-koshigaya(新越谷)のようにハイフンを使って表記しているが、西新井はハイフンがなく Nishiarai である。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "隣の駅"
}
] |
西新井駅(にしあらいえき)は、東京都足立区西新井栄町二丁目にある、東武鉄道の駅である。駅番号はTS 13。 伊勢崎線(スカイツリーライン)と大師線が乗り入れている。伊勢崎線の当駅前後は「東武スカイツリーライン」の愛称区間に含まれている。大師線はこの駅が起点である。
|
{{駅情報
|社色 = #0f6cc3
|文字色 =
|駅名 = 西新井駅
|画像 = [[File:西新井駅西口.jpg|300px]]
|画像説明 = 旧西口(2016年8月16日)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = にしあらい
|ローマ字 = Nishiarai
|電報略号 = ニシ
|駅番号 = {{駅番号r|TS|13|#0f6cc3|1}}
|所属事業者 = [[東武鉄道]]
|所在地 = [[東京都]][[足立区]][[西新井栄町]]二丁目1-1
|座標 = {{coord|35|46|38|N|139|47|25.6|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = 1899年([[明治]]32年)8月27日
|駅構造 = [[橋上駅]]
|ホーム = 3面6線
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="東武" name="tobu2022" />58,836
|統計年度 = 2022年<!--リンク不要-->
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#0f6cc3|■}}[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)
|前の駅1 = TS 12 [[梅島駅|梅島]]
|駅間A1 = 0.8
|駅間B1 = 2.1
|次の駅1 = [[竹ノ塚駅|竹ノ塚]] TS 14
|キロ程1 = 11.3
|起点駅1 = [[浅草駅|浅草]]
|所属路線2 = {{color|#0f6cc3|■}}[[東武大師線|大師線]]
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 1.0
|次の駅2 = [[大師前駅|大師前]] TS 51
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 西新井
|備考 =}}
'''西新井駅'''(にしあらいえき)は、[[東京都]][[足立区]][[西新井栄町]]二丁目にある、[[東武鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''TS 13'''。
[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](スカイツリーライン)と[[東武大師線|大師線]]が乗り入れている。伊勢崎線の当駅前後は「東武スカイツリーライン」の愛称区間に含まれている。大師線はこの駅が起点である。
== 年表 ==
* [[1899年]]([[明治]]32年)[[8月27日]]:東武鉄道北千住駅 - 久喜駅間開通と同時に開業<ref>{{NDLDC|2948141/5|「運輸開業免許状下付」『官報』1899年8月31日|format=EXTERNAL}}</ref>。
* [[1966年]]([[昭和]]41年)[[12月15日]]:22時37分頃、大師前発西新井行き2306D列車と西新井を出発した2155S列車([[営団3000系電車|営団3000系]])が西新井駅構内で[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#東武鉄道西新井駅列車衝突事故|衝突事故]]。乗客ら7名死亡、重傷者4名、軽傷者16名を出した。{{Main|日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#東武鉄道西新井駅列車衝突事故}}
* [[1973年]](昭和48年)[[11月23日]]:駅ビル「トスカ西館」が開業<ref name="shopping-center-1982-3-39">“環境変化対応シリーズ(第10回)東武西新井ショッピングセンター「Tosca」”. ショッピングセンター 1982年3月号 ([[日本ショッピングセンター協会]]) (1982年3月1日).pp39</ref>。
* [[1981年]](昭和56年)[[4月21日]]:「トスカ東館」が開業<ref name="shopping-center-1982-3-39"/>。
* [[2005年]]([[平成]]17年)[[3月31日]]:改札口・ホーム間の[[エレベーター]]を供用開始<!--各ホーム[[竹ノ塚駅|竹ノ塚]]寄りに完成-->。[[バリアフリー]]対応[[便所|トイレ]]を改札口レベルに新設し、下り線ホームの[[梅島駅|梅島]]寄りに設置されていたトイレを撤去。
* [[2010年]](平成22年)[[3月17日]]:伊勢崎線ホームに[[発車メロディ]]を導入<ref name="hatsumero">{{Cite magazine |和書
|author =岸田法眼 |author-link=岸田法眼 |title=THE TOBU RAILWAY WORLD 〜今、東武から目が離せない〜 |magazine=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=(通巻611号) |issue=2012年3月号 |publisher=[[交友社]] |page=70 }}</ref>
* [[2012年]](平成24年)3月17日:'''TS 13'''の[[駅番号]]が設定される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/017af1e69f2ac63a8b2dea3d14de7a49/120209_1.pdf |format=PDF |title=「東武スカイツリーライン」誕生!| date=2012-02-09 |publisher=東武鉄道 |accessdate=2012-03-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120324115213/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/017af1e69f2ac63a8b2dea3d14de7a49/120209_1.pdf |archivedate=2012-03-24 }}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]3面6線の[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している<ref name="kounai-map">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/1304/ |title=構内マップ 東武スカイツリーライン・大師線 西新井駅 |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-07-22}}</ref>。
伊勢崎線は2面4線を使用する。[[複々線|方向別複々線]]配線により、急行線を走る急行・区間急行・準急・区間準急と緩行線を走る普通とはホーム対面で乗り換えることが可能である<ref name="kounai-map" />。
ホームの梅島寄りには、下り緩行線→急行線、上り急行線→緩行線へ転線できる片渡り線が設けられており、[[THライナー]](当駅は通過)が使用する<ref>{{Cite web|和書|title=日比谷線THライナー登場、指定席の需要あるか |date=2020-06-06 |website=東洋経済オンライン |publisher=東洋経済新報社 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/354635|accessdate=2020-08-20}}</ref>。
大師線ホームは1面2線であり、通常は[[頭端式ホーム|頭端式]]の1番線を使用していたが、駅西口再開発工事に伴うTOSCA西館解体工事のため、2023年2月1日より1番線を使用停止とし、当面の間全列車が2番線からの発着に変更されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/news/3199/ |title=西新井駅における大師線着発番線の変更について |date=2023-01-18 |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-07-22}}</ref>。
[[改札|改札口]]は1か所だが、大師線ホームに入る部分に中間改札がある<ref name="kounai-map" />。これは[[大師前駅]]が[[無人駅]]であることから、当駅の大師線連絡口で大師前駅としての改札業務を行うためである。
[[発車標]]は、伊勢崎線ホームには設置されているが、大師線ホームには設置されていない。
[[画像:西新井駅東口.jpg|thumb|221x221px|東口(2016年8月16日)]]
[[画像:西新井駅中央改札口.jpg|thumb|西新井駅改札口(2016年8月16日)]]
2005年3月31日、改札口からホームを連絡する[[エレベーター]]が各ホーム[[竹ノ塚駅|竹ノ塚]]寄りに完成し、[[バリアフリー]]対応[[便所|トイレ]]も同時に改札口レベルに新設された<ref name="kounai-map" />。また、同時に下り線ホームの[[梅島駅|梅島]]寄りに設置されていたトイレは撤去された。
2010年3月<!--17日-->より、伊勢崎線ホーム(3 - 6番線)に[[車掌]]のリモコン操作による[[発車メロディ]]が導入された<ref name=hatsumero/>。なお、大師線ホームでは「Passenger」の発車メロディが導入されている。
2022年9月24日に新しい西口が開業し、[[エレベーター]]と[[エスカレーター]]が新設され、旧西口は駅ビル解体工事が進んでいて、西口ロータリーの改修も決まっている。
=== のりば ===
<!-- 下表の行先表記は、2013年2月時点のコンコース内案内標識の記載に合わせている -->
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!軌道!!行先
|-
! {{Color|gray|1}}
|colspan="5" style="background:beige;"| {{Color|gray|(駅ビル解体工事のため使用停止)}}
|-
!2
|[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 大師線
|style="text-align:center"|下り
|style="text-align:center"| -
|[[大師前駅|大師前]]行
|-
!3
|rowspan="4"|[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン
|rowspan="2" style="text-align:center"|下り
|style="text-align:center"|急行線
|[[新越谷駅|新越谷]]・[[春日部駅|春日部]]・[[東武動物公園駅|東武動物公園]]・<br />{{small|[[File:Tobu Isesaki Line (TI) symbol.svg|15px|TI]] 伊勢崎線}} [[久喜駅|久喜]]・{{small|[[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] [[東武日光線|日光線]]}} [[南栗橋駅|南栗橋]]方面
|-
!4
|rowspan="2" style="text-align:center"|緩行線
|[[竹ノ塚駅|竹ノ塚]]・[[北越谷駅|北越谷]]・[[北春日部駅|北春日部]]・[[東武動物公園駅|東武動物公園]]・<br />{{small|[[File:Tobu Nikko Line (TN) symbol.svg|15px|TN]] 日光線}} [[南栗橋駅|南栗橋]]方面
|-
!5
|rowspan="2" style="text-align:center"|上り
|[[梅島駅|梅島]]・[[北千住駅|北千住]]・[[とうきょうスカイツリー駅|とうきょうスカイツリー]]・[[浅草駅|浅草]]・<br />{{small|[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]}} [[中目黒駅|中目黒]]方面
|-
!6
|style="text-align:center"|急行線
|北千住・とうきょうスカイツリー・浅草・<br />{{small|[[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]}} [[渋谷駅|渋谷]]・{{small|[[File:Tokyu DT line symbol.svg|15px|DT]] [[東急田園都市線]]}} [[中央林間駅|中央林間]]方面
|}
* 上記の路線名は旅客案内上の名称(「東武スカイツリーライン」は愛称)で表記している。
* 2020年6月6日現在のダイヤでは、当駅を発車する伊勢崎線の上り列車は7時24分からの1時間に37本の列車が発車する<ref>[https://www.navitime.co.jp/diagram/timetable?node=00004812&lineId=00000798 西新井駅 東武伊勢崎線 時刻表] - NAVITIME</ref>。これは関東の私鉄では最大の本数であり、ラッシュ時の混雑緩和に大きく貢献している。
* [[駅名標]]の隣接駅名表記は急行線と緩行線で分かれており、[[新越谷駅]]と草加駅も同じである。なお、同じ急行停車駅である越谷駅と北千住駅については、前者は下り方の準急・区間準急が各駅に止まるため、後者は全ホーム普通列車が発着できる構造のため緩行線の駅名となっている。
* 大師線の線路(2番線)の梅島寄りは[[2004年]]3月まで駅南方にあった[[東武鉄道西新井工場|西新井工場]]に接続していた。同工場は同年4月に[[東武鉄道南栗橋工場|南栗橋工場]]に移転し廃止された。
* 大師線の0[[距離標|キロポスト]]は、2番線の大師線ホームに面していない線路脇にあり、そこが当駅の停車場中心である。
[[画像:西新井ラーメン.jpg|thumb|西新井らーめん]]
=== 立ち食いラーメン ===
伊勢崎線下り(3・4番線)ホームには「西新井らーめん」と称する立ち食いの[[ラーメン]]店がある<ref name="noodle">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/inside_shop_detail/22/ |title=西新井駅 店舗のご案内 |publisher=東武鉄道|accessdate=2023-06-09 }}</ref>。
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''58,836人'''である<ref group="東武" name="tobu2022" />。この値は、伊勢崎線・大師線間の乗換客を含まない。伊勢崎線の駅では春日部駅に次ぐ第7位である。2002年度以降に駅西口で複合都市開発が行われた他、半蔵門線沿線にも直通で行けるようになったため、利用者は増加傾向にある。近年の1日平均乗降・[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]の推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
!rowspan=2|年度
!rowspan=2|1日平均<br />乗降人員<ref group="#" name="report">{{url|https://www.train-media.net/report.html |レポート}} - 関東交通広告協議会</ref>
!colspan=2|1日平均乗車人員
!rowspan=2|出典
|-
!伊勢崎線!!大師線
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|29,729||460
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM |東京都統計年鑑(平成4年)}}</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|29,090||460
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM |東京都統計年鑑(平成5年)}}</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|28,918||463
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM |東京都統計年鑑(平成6年)}}</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|28,749||508
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM |東京都統計年鑑(平成7年)}}</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|28,071||488
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM |東京都統計年鑑(平成8年)}}</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|27,518||479
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM |東京都統計年鑑(平成9年)}}</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|53,105
|27,008||452
|<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|52,045
|26,377||451
|<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|51,282
|25,819||447
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm |東京都統計年鑑(平成12年)}}</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|50,593
|25,759||271
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm |東京都統計年鑑(平成13年)}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|49,761
|25,236||274
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm |東京都統計年鑑(平成14年)}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|50,840
|25,820||287
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm |東京都統計年鑑(平成15年)}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|51,125
|25,882||277
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm |東京都統計年鑑(平成16年)}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|51,567
|26,104||274
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm |東京都統計年鑑(平成17年)}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|52,504
|26,614||282
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm |東京都統計年鑑(平成18年)}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|58,180
|29,623||363
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm |東京都統計年鑑(平成19年)}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|58,796
|29,751||367
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm |東京都統計年鑑(平成20年)}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|59,604
|30,088||353
|<ref group="統計">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm |東京都統計年鑑(平成21年)}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|61,166
| ||
|
|-
|2011年(平成23年)
|60,756
| ||
|
|-
|2012年(平成24年)
|62,378
| ||
|
|-
|2013年(平成25年)
|63,920
| ||
|
|-
|2014年(平成26年)
|63,669
| ||
|
|-
|2015年(平成27年)
|64,664
| ||
|
|-
|2016年(平成28年)
|65,602
| ||
|
|-
|2017年(平成29年)
|66,865
| ||
|
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="東武" name="tobu2018">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190807020040/http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2019-08-07}}</ref>67,149
| ||
|
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="東武" name="tobu2019">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201001043745/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2020-10-01}}</ref>66,712
| ||
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="東武" name="tobu2020">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210905115421/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2021-09-05}}</ref>51,624
| ||
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="東武" name="tobu2021">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220803235144/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2022-08-03}}</ref>54,526
|
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="東武" name="tobu2022">{{Cite web|和書|title=駅情報(乗降人員)|東武鉄道公式サイト|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|page=|accessdate=2023-07-13|publisher=東武鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701110809/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2023-07-01}}</ref>58,836
|
|
|
|}
近年の路線別乗降人員の推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別一日平均路線別乗降人員・乗換人員<ref group="#" name="report" />
!年度!!伊勢崎線!!大師線!!乗換人員!!出典
|-
|2004年(平成16年)
|50,515||610||17,697
|<ref group="#">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0511/tobu.pdf |format=PDF |title=東武鉄道 平成16年度1日平均乗降人員・通過人員 |publisher=関東交通広告協議会 |date= |accessdate=2016-01-23 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|50,969||598||17,534
|<ref group="#">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0611/tobu.pdf |format=PDF|title=東武鉄道 平成17年度1日平均乗降人員・通過人員 |publisher=関東交通広告協議会 |date= |accessdate=2016-01-23 |archiveurl= |archivedate=}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|51,900||603||17,600
|<ref group="#">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0711/tobu.pdf |format=PDF |title=東武鉄道 平成18年度1日平均乗降人員・通過人員 |publisher=関東交通広告協議会 |date= |accessdate=2016-01-23 |archiveurl= |archivedate=}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|57,461||719||17,314
|<ref group="#">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0811/tobu.pdf |format=PDF |title=東武鉄道 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員 |publisher=関東交通広告協議会 |date= |accessdate=2016-01-23 |archiveurl= |archivedate=}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|58,077||719||15,513
|<ref group="#">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0910/tobu.pdf |format=PDF |title=東武鉄道 平成20年度1日平均乗降人員・通過人員 |publisher=関東交通広告協議会 |date= |accessdate=2016-01-23 |archiveurl= |archivedate=}}</ref>
|}
== 駅周辺 ==
{{main|西新井栄町|栗原 (足立区)|島根 (足立区)|梅島 (足立区)}}
関東の三大師の一つ、[[總持寺 (足立区)|西新井大師]](総持寺)は西へ約1km離れており、大師線の[[大師前駅]]が最寄駅となる。[[2004年]]3月には東口に[[エレベーター]]が新設され、同時にトスカ東館・旧西館店舗部分の小改造が行われ、店舗内[[エレベーター]]を使用して東西自由通路を24時間通行可能になった。
北側の竹ノ塚・大師前寄りの線路を[[東京都道318号環状七号線]](環七通り)が跨いでいる(西新井陸橋)。西口周辺では、[[日清紡ホールディングス|日清紡]]東京工場跡地を中心とした[[都市再開発|再開発]]事業が行われた([[西新井ヌーヴェル]])。自由通路には、トスカ系列の売店の他、[[ファミリーマート]]や[[QB HOUSE]]、[[東武トップツアーズ]]西新井支店、[[ゆうちょ銀行]][[現金自動預け払い機|ATM]]などがある。西口は大きな[[バスターミナル]]となっている。
西新井栄町付近では、複合都市開発が行われた。
=== 西口 ===
{{Div col}}
* パサージオ西新井
* [[アリオ西新井]]
* [[セントラルスポーツ|セントラルウェルネスクラブ]]西新井
** THE SPA 西新井
* [[ザ・プライス|ヨークプライス]]西新井店
* [[西新井警察署|警視庁西新井警察署]]
* 西新井駅前郵便局
* 西新井税務署
* 足立都税事務所
* [[博慈会記念総合病院]]
* [[慈英会病院]]
* [[東京洪誠病院]]
* [[西新井病院]]
* [[日本のタクシー|タクシー]]乗り場
* [[足立区立亀田小学校]]
* [[足立区立栗原小学校]]
* [[足立区立第七中学校]]
* [[都市農業公園]]
{{Div col end}}
=== 東口 ===
{{Div col}}
* トスカ東館
* [[イオン西新井店]]
**[[コナミスポーツクラブ]]西新井
**[[ノジマ]]
* 西新井住宅公園
* [[ギャラクシティ]]
** 西新井文化ホール
** 足立区こども科学館
* [[みずほ銀行]]足立支店
* [[足立区立梅島第一小学校]]
* [[足立区立島根小学校]]
* [[足立区立第十中学校]]
* [[成仁病院]]
* [[ヤマダデンキ]]テックランド足立店
* エンブレムホステル西新井
{{Div col end}}
=== バス路線 ===
足立区[[コミュニティバス]]の[[はるかぜ (コミュニティバス)|はるかぜ]]を含む[[路線バス]]が発着する。運行事業者は[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]]、[[都営バス|東京都交通局]]、[[国際興業バス]]、[[日立自動車交通]]の計4社局である。
==== 西新井駅西口 ====
{|class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者!!営業所!!備考
|-
|rowspan="3"|1||rowspan="2"|[[東武バスセントラル足立営業事務所|西01]]||[[江北 (足立区)|江北]]六丁目団地・[[皿沼]]不動・[[加賀 (足立区)|加賀]]一丁目||皿沼循環||rowspan="9"|東武バスセントラル||rowspan="7"|[[東武バスセントラル足立営業事務所|足立]]||
|-
|江北六丁目団地・皿沼不動・加賀一丁目||鹿浜中学校||終車時間帯のみ
|-
|[[東武バスセントラル足立営業事務所|西08]]||西新井大師前・江北陸橋下||東京女子医大足立医療センター||
|-
|rowspan="6"|2||[[東武バスセントラル足立営業事務所|西03]]||rowspan="2"|[[西新井消防署]]・[[伊興]]住区センター||流通センター||
|-
|[[東武バスセントラル足立営業事務所|西04]]||竹の塚車庫||
|-
|[[東武バスセントラル足立営業事務所|西02]]||[[栗原 (足立区)|栗原]]四丁目||竹の塚車庫||本数少
|-
|[[東武バスセントラル足立営業事務所|西07]]||西新井五丁目・[[谷在家]]公園・[[鹿浜]]||[[都市農業公園|鹿浜都市農業公園]]||日中に1便のみ運行
|-
|[[東武バスセントラル西新井営業所|北03]]||rowspan="2"|[[関原 (足立区)|関原]]二丁目・[[千住桜木]]||rowspan="2"|[[北千住駅]]||rowspan="2"|[[東武バスセントラル西新井営業所|西新井]]||西新井大師バス停が始発
|-
|北04||当バス停が始発
|-
|rowspan="3"|3||rowspan="3"|[[都営バス北営業所#王40甲・丙系統|王40甲]]||rowspan="3"|-<!--省略。[[PJ:RAIL#バス路線の記述法]]参照-->||[[池袋駅|池袋駅東口]]||rowspan="3"|都営バス||rowspan="3"|[[都営バス北営業所|北]]|| rowspan="3" |停留所名は「'''西新井駅前'''」
|-
|北車庫前
|-
|豊島五丁目団地
|-
|rowspan="3"|4番||[[国際興業バス赤羽営業所|赤27]]||(環七経由)上沼田団地入口・[[鹿浜橋]]・[[東十条]]四丁目||[[赤羽駅]]東口||rowspan="5"|国際興業バス||rowspan="3"|[[国際興業バス赤羽営業所|赤羽]]||深夜バス運行
|-
||[[国際興業バス赤羽営業所|赤27H]]||(環七経由)東京女子医大足立医療センター・鹿浜橋・東十条四丁目||赤羽駅東口||日中のみ運行
|-
||[[国際興業バス赤羽営業所|赤27-2]]||(環七経由)上沼田団地入口・鹿浜橋・東十条四丁目||赤羽車庫||出入庫、深夜バス運行
|-
|rowspan="2"|5||[[国際興業バス赤羽営業所|赤23]]||[[西新井大師西駅]]・鹿浜・荒川大橋・[[赤羽岩淵駅]]||赤羽駅東口||||
|-
|[[国際興業バス川口営業所|西11]]||伊興三丁目・[[舎人公園駅]]・[[入谷 (足立区)|入谷]]東||[[見沼代親水公園駅]]||[[国際興業バス川口営業所|川口]]||【はるかぜ3号】
|-
|6||[[東武バスセントラル西新井営業所|北03]]|| ||[[總持寺 (足立区)|西新井大師]]||東武バス||[[東武バスセントラル西新井営業所|西新井]]||
|-
|7||[[日立自動車交通#乗合バス路線(現行路線)|無番]]||[[本木]]町第二アパート・[[扇大橋駅]]||[[高野駅 (東京都)|高野駅]]||日立自動車交通||[[日立自動車交通#乗合バス路線(現行路線)|本社]]||【はるかぜ10号】
|}
※ 王子駅から深夜バス深夜31系統(東武バスセントラル)が環七経由で西新井駅西口まで運行されている。
==== 西新井陸橋 ====
{|class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者!!営業所!!備考
|-
|rowspan="2"|西行|| [[東武バスセントラル葛飾営業所|王30]]||東京女子医大足立医療センター・上沼田団地・鹿浜橋・[[王子 (東京都北区)|王子]]五丁目||[[王子駅]]||東武バスセントラル||[[東武バスセントラル葛飾営業所|葛飾]]||昼2便のみ
|-
|[[都営バス千住営業所#王49系統|王49・王49折返]]||-<!--省略。[[PJ:RAIL#バス路線の記述法]]参照-->||王子駅前||都営バス||[[都営バス千住営業所|千住]]||
|-
|rowspan="3"|東行||王30||[[青井 (足立区)|青井]]六丁目・[[新加平橋|加平橋]]・[[綾瀬警察署]]||[[亀有駅]]北口||東武バスセントラル||葛飾||昼2便のみ
|-
|王49||-<!--省略。[[PJ:RAIL#バス路線の記述法]]参照-->||千住車庫前|| rowspan="2" |都営バス||rowspan="2"|千住||
|-
|王49折返||-<!--省略。[[PJ:RAIL#バス路線の記述法]]参照-->||[[足立区役所]]||
|}
※ 旧西新井警察署前、西口徒歩7分環七通り上。西口ロータリー整備前は国際興業の路線の大半はここで折り返していた。
==== 西新井駅東口 ====
{|class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者!!営業所!!備考
|-
|rowspan="7"|1||[[東武バスセントラル西新井営業所|西05・西06]]||[[水野病院]]・西新井大師西駅・鹿浜||鹿浜都市農業公園||rowspan="7"|東武バスセントラル||rowspan="3"|[[東武バスセントラル西新井営業所|西新井]]||rowspan="2"|【はるかぜ4号】
|-
|西05||梅島駅||足立区役所
|-
|[[東武バスセントラル西新井営業所|竹51]]||増田橋||[[竹ノ塚駅|竹の塚駅]]東口||
|-
|[[東武バスセントラル葛飾営業所|西21]]||六町駅||六ッ木都住||rowspan="2"|[[東武バスセントラル葛飾営業所|葛飾]]||rowspan="2"|【はるかぜ7号】
|-
|[[東武バスセントラル葛飾営業所|西22]]||六町駅・六ッ木都住||[[八潮駅]]北口
|-
|[[東武バスセントラル足立営業事務所|竹13]]||増田橋・竹の塚駅東口||足立清掃工場(循環)||rowspan="2"|[[東武バスセントラル足立営業事務所|足立]]||rowspan="2"|本数少
|-
|[[東武バスセントラル足立営業事務所|竹14]]||増田橋・竹の塚駅東口・足立清掃工場・[[谷塚駅]]||花畑桑袋団地
|-
|rowspan="2"|2||rowspan="2"|[[日立自動車交通#乗合バス路線(現行路線)|無番]]||足立区役所・[[青井駅]]・綾瀬新橋・[[綾瀬駅]]||綾瀬小学校東||rowspan="2"|日立自動車交通||rowspan="2"|[[日立自動車交通#乗合バス路線(現行路線)|本社]]||【はるかぜ1号】
|-
|足立区役所・[[五反野駅]]・綾瀬駅・[[東和 (足立区)|東和]]五丁目||[[亀有駅]]南口||【はるかぜ12号】
|}
※ 1番乗場は環七西新井陸橋下、2番乗場は東口の階段降りて右側トスカ前となる。
== その他 ==
駅名の由来となった「西新井」という地名はそれ自体で一単語であって、「西」を冠称した複合語ではない<ref>{{Cite news |和書 |title=西新井【足立区】弘法大師の伝説が残るパワースポット。西新井大師と新旧参道グルメ 〜ぐるり東京 街さんぽ〜 |newspaper=東京新聞|date=2023-03-30 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/239294 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230721144825/https://www.tokyo-np.co.jp/article/239294 |archivedate=2023-07-21 }}</ref>。詳細は「[[西新井#地名]]」を参照。駅名の漢字を見ただけでは複合語か否か分からないが、駅や車内に掲示する停車駅一覧などに表記された[[ローマ字]]では違いが現れる。東武鉄道では、方角などを冠称した駅名は '''Kita-senju'''([[北千住駅|北千住]])、'''Shin-koshigaya'''([[新越谷駅|新越谷]])のように[[ハイフン]]を使って表記しているが、西新井はハイフンがなく '''Nishiarai''' である<ref>{{Cite web |url=https://www.tobu.co.jp/en/_assets_l/pdf/routeMap.pdf|format=PDF|title=Tobu Railway Route Map{{!}}Route map of all lines|publisher=TOBU RAILWAY Co., LTD|accessdate=2023-06-18}}</ref>。
== ギャラリー ==
<gallery>
西新井駅西口バスターミナル全景.jpg|西新井駅西口駅前広場(2016年8月16日)
西新井駅ホーム全景.jpg|西新井駅ホーム全景。左ホームが浅草・中央林間・中目黒方面。中央ホームが久喜・南栗橋方面。右ホームが大師前方面。
西新井駅大師線改札口.jpg|大師線用改札口(2016年8月16日)
</gallery>
== 隣の駅 ==
; 東武鉄道
: [[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 東武スカイツリーライン
:: {{Color|#cc0066|■}}急行・{{Color|#ff99cc|■}}区間急行・{{Color|#009900|■}}準急・{{Color|#66cc66|■}}区間準急
::: [[北千住駅]](TS 09) - '''西新井駅(TS 13)''' - [[草加駅]](TS 16)
:: {{Color|#999999|■}}普通
::: [[梅島駅]](TS 12) - '''西新井駅(TS 13)''' - [[竹ノ塚駅]](TS 14)
: [[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 大師線
::: '''西新井駅(TS 13)''' - [[大師前駅]](TS 51)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 東武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="東武"|3}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="統計"|22em}}
; 関東交通広告協議会
{{Reflist|group="#"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Nishiarai Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[メトロセブン]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=1304}}
{{東武伊勢崎線|mode=1}}
{{DEFAULTSORT:にしあらい}}
[[Category:足立区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 に|しあらい]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1899年開業の鉄道駅]]
|
2003-08-17T00:36:23Z
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2023-12-24T06:25:23Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%96%B0%E4%BA%95%E9%A7%85
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13,362 |
大師前駅
|
大師前駅(だいしまええき)は、東京都足立区西新井一丁目にある、東武鉄道大師線の駅。駅番号はTS 51。
単式ホーム1面1線を有する高架駅。なお、構造上は1面2線の島式ホームとすることも可能であるが、ホーム北側の1線分は蓋をしてホームと同一面の状態にしており、駅の規模を考えるとホーム幅は広い。
発車メロディとして「Passenger」が導入されている。
地上とホームを連絡するエレベーターや上り専用のエスカレーターが設置されており、診療所などのテナントが入居する駅ビルが併設されている。駅高架下を含めた構内には東武バスセントラル西新井営業所が併設されている。
移転前の駅は現駅の南側となる環七通りを越えたあたりにあり、アーチ状の出入口が連なる欧風の駅舎であった。地上駅時代は乗車ホームと降車ホームが分離されている頭端式の構造だった。
路面電車や新交通システムを除くと、東京都区部では希少な無人駅である。また、東武鉄道の無人駅の中では最も乗車人員が多い。
自動改札機・自動券売機・自動精算機は設置されておらず、入口にその旨が掲出されている。当駅の乗車券発売や改札などの機能については、西新井駅構内の乗り換え通路上に、当駅発の乗車券が購入できる券売機や連絡専用の自動改札機を設置して処理をしている。この他に同様の形態をとる駅としては、名鉄築港線の東名古屋港駅や山陽本線(和田岬線)の和田岬駅が挙げられる。
出札窓口は通常シャッターで閉鎖されている。正月など、西新井大師の参拝客が多い時期には職員を配置して乗車券の販売を行う。有人改札ブース(ラッチ)も設置されているが、西新井駅に自動改札機が設置されているため、多客期でも使われない。
2022年度の1日平均乗降人員は11,944人である。2008年に駅西方に日暮里・舎人ライナーが開通し、西新井大師西駅などの開業によって利用者がそちらに移乗したこともあり、近年の乗降人員はピーク時の半分程度まで減少している。
近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表の通りである。
すぐ近くに駅名の由来となっている西新井大師(總持寺)がある。
最寄りバス停留所は「西新井大師」・「西新井大師前」・「西新井車庫」となる。以下の路線バスが乗り入れ、東武バスセントラル・国際興業・東京都交通局(都営バス)によって運行されている。
|
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] |
大師前駅(だいしまええき)は、東京都足立区西新井一丁目にある、東武鉄道大師線の駅。駅番号はTS 51。
|
{{otheruses|東京都にある駅|かつて三重県に存在した同名駅|中勢鉄道}}
{{駅情報
|社色 = #0f6cc3
|文字色 =
|駅名 = 大師前駅
|画像 = [[File:Daishimae.jpg|300px]]
|画像説明 = 駅外観(2016年4月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = だいしまえ
|ローマ字 = Daishimae
|電報略号 = マエ
|駅番号 = {{駅番号r|TS|51|#0f6cc3|1}}
|所属事業者 = [[東武鉄道]]
|所在地 = [[東京都]][[足立区]][[西新井]]一丁目{{R|kotsu1993-5}}
|緯度度 = 35 |緯度分 = 46 |緯度秒 = 43.9
|経度度 = 139 |経度分 = 46 |経度秒 = 53.4
|座標右上表示 = Yes
|開業年月日 = [[1931年]]([[昭和]]6年)[[12月20日]]
|駅構造 = [[高架駅]]{{R|kotsu1993-5}}
|ホーム = 1面1線
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|乗降人員 = <ref group="東武" name="tobu2022" />11,944
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|所属路線 = {{color|#0f6cc3|■}}[[東武大師線|大師線]]
|前の駅 = TS 13 [[西新井駅|西新井]]
|駅間A = 1.0
|駅間B =
|次の駅 =
|キロ程 = 1.0
|起点駅 = [[西新井駅|西新井]]
|備考 = [[1968年]]、現在地に移設。<br />[[無人駅]]<ref name="kotsu1993-5">{{Cite news |title=私鉄沿線・いま 東武鉄道大師前駅 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-05-10 |page=3 }}</ref>
}}
'''大師前駅'''(だいしまええき)は、[[東京都]][[足立区]][[西新井]]一丁目にある、[[東武鉄道]][[東武大師線|大師線]]の[[鉄道駅|駅]]{{R|kotsu1993-5}}。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''TS 51'''。
== 歴史 ==
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[12月20日]]:'''西板線'''の駅として開業<ref>{{NDLDC|2957978/6|「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年1月14日|format=EXTERNAL}}</ref>。
**西新井駅と[[上板橋駅]]を結ぶ[[東武大師線#西板線計画|西板線]]の第一期区間だった。
** 当初は浅草雷門駅(現・[[浅草駅]])から2両編成の電車が直通していた。
* [[1945年]](昭和20年)[[5月20日]] - 営業休止。
* [[1947年]](昭和22年)[[5月21日]] - 営業再開。路線名改称により'''大師線'''の駅となる。
* [[1968年]](昭和43年)[[12月1日]] - 環七通り拡幅のため移転。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[7月26日]] - 仮駅舎で高架化<ref>{{Cite news |title=東武大師線を高架化 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1991-07-16 |page=1 }}</ref><!-->{{Refnest|group="注"|1992年3月の改築とする記述もある<ref name="kotsu1993-5"/>}}<-->。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]] - 「TS 51」の[[駅番号]]が設定される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/017af1e69f2ac63a8b2dea3d14de7a49/120209_1.pdf |format=PDF |title=「東武スカイツリーライン」誕生!| date=2012-02-09 |publisher=東武鉄道 |accessdate=2012-03-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120324115213/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/017af1e69f2ac63a8b2dea3d14de7a49/120209_1.pdf |archivedate=2012-03-24 }}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[3月27日]] - [[発車メロディ]]を導入。
== 駅構造 ==
[[単式ホーム]]1面1線を有する[[高架駅]]。なお、構造上は1面2線の[[島式ホーム]]とすることも可能であるが、ホーム北側の1線分は蓋をしてホームと同一面の状態にしており、駅の規模を考えるとホーム幅は広い。
[[発車メロディ]]として「Passenger」が導入されている。
地上とホームを連絡する[[エレベーター]]や上り専用の[[エスカレーター]]が設置されており、[[診療所]]などの[[テナント]]が入居する駅ビルが併設されている。駅高架下を含めた構内には[[東武バスセントラル西新井営業所]]が併設されている。
移転前の駅は現駅の南側となる環七通りを越えたあたりにあり、アーチ状の出入口が連なる欧風の駅舎であった。[[地上駅]]時代は乗車ホームと降車ホームが分離されている[[頭端式ホーム|頭端式]]の構造だった。
=== のりば ===
<!-- 下表の行先表記は、コンコース内案内標識の記載に合わせております -->
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 大師線
|style="text-align:center"|上り
|[[西新井駅|西新井]]方面
|}
<gallery>
ファイル:Daishimae Sta.JPG|停車中の電車(2009年3月20日)
Daishimae-Sta-Platform.JPG|ホーム(写真奥が出入口。2011年5月)
Daishimae station office on newyearsday.JPG|臨時出札窓口(2008年1月1日)
Tobu-railway-TS51-Daishimae-station-gate-20210420-161707.jpg|改札口(2021年4月)
</gallery>
=== 駅構内 ===
; 1階
* [[くすりの福太郎]]
* 足立区[[保育所|小規模保育室]]チェリッシュ大師前駅
; 2階
* 持田医院
* 東武大師前クリニック
; 3階
* ホーム
=== 特徴 ===
[[路面電車]]や[[新交通システム]]を除くと、[[東京都区部]]では希少な[[無人駅]]である{{R|kotsu1993-5}}。また、東武鉄道の無人駅の中では最も乗車人員が多い。
[[自動改札機]]・[[自動券売機]]・[[自動精算機]]は設置されておらず、入口にその旨が掲出されている。当駅の[[乗車券]]発売や[[改札]]などの機能については、[[西新井駅]]構内の乗り換え通路上に、当駅発の乗車券が購入できる券売機や連絡専用の自動改札機を設置して処理をしている。この他に同様の形態をとる駅としては、[[名鉄築港線]]の[[東名古屋港駅]]や[[山陽本線]]([[和田岬線]])の[[和田岬駅]]が挙げられる。
[[出札]]窓口は通常[[シャッター]]で閉鎖されている。[[正月]]など、西新井大師の参拝客が多い時期には職員を配置して{{R|kotsu1993-5}}乗車券の販売を行う。有人改札ブース(ラッチ)も設置されているが、西新井駅に自動改札機が設置されているため、多客期でも使われない。
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''11,944人'''である<ref group="東武" name="tobu2022" />。[[2008年]]に駅西方に[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]が開通し、[[西新井大師西駅]]などの開業によって利用者がそちらに移乗したこともあり、近年の乗降人員はピーク時の半分程度まで減少している。
近年の1日平均乗降・[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]の推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366)で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="**">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm |東京都統計年鑑}}</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref group="**">{{url|https://www.train-media.net/report.html |レポート}} - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref group="**">{{url|http://www.city.adachi.tokyo.jp/kuse/ku/aramashi/toke-suji.html |数字で見る足立}} - 足立区</ref>
!出典
|-
|1974年(昭和49年)
| ||14,509
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm |昭和49年}}</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
| ||14,455
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm |昭和50年}}</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
| ||14,684
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm |昭和51年}}</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
| ||15,118
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm |昭和52年}}</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
| ||14,934
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm |昭和53年}}</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
| ||14,385
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm |昭和54年}}</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
| ||13,649
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm |昭和55年}}</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
| ||14,348
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm |昭和56年}}</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
| ||14,140
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm |昭和57年}}</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
| ||13,988
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm |昭和58年}}</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
| ||14,455
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm |昭和59年}}</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
| ||14,774
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm |昭和60年}}</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
| ||14,893
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm |昭和61年}}</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
| ||14,119
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm |昭和62年}}</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
| ||14,335
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm |昭和63年}}</ref>
|-
|1989年(平成元年)
| ||14,244
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm |平成元年}}</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| ||14,127
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm |平成2年}}</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| ||13,802
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm |平成3年}}</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| ||13,030
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.htm |平成4年}}</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| ||12,802
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.htm |平成5年}}</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| ||12,116
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.htm |平成6年}}</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| ||11,435
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.htm |平成7年}}</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| ||10,703
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.htm |平成8年}}</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| ||10,230
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.htm |平成9年}}</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|19,693||9,896
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|19,029||9,626
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|18,895||9,622
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm |平成12年}}</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|18,888||9,604
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm |平成13年}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|18,801||9,550
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm |平成14年}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|18,816||9,584
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm |平成15年}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|18,306||9,256
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm |平成16年}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|18,132||9,144
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm |平成17年}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|18,203||9,165
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm |平成18年}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|18,033||8,988
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm |平成19年}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|16,233||8,061
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm |平成20年}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|15,228||7,544
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm |平成21年}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|14,465||7,133
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm |平成22年}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|13,243||6,661
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm |平成23年}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|13,400||6,719
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm |平成24年}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|13,613||6,818
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm |平成25年}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|13,516||6,769
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm |平成26年}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|13,940||6,981
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm |平成27年}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|13,999||7,008
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm |平成28年}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|14,170||7,094
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm |平成29年}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|14,112||7,063
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm |平成30年}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|13,982||6,998
|<ref group="*">{{url|https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm |平成31年・令和元年}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="東武" name="tobu2020">{{Cite report |url=https://www.tobu.co.jp/pdf/corporation/book_all.pdf?202209 |title=東武会社要覧2021 |website= |publisher=東武鉄道 |page=67 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220419190707/https://www.tobu.co.jp/pdf/corporation/book_02.pdf?202109 |archivedate=2022-04-19 }}</ref>10,804||
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="東武" name="tobu2021">{{Cite report |url=https://www.tobu.co.jp/pdf/corporation/book_all.pdf?202209 |title=東武会社要覧2022 |website= |publisher=東武鉄道 |page=67 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230612224308/https://www.tobu.co.jp/pdf/corporation/book_all.pdf?202209 |archivedate=2023-06-12 }}</ref>11,275
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="東武" name="tobu2022">{{Cite report |url=https://www.tobu.co.jp/pdf/corporation/book_02.pdf |title=東武会社要覧2023 |website= |publisher=東武鉄道 |page=67 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231105022802/https://www.tobu.co.jp/pdf/corporation/book_all.pdf?202309 |archivedate=2023-11-05 }}</ref>11,944
|
|
|}
== 駅周辺 ==
すぐ近くに駅名の由来となっている西新井大師([[總持寺 (足立区)|總持寺]])がある。
{{Div col}}
* [[東京都道318号環状七号線|環七通り]]
* [[西新井警察署]]大師前交番
* [[足立区役所]]西新井区民事務所
* 足立西新井[[郵便局]]
* [[東武ストア]]
* [[大内病院]]
* [[西新井病院]]
{{Div col end}}
=== バス路線 ===
最寄り[[バス停留所]]は'''「西新井大師」・「西新井大師前」・「西新井車庫」'''となる。以下の[[路線バス]]が乗り入れ、[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]]・[[国際興業バス|国際興業]]・[[東京都交通局]]([[都営バス]])によって運行されている。
{|class="wikitable" style="clear:both; font-size:80%;"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!事業者!!営業所!!備考
|-
|colspan="7"|車庫構内乗り場-停留所名:'''西新井大師'''
|-
|1番||北01||本木新道||北千住駅||rowspan="4"|東武||rowspan="3"|[[東武バスセントラル西新井営業所|西新井]]||
|-
|rowspan="3"|2番||北02||(西新井駅西口非経由)[[尾竹橋通り|100号線]]・関原二丁目||rowspan="2"|北千住駅||平日早朝のみ
|-
|北03||西新井駅西口・100号線・関原二丁目||
|-
|臨時||島根三丁目・綾瀬警察署||[[亀有駅]]北口||-||例年[[正月#日本の正月|三が日]]のみ運行
|-
|colspan="7"|南側環七通り上乗り場-停留所名:'''西新井大師前'''(東武・都営)・'''西新井大師'''(国際)
|-
|rowspan="6"|3番|||[[都営バス北営業所#王40甲・丙系統|王40甲]]||-<!--省略。[[PJ:RAIL#バス路線の記述法]]参照-->||西新井駅前||都営||[[都営バス北営業所|北]]||
|-
|西01||rowspan="2"|西新井陸橋||rowspan="2"|西新井駅西口||東武||[[東武バスセントラル足立営業事務所|足立]]||
|-
|赤27・27-2・27H||国際||[[国際興業バス赤羽営業所|赤羽]]||[[深夜バス]]運行
|-
|王30||島根三丁目・綾瀬警察署||亀有駅北口||東武||[[東武バスセントラル葛飾営業所|葛飾]]||昼2便のみ
|-
|[[都営バス千住営業所#王49系統|王49]]||rowspan="2" |-<!--省略。[[PJ:RAIL#バス路線の記述法]]参照-->||千住車庫前||rowspan="5"|都営||rowspan="2"|[[都営バス千住営業所|千住]]||
|-
|王49折返||足立区役所||
|-
|rowspan="3"|4番<br />(西)||rowspan="3"|王40甲||rowspan="3"|-<!--省略。[[PJ:RAIL#バス路線の記述法]]参照-->||[[池袋駅|池袋駅東口]]||rowspan="3"|北||
|-
|北車庫前||
|-
|豊島五丁目団地||
|-
|rowspan="8"|4番<br />(東)||rowspan="2"|西01||江北六丁目団地・皿沼不動||皿沼循環||rowspan="4"|東武||rowspan="3"|足立||
|-
|江北六丁目団地・皿沼不動||鹿浜中学校||終車時間帯のみ
|-
|西08||江北陸橋下||[[東京女子医科大学附属足立医療センター|東京女子医大足立医療センター]]||
|-
|王30||東京女子医大足立医療センター・鹿浜橋・北区神谷町||[[王子駅]]||葛飾||昼2便のみ
|-
|王49・王49折返||-<!--省略。[[PJ:RAIL#バス路線の記述法]]参照-->||王子駅前||都営||千住||
|-
|赤27||rowspan="2"|鹿浜橋・東十条四丁目||[[赤羽駅]]東口||rowspan="3"|国際||rowspan="3"|赤羽||深夜バス運行
|-
|赤27-2||赤羽車庫||出入庫、深夜バス運行
|-
|赤27H||東京女子医大足立医療センター・鹿浜橋・東十条四丁目||赤羽駅東口||日中のみ
|-
|colspan="7"|西新井車庫東側乗り場-停留所名:'''西新井車庫'''
|-
|rowspan="5"|5番||西03||rowspan="2"|西新井消防署・伊興住区センター||流通センター||rowspan="3"|東武||rowspan="3"|足立||
|-
|西04||竹の塚車庫||
|-
|西07||谷在家公園・鹿浜||[[都市農業公園|鹿浜都市農業公園]]||
|-
|西11||伊興三丁目・[[舎人公園駅]]||[[見沼代親水公園駅]]||rowspan="2"|国際||川口||[[はるかぜ (コミュニティバス)|はるかぜ]]3号
|-
|赤23||[[西新井大師西駅]]・鹿浜・荒川大橋||赤羽駅東口||赤羽||
|-
|rowspan="3"|6番||西03・04・07||rowspan="3"|西新井陸橋||rowspan="3"|西新井駅西口||東武||足立||
|-
|西11||rowspan="2"|国際||川口||はるかぜ3号
|-
|赤23||赤羽||
|}
== その他 ==
* [[2008年]][[3月30日]]に開業した[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]では、[[東京都道・埼玉県道58号台東川口線|尾久橋通り]]上に「[[西新井大師西駅]]」が設置されている。当駅とは約1.7 km離れており、また西新井大師へは当駅の方が至近である。
== 隣の駅 ==
; 東武鉄道
: [[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]] 大師線
:: [[西新井駅]] (TS 13) - '''大師前駅 (TS 51)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 利用状況に関する出典 ====
{{Reflist|group="**"}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|15em}}
;東武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="東武"|3}}
== 外部リンク ==
{{commonscat}}
* {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=2302}}
{{東武伊勢崎線|mode=1}}
{{DEFAULTSORT:たいしまえ}}
[[Category:足立区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 た|いしまえ]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1931年開業の鉄道駅]]
|
2003-08-17T00:47:14Z
|
2023-12-24T06:31:09Z
| false | false | false |
[
"Template:0",
"Template:Div col end",
"Template:Cite news",
"Template:PDFlink",
"Template:Commonscat",
"Template:東武伊勢崎線",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:駅情報",
"Template:R",
"Template:Url",
"Template:Otheruses",
"Template:Div col",
"Template:NDLDC",
"Template:Cite web",
"Template:Cite report",
"Template:外部リンク/東武鉄道駅"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B8%AB%E5%89%8D%E9%A7%85
|
13,364 |
下板橋駅
|
下板橋駅(しもいたばしえき)は、東京都豊島区池袋本町四丁目にある東武鉄道東上本線の駅である。駅番号はTJ 03。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。北改札口(本駅舎)は2番ホーム大山側にあり、1番ホームとは改札口そばの地下通路と、エレベーター専用の跨線橋で連絡している。地下通路の途中で南改札口に向かう階段が分岐している。南改札口は従来朝夕ラッシュ時営業の臨時改札口であったが、2022年10月1日より終日営業となっている。
当駅は豊島区に所在する(最北端の駅)が、すぐ西方に板橋区との境界があり、旧駅舎は板橋区側にあった(後述)。
大山側には留置線(下板橋駅留置線)があり、池袋駅終着で折り返し回送となる電車が入庫する。この場所は開業時から1935年まで当駅があった場所で、現在地への移設後は貨物を取り扱っていた。なお、この留置線は、駅西側と大山方双方に分岐があり、両方向から留置線へ進入することができる。
もともと、東上本線の本来の起点は大塚辻町(現在の東京メトロ丸ノ内線新大塚駅付近)を予定して免許を取得していたが、当時の東京市に阻まれ、当駅から開業せざるを得なかった。これにより、当駅 - 川越町駅(現・川越市駅)間は私設鉄道法、当駅 - 池袋駅間は軽便鉄道法の下で敷設された。そのため、東上本線の起点を示す0キロポストは池袋駅ではなくこの留置線内にある。また、東上鉄道発祥の記念碑も留置線内に設置されている。
当駅が現在の位置に移設されたのは、当時は大山駅との間に金井窪駅があり、駅間距離が400m弱と非常に短かったことと、もはや下板橋 - 大塚辻町間の開業が不可能だと判断されたことが大きな原因である。旧駅の所在地は板橋区であるが、移設先の所在地は豊島区である。
2006年度と2007年度の東武鉄道の設備投資計画には当駅の構内改良工事が盛り込まれていたが、実際は留置線の配線変更にとどまっている。
その後、2008年5月20日に駅舎およびホームを現在地(豊島区池袋本町四丁目)から西方のかつて当駅があった電車留置線付近(板橋区板橋二丁目173番地付近、住居表示では板橋二丁目4番)に移転し、駅上に大学病院を開設するなどの周辺地と一体的な高度医療福祉拠点の実現を日本大学と共同で事業化を検討する(メディカル・トラポリス構想)ことを明らかにした。
2009年3月31日より発車メロディの使用を開始した。
東武池袋駅管区傘下の駅長配置駅で、北池袋駅を管理する。
2021年度の1日平均乗降人員は13,560人である。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下記の通り。
かつて下板橋駅 - 大山駅間には金井窪駅が存在したが、東京大空襲による駅舎の被災に伴い1945年(昭和20年)4月15日に廃止された。
|
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"text": "相対式ホーム2面2線を有する地上駅。北改札口(本駅舎)は2番ホーム大山側にあり、1番ホームとは改札口そばの地下通路と、エレベーター専用の跨線橋で連絡している。地下通路の途中で南改札口に向かう階段が分岐している。南改札口は従来朝夕ラッシュ時営業の臨時改札口であったが、2022年10月1日より終日営業となっている。",
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"text": "当駅は豊島区に所在する(最北端の駅)が、すぐ西方に板橋区との境界があり、旧駅舎は板橋区側にあった(後述)。",
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"text": "もともと、東上本線の本来の起点は大塚辻町(現在の東京メトロ丸ノ内線新大塚駅付近)を予定して免許を取得していたが、当時の東京市に阻まれ、当駅から開業せざるを得なかった。これにより、当駅 - 川越町駅(現・川越市駅)間は私設鉄道法、当駅 - 池袋駅間は軽便鉄道法の下で敷設された。そのため、東上本線の起点を示す0キロポストは池袋駅ではなくこの留置線内にある。また、東上鉄道発祥の記念碑も留置線内に設置されている。",
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"text": "当駅が現在の位置に移設されたのは、当時は大山駅との間に金井窪駅があり、駅間距離が400m弱と非常に短かったことと、もはや下板橋 - 大塚辻町間の開業が不可能だと判断されたことが大きな原因である。旧駅の所在地は板橋区であるが、移設先の所在地は豊島区である。",
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"text": "その後、2008年5月20日に駅舎およびホームを現在地(豊島区池袋本町四丁目)から西方のかつて当駅があった電車留置線付近(板橋区板橋二丁目173番地付近、住居表示では板橋二丁目4番)に移転し、駅上に大学病院を開設するなどの周辺地と一体的な高度医療福祉拠点の実現を日本大学と共同で事業化を検討する(メディカル・トラポリス構想)ことを明らかにした。",
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"text": "2009年3月31日より発車メロディの使用を開始した。",
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"text": "東武池袋駅管区傘下の駅長配置駅で、北池袋駅を管理する。",
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"text": "かつて下板橋駅 - 大山駅間には金井窪駅が存在したが、東京大空襲による駅舎の被災に伴い1945年(昭和20年)4月15日に廃止された。",
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] |
下板橋駅(しもいたばしえき)は、東京都豊島区池袋本町四丁目にある東武鉄道東上本線の駅である。駅番号はTJ 03。
|
{{Otheruseslist|東京都豊島区ある東武鉄道の駅|かつて板橋区にあった東京都電車(都電)の同名の停留場|都電志村線#停留場一覧|かつて神奈川県[[足柄下郡]][[大窪村]](現・小田原市)にあった箱根登山鉄道の同名の停留所|箱根登山鉄道小田原市内線#停留所一覧}}
{{駅情報
|社色 = #0f6cc3
|文字色 =
|駅名 = 下板橋駅
|画像 = Shimo-Itabashi Station 20170225.jpg
|画像説明 = 北口駅舎(2017年2月)
|pxl = 300px
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = しもいたばし
|ローマ字 = Shimo-itabashi
|前の駅 = TJ 02 [[北池袋駅|北池袋]]
|駅間A = 0.8
|駅間B = 1.0
|次の駅 = [[大山駅 (東京都)|大山]] TJ 04
|電報略号 = シモ
|駅番号 = {{駅番号r|TJ|03|#004098|1}}
|所属事業者 = [[東武鉄道]]
|所属路線 = {{color|#004098|■}}[[東武東上本線|東上本線]]
|所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[池袋本町]]四丁目43-11
|座標 = {{coord|35|44|44.4|N|139|42|53.5|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
|キロ程 = 2.0
|起点駅 = [[池袋駅|池袋]]
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1914年]]([[大正]]3年)[[5月1日]]
|廃止年月日 =
|乗降人員 = 14,578
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 = 1935年現在地に移設
}}
[[ファイル:Shimo-Itabashi rush-hour entrance 20140419.JPG|thumb|臨時出口(南口)(2014年4月)]]
'''下板橋駅'''(しもいたばしえき)は、[[東京都]][[豊島区]][[池袋本町]]四丁目にある[[東武鉄道]][[東武東上本線|東上本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。駅番号は'''TJ 03'''。
== 歴史 ==
* [[1914年]]([[大正]]3年)[[5月1日]]:開業。
* [[1935年]]([[昭和]]10年)[[3月13日]]:池袋 - [[上板橋駅|上板橋]]間[[複線]]化に伴い現在地に移設。
* [[1945年]](昭和20年)[[4月13日]]:[[東京大空襲]]により全焼。
* [[2022年]](令和3年)[[10月1日]]:「臨時改札口」が「南改札口」に変更され終日利用できるようになる。
== 駅構造 ==
[[ファイル:Shimo-Itabashi Station platform 2 20130331.JPG|thumb|ホーム(2013年3月)]]
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]。北改札口(本駅舎)は2番ホーム大山側にあり、1番ホームとは[[改札|改札口]]そばの[[地下道|地下通路]]と、[[エレベーター]]専用の跨線橋で連絡している。地下通路の途中で南改札口に向かう階段が分岐している。南改札口は従来朝夕ラッシュ時営業の臨時改札口であったが、2022年10月1日より終日営業となっている。
当駅は豊島区に所在する(最北端の駅)が、すぐ西方に[[板橋区]]との境界があり、旧駅舎は板橋区側にあった(後述)。
大山側には[[留置線]](下板橋駅留置線<ref name="RF 624">{{Cite journal|和書|author=祖田圭介 |date=2013-04-01 |title=特集:短絡線ミステリー11(その2)7 東武鉄道(8)下板橋駅留置線 |journal=鉄道ファン2013年4月号 |volume=53 |issue=第4号(通巻624号) |page=17 |publisher=交友社}}</ref>)があり、[[池袋駅]]終着で折り返し[[回送]]となる電車が入庫する<ref name="RF 624" />。この場所は開業時から1935年まで当駅があった場所で、現在地への移設後は貨物を取り扱っていた<ref name="RF 624" />。なお、この留置線は、駅西側と大山方双方に分岐があり、両方向から留置線へ進入することができる<ref name="RF 624" /><ref group="注">留置線全線に進入できるのは駅西側からのみで、大山方の分岐からは本線線路側の二線しか進入できない。これは、この分岐線が、かつてこの地にあった貨物取り扱い基地への進入線路だったため。</ref>。
もともと、東上本線の本来の起点は大塚辻町(現在の[[東京メトロ丸ノ内線]][[新大塚駅]]付近)を予定して[[免許]]を取得していたが、当時の[[東京市]]に阻まれ、当駅から開業せざるを得なかった。これにより、当駅 - 川越町駅(現・[[川越市駅]])間は[[私設鉄道法]]、当駅 - 池袋駅間は[[軽便鉄道法]]の下で敷設された。そのため、東上本線の起点を示す0[[距離標|キロポスト]]は池袋駅ではなくこの留置線内にある。また、東上鉄道発祥の記念碑<!--もかつて同駅にあったが、-どこの駅なのかこれでは不明-->も留置線内に設置されている<ref>『東武沿線の不思議と謎』([[実業之日本社]])p.64 - 66 より。</ref>。
当駅が現在の位置に移設されたのは、当時は大山駅との間に[[金井窪駅]]があり、駅間距離が400[[メートル|m]]弱と非常に短かったことと、もはや下板橋 - 大塚辻町間の開業が不可能だと判断されたことが大きな原因である。旧駅の所在地は板橋区であるが、移設先の所在地は豊島区である。
2006年度と2007年度の東武鉄道の[[設備投資]]計画には当駅の構内改良工事が盛り込まれていたが<ref>{{PDFlink|[http://www.tobu.co.jp/file/584/060530.pdf 平成18年度の投資事業計画・設備投資計画は総額421億円]}}{{リンク切れ|date=2014年2月}} - 東武鉄道ニュースリリース 2006年5月30日<br />(2.輸送改善に「岩槻駅や下板橋駅等の構内改良工事を実施いたします」とある)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.tobu.co.jp/file/810/070515.pdf 設備投資計画は総額420億円]}}{{リンク切れ|date=2014年2月}} - 東武鉄道ニュースリリース 2007年5月15日<br />(2、輸送改善に「曳舟駅や下板橋駅等の構内改良工事を実施いたします」とある)</ref>、実際は留置線の配線変更にとどまっている。
その後、2008年5月20日に駅舎およびホームを現在地(豊島区池袋本町四丁目)から西方のかつて当駅があった電車留置線付近(板橋区[[板橋 (板橋区)|板橋]]二丁目173番地付近、[[住居表示]]では板橋二丁目4番)に移転し、駅上に[[大学病院]]を開設するなどの周辺地と一体的な高度医療福祉拠点の実現を[[日本大学]]と共同で事業化を検討する(メディカル・トラポリス構想)ことを明らかにした<ref>{{PDFlink|[http://www.tobu.co.jp/file/1638/080520.pdf 医療をテーマとした新しい街づくりを東武鉄道・日本大学が検討]}}{{リンク切れ|date=2014年2月}} - 東武鉄道ニュースリリース 2008年5月20日</ref>。
2009年3月31日より[[発車メロディ]]の使用を開始した。
東武池袋駅管区傘下の駅長配置駅で、[[北池袋駅]]を管理する。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web |url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/7202/ |title=下板橋駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上線
|style="text-align:center"|下り
|[[川越駅|川越]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[池袋駅|池袋]]方面
|}
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''14,578人'''である<ref>[https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員)] - 東武鉄道</ref>。
近年の1日平均乗降・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑、豊島区統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_categories/index01001006.html 板橋区の統計] - 板橋区</ref><ref>[http://www.city.toshima.lg.jp/kuse/gaiyo/jinko/toke-02/index.html としまの統計] - 豊島区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1978年(昭和53年)
|17,968
|
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|9,616
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|9,691
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|9,644
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|9,466
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|18,969
|9,066
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|8,850
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|8,422
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|8,340
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|16,543
|8,126
|<ref group="*">[{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|7,861
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|
|7,789
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref>{{Cite web|url=http://www.tobu.co.jp/rail/rail_2_2.html|title=鉄道事業の概要 2.駅一覧|publisher=東武鉄道|accessdate=2020-05-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030820164913/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|archivedate=2003-08-20|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>15,479
|7,715
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|15,397
|7,729
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|15,187
|7,617
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|14,925
|7,479
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|14,836
|7,400
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|14,790
|7,375
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|14,998
|7,481
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|15,160
|7,595
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|15,007
|7,537
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|14,986
|7,542
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|14,776
|7,432
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|15,009
|7,557
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|15,322
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|15,354
|7,735
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|15,728
|7,948
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|15,800
|8,000
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|16,044
|8,129
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|16,320
|8,268
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|16,554
|8,391
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|12,837
|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|13,560
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|14,578
|
|
|}
== 駅周辺 ==
{{See also|池袋本町|板橋 (板橋区)}}
<!--チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店などは記載しない-->
* [[板橋駅]](徒歩約10分)
* [[新板橋駅]](徒歩約10分)
* [[東京都立北園高等学校]]
* 池袋本町三郵便局
* [[池袋本町電車の見える公園]]
* [[東武百貨店]]下板橋商品センター
== 隣の駅 ==
<!-- 種別色は公式サイトに準拠(「普通」は方向幕に合わせて色を反転している)-->
; 東武鉄道
: [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上本線
:: {{Color|#ff6600|■}}TJライナー・{{Color|#990066|■}}川越特急・{{Color|#006699|■}}快速急行・{{Color|#ff3333|■}}急行・{{Color|#009966|■}}準急
:::; 通過
:: {{Color|black|□}}普通
::: [[北池袋駅]] (TJ 02) - '''下板橋駅 (TJ 03)''' - [[大山駅 (東京都)|大山駅]] (TJ 04)
かつて下板橋駅 - 大山駅間には[[金井窪駅]]が存在したが、[[東京大空襲]]による駅舎の被災に伴い1945年(昭和20年)4月15日に廃止された<ref>[http://www008.upp.so-net.ne.jp/tojo/konjaku-13.html 東上沿線今昔物語・東上沿線車窓風景移り変わり第13号](当時の航空写真)</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 記事本文 ===
{{Reflist}}
=== 利用状況 ===
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=7202}}
{{Commonscat|Shimo-Itabashi Station}}
{{東武東上線}}
{{DEFAULTSORT:しもいたはし}}
[[Category:豊島区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 し|もいたはし]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東上鉄道]]
[[Category:池袋]]
[[Category:1914年開業の鉄道駅]]
|
2003-08-17T01:00:21Z
|
2023-12-12T10:21:00Z
| false | false | false |
[
"Template:0",
"Template:See also",
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"Template:Otheruseslist",
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"Template:東武東上線",
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:外部リンク/東武鉄道駅",
"Template:PDFlink"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%BF%E6%A9%8B%E9%A7%85
|
13,366 |
カーブル
|
カブール(ペルシア語: كابل, ラテン文字転写: Kabul)は、アフガニスタン東部中央に位置する同国の首都。カブール州の州都でもある。人口は国内最大の約460万人(2021年推計)。
日本語表記においては一般に称されることが多い「カブール」や、原語の発音に近い「カーブル」など表記が混在している。
ヒンドゥークシュ山脈南部の山岳地帯にある盆地に位置する。標高約1800メートルは大都市の立地としては異例の高さである。街を流れるカーブル川はインダス川の支流である。約180km東方にはパキスタンとの国境となっているカイバー峠がある。
3000年以上の歴史を持ち、古くから異なる民族が交流する場であったため、"文明の十字路"と言われた。カトマンズと並び、ヒッピーの聖地と呼ばれていた時期もある。現在、数十年続いた戦災からの復興の途上にある。
アフガニスタンの文化的・経済的中心地で国内最大の都市である。1931年に開学した同国の最高学府である国立カブール大学が立地する。商業が非常に活発であるほか、皮革・家具・ガラス工業、テンサイ糖の生産なども行われる。アフガニスタン国内を一周する環状の高速道路でガズニー、カンダハール、ヘラート、マザーリシャリーフと結ばれている。
現地の公用語であるパシュトー語や、ダリー語(アフガン・ペルシア語)や使用される表記体系であるパシュトー文字(英語版)ないしペルシア文字では、"كابل" と綴る。ラテン文字への転写はパシュトー語がKâbəl、ダリー語がKābolとなる。
日本においては、外務省をはじめとした政府機関および新聞・テレビなどのメディアが兼ねてより「カブール」表記を使用してきている。ただ近年では現地の発音に近い「カーブル」表記も、一般に近いレベルで使われるようになってきている。この他には「カブル」などの表記も確認できる。
この呼称の由来について、中央アジア史研究者の稲葉穣は、19世紀初頭、オランダ語の段階ですでに「カブール」という発音が成立していて、それが日本に取り入れられた可能性に言及している。また、ある専門家は、報道関係者が「カーブル」を「カブール」と聞き違えたことにより、新聞協会の用語委員会が「カブール」を標準表記としたことで定着したとしている。
カーブルは高い山脈に囲まれた広い盆地の中央に位置している。カーブルを中心とするこの地域には「カーブリスターン」という名称がある。カーブリスターンは南北と東西、それぞれを結ぶ交易路の交差点であるため、非常に古い時代から人の集住する町があった。『リグヴェーダ』(紀元前15世紀頃成書)には Kubha という名前の町への言及があり、プトレマイオスの地理書(紀元後2世紀)には Kabura という町の名前が記載されている。
また、中国の文献には、後漢に成立した『漢書』「西域伝」(紀元後1世紀末)には、大月氏に服属する5つの有力な勢力の一つとして「高附城」を根拠とする「高附翖侯」がいたと記録されている。三国時代(3世紀半ば)に成立した『魏略』「西戎伝」でも、同様に大月氏に服属する国の一つとして「高附国」が記録されている。一方、南北朝時代に成立した『後漢書』「西域伝」(5世紀半ば)ではやや異なり、大月氏から自立した貴霜(クシャーナ朝)が高附を占領したと記述する一方、『漢書』の「高附翖侯」は「都密翖侯」に書き換えられている。
「高附」の場所は諸説あるが、カーブルへの比定が有力説である。しかしカーブル川沿岸の別の集落や、カーピシーなどへの比定説もある。
後述するバーブルの登場以前のカーブルの前身となる町は小さな町にすぎない。
ムスリム支配以前のカーブル盆地、カーブリスターンの政治状況については、法顕(5世紀)や玄奘三蔵(7世紀)といった仏僧が残した漢籍史料や、征服前に当地を商売で訪れたアラブ商人の報告がいくつかの情報をもたらしている。遅くとも7世紀前半の支配層は、夏をカーブル盆地で過ごし冬をパンジャーブで過ごす移動型の生活を営んでいた。アラビア語史料は彼らを「トゥルク」と呼び、彼らはヒンドゥー化したトルコ系遊牧民(トゥルクシャーヒー)であったと考えられるが、エフタル系民族の可能性もある。彼らには「ズンビール」という称号を持つ王がおり、おそらくは太陽を崇拝する宗教を信じていた。
7世紀中ごろ(653-654年)、アラブ=ムスリムの大征服の波はカーブリスターンにも達し、スィースターン方面軍の将軍アブドゥッラフマーン・ブン・サムラ(カタルーニャ語版、アラビア語版)が派遣した一部隊は、ズンビールらを破ってカーブルの町を一時的に占領した。その後、約200年間にわたりズンビールたちは、カーブリスターンを征服しようと遠征を繰り返すムスリムの諸勢力に抵抗したが、最終的には9世紀末ごろ、サッファール朝により駆逐された。カーブルの町はこの200年余りの間繰り返された小競り合いの結果、破壊された。
サッファール朝以後、カーブルの支配者はサーマーン朝→ガズナ朝→ゴール朝→ホラズムシャー朝と遷移するがいずれにおいてもカーブルの都市化は進まず、官衙の類が設置されることすらもなかった。中央ユーラシアから豊かなインドへと抜ける道のチョークポイントに近い場所であるため、いざインドへ攻め込む際には各地方の軍勢がここで落ち合った。例えば、アブル・ファドル・バイハキー(英語版)の歴史書(英語版)には、1031年にガズナ朝スルターン・マスウード(アラビア語版)がカーブルで1670頭の戦象部隊を閲兵したという記事がある。しかし、そのようなイベントのない平時はムスリム軍人が少数駐屯していただけの場所であり、カーブル周辺の諸郡や山岳は非イスラーム教徒が自ら治めていた。
チンギス・ハーンからティムールへと続くモンゴルの時代においてもこうした状況に大きな変化はなく、13世紀にデリーのスルターンが自立を宣言したときですらも、そのことによりカーブルの戦略的重要性が増すということはなかった。しかし、16世紀前半にザヒールッディーン・バーブルがカーブルを自身の版図の首府として以来、この町の戦略的重要性は強く意識されるようになった。
ムガル帝国とサファヴィー朝との争奪を経て1738年にアフシャール朝のナーディル・シャーによって征服され、その死後、パシュトゥーン人(アフガン人)がアフガニスタンの起源となるドゥッラーニー朝1839年と1879年に、2度のアフガン戦争で2度とも一時イギリス軍の占領下に置かれる。
イギリスからの独立後、1939年9月に起きた第二次世界大戦では、ザーヒル・シャーの統治下で、英領インドとソ連、中華民国に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家の首都として、日本やドイツ、イタリアや満洲国などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる連合国の、どちらにもつかない中立国として1945年9月の終戦まで平和を維持していた。
その後も立憲君主制の国家の首都として近代化が進み、ザーヒル・シャーが革命で追放される1973年まで中央アジアの中心的都市として、繁栄と平和を保っていた。
1979年、ソ連のアフガニスタン侵攻が始まると、12月23日にソ連軍によって占領され、1988年に撤退するまでその司令部が置かれてムジャーヒディーンのゲリラとの激しい攻防の中心となった。
1992年にナジーブッラーの共産主義政権が崩壊すると、カーブルはムジャーヒディーンの手に落ちたが、ムジャーヒディーン各派の紛争によって甚大な被害を受けた。同年12月、かつては市内に86台走っていたトロリーバスはすべて運行停止を余儀なくされた。1993年までに、市内の電気系統と上下水道は完全に機能を停止した。当時、ラッバーニーが率いるイスラム協会(英語版)(タジク人中心)が市内を掌握していたが、有名無実の首相ヘクマティヤール率いるイスラム党(英語版) (HIG) が市街を1996年まで3年間にわたり包囲した。市内では、イスラム協会、ドスタム将軍派のイスラム民族運動(ウズベク人勢力)、イスラム統一党(ハザーラ人系)の間で戦闘が続き、数万人の民間人が犠牲になるとともに、大量の難民が発生した。
1996年にカーブルはターリバーンに陥落し、ナジーブッラーは公開処刑された。ターリバーンのカーブル占拠の間は、カーブルを巡る紛争はすべて止んだ。ラッバーニー、ヘクマティヤール、ドスタム、マスードらはカーブルから撤退した。
ターリバーン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)期も引き続き首都はカーブルとされ、省庁も同市内に置かれたが、政治の中心は南部のカンダハールだった。同地はアフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人の都市で、パシュトゥーン人主体のターリバーンにとっては本拠地だった。ターリバーンの指導者はパシュトゥーン人以外にもタジク人、ウズベク人、ハザーラ人など多民族が共存する大都市カーブルの風土に馴染まず、本拠地カンダハールに住み続け、同地からカーブルの省庁に指令を下すといった首都機能の逆転現象が見られた。
約5年後、2001年10月にアメリカがアフガニスタンに侵攻した。米軍による激しい空爆によって、同年11月21日ターリバーンはカーブルを放棄し、北部同盟が代わってカーブルを支配下に治めた。ターリバーン政権期に政治の中心としての機能を失っていたカーブルは首都機能を回復し、12月20日にはカーブルにアフガニスタン暫定行政機構の本部が置かれた。
カルザイ大統領の率いる政権(アフガニスタン・イスラム共和国)が制定した憲法で首都がカーブルに指定され、再度首都としてアフガニスタンの中心都市となった。
2021年、アメリカ軍の撤退が本格化すると、ターリバーンはターリバーン攻勢によりカーブルにも迫る動きを見せた。同年、8月15日にはアメリカ大使館がヘリコプターを使い撤収を始めると、カナダ、ドイツなども大使館の閉鎖を行った。
2021年8月15日にカーブル市内をターリバーンが制圧。市内にあった各国大使館などの多くは閉鎖され、大使館員らは国外に退去した。また、大使館の通訳などの現地協力者らも、迫害を恐れてカーブル国際空港へ殺到した。空港及び周辺はアメリカ兵が増備され厳しい警戒が行われたが、8月26日には自爆テロが発生してアメリカ兵を含む170人以上が死亡するなど混乱は続いた。自爆テロは、イスラム国の分派であるISIL-Kが犯行声明を出した。
ターリバーンは全ての勢力に恩赦を約束したが、市内の家々を組織的に捜索が行われ、住民構成や職業などが調べあげられた。
2021年9月、市長にモラビ・ハムドラ・ノマニが就任。市役所の女性職員(全職員の約27%)の勤務を基本的に停止し、男性が代行できないか、男性にふさわしくない職務のみ勤務続行を認めることを発表した。
2022年8月、バイデン大統領 バイデン大統領はホワイトハウスで行われた演説で、アルカーイダの指導者であるアイマン・ザワヒリをカーブルで殺害したと発表した。潜伏先の住宅のバルコニーにいたところを無人機のミサイル攻撃で襲撃、殺害したという。
2022年9月にはロシア大使館、12月にはパキスタン大使館が武装勢力による攻撃を受け、いずれもISIL-Kが犯行声明を出した。さらに12月12日には市内のホテルが襲撃を受け、3人以上が死亡した。
内陸部にあり標高が高いため寒暖の差が大きい。夏は乾燥し、降水量のほとんどは冬に集中する。ケッペンの気候区分ではステップ気候(BSk)に属する。
人口は4,601,789人(2021年の公式推計)。2021年6月時点の都市的地域の人口では約506万人であり、世界の第90位、同国では第1位である。 ペルシア語系住民が市内人口の多数を占め、スンナ派のタジク人が最大のグループで、シーア派のハザーラ人とタジク人がそれに続く。ペルシア語化したパシュトゥーン人の住民も多い。少数派では、パシュトー語系のスンナ派住民がもっとも多く、テュルク系のウズベク人が続く。他にインド語派方言を話すヒンドゥー教徒とシク教徒も相当数が居住している。
人口増加が著しく、2025年に718万人、2050年に1709万人、2075年に3267万人、2100年の人口予測では5030万人を数える世界10位の超巨大都市となる予測が出ている。
カーブル国際空港がカーブル市民の長距離移動の玄関口となっている。同空港は、アフガニスタンの国営航空であるアリアナ・アフガン航空のハブ空港であるだけでなく、多くの外国の航空会社にも利用されている。2008年には3,500万ドルの費用を掛けた新ターミナルが完成している。
カーブルには公営のバス会社 (Millie Bus) も運営されており、市内の多くの路線がある。2007年現在、約200台のバスが稼働しているが、さらに増便される予定である。かつてカーブルを走行していた、近代的なトロリーバスを再導入する計画も検討中である。バスに加えて、タクシーも市内のどこでも利用することができる。
自家用車の利用もカーブルでは増えつつあり、トヨタ、ランドローバー、BMW、ヒュンダイなどの代理販売店が市内中に見られる。一般道路や高速道路の整備が進むに連れて、自家用車を購入する人が増えている。カーブル市内でもっとも普通に見られるのはトヨタのカローラである。バイクを除いて、カーブル市内のほとんど全ての交通機関は軽油を利用している。
GSM/GPRS携帯電話サービスが、Afghan Wireless、Roshan、Areebaの3社によって提供されており、携帯電話の利用が飛躍的に伸びている。2006年6月、アラブ首長国連邦の通信会社Etislatは、アフガニスタン国内での営業免許を政府から取得したことを発表し、全国規模の携帯電話ネットワークの構築の意志を明らかにした。
同年11月に、アフガニスタン通信省と中華人民共和国の通信機器メーカー中興通訊は、6,450万ドルで全国に光ファイバーネットワークを構築する契約を交わした。これによって、カーブル市内だけでなく全国で、電話、インターネット、テレビやラジオ放送の通信状態が向上することが見込まれる。2009年現在、アフガニスタンのテレビ放送局は6社ある。
2010年1月時点で、アフガニスタン国際銀行(INGグループによって運営されている)、カーブル銀行、ウエスタンユニオンなど、カーブル市内には14の銀行がある。 2005年には、4つ星クラスの高級ホテルが6階の最上階に入った屋内式のショッピング・モール、カーブル・シティ・センターがオープンした。5つ星の高級ホテル、セレナホテルは2005年にオープンし、ハイアットリージェンシーホテルは2007年なかばにオープン。1969年に開業し、長年カーブルのランドマークであるインターコンチネンタルホテル (カーブル)も、改装されて営業中である。
また、カーブル川南岸とJade Meyward通りに囲まれたカーブル旧市街は、内戦で破壊された建造物に混じって数多くの古いモスクが存在し、また、活発な商業活動が行われている地域であるが、更なる発展のために、20-25年の長期かつ大規模な商業的、歴史的、文化的再開発事業計画 (City of Light Development) が、現在、カルザイ大統領と政府の支援を得た民間資本 (ARCADD) によって進められている。
カーブルから約6.4km(4マイル)離れた郊外、バグラミ地区に、近代的な設備を備えた89,000m(22エーカー)の工業団地が完成し、近い将来、新たなビジネスセンターになると思われる。 2006年9月には、2,500万ドルの費用を掛けたコカ・コーラの工場がオープンした。
カーブルの旧市街には、細い曲がりくねった小路沿いに多くのバザールがひしめいている。その他の見所には、カーブル国立博物館(アフガニスタン国立博物館(英語版))、ダルラマン宮殿(アマーヌッラー・ハーンの王宮)、バーブル廟、戦勝記念塔、カーブル動物園などがある。
アフガニスタンがイギリスから独立して3年後の1922年、首都カーブルに設立される。収蔵品は王族の収集したコレクションを母体とし、アフガニスタンの遺跡から発掘したものも多く、7世紀以前のものだけでも10万点ほどあったという。1989年にソ連軍が撤退後に治安が悪化、当時の館長の指示を受けて特に貴重な収蔵品は大統領府にある中央銀行の地下金庫に運び込まれた。それらは無事だったものの博物館全体としては大きな被害を受け、4万点近い収蔵品が盗み出されたことが判明している。
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"text": "2021年9月、市長にモラビ・ハムドラ・ノマニが就任。市役所の女性職員(全職員の約27%)の勤務を基本的に停止し、男性が代行できないか、男性にふさわしくない職務のみ勤務続行を認めることを発表した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2022年8月、バイデン大統領 バイデン大統領はホワイトハウスで行われた演説で、アルカーイダの指導者であるアイマン・ザワヒリをカーブルで殺害したと発表した。潜伏先の住宅のバルコニーにいたところを無人機のミサイル攻撃で襲撃、殺害したという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2022年9月にはロシア大使館、12月にはパキスタン大使館が武装勢力による攻撃を受け、いずれもISIL-Kが犯行声明を出した。さらに12月12日には市内のホテルが襲撃を受け、3人以上が死亡した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "内陸部にあり標高が高いため寒暖の差が大きい。夏は乾燥し、降水量のほとんどは冬に集中する。ケッペンの気候区分ではステップ気候(BSk)に属する。",
"title": "気候"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "人口は4,601,789人(2021年の公式推計)。2021年6月時点の都市的地域の人口では約506万人であり、世界の第90位、同国では第1位である。 ペルシア語系住民が市内人口の多数を占め、スンナ派のタジク人が最大のグループで、シーア派のハザーラ人とタジク人がそれに続く。ペルシア語化したパシュトゥーン人の住民も多い。少数派では、パシュトー語系のスンナ派住民がもっとも多く、テュルク系のウズベク人が続く。他にインド語派方言を話すヒンドゥー教徒とシク教徒も相当数が居住している。",
"title": "人口動態"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "人口増加が著しく、2025年に718万人、2050年に1709万人、2075年に3267万人、2100年の人口予測では5030万人を数える世界10位の超巨大都市となる予測が出ている。",
"title": "人口動態"
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{
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"text": "カーブル国際空港がカーブル市民の長距離移動の玄関口となっている。同空港は、アフガニスタンの国営航空であるアリアナ・アフガン航空のハブ空港であるだけでなく、多くの外国の航空会社にも利用されている。2008年には3,500万ドルの費用を掛けた新ターミナルが完成している。",
"title": "インフラ"
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"text": "カーブルには公営のバス会社 (Millie Bus) も運営されており、市内の多くの路線がある。2007年現在、約200台のバスが稼働しているが、さらに増便される予定である。かつてカーブルを走行していた、近代的なトロリーバスを再導入する計画も検討中である。バスに加えて、タクシーも市内のどこでも利用することができる。",
"title": "インフラ"
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"text": "自家用車の利用もカーブルでは増えつつあり、トヨタ、ランドローバー、BMW、ヒュンダイなどの代理販売店が市内中に見られる。一般道路や高速道路の整備が進むに連れて、自家用車を購入する人が増えている。カーブル市内でもっとも普通に見られるのはトヨタのカローラである。バイクを除いて、カーブル市内のほとんど全ての交通機関は軽油を利用している。",
"title": "インフラ"
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"text": "GSM/GPRS携帯電話サービスが、Afghan Wireless、Roshan、Areebaの3社によって提供されており、携帯電話の利用が飛躍的に伸びている。2006年6月、アラブ首長国連邦の通信会社Etislatは、アフガニスタン国内での営業免許を政府から取得したことを発表し、全国規模の携帯電話ネットワークの構築の意志を明らかにした。",
"title": "インフラ"
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"text": "同年11月に、アフガニスタン通信省と中華人民共和国の通信機器メーカー中興通訊は、6,450万ドルで全国に光ファイバーネットワークを構築する契約を交わした。これによって、カーブル市内だけでなく全国で、電話、インターネット、テレビやラジオ放送の通信状態が向上することが見込まれる。2009年現在、アフガニスタンのテレビ放送局は6社ある。",
"title": "インフラ"
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{
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"text": "2010年1月時点で、アフガニスタン国際銀行(INGグループによって運営されている)、カーブル銀行、ウエスタンユニオンなど、カーブル市内には14の銀行がある。 2005年には、4つ星クラスの高級ホテルが6階の最上階に入った屋内式のショッピング・モール、カーブル・シティ・センターがオープンした。5つ星の高級ホテル、セレナホテルは2005年にオープンし、ハイアットリージェンシーホテルは2007年なかばにオープン。1969年に開業し、長年カーブルのランドマークであるインターコンチネンタルホテル (カーブル)も、改装されて営業中である。",
"title": "インフラ"
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"text": "また、カーブル川南岸とJade Meyward通りに囲まれたカーブル旧市街は、内戦で破壊された建造物に混じって数多くの古いモスクが存在し、また、活発な商業活動が行われている地域であるが、更なる発展のために、20-25年の長期かつ大規模な商業的、歴史的、文化的再開発事業計画 (City of Light Development) が、現在、カルザイ大統領と政府の支援を得た民間資本 (ARCADD) によって進められている。",
"title": "インフラ"
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"text": "カーブルから約6.4km(4マイル)離れた郊外、バグラミ地区に、近代的な設備を備えた89,000m(22エーカー)の工業団地が完成し、近い将来、新たなビジネスセンターになると思われる。 2006年9月には、2,500万ドルの費用を掛けたコカ・コーラの工場がオープンした。",
"title": "インフラ"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "カーブルの旧市街には、細い曲がりくねった小路沿いに多くのバザールがひしめいている。その他の見所には、カーブル国立博物館(アフガニスタン国立博物館(英語版))、ダルラマン宮殿(アマーヌッラー・ハーンの王宮)、バーブル廟、戦勝記念塔、カーブル動物園などがある。",
"title": "名所"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "アフガニスタンがイギリスから独立して3年後の1922年、首都カーブルに設立される。収蔵品は王族の収集したコレクションを母体とし、アフガニスタンの遺跡から発掘したものも多く、7世紀以前のものだけでも10万点ほどあったという。1989年にソ連軍が撤退後に治安が悪化、当時の館長の指示を受けて特に貴重な収蔵品は大統領府にある中央銀行の地下金庫に運び込まれた。それらは無事だったものの博物館全体としては大きな被害を受け、4万点近い収蔵品が盗み出されたことが判明している。",
"title": "名所"
}
] |
カブールは、アフガニスタン東部中央に位置する同国の首都。カブール州の州都でもある。人口は国内最大の約460万人(2021年推計)。 日本語表記においては一般に称されることが多い「カブール」や、原語の発音に近い「カーブル」など表記が混在している。 ヒンドゥークシュ山脈南部の山岳地帯にある盆地に位置する。標高約1800メートルは大都市の立地としては異例の高さである。街を流れるカーブル川はインダス川の支流である。約180km東方にはパキスタンとの国境となっているカイバー峠がある。 3000年以上の歴史を持ち、古くから異なる民族が交流する場であったため、"文明の十字路"と言われた。カトマンズと並び、ヒッピーの聖地と呼ばれていた時期もある。現在、数十年続いた戦災からの復興の途上にある。 アフガニスタンの文化的・経済的中心地で国内最大の都市である。1931年に開学した同国の最高学府である国立カブール大学が立地する。商業が非常に活発であるほか、皮革・家具・ガラス工業、テンサイ糖の生産なども行われる。アフガニスタン国内を一周する環状の高速道路でガズニー、カンダハール、ヘラート、マザーリシャリーフと結ばれている。
|
{{Otheruses|アフガニスタンの都市「'''カブール'''」|同国の同名州|カーブル州}}{{redirect|カブール|[[イタリア王国]]の初代首相|カミッロ・カヴール|その他のカブール|カヴール}}
{{出典の明記|date=2014年3月}}{{世界の市
|正式名称=カブール
|公用語名称={{lang|fa|كابل}}<br/>Kabul<br/>{{flagicon|Afghanistan}}
|愛称=
|画像=Kabul, Afghanistan view.jpg
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|画像の見出し=
|市旗=
|市章=
|位置図=CIA map of Afghanistan in 2007.gif
|位置図サイズ指定=
|位置図の見出し=
|位置図B = {{Location map|Afghanistan#Asia Southwest|relief=1|float=center|label=カブル }}
|位置図2B = {{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point}}
|緯度度=34 |緯度分=31 |緯度秒=59 |N(北緯)及びS(南緯)=N
|経度度=69 |経度分=9 |経度秒=58 |E(東経)及びW(西経)=E
|成立区分=
|成立日=
|下位区分名={{AFG}}
|下位区分種類1=[[アフガニスタンの州|州]]
|下位区分名1=[[カブール州]]
|下位区分種類2=[[アフガニスタンの地区|地区]]
|下位区分名2= {{仮リンク|カーブル地区|en|Kabul District}}
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|最高行政執行者名= {{仮リンク|ハムドラ・ノマーニ|en|Hamdullah Nomani}}
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|市街地面積(平方キロ)=
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|人口の時点=2021年4月
|人口に関する備考=
|総人口=4,601,789
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|都市圏人口密度(平方キロ)=
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|等時帯= [[アフガニスタン標準時]]
|協定世界時との時差=+4:30
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|夏時間の協定世界時との時差=
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|備考=
}}{{表記揺れ案内|text=この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。詳細は[[カブール#日本語表記|#日本語表記]]を''参照''。|表記1=カブル|表記2=カブール|議論ページ=<!--[[Wikipedia:表記ガイド#地名|ウィキペディアにおける地名表記ガイド]]-->|font-size=medium
}}
'''カブール'''({{rtl翻字併記|fa|كابل|Kabul}})は、[[アフガニスタン]]東部中央に位置する同国の[[首都]]。[[カブール州]]の[[州都]]でもある。人口は国内最大の約460万人(2021年推計)<ref name="nsia">{{cite web|url=https://www.nsia.gov.af:8080/wp-content/uploads/2021/06/Estimated-Population-of-Afghanistan1-1400.pdf|title=Estimated Population of Afghanistan 2021-22|author=<!--Not stated-->|date=April 2021|website=|publisher=National Statistic and Information Authority (NSIA)|archive-date=June 24, 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210624204559/https://www.nsia.gov.af:8080/wp-content/uploads/2021/06/Estimated-Population-of-Afghanistan1-1400.pdf|url-status=live|access-date=June 21, 2021|quote=}}</ref>。
日本語表記においては一般に称されることが多い「'''カブール'''」や<ref>https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/59_08_01.pdf</ref>、原語の発音に近い「'''カーブル'''」など表記が混在している<ref name=":2">https://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-373/140553/file/72ronsetu.pdf</ref><ref>{{Cite web|和書|title=カブール(アフガニスタン)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AB%28%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%29-1518597|website=コトバンク|accessdate=2021-08-27|language=ja|last=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref><ref name=":1">[https://www.maff.go.jp/j/council/seisaku/nousin/seibibukai/kokusai_syoiinkai/h16-2/pdf/h16-2_report.pdf 平成16年度第2回国際小委員会議事録] 食料・農業・農村政策審議会 農村振興分科会 農業農村整備部会、2005年1月26日、ページ24/30-25/30、高橋小委員長発言</ref>。
[[ヒンドゥークシュ山脈]]南部の山岳地帯にある盆地に位置する。標高約1800メートルは大都市の立地としては異例の高さである{{r|Adamec2012}}{{rp|231}}。街を流れる[[カーブル川]]は[[インダス川]]の支流である。約180km東方には[[パキスタン]]との国境となっている[[カイバル峠|カイバー峠]]がある。
3000年以上の歴史を持ち、古くから異なる民族が交流する場であったため、"文明の十字路"と言われた。[[カトマンズ]]と並び、[[ヒッピー]]の聖地と呼ばれていた時期もある。現在、数十年続いた戦災からの復興の途上にある。
アフガニスタンの文化的・経済的中心地で国内最大の都市である。[[1931年]]に開学した同国の最高学府である国立[[カブール大学]]が立地する。商業が非常に活発であるほか、[[皮革]]・[[家具]]・[[ガラス]]工業、[[テンサイ]]糖の生産なども行われる。アフガニスタン国内を一周する環状の高速道路で[[ガズニー]]、[[カンダハール]]、[[ヘラート]]、[[マザーリシャリーフ]]と結ばれている。
== 呼称と表記 ==
現地の公用語である[[パシュトー語]]や、[[ダリー語]](アフガン・ペルシア語)や使用される表記体系である{{仮リンク|パシュトー文字|en|Pashto alphabet}}ないし[[ペルシア文字]]では、"{{rtl-lang|fa-AFG|كابل}}" と綴る。ラテン文字への転写はパシュトー語が''{{transl|ps|Kâbəl}}''、ダリー語が''{{transl|fa|Kābol}}''となる<ref name="Kabul-Iranica">{{cite web|url=http://www.iranicaonline.org/articles/kabul-index|title=KABUL - Encyclopaedia Iranica|publisher=イラン大百科事典|accessdate=2016-05-31}}</ref><ref name="AFGvLang-Iranica">{{cite web|url=http://www.iranicaonline.org/articles/afghanistan-v-languages|title=AFGHANISTAN v. Languages - Encyclopaedia Iranica|publisher=イラン大百科事典|accessdate=2016-05-31}}</ref>。
*{{lang-ps|کابل}} ''{{transl|ps|Kâbəl}}'', {{IPA-ps|kɑˈbəl|IPA}},日本語表記転写:カブル,カブール
*{{lang-prs|کابل}} ''{{transl|fa|Kābol}}'', {{IPA-fa|kɒːˈbol|IPA}},日本語表記転写:カーボル,カーボール
*{{lang-en|Kabul}}, ipa: {{ipa|ˈkɑːbəl, ˈkɑːbuːl}}<ref>See [http://www.nationalreview.com/nordlinger/nordlinger112002.asp National Review, November 20, 2002], [http://www.merriam-webster.com/dictionary/kabul Merriam-Webster: Kabul]</ref><ref>{{Cite web |url= http://dictionary.reference.com/browse/kabul |title=Kabul |publisher=dictionary.reference.com |accessdate=2014-03-23 }}</ref>,日本語表記転写:カーブル,カーブール
=== 日本語表記 ===
日本においては、[[外務省]]をはじめとした政府機関および新聞・テレビなどのメディアが兼ねてより「'''カブール'''」表記を使用してきている<ref name=":0">稲葉穣『[http://oldwww.zinbun.kyoto-u.ac.jp/shoho/sh49/kyodo2.html 「カーブル」と「カブール」]』、京都大学人文科学研究所. 2021年8月26日閲覧</ref><ref>『記者ハンドブック 第11版』共同通信社、2009年8月第11版第3刷、p.705</ref>。ただ近年では現地の発音に近い「'''カーブル'''」表記も、一般に近いレベルで使われるようになってきている<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|title=TODAY'S NEWS23|url=https://web.archive.org/web/20040226235157/http://www.tbs.co.jp/news23/taji/s11119.html|website=web.archive.org|date=2004-02-26|accessdate=2021-09-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=カブール(アフガニスタン)とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AB%28%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%29-1518597 |website=コトバンク |accessdate=2022-03-02 |language=ja |last=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。この他には「'''カブル'''」などの表記も確認できる<ref>{{Cite journal|last=ハビビ・セイド・ムスタファ|last2=尋子|first2=小野|date=2019|title=急激に市街化するカブル旧市街地における適用可能なアフガニスタン型土地区画整理事業の事例研究|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/84/756/84_407/_article/-char/ja/|journal=日本建築学会計画系論文集|volume=84|issue=756|pages=407–414|doi=10.3130/aija.84.407}}</ref><ref>https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/568/007568_hanrei.pdf</ref><ref>http://slnr.umin.jp/newsletter/no23.pdf</ref>。
この呼称の由来について、中央アジア史研究者の稲葉穣<ref group="注">[https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000060201935/ 稲葉 穣 Inaba Minoru] KAKEN、研究者をさがす</ref>は、19世紀初頭、オランダ語の段階ですでに「カブール」という発音が成立していて、それが日本に取り入れられた可能性に言及している<ref>{{Cite journal|和書|title=共同研究の話題 |journal=人文 |volume=54 |pages=35-39 |date=2007-06 |publisher=京都大学人文科学研究所 |url=https://hdl.handle.net/2433/50627}}</ref>。また、ある専門家は、報道関係者が「カーブル」を「カブール」と聞き違えたことにより、新聞協会の用語委員会が「カブール」を標準表記としたことで定着したとしている<ref name="河出1999p78">{{cite journal|和書|title=地名・人名の書き方—間違い探し|journal=暮らしがわかるアジア読本—イラン|author=[[上岡弘二]]|author2=[[吉枝聡子]]|pages=78-79|date=1999-09 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4-309-72467-6}}</ref>。
== 歴史 ==
===紀元前~紀元後4世紀===
カーブルは高い山脈に囲まれた広い[[盆地]]の中央に位置している{{r|Adamec2012}}{{rp|231}}。カーブルを中心とするこの地域には「[[カーブリスターン]]」という名称がある<ref name="IE2_Kābulistān">{{cite encyclopedia|last=Bosworth |first=C.E. |title=Kābulistān |encyclopedia=Encyclopaedia of Islam, Second Edition, |others=Edited by: P. Bearman, Th. Bianquis, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs. |doi=10.1163/1573-3912_islam_SIM_3748 |date=2012 |ISBN=9789004161214 }}</ref>。カーブリスターンは南北と東西、それぞれを結ぶ交易路の交差点であるため、非常に古い時代から人の集住する町があった{{r|Adamec2012}}{{rp|231}}。『[[リグヴェーダ]]』(紀元前15世紀頃成書)には ''Kubha'' という名前の町への言及があり、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の[[地理学 (プトレマイオス)|地理書]](紀元後2世紀)には ''Kabura'' という町の名前が記載されている{{r|Adamec2012}}{{rp|231}}。
また、[[中国]]の文献には、[[後漢]]に成立した『[[漢書]]』「西域伝」(紀元後1世紀末)には、[[月氏#大月氏|大月氏]]に服属する5つの有力な勢力の一つとして「'''高附'''城」を根拠とする「高附翖侯」がいたと記録されている。[[三国時代 (中国)|三国時代]](3世紀半ば)に成立した『[[魏略]]』「西戎伝」でも、同様に[[月氏#クシャーナ朝|大月氏]]に服属する国の一つとして「高附国」が記録されている。一方、[[南北朝時代_(中国)|南北朝時代]]に成立した『[[後漢書]]』「西域伝」(5世紀半ば)ではやや異なり、大月氏から自立した貴霜([[クシャーナ朝]])が高附を占領したと記述する一方、『漢書』の「高附翖侯」は「都密翖侯」に書き換えられている。
「高附」の場所は諸説あるが、カーブルへの比定が有力説である。しかしカーブル川沿岸の別の集落や、[[カーピシー]]などへの比定説もある<ref>{{Cite journal|和書 |author=稻葉穰 |date=2013-12 |title=前近代のカーブル : 東部アフガニスタンにおける大都市の變遷 |journal=東方学報 |ISSN=0304-2448 |publisher=京都大學人文科學研究所 |volume=88 |pages=402-359 |naid=120005367781 |doi=10.14989/180563 |url=https://hdl.handle.net/2433/180563 |accessdate=2022-04-01}}</ref>。
後述する[[バーブル]]の登場以前のカーブルの前身となる町は小さな町にすぎない{{r|DePlanhol2012}}。
===5世紀-7世紀===
ムスリム支配以前のカーブル盆地、カーブリスターンの政治状況については、[[法顕]](5世紀)や[[玄奘三蔵]](7世紀)といった仏僧が残した漢籍史料や、征服前に当地を商売で訪れたアラブ商人の報告がいくつかの情報をもたらしている<ref name="DePlanhol2012">{{cite encyclopedia|first=Xavier de |last=Planhol |title=KABUL ii. HISTORICAL GEOGRAPHY |encyclopedia=Encyclopaedia Iranica |volume=XV |number=3 |pages=282-303 |url=http://www.iranicaonline.org/articles/kabul-ii-historical-geography |date=30 December 2012 |accessdate=2019-05-07 }}</ref>。遅くとも7世紀前半の支配層は、夏をカーブル盆地で過ごし冬を[[パンジャーブ]]で過ごす移動型の生活を営んでいた{{r|DePlanhol2012}}。アラビア語史料は彼らを「[[チュルク|トゥルク]]」と呼び{{r|Takano1996}}、彼らはヒンドゥー化したトルコ系遊牧民(トゥルクシャーヒー)であったと考えられるが{{r|DePlanhol2012}}、[[エフタル]]系民族の可能性もある<ref name="Takano1996">{{cite journal|journal=史学雑誌 |title=ウマイヤ朝期イラク地方における軍事体制の形成と変容 : シリヤ軍の東方進出問題をめぐって |last=高野 |first=太輔 |date=1996 |volume=105 |number=3 |pages=307-331 |doi=10.24471/shigaku.105.3_307 }}</ref>{{r|IE2_Zunbīl}}。彼らには「[[ズンビール]]」という称号を持つ王がおり、おそらくは太陽を崇拝する宗教を信じていた{{r|Takano1996}}<ref name="IE2_Zunbīl">{{cite encyclopedia|last=Bosworth |first=C.E. |title=Zunbīl |encyclopedia=Encyclopaedia of Islam, Second Edition, |others=Edited by: P. Bearman, Th. Bianquis, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs. |doi=10.1163/1573-3912_islam_SIM_8211 |date=2012 |ISBN=9789004161214 }}</ref><ref name="IE2_Zūn">{{cite encyclopedia|last=Bosworth |first=C.E. |title=Zūn |encyclopedia=Encyclopaedia of Islam, Second Edition, |others=Edited by: P. Bearman, Th. Bianquis, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs. |doi=10.1163/1573-3912_islam_SIM_8210 |date=2012 |ISBN=9789004161214 }}</ref>。
===7世紀-9世紀===
7世紀中ごろ(653-654年)、アラブ=ムスリムの大征服の波はカーブリスターンにも達し、[[スィースターン]]方面軍の将軍{{ill2|アブドゥッラフマーン・ブン・サムラ|ca|Abd-ar-Rahman ibn Samura|ar|عبد الرحمن بن سمرة}}が派遣した一部隊は、ズンビールらを破ってカーブルの町を一時的に占領した{{r|Adamec2012}}{{rp|231}}。その後、約200年間にわたりズンビールたちは、カーブリスターンを征服しようと遠征を繰り返すムスリムの諸勢力に抵抗したが、最終的には9世紀末ごろ、[[サッファール朝]]により駆逐された{{r|DePlanhol2012}}。カーブルの町はこの200年余りの間繰り返された小競り合いの結果、破壊された{{r|Adamec2012}}{{rp|231}}。
サッファール朝以後、カーブルの支配者は[[サーマーン朝]]→[[ガズナ朝]]→[[ゴール朝]]→[[ホラズムシャー朝]]と遷移するがいずれにおいてもカーブルの都市化は進まず、官衙の類が設置されることすらもなかった{{r|DePlanhol2012}}。中央ユーラシアから豊かなインドへと抜ける道のチョークポイントに近い場所であるため、いざインドへ攻め込む際には各地方の軍勢がここで落ち合った{{r|DePlanhol2012}}。例えば、{{ill2|アブル・ファドル・バイハキー|en|Abu'l-Fadl Bayhaqi}}の{{ill2|バイハキー史|en|Tarikh-i Bayhaqi|label=歴史書}}には、1031年にガズナ朝{{ill2|マスウード・ブン・マフムード・ガズナヴィー|ar|مسعود بن محمود الغزنوي|label=スルターン・マスウード}}がカーブルで1670頭の[[戦象|戦象部隊]]を閲兵したという記事がある{{r|DePlanhol2012}}。しかし、そのようなイベントのない平時はムスリム軍人が少数駐屯していただけの場所であり、カーブル周辺の諸郡や山岳は非イスラーム教徒が自ら治めていた{{r|DePlanhol2012}}。
===10世紀-16世紀===
[[チンギス・ハーン]]から[[ティムール]]へと続くモンゴルの時代においてもこうした状況に大きな変化はなく、13世紀に[[デリー・スルターン朝|デリーのスルターン]]が自立を宣言したときですらも、そのことによりカーブルの戦略的重要性が増すということはなかった{{r|DePlanhol2012}}。しかし、16世紀前半に[[バーブル|ザヒールッディーン・バーブル]]がカーブルを[[ムガル朝|自身の版図]]の首府として以来、この町の戦略的重要性は強く意識されるようになった{{r|DePlanhol2012}}。
===17世紀-19世紀===
ムガル帝国と[[サファヴィー朝]]との争奪を経て[[1738年]]に[[アフシャール朝]]の[[ナーディル・シャー]]によって征服され、その死後、[[パシュトゥーン人]](アフガン人)がアフガニスタンの起源となる[[ドゥッラーニー朝]][[1839年]]と[[1879年]]に、2度の[[アフガン戦争]]で2度とも一時[[イギリス]]軍の占領下に置かれる。
===近代===
イギリスからの独立後、[[1939年]]9月に起きた[[第二次世界大戦]]では、[[ザーヒル・シャー]]の統治下で、[[英領インド]]と[[ソ連]]、[[中華民国]]に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家の首都として、[[日本]]や[[ドイツ]]、[[イタリア]]や[[満洲国]]などからなる[[枢軸国]]、イギリスや[[アメリカ]]、ソ連と中華民国などからなる[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の、どちらにもつかない[[中立国]]として[[1945年]]9月の終戦まで平和を維持していた。
その後も[[立憲君主制]]の国家の首都として近代化が進み、ザーヒル・シャーが[[革命]]で追放される[[1973年]]まで中央アジアの中心的都市として、繁栄と平和を保っていた。
=== ソ連のアフガン侵攻 ===
[[ファイル:Kabul during civil war of fundamentalists 1993-2.jpg|thumb|廃墟となった市街地([[1993年]])]]
[[1979年]]、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連のアフガニスタン侵攻]]が始まると、12月23日に[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]によって占領され、[[1988年]]に撤退するまでその司令部が置かれて[[ムジャーヒディーン]]の[[ゲリラ]]との激しい攻防の中心となった。
[[1992年]]に[[ムハンマド・ナジーブッラー|ナジーブッラー]]の[[共産主義]]政権が崩壊すると、カーブルは[[ムジャーヒディーン]]の手に落ちたが、ムジャーヒディーン各派の紛争によって甚大な被害を受けた。同年12月、かつては市内に86台走っていた[[トロリーバス]]はすべて運行停止を余儀なくされた。[[1993年]]までに、市内の電気系統と上下水道は完全に機能を停止した。当時、[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー|ラッバーニー]]が率いる{{仮リンク|イスラム協会 (アフガニスタン)|en|Jamiat-e Islami|label=イスラム協会}}([[タジク人]]中心)が市内を掌握していたが、有名無実の首相[[グルブッディーン・ヘクマティヤール|ヘクマティヤール]]率いる{{仮リンク|イスラム党|en|Hezb-e-Islami Gulbuddin}} (HIG) が市街を[[1996年]]まで3年間にわたり包囲した。市内では、イスラム協会、[[ラシッド・ドスタム|ドスタム将軍]]派の[[イスラム民族運動]]([[ウズベク人]]勢力)、[[アフガニスタン・イスラム統一党|イスラム統一党]]([[ハザーラ人]]系)の間で戦闘が続き、数万人の民間人が犠牲になるとともに、大量の難民が発生した。
=== ターリバーン政権 ===
[[1996年]]にカーブルは[[ターリバーン]]に陥落し、[[ムハンマド・ナジーブッラー|ナジーブッラー]]は公開処刑された。ターリバーンのカーブル占拠の間は、カーブルを巡る紛争はすべて止んだ。ラッバーニー、ヘクマティヤール、ドスタム、[[アフマド・シャー・マスード|マスード]]らはカーブルから撤退した。
ターリバーン政権([[アフガニスタン・イスラム首長国]])期も引き続き首都はカーブルとされ、省庁も同市内に置かれたが、政治の中心は南部の[[カンダハール]]だった。同地はアフガニスタンの最大民族[[パシュトゥーン人]]の都市で、パシュトゥーン人主体のターリバーンにとっては本拠地だった。ターリバーンの指導者はパシュトゥーン人以外にも[[タジク人]]、[[ウズベク人]]、[[ハザーラ人]]など多民族が共存する大都市カーブルの風土に馴染まず、本拠地カンダハールに住み続け、同地からカーブルの省庁に指令を下すといった首都機能の逆転現象が見られた。
=== アフガン紛争 ===
[[ファイル:Local soldier mentors Afghan police in Kabul.jpg|thumb|治安維持に当たる[[アフガニスタンの警察|アフガニスタン国家警察]]の隊員([[2011年]])]]
約5年後、[[2001年]]10月に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]がアフガニスタンに[[アメリカのアフガニスタン侵攻|侵攻]]した。米軍による激しい空爆によって、同年11月21日ターリバーンはカーブルを放棄し、[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]が代わってカーブルを支配下に治めた。ターリバーン政権期に政治の中心としての機能を失っていたカーブルは首都機能を回復し、12月20日にはカーブルにアフガニスタン暫定行政機構の本部が置かれた。
=== アフガニスタン・イスラム共和国 ===
[[ハーミド・カルザイ|カルザイ]]大統領の率いる政権('''アフガニスタン・イスラム共和国''')が制定した憲法で首都がカーブルに指定され、再度首都としてアフガニスタンの中心都市となった。
[[2021年]]、アメリカ軍の撤退が本格化すると、ターリバーンは[[2021年ターリバーン攻勢|ターリバーン攻勢]]によりカーブルにも迫る動きを見せた<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210815084521/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081500333&g=int |title=アフガン大統領が国外脱出 事実上の政権崩壊―タリバン、首都突入を指示 |publisher=時事通信 |date=2021-08-16 |accessdate=2021-08-16}}</ref>。同年、[[8月15日]]にはアメリカ大使館がヘリコプターを使い撤収を始めると、カナダ、ドイツなども大使館の閉鎖を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081500502&g=int |title=カブール市内緊迫で混乱も 空港や銀行、市民ら殺到 |publisher=時事通信 |date=2021-08-16 |accessdate=2021-08-15}}</ref>。
=== 新ターリバーン政権 ===
{{See also|カーブル陥落 (2021年)}}
2021年8月15日にカーブル市内をターリバーンが制圧。市内にあった各国大使館などの多くは閉鎖され、大使館員らは国外に退去した。また、大使館の通訳などの現地協力者らも、迫害を恐れて[[カーブル国際空港]]へ殺到した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20210817/k00/00m/030/199000c |title=アフガニスタンの日本大使館職員、国外に退避完了 トルコで業務 |publisher=毎日新聞 |date=2021-08-17 |accessdate=2021-08-27}}</ref>。空港及び周辺はアメリカ兵が増備され厳しい警戒が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20210815-OYT1T50046/ |title=米、アフガンに1000人規模の部隊を追加派遣へ…計5000人に |publisher=読売新聞 |date=2021-08-15 |accessdate=2021-08-27}}</ref>が、8月26日には[[カーブル国際空港自爆テロ事件|自爆テロ]]が発生してアメリカ兵を含む170人以上が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021082700169&g=int |title=カブール空港で爆発、米兵13人死亡 アフガン人多数犠牲、ISの自爆テロ |publisher=時事通信 |date=2021-08-27 |accessdate=2021-08-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アフガンテロ、死者170人に 米「今後数日が最も危険」:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210827220640/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021082800168&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-08-28|language=ja}}</ref>するなど混乱は続いた。自爆テロは、[[ISIL|イスラム国]]の分派である[[ISIL-K]]が犯行声明を出した。
ターリバーンは全ての勢力に恩赦を約束した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20210817/k00/00m/030/347000c |title=タリバン、女性の政府参加促す 全国民に「恩赦」 穏健さアピール |publisher=毎日新聞 |date=2021-08-17 |accessdate=2021-08-27}}</ref>が、市内の家々を組織的に捜索が行われ、住民構成や職業などが調べあげられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210820/k10013214771000.html |title=アフガン タリバン戦闘員がドイツのジャーナリストの家族殺害 |publisher=NHK |date=2021-08-20 |accessdate=2021-08-27}}</ref>。
2021年9月、市長にモラビ・ハムドラ・ノマニが就任。市役所の女性職員(全職員の約27%)の勤務を基本的に停止し、男性が代行できないか、男性にふさわしくない職務のみ勤務続行を認めることを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3367117?cx_part=search |title=字幕:男性に代行できる業務は女性出勤不可、カブール市役所 |publisher=AFP |date=2021-09-20 |accessdate=2021-09-21}}</ref>。
2022年8月、バイデン大統領
バイデン大統領はホワイトハウスで行われた演説で、アルカーイダの指導者である[[アイマン・ザワヒリ]]をカーブルで殺害したと発表した<ref name="NHK20220802">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220802/amp/k10013747191000.html |title=バイデン大統領 “アルカイダ指導者 ザワヒリ容疑者殺害”発表 |website=NHK NEWS WEB |date=2022-08-02 |accessdate=2022-08-02}}</ref>。潜伏先の住宅のバルコニーにいたところを無人機のミサイル攻撃で襲撃、殺害したという<ref name="NHK20220802"/>。
2022年9月にはロシア大使館、12月にはパキスタン大使館が武装勢力による攻撃を受け、いずれもISIL-Kが犯行声明を出した。さらに12月12日には市内のホテルが襲撃を受け、3人以上が死亡した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/world/35197332.html |title=アフガン首都のホテル襲撃、死傷者21人 |publisher=CNN |date=2022-12-21 |accessdate=2022-12-24}}</ref>。
== 気候 ==
内陸部にあり標高が高いため寒暖の差が大きい。夏は乾燥し、降水量のほとんどは冬に集中する。[[ケッペンの気候区分]]では[[ステップ気候]](BSk)に属する。
{{Weather box
|location = カーブル (1956–1983)
|metric first = Y
|single line = Y
|Jan record high C = 18.8
|Feb record high C = 18.4
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|Jan mean C = -2.3
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|Jan precipitation mm = 34.3
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|Jan rain days = 2
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|Jan sun = 177.2
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|source 1 = [[NOAA]]<ref name = NOAA>{{cite web
| url = ftp://dossier.ogp.noaa.gov/GCOS/WMO-Normals/RA-II/AH/40948.TXT
| title = Kabul Climate Normals 1956-1983
| accessdate = March 30, 2013
| publisher = National Oceanic and Atmospheric Administration}}</ref>
|date=August 2010
}}
== 人口動態 ==
人口は4,601,789人(2021年の公式推計)。2021年6月時点の[[世界の都市的地域の人口順位|都市的地域の人口]]では約506万人であり、世界の第90位、同国では第1位である<ref>http://www.demographia.com/db-worldua.pdf</ref>。
[[ペルシア語]]系住民が市内人口の多数を占め、[[スンナ派]]の[[タジク人]]が最大のグループで、[[シーア派]]の[[ハザーラ人]]とタジク人がそれに続く。ペルシア語化した[[パシュトゥーン人]]の住民も多い。少数派では、[[パシュトー語]]系のスンナ派住民がもっとも多く、[[テュルク]]系の[[ウズベク人]]が続く。他に[[インド語派]]方言を話す[[ヒンドゥー教]]徒と[[シク教徒]]も相当数が居住している。
人口増加が著しく、2025年に718万人、2050年に1709万人、2075年に3267万人、2100年の人口予測では5030万人を数える世界10位の超巨大都市となる予測が出ている<ref>{{cite journal|last1=Hoornweg|first1=Daniel|last2=Pope|first2=Kevin|title=Population predictions of the 101 largest cities in the 21st century|journal=Global Cities Institute|date=January 2014|issue=Working Paper No. 4|url=http://media.wix.com/ugd/672989_62cfa13ec4ba47788f78ad660489a2fa.pdf}}</ref>。
== インフラ ==
[[ファイル:Kabul City Map.svg|235px|thumb|カーブル市内の地図]]
===輸送機関===
[[カーブル国際空港]]がカーブル市民の長距離移動の玄関口となっている。同空港は、アフガニスタンの国営航空である[[アリアナ・アフガン航空]]のハブ空港であるだけでなく、多くの外国の航空会社にも利用されている。[[2008年]]には3,500万ドルの費用を掛けた新ターミナルが完成している。
カーブルには公営の[[バス (交通機関)|バス]]会社 (Millie Bus) も運営されており、市内の多くの路線がある。2007年現在、約200台のバスが稼働しているが、さらに増便される予定である。かつてカーブルを走行していた、近代的な[[トロリーバス]]を再導入する計画も検討中である。バスに加えて、[[タクシー]]も市内のどこでも利用することができる。
自家用車の利用もカーブルでは増えつつあり、[[トヨタ]]、[[ランドローバー]]、[[BMW]]、[[現代自動車|ヒュンダイ]]などの代理販売店が市内中に見られる。一般道路や[[高速道路]]の整備が進むに連れて、自家用車を購入する人が増えている。カーブル市内でもっとも普通に見られるのはトヨタの[[トヨタ・カローラ|カローラ]]である。[[二輪車|バイク]]を除いて、カーブル市内のほとんど全ての交通機関は[[軽油]]を利用している。
===通信===
[[第二世代携帯電話|GSM/GPRS]]携帯電話サービスが、Afghan Wireless、Roshan、Areebaの3社によって提供されており、携帯電話の利用が飛躍的に伸びている。2006年6月、[[アラブ首長国連邦]]の通信会社Etislatは、アフガニスタン国内での営業免許を政府から取得したことを発表し、全国規模の携帯電話ネットワークの構築の意志を明らかにした。
同年11月に、アフガニスタン通信省と[[中華人民共和国]]の通信機器メーカー[[中興通訊]]は、6,450万ドルで全国に光ファイバーネットワークを構築する契約を交わした。これによって、カーブル市内だけでなく全国で、電話、[[インターネット]]、[[テレビ]]や[[ラジオ]]放送の通信状態が向上することが見込まれる。2009年現在、アフガニスタンのテレビ放送局は6社ある。
===再建と開発===
[[2010年]]1月時点で、アフガニスタン国際銀行([[INGグループ]]によって運営されている)、カーブル銀行、[[ウエスタンユニオン]]など、カーブル市内には14の[[銀行]]がある。
2005年には、4つ星クラスの高級ホテルが6階の最上階に入った屋内式のショッピング・モール、カーブル・シティ・センターがオープンした。5つ星の高級ホテル、セレナホテルは2005年にオープンし、[[ハイアットホテルアンドリゾーツ|ハイアットリージェンシーホテル]]は2007年なかばにオープン。1969年に開業し、長年カーブルの[[ランドマーク]]である[[インターコンチネンタルホテル (カーブル)]]も、改装されて営業中である。
また、[[カーブル川]]南岸とJade Meyward通りに囲まれたカーブル旧市街は、内戦で破壊された建造物に混じって数多くの古い[[モスク]]が存在し、また、活発な商業活動が行われている地域であるが、更なる発展のために、20-25年の長期かつ大規模な商業的、歴史的、文化的再開発事業計画 (City of Light Development) が、{{いつ範囲|現在|date=2013年12月}}、カルザイ大統領と政府の支援を得た民間資本 (ARCADD) によって進められている。
カーブルから約6.4km(4[[マイル]])離れた郊外、バグラミ地区に、近代的な設備を備えた89,000m<sup>2</sup>(22[[エーカー]])の工業団地が完成し、近い将来、新たなビジネスセンターになると思われる。
2006年9月には、2,500万ドルの費用を掛けた[[コカ・コーラ]]の工場がオープンした。
== 名所 ==
{{Wikivoyage}}[[Image:Kabul_Baghe_Babur_tomb.jpg|thumb|[[バーブル]]廟]]
カーブルの旧市街には、細い曲がりくねった小路沿いに多くの[[市場|バザール]]がひしめいている。その他の見所には、[[カーブル国立博物館]]({{仮リンク|アフガニスタン国立博物館|en|National_Museum_of_Afghanistan}})、[[ダルラマン宮殿]]([[アマーヌッラー・ハーン]]の王宮)、[[バーブル]]廟、戦勝記念塔、[[カーブル動物園]]などがある。
=== アフガニスタン国立博物館 ===
アフガニスタンがイギリスから独立して3年後の1922年、首都カーブルに設立される<ref name="geo_p1">[https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/16/033100004/040500001/?P=1 第1回 地下金庫に隠された秘宝 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト] p.1(2016年4月11日)2021年8月26日閲覧</ref>。収蔵品は王族の収集したコレクションを母体とし、アフガニスタンの遺跡から発掘したものも多く、7世紀以前のものだけでも10万点ほどあったという<ref name="geo_p1" />。1989年にソ連軍が撤退後に治安が悪化、当時の館長の指示を受けて特に貴重な収蔵品は大統領府にある中央銀行の地下金庫に運び込まれた<ref name="geo_p2">[https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/16/033100004/040500001/?P=2 第1回 地下金庫に隠された秘宝 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト] p.2(2016年4月11日)2021年8月26日閲覧</ref>。それらは無事だったものの博物館全体としては大きな被害を受け、4万点近い収蔵品が盗み出されたことが判明している<ref name="geo_p2" />。
== カーブルを舞台とした主な作品 ==
* 『{{ill2|カブールの燕たち|en|The Swallows of Kabul}}』 - [[ヤスミナ・カドラ]]の2002年の著作<ref>{{Kotobank|ヤスミナ カドラ|2=現代外国人名録2016}}</ref>。
**『{{ill2|カブールのツバメ|en|The Swallows of Kabul (film)}}』 - 上記作品をもとにした[[ザブー・ブライトマン]]監督の2019年製作のアニメーション<ref>[https://www.unifrance.jp/festival/2019/films/1156/ カブールのツバメ | フランス映画祭2019]. 2021年8月27日閲覧</ref>。『[[カブールのツバメたち]]』とも<ref>[https://animefestival.jp/screen/list/2020feature4/ カブールのツバメたち | 上映プログラム]、東京アニメアワードフェスティバル、2021年8月28日閲覧</ref>。
* 『{{ill2|カブールの本屋 - アフガニスタンのある家族の物語|en|The Bookseller of Kabul}}』 - {{仮リンク|アスネ・セイエルスタッド|en|Åsne Seierstad}}の2002年の著作<ref>{{Kotobank|アスネ セイエルスタッド|2=現代外国人名録2016}}</ref>。
* 『{{ill2|カーブルの孤児院|en|The Orphanage (2019 film)}}』 - {{仮リンク|シャフルバヌ・サダト|en|Shahrbanoo Sadat}}監督の2019年製作の映画<ref>{{Cite web|和書|title=中央アジア今昔映画祭|url=https://trenova.jp/centralasia/|website=中央アジア今昔映画祭|accessdate=2022-01-06|language=ja}}</ref><ref>[https://mubi.com/films/the-orphanage-2019 THE ORPHANAGE(2019) | MUBI]. 2021年8月29日閲覧</ref><ref>[https://www.cinemanavi.com/film_detail/film_id/10000004795/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%AD%A4%E5%85%90%E9%99%A2.html カーブルの孤児院 作品詳細]、シネマNAVI</ref>。
== 姉妹都市 ==
* {{flagicon|ARE}} [[ドバイ]]、[[アラブ首長国連邦]]
* {{flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]、[[トルコ]]
* {{flagicon|RUS}} [[カザン]]、[[ロシア]]
* {{flagicon|CAN}} [[サスカトゥーン]]、[[カナダ]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="Adamec2012">{{cite book |last=Adamec |first=Ludwig W. |date=2012 |title=Historical Dictionary of Afghanistan |publisher=Scarecrow Press |isbn=9780810878150 |url={{Google books|AAHna6aqtX4C|Historical Dictionary of Afghanistan |plainurl=1|page=PA231}}}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[カーブル=ダルラマン・トラム]] - かつてカーブル市内からダルラマンまでを運行していた狭軌鉄道。
== 外部リンク ==
* [http://www.afghanistan-photos.com/crbst_5.html Historical Photos of Kabul] {{En icon}}
* [http://www.sada-e-azadi.net Sada-e Azadi Radio/TV/Newspaper (ISAF)]{{リンク切れ|date=2022年1月}} {{En icon}}
* [http://www.rfi.fr/actuen/articles/116/article_4941.asp People of Kabul - report by Radio France Internationale in English] {{En icon}}
* [https://www.xpatulator.com/cost-of-living-review/Afghanistan-Kabul_1.cfm Kabul Cost of Living] {{En icon}}
* {{Kotobank|カーブル}}
{{アジアの首都}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かあふる}}
[[Category:カーブル|*]]
[[Category:アフガニスタンの都市]]
[[Category:アジアの首都]]
[[Category:カーブル州]]
|
2003-08-17T01:38:04Z
|
2023-11-20T18:38:25Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB
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足利将軍家
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足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。
足利氏の本姓は源氏で、清和源氏の一家系河内源氏の嫡流たる武家の名門である。その系譜をたどれば源氏の祖経基以来、満仲、頼信、頼義、そして名高き八幡太郎源義家に至るまで5代にわたり、武家の栄誉である鎮守府将軍に任ぜられ、国内の兵乱を平定、朝廷の信望を得るとともに東国を拠点として武家の棟梁としての名声を上げた。義国の次男である源義康が下野国足利荘に住し、足利氏が興った。
鎌倉時代、足利義兼は源頼朝と遠縁の同族であり、また父が頼朝の父・源義朝と浅からぬ縁があったこと、頼朝の御台所・北条政子の妹(北条時子)を正室としたこともあり、幕府の信望を得て門葉として遇された。源氏将軍が3代源実朝の代で滅ぶと、源氏の嫡流として武家の尊敬を集めたが、幕政を牛耳った執権北条氏から警戒の念を抱かれたとみられ、時には一門から処罰される者を出しながらも、代々の当主が北条氏との縁戚関係を結んでいたこともあり、他の門葉や名族が粛清されていく中、名跡を保ち続けた。
所領も下野、陸奥、三河、丹波など西国にも及び、支族は数十にも及ぶ有力御家人であった。後醍醐天皇の討幕挙兵が明らかになった後は当初、幕府軍として京都に進撃したが、丹波で鎌倉幕府の追討宣旨を奉じて足利尊氏が朝廷方に転じ、後醍醐天皇の建武の新政に貢献した。
しかし、公家一統の支配確立を目指す後醍醐天皇の政治が様々な混乱を呼ぶとともに、武家の不満が集積し、尊氏は後醍醐天皇の皇統とは宿敵にあたる持明院統の光厳上皇の院宣を受けて、北朝を樹立、自身は征夷大将軍に任ぜられた。こうして、足利宗家を将軍家として新たな武家政権が成立することになった。
足利将軍は当初は鎌倉幕府の継承者として「鎌倉殿」と呼ばれていた時期もあったが、足利義満が京都の室町通(現存する)沿いに将軍の邸宅を構えると、将軍の邸宅及び将軍そのものを「室町殿」と呼ぶようになり、後の室町幕府という語の由来となった(花の御所)。
但し、室町殿は将軍である場合が多いが、そうでない場合もある。足利義満は、1394年(応永元年)に将軍職を当時9歳の嫡男の足利義持に譲ったが、室町殿として保持している守護の任命権は1408年(応永15年)に死ぬまで手放さなかった。義持も同様に、1425年(応永32年)に将軍職を嫡男の足利義量に譲ったが、室町殿として政務を握り続けた。
足利義満の時代になると、足利将軍家(室町殿)は朝廷内においてもその地位を高め、最終的には太政大臣まで昇って公家社会の頂点に立った。次代の義持以降も一部修正はあるものの、足利将軍家は公卿に昇進して応仁の乱までは大臣にまで昇進可能である摂家・清華家級の家格となった。このため、足利将軍家も摂関家や清華家と同じように中下級の公家、特に将軍家と婚姻関係を結んだ日野流や実務に長けた勧修寺流の公家などを自己の家司として家政を補佐させるなど、公家社会の有力な一員となった。
応仁の乱後に幕府の衰退が明らかになると、朝廷との関係に変化が生じた。明応の政変以降に将軍家が事実上分裂し、幕府から朝廷への財政援助も望めなくなると、朝廷はどちらの陣営からでも正式な申請と御訪(必要経費の献上)があれば任官申請を認めるという一種の機械的処理を行うことで、将軍家の内紛が朝廷に影響するのを回避しようとした。
ところが、足利将軍家の義稙系(足利義稙―足利義維―足利義栄)と義澄系(足利義澄―足利義晴―足利義輝・義昭兄弟)への分裂は摂関家にも影響を及ぼした。近衛家が娘を義晴・義輝の正室として連携を深め、これに対抗して九条家が義稙系と結んだからである。その結果、「義稙系将軍家・九条流摂関家(九条家・二条家・一条家)」対「義澄系将軍家・近衛流摂関家(近衛家・鷹司家)」という政治対立の構図が成立した。このため、義澄系将軍家が力を持っている時は、九条流は摂関の解任や地方への下向を余儀なくされ、反対に義澄系将軍家が京都を追われた時には、近衛流が力を失い近衛家が義澄系に随行して地方に下向する状況になった(鷹司家は戦国時代中期に一時断絶)。
その後、永禄の変が発生すると、近衛前久は近衛家の血を引く義輝が殺害されたにもかかわらず、対立してきた足利義栄への支持に傾き、二条晴良がそれに対抗するため義輝の弟である義昭の支持に切り替えた。その結果、義昭が織田信長の後ろ盾を受けて上洛すると、近衛前久は関白の地位を失って亡命を余儀なくされ、代わりに二条晴良が関白に任ぜられ、亡命していた九条稙通が京都に帰還した。
その後、義昭は信長に追放されて室町幕府は事実上滅亡し、足利将軍家は実体を喪失するが、摂関家の争いはその後の関白相論につながることになる。
足利将軍家の連枝として代表的な存在として鎌倉公方家が挙げられるが、室町時代前期の段階において室町幕府が公式に認めていた「御連枝」は足利義満の弟である満詮の系統と息子の義嗣の系統だけであった。そのうち、満詮の子は全て出家してしまい、義嗣は兄の義持に滅ぼされてしまったために早い時期に御連枝は断絶してしまった(鞍谷公方は義嗣の子孫と言われているが、実際には斯波氏の一族であった)。足利義量の没後は僧になっていた義持の弟(義円→義教)を還俗させて御連枝として継承させることで足利将軍家の断絶は回避された。御一家創設の背景の1つとして、こうした御連枝の断絶があったとされている。
尊氏の四男基氏は鎌倉公方となって関東地方に下向し、鎌倉公方足利家を起こす。同家は後に古河公方と名乗る。歴代公方は諱において氏の字を通字として、時の将軍の偏諱を重ねた。ただし、以下の例外もある。
また、6代将軍義教の子政知は新任の鎌倉公方として関東に下向したが、混乱の最中にあった鎌倉に入ることが叶わず、伊豆に居を構えて堀越公方を称した。後に堀越公方家は子の茶々丸が北条早雲に滅ぼされて2代で絶えたが、茶々丸の異母弟・義澄が将軍家を継いだため、11代義澄から15代義昭までの室町将軍は全て堀越公方家の血統となった。
第2代古河公方足利政氏の子義明は、兄・高基との対立から下総国で小弓公方を称して自立するが、北条氏綱に討たれて滅亡する。しかし、里見氏に保護されていた義明の子孫である足利国朝、足利頼氏が豊臣政権によって取り立てられて喜連川氏を称した。
義昭の死後、足利将軍家は絶えたかに見えるが、阿波国では足利義維の子孫が江戸時代末まで平島と姓を変えて続いた(平島公方)ほか、義輝の遺児といわれる尾池義辰の子である西山至之の子孫が熊本藩士として、義昭の子とされる一色義喬の孫である坂本義邵の子孫が会津藩士として、同じく義昭の子といわれる永山義在の子孫が薩摩藩士として続いた。
足利将軍家は足利氏の一門・庶家を御一家衆として室町幕府の守護・側近あるいは遠国に知行する者を京都扶持衆として遇した。
吉良家と今川家は足利宗家を継ぐ者がいなかったときの継承者を出す格式であったとの伝承があるが、実際に宗家を継承した例はない。 また、御一家のうちでも渋川家、石橋家などは将軍家連枝として高い家格を有した。
一方、足利氏の一門のうち斯波家の格式は別格であった。ところが、斯波家は御一家衆としての待遇に預かることは出来なかった。これは御一家衆の組織が鎌倉公方家のみならず、管領・守護大名として幕府の中でも屈指の立場を確立した斯波家への牽制を目的にしていたからとも言われている。
(改名は主なものだけを図示し、網羅してはいない)
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足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。
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{{混同|室町家}}
{{Redirect|室町殿|足利将軍家の邸宅|花の御所}}
[[ファイル:Ashikaga mon rev.svg|代替文=丸の内に二つ引(まるのうちにふたつびき)は、日本の家紋「引両紋」の一種である。「丸に二つ引」とも混同されるが、二つ引を用いる足利氏によってその一族や家臣に与えられ、畠山氏、今川氏、細川氏などが用いている。 足利二つ引 丸に二つ引|サムネイル|足利氏の家紋 Wikipedia足利氏より引用]]
'''足利将軍家'''(あしかがしょうぐんけ)は、[[足利氏]]の[[惣領]]家([[宗家]])のうち、とくに'''[[足利尊氏]]'''以来の、代々[[室町幕府]]の[[征夷大将軍|将軍]]職を世襲した一家([[軍事貴族]])。初代尊氏の後は2代として嫡男[[足利義詮|義詮]]が継ぎ、3代[[足利義満]]を経て、15代[[足利義昭|義昭]]まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は[[諱]]において'''義'''の字を[[通字]]とした。
== 足利将軍家の成立過程 ==
[[足利氏]]の[[本姓]]は[[源氏]]で、[[清和源氏]]の一家系'''[[河内源氏]]'''の[[嫡流]]たる武家の名門である。その系譜をたどれば源氏の祖[[源経基|経基]]以来、[[源満仲|満仲]]、[[源頼信|頼信]]、[[源頼義|頼義]]、そして名高き[[源義家|八幡太郎源義家]]に至るまで5代にわたり、武家の栄誉である[[鎮守府将軍]]に任ぜられ、国内の兵乱を平定、[[朝廷 (日本)|朝廷]]の信望を得るとともに東国を拠点として[[武家の棟梁]]としての名声を上げた。義国の次男である[[源義康]]が[[下野国]][[足利荘]]に住し、足利氏が興った。
[[鎌倉時代]]、[[足利義兼]]は[[源頼朝]]と遠縁の同族であり、また父が頼朝の父・[[源義朝]]と浅からぬ縁があったこと、頼朝の御台所・北条政子の妹([[北条時子]])を正室としたこともあり、幕府の信望を得て[[門葉]]として遇された。[[源氏将軍]]が3代[[源実朝]]の代で滅ぶと、源氏の嫡流として武家の尊敬を集めたが、幕政を牛耳った[[執権]][[北条氏]]から警戒の念を抱かれたとみられ、時には一門から処罰される者を出しながらも、代々の当主が北条氏との縁戚関係を結んでいたこともあり、他の門葉や名族が粛清されていく中、名跡を保ち続けた。<!--[[北条氏 (赤橋流)|赤橋流]]、常盤流の血筋は[[足利将軍家]]が引き継いでいる。義時の直系の孫娘(泰時の娘)とひ孫(時氏の娘)も足利家当主である泰氏と頼氏を生んでいるので、コメントアウト。-->
所領も下野、[[陸奥国|陸奥]]、[[三河国|三河]]、[[丹波国|丹波]]など西国にも及び、支族は数十にも及ぶ有力[[御家人]]であった。[[後醍醐天皇]]の討幕挙兵が明らかになった後は当初、幕府軍として京都に進撃したが、丹波で鎌倉幕府の追討宣旨を奉じて足利尊氏が朝廷方に転じ、後醍醐天皇の[[建武の新政]]に貢献した。
しかし、公家一統の支配確立を目指す後醍醐天皇の政治が様々な混乱を呼ぶとともに、武家の不満が集積し、尊氏は後醍醐天皇の[[皇室の系図一覧|皇統]]とは宿敵にあたる[[持明院統]]の[[光厳天皇|光厳上皇]]の[[院宣]]を受けて、[[北朝 (日本)|北朝]]を樹立、自身は[[征夷大将軍]]に任ぜられた。こうして、足利宗家を将軍家として新たな[[武家政権]]が成立することになった。
== 室町殿 ==
足利将軍は当初は鎌倉幕府の継承者として「[[鎌倉殿]]」と呼ばれていた時期もあったが、[[足利義満]]が京都の[[室町通]](現存する)沿いに将軍の邸宅を構えると、将軍の邸宅及び将軍そのものを「'''室町殿'''」と呼ぶようになり、後の[[室町幕府]]という語の由来となった([[花の御所]])。
但し、室町殿は将軍である場合が多いが、そうでない場合もある。足利義満は、[[1394年]](応永元年)に将軍職を当時9歳の嫡男の[[足利義持]]に譲ったが、室町殿として保持している守護の任命権は[[1408年]](応永15年)に死ぬまで手放さなかった。義持も同様に、[[1425年]](応永32年)に将軍職を嫡男の[[足利義量]]に譲ったが、室町殿として政務を握り続けた<ref>[[今谷明]]『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(講談社学術文庫、2001年) ISBN 4-06-159471-0 P51-52</ref>。
== 公家としての足利将軍家 ==
[[足利義満]]の時代になると、足利将軍家(室町殿)は朝廷内においてもその地位を高め、最終的には[[太政大臣]]まで昇って公家社会の頂点に立った。次代の[[足利義持|義持]]以降も一部修正はあるものの、足利将軍家は[[公卿]]に昇進して[[応仁の乱]]までは大臣にまで昇進可能である[[摂家]]・[[清華家]]級の[[家格]]となった。このため、足利将軍家も摂関家や清華家と同じように中下級の公家、特に将軍家と婚姻関係を結んだ[[日野流]]や実務に長けた[[勧修寺流]]の公家などを自己の[[家司]]として家政を補佐させるなど、公家社会の有力な一員となった<ref>井原今朝男「天皇の官僚制と室町殿・摂家の家司兼任体制」(『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1266-9)</ref>。
応仁の乱後に幕府の衰退が明らかになると、朝廷との関係に変化が生じた。[[明応の政変]]以降に将軍家が事実上分裂し、幕府から朝廷への財政援助も望めなくなると、朝廷はどちらの陣営からでも正式な申請と御訪(必要経費の献上)があれば任官申請を認めるという一種の機械的処理を行うことで、将軍家の内紛が朝廷に影響するのを回避しようとした<ref>井原今朝男「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」(『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1266-9)</ref>。
ところが、足利将軍家の義稙系([[足利義稙]]―[[足利義維]]―[[足利義栄]])と義澄系([[足利義澄]]―[[足利義晴]]―[[足利義輝]]・[[足利義昭|義昭]]兄弟)への分裂は摂関家にも影響を及ぼした。[[近衛家]]が娘を義晴・義輝の正室として連携を深め、これに対抗して[[九条家]]が義稙系と結んだからである。その結果、「義稙系将軍家・九条流摂関家(九条家・[[二条家]]・[[一条家]])」対「義澄系将軍家・近衛流摂関家(近衛家・[[鷹司家]])」という政治対立の構図が成立した。このため、義澄系将軍家が力を持っている時は、九条流は摂関の解任や地方への下向を余儀なくされ、反対に義澄系将軍家が京都を追われた時には、近衛流が力を失い近衛家が義澄系に随行して地方に下向する状況になった(鷹司家は戦国時代中期に一時断絶)。
その後、[[永禄の変]]が発生すると、[[近衛前久]]は近衛家の血を引く義輝が殺害されたにもかかわらず、対立してきた足利義栄への支持に傾き、[[二条晴良]]がそれに対抗するため義輝の弟である義昭の支持に切り替えた。その結果、義昭が[[織田信長]]の後ろ盾を受けて上洛すると、近衛前久は関白の地位を失って亡命を余儀なくされ、代わりに二条晴良が関白に任ぜられ、亡命していた[[九条稙通]]が京都に帰還した。
その後、義昭は信長に追放されて室町幕府は事実上滅亡し、足利将軍家は実体を喪失するが、摂関家の争いはその後の[[関白相論]]につながることになる<ref>水野智之「足利義晴~義昭における摂関家・本願寺と将軍・大名」(初出:『織豊期研究』12号(2010年)/所収:久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-162-2)</ref>。
== 足利将軍家連枝 ==
足利将軍家の連枝として代表的な存在として鎌倉公方家が挙げられるが、室町時代前期の段階において室町幕府が公式に認めていた「御連枝」は足利義満の弟である[[足利満詮|満詮]]の系統と息子の[[足利義嗣|義嗣]]の系統だけであった。そのうち、満詮の子は全て出家してしまい、義嗣は兄の[[足利義持|義持]]に滅ぼされてしまったために早い時期に御連枝は断絶してしまった<ref name="kinoshita">木下聡「室町幕府の秩序編成と武家社会」(初出:『歴史学研究』924号(2014年)/所収:木下『室町幕府の外様衆と奉公衆』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-790-5)</ref>([[鞍谷公方]]は義嗣の子孫と言われているが、実際には斯波氏の一族であった<ref>佐藤圭 「戦国期の越前斯波氏について」、木下聡編 戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 1〉、2015年2月。ISBN 978-4-86403-146-2。(初出:『若越郷土研究』第45巻4・5号(2000年)</ref>)。[[足利義量]]の没後は僧になっていた義持の弟([[足利義教|義円→義教]])を還俗させて御連枝として継承させることで足利将軍家の断絶は回避された<ref name="taniguchi">谷口雄太「足利氏御一家考」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3)/所収:谷口『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文社、2019年) ISBN 978-4-642-02958-2 2019年、P130-131.</ref>。御一家創設の背景の1つとして、こうした御連枝の断絶があったとされている<ref name=kinoshita/>。
=== 鎌倉公方家 ===
尊氏の四男[[足利基氏|基氏]]は'''[[鎌倉公方]]'''となって[[関東地方]]に下向し、鎌倉公方足利家を起こす。同家は後に[[古河公方]]と名乗る。歴代公方は諱において'''氏'''の字を通字として、時の将軍の[[偏諱]]を重ねた。ただし、以下の例外もある。
*第3代鎌倉公方[[足利満兼]]は父・[[足利氏満|氏満]]と重なるために将軍[[足利義満]]からの偏諱のみを用いた。
*第4代鎌倉公方[[足利持氏]]の嫡男・[[足利義久]]は、父・持氏が将軍[[足利義教]]への対抗意識から義教の偏諱を避けた。
*第2代古河公方[[足利政氏]]は公方継承時点で将軍が不在だったため、前将軍[[足利義政]]から偏諱として受けた。
*第3代古河公方[[足利高基]]は初め11代将軍[[足利義澄]](前名:義高)から偏諱として受け「高氏」と名乗ったが、初代将軍足利尊氏の初名と重なるため、後に基氏の偏諱により「高基」と改名した。
*第5代古河公方[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]は13代将軍[[足利義輝]](初名:義藤)から、将軍家の通字である'''義'''を偏諱として受けた。これは嫡男が異母兄[[足利藤氏]]から交替させられた事情に関係すると考えられている{{Efn|[[北条氏康]]の軍事力によって擁立された義氏は、既に将軍足利義輝の初名である義藤の偏諱を受けていた藤氏の正統性を否定する必要があり、義輝の「輝」ではなく、それよりも格式が高いとされた将軍家の通字「義」と求めたとみられている<ref>長塚孝「氏康と古河公方の政治関係」黒田基樹編 『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6 P248-252.</ref>。}}。
また、6代将軍[[足利義教|義教]]の子[[足利政知|政知]]は新任の鎌倉公方として関東に下向したが、混乱の最中にあった鎌倉に入ることが叶わず、[[伊豆国|伊豆]]に居を構えて[[堀越公方]]を称した。後に堀越公方家は子の[[足利茶々丸|茶々丸]]が[[北条早雲]]に滅ぼされて2代で絶えたが、茶々丸の異母弟・[[足利義澄|義澄]]が将軍家を継いだため、11代義澄から15代義昭までの室町将軍は全て堀越公方家の血統となった。
第2代古河公方足利政氏の子[[足利義明|義明]]は、兄・高基との対立から[[下総国]]で[[小弓公方]]を称して自立するが、[[北条氏綱]]に討たれて滅亡する。しかし、[[里見氏]]に保護されていた義明の子孫である足利国朝、足利頼氏が[[豊臣政権]]によって取り立てられて[[喜連川氏]]を称した。
義昭の死後、足利将軍家は絶えたかに見えるが、[[阿波国]]では足利義維の子孫が[[江戸時代]]末まで平島と姓を変えて続いた([[平島公方]])ほか、義輝の遺児といわれる[[尾池義辰]]の子である[[西山至之]]の子孫が[[熊本藩]]士として、義昭の子とされる[[一色義喬]]の孫である[[坂本義邵]]の子孫が[[会津藩]]士として、同じく義昭の子といわれる[[永山義在]]の子孫が[[薩摩藩]]士として続いた。
=== 御一家 ===
{{main|御一家}}
足利将軍家は足利氏の一門・庶家を御一家衆として[[室町幕府]]の[[守護]]・側近あるいは遠国に[[知行]]する者を[[京都扶持衆]]として遇した。
[[吉良氏|吉良家]]と[[今川氏|今川家]]は足利宗家を継ぐ者がいなかったときの継承者を出す格式であったとの伝承があるが、実際に宗家を継承した例はない。
また、御一家のうちでも[[渋川氏|渋川家]]、[[石橋氏|石橋家]]などは将軍家[[連枝]]として高い家格を有した。
一方、足利氏の一門のうち'''[[斯波氏|斯波家]]'''の格式は別格であった。ところが、斯波家は御一家衆としての待遇に預かることは出来なかった。これは御一家衆の組織が鎌倉公方家のみならず、[[管領]]・[[守護大名]]として幕府の中でも屈指の立場を確立した斯波家への牽制を目的にしていたからとも言われている<ref name=taniguchi/>。
== 足利将軍家及び鎌倉公方・古河公方足利家略系図年表==
[[image:ASHIKAGA-SHOGUN.jpg|700px|足利将軍家及び鎌倉公方・古河公方足利家略系図年表]]
(改名は主なものだけを図示し、網羅してはいない)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ashikaga Shoguns}}
*[[源氏将軍]]
*[[足利将軍一覧]]
*[[足利氏]]
*[[多田神社]](旧多田院)
*[[等持院]]
*[[福海寺]]
*[[足利三代木像梟首事件]]
*[[御内書]]
*[[骨喰藤四郎|骨食]] - 足利将軍家の[[薙刀]]
*[[大草流庖丁道]]
{{室町幕府将軍}}
{{DEFAULTSORT:しようくんけあしかかし}}
[[Category:足利将軍家|!]]
[[Category:公家の家系]]
[[Category:室町幕府]]
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明大前駅
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明大前駅(めいだいまええき)は、東京都世田谷区松原二丁目にある、京王電鉄の駅である。井の頭北管区所属で、管区長所在駅である。
京王線、井の頭線の主要駅であり、相互間の接続駅となっている。駅名の通り、甲州街道(国道20号)を挟んで北側に明治大学の和泉キャンパスが位置している。2017年より列車接近メロディに「明治大学校歌」を採用している(京王線にのみで井の頭線には採用されていない)。但し下り京王ライナー及びMt.TAKAO号は京王線新宿駅と同じ京王ライナー入線曲が鳴動され、降車専用扱いとなる上りはどちらも鳴動しない。
2007年5月24日に駅ビルのフレンテ明大前が開業した。これに先立ち、同年3月31日から井の頭線下りホームに出口専用改札口であるフレンテ口が供用開始された。フレンテ明大前の一部店舗は井の頭線下りホームにある。
京王線と井の頭線の交差駅であり、各路線に駅番号が与えられている。
元々は東京山手急行電鉄(未成線)の第二山手線構想の中で、山手急行との接続駅になる予定だった。そのため、駅から吉祥寺寄りにある玉川上水の水道橋の部分には、帝都電鉄(=井の頭線)と山手急行の4線分の複々線のスペースが確保されている。また、ホームの渋谷寄りにある京王線との立体交差部分にも4線分のスペースが確保されており、エレベーター設置スペースや資材置場・飯場設置スペースに転用されている。
1934年に、明治大学予科が駅の近くに移転したのに伴い、翌年「明大前」(明治大学前)と改称された。名前の由来となった明治大学和泉校舎は、甲州街道(国道20号)を挟んで北側にある。
また、開業時の駅名「火薬庫前」は、甲州街道沿いに江戸時代に徳川幕府の煙硝蔵(鉄砲・火薬などの貯蔵施設)があったことに由来する。この周辺地域では野火などの火の用心のためか、特に禁猟となっていた。明治時代になり陸軍管轄になった火薬庫は、あまり使われなかったようである。その後の関東大震災を機に被災した築地本願寺の墓地が当地に移転し、現在の築地本願寺和田堀廟所となっている。
その後改称された「松原」は当地のかつての村名である。
京王線・井の頭線ともに相対式ホーム2面2線を有しており、2階が京王線ホーム、1階が改札口、地下1階が井の頭線ホームの3層構造である。
エスカレーターは井の頭線下りホーム - 改札内コンコース間と井の頭線上りホーム - 京王線上りホーム間をそれぞれ連絡しており、前者は上り専用で、後者は渋谷寄りが上り専用、吉祥寺寄りが下り専用である。エレベーターは井の頭線下りホーム - 改札内コンコース間、改札内コンコース - 京王線下りホーム間、井の頭線上りホーム - 改札内コンコース - 京王線上りホーム間をそれぞれ連絡している。なおそれらとは別に、井の頭線下りホームには、出場専用の改札口(フレンテ口)があり、上りエスカレーターで駅ビル「フレンテ明大前」内を経由して地上(駅舎外)へ出ることができる。
改札内コンコースと井の頭線下りホームに店舗が出店しており、後者は「フレンテ明大前」開業後は同ビルの駅ナカ店舗の扱いとなっている。同ビルの工事開始以前は下りホーム中央部に「無事湖」と称する人工池が存在した。
トイレは1階改札内にあり、2013年3月に改装された。ユニバーサルデザインの一環であるだれでもトイレも設置されている。
2001年2月には、ホームの屋根に太陽光発電システムが導入され、発電した電力を駅の電気施設に供給している。このシステムは、新エネルギー・産業技術総合開発機構との共同研究により設置したもので、最大発電容量は30キロワットである。
京王線では当駅を含む高架化計画があり、完成すると現在の相対式2面2線から島式2面4線に増強される。
各年度の1日平均乗降・乗換人員は下表の通り。
各年度の1日平均乗車人員推移は下記の通り。
駅前の広場は道路の幅が狭かったため、ロータリーはない。2006年に進入道路の拡幅工事が完了し、アクセスの向上が図られたものの、車両用ロータリーは整備されなかった(2013年12月14日現在、コインパーキングが設置されているが、地元商店街のイベント等で閉鎖されることもあり注意が必要)。この道路は都市計画道路補助第154号線で、京王線の高架化にあわせ、駅南側に新たな広場ができる予定である。
北に明治大学和泉校舎があり、学生向けに喫茶店や文具店、ファーストフード店、安価な食堂などがあるが、駅前商店街としてはそれ程大きい規模ではない。
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"text": "2001年2月には、ホームの屋根に太陽光発電システムが導入され、発電した電力を駅の電気施設に供給している。このシステムは、新エネルギー・産業技術総合開発機構との共同研究により設置したもので、最大発電容量は30キロワットである。",
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明大前駅(めいだいまええき)は、東京都世田谷区松原二丁目にある、京王電鉄の駅である。井の頭北管区所属で、管区長所在駅である。
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{{駅情報
|社色 = #d07
|文字色 =
|駅名 = 明大前駅
|画像 = Meidaimae-sta.JPG
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎(2011年9月)<br />左端の建物はフレンテ明大前
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = めいだいまえ
|ローマ字 = Meidaimae
|所属事業者 = [[京王電鉄]]
|所在地 = [[東京都]][[世田谷区]][[松原 (世田谷区)|松原]]二丁目45番1号
|座標 = {{Coord|35|40|6.3|N|139|39|1.8|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月15日]]
|駅構造 = [[高架駅]]([[地上駅]])
|ホーム = 各2面2線
|乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />(京王線)48,752人/日<br />(井の頭線)37,476人/日<br />(合計)86,228
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#dd0074|■}}[[京王線]]
|前の駅1 = KO05 [[代田橋駅|代田橋]]
|駅間A1 = 0.8
|駅間B1 = 0.9
|次の駅1 = [[下高井戸駅|下高井戸]] KO07
|キロ程1 = 5.2
|起点駅1 = [[新宿駅|新宿]]
|駅番号1 = {{駅番号r|KO|06|#dd0089|5}}
|所属路線2 = {{color|#000074|■}}[[京王井の頭線|井の頭線]]
|前の駅2 = IN07 [[東松原駅|東松原]]
|駅間A2 = 0.9
|駅間B2 = 1.1
|次の駅2 = [[永福町駅|永福町]] IN09
|キロ程2 = 4.9
|起点駅2 = [[渋谷駅|渋谷]]
|駅番号2 = {{駅番号r|IN|08|#000074|5}}
|乗換 =
|備考 =
}}
'''明大前駅'''(めいだいまええき)は、[[東京都]][[世田谷区]][[松原 (世田谷区)|松原]]二丁目にある、[[京王電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。井の頭北管区所属で、管区長所在駅である。
== 概説 ==
京王線、井の頭線の主要駅であり、相互間の接続駅となっている。駅名の通り、[[甲州街道]]([[国道20号]])を挟んで北側に[[明治大学]]の[[明治大学和泉キャンパス|和泉キャンパス]]が位置している。2017年より[[発車メロディ#接近メロディ|列車接近メロディ]]に「[[:s:明治大学校歌|明治大学校歌]]」を採用している(京王線にのみで井の頭線には採用されていない)。但し下り京王ライナー及びMt.TAKAO号は京王線新宿駅と同じ京王ライナー入線曲が鳴動され、降車専用扱いとなる上りはどちらも鳴動しない。
[[2007年]][[5月24日]]に[[駅ビル]]の[[京王クラウン街|フレンテ明大前]]が開業した。これに先立ち、同年[[3月31日]]から井の頭線下りホームに出口専用[[改札|改札口]]であるフレンテ口が供用開始された。フレンテ明大前の一部店舗は井の頭線下りホームにある。
=== 乗り入れ路線 ===
[[京王線]]と[[京王井の頭線|井の頭線]]の交差駅であり、各路線に[[駅ナンバリング|駅番号]]が与えられている。
* [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 - 駅番号「'''KO06'''」
* [[File:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|15px|IN]] 井の頭線 - 駅番号「'''IN08'''」
== 沿革 ==
元々は[[東京山手急行電鉄]]([[未成線]])の第二山手線構想の中で、山手急行との接続駅になる予定だった。そのため、駅から吉祥寺寄りにある[[玉川上水]]の水道橋の部分には、帝都電鉄(=井の頭線)と山手急行の4線分の[[複々線]]のスペースが確保されている<ref>{{Cite book|和書|year=1992|publisher=[[山と溪谷社]]|title=日本の私鉄109|page=48|isbn=}}</ref>。また、ホームの渋谷寄りにある京王線との[[立体交差]]部分にも4線分のスペースが確保されており、エレベーター設置スペースや資材置場・飯場設置スペースに転用されている。
=== 京王線 ===
[[File:戦前の京王線明大前駅ホーム.jpg|thumb|220px|right|戦前の京王線ホーム]]
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月15日]] - 京王電気軌道の'''火薬庫前駅'''として開業。
* [[1917年]](大正6年) - '''松原駅'''に改称。
* [[1935年]]([[昭和]]10年)[[2月8日]] - '''明大前駅'''に改称。
* [[1944年]](昭和19年)[[5月31日]] - [[東京急行電鉄]]([[大東急]])に併合。同社京王線の駅となる。
* [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]] - 東急から京王帝都電鉄が分離。同社の駅となる
* [[2001年]]([[平成]]13年)[[3月27日]] - [[ダイヤ改正|ダイヤ改定]]により準特急が新設され、停車駅となる<ref>{{Cite journal ja-jp |author=平澤崇 |year=2001 |month=5 |title=京王電鉄のダイヤ改正は高速志向 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻415号 |page= 57 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[2月22日]] - '''KO06'''の[[駅ナンバリング]]を導入。
* [[2014年]](平成26年)[[2月28日]] - 連続立体交差事業に着手<ref name="pr20140228">{{Cite press release|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2014/02/20o2s100.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200411110836/https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2014/02/20o2s100.html|language=日本語|title=京王線の連続立体交差事業に着手します ―笹塚駅から仙川駅間の「開かずの踏切※」25箇所を除却します―|publisher=東京都建設局|date=2014-02-28|accessdate=2020-04-11|archivedate=2020-04-11}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[3月25日]] - [[発車メロディ#接近メロディ|列車接近メロディ]]を「明治大学校歌」に変更<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2016/nr170317_meidaimaeekimelody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181230081125/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2016/nr170317_meidaimaeekimelody.pdf|format=PDF|language=日本語|title=―3月25日(土)始発から― 京王線明大前駅の列車接近メロディーが明治大学校歌に! 〜京王沿線で校歌の導入は初!〜|publisher=京王電鉄/明治大学|date=2017-03-17|accessdate=2020-04-11|archivedate=2018-12-30}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月27日]] - 定期券売り場が営業を終了<ref name="close">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr200210v2056/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200729054956/https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr200210v2056/index.html|format=PDF|language=日本語|title=一部駅の定期券発売窓口閉鎖について|publisher=京王電鉄|date=2020-02-10|accessdate=2022-03-28|archivedate=2020-07-29}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[10月30日]] - 土休日の「[[京王ライナー]]」および「[[京王ライナー#Mt.TAKAO号|Mt.TAKAO号]]」の停車(客扱い)を開始<ref name="Keio20211030">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20210924_Mt.TAKAOmeidaimae.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211021020926/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20210924_Mt.TAKAOmeidaimae.pdf|format=PDF|language=日本語|title=10月30日(土)から、土・休日の「京王ライナー」および「Mt.TAKAO号」の停車駅に明大前を新たに追加します! 井の頭線のお乗り換えとあわせたご利用が可能に!|publisher=京王電鉄|date=2021-09-24|accessdate=2021-11-06|archivedate=2021-10-21}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[3月12日]] - ダイヤ改正により準特急が特急に吸収される形で廃止。また、終日「京王ライナー」の停車駅となる<ref name="Keio20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20220127_daiya.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127090428/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20220127_daiya.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年3月12日(土)始発から京王線ダイヤ改正を実施します 平日も京王ライナーの停車駅に明大前が加わります。|publisher=京王電鉄|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref><ref name="Keio20211210">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20211210_daiya.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211213181936/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20211210_daiya.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年春 「さらに便利で快適な移動」が実現 京王線 ダイヤ改正を実施します|publisher=京王電鉄|date=2021-12-10|accessdate=2021-12-19|archivedate=2021-12-13}}</ref>。
=== 井の頭線 ===
[[File:井の頭線明大前駅ホーム.jpg|thumb|220px|right|戦前の井の頭線ホーム]]
* [[1933年]]([[昭和]]8年)[[8月1日]] - 帝都電鉄の'''西松原駅'''として開業。
* [[1935年]](昭和10年)[[2月8日]] - '''明大前駅'''に改称。
* [[1940年]](昭和15年)[[5月1日]] - 小田原急行鉄道に合併し、同社帝都線の駅となる。
* [[1942年]](昭和17年)5月1日 - [[小田急電鉄]]が[[東京急行電鉄]]([[大東急]])に併合。
* [[1948年]](昭和23年)6月1日 - 東急から京王帝都電鉄が分離し、同社井の頭線の駅となる。
* [[2005年]]([[平成]]17年)[[11月]] - 井の頭線下りホームの売店が改修のため閉鎖。
* [[2007年]](平成19年)[[5月24日]] - 駅ビル「フレンテ明大前」が開業<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.keio.co.jp/news/nr070427v01/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070515092202/http://www.keio.co.jp/news/nr070427v01/index.html|language=日本語|title=明大前駅に新しいランドマークが誕生 複合商業施設「フレンテ明大前」が5月24日(木)にオープンします|publisher=京王電鉄|date=2007-04-27|accessdate=2021-05-03|archivedate=2007-05-15}}</ref>。井の頭線とは下りホームのフレンテ口と接続。
* [[2013年]](平成25年)2月22日 - '''IN08'''の駅ナンバリングを導入。
* [[2016年]](平成28年)[[12月]] - 吉祥寺寄りに非常時用の渡り線を設置するための工事が開始。
* [[2017年]](平成29年) - 渡り線開設。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月27日]] - 定期券売り場が営業を終了<ref name="close" />。
[[File:Meiji University Izumi Campus in 1935.jpg|thumb|220px|right|明治大学和泉予科校舎(1935年)]]
=== 駅名の由来 ===
[[1934年]]に、[[明治大学]][[大学予科|予科]]が駅の近くに移転したのに伴い、翌年「'''明大前'''」(明治大学前)と改称された。名前の由来となった[[明治大学和泉キャンパス|明治大学和泉校舎]]は、甲州街道(国道20号)を挟んで北側にある。
また、開業時の駅名「[[火薬庫]]前」は、甲州街道沿いに[[江戸時代]]に[[江戸幕府|徳川幕府]]の煙硝蔵([[鉄砲]]・[[火薬]]などの貯蔵施設)があったことに由来する。この周辺地域では[[火災|野火]]などの火の用心のためか、特に禁猟となっていた。[[明治|明治時代]]になり[[大日本帝国陸軍|陸軍]]管轄になった火薬庫は、あまり使われなかったようである。その後の[[関東大震災]]を機に被災した築地本願寺の[[墓地]]が当地に移転し、現在の[[築地本願寺和田堀廟所]]となっている。
その後改称された「松原」は当地のかつての村名である<ref>今尾恵介『消えた駅名』([[東京堂出版]])、p.90。</ref>。{{clear}}
== 駅構造 ==
{{出典の明記|section=1|date=2019年11月}}
京王線・井の頭線ともに[[相対式ホーム]]2面2線を有しており、2階が京王線ホーム、1階が[[改札|改札口]]、地下1階が井の頭線ホームの3層構造である。
[[エスカレーター]]は井の頭線下りホーム - 改札内[[コンコース]]間と井の頭線上りホーム - 京王線上りホーム間をそれぞれ連絡しており、前者は上り専用で、後者は渋谷寄りが上り専用、吉祥寺寄りが下り専用である。[[エレベーター]]は井の頭線下りホーム - 改札内コンコース間、改札内コンコース - 京王線下りホーム間、井の頭線上りホーム - 改札内コンコース - 京王線上りホーム間をそれぞれ連絡している。なおそれらとは別に、井の頭線下りホームには、出場専用の改札口(フレンテ口)があり、上りエスカレーターで駅ビル「フレンテ明大前」内を経由して地上(駅舎外)へ出ることができる。
改札内コンコースと井の頭線下りホームに店舗が出店しており、後者は「フレンテ明大前」開業後は同ビルの駅ナカ店舗の扱いとなっている。同ビルの工事開始以前は下りホーム中央部に「無事湖」と称する人工池が存在した。
[[便所|トイレ]]は1階改札内にあり、[[2013年]][[3月]]に改装された。[[ユニバーサルデザイン]]の一環であるだれでもトイレも設置されている。
[[2001年]]2月には、ホームの屋根に[[太陽光発電]]システムが導入され、発電した電力を駅の電気施設に供給している。このシステムは、[[新エネルギー・産業技術総合開発機構]]との共同研究<ref>[http://www.nedo.go.jp/nedata/16fy/01/d/0001d009.html NEDO 産業等用太陽光発電フィールドテスト事業 平成12年度] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071018050823/http://www.nedo.go.jp/nedata/16fy/01/d/0001d009.html |date=2007年10月18日 }}</ref><ref>[http://www.keio.co.jp/company/environment/environmental_problems/index.html 環境保全への取り組み 京王グループ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121103100628/http://www.keio.co.jp/company/environment/environmental_problems/index.html |date=2012年11月3日 }}</ref>により設置したもので、最大発電容量は30[[ワット|キロワット]]である。
京王線では当駅を含む高架化計画があり、完成すると現在の相対式2面2線から島式2面4線に増強される<ref name="pr20140228"/>。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
|colspan="4" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''京王線ホーム(2階)'''
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線
|style="text-align:center"|下り
|[[調布駅|調布]]・[[橋本駅_(神奈川県)|橋本]]・[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[高尾山口駅|高尾山口]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[笹塚駅|笹塚]]・[[新宿駅|新宿]]・[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|{{Smaller|都営}}新宿線]]方面
|-
|colspan="4" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''井の頭線ホーム(地下1階)'''
|-
!3
|rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|15px|IN]] 井の頭線
|style="text-align:center"|下り
|[[永福町駅|永福町]]・[[久我山駅|久我山]]・[[吉祥寺駅|吉祥寺]]方面
|-
!4
|style="text-align:center"|上り
|[[下北沢駅|下北沢]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面
|}
* ごく一部の列車を除き、原則として京王線と井の頭線の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]は接続が図られていない(ダイヤのパターンサイクルも異なる)。そのため、例えば京王線の特急と井の頭線の急行が乗り換えられるとは限らない。
* 新宿行の列車は「'''{{Smaller|京王線}}新宿行'''」と案内される。これは京王線の新宿駅(1 - 3番線)と[[京王新線]]の[[新宿駅#京王電鉄(京王新線)・東京都交通局(都営地下鉄新宿線)|新宿駅]](4・5番線)を区別するためである。[[代田橋駅]]・笹塚駅でも同様の案内が行われている。
* 「[[京王ライナー]]」及び「[[京王ライナー#Mt.TAKAO号|Mt.TAKAO号]]」は、2021年10月30日より土曜・休日ダイヤにおける停車駅に加わり<ref name="Keio20211030"/>、2022年3月12日からは平日ダイヤも含め全列車が停車するようになった<ref name="Keio20220127"/><ref name="Keio20211210"/>。それ以前の同列車は、当駅前後の踏切を正常に作動させるため[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]を行うのみで、乗降はできなかった<ref name="trafficnews-93570">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/93570/2 |title=浜松発車の「サンライズ瀬戸・出雲」次の駅は400km先の姫路? 時刻表に出ない運転停車 |publisher=乗りものニュース|accessdate=2020-1-16|language=ja}}</ref><ref name="liner">{{Cite news|title=京王電鉄の座席指定列車「京王ライナー」が2月22日にデビュー 調布駅の通過に賛否も|newspaper=ライブドアニュース|date=2016-02-25|url=https://news.livedoor.com/article/detail/14350269/|accessdate=2018-02-26}}</ref>。なお、いずれも下りは乗車専用、上りは降車専用となるため、{{Smaller|京王線}}新宿駅 - 当駅間のみの利用はできない<ref name="Keio20211030"/>。
* 井の頭線吉祥寺寄りに渡り線を設置する工事が2016年12月頃より始まり、2017年11月より使用を開始した。2018年2月22日実施のダイヤ改正で、深夜に吉祥寺発の当駅止まりが1本設定されたが、当駅始発は設定されていない。
<gallery>
Meidaimae-STA Central-Gate.jpg|中央口改札(2023年4月)
Meidaimae-STA Platform1-2.jpg|京王線1・2番線ホーム(2023年4月)
Meidaimae-STA Platform3-4.jpg|井の頭線3・4番線ホーム(2023年4月)
</gallery>
== 利用状況 ==
* '''京王電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''86,228人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。
** '''京王線⇔井の頭線乗換''' - 2022年度の1日平均'''乗換'''人員は'''145,276人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。
** '''京王線''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''48,752人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。
**: 京王線の駅では[[初台駅]]に次いで第13位。
** '''井の頭線''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''37,476人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。
**: 井の頭線の駅では[[下北沢駅]]に次いで第4位。
=== 年度別1日平均乗降・乗換人員 ===
各年度の1日平均'''乗降・乗換'''人員は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="setagaya">[https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/kusei/001/003/005/d00050936.html 世田谷区統計書] - 世田谷区</ref>
!rowspan=3|年度
!colspan=5|京王帝都電鉄 / 京王電鉄
|-
!colspan=2|京王線
!rowspan=2|京王線<br />井の頭線<br />乗換人員
!colspan=2|井の頭線
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|1955年(昭和30年)
|16,630||
|40,112
|12,394||
|-
|1960年(昭和35年)
|21,274||
|61,446
|16,990||
|-
|1965年(昭和40年)
|29,748||
|86,047
|22,359||
|-
|1970年(昭和45年)
|31,247||
|102,865
|20,822||
|-
|1975年(昭和50年)
|34,495||
|121,160
|23,171||
|-
|1980年(昭和55年)
|31,807||
|141,026
|34,261||
|-
|1983年(昭和58年)
| ||
|
|38,209||
|-
|1985年(昭和60年)
|37,738||
|158,916
|28,528||
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|41,704||
|167,044
|28,500||
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|42,461||1.8%
|
| ||
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|40,231||
|164,950
|26,308||
|-
|2000年(平成12年)
|39,559||
|162,660
|24,457||
|-
|2003年(平成13年)
|40,201||−0.8%
|168,559
|24,473||0.3%
|-
|2004年(平成14年)
|40,250||0.1%
|168,215
|24,468||−0.0%
|-
|2005年(平成17年)
|40,966||1.8%
|168,929
|25,052||2.4%
|-
|2006年(平成18年)
|41,572||1.5%
|171,785
|25,300||1.0%
|-
|2007年(平成19年)
|47,667||14.7%
|171,785
|30,671||21.2%
|-
|2008年(平成20年)
|49,607||4.1%
|172,530
|32,943||7.4%
|-
|2009年(平成21年)
|50,293||1.4%
|171,646
|33,406||1.4%
|-
|2010年(平成22年)
|50,800||1.0%
|169,727
|33,716||0.9%
|-
|2011年(平成23年)
|49,433||−2.7%
|169,104
|33,684||−0.1%
|-
|2012年(平成24年)
|49,647||0.4%
|172,727
|34,865||3.5%
|-
|2013年(平成25年)
|49,487||−0.3%
|172,881
|34,558||−0.9%
|-
|2014年(平成26年)
|52,885||6.9%
|171,224
|38,141||10.4%
|-
|2015年(平成27年)
|60,135||13.7%
|176,100
|44,473||16.6%
|-
|2016年(平成28年)
|61,476||2.2%
|178,289
|45,918||3.2%
|-
|2017年(平成29年)
|61,969||0.8%
|179,502
|46,262||0.7%
|-
|2018年(平成30年)
|63,014||1.7%
|180,019
|47,230||2.1%
|-
|2019年(令和元年)
|63,198||0.3%
|177,098
|47,763||1.1%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|34,326||−45.7%
|119,745
|26,342||−44.8%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-08-02 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink=2023-08-02 |}}</ref>43,039||25.4%
|132,537
|<ref group="京王" name="keio2021"/>32,966||25.1%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-08-02 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>48,752||13.3%
|145,276
|<ref group="京王" name="keio2022" />37,476||13.7%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1930年代) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!京王帝都電鉄!!出典
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|<ref group="注釈">1933年8月1日開業。</ref> 651
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/337?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|875
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/345?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|1,413
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/343?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1956年 - 2000年) ===
* 1956年度 - 1973年度の値には、各線内の乗換人員を含む(1958年度除く)。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
<!--1974年度と1975年度の井の頭線の乗車人員データはありませんでした。京王線の乗車人員データと一緒に入れたものと思われます。-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="setagaya" />
!年度!!京王線!!井の頭線!!出典
|-
|1956年(昭和31年)
|31,303
|28,342
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|34,639
|32,442
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|9,963
|7,631
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|38,390
|36,757
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|40,953
|39,391
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|44,858
|42,454
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|48,193
|46,787
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|51,000
|47,970
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|53,834
|51,033
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|57,044
|54,469
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|59,236
|56,243
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|61,165
|57,797
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|62,151
|58,445
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|64,399
|60,909
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|66,356
|62,189
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|68,825
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|-
|1972年(昭和47年)
|72,732
|67,463
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|75,529
|69,153
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|27,937
|
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|28,869
|
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|17,455
|10,710
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|17,663
|10,981
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|17,290
|11,649
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|15,787
|14,929
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|-
|1980年(昭和55年)
|15,956
|15,923
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|16,540
|16,712
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|16,507
|17,425
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|16,191
|18,022
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|-
|1984年(昭和59年)
|17,381
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|-
|1985年(昭和60年)
|18,227
|14,011
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|-
|1986年(昭和61年)
|18,833
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|-
|1987年(昭和62年)
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|-
|1988年(昭和63年)
|20,038
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|-
|1989年(平成元年)
|20,167
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|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|20,795
|14,293
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|21,172
|14,309
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
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|-
|1993年(平成{{0}}5年)
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|-
|1994年(平成{{0}}6年)
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|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|20,068
|13,142
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|19,967
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|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|19,778
|12,408
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|19,723
|12,090
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|19,525
|11,910
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|19,721
|12,121
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降)===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="setagaya" />
!年度!!京王線!!井の頭線!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|20,225
|12,351
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|20,041
|12,093
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|20,085
|12,475
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|20,197
|12,532
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|20,529
|12,978
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|20,770
|13,197
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|23,628
|15,557
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|24,627
|16,682
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|25,003
|16,888
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|25,255
|17,063
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|24,549
|17,022
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|24,699
|17,605
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|24,665
|17,394
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|26,345
|19,101
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|29,877
|22,172
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|30,553
|22,882
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|30,775
|23,016
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|31,268
|23,351
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|31,320
|23,544
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|17,066
|13,014
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 令和2年]</ref>
|}
== 駅周辺 ==
駅前の広場は道路の幅が狭かったため、[[ロータリー交差点|ロータリー]]はない。[[2006年]]に進入道路の拡幅工事が完了し<ref>[https://www.meiji.ac.jp/koho/meidaikouhou/20060501/0605_1_izumimeidaist.html 明治大学広報│第571号] (2006年5月1日発行)</ref>、アクセスの向上が図られたものの、車両用ロータリーは整備されなかった([[2013年]][[12月14日]]現在、コインパーキングが設置されているが、地元商店街のイベント等で閉鎖されることもあり注意が必要)。この道路は都市計画道路補助第154号線で、京王線の高架化にあわせ、駅南側に新たな広場ができる予定である。
北に[[明治大学和泉キャンパス|明治大学和泉校舎]]があり、学生向けに[[喫茶店]]や文具店、[[ファーストフード]]店、安価な[[飲食店|食堂]]などがあるが、駅前[[商店街]]としてはそれ程大きい規模ではない。
* 京王電鉄[[遺失物|お忘れ物]]取扱所(徒歩3分)
* [[京王クラウン街#フレンテ|フレンテ明大前]](駅ビル)
* 和泉給水所
* [[学校法人東放学園|東放学園]]専門学校 杉並校舎
* [[明治大学和泉キャンパス|明治大学和泉校舎]] - 文系学部([[明治大学大学院法学研究科・法学部|法]]・[[明治大学大学院商学研究科・商学部|商]]・[[明治大学大学院政治経済学研究科・政治経済学部|政治経済]]・[[明治大学大学院文学研究科・文学部|文]]・[[明治大学大学院経営学研究科・経営学部|経営]]・[[情報コミュニケーション学部|情報コミュニケーション]]各学部)の[[教養課程と専門課程|教養課程]]で使用。
* [[日本大学鶴ヶ丘高等学校]]
* [[日本女子体育大学附属二階堂高等学校]]
* [[日本学園中学校・高等学校]]
* [[世田谷区役所]] 松原まちづくり出張所
* 世田谷明大前[[郵便局]]
* [[国道20号]](甲州街道)
* [[首都高速4号新宿線]](最寄ランプは[[永福出入口]])
* [[築地本願寺和田堀廟所]]
== ギャラリー ==
<gallery>
Suidokyo-over-Inokashira-Line.JPG|井の頭線を跨ぐ水道橋(2015年9月)<br />線路右側の水道橋下の空き地は[[東京山手急行電鉄]]の建設予定地跡
明治大学和泉キャンパス.JPG|駅名の由来である明治大学和泉キャンパス(2014年10月)
</gallery>
== 隣の駅 ==
;京王電鉄
:[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線
:*{{Color|#dd0077|□}}「[[京王ライナー]]」、{{Color|#9acd32|□}}「[[京王ライナー#Mt.TAKAO号|Mt.TAKAO号]]」停車駅(下りは乗車専用、上りは降車専用)
::{{Color|#ff1493|■}}特急
:::[[笹塚駅]] (KO04) - '''明大前駅 (KO06)''' - [[千歳烏山駅]] (KO12)
::{{Color|#20b2aa|■}}急行・{{Color|olive|■}}区間急行
:::笹塚駅 (KO04) - '''明大前駅 (KO06)''' - [[桜上水駅]] (KO08)
::{{Color|blue|■}}快速
:::笹塚駅 (KO04) - '''明大前駅 (KO06)''' - [[下高井戸駅]] (KO07)
::{{Color|gray|■}}各駅停車
:::[[代田橋駅]] (KO05) - '''明大前駅 (KO06)''' - 下高井戸駅 (KO07)
:[[File:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|15px|IN]] 井の頭線
::{{Color|#20b2aa|■}}急行
:::[[下北沢駅]] (IN05) - '''明大前駅 (IN08)''' - [[永福町駅]] (IN09)
::{{Color|gray|■}}各駅停車
:::[[東松原駅]] (IN07) - '''明大前駅 (IN08)''' - 永福町駅 (IN09)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
;京王電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京王"|3}}
;東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|16em}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|16em}}
;私鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Meidaimae Station}}
* [https://www.keio.co.jp/train/station/ko06in08_meidaimae/ 京王電鉄 明大前駅]
{{京王線}}
{{京王井の頭線}}
{{学校法人明治大学}}
{{DEFAULTSORT:めいたいまええき}}
[[Category:世田谷区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 め|いたいまえ]]
[[Category:京王電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1913年開業の鉄道駅]]
[[Category:明治大学]]
|
2003-08-17T01:58:27Z
|
2023-11-23T13:06:11Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%A4%A7%E5%89%8D%E9%A7%85
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13,370 |
地中海
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地中海(ちちゅうかい、ラテン語: Mare Mediterraneum)は、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた地中海盆地に位置する海である。面積は約250万平方キロメートル、平均水深は約1500メートル。海洋学上の地中海の一つ。
地中海には独立した呼称を持ついくつかの海域が含まれる(エーゲ海、アドリア海など)。地中海と接続する他の海としては、ジブラルタル海峡の西側に大西洋が、ダーダネルス海峡を経た北東にマルマラ海と黒海があり、南東はスエズ運河で紅海と結ばれている(「海域」「地理」で詳述)。
北岸の南ヨーロッパ、東岸の中近東、南岸の北アフリカは古代から往来が盛んで、「地中海世界」と総称されることもある。
地中海を指す Mediterranean という語は、「大地の真ん中」を意味するラテン語の mediterraneus メディテッラーネウス(medius 「真ん中」 + terra 「土、大地」)に由来する。またギリシア語では、これと全く同じ造語法でもって、mesogeios(μεσογειος)と呼んでいた。
歴史的には、他にも各国語で様々に呼ばれてきたことが古文書などを通じて明らかになっている。たとえば古代ローマ時代のラテン語では mare nostrum と呼ばれたが、これは「我らが海」という意味であった。聖書には「偉大なる海」あるいは「西の海」として登場している。近代のヘブライ語では、"ha-Yam ha-Tichon"(הים התיכון、"the middle sea") と呼ばれ、その語義はドイツ語 Mittelmeer と変わるところがない。トルコ語では Akdeniz と言い、これは「黒海」 Karadeniz に対する「白海」という意味である。アラビア語では Al-Baḥr Al-'Abiaḍ Al-Muttawasit(البحر الأبيض المتوسط)と呼んで、「中央の白い海」という意味合いになっている。
近年の英語では、"The Med" という短縮語が、地中海とそれを取り巻く周辺地域を日常の会話で語る場合の共通の語として用いられている。
正確には、西をジブラルタル海峡で大西洋と接し、東はダーダネルス海峡とボスポラス海峡を挟んでマルマラ海と黒海につながる海をいう。マルマラ海を地中海に含めることもあるが、黒海を含めることはしない。19世紀に掘削されたスエズ運河の開通以降は紅海を経由してインド洋につながる。
内海であるため、比較的波が穏やかである。また沿岸は複雑な海岸線に富んでいるため良港に恵まれ、3つの大陸(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)を往来することができる。こうした条件から、地中海は古代から海上貿易が盛んで、古代ギリシア文明、ローマ帝国などの揺籃となった。21世紀初頭の現在も世界の海上交通の要衝の一つである。
地中海の沿岸は夏に乾燥、冬に湿潤となり、地中海性気候と呼ばれる。この気候のため、オリーブ等の樹木性作物の栽培が盛んであるほか、夏のまばゆい太陽や冬季の温和な気候を求めて太陽に恵まれない地域から多くの観光客が訪れる。
下記のように巨大なプレートの衝突によって形成された海であるため、火山が点在し、ヴェスヴィオ山やエトナ山、サントリーニ島など現代に至るまで活発に活動を続ける火山も多い。地震も頻発する。
内海であり、西端のジブラルタル海峡のみ でしか外海と接続のないことは、地中海の海水循環に大きな影響を与えている。ジブラルタル海峡は狭く浅いため、北大西洋海流のような外洋の大きな海流の直接の流入はない。大西洋からの海水の流入と、ナイル川などの地中海に流入する河川の水量をあわせても海面からの蒸発量が大幅に上回るため、塩分濃度が高く、潮位が低くなっている。
蒸発量は気温が高く乾燥の度合いの強い地中海東部においてより激しく、そのため東部では水面が低く塩分濃度も高い。こうして低くなった東部には大西洋から西部を通じて低塩分の海水が流れ込み、東の高塩分水はそれによって西へと押し出され、ジブラルタル海峡より大西洋へと戻る。このため、地中海の表層の海流は軽い低塩分水が東へと流れ、深層海流は重い高塩分水が西へと向かっている。地中海から流れ出た高塩分水は大西洋で数千kmも特徴を保ち続ける。
しかし全般的に言って、地中海の潮流は非常に弱い。閉鎖性水域であり、海水の循環が不十分であるうえに、沿岸人口は3億6000万人を超える世界でも開発の進んだ地域の一つであることによって、地中海の水質悪化が懸念されている。
約2億年前ないし約1億8000万年前、パンゲア大陸が南のゴンドワナ大陸と北のローラシア大陸へと分裂し始め, テチス海が誕生した。テチス海は現在の地中海の原型にあたり、古地中海とも呼ばれる。テチス海は、地殻変動が繰り返され現在のユーラシア大陸やアフリカ大陸が形成されていく中で、カスピ海や黒海を切り離す形で縮小してきた。
中新世末期のメッシーナ期(7.246±0.005百万年前 - 5.332±0.005百万年前)には一時的に大西洋との間で断絶が起き、596万年前から533万年前にかけてメッシニアン塩分危機(en(英語版))が起こり、テチス海は塩湖化しながら縮小もしくは完全に干上がった時期が確認されている。
533万年前、再び大西洋とジブラルタル海峡で繋がると、200年以上かけて海水が流れ込むザンクリアン洪水(英語版)によって、地中海が形成された。塩湖からの影響で地中海は現在も大西洋より塩分濃度が高くなっている。
地中海沿岸の多くは、夏は南方のサハラ砂漠方面から北上してくる高気圧によって乾燥し、晴天に恵まれる。一方、冬は北方から南下してくる低気圧によって雨が降り、湿潤な気候となる。この特徴的な気候はスペインからイタリア半島、ギリシャ、アナトリア半島(トルコ共和国)、マグリブ諸国のアトラス山脈以北などに分布し、ケッペンの気候区分においても地中海性気候(Cs)と呼ばれる独立した一区分となっている。一方、地中海でも緯度の低いリビアやエジプト沿岸においては、ハドレー循環による北緯20度から30度にかけての亜熱帯高圧帯の直下に位置し、高気圧に一年中覆われる。このため、ナフサ山地によって海風が山にぶつかるトリポリタニア北部と、同じくアフダル山地にぶつかるキレナイカ北部を除き、砂漠地帯が広がっている。
また、前述した高気圧と低気圧の移動に伴い、地中海は多数の局地風があることで知られる。夏に南から吹く風としては、イタリアのシロッコ、リビアのギブリなどがある。ギブリは乾燥しているが、シロッコは地中海を越えてくるために蒸し暑い風となる。冬は逆に、北から強風が吹くようになる。アドリア海のボーラ、フランスのミストラルなど、寒く乾燥した風が多い。
地中海沿岸は古くより多くの民族が栄えてきた。最初に文明が栄えたのは東地中海で、古代エジプト文明をはじめ、アナトリアのヒッタイトやクレタ島のミノア文明、古代ギリシアのミケーネ文明などが盛んに交易を行っていた。中でもミノア文明は地中海のただなかにあり、沿岸の各文明と盛んに交易していた。しかし、紀元前1200年頃、前1200年のカタストロフと呼ばれる大変動がこの地域を襲い、海の民と呼ばれる人々の襲撃によってヒッタイト、ミノア、ミケーネは崩壊。エジプトも大きく力を落とした。
やがて、紀元前12世紀頃から、地中海東端、現在のレバノン付近に居住していたフェニキア人が地中海交易を開始する。ついで古代ギリシア諸都市も沿岸交易を開始し、地中海沿岸にはフェニキアとギリシアの多くの植民都市が建設されていった。イスタンブール(ビザンチウム)、ナポリ(ネアポリス)、マルセイユ(マッサリア)、パレルモ、メッシーナ、シラクサなど、この植民都市に起源を持つ都市は現在でも多く残っている。この時期から、地中海においてはガレー船が多用されるようになった。地中海では風向きが安定しないため純帆船の使用は遅れ、17世紀に技術進歩によって帆船にとってかわられるまではガレー船が地中海の船舶の主流となっていた。
紀元前8世紀にフェニキアが政治的独立を失ったものの、植民都市の一つカルタゴが強大化し、地中海西部に覇を唱えるようになった。一方、地中海中央部では共和政ローマが強大化し、3度にわたるポエニ戦争によってカルタゴを滅亡させた。ローマはさらにギリシア諸都市や沿岸諸国を次々と占領していき、最終的に紀元前30年にプトレマイオス朝エジプトを併合して、地中海はローマ帝国の内海となり、「我らが海」(Mare Nostrum)と呼ばれるようになった。ローマの外港であるオスティアは拡大整備され、地中海沿岸各地に広がる属州から、ローマを支える大量の穀物や各種商品が運び込まれた。地中海全域が統一政府の下に置かれたことで海運は活発化し、地中海全域が一つの経済圏となった。
ローマ帝国の東西分裂と西ローマ帝国の崩壊は地中海にも混乱をもたらし、ゲルマン民族の大移動によってやって来たゲルマン人が地中海を渡り、西ゴート王国やヴァンダル王国を建国した。一時的に東ローマ帝国がユスティニアヌス1世の下でイタリア半島や北アフリカを回復したものの、7世紀に入るとイスラム帝国が地中海地域に進攻を開始し、8世紀には地中海南岸および東岸を領域化した。これに対し地中海北岸はフランク王国の主導の下でキリスト教圏に留まり、これによって地中海世界は異なる二つの文明体系に分裂することとなった。キリスト教圏においてもこの頃、東ローマ帝国のギリシア正教圏と、ローマ教皇およびフランク王国のローマ・カトリック圏とに大きく分かれ、異なった文明となっていった。
イスラム帝国の侵攻とフランク王国経済の重心が北部に移動したことにより、一時衰退した地中海交易は、9世紀に入ると、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアといったイタリア半島の諸都市が地中海交易に乗り出し、交易が再び盛んとなった。やがて徐々に力を蓄えたヨーロッパ諸国は東方への進出を試み、1095年に始まる第一次十字軍によってエルサレムを中心に地中海東岸にいくつかの十字軍国家が建設された。この後、7度を数える十字軍が起こされたが、十字軍諸国家は12世紀末以降徐々に衰退し、1187年にはアイユーブ朝を興したサラーフッディーンによってエルサレムがイスラム側に再占領された。これにより再び十字軍が組織されたが、第三回十字軍はエルサレム奪回に失敗。第四回十字軍はイスラムではなく東ローマ帝国に矛先を向け、1204年に東ローマの首都コンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が一時滅亡し、ラテン帝国が建国された。第一回十字軍は陸路を取ったものの、第二回十字軍以降は海路での侵攻が主流となった。この軍輸送はイタリア半島の交易都市群によって負担され、この頃までにはこの大軍を輸送するだけの輸送力をこれらの諸都市が持っていたことをあらわしている。この十字軍は一面で地中海の移動の活発化をもたらし、これ以降交易や文化交流は一層盛んとなった。ジェノヴァやヴェネツィア、アドリア海対岸のドゥブロヴニク(ラグーザ共和国)などが大貿易都市として栄え、この交易によって蓄えられた富や知識を基に、やがてイタリア半島においてルネサンスが始まることとなった。
一方、西地中海沿岸においてはアラゴン王国が13世紀以降、サルデーニャやコルシカ、シチリア王国、ナポリ王国を領有し、アラゴン連合王国として西地中海の制海権を握っていた。この制海権は、1479年にアラゴン王国とカスティーリャ王国が合同して成立したスペイン王国へと引き継がれることとなった。
15世紀には、オスマン帝国がアナトリア半島から勢力を広げ、1453年には東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略した。これにより、ボスポラス海峡を通って黒海方面に貿易帝国を築き上げていたジェノヴァ共和国は大打撃を受け、活動を西地中海へと移していくことになった。一方、エジプトやシリアはいまだオスマン領ではなかったため、この地域を交易の基盤とするヴェネツィア共和国は東地中海の支配権を握り続けた。しかしオスマン帝国の膨張は止まらず、1517年にはエジプトのマムルーク朝がオスマンに征服され、オスマン帝国は地中海東方および南方を手中に収め、それまで地中海の制海権を握っていたヴェネツィア共和国やスペインと激しく対立した。1538年のプレヴェザの海戦によってオスマンは全地中海の制海権を握ったものの、1571年のレパントの海戦によって歯止めがかけられ、西地中海の制海権はやがてスペインが奪回した。
一方、アメリカ大陸の発見により、ヨーロッパの交易中心は地中海から大西洋および北海へと移り、地中海の交易は相対的に地位が低下した。また、15世紀以降、マグリブ諸国からの海賊がキリスト教諸国の脅威となり、バルバリア海賊と呼ばれて19世紀初頭まで猛威を振るった。1783年に独立したアメリカ合衆国も、1801年の第一次バーバリ戦争と1815年の第二次バーバリ戦争の2度にわたってバルバリア海賊と戦火を交えている。
スペイン継承戦争の結果、1713年のユトレヒト条約においてイギリスはジブラルタルとミノルカ島を獲得する。ミノルカ島はその後、アメリカ独立戦争中の1782年、メノルカ島侵攻によってスペインが奪還するが、ジブラルタルは現在までイギリスの重要な軍事基地となっている。
1798年には、フランス共和国のナポレオン・ボナパルトが海路エジプト遠征を行い、イギリスの地中海と紅海・インド洋との連絡を断ち切ろうとした。しかし海軍力に勝るイギリスはホレーショ・ネルソン指揮下でナイルの戦いにおいて勝利を収め、地中海の制海権を確立する。補給を絶たれたフランス軍は1801年に降伏した。以後もナポレオン戦争中、イギリスはマルタ島やイオニア諸島を占領し、地中海における重要拠点とした。特にマルタ島には地中海艦隊の本部が置かれ、イギリスの地中海制海権を担っていた。
19世紀に入ると、オスマン帝国の衰退に乗じ、北岸のヨーロッパ諸国が対岸の北アフリカを植民地化していった。1830年にはフランスがアルジェリア侵略を行い、これによりバルバリア海賊が完全に消滅するとともに、以後1962年までフランスがアルジェリアを支配した。
1820年頃から、一時は完全に喜望峰回りに移っていた東西交易のメインルートが、再び地中海経由に戻る兆しを見せ始めた。イギリス東インド会社の非効率と、外洋へ進出し始めた蒸気船の進歩が、距離の短い地中海ルートの復権を促したのである。1820年代には英領インドからイギリスまでの定期蒸気船航路の開設が叫ばれるようになるが、このルートには、カルカッタ財界の推す喜望峰ルートと、ボンベイ財界の推すスエズルートの二つのルートが存在した。喜望峰ルートは一時定期船を就航させたものの、燃料である石炭の補給基地の開設に失敗。結局、1835年にイギリス政府はボンベイからスエズへ蒸気船航路を開設し、スエズからアレキサンドリアまで陸送した後、アレキサンドリアから地中海を西へ向かい、マルタ島を経由してジブラルタルで英国本土行きの帆船に載せ替える郵便ルートを正式に採択する。これにより、地中海は再び東西を最速で結ぶ経路となった。
この頃、東西海運のネックとなっているスエズ地峡に運河を開削する案が浮上する。この案は歴史上何度も現れては消えた案であったが、産業革命の進展により実際に運河を建設する条件が整ったからである。イギリスはこの案に消極的であったが、フランスがこの案を積極的に進め、フェルディナン・ド・レセップスによって設立されたスエズ運河会社によってスエズ運河は1855年着工し、1869年に開通した。これにより、地中海と紅海が一本の水路でつながり、地中海を経由する東西直航ルートが可能になった。
スエズ運河開通で、地中海は完全に東西交易のメインルートへと復帰した。地中海沿岸、特に北岸は産業革命の進んだ先進地域が多く、またアフリカ大陸を迂回する喜望峰回りルートに比べ、時間・距離・コストともに圧倒的に有利だったからである。蒸気船の就航により地中海内一般航路の時間も短縮され、本数も増加して、多数の航路が地中海内に開設されるようになった。この時期、とくに19世紀に入って以降、従来の地中海沿岸諸国に加え、地中海への入り口を確保したオーストリア帝国(のちにオーストリア・ハンガリー帝国)が、アドリア海の湾奥にあるトリエステ港を整備し、ここを拠点として地中海進出を進めていた。
第一次世界大戦では、地中海は重要なシーレーンと戦場になった。地中海沿岸に領土や権益を持つ諸国が、英仏伊の連合国と、オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン帝国、ドイツ帝国の中央同盟国に分かれたためである。特にアドリア海はイタリア海軍とオーストリア=ハンガリー帝国海軍の間で、オトラント海峡海戦などいくつかの海戦が起こった。英仏は地中海を経由してオスマン帝国本土へ遠征(ガリポリの戦い)。連合国側で参戦した日本も第二特務艦隊を地中海へ派遣した。
第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。アドリア海沿岸の旧領は、イタリアとセルビア王国の後継であるユーゴスラビア王国が獲得した。
第二次世界大戦においては、地中海は第一次世界大戦よりさらに大規模な戦いの舞台となった。イタリアとナチス・ドイツを主力とする枢軸国と、イギリスなど連合国の間に地中海の戦いと総称される多数の戦闘が起きた。イギリスはマルタ島を基地として枢軸軍の補給を脅かし続けた。
第二次世界大戦終結後、1956年のスエズ動乱によってイギリスはスエズ運河の支配権を完全に喪失し、ガマール・アブドゥル=ナーセル率いるエジプト政府がスエズ運河を国有化した。しかし1967年、第三次中東戦争が勃発し、大勝したイスラエルはシナイ半島を占領下に置き、スエズ運河東岸を支配した。これによりスエズ運河は通行不能状態となり、地中海を経由する東西交易は一時完全にストップし、古い喜望峰回りのルートへの移行を余儀なくされた。この状態は1973年10月の第四次中東戦争まで続いたが、この戦争後両国は歩み寄りを見せ、1975年に運河通航は再開されて、これにより地中海経由の東西貿易も再び復活した。
地中海は欧州他地域と同様に北大西洋条約機構(NATO)とソビエト連邦などとの東西冷戦の舞台ともなり、沿岸に領土を持たないアメリカが第6艦隊を展開するようになった。
1995年、バルセロナで開かれた欧州・地中海会議において、欧州と非欧州の地中海沿岸諸国(マシュリクとマグリブ)との政治・経済・文化面での交流を深めるべく、欧州・地中海パートナーシップ(バルセロナ・プロセス)が発足した。この取り組みは一定の成果を上げ、この取り組みを下敷きとして2007年、フランス大統領のニコラ・サルコジが地中海連合を提唱し、2008年に欧州連合(EU)および地中海沿岸諸国の共同体として発足した。
2000年代より、政治・経済的混乱が続くブラックアフリカやアラブ諸国から、難民が船を仕立てて地中海を渡り、北岸のEU諸国へと上陸する事例が多発し、問題となっている。特にアフリカ大陸に近いイタリア領のランペドゥーザ島などが主な目標となっている。ランペドゥーザ島には2000年代初頭以降ランペドゥーザ難民収容センターが設けられ、難民を収容しているが、押し寄せる多数の難民によって収容センターは人員を大幅に超過する状態が続いている。これらの難民船は老朽化したものが多く、海難事故も多発している。2013年10月3日には、リビアからイタリアへ向かう難民船が2013年ランペドゥーザ島難民船沈没事故を起こし、360人以上が死亡した。2014年9月10日には、マルタ沖で難民と密入国業者の間のトラブルから業者が故意に船を沈め、難民500人以上が死亡する事故が起こった。
地中海は世界で最も海上交通の盛んな地域の一つである。古代から船と港を自然の脅威から守り貿易を支えてきた。沿岸の諸都市間を結ぶ近距離航路、ジブラルタル海峡やスエズ運河、ミディ運河を通り東西を結ぶ貿易航路によって常に混雑している。
近代からは海底ケーブルが多く敷かれ、戦後はスーパーグリッドが一帯を電化させた。そこへスマートグリッドを応用したスーパースマートグリッドが今は世界的な開発市場となっている。
また、地中海沿岸は特に夏に快晴に恵まれ、冬の寒さもそれほど厳しくないため、夏は海水浴、冬は避寒を目的に、陽光の少ない北ヨーロッパ諸国を中心とした世界各国から観光客の集まる大リゾート地が数多く存在する。こうしたリゾート開発は18世紀後半に王侯貴族のものとして始まったが、鉄道や蒸気船の開発によって交通の便が著しく向上した19世紀には富裕層全般に拡大。1970年代に入ると西欧諸国の労働条件の改善やバカンス制度の導入により、一般市民にも手の届くものとなり、一大産業となった。
地中海は観光地やリゾート地、大都市などが点在するため、こうした街々を結び、さらに地中海に美しい風景を楽しむためのクルーズ船も多く就航している。地中海クラブと呼ばれる観光企業も存在する。
地中海で面積の広い島の上位10島は、以下のとおりである。
他にイギリスの海外領土(イベリア半島のジブラルタル、キプロス島のアクロティリおよびデケリア)が存在する。また、キプロス島北部はトルコのみが承認する北キプロスが実効支配している。
地中海では各国の排他的経済水域(EEZ)が接するが、東地中海においては主張が一致せず対立が発生している。トルコ政府は、アナトリア半島沿岸に点在するギリシャ領の島々周辺や、クレタ島やキプロス島などとの中間線を越えた海域を自国のEEZを主張している。背景としては2009年以降、東地中海でガス田が発見されて開発が始まり、パイプライン敷設による輸送を含めたイスラエル、キプロス、ギリシャによる協力枠組みにトルコと北キプロスが含まれていないことがある。トルコはキプロスが主張するEEZ内で海底探査を行ったり、連携を求めて対岸にあるリビアの内戦に介入したりしている。
地中海に面する人口20万人以上の都市は、以下のとおりである。
国際水路機関は、地中海の下位にあたる海域として以下の8つを定義している。
このほか、次のような海域に分けられることがある。
|
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"text": "地中海(ちちゅうかい、ラテン語: Mare Mediterraneum)は、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた地中海盆地に位置する海である。面積は約250万平方キロメートル、平均水深は約1500メートル。海洋学上の地中海の一つ。",
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"text": "地中海には独立した呼称を持ついくつかの海域が含まれる(エーゲ海、アドリア海など)。地中海と接続する他の海としては、ジブラルタル海峡の西側に大西洋が、ダーダネルス海峡を経た北東にマルマラ海と黒海があり、南東はスエズ運河で紅海と結ばれている(「海域」「地理」で詳述)。",
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"text": "北岸の南ヨーロッパ、東岸の中近東、南岸の北アフリカは古代から往来が盛んで、「地中海世界」と総称されることもある。",
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"text": "地中海を指す Mediterranean という語は、「大地の真ん中」を意味するラテン語の mediterraneus メディテッラーネウス(medius 「真ん中」 + terra 「土、大地」)に由来する。またギリシア語では、これと全く同じ造語法でもって、mesogeios(μεσογειος)と呼んでいた。",
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"text": "歴史的には、他にも各国語で様々に呼ばれてきたことが古文書などを通じて明らかになっている。たとえば古代ローマ時代のラテン語では mare nostrum と呼ばれたが、これは「我らが海」という意味であった。聖書には「偉大なる海」あるいは「西の海」として登場している。近代のヘブライ語では、\"ha-Yam ha-Tichon\"(הים התיכון、\"the middle sea\") と呼ばれ、その語義はドイツ語 Mittelmeer と変わるところがない。トルコ語では Akdeniz と言い、これは「黒海」 Karadeniz に対する「白海」という意味である。アラビア語では Al-Baḥr Al-'Abiaḍ Al-Muttawasit(البحر الأبيض المتوسط)と呼んで、「中央の白い海」という意味合いになっている。",
"title": "名称"
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"text": "近年の英語では、\"The Med\" という短縮語が、地中海とそれを取り巻く周辺地域を日常の会話で語る場合の共通の語として用いられている。",
"title": "名称"
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"text": "正確には、西をジブラルタル海峡で大西洋と接し、東はダーダネルス海峡とボスポラス海峡を挟んでマルマラ海と黒海につながる海をいう。マルマラ海を地中海に含めることもあるが、黒海を含めることはしない。19世紀に掘削されたスエズ運河の開通以降は紅海を経由してインド洋につながる。",
"title": "地理"
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"text": "内海であるため、比較的波が穏やかである。また沿岸は複雑な海岸線に富んでいるため良港に恵まれ、3つの大陸(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)を往来することができる。こうした条件から、地中海は古代から海上貿易が盛んで、古代ギリシア文明、ローマ帝国などの揺籃となった。21世紀初頭の現在も世界の海上交通の要衝の一つである。",
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"text": "地中海の沿岸は夏に乾燥、冬に湿潤となり、地中海性気候と呼ばれる。この気候のため、オリーブ等の樹木性作物の栽培が盛んであるほか、夏のまばゆい太陽や冬季の温和な気候を求めて太陽に恵まれない地域から多くの観光客が訪れる。",
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"text": "下記のように巨大なプレートの衝突によって形成された海であるため、火山が点在し、ヴェスヴィオ山やエトナ山、サントリーニ島など現代に至るまで活発に活動を続ける火山も多い。地震も頻発する。",
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"text": "内海であり、西端のジブラルタル海峡のみ でしか外海と接続のないことは、地中海の海水循環に大きな影響を与えている。ジブラルタル海峡は狭く浅いため、北大西洋海流のような外洋の大きな海流の直接の流入はない。大西洋からの海水の流入と、ナイル川などの地中海に流入する河川の水量をあわせても海面からの蒸発量が大幅に上回るため、塩分濃度が高く、潮位が低くなっている。",
"title": "海況"
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"text": "紀元前8世紀にフェニキアが政治的独立を失ったものの、植民都市の一つカルタゴが強大化し、地中海西部に覇を唱えるようになった。一方、地中海中央部では共和政ローマが強大化し、3度にわたるポエニ戦争によってカルタゴを滅亡させた。ローマはさらにギリシア諸都市や沿岸諸国を次々と占領していき、最終的に紀元前30年にプトレマイオス朝エジプトを併合して、地中海はローマ帝国の内海となり、「我らが海」(Mare Nostrum)と呼ばれるようになった。ローマの外港であるオスティアは拡大整備され、地中海沿岸各地に広がる属州から、ローマを支える大量の穀物や各種商品が運び込まれた。地中海全域が統一政府の下に置かれたことで海運は活発化し、地中海全域が一つの経済圏となった。",
"title": "人類史"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ローマ帝国の東西分裂と西ローマ帝国の崩壊は地中海にも混乱をもたらし、ゲルマン民族の大移動によってやって来たゲルマン人が地中海を渡り、西ゴート王国やヴァンダル王国を建国した。一時的に東ローマ帝国がユスティニアヌス1世の下でイタリア半島や北アフリカを回復したものの、7世紀に入るとイスラム帝国が地中海地域に進攻を開始し、8世紀には地中海南岸および東岸を領域化した。これに対し地中海北岸はフランク王国の主導の下でキリスト教圏に留まり、これによって地中海世界は異なる二つの文明体系に分裂することとなった。キリスト教圏においてもこの頃、東ローマ帝国のギリシア正教圏と、ローマ教皇およびフランク王国のローマ・カトリック圏とに大きく分かれ、異なった文明となっていった。",
"title": "人類史"
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{
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"tag": "p",
"text": "イスラム帝国の侵攻とフランク王国経済の重心が北部に移動したことにより、一時衰退した地中海交易は、9世紀に入ると、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアといったイタリア半島の諸都市が地中海交易に乗り出し、交易が再び盛んとなった。やがて徐々に力を蓄えたヨーロッパ諸国は東方への進出を試み、1095年に始まる第一次十字軍によってエルサレムを中心に地中海東岸にいくつかの十字軍国家が建設された。この後、7度を数える十字軍が起こされたが、十字軍諸国家は12世紀末以降徐々に衰退し、1187年にはアイユーブ朝を興したサラーフッディーンによってエルサレムがイスラム側に再占領された。これにより再び十字軍が組織されたが、第三回十字軍はエルサレム奪回に失敗。第四回十字軍はイスラムではなく東ローマ帝国に矛先を向け、1204年に東ローマの首都コンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が一時滅亡し、ラテン帝国が建国された。第一回十字軍は陸路を取ったものの、第二回十字軍以降は海路での侵攻が主流となった。この軍輸送はイタリア半島の交易都市群によって負担され、この頃までにはこの大軍を輸送するだけの輸送力をこれらの諸都市が持っていたことをあらわしている。この十字軍は一面で地中海の移動の活発化をもたらし、これ以降交易や文化交流は一層盛んとなった。ジェノヴァやヴェネツィア、アドリア海対岸のドゥブロヴニク(ラグーザ共和国)などが大貿易都市として栄え、この交易によって蓄えられた富や知識を基に、やがてイタリア半島においてルネサンスが始まることとなった。",
"title": "人類史"
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"text": "一方、西地中海沿岸においてはアラゴン王国が13世紀以降、サルデーニャやコルシカ、シチリア王国、ナポリ王国を領有し、アラゴン連合王国として西地中海の制海権を握っていた。この制海権は、1479年にアラゴン王国とカスティーリャ王国が合同して成立したスペイン王国へと引き継がれることとなった。",
"title": "人類史"
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"text": "15世紀には、オスマン帝国がアナトリア半島から勢力を広げ、1453年には東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略した。これにより、ボスポラス海峡を通って黒海方面に貿易帝国を築き上げていたジェノヴァ共和国は大打撃を受け、活動を西地中海へと移していくことになった。一方、エジプトやシリアはいまだオスマン領ではなかったため、この地域を交易の基盤とするヴェネツィア共和国は東地中海の支配権を握り続けた。しかしオスマン帝国の膨張は止まらず、1517年にはエジプトのマムルーク朝がオスマンに征服され、オスマン帝国は地中海東方および南方を手中に収め、それまで地中海の制海権を握っていたヴェネツィア共和国やスペインと激しく対立した。1538年のプレヴェザの海戦によってオスマンは全地中海の制海権を握ったものの、1571年のレパントの海戦によって歯止めがかけられ、西地中海の制海権はやがてスペインが奪回した。",
"title": "人類史"
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"text": "一方、アメリカ大陸の発見により、ヨーロッパの交易中心は地中海から大西洋および北海へと移り、地中海の交易は相対的に地位が低下した。また、15世紀以降、マグリブ諸国からの海賊がキリスト教諸国の脅威となり、バルバリア海賊と呼ばれて19世紀初頭まで猛威を振るった。1783年に独立したアメリカ合衆国も、1801年の第一次バーバリ戦争と1815年の第二次バーバリ戦争の2度にわたってバルバリア海賊と戦火を交えている。",
"title": "人類史"
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"text": "スペイン継承戦争の結果、1713年のユトレヒト条約においてイギリスはジブラルタルとミノルカ島を獲得する。ミノルカ島はその後、アメリカ独立戦争中の1782年、メノルカ島侵攻によってスペインが奪還するが、ジブラルタルは現在までイギリスの重要な軍事基地となっている。",
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"text": "1798年には、フランス共和国のナポレオン・ボナパルトが海路エジプト遠征を行い、イギリスの地中海と紅海・インド洋との連絡を断ち切ろうとした。しかし海軍力に勝るイギリスはホレーショ・ネルソン指揮下でナイルの戦いにおいて勝利を収め、地中海の制海権を確立する。補給を絶たれたフランス軍は1801年に降伏した。以後もナポレオン戦争中、イギリスはマルタ島やイオニア諸島を占領し、地中海における重要拠点とした。特にマルタ島には地中海艦隊の本部が置かれ、イギリスの地中海制海権を担っていた。",
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"text": "19世紀に入ると、オスマン帝国の衰退に乗じ、北岸のヨーロッパ諸国が対岸の北アフリカを植民地化していった。1830年にはフランスがアルジェリア侵略を行い、これによりバルバリア海賊が完全に消滅するとともに、以後1962年までフランスがアルジェリアを支配した。",
"title": "人類史"
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"text": "1820年頃から、一時は完全に喜望峰回りに移っていた東西交易のメインルートが、再び地中海経由に戻る兆しを見せ始めた。イギリス東インド会社の非効率と、外洋へ進出し始めた蒸気船の進歩が、距離の短い地中海ルートの復権を促したのである。1820年代には英領インドからイギリスまでの定期蒸気船航路の開設が叫ばれるようになるが、このルートには、カルカッタ財界の推す喜望峰ルートと、ボンベイ財界の推すスエズルートの二つのルートが存在した。喜望峰ルートは一時定期船を就航させたものの、燃料である石炭の補給基地の開設に失敗。結局、1835年にイギリス政府はボンベイからスエズへ蒸気船航路を開設し、スエズからアレキサンドリアまで陸送した後、アレキサンドリアから地中海を西へ向かい、マルタ島を経由してジブラルタルで英国本土行きの帆船に載せ替える郵便ルートを正式に採択する。これにより、地中海は再び東西を最速で結ぶ経路となった。",
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"text": "この頃、東西海運のネックとなっているスエズ地峡に運河を開削する案が浮上する。この案は歴史上何度も現れては消えた案であったが、産業革命の進展により実際に運河を建設する条件が整ったからである。イギリスはこの案に消極的であったが、フランスがこの案を積極的に進め、フェルディナン・ド・レセップスによって設立されたスエズ運河会社によってスエズ運河は1855年着工し、1869年に開通した。これにより、地中海と紅海が一本の水路でつながり、地中海を経由する東西直航ルートが可能になった。",
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{
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"text": "スエズ運河開通で、地中海は完全に東西交易のメインルートへと復帰した。地中海沿岸、特に北岸は産業革命の進んだ先進地域が多く、またアフリカ大陸を迂回する喜望峰回りルートに比べ、時間・距離・コストともに圧倒的に有利だったからである。蒸気船の就航により地中海内一般航路の時間も短縮され、本数も増加して、多数の航路が地中海内に開設されるようになった。この時期、とくに19世紀に入って以降、従来の地中海沿岸諸国に加え、地中海への入り口を確保したオーストリア帝国(のちにオーストリア・ハンガリー帝国)が、アドリア海の湾奥にあるトリエステ港を整備し、ここを拠点として地中海進出を進めていた。",
"title": "人類史"
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"text": "第一次世界大戦では、地中海は重要なシーレーンと戦場になった。地中海沿岸に領土や権益を持つ諸国が、英仏伊の連合国と、オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン帝国、ドイツ帝国の中央同盟国に分かれたためである。特にアドリア海はイタリア海軍とオーストリア=ハンガリー帝国海軍の間で、オトラント海峡海戦などいくつかの海戦が起こった。英仏は地中海を経由してオスマン帝国本土へ遠征(ガリポリの戦い)。連合国側で参戦した日本も第二特務艦隊を地中海へ派遣した。",
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"text": "第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。アドリア海沿岸の旧領は、イタリアとセルビア王国の後継であるユーゴスラビア王国が獲得した。",
"title": "人類史"
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"text": "第二次世界大戦においては、地中海は第一次世界大戦よりさらに大規模な戦いの舞台となった。イタリアとナチス・ドイツを主力とする枢軸国と、イギリスなど連合国の間に地中海の戦いと総称される多数の戦闘が起きた。イギリスはマルタ島を基地として枢軸軍の補給を脅かし続けた。",
"title": "人類史"
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"text": "第二次世界大戦終結後、1956年のスエズ動乱によってイギリスはスエズ運河の支配権を完全に喪失し、ガマール・アブドゥル=ナーセル率いるエジプト政府がスエズ運河を国有化した。しかし1967年、第三次中東戦争が勃発し、大勝したイスラエルはシナイ半島を占領下に置き、スエズ運河東岸を支配した。これによりスエズ運河は通行不能状態となり、地中海を経由する東西交易は一時完全にストップし、古い喜望峰回りのルートへの移行を余儀なくされた。この状態は1973年10月の第四次中東戦争まで続いたが、この戦争後両国は歩み寄りを見せ、1975年に運河通航は再開されて、これにより地中海経由の東西貿易も再び復活した。",
"title": "人類史"
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"text": "地中海は欧州他地域と同様に北大西洋条約機構(NATO)とソビエト連邦などとの東西冷戦の舞台ともなり、沿岸に領土を持たないアメリカが第6艦隊を展開するようになった。",
"title": "人類史"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "1995年、バルセロナで開かれた欧州・地中海会議において、欧州と非欧州の地中海沿岸諸国(マシュリクとマグリブ)との政治・経済・文化面での交流を深めるべく、欧州・地中海パートナーシップ(バルセロナ・プロセス)が発足した。この取り組みは一定の成果を上げ、この取り組みを下敷きとして2007年、フランス大統領のニコラ・サルコジが地中海連合を提唱し、2008年に欧州連合(EU)および地中海沿岸諸国の共同体として発足した。",
"title": "政治"
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"tag": "p",
"text": "2000年代より、政治・経済的混乱が続くブラックアフリカやアラブ諸国から、難民が船を仕立てて地中海を渡り、北岸のEU諸国へと上陸する事例が多発し、問題となっている。特にアフリカ大陸に近いイタリア領のランペドゥーザ島などが主な目標となっている。ランペドゥーザ島には2000年代初頭以降ランペドゥーザ難民収容センターが設けられ、難民を収容しているが、押し寄せる多数の難民によって収容センターは人員を大幅に超過する状態が続いている。これらの難民船は老朽化したものが多く、海難事故も多発している。2013年10月3日には、リビアからイタリアへ向かう難民船が2013年ランペドゥーザ島難民船沈没事故を起こし、360人以上が死亡した。2014年9月10日には、マルタ沖で難民と密入国業者の間のトラブルから業者が故意に船を沈め、難民500人以上が死亡する事故が起こった。",
"title": "政治"
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{
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"text": "地中海は世界で最も海上交通の盛んな地域の一つである。古代から船と港を自然の脅威から守り貿易を支えてきた。沿岸の諸都市間を結ぶ近距離航路、ジブラルタル海峡やスエズ運河、ミディ運河を通り東西を結ぶ貿易航路によって常に混雑している。",
"title": "経済"
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"text": "近代からは海底ケーブルが多く敷かれ、戦後はスーパーグリッドが一帯を電化させた。そこへスマートグリッドを応用したスーパースマートグリッドが今は世界的な開発市場となっている。",
"title": "経済"
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"text": "また、地中海沿岸は特に夏に快晴に恵まれ、冬の寒さもそれほど厳しくないため、夏は海水浴、冬は避寒を目的に、陽光の少ない北ヨーロッパ諸国を中心とした世界各国から観光客の集まる大リゾート地が数多く存在する。こうしたリゾート開発は18世紀後半に王侯貴族のものとして始まったが、鉄道や蒸気船の開発によって交通の便が著しく向上した19世紀には富裕層全般に拡大。1970年代に入ると西欧諸国の労働条件の改善やバカンス制度の導入により、一般市民にも手の届くものとなり、一大産業となった。",
"title": "経済"
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"text": "地中海は観光地やリゾート地、大都市などが点在するため、こうした街々を結び、さらに地中海に美しい風景を楽しむためのクルーズ船も多く就航している。地中海クラブと呼ばれる観光企業も存在する。",
"title": "経済"
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"text": "地中海で面積の広い島の上位10島は、以下のとおりである。",
"title": "主要な島"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "他にイギリスの海外領土(イベリア半島のジブラルタル、キプロス島のアクロティリおよびデケリア)が存在する。また、キプロス島北部はトルコのみが承認する北キプロスが実効支配している。",
"title": "沿岸の国家と主要都市"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "地中海では各国の排他的経済水域(EEZ)が接するが、東地中海においては主張が一致せず対立が発生している。トルコ政府は、アナトリア半島沿岸に点在するギリシャ領の島々周辺や、クレタ島やキプロス島などとの中間線を越えた海域を自国のEEZを主張している。背景としては2009年以降、東地中海でガス田が発見されて開発が始まり、パイプライン敷設による輸送を含めたイスラエル、キプロス、ギリシャによる協力枠組みにトルコと北キプロスが含まれていないことがある。トルコはキプロスが主張するEEZ内で海底探査を行ったり、連携を求めて対岸にあるリビアの内戦に介入したりしている。",
"title": "沿岸の国家と主要都市"
},
{
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"text": "地中海に面する人口20万人以上の都市は、以下のとおりである。",
"title": "沿岸の国家と主要都市"
},
{
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"text": "国際水路機関は、地中海の下位にあたる海域として以下の8つを定義している。",
"title": "海域"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "このほか、次のような海域に分けられることがある。",
"title": "海域"
}
] |
地中海は、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた地中海盆地に位置する海である。面積は約250万平方キロメートル、平均水深は約1500メートル。海洋学上の地中海の一つ。 地中海には独立した呼称を持ついくつかの海域が含まれる(エーゲ海、アドリア海など)。地中海と接続する他の海としては、ジブラルタル海峡の西側に大西洋が、ダーダネルス海峡を経た北東にマルマラ海と黒海があり、南東はスエズ運河で紅海と結ばれている(「海域」「地理」で詳述)。 北岸の南ヨーロッパ、東岸の中近東、南岸の北アフリカは古代から往来が盛んで、「地中海世界」と総称されることもある。
|
{{Otheruses|ユーラシア大陸とアフリカ大陸に囲まれた海域|一般名詞としての地中海|地中海 (海洋学)}}
{{出典の明記|date=2019年9月}}
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| caption_ocean = 人工衛星からの映像
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'''地中海'''(ちちゅうかい、{{lang-la|Mare Mediterraneum}})は、北と東を[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]、南を[[アフリカ大陸]](両者で[[世界島]])に囲まれた[[地中海盆地]]に位置する[[海]]である。面積は約250万平方キロメートル、平均水深は約1500メートル<ref name="閉鎖性水域">[https://www.env.go.jp/water/heisa/heisa_net/setouchiNet/seto/kankyojoho/sizenkankyo/top-data/daihyo-heisasei.htm 世界の代表的な閉鎖性海域][[環境省]]「[[瀬戸内海|せとうち]]ネット」(2020年8月22日閲覧)</ref>。[[地中海 (海洋学)|海洋学上の地中海]]の一つ。
地中海には独立した呼称を持ついくつかの海域が含まれる([[エーゲ海]]、[[アドリア海]]など)。地中海と接続する他の海としては、[[ジブラルタル海峡]]の西側に[[大西洋]]が、[[ダーダネルス海峡]]を経た北東に[[マルマラ海]]と[[黒海]]があり、南東は[[スエズ運河]]で[[紅海]]と結ばれている(「[[#海域|海域]]」「[[#地理|地理]]」で詳述)。
北岸の[[南ヨーロッパ]]、東岸の[[中近東]]、南岸の[[北アフリカ]]は古代から往来が盛んで、「[[地中海世界]]」と総称されることもある<ref>[[弓削達]]『地中海世界 ギリシア・ローマの歴史』([[講談社学術文庫]])。</ref>。
== 名称 ==
地中海を指す {{lang|en|''Mediterranean''}} という語は、「大地の真ん中」を意味する[[ラテン語]]の {{lang|la|''mediterraneus''}} メディテッラーネウス({{lang|la|''medius''}} 「真ん中」 + {{lang|la|''terra''}} 「土、大地」)に由来する。また[[ギリシア語]]では、これと全く同じ[[造語法]]でもって、{{lang|grc-latn|''mesogeios''}}({{lang|el|μεσογειος}})と呼んでいた。
歴史的には、他にも各国語で様々に呼ばれてきたことが[[古文書]]などを通じて明らかになっている。たとえば[[古代ローマ]]時代のラテン語では {{lang|la|''mare nostrum''}} と呼ばれたが、これは「[[我らが海]]」という意味であった。[[聖書]]には「偉大なる海」あるいは「西の海」として登場している。近代の[[ヘブライ語]]では、{{lang|he-latn|"ha-Yam ha-Tichon"}}({{lang|he|הים התיכון}}、"{{lang|en|the middle sea}}") と呼ばれ、その語義は[[ドイツ語]] {{lang|de|''Mittelmeer''}} と変わるところがない。[[トルコ語]]では {{lang|tr|''Akdeniz''}} と言い、これは「[[黒海]]」 {{lang|tr|''Karadeniz''}} に対する「白海」という意味である。[[アラビア語]]では {{lang|ar-latn|''Al-Baḥr Al-'Abiaḍ Al-Muttawasit''}}({{lang|ar|البحر الأبيض المتوسط}})と呼んで、「中央の白い海」という意味合いになっている。
近年{{いつ|date=2013年8月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の英語では、"{{lang|en|The Med}}" という短縮語が、地中海とそれを取り巻く周辺地域を日常の会話で語る場合の共通の語として用いられている。
== 地理 ==
[[ファイル:Mediterranean_Relief.jpg|thumb|250px|地中海の地図]]
正確には、西を[[ジブラルタル海峡]]で[[大西洋]]と接し、東は[[ダーダネルス海峡]]と[[ボスポラス海峡]]を挟んで[[マルマラ海]]と[[黒海]]につながる海をいう。マルマラ海を地中海に含めることもあるが、黒海を含めることはしない。[[19世紀]]に掘削された[[スエズ運河]]の開通以降は[[紅海]]を経由して[[インド洋]]につながる。
[[内海]]であるため、比較的波が穏やかである。また沿岸は複雑な[[海岸#海岸線|海岸線]]に富んでいるため[[良港]]に恵まれ、3つの大陸([[ヨーロッパ大陸|ヨーロッパ]]、[[アジア大陸|アジア]]、[[アフリカ大陸|アフリカ]])を往来することができる。こうした条件から、地中海は古代から海上貿易が盛んで、[[古代ギリシア|古代ギリシア文明]]、[[ローマ帝国]]などの揺籃となった。[[21世紀]]初頭の現在も世界の海上交通の要衝の一つである。
地中海の沿岸は夏に乾燥、冬に湿潤となり、[[地中海性気候]]と呼ばれる。この気候のため、[[オリーブ]]等の樹木性作物の栽培が盛んであるほか、夏のまばゆい太陽や冬季の温和な気候を求めて太陽に恵まれない地域から多くの観光客が訪れる。
下記のように巨大な[[プレート]]の衝突によって形成された海であるため、[[火山]]が点在し、[[ヴェスヴィオ山]]や[[エトナ山]]、[[サントリーニ島]]など現代に至るまで活発に活動を続ける火山も多い。[[地震]]も頻発する。
== 海況 ==
[[File:MEDCURR.GIF|thumb|350px|6月の地中海表面海流]]
内海であり、西端のジブラルタル海峡のみ<ref group="注">厳密にはもう一箇所、スエズ運河を介しても外海と接続しているが、海況に与える影響は極僅かと言える。</ref> でしか外海と接続のないことは、地中海の海水循環に大きな影響を与えている<ref>{{Citation |last=Pinet|first=Paul R.|year=1996|title=Invitation to Oceanography|location=St Paul, Minnesota|publisher =West Publishing Co.|isbn=0-314-06339-0|edition=3rd|page=202}}</ref>。ジブラルタル海峡は狭く浅いため、[[北大西洋海流]]のような外洋の大きな[[海流]]の直接の流入はない。大西洋からの海水の流入と、[[ナイル川]]などの地中海に流入する河川の水量をあわせても海面からの蒸発量が大幅に上回るため、塩分濃度が高く、[[潮位]]が低くなっている。
蒸発量は気温が高く乾燥の度合いの強い地中海東部においてより激しく、そのため東部では水面が低く塩分濃度も高い<ref>Pinet 1996, p. 206.</ref>。こうして低くなった東部には大西洋から西部を通じて低塩分の海水が流れ込み、東の高塩分水はそれによって西へと押し出され、ジブラルタル海峡より大西洋へと戻る。このため、地中海の表層の海流は軽い低塩分水が東へと流れ、深層海流は重い高塩分水が西へと向かっている<ref>Pinet 1996, pp. 206–207.</ref>。地中海から流れ出た高塩分水は大西洋で数千kmも特徴を保ち続ける<ref>Pinet 1996, p. 207.</ref>。
しかし全般的に言って、地中海の[[潮流]]は非常に弱い。[[閉鎖性水域]]であり<ref name="閉鎖性水域"/>、海水の循環が不十分であるうえに、沿岸人口は3億6000万人を超える世界でも開発の進んだ地域の一つであることによって、地中海の水質悪化が懸念されている<ref>ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編『ビジュアルシリーズ 世界再発見1 フランス・南ヨーロッパ』([[同朋舎出版]]、1992年5月20日第1版第1刷)p84。</ref>。
== 形成 ==
約2億年前ないし約1億8000万年前、[[パンゲア大陸]]が南の[[ゴンドワナ大陸]]と北の[[ローラシア大陸]]へと分裂し始め,
[[テチス海]]が誕生した。テチス海は現在の地中海の原型にあたり、古地中海とも呼ばれる。テチス海は、[[地殻変動]]が繰り返され現在の[[ユーラシア大陸]]や[[アフリカ大陸]]が形成されていく中で、[[カスピ海]]や[[黒海]]を切り離す形で縮小してきた。
[[中新世]]末期の[[メッシニアン|メッシーナ期]](7.246±0.005百万年前 - 5.332±0.005百万年前)には一時的に大西洋との間で断絶が起き、596万年前から533万年前にかけて[[メッシニアン#メッシニアン塩分危機|メッシニアン塩分危機]]({{仮リンク|メッシニアン塩分危機 (地質学)|en|Messinian salinity crisis|label=en}})が起こり、テチス海は[[塩湖]]化しながら縮小もしくは完全に干上がった時期が確認されている。
533万年前、再び大西洋とジブラルタル海峡で繋がると、200年以上かけて海水が流れ込む{{ill2|ザンクリアン洪水|en|Zanclean flood}}によって、地中海が形成された。塩湖からの影響で地中海は現在も大西洋より塩分濃度が高くなっている。
== 気候 ==
{{wide image|Koppen World Map (Mediterranean Sea area only).png|769px|地中海周辺のケッペンの気候区分図}}
地中海沿岸の多くは、夏は南方の[[サハラ砂漠]]方面から北上してくる[[高気圧]]によって乾燥し、晴天に恵まれる。一方、冬は北方から南下してくる[[低気圧]]によって雨が降り、湿潤な気候となる。この特徴的な気候は[[スペイン]]から[[イタリア半島]]、[[ギリシャ]]、[[アナトリア半島]]([[トルコ共和国]])、[[マグリブ]]諸国の[[アトラス山脈]]以北などに分布し、[[ケッペンの気候区分]]においても[[地中海性気候]](Cs)と呼ばれる独立した一区分となっている。一方、地中海でも[[緯度]]の低い[[リビア]]や[[エジプト]]沿岸においては、[[ハドレー循環]]による北緯20度から30度にかけての[[亜熱帯高圧帯]]の直下に位置し、高気圧に一年中覆われる。このため、[[ナフサ山地]]によって海風が山にぶつかる[[トリポリタニア]]北部と、同じく[[アフダル山地]]にぶつかる[[キレナイカ]]北部を除き、[[砂漠]]地帯が広がっている。
また、前述した高気圧と低気圧の移動に伴い、地中海は多数の局地風があることで知られる。夏に南から吹く風としては、イタリアの[[シロッコ]]、リビアの[[ギブリ]]などがある。ギブリは乾燥しているが、シロッコは地中海を越えてくるために蒸し暑い風となる。冬は逆に、北から強風が吹くようになる。[[アドリア海]]の[[ボーラ]]、[[フランス]]の[[ミストラル]]など、寒く乾燥した風が多い。
===地中海の水温===
{|class="wikitable"
|+平均海水温度 (℃)
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|[[マルセイユ]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/france/marseille.php Marseille Climate and Weather Averages, France<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[ジブラルタル]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/gibraltar/gibraltar.php Gibraltar Climate and Weather Averages<!-- Bot generated title -->]</ref>
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!18.4
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|[[マラガ]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/spain/costa-del-sol/malaga.php Malaga Climate and Weather Averages, Costa del Sol<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[アテネ]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/greece/athens.php Athens Climate and Weather Averages, Greece<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[バルセロナ]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/spain/barcelona.php Barcelona Climate and Weather Averages, Spain<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[イラクリオン]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/greece/crete/iraklion.php Iraklion Climate and Weather Averages, Crete<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|-
|[[ヴェネツィア]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/italy/venetian-riviera/venice.php Venice Climate and Weather Averages, Venetian Riviera<!-- Bot generated title -->]</ref>
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!17.4
|-
|[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/spain/valencia.php Valencia Climate and Weather Averages, Spain<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[マルタ]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/malta/valletta.php Valletta Climate and Weather Averages, Malta<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[アレキサンドリア]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/egypt/alexandria.php Alexandria Climate and Weather Averages, Egypt<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[ナポリ]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/italy/neapolitan-riviera/naples.php Naples Climate and Weather Averages, Neapolitan Riviera<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[ラルナカ]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/cyprus/larnaca.php Larnaca Climate and Weather Averages, Cyprus<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[リマッソル]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/cyprus/limassol.php Limassol Climate and Weather Averages, Cyprus<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|[[アンタルヤ]]
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|-
|[[テルアビブ]]<ref>[http://www.weather2travel.com/climate-guides/israel/tel-aviv.php Tel Aviv Climate and Weather Averages, Israel<!-- Bot generated title -->]</ref>
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|}
== 人類史 ==
=== 古代 ===
地中海沿岸は古くより多くの民族が栄えてきた。最初に文明が栄えたのは東地中海で、[[古代エジプト]]文明をはじめ、アナトリアの[[ヒッタイト]]や[[クレタ島]]の[[ミノア文明]]、[[古代ギリシア]]の[[ミケーネ文明]]などが盛んに交易を行っていた。中でもミノア文明は地中海のただなかにあり、沿岸の各文明と盛んに交易していた。しかし、[[紀元前1200年]]頃、[[前1200年のカタストロフ]]と呼ばれる大変動がこの地域を襲い、[[海の民]]と呼ばれる人々の襲撃によってヒッタイト、ミノア、ミケーネは崩壊。エジプトも大きく力を落とした。
[[画像:AntikeGriechen1.jpg|thumb|350px|黄がフェニキア人の都市、赤がギリシア人の都市、灰はその他。]]
やがて、[[紀元前12世紀]]頃から、地中海東端、現在の[[レバノン]]付近に居住していた[[フェニキア人]]が地中海交易を開始する。ついで古代ギリシア諸都市も沿岸交易を開始し、地中海沿岸には[[フェニキア]]とギリシアの多くの[[古代の植民都市|植民都市]]が建設されていった。[[イスタンブール]](ビザンチウム)、[[ナポリ]](ネアポリス)、[[マルセイユ]](マッサリア)、[[パレルモ]]、[[メッシーナ]]、[[シラクサ]]など、この植民都市に起源を持つ都市は現在でも多く残っている。この時期から、地中海においては[[ガレー船]]が多用されるようになった。地中海では風向きが安定しないため純帆船の使用は遅れ、[[17世紀]]に技術進歩によって[[帆船]]にとってかわられるまではガレー船が地中海の船舶の主流となっていた。
[[紀元前8世紀]]にフェニキアが政治的独立を失ったものの、植民都市の一つ[[カルタゴ]]が強大化し、地中海西部に覇を唱えるようになった。一方、地中海中央部では[[共和政ローマ]]が強大化し、3度にわたる[[ポエニ戦争]]によってカルタゴを滅亡させた。ローマはさらにギリシア諸都市や沿岸諸国を次々と占領していき、最終的に[[紀元前30年]]に[[プトレマイオス朝エジプト]]を併合して、地中海は[[ローマ帝国]]の内海となり、「[[我らが海]]」(Mare Nostrum)と呼ばれるようになった。ローマの外港である[[オスティア]]は拡大整備され、地中海沿岸各地に広がる[[属州]]から、ローマを支える大量の[[穀物]]や各種商品が運び込まれた。地中海全域が統一政府の下に置かれたことで[[海運]]は活発化し、地中海全域が一つの経済圏となった。
=== 中世 ===
ローマ帝国の東西分裂と[[西ローマ帝国]]の崩壊は地中海にも混乱をもたらし、[[ゲルマン民族の大移動]]によってやって来たゲルマン人が地中海を渡り、[[西ゴート王国]]やヴァンダル王国を建国した。一時的に[[東ローマ帝国]]が[[ユスティニアヌス1世]]の下でイタリア半島や北アフリカを回復したものの、7世紀に入ると[[イスラム帝国]]が地中海地域に進攻を開始し、8世紀には地中海南岸および東岸を領域化した。これに対し地中海北岸は[[フランク王国]]の主導の下で[[キリスト教]]圏に留まり、これによって地中海世界は異なる二つの文明体系に分裂することとなった。キリスト教圏においてもこの頃、東ローマ帝国の[[ギリシア正教]]圏と、[[ローマ教皇]]およびフランク王国の[[ローマ・カトリック]]圏とに大きく分かれ、異なった文明となっていった。
イスラム帝国の侵攻とフランク王国経済の重心が北部に移動したことにより、一時衰退した地中海交易は、[[9世紀]]に入ると、[[アマルフィ]]、[[ピサ]]、[[ジェノヴァ]]、[[ヴェネツィア]]といったイタリア半島の諸都市が地中海交易に乗り出し、交易が再び盛んとなった。やがて徐々に力を蓄えたヨーロッパ諸国は東方への進出を試み、[[1095年]]に始まる[[第一次十字軍]]によって[[エルサレム]]を中心に地中海東岸にいくつかの[[十字軍国家]]が建設された。この後、7度を数える[[十字軍]]が起こされたが、十字軍諸国家は[[12世紀]]末以降徐々に衰退し、[[1187年]]には[[アイユーブ朝]]を興した[[サラーフッディーン]]によってエルサレムがイスラム側に再占領された。これにより再び十字軍が組織されたが、[[第三回十字軍]]はエルサレム奪回に失敗。[[第四回十字軍]]はイスラムではなく東ローマ帝国に矛先を向け、[[1204年]]に東ローマの首都コンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が一時滅亡し、[[ラテン帝国]]が建国された。第一回十字軍は陸路を取ったものの、[[第二回十字軍]]以降は海路での侵攻が主流となった。この軍輸送はイタリア半島の交易都市群によって負担され、この頃までにはこの大軍を輸送するだけの輸送力をこれらの諸都市が持っていたことをあらわしている。この十字軍は一面で地中海の移動の活発化をもたらし、これ以降交易や文化交流は一層盛んとなった。ジェノヴァやヴェネツィア、アドリア海対岸の[[ドゥブロヴニク]]([[ラグーザ共和国]])などが大貿易都市として栄え、この交易によって蓄えられた富や知識を基に、やがてイタリア半島において[[ルネサンス]]が始まることとなった。
一方、西地中海沿岸においては[[アラゴン王国]]が13世紀以降、[[サルデーニャ]]や[[コルシカ]]、[[シチリア王国]]、[[ナポリ王国]]を領有し、[[アラゴン連合王国]]として西地中海の[[制海権]]を握っていた。この制海権は、[[1479年]]にアラゴン王国と[[カスティーリャ王国]]が合同して成立した[[スペイン王国]]へと引き継がれることとなった。
=== 近世 ===
[[File:Battle of Lepanto 1571.jpg|thumb|レパントの戦い]]
15世紀には、[[オスマン帝国]]が[[アナトリア半島]]から勢力を広げ、[[1453年]]には東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープルを攻略]]した。これにより、[[ボスポラス海峡]]を通って黒海方面に貿易帝国を築き上げていた[[ジェノヴァ共和国]]は大打撃を受け、活動を西地中海へと移していくことになった<ref>石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著『商業史』([[有斐閣]]、1980年11月20日初版第1刷)p.67。</ref>。一方、エジプトや[[シリア]]はいまだオスマン領ではなかったため、この地域を交易の基盤とするヴェネツィア共和国は東地中海の支配権を握り続けた。しかしオスマン帝国の膨張は止まらず、[[1517年]]にはエジプトの[[マムルーク朝]]がオスマンに征服され、オスマン帝国は地中海東方および南方を手中に収め、それまで地中海の制海権を握っていた[[ヴェネツィア共和国]]やスペインと激しく対立した。[[1538年]]の[[プレヴェザの海戦]]によってオスマンは全地中海の制海権を握ったものの、[[1571年]]の[[レパントの海戦]]によって歯止めがかけられ、西地中海の制海権はやがてスペインが奪回した。
一方、[[アメリカ大陸の発見]]により、ヨーロッパの交易中心は地中海から大西洋および[[北海]]へと移り、地中海の交易は相対的に地位が低下した。また、15世紀以降、マグリブ諸国からの[[海賊]]がキリスト教諸国の脅威となり、[[バルバリア海賊]]と呼ばれて[[19世紀]]初頭まで猛威を振るった。[[1783年]]に独立した[[アメリカ合衆国]]も、[[1801年]]の[[第一次バーバリ戦争]]と[[1815年]]の[[第二次バーバリ戦争]]の2度にわたってバルバリア海賊と戦火を交えている。
[[スペイン継承戦争]]の結果、[[1713年]]の[[ユトレヒト条約]]において[[イギリス]]は[[ジブラルタル]]と[[ミノルカ島]]を獲得する。ミノルカ島はその後、[[アメリカ独立戦争]]中の[[1782年]]、[[メノルカ島侵攻]]によってスペインが奪還するが、ジブラルタルは現在までイギリスの重要な軍事基地となっている。
[[1798年]]には、フランス共和国の[[ナポレオン・ボナパルト]]が海路[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]を行い、イギリスの地中海と紅海・インド洋との連絡を断ち切ろうとした。しかし海軍力に勝るイギリスは[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]指揮下で[[ナイルの海戦|ナイルの戦い]]において勝利を収め、地中海の制海権を確立する。補給を絶たれたフランス軍は[[1801年]]に降伏した。以後も[[ナポレオン戦争]]中、イギリスは[[マルタ島]]や[[イオニア諸島]]を占領し、地中海における重要拠点とした。特にマルタ島には[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]の本部が置かれ、イギリスの地中海制海権を担っていた。
=== 近代 ===
19世紀に入ると、オスマン帝国の衰退に乗じ、北岸のヨーロッパ諸国が対岸の[[アフリカ分割|北アフリカを植民地化]]していった。[[1830年]]にはフランスが[[アルジェリア侵略]]を行い、これによりバルバリア海賊が完全に消滅するとともに、以後[[1962年]]までフランスがアルジェリアを支配した。
[[1820年]]頃から、一時は完全に[[喜望峰]]回りに移っていた東西交易のメインルートが、再び地中海経由に戻る兆しを見せ始めた。[[イギリス東インド会社]]の非効率と、外洋へ進出し始めた[[蒸気船]]の進歩が、距離の短い地中海ルートの復権を促したのである。[[1820年代]]には[[英領インド]]からイギリスまでの定期蒸気船航路の開設が叫ばれるようになるが、このルートには、[[カルカッタ]]財界の推す喜望峰ルートと、[[ボンベイ]]財界の推す[[スエズ]]ルートの二つのルートが存在した。喜望峰ルートは一時定期船を就航させたものの、燃料である[[石炭]]の補給基地の開設に失敗。結局、[[1835年]]にイギリス政府はボンベイからスエズへ蒸気船航路を開設し、スエズから[[アレキサンドリア]]まで陸送した後、アレキサンドリアから地中海を西へ向かい、マルタ島を経由してジブラルタルで英国本土行きの帆船に載せ替える[[郵便]]ルートを正式に採択する<ref>園田英弘『世界一周の誕生――グローバリズムの起源』([[文春新書]]、 2003年)p62。</ref>。これにより、地中海は再び東西を最速で結ぶ経路となった。
[[File:SuezCanalKantara.jpg|thumb|19世紀、スエズ運河開通直後の風景]]
この頃、東西海運のネックとなっている[[スエズ地峡]]に運河を開削する案が浮上する。この案は歴史上何度も現れては消えた案であったが、[[産業革命]]の進展により実際に運河を建設する条件が整ったからである。イギリスはこの案に消極的であったが、フランスがこの案を積極的に進め、[[フェルディナン・ド・レセップス]]によって設立された[[スエズ運河会社]]によって[[スエズ運河]]は[[1855年]]着工し、[[1869年]]に開通した。これにより、地中海と紅海が一本の水路でつながり、地中海を経由する東西直航ルートが可能になった。
スエズ運河開通で、地中海は完全に東西交易のメインルートへと復帰した。地中海沿岸、特に北岸は[[産業革命]]の進んだ先進地域が多く、またアフリカ大陸を迂回する喜望峰回りルートに比べ、時間・距離・コストともに圧倒的に有利だったからである。蒸気船の就航により地中海内一般航路の時間も短縮され、本数も増加して、多数の航路が地中海内に開設されるようになった。この時期、とくに19世紀に入って以降、従来の地中海沿岸諸国に加え、地中海への入り口を確保した[[オーストリア帝国]](のちに[[オーストリア・ハンガリー帝国]])が、アドリア海の湾奥にある[[トリエステ]]港を整備し<ref>加賀美雅弘『ハプスブルク帝国を旅する』([[講談社現代新書]]、1997年6月20日)p99 </ref>、ここを拠点として地中海進出を進めていた。
=== 現代 ===
[[第一次世界大戦]]では、地中海は重要な[[シーレーン]]と戦場になった。地中海沿岸に領土や権益を持つ諸国が、英仏伊の[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]と、オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン帝国、[[ドイツ帝国]]の[[中央同盟国]]に分かれたためである。特にアドリア海は[[イタリア海軍]]と[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍]]の間で、[[オトラント海峡海戦 (1917年)|オトラント海峡海戦]]などいくつかの海戦が起こった。英仏は地中海を経由してオスマン帝国本土へ遠征([[ガリポリの戦い]])。連合国側で参戦した[[日本]]も[[第二特務艦隊]]を地中海へ派遣した。
第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。アドリア海沿岸の旧領は、イタリアと[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の後継である[[ユーゴスラビア王国]]が獲得した。
[[第二次世界大戦]]においては、地中海は第一次世界大戦よりさらに大規模な戦いの舞台となった。イタリアと[[ナチス・ドイツ]]を主力とする[[枢軸国]]と、イギリスなど[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の間に[[地中海の戦い (第二次世界大戦)|地中海の戦い]]と総称される多数の戦闘が起きた。イギリスはマルタ島を基地として枢軸軍の補給を脅かし続けた。
第二次世界大戦終結後、[[1956年]]の[[スエズ動乱]]によってイギリスはスエズ運河の支配権を完全に喪失し、[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]率いるエジプト政府がスエズ運河を国有化した。しかし[[1967年]]、[[第三次中東戦争]]が勃発し、大勝した[[イスラエル]]は[[シナイ半島]]を占領下に置き、スエズ運河東岸を支配した。これによりスエズ運河は通行不能状態となり、地中海を経由する東西交易は一時完全にストップし、古い喜望峰回りのルートへの移行を余儀なくされた。この状態は[[1973年]]10月の[[第四次中東戦争]]まで続いたが、この戦争後両国は歩み寄りを見せ、[[1975年]]に運河通航は再開されて、これにより地中海経由の東西貿易も再び復活した。
地中海は欧州他地域と同様に[[北大西洋条約機構]](NATO)と[[ソビエト連邦]]などとの東西[[冷戦]]の舞台ともなり、沿岸に領土を持たないアメリカが[[第6艦隊 (アメリカ軍)|第6艦隊]]を展開するようになった。
== 政治 ==
[[Image:EU27-2008-Union for the Mediterranean.svg|thumb|300px|right|2008年7月に発足した地中海連合の参加国
{{legend|#003399|EU加盟国}}
{{legend|#c89601|EU非加盟国}}
{{legend-line|#c89601 dotted 5px|斜線はオブザーバ国}}]]
1995年、[[バルセロナ]]で開かれた欧州・地中海会議において、欧州と非欧州の地中海沿岸諸国([[マシュリク]]と[[マグリブ]])との政治・経済・文化面での交流を深めるべく、[[欧州・地中海パートナーシップ]](バルセロナ・プロセス)が発足した。この取り組みは一定の成果を上げ、この取り組みを下敷きとして[[2007年]]、[[フランス大統領]]の[[ニコラ・サルコジ]]が[[地中海連合]]を提唱し、[[2008年]]に[[欧州連合]](EU)および地中海沿岸諸国の共同体として発足した。
2000年代より、政治・経済的混乱が続く[[ブラックアフリカ]]や[[アラブ諸国]]から、[[難民]]が船を仕立てて地中海を渡り、北岸のEU諸国へと上陸する事例が多発し、問題となっている。特にアフリカ大陸に近いイタリア領の[[ランペドゥーザ島]]などが主な目標となっている。ランペドゥーザ島には2000年代初頭以降[[ランペドゥーザ難民収容センター]]が設けられ、難民を収容しているが、押し寄せる多数の難民によって収容センターは人員を大幅に超過する状態が続いている。これらの難民船は老朽化したものが多く、[[海難事故]]も多発している。2013年10月3日には、[[リビア]]からイタリアへ向かう難民船が[[2013年ランペドゥーザ島難民船沈没事故]]を起こし、360人以上が死亡した。[[2014年]]9月10日には、マルタ沖で難民と密入国業者の間のトラブルから業者が故意に船を沈め、難民500人以上が死亡する事故が起こった<ref>{{cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3025947|title=地中海で「近年最悪の海難事件」、難民500人水死の恐れ|newspaper=[[AFPBB News]]|date=2014-9-16|accessdate=2016-11-28}}</ref>。
== 経済 ==
地中海は世界で最も海上交通の盛んな地域の一つである。古代から船と港を自然の脅威から守り貿易を支えてきた。沿岸の諸都市間を結ぶ近距離航路、ジブラルタル海峡やスエズ運河、[[ミディ運河]]を通り東西を結ぶ貿易航路によって常に混雑している。
近代からは[[海底ケーブル]]が多く敷かれ、戦後は[[:en:Super grid|スーパーグリッド]]が一帯を電化させた。そこへ[[スマートグリッド]]を応用した[[:en:SuperSmart Grid|スーパースマートグリッド]]が今は世界的な開発市場となっている。
また、地中海沿岸は特に夏に快晴に恵まれ、冬の寒さもそれほど厳しくないため、夏は[[海水浴]]、冬は避寒を目的に、陽光の少ない[[北ヨーロッパ]]諸国を中心とした世界各国から観光客の集まる大[[リゾート]]地が数多く存在する。こうしたリゾート開発は[[18世紀]]後半に王侯貴族のものとして始まったが、鉄道や蒸気船の開発によって交通の便が著しく向上した19世紀には富裕層全般に拡大。[[1970年代]]に入ると西欧諸国の労働条件の改善や[[バカンス]]制度の導入により、一般市民にも手の届くものとなり、一大産業となった<ref>『地球を旅する地理の本4 西ヨーロッパ』([[大月書店]] 1993年2月19日第1刷)p.43-44</ref>。
地中海は観光地やリゾート地、大都市などが点在するため、こうした街々を結び、さらに地中海に美しい風景を楽しむための[[クルーズ船]]も多く就航している。[[地中海クラブ]]と呼ばれる観光企業も存在する。
== 主要な島 ==
* 東部: [[キプロス]]、[[ロドス島]]、[[クレタ島|クレタ]]、[[ドデカネス諸島]]
* 中部: [[シチリア]]、[[マルタ]]、[[サルデーニャ]]、[[コルス|コルシカ]]
* 西部: [[バレアレス諸島]]
地中海で面積の広い島の上位10島は、以下のとおりである。
{|class=wikitable style="font-size:small"
!旗
!島
!面積(km<sup>2</sup>)
!人口
|-
|{{flagicon|ITA}} {{flagicon|Sicily}}
|[[シチリア島]]
|style="text-align:right"|25,460
|style="text-align:right"|5,048,995
|-
|{{flagicon|ITA}} {{flagicon|Sardinia}}
|[[サルディニア島]]
|style="text-align:right"|23,821
|style="text-align:right"|1,672,804
|-
|{{flagicon|CYP}} {{flagicon|TRNC}}
|[[キプロス島]]
|style="text-align:right"|9,251
|style="text-align:right"|1,088,503
|-
|{{flagicon|FRA}}
|[[コルシカ島]]
|style="text-align:right"|8,680
|style="text-align:right"|299,209
|-
|{{flagicon|GRE}}
|[[クレタ島]]
|style="text-align:right"|8,336
|style="text-align:right"|623,666
|-
|{{flagicon|GRE}}
|[[エウボイア島]]
|style="text-align:right"|3,655
|style="text-align:right"|218,000
|-
|{{flagicon|ESP}} {{flagicon|Majorca}}
|[[マヨルカ島]]
|style="text-align:right"|3,640
|style="text-align:right"|869,067
|-
|{{flagicon|GRE}}
|[[レスボス島]]
|style="text-align:right"|1,632
|style="text-align:right"|90,643
|-
|{{flagicon|GRE}}
|[[ロドス島]]
|style="text-align:right"|1,400
|style="text-align:right"|117,007
|-
|{{flagicon|GRE}}
|[[キオス島]]
|style="text-align:right"|842
|style="text-align:right"|51,936
|}
== 沿岸の国家と主要都市 ==
* ヨーロッパ: (西から順に東へ)[[スペイン]]、[[フランス]]、[[モナコ]]、[[イタリア]]、 [[マルタ]](島)、[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[モンテネグロ]]、[[アルバニア]]、[[ギリシャ]]、[[トルコ]](東[[トラキア]])
* アジア: (北から順に南へ)トルコ(アナトリア半島)、[[シリア]]、[[キプロス]](島)、[[レバノン]]、[[イスラエル]]、 [[パレスチナ自治政府]]([[ガザ地区]])
* アフリカ: (東から順に西へ)[[エジプト]]、[[リビア]]、[[チュニジア]]、[[アルジェリア]]、[[モロッコ]]、スペイン([[セウタ]]と[[メリリャ]])
他に[[イギリスの海外領土]]([[イベリア半島]]の[[ジブラルタル]]、[[キプロス島]]の[[アクロティリおよびデケリア]])が存在する。また、キプロス島北部はトルコのみが[[国家の承認|承認]]する[[北キプロス]]が[[実効支配]]している。
地中海では各国の[[排他的経済水域]](EEZ)が接するが、東地中海においては主張が一致せず対立が発生している。トルコ政府は、アナトリア半島沿岸に点在するギリシャ領の島々周辺や、クレタ島やキプロス島などとの中間線を越えた海域を自国のEEZを主張している。背景としては[[2009年]]以降、東地中海で[[ガス田]]が発見されて開発が始まり、[[パイプライン輸送|パイプライン]]敷設による輸送を含めたイスラエル、キプロス、ギリシャによる協力枠組みにトルコと北キプロスが含まれていないことがある。トルコはキプロスが主張するEEZ内で海底探査を行ったり、連携を求めて[[2014年リビア内戦|対岸にあるリビアの内戦]]に介入したりしている<ref>「トルコ・ギリシャ対立激化 東地中海ガス田開発」『[[読売新聞]]』朝刊2020年8月26日(国際面)</ref><ref>佐々木伸([[星槎大学]]大学院教授)[https://wedge.ismedia.jp/articles/-/18287?page=2 【中東を読み解く】トルコ、リビア内戦に“私兵軍団”背景に天然ガスめぐる資源争い] [[Wedge|WEDGE]] Infinity(2019年12月28日)2020年8月26日閲覧</ref>。
地中海に面する人口20万人以上の都市は、以下のとおりである。
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!国
!都市
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|[[ドゥラス]]
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|[[アルジェ]]、[[アンナバ]]、[[オラン]]
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|{{flag|Croatia}}
|[[スプリト]]、[[リエカ]]
|-
|{{flag|Egypt}}
|[[アレキサンドリア]]、[[ポートサイド]]
|-
|{{flag|France}}
|[[マルセイユ]]、[[ニース]]
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|{{flag|Greece}}
|[[アテネ]]、[[イラクリオン]]、[[パトラ|パトラス]]、[[テッサロニキ]]
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|{{flag|Israel}}
|[[アシュドッド]]、[[ハイファ]]、[[テルアビブ]]
|-
|{{flag|Italy}}
|[[バーリ]]、[[カターニア]]、[[ジェノヴァ]]、[[メッシーナ]]、[[ナポリ]]、[[パレルモ]]、[[ローマ]]、[[ターラント]]、[[トリエステ]]、[[ヴェネツィア]]
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|[[ベイルート]]、[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]
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|[[ベンガジ]]、[[ホムス]]、[[ミスラタ]]、[[トリポリ]]、[[ザーウィヤ]]、[[ズリテン]]
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|{{flag|Morocco}}
|[[テトゥアン]]、[[タンジェ]]
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|[[アリカンテ]]、[[バダロナ]]、[[バルセロナ]]、[[カルタヘナ (スペイン)|カルタヘナ]]、[[マラガ]]、[[パルマ・デ・マヨルカ|パルマ]]、[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]
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|[[ラタキア]]
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|[[ビゼルト]]、[[スファックス]]、[[チュニス]]
|-
|{{flag|Turkey}}
|[[アンタルヤ]]、[[イスケンデルン]]、[[イズミール]]、[[メルスィン]]
|}
== 海域 ==
[[国際水路機関]]は、地中海の下位にあたる海域として以下の8つを定義している<ref name="Limits of Oceans and Seas">{{cite web|url=http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf#page=19|title=Limits of Oceans and Seas, 3rd edition|year=1953|publisher=International Hydrographic Organization|page=15-18|accessdate=2012-04-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111008191433/http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf#page=19|archivedate=2011年10月8日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
* [[ジブラルタル海峡]]
* [[アルボラン海]]
* [[バレアレス海]](イベリア海)
* [[リグリア海]]
* [[ティレニア海]]
* [[イオニア海]]
* [[アドリア海]]
* [[エーゲ海]](多島海)
このほか、次のような海域に分けられることがある。
* [[リオン湾]]
* [[メッシナ海峡]]
* [[ハイファ湾]]
* [[シルテ湾]]
* [[シチリア海峡]]
* [[コルシカ海峡]]
* [[ボニファシオ海峡]]
==ギャラリー==
<gallery>
File:Théatre de la Mer, Sète, Hérault 04.jpg|Théâtre de la Mer、[[セット (エロー県)|セット]] {{FRA}}
File:Hammametgolf.jpg|[[ハンマメット]]のビーチ{{TUN}}
File:Plage-de-la-courtade.jpg|Îles d'Hyèresのla Courtade海岸、{{FRA}}
File:Chia beach, Sardinia, Italy.jpg|[[サルディニア島]]南部の海岸、{{ITA}}
File:Malta Coast.jpg|Żurrieqの海岸、{{MLT}}
File:Piran Stadtpanorama.jpg|[[ピラン]]を一望する、{{SLO}}
File:Cavtat Croatia 2008-10-07.JPG|[[ツァヴタット]]の眺め、{{CRO}}
File:Neum02451.JPG|[[ネウム]]の風景、{{BIH}}
File:svetistefan1756.JPG|[[スヴェティ・ステファン]]の風景、{{MNE}}
File:Ksamil Beach.jpg|Ksamil諸島のビーチ、 {{ALB}}
File:Panagiotis wreck.jpg|[[ナヴァイオ海岸]]、{{GRE}}
File:Marmaris TURKEY.JPG|[[マルマリス]]、トルコ・リヴィエラ海岸、{{TUR}}
File:Escape Beach North Cyprus.jpg|[[キレニア]]の海岸、{{TRNC}} ({{CYP}}と係争中)
File:Petra tou romiou beach.jpg|[[パフォス]]、{{CYP}}
File:Burjeslam.jpg|Burj Islam海岸、[[ラタキア]]、{{SYR}}
File:BeirutRaouche1.jpg|[[ベイルート]]海岸のRaouchéの眺め、{{LBN}}
File:P1090840 (5149227688).jpg|[[ハイファ]]の街から、{{ISR}}
File:Gaza Beach.jpg|[[ガザ地区]]のビーチ{{flag|State of Palestine|name=パレスチナ}}
File:Coast of Alexandria, A view From Bibliotheca Alexandrina, Egypt.jpg|[[新アレクサンドリア図書館]]から見た[[アレクサンドリア]]の海岸、{{EGY}}
File:ForbysIbizaTown 02.jpg|[[エイビッサ]]の旧市街、{{SPA}}
File:Les Aiguades.jpg|[[ベジャイア]]の付近にあるLes Aiguades、{{ALG}}
File:EL Jebha1.jpg|{{MAR}}の港町、El Jebha
File:Gibraltar-Europa-Point-LH-from-the-sea.jpg|[[エウローパ岬]]、{{GIB}}
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Mediterranean Sea|Mediterranean Sea}}
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* [[シロッコ]]
* [[フェニキア]]
* [[カルタゴ]]
* [[古代ギリシア]]
* [[古代ローマ]]
* [[ローマ帝国]]
* [[東ローマ帝国]]
* [[イスラム帝国]]
* [[イタリアの歴史]]
* [[フェルナン・ブローデル]](『地中海』著者)
* [[地中海世界]]
* [[:Category:地中海世界の貿易の歴史|地中海世界の貿易の歴史]]
* [[地中海連合]]
* [[地中海人種]]
* [[テチス海]]
* [[地中海盆地]]
* [[地中海学会]]
* [[メディテレーニアンハーバー]]
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== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{海}}
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{{デフォルトソート:ちちゆうかい}}
[[Category:地中海|*]]
[[Category:ヨーロッパの海域]]
[[Category:アフリカの地形]]
[[Category:海洋生態域]]
[[Category:中東の地理]]
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武田勝頼
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武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国武将・大名。武田氏第17代当主。甲斐武田家第20代当主。
本姓では源 勝頼(みなもと の かつより)。通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎・武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は武田信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
強硬策をもって領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の長尾上杉家との甲越同盟、佐竹家との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。
近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。
天文15年(1546年)、武田晴信(信玄)の四男(庶子)として生まれた。生誕地や生月日は不明。母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳、乾福院殿)。
武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にあったが、父の晴信は天文10年(1541年)6月に信虎を追放する形で家督を相続すると諏訪氏とは手切となり、天文11年(1542年)6月には諏訪侵攻を行い、諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡する。晴信は諏訪残党の高遠頼継らの反乱に対し、頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を奉じて諏訪遺臣を糾合し、頼継を制圧する。
晴信は、側室として諏訪御料人を武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え、天文15年(1546年)に勝頼が誕生する。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年8月28日には千代宮丸を擁立していた諏訪満隆が切腹を命じられており、反乱を企てていたと考えられている。
躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられているが、武田家嫡男の武田義信や次男・海野信親(竜宝)に関する記事の多い『高白斎記』においても勝頼や諏訪御料人に関する記事は見られず、乳母や傅役など幼年期の事情は不明である。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼出生に至る経緯が詳細に記されているが、内容は疑問視されている。信玄が諏訪御料人を側室に迎えることには、武田家中でも根強い反対があったとも考えられている。
武田信玄は信濃侵攻を本格化して越後国の上杉氏と対決し、永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいて信濃平定が一段落している。信玄は信濃支配において、旧族に子女を入嗣させて懐柔する政策を取っており、勝頼の異母弟である仁科盛信は信濃仁科氏を継承しているが、勝頼も同年6月に諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である「頼」を名乗り諏訪四郎勝頼となる(武田氏の通字である「信」を継承していない点が注目される)。勝頼は跡部重政(右衛門)ら8名の家臣団を付けられ、従弟の武田信豊らと共に親族衆に列せられている。
勝頼は城代・秋山虎繁(信友)に代わり信濃高遠城主となり、勝頼の高遠城入城に際しては馬場信春が城の改修を行う。勝頼期の高遠領支配は3点の文書が残されているのみで、具体的実情は不明であるものの、独自支配権を持つ支城領として機能していたと考えられている。ほか、事跡として高遠建福寺で行われた諏訪御料人の十七回忌や、永禄7年(1564年)に諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納したことなどが見られる。
永禄6年(1563年)、上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)で初陣を飾った。長野氏の家臣・藤井豊後が、物見から帰るところを追撃し、城外椿山にて組み打ちを行い討ち取った。その後の箕輪城・倉賀野城攻めなどでも功を挙げた。
その後、信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、永禄12年(1569年)の武蔵国滝山城攻めでは北条氏照の家老・諸岡山城守と3度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦(三増峠の戦い)では殿を務め、松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちを行ったとされる。
永禄8年(1565年)、異母兄で武田家後継者であった武田義信の家臣らが信玄暗殺の密謀のため処刑され、義信自身も幽閉される。
同年11月、勝頼と尾張の織田信長養女(龍勝院)との婚礼が進められており、この頃の信玄は従来の北進戦略を変更し、織田家と同盟して信濃侵攻や東海方面への侵攻を具体化しており、家臣団の中にも今川義元の娘を室とする義信派との対立があったという。次兄の竜宝は生まれつきの盲目のために出家し、三兄の信之は夭逝していることから、勝頼が信玄の指名で後継者と定められた。
永禄10年(1567年)、高遠城で正室・龍勝院との間に嫡男・武王丸(武田信勝)が誕生する。
元亀元年(1570年)1月、花沢城を攻め、開城させる。
元亀2年(1571年)2月、勝頼は甲府へ召還され、叔父・武田信廉が高遠城主となっている。同年9月16日、正室・龍勝院殿が死去している。勝頼は稲村清右衛門尉・富沢平三の両名を高野山成慶院へ派遣し、龍勝院の供養を行っている。
永禄10年(1567年)12月、武田・織田同盟の補強として、異母妹で7歳の松姫と信長の嫡男・織田信忠(11歳)との婚約が成立する。
武田氏は相模後北条氏と甲相同盟を結び、諸勢力とともに将軍・足利義昭の信長包囲網に参加し、元亀3年(1572年)10月には西上作戦を開始した。
勝頼は武田信豊・穴山信君とともに大将を務め、同年11月に徳川方の遠江二俣城を攻略し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦う。
元亀4年(1573年)4月12日、信玄が西上作戦の途中で病死したため家督を相続し、武田氏第20代当主となる。しかし、表向きは信玄の死を隠して隠居とし、勝頼が家督を相続したと発表されていた。
信玄の死により、織田信長・徳川家康らは窮地を脱した。そして信長は将軍である足利義昭を河内国に追放した。同年の天正への改元後、信長は越前国や近江国に攻め入って朝倉義景・浅井長政を滅ぼした。また家康も武田氏に従っていた三河国山間部の山家三方衆の奥平貞能・貞昌親子を寝返らせるなど、信玄存命中は守勢であった織田・徳川連合軍の逆襲が始まった。これに対して勝頼は、勢力拡大を目指して外征を実施する。
天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は、織田信長をさらに圧迫するため、甲斐・信濃など五箇国の兵力で出発し、4月中旬に東美濃の城や砦(苗木城・阿寺城・千旦林城・阿木城・飯羽間城・串原城・今見砦など)を陥れ、岩村城に進出して明知城を包囲した。
この時、織田信長は6万人を率いたとされるが、山県昌景が兵6000を率いて鶴岡山の方に進出すると、信長は兵を引いたという。
翌2月5日、信長は嫡男・織田信忠とともに出陣したが、到着前の2月6日に明知城で飯羽間右衛門の裏切りがあって落城したため、東濃の神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。また武田勝頼の軍勢は遠山領内の神社や寺院を悉く焼討し破壊した。
天正2年(1574年)2月、東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落とした。信長は嫡男・織田信忠と共に明知城の後詰(援軍)に出陣しようとしたが、それより前に勝頼が明知城を落としたため、信長は岐阜に撤退した。
天正2年(1574年)、勝頼は飯羽間城を攻め落とした。
天正2年(1574年)6月、遠江国の徳川領に侵入し、信玄が落とせなかった高天神城を陥落させて城将・小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定した。
9月、天竜川を挟んで徳川家康と対陣、その後浜松城に迫り、浜松城下に放火した。
天正3年(1575年)、勝頼は先年徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵1万5,000(一説には8,000から1万)を率いて三河国へ侵入し、5月には奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始する。だが、長篠城は奥平勢の善戦により持ち堪え、武田軍は長篠城攻略に時間を費やすこととなる。
そして、織田信長・徳川家康の連合軍およそ3万8,000(一説には織田軍1万2,000。徳川軍4,000)が長篠(設楽ヶ原)に到着し、馬防柵を含む陣城の構築を開始した。これに対し、勝頼は長篠城の抑えに兵3,000を残し、主力1万2,000(一説に兵6,000)を率いて設楽ヶ原へ進出し、織田・徳川連合軍と対峙する。長篠決戦前日の戦闘で勝利していたこともあり、武田軍の士気は高かった。
だが、もはや野戦ではなく、むしろ攻城戦に近い状況(攻城戦はより単純な兵力差が影響する)を感じ取った信玄以来の重鎮たちは撤退を進言したという。しかし、勝頼は織田・徳川との決戦を選択し、5月21日早朝に開戦することとなった。
5月21日、午前6時頃から午後2時頃まで戦闘は続けられるが、数で劣る武田軍では連合軍防御陣の犠牲となった土屋昌次が戦死する。攻めの勢いを喪失したその後、武田軍は総崩れとなるが、敗走する中で馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟等、将士を失ってしまう。また、本戦に先立つ鳶ノ巣砦の攻防戦では、主将の河窪信実・三枝昌貞(守友)などが、その直後に引き続き行われた長篠城近辺の戦闘で高坂昌澄が戦死している。勝頼は菅沼定忠に助けられ一時的に武節城へ篭ったが、伊那郡へ退却した。
この敗北で、武田軍は1万人以上の死傷者(一説には武田方1,000、織田徳川連合軍600の損害)を出したといわれている。
長篠の戦いによる敗退後、織田・徳川軍はさらに反攻を強め、奥三河の田峰城・武節城・作手城を奪還した。
天正3年(1575年)6月に徳川家康は遠江二俣城を包囲し、犬居谷の光明城を攻撃した。犬居谷を制圧すれば、武田の遠江侵攻経路と二俣城の補給を遮断することが可能だった。家康旗本衆の活躍により、勝頼から犬居谷防衛を任せられた天野景貫は光明城を明け渡し撤退した。犬居谷の制圧を終えた家康は、高天神城の補給拠点として機能していた諏訪原城を攻撃した。2,000の駿河衆が大井河を渡り家康と対峙している。
同年8月、徳川家康が諏訪原城を落城させ、牧野原城に改名した。勝頼は戦死した山県昌景の後任として、穴山梅雪を江尻城代とし駿遠の防衛を委ねた。徳川軍はさらに小山城を包囲するが、同月、勝頼は1万3,000の兵を率いて小山城へ出兵。徳川軍は撤退する。二俣城と高天神城への補給を終えた勝頼は甲府へと帰還した。
長篠合戦以後、三河国から武田方が締め出されたのを皮切りに、同年11月には信長の下命を受けた嫡男・織田信忠を総大将とした5万の織田軍によって東美濃の岩村城を陥落させられ、織田方に降伏した飯田城代・伊那郡代である秋山虎繁は岐阜へ連行され長良川河畔で逆磔により処刑された。
同年12月24日、徳川軍の包囲に耐えかねた二俣城が開城し、依田信蕃が高天神城に撤退したことによって高天神城が孤立した。
天正4年(1576年)春、勝頼は高天神城救援のため遠江国へ出兵し、徳川方の横須賀城(静岡県掛川市)を攻める。『甲陽軍鑑』によれば城主の大須賀康高の抗戦により、勝頼は相良城へ撤兵した。
天正5年(1577年)閏7月、家康が高天神城を攻めると、勝頼は7月19日に出兵し9月22日に江尻城へ入る。10月20日には小山城を経て大井川を越えると、10月20日に馬伏塚城()において徳川方と抗戦する。勝頼は10月25日に撤兵している。
天正6年(1578年)3月3日、家康は駿河田中城を攻撃し、7月15日には高天神城攻撃の拠点となる横須賀城を完成させている。
勝頼が上杉氏の御館の乱の発生により信越国境へ出兵中の8月、家康は小山城を包囲し、田中城への攻撃を開始する。このため、勝頼は越後国から撤兵すると、10月に田中城・高天神城へ入る。
11月3日、勝頼は横須賀城へ侵攻し、家康と抗戦している。その後も両軍は交戦し、10月17日には島田、10月19日には青島で合戦があり、勝頼は田中城へ撤兵している。
長篠合戦後、武田氏は領国再建のため越後上杉氏・相模後北条氏との同盟強化に着手する。信玄後期に後北条氏とは甲相同盟を復活し、上杉氏とは本格的な軍事的衝突こそないものの緊張関係が続いていた。
天正3年(1575年)、紀伊国に亡命していた将軍・足利義昭が武田氏(甲斐)・後北条氏(相模)・上杉氏(越後)三者の間での和睦をするよう呼びかける(甲相越三和)。長篠の敗戦後、上杉謙信との和睦を模索していた勝頼にとって義昭の上意は渡りに船であった。
9月28日、勝頼は義昭側近の一色藤長に対して、義昭の和睦案の受け入れを表明した。謙信は武田との和睦には反対しなかったが、北条との和睦は拒絶した(『上越市史』)。後北条・上杉間の不和により甲相越三和は実現しなかったものの、武田と上杉の和睦は10月中に成立しており、長篠の敗戦とその後の織田、徳川の攻勢によって窮地に立たされていた勝頼は外交状況の改善に成功した。
天正4年(1576年)2月、足利義昭が安芸国の有力大名・毛利輝元に庇護を求め、その勢力圏である備後国鞆要害に下向した。4月には輝元が義昭の庇護を受け入れ、5月に信長との同盟破棄に踏み切る。6月16日に輝元挙兵を知らせる書状を受け取った勝頼は、武田・毛利間の同盟を求める書状を送った。同時期、6月12日に義昭は、武田、北条、上杉の三者に甲相越三和を命じる御内書を再度下している。前年とは違い、この時は輝元の副状付きであった。9月16日にも勝頼は輝元に対して、6か条の軍役条目を送っている。この頃に毛利氏との間で同盟が成立したと考えられる(甲芸同盟)。勝頼は上杉氏とは足利義昭を間に挟んで和睦継続を確認し、天正5年(1577年)正月22日に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えるなど、双方と外交関係を強化していたが、上杉・後北条間の外交関係は険悪な状態が続いていた。
天正6年(1578年)3月13日、越後国で上杉謙信が病死すると、北条氏政の弟(遠縁との説もある)で上杉氏に養子として出されていた上杉景虎(旧名・北条三郎)と謙信の甥で養子の上杉景勝の間で家督を巡り御館の乱が起こる。勝頼は氏政から景虎支援を要請され、5月下旬には武田信豊らを信越国境へ派遣し、6月29日には自らも越後国へ出兵し、景勝・景虎間の調停を試みる。景勝方から和睦が持ちかけられると、これを受け入れている。
これにより勝頼は上杉景勝と和睦し、条件であった上杉領を接収すると、一方で景虎方との和睦調停も継続し、8月19日には春日山城において両者の和睦を成立させる。勝頼は徳川家康の小山城・田中城への攻撃を受けて8月27日に帰国する。その間に景勝・景虎間の和睦は破綻し、天正7年(1579年)3月24日には上杉景勝方の勝利により乱は収束する。勝頼は明確な景勝支援は行っていないが、乱の終結によって後北条氏との関係は険悪化する。
同年9月、武田氏と後北条氏の両者は手切となり、甲相同盟は破綻した。武田氏と後北条氏は、領国を接する駿河・伊豆・上野方面において抗争状態に突入した。後北条氏は徳川家康と同盟を結び、駿河国において武田氏は挟撃を受ける事態に陥った。これに対し、勝頼は妹の菊姫を上杉景勝に嫁がせ、上杉氏と甲越同盟を結んだが、上杉氏は内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力は失っていた。そのため、甲越同盟は対北条同盟でなく、対織田信長の協約として機能した。同年10月8日、勝頼は常陸国の太田三楽斎を介して、佐竹義重との同盟交渉を試み、甲佐同盟を結ぶ。さらに、里見義頼や小弓公方らとの連携を模索し、後北条氏に対抗する。ことに上野国戦線では真田昌幸の活躍もあって、後北条氏方を圧倒した。
一方、武田と織田信長との関係は、長篠の戦い以降は小康状態が続いており、勝頼は佐竹義重を介して信長との和睦を模索する(甲江和与)。天正7年(1579年)11月16日、織田信長養女龍勝院を母とする嫡男・武田信勝への官途奏請を行い、信勝は元服している。
天正7年(1579年)2月には上野国厩橋城の城代・北条高広が武田方に降伏している。
4月23日、勝頼は駿河江尻城へ出兵すると、4月25日には高天神城に近い国安に本陣を置いた。家康は馬伏塚城から見付に本陣を置くと両軍は対峙し、勝頼は4月27日に国安から撤兵し、4月29日に大井川を越えると5月24日に甲府へ帰還した。
前年の御館の乱・甲相同盟の崩壊を経て、天正7年(1579年)7月には東上野に出兵し、敵対関係となった北条氏邦と対陣している。『甲陽軍鑑』によれば、氏邦は鉢形・秩父衆を率いて武蔵広木城・大仏城を陥落させ、これに対して勝頼は西上野衆を率いて両城の奪還を試みるが、兵を引いている(広木大仏の合戦)。
天正7年(1579年)9月には徳川・北条間に同盟が成立し、北条氏政が沼津から三島へ侵攻し、9月13日に勝頼は駿河黄瀬川において氏政と対陣する。家康も氏政に同調し、当目坂城・持船城(武田水軍拠点)を落城させ、由比・倉沢へ侵攻した。
10月、勝頼が江尻城まで兵を引き家康を待ち構えると、家康は撤兵し、12月9日に勝頼も甲府へ帰陣する。
天正8年(1580年)3月、氏政は伊豆口へ侵攻すると、足柄峠へ布陣する。
4月、梶原備前守率いる北条水軍が沼津へ侵攻すると、勝頼は浮島ヶ原へ布陣すると、伊豆沖で武田水軍に北条水軍を迎撃させた。
9月、勝頼は東上野へ出陣し、利根川を越えると新田金山城を攻め、膳城を落とした。膳城での戦いは「膳城素肌攻め」といわれており、『甲陽軍鑑』によれば元々勝頼が平服で視察していたところ、酒に酔って喧嘩をしていた膳城の城兵が武田軍に襲いかかってきたので、勝頼は反撃して城を攻撃し、落城させたと記載されている。
天正8年(1580年)、勝頼は持船城を奪回。城代に朝比奈信置を置いた。
天正9年(1581年)正月、勝頼は現在の韮崎市中田町中條に新たに新府城を築城し、躑躅ヶ崎館・要害山城の所在する甲府城下町からの本拠移転を開始した。一方、後北条氏に対しては、同年3月14日には佐竹義重を介して、安房国の里見義頼とも同盟を結んだ。
3月22日、徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥るが(高天神城の戦い)、この頃信長との和睦を試みていた勝頼は信長を刺激することを警戒し、後詰を派遣することができずに城は落城した。高天神城に後詰を送らず見殺しにしたことは武田家の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺したという。また、織田氏はこれを契機に高天神城落城の喧伝を行い、織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになる。
3月29日、伊豆久竜津(くりょうつ)において武田水軍は梶原備前守率いる北条水軍と戦い、勝利する。武田水軍はさらに伊豆半島の西海岸を襲撃した。
5月、勝頼は遠江国へ出兵している。
9月、勝頼は伊豆国へ出兵し、10月には後北条方の笠原政尭(新六郎)が守備する駿東郡戸倉城を攻める。政尭は抗戦するが、11月には政尭が武田方に内通したため、勝頼は駿河沼津城の城代である曽禰河内守を援軍として派遣し、勝頼自身も伊豆へ出兵すると、三島に本陣を置く北条氏政と対陣した。
12月24日、勝頼は新府城へ移る。
勝頼は信長との和睦交渉を継続し、前年には勝頼側近の大竜寺麟岳らと協議し、武田家に人質として滞在していた織田信房(御坊丸)を織田家に返還し、信房を仲介に信長との和睦を試みた(甲江和与)。一方、信長は朝廷に働きかけ、正親町天皇に勝頼を「東夷(=朝敵)」と認めさせ、石清水八幡宮などの有力寺社で祈祷が行われるなど、武田氏討伐の格好の大義名分を得ていた。信長は勝頼との和睦を黙殺し、12月には翌天正10年(1582年)に武田領攻撃を家臣に通告する。
天正10年(1582年)2月、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が美濃国の豪族・遠山友忠に仲介を頼み、岐阜の織田信忠に忠誠を誓った。義昌は弟の上松蔵人を人質として美濃に送った。同時期に駿豆国境を守る曽禰河内守と江尻城代・穴山梅雪が織田・徳川氏に内応を約束している。勝頼は外戚の木曾の反逆に対し、人質を処刑した上で、武田信豊を大将とする1万の木曾討伐の軍勢を送り出した。
しかし、雪に阻まれ進軍は困難を極め、義昌が陳弁し武田への忠誠を約束したため、討伐軍は進軍を停止した。その間に織田信忠が伊那方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻を開始(甲州征伐)。
そして、織田軍の侵攻の始まった2月14日に浅間山が噴火した。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられており、さらに噴火の時期が朝敵指名および織田軍侵攻と重なってしまったために、武田軍は大いに動揺してしまったと考えられる。
これらの侵攻に対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。伊那口防衛を任せられた下条信氏親子は家老・下条九兵衛の寝返りにより三河国へと逃亡。河尻秀隆の軍が伊那口の滝ノ沢城を接収し、森長可率いる先鋒軍が鳥居峠を経由して下伊那へと侵攻した。信濃松尾城主の小笠原信嶺は狼煙をあげて織田軍の侵攻を手引きし、飯田城の保科正直は高遠城に逃亡した。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て、甲斐国に敗走し、伊那戦線は崩壊した。勝頼は今福筑前守を大将とする木曾討伐軍に鳥居峠の奪取を命じたが、木曾軍に翻弄されて敗走。深志城からの攻撃を計画していた馬場美濃守は安曇・筑摩の反乱に足止めされていた。駿遠方面では家康が小山城を奪還、田中城を迂回して駿府に入った。用宗城の朝比奈信置を敗走させると抵抗する田中城の依田信蕃を下し、内応を約束していた穴山信君の歓迎をうけた。
この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては逃げ出した。唯一、抵抗を見せたのは弟・仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。
同年3月3日、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとした。
だが、信茂は織田方に投降することに方針を転換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。
3月11日、その途上の田野で滝川一益の追手に捕捉され、巳の刻(午前11時頃)に勝頼は嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(田野合戦)。享年37。これによって、甲斐武田氏は滅亡した。
辞世の句は、「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」。これに対する土屋昌恒の返歌は、「俤の みおしはなれぬ 月なれば 出るも入るも おなじ山の端」という。
勝頼父子の首級は京都に送られ、六条河原に晒されている。
勝頼は追い詰められた際、跡継ぎの武田信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった小桜韋威鎧(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。
後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。江戸時代以降に再興する武田家は、勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜である。
『甲陽軍鑑』では家を滅ぼす大将のタイプを「馬鹿なる大将(鈍すぎる大将)」・「利根過ぎたる大将」・「臆病たる大将(弱過ぎたる大将)」・「強過ぎたる大将」として分け、それぞれ代表的な人物として今川氏真・武田義信・上杉憲政・武田勝頼としている。
「勝頼は武勇に優れた武将であり信玄も認めていた」
武田家遺臣は武田家滅亡の要因を、上杉景勝との甲越同盟締結による北条氏政との甲相同盟破綻と、北条・織田・徳川同盟の成立に求めた。
勝頼からの離反直後の信君「勝頼が家督を担った十年間は讒人を登用し、親族の諫言には耳を貸さなかったため、政治は大いに乱れた」
「勝頼は片手間であしらえるような相手ではない。信長は、畿内の戦略を一時中断してでその鋭鋒を防がなければ、由々しき事態を招くだろう」信長宛の謙信書状
「四郎は若輩に候と雖も、信玄の掟を守り、表裏たるべきの条」(上杉家文書)
「甲州の信玄が病死した。その後は続くまい」(武家事紀「信長」)
信長は、家督相続当初は上記のように勝頼を軽く見ていたが、東美濃侵攻が始まると、下記のようにその武勇を高く評価するように転じる。長篠合戦後は、もはや自分の脅威たり得ないと内外に豪語するようになるが、甲州征伐の際に勝頼が最後は必ず決戦を挑んでくると警戒しており、信忠に何度も過度の前進を諌めている。
勝頼の首級と対面した信長は「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」と、勝頼は運がなかったという感想を漏らした『三河物語』。
天正9年の駿河北山本門寺・西山本門寺の争論に対し勝頼が行った裁許について、勝頼は中世人の常識人であり、共通する思考ともいえる先例の遵守にとらわれない「物数奇」と評し、よほどの勇気がなければ出来ないことだと指摘している。すなわち勝頼は、父信玄の先例にとらわれず、独自の新機軸を打ち出すことで武田領国内での新たな秩序を作り上げようとしていた可能性がある。しかもそれは、先例の保護で安定していた法秩序などを打破することで、武田氏当主勝頼の権限を強化する方向性を目指していたと推察される。
「勝頼が当主になったことによって、人民は快楽、国土は安らかで穏やかになる、目出たい限りだ」(塩山向嶽禅庵小年代記)向嶽寺の歴代住職による年代記
勝頼の時代になってから領域が拡大せず領国支配が強化された(近世大名化)。そのため税の徴収が厳しくなり、負担量は変化していないのに民衆に不満を抱かれた。このことが、武田家滅亡の原因を勝頼の責任にされた理由である。
信長は武田領国侵攻開始直後に越中において、勝頼が地の利を生かして信長父子を討ち取ったという虚報を流し、これを信じて蜂起した越中一向一揆を逆に鎮圧している。これは逆に言えば当時の人々にとって、勝頼は信長と決戦をして勝利することが可能な武将だと認識されていたということである。
江戸時代を境に「勝頼は家を滅ぼした暗愚の将」という評価が定着した。近世の武家社会では、家を守り伝えるのは最も重要な徳目であり、家を滅ぼすのは愚行の極みとする通念があった。現在にも通じる勝頼に対する低い評価は、『甲陽軍鑑』の記述とこの近世の武家の倫理規範が融合した結果だと考えられる。
これに対し、近代には山路愛山や徳富蘇峰が評論において勝頼の再評価を試みた。
武田勝頼は長篠合戦で武田氏の鉄砲軽視説として触れられるのみであった。それも勝頼自身に事績についての研究を行った上野晴朗以外の研究者による勝頼の評価は、信長・家康・信玄と比較しながらであり、真摯な検討を重ねておらず全く根拠を欠いたステレオタイプの勝頼評である。
「戦国武将・大名としてとりわけ傑出した人物とは思われず、典型的な三代目」「勝頼再評価の機運も贔屓の引き倒し」柴辻俊六「武田勝頼」新人物往来社、2003年
勝頼が長篠の戦いでの敗戦後も突撃を繰り返すのをみて「勝頼も懲りないやつだといってしまえばそれまでだが」と鈴木眞哉は批判している。
「武田勝頼・同夫人・信勝画像」(和歌山県高野山・持明院蔵)を見て、戦陣を指揮する武将の風情はなく、むしろ知性あふれた文人として笹本正治は称賛している
「新府城の戦略的価値とその優れた機能は、皮肉なことに宿敵徳川家康が、天正壬午の乱で証明したのである」と平山優は称賛している。
甲越同盟締結により、御館の乱は上杉景勝が勝利した。そのため北条氏政は勝頼との同盟を破棄した。しかし勝頼は、佐竹義重ら北関東の大名と同盟を結ぶことで北条家を圧迫し、武田家最大規模の領国を築くことに成功した。これは決して長篠敗戦が武田家滅亡の要因ではないことを示している。しかし氏政は織田・徳川と同盟を結び、武田家を逆包囲した。高天神城の戦いで勝頼が救援出来なかったのは、北条家との対立が原因である。武田遺臣の多くが、武田家滅亡の要因を長篠合戦ではなく北条家との同盟破棄と認識していた理由がここにある。
よって、武田家滅亡の要因は甲越同盟にあると言える。
また平山優は、武田家滅亡の原因として御館の乱における中立の立場を守れなかったことを挙げている。戦国大名同士の仲介は、領域画定などの利害調整がなされれば比較的容易だったのに対し、御館の乱は家督相続問題が対立の争点であり利害調整が困難だったので、景勝側に付くしかなかったと分析している。
一方で笹本正治は、甲越同盟による北条家との敵対を武田家滅亡の要因としながらも、それは結果論であり勝頼の判断は決して間違ってなかったとしている。勝頼は親北条の景虎が上杉家を継ぐことにより、北条家との対等な力関係が崩れることを恐れた。しかし景勝が上杉家を継いだら武田・上杉・北条の力関係は均衡し、さらに御館の乱を鎮めた功労者として上杉家に大きな影響力を持つことを考えた。よって勝頼の選択は決して愚策ではなかった。
信玄期の拡大領国を継承した勝頼は、在治期間は短いものの、信玄期に次ぐ残存文書が残されている。戦国大名武田氏の印判状は信虎期に創始され、晴信(信玄)期に竜朱印状が創始され家印として定着し、信玄後期には「伝馬」「船」など用途別印も用いられた。
勝頼期の発給文書は信玄期の方式を踏襲しているが、特徴として竜朱印状の比率が高いことが指摘され、これは『甲陽軍鑑』に記される天正2年(1574年)の信玄死去に際して800枚の竜朱印用紙が準備されたとする内容を裏付け、「晴信」印文の竜朱印は天正8年(1580年)まで用いられている。信玄死去の天正2年と葬儀の行われた天正4年(1576年)は領国内における継目安堵の文書が数多く発給されており、天正8年には甲越同盟の影響による北条・徳川との対立が激化したため軍役関係の文書が数多く発給されている。
天正3年(1575年)末には獅子朱印が創始されているが、これは同年5月の長篠の戦いにおける敗戦の影響から領国体制の再建を意図したものであるとされ、領国内の諸公事や納物徴用において用いられている。また、勝頼期には支城領支配の定着による一族文書の増加が指摘され、支城領主は独自の印判を用いている。
嫡男・武田信勝がいたが、天正10年(1582年)に勝頼と共に死亡した。次男は早世。三男、四男は出家と伝わる。
娘の1人・貞姫は、小山田信茂の娘の香具姫、仁科盛信の娘らとともに、信玄の娘である松姫に連れられ、武蔵国八王子に落ち延びた。以降、松姫や遺臣らにより養育され、のちに古河公方足利家の系統の江戸幕府高家旗本・宮原義久の正室となり、嫡男・宮原晴克を生んだ。宮原義久の生母は上総武田氏の一族である真里谷武田家の真里谷信政の娘である。宮原氏の子孫は高家旗本として幕末まで続いている。
他に、実子に望月信永室、養子に六角次郎室と若狭武田五郎室がいたとされる。
勝頼の遺児千徳丸は、武田家重臣・秋山信藤・長慶父子に奉じられ、武蔵国瓦曽根村に潜居した後、早世したとされている。
武田信玄の家臣団を参照。
など。
その後の武田家家臣については天正壬午起請文。
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"text": "武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国武将・大名。武田氏第17代当主。甲斐武田家第20代当主。",
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"text": "本姓では源 勝頼(みなもと の かつより)。通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎・武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は武田信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。",
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"text": "強硬策をもって領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の長尾上杉家との甲越同盟、佐竹家との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。",
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"text": "近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。",
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"text": "天文15年(1546年)、武田晴信(信玄)の四男(庶子)として生まれた。生誕地や生月日は不明。母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳、乾福院殿)。",
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"text": "武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にあったが、父の晴信は天文10年(1541年)6月に信虎を追放する形で家督を相続すると諏訪氏とは手切となり、天文11年(1542年)6月には諏訪侵攻を行い、諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡する。晴信は諏訪残党の高遠頼継らの反乱に対し、頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を奉じて諏訪遺臣を糾合し、頼継を制圧する。",
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"text": "晴信は、側室として諏訪御料人を武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え、天文15年(1546年)に勝頼が誕生する。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年8月28日には千代宮丸を擁立していた諏訪満隆が切腹を命じられており、反乱を企てていたと考えられている。",
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"text": "躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられているが、武田家嫡男の武田義信や次男・海野信親(竜宝)に関する記事の多い『高白斎記』においても勝頼や諏訪御料人に関する記事は見られず、乳母や傅役など幼年期の事情は不明である。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼出生に至る経緯が詳細に記されているが、内容は疑問視されている。信玄が諏訪御料人を側室に迎えることには、武田家中でも根強い反対があったとも考えられている。",
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"text": "武田信玄は信濃侵攻を本格化して越後国の上杉氏と対決し、永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいて信濃平定が一段落している。信玄は信濃支配において、旧族に子女を入嗣させて懐柔する政策を取っており、勝頼の異母弟である仁科盛信は信濃仁科氏を継承しているが、勝頼も同年6月に諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である「頼」を名乗り諏訪四郎勝頼となる(武田氏の通字である「信」を継承していない点が注目される)。勝頼は跡部重政(右衛門)ら8名の家臣団を付けられ、従弟の武田信豊らと共に親族衆に列せられている。",
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"text": "勝頼は城代・秋山虎繁(信友)に代わり信濃高遠城主となり、勝頼の高遠城入城に際しては馬場信春が城の改修を行う。勝頼期の高遠領支配は3点の文書が残されているのみで、具体的実情は不明であるものの、独自支配権を持つ支城領として機能していたと考えられている。ほか、事跡として高遠建福寺で行われた諏訪御料人の十七回忌や、永禄7年(1564年)に諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納したことなどが見られる。",
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"text": "永禄6年(1563年)、上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)で初陣を飾った。長野氏の家臣・藤井豊後が、物見から帰るところを追撃し、城外椿山にて組み打ちを行い討ち取った。その後の箕輪城・倉賀野城攻めなどでも功を挙げた。",
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"text": "その後、信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、永禄12年(1569年)の武蔵国滝山城攻めでは北条氏照の家老・諸岡山城守と3度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦(三増峠の戦い)では殿を務め、松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちを行ったとされる。",
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"text": "永禄8年(1565年)、異母兄で武田家後継者であった武田義信の家臣らが信玄暗殺の密謀のため処刑され、義信自身も幽閉される。",
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"text": "同年11月、勝頼と尾張の織田信長養女(龍勝院)との婚礼が進められており、この頃の信玄は従来の北進戦略を変更し、織田家と同盟して信濃侵攻や東海方面への侵攻を具体化しており、家臣団の中にも今川義元の娘を室とする義信派との対立があったという。次兄の竜宝は生まれつきの盲目のために出家し、三兄の信之は夭逝していることから、勝頼が信玄の指名で後継者と定められた。",
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"text": "永禄10年(1567年)、高遠城で正室・龍勝院との間に嫡男・武王丸(武田信勝)が誕生する。",
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"text": "元亀2年(1571年)2月、勝頼は甲府へ召還され、叔父・武田信廉が高遠城主となっている。同年9月16日、正室・龍勝院殿が死去している。勝頼は稲村清右衛門尉・富沢平三の両名を高野山成慶院へ派遣し、龍勝院の供養を行っている。",
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"text": "永禄10年(1567年)12月、武田・織田同盟の補強として、異母妹で7歳の松姫と信長の嫡男・織田信忠(11歳)との婚約が成立する。",
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"text": "武田氏は相模後北条氏と甲相同盟を結び、諸勢力とともに将軍・足利義昭の信長包囲網に参加し、元亀3年(1572年)10月には西上作戦を開始した。",
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"text": "勝頼は武田信豊・穴山信君とともに大将を務め、同年11月に徳川方の遠江二俣城を攻略し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦う。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "元亀4年(1573年)4月12日、信玄が西上作戦の途中で病死したため家督を相続し、武田氏第20代当主となる。しかし、表向きは信玄の死を隠して隠居とし、勝頼が家督を相続したと発表されていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "信玄の死により、織田信長・徳川家康らは窮地を脱した。そして信長は将軍である足利義昭を河内国に追放した。同年の天正への改元後、信長は越前国や近江国に攻め入って朝倉義景・浅井長政を滅ぼした。また家康も武田氏に従っていた三河国山間部の山家三方衆の奥平貞能・貞昌親子を寝返らせるなど、信玄存命中は守勢であった織田・徳川連合軍の逆襲が始まった。これに対して勝頼は、勢力拡大を目指して外征を実施する。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は、織田信長をさらに圧迫するため、甲斐・信濃など五箇国の兵力で出発し、4月中旬に東美濃の城や砦(苗木城・阿寺城・千旦林城・阿木城・飯羽間城・串原城・今見砦など)を陥れ、岩村城に進出して明知城を包囲した。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "この時、織田信長は6万人を率いたとされるが、山県昌景が兵6000を率いて鶴岡山の方に進出すると、信長は兵を引いたという。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "翌2月5日、信長は嫡男・織田信忠とともに出陣したが、到着前の2月6日に明知城で飯羽間右衛門の裏切りがあって落城したため、東濃の神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。また武田勝頼の軍勢は遠山領内の神社や寺院を悉く焼討し破壊した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "天正2年(1574年)2月、東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落とした。信長は嫡男・織田信忠と共に明知城の後詰(援軍)に出陣しようとしたが、それより前に勝頼が明知城を落としたため、信長は岐阜に撤退した。",
"title": "生涯"
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"text": "天正2年(1574年)、勝頼は飯羽間城を攻め落とした。",
"title": "生涯"
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"text": "天正2年(1574年)6月、遠江国の徳川領に侵入し、信玄が落とせなかった高天神城を陥落させて城将・小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定した。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "9月、天竜川を挟んで徳川家康と対陣、その後浜松城に迫り、浜松城下に放火した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "天正3年(1575年)、勝頼は先年徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵1万5,000(一説には8,000から1万)を率いて三河国へ侵入し、5月には奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始する。だが、長篠城は奥平勢の善戦により持ち堪え、武田軍は長篠城攻略に時間を費やすこととなる。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "そして、織田信長・徳川家康の連合軍およそ3万8,000(一説には織田軍1万2,000。徳川軍4,000)が長篠(設楽ヶ原)に到着し、馬防柵を含む陣城の構築を開始した。これに対し、勝頼は長篠城の抑えに兵3,000を残し、主力1万2,000(一説に兵6,000)を率いて設楽ヶ原へ進出し、織田・徳川連合軍と対峙する。長篠決戦前日の戦闘で勝利していたこともあり、武田軍の士気は高かった。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "だが、もはや野戦ではなく、むしろ攻城戦に近い状況(攻城戦はより単純な兵力差が影響する)を感じ取った信玄以来の重鎮たちは撤退を進言したという。しかし、勝頼は織田・徳川との決戦を選択し、5月21日早朝に開戦することとなった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "5月21日、午前6時頃から午後2時頃まで戦闘は続けられるが、数で劣る武田軍では連合軍防御陣の犠牲となった土屋昌次が戦死する。攻めの勢いを喪失したその後、武田軍は総崩れとなるが、敗走する中で馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟等、将士を失ってしまう。また、本戦に先立つ鳶ノ巣砦の攻防戦では、主将の河窪信実・三枝昌貞(守友)などが、その直後に引き続き行われた長篠城近辺の戦闘で高坂昌澄が戦死している。勝頼は菅沼定忠に助けられ一時的に武節城へ篭ったが、伊那郡へ退却した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "この敗北で、武田軍は1万人以上の死傷者(一説には武田方1,000、織田徳川連合軍600の損害)を出したといわれている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "長篠の戦いによる敗退後、織田・徳川軍はさらに反攻を強め、奥三河の田峰城・武節城・作手城を奪還した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "天正3年(1575年)6月に徳川家康は遠江二俣城を包囲し、犬居谷の光明城を攻撃した。犬居谷を制圧すれば、武田の遠江侵攻経路と二俣城の補給を遮断することが可能だった。家康旗本衆の活躍により、勝頼から犬居谷防衛を任せられた天野景貫は光明城を明け渡し撤退した。犬居谷の制圧を終えた家康は、高天神城の補給拠点として機能していた諏訪原城を攻撃した。2,000の駿河衆が大井河を渡り家康と対峙している。",
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "同年8月、徳川家康が諏訪原城を落城させ、牧野原城に改名した。勝頼は戦死した山県昌景の後任として、穴山梅雪を江尻城代とし駿遠の防衛を委ねた。徳川軍はさらに小山城を包囲するが、同月、勝頼は1万3,000の兵を率いて小山城へ出兵。徳川軍は撤退する。二俣城と高天神城への補給を終えた勝頼は甲府へと帰還した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "長篠合戦以後、三河国から武田方が締め出されたのを皮切りに、同年11月には信長の下命を受けた嫡男・織田信忠を総大将とした5万の織田軍によって東美濃の岩村城を陥落させられ、織田方に降伏した飯田城代・伊那郡代である秋山虎繁は岐阜へ連行され長良川河畔で逆磔により処刑された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "同年12月24日、徳川軍の包囲に耐えかねた二俣城が開城し、依田信蕃が高天神城に撤退したことによって高天神城が孤立した。",
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{
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"tag": "p",
"text": "天正4年(1576年)春、勝頼は高天神城救援のため遠江国へ出兵し、徳川方の横須賀城(静岡県掛川市)を攻める。『甲陽軍鑑』によれば城主の大須賀康高の抗戦により、勝頼は相良城へ撤兵した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "天正5年(1577年)閏7月、家康が高天神城を攻めると、勝頼は7月19日に出兵し9月22日に江尻城へ入る。10月20日には小山城を経て大井川を越えると、10月20日に馬伏塚城()において徳川方と抗戦する。勝頼は10月25日に撤兵している。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "天正6年(1578年)3月3日、家康は駿河田中城を攻撃し、7月15日には高天神城攻撃の拠点となる横須賀城を完成させている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "勝頼が上杉氏の御館の乱の発生により信越国境へ出兵中の8月、家康は小山城を包囲し、田中城への攻撃を開始する。このため、勝頼は越後国から撤兵すると、10月に田中城・高天神城へ入る。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "11月3日、勝頼は横須賀城へ侵攻し、家康と抗戦している。その後も両軍は交戦し、10月17日には島田、10月19日には青島で合戦があり、勝頼は田中城へ撤兵している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "長篠合戦後、武田氏は領国再建のため越後上杉氏・相模後北条氏との同盟強化に着手する。信玄後期に後北条氏とは甲相同盟を復活し、上杉氏とは本格的な軍事的衝突こそないものの緊張関係が続いていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "天正3年(1575年)、紀伊国に亡命していた将軍・足利義昭が武田氏(甲斐)・後北条氏(相模)・上杉氏(越後)三者の間での和睦をするよう呼びかける(甲相越三和)。長篠の敗戦後、上杉謙信との和睦を模索していた勝頼にとって義昭の上意は渡りに船であった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "9月28日、勝頼は義昭側近の一色藤長に対して、義昭の和睦案の受け入れを表明した。謙信は武田との和睦には反対しなかったが、北条との和睦は拒絶した(『上越市史』)。後北条・上杉間の不和により甲相越三和は実現しなかったものの、武田と上杉の和睦は10月中に成立しており、長篠の敗戦とその後の織田、徳川の攻勢によって窮地に立たされていた勝頼は外交状況の改善に成功した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "天正4年(1576年)2月、足利義昭が安芸国の有力大名・毛利輝元に庇護を求め、その勢力圏である備後国鞆要害に下向した。4月には輝元が義昭の庇護を受け入れ、5月に信長との同盟破棄に踏み切る。6月16日に輝元挙兵を知らせる書状を受け取った勝頼は、武田・毛利間の同盟を求める書状を送った。同時期、6月12日に義昭は、武田、北条、上杉の三者に甲相越三和を命じる御内書を再度下している。前年とは違い、この時は輝元の副状付きであった。9月16日にも勝頼は輝元に対して、6か条の軍役条目を送っている。この頃に毛利氏との間で同盟が成立したと考えられる(甲芸同盟)。勝頼は上杉氏とは足利義昭を間に挟んで和睦継続を確認し、天正5年(1577年)正月22日に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えるなど、双方と外交関係を強化していたが、上杉・後北条間の外交関係は険悪な状態が続いていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "天正6年(1578年)3月13日、越後国で上杉謙信が病死すると、北条氏政の弟(遠縁との説もある)で上杉氏に養子として出されていた上杉景虎(旧名・北条三郎)と謙信の甥で養子の上杉景勝の間で家督を巡り御館の乱が起こる。勝頼は氏政から景虎支援を要請され、5月下旬には武田信豊らを信越国境へ派遣し、6月29日には自らも越後国へ出兵し、景勝・景虎間の調停を試みる。景勝方から和睦が持ちかけられると、これを受け入れている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "これにより勝頼は上杉景勝と和睦し、条件であった上杉領を接収すると、一方で景虎方との和睦調停も継続し、8月19日には春日山城において両者の和睦を成立させる。勝頼は徳川家康の小山城・田中城への攻撃を受けて8月27日に帰国する。その間に景勝・景虎間の和睦は破綻し、天正7年(1579年)3月24日には上杉景勝方の勝利により乱は収束する。勝頼は明確な景勝支援は行っていないが、乱の終結によって後北条氏との関係は険悪化する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "同年9月、武田氏と後北条氏の両者は手切となり、甲相同盟は破綻した。武田氏と後北条氏は、領国を接する駿河・伊豆・上野方面において抗争状態に突入した。後北条氏は徳川家康と同盟を結び、駿河国において武田氏は挟撃を受ける事態に陥った。これに対し、勝頼は妹の菊姫を上杉景勝に嫁がせ、上杉氏と甲越同盟を結んだが、上杉氏は内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力は失っていた。そのため、甲越同盟は対北条同盟でなく、対織田信長の協約として機能した。同年10月8日、勝頼は常陸国の太田三楽斎を介して、佐竹義重との同盟交渉を試み、甲佐同盟を結ぶ。さらに、里見義頼や小弓公方らとの連携を模索し、後北条氏に対抗する。ことに上野国戦線では真田昌幸の活躍もあって、後北条氏方を圧倒した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "一方、武田と織田信長との関係は、長篠の戦い以降は小康状態が続いており、勝頼は佐竹義重を介して信長との和睦を模索する(甲江和与)。天正7年(1579年)11月16日、織田信長養女龍勝院を母とする嫡男・武田信勝への官途奏請を行い、信勝は元服している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "天正7年(1579年)2月には上野国厩橋城の城代・北条高広が武田方に降伏している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "4月23日、勝頼は駿河江尻城へ出兵すると、4月25日には高天神城に近い国安に本陣を置いた。家康は馬伏塚城から見付に本陣を置くと両軍は対峙し、勝頼は4月27日に国安から撤兵し、4月29日に大井川を越えると5月24日に甲府へ帰還した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "前年の御館の乱・甲相同盟の崩壊を経て、天正7年(1579年)7月には東上野に出兵し、敵対関係となった北条氏邦と対陣している。『甲陽軍鑑』によれば、氏邦は鉢形・秩父衆を率いて武蔵広木城・大仏城を陥落させ、これに対して勝頼は西上野衆を率いて両城の奪還を試みるが、兵を引いている(広木大仏の合戦)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "天正7年(1579年)9月には徳川・北条間に同盟が成立し、北条氏政が沼津から三島へ侵攻し、9月13日に勝頼は駿河黄瀬川において氏政と対陣する。家康も氏政に同調し、当目坂城・持船城(武田水軍拠点)を落城させ、由比・倉沢へ侵攻した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "10月、勝頼が江尻城まで兵を引き家康を待ち構えると、家康は撤兵し、12月9日に勝頼も甲府へ帰陣する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "天正8年(1580年)3月、氏政は伊豆口へ侵攻すると、足柄峠へ布陣する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "4月、梶原備前守率いる北条水軍が沼津へ侵攻すると、勝頼は浮島ヶ原へ布陣すると、伊豆沖で武田水軍に北条水軍を迎撃させた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "9月、勝頼は東上野へ出陣し、利根川を越えると新田金山城を攻め、膳城を落とした。膳城での戦いは「膳城素肌攻め」といわれており、『甲陽軍鑑』によれば元々勝頼が平服で視察していたところ、酒に酔って喧嘩をしていた膳城の城兵が武田軍に襲いかかってきたので、勝頼は反撃して城を攻撃し、落城させたと記載されている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 60,
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"text": "天正8年(1580年)、勝頼は持船城を奪回。城代に朝比奈信置を置いた。",
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "天正9年(1581年)正月、勝頼は現在の韮崎市中田町中條に新たに新府城を築城し、躑躅ヶ崎館・要害山城の所在する甲府城下町からの本拠移転を開始した。一方、後北条氏に対しては、同年3月14日には佐竹義重を介して、安房国の里見義頼とも同盟を結んだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 62,
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"text": "3月22日、徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥るが(高天神城の戦い)、この頃信長との和睦を試みていた勝頼は信長を刺激することを警戒し、後詰を派遣することができずに城は落城した。高天神城に後詰を送らず見殺しにしたことは武田家の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺したという。また、織田氏はこれを契機に高天神城落城の喧伝を行い、織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになる。",
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"text": "3月29日、伊豆久竜津(くりょうつ)において武田水軍は梶原備前守率いる北条水軍と戦い、勝利する。武田水軍はさらに伊豆半島の西海岸を襲撃した。",
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"text": "5月、勝頼は遠江国へ出兵している。",
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"text": "9月、勝頼は伊豆国へ出兵し、10月には後北条方の笠原政尭(新六郎)が守備する駿東郡戸倉城を攻める。政尭は抗戦するが、11月には政尭が武田方に内通したため、勝頼は駿河沼津城の城代である曽禰河内守を援軍として派遣し、勝頼自身も伊豆へ出兵すると、三島に本陣を置く北条氏政と対陣した。",
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"text": "12月24日、勝頼は新府城へ移る。",
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "勝頼は信長との和睦交渉を継続し、前年には勝頼側近の大竜寺麟岳らと協議し、武田家に人質として滞在していた織田信房(御坊丸)を織田家に返還し、信房を仲介に信長との和睦を試みた(甲江和与)。一方、信長は朝廷に働きかけ、正親町天皇に勝頼を「東夷(=朝敵)」と認めさせ、石清水八幡宮などの有力寺社で祈祷が行われるなど、武田氏討伐の格好の大義名分を得ていた。信長は勝頼との和睦を黙殺し、12月には翌天正10年(1582年)に武田領攻撃を家臣に通告する。",
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"paragraph_id": 68,
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"text": "天正10年(1582年)2月、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が美濃国の豪族・遠山友忠に仲介を頼み、岐阜の織田信忠に忠誠を誓った。義昌は弟の上松蔵人を人質として美濃に送った。同時期に駿豆国境を守る曽禰河内守と江尻城代・穴山梅雪が織田・徳川氏に内応を約束している。勝頼は外戚の木曾の反逆に対し、人質を処刑した上で、武田信豊を大将とする1万の木曾討伐の軍勢を送り出した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "しかし、雪に阻まれ進軍は困難を極め、義昌が陳弁し武田への忠誠を約束したため、討伐軍は進軍を停止した。その間に織田信忠が伊那方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻を開始(甲州征伐)。",
"title": "生涯"
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"text": "そして、織田軍の侵攻の始まった2月14日に浅間山が噴火した。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられており、さらに噴火の時期が朝敵指名および織田軍侵攻と重なってしまったために、武田軍は大いに動揺してしまったと考えられる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 71,
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"text": "これらの侵攻に対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。伊那口防衛を任せられた下条信氏親子は家老・下条九兵衛の寝返りにより三河国へと逃亡。河尻秀隆の軍が伊那口の滝ノ沢城を接収し、森長可率いる先鋒軍が鳥居峠を経由して下伊那へと侵攻した。信濃松尾城主の小笠原信嶺は狼煙をあげて織田軍の侵攻を手引きし、飯田城の保科正直は高遠城に逃亡した。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て、甲斐国に敗走し、伊那戦線は崩壊した。勝頼は今福筑前守を大将とする木曾討伐軍に鳥居峠の奪取を命じたが、木曾軍に翻弄されて敗走。深志城からの攻撃を計画していた馬場美濃守は安曇・筑摩の反乱に足止めされていた。駿遠方面では家康が小山城を奪還、田中城を迂回して駿府に入った。用宗城の朝比奈信置を敗走させると抵抗する田中城の依田信蕃を下し、内応を約束していた穴山信君の歓迎をうけた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては逃げ出した。唯一、抵抗を見せたのは弟・仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。",
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "同年3月3日、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとした。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "だが、信茂は織田方に投降することに方針を転換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "3月11日、その途上の田野で滝川一益の追手に捕捉され、巳の刻(午前11時頃)に勝頼は嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(田野合戦)。享年37。これによって、甲斐武田氏は滅亡した。",
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "辞世の句は、「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」。これに対する土屋昌恒の返歌は、「俤の みおしはなれぬ 月なれば 出るも入るも おなじ山の端」という。",
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "勝頼父子の首級は京都に送られ、六条河原に晒されている。",
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "勝頼は追い詰められた際、跡継ぎの武田信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった小桜韋威鎧(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。",
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{
"paragraph_id": 79,
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"text": "後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。江戸時代以降に再興する武田家は、勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜である。",
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"paragraph_id": 80,
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"text": "『甲陽軍鑑』では家を滅ぼす大将のタイプを「馬鹿なる大将(鈍すぎる大将)」・「利根過ぎたる大将」・「臆病たる大将(弱過ぎたる大将)」・「強過ぎたる大将」として分け、それぞれ代表的な人物として今川氏真・武田義信・上杉憲政・武田勝頼としている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "「勝頼は武勇に優れた武将であり信玄も認めていた」",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "武田家遺臣は武田家滅亡の要因を、上杉景勝との甲越同盟締結による北条氏政との甲相同盟破綻と、北条・織田・徳川同盟の成立に求めた。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "勝頼からの離反直後の信君「勝頼が家督を担った十年間は讒人を登用し、親族の諫言には耳を貸さなかったため、政治は大いに乱れた」",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "「勝頼は片手間であしらえるような相手ではない。信長は、畿内の戦略を一時中断してでその鋭鋒を防がなければ、由々しき事態を招くだろう」信長宛の謙信書状",
"title": "評価"
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{
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"text": "「四郎は若輩に候と雖も、信玄の掟を守り、表裏たるべきの条」(上杉家文書)",
"title": "評価"
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{
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"text": "「甲州の信玄が病死した。その後は続くまい」(武家事紀「信長」)",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "信長は、家督相続当初は上記のように勝頼を軽く見ていたが、東美濃侵攻が始まると、下記のようにその武勇を高く評価するように転じる。長篠合戦後は、もはや自分の脅威たり得ないと内外に豪語するようになるが、甲州征伐の際に勝頼が最後は必ず決戦を挑んでくると警戒しており、信忠に何度も過度の前進を諌めている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "勝頼の首級と対面した信長は「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」と、勝頼は運がなかったという感想を漏らした『三河物語』。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "天正9年の駿河北山本門寺・西山本門寺の争論に対し勝頼が行った裁許について、勝頼は中世人の常識人であり、共通する思考ともいえる先例の遵守にとらわれない「物数奇」と評し、よほどの勇気がなければ出来ないことだと指摘している。すなわち勝頼は、父信玄の先例にとらわれず、独自の新機軸を打ち出すことで武田領国内での新たな秩序を作り上げようとしていた可能性がある。しかもそれは、先例の保護で安定していた法秩序などを打破することで、武田氏当主勝頼の権限を強化する方向性を目指していたと推察される。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "「勝頼が当主になったことによって、人民は快楽、国土は安らかで穏やかになる、目出たい限りだ」(塩山向嶽禅庵小年代記)向嶽寺の歴代住職による年代記",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "勝頼の時代になってから領域が拡大せず領国支配が強化された(近世大名化)。そのため税の徴収が厳しくなり、負担量は変化していないのに民衆に不満を抱かれた。このことが、武田家滅亡の原因を勝頼の責任にされた理由である。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "信長は武田領国侵攻開始直後に越中において、勝頼が地の利を生かして信長父子を討ち取ったという虚報を流し、これを信じて蜂起した越中一向一揆を逆に鎮圧している。これは逆に言えば当時の人々にとって、勝頼は信長と決戦をして勝利することが可能な武将だと認識されていたということである。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "江戸時代を境に「勝頼は家を滅ぼした暗愚の将」という評価が定着した。近世の武家社会では、家を守り伝えるのは最も重要な徳目であり、家を滅ぼすのは愚行の極みとする通念があった。現在にも通じる勝頼に対する低い評価は、『甲陽軍鑑』の記述とこの近世の武家の倫理規範が融合した結果だと考えられる。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "これに対し、近代には山路愛山や徳富蘇峰が評論において勝頼の再評価を試みた。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "武田勝頼は長篠合戦で武田氏の鉄砲軽視説として触れられるのみであった。それも勝頼自身に事績についての研究を行った上野晴朗以外の研究者による勝頼の評価は、信長・家康・信玄と比較しながらであり、真摯な検討を重ねておらず全く根拠を欠いたステレオタイプの勝頼評である。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "「戦国武将・大名としてとりわけ傑出した人物とは思われず、典型的な三代目」「勝頼再評価の機運も贔屓の引き倒し」柴辻俊六「武田勝頼」新人物往来社、2003年",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "勝頼が長篠の戦いでの敗戦後も突撃を繰り返すのをみて「勝頼も懲りないやつだといってしまえばそれまでだが」と鈴木眞哉は批判している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "「武田勝頼・同夫人・信勝画像」(和歌山県高野山・持明院蔵)を見て、戦陣を指揮する武将の風情はなく、むしろ知性あふれた文人として笹本正治は称賛している",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "「新府城の戦略的価値とその優れた機能は、皮肉なことに宿敵徳川家康が、天正壬午の乱で証明したのである」と平山優は称賛している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "甲越同盟締結により、御館の乱は上杉景勝が勝利した。そのため北条氏政は勝頼との同盟を破棄した。しかし勝頼は、佐竹義重ら北関東の大名と同盟を結ぶことで北条家を圧迫し、武田家最大規模の領国を築くことに成功した。これは決して長篠敗戦が武田家滅亡の要因ではないことを示している。しかし氏政は織田・徳川と同盟を結び、武田家を逆包囲した。高天神城の戦いで勝頼が救援出来なかったのは、北条家との対立が原因である。武田遺臣の多くが、武田家滅亡の要因を長篠合戦ではなく北条家との同盟破棄と認識していた理由がここにある。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "よって、武田家滅亡の要因は甲越同盟にあると言える。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "また平山優は、武田家滅亡の原因として御館の乱における中立の立場を守れなかったことを挙げている。戦国大名同士の仲介は、領域画定などの利害調整がなされれば比較的容易だったのに対し、御館の乱は家督相続問題が対立の争点であり利害調整が困難だったので、景勝側に付くしかなかったと分析している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "一方で笹本正治は、甲越同盟による北条家との敵対を武田家滅亡の要因としながらも、それは結果論であり勝頼の判断は決して間違ってなかったとしている。勝頼は親北条の景虎が上杉家を継ぐことにより、北条家との対等な力関係が崩れることを恐れた。しかし景勝が上杉家を継いだら武田・上杉・北条の力関係は均衡し、さらに御館の乱を鎮めた功労者として上杉家に大きな影響力を持つことを考えた。よって勝頼の選択は決して愚策ではなかった。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "信玄期の拡大領国を継承した勝頼は、在治期間は短いものの、信玄期に次ぐ残存文書が残されている。戦国大名武田氏の印判状は信虎期に創始され、晴信(信玄)期に竜朱印状が創始され家印として定着し、信玄後期には「伝馬」「船」など用途別印も用いられた。",
"title": "勝頼期の文書"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "勝頼期の発給文書は信玄期の方式を踏襲しているが、特徴として竜朱印状の比率が高いことが指摘され、これは『甲陽軍鑑』に記される天正2年(1574年)の信玄死去に際して800枚の竜朱印用紙が準備されたとする内容を裏付け、「晴信」印文の竜朱印は天正8年(1580年)まで用いられている。信玄死去の天正2年と葬儀の行われた天正4年(1576年)は領国内における継目安堵の文書が数多く発給されており、天正8年には甲越同盟の影響による北条・徳川との対立が激化したため軍役関係の文書が数多く発給されている。",
"title": "勝頼期の文書"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "天正3年(1575年)末には獅子朱印が創始されているが、これは同年5月の長篠の戦いにおける敗戦の影響から領国体制の再建を意図したものであるとされ、領国内の諸公事や納物徴用において用いられている。また、勝頼期には支城領支配の定着による一族文書の増加が指摘され、支城領主は独自の印判を用いている。",
"title": "勝頼期の文書"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "嫡男・武田信勝がいたが、天正10年(1582年)に勝頼と共に死亡した。次男は早世。三男、四男は出家と伝わる。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "娘の1人・貞姫は、小山田信茂の娘の香具姫、仁科盛信の娘らとともに、信玄の娘である松姫に連れられ、武蔵国八王子に落ち延びた。以降、松姫や遺臣らにより養育され、のちに古河公方足利家の系統の江戸幕府高家旗本・宮原義久の正室となり、嫡男・宮原晴克を生んだ。宮原義久の生母は上総武田氏の一族である真里谷武田家の真里谷信政の娘である。宮原氏の子孫は高家旗本として幕末まで続いている。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "他に、実子に望月信永室、養子に六角次郎室と若狭武田五郎室がいたとされる。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "勝頼の遺児千徳丸は、武田家重臣・秋山信藤・長慶父子に奉じられ、武蔵国瓦曽根村に潜居した後、早世したとされている。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "武田信玄の家臣団を参照。",
"title": "家臣"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "など。",
"title": "家臣"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "その後の武田家家臣については天正壬午起請文。",
"title": "家臣"
}
] |
武田 勝頼 / 諏訪 勝頼は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国武将・大名。武田氏第17代当主。甲斐武田家第20代当主。 本姓では源 勝頼。通称は四郎。当初は母方の諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎・武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は武田信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。 強硬策をもって領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の長尾上杉家との甲越同盟、佐竹家との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。 近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。
|
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 武田 勝頼 / 諏訪 勝頼
| 画像 = Takeda Katsuyori.jpg
| 画像サイズ =250px
| 画像説明 = 武田勝頼像([[高野山]]持明院蔵)
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]]){{Sfn|柴辻|2003|p=24}}{{Sfn|柴辻|2003|p=238}}
| 死没 = [[天正]]10年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]{{Sfn|柴辻|2003|p=248}}([[1582年]][[4月3日]])
| 改名 = 諏訪勝頼→武田勝頼
| 別名 = 伊奈勝頼、[[仮名 (通称)|通称]]:四郎
| 戒名 = 景徳院殿頼山勝公大居士
| 墓所 = [[法泉寺 (甲府市)|法泉寺]]、[[景徳院]](山梨県)<br/>[[妙心寺#山内塔頭|妙心寺玉鳳院]](京都府京都市)<br/>[[高野山#主な施設・寺院|高野山奥の院]](和歌山県)
| 官位 = 大膳太夫を名乗るが、公称か僭称かは不明<ref>佐藤八郎『武田信玄とその周辺』(新人物往来社、1979年)</ref>{{Sfn|柴辻|2003|p=66}}<ref group="注釈">大日本古文書内上杉家文書収録の上杉景勝宛書状の署名による。</ref>、左京大夫?(『[[言経卿記]]』天正10年3月22日条)
| 幕府 = [[室町幕府]][[信濃国|信濃]][[守護職]]
| 主君 = [[武田信玄]]
| 氏族 = [[諏訪神党|神氏]][[諏訪氏]]→[[清和源氏|源姓]][[武田氏]]
| 父母 = 父:[[武田信玄]]<br>母:[[諏訪御料人]]
| 兄弟 = [[武田義信|義信]]、[[海野信親]]、[[武田信之 (武田信玄三男)|信之]]、'''勝頼'''、[[仁科盛信]]、[[葛山信貞]]、[[武田信清|信清]]、[[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]、[[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]][[武田信玄#系譜|他]]
| 妻 = 正室:'''[[龍勝院]]'''([[遠山直廉]]の娘、[[織田信長]]養女)<br/>継室:'''[[北条夫人]]'''([[北条氏康]]六女)
| 子 = '''[[武田信勝|信勝]]'''、男([[周哲大童子]]){{Sfn|丸島ほか|2015|loc=丸島和洋「武田勝頼男」|pp=448-449}}、[[武田勝親|勝親]]、貞姫([[宮原義久]]室)、[[#系譜|他]]
}}
'''武田 勝頼'''(たけだ かつより) / '''諏訪 勝頼'''(すわ かつより)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[甲斐国]]の[[戦国武将]]・[[大名]]。武田氏第17代当主。甲斐武田家第20代当主。
本姓では'''源 勝頼'''(みなもと の かつより)。[[仮名 (通称)|通称]]は四郎。当初は母方の[[諏訪氏]](高遠諏訪氏)を継いだため、'''諏訪四郎勝頼'''、あるいは[[信濃国]][[伊那谷]]の[[高遠城]]主であったため、'''伊奈四郎勝頼'''ともいう。または、'''武田四郎'''・'''武田四郎勝頼'''ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は[[武田信玄]]の幼名「勝千代」に由来する[[偏諱]]であると考えられている。父・信玄は[[足利義昭]]に[[官位]]と[[偏諱]]の授与を願ったが、[[織田信長]]の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の[[庶子]]として生まれ、母方の諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である長兄[[武田義信]]が廃嫡されると継嗣となり、[[元亀]]4年([[1573年]])には信玄の死により[[家督]]を相続する。
強硬策をもって領国拡大方針を継承するが、[[天正]]3年([[1575年]])の[[長篠の戦い]]において織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の[[山内上杉家|長尾上杉家]]との[[甲越同盟]]、[[佐竹氏|佐竹家]]との[[甲佐同盟]]で領国の再建を図り、[[織田氏]]との[[甲江和与]]も模索し、甲斐本国では[[躑躅ヶ崎館]]より[[新府城]]への本拠地移転により領国維持を図るが、[[織田信長]]の侵攻である[[甲州征伐]]を受け、[[天正]]10年([[1582年]])3月11日、嫡男・[[武田信勝|信勝]]とともに[[天目山の戦い|天目山]]で自害した。これにより[[平安時代]]から続く[[戦国大名]]としての甲斐武田氏は滅亡した。
[[近世]]から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では[[新府城]]の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。
== 生涯 ==
=== 出生 ===
[[File:Takeda Harunobu.jpg|thumb|180px|武田晴信像([[金剛峯寺|高野山]]持明院蔵)]]
[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]]){{Sfn|柴辻|2003|p=24}}、武田晴信(信玄)の四男(庶子)として生まれた。生誕地や生月日は不明{{Sfn|柴辻|2003|p=24}}。母は[[武田信虎|信虎]]後期から晴信初期に同盟関係であった[[信濃国]]諏訪領主・[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]の娘・[[諏訪御料人]](実名不詳、乾福院殿){{Sfn|柴辻|2003|p=24}}。
武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に[[諏訪氏]]と同盟関係にあったが、父の晴信は天文10年(1541年)6月に信虎を追放する形で家督を相続すると諏訪氏とは手切となり、天文11年(1542年)6月には諏訪侵攻を行い、諏訪頼重・[[諏訪頼高|頼高]]ら諏訪一族は滅亡する<ref>『[[高白斎記]]』『[[守矢頼真書留]]』</ref>。晴信は諏訪残党の[[高遠頼継]]らの反乱に対し、頼重の遺児・千代宮丸([[長岌|寅王丸]])を奉じて諏訪遺臣を糾合し、頼継を制圧する。
晴信は、側室として諏訪御料人を武田氏の居城である[[甲府]]の[[躑躅ヶ崎館]]へ迎え、天文15年(1546年)に勝頼が誕生する<ref>『[[高白斎記]]』</ref>。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年8月28日には千代宮丸を擁立していた[[諏訪満隆]]が切腹を命じられており<ref>『神使御頭之日記』</ref>、反乱を企てていたと考えられている<ref>平山優『川中島の戦い』</ref>。
躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられているが、武田家嫡男の[[武田義信]]や次男・[[海野信親]](竜宝)に関する記事の多い『高白斎記』においても勝頼や[[諏訪御料人]]に関する記事は見られず、[[乳母]]や[[傅役]]など幼年期の事情は不明である。なお、『[[甲陽軍鑑]]』では勝頼出生に至る経緯が詳細に記されているが、内容は疑問視されている<ref>柴辻俊六『武田勝頼』</ref>。信玄が諏訪御料人を側室に迎えることには、武田家中でも根強い反対があったとも考えられている。
=== 諏訪家の家督と高遠城主 ===
[[武田信玄]]は信濃侵攻を本格化して越後国の[[上杉氏]]と対決し、[[永禄]]4年([[1561年]])の[[川中島の戦い]]において信濃平定が一段落している。信玄は信濃支配において、旧族に子女を入嗣させて懐柔する政策を取っており、勝頼の異母弟である[[仁科盛信]]は信濃[[仁科氏]]を継承しているが、勝頼も同年6月に[[諏訪家]]の名跡を継ぎ{{Efn|なお、近年は勝頼の相続したのは諏訪惣領家ではなく高遠頼継の高遠諏訪家であった可能性が指摘されている<ref>{{Cite journal|和書|author=丸島和洋|title=高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』-|journal=武田氏研究|issue=34号|year=2006}}</ref>。}}、諏訪氏の[[通字]]である「頼」を名乗り'''諏訪四郎勝頼'''となる(武田氏の通字である「信」を継承していない点が注目される)。勝頼は[[跡部重政]](右衛門)ら8名の家臣団を付けられ、従弟の[[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]らと共に親族衆に列せられている<ref name="gunkan">『[[甲陽軍鑑]]』</ref>。
勝頼は城代・[[秋山虎繁]](信友)に代わり[[信濃国|信濃]][[高遠城]]主となり、勝頼の高遠城入城に際しては[[馬場信春]]が城の改修を行う<ref name="gunkan"/>{{Efn|実際に職掌としての用例は見られないものの、『軍鑑』によれば勝頼は「伊那郡代」であったといわれる<ref name="gunkan"/>。}}。勝頼期の高遠領支配は3点の文書が残されているのみで、具体的実情は不明であるものの、独自支配権を持つ支城領として機能していたと考えられている。ほか、事跡として高遠[[建福寺]]で行われた[[諏訪御料人]]の十七回忌や{{Efn|墓碑銘によると、諏訪御料人は勝頼誕生後、[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])に死去している。}}、永禄7年([[1564年]])に諏訪二宮[[小野神社]]に[[梵鐘]]を奉納したことなどが見られる。
=== 初陣 ===
[[永禄]]6年([[1563年]])、[[上野国|上野]][[箕輪城]]攻め([[武蔵国|武蔵]][[松山城 (武蔵国)|松山城]]攻めとも)で[[初陣]]を飾った。[[上野長野氏|長野氏]]の家臣・[[藤井豊後]]が、物見から帰るところを追撃し、城外椿山にて組み打ちを行い討ち取った<ref>『甲陽軍鑑』・『甲乱記』</ref>。その後の[[箕輪城]]・[[倉賀野城]]攻めなどでも功を挙げた。
その後、信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、[[永禄]]12年([[1569年]])の[[武蔵国]][[滝山城]]攻めでは[[北条氏照]]の家老・[[諸岡山城守]]と3度槍を合わせたとされ、[[小田原城]]攻めからの撤退戦([[三増峠の戦い]])では殿を務め、[[松田憲秀]]の家老・[[酒井十左衛門尉]]と馬上で[[一騎討ち]]を行ったとされる<ref>『甲陽軍鑑』・『北条五代記』</ref>。
=== 義信事件と世子へ ===
{{main|義信事件}}
[[永禄]]8年([[1565年]])、異母兄で武田家後継者であった[[武田義信]]の家臣らが信玄暗殺の密謀のため処刑され、義信自身も幽閉される<ref name="gunkan"/>{{Efn|義信は幽閉された末、永禄10年([[1567年]])に死去。}}。
同年11月、勝頼と尾張の織田信長養女([[龍勝院]])との婚礼が進められており、この頃の信玄は従来の北進戦略を変更し、織田家と同盟して信濃侵攻や東海方面への侵攻を具体化しており、{{要出典範囲|date=2017年7月|家臣団の中にも[[今川義元]]の娘を室とする義信派との対立があったという}}。次兄の竜宝は生まれつきの盲目のために出家し、三兄の[[武田信之 (武田信玄三男)|信之]]は夭逝していることから、勝頼が信玄の指名で後継者と定められた。
[[永禄]]10年([[1567年]])、[[高遠城]]で正室・[[龍勝院]]との間に嫡男・武王丸([[武田信勝]])が誕生する。
[[元亀]]元年([[1570年]])1月、[[花沢城]]を攻め、開城させる。
[[元亀]]2年([[1571年]])2月、勝頼は甲府へ召還され、叔父・[[武田信廉]]が高遠城主となっている。同年9月16日、正室・龍勝院殿が死去している<ref name="Marushima2105">{{Harvnb|丸島ほか|2015|loc=丸島和洋「武田勝頼室」|p=450}}</ref>{{Efn|『甲陽軍鑑』では龍勝院殿は信勝出産の際の[[難産]]で死去したとしているが、これは誤りである<ref name="Marushima2105"/>}}。勝頼は稲村清右衛門尉・富沢平三の両名を高野山成慶院へ派遣し、[[龍勝院]]の供養を行っている<ref name="Marushima2105"/>。
[[永禄]]10年([[1567年]])12月、武田・織田同盟の補強として、異母妹で7歳の[[信松尼|松姫]]と信長の嫡男・[[織田信忠]](11歳)との婚約が成立する。
=== 家督相続 ===
武田氏は相模[[後北条氏]]と[[甲相同盟]]を結び、諸勢力とともに[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義昭]]の[[信長包囲網]]に参加し、元亀3年([[1572年]])10月には[[西上作戦]]を開始した。
勝頼は[[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]・[[穴山信君]]とともに大将を務め、同年11月に徳川方の[[遠江国|遠江]][[二俣城]]を攻略し、12月の[[三方ヶ原の戦い]]でも織田・徳川連合軍と戦う。
元亀4年([[1573年]])4月12日、信玄が西上作戦の途中で病死したため家督を相続し、武田氏第20代当主となる。しかし、表向きは信玄の死を隠して[[隠居]]とし、勝頼が家督を相続したと発表されていた{{Efn|『甲陽軍鑑』に記されている他、文書上からも確認できる。}}。
=== 勝頼の反撃 ===
{{main|明知城の戦い}}
{{main|飯羽間城の戦い}}
{{main|高天神城の戦い}}
信玄の死により、[[織田信長]]・[[徳川家康]]らは窮地を脱した。そして信長は将軍である足利義昭を[[河内国]]に追放した。同年の[[天正]]への改元後、信長は[[越前国]]や[[近江国]]に攻め入って[[朝倉義景]]・[[浅井長政]]を滅ぼした。また家康も武田氏に従っていた[[三河国]]山間部の[[山家三方衆]]の[[奥平貞能]]・[[奥平信昌|貞昌]]親子を寝返らせるなど、信玄存命中は守勢であった織田・徳川連合軍の逆襲が始まった。これに対して勝頼は、勢力拡大を目指して外征を実施する。
天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は、織田信長をさらに圧迫するため、甲斐・信濃など五箇国の兵力で出発し、4月中旬に東美濃の城や砦([[苗木城]]・[[阿寺城]]・[[千旦林城]]・[[阿木城]]・[[飯羽間城]]・[[串原城]]・今見砦など)を陥れ、[[岩村城]]に進出して[[明知城]]を包囲した。
この時、織田信長は6万人を率いたとされるが、山県昌景が兵6000を率いて鶴岡山の方に進出すると、信長は兵を引いたという。
翌2月5日、信長は嫡男・織田信忠とともに出陣したが、到着前の2月6日に明知城で飯羽間右衛門の裏切りがあって落城したため、東濃の神篦城に河尻秀隆を、[[小里城]]に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。また武田勝頼の軍勢は遠山領内の神社や寺院を悉く焼討し破壊した。
[[天正]]2年([[1574年]])2月、[[東濃|東美濃]]の織田領に侵攻し、[[明知城]]を落とした。信長は嫡男・[[織田信忠]]と共に[[明知城]]の後詰(援軍)に出陣しようとしたが、それより前に勝頼が明知城を落としたため、信長は岐阜に撤退した。
[[天正]]2年([[1574年]])、勝頼は[[飯羽間城]]を攻め落とした。
[[天正]]2年([[1574年]])6月、[[遠江国]]の徳川領に侵入し、信玄が落とせなかった[[高天神城]]を陥落させて城将・[[小笠原信興|小笠原長忠]]を降し、[[東遠江]]をほぼ平定した。
9月、[[天竜川]]を挟んで[[徳川家康]]と対陣、その後[[浜松城]]に迫り、浜松城下に放火した。
=== 長篠の戦い ===
[[image:Battle-of-Nagashino-Map-Folding-Screen-1575.png|thumb|250px|『長篠合戦図屏風』(レプリカ)<br/>中央右の「大」の旗印の大将が勝頼。]]
{{main|長篠の戦い}}
天正3年([[1575年]])、勝頼は先年徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵1万5,000(一説には8,000から1万)を率いて三河国へ侵入し、5月には奥平信昌が立て籠もる[[長篠城]]への攻撃を開始する。だが、長篠城は奥平勢の善戦により持ち堪え、武田軍は長篠城攻略に時間を費やすこととなる。
そして、織田信長・徳川家康の連合軍およそ3万8,000(一説には織田軍1万2,000。徳川軍4,000)が長篠([[設楽ヶ原]])に到着し、[[馬防柵]]を含む[[陣城]]の構築を開始した。これに対し、勝頼は長篠城の抑えに兵3,000を残し、主力1万2,000(一説に兵6,000)を率いて設楽ヶ原へ進出し、織田・徳川連合軍と対峙する。長篠決戦前日の戦闘で勝利していたこともあり、武田軍の士気は高かった。
だが、もはや野戦ではなく、むしろ攻城戦に近い状況(攻城戦はより単純な兵力差が影響する)を感じ取った信玄以来の重鎮たちは撤退を進言したという<ref name="gunkan"/>。しかし、勝頼は織田・徳川との決戦を選択し、5月21日早朝に開戦することとなった。
5月21日、午前6時頃から午後2時頃まで戦闘は続けられるが、数で劣る武田軍では連合軍防御陣の犠牲となった[[土屋昌次]]が戦死する。攻めの勢いを喪失したその後、武田軍は総崩れとなるが、敗走する中で馬場信春、[[山県昌景]]、[[内藤昌豊]]、[[原昌胤]]、[[真田信綱]]・[[真田昌輝|昌輝]]兄弟等、将士を失ってしまう。また、本戦に先立つ鳶ノ巣砦の攻防戦では、主将の[[河窪信実]]・[[三枝昌貞]](守友)などが、その直後に引き続き行われた長篠城近辺の戦闘で[[高坂昌澄]]が戦死している。勝頼は[[菅沼定忠]]に助けられ一時的に[[武節城]]へ篭ったが、[[伊那郡]]へ退却した。
この敗北で、武田軍は1万人以上の死傷者(一説には武田方1,000、織田徳川連合軍600の損害)を出したといわれている。
=== 長篠敗戦後の織田・徳川氏の反攻 ===
[[長篠の戦い]]による敗退後、織田・徳川軍はさらに反攻を強め、奥三河の[[田峰城]]・[[武節城]]・[[作手城]]を奪還した。
[[天正]]3年([[1575年]])6月に[[徳川家康]]は遠江[[二俣城]]を包囲し、犬居谷の[[光明城]]を攻撃した。犬居谷を制圧すれば、武田の遠江侵攻経路と二俣城の補給を遮断することが可能だった。家康旗本衆の活躍により、勝頼から犬居谷防衛を任せられた[[天野景貫]]は[[光明城]]を明け渡し撤退した。犬居谷の制圧を終えた家康は、[[高天神城]]の補給拠点として機能していた[[諏訪原城]]を攻撃した。2,000の[[駿河衆]]が大井河を渡り家康と対峙している。
同年8月、[[徳川家康]]が諏訪原城を落城させ、[[牧野原城]]に改名した。勝頼は戦死した[[山県昌景]]の後任として、[[穴山梅雪]]を[[江尻城]]代とし駿遠の防衛を委ねた。徳川軍はさらに[[小山城 (遠江国)|小山城]]を包囲するが、同月、勝頼は1万3,000の兵を率いて小山城へ出兵。徳川軍は撤退する。二俣城と高天神城への補給を終えた勝頼は[[甲府]]へと帰還した。
長篠合戦以後、[[三河国]]から武田方が締め出されたのを皮切りに、同年11月には信長の下命を受けた嫡男・[[織田信忠]]を総大将とした5万の織田軍によって東美濃の[[岩村城]]を陥落させられ、織田方に降伏した飯田城代・伊那郡代である[[秋山虎繁]]は岐阜へ連行され長良川河畔で逆磔により処刑された。
同年12月24日、徳川軍の包囲に耐えかねた二俣城が開城し、[[依田信蕃]]が高天神城に撤退したことによって高天神城が孤立した。
天正4年([[1576年]])春、勝頼は高天神城救援のため遠江国へ出兵し、徳川方の[[横須賀城]]([[静岡県]][[掛川市]])を攻める。『甲陽軍鑑』によれば城主の[[大須賀康高]]の抗戦により、勝頼は[[相良城]]へ撤兵した。
天正5年([[1577年]])閏7月、家康が高天神城を攻めると、勝頼は7月19日に出兵し9月22日に江尻城へ入る。10月20日には小山城を経て[[大井川]]を越えると、10月20日に{{読み仮名|[[馬伏塚城]]|まむしづかじょう}}において徳川方と抗戦する。勝頼は10月25日に撤兵している。
天正6年([[1578年]])3月3日、家康は[[駿河国|駿河]][[田中城]]を攻撃し、7月15日には高天神城攻撃の拠点となる[[横須賀城]]を完成させている。
勝頼が上杉氏の[[御館の乱]]の発生により信越国境へ出兵中の8月、家康は小山城を包囲し、田中城への攻撃を開始する。このため、勝頼は[[越後国]]から撤兵すると、10月に田中城・高天神城へ入る。
11月3日、勝頼は横須賀城へ侵攻し、家康と抗戦している。その後も両軍は交戦し、10月17日には島田、10月19日には青島で合戦があり、勝頼は田中城へ撤兵している。
=== 御館の乱と甲相同盟の破綻 ===
長篠合戦後、武田氏は領国再建のため越後上杉氏・相模後北条氏との同盟強化に着手する。信玄後期に後北条氏とは甲相同盟を復活し、上杉氏とは本格的な軍事的衝突こそないものの緊張関係が続いていた。
天正3年([[1575年]])、紀伊国に亡命していた将軍・足利義昭が武田氏(甲斐)・後北条氏(相模)・上杉氏(越後)三者の間での和睦をするよう呼びかける([[甲相越三和]])。長篠の敗戦後、[[上杉謙信]]との和睦を模索していた勝頼にとって義昭の上意は渡りに船であった。
9月28日、勝頼は義昭側近の[[一色藤長]]に対して、義昭の和睦案の受け入れを表明した。謙信は武田との和睦には反対しなかったが、北条との和睦は拒絶した(『[[上越市史]]』){{Efn|謙信は過去に[[越相同盟]]を[[北条氏政]]によって一方的に破棄されており、これを根に持っていたとされる。}}。後北条・上杉間の不和により甲相越三和は実現しなかったものの、武田と上杉の和睦は10月中に成立しており、長篠の敗戦とその後の織田、徳川の攻勢によって窮地に立たされていた勝頼は外交状況の改善に成功した。
天正4年([[1576年]])2月、[[足利義昭]]が[[安芸国]]の有力大名・毛利輝元に庇護を求め、その勢力圏である[[備後国]][[鞆城|鞆要害]]に下向した。4月には輝元が義昭の庇護を受け入れ、5月に信長との同盟破棄に踏み切る。6月16日に輝元挙兵を知らせる書状を受け取った勝頼は、武田・毛利間の同盟を求める書状を送った。同時期、6月12日に義昭は、武田、北条、上杉の三者に甲相越三和を命じる御内書を再度下している。前年とは違い、この時は輝元の副状付きであった。9月16日にも勝頼は輝元に対して、6か条の軍役条目を送っている。この頃に[[毛利氏]]との間で同盟が成立したと考えられる([[甲芸同盟]])。勝頼は上杉氏とは足利義昭を間に挟んで和睦継続を確認し、天正5年([[1577年]])正月22日に[[北条氏政]]の妹([[北条夫人]])を後室に迎えるなど{{Efn|輿入れ時期については天正4年説有り。}}、双方と外交関係を強化していたが、上杉・後北条間の外交関係は険悪な状態が続いていた。
天正6年([[1578年]])3月13日、越後国で[[上杉謙信]]が病死すると、北条氏政の弟(遠縁との説もある)で上杉氏に養子として出されていた[[上杉景虎]](旧名・北条三郎)と謙信の甥で養子の[[上杉景勝]]の間で家督を巡り[[御館の乱]]が起こる。勝頼は氏政から景虎支援を要請され、5月下旬には[[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]らを信越国境へ派遣し、6月29日には自らも越後国へ出兵し、景勝・景虎間の調停を試みる。景勝方から和睦が持ちかけられると、これを受け入れている{{Efn|なお、景勝との取次は[[跡部勝資]]・[[長坂光堅]]・[[小山田信茂]]が務めている。}}。
これにより勝頼は上杉景勝と和睦し、条件であった上杉領を接収すると、一方で景虎方との和睦調停も継続し、8月19日には[[春日山城]]において両者の和睦を成立させる。勝頼は[[徳川家康]]の[[小山城]]・[[田中城]]への攻撃を受けて8月27日に帰国する。その間に景勝・景虎間の和睦は破綻し、天正7年([[1579年]])3月24日には上杉景勝方の勝利により乱は収束する。勝頼は明確な景勝支援は行っていないが、乱の終結によって後北条氏との関係は険悪化する。
同年9月、武田氏と後北条氏の両者は手切となり、[[甲相同盟]]は破綻した。武田氏と後北条氏は、領国を接する駿河・伊豆・上野方面において抗争状態に突入した。後北条氏は徳川家康と同盟を結び、駿河国において武田氏は挟撃を受ける事態に陥った。これに対し、勝頼は妹の[[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]]を上杉景勝に嫁がせ、上杉氏と[[甲越同盟]]を結んだが、上杉氏は内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力は失っていた。そのため、甲越同盟は対北条同盟でなく、対織田信長の協約として機能した。同年10月8日、勝頼は[[常陸国]]の[[太田三楽斎]]を介して、[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]との同盟交渉を試み、[[甲佐同盟]]を結ぶ。さらに、[[里見義頼]]や[[小弓公方]]らとの連携を模索し、後北条氏に対抗する。ことに上野国戦線では[[真田昌幸]]の活躍もあって、後北条氏方を圧倒した。
一方、武田と織田信長との関係は、[[長篠の戦い]]以降は小康状態が続いており、勝頼は佐竹義重を介して信長との和睦を模索する([[甲江和与]])。天正7年([[1579年]])11月16日、織田信長養女[[龍勝院]]を母とする嫡男・[[武田信勝]]への官途奏請を行い、信勝は[[元服]]している。
=== 徳川・後北条氏との戦い ===
天正7年(1579年)2月には上野国[[厩橋城]]の城代・[[北条高広]]が武田方に降伏している。
4月23日、勝頼は駿河江尻城へ出兵すると、4月25日には高天神城に近い国安に本陣を置いた。家康は馬伏塚城から見付に本陣を置くと両軍は対峙し、勝頼は4月27日に国安から撤兵し、4月29日に大井川を越えると5月24日に甲府へ帰還した。
前年の[[御館の乱]]・[[甲相同盟]]の崩壊を経て、天正7年(1579年)7月には東上野に出兵し、敵対関係となった[[北条氏邦]]と対陣している。『甲陽軍鑑』によれば、氏邦は鉢形・秩父衆を率いて[[武蔵広木城]]・[[大仏城 (武蔵国)|大仏城]]を陥落させ、これに対して勝頼は西上野衆を率いて両城の奪還を試みるが、兵を引いている(広木大仏の合戦)。
天正7年(1579年)9月には徳川・北条間に同盟が成立し、[[北条氏政]]が[[沼津市|沼津]]から[[三島市|三島]]へ侵攻し、9月13日に勝頼は駿河[[黄瀬川]]において氏政と対陣する。家康も氏政に同調し、[[当目坂城]]・[[持船城]]([[武田水軍]]拠点)を落城させ、由比・倉沢へ侵攻した。
10月、勝頼が[[江尻城]]まで兵を引き家康を待ち構えると、家康は撤兵し、12月9日に勝頼も[[甲府]]へ帰陣する。
天正8年([[1580年]])3月、氏政は伊豆口へ侵攻すると、[[足柄峠]]へ布陣する。
4月、[[梶原景宗|梶原備前守]]率いる[[伊豆水軍|北条水軍]]が沼津へ侵攻すると、勝頼は[[浮島ヶ原]]へ布陣すると、伊豆沖で[[武田水軍]]に北条水軍を迎撃させた。
9月、勝頼は東上野へ出陣し、利根川を越えると[[新田金山城]]を攻め、[[膳城]]を落とした。膳城での戦いは「膳城素肌攻め」といわれており、『甲陽軍鑑』によれば元々勝頼が平服で視察していたところ、酒に酔って喧嘩をしていた膳城の城兵が武田軍に襲いかかってきたので、勝頼は反撃して城を攻撃し、落城させたと記載されている。
天正8年([[1580年]])、勝頼は[[持船城]]を奪回。城代に[[朝比奈信置]]を置いた。
=== 新府城の築城と甲江和与の模索 ===
天正9年([[1581年]])正月、勝頼は現在の[[韮崎市]]中田町中條に新たに[[新府城]]を築城し、[[躑躅ヶ崎館]]・[[要害山城]]の所在する甲府城下町からの本拠移転を開始した。一方、後北条氏に対しては、同年3月14日には佐竹義重を介して、[[安房国]]の里見義頼とも同盟を結んだ。
3月22日、徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥るが([[高天神城の戦い]])、この頃信長との和睦を試みていた勝頼は信長を刺激することを警戒し、後詰を派遣することができずに城は落城した。高天神城に後詰を送らず見殺しにしたことは武田家の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺したという{{Efn|小説家の[[伊東潤]]は、「御館の乱での立ち回りによる甲相同盟の破綻と、高天神城に後詰を送らなかったことが武田氏滅亡の最大の原因であり、長篠の戦いでの敗北はそれに比べれば小さなものである」と主張している。}}。また、織田氏はこれを契機に高天神城落城の喧伝を行い、織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになる。
3月29日、伊豆久竜津(くりょうつ)において[[武田水軍]]は[[梶原備前守]]率いる[[北条水軍]]と戦い、勝利する。武田水軍はさらに[[伊豆半島]]の西海岸を襲撃した。
5月、勝頼は遠江国へ出兵している。
9月、勝頼は伊豆国へ出兵し、10月には後北条方の[[笠原政尭]](新六郎)が守備する[[駿東郡]][[戸倉城 (伊豆国)|戸倉城]]を攻める。政尭は抗戦するが、11月には政尭が武田方に内通したため、勝頼は駿河[[沼津城]]の城代である[[曽禰河内守]]を援軍として派遣し、勝頼自身も伊豆へ出兵すると、三島に本陣を置く北条氏政と対陣した。
12月24日、勝頼は新府城へ移る。
勝頼は信長との和睦交渉を継続し、前年には勝頼側近の[[大竜寺麟岳]]らと協議し、武田家に人質として滞在していた[[織田勝長|織田信房]](御坊丸)を織田家に返還し、信房を仲介に信長との和睦を試みた(甲江和与)。一方、信長は朝廷に働きかけ、[[正親町天皇]]に勝頼を「東夷(=[[朝敵]])」と認めさせ<ref>『増訂 織田信長文書の研究』</ref>、[[石清水八幡宮]]などの有力寺社で祈祷が行われるなど<ref>『[[多聞院日記]]』</ref>、武田氏討伐の格好の大義名分を得ていた。信長は勝頼との和睦を黙殺し、12月には翌天正10年([[1582年]])に武田領攻撃を家臣に通告する。
=== 勝頼の死と武田氏滅亡 ===
[[File:Katsuyori died at Mt.Tenmoku 01.jpg|thumb|250px|『天目山勝頼討死図』([[歌川国綱]]画)]]
[[File:Katsuyori died at Mt.Tenmoku 02.jpg|thumb|250px|自刃する勝頼主従([[月岡芳年]]画)]]
[[File:Grave of Takeda Katsuyori.JPG|thumb|250px|勝頼、信勝、北条夫人の墓(景徳院境内)]]
{{main|甲州征伐}}
天正10年(1582年)2月、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する[[木曾義昌]]が美濃国の豪族・[[遠山友忠]]に仲介を頼み、岐阜の織田信忠に忠誠を誓った。義昌は弟の[[上松義豊|上松蔵人]]を人質として美濃に送った。同時期に駿豆国境を守る曽禰河内守と江尻城代・穴山梅雪が織田・徳川氏に内応を約束している。勝頼は外戚の木曾の反逆に対し、人質を処刑した上で、武田信豊を大将とする1万の木曾討伐の軍勢を送り出した。
しかし、雪に阻まれ進軍は困難を極め、義昌が陳弁し武田への忠誠を約束したため、討伐軍は進軍を停止した。その間に織田信忠が[[伊那谷|伊那]]方面から、[[金森長近]]が[[飛騨国]]から、徳川家康が[[駿河国]]から、[[北条氏直]]が関東及び[[伊豆国]]から武田領に侵攻を開始([[甲州征伐]])。
そして、織田軍の侵攻の始まった2月14日に[[浅間山]]が噴火した<ref>『[[フロイス日本史]]』『[[多聞院日記]]』『晴豊公記』など</ref>。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられており<ref name="hyouka">{{harvnb|山梨県韮崎市教育委員会|2008|loc=平山優「同時代史料からみた武田勝頼の評価」|pp=215-253}}</ref>、さらに噴火の時期が朝敵指名および織田軍侵攻と重なってしまったために、武田軍は大いに動揺してしまったと考えられる<ref>{{Harvnb|平山|2011|page =20}}</ref>。
これらの侵攻に対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。伊那口防衛を任せられた[[下条信氏]]親子は家老・下条九兵衛の寝返りにより三河国へと逃亡。[[河尻秀隆]]の軍が伊那口の滝ノ沢城を接収し、[[森長可]]率いる先鋒軍が鳥居峠を経由して下伊那へと侵攻した。信濃[[松尾城 (信濃国伊那郡)|松尾城]]主の[[小笠原信嶺]]は狼煙をあげて織田軍の侵攻を手引きし、[[飯田城 (信濃国)|飯田城]]の[[保科正直]]は高遠城に逃亡した。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった[[大島城]]を捨て、甲斐国に敗走し、伊那戦線は崩壊した。勝頼は今福筑前守を大将とする木曾討伐軍に鳥居峠の奪取を命じたが、木曾軍に翻弄されて敗走。深志城からの攻撃を計画していた[[馬場昌房|馬場美濃守]]は安曇・筑摩の反乱に足止めされていた。駿遠方面では家康が小山城を奪還、田中城を迂回して駿府に入った。[[持船城|用宗城]]の[[朝比奈信置]]を敗走させると抵抗する田中城の依田信蕃を下し、内応を約束していた穴山信君の歓迎をうけた。
この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては逃げ出した。唯一、抵抗を見せたのは弟・仁科盛信が籠城する[[高遠城]]だけであった。
同年3月3日、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。勝頼は[[小山田信茂]]の居城である[[岩殿山城|岩殿城]]に逃げようとした。
だが、信茂は織田方に投降することに方針を転換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは[[滝川一益]]の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である[[天目山]][[棲雲寺]]を目指した。
3月11日、その途上の[[田野村 (山梨県)|田野]]で滝川一益の追手に捕捉され、巳の刻(午前11時頃)に勝頼は嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(田野合戦{{Sfn|平山|2017|pp=664-665}})。享年37{{Sfn|柴辻|2003|p=230}}{{Sfn|平山|2017|p=678}}。これによって、甲斐武田氏は滅亡した。
[[辞世の句]]は、「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て{{ruby|行衛|ゆくえ}}の 西の山の{{ruby|端|は}}」{{Sfn|平山|2017|p=678}}。これに対する[[土屋昌恒]]の返歌は、「俤の みおしはなれぬ 月なれば 出るも入るも おなじ山の端」という{{Sfn|平山|2017|p=678}}。
=== 死後 ===
勝頼父子の首級は京都に送られ、六条河原に晒されている{{Sfn|柴辻|2003|p=232}}。
勝頼は追い詰められた際、跡継ぎの[[武田信勝]]が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった[[楯無|小桜韋威鎧]](国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。その後、鎧は家臣に託され、[[向嶽寺]]の庭に埋められたが、後年[[徳川家康]]が入国した際に掘り出させ、再び[[菅田天神社]]に納められた。
後に[[徳川家康]]により菩提寺として[[景徳院]]が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。[[江戸時代]]以降に再興する[[武田家]]は、勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・[[海野信親]](竜宝)の系譜である。
== 評価 ==
=== 同時代 ===
==== 甲陽軍鑑 ====
{{Wikisource|カテゴリ:甲陽軍鑑|甲陽軍鑑}}
{{Quotation|「勝頼公つよくはたらかんとし給ひ、つよみを過ごして、おくれをとり給ふ、勝頼公強過ぎて、国を破り給はんこと疑あるまじ」(甲陽軍鑑)}}
『[[甲陽軍鑑]]』では家を滅ぼす大将のタイプを「馬鹿なる大将(鈍すぎる大将)」・「利根過ぎたる大将」・「臆病たる大将(弱過ぎたる大将)」・「強過ぎたる大将」として分け、それぞれ代表的な人物として今川氏真・武田義信・上杉憲政・武田勝頼としている。
==== 信玄 ====
「勝頼は武勇に優れた武将であり信玄も認めていた」<ref name=":0">『長篠合戦と武田勝頼』p.6</ref>
==== 家臣 ====
武田家遺臣は武田家滅亡の要因を、上杉景勝との甲越同盟締結による北条氏政との甲相同盟破綻と、北条・織田・徳川同盟の成立に求めた<ref>丸島和洋「色中三中旧蔵本「甲乱記」の紹介と史料的検討」(『武田氏研究』48号、2013年)</ref>。
==== 穴山信君 ====
勝頼からの離反直後の信君「勝頼が家督を担った十年間は讒人を登用し、親族の諫言には耳を貸さなかったため、政治は大いに乱れた」<ref>『長篠合戦と武田勝頼』p.5</ref><ref>『武田勝頼―日本にかくれなき弓取』p.227</ref>
==== 上杉謙信 ====
「勝頼は片手間であしらえるような相手ではない。信長は、畿内の戦略を一時中断してでその鋭鋒を防がなければ、由々しき事態を招くだろう」信長宛の謙信書状<ref name=":0" />
「四郎は若輩に候と雖も、信玄の掟を守り、表裏たるべきの条」(上杉家文書)<ref>『武田勝頼―日本にかくれなき弓取』p.68</ref>
==== 織田信長 ====
「甲州の信玄が病死した。その後は続くまい」(武家事紀「信長」)<ref>『長篠合戦と武田勝頼』p.115</ref>
信長は、家督相続当初は上記のように勝頼を軽く見ていたが、東美濃侵攻が始まると、下記のようにその武勇を高く評価するように転じる。長篠合戦後は、もはや自分の脅威たり得ないと内外に豪語するようになるが、甲州征伐の際に勝頼が最後は必ず決戦を挑んでくると警戒しており、信忠に何度も過度の前進を諌めている。
勝頼の首級と対面した信長は「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」と、勝頼は運がなかったという感想を漏らした『[[三河物語]]』<ref name=":0" />。
==== 徳川家康 ====
天正9年の駿河北山本門寺・西山本門寺の争論に対し勝頼が行った裁許について、勝頼は中世人の常識人であり、共通する思考ともいえる先例の遵守にとらわれない「物数奇」と評し、よほどの勇気がなければ出来ないことだと指摘している。すなわち勝頼は、父信玄の先例にとらわれず、独自の新機軸を打ち出すことで武田領国内での新たな秩序を作り上げようとしていた可能性がある。しかもそれは、先例の保護で安定していた法秩序などを打破することで、武田氏当主勝頼の権限を強化する方向性を目指していたと推察される<ref>『長篠合戦と武田勝頼』p.275</ref>。
==== 民衆 ====
「勝頼が当主になったことによって、人民は快楽、国土は安らかで穏やかになる、目出たい限りだ」(塩山向嶽禅庵小年代記)向嶽寺の歴代住職による年代記<ref>『武田勝頼―日本にかくれなき弓取』p.50</ref>
勝頼の時代になってから領域が拡大せず領国支配が強化された(近世大名化)。そのため税の徴収が厳しくなり、負担量は変化していないのに民衆に不満を抱かれた。このことが、武田家滅亡の原因を勝頼の責任にされた理由である<ref>『武田勝頼―日本にかくれなき弓取』p.244-247</ref>。
信長は武田領国侵攻開始直後に越中において、勝頼が地の利を生かして信長父子を討ち取ったという虚報を流し、これを信じて蜂起した越中一向一揆を逆に鎮圧している。これは逆に言えば当時の人々にとって、勝頼は信長と決戦をして勝利することが可能な武将だと認識されていたということである<ref name="hyouka" />。
=== 江戸時代 ===
江戸時代を境に「勝頼は家を滅ぼした暗愚の将」という評価が定着した。近世の武家社会では、家を守り伝えるのは最も重要な徳目であり、家を滅ぼすのは愚行の極みとする通念があった。現在にも通じる勝頼に対する低い評価は、『甲陽軍鑑』の記述とこの近世の武家の倫理規範が融合した結果だと考えられる<ref name="hyouka" /><ref>韮崎市教育委員会編『新府城の歴史学』(新人物往来社、2008年)</ref><ref>『長篠合戦と武田勝頼』p.1-2</ref>。
これに対し、近代には[[山路愛山]]や[[徳富蘇峰]]が評論において勝頼の再評価を試みた。
=== 近代 ===
武田勝頼は長篠合戦で武田氏の鉄砲軽視説<ref>『大日本戦史』第三巻「長篠の戦」渡辺世祐執筆(1938年)</ref>として触れられるのみであった。それも勝頼自身に事績についての研究を行った[[上野晴朗]]<ref>[[上野晴朗]]『定本武田勝頼』新人物往来社、1978年。</ref>以外の研究者による勝頼の評価は、信長・家康・信玄と比較しながらであり、真摯な検討を重ねておらず全く根拠を欠いたステレオタイプの勝頼評である<ref>『長篠合戦と武田勝頼』p.3</ref>。
=== 現代 ===
==== 否定的評価 ====
「戦国武将・大名としてとりわけ傑出した人物とは思われず、典型的な三代目」「勝頼再評価の機運も贔屓の引き倒し」柴辻俊六「武田勝頼」新人物往来社、2003年<ref>『長篠合戦と武田勝頼』p.2</ref>
勝頼が長篠の戦いでの敗戦後も突撃を繰り返すのをみて「勝頼も懲りないやつだといってしまえばそれまでだが」と鈴木眞哉は批判している<ref>『長篠合戦と武田勝頼』p.164</ref><ref>鈴木眞哉『鉄砲と日本人―「鉄砲神話」が隠してきたこと―』(洋泉社、1997年)p.91</ref>。
==== 肯定的評価 ====
「武田勝頼・同夫人・信勝画像」(和歌山県高野山・持明院蔵)を見て、戦陣を指揮する武将の風情はなく、むしろ知性あふれた文人として笹本正治は称賛している<ref>『武田勝頼―日本にかくれなき弓取』p.ⅰ-ⅳ</ref>
「新府城の戦略的価値とその優れた機能は、皮肉なことに宿敵徳川家康が、天正壬午の乱で証明したのである」と平山優は称賛している<ref>平山優『武田氏滅亡』角川選書、552頁</ref>。
=== 武田家滅亡の要因 ===
甲越同盟締結により、御館の乱は上杉景勝が勝利した。そのため北条氏政は勝頼との同盟を破棄した。しかし勝頼は、佐竹義重ら北関東の大名と同盟を結ぶことで北条家を圧迫し、武田家最大規模の領国を築くことに成功した。これは決して長篠敗戦が武田家滅亡の要因ではないことを示している。しかし氏政は織田・徳川と同盟を結び、武田家を逆包囲した。高天神城の戦いで勝頼が救援出来なかったのは、北条家との対立が原因である。武田遺臣の多くが、武田家滅亡の要因を長篠合戦ではなく北条家との同盟破棄と認識していた理由がここにある。
よって、武田家滅亡の要因は甲越同盟にあると言える<ref>『長篠合戦と武田勝頼』p.277-279</ref>。
また平山優は、武田家滅亡の原因として御館の乱における中立の立場を守れなかったことを挙げている。戦国大名同士の仲介は、領域画定などの利害調整がなされれば比較的容易だったのに対し、御館の乱は家督相続問題が対立の争点であり利害調整が困難だったので、景勝側に付くしかなかったと分析している<ref>平山優『武田氏滅亡』角川選書、P.261</ref>。
一方で笹本正治は、甲越同盟による北条家との敵対を武田家滅亡の要因としながらも、それは結果論であり勝頼の判断は決して間違ってなかったとしている。勝頼は親北条の景虎が上杉家を継ぐことにより、北条家との対等な力関係が崩れることを恐れた。しかし景勝が上杉家を継いだら武田・上杉・北条の力関係は均衡し、さらに御館の乱を鎮めた功労者として上杉家に大きな影響力を持つことを考えた。よって勝頼の選択は決して愚策ではなかった<ref>『武田勝頼―日本にかくれなき弓取』p.162-163</ref>。
== 勝頼期の文書 ==
信玄期の拡大領国を継承した勝頼は、在治期間は短いものの、信玄期に次ぐ残存文書が残されている。戦国大名武田氏の[[印判状]]は信虎期に創始され、晴信(信玄)期に[[竜朱印状]]が創始され[[家印]]として定着し、信玄後期には「伝馬」「船」など用途別印も用いられた。
勝頼期の発給文書は信玄期の方式を踏襲しているが、特徴として竜朱印状の比率が高いことが指摘され、これは『甲陽軍鑑』に記される天正2年(1574年)の信玄死去に際して800枚の竜朱印用紙が準備されたとする内容を裏付け、「晴信」印文の竜朱印は天正8年(1580年)まで用いられている。信玄死去の天正2年と葬儀の行われた天正4年(1576年)は領国内における継目安堵の文書が数多く発給されており、天正8年には甲越同盟の影響による北条・徳川との対立が激化したため軍役関係の文書が数多く発給されている。
天正3年(1575年)末には獅子朱印が創始されているが、これは同年5月の長篠の戦いにおける敗戦の影響から領国体制の再建を意図したものであるとされ、領国内の諸公事や納物徴用において用いられている。また、勝頼期には[[支城領]]支配の定着による一族文書の増加が指摘され、支城領主は独自の印判を用いている。
== 系譜 ==
[[ファイル:Takeda Katuyori 3.jpg|200px|thumb|武田勝頼、夫人、信勝画像/持明院所蔵]]
* 父:[[武田信玄]](晴信)
* 母:[[諏訪御料人]](諏訪頼重の娘)
* 正室:[[龍勝院]]殿([[遠山直廉]]の娘、[[織田信長]]の養女)。
** [[武田信勝]]
* [[継室]]:桂林院([[北条夫人]])([[北条氏康]]の娘)
** 貞姫:[[宮原義久]]室
** 武性院斎理周哲大童子
** [[武田勝親]](武田勝三)
** 本光信継庵主 ([[1582年]] - [[1655年]])『高野山引導院過去帳』に記載。母は高畑氏。
** 林葉大姉
** 武田次郎正室
** 貞光大姉
嫡男・[[武田信勝]]がいたが、[[天正]]10年([[1582年]])に勝頼と共に死亡した。次男は早世。三男、四男は出家と伝わる。
娘の1人・貞姫は、[[小山田信茂]]の娘の香具姫、[[仁科盛信]]の娘らとともに、信玄の娘である[[信松尼|松姫]]に連れられ、武蔵国[[八王子]]に落ち延びた。以降、松姫や遺臣らにより養育され、のちに[[古河公方]][[足利氏|足利家]]の系統の江戸幕府[[高家 (江戸時代)|高家旗本]]・[[宮原義久]]の正室となり、嫡男・[[宮原晴克]]を生んだ。[[宮原義久]]の生母は[[上総武田氏]]の一族である[[武田氏#上総武田氏|真里谷武田家]]の[[真里谷信政]]の娘である。[[宮原氏]]の子孫は[[高家旗本]]として[[幕末]]まで続いている。
他に、実子に[[望月信永]]室、養子に[[六角義定|六角次郎]]室と[[武田信景 (若狭武田氏)|若狭武田五郎]]室がいたとされる。
勝頼の遺児[[武田千徳丸|千徳丸]]は、武田家重臣・[[秋山信藤]]・[[秋山長慶|長慶]]父子に奉じられ、武蔵国[[瓦曽根|瓦曽根村]]に潜居した後、早世したとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.koshigaya.saitama.jp/citypromotion/rekisibunka/shiseki_kyuseki/sisekikyuuseki.html#auto_anc7 |title=千徳丸供養塔 |access-date=2022-11-23 |publisher=越谷市}}</ref>。
== 家臣 ==
[[武田信玄の家臣団]]を参照。
<!--{{col-begin}}
{{col-3}}-->
*[[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]
*[[跡部勝資]]
*[[土屋昌恒]]
*[[長坂光堅]]
<!--{{col-3}}-->
*[[小宮山友晴]](内膳)
*[[小原継忠]]
*[[小原下総守]]
*[[向山氏|向山出雲守]]
*[[小田切茂富]]
<!--{{col-3}}-->
*[[阿部勝宝|安部宗貞]](加賀守。阿部勝宝と言われていた武将)
*[[竹内与五右衛門]]
*[[秋山源三郎]]
*[[山県昌景]]
*[[大熊朝秀]]
<!--{{col-3}}-->
*[[秋山紀伊守]]
*[[秋山善右衛門尉]](紀伊守の弟)
*[[秋山助六郎]](秋山源三郎の兄)
*[[土屋源蔵]]
*[[横田尹松]]([[横田康景|康景]]の子)
<!--{{col-end}}-->
など。
その後の[[武田家]]家臣については[[天正壬午起請文]]。
== 関連作品 ==
;古典芸能
* 浄瑠璃・歌舞伎『[[本朝廿四孝]]』
;小説
* [[新田次郎]]『[[武田勝頼 (小説)|武田勝頼]]』
* [[立石優]]『武田勝頼 宿命と闘い続けた若き勇将』 PHP文庫
* [[伊東潤]]『武田家滅亡』(2007年 [[角川書店]] / 2009年 [[角川文庫]])
* [[江宮隆之]]『武田勝頼 花の歳月』(2003年、[[河出書房新社]])
;映画
* [[笛吹川 (映画)|笛吹川]](1960年、[[松竹]]、演:[[武内亨]])
* [[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]](1979年、[[東宝]]、演:[[真田広之]])
* [[影武者 (映画)|影武者]](1980年、東宝、演:[[萩原健一]])
* [[信虎 (映画)|信虎]](2021年、彩プロ、演:[[荒井敦史]])
;テレビドラマ
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]([[NHK大河ドラマ]]、1969年 演:[[小川吉信]])
* [[おんな風林火山]]([[TBSテレビ|TBS]]、1986年 演:[[美木良介]])
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](NHK大河ドラマ、1988年 演:[[真木蔵人]])
* [[信長 KING OF ZIPANGU]](NHK大河ドラマ、1992年 演:[[黒田崇矢|黒田隆哉]])
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]] (NHK大河ドラマ、2007年 演:[[池松壮亮]]、少年時代:斉藤圭祐)
* [[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]](NHK大河ドラマ、2009年 演:[[市川笑也 (2代目)|市川笑也]])
* [[江〜姫たちの戦国〜]](NHK大河ドラマ、2011年 演:[[久松信美]])
* [[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]](NHK大河ドラマ、2016年 演:[[平岳大]])
* [[おんな城主直虎]](NHK大河ドラマ、2017年 演:[[奥野瑛太]])
* [[どうする家康]](NHK大河ドラマ、2023年 演:[[眞栄田郷敦]])
;楽曲
* [[さくらゆき]]『翔きの鳥』(作詞:[[遠野ゆき]]、作曲:[[小池勝彦]])
;ゲーム
*『武田軍団の最期』CSK、1983年、PC-8801用シミュレーションゲームソフト
;舞台
* 風林火山の旗の下に([[2017年]] 演:[[野口大輔 (俳優)|野口大輔]])
;漫画
*[[信長のシェフ]]([[2011年]]、[[芳文社]]『[[週刊漫画TIMES]]』連載、原作:[[西村ミツル]]、作画:[[梶川卓郎]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
*
* {{Citation|和書|editor=[[武田光弘]]|title=大崎一族|publisher=日本家系協会出版部|year=1975}}
* {{Cite book|和書|author=上野晴朗|authorlink=上野晴朗|title=定本武田勝頼|publisher=[[新人物往来社]]|year=1978}}
* {{Cite journal|和書|journal=甲斐路|issue=45号(武田勝頼特集号)|publisher=山梨郷土研究会|year=1982}}
* {{Citation|和書|others=[[網野善彦]]監修|editor=山梨県韮崎市教育委員会|title=新府城と武田勝頼|publisher=新人物往来社|year=2001|isbn=978-4-404-02912-6}}
* 柴辻俊六『武田勝頼』新人物往来社、2003年。ISBN 4-404-03171-8。
* {{Cite book|和書|author=鴨川達夫|authorlink=鴨川達夫|title=武田信玄と勝頼|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|year=2007|isbn=978-4-004-31065-5}}
* {{Citation|和書|editor1-last=柴辻|editor1-first=俊六|editor2-last=平山|editor2-first=優|editor2-link=平山優 (歴史学者)|year=2007|title=武田勝頼のすべて|publisher=新人物往来社|isbn=978-4-404-03424-3}}
* {{Citation|和書|others=萩原三雄 本中眞監修|editor=山梨県韮崎市教育委員会|title=新府城の歴史学|publisher=新人物往来社|year=2008|isbn=978-4-404-03551-6}}
* {{Cite book|和書|author=笹本正治|authorlink=笹本正治|title=武田勝頼―日本にかくれなき弓取|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|series=ミネルヴァ日本評伝選|year=2011|isbn=978-4-623-05978-2}}
* {{Citation|和書|last=平山|first=優|year=2011 |title=天正壬午の乱|publisher=学研パブリッシング|isbn=978-4054048409}}
* {{Cite book|和書|author=平山優 |year=2014 |title=長篠合戦と武田勝頼 |series=敗者の日本史9 |publisher=[[吉川弘文館]] }}
* {{Citation |和書|editor=柴辻俊六・平山優・[[黒田基樹]]・[[丸島和洋]] |title=武田氏家臣団人名辞典|year=2015|publisher=東京堂出版 |ref = {{SfnRef|丸島ほか|2015}}}}
* {{Cite book|和書|author=三浦一郎 |year=2011 |title=武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣 |publisher=[[宮帯出版社]] |isbn=978-4-86366-091-5}}
* {{Citation|和書|date=2017-2-24|author=平山優|title=武田氏滅亡|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=978-4-047-03588-1|series=[[角川選書]] 580|ref={{SfnRef|平山|2017}}}}(電子版あり)
* {{Cite book|和書|author=丸島和洋 |year=2017 |title=武田勝頼 試される戦国大名の「器量」 |publisher=[[平凡社]] |isbn=978-4-582-47732-0 }}
* [[丸島和洋]]編『武田信玄の子供たち』([[宮帯出版社]]、2022年) ISBN 978-4-8016-0257-1。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Takeda Katsuyori}}
* [[武田二十四将]]
* [[甲州征伐]]
* [[新府城]]
* [[小山田信茂]]
* [[木曾義昌|木曽義昌]]
== 外部リンク ==
* [https://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_4248.html 武田勝頼の墓(たけだかつよりのはか)] - 「富士の国やまなし観光ネット」(公益社団法人[[やまなし観光推進機構]])
* {{WAP|pid=9103778|url=www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/120801/085127.html|title=高知県庁ホームページ-土佐「武田勝頼落人伝説」
|date=2015-03-10}}
* {{Kotobank}}
* [https://toyokeizai.net/articles/-/684326?display=b 武力に優れ外交では凡愚の武田勝頼が打った悪手] - 東洋経済ONLINE(2023年07月09)
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1546年
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]] : [[丙午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天文 (元号)|天文]]15年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2206年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]25年
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** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]元年
** [[檀君紀元|檀紀]]3879年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[広和]]6年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]14年
* [[仏滅紀元]] : 2088年 - 2089年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 952年 - 953年
* [[ユダヤ暦]] : 5306年 - 5307年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1546|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[5月16日]](天文15年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[河越城の戦い]](川越夜戦)
* [[足利義輝]]が[[室町幕府]]13代将軍となる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1546年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月27日]] - [[ヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム・フリードリヒ]]、[[ブランデンブルク選帝侯]](+ [[1608年]])
* [[2月1日]]([[天文 (元号)|天文]]15年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[最上義光]]、[[出羽国]]の[[武将]]・[[戦国大名]] (+ [[1614年]])
* [[3月21日]] - [[バルトロメウス・スプランヘル]]、[[フランドル]]の[[画家]](+ [[1611年]])
* [[4月1日]]([[天文 (元号)|天文]]15年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]) - [[南部信直]]、[[陸奥国]]の[[武将]]・[[戦国大名]] (+ [[1599年]])
* [[7月4日]] - [[ムラト3世]]、[[オスマン帝国]]の第12代[[皇帝]](+ [[1595年]])
* [[12月14日]] - [[ティコ・ブラーエ]]、[[デンマーク]]の[[天文学者]](+ [[1601年]])
* [[12月22日]](天文15年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[黒田孝高]](如水・官兵衛)、[[武将]]・[[キリシタン大名]](+ [[1604年]])
* [[申砬]]、[[李氏朝鮮]]の武将(+ [[1592年]])
* [[トーマス・ディッグス]]、[[イギリス]]の天文学者(+ [[1595年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1546年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月2日]](天文14年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]) - [[妙玖]]、[[毛利元就]]の[[正室]](* [[1499年]])
* [[2月18日]] - [[マルティン・ルター]]、[[神聖ローマ帝国]]出身の[[神学者]]、[[牧師]]、[[説教家]](* [[1483年]])
* [[3月1日]] - [[ジョージ・ウィシャート]]、[[スコットランド]]の[[プロテスタント]]の牧師、[[殉教者]](* [[1513年]])
* [[7月4日]] - [[バルバロス・ハイレッディン]]、[[オスマン帝国]]の[[提督]]、[[海賊]](* [[1475年]])
* [[8月1日]] - [[ピエール・ファーヴル]]、[[フランス]]出身の[[イエズス会]]創立者の一人(* [[1506年]])
* [[8月3日]] - [[アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ]]、[[ルネサンス]]期の[[建築家]]、軍事技術者(* [[1484年]])
* 8月3日 - [[エティエンヌ・ドレ]]、[[ラテン語]]学者・[[翻訳家]]・出版業者(* [[1509年]])
* [[11月1日]] - [[ジュリオ・ロマーノ]]、ルネサンス期の建築家、[[画家]](* [[1499年]]?)
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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浦島太郎
|
浦島太郎(うらしまたろう)は、日本の伽話(おとぎばなし)、及びその伽話内の主人公名。
一般に知られるあらすじでは、亀を助けた報恩として浦島太郎が海中に連れて行かれ、龍宮(竜宮)で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした浦島太郎は、「開けてはならない」と念を押されつつ玉手箱を渡される。帰り着いた故郷では、龍宮で過ごしたと感じたより遥かに長い年月が経っており、失意の余り玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、年老いた鶴、または人間の年寄りに化するというものである。
浦島子伝説が原話とされ、古くは上代の文献(『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記逸文』)に記述が残る。それらは、名称や設定が異なり、報恩の要素も欠け、行き先は「龍宮」ではなく「蓬萊(とこよのくに)」なので、異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類される。
日本各地には、浦島太郎が居たと伝える伝承や縁起譚があり、浦島の名の出ない類話も存在する。
現代において、日本で広く普及する浦島太郎の御伽話は、明治から昭和にかけて読まれた国定教科書版に近い内容である。これは童話作家の巖谷小波が1896年に発表した『日本昔噺』版に、生徒向けに手を加えて短縮したもので、玉手箱を開けて老人化してしまうことで約束を破ると悪いことが起こると伝えようとしたためである。
上代の原話では「浦島子」(浦島子伝説)で、万葉、日本書紀、丹後国風土記に記述がある。異界は龍宮でなく蓬山(蓬萊山)・常世(とこよ)の併称で呼ばれる。
現代版にみられる「竜宮」「乙姫」「玉手箱」などの呼称や、浦島が亀を買いとって助ける設定は、中世の御伽草子に由来するが、版本として知名度が高い御伽文庫版のそれではなく、異本(I類系)に見られる。浦島子伝説では、「蓬萊(とこよのくに)」の名のない女性が「玉匣(たまくしげ)」を渡す。しかし海上の竜宮図を使いながら、文章では海底であるとする江戸時代の戯作(1782年)や、また赤本絵本の模写絵だが、文章では海底とする英訳(1886年)もある
現代版にいたると亀と姫は同一でなくなるが、浦島子伝説・御伽草子では、浦島が釣って逃がした亀は乙姫(蓬莱の女性)の化身である。御伽文庫では、最後に浦島も死ぬ代わりに鶴に変身する。
現在一般的に普及しているストーリーは、教科書を通じて広く国民に知れわたったもので、概ね以下のような内容である。
上のあらすじは、特に広く親しまれた教科書だと評価される第3期国定教科書第3巻「うらしま太郎」から取った。この教科書は別名『尋常小学国語読本』、通称『ハナハト読本』という。大正~昭和の1918-1932年に使用された。
明治時代には、その元となった第2期国定教科書所収「ウラシマノハナシ」が登場している。このいわゆる「国民童話」版は、明治政府が教科書向きに書き換えたものであるが、童話作家の巌谷小波著『日本昔噺』所収の「浦島太郎」に若干の手を加えて短縮したものだと目されている。
竜宮城に行ってからの浦島太郎の行状は、子供に伝えるにふさわしくない「結婚生活」の内容が含まれているので、童話においてはこの部分は改変(もしくは省略)された。
いじめていた子供達の態度も映像作品や出版社によって異なる(太郎に叱られて蜘蛛の子を散らすように逃げ去る、亀に進んで謝罪したうえで優しく海に放すなど)
文部省唱歌「浦島太郎」は、1900年の『幼年唱歌』に掲載された「うらしまたろう」(作詞・石原和三郎、作曲・田村虎蔵)と、1911年の『尋常小学唱歌』(第二学年第10曲)に掲載された「浦島太郎」(作詞・乙骨三郎、作曲者不明)とがある。
浦島説話は、おおまかに古代(上代~鎌倉時代)、中世(絵巻、奈良絵本、御伽草紙)、近代の系統に分類される。
古代においては「浦島子」が、亀に身をやつした異郷の姫に出会い、夫婦になる縁といわれ、異郷にいざなわれる展開である。"神女のおしかけ女房的な話"などと形容される。異郷で3年暮らして望郷の念にかられるが、陸の世界に戻ると300年がたっており、開けるなと禁じられた箱を開けると体が消滅してしまうというのは、ほぼ近代版どおりである。
名称は時代によってことなり、異郷は蓬山・常世(→竜宮城)、人物は浦島子(→浦島)、亀比女(→乙姫)、箱は玉匣(→玉手箱)のように変遷する。
亀を漁師の浦島が助けてやるという発端は、中世(御伽草紙)にくわわるが、亀はすなわち竜宮の姫のままであり、自分が救われた理由で夫婦になる。動物報恩譚の様相をとるともされる。
古代・中世とも浦島と姫は船で異郷にたどりつく。しかし江戸時代、浦島が亀の上に乗って竜宮に行き来するのが図像化される。その嚆矢は17世紀末(元禄時代)頃とも18世紀半ばともされる。亀に乗る浦島図は、多くの草双紙などに描かれようになったが、相変わらず竜宮が波上に描かれるのも一般的であった。明治の赤本絵本(1880年代)や月岡芳年の「漫画」(1886年)では、海上の楼閣に見えるが、詳述がない。
既述の比較論文では、近代版の標準テキストとしては大正期の絵本と、昭和期の教科書(読本)であり、これらでは竜宮ははっきりと海中にもぐって到達する場所とされる。
近代版における、乗物と化した亀はもはや姫の化身ではなくなり、亀は姫の"眷族"と呼ばれる。姫その下僕を救われた恩返しに、蛸や魚などの踊り子にも命じて、浦島をもてなすが、夫婦にはならない。助けられた亀についても、報恩譚が成立するといえなくもないが、単に交通手段として浦島を送り迎えするだけの恩返しにとどまるのである。
明治期の近代赤本として『浦嶋物がたり』(明治13/1880年)、『浦島弌代記』(一代記)」(1883年)、『浦島物がたり』」(1885年)が挙げられる。
『田村将軍一代記・小野篁一代記・浦島太郎一代記』(銀花堂、明治22/1889年)は活版印刷されており、この明治20年代頃が木版本から活版本への過渡期とみなされる
また森林太郎(森鷗外)ら四名の編纂による『標準於伽文庫』(大正9/1920–1921年)があり、近代版の代表例のひとつとして某論文でつかわれる。
関敬吾編『日本の昔ばなし』(岩波文庫)に所収される、香川県仲多度郡で採集された話がある。これは「北前の大浦」を舞台とする。漁師の浦島太郎は、いかだ船で釣りに出かけるが亀が何度もかかるばかりで、その都度放してやる。釣果はなしに帰途につくと、渡海舟がやってきて、乙姫のいる海中の竜宮界に連れて行かれる。結末は御伽草子と同様だが、玉手箱が三段重ねで、一段目には鶴の羽があり、二段目で白煙があがって老人となり、三段目に鏡が出て浦島太郎が自分の変わり果てようを目にすると、鶴の羽が触れて鳥の姿になって飛び回る。その浦島をみようと、乙姫が亀に変身して浜にあがってくる。この話は英訳もされている。
明治期にはいくつかの英訳やドイツ訳がなされている。
バジル・ホール・チェンバレン英訳The Fisher-Boy Urashima(1886年)は、『日本昔噺』(ちりめん本)シリーズの一篇として長谷川武次郎により刊行された(挿絵は無銘だが小林永濯の作とされる)。チェンバレン訳は、記紀・丹後国風土記・万葉集など古典の設定を取り入れた混成話であり、龍宮は海中でなく海を遠く隔た離島にあるとし、二人して船を漕いで到達する設定になっている。
1897年にはラフカディオ・ハーンの「夏の日の夢」(英語版)(『東の国から Out of the East』所収)によっても紹介されている。
近代版の浦島太郎には、善行を行えば報われるという、「仏教的な因果応報思想」が意図的に盛り込まれるとの解説がある。近代版には、亀が「おれいに竜宮へおつれしましょう」と語っているので、報恩の意志ははっきりしている。
しかし、近代版では理不尽にも浦島の結末は短く竜宮で楽しんだ後は老人となってしまう。結果的に自身が不幸に陥ることになるので、報恩といえるかどうか、疑問視もされ、「アンチ報恩譚」とのレッテルを張る論文すらある。お伽噺として理不尽で不合理な教訓をもたらすことになっているのではないかというものだ。また古い浦島子伝説では報恩の要素は見いだせないとされる。
中世(『御伽草子』、後述)の場合は、主人公が単に老化してあるいは死んで終わるのではなく、鶴と化して「めでたき」結末となっているので、より報恩譚として成立する。これについては逆に、亀の放生を行った程度で容易に無限の宝を得られるでは釣り合わない、との批判がみられる。鶴になる結末は何を伝えたいのかわからないとの向きもある。
精神分析学の岸田秀は、浦島が亀に乗って入る、時の流れのない楽園である竜宮城を、抑圧も欲望の不満もない子宮のメタファーとし、軽率に竜宮城を出た浦島が玉手箱を開けることで時間の中に組み込まれる物語は、性的欲望に仮託した子宮復帰願望の物語であり、何の不安もなかった幼い日々を失った嘆きの物語と解釈した。
常世の女性が、ワタツミ(海神)の娘だということが付記されるのは、『万葉集』の長歌に詠まれる浦島子伝説においてである。
このワタツミを竜神や竜王と同一視できるかについては、浦島子伝説は既に中国の唐代に流行していた竜生九子伝説の影響を受けていたもので、すなわち奈良時代の浦島子伝説でも、亀姫は竜王の姫だったという解釈がある。また唐の『竜女伝』を元の素材として、亀姫は東海竜王の娘の竜女であるとする、より具体性のある見解を藤沢衛彦は打ち出している。
しかし仮説になりたった解釈を抜きにすれば、『御伽草子』において初めて、異郷が明確に「竜宮」となり、その異郷の女性が「乙姫」という名の竜王の娘として登場する。この竜王が竜族かを問えば、柳田国男によれば「日本の昔話の竜宮には竜はいない」とされる。
「浦島太郎」として伝わる話の型が定まったのは、室町時代に成立した短編物語『御伽草子』による。その後は良く知られた昔話として様々な媒体で流通することになる。亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、竜宮城、玉手箱が登場するのも中世であり、『御伽草子』の出現は浦島物語にとって大きな変換点であった。
「御伽草子」の稿本といえば、普通「御伽文庫」版を指すことが慣習的となっている。こちらは江戸時代に版本にされて多くの部数が普及したからである。
御伽文庫の稿本の原文は、「昔丹後の國に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり」と始まる。
一説に、ここから「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と謡う能楽『鶴亀』などに受け継がれ、さらに、鶴亀を縁起物とする習俗がひろがったとする。
『御伽草子』では竜宮城は海中ではなく、島か大陸にあるように描写され、絵巻や絵本の挿絵もそうなっている。春の庭、夏の庭、秋の庭、冬の庭の話はメインストーリーの付け足し程度に書かれている。
浦島太郎の御伽草子の諸本は、実際には50種以上存在する。それらをテキストの類似性で分類すると、おおよそ4つの系統に分かれる。御伽文庫は、IV類系統に該当する。
「御伽文庫」版は御伽草子の定番だが、現代の「浦島太郎」のおとぎ話とは、筋書きや名称のうえで違いが多い。御伽文庫では、太郎は亀を買いとることはせず、背中にも乗らない。
I類系統の本が、現代版により近く、浦島太郎が宝を渡して亀を買い取る要素が含まれている。また、相手の女性を無名とせず、「乙姫」(「亀の乙姫」)と特定するものが含まれる。また本文でも「玉手箱」という言葉が使われる。
オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵の絵巻もI類に所属する。
林晃平は、I類を性格づける要素として、1) 亀の買い取り 2) 迎えの舟 3) 四季の間に郷愁をなだめる効果、4) 村人が長寿を認めて荼毘に付す(修行僧の役割)、5) 玉手箱の煙が蓬莱に到達し、乙姫が悲しむ、の五つを挙げている。
「浦島太郎」という名前は中世の物語から登場し、それ以前の文献では「浦島子」の伝説として記録される。この浦島子にはモデルが実在しており、複数の史書にその名が見える。浦島子は日下部首の先祖であるとされる。
浦島子の伝説は、上代の文献である『丹後国風土記逸文』『日本書紀』や『万葉集』巻九にあり、成立年代は近いとされるが、順序については異説がある。
浦島子が誘われる場所は蓬萊(とこよのくに)なので、これら伝説は異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類される。
蓬萊山は、中国における不老不死の理想郷で、道教の中核にある神仙思想の産物である。浦島子伝説には、こうした神仙思想的(道教的)要素が見いだせる。ただそのことについては、現地の伝説を取材したが原作者の漢籍癖が出たためとも、唐伝来の話の翻案であるから、とも論じられる。
8世紀に成立した『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子」「水江浦嶼子」は、浦島太郎の物語の原型と解されている。ほぼ同時代の『日本書紀』『万葉集』にも記述が見られるが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しい。
内容は次の通り:
しかし、何らかの力で二人は歌を詠みかわすことができ、3首が万葉仮名で引用されている。後世より贈られたという2首も引かれているが、これら贈答歌は、『丹後国風土記』より後の時代に追加されたとの説がある。
『丹後国風土記』逸文は、収録された話は、連(むらじ)の伊豫部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた記録と突き合わせても差異がなかったとしている。すなわち馬養が丹波の国宰だった頃の文章は風土記以前に成立しており、馬養が浦島伝説の最初の筆者であるとの説がある。
馬養は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わって皇太子学士を勤め、『懐風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。そのことを踏まえても、馬養の著作の源が日本の伝承だったのか、中国の説話なのか疑問が残る。現地に元々あった伝承を採集しそれを中国の神仙譚風に編集、脚色したという見解と、中国の類話の舞台を丹波/丹後に移して翻案した作品との見解とで対立している。
三浦佑之の論旨に従えば、『丹後国風土記』を基にして解釈すれば、主人公は風流な男である浦島子と、神仙世界の美女であり、その二人の恋が官能的に描かれて異界(蓬莱山)と人間界との3年対300年という時間観念を鮮明に持つ。その語り口は、古代にあっては非常に真新しい思想と表現であり、神婚神話や海幸山幸神話などとはまったく異質であり、結末が老や死ではなく肉体が地上から消え去るという神仙的な尸解譚になっているのもそのためである。
浦島太郎(浦嶋子)の記述は、『日本書紀』「雄略紀」の雄略天皇22年(478年)秋7月の条に見える。こちらは事件の日付だとして具体的な年・月付で記されるわけで、次のような内容である:
8世紀半ば以降に成立した『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている。「春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而(春の日の 霞める時に 住吉の["すみのえ"の] 岸に出で居て)..」という読み手の現実に始まり、そこから連想される浦島の故事に触れる。大意は次のようなものである:
詠み手が長歌で「水江の浦島子の家」の跡が見えると締めくくっている。その舞台の「墨吉」は「すみのえ」と仮名振りされており、従来は丹後地方の網野町に比定されていたが、武田祐吉が摂津国住吉郡墨江村であると提唱した。澤瀉久孝『萬葉集注繹』では、虫麻呂はおそらく摂津の住吉にいたのだろうが、浦島伝説の舞台をここに移し変えて「創作」したのだとしている。
異郷淹留の場所がワタツミの神の国となり、仙女がその海神の娘になっているのは、この萬葉歌での加筆部分であるが、これもおそらく虫麻呂の創作であろうと考えられている。
平安時代以降も漢文伝として書き継がれてきた:
12世紀以降になると、『俊頼髄脳』をはじめ『奥儀抄』、『和歌童蒙抄』など歌論書に浦島物語が仮名書きで写され、宮廷や貴族達の、より幅広い層に浦島物語が広く浸透した。
中世になると、『御伽草子』の「浦島太郎」をはじめ絵巻・能・狂言の題材になり、読者・観客を得て大衆化していき、江戸時代に受け継がれた。
長崎県壱岐郡にあった郷ノ浦町(ごうのうらちょう)の華光寺にある古い書には、渡良半島の嫦娥島(じょうがじま)を竜宮城と記してある。
神奈川県にある通称「浦島寺」と結びつく伝説は次のようなものである:
観福寺は、江戸末期の神奈川宿火災で焼失して廃寺となるが、明治5年(1872年)に石井直方(神奈川本陣)が、神奈川区の慶運寺に一宇を増築させて併合させた。聖観世音菩薩像は残り、こちらに安置されている。この聖観世音菩薩像と、慶運寺および同区内の蓮法寺が所有する塔・碑は、「浦島太郎伝説関係資料」として横浜市登録の地域有形民俗文化財となっている。
長野県木曽の山中に、浦島太郎がここに住んでいたという伝説が、室町後期から江戸時代の頃に成立している。
創作であるが、古浄瑠璃『浦嶋太郎』では、舞台を上松の宿場の界隈として、浦島太郎の民話を作り変えている。すなわち信濃国に住む子宝に恵まれない夫婦が戸隠明神に祈願して授かったのが主人公の浦嶋太郎とする。その相手も、もとは「うんのの将監」の娘の「玉より姫」で、浦嶋と恋仲になるが現世では添い遂げられず、伊奈川(木曽川の支流)に身投げするが、超自然的な女性に生まれ変わる。彼女は亀に案内され、竜宮界の館のきんなら王に仕える「とうなんくわ女」となるのである。拝領した「うろこの衣」は、これを脱げば亀の姿から人間に戻るという霊物だった。姫は亀の姿となって伊奈川にいるところを浦嶋太郎に釣られ、再会を果たす。浦島は姫の船に乗り、竜宮へ案内される。
香川県三豊市詫間町の西部、荘内半島はかつて「浦島」と呼ばれており、数々の浦島太郎にまつわる伝説が残されている。足利義満が浦島の三崎神社に参拝した際に
と詠んでいる。浦島太郎伝説に所縁があるとされる地名等は以下のものがある。
詫間町荘内半島における浦島太郎伝説は諸大龍王の墓碑建立1847年(弘化4年)より前からあったとされる。荘内半島各地の地名が浦島伝説に由来するのではないかと詫間町出身の彫刻家新田藤太郎が提案し、郷土史家の三倉重太郎が半島各地の地名と伝説の関連性を調査し、物語として昭和23年にまとめた。
観光PRのために実在の人物が浦島太郎を名乗っている。
町興しの一環として、浦島太郎関連のモニュメントが数多く作られている。詳細は詫間町#自治体の取り組みを参照。
日向(宮崎県)には記紀以来、「海幸彦と山幸彦」の神話が伝わり、これが浦島太郎もモデルになっているといわれる。
九州・薩摩半島南端の指宿市を中心とした南薩地域にも浦島伝説が伝わっており、市内長崎鼻には龍宮神社があり、指宿市が観光に利用しているだけではなく、九州旅客鉄道も「指宿のたまて箱列車」(鹿児島中央駅・指宿駅間)を運営している。南薩地域の浦島伝説で興味あるのは、鹿児島県が用意した観光客用パンフレットには「海彦と山彦」の伝説が載っており、この伝説から浦島太郎伝説への影響がありとしていて、また山彦が訪れた龍宮は琉球であるともしていて、この地域と沖縄との強い結びつきが感じられる。
沖縄の伝承としては、『遺老説伝』の第103話「与那覇村の人竜宮に遊ぶこと」と浦島伝説との類似性が指摘される。粗筋は次のようなものである。
この説話の主人公は無名だが、設定はおおむね浦島子伝説と合致する。本土のものと道具立てが異なり、玉匣(たまくしげ)は開けてはならぬ紙包みに置き変わり、その包みのなかの白髪が接触することで老化現象がおこる。
また、桑の木は、杖から生えてくるまで島には伝来していなかったとするので、神の国か伐られたものと推察できる。異話では、竜宮まで戻る道を開ける手段は、(紙包とは別に与えられた)桑の木の杖を海に投じることであった。
同系の話の分布としては、宮古島などにも伝わっている。柳田國男は、「竜宮」と南の島々のニルヤ(ニライカナイ)は同源だとみている。
『遺老説伝』にはまた、竜宮譚ではないが類似する第42話、善縄大屋子(よしなわうふやこ)の話が所収される。主人公は、出現した女性の言われるままに大亀を家に運ぶが咬まれて大怪我を負い、埋葬される。しかし実際は死して死なざる存在となったという展開である。
類似説話
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"text": "バジル・ホール・チェンバレン英訳The Fisher-Boy Urashima(1886年)は、『日本昔噺』(ちりめん本)シリーズの一篇として長谷川武次郎により刊行された(挿絵は無銘だが小林永濯の作とされる)。チェンバレン訳は、記紀・丹後国風土記・万葉集など古典の設定を取り入れた混成話であり、龍宮は海中でなく海を遠く隔た離島にあるとし、二人して船を漕いで到達する設定になっている。",
"title": "その他の近代版"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1897年にはラフカディオ・ハーンの「夏の日の夢」(英語版)(『東の国から Out of the East』所収)によっても紹介されている。",
"title": "その他の近代版"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "近代版の浦島太郎には、善行を行えば報われるという、「仏教的な因果応報思想」が意図的に盛り込まれるとの解説がある。近代版には、亀が「おれいに竜宮へおつれしましょう」と語っているので、報恩の意志ははっきりしている。",
"title": "考察"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "しかし、近代版では理不尽にも浦島の結末は短く竜宮で楽しんだ後は老人となってしまう。結果的に自身が不幸に陥ることになるので、報恩といえるかどうか、疑問視もされ、「アンチ報恩譚」とのレッテルを張る論文すらある。お伽噺として理不尽で不合理な教訓をもたらすことになっているのではないかというものだ。また古い浦島子伝説では報恩の要素は見いだせないとされる。",
"title": "考察"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "中世(『御伽草子』、後述)の場合は、主人公が単に老化してあるいは死んで終わるのではなく、鶴と化して「めでたき」結末となっているので、より報恩譚として成立する。これについては逆に、亀の放生を行った程度で容易に無限の宝を得られるでは釣り合わない、との批判がみられる。鶴になる結末は何を伝えたいのかわからないとの向きもある。",
"title": "考察"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "精神分析学の岸田秀は、浦島が亀に乗って入る、時の流れのない楽園である竜宮城を、抑圧も欲望の不満もない子宮のメタファーとし、軽率に竜宮城を出た浦島が玉手箱を開けることで時間の中に組み込まれる物語は、性的欲望に仮託した子宮復帰願望の物語であり、何の不安もなかった幼い日々を失った嘆きの物語と解釈した。",
"title": "考察"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "常世の女性が、ワタツミ(海神)の娘だということが付記されるのは、『万葉集』の長歌に詠まれる浦島子伝説においてである。",
"title": "考察"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "このワタツミを竜神や竜王と同一視できるかについては、浦島子伝説は既に中国の唐代に流行していた竜生九子伝説の影響を受けていたもので、すなわち奈良時代の浦島子伝説でも、亀姫は竜王の姫だったという解釈がある。また唐の『竜女伝』を元の素材として、亀姫は東海竜王の娘の竜女であるとする、より具体性のある見解を藤沢衛彦は打ち出している。",
"title": "考察"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "しかし仮説になりたった解釈を抜きにすれば、『御伽草子』において初めて、異郷が明確に「竜宮」となり、その異郷の女性が「乙姫」という名の竜王の娘として登場する。この竜王が竜族かを問えば、柳田国男によれば「日本の昔話の竜宮には竜はいない」とされる。",
"title": "考察"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "「浦島太郎」として伝わる話の型が定まったのは、室町時代に成立した短編物語『御伽草子』による。その後は良く知られた昔話として様々な媒体で流通することになる。亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、竜宮城、玉手箱が登場するのも中世であり、『御伽草子』の出現は浦島物語にとって大きな変換点であった。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "「御伽草子」の稿本といえば、普通「御伽文庫」版を指すことが慣習的となっている。こちらは江戸時代に版本にされて多くの部数が普及したからである。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "御伽文庫の稿本の原文は、「昔丹後の國に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり」と始まる。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "一説に、ここから「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と謡う能楽『鶴亀』などに受け継がれ、さらに、鶴亀を縁起物とする習俗がひろがったとする。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "『御伽草子』では竜宮城は海中ではなく、島か大陸にあるように描写され、絵巻や絵本の挿絵もそうなっている。春の庭、夏の庭、秋の庭、冬の庭の話はメインストーリーの付け足し程度に書かれている。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "浦島太郎の御伽草子の諸本は、実際には50種以上存在する。それらをテキストの類似性で分類すると、おおよそ4つの系統に分かれる。御伽文庫は、IV類系統に該当する。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "「御伽文庫」版は御伽草子の定番だが、現代の「浦島太郎」のおとぎ話とは、筋書きや名称のうえで違いが多い。御伽文庫では、太郎は亀を買いとることはせず、背中にも乗らない。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "I類系統の本が、現代版により近く、浦島太郎が宝を渡して亀を買い取る要素が含まれている。また、相手の女性を無名とせず、「乙姫」(「亀の乙姫」)と特定するものが含まれる。また本文でも「玉手箱」という言葉が使われる。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵の絵巻もI類に所属する。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "林晃平は、I類を性格づける要素として、1) 亀の買い取り 2) 迎えの舟 3) 四季の間に郷愁をなだめる効果、4) 村人が長寿を認めて荼毘に付す(修行僧の役割)、5) 玉手箱の煙が蓬莱に到達し、乙姫が悲しむ、の五つを挙げている。",
"title": "御伽草子"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "「浦島太郎」という名前は中世の物語から登場し、それ以前の文献では「浦島子」の伝説として記録される。この浦島子にはモデルが実在しており、複数の史書にその名が見える。浦島子は日下部首の先祖であるとされる。",
"title": "浦島子伝説"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "浦島子の伝説は、上代の文献である『丹後国風土記逸文』『日本書紀』や『万葉集』巻九にあり、成立年代は近いとされるが、順序については異説がある。",
"title": "浦島子伝説"
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "浦島子が誘われる場所は蓬萊(とこよのくに)なので、これら伝説は異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類される。",
"title": "浦島子伝説"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "蓬萊山は、中国における不老不死の理想郷で、道教の中核にある神仙思想の産物である。浦島子伝説には、こうした神仙思想的(道教的)要素が見いだせる。ただそのことについては、現地の伝説を取材したが原作者の漢籍癖が出たためとも、唐伝来の話の翻案であるから、とも論じられる。",
"title": "浦島子伝説"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "8世紀に成立した『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子」「水江浦嶼子」は、浦島太郎の物語の原型と解されている。ほぼ同時代の『日本書紀』『万葉集』にも記述が見られるが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しい。",
"title": "浦島子伝説"
},
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"text": "内容は次の通り:",
"title": "浦島子伝説"
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{
"paragraph_id": 51,
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"text": "しかし、何らかの力で二人は歌を詠みかわすことができ、3首が万葉仮名で引用されている。後世より贈られたという2首も引かれているが、これら贈答歌は、『丹後国風土記』より後の時代に追加されたとの説がある。",
"title": "浦島子伝説"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "『丹後国風土記』逸文は、収録された話は、連(むらじ)の伊豫部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた記録と突き合わせても差異がなかったとしている。すなわち馬養が丹波の国宰だった頃の文章は風土記以前に成立しており、馬養が浦島伝説の最初の筆者であるとの説がある。",
"title": "浦島子伝説"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "馬養は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わって皇太子学士を勤め、『懐風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。そのことを踏まえても、馬養の著作の源が日本の伝承だったのか、中国の説話なのか疑問が残る。現地に元々あった伝承を採集しそれを中国の神仙譚風に編集、脚色したという見解と、中国の類話の舞台を丹波/丹後に移して翻案した作品との見解とで対立している。",
"title": "浦島子伝説"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "三浦佑之の論旨に従えば、『丹後国風土記』を基にして解釈すれば、主人公は風流な男である浦島子と、神仙世界の美女であり、その二人の恋が官能的に描かれて異界(蓬莱山)と人間界との3年対300年という時間観念を鮮明に持つ。その語り口は、古代にあっては非常に真新しい思想と表現であり、神婚神話や海幸山幸神話などとはまったく異質であり、結末が老や死ではなく肉体が地上から消え去るという神仙的な尸解譚になっているのもそのためである。",
"title": "浦島子伝説"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "浦島太郎(浦嶋子)の記述は、『日本書紀』「雄略紀」の雄略天皇22年(478年)秋7月の条に見える。こちらは事件の日付だとして具体的な年・月付で記されるわけで、次のような内容である:",
"title": "浦島子伝説"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "8世紀半ば以降に成立した『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている。「春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而(春の日の 霞める時に 住吉の[\"すみのえ\"の] 岸に出で居て)..」という読み手の現実に始まり、そこから連想される浦島の故事に触れる。大意は次のようなものである:",
"title": "浦島子伝説"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "詠み手が長歌で「水江の浦島子の家」の跡が見えると締めくくっている。その舞台の「墨吉」は「すみのえ」と仮名振りされており、従来は丹後地方の網野町に比定されていたが、武田祐吉が摂津国住吉郡墨江村であると提唱した。澤瀉久孝『萬葉集注繹』では、虫麻呂はおそらく摂津の住吉にいたのだろうが、浦島伝説の舞台をここに移し変えて「創作」したのだとしている。",
"title": "浦島子伝説"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "異郷淹留の場所がワタツミの神の国となり、仙女がその海神の娘になっているのは、この萬葉歌での加筆部分であるが、これもおそらく虫麻呂の創作であろうと考えられている。",
"title": "浦島子伝説"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "平安時代以降も漢文伝として書き継がれてきた:",
"title": "浦島子伝説"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "12世紀以降になると、『俊頼髄脳』をはじめ『奥儀抄』、『和歌童蒙抄』など歌論書に浦島物語が仮名書きで写され、宮廷や貴族達の、より幅広い層に浦島物語が広く浸透した。",
"title": "浦島子伝説"
},
{
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"tag": "p",
"text": "中世になると、『御伽草子』の「浦島太郎」をはじめ絵巻・能・狂言の題材になり、読者・観客を得て大衆化していき、江戸時代に受け継がれた。",
"title": "浦島子伝説"
},
{
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"text": "長崎県壱岐郡にあった郷ノ浦町(ごうのうらちょう)の華光寺にある古い書には、渡良半島の嫦娥島(じょうがじま)を竜宮城と記してある。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "神奈川県にある通称「浦島寺」と結びつく伝説は次のようなものである:",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "観福寺は、江戸末期の神奈川宿火災で焼失して廃寺となるが、明治5年(1872年)に石井直方(神奈川本陣)が、神奈川区の慶運寺に一宇を増築させて併合させた。聖観世音菩薩像は残り、こちらに安置されている。この聖観世音菩薩像と、慶運寺および同区内の蓮法寺が所有する塔・碑は、「浦島太郎伝説関係資料」として横浜市登録の地域有形民俗文化財となっている。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "長野県木曽の山中に、浦島太郎がここに住んでいたという伝説が、室町後期から江戸時代の頃に成立している。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "創作であるが、古浄瑠璃『浦嶋太郎』では、舞台を上松の宿場の界隈として、浦島太郎の民話を作り変えている。すなわち信濃国に住む子宝に恵まれない夫婦が戸隠明神に祈願して授かったのが主人公の浦嶋太郎とする。その相手も、もとは「うんのの将監」の娘の「玉より姫」で、浦嶋と恋仲になるが現世では添い遂げられず、伊奈川(木曽川の支流)に身投げするが、超自然的な女性に生まれ変わる。彼女は亀に案内され、竜宮界の館のきんなら王に仕える「とうなんくわ女」となるのである。拝領した「うろこの衣」は、これを脱げば亀の姿から人間に戻るという霊物だった。姫は亀の姿となって伊奈川にいるところを浦嶋太郎に釣られ、再会を果たす。浦島は姫の船に乗り、竜宮へ案内される。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "香川県三豊市詫間町の西部、荘内半島はかつて「浦島」と呼ばれており、数々の浦島太郎にまつわる伝説が残されている。足利義満が浦島の三崎神社に参拝した際に",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "と詠んでいる。浦島太郎伝説に所縁があるとされる地名等は以下のものがある。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "詫間町荘内半島における浦島太郎伝説は諸大龍王の墓碑建立1847年(弘化4年)より前からあったとされる。荘内半島各地の地名が浦島伝説に由来するのではないかと詫間町出身の彫刻家新田藤太郎が提案し、郷土史家の三倉重太郎が半島各地の地名と伝説の関連性を調査し、物語として昭和23年にまとめた。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "観光PRのために実在の人物が浦島太郎を名乗っている。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "町興しの一環として、浦島太郎関連のモニュメントが数多く作られている。詳細は詫間町#自治体の取り組みを参照。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "日向(宮崎県)には記紀以来、「海幸彦と山幸彦」の神話が伝わり、これが浦島太郎もモデルになっているといわれる。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "九州・薩摩半島南端の指宿市を中心とした南薩地域にも浦島伝説が伝わっており、市内長崎鼻には龍宮神社があり、指宿市が観光に利用しているだけではなく、九州旅客鉄道も「指宿のたまて箱列車」(鹿児島中央駅・指宿駅間)を運営している。南薩地域の浦島伝説で興味あるのは、鹿児島県が用意した観光客用パンフレットには「海彦と山彦」の伝説が載っており、この伝説から浦島太郎伝説への影響がありとしていて、また山彦が訪れた龍宮は琉球であるともしていて、この地域と沖縄との強い結びつきが感じられる。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 74,
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"text": "沖縄の伝承としては、『遺老説伝』の第103話「与那覇村の人竜宮に遊ぶこと」と浦島伝説との類似性が指摘される。粗筋は次のようなものである。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 75,
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"text": "この説話の主人公は無名だが、設定はおおむね浦島子伝説と合致する。本土のものと道具立てが異なり、玉匣(たまくしげ)は開けてはならぬ紙包みに置き変わり、その包みのなかの白髪が接触することで老化現象がおこる。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "また、桑の木は、杖から生えてくるまで島には伝来していなかったとするので、神の国か伐られたものと推察できる。異話では、竜宮まで戻る道を開ける手段は、(紙包とは別に与えられた)桑の木の杖を海に投じることであった。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "同系の話の分布としては、宮古島などにも伝わっている。柳田國男は、「竜宮」と南の島々のニルヤ(ニライカナイ)は同源だとみている。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "『遺老説伝』にはまた、竜宮譚ではないが類似する第42話、善縄大屋子(よしなわうふやこ)の話が所収される。主人公は、出現した女性の言われるままに大亀を家に運ぶが咬まれて大怪我を負い、埋葬される。しかし実際は死して死なざる存在となったという展開である。",
"title": "地域伝承"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "類似説話",
"title": "類話"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "参照文献"
}
] |
浦島太郎(うらしまたろう)は、日本の伽話(おとぎばなし)、及びその伽話内の主人公名。 一般に知られるあらすじでは、亀を助けた報恩として浦島太郎が海中に連れて行かれ、龍宮(竜宮)で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした浦島太郎は、「開けてはならない」と念を押されつつ玉手箱を渡される。帰り着いた故郷では、龍宮で過ごしたと感じたより遥かに長い年月が経っており、失意の余り玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、年老いた鶴、または人間の年寄りに化するというものである。 浦島子伝説が原話とされ、古くは上代の文献(『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記逸文』)に記述が残る。それらは、名称や設定が異なり、報恩の要素も欠け、行き先は「龍宮」ではなく「蓬萊(とこよのくに)」なので、異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類される。 日本各地には、浦島太郎が居たと伝える伝承や縁起譚があり、浦島の名の出ない類話も存在する。
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{{Otheruses|おとぎばなし|[[北山清太郎]]による映画|浦島太郎 (1918年の映画)}}
[[Image:Urashima Taro Returning on the Turtle LACMA M.84.31.349.jpg|300px|thumb|right|[[月岡芳年]]画浦島太郎]]
'''浦島太郎'''(うらしまたろう)は、[[日本]]の[[説話|伽話]](おとぎばなし)、及びその伽話内の主人公名。
一般に知られるあらすじでは、[[亀]]を助けた報恩として浦島太郎が海中に連れて行かれ、[[龍宮]](竜宮)で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした浦島太郎は、「開けてはならない」と念を押されつつ[[玉手箱]]を渡される。帰り着いた故郷では、龍宮で過ごしたと感じたより遥かに長い年月が経っており、失意の余り玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、年老いた鶴、または人間の年寄りに化するというものである。
'''浦島子'''伝説が原話とされ、古くは[[上代]]の文献(『[[日本書紀]]』『[[万葉集]]』『[[丹後国風土記]][[逸文]]』)に記述が残る。それらは、名称や設定が異なり、報恩の要素も欠け<!--柳田-->、行き先は「龍宮」ではなく「[[蓬萊]]([[常世の国|とこよのくに]])」なので、異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類される。
[[日本]]各地には、浦島太郎が居たと伝える伝承や縁起譚があり、浦島の名の出ない類話も存在する。
==概要==
<!--ここは記事全体のまとめ(冒頭パラグラフの延長)なので、原則、脚注はしない。出典は以下本文にゆだねる-->
現代において、日本で広く普及する浦島太郎の御伽話は、[[明治]]から[[昭和]]にかけて読まれた[[国定教科書]]版に近い内容である。これは童話作家の[[巖谷小波]]が1896年に発表した『日本昔噺』版に、生徒向けに手を加えて短縮したもので、玉手箱を開けて老人化してしまうことで約束を破ると悪いことが起こると伝えようとしたためである<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 5 |publisher=講談社 }}</ref>。
[[上代]]の原話では「浦島子」([[#浦島子伝説|浦島子伝説]])で、[[万葉集|万葉]]、[[日本書紀]]、[[丹後国風土記]]に記述がある。異界は龍宮でなく蓬山([[蓬萊山]])・常世(とこよ)の併称で呼ばれる。
現代版にみられる「竜宮」「乙姫」「玉手箱」などの呼称や、浦島が亀を買いとって助ける設定は、中世の[[御伽草子]]に由来するが、版本として知名度が高い御伽文庫版のそれではなく、異本(I類系)に見られる<!--民芸館古絵巻だけはその場所を「龍宮」とし, 林 (2011), p. 14-->。浦島子伝説では、「[[蓬萊]]([[常世の国|とこよのくに]])」の名のない女性が「玉匣(たまくしげ)」を渡す<!--御伽草子の異本の数種でも行き先が蓬莱だったり、「乙姫」の名がみえないものがある。-->。しかし海上の竜宮図を使いながら、文章では海底であるとする江戸時代の戯作(1782年)や{{Refn|『昔噺虚言桃太郎 (むかしばなしとんだももたろう)』(天明2/1782年)。浦島の代役に桃太郎が登場するので、標準テキストとはいえないが、[https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100053446/viewer/9 5葉裏]では、袖に「桃」と書かれた虚言桃太郎が、「亀にうちのり」竜宮にいき(絵の竜宮は波の上)、竜宮の一人娘の乙女(6葉表)は、[https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100053446/viewer/14 11葉表]で、亀に立ち乗って"女の葦の葉[[達磨]]といふ身振りにて海底深く急ぎ行く"({{harvp|林|2001|p=42}})。}}、また赤本絵本の模写絵だが、文章では海底とする英訳(1886年)もある{{Refn|片岡政行の英訳(1886年)。亀が水面をたたいて深海までみえるようにし"浦島ははるか下に大都市が見えた Urashima saw far below a great city" とあり、"降下(つまり潜水)すると as they descended"ともある<ref name="kataoka-tr"/><ref name="hayashi2009-kataoka-tr"/>。}}
現代版にいたると亀と姫は同一でなくなるが、浦島子伝説・御伽草子では、浦島が釣って逃がした亀は乙姫(蓬莱の女性)の化身である。御伽文庫では、最後に浦島も死ぬ代わりに鶴に変身する。
== 普及版 ==
[[File:Jinjyoshogakukokugotokuhon-v3-p040.jpg|thumb|360px|浦島太郎が浜辺で亀を「おもちゃにしている」子供らに遭遇{{right|{{small|―第三期国定教科書、『[[尋常小学校|尋常小学]]国語読本』(1928)}}}}]]
現在一般的に普及しているストーリーは、教科書を通じて広く国民に知れわたったもので{{sfnp|三浦|1989|pp=21, 27, 208-209}}、概ね以下のような内容である。
:浦島太郎という人(あるいは[[漁師]]{{Refn|group="注"|第三期国定教科書では「むかし、うらしま太郎といふ人がありました」となっているが、近年の教科書の多くは[[漁師]]と紹介{{sfnp|中嶋|2010|p=67}}。}})は、浜で[[子供]]達が[[カメ|亀]]をいじめている<!--おもちゃにしてゐます-->ところに遭遇。その亀を買いとって保護し、海に放してやる(太郎は子供達をわざとつついて「お前たちは亀に同じことをしたんだぞ?」と叱る場合もある。)。2、3日後、亀が現れ、礼として太郎を背に乗せ、海中の[[竜宮城|竜宮]]<!--りゅうぐう-->に連れて行く。竜宮では乙姫が太郎を歓待{{Refn|group="注"|国定4では、タイやヒラメやタコが舞でもてなす<ref name="kokutei4"/>。}}。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して蓋を開けてはならない」としつつ[[玉手箱]]を渡す。太郎が亀に乗って元の浜に帰ると、地上では700年もの年月が経過していて、太郎が知っている人は誰一人いない。太郎が忠告を忘れて玉手箱を開けると、中から白い煙が発生し、<!--煙を浴びた(国定4にあるが3/尋常にはない)-->太郎は実年齢の白髪で皺だらけの[[老人]]の姿に変化する。(尋常小学国語読本、巻3)<ref>{{citation|和書|author=文部省<!--Ministry of Education --> |title=尋常小學國語讀本. 卷3 |trans-title= |publisher=日本書籍 |year=1928 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874185 |pages=39-46}}</ref><ref>{{harvp|三浦|1989|pp=22-}}: 第三期国定教科書より復刻 ''Dai 3 ki kokutei kyōkasho''</ref>{{Refn|group="注"|浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上では随分長い年月が経っていたのである。}}。
; 経緯<!--=== 近代における改変 ===--><!--==その他の文献== "さらに[[巌谷小波]]が前代の物語を恩返しに主眼を置いた子供向けの読み物に改作し、ダイジェスト版が明治43年から35年間、国定教科書の教材になり定着していった。"[2008年9月19日 (金) 07:39, 116.193.97.38 による追加]--->
上のあらすじは、特に広く親しまれた教科書だと評価される第3期[[国定教科書]]{{sfnp|三浦|1989|p=21}}第3巻「うらしま太郎」から取った。この教科書は別名『尋常小学国語読本』、通称『[[ハナハト読本]]』という。[[大正]]~[[昭和]]の1918-1932年に使用された{{sfnp|三浦|1989|p=21}}。
[[明治時代]]には、その元となった第2期国定教科書{{Refn|group="注"|別名『尋常小学読本』通称『ハタタコ読本』)。}}所収「ウラシマノハナシ」が登場している。このいわゆる「国民童話」版は、明治政府が教科書向きに書き換えたものであるが、童話作家の[[巌谷小波]]著『日本昔噺』所収の「浦島太郎」に若干の手を加えて短縮したものだと目されている{{sfnp|三浦|1989|pp=21, 34-35}}<!--Holmes (2014), pp=6-7にMiura 典拠箇所を指定-->{{Refn|group="注"|あるいは国定教科書の準備委員(教科用図書調査委員会の一員)[[芳賀矢一]]の要請で、巌谷小波が執筆(作成関与)したものと推察されている{{sfnp|三浦|1989|pp=21, 34-35}}。}}。
竜宮城に行ってからの浦島太郎の行状は、子供に伝えるにふさわしくない「結婚生活」{{Refn|group="注"|『丹後国風土記』の島子伝などでは乙姫との官能的な[[性行為|性生活]]の描写がある(「男女の契りを結び、三年間の結婚生活を送った」、{{harvp|三浦|1989|p=74}}。}}の内容が含まれているので、[[童話]]においてはこの部分は改変(もしくは省略)された{{sfnp|三浦|1989|pp=51, 74-75}}<!--頁(?)は要検証だが⇒「浦島太郎で.. 結婚の部分が除かれたことが指摘...(三浦 1989)」と加原奈穂子「昔の主人公から国家の象徴へ」注3にある-->。
いじめていた子供達の態度も映像作品や出版社によって異なる(太郎に叱られて蜘蛛の子を散らすように逃げ去る、亀に進んで謝罪したうえで優しく海に放すなど)
=== 唱歌 ===
[[文部省]][[唱歌]]「浦島太郎」は、[[1900年]]の『幼年唱歌』に掲載された「うらしまたろう」(作詞・[[石原和三郎]]、作曲・[[田村虎蔵]]{{Refn|group="注"|「むかしむかしうらしまはこどものなぶるかめをみて」で始まる。}})と、[[1911年]]の『[[尋常小学唱歌]]』(第二学年第10曲)に掲載された「浦島太郎」(作詞・[[乙骨三郎]]、作曲者不明{{Refn|group="注"|「昔々浦島は助けた亀に連れられて」で始まる。}})とがある。
<!--{{中央|<gallery widths="200px" heights="200px">
File:Japanese Fairy Book - Ozaki - 032.png
File:Japanese Fairy Book - Ozaki - P034.png
File:Japanese Fairy Book - Ozaki - 040.png
</gallery>}}
-->
== 変遷 ==
浦島説話は、おおまかに古代(上代~鎌倉時代)、中世(絵巻、奈良絵本、御伽草紙)、近代の系統に分類される{{sfnp|下澤|1980|pp=27-29}}。
古代においては「浦島子」が、亀に身をやつした異郷の姫に出会い、夫婦になる縁といわれ、異郷にいざなわれる展開である{{sfnp|下澤|1980|p=30}}{{sfnp|大内|2002|pp=21-22}}。"神女のおしかけ女房的な話"などと形容される{{sfnp|下澤|1980|p=30}}。異郷で3年暮らして望郷の念にかられるが、陸の世界に戻ると300年がたっており、開けるなと禁じられた箱を開けると体が消滅してしまうというのは、ほぼ近代版どおりである{{sfnp|大内|2002|pp=21-22}}{{sfnp|下澤|1980|pp=33, 34}}。
名称は時代によってことなり、異郷は蓬山・常世(→竜宮城)、人物は浦島子(→浦島)、亀比女(→乙姫)、箱は玉匣(→玉手箱)のように変遷する{{sfnp|下澤|1980|pp=30-34}}{{sfnp|大内|2002|pp=21-22}}。
亀を漁師の浦島が助けてやるという発端は、中世(御伽草紙)にくわわるが、亀はすなわち竜宮の姫のままであり、自分が救われた理由で夫婦になる{{sfnp|下澤|1980|pp=30-34}}{{sfnp|大内|2002|pp=21-22}}。動物報恩譚の様相をとるともされる{{sfnp|下澤|1980|p=31}}{{sfnp|大内|2002|p=22}}。
古代・中世とも浦島と姫は船で異郷にたどりつく{{sfnp|下澤|1980|pp=32-33}}。しかし江戸時代、浦島が亀の上に乗って竜宮に行き来するのが図像化される。その嚆矢は17世紀末([[元禄時代]])頃とも{{Refn|group="注"|name="urashima-ride"}}18世紀半ばともされる{{Refn|18世紀半ばの説が、阪口保『浦島説話の研究』、新元社、1955年にみえる{{sfnp|下澤|1980|loc=p.33, 注20}}。}}。亀に乗る浦島図は、多くの草双紙などに描かれようになったが{{sfnp|林|2019}}、相変わらず竜宮が波上に描かれるのも一般的であった{{Refn|{{harvp|林|2001}}。厳密には一般的な定番というより、亀の上に立って乗る図がみられるなかで{{sfnp|林|2001|pp=41-43}}、多くは竜宮が波の上に浮かぶように描かれる、とする{{sfnp|林|2001|p=44}}。<!--が、まわりくどくなるのでおおまかに述べた。-->}}。明治の赤本絵本(1880年代)や<ref name="akahon-text"/>[[月岡芳年]]の「漫画」(1886年)では、海上の楼閣に見えるが、詳述がない{{Refn|name="yoshitoshi-manga1886"|{{citation|和書|last=月岡 |first=芳年 |author-link=月岡芳年 |title=浦嶋之子歸國従龍宮城之圖 |series=芳年漫画 |publisher=小林鉄次郎 |date=1886}}<ref name="yoshitoshi-manga1886-scripps"/>(2枚刷り。立命館大学蔵は左葉のみである。)}}。
既述の比較論文では、近代版の標準テキストとしては大正期の絵本と、昭和期の教科書(読本)であり、これらでは竜宮ははっきりと海中にもぐって到達する場所とされる{{sfnp|下澤|1980|p=33}}{{Refn|森林太郎他編『標準於伽文庫』、1920-1921では、"海の中"にあり(p.8)、亀は浦島を背負って"ずんずん水の中へ入って"いった(p.10)。挿絵も水底に竜宮がみえる構図である<ref name="urashimataro-mori-etal1920"/>。}}。
近代版における、乗物と化した亀はもはや姫の化身ではなくなり、亀は姫の"眷族"と呼ばれる<ref name="akahon-text"/>。姫その下僕を救われた恩返しに、蛸や魚などの踊り子にも命じて、浦島をもてなすが、夫婦にはならない{{sfnp|下澤|1980|p=32}}。助けられた亀についても、報恩譚が成立するといえなくもないが、単に交通手段として浦島を送り迎えするだけの恩返しにとどまるのである{{sfnp|下澤|1980|p=32}}。
==その他の近代版==
=== 明治期の赤本 ===
明治期の[[赤本 (少年向け本)|近代赤本]]として『浦嶋物がたり』(明治13/1880年)<ref name="urashima-monogatari1880"/>{{sfnp|早川|2018|p=44}}、『浦島弌代記』(一代記)」(1883年)<ref name="urashima-ichidaiki1883"/>、『浦島物がたり』」(1885年)<ref name="urashima-monogatari1885"/>が挙げられる{{Refn|{{harvp|林|2009|p=76}}、注 (6)。年代順にA本B本C本とし、『浦島弌代記』(B本)の挿絵を片岡政行訳で模写・流用した挿絵と比較している。}}。
=== 明治・大正期の活版本 ===
『田村将軍一代記・小野篁一代記・浦島太郎一代記』(銀花堂、明治22/1889年)は活版印刷されており、この明治20年代頃が木版本から活版本への過渡期とみなされる<ref name="urashimataro-ichidaiki1889"/><ref>{{harvp|早川|2018|p=44}}によれば[[野村銀治郎]](発行者)編。</ref>
また森林太郎([[森鷗外]])ら四名の編纂による『標準於伽文庫』(大正9/1920-1921年)があり<ref name="urashimataro-mori-etal1920"/>、近代版の代表例のひとつとして某論文でつかわれる<ref>{{harvp|下澤|1980|p=29}}、注15</ref>。
=== 関敬吾撰 ===
[[関敬吾]]編『日本の昔ばなし』([[岩波文庫]])に所収される、[[香川県]][[仲多度郡]]で採集された話がある<ref>{{citation|和書|last=久野 |first=昭 |title=日本人の他界観 |publisher=吉川弘文館 |year=1997 |url=https://books.google.co.jp/books?id=XMcEAQAAIAAJ |pages=44-46}}</ref>。これは「北前の[[大浦半島|大浦]]」を舞台とする。漁師の浦島太郎は、[[いかだ]]船で釣りに出かけるが亀が何度もかかるばかりで、その都度放してやる。釣果はなしに帰途につくと、渡海舟がやってきて、乙姫のいる海中の竜宮界に連れて行かれる。結末は御伽草子と同様だが、玉手箱が三段重ねで、一段目には鶴の羽があり、二段目で白煙があがって老人となり、三段目に鏡が出て浦島太郎が自分の変わり果てようを目にすると、鶴の羽が触れて鳥の姿になって飛び回る。その浦島をみようと、乙姫が亀に変身して浜にあがってくる<ref>{{Cite journal|和書|author=泉滋三郎 |date=1999 |url=https://kdu.repo.nii.ac.jp/records/304 |title=茶の湯と日本人の自然観 |trans-title=The Relationship between the Japanese Tea Ceremony and Japanese Nature Worship|journal=基礎科学論集 : 教養課程紀要 |publisher=神奈川歯科大学 |volume=17 |pages=13-14 |doi=10.18924/00000298 |CRID=1390853649787505664}}</ref>。この話は英訳もされている<ref>{{citation|editor-last=Seki |editor-first=Keigo |others=Robert J. Adams (tr.) |title=Urashima Taro |work=Folktales of Japan |publisher=University of Chicago Press |year=1963 |url=https://books.google.com?id=wInfAAAAMAAJ |pages=111-114}}</ref>。
=== 英訳 ===
明治期にはいくつかの英訳{{Refn|さきがけて[[ウィリアム・グリフィス]]が1876年に物語を紹介しているが<ref name="griffis1876"/>{{sfnp|牧野|1989|pp=122-121}}、1880年の説話集には欠けている(龍宮関連では「くらげ骨なし(猿の生肝)」や[[阿曇磯良|磯良]]の神が宝珠を[[仁神功皇后]]に貸し与える説話を収録する)。[[片岡政行]]の英訳(1886年)が挿絵付きでロンドンの雑誌に掲載されたのはチェンバレン訳と同年である<ref name="kataoka-tr"/>{{sfnp|牧野|1989|p=121}}<ref name="hayashi2009-kataoka-tr"/>。}}やドイツ訳がなされている{{Refn|[[フェルディナント・アダルベルト・ユンケル]]の『扶桑茶話』のドイツ訳「漁夫浦島」(1884年)がある<ref name="junker-tr"/>{{sfnp|牧野|1989|p=121}}。また[[ダーフィト・ブラウンス]]のドイツ訳(1885年)があり<ref name="brauns-tr"/>、[[アンドルー・ラング]]『[[アンドルー・ラング世界童話集#ももいろの童話集|ももいろの童話集]]』所収の浦島太郎の原典となっている。}}。
[[バジル・ホール・チェンバレン]]英訳''The Fisher-Boy Urashima''([[1886年]])は、『日本昔噺』([[ちりめん本]])シリーズの一篇として[[長谷川武次郎]]により刊行された(挿絵は無銘だが[[小林永濯]]の作とされる)<ref name="kyoto-u-foreign-studies"/>{{Refn|group="注"|[[宮尾与男]]の編注対訳本に、逆邦訳された日本語テキストも掲載{{sfnp|宮尾|2009|pp=25ff, 301ff }}。}}。チェンバレン訳は、記紀・丹後国風土記・万葉集など古典の設定を取り入れた混成話であり{{sfnp|牧野|1989|pp=130-129}}、龍宮は海中でなく海を遠く隔た離島にあるとし<!--Dragon Palace beyond the blue sea-->{{sfnp|Chamberlain|1886}}、二人して船を漕いで到達する設定になっている{{sfnp|宮尾|2009|p=34}}。
1897年には[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]の{{仮リンク|夏の日の夢 (小泉八雲)|en|The Dream of a Summer Day|label=「夏の日の夢」}}(『東の国から Out of the East』所収)によっても紹介されている<ref name="榮谷温子" />{{sfnp|牧野|1989|pp=137-136}}。
== 考察 ==
近代版{{Refn|group="注"|巌谷小波版/国定教科書以降}}の浦島太郎には、善行を行えば報われるという、「[[仏教]]的な[[因果]]応報思想」が意図的に盛り込まれるとの解説がある{{sfnp|1989|p=201}}。近代版には、亀が「おれいに竜宮へおつれしましょう」<!--「そのおれいにりゅうぐうへつれていつて上げませう」。(尋常小学国語読本)-->と語っているので、報恩の意志ははっきりしている{{Refn|group="注"|この点、理由もわからず連れていかれる[[中世]]の物語とは対照的である(下澤)}}{{sfnp|下澤|1980|p=31}}。
しかし、近代版では理不尽にも浦島の結末は短く竜宮で楽しんだ後は老人となってしまう。結果的に自身が不幸に陥ることになるので、報恩といえるかどうか、疑問視もされ<ref name="takada"/>、「アンチ報恩譚」とのレッテルを張る論文すらある<ref name="mukasa">{{citation|和書|last=武笠 |first=俊一<!--Mukasa Shunichi--> |authorlink=本山桂川 |title=玉匣から玉手箱へ : 浦島伝承史考 |trans-title=The homecoming of Tarow Urashima |journal=人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 |volume=25 |year=2007 |url=https://hdl.handle.net/10076/9716 |pp=75-84}}</ref><!--ノートに書いた通り、武笠論文には概して懐疑的な意見も見える。-->。{{要出典範囲|[[説話|お伽噺]]として理不尽で不合理な教訓をもたらすことになっているのではないかというものだ|date=2017年10月|title=永井俊哉 (2017)PHP書籍『浦島伝説の謎を解く』で引いているので当面は残そうかと。}}。また古い浦島子伝説では報恩の要素は見いだせないとされる{{sfnp|柳田|1971|p=50}}。
中世(『[[#御伽草子|御伽草子]]』、後述)の場合は、主人公が単に老化してあるいは死んで終わるのではなく、鶴と化して「めでたき」結末となっている{{sfnp|牧野|1980|p=129}}ので、より報恩譚として成立する。これについては逆に、亀の放生を行った程度で容易に無限の宝を得られるでは釣り合わない、との批判がみられる{{Refn|日高昭二(1991)、「『御伽草紙』論―心性としてのテクスト」、国文学<ref name="takada"/>。}}。鶴になる結末は何を伝えたいのかわからないとの向きもある<ref name="trivia" />。
[[精神分析学]]の[[岸田秀]]は、浦島が亀<ref group="注">岸田によれば[[ペニス]]のメタファーである。</ref>に乗って入る、時の流れのない楽園である竜宮城を、[[抑圧 (心理学)|抑圧]]も欲望の不満もない[[子宮]]の[[メタファー]]とし、軽率に竜宮城を出た浦島が玉手箱を開けることで時間の中に組み込まれる物語は、[[性欲#精神分析学における性的欲求|性的欲望]]に仮託した子宮復帰願望の物語であり、何の不安もなかった幼い日々を失った嘆きの物語と解釈した<ref>[[岸田秀]]『ものぐさ精神分析』 青土社 1978年 第6版 pp.196-198.</ref>。
===竜宮===
常世の女性が、[[ワタツミ]](海神)の娘だということが付記されるのは、『万葉集』の長歌に詠まれる浦島子伝説においてである。
このワタツミを竜神や竜王と同一視できるかについては、浦島子伝説は既に中国の[[唐]]代に流行していた[[竜生九子]]伝説{{Refn|group="注"|後に[[楊慎]]『升庵外集』に記述される。}}の影響を受けていたもので、すなわち奈良時代の浦島子伝説でも、亀姫は竜王の姫だったという解釈がある<ref name="sakata"/>。また唐の『竜女伝』を元の素材として、亀姫は[[四海竜王|東海竜王]]の娘の[[竜|竜女]]であるとする、より具体性のある見解を[[藤沢衛彦]]は打ち出している<ref name="fujisawa"/>。
しかし仮説になりたった解釈を抜きにすれば、『御伽草子』において初めて、異郷が明確に「竜宮」となり<ref name="akiya"/>、その異郷の女性が「乙姫」という名の竜王の娘として登場する<ref name="miyao"/>{{sfnp|McKeon|1996|p=136}}。この竜王が竜族かを問えば、[[柳田国男]]によれば「日本の昔話の竜宮には竜はいない」とされる{{sfnp|柳田|1971|p=45}}。
== 御伽草子 ==
「浦島太郎」として伝わる話の型が定まったのは、[[室町時代]]に成立した短編物語『[[御伽草子]]』による。その後は良く知られた昔話として様々な媒体で流通することになる。亀の[[恩返し]](報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、[[龍宮|竜宮城]]、[[玉手箱]]が登場するのも中世であり、『御伽草子』の出現は浦島物語にとって大きな変換点であった<!--{{sfnp|三浦|1989|p=180}}あたりに見えるようだが、不詳。しかし以下文で出典付きで述べているのでrefはそちらにゆだねる-->。
「御伽草子」の稿本といえば、普通「御伽文庫」版を指すことが慣習的となっている。こちらは江戸時代に版本にされて多くの部数が普及したからである{{Refn|group="注"|「御伽文庫」は、渋川清右衛門が収集して刊行した1720年頃のそれを指すが、実はその50年も前に刊行された丹緑本(たんろくぼん)と同一テキストと判明している<ref>{{Cite journal|和書|author=[[松本隆信]] |date=1963-03 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00106199-00000002-0171 |title=御伽草子本の本文について : 小敦盛と横笛草紙 |trans-title=Textual criticism of Koatsumori (小敦盛) and Yokobue-soshi (横笛草紙) (Otogi soshi of Shibukawa edition) compared with their old manuscripts |journal=斯道文庫論集 |ISSN=0559-7927 |publisher=慶應義塾大学附属研究所斯道文庫 |volume=2 |pages=171-172 |crid=|1050001338946770560}}</ref>。}}{{sfnp|林|2011|p=17}}{{sfnp|Holmes|2014|p=17, note 71}}。
===御伽文庫===
御伽文庫の稿本の原文は、「昔[[丹後国|丹後の國]]に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり」と始まる<ref name="bunko-ndl">{{citation|和書|editor1-last=今泉 |editor1-first=定助<!--Imaizumi Sadasuke--> |editor2-last=畠山 |editor2-first=健<!--Hatakeyama Ken-->|title=21 浦島太郎|work=御伽草子 後|volume=<!--2--> |publisher=吉川半七 |year=1891 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992892}}; (校訂版){{citation|和書|editor-last=藤井 |editor-first=乙男 |title=浦島太郎 |work= 御伽草子 |publisher=有朋堂書店 |year=1922 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977912/170 |pages=277-298}}</ref><ref name="bunko-web">{{cite web|url=http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/Taro_Urashima.html |title=Taro Urashima story: A Fable |work=Ikeda Mitsuho |author=Ikeda Mitsuho |year=2013 |accessdate=2017-09-24}} 入力</ref>。
:丹後の国に浦島という者がおり、その息子で、浦島太郎という、年の頃24、5の男がいた。太郎は漁師をして両親を養っていたが、ある日「ゑじまが磯」というところで亀を釣りあげ、「亀は万年と言うのにここで殺してしまうのはかわいそうだ。恩を忘れるなよ」と逃がしてやった。数日後、一人の女人が舟で浜に辿り着き、漂着したと称して、なんとか本国に連れ帰してくれと請願する。実はこれは逃がしてもらった亀の化身であった{{Refn|group="注"|素性はここでは明かさず、浦島が去ろうとするときに初めて明かす。}}。二人が舟で龍宮城に到着すると、女性は太郎と夫婦になろうと言い出す。龍宮城は、東西南北の戸を開けると四季の草木と眺めがみえるように作られていた。ここで共に三年暮す頃、太郎は残してきた両親が心配になり帰りたいと申し出た。姫は自分が助けられた亀であったことを明かし、開けることを禁じたうえで「かたみの筥(はこ)」(または「箱」、挿入歌では「[[玉手箱]]あけて悔しき」と詠まれる{{Refn|group="注"|「いつくしき筥」とも。}})を手渡した。太郎は元の浜に着き、老人に浦島(太郎の父)の行方を尋ねるが、それは七百年も昔の人で、近くにある古い塚がその墓だと教えられる。龍宮城の三年の間に、地上では七百年もの年月が経っていたのであった。絶望した太郎が箱を開けると、三筋の紫の雲が立ち昇り、太郎はたちまち老人になった。太郎は[[ツル|鶴]]になり蓬萊山へ向かって飛び去った。同時に乙姫も亀になって蓬莱山へ向かった。丹後では太郎と乙姫は夫婦の明神となって祀られた<ref name="bunko-yomikudashi">{{harvp|蘆屋|1936|pp=1888-191}}: 御伽草子の「浦島太郎」の読み下し</ref>。
<!--=== 「鶴亀」バージョン ===--><!--「御伽文庫」にも鶴亀の変身、と"夫婦の[[明神]]となり給ふ"の文句はあるのでバージョン替えとするのは誤解をまねく。-->
一説に、ここから「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と謡う[[能楽]]『[[鶴亀]]』などに受け継がれ、さらに、鶴亀を[[縁起物]]とする習俗がひろがったとする{{要出典|date=2017年9月}}。
『[[御伽草子]]』では[[龍宮|竜宮城]]は海中ではなく、島か大陸にあるように描写され、絵巻や絵本の挿絵もそうなっている。春の庭、夏の庭、秋の庭、冬の庭の話はメインストーリーの付け足し程度に書かれている。
===異本と系統===
[[File:Urashima Taro handscroll from Bodleian Library 1.jpg|thumbnail|300px|亀を助ける浦島太郎。{{right|{{small|―オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵の絵巻より、16世紀末~17世紀初。}}}}]]
浦島太郎の御伽草子の諸本は、実際には50種以上存在する。それらをテキストの類似性で分類すると、おおよそ4つの系統に分かれる{{sfnp|林|2011|p=4}}{{sfnp|林|2013|p=5}}。御伽文庫は、IV類系統に該当する{{sfnp|林|2011|pp=20, 30}}。
===近代版に近い系統===
「御伽文庫」版は御伽草子の定番だが、現代の「浦島太郎」のおとぎ話とは、筋書きや名称のうえで違いが多い。御伽文庫では、太郎は亀を買いとることはせず、背中にも乗らない{{sfnp|林|2011|p=17}}{{Refn|group="注"|name="urashima-ride"|背中に乗るのは、「十八世紀初頭前後に始まった」という考察は{{sfnp|林|2001|p=41}}、「十七世紀末(元禄頃)」に繰り下げている{{harvp|林|2019|p=27}}。}}。
I類系統の本が、現代版により近く、浦島太郎が宝を渡して亀を買い取る要素が含まれている{{sfnp|林|2011|p=1}}。また、相手の女性を無名とせず、「乙姫」(「亀の乙姫」)と特定するものが含まれる{{sfnp|林|pp=10, 14}}{{sfnp|林|2011|pp=9, 25}}。また本文でも「玉手箱」という言葉が使われる{{Refn|group="注"|御伽文庫では、本文では「筥/箱(はこ)」としており、挿入歌にのみ「君にあふ夜はうらしまが玉手ばこ、あけてくやしきわがなみだかな」とある。}}{{sfnp|林|2013|pp=11, 28, 30}}{{sfnp|Hayashi|2016|pp=10-11}}。
[[オックスフォード大学]][[ボドリアン図書館]]所蔵の絵巻<ref group="注">MS. Jap. c. 4 (R)</ref>もI類に所属する{{sfnp|林|2011|pp=4-5}}{{Refn|group="注"|テキストも翻刻されている:{{harvp|林|2013|pp=18-31}}。}}。
林晃平は、I類を性格づける要素として、1) 亀の買い取り 2) 迎えの舟 3) 四季の間に郷愁をなだめる効果{{Refn|group="注"|募らせるのと逆}}、4) 村人が長寿を認めて荼毘に付す(修行僧の役割)、5) 玉手箱の煙が蓬莱に到達し、乙姫が悲しむ、の五つを挙げている{{sfnp|林|2011|pp=9-10}}。
== 浦島子伝説 ==
[[file:浦島子_Urashimako_和漢百人一首.jpg|thumb|alt=江戸時代に描かれた浦島子の図([[歌川貞秀]]『和漢百人一首』)|浦島子{{right|{{small|―[[歌川貞秀]]『和漢百人一首』}}}}]]
「浦島太郎」という名前は中世の物語から登場し、それ以前の文献では「浦島子」の伝説として記録される。この浦島子にはモデルが実在しており、複数の史書にその名が見える。浦島子は日下部首の先祖であるとされる<ref>[[宝賀寿男]]「第2章 皇族系氏族 第7節 日下部氏族」『古代氏族系譜集成』上巻、古代氏族研究会、1986年。</ref>。
浦島子の伝説は、上代の文献である『丹後国風土記逸文』『日本書紀』や『万葉集』巻九にあり、成立年代は近いとされるが、順序については異説がある。
浦島子が誘われる場所は[[蓬萊]]([[常世国|とこよのくに]])なので、これら伝説は異郷淹留譚(仙境淹留譚)に分類される{{sfnp|三浦|1989|pp=84, 96}}{{sfnp|重松|1981|p=175}}。
蓬萊山は、中国における[[不老不死]]の[[理想郷]]で、[[道教]]の中核にある[[神仙思想]]の産物である。浦島子伝説には、こうした神仙思想的(道教的)要素が見いだせる<ref>瀧音能之「浦島」 / 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版、2004年、36頁</ref>。ただそのことについては、現地の伝説を取材したが原作者の漢籍癖が出たためとも<ref name="toki-no-manyoshu"/>、唐伝来の話の翻案であるから、とも論じられる<ref name="kato"/>。
=== 丹後国風土記逸文 ===
8世紀に成立した『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子」「水江浦嶼子」<ref>[http://homepage2.nifty.com/toka3aki///geography/fudoits5.html toka3aki 「国土としての始原史~風土記逸文」~山陰道] - [http://homepage2.nifty.com/toka3aki///index.html 露草色の郷](『丹後国風土記』(たにはのみちのしりのくにのふどき)の逸文テクスト。「浦嶼子」は『釋日本紀』〈卷十二〉からの引用)</ref>は、浦島太郎の物語の原型と解されている{{Refn|group="注"|厳密に言えば、馬養の物語が原型であるが、丹後国風土記の編者が二つの話に差異はないと述べている(後述)。ただ三浦は、"馬養の物語の原型にもっとも近い作品は、先に少しふれた『続浦島子伝記』ではないか"との感想も述べている{{sfnp|三浦|1989|p=106}}。}}{{sfnp|三浦|1989|p=101-106, 148}}。ほぼ同時代の『[[日本書紀]]』『[[万葉集]]』にも記述が見られるが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しい{{sfnp|三浦|1989|p=65}}<!--"についてもっとも詳しい記事を載せているのは"-->。
内容は次の通り:
:冒頭は「[[与謝郡|與謝郡]]日置里、この里に筒川村あり」とし、その村の[[筒川村|筒川]]嶼子(つつかわのしまこ)は、容姿と風流が際立ち、別名「水江浦嶼子」といい、[[日下部氏|日下部]]首(くさかべのおびと)の先祖だとしている{{Refn|group="注"|與謝郡日置里此里有筒川村此人夫日下部首等先祖名云筒川嶼子爲人姿容秀美風流無類斯所謂水江浦嶼子者也<!--是旧宰伊預部馬養連所記無相乖故略陳所由之旨長谷朝倉宮御宇天皇御世嶼子独乘小船汎出海中爲釣経三日三夜不得一魚乃得五色龜心思奇異置于船中即寐忽爲婦人其容美麗更不可比嶼子問曰人宅遥遠海庭人乏詎人忽來女娘微咲對曰風流之士獨汎蒼海不勝近談就風雲來-->..<ref>{{Cite web|和書| author = 沢瀉久孝 編 | title = 上代文学選. 上 | publisher = 三省堂 | date = 1941 | url = {{NDLDC|1456581/61}} | accessdate = 2015-07-15}}</ref>}}。
:[[泊瀬朝倉宮|長谷(はつせ)の朝倉宮]]の御世、つまり[[雄略天皇]]の時代。嶼子(島子)が一人船で海に出るが、3日間魚は釣れず、五色の亀が取れる。船で寝入る間に亀は美女の姿に変わっている。いきなり現れた女性の素性を訪ねると、「天上の仙(ひじり)の家」の者だとの返答。島子と語らいたくなってやって来たという。舟を漕いで女性の住む「蓬山」{{Refn|group="注"|挿入歌では「とこよ(等許余)」と見える。}}を訪れるが、海上の島であった。門に立つと、7人の童子、ついで8人の童子に「亀比売(かめひめ)の夫がいらした」と出迎えられるが、これらは[[昴]]七星と[[畢星]]の星団であった。浦島は饗宴を受け、女性と男女の契りを交わす。
:三年がたち、島子に里心がつくと、女性は悲しむが、彼女との再会を望むなら決して開けてはならない玉匣(たまくしげ)(箱)を授けて送りだす。郷里を訪ねると家族の消息は得られず、水江の浦の島子<!--蘆屋の訓じ方「水江の浦の島子」-->という人が300年前に失踪したと伝わる、と教えられる。約束を忘れて箱を開けると、何か美しい姿が雲をともない天上に飛び去って行った。そこで島子は女性と再会できなくなったことを悟るのである<ref name="fudoki-yomikudashi">{{harvp|蘆屋|1936|pp=183-187}}: 丹後国風土記逸文の読み下し</ref>{{sfnp|Holmes|2014|pp=114-118}}。
しかし、何らかの力で二人は歌を詠みかわすことができ、3首が[[万葉仮名]]で引用されている{{sfnp|三浦|1989|p=101-106, 148}}。後世より贈られたという2首も引かれているが、これら贈答歌は、『丹後国風土記』より後の時代に追加されたとの説がある{{sfnp|水野|1975|p=60|ps=<!--『丹後国風土記』の成立した時には、この贈答歌は加えられていなかつたと考え-->}}。
==== 伊余部馬養の作という説 ====
『丹後国風土記』逸文は、収録された話は、[[連]](むらじ)の[[伊余部馬養|伊豫部馬養]](いよべのうまかい)という人物が書いた記録と突き合わせても差異がなかったとしている。すなわち馬養が丹波の[[国司|国宰]]だった頃の文章は風土記以前に成立しており、馬養が浦島伝説の最初の筆者であるとの説がある。
馬養は7世紀後半の学者官僚で『[[律令]]』選定、史書編纂に係わって[[皇太子学士]]を勤め、『[[懐風藻]]』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。そのことを踏まえても、馬養の著作の源が日本の伝承だったのか、中国の説話なのか疑問が残る。現地に元々あった伝承を採集しそれを中国の神仙譚風に編集、脚色したという見解と<ref name="toki-no-manyoshu"/>、中国の類話の舞台を丹波/丹後に移して翻案した作品との見解<ref name="kato"/>とで対立している{{Refn|group="注"|丹後国はもともと丹波国の行政下にあり、独立したのは713年である。馬養が丹波の[[国司|国宰]]だったのはそのとき以前なので、二つの国が混同される理由もそこにある<ref name="cranston">{{citation|last=Cranston |first=Edwin A. |title=The Gem-Glistening Cup |publisher=Stanford University Press |year=1998 |pp=144-145|url=https://books.google.com/books?id=KqWjwalbmx4C&pg=PA145}}</ref>。}}。
====三浦の解釈====
[[三浦佑之]]の論旨に従えば、『丹後国風土記』を基にして解釈すれば、主人公は風流な男である浦島子と<!--風流--><ref>{{harvp|三浦|1989|pp=78, 95}}</ref>、神仙世界の美女であり<!--神仙世界, 仙境, 仙女 pp.135-->、その二人の恋が官能的に描かれて<!--官能的--><ref>{{harvp|三浦|1989|pp=96, 117, 179}}</ref><ref name="tachibana"/>異界(蓬莱山)と人間界との3年対300年という時間観念を鮮明に持つ<!--時間観念, 観念的な時間認識, 百倍--><ref>{{harvp|三浦|1989|pp=91, 94; 90, 146}}</ref>。その語り口は、古代にあっては非常に真新しい思想と表現であり、神婚神話や海幸山幸神話などとはまったく異質であり<!--"この浦島子物語の時間観念は、かなり異質な要素として、他の神話や説話との差異" p. 91--><!--"神婚神話と同じ構造である。ところが、"p.80, "古代神婚神話の類型のようにみえる" p.81--><ref>{{harvp|三浦|1989|pp=91; 80-81}}</ref>、結末が老や死ではなく肉体が地上から消え去るという神仙的な尸解譚になっているのもそのためである<!--地仙, 尸解仙--><ref>{{harvp|三浦|1989|pp=94, 119, 148}}</ref>。
===日本書紀===
浦島太郎(浦嶋子)<!--が文献に登場する例の初見は、[[8世紀]]の初めに成立した [comment:風土記が逸文である以上その言葉通りだろうが、混同する]-->の記述は、『[[日本書紀]]』「雄略紀」の[[雄略天皇]]22年([[478年]])秋7月の条に見える。こちらは事件の日付だとして具体的な年・月付で記されるわけで、次のような内容である:
:[[丹波国]][[与謝郡|餘社郡]](現・[[京都府]][[与謝郡]])の住人である浦嶋子は舟に乗って[[釣り]]に出たが、捕らえたのは[[ウミガメ|大亀]]だった。するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬萊山([[常世の国|とこよのくに]])へ赴き、遍歴して仙人たち(仙衆(ひじり))に会ってまわった。
===万葉集巻九===
8世紀半ば以降に成立した『[[万葉集]]』巻九の[[高橋虫麻呂]]作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている{{sfnp|三浦|1989|p=109}}。「春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而(春の日の 霞める時に 住吉の["すみのえ"の] 岸に出で居て)..」という読み手の現実に始まり、そこから連想される浦島の故事に触れる<ref>{{cite web|url=http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/Man9Yos.html#1740|title=Manyoshu [Book9] |work=Japanese Text Initiative |publisher=Virginia University |year=1999|accessdate=2017-10-01}}</ref><ref name="tsujio"/>。大意は次のようなものである:
:水の江の浦島の子が7日も帰らず[[鯛]]や[[カツオ|鰹]]を釣りをしていると、海境(うなさか)<ref group="注">海神の国と人間の国の境目</ref>を超えて漕いでいて行き交った海神([[ワタツミ|わたつみ]])の娘と語り合うようになり、そして結婚する。[[常世]]にある海神の宮で暮らすこととなったが、愚かな男は里帰りを言い出す。妻は、この[[常世の国]]に戻りたいと願うなら決してこれを開くなと、篋(くしげ<ref group="注">箱。玉手箱に相当。元々は化粧道具を入れるためのもの</ref>)を手渡す。
:水江に帰ってみると、家を出てから3年しかたっていないと思っていたのにその家は跡形も無い。箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ白い雲がたなびいて常世にむかい、うろたえて叫び、地団太を踏むと、気絶した。浦島の子は皺だらけの白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。<ref name="tsujio">{{citation|和書|last=辻尾 |first=榮市 |title=『万葉集』の舟・船 |trans-title= |journal=大阪観光大学紀要 |volume=33 |year=2015 |url=https://doi.org/10.24729/00004341 |page=129|doi=10.24729/00004341}}</ref>
詠み手が長歌で「水江の浦島子の家」の跡が見えると締めくくっている。その舞台の「墨吉」は「すみのえ」と仮名振りされており、従来は[[丹後地方]]の[[網野町]]に比定されていたが、[[武田祐吉]]が[[摂津国]][[住吉郡]][[墨江#歴史|墨江村]]であると提唱した。[[澤瀉久孝]]『萬葉集注繹』では、虫麻呂はおそらく摂津の住吉にいたのだろうが、浦島伝説の舞台をここに移し変えて「創作」したのだとしている<ref>{{citation|和書|last=辻尾 |first=榮市 |title="異郷淹留(えんりゆう)譚", "蝉脱"高橋虫麻呂ーその閲歴及び作品の制作年次についてー |trans-title= |journal=國文學 |publisher=関西大学国文学会 |year=1963 |url=https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/4476 |hdl=10112/6587 |volume=34|pages=28-29}}</ref>{{Refn|group="注"|大阪ではないが、摂津国の[[高砂市|高砂]]が浦島の地元という設定は、明治(1880年)の赤本絵本にもみられる{{sfnp|林|2009|p=84}}。}}。
異郷淹留の場所が[[ワタツミ]]の神の国となり、仙女がその海神の娘になっているのは、この萬葉歌での加筆部分であるが、これもおそらく虫麻呂の創作であろうと考えられている<ref>{{harvp|三浦|1989|p=115}}: 「虫麻呂が、島子の行った異境をワタツミの国として設定」</ref>。
===平安以降===
<!--==その他の文献== より分割-->
平安時代以降も漢文伝として書き継がれてきた:
* 10世紀初頭:『[[続浦島子伝記]]』{{sfnp|三浦|1989|pp=142, 148-149}}
* 11世紀後半:「浦島子伝」(『[[本朝神仙伝]]』 所収){{sfnp|三浦|1989|pp=152-153}}
* 11世紀末:「浦島子伝」(『[[扶桑略記]]』 所収){{sfnp|三浦|1989|p=153}}
* 13世紀初期:「浦島子伝」(『[[古事談]]』 所収){{sfnp|三浦|1989|p=153}} など{{要検証|date=2017年9月}}。
12世紀以降になると、『[[俊頼髄脳]]』をはじめ『[[奥儀抄]]』、『[[和歌童蒙抄]]』など[[歌論書]]に浦島物語が仮名書きで写され、宮廷や貴族達の、より幅広い層に浦島物語が広く浸透した{{sfnp|三浦|1989|pp=158-161}}。
中世になると、『御伽草子』の「浦島太郎」をはじめ絵巻・能・狂言の題材になり、読者・観客を得て大衆化していき、江戸時代に受け継がれた{{sfnp|三浦|1989|pp=185, 198}}。
==地域伝承==
=== 長崎県壱岐に伝わる話 ===
[[長崎県]][[壱岐郡]]にあった[[郷ノ浦町]](ごうのうらちょう)の[[華光寺]]にある古い書には、[[渡良半島]]の[[嫦娥島]](じょうがじま)を[[竜宮城]]と記してある。
=== 神奈川県横浜市神奈川区に伝わる話 ===
[[Image:Keiunji -03.jpg|thumb|right|150px|慶運寺「龍宮傳来浦島観世音浦島寺」石碑。観福寺に旧蔵<ref name="kenkyukai1928"/>。]]
{{external media|image1=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563384/29 観福寿寺] - [[江戸名所図会]](国立国会図書館)}}
{{More|浦島太郎伝説関係資料}}
神奈川県にある通称「浦島寺」と結びつく伝説は次のようなものである:
:昔、[[相模国]][[三浦郡|三浦]]に浦島太夫とよばれる人がおり、彼は仕事のため[[丹後国]]に赴任していた。その息子である太郎は、亀が浜辺で子供達にいじめられているところに出会う。(全国版と同じなので中略)竜宮の乙姫から授かった玉手箱と観音像を持って太郎が丹後に帰ると、そこに両親のゆかりの跡はなく、太郎は<!--ある漁師から(道すがりの老人から)-->両親の墓は[[武蔵国]]白幡(現・[[横浜市]][[神奈川区]]の東部)にあると聞かされる。
:老人となった太郎は、白幡の峰<!--[[子安]]の浜 (確認できない)-->に行き、両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は、[[マツ|松枝]]{{Refn|group="注"|乙姫が枝に光を照らしたとされる龍燈の松は、<!--[[大正]]時代に枯死 no ref-->鉄道開通時に伐られたとされる<ref name="kenkyukai1928"/>。}}に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に[[庵]]を結び、[[観音菩薩|観音像]]を安置した。太郎の死後、その庵は観福寺(浦島院観福寿寺)となった<ref>{{Cite book|和書|author=萩坂昇 |title=よこはまの民話|publisher=むさしの児童文化の会|year=1976 |series=神奈川の民話|pages=97-103}}</ref><ref>{{Citation|和書|last=小島 |first=瓔礼|author-link=小島瓔礼|title=武相昔話集: 神奈川|publisher=岩崎美術社|year=1981|page=71}}</ref>。
観福寺は、江戸末期の[[神奈川宿]]火災で焼失して[[廃寺]]となるが{{Refn|group="注"|資料により慶応4年(1868年)の火事とも<ref name="inoue_osamu"/>、「明治元年正月廿七日」の火事だともされる<ref name="kenkyukai1928"/>。事実の矛盾ではなく、この年は「慶応4年」正月に起こった事項であっても遡って「明治元年」の元号を適用することが行われた。}}、[[明治5年]](1872年)に[[石井直方 (本陣宿屋)|石井直方]](神奈川本陣)が、[[神奈川区]]の[[慶運寺]]に一宇を増築させて併合させた<ref name="inoue_osamu"/><ref name="hayashi-kampukuji"/>。[[観音菩薩|聖観世音菩薩]]像は残り、こちらに安置されている<ref name="kenkyukai1928"/>。この聖観世音菩薩像と、慶運寺および同区内の蓮法寺が所有する塔・碑は、「[[浦島太郎伝説関係資料]]」として[[横浜市]]登録の[[有形民俗文化財|地域有形民俗文化財]]となっている。
=== 長野県木曽の浦島伝説 ===
[[File:Kuniyoshi Station 38.jpg|left|thumb|100px|[[歌川国芳]]画、「[[福島宿]]」<!--、『[[中山道六十九次|木曾街道六十九次]]』。-->]]
{{More|寝覚の床}}
[[長野県]][[木曽地域|木曽]]の山中に、浦島太郎がここに住んでいたという伝説が、室町後期から江戸時代の頃に成立している。
創作であるが、[[古浄瑠璃]]『浦嶋太郎』では、舞台を[[上松町|上松]]の宿場の界隈として、浦島太郎の民話を作り変えている。すなわち[[信濃国]]に住む子宝に恵まれない夫婦が[[戸隠神社|戸隠明神]]に祈願して授かったのが主人公の浦嶋太郎とする。その相手も、もとは「うんのの将監」の娘の「[[玉依姫|玉より姫]]」で、浦嶋と恋仲になるが現世では添い遂げられず、伊奈川([[木曽川]]の支流)に身投げするが、超自然的な女性に生まれ変わる。彼女は亀に案内され、竜宮界の館のきんなら王に仕える「とうなんくわ女」となるのである。拝領した「うろこの衣」は、これを脱げば亀の姿から人間に戻るという霊物だった。姫は亀の姿となって伊奈川にいるところを浦嶋太郎に釣られ、再会を果たす。浦島は姫の船に乗り、竜宮へ案内される<ref>{{Cite journal|和書|last=島居 |first=フミ子 |title=木曾に蘇った浦島太郎(秋山虔教授記念号) |journal=日本文學 |publisher=東京女子大学 |volume=77 |year=1992 |url=https://twcu.repo.nii.ac.jp/records/19243 |pages=32-43 |CRID=1050845762588563584}}</ref>。
=== 香川県三豊市詫間町の浦島伝説 ===
==== 由来の地名など ====
[[File:Maruyamajima takumacho.jpg|thumb|香川県三豊市詫間町の丸山島。干潮時には地続きになる。浦島神社、竜王宮という祠がある]]
[[File:Urasimatarounohaka.jpg|thumb|香川県三豊市詫間町にある浦島太郎親子の墓 中央が太郎の墓]]
[[香川県]][[三豊市]][[詫間町]]の西部、[[荘内半島]]はかつて「浦島」と呼ばれており、数々の浦島太郎にまつわる伝説が残されている<ref>{{Cite book|和書|author= |title=香川県三豊郡詫間町町勢要覧 ウェーブタクマ |publisher=香川県三豊郡詫間町役場総務課 |date=1990年6月1日 |page=12 }}</ref>。[[足利義満]]が浦島の三崎神社に参拝した際に
:"''へだてゆく 八重の汐路の浦島や 箱の三崎の 名こそしるけれ''"
と詠んでいる<ref>{{Cite book|和書|author=重野清 |title=浦島の太郎さん |publisher=「竜宮」製作委員会 |year=2015 |page=2 }}</ref>。浦島太郎伝説に所縁があるとされる地名等は以下のものがある<ref>{{Cite book|和書|author= |title=浦島伝説 |publisher=三豊市観光協会 }}</ref>。
* 生里(なまり) - 與作という人がおしもさんという美しい娘を嫁にもらって住んでいた所。二人の間に生まれた男の子が浦島太郎である。太郎の生まれた里で「生里」という<ref name="名前なし-1">{{Cite book|和書|author= |title=昭和52年版 詫間町の文化財-第6集-民話と伝説 |publisher=詫間町文化財保護委員会 |year=1977 |page=32 }}</ref>。
* 浦島(うらしま) - 昔荘内組七浦と呼ばれていた大浜浦、積浦、生里浦、箱浦、香田浦、家の浦、粟島の七つの地区を総称して「浦島」という<ref>{{Cite book|和書|author= |title=浦島考 |publisher=浦島太郎こと西川正一 |year=1973 |page=30 }}</ref>。
* 鴨之越(かものこし)- 太郎がいじめられている亀を助けた浜辺<ref name="名前なし-1"/>。
* 丸山島(まるやまじま)- 鴨之越の海岸にある島で、干潮時には歩いて渡ることができる。この海岸で太郎が亀を助けたとされており、丸山島に浦島神社が祀られている<ref name="名前なし-2">{{Cite book|和書|author= |title=ふるさとの歴史をたずねて その3 |publisher=詫間町民族資料館 |page=9 }}</ref>。
* 箱(はこ) - 太郎が玉手箱を開けた場所。太郎親子の墓もある<ref>{{Cite book|和書|author= |title=さぬき詫間町 浦島太郎のふるさと |publisher=詫間町 |page=7 }}</ref>。
* 積(つむ) - 宝物を積んだ太郎が竜宮城から乙姫に送られて帰り着いたとされる場所<ref>{{Cite book|和書|author= |title=昭和52年版 詫間町の文化財-第6集-民話と伝説 |publisher=詫間町文化財保護委員会 |year=1977 |page=33 }}</ref>。
* 糸ノ越(いとのこし) - 太郎が箱から釣糸をもって室浜へ通った所で、太郎の休んだ腰掛石もある<ref name="名前なし-3">{{Cite book|和書|author= |title=さぬき詫間町 浦島太郎のふるさと |publisher=詫間町 |page=8 }}</ref>。
* 室浜(むろはま) - 太郎が竜宮から帰ってからの2、3年釣りをしていた所と言われている。不老の浜(ぶろま)とも呼ばれている<ref name="名前なし-3"/>。
* [[紫雲出山]](しうでやま)- 太郎が開けた玉手箱から出た白煙が紫の雲となって、この山にたなびいたとされる<ref>{{Cite book|和書|author=重野清 |title=荘内半島の伝説童話 浦島の太郎さん |publisher=「竜宮」製作委員会 |year=2015 }}</ref>。
* 仁老浜(にろはま)- 太郎の母の生家「しもの家」がある地区。玉手箱を開けて白髪の老人となった太郎が、母の里で余生を送ったとされ、「仁義深い老人の浜」が仁老浜の語源とされる<ref>{{Cite book|和書|author= |title=ふるさとの歴史をたずねて その3 |publisher=詫間町民族資料館 |page=8,9 }}</ref>。
* 金輪の鼻(かなわのはな)- 竜宮城で歓待を受けた後、積まで乙姫様に送ってもらった。積の海岸で別れを惜しみ、浦島太郎と堅い握手を交わした際に乙姫様が金の腕輪を落としたことから金輪の鼻と呼ばれている<ref>{{Cite book|和書|author= |title=ふるさとの歴史をたずねて その9|publisher=真鍋道弘 |year=2009 |pages=5-9 }}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=石田敬祐 |title=香川の民俗 通巻第69号 |publisher=香川民俗学会 |page=88 }}</ref>。
* 姫路(ひめじ)- [[粟島 (香川県)|粟島]]の地名。乙姫が太郎を里へ送り届けた後、潮流の関係で一時立ち寄ったのが元で「姫路」と呼んでいる。<ref name="名前なし-2"/>
* 亀戎社(かめえびすしゃ)- 粟島。太郎を乗せた亀の死骸を葬った場所に建てられた社とされる。<ref name="名前なし-2"/>
* 上天(じょうてん) - 紫雲出山の中腹にあり、太郎が昇天した場所と言われている。山頂の竜王社では旧3月15日に例祭があり、積の人たちによってお弁当の接待がされていた<ref>{{Cite book|和書|author= |title=さぬき詫間町 浦島太郎のふるさと |publisher=詫間町 |page=9 }}</ref>。
==== 伝説がまとめられた経緯 ====
詫間町荘内半島における浦島太郎伝説は諸大龍王の墓碑建立[[1847年]]([[弘化]]4年)より前からあったとされる。荘内半島各地の地名が浦島伝説に由来するのではないかと詫間町出身の彫刻家新田藤太郎が提案し、郷土史家の三倉重太郎が半島各地の地名と伝説の関連性を調査し、物語として昭和23年にまとめた<ref>{{Cite book|和書|author=真鍋道弘 |title=ふるさとの歴史をたずねて11 「詫間町の浦島伝説」と「浦島太郎の話」の歴史 |publisher=真鍋道弘 |year=2016 |page=4 }}</ref>。
====浦島太郎を名乗る人物====
観光PRのために実在の人物が浦島太郎を名乗っている<ref>{{Cite book|和書|author= |title=香川県三豊郡詫間町 町勢要覧1990ウエーブタクマ |publisher=香川県三豊郡詫間町役場総務課 |year=1990 |page=27 }}</ref>。
*初代:大西友吉(昭和23年頃から) - 浦島太郎第三十何代と称している(昭和44年没)
* 2代目:西川正一(昭和48年から)
* 3代目:山田要(昭和58年から)
====自治体の取り組み====
町興しの一環として、浦島太郎関連のモニュメントが数多く作られている。詳細は[[詫間町#自治体の取り組み]]を参照。
===日向の海彦・山彦神話===
[[日向国|日向]]([[宮崎県]])には[[記紀]]以来、「[[海幸彦と山幸彦]]」の神話が伝わり<ref>[https://www.asukanet.gr.jp/tobira/urashima/umisachiyamasachi.html 海幸彦・山幸彦神話(古代史の扉)]</ref>、これが浦島太郎もモデルになっているといわれる<ref>[https://www.asukanet.gr.jp/tobira/urashima/urashima.html 浦島太郎(古代史の扉)]</ref>。
=== 南薩地域に伝わる話 ===
[[File:Ibusuki Station East Plaza.png|thumb|right|200px|[[指宿駅]]東口広場の「[[竜宮]]伝説の指宿へようこそ」の観光宣伝]]
[[九州]]・[[薩摩半島]]南端の[[指宿市]]を中心とした[[鹿児島県#南薩地域|南薩地域]]にも浦島伝説が伝わっており、市内[[長崎鼻 (鹿児島県)|長崎鼻]]には龍宮神社があり<ref>[https://www.kagoshima-kankou.com/guide/50237 鹿児島の旅:龍宮神社(鹿児島県観光連盟)]</ref>、指宿市が観光に利用しているだけではなく、[[九州旅客鉄道]]も「[[指宿のたまて箱]]列車」([[鹿児島中央駅]]・[[指宿駅]]間)を運営している。南薩地域の浦島伝説で興味あるのは、鹿児島県が用意した観光客用パンフレットには「[[海彦と山彦]]」の伝説が載っており、この伝説から浦島太郎伝説への影響がありとしていて、また山彦が訪れた龍宮は[[琉球王国|琉球]]であるともしていて、この地域と[[沖縄]]との強い結びつきが感じられる。<ref>観光パンフレット『南薩摩国に伝わる、指宿竜宮伝説〜浦島太郎と乙姫様の出会い〜』(鹿児島県、2023年)]</ref>
=== 沖縄に伝わる話 ===
[[沖縄]]の伝承としては、『[[遺老説伝]]』の第103話「与那覇村の人竜宮に遊ぶこと」と浦島伝説との類似性が指摘される<ref name="yanagita-okinawa"/><ref name="urano&fukatsu"/><ref name="kurata"/>。粗筋は次のようなものである。
:「[[南風原町|南風原]](はえばる)の与那覇村(よなはむら)の男が、与那久浜(よなくばま)で髢(かもじ。髪の毛)を拾う。探しているそぶりの美女に返すと感謝され、竜宮に招待したいと言われる。男が(手を)引かれて歩くと海が二つに割れて道が開け、竜宮に通じていた。その美女は神であり<!--は乙姫と素性を明かし-->、男と竜宮で歓待の日々を過ごすことになる。三ヵ月ほど経つと男は故郷が恋しくなり帰郷を思い立つ。神女は、元の世を去ってからすでに三十三代経っており、男には子孫もいないと諭すが、断念させられない。そこで向かう所に道が開けるという(しかし絶対に開けてはいけない)紙包みを渡し里帰りさせる。男が郷里に帰り着くと辺りは変わり果て、自宅を指さし家族について尋ねるが、嘲笑され[[ハンセン病|癩人]]扱いされる。なすすべなくなった男は丘に登り桑の杖を突きたてて穏作根(坐って休み)。ふと、何か良策が出るかと思って紙包みを開いたが、中に入っているのは白髪だけで、それが飛びついて体に付着すると、老爺と化し動けなくなって死んだ。地元の者が老爺をその場所に神として祀ったのが、穏作根嶽(うさんにだき)であるという<ref name="taira"/><ref name="urano&fukatsu"/>。
この説話の主人公は無名だが、設定はおおむね浦島子伝説と合致する。本土のものと道具立てが異なり、玉匣(たまくしげ)は開けてはならぬ紙包みに置き変わり、<!--白雲でなく-->その包みのなかの白髪が接触することで老化現象がおこる<ref name="kurata"/>。
また、桑の木は、杖から生えてくるまで島には伝来していなかったとするので、神の国か伐られたものと推察できる<ref name="yanagita-okinawa"/>。異話では、竜宮まで戻る道を開ける手段は、(紙包とは別に与えられた)桑の木の杖を海に投じることであった<ref>{{harvp|水野|1975|pp=176-178}}: "桑の木の呪杖"</ref>。
同系の話の分布としては、[[宮古島]]などにも伝わっている{{sfnp|柳田|1971|p=50}}。[[柳田國男]]は、「竜宮」と南の島々の[[ニルヤ]](ニライカナイ)は同源だとみている{{sfnp|柳田|1971|p=46}}。
『遺老説伝』にはまた、竜宮譚ではないが類似する第42話、善縄大屋子(よしなわうふやこ)の話が所収される。主人公は、出現した女性の言われるままに大亀を家に運ぶが咬まれて大怪我を負い、埋葬される。しかし実際は死して死なざる存在となったという展開である<ref name="taira"/>{{sfnp|柳田|1971|p=71}}。
== ゆかりの神社仏閣 ==
{{出典の明記|date=2017年8月|section=1}}
* [[慶運寺]]([[神奈川県]][[横浜市]][[神奈川区]]) - [[明治|明治時代]]に焼失した観福寿寺の、[[観音菩薩|聖観世音菩薩]]像を安置。
* [[浦嶋神社]]([[京都府]][[与謝郡]][[伊根町]]) - 浦島伝説の中では最も古いとされる『丹後国風土記』逸文ゆかりの地域にある。社伝では[[天長]]2年([[825年]])に創建。
* [[嶋児神社]](京都府[[京丹後市]][[網野町]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kyoto.jp/kaigan/documents/1186551829315.pdf|title=京都府の海岸事業01 |author=京都府 |accessdate=2021年9月22日}}</ref>
* [[寝覚の床]]・[[臨川寺 (上松町)|臨川寺]]([[長野県]][[上松町]]) - 寝覚の床は竜宮城から戻った浦島太郎が玉手箱を開けた場所といわれ、中央の岩の上には浦島堂が建つ。臨川寺は、浦島太郎が使っていたとされる釣竿を所蔵する。境内からは景勝寝覚の床を見下ろす。
* [[知里付神社]]・[[真楽寺 (武豊町)|真楽寺]]([[愛知県]][[武豊町]]) - 知里付神社には浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったといわれる玉手箱が所蔵されている(非公開)。[[旱魃|日照り]]の際の[[雨乞い]]に使われたという。また、真楽寺の[[境内]]には浦島太郎を背負った亀のものとされる墓がある。武豊町の富貴という地名は、「負亀」(オブガメ)の音読みの「フキ」が転化したものだとも言われている。
== 類話 ==
* 『[[捜神記|捜神後記]]』所収の話{{Refn|group="注"|[[曲亭馬琴|滝沢馬琴]]『[[燕石雑志]]』で浦島伝説の基と考察しているもの。}}。[[会稽]]の剡県に住む袁と根という男らが二人の仙女と同棲するようになるが、あるとき留守を機に帰郷を図って露見する。強いては止められず、腕嚢を渡され、開けることを禁じられる。根の家族が詮索して五重の嚢を開いてしまうと、その後、根は蒸発してしまった。それは蝉脱した(仙人となった)といわれた{{sfnp|中田|1926|pp=20-21}}<ref>{{citation|url=http://www.geocities.jp/kiebine2002/inoue3.htm |last=井上 |first=通泰 <!--Inoue Michiyasu-->|title=萬葉集追攷 |publisher=南天荘 |year=1937|pages=25-34}}</ref>。
* 『[[水経注]]』に、晋代の王質という男が山の洞窟で4人の童子が琴を弾いて歌っているのをしばらく聴いた後、家に戻るといつの間にか数十年の時がたっていたという話がある<ref>沖田瑞穂『世界の神話』[[岩波ジュニア新書]]2019年、178頁。</ref>。
* 唐代の[[薛瑩 (唐)|薛瑩]]の撰による『竜女伝』。[[太湖|震澤]]の洞庭山の洞窟に茅公[月+它]{{Refn|group="注"|『太平広記』では仰公[目+他])}}という漁師が転げ落ちて竜宮にたどり着き、10日程過ごして帰参。東海竜王の第七女を主とするその竜宮に、今度は[[蕭衍|梁の武帝]]が羅子春兄弟を使者に遣わし、竜女より返礼として宝珠を得る。使者たちは龍に乗って瞬く間に返る。ただ、もてなしの料理は、包みを開くと石のように固くなってしまった{{sfnp|中田|1926|pp=26-28}}。
* 中[[唐]]時代、{{仮リンク|李朝威|zh|李朝威}}によって書かれた伝奇小説「{{仮リンク|柳毅伝|zh|柳毅傳}}」は若い書生柳毅が竜王の娘を助け、[[洞庭湖]]の竜王のもとに赴き、後に娘をめとって竜王となる話である。柳毅は竜王となった後、長い年月がたっても若いままであるが、それは仙薬によるものであると説明されている<ref>{{Cite journal|和書|author=項青 |date=1994-10 |url=https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/records/2194 |title=研究発表 浦島説話と柳毅伝 ―両作品の文学表現と神仙道教思想の受容― |journal=国際日本文学研究集会会議録 |ISSN=0387-7280 |publisher=国文学研究資料館 |volume=17 |pages=9-23 |doi=10.24619/00002190 |CRID=1390009224823180032}}</ref>。
* [[アイルランド]]の{{仮リンク|オシーン|en|Oisín}}が、海の乙女{{仮リンク|ニアヴ|en|Niamh (mythology)}}に誘われて「常若の国([[ティル・ナ・ノーグ]])」で何百年かを過ごすという物語がある{{Efn2|ミホール・コミーン Mícheál Coimín (1676–1760)による詩「テイール・ナ・ノーグのオシーン(常若の国のオシーン)」で知られる。}}<ref>{{citation|last=松村 |first=賢一 |author-link=<!--松村賢一--> |title=く巻頭エッセイ〉海辺の誘惑|journal=言語 |volume=22 |number=263 |year=1993<!--10月--> |publisher=大修館書店 |url=https://books.google.com/books?id=J4U3AAAAMAAJ |pages=2-3}}</ref><ref>{{harvp|牧野|1980|p=120}}。典拠として{{citation|和書|last=土居|first=光知 <!--Doi Mitsutomo--> |author-link=土居光知 |title=神話・伝説の伝播と流転 |work=土居光知著作集 |volume=三|year=1977|pages=116-117}}を挙げる。</ref><ref>[http://www.globe.co.jp/information/myth-fairy/oisin.html ティル・ナ・ノーグへ行ったオーシン(Tir na nog)]エールスクエア</ref>。
* 『[[クルアーン]]』の「洞窟の章」には、[[アッラーフ]]によって309年間洞窟で眠っていた男達の話がある。これは「エフェソスの7人の眠り男」と呼ばれる、[[ローマ帝国]]の迫害から逃れた人々が洞窟に閉じこめられたが、200年以上たった後、そのうちの一人の男が目覚め街に姿を現したという説話が元になっている<ref name="榮谷温子">{{Cite journal|和書|author=榮谷温子 |date=1989-03 |url=https://doi.org/10.15026/51839 |title=エジプトに渡った浦島太郎 : タウフィーク・アル=ハキーム『洞窟の人々』をめぐって |journal=言語文化研究 |ISSN=02877821 |publisher=東京外国語大学大学院外国語学研究科言語・文化研究会 |volume=7 |pages=107-112 |doi=10.15026/51839 |hdl=10108/51839 |CRID=1390015191534187392}}</ref>。
* [[12世紀]]に[[フランス語]]で書かれた『ガンガモールの短詩』では、タイトルヒーローが白い猪を追跡するうちに森の最深部に入り込み美しい宮殿に行きつく。彼はそこの姫君(猪に変身していた)と結ばれ3日間楽しく過ごす。彼は親族と再会するために出発するが、姫に「人間界との境である川を渡り終えたら、飲食を控える」ようにと警告される。彼が故郷に戻ると親族は300年前に亡くなったと知る。彼が野生のリンゴの木から実を3つ取って食べると、たちまち年老いて落馬し動けなくなる。彼は最後に姫君の侍女によって女人の国にと連れ去られる<ref>フィリップ・ヴァルテール『ユーラシアの女性神話-ユーラシア神話試論Ⅱ』([[渡邉浩司]]・渡邉裕美子訳)[[中央大学]]出版部 2021年、ISBN 978-4-8057-5183-1、149-163頁(第8章 異界の女王)、粗筋は150-151頁。</ref>。
'''類似説話'''
* [[山幸彦と海幸彦]] - 『古事記』と『日本書紀』から、山幸彦が問題を解決するため無目籠に乗り海神の宮に行く話がある。
<!--** [[見るなの座敷]]-->
* [[爛柯]](らんか) - 中国版浦島太郎
* [[リップ・ヴァン・ウィンクル]] - アメリカ版浦島太郎
* [[ティル・ナ・ノーグ]] - ケルト神話の妖精郷「常若の国」。浦島太郎と同じく、フィアナ騎士団のオシーンなど「常若の国」に行って数百年が経過した人物の話がいくつかある。
== 翻案 ==
{{Also|:Category:浦島説話を題材とした作品}}
* [[浦島太郎 (1918年の映画)]]
: 国産[[アニメーション映画]]の創始者の一人である[[北山清太郎]]が手がけたアニメ映画。この当時は[[セル画]]などの技術が日本に伝わっていないため、[[半紙]]のような薄い紙に少しずつ動きの異なるキャラクターを描いていき、それを1枚1枚撮影する[[アニメーション#ペーパーアニメーション|ペーパーアニメーション]]方式で制作されていたという。
* [[お伽草紙 (太宰治)|お伽草紙]]([[太宰治]]、1945年刊行)
: 昔話を題材とした連作中の一篇「浦島さん」。
* TARO URASHIMA([[ミュージカル]]、2016年上演)
: [[る・ひまわり]]と[[明治座]]により企画されたオリジナル作品。2016年8月に明治座で上演。脚本は[[池田鉄洋]]、演出は[[板垣恭一]]、主演は[[木村了]]<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/185708|title=浦島太郎がミュージカルに!木村了主演「TARO URASHIMA」脚本は池田鉄洋|newspaper=ステージナタリー|date=2016-05-01|accessdate=2016-05-02}}</ref>。
== その他 ==
; 派生用語
* [[ウラシマ効果]]
* 浦島太郎(花子)状態{{Refn|group="注"|竜宮城から故郷に戻るとまったく見知らぬ土地になっていたという浦島太郎の立場になぞらえ、長い間離れていた所に久しぶりに戻ると別世界になっており面食らうことを、古くは「今浦島」現在では「浦島太郎である」「浦島太郎状態にある」などと言う。女性の場合は「浦島花子(うらしまはなこ)」。}}
; 浦島にちなむ命名
* [[ウラシマソウ]] - [[肉穂花序]]の先端部が先細りに長く伸び、次第に垂れるものを[[釣り竿]]に見立てての命名である。
* [[ウラシマグモ]] - 近縁種の[[オトヒメグモ]]に対比して名付けられた。
* [[うらしま]]- [[海洋研究開発機構]]が研究している[[自律型深海巡航無人探査機]]
<!-- * Ryugu(リュウグウ)-小惑星1999 JU3の名称。2015年10月初旬決定、小惑星探査機「はやぶさ2」が目指す目標。⇒[[竜宮]]-->
* [[オトヒメ・トーラス]] - [[金星]]にある地名。「乙姫」に由来。
* [[乙姫大橋]]([[岐阜県]][[中津川市]]) - [[木曽川]]に架かる農業用の橋。この地に伝わる乙姫伝説(浦島伝説)に由来。
; 他の作品での言及
* 『[[踊る龍宮城]]』
* 『[[うたう!大龍宮城]]』
* 『[[男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎]]』
: 冒頭の夢のシーンで寅さんが浦島太郎になり原公が亀になる。竜宮城ではマドンナの[[松坂慶子]]が乙姫になる。
* 『[[ウルトラQ]]』第6話「育てよ!カメ」
: 太郎少年の夢で<!--ギャングに誘拐されたが-->、育てていたゼニガメが怪獣ガメロンになり竜宮城へ向かう。乙姫はロケットに乗ったおてんば少女。龍がいた。
* 「ウラシマ」
: [[山上たつひこ]]の漫画作品。海底に住む残忍な性格の乙姫が、使役する巨大な海亀が人間に密漁されたことに怒り、地上人類へ復讐を企む[[ホラー]]。『鬼面帝国』([[秋田書店]]、1976年)収録。
* 劇作『洞窟の人々』({{仮リンク|タウフィーク・アル=ハキーム|en|Tawfiq al-Hakim}}、1933年)
: 『[[クルアーン]]』の洞窟の章を元にした、300年間洞窟で眠っていた男たちが、突然目覚めるという物語。作中、王女プリスカの教育係ガリヤースは、漁に出てから4世紀の後戻ってきた男の例として「ウラシマ」をあげる<!--ガリヤースはウラシマがその間何をしていたかという質問には答えられなかったが、プリスカはその理由を導き出す。--><!--アル=ハキームはラフカディオ・ハーンの『Out of the East』から浦島太郎の知識を得たとされる--><ref name="榮谷温子" />。
* [[ヴァリグ・ブラジル航空]]は、1960年代から1980年代にかけて、浦島太郎をモチーフにした [[コマーシャル|テレビCM]] を放映。<!--[[リオデジャネイロ]] - [[サンパウロ]] - 東京線直行便の宣伝だった。-->宣伝歌「浦島太郎」(1968年発売)は、日系人歌手の{{仮リンク|ローザ・ミヤケ|pt|Rosa Miyake}}(三宅ローザ)が歌唱しており<ref>[https://www.nikkeyshimbun.jp/2018/181120-column.html 《ブラジル》あの三宅ローザの生涯が凝縮された一冊]、[[ニッケイ新聞]]WEB、2018年11月20日。</ref>、アルバム『三宅ローザ・イン・東京』『ブラジルの妖精/ローザ三宅 日本を歌う』に収録されている。<!--3部作となっており、浦島太郎は助けた亀に乗せられて竜宮城ではなくブラジルへ連れて行かれ、時が過ぎて老人になってしまった浦島太郎が、乙姫から貰った玉手箱を開けると若返り、箱の中にはヴァリグ航空の日本行きチケットが入っているというものであった。第2部は[[大阪万博]]、第3部は日本便を紹介している。-->
== 脚注 ==
; 注釈
<!--{{notelist}}-->
{{Reflist|group="注"}}
; 出典
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="akahon-text">赤本絵本(明治20年代)ABC本の校訂テキスト。{{harvp|林|2001|pp=84-85}}; {{harvp|林|2019|pp=29-31}}</ref>
<ref name=akiya>{{Cite journal|和書|author=秋谷治 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8099364 |title=浦島太郎:怪婚譚の流れ (御伽草子の世界<特集>) : (作品論的アプローチ) |journal=国文学 解釈と教材の研究 |publisher=学灯社 |issn=04523016 |date=1977-12-00 |volume=22 |issue=16 |pages=102-103 |naid=40001351057 |quotation=太郎の訪れた異郷が竜宮というのは御伽草子が初出である}}</ref>
<ref name="brauns-tr">{{citation|editor-last=Brauns |editor-first=David |editor-link=:de:David August Brauns |title=Uraschimataro |work=Japanische Märchen und Sagen |place=Leipzig |publisher=Wilhelm Friedrich |year=1885|url=https://books.google.com/books?id=Y3TEiotn1QEC&pg=PA59 |pages=59-68|language=de}}</ref>
<ref name=fujisawa>{{citation|和書|last=藤沢 |first=衛彦 |author-link=藤沢衛彦 |title=日本民俗伝説全集 |volume=9 |publisher=河出書房 |year=1956 |url=https://books.google.com/books?hl=ja&id=r4UHAQAAMAAJ |page=83}}</ref>
<ref name="griffis1876">{{Cite book|ref=harv|last=Griffis |first=William Elliot |author-link=:en:William Elliot Griffis |chapter=XIII. Folk-lore and Fireside Stores |title=The Mikado's Empire |location=New York |publisher=Harper |year=1876 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=Ld_BNvbt3MgC&pg=PA498 |pages=498-500}}</ref>
<ref name=hayashi-kampukuji>{{Cite journal|和書|author=林晃平 |date=2014-03 |url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11493405/tku.t-komazawa.ac.jp/relays/download/33/76/22/179/?file=/files/libs/179/201903131730352134.pdf |format=PDF |title=亀趺の生成と展開 : 日本における発生と展開 |journal=[https://warp.da.ndl.go.jp/waid/922 苫小牧駒澤大学紀要] |ISSN=13494309 |publisher=苫小牧駒澤大学 |issue=28 |pages=1-23 |naid=40020127648 |id={{NDLJP|11569011}} |CRID=1520290884524581376 |quote=国立国会図書館インターネット資料収集保存事業}}</ref>
<ref name="hayashi2009-kataoka-tr">{{Cite journal|和書|author=林晃平 |date=2000-09 |url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11493405/tku.t-komazawa.ac.jp/relays/download/33/76/47/208/?file=/files/libs/208/201903131738225544.pdf |format=PDF |title=片岡政行英訳『うらしま』覚書 |journal=[https://warp.da.ndl.go.jp/waid/922 苫小牧駒澤大学紀要] |ISSN=13494309 |publisher=苫小牧駒澤大学 |issue=4 |pages=73-94 |naid=40005246227 |CRID=1520853833152334592 |id={{NDLJP|4265673}}}}</ref>
<ref name=inoue_osamu>{{citation|和書|last=井上 |first=攻 <!--Inoue Osamu--> |title=近世社会の成熟と宿場世界|trans-title= |publisher=岩田書院 |year=2008 |url=https://books.google.co.jp/books?id=_SZNAQAAIAAJ |page=256}}</ref>
<ref name="junker-tr">{{citation|last=Junker von Langegg |first=Ferdinand Adalbert |author-link=フェルディナント・アダルベルト・ユンケル |chapter=Der Fischerknabe Urashima |title=Japanische Thee-geschichten: Fu-sô châ-wa. Volks- und geschichtliche Sagen, Legenden und Märchen der Japanen |series=1er Cyklos |location=Wien |publisher=Carl Gerold's sohn |year=1884 |url=https://books.google.com/books?id=SbFEAQAAMAAJ&pg=PA185 |pages=185-194}}</ref>
<ref name="kataoka-tr">{{citation|last=Kataoka |first=Maayuki |author-link=<!--片岡政行--> |title=Bric à Brac. Urashima: A Japanese Rip van Winkle |journal=The Century Illustrated Monthly Magazine |volume=32 (n.s. 10) |date=May– October 1886|url=https://books.google.com/books?id=9C-gAAAAMAAJ&pg=PA329 |pages=329-331 |location=London |publisher=F. Warne & Co.}}</ref>
<ref name=kato>{{citation|last=Shūichi |first=Katō |authorlink=Shūichi Katō (critic) |title=A History of Japanese Literature: The first thousand years |publisher=Kodansha America |year=1979 |url=https://books.google.com/books?id=6AWzAAAAIAAJ |pages=52-55}}</ref>
<ref name=kenkyukai1928>{{citation|和書|author=横浜郷土史研究会|title=浦島太郎の𦾔跡 |work=横浜の史蹟と名勝 |publisher= |year=1928 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1178212/44?viewMode= |pages=66-67}}</ref>
<ref name=kokutei4>{{harvp|蘆屋|1936|pp=179-182}}: 国語読本(=第4期国定教科書)、巻3より復刻</ref>
<ref name=kurata>{{citation|和書|last=倉田 |first=一郎 |title=国語と民俗学 |publisher=あかね書房 |year=<!--1959- -->1961 |url=https://books.google.com/books?id=x4hIAAAAMAAJ |pages=55-57}}</ref>
<ref name=kyoto-u-foreign-studies>{{Cite web|和書|url=https://www.kufs.ac.jp/toshokan/chirimenbon/b_08.html |title=The Fisher-Boy Urashima /『浦島』(Urashima) |work=Crepe-Paper Books and Wood Block Prints at the Dawn of Cultural Enlightenment in Japan / 文明開化期のちりめん本と浮世絵 |author=京都外国語大学 |year=2007 |accessdate=2017-08-22}}</ref>
<ref name=miyao>{{harvp|宮尾|2--9|p=35}}: "万葉集..には、..「海神の神の女」とだけあり、御伽草子や昔噺になると「乙姫」という"。</ref>
<ref name=sakata>{{Cite journal|和書|last=坂田 |first=千鶴子 |title=龍王の娘たち |trans-title= |journal=東邦学誌 |volume=32 |number=1 |year=2003 |url=https://aichi-toho.repo.nii.ac.jp/records/14 |pages=73-74|publisher =東邦学園大学東邦学園短期大学 |CRID=1050283687370625664}}</ref>
<ref name=tachibana>{{citation|和書|last=橘 |first=弘文 |title=異界のホスピタリティ |trans-title=Hospitality in other world |journal=大阪観光大学紀要 |volume=10 |year=2010 |url=https://doi.org/10.20670/00000074 |ISSN=1881638X |page=129|quote=三浦祐之氏は.. 男性の性的快楽を表した伝承だったと..}}</ref>
<ref name=taira>{{citation|和書|last=平良 |first=直 |title=南島の伝承における御獄(ウタキ) : 「球陽外巻遺老説伝」における御獄の解釈を中心に |trans-title=Holy Place "Utaki" in Tradition of Okinawa Islanders |journal=比較民俗研究<!-- for Asian folklore studies--> |volume=11 |year=1995 |url=https://hdl.handle.net/2241/14337 |pages=182-183}}</ref>
<ref name=takada>{{Cite journal|和書|author=高田知波 |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15554/ |title=除外のストラテジー - 太宰治 『お伽草紙』 論への一視角 -<!--「お」は平仮名--> |journal=駒澤國文 |publisher=駒沢大学文学部国文学研究室 |issn=04523652 |date=1995 |volume=32 |pages=71-83 |naid=110007002667}}</ref>
<ref name=toki-no-manyoshu>{{citation|和書|author=高岡市万葉歴史館 |title=時の万葉集 |publisher=笠間書院 |year=2001 |url=https://books.google.com/books?id=etkbAQAAMAAJ |p=386}}<!--quotation=在地伝承であった浦島子の話を採取して、それを神仙譚風に脚色したものが--></ref>
<ref name="urano&fukatsu">{{citation|和書|last1=浦野 |first1=聡 |last2=深津 |first2=行徳|title=人文資料学の現在 I |publisher=春風社 |year=2006 |url=https://books.google.com/books?id=v9ntujlTOHoC&pg=PA294 |pages=294-296}}</ref>
<ref name="urashima-monogatari1880">{{Cite book|author=歌川国政 (4代目)|author-mask=歌川国政 4世, 1848-192|author-link=歌川国貞 (3代目) |others=竹内栄久<!--歌川国定 (3代目)の実名--> (画) |title=お伽噺浦島物かたり |publisher=宮田幸助<!--ミヤタ コウスケ--> |year=1880-12-10<!--明治13年12月10日-->|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1167994 |pages=<!--unpaginated-->}}</ref>
<ref name="urashima-ichidaiki1883">{{Cite book|和書|author= |title=浦島弌代記 |publisher=島村吉松<!--シマムラ ヨシマツ--> |year=1883-08-00<!--明治16年8月-->|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169941 |pages=<!--unpaginated-->}}</ref>
<ref name="urashima-monogatari1885">{{Cite book|author=佐藤新太郎 |author-link=<!--佐藤新太郎--> |author-mask=佐藤新太郎 (編・画) |title=お伽噺:浦島物がたり |publisher=佐藤新太郎<!--サトウ シンタロウ--> |year=1885-06-00<!--明治18年6月日-->|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919514 |pages=<!--unpaginated-->}}</ref>
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* {{citation|ast=Chamberlain |first=B. H. |author-link=:en:Basil Hall Chamberlain |author-mask=Chamberlain, B. H. (英国王室チャムベリン先生) |others=[[小林永濯]] (画) |title=The Fisher-boy Urashima |publisher=長谷川武次郎, 弘文社<!--T. Hasegawa, Kōbunsha--> |year=1886 |series=Japanese Fairy Tale Series 8 |url=https://archive.org/stream/fisherboyurashim00chamiala}}; [https://www.loc.gov/item/2021667139/ 他蔵本] @ Library of Congress
* {{cite thesis|ref={{SfnRef|Holmes|2014}}|type=M. A. |last=Holmes |first=Yoshiko |title=Chronological Evolution of the Urashima Tarō Story and its Interpretation |publisher=Victoria University of Wellington |year=2014 |url=http://researcharchive.vuw.ac.nz/xmlui/bitstream/handle/10063/3589/thesis.pdf?sequence=2}}
* {{citation|last=McKeon |first=Midori Yamamoto |title=The Urashima Legend: Changing Gender Representations in a Japanese Tale |publisher=University of California, Berkeley |year=1996 |url=https://books.google.com/books?id=yQxNAQAAMAAJ}}
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Urashima Taro}}
* [[伊余部馬養]] - 浦島太郎伝説の実質的な作者。
* [[見るなのタブー]]
* [[常世]] - [[ニライカナイ]]
* [[不老不死]]
* [[死すべき定め]]
* [[龍宮]]
* [[児童文学]] - [[桃太郎]] - [[金太郎]]
<!--* [[絵本]] - [[紙芝居]]-->
* [[御伽草子]]
* [[まんが日本昔ばなし]]
== 外部リンク ==
* {{Cite journal|和書|author=瀧音能之 |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15175/ |title=浦島子伝承の変容 |journal=駒沢史学 |publisher=駒沢大学歴史学研究室内駒沢史学会 |issn=04506928 |date=2000-08-00 |volume=56 |pages=1-37 |naid=110007003125}}
* {{Cite journal|和書|author=林晃平 |author-link=<!--林晃平 (学者)--> |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4265673 |title=片岡政行英訳『うらしま』覚書 |journal=苫小牧駒澤大学紀要 |publisher=苫小牧駒澤大学 |date=2000-06 |number=4 |pages=73-94 |naid=40005246227}}
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桃太郎
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桃太郎(ももたろう)は、日本のおとぎ話の一つ。桃の実から生まれた男子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんから黍団子()をもらって、イヌ、サル、キジを家来にし、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。
桃太郎物語は、以下のような粗筋のものが「標準型」となっている。
桃から生まれた桃太郎は、老婆老爺に養われ、鬼ヶ島へ鬼退治に出征、道中遭遇するイヌ、サル、キジをきび団子を褒美に家来とし、鬼の財宝を持ち帰り、郷里に凱旋する。
この「標準型」とは明治から現在に至り教科書や絵本を通じて普及した「桃太郎」を指す。作品によって場面ごとの違いはあるが、どの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。
より古い系統の桃太郎説話は、この「標準型」とは異なるものである。とりわけ桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする型(「果生型」)が今や一般的だが、これは19世紀初頭にはじめてみられるもので、それまでの草双紙では桃を食べたお爺さんお婆さんが若返り出産する型(「回春型」)が主流だった。
口承話では「果生型」が多いとされている。
その他、桃太郎の誕生の仕方については<赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた>など差異のあるものが多数伝わっている。赤い手箱と黒い手箱の場合や、箱の中に桃が入っている場合も、特に東北や北陸を中心に確認できる。
桃の割れる経緯についても「たんす」や「戸棚」や「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生するなど、民間での語り伝えは一様でなかった。
桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合もあるが、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする話が主に四国・中国地方にみられる。
特定の伝説に拠る物語の由来については諸説存在し、それぞれ論争のあるところである。桃太郎の起源を岡山とする説に関して、戦前の頃までその支持は、愛知県や香川県をゆかりとする説に大きく後れを取っていたが、1960年以降の岡山地域の促進運動によってその知名度が上がっている。詳しくはゆかりの地を参照。
物語としての成立年代は正確には分かっていないが、原型(口承文学)の発祥は室町時代末期から江戸時代初期頃とされる。
以後、江戸時代の草双紙の赤本のち豆本や黄表紙版の『桃太郎』『桃太郎昔話』などの出版により広まった。現存最古の文献は赤小本『もゝ太郎』(享保8年/1723年刊行)とされるが、かつて研究された原典にはこれより古い元禄以前の『桃太郎話』、元禄頃の『桃太郎昔語り』なども現存していた。
多くの江戸期の原典を収集・筆写・比較研究した小池藤五郎は、最も古い諸本を「第一系統本」(『桃太郎昔語』等)とした。第一系統本では登場人物は「とう団子」をこしらえており、そこから派生した第二系統本(前述の享保刊行『もゝ太郎』等)になってこれが「日本一のきびだんご」に変じたと論じている。他の違いとして、爺が草刈りに行くか、柴刈りに行くかの相違を挙げている。これには曲亭馬琴の『燕石雑志』(文化8年/1811年)や瑞鳥園齋守こと賀茂規清(1798-1861)著の『雛迺宇計木(ひなのうけぎ)』などたくさんの資料が含まれる。
馬琴の『童蒙話赤本事始』では「桃太郎」は五大昔噺の冒頭を飾る。
小池は慈雲院命鑑玖誉『太郎物語』(慶長5年/1600年)を原話にちかいものとみなしており、そこにあるような夫婦が神仏頼みで子を得た話が最も古い原型で、次いで夫婦が若返り子をもうけた形(「回春型」)、最後に「桃から生まれた桃太郎」(「果生型」)が登場したと提唱した。
近年の研究では「回春型」が「果生型」より先んづるとする論に賛成する意見も、同調するには慎重な意見もうかがえる。
島津久基は「桃から生まれた桃太郎」のほうが古い形態であると主張し、小池と島津の両者は激しく対立している。大正末頃には、気比神宮の建築装飾が果実型の物語の早期成立を示すものであると指摘されたが、小池は桃太郎を模した作である証拠がなく、神宮で祀られる神の物語と伝える説が正しいと見た(§気比神宮に詳述)。
あくまで文献資料(草双紙)で見る限り、「桃から生まれた」話はより新しい系統の馬琴作『燕石雑志』(1811年)や『童話長篇』(1830年)等の作品にみられるとされる。なお、式亭三馬作『赤本再興桃太郎』(文化9年/1812年)においては桃が2個流れてきて、ひとつを食した老夫婦は若返り、もうひとつから桃太郎が生まれ、この異本の特色となっている。
前述したように、こうした江戸期の文献(草双紙など)では、桃を食べ若返った夫婦が子作りをはたす「回春型」桃太郎が主流であった。たとえば赤本『桃太郎昔語』(刊行年不詳)には、若返りした媼が桃太郎を出産する挿絵がある。
明治時代が近づくにつれて桃から生まれた「果生型」桃太郎が、より多くみられるようになった。
福井県敦賀市、慶長19年(1614年)に再建された気比神宮本殿の桁梁には、割れた桃から出現する男の彫刻像があった(敦賀空襲により像は焼失)。四隅にそれぞれの装飾があり、童話の起源を物語るものと同社の略記に書かれており、他は浦島太郎、因幡の白兎、三猿だったとの回答を宮司(1956年時)から得ている。また、同社ではある時代から桃から生まれる嬰児の粘土細工の土産も売られていた。
これを検証した小池は、「果生型」の草双紙が流布した時代になれば、この像を見て"桃から桃太郎が生まれた"図案と解釈しえた、とそれなりの類似を認めつつも、像の制作時からこれが桃太郎だったと立証するにも"何一つ由来・伝説・資料等がない」と懐疑的な立場に徹した。
小池の見立てでは、この顔は幼児というより老人っぽく、髪をみずらに結っていた。神宮では、これを主神の伊奢沙別命(イザサワケノミコト)による大陸遠征の物語とする説があるが、何ら古文書に無く、日中戦争の1940年頃に喧伝されていたものなので時局に便乗した産物でないかと疑われるが、小池は最終的にその疑いを払拭して、この説を支持する結論に達している。
この像を桃太郎と見て特に疑わない意見もあり、美術史家の源豐秋(源豊宗)の論文(1923年)は安土桃山時代の桃太郎彫刻と鑑定し、中村直勝(1935年)も源豊宗の結論を引いており、のち俳人の志田義秀の『桃太郎概説』(1941年)も、本殿再建の慶長19年の彫刻と時代を遅らせているが桃太郎であることに異議を唱えていない。
江戸期の文学では、桃太郎が持ち帰る財宝は、隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の小槌、金銀、延命袋(第一系統、第二系統)などである。第三系統の『桃太郎一代記』(北尾政美画 天明元年/1781年)などで金銀宝玉やさんごが加わってくる。20世紀に入ると、その宝が「金銀珊瑚綾錦」であることが常套句のようになってもちいられているが、昭和期の童話の出版物でも、これらの他にあいかわらず隠れ蓑や打ち出の小槌も加わっていた。
1887年(明治20年)に国定教科書(『尋常小学読本』巻1)に採用される際にほぼ現在の「標準型」のあらすじの桃太郎物語が掲載された。だが1904年の第1期『尋常小学読本』の際には桃太郎はいったん教材からはずされた。1910年の第2期『尋常小学読本』にて復活したが、このころ童話作家の巖谷小波が文部省嘱託となっていて桃太郎の執筆に大きくかかわっている(事実上の執筆者である)と考えられている。小波は、1894年(明治27年)に『日本昔話』としてまとめられており、これもその後の語り伝えに大きく影響した。
桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのはこの明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい大日本帝国の象徴にされたのである。太平洋戦争の終焉まで、桃太郎は多くの国語の教科書をはじめ、唱歌や図画の教材などに日本国内で広く利用された。
その後も語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。落語の『桃太郎』などもその一例である。
唱歌「桃太郎」は、文部省唱歌の1つ。1911年(明治44年)の『尋常小学唱歌』に登場。作詞者不明、作曲・岡野貞一。
現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多い。これと似たような経緯で後半部を削除された童謡に、てるてる坊主がある。両者ともに歌詞の意外性、残酷性が取り上げられることがある。
また、上記に比べ知名度は劣るが、作詞・田辺友三郎、作曲・納所弁次郎による「モモタロウ」もある。1900年(明治33年)の『幼年唱歌』に登場。
ゆかりの地とされる場所は全国にあるが、その中でも特に岡山県が最有力地とされており、全国で唯一、岡山だけが『「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』の名称で日本遺産として文化庁からゆかりの地として正式に認定されている。
岡山県は、桃太郎作中の「きび団子」と同音の江戸時代の地元土産品「吉備団子」を関連付けるなど、全県を挙げての宣伝活動からゆかりの地として全国的に有名となり、現在は桃太郎の像なども存在する。岡山を発祥地とする主張の三大根拠とされるのが、吉備団子、桃、そして,吉備津彦命の温羅退治伝説であるとされている。
「黍団子」が「吉備団子」に通じることから、桃太郎は「吉備国」(現在の岡山県)とゆかりがあるとの論旨が生まれた。しかし古い系統本の物語説話では「とう団子」等であることが指摘されており、本来そのような関連性はないとされる。ちなみに商品として広く知られる吉備団子は、きび団子にちなんで江戸末期に売り出された物である。
岡山県ゆかりの由来説として、第7代孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)の温羅退治伝説に桃太郎説話の原話を求める説がある。岡山市の吉備津神社の縁起物など(古くは16世紀末の文献)に記録される伝説であるが、時代設定は第11代垂仁天皇の御代であり、温羅の居城は備中国鬼ノ城とされているので桃太郎討伐の鬼に見立てられている。これは学界ではなく在野の説で、地元岡山市の難波金之助なる塑像家が昭和初期に提唱したのを嚆矢とする。
似た俗説が明治時代、日本一吉備団子を販売する広栄堂の主人が執筆したなかにもみえる。そこでは桃太郎のモデルを神武天皇という仮説を立てており、さらに吉備津彦命はその昔、この天皇に手ずから吉備団子を献上したという言い伝えを記している。
吉備津神社縁起物によると、吉備津彦命は犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)という部下がいた。犬飼、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅を倒したともされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣=雉」となるとする説がある。
岡山県の血吸川(笹ヶ瀬川の支流)も桃太郎の桃が流れた川、あるいは桃太郎との戦いで傷を負った鬼の血が流れた川だと、温羅伝説に伝わる。
彦五十狭芹彦命(吉備津彦)の故郷である奈良県磯城郡田原本町では、桃太郎生誕の地として黒田庵戸宮(廬戸宮)を観光PRの一つとして取り上げている。
以下は桃太郎サミットや日本桃太郎会連合会に参加する自治体とそのゆかりの場所。
桃太郎の対的説話としては瓜から生まれた瓜子姫が指摘され、沖縄県久高島には黄金の瓜から生まれた男子が後の琉球王(西威王とされる)となったという伝説のバリエーションもある。
上流から流れてきた桃を食べて老夫婦が若返ったというくだりは、西王母伝説、あるいは日本神話のイザナギの神産み#黄泉の国にみられるように、桃が邪気をはらい不老不死の力を与える霊薬である果実とされていることと関連する。桃太郎を齎した桃は、こうした力のある桃が山から流れて来たものとも考えられる。瓜や橘の実でなく、特に桃である理由について、奥田継夫は著書『どこかで鬼の話』で「桃は大昔より数少ない果物であり、においや味、薬用性および花の美しさがそろい、紅い小さな花と豊潤な果実を付けるところが不老不死のイメージにぴったりであり、人に利益を与え死の反対の生のシンボルを思わせ、その中でも特に桃の実が柔らかくみずみずしく産毛、筋目から命の源の女性器に似ているからであり、そのイメージには邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるからであろう」としている。この桃と女性の生殖器についての考察は、西岡秀雄等がおこなっている。
桃そのものが女性であったという解釈もある。おばあさんが拾ってきたのは、大きな桃ではなく若い娘であり(桃は若い娘の尻の象徴)、子供が出来ず悩んでいたおばあさんは、拾ってきた娘におじいさんの子供をはらませ、その娘から子供を取り上げた(=桃を割る)という。
日中民間説話研究者の立石展大は中国においては棗核児が似た伝承があるとしている。
鬼は、風水では丑と寅の間の方角(北東)である「鬼門」からやって来ると考えられていることから、敵役である鬼が牛のような角を生やし、虎の腰巻きを履いているのも、風水の思想によるという解釈もある。
桃太郎は「鬼門」の鬼に対抗して、「裏鬼門」に位置する十二支(十二支は方角も表す)の動物(申(サル)、酉(トリ=キジ)、戌(イヌ))を率いた、という解釈がある(曲亭馬琴「燕石雑志」など)。
巖谷小波の『日本昔噺』版「桃太郎」(1894年)には、鬼ヶ島が大日本国の「東北(うしとら)」の方向にあるという説明が付加されているが、これも馬琴の「鬼が島鬼門説」に迎合したのではないかという見方がある。だが刊行の時期が日清戦争の勃発と重なっていることもあり、桃太郎を皇軍に、鬼を敵国の清朝中国に見立てたことも影響していると思われる。
民俗学者柳田國男は『桃太郎の誕生』(1933年)の論集で、昔話に日本の「固有信仰」を見出すことに主眼をおいたが、桃太郎を一寸法師、瓜子姫などのような異常誕生・成長の「小さ子」の物語系統のひとつとして解析したのは柳田が初めである。また、川上から流れる桃の展開から異界の存在と水辺との関連を、それらを統率する存在として水辺の「小さ子」・「海神少童」伝承に繋がり、最終的には、天のかがみの船に乗り波の流れに沿って流れついたスクナヒコナ神話へと結びつくのである。柳田はここで、昔話とはかつての神話の零落した一つの姿であると言っている。
視点を変えれば異常出生の神の子が共同体から除外されつつも異郷に赴く「英雄神話」が抽出できる。また柳田は『桃太郎の誕生』の中で、古代ローマのミトラ教神話には、少年の姿をしたミトラ神が犬やサソリを伴って猛牛を退治する話があり、同類型の話が日本以外にも存在するとも述べている。
桃太郎を文化人類史的視点から見たのが文化人類学者・石田英一郎である。『桃太郎の母』において、「水界の小さき子」の影に「水界の母子神」の存在がつきまとうと見いだし、南方の島々や太平洋周辺の諸民族の伝説の研究へと行き着く。浜辺に神の子を産み残していく「豊玉姫型の伝承」や南風に身を晒して子を産む「女護が島型の説話」などのユーラシア大陸、旧石器時代の文化との関連へと石田の「桃太郎の母」探しは発展していき、遠い昔に信仰された原始母神とその子神とにまつわる霊童の異常出生譚的な神話の想定に至る。
神話学者・高木敏雄は『桃太郎新論』で出自そのものの桃に着眼し、「梨太郎」・「林檎太郎」でなくなぜ桃太郎なのかにこだわった。桃太郎を「英雄伝説的童話」と位置づけ、桃は前述のように邪気を祓う霊物であり、長生不老の仙果であり、太郎が老夫婦に育てられるのと桃が不老長寿の果物であることは無関係でないと述べている。
民俗学者・関敬吾は鬼が島征伐の冒険的行為に社会慣習としての通過儀礼である成年式が反映していると考えた。
福澤諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓「ひゞのをしへ」で、悪行をなす鬼を懲罰する桃太郎は正しくとも、(世のために)鬼が所持する宝を強奪した桃太郎は「卑劣千万」であると非難する。
現代でも「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが悪者ではないか」と考える者はおり、裁判所等で行われる模擬裁判の事例やディベートの議題として取り上げられる場合がある。
芥川龍之介をはじめとして、尾崎紅葉、正岡子規、北原白秋、菊池寛などの著名な小説家たちも競って桃太郎を小説の題材にしており、桃太郎が「日本人」の深層心理に与えている影響の大きさがうかがえる。
戦前は軍国主義という思想を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。この場合桃太郎は敵国という鬼を成敗する子としてスローガンに利用され、日本初の長編アニメ映画といわれる『桃太郎の海鷲』『桃太郎 海の神兵』はじめ多くのプロパガンダ作品に登場した。大正期の童心主義では童心の子として、プロレタリア主義では階級の子として、戦時中には孝行・正義・仁如・尚武・明朗などの修身の徳を体現した国民的英雄として、また戦後になると民主主義の先駆として語られるなど、桃太郎はしばしば国民の模範として描かれてきた。
一方、太宰治は戦争中に執筆(発表は戦後)した『お伽草紙』の中で、「桃太郎」を「私の物語に鋳造し直すつもり」だったが、完璧に強い桃太郎を描くことが自分にはできない、「いやしくも桃太郎は、日本一という旗を持っている男である。日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い。」として執筆を断念したと記している。
桃太郎をベースとしたフィクション作品も参照。
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"text": "桃太郎(ももたろう)は、日本のおとぎ話の一つ。桃の実から生まれた男子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんから黍団子()をもらって、イヌ、サル、キジを家来にし、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。",
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"text": "桃太郎物語は、以下のような粗筋のものが「標準型」となっている。",
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"text": "桃から生まれた桃太郎は、老婆老爺に養われ、鬼ヶ島へ鬼退治に出征、道中遭遇するイヌ、サル、キジをきび団子を褒美に家来とし、鬼の財宝を持ち帰り、郷里に凱旋する。",
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"text": "この「標準型」とは明治から現在に至り教科書や絵本を通じて普及した「桃太郎」を指す。作品によって場面ごとの違いはあるが、どの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。",
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"text": "より古い系統の桃太郎説話は、この「標準型」とは異なるものである。とりわけ桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする型(「果生型」)が今や一般的だが、これは19世紀初頭にはじめてみられるもので、それまでの草双紙では桃を食べたお爺さんお婆さんが若返り出産する型(「回春型」)が主流だった。",
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"text": "口承話では「果生型」が多いとされている。",
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"text": "その他、桃太郎の誕生の仕方については<赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた>など差異のあるものが多数伝わっている。赤い手箱と黒い手箱の場合や、箱の中に桃が入っている場合も、特に東北や北陸を中心に確認できる。",
"title": "内容から"
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"text": "桃の割れる経緯についても「たんす」や「戸棚」や「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生するなど、民間での語り伝えは一様でなかった。",
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"text": "桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合もあるが、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする話が主に四国・中国地方にみられる。",
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"text": "特定の伝説に拠る物語の由来については諸説存在し、それぞれ論争のあるところである。桃太郎の起源を岡山とする説に関して、戦前の頃までその支持は、愛知県や香川県をゆかりとする説に大きく後れを取っていたが、1960年以降の岡山地域の促進運動によってその知名度が上がっている。詳しくはゆかりの地を参照。",
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"text": "物語としての成立年代は正確には分かっていないが、原型(口承文学)の発祥は室町時代末期から江戸時代初期頃とされる。",
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"text": "以後、江戸時代の草双紙の赤本のち豆本や黄表紙版の『桃太郎』『桃太郎昔話』などの出版により広まった。現存最古の文献は赤小本『もゝ太郎』(享保8年/1723年刊行)とされるが、かつて研究された原典にはこれより古い元禄以前の『桃太郎話』、元禄頃の『桃太郎昔語り』なども現存していた。",
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"text": "多くの江戸期の原典を収集・筆写・比較研究した小池藤五郎は、最も古い諸本を「第一系統本」(『桃太郎昔語』等)とした。第一系統本では登場人物は「とう団子」をこしらえており、そこから派生した第二系統本(前述の享保刊行『もゝ太郎』等)になってこれが「日本一のきびだんご」に変じたと論じている。他の違いとして、爺が草刈りに行くか、柴刈りに行くかの相違を挙げている。これには曲亭馬琴の『燕石雑志』(文化8年/1811年)や瑞鳥園齋守こと賀茂規清(1798-1861)著の『雛迺宇計木(ひなのうけぎ)』などたくさんの資料が含まれる。",
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"text": "馬琴の『童蒙話赤本事始』では「桃太郎」は五大昔噺の冒頭を飾る。",
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"text": "小池は慈雲院命鑑玖誉『太郎物語』(慶長5年/1600年)を原話にちかいものとみなしており、そこにあるような夫婦が神仏頼みで子を得た話が最も古い原型で、次いで夫婦が若返り子をもうけた形(「回春型」)、最後に「桃から生まれた桃太郎」(「果生型」)が登場したと提唱した。",
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"text": "近年の研究では「回春型」が「果生型」より先んづるとする論に賛成する意見も、同調するには慎重な意見もうかがえる。",
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"text": "島津久基は「桃から生まれた桃太郎」のほうが古い形態であると主張し、小池と島津の両者は激しく対立している。大正末頃には、気比神宮の建築装飾が果実型の物語の早期成立を示すものであると指摘されたが、小池は桃太郎を模した作である証拠がなく、神宮で祀られる神の物語と伝える説が正しいと見た(§気比神宮に詳述)。",
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"text": "あくまで文献資料(草双紙)で見る限り、「桃から生まれた」話はより新しい系統の馬琴作『燕石雑志』(1811年)や『童話長篇』(1830年)等の作品にみられるとされる。なお、式亭三馬作『赤本再興桃太郎』(文化9年/1812年)においては桃が2個流れてきて、ひとつを食した老夫婦は若返り、もうひとつから桃太郎が生まれ、この異本の特色となっている。",
"title": "成り立ち"
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"text": "前述したように、こうした江戸期の文献(草双紙など)では、桃を食べ若返った夫婦が子作りをはたす「回春型」桃太郎が主流であった。たとえば赤本『桃太郎昔語』(刊行年不詳)には、若返りした媼が桃太郎を出産する挿絵がある。",
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"text": "明治時代が近づくにつれて桃から生まれた「果生型」桃太郎が、より多くみられるようになった。",
"title": "成り立ち"
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"text": "福井県敦賀市、慶長19年(1614年)に再建された気比神宮本殿の桁梁には、割れた桃から出現する男の彫刻像があった(敦賀空襲により像は焼失)。四隅にそれぞれの装飾があり、童話の起源を物語るものと同社の略記に書かれており、他は浦島太郎、因幡の白兎、三猿だったとの回答を宮司(1956年時)から得ている。また、同社ではある時代から桃から生まれる嬰児の粘土細工の土産も売られていた。",
"title": "成り立ち"
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"text": "これを検証した小池は、「果生型」の草双紙が流布した時代になれば、この像を見て\"桃から桃太郎が生まれた\"図案と解釈しえた、とそれなりの類似を認めつつも、像の制作時からこれが桃太郎だったと立証するにも\"何一つ由来・伝説・資料等がない」と懐疑的な立場に徹した。",
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"text": "小池の見立てでは、この顔は幼児というより老人っぽく、髪をみずらに結っていた。神宮では、これを主神の伊奢沙別命(イザサワケノミコト)による大陸遠征の物語とする説があるが、何ら古文書に無く、日中戦争の1940年頃に喧伝されていたものなので時局に便乗した産物でないかと疑われるが、小池は最終的にその疑いを払拭して、この説を支持する結論に達している。",
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"text": "この像を桃太郎と見て特に疑わない意見もあり、美術史家の源豐秋(源豊宗)の論文(1923年)は安土桃山時代の桃太郎彫刻と鑑定し、中村直勝(1935年)も源豊宗の結論を引いており、のち俳人の志田義秀の『桃太郎概説』(1941年)も、本殿再建の慶長19年の彫刻と時代を遅らせているが桃太郎であることに異議を唱えていない。",
"title": "成り立ち"
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"text": "江戸期の文学では、桃太郎が持ち帰る財宝は、隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の小槌、金銀、延命袋(第一系統、第二系統)などである。第三系統の『桃太郎一代記』(北尾政美画 天明元年/1781年)などで金銀宝玉やさんごが加わってくる。20世紀に入ると、その宝が「金銀珊瑚綾錦」であることが常套句のようになってもちいられているが、昭和期の童話の出版物でも、これらの他にあいかわらず隠れ蓑や打ち出の小槌も加わっていた。",
"title": "成り立ち"
},
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"text": "1887年(明治20年)に国定教科書(『尋常小学読本』巻1)に採用される際にほぼ現在の「標準型」のあらすじの桃太郎物語が掲載された。だが1904年の第1期『尋常小学読本』の際には桃太郎はいったん教材からはずされた。1910年の第2期『尋常小学読本』にて復活したが、このころ童話作家の巖谷小波が文部省嘱託となっていて桃太郎の執筆に大きくかかわっている(事実上の執筆者である)と考えられている。小波は、1894年(明治27年)に『日本昔話』としてまとめられており、これもその後の語り伝えに大きく影響した。",
"title": "成り立ち"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのはこの明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい大日本帝国の象徴にされたのである。太平洋戦争の終焉まで、桃太郎は多くの国語の教科書をはじめ、唱歌や図画の教材などに日本国内で広く利用された。",
"title": "成り立ち"
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"text": "その後も語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。落語の『桃太郎』などもその一例である。",
"title": "成り立ち"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "唱歌「桃太郎」は、文部省唱歌の1つ。1911年(明治44年)の『尋常小学唱歌』に登場。作詞者不明、作曲・岡野貞一。",
"title": "唱歌"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多い。これと似たような経緯で後半部を削除された童謡に、てるてる坊主がある。両者ともに歌詞の意外性、残酷性が取り上げられることがある。",
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{
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"text": "また、上記に比べ知名度は劣るが、作詞・田辺友三郎、作曲・納所弁次郎による「モモタロウ」もある。1900年(明治33年)の『幼年唱歌』に登場。",
"title": "唱歌"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "ゆかりの地とされる場所は全国にあるが、その中でも特に岡山県が最有力地とされており、全国で唯一、岡山だけが『「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』の名称で日本遺産として文化庁からゆかりの地として正式に認定されている。",
"title": "ゆかりの地"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "岡山県は、桃太郎作中の「きび団子」と同音の江戸時代の地元土産品「吉備団子」を関連付けるなど、全県を挙げての宣伝活動からゆかりの地として全国的に有名となり、現在は桃太郎の像なども存在する。岡山を発祥地とする主張の三大根拠とされるのが、吉備団子、桃、そして,吉備津彦命の温羅退治伝説であるとされている。",
"title": "ゆかりの地"
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{
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"text": "「黍団子」が「吉備団子」に通じることから、桃太郎は「吉備国」(現在の岡山県)とゆかりがあるとの論旨が生まれた。しかし古い系統本の物語説話では「とう団子」等であることが指摘されており、本来そのような関連性はないとされる。ちなみに商品として広く知られる吉備団子は、きび団子にちなんで江戸末期に売り出された物である。",
"title": "ゆかりの地"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "岡山県ゆかりの由来説として、第7代孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)の温羅退治伝説に桃太郎説話の原話を求める説がある。岡山市の吉備津神社の縁起物など(古くは16世紀末の文献)に記録される伝説であるが、時代設定は第11代垂仁天皇の御代であり、温羅の居城は備中国鬼ノ城とされているので桃太郎討伐の鬼に見立てられている。これは学界ではなく在野の説で、地元岡山市の難波金之助なる塑像家が昭和初期に提唱したのを嚆矢とする。",
"title": "ゆかりの地"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "似た俗説が明治時代、日本一吉備団子を販売する広栄堂の主人が執筆したなかにもみえる。そこでは桃太郎のモデルを神武天皇という仮説を立てており、さらに吉備津彦命はその昔、この天皇に手ずから吉備団子を献上したという言い伝えを記している。",
"title": "ゆかりの地"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "吉備津神社縁起物によると、吉備津彦命は犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)という部下がいた。犬飼、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅を倒したともされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣=雉」となるとする説がある。",
"title": "ゆかりの地"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "岡山県の血吸川(笹ヶ瀬川の支流)も桃太郎の桃が流れた川、あるいは桃太郎との戦いで傷を負った鬼の血が流れた川だと、温羅伝説に伝わる。",
"title": "ゆかりの地"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "彦五十狭芹彦命(吉備津彦)の故郷である奈良県磯城郡田原本町では、桃太郎生誕の地として黒田庵戸宮(廬戸宮)を観光PRの一つとして取り上げている。",
"title": "ゆかりの地"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "以下は桃太郎サミットや日本桃太郎会連合会に参加する自治体とそのゆかりの場所。",
"title": "ゆかりの地"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "桃太郎の対的説話としては瓜から生まれた瓜子姫が指摘され、沖縄県久高島には黄金の瓜から生まれた男子が後の琉球王(西威王とされる)となったという伝説のバリエーションもある。",
"title": "解釈"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "上流から流れてきた桃を食べて老夫婦が若返ったというくだりは、西王母伝説、あるいは日本神話のイザナギの神産み#黄泉の国にみられるように、桃が邪気をはらい不老不死の力を与える霊薬である果実とされていることと関連する。桃太郎を齎した桃は、こうした力のある桃が山から流れて来たものとも考えられる。瓜や橘の実でなく、特に桃である理由について、奥田継夫は著書『どこかで鬼の話』で「桃は大昔より数少ない果物であり、においや味、薬用性および花の美しさがそろい、紅い小さな花と豊潤な果実を付けるところが不老不死のイメージにぴったりであり、人に利益を与え死の反対の生のシンボルを思わせ、その中でも特に桃の実が柔らかくみずみずしく産毛、筋目から命の源の女性器に似ているからであり、そのイメージには邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるからであろう」としている。この桃と女性の生殖器についての考察は、西岡秀雄等がおこなっている。",
"title": "解釈"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "桃そのものが女性であったという解釈もある。おばあさんが拾ってきたのは、大きな桃ではなく若い娘であり(桃は若い娘の尻の象徴)、子供が出来ず悩んでいたおばあさんは、拾ってきた娘におじいさんの子供をはらませ、その娘から子供を取り上げた(=桃を割る)という。",
"title": "解釈"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "日中民間説話研究者の立石展大は中国においては棗核児が似た伝承があるとしている。",
"title": "解釈"
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"text": "鬼は、風水では丑と寅の間の方角(北東)である「鬼門」からやって来ると考えられていることから、敵役である鬼が牛のような角を生やし、虎の腰巻きを履いているのも、風水の思想によるという解釈もある。",
"title": "解釈"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "桃太郎は「鬼門」の鬼に対抗して、「裏鬼門」に位置する十二支(十二支は方角も表す)の動物(申(サル)、酉(トリ=キジ)、戌(イヌ))を率いた、という解釈がある(曲亭馬琴「燕石雑志」など)。",
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"text": "巖谷小波の『日本昔噺』版「桃太郎」(1894年)には、鬼ヶ島が大日本国の「東北(うしとら)」の方向にあるという説明が付加されているが、これも馬琴の「鬼が島鬼門説」に迎合したのではないかという見方がある。だが刊行の時期が日清戦争の勃発と重なっていることもあり、桃太郎を皇軍に、鬼を敵国の清朝中国に見立てたことも影響していると思われる。",
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"text": "民俗学者柳田國男は『桃太郎の誕生』(1933年)の論集で、昔話に日本の「固有信仰」を見出すことに主眼をおいたが、桃太郎を一寸法師、瓜子姫などのような異常誕生・成長の「小さ子」の物語系統のひとつとして解析したのは柳田が初めである。また、川上から流れる桃の展開から異界の存在と水辺との関連を、それらを統率する存在として水辺の「小さ子」・「海神少童」伝承に繋がり、最終的には、天のかがみの船に乗り波の流れに沿って流れついたスクナヒコナ神話へと結びつくのである。柳田はここで、昔話とはかつての神話の零落した一つの姿であると言っている。",
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"text": "視点を変えれば異常出生の神の子が共同体から除外されつつも異郷に赴く「英雄神話」が抽出できる。また柳田は『桃太郎の誕生』の中で、古代ローマのミトラ教神話には、少年の姿をしたミトラ神が犬やサソリを伴って猛牛を退治する話があり、同類型の話が日本以外にも存在するとも述べている。",
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"text": "桃太郎を文化人類史的視点から見たのが文化人類学者・石田英一郎である。『桃太郎の母』において、「水界の小さき子」の影に「水界の母子神」の存在がつきまとうと見いだし、南方の島々や太平洋周辺の諸民族の伝説の研究へと行き着く。浜辺に神の子を産み残していく「豊玉姫型の伝承」や南風に身を晒して子を産む「女護が島型の説話」などのユーラシア大陸、旧石器時代の文化との関連へと石田の「桃太郎の母」探しは発展していき、遠い昔に信仰された原始母神とその子神とにまつわる霊童の異常出生譚的な神話の想定に至る。",
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"text": "神話学者・高木敏雄は『桃太郎新論』で出自そのものの桃に着眼し、「梨太郎」・「林檎太郎」でなくなぜ桃太郎なのかにこだわった。桃太郎を「英雄伝説的童話」と位置づけ、桃は前述のように邪気を祓う霊物であり、長生不老の仙果であり、太郎が老夫婦に育てられるのと桃が不老長寿の果物であることは無関係でないと述べている。",
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"text": "民俗学者・関敬吾は鬼が島征伐の冒険的行為に社会慣習としての通過儀礼である成年式が反映していると考えた。",
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"text": "福澤諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓「ひゞのをしへ」で、悪行をなす鬼を懲罰する桃太郎は正しくとも、(世のために)鬼が所持する宝を強奪した桃太郎は「卑劣千万」であると非難する。",
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"text": "現代でも「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが悪者ではないか」と考える者はおり、裁判所等で行われる模擬裁判の事例やディベートの議題として取り上げられる場合がある。",
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"text": "芥川龍之介をはじめとして、尾崎紅葉、正岡子規、北原白秋、菊池寛などの著名な小説家たちも競って桃太郎を小説の題材にしており、桃太郎が「日本人」の深層心理に与えている影響の大きさがうかがえる。",
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"text": "戦前は軍国主義という思想を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。この場合桃太郎は敵国という鬼を成敗する子としてスローガンに利用され、日本初の長編アニメ映画といわれる『桃太郎の海鷲』『桃太郎 海の神兵』はじめ多くのプロパガンダ作品に登場した。大正期の童心主義では童心の子として、プロレタリア主義では階級の子として、戦時中には孝行・正義・仁如・尚武・明朗などの修身の徳を体現した国民的英雄として、また戦後になると民主主義の先駆として語られるなど、桃太郎はしばしば国民の模範として描かれてきた。",
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"text": "一方、太宰治は戦争中に執筆(発表は戦後)した『お伽草紙』の中で、「桃太郎」を「私の物語に鋳造し直すつもり」だったが、完璧に強い桃太郎を描くことが自分にはできない、「いやしくも桃太郎は、日本一という旗を持っている男である。日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い。」として執筆を断念したと記している。",
"title": "評価・変遷"
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"text": "桃太郎をベースとしたフィクション作品も参照。",
"title": "桃太郎に関連する作品"
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桃太郎(ももたろう)は、日本のおとぎ話の一つ。桃の実から生まれた男子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんから黍団子をもらって、イヌ、サル、キジを家来にし、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。
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{{Otheruses}}
[[File:Momotarō ehon.jpg|thumb|right|360px|[[打出の小槌|打ち出の小槌]]をふるう桃太郎とお供の雉・犬・猿。{{right|{{small|―山東庵京伝([[山東京伝]])著『絵本宝七種』([[蔦屋重三郎]]刊、1804年)より。}}}}]]
'''桃太郎'''(ももたろう)は、[[日本]]の[[説話|おとぎ話]]の一つ。[[モモ|桃]]の実から生まれた男子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんから{{読み仮名|[[黍団子]]|きびだんご}}をもらって、[[イヌ]]、[[サル]]、[[キジ]]を家来にし、[[鬼ヶ島]]まで[[鬼]]を退治しに行く物語。
== 内容から ==
桃太郎物語は、以下のような粗筋のものが「標準型」となっている。
{{indent|
桃から生まれた桃太郎は、老婆老爺に養われ、[[鬼ヶ島]]へ鬼退治に出征、道中遭遇するイヌ、サル、キジを[[黍団子|きび団子]]を褒美に[[家来]]とし、鬼の財宝を持ち帰り、郷里に凱旋する{{sfn|加原|2010|pp=52-53}}。
}}
この「標準型」とは明治から現在に至り教科書や絵本を通じて普及した「桃太郎」を指す{{sfn|加原|2010|pp=52-53}}。作品によって場面ごとの違いはあるが、どの[[書籍]]でも桃太郎側の視点での[[勧善懲悪]]物語となっている<ref>小池藤五郎「記録されたる桃太郎古説話の研究(下)」『国語と国文学』第11巻第3号82頁、1934年。{{harvnb|山崎|2019|p=62}}に拠る。</ref>。
===異本===
より古い系統の桃太郎説話は、この「標準型」とは異なるものである。とりわけ桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする型(「果生型」)が今や一般的だが、これは19世紀初頭<!--1967年から150年前、文化文政時代-->にはじめてみられるもので、それまでの[[草双紙]]では桃を食べたお爺さんお婆さんが若返り出産する型(「回春型」)が主流だった{{sfn|小池|1967|p=9}}{{sfn|加原|2010|p=54}}。
===口承文学の異伝===
{{More|#地域別の口承伝説}}
口承話では「果生型」が多いとされている<ref name=hattori-27>{{harvnb|服部|1979|p=27}}({{harvnb|山崎|2018a|p=59}}, 注6に拠る)</ref>{{sfn|加原|2010|p=54}}。
その他、桃太郎の誕生の仕方については<赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた>など差異のあるものが多数伝わっている。赤い手箱と黒い手箱の場合や、箱の中に桃が入っている場合も、特に東北や北陸を中心に確認できる{{sfn|関|1978|pp=81-83}}{{sfn|加原|2010|p=53}}。
桃の割れる経緯についても「たんす」や「戸棚」や「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生するなど、民間での語り伝えは一様でなかった<ref name="mukashibanashi">野村純一他編 『昔話・伝説小事典』 [[みずうみ書房]]、[[1987年]]、254-255頁。ISBN 4-838-03108-4。</ref>。
桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合もあるが、[[三年寝太郎]]のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする話が主に四国・[[中国地方]]にみられる{{sfn|滑川|1981|p=334}}{{sfn|加原|2010|p=53}}。
==成り立ち==
[[画像:Momotaro2.jpg|200px|thumb|桃太郎の人形]]
=== 由来 ===
特定の伝説に拠る物語の由来については諸説存在し、それぞれ論争のあるところである。桃太郎の起源を岡山とする説に関して、戦前の頃までその支持は、愛知県や香川県をゆかりとする説に大きく後れを取っていたが、1960年以降の岡山地域の促進運動によってその知名度が上がっている{{sfn|加原|2011|p=488}}。詳しくは[[#ゆかりの地|ゆかりの地]]を参照。
===成立過程===
物語としての成立年代は正確には分かっていないが、原型(口承文学)の発祥は[[室町時代]]末期から[[江戸時代]]初期頃とされる{{sfn|加原|2010|p=53}}。
以後、江戸時代の[[草双紙]]の赤本のち[[豆本]]や[[黄表紙]]版の『桃太郎』『桃太郎昔話』などの出版により広まった。現存最古の文献は[[草双紙#赤本|赤小本]]『もゝ太郎』(享保8年/[[1723年]]刊行)とされるが{{sfn|加原|2010|p=53}}、かつて研究された原典にはこれより古い元禄以前の『桃太郎話』、[[元禄]]頃の『桃太郎昔語り』なども現存していた{{sfn|滑川|1981|p=25}}{{r|osumi}}。
====小池の分類法====
多くの江戸期の原典を収集・筆写・比較研究した[[小池藤五郎]]は、最も古い諸本を「第一系統本」(『桃太郎昔語』等{{Refn|group="注"|享保後期初版[?]{{r|osumi}}。}})とした。第一系統本では登場人物は「とう団子」をこしらえており、そこから派生した第二系統本(前述の享保刊行『もゝ太郎』等)になってこれが「日本一のきびだんご」に変じたと論じている。他の違いとして、爺が草刈りに行くか、柴刈りに行くかの相違を挙げている。これには[[曲亭馬琴]]の『[[燕石雑志]]』([[文化 (元号)|文化]]8年/[[1811年]])や瑞鳥園齋守こと[[賀茂規清]](1798-1861)著の『雛迺宇計木(ひなのうけぎ)』などたくさんの資料が含まれる<ref>{{harvnb|Koike|1972|p=25}}, {{harvnb|Koike|1967|p=16}}</ref>。
馬琴の『童蒙話赤本事始』では「桃太郎」は五大昔噺の冒頭を飾る<ref name="shinwadenstsu">吉成勇編 『歴史読本特別増刊・事典シリーズ〈第16号〉日本「神話・伝説」総覧』 [[新人物往来社]]、1992年、274-275頁。</ref>。
====回春型と果生型の成立順序====
小池は慈雲院命鑑玖誉『太郎物語』([[慶長]]5年/[[1600年]])を原話にちかいものとみなしており{{efn2|[[甲斐国]][[巨摩郡]][[逸見筋]]岩下村の甘露山慈雲院(明治31年の洪水で寺は失われた)で記録されたものだが、京都で聞いた話を伝えたものと記されている。}}<ref>{{harvnb|小池|1967|pp=19-20, 24-27}}</ref>、そこにあるような夫婦が神仏頼みで子を得た話が最も古い原型で、次いで夫婦が若返り子をもうけた形(「回春型」)、最後に「桃から生まれた桃太郎」(「果生型」)が登場したと提唱した{{sfn|小池|1967|p=19}}。
近年の研究では「回春型」が「果生型」より先んづるとする論に賛成する意見も<ref>{{harvnb|内ヶ﨑|1999|p=78}}({{harvnb|山崎|2018a|p=59}}に拠る)</ref>、同調するには慎重な意見もうかがえる{{efn2|加原は、草双紙は江戸や関西の都市で発行されたものなので偏重があり、日本全土の伝承を反映しているわけではないと意見する。}}<ref>{{harvnb|加原|2010|p=54}}, 注2</ref>。
[[島津久基]]は「桃から生まれた桃太郎」のほうが古い形態であると主張し、小池と島津の両者は激しく対立している{{sfn|小池|1967|p=21}}。[[大正]]末頃には、気比神宮の建築装飾が果実型の物語の早期成立を示すものであると指摘されたが<ref name="minamoto" />、小池は桃太郎を模した作である証拠がなく、神宮で祀られる神の物語と伝える説が正しいと見た([[#気比神宮|§気比神宮]]に詳述){{sfn|小池|1967|pp=35-37}}。
あくまで文献資料([[草双紙]])で見る限り、「桃から生まれた」話はより新しい系統の馬琴作『燕石雑志』(1811年)や『童話長篇』([[1830年]])等の作品にみられるとされる{{Efn2|桃太郎が桃から生れたとするのは、小池曰く「変遷期後期」(享和元年[1801年]~慶応三年[1867年])だという。{{harvnb|Koike|1967|p=36}}。}}{{sfn|小池|1972|pp=24-28}}<ref name=hattori-27/>。なお、[[式亭三馬]]作『赤本再興桃太郎』(文化9年/[[1812年]])においては桃が2個流れてきて、ひとつを食した老夫婦は若返り、もうひとつから桃太郎が生まれ、この異本の特色となっている{{sfn|山崎|2018b|pp=33-34}}。
前述したように、こうした江戸期の文献(草双紙など)では、桃を食べ若返った夫婦が子作りをはたす「回春型」桃太郎が主流であった。たとえば赤本『桃太郎昔語』(刊行年不詳)には、若返りした媼が桃太郎を出産する挿絵がある{{Refn|group="注"|『再板/桃太郎昔語』とも題されており、この再版のうち加賀文庫所蔵本は刊行年不明だが、これとは別に大東急文庫所蔵本は[[安永]]6年([[1777年]])があるのでほぼ同年代と比定できる。また、資料によっては赤本でなく黄表紙として扱われる{{sfn|山崎|2018a|pp=51-53}}。}}{{Refn|group="注"|絵師の[[西村重信]]は、この号を[[享保]]16年(1731年)~[[延享]]4年(1747年)頃に名乗っており、のち「石川豊信」と改名した{{sfn|山崎|2018a|p=52}}{{r|ukiyoejiten}}。}}{{sfn|雲岡|2016|pp=36-37}}。
[[明治時代]]が近づくにつれて桃から生まれた「果生型」桃太郎が、より多くみられるようになった<ref>{{harvnb|滑川|1981|pp=iv, 10, 48}}</ref>{{sfn|加原|2010|p=54}}<ref name="shinwadenstsu" />。
====気比神宮====
福井県[[敦賀市]]、慶長19年([[1614年]])に再建された[[気比神宮]]本殿の[[桁 (建築)|桁]][[梁 (建築)|梁]]には、割れた桃から出現する男の彫刻像があった([[敦賀空襲]]により像は焼失)。四隅にそれぞれの装飾があり、童話の起源を物語るものと同社の略記に書かれており、他は[[浦島太郎]]、[[因幡の白兎]]、[[三猿]]だったとの回答を宮司(1956年時)から得ている。また、同社ではある時代から桃から生まれる嬰児の粘土細工の土産も売られていた{{sfn|小池|1967|pp=35-37}}。
これを検証した小池は、「果生型」の草双紙が流布した時代になれば、この像を見て"桃から桃太郎が生まれた"図案と解釈しえた、とそれなりの類似を認めつつも、像の制作時からこれが桃太郎だったと立証するにも"何一つ由来・伝説・資料等がない」と懐疑的な立場に徹した{{sfn|小池|1967|pp=35-37}}。
小池の見立てでは、この顔は幼児というより老人っぽく{{Efn2|他にも"[[中啓]]を右手にもち"、"髪には宝珠のような珠が飾られ"と観察する。}}、髪を[[みずら]]に結っていた。神宮では、これを主神の[[伊奢沙別命]](イザサワケノミコト)による大陸遠征の物語とする説があるが、何ら古文書に無く、[[日中戦争]]の1940年頃に喧伝されていたものなので時局に便乗した産物でないかと疑われるが、小池は最終的にその疑いを払拭して、この説を支持する結論に達している{{sfn|小池|1967|pp=35-37}}。
この像を桃太郎と見て特に疑わない意見もあり、美術史家の源豐秋([[源豊宗]])の論文(1923年)は安土桃山時代の桃太郎彫刻と鑑定し<ref name=minamoto/>、[[中村直勝]](1935年)も源豊宗の結論を引いており<ref name=nakamura/>、のち俳人の[[志田義秀]]の『桃太郎概説』(1941年)も、本殿再建の慶長19年の彫刻と時代を遅らせているが桃太郎であることに異議を唱えていない{{sfn|志田|1941|pp=313-314}}。
====鬼から奪った財宝====
江戸期の文学では、桃太郎が持ち帰る財宝は、[[隠蓑|隠れ蓑]]、隠れ笠、[[打出の小槌|打ち出の小槌]]、金銀、延命袋(第一系統、第二系統)などである。第三系統の『桃太郎一代記』([[北尾政美]]画 天明元年/[[1781年]])などで金銀宝玉や[[さんご]]が加わってくる{{sfn|小池|1972|p=27}}。20世紀に入ると、その宝が「金銀珊瑚綾錦」であることが常套句のようになってもちいられているが<ref>例:柳田國男『昔話覺書』(1943), p. 275 {{harvnb|桃崎|1990|p=43}}に拠る。</ref>、昭和期の童話の出版物でも、これらの他にあいかわらず隠れ蓑や打ち出の小槌も加わっていた<ref>例:1937年版「講談社の絵本 桃太郎」。{{harvnb|首藤|2016|p=7}}に拠る。</ref>。
===標準型===
1887年(明治20年)に[[国定教科書]](『[[国語読本|尋常小学読本]]』巻1)に採用される際にほぼ現在の「標準型」のあらすじの桃太郎物語が掲載された<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1735728 尋常小学読本 一] 第二十六課〜第二十八課 (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>{{sfn|加原|2010|pp=53-54}}。だが1904年の第1期『尋常小学読本』の際には桃太郎はいったん教材からはずされた。1910年の第2期『尋常小学読本』にて復活したが、このころ童話作家の[[巖谷小波]]が[[文部省]][[嘱託]]となっていて桃太郎の執筆に大きくかかわっている(事実上の執筆者である)と考えられている{{efn2|教科書は公刊物なため著者名が記述されず、小波が著者という断定に至らない。}}{{sfn|加原|2010|pp=54-55}}。小波は、[[1894年]](明治27年)に『日本昔話』としてまとめられており、これもその後の語り伝えに大きく影響した<!--要出典-->。
桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのはこの明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい大日本帝国の象徴にされたのである<ref>『日本の民話』([[角川書店]])</ref>。[[太平洋戦争]]の終焉まで、桃太郎は多くの国語の教科書をはじめ、[[唱歌]]や図画の教材などに日本国内で広く利用された{{sfn|加原|2010|p=53}}。
その後も語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。[[落語]]の『[[桃太郎 (落語)|桃太郎]]』などもその一例である。
== 唱歌 ==
{{See|桃太郎 (童謡)}}
唱歌「桃太郎」は、[[文部省唱歌]]の1つ。[[1911年]](明治44年)の『[[尋常小学唱歌]]』に登場<ref name="ndl_reference_song">[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000080704 「桃太郎」の歌詞で、20数番まであるものが見たい。]、レファレンス協同データベース、2011年2月25日 11時49分(更新)。</ref>。作詞者不明、作曲・[[岡野貞一]]。
* 桃太郎
*# 桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
*# やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
*# 行きましょう、行きましょう、貴方について何処までも、家来になって行きましょう。
*# そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
*# おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
*# 万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。
現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多い。これと似たような経緯で後半部を削除された童謡に、[[てるてる坊主]]がある。両者ともに歌詞の意外性、残酷性が取り上げられることがある<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会|year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 3 |publisher=講談社 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会|year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 7 |publisher=講談社 }}</ref>。
また、上記に比べ知名度は劣るが、作詞・[[田辺友三郎]]、作曲・[[納所弁次郎]]による「モモタロウ」もある。[[1900年]](明治33年)の『幼年唱歌』に登場<ref name="ndl_reference_song" />。
* モモタロウ
*# 桃から生れた桃太郎、氣はやさしくて力持、鬼ケ島をばうたんとて、勇んで家を出かけたり。
*# 日本一の黍團子、情けにつきくる犬と猿、雉ももらうてお供する、急げ者どもおくるなよ。
*# 激しいいくさに大勝利、鬼ケ島をば攻め伏せて、取つた寶は何々ぞ、金銀、珊瑚、綾錦。
*# 車に積んだ寶もの、犬が牽き出すえんやらや、猿があと押すえんやらや、雉がつな引くえんやらや。
==地域別の口承伝説==<!--=== 伝播・派生 ===のうち該当する部分。残りは下げ-->
* 岡山県を中心とした地域には、横着な性格と大力を持った隣の寝太郎型の桃太郎も多い。鬼退治にしても鬼を海中に投げ宝物をとって帰ったり、鬼に酒を飲ませて退治したりする例もある<ref name="mukashibanashi" />。
* 香川県[[高松市]][[鬼無|鬼無町]]では桃太郎が女の子だった、とする話がある。おばあさんが川から持ち帰った桃を食べ、若返ったおじいさんとおばあさんに子どもができ、男の子のように元気のいい女の子が生まれる。そして、あまりに可愛いので鬼にさらわれないよう桃太郎と名づけ育てた、というもの<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/column/cooking_j/momo/index.html|title=桃太郎パーティー|author=食卓日本昔話|accessdate=2018年9月28日}}</ref>。成立の経緯は、讃岐国司だった[[菅原道真]]が「[[稚武彦命]]が三人の勇士を従えて海賊退治をおこなった」という話を地元の漁師から聞き、それをもとにおとぎ話としてまとめたものであるという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.my-kagawa.jp/point/429/|title=桃太郎神社(熊野権現) 桃太郎と三人の勇士、爺婆の墓や石碑がある。鬼無桃太郎伝説は稚武彦命が三人の勇士を従えて海賊退治をおこ…|author=うどん県旅ネット|accessdate=2018年9月28日}}</ref>。
* 岩手県[[紫波郡]]には母親の腰近くに転がってきた桃を拾って帰り、綿に包み寝床に置いておいたら桃が割れ子供が生まれた桃の子太郎という伝承や、[[越後国|越後]]、[[佐渡国|佐渡]](現・新潟県)の「桃太郎」では桃の代わりに香箱が流れてきたとあり、この香箱は陰部の隠語でもあるという<ref>{{Cite book|和書|author=五来重|authorlink=五来重|title=鬼むかし 昔話の世界|year=1991|publisher=[[角川書店]]|series=角川選書|isbn=978-4-04-703209-5|page=230-231}}</ref>。
* 岩手県の別の語りでは、桃太郎は父母が花見に行った時に拾った桃から誕生。地獄の鬼から日本一の黍団子を持って来いと命じられ、地獄へ行き鬼が団子を食べているすきに地獄のお姫様を救う。婚姻譚を伴う桃太郎である<ref name="shinwadenstsu" />。
* 福島県の桃太郎も山向こうの娘を嫁にする話。きび団子の代わりに粟・稗の団子の設定の高知県の話。またお供も猿・犬・雉ではなく石臼・針・馬の糞・百足・蜂・蟹などの広島県・愛媛県の例もある。地方には多様なバリエーションがある<ref name="shinwadenstsu" />。
* 東京北[[多摩]](現・東京都[[多摩地域]]北部)地方には蟹・臼・蜂・糞・卵・水桶等を家来にする話があり、これは明らかに[[猿蟹合戦]]の変型とする見方もある<ref>{{Cite book|和書|title=鬼むかし 昔話の世界|page=238}}</ref>。
* 山梨県[[大月市]]には「[[岩殿山]]([[九鬼山]]という説もある)に住む鬼が里山の住民を苦しめていた」「[[百蔵山]]には桃の木が生い茂り、そこから川に落ちた桃をおばあさんが拾い持ち帰った」「[[上野原市]]の犬目で犬、[[鳥沢駅|鳥沢]]でキジ、[[猿橋]]でサルを拾った」等のいわゆる「大月桃太郎伝説」が存在する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/ekicho/result.aspx?mode=3&ekimei=%91%E5%8C%8E&StationCd=331|title=駅長のおすすめ情報 大月駅|author=JR東日本|accessdate=2014年11月8日}}</ref>
* [[南西諸島]]の[[沖永良部島]](鹿児島県[[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]])では「桃太郎」は「ニラの島」へ行ったという。龍宮であるニラの島で島民はみな鬼に食われていたが、唯一の生存者の老人の家に羽釜があり、そのふたの裏に鬼の島への道しるべが書かれており、その道しるべどおり地下の鬼の島へ行き、鬼退治に行く筋書きである<ref>{{Cite book|和書|title=鬼むかし 昔話の世界|page=216}}</ref>。
* 沖縄県[[宮古島]]の古謡「[[仲宗根豊見親]]八重山入の時の[[宮古列島#アヤゴ(アヤグ)|あやご]]」では、[[1500年]]の[[オヤケアカハチの乱]]に参戦した豪族の一人に桃多良(むむたらー)の名があり、この時期までの沖縄への桃太郎伝承の伝播の可能性が論議されている。
=== その他 ===
* 語り部によって、桃が川に流れている描写を「どんぶらこっこ すっこっこ」、「どんぶらこ どんぶらこ」などと表現する。
* 「桃太郎」は日本統治時代の台湾に伝わり、台湾には「桃太郎村」<ref>{{Cite web|和書|title=台灣影城之桃太郎村 |url=https://www.facebook.com/taotailong |website=www.facebook.com |access-date=2023-02-06 |language=ja}}</ref>というアミューズメント施設が存在した。
* [[屏東県]]の客家地域では、桃太郎一行が山に入り、虎退治(虎狩り)をして、虎の皮や肉を持ち帰ったと伝えられているが、山賊退治して財宝を持ち帰ったバージョンもある。[[新竹県]]の[[タイヤル族]]には、桃太郎一行が鬼城へ鬼退治に行ったバージョンがある<ref>陳麗娜『屏東後堆客家民間故事』、2006年。</ref><ref>金栄華『台湾桃竹苗地区民間故事』、2000年。</ref>。
== ゆかりの地 ==
[[ファイル:桃太郎 - panoramio.jpg|サムネイル|right|300px|桃太郎の像([[岡山県]][[岡山市]]、[[吉備サービスエリア]])]]
[[ファイル:吉備津彦神社の桃太郎像.jpg|代替文=岡山県岡山市 吉備津彦神社の桃太郎像|サムネイル|岡山県岡山市 吉備津彦神社の桃太郎像]]
ゆかりの地とされる場所は全国にあるが、その中でも特に[[岡山県]]が最有力地とされており<ref>[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/05_vol_101/feature01.html JR西日本]</ref>、全国で唯一、岡山だけが『「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』の名称で[[日本遺産]]として[[文化庁]]からゆかりの地として正式に認定されている<ref>[https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story064/ 「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま 〜古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語〜]</ref>。
[[岡山県]]は、桃太郎作中の「[[きび団子]]」と同音の江戸時代の地元土産品「[[吉備団子]]」を関連付けるなど、全県を挙げての宣伝活動からゆかりの地として全国的に有名となり、現在は桃太郎の像なども存在する。岡山を発祥地とする主張の三大根拠とされるのが、[[吉備団子]]、桃、そして,[[吉備津彦命]]の[[温羅]]退治伝説であるとされている{{sfn|加原|2011|p=488}}。
「黍団子」が「吉備団子」に通じることから、桃太郎は「[[吉備国]]」(現在の岡山県)とゆかりがあるとの論旨が生まれた。しかし古い系統本の物語説話では「[[十団子|とう団子]]」等であることが指摘されており{{sfn|小池|1967|p=21|}}、本来そのような関連性はないとされる。ちなみに商品として広く知られる[[吉備団子]]は、きび団子にちなんで江戸末期に売り出された物である{{sfn|小池|1967|p=21|}}。
岡山県ゆかりの由来説として、第7代[[孝霊天皇]]の[[皇子]]彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)の[[温羅]]退治伝説に桃太郎説話の原話を求める説がある。[[岡山市]]の[[吉備津神社]]の縁起物など(古くは16世紀末の文献)に記録される伝説であるが、時代設定は第11代[[垂仁天皇]]の御代であり<!--垂仁天皇18年、[[神武天皇即位紀元]]649年[=西暦10年BC]などと戦前の書籍にみえる-->、温羅の居城は[[備中国]][[鬼ノ城]]とされているので<!--鬼ノ城は7世紀のものらしい-->桃太郎討伐の鬼に見立てられている{{sfn|加原|2011|pp=487-488}}。これは学界ではなく在野の説で、地元岡山市の難波金之助なる塑像家が昭和初期に提唱したのを嚆矢とする{{sfn|加原|2011|p=487}}。
似た俗説が明治時代、日本一吉備団子を販売する広栄堂の主人が執筆したなかにもみえる。そこでは桃太郎のモデルを神武天皇という仮説を立てており、さらに吉備津彦命はその昔、この天皇に手ずから[[吉備団子]]を献上したという言い伝えを記している<!--神武は初代天皇で吉備津彦は7代天皇の皇子でこれも時代が合いそうにないが-->{{r|asajiro}}。
吉備津神社縁起物によると、吉備津彦命は犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)という部下がいた{{sfn|藤井|1973|p=70}}。{{要出典範囲|犬飼、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、[[鬼ノ城]]に住む「鬼」である温羅を倒したともされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健{{=}}犬」「楽々森彦{{=}}猿」「留玉臣{{=}}雉」となるとする説がある|date=2019年4月}}。
岡山県の血吸川([[笹ヶ瀬川]]の支流<!--要出典4-->)も桃太郎の桃が流れた川、あるいは桃太郎との戦いで傷を負った鬼の血が流れた川だと、温羅伝説に伝わる{{sfn|藤井|1973|p=69}}{{sfn|加原|2011|p=489}}。
彦五十狭芹彦命(吉備津彦)の故郷である奈良県[[磯城郡]][[田原本町]]では、桃太郎生誕の地として黒田庵戸宮([[廬戸宮]])を観光PRの一つとして取り上げている。
以下は桃太郎サミットや日本桃太郎会連合会に参加する自治体とそのゆかりの場所。
* 岡山県[[岡山市]]
** [[吉備津神社]]
** [[吉備津彦神社]]
** [[笹ヶ瀬川]]<ref>[http://guide.travel.co.jp/article/11820/ トラベルガイドHP 2015] </ref><ref>[http://ww81.tiki.ne.jp/~spa-momotaro/index.html 桃太郎温泉HP 2015] </ref>
** [[鬼ノ城]](総社市)
** [[中山茶臼山古墳]]
** [[矢喰宮]]
** [[楯築遺跡]] (倉敷市)
** [[おかやま桃太郎まつり]]
** [[岡山空港]](岡山桃太郎空港)
* 香川県[[高松市]]
** [[田村神社 (高松市)]]
** [[熊野権現桃太郎神社]]
** [[女木島]] (鬼ヶ島)
** [[鬼無]]
== 解釈 ==
{{独自研究|section=1|date=2008年5月}}
{{出典の明記|section=1|date=2008年5月}}
=== 伝播・派生 ===
桃太郎の対的説話としては瓜から生まれた[[瓜子姫]]が指摘され<!--以下・柳田-->、[[沖縄県]][[久高島]]には黄金の瓜から生まれた男子が後の琉球王([[西威]]王とされる)となったという[[伝説]]のバリエーションもある<ref>『カラー沖縄の民話と伝説』88~90項、月刊沖縄社</ref>。
=== 桃 ===
上流から流れてきた桃を食べて老夫婦が若返ったというくだりは、[[西王母]]伝説、あるいは[[日本神話]]の[[イザナギ]]の[[神産み#黄泉の国]]にみられるように、桃が邪気をはらい[[不老不死]]の力を与える[[霊薬]]である果実とされていることと関連する。桃太郎を齎した桃は、こうした力のある桃が山から流れて来たものとも考えられる。瓜や橘の実でなく、特に桃である理由について、[[奥田継夫]]は著書『どこかで鬼の話』で「桃は大昔より数少ない果物であり、においや味、薬用性および花の美しさがそろい、紅い小さな花と豊潤な果実を付けるところが不老不死のイメージにぴったりであり、人に利益を与え死の反対の生のシンボルを思わせ、その中でも特に桃の実が柔らかくみずみずしく産毛、筋目から命の源の女性器に似ているからであり、そのイメージには邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるからであろう」としている<ref name="dokokade">[[奥田継夫]]著『どこかで鬼の話』京都[[人文書院]]1990年、38頁、42頁。ISBN 4-409-16048-6。</ref>。この桃と女性の生殖器についての考察は、[[西岡秀雄]]等がおこなっている<ref>西岡秀雄氏『日本における性神の史的研究』、1950年。{{harvnb|桃崎|1990|pp=44,87}}に拠る。</ref>。
桃そのものが女性であったという解釈もある。おばあさんが拾ってきたのは、大きな桃ではなく若い娘であり(桃は若い娘の尻の象徴)、子供が出来ず悩んでいたおばあさんは、拾ってきた娘におじいさんの子供をはらませ、その娘から子供を取り上げた(=桃を割る)という。{{要出典|date=2021年8月14日 (土) 03:38 (UTC)}}
日中民間説話研究者の立石展大は中国においては[[棗核児]]が似た伝承があるとしている<ref>{{Cite journal|author=立石展大|year=2017|title=口承三国志の研究 関索と鮑三娘を例として|journal=國學院中國學會報|volume=63|page=81-101}}</ref>。
=== 鬼門 ===
鬼は、[[風水]]では[[丑]]と[[寅]]の間の方角(北東)である「[[鬼門]]」からやって来ると考えられていることから、敵役である鬼が牛のような角を生やし、虎の腰巻きを履いているのも、[[風水]]の思想によるという解釈もある。
桃太郎は「鬼門」の鬼に対抗して、「裏鬼門」に位置する[[十二支]](十二支は方角も表す)の動物([[申]](サル)、[[酉]](トリ=キジ)、[[戌]](イヌ))を率いた、という解釈がある([[曲亭馬琴]]「[[燕石雑志]]」など){{sfn|滑川|1981|p=41}}。
[[巖谷小波]]の『日本昔噺』版「桃太郎」([[1894年]])には、鬼ヶ島が[[日本|大日本国]]の「東北(うしとら)」の方向にあるという説明が付加されているが、これも馬琴の「鬼が島鬼門説」に迎合したのではないかという見方がある{{sfn|小池|1972|pp=28-29, 38}}。だが刊行の時期が[[日清戦争]]の勃発と重なっていることもあり、桃太郎を皇軍に、鬼を敵国の[[清朝]]中国に見立てたことも影響していると思われる{{sfn|加原|2010|p=66}}。
=== 物語 ===
民俗学者[[柳田國男]]は『桃太郎の誕生』(1933年)の論集で、昔話に日本の「固有信仰」を見出すことに主眼をおいたが<ref name=hirano/><ref name=hirota/>、桃太郎を[[一寸法師]]、瓜子姫などのような異常誕生・成長の「小さ子」の物語系統のひとつとして解析したのは柳田が初めである<!--「初めて開拓」-->{{sfn|滑川|1951|p=510}}。また、川上から流れる桃の展開から異界の存在と水辺との関連を、それらを統率する存在として水辺の「小さ子」・「海神少童」伝承に繋がり{{sfn|柳田|1933|pp=51-106}}<ref name=hirano/>、最終的には、天のかがみの船に乗り波の流れに沿って流れついた[[スクナヒコナ]]神話へと結びつくのである{{sfn|滑川|1951|p=510}}{{sfn|平野|1992|p=72}}。柳田はここで、昔話とはかつての神話の零落した一つの姿であると言っている{{sfn|柳田|1933|pp=41-42}}。
視点を変えれば異常出生の神の子が共同体から除外されつつも異郷に赴く「英雄神話」が抽出できる<ref name="shinwadenstsu" />。また柳田は『桃太郎の誕生』の中で、古代ローマの[[ミトラ教]]神話には、少年の姿をしたミトラ神が犬やサソリを伴って猛牛を退治する話があり、同類型の話が日本以外にも存在するとも述べている。
桃太郎を文化人類史的視点から見たのが文化人類学者・[[石田英一郎]]である。『桃太郎の母』において、「水界の小さき子」の影に「水界の母子神」の存在がつきまとうと見いだし、南方の島々や太平洋周辺の諸民族の伝説の研究へと行き着く。浜辺に神の子を産み残していく「[[豊玉姫]]型の伝承」や南風に身を晒して子を産む「[[女護島|女護が島]]型の説話」などの[[ユーラシア大陸]]、[[旧石器時代 (日本)|旧石器時代]]の文化との関連へと石田の「桃太郎の母」探しは発展していき<ref name="shinwadenstsu" />、遠い昔に信仰された[[原始母神]]とその子神とにまつわる霊童の[[異常出生譚]]的な神話の想定に至る<ref name="mukashibanashi" />。
神話学者・[[高木敏雄]]は『桃太郎新論』で出自そのものの桃に着眼し、「梨太郎」・「林檎太郎」でなくなぜ桃太郎なのかにこだわった。桃太郎を「英雄伝説的童話」と位置づけ、桃は前述のように邪気を祓う霊物であり、長生不老の仙果であり、太郎が老夫婦に育てられるのと桃が不老長寿の果物であることは無関係でないと述べている<ref name="shinwadenstsu" />。
民俗学者・[[関敬吾]]は鬼が島征伐の冒険的行為に社会慣習としての[[通過儀礼]]である[[成年式]]が反映していると考えた<ref name="mukashibanashi" />。
== 評価・変遷 ==
[[福澤諭吉]]は、自分の子供に日々渡した家訓「[[ひびのおしえ|ひゞのをしへ]]」で、悪行をなす鬼を懲罰する桃太郎は正しくとも、(世のために)鬼が所持する宝を強奪した桃太郎は「卑劣千万」であると非難する。{{efn2|"もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり。もしまたそのおにが、いつたいわろきものにて、よのなかのさまたげをなせしことあらば、もゝたろふのゆうきにて、これをこらしむるは、はなはだよきことなれども、たからをとりてうちにかへり、おぢいさんとおばゝさんにあげたとは、たゞよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり。(桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝をとりに行くためだ。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなくとりに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。また、もしその鬼が悪者であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さんとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変に卑劣である)"。}}
現代でも「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが悪者ではないか」と考える者はおり、裁判所等で行われる模擬裁判の事例やディベートの議題として取り上げられる場合がある{{efn2|桃太郎の模擬裁判を扱ったフィクション作品としては、民話の出来事を裁判員制度の題材とした漫画『裁判長! 桃太郎は「強盗致傷」です!』(漫画:相川タク、監修:小林剛)、[[NHK教育テレビジョン]]のテレビドラマ『[[昔話法廷]]』などがある}}。
[[芥川龍之介]]をはじめとして、[[尾崎紅葉]]、[[正岡子規]]、[[北原白秋]]、[[菊池寛]]などの著名な小説家たちも競って桃太郎を小説の題材にしており、桃太郎が「日本人」の深層心理に与えている影響の大きさがうかがえる<ref name="shinwadenstsu" />。
[[戦前]]は[[軍国主義]]という[[思想]]を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。この場合桃太郎は敵国という鬼を成敗する子としてスローガンに利用され、日本初の長編アニメ映画といわれる『[[桃太郎の海鷲]]』『[[桃太郎 海の神兵]]』はじめ多くの[[プロパガンダ]]作品に登場した。大正期の[[童心主義]]では童心の子として、[[プロレタリア]]主義では階級の子として、戦時中には孝行・正義・仁如・尚武・明朗などの修身の徳を体現した国民的英雄として、また戦後になると[[民主主義]]の先駆として語られる<ref name="mukashibanashi" />など、桃太郎はしばしば国民の模範として描かれてきた。
一方、[[太宰治]]は戦争中に執筆(発表は戦後)した『[[お伽草紙 (太宰治)|お伽草紙]]』の中で、「桃太郎」を「私の物語に鋳造し直すつもり」だったが、完璧に強い桃太郎を描くことが自分にはできない、「いやしくも桃太郎は、日本一という旗を持っている男である。日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い。」として執筆を断念したと記している<ref>{{青空文庫|000035|307|新字旧仮名|お伽草紙}}</ref>。
== 桃太郎に関連する作品 ==
=== 『桃太郎』の話を原案とした作品 ===
[[:Category:桃太郎をベースとしたフィクション作品|桃太郎をベースとしたフィクション作品]]も参照。
* 『[[鬼桃太郎]]』 - [[尾崎紅葉]](1891年) 桃太郎を鬼の面から解釈した<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/000091/files/50354_66120.html 鬼桃太郎] - 青空文庫</ref>。
* 『日露ぽんち桃太郎のロスキー征伐』 - [[石原和三郎]]文、[[北沢楽天]]画(1905年) [[日露戦争]]の際に出版された。「昔は南の国に鬼がいたが、今は西方にロスキー(露西鬼)がいる」というもの。
* 『桃次郎』 - [[巖谷小波]](1911年) 極力ユーモラスに桃太郎を書いた。
* 『[[ドンブラコ|オトギ歌劇ドンブラコ(桃太郎)]]』 - [[北村季晴]]作詞作曲のお伽[[歌劇]](1912年発表)。[[宝塚歌劇団|宝塚少女歌劇]]の初公演にも用いられた。
* 『[[むかし噺]]』 - [[北原白秋]](サンデー毎日 1922年(大正11年)10月、のち『花咲爺さん』に所収)
* 『[[桃太郎 (芥川龍之介)]]』 - [[芥川龍之介]](サンデー毎日の臨時増刊 1924年(大正13年)7月)
* 『[[モモタラウ]]』 - [[菊池寛]] 『日本童話集』文藝春秋社、1928年
* 『[[桃太郎 (内田百閒)]]』 - [[内田百閒]] 「王様の背中」(1934年)に収録<ref>[[久世番子]]『よちよち文藝部』[[文藝春秋]]、2012年10月、50頁</ref>。
* 「桃太郎輪廻」 - [[筒井康隆]]『日本列島七曲り』(1974年)所収{{efn2|[[カチカチ山]]、[[浦島太郎]]なども含めた[[サイエンス・フィクション|SF]]パロディ作品。}}。
* 『[[ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ]]』 - [[ドラえもん映画作品]](1981年)。
* 『[[ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島]]』 - [[任天堂]](1987年)が制作発売した[[ファミリーコンピュータ]]用[[アドベンチャーゲーム]]。主人公は桃太郎でない。[[派生作品]]に『[[平成 新・鬼ヶ島]]』がある。
* 『[[新・桃太郎]]』 - [[台湾映画]](1987年)。かつて日本の[[統治]]下にあった影響で、[[台湾]]でも桃太郎は有名であり映画化された。主題歌「千年神話」は「桃太郎」を[[ポップ・ミュージック|ポップス]]調に[[編曲|アレンジ]]した曲であった。
* 『[[桃太郎伝説シリーズ|桃太郎伝説]]』シリーズ - [[ハドソン]]の[[コンピュータRPG]]シリーズ(1987年〜)。[[1989年]]〜[[1991年]]に『[[桃太郎伝説 (アニメ)#桃太郎伝説 PEACHBOY LEGEND|桃太郎伝説 PEACHBOY LEGEND]]』『[[桃太郎伝説 (アニメ)#PEACH COMMAND 新桃太郎伝説|PEACH COMMAND 新桃太郎伝説]]』として[[テレビアニメ]]化もされた。派生作品として、コンピュータ[[ボードゲーム]]『[[桃太郎電鉄シリーズ|桃太郎電鉄]]』シリーズや[[アクションゲーム]]『[[桃太郎活劇]]』などがある。
* 『PEACHBOY』 - [[シガニー・ウィーバー]]のナレーション、[[坂本龍一]]の音楽で綴られた[[紙芝居]]風のビデオ作品(1992年<ref>[https://artist.cdjournal.com/d/-/1192070652 「PEACHBOY(桃太郎)」]、CDジャーナル - 2021年8月14日閲覧。</ref>)。
* 『[[桃太郎まいる!]]』 - [[楠桂]]の漫画(1993年)。『[[りぼん]]』に連載された。
* 『モモタロー・ノー・リターン』 - 奥山和弘(1995年<ref>[https://www.nwec.jp/about/pr/column/ecdat60000006h4q.html 「思えば遠く~モモタロー・ノー・リターン誕生秘話~」]、[[国立女性教育会館]]、2020年3月1日。</ref>) [[ジェンダーバイアス]]に対し、桃太郎を女の子として描写。主人公は「桃子」{{efn2|男女の役割を逆転させお爺さんが「川で洗濯」に、お婆さんが「山へ柴刈り」に行く。}}。
* 『[[Dancing Blade かってに桃天使!]]』 - [[コナミ]]の[[アドベンチャーゲーム]](1998〜1999年)。[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]・[[ドリームキャスト]]にて発売された。桃から生まれた少女「桃姫」と幼馴染の少年(プレイヤー)、イヌ・サル・キジをモチーフとした仲間と共に冒険をする。続編に当たる『dancing blade かってに桃天使II 〜Tears of Eden〜』も発売された。
* 『[[かなり桃たろう]]』 - [[玉井たけし]]の漫画(1998〜1999年)。
* 『桃太郎ぽけら異聞 ももぺ』 - [[犬丸りん]](2003年)の脱力系イラストストーリー{{efn2|「脱力力」を武器とする桃太郎・ももぺの活躍を描く。[[読売新聞]]日曜版に連載・単行本化。}}。
* 『HUMANITY THE MUSICAL 〜モモタロウと愉快な仲間たち〜』 - [[地球ゴージャス]]の[[ミュージカル]](2006年<ref>[https://www.chikyu-gorgeous.jp/stage_detail_08.html Vol.8『HUMANITY THE MUSICAL ~モモタロウと愉快な仲間たち~』]、地球ゴージャス - 2021年8月14日閲覧。</ref>)。
* 「ももたろう」(2007年)- [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]の番組『[[おはなしのくに]]』(出演・朗読は[[FLIP-FLAP]])<!--「乱暴者で親の手伝いをしない怠け者」であり、村を襲ってきた鬼に育ての親のお婆さんが襲われたことで目が覚め、鬼ヶ島の鬼たちを懲らしめる。現代的な問題提起要素を加え、「やればできる」という教訓付きのストーリーになっていた。-->。
* 『[[モモキュンソード]]』 - キビダンゴプロジェクトによる[[オンライン小説|WEB小説]]として発表された[[ライトノベル]]。「桃太郎は女の子だった」という設定の元製作されている。[[2014年]]にTVアニメ化された。
* 『[[当方桃太郎、全パート募集]]』(2014年-2015年) - [[三上骨丸]]によるパロディ漫画。『[[少年ジャンプ+]]』創刊作品
* 『ありえない日本昔話“桃?太郎”』 - [[ゼスプリ・インターナショナル・ジャパン]]が制作したWEB絵本。原典の桃を[[キウイフルーツ]]に置き換えている。2015年6月24日公開<ref>[https://ddnavi.com/news/245430/a/ キウイフルーツから桃太郎!?親子で楽しめるエクストリーム絵本 「ありえない日本昔話“桃?太郎”」公開!]、ダ・ヴィンチニュース、2015年6月26日。</ref><ref>[https://woman.mynavi.jp/article/150629-155/ ファッションリーダーにレスラー風の桃太郎!? 『ありえない日本昔話“桃?太郎”』web公開開始!]、マイナビウーマン、2015年6月29日 17:00。</ref>。
*『ペプシストロング "Forever Challenge" 桃太郎 CM』 - フィーチャー [[小栗旬]]。
* 『混昔物語』 - 橘花紅月(2017年)。桃太郎を含む複数の昔話を一つにまとめた小説。
* 『ももたろう』(2020年) - [[漫☆画太郎]]の「ガタロー☆マン」名義による絵本。「笑本おかしばなし」シリーズ第1作。
* 『[[暴太郎戦隊ドンブラザーズ]]』 - [[東映]](2022年)。[[スーパー戦隊シリーズ]]第46作品目のタイトル並びにそのヒーロー名。桃太郎をモチーフにしたスーパー戦隊である。
=== 『桃太郎』の後日談、子孫、転生を描いた作品 ===
* 『[[桃太郎元服姿]]』
** [[安永 (元号)|安永]]8年([[1779年]])に発表された[[人情本]]。作者は[[市場通笑]]<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8929836 桃太郎元服姿 2巻 古典籍資料 市場通笑]国立国会図書館デジタルコレクション</ref>。桃太郎に退治された鬼が桃太郎を暗殺するため鬼娘を召使いとして桃太郎の家に送り込むが、鬼娘は桃太郎と暮らすうちに恋心を抱く。桃太郎への片思いと暗殺命令の板ばさみに苦しんだ鬼娘は自刃して命を絶つ。庶民の間で広く親しまれていた『桃太郎』にはいくつかの続編([[二次創作]])があり本作もその一つである。
* 『[[桃太郎地獄変]]』
** [[石川賢 (漫画家)|石川賢]]の漫画。鬼を征伐した後の凄惨な仲間割れが描かれている。鬼が島の掃討場面でも、女・子供に容赦していない。
* 『サイバー桃太郎』
**[[山口貴由]]のSF時代劇漫画。新装版タイトルは「魔幻戦記サイバー桃太郎」。サイバー化した桃太郎が仲間のイヌ子らと鬼退治をしさらに強大な敵と戦っていく。その後『真 サイバー桃太郎』としてリライト作も書いている。
* 『[[衛府の七忍]]』
**[[山口貴由]]の時代劇漫画。温羅を退治した後も鬼退治を続け、1000年以上生きている。体制側の最強人物。被差別民の鬼たる主人公たちにとって最大の敵。
* 『[[THE MOMOTAROH]]』
** [[にわのまこと]]のエンターテイメント[[プロレス]]漫画。[[週刊少年ジャンプ]]に連載された。桃太郎の子孫を名乗る人物([[覆面レスラー]])が登場。
* 『[[つっぱり桃太郎]]』
** [[漫☆画太郎]]の漫画。[[週刊ヤングジャンプ]]に連載された。二代目桃太郎となる人物が登場。
* 『[[桃組+戦記]]』
** [[左近堂絵里]]の漫画。主人公の桃園祐喜が桃太郎の[[生まれ変わり]]という設定。
* 『[[燃えろ!熱血リズム魂 押忍!闘え!応援団2]]』
** かつて鬼を退治した勇者として「岡山桃太郎」が登場。すっかり年をとっており74歳の爺さんになっている。
* 『[[風が如く]]』
** [[米原秀幸]]の漫画で2008年10月より[[週刊少年チャンピオン]]にて連載中。
** 主人公ではないが、犬([[ジャイアントパンダ|パンダ]])、猿([[人間]])、雉([[鳩]])を連れて鬼ヶ島へ向かう十二代目・桃太郎の女の子が重要人物として登場する。
*『[[殲鬼戦記ももたま]]』
** [[黒乃奈々絵]]の漫画。桃太郎、犬、猿、雉の生まれ変わりが登場し、登場人物のほぼ全てが犬、猿、雉の特性を持つ。
*『[[桃次郎の冒険]]』
** [[劇団四季]]のミュージカルで[[阪田寛夫]]の小説「桃次郎」が原案。「桃太郎」の紙芝居にケチをつけた少年・桃山次郎が桃太郎の弟・桃次郎となって紙芝居の世界に入り再び鬼退治に旅立つが、鬼たちと仲よくなるという物語。おじいさんとおばあさんが桃太郎の活躍以降欲深い性格になっていたり、家来の犬、猿、雉はぐれていて全くやる気がなかったり、鬼たちは実は善良な種族で彼らに取っては鬼ヶ島に乗り込んでたくさんの鬼を殺し財宝を奪っていった桃太郎の方が悪だったりと、善悪が逆転したような世界観が特徴。また桃次郎の弟の桃三郎(桃山三郎)も登場し、鬼の友達になった桃次郎と対立することになる。
*『[[鬼灯の冷徹]]』
** [[江口夏実]]の漫画。死後の世界の住人として登場。桃太郎は桃源郷で薬剤師見習い、犬、猿、雉は地獄で獄卒として働いている。
*『[[鬼武者]]』
** [[カプコン]]のアクションゲームシリーズ。過去に鬼一族の本拠地であった鬼ヶ島を手下の幻魔三匹と壊滅させたことがあり、人間界では後に「桃太郎伝説」として語り継がれている高等幻魔ゴーガンダンテスが登場した。
* 『[[ピーチボーイリバーサイド]]』
**原作:[[クール教信者]]、漫画:ヨハネの[[Web漫画]]。桃太郎の力を[[創世記]]と絡めて解釈した異説。日本で鬼退治した桃太郎が海外でも鬼退治を続けていく。
*『桃太郎日常茶飯事鬼退治』
** [[秋里和国]]の漫画。現代版桃太郎が登場。お供は雉([[八咫烏]])と猿([[イタチ]])。[[京都]]の宿を舞台に人に巣くう鬼退治をする。
*『[[桃源郷ラビリンス]]』
** [[岡山ヒロミ]]の小説。[[岡山市]]の古民家[[カフェ]]「桃源郷」で店主をしている桃太郎の生まれ変わり吉備桃太郎が主人公。犬・猿・雉の生まれ変わりも登場。舞台化・映画化(映画題「桃源郷ラビリンス〜生々流転〜」)されている。
*『[[ピーチツアー]]』
** [[遠藤淑子]]の漫画。桃太郎の孫娘モモが血を流さず鬼との関係を解決すべく雉若丸(きじわかまる)という名の若さま、そのお付き武官の柴犬之助(しばけんのすけ)、そして海賊の鬼申(きしん)とともにニュー鬼ケ島に向かう。
=== 上記以外で人物関係などの設定を引用している作品 ===
* 『[[桃太郎の海鷲]]』 - [[1943年]][[3月25日]]に公開された国産アニメ。
* 『[[桃太郎 海の神兵]]』 - [[1945年]][[4月12日]]に[[松竹動画研究所]]により公開された日本の長編アニメ。この時期軍部が提供した潤沢な予算はアニメーション技術の向上に繋がったとの評価がある。
* 『[[魔法のプリンセス ミンキーモモ]]』 - 主人公(モモ)とお供の3匹(犬、サル、鳥)の構成は、桃太郎をモチーフとしたものである。
* 『どんぶらこ』- [[山下文吾]]による漫画。
* 『[[Dancing Blade かってに桃天使!]]』 - 株式会社[[コナミ]]販売の[[アドベンチャーゲーム]]。
* 『[[獣戦士ガルキーバ]]』 - 主人公(桃矢)と3匹のアニマノイド(犬([[オオカミ|狼]]))、サル([[ゴリラ]])、[[鳥類|鳥]])のキャラクター設定は、桃太郎をベースとしており、さらにこれに[[金太郎]]が加わる。
* 『[[仮面ライダー電王]]』 - [[仮面ライダーシリーズ|平成仮面ライダーシリーズ]]第7作。お伽話の登場人物をキャラクターのモチーフとする中で、仮面ライダー電王 ソードフォームのモチーフが桃太郎。前述の『ドンブラザーズ』ともコラボレーション。
* 『桃にキッス!』 - [[川村美香]]の漫画。鬼を封印する役目を担った主人公とその恋人の仲間3人が、それぞれ犬、猿、雉に変身できる能力を持っている。
* 『[[シャキーン!]]』 - MCの1人のモモエは桃の妖精という設定でありピンク色の女の子であるが16代目桃太郎と名乗っている<ref>[https://web.archive.org/web/20160303121531/http://www.nhk.or.jp/kids/program/shakiin_ca.html シャキーン! - キッズワールド NHK Eテレ こどもポータル]([[インターネットアーカイブ]])</ref>。「おしえてモモエさん」のコーナーで犬キジ猿からの質問に答えている。「鬼Tube」のコーナーは三匹の鬼による[[ライブ動画配信サービス|動画配信]]風のコーナーであるが<ref>[https://web.archive.org/web/20180412163346/http://www.nhk.or.jp/kids/program/shakiin_cr.html シャキーン! - キッズワールド NHK Eテレ こどもポータル](インターネットアーカイブ)</ref>、モモエは彼らを敵視している。
*『[[一血卍傑-ONLINE-|一血卍傑]]』- 鬼退治をし、金銀財宝を手に入れた後のモモタロウが登場する。吉備津彦の設定を加えられており、吉備津神社に奉納されている長船法光の太刀を持ち、鬼ヶ島ではなく鬼ノ城(読み方は「おにのしろ」)で鬼退治をしたこととなっている。若くして名をあげたため、自分が最強だと思い込んでいる。しかし、正義感が強く、平和を乱すものは許さないが、少々行き過ぎたところがある。
* 『[[ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜]]』 - [[神山健治]]によるアニメ。主人公の父の名前がモモタロー。
* 『美鬼神伝説 MOMO』 - 脚本:[[沖南数人]]、作画:[[Z-ONE]]、構成:[[津島直人]]のSF漫画作品。謎の星を舞台とした巨大な刀を持った少女MOMOと記憶をなくしたひ弱な少年タロウの鬼退治冒険活劇。イヌ族・鳥族などが登場。
* 『桃太郎くんは言うコトをきかない』 - [[御守リツヒロ]]の漫画作品。新任教師の鬼ヶ島が問題児である桃太郎とその仲間たちに振り回される学園ドタバタギャグ漫画。
* 『桃太郎』 - 作詞・作曲:[[ケンモチヒデフミ]]、歌:[[水曜日のカンパネラ]]の楽曲(2014年)。現代版桃太郎をテーマにしている<ref>[https://rockinon.com/news/detail/113826 水曜日のカンパネラ、“桃太郎”のミュージック・ビデオを公開]、rockinon.com、2014年11月20日。</ref>。引きこもりの太郎少年が鬼退治に行く話<ref>[https://news.utamap.com/music/150539/ 水曜日のカンパネラ、ツアー、ワンマンに向けてMV「桃太郎」を遂に解禁!!]、うたまっぷNEWS、2014年11月20日。</ref>。
== 派生用語 ==
===名称===
*'''[[昔々亭桃太郎]]'''は、[[落語]]の名跡。当代は'''[[昔昔亭桃太郎]]'''と名乗る。
=== 選挙 ===
* '''桃太郎'''(ももたろう)は、[[選挙運動]]の方法の一つ<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【参院選】素朴なぎもん「桃太郎」ってなに?実は常識ひっくり返した新戦術 |url=https://www.sankei.com/article/20160626-JYWF4UYIX5P4LPPZ73MCRDLYQA/ |website=産経ニュース |date=2016-06-26 |access-date=2023-10-21 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。襷をかけた[[候補者]]が[[幟]]を持った運動員らを連れて街頭を練り歩く活動が、鬼退治に向かう桃太郎の姿を連想させることからこのように呼ばれる<ref name=":0" />。
=== 野菜 ===
* '''[[桃太郎 (トマト)|桃太郎]]'''(ももたろう)は、[[タキイ種苗]]が販売する[[トマト]]の品種の1つ。
=== 菓子 ===
* '''もも太郎'''(ももたろう)は、[[新潟県]]を中心に[[セイヒョー]]、さかたや、第一食品が販売している[[アイスキャンディー]]の商品名。
=== 鉄道・航空 ===
* '''ECO-POWER桃太郎'''は、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)[[岡山機関区]]所属<ref>100番台の一部が岡山区の他[[新鶴見機関区]]及び[[吹田機関区]]に、300番台が[[広島機関区]]に所属している。</ref>の[[電気機関車]]・[[JR貨物EF210形電気機関車|EF210形]]の愛称。
* '''鬼無桃太郎駅'''は、[[四国旅客鉄道]](JR四国)の[[予讃線]]、[[鬼無駅]]の愛称。
* '''四国桃太郎貨物駅'''は、日本貨物鉄道(JR貨物)の予讃線・[[高松貨物ターミナル駅]]の愛称。
* [[西日本旅客鉄道岡山支社]]の[[吉備線]]及び[[津山線]]の入線メロディ。
* '''[[岡山電気軌道9200形電車]]'''の愛称「MOMO」は、桃太郎と岡山の名産の果物・[[モモ|桃]]に由来する。
* '''桃太郎線'''は、[[西日本旅客鉄道]]・[[吉備線]]の愛称。
* '''岡山桃太郎空港'''は、[[岡山空港]]の愛称。
=== 企業 ===
* 株式会社[[桃太郎 (アダルトビデオ)|桃太郎]](桃太郎映像出版、桃太郎ピクチャーズ)は日本のビデオ製作会社
* 株式会社 [[藍布屋|ジャパンブルー]] - 「桃太郎ジーンズ」というブランドを展開
* 株式会社[[ランシステム]] - コンピュータゲーム販売「TVゲームショップ桃太郎」、ゲームセンター「アミューズメント桃太郎」を展開。
* 有限会社[[桃太呂]] - 長崎県[[長崎市]]で[[豚まん]]を製造・販売する企業。
=== 企業・自治体のキャラクター ===
* [[メガネドラッグ]] - [[マスコットキャラクター]]に桃太郎をモチーフにした「モモちゃん」が用いられている。
* [[au (携帯電話)]] - 2015年から桃太郎(桃ちゃん)がイメージキャラクターの一人となっている(詳細は「[[auのイメージキャラクター]]」を参照)。
*岡山県 - 2005年の[[第60回国民体育大会|おかやま国体]]で誕生し、翌年から同県のマスコットキャラクターに昇格した[[ももっち]]というマスコットキャラクターが使われている。
=== ゲーム ===
* [[ハドソン]]が、桃太郎シリーズ(『[[桃太郎伝説シリーズ|桃太郎伝説]]』シリーズや『[[桃太郎電鉄シリーズ|桃太郎電鉄]]』シリーズなど)を発売。
* [[セガ・インタラクティブ]]が稼働しているアーケードゲーム[[Wonderland Wars]](2015年稼働開始)に、吉備津彦命をモデルとしたキャラクターが登場。
=== 店名 ===
* ビデオ・DVD試写・販売店に'''桃太郎'''と言うチェーン店が大阪各地にある。
* 三重県[[四日市市]]及び[[菰野町]]におにぎり・弁当店のチェーン店'''おにぎりの桃太郎'''がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注訳 ===
{{notelist2}}
===出典===
{{reflist|30em|refs=
<ref name=hirano>{{citation|和書|last=平野 |first=仁啓 |author-link=平野仁啓 |title=柳田国男探求: 固有信仰論の展開 |publisher=たいら書房 |year=1992|url=
https://books.google.com/books?id=9MRMAAAAMAAJ |page=53-65)}}</ref>
<ref name=hirota>{{citation|和書|last=広田 |first=収 |title=『宇治拾遺物語』の編纂と物語の表現 |work=国文学年次別論文集 中世2 |volume= |number=|year=2001 |url=https://books.google.com/books?id=a0U0AQAAIAAJ |page=321 (317-339)}}</ref>
<ref name=asajiro>{{citation|和書|last=武田 |first=淺次郎 |title=山陽名所記 |place=岡山 |publisher=<!--Takeda Asajirō-->|year=1895|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084841|pages=1-5, 45}}</ref>
<ref name=minamoto>{{citation|和書|last=源 |first=豐秋<!--Toyoaki Minamoto--> |authorlink=源豐秋 |title=氣比神宮の桃太郞の彫刻に就いて |journal=歴史と地理 |volume=11 |number=2 |publisher=<!--星野書店 史学地理学同攷会--> |year=1923 |url=https://books.google.com/books?id=OjpBAQAAIAAJ&dq=%22桃太郎%22 |pages=72-78 |id={{NDLJP|3566881}}}}</ref>
<ref name=nakamura>{{citation|和書|last=中村 |first=直勝 |authorlink=中村直勝 |title= |journal=歴史と地理 |publisher=角川書店 |year=1935 |series=岩波講座日本歴史 第5 |url=https://books.google.com/books?id=Ts0nAQAAIAAJ&q=%22源豊宗%22 |page=22}}</ref>
<ref name=osumi>{{citation|和書|last=大隅 |first=和雄 |author-link=大隅和雄 |title=文化史の構想 |publisher=吉川弘文館 |page= |year=2003 |url=https://books.google.com/books?id=WKoyAQAAIAAJ}}<!--"(6)赤本『桃太郎話』(元禄前か)については原本不明のため、滑川前掲書から重引した。..赤本『桃太郎昔語』..これの初版は享保頃とされて"--></ref>
<ref name=ukiyoejiten>{{citation|和書|last=吉田 |first=暎二<!--Teruji--> |title=浮世絵事典|publisher=画文堂<!--original_publisher 緑園書房--> |volume=2<!--中巻--> |page=278 |year=1971|origyear=1965 |url=https://books.google.com/books?id=7qVNAAAAYAAJ}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{citation|和書|last=内ヶ﨑 |first=有里子 |title=江戸期昔話絵本の研究と資料 |publisher=三弥井書店 |year=1999}}
* {{citation|和書|last=加原 |first=奈穂子 |title=昔話の主人公から国家の象徴へ―「桃太郎」パラダイムの形成― |journal=東京藝術大学音楽学部紀要 |volume=36 |year=2010 |url=http://id.nii.ac.jp/1144/00000430/ |pages=51-72|naid=120005607395|publisher=東京藝術大学音楽学部}}
* {{citation|和書|last=加原 |first=奈穂子 |authormask=2|title=「伝説のふるさと」の創造─ 岡山県の「吉備路」と桃太郎伝説 ─|journal=早稲田商学 |number=427 |year=2011 |url=https://hdl.handle.net/2065/36677 |pages=485-515|naid=40018772353|publisher=早稲田商学同攻会}}
* {{citation|和書|last=雲岡 |first=梓 |title=古典教材としての『桃太郎』-古典学習導入時期の教材としての可能性- |journal=北海道教育大学国語論集 |volume=13 |year=2016 |url=http://id.nii.ac.jp/1807/00008770/ |pages=31-40|naid=120005744536 |publisher=北海道教育大学釧路校国語科教育研究室 |doi=10.32150/00008770}}
* {{citation|和書|last=小池|first=藤五郎|title=古文献を基礎とした 桃太郎説話の研究(上)|journal=立正大学文学部論叢|number=26 |year=1967|pages=3-39 |url=https://hdl.handle.net/11266/2923 |issn=0485215X |NAID=110000477022}}
* {{citation|和書|last=小池|first=藤五郎|authormask=2|title=古文献を基礎とした 桃太郎説話の研究(下)|trans-title=A Study of "Momotaro" : Based on Old Literature (II) |journal=立正大学文学部論叢|number=45 |year=1972|pages=3-50 |url=https://hdl.handle.net/11266/31733 |issn=}}
*{{citation|和書|last=志田|first=義秀|authorlink=志田義秀|chapter=下篇 2 桃太郞概論|title=日本の伝説と童話|publisher=日本の伝説と童話|year=1941|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453466|pages=303-315}}
*{{citation|和書|last=首藤 |first=美香子<!--ストウ ミカコ--> |title=昔話「桃太郎」の再話における表象戦略 : 講談社の絵本から占領期の絵本まで |trans-title= |journal=白梅学園大学・短期大学紀要 |volume=52 |number= |year=2016 |url=http://id.nii.ac.jp/1250/00002079/ |pages=1-19|naid=110010028342}}
* {{citation|和書|last=関|first=敬吾 |others=野村純一, 大島広志 |title=日本昔話大成: 本格昔話 |publisher=角川書店 |year=1978 |url=https://books.google.com/books?id=TdILAQAAIAAJ |pages=}}
* {{citation|和書|last=滑川 |first=道夫 |author-link=滑川道夫 |title=桃太郎像の変容 |publisher=東京書籍 |year=1981}}<!--滑川道夫『桃太郎像の変容』東京書籍 1981年(昭和56年)-->
* 野村純一『新・桃太郎の誕生 日本の「桃ノ子太郎」たち』吉川弘文館 2000年(平成12年)
* {{citation|和書|last=服部 |first=康子 |title=『再板桃太郎昔語』について |journal=叢 |publisher=東京学芸大学国語教育学科国文学第三研究室 |year=1979}}
*{{citation|和書|last=桃崎 |first=祐輔<!--Momozaki Yusuke--> |title=桃呪術の比較民俗学(1)|trans-title=Comparative Folklore and Magical Practices on Peaches-with Special Emphasis on the Example of Japan |journal=比較民俗研究<!--Asian folklore studies--> |number=2 |year=1990|pages=41-88 |url=https://hdl.handle.net/2241/14200|naid=110000531171|publisher=筑波大学比較民俗研究会}}
* {{citation|和書|last=柳田 |first=國男 |author-link=柳田國男 |title=桃太郎の誕生 |publisher=三省堂 |year=1933 |url=https://books.google.com/books?id=YEepBAAAQBAJ |id={{NDLJP |1453050}} }} ((再:角川文庫 1983年)
* {{citation|和書|editor=|last=藤井 |first=駿 |title=吉備津神社 |publisher=日本文教出版 |year=1973|isbn=|series=(岡山文庫52)}}
*{{citation|和書|last=山崎 |first=舞<!--Mai Yamasaki--> |title=昔話「桃太郎」の変転―『再板桃太郎昔語』の諸問題を中心に― |journal=玉藻 |publisher=フェリス女学院大学 |number=52 |year=2018a<!--2018-03--> |pages=51-67 |url=http://id.nii.ac.jp/1404/00002350/}}
*{{citation|和書|last=山崎 |first=舞<!--Mai Yamasaki (Yamazaki?)--> |authormask=2 |title=式亭三馬『赤本再興桃太郎』試論 |journal=フェリス女学院大学日文大学院紀要 <!--Bulletin of the Ferris University Graduate School of Japanese literature (正式英名不在)-->|publisher=<!--フェリス女学院大学--> |volume=24 |year=2018b<!--2018-07--> |pages=33-48 |url=http://id.nii.ac.jp/1404/00002412/}}
== 関連商品 ==
*NHKTPおはなしシリーズ TP17(NHKサービスセンター)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Momotaro}}
* [[まんが日本昔ばなし]] - [[浦島太郎]]、[[金太郎]]、[[竹取物語]]、[[瓜子姫]]
* [[コティホローシュコ]]
* [[岡山市]] - [[おかやま桃太郎まつり]]、[[岡山空港|岡山桃太郎空港]](岡山空港)
* [[総社市]] - [[鬼ノ城]]
* [[犬山市]] - [[桃太郎神社 (犬山市)]]
* [[鬼無]]([[上笠居村]]) - [[鬼無駅]]
* [[四道将軍]]
* [[犬養毅]] - 遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命
* [[庵戸神社]]
* [[竜母伝説]]
== 外部リンク ==
* [http://jptca.org/news/20151117-8372/ ステンドグラス作品「昔話桃太郎」 (岡山市)]
* [http://kibitujinja.com/about/shinwa.html 鬼退治神話 - 吉備津神社 (岡山市)]
* [http://www.kibitsuhiko.or.jp/sub/about_05.html 桃太郎さん - 吉備津彦神社 (岡山市)]
* [http://www.yha.gr.jp/momotaro/ 桃太郎公園 桃太郎神社]
* [http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/100_15253.html 芥川版「桃太郎」]
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[[Category:日本の民話]]
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イディ・アミン
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イディ・アミン・ダダ(Idi Amin Dada、1925年 - 2003年8月16日)は、ウガンダの軍人、政治家、第3代大統領。元帥、法学博士の肩書も持つ。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある。1975年にはアフリカ統一機構議長も務めた。
アミンは生涯を通じて自伝や公式の経歴を残さなかったため、出生地や出生日は不詳である。イギリスの植民地時代のウガンダで1925年頃にコボコかカンパラ生まれとする説が多数である。
マケレレ大学のフレッド・グウェデコによれば、アンドレアス・ニャビレ(1889年 – 1976年)の子で、ニャビレはウガンダ北西部の西ナイル地方に住むカクワ族出身で、1910年にカトリックからイスラム教へ改宗し、アミン・ダダに改姓した。イディは父に捨てられ、イディ・アウォ=オンゴ・アンゴー(Idi Awo-Ongo Angoo)の名で母方の家庭で育てられた。グウェデコによれば母はルグバラ族の伝統的なハーブ療法家のアッサ・アアテ(1904年 – 1970年)でブガンダ王室にも患者がいた。
イディはボンボ(英語版)のイスラーム学校でコーランを暗唱、雑務を経て、1946年イギリス植民地軍の王立アフリカ小銃隊(英語版)に炊事係として雇われた。その体格を生かし部隊内の体育大会で活躍し、衆目を集める。
ボクシングではヘビー級チャンピオンになったほか、白人ばかりのウガンダのラグビーチーム唯一の黒人選手として活躍し、植民地軍中尉にまで昇進する。ウガンダ独立後はミルトン・オボテに協力しムテサ2世を排除、ウガンダ軍参謀総長となった。
ウガンダ軍参謀総長当時の1971年1月、イギリス連邦首脳会議のためオボテが外遊中に軍事クーデター(英語版)で権力を掌握。1970年代のウガンダに軍事独裁政権を樹立した。オボテが左派的政策を採ったため、アミンは冷戦下において左派政権の排除を望む西側諸国から期待されてクーデターを実行し成功し、クーデターを支持したイギリスやアメリカをはじめとする西側諸国や、イスラエル、反共的なザイールのモブツ・セセ・セコと友好的な関係を持った。
やがて独裁化が進むとともに約10万から50万人と推計される国民を大量虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称され、少数民族、宗教指導者、ジャーナリスト、芸術家、官僚、裁判官、弁護士、学生、知識人、外国人などアミンの政策に異議を唱えた様々な人物が次々に粛清された。ほぼ同時期に大量虐殺を起こして同様に隣国に打倒されたカンボジアの独裁者ポル・ポトとも比較された。
また、アジア人追放事件(ほとんどは植民地時代に入植したグジャラート州などの出身の印僑であり、これに伴いインドともウガンダは国交断絶した)を起こしてアミンはアジア人やヨーロッパ人の所有する事業を自分の支持者に与えるも杜撰な経営で産業は崩壊した。経済は荒廃し、賃金と給料は9割も低下した。
アミンは右腕のアイザック・マリヤムング(英語版)など彼自身の部族であるカクワ族出身者をスーダン人、ヌビア人と共に重用した。1977年までに、これらの3つの民族グループは高級軍人の60%と閣僚の75%を構成し、人口の5%にすぎないイスラム教徒はこれらの80%と87.5%を構成した。これはアミンが8回ものクーデターを切り抜けた理由ともされる。
アミン政権時代の8年のうちにウガンダの自然環境や生態系は密輸業者とウガンダ軍兵士によって行われた広範囲にわたる密猟と森林伐採にさらされた。ウガンダでは、ゾウの75%、サイの98%、ワニの80%、ライオンとヒョウの80%などが失われた。
このような政策を西側諸国から批判され、当初の西側寄りの姿勢を急変させて1972年にはイギリスと断交してイスラエルの軍事顧問を追放し、1973年にはアメリカ合衆国連邦政府も、アミンと距離を置くこととなった。
アミンはアフリカにおける反欧米・反イスラエルの代表的存在のリビアのムアンマル・アル=カッザーフィーと接近し、パレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファート議長ともアミンの結婚式に立ち会うなど親しい仲であった。1975年からはアフリカ統一機構議長を務めるものの、翌1976年に発生したエールフランス機ハイジャック事件における対応に失敗して国際的な批判を浴びただけでなく、イスラエル軍によるエンテベ空港奇襲作戦を招く結果となった。アミンは報復として、入院していた女性の人質(イスラエルとイギリスの二重国籍)一人、さらに在ウガンダのケニア人殺害を命じたため、イスラエルとイギリスとの関係をさらに悪化させることとなった。
当時冷戦下で西側諸国と対峙していたソビエト連邦はウガンダ最大の武器供給国であったが、そのソ連に対しても挑戦的な態度をとることもあり、アンゴラ内戦をめぐっては一時的に外交関係が断絶したこともあった。
ザイールの第一次シャバ紛争(英語版)では「私は共産主義者ではなく、東にも西にも支配されていない」と述べてウガンダ軍の派兵や軍事物質の提供などアミンと親交のあったモブツへの支援の用意があることを表明してソ連と東ドイツといった東側諸国に支持されたコンゴ解放民族戦線と敵対した。東ドイツの情報機関はウガンダの秘密警察の創設でアミンに協力した形跡のもみ消しを図った。
1978年に、オボテを保護していた隣国タンザニアのジュリウス・ニエレレと対立していたことからタンザニアに侵攻するも失敗し、逆にタンザニア軍に首都のカンパラまで攻め込まれた(ウガンダ・タンザニア戦争)。リビアとPLOはウガンダを支援したが、ソ連にとってアミンは手に余る存在であったためにソ連はタンザニアに反撃を受けるウガンダを支援しなかった。
1979年に、反体制派のウガンダ民族解放軍(英語版)(UNLA)に攻撃された上に、軍内部の離反もあり失脚し、タンザニア侵攻の際に軍事作戦に協力していたリビアに当初は逃げるもカダフィすらもアミンのかつての暴虐ぶりを知るや敬遠するようになり、翌1980年には敬虔なイスラム教徒として暮らすことを条件に生活援助を申し出たサウジアラビアへの亡命を許された。
サウジアラビアに亡命後は何度かウガンダへの帰国を試みるもことごとく失敗し、表舞台に姿を見せることもなくなり、2003年8月16日にジッダの病院で多臓器不全による合併症で死去した。
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"text": "1979年に、反体制派のウガンダ民族解放軍(英語版)(UNLA)に攻撃された上に、軍内部の離反もあり失脚し、タンザニア侵攻の際に軍事作戦に協力していたリビアに当初は逃げるもカダフィすらもアミンのかつての暴虐ぶりを知るや敬遠するようになり、翌1980年には敬虔なイスラム教徒として暮らすことを条件に生活援助を申し出たサウジアラビアへの亡命を許された。",
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"title": "経歴"
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イディ・アミン・ダダは、ウガンダの軍人、政治家、第3代大統領。元帥、法学博士の肩書も持つ。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある。1975年にはアフリカ統一機構議長も務めた。
|
{{大統領
| 各国語表記 = Idi Amin Dada
| 画像 = Idi Amin at UN (United Nations, New York) gtfy.00132 (cropped) (cropped).jpg
| 画像サイズ = 202px
| 画像説明 = [[1975年]]、[[国際連合総会|国連総会]]にて
| 代数 = 第3
| 職名 = [[ウガンダの大統領|大統領]]
| 国名 = {{Flagicon|ウガンダ}}[[ウガンダ|ウガンダ共和国]]
| 就任日 = [[1971年]][[1月25日]]
| 退任日 = [[1979年]][[4月13日]]
| 副大統領 = {{仮リンク|ムスタファ・アドリシ|en|Mustafa Adrisi}}
| 出生日 = [[1925年]]頃
| 生地 = {{GBR}}<br>[[File:Flag_of_the_Uganda_Protectorate.svg|border|25px]] {{ill2|ウガンダ保護領|en|Uganda Protectorate}}(現{{UGA}})、[[コボコ]]或は[[カンパラ]]<ref name="birth_date_place"/>
| 死亡日 = [[2003年]][[8月16日]]
| 没地 = {{SAU}}、[[ジッダ]]
| 配偶者 = <small>マルヤム・アミン (離婚)<br/>ケイ・アミン (離婚)<br />ノラ・アミン (離婚)<br />メディナ・アミン<br />サラ・アミン</small>
}}
'''イディ・アミン・ダダ'''(Idi Amin Dada、[[1925年]]<ref name="birth_date_place">ブリタニカ、エンカルタ、コロンビア等の百科事典は出生日不詳で1925年頃にコボコかカンパラで生まれたとしている。[[マケレレ大学]]のフレッド・グウェデコは[[1928年]][[5月17日]]であると主張している[http://www.monitor.co.ug/artman/publish/special_adi-amin-profile/Rejected_then_taken_in_by_dad_a_timeline_2.shtml]。これには議論があり、[http://www.mail-archive.com/[email protected]/msg06472.html]死後の混同も含まれる。医師がアミンが80歳で死亡したと語ったため1923年生まれとする例もある。1920年代生まれであることは確実である。</ref> - [[2003年]][[8月16日]])は、[[ウガンダ]]の[[軍人]]、[[政治家]]、第3代[[ウガンダの大統領|大統領]]。[[元帥]]、[[法学博士]]<ref>"[http://www.news24.com/News24/Africa/News/0,,2-11-1447_1390595,00.html Idi Amin: a byword for brutality]", ''News24'', July 21, 2003.</ref>の肩書も持つ。身長193cmの巨漢で、東アフリカの[[ボクシング]][[ヘビー級]]チャンピオンになったこともある。[[1975年]]には[[アフリカ統一機構]]議長も務めた。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
アミンは生涯を通じて自伝や公式の経歴を残さなかったため、出生地や出生日は不詳である。[[イギリス]]の[[植民地]]時代のウガンダで[[1925年]]頃にコボコかカンパラ生まれとする説が多数である。
[[マケレレ大学]]の[[フレッド・グウェデコ]]によれば、アンドレアス・ニャビレ(1889年 – 1976年)の子で、ニャビレはウガンダ北西部の[[西ナイル地方]]に住む[[カクワ族]]出身で、1910年に[[カトリック教会|カトリック]]から[[イスラム教]]へ改宗し、アミン・ダダに改姓した。イディは父に捨てられ、'''イディ・アウォ=オンゴ・アンゴー'''(Idi Awo-Ongo Angoo)の名で母方の家庭で育てられた。グウェデコによれば母は[[ルグバラ族]]の伝統的な[[ハーブ]]療法家のアッサ・アアテ(1904年 – 1970年)でブガンダ王室にも患者がいた。
=== 軍歴 ===
{| class="wikitable" style="float: right; margin-left: 3.5em; padding-left: 2em; font-size: 85%;"
|-
| colspan="2" bgcolor="#CCCC66" align=center | '''軍歴'''
|-
| colspan="2" bgcolor="#FFFFFF" height="2"|
|-
| colspan="2" bgcolor="#EEEEEE" align="center"| イギリス植民地軍 '''王立アフリカ小銃隊'''
|-
| 1946年
| [[王立アフリカ小銃隊]]入隊
|-
| 1947年
| [[二等兵]] (Private)
|-
| 1952年
| [[伍長]] (Corporal)
|-
| 1953年
| [[軍曹]] (Sergeant)
|-
| 1958年
| [[曹長]] ([[小隊]]長)
|-
| 1959年
| エフェンディ ([[准士官]])
|-
| 1961年
| 最初のウガンダ人[[士官|国王任命士官]]<br/>[[中尉]]
|-
| colspan="2" bgcolor="#FFFFFF" height="2"|
|-
| colspan="2" bgcolor="#EEEEEE" align="center"| '''ウガンダ軍'''
|-
| 1962年
| [[大尉]]
|-
| 1963年
| [[少佐]]
|-
| 1964
| 国軍副[[司令部|司令官]]
|-
| 1965年
| [[大佐]]<br/>国軍司令官
|-
| 1968年
| [[少将]]
|-
| 1971年
| [[元首|国家元首]]<br/>国防評議会議長<br/>国軍総司令官<br/>陸軍[[参謀]]長<br/>空軍参謀長
|-
| 1975年
| [[元帥]]
|}
イディは{{ill2|ボンボ (ウガンダ)|en|Bombo, Uganda|label=ボンボ}}の[[マドラサ|イスラーム学校]]で[[クルアーン|コーラン]]を暗唱、雑務を経て、1946年イギリス植民地軍の{{仮リンク|王立アフリカ小銃隊|en|King's African Rifles}}に炊事係として雇われた<ref>"[http://www.britannica.com/eb/article-9007180/Idi-Amin Amin, Idi]", ''[[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]] Online'', Retrieved April 16, 2008.</ref>。その体格を生かし部隊内の体育大会で活躍し、衆目を集める。
ボクシングではヘビー級チャンピオンになったほか、[[白人]]ばかりのウガンダの[[ラグビーフットボール|ラグビー]]チーム唯一の[[ネグロイド|黒人]]選手として活躍し、植民地軍[[中尉]]にまで昇進する。ウガンダ独立後は[[ミルトン・オボテ]]に協力し[[ムテサ2世]]を排除、ウガンダ軍[[参謀総長]]となった。
=== 大統領 ===
==== 権力掌握 ====
ウガンダ軍参謀総長当時の[[1971年]][[1月]]、[[イギリス連邦]]首脳会議のためオボテが外遊中に軍事{{仮リンク|1971年ウガンダ・クーデター|label=クーデター|en|1971 Ugandan coup d'état}}で権力を掌握。[[1970年代]]のウガンダに[[軍事政権|軍事独裁政権]]を樹立した。オボテが左派的政策を採ったため、アミンは[[冷戦|冷戦下]]において左派政権の排除を望む西側諸国から期待されてクーデターを実行し成功し、クーデターを支持したイギリスや[[アメリカ合衆国|アメリカ]]をはじめとする西側諸国や、[[イスラエル]]、[[反共]]的な[[ザイール]]の[[モブツ・セセ・セコ]]と友好的な関係を持った<ref>"The Making of Idi Amin". New African. 1979.</ref>。
==== 政策 ====
やがて独裁化が進むとともに約10万<ref>Ullman, Richard H. (April 1978). "Human Rights and Economic Power: The United States Versus Idi Amin". Foreign Affairs. </ref>から50万人<ref>Keatley, Patrick (18 August 2003). "Obituary: Idi Amin". The Guardian. London.</ref>と推計される[[国民]]を[[大量虐殺]]したとして「'''黒い[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]'''」、「'''アフリカで最も血にまみれた独裁者'''」と称され、少数民族、宗教指導者、ジャーナリスト、芸術家、官僚、裁判官、弁護士、学生、知識人、外国人などアミンの政策に異議を唱えた様々な人物が次々に[[粛清]]された<ref>{{cite web|url=http://web.amnesty.org/aidoc/aidoc_pdf.nsf/d45725da5fa95f1f80256a2b00642199/cde8ef35a67e99e3802569a70019299e/$FILE/a3307593.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071128072410/http://web.amnesty.org/aidoc/aidoc_pdf.nsf/d45725da5fa95f1f80256a2b00642199/cde8ef35a67e99e3802569a70019299e/%24FILE/a3307593.pdf |archivedate=28 November 2007 |title=Disappearances and Political Killings: Human Rights Crisis of the 1990s: A Manual for Action |publisher=Amnesty International |deadurl=yes |df=dmy-all |accessdate=2019-06-03}}</ref>。ほぼ同時期に[[カンボジア大虐殺|大量虐殺]]を起こして同様に隣国に打倒された[[カンボジア]]の独裁者[[ポル・ポト]]とも比較された<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/3157101.stm|title=BBC NEWS – Africa – UK considered killing Idi Amin|author=|date=2003-08-06|work=[[BBC]]|accessdate=2019-06-03}}</ref>。
また、[[アジア人追放事件 (ウガンダ)|アジア人追放事件]](ほとんどは植民地時代に入植した[[グジャラート州]]などの出身の[[インド系移民と在外インド人|印僑]]であり、これに伴い[[インド]]ともウガンダは国交断絶した<ref name="batl">Baltrop, Paul (17 December 2014). A Biographical Encyclopedia of Contemporary Genocide: Portraits of Evil and Good. online: ABC-CLIO. p. 17. ISBN 978-0-313-38678-7. </ref>)を起こしてアミンは[[アジア人]]や[[ヨーロッパ人]]の所有する事業を自分の支持者に与えるも杜撰な経営で産業は崩壊した<ref>{{cite web|work=Federal Research Division|publisher=United States Library of Congress|title=Country Studies: Uganda: Military Rule Under Amin|accessdate=2019-06-03|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/ugtoc.html#ug0159}}</ref>。経済は荒廃し、賃金と給料は9割も低下した<ref name="名前なし-1">Stapenhurst, Rick; Kpundeh, Sahr John, eds. (1999). Curbing Corruption: Toward a Model for Building National Integrity. Washington: World Bank. ISBN 0-8213-4257-6.</ref>。
アミンは右腕の{{仮リンク|アイザック・マリヤムング|en|Isaac Maliyamungu}}など彼自身の部族であるカクワ族出身者を[[スーダン人]]、[[ヌビア]]人と共に重用した。1977年までに、これらの3つの民族グループは高級軍人の60%と閣僚の75%を構成し、人口の5%にすぎないイスラム教徒はこれらの80%と87.5%を構成した。これはアミンが8回ものクーデターを切り抜けた理由ともされる<ref>Lindemann, Stefan (2011). "The Ethnic Politics of Coup Avoidance: Evidence from Zambia and Uganda". Africa Spectrum. 46 (2): 3–41 [p. 20]. JSTOR 41336253.</ref>。
アミン政権時代の8年のうちにウガンダの[[自然環境]]や[[生態系]]は密輸業者とウガンダ軍兵士によって行われた広範囲にわたる[[密猟]]と[[森林]]伐採にさらされた。ウガンダでは、[[ゾウ]]の75%、[[サイ]]の98%、[[ワニ]]の80%、[[ライオン]]と[[ヒョウ]]の80%などが失われた<ref name="名前なし-1"/>。
==== 近隣および西側諸国との対立 ====
このような政策を西側諸国から批判され、当初の西側寄りの姿勢を急変させて1972年にはイギリスと断交してイスラエルの軍事顧問を追放し<ref>Tall, Mamadou (Spring–Summer 1982). "Notes on the Civil and Political Strife in Uganda". A Journal of Opinion (Issue: A Journal of Opinion, Vol. 12, No. 1/2) 12 (1/2): 41–44. doi:10.2307/1166537. JSTOR 1166537.</ref><ref name=batl/>、1973年には[[アメリカ合衆国連邦政府]]も、アミンと距離を置くこととなった<ref>"240. Telegram 1 From the Embassy in Uganda to the Department of State, 2 January 1973, 0700Z". United States Department of State. Office of the Historian. E-6. 2 January 1973. Retrieved 8 August 2009.</ref>。
アミンはアフリカにおける反欧米・反イスラエルの代表的存在の[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]の[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]と接近し<ref name="libya1">{{cite book|title=Africa Since 1800|author=Roland Anthony Oliver, Anthony Atmore|page=272}}</ref><ref name="ussr1">{{cite book|title=Who influenced whom?|author=Dale C. Tatum|page=177}}</ref><ref name="gdr1">Gareth M. Winrow. The Foreign Policy of the GDR in Africa, p. 141.</ref><ref>Jamison, M. Idi Amin and Uganda: An Annotated Bibliography, Greenwood Press, 1992, pp. 155–56</ref>、[[パレスチナ解放機構]](PLO)の[[ヤーセル・アラファート]]議長ともアミンの結婚式に立ち会うなど親しい仲であった<ref>Nakajubi, Gloria (15 June 2015). "Ugandan dictator Idi Amin's widow Sarah Kyolaba dies in the UK aged 59 The dictator's former "favourite" ran a hair salon in north London". Independent </ref>。[[1975年]]からは[[アフリカ統一機構]]議長を務めるものの、翌[[1976年]]に発生した[[エールフランス]]機[[ハイジャック]]事件における対応に失敗して国際的な批判を浴びただけでなく、[[イスラエル国防軍|イスラエル軍]]による[[エンテベ空港奇襲作戦]]を招く結果となった。アミンは報復として、入院していた女性の人質(イスラエルとイギリスの二重国籍)一人、さらに在ウガンダのケニア人殺害を命じたため、イスラエルとイギリスとの関係をさらに悪化させることとなった。
[[File:Idi Amin and Mobutu.jpeg|thumb|アミン(左)とモブツ(右)、1977年]]
当時冷戦下で西側諸国と対峙していた[[ソビエト連邦]]はウガンダ最大の武器供給国であったが<ref>Dale C. Tatum. Who influenced whom?. p. 177.</ref>、そのソ連に対しても挑戦的な態度をとることもあり、[[アンゴラ内戦]]をめぐっては一時的に外交関係が断絶したこともあった<ref>{{cite news |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |date=1975-11-20 |accessdate=2020-01-02 |title=Amin Getting Away With Biting Soviet Hand That Feeds Him|url=https://www.nytimes.com/1975/11/20/archives/amin-getting-away-with-biting-soviet-hand-that-feeds-him.html}}</ref>。
ザイールの{{仮リンク|第一次シャバ紛争|en|Shaba I}}では「私は[[共産主義]]者ではなく、東にも西にも支配されていない」と述べてウガンダ軍の派兵や軍事物質の提供などアミンと親交のあったモブツへの支援の用意があることを表明してソ連と[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]といった[[東側諸国]]に支持された[[コンゴ解放民族戦線]]と敵対した<ref>{{cite news |publisher=[[ワシントン・ポスト]] |date=1977-04-23 |accessdate=2018-06-26 |title=Amin Offers to Aid Zaire With Troops, Supplies|url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1977/04/23/amin-offers-to-aid-zaire-with-troops-supplies/6fef0092-3fd3-4610-ba15-16b1fec6296e/}}</ref>。[[シュタージ|東ドイツの情報機関]]はウガンダの[[秘密警察]]の創設でアミンに協力した形跡のもみ消しを図った<ref>Gareth M. Winrow. The Foreign Policy of the GDR in Africa, p. 141.</ref>。
[[1978年]]に、オボテを保護していた隣国タンザニアの[[ジュリウス・ニエレレ]]と対立<ref>East African trade zone off to creaky start, Christian Science Monitor, 9 March 2006</ref>していたことからタンザニアに侵攻するも失敗し、逆にタンザニア軍に首都の[[カンパラ]]まで攻め込まれた([[ウガンダ・タンザニア戦争]])。リビアとPLOはウガンダを支援したが<ref>{{cite web|url=http://memory.loc.gov/cgi-bin/query/r?frd/cstdy:@field%28DOCID+ug0140%29 |title=Idi Amin and Military Rule |work=Country Study: Uganda |publisher=Library of Congress |date=December 1990|quote=By mid-March 1979, about 2,000 Libyan troops and several hundred Palestine Liberation Organization (PLO) fighters had joined in the fight to save Amin's regime |accessdate=2019-06-03}}</ref><ref name=unomaha>{{cite journal|url=http://www.unomaha.edu/itwsjr/ThirdXII/AchesonBrownTanzaniaVol12.pdf|title=The Tanzanian Invasion of Uganda: A Just War?|last=Acheson-Brown|first=Daniel G.|periodical=International Third World Studies Journal and Review|volume=12|year=2001|pages=1–11|accessdate=2019-06-03}}</ref>、ソ連にとってアミンは手に余る存在であったためにソ連はタンザニアに反撃を受けるウガンダを支援しなかった<ref>{{cite news |publisher=[[ワシントン・ポスト]] |date=1979-04-30 |accessdate=2020-01-02 |title=Soviets, in Shift, Criticize Amin's Rule in Uganda|url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1979/04/30/soviets-in-shift-criticize-amins-rule-in-uganda/8da7e457-5b22-48c9-9fb6-9f44290ea890/}}</ref>。
==== 失脚 ====
[[1979年]]に、反体制派の{{仮リンク|ウガンダ民族解放戦線|en|Uganda National Liberation Front|label=ウガンダ民族解放軍}}(UNLA)に攻撃された上に、軍内部の離反もあり失脚し、タンザニア侵攻の際に軍事作戦に協力していたリビアに当初は逃げるもカダフィすらもアミンのかつての暴虐ぶりを知るや敬遠するようになり<ref>{{cite news |publisher=[[ワシントン・ポスト]] |date=1991-03-31 |accessdate=2019-06-03 |title=IDI AMIN LIVING HIGH IN SAUDI ARABIA|url=https://www.washingtonpost.com/archive/opinions/1991/03/31/idi-amin-living-high-in-saudi-arabia/275f4458-649d-4ac8-8fcc-7b7e14839184/?noredirect=on&utm_term=.528902c5c1b7}}</ref>、翌[[1980年]]には敬虔なイスラム教徒として暮らすことを条件に生活援助を申し出た[[サウジアラビア]]への[[亡命]]を許された<ref name=ap1989>{{cite news |publisher=[[AP通信]] |date=1989-01-20 |accessdate=2019-12-30 |title=Out of Africa: Idi Amin Apparently Returning to Exile Home|url=https://apnews.com/b96282c58b9cd46acc57ab594259cf62}}</ref><ref>{{cite web | url=http://www.britannica.com/eb/article-9007180 | title=Idi Amin | archiveurl=https://web.archive.org/web/20070314142415/http://www.britannica.com/eb/article-9007180/Idi-Amin | archivedate=14 March 2007 | work=Encyclopædia Britannica | date=19 December 2008 | accessdate=2019-12-30}}</ref>。
=== 死去 ===
サウジアラビアに亡命後は何度かウガンダへの帰国を試みるもことごとく失敗し<ref name=ap1989/>、表舞台に姿を見せることもなくなり、[[2003年]][[8月16日]]に[[ジッダ]]の病院で[[多臓器不全]]による合併症で死去した。
== エピソード ==
* [[学歴]]がなく、[[大学]]すら出ていないため終生貨幣経済や金銭に関して疎かった。若い頃、銀行員が[[小切手]]について「額とサインを書けば使用できる」と説明したのを「いくらでも使用できる」と勘違いして大量発行してもらい、数日後に使い切ると再び発行を要求したことが上司に知られ、支払いを取り消されたことがあった。大統領時代も浪費癖を側近に諫められると「それなら(紙幣を)刷ればいいじゃないか」と大真面目に答えたという。
* 最初の夫人となったマルヤム・アミンとは、1962年に結婚。夫についてマルヤムは、皿洗いや床掃除を手伝うなど優しく慈悲深かったが、ウガンダを支配するようになると人が変わってしまったと証言している。また、二人の間にできた6人の子供の親権を1973年に取り上げられ、以降は子供たちが行方不明になっていると語っている<ref>とーく 『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月31日朝刊 13版 7面</ref>。
* 「虐殺した政敵の肉を食べた」などの噂を立てられた結果、「'''人食い大統領'''」というニックネームもつけられたが、実際のアミンは[[菜食主義|菜食主義者]]で、肉は[[鶏肉]]しか口にしたことがなかったといわれている<ref>[[歴史群像]] 2004年12月号 185頁</ref>。
* ボクシングのヘビー級チャンピオンになった経歴から、[[アントニオ猪木]]との異種格闘技戦の計画が浮上したことがある。仕掛け人は[[康芳夫]]。アミンは1979年1月にこの猪木戦を承諾し特別レフェリーに[[モハメド・アリ]]を招聘し開催時期まで決まりかけていたが、結局、反体制派クーデターの影響でお流れになった。
*ユーモア精神の持ち主で、1974年に開かれたアフリカ統一機構の首脳会議での演説でも大いにジョークを連発した。その際、激しい対立関係にあったタンザニアの大統領、[[ジュリウス・ニエレレ|ニエレレ]]も握手を求めにきたアミンの手を思わず握り返してしまったという。
* [[さだまさし]]は名前の響きが面白いと思い、「パンプキン・パイとシナモン・ティー」(アルバム『[[夢供養]]』収録)に出てくる喫茶店の名前を「安眠(あみん)」と名づけた。さらに、さだのファンだった[[岡村孝子]]は、この名前を取って自らのユニット名を「[[あみん]]」とした。
* [[ウガンダ・トラ]]は、アミンと容姿が似ていたことからこの芸名がつけられた。
== 関連作品 ==
=== 小説 ===
* 『'''[[スコットランドの黒い王様]]'''』(原題:''[[:en:The Last King of Scotland|The Last King of Scotland]]'') [[武田将明]]訳、[[新潮社]]〈[[新潮クレスト・ブックス]]〉、1999年6月
*: アミン政権下の[[ウガンダ]]を題材にした[[ジャイルズ・フォーデン]]{{enlink|Giles Foden}}の小説。アミンに仕えた[[スコットランド]]人の白人青年医師の視点から描かれている。
=== 映画 ===
* ''"Général Idi Amin Dada: Autoportrait"''[[:en:General Idi Amin Dada: A Self Portrait|(General Idi Amin Dada: A Self Portrait)]]
*: 1974年 フランス [[バーベット・シュローダー]]の監督によるドキュメンタリー。本人が出演。
* 『'''[[食人大統領アミン]]'''』(原題:''Rise and Fall of Idi Amin'')
*: [[1981年]]製作の[[ケニア]]・[[イギリス]]合作作品。日本では80年代の『[[食人族]]』映画ブームに乗って話題となった。内容は残虐性が誇張されているものの、これは英国の偏見またはプロパガンダを目的としていたためで、もともとは決して残酷映画の類いではなく、むしろ伝記的に彼の波乱に満ちた半生が史実に基づいて描かれている。
* 『'''[[ラストキング・オブ・スコットランド]]'''』(原題:''The Last King of Scotland'')
*: フォーデンの小説を元に[[ケヴィン・マクドナルド]]監督が[[2006年]]に映画化。アミンを演じた[[フォレスト・ウィテカー]]が[[ゴールデン・グローブ賞]]、[[アカデミー賞]]それぞれの主演男優賞に輝いた。日本では[[2007年]][[3月10日]]公開。
=== 漫画 ===
* 『[[ゴルゴ13]]』「独裁者の晩餐」(1977年 著者:[[さいとうたかを]])
*: ゴルゴがアミン側近から反対派リーダーの暗殺を依頼される。アミンとゴルゴの直接の接触はないにもかかわらず、虐殺が過ぎて死体から[[ツェツェバエ]]が大発生する、アフリカ統一機構会議で長広舌を振るう、スポーツ選手並みの激しいトレーニングを行う、側近がゴルゴの[[肝臓]]をアミンに供するため依頼を達成した彼を襲うなど、非常に存在感をもって描かれている。
* 『[[巨悪学園]]』(2011年 著者:[[長沢克泰]][[やきうどん|うどん]])
*: アミンをモデルにした生徒として井出網野 王命(16歳)が登場。体格は実際のアミンよりも小柄に描かれており、部下からは「将軍」と呼ばれている。第6話にてトイレマナーをめぐるトラブルに怒り、主人公の新命 龍明抹殺のため私軍を出動させる。
== 脚註 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* エーリッヒ・ヴィーデマン『アミン大統領』[[芳仲和夫]]訳、朝日イブニングニュース社、1977年
* エーリッヒ・ヴィーデマン『続・アミン大統領』朝日イブニングニュース社、1977年
* [[山口智司]]『教科書には載せられない暴君の素顔』[[彩図社]]、2008年
== 関連日本語文献 ==
* 『大虐殺 アミンの恐るべき素顔』ヘンリー・キエンバ [[青木栄一 (1930年生の翻訳家)|青木栄一]]訳、二見書房、1977年
* 『独裁者アミン ウガンダの大虐殺』ダン・ウッディング、レイ・バーネット共著、[[島田礼子]]訳、いのちのことば社、1981年
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{{Succession box
| title = {{flagicon|UGA}} [[ウガンダの大統領|ウガンダ共和国大統領]]
| years = 第3代:1971年 - 1979年
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{{Succession box
| title = [[アフリカ統一機構#歴代の総会議長|アフリカ統一機構議長]]
| years = 第14代:1975年 - 1976年
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{{S-end}}
{{アフリカ連合の総会議長}}
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[[Category:イディ・アミン|*]]
[[Category:ウガンダの軍人]]
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正一教
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正一教(しょういつきょう)は、道教の宗派の一つ。現在の道教の教派は全真教(全眞敎)と正一教の二つに大別されて考えられている。日本語読みの問題ではあるが、道教は儒教と共に中国で起こった宗教であるため、漢音読みをする習慣がある。例えば、「道教経典」も「どうきょうけいてん」と読む場合がある。同様に、正一教の読みに対しても、「せいいちきょう」または「せいいつきょう」と読む場合がある。
正一教は、後漢末の五斗米道(天師道)という宗教にさかのぼるといわれる。五斗米道は、前漢の功臣張良の子孫である張陵(張道陵)という人が蜀郡で太上老君のお告げを受けて、天師の位と正一盟威()の道を授けられ、はじまったとされる。孫の張魯はこれを受け継ぎ、漢中に勢力を張り、宗教王国のような体制を築き上げた。張魯が曹操の軍門に降るとこの漢中政権は消滅したが、教団幹部たちは魏の列侯に封ぜられ、重用された。この教団がその後どうなったのかはよく分かっていない。異民族の侵攻とともに五胡十六国時代に入ると、多くの信徒は南方に拡散し、江南に五斗米道を広めたともいわれ、各地に五斗米道系の教団が分立した状態であったともみられる。後代に作られた正一教の歴代教主の伝記である『漢天師世家』によれば、張陵の子孫は代々張天師(中国語版)の位を世襲したとされるが、史実かどうかは定かではない。いずれにせよ、遅くとも唐末五代には、張天師を教主とし、龍虎山を本拠とする天師道の教団が成立していた。
南北朝時代の北魏では、嵩山の道士の寇謙之が太上老君のお告げにより、張陵ののち空位になっていた天師の位に就いたとして、新天師道を興した。寇謙之は五斗米道の教法を改革し、仏教の要素を取り入れて道教の教義や戒律を整備した。寇謙之の活躍により道教は北魏の国教となった。道教研究者の窪徳忠は、五斗米道が一般に天師道と呼ばれるようになったきっかけが新天師道だったのではないかと述べている。寇謙之の死後、新天師道がどうなったかのはよく分かっていない。その後、南朝宋では廬山の五斗米道系の道士の陸修静が道教経典を集めて体系化し、また仏教を取り入れて道教儀礼を整備した。寇謙之の教法を「北天師道」ともいい、陸修静の教法を「南天師道」ともいう。また、江南には上清派と呼ばれる一派があり、陸修静の流れをくむ茅山の道士、陶弘景がその教法を確立した。
北宋には、龍虎山を本山とする天師道の第24代天師の張正随が真宗に召されて朝廷の庇護の下に入った。元代になると、第36代天師の張宗演が世祖クビライに召され、任じられて江南道教を統轄するようになった。また、教団が正一教と呼ばれるようになったのも、この頃からである。元代の華北では、金代に興った新しい道教である全真教が教勢を拡大し、いつしか正一教と全真教は道教を南北に二分する二大宗派となった。
明の太祖朱元璋の作とされる「御製玄教斎醮儀文序(ぎょせいげんきょうさいしょうぎぶんじょ)」の中では、死者のための儀礼を主として行う教団と見なされている。
清に入ると、朝廷の祈祷や祭祀の行事は、チベット仏教のラマ僧に牛耳られるようになり、道教嫌いであった乾隆帝によって、遂に道教の管掌権を奪われるに至った。辛亥革命時には、龍虎山はさびれていたが、それに追い討ちをかけるように、1912年(民国元年)、江西都督の手で天師の封号までも奪われてしまった。第62代の張元旭が袁世凱らの軍閥に働きかけ、ようやく「正一真人」の封号および龍虎山の封地を奪回するのに成功した。
全真教の道士は修身養性の出家主義的だが、正一教の道士は祭儀中心の在家主義的といわれる。活動は呪符を重んじるなど、呪術性が強く、内丹学などの自己修養はあまり重視されないといわれる。
国民党との結びつきが強かった第63代の張恩溥(中国語版)は台湾に亡命し、1969年に台北市で没した。張恩溥の長男である張允賢は1954年に既に死去しており、中国本土に残留した次男の張允康も消息不明となっていたため、第35代張可大より続く男系男子の嫡流の系統は一旦ここで断絶してしまった。次代の張天師は「男系男子の世襲」と定められていたため、1971年までは故人である張恩溥がそのまま在位という形になっており、同年に張恩溥の堂姪である張源先(中国語版)(張恩溥の父の第62代張元旭の弟の張元曙の孫)が第64代天師に就任した。張源先は元々は中華民国陸軍の軍人であったが、1960年代より表面化した張恩溥の後継問題を受けて、張恩溥より直接の指導を受けて正一教の教義を修養、張恩溥の死後も数年間修行を重ねた末に軍を退役して第64代へ就任した経緯があり、系譜上は第61代の張仁晸から連なる傍流の男系男子として、男系相続の伝統が辛うじて維持されていた。
第64代の張源先は2008年10月17日に男系男子を残さないまま死去したが、彼が張天師に就任した段階で「男系男子の世襲」という規定が停止され、襲名条件が「男系子孫である事」と緩和されていた為、皮肉にも第65代張天師選出にあたり大きな問題が生じた。「張天師の男系子孫」を称する複数の人物が張源先の死の前後に相次いで当代継承を主張し、当代の張天師が複数乱立する事態を招いたのである。先代の張恩溥が中国本土から台湾へ落ち延びた関係で、張恩溥自身の複数の子女を始めとする親戚縁者が中国本土側に散在していた事も、この継承問題を単なる一教派内の争いを越えた、両岸問題を内包する複雑怪奇なものとした。
2017年現在、公式の第65代は2009年6月10日に中國嗣漢張天師府道教會の設立と同時に張天師に就任した第62代張元旭の男系曾孫の張意将であるが、張源先が生前の2008年8月2日には第63代張恩溥の庶子であると主張する張美良(中国語版)が、張源先の第64代就任自体が無効であるとして中国本土の龍虎山にて「第64代」張天師就任式を強行しており、2009年5月11日には台湾南投市にて中國嗣漢道教總會の支援を受けた張道禎(中国語版)が「第64代」張天師就任式を行った。張道禎は1966年生まれで第32代張守真の男系子孫であると主張しており、張恩溥の実子は張允賢一人で現在消息不明とされる次男の張允康とは血縁関係がない事。張恩溥の死去の時点では継承序列上は第35代以降の系統の傍流で第61代の曾孫である張源先よりも、第32代直系の男系子孫である自分の方が上であったことから、張源先は飽くまでも自身が名乗り出るまでの「第64代張天師"代理"」に過ぎなかったとまで主張している。ほかにも男系女子としての長子世襲を主張し、中國正一道教總會が主催する2011年10月の張源先3回忌記念式典にて第65代就任を発表した張源先の長女の張懿鳳、第58代張起隆の男系子孫と称する張捷翔が第65代継承を称しており、台湾在住者だけでも少なくとも上記5名の張天師が併立している。
更には中国本土でも張恩溥の次女の子であり第12期全人代広西地区代表(中国語版)、中国道教協会現副会長でもある張金涛(中国語版)。第62代の男系曾孫であり第11期全人代天津地区代表(中国語版)を務めていた中国道教協会元副会長の張継禹(中国語版)、第62代の男系曾孫で北京在住の張貴華らまでが第65代継承を主張しており、中国本土も含めると少なくとも8人の張天師が存在する異常事態となっている。そして、正統第65代とされる張意將を中心に各対立張天師本人及びその支援者が、互いに家系図や清朝及び大日本帝國時代の戸籍簿などを持ち出してまで自らの正当性の主張を繰り広げる有様で、張天師を最高指導者とする正一教の教勢は文字通り四分五裂した状態のまま現在に至っている。
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正一教(しょういつきょう)は、道教の宗派の一つ。現在の道教の教派は全真教(全眞敎)と正一教の二つに大別されて考えられている。日本語読みの問題ではあるが、道教は儒教と共に中国で起こった宗教であるため、漢音読みをする習慣がある。例えば、「道教経典」も「どうきょうけいてん」と読む場合がある。同様に、正一教の読みに対しても、「せいいちきょう」または「せいいつきょう」と読む場合がある。
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'''正一教'''(しょういつきょう)は、[[道教]]の宗派の一つ。現在の道教の教派は[[全真教]](全眞敎)と正一教の二つに大別されて考えられている。日本語読みの問題ではあるが、道教は[[儒教]]と共に[[中国]]で起こった宗教であるため、[[漢音]]読みをする習慣がある。例えば、「道教[[経典]]」も「どうきょうけいてん」と読む場合がある。同様に、正一教の読みに対しても、「せいいちきょう」または「せいいつきょう」と読む場合がある。
== 概要 ==
正一教は、[[後漢]]末の[[五斗米道]](天師道)という[[宗教]]にさかのぼるといわれる。五斗米道は、[[前漢]]の功臣[[張良]]の子孫である[[張陵]](張道陵)という人が[[蜀郡]]で[[太上老君]]のお告げを受けて、'''天師'''の位と{{読み仮名|正一盟威|しょういつめいい}}の道を授けられ、はじまったとされる。孫の[[張魯]]はこれを受け継ぎ、[[漢中郡|漢中]]に勢力を張り、宗教王国のような体制を築き上げた。張魯が[[曹操]]の軍門に降るとこの漢中政権は消滅したが、教団幹部たちは[[魏 (三国)|魏]]の[[列侯]]に封ぜられ、重用された。この教団がその後どうなったのかはよく分かっていない。異民族の侵攻とともに[[五胡十六国時代]]に入ると、多くの信徒は南方に拡散し、[[江南]]に五斗米道を広めたともいわれ<ref>秋月観暎 「道教史」(『道教 第一巻 道教とは何か』 平河出版社、1983年)</ref>、各地に五斗米道系の教団が分立した状態であったともみられる。後代に作られた正一教の歴代教主の伝記である『漢天師世家』によれば、張陵の子孫は代々'''{{仮リンク|張天師|zh|张天师}}'''の位を世襲したとされるが、史実かどうかは定かではない。いずれにせよ、遅くとも[[唐]]末[[五代十国時代|五代]]には、張天師を教主とし、[[龍虎山]]を本拠とする天師道の教団が成立していた<ref name="窪徳忠">[[窪徳忠]] 『世界宗教史叢書9 道教史』 山川出版社、1977年</ref>。
[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[北魏]]では、[[嵩山]]の道士の[[寇謙之]]が太上老君のお告げにより、張陵ののち空位になっていた天師の位に就いたとして、新天師道を興した。寇謙之は五斗米道の教法を改革し、仏教の要素を取り入れて道教の教義や戒律を整備した。寇謙之の活躍により道教は[[北魏]]の国教となった。道教研究者の窪徳忠は、五斗米道が一般に天師道と呼ばれるようになったきっかけが新天師道だったのではないかと述べている<ref name="窪徳忠"/>。寇謙之の死後、新天師道がどうなったかのはよく分かっていない。その後、[[宋 (南朝)|南朝宋]]では[[廬山]]の五斗米道系の道士の陸修静が道教経典を集めて体系化し、また仏教を取り入れて道教儀礼を整備した。寇謙之の教法を「北天師道」ともいい、陸修静の教法を「南天師道」ともいう<ref>李遠国 『道教と気功』 大平桂一・大平久代訳、人文書院、1995年</ref>。また、江南には上清派と呼ばれる一派があり、陸修静の流れをくむ茅山の道士、[[陶弘景]]がその教法を確立した。
[[北宋]]には、龍虎山を本山とする天師道の第24代天師の張正随が[[真宗 (宋)|真宗]]に召されて朝廷の庇護の下に入った。[[元 (王朝)|元代]]になると、第36代天師の張宗演が世祖[[クビライ]]に召され、任じられて[[江南]]道教を統轄するようになった。また、教団が正一教と呼ばれるようになったのも、この頃からである。元代の[[華北]]では、金代に興った新しい道教である全真教が教勢を拡大し、いつしか正一教と全真教は道教を南北に二分する二大宗派となった。
[[明]]の太祖[[朱元璋]]の作とされる「御製玄教斎醮儀文序(ぎょせいげんきょうさいしょうぎぶんじょ)」の中では、死者のための儀礼を主として行う教団と見なされている。
[[清]]に入ると、朝廷の祈祷や祭祀の行事は、[[チベット仏教]]のラマ僧に牛耳られるようになり、道教嫌いであった[[乾隆帝]]によって、遂に道教の管掌権を奪われるに至った。[[辛亥革命]]時には、龍虎山はさびれていたが、それに追い討ちをかけるように、[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、[[江西省|江西]]都督の手で天師の封号までも奪われてしまった。第62代の張元旭が[[袁世凱]]らの軍閥に働きかけ、ようやく「正一真人」の封号および龍虎山の封地を奪回するのに成功した。
全真教の[[道士]]は修身養性の[[出家]]主義的だが、正一教の道士は祭儀中心の[[在家]]主義的といわれる。活動は呪符を重んじるなど、呪術性が強く、内丹学などの自己修養はあまり重視されないといわれる。
== 第65代継承問題 ==
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[[中国国民党|国民党]]との結びつきが強かった第63代の{{仮リンク|張恩溥|zh|張恩溥}}は[[台湾]]に亡命し、1969年に[[台北市]]で没した。張恩溥の長男である張允賢は1954年に既に死去しており、中国本土に残留した次男の張允康も[[行方不明|消息不明]]となっていたため、第35代張可大より続く男系男子の嫡流の系統は一旦ここで断絶してしまった。次代の張天師は「男系男子の世襲<ref group="注釈">可能な限り[[長子相続]]とし、嗣子なき場合は[[親族]]系図上上位の男系子孫が[[養子縁組]]で継承するものとされていた。一方で、初代[[張陵|張道陵]]は「[[男性|男子]]ある場合は[[女子]]は継げず、[[嫡子]]ある場合は[[庶子]]は継げず、年長者ある場合は年少者は継げず、嗣子ある場合は[[弟]]は継げず、弟ある場合は[[甥]](弟の子)は継げず、甥ある場合は[[叔父]](甥の父の弟)は継げず、叔父ある場合は(その他の男系)[[親族]]は継げず、親族ある場合は族外者は継げない。」と書き残しており、日本の[[名跡]]継承と同様に男系女子や女系親族、[[血縁]]外者の継承自体を完全に否定してはいなかった。</ref><ref name="兩岸張天師爭正統 鳳凰文化綜合">[http://culture.ifeng.com/guoxue/200811/1125_4087_893553.shtml 兩岸"張天師"爭正統 鳳凰文化綜合]</ref>」と定められていたため、1971年までは故人である張恩溥がそのまま在位という形になっており、同年に張恩溥の堂姪である{{仮リンク|張源先|zh|張源先}}(張恩溥の父の第62代張元旭の弟の張元曙の孫)が第64代天師に就任した。張源先は元々は[[中華民国陸軍]]の[[軍人]]であったが、1960年代より表面化した張恩溥の後継問題を受けて、張恩溥より直接の指導を受けて正一教の教義を修養、張恩溥の死後も数年間修行を重ねた末に軍を退役して第64代へ就任した経緯があり、系譜上は第61代の張仁晸から連なる傍流の男系男子として、男系相続の伝統が辛うじて維持されていた。
第64代の張源先は2008年10月17日に男系男子を残さないまま死去したが、彼が張天師に就任した段階で「男系男子の世襲」という規定が停止され、襲名条件が「男系子孫である事」と緩和されていた為、皮肉にも第65代張天師選出にあたり大きな問題が生じた。「張天師の男系子孫」を称する複数の人物が張源先の死の前後に相次いで当代継承を主張し、当代の張天師が複数乱立する事態を招いたのである。先代の張恩溥が中国本土から台湾へ落ち延びた関係で、張恩溥自身の複数の子女を始めとする親戚縁者が中国本土側に散在していた事も、この継承問題を単なる一教派内の争いを越えた、[[両岸問題]]を内包する複雑怪奇なものとした<ref name="兩岸張天師爭正統 鳳凰文化綜合"/>。
2017年現在、公式の第65代は2009年6月10日に中國嗣漢張天師府道教會の設立と同時に張天師に就任した第62代張元旭の男系曾孫<ref group="注釈">張元旭の五男の孫で、男系男子。</ref>の'''張意将'''<ref name="六十五代天師">[http://www.cts65.com/about.php 張意将申請戸籍謄本正名,誰是道教天師]</ref><ref>[http://blog.xuite.net/sunform.name/twblog/122089267 道教第65代張天師張意将 簡介與学經歴]</ref>であるが、張源先が生前の2008年8月2日には第63代張恩溥の[[庶子]]であると主張する{{仮リンク|張美良|zh|張美良}}が、張源先の第64代就任自体が無効であるとして中国本土の龍虎山にて「第64代」張天師就任式を強行<ref>[http://www.todaynews.com.tw/bencandy.php?fid-10-id-1107-page-1.htm 張美良大真人襲職 持千年古印執掌道教事]</ref>しており、2009年5月11日には台湾[[南投市]]にて中國嗣漢道教總會の支援を受けた{{仮リンク|張道禎|zh|張道禎}}が「第64代」張天師就任式を行った。張道禎は1966年生まれで第32代張守真の男系子孫<ref group="注釈">第33代張景淵の弟、張嗣先の子孫とされる。張嗣先は張景淵に第34代候補として指名されていたが、後に嫡子である張慶先が誕生したことから張天師になれなかった経緯があり、系図上は第33代以降の傍流男系子孫は第61代より連なる系統以外は全て断絶したとされる。</ref><ref>[http://www.askingdao.com/baike/zhenxian_detail_298.html 第三十四代天师 张庆先]</ref>であると主張しており、張恩溥の実子は張允賢一人で現在消息不明とされる次男の張允康とは血縁関係がない事<ref group="注釈">先に名乗り出た「庶子」とされる張美良の主張を否定する論でもある。</ref>。張恩溥の死去の時点では継承序列上は第35代以降の系統の傍流で第61代の曾孫である張源先よりも、第32代直系の男系子孫である自分の方が上であったことから、張源先は飽くまでも自身が名乗り出るまでの「第64代張天師"代理"」に過ぎなかったとまで主張している<ref>[http://m.nownews.com/n/2010/03/22/750281 道教張天師雙胞案 事實文獻還原真象]</ref><ref>[http://news.ltn.com.tw/news/life/paper/261552 張道禎秀證明 自稱64代張天師]</ref>。ほかにも男系女子としての長子世襲を主張し、中國正一道教總會が主催する2011年10月の張源先3回忌記念式典にて第65代就任を発表<ref>[http://blog.xuite.net/taoism.zhengyi/blog/53256794 中國道教嗣漢天師府六十四代天師飛昇登真三週年追思紀念曁張懿鳳大法主継任嗣漢六十五代天師襲職大典]</ref>した張源先の長女の'''張懿鳳'''<ref>[http://www.epochtimes.com/b5/9/2/23/n2439080.htm 第64代正統之爭/張道禎 宣布年中襲職張天師]</ref>、第58代張起隆の男系子孫と称する'''張捷翔'''<ref>[http://blog.xuite.net/sun.fate/twblog/113661362 正宗嗣漢六十五代天師張捷翔為正宗天師傳人]</ref>が第65代継承を称しており、台湾在住者だけでも少なくとも上記5名の張天師が併立している。
更には中国本土でも張恩溥の次女の子<ref group="注釈">系譜上は夫の魯氏の男系男子であり、張天師宗家から見れば継承権のない女系男子にあたる。</ref>であり{{仮リンク|第12期全国人民代表大会|zh|第十二届全国人民代表大会|label=第12期全人代広西地区代表}}、[[中国道教協会]]現副会長でもある{{仮リンク|張金涛|zh|张金涛}}。第62代の男系曾孫<ref group="注釈">張元旭の六男の孫で、男系男子。</ref>であり{{仮リンク|第11期全国人民代表大会|zh|第十一届全国人民代表大会|label=第11期全人代天津地区代表}}を務めていた中国道教協会元副会長の{{仮リンク|張継禹|zh|张继禹}}、第62代の男系曾孫<ref group="注釈">張元旭の四男の孫で、男系男子。</ref>で[[北京]]在住の'''張貴華'''<ref>[http://www.totours.net/line/qcs/line66.html 青城山人物]</ref>らまでが第65代継承を主張しており、中国本土も含めると少なくとも8人の張天師<ref group="注釈">女系子孫の張金涛を除外して男系の7名とする場合もある。</ref>が存在する異常事態となっている。そして、正統第65代とされる張意將を中心に各[[僭称|対立張天師]]本人及びその支援者が、互いに[[家系図]]や[[清朝]]及び[[大日本帝國]]時代の[[戸籍簿]]などを持ち出してまで自らの正当性の主張を繰り広げる有様で、張天師を最高指導者とする正一教の教勢は文字通り四分五裂した状態のまま現在に至っている。
==脚注==
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'''注釈'''
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==関連項目==
*[[チベット仏教]] - 正一教と同様に、[[中華人民共和国]]を舞台に含んだ最高指導者([[化身ラマ]])の継承問題が発生している。
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足利義昭
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足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代(最後の)征夷大将軍(在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉)。
父は室町幕府の第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。
足利将軍家の家督相続者以外の子息として、慣例により仏門に入って、覚慶(かくけい)と名乗り、一乗院門跡となった。
兄・義輝が永禄の変で三好三人衆らに殺害されると、細川藤孝ら幕臣の援助を受けて南都から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。その後、朝倉義景の庇護を受け、義昭に改名した。
そして、織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任した。その後、信長と対立し、武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて京都から追われ、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。
しかし、義昭は京都追放後も将軍として活動を続けており、河内国や和泉国、紀伊国に滞在したのち、備後国へ下向した。そして、毛利輝元の庇護を受け、亡命政権・鞆幕府を樹立し、信長に対抗した。
信長が本能寺の変によって横死したのち、豊臣政権が確立すると帰京し、豊臣秀吉から山城国槇島に1万石の所領を認められた。そして、将軍を辞して出家し、昌山道休(しょうざん どうきゅう)と号した。
義昭は前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であり、また秀吉の御伽衆に加えられるなど、貴人として遇された余生を送った。
天文6年(1537年)11月3日、第12代将軍・足利義晴の次男として、京都で誕生した。母は近衛尚通の娘・慶寿院。幼名は千歳丸(ちとせまる)。
天文9年(1540年)7月、千歳丸が3歳の時、父の義晴は南都の興福寺一乗院に入室させる契約を行った。兄に嗣子である義輝が既におり、跡目争いを避けるため、嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従う形となった。また、興福寺が大和一国の国主(大和の守護でもあった)であることから、寺社との結びつきを強める目的があり、将軍の若君が入室することによって、将来的に興福寺をはじめとする大和の寺社勢力が将軍家を扶助する体制を構築しようとしたとされる。
天文11年(1542年)9月11日、千歳丸が6歳の時、寺社奉行の諏訪長俊が義晴の使者として興福寺に向かい、将軍の「若君」が11月に一乗院門跡・覚誉の弟子として入室するので、よく世話するようにと伝えた。興福寺は寺領に段銭をかけ、その費用を調達した。
11月20日、千歳丸は伯父・近衛稙家の猶子となって、興福寺の一乗院に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名を覚慶と名乗った。覚慶は近衛家の人間として、一乗院門跡を継ぐ修行を行った。
その後、覚慶は一乗院門跡となり、権少僧都にまで栄進し、何事もなく二十数年を興福寺で過ごした。このまま、覚慶はやがて興福寺別当となり、高僧としてその生涯を終えるはずであった。
永禄8年(1565年)5月19日、第13代将軍であった兄・義輝が京都において、三好義継や三好三人衆、松永久通らによって殺害された(永禄の変)。このとき、母の慶寿院、弟で鹿苑院院主・周暠も殺害された。
義輝の死後、覚慶は松永久秀らによって、興福寺に幽閉・監視された。久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる。実際に監視付といっても、外出禁止の程度で行動は自由であった。ただし、大覚寺門跡の義俊が上杉輝虎(謙信)に宛てた手紙では、厳重な監視としている(『上杉古文書』)。
やがて、覚慶を興福寺から脱出させるべく、越前の朝倉義景が三好・松永に対して、「直談」で交渉を行った。だが、この交渉は不調に終わり、謀略を使って脱出を行うことになった。
7月28日夜、覚慶は兄の遺臣らの手引きによって、密かに興福寺から脱出した。義俊の書状によると、立役者は義俊と朝倉義景とのことだが、実際には義輝の近臣であった細川藤孝と一色藤長が脱出において活躍したと考えられる。藤孝の画策により、米田求政が医術を以て一乗院に出入することで覚慶に近づき、番兵に酒を勧めて沈酔させ、脱出に成功させたと伝わる。
覚慶とその一行は、奈良から木津川をさかのぼり、伊賀の上柘植村を経て、翌日には近江甲賀郡の和田に到着した。そして、和田の豪族である和田惟政の居城・和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)に入り、ここにひとまず身を置いた。この地には藤孝が案内したという。
覚慶はこの地において、足利将軍家の当主になることを宣言し、各地の大名らに御内書を送った。この呼びかけに、覚慶の妹婿で若狭の武田義統、近江の京極高成、伊賀の仁木義広らが応じたほか、幕臣の一色藤長、三淵藤英、大舘晴忠、上野秀政、上野信忠、曽我助乗らが参集している。
また、覚慶は諸国の大名に御内書を発することで、その糾合に努めた。その初期には、関東管領・上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼しているほか、安芸の毛利元就、肥後の相良義陽、能登の畠山義綱らにも書状を出して出兵を要請した。これらには和田惟政の副状が発給され、輝虎のみならず、越前の朝倉義景、河内の畠山尚誠、三河の徳川家康らより、覚慶に協力する旨の書状が惟政に送られた。
11月21日、近江の六角義賢の好意を得て、甲賀郡和田から京都に程近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に移り住み、在所とした(矢島御所)。当時、京都においては、三好義継ら三好氏が義秋の従兄弟・足利義栄を将軍に就任させようとしていたが、松永久秀と三好三人衆の間では確執による内部分裂が発生しており、これを上洛の好機と捉えたとみられている。
この時、和田惟政は尾張の織田信長に上洛への協力要請を取り付けるため、尾張に滞在しており、惟政には無断の移座であった。後日、惟政が激怒していることを知った覚慶は惟政に謝罪の書状を送っている。
永禄9年(1566年)2月17日、覚慶は矢島御所において還俗し、義秋と名乗った。義秋の名は、僧侶の勘進によるものだったらしい。
4月21日、義秋は吉田神社の神主・吉田兼右の斡旋により、朝廷から従五位下・左馬頭の叙位・任官を受けた。この叙任は本来、武家伝奏を経て朝廷に申請するのが正式な手続きであったが、足利義栄が摂津国・普門寺まで進出している政治事情を配慮して、吉田兼右の斡旋で「御隠密」に行われた。その後、同年12月に義栄も同様に叙任を受けたが、左馬頭は次期将軍が就く官職であり、朝廷が義秋を義栄より先に任じたことは、義秋を正統な後継者として認識していた可能性が高い。
矢島御所において、義秋は近江の六角義賢、河内の畠山高政、越後の上杉輝虎、能登の畠山義綱らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山秋高をこの頃に義秋へ従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて、浅井長政と織田信長の妹・お市の方の婚姻の実現を働きかけている。
義秋はまた、輝虎と甲斐国の武田信玄・相模国の北条氏政の3名に対して講和を命じたほか、美濃国の斎藤龍興と交戦していた尾張の織田信長と通交して、出兵を促した。義秋の構想は、相互に敵対していた斎藤氏と織田氏、六角氏と浅井氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。
和田惟政と細川藤孝の説得により、信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった。和議の成立によって、信長は8月22日に出兵することを約束した。
8月3日、義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸に矢島御所で内通する者がおり、その軍勢3,000余騎が矢島を攻撃すべく、坂本まで進出した。だが、この時は坂本で迎撃し、奉公衆の奮戦により、からくも撃退することが出来た。信長の上洛計画が現実味を帯びたことで、三好氏が先制攻撃を仕掛けたと考えられる。
8月29日、義秋から幕府再興の呼びかけを受けて上洛の兵を起こした信長の軍は、斎藤龍興の襲撃にあって、美濃を通過できなくなってしまった(河野島の戦い)。このとき、敗れた信長の軍勢は「前代未聞」の敗戦ぶりであったといい、斎藤氏から嘲笑を受ける程であったという。
同日、近江の六角義賢・義治父子が叛意を見せた。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは、三好方による巻き返しの調略があったとみられている。信長は美濃を通過できず、さらにはその先の近江も不穏となったため、撤退せざるを得なくなった。
8月29日、六角氏が叛意を見せたことや、三好側が矢島を襲撃するという風聞も流れていたこともあって、義秋は妹婿の武田義統を頼り、若狭国へ移った。このとき、義秋は4、5人の供のみを従えるだけであったという。
しかし、京都北白川に出城を構え、応仁の乱では東軍の副将を務めて隆盛を極めた若狭武田氏も、義統と息子の武田元明との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。そのため、義統は出兵の代わりとして、弟の武田信景を義秋に仕えさせた。
9月8日、義秋は若狭から越前国敦賀へと移動した。その後、朝倉景鏡が使者として赴き、義秋は朝倉義景のいる一乗谷に迎えられた。義景は細川藤孝らによる南都脱出の立役者であったとする見方がある一方で、すでに足利将軍家連枝の鞍谷御所・足利嗣知(足利義嗣の子孫)も抱えており、義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。
義秋は一乗谷において、朝倉氏と加賀一向一揆との講和を行ったり、上杉輝虎に上洛を要請したりしたものの、これらは実現に至らなかった。この頃、義秋のもとには上野清信(清延)・大舘晴忠などのかつての幕府重臣や、諏訪晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆が帰参した。
永禄10年11月21日、義秋は一乗谷の安養寺に移った。義秋は朝倉氏と加賀一向一揆との講和を再度図り、義景が応じたことで和議が成立した。その後、双方で人質交換が行われ、国境の城と砦が破却された。
義秋はまた、輝虎と甲斐の武田信玄・相模の北条氏政の講和を図っている。なお、義秋は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。だが、輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆の本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった。他の大名からも積極的な支援の動きは見られなかった。この時期、義秋の御内書には、義景の副状が添えられている。
永禄11年(1568年)2月8日、義秋の対抗馬である足利義栄が摂津の普門寺に滞在したまま、将軍宣下を受けた。血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である義栄よりも有利な環境にありながら、いつまでも上洛できない義秋に対して、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄が、義輝によって取り潰された元政所執事の伊勢氏の再興を約束するなど、朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続けた結果でもあった。
3月8日、義秋が朝廷へ上奏したことにより、義景の母が従二位に叙された。その酒宴は終日終夜に及んで行われた。
4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招いて、一乗谷の朝倉氏の館において元服式を行い、名を義昭と改名した。なお、山科言継も招かれる予定だったが、費用の問題から晴良だけになった。加冠は、兄・義輝が六角定頼を管領代として加冠役にした前例に倣って、朝倉義景を管領代に任じた上で行われた。
6月21日、義昭は紀伊国の粉河寺に対し、畠山氏と協力して馳走するように求めた。
義昭が越前に滞在中、織田信長は義昭からの上洛要請を忘れず、それを果たすため、永禄10年には松永久秀と結び、近江の山岡氏や大和の柳生氏にも働きかけていた。また、信長は美濃での戦いを有利に進め、永禄10年8月には斎藤氏の居城・稲葉山城を落とし、翌11年には北伊勢も攻略するなど、着々と準備を進めていた。
そして、義昭は朝倉氏の家臣であった明智光秀の仲介により、信長との交渉を再開した。またこの時、義昭が光秀に対し、信長に仕えるよう密命を下した、と桑田忠親は指摘する。信長もまた、家臣の村井貞勝、不破光治、島田秀満らを越前に派遣し、和田惟政もこれに加わっている。
永禄11年7月13日、義昭は一乗谷を出発し、16日には信長の同盟者・浅井長政の饗応を小谷城で受け、25日には信長と美濃の立政寺で対面した。義昭は美濃に入ると、同月28日に多喜越中守に道中の警護を、服部同名中に道中の斡旋をそれぞれ命じ、上洛の準備に入った。
9月7日、信長が尾張・美濃・伊勢の軍勢を率い、美濃の岐阜から京都へと出発した。義昭と歩調を合わせて、上洛の準備を整えてからの出兵であった。
9月8日、信長は近江高宮に着陣したが、六角義治が山に逆木をして道を塞いで妨害したため、2、3日を費やした。その後、信長は浅井氏の城・佐和山城に入り、六角氏に「天下所司代」を約束して投降を呼びかけたが、六角氏は三好氏と同盟していたため応じなかった。
9月12日申の刻(午後4時頃)、信長は浅井氏とともに六角氏の箕作城を攻めた(箕作城の戦い)。ここで城兵の頑強な抵抗にあったが、信長は兵を入れ替えて攻撃を繰り返し、13日丑の刻(午前2時頃)に六角勢が撤退、城を攻め落とした。この戦いは上洛戦で最大の戦いとなった。やがて、箕作城の落城が京都に伝わると、京中の人々は戦場になることを恐れ、騒然となった。
9月13日、信長は六角氏の居城・観音寺城を攻めたが、六角義賢・義治父子や城兵は夜陰に乗じて甲賀に逃げており、残兵も降参したことから、難なく城を攻略した(観音寺城の戦い)。六角氏の家臣だった国衆も投降し、江南ニ十四郡は織田勢に制圧された。信長は兵を休めるとともに、義昭に近江を平定したことを報告し、義昭もまた、織田軍に警護されて上洛を開始した。
9月22日、義昭はかつて父・義晴が幕府を構えていた近江の桑実寺に入った。同日、信長の先陣が勢多から渡海し、23日に山科七郷に着陣した。
9月23日、信長が守山から園城寺極楽院に入り、大津の馬場・松本に着陣した。義昭も信長の後から渡海し、園城寺光浄院に入った。
9月26日、信長は山科郷粟田口や西院の方々を経て、東寺に進軍したのち、東福寺に陣を移した。また、細川藤孝に御所を守らせた。一方、義昭も東山の清水寺に入り、遂に上洛を果たした 。
9月27日、三好方の五畿内と淡路・阿波・讃岐の軍勢が山崎に布陣しているという情報が流れ、信長の先陣を派遣したところ、すでに軍勢は撤退していた。信長は河内方面に軍を進め、山崎・天神馬場に着陣した。義昭は清水寺から東寺に移り、西岡日向の寂勝院に入った。
9月28日、信長は三好長逸と細川昭元が籠る畿内支配の拠点・芥川山城に軍を進め、翌29日にはその麓に放火し、河内の各所も放火した。長逸と昭元は27日夜に逃亡しており、行方知らずになっていた。義昭は天神馬場まで進んでいる。
9月30日、義昭が芥川山城に入城し、将軍家の旗を掲げ、ここから摂津・大和・河内の敵対勢力への征討が行われた。織田軍は大和郡山の道場と富田寺を制圧したのち、摂津池田城の池田勝正を攻めた。勝正は抵抗しきれず、子息ら5人の人質を出して恭順し、所領を保証された。同日、病気を患っていた14代将軍・義栄が死去し、側近の篠原長房らは阿波に引き返した。
10月2日、三好長逸と池田日向守が降参し、義昭に出仕した。また、河内では三好方の飯盛山城と高屋城が降伏し、摂津でも高槻城や入江城、茨木城が攻略されるなど、摂津と河内の制圧が進んだ。
10月4日、松永久秀、三好義継、池田勝正らが芥川山城に「御礼」のために出仕し、久秀には大和一国の支配が認められた。また、同日に興福寺が義昭に使者を派遣して礼を述べたのをはじめ、武家のみならず、多数の寺社が安堵を求めて芥川山城に集った。これにより、近江・山城・摂津・河内・和泉の五畿内は義昭と信長に制圧され、さらには丹波と播磨の国衆も赴いたことで、五畿内近国も「将軍の御手に属す」領域となった。
10月6日、朝廷は戦勝奉賀の勅使・万里小路輔房を芥川山城に派遣し、義昭に太刀、信長には十肴十荷がそれぞれ下賜された。義昭が芥川山城で各氏の「御礼」を受け、勅使を迎えたことは、三好政権からの政権交代を印象付けた。
10月8日、松永久秀は義昭から細川藤孝と和田惟正、信長から佐久間信盛を大将とする軍勢2万の援軍を受け、総勢3万の軍勢で大和攻略にあたった。久秀はこの援軍を以て、筒井城の筒井順慶や窪城の井戸良弘、十市氏、豊田氏、楢原氏、森屋氏、布施氏、万歳氏などの大和の国人衆を攻めた。これらの国人衆は10月5日に芥川山城に赴いたが、信長は久秀との連携もあって、十市氏以外を赦さなかった。久秀は三好長慶から大和北部の支配を認められていたが、大和一国にその支配を拡大し、義昭からも認められる形となった。この久秀の大和平定は信長の畿内平定戦の一環として行われ、その終結とともに畿内平定戦も集結した。
10月14日、義昭は信長による畿内平定を受けて、信長の供奉を受けて再度上洛し、本圀寺に入った。本圀寺では、公家の菊亭晴季、山科言継、庭田重保、葉室頼房、聖護院門跡の道澄など僧俗数十人が訪れた。なお、当時の人々の間では、新興勢力である信長は義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長は御供衆の1人であるという認識があった(池田本『信長記』)。
10月18日、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて、室町幕府の第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛中将にも昇叙・任官された。
10月24日、義昭は信長を最大の功労者として認め、「天下武勇第一」と称えるとともに、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可した。また、幕閣と協議した末、信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。義昭が信長に対して宛てた10月24日の自筆の感状では、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことは、ことに有名である。
さらに、義昭は信長の武功に対し、副将軍か管領(または管領代)への任命、斯波氏の家督継承、その当主の官位である左兵衛督の地位、五畿内の知行など、褒賞として高い栄典を授けようとしたが、信長はそのほとんどを謝絶した。結局、信長は弾正忠への正式な叙任、桐紋と二引両の使用許可のみを受け取った。また、信長は堺・草津・大津を自身の直轄地とすることを求めていることから、虚名より実利を選択したと考えられる。
将軍に就任した義昭は上洛戦での論功行賞を行い、所領の宛行・守護の補任を行った。摂津では、池田城主・池田勝正、伊丹城城主・伊丹親興に本領を安堵し、さらには和田惟政に芥川山城を与え、彼ら3人を守護に補任し、摂津三守護とした。河内では、高屋城城主・畠山秋高と若江城城主・三好義継を、それぞれ半国守護とした。大和では、多聞山城城主・松永久秀に一国の支配が委ねられた。山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどして治めた。これらの守護補任は三好氏による京都侵攻を阻止するため、軍事的に非常に大きな意味を持った。
義昭は二条昭実(二条晴良の嫡子)らに自身の偏諱を与えたほか、領地を安堵し、政権の安定を計った。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また、義昭は伊勢氏当主も義栄に出仕した伊勢貞為を廃し、弟の貞興に代えさせて仕えさせた。また、当時の記録(『言継卿記』・『細川両家記』など)には、義昭期の奉公衆として三淵藤英・細川藤孝・和田惟政・上野秀政・曽我助乗・伊丹親興・池田勝正の名前が確認できる。さらに、兄の義輝が持っていた山城の御料所も掌握した。
このように幕府の再興を見て、島津義久は喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表したほか、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っている。
11月、義昭は近衛前久を、兄・義輝の殺害及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で追放し、12月に二条晴良を関白に復職させた。他方、近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった。
永禄11年10月26日、信長は京都に一部の宿将とわずかな手勢を残して、美濃に帰還した。信長としてはこれほど早い畿内平定は予想外であり、兵糧などが欠乏していたと考えられる。
信長の兵が領国に帰還すると、義昭は三好三人衆の巻き返しに晒されることになった。三人衆は京都周辺から追われたものの、兵力は維持しており、反撃の準備を進めていた。そのため、信長の帰国は絶好の機会であり、四国から兵を呼び寄せ、畿内各地で蠢動した。
11月、義昭は三好三人衆の動きを警戒し、京都の東郊外にある将軍山城を整備し、京都の防衛を固めている。かつてここには、義昭の兄・義輝も籠城したことがあった。
12月24日、松永久秀が大和を離れ、岐阜にいる信長の下へと向かった。おそらく、信長に新年の賀辞を述べようとしたのであろうが、これにより京都の防備が手薄となった。
永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆はこれを見逃さず、京都へと進軍し、将軍山城を焼き払った。そして、5日に京中に攻め入り、義昭のいた本圀寺を包囲・襲撃した(本圀寺の変)。
このとき、義昭も兄・義輝と同様の運命になるかとも思われた。だが、奉公衆および、摂津の池田勝正・和田惟政・伊丹親興、河内の三好義継らが駆けつけて奮戦したことにより、6日にこれを撃退した。
信長はこの知らせを聞くと、すぐさま美濃を出国し、1月10日に京都へと入った。また、信長に次いで、久秀も上洛し、信長の領国である尾張・美濃・伊勢のみならず、山城・近江・摂津・河内・和泉・若狭などから、総勢8万人が援軍として上洛した。
1月7日、義昭は豊後の大友宗麟(義鎮)に毛利元就との講和を勧め、13日には毛利氏に聖護院道澄を、大友氏に久我晴通を派遣し、互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとした。
1月14日、義昭は信長より、殿中御掟という9箇条の掟書を承認させられた。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていった。
2月2日、義昭は信長に対して、兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第、つまり二条御所の再興および増強を命じた。
3月1日、朝廷は信長を副将軍に任じようとし、正親町天皇の勅旨が下された。だが、信長はこれに返答しなかった。
3月27日、義昭は自身の妹(義晴の娘)を三好義継に嫁がせた。
4月14日、義昭の将軍邸・二条御所が完成し、義昭は本國寺からここに移動した。この御所は二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなったことから、二条城とも呼ばれる。
4月21日、信長は二条御所の完成を受けて、義昭に帰国の暇乞いをした。義昭は涙して感謝し、門外まで送り出したばかりか、粟田口にその姿が消えるまで見送ったという。
永禄12年(1569年)6月22日、従三位権大納言に叙任。
8月、信長は自ら伊勢国の北畠氏を攻め、本拠地である大河内城を包囲・攻撃した(大河内城の戦い)。だが、北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で、10月に講和が成立した。
10月11日、信長が凱旋のために上洛したが、その後すぐ、17日に京都から美濃に帰ってしまった。『多聞院日記』によると、信長の帰還は「上意と競り合いて下りおわんぬ」と記されていることから、北畠氏の征討や講和条件を巡って、義昭と対立したと考えられている。これは朝廷でも騒動になり、正親町天皇が事態を憂慮して、女房奉書を出している。
10月26日、義昭は伊丹氏や池田氏、和田氏からなる摂津三守護の軍勢を播磨に派遣し、浦上氏や山名氏を攻撃させた。これにより、浦上内蔵介を討ち、山名氏を没落させた。
永禄13年(元亀元年、1570年)1月23日、信長が殿中御掟に5箇条を追加し、義昭はこれを承認した。これら5箇条は前年よりもさらに厳しいものであったため、義昭は信長に強い不満を抱いた。
同日、信長はニ十一ヶ国におよぶ大名・国司・国衆・諸侍衆に対して「触状」を発し、上洛し、義昭に「御礼」を申し上げることを求めた。 ここでは、畿内近国の大名らのみならず、東は武田信玄や徳川家康、東は越中の神保氏、西は備前の浦上氏や出雲の尼子氏にまで通達されている。戦国時代以前の室町幕府の将軍は、「二十一屋形」と称される在国大名によって支えられており、信長がニ十一ヶ国の大名らに上洛を求めたのは、この旧来の「ニ十一屋形」の再興を目的としていたからとされる。
3月13日、「触状」による上洛要請により、信長や畠山高政、畠山秋高、三好義継ら守護や大名、大舘晴忠や大舘昭長以下の幕府御供衆・御部屋衆・申次・公家衆が、義昭に祇侯した。また、公家身分で姉小路頼綱が同席していたほか、但馬の山名氏や備前の浦上氏などから進物が山のように届いていたことから、相当数の大名が要請に応じていたと考えられる。これは、義昭が理想とした幕府体制の実現であり、信長が上洛した武士らを披露する務めを果たしたと考えられる。
4月10日、甲斐の武田信玄が義昭の側近・一色藤長に対し、嫡子の武田勝頼へ官途と義昭からの一字拝領を求めた。だが、信長の妨害にあったのか、これは実現されなかった。
4月14日、二条御所の竣工を記念し、祝言として舞の興業が行われ、観世・金春の能が演じられた。義昭と信長のほか、姉小路頼綱や北畠具教、徳川家康、畠山秋高、一色義通、三好義継、松永久秀ら上洛していた諸氏と、公家衆が同席した。
4月20日、信長は若狭の武藤友益、及び越前の朝倉義景の討伐のため、守護や奉公衆、昵近公家衆からなる幕府軍3万を率いて京都を出発し、若狭へと向かった。ただし、朝倉氏は討伐対象ではなく、若狭武田氏に抵抗する武藤氏のみが討伐対象だったとする見解もある。また、本國寺の変の失敗を教訓として、二条御所の完成後に出陣している。
信長が京都を出陣したのち、近江を経て若狭に入ると、高浜の辺見氏や西津の内藤氏といった若狭の国衆が馳せ参じ、家老も国境まで迎えに来た。若狭では、国衆が若狭武田氏と朝倉氏でそれぞれ分かれており、義昭の甥でもある武田元昭が朝倉義景に拉致される事件が発生するなど、支配が安定していなかった。武田家中は義輝の代から内紛の調停を願い出ており、今回の信長の軍事行動は武田氏の家老や国衆と歩調を合わせたものであった。
4月25日、信長は朝倉氏討伐のため、若狭から越前に赴き、敦賀郡に入った。武藤氏が信長を挟撃するため、朝倉義景に後詰を依頼したことが主たる要因であった。そのため、越前への侵攻は武藤氏が朝倉氏と連携を取り、信長方が挟撃されることになったことによる結果論に過ぎないという指摘もある。
同日、信長は手筒山城を攻撃したのち、朝倉景恒の籠城する金ヶ崎城を攻撃した(金ヶ崎の戦い)。だが、近江の浅井長政が離反し、さらには六角義賢が蜂起したことで、挟撃を受ける可能性が発生し、信長は撤退を余儀なくされた。
4月29日、信長は越前から撤退し、近江朽木を越えて、4月30日に京都へと入った。このとき、幕府軍の池田勝正が殿を務め、若狭では沼田弥太郎、近江では朽木元綱といった幕府奉公衆が引導している。このように、若狭・越前攻めでは、義昭と信長は一体となっていた。
信長が京都を離れている間、義昭の申し入れによって、4月23日に朝廷が年号を永禄から元亀に改元した。朝廷が義昭の畿内平定を認めたことによるものだと考えられている。また、永禄の年号が三好色の強い年号であり、兄の義輝がその改元に参加できなかったことも、義昭が改元を考えた大きな要因となった。
5月、信長は六角義賢を野洲川で破った。
6月14日、摂津において、信長方の池田勝正が失脚し、一族や家臣団が三好三人衆に味方した。そして、三好三人衆が堺に渡海し、北上した。
6月28日、信長は徳川家康とともに近江浅井郡を流れる姉川において、浅井・朝倉連合軍と戦って勝利した(姉川の戦い)。この戦いにおいて、同月18日に義昭は自らの出馬を表明したほか(戦いに出馬はしなかった)、畿内の幕臣や江南の勢力に軍事動員をかけているなど、この戦いは金ヶ崎での敗戦によって失墜した将軍権威の回復の意味合いもあった。この戦いでも義昭と信長は一体となっていた。
7月21日、三好三人衆と細川昭元が摂津で挙兵し、野田・福島に移った。三好三人衆方には、昭元のみならず、三好康長や三好盛政、斎藤龍興、雑賀孫市、さらには前関白・近衛前久も加わっていた。そのため、義昭は河内の畠山秋高に軍事動員をかけたほか、秋高を介して、紀伊や和泉、さらには信長にも出陣を要請している。
幕府軍は義昭自らが出馬し、信長を筆頭に、秋高、三好義継、松永久秀、遊佐信教ら3万人の軍で出陣した。義昭はまた、摂津三守護や茨木氏、塩川氏、有馬氏ら和泉国衆の軍勢を糾合し、中島・天満森に陣取り、9月2日に細川藤孝の居城・中島城へ入った。このとき、義昭は自ら糾合した幕府軍3万人、信長の軍3万人の、総勢6万人の軍勢を率いていた。これにより、野田城・福島城に籠城する三好三人衆を挟撃する態勢が整った(野田城・福島城の戦い)。
9月12日、義昭と信長が三好三人衆らと対峙しているさなか、石山本願寺が離反・蜂起し、法主・顕如が諸国の門徒に檄を飛ばした。三人衆が籠城していた野田城・福島城は本願寺に近く、連絡を取り合っていたと考えられる。本願寺が信長に敵対したことから、義昭は顕如と義絶したが、顕如もこれに対して、加賀四郡の御料所と幕臣の知行を押領した。
9月18日、義昭は本願寺との勅命講和を図り、朝廷から公家の烏丸光康と正親町実彦、聖護院門跡の道澄が勅使として派遣されたが、勅使は戦火のために下向できなかった。
同月、本願寺に呼応して、浅井氏・朝倉氏が挙兵した。浅井・朝倉の連合軍は六角義賢や本願寺の近江門徒衆も取り込み、近江坂本まで出兵し、森長可と信長の弟・信治を討った。さらには、京表の青山・将軍山に軍を進め、京都の伏見や鳥羽、山科に放火した。これにより、義昭と信長は三好・本願寺勢と浅井・朝倉勢に完全に包囲、挟撃される形となった。浅井・朝倉勢の蜂起は、幕府軍が摂津に出陣し、京都の守りが手薄になっていたからといえる。
9月23日、義昭と信長は浅井・朝倉勢の蜂起を受けて、摂津に幕府軍を残したまま、ともに京都へと戻った。ともに帰還したのは夜間で、義昭が午後9時過ぎ、信長が午後11時過ぎであった。義昭が摂津に出陣している間、二条御所では三淵藤英や大舘晴忠ら奉公衆、公家の吉田兼和(兼見)といったわずかな人々が留守を務めているだけだった。
翌日、信長は浅井・朝倉勢の討伐のため、近江坂本に出陣した。この時、信長の軍は1万であったが、浅井・朝倉軍は3万であった。浅井・朝倉軍は延暦寺の支援を受け、比叡山を拠点とし、東山に進出した。浅井・朝倉軍が京都東方の山々に布陣したことで、信長は山に阻まれて攻めることができなかった。
9月27日、阿波の三好長治や篠原長房、細川真之が尼崎に着陣した。阿波の軍勢は2万余で、三好三人衆の軍勢と合わせると3万であった。
10月1日、本願寺が三好三人衆の援軍として摂津中島に着陣し、義昭方の茨木城を調略で降伏させ、ともに京都に攻め入ることを協議した。だが、信長も三好方に調略をかけ、三好為三や細川昭元、香西元成を寝返らせるなど、切り崩そうとしている。信長と本願寺は、それぞれに激しい調略合戦を展開した。
10月4日、西岡や宇治で一揆が発生すると、幕府は徳政令を出したほか、22日に奉公衆と織田方の木下秀吉や菅谷長頼が協力して鎮圧にあたっている。
10月20日、浅井・朝倉勢が京都郊外において、修学寺や一乗寺、松ヶ崎にまで侵出し、所々に放火を行ったが、奉公衆が撃退した。三好三人衆もまた、京都へと侵攻し、22日には京都近郊にあった信長方の御牧城を落とした。とはいえ、細川藤孝や和田惟政に御牧城を奪還され、三好方は京都に進むことはできなかった。
11月、延暦寺の僧兵が朝倉軍に加勢した。朝倉方の兵はしばしば山を下り、信長の陣地を突破して京都近郊を攻めた。三好方もまた、京都を依然として窺っていた。だが、信長は10月末より、各勢力との講和交渉を開始した。
11月12日、信長は松永久秀の仲介により、に三好三人衆・三好長治と交渉を開始し、18日に講和を成立させた。そして、松永久秀と篠原長房との間で人質が交わされた。
11月21日、六角義賢が志賀の信長の陣に赴き、信長は六角氏と講和した。六角氏は往時の勢いを失っており、信長の提案に応じる形となった。
11月26日、浅井・朝倉・門徒衆からなる連合軍は巻き返しのため、近江堅田に攻め込んだ。信長方はこの攻撃によって敗れ、坂井政尚が討ち死にした。このため、信長は焦燥感を強め、敵方との和平に注力した。
11月28日、義昭は信長に依頼され、関白・二条晴良とともに近江坂本に下向した。反信長派の主力は朝倉氏であり、義昭はかつて朝倉氏の庇護を受けていたため、信長が仲介者として適任だと考えたからであった。
12月9日、正親町天皇が延暦寺に講和を命じた。比叡山は鎮護国家の天皇の祈祷所であったため、朝廷が関与した可能性があり、公家の二条晴良が交渉に関与したと考えられる。
12月13日、二条晴良が信長と朝倉氏との講和に関して、上野秀政を介し、義昭に仲裁を提案した。義昭はこの提案を受け入れ、晴良ともに園城寺に下向した。また、義昭は和議が背負しない場合には、高野山に隠遁する覚悟を以て臨んだ。
義昭は晴良を朝倉氏の陣に赴かせ、晴良を介する形で、義景に信長との講和を打診した。その結果、朝倉氏は講和に傾いたが、延暦寺がこれに反対したため、反信長派で議論が起きた。だが、朝倉氏は講和に傾いたため、浅井氏と延暦寺、本願寺もこれに追従し、信長派と朝倉氏以下反信長派との間で講和が成立した。また、延暦寺に対しては朝廷から綸旨が出され、勅命講和の形がとられた。
12月14日、それぞれが近江から撤兵して、志賀の陣が終結し、17日に信長は美濃へと戻った。信長は最大の危機を脱したが、それを持ちこたえることができたのは、義昭が味方していたことが大きかった。
元亀2年(1571年)1月、三好長治と篠原長房が帰国したが、同月のうちに長房は讃岐に軍勢を移し、毛利氏の領する備前児玉を攻撃した。 長房の備前侵攻は、義昭・信長と長房の前年の和睦によって引き起こされたものであった。
2月、義昭は豊後の大友宗麟に対して、毛利氏との和睦を命じている。
4月14日、烏丸光宣に嫁いでいた義昭の姉が急死すると、後難を恐れた光宣が出奔した。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている。
5月26日、安芸の毛利輝元、及び後見する毛利元就より、義昭と信長が毛利側に一言の相談もなく、畿内で長房と和睦したことを抗議された。長房は前年の義昭や信長との和睦を「京都御宥免」と称し、それを大義名分として、備前の浦上宗景と結び、備前児玉に侵攻していた。輝元と元就は長房の軍事行動を「中国錯乱」の企てと批判するとともに、九州から大友宗麟に挟撃されることを恐れ、義昭による和睦斡旋を受け入れると伝えた。
6月11日、義昭は九条家出身の養女を筒井順慶に嫁がせ、順慶を自らの陣営に加えた。これは5月に松永久秀が畠山秋高方の交野城を攻め、秋高の援護のために摂津の和田惟政が出陣するなど、不穏な空気が流れたからであった。また、久秀と順慶は大和国をめぐる争いを、元亀元年より前から続けていた。
6月12日、義昭は長房の毛利氏に対する軍事行動を言語道断と批判し、輝元の叔父・小早川隆景に対し、香川氏と相談して讃岐を攻めるように指示した。また、信長も20日に輝元と元就に対し、長房との和睦は本意ではなかったとしたうえで、義昭が長房との和睦を仲介しても、長房は受け入れないだろうと答えた。
6月19日、松永久秀が三好三人衆と組み、河内の畠山秋高の居城・高屋城を攻め、義昭から離反した。久秀の離反は、義昭が九条家出身の養女を順慶に嫁がせたことによる反発や、久秀と結んだ長房による毛利領国への侵攻により、義昭・信長と毛利氏の同盟に亀裂が入ったことで、義昭から長房の軍事行動の片棒を担いだと疑われたことにあったと考えられる。
同月、義昭と同盟した順慶が奈良に侵攻し、義昭もまた順慶を支援するため、奉公衆の三淵藤英と山岡景友を援軍として送った。
7月12日、長房が久秀に呼応して、四国から摂津に渡海した。15日、久秀と三好義継が義昭方の和田惟政が守る高槻城を攻めたことから、義継も義昭から離反していた。義昭の幕府は、信長・久秀・義継に支えられていた体制から大きく変化した。
8月4日、久秀は松永久通や三好義継らとともに順慶の辰市城を攻め、両軍が激突した。久秀はこの戦いで大敗を喫し、多くの首が二条御所の義昭のもとに送られ、御所内でさらされた。
8月13日、義昭は長房と毛利氏の争いに関して、伊予国守護の河野氏に参戦を促した。これは、6月14日に元就が死去し、毛利氏が苦境に陥っていたことによる。この争いは西日本の各地に飛び火しており、尼子氏の残党が毛利氏の戦っている隙を突いて出雲奪還のために毛利方の城を攻めた一方、九州では大友氏を共通の敵とする肥前の龍造寺隆信が毛利氏に味方するなど、畿内の情勢と連動していた。
久秀は順慶に敗れたものの、三好三人衆と連携して巻き返しを図り、8月28日に義昭方の和田惟政を三人衆方の池田知正らが攻め、これを討ち取った(白井河原の戦い)。義昭によって畿内に配置された大名のうち、摂津の和田惟政が討ち死にし、河内の三好義継と大和の松永久秀が離反したことによって、義昭は信長への依存度を高めた。
9月12日、信長は自ら兵を率い、比叡山延暦寺への焼き討ちを実行した(比叡山焼き討ち)。
10月、義昭方を離脱した久秀と義継は山城南部で攻勢を強め、長房は三好康長と連携し、河内や和泉を転戦した。三好三人衆もまた、河内北部を支配下に置いていた。
11月、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった。
12月17日、三好氏が盟主と仰いでいた細川六郎が義昭の軍門に下り、上洛して義昭に謁見し、義昭から「昭」の一字を与えられ、昭元と名乗った。これは義昭が調略したことによるもので、義昭と信長が巻き返しを図った結果であった。
元亀3年(1572年)1月18日、義昭の面前において、上野秀政と細川藤孝が信長の比叡山焼き討ちに関して激論を交わした。この時点で、幕臣は親信長派と反信長派に分裂していた。
1月26日、義昭と信長は昭元に引き続き、三好三人衆の一人・岩成友通を離反させた。信長は義昭の下知によって、山城国内において6か所の領地を与え、 山城郡代に任じた。
閏1月4日、畠山秋高と遊佐信教が義昭を裏切るとの風聞が流れ、義昭は秋高と信教に「三好・松永は敵」との書状を送り、離反しないように求めている。
4月13日、細川昭元が義昭を裏切るとの風聞が流れた。
4月16日、久秀と義継が畠山秋高方の交野城を攻めたが、信長の派遣した柴田勝家や佐久間信盛によって退けられた。他方、摂津では伊丹親興や和田惟長が義継に内通する動きを見せた。久秀と義継はまた、細川昭元を盟主とする動きを見せた。結果として、昭元や畠山高政、畠山秋高、遊佐信教、親興や惟長は義昭を裏切らなかったが、畿内はいつ誰が義昭を裏切るかわからない不安定な情勢となった。
5月8日、義昭は山岡景友を山城守護に補任したが、それはこのような畿内の情勢に対抗する備えであった。義昭はまだこの時点においては、信長を裏切るつもりはなかったと考えられるが、三好方が連合を図ったことにより、義昭は畿内において孤立することになった。
元亀3年5月13日、義昭は甲斐の武田信玄に対して、「天下静謐」のために軍事行動を起こすように命じた御内書を下した。これにより、信玄はその眼を西に向けるようになった。すでに、元亀3年1月に信玄は縁戚関係にある顕如より、信長の背後を突くように依頼を受けていた。
9月、信長は義昭に対して、自身の意見書である異見十七ヶ条を送付した。この意見書は義昭の様々な点を批判しており、とくにかつて殺害された過去の将軍の名を出したこともあって、信長と義昭の対立は抜き差しならないものとなった。
10月3日、武田信玄が朝倉義景や浅井長政に出陣を告げ、同日に甲府より進軍を開始し、徳川氏の領国である三河・遠江に侵攻した(西上作戦)。通説では、義昭が異見十七ヶ条に反発し、信玄に内通した結果とされてきたが、近年ではこの侵攻は徳川家康を標的にしたものであり、義昭が通じたものではないとする見方もある。
また、同月に信長は妙心寺に寺領安堵の朱印状を発給したが、これは義昭の意思に基づいて安堵されたものであった。この時点では、義昭は信長と表面的には対立することなく、協調して京都の支配を行っている。
とはいえ、信長にとって、徳川家康は盟友であり、信玄が徳川領に侵攻したことは、信長に矛を向けるということに等しかった。これまで、信長は武田氏と上杉氏の和睦を仲裁してきたこともあって、この侵攻に激怒して武田氏と絶交し、家康に援軍を送った。他方、信玄は朝倉氏や浅井氏、本願寺などの反信長勢力と手を組んだ。
12月22日、信玄が三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を破り、徳川家康を敗走させると、信長は本国である尾張・美濃の防衛を迫られることになり、窮地に陥った。28日、信玄は義景にこの戦勝を伝えるともに、「信長滅亡の時刻到来」であるとした。
同月、篠原長房が阿波より出陣し、京都を伺う状況になった。
元亀4年(天正元年、1573年)1月2日、松永久秀が六角義賢の家臣・三上栖雲軒に対し、三方ヶ原における信玄の勝利を伝え、近江の信長方への調略を促した。三好義継や松永久秀、篠原長房もまた、信長と対決しようとする信玄の優勢を見て、攻勢に出る形となった。
1月11日、義昭は信玄より、「凶徒」である信長と家康を追討し、「天下静謐」のための御下知を求められた。
信玄の破竹の進撃により、幕府の内部では「信長につくか、信玄につくか」で議論が交わされ、幕臣の多くが信玄の支持に回り、それが義昭と信長との離間に繋がったとする見方がある。また、信長が尾張と美濃の防衛に精鋭を割いて、京都が手薄になると、そこを反信長派に大挙して衝かれる可能性があったことも、義昭を離反に走らせた可能性がある。いずれにせよ、三方ヶ原の戦いの結果が義昭の決断につながったことは間違いないと考えられる。
元亀4年2月13日、義昭は遂に反信長の兵を挙げ、朝倉義景や浅井長政、武田信玄らに御内書を下した。さらには、三好義継に挙兵の意思を伝えるとともに、安芸の毛利輝元、備前の浦上宗景にも参陣を促した。義昭は信長のみに依存する現在の体制から、朝倉義景や浅井長政、武田信玄、三好義継、顕如、毛利輝元、浦上宗景らによって構成される幕府へと再編しようとしたと考えられている。
義昭の信長からの離反を、反信長派の諸将は大いに喜んだ。浅井長政が直ちに「公方様から御内書を下された」と各所へ喧伝したように、将軍が味方したこと大々的に喧伝し、どちらに付くか決めかねている者達を味方にしようとした。
一方、信長は義昭の離反に大変驚き、挙兵は義昭の意志ではなく、側近の幕臣が勝手に企てたことだと言って、当初は信じようとしなかったという。信長としては、義昭はこれまで自身が支援してきた主君であり、その義昭に見限られたということは、信長派の大量離反、つまり総崩れに繋がることを危惧せざるを得なかった。そのため、信長は義昭に使者を急派し、息子を人質とすることで講和を申し入れた。状況は信長にとって、圧倒的に不利であった。
同月、義昭は朝倉義景の軍事力に期待し、上洛を命じた。だが、義景は一向に上洛する気配はなく、義昭は越前に使者を急派して、急ぎ上洛するように命じた。義昭は義景に対して、5,000から6,000の兵を京都郊外の岩倉の山本まで出兵するようにと催促したが、義景は大雪で進軍が困難だと返答するのみであった。同月には信玄も遺憾の意を示し、義景に重ねて出兵するように求めている(『古証記』)。
同月中旬、義昭は石山や今堅田など志賀郡・高島郡、北山城の国衆らを、反信長として立ち上がらせようとした。
信長は柴田勝家や明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆に命じ、2月26日に義昭方の石山城を攻め落とし、29日には今堅田城も攻め落として、京都への入り口を確保した(石山城・今堅田城の戦い)。一方で、信長は講和の道も考え、28日に朝山日乗、村井貞勝、島田秀満の三人を使者とし、人質と誓紙を出そうとしたが、義昭は承知しなかった。使者は講和が成立しない場合は、京都を焼き払うと忠告した。
3月6日、義昭は三好義継と松永久秀の両名を赦免し、同盟した。
3月7日、義昭は勝算ありと判断して、信長からの人質を拒否し、信長と断交した。義昭は畿内近国に上洛の命を下し、摂津からは池田重成や塩河長光、丹波からは内藤如安や宇津頼重がこれに応じ、京都に入った。
3月22日、義昭は聖護院道澄に対し、朝倉氏や三好氏、本願寺のみならず、毛利氏や小早川氏にも参陣を要請していること伝えた。また、顕如は畠山秋高と遊佐信教が義昭に味方したと述べている。
3月29日、信長が義昭と対決するため、岐阜から上洛した。信長を出迎えたのは、細川藤孝と荒木村重の二人で、幕臣である藤孝は義昭を見限っていた。信長は三条河原で軍を整え、知恩院に布陣し、その総兵力は1万であった。一方、義昭は二条御所に数千の兵とともに籠城し、動く気配を見せなかった(二条御所の戦い)。
3月30日、義昭は先制攻撃を仕掛け、信長の京都奉行である村井貞勝の屋敷を包囲させた。貞勝は辛くも脱出したが、信長はなおも講和を求め、義昭の赦免が得られるなら、息子の信忠とともに出家し、武器を携えずに謁見すると申し出た。
4月1日、信長は吉田兼和を呼び出し、義昭の行動に関して、御所や公家衆はどう思っているか尋ねた。兼和は信長に対し、致し方ないことだと思っている旨を述べた。
4月2日、信長は柴田勝家らに命じ、下賀茂から嵯峨に至るまでの128ヶ所を焼き払わせた。このとき、信長から御所に和平交渉の使者が派遣されたが、義昭は拒絶した。
4月3日夜から4日にかけて、信長はさらに上京の二条から北部を焼き払わせた(上京焼き討ち)。その結果、焼け出された市民が避難し、大井川で多数溺死した。さらに、信長は二条御所の周囲に4つの砦を築き、その糧道を断ち、城兵の戦意を喪失させた。
信長は義昭に降伏を勧告するため、朝廷を動かし、勅命による講和を義昭に求めた。義昭は進退窮まった結果、朝廷を頼り、正親町天皇の勅命講和を求めざるを得なかった。両者の間を斡旋したのは、関白・二条晴良ら3人の公家であった。
4月7日、義昭と信長は正親町天皇の勅命により、講和した。翌8日、信長は義昭に謁見することなく、京都を出発し、岐阜へと帰還した。一方、義昭が頼りにしていた武田信玄は病のため、4月12日に本国に引き上げる帰途で死去していた。
4月20日、義昭は二条御所の普請のため、吉田兼和の領地から人夫を徴収した。このとき、義昭は武田信玄が死去したことを知らなかった。
4月末、義昭と信長の家臣との間で起請文が交わされた。義昭が宛てた家臣の内訳は佐久間信盛・滝川一益・塙直政で、信長側の発給者は林秀貞・佐久間信盛・柴田勝家・稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全・滝川一益である。
5月、義昭は武田信玄や朝倉義景、顕如らに味方になるように御内書を下し、5月20日に顕如がこれに了承した。
同月、三好長治が細川真之とともに、反信長の急先鋒であった篠原長房を攻め、7月に討ち取った(上桜城の戦い)。これは、長房が畿内と備前に出兵を繰り返して、阿波三好氏を疲弊させていったという状況や、長治が義昭を破った信長の手腕を評価し、反信長の態度を翻した結果とする見方もある。他方、信長は同盟関係にある毛利氏から疑われぬよう、長治を許容しなかった。
6月13日、義昭は安芸の毛利輝元に対し、兵粮料を要求した。だが、輝元は信長との関係から支援しなかった。
6月25日、河内の畠山秋高が家臣の遊佐信教によって殺害された。 これは、秋高が信長方についたものの、信教ら河内の国衆の大半は義昭を支持していたため、その対立の末に発生した出来事であった。
7月2日、義昭は二条御所を奉公衆の三淵藤英のほか、政所執事の伊勢貞興、昵近公家衆の日野輝資・高倉永相などに預けた上で、宇治の槇島城に移った。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた南山城の要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあった。そして、3日に義昭は信長との講和を破棄し、この槇島城で挙兵した。
7月7日、信長が上洛すると、日野輝資や高倉永相らは二条御所を出て降伏し、12日に最後まで籠っていた三淵藤英も降伏した。その後、信長は御所の殿舎を破却したばかりか、諸人によって御所内が略奪されるのを禁じなかった。
7月18日、信長が軍勢とともに槇島城を包囲・攻撃し、槇島一帯も焼き払った。義昭はこれに恐怖し、信長に講和を申し入れ、その条件として2歳の息子・義尋を人質に出して降伏した。
7月19日、義昭は槇島城を退去して、枇杷庄に下り、20日に河内の津田に入った。枇杷庄に下る途中、一揆に御物など奪い取られたという。
この槇島城の戦いにより、室町幕府は事実上(実質的に)滅亡した、と解釈されている。義昭が京都を追放されたことにより、朝廷を庇護する天下人の役割を果たせなくなったからである。それまで、信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、その追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けた。また、信長は毛利輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している。
ただし、義昭自身は朝廷から征夷大将軍を解任されてはおらず、なおもその地位にあり、従三位・権大納言の位階・官職も保ったままであった。
7月21日、義昭は本願寺から派遣された兵に警固され、三好義継の居城・若江城に入った。同日、信長は槇島城を細川昭元に委ね、京都へと戻っている。
義昭は在城中、7月24日付の御内書で毛利輝元と2人の叔父・吉川元春と小早川隆景に援助を求めている。これが義昭の再起を宣言した第一号であった。
7月28日、朝廷が信長の要請に応じ、元亀から天正に改元を行った。信長のこの行為は義昭の権威の否定、反信長勢力の士気を挫く目的があったと考えられる。
8月1日、義昭は輝元や隆景に対して、顕如や三好義継、遊佐信教、根来寺が支援してくれているが、息子の義尋を信長に奪われたことが口惜しいと述べ、自身への支援を訴えるとともに、3日にも柳沢元政を下向させると告げた。毛利氏は義昭のもとに使者を送って慰問したので、8月13日に謝意を示している。義昭が毛利氏を頼りにしたのは、兄の義輝も頼りにしていたからだと推測される。
8月、信長は越前に出陣して、朝倉義景を自害させた(一乗谷城の戦い)。その直後、北近江へ向かい、9月に浅井長政も自害させた(小谷城の戦い)。
8月20日、義昭は顕如に対し、三好義継及び三好康長と畠山氏との間で講和を図らせている。
10月8日、義昭は上杉謙信に対し、自身が槇島城から退城したことを知らせるとともに、援助を求めた。また、同月に顕如に対しても、忠義を尽くすように求めた。
義昭の援助の依頼を受けた輝元ら毛利氏は、なんらかの行動に出なければならなくなった。織田氏と毛利氏は同盟関係にあったが、義昭が京都を追放されると、その関係は揺れ動いた。だが、義昭のために信長と敵対して上洛するより、輝元は信長の力を利用し、領国を守る道が最適と考えた。そのため、9月7日付の義昭の御内書では、毛利氏が信長と懇意にしていることや、かつて毛利氏が将軍家を疎かにしないと提出した起請文が反故にされていることが批判されている。
他方、輝元が羽柴秀吉に宛てた9月7日付の書状では、信長と義昭が和解し、義昭が京都に帰還できるよう仲介を試みている。輝元としては、義昭が中国地方に下向すれば、信長と全面戦争になる可能性があり、それを避ける必要があった。信長もまた、義昭の追放で畿内が動揺している今、輝元が義昭を奉じて織田氏との全面戦争に踏み切ることは避けたかったと考えられる。
そのため、信長と輝元の両者との間では全面戦争を避けるべく交渉がなされ、それは義昭を帰洛させようとする流れに繋がった。織田方は羽柴秀吉と朝山日乗、毛利方は安国寺恵瓊がそれぞれ交渉の代表となった。秀吉は9月7日付の書状で、信長の同意も得ているので、義昭の近臣・上野秀政と真木島昭光を上洛させるように伝えている。他方、輝元も9月晦日付の自筆書状で、交渉に臨む基本的な態度を一族の穂井田元清に伝えている。
10月28日、毛利氏は義昭の近臣・一色藤長に信長の意向を伝え、その同意を求めた。これを受けて、11月5日に義昭は若江城から和泉の堺へ入った。
義昭が和泉の堺に落ち着くと、信長からは羽柴秀吉と朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊と林就長が派遣され、双方の使者はともに義昭と面会し、信長と和解したうえでの帰京を説得した。信長自身も義昭の帰京を認めていたが、義昭は信長からの人質を求め、それを撤回しなかった。
このとき、秀吉は「入洛のことはもはや問題にならないので、どこにでも行ったらよかろう」と言い捨て、翌日に大阪へ退去した。安国寺恵瓊と朝山日乗は秀吉の意を受けて、なお一日留まって無条件での帰洛を説得したが、義昭は受け入れず、交渉は決裂した。恵瓊は輝元の命令を重んじ、義昭に西国に下向されると迷惑である旨を告げた。
11月9日、義昭は主従20人程とともに堺を出て、畠山氏の勢力下である紀伊に海路で下り、在田川南岸の宮崎の浦に着いたのち、由良の興国寺に滞在した。義昭は側近の一色藤長に対し、槙島城の籠城から由良まで供奉したことを、11月29日付の書状で褒め称えている。信長も紀伊への下向を把握しており、出羽の伊達輝宗に京都の近況を報告した際、「義昭が紀州の熊野あたりを流浪している」と記している。
11月16日、信長は明智光秀や細川藤孝に若江城を攻めさせ、三好義継を自害させた。義昭を匿った責任を追及してのことであり、義昭が若江城から堺に移るのを待ったうえで、攻撃が実行に移された。また、義継の死により、久秀は信長に降伏を申し入れた。
12月11日、義昭は湯川直春に対し、自身に協力するように命じた。畠山氏の重臣・湯川氏の勢力は強大であり、直春の父・湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代を務めたこともある実力者であった。
12月12日、義昭は上杉謙信に対し、武田勝頼や北条氏政、及び加賀一向一揆と講和し、 上洛するように命じた。
天正2年(1574年)1月16日、義昭は六角義賢に対し、紀伊に移ったことを報告し、協力するように命じた。
2月6日、義昭は熊野本宮の神主に対し、帰洛に尽力するように命じた。
3月20日、義昭は信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に対し、互いに講和をするよう呼びかけた(甲相越三和)。また、勝頼が織田領国の東美濃を押さえたことを受けて、義昭は徳川家康に対し、勝頼と和睦するように命じた。
4月14日、義昭の側近・一色藤長は、薩摩島津氏の重臣である伊集院忠棟と平田政宗に対し、顕如や三好康長、三好長治が義昭に忠節を示していると伝え、参陣を促している。
8月10日、三好長治の弟・十河存保は武田勝頼の一族・穴山信君に対し、6月の高天神城攻略の祝意を述べ、尾張・美濃へのさらなる侵攻を促すとともに、自身は義昭や顕如と連携して側面攻撃を行うと伝えた。
天正3年(1575年)3月、武田勝頼は信長が大軍で畿内に出陣しているのを見て、三河侵攻を計画し、4月に甲府を出陣した。
4月14日、義昭は薩摩国の島津義久に対し、武田勝頼の進出と大阪方面での戦況を伝えるとともに、帰洛に関して協力を命じた。
5月21日、武田勝頼は設楽原において、織田・徳川連合軍に大敗し、多くの重臣を失った(長篠の戦い)。この勝頼の敗北は、義昭とその味方にとっては深刻な打撃であった。
信長は、11月4日に権大納言、同7日には右近衛大将に任じられ(前年の天正2年(1574年)3月18日、従三位参議)、従三位・権大納言・左近衛中将の義昭よりも上位の存在となった。権大納言・右近衛大将の官位は、過去200年間、足利将軍本人やその後継者などにしか与えられてこなかったが、信長に与えられたということはほかの大名とは別格であるということ、織田氏が将軍家に比肩する存在であるということを世に示した。また、義昭の父・義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際、権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長がこの先例に倣おうとしたとする見方がある。
天正4年(1576年)2月、義昭は紀伊由良の興国寺を出て、西国の毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に動座した。このとき、義昭に随行したのは、細川輝経、上野秀政、畠山昭賢、真木島昭光、曽我晴助、小林家孝、柳沢元政、武田信景らであった。
義昭が鞆を選んだ理由としては、この地はかつて足利尊氏が光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利将軍家にとっての由緒がある場所であったからである。また、第10代将軍・足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある吉兆の地でもあった。
義昭は2月8日付の御内書で吉川元春に命じ、輝元に幕府の復興を依頼した。また、信長の輝元に対する「逆心」は明確であると述べ、そのために動座したとも伝えた。
だが、鞆への動座は毛利氏に何一つ連絡なく行われたものであり、義昭はあえて伝えず、近臣らにも緘口令を敷いていた。信長との同盟関係上、毛利氏にとって義昭の動座は避けなければならない事態であり、輝元はその対応に苦慮した。
毛利氏は織田氏と同盟関係にあったものの、この頃になると信長が西方に進出してきたため、不穏な空気が漂っていた。また、信長が毛利氏と敵対していた浦上宗景を支援し、一方で宗景と対立する宇喜多直家が毛利氏を頼るなど、毛利氏と織田氏の対立にも発展しかねない状況ができていた。さらに、天正3年以降、信長は毛利氏への包囲網を構築するため、近衛前久を九州に下向させ、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図ろうとしていた。
5月7日、輝元ら毛利氏は反信長として立ち上がり、13日に領国の諸将に義昭の命令を受けることを通達し、西国・東国の大名らにも支援を求めた。3ヶ月の間、毛利氏が検討して出した結論であった。これにより、毛利氏と織田氏との同盟は破綻した。
輝元ら毛利氏に庇護されていたこの時期の室町幕府は、一部の学者が私説として「鞆幕府」と呼んでいるが、大方の認知を得たものではない。義昭の鞆時代の陪臣は、かつての奉公衆など幕臣や織田氏と敵対して追われた大名の子弟ら100名前後に過ぎず、13代義輝の朽木時代や14代義栄の堺時代に比較して遙かに人数が少なく、実権もこれらとはほど遠いものである。これらが「朽木幕府」「堺幕府」と呼ばれない以上「鞆幕府」と呼ぶことには無理があると言える。
義昭はまた、輝元を将軍に次ぐ地位たる副将軍に任じた。また、輝元は副将軍として義昭を庇護することにより、毛利軍を公儀の軍隊の中核として位置づけ、西国の諸大名の上位に君臨する正統性を確保した。
義昭は鞆に御所を構え、この地から京都への帰還や信長追討を目指し、全国の大名に御内書を下した。 畿内近国以外では、足利将軍家を支持する武家もまだまだ多かった。
3月21日、義昭は上杉謙信に対し、北条氏政や武田勝頼と和睦し、上洛に協力するように伝えた。この頃、謙信は信長との対立姿勢を強めており、前年10月には勝頼と和睦し、12月には信長を脅威に感じた能登畠山氏より救援を求められていた。
5月16日、義昭は醍醐寺三宝院門跡の義堯に命じて、上杉謙信に武田氏・北条氏と講和し、幕府を再興するようにすすめさせた。これにより、謙信は同月、長らく対立してきた本願寺と講和した。また、同月に謙信は輝元から上洛を求められると、秋には上洛する予定だと伝えた。
6月11日、義昭は武田勝頼と上杉謙信に対して、互いに講和を命じた御内書を再度下し、毛利輝元と協力して協力したうえで信長を討つように命じた。
7月13日、毛利水軍が織田水軍を大阪湾木津川河口(現在の大阪市大正区に位置する木津川運河界隈)で破り、本願寺に兵糧や武器など物資を運び入れることに成功した(第一次木津川口の戦い)。 毛利氏はこの勝利によって、京都への進撃を決意し、その準備を進めた。
9月13日、義昭の求めに応じて、武田勝頼が上杉氏や北条氏との講和を承知し、16日に毛利輝元と同盟を結んだ。
9月以降、信長は将軍御所であった二条御所を完全に破却し、石垣は諸人に略奪させ、堀も京都の人々に埋めさせたほか、門や建物も安土に移築した。おそらく、信長は義昭と和解したのち、義昭を再びここに迎え入れようとし、そのために殿舎以外は破壊せずにいたものの、それがもはや不可能になったと判断したため、完全な破却を行ったと考えられる。
10月10日、義昭は輝元らに対して、西国の武士を集めて義兵を挙げるように命じた。
11月24日、義昭は輝元に対し、足利将軍家の家紋たる桐紋を与えている。
12月27日、三好長治が信長の支援を受けた細川真之に敗れ、自害した。輝元はこれに危機感を覚え、小早川隆景を通し、淡路の水軍を味方につけようとした。
天正5年(1577年)1月、義昭は吉川元春に対し、翌月に陸海から京都へ進撃する相談をするように命じた。同月には、安宅神五郎や菅元重、船越景直など主な淡路水軍が毛利氏についた。
2月27日、阿波三好郡の国人・大西覚用と大西高森が元春や隆景に対し、義昭の上洛に味方すると回答した。
同月、信長が長治の死により、阿波からの援軍を得ることができなくなった雑賀を攻めた。義昭と輝元は上杉謙信に対し、その隙をつく形での上洛を求めたが、謙信はすでに能登から関東に転戦していた。
閏7月27日、讃岐における毛利氏の拠点・元吉城に対し、長尾氏や羽床氏、香西氏、安富氏、三好安芸守からなる「讃岐惣国衆」が攻め寄せたが、毛利方によって撃退された。
同月、謙信が能登に再び進軍し、信長は柴田勝家や羽柴秀吉らを加賀に派遣した。だが、北陸に多くの諸将が派遣されたことで、松永久秀が離反を企てた。
8月1日、義昭は毛利氏と讃岐諸勢力との争いに関して、香川氏を讃岐に復帰させることや、輝元や元春、隆景に勝手に三好方と和睦しないように指示した。
8月17日、松永久秀・久通父子は、本願寺を攻めるために定番していた天王寺を突如引き払い、信貴山城に籠城した(信貴山城の戦い)。久秀の離反は、義昭や本願寺から調略を受けた結果であると考えられる。
9月23日、義昭は側近の真木島昭光と小林家孝を和睦交渉のために阿波に派遣し、11月に阿波三好方の長尾氏と羽床氏から人質を取ることで和睦した。讃岐での戦闘は、義昭にとっては上洛戦争の一環であり、毛利水軍も備前と讃岐の海峡で航路の安全を確保した。
10月10日、久秀父子が織田勢の攻撃により自害し、信貴山城を自ら焼き払った。だが、義昭はその後もあきらめず、各地の諸将へ積極的に調略活動を行った。
同月、信長は羽柴秀吉に中国地方攻略を命じ、秀吉が姫路城を拠点に活動を始めた。そして、11月に播磨の上月城を攻め落とし、尼子勝久を入れた。
天正6年(1578年)1月、毛利氏が上月城奪還のため、粟屋元種を摂津に送ると、同月11日に義昭は高野山の金剛峯寺に出兵を要請した。
2月、別所長治が三木城で挙兵し、信長から離反した(三木合戦)。義昭は3月19日付の御内書において元春に対し、義昭自らの調略によって長治を味方に引き入れたと宣伝した。
3月、上杉謙信が死去し、信長包囲網は大きな打撃を受けた。 その後、家督をめぐり、養子の上杉景勝と上杉景虎による御館の乱が勃発し、景勝が勝利したが、この乱によって上杉氏は対外出兵する力を失った。
5月24日、義昭は上月城の戦いのさなか、真木島昭光を上月城包囲の毛利氏の陣に派遣し、その将兵をねぎらうとともに、小林家孝を駐留・督戦させた。
7月3日、上月城が毛利氏の攻撃によって陥落し、尼子氏が滅亡すると、義昭は元春や隆景といった毛利氏諸将の戦功を褒めた。
8月、義昭は吉川元春の依頼を受け、島津氏に使者を派遣し、大友氏を牽制させるとともに、毛利氏が京都に進撃するときは援軍を差し出すことを要請した。
10月、荒木村重が有岡城で挙兵し、信長に反旗を翻した(有岡城の戦い)。村重の離反もまた、義昭の調略によるものであった。なお、義昭は輝元と協力して村重の調略を行っており、義昭は小林家孝を毛利氏の属将とともに有岡城に入城させ、村重に毛利氏へ帰順するよう説得したことが知られている。
同月、信長は明智光秀を介し、土佐の長宗我部元親の嫡子・弥三郎に偏諱を与え、信親と名乗らせた。これは、義昭や輝元、本願寺の支援を受けた十河存保が阿波において、反信長の立場で活動しており、信長と元親が共通の敵に対抗するために結び付いたものであった。
11月6日、毛利水軍は本願寺に物資を運び入れるため、石山に再び来援したが、九鬼嘉隆の鉄甲船を用いた織田水軍に敗北を喫した(第二次木津川口の戦い)。以後、毛利氏は淡路島以西の制海権は保持したままであったが、大阪湾は織田水軍に封鎖された。
11月19日、荒木村重が織田軍に攻撃されると、24日に義昭は吉川元春に対し、輝元に出兵するように勧めさせた。
12月、輝元は出陣を決意し、毛利氏有利のこの好機に乗じて上洛しようとした。そして、輝元出陣の日は翌年1月16日と定められ、諸将に下令された。輝元はそれに伴い、武田勝頼に徳川家康を攻撃し、織田氏の兵力を引き付けるよう要請している。
天正7年(1579年)1月、毛利氏の重臣・杉重良が大友氏の調略で謀反を起こし、毛利氏の背後である筑前や豊後に暗雲が垂れ込めた。このため、1月16日の輝元自らによる出兵は無期限での延期となった。
6月、備前の宇喜多直家が毛利氏に対して反旗を翻したばかりか、9月には伯耆の南条元続も同様に反旗を翻した。これらの裏切りは、輝元の上洛断念によるものであるのみならず、信長が調略の手を伸ばした結果でもあった。そのため、輝元は荒木村重や別所長治、本願寺への支援よりも、自領の防戦を優先するようになった。
11月27日、信長は豊後の大友義統に対し、毛利氏の領国である周防と長門を与える約束をした。信長は諸勢力を懐柔し、義昭や輝元らに対する包囲網を構想していた。
天正8年(1580年)1月17日、三木城の別所長治が自害し、播磨での信長への抵抗は収束に向かった。
閏3月5日、顕如が信長との勅命講和に応じて、大坂退去を約し、石山合戦が終結した。本願寺の降伏は、輝元や武田勝頼の苦戦、上杉氏の没落、有岡城や三木城における虐殺などによって、厭戦気分が高まったことにあった。これにより、信長は秀吉を中心とした中国地方攻略を本格化させた。
6月、秀吉が因幡に侵攻し、毛利方の吉川経家が籠城する鳥取城を攻めた(鳥取城の戦い)。
天正9年(1581年)10月、鳥取城が秀吉に降伏し、吉川経家が自害した。義昭は情勢の悪化を見て、信長の出陣に備えるよう、吉川広家に命じた。
天正10年(1582年)3月、武田勝頼が信長や徳川家康らに攻められ、自害に追いやられた(甲州征伐)。
4月、秀吉が備中に侵攻し、同月に毛利氏の配下・清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃し、5月には水攻めを行った(備中高松城の戦い)。他方、輝元は水攻めの急報を受けて、元春・隆景らと共に総勢5万の軍勢を率い、高松城の救援に向かい、秀吉と対峙した。
5月7日、信長は四国国分案を出し、讃岐を三男の信孝に、阿波を三好康長に与え、土佐と伊予は自身が淡路に赴いた際に決めるとした。この国分案には、元親や十河存保、毛利方で伊予北部を支配する河野通直は入っておらず、信長は元親の阿波や讃岐における権益を認めていなかった。そして、信孝に四国攻めの出兵準備をさせた。
5月17日、信長は秀吉の使者より、毛利氏が出陣してきたことを知らされると、自ら出陣して輝元ら毛利氏を討ち、九州までも平定するという意向を秀吉に伝えた。信長は自身の出陣に先んじて、明智光秀に秀吉の援軍に向かうよう命じた。信長は四国を平定し、毛利輝元を滅ぼせば、大友義鎮といった九州の諸大名も服属すると考えていた。
5月21日、元親が明智光秀の家臣・斎藤利三に送った書状では、元親は阿波の大西城と海部城以外から撤兵し、信長の四国国分案を受け入れる意向を示していた。他方、同日に義昭の側近・真木島昭光が元親のもとにいた石谷光政に対し、輝元の仲介による土佐の長宗我部氏と伊予の河野氏の和睦を指示しており、義昭の帰京に尽力するよう書状を送っている。これと同様の書状は、2月23日にも送られている。このことから、元親は義昭や輝元とも通じ、和戦両様の構えを取っていたようである。
5月29日、信長は西国へ出陣するため、安土城から上洛し、京の本能寺に入った。そして、6月1日に信長は本能寺において公家衆らと対面し、6月4日に自身が西国に出陣することを公表した。
天正10年6月2日、信長が本能寺において、明智光秀に襲撃されたことにより、自害し果てた(本能寺の変)。嫡子の信忠もまた、同様の運命をたどった。変の翌日にこの情報を得た秀吉は、信長の横死を秘したまま、毛利氏と講和を行った。
6月4日、備中高松城が講和により開城し、城主の清水宗治らは切腹した。秀吉はその日のうちに撤退し、毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日の5日であった。
6月9日、信長の死を知った義昭は隆景に対し、帰京するために備前・播磨に出兵するように命じたが、輝元ら毛利氏は講和を遵守して動かなかった。毛利氏は上方の情報収集は行ったが、領国の動揺を鎮めることで精いっぱいであり、進攻する余裕はなかった。
6月13日、秀吉が山崎の戦いで光秀を破ると、輝元は秀吉に戦勝を祝うため、安国寺恵瓊を使者として派遣した。
6月17日、義昭の御内書と真木島昭光の副状が香宗我部親泰に発給され、長宗我部元親が義昭の帰京を請けた。
9月26日、義昭は安国寺恵瓊に対し、羽柴秀吉に自身の帰洛を斡旋させるように命じた。秀吉もこれに承知の意思を示した。
10月15日、秀吉は大徳寺で信長の葬儀を行い、後継者としての地位を確立した。そのため、秀吉と柴田勝家が覇権を巡って火花を散らし始めると、義昭を擁する輝元は双方から味方になるよう誘いかけられた。
11月、義昭は勝家に味方し、勝家もこれを承知した。義昭はまた、勝家と上杉景勝を講和させて協力を得るため、11月21日に景勝に御内書を下した。
天正11年(1583年)2月13日、勝家は北近江に進出するための援助を、毛利氏に求めた。また、同月14日には徳川家康が義昭の帰洛に関して、輝元に賛意を表した。
3月14日、勝家は義昭を擁立したうえで、毛利氏の支援を受けて、秀吉を挟撃しようとした。そのため、勝家は義昭に輝元の出兵を督促させた。
4月5日、義昭は輝元に対し、勝家の先鋒が近江に進出したことと知らせるとともに、すぐに出兵するように命じた。また、同日に勝家は輝元に対し、出兵を督促した。
4月20日、元春と隆景が会見した結果、毛利氏は両者の勝敗を見てからと傍観することにし、義昭の要請には応じないことにした。
4月21日、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家に勝利し、勝家を自害に追いやった。秀吉は勝家の最期を輝元に伝えるとともに、東国の北条氏政や北国の上杉景勝を攻めると伝え、輝元に協力するように伝えた。すでに秀吉と輝元の間には及び難い力の差がついていたが、義昭は勝家に味方したため、秀吉を敵に回すという結果を招いた。
12月初旬、義昭は側室の春日局を大阪に向かわせた。このとき、春日局の発言力は強かったとされ、小早川隆景が毛利氏の待遇に関して、泣きついたという。
天正12年(1584年)9月4日、義昭は島津義久や龍造寺政家、宗像大宮司の宗像氏貞に対して、帰京に協力するように命じ、輝元がこれを周旋した。義昭はまた、義久に豊後の大友義統を討つように命じ、九州の太守にすることも約束した。義昭が島津氏に対して援助を求めたのは、帰京に関する費用のためだと考えられる。無論、義昭は毛利氏にも同様の依頼をしていたと思われるが、毛利氏はこの時点では義昭にまだ利用価値があると考え、帰京に同意しなかったようである。
天正13年(1585年)1月、輝元が秀吉との国境画定に応じて、正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏と織豊政権の戦闘はようやく終結した(京芸和睦)。
天正13年7月、秀吉が朝廷より関白に任命された。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年半の間続いた。この2年半は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。またこの間、義昭は将軍として、秀吉に抵抗する島津氏に対して、秀吉との和平を勧めている。
天正14年(1586年)8月、毛利輝元を先陣として、秀吉の九州平定が始まった。だが、島津氏の兵は精強であり、先陣は敗戦を重ねた。
12月4日、義昭は一色昭秀を薩摩の島津義久のもとに送って、秀吉との講和を勧めている。これは毛利氏の意向を受けたものであり、毛利氏はもともと大友氏との関係から、島津氏と同盟していたこともあって、全面的な闘争を望んでおらず、それゆえ義昭を介す形で意向を伝えたと考えられる。
天正15年(1587年)2月、義昭は一色昭秀を使者として、島津氏に再び講和を勧めている。このとき、義昭は秀吉の弟・豊臣秀長の意見を伝えると書状で記していることから、義昭のこの要請は秀吉の意向を受けたものであり、義昭と秀吉が連携を取っていたことがわかる。この時点でもなお、島津氏は義昭を主君として仰いでおり、秀吉が島津氏の面目が立つように、義昭の上意という形で講和の勧告を行ったと考えられる。
3月12日、秀吉が九州に向かう途中、義昭の住む鞆の御所に近い赤坂に立ち寄り、義昭と田辺寺で対面した。義昭は秀吉と贈り物を交換し、親しく酒を酌み交わした。義昭は秀吉と十数年ぶりに対面したが、秀吉はもはや従一位・関白・太政大臣であり、従三位・権大納言の義昭よりも数段上の存在となっていた。
4月、義昭は一色昭秀を送って、島津義久に重ねて講和を勧めている。その結果、義久は昭秀らの勧告を受けて、21日に降伏を受け入れた。
5月、島津氏が秀吉に降伏した。義昭がこの勝利にどれほど貢献したかは不明だが、秀吉は義昭の功を認めた。そして、義昭が望んだ帰京も認め、毛利氏に対し、義昭が帰京に使用するための船の調達を命じた。
この頃、義昭は毛利氏に願い、御座所を鞆から山陽道に近い沼隈郡津之郷(福山市津之郷町)へと移させた。時期は不明ながら、鞆に近い山田常国寺を御座所としていた時期もあった。
7月、細川幽斎が厳島神社での延年舞を見たのち、義昭のいる津之郷の御座所に訪れた。義昭の帰京に関する打ち合わせが行われたと考えられている。両者の蟠りは十数年の歳月を経て、ほとんどなくなっていた。
8月、義昭の子息・義尋が興福寺の大乗院門跡となることが決定し、28日に大乗院に入室、得度した。これは、秀吉による義昭に対しての島津氏討伐の功賞であり、義昭の意向に従って優遇したものと考えられる。
10月、義昭は毛利氏の兵に護衛されながら、京都に帰還した。義昭にとっては、およそ15年ぶりの京都であった。
12月、義昭は大坂に赴き、秀吉に臣従した。このとき、秀吉から山城国槇島において、1万石の領地を認められた。
天正16年(1588年)1月13日、義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を朝廷に返上した。このとき、秀吉の奏請によって、義昭は朝廷から准三宮の称号(待遇)を受けている。これにより、室町幕府は名実ともに滅亡した。
その後、義昭は出家し、昌山道休と号した。
晩年の義昭は秀吉から厚遇された。義昭は前将軍ということもあって、徳川家康や毛利輝元、上杉景勝といった大大名よりも上位の席次を与えられた。また、斯波義銀や山名堯熙、赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、秀吉の良き話し相手となった。
天正16年5月、義昭は毛利輝元と小早川隆景に対し、「忠節を忘れることはない」と記した感謝の御内書を発給した。
7月19日、輝元が大坂に到着すると、義昭は真木島昭光を使者として送り、輝元に金屏風一隻、樽二十荷、肴十折、帷子二十を贈与した。その後、輝元は秀吉と聚楽第で対面し、完全に臣従した。
9月10日、輝元が安国寺恵瓊や細川幽斎を供として、義昭のもとを訪れた。義昭は輝元に対して、多年の忠功を感謝し、懐旧談にも及んだという。
天正20年(文禄元年、1592年)3月20日、義昭は文禄の役において、秀吉のたっての要請により、相国寺鹿苑院に宿泊し、武具などをそろえて出陣の準備をした。その際、鹿苑院の門前では兵達の甲冑が日に映え、旌旗が風に翻り、その威容を見た者たちは「戦袍(の)光彩、目を奪う」と感心した。
3月26日、義昭は由緒ある奉公衆などの名家による軍勢を従えて、後陽成天皇の見送りを受けながら、秀吉とともに京都を出発した。
4月25日、秀吉が肥前名護屋城に到着すると、義昭は城の外郭に布陣した。その兵力は3,500人と記されている。
文禄2年(1593年)8月、秀吉が大坂に帰還したのにあわせ、義昭も帰京したと考えられている。
慶長2年(1597年)8月、義昭は病床に伏した。そして、病から回復できぬまま、28日に大坂で薨去した。死因は腫物であったとされ、病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。享年61(満59歳没)。
義昭の死去に際し、義昭の猶子・義演は自身の日記『義演准后日記』の中で、「近年将軍ノ号蔑也、有名無実弥以相果了(近年は将軍といっても、有名無実となった)」と感想を記している。
義昭の没後、西笑承兌が施薬院全宗とともに大坂城に赴き、義昭の死を秀吉に報告した。秀吉は真木島昭光と相談し、葬儀の阿闍梨(導師)を依頼するように言った。
義昭の遺体は旧臣数十名が供をして、足利将軍家の菩提寺である等持院に入ったのち、方丈の書院に収められた。そして、等持院の足利将軍遺髪塔に収めるため、承兌が戒師となり、義昭の毛髪を剃った。葬送料は義昭の旧臣らによって拠出された。
9月2日、承兌は京都所司代の前田玄以のもとに赴き、等持院の大工2人を義昭の龕(棺)と火屋(火葬場)を作るために使用したいと申請したものの、1人だけが許可された。承兌はこれを嘆き、「世が世であれば、洛中洛外の大工すべてを招集しても来ないことはあろうか。今は両人すら許してもらえない」と日記に記している。
9月8日、義昭の葬儀が等持院で行われ、真木島昭光以下旧臣30余人が会葬した。
9月13日、細川忠興の名代として、子息の忠利が弔問し、香典20貫文を供えた。そのうち、幽斎からは10貫文であった。
9月14日夜、義昭の息子で大乗院門跡の義尋が焼香を行った。その後、義昭の側室である春日局と大蔵卿局が焼香を行った。
位牌所は相国寺洋源軒にあるが、同寺の塔頭・霊陽院は義昭の菩提所として創建されたものである。
義昭の嫡男・義尋は、信長の人質となった後、興福寺の大乗院門跡となった。義尋は後に還俗して2人の子をもうけたが、2人とも仏門に入った。このため、義昭の正系は断絶した。
大坂の陣の際、義昭の子と称する一色義喬が総数563人分の「家臣連判帳」を提出して、徳川方に参加しようとしたが、果たせなかったという。その孫・義邵は会津松平家に仕え陸奥国会津藩士となり、坂本姓を名乗る。仕官の際に足利氏菩提寺の鑁阿寺に相伝の家宝の一部を寄進したという(『足利市史 上巻』)。ただし、義喬の存在は同時代史料では確認されていない。
「永山氏系図」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集』所収)において、泉州蟄居の際にできた子として、義在という人物の名が記されている。同史料に寄れば、義在は薩摩藩士となり、舅の姓に改姓して「永山休兵衛」と称したという。ただし、義在の存在も同時代史料では確認されていない。
『旧柳川藩志』によると、近江矢島氏を継いだ矢島秀行が義昭の子と記されている。妻は菊亭晴季の女、子に矢島重成、八千子(立花宗茂継室)がいる。
明治12年(1879年)、押小路実潔が名家の子孫を華族に取り立てるよう請願書を提出しているが、この中で「西山義昭将軍裔ニして細川家ニ客タリ足利家」も名家の一つとして数えている。 これは肥後国熊本藩士であった尾池義辰の子孫、西山氏を指すものであるが、この西山氏の先祖は義輝という説や義昭の弟という説もあるため、明確になっていない。
祭神として足利義昭が祀られており、御神体として「伝 足利義昭公像(束帯座像)」が伝存している。その近隣は、備後に流れ着いた義昭を毛利輝元家臣で当地周辺を統治していた渡辺氏(一乗山城主)が匿ったとされる地であり、義昭の寓居していた山は御殿山という名で現在も残っている。
大可島城は毛利輝元を頼って下向した義昭が拠点とした場所。古くは足利直冬(足利尊氏の子、足利直義の養子)も西国での活動拠点とした瀬戸内の要衝であった。現在は陸続きになっているが、かつては独立した島に作られた城、「海城(水城)」であった。後に福島正則によって対岸に鞆城が整備されると、城跡地に現在の南林山釈迦院圓福寺が建立された。義昭はこの大可島城で幕府将軍としての政務を行っていた事から、「鞆幕府ゆかりの地」となっている。
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"text": "足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代(最後の)征夷大将軍(在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉)。",
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"text": "父は室町幕府の第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。",
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"text": "兄・義輝が永禄の変で三好三人衆らに殺害されると、細川藤孝ら幕臣の援助を受けて南都から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。その後、朝倉義景の庇護を受け、義昭に改名した。",
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"text": "そして、織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任した。その後、信長と対立し、武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて京都から追われ、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。",
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"text": "しかし、義昭は京都追放後も将軍として活動を続けており、河内国や和泉国、紀伊国に滞在したのち、備後国へ下向した。そして、毛利輝元の庇護を受け、亡命政権・鞆幕府を樹立し、信長に対抗した。",
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"text": "信長が本能寺の変によって横死したのち、豊臣政権が確立すると帰京し、豊臣秀吉から山城国槇島に1万石の所領を認められた。そして、将軍を辞して出家し、昌山道休(しょうざん どうきゅう)と号した。",
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"text": "天文6年(1537年)11月3日、第12代将軍・足利義晴の次男として、京都で誕生した。母は近衛尚通の娘・慶寿院。幼名は千歳丸(ちとせまる)。",
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"text": "天文9年(1540年)7月、千歳丸が3歳の時、父の義晴は南都の興福寺一乗院に入室させる契約を行った。兄に嗣子である義輝が既におり、跡目争いを避けるため、嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従う形となった。また、興福寺が大和一国の国主(大和の守護でもあった)であることから、寺社との結びつきを強める目的があり、将軍の若君が入室することによって、将来的に興福寺をはじめとする大和の寺社勢力が将軍家を扶助する体制を構築しようとしたとされる。",
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"text": "天文11年(1542年)9月11日、千歳丸が6歳の時、寺社奉行の諏訪長俊が義晴の使者として興福寺に向かい、将軍の「若君」が11月に一乗院門跡・覚誉の弟子として入室するので、よく世話するようにと伝えた。興福寺は寺領に段銭をかけ、その費用を調達した。",
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"text": "11月20日、千歳丸は伯父・近衛稙家の猶子となって、興福寺の一乗院に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名を覚慶と名乗った。覚慶は近衛家の人間として、一乗院門跡を継ぐ修行を行った。",
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"text": "その後、覚慶は一乗院門跡となり、権少僧都にまで栄進し、何事もなく二十数年を興福寺で過ごした。このまま、覚慶はやがて興福寺別当となり、高僧としてその生涯を終えるはずであった。",
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"text": "永禄8年(1565年)5月19日、第13代将軍であった兄・義輝が京都において、三好義継や三好三人衆、松永久通らによって殺害された(永禄の変)。このとき、母の慶寿院、弟で鹿苑院院主・周暠も殺害された。",
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"text": "義輝の死後、覚慶は松永久秀らによって、興福寺に幽閉・監視された。久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる。実際に監視付といっても、外出禁止の程度で行動は自由であった。ただし、大覚寺門跡の義俊が上杉輝虎(謙信)に宛てた手紙では、厳重な監視としている(『上杉古文書』)。",
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"text": "やがて、覚慶を興福寺から脱出させるべく、越前の朝倉義景が三好・松永に対して、「直談」で交渉を行った。だが、この交渉は不調に終わり、謀略を使って脱出を行うことになった。",
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"text": "7月28日夜、覚慶は兄の遺臣らの手引きによって、密かに興福寺から脱出した。義俊の書状によると、立役者は義俊と朝倉義景とのことだが、実際には義輝の近臣であった細川藤孝と一色藤長が脱出において活躍したと考えられる。藤孝の画策により、米田求政が医術を以て一乗院に出入することで覚慶に近づき、番兵に酒を勧めて沈酔させ、脱出に成功させたと伝わる。",
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"text": "覚慶とその一行は、奈良から木津川をさかのぼり、伊賀の上柘植村を経て、翌日には近江甲賀郡の和田に到着した。そして、和田の豪族である和田惟政の居城・和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)に入り、ここにひとまず身を置いた。この地には藤孝が案内したという。",
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"text": "覚慶はこの地において、足利将軍家の当主になることを宣言し、各地の大名らに御内書を送った。この呼びかけに、覚慶の妹婿で若狭の武田義統、近江の京極高成、伊賀の仁木義広らが応じたほか、幕臣の一色藤長、三淵藤英、大舘晴忠、上野秀政、上野信忠、曽我助乗らが参集している。",
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"text": "また、覚慶は諸国の大名に御内書を発することで、その糾合に努めた。その初期には、関東管領・上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼しているほか、安芸の毛利元就、肥後の相良義陽、能登の畠山義綱らにも書状を出して出兵を要請した。これらには和田惟政の副状が発給され、輝虎のみならず、越前の朝倉義景、河内の畠山尚誠、三河の徳川家康らより、覚慶に協力する旨の書状が惟政に送られた。",
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"text": "11月21日、近江の六角義賢の好意を得て、甲賀郡和田から京都に程近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に移り住み、在所とした(矢島御所)。当時、京都においては、三好義継ら三好氏が義秋の従兄弟・足利義栄を将軍に就任させようとしていたが、松永久秀と三好三人衆の間では確執による内部分裂が発生しており、これを上洛の好機と捉えたとみられている。",
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"text": "この時、和田惟政は尾張の織田信長に上洛への協力要請を取り付けるため、尾張に滞在しており、惟政には無断の移座であった。後日、惟政が激怒していることを知った覚慶は惟政に謝罪の書状を送っている。",
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"text": "4月21日、義秋は吉田神社の神主・吉田兼右の斡旋により、朝廷から従五位下・左馬頭の叙位・任官を受けた。この叙任は本来、武家伝奏を経て朝廷に申請するのが正式な手続きであったが、足利義栄が摂津国・普門寺まで進出している政治事情を配慮して、吉田兼右の斡旋で「御隠密」に行われた。その後、同年12月に義栄も同様に叙任を受けたが、左馬頭は次期将軍が就く官職であり、朝廷が義秋を義栄より先に任じたことは、義秋を正統な後継者として認識していた可能性が高い。",
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"text": "矢島御所において、義秋は近江の六角義賢、河内の畠山高政、越後の上杉輝虎、能登の畠山義綱らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山秋高をこの頃に義秋へ従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて、浅井長政と織田信長の妹・お市の方の婚姻の実現を働きかけている。",
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"text": "義秋はまた、輝虎と甲斐国の武田信玄・相模国の北条氏政の3名に対して講和を命じたほか、美濃国の斎藤龍興と交戦していた尾張の織田信長と通交して、出兵を促した。義秋の構想は、相互に敵対していた斎藤氏と織田氏、六角氏と浅井氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。",
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"text": "和田惟政と細川藤孝の説得により、信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった。和議の成立によって、信長は8月22日に出兵することを約束した。",
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"text": "8月3日、義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸に矢島御所で内通する者がおり、その軍勢3,000余騎が矢島を攻撃すべく、坂本まで進出した。だが、この時は坂本で迎撃し、奉公衆の奮戦により、からくも撃退することが出来た。信長の上洛計画が現実味を帯びたことで、三好氏が先制攻撃を仕掛けたと考えられる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "8月29日、義秋から幕府再興の呼びかけを受けて上洛の兵を起こした信長の軍は、斎藤龍興の襲撃にあって、美濃を通過できなくなってしまった(河野島の戦い)。このとき、敗れた信長の軍勢は「前代未聞」の敗戦ぶりであったといい、斎藤氏から嘲笑を受ける程であったという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "同日、近江の六角義賢・義治父子が叛意を見せた。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは、三好方による巻き返しの調略があったとみられている。信長は美濃を通過できず、さらにはその先の近江も不穏となったため、撤退せざるを得なくなった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "8月29日、六角氏が叛意を見せたことや、三好側が矢島を襲撃するという風聞も流れていたこともあって、義秋は妹婿の武田義統を頼り、若狭国へ移った。このとき、義秋は4、5人の供のみを従えるだけであったという。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "しかし、京都北白川に出城を構え、応仁の乱では東軍の副将を務めて隆盛を極めた若狭武田氏も、義統と息子の武田元明との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。そのため、義統は出兵の代わりとして、弟の武田信景を義秋に仕えさせた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "9月8日、義秋は若狭から越前国敦賀へと移動した。その後、朝倉景鏡が使者として赴き、義秋は朝倉義景のいる一乗谷に迎えられた。義景は細川藤孝らによる南都脱出の立役者であったとする見方がある一方で、すでに足利将軍家連枝の鞍谷御所・足利嗣知(足利義嗣の子孫)も抱えており、義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "義秋は一乗谷において、朝倉氏と加賀一向一揆との講和を行ったり、上杉輝虎に上洛を要請したりしたものの、これらは実現に至らなかった。この頃、義秋のもとには上野清信(清延)・大舘晴忠などのかつての幕府重臣や、諏訪晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆が帰参した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "永禄10年11月21日、義秋は一乗谷の安養寺に移った。義秋は朝倉氏と加賀一向一揆との講和を再度図り、義景が応じたことで和議が成立した。その後、双方で人質交換が行われ、国境の城と砦が破却された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "義秋はまた、輝虎と甲斐の武田信玄・相模の北条氏政の講和を図っている。なお、義秋は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。だが、輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆の本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった。他の大名からも積極的な支援の動きは見られなかった。この時期、義秋の御内書には、義景の副状が添えられている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "永禄11年(1568年)2月8日、義秋の対抗馬である足利義栄が摂津の普門寺に滞在したまま、将軍宣下を受けた。血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である義栄よりも有利な環境にありながら、いつまでも上洛できない義秋に対して、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄が、義輝によって取り潰された元政所執事の伊勢氏の再興を約束するなど、朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続けた結果でもあった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "3月8日、義秋が朝廷へ上奏したことにより、義景の母が従二位に叙された。その酒宴は終日終夜に及んで行われた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招いて、一乗谷の朝倉氏の館において元服式を行い、名を義昭と改名した。なお、山科言継も招かれる予定だったが、費用の問題から晴良だけになった。加冠は、兄・義輝が六角定頼を管領代として加冠役にした前例に倣って、朝倉義景を管領代に任じた上で行われた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "6月21日、義昭は紀伊国の粉河寺に対し、畠山氏と協力して馳走するように求めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "義昭が越前に滞在中、織田信長は義昭からの上洛要請を忘れず、それを果たすため、永禄10年には松永久秀と結び、近江の山岡氏や大和の柳生氏にも働きかけていた。また、信長は美濃での戦いを有利に進め、永禄10年8月には斎藤氏の居城・稲葉山城を落とし、翌11年には北伊勢も攻略するなど、着々と準備を進めていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "そして、義昭は朝倉氏の家臣であった明智光秀の仲介により、信長との交渉を再開した。またこの時、義昭が光秀に対し、信長に仕えるよう密命を下した、と桑田忠親は指摘する。信長もまた、家臣の村井貞勝、不破光治、島田秀満らを越前に派遣し、和田惟政もこれに加わっている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "永禄11年7月13日、義昭は一乗谷を出発し、16日には信長の同盟者・浅井長政の饗応を小谷城で受け、25日には信長と美濃の立政寺で対面した。義昭は美濃に入ると、同月28日に多喜越中守に道中の警護を、服部同名中に道中の斡旋をそれぞれ命じ、上洛の準備に入った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "9月7日、信長が尾張・美濃・伊勢の軍勢を率い、美濃の岐阜から京都へと出発した。義昭と歩調を合わせて、上洛の準備を整えてからの出兵であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "9月8日、信長は近江高宮に着陣したが、六角義治が山に逆木をして道を塞いで妨害したため、2、3日を費やした。その後、信長は浅井氏の城・佐和山城に入り、六角氏に「天下所司代」を約束して投降を呼びかけたが、六角氏は三好氏と同盟していたため応じなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "9月12日申の刻(午後4時頃)、信長は浅井氏とともに六角氏の箕作城を攻めた(箕作城の戦い)。ここで城兵の頑強な抵抗にあったが、信長は兵を入れ替えて攻撃を繰り返し、13日丑の刻(午前2時頃)に六角勢が撤退、城を攻め落とした。この戦いは上洛戦で最大の戦いとなった。やがて、箕作城の落城が京都に伝わると、京中の人々は戦場になることを恐れ、騒然となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 46,
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"text": "9月13日、信長は六角氏の居城・観音寺城を攻めたが、六角義賢・義治父子や城兵は夜陰に乗じて甲賀に逃げており、残兵も降参したことから、難なく城を攻略した(観音寺城の戦い)。六角氏の家臣だった国衆も投降し、江南ニ十四郡は織田勢に制圧された。信長は兵を休めるとともに、義昭に近江を平定したことを報告し、義昭もまた、織田軍に警護されて上洛を開始した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "9月22日、義昭はかつて父・義晴が幕府を構えていた近江の桑実寺に入った。同日、信長の先陣が勢多から渡海し、23日に山科七郷に着陣した。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "9月23日、信長が守山から園城寺極楽院に入り、大津の馬場・松本に着陣した。義昭も信長の後から渡海し、園城寺光浄院に入った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "9月26日、信長は山科郷粟田口や西院の方々を経て、東寺に進軍したのち、東福寺に陣を移した。また、細川藤孝に御所を守らせた。一方、義昭も東山の清水寺に入り、遂に上洛を果たした 。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "9月27日、三好方の五畿内と淡路・阿波・讃岐の軍勢が山崎に布陣しているという情報が流れ、信長の先陣を派遣したところ、すでに軍勢は撤退していた。信長は河内方面に軍を進め、山崎・天神馬場に着陣した。義昭は清水寺から東寺に移り、西岡日向の寂勝院に入った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "9月28日、信長は三好長逸と細川昭元が籠る畿内支配の拠点・芥川山城に軍を進め、翌29日にはその麓に放火し、河内の各所も放火した。長逸と昭元は27日夜に逃亡しており、行方知らずになっていた。義昭は天神馬場まで進んでいる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "9月30日、義昭が芥川山城に入城し、将軍家の旗を掲げ、ここから摂津・大和・河内の敵対勢力への征討が行われた。織田軍は大和郡山の道場と富田寺を制圧したのち、摂津池田城の池田勝正を攻めた。勝正は抵抗しきれず、子息ら5人の人質を出して恭順し、所領を保証された。同日、病気を患っていた14代将軍・義栄が死去し、側近の篠原長房らは阿波に引き返した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "10月2日、三好長逸と池田日向守が降参し、義昭に出仕した。また、河内では三好方の飯盛山城と高屋城が降伏し、摂津でも高槻城や入江城、茨木城が攻略されるなど、摂津と河内の制圧が進んだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 54,
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"text": "10月4日、松永久秀、三好義継、池田勝正らが芥川山城に「御礼」のために出仕し、久秀には大和一国の支配が認められた。また、同日に興福寺が義昭に使者を派遣して礼を述べたのをはじめ、武家のみならず、多数の寺社が安堵を求めて芥川山城に集った。これにより、近江・山城・摂津・河内・和泉の五畿内は義昭と信長に制圧され、さらには丹波と播磨の国衆も赴いたことで、五畿内近国も「将軍の御手に属す」領域となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "10月6日、朝廷は戦勝奉賀の勅使・万里小路輔房を芥川山城に派遣し、義昭に太刀、信長には十肴十荷がそれぞれ下賜された。義昭が芥川山城で各氏の「御礼」を受け、勅使を迎えたことは、三好政権からの政権交代を印象付けた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "10月8日、松永久秀は義昭から細川藤孝と和田惟正、信長から佐久間信盛を大将とする軍勢2万の援軍を受け、総勢3万の軍勢で大和攻略にあたった。久秀はこの援軍を以て、筒井城の筒井順慶や窪城の井戸良弘、十市氏、豊田氏、楢原氏、森屋氏、布施氏、万歳氏などの大和の国人衆を攻めた。これらの国人衆は10月5日に芥川山城に赴いたが、信長は久秀との連携もあって、十市氏以外を赦さなかった。久秀は三好長慶から大和北部の支配を認められていたが、大和一国にその支配を拡大し、義昭からも認められる形となった。この久秀の大和平定は信長の畿内平定戦の一環として行われ、その終結とともに畿内平定戦も集結した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "10月14日、義昭は信長による畿内平定を受けて、信長の供奉を受けて再度上洛し、本圀寺に入った。本圀寺では、公家の菊亭晴季、山科言継、庭田重保、葉室頼房、聖護院門跡の道澄など僧俗数十人が訪れた。なお、当時の人々の間では、新興勢力である信長は義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長は御供衆の1人であるという認識があった(池田本『信長記』)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "10月18日、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて、室町幕府の第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛中将にも昇叙・任官された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "10月24日、義昭は信長を最大の功労者として認め、「天下武勇第一」と称えるとともに、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可した。また、幕閣と協議した末、信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。義昭が信長に対して宛てた10月24日の自筆の感状では、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことは、ことに有名である。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "さらに、義昭は信長の武功に対し、副将軍か管領(または管領代)への任命、斯波氏の家督継承、その当主の官位である左兵衛督の地位、五畿内の知行など、褒賞として高い栄典を授けようとしたが、信長はそのほとんどを謝絶した。結局、信長は弾正忠への正式な叙任、桐紋と二引両の使用許可のみを受け取った。また、信長は堺・草津・大津を自身の直轄地とすることを求めていることから、虚名より実利を選択したと考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "将軍に就任した義昭は上洛戦での論功行賞を行い、所領の宛行・守護の補任を行った。摂津では、池田城主・池田勝正、伊丹城城主・伊丹親興に本領を安堵し、さらには和田惟政に芥川山城を与え、彼ら3人を守護に補任し、摂津三守護とした。河内では、高屋城城主・畠山秋高と若江城城主・三好義継を、それぞれ半国守護とした。大和では、多聞山城城主・松永久秀に一国の支配が委ねられた。山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどして治めた。これらの守護補任は三好氏による京都侵攻を阻止するため、軍事的に非常に大きな意味を持った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "義昭は二条昭実(二条晴良の嫡子)らに自身の偏諱を与えたほか、領地を安堵し、政権の安定を計った。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また、義昭は伊勢氏当主も義栄に出仕した伊勢貞為を廃し、弟の貞興に代えさせて仕えさせた。また、当時の記録(『言継卿記』・『細川両家記』など)には、義昭期の奉公衆として三淵藤英・細川藤孝・和田惟政・上野秀政・曽我助乗・伊丹親興・池田勝正の名前が確認できる。さらに、兄の義輝が持っていた山城の御料所も掌握した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "このように幕府の再興を見て、島津義久は喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表したほか、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "11月、義昭は近衛前久を、兄・義輝の殺害及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で追放し、12月に二条晴良を関白に復職させた。他方、近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "永禄11年10月26日、信長は京都に一部の宿将とわずかな手勢を残して、美濃に帰還した。信長としてはこれほど早い畿内平定は予想外であり、兵糧などが欠乏していたと考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "信長の兵が領国に帰還すると、義昭は三好三人衆の巻き返しに晒されることになった。三人衆は京都周辺から追われたものの、兵力は維持しており、反撃の準備を進めていた。そのため、信長の帰国は絶好の機会であり、四国から兵を呼び寄せ、畿内各地で蠢動した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "11月、義昭は三好三人衆の動きを警戒し、京都の東郊外にある将軍山城を整備し、京都の防衛を固めている。かつてここには、義昭の兄・義輝も籠城したことがあった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "12月24日、松永久秀が大和を離れ、岐阜にいる信長の下へと向かった。おそらく、信長に新年の賀辞を述べようとしたのであろうが、これにより京都の防備が手薄となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆はこれを見逃さず、京都へと進軍し、将軍山城を焼き払った。そして、5日に京中に攻め入り、義昭のいた本圀寺を包囲・襲撃した(本圀寺の変)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "このとき、義昭も兄・義輝と同様の運命になるかとも思われた。だが、奉公衆および、摂津の池田勝正・和田惟政・伊丹親興、河内の三好義継らが駆けつけて奮戦したことにより、6日にこれを撃退した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "信長はこの知らせを聞くと、すぐさま美濃を出国し、1月10日に京都へと入った。また、信長に次いで、久秀も上洛し、信長の領国である尾張・美濃・伊勢のみならず、山城・近江・摂津・河内・和泉・若狭などから、総勢8万人が援軍として上洛した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "1月7日、義昭は豊後の大友宗麟(義鎮)に毛利元就との講和を勧め、13日には毛利氏に聖護院道澄を、大友氏に久我晴通を派遣し、互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1月14日、義昭は信長より、殿中御掟という9箇条の掟書を承認させられた。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2月2日、義昭は信長に対して、兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第、つまり二条御所の再興および増強を命じた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "3月1日、朝廷は信長を副将軍に任じようとし、正親町天皇の勅旨が下された。だが、信長はこれに返答しなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "3月27日、義昭は自身の妹(義晴の娘)を三好義継に嫁がせた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "4月14日、義昭の将軍邸・二条御所が完成し、義昭は本國寺からここに移動した。この御所は二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなったことから、二条城とも呼ばれる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 78,
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"text": "4月21日、信長は二条御所の完成を受けて、義昭に帰国の暇乞いをした。義昭は涙して感謝し、門外まで送り出したばかりか、粟田口にその姿が消えるまで見送ったという。",
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{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "永禄12年(1569年)6月22日、従三位権大納言に叙任。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 80,
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"text": "8月、信長は自ら伊勢国の北畠氏を攻め、本拠地である大河内城を包囲・攻撃した(大河内城の戦い)。だが、北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で、10月に講和が成立した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "10月11日、信長が凱旋のために上洛したが、その後すぐ、17日に京都から美濃に帰ってしまった。『多聞院日記』によると、信長の帰還は「上意と競り合いて下りおわんぬ」と記されていることから、北畠氏の征討や講和条件を巡って、義昭と対立したと考えられている。これは朝廷でも騒動になり、正親町天皇が事態を憂慮して、女房奉書を出している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "10月26日、義昭は伊丹氏や池田氏、和田氏からなる摂津三守護の軍勢を播磨に派遣し、浦上氏や山名氏を攻撃させた。これにより、浦上内蔵介を討ち、山名氏を没落させた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "永禄13年(元亀元年、1570年)1月23日、信長が殿中御掟に5箇条を追加し、義昭はこれを承認した。これら5箇条は前年よりもさらに厳しいものであったため、義昭は信長に強い不満を抱いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "同日、信長はニ十一ヶ国におよぶ大名・国司・国衆・諸侍衆に対して「触状」を発し、上洛し、義昭に「御礼」を申し上げることを求めた。 ここでは、畿内近国の大名らのみならず、東は武田信玄や徳川家康、東は越中の神保氏、西は備前の浦上氏や出雲の尼子氏にまで通達されている。戦国時代以前の室町幕府の将軍は、「二十一屋形」と称される在国大名によって支えられており、信長がニ十一ヶ国の大名らに上洛を求めたのは、この旧来の「ニ十一屋形」の再興を目的としていたからとされる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "3月13日、「触状」による上洛要請により、信長や畠山高政、畠山秋高、三好義継ら守護や大名、大舘晴忠や大舘昭長以下の幕府御供衆・御部屋衆・申次・公家衆が、義昭に祇侯した。また、公家身分で姉小路頼綱が同席していたほか、但馬の山名氏や備前の浦上氏などから進物が山のように届いていたことから、相当数の大名が要請に応じていたと考えられる。これは、義昭が理想とした幕府体制の実現であり、信長が上洛した武士らを披露する務めを果たしたと考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "4月10日、甲斐の武田信玄が義昭の側近・一色藤長に対し、嫡子の武田勝頼へ官途と義昭からの一字拝領を求めた。だが、信長の妨害にあったのか、これは実現されなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "4月14日、二条御所の竣工を記念し、祝言として舞の興業が行われ、観世・金春の能が演じられた。義昭と信長のほか、姉小路頼綱や北畠具教、徳川家康、畠山秋高、一色義通、三好義継、松永久秀ら上洛していた諸氏と、公家衆が同席した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "4月20日、信長は若狭の武藤友益、及び越前の朝倉義景の討伐のため、守護や奉公衆、昵近公家衆からなる幕府軍3万を率いて京都を出発し、若狭へと向かった。ただし、朝倉氏は討伐対象ではなく、若狭武田氏に抵抗する武藤氏のみが討伐対象だったとする見解もある。また、本國寺の変の失敗を教訓として、二条御所の完成後に出陣している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 89,
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"text": "信長が京都を出陣したのち、近江を経て若狭に入ると、高浜の辺見氏や西津の内藤氏といった若狭の国衆が馳せ参じ、家老も国境まで迎えに来た。若狭では、国衆が若狭武田氏と朝倉氏でそれぞれ分かれており、義昭の甥でもある武田元昭が朝倉義景に拉致される事件が発生するなど、支配が安定していなかった。武田家中は義輝の代から内紛の調停を願い出ており、今回の信長の軍事行動は武田氏の家老や国衆と歩調を合わせたものであった。",
"title": "生涯"
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"text": "4月25日、信長は朝倉氏討伐のため、若狭から越前に赴き、敦賀郡に入った。武藤氏が信長を挟撃するため、朝倉義景に後詰を依頼したことが主たる要因であった。そのため、越前への侵攻は武藤氏が朝倉氏と連携を取り、信長方が挟撃されることになったことによる結果論に過ぎないという指摘もある。",
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"text": "同日、信長は手筒山城を攻撃したのち、朝倉景恒の籠城する金ヶ崎城を攻撃した(金ヶ崎の戦い)。だが、近江の浅井長政が離反し、さらには六角義賢が蜂起したことで、挟撃を受ける可能性が発生し、信長は撤退を余儀なくされた。",
"title": "生涯"
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"text": "4月29日、信長は越前から撤退し、近江朽木を越えて、4月30日に京都へと入った。このとき、幕府軍の池田勝正が殿を務め、若狭では沼田弥太郎、近江では朽木元綱といった幕府奉公衆が引導している。このように、若狭・越前攻めでは、義昭と信長は一体となっていた。",
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"text": "信長が京都を離れている間、義昭の申し入れによって、4月23日に朝廷が年号を永禄から元亀に改元した。朝廷が義昭の畿内平定を認めたことによるものだと考えられている。また、永禄の年号が三好色の強い年号であり、兄の義輝がその改元に参加できなかったことも、義昭が改元を考えた大きな要因となった。",
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{
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"text": "5月、信長は六角義賢を野洲川で破った。",
"title": "生涯"
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"text": "6月14日、摂津において、信長方の池田勝正が失脚し、一族や家臣団が三好三人衆に味方した。そして、三好三人衆が堺に渡海し、北上した。",
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{
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"text": "6月28日、信長は徳川家康とともに近江浅井郡を流れる姉川において、浅井・朝倉連合軍と戦って勝利した(姉川の戦い)。この戦いにおいて、同月18日に義昭は自らの出馬を表明したほか(戦いに出馬はしなかった)、畿内の幕臣や江南の勢力に軍事動員をかけているなど、この戦いは金ヶ崎での敗戦によって失墜した将軍権威の回復の意味合いもあった。この戦いでも義昭と信長は一体となっていた。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "7月21日、三好三人衆と細川昭元が摂津で挙兵し、野田・福島に移った。三好三人衆方には、昭元のみならず、三好康長や三好盛政、斎藤龍興、雑賀孫市、さらには前関白・近衛前久も加わっていた。そのため、義昭は河内の畠山秋高に軍事動員をかけたほか、秋高を介して、紀伊や和泉、さらには信長にも出陣を要請している。",
"title": "生涯"
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"text": "幕府軍は義昭自らが出馬し、信長を筆頭に、秋高、三好義継、松永久秀、遊佐信教ら3万人の軍で出陣した。義昭はまた、摂津三守護や茨木氏、塩川氏、有馬氏ら和泉国衆の軍勢を糾合し、中島・天満森に陣取り、9月2日に細川藤孝の居城・中島城へ入った。このとき、義昭は自ら糾合した幕府軍3万人、信長の軍3万人の、総勢6万人の軍勢を率いていた。これにより、野田城・福島城に籠城する三好三人衆を挟撃する態勢が整った(野田城・福島城の戦い)。",
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"text": "9月12日、義昭と信長が三好三人衆らと対峙しているさなか、石山本願寺が離反・蜂起し、法主・顕如が諸国の門徒に檄を飛ばした。三人衆が籠城していた野田城・福島城は本願寺に近く、連絡を取り合っていたと考えられる。本願寺が信長に敵対したことから、義昭は顕如と義絶したが、顕如もこれに対して、加賀四郡の御料所と幕臣の知行を押領した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 100,
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"text": "9月18日、義昭は本願寺との勅命講和を図り、朝廷から公家の烏丸光康と正親町実彦、聖護院門跡の道澄が勅使として派遣されたが、勅使は戦火のために下向できなかった。",
"title": "生涯"
},
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"text": "同月、本願寺に呼応して、浅井氏・朝倉氏が挙兵した。浅井・朝倉の連合軍は六角義賢や本願寺の近江門徒衆も取り込み、近江坂本まで出兵し、森長可と信長の弟・信治を討った。さらには、京表の青山・将軍山に軍を進め、京都の伏見や鳥羽、山科に放火した。これにより、義昭と信長は三好・本願寺勢と浅井・朝倉勢に完全に包囲、挟撃される形となった。浅井・朝倉勢の蜂起は、幕府軍が摂津に出陣し、京都の守りが手薄になっていたからといえる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 102,
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"text": "9月23日、義昭と信長は浅井・朝倉勢の蜂起を受けて、摂津に幕府軍を残したまま、ともに京都へと戻った。ともに帰還したのは夜間で、義昭が午後9時過ぎ、信長が午後11時過ぎであった。義昭が摂津に出陣している間、二条御所では三淵藤英や大舘晴忠ら奉公衆、公家の吉田兼和(兼見)といったわずかな人々が留守を務めているだけだった。",
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{
"paragraph_id": 103,
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"text": "翌日、信長は浅井・朝倉勢の討伐のため、近江坂本に出陣した。この時、信長の軍は1万であったが、浅井・朝倉軍は3万であった。浅井・朝倉軍は延暦寺の支援を受け、比叡山を拠点とし、東山に進出した。浅井・朝倉軍が京都東方の山々に布陣したことで、信長は山に阻まれて攻めることができなかった。",
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},
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"paragraph_id": 104,
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"text": "9月27日、阿波の三好長治や篠原長房、細川真之が尼崎に着陣した。阿波の軍勢は2万余で、三好三人衆の軍勢と合わせると3万であった。",
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},
{
"paragraph_id": 105,
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"text": "10月1日、本願寺が三好三人衆の援軍として摂津中島に着陣し、義昭方の茨木城を調略で降伏させ、ともに京都に攻め入ることを協議した。だが、信長も三好方に調略をかけ、三好為三や細川昭元、香西元成を寝返らせるなど、切り崩そうとしている。信長と本願寺は、それぞれに激しい調略合戦を展開した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 106,
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"text": "10月4日、西岡や宇治で一揆が発生すると、幕府は徳政令を出したほか、22日に奉公衆と織田方の木下秀吉や菅谷長頼が協力して鎮圧にあたっている。",
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},
{
"paragraph_id": 107,
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"text": "10月20日、浅井・朝倉勢が京都郊外において、修学寺や一乗寺、松ヶ崎にまで侵出し、所々に放火を行ったが、奉公衆が撃退した。三好三人衆もまた、京都へと侵攻し、22日には京都近郊にあった信長方の御牧城を落とした。とはいえ、細川藤孝や和田惟政に御牧城を奪還され、三好方は京都に進むことはできなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 108,
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"text": "11月、延暦寺の僧兵が朝倉軍に加勢した。朝倉方の兵はしばしば山を下り、信長の陣地を突破して京都近郊を攻めた。三好方もまた、京都を依然として窺っていた。だが、信長は10月末より、各勢力との講和交渉を開始した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 109,
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"text": "11月12日、信長は松永久秀の仲介により、に三好三人衆・三好長治と交渉を開始し、18日に講和を成立させた。そして、松永久秀と篠原長房との間で人質が交わされた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 110,
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"text": "11月21日、六角義賢が志賀の信長の陣に赴き、信長は六角氏と講和した。六角氏は往時の勢いを失っており、信長の提案に応じる形となった。",
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{
"paragraph_id": 111,
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"text": "11月26日、浅井・朝倉・門徒衆からなる連合軍は巻き返しのため、近江堅田に攻め込んだ。信長方はこの攻撃によって敗れ、坂井政尚が討ち死にした。このため、信長は焦燥感を強め、敵方との和平に注力した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 112,
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"text": "11月28日、義昭は信長に依頼され、関白・二条晴良とともに近江坂本に下向した。反信長派の主力は朝倉氏であり、義昭はかつて朝倉氏の庇護を受けていたため、信長が仲介者として適任だと考えたからであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 113,
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"text": "12月9日、正親町天皇が延暦寺に講和を命じた。比叡山は鎮護国家の天皇の祈祷所であったため、朝廷が関与した可能性があり、公家の二条晴良が交渉に関与したと考えられる。",
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{
"paragraph_id": 114,
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"text": "12月13日、二条晴良が信長と朝倉氏との講和に関して、上野秀政を介し、義昭に仲裁を提案した。義昭はこの提案を受け入れ、晴良ともに園城寺に下向した。また、義昭は和議が背負しない場合には、高野山に隠遁する覚悟を以て臨んだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 115,
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"text": "義昭は晴良を朝倉氏の陣に赴かせ、晴良を介する形で、義景に信長との講和を打診した。その結果、朝倉氏は講和に傾いたが、延暦寺がこれに反対したため、反信長派で議論が起きた。だが、朝倉氏は講和に傾いたため、浅井氏と延暦寺、本願寺もこれに追従し、信長派と朝倉氏以下反信長派との間で講和が成立した。また、延暦寺に対しては朝廷から綸旨が出され、勅命講和の形がとられた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 116,
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"text": "12月14日、それぞれが近江から撤兵して、志賀の陣が終結し、17日に信長は美濃へと戻った。信長は最大の危機を脱したが、それを持ちこたえることができたのは、義昭が味方していたことが大きかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 117,
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"text": "元亀2年(1571年)1月、三好長治と篠原長房が帰国したが、同月のうちに長房は讃岐に軍勢を移し、毛利氏の領する備前児玉を攻撃した。 長房の備前侵攻は、義昭・信長と長房の前年の和睦によって引き起こされたものであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 118,
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"text": "2月、義昭は豊後の大友宗麟に対して、毛利氏との和睦を命じている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 119,
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"text": "4月14日、烏丸光宣に嫁いでいた義昭の姉が急死すると、後難を恐れた光宣が出奔した。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 120,
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"text": "5月26日、安芸の毛利輝元、及び後見する毛利元就より、義昭と信長が毛利側に一言の相談もなく、畿内で長房と和睦したことを抗議された。長房は前年の義昭や信長との和睦を「京都御宥免」と称し、それを大義名分として、備前の浦上宗景と結び、備前児玉に侵攻していた。輝元と元就は長房の軍事行動を「中国錯乱」の企てと批判するとともに、九州から大友宗麟に挟撃されることを恐れ、義昭による和睦斡旋を受け入れると伝えた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 121,
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"text": "6月11日、義昭は九条家出身の養女を筒井順慶に嫁がせ、順慶を自らの陣営に加えた。これは5月に松永久秀が畠山秋高方の交野城を攻め、秋高の援護のために摂津の和田惟政が出陣するなど、不穏な空気が流れたからであった。また、久秀と順慶は大和国をめぐる争いを、元亀元年より前から続けていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 122,
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"text": "6月12日、義昭は長房の毛利氏に対する軍事行動を言語道断と批判し、輝元の叔父・小早川隆景に対し、香川氏と相談して讃岐を攻めるように指示した。また、信長も20日に輝元と元就に対し、長房との和睦は本意ではなかったとしたうえで、義昭が長房との和睦を仲介しても、長房は受け入れないだろうと答えた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "6月19日、松永久秀が三好三人衆と組み、河内の畠山秋高の居城・高屋城を攻め、義昭から離反した。久秀の離反は、義昭が九条家出身の養女を順慶に嫁がせたことによる反発や、久秀と結んだ長房による毛利領国への侵攻により、義昭・信長と毛利氏の同盟に亀裂が入ったことで、義昭から長房の軍事行動の片棒を担いだと疑われたことにあったと考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 124,
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"text": "同月、義昭と同盟した順慶が奈良に侵攻し、義昭もまた順慶を支援するため、奉公衆の三淵藤英と山岡景友を援軍として送った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 125,
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"text": "7月12日、長房が久秀に呼応して、四国から摂津に渡海した。15日、久秀と三好義継が義昭方の和田惟政が守る高槻城を攻めたことから、義継も義昭から離反していた。義昭の幕府は、信長・久秀・義継に支えられていた体制から大きく変化した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 126,
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"text": "8月4日、久秀は松永久通や三好義継らとともに順慶の辰市城を攻め、両軍が激突した。久秀はこの戦いで大敗を喫し、多くの首が二条御所の義昭のもとに送られ、御所内でさらされた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "8月13日、義昭は長房と毛利氏の争いに関して、伊予国守護の河野氏に参戦を促した。これは、6月14日に元就が死去し、毛利氏が苦境に陥っていたことによる。この争いは西日本の各地に飛び火しており、尼子氏の残党が毛利氏の戦っている隙を突いて出雲奪還のために毛利方の城を攻めた一方、九州では大友氏を共通の敵とする肥前の龍造寺隆信が毛利氏に味方するなど、畿内の情勢と連動していた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 128,
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"text": "久秀は順慶に敗れたものの、三好三人衆と連携して巻き返しを図り、8月28日に義昭方の和田惟政を三人衆方の池田知正らが攻め、これを討ち取った(白井河原の戦い)。義昭によって畿内に配置された大名のうち、摂津の和田惟政が討ち死にし、河内の三好義継と大和の松永久秀が離反したことによって、義昭は信長への依存度を高めた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 129,
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"text": "9月12日、信長は自ら兵を率い、比叡山延暦寺への焼き討ちを実行した(比叡山焼き討ち)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 130,
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"text": "10月、義昭方を離脱した久秀と義継は山城南部で攻勢を強め、長房は三好康長と連携し、河内や和泉を転戦した。三好三人衆もまた、河内北部を支配下に置いていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "11月、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 132,
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"text": "12月17日、三好氏が盟主と仰いでいた細川六郎が義昭の軍門に下り、上洛して義昭に謁見し、義昭から「昭」の一字を与えられ、昭元と名乗った。これは義昭が調略したことによるもので、義昭と信長が巻き返しを図った結果であった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "元亀3年(1572年)1月18日、義昭の面前において、上野秀政と細川藤孝が信長の比叡山焼き討ちに関して激論を交わした。この時点で、幕臣は親信長派と反信長派に分裂していた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 134,
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"text": "1月26日、義昭と信長は昭元に引き続き、三好三人衆の一人・岩成友通を離反させた。信長は義昭の下知によって、山城国内において6か所の領地を与え、 山城郡代に任じた。",
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"text": "閏1月4日、畠山秋高と遊佐信教が義昭を裏切るとの風聞が流れ、義昭は秋高と信教に「三好・松永は敵」との書状を送り、離反しないように求めている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 136,
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"text": "4月13日、細川昭元が義昭を裏切るとの風聞が流れた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 137,
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"text": "4月16日、久秀と義継が畠山秋高方の交野城を攻めたが、信長の派遣した柴田勝家や佐久間信盛によって退けられた。他方、摂津では伊丹親興や和田惟長が義継に内通する動きを見せた。久秀と義継はまた、細川昭元を盟主とする動きを見せた。結果として、昭元や畠山高政、畠山秋高、遊佐信教、親興や惟長は義昭を裏切らなかったが、畿内はいつ誰が義昭を裏切るかわからない不安定な情勢となった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 138,
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"text": "5月8日、義昭は山岡景友を山城守護に補任したが、それはこのような畿内の情勢に対抗する備えであった。義昭はまだこの時点においては、信長を裏切るつもりはなかったと考えられるが、三好方が連合を図ったことにより、義昭は畿内において孤立することになった。",
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"paragraph_id": 139,
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"text": "元亀3年5月13日、義昭は甲斐の武田信玄に対して、「天下静謐」のために軍事行動を起こすように命じた御内書を下した。これにより、信玄はその眼を西に向けるようになった。すでに、元亀3年1月に信玄は縁戚関係にある顕如より、信長の背後を突くように依頼を受けていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 140,
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"text": "9月、信長は義昭に対して、自身の意見書である異見十七ヶ条を送付した。この意見書は義昭の様々な点を批判しており、とくにかつて殺害された過去の将軍の名を出したこともあって、信長と義昭の対立は抜き差しならないものとなった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "10月3日、武田信玄が朝倉義景や浅井長政に出陣を告げ、同日に甲府より進軍を開始し、徳川氏の領国である三河・遠江に侵攻した(西上作戦)。通説では、義昭が異見十七ヶ条に反発し、信玄に内通した結果とされてきたが、近年ではこの侵攻は徳川家康を標的にしたものであり、義昭が通じたものではないとする見方もある。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 142,
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"text": "また、同月に信長は妙心寺に寺領安堵の朱印状を発給したが、これは義昭の意思に基づいて安堵されたものであった。この時点では、義昭は信長と表面的には対立することなく、協調して京都の支配を行っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 143,
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"text": "とはいえ、信長にとって、徳川家康は盟友であり、信玄が徳川領に侵攻したことは、信長に矛を向けるということに等しかった。これまで、信長は武田氏と上杉氏の和睦を仲裁してきたこともあって、この侵攻に激怒して武田氏と絶交し、家康に援軍を送った。他方、信玄は朝倉氏や浅井氏、本願寺などの反信長勢力と手を組んだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 144,
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"text": "12月22日、信玄が三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を破り、徳川家康を敗走させると、信長は本国である尾張・美濃の防衛を迫られることになり、窮地に陥った。28日、信玄は義景にこの戦勝を伝えるともに、「信長滅亡の時刻到来」であるとした。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "同月、篠原長房が阿波より出陣し、京都を伺う状況になった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 146,
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"text": "元亀4年(天正元年、1573年)1月2日、松永久秀が六角義賢の家臣・三上栖雲軒に対し、三方ヶ原における信玄の勝利を伝え、近江の信長方への調略を促した。三好義継や松永久秀、篠原長房もまた、信長と対決しようとする信玄の優勢を見て、攻勢に出る形となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "1月11日、義昭は信玄より、「凶徒」である信長と家康を追討し、「天下静謐」のための御下知を求められた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 148,
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"text": "信玄の破竹の進撃により、幕府の内部では「信長につくか、信玄につくか」で議論が交わされ、幕臣の多くが信玄の支持に回り、それが義昭と信長との離間に繋がったとする見方がある。また、信長が尾張と美濃の防衛に精鋭を割いて、京都が手薄になると、そこを反信長派に大挙して衝かれる可能性があったことも、義昭を離反に走らせた可能性がある。いずれにせよ、三方ヶ原の戦いの結果が義昭の決断につながったことは間違いないと考えられる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 149,
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"text": "元亀4年2月13日、義昭は遂に反信長の兵を挙げ、朝倉義景や浅井長政、武田信玄らに御内書を下した。さらには、三好義継に挙兵の意思を伝えるとともに、安芸の毛利輝元、備前の浦上宗景にも参陣を促した。義昭は信長のみに依存する現在の体制から、朝倉義景や浅井長政、武田信玄、三好義継、顕如、毛利輝元、浦上宗景らによって構成される幕府へと再編しようとしたと考えられている。",
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{
"paragraph_id": 150,
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"text": "義昭の信長からの離反を、反信長派の諸将は大いに喜んだ。浅井長政が直ちに「公方様から御内書を下された」と各所へ喧伝したように、将軍が味方したこと大々的に喧伝し、どちらに付くか決めかねている者達を味方にしようとした。",
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{
"paragraph_id": 151,
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"text": "一方、信長は義昭の離反に大変驚き、挙兵は義昭の意志ではなく、側近の幕臣が勝手に企てたことだと言って、当初は信じようとしなかったという。信長としては、義昭はこれまで自身が支援してきた主君であり、その義昭に見限られたということは、信長派の大量離反、つまり総崩れに繋がることを危惧せざるを得なかった。そのため、信長は義昭に使者を急派し、息子を人質とすることで講和を申し入れた。状況は信長にとって、圧倒的に不利であった。",
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"paragraph_id": 152,
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"text": "同月、義昭は朝倉義景の軍事力に期待し、上洛を命じた。だが、義景は一向に上洛する気配はなく、義昭は越前に使者を急派して、急ぎ上洛するように命じた。義昭は義景に対して、5,000から6,000の兵を京都郊外の岩倉の山本まで出兵するようにと催促したが、義景は大雪で進軍が困難だと返答するのみであった。同月には信玄も遺憾の意を示し、義景に重ねて出兵するように求めている(『古証記』)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 153,
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"text": "同月中旬、義昭は石山や今堅田など志賀郡・高島郡、北山城の国衆らを、反信長として立ち上がらせようとした。",
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"text": "信長は柴田勝家や明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆に命じ、2月26日に義昭方の石山城を攻め落とし、29日には今堅田城も攻め落として、京都への入り口を確保した(石山城・今堅田城の戦い)。一方で、信長は講和の道も考え、28日に朝山日乗、村井貞勝、島田秀満の三人を使者とし、人質と誓紙を出そうとしたが、義昭は承知しなかった。使者は講和が成立しない場合は、京都を焼き払うと忠告した。",
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"text": "3月6日、義昭は三好義継と松永久秀の両名を赦免し、同盟した。",
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"text": "3月7日、義昭は勝算ありと判断して、信長からの人質を拒否し、信長と断交した。義昭は畿内近国に上洛の命を下し、摂津からは池田重成や塩河長光、丹波からは内藤如安や宇津頼重がこれに応じ、京都に入った。",
"title": "生涯"
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"text": "3月22日、義昭は聖護院道澄に対し、朝倉氏や三好氏、本願寺のみならず、毛利氏や小早川氏にも参陣を要請していること伝えた。また、顕如は畠山秋高と遊佐信教が義昭に味方したと述べている。",
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"text": "3月29日、信長が義昭と対決するため、岐阜から上洛した。信長を出迎えたのは、細川藤孝と荒木村重の二人で、幕臣である藤孝は義昭を見限っていた。信長は三条河原で軍を整え、知恩院に布陣し、その総兵力は1万であった。一方、義昭は二条御所に数千の兵とともに籠城し、動く気配を見せなかった(二条御所の戦い)。",
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"text": "3月30日、義昭は先制攻撃を仕掛け、信長の京都奉行である村井貞勝の屋敷を包囲させた。貞勝は辛くも脱出したが、信長はなおも講和を求め、義昭の赦免が得られるなら、息子の信忠とともに出家し、武器を携えずに謁見すると申し出た。",
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"text": "4月1日、信長は吉田兼和を呼び出し、義昭の行動に関して、御所や公家衆はどう思っているか尋ねた。兼和は信長に対し、致し方ないことだと思っている旨を述べた。",
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"text": "4月2日、信長は柴田勝家らに命じ、下賀茂から嵯峨に至るまでの128ヶ所を焼き払わせた。このとき、信長から御所に和平交渉の使者が派遣されたが、義昭は拒絶した。",
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"text": "4月3日夜から4日にかけて、信長はさらに上京の二条から北部を焼き払わせた(上京焼き討ち)。その結果、焼け出された市民が避難し、大井川で多数溺死した。さらに、信長は二条御所の周囲に4つの砦を築き、その糧道を断ち、城兵の戦意を喪失させた。",
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"text": "信長は義昭に降伏を勧告するため、朝廷を動かし、勅命による講和を義昭に求めた。義昭は進退窮まった結果、朝廷を頼り、正親町天皇の勅命講和を求めざるを得なかった。両者の間を斡旋したのは、関白・二条晴良ら3人の公家であった。",
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"text": "4月7日、義昭と信長は正親町天皇の勅命により、講和した。翌8日、信長は義昭に謁見することなく、京都を出発し、岐阜へと帰還した。一方、義昭が頼りにしていた武田信玄は病のため、4月12日に本国に引き上げる帰途で死去していた。",
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"text": "4月20日、義昭は二条御所の普請のため、吉田兼和の領地から人夫を徴収した。このとき、義昭は武田信玄が死去したことを知らなかった。",
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{
"paragraph_id": 166,
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"text": "4月末、義昭と信長の家臣との間で起請文が交わされた。義昭が宛てた家臣の内訳は佐久間信盛・滝川一益・塙直政で、信長側の発給者は林秀貞・佐久間信盛・柴田勝家・稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全・滝川一益である。",
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"text": "5月、義昭は武田信玄や朝倉義景、顕如らに味方になるように御内書を下し、5月20日に顕如がこれに了承した。",
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"text": "同月、三好長治が細川真之とともに、反信長の急先鋒であった篠原長房を攻め、7月に討ち取った(上桜城の戦い)。これは、長房が畿内と備前に出兵を繰り返して、阿波三好氏を疲弊させていったという状況や、長治が義昭を破った信長の手腕を評価し、反信長の態度を翻した結果とする見方もある。他方、信長は同盟関係にある毛利氏から疑われぬよう、長治を許容しなかった。",
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"paragraph_id": 169,
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"text": "6月13日、義昭は安芸の毛利輝元に対し、兵粮料を要求した。だが、輝元は信長との関係から支援しなかった。",
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{
"paragraph_id": 170,
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"text": "6月25日、河内の畠山秋高が家臣の遊佐信教によって殺害された。 これは、秋高が信長方についたものの、信教ら河内の国衆の大半は義昭を支持していたため、その対立の末に発生した出来事であった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 171,
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"text": "7月2日、義昭は二条御所を奉公衆の三淵藤英のほか、政所執事の伊勢貞興、昵近公家衆の日野輝資・高倉永相などに預けた上で、宇治の槇島城に移った。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた南山城の要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあった。そして、3日に義昭は信長との講和を破棄し、この槇島城で挙兵した。",
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{
"paragraph_id": 172,
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"text": "7月7日、信長が上洛すると、日野輝資や高倉永相らは二条御所を出て降伏し、12日に最後まで籠っていた三淵藤英も降伏した。その後、信長は御所の殿舎を破却したばかりか、諸人によって御所内が略奪されるのを禁じなかった。",
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},
{
"paragraph_id": 173,
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"text": "7月18日、信長が軍勢とともに槇島城を包囲・攻撃し、槇島一帯も焼き払った。義昭はこれに恐怖し、信長に講和を申し入れ、その条件として2歳の息子・義尋を人質に出して降伏した。",
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},
{
"paragraph_id": 174,
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"text": "7月19日、義昭は槇島城を退去して、枇杷庄に下り、20日に河内の津田に入った。枇杷庄に下る途中、一揆に御物など奪い取られたという。",
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{
"paragraph_id": 175,
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"text": "この槇島城の戦いにより、室町幕府は事実上(実質的に)滅亡した、と解釈されている。義昭が京都を追放されたことにより、朝廷を庇護する天下人の役割を果たせなくなったからである。それまで、信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、その追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けた。また、信長は毛利輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している。",
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},
{
"paragraph_id": 176,
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"text": "ただし、義昭自身は朝廷から征夷大将軍を解任されてはおらず、なおもその地位にあり、従三位・権大納言の位階・官職も保ったままであった。",
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{
"paragraph_id": 177,
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"text": "7月21日、義昭は本願寺から派遣された兵に警固され、三好義継の居城・若江城に入った。同日、信長は槇島城を細川昭元に委ね、京都へと戻っている。",
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"paragraph_id": 178,
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"text": "義昭は在城中、7月24日付の御内書で毛利輝元と2人の叔父・吉川元春と小早川隆景に援助を求めている。これが義昭の再起を宣言した第一号であった。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 179,
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"text": "7月28日、朝廷が信長の要請に応じ、元亀から天正に改元を行った。信長のこの行為は義昭の権威の否定、反信長勢力の士気を挫く目的があったと考えられる。",
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"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "8月1日、義昭は輝元や隆景に対して、顕如や三好義継、遊佐信教、根来寺が支援してくれているが、息子の義尋を信長に奪われたことが口惜しいと述べ、自身への支援を訴えるとともに、3日にも柳沢元政を下向させると告げた。毛利氏は義昭のもとに使者を送って慰問したので、8月13日に謝意を示している。義昭が毛利氏を頼りにしたのは、兄の義輝も頼りにしていたからだと推測される。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 181,
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"text": "8月、信長は越前に出陣して、朝倉義景を自害させた(一乗谷城の戦い)。その直後、北近江へ向かい、9月に浅井長政も自害させた(小谷城の戦い)。",
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},
{
"paragraph_id": 182,
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"text": "8月20日、義昭は顕如に対し、三好義継及び三好康長と畠山氏との間で講和を図らせている。",
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},
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"paragraph_id": 183,
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"text": "10月8日、義昭は上杉謙信に対し、自身が槇島城から退城したことを知らせるとともに、援助を求めた。また、同月に顕如に対しても、忠義を尽くすように求めた。",
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},
{
"paragraph_id": 184,
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"text": "義昭の援助の依頼を受けた輝元ら毛利氏は、なんらかの行動に出なければならなくなった。織田氏と毛利氏は同盟関係にあったが、義昭が京都を追放されると、その関係は揺れ動いた。だが、義昭のために信長と敵対して上洛するより、輝元は信長の力を利用し、領国を守る道が最適と考えた。そのため、9月7日付の義昭の御内書では、毛利氏が信長と懇意にしていることや、かつて毛利氏が将軍家を疎かにしないと提出した起請文が反故にされていることが批判されている。",
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},
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"paragraph_id": 185,
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"text": "他方、輝元が羽柴秀吉に宛てた9月7日付の書状では、信長と義昭が和解し、義昭が京都に帰還できるよう仲介を試みている。輝元としては、義昭が中国地方に下向すれば、信長と全面戦争になる可能性があり、それを避ける必要があった。信長もまた、義昭の追放で畿内が動揺している今、輝元が義昭を奉じて織田氏との全面戦争に踏み切ることは避けたかったと考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 186,
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"text": "そのため、信長と輝元の両者との間では全面戦争を避けるべく交渉がなされ、それは義昭を帰洛させようとする流れに繋がった。織田方は羽柴秀吉と朝山日乗、毛利方は安国寺恵瓊がそれぞれ交渉の代表となった。秀吉は9月7日付の書状で、信長の同意も得ているので、義昭の近臣・上野秀政と真木島昭光を上洛させるように伝えている。他方、輝元も9月晦日付の自筆書状で、交渉に臨む基本的な態度を一族の穂井田元清に伝えている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "10月28日、毛利氏は義昭の近臣・一色藤長に信長の意向を伝え、その同意を求めた。これを受けて、11月5日に義昭は若江城から和泉の堺へ入った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "義昭が和泉の堺に落ち着くと、信長からは羽柴秀吉と朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊と林就長が派遣され、双方の使者はともに義昭と面会し、信長と和解したうえでの帰京を説得した。信長自身も義昭の帰京を認めていたが、義昭は信長からの人質を求め、それを撤回しなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "このとき、秀吉は「入洛のことはもはや問題にならないので、どこにでも行ったらよかろう」と言い捨て、翌日に大阪へ退去した。安国寺恵瓊と朝山日乗は秀吉の意を受けて、なお一日留まって無条件での帰洛を説得したが、義昭は受け入れず、交渉は決裂した。恵瓊は輝元の命令を重んじ、義昭に西国に下向されると迷惑である旨を告げた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "11月9日、義昭は主従20人程とともに堺を出て、畠山氏の勢力下である紀伊に海路で下り、在田川南岸の宮崎の浦に着いたのち、由良の興国寺に滞在した。義昭は側近の一色藤長に対し、槙島城の籠城から由良まで供奉したことを、11月29日付の書状で褒め称えている。信長も紀伊への下向を把握しており、出羽の伊達輝宗に京都の近況を報告した際、「義昭が紀州の熊野あたりを流浪している」と記している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "11月16日、信長は明智光秀や細川藤孝に若江城を攻めさせ、三好義継を自害させた。義昭を匿った責任を追及してのことであり、義昭が若江城から堺に移るのを待ったうえで、攻撃が実行に移された。また、義継の死により、久秀は信長に降伏を申し入れた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "12月11日、義昭は湯川直春に対し、自身に協力するように命じた。畠山氏の重臣・湯川氏の勢力は強大であり、直春の父・湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代を務めたこともある実力者であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "12月12日、義昭は上杉謙信に対し、武田勝頼や北条氏政、及び加賀一向一揆と講和し、 上洛するように命じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "天正2年(1574年)1月16日、義昭は六角義賢に対し、紀伊に移ったことを報告し、協力するように命じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "2月6日、義昭は熊野本宮の神主に対し、帰洛に尽力するように命じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "3月20日、義昭は信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に対し、互いに講和をするよう呼びかけた(甲相越三和)。また、勝頼が織田領国の東美濃を押さえたことを受けて、義昭は徳川家康に対し、勝頼と和睦するように命じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "4月14日、義昭の側近・一色藤長は、薩摩島津氏の重臣である伊集院忠棟と平田政宗に対し、顕如や三好康長、三好長治が義昭に忠節を示していると伝え、参陣を促している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "8月10日、三好長治の弟・十河存保は武田勝頼の一族・穴山信君に対し、6月の高天神城攻略の祝意を述べ、尾張・美濃へのさらなる侵攻を促すとともに、自身は義昭や顕如と連携して側面攻撃を行うと伝えた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "天正3年(1575年)3月、武田勝頼は信長が大軍で畿内に出陣しているのを見て、三河侵攻を計画し、4月に甲府を出陣した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "4月14日、義昭は薩摩国の島津義久に対し、武田勝頼の進出と大阪方面での戦況を伝えるとともに、帰洛に関して協力を命じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "5月21日、武田勝頼は設楽原において、織田・徳川連合軍に大敗し、多くの重臣を失った(長篠の戦い)。この勝頼の敗北は、義昭とその味方にとっては深刻な打撃であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 202,
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"text": "信長は、11月4日に権大納言、同7日には右近衛大将に任じられ(前年の天正2年(1574年)3月18日、従三位参議)、従三位・権大納言・左近衛中将の義昭よりも上位の存在となった。権大納言・右近衛大将の官位は、過去200年間、足利将軍本人やその後継者などにしか与えられてこなかったが、信長に与えられたということはほかの大名とは別格であるということ、織田氏が将軍家に比肩する存在であるということを世に示した。また、義昭の父・義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際、権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長がこの先例に倣おうとしたとする見方がある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 203,
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"text": "天正4年(1576年)2月、義昭は紀伊由良の興国寺を出て、西国の毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に動座した。このとき、義昭に随行したのは、細川輝経、上野秀政、畠山昭賢、真木島昭光、曽我晴助、小林家孝、柳沢元政、武田信景らであった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "義昭が鞆を選んだ理由としては、この地はかつて足利尊氏が光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利将軍家にとっての由緒がある場所であったからである。また、第10代将軍・足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある吉兆の地でもあった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "義昭は2月8日付の御内書で吉川元春に命じ、輝元に幕府の復興を依頼した。また、信長の輝元に対する「逆心」は明確であると述べ、そのために動座したとも伝えた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 206,
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"text": "だが、鞆への動座は毛利氏に何一つ連絡なく行われたものであり、義昭はあえて伝えず、近臣らにも緘口令を敷いていた。信長との同盟関係上、毛利氏にとって義昭の動座は避けなければならない事態であり、輝元はその対応に苦慮した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "毛利氏は織田氏と同盟関係にあったものの、この頃になると信長が西方に進出してきたため、不穏な空気が漂っていた。また、信長が毛利氏と敵対していた浦上宗景を支援し、一方で宗景と対立する宇喜多直家が毛利氏を頼るなど、毛利氏と織田氏の対立にも発展しかねない状況ができていた。さらに、天正3年以降、信長は毛利氏への包囲網を構築するため、近衛前久を九州に下向させ、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図ろうとしていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "5月7日、輝元ら毛利氏は反信長として立ち上がり、13日に領国の諸将に義昭の命令を受けることを通達し、西国・東国の大名らにも支援を求めた。3ヶ月の間、毛利氏が検討して出した結論であった。これにより、毛利氏と織田氏との同盟は破綻した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 209,
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"text": "輝元ら毛利氏に庇護されていたこの時期の室町幕府は、一部の学者が私説として「鞆幕府」と呼んでいるが、大方の認知を得たものではない。義昭の鞆時代の陪臣は、かつての奉公衆など幕臣や織田氏と敵対して追われた大名の子弟ら100名前後に過ぎず、13代義輝の朽木時代や14代義栄の堺時代に比較して遙かに人数が少なく、実権もこれらとはほど遠いものである。これらが「朽木幕府」「堺幕府」と呼ばれない以上「鞆幕府」と呼ぶことには無理があると言える。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 210,
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"text": "義昭はまた、輝元を将軍に次ぐ地位たる副将軍に任じた。また、輝元は副将軍として義昭を庇護することにより、毛利軍を公儀の軍隊の中核として位置づけ、西国の諸大名の上位に君臨する正統性を確保した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 211,
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"text": "義昭は鞆に御所を構え、この地から京都への帰還や信長追討を目指し、全国の大名に御内書を下した。 畿内近国以外では、足利将軍家を支持する武家もまだまだ多かった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "3月21日、義昭は上杉謙信に対し、北条氏政や武田勝頼と和睦し、上洛に協力するように伝えた。この頃、謙信は信長との対立姿勢を強めており、前年10月には勝頼と和睦し、12月には信長を脅威に感じた能登畠山氏より救援を求められていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "5月16日、義昭は醍醐寺三宝院門跡の義堯に命じて、上杉謙信に武田氏・北条氏と講和し、幕府を再興するようにすすめさせた。これにより、謙信は同月、長らく対立してきた本願寺と講和した。また、同月に謙信は輝元から上洛を求められると、秋には上洛する予定だと伝えた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "6月11日、義昭は武田勝頼と上杉謙信に対して、互いに講和を命じた御内書を再度下し、毛利輝元と協力して協力したうえで信長を討つように命じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "7月13日、毛利水軍が織田水軍を大阪湾木津川河口(現在の大阪市大正区に位置する木津川運河界隈)で破り、本願寺に兵糧や武器など物資を運び入れることに成功した(第一次木津川口の戦い)。 毛利氏はこの勝利によって、京都への進撃を決意し、その準備を進めた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 216,
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"text": "9月13日、義昭の求めに応じて、武田勝頼が上杉氏や北条氏との講和を承知し、16日に毛利輝元と同盟を結んだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 217,
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"text": "9月以降、信長は将軍御所であった二条御所を完全に破却し、石垣は諸人に略奪させ、堀も京都の人々に埋めさせたほか、門や建物も安土に移築した。おそらく、信長は義昭と和解したのち、義昭を再びここに迎え入れようとし、そのために殿舎以外は破壊せずにいたものの、それがもはや不可能になったと判断したため、完全な破却を行ったと考えられる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 218,
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"text": "10月10日、義昭は輝元らに対して、西国の武士を集めて義兵を挙げるように命じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "11月24日、義昭は輝元に対し、足利将軍家の家紋たる桐紋を与えている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "12月27日、三好長治が信長の支援を受けた細川真之に敗れ、自害した。輝元はこれに危機感を覚え、小早川隆景を通し、淡路の水軍を味方につけようとした。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "天正5年(1577年)1月、義昭は吉川元春に対し、翌月に陸海から京都へ進撃する相談をするように命じた。同月には、安宅神五郎や菅元重、船越景直など主な淡路水軍が毛利氏についた。",
"title": "生涯"
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"text": "2月27日、阿波三好郡の国人・大西覚用と大西高森が元春や隆景に対し、義昭の上洛に味方すると回答した。",
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"text": "同月、信長が長治の死により、阿波からの援軍を得ることができなくなった雑賀を攻めた。義昭と輝元は上杉謙信に対し、その隙をつく形での上洛を求めたが、謙信はすでに能登から関東に転戦していた。",
"title": "生涯"
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"text": "閏7月27日、讃岐における毛利氏の拠点・元吉城に対し、長尾氏や羽床氏、香西氏、安富氏、三好安芸守からなる「讃岐惣国衆」が攻め寄せたが、毛利方によって撃退された。",
"title": "生涯"
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{
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"tag": "p",
"text": "同月、謙信が能登に再び進軍し、信長は柴田勝家や羽柴秀吉らを加賀に派遣した。だが、北陸に多くの諸将が派遣されたことで、松永久秀が離反を企てた。",
"title": "生涯"
},
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"text": "8月1日、義昭は毛利氏と讃岐諸勢力との争いに関して、香川氏を讃岐に復帰させることや、輝元や元春、隆景に勝手に三好方と和睦しないように指示した。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "8月17日、松永久秀・久通父子は、本願寺を攻めるために定番していた天王寺を突如引き払い、信貴山城に籠城した(信貴山城の戦い)。久秀の離反は、義昭や本願寺から調略を受けた結果であると考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
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"tag": "p",
"text": "9月23日、義昭は側近の真木島昭光と小林家孝を和睦交渉のために阿波に派遣し、11月に阿波三好方の長尾氏と羽床氏から人質を取ることで和睦した。讃岐での戦闘は、義昭にとっては上洛戦争の一環であり、毛利水軍も備前と讃岐の海峡で航路の安全を確保した。",
"title": "生涯"
},
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"tag": "p",
"text": "10月10日、久秀父子が織田勢の攻撃により自害し、信貴山城を自ら焼き払った。だが、義昭はその後もあきらめず、各地の諸将へ積極的に調略活動を行った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "同月、信長は羽柴秀吉に中国地方攻略を命じ、秀吉が姫路城を拠点に活動を始めた。そして、11月に播磨の上月城を攻め落とし、尼子勝久を入れた。",
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},
{
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"text": "天正6年(1578年)1月、毛利氏が上月城奪還のため、粟屋元種を摂津に送ると、同月11日に義昭は高野山の金剛峯寺に出兵を要請した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 232,
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"text": "2月、別所長治が三木城で挙兵し、信長から離反した(三木合戦)。義昭は3月19日付の御内書において元春に対し、義昭自らの調略によって長治を味方に引き入れたと宣伝した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 233,
"tag": "p",
"text": "3月、上杉謙信が死去し、信長包囲網は大きな打撃を受けた。 その後、家督をめぐり、養子の上杉景勝と上杉景虎による御館の乱が勃発し、景勝が勝利したが、この乱によって上杉氏は対外出兵する力を失った。",
"title": "生涯"
},
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"text": "5月24日、義昭は上月城の戦いのさなか、真木島昭光を上月城包囲の毛利氏の陣に派遣し、その将兵をねぎらうとともに、小林家孝を駐留・督戦させた。",
"title": "生涯"
},
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"text": "7月3日、上月城が毛利氏の攻撃によって陥落し、尼子氏が滅亡すると、義昭は元春や隆景といった毛利氏諸将の戦功を褒めた。",
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"paragraph_id": 236,
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"text": "8月、義昭は吉川元春の依頼を受け、島津氏に使者を派遣し、大友氏を牽制させるとともに、毛利氏が京都に進撃するときは援軍を差し出すことを要請した。",
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},
{
"paragraph_id": 237,
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"text": "10月、荒木村重が有岡城で挙兵し、信長に反旗を翻した(有岡城の戦い)。村重の離反もまた、義昭の調略によるものであった。なお、義昭は輝元と協力して村重の調略を行っており、義昭は小林家孝を毛利氏の属将とともに有岡城に入城させ、村重に毛利氏へ帰順するよう説得したことが知られている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 238,
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"text": "同月、信長は明智光秀を介し、土佐の長宗我部元親の嫡子・弥三郎に偏諱を与え、信親と名乗らせた。これは、義昭や輝元、本願寺の支援を受けた十河存保が阿波において、反信長の立場で活動しており、信長と元親が共通の敵に対抗するために結び付いたものであった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 239,
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"text": "11月6日、毛利水軍は本願寺に物資を運び入れるため、石山に再び来援したが、九鬼嘉隆の鉄甲船を用いた織田水軍に敗北を喫した(第二次木津川口の戦い)。以後、毛利氏は淡路島以西の制海権は保持したままであったが、大阪湾は織田水軍に封鎖された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 240,
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"text": "11月19日、荒木村重が織田軍に攻撃されると、24日に義昭は吉川元春に対し、輝元に出兵するように勧めさせた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 241,
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"text": "12月、輝元は出陣を決意し、毛利氏有利のこの好機に乗じて上洛しようとした。そして、輝元出陣の日は翌年1月16日と定められ、諸将に下令された。輝元はそれに伴い、武田勝頼に徳川家康を攻撃し、織田氏の兵力を引き付けるよう要請している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 242,
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"text": "天正7年(1579年)1月、毛利氏の重臣・杉重良が大友氏の調略で謀反を起こし、毛利氏の背後である筑前や豊後に暗雲が垂れ込めた。このため、1月16日の輝元自らによる出兵は無期限での延期となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 243,
"tag": "p",
"text": "6月、備前の宇喜多直家が毛利氏に対して反旗を翻したばかりか、9月には伯耆の南条元続も同様に反旗を翻した。これらの裏切りは、輝元の上洛断念によるものであるのみならず、信長が調略の手を伸ばした結果でもあった。そのため、輝元は荒木村重や別所長治、本願寺への支援よりも、自領の防戦を優先するようになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 244,
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"text": "11月27日、信長は豊後の大友義統に対し、毛利氏の領国である周防と長門を与える約束をした。信長は諸勢力を懐柔し、義昭や輝元らに対する包囲網を構想していた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "天正8年(1580年)1月17日、三木城の別所長治が自害し、播磨での信長への抵抗は収束に向かった。",
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{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "閏3月5日、顕如が信長との勅命講和に応じて、大坂退去を約し、石山合戦が終結した。本願寺の降伏は、輝元や武田勝頼の苦戦、上杉氏の没落、有岡城や三木城における虐殺などによって、厭戦気分が高まったことにあった。これにより、信長は秀吉を中心とした中国地方攻略を本格化させた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 247,
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"text": "6月、秀吉が因幡に侵攻し、毛利方の吉川経家が籠城する鳥取城を攻めた(鳥取城の戦い)。",
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},
{
"paragraph_id": 248,
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"text": "天正9年(1581年)10月、鳥取城が秀吉に降伏し、吉川経家が自害した。義昭は情勢の悪化を見て、信長の出陣に備えるよう、吉川広家に命じた。",
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},
{
"paragraph_id": 249,
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"text": "天正10年(1582年)3月、武田勝頼が信長や徳川家康らに攻められ、自害に追いやられた(甲州征伐)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "4月、秀吉が備中に侵攻し、同月に毛利氏の配下・清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃し、5月には水攻めを行った(備中高松城の戦い)。他方、輝元は水攻めの急報を受けて、元春・隆景らと共に総勢5万の軍勢を率い、高松城の救援に向かい、秀吉と対峙した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 251,
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"text": "5月7日、信長は四国国分案を出し、讃岐を三男の信孝に、阿波を三好康長に与え、土佐と伊予は自身が淡路に赴いた際に決めるとした。この国分案には、元親や十河存保、毛利方で伊予北部を支配する河野通直は入っておらず、信長は元親の阿波や讃岐における権益を認めていなかった。そして、信孝に四国攻めの出兵準備をさせた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 252,
"tag": "p",
"text": "5月17日、信長は秀吉の使者より、毛利氏が出陣してきたことを知らされると、自ら出陣して輝元ら毛利氏を討ち、九州までも平定するという意向を秀吉に伝えた。信長は自身の出陣に先んじて、明智光秀に秀吉の援軍に向かうよう命じた。信長は四国を平定し、毛利輝元を滅ぼせば、大友義鎮といった九州の諸大名も服属すると考えていた。",
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{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "5月21日、元親が明智光秀の家臣・斎藤利三に送った書状では、元親は阿波の大西城と海部城以外から撤兵し、信長の四国国分案を受け入れる意向を示していた。他方、同日に義昭の側近・真木島昭光が元親のもとにいた石谷光政に対し、輝元の仲介による土佐の長宗我部氏と伊予の河野氏の和睦を指示しており、義昭の帰京に尽力するよう書状を送っている。これと同様の書状は、2月23日にも送られている。このことから、元親は義昭や輝元とも通じ、和戦両様の構えを取っていたようである。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "5月29日、信長は西国へ出陣するため、安土城から上洛し、京の本能寺に入った。そして、6月1日に信長は本能寺において公家衆らと対面し、6月4日に自身が西国に出陣することを公表した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "天正10年6月2日、信長が本能寺において、明智光秀に襲撃されたことにより、自害し果てた(本能寺の変)。嫡子の信忠もまた、同様の運命をたどった。変の翌日にこの情報を得た秀吉は、信長の横死を秘したまま、毛利氏と講和を行った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "6月4日、備中高松城が講和により開城し、城主の清水宗治らは切腹した。秀吉はその日のうちに撤退し、毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日の5日であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 257,
"tag": "p",
"text": "6月9日、信長の死を知った義昭は隆景に対し、帰京するために備前・播磨に出兵するように命じたが、輝元ら毛利氏は講和を遵守して動かなかった。毛利氏は上方の情報収集は行ったが、領国の動揺を鎮めることで精いっぱいであり、進攻する余裕はなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 258,
"tag": "p",
"text": "6月13日、秀吉が山崎の戦いで光秀を破ると、輝元は秀吉に戦勝を祝うため、安国寺恵瓊を使者として派遣した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 259,
"tag": "p",
"text": "6月17日、義昭の御内書と真木島昭光の副状が香宗我部親泰に発給され、長宗我部元親が義昭の帰京を請けた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 260,
"tag": "p",
"text": "9月26日、義昭は安国寺恵瓊に対し、羽柴秀吉に自身の帰洛を斡旋させるように命じた。秀吉もこれに承知の意思を示した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 261,
"tag": "p",
"text": "10月15日、秀吉は大徳寺で信長の葬儀を行い、後継者としての地位を確立した。そのため、秀吉と柴田勝家が覇権を巡って火花を散らし始めると、義昭を擁する輝元は双方から味方になるよう誘いかけられた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 262,
"tag": "p",
"text": "11月、義昭は勝家に味方し、勝家もこれを承知した。義昭はまた、勝家と上杉景勝を講和させて協力を得るため、11月21日に景勝に御内書を下した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 263,
"tag": "p",
"text": "天正11年(1583年)2月13日、勝家は北近江に進出するための援助を、毛利氏に求めた。また、同月14日には徳川家康が義昭の帰洛に関して、輝元に賛意を表した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 264,
"tag": "p",
"text": "3月14日、勝家は義昭を擁立したうえで、毛利氏の支援を受けて、秀吉を挟撃しようとした。そのため、勝家は義昭に輝元の出兵を督促させた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 265,
"tag": "p",
"text": "4月5日、義昭は輝元に対し、勝家の先鋒が近江に進出したことと知らせるとともに、すぐに出兵するように命じた。また、同日に勝家は輝元に対し、出兵を督促した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 266,
"tag": "p",
"text": "4月20日、元春と隆景が会見した結果、毛利氏は両者の勝敗を見てからと傍観することにし、義昭の要請には応じないことにした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 267,
"tag": "p",
"text": "4月21日、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家に勝利し、勝家を自害に追いやった。秀吉は勝家の最期を輝元に伝えるとともに、東国の北条氏政や北国の上杉景勝を攻めると伝え、輝元に協力するように伝えた。すでに秀吉と輝元の間には及び難い力の差がついていたが、義昭は勝家に味方したため、秀吉を敵に回すという結果を招いた。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 268,
"tag": "p",
"text": "12月初旬、義昭は側室の春日局を大阪に向かわせた。このとき、春日局の発言力は強かったとされ、小早川隆景が毛利氏の待遇に関して、泣きついたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 269,
"tag": "p",
"text": "天正12年(1584年)9月4日、義昭は島津義久や龍造寺政家、宗像大宮司の宗像氏貞に対して、帰京に協力するように命じ、輝元がこれを周旋した。義昭はまた、義久に豊後の大友義統を討つように命じ、九州の太守にすることも約束した。義昭が島津氏に対して援助を求めたのは、帰京に関する費用のためだと考えられる。無論、義昭は毛利氏にも同様の依頼をしていたと思われるが、毛利氏はこの時点では義昭にまだ利用価値があると考え、帰京に同意しなかったようである。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 270,
"tag": "p",
"text": "天正13年(1585年)1月、輝元が秀吉との国境画定に応じて、正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏と織豊政権の戦闘はようやく終結した(京芸和睦)。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 271,
"tag": "p",
"text": "天正13年7月、秀吉が朝廷より関白に任命された。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年半の間続いた。この2年半は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。またこの間、義昭は将軍として、秀吉に抵抗する島津氏に対して、秀吉との和平を勧めている。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 272,
"tag": "p",
"text": "天正14年(1586年)8月、毛利輝元を先陣として、秀吉の九州平定が始まった。だが、島津氏の兵は精強であり、先陣は敗戦を重ねた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 273,
"tag": "p",
"text": "12月4日、義昭は一色昭秀を薩摩の島津義久のもとに送って、秀吉との講和を勧めている。これは毛利氏の意向を受けたものであり、毛利氏はもともと大友氏との関係から、島津氏と同盟していたこともあって、全面的な闘争を望んでおらず、それゆえ義昭を介す形で意向を伝えたと考えられる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 274,
"tag": "p",
"text": "天正15年(1587年)2月、義昭は一色昭秀を使者として、島津氏に再び講和を勧めている。このとき、義昭は秀吉の弟・豊臣秀長の意見を伝えると書状で記していることから、義昭のこの要請は秀吉の意向を受けたものであり、義昭と秀吉が連携を取っていたことがわかる。この時点でもなお、島津氏は義昭を主君として仰いでおり、秀吉が島津氏の面目が立つように、義昭の上意という形で講和の勧告を行ったと考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 275,
"tag": "p",
"text": "3月12日、秀吉が九州に向かう途中、義昭の住む鞆の御所に近い赤坂に立ち寄り、義昭と田辺寺で対面した。義昭は秀吉と贈り物を交換し、親しく酒を酌み交わした。義昭は秀吉と十数年ぶりに対面したが、秀吉はもはや従一位・関白・太政大臣であり、従三位・権大納言の義昭よりも数段上の存在となっていた。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 276,
"tag": "p",
"text": "4月、義昭は一色昭秀を送って、島津義久に重ねて講和を勧めている。その結果、義久は昭秀らの勧告を受けて、21日に降伏を受け入れた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 277,
"tag": "p",
"text": "5月、島津氏が秀吉に降伏した。義昭がこの勝利にどれほど貢献したかは不明だが、秀吉は義昭の功を認めた。そして、義昭が望んだ帰京も認め、毛利氏に対し、義昭が帰京に使用するための船の調達を命じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 278,
"tag": "p",
"text": "この頃、義昭は毛利氏に願い、御座所を鞆から山陽道に近い沼隈郡津之郷(福山市津之郷町)へと移させた。時期は不明ながら、鞆に近い山田常国寺を御座所としていた時期もあった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 279,
"tag": "p",
"text": "7月、細川幽斎が厳島神社での延年舞を見たのち、義昭のいる津之郷の御座所に訪れた。義昭の帰京に関する打ち合わせが行われたと考えられている。両者の蟠りは十数年の歳月を経て、ほとんどなくなっていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 280,
"tag": "p",
"text": "8月、義昭の子息・義尋が興福寺の大乗院門跡となることが決定し、28日に大乗院に入室、得度した。これは、秀吉による義昭に対しての島津氏討伐の功賞であり、義昭の意向に従って優遇したものと考えられる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 281,
"tag": "p",
"text": "10月、義昭は毛利氏の兵に護衛されながら、京都に帰還した。義昭にとっては、およそ15年ぶりの京都であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 282,
"tag": "p",
"text": "12月、義昭は大坂に赴き、秀吉に臣従した。このとき、秀吉から山城国槇島において、1万石の領地を認められた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 283,
"tag": "p",
"text": "天正16年(1588年)1月13日、義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を朝廷に返上した。このとき、秀吉の奏請によって、義昭は朝廷から准三宮の称号(待遇)を受けている。これにより、室町幕府は名実ともに滅亡した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 284,
"tag": "p",
"text": "その後、義昭は出家し、昌山道休と号した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 285,
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"text": "晩年の義昭は秀吉から厚遇された。義昭は前将軍ということもあって、徳川家康や毛利輝元、上杉景勝といった大大名よりも上位の席次を与えられた。また、斯波義銀や山名堯熙、赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、秀吉の良き話し相手となった。",
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{
"paragraph_id": 286,
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"text": "天正16年5月、義昭は毛利輝元と小早川隆景に対し、「忠節を忘れることはない」と記した感謝の御内書を発給した。",
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"paragraph_id": 287,
"tag": "p",
"text": "7月19日、輝元が大坂に到着すると、義昭は真木島昭光を使者として送り、輝元に金屏風一隻、樽二十荷、肴十折、帷子二十を贈与した。その後、輝元は秀吉と聚楽第で対面し、完全に臣従した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 288,
"tag": "p",
"text": "9月10日、輝元が安国寺恵瓊や細川幽斎を供として、義昭のもとを訪れた。義昭は輝元に対して、多年の忠功を感謝し、懐旧談にも及んだという。",
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},
{
"paragraph_id": 289,
"tag": "p",
"text": "天正20年(文禄元年、1592年)3月20日、義昭は文禄の役において、秀吉のたっての要請により、相国寺鹿苑院に宿泊し、武具などをそろえて出陣の準備をした。その際、鹿苑院の門前では兵達の甲冑が日に映え、旌旗が風に翻り、その威容を見た者たちは「戦袍(の)光彩、目を奪う」と感心した。",
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{
"paragraph_id": 290,
"tag": "p",
"text": "3月26日、義昭は由緒ある奉公衆などの名家による軍勢を従えて、後陽成天皇の見送りを受けながら、秀吉とともに京都を出発した。",
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"text": "4月25日、秀吉が肥前名護屋城に到着すると、義昭は城の外郭に布陣した。その兵力は3,500人と記されている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 292,
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"text": "文禄2年(1593年)8月、秀吉が大坂に帰還したのにあわせ、義昭も帰京したと考えられている。",
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"paragraph_id": 293,
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"text": "慶長2年(1597年)8月、義昭は病床に伏した。そして、病から回復できぬまま、28日に大坂で薨去した。死因は腫物であったとされ、病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。享年61(満59歳没)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 294,
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"text": "義昭の死去に際し、義昭の猶子・義演は自身の日記『義演准后日記』の中で、「近年将軍ノ号蔑也、有名無実弥以相果了(近年は将軍といっても、有名無実となった)」と感想を記している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 295,
"tag": "p",
"text": "義昭の没後、西笑承兌が施薬院全宗とともに大坂城に赴き、義昭の死を秀吉に報告した。秀吉は真木島昭光と相談し、葬儀の阿闍梨(導師)を依頼するように言った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 296,
"tag": "p",
"text": "義昭の遺体は旧臣数十名が供をして、足利将軍家の菩提寺である等持院に入ったのち、方丈の書院に収められた。そして、等持院の足利将軍遺髪塔に収めるため、承兌が戒師となり、義昭の毛髪を剃った。葬送料は義昭の旧臣らによって拠出された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 297,
"tag": "p",
"text": "9月2日、承兌は京都所司代の前田玄以のもとに赴き、等持院の大工2人を義昭の龕(棺)と火屋(火葬場)を作るために使用したいと申請したものの、1人だけが許可された。承兌はこれを嘆き、「世が世であれば、洛中洛外の大工すべてを招集しても来ないことはあろうか。今は両人すら許してもらえない」と日記に記している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 298,
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"text": "9月8日、義昭の葬儀が等持院で行われ、真木島昭光以下旧臣30余人が会葬した。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "9月13日、細川忠興の名代として、子息の忠利が弔問し、香典20貫文を供えた。そのうち、幽斎からは10貫文であった。",
"title": "生涯"
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"text": "9月14日夜、義昭の息子で大乗院門跡の義尋が焼香を行った。その後、義昭の側室である春日局と大蔵卿局が焼香を行った。",
"title": "生涯"
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"text": "位牌所は相国寺洋源軒にあるが、同寺の塔頭・霊陽院は義昭の菩提所として創建されたものである。",
"title": "生涯"
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"text": "義昭の嫡男・義尋は、信長の人質となった後、興福寺の大乗院門跡となった。義尋は後に還俗して2人の子をもうけたが、2人とも仏門に入った。このため、義昭の正系は断絶した。",
"title": "系譜"
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"text": "大坂の陣の際、義昭の子と称する一色義喬が総数563人分の「家臣連判帳」を提出して、徳川方に参加しようとしたが、果たせなかったという。その孫・義邵は会津松平家に仕え陸奥国会津藩士となり、坂本姓を名乗る。仕官の際に足利氏菩提寺の鑁阿寺に相伝の家宝の一部を寄進したという(『足利市史 上巻』)。ただし、義喬の存在は同時代史料では確認されていない。",
"title": "系譜"
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"paragraph_id": 304,
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"text": "「永山氏系図」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集』所収)において、泉州蟄居の際にできた子として、義在という人物の名が記されている。同史料に寄れば、義在は薩摩藩士となり、舅の姓に改姓して「永山休兵衛」と称したという。ただし、義在の存在も同時代史料では確認されていない。",
"title": "系譜"
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"text": "『旧柳川藩志』によると、近江矢島氏を継いだ矢島秀行が義昭の子と記されている。妻は菊亭晴季の女、子に矢島重成、八千子(立花宗茂継室)がいる。",
"title": "系譜"
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"text": "明治12年(1879年)、押小路実潔が名家の子孫を華族に取り立てるよう請願書を提出しているが、この中で「西山義昭将軍裔ニして細川家ニ客タリ足利家」も名家の一つとして数えている。 これは肥後国熊本藩士であった尾池義辰の子孫、西山氏を指すものであるが、この西山氏の先祖は義輝という説や義昭の弟という説もあるため、明確になっていない。",
"title": "系譜"
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"paragraph_id": 307,
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"text": "祭神として足利義昭が祀られており、御神体として「伝 足利義昭公像(束帯座像)」が伝存している。その近隣は、備後に流れ着いた義昭を毛利輝元家臣で当地周辺を統治していた渡辺氏(一乗山城主)が匿ったとされる地であり、義昭の寓居していた山は御殿山という名で現在も残っている。",
"title": "ゆかりの神社・寺院"
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"text": "大可島城は毛利輝元を頼って下向した義昭が拠点とした場所。古くは足利直冬(足利尊氏の子、足利直義の養子)も西国での活動拠点とした瀬戸内の要衝であった。現在は陸続きになっているが、かつては独立した島に作られた城、「海城(水城)」であった。後に福島正則によって対岸に鞆城が整備されると、城跡地に現在の南林山釈迦院圓福寺が建立された。義昭はこの大可島城で幕府将軍としての政務を行っていた事から、「鞆幕府ゆかりの地」となっている。",
"title": "ゆかりの神社・寺院"
}
] |
足利 義昭は、室町幕府の第15代(最後の)征夷大将軍。 父は室町幕府の第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。
|
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 足利 義昭
| 画像 = Ashikaga Yoshiaki.jpg
| 画像サイズ = 260px
| 画像説明 = 足利義昭坐像([[等持院]]霊光殿安置)
| 時代 = [[室町時代]]末期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]) - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]6年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]([[1537年]][[12月5日]])
| 死没 = [[慶長]]2年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1597年]][[10月9日]])
| 改名 =千歳丸→覚慶([[戒名|法名]])→義秋→義昭→昌山道休(法名)
| 別名 = 貧乏公方{{Sfn|奥野|1996|p=217}}
| 戒名 = 霊陽院昌山道休
| 墓所 = [[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の[[等持院]]
| 官位 = [[従五位下]]・[[左馬頭]]、[[参議]]・[[左近衛中将]]<br/>[[征夷大将軍]]、[[従三位]]・[[権大納言]]、[[准后|准三后]]
| 幕府 = [[室町幕府]] 第15代[[征夷大将軍]](在任:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))
| 氏族 = [[足利氏]]([[足利将軍家|将軍家]])
| 父母 = 父:[[足利義晴]]、母:[[慶寿院]]([[近衛尚通]]の娘)<br />猶父:''[[近衛稙家]]''
| 兄弟 = [[足利義輝|義輝]]、'''義昭'''、[[足利周暠|周暠]]
| 妻 = [[御台所|正室]]:なし<br />[[側室]]:[[さこの方]]([[赤松政秀]]娘、織田信長養女)、小宰相局([[大河内氏]])、一対局、春日局、大蔵卿局、小少将局(いずれも出自不詳)
| 子 = '''[[足利義尋|義尋]]'''、[[一色義喬]]?、[[永山義在]]?、[[矢島秀行]]?{{Efn|元亀元年三好の残党は京都乱入のとき、矢島勘兵衛尉秀行は将軍義昭のため防戦すること数度、最終は山城国恩庵にて戦死した。秀行のことは実は足利義昭の子、近江矢島氏を継ぐ。妻は菊亭晴季の女。子に矢島重成、八千子([[立花宗茂]]継室)<ref name="名前なし-1">『旧柳川藩志』第十八章・人物・第十六節 柳川偉人小伝(六) 954頁。</ref>。}}、[[矢島重成]]?{{Efn|矢島重成について実は義昭の子であるとする説もある<ref>{{Cite book|和書|author=中野等|title=立花宗茂|publisher=吉川弘文館|series=人物叢書|year=2001|Ppage=270}}</ref>。}}<br>猶子:[[義演]]([[二条晴良]]息、[[三宝院]]門跡)
| 特記事項 =
}}
'''足利 義昭'''(あしかが よしあき)は、[[室町幕府]]の第15代(最後の)[[征夷大将軍]](在職:[[1568年]]〈[[永禄]]11年〉- [[1588年]]〈[[天正]]16年〉)<ref>国史大辞典(吉川弘文館)</ref><ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 32頁。</ref>。
父は室町幕府の第12代将軍・[[足利義晴]]。母は[[近衛尚通]]の娘・[[慶寿院]]。第13代将軍・[[足利義輝]]は同母兄。
== 概要 ==
[[足利将軍家]]の家督相続者以外の子息として、慣例により[[仏門]]に入って、'''覚慶'''(かくけい)と名乗り、[[一乗院]][[門跡]]となった。
兄・義輝が[[永禄の変]]で[[三好三人衆]]らに殺害されると、[[細川幽斎|細川藤孝]]ら幕臣の援助を受けて[[奈良|南都]]から脱出し、[[還俗]]して'''義秋'''(よしあき)と名乗る。その後、[[朝倉義景]]の庇護を受け、'''義昭'''に改名した。
そして、[[織田信長]]に擁されて[[上洛]]し、第15代将軍に就任した。その後、信長と対立し、[[武田信玄]]や朝倉義景、[[浅井長政]]らと呼応して[[信長包囲網]]を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて[[京都]]から追われ、一般にはこれをもって[[室町幕府]]の滅亡とされている。
しかし、義昭は京都追放後も将軍として活動を続けており、[[河内国]]や[[和泉国]]、[[紀伊国]]に滞在したのち、[[備後国]]へ下向した。そして、[[毛利輝元]]の庇護を受け、亡命政権・[[鞆幕府]]を樹立し、信長に対抗した。
信長が[[本能寺の変]]によって横死したのち、[[豊臣政権]]が確立すると帰京し、[[豊臣秀吉]]から[[山城国]][[槇島町|槇島]]に1万石の所領を認められた。そして、将軍を辞して出家し、'''昌山道休'''(しょうざん どうきゅう)と号した。
義昭は前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であり、また秀吉の[[御伽衆]]に加えられるなど、貴人として遇された余生を送った。
== 生涯 ==
=== 一乗院門跡として===
[[File:Yosiharu asikaga.jpg|thumb|right|[[足利義晴]]]]
[[天文 (元号)|天文]]6年([[1537年]])11月3日、第12代将軍・[[足利義晴]]の次男として、[[京都]]で誕生した{{Sfn|榎原|清水|2017|p=394}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=33}}{{Sfn|黒板|1936|p=461}}。母は[[近衛尚通]]の娘・[[慶寿院]]{{Sfn|榎原|清水|2017|p=394}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=33}}。[[幼名]]は'''千歳丸'''(ちとせまる)。
天文9年([[1540年]])7月、千歳丸が3歳の時、父の義晴は[[奈良|南都]]の[[興福寺]][[一乗院]]に入室させる契約を行った{{Sfn|奥野|1996|p=91}}。兄に嗣子である[[足利義輝|義輝]]が既におり、跡目争いを避けるため、嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従う形となった{{Sfn|久野雅司|2017|p=33}}。また、興福寺が[[大和国|大和]]一国の国主(大和の[[守護大名|守護]]でもあった)であることから、寺社との結びつきを強める目的があり、将軍の若君が入室することによって、将来的に興福寺をはじめとする大和の寺社勢力が将軍家を扶助する体制を構築しようとしたとされる{{Sfn|山田|2019|p=151}}。
天文11年([[1542年]])9月11日、千歳丸が6歳の時、[[寺社奉行]]の[[諏訪長俊]]が義晴の使者として興福寺に向かい、将軍の「若君」が11月に一乗院[[門跡]]・[[覚誉]]の弟子として入室するので、よく世話するようにと伝えた{{Sfn|奥野|1996|p=91}}。興福寺は寺領に[[段銭]]をかけ、その費用を調達した{{Sfn|奥野|1996|p=92}}。
11月20日、千歳丸は伯父・[[近衛稙家]]の[[猶子]]となって、興福寺の一乗院に入室し(『[[親俊日記]]』『[[南行雑録]]』){{Sfn|久野雅司|2017|p=33}}{{Sfn|山田|2019|p=151}}{{Sfn|奥野|1996|p=92}}、[[戒名|法名]]を'''覚慶'''と名乗った{{Sfn|奥野|1996|p=96}}。覚慶は[[近衛家]]の人間として、一乗院門跡を継ぐ修行を行った{{Sfn|奥野|1996|p=96}}。
その後、覚慶は一乗院門跡となり、[[僧綱|権少僧都]]にまで栄進し{{Sfn|奥野|1996|p=99}}、何事もなく二十数年を興福寺で過ごした{{Sfn|山田|2019|p=151}}。このまま、覚慶はやがて興福寺[[別当]]となり、高僧としてその生涯を終えるはずであった{{Sfn|山田|2019|p=151}}{{Sfn|奥野|1996|p=99}}。
===南都からの脱出・近江での生活===
[[ファイル:Ashikaga Yoshiteru.jpg|thumb|right |[[足利義輝]]]]
[[永禄]]8年([[1565年]])5月19日、第13代将軍であった兄・義輝が京都において、[[三好義継]]や[[三好三人衆]]、[[松永久通]]らによって殺害された([[永禄の変]]){{Sfn|山田|2019|p=127}}。このとき、母の慶寿院、弟で[[鹿苑院]]院主・[[周暠]]も殺害された{{Sfn|山田|2019|p=127}}。
義輝の死後、覚慶は[[松永久秀]]らによって、興福寺に幽閉・監視された{{Sfn|奥野|1996|p=100}}。久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる{{Sfn|奥野|1996|p=100}}。実際に監視付といっても、外出禁止の程度で行動は自由であった{{Sfn|奥野|1996|p=100}}。ただし、[[大覚寺]]門跡の[[義俊]]が[[上杉輝虎]](謙信)に宛てた手紙では、厳重な監視としている(『上杉古文書』){{Sfn|奥野|1996|p=100}}。
やがて、覚慶を興福寺から脱出させるべく、[[越前国|越前]]の[[朝倉義景]]が[[三好氏|三好]]・[[松永氏|松永]]に対して、「直談」で交渉を行った{{Sfn|奥野|1996|p=101}}。だが、この交渉は不調に終わり、謀略を使って脱出を行うことになった{{Sfn|奥野|1996|p=101}}。
7月28日夜、覚慶は兄の遺臣らの手引きによって、密かに興福寺から脱出した{{Sfn|山田|2019|p=151}}{{Sfn|奥野|1996|p=101}}。義俊の書状によると、立役者は義俊と朝倉義景とのことだが、実際には義輝の近臣であった[[細川幽斎|細川藤孝]]と[[一色藤長]]が脱出において活躍したと考えられる{{Sfn|奥野|1996|p=101}}。藤孝の画策により、[[米田求政]]が医術を以て一乗院に出入することで覚慶に近づき、番兵に酒を勧めて沈酔させ、脱出に成功させたと伝わる{{Sfn|奥野|1996|p=101}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=36}}。
覚慶とその一行は、奈良から[[木津川 (京都府)|木津川]]をさかのぼり、[[伊賀国|伊賀]]{{Efn|[[仁木義広]]が守護であった。[[国人]]の一人である[[服部氏]]は、この後も義昭に随行することとなる。}}の上柘植村を経て、翌日には[[近江国|近江]][[甲賀郡]]の和田に到着した{{Sfn|奥野|1996|p=102}}{{Sfn|山田|2019|p=152}}。そして、和田の豪族である[[和田惟政]]の居城・和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)に入り、ここにひとまず身を置いた{{Sfn|奥野|1996|p=102}}。この地には藤孝が案内したという{{Sfn|奥野|1996|p=102}}。
覚慶はこの地において、[[足利将軍家]]の当主になることを宣言し、各地の大名らに[[御内書]]を送った{{Sfn|奥野|1996|p=103}}。この呼びかけに、覚慶の妹婿で[[若狭国|若狭]]の[[武田義統]]、近江の[[京極高成]]、伊賀の[[仁木義広]]らが応じたほか、幕臣の一色藤長、[[三淵藤英]]、[[大舘晴忠]]、[[上野秀政]]、[[上野信忠]]、[[曽我助乗]]らが参集している{{Sfn|久野雅司|2017|pp=39-40}}。
また、覚慶は諸国の大名に御内書を発することで、その糾合に努めた。その初期には、[[関東管領]]・[[上杉謙信|上杉輝虎]](謙信)らに[[室町幕府]]の再興を依頼しているほか、[[安芸国|安芸]]の[[毛利元就]]、[[肥後国|肥後]]の[[相良義陽]]、[[能登国|能登]]の[[畠山義綱]]らにも書状を出して出兵を要請した{{Sfn|久野雅司|2017|p=39}}。これらには和田惟政の副状が発給され、輝虎のみならず、越前の朝倉義景、[[河内国|河内]]の[[畠山尚誠]]、[[三河国|三河]]の[[徳川家康]]らより、覚慶に協力する旨の書状が惟政に送られた{{Sfn|久野雅司|2017|p=39}}。
11月21日、近江の[[六角義賢]]の好意を得て、甲賀郡和田から京都に程近い[[野洲郡]]矢島村([[守山市]]矢島町)に移り住み、在所とした([[矢島御所]]){{Sfn|山田|2019|pp=152-153}}{{Efn|当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす「矢島の武家御所」などと呼ばれていたことが記されている。}}。当時、京都においては、三好義継ら三好氏が義秋の従兄弟・[[足利義栄]]を将軍に就任させようとしていたが、松永久秀と三好三人衆の間では確執による内部分裂が発生しており、これを上洛の好機と捉えたとみられている{{Sfn|山田|2019|pp=152-153}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=40}}。
この時、和田惟政は[[尾張国|尾張]]の[[織田信長]]に上洛への協力要請を取り付けるため、尾張に滞在しており、惟政には無断の移座であった。後日、惟政が激怒していることを知った覚慶は惟政に謝罪の書状を送っている<ref name="kubo">{{Cite journal|和書|author=久保尚文|title=和田惟政関係文書について|journal=京都市歴史資料館紀要|issue=創刊号|year=1984}}/所収:{{Harvnb|久野|2015}}</ref>。
永禄9年([[1566年]])2月17日、覚慶は矢島御所において[[還俗]]し、'''義秋'''と名乗った{{Sfn|久野雅司|2017|p=40}}{{Sfn|奥野|1996|p=117}}。義秋の名は、僧侶の勘進によるものだったらしい{{Sfn|奥野|1996|p=120}}。
4月21日、義秋は[[吉田神社]]の神主・[[吉田兼右]]の斡旋により、朝廷から[[従五位下]]・[[左馬頭]]の叙位・[[任官]]を受けた{{Sfn|久野雅司|2017|p=40}}{{Sfn|奥野|1996|p=120}}{{Efn|叙任時期については疑問視する意見があるが、『[[言継卿記]]』によれば永禄11年([[1568年]])2月に行われた義昭の対抗馬である足利義栄への[[将軍宣下]]当日に宣下の使者であった[[山科言継]]の屋敷に義昭の使者が現れて、[[従四位下]]への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。}}。この叙任は本来、[[武家伝奏]]を経て朝廷に申請するのが正式な手続きであったが、足利義栄が[[摂津国]]・[[普門寺_(高槻市)|普門寺]]まで進出している政治事情を配慮して、吉田兼右の斡旋で「御隠密」に行われた{{Sfn|久野雅司|2017|pp=40-41}}。その後、同年12月に義栄も同様に叙任を受けたが、左馬頭は次期将軍が就く官職であり、朝廷が義秋を義栄より先に任じたことは、義秋を正統な後継者として認識していた可能性が高い{{Sfn|久野雅司|2017|p=41}}。
矢島御所において、義秋は近江の六角義賢、河内の[[畠山高政]]、越後の上杉輝虎、能登の畠山義綱らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の[[畠山秋高]]をこの頃に義秋へ従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて、[[浅井長政]]と[[織田信長]]の妹・[[お市の方]]の婚姻の実現を働きかけている<ref name="kubo"/>。
義秋はまた、輝虎と[[甲斐国]]の[[武田信玄]]・[[相模国]]の[[北条氏政]]の3名に対して講和を命じたほか、[[美濃国]]の[[斎藤龍興]]と交戦していた尾張の織田信長と通交して、出兵を促した{{Sfn|久野雅司|2017|p=42}}。義秋の構想は、相互に敵対していた[[美濃斎藤氏|斎藤氏]]と[[織田氏]]、六角氏と[[浅井氏]]、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。
和田惟政と細川藤孝の説得により、信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北[[伊勢国|伊勢]]・南近江を経由して上洛することになった<ref name="murai">{{Cite journal|和書|author=村井祐樹|title=幻の信長上洛作戦|journal=古文書研究|issue=第78号|year=2014}}</ref><ref name="kuno-a">{{Harvnb|久野|2015|loc=「足利義昭政権の研究」}}</ref>。和議の成立によって、信長は8月22日に出兵することを約束した{{Sfn|久野雅司|2017|p=42}}。
8月3日、義秋の行動に対して、[[三好三人衆]]の[[三好長逸]]に矢島御所で内通する者がおり、その軍勢3,000余騎が矢島を攻撃すべく、坂本まで進出した{{Sfn|奥野|1996|p=125}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。だが、この時は坂本で迎撃し、[[奉公衆]]の奮戦により、からくも撃退することが出来た{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。信長の上洛計画が現実味を帯びたことで、三好氏が先制攻撃を仕掛けたと考えられる{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。
8月29日、義秋から幕府再興の呼びかけを受けて上洛の兵を起こした信長の軍は、斎藤龍興の襲撃にあって、美濃を通過できなくなってしまった([[河野島の戦い]]){{Sfn|久野雅司|2017|p=42}}<ref name="murai"/><ref name="kuno-a"/>。このとき、敗れた信長の軍勢は「前代未聞」の敗戦ぶりであったといい、斎藤氏から嘲笑を受ける程であったという{{Sfn|久野雅司|2017|p=42}}。
同日、近江の六角義賢・[[六角義治|義治]]父子が叛意を見せた{{Sfn|久野雅司|2017|p=42}}。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは、三好方による巻き返しの調略があったとみられている<ref name="kuno-a"/>。信長は美濃を通過できず、さらにはその先の近江も不穏となったため、撤退せざるを得なくなった{{Sfn|久野雅司|2017|p=43}}。
=== 若狭・越前での亡命生活 ===
[[ファイル:Ashikaga Yoshiaki's Gosho in Ichijōdani.jpg|thumb|250px|越前国一乗谷の足利義昭御所跡]]
8月29日、六角氏が叛意を見せたことや、三好側が矢島を襲撃するという風聞も流れていたこともあって、義秋は妹婿の武田義統を頼り、若狭国へ移った{{Sfn|久野雅司|2017|p=46}}。このとき、義秋は4、5人の供のみを従えるだけであったという{{Sfn|久野雅司|2017|p=46}}。
しかし、京都北白川に出城を構え、[[応仁の乱]]では東軍の副将を務めて隆盛を極めた[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]も、義統と息子の[[武田元明]]との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。そのため、義統は出兵の代わりとして、弟の[[武田信景 (若狭武田氏) |武田信景]]を義秋に仕えさせた。
9月8日、義秋は若狭から[[越前国]][[敦賀郡|敦賀]]へと移動した{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。その後、[[朝倉景鏡]]が使者として赴き、義秋は朝倉義景のいる[[一乗谷]]に迎えられた{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。義景は細川藤孝らによる南都脱出の立役者であったとする見方がある<ref name="watanabe">{{Cite journal|和書|author=渡辺世祐|title=上洛前の足利義昭と織田信長|journal=史学雑誌|volume=29巻|issue=2号|year=1918}}/所収:{{Harvnb|久野|2015}}</ref>一方で、すでに足利将軍家連枝の[[鞍谷御所]]・[[足利嗣知]]([[足利義嗣]]の子孫)も抱えており{{Efn|ただし、鞍谷御所は後世の創作で、実際の鞍谷氏は奥州[[斯波氏]]の嫡流の系統に属し、斯波一族でも宗家である武衛家に近い、高い格式を持った一族であるとする佐藤圭の説がある<ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤圭|title=戦国期の越前斯波氏について|journal=若越郷土研究|volume=第45巻|issue=4・5号|year=2000}}/所収:{{Citation|和書|editor=木下聡|title=シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏|publisher=戎光祥出版|year=2015|isbn=978-4-86403-146-2}}</ref>。}}、義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。
義秋は一乗谷において、[[朝倉氏]]と[[加賀一向一揆]]との講和を行ったり、上杉輝虎に上洛を要請したりしたものの、これらは実現に至らなかった{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。この頃、義秋のもとには[[上野清信]](清延)・大舘晴忠などのかつての幕府重臣や、[[諏訪晴長]]・[[飯尾昭連]]・[[松田頼隆]]などの[[奉行衆]]が帰参した{{Efn|幕府行政の実務を担当していた奉行衆8名のうち最終的には6名が越前の義昭の下に下向した事が確認でき、対抗相手であった足利義栄が京都に入っても将軍の職務を行うのが困難となり、将軍宣下後も京都に入れなかった一因になったという<ref name="kinoshita-a">{{Citation|和書|author=木下昌規|chapter=永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団|editor=天野忠幸 他|title=論文集二 戦国・織豊期の西国社会|publisher=日本史史料研究会|year=2012}}/所収:{{Harvnb|木下|2014}}</ref>。}}。
永禄10年11月21日、義秋は一乗谷の安養寺に移った。義秋は朝倉氏と加賀一向一揆との講和を再度図り、義景が応じたことで和議が成立した{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。その後、双方で人質交換が行われ、国境の城と砦が破却された{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。
義秋はまた、輝虎と甲斐の武田信玄・相模の北条氏政の講和を図っている{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。なお、義秋は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。だが、輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた[[揚北衆]]の[[本庄繁長]]の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった。他の大名{{Efn|矢島滞在当時より、足利義昭が上洛への協力を要請していることが判明している大名としては、[[佐竹氏]]・[[由良氏]]・[[後北条氏|北条氏]]・[[上杉氏]]・[[武田氏]]・[[朝倉氏]]・[[徳川氏]]・[[織田氏]]・[[六角氏]]・[[毛利氏]]・[[吉川氏]]・[[小早川氏]]・[[相良氏]]・[[島津氏]]などが知られている<ref>{{Cite journal|和書|author=水野嶺|title=足利義昭の大名交渉と起請文|journal=日本歴史|issue=807|year=2015}}/所収:{{Harvnb|水野嶺|2020|p=136}}</ref>。}}からも積極的な支援の動きは見られなかった。この時期、義秋の御内書には、義景の副状が添えられている。
永禄11年([[1568年]])2月8日、義秋の対抗馬である足利義栄が摂津の普門寺に滞在したまま、将軍宣下を受けた<ref name="kinoshita-a"/>。血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である義栄よりも有利な環境にありながら、いつまでも上洛できない義秋に対して、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄が、義輝によって取り潰された元政所執事の[[伊勢氏]]の再興を約束するなど、朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続けた結果でもあった<ref name="kinoshita-a"/>。
3月8日、義秋が朝廷へ[[上奏]]したことにより、義景の母が[[従二位]]に叙された{{Sfn|奥野|1996|p=130}}。その酒宴は終日終夜に及んで行われた。
4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前[[関白]]の[[二条晴良]]を越前に招いて、一乗谷の朝倉氏の館において[[元服]]式を行い、名を'''義昭'''と改名した{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}{{Sfn|榎原|清水|2017|p=399}}。なお、[[山科言継]]も招かれる予定だったが、費用の問題から晴良だけになった{{Sfn|奥野|1996|p=130-131}}。[[加冠]]は、兄・義輝が[[六角定頼]]を[[管領代]]として加冠役にした前例に倣って、朝倉義景を管領代に任じた上で行われた{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}。
6月21日、義昭は[[紀伊国]]の[[粉河寺]]に対し、[[畠山氏]]と協力して馳走するように求めた{{Sfn|天野|2016|p=86}}。
=== 上洛と畿内平定===
[[ファイル:Oda-Nobunaga.jpg|thumb|200px|織田信長]]
義昭が越前に滞在中、織田信長は義昭からの上洛要請を忘れず、それを果たすため、永禄10年には松永久秀と結び、近江の[[山岡氏]]や大和の[[柳生氏]]にも働きかけていた{{Sfn|榎原|清水|2017|p=399}}。また、信長は美濃での戦いを有利に進め、永禄10年8月には斎藤氏の居城・稲葉山城を落とし、翌11年には北伊勢も攻略するなど、着々と準備を進めていた{{Sfn|久野雅司|2017|p=48}}。
そして、義昭は朝倉氏の家臣であった[[明智光秀]]の仲介により、信長との交渉を再開した。またこの時、義昭が光秀に対し、信長に仕えるよう密命を下した、と[[桑田忠親]]は指摘する<ref name=":0">[[桑田忠親]]『流浪将軍 足利義昭』</ref>。信長もまた、家臣の[[村井貞勝]]、[[不破光治]]、[[島田秀満]]らを越前に派遣し、和田惟政もこれに加わっている{{Sfn|久野雅司|2017|p=48}}。
永禄11年7月13日、義昭は一乗谷を出発し、16日には信長の同盟者・浅井長政の饗応を[[小谷城]]で受け、25日には信長と美濃の[[立政寺]]で対面した{{Sfn|久野雅司|2017|p=48}}。義昭は美濃に入ると、同月28日に多喜越中守に道中の警護を、服部同名中に道中の斡旋をそれぞれ命じ、上洛の準備に入った{{Sfn|久野雅司|2017|p=48}}{{Sfn|奥野|1996|p=133}}。
9月7日、信長が尾張・美濃・伊勢の軍勢を率い、美濃の[[岐阜]]から京都へと出発した{{Sfn|久野雅司|2017|p=50}}。義昭と歩調を合わせて、上洛の準備を整えてからの出兵であった{{Sfn|久野雅司|2017|p=50}}。
9月8日、信長は近江高宮に着陣したが、六角義治が山に逆木をして道を塞いで妨害したため、2、3日を費やした{{Sfn|久野雅司|2017|p=50}}。その後、信長は浅井氏の城・[[佐和山城]]に入り、六角氏に「天下所司代」を約束して投降を呼びかけたが、六角氏は三好氏と同盟していたため応じなかった{{Sfn|久野雅司|2017|pp=50-51}}{{Sfn|奥野|1996|p=134}}。
9月12日申の刻(午後4時頃)、信長は浅井氏とともに六角氏の[[箕作城]]を攻めた([[箕作城の戦い]]){{Sfn|久野雅司|2017|p=51}}。ここで城兵の頑強な抵抗にあったが、信長は兵を入れ替えて攻撃を繰り返し、13日丑の刻(午前2時頃)に六角勢が撤退、城を攻め落とした{{Sfn|久野雅司|2017|p=51}}。この戦いは上洛戦で最大の戦いとなった{{Sfn|久野雅司|2017|p=51}}。やがて、箕作城の落城が京都に伝わると、京中の人々は戦場になることを恐れ、騒然となった{{Sfn|久野雅司|2017|p=51}}。
9月13日、信長は六角氏の居城・[[観音寺城]]を攻めたが、六角義賢・義治父子や城兵は夜陰に乗じて甲賀に逃げており、残兵も降参したことから、難なく城を攻略した([[観音寺城の戦い]]){{Sfn|久野雅司|2017|p=51}}{{Sfn|奥野|1996|p=135}}。六角氏の家臣だった国衆も投降し、江南ニ十四郡は織田勢に制圧された{{Sfn|久野雅司|2017|pp=50-51}}。信長は兵を休めるとともに、義昭に近江を平定したことを報告し、義昭もまた、織田軍に警護されて上洛を開始した{{Sfn|久野雅司|2017|p=51}}。
9月22日、義昭はかつて父・義晴が幕府を構えていた近江の[[桑実寺]]に入った{{Sfn|久野雅司|2017|p=52}}。同日、信長の先陣が勢多から渡海し、23日に山科七郷に着陣した{{Sfn|久野雅司|2017|p=52}}。
9月23日、信長が守山から[[園城寺]]極楽院に入り、大津の馬場・松本に着陣した{{Sfn|久野雅司|2017|p=53}}。義昭も信長の後から渡海し、園城寺光浄院に入った{{Sfn|久野雅司|2017|p=53}}。
9月26日、信長は山科郷粟田口や西院の方々を経て、[[東寺]]に進軍したのち、東福寺に陣を移した{{Sfn|久野雅司|2017|p=55}}。また、細川藤孝に御所を守らせた{{Sfn|奥野|1996|p=135}}。一方、義昭も東山の[[清水寺]]に入り、遂に上洛を果たした
{{Sfn|奥野|1996|p=135}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=55}}。
9月27日、三好方の五畿内と[[淡路国|淡路]]・[[阿波国|阿波]]・[[讃岐国|讃岐]]の軍勢が山崎に布陣しているという情報が流れ、信長の先陣を派遣したところ、すでに軍勢は撤退していた{{Sfn|久野雅司|2017|p=55}}。信長は河内方面に軍を進め、山崎・天神馬場に着陣した{{Sfn|久野雅司|2017|p=55}}。義昭は清水寺から東寺に移り、西岡日向の寂勝院に入った{{Sfn|久野雅司|2017|p=55}}。
9月28日、信長は三好長逸と[[細川昭元]]が籠る畿内支配の拠点・[[芥川山城]]に軍を進め、翌29日にはその麓に放火し、河内の各所も放火した{{Sfn|久野雅司|2017|pp=55-56}}。長逸と昭元は27日夜に逃亡しており、行方知らずになっていた{{Sfn|久野雅司|2017|p=56}}。義昭は天神馬場まで進んでいる{{Sfn|久野雅司|2017|p=56}}。
9月30日、義昭が芥川山城に入城し、将軍家の旗を掲げ、ここから摂津・大和・河内の敵対勢力への征討が行われた{{Sfn|久野雅司|2017|p=56}}。織田軍は大和郡山の道場と富田寺を制圧したのち、摂津[[池田城]]の[[池田勝正]]を攻めた{{Sfn|久野雅司|2017|p=56}}。勝正は抵抗しきれず、子息ら5人の人質を出して恭順し、所領を保証された{{Sfn|久野雅司|2017|p=56}}。同日、病気を患っていた14代将軍・義栄が死去し{{Efn|義栄の死去日には異説もあり、実際の死亡時期が判然としないため、義昭が将軍宣下を受けた際に義栄の死去によって将軍職が空席の状態であったのか、義昭が義栄を廃した上での将軍宣下であったのかは定かではない{{Sfn|木下|2014|p=356}}。}}、側近の[[篠原長房]]らは阿波に引き返した。
10月2日、三好長逸と池田日向守が降参し、義昭に出仕した{{Sfn|久野雅司|2017|p=57}}。また、河内では三好方の[[飯盛山城]]と[[高屋城]]が降伏し、摂津でも[[高槻城]]や[[入江城]]、[[茨木城]]が攻略されるなど、摂津と河内の制圧が進んだ{{Sfn|久野雅司|2017|p=57}}。
10月4日、松永久秀、三好義継、池田勝正らが芥川山城に「御礼」のために出仕し、久秀には大和一国の支配が認められた{{Sfn|久野雅司|2017|p=57}}。また、同日に興福寺が義昭に使者を派遣して礼を述べたのをはじめ、武家のみならず、多数の寺社が安堵を求めて芥川山城に集った{{Sfn|久野雅司|2017|p=57}}。これにより、近江・山城・摂津・河内・和泉の五畿内は義昭と信長に制圧され、さらには丹波と[[播磨国|播磨]]の国衆も赴いたことで、五畿内近国も「将軍の御手に属す」領域となった{{Sfn|久野雅司|2017|p=57}}。
10月6日、朝廷は戦勝奉賀の勅使・[[万里小路輔房]]を芥川山城に派遣し、義昭に太刀、信長には十肴十荷がそれぞれ下賜された{{Sfn|久野雅司|2017|p=58}}。義昭が芥川山城で各氏の「御礼」を受け、勅使を迎えたことは、[[三好政権]]からの政権交代を印象付けた{{Sfn|久野雅司|2017|p=58}}。
10月8日、松永久秀は義昭から細川藤孝と和田惟正、信長から[[佐久間信盛]]を大将とする軍勢2万の援軍を受け、総勢3万の軍勢で大和攻略にあたった{{Sfn|久野雅司|2017|p=61}}。久秀はこの援軍を以て、[[筒井城]]の[[筒井順慶]]や[[窪城]]の[[井戸良弘]]、[[十市氏]]、[[豊田氏]]、[[楢原氏]]、[[森屋氏]]、[[布施氏]]、[[万歳氏]]などの大和の国人衆を攻めた{{Sfn|久野雅司|2017|p=61}}。これらの国人衆は10月5日に芥川山城に赴いたが、信長は久秀との連携もあって、十市氏以外を赦さなかった{{Sfn|久野雅司|2017|p=61}}。久秀は三好長慶から大和北部の支配を認められていたが、大和一国にその支配を拡大し、義昭からも認められる形となった{{Sfn|久野雅司|2017|p=62}}。この久秀の大和平定は信長の畿内平定戦の一環として行われ、その終結とともに畿内平定戦も集結した{{Sfn|久野雅司|2017|p=62}}。
10月14日、義昭は信長による畿内平定を受けて、信長の供奉を受けて再度上洛し、[[本圀寺]]に入った{{Sfn|久野雅司|2017|p=62}}。本圀寺では、公家の[[今出川晴季|菊亭晴季]]、山科言継、[[庭田重保]]、[[葉室頼房]]、聖護院門跡の[[道澄]]など僧俗数十人が訪れた{{Sfn|久野雅司|2017|p=62}}。なお、当時の人々の間では、新興勢力である信長は義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長は御供衆の1人であるという認識があった(池田本『信長記』)<ref name="kuno-b">{{Cite journal|和書|author=久野雅司|title=足利義昭政権論|journal=歴史評論|issue=640|year=2003}}/所収:{{Harvnb|久野|2015}}</ref>。
===将軍就任と幕府再興===
[[ファイル:Yoshiaki.jpg|250px|thumb|足利義昭像([[東京大学史料編纂所]]蔵)。[[江戸時代]]に等持院像を粗描したもの]]
10月18日、義昭は朝廷から[[将軍宣下]]を受けて、室町幕府の第15代将軍に就任した{{Sfn|奥野|1996|p=140}}{{Sfn|黒板|1936|p=461}}。同時に従四位下、[[参議]]・[[左近衛中将]]にも昇叙・任官された{{Sfn|奥野|1996|p=140}}{{Sfn|黒板|1936|p=461}}。
10月24日、義昭は信長を最大の功労者として認め、「天下武勇第一」と称えるとともに、足利家の家紋である[[桐紋]]と[[引両紋|二引両]]の使用を許可した{{Sfn|久野雅司|2017|p=83,214}}{{Sfn|中西|2019|p=144}}。また、幕閣と協議した末、信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた{{Sfn|久野雅司|2017|p=83}}。義昭が信長に対して宛てた10月24日の自筆の感状では、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことは、ことに有名である{{Sfn|奥野|1996|p=140}}{{Sfn|中西|2019|p=144}}。
さらに、義昭は信長の武功に対し、[[副将軍]]か管領(または管領代)への任命、[[斯波氏]]の家督継承、その当主の官位である[[左兵衛督]]の地位、五畿内の知行など、褒賞として高い栄典を授けようとしたが、信長はそのほとんどを謝絶した{{Sfn|久野雅司|2017|pp=82-83}}{{Sfn|天野|2016|pp=91-93}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=214}}{{Sfn|山田|2019|pp=174-175}}。結局、信長は弾正忠への正式な叙任、桐紋と二引両の使用許可のみを受け取った{{Sfn|天野|2016|pp=91-93}}{{Sfn|中西|2019|p=144}}{{Sfn|久野雅司|2017|pp=83-84}}。また、信長は[[堺市|堺]]・[[草津市|草津]]・[[大津市|大津]]を自身の直轄地とすることを求めていることから、虚名より実利を選択したと考えられる{{Sfn|久野雅司|2017|p=84}}。
将軍に就任した義昭は上洛戦での論功行賞を行い、所領の宛行・守護の補任を行った{{Sfn|久野雅司|2017|p=79}}。摂津では、池田城主・[[池田勝正]]、[[伊丹城]]城主・[[伊丹親興]]に本領を安堵し、さらには和田惟政に芥川山城を与え、彼ら3人を守護に補任し、[[摂津三守護]]とした{{Sfn|中西|2019|p=144}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=79}}。河内では、高屋城城主・畠山秋高と[[若江城]]城主・三好義継を、それぞれ半国守護とした{{Sfn|久野雅司|2017|p=79}}。大和では、[[多聞山城]]城主・松永久秀に一国の支配が委ねられた{{Sfn|久野雅司|2017|p=79}}。山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどして治めた。これらの守護補任は三好氏による京都侵攻を阻止するため、軍事的に非常に大きな意味を持った{{Sfn|久野雅司|2017|p=81}}。
義昭は[[二条昭実]](二条晴良の嫡子)らに自身の[[偏諱]]を与えたほか、領地を安堵し、政権の安定を計った。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく[[摂津晴門]]を[[政所]][[執事]]に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また、義昭は伊勢氏当主も義栄に出仕した[[伊勢貞為]]を廃し、弟の[[伊勢貞興|貞興]]に代えさせて仕えさせた<ref name="kinoshita-a"/><ref name="kinoshita-b">{{Harvnb|木下|2014|loc=「京都支配から見る足利義昭期室町幕府と織田権力」}}(原論文:2010年・2012年)</ref>。また、当時の記録(『言継卿記』・『[[細川両家記]]』など)には、義昭期の奉公衆として三淵藤英・細川藤孝・和田惟政・上野秀政・曽我助乗・伊丹親興・池田勝正の名前が確認できる<ref name="kuno-b"/>。さらに、兄の義輝が持っていた山城の[[御料所]]も掌握した。
このように幕府の再興を見て、[[島津義久]]は[[喜入季久]]を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表したほか、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っている{{Sfn|奥野|1996|p=144}}。
11月、義昭は[[近衛前久]]を、兄・義輝の殺害及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で追放し{{Efn|前久は自ら京都を退去し、家督を子に譲ったとされる{{Sfn|奥野|1996|p=142}}}}{{Efn|前久は自ら京都を離れて[[大阪|大坂]]の[[石山本願寺]]に下り、子の明丸(後の[[近衛信尹]])を出仕させることで義昭の怒りをかわそうとした<ref name="t-mizuno"/>。だが、義昭の怒りは激しく、正親町天皇や信長の執り成しにもかかわらず、近衛家は闕所扱いにされ、明丸も大坂への在国を命じられて、事実上の追放処分となった<ref name="t-mizuno"/>。また、義昭のこの強硬な態度の背景には、明丸の出仕に強く反対する二条昭実の意向を受けたものであるとする説もある<ref name="r-mizuno">{{Cite journal|和書|author=水野嶺|title=國學院大學図書館所蔵「足利義昭御内書」にみる方針転換|journal=国史学|issue=222|year=2017}}/所収:{{Harvnb|水野嶺|2020}}</ref>。なお、これまで九条家・二条家と懇意であった石山本願寺は、これを機に近衛家と結ぶことになり、[[石山合戦]]の遠因となる<ref name="t-mizuno"/>。}}、12月に二条晴良を関白に復職させた{{Efn|義昭は晴良の嫡男に偏諱を与えて「昭実」と名乗らせ、その弟である[[義演]]が[[醍醐寺]][[三宝院]]に入るに先立って自らの猶子としている<ref name="r-mizuno"/>。}}。他方、近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった{{Efn|二条晴良には適齢期の娘がいなかった<ref name="kinoshita-c">{{Harvnb|木下|2014|loc=「足利義昭期の昵近公家衆と山科言継をめぐって」}}</ref>。}}。
===本國寺の変と二条御所の建設===
[[ファイル:Ashikaga5630.JPG|thumb|200px|足利義昭の御所であった旧二条城跡]]
永禄11年10月26日、信長は京都に一部の宿将とわずかな手勢を残して、美濃に帰還した{{Sfn|山田|2019|p=176}}。信長としてはこれほど早い畿内平定は予想外であり、兵糧などが欠乏していたと考えられる{{Sfn|山田|2019|p=176}}。
信長の兵が領国に帰還すると、義昭は三好三人衆の巻き返しに晒されることになった{{Sfn|山田|2019|p=176}}。三人衆は京都周辺から追われたものの、兵力は維持しており、反撃の準備を進めていた{{Sfn|山田|2019|p=176}}。そのため、信長の帰国は絶好の機会であり、四国から兵を呼び寄せ、畿内各地で蠢動した{{Sfn|山田|2019|p=176}}。
11月、義昭は三好三人衆の動きを警戒し、京都の東郊外にある将軍山城を整備し、京都の防衛を固めている{{Sfn|山田|2019|p=176}}。かつてここには、義昭の兄・義輝も籠城したことがあった{{Sfn|山田|2019|p=176}}。
12月24日、松永久秀が大和を離れ、岐阜にいる信長の下へと向かった{{Sfn|久野雅司|2017|p=103}}{{Sfn|山田|2019|p=177}}。おそらく、信長に新年の賀辞を述べようとしたのであろうが、これにより京都の防備が手薄となった{{Sfn|山田|2019|p=177}}。
永禄12年([[1569年]])1月5日、三好三人衆はこれを見逃さず、京都へと進軍し、将軍山城を焼き払った{{Sfn|山田|2019|p=177}}。そして、5日に京中に攻め入り、義昭のいた本圀寺を包囲・襲撃した([[本圀寺の変]]){{Sfn|山田|2019|p=177}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=104}}。
このとき、義昭も兄・義輝と同様の運命になるかとも思われた。だが、奉公衆および、摂津の池田勝正・和田惟政・伊丹親興、河内の三好義継らが駆けつけて奮戦したことにより、6日にこれを撃退した{{Sfn|山田|2019|p=177}}{{Sfn|奥野|1996|p=147}}。
信長はこの知らせを聞くと、すぐさま美濃を出国し、1月10日に京都へと入った{{Sfn|久野雅司|2017|p=104}}{{Sfn|山田|2019|p=178}}。また、信長に次いで、久秀も上洛し、信長の領国である尾張・美濃・伊勢のみならず、山城・近江・摂津・河内・和泉・若狭などから、総勢8万人が援軍として上洛した{{Sfn|久野雅司|2017|p=104}}。
1月7日、義昭は豊後の[[大友義鎮|大友宗麟]](義鎮)に毛利元就との講和を勧め{{Sfn|奥野|1996|p=147}}、13日には毛利氏に聖護院道澄を、[[大友氏]]に[[久我晴通]]を派遣し、互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとした{{Sfn|天野|2016|p=97}}{{Efn|ただし、義昭は御内書において、「異論があれば天下に対し不忠になる」と将軍の貫禄を見せている{{Sfn|奥野|1996|p=147}}}}。
1月14日、義昭は信長より、[[殿中御掟]]という9箇条{{Efn|2日後には7箇条を追加し、16箇条となった。}}の掟書を承認させられた。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていった。
2月2日、義昭は信長に対して、兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第、つまり[[二条御所]]の再興および増強を命じた{{Sfn|久野雅司|2017|p=116}}。
3月1日、朝廷は信長を副将軍に任じようとし、[[正親町天皇]]の勅旨が下された{{Sfn|奥野|1996|p=157}}。だが、信長はこれに返答しなかった{{Sfn|奥野|1996|p=157}}。
3月27日、義昭は自身の妹(義晴の娘)を三好義継に嫁がせた{{Sfn|久野雅司|2017|p=314}}。
4月14日、義昭の将軍邸・二条御所が完成し{{Sfn|久野雅司|2017|p=116}}、義昭は本國寺からここに移動した{{Sfn|奥野|1996|p=157}}{{Sfn|山田|2019|p=181}}。この御所は二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の[[平城]]と呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなったことから、二条城とも呼ばれる。
4月21日、信長は二条御所の完成を受けて、義昭に帰国の暇乞いをした{{Sfn|奥野|1996|p=157}}。義昭は涙して感謝し、門外まで送り出したばかりか、粟田口にその姿が消えるまで見送ったという{{Sfn|奥野|1996|p=157}}。
永禄12年(1569年)6月22日、[[従三位]][[権大納言]]に叙任{{Sfn|黒板|1936|p=462}}。
=== 信長との共闘===
[[ファイル:Oda nobunaga (Kobe City Museum).jpg|thumb|織田信長]]
8月、信長は自ら伊勢国の[[北畠氏]]を攻め、本拠地である[[大河内城]]を包囲・攻撃した([[大河内城の戦い]]){{Sfn|久野雅司|2017|p=91}}。だが、北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で、10月に講和が成立した{{Sfn|久野雅司|2017|p=91}}<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|authorlink=谷口克広|title=信長と将軍義昭|series=中公新書|publisher=中央公論新社|year=2014}}</ref>。
10月11日、信長が凱旋のために上洛したが、その後すぐ、17日に京都から美濃に帰ってしまった{{Sfn|山田|2019|p=211}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=105}}。『多聞院日記』によると、信長の帰還は「上意と競り合いて下りおわんぬ」と記されていることから{{Sfn|山田|2019|p=211}}、北畠氏の征討や講和条件を巡って、義昭と対立したと考えられている{{Sfn|久野雅司|2017|pp=90-91}}。これは朝廷でも騒動になり、正親町天皇が事態を憂慮して、女房奉書を出している{{Sfn|久野雅司|2017|p=91}}{{Sfn|奥野|1996|p=158}}。
10月26日、義昭は[[伊丹氏]]や[[池田氏]]、[[和田氏]]からなる摂津三守護の軍勢を播磨に派遣し、[[浦上氏]]や[[山名氏]]を攻撃させた{{Sfn|久野雅司|2017|p=105}}。これにより、浦上内蔵介を討ち、山名氏を没落させた{{Sfn|久野雅司|2017|pp=107-108}}。
永禄13年([[元亀]]元年、[[1570年]])1月23日、信長が殿中御掟に5箇条を追加し、義昭はこれを承認した{{Sfn|山田|2019|p=211}}。これら5箇条は前年よりもさらに厳しいものであったため、義昭は信長に強い不満を抱いた{{Sfn|山田|2019|pp=211-213}}。
同日、信長はニ十一ヶ国におよぶ大名・国司・国衆・諸侍衆に対して「触状」を発し、上洛し、義昭に「御礼」を申し上げることを求めた{{Sfn|久野雅司|2017|pp=85-86}}。
ここでは、畿内近国の大名らのみならず、東は武田信玄や徳川家康、東は越中の[[神保氏]]、西は[[備前国|備前]]の浦上氏や[[出雲国|出雲]]の[[尼子氏]]にまで通達されている{{Sfn|久野雅司|2017|p=86}}。戦国時代以前の室町幕府の将軍は、「二十一屋形」と称される在国大名によって支えられており、信長がニ十一ヶ国の大名らに上洛を求めたのは、この旧来の「ニ十一屋形」の再興を目的としていたからとされる{{Sfn|久野雅司|2017|p=86}}。
3月13日、「触状」による上洛要請により、信長や畠山高政、畠山秋高、三好義継ら守護や大名、大舘晴忠や[[大舘昭長]]以下の幕府御供衆・御部屋衆・申次・公家衆が、義昭に祇侯した{{Sfn|久野雅司|2017|p=89}}。また、公家身分で[[姉小路頼綱]]が同席していたほか、但馬の山名氏や備前の浦上氏などから進物が山のように届いていたことから、相当数の大名が要請に応じていたと考えられる{{Sfn|黒嶋|2020|p=158}}。これは、義昭が理想とした幕府体制の実現であり、信長が上洛した武士らを披露する務めを果たしたと考えられる{{Sfn|久野雅司|2017|p=89}}。
4月10日、甲斐の武田信玄が義昭の側近・一色藤長に対し、嫡子の[[武田勝頼]]へ官途と義昭からの一字拝領を求めた{{Sfn|天野|2016|p=120}}。だが、信長の妨害にあったのか、これは実現されなかった{{Sfn|天野|2016|p=120}}。
4月14日、二条御所の竣工を記念し、祝言として舞の興業が行われ{{Sfn|久野雅司|2017|p=116}}、観世・金春の能が演じられた{{Sfn|黒嶋|2020|p=159}}。義昭と信長のほか、姉小路頼綱や[[北畠具教]]、徳川家康、畠山秋高、[[一色義通]]、三好義継、松永久秀ら上洛していた諸氏と、公家衆が同席した{{Sfn|黒嶋|2020|p=159}}。
4月20日、信長は若狭の[[武藤友益]]、及び越前の朝倉義景の討伐のため、守護や奉公衆、昵近公家衆からなる幕府軍3万を率いて京都を出発し、若狭へと向かった{{Sfn|久野雅司|2017|pp=119-120}}。ただし、朝倉氏は討伐対象ではなく、若狭武田氏に抵抗する[[武藤氏]]のみが討伐対象だったとする見解もある{{Sfn|久野雅司|2017|pp=116-118}}。また、本國寺の変の失敗を教訓として、二条御所の完成後に出陣している{{Sfn|久野雅司|2017|p=116}}。
信長が京都を出陣したのち、近江を経て若狭に入ると、高浜の辺見氏や西津の内藤氏といった若狭の国衆が馳せ参じ、家老も国境まで迎えに来た{{Sfn|久野雅司|2017|p=116}}。若狭では、国衆が若狭武田氏と朝倉氏でそれぞれ分かれており、義昭の甥でもある武田元昭が朝倉義景に拉致される事件が発生するなど、支配が安定していなかった{{Sfn|久野雅司|2017|p=120}}。武田家中は義輝の代から内紛の調停を願い出ており、今回の信長の軍事行動は武田氏の家老や国衆と歩調を合わせたものであった{{Sfn|久野雅司|2017|p=120}}。
4月25日、信長は朝倉氏討伐のため、若狭から越前に赴き、敦賀郡に入った{{Sfn|久野雅司|2017|p=122}}。武藤氏が信長を挟撃するため、朝倉義景に後詰を依頼したことが主たる要因であった{{Sfn|久野雅司|2017|p=120}}。そのため、越前への侵攻は武藤氏が朝倉氏と連携を取り、信長方が挟撃されることになったことによる結果論に過ぎないという指摘もある{{Sfn|久野雅司|2017|p=122}}。
同日、信長は[[手筒山城]]を攻撃したのち、[[朝倉景恒]]の籠城する[[金ヶ崎城]]を攻撃した([[金ヶ崎の戦い]]){{Sfn|久野雅司|2017|p=122}}。だが、近江の浅井長政が離反し、さらには六角義賢が蜂起したことで、挟撃を受ける可能性が発生し、信長は撤退を余儀なくされた{{Sfn|久野雅司|2017|p=123}}{{Sfn|天野|2016|p=102}}。
4月29日、信長は越前から撤退し、近江朽木を越えて、4月30日に京都へと入った{{Sfn|久野雅司|2017|p=123}}。このとき、幕府軍の池田勝正が殿を務め、若狭では沼田弥太郎、近江では[[朽木元綱]]といった幕府奉公衆が引導している{{Sfn|久野雅司|2017|p=123}}。このように、若狭・越前攻めでは、義昭と信長は一体となっていた{{Sfn|久野雅司|2017|p=123}}。
信長が京都を離れている間、義昭の申し入れによって、4月23日に朝廷が年号を永禄から[[元亀]]に改元した{{Sfn|天野|2016|p=102}}。朝廷が義昭の畿内平定を認めたことによるものだと考えられている{{Sfn|天野|2016|p=102}}。また、永禄の年号が三好色の強い年号であり、兄の義輝がその改元に参加できなかったことも、義昭が改元を考えた大きな要因となった{{Sfn|天野|2016|p=127}}。
5月、信長は六角義賢を野洲川で破った{{Sfn|天野|2016|p=102}}。
6月14日、摂津において、信長方の池田勝正が失脚し、一族や家臣団が三好三人衆に味方した{{Sfn|天野|2016|pp=102-103}}。そして、三好三人衆が堺に渡海し、北上した{{Sfn|天野|2016|p=103}}。
6月28日、信長は徳川家康とともに近江[[浅井郡]]を流れる[[姉川]]において、浅井・朝倉連合軍と戦って勝利した([[姉川の戦い]]){{Sfn|久野雅司|2017|p=123}}。この戦いにおいて、同月18日に義昭は自らの出馬を表明したほか(戦いに出馬はしなかった)、畿内の幕臣や江南の勢力に軍事動員をかけているなど、この戦いは金ヶ崎での敗戦によって失墜した将軍権威の回復の意味合いもあった{{Sfn|久野雅司|2017|pp=123-127}}。この戦いでも義昭と信長は一体となっていた{{Sfn|久野雅司|2017|pp=123-127}}。
7月21日、三好三人衆と細川昭元が摂津で挙兵し、野田・福島に移った{{Sfn|天野|2016|p=103}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=137}}。三好三人衆方には、昭元のみならず、[[三好康長]]や[[三好盛政]]、[[斎藤龍興]]、[[雑賀孫市]]、さらには前関白・近衛前久も加わっていた{{Sfn|天野|2016|p=103}}。そのため、義昭は河内の畠山秋高に軍事動員をかけたほか、秋高を介して、紀伊や和泉、さらには信長にも出陣を要請している{{Sfn|久野雅司|2017|p=137}}。
幕府軍は義昭自らが出馬し、信長を筆頭に、秋高、三好義継、松永久秀、[[遊佐信教]]ら3万人の軍で出陣した{{Sfn|久野雅司|2017|p=137}}。義昭はまた、摂津三守護や[[茨木氏]]、[[塩川氏]]、[[摂津有馬氏|有馬氏]]ら和泉国衆の軍勢を糾合し、中島・天満森に陣取り、9月2日に細川藤孝の居城・[[中島城]]へ入った{{Sfn|久野雅司|2017|p=137}}。このとき、義昭は自ら糾合した幕府軍3万人、信長の軍3万人の、総勢6万人の軍勢を率いていた{{Sfn|久野雅司|2017|p=137}}。これにより、[[野田城]]・[[福島城]]に籠城する三好三人衆を挟撃する態勢が整った([[野田城・福島城の戦い]]){{Sfn|天野|2016|p=103}}。
9月12日、義昭と信長が三好三人衆らと対峙しているさなか、[[石山本願寺]]が離反・蜂起し、法主・[[顕如]]が諸国の門徒に檄を飛ばした{{Sfn|久野雅司|2017|pp=138-139}}。三人衆が籠城していた野田城・福島城は本願寺に近く、連絡を取り合っていたと考えられる{{Sfn|山田|2019|p=197}}。本願寺が信長に敵対したことから、義昭は顕如と義絶したが、顕如もこれに対して、加賀四郡の御料所と幕臣の知行を押領した{{Sfn|久野雅司|2017|p=139}}。
9月18日、義昭は本願寺との勅命講和を図り、朝廷から公家の[[烏丸光康]]と[[正親町実彦]]、聖護院門跡の道澄が勅使として派遣されたが、勅使は戦火のために下向できなかった{{Sfn|久野雅司|2017|pp=139-140}}。
同月、本願寺に呼応して、浅井氏・朝倉氏が挙兵した{{Sfn|久野雅司|2017|p=141}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=215}}。浅井・朝倉の連合軍は六角義賢や本願寺の近江門徒衆も取り込み、近江坂本まで出兵し、[[森長可]]と信長の弟・[[織田信治|信治]]を討った{{Sfn|久野雅司|2017|p=141}}{{Sfn|山田|2019|p=197}}。さらには、京表の青山・将軍山に軍を進め、京都の伏見や鳥羽、山科に放火した{{Sfn|久野雅司|2017|p=141}}{{Sfn|山田|2019|p=197}}。これにより、義昭と信長は三好・本願寺勢と浅井・朝倉勢に完全に包囲、挟撃される形となった{{Sfn|久野雅司|2017|p=141}}。浅井・朝倉勢の蜂起は、幕府軍が摂津に出陣し、京都の守りが手薄になっていたからといえる{{Sfn|久野雅司|2017|p=141}}。
9月23日、義昭と信長は浅井・朝倉勢の蜂起を受けて、摂津に幕府軍を残したまま、ともに京都へと戻った{{Sfn|久野雅司|2017|p=141}}。ともに帰還したのは夜間で、義昭が午後9時過ぎ、信長が午後11時過ぎであった{{Sfn|山田|2019|p=198}}。義昭が摂津に出陣している間、二条御所では三淵藤英や大舘晴忠ら奉公衆、公家の[[吉田兼見|吉田兼和]](兼見)といったわずかな人々が留守を務めているだけだった{{Sfn|久野雅司|2017|p=141}}。
翌日、信長は浅井・朝倉勢の討伐のため、近江坂本に出陣した{{Sfn|山田|2019|p=198}}{{Sfn|天野|2016|p=106}}。この時、信長の軍は1万であったが、浅井・朝倉軍は3万であった{{Sfn|山田|2019|p=198}}。浅井・朝倉軍は[[延暦寺]]の支援を受け、[[比叡山]]を拠点とし、東山に進出した{{Sfn|天野|2016|p=106}}。浅井・朝倉軍が京都東方の山々に布陣したことで、信長は山に阻まれて攻めることができなかった{{Sfn|山田|2019|p=198}}。
9月27日、阿波の[[三好長治]]や篠原長房、細川真之が尼崎に着陣した{{Sfn|天野|2016|p=106}}。阿波の軍勢は2万余で、三好三人衆の軍勢と合わせると3万であった{{Sfn|天野|2016|p=106}}。
10月1日、本願寺が三好三人衆の援軍として摂津中島に着陣し、義昭方の茨木城を調略で降伏させ、ともに京都に攻め入ることを協議した{{Sfn|久野雅司|2017|p=142}}。だが、信長も三好方に調略をかけ、三好為三や細川昭元、[[香西元成]]を寝返らせるなど、切り崩そうとしている{{Sfn|久野雅司|2017|p=142}}。信長と本願寺は、それぞれに激しい調略合戦を展開した{{Sfn|久野雅司|2017|p=142}}。
10月4日、西岡や[[宇治]]で一揆が発生すると、幕府は[[徳政令]]を出したほか、22日に奉公衆と織田方の[[豊臣秀吉|木下秀吉]]や[[菅谷長頼]]が協力して鎮圧にあたっている{{Sfn|久野雅司|2017|p=141}}{{Sfn|奥野|1996|p=177}}。
10月20日、浅井・朝倉勢が京都郊外において、修学寺や一乗寺、松ヶ崎にまで侵出し、所々に放火を行ったが、奉公衆が撃退した{{Sfn|久野雅司|2017|p=141}}{{Sfn|奥野|1996|p=177}}。三好三人衆もまた、京都へと侵攻し、22日には京都近郊にあった信長方の[[御牧城]]を落とした{{Sfn|山田|2019|p=198}}。とはいえ、細川藤孝や和田惟政に御牧城を奪還され、三好方は京都に進むことはできなかった{{Sfn|天野|2016|p=107}}。
11月、延暦寺の僧兵が朝倉軍に加勢した{{Sfn|山田|2019|p=198}}。朝倉方の兵はしばしば山を下り、信長の陣地を突破して京都近郊を攻めた{{Sfn|山田|2019|p=198}}。三好方もまた、京都を依然として窺っていた{{Sfn|山田|2019|p=198}}。だが、信長は10月末より、各勢力との講和交渉を開始した{{Sfn|久野雅司|2017|p=143}}。
11月12日、信長は松永久秀の仲介により、に三好三人衆・三好長治と交渉を開始し{{Sfn|天野|2016|p=107}}、18日に講和を成立させた{{Sfn|久野雅司|2017|p=143}}。そして、松永久秀と篠原長房との間で人質が交わされた{{Sfn|久野雅司|2017|p=143}}。
11月21日、六角義賢が志賀の信長の陣に赴き、信長は六角氏と講和した{{Sfn|天野|2016|p=107}}{{Sfn|山田|2019|p=205}}。六角氏は往時の勢いを失っており、信長の提案に応じる形となった{{Sfn|山田|2019|pp=204-205}}。
11月26日、浅井・朝倉・門徒衆からなる連合軍は巻き返しのため、近江堅田に攻め込んだ{{Sfn|山田|2019|p=204}}。信長方はこの攻撃によって敗れ、坂井政尚が討ち死にした{{Sfn|山田|2019|p=204}}。このため、信長は焦燥感を強め、敵方との和平に注力した{{Sfn|山田|2019|p=204}}。
11月28日、義昭は信長に依頼され、関白・二条晴良とともに近江坂本に下向した。反信長派の主力は朝倉氏であり、義昭はかつて朝倉氏の庇護を受けていたため、信長が仲介者として適任だと考えたからであった{{Sfn|山田|2019|p=205}}。
12月9日、正親町天皇が延暦寺に講和を命じた{{Sfn|天野|2016|p=109}}。比叡山は鎮護国家の天皇の祈祷所であったため、朝廷が関与した可能性があり、公家の二条晴良が交渉に関与したと考えられる{{Sfn|久野雅司|2017|pp=145-146}}。
12月13日、二条晴良が信長と朝倉氏との講和に関して、上野秀政を介し、義昭に仲裁を提案した{{Sfn|久野雅司|2017|pp=144-147}}。義昭はこの提案を受け入れ、晴良ともに園城寺に下向した{{Sfn|久野雅司|2017|p=144}}。また、義昭は和議が背負しない場合には、[[高野山]]に隠遁する覚悟を以て臨んだ{{Sfn|久野雅司|2017|p=144}}。
義昭は晴良を朝倉氏の陣に赴かせ、晴良を介する形で、義景に信長との講和を打診した{{Sfn|山田|2019|p=205}}。その結果、朝倉氏は講和に傾いたが、延暦寺がこれに反対したため、反信長派で議論が起きた{{Sfn|山田|2019|p=205}}。だが、朝倉氏は講和に傾いたため、浅井氏と延暦寺、本願寺もこれに追従し、信長派と朝倉氏以下反信長派との間で講和が成立した{{Sfn|奥野|1996|p=177}}{{Sfn|山田|2019|p=205}}{{Sfn|天野|2016|p=108}}。また、延暦寺に対しては朝廷から綸旨が出され、勅命講和の形がとられた{{Sfn|久野雅司|2017|p=146}}。
12月14日、それぞれが近江から撤兵して、[[志賀の陣]]が終結し、17日に信長は美濃へと戻った{{Sfn|山田|2019|p=205}}{{Sfn|奥野|1996|pp=177-178}}。信長は最大の危機を脱したが、それを持ちこたえることができたのは、義昭が味方していたことが大きかった{{Sfn|奥野|1996|p=178}}。
===畿内の混乱===
[[ファイル:Portrait_of_Matsunaga_Hisahide.jpg|サムネイル|[[松永久秀]]]]
元亀2年([[1571年]])1月、三好長治と篠原長房が帰国したが、同月のうちに長房は讃岐に軍勢を移し、毛利氏の領する備前児玉を攻撃した{{Sfn|天野|2016|p=108}}。
長房の備前侵攻は、義昭・信長と長房の前年の和睦によって引き起こされたものであった{{Sfn|天野|2016|p=110}}。
2月、義昭は[[豊後国|豊後]]の大友宗麟に対して、毛利氏との和睦を命じている{{Sfn|榎原|清水|2017|p=407}}。
4月14日、[[烏丸光宣]]に嫁いでいた義昭の姉が急死すると、後難を恐れた光宣が出奔した。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている<ref name="kinoshita-c"/>。
5月26日、安芸の[[毛利輝元]]、及び後見する毛利元就より、義昭と信長が毛利側に一言の相談もなく、畿内で長房と和睦したことを抗議された{{Sfn|天野|2016|p=109}}。長房は前年の義昭や信長との和睦を「京都御宥免」と称し、それを大義名分として、備前の[[浦上宗景]]と結び、備前児玉に侵攻していた{{Sfn|天野|2016|p=109}}。輝元と元就は長房の軍事行動を「中国錯乱」の企てと批判するとともに、九州から大友宗麟に挟撃されることを恐れ、義昭による和睦斡旋を受け入れると伝えた{{Sfn|天野|2016|pp=108-109}}。
6月11日、義昭は[[九条家]]出身の養女を筒井順慶に嫁がせ、順慶を自らの陣営に加えた{{Sfn|久野雅司|2017|p=157}}。これは5月に松永久秀が畠山秋高方の[[交野城]]を攻め、秋高の援護のために摂津の和田惟政が出陣するなど、不穏な空気が流れたからであった{{Sfn|久野雅司|2017|pp=157-158}}。また、久秀と順慶は大和国をめぐる争いを、元亀元年より前から続けていた{{Sfn|久野雅司|2017|p=158}}。
6月12日、義昭は長房の毛利氏に対する軍事行動を言語道断と批判し、輝元の叔父・[[小早川隆景]]に対し、[[香川氏]]と相談して讃岐を攻めるように指示した{{Sfn|天野|2016|p=110}}。また、信長も20日に輝元と元就に対し、長房との和睦は本意ではなかったとしたうえで、義昭が長房との和睦を仲介しても、長房は受け入れないだろうと答えた{{Sfn|天野|2016|p=110}}。
6月19日、松永久秀が三好三人衆と組み、河内の畠山秋高の居城・高屋城を攻め、義昭から離反した{{Sfn|久野雅司|2017|p=157}}。久秀の離反は、義昭が九条家出身の養女を順慶に嫁がせたことによる反発や、久秀と結んだ長房による毛利領国への侵攻により、義昭・信長と毛利氏の同盟に亀裂が入ったことで、義昭から長房の軍事行動の片棒を担いだと疑われたことにあったと考えられる{{Sfn|天野|2016|p=109}}。
同月、義昭と同盟した順慶が奈良に侵攻し、義昭もまた順慶を支援するため、奉公衆の三淵藤英と山岡景友を援軍として送った{{Sfn|久野雅司|2017|p=160}}。
7月12日、長房が久秀に呼応して、四国から摂津に渡海した{{Sfn|天野|2016|p=113}}。15日、久秀と三好義継が義昭方の和田惟政が守る高槻城を攻めたことから、義継も義昭から離反していた{{Sfn|天野|2016|p=113}}。義昭の幕府は、信長・久秀・義継に支えられていた体制から大きく変化した{{Sfn|天野|2016|p=113}}。
8月4日、久秀は松永久通や三好義継らとともに順慶の[[辰市城]]を攻め、両軍が激突した{{Sfn|久野雅司|2017|p=160}}{{Sfn|天野|2016|p=113}}。久秀はこの戦いで大敗を喫し、多くの首が二条御所の義昭のもとに送られ、御所内でさらされた{{Sfn|久野雅司|2017|p=160}}。
8月13日、義昭は長房と毛利氏の争いに関して、[[伊予国]]守護の[[河野氏]]に参戦を促した{{Sfn|天野|2016|p=110}}。これは、6月14日に元就が死去し、毛利氏が苦境に陥っていたことによる{{Sfn|天野|2016|p=110}}。この争いは西日本の各地に飛び火しており、尼子氏の残党が毛利氏の戦っている隙を突いて出雲奪還のために毛利方の城を攻めた一方、九州では大友氏を共通の敵とする肥前の[[龍造寺隆信]]が毛利氏に味方するなど、畿内の情勢と連動していた{{Sfn|天野|2016|p=110}}。
久秀は順慶に敗れたものの、三好三人衆と連携して巻き返しを図り、8月28日に義昭方の和田惟政を三人衆方の池田知正らが攻め、これを討ち取った([[白井河原の戦い]]){{Sfn|久野雅司|2017|p=160}}{{Sfn|天野|2016|p=114}}。義昭によって畿内に配置された大名のうち、摂津の和田惟政が討ち死にし、河内の三好義継と大和の松永久秀が離反したことによって、義昭は信長への依存度を高めた{{Sfn|天野|2016|p=114}}。
9月12日、信長は自ら兵を率い、比叡山延暦寺への焼き討ちを実行した([[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]){{Sfn|天野|2016|p=114}}。
10月、義昭方を離脱した久秀と義継は山城南部で攻勢を強め、長房は三好康長と連携し、河内や和泉を転戦した{{Sfn|天野|2016|p=114}}。三好三人衆もまた、河内北部を支配下に置いていた{{Sfn|天野|2016|p=115}}。
11月、[[摂津晴門]]の退任後に空席であった[[政所]][[執事]](頭人)に若年の[[伊勢貞興]]を任じる人事を信長が同意し<ref>元亀2年11月1日付織田信長書状(「本法寺文書」)</ref>、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった<ref name="kinoshita-b"/>。
12月17日、三好氏が盟主と仰いでいた細川六郎が義昭の軍門に下り、上洛して義昭に謁見し、義昭から「昭」の一字を与えられ、昭元と名乗った{{Sfn|久野雅司|2017|p=160}}。これは義昭が調略したことによるもので、義昭と信長が巻き返しを図った結果であった{{Sfn|天野|2016|p=115}}。
元亀3年([[1572年]])1月18日、義昭の面前において、上野秀政と細川藤孝が信長の比叡山焼き討ちに関して激論を交わした{{Sfn|久野雅司|2017|p=163}}。この時点で、幕臣は親信長派と反信長派に分裂していた{{Sfn|久野雅司|2017|p=163}}。
1月26日、義昭と信長は昭元に引き続き、三好三人衆の一人・[[岩成友通]]を離反させた{{Sfn|天野|2016|p=115}}。信長は義昭の下知によって、山城国内において6か所の領地を与え、
山城郡代に任じた{{Sfn|天野|2016|p=115}}。
閏1月4日、畠山秋高と遊佐信教が義昭を裏切るとの風聞が流れ、義昭は秋高と信教に「三好・松永は敵」との書状を送り、離反しないように求めている{{Sfn|久野雅司|2017|p=161}}。
4月13日、細川昭元が義昭を裏切るとの風聞が流れた{{Sfn|久野雅司|2017|p=161}}。
4月16日、久秀と義継が畠山秋高方の交野城を攻めたが、信長の派遣した[[柴田勝家]]や佐久間信盛によって退けられた{{Sfn|久野雅司|2017|p=161}}{{Sfn|天野|2016|pp=115-116}}。他方、摂津では伊丹親興や[[和田惟長]]が義継に内通する動きを見せた{{Sfn|久野雅司|2017|p=161}}。久秀と義継はまた、細川昭元を盟主とする動きを見せた{{Sfn|久野雅司|2017|p=161}}。結果として、昭元や畠山高政、畠山秋高、遊佐信教、親興や惟長は義昭を裏切らなかったが、畿内はいつ誰が義昭を裏切るかわからない不安定な情勢となった{{Sfn|久野雅司|2017|p=161}}。
5月8日、義昭は山岡景友を山城守護に補任したが、それはこのような畿内の情勢に対抗する備えであった{{Sfn|久野雅司|2017|p=161}}。義昭はまだこの時点においては、信長を裏切るつもりはなかったと考えられるが、三好方が連合を図ったことにより、義昭は畿内において孤立することになった{{Sfn|久野雅司|2017|p=162}}。
===信長との決裂===
[[ファイル:Takeda Harunobu.jpg|サムネイル|[[武田信玄]]]]
元亀3年5月13日、義昭は甲斐の武田信玄に対して、「天下静謐」のために軍事行動を起こすように命じた御内書を下した{{Sfn|天野|2016|p=120}}{{Efn|義昭と信玄の関係は公式には、元亀元年(1570年)4月に始まった。だが当時、信玄は信長と同盟関係にあり、義昭との仲の発展はなかった。義昭は信玄に対し、元亀3年(1572年)5月13日付で「軍事行動を起こして、天下が平定するよう努力せよ」との御内書を与えており、これが信玄の軍事行動の大義名分となった{{Sfn|奥野|1996|p=187}}。ただし、この御内書については、元亀4年(1573年)5月13日付のものとする鴨川達夫や柴裕之の説もある。柴は元亀3年10月が、信玄が徳川領に本格侵攻した時期であり、信玄が家康そしてその盟友である信長に対する軍事行動の正当化のために外交工作を活発化させ、義昭も武田・朝倉・浅井・三好・本願寺の連合軍を前に、義昭-信長が管轄する天下の存立(天下静謐)の存続が困難になったと判断し、信玄らの反信長連合を軸とする天下静謐への路線転換を図ったとし、信長包囲網が形成されたのはこの時であったとする。なお、鴨川・柴らの見解に沿えば、義昭は信玄の病没を知ることなく御内書を発給したことになる<ref>{{Cite journal|和書|author=柴裕之|title=戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考|journal=武田氏研究|issue=第37号|year=2007}}/柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。</ref>。}}。これにより、信玄はその眼を西に向けるようになった{{Sfn|天野|2016|p=120}}。すでに、元亀3年1月に信玄は縁戚関係にある顕如より、信長の背後を突くように依頼を受けていた{{Sfn|天野|2016|p=120}}{{Efn|信玄の妻と顕如の妻はともに公家の[[三条公頼]]の娘、つまり姉妹であり、また顕如の長男・教如と朝倉義景の娘は夫婦であった{{Sfn|天野|2016|p=120}}。}}。
9月、信長は義昭に対して、自身の意見書である[[異見十七ヶ条]]を送付した{{Sfn|天野|2016|p=118}}。この意見書は義昭の様々な点を批判しており、とくにかつて殺害された過去の将軍の名を出したこともあって、信長と義昭の対立は抜き差しならないものとなった{{Sfn|天野|2016|p=118}}。
10月3日、武田信玄が朝倉義景や浅井長政に出陣を告げ、同日に甲府より進軍を開始し、徳川氏の領国である三河・遠江に侵攻した([[西上作戦]]){{Sfn|天野|2016|p=120}}。通説では、義昭が異見十七ヶ条に反発し、信玄に内通した結果とされてきたが、近年ではこの侵攻は徳川家康を標的にしたものであり、義昭が通じたものではないとする見方もある{{Sfn|榎原|清水|2017|p=409}}。
また、同月に信長は[[妙心寺]]に寺領安堵の朱印状を発給したが、これは義昭の意思に基づいて安堵されたものであった{{Sfn|久野雅司|2017|p=152}}。この時点では、義昭は信長と表面的には対立することなく、協調して京都の支配を行っている{{Sfn|久野雅司|2017|p=152}}。
とはいえ、信長にとって、徳川家康は盟友であり、信玄が徳川領に侵攻したことは、信長に矛を向けるということに等しかった{{Sfn|山田|2019|p=219}}。これまで、信長は武田氏と上杉氏の和睦を仲裁してきたこともあって、この侵攻に激怒して武田氏と絶交し、家康に援軍を送った{{Sfn|山田|2019|p=219}}。他方、信玄は朝倉氏や浅井氏、本願寺などの反信長勢力と手を組んだ。
12月22日、信玄が[[三方ヶ原の戦い]]で織田・徳川連合軍を破り、徳川家康を敗走させると、信長は本国である尾張・美濃の防衛を迫られることになり、窮地に陥った{{Sfn|山田|2019|p=222}}。28日、信玄は義景にこの戦勝を伝えるともに、「信長滅亡の時刻到来」であるとした{{Sfn|天野|2016|pp=120-121}}。
同月、篠原長房が阿波より出陣し、京都を伺う状況になった{{Sfn|天野|2016|p=121}}。
元亀4年([[天正]]元年、[[1573年]])1月2日、松永久秀が六角義賢の家臣・三上栖雲軒に対し、三方ヶ原における信玄の勝利を伝え、近江の信長方への調略を促した{{Sfn|天野|2016|p=121}}。三好義継や松永久秀、篠原長房もまた、信長と対決しようとする信玄の優勢を見て、攻勢に出る形となった{{Sfn|天野|2016|p=121}}。
1月11日、義昭は信玄より、「凶徒」である信長と家康を追討し、「天下静謐」のための御下知を求められた{{Sfn|久野雅司|2017|p=217}}。
信玄の破竹の進撃により、幕府の内部では「信長につくか、信玄につくか」で議論が交わされ、幕臣の多くが信玄の支持に回り、それが義昭と信長との離間に繋がったとする見方がある{{Sfn|榎原|清水|2017|pp=408-409}}。また、信長が尾張と美濃の防衛に精鋭を割いて、京都が手薄になると、そこを反信長派に大挙して衝かれる可能性があったことも、義昭を離反に走らせた可能性がある{{Sfn|山田|2019|p=222}}。いずれにせよ、三方ヶ原の戦いの結果が義昭の決断につながったことは間違いないと考えられる{{Sfn|山田|2019|p=221}}。
===義昭の挙兵===
[[File:Azai-Nagamasa.jpg|thumb|right|[[浅井長政]]]]
元亀4年2月13日、義昭は遂に反信長の兵を挙げ、朝倉義景や浅井長政、武田信玄らに御内書を下した{{Sfn|山田|2019|p=222}}{{Sfn|奥野|1996|p=196}}。さらには、三好義継に挙兵の意思を伝えるとともに、安芸の毛利輝元、備前の浦上宗景にも参陣を促した{{Sfn|天野|2021|p=151}}。義昭は信長のみに依存する現在の体制から、朝倉義景や浅井長政、武田信玄、三好義継、顕如、毛利輝元、浦上宗景らによって構成される幕府へと再編しようとしたと考えられている{{Sfn|天野|2021|p=151}}。
義昭の信長からの離反を、反信長派の諸将は大いに喜んだ{{Sfn|山田|2019|p=223}}。浅井長政が直ちに「公方様から御内書を下された」と各所へ喧伝したように、将軍が味方したこと大々的に喧伝し、どちらに付くか決めかねている者達を味方にしようとした{{Sfn|山田|2019|p=223}}。
一方、信長は義昭の離反に大変驚き、挙兵は義昭の意志ではなく、側近の幕臣が勝手に企てたことだと言って、当初は信じようとしなかったという{{Sfn|山田|2019|p=223}}。信長としては、義昭はこれまで自身が支援してきた主君であり、その義昭に見限られたということは、信長派の大量離反、つまり総崩れに繋がることを危惧せざるを得なかった{{Sfn|山田|2019|pp=224-225}}。そのため、信長は義昭に使者を急派し、息子を人質とすることで講和を申し入れた{{Sfn|山田|2019|pp=223-224}}。状況は信長にとって、圧倒的に不利であった{{Sfn|天野|2016|p=121}}。
同月、義昭は朝倉義景の軍事力に期待し、上洛を命じた{{Sfn|山田|2019|p=229}}。だが、義景は一向に上洛する気配はなく、義昭は越前に使者を急派して、急ぎ上洛するように命じた{{Sfn|山田|2019|p=229}}。義昭は義景に対して、5,000から6,000の兵を京都郊外の岩倉の山本まで出兵するようにと催促したが、義景は大雪で進軍が困難だと返答するのみであった{{Sfn|奥野|1996|p=196}}。同月には信玄も遺憾の意を示し、義景に重ねて出兵するように求めている(『[[古証記]]』){{Sfn|奥野|1996|p=196}}。
同月中旬、義昭は石山や今堅田など志賀郡・高島郡、北山城の国衆らを、反信長として立ち上がらせようとした{{Sfn|谷口克広|2006|p=121}}。
信長は柴田勝家や明智光秀、[[丹羽長秀]]、[[蜂屋頼隆]]に命じ、2月26日に義昭方の[[石山城 (近江国)|石山城]]を攻め落とし、29日には[[今堅田城]]も攻め落として、京都への入り口を確保した([[石山城・今堅田城の戦い]]){{Sfn|奥野|1996|p=200}}。一方で、信長は講和の道も考え、28日に[[朝山日乗]]、村井貞勝、島田秀満の三人を使者とし、人質と誓紙を出そうとしたが、義昭は承知しなかった{{Sfn|奥野|1996|p=199}}。使者は講和が成立しない場合は、京都を焼き払うと忠告した{{Sfn|奥野|1996|p=199}}。
3月6日、義昭は三好義継と松永久秀の両名を赦免し、同盟した{{Sfn|奥野|1996|pp=200-201}}。
3月7日、義昭は勝算ありと判断して、信長からの人質を拒否し、信長と断交した{{Sfn|奥野|1996|p=201}}。義昭は畿内近国に上洛の命を下し、摂津からは[[池田重成]]や[[塩河長光]]、丹波からは[[内藤如安]]や[[宇津頼重]]がこれに応じ、京都に入った{{Sfn|谷口克広|2006|p=121}}。
3月22日、義昭は聖護院道澄に対し、朝倉氏や三好氏、本願寺のみならず、毛利氏や小早川氏にも参陣を要請していること伝えた{{Sfn|天野|2016|p=124}}。また、顕如は畠山秋高と遊佐信教が義昭に味方したと述べている{{Sfn|天野|2016|p=124}}。
3月29日、信長が義昭と対決するため、岐阜から上洛した{{Sfn|奥野|1996|p=203}}。信長を出迎えたのは、細川藤孝と[[荒木村重]]の二人で、幕臣である藤孝は義昭を見限っていた{{Sfn|奥野|1996|p=203}}。信長は三条河原で軍を整え、知恩院に布陣し、その総兵力は1万であった{{Sfn|奥野|1996|p=204}}。一方、義昭は二条御所に数千の兵とともに籠城し、動く気配を見せなかった([[二条御所の戦い]]){{Sfn|奥野|1996|p=204}}。
3月30日、義昭は先制攻撃を仕掛け、信長の京都奉行である村井貞勝の屋敷を包囲させた{{Sfn|奥野|1996|p=205}}。貞勝は辛くも脱出したが、信長はなおも講和を求め、義昭の赦免が得られるなら、息子の[[織田信忠|信忠]]とともに出家し、武器を携えずに謁見すると申し出た{{Sfn|奥野|1996|p=205}}。
4月1日、信長は吉田兼和を呼び出し、義昭の行動に関して、御所や公家衆はどう思っているか尋ねた{{Sfn|奥野|1996|p=205}}。兼和は信長に対し、致し方ないことだと思っている旨を述べた{{Sfn|奥野|1996|p=205}}。
4月2日、信長は柴田勝家らに命じ、下賀茂から嵯峨に至るまでの128ヶ所を焼き払わせた{{Sfn|奥野|1996|pp=205-206}}。このとき、信長から御所に和平交渉の使者が派遣されたが、義昭は拒絶した{{Sfn|谷口克広|2006|p=122}}。
4月3日夜から4日にかけて、信長はさらに上京の二条から北部を焼き払わせた([[上京焼き討ち]]){{Sfn|奥野|1996|p=206}}。その結果、焼け出された市民が避難し、大井川で多数溺死した{{Sfn|奥野|1996|p=206}}。さらに、信長は二条御所の周囲に4つの砦を築き、その糧道を断ち、城兵の戦意を喪失させた{{Sfn|奥野|1996|p=206}}。
信長は義昭に降伏を勧告するため、朝廷を動かし、勅命による講和を義昭に求めた{{Sfn|谷口克広|2006|p=122}}{{Sfn|山田|2019|p=234}}。義昭は進退窮まった結果、朝廷を頼り、正親町天皇の勅命講和を求めざるを得なかった{{Sfn|奥野|1996|p=206}}。両者の間を斡旋したのは、関白・二条晴良ら3人の公家であった{{Sfn|谷口克広|2006|p=122}}。
4月7日、義昭と信長は正親町天皇の勅命により、講和した{{Sfn|奥野|1996|p=207}}。翌8日、信長は義昭に謁見することなく、京都を出発し、岐阜へと帰還した{{Sfn|奥野|1996|p=207}}。一方、義昭が頼りにしていた武田信玄は病のため、4月12日に本国に引き上げる帰途で死去していた{{Sfn|奥野|1996|p=212}}。
===再挙兵と京都からの追放===
[[ファイル:Makishimaj02.jpg|250px|thumb|[[槇島城]]の石標]]
4月20日、義昭は二条御所の普請のため、吉田兼和の領地から人夫を徴収した{{Sfn|奥野|1996|p=212}}。このとき、義昭は武田信玄が死去したことを知らなかった{{Sfn|奥野|1996|p=212}}。
4月末、義昭と信長の家臣との間で起請文が交わされた。義昭が宛てた家臣の内訳は佐久間信盛・[[滝川一益]]・[[塙直政]]で、信長側の発給者は[[林秀貞]]・佐久間信盛・柴田勝家・[[稲葉一鉄]]・[[安藤守就]]・[[氏家卜全]]・滝川一益である<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|title=信長と将軍義昭―提携から追放、包囲網へ―|series=中公新書|year=2014|page=152}}</ref>。
5月、義昭は武田信玄や朝倉義景、顕如らに味方になるように御内書を下し、5月20日に顕如がこれに了承した{{Sfn|奥野|1996|p=212}}。
同月、三好長治が細川真之とともに、反信長の急先鋒であった篠原長房を攻め、7月に討ち取った([[上桜城の戦い]]){{Sfn|天野|2016|p=124}}。これは、長房が畿内と備前に出兵を繰り返して、阿波三好氏を疲弊させていったという状況や、長治が義昭を破った信長の手腕を評価し、反信長の態度を翻した結果とする見方もある{{Sfn|天野|2016|pp=124-125}}。他方、信長は同盟関係にある毛利氏から疑われぬよう、長治を許容しなかった{{Sfn|天野|2016|pp=131-132}}。
6月13日、義昭は安芸の毛利輝元に対し、兵粮料を要求した{{Sfn|奥野|1996|p=213}}。だが、輝元は信長との関係から支援しなかった{{Sfn|奥野|1996|p=213}}{{Sfn|光成準治|2016|p=111}}。
6月25日、河内の畠山秋高が家臣の遊佐信教によって殺害された{{Sfn|天野|2016|p=126}}。
これは、秋高が信長方についたものの、信教ら河内の国衆の大半は義昭を支持していたため、その対立の末に発生した出来事であった。
7月2日、義昭は二条御所を奉公衆の三淵藤英のほか、政所執事の[[伊勢貞興]]、昵近公家衆の[[日野輝資]]・[[高倉永相]]などに預けた上で、宇治の[[槇島城]]に移った{{Sfn|天野|2016|p=126}}。槇島城は[[淀川|宇治川]]・[[巨椋池]]水系の島地に築かれた南山城の要害であり、義昭の近臣・[[真木島昭光]]の居城でもあった{{Sfn|山田|2019|p=238}}。そして、3日に義昭は信長との講和を破棄し、この槇島城で挙兵した{{Sfn|奥野|1996|p=213}}{{Sfn|天野|2016|p=126}}{{Sfn|山田|2019|pp=237-238}}。
7月7日、信長が上洛すると、日野輝資や高倉永相らは二条御所を出て降伏し、12日に最後まで籠っていた三淵藤英も降伏した{{Sfn|奥野|1996|p=216}}{{Sfn|谷口克広|2006|pp=123-124}}。その後、信長は御所の殿舎を破却したばかりか、諸人によって御所内が略奪されるのを禁じなかった{{Sfn|山田|2019|p=241}}。
7月18日、信長が軍勢とともに槇島城を包囲・攻撃し、槇島一帯も焼き払った{{Sfn|奥野|1996|p=216}}{{Sfn|山田|2019|p=242}}。義昭はこれに恐怖し、信長に講和を申し入れ、その条件として2歳の息子・[[足利義尋|義尋]]を人質に出して降伏した{{Sfn|奥野|1996|p=216}}。
7月19日、義昭は槇島城を退去して、枇杷庄に下り、20日に河内の津田に入った{{Sfn|奥野|1996|p=216}}{{Sfn|山田|2019|p=242}}。枇杷庄に下る途中、一揆に御物など奪い取られたという{{Sfn|天野|2016|p=126}}{{Sfn|奥野|1996|p=216}}。
この[[槇島城の戦い]]により、室町幕府は事実上(実質的に)滅亡した、と解釈されている{{Sfn|久野雅司|2017|p=176}}{{Sfn|柴|2020|p=131}}。義昭が京都を追放されたことにより、朝廷を庇護する[[天下人]]の役割を果たせなくなったからである{{Sfn|柴|2020|p=131}}。それまで、信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、その追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けた<ref>戦国期の「天下」観については[[神田千里]]「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002)</ref>。また、信長は毛利輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している{{Sfn|光成準治|2016|p=111}}{{Sfn|柴|2020|p=135}}。
ただし、義昭自身は朝廷から征夷大将軍を解任されてはおらず、なおもその地位にあり、従三位・権大納言の位階・官職も保ったままであった{{Sfn|柴|2020|p=131}}。
===流浪の旅===
[[File:Kennyo02.JPG|thumb|right|[[顕如]]]]
7月21日、義昭は本願寺から派遣された兵に警固され、三好義継の居城・若江城に入った{{Sfn|山田|2019|p=242}}。同日、信長は槇島城を細川昭元に委ね、京都へと戻っている{{Sfn|奥野|1996|p=218}}。
義昭は在城中、7月24日付の御内書で毛利輝元と2人の叔父・[[吉川元春]]と小早川隆景に援助を求めている{{Sfn|奥野|1996|p=220}}。これが義昭の再起を宣言した第一号であった{{Sfn|奥野|1996|p=220}}。
7月28日、朝廷が信長の要請に応じ、元亀から[[天正]]に改元を行った{{Sfn|天野|2016|p=126}}。信長のこの行為は義昭の権威の否定、反信長勢力の士気を挫く目的があったと考えられる{{Sfn|天野|2016|p=126}}。
8月1日、義昭は輝元や隆景に対して、顕如や三好義継、遊佐信教、根来寺が支援してくれているが、息子の義尋を信長に奪われたことが口惜しいと述べ、自身への支援を訴えるとともに{{Sfn|天野|2016|p=128}}、3日にも[[柳沢元政]]を下向させると告げた{{Sfn|奥野|1996|p=221}}。毛利氏は義昭のもとに使者を送って慰問したので、8月13日に謝意を示している{{Sfn|奥野|1996|p=221}}。義昭が毛利氏を頼りにしたのは、兄の義輝も頼りにしていたからだと推測される{{Sfn|奥野|1996|p=221}}。
8月、信長は[[越前国|越前]]に出陣して、朝倉義景を自害させた([[一乗谷城の戦い]]){{Sfn|池上|2012|p=96}}。その直後、[[北近江]]へ向かい、9月に浅井長政も自害させた([[小谷城の戦い]]){{Sfn|池上|2012|p=97}}。
8月20日、義昭は顕如に対し、三好義継及び三好康長と畠山氏との間で講和を図らせている{{Sfn|奥野|1996|p=221}}。
10月8日、義昭は上杉謙信に対し、自身が槇島城から退城したことを知らせるとともに、援助を求めた{{Sfn|奥野|1996|p=221}}。また、同月に顕如に対しても、忠義を尽くすように求めた{{Sfn|奥野|1996|p=221}}。
義昭の援助の依頼を受けた輝元ら毛利氏は、なんらかの行動に出なければならなくなった{{Sfn|奥野|1996|p=221}}。織田氏と毛利氏は同盟関係にあったが、義昭が京都を追放されると、その関係は揺れ動いた。だが、義昭のために信長と敵対して上洛するより、輝元は信長の力を利用し、領国を守る道が最適と考えた{{Sfn|光成準治|2016|p=112}}。そのため、9月7日付の義昭の御内書では、毛利氏が信長と懇意にしていることや、かつて毛利氏が将軍家を疎かにしないと提出した起請文が反故にされていることが批判されている{{Sfn|光成準治|2016|pp=111-112}}。
他方、輝元が羽柴秀吉に宛てた9月7日付の書状では、信長と義昭が和解し、義昭が京都に帰還できるよう仲介を試みている{{Sfn|光成準治|2016|p=112}}。輝元としては、義昭が中国地方に下向すれば、信長と全面戦争になる可能性があり、それを避ける必要があった{{Sfn|光成準治|2016|p=118}}。信長もまた、義昭の追放で畿内が動揺している今、輝元が義昭を奉じて織田氏との全面戦争に踏み切ることは避けたかったと考えられる{{Sfn|光成準治|2016|p=118}}。
そのため、信長と輝元の両者との間では全面戦争を避けるべく交渉がなされ、それは義昭を帰洛させようとする流れに繋がった{{Sfn|奥野|1996|p=222}}。織田方は羽柴秀吉と朝山日乗、毛利方は安国寺恵瓊がそれぞれ交渉の代表となった{{Sfn|奥野|1996|p=222}}。秀吉は9月7日付の書状で、信長の同意も得ているので、義昭の近臣・上野秀政と真木島昭光を上洛させるように伝えている{{Sfn|奥野|1996|p=223}}。他方、輝元も9月晦日付の自筆書状で、交渉に臨む基本的な態度を一族の[[穂井田元清]]に伝えている{{Sfn|奥野|1996|pp=223-224}}。
10月28日、毛利氏は義昭の近臣・一色藤長に信長の意向を伝え、その同意を求めた{{Sfn|奥野|1996|p=224}}。これを受けて、11月5日に義昭は若江城から和泉の堺へ入った{{Sfn|奥野|1996|p=224}}。
義昭が和泉の堺に落ち着くと、信長からは羽柴秀吉と朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊と[[林就長]]が派遣され、双方の使者はともに義昭と面会し、信長と和解したうえでの帰京を説得した{{Sfn|奥野|1996|p=224}}{{Sfn|桑田忠親|1989|p=18}}。信長自身も義昭の帰京を認めていたが、義昭は信長からの人質を求め、それを撤回しなかった{{Sfn|光成準治|2016|p=118}}{{Sfn|奥野|1996|p=224}}<ref>{{Cite book|和書|author=谷口克広|title=信長と消えた家臣たち|series=中公新書|publisher=中央公論新社|year=2007|isbn=4-12-101907-5}}</ref>。
このとき、秀吉は「入洛のことはもはや問題にならないので、どこにでも行ったらよかろう」と言い捨て、翌日に大阪へ退去した{{Sfn|奥野|1996|p=224}}。安国寺恵瓊と朝山日乗は秀吉の意を受けて、なお一日留まって無条件での帰洛を説得したが、義昭は受け入れず、交渉は決裂した{{Sfn|奥野|1996|p=224}}。恵瓊は輝元の命令を重んじ、義昭に西国に下向されると迷惑である旨を告げた{{Sfn|奥野|1996|p=224}}。
11月9日、義昭は主従20人程とともに堺を出て、畠山氏の勢力下である紀伊に海路で下り、[[有田川|在田川]]南岸の宮崎の浦に着いたのち、[[由良町|由良]]の[[興国寺 (和歌山県由良町)|興国寺]]に滞在した{{Sfn|奥野|1996|p=224}}{{Sfn|山田|2019|p=257}}。義昭は側近の一色藤長に対し、槙島城の籠城から由良まで供奉したことを、11月29日付の書状で褒め称えている{{Sfn|奥野|1996|p=225-226}}。信長も紀伊への下向を把握しており、出羽の[[伊達輝宗]]に京都の近況を報告した際、「義昭が紀州の熊野あたりを流浪している」と記している{{Sfn|奥野|1996|p=226}}。
11月16日、信長は明智光秀や細川藤孝に若江城を攻めさせ、三好義継を自害させた{{Sfn|奥野|1996|p=226}}。義昭を匿った責任を追及してのことであり、義昭が若江城から堺に移るのを待ったうえで、攻撃が実行に移された{{Sfn|奥野|1996|p=226}}。また、義継の死により、久秀は信長に降伏を申し入れた{{Sfn|天野|2016|p=130}}。
12月11日、義昭は[[湯川直春]]に対し、自身に協力するように命じた{{Sfn|奥野|1996|p=231}}。畠山氏の重臣・[[湯川氏]]の勢力は強大であり、直春の父・[[湯川直光]]は紀伊出身でありながら河内守護代を務めたこともある実力者であった{{Sfn|奥野|1996|p=231}}。
12月12日、義昭は上杉謙信に対し、武田勝頼や北条氏政、及び加賀一向一揆と講和し、
上洛するように命じた{{Sfn|奥野|1996|p=234}}。
天正2年([[1574年]])1月16日、義昭は六角義賢に対し、紀伊に移ったことを報告し、協力するように命じた{{Sfn|奥野|1996|p=234}}。
2月6日、義昭は[[熊野本宮]]の神主に対し、帰洛に尽力するように命じた{{Sfn|奥野|1996|p=231}}。
3月20日、義昭は信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に対し、互いに講和をするよう呼びかけた([[甲相越三和]])。また、勝頼が織田領国の東美濃を押さえたことを受けて、義昭は徳川家康に対し、勝頼と和睦するように命じた{{Sfn|天野|2016|pp=134-135}}。
4月14日、義昭の側近・一色藤長は、薩摩島津氏の重臣である[[伊集院忠棟]]と[[平田政宗]]に対し、顕如や三好康長、三好長治が義昭に忠節を示していると伝え、参陣を促している{{Sfn|天野|2016|p=135}}。
8月10日、三好長治の弟・[[十河存保]]は武田勝頼の一族・[[穴山信君]]に対し、6月の[[高天神城]]攻略の祝意を述べ、尾張・美濃へのさらなる侵攻を促すとともに、自身は義昭や顕如と連携して側面攻撃を行うと伝えた{{Sfn|天野|2016|p=135}}。
天正3年([[1575年]])3月、武田勝頼は信長が大軍で畿内に出陣しているのを見て、三河侵攻を計画し、4月に甲府を出陣した{{Sfn|天野|2016|p=139}}。
4月14日、義昭は[[薩摩国]]の島津義久に対し、武田勝頼の進出と大阪方面での戦況を伝えるとともに、帰洛に関して協力を命じた{{Sfn|奥野|1996|p=231}}。
5月21日、武田勝頼は設楽原において、織田・徳川連合軍に大敗し、多くの重臣を失った([[長篠の戦い]]){{Sfn|天野|2016|p=139}}。この勝頼の敗北は、義昭とその味方にとっては深刻な打撃であった{{Sfn|奥野|1996|p=236}}。
信長は、11月4日に権大納言、同7日には[[右近衛大将]]に任じられ{{Sfn|黒板|1936|p=472}}(前年の天正2年(1574年)3月18日、従三位参議{{Sfn|黒板|1936|pp=470-471}})、従三位・権大納言・左近衛中将の義昭よりも上位の存在となった{{Sfn|奥野|1996|p=142}}{{Sfn|山田|2019|p=255}}。権大納言・右近衛大将の官位は、過去200年間、足利将軍本人やその後継者などにしか与えられてこなかったが、信長に与えられたということはほかの大名とは別格であるということ、織田氏が将軍家に比肩する存在であるということを世に示した{{Sfn|山田|2019|pp=255-256}}。また、義昭の父・義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際、権大納言と右近衛大将を兼ねて「[[大御所]]」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長がこの先例に倣おうとしたとする見方がある。
=== 備後国への下向 ===
[[File:Terumoto_Mouri.jpg|thumb|200px|[[毛利輝元]]]]
天正4年([[1576年]])2月、義昭は紀伊由良の興国寺を出て、西国の毛利輝元を頼り、その勢力下であった[[備後国]]の[[鞆町|鞆]]に動座した{{Sfn|奥野|1996|p=241}}{{Sfn|山田|2019|p=263}}。このとき、義昭に随行したのは、[[細川輝経]]、上野秀政、[[畠山昭賢]]、真木島昭光、[[曽我晴助]]、[[小林家孝]]、柳沢元政、武田信景らであった{{Sfn|久野雅司|2017|p=186}}。
義昭が鞆を選んだ理由としては、この地はかつて[[足利尊氏]]が[[光厳天皇|光厳上皇]]より[[新田義貞]]追討の[[院宣]]を受けたという、足利将軍家にとっての由緒がある場所であったからである{{Sfn|天野|2016|p=143}}。また、第10代将軍・足利義稙が[[大内氏]]の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある吉兆の地でもあった{{Sfn|山田|2019|p=262}}。
義昭は2月8日付の御内書で吉川元春に命じ、輝元に幕府の復興を依頼した{{Sfn|奥野|1996|p=241}}。また、信長の輝元に対する「逆心」は明確であると述べ、そのために動座したとも伝えた{{Sfn|山田|2019|p=263}}{{Sfn|光成準治|2016|p=126}}。
だが、鞆への動座は毛利氏に何一つ連絡なく行われたものであり、義昭はあえて伝えず、近臣らにも緘口令を敷いていた{{Sfn|山田|2019|p=263}}。信長との同盟関係上、毛利氏にとって義昭の動座は避けなければならない事態であり、輝元はその対応に苦慮した{{Sfn|光成準治|2016|p=126}}{{Sfn|奥野|1996|p=243}}。
毛利氏は織田氏と同盟関係にあったものの、この頃になると信長が西方に進出してきたため、不穏な空気が漂っていた{{Sfn|山田|2019|p=264}}。また、信長が毛利氏と敵対していた浦上宗景を支援し、一方で宗景と対立する宇喜多直家が毛利氏を頼るなど、毛利氏と織田氏の対立にも発展しかねない状況ができていた{{Sfn|山田|2019|p=264}}。さらに、天正3年以降、信長は毛利氏への包囲網を構築するため、近衛前久を九州に下向させ、大友氏・[[伊東氏]]・[[相良氏]]・島津氏の和議を図ろうとしていた{{Sfn|池上|2002|p=152}}。
5月7日、輝元ら毛利氏は反信長として立ち上がり、13日に領国の諸将に義昭の命令を受けることを通達し、西国・東国の大名らにも支援を求めた{{Sfn|奥野|1996|p=247}}。3ヶ月の間、毛利氏が検討して出した結論であった{{Sfn|山田|2019|p=265}}。これにより、毛利氏と織田氏との同盟は破綻した{{Sfn|光成準治|2016|p=128}}。
輝元ら毛利氏に庇護されていたこの時期の室町幕府は、一部の学者が私説として「[[鞆幕府]]」と呼んでいるが、大方の認知を得たものではない{{Sfn|久野雅司|2017|p=187}}。義昭の鞆時代の陪臣は、かつての奉公衆など幕臣や織田氏と敵対して追われた大名の子弟ら100名前後に過ぎず、13代義輝の朽木時代や14代義栄の堺時代に比較して遙かに人数が少なく、実権もこれらとはほど遠いものである{{Sfn|久野雅司|2017|p=187}}。{{独自研究範囲|これらが「朽木幕府」「堺幕府」と呼ばれない以上「鞆幕府」と呼ぶことには無理があると言える|date=2023年11月}}。
義昭はまた、輝元を将軍に次ぐ地位たる[[副将軍]]に任じた{{Sfn|久野雅司|2017|p=185}}{{Efn|[[天正]]10年([[1582年]])2月に[[吉川経安]]が子孫に書き残した置文「石見吉川家文書」では、「義昭将軍、織田上総介信長を御退治のために、備後鞆の浦に御動座され、毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り、井び(ならび)に小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春父子、その権威をとって都鄙鉾楯(とひむじゅん)にをよふ(及ぶ)」と記されている。}}。また、輝元は副将軍として義昭を庇護することにより、毛利軍を公儀の軍隊の中核として位置づけ、西国の諸大名の上位に君臨する正統性を確保した{{Sfn|久野雅司|2017|p=185}}。
===諸勢力との共闘===
[[File:Uesugi Kenshin Portrait from Uesugi Shrine.png|thumb|right|[[上杉謙信]]]]
義昭は鞆に御所を構え、この地から京都への帰還や信長追討を目指し、全国の大名に御内書を下した<ref>{{Cite web|和書|date= 2018.6.22 |url= https://www.sankei.com/article/20180622-DB4CIJ7NYNNGBGFZZKG4RIJOGY/|title= 室町最後の将軍・足利義昭、備後・鞆から手紙 帰京の助力求める|publisher= 産経新聞社|accessdate=2018-06-22}}</ref>。 [[畿内]][[近国]]以外では、足利将軍家を支持する[[武家]]もまだまだ多かった。
3月21日、義昭は上杉謙信に対し、北条氏政や武田勝頼と和睦し、上洛に協力するように伝えた{{Sfn|天野|2016|p=143}}。この頃、謙信は信長との対立姿勢を強めており、前年10月には勝頼と和睦し、12月には信長を脅威に感じた能登畠山氏より救援を求められていた{{Sfn|天野|2016|pp=143-144}}。
5月16日、義昭は[[醍醐寺]][[三宝院]]門跡の[[義堯]]に命じて、上杉謙信に武田氏・北条氏と講和し、幕府を再興するようにすすめさせた{{Sfn|奥野|1996|p=247}}。これにより、謙信は同月、長らく対立してきた本願寺と講和した{{Sfn|天野|2016|p=144}}{{Sfn|奥野|1996|p=247}}。また、同月に謙信は輝元から上洛を求められると、秋には上洛する予定だと伝えた{{Sfn|天野|2016|p=144}}。
6月11日、義昭は武田勝頼と上杉謙信に対して、互いに講和を命じた御内書を再度下し、毛利輝元と協力して協力したうえで信長を討つように命じた{{Sfn|奥野|1996|p=248}}。
7月13日、[[毛利水軍]]が織田水軍を[[大阪湾]][[木津川 (大阪府)|木津川]]河口(現在の[[大阪市]][[大正区]]に位置する[[木津川運河]]界隈)で破り、本願寺に兵糧や武器など物資を運び入れることに成功した([[第一次木津川口の戦い]]){{Sfn|光成準治|2016|p=128}}。
毛利氏はこの勝利によって、京都への進撃を決意し、その準備を進めた{{Sfn|奥野|1996|p=251}}。
9月13日、義昭の求めに応じて、武田勝頼が上杉氏や北条氏との講和を承知し、16日に毛利輝元と同盟を結んだ{{Sfn|奥野|1996|p=250}}。
9月以降、信長は将軍御所であった二条御所を完全に破却し、石垣は諸人に略奪させ、堀も京都の人々に埋めさせたほか、門や建物も安土に移築した{{Sfn|山田|2019|p=286}}。おそらく、信長は義昭と和解したのち、義昭を再びここに迎え入れようとし、そのために殿舎以外は破壊せずにいたものの、それがもはや不可能になったと判断したため、完全な破却を行ったと考えられる{{Sfn|山田|2019|p=286}}。
10月10日、義昭は輝元らに対して、西国の武士を集めて義兵を挙げるように命じた{{Sfn|奥野|1996|p=250}}。
11月24日、義昭は輝元に対し、足利将軍家の家紋たる桐紋を与えている{{Sfn|奥野|1996|pp=250-251}}。
12月27日、三好長治が信長の支援を受けた細川真之に敗れ、自害した{{Sfn|天野|2016|p=146}}。輝元はこれに危機感を覚え、小早川隆景を通し、淡路の水軍を味方につけようとした{{Sfn|天野|2016|p=146}}。
天正5年([[1577年]])1月、義昭は吉川元春に対し、翌月に陸海から京都へ進撃する相談をするように命じた{{Sfn|奥野|1996|p=253}}。同月には、[[安宅神五郎]]や[[菅元重]]、[[船越景直]]など主な淡路水軍が毛利氏についた{{Sfn|天野|2016|p=146}}。
2月27日、阿波三好郡の国人・[[大西覚用]]と[[大西高森]]が元春や隆景に対し、義昭の上洛に味方すると回答した{{Sfn|天野|2016|p=147}}。
同月、信長が長治の死により、阿波からの援軍を得ることができなくなった雑賀を攻めた{{Sfn|天野|2016|p=148}}。義昭と輝元は上杉謙信に対し、その隙をつく形での上洛を求めたが、謙信はすでに能登から関東に転戦していた{{Sfn|天野|2016|p=148}}。
閏7月27日、讃岐における毛利氏の拠点・[[元吉城]]に対し、[[長尾氏]]や[[羽床氏]]、[[香西氏]]、[[安富氏]]、三好安芸守からなる「讃岐惣国衆」が攻め寄せたが、毛利方によって撃退された{{Sfn|天野|2016|p=147}}。
同月、謙信が能登に再び進軍し、信長は柴田勝家や羽柴秀吉らを加賀に派遣した{{Sfn|天野|2016|p=148}}。だが、北陸に多くの諸将が派遣されたことで、松永久秀が離反を企てた{{Sfn|天野|2016|p=149}}。
8月1日、義昭は毛利氏と讃岐諸勢力との争いに関して、香川氏を讃岐に復帰させることや、輝元や元春、隆景に勝手に三好方と和睦しないように指示した{{Sfn|天野|2016|p=147}}。
8月17日、松永久秀・久通父子は、本願寺を攻めるために定番していた天王寺を突如引き払い、信貴山城に籠城した([[信貴山城の戦い]]){{Sfn|天野|2016|p=149}}。久秀の離反は、義昭や本願寺から調略を受けた結果であると考えられる{{Sfn|天野|2016|p=149}}。
9月23日、義昭は側近の真木島昭光と小林家孝を和睦交渉のために阿波に派遣し{{Sfn|天野|2016|p=147}}、11月に阿波三好方の長尾氏と羽床氏から人質を取ることで和睦した{{Sfn|天野|2016|p=147}}。讃岐での戦闘は、義昭にとっては上洛戦争の一環であり、毛利水軍も備前と讃岐の海峡で航路の安全を確保した{{Sfn|天野|2016|p=147}}。
10月10日、久秀父子が織田勢の攻撃により自害し、信貴山城を自ら焼き払った{{Sfn|天野|2016|p=150}}。だが、義昭はその後もあきらめず、各地の諸将へ積極的に調略活動を行った{{Sfn|天野|2016|p=150}}。
同月、信長は羽柴秀吉に中国地方攻略を命じ、秀吉が[[姫路城]]を拠点に活動を始めた。そして、11月に播磨の[[上月城]]を攻め落とし、尼子勝久を入れた{{Sfn|奥野|1996|p=256}}。
天正6年([[1578年]])1月、毛利氏が上月城奪還のため、[[粟屋元種]]を摂津に送ると、同月11日に義昭は高野山の[[金剛峯寺]]に出兵を要請した{{Sfn|奥野|1996|p=256}}。
2月、[[別所長治]]が[[三木城]]で挙兵し、信長から離反した([[三木合戦]]){{Sfn|天野|2016|p=151}}。義昭は3月19日付の御内書において元春に対し、義昭自らの調略によって長治を味方に引き入れたと宣伝した{{Sfn|天野|2016|p=151}}。
3月、上杉謙信が死去し、信長包囲網は大きな打撃を受けた{{Sfn|奥野|1996|p=258}}。
その後、家督をめぐり、養子の[[上杉景勝]]と[[上杉景虎]]による[[御館の乱]]が勃発し、景勝が勝利したが、この乱によって上杉氏は対外出兵する力を失った{{Sfn|天野|2016|p=153}}。
5月24日、義昭は[[上月城の戦い]]のさなか、真木島昭光を上月城包囲の毛利氏の陣に派遣し、その将兵をねぎらうとともに、小林家孝を駐留・督戦させた{{Sfn|奥野|1996|p=258}}。
7月3日、上月城が毛利氏の攻撃によって陥落し、[[尼子氏]]が滅亡すると、義昭は元春や隆景といった毛利氏諸将の戦功を褒めた{{Sfn|奥野|1996|p=258}}。
8月、義昭は吉川元春の依頼を受け、島津氏に使者を派遣し、大友氏を牽制させるとともに、毛利氏が京都に進撃するときは援軍を差し出すことを要請した{{Sfn|奥野|1996|p=259}}。
10月、荒木村重が[[有岡城]]で挙兵し、信長に反旗を翻した([[有岡城の戦い]]){{Sfn|奥野|1996|p=261}}。村重の離反もまた、義昭の調略によるものであった{{Sfn|天野|2016|p=151}}。なお、義昭は輝元と協力して村重の調略を行っており{{Sfn|光成|2016|p=135}}、義昭は小林家孝を毛利氏の属将とともに有岡城に入城させ、村重に毛利氏へ帰順するよう説得したことが知られている{{Sfn|山田|2019|p=284}}。
同月、信長は明智光秀を介し、土佐の[[長宗我部元親]]の嫡子・弥三郎に偏諱を与え、[[長宗我部信親|信親]]と名乗らせた{{Sfn|天野|2016|p=152}}。これは、義昭や輝元、本願寺の支援を受けた十河存保が阿波において、反信長の立場で活動しており、信長と元親が共通の敵に対抗するために結び付いたものであった{{Sfn|天野|2016|pp=152-153}}。
11月6日、毛利水軍は本願寺に物資を運び入れるため、石山に再び来援したが、[[九鬼嘉隆]]の[[鉄甲船]]を用いた織田水軍に敗北を喫した([[第二次木津川口の戦い]]){{Sfn|谷口克広|2006|p=195}}。以後、毛利氏は淡路島以西の制海権は保持したままであったが、大阪湾は織田水軍に封鎖された{{Sfn|谷口克広|2006|p=196}}。
11月19日、荒木村重が織田軍に攻撃されると、24日に義昭は吉川元春に対し、輝元に出兵するように勧めさせた{{Sfn|奥野|1996|p=261}}。
12月、輝元は出陣を決意し、毛利氏有利のこの好機に乗じて上洛しようとした{{Sfn|光成準治|2016|p=136}}。そして、輝元出陣の日は翌年1月16日と定められ、諸将に下令された{{Sfn|光成準治|2016|p=137}}{{Sfn|奥野|1996|p=262}}。輝元はそれに伴い、武田勝頼に徳川家康を攻撃し、織田氏の兵力を引き付けるよう要請している{{Sfn|奥野|1996|p=262}}。
天正7年([[1579年]])1月、毛利氏の重臣・[[杉重良]]が大友氏の調略で謀反を起こし、毛利氏の背後である筑前や豊後に暗雲が垂れ込めた{{Sfn|奥野|1996|p=262}}。このため、1月16日の輝元自らによる出兵は無期限での延期となった{{Sfn|奥野|1996|p=262}}。
6月、備前の宇喜多直家が毛利氏に対して反旗を翻したばかりか、9月には伯耆の[[南条元続]]も同様に反旗を翻した{{Sfn|奥野|1996|p=263}}。これらの裏切りは、輝元の上洛断念によるものであるのみならず、信長が調略の手を伸ばした結果でもあった{{Sfn|光成準治|2016|p=139}}。そのため、輝元は荒木村重や別所長治、本願寺への支援よりも、自領の防戦を優先するようになった{{Sfn|天野|2016|p=154}}。
11月27日、信長は豊後の[[大友義統]]に対し、毛利氏の領国である[[周防国|周防]]と[[長門国|長門]]を与える約束をした{{Sfn|天野|2016|p=162}}。信長は諸勢力を懐柔し、義昭や輝元らに対する包囲網を構想していた{{Sfn|天野|2016|p=162}}。
天正8年([[1580年]])1月17日、三木城の別所長治が自害し、播磨での信長への抵抗は収束に向かった{{Sfn|奥野|1996|p=264}}。
閏3月5日、顕如が信長との勅命講和に応じて、大坂退去を約し、[[石山合戦]]が終結した{{Sfn|奥野|1996|p=264}}。本願寺の降伏は、輝元や武田勝頼の苦戦、上杉氏の没落、有岡城や三木城における虐殺などによって、厭戦気分が高まったことにあった{{Sfn|天野|2016|p=155}}。これにより、信長は秀吉を中心とした中国地方攻略を本格化させた{{Sfn|天野|2016|p=160}}。
6月、秀吉が因幡に侵攻し、毛利方の[[吉川経家]]が籠城する[[鳥取城]]を攻めた([[鳥取城の戦い]]){{Sfn|奥野|1996|p=265}}。
天正9年([[1581年]])10月、鳥取城が秀吉に降伏し、吉川経家が自害した{{Sfn|奥野|1996|p=265}}。義昭は情勢の悪化を見て、信長の出陣に備えるよう、吉川広家に命じた{{Sfn|奥野|1996|p=265}}。
天正10年([[1582年]])3月、武田勝頼が信長や徳川家康らに攻められ、自害に追いやられた([[甲州征伐]]){{Efn|直接兵を率いたのは、信長の息子・[[織田信忠]]である。}}。
4月、秀吉が備中に侵攻し、同月に毛利氏の配下・[[清水宗治]]が籠もる[[備中高松城]]を攻撃し、5月には水攻めを行った([[備中高松城の戦い]]){{Sfn|奥野|1996|p=267}}{{Sfn|光成準治|2016|p=158}}。他方、輝元は水攻めの急報を受けて、元春・隆景らと共に総勢5万の軍勢を率い、高松城の救援に向かい、秀吉と対峙した{{Sfn|小和田哲男|1991|p=42}}{{Sfn|谷口克広|2006|p=248}}。
5月7日、信長は[[四国国分]]案を出し、讃岐を三男の[[織田信孝|信孝]]に、阿波を三好康長に与え、土佐と伊予は自身が淡路に赴いた際に決めるとした{{Sfn|天野|2016|p=168}}。この国分案には、元親や十河存保、毛利方で伊予北部を支配する[[河野通直 (伊予守) |河野通直]]は入っておらず、信長は元親の阿波や讃岐における権益を認めていなかった{{Sfn|天野|2016|p=169}}。そして、信孝に[[四国攻め]]の出兵準備をさせた{{Sfn|天野|2016|p=170}}。
5月17日、信長は秀吉の使者より、毛利氏が出陣してきたことを知らされると、自ら出陣して輝元ら毛利氏を討ち、九州までも平定するという意向を秀吉に伝えた{{Sfn|天野忠幸|2016a|p=170}}。信長は自身の出陣に先んじて、明智光秀に秀吉の援軍に向かうよう命じた{{Sfn|福島克彦|2020|p=181}}。信長は四国を平定し、毛利輝元を滅ぼせば、大友義鎮といった九州の諸大名も服属すると考えていた{{Sfn|天野|2016|p=171}}。
5月21日、元親が明智光秀の家臣・[[斎藤利三]]に送った書状では、元親は阿波の[[大西城 (阿波国)|大西城]]と[[海部城]]以外から撤兵し、信長の四国国分案を受け入れる意向を示していた{{Sfn|天野|2016|p=171}}。他方、同日に義昭の側近・真木島昭光が元親のもとにいた[[石谷光政]]に対し、輝元の仲介による土佐の長宗我部氏と伊予の河野氏の和睦を指示しており、義昭の帰京に尽力するよう書状を送っている{{Sfn|天野|2016|p=171}}。これと同様の書状は、2月23日にも送られている{{Sfn|天野|2016|p=171}}。このことから、元親は義昭や輝元とも通じ、和戦両様の構えを取っていたようである{{Sfn|天野|2016|p=171}}。
5月29日、信長は西国へ出陣するため、[[安土城]]から上洛し、京の[[本能寺]]に入った。そして、6月1日に信長は本能寺において公家衆らと対面し、6月4日に自身が西国に出陣することを公表した{{Sfn|福島克彦|2020|p=182}}。
===信長の死・柴田勝家への協力===
[[image:Shibata katuie otiai.jpg|thumb|[[柴田勝家]]]]
天正10年6月2日、信長が本能寺において、明智光秀に襲撃されたことにより、自害し果てた([[本能寺の変]]){{Sfn|奥野|1996|p=267}}。嫡子の信忠もまた、同様の運命をたどった。変の翌日にこの情報を得た秀吉は、信長の横死を秘したまま、毛利氏と講和を行った。
6月4日、備中高松城が講和により開城し、城主の清水宗治らは切腹した{{Sfn|奥野|1996|p=267}}。秀吉はその日のうちに撤退し、毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日の5日であった。
6月9日、信長の死を知った義昭は隆景に対し、帰京するために備前・播磨に出兵するように命じたが、輝元ら毛利氏は講和を遵守して動かなかった{{Sfn|光成準治|2016|pp=161-162}}。毛利氏は上方の情報収集は行ったが、領国の動揺を鎮めることで精いっぱいであり、進攻する余裕はなかった{{Sfn|光成準治|2016|p=161}}{{Sfn|小和田哲男|1991|p=45}}。
6月13日、秀吉が[[山崎の戦い]]で光秀を破ると、輝元は秀吉に戦勝を祝うため、安国寺恵瓊を使者として派遣した{{Sfn|光成準治|2016|p=161}}{{Sfn|奥野|1996|p=268}}。
6月17日、義昭の御内書と真木島昭光の副状が[[香宗我部親泰]]に発給され、長宗我部元親が義昭の帰京を請けた{{Sfn|天野|2016|p=171}}。
9月26日、義昭は安国寺恵瓊に対し、羽柴秀吉に自身の帰洛を斡旋させるように命じた{{Sfn|奥野|1996|p=269}}。秀吉もこれに承知の意思を示した{{Sfn|奥野|1996|pp=269-270}}。
10月15日、秀吉は[[大徳寺]]で信長の葬儀を行い、後継者としての地位を確立した{{Sfn|奥野|1996|p=271}}。そのため、秀吉と柴田勝家が覇権を巡って火花を散らし始めると、義昭を擁する輝元は双方から味方になるよう誘いかけられた{{Sfn|奥野|1996|p=271}}{{Sfn|天野|2016|p=180}}。
11月、義昭は勝家に味方し、勝家もこれを承知した{{Sfn|奥野|1996|p=271}}。義昭はまた、勝家と上杉景勝を講和させて協力を得るため、11月21日に景勝に御内書を下した{{Sfn|奥野|1996|p=271}}。
天正11年([[1583年]])2月13日、勝家は北近江に進出するための援助を、毛利氏に求めた{{Sfn|奥野|1996|p=271}}。また、同月14日には徳川家康が義昭の帰洛に関して、輝元に賛意を表した{{Sfn|奥野|1996|p=271}}。
3月14日、勝家は義昭を擁立したうえで、毛利氏の支援を受けて、秀吉を挟撃しようとした{{Sfn|奥野|1996|p=271}}。そのため、勝家は義昭に輝元の出兵を督促させた{{Sfn|奥野|1996|p=271}}。
4月5日、義昭は輝元に対し、勝家の先鋒が近江に進出したことと知らせるとともに、すぐに出兵するように命じた{{Sfn|奥野|1996|p=272}}。また、同日に勝家は輝元に対し、出兵を督促した{{Sfn|奥野|1996|p=272}}。
4月20日、元春と隆景が会見した結果、毛利氏は両者の勝敗を見てからと傍観することにし、義昭の要請には応じないことにした{{Sfn|奥野|1996|p=272}}。
4月21日、秀吉が[[賤ヶ岳の戦い]]で勝家に勝利し、勝家を自害に追いやった{{Sfn|奥野|1996|p=272}}。秀吉は勝家の最期を輝元に伝えるとともに、東国の北条氏政や北国の上杉景勝を攻めると伝え、輝元に協力するように伝えた{{Sfn|奥野|1996|p=273}}。すでに秀吉と輝元の間には及び難い力の差がついていたが、義昭は勝家に味方したため、秀吉を敵に回すという結果を招いた{{Sfn|奥野|1996|p=273}}。
12月初旬、義昭は側室の春日局を大阪に向かわせた{{Sfn|奥野|1996|p=275}}。このとき、春日局の発言力は強かったとされ、小早川隆景が毛利氏の待遇に関して、泣きついたという{{Sfn|奥野|1996|p=275}}。
天正12年([[1584年]])9月4日、義昭は島津義久や[[龍造寺政家]]、[[宗像大社|宗像大宮司]]の[[宗像氏貞]]に対して、帰京に協力するように命じ、輝元がこれを周旋した{{Sfn|奥野|1996|p=278}}。義昭はまた、義久に豊後の大友義統を討つように命じ、九州の太守にすることも約束した{{Sfn|奥野|1996|p=278}}。義昭が島津氏に対して援助を求めたのは、帰京に関する費用のためだと考えられる{{Sfn|奥野|1996|p=279}}。無論、義昭は毛利氏にも同様の依頼をしていたと思われるが、毛利氏はこの時点では義昭にまだ利用価値があると考え、帰京に同意しなかったようである{{Sfn|奥野|1996|p=279}}。
天正13年([[1585年]])1月、輝元が秀吉との国境画定に応じて、正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏と[[織豊政権]]の戦闘はようやく終結した([[京芸和睦]])。
===秀吉との関係修復・島津氏への和平斡旋===
[[File:Toyotomi Hideyoshi.png|thumb|[[豊臣秀吉]]]]
天正13年7月、秀吉が朝廷より関白に任命された{{Efn|秀吉が征夷大将軍に就いて幕府を開こうとし、足利義昭に自身を養子にするよう依頼したが断られたために関白を望むに至ったというのは、今日では事実ではないと考えられている。[[林羅山]]の『豊臣秀吉系譜』や『後鏡』にそうした記述がみられるものの、これを裏付ける史料はない。これが後に[[武内確斎]]の『[[絵本太閤記]]』に採られて、通説となった。}}。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年半の間続いた。この2年半は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。またこの間、義昭は将軍として、秀吉に抵抗する島津氏に対して、秀吉との和平を勧めている。
天正14年([[1586年]])8月、毛利輝元を先陣として、秀吉の[[九州平定]]が始まった{{Sfn|奥野|1996|p=218}}。だが、島津氏の兵は精強であり、先陣は敗戦を重ねた{{Sfn|山田|2019|p=333}}。
12月4日、義昭は[[一色昭秀]]を薩摩の島津義久のもとに送って、秀吉との講和を勧めている{{Sfn|奥野|1996|p=287}}{{Sfn|山田|2019|p=334}}。これは毛利氏の意向を受けたものであり、毛利氏はもともと大友氏との関係から、島津氏と同盟していたこともあって、全面的な闘争を望んでおらず、それゆえ義昭を介す形で意向を伝えたと考えられる{{Sfn|山田|2019|p=334}}。
天正15年([[1587年]])2月、義昭は一色昭秀を使者として、島津氏に再び講和を勧めている{{Sfn|奥野|1996|p=287}}。このとき、義昭は秀吉の弟・[[豊臣秀長]]の意見を伝えると書状で記していることから、義昭のこの要請は秀吉の意向を受けたものであり、義昭と秀吉が連携を取っていたことがわかる{{Sfn|山田|2019|p=334}}。この時点でもなお、島津氏は義昭を主君として仰いでおり、秀吉が島津氏の面目が立つように、義昭の上意という形で講和の勧告を行ったと考えられる{{Sfn|山田|2019|pp=334-}}。
3月12日、秀吉が九州に向かう途中、義昭の住む鞆の御所に近い赤坂に立ち寄り、義昭と田辺寺で対面した{{Sfn|山田|2019|p=335}}{{Sfn|久野雅司|2017|p=220}}。義昭は秀吉と贈り物を交換し、親しく酒を酌み交わした{{Sfn|山田|2019|p=335}}。義昭は秀吉と十数年ぶりに対面したが、秀吉はもはや[[従一位]]・関白・[[太政大臣]]であり、従三位・権大納言の義昭よりも数段上の存在となっていた{{Sfn|山田|2019|p=336}}。
4月、義昭は一色昭秀を送って、島津義久に重ねて講和を勧めている{{Sfn|奥野|1996|p=287}}。その結果、義久は昭秀らの勧告を受けて、21日に降伏を受け入れた{{Sfn|奥野|1996|p=287}}。
5月、島津氏が秀吉に降伏した。義昭がこの勝利にどれほど貢献したかは不明だが、秀吉は義昭の功を認めた{{Sfn|山田|2019|p=337}}。そして、義昭が望んだ帰京も認め、毛利氏に対し、義昭が帰京に使用するための船の調達を命じた{{Sfn|山田|2019|p=337}}。
この頃、義昭は毛利氏に願い、御座所を鞆から山陽道に近い[[沼隈郡]]津之郷(福山市津之郷町)へと移させた{{Sfn|山田|2019|p=338}}<ref name="sanjyoushi">{{Cite journal|和書|author=小林定市|title=足利義昭の上國について|journal=山城志|issue=19集|year=2008}}</ref>。時期は不明ながら、鞆に近い山田[[常国寺]]を御座所としていた時期もあった{{Sfn|山田|2019|p=338}}。
7月、細川幽斎が[[厳島神社]]での延年舞を見たのち、義昭のいる津之郷の御座所に訪れた{{Sfn|山田|2019|p=338}}{{Sfn|奥野|1996|p=289}}。義昭の帰京に関する打ち合わせが行われたと考えられている{{Sfn|奥野|1996|pp=289-290}}。両者の蟠りは十数年の歳月を経て、ほとんどなくなっていた{{Sfn|山田|2019|p=338}}{{Sfn|奥野|1996|p=289}}。
8月、義昭の子息・義尋が興福寺の[[大乗院 (門跡寺院)|大乗院]]門跡となることが決定し、28日に大乗院に入室、得度した{{Sfn|山田|2019|p=337}}。これは、秀吉による義昭に対しての島津氏討伐の功賞であり、義昭の意向に従って優遇したものと考えられる{{Sfn|山田|2019|p=337}}。
=== 京都への帰還と将軍辞任===
10月、義昭は毛利氏の兵に護衛されながら、京都に帰還した{{Sfn|山田|2019|p=338}}<ref name="sanjyoushi"/>。義昭にとっては、およそ15年ぶりの京都であった{{Sfn|山田|2019|p=338}}。
12月、義昭は大坂に赴き、秀吉に臣従した{{Sfn|山田|2019|p=338}}。このとき、秀吉から山城国[[槇島町|槇島]]において、1万石の領地を認められた{{Sfn|山田|2019|p=338}}。
天正16年([[1588年]])1月13日、義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を朝廷に返上した{{Sfn|山田|2019|p=338}}{{Sfn|奥野|1996|p=291}}。このとき、秀吉の奏請によって、義昭は朝廷から[[准后|准三宮]]の称号(待遇)を受けている{{Sfn|山田|2019|p=338}}。これにより、室町幕府は名実ともに滅亡した。
その後、義昭は出家し、'''昌山道休'''と号した{{Sfn|山田|2019|p=338}}{{Sfn|奥野|1996|p=291}}。
===晩年と最期===
{{Wikisource|室町殿物語#m-8-4|室町殿物語|「義昭公御逝去の事」}}
晩年の義昭は秀吉から厚遇された{{Sfn|山田|2019|p=338}}。義昭は前将軍ということもあって、徳川家康や毛利輝元、上杉景勝といった大大名よりも上位の席次を与えられた{{Sfn|山田|2019|p=339}}。また、[[斯波義銀]]や[[山名堯熙]]、[[赤松則房]]らとともに秀吉の[[御伽衆]]に加えられ、秀吉の良き話し相手となった。
天正16年5月、義昭は毛利輝元と小早川隆景に対し、「忠節を忘れることはない」と記した感謝の御内書を発給した{{Sfn|榎原|清水|2017|p=415}}。
7月19日、輝元が大坂に到着すると、義昭は真木島昭光を使者として送り、輝元に金屏風一隻、樽二十荷、肴十折、帷子二十を贈与した{{Sfn|奥野|1996|p=294}}。その後、輝元は秀吉と[[聚楽第]]で対面し、完全に臣従した{{Sfn|奥野|1996|p=295}}<ref>{{Cite book|和書|author=二木謙一|title=秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く|year=2008|series=学研新書}}</ref>。
9月10日、輝元が安国寺恵瓊や細川幽斎を供として、義昭のもとを訪れた{{Sfn|奥野|1996|p=295}}。義昭は輝元に対して、多年の忠功を感謝し、懐旧談にも及んだという{{Sfn|奥野|1996|p=295}}。
天正20年([[文禄]]元年、[[1592年]])3月20日、義昭は[[文禄・慶長の役|文禄の役]]において、秀吉のたっての要請により、[[相国寺]]鹿苑院に宿泊し、武具などをそろえて出陣の準備をした{{Sfn|山田|2019|p=339}}{{Sfn|奥野|1996|p=297}}。その際、鹿苑院の門前では兵達の甲冑が日に映え、旌旗が風に翻り、その威容を見た者たちは「戦袍(の)光彩、目を奪う」と感心した{{Sfn|山田|2019|pp=339-340}}。
3月26日、義昭は由緒ある奉公衆などの名家による軍勢を従えて、[[後陽成天皇]]の見送りを受けながら、秀吉とともに京都を出発した{{Sfn|奥野|1996|p=297}}。
4月25日、秀吉が肥前[[名護屋城]]に到着すると、義昭は城の外郭に布陣した{{Sfn|奥野|1996|p=297}}。その兵力は3,500人と記されている{{Sfn|奥野|1996|p=297}}。
[[文禄]]2年([[1593年]])8月、秀吉が大坂に帰還したのにあわせ、義昭も帰京したと考えられている{{Sfn|榎原|清水|2017|p=415}}。
[[慶長]]2年([[1597年]])8月、義昭は病床に伏した{{Sfn|山田|2019|p=340}}。そして、病から回復できぬまま、28日に大坂{{Efn|『[[細川家記]]』は没地を備後の鞆としており{{Sfn|奥野|1996|p=301}}、久野雅司は「慶長の役で名護屋城に出陣し、帰洛する途中に鞆にて病没した」としている{{Sfn|久野雅司|2017|p=220}}{{Sfn|久野|2015|loc=「足利義昭政権の研究」|p=49}}。}}で[[崩御#薨去|薨去]]した{{Sfn|奥野|1996|p=301}}。死因は腫物であったとされ、病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている{{Sfn|奥野|1996|p=301}}。[[享年]]61(満59歳没){{Sfn|奥野|1996|p=301}}。
義昭の死去に際し、義昭の猶子・[[義演]]は自身の日記『義演准后日記』の中で、「近年将軍ノ号蔑也、有名無実弥以相果了(近年は将軍といっても、有名無実となった)」と感想を記している<ref name=kinoshita-d/><ref>『義演准后日記』慶長2年8月10日条</ref>。
===没後 ===
義昭の没後、[[西笑承兌]]が[[施薬院全宗]]とともに[[大坂城]]に赴き、義昭の死を秀吉に報告した{{Sfn|奥野|1996|p=301}}。秀吉は真木島昭光と相談し、葬儀の[[阿闍梨]](導師)を依頼するように言った{{Sfn|奥野|1996|p=301}}。
義昭の遺体は旧臣数十名が供をして、足利将軍家の菩提寺である[[等持院]]に入ったのち、方丈の書院に収められた{{Sfn|奥野|1996|p=301}}。そして、等持院の足利将軍遺髪塔に収めるため、承兌が戒師となり、義昭の毛髪を剃った{{Sfn|奥野|1996|p=301}}。葬送料は義昭の旧臣らによって拠出された{{Sfn|奥野|1996|p=301}}。
9月2日、承兌は[[京都所司代]]の[[前田玄以]]のもとに赴き、等持院の大工2人を義昭の龕([[棺]])と火屋([[火葬場]])を作るために使用したいと申請したものの、1人だけが許可された{{Sfn|奥野|1996|p=302}}。承兌はこれを嘆き、「世が世であれば、洛中洛外の大工すべてを招集しても来ないことはあろうか。今は両人すら許してもらえない」と日記に記している{{Sfn|奥野|1996|p=302}}。
9月8日、義昭の葬儀が等持院で行われ、真木島昭光以下旧臣30余人が会葬した{{Sfn|奥野|1996|p=303}}。
9月13日、[[細川忠興]]の名代として、子息の[[細川忠利|忠利]]が弔問し、香典20貫文を供えた{{Sfn|奥野|1996|p=303}}。そのうち、幽斎からは10貫文であった{{Sfn|奥野|1996|p=303}}。
9月14日夜、義昭の息子で大乗院門跡の義尋が焼香を行った{{Sfn|奥野|1996|p=303}}。その後、義昭の側室である春日局と大蔵卿局が焼香を行った{{Sfn|奥野|1996|p=303}}。
位牌所は相国寺洋源軒にあるが、同寺の塔頭・霊陽院は義昭の菩提所として創建されたものである{{Sfn|奥野|1996|p=303}}。
== 経歴 ==
*[[天文 (元号)|天文]]6年([[1537年]])11月13日、[[京都]]にて誕生。
* 天文11年([[1542年]])11月20日、[[奈良|南都]]の[[興福寺]][[一乗院]]に入室。覚慶と号す。
* [[永禄]]9年([[1566年]])2月17日、[[還俗]]し、義秋と名乗る{{Sfn|久野雅司|2017|p=40}}{{Sfn|奥野|1996|p=117}}。
* 永禄9年(1566年)4月21日、[[従五位下]]に叙し、[[左馬頭]]に任官(この叙位・任官時期については諸説ある)。
* 永禄11年([[1568年]])4月15日、元服し、名を義秋から義昭に改名{{Sfn|久野雅司|2017|p=47}}{{Sfn|榎原|清水|2017|p=399}}。
* 永禄11年([[1568年]])[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]、[[従四位下]]に昇叙し、[[参議]]に補任。[[左近衛中将]]を兼任。[[征夷大将軍]]宣下。
* 永禄12年([[1569年]])[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]、[[従三位]]に昇叙し、[[権大納言]]に栄進。
* [[元亀]]4年([[1573年]])7月、京都より追放される。
* [[天正]]4年([[1576年]])2月、[[備後国]]の[[鞆の浦|鞆]]に動座し、亡命政権・[[鞆幕府]]を樹立。
* 天正15年([[1587年]])10月、京都に帰還。
* 天正16年([[1588年]])[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]、 征夷大将軍を辞す。[[准后|准三宮]]の宣下を受け、[[皇族]]と同等の待遇を得る。出家し、昌山道休と号した。
* [[慶長]]2年([[1597年]])[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]、[[大坂]]にて[[崩御#薨去|薨去]]。
== 人物・評価・逸話 ==
[[File:Yosiaki asikaga.jpg|thumb|足利義昭像([[古画類聚]])]]
* 兄・[[足利義輝|義輝]]の死後、幕臣に守られながら流浪したり、[[織田信長]]に追放されて諸国を流浪したりして諸大名を頼った経緯から、「貧乏公方」と噂されたといわれる{{Sfn|奥野|1996|p=217}}。
* 義昭は[[室町幕府]]の歴代将軍の中では、享年が61歳と最も長命な人物である{{Sfn|奥野|1996|p=301}}。また、病気を苦にして自害したといわれる父・[[足利義晴|義晴]]や反逆によって殺害された兄・義輝と違い、天寿を全うすることができた。
* 『朝倉亭御成記』には、義昭が美味なるものとして[[数の子|カズノコ]]を食べていたという記録が残っている。
* 義昭の[[二条御所]]が竣工したのち、門前に割れた[[ハマグリ|蛤貝]]が9つ並べおかれていた{{Sfn|奥野|1996|p=151}}。これは義昭の心から、「くかい(9つの貝=公界、表向きのこと)が欠けている」、と京童が笑ってしたものと囁かれた{{Sfn|奥野|1996|p=151}}。義昭が自分の御所を信長に建ててもらうほど、将軍として表向きは何もできない、ということを意味するものである{{Sfn|奥野|1996|p=151}}。
* 義昭は自らが将軍に就任した際より、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請しており、信長が[[朝倉氏]]討伐に出陣した直後、その改元を朝廷に実行させている。元亀3年(1572年)3月に朝廷が「元亀」からの改元を決定した際、改元の発議を知らせる使者が信長と義昭の元に派遣されたが(『御湯殿上日記』元亀3年3月29日)、4月に義昭は改元費用の献上を拒んだ(『御湯殿上日記』元亀3年4月20日条)。また、義昭は室町幕府の歴代将軍が行っていた禁裏(御所)修繕も行なわなかった。このため、朝廷では義昭への非難が高まり、[[吉田兼見]]は「大樹(将軍)所業之事、禁裏其外沙汰如何、公義(公儀)・万民中々無是非次第之間申也」(『兼見卿記』元亀4年4月1日条)と、義昭の評判の悪さを記している。信長も元亀3年秋に義昭に出した[[異見十七ヶ条]]において、義輝の時代と比較して幕府の朝廷への態度が不誠実であるとして、改元や禁裏修繕の件を例に挙げて非難しており、義昭追放の正当な根拠の1つとされた<ref>{{Cite book|和書|author=神田裕理|chapter=織豊期の改元|title=戦国・織豊期の朝廷と公家社会|publisher=校倉書房|year=2011}}</ref>。
* 義昭の時代、足利将軍家と摂関家との関係に大きな変化があった。足利義晴―義輝の時代、近衛家がその外戚的存在として彼らを支持して、彼らが京都を追われた時期においてもこれに随行し、一方で九条家及び同系の二条家は足利義維―義栄を支持して、石山本願寺とも連携する構図となっていた。だが、永禄の変後、義昭の従兄弟である近衛前久が従前通りの慣例を破り、近衛家の血を引く義昭の下向には同行せず、義栄を擁する三好三人衆と接近したことによって、義昭は兄・義輝殺害への前久の関与を疑い、[[九条稙通]]や[[二条晴良]]もまた、三好三人衆と義栄が近衛家支持に回ったと疑った。その結果、稙通や晴良は義昭を支援することになり、将軍家と摂関家の関係に一種のねじれが生じることになった<ref name="t-mizuno">{{Cite journal|和書|author=水野智之|title=足利義晴~義昭における摂関家・本願寺と将軍・大名|journal=織豊期研究|issue=12号|year=2010}}/所収:{{Harvnb|久野|2015}}</ref>。
* 義昭は臣下に対する好悪の差が激しく、近江や越前で亡命生活を強いられて苦労を重ねたことから、自身の亡命時代より付き従った者を重用し、足利義栄に参仕した者を憎んだ{{Sfn|山田|2019|p=258}}。特に、二条晴良は義昭の元服の際には越前に下向し、その将軍宣下以前から仕えていたこともあって、義昭から大変重用された{{Sfn|樋口|2021|p=234}}。晴良もまた、関白に再任されると、その地位をもって政権運営に深くかかわった{{Sfn|樋口|2021|p=234}}。永禄13年(元亀元年)3月、晴良と[[勧修寺晴右]]との間で発生した[[公家領]]の[[加賀国]][[井家荘]]領有をめぐる争いに関して、義昭のもとに調停が依頼された{{Sfn|山田|2019|p=258}}。すると、義昭は晴良を越前に亡命していた時より自身に従っていたことを理由に勝訴とした一方で、晴右を義栄に参仕したという理由で敗訴とした{{Sfn|山田|2019|pp=258-259}}。なお、[[正親町天皇]]が晴右に荘園を安堵する裁決を下していたにもかかわらず、義昭はその勅命を無視して、晴良に安堵する形をとった(『言継卿記』、『晴右公記』永禄13年3月20日条<ref>{{Cite book|和書|author=湯川敏治|title=戦国期公家社会と荘園経済|publisher=続群書類従完成会|year=2005|pages=265-266|isbn=978-4-7971-0744-9}}</ref>)。このとき、義昭は理非に関わりなく裁断しており、復讐感情を抑制できていなかった{{Sfn|山田|2019|p=259}}。だが、このような対応が、結果として義昭の人気に影を落としていったと考えられる{{Sfn|山田|2019|p=259}}。
* 義昭と信長の義昭の関係悪化に関して、[[殿中御掟]]を発端とする見方がある。この殿中御掟については近年、信長が単純に将軍権力を制約しようとしたのではなく、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例に出典が求められるもので、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したものだとする説も出されている<ref name="usui">{{Cite journal|和書|author=臼井進|title=室町幕府と織田政権との関係について-足利義昭宛の条書を素材として-|journal=史叢|issue=54・55号|year=1995}}/所収:{{Harvnb|久野|2015}}</ref>。また、5箇条の承認とほぼ同じくして、信長の[[書札礼]]が関東管領である上杉謙信とほぼ同格になっており、信長が「准官領」(管領・管領代に准じるものと位置付けられた幕府官職)の就任を受け入れた代わりに、信長の方も義昭に求めた要望の結果が記されたもので、信長を幕府の秩序体制に組み込んだという意味では義昭の権力基盤の安定化につながったとする見解もある<ref>{{Cite journal|和書|author=水野嶺|title=幕府儀礼にみる織田信長|journal=日本史研究|issue=676号|year=2018}}/所収:{{Harvnb|水野嶺|2020|pp=51-68}}</ref>{{Sfn|水野嶺|2020|pp=82-85|loc=「義昭期幕府における織田信長」}}。義昭期の幕府機構を研究していく中で、義昭が信長の傀儡とはいえず、室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある<ref name="kuno-b"/>。室町幕府において、将軍専制の確立と大名権力の抑制を意図する将軍とこれを抑えようとする管領ら有力大名の対立はこれまでもたびたび発生しており、義昭と信長に限定された話ではない。
* 義昭と信長の関係悪化の発端を、[[北畠氏]]との[[大河内城の戦い]]の講和条件にあったとする見方もある<ref name="kuno-b"/>。この講和の背景には、義昭による調停があった{{Sfn|久野雅司|2017|p=91}}。ところが、信長が自分の次男(後の[[織田信雄]])を北畠氏の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する措置を取った{{Sfn|久野雅司|2017|p=91}}。義昭は織田氏と北畠氏の家格の違いから、信長の行為が武家の家格秩序を乱すことに繋がると判断したために容認できず、両者の意見の齟齬に繋がったと考えられる{{Sfn|久野雅司|2017|p=91}}。また、義昭は信長の伊勢平定自体を快く思っていなかったとされる{{Sfn|久野雅司|2017|p=91}}。このように、幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑が違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していったと考えられる。
* 信長の若狭・越前攻めに関して、朝倉義景が甥の[[武田元明]]を越前に連行したことに激怒した義昭の命令に基づく侵攻だったとする説や、反対に浅井氏の金ヶ崎での寝返りは義昭の意思を受けてのものだったとする説があるが、この時の戦いには幕府の奉公衆や昵懇公家衆も参陣していることから、義昭の上意によって動員されたと考えられる<ref>{{Cite journal|和書|author=水野嶺|title=足利義昭の大名交渉と起請文|journal=日本歴史|issue=807号|year=2015}}/所収:{{Harvnb|水野嶺|2020|p=144}}</ref>。この出陣に際して、信長は既に1月23日付で二十一ヶ国の諸大名に上洛を要請しており、出陣まで3ヶ月と時間があったこととから、どの大名が自分に味方するか、あるいは敵になるか、判断していたと考えられる{{Sfn|久野雅司|2017|p=116}}。また、3月28日に朝廷が御所で千度祓いと石清水八幡宮での戦勝祈願を行っていることから、この軍事行動の主体は義昭であり、信長が条文に基づいて軍事指揮権を行使し、公儀の軍隊を率いる形をとっていた{{Sfn|久野雅司|2017|p=117}}。
* 義昭が信長との講和を破棄し、[[槇島城]]において挙兵した際、京都では「かぞいろと やしたひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」(信長が義昭をまるで父母を扱うように<ref>『信長公記 巻2』義昭は将軍に就任した際、信長に[[感状]]を出し、その中で信長のことを「御父 織田弾正忠殿」と呼んでいる。</ref>養ってきた甲斐もなく、雨がはげしく花(=[[花の御所]]。将軍を暗示)を打つ音がすることだ)の歌が記された[[落首]]が立てられた{{Sfn|奥野|1996|pp=213-214}}。
* 義昭は信長によって追放されたのちも、[[征夷大将軍]]の地位、および従三位・権大納言の位階・官職を保持しつづけた。『[[公卿補任]]』には、天正16年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]([[1588年]][[2月9日]])に義昭が関白・[[豊臣秀吉]]と共に御所へ参内し、[[准后|准三后]]となり、正式に征夷大将軍を辞するまでその地位にあったと記録されている。200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍が足利家の[[家職]]であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家の人間が征夷大将軍に就任する事はありえない」という風潮が確立されており、そのため、信長も義昭に代わる征夷大将軍の地位を求めず、朝廷も積極的に義昭の解任の動きを見せなかったともいわれる<ref name="kinoshita-d" />。
* 義昭は京都から追放されたとはいえ、かつて10代将軍であった[[足利義稙]]が[[明応の政変]]で将軍職を解任された後も[[大内義興]]らによって引き続き将軍として支持を受けて後に義興に奉じられて上洛して将軍職に復帰したように、義昭が京都に復帰する可能性も当時は考えられていた。実際、義昭は追放後も将軍であり続けた、と『公卿補任』には記されている。また、義昭も将軍職としての政務は続け、[[伊勢氏]]・[[高氏]]・[[一色氏]]・[[上野氏]]・[[細川氏]]・[[大館氏]]・[[飯尾氏]]・[[松田氏]]・[[大草氏]]などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた{{Efn|同様に京都から動座して幕府の政務を執った足利将軍には[[足利義詮]]や[[足利義尚]]、[[足利義稙]]、足利義晴、足利義輝らが存在する。}}。そのため、近畿周辺の信長勢力圏以外(関東・北陸・中国・九州・奥州)では、追放前と同程度の権威を保ち続け、それらの地域の大名からの献金も期待できた。また、[[京都五山]]の[[住持]]任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。
* その一方で、義昭が京都にいた時期の奉公衆のうち、追放後も同行し続けたのは2割に過ぎないとする研究もある。その原因として、義昭の在京中から満足に所領が与えられず(与えることができず)に困窮したり、義昭が一部の側近ばかりを重用したりすることに対して、信長に救済を訴え出る奉公衆がいたことから、義昭の奉公衆に対する扱いへの不満があげられ、それらによって奉公衆が幕府を見限って信長に従わせる流れに繋がったと考えられている<ref>{{Cite book|和書|author=木下聡|chapter=室町幕府奉公衆の成立と変遷|title=室町幕府の外様衆と奉公衆|publisher=同成社|year=2018|pages=151-152|isbn=978-4-88621-790-5}}</ref>。実際、所領安堵と引換に信長に従った奉公衆や奉行衆などもおり、その中には最後の政所執事である伊勢貞興、侍所[[開闔]]を務めた経験を持つ[[松田頼隆]]、他に[[石谷頼辰]]・[[小笠原秀清]]などがいた。ただし、そのほとんどがこれまでの幕府の職務から離れ、細川藤孝や明智光秀などの麾下に置かれた。これは幕臣たち所領の多くが彼らの支配下に置かれた事や個人的なつながりに由来すると考えられ、京都の統治を担当した村井貞勝の麾下に置かれた名のある幕臣はおらず、旧来の統治のノウハウが室町幕府から織田政権に継承されることはなかった。
* これまでの室町将軍の動座・追放の際には、それまで将軍を支持して「昵近」関係にあった公家が随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた。実際に義昭の越前滞在時にも未だに将軍に就任していないにもかかわらず、前関白の二条晴良や[[飛鳥井雅敦]]ら公家が下向し、義昭に追われる形となった前将軍・義栄にも[[水無瀬親氏]]が最後まで従っている。義昭の父・義晴や兄・義輝が近江へ動座した際にもまた、[[近衛稙家]]らが随伴していた<ref>「近衛稙家」『朝日日本歴史人物事典』</ref>。ところが、義昭の京都追放においては、二条御所で信長に抵抗した[[日野輝資]]や[[高倉永相]]のような公家はいたものの、彼らは最終的には信長の説得に応じ、義昭に従って京都を離れた公家は久我晴通・[[久我通俊|通俊]]父子のみ{{refnest|group="注釈"|久我父子の義昭への随行の事実が金子拓の指摘によって判明する<ref>{{Cite journal|和書|author=金子拓|title=久我晴通の生涯と室町幕府|journal=東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信|issue=66|year=2014}}/所収:{{Cite book|和書|author=金子拓|title=織田信長権力論|publisher=吉川弘文館|year=2015|pages=61-63・72-73|isbn=978-4-642-02925-4}}</ref>まで、義昭に随行した公家はいなかったと考えられていた<ref>{{Cite journal|和書|author=水野嶺|title=足利義昭の栄典・諸免許の授与|journal=国史学|issue=211|year=2013}}/所収:{{Harvnb|水野嶺|2020|p=210}}</ref>。なお、水野嶺は久我晴通が近衛家からの養子であったことから、義昭は反信長派であった近衛前久との和解の仲介を期待していたが、義昭と対立関係にあった前久は反対に義昭の追放を機に信長との和解へと向かったと指摘している<ref name="r-mizuno"/>。}}で、この父子も義昭が紀伊に滞在中の天正3年([[1575年]])には共に病死しているため、義昭に従った公家は皆無となった。これは義昭の将軍就任以降の5年間、元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立や近衛前久の出奔、烏丸邸の襲撃などによって、伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化が悪化したことに起因している。また、天正3年11月に信長が右近衛大将に任官すると、公家衆らに新地を給付し、公家社会の安定を図っている{{Sfn|河内|2019|pp=78-79}}。そして、朝廷では追放後の義昭を従来通りの将軍の別称である「公方」「武家」と呼んで、引き続き将軍としての地位を認め、新たに天下人となった信長に対してその呼称を用いることはなかったものの、義昭側に仲介となる公家がいなかったこともあり、両者の間に関係が持たれる事は無かった<ref name="kinoshita-c"/><ref name="kinoshita-d"/>。
* こうした一連の流れは、信長によって荘園制など中世的な秩序が解体されて、将軍・幕府の権威を必要としない支配体制を構築されつつある中で、室町幕府の幕臣達が義昭の再上洛・復権に賭けるか、現実的な京都の支配者である信長に従って所領安堵を図るか、判断が2つに分かれたとみられる。その一方で、信長側からみても幕臣が義昭に従う者と信長に従う者に二分された結果、政所や侍所など幕府機構の維持に必要な人材が不足して機能停止の状態に陥ったため、これらの機構に依拠しない支配体制を構築する方向性に進み、政所や侍所の職員だった幕臣も信長の下で新たな役割を与えられることで、京都における室町幕府の機構は完全に解体されることになった<ref name="kinoshita-b"/>。
* 京を追放されたのち、義昭や側近の幕臣は信長打倒のため、[[毛利輝元]]に大きな期待を寄せた{{Sfn|光成準治|2016|p=111}}。義昭は8月1日付の御内書で、「毛利氏を一番頼りにしています」と記している{{Sfn|光成準治|2016|p=111}}。また、側近の[[一色藤長]]の書状にも、「あなた(輝元)が出陣すれば、その報を受けて五畿内(近江・山城・摂津・河内・和泉)は平定され、すぐに私の本意を遂げることは明らかです。足利将軍家の再興はひとえにあなたの出陣次第です」と記されている{{Sfn|光成準治|2016|p=111}}。
* 毛利輝元と上杉謙信は、義昭が追放された天正元年の時点では、義昭ではなく信長に味方していた{{Sfn|天野|2016|p=189}}。輝元と謙信は、信長が足利将軍家を維持すると予想しており、足利義輝と三好長慶の[[永禄]]改元をめぐる争いや、義輝が討たれた[[永禄の変]]のときほどのような危機感は抱いていなかったと考えられる{{Sfn|天野|2016|p=144}}。また、天正元年の時点では、輝元と謙信は信長と領国を接していなかった{{Sfn|天野|2016|p=144}}。だが、信長の勢力拡大によって、輝元と謙信は領国を接するようになり、危機感を覚えるようになった{{Sfn|天野|2016|p=144}}。さらに、信長が権大納言・右近衛大将に就任するなど、自らを将軍家に擬して、足利将軍家を武家の頂点とする秩序を破壊し、室町幕府とは異なる新たな武家政権の成立を目指すことを明白にしたことにも危機感を覚えた{{Sfn|天野|2016|p=142}}{{Sfn|天野|2016|p=144}}。輝元と謙信は、自らの領国、そして足利将軍家を中心とする秩序を守るため、義昭に味方し、信長と戦う道を選んだと考えられる{{Sfn|天野|2016|p=144}}。
* 鞆での生活は、[[備中国]]の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して[[礼銭]]を獲得できたこと、[[日明貿易]]を通して足利将軍家と関係の深かった[[宗氏]]や[[島津氏]]からの支援もあり、財政的には困難な状態ではなかったといわれている。一方で、征夷大将軍として一定の格式を維持し、更に対信長の外交工作を行っていく以上、その費用も決して少なくはなく、また恒常的に保証された収入が少ない以上、その財政はかなり困難であったとする見方もあり、天正年間後期には真木島昭光・[[一色昭孝]](唐橋在通)クラスの重臣ですら[[吉見氏]]や[[山内首藤氏]]など毛利氏麾下の国衆への「預置」(一時的に客将として与えて面倒をみさせる)の措置を取っている<ref name="kinoshita-d">{{Harvnb|木下|2014|loc=「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」}}</ref>。
* 毛利氏が上洛に踏み切らないのは、北九州で[[大友宗麟]]の侵攻を受けているからだと考えた義昭は[[島津氏]]や[[龍造寺氏]]に[[大友氏]]討伐を命じる御内書を下した。[[島津義久]]はこれを大友領侵攻の大義名分として北上し、[[日向国]]の[[伊東義祐]]を旧領に復帰させるために南下しようとしていた大友宗麟と激突、天正6年([[1578年]])の[[耳川の戦い]]の一因になったとする説もある<ref>{{Cite journal|和書|author=伊集守道|title=天正期島津氏の領国拡大と足利義昭の関係|journal=九州史学|issue=157号|year=2010}}/所収:{{Citation|和書|editor=新名一仁|title=シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏|publisher=戎光祥出版|year=2014|isbn=978-4-86403-103-5}}</ref>。
* 毛利氏もまた、義昭のために全く動いていない訳ではなかった。天正4年(1576年)に[[三好長治]]が自害に追い込まれて阿波の三好家中が混乱すると、天正6年([[1578年]])に毛利輝元は三好義堅([[十河存保]])を三好氏の当主と認めて和睦、連合して織田氏に対抗しようとする。義昭自身は最初、和睦には反対であったが、最終的には同意して真木島昭光に仲介を命じている。だが、織田氏と結んだ土佐の[[長宗我部元親]]の讃岐・阿波侵攻によって、計画は失敗してしまった<ref>{{Citation|和書|author=川島佳弘|chapter=天正五年元吉合戦と香川氏の動向|editor=橋詰茂|title=戦国・近世初期 西と東の地域社会|publisher=岩田書院|date=2019-06|pages=23-30|isbn=978-4-86602-074-7}}</ref>。
* 信長が横死した[[本能寺の変]]において、義昭を事件の黒幕とする説がある<ref>[[藤田達生]]「織田政権から豊臣政権へ―本能寺の変の歴史的背景―」『年報中世史研究』21号、1996年。</ref>。[[藤田達生]]は、本能寺の変が義昭や明智光秀をはじめとする旧幕府勢力による一大クーデターであった、とする説を提唱している{{Sfn|久野雅司|2017|pp=191-192}}。他方、[[宮本義己]]は、義昭の黒幕説は以下の理由により成立しないとしている<ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己|authorlink=宮本義己|title=足利義昭黒幕説を検証する|journal=別冊歴史読本|volume=19巻|issue=25号|year=1994}}</ref>。
** 6月9日に[[明智光秀]]が[[細川幽斎|細川藤孝]]・忠興父子に宛てた覚書に光秀と藤孝にとって共通の旧主である義昭の存在が全く見えないこと。義昭が光秀の謀反に何らかの形で関わっていたとしたら、この場面で義昭を引き合いに出さないのは不自然で、信義を尊ぶ細川父子であればなおのこと有効であったはずである。義昭の存在が謀反の名分になっていなかったことを意味するものであるといえる。
** 信長打倒を目指して行動を続けていた義昭のもとに、信長を自害させたという密書が届けられた形跡がない。それどころか光秀周辺とのつながりを示すような材料も全く見えてこない。このことは毛利氏の場合も同様である。信長の死を知らせる光秀の使者が秀吉の陣営に迷い込んで捕らえられた不手際も、義昭と毛利氏が本能寺の変を全く予測できなかったことの証であり、義昭が黒幕として光秀を操っていたのなら、あらかじめ隠密の使者のルートが調えられていたに違いない。
** [[吉川広家]]の覚書(案文)には、毛利氏は秀吉撤退の日の翌日に本能寺の変報を入手しており、秀吉との和議が成ったことを理由に織田軍の追撃をしなかった。この事実は、義昭と事変との関わりの是非を知るうえで意義深いものである。仮に義昭が黒幕として光秀と通じていたならば、光秀が京都を抑えていた段階で秀吉への追撃を思いとどまることなどありえなかったであろう。むしろ、一気に攻勢をかけなければいけなかったはずである。
: 以上のことから、義昭を黒幕と見るにはかなりの困難がともない、学問的には否定材料しか見当らず肯定する要素はないと考察している。
* 天下統一を実現した秀吉が幕府の創立を目論み、義昭に大名にする代わりに自分を養子としてくれるようにと望んだが、これを拒絶され、やむなく関白になった、という逸話が伝わる{{Sfn|天野|2016|p=189}}(『義昭興廃記』『豊臣秀吉譜』<ref>{{Citation|和書|editor1=青木晃|editor2=加美宏|editor3=藤川宗暢|editor4=松林靖明|title=畿内戦国軍記集|series=和泉選書39|publisher=和泉書院|date=1989-01}}。そもそもは、加賀市立図書館聖藩文庫蔵。</ref>)。だが、これは[[林羅山]]の説が初出であり、将軍を神聖視する羅山によって捏造されたものであると考えられている{{Sfn|天野|2016|p=189}}。
* 『[[多聞院日記]]』によると、天正12年([[1584年]])10月16日に秀吉は正親町天皇から将軍に任官するようにとの勅定を受けていたが、これを断ったとされる{{Sfn|天野|2016|p=189}}。秀吉は信長と同様に、将軍への任官を望んでいなかったと考えられている{{Sfn|天野|2016|p=190}}。なぜなら、秀吉こそが、将軍・義昭を庇護した毛利輝元や、義昭の調略を受けた諸将を撃破し、義昭の将軍権威を叩き潰した張本人だったからである{{Sfn|天野|2016|p=190}}。
== 系譜 ==
義昭の嫡男・[[足利義尋|義尋]]は、信長の人質となった後、[[興福寺]]の[[大乗院 (門跡寺院)|大乗院]][[門跡]]となった。義尋は後に[[還俗]]して2人の子をもうけたが、2人とも仏門に入った。このため、義昭の正系は断絶した。
[[大坂の陣]]の際、義昭の子と称する[[一色義喬]]が総数563人分の「家臣連判帳」を提出して、徳川方に参加しようとしたが、果たせなかったという。その孫・[[坂本義邵|義邵]]は[[会津松平家]]に仕え[[陸奥国]][[会津藩]]士となり、坂本姓を名乗る。仕官の際に足利氏菩提寺の鑁阿寺に相伝の家宝の一部を寄進したという(『足利市史 上巻』)。ただし、義喬の存在は同時代史料では確認されていない。
「永山氏系図」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 [[伊地知季安]]著作集』所収)において、泉州蟄居の際にできた子として、[[永山義在|義在]]という人物の名が記されている。同史料に寄れば、義在は[[薩摩藩]]士となり、舅の姓に改姓して「永山休兵衛」と称したという。ただし、義在の存在も同時代史料では確認されていない。
『旧柳川藩志』によると、近江矢島氏を継いだ[[矢島秀行]]が義昭の子と記されている。妻は[[今出川晴季|菊亭晴季]]の女、子に[[矢島重成]]、八千子([[立花宗茂]]継室)がいる<ref name="名前なし-1"/>。
[[明治]]12年([[1879年]])、[[押小路実潔]]が名家の子孫を[[華族]]に取り立てるよう請願書を提出しているが、この中で「西山義昭将軍裔ニして細川家ニ客タリ足利家」も名家の一つとして数えている<ref>[http://www1.doshisha.ac.jp/~takusemi/nishitaku/study/jinkai/0110kenkyukai.htm 塵海研究会 宮中恩典と士族─維新前後の身分再編、京都官家士族の復位請願運動と華族取立運動─]</ref>。
これは[[肥後国]][[熊本藩]]士であった[[尾池義辰]]の子孫、西山氏を指すものであるが、この西山氏の先祖は義輝という説や義昭の弟という説もあるため、明確になっていない。
== 偏諱を受けた人物 ==
=== 公家 ===
* [[二条昭実|二条'''昭'''実]]
* [[義演|'''義'''演]]
=== 武家 ===
=== 「義」の字 ===
* [[大友義統|大友'''義'''統]]
* [[島津義弘|島津'''義'''珍]](義弘)
* [[宗義純|宗'''義'''純]]
* [[山名義親|山名'''義'''親]](昭豊)
* [[三好義堅|三好'''義'''堅]]([[十河存保]])
=== 「秋」の字 ===
* [[飯川秋共|飯川'''秋'''共]]
* [[一色秋家|一色'''秋'''家]]
* [[一色秋成|一色'''秋'''成]]
* [[一色秋教|一色'''秋'''教]]
* [[一色秋範|一色'''秋'''範]]
* [[大草秋長|大草'''秋'''長]]
* [[畠山秋高|畠山'''秋'''高]](昭高)
* [[三淵秋豪|三淵'''秋'''豪]](秋英)
=== 「昭」の字 ===
* [[飯尾昭連|飯尾'''昭'''連]]
* [[石川昭光|石川'''昭'''光]]
* [[一色昭国|一色'''昭'''国]]
* [[唐橋在通|一色'''昭'''孝]](秋孝とも、のち唐橋在通に改名、[[唐橋在数]]の孫か)
* [[一色昭辰|一色'''昭'''辰]]
* [[一色昭信|一色'''昭'''信]]
* [[一色昭秀|一色'''昭'''秀]]
* [[大舘昭氏|大舘'''昭'''氏]]
* [[大舘昭長|大舘'''昭'''長]]
* [[京極昭成|京極'''昭'''成]]
* [[朽木昭貞|朽木'''昭'''貞]](三淵昭貞)
* [[朽木昭知|朽木'''昭'''知]](三淵昭知)
* [[朽木昭長|朽木'''昭'''長]](三淵昭長)
* [[渋川昭直|渋川'''昭'''直]]
* [[宗義智|宗'''昭'''景]](義智)
* [[畠山昭賢|畠山'''昭'''賢]]
* [[畠山昭清|畠山'''昭'''清]]
* [[細川昭賢|細川'''昭'''賢]]
* [[細川昭経|細川'''昭'''経]]
* [[細川昭元|細川'''昭'''元]]
* [[真木島昭重|真木島'''昭'''重]]
* [[真木島昭光|真木島'''昭'''光]]
== ゆかりの神社・寺院 ==
*'''惣堂神社'''(広島県福山市津之郷町)
祭神として足利義昭が祀られており、御神体として「伝 足利義昭公像(束帯座像)」が伝存している。その近隣は、備後に流れ着いた義昭を毛利輝元家臣で当地周辺を統治していた渡辺氏([[一乗山城]]主)が匿ったとされる地であり、義昭の寓居していた山は御殿山という名で現在も残っている。
*'''[[円福寺 (福山市)|圓福寺]](大可島城跡)'''(広島県福山市鞆町)
大可島城は毛利輝元を頼って下向した義昭が拠点とした場所。古くは足利直冬(足利尊氏の子、足利直義の養子)も西国での活動拠点とした瀬戸内の要衝であった。現在は陸続きになっているが、かつては独立した島に作られた城、「海城(水城)」であった。後に福島正則によって対岸に鞆城が整備されると、城跡地に現在の南林山釈迦院圓福寺が建立された。義昭はこの大可島城で幕府将軍としての政務を行っていた事から、「鞆幕府ゆかりの地」となっている。
== 義昭を題材とした作品 ==
=== 小説 ===
* [[松本清張]]『陰謀将軍』(新潮文庫『佐渡流人行』収録)
* [[岡本好古]]『御所車 <small>最後の将軍・足利義昭</small>』([[文藝春秋]]、[[1993年]]) ISBN 4-16-314070-0
* [[水上勉]]『足利義昭 <small>流れ公方記</small>』(学陽書房人物文庫、[[1998年]]) ISBN 4-313-75033-9
* [[宮本昌孝]]『義輝異聞・遺恩』(徳間文庫『将軍の星 義輝異聞』収録)
=== 漫画 ===
* [[小坂まりこ]]『[[戦国ダンス STEP ON THE WARRIOR]]』([[2014年]]‐[[ぼくらのヤングジャンプ]])
* [[そにしけんじ]]『[[ねこねこ日本史]]』(2014年-[[実業之日本社]]、第7巻に収録)
* [[しまたけひと]]『[[将軍足利義昭 信長を一番殺したかった男]]』([[2020年]] [[webアクション]])<ref>{{Cite web|和書|title=第1回 / 将軍足利義昭 信長を一番殺したかった男 - しまたけひと {{!}} webアクション |url=https://comic-action.com/episode/13933686331636193376 |website=webアクション|知りたい世界。 |access-date=2023-10-07 |language=ja}}</ref>
== 義昭が登場した関連作品 ==
=== 映画 ===
* [[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]]([[1979年]]、演:[[鈴木瑞穂]])
=== テレビドラマ ===
*[[NHK大河ドラマ]]
** [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]] ([[1965年]]、演:[[市村吉五郎 (2代目)|市村吉五郎]])
** [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]] ([[1969年]]、演:[[大出俊 (俳優)|大出俊]])
** [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]] ([[1973年]]、演:[[伊丹十三]])
** [[黄金の日日]] ([[1978年]]、演:[[松橋登]])
** [[おんな太閤記]] ([[1981年]]、演:[[津村隆]])
** [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]] ([[1983年]]、演:[[篠原大作]])
** [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]] ([[1988年]]、演:[[市川團蔵 (9代目)|市川團蔵]])
** [[信長 KING OF ZIPANGU]] ([[1992年]]、演:[[青山裕一]])
** [[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]] ([[1996年]]、演:[[玉置浩二]])
** [[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]] ([[2002年]]、演:[[モロ師岡]])
** [[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]] ([[2006年]]、演:[[三谷幸喜]])
** [[江〜姫たちの戦国〜]] ([[2011年]]、演:[[和泉元彌]])
** [[軍師官兵衛]] ([[2014年]]、演:[[吹越満]])
** [[麒麟がくる]] ([[2020年]]、演:[[滝藤賢一]])
** [[どうする家康]] ([[2023年]]、演:[[古田新太]])
* [[新書太閤記]] ([[1973年]]、[[テレビ朝日]]、演:[[菅貫太郎]])
* [[太閤記 (1987年のテレビドラマ)|太閤記]] ([[1987年]]、[[TBSテレビ]]、演:[[石橋蓮司]])
* [[織田信長 (1989年のテレビドラマ)|織田信長]] ([[1989年]]、[[TBSテレビ]]、演:[[大橋吾郎]])
* [[織田信長 (1994年のテレビドラマ) |織田信長]] ([[1994年]]、[[テレビ東京]]、演:[[京本政樹]])
* [[豊臣秀吉 天下を獲る!]] ([[1995年]]、[[テレビ東京]]、演:[[石橋蓮司]])
* [[国盗り物語]] ([[2005年]]、[[テレビ東京]]、演:[[相島一之]])
* [[太閤記〜天下を獲った男・秀吉]] ([[2006年]]、[[テレビ朝日]]、演:[[京本政樹]])
* [[明智光秀〜神に愛されなかった男〜]] ([[2007年]]、[[フジテレビジョン]]、演:[[谷原章介]])
* [[寧々〜おんな太閤記]] ([[2009年]]、[[テレビ東京]]、演:[[木下ほうか]])
* [[戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち]] ([[2011年]]、[[テレビ東京]]、演:[[梶原善]])
* [[女信長]] ([[2013年]]、[[フジテレビジョン]]、演:[[佐藤二朗]])
* [[濃姫 (テレビドラマ)|濃姫]] ([[2013年]]、[[テレビ朝日]]、演:[[池田政典]])
* [[信長のシェフ#テレビドラマ|信長のシェフ]] ([[2013年]]、[[テレビ朝日]]([[東映]])、演:[[正名僕蔵]])
* [[信長協奏曲]] ([[2014年]]、[[フジテレビジョン]]、演:[[堀部圭亮]])
=== 漫画 ===
* [[信長のシェフ]]([[2011年]] - 、[[芳文社]][[週刊漫画TIMES]]、原作:[[西村ミツル]]、作画:[[梶川卓郎]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|date=1936-08-30|title=[[国史大系]]|volume=第五十五巻|volume-title=公卿補任 第三篇|edition=新訂増補|editor=[[黒板勝美]]|publisher=国史大系刊行会|id={{NDLJP|3431668}}|ref={{SfnRef|黒板|1936}}}}{{要登録}}
* {{Cite book|和書|author=奥野高広|authorlink=奥野高広|title=足利義昭|series=人物叢書|edition=新装版|publisher=吉川弘文館|year=1996|isbn=4-642-05182-1|ref={{SfnRef|奥野|1996}}}}
* {{Cite book|和書|author=桑田忠親|authorlink=桑田忠親|title=流浪将軍 足利義昭|publisher=講談社|year=1985|isbn=4-06-201850-0}}
* {{Cite book|和書|author=木下昌規|title=戦国期足利将軍家の権力構造|publisher=[[岩田書院]]|year=2014|isbn=978-4-87294-875-2|ref={{SfnRef|木下|2014}}}}
* {{Cite book|和書|author=久野雅司 編著|title=足利義昭|series=シリーズ・室町幕府の研究 第二巻|publisher=戒光祥出版|year=2015|isbn=978-4-86403-162-2|ref={{SfnRef|久野|2015}}}}
* {{Cite book|和書|author=丸島和洋|authorlink=丸島和洋|title=武田勝頼 試される戦国大名の「器量」|publisher=平凡社|year=2017|isbn=978-4-582-47732-0}}
* {{Citation|和書|last=山田|first=康弘|title=足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候|date=2019-12|publisher=ミネルヴァ書房|series=ミネルヴァ日本評伝選|ncid= BB29396301}}
* {{Cite book|和書|author=光成準治|title=毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候|date=2016-05|publisherミネルヴァ書房|series=ミネルヴァ日本評伝選|ncid=BB21202208|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=久野雅司|authorlink=久野雅司|title=足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像|series=中世武士選書40|publisher=戒光祥出版|year=2017|isbn=978-4864032599|ref={{SfnRef|久野雅司|2017}}}}
* {{Cite book|和書|author=天野忠幸|authorlink=天野忠幸|title= 三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争|series=中世武士選書31|publisher=戒光祥出版|year=2016|isbn= 978-4864031851 |ref={{SfnRef|天野|2016}}}}
* {{Cite book|和書|author=天野忠幸|authorlink=天野忠幸|title= 三好一族 戦国最初の「天下人」|series=中公新書|publisher=中央公論新社|year=2021|isbn= 978-4121026651 |ref={{SfnRef|天野|2021}}}}
* {{Cite book|和書|author=池上裕子|authorlink=池上 裕子|title=織田信長 |series=人物叢書|publisher=吉川弘文館|edition=新装版|year=2012|isbn=|ref={{SfnRef|池上|2012}}}}
* {{Cite book|和書|author=中西裕樹|authorlink=中西裕樹|title=戦国摂津の下克上 高山右近と中川清秀|series=中世武士選書41|publisher=戒光祥出版|year=2019|isbn=|ref={{SfnRef|中西|2019}}}}
* {{Cite book|和書|author=谷口克広|authorlink=谷口克広|title=信長の天下布武への道|series=戦争の日本史13|publisher=[[吉川弘文館]]|date=2006-12|ref={{SfnRef|谷口克広|2006}}}}
* {{Cite book|和書|author=水野嶺|title=戦国末期の足利将軍権力|publisher=吉川弘文館|year=2020|isbn=978-4-642-02962-9|ref={{SfnRef|水野嶺|2020}}}}
* {{Citation|和書|editor=河内将芳|editor-link=河内将芳|title=信長と京都 宿所の変遷からみる|publisher=[[淡交社]]|year=2019|ref={{SfnRef|河内|2019}}}}
* {{Citation|和書|last=福島|first=克彦 |year=2020|title=明智光秀 織田政権の司令塔 |publisher=中央公論新社|isbn=4121026225|ref={{SfnRef|福島克彦|2020}}}}
* {{Citation|和書|last=黒嶋|first=敏|year=2020|title=天下人と二人の将軍:信長と足利義輝・義昭|publisher=平凡社|isbn=|ref={{SfnRef|黒嶋|2020}}}}
* {{Cite book|和書|author=樋口健太郎 |authorlink=樋口健太郎|series=歴史文化ライブラリー 521|title=摂関家の中世 藤原道長から豊臣秀吉まで|publisher=吉川弘文館|year=2021|ISBN=4642059210|ref = {{SfnRef|樋口|2021}}}}
== 参考論文 ==
* {{Cite journal|和書|author=渡辺世祐|title=上洛前の足利義昭と織田信長|journal=史学雑誌|volume=29巻|issue=2号|year=1918}}
* {{Cite journal|和書|author=水野智之|title=足利義晴~義昭における摂関家・本願寺と将軍・大名|journal=織豊期研究|issue=12号|year=2010}}
* {{Cite journal|和書|author=久野雅司|title=足利義昭政権論|journal=栃木史学|issue=23号|year=2009}}
* {{Cite journal|和書|author=臼井進|title=室町幕府と織田政権との関係について-足利義昭宛の条書を素材として-|journal=史叢|issue=54・55号|year=1995}}
* {{Cite journal|和書|author=柴裕之|title=戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考|journal=武田氏研究|issue=37号|year=2007}}
* {{Cite journal|和書|author=神田千里|title=織田政権の支配の論理に関する一考察|journal=東洋大学文学部紀要 史学科篇|issue=27号|year=2002}}
* {{Cite journal|和書|author=伊集守道|title=天正期島津氏の領国拡大と足利義昭の関係|journal=九州史学|issue=157号|year=2010}}
* {{Cite journal|和書|author=小林定市|title=足利義昭の上國について|journal=山城志|issue=19集|year=2008}}
* {{Cite journal|和書|author=宮本義己|title=足利義昭黒幕説を検証する|journal=別冊歴史読本|volume=19巻|issue=25号|year=1994}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ashikaga Yoshiaki}}
* [[室町幕府]]
* [[鞆城]]
* [[堀城]]
* [[観音寺城の戦い]]
* [[本圀寺の変]]
* [[野田城・福島城の戦い]]
* [[黒井城の戦い]]
* [[有岡城の戦い]]
* [[畿内・近国の戦国時代]]
{{足利宗家歴代当主|||}}
{{征夷大将軍|第32代:1568年 - 1588年}}
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[[Category:足利義昭|*]]
[[Category:室町幕府の征夷大将軍|よしあき]]
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[[Category:足利将軍家|よしあき]]
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APL
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APL(エーピーエル)は、プログラミング言語のひとつで、1957年のケネス・アイバーソンによる創案に基づいた独特の表記法を用いる。処理系の実装は、ほとんどが対話型インタプリタである。とくに多次元配列の柔軟な処理が特徴である。「APL」は「プログラミング言語」(a programming language) の略であるが、言語の特性から、ときに「配列処理言語」(array processing language) などとされる。
APLは他の多くのプログラミング言語と異なり、「APL記号」と呼ばれる特殊な記号を用いるが、これにより計算式をきわめて簡潔(過ぎるほど)に記述できる。
特殊な記号の扱いに関しては、キーボードからの入力については、これを支援するためキートップに貼るシールや交換用キーキャップ、はては専用キーボードもある。情報交換用ないし計算機の内部表現としては、従来は1バイトの文字コードを切り替えるなどしていたが、Unicodeでは「その他の技術用記号」(Miscellaneous Technical)に収録された(U+2336~U+237A)。出力は、初期にはIBM Selectricタイプライタのゴルフボール状のタイプボールを専用のものに取り替えて印字された。DOS/Vの、グラフィックによる文字表示環境を利用した処理系が作られたこともあった。現在は(新しく実装されたりしたものでは)前述のUnicodeフォントが使われる。
APLではプログラムを非常に簡潔に記述できるが、その反面、可読性に乏しく、「書き込み専用メモリ(英語版)」というジョーク由来の「書き込み専用プログラム」とか、「他人の書いたものを修正するくらいであれば、新たに書き起こす方が速い」と言われることもある。
1957年に創案された記法は、1962年に著書 "A Programming Language" として発表された。続いて1964年にプログラミング言語処理系として実装された。1966年にはIBM System/360上のOS、OS/360上での処理系の実装の(インタラクティブ環境を含む)APL\360 が発表された。
APLはタイムシェアリングシステムで利用できる対話型インタプリタのある言語として注目を集めた。しかしながら、FORTRANほどに普及することはなかった。
マイクロコンピュータからホームコンピュータ(英語版)の時代にはCP/M(CP/M80)上に構築した APL\80 があり、端末によってはAPL記号を扱うことが可能であった。
1976年にビル・ゲイツが書いた「ホビイストたちへの公開状」には、ゲイツがIntel 8080やMC6800向けのAPLを作成中だが、完成しても違法コピーされるためホビイストには提供できないと書かれている。しかし、結局完成はしなかった。
日本では、日本IBMからの販売の他、1980年代に株式会社アンペールからノート型のAPLマシン"WS-1"が発売された。
APLを発展させた言語に、Jがある。主な変更点の1つに、ASCIIだけで表記するようにした点が挙げられる。
APLは他のプログラミング言語と比べ特徴的な演算機能を持つ。特に(他にはPL/Iなどで見られるが)スカラ値だけではなく配列も、式中の演算の直接の対象にできるという原始的なジェネリックプログラミングの機能がある点と、w:Fold (higher-order function)等に類似した高階関数に相当する機能がある点が特徴である。ここではAPLの基本的な演算機能について述べる。
それぞれ英語ではfunctionとoperatorで、ここでは訳語は日本APL協会が配布している三枝協亮訳「APL2の紹介」のそれに従っている。APLでは、前置演算子ないし中置演算子のように使う記号列を「関数」、関数を対象として操作する高階関数の意味をもつ記号列を「作用子」という。高階関数をoperatorとするのは、解析学における作用素から来ており、作用子の語も「作用素」から来ている。
まず、四則演算の関数を中置で使う例から始める。 一般の算術の式では、 3+2-1 は左から右の順で、 ((3+2)-1) の意味とする(左結合)のが一般的なルールだが、APLでは右から左に、 (3+(2-1)) の意味(右結合)である。
さらに、APLにはこの「右から左」のルールしか存在しない。たとえば一般の算術では、左から右の規則より優先するルールとして、加減算より乗除算が先、というルールがあり、たとえば、 1+2×3+4 は、 (1+(2×3)+4) の意味である。これに対しAPLでは、乗算も加算も同様に「右から左」のルールに従い、 (1+(2×(3+4))) となる。
APLでは、同じ記号列(関数)を前置演算子(単項演算子)の形でも中置演算子(2項演算子)の形でも使い、それぞれで意味が違う(基本的にはある程度それぞれ連想できる意味だが)という、一種の多重定義が多用される。APLの用語では「一項」「二項」と言う。他の言語でも、例えばC言語では *(アスタリスク)は乗算の中置演算子であると同時に、前置演算子としてはポインタのデリファレンスである。しかしAPLでは、ほとんどの関数が一項と二項それぞれの意味を持つ。
例えば ! は前置では階乗を表し、例えば
は 120 を返す。しかし中置として使用すると組み合わせの数を表し、例えば
とした場合、 10 (=5C2) を返す。
前の節で述べたように、優先順位がなく常に右結合であるため、文法の曖昧性(多義性)の問題はない。
APL の特徴の一つに配列演算、すなわち配列同士の演算が可能なことが挙げられる。例として
という式を評価すると(値の、空白で区切られた連続する並びは配列のリテラルである)、それぞれの要素毎に加算を行い 5 7 9 という配列を返す。この場合二つの配列は同じ長さでないとエラーとなる。前置記法で使用した場合でも同じく各要素毎の演算結果を返す。
は、各要素の階乗を要素とする配列を返す、この場合は 2 6 24 となる。
ここでは、「内積」と「外積」と呼ばれる作用子を例として紹介する。これは、積 (および和) を演算子としてとり、それによって定義される内積と直積 (ベクトル) (outer product) を計算する演算子を返す作用子と解釈できる。
内積の作用子の記号は "." であり、
とすることで、二つの関数を以下で説明するように合成する。例えば、
とした場合、まず後の関数(この場合は ×)を各要素毎に適用し、
となる。この結果の要素間に、前の関数(ここでは +)を入れた計算である、 9×6 + 8×5 + 7×4 が全体の意味であり、評価すると得られる値は 122 である。なお、右から左のルールがここでは、(9×6) + ((8×5) + (7×4)) のように効くことに注意する。
この例のように、2個の1次元配列に対し . を +.× のように使うと、ベクトルの内積の計算となり、同様に +.× を2次元配列に対し使うと行列積となるが、これに限らず . は他の関数とも組み合わせて使うことができる。
外積の作用子の記号列は "∘." であり( "∘" と前述した内積との組み合わせではない)、
とすると、配列に対して以下で説明するように関数を適用する。例えば、
とした場合、
という計算が行われ
という2次元の配列を返す。
|
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APL(エーピーエル)は、プログラミング言語のひとつで、1957年のケネス・アイバーソンによる創案に基づいた独特の表記法を用いる。処理系の実装は、ほとんどが対話型インタプリタである。とくに多次元配列の柔軟な処理が特徴である。「APL」は「プログラミング言語」(a programming language) の略であるが、言語の特性から、ときに「配列処理言語」(array processing language) などとされる。
|
{{otheruses|プログラミング言語}}
{{出典の明記|date=2020年6月5日 (金) 01:06 (UTC)}}
{{Infobox プログラミング言語
|パラダイム = 配列処理
|登場時期 = 1964年
|設計者 = [[ケネス・アイバーソン]]
|開発者 = ケネス・アイバーソン
|型付け = [[動的型付け]]
|処理系 = IBM APL2, Dyalog APL, APL2000, Sharp APL, GNU APL
|方言 = [[A+]], Dyalog APL, APLNext
|影響を受けた言語 = 数学の表記法
|影響を与えた言語 = [[J (プログラミング言語)|J]], [[Mathematica]]
}}
'''APL'''(エーピーエル)は、[[プログラミング言語]]のひとつで、1957年の[[ケネス・アイバーソン]]による創案に基づいた独特の表記法を用いる。処理系の実装は、ほとんどが対話型[[インタプリタ]]である。とくに多次元[[配列]]の柔軟な処理が特徴である。「APL」は「'''プログラミング言語'''」({{lang|en|a programming language}}) の略であるが、言語の特性から、ときに「配列処理言語」({{lang|en|array processing language}}) などとされる。
== 概要 ==
{{特殊文字}}
APLは他の多くのプログラミング言語と異なり、「APL記号」と呼ばれる特殊な記号を用いるが、これにより計算式をきわめて簡潔(過ぎるほど)に記述できる。
[[File:IBM-Kugelkopf (2. Generation).jpg|thumb|right|200px|[[IBM Selectric typewriter|IBM Selectricタイプライタ]]の「ゴルフボール」印字ヘッドにAPL文字を載せた物を使った[[IBM 274x|IBM 2741キーボード・プリンター通信端末]]などを利用した。]]
特殊な記号の扱いに関しては、キーボードからの入力については、これを支援するためキートップに貼るシールや交換用キーキャップ、はては専用キーボードもある。情報交換用ないし計算機の内部表現としては、従来は1バイトの文字コードを切り替えるなどしていたが、Unicodeでは「[[その他の技術用記号]]」(Miscellaneous Technical)に収録された(U+2336~U+237A)。出力は、初期には[[IBM Selectric typewriter|IBM Selectricタイプライタ]]のゴルフボール状のタイプボールを専用のものに取り替えて印字された。[[DOS/V]]の、グラフィックによる文字表示環境を利用した処理系が作られたこともあった。現在は(新しく実装されたりしたものでは)前述のUnicode[[フォント]]が使われる。
APLではプログラムを非常に簡潔に記述できるが、その反面、[[可読性]]に乏しく、「{{仮リンク|書き込み専用メモリ|en|Write-only memory (joke)}}」というジョーク由来の「書き込み専用プログラム」とか、「他人の書いたものを修正するくらいであれば、新たに書き起こす方が速い」と言われることもある。
1957年に創案された記法は、1962年に著書 "''A Programming Language''" として発表された。続いて1964年にプログラミング言語処理系として実装された。1966年には[[System/360|IBM System/360]]上のOS、[[OS/360]]上での処理系の実装の(インタラクティブ環境を含む)APL\360 が発表された。
APLは[[タイムシェアリングシステム]]で利用できる対話型[[インタプリタ]]のある言語として注目を集めた。しかしながら、[[FORTRAN]]ほどに普及することはなかった。
[[マイクロコンピュータ]]から{{仮リンク|ホームコンピュータ|en|Home computer|preserve=1}}の時代には[[CP/M]](CP/M80)上に構築した APL\80 があり、端末によってはAPL記号を扱うことが可能であった。
1976年に[[ビル・ゲイツ]]が書いた「[[ホビイストたちへの公開状]]」には、ゲイツが[[Intel 8080]]や[[MC6800]]向けのAPLを作成中だが、完成しても[[著作権侵害|違法コピー]]されるためホビイストには提供できないと書かれている<ref>{{cite magazine |last=Gates |first=Bill |date=January 31, 1976 |title=An Open Letter to Hobbyists |url=http://www.digibarn.com/collections/newsletters/homebrew/V2_01/index.html |magazine=Homebrew Computer Club Newsletter |access-date=April 29, 2018}}</ref>。しかし、結局完成はしなかった。
日本では、[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]からの販売の他、1980年代に株式会社[[アンペール (企業)|アンペール]]からノート型のAPLマシン"WS-1"が発売された。
APLを発展させた言語に、'''[[J (プログラミング言語)|J]]'''がある。主な変更点の1つに、[[ASCII]]だけで表記するようにした点が挙げられる。
{|
|
{|class=wikitable
|- align=center
|' || ( || ) || + ||, || - || . || / || : || ; || < || = || > || ? || [ || ]
|- align=center
| \ || _ ||¨ || ¯ || × || ÷ || ← || ↑ || → || ↓ ||∆ || ∇ || ∘ || ∣ || ∧ || ∨
|- align=center
| ∩ || ∪ || ∼ || ≠ || ≤ || ≥ || ≬ || ⊂ || ⊃ || ⌈ ||⌊ || ⊤ || ⊥ || ⋆ || ⌶ || ⌷
|- align=center
| ⌸ || ⌹ || ⌺ || ⌻ || ⌼ || ⌽ || ⌾ || ⌿ || ⍀ || ⍁ || ⍂||⍃ || ⍄ || ⍅ || ⍆ || ⍇
|- align=center
| ⍈ || ⍉ || ⍊ || ⍋ || ⍌ || ⍍ || ⍎ || ⍏ || ⍐ || ⍑ || ⍒ ||⍓ || ⍔ || ⍕ || ⍖ || ⍗
|- align=center
| ⍘ || ⍙ || ⍚ || ⍛ || ⍜ || ⍝ || ⍞ || ⍟ || ⍠ || ⍡ || ⍢ ||⍣ || ⍤ || ⍥ || ⍦ || ⍧
|- align=center
| ⍨ || ⍩ || ⍪ || ⍫ || ⍬ || ⍭ || ⍮ || ⍯ || ⍰ || ⍱ || ⍲ ||⍳ || ⍴ || ⍵ || ⍶ || ⍷
|-align=center
| ⍸ || ⍹ || ⍺ || ⎕ || ○
|}
|
[[ファイル:APL2-nappaimisto.png|thumb|center|400px|APLキーボード配列]]
|}
== 演算機能 ==
APLは他の[[プログラミング言語]]と比べ特徴的な演算機能を持つ。特に(他には[[PL/I]]などで見られるが)スカラ値だけではなく配列も、式中の演算の直接の対象にできるという原始的な[[ジェネリックプログラミング]]の機能がある点と、[[w:Fold (higher-order function)]]等に類似した[[高階関数]]に相当する機能がある点が特徴である。ここではAPLの基本的な演算機能について述べる。
=== 関数と作用子 ===
それぞれ英語ではfunctionとoperatorで、ここでは訳語は日本APL協会が配布している三枝協亮訳「APL2の紹介」のそれに従っている。APLでは、前置演算子ないし中置演算子のように使う記号列を「関数」、関数を対象として操作する[[高階関数]]の意味をもつ記号列を「作用子」という。高階関数をoperatorとするのは、解析学における[[作用素]]から来ており、作用子の語も「作用素」から来ている。
=== 右から左 ===
まず、四則演算の関数を中置で使う例から始める。
一般の算術の式では、<br />
3+2-1<br />
は左から右の順で、<br />
((3+2)-1)<br />
の意味とする(左結合)のが一般的なルールだが、APLでは右から左に、<br />
(3+(2-1))<br />
の意味(右結合)である。
さらに、APLにはこの「右から左」のルールしか存在しない。たとえば一般の算術では、左から右の規則より優先するルールとして、加減算より乗除算が先、という[[演算子の優先順位|ルール]]があり、たとえば、<br />
1+2×3+4<br />
は、<br />
(1+(2×3)+4)<br />
の意味である。これに対しAPLでは、乗算も加算も同様に「右から左」のルールに従い、<br />
(1+(2×(3+4)))<br />
となる。
=== 一項と二項 ===
APLでは、同じ記号列(関数)を前置演算子(単項演算子)の形でも中置演算子(2項演算子)の形でも使い、それぞれで意味が違う(基本的にはある程度それぞれ連想できる意味だが)という、一種の[[多重定義]]が多用される。APLの用語では「一項」「二項」と言う。他の言語でも、例えば[[C言語]]では <code>*</code>(アスタリスク)は乗算の中置演算子であると同時に、前置演算子としては[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]のデリファレンスである。しかしAPLでは、ほとんどの関数が一項と二項それぞれの意味を持つ。
例えば <code>!</code> は前置では[[階乗]]を表し、例えば
! 5
は 120 を返す。しかし中置として使用すると[[組合せ (数学)|組み合わせ]]の数を表し、例えば
2 ! 5
とした場合、 10 (=<sub>5</sub>C<sub>2</sub>) を返す。
前の節で述べたように、優先順位がなく常に右結合であるため、文法の曖昧性(多義性)の問題はない。
=== 配列演算 ===
APL の特徴の一つに配列演算、すなわち[[配列]]同士の演算が可能なことが挙げられる。例として
1 2 3 + 4 5 6
という式を評価すると(値の、空白で区切られた連続する並びは配列の[[リテラル]]である)、それぞれの要素毎に加算を行い 5 7 9 という配列を返す。この場合二つの配列は同じ長さでないとエラーとなる。前置記法で使用した場合でも同じく各要素毎の演算結果を返す。
! 2 3 4
は、各要素の階乗を要素とする配列を返す、この場合は 2 6 24 となる。
=== 作用子 ===
ここでは、「内積」と「外積」と呼ばれる作用子を例として紹介する。これは、積 (および和) を演算子としてとり、それによって定義される[[内積]]と[[直積 (ベクトル)]] (outer product) を計算する演算子を返す作用子と解釈できる。
内積の作用子の記号は "." であり、
(関数1).(関数2)
とすることで、二つの関数を以下で説明するように合成する。例えば、
9 8 7 +.× 6 5 4
とした場合、まず後の関数(この場合は <code>×</code>)を各要素毎に適用し、
9×6 8×5 7×4
となる。この結果の要素間に、前の関数(ここでは <code>+</code>)を入れた計算である、 9×6 + 8×5 + 7×4 が全体の意味であり、評価すると得られる値は 122 である。なお、右から左のルールがここでは、(9×6) + ((8×5) + (7×4)) のように効くことに注意する。
この例のように、2個の1次元配列に対し . を +.× のように使うと、ベクトルの内積の計算となり、同様に +.× を2次元配列に対し使うと[[行列#和・積|行列積]]となるが、これに限らず . は他の関数とも組み合わせて使うことができる。
外積の作用子の記号列は "∘." であり( "∘" と前述した内積との組み合わせではない)、
∘.(関数)
とすると、配列に対して以下で説明するように関数を適用する。例えば、
1 2 3 ∘.× 4 5 6 7
とした場合、
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! ×
! 4 !! 5 !! 6 !! 7
|-
! 1
| 1 × 4 || 1 × 5 || 1 × 6 || 1 × 7
|-
! 2
| 2 × 4 || 2 × 5 || 2 × 6 || 2 × 7
|-
! 3
| 3 × 4 || 3 × 5 || 3 × 6 || 3 × 7
|}
という計算が行われ
{| style="text-align:right"
|| 4|| 5|| 6|| 7
|-
|| 8||10||12||14
|-
|| 12||15||18||21
|}
という2次元の配列を返す。
== 関連項目 ==
* [[J (プログラミング言語)]]
* [[A+]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://www.gnu.org/software/apl/ GNU APL]
*[http://www.ae.keio.ac.jp/lab/soc/takeuchi/japla/index.html 日本APL協会]
*[http://www.vector.co.jp/soft/maker/ibm/se001160.html?y 日本語APL] - [[MS-DOS]]用のAPL[[インタープリタ]]、日本語に対応している。
*[http://www.vector.org.uk/resource/simp2.htm APL Unicode Font – Extended] - [[フリーウェア|フリー]]のAPLフォント。
*[http://www.nars2000.org/ NARS2000] ISO/IEC 13751 Extended APLのオープンソースな実装。
{{プログラミング言語一覧}}
{{Normdaten}}
[[Category:プログラミング言語]]
[[Category:IBMのソフトウェア]]
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2023-05-17T18:42:13Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/APL
|
13,382 |
ケネス・アイバーソン
|
ケネス・ユージン・アイバーソン(Kenneth Eugene Iverson、1920年12月17日 - 2004年10月19日)は、カナダの情報工学者、計算機科学者。プログラミング言語APLを開発したことで知られる。
1983年、ACMの Special Interest Group on APL (SIGAPL) はアイバーソンの栄誉を讃えてAPLの発展に寄与した人物を表彰する「アイバーソン賞」を創設した。
カナダアルバータ州カムローズで、ノースダコタ州から移住してきたノルウェー移民の子として生まれた。実家は農家で経済的に貧しく、初歩的な教育を終えると実家の農業を手伝う日々を送った。農業で生計を立てる間にも独学で数学(微分積分学など)を勉強する努力を続けた。転機が訪れたのは第二次世界大戦後で、戦争中にカナダ空軍兵士として勤務しながら大学入学の資格を取得したアイバーソンは、1946年にクイーンズ大学に入学、得意とする数学・物理学を専攻して1950年に卒業した。
卒業後はハーバード大学の大学院に移って1951年に修士号を取得、後に投入産出分析でノーベル経済学賞を授与されるワシリー・レオンチェフの助手になった。レオンチェフが自らの経済分析に情報工学者ハワード・エイケンの開発した Harvard Mark IV を活用する事を決めると、アイバーソンに実際の作業を委ねた。この活動が高く評価され、アイバーソンは1954年に応用数学の博士号を授与された。
博士になったアイバーソンはハーバード大学の助教授として約5年間雇用され、配列を数学的記法で操作する方法を開発し学生たちに教えていたが、在職権を更新できなかった。1960年、IBMに雇用され、その数学的記法をベースとして System/360 上でAPLを開発した。1979年、「APLに代表される数学的記法とプログラミング言語理論への貢献に対して」チューリング賞が授与された。翌年、IBMを離れてAPLを使った計算センター企業 I. P. Sharp Associates をカナダで創業、APLの改良に務めた。
1987年には企業運営から引退し、1989年夏にRoger Hui と Arthur Whitney と共に簡単なインタプリタのプロトタイプを開発。それが後にAPLの派生言語であるJ言語に発展した。1990年代以降は Hui と共に、J言語の発展とそれを用いた数学教育に専心した。
2004年10月19日、カナダのオンタリオ州トロントにて心臓発作で死去。享年83。
アイバーソンが学生に配列操作を教えるために考案した数学的記法はアイバーソン記法と呼ばれ、1962年の著書 A Programming Language で説明されている。1960年、IBMに就職すると、トーマス・J・ワトソン研究所で Adin Falkoff と共に働くようになり、その記法をベースとしてAPLを開発した。1970年、アイバーソンはIBMフェローとなった。
1989年、Roger Hui と共にAPL風の言語Jの開発を開始し、まず翌年のAPL90会議で一般公開した。通常の文字セットでは記述できないというAPLの問題を解決すべく普通の文字セットで記述可能にし、関数型プログラミング、変数配列、MIMD型並列操作といった改良を加えており、これらの一部は今日のAPLでも実現していない。J言語は既存のAPLを改良した言語を意図している。Jインタプリタと言語は今も発展し続けている。J Software からGPLv3ライセンスで入手可能となっている。
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"text": "アイバーソンが学生に配列操作を教えるために考案した数学的記法はアイバーソン記法と呼ばれ、1962年の著書 A Programming Language で説明されている。1960年、IBMに就職すると、トーマス・J・ワトソン研究所で Adin Falkoff と共に働くようになり、その記法をベースとしてAPLを開発した。1970年、アイバーソンはIBMフェローとなった。",
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] |
ケネス・ユージン・アイバーソンは、カナダの情報工学者、計算機科学者。プログラミング言語APLを開発したことで知られる。 1983年、ACMの Special Interest Group on APL (SIGAPL) はアイバーソンの栄誉を讃えてAPLの発展に寄与した人物を表彰する「アイバーソン賞」を創設した。
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{{Infobox Scientist
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| alma_mater = [[クイーンズ大学 (カナダ)|クイーンズ大学]]<br/>[[ハーバード大学]]
| doctoral_advisor = [[ワシリー・レオンチェフ]]<br/>[[ハワード・エイケン]]
| known_for = [[プログラミング言語]]: [[APL]], [[J (プログラミング言語)|J]]
| prizes = IBMフェロー<br/>[[チューリング賞]]
}}
'''ケネス・ユージン・アイバーソン'''('''Kenneth Eugene Iverson'''、[[1920年]][[12月17日]] - [[2004年]][[10月19日]])は、[[カナダ]]の[[情報工学]]者、[[計算機科学]]者。[[プログラミング言語]][[APL]]を開発したことで知られる。
[[1983年]]、[[Association for Computing Machinery|ACM]]の Special Interest Group on APL (SIGAPL) はアイバーソンの栄誉を讃えてAPLの発展に寄与した人物を表彰する「アイバーソン賞」を創設した。
== 生涯 ==
[[カナダ]][[アルバータ州]]カムローズで、[[ノースダコタ州]]から移住してきた[[ノルウェー人|ノルウェー移民]]の子として生まれた。実家は農家で経済的に貧しく、初歩的な教育を終えると実家の農業を手伝う日々を送った。農業で生計を立てる間にも独学で数学([[微分積分学]]など)を勉強する努力を続けた。転機が訪れたのは[[第二次世界大戦]]後で、戦争中に[[カナダ空軍]]兵士として勤務しながら大学入学の資格を取得したアイバーソンは、1946年に[[クイーンズ大学 (カナダ)|クイーンズ大学]]に入学、得意とする[[数学]]・[[物理学]]を専攻して[[1950年]]に卒業した。
卒業後は[[ハーバード大学]]の[[大学院]]に移って[[1951年]]に修士号を取得、後に[[産業連関表|投入産出分析]]でノーベル経済学賞を授与される[[ワシリー・レオンチェフ]]の助手になった。レオンチェフが自らの経済分析に情報工学者[[ハワード・エイケン]]の開発した [[Harvard Mark IV]] を活用する事を決めると、アイバーソンに実際の作業を委ねた。この活動が高く評価され、アイバーソンは[[1954年]]に[[応用数学]]の博士号を授与された。
博士になったアイバーソンはハーバード大学の助教授として約5年間雇用され、[[配列]]を数学的記法で操作する方法を開発し学生たちに教えていたが、在職権を更新できなかった。[[1960年]]、[[IBM]]に雇用され、その数学的記法をベースとして [[System/360]] 上でAPLを開発した。[[1979年]]、「APLに代表される数学的記法とプログラミング言語理論への貢献に対して」[[チューリング賞]]が授与された。翌年、IBMを離れてAPLを使った計算センター企業 [[:en:I. P. Sharp Associates|I. P. Sharp Associates]] をカナダで創業、APLの改良に務めた。
1987年には企業運営から引退し、1989年夏に[[:en:Roger Hui|Roger Hui]] と [[:en:Arthur Whitney (computer scientist)|Arthur Whitney]] と共に簡単なインタプリタのプロトタイプを開発。それが後にAPLの派生言語である[[J (プログラミング言語)|J言語]]に発展した。1990年代以降は Hui と共に、J言語の発展とそれを用いた数学教育に専心した。
2004年10月19日、カナダの[[オンタリオ州]][[トロント]]にて心臓発作で死去。享年83。
== 業績 ==
アイバーソンが学生に配列操作を教えるために考案した数学的記法はアイバーソン記法と呼ばれ、1962年の著書 ''A Programming Language''<ref>John Wiley & Sons, ISBN 0-471-43014-5</ref> で説明されている。1960年、[[IBM]]に就職すると、[[トーマス・J・ワトソン研究所]]で [[:en:Adin Falkoff|Adin Falkoff]] と共に働くようになり、その記法をベースとしてAPLを開発した。[[1970年]]、アイバーソンは[[IBMフェロー]]となった<ref>[http://www.almaden.ibm.com/u/mohan/fellow.html Citation in Corporate Technical Recognition Event (CTRE) booklet, 3 June 1997]</ref>。
1989年、[[:en:Roger Hui|Roger Hui]] と共にAPL風の言語[[J (プログラミング言語)|J]]の開発を開始し、まず翌年のAPL90会議で一般公開した<ref>[http://www.jsoftware.com/papers/J1990.htm APL/?], by Kenneth E. Iverson and Roger Hui, APL90 Conference Proceedings, [[Association for Computing Machinery|ACM]], 1990</ref>。通常の文字セットでは記述できないというAPLの問題を解決すべく普通の文字セットで記述可能にし、[[関数型言語|関数型プログラミング]]、変数配列、[[MIMD]]型並列操作といった改良を加えており、これらの一部は今日のAPLでも実現していない。J言語は既存のAPLを改良した言語を意図している。Jインタプリタと言語は今も発展し続けている。J Software から[[GNU General Public License|GPLv3]]ライセンスで入手可能となっている<ref>[http://jsoftware.com/source.htm J Software Source Code page]</ref>。
== 主な著書 ==
* ''A Programming Language''([[1962年]])
* ''Automatic Data Processing''([[フレデリック・ブルックス]]との共著)([[1963年]])
* ''A Formal Description of SYSTEM/360,'' (with A. D. Falkoff and E. H. Sussenguth), IBM Systems Journal, vol. 3. no. 3, 1964, pp. 198–262.
* ''Elementary Functions: an algorithmic treatment'' (Science Research Associates, Inc.)([[1966年]])
* ''APL\360:User's Manual'' (with A. D. Falkoff), IBM, 1968
* ''APL in Exposition,'' IBM Philadelphia Scientific Center Tech. Report No. 320-3010, IBM, 1972.
* ''The Design of APL,'' (with A. D. Falkoff) IBM J. Research and Development, vol. 17, no. 4, 1973, pp. 324–334.
* ''Notation as a Tool of Thought,'' Comm. ACM, vol. 23, no. 8, 1980, pp. 444–465.
* ''A Source Book In APL''(Adin D. Falkoff との共著)(APL Press)([[1981年]])
* ''Tangible Math'' (Iverson Software Inc.)([[1990年]])
* ''A Personal View of APL,'' IBM System Journal, vol. 30, no. 4, 1991, pp. 582–593.
* ''The ISI Dictionary of J'' (Iverson Software Inc.)([[1991年]])
== 受賞歴 ==
* 1970年 - IBMフェロー
* 1975年 - Harry H. Goode Memorial Award ([[IEEE Computer Society]])
* 1979年 - [[チューリング賞]] ([[Association for Computing Machinery]])
* 1981年 - [[IEEE Computer Society]] が[[コンピュータパイオニア賞]]を創設した際に、まとめて授与した中 (Charter Recipients) の1人だった<ref>{{Cite web|url= http://www.computer.org/portal/web/awards/pioneer#_118_tabs_WAR_pluginsui_INSTANCE_d0QT_tab2 |title=Computer Pioneer Charter Recipients |publisher=[[IEEE Computer Society]] |accessdate=2011-07-16}}</ref>。
* 1988年 - 名誉博士号([[ヨーク大学 (カナダ)]])
==脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[APL]]
* [[J (プログラミング言語)]]
* [[アイバーソンの記法]]
== 著作物への外部リンク ==
*[http://www.jsoftware.com/papers/APL.htm A Programming Language, now in HTML]
* {{Cite web |title=A Formal Description of SYSTEM/360 |author= Adin D. Falkoff, Kenneth E. Iverson, and Edward H. Sussenguth, Jr. |work= IBM Systems Journal, Volume 3, Number 3, 1964. |url= https://web.archive.org/web/20060813132807/http://www.research.ibm.com/journal/sj/032/falkoff.pdf |accessdate=2012-08-15}}
* {{Cite web |title= The Design of APL |author= Adin D. Falkoff and Kenneth E. Iverson |work= IBM Journal of Research and Development, Volume 17, Number 4, 1973. |url= https://web.archive.org/web/20041230112628/http://www.research.ibm.com/journal/rd/174/ibmrd1704F.pdf |accessdate=2012-08-15}}
* [http://www.jsoftware.com/papers/APLEvol1.htm The Evolution of APL], by Adin D. Falkoff and Kenneth E. Iverson. ACM SIGPLAN Notices 13, 1978-08.
* [https://web.archive.org/web/20110710183418/http://elliscave.com/APL_J/tool.pdf ''Notation as a Tool of Thought''] (1979年のチューリング賞受賞講演) by Kenneth E. Iverson, Communications of the ACM, Volume 23, Number 8, August 1980.
* {{Cite web |title= A Personal View of APL |author= Kenneth E. Iverson |work= IBM Systems Journal, Volume 30, Number 4, 1991. |url= https://web.archive.org/web/20060813132807/http://www.research.ibm.com/journal/sj/304/ibmsj3004O.pdf |accessdate=2012-08-15}}
== 外部リンク ==
* [http://www.science.ca/scientists/scientistprofile.php?pID=178 Short Biography] science.ca ウェブサイトより
* [http://keiapl.info/ A Celebration of the life of Kenneth Eugene Iverson]
* [http://lambda-the-ultimate.org/node/334#comment-2575 Ehud Lamm's obituary] at Lambda the Ultimate
* [http://vids.myspace.com/index.cfm?fuseaction=vids.individual&videoid=49489049 Memorial Service for Kenneth E. Iverson in Toronto] (MySpace video)
* [http://c2.com/cgi/wiki?KenIverson Ken Iverson] on the WikiWikiWeb
{{チューリング賞}}
{{Normdaten}}
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[[Category:カナダの計算機科学者]]
[[Category:カナダのプログラミング言語設計者]]
[[Category:チューリング賞受賞者]]
[[Category:情報工学者]]
[[Category:IBMフェロー]]
[[Category:全米技術アカデミー会員]]
[[Category:ハーバード大学の教員]]
[[Category:トーマス・J・ワトソン研究所の人物]]
[[Category:アルバータ州の人物]]
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1565年
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙丑]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永禄]]8年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2225年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]44年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]20年
** [[檀君紀元|檀紀]]3898年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[淳福]]4年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]8年
* [[仏滅紀元]] : 2107年 - 2108年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 972年 - 973年
* [[ユダヤ暦]] : 5325年 - 5326年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[3月1日]] - [[リオデジャネイロ市]]が建設される。
* [[6月17日]](永禄8年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[永禄の変]]。[[三好三人衆]]らが将軍[[足利義輝]]を襲撃し、殺害。この際、[[二条御所]]が焼失。[[室町幕府]]がこれにより、一時的に滅亡状態となる。
* [[スペイン]]が[[グアム|グアム島]]、[[北マリアナ諸島]]、[[ミンダナオ島]]北部を[[植民地|植民地化]]。
* ドイツの科学者[[コンラート・ゲスナー|コンラート・フォン・ゲスナー]]が「木にはさんだ」原始的な[[鉛筆]]の説明で、鉛筆について初めて記した。{{Sfn|チャロナー|2011|p=172|ps=「鉛筆 英国人が、消去可能なマーカーを発明する。」}}
== 誕生 ==
{{see also|Category:1565年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月31日]](永禄7年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[池田輝政]]、[[武将]]・[[大名]](+ [[1613年]])
* [[11月23日]](永禄8年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]])- [[近衛信尹]]、[[公卿]]、関白(+ [[1614年]])
* [[森成利]](蘭丸)、[[武将|戦国武将]](+[[1582年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1565年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月19日]] - ディエゴ・ライネス([[:en:Diego Laynez]]) 、[[イエズス会]]第2代総会長(*[[1512年]])
* [[6月17日]]([[永禄]]8年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[足利義輝]]、[[室町幕府]]第13代[[征夷大将軍]](*[[1536年]])
* [[9月]] - [[チプリアーノ・デ・ローレ]]、[[作曲家]](* [[1515年]]/[[1516年]])
* [[12月9日]] - [[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]、第224代[[教皇|ローマ教皇]](*[[1499年]])
* [[12月13日]] - [[コンラート・ゲスナー]]、[[博物学者]](* [[1516年]])
<!-- == 注釈 ==
{{Reflist|group="注"}} -->
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author=ジャック・チャロナー(編集) |year=2011 |title=人類の歴史を変えた発明 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-3467-6 |ref={{Sfnref|チャロナー|2011}}}}<!-- 2011年1月31日初版1刷 -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1565}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1537年
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1537年(1537 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丁酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天文 (元号)|天文]]6年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2197年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]16年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]32年
** [[檀君紀元|檀紀]]3870年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[大正 (莫朝)|大正]]8年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]5年
* [[仏滅紀元]] : 2079年 - 2080年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 943年 - 944年
* [[ユダヤ暦]] : 5297年 - 5298年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[8月15日]] - [[アスンシオン]]建都{{要出典|date=2021-03}}。
* [[ポーランド]]で[[鶏戦争]]が発生。
*[[織田信康]]によって[[犬山城]]が築かれる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1537年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月17日]](天文6年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]])<ref group="注">生年は天文5年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[1536年]][[2月2日]])とも伝わる。</ref> - [[豊臣秀吉]]、[[武将]]・[[戦国大名]](+ [[1598年]])
* [[10月12日]] - [[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]、[[テューダー朝]]の[[イングランド王]](+ [[1553年]])
* [[12月5日]](天文6年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[足利義昭]]、[[室町幕府]]第15代[[征夷大将軍]](+[[1597年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1537年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月12日]] - [[ロレンツォ・ディ・クレディ]]、[[画家]]・[[彫刻家]](* [[1459年]]頃)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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<!--'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1537}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1541年
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛丑]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天文 (元号)|天文]]10年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2201年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]20年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]36年
** [[檀君紀元|檀紀]]3874年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[広和]]元年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]9年
* [[仏滅紀元]] : 2083年 - 2084年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 947年 - 948年
* [[ユダヤ暦]] : 5301年 - 5302年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1541|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[2月12日]] - チリの[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]が建都{{要出典|date=2021-04}}。
* [[4月7日]] - [[フランシスコ・ザビエル]]、ポルトガル国王の援助を得てリスボンを出帆し東洋へ向かう旅に出る。
* [[5月8日]] - スペイン人探検家エルナンド・デ・ソトがヨーロッパ人で初めてミシシッピ川に到達。
* [[6月26日]] - [[フランシスコ・ピサロ]]が暗殺される。
* [[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]がアイルランド王を自称し、これをもって[[アイルランド王国]]成立。
* [[ニコロ・フォンタナ・タルタリア]]が、[[三次方程式]]の解法を発見。
* [[聖女ディンプナ教会]]の塔が着工。
* [[ゲラルドゥス・メルカトル]]が[[地球儀]]を作る。
* [[システィーナ礼拝堂]]の壁画「[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]」が完成。
* [[カルヴァン]]が[[ジュネーヴ]]で宗教改革に着手。
* [[イエズス会]]初代総長に[[イグナチオ・ロヨラ]]を選出。
* [[チリ]]が[[スペイン]]の植民地となる。
* [[ジャック・カルティエ]]第3回探検行。
=== 日本 ===
* [[7月7日]](天文10年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]) - [[武田信玄|武田晴信]]、父[[武田信虎|信虎]]を[[駿河国|駿河]]に追放し家督を相続<ref>{{Cite web|和書 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/64e3075a14068bbc446efa0d83461f3223d2dfb2|title=【戦国こぼれ話】武田信玄の父・信虎は、なぜ甲斐から追放されたのか。その驚愕すべき真相とは|publisher=Yahoo!ニュース|date=2021-11-20|accessdate=2023-02-04}}</ref>。
* [[武田八幡宮]]竣工。
* ポルトガル船が[[豊後国]]に漂着し、領主の[[大友義鎮|大友宗麟]]に[[カボチャ]]の種が贈られる<ref>{{Cite web|和書 |url=http://library.pref.oita.jp/docs/reference/k12.html |title=大友宗麟とカボチャ渡来について。 |accessdate=2017-12-15 |archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/260163/library.pref.oita.jp/docs/reference/k12.html |archivedate=2007-07-06}}</ref>。
* [[吉田郡山城の戦い]]で[[尼子氏|尼子軍]]が敗北し[[安芸国|安芸]]から撤退。
* [[大内氏]]が[[厳島神主家|厳島神主家藤原氏]]を滅ぼす。
* [[佐東銀山城の戦い#天文10年(1541年)の戦い|佐東銀山城の戦い]]により[[武田氏#安芸武田氏|安芸武田氏]]が滅亡。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1541年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月10日]](天文10年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[長谷川角行]]、[[富士講]]の開祖 (+ [[1646年]])
* 2月10日(天文10年1月15日) - [[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]<ref>[[市村高男]]『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。</ref>、[[古河公方]](+ [[1583年]])
* [[7月20日]] - [[ピエール・ド・ラリヴェ]]、[[劇作家]]、[[翻訳家]](+ [[1619年]])
* [[10月4日]](天文10年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[千葉親胤]]、[[戦国大名]](+ [[1557年]])
* [[吉良親貞]]、[[長宗我部元親]]の弟(+ [[1576年]])
* [[植村家存]]、[[徳川氏]]家臣(+ [[1577年]])
* [[吉弘鎮信]]、[[大友氏]]家臣(+ [[1578年]])
* [[波多野秀治]]、[[武将|戦国武将]](+ [[1579年]])
* [[穴山信君]]、戦国武将(+ [[1582年]])
* [[海野信親]]、戦国武将(+ 1582年)
* [[足利義助]]、2代目[[平島公方]](+ [[1592年]])
* [[小幡信貞]]、戦国武将(+ 1592年)
* [[毛利秀頼]]、戦国武将 (+ [[1593年]])
* [[北条氏邦]]、戦国武将(+ [[1597年]])
* [[伊集院忠棟]]、[[島津氏]]家臣(+ [[1599年]])
* [[水野忠重]]、戦国武将(+ [[1600年]])
* [[佐竹義久]]、戦国武将(+ [[1601年]])
* [[細野藤敦]]、[[伊勢国]]の豪族(+ [[1603年]])
* [[ジャン・ボーアン]]、[[本草学者]](+ [[1612年]])
* [[エル・グレコ]]、[[画家]](+ [[1614年]])
* [[奥村永福]]、[[前田氏]]家臣(+ [[1624年]])
* [[小峰義親]]、戦国武将(+ [[1626年]])
* [[陽泰院]]、[[鍋島直茂]]正室(+ [[1629年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1541年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月8日]](天文10年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[尼子久幸]]、[[武将|戦国武将]](* 生年不詳)
* [[3月9日]](天文10年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]])? - [[小山田信有 (越中守)|小山田信有]]、[[小山田氏]]当主(* [[1488年]])
* [[4月11日]] - [[ドナト・ブラマンテ]]、[[建築家]]・[[画家]] (* [[1444年]])
* [[6月26日]] - [[フランシスコ・ピサロ]]、[[コンキスタドール]](* [[1471年]]あるいは[[1478年]])
* [[7月2日]](天文10年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]) - [[大浦政信]]、戦国武将 (* [[1497年]])
* [[7月4日]] - [[ペドロ・デ・アルバラード]]、コンキスタドール(* [[1485年]])
* [[8月10日]](天文10年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[北条氏綱|北條氏綱]]、[[戦国大名]]([[1486年]])
* [[9月24日]] - [[パラケルスス]]、[[錬金術師]]、[[医師]]、[[自然哲学]]者(* [[1493年]])
* [[10月24日]](天文10年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]) - [[芳賀高経]]、戦国武将 (* [[1497年]])
* [[11月23日]](天文10年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[一条房冬]]、戦国大名(* [[1498年]])
* [[11月30日]](天文10年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[尼子経久]]、戦国大名(* [[1458年]])
* [[天野興定]]、戦国武将 (* [[1475年]])
* [[王艮]]、[[思想家]](* [[1483年]])
* [[浪岡具永]]、[[浪岡氏|浪岡北畠家]]当主 (* [[1487年]])
* [[南部安信]]、[[戦国大名]](* [[1493年]])
* [[大宝寺晴時]]、[[大宝寺氏]]当主(* [[1512年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1541}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,386 |
1572年
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1572年(1572 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1572年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
|
{{年代ナビ|1572}}
{{year-definition|1572}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]]:[[壬申]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元亀]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2232年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]]:[[隆慶 (明)|隆慶]]6年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]]:[[宣祖]]5年
** [[檀君紀元|檀紀]]3905年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]]:[[崇康]]7年
** [[黎朝|後黎朝]]:[[洪福]]元年
* [[仏滅紀元]]:2114年 - 2115年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:979年 - 980年
* [[ユダヤ暦]]:5332年 - 5333年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1572|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[8月24日]] - [[サン・バルテルミの虐殺]]。
* [[カシオペヤ座]]に[[超新星]]([[SN 1572]])出現。[[ティコ・ブラーエ]]が発見したため、この星は「ティコの星」と呼ばれる。
* [[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]即位(-[[1585年]])
* [[ポーランド王国]]の[[ヤギェウォ朝]]断絶、[[選挙君主制|選挙王政]]となる。
* [[明]]の[[万暦帝]]即位(-[[1620年]])
== 誕生 ==
{{see also|Category:1572年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月22日]]? - [[ジョン・ダン]]、[[詩人]]、[[作家]](+ [[1631年]])
* [[6月11日]] - [[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]、詩人(+ [[1637年]])
* [[7月14日]]([[元亀]]3年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[酒井忠世]]、[[大老]](+ [[1636年]])
* [[11月8日]] - [[ヨーハン・ジギスムント]]、[[ブランデンブルク選帝侯]](+ [[1619年]])
* 月日不明 - [[出雲阿国]]、[[歌舞伎]]創始者(+ 没年不詳)
* 月日不明 - [[宇喜多秀家]]、豊臣[[五大老]](+[[1655年]])
* 月日不明 - [[小幡景憲]]、兵学者(+ [[1663年]])
* 月日不明 - [[コルネリウス・ドレベル]]、[[発明家]]、最初の[[潜水艦]]の発明者(+ [[1633年]])
* 月日不明 - [[蘇我理右衛門]]、[[住友財閥]]業祖(+ [[1636年]])
* 月日不明 - [[トマス・トムキンズ]]、[[作曲家]](+ [[1656年]])
* 月日不明 - [[摩阿姫]]、[[前田利家]]の娘(+ [[1605年]])
* 月日不明 - [[真田十勇士#望月六郎|望月六郎、真田十勇士]]のひとり(+ [[1615年]]?)
* 月日不明 - [[ヨハン・バイエル]]、[[天文学者]](+ [[1625年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1572年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月23日]] - [[ピエール・セルトン]]、作曲家(* [[1510年]] - [[1520年]]頃)
* [[5月1日]] - [[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1504年]])
* [[6月2日]] - [[トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公)]]、イングランド貴族(* [[1536年]]<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10300.htm#i102995 |title=Henry Howard, Earl of Surrey|accessdate= 2021-04-27 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/norfolk1483.htm|title=Norfolk, Duke of (E, 1483)|accessdate=2021-04-27|last=Heraldic Media Limited|work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110823031400/http://www.cracroftspeerage.co.uk/Norfolk1483.htm|archivedate=2011年8月23日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>)
* [[6月9日]] - [[ジャンヌ・ダルブレ]]、[[ナバラ王国]]女王(* [[1528年]])
* [[6月11日]](元亀3年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[朝倉景紀]]、[[武将|戦国武将]](* [[1505年]])
* [[7月5日]] - [[隆慶帝]]、[[明]]の第13代皇帝(* [[1537年]])
* [[8月20日]] - [[ミゲル・ロペス・デ・レガスピ]]、[[コンキスタドール]]、[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]](* [[1502年]])
* [[8月24日]] - [[ガスパール・ド・コリニー]]、[[貴族]]、[[軍人]](* [[1519年]])
* [[8月27日]]前後 - [[クロード・グディメル]]、作曲家、[[音楽理論家]](* [[1510年]]頃)
* [[9月24日]] - [[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマル]]、[[インカ帝国]][[皇帝]](* 生年不詳)
* [[11月23日]] - [[アーニョロ・ブロンズィーノ]]、[[画家]](* [[1503年]])
* [[12月22日]] - [[フランソワ・クルーエ]]、画家(* [[1510年]]頃)
* 月日不明 - [[尚元王]]、[[琉球王国]][[国王]](* [[1528年]])
== フィクションのできごと ==
* スティーヴン、サン・バルテルミの虐殺を防ごうとする。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1572}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,387 |
1570年
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1570年(1570 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1570年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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{{年代ナビ|1570}}
{{year-definition|1570}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永禄]]13年、[[元亀]]元年4月23日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2230年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[隆慶 (明)|隆慶]]4年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]3年
** [[檀君紀元|檀紀]]3903年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[崇康]]5年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]13年
* [[仏滅紀元]] : 2112年 - 2113年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 977年 - 978年
* [[ユダヤ暦]] : 5330年 - 5331年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1570|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[1月9日]] - [[イワン雷帝]]が[[ノヴゴロド虐殺]]を開始
* [[2月25日]] - [[教皇]][[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]が[[エリザベス1世]]を破門
* [[5月20日]] - [[アブラハム・オルテリウス]] 「世界の舞台 (Theatrum Orbis Terrarum)」出版 (世界初の近代的地図)
* [[8月8日]] - [[ユグノー戦争|フランス宗教戦争]](第3次): [[サン=ジェルマン=アン=レー]]の和議
=== 日本 ===
* [[5月27日]](永禄13年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]) - [[改元]]して[[元亀]]元年
* [[6月1日]](元亀元年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - [[金ヶ崎の戦い]](金ヶ崎の退き口)
* [[8月9日]](元亀元年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]) - [[姉川の戦い]]
* [[9月19日]](元亀元年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[今山の戦い]]。[[大友氏]]の大軍に攻め込まれた[[龍造寺隆信]]が勝利する
* [[11月5日]](元亀元年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]) - [[徳川家康]]と[[上杉謙信|上杉輝虎]]が同盟を締結。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1570年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月23日]] - [[ガイ・フォークス]]、[[火薬陰謀事件]]の実行責任者(+ [[1606年]])
* [[8月17日]]([[元亀]]元年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]、[[武将]]・[[戦国大名]](+ [[1633年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1570年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月29日]](元亀元年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[森可隆]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]](* [[1552年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1570}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,388 |
1575年
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1575年(1575 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1575年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天正]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2235年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]3年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]8年
** [[檀君紀元|檀紀]]3908年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[崇康]]10年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[嘉泰 (黎朝)|嘉泰]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2117年 - 2118年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 982年 - 983年
* [[ユダヤ暦]] : 5335年 - 5336年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1575|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[2月8日]] - [[ライデン大学]]創設。
* [[ポルトガル人]]が[[ルアンダ]]([[アンゴラ共和国]]の首都)を建設。
=== 日本 ===
* [[6月29日]]([[天正]]3年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - 織田・徳川連合軍と武田軍が[[長篠城]]西方の[[設楽原]]で激突([[長篠の戦い]])、織田・徳川連合軍が勝利し[[武田勝頼]]は撤退。
* [[長宗我部元親]]が[[四万十川の戦い]]で[[一条兼定]]を破り、[[土佐国|土佐]]を平定する。
* [[日本香堂]]の源流企業が創業される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1575年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[11月4日]] - [[グイド・レーニ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Guido-Reni Guido Reni Italian painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](+ [[1642年]])
* [[長宗我部盛親]]、[[土佐国|土佐]]の[[大名]]・[[武将]](+ [[1615年]])
* [[堀秀治]]、武将(+ [[1606年]])
* [[本多忠政]]、伊勢桑名藩第2代[[藩主]]、播磨姫路藩初代藩主(+ [[1631年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1575年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[6月24日]](もしくは25日)([[天正]]3年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]もしくは[[5月17日 (旧暦)|17日]]) - [[鳥居強右衛門]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]における[[奥平信昌]]の[[足軽]](* [[1540年]])
* [[6月29日]](天正3年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[甘利信康]]、[[武田氏]]の[[武将]]
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[河窪信実]]、[[武田信玄]]の弟
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[高坂昌澄]]、武田氏の武将(* [[1551年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[三枝昌貞]](守友)、武田氏の武将。[[武田二十四将]]の1人(* [[1537年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[真田信綱]]、武田氏の武将。武田二十四将の1人(* [[1537年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[真田昌輝]]、真田信綱の弟(* [[1543年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[土屋昌続]]、武田氏の武将(* [[1544年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[内藤昌豊]]、[[武田四名臣]]の1人(* [[1522年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[馬場信春]]、武田四名臣の1人(* [[1515年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[原昌胤]]、武田二十四将の1人(* [[1531年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[原盛胤]]、武田氏の武将
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[松平伊忠]]、[[徳川氏]]の武将。[[十八松平]]の1つ(* [[1537年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[望月信永]]、武田氏の一門でもある武将(* [[1551年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[山県昌景]]、武田四名臣の1人(* [[1529年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[横田康景]]、武田氏の武将(* [[1525年]])
* 6月29日(天正3年5月21日) - [[和田業繁]]、武田氏の武将
* [[12月23日]](天正3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[秋山虎繁]](信友)、武田二十四将の1人(* [[1527年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1575}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}}
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13,389 |
1551年
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1551年(1551 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1551年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天文 (元号)|天文]]20年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2211年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[嘉靖]]30年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]6年
** [[檀君紀元|檀紀]]3884年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[景暦]]4年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[順平]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2093年 - 2094年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 957年 - 959年
* [[ユダヤ暦]] : 5311年 - 5312年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1551|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[9月28日]] - [[9月30日|30日]]([[天文 (元号)|天文]]20年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]] - [[9月1日 (旧暦)|9月1日]]) - [[大寧寺の変]]。[[周防国|周防]]の[[戦国大名]]・[[大内義隆]]が、[[守護代]]・[[陶晴賢]]たちの軍勢に攻められ、逃亡先の[[長門国|長門]][[大寧寺]]にて自害。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1551年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:1551年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月8日]](天文20年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[織田信秀]]、[[尾張国|尾張]]の[[戦国武将]]。[[織田信長]]の父。(* [[1511年]])
* [[5月18日]] - [[ドメニコ・ベッカフーミ]]、[[画家]](* [[1486年]])
* [[9月30日]](天文20年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]) - [[大内義隆]]、[[周防国|周防]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]](* [[1507年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1551}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,393 |
朝霞台駅
|
朝霞台駅(あさかだいえき)は、埼玉県朝霞市東弁財一丁目にある、東武鉄道東上本線の駅である。駅番号はTJ 13。
島式ホーム2面4線を有する地上駅で、ホームは切通し部にある。複々線区間にあり、外側を池袋発着の優等列車が、内側を普通列車および地下鉄線直通列車が走る(東上線の8両編成の乗り入れる駅としては上り電車において唯一の停車位置が前あわせの駅である。そのため女性専用車両の位置も10両のピンクと8両の緑が併用されている)。階段のほか、バリアフリー対応のエスカレーターが設置されている。
駅舎は地平よりやや高い位置にあり、改札口は跨線橋に直結した半橋上駅となっているため、駅舎に入るには北口、南口ともに10段程度階段を上る必要がある。この階段部についても、2004年3月頃にエスカレーターが設置された。
2009年10月上旬に、ピクトグラムを用いた点字付きの、駅構内案内図・トイレ内案内図を設置した。2010年3月頃には、発車案内表示機が更新された。
武蔵野線北朝霞駅が北口側にある。駅舎の北、プラットホームにかかる位置を武蔵野線が高架で越えている。
東武川越駅管区傘下の駅長配置駅で、朝霞駅を管理する。
2021年度の1日平均乗降人員は131,316人である。東上線内では池袋駅、和光市駅に次ぐ第3位である。増加傾向ではあるが、2008年度以降は、同年度に大幅に増加した和光市駅より少なくなっている。東武鉄道全体では北千住駅、池袋駅、和光市駅に次いで4番目に多い。
近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。
乗換駅
公的施設・学校
郵便局・金融機関
店舗
南口側のバス停留所名は朝霞台駅、北口側の停留所名は北朝霞駅である。
この他、国際興業バスによる深夜急行バスとして池袋駅西口→朝霞台駅行のバスと池袋駅西口→朝霞台駅(降車のみ)→新座駅行のバスがある。
「北朝霞駅#バス路線」を参照。
|
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"text": "朝霞台駅(あさかだいえき)は、埼玉県朝霞市東弁財一丁目にある、東武鉄道東上本線の駅である。駅番号はTJ 13。",
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"text": "島式ホーム2面4線を有する地上駅で、ホームは切通し部にある。複々線区間にあり、外側を池袋発着の優等列車が、内側を普通列車および地下鉄線直通列車が走る(東上線の8両編成の乗り入れる駅としては上り電車において唯一の停車位置が前あわせの駅である。そのため女性専用車両の位置も10両のピンクと8両の緑が併用されている)。階段のほか、バリアフリー対応のエスカレーターが設置されている。",
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"text": "駅舎は地平よりやや高い位置にあり、改札口は跨線橋に直結した半橋上駅となっているため、駅舎に入るには北口、南口ともに10段程度階段を上る必要がある。この階段部についても、2004年3月頃にエスカレーターが設置された。",
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"text": "2009年10月上旬に、ピクトグラムを用いた点字付きの、駅構内案内図・トイレ内案内図を設置した。2010年3月頃には、発車案内表示機が更新された。",
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"text": "東武川越駅管区傘下の駅長配置駅で、朝霞駅を管理する。",
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"text": "2021年度の1日平均乗降人員は131,316人である。東上線内では池袋駅、和光市駅に次ぐ第3位である。増加傾向ではあるが、2008年度以降は、同年度に大幅に増加した和光市駅より少なくなっている。東武鉄道全体では北千住駅、池袋駅、和光市駅に次いで4番目に多い。",
"title": "利用状況"
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"text": "近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。",
"title": "利用状況"
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"text": "乗換駅",
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"text": "公的施設・学校",
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"text": "郵便局・金融機関",
"title": "駅周辺"
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"text": "店舗",
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"text": "南口側のバス停留所名は朝霞台駅、北口側の停留所名は北朝霞駅である。",
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"text": "この他、国際興業バスによる深夜急行バスとして池袋駅西口→朝霞台駅行のバスと池袋駅西口→朝霞台駅(降車のみ)→新座駅行のバスがある。",
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"text": "「北朝霞駅#バス路線」を参照。",
"title": "バス路線"
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朝霞台駅(あさかだいえき)は、埼玉県朝霞市東弁財一丁目にある、東武鉄道東上本線の駅である。駅番号はTJ 13。
|
{{駅情報
|社色 = #0f6cc3
|文字色 =
|駅名 = 朝霞台駅
|画像 = Asakadai Station North Entrance 20120910.JPG
|画像説明 = 北口(2012年9月)
|pxl = 300px
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
|type=point|type2=point
|marker=rail|marker2=rail
|coord={{coord|35|48|52.4|N|139|35|13.5|E}}|marker-color=0f6cc3|title=朝霞台駅
|coord2={{coord|35|48|55.62|N|139|35|13.87|E}}|marker-color2=008000|title2=北朝霞駅
}}上は北朝霞駅
|よみがな = あさかだい
|ローマ字 = Asakadai
|前の駅 = TJ 12 [[朝霞駅|朝霞]]
|駅間A = 2.4
|駅間B = 1.4
|次の駅 = [[志木駅|志木]] TJ 14
|電報略号 = アイ
|駅番号 = {{駅番号r|TJ|13|#004098|1}}
|所属事業者 = [[東武鉄道]]
|所属路線 = {{color|#004098|■}}[[東武東上本線|東上本線]]
|キロ程 = 16.4
|起点駅 = [[池袋駅|池袋]]
|所在地 = [[埼玉県]][[朝霞市]]東弁財一丁目4-17
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 48 | 緯度秒 = 52.4 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 35 | 経度秒 = 13.5 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
|座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1974年]]([[昭和]]49年)[[8月6日]]
|乗降人員 = 143,856
|統計年度 = 2022年
|乗換 = [[北朝霞駅]]([[東日本旅客鉄道|JR]][[武蔵野線]])
|備考 =
}}
'''朝霞台駅'''(あさかだいえき)は、[[埼玉県]][[朝霞市]]東弁財一丁目にある、[[東武鉄道]][[東武東上本線|東上本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。駅番号は'''TJ 13'''。
== 歴史 ==
* [[1974年]]([[昭和]]49年)[[8月6日]]:[[武蔵野線]][[北朝霞駅]]([[1973年]][[4月1日]]開業)との乗り換えの便宜を図るために開設。
** 開設当初は[[東武東上本線#準急|準急]](成増以北各駅停車)と普通のみ停車。
* [[1998年]]([[平成]]10年)[[3月26日]]:乗り換え客の利便向上のため、[[東武東上本線#急行|急行]]の停車駅になる<ref>{{Cite news |title=3月26日 東武東上線ダイヤ改正 朝霞台に急行停車 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-02-17 |page=3 }}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[4月27日]]:発車メロディ使用開始。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:ダイヤ改正により新設された「快速」の停車駅となる。
* [[2014年]](平成26年)[[9月30日]]:駅南口にあった定期乗車券販売窓口は、[[東松山駅]]の定期乗車券販売窓口と共に、営業を終了。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:ダイヤ改正により新設された「川越特急」の停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/8ec1b6cc91ef33effbea794955431a1f_190129_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200617052932/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/8ec1b6cc91ef33effbea794955431a1f_190129_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月16日(土)東武東上線でダイヤ改正を実施! 〜土休日下り快速急行の運転区間を延長し全列車小川町行きに! 土休日池袋発川越市行き下り最終列車の繰下げ等を実施します!〜|publisher=東武鉄道|date=2019-01-29|accessdate=2020-06-17|archivedate=2020-06-17}}</ref>。
* [[2023年]]([[令和]]5年)[[3月18日]]:ダイヤ改正により快速急行の停車駅となる一方で、快速が廃止<ref name="tobu20221216">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20221216095003CgiPlyiMuAYy0ETMej1V2g.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216093042/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20221216095003CgiPlyiMuAYy0ETMej1V2g.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東上線・越生線・東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線において 2023年3月18日(土)ダイヤ改正を実施します 〜東上線から、東海道新幹線 新横浜駅へダイレクトアクセスが可能に〜|publisher=東武鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-17|archivedate=2022-12-16}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面4線を有する[[地上駅]]で、ホームは[[切通し]]部にある。[[複々線]]区間にあり、外側を池袋発着の[[優等列車]]が、内側を[[東武東上本線#普通|普通列車]]および地下鉄線直通列車が走る(東上線の8両編成の乗り入れる駅としては上り電車において唯一の停車位置が前あわせの駅である。そのため女性専用車両の位置も10両のピンクと8両の緑が併用されている)。階段のほか、[[バリアフリー]]対応の[[エスカレーター]]が設置されている。
駅舎は地平よりやや高い位置にあり、[[改札|改札口]]は[[跨線橋]]に直結した半[[橋上駅]]となっているため、駅舎に入るには北口、南口ともに10段程度階段を上る必要がある。この階段部についても、[[2004年]]3月頃にエスカレーターが設置された。
[[2009年]]10月上旬に、[[ピクトグラム]]を用いた[[点字]]付きの、駅構内案内図・トイレ内案内図を設置した。2010年3月頃には、発車案内表示機が更新された。
[[武蔵野線]][[北朝霞駅]]が北口側にある。駅舎の北、プラットホームにかかる位置を武蔵野線が[[高架橋|高架]]で越えている。
東武川越駅管区傘下の駅長配置駅で、[[朝霞駅]]を管理する。
=== のりば ===
{| class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/7307/ |title=朝霞台駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
!1
|rowspan="4"|[[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上線
|rowspan="2" style="text-align:center" | 下り
| rowspan="2" |[[川越駅|川越]]方面
|-
!2
|-
!3
|rowspan="2" style="text-align:center" | 上り
|rowspan="2"|[[池袋駅|池袋]]方面
|-
!4
|}
* 川越特急池袋行は和光市駅を通過する。そのため、有楽町線・副都心線[[小竹向原駅|小竹向原]]方面へは当駅での乗り換えが必要となる。
<gallery>
ファイル:Asakadai Station South Entrance 20120910.JPG|南口(2012年9月)
ファイル:Asakadai-st-gate.JPG|改札口(2009年2月)
</gallery>
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''143,856人'''である<ref>[https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員)] - 東武鉄道</ref>。東上線内では池袋駅、和光市駅に次ぐ第3位である。増加傾向ではあるが、2008年度以降は、同年度に大幅に増加した和光市駅より少なくなっている。東武鉄道全体では北千住駅、池袋駅、和光市駅に次いで4番目に多い。
近年の1日平均'''乗降'''人員および[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下記の通り。
<!--埼玉県統計年鑑を出典にしている数値については、/365(or366)で計算してあります-->
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.asaka.lg.jp/life/4/30/333/ 統計あさか] - 朝霞市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/ 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref>
!出典
|-
|1978年(昭和53年)
|42,798
|
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|92,028
|46,495
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成3年) - 152ページ</ref>-->
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|96,788
|48,877
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成4年) - 152ページ</ref>-->
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|102,068
|51,936
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成5年) - 162ページ</ref>-->
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|106,487
|54,425
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成6年) - 166ページ</ref>-->
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|109,391
|56,090
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成7年) - 166ページ</ref>-->
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|115,793
|57,933
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成8年) - 172ページ</ref>-->
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|115,967
|57,979
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成9年) - 172ページ</ref>-->
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|115,284
|57,716
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成10年) - 178ページ</ref>-->
|-
|1998年(平成10年)
|115,669
|58,138
|<!--<ref group="*">埼玉県統計年鑑(平成11年) - 186ページ</ref>-->
|-
|1999年(平成11年)
|117,293
|59,016
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20091230-813.html 埼玉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|122,307
|61,429
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-832.html 埼玉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|127,457
|62,944
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100105-852.html 埼玉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|128,877
|63,789
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-872.html 埼玉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|130,907
|65,022
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100106-892.html 埼玉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|132,522
|65,924
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-912.html 埼玉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|130,025
|64,657
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-934.html 埼玉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|132,289
|65,813
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100107-957.html 埼玉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|138,352
|68,602
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/911-20100108-980.html 埼玉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|141,694
|70,226
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a200908.html 埼玉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|143,756
|71,319
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201008.html 埼玉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|146,178
|72,610
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201108.html 埼玉県統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|145,301
|72,692
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201208.html 埼玉県統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|149,650
|74,881
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201308.html 埼玉県統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|154,281
|77,187
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a310a201408.html 埼玉県統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|153,680
|76,873
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2015ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|158,140
|79,109
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2016ubbyutuusinn.html 埼玉県統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|161,320
|80,423
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2017_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|163,056
|81,339
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2018_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|162,963
|81,322
|<ref group="*">[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2019_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和元年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|161,762
|80,744
|<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2020_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|119,009
|59,408
|<ref group="*">[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/a2021_08_unnyu.html 埼玉県統計年鑑(令和3年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|131,316
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|143,856
|
|
|}
== 駅周辺 ==
'''[[乗換駅]]'''
* [[北朝霞駅]] - [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[武蔵野線]]
** 北口側の[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]を共有している。広場の設計は[[鳳コンサルタント環境デザイン研究所]]。駅舎は隣接し、連絡通路は屋根で覆われている。駅名は異なるものの、実質同一駅であり乗り換えは便利。開業後、しばらくは周辺に建物も少なく、乗換え目的に特化した駅といった風情であったが、[[2000年]]代に入ってからはある程度の商業集積を持つようになっている。
'''公的施設・学校'''
* 朝霞市役所朝霞台出張所
* [[東京都水道局]][[朝霞浄水場]]
* 埼玉県朝霞県土整備事務所
* 朝霞市産業文化センター
** [[朝霞市立図書館]]北朝霞分館
* [[朝霞市博物館]]
* 朝霞県税事務所
* [[東洋大学朝霞キャンパス]]
'''郵便局・金融機関'''
* 朝霞三原郵便局
* 朝霞溝沼郵便局
* 朝霞宮戸郵便局
* [[りそな銀行]]朝霞台支店<ref>現時点では埼玉県内唯一となる、りそな銀行(本店[[大阪市]])の支店である。これは、[[あさひ銀行]]と[[大和銀行]]の経営統合に当たって、あさひ銀行の埼玉県内の支店を[[埼玉りそな銀行]]に、あさひ銀行の埼玉県外の支店と大和銀行の支店をりそな銀行に振り分けたことによるもので、埼玉県内に所在した大和銀行朝霞台支店はりそな銀行の支店となった。</ref>
'''店舗'''
<!--チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店などは記載しない-->
* [[Olympicグループ|オリンピック]]朝霞台店
* [[サミット (チェーンストア)|サミットストア]]朝霞台店
* TSUTAYA BOOKSTORE朝霞台店
== バス路線 ==
南口側の[[バス停留所]]名は'''朝霞台駅'''、北口側の停留所名は'''北朝霞駅'''である。
=== 南口(朝霞台駅停留所)発着 ===
{| class="wikitable"
|+
!乗り場
!系統
!経由
!行先
!会社
!備考
|-
! rowspan="2" | 1
|[[西武バス新座営業所#ひばりヶ丘駅北口 - 朝霞台駅方面|ひばり71]]
| rowspan="2" |[[新座市立片山小学校|片山小学校]]
|[[ひばりヶ丘駅]]北口
| rowspan="7" |西武バス
| rowspan="2" |深夜バスあり
|-
|[[西武バス新座営業所#ひばりヶ丘駅北口 - 朝霞台駅方面|朝23]]
|[[西武バス新座営業所|新座営業所]]
|-
! rowspan="5" | 2
|[[西武バス新座営業所#東久留米駅東口 - 新座営業所 - 新座駅・朝霞台駅方面|久留22]]
| rowspan="2" |[[平林寺]]
|[[東久留米駅]]東口
|
|-
|[[西武バス新座営業所#東久留米駅東口 - 新座営業所 - 新座駅・朝霞台駅方面|朝22]]
|新座営業所
|
|-
|[[西武バス新座営業所#朝霞台駅 - 泉水 - 志木駅・新座営業所方面|朝21]]
|水道道路入口
| rowspan="2" |[[志木駅]]南口
|
|-
|[[西武バス新座営業所#朝霞台駅 - 泉水 - 志木駅・新座営業所方面|朝24]]
|泉水三丁目
|
|-
|[[西武バス新座営業所#朝霞台駅 - 泉水 - 志木駅・新座営業所方面|朝24-1]]
|泉水三丁目・平林寺
|新座営業所
|
|-
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|[[東武バスウエスト新座営業事務所#朝霞・志木・新座エリア|朝04]]
|志木駅南口
|[[東武バスウエスト新座営業事務所|新座車庫]]
| rowspan="2" |東武バスウエスト
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|[[東武バスウエスト新座営業事務所#朝霞・志木・新座エリア|朝04・05]]
|溝沼坂下
|朝霞駅東口
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|[[東京国際空港|羽田空港]]
|東武バス<br/>[[京浜急行バス]]
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|[[成田国際空港|成田空港]]
|東武バス<br/>[[東京空港交通]]
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|スカイツリーシャトル
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|[[東京スカイツリー|東京スカイツリータウン]]
|東武バス
|[[高速バス]]<br />新型コロナウイルスの影響で休止中、<br />更に2021年9月30日付で廃止<ref>[https://www.tobu-bus.com/sp/topics/detail.php?key=01605 9/30スカイツリーシャトルお台場線および和光・志木線系統廃止について(新着情報|東武バスOn-Line)]</ref>-->
|}
この他、[[国際興業バス]]による[[国際興業バス#深夜急行路線|深夜急行バス]]として[[池袋駅|池袋駅西口]]→朝霞台駅行のバスと池袋駅西口→朝霞台駅(降車のみ)→[[新座駅]]行のバスがある。
=== 北口(北朝霞駅停留所)発着 ===
「[[北朝霞駅#バス路線]]」を参照。
== 隣の駅 ==
<!-- 種別色は公式サイトに準拠(「普通」は方向幕に合わせて色を反転している)-->
; 東武鉄道
: [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上本線
::{{Color|#ff6600|■}}TJライナー
:::'''通過'''
:: {{Color|#990066|■}}川越特急
:::[[池袋駅]] (TJ 01) - '''朝霞台駅 (TJ 13)''' - [[川越駅]] (TJ 21)
:: {{Color|#006699|■}}快速急行
::: [[和光市駅]] (TJ 11) - '''朝霞台駅 (TJ 13)''' - 川越駅 (TJ 21)
:: {{Color|#ff3333|■}}急行・{{Color|#009966|■}}準急・{{Color|black|□}}普通
::: [[朝霞駅]] (TJ 12) - '''朝霞台駅 (TJ 13)''' - [[志木駅]] (TJ 14)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 出典 ==
; 埼玉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Asakadai Station}}
* {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=7307}}
{{東武東上線}}
{{デフォルトソート:あさかたいえき}}
[[Category:埼玉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 あ|さかたい]]
[[Category:東武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1974年開業の鉄道駅]]
[[Category:朝霞市の交通]]
[[Category:朝霞市の建築物]]
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テヘラン
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テヘラン(ペルシア語: تهران ; Tehrān 発音/teɦˈrɒːn/、英語: Tehran; 漢字:丁蘭)は、イランの首都であり、同国最大の都市。テヘラン州の州都。
人口869万人、都市圏人口は1,367万人であり、世界有数の大都市圏を形成している。
テヘランは、イランの文化的中心でもあり、多数の博物館、美術館、宮殿、文化センター、高等教育機関を擁する。宗教的中心でもあり、イスラム教のモスクのみならず、キリスト教の教会やユダヤ教のシナゴーグも各所にみられる。住民の大多数はシーア派イスラム教徒。20世紀から21世紀にかけて、イラン各地から大量の人口流入があり人口が急増した。
テヘランの住民は、ペルシア人が大多数を占めている。他にはアゼルバイジャン人、アルメニア人、ユダヤ人などもいる。住民の98.3%はペルシア語を話す。イランの主要民族構成は、ペルシア人(51%)、アーゼリ人(25%)、クルド人(7%)、アラブ人(4%)である。
イラン高原の北西部の、標高1200 mほどの地点にある。北部にアルボルズ山脈がそびえ、同山脈およびイランの最高峰であるダマーヴァンド山から南西に66kmはなれた山麓に位置する。南には中央砂漠が広がっている。テヘランはアルボルズ山脈からの扇状地の先端に位置する。山脈と扇状地の境界付近に北テヘラン断層、更にその北にはモシャ断層が分布している他、市南部にはレイ断層が分布しており、活断層に囲まれている。
テヘラン市街は中心部を東西に走る大通りであるエンゲラーブ通り(革命前はシャー・レザー通りという名だった)によって南北に分けられる。エンゲラーブ通りは取り壊されたテヘラン旧城壁の北端に位置し、通り以南は旧市街となっている。エンゲラーブ通り以北は行政機関や企業が集中するビジネス中心地区であり、パフレヴィー朝成立以後に開発が進んだ地区である。エンゲラーブ通りに面して北側にはテヘラン大学のキャンパスがあり、通りの西端にあるアーザーディー・タワーは1971年に建てられたテヘランのシンボルであり、上の展望台からは市街が一望できる。エンゲラーブ通りの少し北には1979年に起きたイランアメリカ大使館人質事件の舞台となった旧アメリカ大使館があるが、現在は閉鎖されている。テヘランの北端近く、丘陵のほぼ北端にはパフレヴィー朝時代には夏の離宮として使用されたサーダーバード宮殿があり、現在では宮殿博物館としてここも観光名所となっている。また、北端にはトチャル山へと登る全長3200mのロープウェイがあり、頂上からは市街が一望できる。
これに対し、南部は市の中心であるエマーム・ホメイニー広場や、その南にはかつての商業中心であるバザール、旧城壁の南側にはテヘラン中央駅も存在する。バザールの商業的機能は低下しつつあるが、それでもテヘラン有数の商業地であり、多くの人が訪れる。エマーム・ホメイニー広場とバザールの間にはガージャール朝の王宮であったゴレスターン宮殿があり、現在では王宮博物館として美術品などが展示され、庭園とともに観光客の多く訪れる名所となっている。一方、エマーム・ホメイニー広場から北のエンゲラーブ通りまでの間にはイラン国立博物館や、イラン中央銀行、その中央銀行の地下大金庫内にあるイラン宝石博物館など多くの観光名所が存在する。中でも宝石博物館には、イラン王家の象徴である孔雀の玉座や、182カラットあって世界最大のダイヤモンドの一つであるダルヤーイェ・ヌール、レザー・シャーの王冠や5万1千個の宝石をちりばめた地球儀など、イラン王家の所蔵していた非常に貴重な宝石類が収められている。
テヘランが巨大化するにつれて周辺も市街地化が進むようになったが、都市化は主に北へ向かって進み、南へはそれほど伸びてはいない。これは、標高の高い市の北部のほうが環境がよく、夏の暑熱もしのげるために高級住宅地となっているからである。これに対し、南部は下町となっており、貧富の差によっておおよその住み分けが行われている。テヘランでは地元民は市街北部を「上」、市街南部を「下」と呼ぶ。これはテヘランがアルボルズ山脈の麓にあるため南北に高低差があることに加え、所得水準にも差があるためである(文字通りの「アップタウンとダウンタウン」、「山の手と下町」)。近年では北西部や西部の都市開発も進み、新興住宅街が成立している。
市の南部にはイラン最大の墓地であるベヘシュテ・ザフラー墓地があり、ルーホッラー・ホメイニーの墓廟であるホメイニー廟もここに建設されている。
東京都、アメリカのニューメキシコ州サンタフェと緯度がほぼ一致する。例えば、テヘラン中央駅(北緯35度39分31秒 東経51度23分51秒 / 北緯35.658514度 東経51.397455度 / 35.658514; 51.397455 (テヘラン中央駅))と渋谷駅(北緯35度39分31秒 東経139度42分05秒 / 北緯35.658514度 東経139.70133度 / 35.658514; 139.70133 (渋谷駅))が同緯度にある。但し標高はテヘランの方が遥かに高い。
テヘランの水は、テヘランの北西30km、キャラジ市にあるにあるカラジ・ダムをはじめとするダムに依存している。キャラジ市はこのダムの電力により発展し、テヘラン郊外の工業都市となった。
ケッペンの気候区分ではステップ気候(BSk)に属する。冬季は寒く、1981〜2010年平年値での最寒月である1月の平均気温は5.1度、最低気温極値は-21°Cにもなる。冬季は降水量も多いため積雪になることもあり、北端の山々はスキー場となっている。一方、夏季は乾燥していて非常に暑く、ほとんど雨は降らない。しかし乾燥しているため、夜間は涼しくなる。最も暑い月である7月の平均気温は31.2度、最高気温極値は42.7度である。
テヘランはイラン国内では気候の穏やかな地域であるが、時折激しい気温の変動に見舞われる。観測史上の最高気温記録は43°C、最低気温記録は−15°Cである。2008年の1月5日および6日には、わずかな雪が降った後に大寒波と大雪がテヘランを襲い、1月6日および7日には市評議会の要請を受けて政府は正式に非常事態を表明する事態となった。2005年2月の大雪は市街全域に降り積もり、市の南部では積雪が15cm、市の北部では1mにも及んだ。この時は70便以上のフライトが中止され、また多くの便で遅延が発生した。道路の除雪のために、1万台のブルドーザーと13000人の労働者が投入された。
テヘランはテヘラン州に属する。テヘラン州は13の郡(シャフレスターン)に分かれ、テヘラン市域の大部分はテヘラン郡に属するが、テヘラン郡とテヘラン市の区域は一致しない。即ち、テヘラン市は一部周辺郡にもまたがり、一方でテヘラン郡内でもテヘラン市に所属しない地域もある。テヘラン市は北をシェミーラーナート郡、東をテヘラン郡の他自治体、南をレイ郡、エスラームシャフル郡、西をシャフリヤール郡とキャラジ郡に接する。
テヘラン市は22の区に分かれている。第1区の大部分と第2区の一部はシェミーラーナート郡に、第20区の全域はレイ郡に、第18区の一部はエスラームシャフル郡に属している。
テヘラン市の政治は21人の評議員からなるテヘラン市評議会が担当している。市長は評議会によって選出される。1908年から1920年までは内務大臣が、1920年から1988年まではテヘラン州知事が市長を任命していたが、1988年に現行の方式に改定された。任期は5年である。改定当初は改革派の市長が相次いで選出されていたが、2003年にイスラム主義の政治連合イラン・イスラーム同盟の支持を受けて保守強硬派のマフムード・アフマディーネジャードが市長に選出されると保守的な政策を相次いで打ち出すようになった。2005年にアフマディーネジャードが大統領選に出馬し当選すると、市評議会は新市長として大統領選で5位だったやはり保守派のモハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ(ガリバフ)が市長に選出され、2017年までつとめた。2018年5月に市長に選ばれたモハンマドアリー・アフシャーニーは改革派 。
現在テヘランで最も深刻な環境問題は大気汚染である。これは、テヘランの成長によって自動車が急増したことに加え、もともと内陸の盆地にあり、北をアルボルズ山脈に遮られたテヘランでは空気が淀みやすいことが原因となっている。テヘランはスモッグに覆われることが多くなり、2006年には一日当たり約27人が大気汚染のために死亡しているとの推計もある.。地元当局によると、2007年には1ヶ月に3600人が大気汚染のために死亡しているとしている.。2013年1月6日には、保健衛生当局が2012年の1年間で4460人が大気汚染が原因で死亡したとする報告書を発表した。大気汚染の80%は自動車によるものであり、残りの20%は産業活動によるものである。
テヘランはイラン経済の中心である。イランの公的部門の労働者の30%はテヘランに集まっており、大企業も45%がテヘランに集中している。テヘランの労働者のほぼ半分は政府関係の職に就いている。残りの労働者のほとんどは、商店主、工場労働者、交通労働者である。イラン国内産業の半分以上がテヘランに基盤をおいている。
主な産業は、自動車製造、電子機器および部品製造、武器製造、繊維、砂糖、セメント、化学など。またカーペット製造と家具製造も盛んである。テヘラン南郊のレイには石油精製所が位置する。
また、テヘランはイランの主要な観光地の1つであり、この都市には数多くの有名な観光名所が存在する。
かつてイラン国内の商品流通のほとんどはテヘラン旧市街のバザールが握っていた。現在ではその影響力は縮小傾向にあるものの、いまだ卸売業を中心に大きな影響力を持っている。
トルコ、イラン、パキスタンなど中東および中央アジアの非アラブ・イスラム諸国10か国から構成される経済協力機構は、テヘランに本部を置いている。
プライスウォーターハウスクーパースの公表した調査によると、テヘランの2008年の都市GDPは1270億ドルであり、世界第47位である。
テヘランには市の西部にあるメヘラーバード国際空港と、市の南50kmにあるエマーム・ホメイニー国際空港の二つの主要空港がある。以前のメイン空港はメヘラーバード国際空港であったが、周辺が市街地化し拡張が難しくなったうえ手狭になったことから、2004年にエマーム・ホメイニー国際空港が開港した。以後、段階的に移転が進められ、2007年にはサウジアラビアへの巡礼(ハッジとウムラ)便以外のほとんどの国際線がエマーム・ホメイニー空港へと移転された。以後、メイン空港はエマーム・ホメイニー国際空港となり、メヘラーバード国際空港は巡礼線以外はすべて国内線の発着となった。メヘラーバード国際空港はイラン空軍の基地も兼ねている。また、メヘラーバード国際空港にはイランのフラッグキャリアであるイラン航空や、アーリヤー航空の本部がある。このほかの空港として、テヘラン駅の南側にあるカレフ・モレギ空港と、中心部のすぐ東にあるドウシャン・タッペ空港がある。
テヘラン旧市街の南端にあるテヘラン駅からはヨーロッパ方面も含めて24時間列車が運行されている。テヘランはイラン国内のほぼすべての主要鉄道路線の起点となっており、イラン縦貫鉄道もテヘランを通過する。これらの鉄道網はイラン・イスラーム共和国鉄道によって運行されており、その子会社であるラジャー旅客鉄道がテヘラン近郊および長距離の旅客輸送を担当している。
テヘラン・メトロは郊外線である5号線が1999年に中華人民共和国の中国北方工業公司によって建設され、2000年には5号線の接点であるサーテギーイェから町の中心部であるイマーム・ホメイニー駅までの2号線西半部が最初の地下鉄線として開通。2001年には南北を走る1号線の一部が開通し、2012年には3号線が開通した。2015年現在では5路線(1号線、2号線、3号線、4号線、5号線)あり中近東有数の路線網となっている。さらに、2路線(6号線、7号線)が建設中、1路線(8号線)が計画中であり、全部で8路線となる計画である。全7両編成であり、うち2両は女性専用車両となっている。
市長の肝いりで、2008年からBRTと呼ばれる道路上にバス専用のレーンが作られ、そこにバスが運行されている。バス専用レーンはフェンスで囲われているため一般の車両は全く進入できず、バスだけが道路上を高速で走行する。現在は3路線で、バス停は60ヶ所ある。
アジア初であったトロリーバスも健在である。
テヘランには、イランで最も古く、西アジアでも有数の歴史を誇る大学であるテヘラン大学をはじめ、多くの大学が存在する。
テヘランで最も人気のあるスポーツはサッカーであり、市内には多数のプロサッカークラブが存在する。ペルシアン・ガルフ・プロリーグに所属しているクラブとしては、エステグラルFC、ペルセポリスFC、ペイカーンFC、ナフト・テヘランFC、ラーフ・アーハンFCの5つである。中でも古い歴史があり実力もあるエステグラルFCとペルセポリスFCの直接対決は「テヘラン・ダービー」と呼ばれ、多くの観客が押し寄せる。
テヘランのメインスタジアムは収容人員が90,000人を越えるアザディ・スタジアムであり、エステグラルFCやペルセポリスFCの両チームがホームスタジアムとしている。この他にも、ラーフ・アーハンFCが本拠を置くラーフ・アーハン・スタジアムや、その隣にありナフト・テヘランFCが本拠を置くシャヒード・ダストゲルディ・スタジアムなども存在する。
男子バレーボールの強豪チームであるペイカン・テヘランVCも、テヘランに本拠を置くチームである。イラン・バレーボール・スーパーリーグ(英語版)に属している。
テヘランから車で10分のところには、標高3800mから滑り降りるスキーリゾートのトチャルを初め、ディジン、シェムシャークなどスキー場が多い。
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"text": "主な産業は、自動車製造、電子機器および部品製造、武器製造、繊維、砂糖、セメント、化学など。またカーペット製造と家具製造も盛んである。テヘラン南郊のレイには石油精製所が位置する。",
"title": "経済"
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"text": "また、テヘランはイランの主要な観光地の1つであり、この都市には数多くの有名な観光名所が存在する。",
"title": "経済"
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"text": "かつてイラン国内の商品流通のほとんどはテヘラン旧市街のバザールが握っていた。現在ではその影響力は縮小傾向にあるものの、いまだ卸売業を中心に大きな影響力を持っている。",
"title": "経済"
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"text": "トルコ、イラン、パキスタンなど中東および中央アジアの非アラブ・イスラム諸国10か国から構成される経済協力機構は、テヘランに本部を置いている。",
"title": "経済"
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"text": "プライスウォーターハウスクーパースの公表した調査によると、テヘランの2008年の都市GDPは1270億ドルであり、世界第47位である。",
"title": "経済"
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"text": "テヘランには市の西部にあるメヘラーバード国際空港と、市の南50kmにあるエマーム・ホメイニー国際空港の二つの主要空港がある。以前のメイン空港はメヘラーバード国際空港であったが、周辺が市街地化し拡張が難しくなったうえ手狭になったことから、2004年にエマーム・ホメイニー国際空港が開港した。以後、段階的に移転が進められ、2007年にはサウジアラビアへの巡礼(ハッジとウムラ)便以外のほとんどの国際線がエマーム・ホメイニー空港へと移転された。以後、メイン空港はエマーム・ホメイニー国際空港となり、メヘラーバード国際空港は巡礼線以外はすべて国内線の発着となった。メヘラーバード国際空港はイラン空軍の基地も兼ねている。また、メヘラーバード国際空港にはイランのフラッグキャリアであるイラン航空や、アーリヤー航空の本部がある。このほかの空港として、テヘラン駅の南側にあるカレフ・モレギ空港と、中心部のすぐ東にあるドウシャン・タッペ空港がある。",
"title": "交通"
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"text": "テヘラン旧市街の南端にあるテヘラン駅からはヨーロッパ方面も含めて24時間列車が運行されている。テヘランはイラン国内のほぼすべての主要鉄道路線の起点となっており、イラン縦貫鉄道もテヘランを通過する。これらの鉄道網はイラン・イスラーム共和国鉄道によって運行されており、その子会社であるラジャー旅客鉄道がテヘラン近郊および長距離の旅客輸送を担当している。",
"title": "交通"
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"text": "テヘラン・メトロは郊外線である5号線が1999年に中華人民共和国の中国北方工業公司によって建設され、2000年には5号線の接点であるサーテギーイェから町の中心部であるイマーム・ホメイニー駅までの2号線西半部が最初の地下鉄線として開通。2001年には南北を走る1号線の一部が開通し、2012年には3号線が開通した。2015年現在では5路線(1号線、2号線、3号線、4号線、5号線)あり中近東有数の路線網となっている。さらに、2路線(6号線、7号線)が建設中、1路線(8号線)が計画中であり、全部で8路線となる計画である。全7両編成であり、うち2両は女性専用車両となっている。",
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"text": "市長の肝いりで、2008年からBRTと呼ばれる道路上にバス専用のレーンが作られ、そこにバスが運行されている。バス専用レーンはフェンスで囲われているため一般の車両は全く進入できず、バスだけが道路上を高速で走行する。現在は3路線で、バス停は60ヶ所ある。",
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"text": "アジア初であったトロリーバスも健在である。",
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"text": "テヘランには、イランで最も古く、西アジアでも有数の歴史を誇る大学であるテヘラン大学をはじめ、多くの大学が存在する。",
"title": "教育"
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"text": "テヘランで最も人気のあるスポーツはサッカーであり、市内には多数のプロサッカークラブが存在する。ペルシアン・ガルフ・プロリーグに所属しているクラブとしては、エステグラルFC、ペルセポリスFC、ペイカーンFC、ナフト・テヘランFC、ラーフ・アーハンFCの5つである。中でも古い歴史があり実力もあるエステグラルFCとペルセポリスFCの直接対決は「テヘラン・ダービー」と呼ばれ、多くの観客が押し寄せる。",
"title": "スポーツ"
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"text": "テヘランのメインスタジアムは収容人員が90,000人を越えるアザディ・スタジアムであり、エステグラルFCやペルセポリスFCの両チームがホームスタジアムとしている。この他にも、ラーフ・アーハンFCが本拠を置くラーフ・アーハン・スタジアムや、その隣にありナフト・テヘランFCが本拠を置くシャヒード・ダストゲルディ・スタジアムなども存在する。",
"title": "スポーツ"
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"text": "男子バレーボールの強豪チームであるペイカン・テヘランVCも、テヘランに本拠を置くチームである。イラン・バレーボール・スーパーリーグ(英語版)に属している。",
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"text": "テヘランから車で10分のところには、標高3800mから滑り降りるスキーリゾートのトチャルを初め、ディジン、シェムシャークなどスキー場が多い。",
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] |
テヘランは、イランの首都であり、同国最大の都市。テヘラン州の州都。 人口869万人、都市圏人口は1,367万人であり、世界有数の大都市圏を形成している。
|
{{Otheruses}}
{{世界の市
| 正式名称 = テヘラン <!--必須-->
| 公用語名称 = تهران <br /> Tehran<br/>{{flagicon|Iran}}<!--必須-->
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| 人口の時点 = 2016年
| 人口に関する備考 =
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| 市街地人口密度(平方マイル) =
| 都市圏人口 = 13,413,348<ref>[http://www.populationdata.net/index2.php?option=pays&pid=102&nom=iran ''PopulationData.net'' – Iran]</ref>
| 都市圏人口密度(平方キロ) =
| 都市圏人口密度(平方マイル) =
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| 郵便番号の区分 =
| 郵便番号 =
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| ナンバープレート =
| ISOコード =
| 公式ウェブサイト = http://www.tehran.ir/
| 備考 =
}}
'''テヘラン'''({{lang-fa|تهران }}; Tehrān {{pronunciation|Tehran.ogg}}{{IPA|/teɦˈrɒːn/}}、{{lang-en|Tehran}}; 漢字:丁蘭)は、[[イラン]]の[[首都]]であり、同国最大の[[都市]]。[[テヘラン州]]の州都。
人口869万人、[[都市圏人口]]は1,367万人であり、世界有数の[[メガシティ|大都市圏]]を形成している<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新)] Demographia 2016年10月29日閲覧。</ref>。
==概要==
テヘランは、イランの文化的中心でもあり、多数の[[博物館]]、[[美術館]]、[[宮殿]]、文化センター、[[高等教育機関]]を擁する。宗教的中心でもあり、[[イスラム教]]の[[モスク]]のみならず、[[キリスト教]]の[[教会 (キリスト教)|教会]]や[[ユダヤ教]]の[[シナゴーグ]]も各所にみられる。住民の大多数は[[シーア派]][[ムスリム|イスラム教徒]]。20世紀から21世紀にかけて、イラン各地から大量の人口流入があり人口が急増した<ref>{{cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/585619/Tehran |title=Tehran (Iran) : Introduction – Britannica Online Encyclopedia |publisher=Britannica.com|accessdate=2012-05-21}}</ref>。
テヘランの住民は、[[ペルシア人]]が大多数を占めている<ref>"Chand Darsad Tehranihaa dar Tehran Bedonyaa Amadand"(How many percent of Tehranis were born in Tehran)-Actual census done by the University of Tehran – Sociology Department, accessed December, 2010 [http://www.tabnak.ir/fa/news/133668][http://www.farsnews.com/newstext.php?nn=8909091131l][http://www.aftabnews.ir/vdchimnzw23nzid.tft2.html][http://www.jahannews.com/vdcgw39qzak9tn4.rpra.html][http://www.asriran.com/fa/news/147352/%DA%86%D9%86%D8%AF%D8%AF%D8%B1%D8%B5%D8%AF-%D8%AA%D9%87%D8%B1%D8%A7%D9%86%DB%8C%E2%80%8C%D9%87%D8%A7-%D8%AF%D8%B1-%D8%AA%D9%87%D8%B1%D8%A7%D9%86-%D8%A8%D9%87-%D8%AF%D9%86%DB%8C%D8%A7-%D8%A2%D9%85%D8%AF%D9%87%E2%80%8C%D8%A7%D9%86%D8%AF%D8%9F]</ref><ref name="Mohammad">Mohammad Jalal Abbasi-Shavazi, Peter McDonald, Meimanat Hosseini-Chavoshi, "The Fertility Transition in Iran: Revolution and Reproduction", Springer, 2009. pp 100–101: "The first category is 'Central' where the majority of people are Persian speaking ethnic Fars (provinces of Fars, Hamedan, Isfahan, Markazi, Qazvin, Qom, Semnan, Yazd and Tehran..."</ref>。他には[[アゼルバイジャン人]]、[[アルメニア人]]、[[ユダヤ人]]などもいる。住民の98.3%は[[ペルシア語]]を話す<ref>Mareike Schuppe, "Coping with Growth in Tehran: Strategies of Development Regulation", GRIN Verlag, 2008. pp 13: "Besides Persian, there are Azeri, Armenian, Jewish and Afghani communities in Tehran. The vast majority of Tehran's residents are Persian-speaking (98.3%)"</ref>。イランの主要民族構成は、ペルシア人(51%)、アーゼリ人(25%)、クルド人(7%)、アラブ人(4%)である。
;テヘランの風景
{{wide image|Panoramic photograph of Tehran (large).jpg|1200px|テヘランのパノラマ}}
{{wide image|Tehran Night Panorama.jpg|1200px|テヘランの夜景}}
== 地理 ==
[[ファイル:Tehran 51.41504E 35.69272N.jpg|right|200px|thumb|テヘランの人工衛星写真。周辺領域も含めると東西40km、南北30kmの範囲に都市が広がっている]]
[[ファイル:Aerial View of Tehran 26.11.2008 04-35-03.JPG|thumb|200px|テヘラン市街地]]
===地勢===
[[ファイル:Damavand from dizin.jpg|thumb|200px|left|市の北部、ディジンスキー場から見たダマーヴァンド山]]
[[イラン高原]]の北西部の、標高1200 mほどの地点にある。北部に[[アルボルズ山脈]]がそびえ、同山脈およびイランの最高峰である[[ダマーヴァンド山]]から南西に66kmはなれた山麓に位置する。南には中央砂漠が広がっている。テヘランはアルボルズ山脈からの[[扇状地]]の先端に位置する。山脈と扇状地の境界付近に北テヘラン断層、更にその北にはモシャ断層が分布している他、市南部にはレイ断層が分布しており、[[活断層]]に囲まれている。
テヘラン市街は中心部を東西に走る大通りであるエンゲラーブ通り(革命前はシャー・レザー通りという名だった)によって南北に分けられる。エンゲラーブ通りは取り壊されたテヘラン旧城壁の北端に位置し、通り以南は旧市街となっている。エンゲラーブ通り以北は行政機関や企業が集中するビジネス中心地区であり、パフレヴィー朝成立以後に開発が進んだ地区である。エンゲラーブ通りに面して北側には[[テヘラン大学]]のキャンパスがあり、通りの西端にあるアーザーディー・タワーは[[1971年]]に建てられたテヘランのシンボルであり、上の展望台からは市街が一望できる。エンゲラーブ通りの少し北には[[1979年]]に起きた[[イランアメリカ大使館人質事件]]の舞台となった旧アメリカ大使館があるが、現在は閉鎖されている。テヘランの北端近く、丘陵のほぼ北端にはパフレヴィー朝時代には夏の離宮として使用されたサーダーバード宮殿があり、現在では宮殿博物館としてここも観光名所となっている。また、北端にはトチャル山へと登る全長3200mの[[ロープウェイ]]があり、頂上からは市街が一望できる。
これに対し、南部は市の中心であるエマーム・ホメイニー広場や、その南にはかつての商業中心である[[バザール]]、旧城壁の南側にはテヘラン中央駅も存在する。バザールの商業的機能は低下しつつあるが、それでもテヘラン有数の商業地であり、多くの人が訪れる。エマーム・ホメイニー広場とバザールの間にはガージャール朝の王宮であった[[ゴレスターン宮殿]]があり、現在では王宮博物館として美術品などが展示され、庭園とともに観光客の多く訪れる名所となっている。一方、エマーム・ホメイニー広場から北のエンゲラーブ通りまでの間にはイラン国立博物館や、イラン中央銀行、その中央銀行の地下大金庫内にあるイラン宝石博物館など多くの観光名所が存在する。中でも宝石博物館には、イラン王家の象徴である[[孔雀の玉座]]や、182[[カラット]]あって世界最大の[[ダイヤモンド]]の一つである[[ダルヤーイェ・ヌール]]、レザー・シャーの王冠や5万1千個の宝石をちりばめた[[地球儀]]など、イラン王家の所蔵していた非常に貴重な[[宝石]]類が収められている。
テヘランが巨大化するにつれて周辺も市街地化が進むようになったが、都市化は主に北へ向かって進み、南へはそれほど伸びてはいない。これは、標高の高い市の北部のほうが環境がよく、夏の暑熱もしのげるために高級住宅地となっているからである。これに対し、南部は下町となっており、貧富の差によっておおよその住み分けが行われている。テヘランでは地元民は市街北部を「上」、市街南部を「下」と呼ぶ。これはテヘランがアルボルズ山脈の麓にあるため南北に高低差があることに加え、所得水準にも差があるためである<ref>「テヘラン商売往来 イラン商人の世界」pp80-81 岩崎葉子 アジア経済研究所 2004年7月1日発行</ref>(文字通りの「アップタウンとダウンタウン」、「山の手と下町」)。近年では北西部や西部の都市開発も進み、新興住宅街が成立している。
市の南部にはイラン最大の墓地である[[ベヘシュテ・ザフラー墓地]]があり、ルーホッラー・ホメイニーの墓廟である[[ホメイニー廟]]もここに建設されている。
[[東京都]]、アメリカのニューメキシコ州[[サンタフェ (ニューメキシコ州)|サンタフェ]]と[[緯度]]がほぼ一致する。例えば、テヘラン中央駅({{coord|35.658514|N|51.397455|E|format=dms|region:IR_type:railwaystation|name=テヘラン中央駅}})と[[渋谷駅]]({{coord|35.658514|N|139.70133|E|format=dms|region:JP_type:railwaystation|name=渋谷駅}})が同緯度にある。但し標高はテヘランの方が遥かに高い。
テヘランの水は、テヘランの北西30km、[[キャラジ]]市にあるにあるカラジ・ダム<ref>「沙漠に緑を」pp77-79 遠山柾雄著 岩波新書 1993年6月21日第1刷</ref>をはじめとする[[ダム]]に依存している。キャラジ市はこのダムの電力により発展し、テヘラン郊外の工業都市となった。
===気候===
[[ケッペンの気候区分]]では[[ステップ気候]](BSk)に属する。冬季は寒く、1981〜2010年平年値での最寒月である1月の平均気温は5.1度、最低気温極値は-21℃にもなる。冬季は降水量も多いため積雪になることもあり、北端の山々は[[スキー場]]となっている。一方、夏季は乾燥していて非常に暑く、ほとんど雨は降らない。しかし乾燥しているため、夜間は涼しくなる。最も暑い月である7月の平均気温は31.2度、最高気温極値は42.7度である。
テヘランはイラン国内では気候の穏やかな地域であるが、時折激しい気温の変動に見舞われる。観測史上の最高気温記録は43℃、最低気温記録は−15℃である。2008年の1月5日および6日には、わずかな雪が降った後に大寒波と大雪がテヘランを襲い、1月6日および7日には市評議会の要請を受けて政府は正式に非常事態を表明する事態となった<ref name="IRNA">[https://web.archive.org/web/20080208071157/http://www1.irna.com/fa/news/view/line-2/8610166477213215.htm/ Heavy Snowfall in Tehran (in Persian)]. irna.com</ref>。2005年2月の大雪は市街全域に降り積もり、市の南部では積雪が15cm、市の北部では1mにも及んだ。この時は70便以上のフライトが中止され、また多くの便で遅延が発生した。道路の除雪のために、1万台のブルドーザーと13000人の労働者が投入された<ref name="BBC">[http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4250831.stm/ Heavy Snowfall in Tehran ( Feb 2005 )] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111011190509/http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4250831.stm |date=2011年10月11日 }}. bbc.com</ref><ref name="chn">[http://www.chn.ir/NSite/FullStory/News/?Id=74960&Serv=0&SGr=0/ Heavy Snowfall in Tehran (In Persian)]</ref>。
{{Weather box|location = テヘラン・メヘラーバード空港, 標高: 1190.8 m
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|source 1 = <ref name="chaharmahalmet.ir">[http://www.chaharmahalmet.ir/iranarchive.asp I.R OF IRAN SHAHREKORD METEOROLOGICAL ORGANIZATION ( IN PERSIAN )]. 1988-2005</ref>
|date=1988-2005
}}
</div>
===地域===
[[ファイル:Tehran municipality (Croatian).png|thumb|250px|テヘラン市は22の区に分かれている。濃い水色はテヘラン郡域]]
テヘランは[[テヘラン州]]に属する。テヘラン州は13の郡(シャフレスターン)に分かれ、テヘラン市域の大部分はテヘラン郡に属するが、テヘラン郡とテヘラン市の区域は一致しない。即ち、テヘラン市は一部周辺郡にもまたがり、一方でテヘラン郡内でもテヘラン市に所属しない地域もある。テヘラン市は北をシェミーラーナート郡、東をテヘラン郡の他自治体、南をレイ郡、エスラームシャフル郡、西をシャフリヤール郡と[[キャラジ]]郡に接する。
====行政区====
テヘラン市は22の区に分かれている。第1区の大部分と第2区の一部はシェミーラーナート郡に、第20区の全域はレイ郡に、第18区の一部はエスラームシャフル郡に属している。
テヘラン市の政治は21人の評議員からなるテヘラン市評議会が担当している。市長は評議会によって選出される。[[1908年]]から[[1920年]]までは内務大臣が、1920年から[[1988年]]まではテヘラン州知事が市長を任命していたが、1988年に現行の方式に改定された。任期は5年である。改定当初は改革派の市長が相次いで選出されていたが、[[2003年]]にイスラム主義の政治連合イラン・イスラーム同盟の支持を受けて保守強硬派の[[マフムード・アフマディーネジャード]]が市長に選出されると<ref name="bioGS">{{cite web|first=John|last=Pike|url=http://www.globalsecurity.org/military/world/iran/ahmadinejad.htm|title=President Mahmoud Ahmadinejad|publisher=Globalsecurity.org|date=|accessdate=2011-06-18|language=英語}}</ref>保守的な政策を相次いで打ち出すようになった。[[2005年]]にアフマディーネジャードが大統領選に出馬し当選すると、市評議会は新市長として大統領選で5位だったやはり保守派の[[モハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ]](ガリバフ)が市長に選出され、2017年までつとめた。2018年5月に市長に選ばれた[[モハンマドアリー・アフシャーニー]]は改革派<ref>{{Cite news|url=https://en.trend.az/iran/politics/2902293.html|title=Tehran City Council appoints new mayor|agency=Trend News Agency|date=2018-05-13|accessdate=2018-06-01}}</ref>
。
== 歴史 ==
=== 建設と発展 ===
[[ファイル:Tehran1857.jpg|thumb|1857年のテヘランの地図。この時期はいまだ旧城壁のままである]]
*この町の起源ははっきりはしていないが発掘調査からは[[紀元前6000年]]の住居跡が見つかっている。
*[[9世紀]]には南8kmにある近郊の[[レイ (イラン)|レイ]]({{lang-fa|ری}}、転写: {{lang|en|raj}}、Pronunciation: rā)がこの地域の首邑であり、テヘランには村があったものの何ら注目を浴びていなかった。
*[[1220年]]、レイが[[モンゴル帝国]]に襲撃され徹底的に破壊されるとレイの人々はテヘランに避難し、この時から都市としてのテヘランの歴史が始まった。当時は「レイの人々のテヘラン」などといわれた。
*[[14世紀]]、テヘランは名の知られた町になり、[[1404年]]、[[カスティーリャ王国]]の[[エンリケ3世 (カスティーリャ王)|エンリケ3世]]がティムール帝国に派遣した大使である[[ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ|ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホ]]が[[サマルカンド]]に赴く途中にこの町に立ち寄った。これが西洋人がこの町に足を踏み入れた最初である。この時代までは町には城壁がなかった。[[17世紀]]には[[サファヴィー朝]]の支配者たちの住居も作られた。
*[[1553年]]から[[1554年]]にかけて、[[タフマースブ1世]]は[[バザール]]と[[城壁]]を作り、商業機能と防衛機能を強化されたテヘランは次第に大きな町となっていく。しかし[[アッバース1世]]が[[ウズベク人|ウズベク]]との戦いに行くためにテヘランを通ったとき、王は病気となり、その後、王に嫌われた町となってしまった。
*[[18世紀]]、[[ザンド朝]]の[[カリーム・ハーン]]はテヘランに宮殿と[[ハーレム]]の建設を命じ、政府機関も移転する予定であったが、都は最終的に[[シーラーズ]]になってしまう。
=== ガージャール朝時代 ===
[[ファイル:Green-Palace-Tehran.JPG|thumb|サアダーバード宮殿内の緑の宮殿。ガージャール朝時代に夏の離宮として建設された]]
*テヘランがイランの首都になったのは[[1795年]]、[[ガージャール朝]]の[[アーガー・モハンマド・シャー]]がこの地で戴冠したときである。彼は[[ゴレスターン宮殿]]の造営を開始したものの、この時期にはまだ城壁はタフマースブ1世時代に建設されたものと全く同じ規模であった。この小規模な城壁では増大するテヘランの人口を収容しきることはできず、北部城外には富裕層の、南部城外には手工業者たちの居住地が建設されるようになっていた。ガージャール朝4代国王である[[ナーセロッディーン・シャー]]はこの状況を改善するため[[1869年]]より城壁の大拡張を行い、8角形で全長16km、12の門を持つ新たな城壁が[[1874年]]には完成した。旧城壁は撤去され、[[1889年]]にはその跡地に[[鉄道馬車]]の路線が敷設された。
*[[1892年]]にはテヘランから南のレイまで[[鉄道]]が開通し、徐々に近代化が進んでいった。しかしガージャール朝の衰退とともにテヘランにも不穏な空気が漂うようになり、[[1905年]]には物価高騰からバザールの商人を中心とした抗議行動が起き、やがてテヘランから全国へと波及して[[1906年]]に[[イラン立憲革命]]が起こった。
*テヘランでは議会が開催されたが、内紛によって弱体化するのを見た国王[[モハンマド・アリー・シャー]]は軍事力で議会を解散させる。しかし立憲派のこもる[[タブリーズ]]を陥落させることができず、逆に立憲派の反攻を招いてモハンマド・アリー・シャーは退位し[[ロシア帝国]]へと亡命して、テヘランを奪回した立憲派は[[アフマド・シャー (ガージャール朝)|アフマド・シャー]]を即位させた。しかしイギリスとロシアの介入によって立憲革命は失敗に終わり、ガージャール朝は支配力を失った。これに対し、[[1921年]]には[[レザー・パフラヴィー|レザー・シャー]]がテヘランで[[クーデター]]を起こして政権を奪取し、[[1925年]]には議会によって皇帝に推挙され、ここに[[パフラヴィー朝]]がはじまった。
=== パフラヴィー朝時代 ===
[[ファイル:Shahyad.jpg|thumb|1971年に建設されたアーザーディー・タワーとアーザーディー広場]]
*イランでは王朝の交代とともに遷都が行われるのが常であったが、レザー・シャーは首都をテヘランのままにし、逆に大規模な改造を次々と行っていった。
*[[1934年]]には城壁が撤去され、跡地には北のシャー・レザー通り(現在のエンゲラーブ通り)、東のシャバーズ通り、南のシューシュ通り、西のネザミ通りの4つの大通りが整備された。また、旧市街を貫通する直線の大通りを建設し、旧城壁の環状道路と直線道路の交点には円形の広場が設置された。旧城壁の南端、シューシュ通りの南側にテヘラン中央駅が建設されたのもこの時期のことである。現在のテヘランの基本構造はこの時期によって完成したため、現在のテヘランは「レザー・シャーの個人的創造物」ともいわれる<ref>「世界の大都市(下)」p60 [[高野史男]]編 [[大明堂]] 昭和54年6月22日発行</ref>。
*[[第二次世界大戦]]中、レザー・シャーは親ドイツの立場をとり、ナチス・ドイツに侵攻されているソヴィエト連邦への支援ルートとしてイラン縦貫鉄道を使用することを拒否したため、[[ソ連]]軍と[[イギリス]]軍によって[[1941年]]に [[イラン進駐_(1941年)|イラン進駐]]が引き起こされ、レザー・シャーは退位。[[9月17日]]には両軍がテヘランに入城した。王位は息子の[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]が継いだ。[[1943年]]には[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]首脳がテヘランに集まり、[[テヘラン会談]]を行った。
*戦後、モハンマド・レザー・パフラヴィーは父王の政策を受け継いで近代化を進めた。テヘランは首都として急成長を続けており、城壁の撤廃によって郊外への都市の成長も急速に進んだ。とくに、扇状地の北端はガージャール朝時代より避暑地として上流階級の別荘地となってきたが、都市の急成長と[[モータリゼーション]]の進行は。この地域を新興高級住宅地とし、さらにこの両区域を結ぶ地域も高級住宅街として発展していった。富裕層が住むシャー・レザー通りの北側には新たなビジネス中心が作られ、開発が進んだ。モハンマド・レザー・パフラヴィーも[[1971年]]に[[イラン建国二千五百年祭典|ペルシャ帝国建国2500年祭]]記念事業としてシャーヤード・タワー(現アーザーディー・タワー)を市の西部に建設する<ref>「週刊朝日百科91 アフガニスタン・イラン」p10-24 昭和60年7月14日発行 朝日新聞社</ref>などモニュメントの建設を行い、テヘランの整備に努めた。
=== イスラム共和国時代 ===
*モハンマド・レザー・シャーの独裁と急進的な西欧化は市民の反発を買い、[[1979年]]には[[イラン革命]]が起きて皇帝は失脚し、[[ルーホッラー・ホメイニー]](ホメイニ師)による革命政権が誕生した。革命政権は、パフラヴィーに基づく通りや建物の名前を改名させたものの、都市開発の方向性自体はパフラヴィー時代を踏襲した。しかしシャーが[[アメリカ合衆国]]へと[[亡命]]したため両国間の緊張が高まり、[[1979年]][[11月4日]]にはテヘランのアメリカ大使館を占拠してシャーの身柄引き渡しを求めるという、[[イランアメリカ大使館人質事件]]が起きた。これによって両国の関係は決定的に悪化した。
*[[イラン・イラク戦争]]では[[スカッド]]の標的となり、度重なる空襲もあり甚大な被害を出した。同時にテヘランには難民が集まり、混乱をきたした。
*イラン・イラク戦争当時はソ連式の集合住宅が無計画に作られ、テヘランはさらに歴史的建造物を失った。現在では50階を越えるアパートなど超高層建築のビルが増えている。
*[[2007年]]には高さ435mの新しいランドマーク・[[ボルジェ・ミーラード]]も完成した。反米強硬派で交渉する事すら不可能であるとされた[[アフマディネジャド]]元大統領が任期満了で退任した事がきっかけとなり、新大統領に選ばれた[[ロウハニ]]大統領は対米穏健派とされており、これをもって[[2016年]]からアメリカ合衆国との外交対話関係が回復し、国民の多くはインターネットで動画サイトを楽しむ状況となっており、世論として[[冷戦]]初期革命前には、欧米風[[ジーンズ]]を履く若者が多かった程世俗的であった首都テヘランは、急速に親欧米国家に戻りつつあるといわれていた。
== 大気汚染 ==
現在テヘランで最も深刻な環境問題は大気汚染である。これは、テヘランの成長によって[[自動車]]が急増したことに加え、もともと内陸の盆地にあり、北をアルボルズ山脈に遮られたテヘランでは空気が淀みやすいことが原因となっている。テヘランは[[スモッグ]]に覆われることが多くなり、2006年には一日当たり約27人が大気汚染のために死亡しているとの推計もある.<ref>[http://www.bbc.co.uk/persian/iran/story/2006/09/060909_mv-pollution-tehran.shtml Har Ruz 27 Tehrāni be Dalile Āludegiye Hawā mimirand]. September 18, 2006</ref>。地元当局によると、2007年には1ヶ月に3600人が大気汚染のために死亡しているとしている.<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/6245463.stm Iran smog 'kills 3,600 in month']. [[BBC News Online]]. January 9, 2007</ref>。[[2013年]]1月6日には、保健衛生当局が2012年の1年間で4460人が大気汚染が原因で死亡したとする報告書を発表した<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2919328?pid=9947107 イラン首都、大気汚染による死者年間4460人 AFP 2013年1月7日 2013年2月24日閲覧</ref>。大気汚染の80%は自動車によるものであり<ref>{{cite web|url=http://www.payvand.com/news/09/jan/1007.html |title=Car exhaust fumes blamed for over 80% of air pollution in Tehran |publisher=Payvand.com |date=2006-11-22 |accessdate=2010-09-25}}</ref>、残りの20%は産業活動によるものである。
== 経済 ==
[[File:Towers in Tehran City at night.jpg|thumb|200px|テヘランの[[スカイライン (風景)|スカイライン]]]]
[[ファイル:Tehran_skyline_may_2007.jpg|thumb|200px|left|テヘラン市街]]
テヘランはイラン経済の中心である<ref>{{cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/585619/Tehran/276311/Economy |title=Tehran (Iran) : People – Britannica Online Encyclopedia |publisher=Britannica.com |date= |accessdate=2012-05-21}}</ref>。イランの公的部門の労働者の30%はテヘランに集まっており、大企業も45%がテヘランに集中している。テヘランの労働者のほぼ半分は政府関係の職に就いている<ref>{{cite web|url=http://csis.org/files/media/csis/pubs/081006_iran_nuclear.pdf|author=Anthony H. Cordesman |title=The US, Israel, the Arab States and a Nuclear Iran. Part One: Iranian Nuclear Programs|format=PDF |date= September 23, 2008|work=Center for Strategic and International Studies|accessdate=2010-09-25}}</ref>。残りの労働者のほとんどは、商店主、工場労働者、交通労働者である。イラン国内産業の半分以上がテヘランに基盤をおいている。
主な産業は、[[自動車]]製造、電子機器および部品製造、[[武器]]製造、繊維、砂糖、セメント、化学など。また[[カーペット]]製造と家具製造も盛んである。テヘラン南郊のレイには[[石油]]精製所が位置する。
また、テヘランはイランの主要な観光地の1つであり、この都市には数多くの有名な観光名所が存在する。
{{also|{{仮リンク|テヘランの観光|en|Tourism in Tehran}}}}
かつてイラン国内の商品流通のほとんどはテヘラン旧市街の[[バザール]]が握っていた。現在ではその影響力は縮小傾向にあるものの、いまだ[[卸売]]業を中心に大きな影響力を持っている<ref>「テヘラン商売往来 イラン商人の世界」pp87-89 岩崎葉子 アジア経済研究所 2004年7月1日発行</ref>。
[[トルコ]]、イラン、[[パキスタン]]など中東および[[中央アジア]]の非アラブ・イスラム諸国10か国から構成される[[経済協力機構]]は、テヘランに本部を置いている。
[[プライスウォーターハウスクーパース]]の公表した調査によると、テヘランの2008年の[[域内総生産順リスト|都市GDP]]は1270億ドルであり、世界第47位である<ref>[https://www.ukmediacentre.pwc.com/Content/Detail.asp?ReleaseID=3421&NewsAreaID=2 プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110513194342/https://www.ukmediacentre.pwc.com/Content/Detail.asp?ReleaseID=3421&NewsAreaID=2 |date=2011年5月13日 }}</ref>。
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
*{{Flagicon|USA}} [[ロサンゼルス]]、[[アメリカ合衆国]]
*{{Flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]、[[トルコ]]
*{{Flagicon|Russia}} [[モスクワ]]、[[ロシア]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://el.mos.ru/cgi-bin/pbl_web?vid=2&osn_id=0&id_rub=2368&news_unom=35877 |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年1月5日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090105114236/http://el.mos.ru/cgi-bin/pbl_web?vid=2&osn_id=0&id_rub=2368&news_unom=35877 |archivedate=2009年1月5日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>
*{{Flagicon|KOR}} [[ソウル特別市|ソウル]]、[[大韓民国]]<ref>[http://english.chosun.com/w21data/html/news/200707/200707110009.html]{{リンク切れ|date=September 2010}}</ref>
*{{Flagicon|CHN}} [[北京市|北京]]、[[中華人民共和国]]<ref>http://www.danwei.org/archives/001506.html</ref>
*{{Flagicon|VEN}} [[カラカス]]、[[ベネズエラ]]
*{{Flagicon|UK}} [[ロンドン]]、[[イギリス]]<ref>http://www.hoteleslondres.org.es/londonhotels/Sister</ref>
*{{Flagicon|RSA}} [[プレトリア]]、[[南アフリカ共和国]]<ref>http://www.dfa.gov.za/foreign/Multilateral/profiles/persian.htm</ref>
*{{Flagicon|PHI}} [[マニラ]]、[[フィリピン]]<ref name="Manila%252EGov">{{cite web|url=http://www.manila.gov.ph/localgovt.htm#sistercities|title=Sister Cities of Manila|publisher=[[copyright|©]] 2008–2009 [http://www.manila.gov.ph/ City Government of Manila]|accessdate=2009-09-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090907055432/http://www.manila.gov.ph/localgovt.htm#sistercities|archivedate=2009年9月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
*{{Flagicon|BLR}} [[ミンスク]]、[[ベラルーシ]]<ref>{{cite web|url=http://minsk.gov.by/ru/org/?k_org=3604&mode=doc&doc=3604_2_a&lang=eng |title=Каталог организаций — Минский городской исполнительный комитет |publisher=Minsk.gov.by |date= |accessdate=2010-09-25}}</ref>
* {{Flagicon|CUB}} [[ハバナ]]、[[キューバ]]<ref>{{cite web|url=http://www.payvand.com/news/01/mar/1053.html |title=Tehran, Havana named sister cities |publisher=Payvand.com |date=2006-11-22 |accessdate=2011-03-15}}</ref>
* {{Flagicon|UAE}} [[ドバイ]]、[[アラブ首長国連邦]]<ref>[http://www.dubaicityguide.com/site/features/index.asp?id=3149 Dubai’s sister cities]</ref>
* {{Flagicon|TJK}} [[ドゥシャンベ]]、[[タジキスタン]]<ref>[http://pub.tehran.ir/Default.aspx?tabid=14651&language=fa-IR]{{リンク切れ|date=March 2011}}</ref>
{{Div col end}}
* {{Flagicon|TUR}} [[アンカラ]]、[[トルコ]]<ref>{{cite news|url=http://www.irna.ir/en/News/80958220/Art_&_Culture/Iran,_Turkey_to_expand_cooperation_by_declaring_Tehran,_Ankara_sister_cities__Tehran_Mayor|title=Iran, Turkey to expand cooperation by declaring Tehran, Ankara sister cities: Tehran Mayor|agency=IRNA|date=2013-12-18|accessdate=2014-06-17}}</ref>
== 交通 ==
[[ファイル:Tegeran metro.PNG|thumb|right|200px|テヘラン地下鉄路線図]]
[[ファイル:Tehran subway.jpg|thumb|right|200px|地下鉄]]
[[ファイル:Tehran BRT.jpg|thumb|right|200px|テヘランBRT]]
=== 空港 ===
テヘランには市の西部にある[[メヘラーバード国際空港]]と、市の南50kmにある[[エマーム・ホメイニー国際空港]]の二つの主要空港がある。以前のメイン空港はメヘラーバード国際空港であったが、周辺が市街地化し拡張が難しくなったうえ手狭になったことから、2004年にエマーム・ホメイニー国際空港が開港した。以後、段階的に移転が進められ、[[2007年]]には[[サウジアラビア]]への[[巡礼]]([[ハッジ]]とウムラ)便以外のほとんどの国際線がエマーム・ホメイニー空港へと移転された。以後、メイン空港はエマーム・ホメイニー国際空港となり、メヘラーバード国際空港は巡礼線以外はすべて国内線の発着となった。メヘラーバード国際空港は[[イラン空軍]]の基地も兼ねている。また、メヘラーバード国際空港にはイランの[[フラッグキャリア]]である[[イラン航空]]や、[[アーリヤー航空]]の本部がある。このほかの空港として、テヘラン駅の南側にあるカレフ・モレギ空港と、中心部のすぐ東にあるドウシャン・タッペ空港がある。
=== 鉄道 ===
====国鉄====
テヘラン旧市街の南端にある[[テヘラン駅]]からはヨーロッパ方面も含めて24時間列車が運行されている。テヘランはイラン国内のほぼすべての主要鉄道路線の起点となっており、[[イラン縦貫鉄道]]もテヘランを通過する。これらの鉄道網は[[イラン・イスラーム共和国鉄道]]によって運行されており、その子会社であるラジャー旅客鉄道がテヘラン近郊および長距離の旅客輸送を担当している。
====地下鉄====
[[テヘラン・メトロ]]は郊外線である5号線が[[1999年]]に[[中華人民共和国]]の[[中国北方工業公司]]によって建設され、[[2000年]]には5号線の接点であるサーテギーイェから町の中心部であるイマーム・ホメイニー駅までの2号線西半部が最初の地下鉄線として開通。[[2001年]]には南北を走る1号線の一部が開通し<ref>「世界の地下鉄 151都市のメトロガイド」p113 社団法人日本地下鉄協会編 ぎょうせい 2010年3月31日発行</ref>、2012年には3号線が開通した。2015年現在では5路線(1号線、2号線、3号線、4号線、5号線)あり中近東有数の路線網となっている。さらに、2路線(6号線、7号線)が建設中、1路線(8号線)が計画中であり、全部で8路線となる計画である。全7両編成であり、うち2両は女性専用車両となっている<ref>「世界の地下鉄 151都市のメトロガイド」p114 社団法人日本地下鉄協会編 ぎょうせい 2010年3月31日発行</ref>。
=== バス ===
市長の肝いりで、[[2008年]]からBRTと呼ばれる道路上にバス専用のレーンが作られ、そこにバスが運行されている。バス専用レーンはフェンスで囲われているため一般の車両は全く進入できず、バスだけが道路上を高速で走行する。現在は3路線で、バス停は60ヶ所ある。
アジア初であった[[トロリーバス]]も健在である。
== 教育 ==
=== 大学 ===
テヘランには、イランで最も古く、[[西アジア]]でも有数の歴史を誇る大学である[[テヘラン大学]]をはじめ、多くの大学が存在する。
== スポーツ ==
{{Main|Category:テヘランのスポーツ}}
=== サッカー ===
テヘランで最も人気のある[[スポーツ]]は[[サッカー]]であり、市内には多数のプロサッカークラブが存在する。[[ペルシアン・ガルフ・プロリーグ]]に所属しているクラブとしては、[[エステグラルFC]]、[[ペルセポリスFC]]、[[ペイカーンFC]]、[[ナフト・テヘランFC]]、[[ラーフ・アーハンFC]]の5つである。中でも古い歴史があり実力もあるエステグラルFCとペルセポリスFCの直接対決は「'''テヘラン・ダービー'''」と呼ばれ、多くの観客が押し寄せる。
テヘランのメインスタジアムは収容人員が90,000人を越える[[アザディ・スタジアム]]であり、エステグラルFCやペルセポリスFCの両チームがホームスタジアムとしている。この他にも、ラーフ・アーハンFCが本拠を置く[[ラーフ・アーハン・スタジアム]]や、その隣にありナフト・テヘランFCが本拠を置く[[シャヒード・ダストゲルディ・スタジアム]]なども存在する。
=== バレーボール ===
男子[[バレーボール]]の強豪チームである[[ペイカン・テヘランVC]]も、テヘランに本拠を置くチームである。{{仮リンク|イラン・バレーボール・スーパーリーグ|en|Iranian Volleyball Super League}}に属している。
== 施設 ==
テヘランから車で10分のところには、標高3800mから滑り降りるスキーリゾートのトチャルを初め、ディジン、シェムシャークなどスキー場が多い。
=== 関連画像 ===
<gallery>
Berlan1.JPG|ベルリンアベニュー
Museh Melli.jpg|イラン国立博物館
Amingholamali Melat park tehran1.JPG|テヘラン市立劇場
Abrisham Bridge Tehran.jpg|ノウルーズ公園から見たAbrisham橋
Tochal sport complex 15.jpg|トチャルスキー場
Tehran - Glass ware and ceramics Museum.jpg|ガラス器・陶器博物館
Jamshidiyeh2.jpg|Jamshidieh山公園
Golestan hall.jpg|ゴレスターン宮殿のサラムホール
Takht Marmar Fat′h-Ali Shah Qajar and Howz Khaneh.JPG|ゴレスターン宮殿
Národní muzeum Íránu.jpg|イラン国立博物館
North of Tehran Skyline view.jpg|テヘラン市街地1
File:North Tehran Towers.jpg|テヘラン市街地2
File:View of Tehran at Night (25821934418).jpg|テヘラン市街の夜景
</gallery>
== 著名な出身者 ==
{{Main|Category:テヘラン出身の人物}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Tehran}}
* [[テヘラン州の観光名所一覧]]
* [[イランアメリカ大使館人質事件]]
* [[テヘラン路]] - [[大韓民国|韓国]]の[[ソウル特別市|ソウル市内]]にある通り
== 外部リンク ==
* {{Official website}}{{fa icon}}{{en icon}}
* {{Kotobank}}
* {{wikivoyage-inline|en:Tehran|テヘラン}}{{en icon}}
* {{ウィキトラベル インライン|テヘラン|テヘラン}}
* {{Osmrelation|6663864}}
* {{Googlemap|テヘラン}}
* {{Kotobank}}
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{{Coord|35|41|N|51|25|E|region:IR|display=title}}
{{デフォルトソート:てへらん}}
[[Category:テヘラン|*]]
[[Category:イランの州都]]
[[Category:イランの都市]]
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[[Category:テヘラン州]]
[[Category:世界歴史都市連盟]]
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2003-08-17T07:28:37Z
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2023-12-23T05:12:33Z
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関越自動車道
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関越自動車道(かんえつじどうしゃどう、英語: KAN-ETSU EXPWY)は、東京都練馬区の練馬インターチェンジ (IC) から埼玉県、群馬県を経由し新潟県長岡市の長岡ジャンクション (JCT) へ至る高速道路(高速自動車国道)。略称は関越道(かんえつどう)、関越(かんえつ)。高速道路ナンバリングによる路線番号は「E17」が割り振られている。
また、東京都を起点として、新潟県新潟市および上越市を終点とする国土開発幹線自動車道および高速自動車国道の名称としても用いられる。
国道17号および、上越新幹線とほぼ並行している。
三国山脈を貫いて東京と新潟県を結ぶ高速道路であり、上越新幹線とともに首都圏と日本海側を結ぶ高速交通網として重要な機能を持つ。また、藤岡JCTから上信越自動車道が分岐しており、首都圏と長野県北信地方・東信地方を結ぶ高速交通網の一部でもある。
日本有数の豪雪地帯を貫いており、沿線には多くのスキー場が存在し、首都圏とこれらのスキー場を結ぶ高速道路でもある。このため、冬期に通行困難となる並行一般道救済のために追加設置されたインターチェンジが多い。首都圏の放射方向の高速自動車国道の中では唯一、首都高速道路との直接接続がなく、首都高速道路へは大泉JCTから東京外環自動車道を利用する必要がある。1994年に東京外環自動車道と接続されるまでは、特に冬季の練馬ICにおける大渋滞が慢性化していた。
水上IC - 湯沢IC間(群馬・新潟県境)には、道路トンネルの長さとして日本第2位の関越トンネルがある。
国土開発幹線自動車道や高速自動車国道の路線を指定する政令における関越自動車道は、東京都を起点に群馬県藤岡市で分岐し新潟県新潟市に至る新潟線と上越市に至る上越線の2つの路線からなる。
国土開発幹線自動車道建設法では、関越自動車道は以下のとおりとされている。
また高速自動車国道の路線を指定する政令では以下のとおりである。
これらについて、供用中および着工中の道路名に区分すると以下のようになる。
以下では、特記がない場合は練馬IC - 長岡JCTの(道路名としての)関越自動車道について述べる。
最初に開通した練馬IC - 川越ICは、東京川越道路という名称の一般国道254号のバイパス道路として1971年(昭和46年)に開通したものである。のちに高規格幹線道路としての改修を受けて、1973年(昭和48年)に高速自動車国道へ格上げされ、関越自動車道に編入された。
田中角栄は、道路特定財源制度を議員立法で成立させて戦後の道路整備の方向性を明確にして内閣総理大臣となったが、関越自動車道の東京流入口となる練馬ICを、田中邸最寄りの目白通りに設置させたと巷噂された。田中の首相在任中に日本道路公団の新潟県所管建設局長に就任した武部健一は「高速道路としては当然の道筋であって、田中の目白邸を意識したものではない。」「田中邸のほうが、新潟から来る道筋を選んで建てられたと考えたほうが合理的である。」と持論を述べた。
全線が4車線以上で供用されている。開通当時は月夜野IC-土樽PA間が暫定2車線での供用だったが、1988年 - 1991年に4車線化された。
関越トンネルの区間は開通当初から長らく最高速度が70 km/hだったが、2015年10月より80 km/hに引き上げられた。
雨天・降雪・濃霧・台風などの荒天時、事故や工事などの時は50から80 km/hまでの速度規制が行われる。
売店は全てのサービスエリア (SA) と駒寄パーキングエリア (PA) 以南の全てのパーキングエリア、谷川岳PA、山谷PAに設置されている。ガソリンスタンドは塩沢石打SAを除く全てのサービスエリアと三芳PAにあり、全て24時間営業。レストランは塩沢石打SAを除く、全てのサービスエリアと三芳PA上り線に設置されている。
トンネル・橋梁の延長は、NEXCO資料に基づく。
関越トンネル内は、長距離でもあり、万一のチェーン破損時に停車して応急処理するのも非常に危険が伴うため、金属製のタイヤチェーンを装着しての走行は禁止されている。ゴム製のタイヤチェーンの場合は外さなくても良いが、摩擦による破断を防ぐために速度が50 km/hに規制されている。そのため、積雪の状況によってはトンネル前後の谷川岳PAと土樽PAで着脱する必要がある。 トンネル双方の出口PAからチェーン規制が行われると、地元の車両を含む全ての車がPAに誘導され、タイヤ及びチェーンの脱着の確認が行われる。
このトンネルは全長が約11 kmにも及ぶため、水上IC - 湯沢ICの間は危険物積載車の通行が規制されており、国道17号(三国峠)を経由して迂回しなければならない。下り線には規制区間の手前である月夜野IC手前に該当車両の流出を促す注意標識がある。これは月夜野ICが群馬県側から新潟県側へ抜ける国道17号に接続する最終の出口であり、水上ICから出た場合には国道17号まで戻る必要があるためである。また、上り線土樽PAから下り線への危険物運搬車専用の通路が整備されている。
2005年10月の道路公団民営化後は全区間が東日本高速道路(NEXCO東日本)の管轄区間となり、水上ICを境に南側を関東支社が、北側を新潟支社がそれぞれ管理・運営している。
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)「平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査の概要」(北陸地方整備局ホームページ)「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
他の都心部の高速自動車国道とは異なり、首都高速道路とは直接接続していない。首都高速道路へは、大泉JCTから東京外環自動車道を経由するのが一般的である。
終点の長岡JCTでは北陸自動車道の新潟方面が本線となっており、北陸自動車道の富山方面が分岐・合流する形になっている。
|
[
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"text": "関越自動車道(かんえつじどうしゃどう、英語: KAN-ETSU EXPWY)は、東京都練馬区の練馬インターチェンジ (IC) から埼玉県、群馬県を経由し新潟県長岡市の長岡ジャンクション (JCT) へ至る高速道路(高速自動車国道)。略称は関越道(かんえつどう)、関越(かんえつ)。高速道路ナンバリングによる路線番号は「E17」が割り振られている。",
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"text": "また、東京都を起点として、新潟県新潟市および上越市を終点とする国土開発幹線自動車道および高速自動車国道の名称としても用いられる。",
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"text": "国道17号および、上越新幹線とほぼ並行している。",
"title": "概要"
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"text": "三国山脈を貫いて東京と新潟県を結ぶ高速道路であり、上越新幹線とともに首都圏と日本海側を結ぶ高速交通網として重要な機能を持つ。また、藤岡JCTから上信越自動車道が分岐しており、首都圏と長野県北信地方・東信地方を結ぶ高速交通網の一部でもある。",
"title": "概要"
},
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"text": "日本有数の豪雪地帯を貫いており、沿線には多くのスキー場が存在し、首都圏とこれらのスキー場を結ぶ高速道路でもある。このため、冬期に通行困難となる並行一般道救済のために追加設置されたインターチェンジが多い。首都圏の放射方向の高速自動車国道の中では唯一、首都高速道路との直接接続がなく、首都高速道路へは大泉JCTから東京外環自動車道を利用する必要がある。1994年に東京外環自動車道と接続されるまでは、特に冬季の練馬ICにおける大渋滞が慢性化していた。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "水上IC - 湯沢IC間(群馬・新潟県境)には、道路トンネルの長さとして日本第2位の関越トンネルがある。",
"title": "概要"
},
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"text": "国土開発幹線自動車道や高速自動車国道の路線を指定する政令における関越自動車道は、東京都を起点に群馬県藤岡市で分岐し新潟県新潟市に至る新潟線と上越市に至る上越線の2つの路線からなる。",
"title": "概要"
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"text": "国土開発幹線自動車道建設法では、関越自動車道は以下のとおりとされている。",
"title": "概要"
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"text": "また高速自動車国道の路線を指定する政令では以下のとおりである。",
"title": "概要"
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"text": "これらについて、供用中および着工中の道路名に区分すると以下のようになる。",
"title": "概要"
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"text": "以下では、特記がない場合は練馬IC - 長岡JCTの(道路名としての)関越自動車道について述べる。",
"title": "概要"
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"text": "最初に開通した練馬IC - 川越ICは、東京川越道路という名称の一般国道254号のバイパス道路として1971年(昭和46年)に開通したものである。のちに高規格幹線道路としての改修を受けて、1973年(昭和48年)に高速自動車国道へ格上げされ、関越自動車道に編入された。",
"title": "歴史"
},
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"text": "田中角栄は、道路特定財源制度を議員立法で成立させて戦後の道路整備の方向性を明確にして内閣総理大臣となったが、関越自動車道の東京流入口となる練馬ICを、田中邸最寄りの目白通りに設置させたと巷噂された。田中の首相在任中に日本道路公団の新潟県所管建設局長に就任した武部健一は「高速道路としては当然の道筋であって、田中の目白邸を意識したものではない。」「田中邸のほうが、新潟から来る道筋を選んで建てられたと考えたほうが合理的である。」と持論を述べた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "全線が4車線以上で供用されている。開通当時は月夜野IC-土樽PA間が暫定2車線での供用だったが、1988年 - 1991年に4車線化された。",
"title": "路線状況"
},
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"text": "関越トンネルの区間は開通当初から長らく最高速度が70 km/hだったが、2015年10月より80 km/hに引き上げられた。",
"title": "路線状況"
},
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"text": "雨天・降雪・濃霧・台風などの荒天時、事故や工事などの時は50から80 km/hまでの速度規制が行われる。",
"title": "路線状況"
},
{
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"text": "売店は全てのサービスエリア (SA) と駒寄パーキングエリア (PA) 以南の全てのパーキングエリア、谷川岳PA、山谷PAに設置されている。ガソリンスタンドは塩沢石打SAを除く全てのサービスエリアと三芳PAにあり、全て24時間営業。レストランは塩沢石打SAを除く、全てのサービスエリアと三芳PA上り線に設置されている。",
"title": "路線状況"
},
{
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"text": "トンネル・橋梁の延長は、NEXCO資料に基づく。",
"title": "路線状況"
},
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"text": "関越トンネル内は、長距離でもあり、万一のチェーン破損時に停車して応急処理するのも非常に危険が伴うため、金属製のタイヤチェーンを装着しての走行は禁止されている。ゴム製のタイヤチェーンの場合は外さなくても良いが、摩擦による破断を防ぐために速度が50 km/hに規制されている。そのため、積雪の状況によってはトンネル前後の谷川岳PAと土樽PAで着脱する必要がある。 トンネル双方の出口PAからチェーン規制が行われると、地元の車両を含む全ての車がPAに誘導され、タイヤ及びチェーンの脱着の確認が行われる。",
"title": "路線状況"
},
{
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"text": "このトンネルは全長が約11 kmにも及ぶため、水上IC - 湯沢ICの間は危険物積載車の通行が規制されており、国道17号(三国峠)を経由して迂回しなければならない。下り線には規制区間の手前である月夜野IC手前に該当車両の流出を促す注意標識がある。これは月夜野ICが群馬県側から新潟県側へ抜ける国道17号に接続する最終の出口であり、水上ICから出た場合には国道17号まで戻る必要があるためである。また、上り線土樽PAから下り線への危険物運搬車専用の通路が整備されている。",
"title": "路線状況"
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"text": "2005年10月の道路公団民営化後は全区間が東日本高速道路(NEXCO東日本)の管轄区間となり、水上ICを境に南側を関東支社が、北側を新潟支社がそれぞれ管理・運営している。",
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"text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス",
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"text": "(出典:「平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)「平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査の概要」(北陸地方整備局ホームページ)「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
"title": "路線状況"
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"text": "他の都心部の高速自動車国道とは異なり、首都高速道路とは直接接続していない。首都高速道路へは、大泉JCTから東京外環自動車道を経由するのが一般的である。",
"title": "地理"
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"text": "終点の長岡JCTでは北陸自動車道の新潟方面が本線となっており、北陸自動車道の富山方面が分岐・合流する形になっている。",
"title": "地理"
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] |
関越自動車道は、東京都練馬区の練馬インターチェンジ (IC) から埼玉県、群馬県を経由し新潟県長岡市の長岡ジャンクション (JCT) へ至る高速道路(高速自動車国道)。略称は関越道(かんえつどう)、関越(かんえつ)。高速道路ナンバリングによる路線番号は「E17」が割り振られている。 また、東京都を起点として、新潟県新潟市および上越市を終点とする国土開発幹線自動車道および高速自動車国道の名称としても用いられる。
|
{{Infobox road
|種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]])
|アイコン = [[ファイル:KAN-ETSU EXP(E17).svg|130px|関越自動車道]]
|名前 = {{Ja Exp Route Sign|E17}} 関越自動車道
|地図画像 =
{{Highway system OSM map
| frame-lat = 36.6
| frame-long = 139.2
| frame-width = 300
| frame-height = 300
| zoom = 7
| length =
| plain = yes
}}
|総距離 = 246.3 [[キロメートル|km]]<ref>[http://www.e-nexco.co.jp/company/overview/company_guidance/pdfs/company_data_all.pdf NEXCO東日本会社案内]による。</ref>
|制定年 = [[1973年]]([[昭和]]48年)
|開通年 = [[1971年]](昭和46年)- [[1985年]](昭和60年)
|起点 = [[東京都]][[練馬区]]([[練馬インターチェンジ|練馬IC]])
|主な経由都市 = [[所沢市]]、[[川越市]]、[[東松山市]]、[[深谷市]]<br />[[高崎市]]、[[前橋市]]、[[渋川市]]、[[沼田市]]<br />[[南魚沼市]]、[[魚沼市]]、[[小千谷市]]
|終点 = [[新潟県]][[長岡市]]([[長岡ジャンクション|長岡JCT]])
|接続する主な道路 = <!--高規格幹線道路のみ記載-->{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E50}} [[北関東自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]]
}}
'''関越自動車道'''(かんえつじどうしゃどう、{{Lang-en|KAN-ETSU EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[東京都]][[練馬区]]の[[練馬インターチェンジ]] (IC) から[[埼玉県]]、[[群馬県]]を[[経由]]し[[新潟県]][[長岡市]]の[[長岡ジャンクション]] (JCT) へ至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])。[[略語|略称]]は'''関越道'''(かんえつどう)、関越(かんえつ)。[[高速道路ナンバリング]]による路線番号は「'''E17'''」が割り振られている<ref>[http://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/files/numbering_tsuchi002.pdf 「高速道路ナンバリングの導入について」(平成29年2月14日付け国道企第55号)]、国土交通省道路局長通知、2017年2月14日</ref>。
また、[[東京都]]を起点として、新潟県[[新潟市]]および[[上越市]]を終点とする[[国土開発幹線自動車道]]および高速自動車国道の名称としても用いられる。
== 概要 ==
[[ファイル:Tokorozawa_IC_3.JPG|300px|thumb|right|関越自動車道<br />(所沢IC付近)]]
[[国道17号]]および、[[上越新幹線]]とほぼ並行している{{efn|練馬ICから本庄児玉ICまでは[[国道254号]]とより近接して並行している。}}。
[[三国山脈]]を貫いて東京と新潟県を結ぶ高速道路であり、[[上越新幹線]]とともに[[首都圏 (日本)|首都圏]]と[[裏日本|日本海側]]を結ぶ高速交通網として重要な機能を持つ。また、[[藤岡ジャンクション|藤岡JCT]]から[[上信越自動車道]]が分岐しており、首都圏と長野県[[北信地方]]・[[東信地方]]を結ぶ高速交通網の一部でもある。
日本有数の[[豪雪地帯]]を貫いており、沿線には多くの[[スキー場]]が[[存在]]し、首都圏とこれらのスキー場を結ぶ高速道路でもある。このため、[[冬|冬期]]に通行困難となる並行一般道救済のために追加設置された[[インターチェンジ]]が多い。首都圏の[[放射線・環状線|放射方向]]の高速自動車国道の中では唯一、[[首都高速道路]]との直接接続がなく<ref>[http://trafficnews.jp/post/40376/2/ 新大宮バイパスに敗北 孤立した関越道、その未来は]/[[清水草一]] - 乗りものニュース(2015.05.24版/2016年1月23日閲覧)</ref>、首都高速道路へは[[大泉ジャンクション|大泉JCT]]から[[東京外環自動車道]]を利用する必要がある。1994年に東京外環自動車道と接続されるまでは、特に冬季の練馬ICにおける大[[渋滞]]が慢性化していた。
[[水上インターチェンジ|水上IC]] - [[湯沢インターチェンジ (新潟県)|湯沢IC]]間(群馬・新潟県境)には、[[トンネル|道路トンネル]]の長さとして日本第2位の[[関越トンネル]]がある。
=== 路線名・道路名 ===
[[国土開発幹線自動車道]]や[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]における'''関越自動車道'''は、東京都を起点に[[群馬県]][[藤岡市]]で分岐し[[新潟県]][[新潟市]]に至る新潟線と[[上越市]]に至る上越線の2つの路線からなる。
[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]では、関越自動車道は以下のとおりとされている。
{| class="wikitable"
|-
!路線名
!起点
!style="white-space:nowrap" colspan="2"|主たる経過地
!終点
|-
!新潟線
| style="white-space:nowrap" rowspan="2"|[[東京都]]
| style="white-space:nowrap" rowspan="2"|[[川越市]] [[本庄市]]
|[[前橋市]]
|[[新潟市]]
|-
!上越線
|[[高崎市]]付近<br>[[長野市]]付近
|[[上越市]]
|}
また[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]では以下のとおりである。
{| class="wikitable"
|-
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 起点
! colspan="2" style="white-space:nowrap" | 重要な経過地
! style="white-space:nowrap" | 終点
|-
! style="white-space:nowrap" | 新潟線
| style="white-space:nowrap" rowspan="2"| [[三鷹市]]
| rowspan="2"| [[武蔵野市]] [[東京都]][[杉並区]] 同都[[練馬区]] [[新座市]] [[所沢市]] [[ふじみ野市]] [[川越市]] [[鶴ヶ島市]] [[坂戸市]] [[東松山市]] [[深谷市]] [[本庄市]] [[藤岡市]]
| [[高崎市]] [[前橋市]] [[渋川市]] [[沼田市]] [[南魚沼市]] [[魚沼市]] [[小千谷市]] [[長岡市]] [[見附市]] [[三条市]] [[燕市]]
| style="white-space:nowrap" | [[新潟市]]
|-
! 上越線
| [[富岡市]] [[佐久市]] [[小諸市]] [[東御市]] [[上田市]] [[千曲市]] [[長野市]] [[須坂市]] [[中野市]] [[妙高市]]
| [[上越市]]
|}
これらについて、供用中および着工中の道路名に区分すると以下のようになる<!--上掲路線と下掲路線の重複する区間は上掲路線に含むものとする-->。
{| class="wikitable"
|-
! 路線名 !! 道路名 !! 区間 !! 備考
|-
| rowspan="4" | 新潟線
| [[東京外かく環状道路]]
| [[中央ジャンクション|中央JCT]](仮称) - [[大泉ジャンクション|大泉JCT]]
| 工事中
|-
| rowspan="2" | '''関越自動車道'''
| [[練馬インターチェンジ|練馬IC]] - [[長岡インターチェンジ|長岡IC]]
|
|-
| 長岡IC - [[長岡ジャンクション|長岡JCT]]
| rowspan="2" |[[北陸自動車道]]と重複
|-
| [[北陸自動車道]]
| 長岡JCT - [[新潟空港インターチェンジ|新潟空港IC]]
|-
| 上越線
| [[上信越自動車道]]
| [[藤岡ジャンクション|藤岡JCT]] - [[上越ジャンクション|上越JCT]]
| [[更埴ジャンクション|更埴JCT]] - [[長野市]]<!--[[須坂長野東インターチェンジ|須坂長野東IC]]-->は[[中央自動車道#路線名・道路名|中央自動車道長野線]]と重複<!--矛盾-->
|}
以下では、特記がない場合は練馬IC - 長岡JCTの(道路名としての)関越自動車道について述べる。
== インターチェンジなど ==
{{色}}
* IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である区間は既開通区間に存在する。施設欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である区間は未供用または休止された施設である。未供用施設の名称は仮称である。
* [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。<!--また、[[社会実験|社会実験中]]のスマートICが設置されているSAPAは''斜体'' で示す。-->
* 路線名の特記がないものは[[市町村道|市道]]。
* [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。
* 略字は、ICは[[インターチェンジ]]、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、PAは[[パーキングエリア]]、SAは[[サービスエリア]]、CBは[[タイヤチェーン|チェーンベース]]をそれぞれ示す。
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br>番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|[[練馬インターチェンジ|練馬]]<br><small>から<br>([[キロメートル|km]])</small>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
|colspan="9" style="background-color:#CCC; text-align:center"|[[高速練馬線]]([[地域高規格道路#路線指定|候補路線]])
|-
!style="background-color:#BFB"|1
|[[練馬インターチェンジ|練馬IC]]
|[[東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線|都道24号練馬所沢線]](目白通り)
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="4" colspan="3"|[[東京都]]<br />[[練馬区]]
|-
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|2
|[[大泉ジャンクション|大泉JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]]<br> {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外かく環状道路]]東京区間(事業中)
|rowspan="2" style="text-align:right"|0.8
|rowspan="2" style="text-align:center"|
|新潟方面接続<br>東京外環道のJCT番号は「'''50'''」
|-
|[[大泉インターチェンジ|大泉IC]]
|都道24号練馬所沢線
|新潟方面入口のみ<br>東京外環道のIC番号は「'''50'''」
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|大泉BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[新座料金所|新座TB]]
|
|style="text-align:right"|4.2
|style="text-align:center"|
|[[本線料金所]]<br>スマートインターチェンジの設置計画あり<ref>[https://www.city.niiza.lg.jp/uploaded/attachment/6653.pdf スマートインターチェンジの設置について]新座市役所ホームページ</ref><ref group="注釈">[[新座料金所#スマートインターチェンジ設置構想|スマートインターチェンジ設置構想]]も参照。</ref>
|rowspan="25" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[埼玉県]]}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[新座市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|新座BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|-
!style="background-color:#BFB"|3
|[[所沢インターチェンジ|所沢IC]]
|[[国道463号]]([[浦和所沢バイパス]])
|style="text-align:right"|9.4
|style="text-align:center"|◆
|
|colspan="2"|[[所沢市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|三芳BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|rowspan="2" colspan="2"|[[入間郡]]<br/>[[三芳町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|3-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[三芳パーキングエリア|三芳PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"| 町道上富82号線<br/>町道上富69号線
|style="text-align:right"|13.9
|style="text-align:center"|
|新潟方面出入口のみ<br>東京方面出入口は[[2021年]]度以降供用開始予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/town/keikaku/documents/smart_shiryou1901.pdf|title=第2回 三芳スマートIC地区協議会 資料|date=2019-01|accessdate=2022-04-11|publisher=三芳町|format=PDF}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|大井BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[ふじみ野市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|4
|[[川越インターチェンジ|川越IC]]
|[[国道16号]]
|style="text-align:right"|21.2
|style="text-align:center"|◆
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[川越市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[川越的場バスストップ|川越的場BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|24.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|4-1
|[[鶴ヶ島ジャンクション|鶴ヶ島JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]
|style="text-align:right"|27.8
|style="text-align:center"|
|圏央道のJCT番号は「'''50'''」
|rowspan="3" colspan="2"|[[鶴ヶ島市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|5
|[[鶴ヶ島インターチェンジ|鶴ヶ島IC]]
|[[国道407号]]
|style="text-align:right"|29.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|坂戸BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|-
!style="background-color:#BFB"|5-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[坂戸西スマートインターチェンジ|坂戸西SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線|県道39号川越坂戸毛呂山線]]
|style="text-align:right"|32.5
|style="text-align:center"|
|
|colspan="2"|[[坂戸市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[高坂サービスエリア|高坂SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|34.8
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[東松山市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|高坂BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|36.5
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|-
!style="background-color:#BFB"|6
|[[東松山インターチェンジ|東松山IC]]
|[[国道254号]]([[東松山バイパス (国道254号)|東松山バイパス]])<br>[[埼玉県道47号深谷東松山線|県道47号深谷東松山線]]([[熊谷東松山道路]])
|style="text-align:right"|39.4
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|滑川BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|rowspan="3" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[比企郡]]}}
|[[滑川町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|6-1
|[[嵐山小川インターチェンジ|嵐山小川IC]]
|[[埼玉県道11号熊谷小川秩父線|県道11号熊谷小川秩父線]]
|style="text-align:right"|47.4
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="2"|[[嵐山町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[嵐山パーキングエリア|嵐山PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|50.1
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|7
|[[花園インターチェンジ|花園IC]]
|[[国道140号]]([[国道140号バイパス|彩甲斐街道]])<br>([[西関東連絡道路]]([[地域高規格道路#路線指定|計画路線]]))
|style="text-align:right"|56.1
|style="text-align:center"|◆
|
|colspan="2"|[[深谷市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|寄居BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|rowspan="2" colspan="2"|[[大里郡]]<br/>[[寄居町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|7-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[寄居パーキングエリア|寄居PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|
|style="text-align:right"|63.7
|style="text-align:center"|
|上り線は深谷市
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|美里BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|colspan="2"|[[児玉郡]]<br />[[美里町 (埼玉県)|美里町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|8
|[[本庄児玉インターチェンジ|本庄児玉IC]]
|[[国道462号]]
|style="text-align:right"|69.6
|style="text-align:center"|◆
|
|colspan="2"|[[本庄市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|上里BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|rowspan="2" colspan="2"|児玉郡<br>[[上里町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|8-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[上里サービスエリア|上里SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|町道2480号線<br>町道2087号線
|style="text-align:right"|75.5
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|新町BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|◆
|休止中
|rowspan="20" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[群馬県]]}}
|colspan="2"|[[高崎市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|9
|[[藤岡ジャンクション|藤岡JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]]
|style="text-align:right"|78.6
|style="text-align:center"|-
|
|colspan="2"|[[藤岡市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|9-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[高崎玉村スマートインターチェンジ|高崎玉村SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[国道354号]]([[東毛広域幹線道路]])
|style="text-align:right"|82.7
|style="text-align:center"|-
|
|rowspan="4" colspan="2"|高崎市
|-
!style="background-color:#BFB"|9-2
|[[高崎ジャンクション|高崎JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E50}} [[北関東自動車道]]
|style="text-align:right"|84.6
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|10
|[[高崎インターチェンジ|高崎IC]]
|[[群馬県道27号高崎駒形線|県道27号高崎駒形線]]
|style="text-align:right"|87.0
|style="text-align:center"|
|
|-style="height:1em;"
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|11
|rowspan="2"|[[前橋インターチェンジ|前橋IC]]
|rowspan="2"|[[国道17号]]([[高崎前橋バイパス]])
|rowspan="2" style="text-align:right"|92.1
|rowspan="2" style="text-align:center"|
|rowspan="2"|ここから新潟方面は4車線
|-
|colspan="2"|[[前橋市]]
|-
!style="background-color:#BFB; white-space:nowrap;"|11-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[駒寄パーキングエリア|駒寄PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|町道七日市・長久保線<br/>町道七日市・吉開戸線
|style="text-align:right"|98.5
|style="text-align:center"|
|
|colspan="2"|[[北群馬郡]]<br/>[[吉岡町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|12
|[[渋川伊香保インターチェンジ|渋川伊香保IC]]
|国道17号([[渋川バイパス]])
|style="text-align:right"|103.4
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[渋川市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[三原田チェーンベース|三原田CB]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|107.3
|style="text-align:center"|
|東京方面
|-
!style="background-color:#BFB"|12-1
|[[赤城インターチェンジ|赤城IC]]/[[赤城パーキングエリア|PA]]
|[[群馬県道70号大間々上白井線|県道70号大間々上白井線]]
|style="text-align:right"|111.2
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[赤城高原サービスエリア|赤城高原SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|118.5
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[利根郡]]<br/>[[昭和村 (群馬県)|昭和村]]
|-
!style="background-color:#BFB"|12-2
|[[昭和インターチェンジ|昭和IC]]
|[[群馬県道65号昭和インター線|県道65号昭和インター線]]
|style="text-align:right"|120.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|13
|[[沼田インターチェンジ (群馬県)|沼田IC]]
|[[国道120号]]
|style="text-align:right"|125.8
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[沼田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[沼田チェーンベース|沼田CB]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|128.8
|style="text-align:center"|
|新潟方面
|-
!style="background-color: #BFB"|14
|[[月夜野インターチェンジ|月夜野IC]]
|国道17号([[月夜野バイパス]])
|style="text-align:right"|131.1
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="5" colspan="2"|利根郡<br/>[[みなかみ町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[下牧パーキングエリア|下牧PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|135.5
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|15
|[[水上インターチェンジ|水上IC]]
|[[国道291号]]
|style="text-align:right"|141.0
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[谷川岳パーキングエリア|谷川岳PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|146.0
|style="text-align:center"|
|
|-style="height:1em;"
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|-
|rowspan="2" |[[関越トンネル]]
|rowspan="2" style="text-align:center"|-
|rowspan="2" style="text-align:right"|
|rowspan="2" style="text-align:center"|-
|rowspan="2"|長さ 11,055 m<br>危険物積載車両通行禁止
|-
|rowspan="16" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[新潟県]]}}
|rowspan="3" colspan="2"|[[南魚沼郡]]<br/>[[湯沢町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[土樽パーキングエリア|土樽PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|157.5
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|16
|[[湯沢インターチェンジ (新潟県)|湯沢IC]]
|国道17号
|style="text-align:right"|167.0
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[塩沢石打サービスエリア|塩沢石打SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|173.5
|style="text-align:center"|
|東京方面
|rowspan="4" colspan="2"|[[南魚沼市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|16-1
|[[塩沢石打インターチェンジ|塩沢石打IC]]/SA
|[[新潟県道28号塩沢大和線|県道28号塩沢大和線]]
|style="text-align:right"|175.5
|style="text-align:center"|
|SAは新潟方面のみ
|-
!style="background-color:#BFB"|17
|[[六日町インターチェンジ|六日町IC]]
|[[国道253号]]<br>国道253号([[八箇峠道路]])(事業中)
|style="text-align:right"|186.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|17-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[大和パーキングエリア|大和PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[新潟県道265号下折立浦佐停車場線|県道265号下折立浦佐停車場線]]<br>(市道経由)
|style="text-align:right"|198.3
|style="text-align:center"|
|SICは[[2016年]][[3月28日]]より24時間利用可<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hrr.mlit.go.jp/chokoku/file/oshirase/160226-yamato-ic_.pdf|title=関越自動車道 大和スマートIC が3月28日(月)朝6時から待望の24時間運用開始!また、スマートIC 利用台数も「300万台」達成!|accessdate=2016-05-18|date=2016-02-26|format=PDF|publisher=スマートインターチェンジ大和地区協議会}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|18
|[[小出インターチェンジ|小出IC]]
|[[国道291号]]
|style="text-align:right"|204.4
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[魚沼市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|18-1
|[[堀之内インターチェンジ|堀之内IC]]/[[堀之内パーキングエリア|PA]]
|[[新潟県道84号堀之内インター線|県道84号堀之内インター線]]
|style="text-align:right"|212.1
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|19
|[[越後川口インターチェンジ|越後川口IC]]/[[越後川口サービスエリア|SA]]
|[[新潟県道83号川口塩殿線|県道83号川口塩殿線]]
|style="text-align:right"|220.9
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[長岡市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|20
|[[小千谷インターチェンジ|小千谷IC]]
|国道291号
|style="text-align:right"|228.8
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[小千谷市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[山谷パーキングエリア|山谷PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|230.9
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[片貝バスストップ|片貝BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|235.0
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|20-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[長岡南越路スマートインターチェンジ|長岡南越路SIC]]<br>[[越路バスストップ|越路BS]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[新潟県道23号柏崎高浜堀之内線|県道23号柏崎高浜堀之内線]]
|style="text-align:right"|238.5
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="3" colspan="2"|長岡市
|-
!style="background-color:#BFB"|21
|[[長岡インターチェンジ|長岡IC]]
|[[新潟県道86号長岡インター線|県道86号長岡インター線]]<br>[[国道8号]]([[長岡バイパス]])
|style="text-align:right"|244.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|37
|[[長岡ジャンクション|長岡JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]](柏崎・富山方面)
|style="text-align:right"|246.1
|style="text-align:center"|
|キロポストは246.2KPまで
|-
|colspan="9" style="text-align:center;"|{{Ja Exp Route Sign|E8}} 北陸自動車道
|}
== 歴史 ==
最初に開通した練馬IC - 川越ICは、'''東京川越道路'''という名称の[[国道254号|一般国道254号]]のバイパス道路として1971年(昭和46年)に開通したものである<!--{{sfn|浅井建爾|2015|p=91}}-->。のちに[[高規格幹線道路]]としての改修を受けて、1973年(昭和48年)に高速自動車国道へ格上げされ、関越自動車道に編入された{{sfn|浅井建爾|2015|p=91}}。
[[田中角栄]]は、[[道路特定財源制度]]を議員立法で成立させて戦後の道路整備の方向性を明確にして[[内閣総理大臣]]となったが、関越自動車道の東京流入口となる練馬ICを、田中邸最寄りの[[目白通り]]に設置させたと巷噂された{{sfn|武部健一|2015|pp=186–187}}{{sfn|佐藤健太郎|2015|pp=108–109}}。田中の首相在任中に[[日本道路公団]]の新潟県所管建設局長に就任した武部健一は「高速道路としては当然の道筋であって、田中の目白邸を意識したものではない。」「田中邸のほうが、新潟から来る道筋を選んで建てられたと考えたほうが合理的である。」と持論を述べた{{sfn|武部健一|2015|pp=186–187}}。
=== 年表 ===
{{Timeline of release years
| title = 各年ごとの開通区間
| 1971 = (12月)練馬IC - 川越IC
| 1975 = (8月)川越IC - 東松山IC
| 1978 = (9月)長岡IC - 新潟黒埼IC
| 1980 = (7月)東松山IC - 前橋IC・藤岡JCT - 藤岡IC<br />(9月)長岡JCT
| 1982 = (3月)越後川口IC - 長岡IC<br />(12月)小出IC - 越後川口IC
| 1983 = (10月)六日町IC - 小出IC
| 1984 = (11月)湯沢IC - 六日町IC
| 1985 = (10月)前橋IC - 湯沢IC
}}
* [[1963年]]([[昭和]]38年)7月20日:関越自動車道の路線基準が定められる<ref>1963年(昭和38年)7月20日法律第158号「関越自動車道建設法」</ref>。
* [[1966年]](昭和41年)7月1日:関越自動車道が[[国土開発幹線自動車道]]の予定路線とされる<ref>1966年(昭和41年)7月1日法律第107号「国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正する法律」</ref>。
* [[1967年]](昭和42年)3月28日:練馬IC - 川越ICの工事開始<ref>1967年(昭和42年)3月27日日本道路公団公告第10号「工事開始公告」</ref>。
* [[1971年]](昭和46年)
** 12月7日:練馬IC - 川越ICの工事完了<ref>1971年(昭和46年)12月6日日本道路公団公告第69号「東京川越道路工事完了公告」</ref>。
** 12月20日:国道254号'''東京川越道路'''が有料道路名称「関越自動車道(東京川越区間)」として、練馬IC - 川越ICで開通<ref>1971年(昭和46年)12月18日日本道路公団公告第71号「有料道路「関越自動車道(東京川越区間)」の料金の額及び徴収期間の公告」</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)4月1日:東京川越道路が[[高速自動車国道]]('''関越自動車道''')へ切り替えられる<ref>1973年(昭和48年)3月30日日本道路公団公告第21号「有料道路「札幌自動車道」、「関越自動車道(東京川越区間)」、「東名阪道路」及び「西名阪道路」の料金の徴収期間の変更公告」</ref>。
* [[1975年]](昭和50年)8月8日:川越IC - 東松山IC開通。
* [[1978年]](昭和53年)9月21日:長岡IC - [[新潟西バイパス|新潟]][[黒埼インターチェンジ|黒埼IC]]開通。
* [[1980年]](昭和55年)
** 7月17日:東松山IC - 前橋IC、藤岡JCT - 藤岡IC開通。
** 9月27日:長岡JCTが開通して北陸自動車道と接続。
* [[1982年]](昭和57年)
** 3月30日:越後川口IC - 長岡IC開通。
** 12月2日:小出IC - 越後川口IC開通。
* [[1983年]](昭和58年)10月26日:六日町IC - 小出IC開通。
* [[1984年]](昭和59年)11月8日:湯沢IC - 六日町IC開通。[[ファイル:KAN-ETSU Expressway Monument.jpg|代替文=関越自動車道新潟線 全線開通記念碑(赤城高原サービスエリア下り線)|サムネイル|関越自動車道新潟線 全線開通記念碑(赤城高原サービスエリア下り線)]]
* [[1985年]](昭和60年)10月2日:前橋IC - 湯沢ICが開通して'''全線開通'''。月夜野IC-土樽PAは[[暫定2車線]]供用。
* [[1988年]](昭和63年)11月28日:月夜野IC - 谷川岳PAを4車線化<ref>{{Cite news |和書 |title=関越道・月夜野~谷川岳間の4車線化使用開始 |newspaper=毎日新聞 |date=1988-11-28 |agency=毎日新聞社 |edition=東京夕刊 社会面 10頁}}</ref>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)10月22日:谷川岳PA - 土樽PAの関越トンネルを4車線化。
* [[1993年]](平成5年)3月27日:藤岡JCT - 藤岡ICが関越自動車道から上信越自動車道に編入されて上信越自動車道と接続。
* [[1994年]](平成6年)3月30日:大泉JCT - 藤岡JCTを6車線化<ref name="交通1994">{{Cite news|title=「外環」「関越」30日に連結|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=1994-03-11|page=3}}</ref>し、大泉JCTが開通して東京外環自動車道と接続{{R|交通1994}}。
* [[1995年]](平成7年)8月7日:堀之内IC供用開始。
* [[1996年]](平成8年)3月26日:藤岡JCT - 前橋ICを6車線化し、鶴ヶ島JCTが開通して首都圏中央連絡自動車道(圏央道)と接続。
* [[1998年]](平成10年)3月26日:昭和IC供用開始。
* [[2001年]](平成13年)3月31日:高崎JCTが開通して北関東自動車道と接続。
* [[2004年]](平成16年)
** 3月27日:嵐山小川IC供用開始。
** 10月23日:[[新潟県中越地震]]発生、下り線の月夜野IC - 長岡JCT・上り線の長岡JCT - 湯沢ICが通行止め<ref>{{Cite news|title=新潟中越地震…高速道路不通区間|newspaper=[[Response.]]|date=2004.10.26|url=http://response.jp/article/2004/10/26/64957.html|accessdate=2016-04-12|publisher=株式会社イード}}</ref>。
** 10月26日:長岡IC - 長岡JCTの上下線と上り線の六日町IC - 湯沢ICが復旧<ref>{{Cite news|title=新潟中越地震…高速道路開通状況|newspaper=[[Response.]]|date=2004-10-28|url=http://response.jp/article/2004/10/28/65054.html|accessdate=2016-04-12|publisher=株式会社イード}}</ref>。
** 10月29日:小出IC - 長岡IC以外の上下線が復旧<ref>{{Cite news|title=新潟中越地震…関越道、高速バス再開|newspaper=[[Response.]]|date=2004-10-29|url=http://response.jp/article/2004/10/29/65151.html|accessdate=2016-04-12|publisher=株式会社イード}}</ref>。
** 11月5日:小出IC - 長岡ICが復旧、六日町IC - 長岡ICは2車線で仮復旧<ref>{{Cite news|title=関越自動車道、全線暫定開通…新潟中越地震|newspaper=[[Response.]]|date=2004-11-06|url=http://response.jp/article/2004/11/06/65332.html|accessdate=2016-04-12|publisher=株式会社イード}}</ref>。
** 12月10日:駒寄PAスマートIC社会実験開始、[[2006年]](平成18年)3月31日まで。当初は[[2005年]](平成17年)3月21日まで。
* [[2005年]](平成17年)
** 4月17日:三芳PAスマートIC社会実験開始、2006年(平成18年)3月31日まで。当初は2005年(平成17年)8月31日まで。
** 6月1日:大和PAスマートIC社会実験開始、2006年(平成18年)3月31日まで。当初は2005年(平成17年)8月31日まで。
** 10月1日:[[日本道路公団]]の民営化に伴い、[[東日本高速道路]]の管理路線となる。
** 12月26日:六日町IC - 長岡ICが完全復旧。
* [[2006年]](平成18年)10月1日:三芳スマートIC、駒寄スマートIC、大和スマートIC本格運用開始。
* [[2007年]](平成19年)7月16日:[[新潟県中越沖地震]]発生、小千谷IC - 長岡ICで通行止めと速度規制。
* [[2009年]](平成21年)
** 6月30日:坂戸スマートIC{{Efn|後に、仮称は「坂戸西スマートIC」に改められた。}}、高崎・玉村スマートICの連結を許可<ref>{{Cite press release |title=高速自動車国道へのインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省道路局有料道路課 |date=2009-06-30 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000081.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-08-19 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
** 9月24日:長岡南越路スマートIC供用開始。
* [[2012年]](平成24年)
** 4月20日:寄居PAスマートICと上里スマートICの連結を許可<ref>{{Cite press release |title=高速自動車国道へのインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省道路局高速道路課 |date=2012-04-20 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000257.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2023-08-19 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
** 4月29日:上り藤岡JCT付近で都市間ツアーバスが防音壁に衝突し、乗客7名が死亡する[[関越自動車道高速バス居眠り運転事故]]が発生した。高速道路における単独車両による事故では犠牲者数は最多。
* [[2013年]](平成25年)8月25日:坂戸西スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |title=関越自動車道 坂戸西スマートIC8月25日(日)15時 いよいよオープン! ~坂戸市から全国に、全国から坂戸市に、車でのお出かけがますます便利になります~ |publisher=東日本高速道路関東支社、坂戸市 |date=2013-06-26 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2013/0626/00007943.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2013-06-26 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)2月22日:高崎玉村スマートIC供用開始<ref name="mlit">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/smart_ic/jigyo.pdf 国土交通省道路局 スマートインターチェンジ事業中箇所一覧表]}}</ref><ref name="nexco20131217">{{Cite press release |title=関越自動車道 高崎玉村スマートICが来年2月22日(土)15時にオープンします |publisher=東日本高速道路関東支社、高崎市、玉村町 |date=2013-12-17 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2013/1217/00007994.html |format= |language=ja |trans-title= |access-date=2013-12-17 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)12月20日:上里スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |title=関越自動車道 上里スマートIC 12月20日(日)15時 いよいよオープン 〜上里町と全国が、より近く結ばれます〜 |publisher=上里町・東日本高速道路関東支社 |date=2015-10-20 |url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/kanto/h27/1020c/pdfs/pdf.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2021-04-02 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)3月28日:寄居スマートIC下り線出入口供用開始<ref>{{Cite press release |title=E17関越自動車道『寄居スマートインターチェンジ(下り線)』が平成31年3月28日(木)13時に開通します。 |publisher=深谷市・寄居町・美里町・東日本高速道路株式会社 |date=2019-02-28 |url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/kanto/h31/0228/pdfs/pdf.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2021-04-02 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** 11月10日:上り小出IC - 六日町IC間で道路法面のコンクリート擁壁が崩れ土砂が車線をふさぐ。数日間通行止と交通規制が行われた<ref>{{Cite news |和書 |title=魚沼市の関越道で法面が崩落 小出-大和間、再開見通し立たず |newspaper=新潟日報 |date=2020-11-10 |author= |authorlink= |author2= |authorlink2= |author3= |authorlink3= |author4= |authorlink4= |author5= |authorlink5= |author6= |authorlink6= |author7= |authorlink7= |author8= |authorlink8= |author9= |authorlink9= |url=https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20201110580481.html |access-date=2021-03-06 |format= |agency= |location=新潟県新潟市 |publisher=新潟日報社 |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}} {{リンク切れ|date=2023年8月}}</ref>。
** 12月19日:大雪により小出ICから塩沢石打ICの区間を中心に最大2100台の立往生が発生、解消まで52時間かかった<ref>{{Cite news |和書 |title=関越道立ち往生解消 大雪の新潟、52時間ぶり 通行止め全て解除 |newspaper=産経ニュース(sankei.com) |date=2020-12-19 |url=https://www.sankei.com/article/20201219-5GC4O5HZXFOALCDZGYWEMLO5M4/ |access-date=2023-08-19 |format= |agency= |location=東京都千代田区 |publisher=産経新聞社 |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url=https://web.archive.org/web/20230819015513/https://www.sankei.com/article/20201219-5GC4O5HZXFOALCDZGYWEMLO5M4/ |archive-date=2023-08-19 |ref= |postscript=}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=関越道2100台立ち往生、通行止めのタイミング検証へ…国や東日本高速 |newspaper=読売新聞オンライン |date=2020-12-19 |author= |authorlink= |author2= |authorlink2= |author3= |authorlink3= |author4= |authorlink4= |author5= |authorlink5= |author6= |authorlink6= |author7= |authorlink7= |author8= |authorlink8= |author9= |authorlink9= |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20201219-OYT1T50247/ |access-date=2020-12-30 |format= |agency= |location=東京都千代田区 |publisher=読売新聞社 |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}}</ref>。
** 12月31日:同年12月19日の立往生を教訓として、長岡ICから六日町ICかけて初の予防的通行止が実施された<ref>{{Cite news |和書 |title=関越道、予防的通行止め 立ち往生防止、初の試み |newspaper=47NEWS |date=2020-12-31 |author= |authorlink= |author2= |authorlink2= |author3= |authorlink3= |author4= |authorlink4= |author5= |authorlink5= |author6= |authorlink6= |author7= |authorlink7= |author8= |authorlink8= |author9= |authorlink9= |url=https://www.47news.jp/5669528.html |access-date=2020-12-30 |format= |agency=共同通信社 |location=東京都港区 |publisher=全国新聞ネット |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}}{{リンク切れ|date=2023年8月}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=関越道、予防的通行止め 立ち往生防止、東日本高速 |newspaper=産経ニュース (sankei.com) |date=2020-12-31 |author= |authorlink= |author2= |authorlink2= |author3= |authorlink3= |author4= |authorlink4= |author5= |authorlink5= |author6= |authorlink6= |author7= |authorlink7= |author8= |authorlink8= |author9= |authorlink9= |url=https://www.sankei.com/article/20201231-2YYWSEM6JBPU3O7Q4L7YPQHS5M/ |access-date=2023-08-19 |format= |agency= |location= |publisher=産経新聞社 |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url=https://web.archive.org/web/20230819020012/https://www.sankei.com/article/20201231-2YYWSEM6JBPU3O7Q4L7YPQHS5M/ |archive-date=2023-08-19 |ref= |postscript=}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)3月28日:寄居スマートIC(上り線出入口)供用開始<ref>{{Cite press release |title=E17関越自動車道『寄居スマートインターチェンジ』が令和3年3月28日に全面開通します |publisher=深谷市・寄居町・美里町・東日本高速道路株式会社 |date=2021-01-29 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2021/01/29/pdf.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2021-01-29 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref>。
== 路線状況 ==
=== 車線・最高速度 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!rowspan="2" |区間!!colspan="3" |[[車線]]!!colspan="2" |[[最高速度]]!!rowspan="2" |[[設計速度]]!!rowspan="2" |備考
|-
!上下線||上り線||下り線
![[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]]||左記を除く車両
|-
| 練馬IC - 大泉JCT||4||2||2||rowspan="8" |80 [[キロメートル毎時|km/h]]||rowspan="2" |80 km/h<br />(指定)||rowspan="2" |80 km/h||※1
|-
| 大泉JCT - 新座TB||rowspan="3"|6||rowspan="3"|3||rowspan="3"|3||
|-
| 新座TB - 川越IC|| rowspan="3" |100 km/h<br />(法定)||100 km/h||
|-
| 川越IC - 前橋IC||rowspan="2" |120 km/h||※1<br />※2<br />※3
|-
| 前橋IC - 渋川伊香保IC||rowspan="4"|4||rowspan="4"|2||rowspan="4"|2||※2
|-
| 渋川伊香保IC - 小千谷IC||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||※2
|-
| 小千谷IC - 長岡IC||100 km/h<br />(法定)||rowspan="2" |100 km/h||
|-
| 長岡IC - 長岡JCT||80 km/h<br />(指定)||
|}
* ※1 一部50 km/h制限
* ※2 一部に付加車線
* ※3 一部に登坂車線
全線が4車線以上で供用されている。開通当時は月夜野IC-土樽PA間が[[暫定2車線]]での供用だったが、1988年 - 1991年に4車線化された。
[[関越トンネル]]の区間は開通当初から長らく最高速度が70 km/hだったが、2015年10月より80 km/hに引き上げられた<ref>[https://www.e-nexco.co.jp/news/important_info/2015/0916/00005387.html 関越自動車道 関越トンネルの最高速度の変更について] - 東日本高速道路</ref>。
[[雨|雨天]]・[[降雪]]・[[霧|濃霧]]・[[台風]]などの荒天時、[[交通事故|事故]]や工事などの時は50から80 km/hまでの速度規制が行われる。
=== 道路施設 ===
==== サービスエリア・パーキングエリア ====
売店は全ての[[サービスエリア]] (SA) と[[駒寄パーキングエリア]] (PA) 以南の全ての[[パーキングエリア]]、[[谷川岳パーキングエリア|谷川岳PA]]、[[山谷パーキングエリア|山谷PA]]に設置されている。ガソリンスタンドは[[塩沢石打サービスエリア|塩沢石打SA]]を除く全てのサービスエリアと[[三芳パーキングエリア|三芳PA]]にあり、全て24時間営業。レストランは塩沢石打SAを除く、全てのサービスエリアと三芳PA上り線に設置されている。
==== 主なトンネルと橋 ====
トンネル・橋梁の延長は、NEXCO資料に基づく<ref name=E-NEXCO_bridge>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/activity/safety/infrastructure/1912/01.pdf |format=PDF |title=【別添】点検計画・修繕計画(橋梁) |work=高速道路のインフラ長寿命化計画(行動計画) |publisher=[[東日本高速道路]] |accessdate=2022-10-24 }}</ref><ref name=E-NEXCO_tunnel>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/activity/safety/infrastructure/1912/02.pdf |title=【別添】点検計画・修繕計画(トンネル) |work=高速道路のインフラ長寿命化計画(行動計画) |publisher=[[東日本高速道路]] |accessdate=2022-10-24 }}</ref>。
[[ファイル:ShinanoGawaArroundOjiya.jpg|thumb|200px|[[新潟県]][[小千谷市]]付近を蛇行する[[信濃川]]の左岸(画像で信濃川の右側)を緩やかなカーブで通る関越自動車道]]
{| class="wikitable"
|-
!rowspan="2"|区間
!rowspan="2"|構造物名
!colspan="2"|長さ
!rowspan="2"|備考
|-
!上り線
!下り線
|-
|練馬IC - 所沢IC||大泉高架橋||style="text-align:right"|2,056 m||style="text-align:right"|2,056 m||
|-
|川越IC - 鶴ヶ島JCT||入間川橋||style="text-align:right"|494 m||style="text-align:right"|494 m||
|-
|嵐山PA - 花園IC||[[荒川橋 (関越自動車道)|荒川橋]]||style="text-align:right"|<ref name="arakawabashi_bunken">{{Cite journal | 和書 |author =橋梁編纂委員会 |date = 1978-01-10 |title = 関越自動車道 荒川橋の設計と施工 |url = |format = |journal = 橋梁 |volume = 14 |issue = 1 |serial = |publisher = 橋梁編纂委員会 |issn = 02870991 |doi = |naid = |pages = 15-21 |ref = }}<br />上記の文献には 532.448m と記されている。</ref>532 m||style="text-align:right"|<ref name="arakawabashi_bunken"/>532 m||
|-
|上里SA - 藤岡JCT||[[神流川橋 (関越自動車道)|神流川橋]]||style="text-align:right"|747 m||style="text-align:right"|747 m||
|-
|藤岡JCT - 高崎玉村SIC||烏川橋||style="text-align:right"|410 m||style="text-align:right"|410 m||
|-
|渋川伊香保IC - 赤城IC/PA||利根川橋||style="text-align:right"|784 m||style="text-align:right"|784 m||
|-
|rowspan="5"|赤城IC/PA - 赤城高原SA||栗の木川橋||style="text-align:right"|266 m||style="text-align:right"|266 m||<!--上路トラス橋-->
|-
||沼尾川橋||style="text-align:right"|700 m||style="text-align:right"|700 m||[[土木学会田中賞]]受賞
|-
||棚下橋||style="text-align:right"|456 m||style="text-align:right"|493 m||
|-
||長井坂トンネル||style="text-align:right"|548 m||style="text-align:right"|543 m||
|-
||永井川橋||style="text-align:right"|488 m||style="text-align:right"|479 m||土木学会田中賞受賞
|-
|赤城高原SA - 昭和IC||入沢川橋||style="text-align:right"|230 m||style="text-align:right"|230 m||<!--上路トラス橋-->
|-
|昭和IC - 沼田IC||[[片品川橋]]||style="text-align:right"|1,034 m||style="text-align:right"|1,034 m||土木学会田中賞受賞(新築および耐震補強の2度)
|-
|沼田IC - 月夜野IC||四釜川橋||style="text-align:right"|400 m||style="text-align:right"|400 m||
|-
|rowspan="2"|下牧PA - 水上IC||大峰橋||style="text-align:right"|318 m||style="text-align:right"|318 m||[[利根川]]を渡る
|-
||渕尻トンネル||style="text-align:right"|586 m||style="text-align:right"|485 m||
|-
|rowspan="3"|水上IC - 谷川岳PA||川上トンネル||style="text-align:right"|198 m||style="text-align:right"|193 m||
|-
||水上橋||style="text-align:right"|387 m||style="text-align:right"|386 m||母谷沢を渡る
|-
||阿能川橋||style="text-align:right"|628 m||style="text-align:right"|648 m||
|-
|谷川岳PA - 土樽PA||[[関越トンネル]]||style="text-align:right"|11,055 m||style="text-align:right"|10,926 m||日本の山岳道路のトンネルで最長
|-
|rowspan="2"|土樽PA - 湯沢IC||土樽橋||style="text-align:right"|426 m||style="text-align:right"|375 m||[[魚野川]]を渡る
|-
||松川橋||style="text-align:right"|324 m||style="text-align:right"|341 m||魚野川を渡る
|-
|rowspan="2"|湯沢IC - 塩沢石打IC/SA||湯沢橋||style="text-align:right"|372 m||style="text-align:right"|379 m||魚野川を渡る
|-
||石打トンネル||style="text-align:right"|1,590 m||style="text-align:right"|1,502 m||
|-
|rowspan="2"|塩沢石打IC/SA - 六日町IC||中之島橋||style="text-align:right"|459 m||style="text-align:right"|446 m||魚野川を渡る
|-
||六日町トンネル||style="text-align:right"|950 m||style="text-align:right"|940 m||
|-
|六日町IC - 大和PA/SIC||八海橋||style="text-align:right"|610 m||style="text-align:right"|620 m||魚野川を渡る
|-
|rowspan="2"|大和PA/SIC - 小出IC||大浦トンネル||style="text-align:right"|180 m||style="text-align:right"|180 m||
|-
||小出トンネル||style="text-align:right"|423 m||style="text-align:right"|407 m||
|-
|rowspan="5"|小出IC - 堀之内IC/PA||佐梨川橋||style="text-align:right"|324 m||style="text-align:right"|330 m||
|-
||湯之谷第一トンネル||style="text-align:right"|117 m||style="text-align:right"|117 m||
|-
||湯之谷第二トンネル||style="text-align:right"|70 m||style="text-align:right"|100 m||
|-
||湯之谷第三トンネル||style="text-align:right"|52 m||style="text-align:right"|52 m||
|-
||下倉山トンネル||style="text-align:right"|803 m||style="text-align:right"|816 m||
|-
|rowspan="2"|堀之内IC/PA - 越後川口IC/SA||越後川口トンネル||style="text-align:right"|293 m||style="text-align:right"|275 m||
|-
||[[越後川口橋]]||style="text-align:right"|500 m||style="text-align:right"|500 m||[[信濃川]]を渡る
|-
|越後川口IC/SA - 小千谷IC||[[山本山トンネル]]||style="text-align:right"|1,839 m||style="text-align:right"|1,805 m||
|-
|}
===== 関越トンネル =====
[[File:Kan-Etsu Tunnel.jpg|right|300px|thumb|関越トンネル上り線入口]]
{{Main|関越トンネル}}
* 上り線 : 11,055 m
* 下り線 : 10,926 m
関越トンネル内は、長距離でもあり、万一のチェーン破損時に停車して応急処理するのも非常に危険が伴うため、金属製の[[タイヤチェーン]]を装着しての走行は[[禁止]]されている。ゴム製のタイヤチェーンの場合は外さなくても良いが、[[摩擦]]による破断を防ぐために速度が50 [[キロメートル毎時|km/h]]に規制されている。そのため、積雪の状況によってはトンネル前後の[[谷川岳パーキングエリア|谷川岳PA]]と[[土樽パーキングエリア|土樽PA]]で着脱する必要がある。
トンネル双方の出口PAからチェーン規制が行われると、地元の車両を含む全ての車がPAに誘導され、タイヤ及びチェーンの脱着の確認が行われる。
このトンネルは全長が約11 kmにも及ぶため、[[水上インターチェンジ|水上IC]] - [[湯沢インターチェンジ (新潟県)|湯沢IC]]の間は危険物積載車の通行が規制されており、国道17号([[三国峠 (群馬県・新潟県)|三国峠]])を経由して[[迂回]]しなければならない。下り線には規制区間の手前である[[月夜野インターチェンジ|月夜野IC]]手前に該当車両の流出を促す注意標識がある。これは月夜野ICが群馬県側から新潟県側へ抜ける国道17号に接続する最終の出口であり、水上ICから出た場合には国道17号まで戻る必要があるためである。また、上り線土樽PAから下り線への危険物運搬車専用の通路が整備されている。
===== トンネルの数 =====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!区間
!上り線
!下り線
|-
|練馬IC - 赤城IC||0
||0
|-
|赤城IC - 赤城高原SA||1
||1
|-
|赤城高原SA - 下牧PA||0
||0
|-
|下牧PA - 水上IC||1
||1
|-
|水上IC - 谷川岳PA||1
||1
|-
|谷川岳PA - 土樽PA||1
||1
|-
|湯沢IC - 塩沢石打IC||1
||1
|-
|塩沢石打IC - 六日町IC||1
||1
|-
|六日町IC - 大和PA||0
||0
|-
|大和PA - 小出IC||2
||2
|-
|小出IC - 堀之内IC||4
||4
|-
|堀之内IC - 越後川口IC||1
||1
|-
|越後川口IC - 小千谷IC||1
||1
|-
|小千谷IC - 長岡JCT||0
||0
|-
!合計
!15
!15
|}
* 大泉JCT - 所沢ICには'''旭ヶ丘シェルター'''が存在する。
* 土樽PA - 湯沢ICにスノーシェッドが3か所存在する。
* 多くは山岳部を通過する群馬・新潟県境周辺に集中している。<!--土樽1号スノーシェッド・同2号・同3号-->
==== 連続照明区間 ====
* 練馬IC - 嵐山PA
* 関越トンネル前後区間
==== ハイウェイラジオ(路側放送) ====
* 新座TB付近(新座TB - 所沢IC)<ref name="e-nexco radio">{{Cite web|和書|url=https://ap.salesforce.com/sfc/p/100000001ffs/a/10000000QHEp/kiB5jNvliRRs1Xm6JUbpTa4gVA2EIn8IYBdzySIzC4k|title=ハイウェイラジオ設置箇所一覧(NEXCO東日本エリア)(平成30年3月1日時点)|publisher=東日本高速道路|format=PDF|accessdate=2021-9-23}}</ref>
* 三芳PA付近(所沢IC - 川越IC)<ref name="e-nexco radio"/>
* 川越IC付近(川越IC - 鶴ヶ島JCT)<ref name="e-nexco radio"/>
* 高坂SA付近(鶴ヶ島IC - 東松山IC)<ref name="e-nexco radio"/>
* 本庄児玉IC付近(花園IC - 本庄児玉IC)<ref name="e-nexco radio"/>
* 前橋IC付近(高崎IC - 前橋IC)<ref name="e-nexco radio"/>
* 駒寄PA付近(前橋IC - 渋川伊香保IC)<ref name="e-nexco radio"/>
* 月夜野IC付近(沼田IC - 月夜野IC)<ref name="e-nexco radio"/>
* 下牧PA付近(月夜野IC - 水上IC)<ref name="e-nexco radio"/>
* 谷川岳PA付近(水上IC - 湯沢IC 新潟方面のみ)<ref name="e-nexco radio"/>
* 関越トンネル(水上IC - 湯沢IC 関越トンネル内):上下線別<ref name="e-nexco radio"/>
* 土樽PA付近(水上IC - 湯沢IC 東京方面のみ)<ref name="e-nexco radio"/>
=== 道路管理者 ===
2005年10月の道路公団民営化後は全区間が[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)の管轄区間となり、[[水上インターチェンジ|水上IC]]を境に南側を[[東日本高速道路関東支社|関東支社]]が、北側を[[東日本高速道路新潟支社|新潟支社]]がそれぞれ管理・運営している。
* [[東日本高速道路関東支社|関東支社]]
** 所沢管理事務所 : 練馬IC - 本庄児玉IC
** 高崎管理事務所 : 本庄児玉IC - 水上IC
* [[東日本高速道路新潟支社|新潟支社]]
** 湯沢管理事務所 : 水上IC - 小千谷IC
** 長岡管理事務所 : 小千谷IC - 長岡JCT
{{Anchors|関越特別区間}}
=== 特別料金区間 ===
* [[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]([[高速自動車国道#対距離制|普通区間]]の1.2[[乗法|倍]]) : 練馬IC - 東松山IC (39.4 km)
* '''関越特別区間'''(普通区間の1.6倍) : 水上IC - 湯沢IC (26.0 km)
=== 交通量 ===
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 区間 !! 平成11(1999)年度 !! 平成17年(2005年)度 !! 平成22年(2010年)度 !! 平成27年(2015年)度!!令和3(2021)年度
|-
| 練馬IC - 大泉JCT || {{0}}43,295 || {{0}}38,260 || {{0}}37,147 || {{0}}35,915 || {{0}}36,388
|-
| 大泉JCT - 所沢IC || {{0}}94,390 || {{0}}95,198 || 100,329 || {{0}}98,696 || {{0}}94,740
|-
| 所沢IC - 三芳PASIC ||rowspan="2" | {{0}}92,721 || {{0}}90,774 || {{0}}93,261 || {{0}}91,725 || {{0}}85,824
|-
| 三芳PASIC - 川越IC || {{0}}92,205 || {{0}}97,276 || {{0}}96,890 || {{0}}91,582
|-
| 川越IC - 鶴ヶ島JCT || {{0}}85,901 || {{0}}87,166 || {{0}}92,342 || {{0}}94,660 || {{0}}87,777
|-
| 鶴ヶ島JCT - 鶴ヶ島IC ||{{0}}88,485 || {{0}}90,281 || {{0}}96,048 || 102,355 || {{0}}95,913
|-
| 鶴ヶ島IC - 坂戸西SIC || rowspan="2" | {{0}}76,226 || rowspan="2" | {{0}}79,320 || rowspan="2" | {{0}}85,769 || rowspan="2" |{{0}}95,217 || rowspan="2" | {{0}}89,427
|-
| 坂戸西SIC - 東松山IC
|-
| 東松山IC - 嵐山小川IC || rowspan="2" | {{0}}62,530 || {{0}}68,108 || {{0}}74,236 || {{0}}80,585 ||{{0}}71,618
|-
| 嵐山小川IC - 花園IC || {{0}}65,861 || {{0}}70,901 || {{0}}75,328 ||{{0}}66,077
|-
| 花園IC - 寄居PASIC || rowspan="2" | {{0}}56,436 || rowspan="2" | {{0}}59,869 || rowspan="2" | {{0}}62,815 || rowspan="2" | {{0}}67,232 ||rowspan="2" | {{0}}57,295
|-
| 寄居PASIC - 本庄児玉IC
|-
| 本庄児玉IC - 上里SASIC || rowspan="2" | {{0}}53,086 || rowspan="2" | {{0}}56,582 || rowspan="2" | {{0}}58,937 || rowspan="2" |{{0}}63,282 || rowspan="2" |{{0}} 52,896
|-
| 上里SASIC - 藤岡JCT
|-
| 藤岡JCT - 高崎玉村SIC ||rowspan="3" | {{0}}39,702 || rowspan="2" | {{0}}46,847 || rowspan="2" | {{0}}52,543 || {{0}}60,954 || {{0}}50,394
|-
| 高崎玉村SIC - 高崎JCT || {{0}}61,667 || {{0}}50,511
|-
| 高崎JCT - 高崎IC || {{0}}47,238 || {{0}}56,780 || {{0}}58,328 || {{0}}49,133
|-
| 高崎IC - 前橋IC || {{0}}33,197 || {{0}}39,856 || {{0}}45,430 || {{0}}48,654 || {{0}}40,427
|-
| 前橋IC - 駒寄PASIC || rowspan="2" | {{0}}29,135 || {{0}}32,363 || {{0}}35,101 || {{0}}37,692 || {{0}}28,927
|-
| 駒寄PASIC - 渋川伊香保IC || {{0}}31,817 || {{0}}32,972 || {{0}}35,686 || {{0}}26,660
|-
| 渋川伊香保IC - 赤城IC || {{0}}23,112 || {{0}}24,327 || {{0}}23,157 || {{0}}26,757 || {{0}}21,250
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|-
| 昭和IC - 沼田IC || {{0}}22,703 || {{0}}23,256 || {{0}}21,185 || {{0}}24,435 || {{0}}18,900
|-
| 沼田IC - 月夜野IC ||{{0}}17,068 || {{0}}17,133 || {{0}}14,496 || {{0}}17,486 || {{0}}13,492
|-
| 月夜野IC - 水上IC || {{0}}16,120 || {{0}}16,763 || {{0}}13,551 || {{0}}16,678 || {{0}}13,163
|-
|水上IC - 湯沢IC || {{0}}14,122 || {{0}}13,917 || {{0}}11,673 || {{0}}15,141 || {{0}}12,154
|-
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|-
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| 六日町IC - 大和PASIC || rowspan="2" | {{0}}12,402 || {{0}}12,134 || {{0}}11,320 || {{0}}13,435 || {{0}}10,941
|-
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|-
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|-
| 堀之内IC - 越後川口IC || {{0}}13,479 || {{0}}14,500 || {{0}}12,761 || {{0}}15,039 || {{0}}12,308
|-
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|-
| 小千谷IC - 長岡南越路SIC || rowspan="2" | {{0}}15,247 || rowspan="2" | {{0}}17,365 || {{0}}15,365 || {{0}}17,522 || {{0}}14,328
|-
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|-
| 長岡IC - 長岡JCT || {{0}}21,900 || {{0}}24,371 || {{0}}23,609 || {{0}}25,472 || {{0}}21,195
|}
<small>(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)「[https://www.hrr.mlit.go.jp/road/census/census_h17 平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査の概要]」([[北陸地方整備局]]ホームページ)「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-27|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。
* 区間別日平均交通量([[2002年]](平成14年)度)
** 練馬IC - 長岡IC平均 : 3万9624台(前年度比98.2%)
** 長岡IC - 長岡JCT : 1万9831台(前年度比97.2%)
* 通行台数(練馬IC - 長岡IC)
** 年間 : 6664万<!--0-->456台(前年度比98.1%)
** 日平均 : 18万2577台
== 地理 ==
=== 通過する自治体 ===
* [[東京都]]
** [[練馬区]]
* [[埼玉県]]
** [[新座市]]
* 東京都<ref group="注釈">[[所沢インターチェンジ|所沢IC]]より少し練馬寄りで掠めているが東京都の[[カントリーサイン#高速道路のカントリーサイン|カントリーサイン]]は存在しない。</ref>
** [[清瀬市]]
* 埼玉県
** [[所沢市]] - [[入間郡]][[三芳町]] - [[ふじみ野市]] - [[川越市]] - [[鶴ヶ島市]] - [[坂戸市]] - [[東松山市]] - [[比企郡]][[滑川町]] - 比企郡[[嵐山町]] - 比企郡滑川町 - 比企郡嵐山町 - 比企郡[[小川町]] - [[大里郡]][[寄居町]] - [[深谷市]] - [[児玉郡]][[美里町 (埼玉県)|美里町]] - [[本庄市]] - 児玉郡[[上里町]]
* [[群馬県]]
** [[高崎市]] - [[藤岡市]] - [[佐波郡]][[玉村町]] - 高崎市 - [[前橋市]] - [[北群馬郡]][[吉岡町]] - [[渋川市]] - [[利根郡]][[昭和村 (群馬県)|昭和村]] - [[沼田市]] - 利根郡[[みなかみ町]]
* [[新潟県]]
** [[南魚沼郡]][[湯沢町]] - [[南魚沼市]] - [[魚沼市]] - [[長岡市]] - [[小千谷市]] - [[長岡市]]
=== 接続する高速道路 ===
* {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]](大泉JCTで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]([[鶴ヶ島ジャンクション|鶴ヶ島JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]](藤岡JCTで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E50}} [[北関東自動車道]](高崎JCTで接続)
* ([[上越魚沼地域振興快速道路]](六日町ICで接続予定))
* {{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]](長岡JCTで接続)
他の[[都心|都心部]]の高速自動車国道とは異なり、[[首都高速道路]]とは直接接続していない。首都高速道路へは、大泉JCTから東京外環自動車道を経由するのが一般的である。
終点の長岡JCTでは北陸自動車道の新潟方面が[[本線車道|本線]]となっており、北陸自動車道の[[富山インターチェンジ|富山]]方面が分岐・合流する形になっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=佐藤健太郎 |authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター) |date=2015-11-25 |title=国道者 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-339731-1 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Kan-etsu Expressway}}
* [[国土開発幹線自動車道]]
* [[高速自動車国道]]
* [[関東地方の道路一覧]]
* [[中部地方の道路一覧]]
* [[国道254号]]
* [[国道17号]]
* [[東武東上本線]]
* [[上越新幹線]]
* [[上越線]]
* [[関越自動車道高速バス居眠り運転事故]]
* [[新座料金所#スマートインターチェンジ設置構想]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jehdra.go.jp/ 独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構]
* [https://www.e-nexco.co.jp/ 東日本高速道路]
{{日本の高速道路}}
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[[Category:日本の高速道路]]
[[Category:高速自動車国道]]
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13,403 |
天体工場
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天体工場(てんたいこうじょう)は、かつて北海道札幌市中央区にある複合商業施設サッポロファクトリー内に存在した天体博物館。
1993年に開館し、数年後に閉鎖となった。この名前は小惑星(4645)に命名された。
天体工場は、小博物館、あるいはミニ・テーマパークというべき施設で、宇宙空間の実際の天体ではなく、物語的な意味での「天体」「星」をテーマとしていた。
1993年、サッポロビールが同社札幌工場の跡地に建設したサッポロファクトリーのレンガ館2Fに、全館のイメージシンボルとして「星を作る工場」というコンセプトで開設した。明治時代からの赤レンガ工場を利用し、かつそのイメージを拡大適用する形でつくられたサッポロファクトリー自体、比較的新しい施設でありながら「古きよき時代」という印象を感じさせるものとなっている。使用された設備はかつての機械室と麦芽倉庫である。
サッポロビールのマークがそもそも「星」であり、そこに「ビール工場が、天体をつくる工場として生まれ変わった」という意味を持たせて、独特の世界観を作り上げていた。メセナとしての意味も多分にあったのであろうが、十年と経たないうちに閉ざされてしまった。
展示では、架空の人物"工場長"をキーとして、「天体図書館」「星座資料室」「記憶倉庫」「星造工房」の4つの展示室からなる空間演出を行っていた。星造工房の設備にはビール醸造の装置類がたくみに取り込まれて使用されており、別世界の雰囲気を醸し出していた。
当初は有料だった(大人700円、小人500円)が、後には入場無料となっていた。有料のコンテンツとしては、星空に関する内容を上映する「プラネシアター」や、誕生日から西洋占星術のホロスコープを利用して占う「天運解読機」、相性占いの「双運羅星盤」があり、またほかにも絵葉書などのグッズが販売されていた。
演出はイエローツーカンパニーが担当し、「天体図書館」は舞台美術家・造形作家の小竹信節がアートディレクターを担当した。
小惑星登録番号4645 Tentaikojo。この施設に因んで命名された。命名者は、アマチュア天文家の藤井哲也と渡辺和郎。
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天体工場(てんたいこうじょう)は、かつて北海道札幌市中央区にある複合商業施設サッポロファクトリー内に存在した天体博物館。 1993年に開館し、数年後に閉鎖となった。この名前は小惑星(4645)に命名された。
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'''天体工場'''(てんたいこうじょう)は、かつて[[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]にある複合商業施設[[サッポロファクトリー]]内に存在した天体[[博物館]]。
[[1993年]]に開館し、数年後に閉鎖となった。この名前は[[小惑星]](4645)に命名された。
== 経緯と展示内容 ==
天体工場は、小博物館、あるいはミニ・[[テーマパーク]]というべき施設で、宇宙空間の実際の[[天体]]ではなく、物語的な意味での「天体」「星」をテーマとしていた。
1993年、[[サッポロビール]]が同社札幌工場の跡地に建設したサッポロファクトリーのレンガ館2Fに、全館のイメージシンボルとして「星を作る工場」というコンセプトで開設した。[[明治]]時代からの赤レンガ工場を利用し、かつそのイメージを拡大適用する形でつくられたサッポロファクトリー自体、比較的新しい施設でありながら「古きよき時代」という印象を感じさせるものとなっている。使用された設備はかつての機械室と麦芽倉庫である<ref>『サッポロファクトリー オフィシャルガイドブック』(サッポロビール開発株式会社、1993年、P.62)</ref>。
サッポロビールのマークがそもそも「星」であり、そこに「ビール工場が、天体をつくる工場として生まれ変わった」<ref>『北の・あたらしい・まちづくり サッポロファクトリー (デザインの現場4月号増刊)』(美術出版社、1993年、P.110)</ref>という意味を持たせて、独特の世界観を作り上げていた。[[メセナ]]としての意味も多分にあったのであろうが、十年と経たないうちに閉ざされてしまった。
展示では、架空の人物"工場長"をキーとして、「天体図書館」「星座資料室」「記憶倉庫」「星造工房」の4つの展示室からなる空間演出を行っていた。星造工房の設備には[[ビール]]醸造の装置類がたくみに取り込まれて使用されており、別世界の雰囲気を醸し出していた。
当初は有料だった(大人700円、小人500円)が<ref>『サッポロファクトリー オフィシャルガイドブック』(P.63)</ref>、後には入場無料となっていた。有料のコンテンツとしては、星空に関する内容を上映する「プラネシアター」や、誕生日から[[西洋占星術]]の[[ホロスコープ]]を利用して占う「天運解読機」、相性占いの「双運羅星盤」があり、またほかにも絵葉書などのグッズが販売されていた。
演出はイエローツーカンパニーが担当し<ref>[https://web.archive.org/web/20071028163733/http://yellowtwo.co.jp/works/1993/01.html サッポロファクトリー『天体工場』] - イエローツーカンパニー(Internet Archive)</ref>、「天体図書館」は舞台美術家・造形作家の[[小竹信節]]がアートディレクターを担当した<ref>『北の・あたらしい・まちづくり サッポロファクトリー』(P.110, 114)</ref>。
== 小惑星「天体工場」 ==
[[小惑星]]登録番号4645 Tentaikojo。この施設に因んで命名された。命名者は、アマチュア[[天文家]]の藤井哲也と[[渡辺和郎]]。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[小惑星の一覧 (4001-5000)]]
== 外部リンク ==
*[http://www.sapporobeer.jp/ サッポロビール]
*[http://sapporofactory.jp/ サッポロファクトリー]
*[http://www.yellowtwo.co.jp/ イエローツーカンパニー]
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[[Category:北海道の博物館 (廃止)]]
[[Category:札幌市中央区の博物館|廃てんたいこうしよう]]
[[Category:日本のテーマパーク (廃止)]]
[[Category:現存しない札幌市中央区の建築物]]
[[Category:1993年開設の博物館|廃てんたいこうしよう]]
[[Category:日本人の発見した小惑星]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:サッポロビール|廃てんたいこうしよう]]
[[Category:戦後の札幌]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%93%E5%B7%A5%E5%A0%B4
|
13,405 |
ピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)
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ピアノソナタ第8番(ピアノソナタだいはちばん)ハ短調 作品13『悲愴大ソナタ』("Grande Sonate pathétique")は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲したピアノソナタ。作曲者の創作の初期を代表する傑作として知られる。
正確な作曲年は定められていないものの1798年から1799年にかけて書かれたものと考えられており、スケッチ帳には作品9の弦楽三重奏曲と並ぶ形で着想が書き留められている。楽譜は1799年にウィーンのエーダーから出版され、早くからベートーヴェンのパトロンであったカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵へと献呈された。本作はベートーヴェンのピアノソナタの中で初めて高く、永続的な人気を勝ち得た作品である。楽譜の売れ行きもよく、気鋭のピアニストとしてだけでなく作曲家としてのベートーヴェンの名声を高める重要な成功作となる。
『悲愴』という標題は初版譜の表紙に既に掲げられており、これがベートーヴェン自身の発案であったのか否かは定かではないものの、作曲者本人の了解の下に付されたものであろうと考えることができる。ベートーヴェンが自作に標題を与えることは珍しく、ピアノソナタの中では他に第26番『告別』があるのみとなっている。『悲愴』が意味するところに関する作曲者自身による解説は知られていない。標題についてパウル・ベッカーはそれまでの作品では垣間見られたに過ぎなかったベートーヴェンらしい性質が結晶化されたのであると解説を行っており、ヴィルヤム・ビーアントは「(標題は)気高い情熱の表出という美的な概念の内に解されるべきである」と説いている。
ミュージカル・タイムズ誌に1924年に掲載された論説は、本作の主題にはベートーヴェンも称賛を惜しまなかったルイジ・ケルビーニが1797年に発表したオペラ『メデア』の主題と、非常に似通った部分があるとしている。他にも、同じくハ短調で本作と同様の楽章構成を持つヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノソナタ第14番の影響も取り沙汰される。とりわけ、第2楽章アダージョ・カンタービレの主題はモーツァルトの作品の第2楽章に見られるものと著しく類似している。また、未完に終わった交響曲第10番の冒頭主題が同主題に類似したものだったという研究成果が発表されている。グスタフ・ノッテボームは本作の終楽章が構想段階ではヴァイオリンとピアノのための楽曲であった可能性を指摘している。
このピアノソナタはベートーヴェンの「ロメオとジュリエット」期の心境、すなわち「青春の哀傷感」を写し取ったものと表現される。描かれているのは後年の作品に現れる深遠な悲劇性とは異なる次元の哀切さであるが、そうした情感を音楽により伝達しようという明確な意識が確立されてきた様子を窺い知ることが出来る。劇的な曲調と美しい旋律は本作を初期ピアノソナタの最高峰たらしめ、今なお多くの人に親しまれている。
イグナーツ・モシェレスは、1804年に図書館でこの作品を発見して写しを取って持ち帰ったところ、音楽教師から「もっと立派な手本を基にしてスタイルが出来上がるよりも先に、そんな奇矯な作品を弾いたり勉強してはならないと注意を受けた」と回想している。ベートーヴェン自身は持ち前のレガート奏法を駆使し、あたかもその場で創造されたものであるかのように弾いたとアントン・シンドラーは証言している。その様子は既によく知られていた本作と同じ曲が演奏されているのかと耳を疑うほどであったとされる。
本作はピアノソナタ第14番(月光)、第23番(熱情)と合わせてベートーヴェンの三大ピアノソナタと呼ばれることもある。約100年後にロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーが交響曲第6番『悲愴』を作曲しているが、その第1楽章にはこのピアノソナタの冒頭主題とよく似たモチーフが使用されている。
約17-19分。
ソナタ形式。譜例1に示されるグラーヴェの序奏が置かれ、展開部とコーダでも姿を見せる。同様の手法は選帝侯ソナタ第2番 WoO.47-2(1782年-1783年)の第1楽章にも見られる。
譜例1
急速な半音階の下降で序奏部を終えると主部が開始され、第1主題がトレモロの伴奏に乗って現れる(譜例2)。
譜例2
譜例2が発展して緊張の高まりを迎え、落ち着きを取り戻すと次なる主題が変ホ短調に提示される(譜例3)。
譜例3
さらに管弦楽的な広がりを持った変ホ長調の主題が続く(譜例4)。同主音の短調長調による対照的な譜例3と譜例4はいずれもソナタの第2主題となり得る性格を有しており、こうした構成に関しては第3番のソナタの第1楽章で行われた主題配置が先例となっている。譜例2によるコデッタが提示部を結び反復記号が置かれるが、この反復を受けて曲の冒頭に戻るか、主部の開始点に戻るかは奏者によって意見のわかれるところである。
譜例4
提示部の反復が終わるとト短調で譜例1が再現されて展開部となる。展開部は第1主題に基づいて勢いよく開始するが、その中に序奏部の音型がリズムを変えて巧みに織り込まれている。展開部の半ばほどで既にト音を執拗に鳴らす左手のトレモロの音型がペダルポイントを形成しており、十分に準備された後に4オクターヴに及ぶ下降音型から再現部に入る。再現部では第1主題とヘ短調の譜例3の間に新たな推移が置かれ、譜例4はハ短調となって現れる。コデッタがハ短調でクライマックスに達したところで再び譜例1が挿入され、第1主題による短いコーダで力強く終結する。
ロンド形式。ベートーヴェンの書いた最も有名な楽章のひとつである。ヴィリバルト・ナーゲルはベートーヴェン全作品中でも指折りの音楽と評価しており、マイケル・スタインバーグはこの楽章のために「ハープシコードの所有者は最寄りのピアノ屋に駆け込んだに違いない」と述べた。美しく、物憂い主題が静かに奏で始められる(譜例5)。
譜例5
声部を増やして譜例5が1オクターヴ高く繰り返されると、譜例6のエピソードがヘ短調で奏される。
譜例6
続く譜例5[ハ短調]の再現が終わると中間部となる。3連符の伴奏の上に変イ短調の主題が導かれる(譜例7)。
譜例7
譜例7は大きく盛り上がるとホ長調へ転調して繰り返される。第3の部分は譜例5の再現であるが、譜例7とともに新たに提示された3連符がそのまま持ち越される。3連符を用いた小規模なコーダが置かれ、静かに楽章の幕が下ろされる。
ロンド形式。譜例8のロンド主題は譜例3から導かれているが、第1楽章とは異なって劇的な表現を抑えて洗練された簡素さを感じさせる。
譜例8
推移部を挟んでドルチェの主題が変ホ長調で奏される。
譜例9
3連符主体の経過が穏やかなエピソードを中間に置いて繰り返され、フォルテッシモの下降音階の最低音にフェルマータを付して区切りをつけ、譜例8の再現へと移っていく。次に出されるのは優美な変イ長調の主題である(譜例10)。対位法的な手法を駆使して左右の手に現れた旋律が声部を交代しながら繰り返されていく。
譜例10
対旋律がスタッカートの音型に取って代わられて忙しない経過楽句に接続されると、再び下降音階で区切られてロンド主題の再現へと進められる。主題を低声部に移すなど変化を持たせながら、譜例9もハ長調で続けて再現される。3連符のエピソードもこれに追随し、再度現れた譜例8からコーダに至る。終わり付近で譜例8が回想されつつ静まっていくが、最後は突如フォルテッシモに転じて強力に全曲を結ぶ。作曲者自身はこの楽章を「ユーモラス」に弾いたと伝えられる。
編曲例
使用例
|
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"text": "ピアノソナタ第8番(ピアノソナタだいはちばん)ハ短調 作品13『悲愴大ソナタ』(\"Grande Sonate pathétique\")は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲したピアノソナタ。作曲者の創作の初期を代表する傑作として知られる。",
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"text": "正確な作曲年は定められていないものの1798年から1799年にかけて書かれたものと考えられており、スケッチ帳には作品9の弦楽三重奏曲と並ぶ形で着想が書き留められている。楽譜は1799年にウィーンのエーダーから出版され、早くからベートーヴェンのパトロンであったカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵へと献呈された。本作はベートーヴェンのピアノソナタの中で初めて高く、永続的な人気を勝ち得た作品である。楽譜の売れ行きもよく、気鋭のピアニストとしてだけでなく作曲家としてのベートーヴェンの名声を高める重要な成功作となる。",
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"text": "『悲愴』という標題は初版譜の表紙に既に掲げられており、これがベートーヴェン自身の発案であったのか否かは定かではないものの、作曲者本人の了解の下に付されたものであろうと考えることができる。ベートーヴェンが自作に標題を与えることは珍しく、ピアノソナタの中では他に第26番『告別』があるのみとなっている。『悲愴』が意味するところに関する作曲者自身による解説は知られていない。標題についてパウル・ベッカーはそれまでの作品では垣間見られたに過ぎなかったベートーヴェンらしい性質が結晶化されたのであると解説を行っており、ヴィルヤム・ビーアントは「(標題は)気高い情熱の表出という美的な概念の内に解されるべきである」と説いている。",
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"text": "ミュージカル・タイムズ誌に1924年に掲載された論説は、本作の主題にはベートーヴェンも称賛を惜しまなかったルイジ・ケルビーニが1797年に発表したオペラ『メデア』の主題と、非常に似通った部分があるとしている。他にも、同じくハ短調で本作と同様の楽章構成を持つヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノソナタ第14番の影響も取り沙汰される。とりわけ、第2楽章アダージョ・カンタービレの主題はモーツァルトの作品の第2楽章に見られるものと著しく類似している。また、未完に終わった交響曲第10番の冒頭主題が同主題に類似したものだったという研究成果が発表されている。グスタフ・ノッテボームは本作の終楽章が構想段階ではヴァイオリンとピアノのための楽曲であった可能性を指摘している。",
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"text": "このピアノソナタはベートーヴェンの「ロメオとジュリエット」期の心境、すなわち「青春の哀傷感」を写し取ったものと表現される。描かれているのは後年の作品に現れる深遠な悲劇性とは異なる次元の哀切さであるが、そうした情感を音楽により伝達しようという明確な意識が確立されてきた様子を窺い知ることが出来る。劇的な曲調と美しい旋律は本作を初期ピアノソナタの最高峰たらしめ、今なお多くの人に親しまれている。",
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"text": "イグナーツ・モシェレスは、1804年に図書館でこの作品を発見して写しを取って持ち帰ったところ、音楽教師から「もっと立派な手本を基にしてスタイルが出来上がるよりも先に、そんな奇矯な作品を弾いたり勉強してはならないと注意を受けた」と回想している。ベートーヴェン自身は持ち前のレガート奏法を駆使し、あたかもその場で創造されたものであるかのように弾いたとアントン・シンドラーは証言している。その様子は既によく知られていた本作と同じ曲が演奏されているのかと耳を疑うほどであったとされる。",
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"text": "本作はピアノソナタ第14番(月光)、第23番(熱情)と合わせてベートーヴェンの三大ピアノソナタと呼ばれることもある。約100年後にロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーが交響曲第6番『悲愴』を作曲しているが、その第1楽章にはこのピアノソナタの冒頭主題とよく似たモチーフが使用されている。",
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"text": "約17-19分。",
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"text": "ソナタ形式。譜例1に示されるグラーヴェの序奏が置かれ、展開部とコーダでも姿を見せる。同様の手法は選帝侯ソナタ第2番 WoO.47-2(1782年-1783年)の第1楽章にも見られる。",
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"text": "急速な半音階の下降で序奏部を終えると主部が開始され、第1主題がトレモロの伴奏に乗って現れる(譜例2)。",
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"text": "譜例2が発展して緊張の高まりを迎え、落ち着きを取り戻すと次なる主題が変ホ短調に提示される(譜例3)。",
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"text": "さらに管弦楽的な広がりを持った変ホ長調の主題が続く(譜例4)。同主音の短調長調による対照的な譜例3と譜例4はいずれもソナタの第2主題となり得る性格を有しており、こうした構成に関しては第3番のソナタの第1楽章で行われた主題配置が先例となっている。譜例2によるコデッタが提示部を結び反復記号が置かれるが、この反復を受けて曲の冒頭に戻るか、主部の開始点に戻るかは奏者によって意見のわかれるところである。",
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"text": "提示部の反復が終わるとト短調で譜例1が再現されて展開部となる。展開部は第1主題に基づいて勢いよく開始するが、その中に序奏部の音型がリズムを変えて巧みに織り込まれている。展開部の半ばほどで既にト音を執拗に鳴らす左手のトレモロの音型がペダルポイントを形成しており、十分に準備された後に4オクターヴに及ぶ下降音型から再現部に入る。再現部では第1主題とヘ短調の譜例3の間に新たな推移が置かれ、譜例4はハ短調となって現れる。コデッタがハ短調でクライマックスに達したところで再び譜例1が挿入され、第1主題による短いコーダで力強く終結する。",
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"text": "ロンド形式。ベートーヴェンの書いた最も有名な楽章のひとつである。ヴィリバルト・ナーゲルはベートーヴェン全作品中でも指折りの音楽と評価しており、マイケル・スタインバーグはこの楽章のために「ハープシコードの所有者は最寄りのピアノ屋に駆け込んだに違いない」と述べた。美しく、物憂い主題が静かに奏で始められる(譜例5)。",
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"text": "譜例7は大きく盛り上がるとホ長調へ転調して繰り返される。第3の部分は譜例5の再現であるが、譜例7とともに新たに提示された3連符がそのまま持ち越される。3連符を用いた小規模なコーダが置かれ、静かに楽章の幕が下ろされる。",
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"title": "楽曲構成"
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"title": "楽曲構成"
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"text": "編曲例",
"title": "その他"
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] |
ピアノソナタ第8番(ピアノソナタだいはちばん)ハ短調 作品13『悲愴大ソナタ』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲したピアノソナタ。作曲者の創作の初期を代表する傑作として知られる。
|
{{Portal クラシック音楽}}
'''ピアノソナタ第8番'''(ピアノソナタだいはちばん)[[ハ短調]] [[作品番号|作品13]]『'''悲愴大ソナタ'''』("Grande Sonate pathétique")は、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]が作曲した[[ピアノソナタ]]。作曲者の創作の初期を代表する傑作として知られる。
== 概要 ==
正確な作曲年は定められていないものの[[1798年]]から[[1799年]]にかけて書かれたものと考えられており、スケッチ帳には作品9の弦楽三重奏曲と並ぶ形で着想が書き留められている{{sfn|大木|1980|p=341}}。楽譜は1799年に[[ウィーン]]のエーダーから出版され、早くからベートーヴェンの[[パトロン]]であった[[カール・アロイス・フォン・リヒノフスキー]]侯爵へと献呈された{{sfn|大木|1980|p=341}}<ref name=allmusic>{{allmusic|class=composition |id=mc0002372210 |accessdate=2016-04-10}}</ref>。本作はベートーヴェンのピアノソナタの中で初めて高く、永続的な人気を勝ち得た作品である<ref name=chandos>{{Cite web|url=https://www.chandos.net/pdf/CHAN%2010616.pdf |title=Beethoven, Piano Sonatas |publisher=[[シャンドス|CHANDOS]] |format=PDF |accessdate=2016-04-10}}</ref>。楽譜の売れ行きもよく<ref name=solomon>[[メイナード・ソロモン|Maynard Solomon]], ''Beethoven'', p. 80. Revised Edition, Schirmer Trade Books.</ref>、気鋭の[[ピアニスト]]としてだけでなく[[作曲家]]としてのベートーヴェンの名声を高める重要な成功作となる<ref name=swafford>[[ジャン・スワッフォード|Jan Swafford]], ''Beethoven: Anguish and Triumph'', p. 219. Houghton Mifflin Harcourt</ref>。
『悲愴』という標題は初版譜の表紙に既に掲げられており<ref>{{Cite web|url=http://conquest.imslp.info/files/imglnks/usimg/c/c1/IMSLP50958-PMLP01410-Op.13.pdf |title=Beethoven, Piano Sonata No.8, first edition |publisher=Eder |format=PDF |accessdate=2016-04-10}}</ref>、これがベートーヴェン自身の発案であったのか否かは定かではないものの、作曲者本人の了解の下に付されたものであろうと考えることができる<ref name=hyperion1>{{Cite web|url=http://www.hyperion-records.co.uk/dc.asp?dc=D_CDA67662 |title=Beethoven, Piano Sonatas |publisher=[[ハイペリオン・レコード|Hyperion Records]] |accessdate=2016-04-10}}</ref>。ベートーヴェンが自作に標題を与えることは珍しく、ピアノソナタの中では他に[[ピアノソナタ第26番 (ベートーヴェン)|第26番『告別』]]があるのみとなっている{{sfn|大木|1980|p=341}}。『悲愴』が意味するところに関する作曲者自身による解説は知られていない<ref name=hyperion2>{{Cite web|url=http://www.hyperion-records.co.uk/dc.asp?dc=D_CDA67605 |title=Beethoven, Piano Sonatas Opp 2/3, 13 & 28 |author=[[アンジェラ・ヒューイット|Angela Hewitt]] |publisher=[[ハイペリオン・レコード|Hyperion Records]] |accessdate=2016-04-10}}</ref>。標題について[[パウル・ベッカー]]はそれまでの作品では垣間見られたに過ぎなかったベートーヴェンらしい性質が結晶化されたのであると解説を行っており{{sfn|大木|1980|p=341}}、[[ヴィルヤム・ビーアント]]は「(標題は)気高い情熱の表出という美的な概念の内に解されるべきである」と説いている<ref name=hyperion2 />。
[[ミュージカル・タイムズ]]誌に[[1924年]]に掲載された論説は、本作の主題にはベートーヴェンも称賛を惜しまなかった[[ルイジ・ケルビーニ]]が[[1797年]]に発表した[[オペラ]]『[[メデア (オペラ)|メデア]]』の主題と、非常に似通った部分があるとしている<ref name=hyperion2 />。他にも、同じくハ短調で本作と同様の[[楽章]]構成を持つ[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の[[ピアノソナタ第14番 (モーツァルト)|ピアノソナタ第14番]]の影響も取り沙汰される<ref name=chandos />。とりわけ、第2楽章[[wikt:adagio|アダージョ]]・[[wikt:cantabile|カンタービレ]]の主題はモーツァルトの作品の第2楽章に見られるものと著しく類似している<ref>Marks, F. Helena. [https://archive.org/details/sonataitsformmea00markuoft ''The Sonata: Its Form and Meaning as Exemplified in the Piano Sonatas by Mozart'']. W. Reeves, London, 1921.</ref>。また、未完に終わった[[交響曲第10番 (ベートーヴェン)|交響曲第10番]]の冒頭主題が同主題に類似したものだったという研究成果が発表されている<ref group= "注">[[バリー・クーパー]]補筆完成版の録音などで聴くことができる。</ref>。[[グスタフ・ノッテボーム]]は本作の終楽章が構想段階では[[ヴァイオリン]]と[[ピアノ]]のための楽曲であった可能性を指摘している{{sfn|大木|1980|p=341}}。
このピアノソナタはベートーヴェンの「[[ロメオとジュリエット]]」期の心境<ref name=chandos />、すなわち「青春の哀傷感」を写し取ったものと表現される{{sfn|大木|1980|p=342}}。描かれているのは後年の作品に現れる深遠な悲劇性とは異なる次元の哀切さであるが、そうした情感を音楽により伝達しようという明確な意識が確立されてきた様子を窺い知ることが出来る{{sfn|大木|1980|p=342}}。劇的な曲調と美しい旋律は本作を初期ピアノソナタの最高峰たらしめ、今なお多くの人に親しまれている{{sfn|大木|1980|p=341}}。
[[イグナーツ・モシェレス]]は、[[1804年]]に図書館でこの作品を発見して写しを取って持ち帰ったところ、音楽教師から「もっと立派な手本を基にしてスタイルが出来上がるよりも先に、そんな奇矯な作品を弾いたり勉強してはならないと注意を受けた」と回想している<ref name=hyperion2 /><ref name=landon>[[H.C.ロビンス・ランドン|H. C. Robbins Landon]], ''Beethoven: A Documentary Study'', pp. 61–62. Thames & Hudson 1970.</ref>。ベートーヴェン自身は持ち前の[[レガート]]奏法を駆使し、あたかもその場で創造されたものであるかのように弾いたと[[アントン・シンドラー]]は証言している。その様子は既によく知られていた本作と同じ曲が演奏されているのかと耳を疑うほどであったとされる<ref name=landon />。
本作は[[ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第14番]](月光)、[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|第23番]](熱情)と合わせて[[ベートーヴェンの三大ピアノソナタ]]と呼ばれることもある。約100年後にロシアの作曲家[[ピョートル・チャイコフスキー]]が[[交響曲第6番 (チャイコフスキー)|交響曲第6番『悲愴』]]を作曲しているが、その第1楽章にはこのピアノソナタの冒頭主題とよく似たモチーフが使用されている<ref name=hyperion1 />{{sfn|大木|1980|p=342}}。
== 演奏時間 ==
約17-19分<ref name=allmusic />{{sfn|大木|1980|p=342}}。
== 楽曲構成 ==
=== 第1楽章 ===
; [[wikt:grave|Grave]] 4/4[[拍子]] - [[wikt:allegro|Allegro]] di [[wikt:molto|molto]] e [[wikt:con brio|con brio]] 2/2拍子 ハ短調
[[ソナタ形式]]{{sfn|大木|1980|p=342}}。譜例1に示される[[wikt:grave|グラーヴェ]]の序奏が置かれ、展開部と[[コーダ (音楽)|コーダ]]でも姿を見せる{{sfn|大木|1980|p=342}}。同様の手法は[[選帝侯ソナタ#第2番 ヘ短調 WoO 47-2|選帝侯ソナタ第2番]] [[WoO|WoO.47-2]](1782年-1783年)の第1楽章にも見られる。
譜例1
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff { \key c \minor \time 4/4 \tempo "Grave."
<c~ g~ es~>4 <c g es>16. <c g>32 <d b g>16. <es c g>32 <es c a>4( <d b>8) r
<f~ d~ b~>4 <f d b>16. <f d b>32 <g d b>16. <aes d, b>32 <aes d, b>4( <g es c>8) r8*3/4
}
\new Dynamics {
s1\fp s\fp
}
\new Staff { \key c \minor \time 4/4 \clef bass
<c,,~ g~ es~ c~>4 <c g es c>16. es32 d16. c32 fis4( g8) r16. aes,!32
aes'4~ aes16. aes32 g16. f!32 es4~ es8 r16.
}
>>
}
</score>
急速な半音階の下降で序奏部を終えると主部が開始され、第1主題が[[トレモロ]]の伴奏に乗って現れる{{sfn|大木|1980|p=342}}(譜例2)。
譜例2
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff { \key c \minor \time 2/2 \tempo "Allegro di molto e con brio."
\override Score.NonMusicalPaperColumn #'line-break-permission = ##f
<<
{
c2. <e bes>4-. <f aes,>-. <g e>-. <aes f>-. <b d,>-.
<c es,!>-. <c e,>2 \stemDown <e bes!>4-. <f aes,>-. <g e>-. <aes f>-. <b d,>-.
<c g es! c>2-. <g f b, g>-. <es c g>-. <d aes f>-.
\stemUp <c~ es,>1( _\( <c a es>2 \) _\( <b f! d>\) )
<c es, c>4-.
}
\\
{ s1 s s s s s g2 fis }
>>
}
\new Dynamics {
s1\p s s4 s2.\sf s1 s2\cresc s\! s1 s s s4\p
}
\new Staff { \key c \minor \time 2/2 \clef bass
\stemUp
c,,8 c' c, c' c, c' c, c'
\repeat tremolo 2 { c,8 c' } \repeat tremolo 2 { c, c' }
\repeat tremolo 2 { c, c' } \repeat tremolo 2 { c, c' }
\repeat tremolo 2 { c, c' } \repeat tremolo 2 { c, c' }
\repeat tremolo 2 { c, c' } \repeat tremolo 2 { d, d' }
\repeat tremolo 2 { es, es' } \repeat tremolo 2 { f, f' }
\repeat tremolo 2 { g, g' } \repeat tremolo 2 { aes, aes' }
\repeat tremolo 2 { fis, fis' } \repeat tremolo 2 { g, g' }
c,,[ c']
}
>>
}
</score>
譜例2が発展して緊張の高まりを迎え、落ち着きを取り戻すと次なる主題が[[変ホ短調]]に提示される(譜例3)。
譜例3
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key c \minor \time 4/4
r4 \clef bass bes,4-. es-. f-. ges-. \clef treble bes'-. es-. f-.
\slashedGrace bes,8 ges'2.( es4) \slashedGrace bes8 ges'2.( es4) d-.
\clef bass bes,,-. f'-. ges-. aes-.
}
\new Dynamics {
s1 s s\sf s\sf
}
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key c \minor \time 4/4
<<
{
d'4\rest <ges, es> <ges es> <ges es> d'\rest <ges, es> <ges es> <ges es>
d'\rest <ges, es> <ges es> <ges es> d'\rest <ges, es> <ges es> <ges es>
d'\rest <aes f> <aes f> <aes f> d\rest
}
\\
{ bes,1 bes bes bes bes bes1*1/4 }
>>
}
>>
}
</score>
さらに[[オーケストラ|管弦楽]]的な広がりを持った[[変ホ長調]]の主題が続く<ref name=schiff>{{Cite web|url=http://www.theguardian.com/arts/audio/2006/nov/09/culture1405 |title=Andras Schiff lecture recital: Beethoven's Piano Sonata Op 13 |publisher=[[ガーディアン|The Guardian]] |accessdate=2016-05-03}}</ref>(譜例4)。同主音の短調長調による対照的な譜例3と譜例4はいずれもソナタの第2主題となり得る性格を有しており、こうした構成に関しては[[ピアノソナタ第3番 (ベートーヴェン)|第3番]]のソナタの第1楽章で行われた主題配置が先例となっている{{sfn|大木|1980|p=342}}。譜例2による[[コーダ (音楽)|コデッタ]]が提示部を結び反復記号が置かれるが{{sfn|大木|1980|p=342}}<ref name=score>{{Cite web|url=http://ks.imslp.info/files/imglnks/usimg/e/ee/IMSLP243128-PMLP01410-Beethoven__Ludwig_van-Werke_Breitkopf_Kalmus_Band_20_B131_Op_13_scan.pdf |title=Beethoven, Piano Sonata No.8 |publisher=[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル| Breitkopf & Härtel]] |format=PDF |accessdate=2016-05-03}}</ref>、この反復を受けて曲の冒頭に戻るか、主部の開始点に戻るかは奏者によって意見のわかれるところである<ref name=hyperion2 />。
譜例4
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key c \minor \time 4/4
<<
{ d'2\rest es2~ es es d\rest es~ es es }
\\
{
r8 es, g es es' es, g es g es g es r es g es
r es g es es' es, g es g es g es r es g es
}
>>
}
\new Dynamics {
s4\p
}
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key c \minor \time 4/4 \clef bass
<<
{
r8 bes g bes g bes g bes | g bes g bes r bes g bes |
r bes g bes g bes g bes | g bes g bes r bes g bes
}
\\
{ es,1~ es2 es des1~ des2 des }
>>
}
>>
}
</score>
提示部の反復が終わると[[ト短調]]で譜例1が再現されて展開部となる{{sfn|大木|1980|p=342}}。展開部は第1主題に基づいて勢いよく開始するが、その中に序奏部の音型がリズムを変えて巧みに織り込まれている{{sfn|大木|1980|p=342}}<ref name=schiff />。展開部の半ばほどで既に[[ト (音名)|ト音]]を執拗に鳴らす左手のトレモロの音型が[[持続低音|ペダルポイント]]を形成しており<ref name=schiff />、十分に準備された後に4[[オクターヴ]]に及ぶ下降音型から再現部に入る<ref name=score />。再現部では第1主題と[[ヘ短調]]の譜例3の間に新たな推移が置かれ、譜例4はハ短調となって現れる。コデッタがハ短調でクライマックスに達したところで再び譜例1が挿入され、第1主題による短いコーダで力強く終結する。
=== 第2楽章 ===
; [[wikt:adagio|Adagio]] [[wikt:cantabile|cantabile]] 2/4拍子 [[変イ長調]]
[[ロンド形式]]{{sfn|大木|1980|p=344}}。ベートーヴェンの書いた最も有名な楽章のひとつである<ref name=schiff />。[[ヴィリバルト・ナーゲル]]はベートーヴェン全作品中でも指折りの音楽と評価しており{{sfn|大木|1980|p=344}}、[[マイケル・スタインバーグ (音楽評論家)|マイケル・スタインバーグ]]はこの楽章のために「[[チェンバロ|ハープシコード]]の所有者は最寄りのピアノ屋に駆け込んだに違いない」と述べた<ref name=hyperion2 />。美しく、物憂い主題が静かに奏で始められる<ref name=allmusic />(譜例5)。
譜例5
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff { \key aes \major \time 2/4 \tempo "Adagio cantabile." \clef bass
<<
{ c4( bes es4. des8) c8([ es aes bes]) es,4.*2/3 }
\\
{
aes,16 es aes es g es g es aes es aes es bes' es, bes' es,
aes es bes' es, c' aes d aes g bes g bes
}
>>
}
\new Dynamics {
s4\p
}
\new Staff { \key aes \major \time 2/4 \clef bass
\stemUp aes,4_\( des c g\) aes8([ g f f']) es4
}
>>
}
</score>
声部を増やして譜例5が1オクターヴ高く繰り返されると、譜例6のエピソードがヘ短調で奏される{{sfn|大木|1980|p=344}}。
譜例6
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key aes \major \time 2/4 \partial 32
\override TextScript #'avoid-slur = #'inside
\override TextScript #'outside-staff-priority = ##f
c32 c'4~( c16 aes' g f) c'4~( c16 aes g f) c4~( c16 aes' g f)
es8( d)~
d(^\markup
\override #'(baseline-skip . 1) {
\halign #-3
\tiny \musicglyph #"scripts.turn"
}
f16. es32) es4
}
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key aes \major \time 2/4 \clef bass \partial 32
s32 r16 c, c c c c c c
<c g e> <c g e> <c g e> <c g e>
<c aes f> <c aes f> <c aes f> <c aes f>
<e bes g> <e bes g> <e bes g> <e bes g>
<f c aes> <f c aes> <f c aes> <f c aes>
\clef treble <aes f bes,> <aes f bes,> <aes f bes,> <aes f bes,>
<aes f b,> <aes f b,> <aes d, b> <aes d, b>
<g es c> <g es c> <g es c> <g es c>
}
>>
}
</score>
続く譜例5[ハ短調]の再現が終わると中間部となる。[[音符#連符(連音符)|3連符]]の伴奏の上に[[変イ短調]]の主題が導かれる(譜例7)。
譜例7
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key aes \major \time 2/4 \partial 8
<<
{ es8 aes[( ces bes aes)] g( des') d4\rest }
\\
{
r8 \times 2/3 { <es, ces>16[ <es ces> <es ces>] } \times 2/3 { <es ces> <es ces> <es ces> }
\times 2/3 { <es ces>[ <es ces> <es ces>] } \times 2/3 { <es ces> <es ces> <es ces> }
<es des>16*2/3[ <es des> <es des>] <es des> <es des> <es des>
<es des>[ <es des> <es des>] <es des> <es des> <es des>
}
>>
}
\new Dynamics {
s8 s4\pp
}
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key aes \major \time 2/4 \clef bass \partial 8
r8 <aes, aes,>4 r
bes8~ \times 2/3 { bes16[ bes( a] } \times 2/3 { bes-.)[ bes-.( aes)] } \times 2/3 { g-.( f-. es-.) }
}
>>
}
</score>
譜例7は大きく盛り上がると[[ホ長調]]へ転調して繰り返される。第3の部分は譜例5の再現であるが、譜例7とともに新たに提示された3連符がそのまま持ち越される<ref name=schiff />{{sfn|大木|1980|p=344}}。3連符を用いた小規模なコーダが置かれ、静かに楽章の幕が下ろされる。
=== 第3楽章 ===
; [[ロンド形式|Rondo]], Allegro 2/2拍子 ハ短調
[[ロンド形式]]{{sfn|大木|1980|p=344}}。譜例8のロンド主題は譜例3から導かれているが<ref name=schiff />{{sfn|大木|1980|p=344}}、第1楽章とは異なって劇的な表現を抑えて洗練された簡素さを感じさせる<ref name=hyperion2 />。
譜例8
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff { \key c \minor \time 2/2 \partial 4.
\tempo \markup {
\column {
\line { RONDO. }
\line { Allegro. }
}
}
g'8-.\p c-. d-. es4.( f8 d4. es8) c2 \slashedGrace d8 c( b c d \slashedGrace f es d es f) g4-. g-. g2.
}
\new Staff { \key c \minor \time 2/2 \clef bass
r8 r4 c,,,8_\p ( es g c) c,( f g b) c,( es g c) es g es d
c g' <es c> g <d b> g <c, aes> g' g,( b d g) g,[ \set stemRightBeamCount = #1 b]
}
>>
}
</score>
推移部を挟んで[[wikt:dolce|ドルチェ]]の主題が変ホ長調で奏される<ref name=score />{{sfn|大木|1980|p=344}}。
譜例9
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key c \minor \time 2/2
<<
{
g'4-. \stemDown bes2_\markup \italic dolce bes4~( bes8 c d es f g aes f)
aes( g f es) es( d c d) f( es d c) \stemUp bes4-. bes-.
}
\\
{ s1 s1 s s2 aes4 aes }
>>
}
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key c \minor \time 2/2 \clef bass
c,,8( bes' es bes aes bes d bes g bes es bes d, bes' d bes)
es, bes' es bes aes bes f' bes, g bes es bes d, bes' d, bes'
}
>>
}
</score>
3連符主体の経過が穏やかなエピソードを中間に置いて繰り返され、[[強弱法|フォルテッシモ]]の下降[[音階]]の最低音に[[フェルマータ]]を付して区切りをつけ<ref name=score />、譜例8の再現へと移っていく。次に出されるのは優美な変イ長調の主題である{{sfn|大木|1980|p=344}}(譜例10)。[[対位法]]的な手法を駆使して左右の手に現れた旋律が声部を交代しながら繰り返されていく<ref name=schiff />。
譜例10
<score>
\relative c' {
\new PianoStaff <<
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key c \minor \time 2/2 \partial 2
r2 c2\p ( f bes, es) aes,( des4 c bes aes g) r4
}
\new Staff \with { \remove "Time_signature_engraver" } { \key c \minor \time 2/2 \clef bass \partial 2
r8 aes,_\p c es aes2( des, g c,) f4( bes,2 c4 des d es es,)
}
>>
}
</score>
対旋律が[[スタッカート]]の音型に取って代わられて忙しない経過楽句に接続されると、再び下降音階で区切られてロンド主題の再現へと進められる。主題を低声部に移すなど変化を持たせながら、譜例9も[[ハ長調]]で続けて再現される<ref name=schiff />{{sfn|大木|1980|p=344}}。3連符のエピソードもこれに追随し、再度現れた譜例8からコーダに至る。終わり付近で譜例8が回想されつつ静まっていくが、最後は突如フォルテッシモに転じて強力に全曲を結ぶ。作曲者自身はこの楽章を「ユーモラス」に弾いたと伝えられる<ref name=hyperion2 />。
== 試聴 ==
{{multi-listen start}}
{{multi-listen item
| filename = Beethoven, Sonata No. 8 in C Minor Pathetique, Op. 13 - I. Grave - Allegro di molto e con brio.ogg
| title = ピアノソナタ第8番 第1楽章
}}
{{multi-listen item
| filename = Beethoven, Sonata No. 8 in C Minor Pathetique, Op. 13 - II. Adagio cantabile.ogg
| title = ピアノソナタ第8番 第2楽章
}}
{{multi-listen item
| filename = Beethoven, Sonata No. 8 in C Minor Pathetique, Op. 13 - III. Rondo - Allegro.ogg
| title = ピアノソナタ第8番 第3楽章
| description = [[Musopen]]より
}}
{{multi-listen end}}
== その他 ==
'''編曲例'''
* [[ヤドカリ (ミュージシャン)|ヤドカリ]] 「ベートーベン」
* 鈴木愛 「そっと。」(第2楽章) [GuiterFreaks&DrumMania]
* [[高橋コウタ|KOHTA]] 「RESONATE 1794」(第1楽章) [beatmaniaIIDX]
* [[ビリー・ジョエル]] 「THIS NIGHT」(第2楽章)
* [[森田浩司]] 「愛のX」(第2楽章)
* [[橋本祥路]]作曲 [[心の中にきらめいて]](第2楽章)
* [[シンフォニー・エックス]] 「Sonata」- 『[[トワイライト・イン・オリンポス]]』の3曲目に収録(第2楽章)
* [[SMAP]] 「Theme of 008 (piano sonata no.8)」- 『[[SMAP 008 TACOMAX]]』の1曲目に収録
* [[上田知華]]+KARYOBIN 「BGM」(第3楽章)
* [[平原綾香]]&[[藤澤ノリマサ]]「[[Sailing my life]]」(第2楽章)
* [[ルネッサンス_(バンド)|ルネッサンス]] 「Island」- 1stアルバムの中の3曲目に収録 (第1楽章及び第3楽章)
* [[シジマサウンズ]] 「一番好きなあなたへ」(第2楽章)
* [[mihimaru GT]]「[[Love Letter (mihimaru GTの曲)|Love Letter]]」- メロディーを一部サンプリングしている(第2楽章)
* Joseph McManners [In Dreams] 09-Music of the Angles (第2楽章)
* [[ドラゴンハーフ]] 『Dragon Half』ドラマCD(1993年)中「戦え!サンハーフ」主題歌 作詞:[[松宮恭子]] 編曲:[[岸村正実]] 歌:[[坂井紀雄]] (第3楽章)
* [[上原ひろみ]] 「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番《悲愴》第2楽章」 - 『[[ヴォイス (上原ひろみのアルバム)|ヴォイス]]』に収録
* [[キッス]] 「Great Expectations」([[地獄の軍団 (アルバム)|地獄の軍団]])(第2楽章)
* [[渡辺直美]] 「見えないスタート」([[2017年]]の[[競艇]]テーマソング)(第2楽章)
* ルイーズ・タッカー ([[:en:Louise Tucker|Louise Tucker]]) - Midnight Blue {{enlink|Midnight Blue (Louise Tucker song)|a=on}} (第2楽章)
'''使用例'''
* [[のだめカンタービレ]](Lesson 1およびLesson67で、のだめが演奏している)
* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]] (第60話 「勝利を許されし者 志々雄対剣心 終幕!」で第2楽章がBGMとして使用されている)
* [[WXIII 機動警察パトレイバー]] (作品のクライマックスにおいて流される)
* [[HERO (テレビドラマ)|HERO 第2期]] (第7話のみ第2楽章がBGMとして使用)
* [[心が叫びたがってるんだ。]]「心が叫びだす~あなたの名前を呼ぶよ」 (予告編のBGMのほか、作中でも重要な場面で使用されている)
* [[遺留捜査|遺留捜査 第1シーズン]] (第4話 「紅い石」で第2楽章がBGMとして使用されている)
* [[銀河英雄伝説 (ゲーム)#コンシューマーゲーム版|銀河英雄伝説 (ゲーム)]] ([[スーパーファミコン]]版で、第1楽章をアレンジしたものが使用されている)
* [[スーパーカブ (小説)|スーパーカブ(アニメ)]] (第8話終末部で第2楽章をBGMとして使用)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group= "注"}}
'''出典'''
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|first=正興 |last=大木 |title=最新名曲解説全集 第14巻 独奏曲I |publisher=[[音楽之友社]] |year=1980 |isbn=978-4276010147 |ref=harv}}
* CD解説 [[アンジェラ・ヒューイット|Angela Hewitt]], [[ハイペリオン・レコード|Hyperion Records]], Piano Sonatas Opp 2/3, 13 & 28, CDA67605
* CD解説 [[ハイペリオン・レコード|Hyperion Records]], Piano Sonatas, Moonlight, Pathétique & Waldstein, CDA67662
* CD解説 [[シャンドス|CHANDOS]], Beethoven: Piano Sonatas, CHAN 10616(9)
* 楽譜 Beethoven: Piano Sonata No.8, [[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル|Breitkopf & Härtel]], [[ライプツィヒ|Leiptig]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Piano Sonata No. 8 (Beethoven)}}
* [http://www.theguardian.com/arts/audio/2006/nov/09/culture1405 A lecture] by [[シフ・アンドラーシュ|András Schiff]] on Beethoven's piano sonata Op 13, [[ガーディアン|The Guardian]] {{en icon}}
* {{IMSLP2|work= Piano_Sonata_No.8%2C_Op.13_(Beethoven%2C_Ludwig_van)|cname=ピアノソナタ第8番 作品13}}
* [http://www.dlib.indiana.edu/variations/scores/aek3910/index1.html 楽譜] [[リコルディ]]エディション、[[ジェイコブズ音楽院]]、ウィリアム・アンド・クック音楽図書館
* [https://www.mutopiaproject.org/cgibin/make-table.cgi?collection=beetson&preview=1 楽譜とMIDIファイル] [[ミュートピアプロジェクト]]
* {{allmusic|first=Robert |last=Cummings |class=composition |id=mc0002372210}}
* {{PTNA2|musics|6558}}
{{ベートーヴェンのピアノソナタ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひあのそなた08へえとおうえん}}
[[Category:ベートーヴェンのピアノソナタ|*08]]
[[Category:ハ短調]]
[[Category:1790年代の楽曲]]
|
2003-08-17T07:54:13Z
|
2023-08-23T20:28:34Z
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[
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玉置浩二
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玉置 浩二(たまき こうじ、1958年9月13日 - )は、北海道旭川市出身のシンガーソングライター・俳優。ロック・バンド『安全地帯』のボーカリスト。
北海道旭川農業高等学校中退。身長177cm。血液型はA型。妻はタレント・女優の青田典子。
北海道旭川市に出生。祖母が民謡教室で講師を務めていたこともあり、2歳から民謡を歌っていた。その後、歌謡曲やグループ・サウンズに傾倒し、人前にてその歌唱を披露していた。
旭川市立神居中学校入学。野球部に入部した。
中学2年時に転入生の武沢豊と同級生となり、1973年に、武沢と2人ロックバンド『安全地帯』結成。また中学校の生徒会長を務めた。
1974年、旭川市立神居中学校卒業。北海道旭川農業高等学校に入学するが、プロの音楽家を志し、直ぐに退学。廃屋を買い取りスタジオへ改装、安全地帯のメンバーと共同生活を開始した。
全国ツアー用のバックバンドを探していた井上陽水が、金子章平の仲介により旭川の安全地帯の合宿所を訪問、そこでセッション後、正式にバックバンドとして採用される。当の陽水は、安全地帯に対して特別魅力を感じなかったようだが、金子の推薦もあり決めたとのこと。
1981年、井上陽水のバックバンドとして上京し、1983年まで陽水の全国ツアーに帯同。一方で、1982年2月25日に、Kitty Recordsより「萠黄色のスナップ」でメジャー・デビュー。
1983年に、同郷の一般女性と結婚(1985年頃に石原真理子との交際が発覚し、1986年に離婚)。同年に、シングル「ワインレッドの心」がヒット。その後、1984年から1987年にかけスマッシュヒットを連発、安全地帯は1980年代を代表するバンドとなる。
1986年、映画『プルシアンブルーの肖像』で俳優デビュー。
1987年に、安全地帯の活動と並行してソロ作品の制作の為、ロンドン・ロサンゼルスへ渡る。同年7月にシングル「All I Do」でソロ・デビュー。8月に同名のソロ・アルバムもリリース。
1988年秋に安全地帯としての活動を一時休止。
1989年はソロとしてシングル4枚をリリース。同時に積極的に俳優業もこなすようになる。
1990年に、安全地帯の活動を再開。
1991年に、シングル「胸の振子」の作曲を機に交際していた薬師丸ひろ子と再婚。ハワイにて挙式。
1993年に、安全地帯の活動を再度休止。この時期は心身共に極度に疲弊しており、精神科病棟への入院、故郷である旭川にて療養生活を過ごすこととなる。以後はソロ活動に専念する形になり、Sony Recordsに移籍し、須藤晃をプロデューサーに迎える。同年に、チャリティーグループ『USED TO BE A CHILD』に参加。
1994年、国連UNESCOの呼びかけによる『THE GREAT MUSIC EXPERIENCE '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』に参加。
1996年、大河ドラマ「秀吉」に足利義昭役で出演。また、自らが出演したテレビドラマ『コーチ』の主題歌で11thシングル「田園」が大ヒットし、同年末の第47回NHK紅白歌合戦へソロで初出場を果たす。バックバンドには、同じ白組で出場し、当時玉置と同じSony Recordsに所属していたTOKIOを据え、59.9%の歌手別最高視聴率を記録。放送後に売上を伸ばし、結果的にグループ・ソロ通じて最大のヒット92万枚を記録した。TOKIOへは2010年に楽曲提供している。
1998年、薬師丸と離婚。離婚後、以前レコーディングにて訪れた際に大変気に入っていた軽井沢町へ移住。レコード会社をファンハウスへ移籍。
1999年に、ツアーバンドの一員で、かねてより交際していたキーボーディストの安藤さと子と再婚。また、軽井沢にスタジオ併設のログハウスを建築し、以後はそこに居を構える。
2002年、レコード会社をファンハウスからSony Recordsに戻し、約10年ぶりに安全地帯の活動を再開。本年と翌2003年にアルバムを連続リリースし、全国ツアーを敢行するが、2003年を以て再び安全地帯の活動を休止する。
2004年、個人事務所・アンクルオニオンを設立し、再びソロ活動に専念する。
2005年に、テレビドラマ『あいのうた』にて、8年ぶりとなるドラマ出演。
2007年12月1日、安藤と離婚。離婚を機に軽井沢を離れる。『惑星』ツアーの終了後、2008年から病気療養(急性膵炎)のため、長期間の活動の休止を発表。同時に公式ファンクラブも解散となった。
以後、2010年まで表舞台からは姿を消す形となった。
1985年に女優の石原真理子との交際が発覚。当時、石原が記者会見を行い事実を認めたが、その後、1986年9月頃に破局したと報じられた(同時期に玉置も当時の妻と離婚)。
急性膵炎により長期療養中の玉置だったが、2009年 2月25日、日刊スポーツ誌面に石原と23年ぶりに復縁したという記事が掲載され、翌26日には婚姻届を提出した、と報道された(後に、玉置と石原は揃って会見を行い、交際の事実を認めた)。しかし、その半年後の9月4日、破局していたことが報じられ、2月に提出したとされた婚姻届は、石原が2003年に結婚した白人男性と正式に離婚が成立していなかった(婚姻継続状態)ため、不受理であったことも併せて報じられた。石原との破局後、東京に戻った玉置は安全地帯のメンバーへ自ら連絡、再度メンバーが集結。合宿スタイルでのレコーディングをスタートさせ、新アルバムの制作に入る。
12月25日、古巣レコード会社への復帰(前・キティレコード→現ユニバーサルミュージック内USMジャパンに組織変更)が発表され、安全地帯活動再開第1弾シングルとして、「蒼いバラ」のショート・ミュージック・ビデオが公開される。
2010年1月8日、6年ぶりに安全地帯の活動再開を発表。アルバム『安全地帯XI ☆Starts☆「またね...。』発表後、全国ツアーを開始。7月16日、タレントで女優の青田典子と再婚。
2012年7月1日、ソニー・ミュージックへ3回目の移籍。自主レーベル「SALTMODERATE」発足。バンド・ソロとして作品を順次発表。
2013年10月から12月に放送されたドラマ『東京バンドワゴン』にて、8年ぶりとなる連続ドラマ出演。亀梨和也との共同ユニット「堀田家BAND」名義で発売した主題歌「サヨナラ☆ありがとう」が玉置にとって「悲しみにさよなら」(1985年)以来28年ぶりとなるオリコンウィークリーシングルチャート1位を獲得。
この頃から他の歌手とのコラボに対して積極的になり、2013年夏頃から始まった德永英明のコンサートツアー本編に飛び入り参加し、德永の楽曲「いかないで」のデュエットを披露している(一部公演)。德永のライブ・アルバム『STATEMENT TOUR FINAL at NAGOYA CENTURY HALL』で拝聴可能。
2014年12月に、自身初となるカバー・アルバム『群像の星 〜GREAT STARS〜』をリリース。
2015年2月、NHK BSプレミアムにて初の冠番組となる『玉置浩二ショー』の放送開始。
2016年、憩室炎のため緊急入院し、約1カ月間の休養。5月に予定されていた5公演を中止。5月20日に退院。6月2日に活動再開し、病気の原因の一つが飲酒であることから「一生禁酒」を宣言。
2017年、安全地帯デビュー35周年とソロデビュー30周年を迎えるに当たりグループ・ソロの両方で初となるオールタイム・ベストアルバム『ALL TIME BEST』のリリースと全国ツアー「ALL TIME BEST「30」〜30th Anniversary Tour 2017〜」、ならびにビルボードクラシックス公演「KOJI TAMAKI PREMIUM SYMPHONIC CONCERT 2017-THE GRAND RENAISSANCE-」の開催を発表。
5月25日にはNHK『SONGS』に安全地帯として2年ぶりに出演。同番組内で井上陽水とのセッションも披露した。
オールタイム・ベストアルバム『ALL TIME BEST』発売当日の5月31日には安全地帯として4年振りとなるツアー(日本武道館2daysならびに香港公演)の開催を発表。
2020年12月23日に、6年ぶりの新譜で3作目のセルフカバー・アルバム『Chocolate cosmos』がリリースされた。
12月31日、第71回NHK紅白歌合戦に特別企画枠で24年ぶりに出場し、オーケストラとのコラボにて「田園」を披露した。
特記以外は全て作曲
あ か さ た な は ま や ら わ
|
[
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"text": "玉置 浩二(たまき こうじ、1958年9月13日 - )は、北海道旭川市出身のシンガーソングライター・俳優。ロック・バンド『安全地帯』のボーカリスト。",
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"text": "北海道旭川農業高等学校中退。身長177cm。血液型はA型。妻はタレント・女優の青田典子。",
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"text": "北海道旭川市に出生。祖母が民謡教室で講師を務めていたこともあり、2歳から民謡を歌っていた。その後、歌謡曲やグループ・サウンズに傾倒し、人前にてその歌唱を披露していた。",
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"text": "旭川市立神居中学校入学。野球部に入部した。",
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"text": "中学2年時に転入生の武沢豊と同級生となり、1973年に、武沢と2人ロックバンド『安全地帯』結成。また中学校の生徒会長を務めた。",
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"text": "1974年、旭川市立神居中学校卒業。北海道旭川農業高等学校に入学するが、プロの音楽家を志し、直ぐに退学。廃屋を買い取りスタジオへ改装、安全地帯のメンバーと共同生活を開始した。",
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"text": "全国ツアー用のバックバンドを探していた井上陽水が、金子章平の仲介により旭川の安全地帯の合宿所を訪問、そこでセッション後、正式にバックバンドとして採用される。当の陽水は、安全地帯に対して特別魅力を感じなかったようだが、金子の推薦もあり決めたとのこと。",
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"text": "1981年、井上陽水のバックバンドとして上京し、1983年まで陽水の全国ツアーに帯同。一方で、1982年2月25日に、Kitty Recordsより「萠黄色のスナップ」でメジャー・デビュー。",
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"text": "1983年に、同郷の一般女性と結婚(1985年頃に石原真理子との交際が発覚し、1986年に離婚)。同年に、シングル「ワインレッドの心」がヒット。その後、1984年から1987年にかけスマッシュヒットを連発、安全地帯は1980年代を代表するバンドとなる。",
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"text": "1986年、映画『プルシアンブルーの肖像』で俳優デビュー。",
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"text": "1987年に、安全地帯の活動と並行してソロ作品の制作の為、ロンドン・ロサンゼルスへ渡る。同年7月にシングル「All I Do」でソロ・デビュー。8月に同名のソロ・アルバムもリリース。",
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"text": "1988年秋に安全地帯としての活動を一時休止。",
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"text": "1989年はソロとしてシングル4枚をリリース。同時に積極的に俳優業もこなすようになる。",
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"text": "1990年に、安全地帯の活動を再開。",
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"text": "1991年に、シングル「胸の振子」の作曲を機に交際していた薬師丸ひろ子と再婚。ハワイにて挙式。",
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"text": "1993年に、安全地帯の活動を再度休止。この時期は心身共に極度に疲弊しており、精神科病棟への入院、故郷である旭川にて療養生活を過ごすこととなる。以後はソロ活動に専念する形になり、Sony Recordsに移籍し、須藤晃をプロデューサーに迎える。同年に、チャリティーグループ『USED TO BE A CHILD』に参加。",
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"text": "1994年、国連UNESCOの呼びかけによる『THE GREAT MUSIC EXPERIENCE '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』に参加。",
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"text": "1996年、大河ドラマ「秀吉」に足利義昭役で出演。また、自らが出演したテレビドラマ『コーチ』の主題歌で11thシングル「田園」が大ヒットし、同年末の第47回NHK紅白歌合戦へソロで初出場を果たす。バックバンドには、同じ白組で出場し、当時玉置と同じSony Recordsに所属していたTOKIOを据え、59.9%の歌手別最高視聴率を記録。放送後に売上を伸ばし、結果的にグループ・ソロ通じて最大のヒット92万枚を記録した。TOKIOへは2010年に楽曲提供している。",
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"text": "1998年、薬師丸と離婚。離婚後、以前レコーディングにて訪れた際に大変気に入っていた軽井沢町へ移住。レコード会社をファンハウスへ移籍。",
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"text": "1999年に、ツアーバンドの一員で、かねてより交際していたキーボーディストの安藤さと子と再婚。また、軽井沢にスタジオ併設のログハウスを建築し、以後はそこに居を構える。",
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"text": "2002年、レコード会社をファンハウスからSony Recordsに戻し、約10年ぶりに安全地帯の活動を再開。本年と翌2003年にアルバムを連続リリースし、全国ツアーを敢行するが、2003年を以て再び安全地帯の活動を休止する。",
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"text": "2004年、個人事務所・アンクルオニオンを設立し、再びソロ活動に専念する。",
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"text": "2005年に、テレビドラマ『あいのうた』にて、8年ぶりとなるドラマ出演。",
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"text": "2007年12月1日、安藤と離婚。離婚を機に軽井沢を離れる。『惑星』ツアーの終了後、2008年から病気療養(急性膵炎)のため、長期間の活動の休止を発表。同時に公式ファンクラブも解散となった。",
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"text": "以後、2010年まで表舞台からは姿を消す形となった。",
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"text": "1985年に女優の石原真理子との交際が発覚。当時、石原が記者会見を行い事実を認めたが、その後、1986年9月頃に破局したと報じられた(同時期に玉置も当時の妻と離婚)。",
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"text": "急性膵炎により長期療養中の玉置だったが、2009年 2月25日、日刊スポーツ誌面に石原と23年ぶりに復縁したという記事が掲載され、翌26日には婚姻届を提出した、と報道された(後に、玉置と石原は揃って会見を行い、交際の事実を認めた)。しかし、その半年後の9月4日、破局していたことが報じられ、2月に提出したとされた婚姻届は、石原が2003年に結婚した白人男性と正式に離婚が成立していなかった(婚姻継続状態)ため、不受理であったことも併せて報じられた。石原との破局後、東京に戻った玉置は安全地帯のメンバーへ自ら連絡、再度メンバーが集結。合宿スタイルでのレコーディングをスタートさせ、新アルバムの制作に入る。",
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"text": "12月25日、古巣レコード会社への復帰(前・キティレコード→現ユニバーサルミュージック内USMジャパンに組織変更)が発表され、安全地帯活動再開第1弾シングルとして、「蒼いバラ」のショート・ミュージック・ビデオが公開される。",
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"text": "2010年1月8日、6年ぶりに安全地帯の活動再開を発表。アルバム『安全地帯XI ☆Starts☆「またね...。』発表後、全国ツアーを開始。7月16日、タレントで女優の青田典子と再婚。",
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"text": "2012年7月1日、ソニー・ミュージックへ3回目の移籍。自主レーベル「SALTMODERATE」発足。バンド・ソロとして作品を順次発表。",
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"text": "2013年10月から12月に放送されたドラマ『東京バンドワゴン』にて、8年ぶりとなる連続ドラマ出演。亀梨和也との共同ユニット「堀田家BAND」名義で発売した主題歌「サヨナラ☆ありがとう」が玉置にとって「悲しみにさよなら」(1985年)以来28年ぶりとなるオリコンウィークリーシングルチャート1位を獲得。",
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"text": "この頃から他の歌手とのコラボに対して積極的になり、2013年夏頃から始まった德永英明のコンサートツアー本編に飛び入り参加し、德永の楽曲「いかないで」のデュエットを披露している(一部公演)。德永のライブ・アルバム『STATEMENT TOUR FINAL at NAGOYA CENTURY HALL』で拝聴可能。",
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"text": "2014年12月に、自身初となるカバー・アルバム『群像の星 〜GREAT STARS〜』をリリース。",
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"text": "2015年2月、NHK BSプレミアムにて初の冠番組となる『玉置浩二ショー』の放送開始。",
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"text": "2016年、憩室炎のため緊急入院し、約1カ月間の休養。5月に予定されていた5公演を中止。5月20日に退院。6月2日に活動再開し、病気の原因の一つが飲酒であることから「一生禁酒」を宣言。",
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"text": "2017年、安全地帯デビュー35周年とソロデビュー30周年を迎えるに当たりグループ・ソロの両方で初となるオールタイム・ベストアルバム『ALL TIME BEST』のリリースと全国ツアー「ALL TIME BEST「30」〜30th Anniversary Tour 2017〜」、ならびにビルボードクラシックス公演「KOJI TAMAKI PREMIUM SYMPHONIC CONCERT 2017-THE GRAND RENAISSANCE-」の開催を発表。",
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"text": "5月25日にはNHK『SONGS』に安全地帯として2年ぶりに出演。同番組内で井上陽水とのセッションも披露した。",
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"text": "オールタイム・ベストアルバム『ALL TIME BEST』発売当日の5月31日には安全地帯として4年振りとなるツアー(日本武道館2daysならびに香港公演)の開催を発表。",
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"text": "2020年12月23日に、6年ぶりの新譜で3作目のセルフカバー・アルバム『Chocolate cosmos』がリリースされた。",
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"text": "12月31日、第71回NHK紅白歌合戦に特別企画枠で24年ぶりに出場し、オーケストラとのコラボにて「田園」を披露した。",
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"text": "特記以外は全て作曲",
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玉置 浩二は、北海道旭川市出身のシンガーソングライター・俳優。ロック・バンド『安全地帯』のボーカリスト。 北海道旭川農業高等学校中退。身長177cm。血液型はA型。妻はタレント・女優の青田典子。
|
{{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
| 名前 = 玉置 浩二
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| 画像説明 =
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| 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
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| 出生名 = 同じ<!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
| 別名 =
| 出生 = {{生年月日と年齢|1958|9|13}}
| 出身地 = {{JPN}}・[[北海道]][[旭川市]]
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* [[ユニバーサルミュージック (日本)|Kitty Records]](1987年 - 1993年)
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* [[BMG JAPAN|ファンハウス]]→[[BMG JAPAN|BMGファンハウス]](1998年 - 2001年)
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* SALTMODERATE<ref group="注">販売元は[[ソニー・ミュージックマーケティングユナイテッド|ソニー・ミュージックディストリビューション]](2012年 - 2014年)→[[SPACE SHOWER MUSIC]](2014年 - 2015年)。</ref>(2012年 - 2015年)
* [[日本コロムビア]] / Better Days(2020年 - )
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| 事務所 = SALTMODERATE
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* [[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]
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{{ActorActress
|芸名 = 玉置 浩二
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|著名な家族 = <!-- 著名人が家族にいる場合に記載 -->
|事務所 = SALTMODERATE
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|アカデミー賞 =
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}}
'''玉置 浩二'''(たまき こうじ、[[1958年]][[9月13日]] - )は、[[北海道]][[旭川市]]出身の[[シンガーソングライター]]・[[俳優]]。[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロック・バンド]]『[[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]』の[[ボーカリスト]]。
[[北海道旭川農業高等学校]]中退。[[身長]]177[[センチメートル|cm]]。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。妻は[[タレント]]・[[俳優#性別での分類|女優]]の[[青田典子]]。
__FORCETOC__
== 来歴 ==
=== 生い立ち===
[[北海道]][[旭川市]]に出生。祖母が民謡教室で講師を務めていたこともあり、2歳から[[民謡]]を歌っていた。その後、歌謡曲や[[グループ・サウンズ]]に傾倒し、人前にてその歌唱を披露していた。
[[旭川市立神居中学校]]入学。[[野球部]]に入部した。
中学2年時に転入生の[[武沢豊]]と[[wikt:級友|同級生]]となり、[[1973年]]に、武沢と2人[[バンド (音楽)|ロックバンド]]『[[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]』結成。また中学校の[[生徒会長]]を務めた。
[[1974年]]、旭川市立神居中学校卒業。[[北海道旭川農業高等学校]]に入学するが、プロの音楽家を志し、直ぐに退学。廃屋を買い取りスタジオへ改装、安全地帯のメンバーと共同生活を開始した。
=== 『安全地帯』としてメジャー・デビュー ===
全国ツアー用の[[バックバンド]]を探していた[[井上陽水]]が、金子章平の仲介により旭川の安全地帯の合宿所を訪問、そこでセッション後、正式にバックバンドとして採用される。当の陽水は、安全地帯に対して特別魅力を感じなかったようだが、金子の推薦もあり決めたとのこと。
[[1981年]]、井上陽水のバックバンドとして上京し、1983年まで陽水の全国ツアーに帯同。一方で、[[1982年]][[2月25日]]に、[[ユニバーサルミュージック (日本)|Kitty Records]]より「[[萠黄色のスナップ]]」で[[メジャー・デビュー (音楽家)|メジャー・デビュー]]。
[[1983年]]に、同郷の一般女性と結婚(1985年頃に[[石原真理|石原真理子]]との交際が発覚し、1986年に離婚)。同年に、シングル「[[ワインレッドの心]]」がヒット。その後、1984年から1987年にかけスマッシュヒットを連発、安全地帯は1980年代を代表するバンドとなる。
[[1986年]]、映画『[[プルシアンブルーの肖像]]』で俳優デビュー。
=== ソロデビュー〜『安全地帯』活動休止 ===
[[1987年]]に、安全地帯の活動と並行してソロ作品の制作の為、ロンドン・ロサンゼルスへ渡る。同年7月にシングル「[[All I Do (玉置浩二の曲)|All I Do]]」でソロ・デビュー。8月に同名の[[All I Do (玉置浩二のアルバム)|ソロ・アルバム]]もリリース。
1988年秋に安全地帯としての活動を一時休止。
1989年はソロとしてシングル4枚をリリース。同時に積極的に俳優業もこなすようになる。
1990年に、安全地帯の活動を再開。
[[1991年]]に、シングル「[[胸の振子 (薬師丸ひろ子の曲)|胸の振子]]」の作曲を機に交際していた[[薬師丸ひろ子]]と再婚。ハワイにて挙式。
[[1993年]]に、安全地帯の活動を再度休止。この時期は心身共に極度に疲弊しており、精神科病棟への入院、故郷である旭川にて療養生活を過ごすこととなる。以後はソロ活動に専念する形になり、[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]に移籍し、[[須藤晃]]をプロデューサーに迎える。同年に、チャリティーグループ『[[USED TO BE A CHILD]]』に参加。
[[1994年]]、[[国際連合|国連]][[UNESCO]]の呼びかけによる『[[The Great Music Experience|THE GREAT MUSIC EXPERIENCE '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI]]』に参加。
[[1996年]]、[[大河ドラマ]]「[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]」に[[足利義昭]]役で出演。また、自らが出演したテレビドラマ『[[コーチ (テレビドラマ)|コーチ]]』の主題歌で11thシングル「[[田園 (玉置浩二の曲)|田園]]」が大ヒットし、同年末の[[第47回NHK紅白歌合戦]]へソロで初出場を果たす。バックバンドには、同じ白組で出場し、当時玉置と同じSony Recordsに所属していた[[TOKIO]]を据え、59.9%の歌手別最高視聴率を記録。放送後に売上を伸ばし、結果的にグループ・ソロ通じて最大のヒット92万枚を記録した。TOKIOへは2010年に楽曲提供している。
[[1998年]]、薬師丸と離婚。離婚後、以前レコーディングにて訪れた際に大変気に入っていた[[軽井沢町]]へ移住。レコード会社を[[BMG JAPAN|ファンハウス]]へ移籍。
[[1999年]]に、ツアーバンドの一員で、かねてより交際していた[[キーボーディスト]]の[[安藤さと子]]と再婚。また、軽井沢にスタジオ併設の[[ログハウス]]を建築し、以後はそこに居を構える。
=== ソロデビュー〜『安全地帯』再結成 ===
[[2002年]]、レコード会社をファンハウスからSony Recordsに戻し、約10年ぶりに安全地帯の活動を再開。本年と翌[[2003年]]にアルバムを連続リリースし、全国ツアーを敢行するが、2003年を以て再び安全地帯の活動を休止する。
[[2004年]]、個人事務所・アンクルオニオンを設立し、再びソロ活動に専念する。
[[2005年]]に、[[テレビドラマ]]『[[あいのうた (テレビドラマ)|あいのうた]]』にて、8年ぶりとなるドラマ出演。
[[2007年]][[12月1日]]、安藤と離婚。離婚を機に軽井沢を離れる。『[[惑星 (玉置浩二のアルバム)|惑星]]』ツアーの終了後、[[2008年]]から病気療養([[急性膵炎]])のため、長期間の活動の休止を発表。同時に公式ファンクラブも解散となった。
以後、2010年まで表舞台からは姿を消す形となった。
=== 石原真理子との交際・破局〜『安全地帯』活動再開〜青田典子と結婚 ===
[[1985年]]に[[俳優|女優]]の[[石原真理子]]との交際が発覚。当時、石原が記者会見を行い事実<!--不倫関係-->を認めたが、その後、[[1986年]]9月頃に破局したと報じられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20120521_109048.html?DETAIL|title=玉置浩二 DVで石原真理をマインドコントロールしていた!?|publisher=NEWSポストセブン|date=2012-05-21|accessdate=2021-12-11}}</ref>(同時期に玉置も当時の妻と離婚)。
急性膵炎により長期療養中の玉置だったが、[[2009年]] [[2月25日]]、[[日刊スポーツ]]誌面に石原と23年ぶりに復縁したという記事が掲載され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20090225-464589.html|title=玉置浩二と石原真理子23年ぶり復縁、同居|publisher=日刊スポーツ|date=2009-02-25|accessdate=2021-12-11}}</ref>、翌26日には婚姻届を提出した、と報道された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/02/26/kiji/K20090226Z00001710.html |title=玉置浩二&石原真理子 23年ぶり再会!即婚!! |publisher=SponichiAnnex |date=2009-02-26 |accessdate=2021-12-11}}</ref>(後に、玉置と石原は揃って会見を行い、交際の事実を認めた)。しかし、その半年後の9月4日、破局していたことが報じられ、2月に提出したとされた婚姻届は、石原が2003年に結婚した白人男性と正式に離婚が成立していなかった(婚姻継続状態)ため、不受理であったことも併せて報じられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20090904-539388.html |title=玉置浩二と石原真理が6カ月で破局 |publisher=日刊スポーツ |date=2009-09-0 |accessdate=2021-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20090905spn00m200005000c.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090908153827/mainichi.jp/enta/geinou/news/20090905spn00m200005000c.html |title=玉置浩二:石原真理とスピード破局 |author=[[スポニチ]] |website=[[毎日jp]] |date=2009-9-5 |accessdate=2009-9-28 |archivedate=2009-9-8 |deadlinkdate=2012-1}}</ref>。石原との破局後、東京に戻った玉置は安全地帯のメンバーへ自ら連絡、再度メンバーが集結。合宿スタイルでのレコーディングをスタートさせ、新アルバムの制作に入る。
[[12月25日]]、古巣レコード会社への復帰(前・キティレコード→現ユニバーサルミュージック内USMジャパンに組織変更)が発表され、安全地帯活動再開第1弾シングルとして、「[[蒼いバラ]]」のショート・[[ミュージック・ビデオ]]が公開される。
[[2010年]][[1月8日]]、6年ぶりに安全地帯の活動再開を発表。アルバム『[[安全地帯XI ☆Starts☆「またね…。」|安全地帯XI ☆Starts☆「またね…。]]』発表後、全国ツアーを開始。[[7月16日]]、[[タレント]]で[[俳優|女優]]の[[青田典子]]と再婚<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100716/tnr1007162002013-n1.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100719110625/sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100716/tnr1007162002013-n1.htm |title=玉置浩二と青田典子が結婚 |website=[[MSN産経ニュース]] |date=2010-7-16 |accessdate=2010-7-16 |archivedate=2010-7-19 |deadlinikdate=2012-01}}</ref>。
=== 2010年代以降 ===
[[2012年]][[7月1日]]、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージック]]へ3回目の移籍。自主レーベル「SALTMODERATE」発足。バンド・ソロとして作品を順次発表。
[[2013年]]10月から12月に放送されたドラマ『[[東京バンドワゴン〜下町大家族物語#テレビドラマ|東京バンドワゴン]]』にて、8年ぶりとなる連続ドラマ出演。[[亀梨和也]]との共同ユニット「堀田家BAND」名義で発売した主題歌「[[サヨナラ☆ありがとう]]」が玉置にとって「[[悲しみにさよなら]]」(1985年)以来28年ぶりとなる[[オリコンチャート|オリコンウィークリーシングルチャート]]1位を獲得。
この頃から他の歌手とのコラボに対して積極的になり、2013年夏頃から始まった[[德永英明]]のコンサートツアー本編に飛び入り参加し、德永の楽曲「[[STATEMENT (徳永英明のアルバム)|いかないで]]」のデュエットを披露している(一部公演)。德永の[[ライブ・アルバム]]『[[STATEMENT TOUR FINAL at NAGOYA CENTURY HALL]]』で拝聴可能。
[[2014年]][[12月]]に、自身初となるカバー・アルバム『[[群像の星 〜GREAT STARS〜]]』をリリース。
[[2015年]][[2月]]、[[NHK BSプレミアム]]にて初の冠番組となる『玉置浩二ショー』の放送開始<ref name="oricon20150209">{{Cite news |title=玉置浩二が初冠番組 徳永英明らと豪華共演 |newspaper=ORICON NEWS |publisher=[[オリコン|oricon ME]] |date=2015-02-09 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2048394/full/ |accessdate=2017-06-25}}</ref>。
[[2016年]]、[[大腸憩室症|憩室炎]]のため緊急入院し、約1カ月間の休養。5月に予定されていた5公演を中止<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/05/06/kiji/K20160506012535770.html |title=玉置浩二が憩室炎で緊急入院 1カ月休養へ 今月の5公演は中止 |newspaper=Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2016-05-06 |accessdate=2016-05-06}}</ref>。[[5月20日]]に退院<ref>{{Cite news |url=https://www.sanspo.com/article/20160521-SCOBPNAYL5KIRATDPIXOP2SLPQ/ |title= 玉置浩二が退院…妻・青田「早速、リハーサルの準備」 |newspaper=SANSPO.COM |publisher=産経デジタル |date=2016-05-21 |accessdate=2016-05-21}}</ref>。6月2日に活動再開し、病気の原因の一つが飲酒であることから「一生禁酒」を宣言<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/06/03/kiji/K20160603012710580.html |title=玉置浩二「一生禁酒」宣言 大腸憩室炎から復帰、5キロ減も全快 |newspaper=Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2016-06-03 |accessdate=2016-06-03}}</ref>。
[[2017年]]、安全地帯デビュー35周年とソロデビュー30周年を迎えるに当たりグループ・ソロの両方で初となるオールタイム・ベストアルバム『ALL TIME BEST』のリリースと全国ツアー「ALL TIME BEST「30」〜30th Anniversary Tour 2017〜」、ならびにビルボードクラシックス公演「KOJI TAMAKI PREMIUM SYMPHONIC CONCERT 2017-THE GRAND RENAISSANCE-」の開催を発表。
5月25日にはNHK『[[SONGS (テレビ番組)|SONGS]]』に安全地帯として2年ぶりに出演。同番組内で井上陽水とのセッションも披露した。
オールタイム・ベストアルバム『ALL TIME BEST』発売当日の5月31日には安全地帯として4年振りとなるツアー(日本武道館2daysならびに香港公演)の開催を発表。
[[2020年]][[12月23日]]に、6年ぶりの新譜で3作目のセルフカバー・アルバム『[[Chocolate cosmos]]』がリリースされた<ref name=BARKS>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000190938 |title=玉置浩二、6年ぶりのニューアルバム『Chocolate cosmos』リリース決定 |work=[[BARKS]] |date=2020-10-20 |accessdate=2020-12-23}}</ref>。
[[12月31日]]、[[第71回NHK紅白歌合戦]]に特別企画枠で24年ぶりに出場し、オーケストラとのコラボにて「[[田園 (玉置浩二の曲)|田園]]」を披露した。
== 人物 ==
=== 音楽家としての評価・交友関係・影響 ===
{{出典の明記|section=1|date=2013-06|ソートキー=人}}
*作曲・作詞・楽器演奏(主にギター。楽曲によってはベース、パーカッション、ドラムス、キーボード)など、[[マルチプレイヤー (音楽)|マルチプレイヤー]]としても才能を発揮。[[山下達郎]]が「日本で最も過小評価されているミュージシャン」、[[Mr.Children]]の[[桜井和寿]]が「天才であり最も尊敬するミュージシャンの一人」、[[德永英明]]や[[久保田利伸]]、[[コブクロ]]の[[黒田俊介]]は「日本一歌が上手い」、[[スキマスイッチ]]の[[大橋卓弥]]が「最も尊敬するボーカリスト」と評する。[[いきものがかり]]の[[水野良樹]]も自らの音楽活動が玉置のそれに多大な影響を受けたものであることを公言しており、[[Twitter]]で頻繁に玉置について言及している。1980年代から1990年代にかけて、玉置自身の私生活に関するスキャンダルが先行し、音楽的評価についてあまり語られることが少なかったが、近年は音楽人としての評価が高まり、改めて再評価される機運が高まっている。
*[[EXILE]]の[[ATSUSHI (歌手)|ATSUSHI]]は、[[Japan News Network|TBS系列]]『[[EXILE魂]]』でゲスト出演した玉置の歌唱力に圧倒され、その後玉置の自宅マンションに訪問して歌唱指導を受けたり、玉置のライブを観に行ったりと、親交を深めている。EXILEの元メンバーである[[清木場俊介]]も、シングル『[[桜色舞うころ/メロディー]]』で玉置の楽曲をカバーしている。
*[[MIYAVI]]とは、フジテレビ系列『[[僕らの音楽]]』での共演以来意気投合し、玉置夫妻がMIYAVIのライブを観に行ったり、共に食事をしたりするなど、交友関係が深い。
*森山良子と息子・森山直太朗と関係が深く、直太朗について子供の頃から知っている。1995年前後はほとんど自宅に帰らずに森山家で生活している状態だった。
*[[ASKA]]とは1993年に活動した[[USED TO BE A CHILD]]を通じて知り合い、同じ1958年生まれということですぐに意気投合。[[CHAGE and ASKA]]のライブに玉置が飛び入り参加するなど交友が深い。ASKAは2012年に出版されたムック『ぴあ&ASKA』のインタビューで、デュエットしてみたい歌手として玉置の名を挙げている。2013年にASKAが一過性[[脳虚血|脳虚血症]]の疑いから入院した時は、ASKAと同じレコード会社で玉置の友人でもある德永英明と連絡を取り、見舞いの花束と直筆の手紙を送り激励した。2014年にASKAが[[覚醒剤取締法|覚せい剤取締法]]違反で逮捕された際には「今度こそ一緒に歌おうぜ」と再タッグを呼びかけた。ASKAも自身のブログで「化け物のようにうまいです。囁くようなウィスパーボイスから、パワーボイスまで、あんなに安定感のあるボーカリストはいません」と玉置の歌唱力を評価している<ref>https://aska-burnishstone.hatenablog.com/entry/2017/03/24/094027</ref>。
<!--*[[黒田アーサー]]や[[中村あゆみ]]が安全地帯のライブを観に行き、歌唱力に驚嘆した旨をブログで記したほか、お笑いコンビ・[[ダイノジ]]の大谷ノブ彦はブログやTwitterで玉置の作品を絶賛しているのに加え、2012年5月22日放送のラジオ番組『[[SCHOOL NINE]]』では「玉置浩二特集」と題し放送時間の全てを玉置の生い立ちから現在に至るまでの音楽的考察と解説に充てたほどの熱狂的ファンである。さらに、[[宮根誠司]]や[[小倉智昭]]は自身が司会を務める番組で玉置を特集し、[[テリー伊藤]]は2010年12月10日に日本テレビ系列で放送された特別番組『[[たけしとひとし]]』で「究極のラブソングを作って日本の少子化に歯止めをかけるプロジェクト」と題して玉置に楽曲提供を依頼した。テリー曰く「[[国民栄誉賞]]をもらってもおかしくない」(結果的に、玉置の体調不良により楽曲作成は果たされなかった)。-->
*1980年代は[[アイライン]]や[[アイシャドー]]、[[頬紅|チーク]]などで濃いめの[[化粧|メイク]]を施し、全身[[アルマーニ]]のスーツを纏ったようなスタイルだったが、1990年代以降のソロ活動を始めたころからナチュラルメイクになり、シャツにジーンズなどより自然体なスタイルに変わり、1996年頃からは白髪を染めなくなり、2013年以降は長髪でのスタイルが主流となった。「髪色を非常に気にいっている」と歌番組などで語っている。
*2014年7月9日放送のTBSテレビ『[[水曜日のダウンタウン]]』2時間スペシャル内で「音楽のプロ200人が選ぶ本当に歌が上手いランキング」と銘打って普段からアーティストの生歌を聞いている音響スタッフ、ミキサー、ボイストレーナーなどに対して行われたアンケート企画において25票を獲得し1位となった(2位は[[久保田利伸]]の18票、3位は[[Superfly]]の15票)。
*師弟関係のようなイメージで捉えられている[[井上陽水]]とはテレビなどで共演する事はほぼない。1992年正月に[[タモリ]]司会の特別番組「タモリの音楽STATION」(テレビ朝日)で共演し、ギター生演奏の弾き語りにて「[[夏の終りのハーモニー/俺はシャウト!|夏の終りのハーモニー]]」を披露。これを間近で聞いたタモリは、「しみじみ芸能人になって良かった」と喜んでいた。玉置のソロデビューを境にプライベートでの接点はなくなっていった模様だが、2008年に玉置が長期療養にて入院中、事前連絡もなく陽水が見舞いに訪れたことが20年ぶりの再会だったという<ref>週刊プレイボーイ 2011年10月30日号52頁</ref>。そのお礼にと、後日玉置は陽水へ手紙を書いたが、返事はなかったという。1981年に旭川で初めて安全地帯の演奏を聞いた時の印象について陽水は、「正直どこがいいのかよくわからなかった」と述べているが、最近になり、「玉置浩二は実は才能がある人物という事がわかってきた」と述べている。
*主に[[マーティン (楽器メーカー)|マーティン]]や[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]、バスカリーノなど、名門楽器メーカーの[[アコースティック・ギター]]を、レコーディングやライブで使用している。このような高価なギターは、通常は汗などによる劣化を避けるため、レコーディングのみで使用される場合が多いが、玉置は最高の音をファンに提供するため、惜しみなく使用している。ちなみに、バスカリーノは生産中止のため、入手が困難になった。自宅で作曲する際には、スペインで購入した[[クラシック・ギター]]を使用することが多いという。リズムをとり、叩いた衝撃で割れてしまったが、[[ガムテープ]]を貼り愛用している。「このギターだと曲が浮かびやすいようである」と、妻の青田がテレビ出演時に語っている。
*1980年代後半頃は、[[石橋貴明]]やタモリと夜な夜な飲み明かす関係で、ギターを持ち歩きながら行く先々で歌っていた。石橋と飲んでいた際に、その現場にたまたま演出家の[[久世光彦]]が遭遇し、後に玉置主演ドラマ「[[キツイ奴ら]]」出演が決まった。
*発生する音に対して執拗なこだわりがあり、安全地帯のツアー時、「[[Friend (安全地帯の曲)|Friend]]」歌唱中に不注意からでたドラム音に対してメンバーを叱責。また、こだわるあまりにレコーディングについては徐々に[[スタジオ・ミュージシャン]]を使用しなくなり、自らが演奏出来る楽器(キーボード以外)については全て自らの演奏で録音するようになった(『[[CAFE JAPAN]]』から『[[今日というこの日を生きていこう]]』まで。『[[PRESENT (玉置浩二のアルバム)|PRESENT]]』からツアーでのバックバンドメンバーをレコーディングに起用するようになった)。
=== 安全地帯メンバーの玉置評(一部) ===
*色々なものを探している。枠で収まらない。その時その時に正直な人(矢萩渉)
*曲を作る時、エネルギーが来る時があるようで凄い(武沢侑昂)
*感受性がめちゃくちゃ強い。泣いたり怒ったり、常にアンテナを張っていて疲れるだろうなと思う時もあるし、ナイーブな面もある(田中裕二)
*真っ直ぐな人間(六土開正)
=== 他アーティストへの提供 ===
*「ツアーをしないと気が済まない」と自負するほどのツアー好きで、テレビ・ラジオ出演などの傍ら年間30以上の公演を毎年敢行する。一方で、他のアーティストへ提供するための楽曲を制作している。体調不良などにより楽曲制作の中断を余儀なくされることもあったが、アルバム制作の時などは3日に1曲のハイペースで楽曲を完成させる。ただし、自身が主演したテレビドラマ『[[あいのうた (テレビドラマ)|あいのうた]]』の主題歌「[[プレゼント (玉置浩二の曲)|プレゼント]]」は制作に半月を要した。
*元来「他の歌手に提供した楽曲はあくまでもその歌い手の物である」と割り切り、[[アンディ・ラウ]]への提供曲及び[[MISIA]]に提供した2曲以外はセルフカバーを行っていなかった。[[2012年]]の自主レーベル設立後のソロ活動第1弾として、セルフカバーアルバム『[[Offer Music Box]]』を発売。2014年9月には自身初となる、他のアーティストの楽曲をカバーした[[群像の星 〜GREAT STARS〜|アルバム]]の発売が決まった。
=== 俳優活動 ===
*俳優デビュー作『[[プルシアンブルーの肖像]]』では、[[失語症]]の[[学校用務員]]という、人気絶頂のスターの初主演映画としては異例の役柄をあえて選んだ。当初は二枚目の役柄が多かったが、親交の深い[[とんねるず]]の看板番組である『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』ではコントをしたり、『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』の主題歌を真顔で歌うなど三枚目としての一面を見せることも多くなった。
*1993年に所属事務所を移籍すると、柔軟性に富んだ演技が高く評価され始めた。[[1996年]]放送の[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』の[[足利義昭]]役においては、その無能さを印象づけるため意図的に汚く饅頭を食したり、口を開けたまま他人の話を聞くなどインパクトを残した。また同年放送の『[[コーチ (テレビドラマ)|コーチ]]』では[[ザテレビジョン]]・ドラマアカデミー賞助演男優賞に選ばれたが、「自分は歌手である」ことを理由に受賞を辞退した。翌[[1997年]]に放送された『[[こんな恋のはなし]]』では大貧乏人を好演。これは再放送こそされたものの、ソフト化は実現しておらず、視聴者からは疑問の声が挙がっており、ソフト化への署名活動なども行われた。[[2005年]]放送の『[[あいのうた (テレビドラマ)|あいのうた]]』では、病魔に侵されていく警察官を演じるために10kgの減量を敢行した。
=== その他のエピソード ===
* 父方の曽祖父は、1895年に[[和歌山県]]から[[北海道]][[雨竜郡]][[一已村]](現・[[深川市]]一已町)に[[屯田兵]]として入植した<ref>『屯田』第57号、北海道屯田倶楽部、2015年、p8</ref>。
* 祖母が[[民謡]]の歌手であった影響もあり、幼少期から音楽は身近なものであった。3歳にして恋愛に関する楽曲を作曲していたという。バンドを結成するきっかけとなったのはテレビで見た[[ザ・タイガース]]であることを、音楽番組『[[ザ・ベストテン]]』に出演した際に語っている。また、その出演回で[[沢田研二]]と念願の対面を果たしている。
* 愛車は『[[メルセデス・ベンツ・Gクラス]]』。また、メンバーズクラブ会報には、愛車と思しき『[[プジョー・206#206CC|プジョー・206CC]]』を運転する姿が掲載されている。
* バラエティ番組や音楽番組ではひょうきん、コミカルかつ癖のあるトークで場を沸かせる。[[王貞治]]や[[牧伸二]]の[[ものまね]]をすることがある。一方、[[セニョール玉置]]や[[ジェニーいとう]]、[[井森美幸]]、[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]などのタレントからものまねのネタにされている。
* 『ザ・ベストテン』では、トークを求められ「え、まぁ…」「え、○○○○…」と話し出す際に口癖である「え、」を連発したため、年末の総集編でネタとして取り上げられた。
* 『[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]]』では、終始笑顔でトーク中に特に脈絡もないまま唐突に笑い出し、司会の[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]から「どこかに(押すと笑い出す)スイッチがあるのではないか」と指摘された。
* [[ビートたけし]]の詩集にあった「嘲笑」に作曲をし『[[北野ファンクラブ]][[平成教育テレビ]]スペシャル』の中で披露。その縁で、たけしの番組『[[ビートたけしのつくり方]]』や映画『[[教祖誕生]]』でたけしと共演した。
* [[昭和のいる・こいる]]のファンであり、シングル曲『そんなもんだよしょうがない』を提供した(作詞:[[高田文夫]])。
* 1990年代半ばは俳優としての活動も多忙であり、連続ドラマにも立て続けに出演。精神的な疲れもあり、仕事とプライベートの切り替えを求めて、1998年に軽井沢に移住。その後10年過ごす。玉置によると「移住当初は最高の環境であると思ったが、年々人との交流が減り、鳥の鳴き声さえもうるさく感じる様な鬱的な精神状態になり、再び東京に戻った」とのこと。
* 2010年実施の安全地帯・全国コンサートツアーの[[9月12日]]に[[福岡市]]で行われたコンサートにおいて、呂律が回らない状態となり何度も途中で演奏が中止される。それに対して野次を飛ばした観客と口論となり、見かねたバンドメンバーがステージを降り、結果的に公演が中止された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100913-OYT1T00365.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100916231500/yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100913-OYT1T00365.htm |title=ろれつ回らぬ玉置浩二さん、客と口論・公演中止 |website=[[YOMIURI ONLINE]] |date=2010-9-13 |accessdate=2010-9-19 |archivedate=2010-9-16 |deadlinkdate=2012-1}}</ref>。玉置曰く「体調不良や服用した薬の副作用から精神的パニックになり、歓声が罵声に聴こえるなど幻聴のような症状があった」とのこと。2010年のツアー後半は、玉置の体調やコンディションが整わない状態の中進められたが、最終日の日本武道館公演まで予定通り遂行された。
*「[[GRAND LOVE]]」のミュージック・ビデオ内で、ライブ中、立ち上がって楽しむ観客を大声で怒鳴る観客に注意を促し、楽曲「[[GRAND LOVE|RELAX]]」を強く歌う姿・公演後の楽屋での様子が収められている(この時は立って楽しむことも構わないという発言をしている)。また、本ツアー中、一部公演にて公演中に突如ステージを降り、その結果同コンサートは中止となった。2000年頃の[[府中の森芸術劇場]]での公演中、立っている観客に対し、座った観客が声を荒げる場面があった後、やんわりと「難しい問題だけど穏やかに解決するといいよね」という趣旨で話し、急遽「[[碧い瞳のエリス]]」の弾き語りを行った。
*2012年11月11日発売の[[スポーツ報知]]のインタビューにおいて私生活を赤裸々に告白した。デビュー30周年を機に安全地帯の解散を考えたこと、青田との間に子供をもうけようとしたが[[無精子症]]であることが判明したため、夫婦2人の関係を深める方針に改めたこと、[[尿酸値]]と[[中性脂肪]]の数値が高いため、「塩分控えめ」をモットーに生活することを決め、自主レーベル「SALTMODERATE」の名もその方針にあやかったものであることを明かした。
*妻の青田は、玉置が30歳の頃に交際していた時があり、「20年ぶりに電話して再会、それまで有った事を全て曝け出し合い、交際・結婚した」とテレビ番組内で青田が語った。
*玉置は夜21時に就寝し、深夜2〜3時頃に起床。朝食前に作詞・作曲・物語などの創作をしている。家庭では自ら家事を行うこともあり、特に掃除・洗濯好きであるという。一日に5回着替えることもあり、その都度洗濯をするという。
*金銭や物に執着がなく、高価なギターなど、気に入ったミュージシャンにプレゼントしてしまうこともある。
*2020年、「玉置浩二ショー」にて心臓手術を受けていた事を明かした。
== 作品 ==
{{main2|「安全地帯」の作品|安全地帯 (ロックバンド)#作品}}
=== シングル ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル!!c/w!!順位!!出典!!収録アルバム
|-
!colspan=7|[[ユニバーサルミュージック (日本)|Kitty Records]]
|-
!1st
|[[1987年]][[7月25日]]
|'''[[All I Do (玉置浩二の曲)|All I Do]]'''
|Only You
|10位
|
|'''[[All I Do (玉置浩二のアルバム)|All I Do]]'''
|-
!2nd
|[[1989年]][[1月25日]]
|'''[[キ・ツ・イ]]'''
|“Hen”
|7位
|
|rowspan=4|'''[[安全地帯/玉置浩二 ベスト]]'''
|-
!3rd
|[[1989年]][[3月25日]]
|'''[[氷点 (玉置浩二の曲)|氷点]]'''
|Will...
|12位
|
|-
!4th
|[[1989年]][[7月25日]]
|'''[[I'm Dandy]]'''
|Sendenfor
|10位
|
|-
!5th
|[[1989年]][[11月20日]]
|'''[[行かないで (玉置浩二の曲)|行かないで]]'''
|スケジュール
|16位
|
|-
!6th
|[[1993年]][[1月30日]]
|'''[[コール (玉置浩二の曲)|コール]]'''
|大切な{{ruby|時間|とき}}
|22位
|
|'''[[あこがれ (玉置浩二のアルバム)|あこがれ]]'''
|-
!colspan=7|[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]
|-
!7th
|[[1993年]][[8月21日]]
|'''[[元気な町]]'''
|カリント工場の煙突の上に (single version)
|41位
|
|'''[[カリント工場の煙突の上に]]'''
|-
!8th
|[[1994年]][[11月11日]]
|'''[[LOVE SONG (玉置浩二の曲)|LOVE SONG]]'''
|星になりたい
|35位
|
|'''[[LOVE SONG BLUE]]'''
|-
!9th
|[[1995年]][[6月21日]]
|'''[[STAR (玉置浩二の曲)|STAR]]'''
|正義の{{ruby|味方|ヒーロー}}
|90位
|
|'''LOVE SONG BLUE'''<br>'''[[CAFE JAPAN]]'''
|-
!10th
|[[1996年]][[5月21日]]
|'''[[メロディー (玉置浩二の曲)|メロディー]]'''
|愛を伝えて
|49位
|
|rowspan=2|'''[[CAFE JAPAN]]'''
|-
!11th
|[[1996年]][[7月21日]]
|'''[[田園 (玉置浩二の曲)|田園]]'''
|働こうよ
|2位
|
|-
!12th
|[[1997年]][[8月6日]]
|'''[[MR.LONELY]]'''
|FIGHT OH!
|15位
|
|'''[[JUNK LAND]]'''
|-
!colspan=7|[[BMG JAPAN|ファンハウス]]
|-
!13th
|[[1998年]][[5月21日]]
|'''[[ルーキー (玉置浩二の曲)|ルーキー]]'''
|BELL
|49位
|
|rowspan=2|'''[[GRAND LOVE]]'''
|-
!14th
|[[1998年]][[10月3日]]
|'''[[HAPPY BIRTHDAY〜愛が生まれた〜]]'''
|愛だったんだよ
|69位
|
|-
!colspan=7|[[BMG JAPAN|BMGファンハウス]]
|-
!15th
|[[1999年]][[11月3日]]
|'''[[虹色だった]]'''
|夢のようだね
|26位
|
|rowspan=2|'''[[ニセモノ (玉置浩二のアルバム)|ニセモノ]]'''
|-
!16th
|[[2000年]][[3月23日]]
|'''[[aibo (玉置浩二の曲)|Aibo]]'''
|ジェスチャー
|54位
|
|-
!17th
|[[2001年]][[3月28日]]
|'''[[このリズムで]]'''
|願い (Live Version)
|96位
|
|'''[[スペード (玉置浩二のアルバム)|スペード]]'''
|-
!colspan=7|Sony Records
|-
!18th
|[[2004年]][[6月9日]]
|'''[[しあわせのランプ]] (single version)'''
|7:30am (single version)
|83位
|
|'''[[JUNK LAND]]'''<br>'''[[今日というこの日を生きていこう]]'''
|-
!19th
|[[2005年]][[1月13日]]
|'''[[愛されたいだけさ]] (single version)'''
|名前のない空を見上げて
|35位
|
|'''今日というこの日を生きていこう'''
|-
!20th
|[[2005年]][[10月5日]]
|'''[[いつもどこかで]]'''
|発散だー!!
|48位
|
|rowspan=3|'''[[PRESENT (玉置浩二のアルバム)|PRESENT]]'''
|-
!21st
|[[2005年]][[11月2日]]
|'''[[プレゼント (玉置浩二の曲)|プレゼント]]'''
|おいでよ 僕の国へ
|13位
|
|-
!22nd
|[[2006年]][[3月15日]]
|'''[[Lion (玉置浩二の曲)|Lion]] (single version)'''
|夜想
|60位
|<ref name="cdjournal20060214">{{Cite web|和書|author= |date=2006-02-14 |url=https://www.cdjournal.com/main/news/tamaki-koji/10888 |title=『エンジェル・ハート』オープニング・テーマ、玉置浩二の新作登場! |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|-
!rowspan=2|23rd
|rowspan=2|[[2007年]][[6月27日]]
|rowspan=2|'''[[惑星 (玉置浩二の曲)|惑星]]'''
|Monkey Trick
|rowspan=2|67位
|rowspan=2|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2007-05-09 |url=https://natalie.mu/music/news/1674 |title={{Nowiki|[玉置浩二]}} 全国12ヶ所を巡るツアー決定 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|rowspan=2|'''[[惑星 (玉置浩二のアルバム)|惑星]]'''
|-
|ディララ
|-
!colspan=7|[[ソニー・ミュージックマーケティングユナイテッド|SALTMODERATE]]
|-
!24th
|[[2013年]][[4月24日]]
|'''[[純情 (玉置浩二の曲)|純情]]'''
|次男坊
|62位
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2013-04-16 |url=https://natalie.mu/music/news/88864 |title=玉置浩二、僕らの音楽で「田園」&TOKIOカバー盟友と競演 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|'''[[ALL TIME BEST (玉置浩二のアルバム)|ALL TIME BEST]]'''
|-
!25th
|[[2013年]][[11月27日]]
|'''[[サーチライト (玉置浩二の曲)|サーチライト]]'''
|スイカの種 feat.[[沖仁]]
|32位
|<ref name="natalie20130926">{{Cite web|和書|author= |date=2013-09-26 |url=https://natalie.mu/music/news/100185 |title=KAT-TUN亀梨&玉置浩二が親子バンド結成、主題歌CD発売 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|'''[[GOLD (玉置浩二のアルバム)|GOLD]]'''
|-
!colspan=7|[[日本コロムビア]] / BETTER DAYS
|-
!26th
|[[2022年]][[5月18日]]
|'''[[星路|星路 (みち)]]'''
|
|23位
|<ref>{{Cite news |url=https://tower.jp/article/feature_item/2022/03/19/0701 |title=玉置浩二|ニューシングル『星路(みち)』5月18日発売|映画「大河への道」主題歌 |work=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=[[タワーレコード]] |date=2022-03-19 |accessdate=2022-06-13}}</ref>
|
|-
!27th
|[[2022年]][[10月19日]]
|'''[[Beautiful World (玉置浩二の曲)|Beautiful World]] feat.[[絢香]]'''
|
|26位
|
|
|-
|}
=== デュエット・シングル ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!名義!!発売日!!タイトル!!c/w!!発売元
|-
![[髙橋真梨子]] with 玉置浩二
|[[1992年]][[11月21日]]||'''貴方が生きたLove Song'''||夕暮れにルージュ||[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]]
|-
![[マリーン]] & 玉置浩二
|[[1993年]][[6月16日]]||'''終わらないで I Love You'''||窓〜愛は終らない||[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]
|-
![[森山良子]]・玉置浩二
|[[1994年]][[2月21日]]||'''手の中に…'''||愛のそばへ||[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]<br>PEOPLE
|}
=== オリジナル・アルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル!!順位!!出典
|-
!colspan=5|[[ユニバーサルミュージック (日本)|Kitty Records]]
|-
!1st
|[[1987年]][[8月10日]]
|'''[[All I Do (玉置浩二のアルバム)|All I Do]]'''
|2位
|
|-
!2nd
|[[1993年]][[3月24日]]
|'''[[あこがれ (玉置浩二のアルバム)|あこがれ]]'''
|4位
|
|-
!colspan=5|[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]
|-
!3rd
|[[1993年]][[9月22日]]
|'''[[カリント工場の煙突の上に]]'''
|17位
|
|-
!4th
|[[1994年]][[12月12日]]
|'''[[LOVE SONG BLUE]]'''
|18位
|
|-
!5th
|[[1996年]][[9月13日]]
|'''[[CAFE JAPAN]]'''
|4位
|
|-
!6th
|[[1997年]][[9月21日]]
|'''[[JUNK LAND]]'''
|9位
|
|-
!colspan=5|[[BMG JAPAN|ファンハウス]]
|-
!7th
|[[1998年]][[5月27日]]
|'''[[GRAND LOVE]]'''
|12位
|
|-
!colspan=5|[[BMG JAPAN|BMGファンハウス]]
|-
!8th
|[[2000年]][[4月26日]]
|'''[[ニセモノ (玉置浩二のアルバム)|ニセモノ]]'''
|19位
|
|-
!9th
|[[2001年]][[3月28日]]
|'''[[スペード (玉置浩二のアルバム)|スペード]]'''
|25位
|
|-
!colspan=5|Sony Records
|-
!10th
|[[2005年]][[2月16日]]
|'''[[今日というこの日を生きていこう]]'''
|rowspan=2|26位
|
|-
!11th
|[[2006年]][[4月5日]]
|'''[[PRESENT (玉置浩二のアルバム)|PRESENT]]'''
|<ref name="cdjournal20060214"/>
|-
!12th
|[[2007年]][[8月1日]]
|'''[[惑星 (玉置浩二のアルバム)|惑星]]'''
|30位
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2007-07-05 |url=https://natalie.mu/music/news/2508 |title={{Nowiki|[玉置浩二]}} シングルに続きアルバム「惑星」発売 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|-
!colspan=5|[[ソニー・ミュージックマーケティングユナイテッド|SALTMODERATE]]
|-
!13th
|[[2014年]][[3月19日]]
|'''[[GOLD (玉置浩二のアルバム)|GOLD]]'''
|28位
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2014-03-14 |url=https://natalie.mu/music/news/112105 |title=玉置浩二、新作「GOLD」引っさげ被災地で「田園」熱唱 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2014-05-23 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000103803 |title=玉置浩二、ニューアルバム『GOLD』を含めたオール・タイム・ベストなライブ<GOLD TOUR 2014>を放送 |website=[[BARKS]] |publisher=ジャパンミュージックネットワーク |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|}
=== ライブ・アルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル!!順位!!出典
|-
!colspan=5|[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]
|-
!1st
|[[1995年]][[9月21日]]||'''[[T (玉置浩二のアルバム)|T]]'''
|49位
|
|-
!2nd
|[[2005年]][[7月27日]]
|'''[[LIVE!! 「今日というこの日を生きていこう」]]'''
|64位
|
|-
!3rd
|[[2006年]][[8月30日]]
|'''[[06 PRESENT TOUR LIVE 発散だー!!]]'''
|60位
|
|-
!4th
|[[2008年]][[3月26日]]
|'''[[KOJI TAMAKI ’07 LIVE ☆惑星☆]]'''
|154位
|<ref name="natalie20080206">{{Cite web|和書|author= |date=2008-02-06 |url=https://natalie.mu/music/news/5363 |title=玉置浩二が昨年の惑星ツアーをCD&DVDにパッケージ |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|-
!colspan=5|[[SPACE SHOWER MUSIC]]
|-
!5th
|[[2015年]][[12月16日]]
|'''[[玉置浩二LIVE旭川市公会堂]]'''
|73位
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2015-12-16 |url=https://natalie.mu/music/news/169527 |title=玉置浩二のライブアルバム発売、故郷・旭川でのツアーファイナル収録 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|-
!6th
|2024年2月21日
|'''[[玉置浩二 Concert Tour 2022 故郷楽団 35th ANNIVERSARY ~星路(みち)~ in 仙台]]'''
|
|
|}
=== セルフカバー/カバーアルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル!!順位!!出典
|-
!colspan=5|[[BMG JAPAN|BMGファンハウス]]
|-
!1st
|[[1999年]][[2月24日]]
|'''[[ワインレッドの心 (玉置浩二のアルバム)|ワインレッドの心]]'''
|11位
|
|-
!colspan=5|[[ソニー・ミュージックマーケティングユナイテッド|SALTMODERATE]]
|-
!2nd
|[[2012年]][[10月24日]]
|'''[[Offer Music Box]]'''
|31位
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2012-09-10 |url=https://natalie.mu/music/news/76233 |title=玉置浩二がV6、たけし、明菜、TOKIOら提供曲セルフカバー |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2012-09-10 |url=https://www.cdjournal.com/main/news/tamaki-koji/47012 |title=玉置浩二、「悲しみよこんにちは」「愛なんだ」など提供楽曲をセルフカヴァー! |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|-
!colspan=5|[[SPACE SHOWER MUSIC]]
|-
!3rd
|[[2014年]][[12月3日]]
|'''[[群像の星 〜GREAT STARS〜]]'''
|31位
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2014-10-20 |url=https://natalie.mu/music/news/129085 |title=玉置浩二が尾崎豊、藤圭子、坂本九ら名曲歌う |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2014-10-20 |url=https://rockinon.com/news/detail/111940 |title=玉置浩二、ニューアルバム『群像の星』リリース決定 |website=[[rockin'on|rockin'on.com]] |publisher=[[ロッキング・オン]] |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|-
!colspan=5|[[日本コロムビア]]
|-
!4th
|[[2020年]][[12月23日]]
|'''[[Chocolate cosmos]]'''
|21位
|<ref name=BARKS/><ref>{{Cite web|和書|url=https://okmusic.jp/news/404461 |title=玉置浩二、6年振りとなるニューアルバムの全収録曲を発表 |work=OKMusic |author= |publisher=[[OKWAVE]] |date=2020-11-17 |accessdate=2020-12-23}}</ref>
|}
=== ベスト・アルバム ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル!!順位!!出典
|-
!colspan=5|[[ユニバーサルミュージック (日本)|Kitty Records]]
|-
!1st
|[[1994年]][[8月25日]]
|'''[[安全地帯/玉置浩二 ベスト]]'''
|
|
|-
!2nd
|[[1995年]][[8月25日]]
|'''[[玉置浩二ベスト・ソングス・フォー・ユー]]'''
|
|
|-
!colspan=5|[[ユニバーサルミュージック (日本)|Kitty Enterprises]]
|-
!3rd
|[[1997年]][[4月25日]]
|'''[[EARLY TIMES〜KOJI TAMAKI IN KITTY RECORDS]]'''
|
|
|-
!colspan=5|[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]
|-
!4th
|[[1998年]][[12月2日]]
|'''[[田園 KOJI TAMAKI BEST]]'''
|19位
|
|-
!colspan=5|[[BMG JAPAN]]
|-
!5th
|[[2003年]][[5月21日]]
|'''[[Best Harvest]]'''
|65位
|
|-
!colspan=5|[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]
|-
!6th
|[[2003年]][[11月26日]]
|'''[[ゴールデン☆ベスト 玉置浩二 アーリー・タイムズ・プラス]]'''
|
|
|-
!colspan=5|[[ソニー・ミュージックダイレクト|Sony Music Direct]]
|-
!7th
|[[2011年]][[12月21日]]
|'''[[GOLDEN☆BEST 玉置浩二 1993-2007]]'''
|229位
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2011-11-29 |url=https://www.cdjournal.com/main/news/-/41780 |title=玉置浩二“GOLDEN☆BEST”が発売決定! |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|-
!8th
|[[2017年]][[5月17日]]
|'''[[ALL TIME BEST (玉置浩二のアルバム)|ALL TIME BEST]]'''
|11位
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2017-02-24 |url=https://natalie.mu/music/news/222208 |title=全シングル曲網羅!玉置浩二、ソロと安全地帯の「ALL TIME BEST」同時リリース |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref><ref name="cdjournal20170228">{{Cite web|和書|author= |date=2017-02-28 |url=https://www.cdjournal.com/main/news/tamaki-koji/74972 |title=玉置浩二&安全地帯、オールタイム・ベストをリリース |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|-
! colspan="5" |[[ステレオサウンド]]
|-
!9th
|[[2020年]][[3月22日]]
|'''玉置浩二ベスト'''
|LPのみ
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://saltmoderate.com/discography/detail/19/ |title=玉置浩二ベスト<アナログレコード盤> |accessdate=2022-03-31 |publisher=SALTMODERATE}}</ref>
|-
!colspan=5|Sony Music Direct
|-
!10th
|[[2022年]][[7月25日]]
|'''[[THE BEST ALBUM 35th ANNIVERSARY 〜メロディー〜]]'''
|12位
|
|-
|}
=== 映像作品 ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!枚!!発売日!!タイトル!!出典
|-
!colspan=4|[[ユニバーサルミュージック (日本)|Kitty Records]]
|-
!1st
|[[1987年]][[11月1日]]
|'''"All I Do" Filmed in U.K'''
|
|-
!colspan=4|[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]
|-
!2nd
|[[1995年]][[11月1日]]
|'''[[最高でしょ?]]'''
|
|-
!3rd
|[[1997年]][[3月21日]]
|'''SHALL I MAKE T FOR YOU? CAFE JAPAN TOUR'''
|
|-
!colspan=4|[[BMG JAPAN|BMGファンハウス]]
|-
!4th
|[[1998年]][[3月21日]]
|'''WE CAN BELIEVE IN OUR "JUNK LAND"'''
|
|-
!5th
|[[1999年]][[2月24日]]
|'''[["GRAND LOVE" A LIFE IN MUSIC]]'''
|
|-
!6th
|[[2001年]][[7月25日]]
|'''このリズムで'''
|
|-
!colspan=4|Sony Records
|-
!7th
|[[2005年]][[11月2日]]
|'''[[「今日というこの日を生きていこう」 LIVE in Zepp Tokyo]]'''
|
|-
!8th
|[[2006年]][[12月5日]]
|'''[['06「PRESENT」 TOUR LIVE]]'''
|
|-
!9th
|[[2008年]][[3月26日]]
|'''[[KOJI TAMAKI '07 ☆惑星☆ TOUR LIVE]]'''
|<ref name="natalie20080206"/>
|-
!10th
|[[2014年]][[4月2日]]
|'''[[KOJI TAMAKI MUSIC VIDEOS 1996-2013]]'''
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2014-03-31 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000101949 |title=玉置浩二、シングルビデオクリップ集登場 |website=[[BARKS]] |publisher=ジャパンミュージックネットワーク |accessdate=2020-04-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2014-03-31 |url=https://www.cdjournal.com/main/news/tamaki-koji/58097 |title=玉置浩二のソニーミュージック&ファンハウス時代をまとめた初MV集が発売 |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2020-04-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2014-04-02 |url=https://natalie.mu/music/news/113611 |title=玉置浩二ソロPV集、安全地帯アジアツアーDVD同時発売 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-06}}</ref>
|-
!11th
|[[2015年]][[6月10日]]
|'''[[GOLD TOUR 2014]]'''
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2015-06-10 |url=https://natalie.mu/music/news/150201 |title=玉置浩二、20年の時を横断するライブ映像集 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref>
|-
!12th
|[[2021年]][[8月18日]]
|'''[[Chocolate cosmos 〜恋の思い出、切ない恋心]]'''
|
|-
!13th
|[[2021年]][[12月8日]]
|'''[[billboard classics PREMIUM SYMPHONIC CONCERT 2021『THE EURASIAN RENAISSANCE “КАПЕЛЬ”』LIVE|billboard classics PREMIUM SYMPHONIC CONCERT 2021『THE EURASIAN RENAISSANCE “КАПЕЛЬ”(カペーリ)』LIVE]]'''
|
|}
=== 参加作品 ===
* [[USED TO BE A CHILD]](1993年)
** 僕らが生まれた あの日のように
* [[60 CANDLES]](1997年)
** ある日渚に
* [[YOSUI TRIBUTE]](2004年)
** 11.白い一日
* [[Keiko Lee sings super standards 2]](2012年)
** 10.Smile
* [[東京バンドワゴン#主題歌|サヨナラ☆ありがとう]](2013年)<ref name="natalie20130926"/>
** サヨナラ☆ありがとう
* [[沖仁]]「Dialogo [ディアロゴ] ~音の対話~」(2013年)
** 屋根の下のSmile con 玉置浩二
* [[TETSUYA KOMURO EDM TOKYO]](2014年)<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2014-03-19 |url=https://natalie.mu/music/news/112390 |title=小室哲哉の新作に玉置浩二参加「やっと会えたよ!」 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2014-03-19 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000101572 |title=小室哲哉、最新ソロアルバムで玉置浩二と初コラボ |website=[[BARKS]] |publisher=ジャパンミュージックネットワーク |accessdate=2020-04-11}}</ref>
** 2.EDM TOKYO 2014 feat. KOJI TAMAKI
* ''' [[STATEMENT TOUR FINAL at NAGOYA CENTURY HALL]]'''
** いかないで collaboration with 玉置浩二(2014年)
* [[亀渕友香]]「古稀 modernism」(2014年)
** 影を慕いて with 玉置浩二
* 亀渕友香「古稀 edutainment」(2014年)
** ゆりかごのうた with 玉置浩二
=== 提供作品 ===
{{節スタブ}}
特記以外は全て'''作曲'''{{TOC2}}
; {{Anchors|あ}}あ
* [[石川セリ]]
**「愛の分量」
**「昔イタリアで」
* [[石川ひとみ]]
**「[[恋 (石川ひとみの曲)|恋]]」
**「置き忘れたメモリー」(アルバム『[[プライベート (石川ひとみのアルバム)|プライベート]]』収録)
**「恋はダイスまかせ」(シングル『[[メモリー (曲)|メモリー]]』B面収録)
* [[五木ひろし]]
**「終着駅」(作曲)
*[[伊藤麻衣子]]
**「優しい絆」
* [[岩崎宏美]]
**「わたしに戻るとき」
**「Morning Breeze」
**「ことづけ」(アルバム『[[私・的・空・間]]』に収録)
* [[宇井かおり]]
**「ありがとうではじめよう」
* [[大泉洋]]
** 「あの空に立つ塔のように」(作曲)<ref>{{Cite web|和書|title=大泉洋「夢のよう」「パニック」…同郷・玉置浩二提供&自身作詞の新曲をリリース |url=https://www.oricon.co.jp/news/2300632/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2023-10-31}}</ref>
* [[太田貴子]]
**「夏にあわてないで」
**「美人物語」
**「再会イン・ザ・Rain」
*[[荻野目洋子]]
**汚れた靴のイニシャル
***東映映画「[[公園通りの猫たち]]」主題歌、同サウンドトラック収録
**想い出には早すぎる
***東映映画「公園通りの猫たち」挿入歌、同サウンドトラック収録
* [[奥田圭子]]
**「夢ください―知・的・優・遊―」(作曲)
***[[パイロットコーポレーション|パイロット万年筆]]CMソング・[[東映]]映画「[[パンツの穴]]」挿入歌
;{{Anchors|か}}か
* [[小椋佳]]
** 「かなうなら夢のまゝで」(映画「櫂」イメージ・ソング)
* [[GAO (歌手)|GAO]]
**「「月」に吠える朝」(テレビドラマ『[[引っ越せますか]]』主題歌)
* [[片山誠史]]
**「忘れるなんてできない」
**「僕の涙にキスをした」
* [[川越美和]]
**「[[夢だけ見てる (川越美和の曲)|夢だけ見てる]]」
* [[貴島サリオ]]
**「スロー・ドライビン In Stardust」(アルバム『SARIO2』に収録)
* [[杏子 (ミュージシャン)|杏子]]
**「[[DISTANCIA〜この胸の約束〜]]」
* [[KinKi Kids]]
**「むくのはね」(作詞・作曲)<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2013-11-01 |url=https://natalie.mu/music/news/102725 |title=KinKi Kidsアルバム作家陣に矢野顕子、民生、玉置、高見沢 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2013-11-01 |url=https://tower.jp/article/news/2013/11/01/n06 |title=KinKi Kids、ニュー・アルバム『L album』12月発売! 玉置浩二、矢野顕子、奥田民生ら参加 |website=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=[[タワーレコード]] |accessdate=2020-04-05}}</ref>
* [[King & Prince]]
**「We are young」<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/509915|title=King & Princeが歌う岸優太主演ドラマ「すきすきワンワン!」主題歌を玉置浩二が作曲(コメントあり)|website=音楽ナタリー|accessdate=2023-01-27|date=2023-01-23}}</ref>
* [[研ナオコ]]
**「ホームレス」(作詞・作曲)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/142841 |title=研ナオコ45周年アルバムに中村中、玉置浩二、THE ALFEE参加 |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |date=2015-04-02 |accessdate=2015-04-03}}</ref>
* [[香西かおり]]
**「[[無言坂]]」([[1993年]][[第35回日本レコード大賞]]受賞曲)
**「[[すき]]」
**「標ない道」
* [[小林麻美]]
**「哀しみのスパイ」
**「アネモネ」
* [[小柳ルミ子]]
**「乱」
**「泣かないから」
; {{Anchors|さ}}さ
* [[斉藤由貴]]
**「[[白い炎]]」(テレビドラマ『[[スケバン刑事 (ドラマ第1作)|スケバン刑事]]』主題歌)
**「[[悲しみよこんにちは (斉藤由貴の曲)|悲しみよこんにちは]]」(テレビアニメ『[[めぞん一刻 (アニメ)|めぞん一刻]]』主題歌)
**「あまのじゃく」
* [[ジェロ]]
**「セレナーデ」<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2013-01-10 |url=https://natalie.mu/music/news/82869 |title=ジェロ、新曲「セレナーデ」は玉置浩二提供バラード |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref>
* [[SHOGO (歌手)|SHOGO]]
** 太陽
* [[昭和のいる・こいる]]
**「そんなもんだよしょうがない」
* [[涼風真世]]
**「眠りの果て」
* [[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]
**「[[Champagne Royale|& You]]」
**「[[泣きたいよ]]」<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/178745 |title=鈴木雅之、新曲は玉置浩二手がける“愛が一杯詰まったラブソング” |publisher=音楽ナタリー |date=2016-03-06 |accessdate=2016-03-07}}</ref>
; {{Anchors|た}}た
* [[高橋みなみ]]
**「ティンクル」(作詞・作曲)<ref>{{Cite news |url=https://natalie.mu/music/news/199502|title=高橋みなみソロ作にOKAMOTO'S、真島昌利、カーリー・レイ・ジェプセンら参加 |newspaper=音楽ナタリー |date=2016-08-26 |accessdate=2016-08-26}}</ref>
* [[TOKIO]]
**「[[NaNaNa (太陽なんていらねぇ)]]」<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2010-07-08 |url=https://natalie.mu/music/news/34455 |title=TOKIO「うぬぼれ」主題歌は玉置浩二&安全地帯プロデュース |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2020-04-05}}</ref>
* [[とんねるず]]
**「[[キャニオン初|この瞬間(とき)から今…]]」
**「[[河口湖 (アルバム)|SOMEDAY]]」
**「[[428 (アルバム)|あの娘にKnock]]」
**「[[市川と宮嶋|星降る夜にセレナーデ]]」
**「[[ほのちゃんにはがはえた。|あした元気になーれ]]」
; {{Anchors|な}}な
* [[中島美嘉]]
**「花束」(作詞・作曲)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2060212/full/ |title=中島美嘉が8年ぶりドラマ主題歌 篠原涼子主演、玉置浩二楽曲提供 |publisher=ORICON STYLE |date=2015-10-05 |accessdate=2015-10-05}}</ref>
* [[中村あゆみ]]
**「あゆみ」
* [[中森明菜]]
**「雨のレクイエム」
**「アサイラム」
**「[[サザン・ウインド]]」(第17回[[全日本有線放送大賞]]・上半期)
**「哀愁のMidnight」
**「さよならじゃ終わらない」
**「永遠の扉」
**「陽炎」
; {{Anchors|は}}は
* [[パク・ヨンハ]]
**「Truth」<ref>{{Cite web|和書|author= |date= 2017-06-09 |url= https://www.oricon.co.jp/news/2093/full/ |title= パク・ヨンハ「一番好きな人が」!? |website= オリコンニュース |publisher= [[オリコン]] |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* [[白竜 (俳優)|白竜]]
**「愛してんじゃない」
* [[原田芳雄]]
**「Bright Light,in the sea」
* [[平原綾香]]
**「マスカット」(作詞・作曲)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2067450/full/|title=平原綾香に中島みゆきら9人が楽曲提供 幼少時知る玉置浩二「目頭が熱く…」 |publisher=ORICON STYLE |date=2016-02-25 |accessdate=2016-02-25}}</ref>
* [[V6 (グループ)|V6]]
**「[[愛なんだ#収録曲|愛なんだ]]」
* [[本田恭章]]-
**「サヨナラのSEXY BELL」
* [[堀ちえみ]]
**「秘密-SECRET-」(アルバム『[[Strawberry Heart]]』収録)
; {{Anchors|ま}}ま
* [[松永夏代子]]
**「メランコリーの軌跡」
***劇場版アニメ『[[うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー]]』主題歌
* [[松田聖子]]
**「ローゼワインより甘く」
* [[未唯mie|MIE]]
**「窓辺から」
**「シャンプー」(共に作曲)
* [[MISIA]]
**「[[名前のない空を見上げて]]」
**「虹のラララ」
* [[本木雅弘]]
**「最後に涙はみたくない」
; {{Anchors|や}}や
* [[薬師丸ひろ子]]
**「[[胸の振子 (薬師丸ひろ子の曲)|胸の振子]]」
**「[[交叉点 〜そう それがそう〜]]」
* [[柳葉敏郎]]
**「ima just gumba(がんばろう)」
* [[由紀さおり]]
**「恋祭」
=== タイアップ一覧 ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!曲名!!タイアップ!!出典
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''1989年'''
|-
|キ・ツ・イ
|[[TBSテレビ|TBS]]系ドラマ『[[キツイ奴ら]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref name="kitsuiyatsura">{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-25003 |title=キツイ奴ら - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
|-
|氷点
|[[テレビ朝日]]開局30周年記念ドラマ『[[氷点]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-25225 |title=氷点 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-12}}</ref>
|-
|rowspan=2|I'm Dandy
|[[サムタイム (たばこ)|MIASS]] CMソング
|rowspan=2|<ref name="cdjournal20170228"/>
|-
|映画『[[右曲がりのダンディー]]』主題歌
|-
|行かないで
|[[フジテレビジョン|フジテレビ]]開局30周年記念ドラマ『[[さよなら李香蘭]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-25806 |title=さよなら李香蘭 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''1992年'''
|-
|貴方が生きたLove Song
|TBS系『[[ムーブ (バラエティー)|ムーブ]]』エンディングテーマ
|
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''1993年'''
|-
|コール
|映画『[[ナースコール (1993年の映画)|ナースコール]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/>
|-
|終わらないで I Love You
|[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[スーパーテレビ情報最前線]]』エンディングテーマ
|
|-
|元気な町
|[[三菱地所]]CMイメージソング
|<ref name="cdjournal20170228"/>
|-
|LOVE SONG
|日本テレビ系ドラマ『[[おれはO型・牡羊座]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref name="tvdramadb30397">{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-30397 |title=おれはO型・牡羊座 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
|-
|星になりたい
|日本テレビ系ドラマ『おれはO型・牡羊座』挿入歌
|<ref name="tvdramadb30397"/>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''1996年'''
|-
|rowspan=2|メロディー
|TBS系『[[筑紫哲也 NEWS23]]』エンディングテーマ
|rowspan=2|<ref name="cdjournal20170228"/><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/KojiTamaki/discography/SRDL-4209 |title=メロディー |website=ディスコグラフィ|玉置浩二 |publisher=[[ソニー・ミュージックレコーズ|ソニーミュージック オフィシャルサイト]] |accessdate=2020-04-12}}</ref>
|-
|TBS系ドラマ『[[メロディ_(テレビドラマ)|メロディ]]』挿入歌
|-
|愛を伝えて
|[[日本放送協会|NHK]]『バラエティーざっくばらん』1995年5月度テーマソング
|
|-
|田園
|フジテレビ系ドラマ『[[コーチ (テレビドラマ)|コーチ]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref name="tvdramadb31485">{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-31485 |title=COACH - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/KojiTamaki/discography/SRDL-4225 |title=田園 |website=ディスコグラフィ|玉置浩二 |publisher=[[ソニー・ミュージックレコーズ|ソニーミュージック オフィシャルサイト]] |accessdate=2020-04-12}}</ref>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''1997年'''
|-
|MR.LONELY
|フジテレビ系ドラマ『[[こんな恋のはなし]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref name="tvdramadb32150">{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-32150 |title=こんな恋のはなし - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''1998年'''
|-
|ルーキー
|[[大鵬薬品工業]]『[[チオビタドリンク|チオビタドリンク2000]]』CMソング
|<ref name="cdjournal20170228"/>
|-
|HAPPY BIRTHDAY〜愛が生まれた〜
|[[日本メナード化粧品]]「ジュピエル モイストベールN」CMソング
|<ref name="cdjournal20170228"/>
|-
|愛だったんだよ
|NHK「[[みんなのうた]]」1998年8月 - 9月放送曲
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN199808_01/ |title=愛だったんだよ |website=[[みんなのうた|NHKみんなのうた公式サイト]] |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |accessdate=2020-04-12}}</ref>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''1999年'''
|-
|虹色だった
|テレビ朝日系ドラマ『[[はみだし刑事情熱系|はみだし刑事情熱系PARTIV]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-33790 |title=はみだし刑事情熱系(4) - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
|-
|夢のようだね
|[[レオパレス21]] CMソング
|
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''2004年'''
|-
|しあわせのランプ
|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系]]『[[いまどき!ごはん]]』エンディングテーマ
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/KojiTamaki/discography/SRCL-6108
|title=しあわせのランプ |website=ディスコグラフィ|玉置浩二 |publisher=[[ソニー・ミュージックレコーズ|ソニーミュージック オフィシャルサイト]] |accessdate=2020-04-12}}</ref>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''2005年'''
|-
|いつもどこかで
|フジテレビ系秋のスペシャルドラマ『[[飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-38660 |title=飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/KojiTamaki/discography/SRCL-5954 |title=いつもどこかで |website=ディスコグラフィ|玉置浩二 |publisher=[[ソニー・ミュージックレコーズ|ソニーミュージック オフィシャルサイト]] |accessdate=2020-04-12}}</ref>
|-
|プレゼント
|日本テレビ系ドラマ『[[あいのうた (テレビドラマ)|あいのうた]]』主題歌
|<ref name="cdjournal20170228"/><ref name="tvdramadb38667">{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-38667 |title=あいのうた - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/KojiTamaki/discography/SRCL-6058 |title=プレゼント |website=ディスコグラフィ|玉置浩二 |publisher=[[ソニー・ミュージックレコーズ|ソニーミュージック オフィシャルサイト]] |accessdate=2020-04-12}}</ref>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''2006年'''
|-
|Lion
|[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]・日本テレビ系アニメ『[[エンジェル・ハート]]』第2期オープニングテーマ
|<ref name="cdjournal20060214"/><ref name="cdjournal20170228"/><ref>{{Cite web |author= |date= |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/KojiTamaki/discography/SRCL-6164 |title=Lion |website=ディスコグラフィ|玉置浩二 |publisher=[[ソニー・ミュージックレコーズ|ソニーミュージック オフィシャルサイト]] |accessdate=2020-04-12}}</ref>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''2007年'''
|-
|惑星
|TBS系『[[2時っチャオ!]]』8・9月度エンディングテーマ
|
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''2013年'''
|-
|サーチライト
|日本テレビ系ドラマ『[[東京バンドワゴン#テレビドラマ|東京バンドワゴン〜下町大家族物語]]』エンディングテーマ
|<ref name="tvdramadb55814">{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-55814 |title=東京バンドワゴン~下町大家族物語 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/KojiTamaki/discography/ZMCL-6 |title=サーチライト |website=ディスコグラフィ|玉置浩二 |publisher=[[ソニー・ミュージックレコーズ|ソニーミュージック オフィシャルサイト]] |accessdate=2020-04-12}}</ref>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''2018年'''
|-
|みんな夢の中
|[[NHK BSプレミアム]]『[[花へんろ|花へんろ 特別編「春子の人形」]]』主題歌
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-64137 |title=春子の人形 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
|-
|colspan=3 style="background-color:#e6e6e6"|'''2022年'''
|-
|星路(みち)
|映画『[[大河への道]]』主題歌
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://columbia.jp/artist-info/tamakikoji/info/78897.html |title=映画『大河への道』主題歌「星路」(みち) 5/18発売!ジャケット写真を公開しました。 |publisher=[[日本コロムビア]] |accessdate=2023-08-24}}</ref>
|-
|}
== 出演作品 ==
=== テレビドラマ ===
* 並木通りの男〜アイラブユーからはじめよう(1988年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-24874 |title=並木通りの男 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* [[キツイ奴ら]](1989年、[[TBSテレビ|TBS]])<ref name="kitsuiyatsura"/>- 小山内完治 役
** キツイ奴ら! スペシャル 栄冠は君に輝く(1990年、TBS)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-26473 |title=キツイ奴ら! スペシャル―栄冠は君に輝く - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>- 小山内完治 役
* [[世にも奇妙な物語|世にも奇妙な物語シリーズ]]
** 世にも奇妙な物語 第3シリーズ「[[ハイ・ヌーン]]」(1992年)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-28621 |title=世にも奇妙な物語(3)「電気じかけの幽霊」「ハイ・ヌーン」「いいかげん」 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 主演・男 役
** [[世にも奇妙な物語 秋の特別編 (1999年)|世にも奇妙な物語 秋の特別編]]「マニュアル警察」(1999年)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-33749 |title=世にも奇妙な物語 秋の特別編 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 主演・只野一郎 役
* [[金曜ドラマシアター]] [[実録犯罪史シリーズ]]「[[実録犯罪史シリーズ#『最期のドライブ』|最期のドライブ 富山長野女子高生・OL連続誘拐殺人事件]]」(1992年6月26日、フジテレビ) - 河野武司 役<ref>『[[朝日新聞]]』1992年6月26日東京朝刊第13版テレビ番組表32頁「番組表…フジテレビ (8) 21時02分「金曜ドラマシアター」 試写室 金曜ドラマシアター「最期のドライブ」 フジ 夜9:02 鬼気迫る車の中の殺人」([[朝日新聞東京本社]]) - 『朝日新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1992年(平成4年)6月号1334頁</ref>
* フィリッピーナを愛した男たち(1992年12月、フジテレビ)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-29096 |title=フィリッピーナを愛した男たち - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* みんな夢の中〜ある偽ハマクラ伝(1992年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]])<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-29132 |title=みんな夢の中~ある偽ハマクラ伝~ - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* 愛の降る街・領収書物語2(1993年、関西テレビ)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-29870 |title=愛の降る街・領収書物語(2) 「重役の恋」「愛が言った」「よろしくサンタさん」 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* [[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ|愛と疑惑のサスペンス]]「夢の帰る場所」(1994年、関西テレビ)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-29995 |title=夢の帰る場所 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* [[最後の弾丸 (1994年の映画)|最後の弾丸]](1995年、[[日本放送協会|NHK]])<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-30893 |title=最後の弾丸 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref> ※日豪合作
* [[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]](1996年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]])<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-31179 |title=秀吉 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - [[足利義昭]] 役
* [[コーチ (テレビドラマ)|コーチ]](1996年、フジテレビ)<ref name="tvdramadb31485"/> - 三国清太郎 役
** ドラマスペシャル コーチ(1997年、フジテレビ)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-32325 |title=コーチ スペシャル - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 三国清太郎 役
* [[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]
** 「ぜいたくな家族」(1996年、NHK)<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040327_00000 土曜ドラマ ぜいたくな家族 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-31570 |title=ぜいたくな家族 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
** 「もうひとつの心臓」(1997年、NHK)<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040335_00000 土曜ドラマ もうひとつの心臓 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-32334 |title=もうひとつの心臓 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 北村広司 役
* [[メロディ (テレビドラマ)|メロディ]](1997年、TBS) - 桜木信太郎 役<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-31824 |title=メロディ - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* [[こんな恋のはなし]](1997年、フジテレビ)<ref name="tvdramadb32150"/> - 下平孝之助 役
* [[古畑任三郎]]3rd season 第36回「雲の中の死」(1999年、フジテレビ)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-33468 |title=古畑任三郎 (3rd season) - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 臺修三 役
* [[盲導犬クイールの一生]](2003年、NHK)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-36747 |title=盲導犬クイールの一生 - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 渡辺満 役
* [[あいのうた (テレビドラマ)|あいのうた]](2005年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<ref name="tvdramadb38667"/> - 片岡優二 役
* [[P&Gパンテーンドラマスペシャル]]「[[フォルティッシモ―また逢う日のために―]]」(2011年、[[BSフジ]])<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-47947 |title=フォルティッシモ また逢う日のために - ドラマ詳細データ |website=[[テレビドラマデータベース]] |publisher=キューズ・クリエイティブ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* [[東京バンドワゴン#テレビドラマ|東京バンドワゴン〜下町大家族物語]](2013年、日本テレビ)<ref name="tvdramadb55814"/> - 堀田我南人 役
=== 映画 ===
* [[プルシアンブルーの肖像]](1986年) - 萩原秋人 役<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.allcinema.net/cinema/86192 |title=映画 プルシアンブルーの肖像 (1986)について 映画データベース |website=[[allcinema]] |publisher=スティングレイ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* ふ・た・り・ぼ・っ・ち(1988年)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.allcinema.net/cinema/150499 |title=映画 ・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・ (1988)について 映画データベース |website=[[allcinema]] |publisher=スティングレイ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 武田和也 役
* [[右曲がりのダンディー]](1989年)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.allcinema.net/cinema/150862 |title=映画 右曲がりのダンディー (1989)について 映画データベース |website=[[allcinema]] |publisher=スティングレイ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 一条まさと 役
* [[教祖誕生]](1993年) - 駒村哲治 役<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-20526 |title=映画 教祖誕生 (1993)について 映画データベース |website=[[allcinema]] |publisher=スティングレイ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* [[霧の子午線]](1996年)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.allcinema.net/cinema/152757 |title=映画 霧の子午線 (1996)について 映画データベース |website=[[allcinema]] |publisher=スティングレイ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 高尾耕介 役
* ロマンス(1996年)<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.allcinema.net/cinema/152872 |title=映画 ロマンス (1996)について 映画データベース |website=[[allcinema]] |publisher=スティングレイ |accessdate=2020-04-11}}</ref> - 柴田 役
* [[恋は舞い降りた。]](1997年) - 天使 役<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.allcinema.net/cinema/87670 |title=映画 恋は舞い降りた。 (1997)について 映画データベース |website=[[allcinema]] |publisher=スティングレイ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
* Zアイランド(2015年) - ゾンビ 役 ※愛情出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0072991|title=玉置浩二、ゾンビ役で友情出演!親友・哀川翔のため「俺しかいない」|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-05-06|accessdate=2015-05-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.allcinema.net/cinema/350797 |title=映画 Zアイランド (2014)について 映画データベース |website=[[allcinema]] |publisher=スティングレイ |accessdate=2020-04-11}}</ref>
=== 音楽 ===
*[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]](フジテレビ、2004年6月14日)
*[[FNS歌謡祭]](フジテレビ)
**[[2010 FNS歌謡祭]](2010年12月4日)
**[[2012 FNS歌謡祭]](2012年12月5日)
**[[2014 FNS歌謡祭]](2014年12月3日)
*[[FNSうたの夏まつり]](フジテレビ)
**[[2012 FNSうたの夏まつり]](2012年8月8日)
**[[2013 FNSうたの夏まつり]](2013年7月31日)
**[[2014 FNSうたの夏まつり]](2014年8月13日)
*[[玉置浩二ショー]](2015年2月 - 、[[NHK BSプレミアム]])<ref name="oricon20150209"/>
=== テレビアニメ ===
* [[エンジェル・ハート]](2006年、読売テレビ) - 福留裕介 役 ※エンディングテーマを担当したことで友情出演
=== バラエティ ===
* [[ビートたけしのつくり方]](1993年、フジテレビ) - 玉置浩二 役 ※本人役
* [[FNS27時間テレビ (2013年)|FNS27時間テレビ 女子力全開2013 乙女の笑顔が明日をつくる!!]](2013年8月4日、フジテレビ)
=== CM ===
* [[大王製紙]][[エリス (生理用品)|エリス]](1985年)
* [[太陽誘電]]That's [[コンパクトカセット|オーディオテープ]](1987年)
* [[日本たばこ産業|JT]] [[サムタイム (たばこ)|Sometimes MIASS]](1988年)
* [[月桂冠 (企業)|月桂冠]]花鳥風月あの頃へ(1992年)
* [[トヨタ自動車]][[トヨタ・クレスタ|クレスタ]](1996年)
* [[協和キリン|協和発酵]]本格泡盛アジアン(1997年)
* [[キリンビバレッジ]][[缶コーヒー]]ジャイブ(1997年)
* [[オンワード樫山]]23区(1999年)
* [[江崎グリコ]]アーモンドチョコレート / マカダミアチョコレート(2003年)
== NHK紅白歌合戦出場歴 ==
{|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap"
!年度!!放送回!!回!!曲目!!出演順!!対戦相手!!備考!!歌手別視聴率
|-
|[[1996年]]||[[第47回NHK紅白歌合戦|第47回]]||初|| [[田園 (玉置浩二の曲)|田園]] ||13/25||[[松田聖子]]|| ||59.9%('''1位''')
|-
|[[2020年]]||[[第71回NHK紅白歌合戦|第71回]]
|2
|田園(2回目)
| 特別企画
|([[松任谷由実]])
|トリ前
|41.9%(7位)
|}
== 受賞歴 ==
;1996年
* 第10回[[ザテレビジョンドラマアカデミー賞]] '''助演男優賞'''(希望により辞退)(『[[コーチ (テレビドラマ)|コーチ]]』)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* [http://saltmoderate.com/ 玉置浩二・安全地帯 OFFICIAL WEB]
* {{NHK人物録|D0009070557_00000}}
* {{YouTube|channel=UC5cN28RtvGgmDQj46HcV3Tw|玉置浩二 Koji Tamaki Official}}
* 各レコード会社による公式ページ
** [https://www.universal-music.co.jp/tamaki-koji/ ユニバーサルミュージック ジャパン]
** [https://www.sonymusic.co.jp/artist/KojiTamaki/ Sony Music]
** [https://spaceshowermusic.com/artist/11049043/ SPACE SHOWER MUSIC]
** [https://columbia.jp/tamakikoji/#top 日本コロムビア]
{{玉置浩二}}
{{安全地帯}}
{{ザテレビジョンドラマアカデミー賞助演男優賞}}
{{Portal bar|アジア|日本|北海道|音楽|人物伝}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:たまき こうし}}
[[Category:玉置浩二|!]]
[[Category:安全地帯]]
[[Category:薬師丸ひろ子|+たまき こうし]]
[[Category:NHK紅白歌合戦出演者]]
[[Category:ZIP!関係者]]
[[Category:日本の男性ポップ歌手]]
[[Category:日本の男性ロック歌手]]
[[Category:日本の男優]]
[[Category:日本の編曲家]]
[[Category:日本の作詞家]]
[[Category:日本の作曲家]]
[[Category:日本の男性シンガーソングライター]]
[[Category:日本の男性YouTuber]]
[[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアーティスト]]
[[Category:アリオラジャパンのアーティスト]]
[[Category:ユニバーサルミュージックジャパンのアーティスト]]
[[Category:日本コロムビアのアーティスト]]
[[Category:20世紀日本の音楽家]]
[[Category:21世紀日本の音楽家]]
[[Category:1958年生]]
[[Category:北海道出身の人物]]
[[Category:存命人物]]
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13,410 |
紀元前10世紀
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紀元前10世紀(きげんぜんじっせいき)は、西暦による紀元前1000年から紀元前901年までの100年間を指す世紀。
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紀元前10世紀(きげんぜんじっせいき)は、西暦による紀元前1000年から紀元前901年までの100年間を指す世紀。
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{{出典の明記|date=2013年6月}}
{{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 10 | BC = 1 }}
[[ファイル:Tissot Solomon Dedicates the Temple at Jerusalem.jpg|thumb|right|220px|[[ソロモン|ソロモン王]]。[[ヘブライ人]]の王国に最盛期をもたらし、その知恵は後世高く評価された。画像は[[ジェームズ・ティソ]]による歴史画「[[ソロモン神殿|エルサレム神殿]]を奉献するソロモン王」({{仮リンク|マンハッタンのユダヤ人博物館|en|Jewish Museum (Manhattan)}}蔵)。]]
[[ファイル:Piero della Francesca - 2b. Meeting between the Queen of Sheba and King Solomon - WGA17497.jpg|thumb|right|260px|[[シバの女王]]。シバは[[イエメン]]か[[エチオピア]]に相当すると考えられ、この地と地中海東岸が[[紅海]]貿易で結ばれていたことを示す。
画像は[[ピエロ・デラ・フランチェスカ]]の「ソロモン王を訪問するシバの女王」([[アレッツォ]]の聖フランチェスコ聖堂フレスコ壁画)。]]
[[ファイル:Psusennes I mask by Rafaèle.jpg|thumb|right|220px|[[エジプト第21王朝]]の王[[プスセンネス1世]]。下エジプトの[[タニス]]を都とした第21王朝でこの王は半世紀近い治世を営んだ。またこの王の墓は古代エジプトを通じて唯一の未盗掘王墓だったことでも知られる。]]
[[File:Cheek Piece from a Horse Bit LACMA M.76.97.99.jpg|thumb|right|220px|{{仮リンク|ルリスタン青銅器|en|Luristan bronze}}。紀元前10世紀頃からイラン西部で発達した青銅器で、動物文様を組み合わせた複雑な意匠で知られている。画像は[[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]蔵の人面有翼獣の青銅器。]]
{{読み仮名_ruby不使用|'''紀元前10世紀'''|きげんぜんじっせいき}}は、[[西暦]]による[[紀元前1000年]]から[[紀元前901年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== 出来事 ==
=== 紀元前1000年代 ===
* 紀元前1000年頃
** [[アーリア人]]が[[ガンジス川]]流域に移動し、[[バラモン教]]が成立する(後期[[ヴェーダ]]時代){{Sfn|藤井|2007|p=57}}。
*** インド南部で巨石文化が興る{{Sfn|藤井|2007|p=58}}。 インド亜大陸の各地に[[鉄器時代|鉄器]]が普及{{Sfn|藤井|2007|p=58}}。
*** インド南部の[[タミルナードゥ州]]の{{仮リンク|アディチャナルール|en|Adichanallur}}遺跡の埋葬壺が作られ始める( - 紀元前6世紀)。
** [[イラン]]西部[[ザグロス山脈]]沿いの[[ルリスタン]]で[[青銅器]]文化が展開。
*** 同時期にイラン北部[[カスピ海]]沿いの[[ギーラーン]]でも「こぶ牛型形象土器」で知られる{{仮リンク|アムラシュ文化|en|Amlash culture}}が展開。
** [[ハブール川]]沿岸にアラム系国家ビト・バヒアニの都グザナ([[テル・ハラフ]])が建設される。
** ギリシアの[[エウボイア]]島の{{仮リンク|レフカンディ|en|Heroön}}遺跡の{{仮リンク|ヘローン|en|Heroön}}(英雄廟)が建てられる。
** イタリアで[[エトルリア人]]による{{仮リンク|ヴィッラノーヴァ文化|en|Villanovan culture}}が展開。
** スペイン・[[バレンシア州|バレンシア地方]]で「{{仮リンク|ビリェーナの遺宝|en|Treasure of Villena}}」が埋蔵される。
** ドイツで「{{仮リンク|エーベルスヴァルデの遺宝|en|Eberswalde Hoard}}」が埋蔵される。
** ドイツで「{{仮リンク|ベルリンの黄金帽|en|Berlin Gold Hat}}([[新博物館 (ベルリン)|ベルリン新博物館(ノイエス・ムゼウム)蔵)]]」が作られる。
** イギリスの[[ヒルフィギュア]]「{{仮リンク|アフィントンの白馬|en|Uffington White Horse}}」が作られる。
** [[ナイジェリア]]の[[ノク文化]]が始まる( - 紀元前500年頃)。
** [[メキシコ湾]]岸の熱帯低地(現[[ベラクルス州]][[サン・ロレンソ (遺跡)|サン・ロレンソ]])で大がかりな建築物や石の彫刻の技術を持った農耕民達による[[オルメカ文化]]の繁栄が続く。
** メキシコ南東部[[タバスコ州]]のアグアダ・フェニックス(Aguada Fénix)遺跡の基壇部分(南北1.4km×東西0.4km)が建設される( - 紀元前800年頃)。
** 中央ユーラシアの[[シベリア]]から[[モンゴル]]にかけては[[青銅器時代]]。
*** この時期「[[鹿石]]」の名で知られる巨石記念物が各地で造営される。エルデンツォクト遺跡や、ジャルガランティンアム遺跡などが有名。
** ベトナム中部では、鉄器を用いる{{仮リンク|サフィン文化|en|Sa Huỳnh culture}}(沙黄文化)が成立する( - 紀元後[[200年]])。
** 日本の[[縄文時代]]晩期の始まり( - 紀元前300年頃)。
*** 代表は[[青森県]][[つがる市]]の[[亀ヶ岡遺跡]]。[[富山県]][[魚津市]]で発見された[[魚津埋没林]]はこの時代のもの。
*** 小寒冷期が到来し、「弥生海退」と呼ばれる海水面の低下が見られる。
** [[古代イスラエル|統一イスラエル王国]]で[[ダビデ|ダヴィデ]]王が[[ヘブロン]]で即位。
***彼は[[ペリシテ人]]を破ってこれを配下に納め、領土を南はエジプトの境界から北はユーフラテスの川岸にまで広げる。
=== 紀元前990年代 ===
* 紀元前993年頃 - ダヴィデ王がヘブロンから[[エルサレム]]([[ダビデの町|ダヴィデの町]])に遷都。
* 紀元前991年頃 - [[エジプト第21王朝]]の王プスセンネス1世が死去。この王墓は古代エジプトで唯一の無盗掘の王墓であった。
=== 紀元前980年代 ===
* 紀元前985年頃 - 周の[[昭王 (周)|昭王]]が南方巡狩で消息不明になる([[楚 (春秋)|楚]]との戦いで死亡した)。[[穆王 (周)|穆王]]が即位。
=== 紀元前970年代 ===
* 紀元前971年頃 - 統一イスラエル王国で[[ソロモン]]王が即位。その治世で[[エルサレム神殿]]を建立。
=== 紀元前950年代 ===
* 紀元前950年頃 - [[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]『{{仮リンク|グリーンフィールド・パピルス|en|Greenfield Papyrus}}』([[大英博物館]]蔵)が作られる( - 紀元前930年)。
** 女性神官ネシタネベトイシェルウに捧げられたもので、現存する古代エジプト最長の死者の書。[[メジェド]]神が記載されていることでも有名。
=== 紀元前940年代 ===
* 紀元前943年頃 - リビア人傭兵の子孫である[[シェションク1世]]が[[エジプト第22王朝]]を開く。
** 都は[[タニス]]で、女神[[バスト]]信仰の中心であった[[ブバスティス]]も繁栄した。
**アメン大司祭職に息子の{{仮リンク|イウプト|en|Iuput}}をつけ、エジプトを統一。
* 紀元前940年 - 周の穆王が死去し、[[共王]]が即位。
** 穆王の時代に建国以来の周の歴代王の名称が書かれた「{{仮リンク|史墻盤|zh|史牆盤}}」が作られる。
=== 紀元前930年代 ===
* 紀元前934年頃 - アッシリア王[[アッシュール・ダン2世]]の即位。「中アッシリア」から「新アッシリア」への移行期。
* 紀元前930年頃
** ソロモン王の死後、統一イスラエル王国が北の[[イスラエル王国]]と南の[[ユダ王国]]に分裂する。
** [[スパルタ]]が建国される。
=== 紀元前920年代 ===
* 紀元前928年頃 - 周の[[共王 (周)|共王]]が密康公を滅ぼす。
* 紀元前925年頃 - エジプト王[[シェションク1世]]によるエルサレム神殿の略奪。
=== 紀元前910年代 ===
* 紀元前911年 - アッシリア王[[アダド・ニラリ2世]]の即位。この時期から「新アッシリア」と呼ばれる。
** アダド・ニラリ2世の治世から紀元前7世紀半ばのアッシュルバニパルの治世までの完全な[[リンム]]表(一年任期で交代するリンム職の名前を記したリスト)が残されており、古代オリエント史において正確に編年を復元できる最初の年はアダド・ニラリ2世の治世第1年(紀元前911年)である。
* [[弥生時代]]の始まりが紀元前10世紀である可能性がある。[[国立歴史民俗博物館]]の研究グループが、[[九州]]北部の遺跡から出土した弥生時代早期の土器に付着していた煮焦げなどの炭化物の[[放射性炭素年代測定]]の結果、通説より500年遡ることが裏付けられたと発表した。
== 伝説のできごと ==
* 紀元前10世紀 - 周の[[穆王 (周)|穆王]]が征西の際に神々が住むとされた[[崑崙山]]に立ち寄って[[西王母]]に会い、後に王に従って西王母が入朝した(『[[穆天子伝]]』)。
* 紀元前10世紀 - 周の穆王に仕えた侍童(菊慈童)が罪あって南陽郡の酈県に流され、その地で菊の露を飲み不老不死の仙童となったという<ref group="†">原典は[[六朝時代]]の梁の呉均による[[志怪小説]]『続斉諧記』。[[観世流]]の[[能]]の演目「菊慈童」などに発展。</ref>。
* 紀元前10世紀 - [[エチオピア]]の女王マケダ(シバの女王)は[[ソロモン]]の知恵の噂を聞き、その支配下の[[エルサレム]]を訪問。その滞在中に二人は結ばれ、帰国した女王は一人息子バイナ・レフケム(通称は[[メネリク1世]])を生んだ。このソロモン王の血を引いた人物から始まるエチオピアの王朝が{{仮リンク|ソロモン朝|en|Solomonic dynasty}}である(『{{仮リンク|ケブラ・ナガスト|en|Kebra Nagast}}』)。
* 紀元前10世紀 - ソロモンがエルサレム神殿([[ソロモン神殿]])を築いた時、旧約聖書の記述では近隣の[[ティルス]](ツロ)王である[[ヒラム]]が木材や建築技術者を派遣し支援したという。しかしヒラム自らが建築家の棟梁であったという説があり、配下にあった建築家集団を「親方」「職人」「徒弟」からなる集団に分け、それぞれに秘密の合言葉や符牒を定めて仕事に当たらせたという。このことが起源となって成立したのが秘密結社で名高い[[フリーメイソン]]である(フリーメイソンのヒラム起原伝説)。
== 人物 ==
=== ギリシア ===
* [[エウリュステネス]] - アギス朝の初代[[スパルタ王]](在位前930年頃)
* [[アギス1世]] - アギス朝の[[スパルタ王]](在位前930年頃 - 前900年頃)
=== オリエント ===
* [[ダビデ|ダヴィデ]] - [[古代イスラエル]]王(在位前1000年頃 - 前962年頃)
* [[ソロモン]] - 古代イスラエル王(在位前971年頃 - 前931年頃)
* ビルキス(バルキス) - [[シバの女王]]([[イエメン]]説)(ソロモン王と同世代)
* マケダ(マーキダ) - シバの女王([[エチオピア]]説)(ソロモン王と同世代)
* [[ヒラム]] - [[ティルス]]の王(在位前980年頃 - 前947年頃)・ソロモンの協力者
* [[レハブアム]] - ユダ王国の初代の王(在位前922年 - 前915年)・ソロモンの子
* [[ヤロブアム1世]] - イスラエル王国の初代の王(在位前922年 - 前901年)
* [[プスセンネス1世]] - [[エジプト第21王朝]]の王(在位前1039年頃 - 前991年頃)
* [[プスセンネス2世]] - エジプト第21王朝の王(在位前959年頃 - 前945年頃)
* [[シェションク1世]] - [[エジプト第22王朝]]の王(在位前945年頃 - 前922年頃)
* [[ゾロアスター]] - [[イラン]]の宗教家(前10世紀説から前6世紀説まである)
=== 大陸(現在の中国) ===
* [[康王 (周)|康王]](? - 前993年?) - [[周]]王朝第3代王(在位前1002年? - 前993年?)
* [[昭王 (周)|昭王]](? - 前985年?) - 周王朝第4代王(在位前993年? - 前985年?)
* [[穆王 (周)|穆王]](? - 前940年?) - 周王朝第5代王(在位前985年? - 前940年?)
* [[共王 (周)|共王]](? - 前903年?) - 周王朝第6代王(在位前940年? - 前903年?)
== 技術・社会 ==
* 日本列島では、[[縄文時代]]の晩期には北九州・近畿にまで[[水田農耕]]が定着していったとされる。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=世界歴史大系 南アジア史1 ─先史・古代─|date=2007-06-10|year=2007|publisher=[[山川出版社]]|volume=1|isbn=978-4634462083|editor=[[山崎元一]]・[[小西正捷]]}}
** {{Cite book|和書|title=|publisher=|pages=57-85|chapter=第2章 ヴェーダ時代の宗教・政治・社会|author=藤井正人<!--ふじいまさと 京都大学人文学科学研究所教授-->|ref={{SfnRef|藤井|2007}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|10th century BC}}
* [[年表]]
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13,411 |
紀元前586年
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紀元前586年(きげんぜん586ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元168年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前586年と表記されるのが一般的となった。
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{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|7}} | 世紀= {{紀元前/世紀|6}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|5}} |
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'''紀元前586年'''(きげんぜん586ねん)は、[[西暦]]([[ローマ暦]])による年。[[紀元前1世紀]]の[[共和政ローマ]]末期以降の[[古代ローマ]]においては、[[ローマ建国紀元]]168年として知られていた。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前586年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙亥]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]75年
** [[神武天皇]]75年
* [[中国]]
** [[周]] - [[定王 (周)|定王]]21年
** [[魯]] - [[成公 (魯)|成公]]5年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[頃公 (斉)|頃公]]13年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[景公 (晋)|景公]]14年
** [[秦]] - [[桓公 (秦)|桓公]]18年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[共王 (楚)|共王]]5年
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** [[衛]] - [[定公 (衛)|定公]]3年
** [[陳 (春秋)|陳]] - [[成公 (陳)|成公]]13年
** [[蔡]] - [[景侯 (蔡)|景侯]]6年
** [[曹 (春秋)|曹]] - [[宣公 (曹)|宣公]]9年
** [[鄭]] - [[悼公 (鄭)|悼公]]元年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[昭公 (燕)|昭公]]元年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1748年
* [[ユダヤ暦]] : 3175年 - 3176年
== できごと ==
=== 中国 ===
* [[晋 (春秋)|晋]]の[[趙同]]と[[趙括 (春秋)|趙括]]が弟の[[趙嬰|趙嬰斉]]を[[斉 (春秋)|斉]]に追放した。
* 許の霊公が[[鄭]]の[[悼公 (鄭)|悼公]]を[[楚 (春秋)|楚]]に訴えた。悼公は楚に赴いたが敗訴し、楚は鄭の皇戌と子国を抑留した。悼公は帰国すると、子游(公子偃)を晋に派遣して講和を求めた。
* 鄭の悼公と晋の趙同が垂棘で盟を交わした。
* 晋・[[魯]]・斉・[[宋 (春秋)|宋]]・[[衛]]・鄭・[[曹 (春秋)|曹]]・邾・杞が蟲牢で同盟した。
== 誕生 ==
== 死去 ==
* [[周]]の[[定王 (周)|定王]]
== 脚注 ==
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沙村広明
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沙村 広明(さむら ひろあき、1970年2月17日 - )は、日本の男性漫画家、イラストレーター。千葉県出身、多摩美術大学美術学部油絵科卒。
1993年『月刊アフタヌーン』にてデビュー。異色時代劇『無限の住人』がデビュー作であり代表作。同作品により1997年、第1回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。
妻は漫画家の岡村星。
小学生の頃から漫画家を志しており、将来の夢を聞かれて「漫画家」以外に答えたことが無いという。美術大学を志望したのも漫研に絵のうまい人がいっぱいいそう、という理由からで、美術予備校にて本格的にデッサンの勉強をしたのちに多摩美術大学に入学、油絵科に在籍するも、絵具の臭いが嫌で油絵はもともと好きではなく、在学中は漫研の活動がメインとなる。なお漫研の先輩に冬目景とウエダハジメがおり、学祭では冬目に女装させられている。玉置勉強は漫研の後輩となり、彼の著作の多くに沙村がイラストを寄稿している。また、同じ油絵科の同級生だった五十嵐大介と同じアトリエで絵を描いていたが、挨拶をしたのは講談社の忘年会が初めて。
当時は大友克洋の影響が強かった時代であり、周囲と同じく沙村も大友の影響を露骨に受けた作品を描いていた。後に大学まで行って漫研時代の沙村の作品を見たファンに「異様に大友タッチなんでビックリした」と言われたという。またデビューの際に大友の影響からの脱却を意識したとも語っている。
デビューのきっかけは大学祭のときに漫研OBの山田玲司に持込を勧められたことで、この勧めに従って講談社『月刊アフタヌーン』編集部に持ち込みをする。このとき谷崎潤一郎の『刺青』を漫画化したものが編集者の目に留まり、こういう時代ものを描く気はないか、と言われたことがデビュー作『無限の住人』制作のきっかけとなった。在学中のデビュー作執筆のため時間が無く、2枚の卒業制作のうち一枚は友人に頼み込んでやってもらったものだという。
1993年にアフタヌーン四季賞夏のコンテストで四季大賞を受賞した『無限の住人』は翌年より連載化する。この作品は当初は主人公が敵を一人一人倒していく活劇物であったが、後に多数の人物が登場する入り組んだ構成を採るようになる。沙村はこの変化について、連載開始後に一ノ関圭の作品を読んで「自分が『漫画の理想』と思っていることを見た」というほどの感銘を受け、描きたいものの方向性が変わったためであると説明している。
『無限の住人』は1997年に第1回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞、また英語版が2002年にアイズナー賞最優秀国際作品部門を受賞している。2012年に全30巻で完結。連載15年目となる2008年と連載終了後の2019年に、2度アニメ化されている。
『無限の住人』の連載と並行して、1999年から2002年にかけて発行されていた『アフタヌーンシーズン増刊』にて竹易てあしの名前で、『おひっこし』などのコメディ作品を発表した。この作品ではアシスタント体制を整えるため、それまで自分で描いていた背景などをアシスタントに任せたという。『おひっこし』ほか竹易てあし作品は『おひっこし―竹易てあし漫画全集』のタイトルで沙村広明名義で刊行された。『おひっこし』刊行後「竹易てあし」名義は使用されていない。
また、成年向け漫画雑誌『漫画クリスティ』(光彩書房)などに「責め絵」をテーマにしたイラスト連作『人でなしの恋』を発表している。これらはもともと趣味で描いていたものであったが、大学の後輩の玉置勉強の勧めで商業誌に発表するようになった。2006年にこの連作を収録した同名の画集が一水社より刊行。なおこの連作にはかなり猟奇的な内容のものが含まれており、沙村自身「万人受けでない」「創作に当たり、刃物で実際に女性モデルに傷をつけてみた事で、あらためて自分は想像の中で女性を虐げる事に魅力を感じる普通の人間である事が分かった」とアフタヌーンの近況や画集のあとがきでコメントしている。猟奇的な漫画作品としては、孤児院にいる少女への凌辱・虐待が恒常的に行われた世界を舞台とするドラマ『ブラッドハーレーの馬車』がある。
2014年から『月刊アフタヌーン』で連載されている『おひっこし』系統のコメディ作品『波よ聞いてくれ』は、2020年にアニメ化され、2019年に制作された『無限の住人-IMMORTAL-』の地上波放送と同時放映になった。
文化庁メディア芸術祭選評では「活版印刷の限界に挑むかのような繊細なタッチ」「画面描写の独特の品格」など、画力が高く評価された。
代表作『無限の住人』では、劇中に鉛筆描きの絵をしばしば挿入している。漫画原稿では線がきれいに印刷されないため一般的には下書き以外に鉛筆は使用しないが、写真仕様のコピーを取ることで鉛筆で薄く書いた部分がドット処理され、これによってスクリーントーンでは不可能な微妙な濃淡を表現している。『無限の住人』各話の扉絵もこの方法で描かれており、また『人でなしの恋』ほか各種イラストレーションでも同様の鉛筆画が描かれている。
漫画のペン入れにはつけペンは使用しておらず、主線はピグマ(ミリペン)、着物部分は筆ペンで描かれている。
沙村は各種のインタビューで自身の様々な趣味、嗜好を明かしており、作品への影響も語っている。
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"text": "デビューのきっかけは大学祭のときに漫研OBの山田玲司に持込を勧められたことで、この勧めに従って講談社『月刊アフタヌーン』編集部に持ち込みをする。このとき谷崎潤一郎の『刺青』を漫画化したものが編集者の目に留まり、こういう時代ものを描く気はないか、と言われたことがデビュー作『無限の住人』制作のきっかけとなった。在学中のデビュー作執筆のため時間が無く、2枚の卒業制作のうち一枚は友人に頼み込んでやってもらったものだという。",
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"text": "代表作『無限の住人』では、劇中に鉛筆描きの絵をしばしば挿入している。漫画原稿では線がきれいに印刷されないため一般的には下書き以外に鉛筆は使用しないが、写真仕様のコピーを取ることで鉛筆で薄く書いた部分がドット処理され、これによってスクリーントーンでは不可能な微妙な濃淡を表現している。『無限の住人』各話の扉絵もこの方法で描かれており、また『人でなしの恋』ほか各種イラストレーションでも同様の鉛筆画が描かれている。",
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"text": "沙村は各種のインタビューで自身の様々な趣味、嗜好を明かしており、作品への影響も語っている。",
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沙村 広明は、日本の男性漫画家、イラストレーター。千葉県出身、多摩美術大学美術学部油絵科卒。 1993年『月刊アフタヌーン』にてデビュー。異色時代劇『無限の住人』がデビュー作であり代表作。同作品により1997年、第1回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。 妻は漫画家の岡村星。
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{{Infobox 漫画家
| 名前 = 沙村 広明
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| 画像サイズ =
| 脚注 =
| 本名 =
| 生地 = {{JPN}}・[[千葉県]]
| 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 -->
| 生年 = {{生年月日と年齢|1970|2|17}}
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| 代表作 = 『[[無限の住人]]』
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'''沙村 広明'''(さむら ひろあき、[[1970年]][[2月17日]] - )は、[[日本]]の[[男性]][[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[千葉県]]出身、[[多摩美術大学]]美術学部油絵科卒。
[[1993年]]『[[月刊アフタヌーン]]』にてデビュー。異色時代劇『[[無限の住人]]』がデビュー作であり代表作。同作品により[[1997年]]、第1回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞を受賞。
妻は漫画家の[[岡村星]]<ref>『樫村一家の夜明け』単行本あとがきページ</ref>。
== 来歴 ==
=== デビューまで ===
小学生の頃から漫画家を志しており、将来の夢を聞かれて「漫画家」以外に答えたことが無いという<ref name=QJ>こじままさき「『無限の住人』沙村広明インタビュー」『Quick Japan』vol.38、太田出版、2001年</ref>。美術大学を志望したのも漫研に絵のうまい人がいっぱいいそう、という理由からで、美術予備校にて本格的にデッサンの勉強をしたのちに[[多摩美術大学]]に入学、油絵科に在籍するも、絵具の臭いが嫌で油絵はもともと好きではなく、在学中は漫研の活動がメインとなる<ref name=QJ/>。なお漫研の先輩に[[冬目景]]と[[ウエダハジメ]]がおり、学祭では冬目に女装させられている<ref>『無限の住人』第5巻見返しの作者コメントによる</ref>。[[玉置勉強]]は漫研の後輩となり、彼の著作の多くに沙村がイラストを寄稿している。また、同じ油絵科の同級生だった[[五十嵐大介]]と同じアトリエで絵を描いていた<ref>「松本次郎解体新書」『マンガ・エロティクス・エフ』vol.56、太田出版、2009年</ref>が、挨拶をしたのは講談社の忘年会が初めて<ref>『good!アフタヌーン』2016年8号</ref>。
当時は[[大友克洋]]の影響が強かった時代であり、周囲と同じく沙村も大友の影響を露骨に受けた作品を描いていた<ref name=QJ/>。後に大学まで行って漫研時代の沙村の作品を見たファンに「異様に大友タッチなんでビックリした」と言われたという<ref name=QJ2>前掲『Quick Japan』vol.38、120頁(脚注部)</ref>。またデビューの際に大友の影響からの脱却を意識したとも語っている<ref name=DV>大地洋子「漫画家スペシャルインタビュー 沙村広明」『ダ・ヴィンチ』1999年11月号、メディアファクトリー</ref>。
デビューのきっかけは大学祭のときに漫研OBの[[山田玲司]]に持込を勧められたことで、この勧めに従って講談社『[[月刊アフタヌーン]]』編集部に持ち込みをする。このとき[[谷崎潤一郎]]の『刺青』を漫画化したものが編集者の目に留まり、こういう時代ものを描く気はないか、と言われたことがデビュー作『[[無限の住人]]』制作のきっかけとなった<ref name=QJ/><ref name=DV/>。在学中のデビュー作執筆のため時間が無く、2枚の卒業制作のうち一枚は友人に頼み込んでやってもらったものだという<ref name=QJ/>。
=== 『無限の住人』 ===
1993年に[[アフタヌーン四季賞]]夏のコンテストで四季大賞を受賞した『[[無限の住人]]』は翌年より連載化する。この作品は当初は主人公が敵を一人一人倒していく活劇物であったが、後に多数の人物が登場する入り組んだ構成を採るようになる。沙村はこの変化について、連載開始後に[[一ノ関圭]]の作品を読んで「自分が『漫画の理想』と思っていることを見た」<ref name=QJ2/>というほどの感銘を受け、描きたいものの方向性が変わったためであると説明している<ref name=DV/>。
『無限の住人』は1997年に第1回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞を受賞、また英語版が2002年に[[アイズナー賞]]最優秀国際作品部門を受賞している。2012年に全30巻で完結。連載15年目となる2008年と連載終了後の2019年に、2度アニメ化されている。
=== その他の仕事 ===
『無限の住人』の連載と並行して、1999年から2002年にかけて発行されていた『[[アフタヌーンシーズン増刊]]』にて'''竹易てあし'''の名前で、『おひっこし』などのコメディ作品を発表した。この作品では[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]体制を整えるため、それまで自分で描いていた背景などをアシスタントに任せたという<ref name=QJ/>。『おひっこし』ほか竹易てあし作品は『おひっこし―竹易てあし漫画全集』のタイトルで沙村広明名義で刊行された。『おひっこし』刊行後「竹易てあし」名義は使用されていない。
また、成年向け漫画雑誌『漫画クリスティ』([[一水社|光彩書房]])などに「責め絵」をテーマにしたイラスト連作『人でなしの恋』を発表している。これらはもともと趣味で描いていたものであったが、大学の後輩の[[玉置勉強]]の勧めで商業誌に発表するようになった<ref name=QJ/>。2006年にこの連作を収録した同名の画集が[[一水社]]より刊行。なおこの連作にはかなり猟奇的な内容のものが含まれており、沙村自身「万人受けでない」「創作に当たり、刃物で実際に女性モデルに傷をつけてみた事で、あらためて自分は想像の中で女性を虐げる事に魅力を感じる普通の人間である事が分かった」とアフタヌーンの近況や画集のあとがきでコメントしている。猟奇的な漫画作品としては、孤児院にいる少女への凌辱・虐待が恒常的に行われた世界を舞台とするドラマ『[[ブラッドハーレーの馬車]]』がある。
[[2012年]]、『[[ハルシオン・ランチ]]』が[[星雲賞]]コミック部門の候補に選出された。2014年、『[[春風のスネグラチカ]]』により、第18回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞を受賞。
2014年から『[[月刊アフタヌーン]]』で連載されている『おひっこし』系統のコメディ作品『[[波よ聞いてくれ]]』は、2020年にアニメ化され、2019年に制作された『無限の住人-IMMORTAL-』の地上波放送と同時放映になった。
== 画風 ==
文化庁メディア芸術祭選評では「活版印刷の限界に挑むかのような繊細なタッチ」「画面描写の独特の品格」など、画力が高く評価された<ref>{{Wayback|url=https://web.archive.org/web/20100524054546/http://plaza.bunka.go.jp/festival/1997/manga/000021/|title=1997年 文化庁メディア芸術祭 マンガ部門 優秀賞 無限の住人 {{!}} 文化庁メディア芸術プラザ}}</ref>。
代表作『無限の住人』では、劇中に鉛筆描きの絵をしばしば挿入している。漫画原稿では線がきれいに印刷されないため一般的には下書き以外に鉛筆は使用しないが、写真仕様のコピーを取ることで鉛筆で薄く書いた部分が[[ドット]]処理され、これによって[[スクリーントーン]]では不可能な微妙な濃淡を表現している<ref name=PF>「沙村広明 筆記インタビュー」『ぱふ』1995年6月号、雑草社</ref><ref>「MESSAGE FILE16 沙村広明」『手塚治虫マガジン』2004年10月号、KKベストセラーズ</ref>。『無限の住人』各話の扉絵もこの方法で描かれており、また『人でなしの恋』ほか各種イラストレーションでも同様の鉛筆画が描かれている。
漫画のペン入れには[[つけペン]]は使用しておらず、主線はピグマ([[ミリペン]])、着物部分は筆ペンで描かれている<ref name=PF/><ref>「マンガ家・道具71人大アンケート」『Pen&Ink』、美術出版社、2000年</ref>。
== 趣味・嗜好 ==
沙村は各種のインタビューで自身の様々な趣味、嗜好を明かしており、作品への影響も語っている。
; 漫画
: [[1995年]]の『[[ぱふ]]』([[雑草社]])のインタビューでは「心の師」として[[手塚治虫]]、[[星野之宣]]、[[一ノ関圭]]を挙げている。星野の『ベムハンターソード』は『無限の住人』の主人公の造形に影響を与えているという<ref name=PF/>。また2001年の『クイックジャパン』のインタビューでは自身の漫画の原体験として手塚治虫、[[藤子不二雄]]、[[高橋留美子]]を挙げた<ref name=QJ/>。
; 小説
: 好きな小説家として[[谷崎潤一郎]]を挙げており、特に『少将滋幹の母』を好きな作品だとしている。上述のように沙村は谷崎の『[[刺青 (小説)|刺青]]』を漫画化しており、これが『無限の住人』のビジュアル面での原点かもしれないとしている<ref name=PF/>。
; 映画
: 好きな映画として『[[ニキータ]]』『[[ヘザース/ベロニカの熱い日|ヘザース]]』『[[女囚さそり]](2作目)』を挙げており<ref name=PF/>、『[[月刊少年シリウス]]』連載の『[[ベアゲルター]]』はこの映画趣味を前面に押し出した作品である。また女優の[[吉永小百合]]のファンであり、『無限の住人』単行本第1巻の見返しの自画像には「さゆりすと(吉永小百合ファンの意)」の文字が書き込まれている。
; 音楽
: 『無限の住人』に影響のあった音楽として[[芸能山城組]]と[[人間椅子 (バンド)|人間椅子]]を挙げている<ref name=PF/>。人間椅子はその後、[[1996年]]に[[無限の住人 (アルバム)|『無限の住人』のイメージアルバム]]を製作している。一番好きなバンドは[[クイーン (バンド)|クイーン]]、2番目が[[ブラック・サバス]]と[[ジッタリン・ジン]]<ref name=QJ/>。こういった音楽の嗜好を作品に持ち込むことも多々あり、『おひっこし』では特にそれが顕著に見られる(人間椅子、[[ヴェノム (バンド)|ヴェノム]]、[[アイアン・メイデン]]などのネタを盛り込んでいる)。また『無限の住人』には海外のバンドやミュージシャンの名前をもじった登場人物が多数登場する。
; ゲーム
: 「昔はゲーマーだった」と語っており<ref name=PF/>、その後も[[PlayStation 2]]の作曲ソフトで自作の歌詞に曲をつけるなどしている<ref name=DV/>。なお『無限の住人』連載初期にはある格闘ゲーム<!--どのゲームかは明白だが出典に記されていないため明記しない-->と主人公の造形が似ていたため、影響を受けたのかとよく聞かれて嫌だったという(某ゲームは1993年7月7日稼働のため、同時期と言った方が正しい)<ref name=PF/>。2006年の『[[メカビ]]』vol.2では美少女ゲームについても言及している。<!--あまり詳しいことは知られたくない様子(アフタヌーン編集部コメントより)、とのことですので詳述はしないで下さい-->『ハルシオン・ランチ』作中では『レイディアント シルバーガン』『サンダーフォースⅤ』などのシューティングゲームが小ネタに使われている。
== 作品 ==
=== 連載漫画 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!連載期間
! 作品名
!出版社!! 連載雑誌 !! 巻数
|-
|[[1994年]]-[[2012年]]<!--2013年2月号付-->
|[[無限の住人]]
|[[講談社]]
|[[月刊アフタヌーン]]
|全30巻(2013年2月22日最終巻刊行)
|-
|2005年-[[2007年]]
|[[ブラッドハーレーの馬車]]
|[[太田出版]]
|[[マンガ・エロティクスF]]
|全1巻
|-
|2008年-[[2011年]]
|[[ハルシオン・ランチ]]
|講談社
|[[good!アフタヌーン]]
|全2巻
|-
|2010年-2017年
|[[幻想ギネコクラシー]]
|[[白泉社]]
|[[楽園 Le Paradis]]
|全2巻
|-
|2011年-'''連載中'''
|[[ベアゲルター]]
|講談社
|[[ネメシス (アンソロジーコミック)|ネメシス]]→[[月刊少年シリウス]]
|既刊6巻
|-
|2013年-2014年
|[[春風のスネグラチカ]]
|太田出版
|[[マンガ・エロティクスF]]
|全1巻
|-
|2014年-'''連載中'''
|[[波よ聞いてくれ]]
|講談社
|[[月刊アフタヌーン]]
|既刊10巻
|}
=== その他作品 ===
{| class="wikitable"
!<small>発売年</small>
!<small>作品名</small>
!<small>出版社</small>
!<small>ISBN</small>
!<small>備考</small>
|-
|<small>2002年6月19日</small>
|<small>おひっこし 竹易てあし漫画全集</small>
|<small>講談社</small>
|<small>ISBN 4063142965</small>
|<small>短編集</small>
|-
|<small>2006年12月21日</small>
|<small>人でなしの恋</small>
|<small>[[一水社]]</small>
|<small>{{ISBN2|4-87076-654-X}}</small>
|<small>画集、「漫画クリスティ」([[光彩書房]]) 、「知的色情」(一水社)ほか イラスト連作</small>
|-
|<small>2009年9月23日</small>
|<small>シスタージェネレーター 沙村広明短編集</small>
|<small>講談社</small>
|<small>ISBN 4063145980</small>
|<small>短編集</small>
|-
|<small>2014年9月22日</small>
|<small>ティルガング</small>
|<small>ヴァニラ画廊</small>
|<small>-</small>
|<small>人形作家 森馨との作品集</small>
|-
|<small>2022年9月10日</small>
|<small>樫村一家の夜明け</small>
|<small>日本文芸社</small>
|<small>ISBN 9784537145403</small>
|<small>妻の岡村星との合作を収録<ref>沙村作画・岡村原作の表題作の他、岡村作画・沙村脚色の連作中篇「「アンチ・ドレス」「ミッシングコード」の2編を収録</ref></small>
|}
=== 読み切り、短編 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 作品名 !! 発表 !! 収録単行本 !! 備考
|-
|無限の住人
|[[月刊アフタヌーン]]1993年8月号、講談社
|無限の住人第01巻
|1993年アフタヌーン四季賞にて四季大賞を受賞<br>単行本第1巻に「序幕」として収録されている
|-
|みどろヶ池に修羅を見た
|アフタヌーンシーズン増刊No.1、1999年、講談社
| rowspan="3" |おひっこし 竹易てあし漫画全集 (2002)
|竹易てあし名義
|-
|少女漫画家無宿 涙のランチョン日記
|アフタヌーンシーズン増刊No.2、2000年、講談社
|竹易てあし名義
|-
|おひっこし
|アフタヌーンシーズン増刊No.4-5(2000年)、7-9(2001年)、講談社
|全5話、竹易てあし名義
|-
|青春じゃんじゃかじゃかじゃか
|2003年8月、赤い牙3 (同人誌)
| rowspan="8" |シスタージェネレーター 沙村広明短編集<br>([[アフタヌーンKC]]、2009年9月23日初版発行、{{ISBN2|978-4-06-314598-4}} 講談社)<br>「[[このマンガがすごい!]]2011」で25位にランクイン
|
|-
|エメラルド
|月刊アフタヌーン2004年12月号、講談社
|
|-
|制服は脱げない
|QuickJapan58-63、65、66号(2005年-2006年)、太田出版
|全8話
|-
|下層戦略 鏡打ち
|近代麻雀オリジナル2006年3月号、竹書房
|
|-
|ブリギットの晩餐
|月刊アフタヌーン2006年9月号、講談社
|
|-
|シズルキネマ
|月刊コミックフラッパー2008年6月号、メディアファクトリー
|
|-
|久誓院家最大のショウ
|月刊アフタヌーン2009年9月号、講談社
|
|-
|描き下ろしイラスト「少女製造器 守備隊」<br>蔵出しイラスト「本を読む少女」/「エメラルド」<br>予告イラスト/「久誓院家最大のショウ」<br>予告イラスト/AN AFTERWORD
|
|
|-
|イヴァン・ゴーリエ
|楽園 第12号 2013年6月
| rowspan="2" |幻想ギネコクラシー 第1巻
|
|-
|鳳梨娘
|楽園 第13号 2013年10月
|
|-
|ぷれぐなぷれぐな
|楽園 第14号 2014年2月
| rowspan="2" |幻想ギネコクラシー 第2巻
|
|-
|軍傳
|[[週刊ヤングマガジン]]2016年10号、講談社
|YM35周年記念大型読切企画BULLET第9弾
|-
|樫村一家の夜明け
|[[週刊漫画ゴラク]]5月11日・18日号、[[日本文芸社]]
|樫村一家の夜明け
|岡村星原作
|-
|鬼脊上村の晦
|楽園 第24-26号
| rowspan="2" |単行本未収録
|全3話
|-
|20世紀のアフタヌーン 〜由利編集長のはなし〜
|月刊アフタヌーン2022年2月号、講談社
|月刊アフタヌーン35周年記念特別読み切り<ref>{{Cite web|和書|url=https://afternoon.kodansha.co.jp/afternoon/2022/2.html|title=アフタヌーン 2022年2月号|website=アフタヌーン公式サイト|publisher=講談社|accessdate=2021-12-25}}</ref>
|}
=== イラスト ===
* Images ([[アフタヌーンシーズン増刊]]) - イラスト連載
* 大魔神(2001年、[[筒井康隆]]著、[[徳間書店]]) - 挿絵
* エルダ混沌の<市>(上下巻、2005年、[[ジュード・フィッシャー]]著、[[ハヤカワ文庫]]) - 表紙イラスト
* 喪男の哲学史(2006年、[[本田透]]著、講談社)- 表紙イラスト
*トリビュート to 宙のまにまに (2009年、月刊アフタヌーン) - 2009年7月号に掲載。[[柏原麻実]]作の漫画作品『[[宙のまにまに]]』を題材にしたイラスト作品。
*「えの素トリビュート」(2006年10月、[[榎本俊二]]、講談社)- 挿絵
* 武蔵三十六番勝負(全5巻、2010年 - 2011年、[[楠木誠一郎]]著、[[角川書店]]) - 表紙イラスト
=== その他 ===
* [[天誅 (ゲーム)#シリーズ一覧|立体忍者活劇 天誅]]([[アクワイア (ゲーム会社)|アクワイア]]、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ゲームソフト、1998年) - 美術
* [[どろろ#ゲーム|どろろ]]([[セガ]]、[[PlayStation 2]]用ゲームソフト、2004年) - キャラクターデザイン
* [[テレビアニメ|TVアニメ]] [[無限の住人#アニメ|無限の住人]](浅野道場復興会、2008年) - 第10話にて「風車売り」役で[[声優]]出演
* [[さよなら絶望先生 (アニメ)|懺・さよなら絶望先生]] 第1話エンドカード(原作:[[久米田康治]]、監督:[[新房昭之]]、2009年)
== 出典 ==
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<references />
== 外部リンク ==
*[http://www.vanilla-gallery.com/archives/2008/20080310.html 娘達への謝罪] - 2008年3月10日から3月26日までヴァニラ画廊にて行われた『人でなしの恋』原画展の内容(責め絵等)紹介
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本のイラストレーター]]
[[Category:多摩美術大学出身の人物]]
[[Category:千葉県出身の人物]]
[[Category:BDSM]]
[[Category:1970年生]]
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無限の住人
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『無限の住人』(むげんのじゅうにん)は、沙村広明による日本の漫画。1993年のアフタヌーン四季賞にて四季大賞を受賞した同名の読切作品が元となっており、『月刊アフタヌーン』(講談社)にて、1993年6月から2012年12月まで連載された。作者のデビュー作で、略称は「むげにん」。英題は『Blade of the Immortal』。
不老不死の肉体を持つ用心棒を中心とする時代劇ものの作品。江戸時代の日本を舞台としているが、奇抜な衣装を身にまとう人物や独創的な武器が多数登場する。1997年に第1回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞し、英語版が2000年にアイズナー賞最優秀国際作品部門を受賞している。2016年12月時点で累計発行部数は750万部を突破している。
スピンオフ作品として、沙村協力のもと、滝川廉治(原作)と陶延リュウ(作画)による『無限の住人〜幕末ノ章〜』(むげんのじゅうにん ばくまつのしょう)が、『月刊アフタヌーン』にて2019年7月号より連載中。また、メディアミックスとして、2度のアニメ化や、舞台化、木村拓哉主演による実写映画化が行われている。
ストーリーの詳細は無限の住人の登場人物のそれぞれの項目を参照。
剣客集団・逸刀流(いっとうりゅう)に両親を殺され、実家の剣術道場を潰された少女・浅野凜(あさの りん)は仇討ちを遂げるため、不老不死の肉体を持つ男・万次(まんじ)に用心棒を依頼する。依頼を受けた万次は、凜と共に逸刀流との戦いに身を投じることになる。
当初、凛と万次は浅野道場を襲い両親を殺害した逸刀流の者たち(すなわち直接の仇敵)や天津影久を殺害し、逸刀流を潰すことを目的としていた。
しかし逸刀流や、それを潰そうとする無骸流、幕府の刺客などと斬り合い、時に親交をむすぶ中で「天津影久を殺して逸刀流を潰せば個人的な復讐は果たせるが、はたしてそれでいいのか?」と思い悩むようになる。
※参考文献:実写映画版パンフレット(2017年)
AT-X開局10周年記念作品・アフタヌーン創刊20周年記念作品として、2008年7月13日より、AT-Xにて放送された。また、2009年3月5日からはテレ玉『アニたま』枠にて放送された。ストーリーの時系列に一部変更がある。原作者の沙村が、第10話にて脇役の声優を務めた。
放映時には暴力的・性的な描写を含むことを注意喚起するテロップが挿入され、過激な描写(おもに死体や斬り取られた身体の一部のアップ)には黒い影状の修正が入れられた。
『無限の住人-IMMORTAL-』(むげんのじゅうにん イモータル)のタイトルで、2019年10月10日よりAmazon Prime Videoにて配信。翌年2020年4月8日から9月16日までTOKYO MXと毎日放送にて放送された。
2016年2月11日から2月17日に劇団ヘロヘロQカムパニーにより全労済ホール/スペースゼロにて初演が公演された。
2018年5月13日から5月22日に劇団ヘロヘロQカムパニーにより全労済ホール/スペースゼロにて『無限の住人 完結編』が公演された。
役名のある兼務は記載するが、アンサンブルの兼務は割愛する。
役名のある兼務は記載するが、アンサンブルの兼務は割愛する。
2015年10月に実写映画化が発表され、作者の沙村にとっては初の実写映像化となった。監督は三池崇史。2015年11月から2016年1月中旬まで撮影され、2017年4月29日に公開された。
PG12指定。キャッチコピーは「不死身って、死ぬほどめんどくせぇ。」「1人対300人(全員敵)“ぶった斬り”エンタテイメント」。 2017年5月17日から開催される第70回カンヌ国際映画祭のアウト オブ コンペティション部門として公式選出され、北米、イギリス、オーストラリア、ドイツ、でも公開された。
ガーディアンのジョーダン・ホフマンは5つ星中4つ星を与えた。「巨大な二重の剣、鋭いアンビルのような斧、鎖に取り付けられた刃、あらゆる機会に登場する手裏剣など、映画が奇妙な武器に耽るとき本当に楽しく輝く」「もしあなたが今年一風変わった、そして時に吐き気を伴う血塗れの侍映画を見に行くなら、これはその1つだ」。ハリウッド・リポーターのハリー・ウィンザーは、この映画は『十三人の刺客』よりも「思い出に残るもの」ではないが、「それでも長く、専門的に振り付けられた定期的な剣の戦いと血と切断が好きな人にとっては、まだ楽しめる」とコメントした。
米批評家サイト"Rotten Tomatoes"での批評家の評価は85%、世界最大のオンラインデータベース"IMDb"での評価ポイントは「☆6.8」。スイス、ニュージーランドでも公開。
第70回カンヌ国際映画祭での公式上映の際には、2,300人の観客と共に作品を鑑賞した。上映後、スタンディングオベーションが贈られた。
米大手映画データベースサイト"IMDb"が「わたしたちが好きな2017年ベストポスター」と題し、アメリカで公開・公開予定の映画や、ドラマの印象に残るポスター110選を公表。アジアを舞台にした劇映画の中で唯一、本作品のポスターが選ばれた。中にはDC作品の『ジャスティス・リーグ』やマーベルの『ブラックパンサー』、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』などは、それぞれのキャラクタービジュアルもランクインしていた。
週末興行成績は6位(4/29-4/30)→8位(5/6-5/7)→10位(5/13-5/14)→14位(5/20-5/21)→21位(5/27-5/28)→25位(6/3-6/4)を記録。
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『無限の住人』(むげんのじゅうにん)は、沙村広明による日本の漫画。1993年のアフタヌーン四季賞にて四季大賞を受賞した同名の読切作品が元となっており、『月刊アフタヌーン』(講談社)にて、1993年6月から2012年12月まで連載された。作者のデビュー作で、略称は「むげにん」。英題は『Blade of the Immortal』。 不老不死の肉体を持つ用心棒を中心とする時代劇ものの作品。江戸時代の日本を舞台としているが、奇抜な衣装を身にまとう人物や独創的な武器が多数登場する。1997年に第1回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞し、英語版が2000年にアイズナー賞最優秀国際作品部門を受賞している。2016年12月時点で累計発行部数は750万部を突破している。 スピンオフ作品として、沙村協力のもと、滝川廉治(原作)と陶延リュウ(作画)による『無限の住人〜幕末ノ章〜』が、『月刊アフタヌーン』にて2019年7月号より連載中。また、メディアミックスとして、2度のアニメ化や、舞台化、木村拓哉主演による実写映画化が行われている。
|
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{{Infobox animanga/Header
| タイトル = 無限の住人
| ジャンル = [[時代劇]]
}}
{{Infobox animanga/Manga
| 作者 = [[沙村広明]]
| 出版社 = [[講談社]]
| 掲載誌 = [[月刊アフタヌーン]]
| レーベル = [[アフタヌーンKC]]
| 開始号 = 1993年8月号
| 終了号 = 2013年2月号
| 開始日 = 1993年6月25日
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| 巻数 = 全30巻
}}
{{Infobox animanga/Manga
| タイトル = 無限の住人〜幕末ノ章〜
| 作者 = 滝川廉治
| 作画 = 陶延リュウ
| 出版社 = 講談社
| 掲載誌 = 月刊アフタヌーン
| レーベル = アフタヌーンKC
| 開始号 = 2019年7月号
| 終了号 =
| 開始日 = 2019年5月25日
| 終了日 =
| 巻数 = 既刊9巻(2023年11月22日現在)
| その他 = 沙村広明(協力)
}}
{{Infobox animanga/TVAnime
| 監督 = [[真下耕一]]
| シリーズ構成 = [[川崎ヒロユキ]]
| 脚本 = 川崎ヒロユキ、[[金巻兼一]]
| キャラクターデザイン = [[山下喜光]]
| 音楽 = [[大谷幸]]
| アニメーション制作 = [[ビィートレイン]]
| 製作 = 浅野道場復興会
| 放送局 = [[#放送局|放送局]]を参照
| 放送開始 = 2008年7月13日
| 放送終了 = 12月28日
| 話数 = 全13話
}}
{{Infobox animanga/TVAnime
| タイトル = 無限の住人-IMMORTAL-
| 原作 = 沙村広明
| 監督 = [[浜崎博嗣]]
| シリーズ構成 = [[深見真]]
| キャラクターデザイン = 小木曽伸吾
| 音楽 = [[石橋英子]]
| アニメーション制作 = [[ライデンフィルム]]
| 製作 =
| 放送局 = [[Amazon Prime Video]]
| 放送開始 = 2019年10月10日
| 放送終了 = 2020年3月26日
| 話数 = 全24話
| インターネット = 1
}}
{{Infobox animanga/Movie
| 原作 = 沙村広明
| 監督 = [[三池崇史]]
| 脚本 = [[大石哲也]]
| 音楽 = [[遠藤浩二]]
| 制作 = [[オー・エル・エム|OLM]]
| 製作 = 映画「無限の住人」製作委員会
| 配給 = [[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース映画]]
| 封切日 = 2017年4月29日
| 上映時間 = 141分
}}
{{Infobox animanga/Footer
| ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]・[[プロジェクト:映画|映画]]
| ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]]・[[Portal:映画|映画]]
}}
『'''無限の住人'''』(むげんのじゅうにん)は、[[沙村広明]]による[[日本]]の[[漫画]]。1993年の[[アフタヌーン四季賞]]にて四季大賞を受賞した同名の読切作品が元となっており{{Efn2|同作は単行本第1巻に「序幕」として収録されている。}}、『[[月刊アフタヌーン]]』(講談社)にて、1993年6月から2012年12月まで連載された。作者のデビュー作で、略称は「むげにん」<ref>{{Cite news |url=https://news.mynavi.jp/article/20170425-a137/ |title=「謎の彼女X」の植芝理一、次号アフタヌーンで約2年半ぶりに連載開始 |work=コミックナタリー |date=2017-04-25 |accessdate=2021-06-29}}</ref>。英題は『'''Blade of the Immortal'''』。
不老不死の肉体を持つ用心棒を中心とする[[時代劇]]ものの作品。[[江戸時代]]の日本を舞台としているが、奇抜な衣装を身にまとう人物や独創的な武器が多数登場する。1997年に第1回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞を受賞し、英語版が2000年に[[アイズナー賞]]最優秀国際作品部門を受賞している。2016年12月時点で累計発行部数は750万部を突破している<ref>{{Cite news |url=https://www.oricon.co.jp/news/2083357/ |title=【無限の住人】木村拓哉、三池崇史監督が「不安要素を払拭してくれた」 |work=オリコンニュース |date=2016-12-21 |accessdate=2021-06-29}}</ref>。
スピンオフ作品として、沙村協力のもと、滝川廉治(原作)と陶延リュウ(作画)による『'''無限の住人〜幕末ノ章〜'''』(むげんのじゅうにん ばくまつのしょう)が、『月刊アフタヌーン』にて2019年7月号より連載中。また、メディアミックスとして、2度のアニメ化や、舞台化<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroq.com/archives/53/|title=第32回公演 舞台版「無限の住人」|work=ヘロQアーカイブス|publisher=劇団ヘロヘロQカムパニー|date=2016-02|accessdate=2020-06-08}}</ref>、[[木村拓哉]]主演による実写映画化が行われている{{R|daily20151005|mynavi20151005}}。
== あらすじ ==
{{不十分なあらすじ|date=2015年12月}}
ストーリーの詳細は[[無限の住人の登場人物]]のそれぞれの項目を参照。
剣客集団・逸刀流(いっとうりゅう)に両親を殺され、実家の剣術道場を潰された少女・浅野凜(あさの りん)は仇討ちを遂げるため、不老不死の肉体を持つ男・万次(まんじ)に用心棒を依頼する。依頼を受けた万次は、凜と共に逸刀流との戦いに身を投じることになる。
当初、凛と万次は浅野道場を襲い両親を殺害した逸刀流の者たち(すなわち直接の仇敵)や天津影久を殺害し、逸刀流を潰すことを目的としていた。
しかし逸刀流や、それを潰そうとする無骸流、幕府の刺客などと斬り合い、時に親交をむすぶ中で「天津影久を殺して逸刀流を潰せば個人的な復讐は果たせるが、はたしてそれでいいのか?」と思い悩むようになる。
== 登場人物 ==
{{Main|無限の住人の登場人物}}
== 用語 ==
※参考文献:実写映画版パンフレット(2017年)
; {{読み仮名|逸刀流|いっとうりゅう}}
: 約50年前に天津三郎によって興された新たな流派。「勝つことが剣の道」であるという口上の下、二代目当主となった天津影久によってあらゆる流派の垣根を取り払い統一するため、江戸中の道場を回り、決闘を申し込んでいる。
; {{読み仮名|無天一流|むてんいちりゅう}}
: 浅野道場が代々受け継いだ流派。「剣は礼節を持って技とす」という口上の下、南蛮の刀剣や二振りの刀を構えることは禁じられている。
; {{読み仮名|心形唐流|しんぎょうとうりゅう}}
: 伊羽軒秋が数十年前に興した流派。現在は、伊羽研水が二代目を継承しており、高尾山の山奥にある伊羽指南所と呼ばれる道場を拠点としている。
; {{読み仮名|無骸流|むがいりゅう}}
: 吐鉤群によって作られた逸刀流剣士の首を狙う流派。流派を語っているが、その実態は構成員全員が死罪人である師範や道場を持たない公儀に反抗する分子を抹殺するための地下組織となっている。
; {{読み仮名|血仙蟲|けっせんちゅう}}
: ラマ僧によって生み出された究極の延命術。体内に巣食う「蟲」が破壊した体組織の代行となり、傷口を止血して瞬時に結合・再生するため、宿主は不死身となる。通常であれば脳や心臓を急所とするが、不死身となったことでその意味を失くし、その切断された部位を切断面同士を合わせることで瞬時に接合・修復される。
; {{読み仮名|血仙殺|けっせんさつ}}
: 血仙蟲の効力を失くす毒薬。宿主がこれを摂すると蟲の死結を分解させ、傷口を新しいものから順に開かせ、最悪の場合、死に至る。
== 書誌情報 ==
=== 単行本 ===
* 沙村広明 『無限の住人』 講談社〈アフタヌーンKC〉、全30巻
*# 1994年9月19日発売、{{ISBN2|4-06-314090-3}}
*# 1994年12月15日発売、{{ISBN2|4-06-314101-2}}
*# 1995年4月17日発売、{{ISBN2|4-06-314109-8}}
*# 1995年10月18日発売、{{ISBN2|4-06-314119-5}}
*# 1996年8月20日発売、{{ISBN2|4-06-314137-3}}
*# 1997年6月19日発売、{{ISBN2|4-06-314151-9}}
*# 1997年10月16日発売、{{ISBN2|4-06-314165-9}}
*# 1998年7月17日発売、{{ISBN2|4-06-314183-7}}
*# 1999年6月18日発売、{{ISBN2|4-06-314210-8}}
*# 2000年4月17日発売、{{ISBN2|4-06-314238-8}}
*# 2001年1月19日発売、{{ISBN2|4-06-314259-0}}
*# 2002年2月19日発売、{{ISBN2|4-06-314268-X}}
*# 2002年11月20日発売、{{ISBN2|4-06-314306-6}}
*# 2003年7月17日発売、{{ISBN2|4-06-314326-0}}
*# 2004年1月23日発売、{{ISBN2|4-06-314337-6}}
*# 2004年5月21日発売、{{ISBN2|4-06-314348-1}}
*# 2004年11月22日発売、{{ISBN2|4-06-314363-5}}
*# 2005年6月23日発売、{{ISBN2|4-06-314380-5}}
*# 2006年4月21日発売、{{ISBN2|4-06-314409-7}}
*# 2006年10月23日発売、{{ISBN2|4-06-314430-5}}
*# 2007年6月22日発売、{{ISBN2|978-4-06-314455-0}}
*# 2007年12月21日発売、{{ISBN2|978-4-06-314480-2}}
*# 2008年6月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-314509-0}}
*# 2009年2月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-314548-9}}
*# 2009年9月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-314591-5}}
*# 2010年5月21日発売、{{ISBN2|978-4-06-310654-1}}
*# 2011年1月21日発売、{{ISBN2|978-4-06-310722-7}}
*# 2011年10月21日発売、{{ISBN2|978-4-06-310775-3}}
*# 2012年5月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-387818-9}}
*# 2013年2月22日発売、{{ISBN2|978-4-06-387869-1}}
* 滝川廉治(原作) / 陶延リュウ(作画) / 沙村広明(協力) 『無限の住人〜幕末ノ章〜』 講談社〈アフタヌーンKC〉、既刊9巻(2023年11月22日現在)
*# 2019年10月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000324927|title=無限の住人〜幕末ノ章〜 (1)|publisher=講談社|accessdate=2023-04-22}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/352549|title=「無限の住人」スピンオフ1巻、万次が坂本龍馬の用心棒として新選組と対峙|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2019-10-23|accessdate=2023-04-22}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-517178-3}}
*# 2020年4月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000339380|title=無限の住人〜幕末ノ章〜 (2)|publisher=講談社|accessdate=2023-04-22}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-519085-2}}
*# 2020年10月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000345157|title=無限の住人〜幕末ノ章〜 (3)|publisher=講談社|accessdate=2023-04-22}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/401871|title=「波よ聞いてくれ」&「無限の住人」続編、2冊購入者に沙村広明サイン入り原画|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-10-23|accessdate=2023-04-22}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-521106-9}}
*# 2021年4月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000350741|title=無限の住人〜幕末ノ章〜 (4)|publisher=講談社|accessdate=2023-04-22}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-522910-1}}
*# 2021年10月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000356260|title=無限の住人〜幕末ノ章〜 (5)|publisher=講談社|accessdate=2023-04-22}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-525163-8}}
*# 2022年4月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000363584|title=無限の住人〜幕末ノ章〜 (6)|publisher=講談社|accessdate=2023-04-22}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-527420-0}}
*# 2022年10月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000369876|title=無限の住人〜幕末ノ章〜 (7)|publisher=講談社|accessdate=2023-04-22}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-529471-0}}
*# 2023年4月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000375553|title=無限の住人〜幕末ノ章〜 (8)|publisher=講談社|accessdate=2023-04-22}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-531371-8}}
*# 2023年11月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000382265|title=無限の住人〜幕末ノ章〜 (9)|publisher=講談社|accessdate=2023-11-22}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-533535-2}}
=== 新装版 ===
* 沙村広明 『新装版 無限の住人』 講談社〈KCデラックス〉、全15巻
*# 2016年8月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-388177-6}}
*# 2016年8月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-388178-3}}
*# 2016年8月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-388179-0}}
*# 2016年9月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-393031-3}}
*# 2016年9月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-393032-0}}
*# 2016年10月21日発売、{{ISBN2|978-4-06-393057-3}}
*# 2016年10月21日発売、{{ISBN2|978-4-06-393058-0}}
*# 2016年11月22日発売、{{ISBN2|978-4-06-393079-5}}
*# 2016年11月22日発売、{{ISBN2|978-4-06-393080-1}}
*# 2016年12月22日発売、{{ISBN2|978-4-06-393107-5}}
*# 2016年12月22日発売、{{ISBN2|978-4-06-393108-2}}
*# 2017年1月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-393119-8}}
*# 2017年1月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-393120-4}}
*# 2017年2月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-393151-8}}
*# 2017年2月23日発売、{{ISBN2|978-4-06-393152-5}}
=== 廉価版 ===
* 沙村広明 『新装版 無限の住人』 講談社〈講談社プラチナコミックス〉、全4巻
*# 「不死身の用心棒編」2017年4月26日発売、{{ISBN2|978-4-06-386163-1}}
*# 「宿敵乱舞編」2017年5月10日発売、{{ISBN2|978-4-06-386166-2}}
*# 「流離の関所越え編」2017年5月17日発売、{{ISBN2|978-4-06-386167-9}}
*# 「血染めの徒花編」2017年5月24日発売、{{ISBN2|978-4-06-386168-6}}
=== 小説 ===
* 沙村広明(原作) / 大迫純一(著) 『無限の住人 刃獣異聞』 講談社〈KCノベルス〉、2008年7月18日初版発行、{{ISBN2|978-4-06-373323-5}}
** 文庫版{{Efn2|出版社は講談社、レーベルは講談社ラノベ文庫。また、文庫版では沙村広明の担当が「原作・イラスト」と表記されている。}}(2013年2月21日発売)、{{ISBN2|978-4-06-375283-0}}
=== 関連書籍 ===
* 『無限の住人ポストカ-ド・ブック』1996年3月28日発売、{{ISBN2|4-06-330009-9}}
* 『艶浪 「無限の住人」画集』2008年6月21日発売、{{ISBN2|978-4-06-364723-5}}
* 『TV ANIMATION 無限の住人 BLADE OF THE IMMORTAL 公式読本』2008年11月21日発売、{{ISBN2|978-4-06-375580-0}}
== アニメ ==
=== テレビアニメ ===
[[アニメシアターX|AT-X]]開局10周年記念作品・アフタヌーン創刊20周年記念作品として、2008年7月13日より、AT-Xにて放送された。また、2009年3月5日からは[[テレビ埼玉|テレ玉]]『[[アニたま]]』枠にて放送された。ストーリーの時系列に一部変更がある。原作者の沙村が、第10話にて脇役の声優を務めた。
放映時には暴力的・性的な描写を含むことを注意喚起するテロップが挿入され、過激な描写(おもに死体や斬り取られた身体の一部のアップ)には黒い影状の修正が入れられた。
==== キャスト ====
* 万次 - [[関智一]]<ref name="月刊ニュータイプ2008/7">『月刊ニュータイプ 2008年7月号』角川書店、2008年7月1日、52頁、{{Asin|B001AIM50O}}</ref>
* 浅野凜 - [[佐藤利奈]]{{R|月刊ニュータイプ2008/7}}
* 町 - [[坂本真綾]]{{R|月刊ニュータイプ2008/7}}
* 天津影久 - [[野島裕史]]{{R|月刊ニュータイプ2008/7}}
** 天津影久(少年時代) - [[根本圭子]]
* 黒衣鯖人 - [[江原正士]]{{R|月刊ニュータイプ2008/7}}
* 凶戴斗 - [[中井和哉]]{{R|月刊ニュータイプ2008/7}}
* 閑馬永空 - [[小西克幸]]
* 乙橘槇絵 - [[能登麻美子]]
* 天津三郎 - [[大川透]]
* 川上新夜 - [[浪川大輔]]
* 尸良 - [[三木眞一郎]]
* 百琳 - [[豊口めぐみ]]
* 偽一 - [[森川智之]]
* 真理路 - [[内田夕夜]]
* 真琴 - [[羽多野渉]]
* 吐鉤群 - [[菅生隆之]]
* 宗理 - [[関俊彦]]
* 恋 - [[千葉紗子]]
* 八百比丘尼 - [[京田尚子]]
** 偽八百比丘尼 - [[巴菁子]]
==== スタッフ ====
* 監督 - [[真下耕一]]{{R|月刊ニュータイプ2008/7}}
* シリーズ構成 - [[川崎ヒロユキ]]{{R|月刊ニュータイプ2008/7}}
* キャラクターデザイン - [[山下喜光]]{{R|月刊ニュータイプ2008/7}}
* 得物デザイン - 肥塚正史
* 色彩設計 - 小島真喜子
* 特殊効果 - 加茂あゆみ
* 美術監督 - 海野よしみ
* 撮影監督 - 五十嵐慎一、斎藤仁
* 音響監督 - [[なかのとおる]]
* 音楽 - [[大谷幸]]
* エグゼクティブプロデューサー - 針生雅行、関澤新二、石川みちる
* プロデューサー - 松下卓也、[[木下哲哉]]、森下勝司、山田昇
* アニメーションプロデューサー - 村岡秀昭、丸亮二、清水孝泰、田中憲一朗
* アニメーション制作協力 - [[プロダクション・アイジー|Production I.G]]
* アニメーション制作 - [[ビィートレイン]]{{R|月刊ニュータイプ2008/7}}
* 製作 - 浅野道場復興会
==== 主題歌 ====
; オープニングテーマ「赤いウサギ」
: 作詞 - [[川島愛華|愛華]] / 作曲 - 大谷幸 / 歌 - 枕草子
; エンディングテーマ「[[CORE/wants|wants]]」
: 作詞 - 田中和将 / 作曲 - 亀井亨 / 編曲 - 長田進&GRAPEVINE / 歌 - [[GRAPEVINE]]
==== 各話リスト ====
{| class="wikitable"
|-
!話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督
|-
|第1話||罪人||rowspan="9"|[[川崎ヒロユキ]]||[[真下耕一]]||黒川智之||[[山下喜光]]
|-
|第2話||征服||colspan="2" style="text-align:center"|[[澤井幸次]]||天崎まなむ
|-
|第3話||恋詠||colspan="2" style="text-align:center"|有江勇樹||天崎まなむ<br />門智昭
|-
|第4話||天才||colspan="2" style="text-align:center"|モリヲカヒロシ||津幡佳明
|-
|第5話||執人||colspan="2" style="text-align:center"|黒川智之||[[佐々木睦美]]
|-
|第6話||蟲の唄||colspan="2" style="text-align:center"|有江勇樹||天崎まなむ
|-
|第7話||三途||colspan="2" style="text-align:center"|澤井幸次||山下喜光
|-
|第8話||爪弾||colspan="2" style="text-align:center"|モリヲカヒロシ||落合瞳
|-
|第9話||夢弾||colspan="2" style="text-align:center"|黒川智之||津幡佳明
|-
|第10話||變面||rowspan="2"|[[金巻兼一]]||澤井幸次<br />有江勇樹||澤井幸次||佐々木睦美
|-
|第11話||羽根||colspan="2" style="text-align:center"|澤井幸次||天崎まなむ
|-
|第12話||斜凜||rowspan="2"|川崎ヒロユキ||colspan="2" style="text-align:center"|モリヲカヒロシ||落合瞳
|-
|第13話||風||澤井幸次||黒川智之||山下喜光
|}
==== 放送局 ====
{{放送期間
| 放送期間 | 放送時間 | 放送局 | 対象地域 | 備考
| 2008年7月13日 - 12月29日 | 隔週月曜 0:00 - 0:30(隔週日曜深夜) | [[アニメシアターX|AT-X]] | 日本全域 | [[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CS放送]] / 字幕放送 / リピート放送あり
| 2009年3月6日 - 5月29日 |金曜 0:30 - 1:00(木曜深夜)|[[テレビ埼玉|テレ玉]]|[[埼玉県]]|『[[アニたま]]』枠
| 2017年4月12日 - 5月24日 | 水曜 1:00 - 2:00(火曜深夜)<br />水曜 1:00 - 1:30(火曜深夜、第13話のみ) | [[時代劇専門チャンネル]] | 日本全域 | [[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CS放送]] / 第12話までは2話連続放送
}}
{{放送期間|media=インターネット
| 配信期間 | 配信時間 | 配信サイト |
| 2008年7月27日 - 2009年1月11日 | 日曜 12:00 更新 | [[GYAO!]]
}}
=== Webアニメ ===
『'''無限の住人-IMMORTAL-'''』(むげんのじゅうにん イモータル)のタイトルで、2019年10月10日より[[Amazon Prime Video]]にて配信<ref name="natalie190808">{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/342953|title=「無限の住人」万次役は津田健次郎、凜役は佐倉綾音!10月よりアマプラ独占配信|date=2019-08-08|accessdate=2019-08-08}}</ref>。翌年2020年4月8日から9月16日まで[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]と[[毎日放送]]にて放送された<ref name="natalie200225">{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/368570|title=アニメ「無限の住人」TV放送決定、TOKYO MX・MBSで4月7日よりオンエア|date=2020-02-25|accessdate=2020-02-25}}</ref>。
==== キャスト(Webアニメ) ====
* 万次 - [[津田健次郎]]{{R|natalie190808}}
* 浅野凜 - [[佐倉綾音]]{{R|natalie190808}}
* 天津影久 - [[佐々木望]]<ref name="natalie190911">{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/347156|title=アニメ「無限の住人」万次、凜、天津影久が登場する第2弾PV公開、OPは清春|date=2019-09-11|accessdate=2019-09-11}}</ref>
** 天津影久(少年時代) - [[梶裕貴]]
* 凶戴人 - [[鈴木達央]]{{R|natalie190911}}
* 黒衣鯖人 - [[花輪英司]]{{R|natalie190911}}
* 閑馬永空 - [[咲野俊介]]{{R|natalie190911}}
* 乙橘槇絵 - [[桑島法子]]{{R|natalie190911}}
* 阿葉山宗介 - [[ふくまつ進紗]]{{R|natalie190911}}
* 天津三郎 - [[秋元羊介]]<ref name="natalie190913">{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/347574|title=アニメ「無限の住人」秋元羊介、中田譲治、関智一ら追加キャスト9名一挙解禁|date=2019-09-13|accessdate=2019-09-14}}</ref>
* 川上新夜 - [[小原雅人]]{{R|natalie190913}}
* 尸良 - [[奈良徹]]{{R|natalie190913}}
* 百琳 - [[林真里花]]{{R|natalie190913}}
* 偽一 - [[白熊寛嗣]]{{R|natalie190913}}
* 真理路 - [[小林親弘]]{{R|natalie190913}}
* 真琴 - [[梅田修一朗]]
* 吐鉤群 - [[中田譲治]]{{R|natalie190913}}
* 宗理 - 関智一{{R|natalie190913}}
* 恋 - [[白石涼子]]
* 八百比丘尼 - [[真山亜子]]{{R|natalie190913}}
** 偽八百比丘尼 - [[伊沢磨紀]]
==== スタッフ(Webアニメ) ====
* 原作 - 沙村広明{{R|natalie190808}}
* 監督 - [[浜崎博嗣]]{{R|natalie190808}}
* シリーズ構成 - [[深見真]]{{R|natalie190808}}
* キャラクターデザイン - 小木曽伸吾{{R|natalie190808}}
* 美術監督 - 工藤ただし{{R|natalie190808}}
* 色彩設定 - 篠原愛子{{R|natalie190808}}
* 撮影監督 - 増元由紀大{{R|natalie190808}}
* 3DCGディレクター - 市川孝次{{R|natalie190808}}
* 編集 - 長谷川舞{{R|natalie190808}}
* 音響監督 - [[清水洋史]]{{R|natalie190808}}
* 音響効果 - 武藤晶子{{R|natalie190808}}
* 音楽 - [[石橋英子]]{{R|natalie190808}}
* 音楽プロデューサー - 堀切伸二
* プロデューサー - 椿本康雄、北本森生、青井宏之、麻生一宏
* アニメーション制作 - [[ライデンフィルム]]{{R|natalie190808}}
* 製作 - 『無限の住人 -IMMORTAL-』製作委員会
==== 主題歌(Webアニメ) ====
; 第1クール オープニングテーマ「SURVIVE OF VISION」{{R|natalie190911}}
: 作詞・作曲・歌 - [[清春]] / 編曲 - 三代堅、清春
; 第2クール オープニングテーマ「無限の住人 武闘編」<ref>{{Cite web|和書|url=https://mugen-immortal.com/news/199/ |title=TVアニメ「無限の住人-IMMORTAL-」第2クール主題歌は人間椅子が担当! |date=2020-7-1 |publisher=[https://mugen-immortal.com/ 『無限の住人-IMMORTAL-』公式サイト] |accessdate=2020-9-19}}</ref>
: 作詞・作曲 - [[和嶋慎治]] / 歌・編曲 - [[人間椅子 (バンド)|人間椅子]]
==== 各話リスト(Webアニメ) ====
{{エピソードリスト/base/header
| LineColor = #000000
| Number= 話数
| Title = サブタイトル
| Aux0 = 脚本
| Aux1 = 絵コンテ
| Aux2 = 演出
| Aux3 = 作画監督
| Aux4 = {{nobr|総作画監督}}
| Aux5 = 配信日
| TableStyle = font-size:small
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第一幕
| Title = 遭逢─そうほう─
| Aux0 = [[深見真]] | Aux0RowSpan = 3
| Aux1 = [[浜崎博嗣]]
| Aux2 = 駒田由貴
| Aux3 = 小木曽伸吾
| Aux4 = 小木曽伸吾 | Aux4RowSpan = 3
| Aux5 = '''2019年'''<br />{{nobr|10月10日}} | Aux5RowSpan = 2
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第二幕
| Title = 開闢─かいびゃく─
| Aux1 = 中野涼子 | Aux1ColSpan = 2
| Aux3 = {{hlist-comma|[[箕輪豊]]|伊藤大翼}}
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第三幕
| Title = 夢弾─ゆめびき─
| Aux1 = 浜崎博嗣
| Aux2 = 川久保主史
| Aux3 = {{hlist-comma|渡邊和夫|北原広大|依田正彦|鈴木奈都子}}
| Aux5 = 10月17日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第四幕
| Title = 斜凜─しゃりん─
| Aux0 = {{nobr|ケンゼン}}
| Aux1 = 二宮壮史
| Aux2 = {{hlist-comma|村山靖|小野田雄亮}}
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| Aux4 = -
| Aux5 = 10月24日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第五幕
| Title = 蟲の唄─むしのうた─
| Aux0 = 深見真
| Aux1 = [[川尻善昭]]
| Aux2 = 山内愛弥
| Aux3 = {{nobr|なまためやすひろ}}
| Aux4 = 箕輪豊
| Aux5 = 10月31日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第六幕
| Title = 羽根─はね─
| Aux0 = ケンゼン
| Aux1 = [[福田道生]]
| Aux2 = 藤代和也
| Aux3 = {{hlist-comma|清水勝祐|森悦史|鎌田均}}
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{{エピソードリスト/base
| Number = 第七幕
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| Aux0 = 深見真
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| Aux5 = 11月14日
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{{エピソードリスト/base
| Number = 第八幕
| Title = 無骸流─むがいりゅう─
| Aux0 = ケンゼン
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{{エピソードリスト/base
| Number = 第九幕
| Title = 群─むら─
| Aux0 = 深見真
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{{エピソードリスト/base
| Number = 第十幕
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| Aux0 = ケンゼン
| Aux1 = [[福田己津央]]
| Aux2 = 川久保主史
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| Aux5 = 12月5日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第十一幕
| Title = 秋霜─しゅうそう─
| Aux0 = 深見真 | Aux0RowSpan = 3
| Aux1 = 山内愛弥 | Aux1ColSpan = 2
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| Aux5 = 12月12日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第十二幕
| Title = 終血─しゅうけつ─
| Aux1 = [[宮尾佳和]]
| Aux2 = {{hlist-comma|石井輝|水本葉月}}
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| Aux4 = 依田正彦
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}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第十三幕
| Title = 誰そ彼─たそかれ─
| Aux1 = 吉岡忍
| Aux2 = 石井輝
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| Aux4 = 北原広大
| Aux5 = 12月26日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第十四幕
| Title = 改起─かいき─
| Aux0 = ケンゼン | Aux0RowSpan = 4
| Aux1 = 尾﨑隆晴
| Aux2 = 久保山英一
| Aux3 = {{hlist-comma|中智あすか|奥野倫史|鎌田均|清水勝祐}}
| Aux4 = -
| Aux5 = '''2020年'''<br />1月2日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第十五幕
| Title = 臓承─ぞうしょう─
| Aux1 = 宮尾佳和
| Aux2 = 藤代和也
| Aux3 = {{hlist-comma|沼田広|鈴木奈都子|黒鳥剣|緒方厚}}
| Aux4 = {{hlist-comma|渡邊和夫|なまためやすひろ}}
| Aux5 = 1月16日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第十六幕
| Title = 肢転─してん─
| Aux1 = [[森邦宏]]
| Aux2 = {{hlist-comma|森邦宏|石井輝}}
| Aux3 = {{hlist-comma|岡田正和|前原薫|門智昭|増田俊介|北原広大|小澤円|山口光紀|加野晃|鎌田均|黒鳥剣|南伸一郎|古瀬登|吉田伊久雄|中井恵巳}}
| Aux4 = {{hlist-comma|北原広大|なまためやすひろ|奥野倫史}}
| Aux5 = 1月23日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第十七幕
| Title = 儀結─ぎけつ─
| Aux1 = 山内愛弥 | Aux1ColSpan = 2
| Aux3 = {{hlist-comma|なまためやすひろ|鵜池一馬|中岡響香|依田正彦|黒鳥剣|門智昭|青野厚司|清水勝祐}}
| Aux4 = {{hlist-comma|なまためやすひろ|北原広大}}
| Aux5 = 1月30日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第十八幕
| Title = 鬼哭─きこく─
| Aux0 = 深見真 | Aux0RowSpan = 2
| Aux1 = 駒田由貴
| Aux2 = 北村淳一
| Aux3 = {{hlist-comma|やまだまや|山村俊了|小澤円|前原薫|岡田正和|後藤孝宏|山口光紀|栗原基彦|山本真理子}}
| Aux4 = {{hlist-comma|中智あすか|奥野倫史}}
| Aux5 = 2月6日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第十九幕
| Title = 鏖─みなごろし─
| Aux1 = 大石美絵 | Aux1ColSpan = 2
| Aux3 = {{hlist-comma|なまためやすひろ|北原広大|緒方厚|南伸一郎|古瀬登|鎌田均}}
| Aux4 = {{hlist-comma|なまためやすひろ|北原広大}}
| Aux5 = 2月13日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第二十幕
| Title = 霏々─ひひ─
| Aux0 = ケンゼン | Aux0RowSpan = 2
| Aux1 = 金井次朗
| Aux2 = {{hlist-comma|髙田美里|武市直子}}
| Aux3 = {{hlist-comma|清水勝祐|星野真澄|岡田正和|黒鳥剣|小澤円|山口光紀|前田義宏|前原薫|西川雅史|青野厚司|後藤孝宏|中井恵巳|緒方厚|門智昭|石川慎亮|吉田伊久雄}}
| Aux4 = {{hlist-comma|中智あすか|奥野倫史}}
| Aux5 = 2月27日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = {{nobr|第二十一幕}}
| Title = 陥穽─かんせい─
| Aux1 = 中野涼子 | Aux1ColSpan = 2
| Aux3 = {{hlist-comma|やまだまや|中野涼子|古瀬登|山口光紀|中岡響香|南伸一郎|阿部安佳里|佐藤愛架}}
| Aux4 = {{hlist-comma|渡邊和夫|北原広大|なまためやすひろ}}
| Aux5 = 3月5日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第二十二幕
| Title = 十掉尾─じゅっとうび─
| Aux0 = 深見真
| Aux1 = {{hlist-comma|宮尾佳和|駒田由貴}}
| Aux2 = {{hlist-comma|藤代和也|石井輝}}
| Aux3 = {{hlist-comma|鎌田均|岡田正和|小澤円|星野真澄|黒鳥剣|青野厚司|山村俊了|山口光紀|前原薫|吉岡勝|清水勝祐|雨宮英雄|佐野陽子|後藤孝宏|栗原基彦|西川雅史|南伸一郎|西道拓哉|池田志乃|古瀬登|吉田伊久雄}}
| Aux4 = {{hlist-comma|奥野倫史|北原広大|なまためやすひろ}}
| Aux5 = 3月12日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第二十三幕
| Title = {{nobr|焉舞百景─えんぶひゃっけい─}}
| Aux0 = ケンゼン
| Aux1 = 坂本一也
| Aux2 = {{hlist-comma|山内愛弥|[[山崎立士]]}}
| Aux3 = {{hlist-comma|池田志乃|古瀬登|鵜池一馬|岡田正和|黒鳥剣|山口光紀|清水勝祐|吉岡勝|鎌田均|小澤円|南伸一郎|青野厚司|門智昭|山村俊了|後藤孝宏}}
| Aux4 = {{hlist-comma|箕輪豊|中智あすか|北原広大|なまためやすひろ|奥野倫史}}
| Aux5 = 3月19日
}}
{{エピソードリスト/base
| Number = 第二十四幕
| Title = 無限の住人
| Aux0 = 深見真
| Aux1 = {{hlist-comma|駒田由貴|中野涼子}}
| Aux2 = 駒田由貴
| Aux3 = {{hlist-comma|やまだまや|中野涼子|鵜池一馬|清水勝祐|前田義宏|吉岡勝|佐野陽子|伊藤大翼|前原薫|山口光紀|門智昭|藤井望|内藤伊之介|新妻大輔}}
| Aux4 = {{hlist-comma|箕輪豊|田澤潮|渡邊和夫|北原広大|中智あすか|奥野倫史|なまためやすひろ}}
| Aux5 = 3月26日
}}
{{エピソードリスト/base/footer}}
==== 放送局(Webアニメ) ====
{{放送期間
| 放送期間 | 放送時間 | 放送局 | 対象地域 | 備考
| 2020年4月8日 - 9月16日 | 水曜 1:35 - 2:05(火曜深夜) | [[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]] | [[東京都]] |
| | 水曜 3:30 - 4:00(火曜深夜) | [[毎日放送]] | [[広域放送|近畿広域圏]] | '''製作参加''' / 『[[アニメ特区]]』第3部
}}
== 舞台 ==
2016年2月11日から2月17日に[[劇団ヘロヘロQカムパニー]]により[[スペース・ゼロ|全労済ホール/スペースゼロ]]にて初演が公演された<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroq.com/archives/53/|title=歴代公演:舞台版 無限の住人 | 劇団ヘロヘロQカムパニー|publisher=劇団ヘロヘロQカムパニー|accessdate=2021-04-29}}</ref>。
2018年5月13日から5月22日に劇団ヘロヘロQカムパニーにより全労済ホール/スペースゼロにて『'''無限の住人 完結編'''』が公演された<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroq.com/archives/57/|title=歴代公演:舞台版 無限の住人~完結編~ | 劇団ヘロヘロQカムパニー|publisher=劇団ヘロヘロQカムパニー|accessdate=2021-04-29}}</ref>。
=== キャスト(舞台・2016年) ===
役名のある兼務は記載するが、アンサンブルの兼務は割愛する。
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{{col-2}}
* 万次 - 関智一
* 浅野凛 - [[福圓美里]]<ref name="heroq">{{Twitter status2|1Heroq|640710246835490816|2015年9月7日|accessdate=2021-04-29}}</ref>(子供時代 - [[田中栞 (子役)|田中栞]])
* 天津影久 - 浪川大輔{{R|heroq}}
* 乙橘槇絵 - [[長沢美樹]]<ref>{{Twitter status2|1Heroq|678225111724376064|2015年12月19日|accessdate=2021-04-29}}</ref>(子供時代 - [[湯田桜花]])
* 凶戴斗 - [[沖野晃司]]<ref>{{Twitter status2|1Heroq|678227152634970112|2015年12月19日|accessdate=2021-04-29}}</ref>
* 川上新夜 - [[湯田昌次]]
* 黒衣鯖人 - [[田中精]]
* 閑馬永空 - [[井上晋吾]]
* 糸伊 - [[三原一太]]
* 八角蔦五 - [[粟津貴嗣]]
* 隅乃軒栄 - [[近藤浩徳]]
* 火瓦 - [[森山光治良]]
* 珠崎 - [[中谷大介]]
* 鬼抜 - 近藤浩徳
* 吐鉤群 - [[中尾隆聖]]<ref>{{Twitter status2|1Heroq|682546904417177600|2015年12月31日|accessdate=2021-04-29}}</ref>
* 百琳 - [[那珂村たかこ]]<ref>{{Twitter status2|1Heroq|679671646978838528|2015年12月23日|accessdate=2021-04-29}}</ref>
* 偽一 - [[大高雄一郎]]<ref>{{Twitter status2|1Heroq|679671022186934272|2015年12月23日|accessdate=2021-04-29}}</ref>
* 尸良 - [[島田朋尚]]
* 真理路 - [[大谷秀一郎]]<ref>{{Twitter status2|shuuichiroo|698155142537818113|2016年2月12日|accessdate=2021-04-29}}</ref>
* 真琴 - [[大石達也 (声優)|大石達也]]
* 八百比丘尼 - [[大場達也 (俳優)|大場達也]]{{R|heroq}}
* 浅野虎厳 - 三原一太
{{col-2}}
* 伊羽研水 - [[中博史]]
* 伊羽密花 - 白石涼子<ref>{{Twitter status2|RyokoShiraishi_|698340338893586432|2016年2月13日|accessdate=2021-04-29}}</ref> / [[加藤杏奈]]<ref>{{Twitter status2|kato_anna05|700180769755385856|2016年2月18日|accessdate=2021-04-29}}</ref>(Wキャスト)<ref>{{Twitter status2|RyokoShiraishi_|697943776363327489|2016年2月12日|accessdate=2021-04-29}}</ref>
* 虎杖 - [[置鮎龍太郎]] / 湯田昌次(Wキャスト)<ref>{{Twitter status2|1Heroq|681102087975911424|2015年12月27日|accessdate=2021-04-29}}</ref>
* 入谷 - [[木村昴]] / [[岩崎諒太]](Wキャスト)<ref>{{Twitter status2|1Heroq|681103296824655872|2015年12月27日|accessdate=2021-04-29}}</ref>
* 滝 - [[佐藤慎也]]
* 浅野時 - [[久保梨瑛]]
* 天津三郎(若い頃) - [[正野大輔]]
* 川上練造 - [[湯浅涼]]
* 恋 - [[杉崎聡美]]
* 葉矢 - [[椎名へきる]](友情出演)
* 静 - [[進藤初香]]
* 八重 - [[大村彩]]
* 茶屋の女 - [[相原美沙]]
* 巻百合 - [[飯田誠規]]
* 春川義明 - [[Velo武田]]
* 春川吹 - [[加藤美佐]]
* 賽河屋 - [[古屋貴士]]、[[小林慎之介]]
* 悪党 - [[山口真弥]]
* 旅人 - [[氏家穂那美]]、[[光部樹]]
* 女 - [[山口晏奈]]、[[櫻井殊]]
* 師(声の出演) - 小西克幸
{{col-end}}
=== キャスト(舞台・2018年) ===
役名のある兼務は記載するが、アンサンブルの兼務は割愛する。
{{col-begin}}
{{col-2}}
* 万次 - 関智一
* 浅野凜 - 福圓美里
* 天津影久 - 浪川大輔 / [[根本正勝]](Wキャスト)
* 乙橘槇絵 - 長沢美樹
* 吐鉤群 - 中尾隆聖
* 御岳 - 置鮎龍太郎
* 阿葉山宗介 - 中博史
* 凶戴斗 - 沖野晃司
* 馬絽祐実 - 小西克幸 / 湯田昌次(Wキャスト)
* 怖畔 - [[永徳 (俳優)|永徳]]
* 吉乃瞳阿 - [[中山ヤスカ]]
* 八苑狼夷作 - 木村昴
* 果心居士 - 近藤浩徳
* 亜門國光 - [[小玉雄大]]
* 品田 - 大石達也
* 川上新夜 - 湯田昌次
* 杣燎 - [[名塚佳織]]
* 荒篠獅子也 - [[稲田徹]]
* 弩馬心兵 - [[下川真矢]]
* 八宗足江進 - 田中精
* 伴殷六 - 小林慎之介
* 叢咲正造 - 光部樹
* 目黒 - [[人見早苗]]
* たんぽぽ - [[山本夢]]
* 黒衣鯖人 - 田中精
* 偽一 - [[大髙雄一郎]]
* 百琳 - 那珂村たかこ
{{col-2}}
* 尸良 - 島田朋尚
* 川上練造 - 正野大輔
* 綾目歩蘭人 - [[島﨑信長]]
* 虎右ェ門 - 岩崎諒太
* 出羽介 - 飯田誠規
* 英于彦 - 三原一太
* 恵那 - 久保梨瑛
* 三潴 - 杉崎聡美
* 菟田 - [[稲垣祐希絵]]
* 諫早 - [[井上舞香]]
* 浅野虎厳 - 三原一太
* 浅野時 - 久保梨瑛
* 吐志摩 - 加藤杏奈
* 吐索太郎 - [[藤本由布菜]]
* ナンダ郎 - 相原美沙
* 八百比丘尼 - 大場達也
* 蛇組 - [[田沼ジョージ]]、[[林宏樹]]、[[松田智晃]]、[[千代美幸]]、[[山口拓巳]]
* 鵺一号 - [[小笠原祐太]]
* 無法者 - [[堀田慶斗]]
* 町人 - 進藤初香、大村彩、櫻井殊、[[加藤絵里香]]、[[國井紫苑]]
* 番士 - [[辻原智也]]、[[遠藤達海]]、[[齋藤雄介]]、[[西畑証宣]]、[[明賀義嗣]]、[[三好拓朗]]、[[山本翔太]]、[[山本悠人]]
* 与力 - [[野崎利有次]]
* 医者 - [[谷口純進]]
* 罪人 - [[秋元涼太朗]]、[[星本一樹]]
* 浮浪児 - [[小賀野瑞樹]]
* 浮浪者 - [[西村晃一 (俳優)|西村晃一]]
{{col-end}}
=== スタッフ(舞台) ===
; 2016年
* 脚本 - [[島田朋尚]]
* 演出 - 関智一
* 脚本協力 - [[小野真一]]
* 音楽 - [[水谷広実]]、[[藤澤健至]]、[[アトミックモンキー]]制作部<ref>{{Cite news |title=無限の住人 公演詳細最新情報!!!|url=http://heroq.com/info/2016/01/post-48.html|publisher=劇団ヘロヘロQカムパニー|accessdate=2021-04-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160308233232/http://heroq.com/info/2016/01/post-48.html|archivedate=2016-01-16}}</ref>
; 2018年
* 脚本 - 島田朋尚、関智一
* 演出 - 関智一
* 音楽 - 水谷広実、アトミックモンキー制作部<ref>{{Cite news |title=【ヘロQ】無限の住人最新詳細情報発表!!|url=http://heroq.com/info/2018/05/q-7.html|publisher=劇団ヘロヘロQカムパニー|accessdate=2021-04-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180523005431/http://heroq.com/info/2018/05/q-7.html|archivedate=2018-05-23}}</ref>
=== 主題歌(舞台) ===
*「沙羅双樹‐SHARASOJU‐」(作・編曲 - [[杉浦"ラフィン"誠一郎]])<ref>{{Cite news |title=アトミックモンキー|2016年実績一覧|url=http://www.atomicmonkey.jp/jp/archives/works/2016%E5%B9%B4%E5%AE%9F%E7%B8%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7|publisher=アトミックモンキー |accessdate=2021-04-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190701000000*/http://www.atomicmonkey.jp/jp/archives/works/2016%E5%B9%B4%E5%AE%9F%E7%B8%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7|archivedate=2019-02-20}}</ref><ref>{{Twitter status2|ra_fin|990842582681899008|2018年4月30日|accessdate=2021-04-29}}</ref>
== 映画 ==
{{Infobox Film
| 作品名 = 無限の住人
| 原題 = Blade of the Immortal
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[三池崇史]]
| 脚本 = [[大石哲也]]
| 原案 =
| 原作 = [[沙村広明]]「無限の住人」
| 製作 = 坂美佐子<br />[[前田茂司]]<br />[[ジェレミー・トーマス]]
| 製作総指揮 = [[小岩井宏悦]]
| ナレーター =
| 出演者 = [[木村拓哉]]<br />[[杉咲花]]<br />[[福士蒼汰]]<br />[[市原隼人]]<br />[[戸田恵梨香]]<br />[[北村一輝]]<br />[[栗山千明]]<br />[[満島真之介]]<br />[[金子賢]]<br />[[山本陽子]]<br />[[市川海老蔵 (11代目)|市川海老蔵]]<br />[[田中泯]]<br />[[山﨑努]]
| 音楽 = [[遠藤浩二]]
| 主題歌 = [[MIYAVI]]<br />「Live to Die Another Day -存在証明-」
| 撮影 = [[北信康]]([[日本映画撮影監督協会|J.S.C.]])
| 編集 = [[山下健治]]
| 制作会社 = [[オー・エル・エム|OLM]]
| 製作会社 = 映画「無限の住人」製作委員会
| 配給 = [[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース映画]]
| 公開 = {{Flagicon|JPN}} [[2017年]][[4月29日]]
| 上映時間 = 141分
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 製作費 =
| 興行収入 = 9億6500万円<ref>『[[キネマ旬報]]』2018年3月下旬 映画業界決算特別号 p.33</ref>
| 配給収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
2015年10月に実写映画化が発表され、作者の沙村にとっては初の実写映像化となった。監督は[[三池崇史]]。2015年11月から2016年1月中旬まで撮影され、2017年4月29日に公開された<ref name="daily20151005">{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2015/10/05/0008457278.shtml |title= 三池監督 キムタクの起用理由を語る |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2015-10-05 |accessdate= 2015-11-12 }}</ref><ref name="mynavi20151005">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20151005-a026/|title=木村拓哉、『無限の住人』で10年ぶり時代劇主演! 三池監督と初タッグに興奮|publisher=[[マイナビニュース]]|date=2015-10-05|accessdate=2015-10-05}}</ref>。
[[映画のレイティングシステム#日本|PG12指定]]。キャッチコピーは「不死身って、死ぬほどめんどくせぇ。」「1人対300人(全員敵)“ぶった斬り”エンタテイメント」。 2017年5月17日から開催される第70回[[カンヌ国際映画祭]]のアウト オブ コンペティション部門として公式選出され<ref>[https://www.rbbtoday.com/article/2017/04/14/150859.html 木村拓哉主演『無限の住人』がカンヌで公式上映!三池監督「最高です」]RBBTODAY(2017年4月14日), 2017年4月14日閲覧。</ref>、北米、イギリス、オーストラリア、ドイツ、でも公開された<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1815527.html 木村拓哉主演「無限の住人」北米、豪、独でも公開へ]日刊スポーツ(2017年4月30日), 2017年4月30日閲覧。</ref>。
=== キャスト(映画) ===
* 万次 - [[木村拓哉]]
* 浅野凜 / 町 - [[杉咲花]]<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/207559|title=木村拓哉×三池崇史「無限の住人」、杉咲花がヒロイン浅野凜役に|newspaper=映画ナタリー|date=2016-10-11-01|accessdate=2016-11-01}}</ref>
* 天津影久 - [[福士蒼汰]]<ref name=natalie161107>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/208149|title=木村拓哉「無限の住人」に福士蒼汰、市原隼人、戸田恵梨香、市川海老蔵ら出演|newspaper=映画ナタリー|date=2016-11-07|accessdate=2016-11-07}}</ref>
* 尸良 - [[市原隼人]]{{R|natalie161107}}
* 乙橘槇絵 - [[戸田恵梨香]]{{R|natalie161107}}
* 百琳 - [[栗山千明]]{{R|natalie161107}}
* 凶戴斗 - [[満島真之介]]{{R|natalie161107}}
* 司戸菱安 - [[金子賢]]
* 八百比丘尼 - [[山本陽子]]
* 黒衣鯖人 - [[北村一輝]]{{R|natalie161107}}
* 刀鍛冶 - [[福本清三]]
* 宇留間 - [[出合正幸]]
* 偽一 - [[北代高士]]<ref>[https://twitter.com/mugenmovie/status/799593947446190080 映画『無限の住人』公式Twitter]</ref>
* 火瓦 - 新妻聡
* 真琴 - [[平岡拓真]]
* お静 - [[ちすん]]
* 八角蔦五 - [[山口祥行]]
* 花田 - [[本山力]]
* 賽河屋 - 清家一斗、堀田貴裕
* 司戸の手下 - [[黒石高大]]、[[一ノ瀬ワタル]]、[[笠原竜司]]、[[小橋正佳]]、夏山剛一
* お恋 - 加藤千果
* 園英子
* 阿葉山宗介 - [[石橋蓮司]]
* 浅野虎巌 - [[勝村政信]]
* 浅野時 - [[真飛聖]]
* 浅野虎秀 - [[菅田俊]]
* 天津三郎 - [[音尾琢真]]
* 浅野虎行 - [[大西信満]]
* 閑馬永空 - [[市川海老蔵 (11代目)|市川海老蔵]]{{R|natalie161107}}
* 吐鉤群 - [[田中泯]]{{R|natalie161107}}
* 伊羽研水 - [[山﨑努]]{{R|natalie161107}}
=== スタッフ(映画) ===
* 原作 - 沙村広明「無限の住人」([[講談社]]「[[月刊アフタヌーン]]」所載)
* 監督 - [[三池崇史]]
* 脚本 - [[大石哲也]]
* 音楽 - [[遠藤浩二]]
* 主題歌 - [[MIYAVI]]「Live to Die Another Day -存在証明-」([[ユニバーサルミュージック (日本)|UNIVERSAL MUSIC]])
* 製作 - [[高橋雅美]]、[[亀山慶二]]、吉羽治、ピーター・ワトソン、鄭泰成、[[奥野敏聡]]、大川ナオ、[[荒波修]]
* エグゼクティブプロデューサー - [[小岩井宏悦]]
* プロデューサー - 坂美佐子、[[前田茂司]]、[[ジェレミー・トーマス]]
* 撮影 - [[北信康]]([[日本映画撮影監督協会|J.S.C.]])
* 照明 - 渡部嘉
* 録音 - 中村淳
* 美術 - 松宮敏之
* 装飾 - 極並浩史
* 編集 - [[山下健治]]
* スーパーバイジングサウンドエディター - 勝俣まさとし
* キャラクタースーパーバイザー - 前田勇弥
* ヘアメイクディレクター - [[冨沢ノボル]]
* 特殊メイクアップ - [[松井祐一]]、三好史洋
* 殺陣 - [[辻井啓伺]]、出口正義
* 画コンテ - 相馬宏光
* 書 - 岡本美香
* 特殊武器 - 坂本朗
* キャスティングスーパーバイザー - 柿崎裕治
* セキュリティースーパーバイザー - [[古谷謙一]]
* キャスティングプロデューサー - 杉野剛
* ラインプロデューサー - 今井朝幸、善田真也
* 助監督 - 倉橋龍介
* 制作担当 - 青木智紀
* VFXスーパーバイザー - [[太田垣香織]]
* コンポジットスーパーバイザー - 橋本聡
* VFXコーディネーター - 川出海
* 企画協力 - 平田掛彦、丸田順悟
* 監修 - 金井暁、北嶌徹(講談社 「月刊アフタヌーン」編集部)
* 脚本分析 - 田中靖彦
* 制作プロダクション - [[オー・エル・エム|OLM]]
* 制作協力 - [[楽映舎]]、[[東映京都撮影所]]
* 製作幹事・配給 - [[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース映画]]
* 製作 - 映画「無限の住人」製作委員会(ワーナー・ブラザース映画、[[テレビ朝日]]、[[講談社]]、[[ジェイ・ストーム]]、Recorded Picture Company、[[CJ ENM|CJ E&M]]、OLM、[[研音グループ|研音]]、[[GYAO!|GYAO]])
=== 評価 ===
[[ガーディアン]]のジョーダン・ホフマンは5つ星中4つ星を与えた。「巨大な二重の剣、鋭いアンビルのような[[斧]]、[[鎖]]に取り付けられた刃、あらゆる機会に登場する[[手裏剣]]など、映画が奇妙な武器に耽るとき本当に楽しく輝く」「もしあなたが今年一風変わった、そして時に吐き気を伴う血塗れの侍映画を見に行くなら、これはその1つだ」<ref name="guardian-review">{{cite web|url=https://www.theguardian.com/film/2017/may/18/blade-of-the-immortal-review-takashi-miike-cannes-2017|work=[[The Guardian]]|title=Blade of the Immortal review – Takashi Miike's samurai bloodbath shows signs of life|accessdate=25 May 2017|last=Hoffman|first=Jordan|date=18 May 2017}}</ref>。[[ハリウッド・リポーター]]のハリー・ウィンザーは、この映画は『[[十三人の刺客 (2010年の映画)|十三人の刺客]]』よりも「思い出に残るもの」ではないが、「それでも長く、専門的に振り付けられた定期的な剣の戦いと血と切断が好きな人にとっては、まだ楽しめる」とコメントした<ref name="hwreport">{{cite web|url=http://www.hollywoodreporter.com/review/blade-immortal-review-1005100|work=[[Hollywood Reporter]]|title=‘Blade of the Immortal’ (‘Mugen no jûnin’): Film Review | Cannes 2017|date=18 May 2017|last=Windsor|first=Harry|accessdate=25 May 2017}}</ref>。
米批評家サイト"Rotten Tomatoes"での批評家の評価は85%、世界最大のオンラインデータベース"IMDb"での評価ポイントは「☆6.8」。スイス、ニュージーランドでも公開<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20170601-a277/ 木村拓哉『無限の住人』上映国拡大中! 海外メディア、絶賛レビュー続々]マイナビニュース(2017年6月1日), 2017年6月2日閲覧。</ref>。
第70回カンヌ国際映画祭での公式上映の際には、2,300人の観客と共に作品を鑑賞した。上映後、スタンディングオベーションが贈られた。
米大手映画データベースサイト"IMDb"が「わたしたちが好きな2017年ベストポスター」と題し、アメリカで公開・公開予定の映画や、ドラマの印象に残るポスター110選を公表。アジアを舞台にした劇映画の中で唯一、本作品のポスターが選ばれた。中にはDC作品の『[[ジャスティス・リーグ (映画)|ジャスティス・リーグ]]』やマーベルの『[[ブラックパンサー (映画)|ブラックパンサー]]』、『[[スター・ウォーズ/最後のジェダイ]]』などは、それぞれのキャラクタービジュアルもランクインしていた。
=== 興行成績 ===
週末興行成績は6位({{fontsize|small|4/29-4/30}})<ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-01 |url=http://enjoy-cinema.com/429%e3%80%9c430%e3%81%ae%e6%98%a0%e7%94%bb%e8%88%88%e8%a1%8c%e5%8f%8e%e5%85%a5%e3%83%bb%e5%8b%95%e5%93%a1%e6%95%b0%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%b3%e3%82%b0top25%ef%bc%811%e4%bd%8d%e3%80%8e/ |title=4/29〜4/30の映画興行収入・動員数ランキングTOP25!1位『美女と野獣』 |publisher=ENJOY CINEMA |accessdate=2017-07-07}}</ref>→8位({{fontsize|small|5/6-5/7}})<ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-09 |url=http://enjoy-cinema.com/56%e3%80%9c57%e3%81%ae%e6%98%a0%e7%94%bb%e8%88%88%e8%a1%8c%e5%8f%8e%e5%85%a5%e3%83%bb%e5%8b%95%e5%93%a1%e6%95%b0%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%b3%e3%82%b0top25%ef%bc%811%e4%bd%8d%e3%80%8e/ |title=5/6〜5/7の映画興行収入・動員数ランキングTOP25!1位『美女と野獣』 |publisher=ENJOY CINEMA |accessdate=2017-07-07}}</ref>→10位({{fontsize|small|5/13-5/14}})<ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-15 |url=http://enjoy-cinema.com/513%e3%80%9c514%e3%81%ae%e6%98%a0%e7%94%bb%e8%88%88%e8%a1%8c%e5%8f%8e%e5%85%a5%e3%83%bb%e5%8b%95%e5%93%a1%e6%95%b0%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%b3%e3%82%b0top25%ef%bc%811%e4%bd%8d%e3%80%8e/ |title=5/13〜5/14の映画興行収入・動員数ランキングTOP25!1位『美女と野獣』 |publisher=ENJOY CINEMA |accessdate=2017-07-07}}</ref>→14位({{fontsize|small|5/20-5/21}})<ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-22 |url=http://enjoy-cinema.com/520%e3%80%9c521%e3%81%ae%e6%98%a0%e7%94%bb%e8%88%88%e8%a1%8c%e5%8f%8e%e5%85%a5%e3%83%bb%e5%8b%95%e5%93%a1%e6%95%b0%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%b3%e3%82%b0top25%ef%bc%811%e4%bd%8d%e3%80%8e/ |title=5/20〜5/21の映画興行収入・動員数ランキングTOP25!1位『美女と野獣』 |publisher=ENJOY CINEMA |accessdate=2017-07-07}}</ref>→21位({{fontsize|small|5/27-5/28}})<ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-29 |url=http://enjoy-cinema.com/527%e3%80%9c528%e3%81%ae%e6%98%a0%e7%94%bb%e8%88%88%e8%a1%8c%e5%8f%8e%e5%85%a5%e3%83%bb%e5%8b%95%e5%93%a1%e6%95%b0%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%b3%e3%82%b0top25%ef%bc%81v6%e9%81%94%e6%88%90/ |title=5/27〜5/28の映画興行収入・動員数ランキングTOP25!V6達成!『美女と野獣』 |publisher=ENJOY CINEMA |accessdate=2017-07-07}}</ref>→25位({{fontsize|small|6/3-6/4}})<ref>{{Cite web|和書|date=2017-06-05 |url=http://enjoy-cinema.com/63%e3%80%9c64%e3%81%ae%e6%98%a0%e7%94%bb%e8%88%88%e8%a1%8c%e5%8f%8e%e5%85%a5%e3%83%bb%e5%8b%95%e5%93%a1%e6%95%b0%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%b3%e3%82%b0top25%ef%bc%81v7%e9%81%94%e6%88%90/ |title=6/3〜6/4の映画興行収入・動員数ランキングTOP25!V7達成!『美女と野獣』 |publisher=ENJOY CINEMA |accessdate=2017-07-07}}</ref>を記録。
== 関連商品 ==
; 無限の住人ポストカードブック 三十二幻唱(1996年、[[講談社]])
: 作中のイラストを使用したポストカードブック。
; [[無限の住人 (アルバム)|無限の住人 イメージアルバム]](1996年、[[ポニーキャニオン]])
: [[人間椅子 (バンド)|人間椅子]]によるアルバムCD。
; [[侍 (スパイクのゲーム)|侍]](2002年、プレイステーション2用ゲームソフト、[[スパイク (ゲーム会社)|スパイク]])
: 隠しキャラとして万次が登場する。
; 無限の住人 武器屋(えものや)24時間 武器コレクションフィギュア(2006年、ボーフォードジャパン)
: 作中に登場する武器のフィギュア。沙村広明が監修を務める。全11種。
; 艶浪 「無限の住人」画集(2008年、講談社)
: カラーイラストおよび鉛筆画を収録している。
; 無限の住人 刃獣異聞(2008年、講談社)
: [[大迫純一]]によるノベライズ作品。内容は小説オリジナル。2013年2月に[[講談社ラノベ文庫]]からも刊行されている。
; 無限の住人 凛と卍の切り捨て御免(2008年、講談社)
: モバイルゲームサイトの会員向けコンテンツのゲーム。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 劇場パンフレット
** {{wikicite|ref={{SfnRef|パンフレット|2017}}|reference= 『無限の住人』パンフレット 2017年4月29日発行 / 編集:宮部さくや、奥野多絵 / 発行所:松竹株式会社事業部}}<!--ページ数表記なし-->
== 外部リンク ==
* [https://afternoon.kodansha.co.jp/c/mugenin.html 無限の住人 / 沙村広明 - アフタヌーン公式サイト - モアイ]
* {{Wayback |url=http://mugen.kc.kodansha.co.jp/ |title=TVアニメ公式サイト |date=20140818180518}}
* [https://mugen-immortal.com/ 『無限の住人-IMMORTAL-』公式サイト]
* {{Amazonプライム・ビデオ|B07YND3QPV|無限の住人-IMMORTAL-}}
* {{Twitter|mugen_immortal|「無限の住人-IMMORTAL-」公式アカウント}}
* [https://wwws.warnerbros.co.jp/mugen/ 映画「無限の住人」公式サイト]
* {{Twitter|mugenmovie|映画「無限の住人」公式Twitter}}
* {{YouTube|playlist = PLN63bBjV3Gr_jqJiMqHyE2gQsfxAOMCrr|【無限の住人-IMMORTAL-】}}
* {{YouTube|playlist = PLizFMbnOjAaUMw0DfaPlNycE_AF5_K4Yz|映画『無限の住人』}}
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758年
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758年(758 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[戊戌]]
* [[日本]]
** [[天平宝字]]2年
** [[皇紀]]1418年
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** [[唐]] : [[至徳 (唐)|至徳]]3載、[[乾元 (唐)|乾元]]元年
* [[朝鮮]] :
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=758|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 7月 - 60歳以上を老丁、65歳以上を耆老と改める。
* [[9月3日]] - [[顔真卿]]が、[[顔杲卿]]らを追悼するために、[[祭姪文稿]]を記す
* [[9月7日]](天平宝字2年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[孝謙天皇]]が譲位し、大炊王が即位して、第47代[[天皇]]・[[淳仁天皇]]となる。
* [[陸奥国|陸奥]]に[[桃生城]]、[[出羽国|出羽]]に[[雄勝城]]を築く
* [[唐]]で、[[塩]]と[[鉄]]の[[専売制]]が施行される
* [[東大寺大仏殿]]竣工
== 誕生 ==
{{see also|Category:758年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[恵恭王]]、[[新羅]]の第36代の王(+ [[780年]])
* [[坂上田村麻呂]]、[[奈良時代]]、[[平安時代]]の[[武官]](+ [[811年]])
* [[橘清友]]、奈良時代の[[政治家]](+ [[789年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:758年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[荷沢神会]]、[[唐]]の[[禅僧]]、[[荷沢宗]]の開祖(+ [[684年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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電気素量
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電気素量 (でんきそりょう、英: elementary charge)は、電気量の単位となる物理定数である。陽子あるいは陽電子1個の電荷に等しく、電子の電荷の符号を変えた量に等しい。素電荷(そでんか)、電荷素量とも呼ばれる。一般に記号 e で表される。
クォークは電気素量の1/3を単位とする電荷を持っているが、クォークの閉じ込めによりクォークを単独で取り出すことはできないため、電気素量が事実上の電気量の最小単位である。
原子核物理学や化学では粒子の電荷を表すために用いられる。素粒子物理学では、電磁相互作用のゲージ結合定数であり、相互作用の大きさを表す指標である。
電気素量の国際単位系(SI)による値は、正確に
である。
2019年5月20日に発効した現行のSIにおいて、電気素量はSIを定義する定義定数の一つである。 現行のSIでは、定義定数の値を不確かさなく固定することによってSIを定義しているため、電気素量のSIによる値には不確かさがない。
CGS静電単位系やガウス単位系での値は
である。これらの単位系では、電気素量は定義定数ではなく、微細構造定数 α と以下の式で関連付けられる測定値である。
歴史的に電磁気量の単位系は、何らかの幾何学的な配位において作用する電磁気的な力の大きさに基づいて力学量の単位系から組み立てられる、一貫性のある単位系として定義されており、電気素量との理論的な関係はない。
現行のSIにおいて電気素量は電磁気量の単位を定義する定義定数として位置付けられているが、これも歴史的な単位から換算係数が簡単になるように値が決められているだけで、電気素量が定数であるという以上に理論的な裏付けに基づくものではない。
なお、1mol の電子の電気量は電気分解の法則で知られるファラデー(記号: Fd)であり、電気素量にアボガドロ数 NA mol をかけたものである。
Fd = (NA mol) e =(6.02214076×10) × (1.602176634×10 C) = 96485.3321233100184 C(正確に)
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}
] |
電気素量 は、電気量の単位となる物理定数である。陽子あるいは陽電子1個の電荷に等しく、電子の電荷の符号を変えた量に等しい。素電荷(そでんか)、電荷素量とも呼ばれる。一般に記号 e で表される。 クォークは電気素量の1/3を単位とする電荷を持っているが、クォークの閉じ込めによりクォークを単独で取り出すことはできないため、電気素量が事実上の電気量の最小単位である。 原子核物理学や化学では粒子の電荷を表すために用いられる。素粒子物理学では、電磁相互作用のゲージ結合定数であり、相互作用の大きさを表す指標である。
|
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|不確かさ=定義値
}}
'''電気素量''' (でんきそりょう、{{lang-en-short|elementary charge}})は、[[電気量]]の[[単位]]となる[[物理定数]]である。[[陽子]]あるいは[[陽電子]]1個の[[電荷]]に等しく、[[電子]]の電荷の[[符号]]を変えた量に等しい。'''素電荷'''(そでんか)、'''電荷素量'''とも呼ばれる。一般に記号 {{mvar|e}} で表される。
[[クォーク]]は電気素量の1/3を単位とする電荷を持っているが、[[クォークの閉じ込め]]によりクォークを単独で取り出すことはできないため、電気素量が事実上の[[電気量]]の最小単位である。
[[原子核物理学]]や[[化学]]では粒子の[[電荷]]を表すために用いられる。[[素粒子物理学]]では、[[電磁相互作用]]の[[ゲージ理論|ゲージ]][[結合定数 (物理学)|結合定数]]であり、相互作用の大きさを表す指標である。
== 値 ==
電気素量の[[国際単位系]](SI)による値は、正確に
: <math>e = 1.602~176~634 \times 10^{-19}\ \text{C}</math>
である<ref name="SI-9">[[#SI-9-EN|The InternationalSystem of Units(SI)]], 2.2 Definition of the SI, [[#SI-9-FR|Le Système international d'unités(SI)]], 2.2 Définition du SI</ref><ref>[[#nist|2018 CODATA]]</ref>。
[[2019年]][[5月20日]]に発効した現行のSIにおいて、電気素量はSIを定義する定義定数の一つである<ref name="SI-9"/>。
現行のSIでは、定義定数の値を[[不確かさ (測定)|不確かさ]]なく固定することによってSIを定義しているため、電気素量のSIによる値には不確かさがない。
{{See also|SI基本単位の再定義 (2019年)}}
[[CGS静電単位系]]や[[ガウス単位系]]での値は
: <math>e =4.803~204~673(30) \times10^{-10}\ \text{esu}</math>
である<ref>[[#pdg|2018 Review of Particle Physics]]</ref>。これらの単位系では、電気素量は定義定数ではなく、[[微細構造定数]] {{mvar|α}} と以下の式で関連付けられる測定値である。
:<math>e =\sqrt{\hbar c\alpha}</math>
== 電気素量の計測実験 ==
; [[1897年]] [[ジョン・タウンゼント (物理学者)|ジョン・タウンゼント]]の実験
: 電気分解によって生じる帯電した気体イオンの量と帯電量を測定し、電荷を算出した。
; [[1898年]] [[ジョセフ・ジョン・トムソン|J.J. トムソン]]の実験
: 水蒸気をイオン化して、電流と水蒸気の質量から求めた。
; [[1903年]] ジョン・タウンゼントとH.A. ウィルソンの実験
: 水蒸気のイオンの電界中の落下速度から求めた。
; [[1909年]] [[ミリカンの油滴実験]]
: 油滴を使ったウィルソン実験を改良し、多くの誤差要因を排除した。当時の計測値は {{val|1.592|e=-19|u=クーロン}}だったとされる。
== 電磁気量の単位 ==
歴史的に[[電磁気量の単位系]]は、何らかの幾何学的な配位において作用する電磁気的な力の大きさに基づいて力学量の単位系から組み立てられる、[[一貫性 (単位系)|一貫性]]のある単位系として定義されており、電気素量との理論的な関係はない。
現行のSIにおいて電気素量は電磁気量の単位を定義する定義定数として位置付けられているが、これも歴史的な単位から換算係数が簡単になるように値が決められているだけで、電気素量が定数であるという以上に理論的な裏付けに基づくものではない。
なお、1[[モル|mol]] の電子の電気量は[[電気分解]]の法則で知られる[[ファラデー (単位)|ファラデー]](記号: Fd)であり、電気素量に[[アボガドロ数]]<!-- 無次元の数なのでアボガドロ定数ではない --> {{math|''N''{{sub|A}}}} mol をかけたものである。
{{Indent|
{{Math|Fd {{=}} (''N''{{Sub|A}} mol) ''e'' {{=}}({{Val|6.02214076|e=23}}) × ({{Val|1.602176634|e=-19|u=C}}) {{=}} {{Val|96485.3321233100184|u=C}}}}(正確に)
}}
== 量子電気力学における電気素量 ==
[[量子電気力学]]においては、ある時空点で電子が光子を放出したり吸収したりする{{仮リンク|確率振幅|en|Probability amplitude|preserve=1}}の大きさが電気素量に対応する。[[ファインマン・ダイアグラム]]を用いることでその事がより明らかになる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
; 出典
{{reflist}}
; 注釈
<references group="注"/>
== 参考文献 ==
* {{Cite journal
|author=R. A. ミリカン
|title={{en|On the Elementary Electrical Charge and the Avogadro Constant}}
|journal={{en|Phys. Rev.}}
|year=1913
|volume=2|pages=pp.109-143
|doi=10.1103/PhysRev.2.109
}}
* {{Cite journal
|author=R. A. ミリカン
|title={{en|The Isolation of an Ion, a Precision Measurement of Its Charge, and the Correction of Stokes's Low}}
|journal={{en|Phys. Rev. (Series I)}}
|year=1911
|volume=32|issue=4|pages=pp.349-397
|doi=10.1103/PhysRevSeriesI.32.349
}}
* {{Cite book|和書
|author=西条敏美
|title=物理定数とは何か-自然を支配する普遍数のふしぎ
|series=[[ブルーバックス]]
|publisher=[[講談社]]
|date=1996-10
|isbn=4-06-257144-7
}}
== 外部リンク ==
; BIPM
:* {{Cite web
|url= https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9-EN.pdf
|title= The International System of Units(SI)
|format= PDF
|accessdate= 2019-07-13
|publisher= [[国際度量衡局|BIPM]]
|language= [[英語]]
|ref= SI-9-en
}}
:* {{Cite web
|url= https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9-FR.pdf
|title= Le Système international d'unités(SI)
|format= PDF
|accessdate= 2019-07-13
|publisher= [[国際度量衡局|BIPM]]
|language= [[仏語]]
|ref= SI-9-fr
}}
:* {{Cite web
|url= https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9-concise-EN.pdf
|title= A concise summary of the International System of Units, SI
|format= PDF
|accessdate= 2019-05-20
|publisher= [[国際度量衡局|BIPM]]
|language= [[英語]]
|ref= SI-9-concise-en
}}
* {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?e|title=CODATA Value: elementary charge|accessdate=2019-05-31|publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]|language=[[英語]]|ref=nist}}
* {{Cite web
|url= http://pdg.lbl.gov/2018/reviews/rpp2018-rev-phys-constants.pdf
|title= 2018 Review of Particle Physics
|format= PDF
|accessdate= 2019-07-13
|publisher= [[パーティクルデータグループ|Particle Data Group]]
|language= [[英語]]
|ref= pdg
}}
* {{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
{{DEFAULTSORT:てんきそりよう}}
[[Category:電磁気学]]
[[Category:物理定数]]
[[Category:電子]]
[[Category:電荷の単位]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E7%B4%A0%E9%87%8F
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PET
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PET, pet、ペット
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PET, pet、ペット 愛玩動物 ⇒ ペット
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'''PET''', '''pet'''、'''ペット'''
* 愛玩動物 ⇒ [[ペット]]
== PETと略されるもの ==
*Positron emission tomography - [[ポジトロン断層法]]。PET検査。
*Polyethylene terephthalate - [[ポリエチレンテレフタラート]]
**[[ペットボトル]](PETボトル) - ポリエチレンテレフタラートで作られている容器。
*[[:en:Preliminary English Test|Preliminary English Test]] - ケンブリッジ大学ESOL試験。[[ケンブリッジ大学英語検定機構]]を参照。
*Personal Electronic Transactor - [[コモドール]]社による[[パーソナルコンピュータ]]の機種名。[[PET 2001]]。
*PErsonal Terminal - [[ロックマンエグゼシリーズ]]に登場する[[携帯情報端末]]。[[ロックマンエグゼシリーズ#用語|PErsonal Terminal]]
== ペット(作品タイトル) ==
*[[ペット (漫画)]] - [[三宅乱丈]]の[[漫画]]、及びそれを原作とした2020年のTVアニメーション作品。
*[[ペット (映画)]] - (原題 : The Secret Life of Pets)2016年公開、アメリカ合衆国の長編オリジナルアニメーション映画。
*[[ペット2]] - (原題:The Secret Life of Pets 2)2019年公開、アメリカ合衆国の長編オリジナルアニメーション映画。[[ペット (映画)]]の続編。
*[[ペット 檻の中の乙女]] - (原題:Pet)2016年のアメリカ合衆国・スペイン合作のホラー映画。
== 一部にPETが含まれる略称 ==
*PETget - [[Puppy Linux]] で採用されている[[パッケージ管理システム]]。
*[[トランペット]]の略。ペットとも。
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逆格子ベクトル
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逆格子ベクトル(ぎゃくこうしべくとる、Reciprocal lattice vector)とは、物性物理における問題、特に結晶構造の解析やバンド計算等に用いる数学的な概念の一つで、波数の概念の一般化である。
3次元の実空間中にある無限に続く点列を考える。点間隔を表すベクトルを a 1 {\displaystyle \mathbf {a} _{1}} とすると、
これをフーリエ変換すると、逆空間(k空間、波数空間、逆格子空間)では次の式で表されような無限に続く平面の列(法線 a 1 {\displaystyle \mathbf {a} _{1}} 、面間隔 2 π / | a 1 | {\displaystyle 2\pi /|\mathbf {a} _{1}|} )になる。
3次元実空間中にある無限に続く2次元格子点は、次のように表される。
これをフーリエ変換すると、波数空間では2次元的に規則正しく並んだ無限に長いロッドになり、次の式で表される。
これを逆格子ロッドと呼び、結晶表面の構造解析でよく用いられる。
3次元の実空間中の格子点は、次のように表される。
これをフーリエ変換すると、波数空間では次の式で表される3次元格子点になる。
これを逆格子点と呼ぶ。
構造を調べたい3次元結晶の実空間における基本並進ベクトル(基本単位ベクトル)を {a1, a2, a3} とする。このとき、この結晶の逆格子空間での基本並進ベクトル(基本単位ベクトル、基本逆格子ベクトル、単に基本ベクトルとも言う){b1, b2, b3} は、以下のように定義される。
ここで・は内積、×は外積である。このように逆格子空間の基本ベクトルを定義すると、aとbの間には以下の直交関係がある。
また、{b1, b2, b3} と任意の整数の組 m = (m1, m2, m3) によって構成されるベクトル
を逆格子ベクトルという。逆格子ベクトルGm で表現されるベクトルの終点((m1, m2, m3) で表される)の集まりが逆格子、そしてそのそれぞれの終点が逆格子点である。
任意の実格子ベクトルRn と逆格子ベクトルGm には、
という関係がある。ただしNmn は適当な整数である。
尚、基本並進ベクトルがつくる平行六面体(=単位胞)の体積は、
となる。ここでΩは実空間での単位胞の体積で、ΩGは逆格子空間での単位胞の体積である。
逆格子の単位胞は、逆格子の対称性を十分に反映していない。そこで逆格子の原点とその近くにある逆格子点との二等分面で囲まれた領域が用いられ、これをブリルアンゾーンと呼ぶ。ブリルアンゾーンは逆格子の対称性を反映しており、その体積は逆格子の単位胞の体積と同じになる。
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] |
逆格子ベクトルとは、物性物理における問題、特に結晶構造の解析やバンド計算等に用いる数学的な概念の一つで、波数の概念の一般化である。
|
{{出典の明記|date=2012年10月24日 (水) 06:21 (UTC)}}
[[File:Rcprwrld2.png|thumb|right|300px|2次元結晶とその逆格子]]
'''逆格子ベクトル'''(ぎゃくこうしべくとる、{{lang|en|Reciprocal lattice vector}})とは、[[物性物理]]における問題、特に[[結晶構造]]の解析や[[バンド計算]]等に用いる数学的な概念の一つで、[[波数]]の概念の一般化である。
== 実格子のフーリエ変換 ==
=== 1次元格子点(点列)のフーリエ変換 ===
3次元の実空間中にある無限に続く点列を考える。点間隔を表すベクトルを<math>\mathbf{a}_1</math>とすると、
:<math>\mathbf{r}=n_1\mathbf{a}_1\quad(n_1=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
これをフーリエ変換すると、逆空間('''k空間'''、'''波数空間'''、'''逆格子空間''')では次の式で表されような無限に続く平面の列(法線<math>\mathbf{a}_1</math>、面間隔<math>2\pi/|\mathbf{a}_1|</math>)になる。
:<math>\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_1=2\pi m_1\quad(m_1=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
:{|class="toccolours mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:left"
!証明
|-
|点列を次のような「[[くし型関数]]」として表す。
:<math>\sum_{n_1=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1)\quad(n_1=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
これを[[フーリエ変換]]すると、3次元[[デルタ関数]]の性質より、
:<math>\begin{align}
\int_{-\infty}^{\infty}\left(\sum_{n_1=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1)\right)e^{-i\mathbf{k}\cdot\mathbf{r}}d\mathbf{r}
&=\sum_{n_1=-\infty}^{\infty}e^{-in_1\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_1} \\
&=2\pi\sum_{m_1=-\infty}^{\infty}\delta(\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_1-2\pi m_1)\quad(m_1=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)
\end{align}</math>
このデルタ関数の中身が0になる条件式
:<math>\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_1=2\pi m_1\quad(m_1=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
は無限に続く平面の列を表している。
|}
=== 2次元格子点のフーリエ変換 ===
3次元実空間中にある無限に続く2次元格子点は、次のように表される。
:<math>\mathbf{r}=n_1\mathbf{a}_1+n_2\mathbf{a}_2\quad(n_1,n_2=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
これをフーリエ変換すると、波数空間では2次元的に規則正しく並んだ無限に長いロッドになり、次の式で表される。
:<math>\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_1=2\pi m_1</math>
:<math>\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_2=2\pi m_2 \quad(m_1,m_2=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
これを'''逆格子ロッド'''と呼び、結晶表面の構造解析でよく用いられる。
:{|class="toccolours mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:left"
!証明
|-
|2次元格子を、くし型関数を用いて次のように表す。
:<math>\sum_{n_1=-\infty}^{\infty}\sum_{n_2=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1-n_2\mathbf{a}_2)\quad(n_1,n_2=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
これは上述の点列の[[畳み込み]]であることが分かる。つまり畳み込みを記号<math>*</math>で表すとすると、
:<math>\sum_{n_1=-\infty}^{\infty}\sum_{n_2=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1-n_2\mathbf{a}_2)
=\left[\sum_{n_1=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1)\right]
*\left[\sum_{n_2=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_2\mathbf{a}_2)\right]
\quad(n_1,n_2=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
よって上述の点列のフーリエ変換の結果と畳み込みの性質より、2次元格子のフーリエ変換は2つの平面列の積であることがわかる。
:<math>\int_{-\infty}^{\infty}\left(\sum_{n_1=-\infty}^{\infty}\sum_{n_2=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1-n_2\mathbf{a}_2)\right)e^{-i\mathbf{k}\cdot\mathbf{r}}d\mathbf{r} </math>
:<math>=(2\pi)^2\sum_{m_1=-\infty}^{\infty}\sum_{m_2=-\infty}^{\infty}\delta^3(\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_1-2\pi m_1)\delta^3(\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_2-2\pi m_2)\quad(m_1,m_2=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
2つの平面が重なる部分は直線(無限に長いロッド)になる。よってこれは無限に長いロッドが二次元的に並んだものである。
|}
=== 3次元格子のフーリエ変換 ===
3次元の実空間中の格子点は、次のように表される。
:<math>\mathbf{r}=n_1\mathbf{a}_1+n_2\mathbf{a}_2+n_3\mathbf{a}_3\quad(n_1,n_2,n_3=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
これをフーリエ変換すると、波数空間では次の式で表される3次元格子点になる。
:<math>\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_1=2\pi m_1</math>
:<math>\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_2=2\pi m_2\quad(m_1,m_2,m_3=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
:<math>\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_3=2\pi m_3</math>
これを'''逆格子点'''と呼ぶ。
:{|class="toccolours mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:left"
!証明
|-
|3次元格子を、くし型関数を用いて次のように表す。
:<math>\sum_{n_1=-\infty}^{\infty}\sum_{n_2=-\infty}^{\infty}\sum_{n_3=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1-n_2\mathbf{a}_2-n_3\mathbf{a}_3)\quad(n_1,n_2,n_3=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
2次元格子の場合と同様に、これも上述の点列の[[畳み込み]]で表せる。
:<math>\sum_{n_1=-\infty}^{\infty}\sum_{n_2=-\infty}^{\infty}\sum_{n_3=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1-n_2\mathbf{a}_2-n_3\mathbf{a}_3)</math>
:<math>=\left[\sum_{n_1=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1)\right]
*\left[\sum_{n_2=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_2\mathbf{a}_2)\right]
*\left[\sum_{n_3=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_3\mathbf{a}_3)\right]
\quad(n_1,n_2,n_3=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
よって上述の点列のフーリエ変換の結果と畳み込みの性質より、3次元格子のフーリエ変換は3つの平面列の積であることがわかる。
:<math>\int_{-\infty}^{\infty}\left(\sum_{n_1=-\infty}^{\infty}\sum_{n_2=-\infty}^{\infty}\sum_{n_3=-\infty}^{\infty} \delta^3(\mathbf{r}-n_1\mathbf{a}_1-n_2\mathbf{a}_2-n_3\mathbf{a}_3)\right)e^{-i\mathbf{k}\cdot\mathbf{r}}d\mathbf{r} </math>
:<math>=(2\pi)^3\sum_{m_1=-\infty}^{\infty}\sum_{m_2=-\infty}^{\infty}\sum_{m_3=-\infty}^{\infty}\delta^3(\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_1-2\pi m_1)\delta^3(\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_2-2\pi m_2)\delta^3(\mathbf{k}\cdot\mathbf{a}_3-2\pi m_3)\quad(m_1,m_2,m_3=0,\pm 1,\pm 2,\cdots)</math>
3つの平面が重なる部分は点になる。よってこれは点が3次元的に無限に並んだものである。
|}
== 逆格子ベクトル ==
構造を調べたい3次元[[結晶]]の実空間における基本並進ベクトル(基本単位ベクトル)を {'''a'''<SUB>1</SUB>, '''a'''<SUB>2</SUB>, '''a'''<SUB>3</SUB>} とする。このとき、この結晶の'''[[逆格子空間]]での基本並進ベクトル'''('''基本単位ベクトル'''、'''基本逆格子ベクトル'''、単に'''基本ベクトル'''とも言う){'''b'''<SUB>1</SUB>, '''b'''<SUB>2</SUB>, '''b'''<SUB>3</SUB>} は、以下のように定義される。
:<math>\begin{align}
& \mathbf{b}_1 = 2 \pi { \mathbf{a}_2 \times \mathbf{a}_3 \over { \mathbf{a}_1 \cdot ( \mathbf{a}_2 \times \mathbf{a}_3 ) } } \\
& \mathbf{b}_2 = 2 \pi { \mathbf{a}_3 \times \mathbf{a}_1 \over { \mathbf{a}_2 \cdot ( \mathbf{a}_3 \times \mathbf{a}_1 ) } } \\
& \mathbf{b}_3 = 2 \pi { \mathbf{a}_1 \times \mathbf{a}_2 \over { \mathbf{a}_3 \cdot ( \mathbf{a}_1 \times \mathbf{a}_2 ) } } \end{align}</math>
ここで・は[[内積]]、×は[[クロス積|外積]]である。このように逆格子空間の基本ベクトルを定義すると、'''a'''と'''b'''の間には以下の直交関係がある。
:<math> \mathbf{a}_i \cdot \mathbf{b}_j = 2 \pi \delta_{ij} </math>
また、{'''b'''<SUB>1</SUB>, '''b'''<SUB>2</SUB>, '''b'''<SUB>3</SUB>} と任意の整数の組 '''m''' = (''m''<SUB>1</SUB>, ''m''<SUB>2</SUB>, ''m''<SUB>3</SUB>) によって構成されるベクトル
:<math> \mathbf{G}_\mathbf{m} = m_1 \mathbf{b}_1 + m_2 \mathbf{b}_2 + m_3 \mathbf{b}_3 </math>
を'''逆格子ベクトル'''という。逆格子ベクトル'''G<SUB>m</SUB>''' で表現されるベクトルの終点((''m''<SUB>1</SUB>, ''m''<SUB>2</SUB>, ''m''<SUB>3</SUB>) で表される)の集まりが'''逆格子'''、そしてそのそれぞれの終点が'''逆格子点'''である。
== 性質 ==
任意の実格子ベクトル'''R'''<SUB>''n''</SUB> と逆格子ベクトル'''G'''<SUB>''m''</SUB> には、
:<math> \mathbf{G}_m \cdot \mathbf{R}_n = 2 \pi N_{mn} </math>
という関係がある。ただし''N<SUB>mn</SUB>'' は適当な整数である。
尚、基本並進ベクトルがつくる平行六面体(=[[単位胞]])の体積は、
:<math>\begin{align}& \Omega = \mathbf{a}_1 \cdot (\mathbf{a}_2 \times \mathbf{a}_3) \\
& \Omega_\mathrm{G} = \mathbf{b}_1 \cdot (\mathbf{b}_2 \times \mathbf{b}_3) = {(2 \pi)^3 \over {\Omega} } \end{align}</math>
となる。ここでΩは実空間での単位胞の体積で、Ω<SUB>G</SUB>は逆格子空間での単位胞の体積である。
== ブリルアンゾーン ==
逆格子の単位胞は、逆格子の対称性を十分に反映していない。そこで逆格子の原点とその近くにある逆格子点との二等分面で囲まれた領域が用いられ、これを[[ブリルアンゾーン]]と呼ぶ。ブリルアンゾーンは逆格子の対称性を反映しており、その体積は逆格子の単位胞の体積と同じになる。
==関連記事==
*[[結晶格子]]
*[[物性物理学]]
*[[ブリュアンゾーン]]
== 外部リンク ==
* http://home.hiroshima-u.ac.jp/~ino/lecture/
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:きやくこうしへくとる}}
[[Category:固体物理学]]
[[Category:フーリエ解析]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:ベクトル]]
[[Category:格子点]]
|
2003-08-17T10:57:11Z
|
2023-07-28T09:19:56Z
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特異点
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特異点(とくいてん、英: singular point、シンギュラー・ポイント)は、一般解の点ではなく特異解の点のこと。ある基準 (regulation)を適用できない、あるいは一般的な手順では求まらない(singular) 点である。特異点は、基準・手順に対して「—に於ける特異点」「—に関する特異点」という呼び方をする。特異点という言葉は、数学, 物理学およびその応用である制御工学などで用いる。なおカタカナ語のシンギュラリティ[シングラリティ](singularity)は特異点、特異解を含む、幅広い概念を指すことがある。
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特異点は、一般解の点ではなく特異解の点のこと。ある基準 (regulation)を適用できない、あるいは一般的な手順では求まらない(singular) 点である。特異点は、基準・手順に対して「—に於ける特異点」「—に関する特異点」という呼び方をする。特異点という言葉は、数学, 物理学およびその応用である制御工学などで用いる。なおカタカナ語のシンギュラリティ[シングラリティ](singularity)は特異点、特異解を含む、幅広い概念を指すことがある。
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'''特異点'''(とくいてん、{{lang-en-short|singular point}}、シンギュラー・ポイント)は、一般解の点ではなく特異解の点のこと<ref>{{Cite journal|和書|author=田原秀敏 |date=1996-10 |url=https://hdl.handle.net/2433/60668 |title=特異点をもつ非線型偏微分方程式の解の一意性について(函数解析を用いた偏微分方程式の研究) |journal=数理解析研究所講究録 |ISSN=1880-2818 |publisher=京都大学数理解析研究所 |volume=969 |pages=12-17 |hdl=2433/60668 |CRID=1050001202174451328}}</ref>。ある基準 ({{en|regulation}})を適用できない、あるいは一般的な手順では求まらない(singular) [[点 (数学)|点]]である。特異点は、基準・手順に対して「—に於ける特異点」「—に関する特異点」という呼び方をする。特異点という言葉は、[[数学]], [[物理学]]およびその応用である[[制御工学]]などで用いる<ref>{{Cite journal|和書|author=浜武亜希子, 鈴木貴 |date=1997-03 |url=https://hdl.handle.net/2433/60956 |title=ある非線形楕円型境界値問題の特異解の族について(関数方程式の構造と方法) |journal=数理解析研究所講究録 |ISSN=1880-2818 |publisher=京都大学数理解析研究所 |volume=984 |pages=138-146 |hdl=2433/60956 |CRID=1050282677274239360}}</ref><ref> 運動量保存に基づく柔軟ベース上冗長マニピュレータの ダイナ ミック特異点通過追従制御原 直行,金 宮 好和,佐 藤 大祐 (東京都市大学) http://www.rls.mse.tcu.ac.jp/robotics/papers/2010/yudo27/yudo2010hara.pdf</ref><ref>特異点(singular point)は特異(singularity)である https://qiita.com/kaizen_nagoya/items/26f2ff3f24496b8252c7</ref>。なおカタカナ語のシンギュラリティ[シングラリティ](singularity)は特異点、特異解を含む、幅広い概念を指すことがある。
== 科学 ==
=== 数学 ===
* [[特異点 (数学)]]
; [[複素解析]]
* [[孤立特異点]]
**[[可除特異点]]
**[[極 (複素解析)|極]]
**[[真性特異点]]
* [[動く特異点]]
; 幾何学
* [[曲線の特異点]]
* [[代数多様体の特異点]]
* {{仮リンク|有理特異点|en|Rational singularity}}
* {{仮リンク|特異点論|en|Singularity theory}}
; その他
* 局所的な変換が[[全単射|一対一]]を保たない点。[[円座標]]平面 {{math|(''r'', ''θ'')}} に於ける特異点は、{{math|1=''r'' = 0}} である。([[関数行列]]参照)
=== 物理学 ===
* [[宇宙物理学]]では重力に関する特異点が考えられ、[[重力の特異点]] (''gravitational singularity'') という。[[ブラックホール]]内には、[[時空]]に於ける特異点が存在すると考えられている。([[特異点定理]]参照)
* [[裸の特異点]]
* [[プラントル・グロワートの特異点]]
* [[ファン・ホーベ特異点]]
===工学===
*[[技術的特異点]]
*[[制御理論]]における特異点:
===その他===
*[[文化的特異点]]
*[[法的特異点]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* 複雑系
* カオス理論
* バタフライ効果
* 創発
* 不確定性原理
* 不完全性定理
* 数理モデル
* シミュレーション
* 理論物理学
* エントロピー増大の法則
* インテグラル・ファクター
* ブラックホール
* 量子論
* 量子効果
* 精神現象
* 意識
* [[正則]]
* [[超巨大地震]]
* [[不連続性の分類]]
* [[特異日]]
* [[シンギュラリティ]] (曖昧さ回避)
*アニメ「[[超時空世紀オーガス]]」…混乱時空修復の鍵とされる存在(人物)が特異点と呼ばれる。
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{aimai}}
{{DEFAULTSORT:とくいてん}}
[[Category:物理数学]]
[[Category:宇宙論]]
[[Category:天体物理学]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:一般相対性理論]]
[[Category:数学の曖昧さ回避]]
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2003-08-17T11:35:16Z
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2023-12-21T08:51:25Z
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補数
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補数(、英: complement)または余数()とは、ある数 x との和が基準となる数 C に等しくなるような数である。すなわち、補数を xc とすればこれは x + xc = C を満たす。
C を b 進法の基数の冪 b とすればこれは、b 進法で b = 100...00b と表せる。従ってこの場合、非負の整数 x に対する補数 xc は x に足して n + 1 桁になる最小の整数と言える。
補数は計算機において、減算や負の数を表すためにしばしば利用される。
x を b 進法で n 桁の非負の整数とする。 x に対する基数の補数(英: radix complement)は以下のように定義される:
基数が文脈から明らかなら、単に b の補数(英: b's complement)と呼ばれる(例えば二進法における基数の補数は2の補数と呼ばれる)。 同様に、x に対する減基数の補数(英: diminished radix complement)は以下のように定義される:
基数が文脈から明らかなら、単に (b − 1) の補数(英: (b − 1)s' complement)と呼ばれる(例えば二進法における減基数の補数は1の補数と呼ばれる)。
日本語において、文脈から基数が明らかでない状況で「N の補数」と言った場合、「N + 1 進法における減基数の補数」と「N 進法における基数の補数」のどちらを指すか曖昧である。例えば、「9の補数」は「9進法における基数の補数」と「10進法における減基数の補数」のいずれの意味でも用いられ得る。曖昧さを取り除くためには、「基数の補数」か「減基数の補数」のいずれであるかを示したり、基数が何であるかを示す必要がある。
英語において文章上は、例えば基数の補数を nine's complementと書き、減基数の補数を nines' complementと書くことで区別できる。
補数は身近なところでも利用される。ほぼ無意識のうちに使っているが、繰り上がりのある足し算で使われる 。 例えば、「8 + 7 = 15] という計算を考える。まず、7 に何を足せば 10 を作れるかを考えると 3 である。8 を 5 + 3 に分解して、3 + 7 で 10 を作り、1 の位は残った 5 であるから、合わせて 15 となる。 つまり、1の位の計算で、7 を足す代わりに 7 の補数である 3 を引くことで、繰り上がりのある計算ができる。 これをきちんと数式で書くと
x + y = x + y + b 1 − b 1 = b 1 + x − ( b 1 − y ) {\displaystyle {\begin{aligned}x+y&=x+y+b^{1}-b^{1}\\&=b^{1}+x-(b^{1}-y)\\\end{aligned}}}
である。 式の最右辺において、 b 1 {\displaystyle b^{1}} は上の位への繰り上がりである。 残りの x − ( b 1 − y ) {\displaystyle x-(b^{1}-y)} が、 y {\displaystyle y} を足す代わりに、 y {\displaystyle y} の補数を引くことを意味する。
この計算方法は、そろばんでも同様に使われる。 つまり 7 を足すときに、繰り上がりが発生するときは、一の珠を 3つ下げる。ほかの数字でも同様。 なお、そろばんでは五珠もあるので、10 の補数のほか、5 の補数も使わなければならない。
繰り下がりのある引き算でも同様である。
補数を利用すると、正整数の減算を加算処理で行うことができる。
以下に、10 進 5 桁の減算 52934 − 38917 = 14017 {\displaystyle 52934-38917=14017} を、補数を用いて加算処理に置き換えた例を説明する。被減数を x、減数を y とし、減算結果を x − y ≡ z {\displaystyle x-y\equiv z} とする。
y ′ ≡ ( 10 5 − 1 ) − y {\displaystyle {\begin{aligned}y'&\equiv (10^{5}-1)-y\end{aligned}}}
⟹ [ 9 9 9 9 9 − 3 8 9 1 7 6 1 0 8 2 ] {\displaystyle \Longrightarrow \left[\quad {\begin{matrix}&9&9&9&9&9\\-&3&8&9&1&7\\\hline &6&1&0&8&2\\\end{matrix}}\quad \right]}
y ′′ ≡ 10 5 − y = y ′ + 1 {\displaystyle {\begin{aligned}y''&\equiv 10^{5}-y\\&=y'+1\\\end{aligned}}}
⟹ [ 6 1 0 8 2 + 1 6 1 0 8 3 ] {\displaystyle \Longrightarrow \left[\quad {\begin{matrix}&6&1&0&8&2\\+&&&&&1\\\hline &6&1&0&8&3\\\end{matrix}}\quad \right]}
z ≡ x − y = x + y ′′ − 10 5 {\displaystyle {\begin{aligned}z&\equiv x-y\\&=x+y''-10^{5}\\\end{aligned}}}
⟹ [ 5 2 9 3 4 + 6 1 0 8 3 ( 1 ) 1 4 0 1 7 ] {\displaystyle \Longrightarrow \left[\quad {\begin{matrix}&5&2&9&3&4\\+&6&1&0&8&3\\\hline (1)&1&4&0&1&7\\\end{matrix}}\quad \right]}
このように、本来桁借りを考慮しなければならないような減算であっても、補数の概念を利用すれば加算処理に置き換えて計算することができる。
上に挙げたのは10進法の例であるが、これは任意の基数において成り立つ。
この性質により、負整数の表記法として基数の補数を採用すると、最上位桁からの桁上がり(桁あふれ・算術オーバーフロー)を無視すれば、通常の加算処理で負整数の加算(つまり正整数の減算)が行えることになる。この利点のため、2の補数は多くのコンピュータで負整数の内部表現に採用されている。
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"text": "この性質により、負整数の表記法として基数の補数を採用すると、最上位桁からの桁上がり(桁あふれ・算術オーバーフロー)を無視すれば、通常の加算処理で負整数の加算(つまり正整数の減算)が行えることになる。この利点のため、2の補数は多くのコンピュータで負整数の内部表現に採用されている。",
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補数(ほすう、または余数とは、ある数 x との和が基準となる数 C に等しくなるような数である。すなわち、補数を xc とすればこれは x + xc = C を満たす。 C を b 進法の基数の冪 bn とすればこれは、b 進法で bn = 100…00b と表せる。従ってこの場合、非負の整数 x に対する補数 xc は x に足して n + 1 桁になる最小の整数と言える。 補数は計算機において、減算や負の数を表すためにしばしば利用される。
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{{読み仮名|'''補数'''|ほすう|{{lang-en-short|complement}}}}または{{読み仮名|'''余数'''|よすう}}とは、ある数 {{mvar|x}} との[[加法|和]]が基準となる数 {{mvar|C}} に等しくなるような数である<ref>{{cite kotobank
|word=補数
|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典
|accessdate=2023-04-03
}}</ref>{{sfn|JIS X 0005:2002|2002|loc=05.08.01 補数}}{{sfn|ISO/IEC 2382:2015|2015|loc=2. Terms and definition. 2121097. complement}}。すなわち、補数を {{math|''x''{{sub|c}}}} とすればこれは {{math|1=''x'' + ''x''{{sub|c}} = ''C''}} を満たす。
{{mvar|C}} を [[位取り記数法|{{mvar|b}} 進法]]の基数の[[冪乗|冪]] {{math|''b''{{sup|''n''}}}} とすればこれは、{{mvar|b}} 進法で {{math|1=''b''{{sup|''n''}} = 100…00{{sub|''b''}}}} と表せる。従ってこの場合、非負の整数 {{mvar|x}} に対する補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} は {{mvar|x}} に足して {{math|''n'' + 1}} 桁になる最小の整数と言える。
補数は[[計算機]]において、[[減法|減算]]や負の数を表すためにしばしば利用される。
== 定義 ==
{{mvar|x}} を [[位取り記数法|{{mvar|b}} 進法]]で {{mvar|n}} 桁{{efn2|ここで「{{mvar|n}} 桁」とは単に {{mvar|n}} 文字の[[数字]]で表されることを意味する。この意味で例えば {{math|012}} や {{math|000}} は {{math|3}} 桁の数である。}}の[[正の数と負の数|非負]]の[[整数]]とする。
{{mvar|x}} に対する'''基数の補数'''({{lang-en-short|radix complement}})は以下のように定義される{{sfn|JIS X 0005:2002|2002|loc=05.08.02 基数の補数}}{{sfn|ISO/IEC 2382:2015|2015|loc=2. Terms and definition. 2121098. radix complement}}:
: <math>b^n - x</math>
基数が文脈から明らかなら、単に '''{{mvar|b}} の補数'''({{lang-en-short|{{mvar|b}}'s complement}})と呼ばれる(例えば二進法における基数の補数は[[2の補数]]と呼ばれる)。
同様に、{{mvar|x}} に対する'''減基数の補数'''({{lang-en-short|diminished radix complement}}){{efn2|減基数の補数は'''基数−1の補数'''({{lang-en-short|radix-minus-one complement}})とも呼ばれる。}}は以下のように定義される{{sfn|JIS X 0005:2002|2002|loc=5.8.5 減基数の補数}}{{sfn|ISO/IEC 2382:2015|2015|loc=2. Terms and definition. 2121101. diminished radix complement}}:
: <math>(b^n - 1) - x</math>
基数が文脈から明らかなら、単に '''{{math|(''b'' − 1)}} の補数'''({{lang-en-short|{{math|(''b'' − 1)}}s' complement}})と呼ばれる(例えば二進法における減基数の補数は[[1の補数]]と呼ばれる)。
== 呼称 ==
[[日本語]]において、文脈から[[位取り記数法|基数]]が明らかでない状況で「{{mvar|N}} の補数」と言った場合、「{{math|''N'' + 1}} 進法における減基数の補数」と「{{mvar|N}} 進法における基数の補数」のどちらを指すか曖昧である。例えば、「9の補数」は「9進法における基数の補数」と「10進法における減基数の補数」のいずれの意味でも用いられ得る。曖昧さを取り除くためには、「基数の補数」か「減基数の補数」のいずれであるかを示したり、基数が何であるかを示す必要がある。
[[英語]]において文章上は、例えば基数の補数を {{en|nine's complement}}{{efn2|{{en|nine's}} は 9 を意味する[[名詞#英語|名詞]] {{en|nine}} の[[数 (文法)|単数形]] {{en|nine}} の[[属格|所有格]](属格)であり、一方 {{en|nines'}} は {{en|nine}} の[[数 (文法)|複数形]] {{en|nines}} の所有格である。単数形と複数形の違いは補数の計算方法に由来する。{{en|nine's complement}} は単一の 9 の[[冪乗|冪]]から元の数を引くことで求まる補数であることを示し、{{en|nines' complement}} は[[位取り記数法]]で通常複数の 9 を並べた数({{math|99...99}})から元の数を引くことで求まる補数であることを示している。この慣習は[[ドナルド・クヌース]]が著書“[[The Art of Computer Programming]]”の中で提案したもので、必ずしも一般的な区別ではない。|name=convention-knuth}}と書き、減基数の補数を {{en|nines' complement}}{{efn2|name=convention-knuth}}と書くことで区別できる{{sfn|Knuth “TAOCP” vol. 2, 3rd ed.|1997|p=203}}。
== 補数の利用・応用 ==
=== 繰り上がり(繰り下がり)のある計算 ===
補数は身近なところでも利用される。ほぼ無意識のうちに使っているが、繰り上がりのある足し算で使われる
<ref>{{Cite web|和書|url=https://kodomo-monju.com/blog/%E6%95%99%E6%9D%90%E3%83%BB%E6%8E%88%E6%A5%AD%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E3%80%8C10%E3%81%AE%E3%81%8A%E5%8F%8B%E3%81%A0%E3%81%A1%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C5%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E8%89%AF%E3%81%97%E3%80%8D/|title=「10になるお友だち」と「5になる仲よし」|website=こども教室 ≪もんじゅ≫|access-date=2023-03-29}}</ref>。
<ref>{{Cite web|和書|url=https://そろばん情報.jp/soroban10kuriagarikurisagari/|title=そろばんの教え方【10の繰り上がり繰り下がり編】|access-date=2023-03-29}}</ref>
例えば、「8 + 7 = 15] という計算を考える。まず、7 に何を足せば 10 を作れるかを考えると 3 である。8 を 5 + 3 に分解して、3 + 7 で 10 を作り、1 の位は残った 5 であるから、合わせて 15 となる。
つまり、1の位の計算で、7 を足す代わりに 7 の補数である 3 を引くことで、繰り上がりのある計算ができる。
これをきちんと数式で書くと
<math>
\begin{align}
x + y & = x + y + b^1 - b^1 \\
& = b^1 + x - (b^1 - y)\\
\end{align}
</math>
である。
式の最右辺において、<math>b^1</math> は上の位への繰り上がりである。
残りの <math>x - (b^1 - y)</math> が、<math>y</math> を足す代わりに、<math>y</math> の補数を引くことを意味する。
この計算方法は、そろばんでも同様に使われる。
つまり 7 を足すときに、繰り上がりが発生するときは、一の珠を 3つ下げる。ほかの数字でも同様。
なお、そろばんでは五珠もあるので、10 の補数のほか、5 の補数も使わなければならない。
繰り下がりのある引き算でも同様である。
=== 補数を利用した減算 ===
補数を利用すると、正整数の減算を加算処理で行うことができる。
以下に、10 進 5 桁の減算 <math>52934 - 38917 = 14017</math> を、補数を用いて加算処理に置き換えた例を説明する。被減数を ''x''、減数を ''y'' とし、減算結果を <math>x - y \equiv z</math> とする。
* 減数 ''y'' の減基数の補数を求める。この計算は、各桁について補数を求めればよいので桁借りが発生せず、簡単に行うことができる。
{{indent|
<math>
\begin{align}
y' & \equiv (10^5 - 1) - y
\end{align}
</math>
}}
{{indent|
<math>
\Longrightarrow \left[\quad
\begin{matrix}
& 9 & 9 & 9 & 9 & 9 \\
- & 3 & 8 & 9 & 1 & 7 \\
\hline
& 6 & 1 & 0 & 8 & 2 \\
\end{matrix}
\quad\right]
</math>
}}
* 減数 ''y'' の基数の補数を求める。これは減基数の補数 <math>y'</math> に 1 を加えるだけである。
{{indent|
<math>
\begin{align}
y'' & \equiv 10^5 - y \\
& = y' + 1 \\
\end{align}
</math>
}}
{{indent|
<math>
\Longrightarrow \left[\quad
\begin{matrix}
& 6 & 1 & 0 & 8 & 2 \\
+ & & & & & 1 \\
\hline
& 6 & 1 & 0 & 8 & 3 \\
\end{matrix}
\quad\right]
</math>
}}
* 被減数 ''x'' と 減数 ''y'' の基数の補数とを足し合わせる。このとき、最上桁の桁上がりは無視する(つまり結果から <math>10^5</math> を減ずる)。
{{indent|
<math>
\begin{align}
z & \equiv x - y \\
& = x + y'' - 10^5 \\
\end{align}
</math>
<math>
\Longrightarrow \left[\quad
\begin{matrix}
& 5 & 2 & 9 & 3 & 4 \\
+ & 6 & 1 & 0 & 8 & 3 \\
\hline
(1)& 1 & 4 & 0 & 1 & 7 \\
\end{matrix}
\quad\right]
</math>
}}
このように、本来桁借りを考慮しなければならないような減算であっても、補数の概念を利用すれば加算処理に置き換えて計算することができる。
上に挙げたのは10進法の例であるが、これは任意の基数において成り立つ。
この性質により、負整数の表記法として基数の補数を採用すると、最上位桁からの桁上がり(桁あふれ・[[算術オーバーフロー]])を無視すれば、通常の加算処理で負整数の加算(つまり正整数の減算)が行えることになる。この利点のため、[[2の補数]]は多くのコンピュータで負整数の内部表現に採用されている。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書
|title=JIS X 0005:2002 情報処理用語(データの表現)
|publisher=日本規格協会
|editor1=日本規格協会
|editor2=情報処理学会
|date=2002-08-31
|ref={{sfnref|JIS X 0005:2002|2002}}
}}
* {{cite book
|title=ISO/IEC 2382:2015 Information technology — Vocabulary
|publisher=ISO/IEC
|editor1=ISO
|editor2=IEC
|date=2015-05
|ref={{sfnref|ISO/IEC 2382:2015|2015}}
}}
* {{cite book
|first=Donald E.
|last=Knuth
|title=The Art of Computer Programming Volume 2: Seminumerical Algorithms
|edition=3rd
|publisher=Addison-Wesley
|date=1997
|isbn=0-201-89684-2
|ref={{sfnref|Knuth “TAOCP” vol. 2, 3rd ed.|1997}}
}}
== 関連項目 ==
* [[加算器]]
* [[2の補数]]
* [[1の補数]]
* [[符号付数値表現]]
{{DEFAULTSORT:ほすう}}
[[Category:数の表現]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-08-17T11:58:14Z
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2023-12-02T03:58:59Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E6%95%B0
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ダグラス・マッカーサー
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ダグラス・マッカーサー(英語: Douglas MacArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。アメリカ陸軍元帥、連合国軍最高司令官、国連軍司令官を歴任した。
1880年にアメリカ合衆国アーカンソー州で生まれ、1903年にウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業した。
1918年に第一次世界大戦に参戦し、師団参謀長として13の勲章を受勲した。1919年には史上最年少で同士官学校の校長に就任、1925年には最年少でアメリカ軍の少将に就任、1930年には最年少でアメリカ軍参謀総長に就任した。
1935年にフィリピン軍の創設に携わり、翌1936年にはフィリピン軍の元帥となった。第二次世界大戦では大日本帝国からフィリピンを奪還し、1944年にアメリカ陸軍元帥に就任した。
第二次世界大戦後、1945年から1950年まで連合国軍最高司令官(GHQ)として大日本帝国を占領した。日本における最高権力者として君臨し、各種の占領政策を行って民主化を進めたほか、国民主権・平和主義などを柱とする日本国憲法の制定に影響を与えた。
1950年には朝鮮戦争における国際連合軍総司令官として仁川上陸作戦を成功させたが、中華人民共和国の人民解放軍との戦いに劣勢がみられ、北部のピョンヤン制圧から38度線まで撤退した。その後核を使うなどと全面戦争を主張したことなどからアメリカ大統領のトルーマンと戦略が対立し、1951年に解任された。
退任後は1952年の大統領選挙に出馬することを試みたが、支持が集まらずに断念した。製造企業レミントンランド社の会長に就任し、1964年に84歳で死去した。
1880年1月26日、アーカンソー州リトルロックに誕生する。マッカーサー家は元々はスコットランド貴族の血筋で、キャンベル氏族の流れを汲み、スコットランド独立戦争でロバート1世に与して広大な領土を得たが、その後は領主同士の勢力争いに敗れ、没落したと伝えられている。1828年、当時少年だった祖父のアーサー・マッカーサー・シニア(英語版)は家族に連れられてスコットランドからアメリカに移民し、マッカーサー家はアメリカ国民となった。
父のアーサー・マッカーサー・ジュニアは16歳の頃に南北戦争に従軍した根っからの軍人であり、南北戦争が終わって一旦は除隊し、祖父と同様に法律の勉強をしたが長続きせず、1866年には軍に再入隊している。1875年にニューオーリンズのジャクソン兵舎に勤務時に、ヴァージニア州ノーフォーク生まれでボルチモアの富裕な綿花業者の娘であったメアリー・ピンクニー・ハーディと結婚し、1880年に軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営でマッカーサー家の三男としてダグラス・マッカーサーが誕生した。この頃は西部開拓時代の末期で、インディアンとの戦いのため、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれており、マッカーサーが生まれて5か月の時、一家はニューメキシコ州のウィンゲート砦に向かうこととなったが、その地で1883年に次男のマルコムが病死している。マルコムの病死は母のメアリーに大きな衝撃を与え、残る2人の息子で特に三男ダグラスを溺愛するようになった。次いでフォート・セルデンの砦に父のアーサーが転属となり、家族も付いていった。そのためダグラスは、幼少期のほとんどを軍の砦の中で生活することとなった。
その後も一家は全国の任地を転々とするが、1898年4月に米西戦争が始まると父のアーサーは准将となり、スペインの植民地であったフィリピンに出征し、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなった。戦争が終わり、フィリピンがスペインよりアメリカに割譲されると、少将に昇進して師団長になっていた父のアーサーはその後に始まった米比戦争でも活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官に昇進した。しかし、1892年に兄のアーサーはアナポリス海軍兵学校に入学し、1896年には海軍少尉として任官し、弟ダグラスもウェストポイント陸軍士官学校を目指し勉強中だったことから、家族はフィリピンに付いていかなかった。
なお、ダグラスは幼少期に母のメアリーによってフランスの風習に倣い、女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって、陸軍士官学校に入学させられることになったとも言われている。
1896年、マッカーサーは西テキサス士官学校卒業後、ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校受験に必要な大統領や有力議員の推薦状が得られなかったため、母メアリーと共に有力政治家のコネが得られるマッカーサー家の地元ミルウォーキーに帰り、母メアリーが伝手を通じて手紙を書いたところ、下院議員シオボルド・オーチェンの推薦を得ることに成功した。その後、ウェストサイド高等学校に入学、1年半もの期間受験勉強したが、その受験勉強の方法は、後のマッカーサーを彷彿させるものであった。マッカーサーは試験という難関から失敗の可能性を抽出すると、それを1つ1つ取り除いていくという勉強方法をとり、目標を楽々と達成した。この受験勉強でマッカーサーは「周到な準備こそは成功と勝利のカギ」という教訓を学び、それは今後の軍人人生に大いに役立つものとなった。戦略的な受験勉強は奏功し、マッカーサーは1899年6月に750点満点中700点の高得点でトップ入学した。
しかし、マッカーサーは受験勉強期間中もガリ勉に終始していたわけでなく、年相応のロマンスも経験していた。マッカーサーはジョン・レンドラム・ミッチェル上院議員の娘に片思いし、彼女を口説くために、「うるわしき西部の娘よ、何より愛する君、君はなにゆえに我を愛さざるや?」という自作した詩を懐に忍ばせて、ミッチェル上院議員の家の周りをうろつくようになった。しかし、当時のマッカーサーはまったくモテず、ミッチェル上院議員の娘から相手にされることはなかった。これはマッカーサー個人の問題より、当時のアメリカでは軍服を颯爽とまとった軍人が若い女性の羨望の的であり、若い将校が休暇でミルウォーキーに帰ってくると、若い女性は軍人の周りに集まり、その中にはミッチェル上院議員の娘もいた。まだウェストポイントに入学していなかったマッカーサーは、他の平服を着た民間人と一緒にそれを横目で見ながらこそこそと隠れていなければならず、マッカーサーは「今度戦争があったら、絶対に前線で戦ってやるぞ」と心の中で誓っていた。
そんな息子を溺愛して心配する母のメアリーは、マッカーサーがウェストポイントに入学すると、わざわざ学校の近くのクラニーズ・ホテルに移り住み、息子の学園生活に目を光らせることとした。その監視は学業だけではなく私生活にまで及び、マッカーサーを女性から遠ざけるのに抜け目がなかった。その過保護ぶりは教官も周知の事実となり、ある日マッカーサーがメアリーの目を盗んでダンスホールで女性とキスをしているところを教官に見つかったことがあったが、ばつの悪い思いをしていたマッカーサーに対して教官は笑顔で「マッカーサー君おめでとう」とだけ言って去っていった。結局メアリーはマッカーサーが卒業するまで離れなかったため、「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」とからかわれることとなった。
当時のウェストポイントは旧態依然とした組織であり、上級生による下級生へのしごきという名のいじめが横行していた。父親が有名で、母親が近くのホテルに常駐し付き添っているという目立つ存在であったマッカーサーは、特に念入りにいじめられた。そのいじめは、長いウェストポイントの歴史の中で100以上も考案され、主なものでは「ボクシング選手による鉄拳制裁」「割れたガラスの上に膝をついて前屈させる」「火傷する熱さの蒸し風呂責め」「ささくれだった板の上を全裸でスライディングさせる」など凄まじいものであった。そのいじめが行われる兵舎は生徒たちから「野獣兵舎」と呼ばれていた。マッカーサーはいじめを受け続け、最後は痙攣を起こして失神した。マッカーサーは失神で済んだが、新入生の中でいじめによる死亡者が出て問題化することになった。報道によって社会問題化したことを重く見たウィリアム・マッキンリー大統領がウエストポイントに徹底した調査を命じ、数か月後に軍法会議が開廷された。激しいいじめを受けたマッカーサーも証人として呼ばれたが、マッカーサーは命令どおり証言すれば全校生徒から軽蔑される一方で、命令を拒否すればウエストポイントから追放されるという窮地に追い込まれることとなった。マッカーサーは熟考したあげく、既に罪を認めた上級生の名前のみ証言し、他の証言は拒否した。結局この事件は、罪を認めた生徒は一旦退学処分となったが、親族に有力者のコネがある生徒はまもなく復学し、またマッカーサーも父親アーサーが現役の将軍であったため証言拒否が問題視されることはなかった。しかし、窮地を機転と不屈の精神で乗り切ったマッカーサーは、多くの生徒から信頼を得ることができた。
在学中は成績抜群で、4年の在学期間中、3年は成績トップであったが、勉強だけではなくスポーツにも熱心であった。マッカーサーは最も好きなスポーツはフットボールであったが、当時の体格は身長が180cmに対し体重が63.5kgしかなく、この痩せ型の体型ではフットボール部に入部すらできない懸念があったので、マッカーサーは痩せ型の自分でも活躍できるスポーツとして野球を選び、自らで野球部を立ち上げた。しかし、決して野球が巧いわけではなく、打撃が苦手で、守備でも右翼手としては役には立たなかった。しかし、頭脳プレーに秀でており、選球眼もよく、セーフティーバントで相手投手を揺さぶるなどして高い出塁率を誇って、試合では活躍し、チームメイトからは「不退転のダグ」と呼ばれるようになった。1901年5月18日には、ウェストポイント対アナポリスのアメリカ陸海軍対抗戦にマッカーサーはスターティングメンバーとして出場し、2打席凡退後の3打席目で得意の選球眼で四球を選んで出塁すると、後の選手のタイムリーヒットで決勝のホームベースを踏んだ。マッカーサーはこれらの活躍で、レター表彰(ウェストポイントの略称であるArmyの頭文字Aをジャケットやジャージなどに刺繍できる権利)を受けたが、この表彰により、マッカーサーは死の直前までAの文字が刺繍されたウェストポイントの長い灰色のバスローブを愛用し続けた。しかし野球に熱中するあまり成績が落ちたため、4年生には野球をきっぱりと止め、1903年6月に在学期間中の2,470点満点のうち2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、94名の生徒の首席で卒業した。このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。卒業後は陸軍少尉に任官した。
当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループとみなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願して第3工兵大隊所属となり、アメリカの植民地であったフィリピンに配属された。長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった。マッカーサーも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーは日露戦争を観戦したと自らの回想記に書いているが、彼が日本に到着したのは1905年10月で、ポーツマス条約調印後であり、これは、マッカーサーの回想によくある過大な記述であったものと思われ、回想記の版が重なるといつの間にかその記述は削除されている。その後マッカーサーと家族は日本を出発し、中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行しており、この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与えることになった。また、この旅行の際に日本で東郷平八郎・大山巌・乃木希典・黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている。
その後アメリカに帰国したマッカーサーは1906年9月にセオドア・ルーズベルトの要請で、大統領軍事顧問の補佐官に任じられた。マッカーサーの手際のよい仕事ぶりを高く評価したルーズベルトはマッカーサーに「中尉、君は素晴らしい外交官だ。君は大使になるべきだ」と称賛の言葉をかけている。順調な軍歴を歩んでいたマッカーサーであったが、1907年8月にミルウォーキーの地区工兵隊に配属されると、ミルウォーキーに在住していた裕福な家庭の娘ファニーベル・ヴァン・ダイク・スチュワートに心を奪われ、軍務に身が入っていないことを上官のウィリアム・V・ジャドソン少佐に見抜かれてしまい、ジャドソンは工兵隊司令官に対して「学習意欲に欠け」「勤務時間を無視して私が許容範囲と考える時間を超過して持ち場に戻らず」「マッカーサー中尉の勤務態度は満足いくものではなかった」と報告している。この報告に対してマッカーサーは激しく抗議したが、マッカーサーがミルウォーキーにいた期間は軍務に全く関心を持たず、スチュワートを口説くことだけに関心が集中していたことは事実であり、この人事評価は工兵隊司令部に是認された。これまで順調であったマッカーサーの軍歴の初めての躓きであり、結局は、ここまで入れ込んだ恋愛も実らず、今までの人生で遭遇したことのない大失敗に直面したこととなった。自分の経歴への悪影響を懸念したマッカーサーは一念発起し、自分の評価を挽回するため工兵隊のマニュアル「軍事的破壊」を作成し工兵部隊の指揮官に提出したところ、このマニュアルは陸軍訓練学校の教材に採用されることとなった。このマニュアルによって挫折からわずか半年後にマッカーサーは挫折を克服し、第3工兵隊の副官及び工兵訓練学校の教官に任命されるなど再び高い評価を受けることとなったという。
その後、マッカーサーは1911年2月に大尉に昇進したが、1912年9月に父のアーサーが重い脳卒中でこの世を去った。尊敬していた父の死はマッカーサーに大きな衝撃を与え、マッカーサーはこの後生涯に渡って父の写真を持ち歩いていた。夫の死に大きなショックを受けたマッカーサーの母のメアリーは体調を崩して故郷ボルチモア病院に通院していたが、マッカーサーは少しでも側にいてやりたいと考えて、陸軍に異動願いを出していた。当時のアメリカ陸軍参謀総長は レオナルド・ウッド(英語版) であったが、ウッドはかつて父アーサーの部下として勤務した経験があり、アーサーに大きな恩義を感じていたため、わざわざ陸軍省に省庁間の調整という新しい部署を作ってマッカーサーを異動させた。ワシントンに着任したマッカーサーは定期的に母を見舞うことができた。また、ウッドはマッカーサーの勤務報告書に自ら「とりわけ知的で有能な士官」と記すなど、高く評価したため、この後、急速に出世街道を進んでいくこととなった。
1910年11月に始まったメキシコ革命でビクトリアーノ・ウエルタ将軍が権力を掌握したが、ウエルタ政権を承認しないアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領と対立することとなったため、ウエルタに忠誠を誓うメキシコ兵がアメリカ軍の海兵隊兵士を拘束し、タンピコ事件が発生した。アメリカはメキシコに兵士の解放・事件への謝罪・星条旗に対する21発の礼砲を要求したが、メキシコは兵士の解放と現地司令官の謝罪には応じたが礼砲は拒否した。憤慨したウィルソンは大西洋艦隊第1艦隊司令フランク・F・フレッチャーにベラクルスの占領を命じた(アメリカ合衆国によるベラクルス占領(英語版))。
激しい市街戦により占領したベラクルスに レオナルド・ウッド(英語版) 参謀総長は増援を送り込んだが、歩兵第2師団の第5旅団に偵察要員として、当時大尉であったマッカーサーを帯同させた。マッカーサーの任務は「作戦行動に有益なあらゆる情報を入手する」といった情報収集が主な任務であったが、マッカーサーはベラクルスに到着した第5旅団が輸送力不足により動きが取れないことを知り、メキシコ軍の蒸気機関車を奪取することを思い立った。マッカーサーはメキシコ人の鉄道労働者数人を買収すると、単身でベラクルスより65キロメートル離れたアルバラードまで潜入、内通者の支援により3両の蒸気機関車の奪取に成功した。その後、マッカーサー自身の証言では追撃してきた騎馬隊と激しい銃撃戦の上、マッカーサーは3発も銃弾が軍服を貫通するも無傷で騎馬隊を撃退し、見事にベラクルスまで機関車を持ち帰ってきた。マッカーサーはこの活躍により当然名誉勲章がもらえるものと期待していたが、第5旅団の旅団長がそのような命令を下していないと証言したこと、また銃撃戦の件も内通者のメキシコ人以外に証人はおらず信頼性に乏しいことより、名誉勲章の授与は見送られる事になり、マッカーサーは失望することとなった。
その後にマッカーサーは陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長に就いた。1917年4月にアメリカがイギリス・フランス・日本などとともに連合国の一国として第一次世界大戦に参戦することが決まった。アメリカは戦争準備のため、急きょ1917年5月に選抜徴兵法を制定したが、徴兵部隊が訓練を終えて戦場に派遣されるには1年は必要と思われた。
マッカーサーはニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官と共にホワイトハウスへ行って、ウィルソンに「全米26州の州兵を強化して市民軍としてヨーロッパに派遣すべき」と提案した。ウィルソンはベイカーとマッカーサーの提案を採用しその実行を指示したが、どの州の部隊を最初にフランスに派遣すべきかが悩ましい問題として浮上した。ベイカーは州兵局長ウィリアム・A・マン(英語版)准将とマッカーサーに意見を求めたが、マッカーサーは単独の州ではなくいくつかの州の部隊で師団を編成することを提案し、その提案に賛成したマンが「全26州の部隊で編成してはどうか」と補足すると、マッカーサーは「それはいいですね、そうすれば師団は全国に虹のようにかかることになります」と言った。ベイカーはその案を採用し第42師団(英語版)を編成した。師団長にはマン、そして少佐だったマッカーサーを二階級特進させ大佐とし参謀長に任命した。戦争に参加したくてたまらず、知り合いの記者に「真の昇進はフランスに行った者に与えられるであろう」と思いのたけを打ち明けていたマッカーサーには希望どおりの人事であった。第42師団は「レインボー師団」と呼ばれることになった。
第42師団は1918年2月に西部戦線に参戦した。マッカーサーが手塩にかけて育成した兵士は勇猛に戦い、多くの死傷者を出しながらも活躍した。アメリカが第一次世界大戦でフランスに派遣した部隊の中では、正規軍と海兵隊で編成された精鋭部隊歩兵第2師団に次ぐ貢献度とされた。マッカーサーも参謀長であるにもかかわらず、前線に出たがった。正規の軍装は身に着けず、ヘルメットを被らず常に軍帽を着用し、分厚いタートルネックのセーターに母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを首に巻き、光沢のあるカーフブーツを履いて、武器の代わりに乗馬鞭か杖を握りしめているという目立つ格好であった。
マッカーサーは前線の偵察を自ら直接行うこともあり、度々危険な目にあっている。車両に乗って偵察した際にはドイツ軍の機関銃に射撃され、車両は破壊されたがマッカーサーは奇跡的に無事であった。また少数のパトロール部隊を率いて夜間偵察した際には、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受け、マッカーサー以外の兵士は全員戦死したということもあった。マッカーサーはその後、第42師団の第84旅団の旅団長(准将)に就任し、休戦前には一時的に師団長が不在となったため、准将ながら第42師団を率いたこともあった。マッカーサーは第一次世界大戦中に戦場において2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。
このヨーロッパ派遣軍(AEF)の総司令官はジョン・パーシングであったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。
しかし、マッカーサーの母メアリーは、夫アーサーが在フィリピンのアメリカ軍司令官だったころに、当時大尉であったパーシングの面倒をみていたという伝手を頼って、マッカーサーを早く昇進させるようにと嘆願する手紙をたびたび送っていた。またベイカーにも同じような手紙を何通も送っている。そのおかげか、大戦中にマッカーサーは前述のように准将に昇進しており、メアリーはパーシングに「息子は貴方の期待を裏切らないはずです」というお礼の手紙を送っている。また、大戦後にパーシングが参謀総長に就任すると、「息子を早く少将に昇進させて欲しい」との手紙も送っている。メアリーはマッカーサーを溺愛するあまり過保護であり、大戦前の1909年に夫アーサーが軍を退役した際には、マッカーサーの将来を憂いて、鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンに「陸軍よりもっと出世が約束される仕事に就かせたい、貴方の壮大な企業のどこかで雇ってはもらえないだろうか」という手紙も送っていた。
大戦後にマッカーサーは、母校である陸軍士官学校の校長に就任した(1919年 - 1922年)。当時39歳と若かったマッカーサーは辣腕を振るい、士官学校の古い体質を改革して現代的な軍人を育成する場へと変貌させた。マッカーサーが在学中に痛めつけられたしごきの悪習も完全に廃止され、しごきの舞台となっていた野獣兵舎も閉鎖した。代わりに競技スポーツに力をいれ、競技種目を3種目(野球・フットボール・バスケットボール)から17種目に増やし、全員参加の校内競技大会を開催することで団結心が養われた。その指導方針は厳格であり、当時の生徒は「泥酔した生徒が沢山いる部屋にマッカーサーが入ってくると、5分もしないうちに全員の心が石のように正気にかえった。こんなことができたのは世界中でマッカーサーただ一人であっただろう」と回想している。マッカーサーはその指導方針で士官候補生の間では不人気であり、ある日、士官候補生数人がマッカーサーに抗議にきたことがあったが、マッカーサーは候補生らの言い分を聞いた後に「日本との戦争は不可避である。その時になればアメリカは専門的な訓練を積んだ士官が必要となる。ウェストポイントが有能な士官の輩出という使命をどれだけ果たしたかが戦争の帰趨を決することになる」と言って聞かせると、候補生らは納得して、それ以降は不満を言わずに指導に従った。
その後、1922年に縁の深いフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され着任する。その際、同年結婚した最初の妻ルイーズ・クロムウェル・ブルックス(英語版)を伴ってのフィリピン行きとなった。ルイーズは大富豪の娘で社交界の花と呼ばれていたため、2人の結婚は「軍神と百万長者の結婚」と騒がれた。この人事については、ルイーズがパーシング参謀総長の元愛人であり、それを奪ったマッカーサーに対する私怨の人事と新聞に書きたてられ、パーシングはわざわざ新聞紙面上で否定せざるを得なくなった。しかし、当時パーシングはルイーズと別れ20歳のルーマニア女性と交際しており、ルイーズはパーシングと別れた後、パーシングの副官ジョン・キュークマイヤーを含む数人の軍人と関係するなど恋多き女性であった。
このフィリピン勤務でマッカーサーは、後のフィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)初代大統領マニュエル・ケソンなどフィリピンに人脈を作ることができた。翌1923年には関東大震災が発生、マッカーサーはフィリピンより日本への救援物資輸送の指揮をとっている。これらの功績が認められ、1925年にアメリカ陸軍史上最年少となる44歳での少将への昇進を果たし、米国本土へ転属となった。
少将になったマッカーサーに最初に命じられた任務は、友人であるウィリアム・ミッチェルの軍法会議であった。ミッチェルは航空主兵論の熱心な論者で、自分の理論の正しさを示すため、旧式戦艦や標的艦を航空機の爆撃により撃沈するデモンストレーションを行ない、第一次世界大戦中にアメリカに空軍の基盤となるべきものが作られたにもかかわらず、政府がその後の空軍力の発展を怠ったとして、厳しく批判していた。軍に対してもハワイ、オアフ島の防空体制を嘲笑う意見を公表したり、軍が航空隊の要求する予算を承認しないのは犯罪行為に等しい、などと過激な発言を繰り返し、この歯に衣を着せぬ発言が『軍への信頼を失墜させ』『軍の秩序と規律に有害な行為』とみなされ、軍法会議にかけられることとなったのである。マッカーサーは、父アーサーとミッチェルの父親が同僚であった関係で、ミッチェルと少年時代から友達付き合いをしており、この軍法会議の判事となる任務が「私が受けた命令の中で一番やりきれない命令」と言っている。マッカーサーは判事の中で唯一「無罪」の票を投じたがミッチェルは有罪となり1926年に除隊した。その後、ミッチェルの予言どおり航空機の時代が到来したが、その時には死後10年後であり、ようやくミッチェルはその先見の明が認められ、1946年に名誉回復され、少将の階級と議会名誉黄金勲章が遺贈された。
1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた際「我々がここへ来たのはお上品に敗けるためではない。我々は勝つために来たのだ。それも決定的に勝つために」と答えた。しかし、マッカーサーの意気込みどおりとはならず、アメリカは前回のパリオリンピックの金メダル45個から22個に半減し、前評判の割には成績は振るわなかった。アメリカ国民の失望は大きく、選手団に連日非難の声が寄せられた。この大会では日本が躍進し、史上初の金メダルを2個獲得している。金メダルを三段跳で獲得した織田幹雄は終戦時に、その折のアメリカ選手団団長のマッカーサーが占領軍の最高司令官であったことに驚いたという。
マッカーサーがオリンピックでアムステルダムにいた頃、妻ルイーズがアメリカにて複数の男性と浮気をしていたと新聞のゴシップ欄で報じられた。ルイーズは新婚当初は知人を通じ、当時の陸軍長官ジョン・ウィンゲイト・ウィークスに、「ダグラスが昇進できるように一肌脱いでほしい、工作費はいくら請求してくれてもよい」と働きかけるほど、夫マッカーサーに尽くそうとしていたが、華美な生活を求めたルイーズとマッカーサーは性格が合わず、1929年には離婚が成立している。ルイーズとの夫婦生活での話は後にゴシップ化し、面白おかしくマスコミに取り上げられてマッカーサーを悩ませることになる。
離婚のごたごたで傷心のマッカーサーに、在フィリピン・アメリカ陸軍司令官として再度フィリピン勤務が命じられたが、マッカーサーはこの異動を「私にとってこれほどよろこばしい任務はなかった」と歓迎している。マッカーサーは当時のアメリカ人としては先進的で、アジア人に対する差別意識が少なく、ケソンらフィリピン人エリートと対等に付き合い友情を深めた。また、アメリカ陸軍フィリピン人部隊(フィリピン・スカウト)の待遇を改善し、強化を図っている。この当時は日本が急速に勢力を伸ばし、フィリピンにも日本人の農業労働者や商売人が多数移民してきており、マッカーサーは脅威に感じて防衛力の強化が必要と考えていたが、アメリカ本国はフィリピン防衛に消極的で、フィリピンには17,000名の兵力と19機の航空機しかなく、マッカーサーはワシントンに「嘆かわしいほどに弱体」と強く抗議している。ケソンはこのようにフィリピンに対して親身なマッカーサーに共感し、ヘンリー・スティムソンの後任のフィリピン総督に就任することを願った。マッカーサーも、かつて父アーサーも就任した総督の座を希望しており、ケソンらに依頼しフィリピンよりマッカーサーの推薦状を送らせている。しかし工作は実らず、総督には前陸軍長官のドワイト・フィリー・デイヴィスが就任した。
私生活では、1929年にマニラで混血の女優エリザベス・イザベル・クーパー(英語版)との交際が始まったが、マッカーサー49歳に対し、イザベルは当時16歳であった。
1930年、大統領ハーバート・フーヴァーにより、アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命された。このポストは大将職であるため、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付き、マッカーサーとアイゼンハワーの長くて有名な関係が始まった。アイゼンハワーはウェストポイントを平均的な成績で卒業していたが、英語力に極めて優れており、分かりやすく、構成のしっかりした、印象的な報告書を作成することに長けていた。アイゼンハワーはパーシングの回顧録記述の手伝いをし、第一次世界大戦におけるアメリカ陸軍の主要な公式報告書の多くを執筆した。マッカーサーはこうしたアイゼンハワーの才能を報告書を通じて知ると、参謀本部の年次報告書などの重要な報告書作成任務のために抜擢したのであった。マッカーサーはアイゼンハワーが提出してきた報告書に、自らが直筆した称賛の手紙を入れて返した。アイゼンハワーはその手紙に感動して母親に見せたが、母親はさらに感激してマッカーサーの手紙を額に入れて飾っていた。
前年の「暗黒の木曜日」に端を発した世界恐慌により、陸軍にも軍縮の圧力が押し寄せていたが、マッカーサーは議会など軍縮を求める勢力を「平和主義者とその同衾者」と呼び、それらは共産主義に毒されていると断じ、激しい敵意をむき出しにしていた。当時、アメリカ陸軍は世界で17番目の規模しかなく、ポルトガル陸軍やギリシャ陸軍と変わらなくなっていた。また兵器も旧式であり、火砲は第一次世界大戦時に使用したものが中心で、戦車は12両しかなかった。しかし議会はさらなる軍事費削減をせまり、マッカーサーの参謀総長在任時の主な仕事は、この小さい軍隊の規模を守ることになった。
1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る事件(ボーナスアーミー)が発生した。全国から集まった退役軍人とその家族は一時、22,000名にも上った。特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され、連邦政府に対する革命行動を煽っている、と根拠のない非難をおこなった。退役軍人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの交通費の支給などの懐柔策で、少しずつであるが解散して行った。しかし、フーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもかかわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が警察と軍に、デモ隊の排除を命令した。マッカーサーはジョージ・パットン少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令に反し、アナコスティア川を渡河して退役軍人らのテント村を焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた。マッカーサーは夜の記者会見で、「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と鎮圧行動は正当であると主張したが、やりすぎという非難の声は日増に高まることとなった。
マッカーサーは自分への非難の沈静化を図るため、ボーナスアーミーでの対応で非難する記事を書いたジャーナリストのドルビー・ピアソンとロバート・S・アレンに対し、名誉棄損の訴訟を起こすが、かえってジャーナリストらを敵に回すことになり、ピアソンらは当時関係が破局していたマッカーサーの恋人イザベルの存在を調べ上げると、マッカーサーが大統領や陸軍長官など目上に対して侮辱的な言動をしていたことや、私生活についての情報をイザベルより入手している。その後、マッカーサーとピアソンらは名誉棄損の訴訟を取り下げる代わりに、スキャンダルとして記事にしないことやイザベルに慰謝料を払うことで和解している。
フーヴァーはボーナスアーミーでの対応の不手際や、恐慌に対する有効な政策をとれなかったため、フランクリン・ルーズベルトに大統領選で歴史的大敗を喫して政界を去ったが、ルーズベルトもフーヴァーと同様に、不況対策と称して軍事予算削減の方針であった。マッカーサーはルーズベルトに「大統領は国の安全を脅かしている、アメリカが次の戦争に負けて兵隊たちが死ぬ前に言う呪いの言葉は大統領の名前だ」と辞任覚悟で詰め寄るが、結局陸軍予算は削減された。マッカーサーはルーズベルトが進めるニューディール政策には終始反対の姿勢であったが、ルーズベルトがニューディール政策の一つとして行った CCC(市民保全部隊)による失業者救済に対し、陸軍の組織力や指導力を活用して協力し、初期の成功に大きく貢献している。
この頃のマッカーサーは公私ともに行き詰まりを感じて、自信喪失に苦しんでおり、時々自殺をほのめかすときがあった。その度に副官のトーマス・ジェファーソン・デービス(英語版)大尉などがマッカーサーに拳銃を置くように説得したが、ある日、マッカーサーとデービスが公務で一緒に汽車に乗り、その汽車が、マッカーサーの父アーサーが南北戦争時に活躍した戦場の付近を通ったとき、マッカーサーがデービスに「私は陸軍と人生において、出来得る限りのことをやり終え、今や参謀総長としての任期も終わろうとしている。テネシー川の鉄橋を通過するとき、私は列車から飛び降りるつもりだ。ここで私の人生は終わるのだ」と語りかけてきた。このようなやりとりにうんざりしていたデービスは「うまく着水できることを祈ります」と答えると、マッカーサーはばつが悪い思いをしたのか、荒々しくその客車を出て行ったが、後ほどデービスに感情的になっていたと謝罪している。
マッカーサーは史上初の参謀総長再任を希望し、ルーズベルトもまた意見は合わないながらもその能力を高く評価しており、暫定的に1年間、参謀総長の任期を延長している。
1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定したため、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。マッカーサーはケソンから提示された、18,000ドルの給与、15,000ドルの交際費、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームの滞在費に加えて秘密の報酬 という破格の条件から、主に経済的な理由により軍事顧問団への就任を快諾している。
フィリピンには参謀総長時代から引き続いて、アイゼンハワーとジェームズ・D・オード両少佐を副官として指名し帯同させた。アイゼンハワーは行きたくないと考えており「参謀総長時代に逆らった私を懲らしめようとして指名した」と感じたと後に語っている。
フィリピン行きの貨客船「プレジデント・フーバー (S.S. President Hoover) 」には2番目の妻となるジーン・マリー・フェアクロスも乗っており、船上で2人は意気投合して、2年後の1937年に結婚している。また、母メアリーも同乗していたが、既に体調を崩しており長旅の疲れもあってか、マッカーサーらがマニラに到着した1か月後に亡くなっている。
1936年2月にマッカーサーは、彼のためにわざわざ設けられたフィリピン陸軍元帥に任命された。副官のアイゼンハワーは、存在もしない軍隊の元帥になるなど馬鹿げていると考え、マッカーサーに任命を断るよう説得したが、聞き入れられなかった。後年ケソンに尋ねたところ、これはマッカーサー自身がケソンに発案したものだった。しかし肝心の軍事力整備は、主に資金難の問題で一向に進まなかった。マッカーサーは50隻の魚雷艇、250機の航空機、40,000名の正規兵と419,300名のゲリラで、攻めてくる日本軍に十分対抗できると夢想していたが、実際にアイゼンハワーら副官が軍事力整備のために2,500万ドルの防衛予算が必要と提言すると、ケソンとマッカーサーは800万ドルに削れと命じ、1941年には100万ドルになっていた。
軍には金はなかったが、マッカーサー個人はアメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。1936年1月17日にはマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。
1937年12月にマッカーサーは陸軍を退官する歳となり、アメリカ本土への帰還を望んだが、新しい受け入れ先が見つからなかった。そこでケソンがコモンウェルスで軍事顧問として直接雇用すると申し出て、そのままフィリピンに残ることとなった。アイゼンハワーら副官もそのまま留任となった。1938年1月にマッカーサーが軍事力整備の成果を見せるために、マニラで大規模な軍事パレードを計画した。アイゼンハワーら副官は、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーを諫めるも聞き入れず、副官らにパレードの準備を命令した。それを聞きつけたケソンが、自分の許可なしに計画を進めていたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーらに責任を転嫁した。このことで、マッカーサーとアメリカ軍の軍事顧問幕僚たちとの決裂は決定的となり、アイゼンハワーは友人オードの航空事故死もあり、フィリピンを去る決意をした。1939年に第二次世界大戦が開戦すると、アメリカ本国に異動を申し出て、後に連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官となった。アイゼンハワーの後任にはリチャード・サザランド大佐が就いた。
第二次世界大戦が始まってからも主に予算不足が原因で、フィリピン軍は強化が進まなかったが、日独伊三国同盟が締結され、日本軍による仏印進駐が行われると、ルーズベルトは強硬な手段を取り、石油の禁輸と日本の在米資産を凍結し、日米通商航海条約の失効もあって極東情勢は一気に緊張した。継続的な日米交渉による打開策模索の努力も続けられたが、日本との戦争となった場合、フィリピンの現戦力ではオレンジ計画を行うのは困難であるとワシントンは認識し、急遽フィリピンの戦力増強が図られることとなった。マッカーサーもその流れの中で、1941年7月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰(7月26日付で少将として召集、翌日付で中将に昇進、12月18日に大将に昇進)した。それで在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった。
それまでフィリピンに無関心であったワシントンであったが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は「フィリピンの防衛はアメリカの国策である」と宣言し、アメリカ本国より18,000名の最新装備の州兵部隊を増援に送るとマッカーサーに伝えたが、マッカーサーは増援よりもフィリピン軍歩兵の装備の充実をマーシャルに要請し了承された。またアメリカ陸軍航空隊が『空飛ぶ要塞』と誇っていた新兵器の大型爆撃機B-17の集中配備を計画した。陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド少将は「手に入り次第、B-17をできるだけ多くフィリピンに送れ」と命令し、計画では74機のB-17を配備し、フィリピンは世界のどこよりも重爆撃機の戦力が集中している地域となる予定であった。他にも急降下爆撃機A-24、戦闘機P-40など、当時のハワイよりも多い207機の航空機増援が約束され、その増援一覧表を持ってマニラを訪れたルイス・ブレアトン(英語版)少将に、マッカーサーは興奮のあまり机から跳び上がり抱き付いたほどであった。
マーシャルはB-17を過信するあまり日本軍航空機を過少評価しており、「戦争が始まればB-17はただちに日本の海軍基地を攻撃し、日本の紙の諸都市を焼き払う」と言明している。B-17にはフィリピンと日本を往復する航続距離は無かったが、爆撃機隊は日本爆撃後、ソビエト連邦のウラジオストクまで飛んで、フィリピンとウラジオストクを連続往復して日本を爆撃すればいいと楽観的に考えていた。その楽観論はマッカーサーも全く同じで「12月半ばには陸軍省はフィリピンは安泰であると考えるに至るであろう(中略)アメリカの高高度を飛行する爆撃隊は速やかに日本に大打撃を与えることができる。もし日本との戦争が始まれば、アメリカ海軍は大して必要がなくなる。アメリカの爆撃隊は殆ど単独で勝利の攻勢を展開できる」という予想を述べているが、この自軍への過信と敵への油断は後にマッカーサーへ災いとして降りかかることになった。
また同時に、海軍のアジア艦隊(英語版)の増強も図られ、潜水艦23隻が送られることとなり、アメリカ海軍で最大の潜水艦隊となった。アジア艦隊司令長官は、マッカーサーの知り合いでもあったトーマス・C・ハートであったが、マッカーサーは自分が中将なのにハートが大将なのが気に入らなかったという。そのためマッカーサーは「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、ハートやアジア艦隊を揶揄していた。
マッカーサーは戦力の充実により、従来の戦術を大きく転換することとした。現状のペースで戦力増強が進めば1942年4月には20万人のフィリピン軍の動員ができ、マーシャルの約束どおり航空機と戦車が配備されれば、上陸してくる日本軍を海岸で阻止できるという目論みに基づく計画であった。当初のオレンジ計画では内陸での防衛戦を計画しており、物資や食糧は有事の際には強固に陣地化されているバターン半島に集結する予定であったが、マッカーサーの新計画では水際撃滅の積極的な防衛戦となるため、物資は海岸により近い平地に集結させられることとなった。この転換は後に、マッカーサーとアメリカ軍・フィリピン軍兵士を苦しめることとなったが、マッカーサーの作戦変更の提案にマーシャルは同意した。もっとも重要な首都マニラを中心とするルソン島北部にはジョナサン・ウェインライト少将率いるフィリピン軍4個師団が配置された。日本軍の侵攻の可能性が一番高い地域であったが、ウェインライトが守らなければいけない海岸線の長さは480kmの長さに達しており、任された兵力では到底戦力不足であった。しかし、マッカーサーはウェインライトに「どんな犠牲を払っても海岸線を死守し、絶対に後退はするな」と命じていた。
マッカーサーが戦力の充実により防衛の自信を深めていたのとは裏腹に、フィリピン軍の状況は不十分であった。マッカーサーらが3年半も訓練してきたものの、その訓練は個々の兵士の訓練に止まり部隊としての訓練はほとんどなされていなかった。師団単位の訓練や砲兵などの他兵科との共同訓練の経験はほとんど無かった。兵士のほとんどが人生で初めて革靴を履いた為、多くの兵士が足を痛めており、テニス・シューズや裸足で行軍する兵士も多かった。また各フィリピン軍師団には部隊を訓練する為、数十人のアメリカ軍士官と100名の下士官が配属されていたが、フィリピン兵は英語をほとんど話せないためコミュニケーションが十分に取れなかった。また、フィリピン兵同士も部族が違えば言語が通じなかった。マッカーサーはフィリピン軍の実力に幻想を抱いては無かったが、陸軍が約束した大量の増援物資が到着し、部隊を訓練する時間が十分に取れればフィリピンの防衛は可能と思い始めていた。実際に1941年11月の時点で10万トンの増援物資がフィリピンに向かっており、100万トンがフィリピンへ輸送されるためアメリカ西海岸の埠頭に山積みされていた。
1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤで開戦、次いでハワイ州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まった。
12月8日フィリピン時間で3時30分に副官のサザーランドはラジオで真珠湾の攻撃を知りマッカーサーに報告、ワシントンからも3時40分にマッカーサー宛て電話があったが、マッカーサーは真珠湾で日本軍が撃退されると考え、その報告を待ち時間を無駄に浪費した。その間、アメリカ極東空軍の司令に就任していたブレアトン少将が、B-17をすぐに発進させ、台湾にある日本軍基地に先制攻撃をかけるべきと2回も提案したがマッカーサーはそのたびに却下した。
夜が明けた8時から、ブレアトンの命令によりB-17は日本軍の攻撃を避ける為に空中待機していたが、ブレアトンの3回目の提案でようやくマッカーサーが台湾攻撃を許可したため、B-17は11時からクラークフィールドに着陸し爆弾を搭載しはじめた。B-17全機となる35機と大半の戦闘機が飛行場に並んだ12時30分に日本軍の海軍航空隊の零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸上攻撃機合計106機がクラークフィールドとイバフィールドを襲撃した。不意を突かれたかたちとなったアメリカ軍は数機の戦闘機を離陸させるのがやっとであったが、その離陸した戦闘機もほとんどが撃墜され、陸攻の爆撃と零戦による機銃掃射で次々と撃破されていった。この攻撃でB-17を18機、P-40とP-35の戦闘機58機、その他32機、合計108機を失い、初日で航空戦力が半減する事となった。その後も日本軍による航空攻撃は続けられ、12月13日には残存機は20機以下となり、アメリカ極東空軍は何ら成果を上げる事なく壊滅した。
台湾の日本軍はフィリピンからの爆撃に備えており、マッカーサーには攻撃できるチャンスもあったが、判断を誤って満足に戦うこともなくフィリピンの航空戦力を壊滅させてしまった。マッカーサーは自分の判断の誤りを最期まで認めることはなく、晩年に至るまで零戦は台湾ではなくフィリピン近海の空母から出撃したと言い張り続けた。また、ブレアトンからの出撃の提案も、副官のサザーランドにされたもので自分は聞いていなかったとも主張し、仮に出撃したとしても、戦闘機の護衛をまともにつけることはできなかったので自殺行為になったとも主張した。しかし、攻撃するという決断ができなかったとしても、虎の子のB-17をクラークフィールド上空に退避飛行させるという無駄な行動ではなく、日本軍から攻撃されなかったミンダナオ島の飛行場に退避させる命令をしていれば、こうも簡単に撃破されることはなかったはずであり、このマッカーサーの重大な判断ミスによって、アメリカ軍とマッカーサー自身がやがて手ひどい報いを受けることとなってしまった。
マーシャルの約束していた兵力増強にはほど遠かったが、マッカーサーは優勢な航空兵力と15万の米比軍で上陸する日本軍を叩きのめせると自信を持っていた。しかし、頼みの航空戦力は序盤であっさり壊滅してしまい、日本軍が12月10日にルソン島北部のアバリとビガン、12日には南部のレガスピに上陸してきた。マッカーサーはマニラから遠く離れたこれらの地域への上陸は、近いうちに行われる大規模上陸作戦の支援目的と判断して警戒を強化した。マッカーサーは日本軍主力の上陸を12月28日頃と予想していたが、本間雅晴中将率いる第14軍主力は、マッカーサーの予想より6日も早い22日朝にリンガエン湾から上陸してきた。上陸してきた第14軍は第16師団と第48師団の2個師団だが、既に一部の部隊がルソン島北部に上陸しており、9個師団を有するルソン島防衛軍に対しては強力な部隊には見えなかったが、上陸してきた日本軍を海岸で迎え撃ったアメリカ軍とフィリピン軍は、訓練不足でもろくも敗れ去り、我先に逃げ出した。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、勝敗は決したと悟ると自分の考案した水際作戦を諦め、当初のオレンジ計画に戻すこととし、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城するように命じた。
12月23日、アメリカ軍司令部はマッカーサーのマニラ退去を発表。マッカーサーはマニュエル・ケソン大統領に対しても退去勧告を行い、12月26日、フィリピン政府もマニラを去ることを決定した。
ウェインライトの巧みな退却戦により、バターン半島にほとんどの戦力が軽微な損害で退却できたが、一方でマッカーサーの作戦により平地に集結させていた食糧や物資の輸送が、マッカーサー司令部の命令不徹底やケソンの不手際などでうまくいかず、設置されていた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラックまでが溢れていたが、これをほとんど輸送することができず日本軍に接収されてしまった。その内のひとつ、中部ルソン平野にあったカバナチュアン物資集積所だけでも米が5,000万ブッシェルもあったが、これは米比全軍の4年分の食糧にあたる量であった。
バターン半島には、オレンジ計画により40,000名の兵士が半年間持ち堪えられるだけの物資が蓄積されていたが、全く想定外の10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が立て籠もることとなった。マッカーサーは少しでも長く食糧をもたせるため、食糧の配給を半分にすることを命じたが、これでも4か月はもたないと思われた。快進撃を続ける日本軍は第14軍主力がリンガエン湾に上陸してわずか11日後の1942年1月2日に、無防備都市宣言をしていたマニラを占領した。本間中将はマッカーサーが滞在していたマニラ・ホテルの最上階に日章旗を掲げさせたが、それを双眼鏡で確認したマッカーサーは、居宅としていたスイートルームの玄関ホールに飾っていた、父アーサーが1905年に明治天皇から授与された花瓶に、本間中将は気が付いて頭を下げるんだろうか?と考えて含み笑いをした。
マッカーサーはマニラ陥落後、米比軍がバターン半島に撤退を完了した1月6日の前に、コレヒドール島のマリンタ・トンネル(英語版)内に設けられた地下司令部に、妻ジーンと子供のアーサー・マッカーサー4世を連れて移動したが、コレヒドール島守備隊ムーア司令の奨めにもかかわらず、住居は地下壕内ではなく地上にあったバンガロー風の宿舎とした。幕僚らは日本軍の爆撃の目標になると翻意を促したがマッカーサーは聞き入れなかった。マッカーサーは日本軍の空襲があると防空壕にも入らず、悠然と爆撃の様子を観察していた。ある時にはマッカーサーの近くで爆弾が爆発し、マッカーサーを庇った従卒の軍曹が身代わりとなって負傷することもあった。一緒にマリンタ・トンネルに撤退してきたケソンはそんなマッカーサーの様子を見て無謀だと詰ったが、マッカーサーは「司令官は必要な時に危険をおかさなければいけないこともある。部下に身をもって範を示すためだ」と答えている。
マッカーサーは日本軍の戦力を過大に評価しており、6個師団が上陸してきたと考えていたが、実際は2個師団相当の40,000名であった。一方で、日本軍は逆にアメリカ・フィリピン軍を過小評価しており、残存兵力を25,000名と見積もっていたが、実際は80,000名以上の兵員がバターンとコレヒドールに立て籠もっていた。当初から、第14軍の2個師団の内、主力の機械化師団第48師団は、フィリピン攻略後に蘭印作戦に転戦する計画であったが、バターン半島にアメリカ・フィリピン軍が立て籠もったのにもかかわらず、大本営は戦力の過小評価に基づき、計画どおり第48師団を蘭印作戦に引き抜いてしまった。本間中将も戦力を過少評価していたので、1942年1月から第65旅団でバターン半島に攻撃をかけたが、敵が予想外に多く反撃が激烈であったため、大損害を被って撃退されている。その後、日本軍はバターンとコレヒドールに激しい砲撃と爆撃を加えたが、地上軍による攻撃は3週間も休止することとなった。
その間、日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れるバターン半島の米比軍は、収穫期前の米と軍用馬を食べ尽くし、さらに野生の鹿と猿も食料とし絶滅させてしまった。マッカーサーらは「2か月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』している」とアメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出したが、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。ワシントンではフィリピンの対応に苦慮しており、洪水のように戦況報告や援軍要請の電文を打電してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッカーサーはかつてないほど大きなベイビーになっている。しかし我々は彼をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記している。
しかしその当時、バターン半島とコレヒドール島は攻勢を強める枢軸国に対する唯一の抵抗拠点となっており、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「マッカーサー将軍指揮下の弱小なアメリカ軍が見せた驚くべき勇気と戦いぶりに称賛の言葉を送りたい」と議会で演説するなど注目されていた。ワシントンも様々な救援策を検討し、12月28日にはフィリピンに向けてルーズベルトが「私はフィリピン国民に厳粛に誓う、諸君らの自由は保持され、独立は達成され、回復されるであろう。アメリカは兵力と資材の全てを賭けて誓う」と打電し、マッカーサーとケソンは狂喜したが、実際には重巡ペンサコーラに護衛されマニラへ大量の火砲などの物資を運んでいた輸送船団が、危険を避けてオーストラリアに向かわされるなど、救援策は具体的には何もなされなかった。
マッカーサーがコレヒドールに撤退した頃には、ハートのアジア艦隊は既にフィリピンを離れオランダ領東インドに撤退し、太平洋艦隊主力も真珠湾で受けた損害が大きすぎてフィリピン救出は不可能であり、ルーズベルトと軍首脳はフィリピンはもう失われたものと諦めていた。マーシャルはマッカーサーが死ぬよりも日本軍の捕虜となることを案じていたが、それはマッカーサーがアメリカ国内で英雄視され、連日マッカーサーを救出せよという声が新聞紙面上を賑わしており、捕虜になった場合、国民や兵士の士気に悪い影響が生じるとともに、アメリカ陸軍に永遠の恥辱をもたらすと懸念があったからである。しかしマッカーサーは降伏する気はなく、1942年1月10日に本間中将から受け取った降伏勧告の書簡を黙殺しているが、それはアメリカ本国からの支援があると固く信じていたからであった。フィリピンへの支援を行う気が無いマーシャルら陸軍省は、この時点でマッカーサーをオーストラリアに逃がすことを考え始め、2月4日にマッカーサーにオーストラリアで新しい司令部を設置するように打診したがマッカーサーはこれを拒否、逆に海軍が太平洋西方で攻勢に出て、日本軍の封鎖を突破するように要請している。
コレヒドールの要塞に逃げ込んでしばらくすると、ケソンはルーズベルトがフィリピンを救援するつもりがない事を知って気を病み、マッカーサーに「この戦争は日本と米国の戦いだ。フィリピン兵士に武器を置いて降伏するよう表明する。日米はフィリピンの中立を承認してほしい」と申し出た。マッカーサーはこの申し出をルーズベルトに報告するのを躊躇ったが、アメリカ本国がフィリピンを救援するつもりがないのなら、軍事的観点からこのケソンの申し出はアメリカにとって失うものは何もないと判断し、ルーズベルトに報告した。しかしこの報告を聞いたルーズベルトは迅速かつ強烈な「アメリカは抵抗の可能性ある限り(フィリピンから)国旗を降ろすつもりはない」という返事をケソンに行い、マッカーサーへはマーシャルを通じて「ケソンをフィリピンより退避させよ」との指示がなされた。 マッカーサーはケソン大統領に脱出を促すと共に、軍事顧問就任時に約束した秘密の報酬の支払いを要求した。話し合いの結果、マッカーサー50万ドル、副官らに14万ドル支払われる事となり、2月13日にお金を受け取る側のマッカーサー自らが副官サザーランドに命じ、マッカーサーらに64万ドルをフィリピンの国庫より支払うとするフィリピン・コモンウェルス行政命令第1号を作らせ、2月15日、ケソンはニューヨークのチェース・ナショナル銀行のフィリピン政府の口座からケミカル・ナショナル銀行のマッカーサーの個人口座に50万ドルを振り込む手続きをした。ケソンは2月20日にアメリカ軍の潜水艦ソードフィッシュでコレヒドールから脱出した。
ケソンは後に空路でアメリカ・ワシントンに向かい、かつてのマッカーサーの副官アイゼンハワーと再会し、マッカーサーらに大金を渡したようにアイゼンハワーにも功労金という名目で6万ドルを渡そうとしたが、アイゼンハワーは断固として拒否している。ケソンはその後、レイテへの進攻直前の1944年8月にニューヨークで病死し二度とフィリピンの土を踏むことは無かった。
ルーズベルトはマッカーサーに降伏の権限は与えていたが、陸軍省が画策していたオーストラリアへの脱出は考えていなかった。ある日の記者会見で「マッカーサー将軍にフィリピンから脱出を命じ全軍の指揮権を与える考えはないのか」との記者の質問に「いや私はそうは思わない、それは良く事情を知らない者が言うことだ」と否定的な回答をしている。これはルーズベルトの「そうすることは白人が極東では完全に面子を失うこととなる。白人兵士たるもの、戦うもので、逃げ出すことなどできない」という考えに基づくものであった。
最終的にルーズベルトが考えを変えたのは、日本軍の快進撃で直接の脅威を受けることとなったオーストラリアが北アフリカ戦線に送っている3個師団の代わりに、アメリカがオーストラリアの防衛を支援して欲しいとチャーチルからの要請があり、その司令官としてチャーチルがマッカーサーを指名したためである。1942年2月21日、ルーズベルトはチャーチルからの求めや、マーシャルら陸軍の説得を受け入れマッカーサーにオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーは「私と私の家族は部隊と運命を共にすることを決意した」と命令違反を犯し軍籍を返上して義勇兵として戦おうとも考えたが、いったんオーストラリアに退き、援軍を連れてフィリピンに救援に戻って来ようという考えに落ち着き、ルーズベルトの命令を受けることとした。
マッカーサーが脱出を迷っている間にも戦局は悪化する一方で、飢餓と疫病に加えアメリカ・フィリピン軍の兵士を苦しめたのは、日本軍の絶え間ない砲撃による睡眠不足であった。もはやバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた。12月10日のビガン上陸作戦時にアメリカ軍のB-17が軽巡洋艦名取を爆撃し至近弾を得たが、B-17が撃墜されたためその戦果が戦艦榛名撃沈、さらに架空の戦艦ヒラヌマを撃沈したと誤認して報告されると、マッカーサー司令部はこの情報に飛び付き大々的に宣伝した。その誤報を信じたルーズベルトによって、戦死した攻撃機のパイロットコリン・ケリー大尉には殊勲十字章が授与されるなど、マッカーサー司令部は継続して「ジャップに大損害を与えた」と公表してきたが、3月8日には全世界に向けたラジオ放送で「ルソン島攻略の日本軍司令官本間雅晴は敗北のために面目を失い、ハラキリナイフでハラキリして死にかけている」と声明を出し、さらにその後「マッカーサー大将はフィリピンにおける日本軍の総司令官本間雅晴中将はハラキリしたとの報告を繰り返し受け取った。同報告によると同中将の葬儀は2月26日にマニラで執行された」と公式声明を発表した。さらに翌日には「フィリピンにおける日本軍の新しい司令官は山下奉文である」と嘘の後任まで発表する念の入れようであった。
嘘の公式発表をするのと並行してマッカーサーは脱出の準備を進めていた。コレヒドールにはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた。先に脱出に成功したケソンのようにその潜水艦に同乗するのが一番安全な脱出法であったが、マッカーサーは生まれついての閉所恐怖症であり、脱出方法は自分で決めさせてほしいとマーシャルに申し出し許可された。マッカーサーは、家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出する事とした。3月11日にマッカーサーと家族と使用人アー・チューが搭乗するPT-41(英語版)とマッカーサーの幕僚(陸軍将校13名、海軍将校2名、技術下士官1名)が分乗する他3隻の魚雷艇はミンダナオ島に向かった。一緒に脱出した幕僚は『バターン・ギャング(またはバターン・ボーイズ)』と呼ばれ、この脱出行の後からマッカーサーが朝鮮戦争で更迭されるまで、マッカーサーの厚い信頼と寵愛を受け重用されることとなった。ルーズベルトが脱出を命じたのはマッカーサーとその家族だけで、幕僚らの脱出は厳密にいえば命令違反であったが、マーシャルは後にその事実を知って「驚いた」と言っただけで不問としている。
魚雷艇隊は800kmの危険な航海を無事に成し遂げ、ミンダナオ島陸軍司令官ウィリアム・シャープ准将の出迎えを受けたが、航海中にマッカーサーは手荷物を失い、到着時に所持していた荷物は就寝用のマットレスだけであった。ミンダナオ島には急造されたデルモンテ飛行場があり、マッカーサーはここからボーイングB-17でオーストラリアまで脱出する計画であったが、オーストラリアのアメリカ陸軍航空隊司令ジョージ・ブレット(英語版)中将が遣したB-17は整備が行き届いておらず、出発した4機の内2機が故障、1機が墜落し、日本軍との空中戦で損傷した1機がようやく到着したというありさまで、とても無事にオーストラリアに飛行できないと考えたマッカーサーは、マーシャルにアメリカ本土かハワイから新品のB-17を3機追加で遣すように懇願した結果、オーストラリアで海軍の管理下にあったB-17が3機追加派遣されることとなった。その3機も1機が故障したため、3月16日に2機がデルモンテに到着した。その2機にコレヒドールを脱出した一行と、先に脱出していたケソンが合流し詰め込まれた。乗り込んだ時のマッカーサーの荷物はコレヒドール脱出時より持ってきた就寝用マットレス1枚だけであったが、後にこのマットレスに金貨が詰め込まれていたという噂が広がることとなった。
オーストラリアまで10時間かけて飛行した後、一行は列車で移動し、3月20日にオーストラリアのアデレード駅に到着すると、マッカーサーは集まった報道陣に向けて次のように宣言した。
この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴の数少ない失態となり、後に「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」と言われた。また、「I shall return.」は当時のアメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われた。それまでも、安全なコレヒドールに籠って前線にも出てこないマッカーサーを揶揄し「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を付けられ、歌まで作られて兵士の間で流行していた。専用機にバターン号と名付けるなどバターン半島を特別な地としていたマッカーサーであったが、実際にコレヒドール要塞から出てバターン半島に来たのは1回しかなかった。
オーストラリアで南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任したマッカーサーは、オーストラリアにはフィリピン救援どころか、オーストラリア本国すら防衛できるか疑わしい程度の戦力しかないと知り愕然とした。その時のマッカーサーの様子を、懇意にしていたジャーナリストのクラーク・リーは「死んだように顔が青ざめ、膝はガクガクし、唇はピクピク痙攣していた。長い間黙ってから、哀れな声でつぶやいた。「神よあわれみたまえ」」と回想している。
フィリピン救援は絶望的であったが、マッカーサーはオーストラリアに脱出しても、全フィリピン防衛の指揮権を、残してきたウェインライトに渡すことはせず、6,400kmも離れたオーストラリアから現実離れした命令を送り続けた。それでも、いよいよバターンが日本軍に対して降伏しそうとの報告を受けたマッカーサーは、ウェインライトに「いかなる条件でも降伏するな、食糧・物資がなくなったら、敵軍を攻撃して食糧・物資奪取せよ。それで情勢は逆転できる。それができなければ残存部隊は山岳地帯に逃げ込みゲリラ戦を展開せよ。その時は私は作戦指揮のため、よろこんでフィリピンに戻るつもりである」という現実離れした命令を打電するとマーシャルに申し出たが、却下されている。アメリカ陸軍省はウェインライトを中将に昇格させ、脱出したマッカーサーに代わって全フィリピン軍の指揮を任せようとしたが、フィリピンは複雑なアメリカ陸軍の司令部機構により、南西太平洋方面連合軍最高司令官(Commander IN Chief, SouthWest Pacific Area 略称 CINCSWPA)に新たに任命されたマッカーサーの指揮下になったため、マッカーサーは結局、フィリピン全土が陥落するまで命令を送り続けた。
日本軍第14軍は第4師団と香港の戦いで活躍した第1砲兵隊の増援を得ると総攻撃を開始し、4月9日にバターン半島守備部隊長エドワード・P・キング少将が降伏すると、マッカーサーは混乱し、怒り、困惑した。軍主力が潰えたウェインライトもなすすべなく、5月6日に降伏した。それを許さないマッカーサーは、残るミンダナオ島守備隊のシャープ准将に徹底抗戦を指示するが、シャープはウェインライトの全軍降伏のラジオ放送に従い降伏し、フィリピン守備隊全軍が降伏した。結局、フィリピンが日本軍の計画を超過して、5か月間も攻略に時間を要したのは、マッカーサーの作戦指揮が優れていたのではなく、大本営のアメリカ・フィリピン軍の戦力過少評価により第14軍主力の第48師団がバターン半島攻撃前に蘭印に引き抜かれたのが一番大きな要因となった。マッカーサーは戦後に自身の回顧録などでバターン半島を長期間持ち堪えた戦略的意義を強調していたが、日本軍の大本営は“袋のネズミ”となったバターン半島の攻略を急いで大きな損害を被る必要はないと判断していただけで、実際にバターン半島を早く攻略しなかったことによる戦略的な支障はほとんどなかった。
マッカーサーはこの降伏に激怒し、マッカーサー脱出後も苦しい戦いを続けてきたウェインライトらを許さなかった。ウェインライトについては、終戦後にヘンリー・スティムソン陸軍長官やマーシャルの執り成しもあり、降伏式典に同席させ、名誉勲章叙勲も認めたが、キングらについては終戦後もマッカーサーが赦さなかったため、昇進することもなく終戦直後に退役を余儀なくされている。
バターンで日本軍に降伏したアメリカ極東軍将兵は76,000名にもなり、『戦史上でアメリカ軍が被った最悪の敗北』と言われ、多くのアメリカ人のなかに長く苦痛の記憶として残ることとなった。勝利した日本軍であったが、バターン攻撃当初からバターンに籠ったアメリカ極東軍の兵士数を把握できておらず、予想外の捕虜に対し食糧も運搬手段も準備できていなかった。また、降伏した将兵はマッカーサーの「絶対に降伏するな」という死守命令により、飢餓と病気で消耗しきっていたが、司令官の本間はそういう事情を十分知らされていない中で、バターン半島最南部からマニラ北方のサンフェルナンドまで90kmを徒歩で移動するという捕虜輸送計画を承認した。
徒歩移動中に消耗しきった捕虜たちは、マラリア、疲労、飢餓と日本兵の暴行や処刑で7,000名〜10,000名が死ぬこととなり、後にアメリカで『Bataan Death March(バターン死の行進)』と称されて、日本への敵愾心を煽ることとなった。マッカーサーは、数か月後に輸送中に脱出した兵士より『バターン死の行進』を聞かされると「近代の戦争で、名誉ある軍職をこれほど汚した国はかつてない。正義というものをこれほど野蛮にふみにじった者に対して、適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務だと私は心得ている」という声明を発表するよう報道陣に命じたが、アメリカ本国の情報統制により、『バターン死の行進』をアメリカ国民が知ったのは、1944年1月27日にライフ誌の記事に掲載されてからであった。マッカーサーはこの情報統制に対し憤りを覚えたとしているが、この後、戦争が激化するにつれ、マッカーサー自らも情報統制するようになっていった。
マッカーサーに完勝した本間であったが、フィリピンから逃亡したことについて、全く意外とは感じておらず、取り逃がしたこと悔やんではいなかった。そしてマッカーサーをよき好敵手と感じ、部下に「マッカーサーは相当の軍人であり、政治的手腕もある男だ。彼と戦ったことは私の名誉であり、満足している」と高く評価していたが、当のマッカーサーはこの敗北を屈辱と感じ、その屈辱感を持ち続けており、本間はいずれこのことを思い知らされる時がくることとなる。
オランダ領東インドに後退し、連合国軍艦隊と米英蘭豪(ABDA)艦隊を編成していたハートのアジア艦隊も1942年2月27日から3月1日のスラバヤ沖海戦・バタビア沖海戦で壊滅し、マッカーサーがオーストラリアに到着するまでにオランダ領東インドも日本軍に占領されていた。マッカーサーは敗戦について様々な理由づけをしたが、アメリカと連合国がフィリピンと西太平洋で惨敗したという事実は覆るものではなかった。しかし、アメリカ本国でのマッカーサーの評判は、アメリカ国民の愛国心の琴線に強く触れたこと、また、真珠湾以降のアメリカと連合国がこうむった多大の損害に向けられたアメリカ人の激怒とも結びつき、アメリカ史上もっとも痛烈な敗北を喫した敗将にも拘わらず、英雄として熱狂的に支持された。その様子を見たルーズベルトは驚きながらも、マッカーサーの宣伝価値が戦争遂行に大きく役に立つと認識し利用することとし、1942年4月1日に名誉勲章を授与している。
1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する連合国軍南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。
1943年3月のビスマルク海海戦(いわゆるダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。
マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し、補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『リープフロッギング(蛙飛び)作戦』と呼んでいた。日本軍は空・海でのたび重なる敗戦に戦力を消耗し、制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑どおり、ニューギニアの戦いでは多くの餓死者・病死者を出すこととなった。この勝利は、フィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。
やがて、戦局が連合軍側に有利になると、軍の指揮権が、マッカーサー率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊主力の連合国太平洋軍(英語版)(POA)の2つに分権されている太平洋戦域の指揮権を、かつての部下のアイゼンハワーが、連合国遠征軍最高司令部総司令官として全指揮権を掌握しているヨーロッパ戦線のようにするべきであると主張した。さらにマッカーサーは、自分がその指揮権を統括して、一本化した戦力によってニューブリテン島攻略を起点とした反攻計画「エルクトロン計画」を提案したが、栄誉を独占しようというマッカーサーを警戒していたアーネスト・キング海軍作戦部長が強硬に反対し、結局太平洋の連合軍の指揮権の一本化はならず、1943年5月にワシントンで開催された、ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルによる「トライデント会議」によって、太平洋は従来どおり連合国南西太平洋軍と連合国太平洋軍が2方面で対日反攻作戦を展開していくことが決定された。
反攻ルートについては、バターンの戦い(英語版)の屈辱を早くはらしたいとして、フィリピンの奪還を急ぐマッカーサーが、ニューギニアからフィリピンという比較的大きい陸地を進攻することによって、陸上飛行基地が全作戦線を支援可能となることや、マッカーサーがこれまで行ってきたリープフロッギング(蛙飛び)作戦によって損害を減らすことができると主張していたのに対して、ニミッツは、従来からのアメリカ海軍の対日戦のドクトリンであるオレンジ計画に基づき、太平洋中央の海路による進撃を主張し、マッカーサーに対しては、陸路を進撃することは、海路での進撃と比較して、長い弱い交通線での進撃や補給となって、戦力の不経済な使用となることや、日本本土侵攻には遠回りとなるうえ、進撃路が容易に予知されるので日本軍に兵力の集中を許してしまうこと、また、進撃路となるニューギニアなどには感染症が蔓延しており、兵士を危険に晒すことになると反論した。
アメリカ統合参謀本部は、双方の主張を取り上げて、マッカーサーはビスマルク諸島とニューギニアを前進しミンダナオを攻略、一方でニミッツは、ギルバート諸島を攻略、次いで西方に転じて、クェゼリン、エニウェトク、グアム、サイパン、ペリリューへと前進し、両軍はルソン島か台湾で一本になると決められ、8月のケベック会談において作戦案をチャーチルも承諾した。連合軍の基本方針は、まずはナチス・ドイツを打ち破ることを優先し、それまでは太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、マッカーサーやキングが、日本軍の手強さと太平洋戦線の重要性をルーズベルトに説いて、ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、このような大規模な2方面作戦を行うことが可能となっていた。なおもマッカーサーは、中部太平洋には日本軍が要塞化している島がいくつもあって、アメリカ軍に多大な出血を強いることになるため、自分に戦力を集中すべきと食い下がったが、ニミッツは、ニューギニアを主戦線とすると空母部隊が日本軍の陸上基地からの攻撃の危険に晒されると反論した。このニミッツの反論には空母をマッカーサーの指揮下には絶対に置かないという強い意志もはたらいており容易に議論はまとまらなかった。
キングは、マリアナ諸島が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る経済的な生命線の東翼を担う日本にとっての太平洋の鍵で、これを攻略できれば、その後さらに西方(日本方面)にある台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると考え、マリアナが戦争の戦略的な要になると評価しており、その攻略を急ぐべきだと考えていた。アメリカ陸軍でも、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍が、新鋭戦略爆撃機B-29による日本本土空襲の基地としてマリアナの確保を願っていた。既に中国本土から日本本土を空襲するマッターホルン作戦が検討されていたが、中国からではB-29の航続距離をもってしても九州を爆撃するのが精いっぱいであり、日本本土全てを出撃圏内に収めることができるマリアナはアーノルドにとって絶好の位置であった。また、中国内のB-29前進基地への補給には、補給量が限られる空路に頼らざるを得ないのと比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、この案が推奨された大きな理由のひとつとなった。そこでアーノルドは連合軍首脳が集まったケベック会議で、マリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった。
アーノルドらの動きを警戒したマッカーサーは、真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦となるマリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『曲芸』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った。
キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた。キング自身の計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍を味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが、キングとアーノルドという陸海軍の有力者が、最終的な目的は異なるとは言え手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、ナチスドイツ打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなり、1943年12月のカイロ会談において、1944年10月のマリアナの攻略と、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて、マリアナからの日本本土空襲が決定された。
その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったので、1944年3月にアメリカ統合参謀本部はワシントンで太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催した。その会議では、マッカーサーの代理で会議に出席していたサザーランドには、統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、マリアナ侵攻のフォレージャー作戦(掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された。
アメリカ統合参謀本部の決定に激怒したマッカーサーであったが、ニューギニア作戦の集大成と、ニミッツによるフォレージャー作戦支援の航空基地確保のため、ニューギニア西部のビアク島攻略を決めた。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要な位置にあった。1944年5月27日に第6軍 司令官ウォルター・クルーガー中将率いる大部隊がビアク島に上陸しビアク島の戦いが始まった。しかし、海岸を見下ろす台地に構築された日本軍の洞窟陣地は、連合軍支援艦隊の艦砲射撃にも耐えて、逆に上陸部隊に集中砲火を浴びせて大損害を被らせた。その後、ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長葛目直幸大佐は、上陸部隊をさらに内陸に引き込んで、構築した陣地で迎え撃つこととした。第41歩兵師団(英語版)師団長ホレース・フラー(英語版)少将は日本軍の作戦を見抜いて、慎重に進撃することとしたが、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことでニミッツに対して恥をかくと考えたマッカーサーは、クルーガーを通じてフラーを急かした。その後もビアク島守備隊は満足な支援も受けられない中で、指揮官の葛目の巧みな作戦指揮もあって敢闘、マッカーサーの命令で、早期攻略のため日本軍陣地を正面攻撃していたアメリカ軍に痛撃を与えて長い期間足止めし、ついに6月14日、苦戦を続けるフラーに激怒したマッカーサーは、フラーを上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長から更迭した。しかし、師団長を挿げ替えても戦況が大きく好転することはなく、ビアク島の飛行場が稼働し始めたのは6月22日になり、サイパンの戦いにもマリアナ沖海戦にも間に合わなかった。ビアク島攻略後にマッカーサーはフラーの名誉を回復させるため功労勲章(英語版)を授与したが、ビアク島の戦いはマッカーサーにとっても、フラーにとっても敗戦に近いような後味の悪い戦いとなった。
一旦はマッカーサーに、ミンダナオ島からルソン島へとフィリピンの奪還を認めていたアメリカ統合参謀本部であったが、ニミッツがマリアナを確保したことにより、アメリカ陸海軍の意見が再び割れ始めた。キングは、マリアナを確保したことによってフィリピンは遥かに低い軍事的優先順位となり、フィリピンは迂回して海と空から封鎖するだけで十分であると主張した。同じ陸軍でもアーノルドは、台湾にB-29の基地を置きたいとして海軍のキング側に立ったので、板挟みとなったマーシャルはマッカーサーに、「個人的感情とフィリピンの政情に対する考慮」が戦略的な判断に影響を及ぼさないようにと苦言を呈するほどであった。
フィリピン迂回の流れに危機感を覚えたマッカーサーは、マスコミを利用してアメリカ国民の愛国心に訴える策を講じた。アメリカの多くの新聞が長期政権を維持し4選すら狙っている民主党のルーズベルトに批判的で、共和党びいきとなっており、共和党寄りのマッカーサーを褒め称える論調を掲げる一方で、民主党のルーズベルトに対しては、一日も早く戦争に勝利するためもっとよい手を打つべきなどと批判的な報道をし、ルーズベルト人気に水をさしていた。マッカーサーは新聞等を通じ「1942年に撃破された我々の孤立無援な部隊の仇をうつことができる」「我々には果たせねばならない崇高な国民的義務がある」などと主張し、自分がフィリピンを解放しない場合にはアメリカ本国でルーズベルトに対し「極度の反感」を引き起こすに違いないと警告した。このようなマッカーサーの主張に対して陸軍参謀総長のマーシャルは「個人的感情とフィリピンに対する政治的考慮が、対日戦の早期終結という崇高な目的を押しつぶすことのないよう注意しなければならない」「フィリピンの一部あるいは全部を迂回することは、フィリピンを放棄することと同義ではなく、連合軍が早期に日本軍を撃破すればそれだけマニラの解放は早くなろう」とマッカーサーに手紙を書き送っている。1944年6月から開始されたニミッツによるマリアナ諸島の攻略戦は、サイパンの戦い、グアムの戦い、テニアンの戦いの激戦を経てアメリカ軍の勝利に終わったが、アメリカ軍の被った損害も大きかったため、マッカーサーや共和党支持の保守系の新聞は、フィリピン攻撃は最小限のアメリカ人の犠牲で同じ戦略的利点を獲得すると主張した。マッカーサーに心酔する『バターン・ギャング』で固められた幕僚たちも不平不満を並べ立てて、国務省や統合参謀本部やときにはルーズベルト大統領までを非難した。
マッカーサーの思惑どおり、アメリカ軍内でフィリピン攻略について賛同するものも増えて、太平洋方面の前線指揮官らはマッカーサーに賛同していた。一方でキング、マーシャル、アーノルドはフィリピン迂回を譲らず、アメリカ軍内の意見も真っ二つに割れていた。ルーズベルトはこのような状況に業を煮やして、マッカーサーとニミッツに直接意見を聞いて方針を決めることとし、1944年7月26日に両名をハワイに召喚した。ニミッツは自分の上官であるキングの意見を代弁することとなったが、ニミッツ自身は考えがまとまっていなかったため、作戦説明は迫力を欠くものとなり、マッカーサーの独壇場となった。マッカーサーは何度も「道義的」や「徳義」や「恥辱」という言葉を使い、フィリピン奪還を軍事的問題としてより道義的な問題として捉えているということが鮮明となった。さらにマッカーサーはキングが主張するフィリピンを迂回して台湾を攻略するという作戦よりは、フィリピン攻略のほうが期間が短く、損害も少ないと主張した。ルーズベルトは「ダグラス、ルソン攻撃は我々に耐えられないくらい大きな犠牲を必要とするよ」と指摘したが、マッカーサーは強くそれを否定した。そのあとルーズベルトとマッカーサーは10分ほど二人きりとなったが、その時マッカーサーは1944年の大統領選を見据えて、「アメリカ国民の激しい怒りは貴方への反対票となって跳ね返ってくる」と脅している。ルーズベルトはマッカーサーが一方的に捲し立てた3時間もの弁舌に疲労困憊し、同行した医師にアスピリンを2錠処方してもらうと「私にあんなこと言う男は今までいなかった。マッカーサー以外にはな」と語っている。マッカーサーもルーズベルトの肉体的な衰えに驚いており、「彼の頭は上下に揺れ、口は幾分ひらいたままだった」と観察し、「次の任期まではもたない」と予想していたが、事実そのとおりとなった。翌日も引き続き会談は続けられ、会談終了後に海軍が準備した楽団、歌手、フラダンスによるショーにルーズベルトから誘われたマッカーサーではあったが、すぐに前線に戻らないといけないと断り、ハワイを発とうとしたときに、ルーズベルトから呼び止められ「ダグラス、君の勝ちだ。私の方はキングとやりあわなければらないな」とフィリピン攻略を了承した。かつての卓越した雄弁家も、肉体の衰えもあって完全に舞台負けした形となった。
ルーズベルトの方針決定により統合参謀本部はマッカーサーにフィリピン攻略作戦を承認した。海軍はフィリピンでマッカーサーを援護したあとは台湾を迂回し、その後沖縄を攻略すると決められた。マッカーサーはまずは日本軍の兵力の少ないレイテ島を攻略してその後のフィリピン全土解放の足掛かりとする計画であった。マッカーサーはレイテに20,000人の日本軍が配備されているとみていたが、その後に増援を送ってくると考えて、今までの太平洋戦域では最大規模の兵力となる174,000名の兵員と700隻の艦艇と多数の航空機を準備することとした。この頃には、ノルマンディー上陸作戦の成功でヨーロッパの戦局は最終段階に入ったものと見なされて、ルーズベルトやチャーチルといった連合国の指導者たちは太平洋の戦局に重大な関心を持つようになっており、膨大な戦力の準備が必要であったマッカーサーにとっては追い風となった。事前にレイテの航空基地はウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将率いる第38任務部隊の艦載機に散々叩かれており、1944年10月20日にアメリカ軍は大きな抵抗を受けることなくレイテ島に上陸した。マッカーサーも同日にセルヒオ・オスメニャとともにレイテに上陸したが、上陸用舟艇で海岸に近づいたマッカーサーは、待ちきれないように接岸する前に海に飛び降りて足を濡らしながらフィリピンへの帰還を果たした。
この時撮影された、レイテ島に上陸するマッカーサーの著名な写真は、当時フィリピンでも宣伝に活用されたが、これは実際に最初に上陸した時のものではなく、翌日に再現した状況を撮影したものである。 マッカーサーが上陸した地点では桟橋が破壊されており海中を歩いて上陸するしかなかったが、この時撮影された写真を見たマッカーサーは、海から歩いて上陸するという劇的な情景の視覚効果に着目し、再び上陸シーンを撮影させた。アメリカ国立公文書館には、この時に船上から撮影された映像が残されており、その中でマッカーサーは一度上陸するものの自らNGを出し、戻ってサングラスをかけ直した後、再度撮影を行う様子が記録されている。
マッカーサーは日本軍の狙撃兵が潜む中で戦場を見て回り、狙撃されたこともあったが、弾を避けるために伏せることもしなかったという。10月23日には旗艦としていた軽巡ナッシュビルの通信設備を使って、演説をフィリピン国民に向けて放送した。その演説の出だしは「フィリピン国民諸君、私は帰ってきた」であったが、興奮のあまり手が震え声が上ずったため、一息入れた後に演説を再開した。日本の軍政の失敗による貧困や飢餓に苦しめられていた多くのフィリピン国民は、熱狂的にマッカーサーの帰還を歓迎した。マッカーサーはその夜には司令部をナッシュビルから、レイテ島で大規模なプランテーションを経営していたアメリカ人事業家の豪邸に移したが、この豪邸は日本軍が司令官用のクラブとして使用していたため、敷地内に電気や換気扇や家具まで完備した塹壕が作られていた。前線司令部としては相応しい設備であったが、マッカーサーは前回フィリピンで戦った際に部下将兵から名付けられた「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を知っており、また揶揄されることを嫌い「埋めて平らにしてしまうのだ」と命じている。
その後のレイテ島の戦いでは、日本軍は台湾沖航空戦の過大戦果の虚報に騙され、大本営の横やりで現地の司令官山下奉文の反対を押し切り、レイテを決戦場としてアメリカ軍に決戦を挑むこととし、捷一号作戦を発動した。連合艦隊の主力がアメリカ輸送艦隊を撃滅、次いで陸軍はルソン島より順次増援をレイテに派遣し、上陸軍を撃滅しようという作戦だった。対するアメリカ軍は、海軍の指揮系統が分割され、主力の機動部隊第38任務部隊を擁する第3艦隊はニミッツの指揮下、主に真珠湾攻撃で損傷して修理された戦艦や巡洋艦が配備された第7艦隊がマッカーサーの指揮下となっており、この両艦隊は同じアメリカ海軍でありながら連携を欠いていた。レイテ湾に向けて進撃してくる日本軍艦隊に対して、第3艦隊司令官のハルゼーはあてにできないので、第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイドは、単独で日本軍艦隊を迎え撃つべく、マッカーサーが旗艦として使用しているナッシュビルを艦隊に合流させてほしいと要請した。マッカーサーは応諾したが「私はこれまで大きな海戦に参加したことがないので、それを見るのを楽しみにしているのだ」と自分がナッシュビルに乗艦したまま日本軍との海戦を観戦するという条件をつけた。しかしキンケイドやマッカーサーの幕僚の猛反対もあって観戦は断念し、ナッシュビルはマッカーサーを下したのちジェシー・B・オルデンドルフ少将の指揮下で西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(通称:西村艦隊)をスリガオ海峡で迎え撃つこととなった。激しいスリガオ海峡海戦のすえ、西村艦隊は壊滅したが、次は主力の第一遊撃部隊(通称:栗田艦隊)が、激しい第38任務部隊による航空攻撃を受けつつもレイテ湾に接近してきた。その頃ハルゼーは小沢治三郎中将の囮作戦にひっかかり、小沢の空母艦隊を日本海軍の主力と誤認し、その引導を渡すべく追撃していたが、連携のまずさから第7艦隊のキンケイドはそのことを知らず、栗田艦隊は妨害を受けることなく無防備のサンベルナルジノ海峡を通過した。
マッカーサーはこの時ナッシュビルに幕僚らと乗艦していたが、栗田艦隊の接近を知るとマッカーサー司令部には絶望感が蔓延し、先任海軍参謀のレイ.ターバック大佐は「我々は弾丸も撃ち尽くしたも同然な状態にあり、魚雷もつかってしまい、燃料の残りは少なく、状況は絶望的である」と当日の日記に記している。マッカーサーはニミッツにハルゼーの引き返しを要請する電文を3回も打ち、ニミッツはマッカーサーの要請に応えてハルゼーに「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。全世界は知らんと欲す)」という電文を打ったがハルゼーには届かず、最後にはニミッツがマッカーサーにハルゼーに直接連絡してほしいとお願いする始末であった。ここでも指揮権の不統一が大きな災いをまねくところであったが、栗田艦隊はその後サマール島沖でクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(コードネーム"タフィ3")と戦うと、レイテ湾を目の前にして引き返してしまったため、マッカーサーの危機は去った。その夜マッカーサーは幕僚と夕食を共にしたが、幕僚は自分らを危機に陥れたハルゼーに対する非難を始め、「大馬鹿野郎」や「あのろくでなしハルゼー」など罵ったが、それを聞いていたマッカーサーは激怒し握った拳でテーブルを叩くと大声で「ブル(ハルゼーのあだ名)にはもう構うな。彼は私の中では未だに勇気ある提督なのだ」と擁護している。
マッカーサーの苦境はなおも続いた。日本陸軍の富永恭次中将率いる第4航空軍が連合艦隊の突入に呼応して、日本陸軍としては太平洋戦争最大規模の積極的な航空作戦を行った。アメリカ軍はレイテ島上陸直後に占領したタクロバン飛行場に第5空軍を進出させて、強力な航空支援体制を確立しようとしていたが、そこに富永は攻撃を集中した。 マッカーサーがわざわざ地下壕を埋めさせた司令部兼住居はそのタクロバン飛行場近隣にあり、建物はタクロバン市街では大変目立つものであったため、第4航空軍の攻撃機がしばしば攻撃目標としたが、マッカーサーは敢えて避難することはしなかった。日本軍の爆弾がマッカーサー寝室の隣の部屋に命中したこともあったが、幸運にも不発弾であった。また低空飛行する日本軍機に向けて発射した76mm高射砲の砲弾1発が、マッカーサーの寝室の壁をぶち抜いたあとソファの上に落ちてきたが、それも不発弾であった。また、軽爆撃機がマッカーサーが在室していた部屋に機銃掃射を加えてきて、うち2発がマッカーサーの頭上45cmにあった梁に命中したこともあった。マッカーサーが司令部幕僚を招集して作戦会議を開催した際にも、しばしば日本軍の爆弾が庭で爆発したり、急降下爆撃機が真っすぐ向かってくることもあって、副官のコートニー・ホイットニー少将らマッカーサーの幕僚は床に伏せたい気分にかられたが、マッカーサーが微動だにしなかったので、やむなくマッカーサーに忖度してやせ我慢を強いられている。富永はマッカーサーら連合軍司令部を一挙に爆砕する好機に恵まれて、実際に司令部至近の建物ではアメリカ軍従軍記者2名と、フィリピン人の使用人12名が爆撃で死亡し、司令部の建物も爆弾や機銃掃射で穴だらけになるなど、あと一歩のところまで迫っていたが、結局その好機を活かすことはできなかった。
このように、第4航空軍の奮闘もあって、少なくとも11月上旬までは、日本軍がレイテ島上の制空権を確保していた。アメリカ陸軍の公刊戦史においても、10月27日の夕刻から払暁までの間に11回も日本軍機による攻撃があって、タクロバンは撃破されて炎上するアメリカ軍機によって赤々と輝いていたと記述され、第4航空軍の航空作戦を、太平洋における連合軍の反攻開始以来、こんなに多く、しかも長期間にわたり、夜間攻撃ばかりでなく昼間空襲にアメリカ軍がさらされたのはこの時が初めてであった。と評している。また、富永は上空支援が不十分であったアメリカ軍の上陸拠点へも攻撃し、11月の第1週には、揚陸したばかりの約4,000トンの燃料・弾薬を爆砕し、上陸したアメリカ軍の補給線を脅かした。第4航空軍の空からの猛攻に苦戦を続ける状況を憂慮したトーマス・C・キンケイド中将は、「敵航空兵力は驚くほど早く立ち直っており、上陸拠点に対する航空攻撃は事実上歯止めがきかず、陸軍の命運を握る補給線を締め上げる危険がある。アメリカ陸軍航空隊の強力な影響力を確立するのが遅れれば、レイテ作戦全体が危機に瀕する」と考えて、この後に予定されていたルソン島上陸作戦については、「戦史上めったに類を見ない大惨事を招きかねません」と作戦の中止をマッカーサーに求めたが、マッカーサーがその進言を聞き入れることはなかった。
マッカーサーの副官の1人であるチャールズ・ウィロビー准将は、戦後にこのときの苦境を振り返って、タクロバン飛行場に日本軍機の執拗な攻撃が続き、1度の攻撃で「P-38」が27機も地上で撃破され、毎夜のように弾薬集積所や燃料タンクが爆発し、飛行場以外でもマッカーサーの司令部兼居宅やウォルター・クルーガー中将の司令部も爆撃されたと著書に記述しており、第4航空軍による航空攻撃と、連合艦隊によるレイテ湾突入作戦は、構想において素晴らしく、規模において雄大なものであったと称賛し、マッカーサー軍が最大の危機に瀕したと回想している。マッカーサーも「切羽詰まった日本軍は、虎の子の大艦隊を繰り出して、レイテの侵入を撃退し、フィリピン防衛態勢を守り抜こうという一大博打に乗り出してきた。アメリカ軍部隊をレイテの海岸から追い落とそうという日本軍の決意は、実際に成功の一歩手前までいった」「豊田提督が立てた計画は、みごとな着想に基づいたすばらしく大きい規模のものだった」「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と自らの最大の危機を振り返っている。
その後、日本軍は多号作戦により、レイテ島に第26師団や第1師団などの増援を送り込み、連合軍に決戦を挑んだ。マッカーサーは当初の分析よりも遥かに多い日本軍の戦力に苦戦を強いられることとなり、ルソン島への上陸計画を延期して予備兵力をレイテに投入せざるを得なくなったが、レイテ沖海戦で連合艦隊が惨敗、第4航空軍も積極的な航空作戦による消耗に戦力補充が追い付かず、戦力が増強される一方の連合軍に対抗できなくなると、制空権を奪われた日本軍は多号作戦の輸送艦が次々と撃沈され、レイテ島は孤立していった。そして、マッカーサーはレイテ島を一気に攻略すべく、多号作戦の日本軍の揚陸港になっていたオルモック湾への上陸作戦を命じた。オルモック湾内のデポジト付近の海岸に上陸したアメリカ陸軍第77歩兵師団はオルモック市街に向けて前進を開始した。背後に上陸され虚を突かれた形となった日本軍であったが、体勢を立て直すと激しく抵抗し、第77歩兵師団は上陸後の25日間で死傷者2,226名を出すなど苦戦を強いられたが、この上陸作戦でレイテ島の戦いの大勢は決した。
レイテを攻略したマッカーサーは、念願のルソン島奪還作戦を開始した。旗艦の軽巡洋艦ボイシに座乗したマッカーサーは、1945年1月4日に800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、1941年に本間中将が上陸してきたリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが特別攻撃隊の特攻機や特殊潜航艇であった。マッカーサーの旗艦であったナッシュビルもルソン島攻略に先立つミンドロ島の戦いで特攻機の攻撃を受け、323名の大量の死傷者を出して大破していたが、その時、マッカーサーは乗艦しておらず、ミンドロ島攻略部隊を率いていたアーサー・D・ストラブル少将の幕僚らが多数死傷している。特にマッカーサーに衝撃を与えたのは、戦艦ニューメキシコに特攻機が命中して、ルソン島上陸作戦を観戦するためニューメキシコに乗艦していたイギリス軍ハーバード・ラムズデン(英語版)中将が戦死したことであり、ラムズデンとマッカーサーは40年来の知人で、その死を悼んだ。
特攻機の攻撃は激しさを増して、護衛空母オマニー・ベイ を撃沈、ほか多数の艦船を撃沈破しマッカーサーを不安に陥れたが、特攻機の攻撃が戦闘艦艇に集中しているのを見ると、側近軍医ロジャー・O・エグバーグに「奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても、あるいは何発もの攻撃を受けても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と述べている。マッカーサーの旗艦ボイシも特攻機と特殊潜航艇に再三攻撃されており、マッカーサーはその様子を興味深く見ていたが、しばらくすると戦闘中であるにもかかわらず昼寝のために船室に籠ってしまった。爆発音などの喧騒の中で熟睡しているマッカーサーの脈をとったエグバーグは、脈が全く平常であったことに驚いている。やがて眼が覚めたマッカーサーは、エグバーグからの戦闘中にどうして眠れるのか?という質問に対して「私は数時間戦闘のようすを見ていた。そして現場の状況が分かったのだ。私がすべきことは何もなかったからちょっと眠ろうと思ったのだ」と答えている。
ルソン島に上陸したアメリカ軍に対して、レイテで戦力を消耗した日本軍は海岸線での決戦を避け、山岳地帯での遅滞戦術をとることとした。司令官の山下は首都マニラを戦闘に巻き込まないために防衛を諦め、守備隊にも撤退命令を出したが、陸海軍の作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊を中心とする日本軍14,000名がマニラに立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサーは、戦闘開始直後の2月5日にアメリカ軍のマニラ入城を宣言し、「敵の壊滅は間近である」とも言い放った。しかし、これはマッカーサーのパフォーマンスに過ぎす、海軍守備隊司令官岩淵三次少将率いる日本軍守備隊は、マニラ都心のイントラムロスの城塞を要塞化して激しく抵抗していた。
アメリカ軍はマニラを完全に包囲しており、退路を断たれた日本軍は激しく抵抗した。マッカーサーは山下によるマニラの無防備都市宣言を期待して、マニラで戦勝パレードを行うつもりであり、重砲の砲撃の制限的な運用に加えて、空爆については「友好国及び連合国市民がいる市街に対する空襲は論外である。この種の爆撃の不正確さは、非戦闘市民数千人の死を招くことに疑念の余地はない」と許可しなかった。しかし、このマッカーサーが言う“非戦闘市民”のなかには、マニラに残されていた数千人の日本人住民は含まれていなかった。マッカーサーは当然にマニラに多数の日本人住民がいることを知ってはいたが、ルソン島上陸直後に「死んだジャップだけが良いジャップだ」と言明したように日本人住民の安全について全く考慮することはなかった。
しかし、要塞化されたイントラムロスを攻めあぐねた司令官のオスカー・グリズワルド中将はマッカーサーに空爆と重砲砲撃の解禁を要請した。目論見が外れたマッカーサーは、空爆は許可しなかったものの重砲による砲撃は許可したので、今まで太平洋戦線で行われた最大規模の重砲による砲撃がマニラ市街全域に浴びせられ、その様子はマニラ市街にピナトゥボ山が現れて大噴火をおこしたようなものだったという。アメリカ軍の砲撃は驚くほど正確に一定の距離間隔を置いて、あたかも市街に絨毯を敷くように撃ち込まれてきたので、フィリピン人はおろか、マニラの高級住宅街に居住していたスペイン人、ドイツ人、ユダヤ人といった白人たちも砲雨にさらされながら、喚き、泣け叫び、右往左往しながら砲弾に斃れていった。マッカーサーの眼中になかった日本人住民はさらに悲惨な目にあっており、マニラで犠牲となった日本人住民の人数すら判明しておらず、安全地帯とされ7,000人もの避難民が逃げ込んでいたフィリピン総合病院(英語版)ですら、日本人の生還者はフィリピン人看護婦フェ・ロンキーヨに看護されていたマニラの貿易商大沢清のただ一人であった。
マニラでは激しい砲撃と市街戦の末、住宅地の80%、工場の75%、商業施設はほぼ全てが破壊された。日本アメリカ両軍に多数の死傷者が生じたが、もっとも被害を被ったのはマニラ市民となった。追い詰められた日本兵は虐殺や強姦などの残虐行為に及び、フィリピン人の他に同盟国であったドイツ人や中立国のスペイン人などの白人も日本兵の残虐行為の対象となった。特にフィリピン人については、アメリカ軍が支援したユサッフェ・ゲリラとフクバラハップ・ゲリラがマニラ市街で武力蜂起し、既に日本軍に対する攻撃や日本人市民の殺戮を開始しており、日本軍の攻撃対象となっていた。武装ゲリラの跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民の区別がつかず、「女子供もゲリラになっている。戦場にいる者は日本人を除いて全員処刑される」と命令が前線部隊から出されるなど、老若男女構わず殺害した。そして戦況が逼迫し日本軍守備隊の組織が崩壊すると日本兵の残虐さもエスカレートして、略奪、放火、強姦、拷問、虐殺などが横行することとなった。
マッカーサーは自分の目論見が外れ、マニラで起こしてしまった悲劇からは徹底的に目をそらし続けた。マニラ市内になかなか入ろうとせず、日本軍による虐殺や自らの砲撃によるフィリピン人らの惨状をマスコミに公表しようともしなかった。マッカーサーは、戦闘も峠を越した2月23日になってようやく瓦礫の山と化したマニラ市内に装甲列車で乗り付けた。そして戦前に居宅としていたマニラ・ホテルを訪れたが、かつての優雅な建物は火災で全焼しており、日本軍指揮官の野口勝三陸軍大佐(野口支隊長)の遺体が玄関前に転がっていた。階段を上って自分の居室にも入ったが、マッカーサーの私物は何も残っておらず、マニラを脱出するときに持ち出すことができなかった、明治天皇から父アーサーに贈られた花瓶も粉々になっていた。マッカーサーはこのときを「私はめちゃめちゃになった愛する我が家の悲痛を最後の酸っぱいひとかけらまで味わいつくしていた」と感傷的に振り返っている。
マニラにおけるフィリピン人の犠牲は10万人以上にも達した。特に多くの犠牲者を出すこととなった日本軍のゲリラ討伐を、マッカーサーは「強力で無慈悲な戦力が野蛮な手段に訴えた」「軍人は敵味方問わず、弱き者、無武装の者を守る義務を持っている......(日本軍が犯した)犯罪は軍人の職業を汚し、文明の汚点となり」と激しく非難したが、その無武装で弱き者を武装させたのはマッカーサーであり、戦後にこの罪を問われて戦犯となった山下の裁判では、山下の弁護側から、マッカーサーの父アーサーがフィリピンのアメリカ軍の司令官であった時にフィリピンの独立運動をアメリカが弾圧した時の例を出され「血なまぐさい『フィリピンの反乱』の期間、フィリピンを鎮圧するために、アメリカ人が考案し用いられた方法を、日本軍は模倣したようなものである」「アメリカ軍の討伐隊の指揮官スミス准将は「小銃を持てる者は全て殺せ」という命令を出した」と指摘され、マッカーサーは激怒している。一方で、犠牲者の40%以上を占めたアメリカ軍の砲撃について批判することはタブーとされて、フィリピン人はその犠牲を受忍せざるを得なかった。
日本軍はその後も圧倒的な火力のアメリカ軍と、数十万人にも膨れ上がったフィリピン・ゲリラに圧倒されながら絶望的な戦いを続け、ここでも大量の餓死者・病死者を出し、ルソン島山中に孤立することとなった。ニューギニアの戦いに続き、マッカーサーは決定的な勝利を掴み、その名声や威光はさらに高まった。しかし、フィリピン奪還をルーズベルトに直訴した際に、大きな損害を懸念したルーズベルトに対しマッカーサーは「大統領閣下、私の出す損害はこれまで以上に大きなものとはなりません......よい指揮官は大きな損失を出しません」と豪語していたが、アメリカ軍の第二次世界大戦の戦いの中では最大級の人的損害となる、戦闘での死傷79,104名、戦病や戦闘外での負傷93,422名 という大きな損失を被った上に、何よりもマッカーサーが軍の一部と認定し多大な武器や物資を援助し、「フィリピン戦において我々はほとんどあらゆるフィリピンの市町村で強力な歴戦の兵力の支援を受けており、この兵力は我が戦線が前進するにつれて敵の後方に大打撃を加える態勢にあり、同時に軍事目標に近接して無数の大きい地点を確保して我が空挺部隊が降下した場合には、ただちに保護と援助を与えてくれる」「私はこれら戦史にもまれな、偉大な輝かしい成果を生んだ素晴らしい精神力を、ここに公に認めて感謝の意を表する」「北ルソンのゲリラ隊は優に第一線の1個師団の価値があった」などとアメリカ軍と共に戦い、その功績を大きく評価していたフィリピン・ゲリラや、ゲリラを支援していたフィリピン国民の損失は甚大であった。しかし、「アメリカ軍17個師団で日本軍23個師団を打ち破り、日本軍の人的損失と比較すると我が方の損害は少なかった」と回顧録で自賛するマッカーサーには、フィリピン人民の被った損失は頭になかった。
6月28日にマッカーサーはルソン島での戦闘の終結宣言を行ない、「アメリカ史上もっとも激しく血なまぐさい戦いの一つ......約103,475kmの面積と800万人の人口を擁するルソン島全域はついに解放された」と振り返ったが、結局はその後も日本軍の残存部隊はルソン島の山岳地帯で抵抗を続け、アメリカ陸軍第6軍(英語版)の3個師団は終戦までルソン島に足止めされることとなった。
フィリピン戦中の12月に、マッカーサーは元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。
もう一人の太平洋戦域における軍司令となった太平洋方面軍司令官ニミッツが硫黄島の戦いの激戦を制し、沖縄に向かっていた頃、次の日本本土進攻作戦の総司令官を誰にするかで悶着が起きていた。重病により死の淵にあったルーズベルトの命令で、陸海軍で調整を続けていたが決着を見ず、結局マッカーサーの西太平洋方面軍とニミッツの太平洋方面軍を統合し、全陸軍をマッカーサー、全海軍をニミッツ、戦略爆撃軍をカーチス・ルメイがそれぞれ指揮し、三者間で緊密に連携を取るという玉虫色の結論でいったんは同意を見た。
しかし、マッカーサーとそのシンパはこの決定に納得しておらず、硫黄島の戦いでニミッツが大損害を被ったことをアメリカ陸軍のロビイストが必要以上に煽り、マッカーサーの権限拡大への世論誘導に利用しようとした。マッカーサーがフィリピンで失った兵員数は、硫黄島での損害を遥かに上回っていたのにもかかわらず、あたかもマッカーサーが有能なように喧伝されて、ニミッツの指揮能力に対しての批判が激化していた。
マッカーサーの熱狂的な信奉者でもあるウィリアム・ランドルフ・ハーストは、自分が経営するハースト・コーポレーション社系列のサンフランシスコ・エグザミナー紙で「マッカーサー将軍の作戦では、このような事はなかった」などと事実と反する記事を載せ、その記事で「マッカーサー将軍は、アメリカ最高の戦略家で最も成功した戦略家である」「太平洋戦争でマッカーサー将軍のような戦略家を持ったことは、アメリカにとって幸運であった」「しかしなぜ、マッカーサー将軍をもっと重用しないのか。そして、なぜアメリカ軍は尊い命を必要以上に失うことなく、多くの戦いに勝つことができる軍事的天才を、最高度に利用しないのか」と褒めちぎった。なお、マッカーサー自身は硫黄島と沖縄の戦略的な重要性を全く理解しておらず「これらの島は敵を敗北させるために必要ない」「これらの島はどれも、島自体には我々の主要な前進基地になれるような利点はない」と述べている。
この記事に対して多くの海兵隊員は激怒し、休暇でアメリカ国内にいた海兵隊員100人余りがサンフランシスコ・エグザミナー紙の編集部に乱入して、編集長に記事の撤回と謝罪文の掲載を要求した。編集長は社主ハーストの命令によって仕方なくこのような記事を載せたと白状し、海兵隊員はハーストへ謝罪を要求しようとしたが、そこに通報で警察と海兵隊の警邏隊が駆けつけて、一同は解散させられた。しかし、この乱入によって海兵隊員たちが何らかの罪に問われることはなかった。その後、サンフランシスコ・クロニクル紙がマッカーサーとニミッツの作戦を比較する論調に対する批判の記事を掲載し、「アメリカ海兵隊、あるいは世界各地の戦場で戦っているどの軍でも、アメリカ本国で批判の的にたたされようとしているとき、本紙はだまっていられない」という立場を表明して、アメリカ海軍や海兵隊を擁護した。ちなみにサンフランシスコ・クロニクル紙の社主タッカーの一人息子であった二ヨン・R・タッカーは海兵中尉として硫黄島の戦いで戦死している。
1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、さらにマッカーサーは激しく自分の権限強化を主張した。ジェームズ・フォレスタル海軍長官によれば、マッカーサー側より日本本土進攻に際しては海軍は海上援護任務に限定し、マッカーサーに空陸全戦力の指揮権を与えるように要求してきたのに対し、当然、海軍と戦略爆撃軍は激しく抵抗した。マッカーサーは海軍の頑なな態度を見て「海軍が狙っているのは、戦争が終わったら陸軍に国内の防備をさせて、海軍が海外の良いところを独り占めする気だ」「海軍は陸軍の手を借りずに日本に勝とうとしている」などと疑っていた。結局マッカーサーの強い申し出にもニミッツは屈せず、マッカーサーはこの要求を取り下げた。
マッカーサーとニミッツによる指揮権における主導権争いと並行して、日本本土進攻作戦の詳細な作戦計画の作成が進められ、作戦名はダウンフォール作戦という暗号名が付けられた。ダウンフォール作戦は南部九州攻略作戦である「オリンピック作戦」と関東地方攻略作戦である「コロネット作戦」で構成されていたが、急逝したルーズベルトに代わって大統領に昇格したハリー・S・トルーマンは、沖縄戦におけるアメリカ軍のあまりの人的損失に危機感を抱いて、「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」と考えるようになっており、マッカーサーらはトルーマンの懸念を緩和するべく、アメリカ軍の損失予測を過小に報告することとした。日本軍が南九州に歩兵師団3個師団、北部九州に歩兵師団3個師団、戦車2個連隊の合計30万人の兵力を配置しているという情報を得ていたマッカーサーは、連合軍投入予定の兵力が14個師団68万人であることから、連合軍兵力が圧倒しているという前提でも90日間で10万人以上の死傷者が出ると予測していたが、これをルソン島の戦いを参考にしたとして、30日間で31,000人の死傷者に留まると下方修正し、「私はこの作戦は、他に提言されているどんな作戦より、過剰な損耗を避け危険がより少ないものであること......また私はこの作戦は、可能なもののうちもっともその努力と生命において経済的であると考えている......私の意見では、オリンピック作戦を変更すべきであるとの考えが、いささかでも持たれるべきではない」と報告している。
6月18日にトルーマンがホワイトハウスに陸海軍首脳を招集して戦略会議が開催され、オリンピック作戦について議論が交わされたが、その席でもアメリカ軍の死傷者推計が話し合われた。マッカーサーはこの会議に参加してはいなかったが、マッカーサーの過小な損害推計に対して、特に太平洋正面の数々の激戦で、アメリカ海軍や海兵隊は多大な損失を被っていたので、合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥はマッカーサーによる過小推計を一蹴し、沖縄戦での投入兵力に対する死傷率39%を基に、オリンピック作戦での投入兵力約68万 - 76万人の35%の約25万人が死傷するという推計を行った。トルーマンもこの25万人という推計が現実的と判断したが、マンハッタン計画による原子爆弾の完成がまだ見通しの立たない中で、マッカーサーらの思惑どおりオリンピック作戦を承認した。
マッカーサーの下には従来の太平洋のアメリカ陸軍戦力の他に、ドイツを打ち破ったヨーロッパ戦線の精鋭30個師団が向かっていた。オリンピック作戦ではマッカーサーは764,000名ものアメリカ軍上陸部隊を指揮することとなっていたが、ドイツが降伏し、敵がいなくなったヨーロッパ戦線の指揮官らはこぞってマッカーサーにラブコールを送り、太平洋戦線への配属を希望した。なかでもボーナスアーミー事件のときに、マッカーサーの命令で戦車で退役軍人を追い散らした第3軍司令官ジョージ・パットン大将などは「師団長に降格してもいいから作戦に参戦させてくれ」と申し出ている。しかし、彼らの上司であるアイゼンハワーと違い部下の活躍を好まなかったマッカーサーは、ヨーロッパ戦線の指揮官たちは階級が高くなりすぎているとパットンらの申し出を断り、第1軍司令官コートニー・ホッジス大将らごく一部を自分の指揮下に置くこととした。ただし、部下を信頼して作戦を各軍団指揮官に一任していたアイゼンハワーと異なり、自分を軍事の天才と自負していたマッカーサーは作戦の細かいところまで介入していたため、ヨーロッパ戦線では軍団指揮官であった将軍らに「1個の部隊指揮官」として来てほしいと告げていた。アイゼンハワーとウエストポイント士官学校の同期生で親友の第12軍集団(英語版)司令官オマール・ブラッドレー大将も太平洋戦線での従軍を希望していたが、マッカーサーの「1個の部隊指揮官」条件発言を聞いたアイゼンハワーが激怒し、ブラッドレーは太平洋戦線行きを諦めざるを得なかった。一方でマッカーサーも、アイゼンハワーへの対抗意識からか、太平洋戦線の自分の部下の指揮官たちがヨーロッパ戦線のアイゼンハワーの部下の指揮官よりは優秀であると匂わせる発言をしたり、「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった」「北アフリカに送られた戦力を自分に与えられていたら3か月でフィリピンを奪還できた」などと現実を無視した批判を行うなど評価が辛辣で、うまくやっていけるかは疑問符がついていた。
その後に、オリンピック作戦の準備が進んでいくと、九州に配置されている日本軍の兵力が、アメリカ軍の当初の分析よりも強大であったことが判明し、損害推定の基となった情報の倍近くの50万名の兵力は配置され、さらに増強も進んでおり、11月までには連合軍に匹敵する68万名に達するものと分析された。太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率は、ヨーロッパ戦域を大きく上回っていたこともあって、オリンピック作戦での上陸戦闘を担う予定であった第6軍は、九州の攻略だけで394,859名の戦死者もしくは復帰不可能な重篤な戦傷者が発生するものと推定し、参謀総長のマーシャルはこの推定を危惧してマッカーサーに上陸地点の再検討を求めたほどであった。
トルーマンがポツダム会談に向かう前に、アメリカ統合参謀本部によって、ダウンフォール作戦全体の現実的な損害の再見積が行われたが、そのなかで、戦争協力を行っていた物理学者ウィリアム・ショックレー(のちにノーベル物理学賞受賞)にも意見を求めたところ、「我々に170万人から400万人の死傷者が出る可能性があり、そのうち40万人から80万人が死亡するでしょう」と回答があっている。マッカーサーもトルーマンへ損害の過小推計を報告した時とは違って、ダウンフォール作戦の成り行きに関しては全く幻想を抱かないようになっており、ヘンリー・スティムソン陸軍長官に対し「アメリカ軍だけでも100万人の死傷者は覚悟しなければいけない」と述べている。
しかし、広島市への原子爆弾投下直前までマッカーサーやニミッツら現場責任者にも詳細を知らされていなかったマンハッタン計画による日本への原子爆弾投下とソ連対日参戦で日本はポツダム宣言を受諾し、「オリンピック作戦」が開始されることはなかった。戦後、マッカーサーは原爆の投下は必要なかったと公言しており、1947年に広島で開催された慰霊祭では「ついには人類を絶滅し、現代社会の物質的構造物を破壊するような手段が手近に与えられるまで発達するだろうという警告である」と原爆に批判的な談話を述べていた。しかし、1950年10月にアメリカで出版された『マッカーサー=行動の人』という書籍の取材に対して、マッカーサーは「自分は統合参謀本部に対し、広島と長崎はどちらもキリスト教活動の中心だから投下に反対だと言い、代わりに瀬戸内海に落として津波による被害を与えるか、京都に落とすべきと提案した」と話したと記述されている。後日、マッカーサーはGHQのスポークスマンを通じ、そのような発言はしていないと否定しているが、のちの朝鮮戦争では原爆の積極的な使用を主張している。マッカーサーが日本への原爆投下に当時実際に反対したという実質的な証拠は何ら存在しないとされる。
1945年8月14日に日本は連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を通告した。急逝したルーズベルトの後を継いだハリー・S・トルーマン大統領は、一度も会ったことがないにもかかわらずマッカーサーのことを毛嫌いしており、日本の降伏に立ち会わせたのちに本国に召還して、名誉ある退役をしてもらい、別の誰かに日本占領を任せようとも考えたが、アメリカ国民からの圧倒的人気や、連邦議会にも多くのマッカーサー崇拝者がいたこともあり、全く気が進まなかったが以下の命令を行った。
マッカーサーは、海軍のニミッツがその任に就くと半分諦めていたので、太平洋戦争中にずっと東京への先陣争いをしてきたニミッツに最後に勝利したと、この任命を大いに喜んだ。
マッカーサーの日本への進駐に対しては、8月19日に河辺虎四郎参謀次長を全権とする使節団が、マッカーサーの命令でマニラまで緑十字飛行し入念な打ち合わせが行われた。日本側は10日もらわないと連合軍の進駐を受け入れる準備は整わないと訴えたが、応対したマッカーサーの副官サザーランドからは、5日の猶予しか認められず、8月26日先遣隊進駐、8月28日にマッカーサーが神奈川県の厚木海軍飛行場に進駐すると告げられた。マッカーサー本人は最後まで使節団と会うことはなかったが、これは自分が天皇の権威を引き継ぐ人間になると考えており、自らそのようにふるまえば、日本人がマッカーサーに対して天皇に接するような態度をとるだろうと考えていたからであった。進駐受入委員会の代表者は有末精三中将に決定したが、肝心の厚木には海軍航空隊第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が徹底抗戦を宣言して陣取っており、マッカーサーの搭乗機に体当たりをすると広言していた(厚木航空隊事件)。8月19日に小園がマラリアで高熱が出て病床に伏したのを見計らって、8月22日に高松宮宣仁親王が厚木まで出向いて、残る航空隊の士官、将兵らを説得してようやく厚木飛行場は解放された。しかし、解放された厚木飛行場に有末ら受入委員会が乗り込むと、施設は破壊され、滑走路上には燃え残っている航空機が散乱しているという惨状であった。すでに軍の組織は崩壊しており、厚木飛行場の将兵や近隣住民の中でも降伏に不満を抱いている者も多く、有末の命令をまともに聞く者はいなかったので、仕方なく、海軍の工廠員を食事提供の条件で滑走路整備に当たらせたが、作業は遅々として進まず、最後は1,000万円もの大金で業者に外注せざるを得なくなった。
その後、マッカーサー司令部より、先遣隊が28日、マッカーサー本隊が30日に進駐を延期するという知らせが届いたため、日本側はどうにか厚木飛行場の整備を間に合わせることができた。28日には予定どおりにマッカーサーの信頼厚いチァーレス・テンチ大佐を指揮官とする先遣隊が輸送機で厚木飛行場に着地し、有末ら日本側とマッカーサー受け入れの準備を行った。特に問題となったのは、厚木に到着したマッカーサーらが当面の宿舎となる横浜の「ホテルニューグランド」まで移動する輸送手段であった。日本側に準備が命じられたが、空襲での破壊により、まともに使い物になる乗用車があまり残っておらず、日本側はどうにか50台をかき集めたが、中には木炭車やら旧式のトラックが含まれており、先導車は消防車であった。それでも、マッカーサーら司令部幕僚には自決した阿南惟幾陸軍大臣の公用車であったリンカーン・コンチネンタルを含む、閣僚らの高級公用車が準備されたが、8月29日までにそれら高級車は全て先遣隊のアメリカ軍将兵に盗難されてしまった。困惑した有末がテンチにうったえたところ、テンチは即対応して8月30日の午前4時までにすべての公用車を取り戻した。
8月29日に沖縄に到着したマッカーサーは、8月30日の朝に専用機「バターン号」で厚木に向けて5時間の飛行を開始した。マッカーサーに先立ちアメリカ軍第11空挺師団の4,000人の兵士が厚木に乗り込み護衛しているとは言え、つい先日まで徹底抗戦をとなえていた多数の敵兵が待ち受ける敵本土に、わずかな軍勢で乗り込むのは危険だという幕僚の主張もあったが、マッカーサーは日露戦争後に父親アーサーの副官として来日したときの経験により、天皇の命で降伏した日本軍兵士が反乱を起こすわけがないと確信していた。マッカーサーが少数の軍勢により、空路で厚木に乗り込むことを望んだのは、海兵隊の大部隊を率いて日本本土上陸を目指して急行している、ハルゼーら海軍との先陣争いに勝つためと、この戦争でマッカーサーの勇気を示す最後の機会になると考えたからであった。それでも、飛行中は落ち着きなく、バターン号の機内通路を行ったり来たりしながら、思いつくことを副官のコートニー・ホイットニー少将に書き取らせて、強調したい箇所ではコーンパイプを振り回した。それでもしばらくすると座席に座ってうたた寝したが、バターン号が富士山上空に到達すると、ホイットニーがマッカーサーを起こした。マッカーサーは富士山を見下ろすと感嘆して「ああ、なつかしい富士山だ、きれいだなコートニー」とホイットニーに語り掛けたが、その後再び睡眠に入った。
14時05分に予定よりも1時間早くバターン号は厚木に到着した。事前に日本側は政府要人による出迎えを打診したが、マッカーサーはそれを断って、日本側は新聞記者10名だけの出迎え列席が認められており、マッカーサーの動作は常に記者を意識したものとなった。マッカーサーはタラップに踏み出すとすぐには下りず、180度周囲をゆっくりと見回したあとで、その後にタラップを下って厚木の地に降り立った。これは新聞記者の撮影を意識したものと思われ、後に、マッカーサーはこの時に撮影された写真を、出版した自伝に見開き2ページを使って掲載している。日本の新聞記者にも強い印象を与えて、同盟通信社の明峰嘉夫記者は「歌舞伎役者の菊五郎が大見得を切ったよう」と感じたという。マッカーサーは記者団に対して、バターン機内で考えていた以下の第一声を発した。
しかし、派手なことが好きなマッカーサーにしては珍しいことに、進駐初日の公式な動きはこの短い声明のみであり、日本のマスコミの扱いも意外に小さく、朝日新聞はマッカーサー来日の記事は一面ですらなく、紙面の中央ぐらいで、マッカーサーが大見得を切りながらタラップを降りた写真も掲載されなかった。
その後マッカーサー一行は日本側が準備した車両でホテルニューグランドに向かった。ニューグランドは1937年にマッカーサーがジーンとニューヨークで結婚式を挙げたのち、任地のフィリピンに帰る途中に宿泊した思い出のホテルであった。
厚木から横浜までの道路の両側には30,000名を超す日本軍の兵士が銃剣をつけた小銃を構えて警護にあたっていたが、兵士はマッカーサーらの車列に背を向けて立っていた。これまでは、兵士が行列に顔を向けないのは天皇の行幸のときに限られており、明確にアメリカに恭順の意を示している証拠であったが、幕僚らは不測の事態が起こらないか神経を尖らせているなかで、マッカーサーだけがこの光景を楽しんでいた。
日本の降伏の受け入れ方として、連合軍内でも様々な意見がありイギリス軍総司令のルイス・マウントバッテン伯爵(のちインド総督、海軍元帥)は、昭和天皇がマニラまで来てマッカーサーに降伏すべきと考えていたが、マッカーサーはそのような相手に屈辱を与えるやり方はもはや時代遅れであり、日本人を敗戦に向き合わせるために、威厳に溢れた戦争終結の儀式が必要と考えた。かつて、元部下のアイゼンハワーがドイツの降伏を受け入れるとき、ドイツではなくフランスの地で、報道関係者が誰もいない早朝に、ドイツの将軍らに降伏文書に調印させたが、マッカーサーはそれも全くの間違いと捉え、東京で全世界のメディアが注目し、後世に残す形で降伏調印式をおこなうこととした。
降伏調印式は、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で行われることとなった。ミズーリ艦には、マシュー・ペリー提督が日本に開国を要求するため日本に来航した際に、ペリーが座乗した旗艦である外輪式フリゲート艦サスケハナに掲げられていた星条旗と、2つの5つ星の将旗が掲げられていた。通常軍艦には再先任の提督の将旗の1流しか掲げられなかったが、今日はマッカーサーやその幕僚たちの機嫌を損ねないように前例を破ってマッカーサーの将旗も掲げたものであった。まずマッカーサーと幕僚らは、駆逐艦ブキャナン(英語版)でミズーリに乗り付けた。ミズーリではニミッツとハルゼーに出迎えられて、ハルゼーの居室に案内された。そこで3人はしばし歓談したが、ハルゼーに対しては「ブル」とあだ名で呼びかけるほど打ち解けていたが、ニミッツとはこれまでの激しい主導権争いもあって、よそよそしい雰囲気であった。豪胆なマッカーサーであったが、この日は流石に緊張したのか、歓談の途中でトイレに姿を消すとしばらくその中に籠っていた。周囲が心配していると、トイレの中からマッカーサーが嘔吐している音が聞こえたので、海軍の士官が「軍医を呼んできましょうか」とたずねたところ、マッカーサーは「すぐによくなる」と答えて断った。
日本側代表団は首席全権・重光葵、大本営を代表し梅津美治郎ら全11名で、ミズーリに駆逐艦ランズダウン(英語版)で乗り換え艦上に立った。ミズーリにはイギリス、カナダ、オランダ、中華民国、オーストラリアなど全9か国の連合国代表の他に、太平洋戦争初期に日本軍の捕虜となって終戦後に解放された、マッカーサーの元部下のウェインライト中将とイギリス軍のアーサー・パーシバル中将も列席した。アメリカ海軍の司令官たちも列席したが、ニミッツは最後まで特攻機を警戒しており、特攻機が突入してもアメリカ軍司令官全員が死傷することを避けるため、レイモンド・スプルーアンス提督と、マーク・ミッチャー中将は離れた場所に列席させた。ミズーリ艦上には世界中のマスコミが集まり、絶好の撮影位置を奪い合っていたが、ソビエト連邦のマスコミは代表のクズマ・デレビヤンコの真後ろに立とうとした。その位置は立ち入り禁止であり、強く指示されても「モスクワから特別に指示されている」と言ってきかなかったので、ミズーリの艦長は屈強な2人の海兵隊員を呼び寄せてソ連側の記者を所定の位置まで引きずっていかせた。緊張する場面で発生したささやかな見世物に、マッカーサーや世界の代表者は面白がって見ていたが、当のデレビヤンコも加わり「すばらしい、すばらしい」と叫びながら嬉しそうに笑っていた。
午前9時にミズーリの砲術長が「総員、気をつけ」と叫ぶと、マッカーサーは甲板上に足を踏み出し、ニミッツとハルゼーが後につづいた。マッカーサーはそのままマイクの放列の前に進み出ると、少し間を措いて、ゆっくりとした大声で演説を開始した。厚木に到着した日は短かめの声明を記者団に述べただけのマッカーサーであったが、この日の演説は長いものとなった。
英文; We are gathered here, representatives of the major warring powers, to conclude a solemn agreement whereby peace may be restored.
The issues involving divergent ideals and ideologies have been determined on the battlefields of the world, and hence are not for our discussion or debate.
Nor is it for us here to meet, representing as we do a majority of the peoples of the earth, in a spirit of distrust, malice, or hatred.
But rather it is for us, both victors and vanquished, to rise to that higher dignity which alone befits the sacred purposes we are about to serve, committing all of our peoples unreservedly to faithful compliance with the undertakings they are here formally to assume.
演説が終わったあと、9時8分にマッカーサーが降伏文書に署名、マッカーサーはこの署名のために5本の万年筆を準備しており、それを全部使って自分の名前をサインした。それらは、ウエインライト、パーシバル、ウェストポイント陸軍士官学校、アナポリス海軍兵学校にそれぞれ贈られる予定となっていたが、残る1本のパーカーのデュオフォールド「ビッグレッド」は妻ジーンへの贈り物であった。その後に日本全権重光が署名しようとしたが、テロにより片足を失っていた重光がもたついたため、見かねたマッカーサーがサザーランドに命じて署名箇所を示させた。その後に梅津、他国の代表が署名を行い、全員が署名し終わったときにマッカーサーは「いまや世界に平和が回復し、神がつねにそれを守ってくださるよう祈ろう。式は終了した。」と宣言した。宣言と同時に1,000機を超す飛行機の轟音が空に鳴り響き、歴史的式典の幕を閉じた。
皇居では昭和天皇が首を長くして降伏調印の報告を待っていたが、重光は参内すると、同行した外務省職員加瀬俊一の作成した報告書を朗読し「仮にわれわれが勝利者であったとしたら、これほどの寛大さで敗者を包容することができただろうか」という報告書の問いに対して昭和天皇は嘆息してうなずくだけであった。加瀬はこのときの昭和天皇の思いを「マッカーサー元帥の高潔なステーツマンシップ、深い人間愛、そして遠大な視野を讃えた加瀬の報告書に昭和天皇は同意した」とマッカーサー司令部に報告している。
マッカーサーには大統領ハリー・S・トルーマンから、日本においてはほぼ全権に近い権限が与えられていた。連合国最高司令官政治顧問団特別補佐役としてマッカーサーを補佐していたウィリアム・ジョセフ・シーボルドは「物凄い権力だった。アメリカ史上、一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られた例はなかった」と評した。9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。
これに対して重光葵外相は、マッカーサーに「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本も参照)。
降伏調印式から6日経過した9月8日に、マッカーサーは幕僚を連れてホテルニューグランドを出発して東京に進駐した。東京への進駐式典は開戦以来4年近く閉鎖されていた駐日アメリカ合衆国大使館で開催された。軍楽隊が国歌を奏でるなか、真珠湾攻撃時にワシントンのアメリカ合衆国議会議事堂に掲げられていた星条旗をわざわざアメリカ本国から持ち込み、大使館のポールに掲げるという儀式が執り行われた。
その後、マッカーサーと幕僚は帝国ホテルで昼食会に出席したが、マッカーサーは昼食会の前に、帝国ホテルの犬丸徹三社長が運転する車で都内を案内させている。車が皇居前の第一生命館の前に差し掛かると、マッカーサーは犬丸に「あれはなんだ?」と聞いた。犬丸が「第一生命館です」と答えると、マッカーサーは「そうか」とだけ答えた。昼食会が終わった13時にマッカーサーは幕僚を連れて第一生命館を再度訪れ、入り口から一歩建物内に踏み入れると「これはいい」と言って、第一生命館を自分の司令部とすることに決めている。犬丸は自分とマッカーサーのやり取りが、第一生命館が連合国軍最高司令官総司令部となるきっかけになったと思い込んでいたが、マッカーサーは進駐直後から、連合国軍最高司令官総司令部とする建物を探しており、戦災による破壊を逃れた第一生命館と明治生命館がその候補として選ばれ、9月5日から前日まで、両館にはマッカーサーの幕僚らが何度も訪れて、資料を受け取ったり、第一生命保険矢野一郎常務ら社員から説明を受けるなどの準備をしていた。副官のサザーランドが実見し最終決定する予定であったが、犬丸に案内されて興味を持ったマッカーサーが自ら足を運び、矢野の案内で内部も確認して即決したのであった。もう一つの候補となった明治生命館へは「もういい」といって見に行くこともしなかったが、結果として明治生命館も接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用された。
第一生命館は1938年に竣工した皇居に面する地上8階建てのビルで、天皇の上に君臨して日本を支配するマッカーサー総司令官の地位をよく現わしていた。しかし、マッカーサー自身が執務室として選んだ部屋はさほど広くもなく、位置的に皇居を眺めることもできず、階下は食堂であり騒がしい音が響いていた。マッカーサーの幕僚らの方が広くて眺めもいい快適な部屋を使用していたが、マッカーサーがわざわざ部下より質素な執務室としようと考えたのは、強大な権力を有しているが、それを脱ぎ捨てれば飾り気のない武骨な軍人であるということを示そうという意図があったためである。しかし、実際にはマッカーサーの幕僚らにより第一生命には「一番よい部屋を」という要望がなされ、マッカーサーの執務室として準備されたのは第一生命の社長室(当時の社長は石坂泰三)で、壁はすべてアメリカ産のクルミ材、床はナラ・カシ・桜・コクタンなどの寄木細工でできたテューダー朝風の非常に凝った造りとなっており、第一生命館最高の部屋であった。
占領行政について既存の体制の維持となると避けて通れないのが、天皇制の存置(象徴天皇制への移行)と昭和天皇の戦争責任問題であるが、早くも終戦1年6か月前の1944年2月18日の国務省の外交文書『天皇制』で「天皇制に対する最終決定には連合国の意見の一致が必要である」としながらも「日本世論は圧倒的に天皇制廃止に反対である......強権をもって天皇制を廃止し天皇を退位させても、占領政策への効果は疑わしい」と天皇制維持の方向での意見を出している。また1945年に入ると、日本の占領政策を協議する国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)において「占領目的に役立つ限り天皇を利用するのが好ましい」「天皇が退位しても明らかな証拠が出ない限りは戦犯裁判にかけるべきではない」という基本認識の元で協議が重ねられ、戦争の完全終結と平穏な日本統治のためには、昭和天皇自身の威信と天皇に対する国民の親愛の情が不可欠との知日派の国務長官代理ジョセフ・グルーらの進言もあり、当面は天皇制は維持して昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった。これはマッカーサーも同意見であったが、ほかの連合国や対日強硬派やアメリカの多くの国民が天皇の戦争責任追及を求めていたため、連合国全体の方針として決定するまでには紆余曲折があった。9月12日には記者会見で「日本は四等国に転落した。二度と強国に復帰することはないだろう」と発言した。
細谷雄一(国際政治学者、慶應義塾大学教授)は、全権を持ったマッカーサーとその側近らにより、日本人に「対米従属」という認識を植え付けられたのではないか、と指摘している。
まずマッカーサーが着手したのは日本軍の武装解除であったが、軍事力のほとんどが壊滅していたドイツ国防軍と異なり、日本軍は内外に154個師団700万名の兵力が残存していた。難航が予想されたが、陸海軍省などの既存組織を利用することにより平穏無事に武装解除は進み、わずか2か月で内地の257万名の武装解除と復員が完了した。
次に優先されたのは戦争犯罪人の逮捕で、終戦前からアメリカ陸軍防諜部隊(略称CIC)がリストを作成、さらに国務省の要求する人物も加え、9月11日には第一次A級戦犯38名の逮捕に踏み切った。しかし東條英機が自殺未遂、小泉親彦と橋田邦彦2名が自殺した。最終的に逮捕したA級戦犯は126名となったが、戦犯逮捕を指揮したCIC部長ソープは、遡及法でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサーに「戦犯を亡命させてはどうか?」と提案したことがあったが、マッカーサーは「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという。
A級戦犯に同情的だったマッカーサーも、フィリピン戦に関する戦争犯罪訴追にはフィリピン国民に「戦争犯罪人は必ず罰する」と約束しただけに熱心であった。マッカーサー軍をルソン山中に終戦まで足止めし「軍事史上最大の引き伸ばし作戦」を指揮した山下奉文大将と、太平洋戦争序盤にマッカーサーに屈辱を与えた本間雅晴中将の2人の将軍については、戦争終結前から訴追のための準備を行っていた。
山下は1945年9月3日にフィリピンのバギオにて降伏調印式が終わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。山下は「一度山を下りたら、敵は二度と釈放はすまい」と覚悟はしていたが、逮捕の罪状であるマニラ大虐殺などの日本軍の残虐行為については把握していなかった。しかしマッカーサーが命じ、西太平洋合衆国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将が開廷したマニラ軍事法廷は、それまでに判例もなかった、部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑判決を下した。死刑判決を下した5人の軍事法廷の裁判官は、マッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業軍人であり、典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判)であった。参謀長の武藤章中将が、独房とは言え犯罪者のように軍司令官の山下を扱うことに激高して「一国の軍司令官を監獄に入れるとは何事だ」と激しく抗議したが受け入れられることはなかった。
また、マニラについてはその犠牲者の多くが、日本軍の残虐行為ではなくアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘もあり、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もある。山下は拘束されたときから既に自分の運命を達観しており、独房のなかで扇子に墨絵を書いたり、サインを求めてくる多くのアメリカ軍将兵や士官の求めに応じて紙幣にサインしたりして過ごしていたが、開戦の日にあわせるかのように、1945年12月8日 にマニラの軍事法廷で死刑判決を受けた。マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせるように「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、山下は囚人服のままマンゴーの木の傍の死刑台で絞首刑を執行された。
本間についても同様で、本人が十分に把握していなかった、いわゆるバターン死の行進の責任者とされた。マッカーサーが死の行進の責任者を罰することを「聖なる義務」と意気込んでいたことと、マッカーサーを唯一破った軍人であり、なによりその首を欲していたため、マッカーサーにとっては一石二鳥の裁判となった。本間の妻・富士子は、本間の弁護士の1人フランク・コーダ大尉の要請により、本間の人間性の証言のため法廷に立つこととなった。軍事法廷が開廷されているマニラへ出発前に、朝日新聞の取材に対し富士子は「私は決して主人の命乞いに行くという気持ちは毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、飾り気のない真実の本間を私の力で全世界の人に多く知って頂きたいのです」と答えていたが、結局は山下裁判と同様にカンガルー法廷により、判決は死刑であった。判決後富士子は、弁護士の一人ファーネス大尉と連れだってマッカーサーに会った。マッカーサーの回想では、富士子は本間の命乞いに来たということにされているが、富士子によると「夫は敵将の前で妻が命乞いをするような事を最も嫌うので命乞いなんかしていない。後世のために裁判記録のコピーがほしいと申し出たが、マッカーサーからは女のくせに口を出すなみたいな事を言われ拒否された」とのことであった。
しかし、富士子の記憶による両者の会話のなかで、「本間は非常に立派な軍人でございます。もし殺されますとこれは世界の損失だと思うのです」や「(マッカーサー)閣下に彼の裁判記録をもう一度全部読んでいただけないでしょうか?」という富士子の申し出を、マッカーサーが本間の命乞いと感じ、また富士子が「死刑の判決は全てここに確認を求めて回ってくるそうでございますが、閣下も大変でございますのね」と皮肉を込めて話したことに対し、マッカーサーが「私の仕事に口を入れないように」と言い放ったのを富士子が傲慢と感じて「女のくせに口を出すな」と言われたと捉えた可能性も指摘されている。本間の死刑判決は山下の絞首刑に対して、軍人としての名誉に配慮した銃殺刑となり、軍服の着用も許された。
かつての“好敵手”に死刑にされた本間であったが、1946年4月3日の死刑執行直前には、牢獄内に通訳や教戒師や警備兵を招き入れて、「僕はバターン半島事件で殺される。私が知りたいことは広島や長崎の数万もの無辜の市民の死はいったい誰の責任なのかということだ。それはマッカーサーなのかトルーマンなのか」と完ぺきな英語で話すと、尻込みする一同に最後に支給されたビールとサンドウィッチをすすめて「私の新しい門出を祝ってください」と言って乾杯した。その後トイレに行き「ああ、米国の配給はみんな外に出してきた」と最後の言葉を言い残したのち銃殺刑に処された。 死刑執行後に富士子は「裁判は正に復讐的なものでした。名目は捕虜虐殺というものでしたが、マッカーサー元帥の輝かしい戦績に負け戦というたった一つの汚点を付けた本間に対する復讐裁判だったのです」と感想を述べている
後にこの裁判は、アメリカ国内でも異論が出され「法と憲法の伝統に照らして、裁判と言えるものではない」「法的手続きをとったリンチ」などとも言われた。1949年に山下の弁護人の内の1人であったA・フランク・リール大尉が山下裁判の真実をアメリカ国民に問うために『山下裁判』という本を出版した。日本でも翻訳出版の動きがあったがGHQが許可せず、日本で出版されたのはGHQの占領が終わった1952年であった。
GHQは、支配者マッカーサーを全日本国民に知らしめるため、劇的な出来事が必要と考え、昭和天皇の会談を望んでいた。昭和天皇もマッカーサーとの会談を望んでおり、どちらが主導権をとったかは不明であるが、天皇よりアメリカ側に会見を申し出た。マッカーサー個人は「天皇を会談に呼び付ければ日本国民感情を踏みにじることになる......私は待とう、そのうち天皇の方から会いに来るだろう」と考えていたということで、マッカーサーの要望どおり昭和天皇側より会見の申し出があった時には、マッカーサーと幕僚たちは大いに喜び興奮した。昭和天皇からは目立つ第一生命館ではなく、駐日アメリカ大使公邸で会談したいとの申し出であった。しかし日本側の記録によると、外務大臣に就任したばかりの吉田茂が、第一生命館でマッカーサーと面談した際に、マッカーサーが何か言いたそうに「モジモジ」していたので、意を汲んで昭和天皇の訪問を申し出、マッカーサー側から駐日アメリカ大使館を指示されたとのことで、日米で食い違っている。
1945年9月27日、大使館公邸に訪れた昭和天皇をマッカーサーは出迎えはしなかったが、天皇の退出時には、自ら玄関まで天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。会談の内容については日本とアメリカ両関係者より、内容の異なる様々な証言がなされており(#昭和天皇との会談を参照)、詳細なやり取りは推測の域を出ないが、マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、その後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった。
その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日、29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。歌人斎藤茂吉は、その日の日記に「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と書き込むほどであったが、多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見どおり、日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった。ちなみにその写真を撮影したのは、ジェターノ・フェーレイス(英語版)である。
連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院(現横浜市立大鳥小学校)に入院している際にマッカーサーが見舞いに訪れ、後に東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。
いわゆる『バターン死の行進』のアメリカ本国の報道管制を激しく非難したマッカーサーであったが、日本統治では徹底した報道管制を行っている。バギオで戦犯として山下が逮捕された直後、9月16日の日本の新聞各紙に一斉に「比島日本兵の暴状」という見出しで、フィリピンにおける日本兵の残虐行為に関する記事が掲載された。これはGHQの発表を掲載したもので、山下裁判を前にその意義を日本国民に知らしめ、裁判は正当であるとする周到な世論工作であった。毎日新聞の森正蔵(東京本社社会部長)によれば、これはマッカーサーの司令部から情報局を通じて必ず新聞紙に掲載するようにと命令され、記事にしない新聞は発行部数を抑制すると脅迫されていたという。
実際に朝日新聞はこのGHQの指示について、「今日突如として米軍がこれを発表するに至った真意はどこにあるかということである。(連合軍兵士による)暴行事件の発生と、日本軍の非行の発表とは、何らかの関係があるのではないか」と占領開始以降に頻発していた連合軍兵士による犯罪と、フィリピンにおける日本軍の暴虐行為の報道指示との関連性を疑う論説を記事に入れたところ、マッカーサーは朝日新聞を1945年9月19日と20日の2日間の発行停止処分としている。
その後、マッカーサーと昭和天皇の初面談の際に撮影された写真が掲載された新聞について、内務大臣の山崎巌が畏れ多いとして新聞の販売禁止処分をとったが、連合国軍最高司令官総司令部(SCAPはマッカーサーの職名、最高司令官、つまり彼のこと) の反発を招くことになり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これをきっかけとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、GHQが検閲を行うこととし、日本の報道を支配下に置いた。また、連合国と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。
マッカーサーの日本のマスコミに対する方針を如実に表しているのは、同盟通信社が行った連合軍に批判的な報道に対し、1945年9月15日にアメリカ陸軍対敵諜報部の民間検閲主任ドナルド・フーバー大佐が、河相達夫情報局総裁、大橋八郎日本放送協会会長、古野伊之助同盟通信社社長を呼びつけて申し渡した通告であるが「元帥は報道の自由に強い関心を持ち、連合軍もそのために戦ってきた。しかし、お前たちは報道の自由を逸脱する行為を行っており、報道の自由に伴う責任を放棄している。従って元帥はより厳しい検閲を指令された。元帥は日本を対等とは見做していないし、日本はまだ文明国入りする資格はない、と考えておられる。この点をよく理解しておけ。新聞、ラジオに対し100%の検閲を実施する。嘘や誤解を招く報道、連合軍に対するいかなる批判も絶対許さない」と強い口調で申し渡している。
マッカーサーの強力な指導力の下で、五大改革などの日本の民主化が図られ、日本国憲法が公布された。
連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の大統領選挙への出馬を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないことから、占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んだ。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって日本への占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。
1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明に最も過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞はマッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。
マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心に、シカゴ・トリビューン社主のロバート・R・マコーミック(英語版)や、同じく新聞社主のウィリアム・ランドルフ・ハーストがいた。『ニューヨーク・タイムズ』紙もマッカーサーが有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、27名の代議士のうちでマッカーサーに投票したのはわずか8名と惨敗、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。5月10日には陸軍参謀総長になっていたアイゼンハワーが来日したが、マッカーサーと面談した際に「いかなる軍人もアメリカの大統領になろうなどと野心を起こしてはならない」と釘を刺している。しかしマッカーサーは、そのアイゼンハワーのその忠告に警戒の色を浮かべ、受け入れることはなかった。
6月の共和党大会では、マッカーサーを推すハーストが数百万枚のチラシを準備し、系列の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』の新聞配達員まで動員し選挙運動をおこない、マッカーサーの応援演説のために、日本軍の捕虜収容所から解放された後も体調不調に苦しむジョナサン・ウェインライトも呼ばれたが、第1回投票で1,094票のうち11票しか取れず、第2回で7票、第3回で0票という惨敗を喫し、結局第1回投票で434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。
日本では、マッカーサーへの批判記事は検閲されていたため、選挙戦の情勢を正確に伝えることができなかった。『タイム』誌は「マッカーサーを大統領にという声より、それを望まないと言う声の方が大きい」と既に最初のウィスコンシンの惨敗時に報道していたが、日本ではマッカーサーより有力候補者であったアーサー・ヴァンデンバーグやロバート・タフトの影は急激に薄くなっていった、などと事実と反する報道がなされていた。その結果、多くの日本国民が共和党大会での惨敗に驚かされた。その光景を見た『ニューヨーク・タイムズ』は「日本人の驚きは多分、一段と大きかったことだろう。......日本の新聞は検閲によって、アメリカからくるマッカーサー元帥支持の記事以外は、その発表を禁じられていたからである。そのため、マッカーサー元帥にはほとんど反対がいないのだという印象が与えられた」と報じている。
大統領選の結果、大統領に選ばれたのは現職のトルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。イギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。
日本での権威を揺るぎないものとしたマッカーサーであったが、アメリカの対極東戦略については蚊帳の外であった。マッカーサーは蔣介石に多大な援助を与え、中国共産党との国共内戦に勝利させ、中国大陸に親米的な政権を確保するという構想を抱いていたが、蔣介石は日中戦争時から、アメリカから多大な援助(現在の金額で約2兆円)を受けていたにもかかわらず、日本軍との全面的な戦争を避け続けて、数千万ドルにも及ぶ援助金を横領したり、受領した武器を敵に流すなど腐敗しきっており、中国民衆の支持を失いつつあった。民衆の支持を受けた中国共産党がたちまち支配圏を拡大していくのを見て、1948年にはトルーマン政権は蔣介石を見限っており、中国国民党を救う努力を放棄しようとしていた。マッカーサーはこのトルーマン政権の対中政策に反対を唱えたが、アメリカの方針が変わることはなく、1949年に北京を失った国民党軍は、1949年年末までには台湾に撤退することとなり、中国本土は中国共産党の毛沢東が掌握することとなった。
共産主義陣営との対立は、日本から解放されたのちに38度線を境界線としてアメリカとソ連が統治していた朝鮮半島でも顕在化することとなり、1948年8月15日、アメリカの後ろ盾で李承晩が大韓民国の成立を宣言。それに対しソ連から多大な援助を受けていた金日成が9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。マッカーサーは日本統治期間中にほとんど東京を出ることがなかったにもかかわらず、大韓民国の成立式典にわざわざ列席し、李承晩との親密さをアピールしたが、トルーマン政権の対朝鮮政策は対国民党政策と同様に消極的なものであった。朝鮮半島はアメリカの防衛線を構成する一部分とは見なされておらず、アメリカ軍統合参謀本部は「朝鮮の占領軍と基地とを維持するうえで、戦略上の関心が少ない」と国務省に通告するほどであった。
成立式典に列席して韓国との関係をアピールしたマッカーサーであったが、朝鮮情勢についてはトルーマンと同様にあまり関心はなかった。在朝鮮アメリカ軍司令官ジョン・リード・ホッジは度々マッカーサーに韓国に肩入れしてほしいと懇願していたが、マッカーサーの返事は「本職(マッカーサー)は貴職(ホッジ)に聡明な助言をおこなえるほどには現地の情勢に通じていない」という素っ気ないものであった。業を煮やしたホッジが東京にマッカーサーに面会しに来たことがあったが、マッカーサーはホッジを何時間も待たせた挙句「私は韓国に足跡を残さない、それは国務省の管轄だ」と韓国の面倒は自分で見よと命じている。マッカーサーは李承晩らに、大韓民国の成立式典で「貴国とは1882年以来、友人である」、「アメリカは韓国が攻撃された際には、カリフォルニア同様に防衛するであろう」とホワイトハウスに相談することもなくリップサービスをおこなっていたが、マッカーサーの約束とは裏腹に朝鮮半島からは順次アメリカ軍部隊の撤収が進められ、1949年には480名の軍事顧問団のみとなっていた。そして、マッカーサー自身も、韓国成立式典で韓国の防衛を約束したわずか半年後の1949年3月1日の記者会見で、共産主義に対する防衛線を、アラスカから日本を経てフィリピンに至る線という見解を示し、朝鮮半島の防衛については言及しなかった。
アメリカ軍の軍事顧問団に指導された韓国軍兵士は、街頭や農村からかき集められた若者たちで、未熟で文字も読めない者も多く、アメリカ軍の第二次世界大戦当時の旧式兵器をあてがわれて満足に訓練も受けていなかった。アメリカ軍の軍事顧問団の将校らは、そんな惨状をアメリカ本国やマッカーサーに報告すると昇進に響くことを恐れて、韓国軍はアジア最高であるとか、韓国軍は面目を一新し兵士の装備は人民軍より優れていると虚偽の報告を行った。その頃の1950年1月12日にディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言している(「アチソンライン」)。これはマッカーサーの1949年3月1日の記者会見での言及とほぼ同じ見解であったが、トルーマン政権中枢の見解でもあり、北朝鮮による韓国侵攻にきっかけを与えることとなった。アメリカ軍事顧問団の虚偽の報告を信じていたアメリカ本国やマッカーサーであったが、北朝鮮軍侵攻10日前の1950年6月15日になってようやく、ペンタゴン内部で韓国軍は辛うじて存在できる水準でしかないとする報告が表となっている。しかし、すでに遅きに失していた。
第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。
当時マッカーサーは、中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。北朝鮮軍が侵攻してきた6月25日にマッカーサーにその報告がなされたが、マッカーサーは全く慌てることもなく「これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。ワシントンが邪魔さえしなければ、私は片腕を後ろ手にしばった状態でもこれを処理してみせる」と来日していたジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問らに語っている。事態が飲み込めないマッカーサーは翌6月26日に韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオがアメリカ人の婦女子と子供の韓国からの即時撤収を命じたことに対し、「撤収は時期尚早で朝鮮でパニックを起こすいわれはない」と苦言を呈している。ダレスら国務省の面々には韓国軍の潰走の情報が続々と入ってきており、あまりにマッカーサーらGHQの呑気さに懸念を抱いたダレスは、マッカーサーに韓国軍の惨状を報告すると、ようやくマッカーサーは事態を飲み込めたのか、詳しく調べてみると回答している。ダレスに同行していた国務省のジョン・ムーア・アリソンはそんなマッカーサーらのこの時の状況を「国務省の代表がアメリカ軍最高司令官にその裏庭で何が起きているかを教える羽目になろうとは、アメリカ史上世にも稀なことだったろう」と呆れて回想している。
6月27日にダレスらはアメリカに帰国するため羽田空港に向かったが、そこにわずか2日前に北朝鮮の威力偵察を片腕で処理すると自信満々で語っていたときと変わり果てたマッカーサーがやってきた。マッカーサーは酷く気落ちした様子で「朝鮮全土が失われた。われわれが唯一できるのは、人々を安全に出国させることだ」と語ったが、ダレスとアリソンはその風貌の変化に驚き「わたしはこの朝のマッカーサー将軍ほど落魄し孤影悄然とした男を見たことがない」と後にアリソンは回想している。
6月28日にソウルが北朝鮮軍に占領された。わずかの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは、6月29日に東京の羽田空港より専用機の「バターン号」で水原に飛んだが、この時点で韓国軍の死傷率は50%に上ると報告されていた。マッカーサーはソウル南方32kmに着陸し、漢江をこえて炎上するソウルを眺めたが、その近くを何千という負傷した韓国軍兵士が敗走していた。マッカーサーは漢江で北朝鮮軍を支えきれると気休めを言ったが、アメリカ軍が存在しなければ韓国が崩壊することはあきらかだった。マッカーサーは日本に戻るとトルーマンに、地上軍本格投入の第一段階として連隊規模のアメリカ地上部隊を現地に派遣したいと申し出をし、トルーマンは即時に許可した。この時点でトルーマンはマッカーサーに第8軍の他に、投入可能な全兵力の使用を許可することを決めており、マッカーサーもまずは日本から2個師団を投入する計画であった。7月7日、国際連合安全保障理事会決議84 により、北朝鮮に対抗するため、アメリカが統一指揮を執る国連軍の編成が決議され、7月8日に、マッカーサーは国連軍司令官に任命された。国連軍(United Nations Command、UNC)には、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍など16か国の軍が参加している。
しかし、第二次世界大戦終結後に大幅に軍事費を削減していたアメリカ軍の戦力の低下は著しかった。ひどい資金不足で砲兵部隊は弾薬不足で満足な訓練もしておらず、フォート・ルイス基地などでは、トイレットペーパーは1回の用便につき2枚までと命じられるほどであった。しかし、この惨状でもマッカーサーら軍の首脳は、第二次世界大戦での記憶から、アメリカ軍を過大評価しており、アメリカ軍が介入すれば兵力で圧倒的に勝る北朝鮮軍の侵略を終わらせるのにさほど手間は取るまいと夢想していた。熊本県より釜山に空輸された、アメリカ軍の先遣部隊ブラッド・スミス中佐率いるスミス特殊任務部隊(通称スミス支隊)が7月4日に北朝鮮軍と初めて戦闘した。T-34戦車多数を投入してきた北朝鮮軍に対して、スミス支隊は60mm( 2.36inch)バズーカで対抗したものの役に立たず、スミス支隊は壊滅した。(烏山の戦い)その後に到着した第24歩兵師団の本隊も苦戦が続き、ついには師団長のウィリアム・F・ディーン少将が北朝鮮軍の捕虜となってしまった。
第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将はマッカーサーに信頼されておらず冷遇されており、優秀な士官が日本に派遣されると、第8軍からマッカーサーが自分の参謀に掠め取ったので、第8軍には優秀な士官が少なかった。朝鮮戦争開戦時の第8軍の9名の連隊長を国防長官ジョージ・マーシャルが評価したところ、朝鮮半島の厳しい環境で、体力的にも能力的にも十分な指揮が執れる優秀な連隊長と評価されたのはたった1名で、他は55歳以下47歳までの高齢で指揮能力に疑問符がつく連隊長で占められていた。壊滅した第24師団は、士官の他、兵、装備に至るまで国の残り物を受け入れている最弱で最低の師団と見られていた。師団の士官のひとりは「兵員は定数割れし、装備は劣悪、訓練は不足したあんな部隊(第24師団)が投入されたのは残念であり、犯罪に近い」とまで後に述懐している。
マッカーサーは、第24師団が惨敗を続けていた7月上旬に、統合参謀本部に11個大隊の増援を要求したが、兵力不足であったアメリカ軍は兵力不足を補うために兵士の確保を強引な手段で行った。まずは日本で犯罪を犯して、アメリカの重営倉に護送される予定の兵士らに「朝鮮で戦えば、犯罪記録は帳消しにする」という選択肢が与えられた。またアメリカ国内では、第二次世界大戦が終わり普通の生活に戻っていた海兵隊員を、かつての契約に基づき再召集している。召集された海兵隊員は予備役に志願しておらず、自分らは一般市民と考えていたので再召集可能と知って愕然とした。強引に招集した兵士を6週間訓練して朝鮮に送るという計画であったが、時間がないため、朝鮮に到着したら10日間訓練するという話になり、それがさらに3日に短縮され、結局は訓練をほとんど受けずに前線に送られた。国連軍が押されている間に、アメリカ軍工兵部長ガソリン・デイヴィットソン准将が、釜山を中心とする朝鮮半島東南端の半円形の防御陣地を構築した(釜山橋頭堡)。ウォーカーはその防衛線まで国連軍を撤退させるとマッカーサーに報告すると、翌朝マッカーサーが日本から視察に訪れ、ウォーカーに対して「君が望むだけ偵察できるし、塹壕が掘りたいと望めば工兵を動員することができる。しかしこの地点から退却する命令を下すのは私である。この命令にはダンケルクの要素はない。釜山への後退は認められない」と釜山橋頭堡の死守を命じた。ウォーカーはそのマッカーサーの命令を受けて部下将兵らに「ダンケルクもバターンもない(中略)我々は最後の一兵まで戦わねばならない。捕虜になることは死よりも罪が重い。我々はチームとして一丸となって敵に当たろうではないか。一人が死ねば全員も運命をともにしよう。陣地を敵に渡す者は他の数千人の戦友の死にたいして責任をとらねばならぬ。師団全員に徹底させよ。我々はこの線を死守するのだ。我々は勝利を収めるのだ」といういわゆる「Stand or Die」(陣地固守か死か)命令を発している。
8月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓アメリカ軍、イギリス軍を中心とした国連軍は押されて、釜山橋頭堡に押し込まれることとなってしまった(釜山橋頭堡の戦い)。しかし国連軍は撤退続きで防衛線が大幅に縮小されたおかげで、通信線・補給線が安定し、兵力の集中がはかれるようになり、北朝鮮軍の進撃は停滞していた。アメリカ本土より第2歩兵師団や第1海兵臨時旅団といった精鋭が釜山橋頭堡に送られて北朝鮮軍と激戦を繰り広げた。アメリカ軍が日増しに戦力を増強させていくのに対し、北朝鮮軍は激戦で大損害を受けて戦力差はなくなりつつあった。特に北朝鮮軍は、アメリカ軍の優勢な空軍力と火砲に対する対策がお粗末で、道路での移動にこだわり空爆のいい餌食となり、道路一面に大量の黒焦げの遺体と車輌の残骸を散乱させていた。
マッカーサーは1942年に日本軍の猛攻でコレヒドール島に立て籠もっていたときに、バターンに戦力を集中している日本軍の背後にアメリカ軍部隊を逆上陸させ背後を突けば勝利できると夢想し、参謀総長のマーシャルにその作戦を提案したが、その時は実現は不可能だった。マッカーサーは、バターンでは夢想にすぎなかった神業が今度は実現可能だと思い立つとその準備を始めた。7月10日にラミュエル・C・シェパード・Jr(英語版)海兵隊総司令が東京に訪れた際に、マッカーサーは朝鮮半島の地図で仁川(インチョン)を持っていたパイプで叩きながら、「私は第1海兵師団を自分の指揮下におきたい」「ここ(仁川)に彼ら(第1海兵師団)を上陸させる」とシェパードに告げている。太平洋戦争で活躍した海兵隊であったが、戦後の軍事費削減の影響を大きく受けて存続すら危ぶまれており、出番をひどく求めていたため、シェパードはマッカーサーの提案にとびつき、9月1日までには海兵隊1個師団を準備すると約束した。
アメリカ統合参謀本部議長オマール・ブラッドレーは大規模な水陸両用作戦には消極的で、マッカーサーの度重なる作戦要求になかなか許可を出さなかったが、マッカーサーは「北朝鮮軍に2正面作戦を強いる」「敵の補給・通信網を切断できる」「大きな港を奪ってソウルを奪還できる」などと敵に大打撃を与えうると熱心に説き、統合参謀本部は折れて一旦は同意した。しかし、マッカーサーから上陸予定地点を告げられると、統合参謀本部の面々は唖然として声を失った。仁川はソウルに近く、北朝鮮軍の大兵力が配置されている懸念もあるうえ、自然環境的にも、潮の流れが速くまた潮の干満の差も激しい為、上陸作戦に適さず、上陸中に敵の大兵力に攻撃されれば大損害を被ることが懸念された。8月23日にワシントンから陸軍参謀総長ジョーゼフ・ロートン・コリンズと海軍作戦部長フォレスト・シャーマン、ハワイからは太平洋艦隊司令長官アーサー・W・ラドフォードと海兵隊のシェパードが来日し、仁川の上陸について会議がおこなわれた。コリンズとシャーマンは上陸地点を仁川より南方の群山にすることを提案したが、マッカーサーは群山では敵軍の背後を突くことができず、包囲することができないと断じ、太平洋戦争中は海軍と延々と意見の対立をしてきたことは忘れたかのように「私の海軍への信頼は海軍自身を上回るかもしれない」「海軍は過去、私を失望させたこともなかったし、今回もないだろう」と海軍を褒め称え仁川上陸への賛同を求めた。その後、マッカーサーが「これが倍率5,000倍のギャンブルであることは承知しています。しかし私はよくこうした賭けをしてきたのです」「私は仁川に上陸し、奴らを粉砕してみせる」と発言すると、参加者は反論することもなく、畏れによる静寂が会議室を覆った。会議はマッカーサー主導で進み、とある将校は「マッカーサーの催眠術にかかった」と後で気が付くこととなった。
この会議の4日後に統合参謀本部から「朝鮮西岸への陸海軍による転回行動の準備と実施に同意する。上陸地点は敵の防衛が弱い場合は仁川に、または仁川の南の上陸に適した海浜とする」という、会議の席では唯一慎重であった陸軍のコリンズによる慎重論が盛り込まれた命令電文が届いた。しかし、統合参謀本部は自分らの保身を考えて上陸予定日8日前の9月7日になってから、マッカーサーの「倍率5,000倍」という予想を問題視したのか「予定の作戦の実現の可能性と成功の確率についての貴下の予想を伝えてもらいたい」という電文をマッカーサーに送っている。マッカーサーは即座に「作戦の実現可能性について、私はまったく疑問をもっていない」と回答したところ、ブラッドレーはその回答をトルーマンに報告し「貴下の計画を承認する。大統領にもそう伝えてある」と簡潔な電文をマッカーサーに返した。マッカーサーはこのトルーマンとブラッドレーの行動を見て、「この作戦が失敗した場合のアリバイ作りをしている」と考えて、骨の髄までぞっとしたと後年語っている。
統合参謀本部は作戦が開始されるまで機密保持を厳重にしていたが、GHQの機密保持はお粗末であったうえ、当時の日本の港湾の警備は貧弱でスパイ天国となっており、アメリカ軍が大規模な水陸両用作戦を計画していることは中国に筒抜けであった。そこで毛沢東は参謀の雷英夫にアメリカ軍の企図と次の攻撃地点を探らせた。雷はあらゆる情報を検証のうえで上陸予想地点を6か所に絞り込んだがそのなかで仁川が一番可能性が高いと毛に報告した。毛は周恩来を通じ金日成に警告している。また、北朝鮮にいたソ連軍の軍事顧問数名も金に仁川にアメリカ軍が上陸する可能性を指摘したが、金はこれらの助言を無視した。
マッカーサーは佐世保に向かい、司令船となるAGC(揚陸指揮艦)のマウント・マッキンリー(英語版)に乗艦すると、仁川に向けて出港した。その後には7か国261隻の大艦隊が続いた。艦隊は途中台風に遭遇したが、9月14日にマウント・マッキンリーは仁川沖に到着した。マッカーサーが到着する前までに仁川港周辺は、先に到着した巡洋艦や駆逐艦による艦砲射撃や空母艦載機による空襲で徹底的に叩かれていた。もっとも念入りに叩かれたのは仁川港の入り口に位置する月尾島であったが、金は中国やソ連の警告にもかかわらず仁川周辺に警備隊程度の小兵力しか配置しておらず、月尾島にも350人の守備隊しか配置されていなかった。9月15日の早朝5時40分に海兵第1師団の部隊が重要拠点月尾島に上陸したが、たった10名の負傷者を出したのみで占領された。損害が予想に反して軽微であったと知らされたマッカーサーは喜びを隠し切れず、参謀らに「それよりもっと多くの者が交通事故で死んでいる」と得意げに語ると、海軍と海兵隊に向け「今朝くらい光り輝く海軍と海兵隊はこれまで見たことがない」と電文を打たせ、自分は幕僚らとコーヒーを飲んだ。
月尾島攻略後も、ブラッドレーやコリンズの懸念に反して仁川上陸作戦は大成功に終わった。作戦はマッカーサーの計画よりもはるかに順調に進み、初日の海兵隊の戦死者はたった20名であった。戦局は一気に逆転しマッカーサーの名声と人気を大きく高めた。見事に上陸を成功させた国連軍は金浦飛行場とソウルを奪還するために前進した。北朝鮮軍は仁川をあっさり放棄した代わりに、ソウルを防衛する覚悟で、首都を要塞化していた。マッカーサーは仁川に上陸すると国連軍は5日でソウルを奪還すると宣言したが、北朝鮮軍の猛烈な抵抗で2週間を要した。国連軍がソウル全域を占領すると、北朝鮮軍は13万人の捕虜を残して敗走していった。マッカーサーは9月29日に得意満面で金浦飛行場に降り立つと、正午にソウルの国会議事堂で開かれた式典にのぞみ「ソウルが韓国政府の所在地として回復された」と劇的な宣言を行った。マッカーサーから「行政責任の遂行」を求められた李承晩は涙を流しながら、韓国全国民を代表して「我々はあなたを崇拝します。あなたを民族の救世主として敬愛します」と述べた。マッカーサーはこの日もソウルに宿泊することはなく、午後には東京に帰ったが、長い軍歴での最大の勝利で、今までで最高の栄光を手にしたと感じていた。
仁川上陸作戦の大成功によりマッカーサーの自信は肥大化し、その誇大な戦況報告にワシントンも引きずられ、統合参謀本部は国連決議を待たず、9月28日付で北朝鮮での軍事行動を許可した。戦争目的が「北朝鮮軍の侵略の阻止」から「北朝鮮軍の壊滅」にエスカレートしたのである。国防長官ジョージ・マーシャルはマッカーサーに「38度線以北に前進することに関して、貴下には戦略的・戦術的に何の妨げもないものと考えていただきたい」と極秘電を打つと、マッカーサーは「敵が降伏するまで、朝鮮全土が我が軍事作戦に開かれているものと理解する」と回答している。しかし、中ソの全面介入を恐れるトルーマンは、「陸海軍はいずれの場合も国境を越えてはならない」「国境付近では韓国軍以外の部隊は使用しない」「中国東北部およびソ連領域への空海からの攻撃を禁止する」という制限を設けた。中ソの全面介入の防止の他にも、ホイト・ヴァンデンバーグアメリカ空軍参謀総長は、空軍の作戦域を拡大することで自然・戦闘損失で空軍力を消耗し、その補充のために2年間はヨーロッパ方面の防空力が裸になると考え、国防総省もその考えを支持し、マッカーサーにも伝えられた。しかしこの作戦制限は、全面戦争で勝利することが信条のマッカーサーには、束縛以外の何物にも感じられなかった。
10月15日にウェーク島で、トルーマンとマッカーサーは朝鮮戦争について協議を行った。トルーマンは大統領に就任して5年半が経過していたが、まだマッカーサーと会ったことがなく、2度にわたりマッカーサーに帰国を促したが、マッカーサーはトルーマンの命令を断っていた。しかし、仁川上陸作戦で高まっていたマッカーサーの国民的人気を11月の中間選挙に利用しようと考えたトルーマンは、自らマッカーサーとの会談を持ちかけ、帰国を渋るマッカーサーのために会談場所は本土の外でよいと申し出た。トルーマン側はハワイを希望していたが、マッカーサーは夜の飛行機が苦手で遠くには行きたくないと渋り、結局トルーマン側が折れて、ワシントンから7,500km、東京からは3,000kmのウェーク島が会談場所となった。
トルーマンが大いに妥協したにもかかわらず、マッカーサーはこの会談を不愉快に思っており、ウェーク島に向かう途中もあからさまに機嫌が悪かった。同乗していた韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオに、「(トルーマンの)政治的理由のためにこんな遠くまで呼び出されて時間の無駄だ」と不満をもらし、トルーマンが自分の所(東京)まで来てしかるべきだと考えていた。マッカーサーは周囲の配慮で、会談前に睡眠をとってもらおうとトルーマン機が到着する12時間も前にウエーク島に到着していたが、苛立っていたので殆ど睡眠できなかった。
2人の不仲を強調する意図で、トルーマンの機を先に着陸させるために島の上空でマッカーサー機が旋回し、わざと会談に1時間遅れて到着したためトルーマンが激怒して「最高司令官を待たせるようなことを二度とするな。わかったか」と一喝したなどのエピソードが流布されているが、これは作り話である。しかし、マッカーサーがトルーマンに対して礼儀をわきまえなかったのは事実であり、通常の慣習であれば軍の最高司令官たる大統領を迎えるときは、大統領が乗り物(この時は飛行機)から降りる際に出迎える高級軍人は準備万端で待機しておかなければならなかったが、マッカーサーはわざと少し離れた場所に停車してあるジープに座って待っており、トルーマン機が着陸して、トルーマンが据えられたタラップに現れたところを見計らってジープから降りてトルーマンに向けて歩き出している。そのため、マッカーサーがトルーマンのところに到着したのは、タラップから地上に降り立ったのとほぼ同時となった。マッカーサーはさらに、通常であれば敬礼で出迎えなければならないのに対し、トルーマンに握手を求めている。トルーマンはマッカーサーの非礼さに不快感を覚えたが、ここは笑顔で応じて「ずっと会いたいと思っておりました」と話しかけている。
2人はウエーク島にある唯一の高級車であったシボレーに乗って、会談会場の航空会社事務所に向かった。トルーマンはごく普通の常識人で、相手が誰でもじっくりと話し込めば必ずうまくいくと思っており、また自分の交渉術にも多少の自信があって面と向かえば、相手の考えを大体読むことはできたし、誠実に対応すれば必ず相手も応じてくれると考えて、実際にアイゼンハワーやブラッドレーのような将軍たちとは意思の疎通ができていたが、マッカーサーはトルーマンの想定外の存在であった。マッカーサーは席に着くと周囲に構わずにパイプに煙草の葉をつめ始めたが、火をつける前に目の前のトルーマンに気が付いて、申し訳程度に「煙草は嫌ではないですか?」とたずねた。そこでトルーマンがジョークを交えて「問題ありません。おそらく私は、アメリカでもっとも顔に煙草の煙を吹きつけられています」と答えると、マッカーサーは遠慮することなく多くの煙草を吸い、狭くて暑苦しい会議室にはパイプ煙草の強い匂いが充満した。
その後の会談ではマッカーサーが、「どんな事態になっても中共軍は介入しない」「戦争は感謝祭までに終わり、兵士はクリスマスまでには帰国できる」と言い切った。さらに「最初の1、2か月の間に彼らが参戦していたら、それは決定的だったが、我々はもはや彼らの参戦を恐れていない」「彼らには空軍力はないが、我が方は朝鮮半島にいくつも空軍基地を有している。中共軍が平壌に迫っても大規模殺戮になるだけだろう」とも付け加えた。このマッカーサーの楽観的な予想は、トルーマン側の高官が連れてきていた女性秘書に正確に記録されており、後にマッカーサーを追い詰めることとなる。トルーマンは「きわめて満足すべき愉快な会談だった」と社交辞令を言い残して機上の人となったが、本心ではマッカーサーの不遜な態度に不信感を強め、またマッカーサーの方もよりトルーマンへの敵意を強め、破局は秒読みとなった。
その後もマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境の鴨緑江にまで迫った。先にソ連に地上軍派遣を要請して断られていた金日成は、1950年9月30日に中国大使館で開催された中華人民共和国建国1周年レセプションに出席し、その席で中国の部隊派遣を要請し、さらに自ら毛沢東に部隊派遣の要請の手紙を書くと、その手紙を朴憲永に託して北京に飛ばした。毛沢東はすぐに行動を起こし、10月2日に中国共産党中央政治局常務委員会を招集すると「一日の遅れが将来にとって決定的要因になる」「部隊を送るかどうかが問題ではなく、いつ送るか、誰が司令官になるかだ」と政治委員らに説いた。政治委員らも、アメリカ軍が鴨緑江に到達すれば川を渡って中国に侵攻してくる、それを阻止するには部隊派遣をする必要がある、との考えに傾き、毛沢東の決断どおり部隊派遣を決め、10月8日に金日成に通知した。ただしアメリカとの全面衝突を避けるため、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍から組織するが、形式上は義勇兵とした「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の派遣とした。毛沢東はヨシフ・スターリンに航空支援を要請するが、スターリンはアメリカとの直接対決を望んでおらず、毛沢東に中国国内での上空支援と武器・物資の支援のみに留めるものにすると返答している。中国軍の指揮官となった彭徳懐は、ソ連の航空支援なしでは作戦に不安を感じていたが、部隊派遣は毛沢東の強い意思で予定どおり行われることとなった。さらに毛沢東は北朝鮮軍の指揮権も彭徳懐に一任することと決め、戦争は中国の指揮下に置かれることとなった。
10月10日に約18万人の中国野戦第4軍が鴨緑江を越えて北朝鮮入りし、その数は後に30万人まで膨れ上がった。マッカーサーはこの危険な兆候を察知していたが、敵の意図を読み取ることが出来ず、一層攻撃的になった。当初はトルーマンの指示どおり、国境付近での部隊使用を韓国軍のみとするため、中朝国境から40から60マイル(64kmから97km)離れた場所を韓国軍以外の国連軍の最深到達点と決めたが、10月17日にはトルーマンの指示を破り、その最深到達点を中間点に変え、さらに国境深く前進するように各部隊司令官に命令した。中朝国境に近づけば近づくほど地形は急峻となり、補給が困難となっていったが、マッカーサーはその事実を軽視した。マッカーサーのこの作戦指揮は、毛沢東の思うつぼであった。かつて毛沢東が参謀の雷英夫にマッカーサーの人物について尋ね、雷英夫が「傲慢と強情で有名です」と回答すると、毛沢東は「それであれば好都合だ、傲慢な敵を負かすのは簡単だ」と満足げに答えたということがあったが、いまや中国が望むのはさらにマッカーサーが北上を命令し、補給ラインが危険なまでに伸びきることであった。しかし中国の罠にはまるようなマッカーサーの命令違反に、表立って反対の声は出なかった。マッカーサーの圧倒的な名声にアメリカ軍内でも畏敬の念が強かったこと、また強情なマッカーサーに意見するのは無益だという諦めの気持ちもあったという。そのような中でも副参謀長のマシュー・リッジウェイは異論を唱えたが、意見が取り上げられることはなかった。
待ち受ける中国人民志願軍の大軍は、降り積もる雪とその自然環境を巧みに利用し、アメリカ軍に気づかれることなく接近することに成功した。S.L.Aマーシャル(英語版)はその見事な組織力を『影無き幽霊』と形容し「その兵力、位置、どこに第一撃を加えてくるかの秘密は完全に保たれていて、二重に武装しているに等しかった」と賞している。10月26日には韓国軍と中国軍の小競り合いがあり、中国兵の18名を捕虜にし、救援に駆けつけたアメリカ軍第1海兵師団は中国軍の戦車を撃破している。またアメリカ第8軍司令ウォルトン・ウォーカー中将は非常に優秀な中国軍部隊が国境付近に存在することを敏感に感じ取っており、慎重に進撃していたが、これらの情報が重要視されることはなかった。というのも連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部(G2)部長チャールズ・ウィロビーらマッカーサーの幕僚らは、マッカーサーの先入観に疑いを挟むような報告を最小限に留め、マッカーサーに正確な情報が届かなかったことも一因であった。通常の指揮官であればできるだけ多くの正確な情報を欲しがるが、マッカーサーは情報報告が自分の行おうとしていることに完全に融合しているのを望んでいた。ウィロビーらはマッカーサーの性格を熟知しており、マッカーサーがやろうとしている鴨緑江への最後の進撃を妨害するような情報をそのまま上げることはせず、慎重に細工された情報をマッカーサーに報告していたため、マッカーサーに正確な情報が届いていなかった。そのため、新聞各紙が先に中国軍の不穏な動きを察知し記事にしたが、GHQはワシントンに「確認されていない」と楽観的な報告をしている。
そのような状況下で、11月1日に中国人民志願軍が韓国軍第二軍団に襲いかかった、韓国軍3個師団は装備を放棄して全面的に敗走した。朝鮮半島は国境に近づくほど北に広がっているため、国境に向けて進撃していたアメリカ第8軍と第10軍の間はかなり開いていた。その第8軍の右翼に展開していた韓国軍が崩壊すると、中国人民志願軍は笛や喇叭を鳴らしながら第8軍の側面に突撃してきた。第8軍は人海戦術の前に、たちまち大損害を被った。マッカーサーは中国軍の大攻勢開始の報告を受けていたが、中国が本格的に介入してきたのかどうか判断することが出来ず、自分自身で混乱していることを認めた。そのため、前線部隊への的確な指示が遅れ、その間に各部隊は大きな損害を被ることとなった。戦況の深刻さをようやく認識したマッカーサーは国防総省に「これまで当司令部はできる限りのことをしてきたが、いまや事態はその権限と力を超えるとこまで来ている」「われわれは全く新しい戦争に直面している」といささかヒステリックな打電を行っている。
11月28日になって、ようやくマッカーサーは軍司令に撤退する許可を与え、第8軍は平壌を放棄し、その後38度線の後方に撤退した。巧みに撤退戦を指揮していた第8軍司令官のウォルトン・ウォーカー中将であったが、12月23日、部隊巡回中に軍用ジープで交通事故死した。マッカーサーはその報を聞くと、以前から決めていたとおり、即座に後任として参謀本部副参謀長マシュー・リッジウェイ中将を推薦した。急遽アメリカから東京に飛んだリッジウェイは、12月26日にマッカーサーと面談した。マッカーサーは「マット、君が良いと思ったことをやりたまえ」とマッカーサーの持っていた戦術上の全指揮権と権限をリッジウェイに与えた。リッジウェイはマッカーサーの過ちを繰り返さないために、即座に前線に飛んで部隊の状況を確認したが、想像以上に酷い状況で、敗北主義が蔓延し、士気は低下し、指揮官らは有意義な情報を全く持たないというありさまだった。リッジウェイは軍の立て直しを精力的に行ったが、中国人民志願軍の勢いは止まらず、1951年1月2日はソウルに迫ってきた。リッジウェイはソウルの防衛を諦め撤退を命じ、1月4日にソウルは中国人民志願軍に占領されることとなった。
義勇軍側の人海戦術に押され、マッカーサーとワシントンは共にパニック状態に陥っていた。マッカーサーは大規模な増援と、原爆使用も含めた中国東北部空爆を主張したが、第二次世界大戦後に常備軍の大幅な縮小を行ない、ヨーロッパで冷戦が進みソ連と向き合うアメリカに、大規模な増援を送る余裕はなかった。中国東北部への爆撃は戦争の拡大をまねき、また原爆については、朝鮮の地勢と集約目標がないため現実的ではないと否決された。マッカーサーは雑誌のインタビューに答える形で「中国東北部に対する空襲の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」と作戦に制限を設けているトルーマンをこき下ろし、また中国軍に追われ敗走しているのにもかかわらず「戦術的な撤退であり、敗走などと広く宣伝されているのは全くのナンセンスだ」と嘯いた。トルーマンは激怒し、ワシントン中枢のマッカーサーへの幻滅感は増していった。マッカーサーからの批判に激怒したトルーマンは、統合参謀本部に命じてマッカーサーに対し、公式的な意見表明をする場合は上級機関の了承を得るようにと指示させたが、マッカーサーはこの指示を無視し、その後も政治的な発言を繰り返した。
ソウルから撤退したリッジウェイであったが、撤退はそこまでで、国連軍を立ち直らせると、1月26日には戦争の主導権を奪い返すための反転攻勢サンダーボルト作戦を開始し、中国の義勇軍の攻勢を押し留めた。マッカーサーはこの時点で中国が全面的に介入してきていると考え、ワシントンに再度前の話を蒸し返し、「国連軍が蹂躙されないためには、中国沿岸を封鎖し、艦砲射撃と空爆で戦争遂行に必要な工業力を破壊」することと国民党軍を参戦させるなど、中国との全面戦争突入を主張した。しかしトルーマンの方針は、日本か台湾が脅かされれば対中国の本格的作戦に突入するが、それ以外では紛争は朝鮮半島の中に限定するとの意向であり、マッカーサーをたしなめるような長文の返答をしている。参謀総長オマール・ブラッドレーはマッカーサーの戦争拡大要求は、戦争の状況よりむしろ「自分のような軍事的天才を虚仮にした中国紅軍の将軍たちへの報復」に関係があると推測していた。
しかし、リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは十分可能であると判断しており、中国軍の第3期攻勢を撃破すると2か月で失地を取り戻し、1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。戦況の回復はリッジウエイの作戦指揮によるもので、マッカーサーの出番はなかったため、それを不服と思ったマッカーサーは脚光を浴びるためか、東京から幕僚と報道陣を連れて前線を訪れた。しかしある時、リッジウェイが計画した作戦開始前にマッカーサーが前線に訪れて報道陣に作戦の開始時期を漏らしてしまい、リッジウェイから自重してほしいとたしなめられている。マッカーサーの軍歴の中で、真っ向から部下に反抗されたのはこれが初めてであった。リッジウェイは自伝でマッカーサーを「自分でやったのではない行為に対しても、名誉を主張してそれを受けたがる」と評している。
ワシントンは、この時点では朝鮮半島の武力統一には興味を示さず、アメリカ軍部隊を撤退させられるような合意を熱望していた。一方マッカーサーは、リッジウェイの成功が明らかになると、自分の存在感をアピールするためか「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を策定したとシーボルドに話している。のちにこれは「最長でも10日で戦勝できる」に短縮された。その構想とは、戦後マッカーサーが語ったところによれば、満州に50個もの原爆を投下し中ソの空軍力を壊滅させた後、海兵隊と中国国民党軍合計50万名で中国軍の背後に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してきた第八軍と中朝軍を包囲殲滅、その後に日本海から黄海まで朝鮮半島を横断して放射性コバルトを散布し、中ソ軍の侵入を防ぐというもので、この戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てるとしていた。
また、後年リッジウェイは「マッカーサーは、中国東北部の空軍基地と工業地帯を原爆と空爆で破壊した後は残りの工業地帯も破壊し、共産主義支配の打破を目指していた」「ソ連は参戦してこないと考えていたが、もし参戦して来たらソ連攻撃のための措置も取った」と推察している。この考えに基づきマッカーサーは、何度目になるかわからない原爆の前線への移送と使用許可をトルーマンに求めたが、トルーマンは返事を保留した。
マッカーサーへの返答前に、トルーマンは朝鮮問題解決の道を開くため停戦を呼びかけることとし、3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにもその内容が伝えられた。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、1951年3月24日に一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下においても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談する用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したが、これは中国への実質的な「最後通牒」に等しく、中国を強く刺激した。また、野党共和党の保守派の重鎮ジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニア前下院議長からマッカーサーに宛てた、台湾の国民党兵力を利用する提案とトルーマン政権のヨーロッパ重視政策への批判の手紙に対し、マッカーサーがマーティンの意見への賛同とトルーマン政権批判の返事を出していたことが明らかになり、一軍司令官が国の政策に口を出した明白なシビリアン・コントロール違反が相次いで行われた。これは、1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じて指示した「公式的な意見表明は上級機関の了承を得てから」にも反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」と激怒した。
またこの頃になるとイギリスなどの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるがトルーマンはマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した。
4月6日から9日にかけてトルーマンは、国務長官ディーン・アチソン、国防長官ジョージ・マーシャル、参謀総長オマール・ブラッドレーらと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施するもっとも賢明な方法について話し合われた。また皮肉にもこの頃にマッカーサーの構想を後押しするように、中国軍が中国東北部に兵力を増強し、ソ連軍も極東に原爆も搭載できる戦略爆撃機を含む航空機500機を配備、中国東北部には最新レーダー設備も設置し、日本海に潜水艦を大規模集結し始めた。これらの脅威に対抗すべく、やむなくマッカーサーの申し出どおり4月6日に原爆9個をグアムに移送する決定をしている。しかし、マッカーサーが早まった決断をしないよう強く警戒し、移送はマッカーサーには知らせず、また原爆はマッカーサーの指揮下にはおかず戦略空軍の指揮下に置くという保険をかけている。
4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊に記事にするという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に辞任するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表をたたきつけるようなことはさせない、私が奴をくびにしてやるのだ」とブラッドレーに言った。トルーマンは4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した。解任の理由は「国策問題について全面的で活発な討論を行うのは、我が民主主義の立憲主義に欠くことができないことであるが、軍司令官が法律ならびに憲法に規定された方式で出される政策と指令の支配をうけねばならぬということは、基本的問題である」とシビリアン・コントロール違反が直接の理由とされた。
日本時間では午後にこの報は日本に達したが、マッカーサーはそのとき妻のジーンと共に、来日した上院議員ウォーレン・マグナソンとノースウエスト航空社長のスターンズと会食をしていたが、ラジオでマッカーサー解任のニュースを聞いた副官のシドニー・ハフ大佐は電話でジーンにその情報を伝えた。その後、ブラッドレーから発信された「将軍あての重要な電報」が通信隊より茶色の軍用封筒に入った状態でハフの手元に届いた。その封筒の表には赤いスタンプで「マッカーサーへの指示」という文字が記してあった。ハフはマッカーサーが居住していたアメリカ大使公邸にこの封筒を持って行ったが、マッカーサーの寝室の前にいたジーンがその封筒を受け取り、寝室のマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かって「ジーニー、やっと帰れるよ」と言った。
その電報にはトルーマンよりの解任の命令の他、「指揮権はマシュー・B・リッジウェイ陸軍大将に移譲されたい。あなたは好きな場所に望みどおりの旅行を行うために必要な命令を出すことが許される」とも記しており、突然の解任劇にも冷静だったマッカーサーは、フィリピンと南太平洋とオーストラリアをゆっくり回ろうとも考えたが、かつて参謀総長として仕えた元大統領のハーバート・フーヴァーから国際電話があり、既に共和党の実力者とも連絡を取り合っていたフーヴァーは「トルーマンやマーシャルや、やつらの宣伝屋が君の名声を汚さないうちに、一日も早く帰国したまえ」と忠告している。共和党は、マッカーサーが帰国後に両院合同会議で演説することを民主党支配であった上下両院で了承させ、さらにマッカーサーの解任問題を通じてトルーマン政権を弾劾することも考えていた。アメリカ本国の政権争いに担ぎ出されることとなったマッカーサーであったが、腹心であったGHQのウィリアム・ジョセフ・シーボルド外交局長には本心をさらけ出しており、「(マッカーサーの)心を傷つけられるのは、大統領の選んだやり方にある。陸軍に52年も我が身を捧げたあと、公然たる辱めを受けるとはあまりに残酷である」とトルーマン対する不満を述べ、それを涙を浮かべながら聞いていたシーボルトは「彼(マッカーサー)のすることを目にし、言うことを聞いているのがこのときほどつらいことはなかった」と述べている。
フーヴァーの忠告どおり直接帰国することとしたマッカーサーは、4月16日にリッジウェイに業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰めかけ、『毎日新聞』と『朝日新聞』はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。マッカーサーも感傷に浸っていたのか、沿道の見送りを「200万人の日本人が沿道にびっしりと並んで手を振り」と自らの回顧録に誇張して書いている。しかし、沿道に並んだ学生らは学校からの指示による動員であったという証言もある。
首相の吉田茂は「貴方が、我々の地から慌ただしく、何の前触れもなく出発されるのを見て、私がどれだけ衝撃を受けたか、どれだけ悲しんだか、貴方に告げる言葉もありません」という別れを悲しむ手紙をマッカーサーに渡し、4月16日には衆参両議院がマッカーサーに感謝決議文を贈呈すると決議し、東京都議会や日本経済団体連合会も感謝文を発表している。
マッカーサーは空港で日米要人列席の簡単な歓送式の後に、愛機バターン号で日本を離れた。同乗していたマッカーサーと一緒に辞任したコートニー・ホイットニー前民政局局長へ「日本をもう一度見られるのは、長い長い先のことだろうな」と語ったが、実際にマッカーサーが再度日本を訪れたのは1961年にフィリピンから独立15周年の記念式典に国賓として招かれた際、フィリピンに向かう途中で所沢基地に休憩に立ち寄り、帰りに横田基地で1泊した時であったので、11年後となった。しかしセレモニーもなく、ほとんどの日本人が知らないままでの再来日(最後の来日)であった。マッカーサーと副官らの49トンにも達する家具、43個の貨物、3台の自動車はアメリカ海軍の艦船が公費で東京からマンハッタンに輸送している。
マッカーサーが帰国した後も、5月に入って吉田内閣は、マッカーサーに「名誉国民」の称号を与える「終身国賓に関する法律案」を閣議決定し、政府以外でも「マッカーサー記念館」を建設しようという動きがあった。マッカーサーにこの計画に対する考えを打診したところ、ホイットニーを通じて「元帥はこの申し出について大変光栄に思っている」という返事が送られている。
1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイントに自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べ、有名になった。
元となった「歌」には何通りかの歌詞がある。要約すると
というものである。
議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークのマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その日ビルから降り注いだ紙吹雪やテープは、清掃局の報告によれば2,859トンにもなった。また、1942年にマッカーサーがコレヒドールで孤軍奮闘し国民的人気を博していた時に、コーンパイプやマッカーサーを模したジョッキなどのキャラクターグッズで儲けた業者が、また大量のマッカーサー・グッズを販売したが、飛ぶように売れた。その中にはマッカーサーの演説にも登場した軍歌「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」のレコードもあったが、5種類もの音源で販売された。中には1948年の大統領候補となって落選した際に売れ残っていた在庫をさばいた業者もいたという。住居としていたマンハッタンの高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」のスイートルームには15万通の手紙と2万通の電報と毎日3,000件の電話が殺到し、家族にも各界から膨大な数のプレゼントが送られてくるほど、マッカーサーの国民的人気は頂点に達した。
5月3日から、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーとの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側のリークによりニューヨーク・タイムズ紙に、トルーマンとマッカーサーによる前年10月15日に行われたウェーク島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年にピューリッツァー賞を受賞している。この記事により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは削がれていた。
公聴会が始まると、マッカーサーは「ソ連は朝鮮戦争に深く関与していない」「中共が朝鮮半島から追い出されるくらいの敗北はソ連に大した影響は与えない」「極東地域のソ連軍にアメリカ軍と戦うだけの実力はなく、核兵器も劣っている、従ってソ連と戦うのなら今の方がよい、時間と共にアメリカの優位性は失われていく」など、自身のソ連への評価と情勢判断を雄弁に証言したが、統合参謀本部と議員にはソ連がたとえマッカーサーの分析どおりであったとしても超大国ソ連を刺激する覚悟はなく、マッカーサーの大胆な提案が現実離れしているという考えが大勢を占めていた。ブラッドレーはマッカーサーの提案を「我々を誤った場所で、誤った時期に、誤った敵との誤った戦争に巻き込むことになったであろう」と切り捨てている。また、マッカーサーのソ連への過小評価を聞き、大戦前に日本を過小評価して敗北したマッカーサーの前の過ちを思い出す議員も多かった。しかし、雄弁に公聴会をリードしてきたマッカーサーも、民主党のブライアン・マクマーン上院議員からの、ニューヨーク・タイムズの記事に書かれたとおり「あなたは中国は参戦しないと確信していたのではなかったのか?」との質問を受けると、これまでのように否定することもできず「私は中国の参戦はないと思っていた」と認めざるを得なくなった。この白状によりマッカーサーの立場は弱くなっていき、マクマーンがたたみかけるように「将軍はアメリカと西側連合軍が西ヨーロッパでソ連軍の攻撃に耐えることができるとお思いか?」と質問すると、マッカーサーは「私の責任地域(極東)以外のことに巻き込まないでほしい。グローバルな防衛に関する見解はここで証言すべきことではない」と答えたが、リンドン・B・ジョンソン上院議員からのその責任地域の「中国軍が鴨緑江以北に追いやられた場合、中国軍は再度国境線を突破し朝鮮半島に攻め込んではこないのか?」という質問に対しては、まともな返答を行うことができなかった。それまで専門家を自認し自説を雄弁に語っていた強気な姿勢は完全に失われ、政権側の民主党の容赦ない質問に一方的な守勢となっていった。
マッカーサーへの質疑は3日間にわたり、トルーマン政権はマッカーサーに対し勝利を収めたが、これでトルーマンが責任追及から逃れられたわけではなく、鴨緑江流域での敗北はマッカーサーと同様にトルーマン政権をも破壊し、この後民主党は政権を失うこととなる。しかし、マッカーサー解任当時は「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」とタイム誌に書かれるほどの不人気さで、大統領再選を断念したトルーマンも、文民統制の基本理念を守り、敢然とマッカーサーに立ち向かったことが次第に評価されていき、在職時の不当な低評価が覆され、今日ではアメリカ国民から歴代大統領の中で立派な大統領の1人とみなされるようになっている。
この公聴会の期間中、出席者はマッカーサーの提案で昼休みも取らず、サンドイッチとコーヒーを会場に運ばせて昼食とし、休みなく質疑を続けた。特にマッカーサーは、質疑中には一度としてトイレにすら行かず、とある議員から「元帥は71歳なのに大学生のような膀胱を持っている」と変な感心をされている。この3日間にわたる質疑中に、今日でもよく日本で引用される「中国に対しての海空封鎖戦略」や「日本人は12歳」証言もなされている(#マッカーサーのアメリカ議会証言録を参照)。 この聴聞会の後は軍人として活動することはなく、事実上退役したが、アメリカ軍において元帥には引退の制度がないため、軍籍そのものは生涯維持された。
マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。テキサス州を皮切りに11州を廻ったが、行く先々で熱狂的な歓迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で1952年の大統領選を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を繰り返した。しかし、後述する1951年5月3日から3日間行われた軍事外交共同委員会において第二次世界大戦での日本の行動を"自衛"と解釈できるような証言をしたこともあり、時が経つにつれ次第に聴衆や共和党からの支持を失っていった。
1951年9月にサンフランシスコで日本国との平和条約が締結されたが、その式場にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーにとことん冷淡であり、フランクリン・ルーズヴェルトの元大統領顧問バーナード・バルークなどはトルーマン政権にマッカーサーにも式典への招待状を送るようにと強く進言していたが、ディーン・アチソン国務長官はそれを断っている。首席全権であった吉田茂が、マッカーサーと面談し平和条約についての感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省よりは「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。その頃、マッカーサーは全国遊説の旅の途中であったが、サンフランシスコに招待されなかったことについて聞かれると「おそらく誰かが忘れたのであろう」と素っ気なく答えている。
その後も相変わらずマッカーサーの政権批判は続いたが、英雄マッカーサーの凱旋を当初熱狂的に歓迎していた全米の市民も、1952年に入る頃には熱気も冷め始めており、ジャクソンで行われた演説は反対の叫び声などで25回も演説が中断した、と『ニューヨーク・タイムズ』紙で報じられた。マッカーサーに対する共和党内の支持は広がらなかったが、大統領の座に並々ならぬ執着を見せ、同じく劣勢であった候補者ロバート・タフトと選挙協力の密約を行うなど最後の挽回を試み、7月のシカゴであった共和党大会の基調演説のチャンスを与えられたが、その演説は饒舌で演説上手なマッカーサーのものとは思えない酷いもので、演説に集中できない聴衆が途中から私語を交わし始め、最後は演説が聞き取れないほどまでになった。マッカーサーも敗北を悟るとひどく落胆したものの、即座にニューヨークに戻り、結局共和党の大統領候補には元部下のアイゼンハワーが選出された。
大統領候補となったアイゼンハワーとマッカーサーは、共和党大会後の11月に6年ぶりに再会した。かつての上司の顔を立てる意味であったのか、アイゼンハワーからの会談の申し出であったが、マッカーサーはアイゼンハワーに自らが作成した14か条の覚書を手渡した。その内容は、ヨシフ・スターリンと首脳会談を開き、「東西ドイツ及び南北朝鮮の統一」「アメリカとソ連の憲法に交戦権否定の条項を追加」などを提案し、スターリンが尻込みするようであれば北朝鮮で核兵器を使用せよ、などという、大胆だという以外は何の価値もない提案であった。その後、アイゼンハワーは大統領本選にも勝利して第34代大統領に就任したが、アイゼンハワーらホワイトハウスもペンタゴンもマッカーサーに意見を求めるようなことはなかった。
マッカーサーはホテルウォルドルフ=アストリアに永住することにした。ホテル側も通常は1日133ドルするスイートルームを月額450ドルで提供している。そのスイートルームには巨大な屏風を始めとして、日本統治時に贈られた物品が大量に飾られていたが、中にはマニラホテルで日本軍に一時奪われた、父アーサーが明治天皇から送られた銀の菊花紋章入りの花瓶も飾られてあった。マッカーサーは、アメリカ陸軍元帥として終生に渡って年俸19,541ドルを受け取っていた他、移動の際は鉄道会社が大統領待遇並みの特別列車を準備し、地方に遊説に行けばその土地の最高級ホテルがスイートルームを何部屋も準備しているなど、優雅な生活ぶりであった。
1952年にマッカーサーはレミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。その後、レミントンランドはスペリー社に買収されたが、マッカーサーはスペリー社の社長に迎えられた(その後ユニシスとハネウェルになる)。スペリ―社の主要取引先はペンタゴンであり、マッカーサー招聘は天下りの意味合いも強く、年俸は10万ドルと高額ながら日常業務には何の役割も持たされず、週に3 -4日、4時間程度出社し国際情勢について助言するだけの仕事であった。その為時間に余裕があったが、関心ごとは野球やボクシングなどのスポーツ観戦に限られていた。
1955年のミズーリ号での降伏式典と同じ日に、日本から外相の重光葵がマッカーサーを訪ねた。マッカーサーは感傷的に日本占領時代を回想し、昭和天皇との初会談の様子を話し、極東国際軍事裁判は失敗であったと悔やんでいる。1960年には勲一等旭日桐花大綬章が贈られ「最近まで戦争状態にあった偉大な国が、かつての敵司令官にこのような栄誉を与えた例は、私の知る限り歴史上他に例がない」と大げさに喜んでみせた。
1961年にはフィリピン政府が独立15年式典の国賓としてマッカーサーを招待した。すっかり過去の人となり余生を過ごしていたマッカーサーにとって、自らがセンチメンタルジャーニーと名付けたように感傷旅行となった。フィリピン政府はマッカーサーをたたえて国民祝祭日を宣し、お祝いの行事が1週間続いた。すっかり涙もろくなっていたマッカーサーは、フィリピン陸軍の中隊点呼にマッカーサーの名前が残っていることを知って目元に涙を浮かべた。再建されたマニラホテルでの昼食会では、誰ともなしに『 レット・ミー・コール・ユー・スウィート・ハート(英語版)』の大合唱となったが、それを聞いたマッカーサーは感激のあまり、普段は家族の前でしかやらないジーンとの抱擁を公衆の面前で行った。その後、マッカーサーはマニラ中央にあるルネタ公園で多数の観衆の前で演説を行ったが、耐えがたい気持ちで別れの言葉を告げた。「歳月の重荷に耐えかねて、わたしはもう二度と、あの誓いは果たせそうにありません。『I shall return』あの誓いを」実際にこれが最後のフィリピン訪問となった。
トルーマン、アイゼンハワー両政権はマッカーサーに対し冷淡な態度に終始したが、第35代大統領ジョン・F・ケネディもマッカーサーに好意を抱いておらず、むしろ尊大で過大評価された存在との認識であった。太平洋戦争時、ケネディはマッカーサーが率いた連合軍南西太平洋方面軍に所属した魚雷艇PT109(英語版)の艇長で、マッカーサーの配下であった。ケネディはかつての上官マッカーサーと1961年4月にニューヨークで会談したが、その席でケネディのマッカーサーに対する見方が大きく変わり、1961年7月にはエアフォースワンを派してマッカーサーをホワイトハウスの昼食会に招待している。その席でケネディとマッカーサーは意気投合し、昼食が終わった後、3時間も話し込んでいる。特に泥沼化しつつあったベトナム情勢での意見交換の中で、マッカーサーはロバート・マクナマラ国防長官らケネディ側近が主張しているドミノ理論をせせら笑い「アジア大陸にアメリカの地上軍を投入しようと考える者は頭の検査でもしてもらった方がいい」と自分が朝鮮半島で失敗した苦い経験を活かした忠告を行ったが、その的を射た忠告は顧みられることはなく、ケネディは「軍事顧問団」と名付けられた正規軍の派遣を増強するなどベトナム戦争への介入を進め、さらにケネディの暗殺後、後任のリンドン・B・ジョンソン大統領はそのままベトナムの泥沼にはまり込んでいった。
1962年にアメリカ上下両院は、マッカーサーに対する「議会およびアメリカ国民の感謝の意」の特別決議案を採択した。ケネディはアメリカ合衆国財務省に命じてマッカーサーに贈る特別の金メダルを作らせた。83歳の誕生日を迎える前にケネディはマッカーサーに最後の公務を依頼した。1964年に開催予定の東京オリンピックのアメリカ選手団内で、全米陸上競技連盟(英語版)(USATF)と全米大学体育協会(NCAA)が一部選手の出場資格問題を巡って激しく対立しており、1928年のアムステルダムオリンピックアメリカ選手団団長の際、同様な紛争を仲裁した経験を持つマッカーサーに、USATFとNCAAの仲裁を依頼したのだった。マッカーサーはケネディの依頼を快諾し、ほどなく問題は解決した。しかし、自らが指揮した日本復興の象徴的なイベントとなった東京オリンピックをマッカーサーが見ることはなかった。
1962年5月、マッカーサーは、自らの華々しい軍歴の最初の地となり、かつて自分が校長を務めたウェストポイント陸軍士官学校から、同校で最高の賞となるシルバヌスセイヤー賞(英語版)を受け、士官学校生徒を前に人生最後の閲兵と演説を行った。
1964年3月6日に、老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院に入院した。3月29日の手術は腸を2.4mも切り取るなど大がかりなもので、術後そのまま危篤となり、3月30日には腎機能がほとんど停止して3度目の手術を受けた。マッカーサーは危篤状態にもかかわらず、医師、看護婦、付き添い妻に昔話をして笑わせた。入院前、ジーンに「私は今まで何度となくあの死というならず者と対面してきた。だが、今度はついに奴も私をつかまえたようだ。しかし、わたしは頑張るからな」と宣言したとおり4週間に渡って死と戦ったが、4月3日に意識不明となり、4月5日午後2時39分に死去した。84歳没。
翌日、遺体はニューヨークのユニバーサルフュネラル教会へ移送されて告別式を行った後、4月8日にワシントンD.C.に戻されて連邦議会議事堂に安置された。そして翌4月9日にバージニア州ノーフォークまで運ばれ、4月11日に聖ポール教会で大統領リンドン・ジョンソンほか数千人が参列して国葬が執り行われた。日本からは代表として吉田茂が出席した。ジョンソンは、全世界のアメリカ軍基地に19発の弔砲を撃つように命じた。
昭和天皇とマッカーサーの会談については、様々な関係者から内容が伝えられている。当事者である昭和天皇は「男の約束」として終生語らなかったが、一方のマッカーサーは多くの関係者に話し、1964年に執筆した『回顧録』でも披露している。それによると昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」と発言したとあり、それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる。
しかし、マッカーサーの『回顧録』は多くの「誇張」「思い違い」「事実と全く逆」があり、自己弁明と自慢と自惚れに溢れており、史料的な価値は低いものとの指摘もあり、この昭和天皇とのやり取りについても、非喫煙者であった昭和天皇にマッカーサーがアメリカ製のタバコを奨め、昭和天皇が震えた手でタバコを吸ったと言っているなど事実として疑わしい記述もある。
マッカーサーから会談の内容を聞いた関係者はかなりの数に上るが、その内容が各人によってかなり異なっている。
一番身近な関係者は妻のジーン・マッカーサーで、マッカーサー記念館事務局が1984年に41回にもわたってジーンに初のロングインタビューを行っているが、ジーンはこの日の様子を、日本人の使用人が天皇と顔を合わせないよう1か所に閉じ込めておけという指示がマッカーサーからあったことや、昭和天皇は丁寧で礼儀正しい人物と聞いており、最初に出会った人物に深くお辞儀をすると予想されるため、ドアを開けて天皇を迎えるのはフィリピン人のボーイではなく、マッカーサーの副官のボナー・フェラーズ准将と通訳のフォービアン・バワーズ少佐にしようという打ち合わせをしたことなど鮮明に記憶しており、証言の信頼性が高いと思われる。ジーンと側近軍医ロジャー・O・エグバーグは会見の場所となったサロンに続く応接間のカーテンの裏から、この会見をのぞき見していたが、距離が遠くて話はほとんど聞こえなかった。しかし終始和やかな雰囲気で会談は進められていたのを確認している。天皇が帰った後、ジーンはマッカーサーから天皇の発言の内容を聞かされたが、『回顧録』とほぼ同じ内容であったという。また、ジーンと会いたいと皇后が希望していたとのことであったが、ジーンにその気はなく、結局実現しなかった。
マッカーサーと昭和天皇を一緒に出迎えた(会談には同席していない)マッカーサーの専属通訳で「歌舞伎を救った男」として有名なフォービアン・バワーズ少佐も、マッカーサーから聞いた話として「巣鴨刑務所にいる人にかわり、私の命を奪ってください。彼等の戦争中の行為は私の名においてなされた。責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください」と昭和天皇が語ったと証言している。
極東国際軍事裁判の首席検事ジョセフ・キーナンは田中隆吉元少将に「マッカーサー元帥に面会した際、元帥はこう言った。自分は昨年9月末に日本の天皇に面会した。天皇はこの戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたいと言った。もし天皇を裁判に付せば、裁判の法廷で天皇はそのように主張するであろう。そうなれば、この裁判は成立しなくなるから、日本の天皇は裁判に出廷させてはならぬ。私は元帥の言もあり、日本にきてからあらゆる方法で天皇のことを調査したが、天皇は平和主義者であることが明らかとなった。......私としては、天皇を無罪にしたい。貴君もそのように努力してほしい」と言ったとされる。
1955年8月に渡米した当時の外務大臣重光葵はアメリカでマッカーサーと会談したが、その席でのマッカーサーの発言として、「陛下はまず戦争責在の開題を自ら持ち出され、次のようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなわち「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい」これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで証言台に上ることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」という話があったと語っている。重光は渡米前に那須御用邸で昭和天皇に拝謁したが、その際に昭和天皇は「もし、マッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人との友情を忘れた事はない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝してその健康を祈っている」と伝えてほしいと重光に依頼している。マッカーサーは昭和天皇からの伝言を聞くと「私は日本天皇の御伝言を他のなによりも喜ぶものである。私は陛下に御出会いして以来戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。それにもかかわらず陛下のなされたことは未だかつて十分に世に知られて居らぬ。十年前平和再来以来欧州のことが常に書き立てられて陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には天皇陛下こそ新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます」と述べている。
以上、内容は証言ごとに異なるが“昭和天皇が全責任を負う”とした基本的な部分はマッカーサーの『回顧録』に沿った証言が多い。しかし中には、マッカーサーの政治顧問ジョージ・アチソンがマッカーサーから聞いた話として「裕仁がマッカーサーを訪問したとき、天皇はマッカーサーが待っていた大使邸の応接室に入ると最敬礼した。握手を交しあったあと、天皇は『私は合衆国政府が日本の宣戦布告を受け取る前に真珠湾を攻撃するつもりはなかったが、東条が私をだましたのだ。しかし私は責在を免れるためにこんなことをいうのではない。私は日本国民の指導者であり、国民の行動に責在がある』と言った」と東條英機にも責任があるとも取れる発言をしたとの証言もある。この証言は、『ニューヨーク・タイムズ』が昭和天皇・マッカーサー会談の2日前に、単独インタビューを天皇に行い、その際に記者が「宣戦の詔書が真珠湾の攻撃を開始するために東條大将が使用した如く使用されるというのは、陛下のご意思でありましたか?」と質問したのに対し、天皇が「宣戦の詔書を東條大将が使用した如くに(奇襲攻撃のため)使用する意思はなかった」と答えたため、新聞紙上に「ヒロヒト、真珠湾奇襲の責任をトージョーにおしつける」という大見出しが躍ることとなった事実と符合しており、この際の昭和天皇の発言をもって、天皇はマッカーサーとの会見でも東條に責任を押し付けるような発言をしたと主張する研究者もいる。
一方で日本側は、昭和天皇の他に通訳として外務省の奥村勝蔵が同席した。その奥村が会談の内容を会談後にまとめ、外務省と宮内庁が保管していた『御会見録』が2002年に情報公開されたが、その中にはマッカーサーの『回顧録』にあるような昭和天皇の全責任発言はなく、戦争責任に関する発言としては「此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス」「私モ日本国民モ敗戦ノ現実ヲ十分認識シテ居ルコトハ申ス迄モアリマセン。今後ハ平和ノ基礎ノ上二新日本ヲ建設スル為、私トシテモ出来ル限リ、力ヲ尽シタイト思ヒマス」とかなりトーンダウンしている。これは、作家・児島襄が1975年に取材先非公表ですっぱ抜いたスクープとほぼ同じ内容であったが、奥村の後を継いで天皇の通訳を務めた外務省の松井明が、天皇とマッカーサー、リッジウェイとの会見の詳細を記述した『松井文書』 によれば、松井が「天皇が一切の責任を負われるという発言については、事の重大さを顧慮し自分の判断で記録から削除した」と奥村から直接聞いたと記述している。
また、この会見に同行した(会見の場に同席はしていない)侍従長・藤田尚徳の著書『侍従長の回想』によれば、「外務省でまとめた会見の模様」が便箋5枚にまとめられてきたが、そのまとめによると昭和天皇の発言は「敗戦に至った戦争の、色々な責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私は貴方にお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」であったという。この便箋は昭和天皇の御覧に供したが、そのまま藤田の手元には返ってこなかったとのことであった。ただし、この記述は外務省公開の「御会見録」の内容とは一致しないため、違う資料を引用した可能性も指摘されている。
いずれにしても、昭和天皇との第1回会談の後に、マッカーサーの天皇への敬愛の情は深まったようで、通訳の奥村勝蔵によれば第1回会談の際には天皇を「You」と呼び、奥村に通訳を求める時も「Tell The Emperor(天皇に告げよ)」と高圧的だったが、その後は天皇を呼ぶときは「Your Majesty(陛下)」と尊厳を込めて呼ぶようになったと証言している。
そしてマッカーサーは、1946年1月25日に米陸軍省宛てに天皇に関する長文の極秘電文を打ったが、その内容は「天皇を戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるであろう。その結果もたらされる混乱を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば日本国家は分解する」「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地帯や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するといった希望はことごとく消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるであろう」「これらの事態が勃発した場合、100万人の軍隊が半永久的に駐留し続けなければならない」とワシントンを脅す内容で、アメリカ政府内での天皇の戦犯問題は、この電文により不問との方針で大方の合意が形成された。救われたのは昭和天皇ばかりでなく、天皇なしでは平穏無事な占領統治は不可能だったマッカーサーも救われたことになり、この会談の意義は極めて大きかったといえる。
マッカーサーが天皇の権威を日本統治に利用したように、日本側も昭和天皇の身の安全の保障と、民主主義国家日本の象徴(英語 symbol の訳語である)としての天皇制の存続のためにマッカーサーや進駐軍を利用すべく懐柔した。日本政府や皇室は、アメリカ人の貴族的な華麗と虚飾を好む性質を見抜くと、マッカーサーや進駐軍の最上層部に宮中の優雅な行事への招待状を定期的に送った。その行事とは皇居での花見、蛍狩り、竹の子狩り、伝統的な武道の御前試合などであったが、特にアメリカ人を喜ばせたのは皇居で行われる鴨猟であった。皇室の鴨猟はアメリカ人たちがする銃猟ではなく、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網で飛び立つ鴨を捕らえるという猟の手法であり、宮廷らしい優雅さが、連合軍の高官や政府要人たちに好まれた。マッカーサー本人は参加しなかったが、妻のジーンや子供アーサー・マッカーサー4世は喜々として参加した。また、多くのGHQの高官の他、東京裁判の関係者ウィリアム・ウェブ裁判長やジョセフ・キーナン首席検事なども喜んで参加し、日本での忘れがたい思い出となった。そして宮中の行事に参加したアメリカ人らには皇室の菊の紋章つきの引き出物も贈られた。GHQやアメリカのマスコミが日本の「アメリカ化」を得意となって誇っている間に、皇室を中心とする日本人は静かで巧みにアメリカ人を日本化して目的を達しようとしていたのである。そして昭和天皇の身の安全と天皇制の存続をはかるというアメリカと日本の共同作業は最終的に功を奏することとなった。
占領当時、マッカーサーは多くの日本国民より「マ元帥」(新聞記事、特に見出しではスペースの節約のためにこうした頭文字による略称を採る場合があり、それが読者の口語にも移植したものと考えられる)と慕われ、絶大な人気を得ていた。GHQ総司令部本部が置かれた第一生命館の前は、マッカーサーを見る為に集まった多くの群衆で賑わっていた。敗戦によりそれまでの価値観を全て否定された日本人にとって、マッカーサーは征服者ではなく、新しい強力な指導者に見えたのがその人気の要因であるとの指摘や、「戦いを交えた敵が膝を屈して和を乞うた後は、敗者に対して慈愛を持つ」というアメリカ軍の伝統に基づく戦後の食糧支援などで、日本国民の保護者としての一面が日本人の心をとらえた、という指摘があるが、自然発生的な人気ではなく、自分の人気を神経質に気にするマッカーサーの為に、GHQの民間情報教育局(CIE)が仕向けたという指摘もある。
マッカーサーとGHQは戦時中の日本軍捕虜の尋問などで、日本人の扱いを理解しており、公然の組織として日本のマスコミ等を管理・監督していたCIEと、日本国民には秘匿された組織であった民間検閲支隊(CCD)を巧みに利用し、硬軟自在に日本人の思想改造・行動操作を行ったが、もっとも重要視されたのがマッカーサーに関する情報操作であった。CIEが特に神経をとがらせていたのは、マッカーサーの日本国民に対するイメージ戦略であり、マッカーサーの存在を光り輝くものとして日本人に植え付けようと腐心していた。例えばマッカーサーは老齢でもあり前髪の薄さをかなり気にしていたため、帽子をかぶっていない写真は「威厳を欠く」として新聞への掲載を許さなかった。また、執務室では老眼鏡が必要であったが、眼鏡をかけた姿の撮影はご法度であった。 写真撮影のアングルに対しては異常に細かい注文がつき、撮影はできればマッカーサー自身が、その風貌に自信がある顔、姿の右側からの撮影が要求され、アメリカ軍機関紙・星条旗新聞のカメラマンはひざまずいて、下からあおって撮影するように指示されていた。
日本人によるGHQ幹部への贈答は日常茶飯事であったが、マッカーサーに対する贈答についての報道は「イメージを損ねる」として検閲の対象になることもあった。例えば、「埼玉県在住の画家が、同県選出の山口代議士と一緒にGHQを訪れ、マッカーサーに自分の作品を贈答した」という記事は検閲で公表禁止とされている。 マッカーサーへの非難・攻撃の記事はご法度で、時事通信社が「マッカーサー元帥を神の如く崇め立てるのは日本の民主主義のためにならない」という社説を載せようとしたところ、いったん検閲を通過したものの、参謀第2部(G2)部長のチャールズ・ウィロビーの目に止まり、既に50,000部印刷し貨車に積まれていた同紙を焼却するように命じている。
一方で賛美の報道は奨励されていた。ある日、第一生命館前で日本の女性がマッカーサーの前で平伏した際に、マッカーサーはその女性に手を差し伸べて立ち上がらせて、塵を払ってやった後に「そういうことはしないように」と女性に言って聞かせ、女性が感激したといった出来事や、同じく第一生命館で、マッカーサーがエレベーターに乗った際に、先に乗っていた日本人の大工が遠慮して、お辞儀をしながらエレベーターを降りようとしたのをマッカーサーが止め、そのまま一緒に乗ることを許したことがあったが、後にその大工から「あれから一週間というもの、あなた様の礼節溢れるご厚意について頭を巡らしておりました。日本の軍人でしたら決して同じことはしなかったと思います」という感謝の手紙を受け取ったなど些細な出来事が、マッカーサー主導で大々的に報道されることがあった。特に大工の感謝状の報道については、当時の日本でマッカーサーの目論見どおり、広く知れ渡られることとなり、芝居化されたり、とある画家が『エレベーターでの対面』という絵画を描き、その複製が日本の家庭で飾られたりした。
しかし賛美一色ではアメリカ本国や特派員から反発を受け、ゆくゆくは日本人からの人気を失いかねないと認識していたマッカーサーは、過度の賛美についても規制を行っている。日本の現場の記者らは、その微妙なバランス取りに悩まされる事となった。そのうちに日本のマスコミは、腫れ物に触らずという姿勢からか自主規制により、マッカーサーに関する報道はGHQの公式発表か、CIEの先導で作られた外国特派員協会に所属する外国のメディアの記者の配信した好意的な記事の翻訳に限ったため、マッカーサーのイメージ戦略に手を貸す形となり、日本国民のマッカーサー熱を大いに扇動する結果を招いた。
GHQはマッカーサーの意向により、マッカーサーの神話の構築に様々な策を弄しており、その結果として多くの日本国民に、マッカーサーは天皇以上のカリスマ性を持った「碧い目の大君」と印象付けられた。その印象構築の手助けとなったのは、昭和天皇とマッカーサー初会談時に撮影された、正装で直立不動の昭和天皇に対し、開襟の軍服で腰に手を当て悠然としているマッカーサーの写真であった。
マッカーサーのところに送られてくる日本の団体・個人から寄せられた手紙は全て英訳されて、重要なものはマッカーサーの目に通され、その一部が保存されていた。 その手紙の一部の内容が袖井林二郎の調査により明らかにされた。ただし手紙の総数については、連合軍翻訳通信班(ATIS)の資料(ダグラス・マッカーサー記念館所蔵)で1946年5月 -1950年12月までに受け取った手紙が411,816通との記載があり、袖井は終戦から1946年4月までに受け取った手紙を10万通と推定して合計50万通としているが、CIEの集計によれば、終戦から1946年5月末までに寄せられた手紙は4,600通に過ぎず、合計しても50万通には及ばない。また手紙の宛先についても、マッカーサー個人宛だけではなく、GHQの各部局を宛先とした陳情・請願・告発・声明の他に、地方軍政を司った地方軍政部 を宛先とした手紙も相当数に上っている。
マッカーサーやGHQ当局への日本人の投書のきっかけは、1945年8月の終戦直後に東久邇宮稔彦王総理大臣が国民に向けて「私は国民諸君から直接手紙を戴きたい、嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でも何でも宜しい。私事でも結構だし公の問題でもよい...一般の国民の皆様からも直接意見を聞いて政治をやっていく上の参考としたい」と新聞記事を使って投書を呼び掛けたことにあった。その呼び掛けにより、東久邇宮内閣への投書と並行して、マッカーサーやGHQにも日本人からの手紙が届くようになった。しかし、当初はマッカーサーやGHQに届く手紙の数は少なく、1945年末までは800通足らずに過ぎなかった。しかし、11月頃には東久邇宮内閣に対する投書が激増し、ピーク時で一日1,371通もの大量の手紙が届くようになると、マッカーサーとGHQへの手紙も増え始め、東久邇宮内閣が早々に倒れると、日本政府に殺到していた手紙がマッカーサーやGHQに送られるようになった。マッカーサーやGHQに手紙が大量に届くような流れを作ったのは東久邇宮稔彦王であるが、日本国民はマッカーサーやGHQの意向で早々と倒れる日本の内閣よりも、日本の実質的な支配者であったマッカーサーやGHQを頼りとすることとなったのである。
マッカーサーやGHQへの投書の内容は多岐に渡るが、未だ投書が少なかった1945年10月の投書の内容について、東京発UP電が報じている。報道によれば「マ元帥への投書、戦争犯罪人処罰、配給制度改訂等、1か月余りに300通」その内「日本語で書かれたものは100通」であり、「反軍国主義28通」「連合軍の占領並びにマ元帥への賛意25通」から「節酒と禁酒の熱望2通」まで、内容はおおまかに21通りに分れていた。中でもGHQがもっとも関心を寄せた投書が天皇に関する投書であり、『ヒロヒト天皇に関する日本人の投書』という資料名を付され、極東国際軍事裁判の国際検察局(IPS)の重要資料として管理・保管されており、1975年まで秘密文書扱いであった。昭和天皇が人間宣言を行った以降は、日本国民の間で天皇制に対する関心が高まり、1945年11月から1946年1月までのGHQへの投書1,488通の内で、もっとも多い22.6%にあたる337通が天皇制に関するものであった。投書を分析したCIEによれば、天皇制存続と廃止・否定の意見はほぼ二分されていた、ということであったが、CIEは「このような論争の激しい主題については、体制を変革しようとしている方(天皇制廃止主張派)が体制を受け入れる方(存続派)より盛んに主張する傾向がある」と冷静に分析しており、1946年2月に天皇制の是非について世論調査をしたところ、支持91% 反対9%で世論は圧倒的に天皇制存続が強かった。手紙も存続派の方が長文で熱烈なものが多く、中には「アメリカという国の勝手気儘さに歯を喰いしばって堪えていたが、もう我慢ができない」や「陛下にもし指一本でもさしてみるがいい、私はどんな危険をおかしてもマッカーサーを刺殺する」という過激なものもあった。
天皇制が日本国憲法公布により一段落すると、もっとも多い手紙は嘆願となり、当時の時代相をあらわした種々の嘆願がなされた。その内容は「英語を学びたい娘に就職を斡旋してほしい」「村内のもめごとを解決してほしい」「アンゴラウサギの飼育に支援を」「国民体位の維持向上のため日本国民に糸引納豆の摂取奨励を」などと内容は数えきれないほど多岐に渡ったが、1946年後半から復員が本格化すると、その関連の要望・嘆願が激増した。1947年以降は復員関連の要望・嘆願の手紙が全体の90%にも達している。特にソ連によるシベリア抑留については、この頃より引き揚げ促進の為に全国にいくつもの団体が組織され、団体が抑留者の家族に対して「親よ、妻よ、兄弟よ、起ち上がりましょう。日本政府は当てになりません。占領軍総司令官マッカーサー元帥の人類愛に縋り、援助を要請する他はありません。」などと組織的にマッカーサーに対して投書を行うよう指示しており、特に児童から大量の投書が行われている。このような動きは満州や朝鮮半島に取り残された元居留民の家族でも行われており、福岡共同公文書館には大分県の国民学校の生徒からマッカーサーに送られた「北鮮や満州のお父さんやお母さんや妹や皆な1日でも早く早く内地へかへして下さいたのみます」という投書が展示されている。
また、外地で進行していたBC級戦犯裁判の被告や受刑者の家族による助命・刑の軽減嘆願や、消息の調査要請などの投書も多く寄せられている。
従って、一部で事実誤認があるように、GHQに一日に何百通と届く手紙はマッカーサー個人へのファンレターだけではなく、占領軍の組織全体に送られた日本人の切実な陳情・請願・告発・声明が圧倒的だったが、ルシアス・D・クレイ(英語版)が統治した西ドイツでは限定的にしか見られなかった現象であり、マッカーサーの強烈な個性により、日本人に、マッカーサーならどんな嘆願でも聞き入れてくれるだろうと思わせる磁力のようなものがあったという指摘もある。マッカーサー個人宛てに送られていた手紙には、「マッカーサー元帥の銅像をつくりたい」「あなたの子供をうみたい(ただし原書は存在せず)」「世界中の主様であらせられますマッカーサー元帥様」「吾等の偉大なる解放者マッカーサー元帥閣下」と当時のマッカーサーへの熱烈な人気や厚い信頼をうかがわせるものもあり、他の多くの権力者と同様に、自分への賛美・賞賛を好んだマッカーサーは、そのような手紙を中心に、気に入った自分宛ての手紙3,500通をファイルし終生手もとに置いており、死後はマッカーサー記念館で保存されているが、前述のとおり、そのような手紙は全体としては少数であった。マッカーサーは送られてきた手紙をただ読むのではなく、内容を分析し、世論や民主化の進行度を測る手段の一つとして重要視し占領政策を進めていくうえでうまく活用している。
検閲の中枢を担ったCCDが1949年10月に廃止され、マッカーサーが更迭されて帰国する頃は既にGHQの検閲は有名無実化しており、マッカーサーに対しても冷静な報道を行う報道機関も出ていた。たとえば『北海道新聞』などは、マッカーサー離日の数日後に「神格化はやめよう」というコラムを掲載し「宗教の自由がある以上、いかなる神の氏子になるのも勝手だが、日本の民主化にとって大事な事は国民一人一人が自分自身の心の中に自立の『神』を育てることであろう」と宗教を例にして、暗にマッカーサーの盲目崇拝への批判を行っていた。しかし、依然として多くのマスコミが自主規制によりマッカーサーへの表立った批判は避けており、同じマッカーサー離日時には「受持の先生に替られた女学生のように、マ元帥に名残を惜しむことであった。さすが苦労人のダレス大使は帰京の日「今日は日本はマ元帥の思いでいっぱいだろうから私は何も言わぬ」と察しのよいことを言った」 や「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓からすくい上げてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。今年もみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八ヶ月のにわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。元帥!どうか、おからだをお大事に」 などと別れを大げさに惜しむ報道をおこなう報道機関も多かった。
帰国したマッカーサーが、1951年5月3日から開催された上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会で「#日本人は12歳」証言を行ったことが日本に伝わると、この証言が日本人、特にマスコミに与えた衝撃は大きく、『朝日新聞』は5月16日付の新聞1面に大きく【マ元帥の日本観】という特集記事を掲載し「文化程度は“少年”」と日本人に対し否定的な部分を強調して報じた。さらに社説で「マ元帥は米議会の証言で「日本人は勝者にへつらい、敗者を見下げる傾向がある」とか「日本人は現代文明の標準からみてまだ12歳の少年である」などと言っている。元帥は日本人に多くの美点長所があることもよく承知しているが、十分に一人前だとも思っていないようだ。日本人へのみやげ物話としてくすぐったい思いをさせるものではなく、心から素直に喜ばれるように、時期と方法をよく考慮する必要があろう」 と一転してマッカーサーに対し苦言を呈するなど、日本のマスコミにおけるマッカーサーへの自主規制も和らぎ、報道方針が変化していくに連れて、日本国民は、征服者であったマッカーサーにすり寄っていたことを恥じて、マッカーサー熱は一気に冷却化することとなった。
そのため、政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」は先送り「マッカーサー記念館の建設」計画はほぼ白紙撤回となり、三共、日本光学工業(現ニコン)、味の素の3社が「12歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼ、ニッコール、味の素の3製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった。
マッカーサーの人格形成に大きな影響を与えたのが母メアリー・ピンクニー・ハーディ(通称ピンキー)であった。マッカーサーは成人になってからもピンキーから強く支配されており、いつまでも母親離れできない特異性から、マッカーサーは生涯にわたってマザーコンプレックスにとらわれていたという指摘もある。マッカーサーは幼少の頃に軍の砦内で生活していたため、マッカーサーが6歳になるまでピンキーが勉強を教えていた。ピンキーはその間、マッカーサーが自分に依存する期間を長引かせるため、髪を長くカールしおさげにさせ、スカートをはかせていた。
その後、父親アーサーがワシントンに転勤したこともあり、マッカーサーは8歳に小学校に入学すると、その後はウェスト・テキサス軍人養成学校に進学し軍人への道を歩んでいく。しかしながらピンキーは依然強い影響を及ぼし続けた。その一例として、マッカーサーが13歳の時に小遣い稼ぎのために新聞売りのアルバイトをしたことが、他のアルバイトの学生らに販売実績でマッカーサーが負けたことを知ったピンキーは、「明日もう一度行って新聞を全部売ってきなさい。売りきるまで帰ってきてはいけません」と厳しく言いつけた。マッカーサーは翌日の夜になってから、服はボロボロであちこちに生傷をつくりながらも母親の言いつけどおり新聞を全部売り切ってから帰宅した。ピンキーはこのような厳しい教育方針により、マッカーサーが生まれ持っていた勝利への強い執念を、さらに育成し磨いていった。マッカーサーはウェスト・テキサス軍人養成学校に入学した頃は普通の成績であったが、ピンキーに磨かれた負けん気で勉強に打ち込みだすと、旺盛な知識欲も刺激され、相乗効果で2年生に進学する頃には優等生となっていた。
ピンキーの教育方針はマッカーサーを優秀な人間に育成した一方で、限りなく自己中心的で自閉的な人間にしていった。マッカーサーは自分の間違いを認めることができない人間となっていき、常に「世間の人間は自分を陥れようとしている」と被害妄想を抱くようになっていた。そのせいでマッカーサーはウェスト・テキサス軍人養成学校から進学したウエスト・ポイントで同級生の中で孤立しており、ウエスト・ポイントの卒業生の結婚式では、卒業生の団結力を反映してクラスメイト達の華やかな社交の場となるのが通例であるが、マッカーサーの結婚式にはたった1名の同級生しか出席しなかった。ピンキーの教育は、マッカーサーに純粋な同志的友情を構築する能力を欠乏させたが、マッカーサー自身も友人を必要とはしなかった。
マッカーサーの私生活にもピンキーは多大な影響を及ぼしていた。ピンキーはマッカーサーの最初の結婚相手ルイーズを気に入らず、婚約したと聞いたときに傷心のあまりに病床についたほどであった。ルイーズが資産家であったため式は豪華なものであったが、ピンキーは招待を断り式には参列しなかった。結婚してからもピンキーとルイーズのそりは合わず、ルイーズは後に離婚に至った原因として「義母(ピンキー)がいろいろ口出しするので、私たちの結婚は破局を迎えることとなった」と話している。
マッカーサーは2度目のフィリピン勤務時に、当時で33歳年下で16歳のイザベルを愛人とし、自分がアメリカ本土に異動となると、イザベルをアメリカに呼び寄せた。ピンキーに知られたくなかったため、ピンキーと同居している自宅に呼び寄せることができずに、ジョージタウン (ワシントンD.C.)にアパートを借りそこで囲わねばならなかった。 ピンキーの目を盗んで密会しないといけないのと、マッカーサーが参謀総長に就任し多忙になったため、次第にマッカーサーとイザベルは疎遠となっていった。マッカーサーはイザベルをフィリピンに帰らせようとフィリピン行きの船のチケットを渡したが、イザベルはフィリピンに帰らずマッカーサーに金を無心してきたため、困ったマッカーサーはイザベルに経済的な自立を促そうと求人情報のチラシを送りつけている。結局、イザベルはマッカーサーと敵対したジャーナリストに協力し、スキャンダルとなって世間やピンキーにイザベルとの関係を知られたくなかったマッカーサーの弱みに付け込み15,000ドルの慰謝料を受け取ることに成功している。イザベルはその後もフィリピンに帰ることはなく、ハリウッドで女優となったが端役だけで大成することもなかった。その後も職を転々として1960年に自殺するという悲劇的な最期をとげている。
マッカーサーが軍事顧問に就任し3回目のフィリピン行きとなったとき、82歳となっていたピンキーが随行した。フィリピンに向かう船中で初めて会ったジーンをピンキーは即座に気に入り、ピンキーのお墨付きとなったジーンとマッカーサーは船中で意気投合し交際を開始、その後ジーンはマッカーサーの2番目の妻となった。ピンキーはその結婚を見ることなく1935年11月にフィリピンに到着した直後に亡くなっている。マッカーサーの落ち込み方は相当なもので、フィリピンでマッカーサーの副官をしていたアイゼンハワーは「将軍の気持ちに何か月もの間、影響を及ぼした」と書き記したほどであった。
兄のアーサー・マッカーサー3世はアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大佐に昇進したが、1923年に病死した。弟マルコムは1883年に死亡している。兄アーサーの三男であるダグラス・マッカーサー2世は駐日アメリカ合衆国大使となった。
1938年にマニラで妻ジーンとの間に出来た長男がいる。マッカーサー家は代々、家長とその長男がアーサー・マッカーサーを名乗ってきたが、兄アーサー・マッカーサー3世の三男がダグラス・マッカーサー2世になり、三男であるダグラスの長男がアーサー4世になっている。
そのアーサー・マッカーサー4世は、日本在住の時にはマッカーサー元帥の長男として日本のマスメディアで取り上げられることもあった。マッカーサーとジーンは父親らと同様に軍人になることを願ったが、父の功績により無試験で入学できた陸軍士官学校には進まず、コロンビア大学音楽科に進み、ジャズ・ピアニストとなった。マッカーサーはアーサーの選択を容認したが、そのことについて問われると「私は母の期待が大変な負担であった。一番になるということは本当につらいことだよ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった」と答えたという。それでもマッカーサーという名前はアーサーにとっては負担でしかなかったのか、マッカーサーの死後は名前と住所を変え、グリニッジ・ヴィレッジに集まるヒッピーの一人になったと言われている。
総司令官解任後の1951年5月3日から、マッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会が開催された。主な議題は「マッカーサーの解任の是非」と「極東の軍事情勢」についてであるが、日本についての質疑も行われている。
質問者より朝鮮戦争における中華人民共和国(赤化中国)に対しての海空封鎖戦略についての意見を問われ、太平洋戦争での経験を交えながら下記のように答えている。
STRATEGY AGAINST JAPAN IN WORLD WAR II
General MacArthur. Yes, sir. In the Pacific we by-passed them. We closed in. ...
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.
The raw materials -- those countries which furnished raw materials for their manufacture -- such countries as Malaya, Indonesia, the Philippines, and so on -- they, with the advantage of preparedness and surprise, seized all those bases, and their general strategic concept was to hold those outlying bastions, the islands of the Pacific, so that we would bleed ourselves white in trying to reconquer them, and that the losses would be so tremendous that we would ultimately acquiesce in a treaty which would allow them to control the basic products of the places they had captured.
In meeting that, we evolved an entirely new strategy. They held certain bastion points, and what we did was to evade those points, and go around them.
We came in behind them, and we crept up and crept up, and crept up, always approaching the lanes of communication which led from those countries, conquered countries, to Japan.
秦郁彦は、小堀桂一郎などの東京裁判批判を行う論客たちがこの発言を「(マッカーサーが太平洋戦争を)自衛戦争として認識していた証拠」として取り上げる論点であると指摘している。小堀はこの個所を「これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分がsecurity(安全保障)の必要に迫られてのことだつたのです」と訳している。マッカーサーが、「絹産業以外には、国有の産物はほとんど何も無い」日本が、「安全保障の必要に迫られてのことだった」と証言した意味には、暗に米国の日本に対する厳しい経済封鎖が巻き起こした施策(戦争)であったという含意が看取できる。
公聴会3日目は5月5日の午前10時35分から始まり、午前12時45分から午後1時20分まで休憩を挟んだ後に、マッカーサーの日本統治についての質疑が行われた。マッカーサーはその質疑の中で、人類の歴史において占領の統治がうまくいったためしがないが、例外としてジュリアス・シーザーの占領と、自らの日本統治があるとし、その成果により一度民主主義を享受した日本がアメリカ側の陣営から出ていくことはないと強調したが、質問者のロング委員よりヴァイマル共和政で民主主義を手にしながらナチズムに走ったドイツを例に挙げ、質問を受けた際の質疑が下記のとおりである。
RELATIVE MATURITY OF JAPANESE AND OTHER NATIONS
Germany might be cited as an exception to that, however. Have you considered the fact that Germany at one time had a democratic government after World War I and later followed Hitler, and enthusiastically apparently at one time.
Well, the German problem is a completely and entirely different one from the Japanese problem. The German people were a mature race. If the Anglo-Saxon was say 45 years of age in his development, in the sciences, the arts, divinity, culture, the Germans were quite as mature.
The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of 12 as compared with our development of 45 years.
Like any tuitionary period, they were susceptible to following new models, new ideas. You can implant basic concepts there. They were still close enough to origin to be elastic and acceptable to new concepts.
The German was quite as mature as we ware. Whatever the German did in dereliction of the standards of modern morality, the international standards, he did deliberately.
He didn't do it because of a lack of knowledge of the world. He didn't do it because he stumbled into it to some extent as the Japanese did. He did it as a considered policy in which he believed in his own military might, in which he believed that its application would be a short cut to the power and economic domination that he desired.
Now you are not going to change the German nature. He will come back to the path that he believes is correct by the pressure of public opinion, by the pressure of world philosophies, by his own interests and many other reasons, and he, in my belief, will develop his own Germanic tribe along the lines that he himself believes in which do not in many basic ways differ from our own.
But the Japanese were entirely different. There is no similarity. One of the great mistakes that was made was to try to apply the same policies which were so successful in Japan to Germany, where they were not quite so successful,to say the least.
They were working on a different level.
この発言が多くの日本人には否定的に受け取られ、日本におけるマッカーサー人気冷却化の大きな要因となった(#マッカーサー人気の終焉)。当時の日本人はこの発言により、マッカーサーから愛されていたのではなく、“昨日の敵は今日の友”と友情を持たれていたのでもなく、軽蔑されていたに過ぎなかったことを知ったという指摘がある。
さらにマッカーサーは、同じ日の公聴会の中で「日本人は12歳」発言の前にも「日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。アメリカ人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって現れた時、日本人に強い印象を与えた」「それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、アメリカ人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である」などと日本人を幼稚と見下げて、「日本人は12歳」発言より強く日本人を侮辱したと取られかねない発言も行っていた。
また、自分の日本の占領統治をシーザーの偉業と比肩すると自負したり、「(日本でマッカーサーが行った改革は)イギリス国民に自由を齎したマグナ・カルタ、フランス国民に自由と博愛を齎したフランス革命、地方主権の概念を導入した我が国のアメリカ独立戦争、我々が経験した世界の偉大な革命とのみ比べることができる」と証言しており、マッカーサーは証言で、自身が日本で成し遂げたと考えていた業績を弁護していたという解釈もある。
一方で、マッカーサーは「老兵は死なず......」のフレーズで有名な1951年4月19日の上下両院議員を前にした演説では「戦争以来、日本人は近代史に記録された中で最も立派な改革を成し遂げた」や「賞賛に足る意志と、学習意欲と、抜きんでた理解力をもって、日本人は戦争が残した灰の中から、個人の自由と人格の尊厳に向けた大きな建造物を建設した。政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、今や日本は地球上にある多くの自由国家と肩を並べており、決して再び世界の信頼を裏切る事はないであろう」と日本を称賛しており、「日本人は12歳」発言は日本人はドイツ人より信頼できることを強調したかっただけでマッカーサーの真意がうまく伝わらなかったという解釈や、マッカーサーと関係が深かった吉田茂のように「元帥の演説の詳細を読んでみると「自由主義や民主主義政治というような点では、日本人はまだ若いけれど」という意味であって「古い独自の文化と優秀な素質とを持っているから、西洋風の文物制度の上でも、日本人の将来の発展は頗る有望である」ということを強調しており、依然として日本人に対する高い評価と期待を変えていないのがその真意である」との好意的な解釈もある。なぜマッカーサーが「12歳」と言って「13歳」でなかったのかは、英語の感覚で言えば12歳は「ティーンエイジャー」ではまだないということである。まだ精神年齢が熟しきっておらず、新しい事柄を受け入れることが可能だと強調しているのである。
この委員会では、他にも「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」と述べ、アジアにおける共産勢力の脅威を強調している。
ラッセル・ロングからは「連合国軍総司令部は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と水を向けられたが、「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」と答えている。また、別の上院議員から広島・長崎の原爆被害を問われると、「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えて、原爆投下の指示を出したトルーマンを暗に批判している。
ノーフォークのノーティカスから東へ約400m行ったところにあるダウンタウンのマッカーサー・スクエアには、19世紀の市庁舎をそのまま記念館としたダグラス・マッカーサー記念館が立地している。館内にはマッカーサー夫妻の墓や、博物館、図書館が設けられている。博物館には軍関連品だけでなく、マッカーサーのトレードマークであったコーンパイプなどの私物も多数展示されている。また、伊万里、九谷、薩摩の磁器や有線七宝など、マッカーサーが、離日にあたって皇室をはじめ各界から贈られた国宝級の持ち帰った日本の逸品も惜しげもなく展示されている。建物は「旧ノーフォーク市庁舎」として国家歴史登録財に指定されている。記念館の正面にはマッカーサーの銅像が立っている。
日本でもマッカーサー解任前後に「マッカーサー記念館」を建設する計画が発足した。この建設発起人には秩父宮、田中耕太郎最高裁判所長官、金森徳次郎国立国会図書館館長、野村吉三郎元駐米大使、本田親男毎日新聞社長、長谷部忠朝日新聞社長ら各界の有力者が名を連ねていた。この施設は「マッカーサー神社」と呼称されていることがあるが、この計画は、マッカーサー在任中から「ニュー・ファミリー・センター」という団体が計画していた「青年の家」という青少年の啓蒙施設の建設計画を発展させたものであり、「元帥の功績を永遠に記念するため、威厳と美しさを備えた喜びと教養の殿堂にしたい」という趣旨の下で、記念館、公会堂、プール、運動施設、宿泊施設を整備するものであって、特に宗教色のない計画であった。
その後に当初の14名の発起人に加え、藤山愛一郎日本商工会議所会頭、浅沼稲次郎社会党書記長、安井誠一郎東京都知事らも参加して「マッカーサー会館建設期成会」が発足、まずは総事業費4億5,000万円をかけて三宅坂の参謀本部跡に鉄筋コンクリートの3階建ビルを建てる計画で募金を募ったが、募金開始が「日本人は12歳」発言でマッカーサー熱が急速に冷却化していた1952年2月であり、60万円の宣伝費をかけて集まった募金はわずか84,000円と惨憺たるありさまだった。1年後には募金どころか借金が300万円まで膨らみ、計画は立ち消えになった。他にも東京湾に「マッカーサー灯台」を建設し、降伏調印式の際に戦艦ミズーリが停泊した辺りを永遠に照らす計画や、また「マッカーサー記念館」や「マッカーサー灯台」の計画より前の1949年には浜離宮に自由の女神像と同じ高さのマッカーサーの銅像を建設しようとする「マッカーサー元帥銅像建設会」が発足していた。随筆家高田保にも委員就任の勧誘がなされるなど 広い範囲に声がかけられ(ただし高田は委員就任を見送り)募金も開始されたが、これも他の計画と同じ時期に立ち消えになり、集まった募金の行方がどうなったか不明である。
マッカーサーの下で太平洋戦争を戦った第5空軍司令のジョージ・ケニー(英語版) 中将がマッカーサーについて「ダグラス・マッカーサーを本当に知る者はごくわずかしかいない。彼を知る者、または知っていると思う者は、彼を賛美するか嫌うかのどちらかで中間はあり得ない」と評しているように、評価が分れる人物である。
マッカーサーにとって忠誠心とは部下から一方的に向けられるものとの認識であり、自分が仕えているはずの大統領や軍上層部に対する忠誠心を持つことはなかったため、マッカーサーに対する歴代大統領や軍上層部の人物評は芳しいものではなかった。
ルーズベルトは「マッカーサーは使うべきで信頼すべきではない」「我が国で最も危険な人物2人はヒューイ・ロングとダグラス・マッカーサーだ」 とマッカーサーの能力の高さを評価しながら信用はしてはおらず、万が一に備えてマッカーサーが太平洋戦争開戦前に軍に提出した『日本軍が我が島嶼への空襲能力を欠くため、フィリピンは保持できる』という報告書を手もとに保管していた。また、政治への進出にマッカーサーが強い野心を抱いているのを見抜いて「ダグラス、君は我が国最高の将軍だが、我が国最悪の政治家になると思うよ」 と釘を刺したこともあった。
更迭に至るまで激しくマッカーサーと対立していたトルーマンの評価はもっと辛辣で、就任間もない1945年に未だ直接会ったこともないマッカーサーに対し「あのうぬぼれやを、あのような地位につけておかなかればならないとは。なぜルーズベルトはマッカーサーをみすみす救国のヒーローにしたてあげたのか、私にはわからない...もし我々にマッカーサーのような役者兼ペテン師ではなくウェインライトがいたならば、彼こそが真の将軍、戦う男だった」と否定的な評価をしていた。しかしマッカーサーの圧倒的な実績と人気に、全く気が進まなかったがGHQの最高司令官に任命している。トルーマンのマッカーサーへの評価は悪化する事はあっても改善することはなく、1948年にはマッカーサーを退役させ、西ドイツの軍政司令官ルシアス・D・クレイ(英語版)をGHQ最高司令官の後任にしようと画策したこともあったが、トルーマンの打診をクレイは断り実現はしなかった。
一方で、マッカーサーもトルーマンを最後まで毛嫌いしていた。更迭された直後は「あの小男には私を首にする勇気があった。だから好きだよ」「私の扱い方から見ると、あの男はいいフルバックになれるな」と知り合いに語るなど寛容な態度で余裕も見せていたが、1950年にトルーマンが出版した回顧録で、朝鮮戦争初期の失態はマッカーサーの責任であると非難されているのを知ると激怒して、トルーマンの回顧録に対してライフ誌上で反論を行ない、非公式の場では「いやしいチビの道化師、根っからの嘘つき」と汚い言葉で罵倒していた。
朝鮮戦争において、当初は参謀本部副参謀長としてマッカーサーの独断専行に振り回され、後にマッカーサーの後任として国連軍を率いたリッジウェイはマッカーサーの性格について、「自分がやったのではない行為についても名誉を受けたがったり、明らかな自分の誤りに対しても責任を否認しようという賞賛への渇望」「多くの将兵の前で常にポーズをとりたがる、人目につく立場への執着」「天才に必要な孤独を愛する傾向」「論理的な思考を無視してなにものかに固執する、強情な性質」「無誤謬の信念を抱かせた、自分自身に対する自信」と分析していた。一方で、マッカーサーの問題の核心を明らかにする能力と、目標に向かって迅速・果敢に行動する積極性に対して、他の人はマッカーサーを説き伏せたり、強く反駁することは困難であって、マッカーサーに疑いを抱くものは逆に自分自身を疑わせてしまうほど真に偉大な将帥の一人であったと賞賛もしている。
上司にあたる人物よりの評価が厳しい一方で、部下らからの評価や信頼は高かった。GHQでマッカーサーの下で働いた極東空軍司令のジョージ.E.ストラトメイヤー(英語版) 中将は「アメリカ史における最も偉大な指導者であり、最も偉大な指揮官であり、もっとも偉大な英雄」と称え、第10軍司令官エドワード・アーモンド中将は「残念ながら時代が違うので、ナポレオン・ボナパルトやハンニバルら有史以来の偉大な将軍らと同列に論ずることはできないが、マッカーサーこそ20世紀でもっとも偉大な軍事的天才である」とライフ誌の取材に答えている。
特にフィリピン時代からマッカーサーに重用されていた『バターン・ギャング』と呼ばれたGHQ幕僚たちのマッカーサーに対する評価と信頼は極めて高く、その内の一人であるウィロビーは、マッカーサーに出した手紙に「あなたに匹敵する人物は誰もいません、結局人々が愛着を覚えるのは偉大な指導者、思想ではなく、人間です。...紳士(ウィロビーのこと)は大公(マッカーサー)に仕えることができます。そのような形で勤めを終えることができれば本望です」と書いたほどであった。
しかし、ウィロビーらのように盲目的に従ってくれているような部下であっても、マッカーサーは部下と手柄を分かち合おうという認識はなく、部下がいくらでも名声を得るのに任せたアイゼンハワーと対照的だった。例えば、マッカーサーの配下で第8軍を指揮したロバート・アイケルバーガー大将が、サタデー・イブニング・ポストなどの雑誌にとりあげられたことがあったが、これがマッカーサーの不興を買い、マッカーサーはアイケルバーガーを呼びつけると「私は明日にでも君を大佐に降格させて帰国させることが出来る。分っているのか?」と叱責したことがあった。叱責を受けたアイケルバーガーは「作戦勝報に自分の名前が目立つぐらいならポケットに生きたガラガラヘビを入れてもらった方がまだましだ」と部下の広報士官に語っている。
マッカーサーの指揮下で上陸作戦の指揮を執ったアメリカ海軍第7水陸両用部隊司令ダニエル・バーベイ(英語版)少将は、海軍の立場から、そのようなマッカーサーと陸軍の部下将官との関係を冷静に観察しており、「マッカーサーが自分の側近たちと親しい仲間意識をもつことは決してなかった。彼は尊敬されはしたが、部下の共感と理解を得ることは無かったし、愛されもしなかった。彼の態度はあまりにもよそよそしすぎ、その言動はもちろん、服装に至るまで隙が無さ過ぎた」と評している。
マッカーサーを最もよく知る者の1人が7年間に渡って副官を勤めたアイゼンハワーであった。アイゼンハワーはマッカーサー参謀総長の副官時代を振り返って、「マッカーサー将軍は下に仕える者として働き甲斐のある人物である。マッカーサーは一度任務を与えてしまうと時間は気にせず、後で質問することもなく、仕事がきちんとなされることだけを求められた」「任務が何であれ、将軍の知識はいつも驚くほど幅広く、概ね正確で、しかも途切れることなく言葉となって出てきた」「将軍の能弁と識見は、他に例のない驚異的な記憶力のたまものであった。演説や文章の草稿は、一度読むと逐語的に繰り返すことができた」と賞賛している。アイゼンハワーは参謀総長副官としての公務面だけでなく、マッカーサーが、元愛人イザベルに和解金として15,000ドルを支払ったときには、同じ副官のトーマス・ジェファーソン・デービス(英語版)大尉と代理人となってイザベル側と接触するなど、公私両面でマッカーサーを支えている。
しかしアイゼンハワーは、マッカーサーの側近として長年働きながら、「バターン・ギャング」のサザーランドやホイットニーのように、マッカーサーの魅力に絡めとられなかった数少ない例外であり、フィリピンでの副官時代は、「バターン・ギャング」の幕僚らとは異なり、マッカーサーとの議論を厭わなかった。 アイゼンハワーのマッカーサーに対する思いの大きな転換点となったのが、マッカーサーがリテラリー・ダイジェスト(英語版) という雑誌の記事を鵜呑みにし、1936年アメリカ合衆国大統領選挙でルーズベルトが落選するという推測を広めていたのをアイゼンハワーが止めるように助言したのに対し、マッカーサーは逆にアイゼンハワーを怒鳴りつけたことであった。この日以降、アイゼンハワーはマッカーサーの下で働くのに辟易とした素振りを見せ、健康上の理由で本国への帰還を申し出たが、アイゼンハワーの実務能力を重宝していたマッカーサーは慌てて引き留めを図っている。両者の関係を決定づけたのは、この後に起こった、マッカーサー独断でのフィリピン軍によるマニラ行進計画がケソンの怒りを買ったため、アイゼンハワーら副官に責任転嫁をした事件であり(#フィリピン生活)、アイゼンハワーはこの事件で「決して再び、我々はこれまでと同じ温かい、心からの友人関係にはならなかった」と回想している。
この後、連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長と順調に経歴を重ねていくアイゼンハワーは、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に「会ったところじゃないですよ、奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と総括したとも伝えられている。
ただ、当時のアメリカの一部マスコミが報じていた程は両者間に強い確執はなかったようで、アイゼンハワーは参謀総長在任時に何度もマッカーサーに意見を求める手紙や、参謀総長退任時には、マッカーサーとアイゼンハワーの対立報道を否定する手紙を出すなど、両者は継続して連絡を取り合っていた。しかし、アイゼンハワーが第34代アメリカ合衆国大統領に着任すると、その付き合いは表面的なものとなり、アイゼンハワーがマッカーサーをホワイトハウスに昼食に招いた際には、懸命に助言を行うマッカーサーに耳を貸すことはなかったため、マッカーサーは昼食の席を立った後に、記者団に対して「責任は権力とともにある。私はもはや権力の場にはいないのだ」と不機嫌そうに語っている。
マッカーサーのトレードマークはコーンパイプと、服装規則違反のフィリピン軍の制帽であった。
マッカーサーは将官ながら、正装の軍服を着用することが少なく、略装を好んだ。第一次世界大戦でレインボー師団の参謀長として従軍した際にはヘルメットを被らずわざと形を崩した軍帽、分厚いタートルネックのセーター、母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを着用し、いつもピカピカに磨いている光沢のあるブーツを履いて、手には乗馬鞭というカジュアルな恰好をしていた。部下のレインボー師団の兵士らもマッカーサーに倣ってラフな服装をしていたため、部隊を視察した派遣軍総司令官のパーシングは「この師団は恥さらしだ、兵士らの規律は不十分でかつ訓練は不適切で、服装は今まで見た中で最低だ」と師団長ではなく、元凶となったマッカーサーを激しく叱責したが、マッカーサーが自分のスタイルを変えることはなかった。
しかし、その風変わりな服装が危険を招いたこともあり、前線で指揮の為に地図を広げていたマッカーサーを見たアメリカ軍の他の部隊の兵士らが、普段見慣れない格好をしているマッカーサーをドイツ軍将校と勘違いし、銃を突き付け捕虜としたことがあった。
元帥となっても、重要な会合や、自分より地位が高い者と同席する場合でも略装で臨むことが多かったために、批判されたこともある。右の天皇との会見写真でも、夏の略装にノーネクタイというラフな格好で臨んだため、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた。不敬と考えた内務省は、この写真が掲載された新聞を回収しようと試みたが、GHQによって制止されたため、この写真は内務省による言論統制の終焉も証明することになった。ただし、当時のアメリカ大使館には冷房設備がなかったこともあり、夏の暑さを避けるためにマッカーサーは意図せず略装で迎えたともいわれている。
松本健一は、リチャード・ニクソンの回想 において、マッカーサーの略式軍装は彼の奇行が習慣化したもので、1950年に朝鮮戦争問題で会見したトルーマンは、彼のサングラス、シャツのボタンを外す、金モールぎらぎらの帽子という「19かそこらの中尉と同じ格好」に憤慨したと述べている。また、マッカーサーの服装とスタイルには一種の「ダンディズム」ともいえる独特な性向があり、「天皇の前でのスタイルはいつものものでもはるかにましなものであった」とも指摘している。ニクソンが回想する「サングラス、色褪せた夏軍服、カジュアルな帽子、そしてコーンパイプ」という第二次世界大戦中のマッカーサーのスタイルは、まさに厚木飛行場に降り立った時の彼の姿であった。
マッカーサーのトレードマークと言えばコーンパイプであるが、1911年にテキサス州で行われた演習の際の写真で、既に愛用しているのが確認できる。マッカーサーのコーンパイプはコーンパイプメイカー最大手のミズーリ・メシャム社(英語版)の特注であり、戦時中にもかかわらず、マッカーサーが同社のコーンパイプをくわえた写真が、同社の『ライフ』誌の広告に使用されている。
階級が上がるに従ってコーンパイプも大きくなっていき、タバコ葉を何倍も多く詰められるように深くなっている。現在ではこのような形のコーンパイプを「マッカーサータイプ」と呼ぶ。マッカーサーは自分のパイプを識別するために、横軸の真ん中あたりを軽く焼いて焦げ目をつけて印とした。現在のマッカーサータイプのコーンパイプも、機能には関係ないが、その印がされて販売されている。
しかし、マッカーサーの通訳官ジョージ・キザキ(日系2世、2018年6月没)によれば、マッカーサーは室内ではコーンパイプは一切使わず、ブライヤやメシャムの高級素材のパイプを愛用しており、屋外ではわざと粗野に映るコーンパイプを咥え、軍人としての荒々しさを演出する道具だったと証言している。1948年の『ライフ』誌の報道では、当時マッカーサーが使用していた17本のパイプの内でコーン・パイプはわずか5本であった。
マッカーサー記念館にはマッカーサーが愛用したブライヤパイプとパイプ立てが展示されており、退任後に私人として『ライフ』誌の表紙に登場した際にくゆらせていたのもブライヤパイプであった。
マッカーサーは占領は日本におけるキリスト教宣教の「またとない機会」であるとして、記者発表や個人的書簡を通じて、日本での宣教を奨励した。マッカーサーはキリスト教を広めることが日本の民主化に役立つと考えていた。中でも南部バプテスト連盟ルイ・ニュートン(英語版)への書簡が知られている。
マッカーサーはキリスト教聖公会の熱心な信徒であり、キリスト教は「アメリカの家庭の最も高度な教養と徳を反映するもの」であり、「極東においてはまだ弱いキリスト教を強化できれば、何億という文明の遅れた人々が、人間の尊厳、人生の目的という新しい考えを身に付け、強い精神力を持つようになる」と考えていた。そのような考えのマッカーサーにとって、日本占領は「アジアの人々にキリスト教を広めるのに、キリスト生誕以来の、比類ない機会」と映り、アメリカ議会に「日本国民を改宗させ、太平洋の平和のための強力な防波堤にする」と報告している。日本の実質最高権力者が、このように特定の宗教に肩入れするのは、マッカーサー自身が推進してきた信教の自由とも矛盾するという指摘が、キリスト教関係者の方からも寄せられることとなったが、マッカーサーはCIEの宗教課局長を通じ「特定の宗教や信仰が弾圧されているのでない限り、占領軍はキリスト教を広めるあらゆる権利を有する」と返答している。民間情報教育局(CIE)宗教課長ウィリアム・バンスは占領軍の政策がキリスト教偏重になっているような印象を与えないようにと努力した。マッカーサーは当初CIEにはかることなくキリスト教を支援するような発言をすることがあったが、後にそれを表立って行うことは控えるようになった。
マッカーサーは、国家神道が天皇制の宗教的基礎であり、日本国民を呪縛してきたものとして、1945年(昭和20年)12月15日に、神道指令で廃止を命じた。神道を国家から分離(政教分離)し、その政治的役割に終止符を打とうとする意図に基づく指令であった。
マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。また日本での活動を望むポケット聖書連盟(英語版)のために書いた推薦状の中で、聖書配布の活動を1000万冊規模に増強するよう要望した。(実際には11万冊を配布した。)
1947年にキリスト教徒で日本社会党の片山哲が首相になる(片山内閣)と、「歴史上実に初めて、日本はキリスト教徒で、全生涯を通じて長老派教会の信徒として過ごした指導者によって、指導される」として、同じくキリスト教徒であった中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハスと並ぶ者として片山を支持する声明を出した。しかしマッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9か月で瓦解した。
ジョン・ガンサーが伝えるところによると、マッカーサーは「今日の世界でキリスト教を代表する二人の指導的人物こそ、自分と法王だとさえ考え」ていた。米国キリスト教会協議会もマッカーサーに対し「極東の救済のために神は“自らの代わり”として、あなたを差し向けたのだと、我々は信ずる」と賞賛していたが、マッカーサーが、布教の成果を確認する為に、CIEの宗教課に日本のキリスト教徒数の調査を命じたところ、戦前に20万人の信者がいたのに対し、現在は逆に数が減っているということが判明し、その調査結果を聞いた宗教課局長は「総司令はこの報告に満足しないし、怒るだろう」と頭を抱えることになった。マッカーサーらはフィリピンとインドシナ以外のアジア人は、当時、キリスト教にほとんど無関心で、大量に配布された聖書の多くが、読まれることもなく、刻みタバコの巻紙に利用されているのを知らなかった。
局長から調査報告書を突き返された宗教課の将校らは、マッカーサーを満足させるためには0を何個足せばいいかと討議した挙句、何の根拠もない200万人というキリスト教徒数を捏造して報告した。マッカーサーもその数字を鵜呑みにして、1947年2月、陸軍省に「過去の信仰の崩壊によって日本人の生活に生じた精神的真空を満たす手段として...キリスト教を信じるようになった日本人の数はますます増え、既に200万人を超すものと推定されるのである」と報告している。結局、マッカーサーが日本を去った1951年時点でキリスト教徒は、カトリック、プロテスタントで25万7,000人と、戦前の20万人と比較し微増したが、占領下に注がれた膨大な資金と、協会や宣教師の努力を考えると、十分な成果とは言えなかった。「占領軍の宗教」とみなされ、他の宗教に比べて圧倒的に有利な立場にあったにもかかわらず、マッカーサーの理想とした「日本のキリスト教国化」は失敗に終わった。
キリスト教の精神に基づき、宗派を越えた大学を作るといった構想がラルフ・ディッフェンドルファー宣教師を中心に進んでおり、1948年に「国際基督教大学 財団」が設立されたが、マッカーサーはこの動きに一方ならぬ関心を示し、同大学の財団における名誉理事長を引き受けると、米国での募金運動に尽力した。ジョン・ロックフェラー2世にも支持を求めたが、その際に「ここに提案されている大学は、キリスト教と教育のユニークな結合からして、日本の将来にとってまことに重要な役割を必ずや果たすことでありましょう」と熱意のこもった手紙を出している。大学設置はマッカーサーが解任されて2年後の1953年であった。
1946年に特使の立場で、訪日したハーバート・フーヴァーと会談し「フランクリン・ルーズベルトはドイツと戦争を行うために日本を戦争に引きずり込んだ」と述べたことを受け、マッカーサーも「ルーズベルトは1941年に近衛文麿首相が模索した日米首脳会談をおこなって戦争を回避する努力をすべきであった」の旨を述べている。
占領当時のマッカーサーはフリーメイソンのフィリピン・グランドロッジ(Manila Lodge No.1)に所属しており、32位階の地位にあったとされる。
韓国でのマッカーサーの評価は、毀誉褒貶相半ばするものがあり、2005年には仁川市自由公園にあるマッカーサーの銅像撤去を主張する団体と銅像を保護しようとする団体が集会を開き対峙、警官隊ともみ合う事件も起きた。また、2018年にはマッカーサー像に火刑と称して像の周囲で可燃物を燃やす放火事件も発生している。
マッカーサーは国内外で多くの栄典を受けたが、主なものを記載する。マッカーサーはアメリカ国内だけでも100個以上の勲章を受けているが、5つ星の元帥章以外は略綬さえ一切身に付けなかった。栄誉を飾らないのがマッカーサーの流儀であった。
他多数
他多数
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"text": "ダグラス・マッカーサー(英語: Douglas MacArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。アメリカ陸軍元帥、連合国軍最高司令官、国連軍司令官を歴任した。",
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"text": "1880年にアメリカ合衆国アーカンソー州で生まれ、1903年にウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業した。",
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"text": "1918年に第一次世界大戦に参戦し、師団参謀長として13の勲章を受勲した。1919年には史上最年少で同士官学校の校長に就任、1925年には最年少でアメリカ軍の少将に就任、1930年には最年少でアメリカ軍参謀総長に就任した。",
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"text": "1935年にフィリピン軍の創設に携わり、翌1936年にはフィリピン軍の元帥となった。第二次世界大戦では大日本帝国からフィリピンを奪還し、1944年にアメリカ陸軍元帥に就任した。",
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"text": "第二次世界大戦後、1945年から1950年まで連合国軍最高司令官(GHQ)として大日本帝国を占領した。日本における最高権力者として君臨し、各種の占領政策を行って民主化を進めたほか、国民主権・平和主義などを柱とする日本国憲法の制定に影響を与えた。",
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"text": "1950年には朝鮮戦争における国際連合軍総司令官として仁川上陸作戦を成功させたが、中華人民共和国の人民解放軍との戦いに劣勢がみられ、北部のピョンヤン制圧から38度線まで撤退した。その後核を使うなどと全面戦争を主張したことなどからアメリカ大統領のトルーマンと戦略が対立し、1951年に解任された。",
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"text": "退任後は1952年の大統領選挙に出馬することを試みたが、支持が集まらずに断念した。製造企業レミントンランド社の会長に就任し、1964年に84歳で死去した。",
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"text": "1880年1月26日、アーカンソー州リトルロックに誕生する。マッカーサー家は元々はスコットランド貴族の血筋で、キャンベル氏族の流れを汲み、スコットランド独立戦争でロバート1世に与して広大な領土を得たが、その後は領主同士の勢力争いに敗れ、没落したと伝えられている。1828年、当時少年だった祖父のアーサー・マッカーサー・シニア(英語版)は家族に連れられてスコットランドからアメリカに移民し、マッカーサー家はアメリカ国民となった。",
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"text": "父のアーサー・マッカーサー・ジュニアは16歳の頃に南北戦争に従軍した根っからの軍人であり、南北戦争が終わって一旦は除隊し、祖父と同様に法律の勉強をしたが長続きせず、1866年には軍に再入隊している。1875年にニューオーリンズのジャクソン兵舎に勤務時に、ヴァージニア州ノーフォーク生まれでボルチモアの富裕な綿花業者の娘であったメアリー・ピンクニー・ハーディと結婚し、1880年に軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営でマッカーサー家の三男としてダグラス・マッカーサーが誕生した。この頃は西部開拓時代の末期で、インディアンとの戦いのため、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれており、マッカーサーが生まれて5か月の時、一家はニューメキシコ州のウィンゲート砦に向かうこととなったが、その地で1883年に次男のマルコムが病死している。マルコムの病死は母のメアリーに大きな衝撃を与え、残る2人の息子で特に三男ダグラスを溺愛するようになった。次いでフォート・セルデンの砦に父のアーサーが転属となり、家族も付いていった。そのためダグラスは、幼少期のほとんどを軍の砦の中で生活することとなった。",
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"text": "その後も一家は全国の任地を転々とするが、1898年4月に米西戦争が始まると父のアーサーは准将となり、スペインの植民地であったフィリピンに出征し、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなった。戦争が終わり、フィリピンがスペインよりアメリカに割譲されると、少将に昇進して師団長になっていた父のアーサーはその後に始まった米比戦争でも活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官に昇進した。しかし、1892年に兄のアーサーはアナポリス海軍兵学校に入学し、1896年には海軍少尉として任官し、弟ダグラスもウェストポイント陸軍士官学校を目指し勉強中だったことから、家族はフィリピンに付いていかなかった。",
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"text": "なお、ダグラスは幼少期に母のメアリーによってフランスの風習に倣い、女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって、陸軍士官学校に入学させられることになったとも言われている。",
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"text": "1896年、マッカーサーは西テキサス士官学校卒業後、ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校受験に必要な大統領や有力議員の推薦状が得られなかったため、母メアリーと共に有力政治家のコネが得られるマッカーサー家の地元ミルウォーキーに帰り、母メアリーが伝手を通じて手紙を書いたところ、下院議員シオボルド・オーチェンの推薦を得ることに成功した。その後、ウェストサイド高等学校に入学、1年半もの期間受験勉強したが、その受験勉強の方法は、後のマッカーサーを彷彿させるものであった。マッカーサーは試験という難関から失敗の可能性を抽出すると、それを1つ1つ取り除いていくという勉強方法をとり、目標を楽々と達成した。この受験勉強でマッカーサーは「周到な準備こそは成功と勝利のカギ」という教訓を学び、それは今後の軍人人生に大いに役立つものとなった。戦略的な受験勉強は奏功し、マッカーサーは1899年6月に750点満点中700点の高得点でトップ入学した。",
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"text": "しかし、マッカーサーは受験勉強期間中もガリ勉に終始していたわけでなく、年相応のロマンスも経験していた。マッカーサーはジョン・レンドラム・ミッチェル上院議員の娘に片思いし、彼女を口説くために、「うるわしき西部の娘よ、何より愛する君、君はなにゆえに我を愛さざるや?」という自作した詩を懐に忍ばせて、ミッチェル上院議員の家の周りをうろつくようになった。しかし、当時のマッカーサーはまったくモテず、ミッチェル上院議員の娘から相手にされることはなかった。これはマッカーサー個人の問題より、当時のアメリカでは軍服を颯爽とまとった軍人が若い女性の羨望の的であり、若い将校が休暇でミルウォーキーに帰ってくると、若い女性は軍人の周りに集まり、その中にはミッチェル上院議員の娘もいた。まだウェストポイントに入学していなかったマッカーサーは、他の平服を着た民間人と一緒にそれを横目で見ながらこそこそと隠れていなければならず、マッカーサーは「今度戦争があったら、絶対に前線で戦ってやるぞ」と心の中で誓っていた。",
"title": "経歴(青年期まで)"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "そんな息子を溺愛して心配する母のメアリーは、マッカーサーがウェストポイントに入学すると、わざわざ学校の近くのクラニーズ・ホテルに移り住み、息子の学園生活に目を光らせることとした。その監視は学業だけではなく私生活にまで及び、マッカーサーを女性から遠ざけるのに抜け目がなかった。その過保護ぶりは教官も周知の事実となり、ある日マッカーサーがメアリーの目を盗んでダンスホールで女性とキスをしているところを教官に見つかったことがあったが、ばつの悪い思いをしていたマッカーサーに対して教官は笑顔で「マッカーサー君おめでとう」とだけ言って去っていった。結局メアリーはマッカーサーが卒業するまで離れなかったため、「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」とからかわれることとなった。",
"title": "経歴(青年期まで)"
},
{
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"text": "当時のウェストポイントは旧態依然とした組織であり、上級生による下級生へのしごきという名のいじめが横行していた。父親が有名で、母親が近くのホテルに常駐し付き添っているという目立つ存在であったマッカーサーは、特に念入りにいじめられた。そのいじめは、長いウェストポイントの歴史の中で100以上も考案され、主なものでは「ボクシング選手による鉄拳制裁」「割れたガラスの上に膝をついて前屈させる」「火傷する熱さの蒸し風呂責め」「ささくれだった板の上を全裸でスライディングさせる」など凄まじいものであった。そのいじめが行われる兵舎は生徒たちから「野獣兵舎」と呼ばれていた。マッカーサーはいじめを受け続け、最後は痙攣を起こして失神した。マッカーサーは失神で済んだが、新入生の中でいじめによる死亡者が出て問題化することになった。報道によって社会問題化したことを重く見たウィリアム・マッキンリー大統領がウエストポイントに徹底した調査を命じ、数か月後に軍法会議が開廷された。激しいいじめを受けたマッカーサーも証人として呼ばれたが、マッカーサーは命令どおり証言すれば全校生徒から軽蔑される一方で、命令を拒否すればウエストポイントから追放されるという窮地に追い込まれることとなった。マッカーサーは熟考したあげく、既に罪を認めた上級生の名前のみ証言し、他の証言は拒否した。結局この事件は、罪を認めた生徒は一旦退学処分となったが、親族に有力者のコネがある生徒はまもなく復学し、またマッカーサーも父親アーサーが現役の将軍であったため証言拒否が問題視されることはなかった。しかし、窮地を機転と不屈の精神で乗り切ったマッカーサーは、多くの生徒から信頼を得ることができた。",
"title": "経歴(青年期まで)"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "在学中は成績抜群で、4年の在学期間中、3年は成績トップであったが、勉強だけではなくスポーツにも熱心であった。マッカーサーは最も好きなスポーツはフットボールであったが、当時の体格は身長が180cmに対し体重が63.5kgしかなく、この痩せ型の体型ではフットボール部に入部すらできない懸念があったので、マッカーサーは痩せ型の自分でも活躍できるスポーツとして野球を選び、自らで野球部を立ち上げた。しかし、決して野球が巧いわけではなく、打撃が苦手で、守備でも右翼手としては役には立たなかった。しかし、頭脳プレーに秀でており、選球眼もよく、セーフティーバントで相手投手を揺さぶるなどして高い出塁率を誇って、試合では活躍し、チームメイトからは「不退転のダグ」と呼ばれるようになった。1901年5月18日には、ウェストポイント対アナポリスのアメリカ陸海軍対抗戦にマッカーサーはスターティングメンバーとして出場し、2打席凡退後の3打席目で得意の選球眼で四球を選んで出塁すると、後の選手のタイムリーヒットで決勝のホームベースを踏んだ。マッカーサーはこれらの活躍で、レター表彰(ウェストポイントの略称であるArmyの頭文字Aをジャケットやジャージなどに刺繍できる権利)を受けたが、この表彰により、マッカーサーは死の直前までAの文字が刺繍されたウェストポイントの長い灰色のバスローブを愛用し続けた。しかし野球に熱中するあまり成績が落ちたため、4年生には野球をきっぱりと止め、1903年6月に在学期間中の2,470点満点のうち2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、94名の生徒の首席で卒業した。このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。卒業後は陸軍少尉に任官した。",
"title": "経歴(青年期まで)"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループとみなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願して第3工兵大隊所属となり、アメリカの植民地であったフィリピンに配属された。長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった。マッカーサーも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーは日露戦争を観戦したと自らの回想記に書いているが、彼が日本に到着したのは1905年10月で、ポーツマス条約調印後であり、これは、マッカーサーの回想によくある過大な記述であったものと思われ、回想記の版が重なるといつの間にかその記述は削除されている。その後マッカーサーと家族は日本を出発し、中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行しており、この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与えることになった。また、この旅行の際に日本で東郷平八郎・大山巌・乃木希典・黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている。",
"title": "経歴(青年期まで)"
},
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "その後アメリカに帰国したマッカーサーは1906年9月にセオドア・ルーズベルトの要請で、大統領軍事顧問の補佐官に任じられた。マッカーサーの手際のよい仕事ぶりを高く評価したルーズベルトはマッカーサーに「中尉、君は素晴らしい外交官だ。君は大使になるべきだ」と称賛の言葉をかけている。順調な軍歴を歩んでいたマッカーサーであったが、1907年8月にミルウォーキーの地区工兵隊に配属されると、ミルウォーキーに在住していた裕福な家庭の娘ファニーベル・ヴァン・ダイク・スチュワートに心を奪われ、軍務に身が入っていないことを上官のウィリアム・V・ジャドソン少佐に見抜かれてしまい、ジャドソンは工兵隊司令官に対して「学習意欲に欠け」「勤務時間を無視して私が許容範囲と考える時間を超過して持ち場に戻らず」「マッカーサー中尉の勤務態度は満足いくものではなかった」と報告している。この報告に対してマッカーサーは激しく抗議したが、マッカーサーがミルウォーキーにいた期間は軍務に全く関心を持たず、スチュワートを口説くことだけに関心が集中していたことは事実であり、この人事評価は工兵隊司令部に是認された。これまで順調であったマッカーサーの軍歴の初めての躓きであり、結局は、ここまで入れ込んだ恋愛も実らず、今までの人生で遭遇したことのない大失敗に直面したこととなった。自分の経歴への悪影響を懸念したマッカーサーは一念発起し、自分の評価を挽回するため工兵隊のマニュアル「軍事的破壊」を作成し工兵部隊の指揮官に提出したところ、このマニュアルは陸軍訓練学校の教材に採用されることとなった。このマニュアルによって挫折からわずか半年後にマッカーサーは挫折を克服し、第3工兵隊の副官及び工兵訓練学校の教官に任命されるなど再び高い評価を受けることとなったという。",
"title": "経歴(青年期まで)"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "その後、マッカーサーは1911年2月に大尉に昇進したが、1912年9月に父のアーサーが重い脳卒中でこの世を去った。尊敬していた父の死はマッカーサーに大きな衝撃を与え、マッカーサーはこの後生涯に渡って父の写真を持ち歩いていた。夫の死に大きなショックを受けたマッカーサーの母のメアリーは体調を崩して故郷ボルチモア病院に通院していたが、マッカーサーは少しでも側にいてやりたいと考えて、陸軍に異動願いを出していた。当時のアメリカ陸軍参謀総長は レオナルド・ウッド(英語版) であったが、ウッドはかつて父アーサーの部下として勤務した経験があり、アーサーに大きな恩義を感じていたため、わざわざ陸軍省に省庁間の調整という新しい部署を作ってマッカーサーを異動させた。ワシントンに着任したマッカーサーは定期的に母を見舞うことができた。また、ウッドはマッカーサーの勤務報告書に自ら「とりわけ知的で有能な士官」と記すなど、高く評価したため、この後、急速に出世街道を進んでいくこととなった。",
"title": "経歴(青年期まで)"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1910年11月に始まったメキシコ革命でビクトリアーノ・ウエルタ将軍が権力を掌握したが、ウエルタ政権を承認しないアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領と対立することとなったため、ウエルタに忠誠を誓うメキシコ兵がアメリカ軍の海兵隊兵士を拘束し、タンピコ事件が発生した。アメリカはメキシコに兵士の解放・事件への謝罪・星条旗に対する21発の礼砲を要求したが、メキシコは兵士の解放と現地司令官の謝罪には応じたが礼砲は拒否した。憤慨したウィルソンは大西洋艦隊第1艦隊司令フランク・F・フレッチャーにベラクルスの占領を命じた(アメリカ合衆国によるベラクルス占領(英語版))。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
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"paragraph_id": 20,
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"text": "激しい市街戦により占領したベラクルスに レオナルド・ウッド(英語版) 参謀総長は増援を送り込んだが、歩兵第2師団の第5旅団に偵察要員として、当時大尉であったマッカーサーを帯同させた。マッカーサーの任務は「作戦行動に有益なあらゆる情報を入手する」といった情報収集が主な任務であったが、マッカーサーはベラクルスに到着した第5旅団が輸送力不足により動きが取れないことを知り、メキシコ軍の蒸気機関車を奪取することを思い立った。マッカーサーはメキシコ人の鉄道労働者数人を買収すると、単身でベラクルスより65キロメートル離れたアルバラードまで潜入、内通者の支援により3両の蒸気機関車の奪取に成功した。その後、マッカーサー自身の証言では追撃してきた騎馬隊と激しい銃撃戦の上、マッカーサーは3発も銃弾が軍服を貫通するも無傷で騎馬隊を撃退し、見事にベラクルスまで機関車を持ち帰ってきた。マッカーサーはこの活躍により当然名誉勲章がもらえるものと期待していたが、第5旅団の旅団長がそのような命令を下していないと証言したこと、また銃撃戦の件も内通者のメキシコ人以外に証人はおらず信頼性に乏しいことより、名誉勲章の授与は見送られる事になり、マッカーサーは失望することとなった。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "その後にマッカーサーは陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長に就いた。1917年4月にアメリカがイギリス・フランス・日本などとともに連合国の一国として第一次世界大戦に参戦することが決まった。アメリカは戦争準備のため、急きょ1917年5月に選抜徴兵法を制定したが、徴兵部隊が訓練を終えて戦場に派遣されるには1年は必要と思われた。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーはニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官と共にホワイトハウスへ行って、ウィルソンに「全米26州の州兵を強化して市民軍としてヨーロッパに派遣すべき」と提案した。ウィルソンはベイカーとマッカーサーの提案を採用しその実行を指示したが、どの州の部隊を最初にフランスに派遣すべきかが悩ましい問題として浮上した。ベイカーは州兵局長ウィリアム・A・マン(英語版)准将とマッカーサーに意見を求めたが、マッカーサーは単独の州ではなくいくつかの州の部隊で師団を編成することを提案し、その提案に賛成したマンが「全26州の部隊で編成してはどうか」と補足すると、マッカーサーは「それはいいですね、そうすれば師団は全国に虹のようにかかることになります」と言った。ベイカーはその案を採用し第42師団(英語版)を編成した。師団長にはマン、そして少佐だったマッカーサーを二階級特進させ大佐とし参謀長に任命した。戦争に参加したくてたまらず、知り合いの記者に「真の昇進はフランスに行った者に与えられるであろう」と思いのたけを打ち明けていたマッカーサーには希望どおりの人事であった。第42師団は「レインボー師団」と呼ばれることになった。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "第42師団は1918年2月に西部戦線に参戦した。マッカーサーが手塩にかけて育成した兵士は勇猛に戦い、多くの死傷者を出しながらも活躍した。アメリカが第一次世界大戦でフランスに派遣した部隊の中では、正規軍と海兵隊で編成された精鋭部隊歩兵第2師団に次ぐ貢献度とされた。マッカーサーも参謀長であるにもかかわらず、前線に出たがった。正規の軍装は身に着けず、ヘルメットを被らず常に軍帽を着用し、分厚いタートルネックのセーターに母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを首に巻き、光沢のあるカーフブーツを履いて、武器の代わりに乗馬鞭か杖を握りしめているという目立つ格好であった。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーは前線の偵察を自ら直接行うこともあり、度々危険な目にあっている。車両に乗って偵察した際にはドイツ軍の機関銃に射撃され、車両は破壊されたがマッカーサーは奇跡的に無事であった。また少数のパトロール部隊を率いて夜間偵察した際には、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受け、マッカーサー以外の兵士は全員戦死したということもあった。マッカーサーはその後、第42師団の第84旅団の旅団長(准将)に就任し、休戦前には一時的に師団長が不在となったため、准将ながら第42師団を率いたこともあった。マッカーサーは第一次世界大戦中に戦場において2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "このヨーロッパ派遣軍(AEF)の総司令官はジョン・パーシングであったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "しかし、マッカーサーの母メアリーは、夫アーサーが在フィリピンのアメリカ軍司令官だったころに、当時大尉であったパーシングの面倒をみていたという伝手を頼って、マッカーサーを早く昇進させるようにと嘆願する手紙をたびたび送っていた。またベイカーにも同じような手紙を何通も送っている。そのおかげか、大戦中にマッカーサーは前述のように准将に昇進しており、メアリーはパーシングに「息子は貴方の期待を裏切らないはずです」というお礼の手紙を送っている。また、大戦後にパーシングが参謀総長に就任すると、「息子を早く少将に昇進させて欲しい」との手紙も送っている。メアリーはマッカーサーを溺愛するあまり過保護であり、大戦前の1909年に夫アーサーが軍を退役した際には、マッカーサーの将来を憂いて、鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンに「陸軍よりもっと出世が約束される仕事に就かせたい、貴方の壮大な企業のどこかで雇ってはもらえないだろうか」という手紙も送っていた。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "大戦後にマッカーサーは、母校である陸軍士官学校の校長に就任した(1919年 - 1922年)。当時39歳と若かったマッカーサーは辣腕を振るい、士官学校の古い体質を改革して現代的な軍人を育成する場へと変貌させた。マッカーサーが在学中に痛めつけられたしごきの悪習も完全に廃止され、しごきの舞台となっていた野獣兵舎も閉鎖した。代わりに競技スポーツに力をいれ、競技種目を3種目(野球・フットボール・バスケットボール)から17種目に増やし、全員参加の校内競技大会を開催することで団結心が養われた。その指導方針は厳格であり、当時の生徒は「泥酔した生徒が沢山いる部屋にマッカーサーが入ってくると、5分もしないうちに全員の心が石のように正気にかえった。こんなことができたのは世界中でマッカーサーただ一人であっただろう」と回想している。マッカーサーはその指導方針で士官候補生の間では不人気であり、ある日、士官候補生数人がマッカーサーに抗議にきたことがあったが、マッカーサーは候補生らの言い分を聞いた後に「日本との戦争は不可避である。その時になればアメリカは専門的な訓練を積んだ士官が必要となる。ウェストポイントが有能な士官の輩出という使命をどれだけ果たしたかが戦争の帰趨を決することになる」と言って聞かせると、候補生らは納得して、それ以降は不満を言わずに指導に従った。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "その後、1922年に縁の深いフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され着任する。その際、同年結婚した最初の妻ルイーズ・クロムウェル・ブルックス(英語版)を伴ってのフィリピン行きとなった。ルイーズは大富豪の娘で社交界の花と呼ばれていたため、2人の結婚は「軍神と百万長者の結婚」と騒がれた。この人事については、ルイーズがパーシング参謀総長の元愛人であり、それを奪ったマッカーサーに対する私怨の人事と新聞に書きたてられ、パーシングはわざわざ新聞紙面上で否定せざるを得なくなった。しかし、当時パーシングはルイーズと別れ20歳のルーマニア女性と交際しており、ルイーズはパーシングと別れた後、パーシングの副官ジョン・キュークマイヤーを含む数人の軍人と関係するなど恋多き女性であった。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "このフィリピン勤務でマッカーサーは、後のフィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)初代大統領マニュエル・ケソンなどフィリピンに人脈を作ることができた。翌1923年には関東大震災が発生、マッカーサーはフィリピンより日本への救援物資輸送の指揮をとっている。これらの功績が認められ、1925年にアメリカ陸軍史上最年少となる44歳での少将への昇進を果たし、米国本土へ転属となった。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "少将になったマッカーサーに最初に命じられた任務は、友人であるウィリアム・ミッチェルの軍法会議であった。ミッチェルは航空主兵論の熱心な論者で、自分の理論の正しさを示すため、旧式戦艦や標的艦を航空機の爆撃により撃沈するデモンストレーションを行ない、第一次世界大戦中にアメリカに空軍の基盤となるべきものが作られたにもかかわらず、政府がその後の空軍力の発展を怠ったとして、厳しく批判していた。軍に対してもハワイ、オアフ島の防空体制を嘲笑う意見を公表したり、軍が航空隊の要求する予算を承認しないのは犯罪行為に等しい、などと過激な発言を繰り返し、この歯に衣を着せぬ発言が『軍への信頼を失墜させ』『軍の秩序と規律に有害な行為』とみなされ、軍法会議にかけられることとなったのである。マッカーサーは、父アーサーとミッチェルの父親が同僚であった関係で、ミッチェルと少年時代から友達付き合いをしており、この軍法会議の判事となる任務が「私が受けた命令の中で一番やりきれない命令」と言っている。マッカーサーは判事の中で唯一「無罪」の票を投じたがミッチェルは有罪となり1926年に除隊した。その後、ミッチェルの予言どおり航空機の時代が到来したが、その時には死後10年後であり、ようやくミッチェルはその先見の明が認められ、1946年に名誉回復され、少将の階級と議会名誉黄金勲章が遺贈された。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた際「我々がここへ来たのはお上品に敗けるためではない。我々は勝つために来たのだ。それも決定的に勝つために」と答えた。しかし、マッカーサーの意気込みどおりとはならず、アメリカは前回のパリオリンピックの金メダル45個から22個に半減し、前評判の割には成績は振るわなかった。アメリカ国民の失望は大きく、選手団に連日非難の声が寄せられた。この大会では日本が躍進し、史上初の金メダルを2個獲得している。金メダルを三段跳で獲得した織田幹雄は終戦時に、その折のアメリカ選手団団長のマッカーサーが占領軍の最高司令官であったことに驚いたという。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "マッカーサーがオリンピックでアムステルダムにいた頃、妻ルイーズがアメリカにて複数の男性と浮気をしていたと新聞のゴシップ欄で報じられた。ルイーズは新婚当初は知人を通じ、当時の陸軍長官ジョン・ウィンゲイト・ウィークスに、「ダグラスが昇進できるように一肌脱いでほしい、工作費はいくら請求してくれてもよい」と働きかけるほど、夫マッカーサーに尽くそうとしていたが、華美な生活を求めたルイーズとマッカーサーは性格が合わず、1929年には離婚が成立している。ルイーズとの夫婦生活での話は後にゴシップ化し、面白おかしくマスコミに取り上げられてマッカーサーを悩ませることになる。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "離婚のごたごたで傷心のマッカーサーに、在フィリピン・アメリカ陸軍司令官として再度フィリピン勤務が命じられたが、マッカーサーはこの異動を「私にとってこれほどよろこばしい任務はなかった」と歓迎している。マッカーサーは当時のアメリカ人としては先進的で、アジア人に対する差別意識が少なく、ケソンらフィリピン人エリートと対等に付き合い友情を深めた。また、アメリカ陸軍フィリピン人部隊(フィリピン・スカウト)の待遇を改善し、強化を図っている。この当時は日本が急速に勢力を伸ばし、フィリピンにも日本人の農業労働者や商売人が多数移民してきており、マッカーサーは脅威に感じて防衛力の強化が必要と考えていたが、アメリカ本国はフィリピン防衛に消極的で、フィリピンには17,000名の兵力と19機の航空機しかなく、マッカーサーはワシントンに「嘆かわしいほどに弱体」と強く抗議している。ケソンはこのようにフィリピンに対して親身なマッカーサーに共感し、ヘンリー・スティムソンの後任のフィリピン総督に就任することを願った。マッカーサーも、かつて父アーサーも就任した総督の座を希望しており、ケソンらに依頼しフィリピンよりマッカーサーの推薦状を送らせている。しかし工作は実らず、総督には前陸軍長官のドワイト・フィリー・デイヴィスが就任した。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "私生活では、1929年にマニラで混血の女優エリザベス・イザベル・クーパー(英語版)との交際が始まったが、マッカーサー49歳に対し、イザベルは当時16歳であった。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "1930年、大統領ハーバート・フーヴァーにより、アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命された。このポストは大将職であるため、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付き、マッカーサーとアイゼンハワーの長くて有名な関係が始まった。アイゼンハワーはウェストポイントを平均的な成績で卒業していたが、英語力に極めて優れており、分かりやすく、構成のしっかりした、印象的な報告書を作成することに長けていた。アイゼンハワーはパーシングの回顧録記述の手伝いをし、第一次世界大戦におけるアメリカ陸軍の主要な公式報告書の多くを執筆した。マッカーサーはこうしたアイゼンハワーの才能を報告書を通じて知ると、参謀本部の年次報告書などの重要な報告書作成任務のために抜擢したのであった。マッカーサーはアイゼンハワーが提出してきた報告書に、自らが直筆した称賛の手紙を入れて返した。アイゼンハワーはその手紙に感動して母親に見せたが、母親はさらに感激してマッカーサーの手紙を額に入れて飾っていた。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "前年の「暗黒の木曜日」に端を発した世界恐慌により、陸軍にも軍縮の圧力が押し寄せていたが、マッカーサーは議会など軍縮を求める勢力を「平和主義者とその同衾者」と呼び、それらは共産主義に毒されていると断じ、激しい敵意をむき出しにしていた。当時、アメリカ陸軍は世界で17番目の規模しかなく、ポルトガル陸軍やギリシャ陸軍と変わらなくなっていた。また兵器も旧式であり、火砲は第一次世界大戦時に使用したものが中心で、戦車は12両しかなかった。しかし議会はさらなる軍事費削減をせまり、マッカーサーの参謀総長在任時の主な仕事は、この小さい軍隊の規模を守ることになった。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る事件(ボーナスアーミー)が発生した。全国から集まった退役軍人とその家族は一時、22,000名にも上った。特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され、連邦政府に対する革命行動を煽っている、と根拠のない非難をおこなった。退役軍人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの交通費の支給などの懐柔策で、少しずつであるが解散して行った。しかし、フーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもかかわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が警察と軍に、デモ隊の排除を命令した。マッカーサーはジョージ・パットン少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令に反し、アナコスティア川を渡河して退役軍人らのテント村を焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた。マッカーサーは夜の記者会見で、「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と鎮圧行動は正当であると主張したが、やりすぎという非難の声は日増に高まることとなった。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーは自分への非難の沈静化を図るため、ボーナスアーミーでの対応で非難する記事を書いたジャーナリストのドルビー・ピアソンとロバート・S・アレンに対し、名誉棄損の訴訟を起こすが、かえってジャーナリストらを敵に回すことになり、ピアソンらは当時関係が破局していたマッカーサーの恋人イザベルの存在を調べ上げると、マッカーサーが大統領や陸軍長官など目上に対して侮辱的な言動をしていたことや、私生活についての情報をイザベルより入手している。その後、マッカーサーとピアソンらは名誉棄損の訴訟を取り下げる代わりに、スキャンダルとして記事にしないことやイザベルに慰謝料を払うことで和解している。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "フーヴァーはボーナスアーミーでの対応の不手際や、恐慌に対する有効な政策をとれなかったため、フランクリン・ルーズベルトに大統領選で歴史的大敗を喫して政界を去ったが、ルーズベルトもフーヴァーと同様に、不況対策と称して軍事予算削減の方針であった。マッカーサーはルーズベルトに「大統領は国の安全を脅かしている、アメリカが次の戦争に負けて兵隊たちが死ぬ前に言う呪いの言葉は大統領の名前だ」と辞任覚悟で詰め寄るが、結局陸軍予算は削減された。マッカーサーはルーズベルトが進めるニューディール政策には終始反対の姿勢であったが、ルーズベルトがニューディール政策の一つとして行った CCC(市民保全部隊)による失業者救済に対し、陸軍の組織力や指導力を活用して協力し、初期の成功に大きく貢献している。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "この頃のマッカーサーは公私ともに行き詰まりを感じて、自信喪失に苦しんでおり、時々自殺をほのめかすときがあった。その度に副官のトーマス・ジェファーソン・デービス(英語版)大尉などがマッカーサーに拳銃を置くように説得したが、ある日、マッカーサーとデービスが公務で一緒に汽車に乗り、その汽車が、マッカーサーの父アーサーが南北戦争時に活躍した戦場の付近を通ったとき、マッカーサーがデービスに「私は陸軍と人生において、出来得る限りのことをやり終え、今や参謀総長としての任期も終わろうとしている。テネシー川の鉄橋を通過するとき、私は列車から飛び降りるつもりだ。ここで私の人生は終わるのだ」と語りかけてきた。このようなやりとりにうんざりしていたデービスは「うまく着水できることを祈ります」と答えると、マッカーサーはばつが悪い思いをしたのか、荒々しくその客車を出て行ったが、後ほどデービスに感情的になっていたと謝罪している。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーは史上初の参謀総長再任を希望し、ルーズベルトもまた意見は合わないながらもその能力を高く評価しており、暫定的に1年間、参謀総長の任期を延長している。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定したため、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。マッカーサーはケソンから提示された、18,000ドルの給与、15,000ドルの交際費、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームの滞在費に加えて秘密の報酬 という破格の条件から、主に経済的な理由により軍事顧問団への就任を快諾している。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
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"tag": "p",
"text": "フィリピンには参謀総長時代から引き続いて、アイゼンハワーとジェームズ・D・オード両少佐を副官として指名し帯同させた。アイゼンハワーは行きたくないと考えており「参謀総長時代に逆らった私を懲らしめようとして指名した」と感じたと後に語っている。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
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"tag": "p",
"text": "フィリピン行きの貨客船「プレジデント・フーバー (S.S. President Hoover) 」には2番目の妻となるジーン・マリー・フェアクロスも乗っており、船上で2人は意気投合して、2年後の1937年に結婚している。また、母メアリーも同乗していたが、既に体調を崩しており長旅の疲れもあってか、マッカーサーらがマニラに到着した1か月後に亡くなっている。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
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"tag": "p",
"text": "1936年2月にマッカーサーは、彼のためにわざわざ設けられたフィリピン陸軍元帥に任命された。副官のアイゼンハワーは、存在もしない軍隊の元帥になるなど馬鹿げていると考え、マッカーサーに任命を断るよう説得したが、聞き入れられなかった。後年ケソンに尋ねたところ、これはマッカーサー自身がケソンに発案したものだった。しかし肝心の軍事力整備は、主に資金難の問題で一向に進まなかった。マッカーサーは50隻の魚雷艇、250機の航空機、40,000名の正規兵と419,300名のゲリラで、攻めてくる日本軍に十分対抗できると夢想していたが、実際にアイゼンハワーら副官が軍事力整備のために2,500万ドルの防衛予算が必要と提言すると、ケソンとマッカーサーは800万ドルに削れと命じ、1941年には100万ドルになっていた。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
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"text": "軍には金はなかったが、マッカーサー個人はアメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。1936年1月17日にはマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1937年12月にマッカーサーは陸軍を退官する歳となり、アメリカ本土への帰還を望んだが、新しい受け入れ先が見つからなかった。そこでケソンがコモンウェルスで軍事顧問として直接雇用すると申し出て、そのままフィリピンに残ることとなった。アイゼンハワーら副官もそのまま留任となった。1938年1月にマッカーサーが軍事力整備の成果を見せるために、マニラで大規模な軍事パレードを計画した。アイゼンハワーら副官は、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーを諫めるも聞き入れず、副官らにパレードの準備を命令した。それを聞きつけたケソンが、自分の許可なしに計画を進めていたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーらに責任を転嫁した。このことで、マッカーサーとアメリカ軍の軍事顧問幕僚たちとの決裂は決定的となり、アイゼンハワーは友人オードの航空事故死もあり、フィリピンを去る決意をした。1939年に第二次世界大戦が開戦すると、アメリカ本国に異動を申し出て、後に連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官となった。アイゼンハワーの後任にはリチャード・サザランド大佐が就いた。",
"title": "経歴(第一次世界大戦〜戦間期)"
},
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦が始まってからも主に予算不足が原因で、フィリピン軍は強化が進まなかったが、日独伊三国同盟が締結され、日本軍による仏印進駐が行われると、ルーズベルトは強硬な手段を取り、石油の禁輸と日本の在米資産を凍結し、日米通商航海条約の失効もあって極東情勢は一気に緊張した。継続的な日米交渉による打開策模索の努力も続けられたが、日本との戦争となった場合、フィリピンの現戦力ではオレンジ計画を行うのは困難であるとワシントンは認識し、急遽フィリピンの戦力増強が図られることとなった。マッカーサーもその流れの中で、1941年7月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰(7月26日付で少将として召集、翌日付で中将に昇進、12月18日に大将に昇進)した。それで在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "それまでフィリピンに無関心であったワシントンであったが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は「フィリピンの防衛はアメリカの国策である」と宣言し、アメリカ本国より18,000名の最新装備の州兵部隊を増援に送るとマッカーサーに伝えたが、マッカーサーは増援よりもフィリピン軍歩兵の装備の充実をマーシャルに要請し了承された。またアメリカ陸軍航空隊が『空飛ぶ要塞』と誇っていた新兵器の大型爆撃機B-17の集中配備を計画した。陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド少将は「手に入り次第、B-17をできるだけ多くフィリピンに送れ」と命令し、計画では74機のB-17を配備し、フィリピンは世界のどこよりも重爆撃機の戦力が集中している地域となる予定であった。他にも急降下爆撃機A-24、戦闘機P-40など、当時のハワイよりも多い207機の航空機増援が約束され、その増援一覧表を持ってマニラを訪れたルイス・ブレアトン(英語版)少将に、マッカーサーは興奮のあまり机から跳び上がり抱き付いたほどであった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "マーシャルはB-17を過信するあまり日本軍航空機を過少評価しており、「戦争が始まればB-17はただちに日本の海軍基地を攻撃し、日本の紙の諸都市を焼き払う」と言明している。B-17にはフィリピンと日本を往復する航続距離は無かったが、爆撃機隊は日本爆撃後、ソビエト連邦のウラジオストクまで飛んで、フィリピンとウラジオストクを連続往復して日本を爆撃すればいいと楽観的に考えていた。その楽観論はマッカーサーも全く同じで「12月半ばには陸軍省はフィリピンは安泰であると考えるに至るであろう(中略)アメリカの高高度を飛行する爆撃隊は速やかに日本に大打撃を与えることができる。もし日本との戦争が始まれば、アメリカ海軍は大して必要がなくなる。アメリカの爆撃隊は殆ど単独で勝利の攻勢を展開できる」という予想を述べているが、この自軍への過信と敵への油断は後にマッカーサーへ災いとして降りかかることになった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "また同時に、海軍のアジア艦隊(英語版)の増強も図られ、潜水艦23隻が送られることとなり、アメリカ海軍で最大の潜水艦隊となった。アジア艦隊司令長官は、マッカーサーの知り合いでもあったトーマス・C・ハートであったが、マッカーサーは自分が中将なのにハートが大将なのが気に入らなかったという。そのためマッカーサーは「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、ハートやアジア艦隊を揶揄していた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "マッカーサーは戦力の充実により、従来の戦術を大きく転換することとした。現状のペースで戦力増強が進めば1942年4月には20万人のフィリピン軍の動員ができ、マーシャルの約束どおり航空機と戦車が配備されれば、上陸してくる日本軍を海岸で阻止できるという目論みに基づく計画であった。当初のオレンジ計画では内陸での防衛戦を計画しており、物資や食糧は有事の際には強固に陣地化されているバターン半島に集結する予定であったが、マッカーサーの新計画では水際撃滅の積極的な防衛戦となるため、物資は海岸により近い平地に集結させられることとなった。この転換は後に、マッカーサーとアメリカ軍・フィリピン軍兵士を苦しめることとなったが、マッカーサーの作戦変更の提案にマーシャルは同意した。もっとも重要な首都マニラを中心とするルソン島北部にはジョナサン・ウェインライト少将率いるフィリピン軍4個師団が配置された。日本軍の侵攻の可能性が一番高い地域であったが、ウェインライトが守らなければいけない海岸線の長さは480kmの長さに達しており、任された兵力では到底戦力不足であった。しかし、マッカーサーはウェインライトに「どんな犠牲を払っても海岸線を死守し、絶対に後退はするな」と命じていた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーが戦力の充実により防衛の自信を深めていたのとは裏腹に、フィリピン軍の状況は不十分であった。マッカーサーらが3年半も訓練してきたものの、その訓練は個々の兵士の訓練に止まり部隊としての訓練はほとんどなされていなかった。師団単位の訓練や砲兵などの他兵科との共同訓練の経験はほとんど無かった。兵士のほとんどが人生で初めて革靴を履いた為、多くの兵士が足を痛めており、テニス・シューズや裸足で行軍する兵士も多かった。また各フィリピン軍師団には部隊を訓練する為、数十人のアメリカ軍士官と100名の下士官が配属されていたが、フィリピン兵は英語をほとんど話せないためコミュニケーションが十分に取れなかった。また、フィリピン兵同士も部族が違えば言語が通じなかった。マッカーサーはフィリピン軍の実力に幻想を抱いては無かったが、陸軍が約束した大量の増援物資が到着し、部隊を訓練する時間が十分に取れればフィリピンの防衛は可能と思い始めていた。実際に1941年11月の時点で10万トンの増援物資がフィリピンに向かっており、100万トンがフィリピンへ輸送されるためアメリカ西海岸の埠頭に山積みされていた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤで開戦、次いでハワイ州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "12月8日フィリピン時間で3時30分に副官のサザーランドはラジオで真珠湾の攻撃を知りマッカーサーに報告、ワシントンからも3時40分にマッカーサー宛て電話があったが、マッカーサーは真珠湾で日本軍が撃退されると考え、その報告を待ち時間を無駄に浪費した。その間、アメリカ極東空軍の司令に就任していたブレアトン少将が、B-17をすぐに発進させ、台湾にある日本軍基地に先制攻撃をかけるべきと2回も提案したがマッカーサーはそのたびに却下した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "夜が明けた8時から、ブレアトンの命令によりB-17は日本軍の攻撃を避ける為に空中待機していたが、ブレアトンの3回目の提案でようやくマッカーサーが台湾攻撃を許可したため、B-17は11時からクラークフィールドに着陸し爆弾を搭載しはじめた。B-17全機となる35機と大半の戦闘機が飛行場に並んだ12時30分に日本軍の海軍航空隊の零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸上攻撃機合計106機がクラークフィールドとイバフィールドを襲撃した。不意を突かれたかたちとなったアメリカ軍は数機の戦闘機を離陸させるのがやっとであったが、その離陸した戦闘機もほとんどが撃墜され、陸攻の爆撃と零戦による機銃掃射で次々と撃破されていった。この攻撃でB-17を18機、P-40とP-35の戦闘機58機、その他32機、合計108機を失い、初日で航空戦力が半減する事となった。その後も日本軍による航空攻撃は続けられ、12月13日には残存機は20機以下となり、アメリカ極東空軍は何ら成果を上げる事なく壊滅した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "台湾の日本軍はフィリピンからの爆撃に備えており、マッカーサーには攻撃できるチャンスもあったが、判断を誤って満足に戦うこともなくフィリピンの航空戦力を壊滅させてしまった。マッカーサーは自分の判断の誤りを最期まで認めることはなく、晩年に至るまで零戦は台湾ではなくフィリピン近海の空母から出撃したと言い張り続けた。また、ブレアトンからの出撃の提案も、副官のサザーランドにされたもので自分は聞いていなかったとも主張し、仮に出撃したとしても、戦闘機の護衛をまともにつけることはできなかったので自殺行為になったとも主張した。しかし、攻撃するという決断ができなかったとしても、虎の子のB-17をクラークフィールド上空に退避飛行させるという無駄な行動ではなく、日本軍から攻撃されなかったミンダナオ島の飛行場に退避させる命令をしていれば、こうも簡単に撃破されることはなかったはずであり、このマッカーサーの重大な判断ミスによって、アメリカ軍とマッカーサー自身がやがて手ひどい報いを受けることとなってしまった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "マーシャルの約束していた兵力増強にはほど遠かったが、マッカーサーは優勢な航空兵力と15万の米比軍で上陸する日本軍を叩きのめせると自信を持っていた。しかし、頼みの航空戦力は序盤であっさり壊滅してしまい、日本軍が12月10日にルソン島北部のアバリとビガン、12日には南部のレガスピに上陸してきた。マッカーサーはマニラから遠く離れたこれらの地域への上陸は、近いうちに行われる大規模上陸作戦の支援目的と判断して警戒を強化した。マッカーサーは日本軍主力の上陸を12月28日頃と予想していたが、本間雅晴中将率いる第14軍主力は、マッカーサーの予想より6日も早い22日朝にリンガエン湾から上陸してきた。上陸してきた第14軍は第16師団と第48師団の2個師団だが、既に一部の部隊がルソン島北部に上陸しており、9個師団を有するルソン島防衛軍に対しては強力な部隊には見えなかったが、上陸してきた日本軍を海岸で迎え撃ったアメリカ軍とフィリピン軍は、訓練不足でもろくも敗れ去り、我先に逃げ出した。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、勝敗は決したと悟ると自分の考案した水際作戦を諦め、当初のオレンジ計画に戻すこととし、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城するように命じた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "12月23日、アメリカ軍司令部はマッカーサーのマニラ退去を発表。マッカーサーはマニュエル・ケソン大統領に対しても退去勧告を行い、12月26日、フィリピン政府もマニラを去ることを決定した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "ウェインライトの巧みな退却戦により、バターン半島にほとんどの戦力が軽微な損害で退却できたが、一方でマッカーサーの作戦により平地に集結させていた食糧や物資の輸送が、マッカーサー司令部の命令不徹底やケソンの不手際などでうまくいかず、設置されていた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラックまでが溢れていたが、これをほとんど輸送することができず日本軍に接収されてしまった。その内のひとつ、中部ルソン平野にあったカバナチュアン物資集積所だけでも米が5,000万ブッシェルもあったが、これは米比全軍の4年分の食糧にあたる量であった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "バターン半島には、オレンジ計画により40,000名の兵士が半年間持ち堪えられるだけの物資が蓄積されていたが、全く想定外の10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が立て籠もることとなった。マッカーサーは少しでも長く食糧をもたせるため、食糧の配給を半分にすることを命じたが、これでも4か月はもたないと思われた。快進撃を続ける日本軍は第14軍主力がリンガエン湾に上陸してわずか11日後の1942年1月2日に、無防備都市宣言をしていたマニラを占領した。本間中将はマッカーサーが滞在していたマニラ・ホテルの最上階に日章旗を掲げさせたが、それを双眼鏡で確認したマッカーサーは、居宅としていたスイートルームの玄関ホールに飾っていた、父アーサーが1905年に明治天皇から授与された花瓶に、本間中将は気が付いて頭を下げるんだろうか?と考えて含み笑いをした。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーはマニラ陥落後、米比軍がバターン半島に撤退を完了した1月6日の前に、コレヒドール島のマリンタ・トンネル(英語版)内に設けられた地下司令部に、妻ジーンと子供のアーサー・マッカーサー4世を連れて移動したが、コレヒドール島守備隊ムーア司令の奨めにもかかわらず、住居は地下壕内ではなく地上にあったバンガロー風の宿舎とした。幕僚らは日本軍の爆撃の目標になると翻意を促したがマッカーサーは聞き入れなかった。マッカーサーは日本軍の空襲があると防空壕にも入らず、悠然と爆撃の様子を観察していた。ある時にはマッカーサーの近くで爆弾が爆発し、マッカーサーを庇った従卒の軍曹が身代わりとなって負傷することもあった。一緒にマリンタ・トンネルに撤退してきたケソンはそんなマッカーサーの様子を見て無謀だと詰ったが、マッカーサーは「司令官は必要な時に危険をおかさなければいけないこともある。部下に身をもって範を示すためだ」と答えている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーは日本軍の戦力を過大に評価しており、6個師団が上陸してきたと考えていたが、実際は2個師団相当の40,000名であった。一方で、日本軍は逆にアメリカ・フィリピン軍を過小評価しており、残存兵力を25,000名と見積もっていたが、実際は80,000名以上の兵員がバターンとコレヒドールに立て籠もっていた。当初から、第14軍の2個師団の内、主力の機械化師団第48師団は、フィリピン攻略後に蘭印作戦に転戦する計画であったが、バターン半島にアメリカ・フィリピン軍が立て籠もったのにもかかわらず、大本営は戦力の過小評価に基づき、計画どおり第48師団を蘭印作戦に引き抜いてしまった。本間中将も戦力を過少評価していたので、1942年1月から第65旅団でバターン半島に攻撃をかけたが、敵が予想外に多く反撃が激烈であったため、大損害を被って撃退されている。その後、日本軍はバターンとコレヒドールに激しい砲撃と爆撃を加えたが、地上軍による攻撃は3週間も休止することとなった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "その間、日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れるバターン半島の米比軍は、収穫期前の米と軍用馬を食べ尽くし、さらに野生の鹿と猿も食料とし絶滅させてしまった。マッカーサーらは「2か月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』している」とアメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出したが、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。ワシントンではフィリピンの対応に苦慮しており、洪水のように戦況報告や援軍要請の電文を打電してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッカーサーはかつてないほど大きなベイビーになっている。しかし我々は彼をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記している。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"tag": "p",
"text": "しかしその当時、バターン半島とコレヒドール島は攻勢を強める枢軸国に対する唯一の抵抗拠点となっており、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「マッカーサー将軍指揮下の弱小なアメリカ軍が見せた驚くべき勇気と戦いぶりに称賛の言葉を送りたい」と議会で演説するなど注目されていた。ワシントンも様々な救援策を検討し、12月28日にはフィリピンに向けてルーズベルトが「私はフィリピン国民に厳粛に誓う、諸君らの自由は保持され、独立は達成され、回復されるであろう。アメリカは兵力と資材の全てを賭けて誓う」と打電し、マッカーサーとケソンは狂喜したが、実際には重巡ペンサコーラに護衛されマニラへ大量の火砲などの物資を運んでいた輸送船団が、危険を避けてオーストラリアに向かわされるなど、救援策は具体的には何もなされなかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーがコレヒドールに撤退した頃には、ハートのアジア艦隊は既にフィリピンを離れオランダ領東インドに撤退し、太平洋艦隊主力も真珠湾で受けた損害が大きすぎてフィリピン救出は不可能であり、ルーズベルトと軍首脳はフィリピンはもう失われたものと諦めていた。マーシャルはマッカーサーが死ぬよりも日本軍の捕虜となることを案じていたが、それはマッカーサーがアメリカ国内で英雄視され、連日マッカーサーを救出せよという声が新聞紙面上を賑わしており、捕虜になった場合、国民や兵士の士気に悪い影響が生じるとともに、アメリカ陸軍に永遠の恥辱をもたらすと懸念があったからである。しかしマッカーサーは降伏する気はなく、1942年1月10日に本間中将から受け取った降伏勧告の書簡を黙殺しているが、それはアメリカ本国からの支援があると固く信じていたからであった。フィリピンへの支援を行う気が無いマーシャルら陸軍省は、この時点でマッカーサーをオーストラリアに逃がすことを考え始め、2月4日にマッカーサーにオーストラリアで新しい司令部を設置するように打診したがマッカーサーはこれを拒否、逆に海軍が太平洋西方で攻勢に出て、日本軍の封鎖を突破するように要請している。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "コレヒドールの要塞に逃げ込んでしばらくすると、ケソンはルーズベルトがフィリピンを救援するつもりがない事を知って気を病み、マッカーサーに「この戦争は日本と米国の戦いだ。フィリピン兵士に武器を置いて降伏するよう表明する。日米はフィリピンの中立を承認してほしい」と申し出た。マッカーサーはこの申し出をルーズベルトに報告するのを躊躇ったが、アメリカ本国がフィリピンを救援するつもりがないのなら、軍事的観点からこのケソンの申し出はアメリカにとって失うものは何もないと判断し、ルーズベルトに報告した。しかしこの報告を聞いたルーズベルトは迅速かつ強烈な「アメリカは抵抗の可能性ある限り(フィリピンから)国旗を降ろすつもりはない」という返事をケソンに行い、マッカーサーへはマーシャルを通じて「ケソンをフィリピンより退避させよ」との指示がなされた。 マッカーサーはケソン大統領に脱出を促すと共に、軍事顧問就任時に約束した秘密の報酬の支払いを要求した。話し合いの結果、マッカーサー50万ドル、副官らに14万ドル支払われる事となり、2月13日にお金を受け取る側のマッカーサー自らが副官サザーランドに命じ、マッカーサーらに64万ドルをフィリピンの国庫より支払うとするフィリピン・コモンウェルス行政命令第1号を作らせ、2月15日、ケソンはニューヨークのチェース・ナショナル銀行のフィリピン政府の口座からケミカル・ナショナル銀行のマッカーサーの個人口座に50万ドルを振り込む手続きをした。ケソンは2月20日にアメリカ軍の潜水艦ソードフィッシュでコレヒドールから脱出した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ケソンは後に空路でアメリカ・ワシントンに向かい、かつてのマッカーサーの副官アイゼンハワーと再会し、マッカーサーらに大金を渡したようにアイゼンハワーにも功労金という名目で6万ドルを渡そうとしたが、アイゼンハワーは断固として拒否している。ケソンはその後、レイテへの進攻直前の1944年8月にニューヨークで病死し二度とフィリピンの土を踏むことは無かった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ルーズベルトはマッカーサーに降伏の権限は与えていたが、陸軍省が画策していたオーストラリアへの脱出は考えていなかった。ある日の記者会見で「マッカーサー将軍にフィリピンから脱出を命じ全軍の指揮権を与える考えはないのか」との記者の質問に「いや私はそうは思わない、それは良く事情を知らない者が言うことだ」と否定的な回答をしている。これはルーズベルトの「そうすることは白人が極東では完全に面子を失うこととなる。白人兵士たるもの、戦うもので、逃げ出すことなどできない」という考えに基づくものであった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "最終的にルーズベルトが考えを変えたのは、日本軍の快進撃で直接の脅威を受けることとなったオーストラリアが北アフリカ戦線に送っている3個師団の代わりに、アメリカがオーストラリアの防衛を支援して欲しいとチャーチルからの要請があり、その司令官としてチャーチルがマッカーサーを指名したためである。1942年2月21日、ルーズベルトはチャーチルからの求めや、マーシャルら陸軍の説得を受け入れマッカーサーにオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーは「私と私の家族は部隊と運命を共にすることを決意した」と命令違反を犯し軍籍を返上して義勇兵として戦おうとも考えたが、いったんオーストラリアに退き、援軍を連れてフィリピンに救援に戻って来ようという考えに落ち着き、ルーズベルトの命令を受けることとした。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 71,
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"text": "マッカーサーが脱出を迷っている間にも戦局は悪化する一方で、飢餓と疫病に加えアメリカ・フィリピン軍の兵士を苦しめたのは、日本軍の絶え間ない砲撃による睡眠不足であった。もはやバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた。12月10日のビガン上陸作戦時にアメリカ軍のB-17が軽巡洋艦名取を爆撃し至近弾を得たが、B-17が撃墜されたためその戦果が戦艦榛名撃沈、さらに架空の戦艦ヒラヌマを撃沈したと誤認して報告されると、マッカーサー司令部はこの情報に飛び付き大々的に宣伝した。その誤報を信じたルーズベルトによって、戦死した攻撃機のパイロットコリン・ケリー大尉には殊勲十字章が授与されるなど、マッカーサー司令部は継続して「ジャップに大損害を与えた」と公表してきたが、3月8日には全世界に向けたラジオ放送で「ルソン島攻略の日本軍司令官本間雅晴は敗北のために面目を失い、ハラキリナイフでハラキリして死にかけている」と声明を出し、さらにその後「マッカーサー大将はフィリピンにおける日本軍の総司令官本間雅晴中将はハラキリしたとの報告を繰り返し受け取った。同報告によると同中将の葬儀は2月26日にマニラで執行された」と公式声明を発表した。さらに翌日には「フィリピンにおける日本軍の新しい司令官は山下奉文である」と嘘の後任まで発表する念の入れようであった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 72,
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"text": "嘘の公式発表をするのと並行してマッカーサーは脱出の準備を進めていた。コレヒドールにはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた。先に脱出に成功したケソンのようにその潜水艦に同乗するのが一番安全な脱出法であったが、マッカーサーは生まれついての閉所恐怖症であり、脱出方法は自分で決めさせてほしいとマーシャルに申し出し許可された。マッカーサーは、家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出する事とした。3月11日にマッカーサーと家族と使用人アー・チューが搭乗するPT-41(英語版)とマッカーサーの幕僚(陸軍将校13名、海軍将校2名、技術下士官1名)が分乗する他3隻の魚雷艇はミンダナオ島に向かった。一緒に脱出した幕僚は『バターン・ギャング(またはバターン・ボーイズ)』と呼ばれ、この脱出行の後からマッカーサーが朝鮮戦争で更迭されるまで、マッカーサーの厚い信頼と寵愛を受け重用されることとなった。ルーズベルトが脱出を命じたのはマッカーサーとその家族だけで、幕僚らの脱出は厳密にいえば命令違反であったが、マーシャルは後にその事実を知って「驚いた」と言っただけで不問としている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"text": "魚雷艇隊は800kmの危険な航海を無事に成し遂げ、ミンダナオ島陸軍司令官ウィリアム・シャープ准将の出迎えを受けたが、航海中にマッカーサーは手荷物を失い、到着時に所持していた荷物は就寝用のマットレスだけであった。ミンダナオ島には急造されたデルモンテ飛行場があり、マッカーサーはここからボーイングB-17でオーストラリアまで脱出する計画であったが、オーストラリアのアメリカ陸軍航空隊司令ジョージ・ブレット(英語版)中将が遣したB-17は整備が行き届いておらず、出発した4機の内2機が故障、1機が墜落し、日本軍との空中戦で損傷した1機がようやく到着したというありさまで、とても無事にオーストラリアに飛行できないと考えたマッカーサーは、マーシャルにアメリカ本土かハワイから新品のB-17を3機追加で遣すように懇願した結果、オーストラリアで海軍の管理下にあったB-17が3機追加派遣されることとなった。その3機も1機が故障したため、3月16日に2機がデルモンテに到着した。その2機にコレヒドールを脱出した一行と、先に脱出していたケソンが合流し詰め込まれた。乗り込んだ時のマッカーサーの荷物はコレヒドール脱出時より持ってきた就寝用マットレス1枚だけであったが、後にこのマットレスに金貨が詰め込まれていたという噂が広がることとなった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
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"text": "オーストラリアまで10時間かけて飛行した後、一行は列車で移動し、3月20日にオーストラリアのアデレード駅に到着すると、マッカーサーは集まった報道陣に向けて次のように宣言した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"text": "この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴の数少ない失態となり、後に「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」と言われた。また、「I shall return.」は当時のアメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われた。それまでも、安全なコレヒドールに籠って前線にも出てこないマッカーサーを揶揄し「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を付けられ、歌まで作られて兵士の間で流行していた。専用機にバターン号と名付けるなどバターン半島を特別な地としていたマッカーサーであったが、実際にコレヒドール要塞から出てバターン半島に来たのは1回しかなかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"text": "オーストラリアで南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任したマッカーサーは、オーストラリアにはフィリピン救援どころか、オーストラリア本国すら防衛できるか疑わしい程度の戦力しかないと知り愕然とした。その時のマッカーサーの様子を、懇意にしていたジャーナリストのクラーク・リーは「死んだように顔が青ざめ、膝はガクガクし、唇はピクピク痙攣していた。長い間黙ってから、哀れな声でつぶやいた。「神よあわれみたまえ」」と回想している。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"tag": "p",
"text": "フィリピン救援は絶望的であったが、マッカーサーはオーストラリアに脱出しても、全フィリピン防衛の指揮権を、残してきたウェインライトに渡すことはせず、6,400kmも離れたオーストラリアから現実離れした命令を送り続けた。それでも、いよいよバターンが日本軍に対して降伏しそうとの報告を受けたマッカーサーは、ウェインライトに「いかなる条件でも降伏するな、食糧・物資がなくなったら、敵軍を攻撃して食糧・物資奪取せよ。それで情勢は逆転できる。それができなければ残存部隊は山岳地帯に逃げ込みゲリラ戦を展開せよ。その時は私は作戦指揮のため、よろこんでフィリピンに戻るつもりである」という現実離れした命令を打電するとマーシャルに申し出たが、却下されている。アメリカ陸軍省はウェインライトを中将に昇格させ、脱出したマッカーサーに代わって全フィリピン軍の指揮を任せようとしたが、フィリピンは複雑なアメリカ陸軍の司令部機構により、南西太平洋方面連合軍最高司令官(Commander IN Chief, SouthWest Pacific Area 略称 CINCSWPA)に新たに任命されたマッカーサーの指揮下になったため、マッカーサーは結局、フィリピン全土が陥落するまで命令を送り続けた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"text": "日本軍第14軍は第4師団と香港の戦いで活躍した第1砲兵隊の増援を得ると総攻撃を開始し、4月9日にバターン半島守備部隊長エドワード・P・キング少将が降伏すると、マッカーサーは混乱し、怒り、困惑した。軍主力が潰えたウェインライトもなすすべなく、5月6日に降伏した。それを許さないマッカーサーは、残るミンダナオ島守備隊のシャープ准将に徹底抗戦を指示するが、シャープはウェインライトの全軍降伏のラジオ放送に従い降伏し、フィリピン守備隊全軍が降伏した。結局、フィリピンが日本軍の計画を超過して、5か月間も攻略に時間を要したのは、マッカーサーの作戦指揮が優れていたのではなく、大本営のアメリカ・フィリピン軍の戦力過少評価により第14軍主力の第48師団がバターン半島攻撃前に蘭印に引き抜かれたのが一番大きな要因となった。マッカーサーは戦後に自身の回顧録などでバターン半島を長期間持ち堪えた戦略的意義を強調していたが、日本軍の大本営は“袋のネズミ”となったバターン半島の攻略を急いで大きな損害を被る必要はないと判断していただけで、実際にバターン半島を早く攻略しなかったことによる戦略的な支障はほとんどなかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"text": "マッカーサーはこの降伏に激怒し、マッカーサー脱出後も苦しい戦いを続けてきたウェインライトらを許さなかった。ウェインライトについては、終戦後にヘンリー・スティムソン陸軍長官やマーシャルの執り成しもあり、降伏式典に同席させ、名誉勲章叙勲も認めたが、キングらについては終戦後もマッカーサーが赦さなかったため、昇進することもなく終戦直後に退役を余儀なくされている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 80,
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"text": "バターンで日本軍に降伏したアメリカ極東軍将兵は76,000名にもなり、『戦史上でアメリカ軍が被った最悪の敗北』と言われ、多くのアメリカ人のなかに長く苦痛の記憶として残ることとなった。勝利した日本軍であったが、バターン攻撃当初からバターンに籠ったアメリカ極東軍の兵士数を把握できておらず、予想外の捕虜に対し食糧も運搬手段も準備できていなかった。また、降伏した将兵はマッカーサーの「絶対に降伏するな」という死守命令により、飢餓と病気で消耗しきっていたが、司令官の本間はそういう事情を十分知らされていない中で、バターン半島最南部からマニラ北方のサンフェルナンドまで90kmを徒歩で移動するという捕虜輸送計画を承認した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 81,
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"text": "徒歩移動中に消耗しきった捕虜たちは、マラリア、疲労、飢餓と日本兵の暴行や処刑で7,000名〜10,000名が死ぬこととなり、後にアメリカで『Bataan Death March(バターン死の行進)』と称されて、日本への敵愾心を煽ることとなった。マッカーサーは、数か月後に輸送中に脱出した兵士より『バターン死の行進』を聞かされると「近代の戦争で、名誉ある軍職をこれほど汚した国はかつてない。正義というものをこれほど野蛮にふみにじった者に対して、適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務だと私は心得ている」という声明を発表するよう報道陣に命じたが、アメリカ本国の情報統制により、『バターン死の行進』をアメリカ国民が知ったのは、1944年1月27日にライフ誌の記事に掲載されてからであった。マッカーサーはこの情報統制に対し憤りを覚えたとしているが、この後、戦争が激化するにつれ、マッカーサー自らも情報統制するようになっていった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
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"paragraph_id": 82,
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"text": "マッカーサーに完勝した本間であったが、フィリピンから逃亡したことについて、全く意外とは感じておらず、取り逃がしたこと悔やんではいなかった。そしてマッカーサーをよき好敵手と感じ、部下に「マッカーサーは相当の軍人であり、政治的手腕もある男だ。彼と戦ったことは私の名誉であり、満足している」と高く評価していたが、当のマッカーサーはこの敗北を屈辱と感じ、その屈辱感を持ち続けており、本間はいずれこのことを思い知らされる時がくることとなる。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 83,
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"text": "オランダ領東インドに後退し、連合国軍艦隊と米英蘭豪(ABDA)艦隊を編成していたハートのアジア艦隊も1942年2月27日から3月1日のスラバヤ沖海戦・バタビア沖海戦で壊滅し、マッカーサーがオーストラリアに到着するまでにオランダ領東インドも日本軍に占領されていた。マッカーサーは敗戦について様々な理由づけをしたが、アメリカと連合国がフィリピンと西太平洋で惨敗したという事実は覆るものではなかった。しかし、アメリカ本国でのマッカーサーの評判は、アメリカ国民の愛国心の琴線に強く触れたこと、また、真珠湾以降のアメリカと連合国がこうむった多大の損害に向けられたアメリカ人の激怒とも結びつき、アメリカ史上もっとも痛烈な敗北を喫した敗将にも拘わらず、英雄として熱狂的に支持された。その様子を見たルーズベルトは驚きながらも、マッカーサーの宣伝価値が戦争遂行に大きく役に立つと認識し利用することとし、1942年4月1日に名誉勲章を授与している。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 84,
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"text": "1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する連合国軍南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。",
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"paragraph_id": 85,
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"text": "1943年3月のビスマルク海海戦(いわゆるダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。",
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"paragraph_id": 86,
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"text": "マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し、補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『リープフロッギング(蛙飛び)作戦』と呼んでいた。日本軍は空・海でのたび重なる敗戦に戦力を消耗し、制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑どおり、ニューギニアの戦いでは多くの餓死者・病死者を出すこととなった。この勝利は、フィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
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"paragraph_id": 87,
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"text": "やがて、戦局が連合軍側に有利になると、軍の指揮権が、マッカーサー率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊主力の連合国太平洋軍(英語版)(POA)の2つに分権されている太平洋戦域の指揮権を、かつての部下のアイゼンハワーが、連合国遠征軍最高司令部総司令官として全指揮権を掌握しているヨーロッパ戦線のようにするべきであると主張した。さらにマッカーサーは、自分がその指揮権を統括して、一本化した戦力によってニューブリテン島攻略を起点とした反攻計画「エルクトロン計画」を提案したが、栄誉を独占しようというマッカーサーを警戒していたアーネスト・キング海軍作戦部長が強硬に反対し、結局太平洋の連合軍の指揮権の一本化はならず、1943年5月にワシントンで開催された、ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルによる「トライデント会議」によって、太平洋は従来どおり連合国南西太平洋軍と連合国太平洋軍が2方面で対日反攻作戦を展開していくことが決定された。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
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"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "反攻ルートについては、バターンの戦い(英語版)の屈辱を早くはらしたいとして、フィリピンの奪還を急ぐマッカーサーが、ニューギニアからフィリピンという比較的大きい陸地を進攻することによって、陸上飛行基地が全作戦線を支援可能となることや、マッカーサーがこれまで行ってきたリープフロッギング(蛙飛び)作戦によって損害を減らすことができると主張していたのに対して、ニミッツは、従来からのアメリカ海軍の対日戦のドクトリンであるオレンジ計画に基づき、太平洋中央の海路による進撃を主張し、マッカーサーに対しては、陸路を進撃することは、海路での進撃と比較して、長い弱い交通線での進撃や補給となって、戦力の不経済な使用となることや、日本本土侵攻には遠回りとなるうえ、進撃路が容易に予知されるので日本軍に兵力の集中を許してしまうこと、また、進撃路となるニューギニアなどには感染症が蔓延しており、兵士を危険に晒すことになると反論した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "アメリカ統合参謀本部は、双方の主張を取り上げて、マッカーサーはビスマルク諸島とニューギニアを前進しミンダナオを攻略、一方でニミッツは、ギルバート諸島を攻略、次いで西方に転じて、クェゼリン、エニウェトク、グアム、サイパン、ペリリューへと前進し、両軍はルソン島か台湾で一本になると決められ、8月のケベック会談において作戦案をチャーチルも承諾した。連合軍の基本方針は、まずはナチス・ドイツを打ち破ることを優先し、それまでは太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、マッカーサーやキングが、日本軍の手強さと太平洋戦線の重要性をルーズベルトに説いて、ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、このような大規模な2方面作戦を行うことが可能となっていた。なおもマッカーサーは、中部太平洋には日本軍が要塞化している島がいくつもあって、アメリカ軍に多大な出血を強いることになるため、自分に戦力を集中すべきと食い下がったが、ニミッツは、ニューギニアを主戦線とすると空母部隊が日本軍の陸上基地からの攻撃の危険に晒されると反論した。このニミッツの反論には空母をマッカーサーの指揮下には絶対に置かないという強い意志もはたらいており容易に議論はまとまらなかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "キングは、マリアナ諸島が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る経済的な生命線の東翼を担う日本にとっての太平洋の鍵で、これを攻略できれば、その後さらに西方(日本方面)にある台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると考え、マリアナが戦争の戦略的な要になると評価しており、その攻略を急ぐべきだと考えていた。アメリカ陸軍でも、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍が、新鋭戦略爆撃機B-29による日本本土空襲の基地としてマリアナの確保を願っていた。既に中国本土から日本本土を空襲するマッターホルン作戦が検討されていたが、中国からではB-29の航続距離をもってしても九州を爆撃するのが精いっぱいであり、日本本土全てを出撃圏内に収めることができるマリアナはアーノルドにとって絶好の位置であった。また、中国内のB-29前進基地への補給には、補給量が限られる空路に頼らざるを得ないのと比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、この案が推奨された大きな理由のひとつとなった。そこでアーノルドは連合軍首脳が集まったケベック会議で、マリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 91,
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"text": "アーノルドらの動きを警戒したマッカーサーは、真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦となるマリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『曲芸』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"tag": "p",
"text": "キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた。キング自身の計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍を味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが、キングとアーノルドという陸海軍の有力者が、最終的な目的は異なるとは言え手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、ナチスドイツ打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなり、1943年12月のカイロ会談において、1944年10月のマリアナの攻略と、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて、マリアナからの日本本土空襲が決定された。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"text": "その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったので、1944年3月にアメリカ統合参謀本部はワシントンで太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催した。その会議では、マッカーサーの代理で会議に出席していたサザーランドには、統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、マリアナ侵攻のフォレージャー作戦(掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 94,
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"text": "アメリカ統合参謀本部の決定に激怒したマッカーサーであったが、ニューギニア作戦の集大成と、ニミッツによるフォレージャー作戦支援の航空基地確保のため、ニューギニア西部のビアク島攻略を決めた。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要な位置にあった。1944年5月27日に第6軍 司令官ウォルター・クルーガー中将率いる大部隊がビアク島に上陸しビアク島の戦いが始まった。しかし、海岸を見下ろす台地に構築された日本軍の洞窟陣地は、連合軍支援艦隊の艦砲射撃にも耐えて、逆に上陸部隊に集中砲火を浴びせて大損害を被らせた。その後、ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長葛目直幸大佐は、上陸部隊をさらに内陸に引き込んで、構築した陣地で迎え撃つこととした。第41歩兵師団(英語版)師団長ホレース・フラー(英語版)少将は日本軍の作戦を見抜いて、慎重に進撃することとしたが、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことでニミッツに対して恥をかくと考えたマッカーサーは、クルーガーを通じてフラーを急かした。その後もビアク島守備隊は満足な支援も受けられない中で、指揮官の葛目の巧みな作戦指揮もあって敢闘、マッカーサーの命令で、早期攻略のため日本軍陣地を正面攻撃していたアメリカ軍に痛撃を与えて長い期間足止めし、ついに6月14日、苦戦を続けるフラーに激怒したマッカーサーは、フラーを上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長から更迭した。しかし、師団長を挿げ替えても戦況が大きく好転することはなく、ビアク島の飛行場が稼働し始めたのは6月22日になり、サイパンの戦いにもマリアナ沖海戦にも間に合わなかった。ビアク島攻略後にマッカーサーはフラーの名誉を回復させるため功労勲章(英語版)を授与したが、ビアク島の戦いはマッカーサーにとっても、フラーにとっても敗戦に近いような後味の悪い戦いとなった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"text": "一旦はマッカーサーに、ミンダナオ島からルソン島へとフィリピンの奪還を認めていたアメリカ統合参謀本部であったが、ニミッツがマリアナを確保したことにより、アメリカ陸海軍の意見が再び割れ始めた。キングは、マリアナを確保したことによってフィリピンは遥かに低い軍事的優先順位となり、フィリピンは迂回して海と空から封鎖するだけで十分であると主張した。同じ陸軍でもアーノルドは、台湾にB-29の基地を置きたいとして海軍のキング側に立ったので、板挟みとなったマーシャルはマッカーサーに、「個人的感情とフィリピンの政情に対する考慮」が戦略的な判断に影響を及ぼさないようにと苦言を呈するほどであった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 96,
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"text": "フィリピン迂回の流れに危機感を覚えたマッカーサーは、マスコミを利用してアメリカ国民の愛国心に訴える策を講じた。アメリカの多くの新聞が長期政権を維持し4選すら狙っている民主党のルーズベルトに批判的で、共和党びいきとなっており、共和党寄りのマッカーサーを褒め称える論調を掲げる一方で、民主党のルーズベルトに対しては、一日も早く戦争に勝利するためもっとよい手を打つべきなどと批判的な報道をし、ルーズベルト人気に水をさしていた。マッカーサーは新聞等を通じ「1942年に撃破された我々の孤立無援な部隊の仇をうつことができる」「我々には果たせねばならない崇高な国民的義務がある」などと主張し、自分がフィリピンを解放しない場合にはアメリカ本国でルーズベルトに対し「極度の反感」を引き起こすに違いないと警告した。このようなマッカーサーの主張に対して陸軍参謀総長のマーシャルは「個人的感情とフィリピンに対する政治的考慮が、対日戦の早期終結という崇高な目的を押しつぶすことのないよう注意しなければならない」「フィリピンの一部あるいは全部を迂回することは、フィリピンを放棄することと同義ではなく、連合軍が早期に日本軍を撃破すればそれだけマニラの解放は早くなろう」とマッカーサーに手紙を書き送っている。1944年6月から開始されたニミッツによるマリアナ諸島の攻略戦は、サイパンの戦い、グアムの戦い、テニアンの戦いの激戦を経てアメリカ軍の勝利に終わったが、アメリカ軍の被った損害も大きかったため、マッカーサーや共和党支持の保守系の新聞は、フィリピン攻撃は最小限のアメリカ人の犠牲で同じ戦略的利点を獲得すると主張した。マッカーサーに心酔する『バターン・ギャング』で固められた幕僚たちも不平不満を並べ立てて、国務省や統合参謀本部やときにはルーズベルト大統領までを非難した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
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"text": "マッカーサーの思惑どおり、アメリカ軍内でフィリピン攻略について賛同するものも増えて、太平洋方面の前線指揮官らはマッカーサーに賛同していた。一方でキング、マーシャル、アーノルドはフィリピン迂回を譲らず、アメリカ軍内の意見も真っ二つに割れていた。ルーズベルトはこのような状況に業を煮やして、マッカーサーとニミッツに直接意見を聞いて方針を決めることとし、1944年7月26日に両名をハワイに召喚した。ニミッツは自分の上官であるキングの意見を代弁することとなったが、ニミッツ自身は考えがまとまっていなかったため、作戦説明は迫力を欠くものとなり、マッカーサーの独壇場となった。マッカーサーは何度も「道義的」や「徳義」や「恥辱」という言葉を使い、フィリピン奪還を軍事的問題としてより道義的な問題として捉えているということが鮮明となった。さらにマッカーサーはキングが主張するフィリピンを迂回して台湾を攻略するという作戦よりは、フィリピン攻略のほうが期間が短く、損害も少ないと主張した。ルーズベルトは「ダグラス、ルソン攻撃は我々に耐えられないくらい大きな犠牲を必要とするよ」と指摘したが、マッカーサーは強くそれを否定した。そのあとルーズベルトとマッカーサーは10分ほど二人きりとなったが、その時マッカーサーは1944年の大統領選を見据えて、「アメリカ国民の激しい怒りは貴方への反対票となって跳ね返ってくる」と脅している。ルーズベルトはマッカーサーが一方的に捲し立てた3時間もの弁舌に疲労困憊し、同行した医師にアスピリンを2錠処方してもらうと「私にあんなこと言う男は今までいなかった。マッカーサー以外にはな」と語っている。マッカーサーもルーズベルトの肉体的な衰えに驚いており、「彼の頭は上下に揺れ、口は幾分ひらいたままだった」と観察し、「次の任期まではもたない」と予想していたが、事実そのとおりとなった。翌日も引き続き会談は続けられ、会談終了後に海軍が準備した楽団、歌手、フラダンスによるショーにルーズベルトから誘われたマッカーサーではあったが、すぐに前線に戻らないといけないと断り、ハワイを発とうとしたときに、ルーズベルトから呼び止められ「ダグラス、君の勝ちだ。私の方はキングとやりあわなければらないな」とフィリピン攻略を了承した。かつての卓越した雄弁家も、肉体の衰えもあって完全に舞台負けした形となった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 98,
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"text": "ルーズベルトの方針決定により統合参謀本部はマッカーサーにフィリピン攻略作戦を承認した。海軍はフィリピンでマッカーサーを援護したあとは台湾を迂回し、その後沖縄を攻略すると決められた。マッカーサーはまずは日本軍の兵力の少ないレイテ島を攻略してその後のフィリピン全土解放の足掛かりとする計画であった。マッカーサーはレイテに20,000人の日本軍が配備されているとみていたが、その後に増援を送ってくると考えて、今までの太平洋戦域では最大規模の兵力となる174,000名の兵員と700隻の艦艇と多数の航空機を準備することとした。この頃には、ノルマンディー上陸作戦の成功でヨーロッパの戦局は最終段階に入ったものと見なされて、ルーズベルトやチャーチルといった連合国の指導者たちは太平洋の戦局に重大な関心を持つようになっており、膨大な戦力の準備が必要であったマッカーサーにとっては追い風となった。事前にレイテの航空基地はウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将率いる第38任務部隊の艦載機に散々叩かれており、1944年10月20日にアメリカ軍は大きな抵抗を受けることなくレイテ島に上陸した。マッカーサーも同日にセルヒオ・オスメニャとともにレイテに上陸したが、上陸用舟艇で海岸に近づいたマッカーサーは、待ちきれないように接岸する前に海に飛び降りて足を濡らしながらフィリピンへの帰還を果たした。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 99,
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"text": "この時撮影された、レイテ島に上陸するマッカーサーの著名な写真は、当時フィリピンでも宣伝に活用されたが、これは実際に最初に上陸した時のものではなく、翌日に再現した状況を撮影したものである。 マッカーサーが上陸した地点では桟橋が破壊されており海中を歩いて上陸するしかなかったが、この時撮影された写真を見たマッカーサーは、海から歩いて上陸するという劇的な情景の視覚効果に着目し、再び上陸シーンを撮影させた。アメリカ国立公文書館には、この時に船上から撮影された映像が残されており、その中でマッカーサーは一度上陸するものの自らNGを出し、戻ってサングラスをかけ直した後、再度撮影を行う様子が記録されている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
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"paragraph_id": 100,
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"text": "マッカーサーは日本軍の狙撃兵が潜む中で戦場を見て回り、狙撃されたこともあったが、弾を避けるために伏せることもしなかったという。10月23日には旗艦としていた軽巡ナッシュビルの通信設備を使って、演説をフィリピン国民に向けて放送した。その演説の出だしは「フィリピン国民諸君、私は帰ってきた」であったが、興奮のあまり手が震え声が上ずったため、一息入れた後に演説を再開した。日本の軍政の失敗による貧困や飢餓に苦しめられていた多くのフィリピン国民は、熱狂的にマッカーサーの帰還を歓迎した。マッカーサーはその夜には司令部をナッシュビルから、レイテ島で大規模なプランテーションを経営していたアメリカ人事業家の豪邸に移したが、この豪邸は日本軍が司令官用のクラブとして使用していたため、敷地内に電気や換気扇や家具まで完備した塹壕が作られていた。前線司令部としては相応しい設備であったが、マッカーサーは前回フィリピンで戦った際に部下将兵から名付けられた「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を知っており、また揶揄されることを嫌い「埋めて平らにしてしまうのだ」と命じている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "その後のレイテ島の戦いでは、日本軍は台湾沖航空戦の過大戦果の虚報に騙され、大本営の横やりで現地の司令官山下奉文の反対を押し切り、レイテを決戦場としてアメリカ軍に決戦を挑むこととし、捷一号作戦を発動した。連合艦隊の主力がアメリカ輸送艦隊を撃滅、次いで陸軍はルソン島より順次増援をレイテに派遣し、上陸軍を撃滅しようという作戦だった。対するアメリカ軍は、海軍の指揮系統が分割され、主力の機動部隊第38任務部隊を擁する第3艦隊はニミッツの指揮下、主に真珠湾攻撃で損傷して修理された戦艦や巡洋艦が配備された第7艦隊がマッカーサーの指揮下となっており、この両艦隊は同じアメリカ海軍でありながら連携を欠いていた。レイテ湾に向けて進撃してくる日本軍艦隊に対して、第3艦隊司令官のハルゼーはあてにできないので、第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイドは、単独で日本軍艦隊を迎え撃つべく、マッカーサーが旗艦として使用しているナッシュビルを艦隊に合流させてほしいと要請した。マッカーサーは応諾したが「私はこれまで大きな海戦に参加したことがないので、それを見るのを楽しみにしているのだ」と自分がナッシュビルに乗艦したまま日本軍との海戦を観戦するという条件をつけた。しかしキンケイドやマッカーサーの幕僚の猛反対もあって観戦は断念し、ナッシュビルはマッカーサーを下したのちジェシー・B・オルデンドルフ少将の指揮下で西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(通称:西村艦隊)をスリガオ海峡で迎え撃つこととなった。激しいスリガオ海峡海戦のすえ、西村艦隊は壊滅したが、次は主力の第一遊撃部隊(通称:栗田艦隊)が、激しい第38任務部隊による航空攻撃を受けつつもレイテ湾に接近してきた。その頃ハルゼーは小沢治三郎中将の囮作戦にひっかかり、小沢の空母艦隊を日本海軍の主力と誤認し、その引導を渡すべく追撃していたが、連携のまずさから第7艦隊のキンケイドはそのことを知らず、栗田艦隊は妨害を受けることなく無防備のサンベルナルジノ海峡を通過した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
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"paragraph_id": 102,
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"text": "マッカーサーはこの時ナッシュビルに幕僚らと乗艦していたが、栗田艦隊の接近を知るとマッカーサー司令部には絶望感が蔓延し、先任海軍参謀のレイ.ターバック大佐は「我々は弾丸も撃ち尽くしたも同然な状態にあり、魚雷もつかってしまい、燃料の残りは少なく、状況は絶望的である」と当日の日記に記している。マッカーサーはニミッツにハルゼーの引き返しを要請する電文を3回も打ち、ニミッツはマッカーサーの要請に応えてハルゼーに「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。全世界は知らんと欲す)」という電文を打ったがハルゼーには届かず、最後にはニミッツがマッカーサーにハルゼーに直接連絡してほしいとお願いする始末であった。ここでも指揮権の不統一が大きな災いをまねくところであったが、栗田艦隊はその後サマール島沖でクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(コードネーム\"タフィ3\")と戦うと、レイテ湾を目の前にして引き返してしまったため、マッカーサーの危機は去った。その夜マッカーサーは幕僚と夕食を共にしたが、幕僚は自分らを危機に陥れたハルゼーに対する非難を始め、「大馬鹿野郎」や「あのろくでなしハルゼー」など罵ったが、それを聞いていたマッカーサーは激怒し握った拳でテーブルを叩くと大声で「ブル(ハルゼーのあだ名)にはもう構うな。彼は私の中では未だに勇気ある提督なのだ」と擁護している。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 103,
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"text": "マッカーサーの苦境はなおも続いた。日本陸軍の富永恭次中将率いる第4航空軍が連合艦隊の突入に呼応して、日本陸軍としては太平洋戦争最大規模の積極的な航空作戦を行った。アメリカ軍はレイテ島上陸直後に占領したタクロバン飛行場に第5空軍を進出させて、強力な航空支援体制を確立しようとしていたが、そこに富永は攻撃を集中した。 マッカーサーがわざわざ地下壕を埋めさせた司令部兼住居はそのタクロバン飛行場近隣にあり、建物はタクロバン市街では大変目立つものであったため、第4航空軍の攻撃機がしばしば攻撃目標としたが、マッカーサーは敢えて避難することはしなかった。日本軍の爆弾がマッカーサー寝室の隣の部屋に命中したこともあったが、幸運にも不発弾であった。また低空飛行する日本軍機に向けて発射した76mm高射砲の砲弾1発が、マッカーサーの寝室の壁をぶち抜いたあとソファの上に落ちてきたが、それも不発弾であった。また、軽爆撃機がマッカーサーが在室していた部屋に機銃掃射を加えてきて、うち2発がマッカーサーの頭上45cmにあった梁に命中したこともあった。マッカーサーが司令部幕僚を招集して作戦会議を開催した際にも、しばしば日本軍の爆弾が庭で爆発したり、急降下爆撃機が真っすぐ向かってくることもあって、副官のコートニー・ホイットニー少将らマッカーサーの幕僚は床に伏せたい気分にかられたが、マッカーサーが微動だにしなかったので、やむなくマッカーサーに忖度してやせ我慢を強いられている。富永はマッカーサーら連合軍司令部を一挙に爆砕する好機に恵まれて、実際に司令部至近の建物ではアメリカ軍従軍記者2名と、フィリピン人の使用人12名が爆撃で死亡し、司令部の建物も爆弾や機銃掃射で穴だらけになるなど、あと一歩のところまで迫っていたが、結局その好機を活かすことはできなかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "このように、第4航空軍の奮闘もあって、少なくとも11月上旬までは、日本軍がレイテ島上の制空権を確保していた。アメリカ陸軍の公刊戦史においても、10月27日の夕刻から払暁までの間に11回も日本軍機による攻撃があって、タクロバンは撃破されて炎上するアメリカ軍機によって赤々と輝いていたと記述され、第4航空軍の航空作戦を、太平洋における連合軍の反攻開始以来、こんなに多く、しかも長期間にわたり、夜間攻撃ばかりでなく昼間空襲にアメリカ軍がさらされたのはこの時が初めてであった。と評している。また、富永は上空支援が不十分であったアメリカ軍の上陸拠点へも攻撃し、11月の第1週には、揚陸したばかりの約4,000トンの燃料・弾薬を爆砕し、上陸したアメリカ軍の補給線を脅かした。第4航空軍の空からの猛攻に苦戦を続ける状況を憂慮したトーマス・C・キンケイド中将は、「敵航空兵力は驚くほど早く立ち直っており、上陸拠点に対する航空攻撃は事実上歯止めがきかず、陸軍の命運を握る補給線を締め上げる危険がある。アメリカ陸軍航空隊の強力な影響力を確立するのが遅れれば、レイテ作戦全体が危機に瀕する」と考えて、この後に予定されていたルソン島上陸作戦については、「戦史上めったに類を見ない大惨事を招きかねません」と作戦の中止をマッカーサーに求めたが、マッカーサーがその進言を聞き入れることはなかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの副官の1人であるチャールズ・ウィロビー准将は、戦後にこのときの苦境を振り返って、タクロバン飛行場に日本軍機の執拗な攻撃が続き、1度の攻撃で「P-38」が27機も地上で撃破され、毎夜のように弾薬集積所や燃料タンクが爆発し、飛行場以外でもマッカーサーの司令部兼居宅やウォルター・クルーガー中将の司令部も爆撃されたと著書に記述しており、第4航空軍による航空攻撃と、連合艦隊によるレイテ湾突入作戦は、構想において素晴らしく、規模において雄大なものであったと称賛し、マッカーサー軍が最大の危機に瀕したと回想している。マッカーサーも「切羽詰まった日本軍は、虎の子の大艦隊を繰り出して、レイテの侵入を撃退し、フィリピン防衛態勢を守り抜こうという一大博打に乗り出してきた。アメリカ軍部隊をレイテの海岸から追い落とそうという日本軍の決意は、実際に成功の一歩手前までいった」「豊田提督が立てた計画は、みごとな着想に基づいたすばらしく大きい規模のものだった」「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と自らの最大の危機を振り返っている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 106,
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"text": "その後、日本軍は多号作戦により、レイテ島に第26師団や第1師団などの増援を送り込み、連合軍に決戦を挑んだ。マッカーサーは当初の分析よりも遥かに多い日本軍の戦力に苦戦を強いられることとなり、ルソン島への上陸計画を延期して予備兵力をレイテに投入せざるを得なくなったが、レイテ沖海戦で連合艦隊が惨敗、第4航空軍も積極的な航空作戦による消耗に戦力補充が追い付かず、戦力が増強される一方の連合軍に対抗できなくなると、制空権を奪われた日本軍は多号作戦の輸送艦が次々と撃沈され、レイテ島は孤立していった。そして、マッカーサーはレイテ島を一気に攻略すべく、多号作戦の日本軍の揚陸港になっていたオルモック湾への上陸作戦を命じた。オルモック湾内のデポジト付近の海岸に上陸したアメリカ陸軍第77歩兵師団はオルモック市街に向けて前進を開始した。背後に上陸され虚を突かれた形となった日本軍であったが、体勢を立て直すと激しく抵抗し、第77歩兵師団は上陸後の25日間で死傷者2,226名を出すなど苦戦を強いられたが、この上陸作戦でレイテ島の戦いの大勢は決した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 107,
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"text": "レイテを攻略したマッカーサーは、念願のルソン島奪還作戦を開始した。旗艦の軽巡洋艦ボイシに座乗したマッカーサーは、1945年1月4日に800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、1941年に本間中将が上陸してきたリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが特別攻撃隊の特攻機や特殊潜航艇であった。マッカーサーの旗艦であったナッシュビルもルソン島攻略に先立つミンドロ島の戦いで特攻機の攻撃を受け、323名の大量の死傷者を出して大破していたが、その時、マッカーサーは乗艦しておらず、ミンドロ島攻略部隊を率いていたアーサー・D・ストラブル少将の幕僚らが多数死傷している。特にマッカーサーに衝撃を与えたのは、戦艦ニューメキシコに特攻機が命中して、ルソン島上陸作戦を観戦するためニューメキシコに乗艦していたイギリス軍ハーバード・ラムズデン(英語版)中将が戦死したことであり、ラムズデンとマッカーサーは40年来の知人で、その死を悼んだ。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
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"paragraph_id": 108,
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"text": "特攻機の攻撃は激しさを増して、護衛空母オマニー・ベイ を撃沈、ほか多数の艦船を撃沈破しマッカーサーを不安に陥れたが、特攻機の攻撃が戦闘艦艇に集中しているのを見ると、側近軍医ロジャー・O・エグバーグに「奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても、あるいは何発もの攻撃を受けても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と述べている。マッカーサーの旗艦ボイシも特攻機と特殊潜航艇に再三攻撃されており、マッカーサーはその様子を興味深く見ていたが、しばらくすると戦闘中であるにもかかわらず昼寝のために船室に籠ってしまった。爆発音などの喧騒の中で熟睡しているマッカーサーの脈をとったエグバーグは、脈が全く平常であったことに驚いている。やがて眼が覚めたマッカーサーは、エグバーグからの戦闘中にどうして眠れるのか?という質問に対して「私は数時間戦闘のようすを見ていた。そして現場の状況が分かったのだ。私がすべきことは何もなかったからちょっと眠ろうと思ったのだ」と答えている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 109,
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"text": "ルソン島に上陸したアメリカ軍に対して、レイテで戦力を消耗した日本軍は海岸線での決戦を避け、山岳地帯での遅滞戦術をとることとした。司令官の山下は首都マニラを戦闘に巻き込まないために防衛を諦め、守備隊にも撤退命令を出したが、陸海軍の作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊を中心とする日本軍14,000名がマニラに立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサーは、戦闘開始直後の2月5日にアメリカ軍のマニラ入城を宣言し、「敵の壊滅は間近である」とも言い放った。しかし、これはマッカーサーのパフォーマンスに過ぎす、海軍守備隊司令官岩淵三次少将率いる日本軍守備隊は、マニラ都心のイントラムロスの城塞を要塞化して激しく抵抗していた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍はマニラを完全に包囲しており、退路を断たれた日本軍は激しく抵抗した。マッカーサーは山下によるマニラの無防備都市宣言を期待して、マニラで戦勝パレードを行うつもりであり、重砲の砲撃の制限的な運用に加えて、空爆については「友好国及び連合国市民がいる市街に対する空襲は論外である。この種の爆撃の不正確さは、非戦闘市民数千人の死を招くことに疑念の余地はない」と許可しなかった。しかし、このマッカーサーが言う“非戦闘市民”のなかには、マニラに残されていた数千人の日本人住民は含まれていなかった。マッカーサーは当然にマニラに多数の日本人住民がいることを知ってはいたが、ルソン島上陸直後に「死んだジャップだけが良いジャップだ」と言明したように日本人住民の安全について全く考慮することはなかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "しかし、要塞化されたイントラムロスを攻めあぐねた司令官のオスカー・グリズワルド中将はマッカーサーに空爆と重砲砲撃の解禁を要請した。目論見が外れたマッカーサーは、空爆は許可しなかったものの重砲による砲撃は許可したので、今まで太平洋戦線で行われた最大規模の重砲による砲撃がマニラ市街全域に浴びせられ、その様子はマニラ市街にピナトゥボ山が現れて大噴火をおこしたようなものだったという。アメリカ軍の砲撃は驚くほど正確に一定の距離間隔を置いて、あたかも市街に絨毯を敷くように撃ち込まれてきたので、フィリピン人はおろか、マニラの高級住宅街に居住していたスペイン人、ドイツ人、ユダヤ人といった白人たちも砲雨にさらされながら、喚き、泣け叫び、右往左往しながら砲弾に斃れていった。マッカーサーの眼中になかった日本人住民はさらに悲惨な目にあっており、マニラで犠牲となった日本人住民の人数すら判明しておらず、安全地帯とされ7,000人もの避難民が逃げ込んでいたフィリピン総合病院(英語版)ですら、日本人の生還者はフィリピン人看護婦フェ・ロンキーヨに看護されていたマニラの貿易商大沢清のただ一人であった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "マニラでは激しい砲撃と市街戦の末、住宅地の80%、工場の75%、商業施設はほぼ全てが破壊された。日本アメリカ両軍に多数の死傷者が生じたが、もっとも被害を被ったのはマニラ市民となった。追い詰められた日本兵は虐殺や強姦などの残虐行為に及び、フィリピン人の他に同盟国であったドイツ人や中立国のスペイン人などの白人も日本兵の残虐行為の対象となった。特にフィリピン人については、アメリカ軍が支援したユサッフェ・ゲリラとフクバラハップ・ゲリラがマニラ市街で武力蜂起し、既に日本軍に対する攻撃や日本人市民の殺戮を開始しており、日本軍の攻撃対象となっていた。武装ゲリラの跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民の区別がつかず、「女子供もゲリラになっている。戦場にいる者は日本人を除いて全員処刑される」と命令が前線部隊から出されるなど、老若男女構わず殺害した。そして戦況が逼迫し日本軍守備隊の組織が崩壊すると日本兵の残虐さもエスカレートして、略奪、放火、強姦、拷問、虐殺などが横行することとなった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーは自分の目論見が外れ、マニラで起こしてしまった悲劇からは徹底的に目をそらし続けた。マニラ市内になかなか入ろうとせず、日本軍による虐殺や自らの砲撃によるフィリピン人らの惨状をマスコミに公表しようともしなかった。マッカーサーは、戦闘も峠を越した2月23日になってようやく瓦礫の山と化したマニラ市内に装甲列車で乗り付けた。そして戦前に居宅としていたマニラ・ホテルを訪れたが、かつての優雅な建物は火災で全焼しており、日本軍指揮官の野口勝三陸軍大佐(野口支隊長)の遺体が玄関前に転がっていた。階段を上って自分の居室にも入ったが、マッカーサーの私物は何も残っておらず、マニラを脱出するときに持ち出すことができなかった、明治天皇から父アーサーに贈られた花瓶も粉々になっていた。マッカーサーはこのときを「私はめちゃめちゃになった愛する我が家の悲痛を最後の酸っぱいひとかけらまで味わいつくしていた」と感傷的に振り返っている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "マニラにおけるフィリピン人の犠牲は10万人以上にも達した。特に多くの犠牲者を出すこととなった日本軍のゲリラ討伐を、マッカーサーは「強力で無慈悲な戦力が野蛮な手段に訴えた」「軍人は敵味方問わず、弱き者、無武装の者を守る義務を持っている......(日本軍が犯した)犯罪は軍人の職業を汚し、文明の汚点となり」と激しく非難したが、その無武装で弱き者を武装させたのはマッカーサーであり、戦後にこの罪を問われて戦犯となった山下の裁判では、山下の弁護側から、マッカーサーの父アーサーがフィリピンのアメリカ軍の司令官であった時にフィリピンの独立運動をアメリカが弾圧した時の例を出され「血なまぐさい『フィリピンの反乱』の期間、フィリピンを鎮圧するために、アメリカ人が考案し用いられた方法を、日本軍は模倣したようなものである」「アメリカ軍の討伐隊の指揮官スミス准将は「小銃を持てる者は全て殺せ」という命令を出した」と指摘され、マッカーサーは激怒している。一方で、犠牲者の40%以上を占めたアメリカ軍の砲撃について批判することはタブーとされて、フィリピン人はその犠牲を受忍せざるを得なかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 115,
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"text": "日本軍はその後も圧倒的な火力のアメリカ軍と、数十万人にも膨れ上がったフィリピン・ゲリラに圧倒されながら絶望的な戦いを続け、ここでも大量の餓死者・病死者を出し、ルソン島山中に孤立することとなった。ニューギニアの戦いに続き、マッカーサーは決定的な勝利を掴み、その名声や威光はさらに高まった。しかし、フィリピン奪還をルーズベルトに直訴した際に、大きな損害を懸念したルーズベルトに対しマッカーサーは「大統領閣下、私の出す損害はこれまで以上に大きなものとはなりません......よい指揮官は大きな損失を出しません」と豪語していたが、アメリカ軍の第二次世界大戦の戦いの中では最大級の人的損害となる、戦闘での死傷79,104名、戦病や戦闘外での負傷93,422名 という大きな損失を被った上に、何よりもマッカーサーが軍の一部と認定し多大な武器や物資を援助し、「フィリピン戦において我々はほとんどあらゆるフィリピンの市町村で強力な歴戦の兵力の支援を受けており、この兵力は我が戦線が前進するにつれて敵の後方に大打撃を加える態勢にあり、同時に軍事目標に近接して無数の大きい地点を確保して我が空挺部隊が降下した場合には、ただちに保護と援助を与えてくれる」「私はこれら戦史にもまれな、偉大な輝かしい成果を生んだ素晴らしい精神力を、ここに公に認めて感謝の意を表する」「北ルソンのゲリラ隊は優に第一線の1個師団の価値があった」などとアメリカ軍と共に戦い、その功績を大きく評価していたフィリピン・ゲリラや、ゲリラを支援していたフィリピン国民の損失は甚大であった。しかし、「アメリカ軍17個師団で日本軍23個師団を打ち破り、日本軍の人的損失と比較すると我が方の損害は少なかった」と回顧録で自賛するマッカーサーには、フィリピン人民の被った損失は頭になかった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "6月28日にマッカーサーはルソン島での戦闘の終結宣言を行ない、「アメリカ史上もっとも激しく血なまぐさい戦いの一つ......約103,475kmの面積と800万人の人口を擁するルソン島全域はついに解放された」と振り返ったが、結局はその後も日本軍の残存部隊はルソン島の山岳地帯で抵抗を続け、アメリカ陸軍第6軍(英語版)の3個師団は終戦までルソン島に足止めされることとなった。",
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"paragraph_id": 117,
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"text": "フィリピン戦中の12月に、マッカーサーは元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "もう一人の太平洋戦域における軍司令となった太平洋方面軍司令官ニミッツが硫黄島の戦いの激戦を制し、沖縄に向かっていた頃、次の日本本土進攻作戦の総司令官を誰にするかで悶着が起きていた。重病により死の淵にあったルーズベルトの命令で、陸海軍で調整を続けていたが決着を見ず、結局マッカーサーの西太平洋方面軍とニミッツの太平洋方面軍を統合し、全陸軍をマッカーサー、全海軍をニミッツ、戦略爆撃軍をカーチス・ルメイがそれぞれ指揮し、三者間で緊密に連携を取るという玉虫色の結論でいったんは同意を見た。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "しかし、マッカーサーとそのシンパはこの決定に納得しておらず、硫黄島の戦いでニミッツが大損害を被ったことをアメリカ陸軍のロビイストが必要以上に煽り、マッカーサーの権限拡大への世論誘導に利用しようとした。マッカーサーがフィリピンで失った兵員数は、硫黄島での損害を遥かに上回っていたのにもかかわらず、あたかもマッカーサーが有能なように喧伝されて、ニミッツの指揮能力に対しての批判が激化していた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの熱狂的な信奉者でもあるウィリアム・ランドルフ・ハーストは、自分が経営するハースト・コーポレーション社系列のサンフランシスコ・エグザミナー紙で「マッカーサー将軍の作戦では、このような事はなかった」などと事実と反する記事を載せ、その記事で「マッカーサー将軍は、アメリカ最高の戦略家で最も成功した戦略家である」「太平洋戦争でマッカーサー将軍のような戦略家を持ったことは、アメリカにとって幸運であった」「しかしなぜ、マッカーサー将軍をもっと重用しないのか。そして、なぜアメリカ軍は尊い命を必要以上に失うことなく、多くの戦いに勝つことができる軍事的天才を、最高度に利用しないのか」と褒めちぎった。なお、マッカーサー自身は硫黄島と沖縄の戦略的な重要性を全く理解しておらず「これらの島は敵を敗北させるために必要ない」「これらの島はどれも、島自体には我々の主要な前進基地になれるような利点はない」と述べている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "この記事に対して多くの海兵隊員は激怒し、休暇でアメリカ国内にいた海兵隊員100人余りがサンフランシスコ・エグザミナー紙の編集部に乱入して、編集長に記事の撤回と謝罪文の掲載を要求した。編集長は社主ハーストの命令によって仕方なくこのような記事を載せたと白状し、海兵隊員はハーストへ謝罪を要求しようとしたが、そこに通報で警察と海兵隊の警邏隊が駆けつけて、一同は解散させられた。しかし、この乱入によって海兵隊員たちが何らかの罪に問われることはなかった。その後、サンフランシスコ・クロニクル紙がマッカーサーとニミッツの作戦を比較する論調に対する批判の記事を掲載し、「アメリカ海兵隊、あるいは世界各地の戦場で戦っているどの軍でも、アメリカ本国で批判の的にたたされようとしているとき、本紙はだまっていられない」という立場を表明して、アメリカ海軍や海兵隊を擁護した。ちなみにサンフランシスコ・クロニクル紙の社主タッカーの一人息子であった二ヨン・R・タッカーは海兵中尉として硫黄島の戦いで戦死している。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、さらにマッカーサーは激しく自分の権限強化を主張した。ジェームズ・フォレスタル海軍長官によれば、マッカーサー側より日本本土進攻に際しては海軍は海上援護任務に限定し、マッカーサーに空陸全戦力の指揮権を与えるように要求してきたのに対し、当然、海軍と戦略爆撃軍は激しく抵抗した。マッカーサーは海軍の頑なな態度を見て「海軍が狙っているのは、戦争が終わったら陸軍に国内の防備をさせて、海軍が海外の良いところを独り占めする気だ」「海軍は陸軍の手を借りずに日本に勝とうとしている」などと疑っていた。結局マッカーサーの強い申し出にもニミッツは屈せず、マッカーサーはこの要求を取り下げた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
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{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーとニミッツによる指揮権における主導権争いと並行して、日本本土進攻作戦の詳細な作戦計画の作成が進められ、作戦名はダウンフォール作戦という暗号名が付けられた。ダウンフォール作戦は南部九州攻略作戦である「オリンピック作戦」と関東地方攻略作戦である「コロネット作戦」で構成されていたが、急逝したルーズベルトに代わって大統領に昇格したハリー・S・トルーマンは、沖縄戦におけるアメリカ軍のあまりの人的損失に危機感を抱いて、「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」と考えるようになっており、マッカーサーらはトルーマンの懸念を緩和するべく、アメリカ軍の損失予測を過小に報告することとした。日本軍が南九州に歩兵師団3個師団、北部九州に歩兵師団3個師団、戦車2個連隊の合計30万人の兵力を配置しているという情報を得ていたマッカーサーは、連合軍投入予定の兵力が14個師団68万人であることから、連合軍兵力が圧倒しているという前提でも90日間で10万人以上の死傷者が出ると予測していたが、これをルソン島の戦いを参考にしたとして、30日間で31,000人の死傷者に留まると下方修正し、「私はこの作戦は、他に提言されているどんな作戦より、過剰な損耗を避け危険がより少ないものであること......また私はこの作戦は、可能なもののうちもっともその努力と生命において経済的であると考えている......私の意見では、オリンピック作戦を変更すべきであるとの考えが、いささかでも持たれるべきではない」と報告している。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
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"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "6月18日にトルーマンがホワイトハウスに陸海軍首脳を招集して戦略会議が開催され、オリンピック作戦について議論が交わされたが、その席でもアメリカ軍の死傷者推計が話し合われた。マッカーサーはこの会議に参加してはいなかったが、マッカーサーの過小な損害推計に対して、特に太平洋正面の数々の激戦で、アメリカ海軍や海兵隊は多大な損失を被っていたので、合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥はマッカーサーによる過小推計を一蹴し、沖縄戦での投入兵力に対する死傷率39%を基に、オリンピック作戦での投入兵力約68万 - 76万人の35%の約25万人が死傷するという推計を行った。トルーマンもこの25万人という推計が現実的と判断したが、マンハッタン計画による原子爆弾の完成がまだ見通しの立たない中で、マッカーサーらの思惑どおりオリンピック作戦を承認した。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの下には従来の太平洋のアメリカ陸軍戦力の他に、ドイツを打ち破ったヨーロッパ戦線の精鋭30個師団が向かっていた。オリンピック作戦ではマッカーサーは764,000名ものアメリカ軍上陸部隊を指揮することとなっていたが、ドイツが降伏し、敵がいなくなったヨーロッパ戦線の指揮官らはこぞってマッカーサーにラブコールを送り、太平洋戦線への配属を希望した。なかでもボーナスアーミー事件のときに、マッカーサーの命令で戦車で退役軍人を追い散らした第3軍司令官ジョージ・パットン大将などは「師団長に降格してもいいから作戦に参戦させてくれ」と申し出ている。しかし、彼らの上司であるアイゼンハワーと違い部下の活躍を好まなかったマッカーサーは、ヨーロッパ戦線の指揮官たちは階級が高くなりすぎているとパットンらの申し出を断り、第1軍司令官コートニー・ホッジス大将らごく一部を自分の指揮下に置くこととした。ただし、部下を信頼して作戦を各軍団指揮官に一任していたアイゼンハワーと異なり、自分を軍事の天才と自負していたマッカーサーは作戦の細かいところまで介入していたため、ヨーロッパ戦線では軍団指揮官であった将軍らに「1個の部隊指揮官」として来てほしいと告げていた。アイゼンハワーとウエストポイント士官学校の同期生で親友の第12軍集団(英語版)司令官オマール・ブラッドレー大将も太平洋戦線での従軍を希望していたが、マッカーサーの「1個の部隊指揮官」条件発言を聞いたアイゼンハワーが激怒し、ブラッドレーは太平洋戦線行きを諦めざるを得なかった。一方でマッカーサーも、アイゼンハワーへの対抗意識からか、太平洋戦線の自分の部下の指揮官たちがヨーロッパ戦線のアイゼンハワーの部下の指揮官よりは優秀であると匂わせる発言をしたり、「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった」「北アフリカに送られた戦力を自分に与えられていたら3か月でフィリピンを奪還できた」などと現実を無視した批判を行うなど評価が辛辣で、うまくやっていけるかは疑問符がついていた。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "その後に、オリンピック作戦の準備が進んでいくと、九州に配置されている日本軍の兵力が、アメリカ軍の当初の分析よりも強大であったことが判明し、損害推定の基となった情報の倍近くの50万名の兵力は配置され、さらに増強も進んでおり、11月までには連合軍に匹敵する68万名に達するものと分析された。太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率は、ヨーロッパ戦域を大きく上回っていたこともあって、オリンピック作戦での上陸戦闘を担う予定であった第6軍は、九州の攻略だけで394,859名の戦死者もしくは復帰不可能な重篤な戦傷者が発生するものと推定し、参謀総長のマーシャルはこの推定を危惧してマッカーサーに上陸地点の再検討を求めたほどであった。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "トルーマンがポツダム会談に向かう前に、アメリカ統合参謀本部によって、ダウンフォール作戦全体の現実的な損害の再見積が行われたが、そのなかで、戦争協力を行っていた物理学者ウィリアム・ショックレー(のちにノーベル物理学賞受賞)にも意見を求めたところ、「我々に170万人から400万人の死傷者が出る可能性があり、そのうち40万人から80万人が死亡するでしょう」と回答があっている。マッカーサーもトルーマンへ損害の過小推計を報告した時とは違って、ダウンフォール作戦の成り行きに関しては全く幻想を抱かないようになっており、ヘンリー・スティムソン陸軍長官に対し「アメリカ軍だけでも100万人の死傷者は覚悟しなければいけない」と述べている。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "しかし、広島市への原子爆弾投下直前までマッカーサーやニミッツら現場責任者にも詳細を知らされていなかったマンハッタン計画による日本への原子爆弾投下とソ連対日参戦で日本はポツダム宣言を受諾し、「オリンピック作戦」が開始されることはなかった。戦後、マッカーサーは原爆の投下は必要なかったと公言しており、1947年に広島で開催された慰霊祭では「ついには人類を絶滅し、現代社会の物質的構造物を破壊するような手段が手近に与えられるまで発達するだろうという警告である」と原爆に批判的な談話を述べていた。しかし、1950年10月にアメリカで出版された『マッカーサー=行動の人』という書籍の取材に対して、マッカーサーは「自分は統合参謀本部に対し、広島と長崎はどちらもキリスト教活動の中心だから投下に反対だと言い、代わりに瀬戸内海に落として津波による被害を与えるか、京都に落とすべきと提案した」と話したと記述されている。後日、マッカーサーはGHQのスポークスマンを通じ、そのような発言はしていないと否定しているが、のちの朝鮮戦争では原爆の積極的な使用を主張している。マッカーサーが日本への原爆投下に当時実際に反対したという実質的な証拠は何ら存在しないとされる。",
"title": "経歴(太平洋戦争)"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "1945年8月14日に日本は連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を通告した。急逝したルーズベルトの後を継いだハリー・S・トルーマン大統領は、一度も会ったことがないにもかかわらずマッカーサーのことを毛嫌いしており、日本の降伏に立ち会わせたのちに本国に召還して、名誉ある退役をしてもらい、別の誰かに日本占領を任せようとも考えたが、アメリカ国民からの圧倒的人気や、連邦議会にも多くのマッカーサー崇拝者がいたこともあり、全く気が進まなかったが以下の命令を行った。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーは、海軍のニミッツがその任に就くと半分諦めていたので、太平洋戦争中にずっと東京への先陣争いをしてきたニミッツに最後に勝利したと、この任命を大いに喜んだ。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの日本への進駐に対しては、8月19日に河辺虎四郎参謀次長を全権とする使節団が、マッカーサーの命令でマニラまで緑十字飛行し入念な打ち合わせが行われた。日本側は10日もらわないと連合軍の進駐を受け入れる準備は整わないと訴えたが、応対したマッカーサーの副官サザーランドからは、5日の猶予しか認められず、8月26日先遣隊進駐、8月28日にマッカーサーが神奈川県の厚木海軍飛行場に進駐すると告げられた。マッカーサー本人は最後まで使節団と会うことはなかったが、これは自分が天皇の権威を引き継ぐ人間になると考えており、自らそのようにふるまえば、日本人がマッカーサーに対して天皇に接するような態度をとるだろうと考えていたからであった。進駐受入委員会の代表者は有末精三中将に決定したが、肝心の厚木には海軍航空隊第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が徹底抗戦を宣言して陣取っており、マッカーサーの搭乗機に体当たりをすると広言していた(厚木航空隊事件)。8月19日に小園がマラリアで高熱が出て病床に伏したのを見計らって、8月22日に高松宮宣仁親王が厚木まで出向いて、残る航空隊の士官、将兵らを説得してようやく厚木飛行場は解放された。しかし、解放された厚木飛行場に有末ら受入委員会が乗り込むと、施設は破壊され、滑走路上には燃え残っている航空機が散乱しているという惨状であった。すでに軍の組織は崩壊しており、厚木飛行場の将兵や近隣住民の中でも降伏に不満を抱いている者も多く、有末の命令をまともに聞く者はいなかったので、仕方なく、海軍の工廠員を食事提供の条件で滑走路整備に当たらせたが、作業は遅々として進まず、最後は1,000万円もの大金で業者に外注せざるを得なくなった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "その後、マッカーサー司令部より、先遣隊が28日、マッカーサー本隊が30日に進駐を延期するという知らせが届いたため、日本側はどうにか厚木飛行場の整備を間に合わせることができた。28日には予定どおりにマッカーサーの信頼厚いチァーレス・テンチ大佐を指揮官とする先遣隊が輸送機で厚木飛行場に着地し、有末ら日本側とマッカーサー受け入れの準備を行った。特に問題となったのは、厚木に到着したマッカーサーらが当面の宿舎となる横浜の「ホテルニューグランド」まで移動する輸送手段であった。日本側に準備が命じられたが、空襲での破壊により、まともに使い物になる乗用車があまり残っておらず、日本側はどうにか50台をかき集めたが、中には木炭車やら旧式のトラックが含まれており、先導車は消防車であった。それでも、マッカーサーら司令部幕僚には自決した阿南惟幾陸軍大臣の公用車であったリンカーン・コンチネンタルを含む、閣僚らの高級公用車が準備されたが、8月29日までにそれら高級車は全て先遣隊のアメリカ軍将兵に盗難されてしまった。困惑した有末がテンチにうったえたところ、テンチは即対応して8月30日の午前4時までにすべての公用車を取り戻した。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "8月29日に沖縄に到着したマッカーサーは、8月30日の朝に専用機「バターン号」で厚木に向けて5時間の飛行を開始した。マッカーサーに先立ちアメリカ軍第11空挺師団の4,000人の兵士が厚木に乗り込み護衛しているとは言え、つい先日まで徹底抗戦をとなえていた多数の敵兵が待ち受ける敵本土に、わずかな軍勢で乗り込むのは危険だという幕僚の主張もあったが、マッカーサーは日露戦争後に父親アーサーの副官として来日したときの経験により、天皇の命で降伏した日本軍兵士が反乱を起こすわけがないと確信していた。マッカーサーが少数の軍勢により、空路で厚木に乗り込むことを望んだのは、海兵隊の大部隊を率いて日本本土上陸を目指して急行している、ハルゼーら海軍との先陣争いに勝つためと、この戦争でマッカーサーの勇気を示す最後の機会になると考えたからであった。それでも、飛行中は落ち着きなく、バターン号の機内通路を行ったり来たりしながら、思いつくことを副官のコートニー・ホイットニー少将に書き取らせて、強調したい箇所ではコーンパイプを振り回した。それでもしばらくすると座席に座ってうたた寝したが、バターン号が富士山上空に到達すると、ホイットニーがマッカーサーを起こした。マッカーサーは富士山を見下ろすと感嘆して「ああ、なつかしい富士山だ、きれいだなコートニー」とホイットニーに語り掛けたが、その後再び睡眠に入った。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "14時05分に予定よりも1時間早くバターン号は厚木に到着した。事前に日本側は政府要人による出迎えを打診したが、マッカーサーはそれを断って、日本側は新聞記者10名だけの出迎え列席が認められており、マッカーサーの動作は常に記者を意識したものとなった。マッカーサーはタラップに踏み出すとすぐには下りず、180度周囲をゆっくりと見回したあとで、その後にタラップを下って厚木の地に降り立った。これは新聞記者の撮影を意識したものと思われ、後に、マッカーサーはこの時に撮影された写真を、出版した自伝に見開き2ページを使って掲載している。日本の新聞記者にも強い印象を与えて、同盟通信社の明峰嘉夫記者は「歌舞伎役者の菊五郎が大見得を切ったよう」と感じたという。マッカーサーは記者団に対して、バターン機内で考えていた以下の第一声を発した。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 135,
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"text": "しかし、派手なことが好きなマッカーサーにしては珍しいことに、進駐初日の公式な動きはこの短い声明のみであり、日本のマスコミの扱いも意外に小さく、朝日新聞はマッカーサー来日の記事は一面ですらなく、紙面の中央ぐらいで、マッカーサーが大見得を切りながらタラップを降りた写真も掲載されなかった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "その後マッカーサー一行は日本側が準備した車両でホテルニューグランドに向かった。ニューグランドは1937年にマッカーサーがジーンとニューヨークで結婚式を挙げたのち、任地のフィリピンに帰る途中に宿泊した思い出のホテルであった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "厚木から横浜までの道路の両側には30,000名を超す日本軍の兵士が銃剣をつけた小銃を構えて警護にあたっていたが、兵士はマッカーサーらの車列に背を向けて立っていた。これまでは、兵士が行列に顔を向けないのは天皇の行幸のときに限られており、明確にアメリカに恭順の意を示している証拠であったが、幕僚らは不測の事態が起こらないか神経を尖らせているなかで、マッカーサーだけがこの光景を楽しんでいた。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "日本の降伏の受け入れ方として、連合軍内でも様々な意見がありイギリス軍総司令のルイス・マウントバッテン伯爵(のちインド総督、海軍元帥)は、昭和天皇がマニラまで来てマッカーサーに降伏すべきと考えていたが、マッカーサーはそのような相手に屈辱を与えるやり方はもはや時代遅れであり、日本人を敗戦に向き合わせるために、威厳に溢れた戦争終結の儀式が必要と考えた。かつて、元部下のアイゼンハワーがドイツの降伏を受け入れるとき、ドイツではなくフランスの地で、報道関係者が誰もいない早朝に、ドイツの将軍らに降伏文書に調印させたが、マッカーサーはそれも全くの間違いと捉え、東京で全世界のメディアが注目し、後世に残す形で降伏調印式をおこなうこととした。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "降伏調印式は、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で行われることとなった。ミズーリ艦には、マシュー・ペリー提督が日本に開国を要求するため日本に来航した際に、ペリーが座乗した旗艦である外輪式フリゲート艦サスケハナに掲げられていた星条旗と、2つの5つ星の将旗が掲げられていた。通常軍艦には再先任の提督の将旗の1流しか掲げられなかったが、今日はマッカーサーやその幕僚たちの機嫌を損ねないように前例を破ってマッカーサーの将旗も掲げたものであった。まずマッカーサーと幕僚らは、駆逐艦ブキャナン(英語版)でミズーリに乗り付けた。ミズーリではニミッツとハルゼーに出迎えられて、ハルゼーの居室に案内された。そこで3人はしばし歓談したが、ハルゼーに対しては「ブル」とあだ名で呼びかけるほど打ち解けていたが、ニミッツとはこれまでの激しい主導権争いもあって、よそよそしい雰囲気であった。豪胆なマッカーサーであったが、この日は流石に緊張したのか、歓談の途中でトイレに姿を消すとしばらくその中に籠っていた。周囲が心配していると、トイレの中からマッカーサーが嘔吐している音が聞こえたので、海軍の士官が「軍医を呼んできましょうか」とたずねたところ、マッカーサーは「すぐによくなる」と答えて断った。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "日本側代表団は首席全権・重光葵、大本営を代表し梅津美治郎ら全11名で、ミズーリに駆逐艦ランズダウン(英語版)で乗り換え艦上に立った。ミズーリにはイギリス、カナダ、オランダ、中華民国、オーストラリアなど全9か国の連合国代表の他に、太平洋戦争初期に日本軍の捕虜となって終戦後に解放された、マッカーサーの元部下のウェインライト中将とイギリス軍のアーサー・パーシバル中将も列席した。アメリカ海軍の司令官たちも列席したが、ニミッツは最後まで特攻機を警戒しており、特攻機が突入してもアメリカ軍司令官全員が死傷することを避けるため、レイモンド・スプルーアンス提督と、マーク・ミッチャー中将は離れた場所に列席させた。ミズーリ艦上には世界中のマスコミが集まり、絶好の撮影位置を奪い合っていたが、ソビエト連邦のマスコミは代表のクズマ・デレビヤンコの真後ろに立とうとした。その位置は立ち入り禁止であり、強く指示されても「モスクワから特別に指示されている」と言ってきかなかったので、ミズーリの艦長は屈強な2人の海兵隊員を呼び寄せてソ連側の記者を所定の位置まで引きずっていかせた。緊張する場面で発生したささやかな見世物に、マッカーサーや世界の代表者は面白がって見ていたが、当のデレビヤンコも加わり「すばらしい、すばらしい」と叫びながら嬉しそうに笑っていた。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "午前9時にミズーリの砲術長が「総員、気をつけ」と叫ぶと、マッカーサーは甲板上に足を踏み出し、ニミッツとハルゼーが後につづいた。マッカーサーはそのままマイクの放列の前に進み出ると、少し間を措いて、ゆっくりとした大声で演説を開始した。厚木に到着した日は短かめの声明を記者団に述べただけのマッカーサーであったが、この日の演説は長いものとなった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "英文; We are gathered here, representatives of the major warring powers, to conclude a solemn agreement whereby peace may be restored.",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "The issues involving divergent ideals and ideologies have been determined on the battlefields of the world, and hence are not for our discussion or debate.",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "Nor is it for us here to meet, representing as we do a majority of the peoples of the earth, in a spirit of distrust, malice, or hatred.",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "But rather it is for us, both victors and vanquished, to rise to that higher dignity which alone befits the sacred purposes we are about to serve, committing all of our peoples unreservedly to faithful compliance with the undertakings they are here formally to assume.",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "演説が終わったあと、9時8分にマッカーサーが降伏文書に署名、マッカーサーはこの署名のために5本の万年筆を準備しており、それを全部使って自分の名前をサインした。それらは、ウエインライト、パーシバル、ウェストポイント陸軍士官学校、アナポリス海軍兵学校にそれぞれ贈られる予定となっていたが、残る1本のパーカーのデュオフォールド「ビッグレッド」は妻ジーンへの贈り物であった。その後に日本全権重光が署名しようとしたが、テロにより片足を失っていた重光がもたついたため、見かねたマッカーサーがサザーランドに命じて署名箇所を示させた。その後に梅津、他国の代表が署名を行い、全員が署名し終わったときにマッカーサーは「いまや世界に平和が回復し、神がつねにそれを守ってくださるよう祈ろう。式は終了した。」と宣言した。宣言と同時に1,000機を超す飛行機の轟音が空に鳴り響き、歴史的式典の幕を閉じた。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "皇居では昭和天皇が首を長くして降伏調印の報告を待っていたが、重光は参内すると、同行した外務省職員加瀬俊一の作成した報告書を朗読し「仮にわれわれが勝利者であったとしたら、これほどの寛大さで敗者を包容することができただろうか」という報告書の問いに対して昭和天皇は嘆息してうなずくだけであった。加瀬はこのときの昭和天皇の思いを「マッカーサー元帥の高潔なステーツマンシップ、深い人間愛、そして遠大な視野を讃えた加瀬の報告書に昭和天皇は同意した」とマッカーサー司令部に報告している。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーには大統領ハリー・S・トルーマンから、日本においてはほぼ全権に近い権限が与えられていた。連合国最高司令官政治顧問団特別補佐役としてマッカーサーを補佐していたウィリアム・ジョセフ・シーボルドは「物凄い権力だった。アメリカ史上、一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られた例はなかった」と評した。9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "これに対して重光葵外相は、マッカーサーに「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本も参照)。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "降伏調印式から6日経過した9月8日に、マッカーサーは幕僚を連れてホテルニューグランドを出発して東京に進駐した。東京への進駐式典は開戦以来4年近く閉鎖されていた駐日アメリカ合衆国大使館で開催された。軍楽隊が国歌を奏でるなか、真珠湾攻撃時にワシントンのアメリカ合衆国議会議事堂に掲げられていた星条旗をわざわざアメリカ本国から持ち込み、大使館のポールに掲げるという儀式が執り行われた。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "その後、マッカーサーと幕僚は帝国ホテルで昼食会に出席したが、マッカーサーは昼食会の前に、帝国ホテルの犬丸徹三社長が運転する車で都内を案内させている。車が皇居前の第一生命館の前に差し掛かると、マッカーサーは犬丸に「あれはなんだ?」と聞いた。犬丸が「第一生命館です」と答えると、マッカーサーは「そうか」とだけ答えた。昼食会が終わった13時にマッカーサーは幕僚を連れて第一生命館を再度訪れ、入り口から一歩建物内に踏み入れると「これはいい」と言って、第一生命館を自分の司令部とすることに決めている。犬丸は自分とマッカーサーのやり取りが、第一生命館が連合国軍最高司令官総司令部となるきっかけになったと思い込んでいたが、マッカーサーは進駐直後から、連合国軍最高司令官総司令部とする建物を探しており、戦災による破壊を逃れた第一生命館と明治生命館がその候補として選ばれ、9月5日から前日まで、両館にはマッカーサーの幕僚らが何度も訪れて、資料を受け取ったり、第一生命保険矢野一郎常務ら社員から説明を受けるなどの準備をしていた。副官のサザーランドが実見し最終決定する予定であったが、犬丸に案内されて興味を持ったマッカーサーが自ら足を運び、矢野の案内で内部も確認して即決したのであった。もう一つの候補となった明治生命館へは「もういい」といって見に行くこともしなかったが、結果として明治生命館も接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用された。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "第一生命館は1938年に竣工した皇居に面する地上8階建てのビルで、天皇の上に君臨して日本を支配するマッカーサー総司令官の地位をよく現わしていた。しかし、マッカーサー自身が執務室として選んだ部屋はさほど広くもなく、位置的に皇居を眺めることもできず、階下は食堂であり騒がしい音が響いていた。マッカーサーの幕僚らの方が広くて眺めもいい快適な部屋を使用していたが、マッカーサーがわざわざ部下より質素な執務室としようと考えたのは、強大な権力を有しているが、それを脱ぎ捨てれば飾り気のない武骨な軍人であるということを示そうという意図があったためである。しかし、実際にはマッカーサーの幕僚らにより第一生命には「一番よい部屋を」という要望がなされ、マッカーサーの執務室として準備されたのは第一生命の社長室(当時の社長は石坂泰三)で、壁はすべてアメリカ産のクルミ材、床はナラ・カシ・桜・コクタンなどの寄木細工でできたテューダー朝風の非常に凝った造りとなっており、第一生命館最高の部屋であった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "占領行政について既存の体制の維持となると避けて通れないのが、天皇制の存置(象徴天皇制への移行)と昭和天皇の戦争責任問題であるが、早くも終戦1年6か月前の1944年2月18日の国務省の外交文書『天皇制』で「天皇制に対する最終決定には連合国の意見の一致が必要である」としながらも「日本世論は圧倒的に天皇制廃止に反対である......強権をもって天皇制を廃止し天皇を退位させても、占領政策への効果は疑わしい」と天皇制維持の方向での意見を出している。また1945年に入ると、日本の占領政策を協議する国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)において「占領目的に役立つ限り天皇を利用するのが好ましい」「天皇が退位しても明らかな証拠が出ない限りは戦犯裁判にかけるべきではない」という基本認識の元で協議が重ねられ、戦争の完全終結と平穏な日本統治のためには、昭和天皇自身の威信と天皇に対する国民の親愛の情が不可欠との知日派の国務長官代理ジョセフ・グルーらの進言もあり、当面は天皇制は維持して昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった。これはマッカーサーも同意見であったが、ほかの連合国や対日強硬派やアメリカの多くの国民が天皇の戦争責任追及を求めていたため、連合国全体の方針として決定するまでには紆余曲折があった。9月12日には記者会見で「日本は四等国に転落した。二度と強国に復帰することはないだろう」と発言した。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "細谷雄一(国際政治学者、慶應義塾大学教授)は、全権を持ったマッカーサーとその側近らにより、日本人に「対米従属」という認識を植え付けられたのではないか、と指摘している。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "まずマッカーサーが着手したのは日本軍の武装解除であったが、軍事力のほとんどが壊滅していたドイツ国防軍と異なり、日本軍は内外に154個師団700万名の兵力が残存していた。難航が予想されたが、陸海軍省などの既存組織を利用することにより平穏無事に武装解除は進み、わずか2か月で内地の257万名の武装解除と復員が完了した。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "次に優先されたのは戦争犯罪人の逮捕で、終戦前からアメリカ陸軍防諜部隊(略称CIC)がリストを作成、さらに国務省の要求する人物も加え、9月11日には第一次A級戦犯38名の逮捕に踏み切った。しかし東條英機が自殺未遂、小泉親彦と橋田邦彦2名が自殺した。最終的に逮捕したA級戦犯は126名となったが、戦犯逮捕を指揮したCIC部長ソープは、遡及法でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサーに「戦犯を亡命させてはどうか?」と提案したことがあったが、マッカーサーは「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "A級戦犯に同情的だったマッカーサーも、フィリピン戦に関する戦争犯罪訴追にはフィリピン国民に「戦争犯罪人は必ず罰する」と約束しただけに熱心であった。マッカーサー軍をルソン山中に終戦まで足止めし「軍事史上最大の引き伸ばし作戦」を指揮した山下奉文大将と、太平洋戦争序盤にマッカーサーに屈辱を与えた本間雅晴中将の2人の将軍については、戦争終結前から訴追のための準備を行っていた。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "山下は1945年9月3日にフィリピンのバギオにて降伏調印式が終わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。山下は「一度山を下りたら、敵は二度と釈放はすまい」と覚悟はしていたが、逮捕の罪状であるマニラ大虐殺などの日本軍の残虐行為については把握していなかった。しかしマッカーサーが命じ、西太平洋合衆国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将が開廷したマニラ軍事法廷は、それまでに判例もなかった、部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑判決を下した。死刑判決を下した5人の軍事法廷の裁判官は、マッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業軍人であり、典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判)であった。参謀長の武藤章中将が、独房とは言え犯罪者のように軍司令官の山下を扱うことに激高して「一国の軍司令官を監獄に入れるとは何事だ」と激しく抗議したが受け入れられることはなかった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 159,
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"text": "また、マニラについてはその犠牲者の多くが、日本軍の残虐行為ではなくアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘もあり、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もある。山下は拘束されたときから既に自分の運命を達観しており、独房のなかで扇子に墨絵を書いたり、サインを求めてくる多くのアメリカ軍将兵や士官の求めに応じて紙幣にサインしたりして過ごしていたが、開戦の日にあわせるかのように、1945年12月8日 にマニラの軍事法廷で死刑判決を受けた。マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせるように「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、山下は囚人服のままマンゴーの木の傍の死刑台で絞首刑を執行された。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
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{
"paragraph_id": 160,
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"text": "本間についても同様で、本人が十分に把握していなかった、いわゆるバターン死の行進の責任者とされた。マッカーサーが死の行進の責任者を罰することを「聖なる義務」と意気込んでいたことと、マッカーサーを唯一破った軍人であり、なによりその首を欲していたため、マッカーサーにとっては一石二鳥の裁判となった。本間の妻・富士子は、本間の弁護士の1人フランク・コーダ大尉の要請により、本間の人間性の証言のため法廷に立つこととなった。軍事法廷が開廷されているマニラへ出発前に、朝日新聞の取材に対し富士子は「私は決して主人の命乞いに行くという気持ちは毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、飾り気のない真実の本間を私の力で全世界の人に多く知って頂きたいのです」と答えていたが、結局は山下裁判と同様にカンガルー法廷により、判決は死刑であった。判決後富士子は、弁護士の一人ファーネス大尉と連れだってマッカーサーに会った。マッカーサーの回想では、富士子は本間の命乞いに来たということにされているが、富士子によると「夫は敵将の前で妻が命乞いをするような事を最も嫌うので命乞いなんかしていない。後世のために裁判記録のコピーがほしいと申し出たが、マッカーサーからは女のくせに口を出すなみたいな事を言われ拒否された」とのことであった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
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"tag": "p",
"text": "しかし、富士子の記憶による両者の会話のなかで、「本間は非常に立派な軍人でございます。もし殺されますとこれは世界の損失だと思うのです」や「(マッカーサー)閣下に彼の裁判記録をもう一度全部読んでいただけないでしょうか?」という富士子の申し出を、マッカーサーが本間の命乞いと感じ、また富士子が「死刑の判決は全てここに確認を求めて回ってくるそうでございますが、閣下も大変でございますのね」と皮肉を込めて話したことに対し、マッカーサーが「私の仕事に口を入れないように」と言い放ったのを富士子が傲慢と感じて「女のくせに口を出すな」と言われたと捉えた可能性も指摘されている。本間の死刑判決は山下の絞首刑に対して、軍人としての名誉に配慮した銃殺刑となり、軍服の着用も許された。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "かつての“好敵手”に死刑にされた本間であったが、1946年4月3日の死刑執行直前には、牢獄内に通訳や教戒師や警備兵を招き入れて、「僕はバターン半島事件で殺される。私が知りたいことは広島や長崎の数万もの無辜の市民の死はいったい誰の責任なのかということだ。それはマッカーサーなのかトルーマンなのか」と完ぺきな英語で話すと、尻込みする一同に最後に支給されたビールとサンドウィッチをすすめて「私の新しい門出を祝ってください」と言って乾杯した。その後トイレに行き「ああ、米国の配給はみんな外に出してきた」と最後の言葉を言い残したのち銃殺刑に処された。 死刑執行後に富士子は「裁判は正に復讐的なものでした。名目は捕虜虐殺というものでしたが、マッカーサー元帥の輝かしい戦績に負け戦というたった一つの汚点を付けた本間に対する復讐裁判だったのです」と感想を述べている",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
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"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "後にこの裁判は、アメリカ国内でも異論が出され「法と憲法の伝統に照らして、裁判と言えるものではない」「法的手続きをとったリンチ」などとも言われた。1949年に山下の弁護人の内の1人であったA・フランク・リール大尉が山下裁判の真実をアメリカ国民に問うために『山下裁判』という本を出版した。日本でも翻訳出版の動きがあったがGHQが許可せず、日本で出版されたのはGHQの占領が終わった1952年であった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
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"paragraph_id": 164,
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"text": "GHQは、支配者マッカーサーを全日本国民に知らしめるため、劇的な出来事が必要と考え、昭和天皇の会談を望んでいた。昭和天皇もマッカーサーとの会談を望んでおり、どちらが主導権をとったかは不明であるが、天皇よりアメリカ側に会見を申し出た。マッカーサー個人は「天皇を会談に呼び付ければ日本国民感情を踏みにじることになる......私は待とう、そのうち天皇の方から会いに来るだろう」と考えていたということで、マッカーサーの要望どおり昭和天皇側より会見の申し出があった時には、マッカーサーと幕僚たちは大いに喜び興奮した。昭和天皇からは目立つ第一生命館ではなく、駐日アメリカ大使公邸で会談したいとの申し出であった。しかし日本側の記録によると、外務大臣に就任したばかりの吉田茂が、第一生命館でマッカーサーと面談した際に、マッカーサーが何か言いたそうに「モジモジ」していたので、意を汲んで昭和天皇の訪問を申し出、マッカーサー側から駐日アメリカ大使館を指示されたとのことで、日米で食い違っている。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
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"paragraph_id": 165,
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"text": "1945年9月27日、大使館公邸に訪れた昭和天皇をマッカーサーは出迎えはしなかったが、天皇の退出時には、自ら玄関まで天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。会談の内容については日本とアメリカ両関係者より、内容の異なる様々な証言がなされており(#昭和天皇との会談を参照)、詳細なやり取りは推測の域を出ないが、マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、その後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 166,
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"text": "その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日、29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。歌人斎藤茂吉は、その日の日記に「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と書き込むほどであったが、多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見どおり、日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった。ちなみにその写真を撮影したのは、ジェターノ・フェーレイス(英語版)である。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
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"paragraph_id": 167,
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"text": "連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院(現横浜市立大鳥小学校)に入院している際にマッカーサーが見舞いに訪れ、後に東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "いわゆる『バターン死の行進』のアメリカ本国の報道管制を激しく非難したマッカーサーであったが、日本統治では徹底した報道管制を行っている。バギオで戦犯として山下が逮捕された直後、9月16日の日本の新聞各紙に一斉に「比島日本兵の暴状」という見出しで、フィリピンにおける日本兵の残虐行為に関する記事が掲載された。これはGHQの発表を掲載したもので、山下裁判を前にその意義を日本国民に知らしめ、裁判は正当であるとする周到な世論工作であった。毎日新聞の森正蔵(東京本社社会部長)によれば、これはマッカーサーの司令部から情報局を通じて必ず新聞紙に掲載するようにと命令され、記事にしない新聞は発行部数を抑制すると脅迫されていたという。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 169,
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"text": "実際に朝日新聞はこのGHQの指示について、「今日突如として米軍がこれを発表するに至った真意はどこにあるかということである。(連合軍兵士による)暴行事件の発生と、日本軍の非行の発表とは、何らかの関係があるのではないか」と占領開始以降に頻発していた連合軍兵士による犯罪と、フィリピンにおける日本軍の暴虐行為の報道指示との関連性を疑う論説を記事に入れたところ、マッカーサーは朝日新聞を1945年9月19日と20日の2日間の発行停止処分としている。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "その後、マッカーサーと昭和天皇の初面談の際に撮影された写真が掲載された新聞について、内務大臣の山崎巌が畏れ多いとして新聞の販売禁止処分をとったが、連合国軍最高司令官総司令部(SCAPはマッカーサーの職名、最高司令官、つまり彼のこと) の反発を招くことになり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これをきっかけとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、GHQが検閲を行うこととし、日本の報道を支配下に置いた。また、連合国と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
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"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの日本のマスコミに対する方針を如実に表しているのは、同盟通信社が行った連合軍に批判的な報道に対し、1945年9月15日にアメリカ陸軍対敵諜報部の民間検閲主任ドナルド・フーバー大佐が、河相達夫情報局総裁、大橋八郎日本放送協会会長、古野伊之助同盟通信社社長を呼びつけて申し渡した通告であるが「元帥は報道の自由に強い関心を持ち、連合軍もそのために戦ってきた。しかし、お前たちは報道の自由を逸脱する行為を行っており、報道の自由に伴う責任を放棄している。従って元帥はより厳しい検閲を指令された。元帥は日本を対等とは見做していないし、日本はまだ文明国入りする資格はない、と考えておられる。この点をよく理解しておけ。新聞、ラジオに対し100%の検閲を実施する。嘘や誤解を招く報道、連合軍に対するいかなる批判も絶対許さない」と強い口調で申し渡している。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの強力な指導力の下で、五大改革などの日本の民主化が図られ、日本国憲法が公布された。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
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"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の大統領選挙への出馬を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないことから、占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んだ。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって日本への占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明に最も過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞はマッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
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"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心に、シカゴ・トリビューン社主のロバート・R・マコーミック(英語版)や、同じく新聞社主のウィリアム・ランドルフ・ハーストがいた。『ニューヨーク・タイムズ』紙もマッカーサーが有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、27名の代議士のうちでマッカーサーに投票したのはわずか8名と惨敗、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。5月10日には陸軍参謀総長になっていたアイゼンハワーが来日したが、マッカーサーと面談した際に「いかなる軍人もアメリカの大統領になろうなどと野心を起こしてはならない」と釘を刺している。しかしマッカーサーは、そのアイゼンハワーのその忠告に警戒の色を浮かべ、受け入れることはなかった。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 176,
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"text": "6月の共和党大会では、マッカーサーを推すハーストが数百万枚のチラシを準備し、系列の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』の新聞配達員まで動員し選挙運動をおこない、マッカーサーの応援演説のために、日本軍の捕虜収容所から解放された後も体調不調に苦しむジョナサン・ウェインライトも呼ばれたが、第1回投票で1,094票のうち11票しか取れず、第2回で7票、第3回で0票という惨敗を喫し、結局第1回投票で434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "日本では、マッカーサーへの批判記事は検閲されていたため、選挙戦の情勢を正確に伝えることができなかった。『タイム』誌は「マッカーサーを大統領にという声より、それを望まないと言う声の方が大きい」と既に最初のウィスコンシンの惨敗時に報道していたが、日本ではマッカーサーより有力候補者であったアーサー・ヴァンデンバーグやロバート・タフトの影は急激に薄くなっていった、などと事実と反する報道がなされていた。その結果、多くの日本国民が共和党大会での惨敗に驚かされた。その光景を見た『ニューヨーク・タイムズ』は「日本人の驚きは多分、一段と大きかったことだろう。......日本の新聞は検閲によって、アメリカからくるマッカーサー元帥支持の記事以外は、その発表を禁じられていたからである。そのため、マッカーサー元帥にはほとんど反対がいないのだという印象が与えられた」と報じている。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "大統領選の結果、大統領に選ばれたのは現職のトルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。イギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。",
"title": "経歴(連合国軍最高司令官)"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "日本での権威を揺るぎないものとしたマッカーサーであったが、アメリカの対極東戦略については蚊帳の外であった。マッカーサーは蔣介石に多大な援助を与え、中国共産党との国共内戦に勝利させ、中国大陸に親米的な政権を確保するという構想を抱いていたが、蔣介石は日中戦争時から、アメリカから多大な援助(現在の金額で約2兆円)を受けていたにもかかわらず、日本軍との全面的な戦争を避け続けて、数千万ドルにも及ぶ援助金を横領したり、受領した武器を敵に流すなど腐敗しきっており、中国民衆の支持を失いつつあった。民衆の支持を受けた中国共産党がたちまち支配圏を拡大していくのを見て、1948年にはトルーマン政権は蔣介石を見限っており、中国国民党を救う努力を放棄しようとしていた。マッカーサーはこのトルーマン政権の対中政策に反対を唱えたが、アメリカの方針が変わることはなく、1949年に北京を失った国民党軍は、1949年年末までには台湾に撤退することとなり、中国本土は中国共産党の毛沢東が掌握することとなった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "共産主義陣営との対立は、日本から解放されたのちに38度線を境界線としてアメリカとソ連が統治していた朝鮮半島でも顕在化することとなり、1948年8月15日、アメリカの後ろ盾で李承晩が大韓民国の成立を宣言。それに対しソ連から多大な援助を受けていた金日成が9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。マッカーサーは日本統治期間中にほとんど東京を出ることがなかったにもかかわらず、大韓民国の成立式典にわざわざ列席し、李承晩との親密さをアピールしたが、トルーマン政権の対朝鮮政策は対国民党政策と同様に消極的なものであった。朝鮮半島はアメリカの防衛線を構成する一部分とは見なされておらず、アメリカ軍統合参謀本部は「朝鮮の占領軍と基地とを維持するうえで、戦略上の関心が少ない」と国務省に通告するほどであった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "成立式典に列席して韓国との関係をアピールしたマッカーサーであったが、朝鮮情勢についてはトルーマンと同様にあまり関心はなかった。在朝鮮アメリカ軍司令官ジョン・リード・ホッジは度々マッカーサーに韓国に肩入れしてほしいと懇願していたが、マッカーサーの返事は「本職(マッカーサー)は貴職(ホッジ)に聡明な助言をおこなえるほどには現地の情勢に通じていない」という素っ気ないものであった。業を煮やしたホッジが東京にマッカーサーに面会しに来たことがあったが、マッカーサーはホッジを何時間も待たせた挙句「私は韓国に足跡を残さない、それは国務省の管轄だ」と韓国の面倒は自分で見よと命じている。マッカーサーは李承晩らに、大韓民国の成立式典で「貴国とは1882年以来、友人である」、「アメリカは韓国が攻撃された際には、カリフォルニア同様に防衛するであろう」とホワイトハウスに相談することもなくリップサービスをおこなっていたが、マッカーサーの約束とは裏腹に朝鮮半島からは順次アメリカ軍部隊の撤収が進められ、1949年には480名の軍事顧問団のみとなっていた。そして、マッカーサー自身も、韓国成立式典で韓国の防衛を約束したわずか半年後の1949年3月1日の記者会見で、共産主義に対する防衛線を、アラスカから日本を経てフィリピンに至る線という見解を示し、朝鮮半島の防衛については言及しなかった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍の軍事顧問団に指導された韓国軍兵士は、街頭や農村からかき集められた若者たちで、未熟で文字も読めない者も多く、アメリカ軍の第二次世界大戦当時の旧式兵器をあてがわれて満足に訓練も受けていなかった。アメリカ軍の軍事顧問団の将校らは、そんな惨状をアメリカ本国やマッカーサーに報告すると昇進に響くことを恐れて、韓国軍はアジア最高であるとか、韓国軍は面目を一新し兵士の装備は人民軍より優れていると虚偽の報告を行った。その頃の1950年1月12日にディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言している(「アチソンライン」)。これはマッカーサーの1949年3月1日の記者会見での言及とほぼ同じ見解であったが、トルーマン政権中枢の見解でもあり、北朝鮮による韓国侵攻にきっかけを与えることとなった。アメリカ軍事顧問団の虚偽の報告を信じていたアメリカ本国やマッカーサーであったが、北朝鮮軍侵攻10日前の1950年6月15日になってようやく、ペンタゴン内部で韓国軍は辛うじて存在できる水準でしかないとする報告が表となっている。しかし、すでに遅きに失していた。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "当時マッカーサーは、中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。北朝鮮軍が侵攻してきた6月25日にマッカーサーにその報告がなされたが、マッカーサーは全く慌てることもなく「これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。ワシントンが邪魔さえしなければ、私は片腕を後ろ手にしばった状態でもこれを処理してみせる」と来日していたジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問らに語っている。事態が飲み込めないマッカーサーは翌6月26日に韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオがアメリカ人の婦女子と子供の韓国からの即時撤収を命じたことに対し、「撤収は時期尚早で朝鮮でパニックを起こすいわれはない」と苦言を呈している。ダレスら国務省の面々には韓国軍の潰走の情報が続々と入ってきており、あまりにマッカーサーらGHQの呑気さに懸念を抱いたダレスは、マッカーサーに韓国軍の惨状を報告すると、ようやくマッカーサーは事態を飲み込めたのか、詳しく調べてみると回答している。ダレスに同行していた国務省のジョン・ムーア・アリソンはそんなマッカーサーらのこの時の状況を「国務省の代表がアメリカ軍最高司令官にその裏庭で何が起きているかを教える羽目になろうとは、アメリカ史上世にも稀なことだったろう」と呆れて回想している。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 185,
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"text": "6月27日にダレスらはアメリカに帰国するため羽田空港に向かったが、そこにわずか2日前に北朝鮮の威力偵察を片腕で処理すると自信満々で語っていたときと変わり果てたマッカーサーがやってきた。マッカーサーは酷く気落ちした様子で「朝鮮全土が失われた。われわれが唯一できるのは、人々を安全に出国させることだ」と語ったが、ダレスとアリソンはその風貌の変化に驚き「わたしはこの朝のマッカーサー将軍ほど落魄し孤影悄然とした男を見たことがない」と後にアリソンは回想している。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "6月28日にソウルが北朝鮮軍に占領された。わずかの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは、6月29日に東京の羽田空港より専用機の「バターン号」で水原に飛んだが、この時点で韓国軍の死傷率は50%に上ると報告されていた。マッカーサーはソウル南方32kmに着陸し、漢江をこえて炎上するソウルを眺めたが、その近くを何千という負傷した韓国軍兵士が敗走していた。マッカーサーは漢江で北朝鮮軍を支えきれると気休めを言ったが、アメリカ軍が存在しなければ韓国が崩壊することはあきらかだった。マッカーサーは日本に戻るとトルーマンに、地上軍本格投入の第一段階として連隊規模のアメリカ地上部隊を現地に派遣したいと申し出をし、トルーマンは即時に許可した。この時点でトルーマンはマッカーサーに第8軍の他に、投入可能な全兵力の使用を許可することを決めており、マッカーサーもまずは日本から2個師団を投入する計画であった。7月7日、国際連合安全保障理事会決議84 により、北朝鮮に対抗するため、アメリカが統一指揮を執る国連軍の編成が決議され、7月8日に、マッカーサーは国連軍司令官に任命された。国連軍(United Nations Command、UNC)には、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍など16か国の軍が参加している。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "しかし、第二次世界大戦終結後に大幅に軍事費を削減していたアメリカ軍の戦力の低下は著しかった。ひどい資金不足で砲兵部隊は弾薬不足で満足な訓練もしておらず、フォート・ルイス基地などでは、トイレットペーパーは1回の用便につき2枚までと命じられるほどであった。しかし、この惨状でもマッカーサーら軍の首脳は、第二次世界大戦での記憶から、アメリカ軍を過大評価しており、アメリカ軍が介入すれば兵力で圧倒的に勝る北朝鮮軍の侵略を終わらせるのにさほど手間は取るまいと夢想していた。熊本県より釜山に空輸された、アメリカ軍の先遣部隊ブラッド・スミス中佐率いるスミス特殊任務部隊(通称スミス支隊)が7月4日に北朝鮮軍と初めて戦闘した。T-34戦車多数を投入してきた北朝鮮軍に対して、スミス支隊は60mm( 2.36inch)バズーカで対抗したものの役に立たず、スミス支隊は壊滅した。(烏山の戦い)その後に到着した第24歩兵師団の本隊も苦戦が続き、ついには師団長のウィリアム・F・ディーン少将が北朝鮮軍の捕虜となってしまった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
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"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将はマッカーサーに信頼されておらず冷遇されており、優秀な士官が日本に派遣されると、第8軍からマッカーサーが自分の参謀に掠め取ったので、第8軍には優秀な士官が少なかった。朝鮮戦争開戦時の第8軍の9名の連隊長を国防長官ジョージ・マーシャルが評価したところ、朝鮮半島の厳しい環境で、体力的にも能力的にも十分な指揮が執れる優秀な連隊長と評価されたのはたった1名で、他は55歳以下47歳までの高齢で指揮能力に疑問符がつく連隊長で占められていた。壊滅した第24師団は、士官の他、兵、装備に至るまで国の残り物を受け入れている最弱で最低の師団と見られていた。師団の士官のひとりは「兵員は定数割れし、装備は劣悪、訓練は不足したあんな部隊(第24師団)が投入されたのは残念であり、犯罪に近い」とまで後に述懐している。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
{
"paragraph_id": 189,
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"text": "マッカーサーは、第24師団が惨敗を続けていた7月上旬に、統合参謀本部に11個大隊の増援を要求したが、兵力不足であったアメリカ軍は兵力不足を補うために兵士の確保を強引な手段で行った。まずは日本で犯罪を犯して、アメリカの重営倉に護送される予定の兵士らに「朝鮮で戦えば、犯罪記録は帳消しにする」という選択肢が与えられた。またアメリカ国内では、第二次世界大戦が終わり普通の生活に戻っていた海兵隊員を、かつての契約に基づき再召集している。召集された海兵隊員は予備役に志願しておらず、自分らは一般市民と考えていたので再召集可能と知って愕然とした。強引に招集した兵士を6週間訓練して朝鮮に送るという計画であったが、時間がないため、朝鮮に到着したら10日間訓練するという話になり、それがさらに3日に短縮され、結局は訓練をほとんど受けずに前線に送られた。国連軍が押されている間に、アメリカ軍工兵部長ガソリン・デイヴィットソン准将が、釜山を中心とする朝鮮半島東南端の半円形の防御陣地を構築した(釜山橋頭堡)。ウォーカーはその防衛線まで国連軍を撤退させるとマッカーサーに報告すると、翌朝マッカーサーが日本から視察に訪れ、ウォーカーに対して「君が望むだけ偵察できるし、塹壕が掘りたいと望めば工兵を動員することができる。しかしこの地点から退却する命令を下すのは私である。この命令にはダンケルクの要素はない。釜山への後退は認められない」と釜山橋頭堡の死守を命じた。ウォーカーはそのマッカーサーの命令を受けて部下将兵らに「ダンケルクもバターンもない(中略)我々は最後の一兵まで戦わねばならない。捕虜になることは死よりも罪が重い。我々はチームとして一丸となって敵に当たろうではないか。一人が死ねば全員も運命をともにしよう。陣地を敵に渡す者は他の数千人の戦友の死にたいして責任をとらねばならぬ。師団全員に徹底させよ。我々はこの線を死守するのだ。我々は勝利を収めるのだ」といういわゆる「Stand or Die」(陣地固守か死か)命令を発している。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 190,
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"text": "8月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓アメリカ軍、イギリス軍を中心とした国連軍は押されて、釜山橋頭堡に押し込まれることとなってしまった(釜山橋頭堡の戦い)。しかし国連軍は撤退続きで防衛線が大幅に縮小されたおかげで、通信線・補給線が安定し、兵力の集中がはかれるようになり、北朝鮮軍の進撃は停滞していた。アメリカ本土より第2歩兵師団や第1海兵臨時旅団といった精鋭が釜山橋頭堡に送られて北朝鮮軍と激戦を繰り広げた。アメリカ軍が日増しに戦力を増強させていくのに対し、北朝鮮軍は激戦で大損害を受けて戦力差はなくなりつつあった。特に北朝鮮軍は、アメリカ軍の優勢な空軍力と火砲に対する対策がお粗末で、道路での移動にこだわり空爆のいい餌食となり、道路一面に大量の黒焦げの遺体と車輌の残骸を散乱させていた。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 191,
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"text": "マッカーサーは1942年に日本軍の猛攻でコレヒドール島に立て籠もっていたときに、バターンに戦力を集中している日本軍の背後にアメリカ軍部隊を逆上陸させ背後を突けば勝利できると夢想し、参謀総長のマーシャルにその作戦を提案したが、その時は実現は不可能だった。マッカーサーは、バターンでは夢想にすぎなかった神業が今度は実現可能だと思い立つとその準備を始めた。7月10日にラミュエル・C・シェパード・Jr(英語版)海兵隊総司令が東京に訪れた際に、マッカーサーは朝鮮半島の地図で仁川(インチョン)を持っていたパイプで叩きながら、「私は第1海兵師団を自分の指揮下におきたい」「ここ(仁川)に彼ら(第1海兵師団)を上陸させる」とシェパードに告げている。太平洋戦争で活躍した海兵隊であったが、戦後の軍事費削減の影響を大きく受けて存続すら危ぶまれており、出番をひどく求めていたため、シェパードはマッカーサーの提案にとびつき、9月1日までには海兵隊1個師団を準備すると約束した。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"text": "アメリカ統合参謀本部議長オマール・ブラッドレーは大規模な水陸両用作戦には消極的で、マッカーサーの度重なる作戦要求になかなか許可を出さなかったが、マッカーサーは「北朝鮮軍に2正面作戦を強いる」「敵の補給・通信網を切断できる」「大きな港を奪ってソウルを奪還できる」などと敵に大打撃を与えうると熱心に説き、統合参謀本部は折れて一旦は同意した。しかし、マッカーサーから上陸予定地点を告げられると、統合参謀本部の面々は唖然として声を失った。仁川はソウルに近く、北朝鮮軍の大兵力が配置されている懸念もあるうえ、自然環境的にも、潮の流れが速くまた潮の干満の差も激しい為、上陸作戦に適さず、上陸中に敵の大兵力に攻撃されれば大損害を被ることが懸念された。8月23日にワシントンから陸軍参謀総長ジョーゼフ・ロートン・コリンズと海軍作戦部長フォレスト・シャーマン、ハワイからは太平洋艦隊司令長官アーサー・W・ラドフォードと海兵隊のシェパードが来日し、仁川の上陸について会議がおこなわれた。コリンズとシャーマンは上陸地点を仁川より南方の群山にすることを提案したが、マッカーサーは群山では敵軍の背後を突くことができず、包囲することができないと断じ、太平洋戦争中は海軍と延々と意見の対立をしてきたことは忘れたかのように「私の海軍への信頼は海軍自身を上回るかもしれない」「海軍は過去、私を失望させたこともなかったし、今回もないだろう」と海軍を褒め称え仁川上陸への賛同を求めた。その後、マッカーサーが「これが倍率5,000倍のギャンブルであることは承知しています。しかし私はよくこうした賭けをしてきたのです」「私は仁川に上陸し、奴らを粉砕してみせる」と発言すると、参加者は反論することもなく、畏れによる静寂が会議室を覆った。会議はマッカーサー主導で進み、とある将校は「マッカーサーの催眠術にかかった」と後で気が付くこととなった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 193,
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"text": "この会議の4日後に統合参謀本部から「朝鮮西岸への陸海軍による転回行動の準備と実施に同意する。上陸地点は敵の防衛が弱い場合は仁川に、または仁川の南の上陸に適した海浜とする」という、会議の席では唯一慎重であった陸軍のコリンズによる慎重論が盛り込まれた命令電文が届いた。しかし、統合参謀本部は自分らの保身を考えて上陸予定日8日前の9月7日になってから、マッカーサーの「倍率5,000倍」という予想を問題視したのか「予定の作戦の実現の可能性と成功の確率についての貴下の予想を伝えてもらいたい」という電文をマッカーサーに送っている。マッカーサーは即座に「作戦の実現可能性について、私はまったく疑問をもっていない」と回答したところ、ブラッドレーはその回答をトルーマンに報告し「貴下の計画を承認する。大統領にもそう伝えてある」と簡潔な電文をマッカーサーに返した。マッカーサーはこのトルーマンとブラッドレーの行動を見て、「この作戦が失敗した場合のアリバイ作りをしている」と考えて、骨の髄までぞっとしたと後年語っている。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 194,
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"text": "統合参謀本部は作戦が開始されるまで機密保持を厳重にしていたが、GHQの機密保持はお粗末であったうえ、当時の日本の港湾の警備は貧弱でスパイ天国となっており、アメリカ軍が大規模な水陸両用作戦を計画していることは中国に筒抜けであった。そこで毛沢東は参謀の雷英夫にアメリカ軍の企図と次の攻撃地点を探らせた。雷はあらゆる情報を検証のうえで上陸予想地点を6か所に絞り込んだがそのなかで仁川が一番可能性が高いと毛に報告した。毛は周恩来を通じ金日成に警告している。また、北朝鮮にいたソ連軍の軍事顧問数名も金に仁川にアメリカ軍が上陸する可能性を指摘したが、金はこれらの助言を無視した。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 195,
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"text": "マッカーサーは佐世保に向かい、司令船となるAGC(揚陸指揮艦)のマウント・マッキンリー(英語版)に乗艦すると、仁川に向けて出港した。その後には7か国261隻の大艦隊が続いた。艦隊は途中台風に遭遇したが、9月14日にマウント・マッキンリーは仁川沖に到着した。マッカーサーが到着する前までに仁川港周辺は、先に到着した巡洋艦や駆逐艦による艦砲射撃や空母艦載機による空襲で徹底的に叩かれていた。もっとも念入りに叩かれたのは仁川港の入り口に位置する月尾島であったが、金は中国やソ連の警告にもかかわらず仁川周辺に警備隊程度の小兵力しか配置しておらず、月尾島にも350人の守備隊しか配置されていなかった。9月15日の早朝5時40分に海兵第1師団の部隊が重要拠点月尾島に上陸したが、たった10名の負傷者を出したのみで占領された。損害が予想に反して軽微であったと知らされたマッカーサーは喜びを隠し切れず、参謀らに「それよりもっと多くの者が交通事故で死んでいる」と得意げに語ると、海軍と海兵隊に向け「今朝くらい光り輝く海軍と海兵隊はこれまで見たことがない」と電文を打たせ、自分は幕僚らとコーヒーを飲んだ。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"text": "月尾島攻略後も、ブラッドレーやコリンズの懸念に反して仁川上陸作戦は大成功に終わった。作戦はマッカーサーの計画よりもはるかに順調に進み、初日の海兵隊の戦死者はたった20名であった。戦局は一気に逆転しマッカーサーの名声と人気を大きく高めた。見事に上陸を成功させた国連軍は金浦飛行場とソウルを奪還するために前進した。北朝鮮軍は仁川をあっさり放棄した代わりに、ソウルを防衛する覚悟で、首都を要塞化していた。マッカーサーは仁川に上陸すると国連軍は5日でソウルを奪還すると宣言したが、北朝鮮軍の猛烈な抵抗で2週間を要した。国連軍がソウル全域を占領すると、北朝鮮軍は13万人の捕虜を残して敗走していった。マッカーサーは9月29日に得意満面で金浦飛行場に降り立つと、正午にソウルの国会議事堂で開かれた式典にのぞみ「ソウルが韓国政府の所在地として回復された」と劇的な宣言を行った。マッカーサーから「行政責任の遂行」を求められた李承晩は涙を流しながら、韓国全国民を代表して「我々はあなたを崇拝します。あなたを民族の救世主として敬愛します」と述べた。マッカーサーはこの日もソウルに宿泊することはなく、午後には東京に帰ったが、長い軍歴での最大の勝利で、今までで最高の栄光を手にしたと感じていた。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 197,
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"text": "仁川上陸作戦の大成功によりマッカーサーの自信は肥大化し、その誇大な戦況報告にワシントンも引きずられ、統合参謀本部は国連決議を待たず、9月28日付で北朝鮮での軍事行動を許可した。戦争目的が「北朝鮮軍の侵略の阻止」から「北朝鮮軍の壊滅」にエスカレートしたのである。国防長官ジョージ・マーシャルはマッカーサーに「38度線以北に前進することに関して、貴下には戦略的・戦術的に何の妨げもないものと考えていただきたい」と極秘電を打つと、マッカーサーは「敵が降伏するまで、朝鮮全土が我が軍事作戦に開かれているものと理解する」と回答している。しかし、中ソの全面介入を恐れるトルーマンは、「陸海軍はいずれの場合も国境を越えてはならない」「国境付近では韓国軍以外の部隊は使用しない」「中国東北部およびソ連領域への空海からの攻撃を禁止する」という制限を設けた。中ソの全面介入の防止の他にも、ホイト・ヴァンデンバーグアメリカ空軍参謀総長は、空軍の作戦域を拡大することで自然・戦闘損失で空軍力を消耗し、その補充のために2年間はヨーロッパ方面の防空力が裸になると考え、国防総省もその考えを支持し、マッカーサーにも伝えられた。しかしこの作戦制限は、全面戦争で勝利することが信条のマッカーサーには、束縛以外の何物にも感じられなかった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 198,
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"text": "10月15日にウェーク島で、トルーマンとマッカーサーは朝鮮戦争について協議を行った。トルーマンは大統領に就任して5年半が経過していたが、まだマッカーサーと会ったことがなく、2度にわたりマッカーサーに帰国を促したが、マッカーサーはトルーマンの命令を断っていた。しかし、仁川上陸作戦で高まっていたマッカーサーの国民的人気を11月の中間選挙に利用しようと考えたトルーマンは、自らマッカーサーとの会談を持ちかけ、帰国を渋るマッカーサーのために会談場所は本土の外でよいと申し出た。トルーマン側はハワイを希望していたが、マッカーサーは夜の飛行機が苦手で遠くには行きたくないと渋り、結局トルーマン側が折れて、ワシントンから7,500km、東京からは3,000kmのウェーク島が会談場所となった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 199,
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"text": "トルーマンが大いに妥協したにもかかわらず、マッカーサーはこの会談を不愉快に思っており、ウェーク島に向かう途中もあからさまに機嫌が悪かった。同乗していた韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオに、「(トルーマンの)政治的理由のためにこんな遠くまで呼び出されて時間の無駄だ」と不満をもらし、トルーマンが自分の所(東京)まで来てしかるべきだと考えていた。マッカーサーは周囲の配慮で、会談前に睡眠をとってもらおうとトルーマン機が到着する12時間も前にウエーク島に到着していたが、苛立っていたので殆ど睡眠できなかった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 200,
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"text": "2人の不仲を強調する意図で、トルーマンの機を先に着陸させるために島の上空でマッカーサー機が旋回し、わざと会談に1時間遅れて到着したためトルーマンが激怒して「最高司令官を待たせるようなことを二度とするな。わかったか」と一喝したなどのエピソードが流布されているが、これは作り話である。しかし、マッカーサーがトルーマンに対して礼儀をわきまえなかったのは事実であり、通常の慣習であれば軍の最高司令官たる大統領を迎えるときは、大統領が乗り物(この時は飛行機)から降りる際に出迎える高級軍人は準備万端で待機しておかなければならなかったが、マッカーサーはわざと少し離れた場所に停車してあるジープに座って待っており、トルーマン機が着陸して、トルーマンが据えられたタラップに現れたところを見計らってジープから降りてトルーマンに向けて歩き出している。そのため、マッカーサーがトルーマンのところに到着したのは、タラップから地上に降り立ったのとほぼ同時となった。マッカーサーはさらに、通常であれば敬礼で出迎えなければならないのに対し、トルーマンに握手を求めている。トルーマンはマッカーサーの非礼さに不快感を覚えたが、ここは笑顔で応じて「ずっと会いたいと思っておりました」と話しかけている。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 201,
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"text": "2人はウエーク島にある唯一の高級車であったシボレーに乗って、会談会場の航空会社事務所に向かった。トルーマンはごく普通の常識人で、相手が誰でもじっくりと話し込めば必ずうまくいくと思っており、また自分の交渉術にも多少の自信があって面と向かえば、相手の考えを大体読むことはできたし、誠実に対応すれば必ず相手も応じてくれると考えて、実際にアイゼンハワーやブラッドレーのような将軍たちとは意思の疎通ができていたが、マッカーサーはトルーマンの想定外の存在であった。マッカーサーは席に着くと周囲に構わずにパイプに煙草の葉をつめ始めたが、火をつける前に目の前のトルーマンに気が付いて、申し訳程度に「煙草は嫌ではないですか?」とたずねた。そこでトルーマンがジョークを交えて「問題ありません。おそらく私は、アメリカでもっとも顔に煙草の煙を吹きつけられています」と答えると、マッカーサーは遠慮することなく多くの煙草を吸い、狭くて暑苦しい会議室にはパイプ煙草の強い匂いが充満した。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 202,
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"text": "その後の会談ではマッカーサーが、「どんな事態になっても中共軍は介入しない」「戦争は感謝祭までに終わり、兵士はクリスマスまでには帰国できる」と言い切った。さらに「最初の1、2か月の間に彼らが参戦していたら、それは決定的だったが、我々はもはや彼らの参戦を恐れていない」「彼らには空軍力はないが、我が方は朝鮮半島にいくつも空軍基地を有している。中共軍が平壌に迫っても大規模殺戮になるだけだろう」とも付け加えた。このマッカーサーの楽観的な予想は、トルーマン側の高官が連れてきていた女性秘書に正確に記録されており、後にマッカーサーを追い詰めることとなる。トルーマンは「きわめて満足すべき愉快な会談だった」と社交辞令を言い残して機上の人となったが、本心ではマッカーサーの不遜な態度に不信感を強め、またマッカーサーの方もよりトルーマンへの敵意を強め、破局は秒読みとなった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
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"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "その後もマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境の鴨緑江にまで迫った。先にソ連に地上軍派遣を要請して断られていた金日成は、1950年9月30日に中国大使館で開催された中華人民共和国建国1周年レセプションに出席し、その席で中国の部隊派遣を要請し、さらに自ら毛沢東に部隊派遣の要請の手紙を書くと、その手紙を朴憲永に託して北京に飛ばした。毛沢東はすぐに行動を起こし、10月2日に中国共産党中央政治局常務委員会を招集すると「一日の遅れが将来にとって決定的要因になる」「部隊を送るかどうかが問題ではなく、いつ送るか、誰が司令官になるかだ」と政治委員らに説いた。政治委員らも、アメリカ軍が鴨緑江に到達すれば川を渡って中国に侵攻してくる、それを阻止するには部隊派遣をする必要がある、との考えに傾き、毛沢東の決断どおり部隊派遣を決め、10月8日に金日成に通知した。ただしアメリカとの全面衝突を避けるため、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍から組織するが、形式上は義勇兵とした「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の派遣とした。毛沢東はヨシフ・スターリンに航空支援を要請するが、スターリンはアメリカとの直接対決を望んでおらず、毛沢東に中国国内での上空支援と武器・物資の支援のみに留めるものにすると返答している。中国軍の指揮官となった彭徳懐は、ソ連の航空支援なしでは作戦に不安を感じていたが、部隊派遣は毛沢東の強い意思で予定どおり行われることとなった。さらに毛沢東は北朝鮮軍の指揮権も彭徳懐に一任することと決め、戦争は中国の指揮下に置かれることとなった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 204,
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"text": "10月10日に約18万人の中国野戦第4軍が鴨緑江を越えて北朝鮮入りし、その数は後に30万人まで膨れ上がった。マッカーサーはこの危険な兆候を察知していたが、敵の意図を読み取ることが出来ず、一層攻撃的になった。当初はトルーマンの指示どおり、国境付近での部隊使用を韓国軍のみとするため、中朝国境から40から60マイル(64kmから97km)離れた場所を韓国軍以外の国連軍の最深到達点と決めたが、10月17日にはトルーマンの指示を破り、その最深到達点を中間点に変え、さらに国境深く前進するように各部隊司令官に命令した。中朝国境に近づけば近づくほど地形は急峻となり、補給が困難となっていったが、マッカーサーはその事実を軽視した。マッカーサーのこの作戦指揮は、毛沢東の思うつぼであった。かつて毛沢東が参謀の雷英夫にマッカーサーの人物について尋ね、雷英夫が「傲慢と強情で有名です」と回答すると、毛沢東は「それであれば好都合だ、傲慢な敵を負かすのは簡単だ」と満足げに答えたということがあったが、いまや中国が望むのはさらにマッカーサーが北上を命令し、補給ラインが危険なまでに伸びきることであった。しかし中国の罠にはまるようなマッカーサーの命令違反に、表立って反対の声は出なかった。マッカーサーの圧倒的な名声にアメリカ軍内でも畏敬の念が強かったこと、また強情なマッカーサーに意見するのは無益だという諦めの気持ちもあったという。そのような中でも副参謀長のマシュー・リッジウェイは異論を唱えたが、意見が取り上げられることはなかった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 205,
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"text": "待ち受ける中国人民志願軍の大軍は、降り積もる雪とその自然環境を巧みに利用し、アメリカ軍に気づかれることなく接近することに成功した。S.L.Aマーシャル(英語版)はその見事な組織力を『影無き幽霊』と形容し「その兵力、位置、どこに第一撃を加えてくるかの秘密は完全に保たれていて、二重に武装しているに等しかった」と賞している。10月26日には韓国軍と中国軍の小競り合いがあり、中国兵の18名を捕虜にし、救援に駆けつけたアメリカ軍第1海兵師団は中国軍の戦車を撃破している。またアメリカ第8軍司令ウォルトン・ウォーカー中将は非常に優秀な中国軍部隊が国境付近に存在することを敏感に感じ取っており、慎重に進撃していたが、これらの情報が重要視されることはなかった。というのも連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部(G2)部長チャールズ・ウィロビーらマッカーサーの幕僚らは、マッカーサーの先入観に疑いを挟むような報告を最小限に留め、マッカーサーに正確な情報が届かなかったことも一因であった。通常の指揮官であればできるだけ多くの正確な情報を欲しがるが、マッカーサーは情報報告が自分の行おうとしていることに完全に融合しているのを望んでいた。ウィロビーらはマッカーサーの性格を熟知しており、マッカーサーがやろうとしている鴨緑江への最後の進撃を妨害するような情報をそのまま上げることはせず、慎重に細工された情報をマッカーサーに報告していたため、マッカーサーに正確な情報が届いていなかった。そのため、新聞各紙が先に中国軍の不穏な動きを察知し記事にしたが、GHQはワシントンに「確認されていない」と楽観的な報告をしている。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 206,
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"text": "そのような状況下で、11月1日に中国人民志願軍が韓国軍第二軍団に襲いかかった、韓国軍3個師団は装備を放棄して全面的に敗走した。朝鮮半島は国境に近づくほど北に広がっているため、国境に向けて進撃していたアメリカ第8軍と第10軍の間はかなり開いていた。その第8軍の右翼に展開していた韓国軍が崩壊すると、中国人民志願軍は笛や喇叭を鳴らしながら第8軍の側面に突撃してきた。第8軍は人海戦術の前に、たちまち大損害を被った。マッカーサーは中国軍の大攻勢開始の報告を受けていたが、中国が本格的に介入してきたのかどうか判断することが出来ず、自分自身で混乱していることを認めた。そのため、前線部隊への的確な指示が遅れ、その間に各部隊は大きな損害を被ることとなった。戦況の深刻さをようやく認識したマッカーサーは国防総省に「これまで当司令部はできる限りのことをしてきたが、いまや事態はその権限と力を超えるとこまで来ている」「われわれは全く新しい戦争に直面している」といささかヒステリックな打電を行っている。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 207,
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"text": "11月28日になって、ようやくマッカーサーは軍司令に撤退する許可を与え、第8軍は平壌を放棄し、その後38度線の後方に撤退した。巧みに撤退戦を指揮していた第8軍司令官のウォルトン・ウォーカー中将であったが、12月23日、部隊巡回中に軍用ジープで交通事故死した。マッカーサーはその報を聞くと、以前から決めていたとおり、即座に後任として参謀本部副参謀長マシュー・リッジウェイ中将を推薦した。急遽アメリカから東京に飛んだリッジウェイは、12月26日にマッカーサーと面談した。マッカーサーは「マット、君が良いと思ったことをやりたまえ」とマッカーサーの持っていた戦術上の全指揮権と権限をリッジウェイに与えた。リッジウェイはマッカーサーの過ちを繰り返さないために、即座に前線に飛んで部隊の状況を確認したが、想像以上に酷い状況で、敗北主義が蔓延し、士気は低下し、指揮官らは有意義な情報を全く持たないというありさまだった。リッジウェイは軍の立て直しを精力的に行ったが、中国人民志願軍の勢いは止まらず、1951年1月2日はソウルに迫ってきた。リッジウェイはソウルの防衛を諦め撤退を命じ、1月4日にソウルは中国人民志願軍に占領されることとなった。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 208,
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"text": "義勇軍側の人海戦術に押され、マッカーサーとワシントンは共にパニック状態に陥っていた。マッカーサーは大規模な増援と、原爆使用も含めた中国東北部空爆を主張したが、第二次世界大戦後に常備軍の大幅な縮小を行ない、ヨーロッパで冷戦が進みソ連と向き合うアメリカに、大規模な増援を送る余裕はなかった。中国東北部への爆撃は戦争の拡大をまねき、また原爆については、朝鮮の地勢と集約目標がないため現実的ではないと否決された。マッカーサーは雑誌のインタビューに答える形で「中国東北部に対する空襲の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」と作戦に制限を設けているトルーマンをこき下ろし、また中国軍に追われ敗走しているのにもかかわらず「戦術的な撤退であり、敗走などと広く宣伝されているのは全くのナンセンスだ」と嘯いた。トルーマンは激怒し、ワシントン中枢のマッカーサーへの幻滅感は増していった。マッカーサーからの批判に激怒したトルーマンは、統合参謀本部に命じてマッカーサーに対し、公式的な意見表明をする場合は上級機関の了承を得るようにと指示させたが、マッカーサーはこの指示を無視し、その後も政治的な発言を繰り返した。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 209,
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"text": "ソウルから撤退したリッジウェイであったが、撤退はそこまでで、国連軍を立ち直らせると、1月26日には戦争の主導権を奪い返すための反転攻勢サンダーボルト作戦を開始し、中国の義勇軍の攻勢を押し留めた。マッカーサーはこの時点で中国が全面的に介入してきていると考え、ワシントンに再度前の話を蒸し返し、「国連軍が蹂躙されないためには、中国沿岸を封鎖し、艦砲射撃と空爆で戦争遂行に必要な工業力を破壊」することと国民党軍を参戦させるなど、中国との全面戦争突入を主張した。しかしトルーマンの方針は、日本か台湾が脅かされれば対中国の本格的作戦に突入するが、それ以外では紛争は朝鮮半島の中に限定するとの意向であり、マッカーサーをたしなめるような長文の返答をしている。参謀総長オマール・ブラッドレーはマッカーサーの戦争拡大要求は、戦争の状況よりむしろ「自分のような軍事的天才を虚仮にした中国紅軍の将軍たちへの報復」に関係があると推測していた。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 210,
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"text": "しかし、リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは十分可能であると判断しており、中国軍の第3期攻勢を撃破すると2か月で失地を取り戻し、1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。戦況の回復はリッジウエイの作戦指揮によるもので、マッカーサーの出番はなかったため、それを不服と思ったマッカーサーは脚光を浴びるためか、東京から幕僚と報道陣を連れて前線を訪れた。しかしある時、リッジウェイが計画した作戦開始前にマッカーサーが前線に訪れて報道陣に作戦の開始時期を漏らしてしまい、リッジウェイから自重してほしいとたしなめられている。マッカーサーの軍歴の中で、真っ向から部下に反抗されたのはこれが初めてであった。リッジウェイは自伝でマッカーサーを「自分でやったのではない行為に対しても、名誉を主張してそれを受けたがる」と評している。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
{
"paragraph_id": 211,
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"text": "ワシントンは、この時点では朝鮮半島の武力統一には興味を示さず、アメリカ軍部隊を撤退させられるような合意を熱望していた。一方マッカーサーは、リッジウェイの成功が明らかになると、自分の存在感をアピールするためか「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を策定したとシーボルドに話している。のちにこれは「最長でも10日で戦勝できる」に短縮された。その構想とは、戦後マッカーサーが語ったところによれば、満州に50個もの原爆を投下し中ソの空軍力を壊滅させた後、海兵隊と中国国民党軍合計50万名で中国軍の背後に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してきた第八軍と中朝軍を包囲殲滅、その後に日本海から黄海まで朝鮮半島を横断して放射性コバルトを散布し、中ソ軍の侵入を防ぐというもので、この戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てるとしていた。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "また、後年リッジウェイは「マッカーサーは、中国東北部の空軍基地と工業地帯を原爆と空爆で破壊した後は残りの工業地帯も破壊し、共産主義支配の打破を目指していた」「ソ連は参戦してこないと考えていたが、もし参戦して来たらソ連攻撃のための措置も取った」と推察している。この考えに基づきマッカーサーは、何度目になるかわからない原爆の前線への移送と使用許可をトルーマンに求めたが、トルーマンは返事を保留した。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーへの返答前に、トルーマンは朝鮮問題解決の道を開くため停戦を呼びかけることとし、3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにもその内容が伝えられた。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、1951年3月24日に一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下においても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談する用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したが、これは中国への実質的な「最後通牒」に等しく、中国を強く刺激した。また、野党共和党の保守派の重鎮ジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニア前下院議長からマッカーサーに宛てた、台湾の国民党兵力を利用する提案とトルーマン政権のヨーロッパ重視政策への批判の手紙に対し、マッカーサーがマーティンの意見への賛同とトルーマン政権批判の返事を出していたことが明らかになり、一軍司令官が国の政策に口を出した明白なシビリアン・コントロール違反が相次いで行われた。これは、1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じて指示した「公式的な意見表明は上級機関の了承を得てから」にも反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」と激怒した。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"text": "またこの頃になるとイギリスなどの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるがトルーマンはマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"text": "4月6日から9日にかけてトルーマンは、国務長官ディーン・アチソン、国防長官ジョージ・マーシャル、参謀総長オマール・ブラッドレーらと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施するもっとも賢明な方法について話し合われた。また皮肉にもこの頃にマッカーサーの構想を後押しするように、中国軍が中国東北部に兵力を増強し、ソ連軍も極東に原爆も搭載できる戦略爆撃機を含む航空機500機を配備、中国東北部には最新レーダー設備も設置し、日本海に潜水艦を大規模集結し始めた。これらの脅威に対抗すべく、やむなくマッカーサーの申し出どおり4月6日に原爆9個をグアムに移送する決定をしている。しかし、マッカーサーが早まった決断をしないよう強く警戒し、移送はマッカーサーには知らせず、また原爆はマッカーサーの指揮下にはおかず戦略空軍の指揮下に置くという保険をかけている。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 216,
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"text": "4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊に記事にするという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に辞任するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表をたたきつけるようなことはさせない、私が奴をくびにしてやるのだ」とブラッドレーに言った。トルーマンは4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した。解任の理由は「国策問題について全面的で活発な討論を行うのは、我が民主主義の立憲主義に欠くことができないことであるが、軍司令官が法律ならびに憲法に規定された方式で出される政策と指令の支配をうけねばならぬということは、基本的問題である」とシビリアン・コントロール違反が直接の理由とされた。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 217,
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"text": "日本時間では午後にこの報は日本に達したが、マッカーサーはそのとき妻のジーンと共に、来日した上院議員ウォーレン・マグナソンとノースウエスト航空社長のスターンズと会食をしていたが、ラジオでマッカーサー解任のニュースを聞いた副官のシドニー・ハフ大佐は電話でジーンにその情報を伝えた。その後、ブラッドレーから発信された「将軍あての重要な電報」が通信隊より茶色の軍用封筒に入った状態でハフの手元に届いた。その封筒の表には赤いスタンプで「マッカーサーへの指示」という文字が記してあった。ハフはマッカーサーが居住していたアメリカ大使公邸にこの封筒を持って行ったが、マッカーサーの寝室の前にいたジーンがその封筒を受け取り、寝室のマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かって「ジーニー、やっと帰れるよ」と言った。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 218,
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"text": "その電報にはトルーマンよりの解任の命令の他、「指揮権はマシュー・B・リッジウェイ陸軍大将に移譲されたい。あなたは好きな場所に望みどおりの旅行を行うために必要な命令を出すことが許される」とも記しており、突然の解任劇にも冷静だったマッカーサーは、フィリピンと南太平洋とオーストラリアをゆっくり回ろうとも考えたが、かつて参謀総長として仕えた元大統領のハーバート・フーヴァーから国際電話があり、既に共和党の実力者とも連絡を取り合っていたフーヴァーは「トルーマンやマーシャルや、やつらの宣伝屋が君の名声を汚さないうちに、一日も早く帰国したまえ」と忠告している。共和党は、マッカーサーが帰国後に両院合同会議で演説することを民主党支配であった上下両院で了承させ、さらにマッカーサーの解任問題を通じてトルーマン政権を弾劾することも考えていた。アメリカ本国の政権争いに担ぎ出されることとなったマッカーサーであったが、腹心であったGHQのウィリアム・ジョセフ・シーボルド外交局長には本心をさらけ出しており、「(マッカーサーの)心を傷つけられるのは、大統領の選んだやり方にある。陸軍に52年も我が身を捧げたあと、公然たる辱めを受けるとはあまりに残酷である」とトルーマン対する不満を述べ、それを涙を浮かべながら聞いていたシーボルトは「彼(マッカーサー)のすることを目にし、言うことを聞いているのがこのときほどつらいことはなかった」と述べている。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 219,
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"text": "フーヴァーの忠告どおり直接帰国することとしたマッカーサーは、4月16日にリッジウェイに業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰めかけ、『毎日新聞』と『朝日新聞』はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。マッカーサーも感傷に浸っていたのか、沿道の見送りを「200万人の日本人が沿道にびっしりと並んで手を振り」と自らの回顧録に誇張して書いている。しかし、沿道に並んだ学生らは学校からの指示による動員であったという証言もある。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
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"paragraph_id": 220,
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"text": "首相の吉田茂は「貴方が、我々の地から慌ただしく、何の前触れもなく出発されるのを見て、私がどれだけ衝撃を受けたか、どれだけ悲しんだか、貴方に告げる言葉もありません」という別れを悲しむ手紙をマッカーサーに渡し、4月16日には衆参両議院がマッカーサーに感謝決議文を贈呈すると決議し、東京都議会や日本経済団体連合会も感謝文を発表している。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
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"paragraph_id": 221,
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"text": "マッカーサーは空港で日米要人列席の簡単な歓送式の後に、愛機バターン号で日本を離れた。同乗していたマッカーサーと一緒に辞任したコートニー・ホイットニー前民政局局長へ「日本をもう一度見られるのは、長い長い先のことだろうな」と語ったが、実際にマッカーサーが再度日本を訪れたのは1961年にフィリピンから独立15周年の記念式典に国賓として招かれた際、フィリピンに向かう途中で所沢基地に休憩に立ち寄り、帰りに横田基地で1泊した時であったので、11年後となった。しかしセレモニーもなく、ほとんどの日本人が知らないままでの再来日(最後の来日)であった。マッカーサーと副官らの49トンにも達する家具、43個の貨物、3台の自動車はアメリカ海軍の艦船が公費で東京からマンハッタンに輸送している。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
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"paragraph_id": 222,
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"text": "マッカーサーが帰国した後も、5月に入って吉田内閣は、マッカーサーに「名誉国民」の称号を与える「終身国賓に関する法律案」を閣議決定し、政府以外でも「マッカーサー記念館」を建設しようという動きがあった。マッカーサーにこの計画に対する考えを打診したところ、ホイットニーを通じて「元帥はこの申し出について大変光栄に思っている」という返事が送られている。",
"title": "経歴(朝鮮戦争)"
},
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"paragraph_id": 223,
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"text": "1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイントに自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べ、有名になった。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 224,
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"text": "元となった「歌」には何通りかの歌詞がある。要約すると",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 225,
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"text": "というものである。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 226,
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"text": "議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークのマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その日ビルから降り注いだ紙吹雪やテープは、清掃局の報告によれば2,859トンにもなった。また、1942年にマッカーサーがコレヒドールで孤軍奮闘し国民的人気を博していた時に、コーンパイプやマッカーサーを模したジョッキなどのキャラクターグッズで儲けた業者が、また大量のマッカーサー・グッズを販売したが、飛ぶように売れた。その中にはマッカーサーの演説にも登場した軍歌「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」のレコードもあったが、5種類もの音源で販売された。中には1948年の大統領候補となって落選した際に売れ残っていた在庫をさばいた業者もいたという。住居としていたマンハッタンの高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」のスイートルームには15万通の手紙と2万通の電報と毎日3,000件の電話が殺到し、家族にも各界から膨大な数のプレゼントが送られてくるほど、マッカーサーの国民的人気は頂点に達した。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 227,
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"text": "5月3日から、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーとの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側のリークによりニューヨーク・タイムズ紙に、トルーマンとマッカーサーによる前年10月15日に行われたウェーク島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年にピューリッツァー賞を受賞している。この記事により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは削がれていた。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 228,
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"text": "公聴会が始まると、マッカーサーは「ソ連は朝鮮戦争に深く関与していない」「中共が朝鮮半島から追い出されるくらいの敗北はソ連に大した影響は与えない」「極東地域のソ連軍にアメリカ軍と戦うだけの実力はなく、核兵器も劣っている、従ってソ連と戦うのなら今の方がよい、時間と共にアメリカの優位性は失われていく」など、自身のソ連への評価と情勢判断を雄弁に証言したが、統合参謀本部と議員にはソ連がたとえマッカーサーの分析どおりであったとしても超大国ソ連を刺激する覚悟はなく、マッカーサーの大胆な提案が現実離れしているという考えが大勢を占めていた。ブラッドレーはマッカーサーの提案を「我々を誤った場所で、誤った時期に、誤った敵との誤った戦争に巻き込むことになったであろう」と切り捨てている。また、マッカーサーのソ連への過小評価を聞き、大戦前に日本を過小評価して敗北したマッカーサーの前の過ちを思い出す議員も多かった。しかし、雄弁に公聴会をリードしてきたマッカーサーも、民主党のブライアン・マクマーン上院議員からの、ニューヨーク・タイムズの記事に書かれたとおり「あなたは中国は参戦しないと確信していたのではなかったのか?」との質問を受けると、これまでのように否定することもできず「私は中国の参戦はないと思っていた」と認めざるを得なくなった。この白状によりマッカーサーの立場は弱くなっていき、マクマーンがたたみかけるように「将軍はアメリカと西側連合軍が西ヨーロッパでソ連軍の攻撃に耐えることができるとお思いか?」と質問すると、マッカーサーは「私の責任地域(極東)以外のことに巻き込まないでほしい。グローバルな防衛に関する見解はここで証言すべきことではない」と答えたが、リンドン・B・ジョンソン上院議員からのその責任地域の「中国軍が鴨緑江以北に追いやられた場合、中国軍は再度国境線を突破し朝鮮半島に攻め込んではこないのか?」という質問に対しては、まともな返答を行うことができなかった。それまで専門家を自認し自説を雄弁に語っていた強気な姿勢は完全に失われ、政権側の民主党の容赦ない質問に一方的な守勢となっていった。",
"title": "経歴(退任後)"
},
{
"paragraph_id": 229,
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"text": "マッカーサーへの質疑は3日間にわたり、トルーマン政権はマッカーサーに対し勝利を収めたが、これでトルーマンが責任追及から逃れられたわけではなく、鴨緑江流域での敗北はマッカーサーと同様にトルーマン政権をも破壊し、この後民主党は政権を失うこととなる。しかし、マッカーサー解任当時は「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」とタイム誌に書かれるほどの不人気さで、大統領再選を断念したトルーマンも、文民統制の基本理念を守り、敢然とマッカーサーに立ち向かったことが次第に評価されていき、在職時の不当な低評価が覆され、今日ではアメリカ国民から歴代大統領の中で立派な大統領の1人とみなされるようになっている。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 230,
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"text": "この公聴会の期間中、出席者はマッカーサーの提案で昼休みも取らず、サンドイッチとコーヒーを会場に運ばせて昼食とし、休みなく質疑を続けた。特にマッカーサーは、質疑中には一度としてトイレにすら行かず、とある議員から「元帥は71歳なのに大学生のような膀胱を持っている」と変な感心をされている。この3日間にわたる質疑中に、今日でもよく日本で引用される「中国に対しての海空封鎖戦略」や「日本人は12歳」証言もなされている(#マッカーサーのアメリカ議会証言録を参照)。 この聴聞会の後は軍人として活動することはなく、事実上退役したが、アメリカ軍において元帥には引退の制度がないため、軍籍そのものは生涯維持された。",
"title": "経歴(退任後)"
},
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"paragraph_id": 231,
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"text": "マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。テキサス州を皮切りに11州を廻ったが、行く先々で熱狂的な歓迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で1952年の大統領選を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を繰り返した。しかし、後述する1951年5月3日から3日間行われた軍事外交共同委員会において第二次世界大戦での日本の行動を\"自衛\"と解釈できるような証言をしたこともあり、時が経つにつれ次第に聴衆や共和党からの支持を失っていった。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 232,
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"text": "1951年9月にサンフランシスコで日本国との平和条約が締結されたが、その式場にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーにとことん冷淡であり、フランクリン・ルーズヴェルトの元大統領顧問バーナード・バルークなどはトルーマン政権にマッカーサーにも式典への招待状を送るようにと強く進言していたが、ディーン・アチソン国務長官はそれを断っている。首席全権であった吉田茂が、マッカーサーと面談し平和条約についての感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省よりは「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。その頃、マッカーサーは全国遊説の旅の途中であったが、サンフランシスコに招待されなかったことについて聞かれると「おそらく誰かが忘れたのであろう」と素っ気なく答えている。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 233,
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"text": "その後も相変わらずマッカーサーの政権批判は続いたが、英雄マッカーサーの凱旋を当初熱狂的に歓迎していた全米の市民も、1952年に入る頃には熱気も冷め始めており、ジャクソンで行われた演説は反対の叫び声などで25回も演説が中断した、と『ニューヨーク・タイムズ』紙で報じられた。マッカーサーに対する共和党内の支持は広がらなかったが、大統領の座に並々ならぬ執着を見せ、同じく劣勢であった候補者ロバート・タフトと選挙協力の密約を行うなど最後の挽回を試み、7月のシカゴであった共和党大会の基調演説のチャンスを与えられたが、その演説は饒舌で演説上手なマッカーサーのものとは思えない酷いもので、演説に集中できない聴衆が途中から私語を交わし始め、最後は演説が聞き取れないほどまでになった。マッカーサーも敗北を悟るとひどく落胆したものの、即座にニューヨークに戻り、結局共和党の大統領候補には元部下のアイゼンハワーが選出された。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 234,
"tag": "p",
"text": "大統領候補となったアイゼンハワーとマッカーサーは、共和党大会後の11月に6年ぶりに再会した。かつての上司の顔を立てる意味であったのか、アイゼンハワーからの会談の申し出であったが、マッカーサーはアイゼンハワーに自らが作成した14か条の覚書を手渡した。その内容は、ヨシフ・スターリンと首脳会談を開き、「東西ドイツ及び南北朝鮮の統一」「アメリカとソ連の憲法に交戦権否定の条項を追加」などを提案し、スターリンが尻込みするようであれば北朝鮮で核兵器を使用せよ、などという、大胆だという以外は何の価値もない提案であった。その後、アイゼンハワーは大統領本選にも勝利して第34代大統領に就任したが、アイゼンハワーらホワイトハウスもペンタゴンもマッカーサーに意見を求めるようなことはなかった。",
"title": "経歴(退任後)"
},
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"paragraph_id": 235,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーはホテルウォルドルフ=アストリアに永住することにした。ホテル側も通常は1日133ドルするスイートルームを月額450ドルで提供している。そのスイートルームには巨大な屏風を始めとして、日本統治時に贈られた物品が大量に飾られていたが、中にはマニラホテルで日本軍に一時奪われた、父アーサーが明治天皇から送られた銀の菊花紋章入りの花瓶も飾られてあった。マッカーサーは、アメリカ陸軍元帥として終生に渡って年俸19,541ドルを受け取っていた他、移動の際は鉄道会社が大統領待遇並みの特別列車を準備し、地方に遊説に行けばその土地の最高級ホテルがスイートルームを何部屋も準備しているなど、優雅な生活ぶりであった。",
"title": "経歴(退任後)"
},
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"paragraph_id": 236,
"tag": "p",
"text": "1952年にマッカーサーはレミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。その後、レミントンランドはスペリー社に買収されたが、マッカーサーはスペリー社の社長に迎えられた(その後ユニシスとハネウェルになる)。スペリ―社の主要取引先はペンタゴンであり、マッカーサー招聘は天下りの意味合いも強く、年俸は10万ドルと高額ながら日常業務には何の役割も持たされず、週に3 -4日、4時間程度出社し国際情勢について助言するだけの仕事であった。その為時間に余裕があったが、関心ごとは野球やボクシングなどのスポーツ観戦に限られていた。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 237,
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"text": "1955年のミズーリ号での降伏式典と同じ日に、日本から外相の重光葵がマッカーサーを訪ねた。マッカーサーは感傷的に日本占領時代を回想し、昭和天皇との初会談の様子を話し、極東国際軍事裁判は失敗であったと悔やんでいる。1960年には勲一等旭日桐花大綬章が贈られ「最近まで戦争状態にあった偉大な国が、かつての敵司令官にこのような栄誉を与えた例は、私の知る限り歴史上他に例がない」と大げさに喜んでみせた。",
"title": "経歴(退任後)"
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"text": "1961年にはフィリピン政府が独立15年式典の国賓としてマッカーサーを招待した。すっかり過去の人となり余生を過ごしていたマッカーサーにとって、自らがセンチメンタルジャーニーと名付けたように感傷旅行となった。フィリピン政府はマッカーサーをたたえて国民祝祭日を宣し、お祝いの行事が1週間続いた。すっかり涙もろくなっていたマッカーサーは、フィリピン陸軍の中隊点呼にマッカーサーの名前が残っていることを知って目元に涙を浮かべた。再建されたマニラホテルでの昼食会では、誰ともなしに『 レット・ミー・コール・ユー・スウィート・ハート(英語版)』の大合唱となったが、それを聞いたマッカーサーは感激のあまり、普段は家族の前でしかやらないジーンとの抱擁を公衆の面前で行った。その後、マッカーサーはマニラ中央にあるルネタ公園で多数の観衆の前で演説を行ったが、耐えがたい気持ちで別れの言葉を告げた。「歳月の重荷に耐えかねて、わたしはもう二度と、あの誓いは果たせそうにありません。『I shall return』あの誓いを」実際にこれが最後のフィリピン訪問となった。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 239,
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"text": "トルーマン、アイゼンハワー両政権はマッカーサーに対し冷淡な態度に終始したが、第35代大統領ジョン・F・ケネディもマッカーサーに好意を抱いておらず、むしろ尊大で過大評価された存在との認識であった。太平洋戦争時、ケネディはマッカーサーが率いた連合軍南西太平洋方面軍に所属した魚雷艇PT109(英語版)の艇長で、マッカーサーの配下であった。ケネディはかつての上官マッカーサーと1961年4月にニューヨークで会談したが、その席でケネディのマッカーサーに対する見方が大きく変わり、1961年7月にはエアフォースワンを派してマッカーサーをホワイトハウスの昼食会に招待している。その席でケネディとマッカーサーは意気投合し、昼食が終わった後、3時間も話し込んでいる。特に泥沼化しつつあったベトナム情勢での意見交換の中で、マッカーサーはロバート・マクナマラ国防長官らケネディ側近が主張しているドミノ理論をせせら笑い「アジア大陸にアメリカの地上軍を投入しようと考える者は頭の検査でもしてもらった方がいい」と自分が朝鮮半島で失敗した苦い経験を活かした忠告を行ったが、その的を射た忠告は顧みられることはなく、ケネディは「軍事顧問団」と名付けられた正規軍の派遣を増強するなどベトナム戦争への介入を進め、さらにケネディの暗殺後、後任のリンドン・B・ジョンソン大統領はそのままベトナムの泥沼にはまり込んでいった。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 240,
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"text": "1962年にアメリカ上下両院は、マッカーサーに対する「議会およびアメリカ国民の感謝の意」の特別決議案を採択した。ケネディはアメリカ合衆国財務省に命じてマッカーサーに贈る特別の金メダルを作らせた。83歳の誕生日を迎える前にケネディはマッカーサーに最後の公務を依頼した。1964年に開催予定の東京オリンピックのアメリカ選手団内で、全米陸上競技連盟(英語版)(USATF)と全米大学体育協会(NCAA)が一部選手の出場資格問題を巡って激しく対立しており、1928年のアムステルダムオリンピックアメリカ選手団団長の際、同様な紛争を仲裁した経験を持つマッカーサーに、USATFとNCAAの仲裁を依頼したのだった。マッカーサーはケネディの依頼を快諾し、ほどなく問題は解決した。しかし、自らが指揮した日本復興の象徴的なイベントとなった東京オリンピックをマッカーサーが見ることはなかった。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 241,
"tag": "p",
"text": "1962年5月、マッカーサーは、自らの華々しい軍歴の最初の地となり、かつて自分が校長を務めたウェストポイント陸軍士官学校から、同校で最高の賞となるシルバヌスセイヤー賞(英語版)を受け、士官学校生徒を前に人生最後の閲兵と演説を行った。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 242,
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"text": "1964年3月6日に、老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院に入院した。3月29日の手術は腸を2.4mも切り取るなど大がかりなもので、術後そのまま危篤となり、3月30日には腎機能がほとんど停止して3度目の手術を受けた。マッカーサーは危篤状態にもかかわらず、医師、看護婦、付き添い妻に昔話をして笑わせた。入院前、ジーンに「私は今まで何度となくあの死というならず者と対面してきた。だが、今度はついに奴も私をつかまえたようだ。しかし、わたしは頑張るからな」と宣言したとおり4週間に渡って死と戦ったが、4月3日に意識不明となり、4月5日午後2時39分に死去した。84歳没。",
"title": "経歴(退任後)"
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{
"paragraph_id": 243,
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"text": "翌日、遺体はニューヨークのユニバーサルフュネラル教会へ移送されて告別式を行った後、4月8日にワシントンD.C.に戻されて連邦議会議事堂に安置された。そして翌4月9日にバージニア州ノーフォークまで運ばれ、4月11日に聖ポール教会で大統領リンドン・ジョンソンほか数千人が参列して国葬が執り行われた。日本からは代表として吉田茂が出席した。ジョンソンは、全世界のアメリカ軍基地に19発の弔砲を撃つように命じた。",
"title": "経歴(退任後)"
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"paragraph_id": 244,
"tag": "p",
"text": "昭和天皇とマッカーサーの会談については、様々な関係者から内容が伝えられている。当事者である昭和天皇は「男の約束」として終生語らなかったが、一方のマッカーサーは多くの関係者に話し、1964年に執筆した『回顧録』でも披露している。それによると昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」と発言したとあり、それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
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{
"paragraph_id": 245,
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"text": "しかし、マッカーサーの『回顧録』は多くの「誇張」「思い違い」「事実と全く逆」があり、自己弁明と自慢と自惚れに溢れており、史料的な価値は低いものとの指摘もあり、この昭和天皇とのやり取りについても、非喫煙者であった昭和天皇にマッカーサーがアメリカ製のタバコを奨め、昭和天皇が震えた手でタバコを吸ったと言っているなど事実として疑わしい記述もある。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
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{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーから会談の内容を聞いた関係者はかなりの数に上るが、その内容が各人によってかなり異なっている。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "一番身近な関係者は妻のジーン・マッカーサーで、マッカーサー記念館事務局が1984年に41回にもわたってジーンに初のロングインタビューを行っているが、ジーンはこの日の様子を、日本人の使用人が天皇と顔を合わせないよう1か所に閉じ込めておけという指示がマッカーサーからあったことや、昭和天皇は丁寧で礼儀正しい人物と聞いており、最初に出会った人物に深くお辞儀をすると予想されるため、ドアを開けて天皇を迎えるのはフィリピン人のボーイではなく、マッカーサーの副官のボナー・フェラーズ准将と通訳のフォービアン・バワーズ少佐にしようという打ち合わせをしたことなど鮮明に記憶しており、証言の信頼性が高いと思われる。ジーンと側近軍医ロジャー・O・エグバーグは会見の場所となったサロンに続く応接間のカーテンの裏から、この会見をのぞき見していたが、距離が遠くて話はほとんど聞こえなかった。しかし終始和やかな雰囲気で会談は進められていたのを確認している。天皇が帰った後、ジーンはマッカーサーから天皇の発言の内容を聞かされたが、『回顧録』とほぼ同じ内容であったという。また、ジーンと会いたいと皇后が希望していたとのことであったが、ジーンにその気はなく、結局実現しなかった。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーと昭和天皇を一緒に出迎えた(会談には同席していない)マッカーサーの専属通訳で「歌舞伎を救った男」として有名なフォービアン・バワーズ少佐も、マッカーサーから聞いた話として「巣鴨刑務所にいる人にかわり、私の命を奪ってください。彼等の戦争中の行為は私の名においてなされた。責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください」と昭和天皇が語ったと証言している。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "極東国際軍事裁判の首席検事ジョセフ・キーナンは田中隆吉元少将に「マッカーサー元帥に面会した際、元帥はこう言った。自分は昨年9月末に日本の天皇に面会した。天皇はこの戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたいと言った。もし天皇を裁判に付せば、裁判の法廷で天皇はそのように主張するであろう。そうなれば、この裁判は成立しなくなるから、日本の天皇は裁判に出廷させてはならぬ。私は元帥の言もあり、日本にきてからあらゆる方法で天皇のことを調査したが、天皇は平和主義者であることが明らかとなった。......私としては、天皇を無罪にしたい。貴君もそのように努力してほしい」と言ったとされる。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "1955年8月に渡米した当時の外務大臣重光葵はアメリカでマッカーサーと会談したが、その席でのマッカーサーの発言として、「陛下はまず戦争責在の開題を自ら持ち出され、次のようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなわち「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい」これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで証言台に上ることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」という話があったと語っている。重光は渡米前に那須御用邸で昭和天皇に拝謁したが、その際に昭和天皇は「もし、マッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人との友情を忘れた事はない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝してその健康を祈っている」と伝えてほしいと重光に依頼している。マッカーサーは昭和天皇からの伝言を聞くと「私は日本天皇の御伝言を他のなによりも喜ぶものである。私は陛下に御出会いして以来戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。それにもかかわらず陛下のなされたことは未だかつて十分に世に知られて居らぬ。十年前平和再来以来欧州のことが常に書き立てられて陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には天皇陛下こそ新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます」と述べている。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "以上、内容は証言ごとに異なるが“昭和天皇が全責任を負う”とした基本的な部分はマッカーサーの『回顧録』に沿った証言が多い。しかし中には、マッカーサーの政治顧問ジョージ・アチソンがマッカーサーから聞いた話として「裕仁がマッカーサーを訪問したとき、天皇はマッカーサーが待っていた大使邸の応接室に入ると最敬礼した。握手を交しあったあと、天皇は『私は合衆国政府が日本の宣戦布告を受け取る前に真珠湾を攻撃するつもりはなかったが、東条が私をだましたのだ。しかし私は責在を免れるためにこんなことをいうのではない。私は日本国民の指導者であり、国民の行動に責在がある』と言った」と東條英機にも責任があるとも取れる発言をしたとの証言もある。この証言は、『ニューヨーク・タイムズ』が昭和天皇・マッカーサー会談の2日前に、単独インタビューを天皇に行い、その際に記者が「宣戦の詔書が真珠湾の攻撃を開始するために東條大将が使用した如く使用されるというのは、陛下のご意思でありましたか?」と質問したのに対し、天皇が「宣戦の詔書を東條大将が使用した如くに(奇襲攻撃のため)使用する意思はなかった」と答えたため、新聞紙上に「ヒロヒト、真珠湾奇襲の責任をトージョーにおしつける」という大見出しが躍ることとなった事実と符合しており、この際の昭和天皇の発言をもって、天皇はマッカーサーとの会見でも東條に責任を押し付けるような発言をしたと主張する研究者もいる。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 252,
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"text": "一方で日本側は、昭和天皇の他に通訳として外務省の奥村勝蔵が同席した。その奥村が会談の内容を会談後にまとめ、外務省と宮内庁が保管していた『御会見録』が2002年に情報公開されたが、その中にはマッカーサーの『回顧録』にあるような昭和天皇の全責任発言はなく、戦争責任に関する発言としては「此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス」「私モ日本国民モ敗戦ノ現実ヲ十分認識シテ居ルコトハ申ス迄モアリマセン。今後ハ平和ノ基礎ノ上二新日本ヲ建設スル為、私トシテモ出来ル限リ、力ヲ尽シタイト思ヒマス」とかなりトーンダウンしている。これは、作家・児島襄が1975年に取材先非公表ですっぱ抜いたスクープとほぼ同じ内容であったが、奥村の後を継いで天皇の通訳を務めた外務省の松井明が、天皇とマッカーサー、リッジウェイとの会見の詳細を記述した『松井文書』 によれば、松井が「天皇が一切の責任を負われるという発言については、事の重大さを顧慮し自分の判断で記録から削除した」と奥村から直接聞いたと記述している。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 253,
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"text": "また、この会見に同行した(会見の場に同席はしていない)侍従長・藤田尚徳の著書『侍従長の回想』によれば、「外務省でまとめた会見の模様」が便箋5枚にまとめられてきたが、そのまとめによると昭和天皇の発言は「敗戦に至った戦争の、色々な責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私は貴方にお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」であったという。この便箋は昭和天皇の御覧に供したが、そのまま藤田の手元には返ってこなかったとのことであった。ただし、この記述は外務省公開の「御会見録」の内容とは一致しないため、違う資料を引用した可能性も指摘されている。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 254,
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"text": "いずれにしても、昭和天皇との第1回会談の後に、マッカーサーの天皇への敬愛の情は深まったようで、通訳の奥村勝蔵によれば第1回会談の際には天皇を「You」と呼び、奥村に通訳を求める時も「Tell The Emperor(天皇に告げよ)」と高圧的だったが、その後は天皇を呼ぶときは「Your Majesty(陛下)」と尊厳を込めて呼ぶようになったと証言している。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
{
"paragraph_id": 255,
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"text": "そしてマッカーサーは、1946年1月25日に米陸軍省宛てに天皇に関する長文の極秘電文を打ったが、その内容は「天皇を戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるであろう。その結果もたらされる混乱を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば日本国家は分解する」「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地帯や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するといった希望はことごとく消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるであろう」「これらの事態が勃発した場合、100万人の軍隊が半永久的に駐留し続けなければならない」とワシントンを脅す内容で、アメリカ政府内での天皇の戦犯問題は、この電文により不問との方針で大方の合意が形成された。救われたのは昭和天皇ばかりでなく、天皇なしでは平穏無事な占領統治は不可能だったマッカーサーも救われたことになり、この会談の意義は極めて大きかったといえる。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 256,
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"text": "マッカーサーが天皇の権威を日本統治に利用したように、日本側も昭和天皇の身の安全の保障と、民主主義国家日本の象徴(英語 symbol の訳語である)としての天皇制の存続のためにマッカーサーや進駐軍を利用すべく懐柔した。日本政府や皇室は、アメリカ人の貴族的な華麗と虚飾を好む性質を見抜くと、マッカーサーや進駐軍の最上層部に宮中の優雅な行事への招待状を定期的に送った。その行事とは皇居での花見、蛍狩り、竹の子狩り、伝統的な武道の御前試合などであったが、特にアメリカ人を喜ばせたのは皇居で行われる鴨猟であった。皇室の鴨猟はアメリカ人たちがする銃猟ではなく、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網で飛び立つ鴨を捕らえるという猟の手法であり、宮廷らしい優雅さが、連合軍の高官や政府要人たちに好まれた。マッカーサー本人は参加しなかったが、妻のジーンや子供アーサー・マッカーサー4世は喜々として参加した。また、多くのGHQの高官の他、東京裁判の関係者ウィリアム・ウェブ裁判長やジョセフ・キーナン首席検事なども喜んで参加し、日本での忘れがたい思い出となった。そして宮中の行事に参加したアメリカ人らには皇室の菊の紋章つきの引き出物も贈られた。GHQやアメリカのマスコミが日本の「アメリカ化」を得意となって誇っている間に、皇室を中心とする日本人は静かで巧みにアメリカ人を日本化して目的を達しようとしていたのである。そして昭和天皇の身の安全と天皇制の存続をはかるというアメリカと日本の共同作業は最終的に功を奏することとなった。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
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"paragraph_id": 257,
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"text": "占領当時、マッカーサーは多くの日本国民より「マ元帥」(新聞記事、特に見出しではスペースの節約のためにこうした頭文字による略称を採る場合があり、それが読者の口語にも移植したものと考えられる)と慕われ、絶大な人気を得ていた。GHQ総司令部本部が置かれた第一生命館の前は、マッカーサーを見る為に集まった多くの群衆で賑わっていた。敗戦によりそれまでの価値観を全て否定された日本人にとって、マッカーサーは征服者ではなく、新しい強力な指導者に見えたのがその人気の要因であるとの指摘や、「戦いを交えた敵が膝を屈して和を乞うた後は、敗者に対して慈愛を持つ」というアメリカ軍の伝統に基づく戦後の食糧支援などで、日本国民の保護者としての一面が日本人の心をとらえた、という指摘があるが、自然発生的な人気ではなく、自分の人気を神経質に気にするマッカーサーの為に、GHQの民間情報教育局(CIE)が仕向けたという指摘もある。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
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"paragraph_id": 258,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーとGHQは戦時中の日本軍捕虜の尋問などで、日本人の扱いを理解しており、公然の組織として日本のマスコミ等を管理・監督していたCIEと、日本国民には秘匿された組織であった民間検閲支隊(CCD)を巧みに利用し、硬軟自在に日本人の思想改造・行動操作を行ったが、もっとも重要視されたのがマッカーサーに関する情報操作であった。CIEが特に神経をとがらせていたのは、マッカーサーの日本国民に対するイメージ戦略であり、マッカーサーの存在を光り輝くものとして日本人に植え付けようと腐心していた。例えばマッカーサーは老齢でもあり前髪の薄さをかなり気にしていたため、帽子をかぶっていない写真は「威厳を欠く」として新聞への掲載を許さなかった。また、執務室では老眼鏡が必要であったが、眼鏡をかけた姿の撮影はご法度であった。 写真撮影のアングルに対しては異常に細かい注文がつき、撮影はできればマッカーサー自身が、その風貌に自信がある顔、姿の右側からの撮影が要求され、アメリカ軍機関紙・星条旗新聞のカメラマンはひざまずいて、下からあおって撮影するように指示されていた。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
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"paragraph_id": 259,
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"text": "日本人によるGHQ幹部への贈答は日常茶飯事であったが、マッカーサーに対する贈答についての報道は「イメージを損ねる」として検閲の対象になることもあった。例えば、「埼玉県在住の画家が、同県選出の山口代議士と一緒にGHQを訪れ、マッカーサーに自分の作品を贈答した」という記事は検閲で公表禁止とされている。 マッカーサーへの非難・攻撃の記事はご法度で、時事通信社が「マッカーサー元帥を神の如く崇め立てるのは日本の民主主義のためにならない」という社説を載せようとしたところ、いったん検閲を通過したものの、参謀第2部(G2)部長のチャールズ・ウィロビーの目に止まり、既に50,000部印刷し貨車に積まれていた同紙を焼却するように命じている。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 260,
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"text": "一方で賛美の報道は奨励されていた。ある日、第一生命館前で日本の女性がマッカーサーの前で平伏した際に、マッカーサーはその女性に手を差し伸べて立ち上がらせて、塵を払ってやった後に「そういうことはしないように」と女性に言って聞かせ、女性が感激したといった出来事や、同じく第一生命館で、マッカーサーがエレベーターに乗った際に、先に乗っていた日本人の大工が遠慮して、お辞儀をしながらエレベーターを降りようとしたのをマッカーサーが止め、そのまま一緒に乗ることを許したことがあったが、後にその大工から「あれから一週間というもの、あなた様の礼節溢れるご厚意について頭を巡らしておりました。日本の軍人でしたら決して同じことはしなかったと思います」という感謝の手紙を受け取ったなど些細な出来事が、マッカーサー主導で大々的に報道されることがあった。特に大工の感謝状の報道については、当時の日本でマッカーサーの目論見どおり、広く知れ渡られることとなり、芝居化されたり、とある画家が『エレベーターでの対面』という絵画を描き、その複製が日本の家庭で飾られたりした。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 261,
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"text": "しかし賛美一色ではアメリカ本国や特派員から反発を受け、ゆくゆくは日本人からの人気を失いかねないと認識していたマッカーサーは、過度の賛美についても規制を行っている。日本の現場の記者らは、その微妙なバランス取りに悩まされる事となった。そのうちに日本のマスコミは、腫れ物に触らずという姿勢からか自主規制により、マッカーサーに関する報道はGHQの公式発表か、CIEの先導で作られた外国特派員協会に所属する外国のメディアの記者の配信した好意的な記事の翻訳に限ったため、マッカーサーのイメージ戦略に手を貸す形となり、日本国民のマッカーサー熱を大いに扇動する結果を招いた。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
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"paragraph_id": 262,
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"text": "GHQはマッカーサーの意向により、マッカーサーの神話の構築に様々な策を弄しており、その結果として多くの日本国民に、マッカーサーは天皇以上のカリスマ性を持った「碧い目の大君」と印象付けられた。その印象構築の手助けとなったのは、昭和天皇とマッカーサー初会談時に撮影された、正装で直立不動の昭和天皇に対し、開襟の軍服で腰に手を当て悠然としているマッカーサーの写真であった。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
{
"paragraph_id": 263,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーのところに送られてくる日本の団体・個人から寄せられた手紙は全て英訳されて、重要なものはマッカーサーの目に通され、その一部が保存されていた。 その手紙の一部の内容が袖井林二郎の調査により明らかにされた。ただし手紙の総数については、連合軍翻訳通信班(ATIS)の資料(ダグラス・マッカーサー記念館所蔵)で1946年5月 -1950年12月までに受け取った手紙が411,816通との記載があり、袖井は終戦から1946年4月までに受け取った手紙を10万通と推定して合計50万通としているが、CIEの集計によれば、終戦から1946年5月末までに寄せられた手紙は4,600通に過ぎず、合計しても50万通には及ばない。また手紙の宛先についても、マッカーサー個人宛だけではなく、GHQの各部局を宛先とした陳情・請願・告発・声明の他に、地方軍政を司った地方軍政部 を宛先とした手紙も相当数に上っている。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
{
"paragraph_id": 264,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーやGHQ当局への日本人の投書のきっかけは、1945年8月の終戦直後に東久邇宮稔彦王総理大臣が国民に向けて「私は国民諸君から直接手紙を戴きたい、嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でも何でも宜しい。私事でも結構だし公の問題でもよい...一般の国民の皆様からも直接意見を聞いて政治をやっていく上の参考としたい」と新聞記事を使って投書を呼び掛けたことにあった。その呼び掛けにより、東久邇宮内閣への投書と並行して、マッカーサーやGHQにも日本人からの手紙が届くようになった。しかし、当初はマッカーサーやGHQに届く手紙の数は少なく、1945年末までは800通足らずに過ぎなかった。しかし、11月頃には東久邇宮内閣に対する投書が激増し、ピーク時で一日1,371通もの大量の手紙が届くようになると、マッカーサーとGHQへの手紙も増え始め、東久邇宮内閣が早々に倒れると、日本政府に殺到していた手紙がマッカーサーやGHQに送られるようになった。マッカーサーやGHQに手紙が大量に届くような流れを作ったのは東久邇宮稔彦王であるが、日本国民はマッカーサーやGHQの意向で早々と倒れる日本の内閣よりも、日本の実質的な支配者であったマッカーサーやGHQを頼りとすることとなったのである。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
{
"paragraph_id": 265,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーやGHQへの投書の内容は多岐に渡るが、未だ投書が少なかった1945年10月の投書の内容について、東京発UP電が報じている。報道によれば「マ元帥への投書、戦争犯罪人処罰、配給制度改訂等、1か月余りに300通」その内「日本語で書かれたものは100通」であり、「反軍国主義28通」「連合軍の占領並びにマ元帥への賛意25通」から「節酒と禁酒の熱望2通」まで、内容はおおまかに21通りに分れていた。中でもGHQがもっとも関心を寄せた投書が天皇に関する投書であり、『ヒロヒト天皇に関する日本人の投書』という資料名を付され、極東国際軍事裁判の国際検察局(IPS)の重要資料として管理・保管されており、1975年まで秘密文書扱いであった。昭和天皇が人間宣言を行った以降は、日本国民の間で天皇制に対する関心が高まり、1945年11月から1946年1月までのGHQへの投書1,488通の内で、もっとも多い22.6%にあたる337通が天皇制に関するものであった。投書を分析したCIEによれば、天皇制存続と廃止・否定の意見はほぼ二分されていた、ということであったが、CIEは「このような論争の激しい主題については、体制を変革しようとしている方(天皇制廃止主張派)が体制を受け入れる方(存続派)より盛んに主張する傾向がある」と冷静に分析しており、1946年2月に天皇制の是非について世論調査をしたところ、支持91% 反対9%で世論は圧倒的に天皇制存続が強かった。手紙も存続派の方が長文で熱烈なものが多く、中には「アメリカという国の勝手気儘さに歯を喰いしばって堪えていたが、もう我慢ができない」や「陛下にもし指一本でもさしてみるがいい、私はどんな危険をおかしてもマッカーサーを刺殺する」という過激なものもあった。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
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{
"paragraph_id": 266,
"tag": "p",
"text": "天皇制が日本国憲法公布により一段落すると、もっとも多い手紙は嘆願となり、当時の時代相をあらわした種々の嘆願がなされた。その内容は「英語を学びたい娘に就職を斡旋してほしい」「村内のもめごとを解決してほしい」「アンゴラウサギの飼育に支援を」「国民体位の維持向上のため日本国民に糸引納豆の摂取奨励を」などと内容は数えきれないほど多岐に渡ったが、1946年後半から復員が本格化すると、その関連の要望・嘆願が激増した。1947年以降は復員関連の要望・嘆願の手紙が全体の90%にも達している。特にソ連によるシベリア抑留については、この頃より引き揚げ促進の為に全国にいくつもの団体が組織され、団体が抑留者の家族に対して「親よ、妻よ、兄弟よ、起ち上がりましょう。日本政府は当てになりません。占領軍総司令官マッカーサー元帥の人類愛に縋り、援助を要請する他はありません。」などと組織的にマッカーサーに対して投書を行うよう指示しており、特に児童から大量の投書が行われている。このような動きは満州や朝鮮半島に取り残された元居留民の家族でも行われており、福岡共同公文書館には大分県の国民学校の生徒からマッカーサーに送られた「北鮮や満州のお父さんやお母さんや妹や皆な1日でも早く早く内地へかへして下さいたのみます」という投書が展示されている。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
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"paragraph_id": 267,
"tag": "p",
"text": "また、外地で進行していたBC級戦犯裁判の被告や受刑者の家族による助命・刑の軽減嘆願や、消息の調査要請などの投書も多く寄せられている。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
{
"paragraph_id": 268,
"tag": "p",
"text": "従って、一部で事実誤認があるように、GHQに一日に何百通と届く手紙はマッカーサー個人へのファンレターだけではなく、占領軍の組織全体に送られた日本人の切実な陳情・請願・告発・声明が圧倒的だったが、ルシアス・D・クレイ(英語版)が統治した西ドイツでは限定的にしか見られなかった現象であり、マッカーサーの強烈な個性により、日本人に、マッカーサーならどんな嘆願でも聞き入れてくれるだろうと思わせる磁力のようなものがあったという指摘もある。マッカーサー個人宛てに送られていた手紙には、「マッカーサー元帥の銅像をつくりたい」「あなたの子供をうみたい(ただし原書は存在せず)」「世界中の主様であらせられますマッカーサー元帥様」「吾等の偉大なる解放者マッカーサー元帥閣下」と当時のマッカーサーへの熱烈な人気や厚い信頼をうかがわせるものもあり、他の多くの権力者と同様に、自分への賛美・賞賛を好んだマッカーサーは、そのような手紙を中心に、気に入った自分宛ての手紙3,500通をファイルし終生手もとに置いており、死後はマッカーサー記念館で保存されているが、前述のとおり、そのような手紙は全体としては少数であった。マッカーサーは送られてきた手紙をただ読むのではなく、内容を分析し、世論や民主化の進行度を測る手段の一つとして重要視し占領政策を進めていくうえでうまく活用している。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
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{
"paragraph_id": 269,
"tag": "p",
"text": "検閲の中枢を担ったCCDが1949年10月に廃止され、マッカーサーが更迭されて帰国する頃は既にGHQの検閲は有名無実化しており、マッカーサーに対しても冷静な報道を行う報道機関も出ていた。たとえば『北海道新聞』などは、マッカーサー離日の数日後に「神格化はやめよう」というコラムを掲載し「宗教の自由がある以上、いかなる神の氏子になるのも勝手だが、日本の民主化にとって大事な事は国民一人一人が自分自身の心の中に自立の『神』を育てることであろう」と宗教を例にして、暗にマッカーサーの盲目崇拝への批判を行っていた。しかし、依然として多くのマスコミが自主規制によりマッカーサーへの表立った批判は避けており、同じマッカーサー離日時には「受持の先生に替られた女学生のように、マ元帥に名残を惜しむことであった。さすが苦労人のダレス大使は帰京の日「今日は日本はマ元帥の思いでいっぱいだろうから私は何も言わぬ」と察しのよいことを言った」 や「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓からすくい上げてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。今年もみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八ヶ月のにわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。元帥!どうか、おからだをお大事に」 などと別れを大げさに惜しむ報道をおこなう報道機関も多かった。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
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{
"paragraph_id": 270,
"tag": "p",
"text": "帰国したマッカーサーが、1951年5月3日から開催された上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会で「#日本人は12歳」証言を行ったことが日本に伝わると、この証言が日本人、特にマスコミに与えた衝撃は大きく、『朝日新聞』は5月16日付の新聞1面に大きく【マ元帥の日本観】という特集記事を掲載し「文化程度は“少年”」と日本人に対し否定的な部分を強調して報じた。さらに社説で「マ元帥は米議会の証言で「日本人は勝者にへつらい、敗者を見下げる傾向がある」とか「日本人は現代文明の標準からみてまだ12歳の少年である」などと言っている。元帥は日本人に多くの美点長所があることもよく承知しているが、十分に一人前だとも思っていないようだ。日本人へのみやげ物話としてくすぐったい思いをさせるものではなく、心から素直に喜ばれるように、時期と方法をよく考慮する必要があろう」 と一転してマッカーサーに対し苦言を呈するなど、日本のマスコミにおけるマッカーサーへの自主規制も和らぎ、報道方針が変化していくに連れて、日本国民は、征服者であったマッカーサーにすり寄っていたことを恥じて、マッカーサー熱は一気に冷却化することとなった。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
{
"paragraph_id": 271,
"tag": "p",
"text": "そのため、政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」は先送り「マッカーサー記念館の建設」計画はほぼ白紙撤回となり、三共、日本光学工業(現ニコン)、味の素の3社が「12歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼ、ニッコール、味の素の3製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった。",
"title": "マッカーサーの日本占領統治手法"
},
{
"paragraph_id": 272,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの人格形成に大きな影響を与えたのが母メアリー・ピンクニー・ハーディ(通称ピンキー)であった。マッカーサーは成人になってからもピンキーから強く支配されており、いつまでも母親離れできない特異性から、マッカーサーは生涯にわたってマザーコンプレックスにとらわれていたという指摘もある。マッカーサーは幼少の頃に軍の砦内で生活していたため、マッカーサーが6歳になるまでピンキーが勉強を教えていた。ピンキーはその間、マッカーサーが自分に依存する期間を長引かせるため、髪を長くカールしおさげにさせ、スカートをはかせていた。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 273,
"tag": "p",
"text": "その後、父親アーサーがワシントンに転勤したこともあり、マッカーサーは8歳に小学校に入学すると、その後はウェスト・テキサス軍人養成学校に進学し軍人への道を歩んでいく。しかしながらピンキーは依然強い影響を及ぼし続けた。その一例として、マッカーサーが13歳の時に小遣い稼ぎのために新聞売りのアルバイトをしたことが、他のアルバイトの学生らに販売実績でマッカーサーが負けたことを知ったピンキーは、「明日もう一度行って新聞を全部売ってきなさい。売りきるまで帰ってきてはいけません」と厳しく言いつけた。マッカーサーは翌日の夜になってから、服はボロボロであちこちに生傷をつくりながらも母親の言いつけどおり新聞を全部売り切ってから帰宅した。ピンキーはこのような厳しい教育方針により、マッカーサーが生まれ持っていた勝利への強い執念を、さらに育成し磨いていった。マッカーサーはウェスト・テキサス軍人養成学校に入学した頃は普通の成績であったが、ピンキーに磨かれた負けん気で勉強に打ち込みだすと、旺盛な知識欲も刺激され、相乗効果で2年生に進学する頃には優等生となっていた。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 274,
"tag": "p",
"text": "ピンキーの教育方針はマッカーサーを優秀な人間に育成した一方で、限りなく自己中心的で自閉的な人間にしていった。マッカーサーは自分の間違いを認めることができない人間となっていき、常に「世間の人間は自分を陥れようとしている」と被害妄想を抱くようになっていた。そのせいでマッカーサーはウェスト・テキサス軍人養成学校から進学したウエスト・ポイントで同級生の中で孤立しており、ウエスト・ポイントの卒業生の結婚式では、卒業生の団結力を反映してクラスメイト達の華やかな社交の場となるのが通例であるが、マッカーサーの結婚式にはたった1名の同級生しか出席しなかった。ピンキーの教育は、マッカーサーに純粋な同志的友情を構築する能力を欠乏させたが、マッカーサー自身も友人を必要とはしなかった。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 275,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの私生活にもピンキーは多大な影響を及ぼしていた。ピンキーはマッカーサーの最初の結婚相手ルイーズを気に入らず、婚約したと聞いたときに傷心のあまりに病床についたほどであった。ルイーズが資産家であったため式は豪華なものであったが、ピンキーは招待を断り式には参列しなかった。結婚してからもピンキーとルイーズのそりは合わず、ルイーズは後に離婚に至った原因として「義母(ピンキー)がいろいろ口出しするので、私たちの結婚は破局を迎えることとなった」と話している。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 276,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーは2度目のフィリピン勤務時に、当時で33歳年下で16歳のイザベルを愛人とし、自分がアメリカ本土に異動となると、イザベルをアメリカに呼び寄せた。ピンキーに知られたくなかったため、ピンキーと同居している自宅に呼び寄せることができずに、ジョージタウン (ワシントンD.C.)にアパートを借りそこで囲わねばならなかった。 ピンキーの目を盗んで密会しないといけないのと、マッカーサーが参謀総長に就任し多忙になったため、次第にマッカーサーとイザベルは疎遠となっていった。マッカーサーはイザベルをフィリピンに帰らせようとフィリピン行きの船のチケットを渡したが、イザベルはフィリピンに帰らずマッカーサーに金を無心してきたため、困ったマッカーサーはイザベルに経済的な自立を促そうと求人情報のチラシを送りつけている。結局、イザベルはマッカーサーと敵対したジャーナリストに協力し、スキャンダルとなって世間やピンキーにイザベルとの関係を知られたくなかったマッカーサーの弱みに付け込み15,000ドルの慰謝料を受け取ることに成功している。イザベルはその後もフィリピンに帰ることはなく、ハリウッドで女優となったが端役だけで大成することもなかった。その後も職を転々として1960年に自殺するという悲劇的な最期をとげている。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 277,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーが軍事顧問に就任し3回目のフィリピン行きとなったとき、82歳となっていたピンキーが随行した。フィリピンに向かう船中で初めて会ったジーンをピンキーは即座に気に入り、ピンキーのお墨付きとなったジーンとマッカーサーは船中で意気投合し交際を開始、その後ジーンはマッカーサーの2番目の妻となった。ピンキーはその結婚を見ることなく1935年11月にフィリピンに到着した直後に亡くなっている。マッカーサーの落ち込み方は相当なもので、フィリピンでマッカーサーの副官をしていたアイゼンハワーは「将軍の気持ちに何か月もの間、影響を及ぼした」と書き記したほどであった。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 278,
"tag": "p",
"text": "兄のアーサー・マッカーサー3世はアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大佐に昇進したが、1923年に病死した。弟マルコムは1883年に死亡している。兄アーサーの三男であるダグラス・マッカーサー2世は駐日アメリカ合衆国大使となった。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 279,
"tag": "p",
"text": "1938年にマニラで妻ジーンとの間に出来た長男がいる。マッカーサー家は代々、家長とその長男がアーサー・マッカーサーを名乗ってきたが、兄アーサー・マッカーサー3世の三男がダグラス・マッカーサー2世になり、三男であるダグラスの長男がアーサー4世になっている。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 280,
"tag": "p",
"text": "そのアーサー・マッカーサー4世は、日本在住の時にはマッカーサー元帥の長男として日本のマスメディアで取り上げられることもあった。マッカーサーとジーンは父親らと同様に軍人になることを願ったが、父の功績により無試験で入学できた陸軍士官学校には進まず、コロンビア大学音楽科に進み、ジャズ・ピアニストとなった。マッカーサーはアーサーの選択を容認したが、そのことについて問われると「私は母の期待が大変な負担であった。一番になるということは本当につらいことだよ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった」と答えたという。それでもマッカーサーという名前はアーサーにとっては負担でしかなかったのか、マッカーサーの死後は名前と住所を変え、グリニッジ・ヴィレッジに集まるヒッピーの一人になったと言われている。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 281,
"tag": "p",
"text": "総司令官解任後の1951年5月3日から、マッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会が開催された。主な議題は「マッカーサーの解任の是非」と「極東の軍事情勢」についてであるが、日本についての質疑も行われている。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 282,
"tag": "p",
"text": "質問者より朝鮮戦争における中華人民共和国(赤化中国)に対しての海空封鎖戦略についての意見を問われ、太平洋戦争での経験を交えながら下記のように答えている。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 283,
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"text": "STRATEGY AGAINST JAPAN IN WORLD WAR II",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 284,
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"text": "General MacArthur. Yes, sir. In the Pacific we by-passed them. We closed in. ...",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 285,
"tag": "p",
"text": "There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 286,
"tag": "p",
"text": "They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 287,
"tag": "p",
"text": "The raw materials -- those countries which furnished raw materials for their manufacture -- such countries as Malaya, Indonesia, the Philippines, and so on -- they, with the advantage of preparedness and surprise, seized all those bases, and their general strategic concept was to hold those outlying bastions, the islands of the Pacific, so that we would bleed ourselves white in trying to reconquer them, and that the losses would be so tremendous that we would ultimately acquiesce in a treaty which would allow them to control the basic products of the places they had captured.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 288,
"tag": "p",
"text": "In meeting that, we evolved an entirely new strategy. They held certain bastion points, and what we did was to evade those points, and go around them.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 289,
"tag": "p",
"text": "We came in behind them, and we crept up and crept up, and crept up, always approaching the lanes of communication which led from those countries, conquered countries, to Japan.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 290,
"tag": "p",
"text": "秦郁彦は、小堀桂一郎などの東京裁判批判を行う論客たちがこの発言を「(マッカーサーが太平洋戦争を)自衛戦争として認識していた証拠」として取り上げる論点であると指摘している。小堀はこの個所を「これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分がsecurity(安全保障)の必要に迫られてのことだつたのです」と訳している。マッカーサーが、「絹産業以外には、国有の産物はほとんど何も無い」日本が、「安全保障の必要に迫られてのことだった」と証言した意味には、暗に米国の日本に対する厳しい経済封鎖が巻き起こした施策(戦争)であったという含意が看取できる。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 291,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 292,
"tag": "p",
"text": "公聴会3日目は5月5日の午前10時35分から始まり、午前12時45分から午後1時20分まで休憩を挟んだ後に、マッカーサーの日本統治についての質疑が行われた。マッカーサーはその質疑の中で、人類の歴史において占領の統治がうまくいったためしがないが、例外としてジュリアス・シーザーの占領と、自らの日本統治があるとし、その成果により一度民主主義を享受した日本がアメリカ側の陣営から出ていくことはないと強調したが、質問者のロング委員よりヴァイマル共和政で民主主義を手にしながらナチズムに走ったドイツを例に挙げ、質問を受けた際の質疑が下記のとおりである。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 293,
"tag": "p",
"text": "RELATIVE MATURITY OF JAPANESE AND OTHER NATIONS",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 294,
"tag": "p",
"text": "Germany might be cited as an exception to that, however. Have you considered the fact that Germany at one time had a democratic government after World War I and later followed Hitler, and enthusiastically apparently at one time.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 295,
"tag": "p",
"text": "Well, the German problem is a completely and entirely different one from the Japanese problem. The German people were a mature race. If the Anglo-Saxon was say 45 years of age in his development, in the sciences, the arts, divinity, culture, the Germans were quite as mature.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 296,
"tag": "p",
"text": "The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of 12 as compared with our development of 45 years.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 297,
"tag": "p",
"text": "Like any tuitionary period, they were susceptible to following new models, new ideas. You can implant basic concepts there. They were still close enough to origin to be elastic and acceptable to new concepts.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 298,
"tag": "p",
"text": "The German was quite as mature as we ware. Whatever the German did in dereliction of the standards of modern morality, the international standards, he did deliberately.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 299,
"tag": "p",
"text": "He didn't do it because of a lack of knowledge of the world. He didn't do it because he stumbled into it to some extent as the Japanese did. He did it as a considered policy in which he believed in his own military might, in which he believed that its application would be a short cut to the power and economic domination that he desired.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 300,
"tag": "p",
"text": "Now you are not going to change the German nature. He will come back to the path that he believes is correct by the pressure of public opinion, by the pressure of world philosophies, by his own interests and many other reasons, and he, in my belief, will develop his own Germanic tribe along the lines that he himself believes in which do not in many basic ways differ from our own.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 301,
"tag": "p",
"text": "But the Japanese were entirely different. There is no similarity. One of the great mistakes that was made was to try to apply the same policies which were so successful in Japan to Germany, where they were not quite so successful,to say the least.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 302,
"tag": "p",
"text": "They were working on a different level.",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 303,
"tag": "p",
"text": "この発言が多くの日本人には否定的に受け取られ、日本におけるマッカーサー人気冷却化の大きな要因となった(#マッカーサー人気の終焉)。当時の日本人はこの発言により、マッカーサーから愛されていたのではなく、“昨日の敵は今日の友”と友情を持たれていたのでもなく、軽蔑されていたに過ぎなかったことを知ったという指摘がある。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 304,
"tag": "p",
"text": "さらにマッカーサーは、同じ日の公聴会の中で「日本人は12歳」発言の前にも「日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。アメリカ人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって現れた時、日本人に強い印象を与えた」「それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、アメリカ人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である」などと日本人を幼稚と見下げて、「日本人は12歳」発言より強く日本人を侮辱したと取られかねない発言も行っていた。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 305,
"tag": "p",
"text": "また、自分の日本の占領統治をシーザーの偉業と比肩すると自負したり、「(日本でマッカーサーが行った改革は)イギリス国民に自由を齎したマグナ・カルタ、フランス国民に自由と博愛を齎したフランス革命、地方主権の概念を導入した我が国のアメリカ独立戦争、我々が経験した世界の偉大な革命とのみ比べることができる」と証言しており、マッカーサーは証言で、自身が日本で成し遂げたと考えていた業績を弁護していたという解釈もある。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 306,
"tag": "p",
"text": "一方で、マッカーサーは「老兵は死なず......」のフレーズで有名な1951年4月19日の上下両院議員を前にした演説では「戦争以来、日本人は近代史に記録された中で最も立派な改革を成し遂げた」や「賞賛に足る意志と、学習意欲と、抜きんでた理解力をもって、日本人は戦争が残した灰の中から、個人の自由と人格の尊厳に向けた大きな建造物を建設した。政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、今や日本は地球上にある多くの自由国家と肩を並べており、決して再び世界の信頼を裏切る事はないであろう」と日本を称賛しており、「日本人は12歳」発言は日本人はドイツ人より信頼できることを強調したかっただけでマッカーサーの真意がうまく伝わらなかったという解釈や、マッカーサーと関係が深かった吉田茂のように「元帥の演説の詳細を読んでみると「自由主義や民主主義政治というような点では、日本人はまだ若いけれど」という意味であって「古い独自の文化と優秀な素質とを持っているから、西洋風の文物制度の上でも、日本人の将来の発展は頗る有望である」ということを強調しており、依然として日本人に対する高い評価と期待を変えていないのがその真意である」との好意的な解釈もある。なぜマッカーサーが「12歳」と言って「13歳」でなかったのかは、英語の感覚で言えば12歳は「ティーンエイジャー」ではまだないということである。まだ精神年齢が熟しきっておらず、新しい事柄を受け入れることが可能だと強調しているのである。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 307,
"tag": "p",
"text": "この委員会では、他にも「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」と述べ、アジアにおける共産勢力の脅威を強調している。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 308,
"tag": "p",
"text": "ラッセル・ロングからは「連合国軍総司令部は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と水を向けられたが、「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」と答えている。また、別の上院議員から広島・長崎の原爆被害を問われると、「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えて、原爆投下の指示を出したトルーマンを暗に批判している。",
"title": "マッカーサーのアメリカ議会証言録"
},
{
"paragraph_id": 309,
"tag": "p",
"text": "ノーフォークのノーティカスから東へ約400m行ったところにあるダウンタウンのマッカーサー・スクエアには、19世紀の市庁舎をそのまま記念館としたダグラス・マッカーサー記念館が立地している。館内にはマッカーサー夫妻の墓や、博物館、図書館が設けられている。博物館には軍関連品だけでなく、マッカーサーのトレードマークであったコーンパイプなどの私物も多数展示されている。また、伊万里、九谷、薩摩の磁器や有線七宝など、マッカーサーが、離日にあたって皇室をはじめ各界から贈られた国宝級の持ち帰った日本の逸品も惜しげもなく展示されている。建物は「旧ノーフォーク市庁舎」として国家歴史登録財に指定されている。記念館の正面にはマッカーサーの銅像が立っている。",
"title": "マッカーサー記念館"
},
{
"paragraph_id": 310,
"tag": "p",
"text": "日本でもマッカーサー解任前後に「マッカーサー記念館」を建設する計画が発足した。この建設発起人には秩父宮、田中耕太郎最高裁判所長官、金森徳次郎国立国会図書館館長、野村吉三郎元駐米大使、本田親男毎日新聞社長、長谷部忠朝日新聞社長ら各界の有力者が名を連ねていた。この施設は「マッカーサー神社」と呼称されていることがあるが、この計画は、マッカーサー在任中から「ニュー・ファミリー・センター」という団体が計画していた「青年の家」という青少年の啓蒙施設の建設計画を発展させたものであり、「元帥の功績を永遠に記念するため、威厳と美しさを備えた喜びと教養の殿堂にしたい」という趣旨の下で、記念館、公会堂、プール、運動施設、宿泊施設を整備するものであって、特に宗教色のない計画であった。",
"title": "マッカーサー記念館"
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"paragraph_id": 311,
"tag": "p",
"text": "その後に当初の14名の発起人に加え、藤山愛一郎日本商工会議所会頭、浅沼稲次郎社会党書記長、安井誠一郎東京都知事らも参加して「マッカーサー会館建設期成会」が発足、まずは総事業費4億5,000万円をかけて三宅坂の参謀本部跡に鉄筋コンクリートの3階建ビルを建てる計画で募金を募ったが、募金開始が「日本人は12歳」発言でマッカーサー熱が急速に冷却化していた1952年2月であり、60万円の宣伝費をかけて集まった募金はわずか84,000円と惨憺たるありさまだった。1年後には募金どころか借金が300万円まで膨らみ、計画は立ち消えになった。他にも東京湾に「マッカーサー灯台」を建設し、降伏調印式の際に戦艦ミズーリが停泊した辺りを永遠に照らす計画や、また「マッカーサー記念館」や「マッカーサー灯台」の計画より前の1949年には浜離宮に自由の女神像と同じ高さのマッカーサーの銅像を建設しようとする「マッカーサー元帥銅像建設会」が発足していた。随筆家高田保にも委員就任の勧誘がなされるなど 広い範囲に声がかけられ(ただし高田は委員就任を見送り)募金も開始されたが、これも他の計画と同じ時期に立ち消えになり、集まった募金の行方がどうなったか不明である。",
"title": "マッカーサー記念館"
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{
"paragraph_id": 312,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの下で太平洋戦争を戦った第5空軍司令のジョージ・ケニー(英語版) 中将がマッカーサーについて「ダグラス・マッカーサーを本当に知る者はごくわずかしかいない。彼を知る者、または知っていると思う者は、彼を賛美するか嫌うかのどちらかで中間はあり得ない」と評しているように、評価が分れる人物である。",
"title": "人物評"
},
{
"paragraph_id": 313,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーにとって忠誠心とは部下から一方的に向けられるものとの認識であり、自分が仕えているはずの大統領や軍上層部に対する忠誠心を持つことはなかったため、マッカーサーに対する歴代大統領や軍上層部の人物評は芳しいものではなかった。",
"title": "人物評"
},
{
"paragraph_id": 314,
"tag": "p",
"text": "ルーズベルトは「マッカーサーは使うべきで信頼すべきではない」「我が国で最も危険な人物2人はヒューイ・ロングとダグラス・マッカーサーだ」 とマッカーサーの能力の高さを評価しながら信用はしてはおらず、万が一に備えてマッカーサーが太平洋戦争開戦前に軍に提出した『日本軍が我が島嶼への空襲能力を欠くため、フィリピンは保持できる』という報告書を手もとに保管していた。また、政治への進出にマッカーサーが強い野心を抱いているのを見抜いて「ダグラス、君は我が国最高の将軍だが、我が国最悪の政治家になると思うよ」 と釘を刺したこともあった。",
"title": "人物評"
},
{
"paragraph_id": 315,
"tag": "p",
"text": "更迭に至るまで激しくマッカーサーと対立していたトルーマンの評価はもっと辛辣で、就任間もない1945年に未だ直接会ったこともないマッカーサーに対し「あのうぬぼれやを、あのような地位につけておかなかればならないとは。なぜルーズベルトはマッカーサーをみすみす救国のヒーローにしたてあげたのか、私にはわからない...もし我々にマッカーサーのような役者兼ペテン師ではなくウェインライトがいたならば、彼こそが真の将軍、戦う男だった」と否定的な評価をしていた。しかしマッカーサーの圧倒的な実績と人気に、全く気が進まなかったがGHQの最高司令官に任命している。トルーマンのマッカーサーへの評価は悪化する事はあっても改善することはなく、1948年にはマッカーサーを退役させ、西ドイツの軍政司令官ルシアス・D・クレイ(英語版)をGHQ最高司令官の後任にしようと画策したこともあったが、トルーマンの打診をクレイは断り実現はしなかった。",
"title": "人物評"
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{
"paragraph_id": 316,
"tag": "p",
"text": "一方で、マッカーサーもトルーマンを最後まで毛嫌いしていた。更迭された直後は「あの小男には私を首にする勇気があった。だから好きだよ」「私の扱い方から見ると、あの男はいいフルバックになれるな」と知り合いに語るなど寛容な態度で余裕も見せていたが、1950年にトルーマンが出版した回顧録で、朝鮮戦争初期の失態はマッカーサーの責任であると非難されているのを知ると激怒して、トルーマンの回顧録に対してライフ誌上で反論を行ない、非公式の場では「いやしいチビの道化師、根っからの嘘つき」と汚い言葉で罵倒していた。",
"title": "人物評"
},
{
"paragraph_id": 317,
"tag": "p",
"text": "朝鮮戦争において、当初は参謀本部副参謀長としてマッカーサーの独断専行に振り回され、後にマッカーサーの後任として国連軍を率いたリッジウェイはマッカーサーの性格について、「自分がやったのではない行為についても名誉を受けたがったり、明らかな自分の誤りに対しても責任を否認しようという賞賛への渇望」「多くの将兵の前で常にポーズをとりたがる、人目につく立場への執着」「天才に必要な孤独を愛する傾向」「論理的な思考を無視してなにものかに固執する、強情な性質」「無誤謬の信念を抱かせた、自分自身に対する自信」と分析していた。一方で、マッカーサーの問題の核心を明らかにする能力と、目標に向かって迅速・果敢に行動する積極性に対して、他の人はマッカーサーを説き伏せたり、強く反駁することは困難であって、マッカーサーに疑いを抱くものは逆に自分自身を疑わせてしまうほど真に偉大な将帥の一人であったと賞賛もしている。",
"title": "人物評"
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{
"paragraph_id": 318,
"tag": "p",
"text": "上司にあたる人物よりの評価が厳しい一方で、部下らからの評価や信頼は高かった。GHQでマッカーサーの下で働いた極東空軍司令のジョージ.E.ストラトメイヤー(英語版) 中将は「アメリカ史における最も偉大な指導者であり、最も偉大な指揮官であり、もっとも偉大な英雄」と称え、第10軍司令官エドワード・アーモンド中将は「残念ながら時代が違うので、ナポレオン・ボナパルトやハンニバルら有史以来の偉大な将軍らと同列に論ずることはできないが、マッカーサーこそ20世紀でもっとも偉大な軍事的天才である」とライフ誌の取材に答えている。",
"title": "人物評"
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{
"paragraph_id": 319,
"tag": "p",
"text": "特にフィリピン時代からマッカーサーに重用されていた『バターン・ギャング』と呼ばれたGHQ幕僚たちのマッカーサーに対する評価と信頼は極めて高く、その内の一人であるウィロビーは、マッカーサーに出した手紙に「あなたに匹敵する人物は誰もいません、結局人々が愛着を覚えるのは偉大な指導者、思想ではなく、人間です。...紳士(ウィロビーのこと)は大公(マッカーサー)に仕えることができます。そのような形で勤めを終えることができれば本望です」と書いたほどであった。",
"title": "人物評"
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{
"paragraph_id": 320,
"tag": "p",
"text": "しかし、ウィロビーらのように盲目的に従ってくれているような部下であっても、マッカーサーは部下と手柄を分かち合おうという認識はなく、部下がいくらでも名声を得るのに任せたアイゼンハワーと対照的だった。例えば、マッカーサーの配下で第8軍を指揮したロバート・アイケルバーガー大将が、サタデー・イブニング・ポストなどの雑誌にとりあげられたことがあったが、これがマッカーサーの不興を買い、マッカーサーはアイケルバーガーを呼びつけると「私は明日にでも君を大佐に降格させて帰国させることが出来る。分っているのか?」と叱責したことがあった。叱責を受けたアイケルバーガーは「作戦勝報に自分の名前が目立つぐらいならポケットに生きたガラガラヘビを入れてもらった方がまだましだ」と部下の広報士官に語っている。",
"title": "人物評"
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{
"paragraph_id": 321,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーの指揮下で上陸作戦の指揮を執ったアメリカ海軍第7水陸両用部隊司令ダニエル・バーベイ(英語版)少将は、海軍の立場から、そのようなマッカーサーと陸軍の部下将官との関係を冷静に観察しており、「マッカーサーが自分の側近たちと親しい仲間意識をもつことは決してなかった。彼は尊敬されはしたが、部下の共感と理解を得ることは無かったし、愛されもしなかった。彼の態度はあまりにもよそよそしすぎ、その言動はもちろん、服装に至るまで隙が無さ過ぎた」と評している。",
"title": "人物評"
},
{
"paragraph_id": 322,
"tag": "p",
"text": "マッカーサーを最もよく知る者の1人が7年間に渡って副官を勤めたアイゼンハワーであった。アイゼンハワーはマッカーサー参謀総長の副官時代を振り返って、「マッカーサー将軍は下に仕える者として働き甲斐のある人物である。マッカーサーは一度任務を与えてしまうと時間は気にせず、後で質問することもなく、仕事がきちんとなされることだけを求められた」「任務が何であれ、将軍の知識はいつも驚くほど幅広く、概ね正確で、しかも途切れることなく言葉となって出てきた」「将軍の能弁と識見は、他に例のない驚異的な記憶力のたまものであった。演説や文章の草稿は、一度読むと逐語的に繰り返すことができた」と賞賛している。アイゼンハワーは参謀総長副官としての公務面だけでなく、マッカーサーが、元愛人イザベルに和解金として15,000ドルを支払ったときには、同じ副官のトーマス・ジェファーソン・デービス(英語版)大尉と代理人となってイザベル側と接触するなど、公私両面でマッカーサーを支えている。",
"title": "人物評"
},
{
"paragraph_id": 323,
"tag": "p",
"text": "しかしアイゼンハワーは、マッカーサーの側近として長年働きながら、「バターン・ギャング」のサザーランドやホイットニーのように、マッカーサーの魅力に絡めとられなかった数少ない例外であり、フィリピンでの副官時代は、「バターン・ギャング」の幕僚らとは異なり、マッカーサーとの議論を厭わなかった。 アイゼンハワーのマッカーサーに対する思いの大きな転換点となったのが、マッカーサーがリテラリー・ダイジェスト(英語版) という雑誌の記事を鵜呑みにし、1936年アメリカ合衆国大統領選挙でルーズベルトが落選するという推測を広めていたのをアイゼンハワーが止めるように助言したのに対し、マッカーサーは逆にアイゼンハワーを怒鳴りつけたことであった。この日以降、アイゼンハワーはマッカーサーの下で働くのに辟易とした素振りを見せ、健康上の理由で本国への帰還を申し出たが、アイゼンハワーの実務能力を重宝していたマッカーサーは慌てて引き留めを図っている。両者の関係を決定づけたのは、この後に起こった、マッカーサー独断でのフィリピン軍によるマニラ行進計画がケソンの怒りを買ったため、アイゼンハワーら副官に責任転嫁をした事件であり(#フィリピン生活)、アイゼンハワーはこの事件で「決して再び、我々はこれまでと同じ温かい、心からの友人関係にはならなかった」と回想している。",
"title": "人物評"
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"paragraph_id": 324,
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"text": "この後、連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長と順調に経歴を重ねていくアイゼンハワーは、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に「会ったところじゃないですよ、奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と総括したとも伝えられている。",
"title": "人物評"
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"text": "ただ、当時のアメリカの一部マスコミが報じていた程は両者間に強い確執はなかったようで、アイゼンハワーは参謀総長在任時に何度もマッカーサーに意見を求める手紙や、参謀総長退任時には、マッカーサーとアイゼンハワーの対立報道を否定する手紙を出すなど、両者は継続して連絡を取り合っていた。しかし、アイゼンハワーが第34代アメリカ合衆国大統領に着任すると、その付き合いは表面的なものとなり、アイゼンハワーがマッカーサーをホワイトハウスに昼食に招いた際には、懸命に助言を行うマッカーサーに耳を貸すことはなかったため、マッカーサーは昼食の席を立った後に、記者団に対して「責任は権力とともにある。私はもはや権力の場にはいないのだ」と不機嫌そうに語っている。",
"title": "人物評"
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"text": "マッカーサーのトレードマークはコーンパイプと、服装規則違反のフィリピン軍の制帽であった。",
"title": "エピソード"
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"text": "マッカーサーは将官ながら、正装の軍服を着用することが少なく、略装を好んだ。第一次世界大戦でレインボー師団の参謀長として従軍した際にはヘルメットを被らずわざと形を崩した軍帽、分厚いタートルネックのセーター、母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを着用し、いつもピカピカに磨いている光沢のあるブーツを履いて、手には乗馬鞭というカジュアルな恰好をしていた。部下のレインボー師団の兵士らもマッカーサーに倣ってラフな服装をしていたため、部隊を視察した派遣軍総司令官のパーシングは「この師団は恥さらしだ、兵士らの規律は不十分でかつ訓練は不適切で、服装は今まで見た中で最低だ」と師団長ではなく、元凶となったマッカーサーを激しく叱責したが、マッカーサーが自分のスタイルを変えることはなかった。",
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"text": "しかし、その風変わりな服装が危険を招いたこともあり、前線で指揮の為に地図を広げていたマッカーサーを見たアメリカ軍の他の部隊の兵士らが、普段見慣れない格好をしているマッカーサーをドイツ軍将校と勘違いし、銃を突き付け捕虜としたことがあった。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 329,
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"text": "元帥となっても、重要な会合や、自分より地位が高い者と同席する場合でも略装で臨むことが多かったために、批判されたこともある。右の天皇との会見写真でも、夏の略装にノーネクタイというラフな格好で臨んだため、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた。不敬と考えた内務省は、この写真が掲載された新聞を回収しようと試みたが、GHQによって制止されたため、この写真は内務省による言論統制の終焉も証明することになった。ただし、当時のアメリカ大使館には冷房設備がなかったこともあり、夏の暑さを避けるためにマッカーサーは意図せず略装で迎えたともいわれている。",
"title": "エピソード"
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"text": "松本健一は、リチャード・ニクソンの回想 において、マッカーサーの略式軍装は彼の奇行が習慣化したもので、1950年に朝鮮戦争問題で会見したトルーマンは、彼のサングラス、シャツのボタンを外す、金モールぎらぎらの帽子という「19かそこらの中尉と同じ格好」に憤慨したと述べている。また、マッカーサーの服装とスタイルには一種の「ダンディズム」ともいえる独特な性向があり、「天皇の前でのスタイルはいつものものでもはるかにましなものであった」とも指摘している。ニクソンが回想する「サングラス、色褪せた夏軍服、カジュアルな帽子、そしてコーンパイプ」という第二次世界大戦中のマッカーサーのスタイルは、まさに厚木飛行場に降り立った時の彼の姿であった。",
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"paragraph_id": 331,
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"text": "マッカーサーのトレードマークと言えばコーンパイプであるが、1911年にテキサス州で行われた演習の際の写真で、既に愛用しているのが確認できる。マッカーサーのコーンパイプはコーンパイプメイカー最大手のミズーリ・メシャム社(英語版)の特注であり、戦時中にもかかわらず、マッカーサーが同社のコーンパイプをくわえた写真が、同社の『ライフ』誌の広告に使用されている。",
"title": "エピソード"
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"text": "階級が上がるに従ってコーンパイプも大きくなっていき、タバコ葉を何倍も多く詰められるように深くなっている。現在ではこのような形のコーンパイプを「マッカーサータイプ」と呼ぶ。マッカーサーは自分のパイプを識別するために、横軸の真ん中あたりを軽く焼いて焦げ目をつけて印とした。現在のマッカーサータイプのコーンパイプも、機能には関係ないが、その印がされて販売されている。",
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"text": "しかし、マッカーサーの通訳官ジョージ・キザキ(日系2世、2018年6月没)によれば、マッカーサーは室内ではコーンパイプは一切使わず、ブライヤやメシャムの高級素材のパイプを愛用しており、屋外ではわざと粗野に映るコーンパイプを咥え、軍人としての荒々しさを演出する道具だったと証言している。1948年の『ライフ』誌の報道では、当時マッカーサーが使用していた17本のパイプの内でコーン・パイプはわずか5本であった。",
"title": "エピソード"
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"text": "マッカーサー記念館にはマッカーサーが愛用したブライヤパイプとパイプ立てが展示されており、退任後に私人として『ライフ』誌の表紙に登場した際にくゆらせていたのもブライヤパイプであった。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 335,
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"text": "マッカーサーは占領は日本におけるキリスト教宣教の「またとない機会」であるとして、記者発表や個人的書簡を通じて、日本での宣教を奨励した。マッカーサーはキリスト教を広めることが日本の民主化に役立つと考えていた。中でも南部バプテスト連盟ルイ・ニュートン(英語版)への書簡が知られている。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 336,
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"text": "マッカーサーはキリスト教聖公会の熱心な信徒であり、キリスト教は「アメリカの家庭の最も高度な教養と徳を反映するもの」であり、「極東においてはまだ弱いキリスト教を強化できれば、何億という文明の遅れた人々が、人間の尊厳、人生の目的という新しい考えを身に付け、強い精神力を持つようになる」と考えていた。そのような考えのマッカーサーにとって、日本占領は「アジアの人々にキリスト教を広めるのに、キリスト生誕以来の、比類ない機会」と映り、アメリカ議会に「日本国民を改宗させ、太平洋の平和のための強力な防波堤にする」と報告している。日本の実質最高権力者が、このように特定の宗教に肩入れするのは、マッカーサー自身が推進してきた信教の自由とも矛盾するという指摘が、キリスト教関係者の方からも寄せられることとなったが、マッカーサーはCIEの宗教課局長を通じ「特定の宗教や信仰が弾圧されているのでない限り、占領軍はキリスト教を広めるあらゆる権利を有する」と返答している。民間情報教育局(CIE)宗教課長ウィリアム・バンスは占領軍の政策がキリスト教偏重になっているような印象を与えないようにと努力した。マッカーサーは当初CIEにはかることなくキリスト教を支援するような発言をすることがあったが、後にそれを表立って行うことは控えるようになった。",
"title": "エピソード"
},
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"paragraph_id": 337,
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"text": "マッカーサーは、国家神道が天皇制の宗教的基礎であり、日本国民を呪縛してきたものとして、1945年(昭和20年)12月15日に、神道指令で廃止を命じた。神道を国家から分離(政教分離)し、その政治的役割に終止符を打とうとする意図に基づく指令であった。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 338,
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"text": "マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。また日本での活動を望むポケット聖書連盟(英語版)のために書いた推薦状の中で、聖書配布の活動を1000万冊規模に増強するよう要望した。(実際には11万冊を配布した。)",
"title": "エピソード"
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"text": "1947年にキリスト教徒で日本社会党の片山哲が首相になる(片山内閣)と、「歴史上実に初めて、日本はキリスト教徒で、全生涯を通じて長老派教会の信徒として過ごした指導者によって、指導される」として、同じくキリスト教徒であった中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハスと並ぶ者として片山を支持する声明を出した。しかしマッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9か月で瓦解した。",
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"paragraph_id": 340,
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"text": "ジョン・ガンサーが伝えるところによると、マッカーサーは「今日の世界でキリスト教を代表する二人の指導的人物こそ、自分と法王だとさえ考え」ていた。米国キリスト教会協議会もマッカーサーに対し「極東の救済のために神は“自らの代わり”として、あなたを差し向けたのだと、我々は信ずる」と賞賛していたが、マッカーサーが、布教の成果を確認する為に、CIEの宗教課に日本のキリスト教徒数の調査を命じたところ、戦前に20万人の信者がいたのに対し、現在は逆に数が減っているということが判明し、その調査結果を聞いた宗教課局長は「総司令はこの報告に満足しないし、怒るだろう」と頭を抱えることになった。マッカーサーらはフィリピンとインドシナ以外のアジア人は、当時、キリスト教にほとんど無関心で、大量に配布された聖書の多くが、読まれることもなく、刻みタバコの巻紙に利用されているのを知らなかった。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 341,
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"text": "局長から調査報告書を突き返された宗教課の将校らは、マッカーサーを満足させるためには0を何個足せばいいかと討議した挙句、何の根拠もない200万人というキリスト教徒数を捏造して報告した。マッカーサーもその数字を鵜呑みにして、1947年2月、陸軍省に「過去の信仰の崩壊によって日本人の生活に生じた精神的真空を満たす手段として...キリスト教を信じるようになった日本人の数はますます増え、既に200万人を超すものと推定されるのである」と報告している。結局、マッカーサーが日本を去った1951年時点でキリスト教徒は、カトリック、プロテスタントで25万7,000人と、戦前の20万人と比較し微増したが、占領下に注がれた膨大な資金と、協会や宣教師の努力を考えると、十分な成果とは言えなかった。「占領軍の宗教」とみなされ、他の宗教に比べて圧倒的に有利な立場にあったにもかかわらず、マッカーサーの理想とした「日本のキリスト教国化」は失敗に終わった。",
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"text": "キリスト教の精神に基づき、宗派を越えた大学を作るといった構想がラルフ・ディッフェンドルファー宣教師を中心に進んでおり、1948年に「国際基督教大学 財団」が設立されたが、マッカーサーはこの動きに一方ならぬ関心を示し、同大学の財団における名誉理事長を引き受けると、米国での募金運動に尽力した。ジョン・ロックフェラー2世にも支持を求めたが、その際に「ここに提案されている大学は、キリスト教と教育のユニークな結合からして、日本の将来にとってまことに重要な役割を必ずや果たすことでありましょう」と熱意のこもった手紙を出している。大学設置はマッカーサーが解任されて2年後の1953年であった。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 343,
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"text": "1946年に特使の立場で、訪日したハーバート・フーヴァーと会談し「フランクリン・ルーズベルトはドイツと戦争を行うために日本を戦争に引きずり込んだ」と述べたことを受け、マッカーサーも「ルーズベルトは1941年に近衛文麿首相が模索した日米首脳会談をおこなって戦争を回避する努力をすべきであった」の旨を述べている。",
"title": "エピソード"
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"text": "占領当時のマッカーサーはフリーメイソンのフィリピン・グランドロッジ(Manila Lodge No.1)に所属しており、32位階の地位にあったとされる。",
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"paragraph_id": 345,
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"text": "韓国でのマッカーサーの評価は、毀誉褒貶相半ばするものがあり、2005年には仁川市自由公園にあるマッカーサーの銅像撤去を主張する団体と銅像を保護しようとする団体が集会を開き対峙、警官隊ともみ合う事件も起きた。また、2018年にはマッカーサー像に火刑と称して像の周囲で可燃物を燃やす放火事件も発生している。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 346,
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"text": "マッカーサーは国内外で多くの栄典を受けたが、主なものを記載する。マッカーサーはアメリカ国内だけでも100個以上の勲章を受けているが、5つ星の元帥章以外は略綬さえ一切身に付けなかった。栄誉を飾らないのがマッカーサーの流儀であった。",
"title": "栄典"
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"paragraph_id": 347,
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"text": "他多数",
"title": "栄典"
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{
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"text": "他多数",
"title": "栄典"
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] |
ダグラス・マッカーサーは、アメリカ合衆国の陸軍軍人。アメリカ陸軍元帥、連合国軍最高司令官、国連軍司令官を歴任した。
|
{{基礎情報 軍人
| 氏名 = ダグラス・マッカーサー
| 各国語表記 = {{en|Douglas MacArthur}}
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1880|1|26|no}}
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1880|1|26|1964|4|5}}
| 画像 = Douglas MacArthur smoking his corncob pipe.jpg
| 画像サイズ=240px
| 画像説明 = フィリピンにて(1945年8月2日)
| 渾名=
| 生誕地 = {{USA1877}}・[[アーカンソー州]][[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]
| 死没地 = {{USA}}・[[ワシントンD.C.]]
| 所属政体 = {{USA}}
| 所属組織 = {{USARMY}}{{Flagicon image| Flag of the Philippine Army.svg|22px}}[[フィリピン軍#陸軍|フィリピン陸軍]]
| 軍歴 = [[1903年]]6月 - [[1964年]]4月
| 最終階級={{ubl|[[ファイル:US-O11 insignia.svg|25px]] [[元帥 (アメリカ合衆国)|陸軍元帥]](アメリカ陸軍)|[[:en:Field marshal (Philippines)|陸軍元帥]](フィリピン陸軍)}}
| 指揮={{ubl|[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍最高司令官]]|[[国連軍|国連軍司令官]]|[[朝鮮戦争]]|[[アメリカ陸軍参謀総長]]}}
| 部隊=
| 除隊後=[[レミントンランド]]会長
| 墓所 = {{USA}}・[[バージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]
| 署名=[[ファイル:DMacarthur Signature.svg|150px]]
}}{{After float}}'''ダグラス・マッカーサー'''<ref group="注釈">マッカーサ、マックアーサーなどとカナ表記される場合もある。</ref><ref>終戦直後の日本 -教科書には載っていない占領下の日本p131 彩図社</ref>({{lang-en|Douglas MacArthur}}、[[1880年]][[1月26日]] - [[1964年]][[4月5日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[陸軍軍人]]。[[アメリカ陸軍]][[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍最高司令官]]、[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍司令官]]を歴任した。
== 略歴 ==
[[1880年]]に[[アメリカ合衆国]][[アーカンソー州]]で生まれ、[[1903年]]に[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|ウェストポイント陸軍士官学校]]を[[首席]]で卒業した<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/マッカーサー-136478|title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「マッカーサー」の解説|MacArthur, Douglas|accessdate=2022-01-08|publisher=[[コトバンク]]}}</ref>。
[[1918年]]に[[第一次世界大戦]]に参戦し、[[師団]]参謀長として13の[[勲章]]を受勲した<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/マッカーサー-136478|title=日本大百科全書(ニッポニカ)「マッカーサー」の解説|Douglas MacArthur(1880―1964)|accessdate=2022-01-08|publisher=[[コトバンク]]}}</ref>。[[1919年]]には史上最年少で同士官学校の[[校長]]に就任、[[1925年]]には最年少で[[アメリカ軍]]の[[少将]]に就任、[[1930年]]には最年少で[[アメリカ陸軍参謀総長|アメリカ軍参謀総長]]に就任した<ref name=":2"/>。
[[1935年]]に[[フィリピン軍]]の創設に携わり<ref name=":2"/>、翌[[1936年]]にはフィリピン軍の[[元帥]]となった<ref name=":1"/>。[[第二次世界大戦]]では[[大日本帝国]]から[[フィリピン]]を奪還し、[[1944年]]に[[元帥 (アメリカ合衆国)|アメリカ陸軍元帥]]に就任した<ref name=":2"/>。
第二次世界大戦後、[[1945年]]から[[1950年]]まで[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍最高司令官]](GHQ)として各種の[[連合国軍占領下の日本|占領政策]]を行って<ref name=":1"/>[[民主化]]を進めたほか、[[国民主権]]・[[平和主義]]などを柱とする[[日本国憲法]]の制定に影響を与えた<ref name=":2"/>。
[[1950年]]には[[朝鮮戦争]]における[[国連軍 (朝鮮半島)|国際連合軍]]総司令官として[[仁川上陸作戦]]を成功させたが、[[中華人民共和国]]の人民解放軍との戦いに劣勢がみられ、北部のピョンヤン制圧から38度線まで撤退した。その後核を使うなどと全面戦争を主張したことなどから[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]の[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]と戦略が対立し、[[1951年]]に[[解任]]された<ref name=":1"/>。
退任後は[[1952年アメリカ合衆国大統領選挙|1952年の大統領選挙]]に出馬することを試みたが、支持が集まらずに断念した。製造企業[[レミントンランド]]社の[[会長]]に就任し、[[1964年]]に84歳で死去した<ref name=":2"/>。
== 経歴(青年期まで) ==
=== 生い立ち ===
[[ファイル:View copy.jpg|thumb|260px|西テキサス士官学校在学時のマッカーサー、1895年頃の写真]]
1880年1月26日、[[アーカンソー州]][[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]に誕生する。[[マッカーサー]]家は元々は[[スコットランド]]貴族の血筋で、[[キャンベル氏族]]の流れを汲み、[[スコットランド独立戦争]]で[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]に与して広大な領土を得たが、その後は領主同士の勢力争いに敗れ、没落したと伝えられている。[[1828年]]、当時少年だった祖父の{{仮リンク|アーサー・マッカーサー・シニア|en|Arthur MacArthur, Sr.}}は家族に連れられて[[スコットランド]]からアメリカに移民し、マッカーサー家はアメリカ国民となった{{sfn|津島 訳|1964|p=13}}。
父の[[アーサー・マッカーサー・ジュニア]]は16歳の頃に[[南北戦争]]に従軍した根っからの軍人であり、南北戦争が終わって一旦は除隊し、祖父と同様に法律の勉強をしたが長続きせず、[[1866年]]には軍に再入隊している。[[1875年]]に[[ニューオーリンズ]]の[[ロウワー・ナインス・ワード|ジャクソン兵舎]]に勤務時に、[[バージニア州|ヴァージニア州]]ノーフォーク生まれで[[ボルチモア]]の富裕な綿花業者の娘であったメアリー・ピンクニー・ハーディと結婚し、[[1880年]]に軍人である父の任地であった[[アーカンソー州]]リトルロックの兵器庫の兵営でマッカーサー家の三男としてダグラス・マッカーサーが誕生した。この頃は[[西部開拓時代]]の末期で、[[インディアン]]との戦いのため、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれており、マッカーサーが生まれて5か月の時、一家は[[ニューメキシコ州]]のウィンゲート砦に向かうこととなったが、その地で[[1883年]]に次男のマルコムが病死している。マルコムの病死は母のメアリーに大きな衝撃を与え、残る2人の息子で特に三男ダグラスを溺愛するようになった。次いでフォート・セルデンの砦に父のアーサーが転属となり、家族も付いていった。そのためダグラスは、幼少期のほとんどを軍の砦の中で生活することとなった{{sfn|津島 訳|1964|pp=32-33}}。
その後も一家は全国の任地を転々とするが、[[1898年]]4月に[[米西戦争]]が始まると父のアーサーは准将となり、[[スペイン領東インド|スペインの植民地]]であった[[フィリピン]]に出征し、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなった。戦争が終わり、フィリピンがスペインよりアメリカに割譲されると、少将に昇進して師団長になっていた父のアーサーはその後に始まった[[米比戦争]]でも活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官に昇進した{{sfn|津島 訳|1964|p=50}}。しかし、1892年に兄のアーサーは[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス海軍兵学校]]に入学し、[[1896年]]には海軍少尉として任官し、弟ダグラスもウェストポイント[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]を目指し勉強中だったことから、家族はフィリピンに付いていかなかった{{sfn|津島 訳|1964|pp=36-39}}。
なお、ダグラスは幼少期に母のメアリーによって[[フランス]]の風習に倣い、女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって、陸軍士官学校に入学させられることになったとも言われている。
=== 陸軍入隊 ===
[[ファイル:MacARTHUR, DOUGLAS. MAJOR LCCN2016859443.jpg|thumb|220px|少佐時代のマッカーサー、撮影日不明]]{{After float}}
[[1896年]]、マッカーサーは西テキサス士官学校卒業後、ウェストポイントの[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ陸軍士官学校]]受験に必要な大統領や有力議員の推薦状が得られなかったため、母メアリーと共に有力政治家のコネが得られるマッカーサー家の地元[[ミルウォーキー]]に帰り、母メアリーが伝手を通じて手紙を書いたところ、下院議員シオボルド・オーチェンの推薦を得ることに成功した。その後、ウェストサイド高等学校に入学、1年半もの期間受験勉強したが、その受験勉強の方法は、後のマッカーサーを彷彿させるものであった。マッカーサーは試験という難関から失敗の可能性を抽出すると、それを1つ1つ取り除いていくという勉強方法をとり、目標を楽々と達成した。この受験勉強でマッカーサーは「周到な準備こそは成功と勝利のカギ」という教訓を学び、それは今後の軍人人生に大いに役立つものとなった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=59}}。戦略的な受験勉強は奏功し、マッカーサーは[[1899年]]6月に750点満点中700点の高得点でトップ入学した{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=18}}。
しかし、マッカーサーは受験勉強期間中も[[ガリ勉]]に終始していたわけでなく、年相応の[[ロマンス]]も経験していた。マッカーサーはジョン・レンドラム・ミッチェル上院議員の娘に片思いし、彼女を口説くために、「うるわしき西部の娘よ、何より愛する君、君はなにゆえに我を愛さざるや?」という自作した詩を懐に忍ばせて、ミッチェル上院議員の家の周りをうろつくようになった。しかし、当時のマッカーサーはまったくモテず、ミッチェル上院議員の娘から相手にされることはなかった。これはマッカーサー個人の問題より、当時のアメリカでは軍服を颯爽とまとった軍人が若い女性の羨望の的であり、若い将校が休暇でミルウォーキーに帰ってくると、若い女性は軍人の周りに集まり、その中にはミッチェル上院議員の娘もいた。まだウェストポイントに入学していなかったマッカーサーは、他の平服を着た民間人と一緒にそれを横目で見ながらこそこそと隠れていなければならず、マッカーサーは「今度戦争があったら、絶対に前線で戦ってやるぞ」と心の中で誓っていた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=60}}。
そんな息子を溺愛して心配する母のメアリーは、マッカーサーがウェストポイントに入学すると、わざわざ学校の近くのクラニーズ・ホテルに移り住み、息子の学園生活に目を光らせることとした{{sfn|林茂雄|1986|p=213}}。その監視は学業だけではなく私生活にまで及び、マッカーサーを女性から遠ざけるのに抜け目がなかった。その過保護ぶりは教官も周知の事実となり、ある日マッカーサーがメアリーの目を盗んで[[ダンスホール]]で女性と[[キス]]をしているところを教官に見つかったことがあったが、ばつの悪い思いをしていたマッカーサーに対して教官は笑顔で「マッカーサー君おめでとう」とだけ言って去っていった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=71}}。結局メアリーはマッカーサーが卒業するまで離れなかったため、「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」とからかわれることとなった{{sfn|袖井|1982|p=12}}。
当時のウェストポイントは旧態依然とした組織であり、上級生による下級生へのしごきという名のいじめが横行していた。父親が有名で、母親が近くのホテルに常駐し付き添っているという目立つ存在であったマッカーサーは、特に念入りにいじめられた。そのいじめは、長いウェストポイントの歴史の中で100以上も考案され、主なものでは「ボクシング選手による鉄拳制裁」「割れたガラスの上に膝をついて前屈させる」「火傷する熱さの蒸し風呂責め」「ささくれだった板の上を全裸でスライディングさせる」など凄まじいものであった。そのいじめが行われる兵舎は生徒たちから「野獣兵舎」と呼ばれていた。マッカーサーはいじめを受け続け、最後は痙攣を起こして失神した。マッカーサーは失神で済んだが、新入生の中でいじめによる死亡者が出て問題化することになった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=64}}。報道によって社会問題化したことを重く見た[[ウィリアム・マッキンリー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]がウエストポイントに徹底した調査を命じ、数か月後に軍法会議が開廷された。激しいいじめを受けたマッカーサーも証人として呼ばれたが、マッカーサーは命令どおり証言すれば全校生徒から軽蔑される一方で、命令を拒否すればウエストポイントから追放されるという窮地に追い込まれることとなった。マッカーサーは熟考したあげく、既に罪を認めた上級生の名前のみ証言し、他の証言は拒否した。結局この事件は、罪を認めた生徒は一旦退学処分となったが、親族に有力者のコネがある生徒はまもなく復学し、またマッカーサーも父親アーサーが現役の将軍であったため証言拒否が問題視されることはなかった。しかし、窮地を機転と不屈の精神で乗り切ったマッカーサーは、多くの生徒から信頼を得ることができた{{sfn|ペレット|2014|pp=67-69}}。
在学中は成績抜群で、4年の在学期間中、3年は成績トップであったが、勉強だけではなく[[スポーツ]]にも熱心であった。マッカーサーは最も好きなスポーツは[[フットボール]]であったが、当時の体格は身長が180cmに対し体重が63.5㎏しかなく、この痩せ型の体型ではフットボール部に入部すらできない懸念があったので、マッカーサーは痩せ型の自分でも活躍できるスポーツとして[[野球]]を選び、自らで野球部を立ち上げた{{sfn|ペレット|2014|p=72}}。しかし、決して野球が巧いわけではなく、[[打撃 (野球)|打撃]]が苦手で、[[守備]]でも[[右翼手]]としては役には立たなかった。しかし、頭脳プレーに秀でており、[[選球眼]]もよく、[[セーフティーバント]]で相手投手を揺さぶるなどして高い出塁率を誇って、試合では活躍し、チームメイトからは「不退転のダグ」と呼ばれるようになった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=68}}。1901年5月18日には、ウェストポイント対アナポリスのアメリカ陸海軍対抗戦にマッカーサーは[[スターティングメンバー]]として出場し、2打席凡退後の3打席目で得意の選球眼で[[四球]]を選んで出塁すると、後の選手の[[タイムリーヒット]]で決勝の[[ホームベース]]を踏んだ{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=69}}。マッカーサーはこれらの活躍で、レター表彰(ウェストポイントの略称であるArmyの頭文字Aを[[ジャケット]]や[[ジャージー (衣類)|ジャージ]]などに[[刺繡|刺繍]]できる権利)を受けたが、この表彰により、マッカーサーは死の直前までAの文字が刺繍されたウェストポイントの長い灰色の[[バスローブ]]を愛用し続けた{{sfn|ペレット|2014|p=72}}。しかし野球に熱中するあまり成績が落ちたため、4年生には野球をきっぱりと止め、[[1903年]]6月に在学期間中の2,470点満点のうち2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、94名の生徒の首席で卒業した。このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない([[ロバート・リー]]がそのうちの一人である){{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=67}}。卒業後は[[陸軍少尉]]に任官した。
当時のアメリカ陸軍では[[工兵隊]]がエリート・グループとみなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願して第3工兵大隊所属となり、アメリカの[[植民地]]であった[[フィリピン]]に配属された{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=21}}。長いフィリピン生活の始まりであった。[[1905年]]に父が[[日露戦争]]の観戦任務のための[[駐日アメリカ合衆国大使館]]付き武官となった。マッカーサーも副官として[[大日本帝国|日本]]の[[東京]]で勤務した{{Sfn|シャラー|1996|p=22}}。マッカーサーは日露戦争を観戦したと自らの回想記に書いているが{{sfn|津島 訳|1964|p=61}}、彼が日本に到着したのは1905年10月で、[[ポーツマス条約]]調印後であり、これは、マッカーサーの回想によくある過大な記述であったものと思われ、回想記の版が重なるといつの間にかその記述は削除されている{{sfn|袖井|2004|p=22}}。その後マッカーサーと家族は日本を出発し、中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行しており、この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与えることになった。また、この旅行の際に日本で[[東郷平八郎]]・[[大山巌]]・[[乃木希典]]・[[黒木為楨]]ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている<ref name="P23"/>。
その後アメリカに帰国したマッカーサーは[[1906年]]9月に[[セオドア・ルーズベルト]]の要請で、大統領軍事顧問の補佐官に任じられた。マッカーサーの手際のよい仕事ぶりを高く評価したルーズベルトはマッカーサーに「中尉、君は素晴らしい外交官だ。君は大使になるべきだ」と称賛の言葉をかけている{{sfn|ペレット|2014|p=104}}。順調な軍歴を歩んでいたマッカーサーであったが、[[1907年]]8月に[[ミルウォーキー]]の地区工兵隊に配属されると、ミルウォーキーに在住していた裕福な家庭の娘ファニーベル・ヴァン・ダイク・スチュワートに心を奪われ、軍務に身が入っていないことを上官のウィリアム・V・ジャドソン少佐に見抜かれてしまい、ジャドソンは工兵隊司令官に対して「学習意欲に欠け」「勤務時間を無視して私が許容範囲と考える時間を超過して持ち場に戻らず」「マッカーサー中尉の勤務態度は満足いくものではなかった」と報告している。この報告に対してマッカーサーは激しく抗議したが、マッカーサーがミルウォーキーにいた期間は軍務に全く関心を持たず、スチュワートを口説くことだけに関心が集中していたことは事実であり、この人事評価は工兵隊司令部に是認された。これまで順調であったマッカーサーの軍歴の初めての躓きであり、結局は、ここまで入れ込んだ恋愛も実らず、今までの人生で遭遇したことのない大失敗に直面したこととなった。自分の経歴への悪影響を懸念したマッカーサーは一念発起し、自分の評価を挽回するため工兵隊のマニュアル「軍事的破壊」を作成し工兵部隊の指揮官に提出したところ、このマニュアルは陸軍[[訓練学校]]の教材に採用されることとなった。このマニュアルによって挫折からわずか半年後にマッカーサーは挫折を克服し、第3工兵隊の副官及び工兵訓練学校の教官に任命されるなど再び高い評価を受けることとなった{{sfn|ペレット|2014|pp=108-114}}という。
その後、マッカーサーは[[1911年]]2月に大尉に昇進したが、[[1912年]]9月に父のアーサーが重い[[脳卒中]]でこの世を去った。尊敬していた父の死はマッカーサーに大きな衝撃を与え、マッカーサーはこの後生涯に渡って父の写真を持ち歩いていた。夫の死に大きなショックを受けたマッカーサーの母のメアリーは体調を崩して故郷ボルチモア病院に通院していたが、マッカーサーは少しでも側にいてやりたいと考えて、陸軍に異動願いを出していた。当時の[[アメリカ陸軍参謀総長]]は {{仮リンク|レオナルド・ウッド|en|Leonard Wood}} であったが、ウッドはかつて父アーサーの部下として勤務した経験があり、アーサーに大きな恩義を感じていたため、わざわざ[[アメリカ合衆国旧陸軍省|陸軍省]]に省庁間の調整という新しい部署を作ってマッカーサーを異動させた。ワシントンに着任したマッカーサーは定期的に母を見舞うことができた。また、ウッドはマッカーサーの勤務報告書に自ら「とりわけ知的で有能な士官」と記すなど、高く評価したため、この後、急速に出世街道を進んでいくこととなった{{sfn|ペレット|2014|p=120}}。
== 経歴(第一次世界大戦〜戦間期) ==
=== 第一次世界大戦 ===
[[ファイル:Douglas MacArthur, Army photo portrait seated, France 1918.JPEG|thumb|[[1918年]]、[[第一次世界大戦]]中の[[フランス]]。レインボー師団司令部で。]]{{After float}}
1910年11月に始まった[[メキシコ革命]]で[[ビクトリアーノ・ウエルタ]]将軍が権力を掌握したが、ウエルタ政権を承認しないアメリカの[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領と対立することとなったため、ウエルタに忠誠を誓うメキシコ兵がアメリカ軍の[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]兵士を拘束し、[[タンピコ事件]]が発生した。アメリカはメキシコに兵士の解放・事件への謝罪・星条旗に対する21発の礼砲を要求したが、メキシコは兵士の解放と現地司令官の謝罪には応じたが礼砲は拒否した。憤慨したウィルソンは大西洋艦隊第1艦隊司令[[フランク・F・フレッチャー]]に[[ベラクルス]]の占領を命じた({{仮リンク|アメリカ合衆国によるベラクルス占領|en|United States occupation of Veracruz}})<ref>[http://www.historycentral.com/documents/Tampico.html The Tampico Incident": Wilson's Message to Congress [April 20, 1914]] 2016年5月26日閲覧</ref>。
激しい市街戦により占領したベラクルスに {{仮リンク|レオナルド・ウッド|en|Leonard Wood}} 参謀総長は増援を送り込んだが、[[第2歩兵師団 (アメリカ軍)|歩兵第2師団]]の第5旅団に偵察要員として、当時大尉であったマッカーサーを帯同させた。マッカーサーの任務は「作戦行動に有益なあらゆる情報を入手する」といった情報収集が主な任務であったが、マッカーサーはベラクルスに到着した第5旅団が輸送力不足により動きが取れないことを知り、メキシコ軍の[[蒸気機関車]]を奪取することを思い立った。マッカーサーはメキシコ人の鉄道労働者数人を買収すると、単身でベラクルスより65キロメートル離れたアルバラードまで潜入、内通者の支援により3両の蒸気機関車の奪取に成功した。その後、マッカーサー自身の証言では追撃してきた騎馬隊と激しい銃撃戦の上、マッカーサーは3発も銃弾が軍服を貫通するも無傷で騎馬隊を撃退し、見事にベラクルスまで機関車を持ち帰ってきた。マッカーサーはこの活躍により当然[[名誉勲章]]がもらえるものと期待していたが、第5旅団の旅団長がそのような命令を下していないと証言したこと、また銃撃戦の件も内通者のメキシコ人以外に証人はおらず信頼性に乏しいことより、名誉勲章の授与は見送られる事になり、マッカーサーは失望することとなった{{sfn|ペレット|2014|pp=134-137}}。
その後にマッカーサーは[[陸軍省 (アメリカ合衆国)|陸軍省]]に戻り、[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]副官・広報班長に就いた。[[1917年]]4月にアメリカが[[イギリス]]・[[フランス]]・日本などとともに[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の一国として[[第一次世界大戦]]に参戦することが決まった。アメリカは戦争準備のため、急きょ1917年5月に選抜徴兵法を制定したが、徴兵部隊が訓練を終えて戦場に派遣されるには1年は必要と思われた{{sfn|ペレット|2014|p=144}}。
マッカーサーは[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官と共にホワイトハウスへ行って、ウィルソンに「全米26州の[[州兵]]を強化して市民軍としてヨーロッパに派遣すべき」と提案した{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=17}}。ウィルソンはベイカーとマッカーサーの提案を採用しその実行を指示したが、どの州の部隊を最初にフランスに派遣すべきかが悩ましい問題として浮上した。ベイカーは州兵局長{{仮リンク|ウィリアム・A・マン|en|William Abram Mann}}准将とマッカーサーに意見を求めたが、マッカーサーは単独の州ではなくいくつかの州の部隊で師団を編成することを提案し、その提案に賛成したマンが「全26州の部隊で編成してはどうか」と補足すると、マッカーサーは「それはいいですね、そうすれば師団は全国に虹のようにかかることになります」と言った。ベイカーはその案を採用し{{仮リンク|第42師団|en|42nd Infantry Division (United States)}}を編成した。師団長にはマン、そして少佐だったマッカーサーを二階級特進させ大佐とし参謀長に任命した{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|pp=90-91}}。戦争に参加したくてたまらず、知り合いの記者に「真の昇進はフランスに行った者に与えられるであろう」と思いのたけを打ち明けていたマッカーサーには希望どおりの人事であった{{sfn|ペレット|2014|p=146}}。第42師団は「レインボー師団」と呼ばれることになった。
第42師団は[[1918年]]2月に[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に参戦した。マッカーサーが手塩にかけて育成した兵士は勇猛に戦い、多くの死傷者を出しながらも活躍した。アメリカが第一次世界大戦でフランスに派遣した部隊の中では、正規軍と海兵隊で編成された精鋭部隊歩兵第2師団に次ぐ貢献度とされた<ref>ポール・ブレイン『The Test of Battle』P.149</ref>。マッカーサーも参謀長であるにもかかわらず、前線に出たがった。正規の軍装は身に着けず、ヘルメットを被らず常に軍帽を着用し、分厚いタートルネックのセーターに母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを首に巻き、光沢のあるカーフブーツを履いて、武器の代わりに乗馬鞭か杖を握りしめているという目立つ格好であった{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=18}}。
マッカーサーは前線の偵察を自ら直接行うこともあり、度々危険な目にあっている。車両に乗って偵察した際にはドイツ軍の機関銃に射撃され、車両は破壊されたがマッカーサーは奇跡的に無事であった。また少数のパトロール部隊を率いて夜間偵察した際には、ドイツ軍の[[毒ガス]]攻撃を受け、マッカーサー以外の兵士は全員戦死したということもあった{{sfn|ペレット|2014|p=202}}。マッカーサーはその後、第42師団の第84旅団の旅団長([[准将]])に就任し、休戦前には一時的に師団長が不在となったため、准将ながら第42師団を率いたこともあった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=124}}。マッカーサーは第一次世界大戦中に戦場において2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。
この[[アメリカ外征軍|ヨーロッパ派遣軍]](AEF)の総司令官は[[ジョン・パーシング]]であったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。
しかし、マッカーサーの母メアリーは、夫アーサーが在フィリピンのアメリカ軍司令官だったころに、当時大尉であったパーシングの面倒をみていたという伝手を頼って、マッカーサーを早く昇進させるようにと嘆願する手紙をたびたび送っていた。またベイカーにも同じような手紙を何通も送っている{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.2655}}。そのおかげか、大戦中にマッカーサーは前述のように[[准将]]に昇進しており、メアリーはパーシングに「息子は貴方の期待を裏切らないはずです」というお礼の手紙を送っている{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=28}}。また、大戦後にパーシングが参謀総長に就任すると、「息子を早く少将に昇進させて欲しい」との手紙も送っている。メアリーはマッカーサーを溺愛するあまり過保護であり、大戦前の1909年に夫アーサーが軍を退役した際には、マッカーサーの将来を憂いて、鉄道王[[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]に「陸軍よりもっと出世が約束される仕事に就かせたい、貴方の壮大な企業のどこかで雇ってはもらえないだろうか」という手紙も送っていた{{sfn|袖井|2004|pp=28-31}}。
=== 戦間期 ===
[[ファイル:Douglas MacArthur as USMA Superintendent.jpg|thumb|150px|陸軍士官学校の校長に就任したマッカーサー]]{{After float}}
大戦後にマッカーサーは、母校である陸軍士官学校の校長に就任した(1919年 - 1922年)。当時39歳と若かったマッカーサーは辣腕を振るい、士官学校の古い体質を改革して現代的な軍人を育成する場へと変貌させた。マッカーサーが在学中に痛めつけられたしごきの悪習も完全に廃止され、しごきの舞台となっていた野獣兵舎も閉鎖した。代わりに競技スポーツに力をいれ、競技種目を3種目(野球・フットボール・バスケットボール)から17種目に増やし、全員参加の校内競技大会を開催することで団結心が養われた{{sfn|メイヤー|1971|p=52}}。その指導方針は厳格であり、当時の生徒は「泥酔した生徒が沢山いる部屋にマッカーサーが入ってくると、5分もしないうちに全員の心が石のように正気にかえった。こんなことができたのは世界中でマッカーサーただ一人であっただろう」と回想している<ref>『マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東』 P.49</ref>。マッカーサーはその指導方針で士官候補生の間では不人気であり、ある日、士官候補生数人がマッカーサーに抗議にきたことがあったが、マッカーサーは候補生らの言い分を聞いた後に「日本との戦争は不可避である。その時になればアメリカは専門的な訓練を積んだ士官が必要となる。ウェストポイントが有能な士官の輩出という使命をどれだけ果たしたかが戦争の帰趨を決することになる」と言って聞かせると、候補生らは納得して、それ以降は不満を言わずに指導に従った{{sfn|ペレット|2014|p=230}}。
その後、[[1922年]]に縁の深いフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され着任する。その際、同年結婚した最初の妻{{仮リンク|ルイーズ・クロムウェル・ブルックス|en|Louise Cromwell Brooks}}を伴ってのフィリピン行きとなった。ルイーズは大富豪の娘で社交界の花と呼ばれていたため、2人の結婚は「軍神と百万長者の結婚」と騒がれた{{sfn|増田|2009|p=5}}。この人事については、ルイーズがパーシング参謀総長の元愛人であり、それを奪ったマッカーサーに対する私怨の人事と新聞に書きたてられ、パーシングはわざわざ新聞紙面上で否定せざるを得なくなった。しかし、当時パーシングはルイーズと別れ20歳のルーマニア女性と交際しており{{sfn|ペレット|2014|p=237}}、ルイーズはパーシングと別れた後、パーシングの副官ジョン・キュークマイヤーを含む数人の軍人と関係するなど恋多き女性であった{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=32}}。
このフィリピン勤務でマッカーサーは、後の[[フィリピン・コモンウェルス]](独立準備政府)初代大統領[[マニュエル・ケソン]]などフィリピンに人脈を作ることができた。翌[[1923年]]には[[関東大震災]]が発生、マッカーサーはフィリピンより日本への救援物資輸送の指揮をとっている。これらの功績が認められ、[[1925年]]にアメリカ陸軍史上最年少となる44歳での少将への昇進を果たし、米国本土へ転属となった。
少将になったマッカーサーに最初に命じられた任務は、友人である[[ウィリアム・ミッチェル]]の[[軍法会議]]であった。ミッチェルは[[航空主兵論]]の熱心な論者で、自分の理論の正しさを示すため、旧式戦艦や標的艦を航空機の爆撃により撃沈するデモンストレーションを行ない、第一次世界大戦中にアメリカに空軍の基盤となるべきものが作られたにもかかわらず、政府がその後の空軍力の発展を怠ったとして、厳しく批判していた{{sfn|メイヤー|1971|p=56}}。軍に対してもハワイ、[[オアフ島]]の防空体制を嘲笑う意見を公表したり、軍が航空隊の要求する予算を承認しないのは犯罪行為に等しい、などと過激な発言を繰り返し、この歯に衣を着せぬ発言が『軍への信頼を失墜させ』『軍の秩序と規律に有害な行為』とみなされ、軍法会議にかけられることとなったのである。マッカーサーは、父アーサーとミッチェルの父親が同僚であった関係で、ミッチェルと少年時代から友達付き合いをしており、この軍法会議の[[判事]]となる任務が「私が受けた命令の中で一番やりきれない命令」と言っている。マッカーサーは判事の中で唯一「無罪」の票を投じたがミッチェルは有罪となり[[1926年]]に除隊した{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=151}}。その後、ミッチェルの予言どおり航空機の時代が到来したが、その時には死後10年後であり、ようやくミッチェルはその先見の明が認められ、[[1946年]]に名誉回復され、[[少将]]の階級と[[議会名誉黄金勲章]]が遺贈された。
[[1928年]]の[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]ではアメリカ選手団団長となったが、[[アムステルダム]]で新聞記者に囲まれた際「我々がここへ来たのはお上品に敗けるためではない。我々は勝つために来たのだ。それも決定的に勝つために」と答えた。しかし、マッカーサーの意気込みどおりとはならず、アメリカは前回の[[1924年パリオリンピック|パリオリンピック]]の金メダル45個から22個に半減し、前評判の割には成績は振るわなかった。アメリカ国民の失望は大きく、選手団に連日非難の声が寄せられた{{sfn|袖井|2004|pp=33-34}}。この大会では日本が躍進し、史上初の金メダルを2個獲得している。金メダルを[[三段跳]]で獲得した[[織田幹雄]]は終戦時に、その折のアメリカ選手団団長のマッカーサーが占領軍の最高司令官であったことに驚いたという。
マッカーサーがオリンピックでアムステルダムにいた頃、妻ルイーズがアメリカにて複数の男性と浮気をしていたと新聞のゴシップ欄で報じられた。ルイーズは新婚当初は知人を通じ、当時の陸軍長官[[ジョン・ウィンゲイト・ウィークス (陸軍長官)|ジョン・ウィンゲイト・ウィークス]]に、「ダグラスが昇進できるように一肌脱いでほしい、工作費はいくら請求してくれてもよい」と働きかけるほど、夫マッカーサーに尽くそうとしていたが、華美な生活を求めたルイーズとマッカーサーは性格が合わず、[[1929年]]には離婚が成立している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=147, 154}}。ルイーズとの夫婦生活での話は後にゴシップ化し、面白おかしくマスコミに取り上げられてマッカーサーを悩ませることになる{{Sfn|シャラー|1996|pp=26-29}}。
離婚のごたごたで傷心のマッカーサーに、在フィリピン・アメリカ陸軍司令官として再度フィリピン勤務が命じられたが、マッカーサーはこの異動を「私にとってこれほどよろこばしい任務はなかった」と歓迎している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=154}}。マッカーサーは当時のアメリカ人としては先進的で、アジア人に対する差別意識が少なく、ケソンらフィリピン人エリートと対等に付き合い友情を深めた。また、アメリカ陸軍フィリピン人部隊(フィリピン・スカウト)の待遇を改善し、強化を図っている{{Sfn|シャラー|1996|p=28}}。この当時は日本が急速に勢力を伸ばし、フィリピンにも日本人の農業労働者や商売人が多数移民してきており、マッカーサーは脅威に感じて防衛力の強化が必要と考えていたが、アメリカ本国はフィリピン防衛に消極的で、フィリピンには17,000名の兵力と19機の航空機しかなく、マッカーサーはワシントンに「嘆かわしいほどに弱体」と強く抗議している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=156}}。ケソンはこのようにフィリピンに対して親身なマッカーサーに共感し、[[ヘンリー・スティムソン]]の後任の[[アメリカ領フィリピンの総督・高等弁務官|フィリピン総督]]に就任することを願った。マッカーサーも、かつて父アーサーも就任した総督の座を希望しており、ケソンらに依頼しフィリピンよりマッカーサーの推薦状を送らせている。しかし工作は実らず、総督には前陸軍長官の[[ドワイト・フィリー・デイヴィス]]が就任した{{Sfn|シャラー|1996|p=29}}。
私生活では、1929年にマニラで混血の女優{{仮リンク|エリザベス・イザベル・クーパー|en|Elizabeth Cooper}}との交際が始まったが、マッカーサー49歳に対し、イザベルは当時16歳であった{{sfn|工藤|2001|p=45}}。
=== 陸軍参謀総長 ===
[[1930年]]、大統領[[ハーバート・フーヴァー]]により、アメリカ陸軍最年少の50歳で[[アメリカ陸軍参謀総長|参謀総長]]に任命された。このポストは大将職であるため、一時的に大将に昇進した<ref group="注釈">議会が[[1939年]]8月に[[軍]]司令官(4人)を中将職とするまで、第一次世界大戦後のアメリカ陸軍に中将はいなかった。[https://www.loc.gov/law/help/statutes-at-large/76th-congress/session-1/c76s1ch454.pdf An Act To provide for the rank and title of lieutenant general of the Regular Army.]</ref>。[[1933年]]から副官には、後の大統領[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]が付き、マッカーサーとアイゼンハワーの長くて有名な関係が始まった。アイゼンハワーはウェストポイントを平均的な成績で卒業していたが、英語力に極めて優れており、分かりやすく、構成のしっかりした、印象的な報告書を作成することに長けていた。アイゼンハワーはパーシングの回顧録記述の手伝いをし、第一次世界大戦におけるアメリカ陸軍の主要な公式報告書の多くを執筆した。マッカーサーはこうしたアイゼンハワーの才能を報告書を通じて知ると、参謀本部の年次報告書などの重要な報告書作成任務のために抜擢したのであった{{sfn|ペレット|2014|p=290}}。マッカーサーはアイゼンハワーが提出してきた報告書に、自らが直筆した称賛の手紙を入れて返した。アイゼンハワーはその手紙に感動して母親に見せたが、母親はさらに感激してマッカーサーの手紙を額に入れて飾っていた{{sfn|ペレット|2014|p=291}}。
前年の「[[暗黒の木曜日]]」に端を発した[[世界恐慌]]により、陸軍にも軍縮の圧力が押し寄せていたが、マッカーサーは議会など軍縮を求める勢力を「平和主義者とその同衾者」と呼び、それらは[[共産主義]]に毒されていると断じ、激しい敵意をむき出しにしていた{{sfn|袖井|2004|p=38}}。当時、アメリカ陸軍は世界で17番目の規模しかなく、[[ポルトガル陸軍]]や[[ギリシャ陸軍]]と変わらなくなっていた。また兵器も旧式であり、火砲は第一次世界大戦時に使用したものが中心で、戦車は12両しかなかった。しかし議会はさらなる軍事費削減をせまり、マッカーサーの参謀総長在任時の主な仕事は、この小さい軍隊の規模を守ることになった<ref name="P170"/>。
[[ファイル:Bonus marchers 05510 2004 001 a.gif|thumb|250px|ボーナスアーミーのデモ隊を排除する警官隊]]{{After float}}
[[1932年]]に、[[退役軍人]]の団体が恩給前払いを求めて[[ワシントンD.C.]]に居座る事件([[ボーナスアーミー]])が発生した。全国から集まった退役軍人とその家族は一時、22,000名にも上った。特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され、連邦政府に対する革命行動を煽っている、と根拠のない非難をおこなった。退役軍人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの交通費の支給などの懐柔策で、少しずつであるが解散して行った。しかし、フーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもかかわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が警察と軍に、デモ隊の排除を命令した。マッカーサーは[[ジョージ・パットン]]少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令に反し、アナコスティア川を渡河して退役軍人らのテント村を焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた{{Sfn|シャラー|1996|p=33}}。マッカーサーは夜の記者会見で、「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と鎮圧行動は正当であると主張したが、やりすぎという非難の声は日増に高まることとなった{{sfn|袖井|2004|p=39}}。
マッカーサーは自分への非難の沈静化を図るため、ボーナスアーミーでの対応で非難する記事を書いたジャーナリストのドルビー・ピアソンとロバート・S・アレンに対し、[[名誉棄損]]の訴訟を起こすが、かえってジャーナリストらを敵に回すことになり、ピアソンらは当時関係が破局していたマッカーサーの恋人イザベルの存在を調べ上げると、マッカーサーが大統領や陸軍長官など目上に対して侮辱的な言動をしていたことや、私生活についての情報をイザベルより入手している。その後、マッカーサーとピアソンらは名誉棄損の訴訟を取り下げる代わりに、スキャンダルとして記事にしないことやイザベルに慰謝料を払うことで和解している<ref name="P170">{{harvnb|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=170}}</ref>。
フーヴァーはボーナスアーミーでの対応の不手際や、恐慌に対する有効な政策をとれなかったため、[[フランクリン・ルーズベルト]]に大統領選で歴史的大敗を喫して政界を去ったが、ルーズベルトもフーヴァーと同様に、不況対策と称して軍事予算削減の方針であった。マッカーサーはルーズベルトに「大統領は国の安全を脅かしている、アメリカが次の戦争に負けて兵隊たちが死ぬ前に言う呪いの言葉は大統領の名前だ」と辞任覚悟で詰め寄るが、結局陸軍予算は削減された<ref name="P36">{{harvnb|シャラー|1996|p=36}}</ref>。マッカーサーはルーズベルトが進める[[ニューディール政策]]には終始反対の姿勢であったが{{sfn|袖井|2004|p=40}}、ルーズベルトがニューディール政策の一つとして行った CCC([[市民保全部隊]])による失業者救済に対し、陸軍の組織力や指導力を活用して協力し、初期の成功に大きく貢献している<ref name="P36"/>。
この頃のマッカーサーは公私ともに行き詰まりを感じて、自信喪失に苦しんでおり、時々自殺をほのめかすときがあった。その度に副官の{{仮リンク|トーマス・ジェファーソン・デービス|en|Thomas Jefferson Davis}}大尉などがマッカーサーに[[拳銃]]を置くように説得したが、ある日、マッカーサーとデービスが公務で一緒に汽車に乗り、その汽車が、マッカーサーの父アーサーが南北戦争時に活躍した戦場の付近を通ったとき、マッカーサーがデービスに「私は陸軍と人生において、出来得る限りのことをやり終え、今や参謀総長としての任期も終わろうとしている。[[テネシー川]]の鉄橋を通過するとき、私は列車から飛び降りるつもりだ。ここで私の人生は終わるのだ」と語りかけてきた。このようなやりとりにうんざりしていたデービスは「うまく着水できることを祈ります」と答えると、マッカーサーはばつが悪い思いをしたのか、荒々しくその客車を出て行ったが、後ほどデービスに感情的になっていたと謝罪している{{Sfn|シャラー|1996|pp=40-41}}。
マッカーサーは史上初の参謀総長再任を希望し、ルーズベルトもまた意見は合わないながらもその能力を高く評価しており、暫定的に1年間、参謀総長の任期を延長している。
=== フィリピン生活 ===
[[1935年]]に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、[[フィリピン軍]]の[[軍事顧問]]に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定したため、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。マッカーサーはケソンから提示された、18,000ドルの給与、15,000ドルの交際費、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームの滞在費に加えて秘密の報酬<ref group="注釈">フィリピン防衛計画作成の作業料という名目で、7年間にわたり多額の金をコミッションとして渡す契約。マッカーサーはアメリカ軍人の任務として防衛計画を作成するのであり、その見返りを受け取ることはアメリカ国内法で違反だった。</ref> という破格の条件から、主に経済的な理由により軍事顧問団への就任を快諾している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=177}}{{Sfn|シャラー|1996|p=50}}。
フィリピンには参謀総長時代から引き続いて、アイゼンハワーとジェームズ・D・オード両少佐を副官として指名し帯同させた。アイゼンハワーは行きたくないと考えており「参謀総長時代に逆らった私を懲らしめようとして指名した」と感じたと後に語っている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=178}}。
フィリピン行きの貨客船「プレジデント・フーバー ({{lang|en|S.S. President Hoover}}) 」には2番目の妻となる[[ジーン・マッカーサー|ジーン・マリー・フェアクロス]]も乗っており、船上で2人は意気投合して、2年後の1937年に結婚している。また、母メアリーも同乗していたが、既に体調を崩しており長旅の疲れもあってか、マッカーサーらがマニラに到着した1か月後に亡くなっている{{sfn|工藤|2001|pp=58-62}}。
[[1936年]]2月にマッカーサーは、彼のためにわざわざ設けられたフィリピン陸軍元帥に任命された。副官のアイゼンハワーは、存在もしない軍隊の元帥になるなど馬鹿げていると考え、マッカーサーに任命を断るよう説得したが、聞き入れられなかった。後年ケソンに尋ねたところ、これはマッカーサー自身がケソンに発案したものだった{{sfn|袖井|2004|p=45}}。しかし肝心の軍事力整備は、主に資金難の問題で一向に進まなかった。マッカーサーは50隻の[[魚雷艇]]、250機の航空機、40,000名の正規兵と419,300名のゲリラで、攻めてくる日本軍に十分対抗できると夢想していたが、実際にアイゼンハワーら副官が軍事力整備のために2,500万ドルの防衛予算が必要と提言すると、ケソンとマッカーサーは800万ドルに削れと命じ、[[1941年]]には100万ドルになっていた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=185}}。
軍には金はなかったが、マッカーサー個人はアメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。1936年1月17日にはマニラでアメリカ系[[フリーメイソン]]に加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した<ref>『歴史読本臨時増刊 世界 謎の秘密結社』「フリーメーソンの全貌 占領政策」</ref>。
[[1937年]]12月にマッカーサーは陸軍を退官する歳となり、アメリカ本土への帰還を望んだが、新しい受け入れ先が見つからなかった。そこでケソンがコモンウェルスで軍事顧問として直接雇用すると申し出て、そのままフィリピンに残ることとなった。アイゼンハワーら副官もそのまま留任となった。[[1938年]]1月にマッカーサーが軍事力整備の成果を見せるために、マニラで大規模な軍事パレードを計画した。アイゼンハワーら副官は、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーを諫めるも聞き入れず、副官らにパレードの準備を命令した。それを聞きつけたケソンが、自分の許可なしに計画を進めていたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーらに責任を転嫁した。このことで、マッカーサーとアメリカ軍の軍事顧問幕僚たちとの決裂は決定的となり、アイゼンハワーは友人オードの航空事故死もあり、フィリピンを去る決意をした。[[1939年]]に第二次世界大戦が開戦すると、アメリカ本国に異動を申し出て、後に[[連合国遠征軍最高司令部]] ({{lang|en|Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force}}) 最高司令官となった{{Sfn|シャラー|1996|pp=67-69}}。アイゼンハワーの後任には[[リチャード・サザランド]]大佐が就いた。
== 経歴(太平洋戦争) ==
=== 現役復帰 ===
[[ファイル:CampMurphy.jpg|thumb|フィリピン国内の基地で演説を行うマッカーサー]]{{After float}}
[[第二次世界大戦]]が始まってからも主に予算不足が原因で、フィリピン軍は強化が進まなかったが、[[日独伊三国同盟]]が締結され、日本軍による[[仏印進駐]]が行われると、ルーズベルトは強硬な手段を取り、石油の禁輸と日本の在米資産を凍結し、[[日米通商航海条約]]の失効もあって極東情勢は一気に緊張した。継続的な日米交渉による打開策模索の努力も続けられたが、日本との戦争となった場合、フィリピンの現戦力では[[オレンジ計画]]を行うのは困難であるとワシントンは認識し、急遽フィリピンの戦力増強が図られることとなった。マッカーサーもその流れの中で、[[1941年]]7月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰(7月26日付で少将として召集、翌日付で中将に昇進、12月18日に大将に昇進)した。それで在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合した[[アメリカ極東陸軍]]の司令官となった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=211}}。
それまでフィリピンに無関心であったワシントンであったが、[[ジョージ・マーシャル]][[アメリカ陸軍参謀総長|陸軍参謀総長]]は「フィリピンの防衛はアメリカの国策である」と宣言し、アメリカ本国より18,000名の最新装備の[[州兵]]部隊を増援に送るとマッカーサーに伝えたが、マッカーサーは増援よりもフィリピン軍歩兵の装備の充実をマーシャルに要請し了承された{{sfn|ペレット|2014|p=452}}。またアメリカ陸軍航空隊が『空飛ぶ要塞』と誇っていた新兵器の大型爆撃機[[B-17 (航空機)|B-17]]の集中配備を計画した。陸軍航空隊司令[[ヘンリー・アーノルド]]少将は「手に入り次第、B-17をできるだけ多くフィリピンに送れ」と命令し、計画では74機のB-17を配備し、フィリピンは世界のどこよりも重爆撃機の戦力が集中している地域となる予定であった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=220}}。他にも急降下爆撃機[[SBD (航空機)|A-24]]、戦闘機[[P-40 (航空機)|P-40]]など、当時のハワイよりも多い207機の航空機増援が約束され、その増援一覧表を持ってマニラを訪れた{{仮リンク|ルイス・ブレアトン|en|Lewis H. Brereton}}少将に、マッカーサーは興奮のあまり机から跳び上がり抱き付いたほどであった{{sfn|ペレット|2014|p=464}}。
マーシャルはB-17を過信するあまり日本軍航空機を過少評価しており、「戦争が始まればB-17はただちに日本の海軍基地を攻撃し、日本の紙の諸都市を焼き払う」と言明している。B-17にはフィリピンと日本を往復する[[航続距離]]は無かったが、爆撃機隊は日本爆撃後、[[ソビエト連邦]]の[[ウラジオストク]]まで飛んで、フィリピンとウラジオストクを連続往復して日本を爆撃すればいいと楽観的に考えていた。その楽観論はマッカーサーも全く同じで「12月半ばには陸軍省はフィリピンは安泰であると考えるに至るであろう(中略)アメリカの高高度を飛行する爆撃隊は速やかに日本に大打撃を与えることができる。もし日本との戦争が始まれば、アメリカ海軍は大して必要がなくなる。アメリカの爆撃隊は殆ど単独で勝利の攻勢を展開できる」という予想を述べているが、この自軍への過信と敵への油断は後にマッカーサーへ災いとして降りかかることになった<ref>[[#ボールドウィン|ボ―ルドウィン(1967年)]]p.144</ref>。
また同時に、海軍の{{仮リンク|アジア艦隊|en|United States Asiatic Fleet}}の増強も図られ、潜水艦23隻が送られることとなり、アメリカ海軍で最大の潜水艦隊となった{{Sfn|ブレア Jr.|1978|pp=53-55}}。アジア艦隊司令長官は、マッカーサーの知り合いでもあった[[トーマス・C・ハート]]であったが、マッカーサーは自分が中将なのにハートが大将なのが気に入らなかったという<ref group="注釈">アジア艦隊のトップが大将なのは、[[上海市|上海]]などで[[砲艦外交]]をする上で仕事をやりやすくするためという理由があった。</ref>。そのためマッカーサーは「{{lang|en|Small fleet, Big Admiral}}(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、ハートやアジア艦隊を揶揄していた<ref group="注釈">マッカーサーがウェストポイント校長時代、[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス]]校長はハートであった。</ref>。
マッカーサーは戦力の充実により、従来の戦術を大きく転換することとした。現状のペースで戦力増強が進めば1942年4月には20万人のフィリピン軍の動員ができ、マーシャルの約束どおり航空機と戦車が配備されれば、上陸してくる日本軍を海岸で阻止できるという目論みに基づく計画であった。当初のオレンジ計画では内陸での防衛戦を計画しており、物資や食糧は有事の際には強固に陣地化されている[[バターン半島]]に集結する予定であったが、マッカーサーの新計画では水際撃滅の積極的な防衛戦となるため、物資は海岸により近い平地に集結させられることとなった。この転換は後に、マッカーサーとアメリカ軍・フィリピン軍兵士を苦しめることとなったが、マッカーサーの作戦変更の提案にマーシャルは同意した{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=217}}。もっとも重要な首都[[マニラ]]を中心とする[[ルソン島]]北部には[[ジョナサン・ウェインライト]]少将率いるフィリピン軍4個師団が配置された。日本軍の侵攻の可能性が一番高い地域であったが、ウェインライトが守らなければいけない海岸線の長さは480kmの長さに達しており、任された兵力では到底戦力不足であった。しかし、マッカーサーはウェインライトに「どんな犠牲を払っても海岸線を死守し、絶対に後退はするな」と命じていた{{sfn|メイヤー|1971|p=90}}。
マッカーサーが戦力の充実により防衛の自信を深めていたのとは裏腹に、フィリピン軍の状況は不十分であった。マッカーサーらが3年半も訓練してきたものの、その訓練は個々の兵士の訓練に止まり部隊としての訓練はほとんどなされていなかった。師団単位の訓練や砲兵などの他[[兵科]]との共同訓練の経験はほとんど無かった。兵士のほとんどが人生で初めて革靴を履いた為、多くの兵士が足を痛めており、テニス・シューズや裸足で行軍する兵士も多かった。また各フィリピン軍師団には部隊を訓練する為、数十人のアメリカ軍士官と100名の下士官が配属されていたが、フィリピン兵は英語をほとんど話せないためコミュニケーションが十分に取れなかった。また、フィリピン兵同士も部族が違えば言語が通じなかった{{sfn|ペレット|2014|p=459}}。マッカーサーはフィリピン軍の実力に幻想を抱いては無かったが、陸軍が約束した大量の増援物資が到着し、部隊を訓練する時間が十分に取れればフィリピンの防衛は可能と思い始めていた。実際に1941年11月の時点で10万トンの増援物資がフィリピンに向かっており、100万トンがフィリピンへ輸送されるためアメリカ西海岸の埠頭に山積みされていた{{sfn|ペレット|2014|p=460}}。
=== 開戦 ===
[[ファイル:26th Cavalry PI Scouts moving into Pozorrubio.jpg|thumb|250px|上陸した日本軍を迎え撃つ第26騎兵連隊の[[M3軽戦車]]とフィリピン・スカウト]]{{After float|10em}}{{Main|フィリピンの戦い (1941-1942年)}}
1941年12月8日、日本軍が[[イギリス領マラヤ]]で[[マレー作戦|開戦]]、次いで[[ハワイ州]]の[[真珠湾]]などに対して[[真珠湾攻撃|攻撃]]をおこない[[太平洋戦争]]が始まった。
12月8日フィリピン時間で3時30分に副官のサザーランドはラジオで真珠湾の攻撃を知りマッカーサーに報告、ワシントンからも3時40分にマッカーサー宛て電話があったが、マッカーサーは真珠湾で日本軍が撃退されると考え、その報告を待ち時間を無駄に浪費した。その間、アメリカ極東空軍の司令に就任していたブレアトン少将が、B-17をすぐに発進させ、台湾にある日本軍基地に先制攻撃をかけるべきと2回も提案したがマッカーサーはそのたびに却下した{{sfn|メイヤー|1971|p=97}}。
夜が明けた8時から、ブレアトンの命令によりB-17は日本軍の攻撃を避ける為に空中待機していたが、ブレアトンの3回目の提案でようやくマッカーサーが台湾攻撃を許可したため、B-17は11時からクラークフィールドに着陸し爆弾を搭載しはじめた。B-17全機となる35機と大半の戦闘機が飛行場に並んだ12時30分に日本軍の海軍航空隊の[[零戦]]84機と[[一式陸上攻撃機]]・[[九六式陸上攻撃機]]合計106機が[[クラーク空軍基地|クラークフィールド]]とイバフィールドを襲撃した。不意を突かれたかたちとなったアメリカ軍は数機の戦闘機を離陸させるのがやっとであったが、その離陸した戦闘機もほとんどが撃墜され、陸攻の爆撃と零戦による機銃掃射で次々と撃破されていった。この攻撃でB-17を18機、P-40と[[P-35 (航空機)|P-35]]の戦闘機58機、その他32機、合計108機を失い、初日で航空戦力が半減する事となった。その後も日本軍による航空攻撃は続けられ、12月13日には残存機は20機以下となり、アメリカ極東空軍は何ら成果を上げる事なく壊滅した<ref>[http://www.npo-zerosen.jp/zero005/zero005-0103.htm NPO法人零戦の会公式サイト 第三節 太平洋戦争緒戦における栄光] 2016年5月1日閲覧</ref>。
台湾の日本軍はフィリピンからの爆撃に備えており、マッカーサーには攻撃できるチャンスもあったが、判断を誤って満足に戦うこともなくフィリピンの航空戦力を壊滅させてしまった。マッカーサーは自分の判断の誤りを最期まで認めることはなく、晩年に至るまで零戦は台湾ではなくフィリピン近海の[[空母]]から出撃したと言い張り続けた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=237}}。また、ブレアトンからの出撃の提案も、副官のサザーランドにされたもので自分は聞いていなかったとも主張し、仮に出撃したとしても、戦闘機の護衛をまともにつけることはできなかったので自殺行為になったとも主張した。しかし、攻撃するという決断ができなかったとしても、虎の子のB-17をクラークフィールド上空に退避飛行させるという無駄な行動ではなく、日本軍から攻撃されなかった[[ミンダナオ島]]の飛行場に退避させる命令をしていれば、こうも簡単に撃破されることはなかったはずであり、このマッカーサーの重大な判断ミスによって、アメリカ軍とマッカーサー自身がやがて手ひどい報いを受けることとなってしまった{{sfn|メイヤー|1971|p=99}}。
マーシャルの約束していた兵力増強にはほど遠かったが、マッカーサーは優勢な航空兵力と15万の米比軍で上陸する日本軍を叩きのめせると自信を持っていた。しかし、頼みの航空戦力は序盤であっさり壊滅してしまい、日本軍が12月10日にルソン島北部のアバリとビガン、12日には南部のレガスピに上陸してきた。マッカーサーはマニラから遠く離れたこれらの地域への上陸は、近いうちに行われる大規模上陸作戦の支援目的と判断して警戒を強化した{{sfn|メイヤー|1971|p=100}}。マッカーサーは日本軍主力の上陸を12月28日頃と予想していたが、[[本間雅晴]]中将率いる[[第14方面軍 (日本軍)|第14軍]]主力は、マッカーサーの予想より6日も早い22日朝に[[リンガエン湾]]から上陸してきた。上陸してきた第14軍は[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]と[[第48師団 (日本軍)|第48師団]]の2個師団だが、既に一部の部隊がルソン島北部に上陸しており、9個師団を有するルソン島防衛軍に対しては強力な部隊には見えなかったが{{sfn|メイヤー|1971|p=100}}、上陸してきた日本軍を海岸で迎え撃ったアメリカ軍とフィリピン軍は、訓練不足でもろくも敗れ去り、我先に逃げ出した。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、勝敗は決したと悟ると自分の考案した[[水際作戦]]を諦め、当初のオレンジ計画に戻すこととし、[[マニラ]]を放棄して[[バターン半島]]と[[コレヒドール島]]で籠城するように命じた{{sfn|メイヤー|1971|p=105}}。
12月23日、アメリカ軍司令部はマッカーサーのマニラ退去を発表<ref>マッカーサー司令官、マニラ退去『朝日新聞』(昭和16年12月25日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p449 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。マッカーサーは[[マニュエル・ケソン]]大統領に対しても退去勧告を行い、12月26日、フィリピン政府もマニラを去ることを決定した<ref>比政府、米軍司令部がマニラ撤退『朝日新聞』(昭和16年12月27日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p449</ref>。
ウェインライトの巧みな退却戦により、バターン半島にほとんどの戦力が軽微な損害で退却できたが、一方でマッカーサーの作戦により平地に集結させていた食糧や物資の輸送が、マッカーサー司令部の命令不徹底やケソンの不手際などでうまくいかず、設置されていた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラックまでが溢れていたが、これをほとんど輸送することができず日本軍に接収されてしまった{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=75}}。その内のひとつ、中部ルソン平野にあったカバナチュアン物資集積所だけでも米が5,000万[[ブッシェル]]もあったが、これは米比全軍の4年分の食糧にあたる量であった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=243}}。
バターン半島には、オレンジ計画により40,000名の兵士が半年間持ち堪えられるだけの物資が蓄積されていたが、全く想定外の10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が立て籠もることとなった。マッカーサーは少しでも長く食糧をもたせるため、食糧の配給を半分にすることを命じたが、これでも4か月はもたないと思われた。快進撃を続ける日本軍は第14軍主力が[[リンガエン湾]]に上陸してわずか11日後の1942年1月2日に、[[無防備都市宣言]]をしていた[[マニラ]]を占領した。本間中将はマッカーサーが滞在していたマニラ・ホテルの最上階に日章旗を掲げさせたが、それを双眼鏡で確認したマッカーサーは、居宅としていたスイートルームの玄関ホールに飾っていた、父アーサーが1905年に[[明治天皇]]から授与された花瓶に、本間中将は気が付いて頭を下げるんだろうか?と考えて含み笑いをした{{sfn|ペレット|2014|pp=509-510}}。
マッカーサーはマニラ陥落後、米比軍がバターン半島に撤退を完了した1月6日の前に、コレヒドール島の{{仮リンク|マリンタ・トンネル|en|Malinta Tunnel}}内に設けられた地下司令部に、妻ジーンと子供の[[アーサー・マッカーサー4世]]を連れて移動したが、コレヒドール島守備隊ムーア司令の奨めにもかかわらず、住居は地下壕内ではなく地上にあったバンガロー風の宿舎とした。幕僚らは日本軍の爆撃の目標になると翻意を促したがマッカーサーは聞き入れなかった。マッカーサーは日本軍の空襲があると防空壕にも入らず、悠然と爆撃の様子を観察していた。ある時にはマッカーサーの近くで爆弾が爆発し、マッカーサーを庇った従卒の軍曹が身代わりとなって負傷することもあった。一緒にマリンタ・トンネルに撤退してきたケソンはそんなマッカーサーの様子を見て無謀だと詰ったが、マッカーサーは「司令官は必要な時に危険をおかさなければいけないこともある。部下に身をもって範を示すためだ」と答えている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=256}}。
マッカーサーは日本軍の戦力を過大に評価しており、6個師団が上陸してきたと考えていたが、実際は2個師団相当の40,000名であった。一方で、日本軍は逆にアメリカ・フィリピン軍を過小評価しており、残存兵力を25,000名と見積もっていたが、実際は80,000名以上の兵員がバターンとコレヒドールに立て籠もっていた。当初から、第14軍の2個師団の内、主力の機械化師団第48師団は、フィリピン攻略後に[[蘭印作戦]]に転戦する計画であったが、バターン半島にアメリカ・フィリピン軍が立て籠もったのにもかかわらず、[[大本営]]は戦力の過小評価に基づき、計画どおり第48師団を蘭印作戦に引き抜いてしまった{{sfn|メイヤー|1971|p=93}}。本間中将も戦力を過少評価していたので、[[1942年]]1月から[[第65旅団 (日本軍)|第65旅団]]でバターン半島に攻撃をかけたが、敵が予想外に多く反撃が激烈であったため、大損害を被って撃退されている。その後、日本軍はバターンとコレヒドールに激しい砲撃と爆撃を加えたが、地上軍による攻撃は3週間も休止することとなった{{sfn|メイヤー|1971|p=114}}。
その間、日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れるバターン半島の米比軍は、収穫期前の米と軍用馬を食べ尽くし、さらに野生の鹿と猿も食料とし絶滅させてしまった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=254}}。マッカーサーらは「2か月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』している」とアメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出したが、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。ワシントンではフィリピンの対応に苦慮しており、洪水のように戦況報告や援軍要請の電文を打電してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッカーサーはかつてないほど大きなベイビーになっている。しかし我々は彼をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記している{{sfn|増田|2009|p=114}}。
しかしその当時、バターン半島とコレヒドール島は攻勢を強める枢軸国に対する唯一の抵抗拠点となっており、イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]が「マッカーサー将軍指揮下の弱小なアメリカ軍が見せた驚くべき勇気と戦いぶりに称賛の言葉を送りたい」と議会で演説するなど注目されていた。ワシントンも様々な救援策を検討し、12月28日にはフィリピンに向けてルーズベルトが「私はフィリピン国民に厳粛に誓う、諸君らの自由は保持され、独立は達成され、回復されるであろう。アメリカは兵力と資材の全てを賭けて誓う」と打電し、マッカーサーとケソンは狂喜したが、実際には重巡[[ペンサコーラ (重巡洋艦)|ペンサコーラ]]に護衛され[[マニラ]]へ大量の火砲などの物資を運んでいた輸送船団が、危険を避けてオーストラリアに向かわされるなど、救援策は具体的には何もなされなかった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=274}}。
=== フィリピン脱出 ===
[[ファイル:Curtin MacArthur Blamey (042766).jpg|thumb|オーストラリアに退却したマッカーサー]]{{After float}}
マッカーサーがコレヒドールに撤退した頃には、ハートのアジア艦隊は既にフィリピンを離れ[[オランダ領東インド]]に撤退し、太平洋艦隊主力も真珠湾で受けた損害が大きすぎてフィリピン救出は不可能であり、ルーズベルトと軍首脳はフィリピンはもう失われたものと諦めていた。マーシャルはマッカーサーが死ぬよりも日本軍の捕虜となることを案じていたが、それはマッカーサーがアメリカ国内で英雄視され、連日マッカーサーを救出せよという声が新聞紙面上を賑わしており、捕虜になった場合、国民や兵士の士気に悪い影響が生じるとともに、アメリカ陸軍に永遠の恥辱をもたらすと懸念があったからである<ref name="p520">{{harvnb|ペレット|2014|p=520}}</ref>。しかしマッカーサーは降伏する気はなく、1942年1月10日に本間中将から受け取った降伏勧告の書簡を黙殺しているが、それはアメリカ本国からの支援があると固く信じていたからであった{{sfn|メイヤー|1971|p=74}}。フィリピンへの支援を行う気が無いマーシャルら陸軍省は、この時点でマッカーサーをオーストラリアに逃がすことを考え始め、2月4日にマッカーサーにオーストラリアで新しい司令部を設置するように打診したがマッカーサーはこれを拒否、逆に海軍が太平洋西方で攻勢に出て、日本軍の封鎖を突破するように要請している<ref name="p520" />。
コレヒドールの要塞に逃げ込んでしばらくすると、ケソンはルーズベルトがフィリピンを救援するつもりがない事を知って気を病み、マッカーサーに「この戦争は日本と米国の戦いだ。フィリピン兵士に武器を置いて降伏するよう表明する。日米はフィリピンの中立を承認してほしい」と申し出た。マッカーサーはこの申し出をルーズベルトに報告するのを躊躇ったが、アメリカ本国がフィリピンを救援するつもりがないのなら、軍事的観点からこのケソンの申し出はアメリカにとって失うものは何もないと判断し、ルーズベルトに報告した<ref name="p520"/>。しかしこの報告を聞いたルーズベルトは迅速かつ強烈な「アメリカは抵抗の可能性ある限り(フィリピンから)国旗を降ろすつもりはない」という返事をケソンに行い、マッカーサーへはマーシャルを通じて「ケソンをフィリピンより退避させよ」との指示がなされた。
マッカーサーはケソン大統領に脱出を促すと共に、軍事顧問就任時に約束した秘密の報酬の支払いを要求した。話し合いの結果、マッカーサー50万ドル、副官らに14万ドル支払われる事となり、2月13日にお金を受け取る側のマッカーサー自らが副官サザーランドに命じ、マッカーサーらに64万ドルをフィリピンの国庫より支払うとするフィリピン・コモンウェルス行政命令第1号を作らせ<ref name="p521">{{harvnb|ペレット|2014|p=521}}</ref>、2月15日、ケソンはニューヨークの[[JPモルガン・チェース|チェース・ナショナル銀行]]のフィリピン政府の口座からケミカル・ナショナル銀行のマッカーサーの個人口座に50万ドルを振り込む手続きをした。ケソンは2月20日にアメリカ軍の潜水艦[[ソードフィッシュ (サーゴ級潜水艦)|ソードフィッシュ]]でコレヒドールから脱出した。
ケソンは後に空路でアメリカ・ワシントンに向かい、かつてのマッカーサーの副官アイゼンハワーと再会し、マッカーサーらに大金を渡したようにアイゼンハワーにも功労金という名目で6万ドルを渡そうとしたが、アイゼンハワーは断固として拒否している{{sfn|ペレット|2014|pp=522-523}}。ケソンはその後、レイテへの進攻直前の1944年8月にニューヨークで病死し二度とフィリピンの土を踏むことは無かった。
ルーズベルトはマッカーサーに降伏の権限は与えていたが、陸軍省が画策していたオーストラリアへの脱出は考えていなかった。ある日の記者会見で「マッカーサー将軍にフィリピンから脱出を命じ全軍の指揮権を与える考えはないのか」との記者の質問に「いや私はそうは思わない、それは良く事情を知らない者が言うことだ」と否定的な回答をしている<ref name="P288"/>。これはルーズベルトの「そうすることは白人が極東では完全に面子を失うこととなる。白人兵士たるもの、戦うもので、逃げ出すことなどできない」という考えに基づくものであった{{sfn|ペレット|2014|p=524}}。
最終的にルーズベルトが考えを変えたのは、日本軍の快進撃で直接の脅威を受けることとなったオーストラリアが[[北アフリカ戦線]]に送っている3個師団の代わりに、アメリカがオーストラリアの防衛を支援して欲しいとチャーチルからの要請があり、その司令官としてチャーチルがマッカーサーを指名したためである<ref name="P288"/>。1942年2月21日、ルーズベルトはチャーチルからの求めや、マーシャルら陸軍の説得を受け入れマッカーサーに[[オーストラリア]]へ脱出するよう命じた。マッカーサーは「私と私の家族は部隊と運命を共にすることを決意した」と命令違反を犯し軍籍を返上して義勇兵として戦おうとも考えたが、いったんオーストラリアに退き、援軍を連れてフィリピンに救援に戻って来ようという考えに落ち着き、ルーズベルトの命令を受けることとした{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=83}}。
マッカーサーが脱出を迷っている間にも戦局は悪化する一方で、飢餓と疫病に加えアメリカ・フィリピン軍の兵士を苦しめたのは、日本軍の絶え間ない砲撃による睡眠不足であった。もはやバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた<ref>[[#ボールドウィン|ボ―ルドウィン(1967年)]]p.160</ref>。12月10日のビガン上陸作戦時にアメリカ軍のB-17が軽巡洋艦[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]を爆撃し至近弾を得たが、B-17が撃墜されたためその戦果が戦艦[[榛名 (戦艦)|榛名]]撃沈、さらに架空の戦艦[[ヒラヌマ]]を撃沈したと誤認して報告されると、マッカーサー司令部はこの情報に飛び付き大々的に宣伝した。その誤報を信じたルーズベルトによって、戦死した攻撃機のパイロット[[コリン・ケリー]]大尉には[[殊勲十字章 (アメリカ合衆国)|殊勲十字章]]が授与されるなど<ref>{{Harvnb|安延多計夫|1995|pp=202}}</ref>、マッカーサー司令部は継続して「[[ジャップ]]に大損害を与えた」と公表してきたが、3月8日には全世界に向けたラジオ放送で「ルソン島攻略の日本軍司令官本間雅晴は敗北のために面目を失い、[[切腹|ハラキリ]]ナイフでハラキリして死にかけている」と声明を出し、さらにその後「マッカーサー大将はフィリピンにおける日本軍の総司令官本間雅晴中将はハラキリしたとの報告を繰り返し受け取った。同報告によると同中将の葬儀は2月26日にマニラで執行された」と公式声明を発表した。さらに翌日には「フィリピンにおける日本軍の新しい司令官は[[山下奉文]]である」と嘘の後任まで発表する念の入れようであった<ref>[[#ボールドウィン|ボ―ルドウィン(1967年)]]p.161</ref>。
嘘の公式発表をするのと並行してマッカーサーは脱出の準備を進めていた。コレヒドールにはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた<ref name="ボ―ルドウィン(1967年)p.162">[[#ボールドウィン|ボ―ルドウィン(1967年)]]p.162</ref>。先に脱出に成功したケソンのようにその潜水艦に同乗するのが一番安全な脱出法であったが、マッカーサーは生まれついての[[閉所恐怖症]]であり、脱出方法は自分で決めさせてほしいとマーシャルに申し出し許可された。マッカーサーは、家族や幕僚達と共に[[魚雷艇]]で[[ミンダナオ島]]に脱出する事とした{{sfn|ペレット|2014|p=525}}。3月11日にマッカーサーと家族と使用人アー・チューが搭乗する{{仮リンク|PT-41|en|Motor Torpedo Boat PT-41}}とマッカーサーの幕僚(陸軍将校13名、海軍将校2名、技術下士官1名)が分乗する他3隻の魚雷艇はミンダナオ島に向かった。一緒に脱出した幕僚は『バターン・ギャング(またはバターン・ボーイズ)』と呼ばれ、この脱出行の後からマッカーサーが朝鮮戦争で更迭されるまで、マッカーサーの厚い信頼と寵愛を受け重用されることとなった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=318}}。ルーズベルトが脱出を命じたのはマッカーサーとその家族だけで、幕僚らの脱出は厳密にいえば命令違反であったが、マーシャルは後にその事実を知って「驚いた」と言っただけで不問としている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=293}}。
魚雷艇隊は800kmの危険な航海を無事に成し遂げ、ミンダナオ島陸軍司令官ウィリアム・シャープ准将の出迎えを受けたが、航海中にマッカーサーは手荷物を失い、到着時に所持していた荷物は就寝用のマットレスだけであった。ミンダナオ島には急造されたデルモンテ飛行場があり、マッカーサーはここから[[ボーイング]][[B-17 (航空機)|B-17]]でオーストラリアまで脱出する計画であったが、オーストラリアのアメリカ陸軍航空隊司令{{仮リンク|ジョージ・ブレット (軍人)|en|George Brett (general)|label=ジョージ・ブレット}}中将が遣したB-17は整備が行き届いておらず、出発した4機の内2機が故障、1機が墜落し、日本軍との空中戦で損傷した1機がようやく到着したというありさまで、とても無事にオーストラリアに飛行できないと考えたマッカーサーは、マーシャルにアメリカ本土かハワイから新品のB-17を3機追加で遣すように懇願した結果、オーストラリアで海軍の管理下にあったB-17が3機追加派遣されることとなった。その3機も1機が故障したため、3月16日に2機がデルモンテに到着した{{sfn|ペレット|2014|p=545}}。その2機にコレヒドールを脱出した一行と、先に脱出していたケソンが合流し詰め込まれた。乗り込んだ時のマッカーサーの荷物はコレヒドール脱出時より持ってきた就寝用マットレス1枚だけであったが、後にこのマットレスに金貨が詰め込まれていたという噂が広がることとなった{{sfn|ペレット|2014|p=546}}。
オーストラリアまで10時間かけて飛行した後、一行は列車で移動し、3月20日にオーストラリアの[[アデレード駅]]に到着すると、マッカーサーは集まった報道陣に向けて次のように宣言した{{sfn|袖井|1982|p=247}}。
{{quotation|私はアメリカ大統領から、日本の戦線を突破してコレヒドールからオーストラリアに行けと命じられた。その目的は、私の了解するところでは、日本に対するアメリカの攻勢を準備することで、その最大の目的はフィリピンの救援にある。私はやってきたが、'''必ずや私は戻るだろう'''。('''{{big|I shall return .}}''')}}
この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴の数少ない失態となり、後に「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」と言われた。また、「I shall return.」は当時のアメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われた。それまでも、安全なコレヒドールに籠って前線にも出てこないマッカーサーを揶揄し「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を付けられ、歌まで作られて兵士の間で流行していた<ref group="注釈">([[リパブリック讃歌]]の替え歌)ダグアウト・ダグ・マッカーサー 岩の上に寝そべって震えてる。どんな爆撃機にも突然のショックにも安全だって言うのにさ。ダグアウト・ダグ・マッカーサーはバターンで一番うまいもの食っている。兵隊は飢え死にしようってのにさ。</ref><ref>[http://www.combat.ws/S4/SAMIZDAT/DUGOUT.HTM Dug-out Doug] 2016年1月13日閲覧</ref>。専用機に[[バターン号]]と名付けるなどバターン半島を特別な地としていたマッカーサーであったが、実際にコレヒドール要塞から出てバターン半島に来たのは1回しかなかった{{sfn|袖井|1982|p=168}}。
オーストラリアで南西太平洋方面の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]総司令官に就任したマッカーサーは、オーストラリアにはフィリピン救援どころか、オーストラリア本国すら防衛できるか疑わしい程度の戦力しかないと知り愕然とした。その時のマッカーサーの様子を、懇意にしていたジャーナリストのクラーク・リーは「死んだように顔が青ざめ、膝はガクガクし、唇はピクピク痙攣していた。長い間黙ってから、哀れな声でつぶやいた。「神よあわれみたまえ」」と回想している{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=92}}。
フィリピン救援は絶望的であったが、マッカーサーはオーストラリアに脱出しても、全フィリピン防衛の指揮権を、残してきたウェインライトに渡すことはせず、6,400kmも離れたオーストラリアから現実離れした命令を送り続けた<ref name="ボ―ルドウィン(1967年)p.162"/>。それでも、いよいよバターンが日本軍に対して降伏しそうとの報告を受けたマッカーサーは、ウェインライトに「いかなる条件でも降伏するな、食糧・物資がなくなったら、敵軍を攻撃して食糧・物資奪取せよ。それで情勢は逆転できる。それができなければ残存部隊は山岳地帯に逃げ込みゲリラ戦を展開せよ。その時は私は作戦指揮のため、よろこんでフィリピンに戻るつもりである」という現実離れした命令を打電するとマーシャルに申し出たが、却下されている{{sfn|津島 訳|2014|p=78}}。アメリカ陸軍省はウェインライトを中将に昇格させ、脱出したマッカーサーに代わって全フィリピン軍の指揮を任せようとしたが、フィリピンは複雑なアメリカ陸軍の司令部機構により、南西太平洋方面連合軍最高司令官({{lang|en|Commander IN Chief, SouthWest Pacific Area}} 略称 {{lang|en|CINCSWPA}})に新たに任命されたマッカーサーの指揮下になったため、マッカーサーは結局、フィリピン全土が陥落するまで命令を送り続けた<ref>[[#ボールドウィン|ボ―ルドウィン(1967年)]]p.163</ref>。
[[ファイル:Bataan Death March 2017 stamp of the Philippines.jpg|thumb|350px|フィリピンで2017年に発行されたバターン死の行進75周年記念切手]]{{After float}}
日本軍第14軍は[[第4師団 (日本軍)|第4師団]]と[[香港の戦い]]で活躍した第1砲兵隊の増援を得ると総攻撃を開始し、4月9日にバターン半島守備部隊長[[エドワード・P・キング]]少将が降伏すると、マッカーサーは混乱し、怒り、困惑した。軍主力が潰えたウェインライトもなすすべなく、5月6日に降伏した。それを許さないマッカーサーは、残るミンダナオ島守備隊のシャープ准将に徹底抗戦を指示するが、シャープはウェインライトの全軍降伏のラジオ放送に従い降伏し、フィリピン守備隊全軍が降伏した。結局、フィリピンが日本軍の計画を超過して、5か月間も攻略に時間を要したのは、マッカーサーの作戦指揮が優れていたのではなく、大本営のアメリカ・フィリピン軍の戦力過少評価により第14軍主力の第48師団がバターン半島攻撃前に蘭印に引き抜かれたのが一番大きな要因となった{{sfn|メイヤー|1971|p=122}}。マッカーサーは戦後に自身の回顧録などでバターン半島を長期間持ち堪えた戦略的意義を強調していたが、日本軍の大本営は“袋のネズミ”となったバターン半島の攻略を急いで大きな損害を被る必要はないと判断していただけで、実際にバターン半島を早く攻略しなかったことによる戦略的な支障はほとんどなかった{{sfn|津島 訳|2014|p=503}}。
マッカーサーはこの降伏に激怒し、マッカーサー脱出後も苦しい戦いを続けてきたウェインライトらを許さなかった{{Sfn|ブレア Jr.|1978|pp=93-94}}。ウェインライトについては、終戦後に[[ヘンリー・スティムソン]]陸軍長官やマーシャルの執り成しもあり、降伏式典に同席させ、名誉勲章叙勲も認めたが、キングらについては終戦後もマッカーサーが赦さなかったため、昇進することもなく終戦直後に退役を余儀なくされている。
バターンで日本軍に降伏したアメリカ極東軍将兵は76,000名にもなり、'''『戦史上でアメリカ軍が被った最悪の敗北』'''と言われ、多くのアメリカ人のなかに長く苦痛の記憶として残ることとなった<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=141}}</ref>。勝利した日本軍であったが、バターン攻撃当初からバターンに籠ったアメリカ極東軍の兵士数を把握できておらず、予想外の捕虜に対し食糧も運搬手段も準備できていなかった。また、降伏した将兵はマッカーサーの「絶対に降伏するな」という死守命令により、飢餓と病気で消耗しきっていたが、司令官の本間はそういう事情を十分知らされていない中で、バターン半島最南部からマニラ北方の[[サンフェルナンド]]まで90kmを徒歩で移動するという捕虜輸送計画を承認した。
徒歩移動中に消耗しきった捕虜たちは、[[マラリア]]、疲労、飢餓と日本兵の暴行や処刑で7,000名〜10,000名が死ぬこととなり、後にアメリカで『Bataan Death March([[バターン死の行進]])』と称されて、日本への敵愾心を煽ることとなった{{sfn|袖井|2004|p=66}}。マッカーサーは、数か月後に輸送中に脱出した兵士より『バターン死の行進』を聞かされると「近代の戦争で、名誉ある軍職をこれほど汚した国はかつてない。正義というものをこれほど野蛮にふみにじった者に対して、適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務だと私は心得ている」という声明を発表するよう報道陣に命じたが、アメリカ本国の情報統制により、『バターン死の行進』をアメリカ国民が知ったのは、1944年1月27日に[[ライフ (雑誌)|ライフ]]誌の記事に掲載されてからであった。マッカーサーはこの情報統制に対し憤りを覚えたとしているが{{sfn|津島 訳|2014|p=80}}、この後、戦争が激化するにつれ、マッカーサー自らも情報統制するようになっていった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=215}}</ref>。
マッカーサーに完勝した本間であったが、フィリピンから逃亡したことについて、全く意外とは感じておらず、取り逃がしたこと悔やんではいなかった。そしてマッカーサーをよき好敵手と感じ、部下に「マッカーサーは相当の軍人であり、政治的手腕もある男だ。彼と戦ったことは私の名誉であり、満足している」と高く評価していたが、当のマッカーサーはこの敗北を屈辱と感じ、その屈辱感を持ち続けており、本間はいずれこのことを思い知らされる時がくることとなる{{sfn|スウィンソン|1969|p=90}}。
オランダ領東インドに後退し、連合国軍艦隊と[[ABDA司令部|米英蘭豪(ABDA)艦隊]]を編成していたハートのアジア艦隊も1942年2月27日から3月1日の[[スラバヤ沖海戦]]・[[バタビア沖海戦]]で壊滅し、マッカーサーがオーストラリアに到着するまでにオランダ領東インドも日本軍に占領されていた。マッカーサーは敗戦について様々な理由づけをしたが、アメリカと連合国がフィリピンと西太平洋で惨敗したという事実は覆るものではなかった。しかし、アメリカ本国でのマッカーサーの評判は、アメリカ国民の愛国心の琴線に強く触れたこと、また、真珠湾以降のアメリカと連合国がこうむった多大の損害に向けられたアメリカ人の激怒とも結びつき、アメリカ史上もっとも痛烈な敗北を喫した敗将にも拘わらず、英雄として熱狂的に支持された。その様子を見たルーズベルトは驚きながらも、マッカーサーの宣伝価値が戦争遂行に大きく役に立つと認識し利用することとし、1942年4月1日に[[名誉勲章]]を授与している{{sfn|メイヤー|1971|p=98}}。
=== 反攻 ===
{{Main|ニューギニアの戦い}}
[[ファイル:MacArthur and Herring AWM150813.jpg|thumb|240px|ニューギニアでオーストラリア軍チャールズ・スプリー大佐から説明を受ける、エドモンド・ヘリング中将(オーストラリア軍)、マッカーサー、アーサー・サミュエル・アレン少将(オーストラリア軍)]]
[[1942年]][[4月18日]]、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する連合国軍南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。
[[1943年]]3月の[[ビスマルク海海戦]](いわゆるダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5航空軍]]司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]])のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任として[[トーマス・C・キンケイド]]が就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。
マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し、補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『[[アイランドホッピング|リープフロッギング(蛙飛び)作戦]]』と呼んでいた{{sfn|津島 訳|2014|p=122}}。日本軍は空・海でのたび重なる敗戦に戦力を消耗し、制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑どおり、[[ニューギニアの戦い]]では多くの餓死者・病死者を出すこととなった。この勝利は、フィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。
やがて、戦局が連合軍側に有利になると、軍の指揮権が、マッカーサー率いるアメリカ陸軍が主力の{{仮リンク|連合国南西太平洋軍|label=連合国南西太平洋軍|en|South West Pacific Area (command)}}(SWPA)と、[[チェスター・ニミッツ]]提督率いるアメリカ海軍、[[アメリカ海兵隊]]主力の{{仮リンク|連合国太平洋軍|label=連合国太平洋軍|en|Pacific Ocean Areas}}(POA)の2つに分権されている太平洋戦域の指揮権を、かつての部下のアイゼンハワーが、[[連合国遠征軍最高司令部]]総司令官として全指揮権を掌握している[[西部戦線|ヨーロッパ戦線]]のようにするべきであると主張した。さらにマッカーサーは、自分がその指揮権を統括して、一本化した戦力によって[[ニューブリテン島]]攻略を起点とした反攻計画「エルクトロン計画」を提案したが<ref>{{Harvnb|メイヤー|1971|p=156}}</ref>、栄誉を独占しようというマッカーサーを警戒していた[[アーネスト・キング]]海軍作戦部長が強硬に反対し、結局太平洋の連合軍の指揮権の一本化はならず、1943年5月に[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で開催された、ルーズベルトと[[イギリス]]首相[[ウィンストン・チャーチル]]による「[[第3回ワシントン会談|トライデント会議]]」によって、太平洋は従来どおり連合国南西太平洋軍と連合国太平洋軍が2方面で対日反攻作戦を展開していくことが決定された<ref>{{Harvnb|メイヤー|1971|p=157}}</ref>。
反攻ルートについては、{{仮リンク|バターンの戦い|label=バターンの戦い|en|Battle of Bataan|}}の屈辱を早くはらしたいとして、フィリピンの奪還を急ぐマッカーサーが、ニューギニアからフィリピンという比較的大きい陸地を進攻することによって、陸上飛行基地が全作戦線を支援可能となることや、マッカーサーがこれまで行ってきたリープフロッギング(蛙飛び)作戦によって損害を減らすことができると主張していたのに対して{{sfn|津島 訳|2014|p=122}}、ニミッツは、従来からのアメリカ海軍の対日戦の[[ドクトリン]]である[[オレンジ計画]]に基づき、太平洋中央の海路による進撃を主張し<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|イアン・トール|2021|loc=電子版, 位置No.1486}}</ref>、マッカーサーに対しては、陸路を進撃することは、海路での進撃と比較して、長い弱い交通線での進撃や補給となって、戦力の不経済な使用となることや、日本本土侵攻には遠回りとなるうえ、進撃路が容易に予知されるので日本軍に兵力の集中を許してしまうこと、また、進撃路となるニューギニアなどには[[感染症]]が蔓延しており、兵士を危険に晒すことになると反論した<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=204}}</ref>。
[[アメリカ統合参謀本部]]は、双方の主張を取り上げて、マッカーサーは[[ビスマルク諸島]]とニューギニアを前進し[[ミンダナオ]]を攻略、一方でニミッツは、[[ギルバート諸島]]を攻略、次いで西方に転じて、[[クェゼリン]]、[[エニウェトク]]、[[グアム]]、[[サイパン島|サイパン]]、[[ペリリュー島|ペリリュー]]へと前進し、両軍は[[ルソン島]]か[[台湾]]で一本になると決められ、8月の[[ケベック会談]]において作戦案をチャーチルも承諾した。連合軍の基本方針は、まずは[[ナチス・ドイツ]]を打ち破ることを優先し、それまでは太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、マッカーサーやキングが、日本軍の手強さと太平洋戦線の重要性をルーズベルトに説いて、ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、このような大規模な2方面作戦を行うことが可能となっていた<ref>{{Harvnb|メイヤー|1971|p=161}}</ref>。なおもマッカーサーは、中部太平洋には日本軍が要塞化している島がいくつもあって、アメリカ軍に多大な出血を強いることになるため、自分に戦力を集中すべきと食い下がったが、ニミッツは、ニューギニアを主戦線とすると空母部隊が日本軍の陸上基地からの攻撃の危険に晒されると反論した。このニミッツの反論には空母をマッカーサーの指揮下には絶対に置かないという強い意志もはたらいており容易に議論はまとまらなかった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=385}}。
キングは、[[マリアナ諸島]]が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る経済的な生命線の東翼を担う日本にとっての太平洋の鍵で、これを攻略できれば、その後さらに西方(日本方面)にある台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると考え{{Sfn|ブュエル|2000|p=376}}、マリアナが戦争の戦略的な要になると評価しており、その攻略を急ぐべきだと考えていた<ref name="名前なし-2">{{Harvnb|イアン・トール|2021|loc=電子版, 位置No.4370}}</ref>。アメリカ陸軍でも、[[アメリカ陸軍航空軍]]司令官[[ヘンリー・アーノルド|ヘンリー・ハップ・アーノルド]]将軍が、新鋭戦略爆撃機[[B-29 (航空機)|B-29]]による[[日本本土空襲]]の基地としてマリアナの確保を願っていた。既に中国本土から日本本土を空襲する[[マッターホルン作戦]]が検討されていたが、中国からではB-29の航続距離をもってしても[[九州]]を爆撃するのが精いっぱいであり、日本本土全てを出撃圏内に収めることができるマリアナはアーノルドにとって絶好の位置であった。また、中国内のB-29前進基地への補給には、補給量が限られる空路に頼らざるを得ないのと比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、この案が推奨された大きな理由のひとつとなった{{Sfn|ルメイ|1991|p=111}}。そこでアーノルドは連合軍首脳が集まった[[ケベック会議]]で、マリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=60}}。
アーノルドらの動きを警戒したマッカーサーは、[[真珠湾]]から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地[[エニウェトク]]からでも1,000マイルの大遠征作戦となる<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=259}}</ref>マリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官{{仮リンク|ジョージ・ケニー|en|George Kenney}}少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『[[曲芸]]』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った<ref>{{Harvnb|イアン・トール|2021|loc=電子版, 位置No.4441}}</ref>。
キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた<ref name="名前なし-1"/>。キング自身の計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍を味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが<!--<ref name="サイパン防衛戦"/>-->、キングとアーノルドという陸海軍の有力者が、最終的な目的は異なるとは言え手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、[[ナチスドイツ]]打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなり、1943年12月の[[カイロ会談]]において、1944年10月のマリアナの攻略と{{Sfn|ブュエル|2000|p=377}}、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて<ref name="名前なし-2"/>、マリアナからの日本本土空襲が決定された{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=60}}。
その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったので、[[1944年]]3月に[[アメリカ統合参謀本部]]はワシントンで太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催した。その会議では、マッカーサーの代理で会議に出席していたサザーランドには、統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、マリアナ侵攻の[[マリアナ・パラオ諸島の戦い#マリアナ諸島の戦い|フォレージャー作戦]](掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された{{Sfn|ブュエル|2000|p=379}}。
アメリカ統合参謀本部の決定に激怒したマッカーサーであったが、ニューギニア作戦の集大成と、ニミッツによるフォレージャー作戦支援の航空基地確保のため、ニューギニア西部の[[ビアク島]]攻略を決めた{{Sfn|ペレット|2016|p=771}}。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要な位置にあった{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=209}}。1944年5月27日に[[第6軍 (アメリカ軍)|第6軍]] 司令官[[ウォルター・クルーガー]]中将率いる大部隊がビアク島に上陸し[[ビアク島の戦い]]が始まった。しかし、海岸を見下ろす台地に構築された日本軍の洞窟陣地は、連合軍支援艦隊の[[艦砲射撃]]にも耐えて、逆に上陸部隊に集中砲火を浴びせて大損害を被らせた{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=210}}。その後、ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長[[葛目直幸]]大佐は{{Sfn|戦史叢書23|1969|p=573}}、上陸部隊をさらに内陸に引き込んで、構築した陣地で迎え撃つこととした{{Sfn|ペレット|2016|p=771}}。{{仮リンク|第41歩兵師団|en|41st Infantry Division (United States)}}師団長{{仮リンク|ホレース・フラー|en|Horace H. Fuller}}少将は日本軍の作戦を見抜いて、慎重に進撃することとしたが、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことでニミッツに対して恥をかくと考えたマッカーサーは、クルーガーを通じてフラーを急かした{{Sfn|ペレット|2016|p=773}}。その後もビアク島守備隊は満足な支援も受けられない中で、指揮官の葛目の巧みな作戦指揮もあって敢闘、マッカーサーの命令で、早期攻略のため日本軍陣地を正面攻撃していたアメリカ軍に痛撃を与えて長い期間足止めし、ついに6月14日、苦戦を続けるフラーに激怒したマッカーサーは、フラーを上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長から更迭した{{Sfn|ペレット|2016|p=774}}。しかし、師団長を挿げ替えても戦況が大きく好転することはなく、ビアク島の飛行場が稼働し始めたのは6月22日になり、[[サイパンの戦い]]にも[[マリアナ沖海戦]]にも間に合わなかった。ビアク島攻略後にマッカーサーはフラーの名誉を回復させるため{{仮リンク|功労勲章|en|Distinguished Service Medal (U.S. Army)}}を授与したが、ビアク島の戦いはマッカーサーにとっても、フラーにとっても敗戦に近いような後味の悪い戦いとなった{{Sfn|ペレット|2016|p=775}}。
=== I shall return. ===
[[ファイル:FDR conference 1944 HD-SN-99-02408.JPEG|thumb|240px|ハワイで開催されたフィリピン迂回の是非についての作戦会議、左からマッカーサー、ルーズベルト、合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長[[ウィリアム・リーヒ]]、説明しているのがニミッツ]]{{After float|10em}}{{Main|レイテ島の戦い}}
一旦はマッカーサーに、ミンダナオ島からルソン島へとフィリピンの奪還を認めていたアメリカ統合参謀本部であったが、ニミッツがマリアナを確保したことにより、アメリカ陸海軍の意見が再び割れ始めた。キングは、マリアナを確保したことによってフィリピンは遥かに低い軍事的優先順位となり{{Sfn|シャラー|1996|p=135}}、フィリピンは迂回して海と空から封鎖するだけで十分であると主張した{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=429}}。同じ陸軍でもアーノルドは、台湾にB-29の基地を置きたいとして海軍のキング側に立ったので、板挟みとなったマーシャルはマッカーサーに、「個人的感情とフィリピンの政情に対する考慮」が戦略的な判断に影響を及ぼさないようにと苦言を呈するほどであった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=425}}。
フィリピン迂回の流れに危機感を覚えたマッカーサーは、マスコミを利用してアメリカ国民の愛国心に訴える策を講じた。アメリカの多くの新聞が長期政権を維持し4選すら狙っている[[民主党 (アメリカ)|民主党]]のルーズベルトに批判的で、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]びいきとなっており、共和党寄りのマッカーサーを褒め称える論調を掲げる一方で、民主党のルーズベルトに対しては、一日も早く戦争に勝利するためもっとよい手を打つべきなどと批判的な報道をし、ルーズベルト人気に水をさしていた{{sfn|メイヤー|1971|pp=162-165}}。マッカーサーは新聞等を通じ「1942年に撃破された我々の孤立無援な部隊の仇をうつことができる」「我々には果たせねばならない崇高な国民的義務がある」などと主張し、自分がフィリピンを解放しない場合にはアメリカ本国でルーズベルトに対し「極度の反感」を引き起こすに違いないと警告した{{Sfn|シャラー|1996|p=135}}。このようなマッカーサーの主張に対して陸軍参謀総長のマーシャルは「個人的感情とフィリピンに対する政治的考慮が、対日戦の早期終結という崇高な目的を押しつぶすことのないよう注意しなければならない」「フィリピンの一部あるいは全部を迂回することは、フィリピンを放棄することと同義ではなく、連合軍が早期に日本軍を撃破すればそれだけマニラの解放は早くなろう」とマッカーサーに手紙を書き送っている。1944年6月から開始されたニミッツによるマリアナ諸島の攻略戦は、[[サイパンの戦い]]、[[グアムの戦い (1944年)|グアムの戦い]]、[[テニアンの戦い]]の激戦を経てアメリカ軍の勝利に終わったが、アメリカ軍の被った損害も大きかったため、マッカーサーや共和党支持の保守系の新聞は、フィリピン攻撃は最小限のアメリカ人の犠牲で同じ戦略的利点を獲得すると主張した{{Sfn|シャラー|1996|p=136}}。マッカーサーに心酔する『バターン・ギャング』で固められた幕僚たちも不平不満を並べ立てて、国務省や統合参謀本部やときにはルーズベルト大統領までを非難した。
マッカーサーの思惑どおり、アメリカ軍内でフィリピン攻略について賛同するものも増えて、太平洋方面の前線指揮官らはマッカーサーに賛同していた。一方でキング、マーシャル、アーノルドはフィリピン迂回を譲らず、アメリカ軍内の意見も真っ二つに割れていた。ルーズベルトはこのような状況に業を煮やして、マッカーサーとニミッツに直接意見を聞いて方針を決めることとし、1944年7月26日に両名をハワイに召喚した{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=426}}。ニミッツは自分の上官であるキングの意見を代弁することとなったが、ニミッツ自身は考えがまとまっていなかったため、作戦説明は迫力を欠くものとなり、マッカーサーの独壇場となった。マッカーサーは何度も「道義的」や「徳義」や「恥辱」という言葉を使い、フィリピン奪還を軍事的問題としてより道義的な問題として捉えているということが鮮明となった。さらにマッカーサーはキングが主張するフィリピンを迂回して台湾を攻略するという作戦よりは、フィリピン攻略のほうが期間が短く、損害も少ないと主張した。ルーズベルトは「ダグラス、ルソン攻撃は我々に耐えられないくらい大きな犠牲を必要とするよ」と指摘したが、マッカーサーは強くそれを否定した。そのあとルーズベルトとマッカーサーは10分ほど二人きりとなったが、その時マッカーサーは[[1944年アメリカ合衆国大統領選挙|1944年の大統領選]]を見据えて、「アメリカ国民の激しい怒りは貴方への反対票となって跳ね返ってくる」と脅している。ルーズベルトはマッカーサーが一方的に捲し立てた3時間もの弁舌に疲労困憊し、同行した医師に[[アスピリン]]を2錠処方してもらうと「私にあんなこと言う男は今までいなかった。マッカーサー以外にはな」と語っている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=431}}。マッカーサーもルーズベルトの肉体的な衰えに驚いており、「彼の頭は上下に揺れ、口は幾分ひらいたままだった」と観察し、「次の任期まではもたない」と予想していたが、事実そのとおりとなった{{Sfn|シャラー|1996|p=138}}。翌日も引き続き会談は続けられ、会談終了後に海軍が準備した楽団、歌手、[[フラダンス]]によるショーにルーズベルトから誘われたマッカーサーではあったが、すぐに前線に戻らないといけないと断り、ハワイを発とうとしたときに、ルーズベルトから呼び止められ「ダグラス、君の勝ちだ。私の方はキングとやりあわなければらないな」とフィリピン攻略を了承した。かつての卓越した雄弁家も、肉体の衰えもあって完全に舞台負けした形となった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=431}}。
[[ファイル:Douglas MacArthur lands Leyte1.jpg|thumb|240px|レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー]]{{After float}}
ルーズベルトの方針決定により統合参謀本部はマッカーサーにフィリピン攻略作戦を承認した。海軍はフィリピンでマッカーサーを援護したあとは台湾を迂回し、その後[[沖縄]]を攻略すると決められた。マッカーサーはまずは日本軍の兵力の少ない[[レイテ島]]を攻略してその後のフィリピン全土解放の足掛かりとする計画であった。マッカーサーはレイテに20,000人の日本軍が配備されているとみていたが、その後に増援を送ってくると考えて、今までの太平洋戦域では最大規模の兵力となる174,000名の兵員と700隻の艦艇と多数の航空機を準備することとした{{sfn|メイヤー|1971|p=183}}。この頃には、[[ノルマンディー上陸作戦]]の成功でヨーロッパの戦局は最終段階に入ったものと見なされて、ルーズベルトやチャーチルといった連合国の指導者たちは太平洋の戦局に重大な関心を持つようになっており、膨大な戦力の準備が必要であったマッカーサーにとっては追い風となった。事前にレイテの航空基地は[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]中将率いる[[第38任務部隊]]の艦載機に散々叩かれており、1944年10月20日にアメリカ軍は大きな抵抗を受けることなくレイテ島に上陸した。マッカーサーも同日に[[セルヒオ・オスメニャ]]とともにレイテに上陸したが、上陸用舟艇で海岸に近づいたマッカーサーは、待ちきれないように接岸する前に海に飛び降りて足を濡らしながらフィリピンへの帰還を果たした{{sfn|メイヤー|1971|p=185}}。
この時撮影された、レイテ島に上陸するマッカーサーの著名な写真は、当時フィリピンでも宣伝に活用されたが、これは実際に最初に上陸した時のものではなく、翌日に再現した状況を撮影したものである。
マッカーサーが上陸した地点では桟橋が破壊されており海中を歩いて上陸するしかなかったが、この時撮影された写真を見たマッカーサーは、海から歩いて上陸するという劇的な情景の視覚効果に着目し、再び上陸シーンを撮影させた。アメリカ国立公文書館には、この時に船上から撮影された映像が残されており、その中でマッカーサーは一度上陸するものの自らNGを出し、戻ってサングラスをかけ直した後、再度撮影を行う様子が記録されている<ref>『レイテに沈んだ大東亜共栄圏』NHK取材班編</ref>。
マッカーサーは日本軍の狙撃兵が潜む中で戦場を見て回り、狙撃されたこともあったが、弾を避けるために伏せることもしなかったという。10月23日には旗艦としていた軽巡[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]の通信設備を使って、演説をフィリピン国民に向けて放送した。その演説の出だしは「フィリピン国民諸君、私は帰ってきた」であったが、興奮のあまり手が震え声が上ずったため、一息入れた後に演説を再開した{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=23}}。日本の[[軍政]]の失敗による貧困や飢餓に苦しめられていた多くのフィリピン国民は、熱狂的にマッカーサーの帰還を歓迎した。マッカーサーはその夜には司令部をナッシュビルから、レイテ島で大規模な[[プランテーション]]を経営していたアメリカ人事業家の豪邸に移したが、この豪邸は日本軍が司令官用のクラブとして使用していたため、敷地内に電気や換気扇や家具まで完備した塹壕が作られていた。前線司令部としては相応しい設備であったが、マッカーサーは前回フィリピンで戦った際に部下将兵から名付けられた「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を知っており、また揶揄されることを嫌い「埋めて平らにしてしまうのだ」と命じている{{sfn|ペレット|2014|p=826}}。
=== マッカーサーの危機 ===
[[ファイル:U.S. AA at Tacloban in action.jpg|thumb|240px|タクロバン飛行場で来襲した日本軍機に向かって対空射撃するアメリカ軍対空機銃]]{{After float}}
{{See also|レイテ沖海戦}}
{{See also|レイテ島の戦い}}
その後の[[レイテ島の戦い]]では、日本軍は[[台湾沖航空戦]]の過大戦果の虚報に騙され、[[大本営]]の横やりで現地の司令官[[山下奉文]]の反対を押し切り、レイテを決戦場としてアメリカ軍に決戦を挑むこととし、[[捷号作戦|捷一号作戦]]を発動した。[[連合艦隊]]の主力がアメリカ輸送艦隊を撃滅、次いで陸軍はルソン島より順次増援をレイテに派遣し、上陸軍を撃滅しようという作戦だった。対するアメリカ軍は、海軍の指揮系統が分割され、主力の機動部隊[[第38任務部隊]]を擁する[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]]はニミッツの指揮下、主に真珠湾攻撃で損傷して修理された戦艦や巡洋艦が配備された[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]がマッカーサーの指揮下となっており、この両艦隊は同じアメリカ海軍でありながら連携を欠いていた{{sfn|津島 訳|2014|p=275}}。レイテ湾に向けて進撃してくる日本軍艦隊に対して、第3艦隊司令官のハルゼーはあてにできないので、第7艦隊司令官の[[トーマス・C・キンケイド]]は、単独で日本軍艦隊を迎え撃つべく、マッカーサーが旗艦として使用しているナッシュビルを艦隊に合流させてほしいと要請した。マッカーサーは応諾したが「私はこれまで大きな海戦に参加したことがないので、それを見るのを楽しみにしているのだ」と自分がナッシュビルに乗艦したまま日本軍との海戦を観戦するという条件をつけた{{sfn|ペレット|2014|p=827}}。しかしキンケイドやマッカーサーの幕僚の猛反対もあって観戦は断念し、ナッシュビルはマッカーサーを下したのち[[ジェシー・B・オルデンドルフ]]少将の指揮下で[[西村祥治]]中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(通称:西村艦隊)を[[スリガオ海峡]]で迎え撃つこととなった{{sfn|津島 訳|2014|p=279}}。激しい[[レイテ沖海戦#スリガオ海峡海戦|スリガオ海峡海戦]]のすえ、西村艦隊は壊滅したが、次は主力の第一遊撃部隊(通称:栗田艦隊)が、激しい第38任務部隊による航空攻撃を受けつつもレイテ湾に接近してきた。その頃ハルゼーは[[小沢治三郎]]中将の囮作戦にひっかかり、小沢の空母艦隊を日本海軍の主力と誤認し、その引導を渡すべく追撃していたが、連携のまずさから第7艦隊のキンケイドはそのことを知らず、栗田艦隊は妨害を受けることなく無防備の[[サンベルナルジノ海峡]]を通過した{{sfn|津島 訳|2014|p=280}}。
マッカーサーはこの時ナッシュビルに幕僚らと乗艦していたが、栗田艦隊の接近を知るとマッカーサー司令部には絶望感が蔓延し、先任海軍参謀のレイ.ターバック大佐は「我々は弾丸も撃ち尽くしたも同然な状態にあり、魚雷もつかってしまい、燃料の残りは少なく、状況は絶望的である」と当日の日記に記している<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=189}}</ref>。マッカーサーはニミッツにハルゼーの引き返しを要請する電文を3回も打ち、ニミッツはマッカーサーの要請に応えてハルゼーに「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。全世界は知らんと欲す)」という電文を打ったがハルゼーには届かず、最後にはニミッツがマッカーサーにハルゼーに直接連絡してほしいとお願いする始末であった。ここでも指揮権の不統一が大きな災いをまねくところであったが{{sfn|津島 訳|2014|p=283}}、栗田艦隊はその後[[サマール島]]沖で[[クリフトン・スプレイグ]]少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(コードネーム"タフィ3")と戦うと、レイテ湾を目の前にして引き返してしまったため、マッカーサーの危機は去った。その夜マッカーサーは幕僚と夕食を共にしたが、幕僚は自分らを危機に陥れたハルゼーに対する非難を始め、「大馬鹿野郎」や「あのろくでなしハルゼー」など罵ったが、それを聞いていたマッカーサーは激怒し握った拳でテーブルを叩くと大声で「ブル(ハルゼーのあだ名)にはもう構うな。彼は私の中では未だに勇気ある提督なのだ」と擁護している{{sfn|ペレット|2014|p=828}}。
マッカーサーの苦境はなおも続いた。日本陸軍の[[富永恭次]]中将率いる[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]が連合艦隊の突入に呼応して、日本陸軍としては太平洋戦争最大規模の積極的な航空作戦を行った<ref name="昭和史の天皇12 1971 64">{{Harvnb|昭和史の天皇12|1971|p=64}}</ref>。アメリカ軍はレイテ島上陸直後に占領した[[ダニエル・Z・ロマオルデス空港|タクロバン飛行場]]に[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]を進出させて、強力な航空支援体制を確立しようとしていたが、そこに富永は攻撃を集中した<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=262}}</ref>。
マッカーサーがわざわざ地下壕を埋めさせた司令部兼住居はそのタクロバン飛行場近隣にあり、建物はタクロバン市街では大変目立つものであったため、第4航空軍の攻撃機がしばしば攻撃目標としたが、マッカーサーは敢えて避難することはしなかった。日本軍の爆弾がマッカーサー寝室の隣の部屋に命中したこともあったが、幸運にも不発弾であった。また低空飛行する日本軍機に向けて発射した76㎜高射砲の砲弾1発が、マッカーサーの寝室の壁をぶち抜いたあとソファの上に落ちてきたが、それも不発弾であった。また、軽爆撃機がマッカーサーが在室していた部屋に機銃掃射を加えてきて、うち2発がマッカーサーの頭上45cmにあった梁に命中したこともあった。マッカーサーが司令部幕僚を招集して作戦会議を開催した際にも、しばしば日本軍の爆弾が庭で爆発したり、急降下爆撃機が真っすぐ向かってくることもあって、副官の[[コートニー・ホイットニー]]少将らマッカーサーの幕僚は床に伏せたい気分にかられたが、マッカーサーが微動だにしなかったので、やむなくマッカーサーに忖度してやせ我慢を強いられている{{sfn|ペレット|2014|p=827}}。富永はマッカーサーら連合軍司令部を一挙に爆砕する好機に恵まれて、実際に司令部至近の建物ではアメリカ軍[[従軍記者]]2名と、フィリピン人の使用人12名が爆撃で死亡し、司令部の建物も爆弾や機銃掃射で穴だらけになるなど、あと一歩のところまで迫っていたが{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=35}}、結局その好機を活かすことはできなかった<ref>{{Harvnb|伊藤正徳・3|1960|p=251}}</ref>。
このように、第4航空軍の奮闘もあって、少なくとも11月上旬までは、日本軍がレイテ島上の制空権を確保していた<ref>{{Harvnb|伊藤正徳・3|1960|p=266}}</ref>。アメリカ陸軍の公刊戦史においても、10月27日の夕刻から払暁までの間に11回も日本軍機による攻撃があって、タクロバンは撃破されて炎上するアメリカ軍機によって赤々と輝いていたと記述され、第4航空軍の航空作戦を、太平洋における連合軍の反攻開始以来、こんなに多く、しかも長期間にわたり、夜間攻撃ばかりでなく昼間空襲にアメリカ軍がさらされたのはこの時が初めてであった。と評している<ref name="昭和史の天皇12 1971 64"/>。また、富永は上空支援が不十分であったアメリカ軍の上陸拠点へも攻撃し、11月の第1週には、揚陸したばかりの約4,000トンの燃料・弾薬を爆砕し、上陸したアメリカ軍の補給線を脅かした<ref>{{Harvnb|トール|2022a|loc=電子版, 位置No.596}}</ref>。第4航空軍の空からの猛攻に苦戦を続ける状況を憂慮した[[トーマス・C・キンケイド]]中将は、「敵航空兵力は驚くほど早く立ち直っており、上陸拠点に対する航空攻撃は事実上歯止めがきかず、陸軍の命運を握る補給線を締め上げる危険がある。アメリカ陸軍航空隊の強力な影響力を確立するのが遅れれば、レイテ作戦全体が危機に瀕する」と考えて、この後に予定されていた[[ルソン島の戦い|ルソン島上陸作戦]]については、「戦史上めったに類を見ない大惨事を招きかねません」と作戦の中止をマッカーサーに求めたが、マッカーサーがその進言を聞き入れることはなかった<ref>{{Harvnb|トール|2022a|loc=電子版, 位置No.609}}</ref>。
マッカーサーの副官の1人である[[チャールズ・ウィロビー]]准将は、戦後にこのときの苦境を振り返って、タクロバン飛行場に日本軍機の執拗な攻撃が続き、1度の攻撃で「[[P-38 (航空機)|P-38]]」が27機も地上で撃破され、毎夜のように弾薬集積所や燃料タンクが爆発し、飛行場以外でもマッカーサーの司令部兼居宅や[[ウォルター・クルーガー]]中将の司令部も爆撃されたと著書に記述しており、第4航空軍による航空攻撃と、[[連合艦隊]]による[[レイテ沖海戦|レイテ湾突入作戦]]は、構想において素晴らしく、規模において雄大なものであったと称賛し、マッカーサー軍が最大の危機に瀕したと回想している<ref name="昭和史の天皇13 1971 65">{{Harvnb|昭和史の天皇13|1971|p=65}}</ref>。マッカーサーも「切羽詰まった日本軍は、虎の子の大艦隊を繰り出して、レイテの侵入を撃退し、フィリピン防衛態勢を守り抜こうという一大博打に乗り出してきた。アメリカ軍部隊をレイテの海岸から追い落とそうという日本軍の決意は、実際に成功の一歩手前までいった」{{sfn|津島 訳|2014|p=272}}「豊田提督が立てた計画は、みごとな着想に基づいたすばらしく大きい規模のものだった」{{sfn|津島 訳|2014|p=273}}「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と自らの最大の危機を振り返っている{{sfn|津島 訳|2014|p=291}}。
その後、日本軍は[[多号作戦]]により、レイテ島に[[第26師団 (日本軍)|第26師団]]や[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]などの増援を送り込み、連合軍に決戦を挑んだ。マッカーサーは当初の分析よりも遥かに多い日本軍の戦力に苦戦を強いられることとなり、[[ルソン島]]への上陸計画を延期して予備兵力をレイテに投入せざるを得なくなったが<ref>{{Harvnb|昭和史の天皇13|1971|p=112}}</ref>、[[レイテ沖海戦]]で連合艦隊が惨敗、第4航空軍も積極的な航空作戦による消耗に戦力補充が追い付かず、戦力が増強される一方の連合軍に対抗できなくなると、制空権を奪われた日本軍は多号作戦の輸送艦が次々と撃沈され、レイテ島は孤立していった。そして、マッカーサーはレイテ島を一気に攻略すべく、多号作戦の日本軍の揚陸港になっていた[[オルモック湾]]への上陸作戦を命じた。オルモック湾内のデポジト付近の海岸に上陸したアメリカ陸軍第77歩兵師団はオルモック市街に向けて前進を開始した。背後に上陸され虚を突かれた形となった日本軍であったが、体勢を立て直すと激しく抵抗し、第77歩兵師団は上陸後の25日間で死傷者2,226名を出すなど苦戦を強いられたが、この上陸作戦でレイテ島の戦いの大勢は決した<ref>{{Harvnb|大岡昇平②|1972|p=217}}</ref>。
=== マニラへの帰還 ===
[[ファイル:Crewmen cleaning Kamikaze damage on USS Nashville (CL-43) in December 1944.jpg|thumb|240px|特攻機の命中で大火災を生じたマッカーサーの旗艦であった軽巡洋艦ナッシュビル]]{{After float|10em}}{{See also|ルソン島の戦い}}
{{See also|マニラの戦い (1945年)}}
レイテを攻略したマッカーサーは、念願のルソン島奪還作戦を開始した。旗艦の軽巡洋艦[[ボイシ (軽巡洋艦)|ボイシ]]に座乗したマッカーサーは、1945年1月4日に800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、1941年に本間中将が上陸してきたリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが[[特別攻撃隊]]の特攻機や[[特殊潜航艇]]であった。マッカーサーの旗艦であったナッシュビルもルソン島攻略に先立つ[[ミンドロ島の戦い]]で特攻機の攻撃を受け、323名の大量の死傷者を出して大破していたが、その時、マッカーサーは乗艦しておらず、ミンドロ島攻略部隊を率いていた[[アーサー・D・ストラブル]][[少将]]の幕僚らが多数死傷している<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=82}}</ref>。特にマッカーサーに衝撃を与えたのは、戦艦[[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]]に特攻機が命中して、ルソン島上陸作戦を観戦するためニューメキシコに乗艦していたイギリス軍{{仮リンク|ハーバード・ラムズデン|en|Herbert Lumsden}}中将が戦死したことであり、ラムズデンとマッカーサーは40年来の知人で、その死を悼んだ{{sfn|津島 訳|2014|p=316}}。
特攻機の攻撃は激しさを増して、護衛空母[[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]] を撃沈、ほか多数の艦船を撃沈破しマッカーサーを不安に陥れたが、特攻機の攻撃が戦闘艦艇に集中しているのを見ると、側近軍医ロジャー・O・エグバーグに「奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても、あるいは何発もの攻撃を受けても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と述べている。マッカーサーの旗艦ボイシも特攻機と特殊潜航艇に再三攻撃されており、マッカーサーはその様子を興味深く見ていたが、しばらくすると戦闘中であるにもかかわらず[[昼寝]]のために船室に籠ってしまった。爆発音などの喧騒の中で熟睡しているマッカーサーの脈をとったエグバーグは、脈が全く平常であったことに驚いている。やがて眼が覚めたマッカーサーは、エグバーグからの戦闘中にどうして眠れるのか?という質問に対して「私は数時間戦闘のようすを見ていた。そして現場の状況が分かったのだ。私がすべきことは何もなかったからちょっと眠ろうと思ったのだ」と答えている{{sfn|ペレット|2014|p=852}}。
ルソン島に上陸したアメリカ軍に対して、レイテで戦力を消耗した日本軍は海岸線での決戦を避け、山岳地帯での遅滞戦術をとることとした。司令官の山下は首都[[マニラ]]を戦闘に巻き込まないために防衛を諦め、守備隊にも撤退命令を出したが、陸海軍の作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊を中心とする日本軍14,000名がマニラに立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサーは、戦闘開始直後の2月5日にアメリカ軍のマニラ入城を宣言し、「敵の壊滅は間近である」とも言い放った。しかし、これはマッカーサーのパフォーマンスに過ぎす、海軍守備隊司令官[[岩淵三次]]少将率いる日本軍守備隊は、マニラ都心の[[イントラムロス]]の城塞を要塞化して激しく抵抗していた<ref>{{harvnb|シャラー|1996|p=153}}</ref>。
アメリカ軍はマニラを完全に包囲しており、退路を断たれた日本軍は激しく抵抗した。マッカーサーは山下によるマニラの[[無防備都市宣言]]を期待して、マニラで戦勝パレードを行うつもりであり、重砲の砲撃の制限的な運用に加えて<ref>{{Harvnb|トール|2022b|loc=電子版, 位置No.87}}</ref>、空爆については「友好国及び連合国市民がいる市街に対する空襲は論外である。この種の爆撃の不正確さは、非戦闘市民数千人の死を招くことに疑念の余地はない」と許可しなかった。しかし、このマッカーサーが言う“非戦闘市民”のなかには、マニラに残されていた数千人の日本人住民は含まれていなかった。マッカーサーは当然にマニラに多数の日本人住民がいることを知ってはいたが、ルソン島上陸直後に「死んだ[[ジャップ]]だけが良いジャップだ」と言明したように日本人住民の安全について全く考慮することはなかった{{sfn|児島襄|1978|p=333}}。
しかし、要塞化されたイントラムロスを攻めあぐねた司令官の[[:en:Oscar Griswold|オスカー・グリズワルド]]中将はマッカーサーに空爆と重砲砲撃の解禁を要請した。目論見が外れたマッカーサーは、空爆は許可しなかったものの重砲による砲撃は許可したので、今まで太平洋戦線で行われた最大規模の重砲による砲撃がマニラ市街全域に浴びせられ、その様子はマニラ市街に[[ピナトゥボ山]]が現れて大噴火をおこしたようなものだったという<ref>{{Harvnb|トール|2022b|loc=電子版, 位置No.99}}</ref>。アメリカ軍の砲撃は驚くほど正確に一定の距離間隔を置いて、あたかも市街に絨毯を敷くように撃ち込まれてきたので、フィリピン人はおろか、マニラの高級住宅街に居住していたスペイン人、ドイツ人、ユダヤ人といった[[白人]]たちも砲雨にさらされながら、喚き、泣け叫び、右往左往しながら砲弾に斃れていった{{sfn|秘録大東亜戦史④|1953|p=214}}。マッカーサーの眼中になかった日本人住民はさらに悲惨な目にあっており、マニラで犠牲となった日本人住民の人数すら判明しておらず、安全地帯とされ7,000人もの避難民が逃げ込んでいた{{仮リンク|フィリピン総合病院|label=フィリピン総合病院|en|Philippine General Hospital}}ですら、日本人の生還者はフィリピン人看護婦フェ・ロンキーヨに看護されていたマニラの貿易商大沢清のただ一人であった{{sfn|新聞記者が語りつぐ戦争18|1983|p=217}}。
マニラでは激しい砲撃と市街戦の末、住宅地の80%、工場の75%、商業施設はほぼ全てが破壊された{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=55}}。日本アメリカ両軍に多数の死傷者が生じたが、もっとも被害を被ったのはマニラ市民となった。追い詰められた日本兵は虐殺や強姦などの残虐行為に及び、フィリピン人の他に同盟国であったドイツ人や中立国のスペイン人などの白人も日本兵の残虐行為の対象となった。特にフィリピン人については、アメリカ軍が支援した[[アメリカ極東陸軍|ユサッフェ・ゲリラ]]と[[フクバラハップ]]・ゲリラがマニラ市街で武力蜂起し、既に日本軍に対する攻撃や日本人市民の殺戮を開始しており、日本軍の攻撃対象となっていた{{sfn|秘録大東亜戦史④|1953|p=210}}。武装ゲリラの跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民の区別がつかず、「女子供もゲリラになっている。戦場にいる者は日本人を除いて全員処刑される」と命令が前線部隊から出されるなど、老若男女構わず殺害した。そして戦況が逼迫し日本軍守備隊の組織が崩壊すると日本兵の残虐さもエスカレートして、略奪、放火、強姦、拷問、虐殺などが横行することとなった<ref>{{Harvnb|トール|2022b|loc=電子版, 位置No.91}}</ref>。
{{See also|マニラ大虐殺}}
マッカーサーは自分の目論見が外れ、マニラで起こしてしまった悲劇からは徹底的に目をそらし続けた。マニラ市内になかなか入ろうとせず、日本軍による虐殺や自らの砲撃によるフィリピン人らの惨状をマスコミに公表しようともしなかった。マッカーサーは、戦闘も峠を越した2月23日になってようやく瓦礫の山と化したマニラ市内に[[装甲列車]]で乗り付けた。そして戦前に居宅としていたマニラ・ホテルを訪れたが、かつての優雅な建物は火災で全焼しており、日本軍指揮官の野口勝三陸軍大佐(野口支隊長)の遺体が玄関前に転がっていた。階段を上って自分の居室にも入ったが、マッカーサーの私物は何も残っておらず、マニラを脱出するときに持ち出すことができなかった、明治天皇から父アーサーに贈られた花瓶も粉々になっていた。マッカーサーはこのときを「私はめちゃめちゃになった愛する我が家の悲痛を最後の酸っぱいひとかけらまで味わいつくしていた」と感傷的に振り返っている<ref>{{Harvnb|トール|2022b|loc=電子版, 位置No.102}}</ref>。
マニラにおけるフィリピン人の犠牲は10万人以上にも達した。特に多くの犠牲者を出すこととなった日本軍のゲリラ討伐を、マッカーサーは「強力で無慈悲な戦力が野蛮な手段に訴えた」{{sfn|津島 訳|2014|p=228}}「軍人は敵味方問わず、弱き者、無武装の者を守る義務を持っている……(日本軍が犯した)犯罪は軍人の職業を汚し、文明の汚点となり」{{sfn|津島 訳|2014|p=443}}と激しく非難したが、その無武装で弱き者を武装させたのはマッカーサーであり、戦後にこの罪を問われて戦犯となった山下の裁判では、山下の弁護側から、マッカーサーの父アーサーがフィリピンのアメリカ軍の司令官であった時にフィリピンの独立運動をアメリカが弾圧した時の例を出され「血なまぐさい『フィリピンの反乱』の期間、フィリピンを鎮圧するために、アメリカ人が考案し用いられた方法を、日本軍は模倣したようなものである」「アメリカ軍の討伐隊の指揮官スミス准将は「小銃を持てる者は全て殺せ」という命令を出した」と指摘され、マッカーサーは激怒している{{sfn|袖井|2004|p=162}}。一方で、犠牲者の40%以上を占めたアメリカ軍の砲撃について批判することは[[タブー]]とされて、フィリピン人はその犠牲を受忍せざるを得なかった<ref>{{Cite web|和書|url=http://nakanosatoshi.com/category/ap_war/|title=戦争の記憶 マニラ市街戦─その真実と記憶─|author=中野聡 |accessdate=2022-7-01}}</ref>。
[[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Luciferdoos met propaganda-opschrift TMnr 3934-56c.jpg|thumb|240px|アメリカ軍がフィリピン人に配布した「I shall return」のロゴが入ったタバコ]]{{After float}}
日本軍はその後も圧倒的な火力のアメリカ軍と、数十万人にも膨れ上がったフィリピン・ゲリラに圧倒されながら絶望的な戦いを続け、ここでも大量の餓死者・病死者を出し、ルソン島山中に孤立することとなった。ニューギニアの戦いに続き、マッカーサーは決定的な勝利を掴み、その名声や威光はさらに高まった。しかし、フィリピン奪還をルーズベルトに直訴した際に、大きな損害を懸念したルーズベルトに対しマッカーサーは「大統領閣下、私の出す損害はこれまで以上に大きなものとはなりません……よい指揮官は大きな損失を出しません」と豪語していたが{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=430}}、アメリカ軍の第二次世界大戦の戦いの中では最大級の人的損害となる、戦闘での死傷79,104名、戦病や戦闘外での負傷93,422名<ref name="Luzon">[http://www.history.army.mil/brochures/luzon/72-28.htm "Luzon"] 2016年1月8日閲覧</ref><ref name="Leyte">[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Return/ "Leyte"] 2015年1月8日閲覧</ref><ref name="6th Infantry Division:">[http://6thinfantry.com/6thinfantry/the-battle-of-luzon-compared-with-other-battles-of-world-war-ii/ "6th Infantry Division:"] 2016年1月8日閲覧</ref> という大きな損失を被った上に、何よりもマッカーサーが軍の一部と認定し多大な武器や物資を援助し、「フィリピン戦において我々はほとんどあらゆるフィリピンの市町村で強力な歴戦の兵力の支援を受けており、この兵力は我が戦線が前進するにつれて敵の後方に大打撃を加える態勢にあり、同時に軍事目標に近接して無数の大きい地点を確保して我が空挺部隊が降下した場合には、ただちに保護と援助を与えてくれる」「私はこれら戦史にもまれな、偉大な輝かしい成果を生んだ素晴らしい精神力を、ここに公に認めて感謝の意を表する」{{sfn|津島 訳|2014|pp=243-245}}「北ルソンのゲリラ隊は優に第一線の1個師団の価値があった」{{sfn|津島 訳|2014|p=318}}などとアメリカ軍と共に戦い、その功績を大きく評価していたフィリピン・ゲリラや、ゲリラを支援していたフィリピン国民の損失は甚大であった<ref name="ww2museum">[http://www.nationalww2museum.org/learn/education/for-students/ww2-history/ww2-by-the-numbers/world-wide-deaths.html?referrer=https://www.google.com/ "ww2museum"] 2015年1月8日閲覧</ref>。しかし、「アメリカ軍17個師団で日本軍23個師団を打ち破り、日本軍の人的損失と比較すると我が方の損害は少なかった」と回顧録で自賛するマッカーサーには、フィリピン人民の被った損失は頭になかった{{sfn|津島 訳|2014|p=355}}。
6月28日にマッカーサーはルソン島での戦闘の終結宣言を行ない、「アメリカ史上もっとも激しく血なまぐさい戦いの一つ……約103,475km<sup>2</sup>の面積と800万人の人口を擁するルソン島全域はついに解放された」と振り返ったが{{sfn|津島 訳|2014|p=344}}、結局はその後も日本軍の残存部隊はルソン島の山岳地帯で抵抗を続け、{{仮リンク|アメリカ陸軍第6軍|en|Sixth United States Army}}の3個師団は終戦までルソン島に足止めされることとなった<ref>『ドキュメント神風(下)』 P.255</ref>。
フィリピン戦中の12月に、マッカーサーは元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長の[[ジョージ・C・マーシャル|ジョージ・マーシャル]]元帥に次ぎ2番目)。
=== 主導権争い ===
[[Image:FDR at Schofield Barracks luncheon July 27, 1944.jpg|thumb|250px|食事を共にするマッカーサー(左)とニミッツ(右)真ん中はルーズベルト]]
もう一人の太平洋戦域における軍司令となった太平洋方面軍司令官ニミッツが[[硫黄島の戦い]]の激戦を制し、[[沖縄県|沖縄]]に向かっていた頃、次の日本本土進攻作戦の総司令官を誰にするかで悶着が起きていた。重病により死の淵にあったルーズベルトの命令で、陸海軍で調整を続けていたが決着を見ず、結局マッカーサーの西太平洋方面軍とニミッツの太平洋方面軍を統合し、全陸軍をマッカーサー、全海軍をニミッツ、戦略爆撃軍を[[カーチス・ルメイ]]がそれぞれ指揮し、三者間で緊密に連携を取るという玉虫色の結論でいったんは同意を見た{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=81}}。
しかし、マッカーサーとその[[シンパ]]はこの決定に納得しておらず、硫黄島の戦いでニミッツが大損害を被ったことをアメリカ陸軍の[[ロビー活動|ロビイスト]]が必要以上に煽り、マッカーサーの権限拡大への世論誘導に利用しようとした<ref>{{Cite web |url=http://www.historyofwar.org/articles/battles_iwojima.html |title=Operation Detachment: The Battle for Iwo Jima February - March 1945 |publisher= |accessdate=2022-1-30}}</ref>。マッカーサーがフィリピンで失った兵員数は、硫黄島での損害を遥かに上回っていたのにもかかわらず、あたかもマッカーサーが有能なように喧伝されて、ニミッツの指揮能力に対しての批判が激化していた<ref>{{Cite web |url=http://www.historyofwar.org/articles/battles_iwojima.html |title=Operation Detachment: The Battle for Iwo Jima February - March 1945 |publisher= |accessdate=2022-1-30}}</ref>。
マッカーサーの熱狂的な信奉者でもある[[ウィリアム・ランドルフ・ハースト]]は、自分が経営する[[ハースト・コーポレーション]]社系列の[[サンフランシスコ・エグザミナー]]紙で「マッカーサー将軍の作戦では、このような事はなかった」などと事実と反する記事を載せ、その記事で「マッカーサー将軍は、アメリカ最高の戦略家で最も成功した戦略家である」「太平洋戦争でマッカーサー将軍のような戦略家を持ったことは、アメリカにとって幸運であった」「しかしなぜ、マッカーサー将軍をもっと重用しないのか。そして、なぜアメリカ軍は尊い命を必要以上に失うことなく、多くの戦いに勝つことができる軍事的天才を、最高度に利用しないのか」と褒めちぎった<ref name="名前なし-4">{{Harvnb|ニューカム|1966|p=173}}</ref>。なお、マッカーサー自身は硫黄島と沖縄の戦略的な重要性を全く理解しておらず「これらの島は敵を敗北させるために必要ない」「これらの島はどれも、島自体には我々の主要な前進基地になれるような利点はない」と述べている{{sfn|津島 訳|1964|pp=36-39}}。
この記事に対して多くの海兵隊員は激怒し、休暇でアメリカ国内にいた海兵隊員100人余りがサンフランシスコ・エグザミナー紙の編集部に乱入して、編集長に記事の撤回と謝罪文の掲載を要求した。編集長は社主ハーストの命令によって仕方なくこのような記事を載せたと白状し、海兵隊員はハーストへ謝罪を要求しようとしたが、そこに通報で警察と海兵隊の警邏隊が駆けつけて、一同は解散させられた。しかし、この乱入によって海兵隊員たちが何らかの罪に問われることはなかった<ref name="名前なし-4"/>。その後、[[サンフランシスコ・クロニクル]]紙がマッカーサーとニミッツの作戦を比較する論調に対する批判の記事を掲載し、「アメリカ海兵隊、あるいは世界各地の戦場で戦っているどの軍でも、アメリカ本国で批判の的にたたされようとしているとき、本紙はだまっていられない」という立場を表明して、アメリカ海軍や海兵隊を擁護した。ちなみにサンフランシスコ・クロニクル紙の社主タッカーの一人息子であった二ヨン・R・タッカーは海兵中尉として硫黄島の戦いで戦死している<ref>{{Harvnb|ニューカム|1966|p=172}}</ref>。
1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、さらにマッカーサーは激しく自分の権限強化を主張した。[[ジェームズ・フォレスタル]][[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]]によれば、マッカーサー側より日本本土進攻に際しては海軍は海上援護任務に限定し、マッカーサーに空陸全戦力の指揮権を与えるように要求してきたのに対し、当然、海軍と戦略爆撃軍は激しく抵抗した。マッカーサーは海軍の頑なな態度を見て「海軍が狙っているのは、戦争が終わったら陸軍に国内の防備をさせて、海軍が海外の良いところを独り占めする気だ」「海軍は陸軍の手を借りずに日本に勝とうとしている」などと疑っていた。結局マッカーサーの強い申し出にもニミッツは屈せず、マッカーサーはこの要求を取り下げた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=82}}。
=== ダウンフォール作戦 ===
[[File:Operation Olympic.jpg|thumb|南九州侵攻作戦「オリンピック作戦」]]
[[File:Operation Coronet.jpg|thumb|関東侵攻作戦「コロネット作戦」]]{{After float|10em}}{{See also|ダウンフォール作戦}}
マッカーサーとニミッツによる指揮権における主導権争いと並行して、日本本土進攻作戦の詳細な作戦計画の作成が進められ、作戦名は[[ダウンフォール作戦]]という暗号名が付けられた。ダウンフォール作戦は南部九州攻略作戦である「オリンピック作戦」と関東地方攻略作戦である「コロネット作戦」で構成されていたが、急逝したルーズベルトに代わって大統領に昇格した[[ハリー・S・トルーマン]]は、[[沖縄戦]]におけるアメリカ軍のあまりの人的損失に危機感を抱いて、「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」と考えるようになっており、マッカーサーらはトルーマンの懸念を緩和するべく、アメリカ軍の損失予測を過小に報告することとした<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=288}}</ref>。日本軍が南九州に歩兵師団3個師団、北部九州に歩兵師団3個師団、戦車2個連隊の合計30万人の兵力を配置しているという情報を得ていたマッカーサーは、連合軍投入予定の兵力が14個師団68万人であることから、連合軍兵力が圧倒しているという前提でも90日間で10万人以上の死傷者が出ると予測していたが{{sfn|ウォーナー|1982b|p=253}}、これを[[ルソン島の戦い]]を参考にしたとして、30日間で31,000人の死傷者に留まると下方修正し、「私はこの作戦は、他に提言されているどんな作戦より、過剰な損耗を避け危険がより少ないものであること……また私はこの作戦は、可能なもののうちもっともその努力と生命において経済的であると考えている……私の意見では、オリンピック作戦を変更すべきであるとの考えが、いささかでも持たれるべきではない」と報告している{{sfn|ウォーナー|1982b|p=239}}。
6月18日にトルーマンが[[ホワイトハウス]]に陸海軍首脳を招集して戦略会議が開催され、オリンピック作戦について議論が交わされたが、その席でもアメリカ軍の死傷者推計が話し合われた。マッカーサーはこの会議に参加してはいなかったが、マッカーサーの過小な損害推計に対して、特に太平洋正面の数々の激戦で、アメリカ海軍や海兵隊は多大な損失を被っていたので、合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長[[ウィリアム・リーヒ]]元帥はマッカーサーによる過小推計を一蹴し、沖縄戦での投入兵力に対する死傷率39%を基に、オリンピック作戦での投入兵力約68万 - 76万人の35%の約25万人が死傷するという推計を行った。トルーマンもこの25万人という推計が現実的と判断したが、[[マンハッタン計画]]による[[原子爆弾]]の完成がまだ見通しの立たない中で、マッカーサーらの思惑どおりオリンピック作戦を承認した<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=301}}</ref>。
マッカーサーの下には従来の太平洋のアメリカ陸軍戦力の他に、ドイツを打ち破ったヨーロッパ戦線の精鋭30個師団が向かっていた。オリンピック作戦ではマッカーサーは764,000名ものアメリカ軍上陸部隊を指揮することとなっていたが、[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|ドイツが降伏]]し、敵がいなくなったヨーロッパ戦線の指揮官らはこぞってマッカーサーにラブコールを送り、太平洋戦線への配属を希望した。なかでも[[ボーナスアーミー]]事件のときに、マッカーサーの命令で戦車で退役軍人を追い散らした[[第3軍 (アメリカ軍)|第3軍]]司令官[[ジョージ・パットン]]大将などは「師団長に降格してもいいから作戦に参戦させてくれ」と申し出ている。しかし、彼らの上司であるアイゼンハワーと違い部下の活躍を好まなかったマッカーサーは、ヨーロッパ戦線の指揮官たちは階級が高くなりすぎているとパットンらの申し出を断り、[[第1軍 (アメリカ軍)|第1軍]]司令官[[コートニー・ホッジス]]大将らごく一部を自分の指揮下に置くこととした<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=192}}</ref>。ただし、部下を信頼して作戦を各軍団指揮官に一任していたアイゼンハワーと異なり、自分を軍事の天才と自負していたマッカーサーは作戦の細かいところまで介入していたため、ヨーロッパ戦線では軍団指揮官であった将軍らに「1個の部隊指揮官」として来てほしいと告げていた。アイゼンハワーとウエストポイント士官学校の同期生で親友の{{仮リンク|第12軍集団 (アメリカ軍)|en|Twelfth United States Army Group|label=第12軍集団}}司令官[[オマール・ブラッドレー]]大将も太平洋戦線での従軍を希望していたが、マッカーサーの「1個の部隊指揮官」条件発言を聞いたアイゼンハワーが激怒し、ブラッドレーは太平洋戦線行きを諦めざるを得なかった<ref name="アレン・ボーマー 1995 193">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=193}}</ref>。一方でマッカーサーも、アイゼンハワーへの対抗意識からか、太平洋戦線の自分の部下の指揮官たちがヨーロッパ戦線のアイゼンハワーの部下の指揮官よりは優秀であると匂わせる発言をしたり<ref name="アレン・ボーマー 1995 193"/>、「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった」「北アフリカに送られた戦力を自分に与えられていたら3か月でフィリピンを奪還できた」などと現実を無視した批判を行うなど評価が辛辣で、うまくやっていけるかは疑問符がついていた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=84}}。
その後に、オリンピック作戦の準備が進んでいくと、九州に配置されている日本軍の兵力が、アメリカ軍の当初の分析よりも強大であったことが判明し、損害推定の基となった情報の倍近くの50万名の兵力は配置され、さらに増強も進んでおり、11月までには連合軍に匹敵する68万名に達するものと分析された{{sfn|ウォーナー|1982b|p=235}}。太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率は、ヨーロッパ戦域を大きく上回っていたこともあって<ref group="注釈">1日の兵員1,000名に対する平均死傷者数 ○太平洋戦域 戦死、行方不明1.95名 戦傷 5.50名 総死傷7.45名 ○ヨーロッパ戦域 戦死、行方不明0.42名 戦傷1.74名 総死傷2.16名</ref><ref>[http://coachfleenor.weebly.com/uploads/6/6/7/3/6673552/no_bomb_no_end.pdf Frank, No Bomb: No End P.374-375] 2016年1月10日閲覧</ref>、オリンピック作戦での上陸戦闘を担う予定であった第6軍は、九州の攻略だけで394,859名の戦死者もしくは復帰不可能な重篤な戦傷者が発生するものと推定し、参謀総長のマーシャルはこの推定を危惧してマッカーサーに上陸地点の再検討を求めたほどであった<ref>{{Cite web |url=https://www.americanheritage.com/biggest-decision-why-we-had-drop-atomic-bomb#4 |title =The Biggest Decision: Why We Had To Drop The Atomic Bomb|date= 1995-06-01 |publisher= American Heritage |accessdate=2021-04-22}}</ref>。
トルーマンが[[ポツダム会談]]に向かう前に、[[アメリカ統合参謀本部]]によって、ダウンフォール作戦全体の現実的な損害の再見積が行われたが{{sfn|ウォーナー|1982b|p=237}}、そのなかで、戦争協力を行っていた物理学者[[ウィリアム・ショックレー]](のちに[[ノーベル物理学賞]]受賞)にも意見を求めたところ、「我々に170万人から400万人の死傷者が出る可能性があり、そのうち40万人から80万人が死亡するでしょう」と回答があっている{{sfn|Giangreco|1995|pp=581}}。マッカーサーもトルーマンへ損害の過小推計を報告した時とは違って、ダウンフォール作戦の成り行きに関しては全く幻想を抱かないようになっており、[[ヘンリー・スティムソン]][[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]に対し「アメリカ軍だけでも100万人の死傷者は覚悟しなければいけない」と述べている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=84}}。
しかし、[[広島市への原子爆弾投下]]直前までマッカーサーやニミッツら現場責任者にも詳細を知らされていなかった[[マンハッタン計画]]による[[日本への原子爆弾投下]]と[[ソ連対日参戦]]で日本は[[ポツダム宣言]]を受諾し、「オリンピック作戦」が開始されることはなかった。戦後、マッカーサーは原爆の投下は必要なかったと公言しており、1947年に広島で開催された慰霊祭では「ついには人類を絶滅し、現代社会の物質的構造物を破壊するような手段が手近に与えられるまで発達するだろうという警告である」と原爆に批判的な談話を述べていた。しかし、1950年10月にアメリカで出版された『マッカーサー=行動の人』という書籍の取材に対して、マッカーサーは「自分は統合参謀本部に対し、広島と長崎はどちらもキリスト教活動の中心だから投下に反対だと言い、代わりに瀬戸内海に落として津波による被害を与えるか、京都に落とすべきと提案した」と話したと記述されている。後日、マッカーサーはGHQのスポークスマンを通じ、そのような発言はしていないと否定しているが、のちの[[朝鮮戦争]]では原爆の積極的な使用を主張している<ref name="P164"/>。マッカーサーが日本への原爆投下に当時実際に反対したという実質的な証拠は何ら存在しないとされる<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/Trumans-decision-to-use-the-bomb-712569 |title=The decision to use the atomic bomb {{!}} WWII, Hiroshima & Nagasaki {{!}} Britannica |access-date=2023-12-24 |publisher=Encyclopædia Britannica, Inc.}}</ref>。
== 経歴(連合国軍最高司令官) ==
=== 厚木飛行場に進駐 ===
[[ファイル:MacArthur and Sutherland.jpg|thumb|280px|[[バターン号]]で[[厚木海軍飛行場]]に到着したマッカーサー]]{{After float}}
[[1945年]]8月14日に日本は連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を通告した。急逝したルーズベルトの後を継いだ[[ハリー・S・トルーマン]]大統領は、一度も会ったことがないにもかかわらずマッカーサーのことを毛嫌いしており、日本の降伏に立ち会わせたのちに本国に召還して、名誉ある退役をしてもらい、別の誰かに日本占領を任せようとも考えたが、アメリカ国民からの圧倒的人気や、連邦議会にも多くのマッカーサー崇拝者がいたこともあり、全く気が進まなかったが以下の命令を行った{{sfn|ペレット|2014|p=918}}。
*貴官をこれより連合国軍最高司令官<ref group="注釈">
Commander for the Allied Powers(略称 SCAP)</ref> に任命する。貴官は日本の天皇、政府、帝国軍総司令部の、正当に承認された代表者たちに降伏署名文書を要求し、受理するために必要な手続きを踏まれたい。
マッカーサーは、海軍のニミッツがその任に就くと半分諦めていたので、太平洋戦争中にずっと東京への先陣争いをしてきたニミッツに最後に勝利したと、この任命を大いに喜んだ{{sfn|ペレット|2014|p=918}}。
マッカーサーの日本への[[進駐]]に対しては、8月19日に[[河辺虎四郎]][[参謀次長]]を[[全権委員|全権]]とする使節団が、マッカーサーの命令でマニラまで[[緑十字飛行]]し入念な打ち合わせが行われた。日本側は10日もらわないと連合軍の進駐を受け入れる準備は整わないと訴えたが、応対したマッカーサーの副官サザーランドからは、5日の猶予しか認められず、8月26日先遣隊進駐、8月28日にマッカーサーが[[神奈川県]]の[[厚木海軍飛行場]]に進駐すると告げられた{{sfn|新人物往来社|1995|p=84}}。マッカーサー本人は最後まで使節団と会うことはなかったが、これは自分が天皇の権威を引き継ぐ人間になると考えており、自らそのようにふるまえば、日本人がマッカーサーに対して天皇に接するような態度をとるだろうと考えていたからであった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=88}}。進駐受入委員会の代表者は[[有末精三]]中将に決定したが、肝心の厚木には海軍航空隊[[第三〇二海軍航空隊]]司令の[[小園安名]]大佐が徹底抗戦を宣言して陣取っており、マッカーサーの搭乗機に体当たりをすると広言していた([[厚木航空隊事件]])。8月19日に小園がマラリアで高熱が出て病床に伏したのを見計らって<ref>{{Harvnb|豊田穣|1979|loc=電子版, 位置No.4062}}</ref>{{full|date=2022年1月}}<!--[[Special:Diff/70772358/70862975]]で追加されたときから参照先なし-->、8月22日に[[高松宮宣仁親王]]が厚木まで出向いて、残る航空隊の士官、将兵らを説得してようやく厚木飛行場は解放された。しかし、解放された厚木飛行場に有末ら受入委員会が乗り込むと、施設は破壊され、滑走路上には燃え残っている航空機が散乱しているという惨状であった。すでに軍の組織は崩壊しており、厚木飛行場の将兵や近隣住民の中でも降伏に不満を抱いている者も多く、有末の命令をまともに聞く者はいなかったので、仕方なく、海軍の工廠員を食事提供の条件で滑走路整備に当たらせたが、作業は遅々として進まず、最後は1,000万円もの大金で業者に外注せざるを得なくなった{{sfn|新人物往来社|1995|p=115}}。
その後、マッカーサー司令部より、先遣隊が28日、マッカーサー本隊が30日に進駐を延期するという知らせが届いたため、日本側はどうにか厚木飛行場の整備を間に合わせることができた。28日には予定どおりにマッカーサーの信頼厚いチァーレス・テンチ大佐を指揮官とする先遣隊が輸送機で厚木飛行場に着地し、有末ら日本側とマッカーサー受け入れの準備を行った。特に問題となったのは、厚木に到着したマッカーサーらが当面の宿舎となる[[横浜市|横浜]]の「[[ホテルニューグランド]]」まで移動する輸送手段であった。日本側に準備が命じられたが、空襲での破壊により、まともに使い物になる乗用車があまり残っておらず、日本側はどうにか50台をかき集めたが、中には[[木炭車]]やら旧式のトラックが含まれており、先導車は消防車であった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=93}}。それでも、マッカーサーら司令部幕僚には自決した[[阿南惟幾]]陸軍大臣の公用車であった[[リンカーン・コンチネンタル]]を含む、閣僚らの高級公用車が準備されたが、8月29日までにそれら高級車は全て先遣隊のアメリカ軍将兵に盗難されてしまった。困惑した有末がテンチにうったえたところ、テンチは即対応して8月30日の午前4時までにすべての公用車を取り戻した{{sfn|新人物往来社|1995|p=120}}。
8月29日に沖縄に到着したマッカーサーは、8月30日の朝に専用機「[[バターン号]]」で厚木に向けて5時間の飛行を開始した。マッカーサーに先立ちアメリカ軍第11空挺師団の4,000人の兵士が厚木に乗り込み護衛しているとは言え、つい先日まで徹底抗戦をとなえていた多数の敵兵が待ち受ける敵本土に、わずかな軍勢で乗り込むのは危険だという幕僚の主張もあったが、マッカーサーは日露戦争後に父親アーサーの副官として来日したときの経験により<ref group="注釈">マッカーサーが日本陸軍の兵営を訪れたとき、日本陸軍はコレラの流行に悩まされていた。軍医が処方する薬を兵士が服用せず、困った軍医が薬箱に「薬を服用するのは天皇陛下の御命令である」と書いたところ、全兵士が薬を服用した様子を見たマッカーサーは天皇命令の絶対性を思い知らされている。</ref>{{sfn|ペレット|2014|p=920}}、天皇の命で降伏した日本軍兵士が反乱を起こすわけがないと確信していた{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=59}}。マッカーサーが少数の軍勢により、空路で厚木に乗り込むことを望んだのは、海兵隊の大部隊を率いて日本本土上陸を目指して急行している、ハルゼーら海軍との先陣争いに勝つためと、この戦争でマッカーサーの勇気を示す最後の機会になると考えたからであった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=90}}。それでも、飛行中は落ち着きなく、バターン号の機内通路を行ったり来たりしながら、思いつくことを副官の[[コートニー・ホイットニー]]少将に書き取らせて、強調したい箇所では[[コーンパイプ]]を振り回した。それでもしばらくすると座席に座ってうたた寝したが、バターン号が[[富士山]]上空に到達すると、ホイットニーがマッカーサーを起こした。マッカーサーは富士山を見下ろすと感嘆して「ああ、なつかしい富士山だ、きれいだなコートニー」とホイットニーに語り掛けたが、その後再び睡眠に入った{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=91}}。
14時05分に予定よりも1時間早くバターン号は厚木に到着した。事前に日本側は政府要人による出迎えを打診したが、マッカーサーはそれを断って、日本側は新聞記者10名だけの出迎え列席が認められており、マッカーサーの動作は常に記者を意識したものとなった{{sfn|袖井|2004|p=90}}。マッカーサーは[[タラップ]]に踏み出すとすぐには下りず、180度周囲をゆっくりと見回したあとで、その後にタラップを下って厚木の地に降り立った。これは新聞記者の撮影を意識したものと思われ、後に、マッカーサーはこの時に撮影された写真を、出版した自伝に見開き2ページを使って掲載している。日本の新聞記者にも強い印象を与えて、[[同盟通信社]]の明峰嘉夫記者は「歌舞伎役者の[[尾上菊五郎|菊五郎]]が大見得を切ったよう」と感じたという{{sfn|袖井|2004|p=89}}。マッカーサーは記者団に対して、バターン機内で考えていた以下の第一声を発した。
{{quotation|メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する|朝日新聞(1945年8月31日)}}
しかし、派手なことが好きなマッカーサーにしては珍しいことに、進駐初日の公式な動きはこの短い声明のみであり、日本のマスコミの扱いも意外に小さく、朝日新聞はマッカーサー来日の記事は一面ですらなく、紙面の中央ぐらいで、マッカーサーが大見得を切りながらタラップを降りた写真も掲載されなかった{{sfn|袖井|2004|p=90}}。
=== 横浜に移動 ===
その後マッカーサー一行は日本側が準備した車両で[[ホテルニューグランド]]に向かった。ニューグランドは1937年にマッカーサーがジーンとニューヨークで結婚式を挙げたのち、任地のフィリピンに帰る途中に宿泊した思い出のホテルであった{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=60}}。
厚木から横浜までの道路の両側には30,000名を超す日本軍の兵士が銃剣をつけた小銃を構えて警護にあたっていたが、兵士はマッカーサーらの車列に背を向けて立っていた。これまでは、兵士が行列に顔を向けないのは天皇の[[行幸]]のときに限られており、明確にアメリカに恭順の意を示している証拠であったが、幕僚らは不測の事態が起こらないか神経を尖らせているなかで、マッカーサーだけがこの光景を楽しんでいた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=91}}。
===戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式===
[[ファイル:Japanese-surrender-mac-arthur-color-ac04627.jpg|thumb|280px|戦艦ミズーリ艦上で[[日本の降伏文書|降伏文書]]に署名するマッカーサー、後ろに立っているのは手前がアメリカ軍ウエインライト中将、奥がイギリス軍パーシバル中将]]{{After float}}
日本の降伏の受け入れ方として、連合軍内でも様々な意見がありイギリス軍総司令の[[ルイス・マウントバッテン]]伯爵(のち[[インドの総督|インド総督]]、[[海軍元帥 (イギリス)|海軍元帥]])は、昭和天皇がマニラまで来てマッカーサーに降伏すべきと考えていたが、マッカーサーはそのような相手に屈辱を与えるやり方はもはや時代遅れであり、日本人を敗戦に向き合わせるために、威厳に溢れた戦争終結の儀式が必要と考えた。かつて、元部下のアイゼンハワーがドイツの降伏を受け入れるとき、ドイツではなくフランスの地で、報道関係者が誰もいない早朝に、ドイツの将軍らに降伏文書に調印させたが、マッカーサーはそれも全くの間違いと捉え、東京で全世界のメディアが注目し、後世に残す形で降伏調印式をおこなうこととした{{sfn|ペレット|2014|p=919}}。
[[日本の降伏文書|降伏調印式]]は、9月2日に[[東京湾]]上の[[ミズーリ (戦艦)|戦艦ミズーリ]]艦上で行われることとなった。ミズーリ艦には、[[マシュー・ペリー]]提督が日本に開国を要求するため日本に来航した際に、ペリーが座乗した旗艦である外輪式フリゲート艦[[サスケハナ (蒸気フリゲート)|サスケハナ]]に掲げられていた星条旗と{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=63}}、2つの5つ星の将旗が掲げられていた。通常軍艦には再先任の提督の将旗の1流しか掲げられなかったが、今日はマッカーサーやその幕僚たちの機嫌を損ねないように前例を破ってマッカーサーの将旗も掲げたものであった。まずマッカーサーと幕僚らは、駆逐艦{{仮リンク|ブキャナン (DD-484)|label=ブキャナン|en|USS Buchanan (DD-484)}}でミズーリに乗り付けた。ミズーリではニミッツとハルゼーに出迎えられて、ハルゼーの居室に案内された。そこで3人はしばし歓談したが、ハルゼーに対しては「ブル」とあだ名で呼びかけるほど打ち解けていたが、ニミッツとはこれまでの激しい主導権争いもあって、よそよそしい雰囲気であった。豪胆なマッカーサーであったが、この日は流石に緊張したのか、歓談の途中でトイレに姿を消すとしばらくその中に籠っていた。周囲が心配していると、トイレの中からマッカーサーが嘔吐している音が聞こえたので、海軍の士官が「軍医を呼んできましょうか」とたずねたところ、マッカーサーは「すぐによくなる」と答えて断った<ref>{{Harvnb|トール|2022a|loc=電子版, 位置No.552}}</ref>。
日本側代表団は首席全権・[[重光葵]]、[[大本営]]を代表し[[梅津美治郎]]ら全11名で、ミズーリに駆逐艦{{仮リンク|ランズダウン|en|USS Lansdowne (DD-486)}}で乗り換え艦上に立った。ミズーリにはイギリス、カナダ、オランダ、[[中華民国]]、[[オーストラリア]]など全9か国の連合国代表の他に、太平洋戦争初期に日本軍の捕虜となって終戦後に解放された、マッカーサーの元部下のウェインライト中将とイギリス軍の[[アーサー・パーシバル]]中将も列席した。アメリカ海軍の司令官たちも列席したが、ニミッツは最後まで特攻機を警戒しており、特攻機が突入してもアメリカ軍司令官全員が死傷することを避けるため、[[レイモンド・スプルーアンス]]提督と、[[マーク・ミッチャー]]中将は離れた場所に列席させた<ref>{{Harvnb|トール|2022a|loc=電子版, 位置No.562}}</ref>。ミズーリ艦上には世界中のマスコミが集まり、絶好の撮影位置を奪い合っていたが、[[ソビエト連邦]]のマスコミは代表の[[クズマ・デレビヤンコ]]の真後ろに立とうとした。その位置は立ち入り禁止であり、強く指示されても「モスクワから特別に指示されている」と言ってきかなかったので、ミズーリの艦長は屈強な2人の海兵隊員を呼び寄せてソ連側の記者を所定の位置まで引きずっていかせた。緊張する場面で発生したささやかな見世物に、マッカーサーや世界の代表者は面白がって見ていたが、当のデレビヤンコも加わり「すばらしい、すばらしい」と叫びながら嬉しそうに笑っていた<ref>{{Harvnb|トール|2022a|loc=電子版, 位置No.554}}</ref>。
午前9時にミズーリの砲術長が「総員、気をつけ」と叫ぶと、マッカーサーは甲板上に足を踏み出し、ニミッツとハルゼーが後につづいた。マッカーサーはそのままマイクの放列の前に進み出ると、少し間を措いて、ゆっくりとした大声で演説を開始した<ref>{{Harvnb|トール|2022a|loc=電子版, 位置No.561}}</ref>。厚木に到着した日は短かめの声明を記者団に述べただけのマッカーサーであったが、この日の演説は長いものとなった{{sfn|袖井|2004|p=94}}。
{{quotation|われら主要参戦国の代表はここに集まり、平和恢復の尊厳なる条約を結ばんとしている。相異なる理論とイデオロギーを主題とする戦争は世界の戦場において解決され、もはや論争の対象とならなくなった。また地球上の大多数の国民を代表して集まったわれらは、もはや不信と悪意と憎悪の精神に懐いて会合しているわけではない。否、ここに正式にとりあげんとする諸事業に全人民残らず動員して、われらが果さんとしている神聖な目的にかなうところのいっそう高い威厳のために起ち上がらしめることは、勝者敗者双方に課せられた責務である。人間の尊厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、自由と寛容と正義のために生まれ出でんことは予の希望するところであり、また全人類の願いである。
英文;
We are gathered here, representatives of the major warring powers, to conclude a solemn agreement whereby peace may be restored.
The issues involving divergent ideals and ideologies have been determined on the battlefields of the world, and hence are not for our discussion or debate.
Nor is it for us here to meet, representing as we do a majority of the peoples of the earth, in a spirit of distrust, malice, or hatred.
But rather it is for us, both victors and vanquished, to rise to that higher dignity which alone befits the sacred purposes we are about to serve, committing all of our peoples unreservedly to faithful compliance with the undertakings they are here formally to assume.
It is my earnest hope, and indeed the hope of all mankind, that from this solemn occasion a better world shall emerge out of the blood and carnage of the past -- a world founded upon faith and understanding, a world dedicated to the dignity of man and the fulfillment of his most cherished wish for freedom, tolerance, and justice.}}
演説が終わったあと、9時8分にマッカーサーが降伏文書に署名、マッカーサーはこの署名のために5本の万年筆を準備しており、それを全部使って自分の名前をサインした。それらは、ウエインライト、パーシバル、ウェストポイント陸軍士官学校、アナポリス海軍兵学校にそれぞれ贈られる予定となっていたが{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=101}}、残る1本の[[パーカー (筆記具ブランド)|パーカー]]のデュオフォールド「ビッグレッド」は妻ジーンへの贈り物であった{{sfn|Jim Mamoulides|2017|p=48}}。その後に日本全権重光が署名しようとしたが、[[テロ]]により片足を失っていた重光がもたついたため、見かねたマッカーサーがサザーランドに命じて署名箇所を示させた。その後に梅津、他国の代表が署名を行い、全員が署名し終わったときにマッカーサーは「いまや世界に平和が回復し、神がつねにそれを守ってくださるよう祈ろう。式は終了した。」と宣言した。宣言と同時に1,000機を超す飛行機の轟音が空に鳴り響き、歴史的式典の幕を閉じた{{sfn|メイヤー|1971|p=215}}。
皇居では昭和天皇が首を長くして降伏調印の報告を待っていたが、重光は参内すると、同行した外務省職員[[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]]の作成した報告書を朗読し「仮にわれわれが勝利者であったとしたら、これほどの寛大さで敗者を包容することができただろうか」という報告書の問いに対して昭和天皇は嘆息してうなずくだけであった。加瀬はこのときの昭和天皇の思いを「マッカーサー元帥の高潔なステーツマンシップ、深い人間愛、そして遠大な視野を讃えた加瀬の報告書に昭和天皇は同意した」とマッカーサー司令部に報告している{{sfn|袖井|2004|p=98}}。
=== 日本占領方針 ===
[[ファイル:GHQ building circa 1950.JPG|thumb|280px|連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(1950年頃撮影)]]{{After float}}
マッカーサーには大統領[[ハリー・S・トルーマン]]から、日本においてはほぼ全権に近い権限が与えられていた。連合国最高司令官政治顧問団特別補佐役としてマッカーサーを補佐していた[[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]]は「物凄い権力だった。アメリカ史上、一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られた例はなかった」と評した{{sfn|西|2005|loc=電子版, 位置No.903|p=}}。9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。
これに対して[[重光葵]]外相は、マッカーサーに「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった([[連合国軍占領下の日本]]も参照)<ref name=nagaikazu>[http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/Missouri/sugita2.html 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印] 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- [[永井和]](近代日本史学者)</ref><ref group="注釈">永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、[[無条件降伏]]があくまで[[日本軍]]に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。</ref>。
降伏調印式から6日経過した9月8日に、マッカーサーは幕僚を連れてホテルニューグランドを出発して東京に進駐した。東京への進駐式典は開戦以来4年近く閉鎖されていた[[駐日アメリカ合衆国大使館]]で開催された。軍楽隊が[[星条旗 (国歌)|国歌]]を奏でるなか、[[真珠湾攻撃]]時にワシントンの[[アメリカ合衆国議会議事堂]]に掲げられていた[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]をわざわざアメリカ本国から持ち込み、大使館のポールに掲げるという儀式が執り行われた{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=63}}。
その後、マッカーサーと幕僚は[[帝国ホテル]]で昼食会に出席したが、マッカーサーは昼食会の前に、帝国ホテルの[[犬丸徹三]]社長が運転する車で都内を案内させている。車が[[皇居]]前の[[第一生命館]]の前に差し掛かると、マッカーサーは犬丸に「あれはなんだ?」と聞いた。犬丸が「第一生命館です」と答えると、マッカーサーは「そうか」とだけ答えた{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=69}}。昼食会が終わった13時にマッカーサーは幕僚を連れて第一生命館を再度訪れ、入り口から一歩建物内に踏み入れると「これはいい」と言って、第一生命館を自分の司令部とすることに決めている{{sfn|袖井|2004|p=101}}。犬丸は自分とマッカーサーのやり取りが、第一生命館が[[連合国軍最高司令官総司令部]]となるきっかけになったと思い込んでいたが<ref>[[テレビ東京|東京12チャンネル]]『私の昭和史』1969年9月2日放送</ref>、マッカーサーは進駐直後から、連合国軍最高司令官総司令部とする建物を探しており、戦災による破壊を逃れた第一生命館と明治生命館がその候補として選ばれ、9月5日から前日まで、両館にはマッカーサーの幕僚らが何度も訪れて、資料を受け取ったり、[[第一生命保険]][[矢野一郎]]常務ら社員から説明を受けるなどの準備をしていた。副官のサザーランドが実見し最終決定する予定であったが、犬丸に案内されて興味を持ったマッカーサーが自ら足を運び、矢野の案内で内部も確認して即決したのであった<ref name="ReferenceA">第一生命保険株式会社のHP マッカーサー記念室『マッカーサー記念室の歴史』より</ref>。もう一つの候補となった明治生命館へは「もういい」といって見に行くこともしなかったが、結果として[[明治生命館]]も接収され、[[太平洋空軍 (アメリカ空軍)|アメリカ極東空軍]]司令部として使用された{{sfn|袖井|2004|p=101}}。
第一生命館は1938年に竣工した皇居に面する地上8階建てのビルで、天皇の上に君臨して日本を支配するマッカーサー総司令官の地位をよく現わしていた{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=69}}。しかし、マッカーサー自身が執務室として選んだ部屋はさほど広くもなく、位置的に皇居を眺めることもできず、階下は食堂であり騒がしい音が響いていた。マッカーサーの幕僚らの方が広くて眺めもいい快適な部屋を使用していたが、マッカーサーがわざわざ部下より質素な執務室としようと考えたのは、強大な権力を有しているが、それを脱ぎ捨てれば飾り気のない武骨な軍人であるということを示そうという意図があったためである{{sfn|ペレット|2014|p=931}}。しかし、実際にはマッカーサーの幕僚らにより第一生命には「一番よい部屋を」という要望がなされ、マッカーサーの執務室として準備されたのは第一生命の社長室(当時の社長は[[石坂泰三]])で、壁はすべてアメリカ産の[[クルミ]]材、床は[[ナラ]]・[[カシ]]・[[サクラ|桜]]・[[コクタン]]などの[[寄木細工]]でできた[[テューダー朝]]風の非常に凝った造りとなっており、第一生命館最高の部屋であった<ref name="ReferenceA"/>。
占領行政について既存の体制の維持となると避けて通れないのが、[[天皇制]]の存置([[象徴天皇制]]への移行)と[[昭和天皇の戦争責任論|昭和天皇の戦争責任問題]]であるが、早くも終戦1年6か月前の1944年2月18日の国務省の外交文書『天皇制』で「天皇制に対する最終決定には連合国の意見の一致が必要である」としながらも「日本世論は圧倒的に天皇制廃止に反対である……強権をもって天皇制を廃止し天皇を退位させても、占領政策への効果は疑わしい」と天皇制維持の方向での意見を出している。また1945年に入ると、日本の占領政策を協議する国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)において「占領目的に役立つ限り天皇を利用するのが好ましい」「天皇が退位しても明らかな証拠が出ない限りは戦犯裁判にかけるべきではない」という基本認識の元で協議が重ねられ<ref>『占領戦後史』 P.61-.67</ref>、戦争の完全終結と平穏な日本統治のためには、[[昭和天皇]]自身の威信と天皇に対する国民の親愛の情が不可欠との知日派の国務長官代理[[ジョセフ・グルー]]らの進言もあり、当面は天皇制は維持して昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった{{sfn|増田|2009|p=328}}。これはマッカーサーも同意見であったが、ほかの連合国や対日強硬派やアメリカの多くの国民が天皇の戦争責任追及を求めていたため、連合国全体の方針として決定するまでには紆余曲折があった<ref group="注釈">1945年にアメリカで行われた世論調査では、天皇が有罪であるという意見が合計70%、うち死刑まで求めていたのが33%、それを受けて9月10日に[[アメリカ上院]]で「天皇を戦犯裁判にかけることをアメリカの方針とする」という決議がなされている。</ref>。9月12日には記者会見で「日本は四等国に転落した。二度と強国に復帰することはないだろう」と発言した。
[[細谷雄一]](国際政治学者、[[慶應義塾大学]]教授)は、全権を持ったマッカーサーとその側近らにより、日本人に「対米従属」という認識を植え付けられたのではないか、と指摘している<ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2018/08300600/?all=1 日本で「無制限の権力」を振るったマッカーサーの演出力] 新潮社公式サイト</ref>。
=== 戦争犯罪の追及 ===
[[ファイル:Homma-98-2456.jpg|thumb|刑務所に収監されている本間雅晴]]{{After float}}
まずマッカーサーが着手したのは日本軍の武装解除であったが、軍事力のほとんどが壊滅していた[[ドイツ国防軍]]と異なり、日本軍は内外に154個師団700万名の兵力が残存していた。難航が予想されたが、陸海軍省などの既存組織を利用することにより平穏無事に武装解除は進み、わずか2か月で内地の257万名の武装解除と復員が完了した。
次に優先されたのは戦争犯罪人の逮捕で、終戦前から[[対敵諜報部隊|アメリカ陸軍防諜部隊]](略称CIC)がリストを作成、さらに国務省の要求する人物も加え、9月11日には第一次[[A級戦犯]]38名の逮捕に踏み切った。しかし[[東條英機]]が自殺未遂、[[小泉親彦]]と[[橋田邦彦]]2名が自殺した。最終的に逮捕したA級戦犯は126名となったが、戦犯逮捕を指揮したCIC部長ソープは、[[法の不遡及|遡及法]]でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサーに「戦犯を[[亡命]]させてはどうか?」と提案したことがあったが、マッカーサーは「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという{{sfn|増田|2009|p=332}}。
A級戦犯に同情的だったマッカーサーも、フィリピン戦に関する戦争犯罪訴追にはフィリピン国民に「戦争犯罪人は必ず罰する」と約束しただけに熱心であった。マッカーサー軍をルソン山中に終戦まで足止めし「軍事史上最大の引き伸ばし作戦」を指揮した山下奉文大将と、太平洋戦争序盤にマッカーサーに屈辱を与えた[[本間雅晴]]中将の2人の将軍については、戦争終結前から訴追のための準備を行っていた{{sfn|袖井|2004|p=144}}。
山下は1945年9月3日にフィリピンの[[バギオ]]にて降伏調印式が終わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。山下は「一度山を下りたら、敵は二度と釈放はすまい」と覚悟はしていたが、逮捕の罪状である[[マニラ大虐殺]]などの日本軍の残虐行為については把握していなかった。しかしマッカーサーが命じ、西太平洋合衆国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将が開廷したマニラ軍事法廷は、それまでに判例もなかった、部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑判決を下した。死刑判決を下した5人の軍事法廷の裁判官は、マッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業軍人であり、典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判)であった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=139}}。参謀長の[[武藤章]]中将が、独房とは言え犯罪者のように軍司令官の山下を扱うことに激高して「一国の軍司令官を監獄に入れるとは何事だ」と激しく抗議したが受け入れられることはなかった<ref name="昭和史の天皇13 1971 65"/>。
また、マニラについてはその犠牲者の多くが、日本軍の残虐行為ではなくアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘もあり、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もある{{sfn|大岡昇平③|1972|p=309}}。山下は拘束されたときから既に自分の運命を達観しており、独房のなかで[[扇子]]に[[墨絵]]を書いたり、サインを求めてくる多くのアメリカ軍将兵や士官の求めに応じて[[紙幣]]にサインしたりして過ごしていたが、開戦の日にあわせるかのように、1945年12月8日
にマニラの軍事法廷で死刑判決を受けた<ref>{{Harvnb|昭和史の天皇13|1971|p=392}}</ref>。マッカーサーは山下の[[絞首刑]]に際して、より屈辱を味わわせるように「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し{{sfn|津島 訳|1964|p=442}}、山下は[[囚人服]]のまま[[マンゴー]]の木の傍の死刑台で絞首刑を執行された。
本間についても同様で、本人が十分に把握していなかった、いわゆる[[バターン死の行進]]の責任者とされた。マッカーサーが死の行進の責任者を罰することを「聖なる義務」と意気込んでいたことと、マッカーサーを唯一破った軍人であり、なによりその首を欲していたため、マッカーサーにとっては一石二鳥の裁判となった{{sfn|袖井|2004|p=170}}。本間の妻・富士子は、本間の弁護士の1人フランク・コーダ大尉の要請により、本間の人間性の証言のため法廷に立つこととなった。軍事法廷が開廷されているマニラへ出発前に、[[朝日新聞]]の取材に対し富士子は「私は決して主人の命乞いに行くという気持ちは毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、飾り気のない真実の本間を私の力で全世界の人に多く知って頂きたいのです」と答えていたが<ref>『朝日新聞』1946年1月12日朝刊2面</ref>、結局は山下裁判と同様にカンガルー法廷により、判決は死刑であった。判決後富士子は、弁護士の一人[[ジョージ・A・ファーネス|ファーネス]]大尉と連れだってマッカーサーに会った。マッカーサーの回想では、富士子は本間の命乞いに来たということにされているが{{sfn|津島 訳|2014|p=444}}、富士子によると「夫は敵将の前で妻が命乞いをするような事を最も嫌うので命乞いなんかしていない。後世のために裁判記録のコピーがほしいと申し出たが、マッカーサーからは女のくせに口を出すなみたいな事を言われ拒否された」とのことであった<ref name="Fujiko"/>。
しかし、富士子の記憶による両者の会話のなかで、「本間は非常に立派な軍人でございます。もし殺されますとこれは世界の損失だと思うのです」や「(マッカーサー)閣下に彼の裁判記録をもう一度全部読んでいただけないでしょうか?」という富士子の申し出を、マッカーサーが本間の命乞いと感じ、また富士子が「死刑の判決は全てここに確認を求めて回ってくるそうでございますが、閣下も大変でございますのね」と皮肉を込めて話したことに対し、マッカーサーが「私の仕事に口を入れないように」と言い放ったのを富士子が傲慢と感じて「女のくせに口を出すな」と言われたと捉えた可能性も指摘されている{{sfn|スウィンソン|1969|p=273}}。本間の死刑判決は山下の絞首刑に対して、軍人としての名誉に配慮した銃殺刑となり、軍服の着用も許された{{sfn|ペレット|2014|p=983}}。
かつての“好敵手”に死刑にされた本間であったが、1946年4月3日の死刑執行直前には、牢獄内に通訳や[[教戒師]]や警備兵を招き入れて、「僕はバターン半島事件で殺される。私が知りたいことは広島や長崎の数万もの無辜の市民の死はいったい誰の責任なのかということだ。それはマッカーサーなのかトルーマンなのか」と完ぺきな英語で話すと、尻込みする一同に最後に支給された[[ビール]]と[[サンドウィッチ]]をすすめて「私の新しい門出を祝ってください」と言って乾杯した。その後トイレに行き「ああ、米国の配給はみんな外に出してきた」と最後の言葉を言い残したのち銃殺刑に処された{{sfn|スウィンソン|1969|p=274}}。
死刑執行後に富士子は「裁判は正に復讐的なものでした。名目は捕虜虐殺というものでしたが、マッカーサー元帥の輝かしい戦績に負け戦というたった一つの汚点を付けた本間に対する復讐裁判だったのです」と感想を述べている<ref name="Fujiko">「悲劇の将軍・本間雅晴と共に」</ref>
後にこの裁判は、アメリカ国内でも異論が出され「法と憲法の伝統に照らして、裁判と言えるものではない」「法的手続きをとったリンチ」などとも言われた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=142}}。1949年に山下の弁護人の内の1人であったA・フランク・リール大尉が山下裁判の真実をアメリカ国民に問うために『山下裁判』という本を出版した。日本でも翻訳出版の動きがあったがGHQが許可せず、日本で出版されたのはGHQの占領が終わった1952年であった{{sfn|袖井|2004|p=153}}。
=== 昭和天皇との初会談 ===
GHQは、支配者マッカーサーを全日本国民に知らしめるため、劇的な出来事が必要と考え、[[昭和天皇]]の会談を望んでいた。昭和天皇もマッカーサーとの会談を望んでおり、どちらが主導権をとったかは不明であるが<ref group="注釈">[[児島襄]]の『東京裁判』によれば[[民間情報教育局]]局長[[ケネス・リード・ダイク|カーミット・R・ダイク]]准将がマッカーサーの意思を汲んで日本側にはたらきかけたという証言がある。</ref>、天皇よりアメリカ側に会見を申し出た。マッカーサー個人は「天皇を会談に呼び付ければ日本国民感情を踏みにじることになる……私は待とう、そのうち天皇の方から会いに来るだろう」と考えていたということで{{sfn|津島 訳|2014|p=424}}、マッカーサーの要望どおり昭和天皇側より会見の申し出があった時には、マッカーサーと幕僚たちは大いに喜び興奮した。昭和天皇からは目立つ第一生命館ではなく、駐日アメリカ大使公邸で会談したいとの申し出であった{{sfn|袖井|2004|p=106|loc= マッカーサーの副官フォービオン・バワーズ少佐回想}}。しかし日本側の記録によると、外務大臣に就任したばかりの[[吉田茂]]が、第一生命館でマッカーサーと面談した際に、マッカーサーが何か言いたそうに「モジモジ」していたので、意を汲んで昭和天皇の訪問を申し出、マッカーサー側から駐日アメリカ大使館を指示されたとのことで、日米で食い違っている<ref>{{Citation|和書||editor=[[江藤淳]]|title=占領史録(降伏文書調印経緯)|year=1981|volume=第1|publisher=講談社|page=290|isbn=4061275550}}</ref>。
1945年9月27日、大使館公邸に訪れた昭和天皇をマッカーサーは出迎えはしなかったが、天皇の退出時には、自ら玄関まで天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。会談の内容については日本とアメリカ両関係者より、内容の異なる様々な証言がなされており([[#昭和天皇との会談]]を参照)、詳細なやり取りは推測の域を出ないが、マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、その後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった{{sfn|増田|2009|p=334}}。
その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日、29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。歌人[[斎藤茂吉]]は、その日の日記に「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と書き込むほどであったが、多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見どおり、日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった{{sfn|袖井|2004|p=111}}。ちなみにその写真を撮影したのは、{{仮リンク|ジェターノ・フェーレイス|en|Gaetano_Faillace}}である<ref name="unix-sys-tuning">{{Cite book|和書
| author= ジェターノ・フェーレイス
|title= マッカーサーの見た焼跡
| year=1983
| date=1983-8-15
|page=136
|publisher=[[株式会社文藝春秋]]|isbn =4-16-338230-5 }}</ref>。
連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が[[横浜市|横浜]]の[[野外病院|野戦病院]](現横浜市立大鳥小学校)に入院している際にマッカーサーが見舞いに訪れ、後に東條は[[重光葵]]との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという<ref>『[[巣鴨日記]]』</ref>。
=== 報道管制 ===
{{Main|プレスコード}}
いわゆる『バターン死の行進』のアメリカ本国の報道管制を激しく非難したマッカーサーであったが{{sfn|津島 訳|2014|p=80}}、日本統治では徹底した報道管制を行っている。バギオで戦犯として山下が逮捕された直後、9月16日の日本の新聞各紙に一斉に「比島日本兵の暴状」という見出しで、フィリピンにおける日本兵の残虐行為に関する記事が掲載された。これはGHQの発表を掲載したもので、山下裁判を前にその意義を日本国民に知らしめ、裁判は正当であるとする周到な世論工作であった{{sfn|袖井|2004|pp=146-147}}。毎日新聞の[[森正蔵]](東京本社社会部長)によれば、これはマッカーサーの司令部から情報局を通じて必ず新聞紙に掲載するようにと命令され、記事にしない新聞は発行部数を抑制すると脅迫されていたという<ref>「[http://mainichi.jp/shimen/news/20151116ddm004040020000c.html 毎日新聞1945:相次ぐ暴露記事 GHQの戦略利用]」毎日新聞2015年11月16日</ref>。
実際に朝日新聞はこのGHQの指示について、「今日突如として米軍がこれを発表するに至った真意はどこにあるかということである。(連合軍兵士による)暴行事件の発生と、日本軍の非行の発表とは、何らかの関係があるのではないか」と占領開始以降に頻発していた連合軍兵士による犯罪と、フィリピンにおける日本軍の暴虐行為の報道指示との関連性を疑う論説を記事に入れたところ、マッカーサーは朝日新聞を1945年9月19日と20日の2日間の発行停止処分としている{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.2538}}。
その後、マッカーサーと昭和天皇の初面談の際に撮影された写真が掲載された新聞について、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の[[山崎巌]]が畏れ多いとして新聞の販売禁止処分をとったが、[[連合国軍最高司令官総司令部]]<ref group="注釈">{{lang-en-short|General Head Quarters of the Supreme Commander for the Allied Powers}}、略称 GHQ/SCAP</ref>(SCAPはマッカーサーの職名、最高司令官、つまり彼のこと) の反発を招くことになり、[[東久邇宮内閣]]の退陣の理由のひとつともなった。これをきっかけとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」([[SCAPIN]]-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、GHQが検閲を行うこととし、日本の報道を支配下に置いた。また、連合国と中立国の記者のために[[日本外国特派員協会]]の創設を指示した。
マッカーサーの日本のマスコミに対する方針を如実に表しているのは、[[同盟通信社]]が行った連合軍に批判的な報道に対し、1945年9月15日にアメリカ陸軍対敵諜報部の民間検閲主任ドナルド・フーバー大佐が、[[河相達夫]]情報局総裁、[[大橋八郎]][[日本放送協会]]会長、[[古野伊之助]][[同盟通信社]]社長を呼びつけて申し渡した通告であるが「元帥は報道の自由に強い関心を持ち、連合軍もそのために戦ってきた。しかし、お前たちは報道の自由を逸脱する行為を行っており、報道の自由に伴う責任を放棄している。従って元帥はより厳しい検閲を指令された。元帥は日本を対等とは見做していないし、日本はまだ文明国入りする資格はない、と考えておられる。この点をよく理解しておけ。新聞、ラジオに対し100%の検閲を実施する。嘘や誤解を招く報道、連合軍に対するいかなる批判も絶対許さない」と強い口調で申し渡している{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.2513}}。
=== 連合軍占領下の日本 ===
{{Main|連合国軍占領下の日本}}
マッカーサーの強力な指導力の下で、[[日本の戦後改革|五大改革]]などの日本の民主化が図られ、[[日本国憲法]]が公布された。
=== 大統領選 ===
連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は[[1948年アメリカ合衆国大統領選挙|1948年の大統領選挙]]への出馬を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないことから、占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んだ。そのため、[[1947年]]からマッカーサーはたびたび「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって日本への占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。
[[1948年]]3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明に最も過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞はマッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月の[[ウィスコンシン州]]の予備選挙でマッカーサーは[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補として登録された。
マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の[[右翼|右派]]を中心に<ref name="『ザ・フィフティーズ 第1部』">『ザ・フィフティーズ 第1部』</ref>、[[シカゴ・トリビューン]]社主の{{仮リンク|ロバート・R・マコーミック|en|Robert R. McCormick}}や、同じく新聞社主の[[ウィリアム・ランドルフ・ハースト]]がいた。『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙もマッカーサーが有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、27名の代議士のうちでマッカーサーに投票したのはわずか8名と惨敗、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。5月10日には陸軍参謀総長になっていたアイゼンハワーが来日したが、マッカーサーと面談した際に「いかなる軍人もアメリカの大統領になろうなどと野心を起こしてはならない」と釘を刺している。しかしマッカーサーは、そのアイゼンハワーのその忠告に警戒の色を浮かべ、受け入れることはなかった<ref>『マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東』 P.52</ref>。
6月の共和党大会では、マッカーサーを推すハーストが数百万枚のチラシを準備し、系列の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』の新聞配達員まで動員し選挙運動をおこない、マッカーサーの応援演説のために、日本軍の捕虜収容所から解放された後も体調不調に苦しむジョナサン・ウェインライトも呼ばれたが、第1回投票で1,094票のうち11票しか取れず、第2回で7票、第3回で0票という惨敗を喫し、結局第1回投票で434票を獲得した[[トーマス・E・デューイ]]が大統領候補に選出された{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=188}}。
日本では、マッカーサーへの批判記事は検閲されていたため、選挙戦の情勢を正確に伝えることができなかった。『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌は「マッカーサーを大統領にという声より、それを望まないと言う声の方が大きい」と既に最初のウィスコンシンの惨敗時に報道していたが、日本ではマッカーサーより有力候補者であった[[アーサー・ヴァンデンバーグ]]や[[ロバート・タフト]]の影は急激に薄くなっていった、などと事実と反する報道がなされていた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=186}}。その結果、多くの日本国民が共和党大会での惨敗に驚かされた。その光景を見た『ニューヨーク・タイムズ』は「日本人の驚きは多分、一段と大きかったことだろう。……日本の新聞は検閲によって、アメリカからくるマッカーサー元帥支持の記事以外は、その発表を禁じられていたからである。そのため、マッカーサー元帥にはほとんど反対がいないのだという印象が与えられた」と報じている<ref>『マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東』 P.106</ref>。
大統領選の結果、大統領に選ばれたのは現職のトルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味しており、日本の[[労働争議]]の弾圧などを推し進めることとなった。イギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。
== 経歴(朝鮮戦争) ==
=== 第二次世界大戦後の極東情勢 ===
[[ファイル:Syngman Rhee and Douglas MacArthur.jpg|thumb|240px|大韓民国の成立式典に列席したマッカーサーと李承晩[[大統領 (大韓民国)|大統領]]。]]{{After float}}
日本での権威を揺るぎないものとしたマッカーサーであったが、アメリカの対極東戦略については蚊帳の外であった。マッカーサーは[[蔣介石]]に多大な援助を与え、[[中国共産党]]との[[国共内戦]]に勝利させ、中国大陸に[[親米]]的な政権を確保するという構想を抱いていたが、蔣介石は[[日中戦争]]時から、アメリカから多大な援助(現在の金額で約2兆円)を受けていたにもかかわらず、日本軍との全面的な戦争を避け続けて、数千万ドルにも及ぶ援助金を横領したり、受領した武器を敵に流すなど腐敗しきっており、中国民衆の支持を失いつつあった。民衆の支持を受けた中国共産党がたちまち支配圏を拡大していくのを見て、1948年にはトルーマン政権は蔣介石を見限っており、[[中国国民党]]を救う努力を放棄しようとしていた{{sfn|メイヤー|1973|p=70}}。マッカーサーはこのトルーマン政権の対中政策に反対を唱えたが、アメリカの方針が変わることはなく、1949年に[[北京市|北京]]を失った国民党軍は、1949年年末までには台湾に撤退することとなり、中国本土は中国共産党の[[毛沢東]]が掌握することとなった{{sfn|メイヤー|1973|p=71}}。
[[共産主義]]陣営との対立は、日本から解放されたのちに38度線を境界線としてアメリカとソ連が統治していた[[朝鮮半島]]でも顕在化することとなり、1948年[[8月15日]]、アメリカの後ろ盾で[[李承晩]]が[[大韓民国]]の成立を宣言。それに対しソ連から多大な援助を受けていた[[金日成]]が[[9月9日]]に[[朝鮮民主主義人民共和国]]を成立させた。マッカーサーは日本統治期間中にほとんど東京を出ることがなかったにもかかわらず、大韓民国の成立式典にわざわざ列席し、李承晩との親密さをアピールしたが、トルーマン政権の対朝鮮政策は対国民党政策と同様に消極的なものであった{{sfn|メイヤー|1973|p=72}}。朝鮮半島はアメリカの防衛線を構成する一部分とは見なされておらず、アメリカ軍統合参謀本部は「朝鮮の占領軍と基地とを維持するうえで、戦略上の関心が少ない」と国務省に通告するほどであった{{sfn|メイヤー|1973|p=73}}。
成立式典に列席して韓国との関係をアピールしたマッカーサーであったが、朝鮮情勢についてはトルーマンと同様にあまり関心はなかった。在朝鮮アメリカ軍司令官[[ジョン・リード・ホッジ]]は度々マッカーサーに韓国に肩入れしてほしいと懇願していたが、マッカーサーの返事は「本職(マッカーサー)は貴職(ホッジ)に聡明な助言をおこなえるほどには現地の情勢に通じていない」という素っ気ないものであった。業を煮やしたホッジが東京にマッカーサーに面会しに来たことがあったが、マッカーサーはホッジを何時間も待たせた挙句「私は韓国に足跡を残さない、それは国務省の管轄だ」と韓国の面倒は自分で見よと命じている{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.1388}}。マッカーサーは李承晩らに、大韓民国の成立式典で「貴国とは1882年以来、友人である」、「アメリカは韓国が攻撃された際には、[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]同様に防衛するであろう」と[[ホワイトハウス]]に相談することもなくリップサービスをおこなっていたが{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.1392}}、マッカーサーの約束とは裏腹に朝鮮半島からは順次アメリカ軍部隊の撤収が進められ、1949年には480名の軍事顧問団のみとなっていた{{sfn|メイヤー|1973|p=73}}。そして、マッカーサー自身も、韓国成立式典で韓国の防衛を約束したわずか半年後の1949年3月1日の記者会見で、共産主義に対する防衛線を、[[アラスカ州|アラスカ]]から日本を経てフィリピンに至る線という見解を示し、朝鮮半島の防衛については言及しなかった{{sfn|メイヤー|1973|p=71}}。
アメリカ軍の軍事顧問団に指導された[[大韓民国国軍|韓国軍]]兵士は、街頭や農村からかき集められた若者たちで、未熟で文字も読めない者も多く、アメリカ軍の第二次世界大戦当時の旧式兵器をあてがわれて満足に訓練も受けていなかった。アメリカ軍の軍事顧問団の将校らは、そんな惨状をアメリカ本国やマッカーサーに報告すると昇進に響くことを恐れて、韓国軍は[[アジア]]最高であるとか、韓国軍は面目を一新し兵士の装備は人民軍より優れていると虚偽の報告を行った{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.1873}}。その頃の1950年1月12日に[[ディーン・アチソン]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、[[フィリピン]] - [[沖縄諸島|沖縄]] - [[日本列島|日本]] - [[アリューシャン列島]]までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言している(「アチソンライン」)。これはマッカーサーの1949年3月1日の記者会見での言及とほぼ同じ見解であったが、トルーマン政権中枢の見解でもあり{{sfn|メイヤー|1973|p=74}}、北朝鮮による韓国侵攻にきっかけを与えることとなった。アメリカ軍事顧問団の虚偽の報告を信じていたアメリカ本国やマッカーサーであったが、北朝鮮軍侵攻10日前の1950年6月15日になってようやく、[[ペンタゴン]]内部で韓国軍は辛うじて存在できる水準でしかないとする報告が表となっている。しかし、すでに遅きに失していた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.1890}}。
=== 北朝鮮による奇襲攻撃 ===
第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島において、[[1950年]]6月25日に、ソ連の[[ヨシフ・スターリン]]の許可を受けた金日成率いる[[朝鮮人民軍]](北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、[[朝鮮戦争]]が勃発した。
当時マッカーサーは、[[中央情報局]](CIA)やマッカーサー麾下の[[情報機関|諜報機関]](Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。北朝鮮軍が侵攻してきた6月25日にマッカーサーにその報告がなされたが、マッカーサーは全く慌てることもなく「これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。ワシントンが邪魔さえしなければ、私は片腕を後ろ手にしばった状態でもこれを処理してみせる」と来日していた[[ジョン・フォスター・ダレス]]国務長官顧問らに語っている{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.1300}}。事態が飲み込めないマッカーサーは翌6月26日に韓国駐在大使[[ジョン・ジョセフ・ムチオ]]がアメリカ人の婦女子と子供の韓国からの即時撤収を命じたことに対し、「撤収は時期尚早で朝鮮でパニックを起こすいわれはない」と苦言を呈している。ダレスら国務省の面々には韓国軍の潰走の情報が続々と入ってきており、あまりにマッカーサーらGHQの呑気さに懸念を抱いたダレスは、マッカーサーに韓国軍の惨状を報告すると、ようやくマッカーサーは事態を飲み込めたのか、詳しく調べてみると回答している。ダレスに同行していた国務省の[[ジョン・ムーア・アリソン]]はそんなマッカーサーらのこの時の状況を「[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]の代表がアメリカ軍最高司令官にその裏庭で何が起きているかを教える羽目になろうとは、アメリカ史上世にも稀なことだったろう」と呆れて回想している{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.1324}}。
6月27日にダレスらはアメリカに帰国するため[[東京国際空港|羽田空港]]に向かったが、そこにわずか2日前に北朝鮮の威力偵察を片腕で処理すると自信満々で語っていたときと変わり果てたマッカーサーがやってきた。マッカーサーは酷く気落ちした様子で「朝鮮全土が失われた。われわれが唯一できるのは、人々を安全に出国させることだ」と語ったが、ダレスとアリソンはその風貌の変化に驚き「わたしはこの朝のマッカーサー将軍ほど落魄し孤影悄然とした男を見たことがない」と後にアリソンは回想している{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.1333}}。
6月28日に[[ソウル特別市|ソウル]]が[[ソウル会戦 (第一次)|北朝鮮軍に占領された]]。わずかの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは、[[6月29日]]に[[東京]]の羽田空港より専用機の「バターン号」で[[水原市|水原]]に飛んだが、この時点で韓国軍の死傷率は50%に上ると報告されていた。マッカーサーはソウル南方32kmに着陸し、[[漢江]]をこえて炎上するソウルを眺めたが、その近くを何千という負傷した韓国軍兵士が敗走していた。マッカーサーは漢江で北朝鮮軍を支えきれると気休めを言ったが、アメリカ軍が存在しなければ韓国が崩壊することはあきらかだった{{sfn|メイヤー|1973|p=94}}。マッカーサーは日本に戻るとトルーマンに、地上軍本格投入の第一段階として連隊規模のアメリカ地上部隊を現地に派遣したいと申し出をし、トルーマンは即時に許可した。この時点でトルーマンはマッカーサーに[[第8軍 (アメリカ軍)|第8軍]]の他に、投入可能な全兵力の使用を許可することを決めており、マッカーサーもまずは日本から2個師団を投入する計画であった{{sfn|メイヤー|1973|p=96}}。7月7日、[[国際連合安全保障理事会決議84]]<ref>[[s:en:United Nations Security Council Resolution 84|安全保障理事会決議84]]</ref> により、北朝鮮に対抗するため、アメリカが統一指揮を執る[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]の編成が決議され<ref name="chousa">{{Cite web|和書|url=http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/0453.pdf |title=多国籍軍の「指揮権」規定とその実態(調査と情報 第453号) |author=等雄一郎・福田毅・松葉真美・松山健二 |date= |work= |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2017-06-26 }}</ref>、7月8日に、マッカーサーは国連軍司令官に任命された<ref>「敗走」破竹の進撃の北朝鮮軍 さらに南へ、国連軍の戦術的後退は続く,田中恒夫,朝鮮戦争 38度線・破壊と激闘の1000日 P34-39,学習研究社,2007年,ISBN 978-4056047844</ref>。国連軍(United Nations Command、UNC)には、イギリス軍や[[オーストラリア軍]]を中心とした[[イギリス連邦]]軍や、[[ベルギー軍]]など16か国の軍が参加している。
[[ファイル:Pusan Perimeter (ja).jpg|thumb|240px|1950年8月の釜山橋頭堡周辺の戦況]]{{After float}}
しかし、第二次世界大戦終結後に大幅に軍事費を削減していたアメリカ軍の戦力の低下は著しかった。ひどい資金不足で砲兵部隊は弾薬不足で満足な訓練もしておらず、[[:en:Joint Base Lewis-McChord|フォート・ルイス]]基地などでは、トイレットペーパーは1回の用便につき2枚までと命じられるほどであった{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.3117}}。しかし、この惨状でもマッカーサーら軍の首脳は、第二次世界大戦での記憶から、アメリカ軍を過大評価しており、アメリカ軍が介入すれば兵力で圧倒的に勝る北朝鮮軍の侵略を終わらせるのにさほど手間は取るまいと夢想していた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.3143}}。[[熊本県]]より[[釜山広域市|釜山]]に空輸された、アメリカ軍の先遣部隊ブラッド・スミス中佐率いるスミス特殊任務部隊(通称スミス支隊)が7月4日に北朝鮮軍と初めて戦闘した。[[T-34]]戦車多数を投入してきた北朝鮮軍に対して、スミス支隊は60mm( 2.36inch)[[バズーカ]]で対抗したものの役に立たず、スミス支隊は壊滅した{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.3314}}。([[烏山の戦い]])その後に到着した[[第24歩兵師団 (アメリカ軍)|第24歩兵師団]]の本隊も苦戦が続き、ついには師団長の[[ウィリアム・F・ディーン]]少将が北朝鮮軍の捕虜となってしまった。
第8軍司令官[[ウォルトン・ウォーカー]]中将はマッカーサーに信頼されておらず冷遇されており、優秀な士官が日本に派遣されると、第8軍からマッカーサーが自分の参謀に掠め取ったので、第8軍には優秀な士官が少なかった。朝鮮戦争開戦時の第8軍の9名の連隊長を国防長官[[ジョージ・マーシャル]]が評価したところ、朝鮮半島の厳しい環境で、体力的にも能力的にも十分な指揮が執れる優秀な連隊長と評価されたのはたった1名で、他は55歳以下47歳までの高齢で指揮能力に疑問符がつく連隊長で占められていた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.3507}}。壊滅した第24師団は、士官の他、兵、装備に至るまで国の残り物を受け入れている最弱で最低の師団と見られていた。師団の士官のひとりは「兵員は定数割れし、装備は劣悪、訓練は不足したあんな部隊(第24師団)が投入されたのは残念であり、犯罪に近い」とまで後に述懐している{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.3185}}。
マッカーサーは、第24師団が惨敗を続けていた7月上旬に、統合参謀本部に11個大隊の増援を要求したが、兵力不足であったアメリカ軍は兵力不足を補うために兵士の確保を強引な手段で行った。まずは日本で犯罪を犯して、アメリカの重[[営倉]]に護送される予定の兵士らに「朝鮮で戦えば、犯罪記録は帳消しにする」という選択肢が与えられた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.3385}}。またアメリカ国内では、第二次世界大戦が終わり普通の生活に戻っていた海兵隊員を、かつての契約に基づき再召集している。召集された海兵隊員は[[予備役]]に志願しておらず、自分らは一般市民と考えていたので再召集可能と知って愕然とした。強引に招集した兵士を6週間訓練して朝鮮に送るという計画であったが、時間がないため、朝鮮に到着したら10日間訓練するという話になり、それがさらに3日に短縮され、結局は訓練をほとんど受けずに前線に送られた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.3395}}。国連軍が押されている間に、アメリカ軍工兵部長ガソリン・デイヴィットソン准将が、釜山を中心とする朝鮮半島東南端の半円形の防御陣地を構築した([[釜山橋頭堡の戦い|釜山橋頭堡]])。ウォーカーはその防衛線まで国連軍を撤退させるとマッカーサーに報告すると、翌朝マッカーサーが日本から視察に訪れ、ウォーカーに対して「君が望むだけ偵察できるし、塹壕が掘りたいと望めば工兵を動員することができる。しかしこの地点から退却する命令を下すのは私である。この命令には[[ダンケルクの戦い|ダンケルク]]の要素はない。釜山への後退は認められない」と釜山橋頭堡の死守を命じた。ウォーカーはそのマッカーサーの命令を受けて部下将兵らに「ダンケルクもバターンもない(中略)我々は最後の一兵まで戦わねばならない。捕虜になることは死よりも罪が重い。我々はチームとして一丸となって敵に当たろうではないか。一人が死ねば全員も運命をともにしよう。陣地を敵に渡す者は他の数千人の戦友の死にたいして責任をとらねばならぬ。師団全員に徹底させよ。我々はこの線を死守するのだ。我々は勝利を収めるのだ」といういわゆる「Stand or Die」(陣地固守か死か)命令を発している{{sfn|ペレット|2014|p=1055}}。
=== 仁川上陸作戦 ===
{{Main|仁川上陸作戦}}
[[ファイル:IncheonLandingMcArthur.jpg|thumb|220px|揚陸指揮艦マウント・マッキンリー艦上で[[仁川上陸作戦]]の指揮を執るマッカーサー]]{{After float}}
8月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と[[在韓米軍|在韓アメリカ軍]]、[[イギリス軍]]を中心とした国連軍は押されて、釜山橋頭堡に押し込まれることとなってしまった{{sfn|メイヤー|1973|p=107}}([[釜山橋頭堡の戦い]])。しかし国連軍は撤退続きで防衛線が大幅に縮小されたおかげで、通信線・補給線が安定し、兵力の集中がはかれるようになり、北朝鮮軍の進撃は停滞していた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.3752}}。アメリカ本土より[[第2歩兵師団 (アメリカ軍)|第2歩兵師団]]や第1海兵臨時旅団といった精鋭が釜山橋頭堡に送られて北朝鮮軍と激戦を繰り広げた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.5798}}。アメリカ軍が日増しに戦力を増強させていくのに対し、北朝鮮軍は激戦で大損害を受けて戦力差はなくなりつつあった。特に北朝鮮軍は、アメリカ軍の優勢な空軍力と火砲に対する対策がお粗末で、道路での移動にこだわり空爆のいい餌食となり、道路一面に大量の黒焦げの遺体と車輌の残骸を散乱させていた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.6652}}。
マッカーサーは1942年に[[日本軍]]の猛攻でコレヒドール島に立て籠もっていたときに、バターンに戦力を集中している日本軍の背後にアメリカ軍部隊を逆上陸させ背後を突けば勝利できると夢想し、参謀総長のマーシャルにその作戦を提案したが、その時は実現は不可能だった。マッカーサーは、バターンでは夢想にすぎなかった神業が今度は実現可能だと思い立つとその準備を始めた。7月10日に{{仮リンク|ラミュエル・C・シェパード・Jr|en|Lemuel C. Shepherd Jr.}}海兵隊総司令が東京に訪れた際に、マッカーサーは朝鮮半島の地図で[[仁川広域市|仁川(インチョン)]]を持っていたパイプで叩きながら、「私は[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]を自分の指揮下におきたい」「ここ(仁川)に彼ら(第1海兵師団)を上陸させる」とシェパードに告げている{{sfn|ペレット|2014|p=1056}}。[[太平洋戦争]]で活躍した[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]であったが、戦後の軍事費削減の影響を大きく受けて存続すら危ぶまれており、出番をひどく求めていたため、シェパードはマッカーサーの提案にとびつき、9月1日までには海兵隊1個師団を準備すると約束した{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.6706}}。
[[アメリカ統合参謀本部議長]][[オマール・ブラッドレー]]は大規模な[[水陸両用作戦]]には消極的で、マッカーサーの度重なる作戦要求になかなか許可を出さなかったが、マッカーサーは「北朝鮮軍に2正面作戦を強いる」「敵の補給・通信網を切断できる」「大きな港を奪ってソウルを奪還できる」などと敵に大打撃を与えうると熱心に説き、統合参謀本部は折れて一旦は同意した。しかし、マッカーサーから上陸予定地点を告げられると、統合参謀本部の面々は唖然として声を失った{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=249}}。仁川はソウルに近く、北朝鮮軍の大兵力が配置されている懸念もあるうえ、自然環境的にも、潮の流れが速くまた潮の干満の差も激しい為、上陸作戦に適さず、上陸中に敵の大兵力に攻撃されれば大損害を被ることが懸念された{{sfn|メイヤー|1973|p=108}}。8月23日にワシントンから[[アメリカ陸軍参謀総長|陸軍参謀総長]][[ジョーゼフ・ロートン・コリンズ]]と[[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]][[フォレスト・シャーマン]]、ハワイからは[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[アーサー・W・ラドフォード]]と海兵隊のシェパードが来日し、仁川の上陸について会議がおこなわれた。コリンズとシャーマンは上陸地点を仁川より南方の[[群山市|群山]]にすることを提案したが{{sfn|メイヤー|1973|p=109}}、マッカーサーは群山では敵軍の背後を突くことができず、包囲することができないと断じ{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=252}}、太平洋戦争中は海軍と延々と意見の対立をしてきたことは忘れたかのように「私の海軍への信頼は海軍自身を上回るかもしれない」「海軍は過去、私を失望させたこともなかったし、今回もないだろう」と海軍を褒め称え仁川上陸への賛同を求めた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.6823}}。その後、マッカーサーが「これが倍率5,000倍のギャンブルであることは承知しています。しかし私はよくこうした賭けをしてきたのです」「私は仁川に上陸し、奴らを粉砕してみせる」と発言すると、参加者は反論することもなく、畏れによる静寂が会議室を覆った{{sfn|ペレット|2014|p=1060}}。会議はマッカーサー主導で進み、とある将校は「マッカーサーの催眠術にかかった」と後で気が付くこととなった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=253}}。
この会議の4日後に統合参謀本部から「朝鮮西岸への陸海軍による転回行動の準備と実施に同意する。上陸地点は敵の防衛が弱い場合は仁川に、または仁川の南の上陸に適した海浜とする」という、会議の席では唯一慎重であった陸軍のコリンズによる慎重論が盛り込まれた命令電文が届いた。しかし、統合参謀本部は自分らの保身を考えて上陸予定日8日前の9月7日になってから、マッカーサーの「倍率5,000倍」という予想を問題視したのか「予定の作戦の実現の可能性と成功の確率についての貴下の予想を伝えてもらいたい」という電文をマッカーサーに送っている。マッカーサーは即座に「作戦の実現可能性について、私はまったく疑問をもっていない」と回答したところ、ブラッドレーはその回答をトルーマンに報告し「貴下の計画を承認する。大統領にもそう伝えてある」と簡潔な電文をマッカーサーに返した。マッカーサーはこのトルーマンとブラッドレーの行動を見て、「この作戦が失敗した場合のアリバイ作りをしている」と考えて、骨の髄までぞっとしたと後年語っている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=254}}。
統合参謀本部は作戦が開始されるまで機密保持を厳重にしていたが、GHQの機密保持はお粗末であったうえ、当時の日本の港湾の警備は貧弱でスパイ天国となっており、アメリカ軍が大規模な水陸両用作戦を計画していることは中国に筒抜けであった。そこで毛沢東は参謀の雷英夫にアメリカ軍の企図と次の攻撃地点を探らせた。雷はあらゆる情報を検証のうえで上陸予想地点を6か所に絞り込んだがそのなかで[[仁川広域市|仁川]]が一番可能性が高いと毛に報告した。毛は[[周恩来]]を通じ金日成に警告している。また、北朝鮮にいた[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の軍事顧問数名も金に仁川にアメリカ軍が上陸する可能性を指摘したが、金はこれらの助言を無視した{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.6950}}。
マッカーサーは[[佐世保市|佐世保]]に向かい、司令船となる[[揚陸指揮艦|AGC(揚陸指揮艦)]]の{{仮リンク|マウント・マッキンリー_(揚陸指揮艦)|en|USS_Mount_McKinley_(AGC-7)|label=マウント・マッキンリー}}に乗艦すると、仁川に向けて出港した。その後には7か国261隻の大艦隊が続いた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=255}}。艦隊は途中台風に遭遇したが、9月14日にマウント・マッキンリーは仁川沖に到着した。マッカーサーが到着する前までに仁川港周辺は、先に到着した巡洋艦や駆逐艦による艦砲射撃や空母艦載機による空襲で徹底的に叩かれていた。もっとも念入りに叩かれたのは仁川港の入り口に位置する[[月尾島]]であったが、金は[[中華人民共和国|中国]]や[[ソビエト連邦|ソ連]]の警告にもかかわらず仁川周辺に警備隊程度の小兵力しか配置しておらず、月尾島にも350人の守備隊しか配置されていなかった{{sfn|メイヤー|1973|p=112}}。9月15日の早朝5時40分に海兵第1師団の部隊が重要拠点月尾島に上陸したが、たった10名の負傷者を出したのみで占領された。損害が予想に反して軽微であったと知らされたマッカーサーは喜びを隠し切れず、参謀らに「それよりもっと多くの者が交通事故で死んでいる」と得意げに語ると、[[アメリカ海軍|海軍]]と海兵隊に向け「今朝くらい光り輝く海軍と海兵隊はこれまで見たことがない」と電文を打たせ、自分は幕僚らと[[コーヒー]]を飲んだ{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=256}}。
月尾島攻略後も、ブラッドレーやコリンズの懸念に反して[[仁川上陸作戦]]は大成功に終わった。作戦はマッカーサーの計画よりもはるかに順調に進み、初日の海兵隊の戦死者はたった20名であった{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.6986}}。戦局は一気に逆転しマッカーサーの名声と人気を大きく高めた。見事に上陸を成功させた国連軍は[[金浦国際空港|金浦飛行場]]とソウルを奪還するために前進した。北朝鮮軍は仁川をあっさり放棄した代わりに、ソウルを防衛する覚悟で、首都を要塞化していた。マッカーサーは仁川に上陸すると国連軍は5日でソウルを奪還すると宣言したが、北朝鮮軍の猛烈な抵抗で2週間を要した。国連軍がソウル全域を占領すると、北朝鮮軍は13万人の捕虜を残して敗走していった。マッカーサーは9月29日に得意満面で金浦飛行場に降り立つと、正午にソウルの[[国会議事堂 (大韓民国)|国会議事堂]]で開かれた式典にのぞみ「ソウルが韓国政府の所在地として回復された」と劇的な宣言を行った。マッカーサーから「行政責任の遂行」を求められた李承晩は涙を流しながら、韓国全国民を代表して「我々はあなたを崇拝します。あなたを民族の救世主として敬愛します」と述べた。マッカーサーはこの日もソウルに宿泊することはなく、午後には東京に帰ったが、長い軍歴での最大の勝利で、今までで最高の栄光を手にしたと感じていた{{sfn|メイヤー|1973|p=118}}。
=== トルーマンとの会談 ===
[[ファイル:MacArthur Truman Wake Island.jpg|thumb|260px|ウエーク島でトルーマンを迎えるマッカーサー]]
仁川上陸作戦の大成功によりマッカーサーの自信は肥大化し、その誇大な戦況報告にワシントンも引きずられ、[[アメリカ統合参謀本部|統合参謀本部]]は国連決議を待たず、9月28日付で北朝鮮での軍事行動を許可した。戦争目的が「北朝鮮軍の侵略の阻止」から「北朝鮮軍の壊滅」にエスカレートしたのである。[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]][[ジョージ・マーシャル]]はマッカーサーに「38度線以北に前進することに関して、貴下には戦略的・戦術的に何の妨げもないものと考えていただきたい」と極秘電を打つと、マッカーサーは「敵が降伏するまで、朝鮮全土が我が軍事作戦に開かれているものと理解する」と回答している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=263}}。しかし、中ソの全面介入を恐れるトルーマンは、「陸海軍はいずれの場合も国境を越えてはならない」「国境付近では韓国軍以外の部隊は使用しない」「[[中国東北部]]およびソ連領域への空海からの攻撃を禁止する」という制限を設けた。中ソの全面介入の防止の他にも、[[ホイト・ヴァンデンバーグ]][[アメリカ空軍参謀総長]]は、空軍の作戦域を拡大することで自然・戦闘損失で空軍力を消耗し、その補充のために2年間は[[ヨーロッパ]]方面の防空力が裸になると考え、[[アメリカ国防総省|国防総省]]もその考えを支持し、マッカーサーにも伝えられた{{sfn|リッジウェイ|1976|p=69}}。しかしこの作戦制限は、全面戦争で勝利することが信条のマッカーサーには、束縛以外の何物にも感じられなかった。
10月15日に[[ウェーク島]]で、トルーマンとマッカーサーは朝鮮戦争について協議を行った。トルーマンは大統領に就任して5年半が経過していたが、まだマッカーサーと会ったことがなく、2度にわたりマッカーサーに帰国を促したが、マッカーサーはトルーマンの命令を断っていた。しかし、仁川上陸作戦で高まっていたマッカーサーの国民的人気を11月の中間選挙に利用しようと考えたトルーマンは、自らマッカーサーとの会談を持ちかけ、帰国を渋るマッカーサーのために会談場所は本土の外でよいと申し出た。トルーマン側はハワイを希望していたが、マッカーサーは夜の飛行機が苦手で遠くには行きたくないと渋り<ref group="注釈">トルーマン側に示された正式な理由は「マッカーサーが長い期間、東京を離れるのは危険である」とされた。</ref>、結局トルーマン側が折れて、ワシントンから7,500km、東京からは3,000kmのウェーク島が会談場所となった{{sfn|ハルバースタム|loc=下巻|2009|p=36}}。
トルーマンが大いに妥協したにもかかわらず、マッカーサーはこの会談を不愉快に思っており、ウェーク島に向かう途中もあからさまに機嫌が悪かった。同乗していた韓国駐在大使[[ジョン・ジョセフ・ムチオ]]に、「(トルーマンの)政治的理由のためにこんな遠くまで呼び出されて時間の無駄だ」と不満をもらし、トルーマンが自分の所(東京)まで来てしかるべきだと考えていた{{sfn|ハルバースタム|loc=下巻|2009|p=37}}。マッカーサーは周囲の配慮で、会談前に睡眠をとってもらおうとトルーマン機が到着する12時間も前にウエーク島に到着していたが、苛立っていたので殆ど睡眠できなかった{{sfn|ペレット|2014|p=1077}}。
2人の不仲を強調する意図で、トルーマンの機を先に着陸させるために島の上空でマッカーサー機が旋回し、わざと会談に1時間遅れて到着したためトルーマンが激怒して「最高司令官を待たせるようなことを二度とするな。わかったか」と一喝したなどのエピソードが流布されているが、これは作り話である{{sfn|袖井|2004|pp=374-375}}。しかし、マッカーサーがトルーマンに対して礼儀をわきまえなかったのは事実であり、通常の慣習であれば軍の最高司令官たる大統領を迎えるときは、大統領が乗り物(この時は飛行機)から降りる際に出迎える高級軍人は準備万端で待機しておかなければならなかったが、マッカーサーはわざと少し離れた場所に停車してある[[ジープ]]に座って待っており、トルーマン機が着陸して、トルーマンが据えられた[[タラップ]]に現れたところを見計らってジープから降りてトルーマンに向けて歩き出している。そのため、マッカーサーがトルーマンのところに到着したのは、タラップから地上に降り立ったのとほぼ同時となった。マッカーサーはさらに、通常であれば[[敬礼]]で出迎えなければならないのに対し、トルーマンに[[握手]]を求めている。トルーマンはマッカーサーの非礼さに不快感を覚えたが、ここは笑顔で応じて「ずっと会いたいと思っておりました」と話しかけている{{sfn|ペレット|2014|p=1078}}。
2人はウエーク島にある唯一の高級車であった[[シボレー]]に乗って、会談会場の航空会社事務所に向かった。トルーマンはごく普通の常識人で、相手が誰でもじっくりと話し込めば必ずうまくいくと思っており、また自分の交渉術にも多少の自信があって面と向かえば、相手の考えを大体読むことはできたし、誠実に対応すれば必ず相手も応じてくれると考えて、実際にアイゼンハワーやブラッドレーのような将軍たちとは意思の疎通ができていたが、マッカーサーはトルーマンの想定外の存在であった{{sfn|ハルバースタム|loc=下巻|2009|p=41}}。マッカーサーは席に着くと周囲に構わずにパイプに煙草の葉をつめ始めたが、火をつける前に目の前のトルーマンに気が付いて、申し訳程度に「煙草は嫌ではないですか?」とたずねた。そこでトルーマンが[[ジョーク]]を交えて「問題ありません。おそらく私は、アメリカでもっとも顔に煙草の煙を吹きつけられています」と答えると、マッカーサーは遠慮することなく多くの煙草を吸い、狭くて暑苦しい会議室にはパイプ煙草の強い匂いが充満した{{sfn|ペレット|2014|p=1180}}。
その後の会談ではマッカーサーが、「どんな事態になっても中共軍は介入しない」「戦争は感謝祭までに終わり、兵士は[[クリスマス]]までには帰国できる」と言い切った。さらに「最初の1、2か月の間に彼らが参戦していたら、それは決定的だったが、我々はもはや彼らの参戦を恐れていない」「彼らには空軍力はないが、我が方は朝鮮半島にいくつも空軍基地を有している。中共軍が平壌に迫っても大規模殺戮になるだけだろう」とも付け加えた。このマッカーサーの楽観的な予想は、トルーマン側の高官が連れてきていた女性秘書に正確に記録されており{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=271}}、後にマッカーサーを追い詰めることとなる。トルーマンは「きわめて満足すべき愉快な会談だった」と社交辞令を言い残して機上の人となったが、本心ではマッカーサーの不遜な態度に不信感を強め、またマッカーサーの方もよりトルーマンへの敵意を強め、破局は秒読みとなった{{sfn|袖井|2004|pp=375-376}}。
=== 中国人民志願軍の参戦 ===
[[ファイル:P46 b.jpg|thumb|260px|ソ連製の装備で武装する「抗美援朝義勇軍」]]
{{After float|10em}}{{Main|中国人民志願軍}}
その後もマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境の[[鴨緑江]]にまで迫った。先にソ連に地上軍派遣を要請して断られていた金日成は、1950年9月30日に中国大使館で開催された中華人民共和国建国1周年レセプションに出席し、その席で中国の部隊派遣を要請し、さらに自ら毛沢東に部隊派遣の要請の手紙を書くと、その手紙を[[朴憲永]]に託して北京に飛ばした。毛沢東はすぐに行動を起こし、10月2日に[[中国共産党中央政治局常務委員会]]を招集すると「一日の遅れが将来にとって決定的要因になる」「部隊を送るかどうかが問題ではなく、いつ送るか、誰が司令官になるかだ」と政治委員らに説いた。政治委員らも、アメリカ軍が鴨緑江に到達すれば川を渡って中国に侵攻してくる、それを阻止するには部隊派遣をする必要がある、との考えに傾き、毛沢東の決断どおり部隊派遣を決め、10月8日に金日成に通知した。ただしアメリカとの全面衝突を避けるため、中華人民共和国の国軍である[[中国人民解放軍]]から組織するが、形式上は[[義勇兵]]とした「[[中国人民志願軍]]」('''抗美援朝義勇軍''')の派遣とした。毛沢東はヨシフ・スターリンに航空支援を要請するが、スターリンはアメリカとの直接対決を望んでおらず、毛沢東に中国国内での上空支援と武器・物資の支援のみに留めるものにすると返答している{{sfn|ハルバースタム|loc=下巻|2009|p=31}}。中国軍の指揮官となった[[彭徳懐]]は、ソ連の航空支援なしでは作戦に不安を感じていたが、部隊派遣は毛沢東の強い意思で予定どおり行われることとなった。さらに毛沢東は北朝鮮軍の指揮権も彭徳懐に一任することと決め、戦争は中国の指揮下に置かれることとなった{{sfn|ハルバースタム|loc=下巻|2009|p=34}}。
10月10日に約18万人の中国野戦第4軍が鴨緑江を越えて北朝鮮入りし、その数は後に30万人まで膨れ上がった。マッカーサーはこの危険な兆候を察知していたが、敵の意図を読み取ることが出来ず、一層攻撃的になった{{Sfn|シャラー|1996|p=318}}。当初はトルーマンの指示どおり、国境付近での部隊使用を韓国軍のみとするため、中朝国境から40から60[[マイル]](64kmから97km)離れた場所を韓国軍以外の国連軍の最深到達点と決めたが、10月17日にはトルーマンの指示を破り、その最深到達点を中間点に変え、さらに国境深く前進するように各部隊司令官に命令した。中朝国境に近づけば近づくほど地形は急峻となり、補給が困難となっていったが、マッカーサーはその事実を軽視した{{sfn|リッジウェイ|1976|p=70}}。マッカーサーのこの作戦指揮は、毛沢東の思うつぼであった。かつて毛沢東が参謀の雷英夫にマッカーサーの人物について尋ね、雷英夫が「傲慢と強情で有名です」と回答すると、毛沢東は「それであれば好都合だ、傲慢な敵を負かすのは簡単だ」と満足げに答えたということがあったが、いまや中国が望むのはさらにマッカーサーが北上を命令し、補給ラインが危険なまでに伸びきることであった{{sfn|ハルバースタム|loc=下巻|2009|p=49}}。しかし中国の罠にはまるようなマッカーサーの命令違反に、表立って反対の声は出なかった。マッカーサーの圧倒的な名声にアメリカ軍内でも畏敬の念が強かったこと、また強情なマッカーサーに意見するのは無益だという諦めの気持ちもあったという。そのような中でも副参謀長の[[マシュー・リッジウェイ]]は異論を唱えたが、意見が取り上げられることはなかった{{sfn|リッジウェイ|1976|p=81}}。
待ち受ける中国人民志願軍の大軍は、降り積もる雪とその自然環境を巧みに利用し、アメリカ軍に気づかれることなく接近することに成功した。{{仮リンク|S.L.Aマーシャル|en|S.L.A. Marshall}}はその見事な組織力を『影無き幽霊』と形容し「その兵力、位置、どこに第一撃を加えてくるかの秘密は完全に保たれていて、二重に武装しているに等しかった」と賞している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=290}}。10月26日には韓国軍と中国軍の小競り合いがあり、中国兵の18名を捕虜にし、救援に駆けつけたアメリカ軍[[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]は中国軍の戦車を撃破している。また[[第8軍 (アメリカ軍)|アメリカ第8軍]]司令[[ウォルトン・ウォーカー]]中将は非常に優秀な中国軍部隊が国境付近に存在することを敏感に感じ取っており、慎重に進撃していたが、これらの情報が重要視されることはなかった{{sfn|リッジウェイ|1976|p=71}}。というのも[[連合国軍最高司令官総司令部]]参謀第2部(G2)部長[[チャールズ・ウィロビー]]らマッカーサーの幕僚らは、マッカーサーの先入観に疑いを挟むような報告を最小限に留め、マッカーサーに正確な情報が届かなかったことも一因であった。通常の指揮官であればできるだけ多くの正確な情報を欲しがるが、マッカーサーは情報報告が自分の行おうとしていることに完全に融合しているのを望んでいた。ウィロビーらはマッカーサーの性格を熟知しており、マッカーサーがやろうとしている鴨緑江への最後の進撃を妨害するような情報をそのまま上げることはせず、慎重に細工された情報をマッカーサーに報告していたため、マッカーサーに正確な情報が届いていなかった{{sfn|ハルバースタム|loc=下巻|2009|p=51}}。そのため、新聞各紙が先に中国軍の不穏な動きを察知し記事にしたが、GHQはワシントンに「確認されていない」と楽観的な報告をしている{{sfn|リッジウェイ|1976|p=71}}。
そのような状況下で、11月1日に中国人民志願軍が韓国軍第二軍団に襲いかかった、韓国軍3個師団は装備を放棄して全面的に敗走した{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=253}}。朝鮮半島は国境に近づくほど北に広がっているため、国境に向けて進撃していた[[第8軍 (アメリカ軍)|アメリカ第8軍]]と第10軍の間はかなり開いていた。その第8軍の右翼に展開していた韓国軍が崩壊すると、中国人民志願軍は笛や喇叭を鳴らしながら第8軍の側面に突撃してきた。第8軍は[[人海戦術]]の前に、たちまち大損害を被った{{sfn|リッジウェイ|1976|p=92}}。マッカーサーは中国軍の大攻勢開始の報告を受けていたが、中国が本格的に介入してきたのかどうか判断することが出来ず、自分自身で混乱していることを認めた。そのため、前線部隊への的確な指示が遅れ、その間に各部隊は大きな損害を被ることとなった{{Sfn|シャラー|1996|p=311}}。戦況の深刻さをようやく認識したマッカーサーは国防総省に「これまで当司令部はできる限りのことをしてきたが、いまや事態はその権限と力を超えるとこまで来ている」'''「われわれは全く新しい戦争に直面している」'''といささかヒステリックな打電を行っている{{sfn|トーランド|1997|p=18}}。
=== 更迭 ===
[[ファイル:Kainin6303.jpg|thumb|upright|230px|マッカーサー(右下)の解任を知らせる世界通信・政治版。]]{{After float}}
{{see|{{仮リンク|ダグラス・マッカーサーの解任|en|Relief of Douglas MacArthur}}}}
11月28日になって、ようやくマッカーサーは軍司令に撤退する許可を与え、第8軍は平壌を放棄し、その後38度線の後方に撤退した{{sfn|リッジウェイ|1976|p=93}}。巧みに撤退戦を指揮していた第8軍司令官の[[ウォルトン・ウォーカー]]中将であったが、12月23日、部隊巡回中に軍用ジープで交通事故死した。マッカーサーはその報を聞くと、以前から決めていたとおり、即座に後任として参謀本部副参謀長[[マシュー・リッジウェイ]]中将を推薦した{{sfn|トーランド|1997|p=98}}。急遽アメリカから東京に飛んだリッジウェイは、12月26日にマッカーサーと面談した。マッカーサーは「マット、君が良いと思ったことをやりたまえ」とマッカーサーの持っていた戦術上の全指揮権と権限をリッジウェイに与えた{{sfn|リッジウェイ|1976|p=127}}。リッジウェイはマッカーサーの過ちを繰り返さないために、即座に前線に飛んで部隊の状況を確認したが、想像以上に酷い状況で、敗北主義が蔓延し、士気は低下し、指揮官らは有意義な情報を全く持たないというありさまだった{{sfn|ハルバースタム|loc=下巻|2009|p=226}}。リッジウェイは軍の立て直しを精力的に行ったが、中国人民志願軍の勢いは止まらず、1951年1月2日はソウルに迫ってきた。リッジウェイはソウルの防衛を諦め撤退を命じ、1月4日にソウルは中国人民志願軍に占領されることとなった{{sfn|トーランド|1997|p=115}}。
義勇軍側の人海戦術に押され、マッカーサーとワシントンは共にパニック状態に陥っていた。マッカーサーは大規模な増援と、[[原子爆弾|原爆]]使用も含めた中国東北部空爆を主張したが、第二次世界大戦後に常備軍の大幅な縮小を行ない、ヨーロッパで[[冷戦]]が進みソ連と向き合うアメリカに、大規模な増援を送る余裕はなかった。中国東北部への爆撃は戦争の拡大をまねき、また原爆については、朝鮮の地勢と集約目標がないため現実的ではないと否決された{{Sfn|シャラー|1996|p=327}}{{efn|マッカーサーが12月24日に提出した「進行妨害標的リスト」には原爆投下目標として26か所が示されているとともに、敵地上軍への使用として4発、中国東北部にある敵航空機基地に4発の原爆使用が要請されていた。}}。マッカーサーは雑誌のインタビューに答える形で「中国東北部に対する空襲の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」と作戦に制限を設けているトルーマンをこき下ろし、また中国軍に追われ敗走しているのにもかかわらず「戦術的な撤退であり、敗走などと広く宣伝されているのは全くのナンセンスだ」と嘯いた。トルーマンは激怒し、ワシントン中枢のマッカーサーへの幻滅感は増していった{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=264}}。マッカーサーからの批判に激怒したトルーマンは、統合参謀本部に命じてマッカーサーに対し、公式的な意見表明をする場合は上級機関の了承を得るようにと指示させたが、マッカーサーはこの指示を無視し、その後も政治的な発言を繰り返した<ref name="ash1">『朝日新聞』1951年4月12日朝刊1面</ref>。
ソウルから撤退したリッジウェイであったが、撤退はそこまでで、国連軍を立ち直らせると、1月26日には戦争の主導権を奪い返すための反転攻勢サンダーボルト作戦を開始し、中国の義勇軍の攻勢を押し留めた{{sfn|ハルバースタム|loc=下巻|2009|p=265}}。マッカーサーはこの時点で中国が全面的に介入してきていると考え、ワシントンに再度前の話を蒸し返し、「国連軍が蹂躙されないためには、中国沿岸を封鎖し、艦砲射撃と空爆で戦争遂行に必要な工業力を破壊」することと国民党軍を参戦させるなど、中国との全面戦争突入を主張した。しかしトルーマンの方針は、日本か台湾が脅かされれば対中国の本格的作戦に突入するが、それ以外では紛争は朝鮮半島の中に限定するとの意向であり、マッカーサーをたしなめるような長文の返答をしている。参謀総長[[オマール・ブラッドレー]]はマッカーサーの戦争拡大要求は、戦争の状況よりむしろ「自分のような軍事的天才を虚仮にした中国紅軍の将軍たちへの報復」に関係があると推測していた{{Sfn|シャラー|1996|p=338}}。
しかし、リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは十分可能であると判断しており、中国軍の第3期攻勢を撃破すると2か月で失地を取り戻し、1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。戦況の回復はリッジウエイの作戦指揮によるもので、マッカーサーの出番はなかったため、それを不服と思ったマッカーサーは脚光を浴びるためか、東京から幕僚と報道陣を連れて前線を訪れた。しかしある時、リッジウェイが計画した作戦開始前にマッカーサーが前線に訪れて報道陣に作戦の開始時期を漏らしてしまい、リッジウェイから自重してほしいとたしなめられている。マッカーサーの軍歴の中で、真っ向から部下に反抗されたのはこれが初めてであった{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=269}}。リッジウェイは自伝でマッカーサーを「自分でやったのではない行為に対しても、名誉を主張してそれを受けたがる」と評している{{sfn|リッジウェイ|1976|p=170}}。
ワシントンは、この時点では朝鮮半島の武力統一には興味を示さず、アメリカ軍部隊を撤退させられるような合意を熱望していた。一方マッカーサーは、リッジウェイの成功が明らかになると、自分の存在感をアピールするためか「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を策定したとシーボルドに話している。のちにこれは「最長でも10日で戦勝できる」に短縮された<ref>「シーボルト文書」ウィリアム・ジョセフ・シーボルド日誌 1951年2月8日、17日</ref>。その構想とは、戦後マッカーサーが語ったところによれば、[[満洲|満州]]に50個もの原爆を投下し中ソの空軍力を壊滅させた後、海兵隊と中国国民党軍合計50万名で中国軍の背後に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してきた第八軍と中朝軍を包囲殲滅、その後に[[日本海]]から[[黄海]]まで朝鮮半島を横断して放射性[[コバルト]]を散布し、中ソ軍の侵入を防ぐというもので、この戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てるとしていた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=393}}。
また、後年リッジウェイは「マッカーサーは、中国東北部の空軍基地と工業地帯を原爆と空爆で破壊した後は残りの工業地帯も破壊し、共産主義支配の打破を目指していた」「ソ連は参戦してこないと考えていたが、もし参戦して来たらソ連攻撃のための措置も取った」と推察している{{sfn|リッジウェイ|1976|p=145}}。この考えに基づきマッカーサーは、何度目になるかわからない原爆の前線への移送と使用許可をトルーマンに求めたが、トルーマンは返事を保留した。
マッカーサーへの返答前に、トルーマンは朝鮮問題解決の道を開くため停戦を呼びかけることとし、3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにもその内容が伝えられた。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、1951年3月24日に一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下においても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談する用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したが、これは中国への実質的な「最後通牒」に等しく、中国を強く刺激した<ref name="P273">{{harvnb|ブレア Jr.|1978|p=273}}</ref>。また、[[野党]][[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[保守]]派の重鎮[[ジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニア]]前[[アメリカ合衆国下院議長|下院議長]]からマッカーサーに宛てた、[[台湾]]の[[中国国民党|国民党]]兵力を利用する提案とトルーマン政権のヨーロッパ重視政策への批判の手紙に対し、マッカーサーがマーティンの意見への賛同とトルーマン政権批判の返事を出していたことが明らかになり<ref name="ash1"/>、一軍司令官が国の政策に口を出した明白な[[文民統制|シビリアン・コントロール]]違反が相次いで行われた。これは、1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じて指示した「公式的な意見表明は上級機関の了承を得てから」にも反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」と激怒した<ref name="P273"/>。
またこの頃になると[[イギリス]]などの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるがトルーマンはマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した<ref name="P352">{{harvnb|シャラー|1996|p=352}}</ref>。
4月6日から9日にかけてトルーマンは、[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[ディーン・アチソン]]、国防長官ジョージ・マーシャル、参謀総長オマール・ブラッドレーらと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施するもっとも賢明な方法について話し合われた{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=276}}。また皮肉にもこの頃にマッカーサーの構想を後押しするように、中国軍が中国東北部に兵力を増強し、ソ連軍も極東に原爆も搭載できる[[戦略爆撃機]]を含む航空機500機を配備、中国東北部には最新レーダー設備も設置し<ref>『朝日新聞』1951年5月14日朝刊1面</ref>、日本海に潜水艦を大規模集結し始めた。これらの脅威に対抗すべく、やむなくマッカーサーの申し出どおり4月6日に原爆9個を[[グアム]]に移送する決定をしている。しかし、マッカーサーが早まった決断をしないよう強く警戒し、移送はマッカーサーには知らせず、また原爆はマッカーサーの指揮下にはおかず戦略空軍の指揮下に置くという保険をかけている<ref>『A General's Life: An Autobiography』 P.630-631</ref>。
4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊に記事にするという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に辞任するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表をたたきつけるようなことはさせない、私が奴をくびにしてやるのだ」とブラッドレーに言った。トルーマンは4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=334}}。解任の理由は「国策問題について全面的で活発な討論を行うのは、我が[[民主主義]]の[[立憲主義]]に欠くことができないことであるが、軍司令官が法律ならびに憲法に規定された方式で出される政策と指令の支配をうけねばならぬということは、基本的問題である」とシビリアン・コントロール違反が直接の理由とされた<ref name="ash1"/>。
日本時間では午後にこの報は日本に達したが、マッカーサーはそのとき妻のジーンと共に、来日した上院議員ウォーレン・マグナソンと[[ノースウエスト航空]]社長のスターンズと会食をしていたが、ラジオでマッカーサー解任のニュースを聞いた副官のシドニー・ハフ大佐は電話でジーンにその情報を伝えた{{sfn|メイヤー|1973|p=160}}。その後、ブラッドレーから発信された「将軍あての重要な電報」が通信隊より茶色の軍用封筒に入った状態でハフの手元に届いた。その封筒の表には赤いスタンプで「マッカーサーへの指示」という文字が記してあった。ハフはマッカーサーが居住していたアメリカ大使公邸にこの封筒を持って行ったが、マッカーサーの寝室の前にいたジーンがその封筒を受け取り、寝室のマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かって「ジーニー、やっと帰れるよ」と言った{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=336}}。
その電報にはトルーマンよりの解任の命令の他、「指揮権はマシュー・B・リッジウェイ陸軍大将に移譲されたい。あなたは好きな場所に望みどおりの旅行を行うために必要な命令を出すことが許される」とも記しており{{sfn|メイヤー|1973|p=160}}、突然の解任劇にも冷静だったマッカーサーは、フィリピンと[[太平洋|南太平洋]]と[[オーストラリア]]をゆっくり回ろうとも考えたが、かつて参謀総長として仕えた元大統領のハーバート・フーヴァーから国際電話があり、既に共和党の実力者とも連絡を取り合っていたフーヴァーは「トルーマンやマーシャルや、やつらの宣伝屋が君の名声を汚さないうちに、一日も早く帰国したまえ」と忠告している。共和党は、マッカーサーが帰国後に[[アメリカ合衆国議会合同会議|両院合同会議]]で演説することを[[民主党 (アメリカ)|民主党]]支配であった上下両院で了承させ、さらにマッカーサーの解任問題を通じてトルーマン政権を弾劾することも考えていた{{sfn|メイヤー|1973|p=162}}。アメリカ本国の政権争いに担ぎ出されることとなったマッカーサーであったが、腹心であったGHQの[[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]]外交局長には本心をさらけ出しており、「(マッカーサーの)心を傷つけられるのは、大統領の選んだやり方にある。陸軍に52年も我が身を捧げたあと、公然たる辱めを受けるとはあまりに残酷である」とトルーマン対する不満を述べ、それを涙を浮かべながら聞いていたシーボルトは「彼(マッカーサー)のすることを目にし、言うことを聞いているのがこのときほどつらいことはなかった」と述べている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=338}}。
=== 帰国 ===
フーヴァーの忠告どおり直接帰国することとしたマッカーサーは、[[4月16日]]にリッジウェイに業務を引継いで[[東京国際空港]]へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰めかけ、『[[毎日新聞]]』と『[[朝日新聞]]』はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。マッカーサーも感傷に浸っていたのか、沿道の見送りを「200万人の日本人が沿道にびっしりと並んで手を振り」と自らの回顧録に誇張して書いている{{sfn|袖井|2004|p=422}}。しかし、沿道に並んだ学生らは学校からの指示による動員であったという証言もある<ref>[http://ironna.jp/article/2747 厚木の凱旋将軍 「マッカーサーは失禁していた」『歴史通』 2014年9月号] 2016年8月11日閲覧</ref>。
[[内閣総理大臣|首相]]の[[吉田茂]]は「貴方が、我々の地から慌ただしく、何の前触れもなく出発されるのを見て、私がどれだけ衝撃を受けたか、どれだけ悲しんだか、貴方に告げる言葉もありません」という別れを悲しむ手紙をマッカーサーに渡し、4月16日には衆参両議院がマッカーサーに感謝決議文を贈呈すると決議し、[[東京都議会]]や[[日本経済団体連合会]]も感謝文を発表している{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.7394}}。
マッカーサーは空港で日米要人列席の簡単な歓送式の後に、愛機[[バターン号]]で日本を離れた。同乗していたマッカーサーと一緒に辞任した[[コートニー・ホイットニー]]前[[民政局]]局長へ「日本をもう一度見られるのは、長い長い先のことだろうな」と語ったが{{sfn|袖井|2004|p=389}}、実際にマッカーサーが再度日本を訪れたのは[[1961年]]にフィリピンから独立15周年の記念式典に国賓として招かれた際、フィリピンに向かう途中で[[所沢陸軍飛行場|所沢基地]]に休憩に立ち寄り、帰りに[[横田飛行場|横田基地]]で1泊した時であったので、11年後となった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=397}}。しかしセレモニーもなく、ほとんどの日本人が知らないままでの再来日(最後の来日)であった。マッカーサーと副官らの49トンにも達する家具、43個の貨物、3台の自動車はアメリカ海軍の艦船が公費で東京から[[マンハッタン]]に輸送している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=375}}。
マッカーサーが帰国した後も、5月に入って[[第3次吉田内閣 (第1次改造)|吉田内閣]]は、マッカーサーに「名誉国民」の称号を与える「終身国賓に関する法律案」を閣議決定し、政府以外でも「[[#マッカーサー記念館|マッカーサー記念館]]」を建設しようという動きがあった。マッカーサーにこの計画に対する考えを打診したところ、ホイットニーを通じて「元帥はこの申し出について大変光栄に思っている」という返事が送られている{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.7433}}。
== 経歴(退任後) ==
[[ファイル:Douglas MacArthur speaking at Soldier Field HD-SN-99-03036.JPEG|thumb|退任演説を行うマッカーサー]]{{After float}}
=== 退任 ===
1951年[[4月19日]]、[[ワシントンD.C.]]の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|ウェストポイント]]に自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「'''[[老兵は死なず|老兵は死なず、ただ消え去るのみ]]'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|Old soldiers never die; they just fade away.}}</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=xrCwwqFLiKg&t=141s The Tragic Death Of General Douglas MacArthur] Grunge
</ref>」と述べ、有名になった。
元となった「歌」には何通りかの歌詞がある。要約すると
{{quotation|遠くにある古ぼけた食堂で、俺たちは1日3度、豚と豆だけ食う。ビーフステーキなんて絶対出ない。畜生、砂糖ときたら紅茶に入れる分しかない。だから、おれたちゃ少しずつ消えていくんだ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。二等兵様は毎日ビールが飲める、伍長様は自分の記章が大好きだ。軍曹様は訓練が大好きだ、きっと奴らはいつまでもそうなんだろう。だから俺たちはいつも訓練、訓練。消え去ってしまうまで。}}
というものである。
議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日には[[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]をパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その日ビルから降り注いだ紙吹雪やテープは、清掃局の報告によれば2,859トンにもなった。また、1942年にマッカーサーがコレヒドールで孤軍奮闘し国民的人気を博していた時に、コーンパイプやマッカーサーを模したジョッキなどのキャラクターグッズで儲けた業者が、また大量のマッカーサー・グッズを販売したが、飛ぶように売れた。その中にはマッカーサーの演説にも登場した軍歌「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」のレコードもあったが、5種類もの音源で販売された。中には1948年の大統領候補となって落選した際に売れ残っていた在庫をさばいた業者もいたという。住居としていたマンハッタンの高級ホテル「[[ウォルドルフ=アストリア]]」のスイートルームには15万通の手紙と2万通の電報と毎日3,000件の電話が殺到し、家族にも各界から膨大な数のプレゼントが送られてくるほど、マッカーサーの国民的人気は頂点に達した{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=359}}。
5月3日から、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーとの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側のリークにより[[ニューヨーク・タイムズ]]紙に、トルーマンとマッカーサーによる前年10月15日に行われたウェーク島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年に[[ピューリッツァー賞]]を受賞している{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.6323}}。この記事により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは削がれていた。
公聴会が始まると、マッカーサーは「ソ連は朝鮮戦争に深く関与していない」「中共が朝鮮半島から追い出されるくらいの敗北はソ連に大した影響は与えない」「極東地域のソ連軍にアメリカ軍と戦うだけの実力はなく、核兵器も劣っている、従ってソ連と戦うのなら今の方がよい、時間と共にアメリカの優位性は失われていく」など、自身のソ連への評価と情勢判断を雄弁に証言したが、統合参謀本部と議員にはソ連がたとえマッカーサーの分析どおりであったとしても超大国ソ連を刺激する覚悟はなく、マッカーサーの大胆な提案が現実離れしているという考えが大勢を占めていた。ブラッドレーはマッカーサーの提案を「我々を誤った場所で、誤った時期に、誤った敵との誤った戦争に巻き込むことになったであろう」と切り捨てている{{sfn|ペレット|2014|p=1117}}。また、マッカーサーのソ連への過小評価を聞き、大戦前に日本を過小評価して敗北したマッカーサーの前の過ちを思い出す議員も多かった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=364}}。しかし、雄弁に公聴会をリードしてきたマッカーサーも、民主党のブライアン・マクマーン上院議員からの、ニューヨーク・タイムズの記事に書かれたとおり「あなたは中国は参戦しないと確信していたのではなかったのか?」との質問を受けると、これまでのように否定することもできず「私は中国の参戦はないと思っていた」と認めざるを得なくなった。この白状によりマッカーサーの立場は弱くなっていき、マクマーンがたたみかけるように「将軍はアメリカと西側連合軍が西ヨーロッパでソ連軍の攻撃に耐えることができるとお思いか?」と質問すると、マッカーサーは「私の責任地域(極東)以外のことに巻き込まないでほしい。グローバルな防衛に関する見解はここで証言すべきことではない」と答えたが、[[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]上院議員からのその責任地域の「中国軍が鴨緑江以北に追いやられた場合、中国軍は再度国境線を突破し朝鮮半島に攻め込んではこないのか?」という質問に対しては、まともな返答を行うことができなかった。それまで専門家を自認し自説を雄弁に語っていた強気な姿勢は完全に失われ、政権側の民主党の容赦ない質問に一方的な守勢となっていった{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h2|p=|loc=kindle版, 下巻, 位置No.6432}}。
マッカーサーへの質疑は3日間にわたり、トルーマン政権はマッカーサーに対し勝利を収めたが、これでトルーマンが責任追及から逃れられたわけではなく、鴨緑江流域での敗北はマッカーサーと同様にトルーマン政権をも破壊し、この後民主党は政権を失うこととなる<ref>『Among friends: Personal letters of Dean Acheson』P.103</ref>。しかし、マッカーサー解任当時は「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」とタイム誌に書かれるほどの不人気さで、大統領再選を断念したトルーマンも、文民統制の基本理念を守り、敢然とマッカーサーに立ち向かったことが次第に評価されていき、在職時の不当な低評価が覆され、今日ではアメリカ国民から歴代大統領の中で立派な大統領の1人とみなされるようになっている{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h2|p=|loc=kindle版, 下巻, 位置No.6533}}。
この公聴会の期間中、出席者はマッカーサーの提案で昼休みも取らず、サンドイッチとコーヒーを会場に運ばせて昼食とし、休みなく質疑を続けた。特にマッカーサーは、質疑中には一度としてトイレにすら行かず、とある議員から「元帥は71歳なのに大学生のような膀胱を持っている」と変な感心をされている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=361}}。この3日間にわたる質疑中に、今日でもよく日本で引用される「中国に対しての海空封鎖戦略」や「日本人は12歳」証言もなされている([[#マッカーサーのアメリカ議会証言録]]を参照)。
この聴聞会の後は軍人として活動することはなく、事実上退役したが、アメリカ軍において元帥には引退の制度がないため、軍籍そのものは生涯維持された<ref>『朝日新聞』1964年4月6日夕刊記事</ref>。
=== 大統領選挙への意欲 ===
[[ファイル:Yoshida visits McArthur 1954.jpg|thumb|1954年、外遊中にウォルドルフ=アストリアのマッカーサーを表敬訪問した吉田茂]]{{After float}}
マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。[[テキサス州]]を皮切りに11州を廻ったが、行く先々で熱狂的な歓迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で[[1952年アメリカ合衆国大統領選挙|1952年の大統領選]]を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を繰り返した。しかし、後述する1951年5月3日から3日間行われた軍事外交共同委員会において第二次世界大戦での日本の行動を"自衛"と解釈できるような証言をしたこともあり、時が経つにつれ次第に聴衆や共和党からの支持を失っていった<ref name="P352" /><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【戦後70年~東京裁判とGHQ(5完)】老兵・マッカーサーはなぜ「日本は自衛の戦争だった」と証言したのか…|url=https://www.sankei.com/article/20151224-Q7ULKFL5EVLN5F77PS67ZZH5VM/|website=産経ニュース|accessdate=2020-01-11|date=2015-12-24}}</ref>。
1951年9月に[[サンフランシスコ]]で[[日本国との平和条約]]が締結されたが、その式場にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーにとことん冷淡であり、[[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・ルーズヴェルト]]の元[[大統領顧問 (ホワイトハウス)|大統領顧問]][[バーナード・バルーク]]などはトルーマン政権にマッカーサーにも式典への招待状を送るようにと強く進言していたが、[[ディーン・アチソン]]国務長官はそれを断っている。首席全権であった[[吉田茂]]が、マッカーサーと面談し平和条約についての感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省よりは「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。その頃、マッカーサーは全国遊説の旅の途中であったが、サンフランシスコに招待されなかったことについて聞かれると「おそらく誰かが忘れたのであろう」と素っ気なく答えている<ref name="P389"/>。
その後も相変わらずマッカーサーの政権批判は続いたが、英雄マッカーサーの凱旋を当初熱狂的に歓迎していた全米の市民も、[[1952年]]に入る頃には熱気も冷め始めており、[[ジャクソン (ミシシッピ州)|ジャクソン]]で行われた演説は反対の叫び声などで25回も演説が中断した、と『ニューヨーク・タイムズ』紙で報じられた。マッカーサーに対する共和党内の支持は広がらなかったが、大統領の座に並々ならぬ執着を見せ、同じく劣勢であった候補者[[ロバート・タフト]]と選挙協力の密約を行うなど最後の挽回を試み、7月の[[シカゴ]]であった共和党大会の基調演説のチャンスを与えられたが、その演説は饒舌で演説上手なマッカーサーのものとは思えない酷いもので、演説に集中できない聴衆が途中から私語を交わし始め、最後は演説が聞き取れないほどまでになった。マッカーサーも敗北を悟るとひどく落胆したものの、即座にニューヨークに戻り、結局共和党の大統領候補には元部下のアイゼンハワーが選出された{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=386}}。
大統領候補となったアイゼンハワーとマッカーサーは、共和党大会後の11月に6年ぶりに再会した。かつての上司の顔を立てる意味であったのか、アイゼンハワーからの会談の申し出であったが、マッカーサーはアイゼンハワーに自らが作成した14か条の覚書を手渡した。その内容は、[[ヨシフ・スターリン]]と首脳会談を開き、「東西ドイツ及び南北朝鮮の統一」「アメリカとソ連の憲法に交戦権否定の条項を追加」などを提案し、スターリンが尻込みするようであれば北朝鮮で核兵器を使用せよ、などという、大胆だという以外は何の価値もない提案であった。その後、アイゼンハワーは大統領本選にも勝利して第34代大統領に就任したが、アイゼンハワーらホワイトハウスも[[ペンタゴン]]もマッカーサーに意見を求めるようなことはなかった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=388}}。
=== 晩年 ===
マッカーサーはホテルウォルドルフ=アストリアに永住することにした。ホテル側も通常は1日133ドルする[[スイートルーム]]を月額450ドルで提供している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=375}}。そのスイートルームには巨大な[[屏風]]を始めとして、日本統治時に贈られた物品が大量に飾られていたが、中にはマニラホテルで日本軍に一時奪われた、父アーサーが明治天皇から送られた銀の[[菊花紋章]]入りの花瓶も飾られてあった<ref name="『読売新聞』1955年9月14日朝刊(14版)">『読売新聞』1955年9月14日朝刊(14版)</ref>。マッカーサーは、アメリカ陸軍元帥として終生に渡って年俸19,541ドルを受け取っていた他、移動の際は鉄道会社が大統領待遇並みの特別列車を準備し、地方に遊説に行けばその土地の最高級ホテルがスイートルームを何部屋も準備しているなど、優雅な生活ぶりであった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=375}}。
1952年にマッカーサーは[[レミントンランド]]社([[タイプライター]]及び[[コンピュータ]]メーカー)の会長に迎えられた。その後、レミントンランドは[[スペリー]]社に買収されたが、マッカーサーはスペリー社の社長に迎えられた{{Sfn|ブレア Jr.|1978|p=294}}(その後[[ユニシス]]と[[ハネウェル]]になる)。スペリ―社の主要取引先は[[ペンタゴン]]であり、マッカーサー招聘は天下りの意味合いも強く、年俸は10万ドルと高額ながら日常業務には何の役割も持たされず、週に3 -4日、4時間程度出社し国際情勢について助言するだけの仕事であった。その為時間に余裕があったが、関心ごとは野球やボクシングなどのスポーツ観戦に限られていた{{sfn|ペレット|2014|p=1126}}。
1955年のミズーリ号での降伏式典と同じ日に、日本から外相の[[重光葵]]がマッカーサーを訪ねた。マッカーサーは感傷的に日本占領時代を回想し、昭和天皇との初会談の様子を話し、[[極東国際軍事裁判]]は失敗であったと悔やんでいる{{sfn|袖井|1982|p=122}}。1960年には[[勲一等旭日桐花大綬章]]が贈られ「最近まで戦争状態にあった偉大な国が、かつての敵司令官にこのような栄誉を与えた例は、私の知る限り歴史上他に例がない」と大げさに喜んでみせた<ref name="P389">{{harvnb|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=389}}</ref>。
1961年にはフィリピン政府が独立15年式典の国賓としてマッカーサーを招待した。すっかり過去の人となり余生を過ごしていたマッカーサーにとって、自らがセンチメンタルジャーニーと名付けたように感傷旅行となった{{sfn|メイヤー|1973|p=197}}。フィリピン政府はマッカーサーをたたえて国民祝祭日を宣し、お祝いの行事が1週間続いた。すっかり涙もろくなっていたマッカーサーは、フィリピン陸軍の中隊点呼にマッカーサーの名前が残っていることを知って目元に涙を浮かべた{{sfn|メイヤー|1973|p=198}}。再建されたマニラホテルでの昼食会では、誰ともなしに『 {{仮リンク|レット・ミー・コール・ユー・スウィート・ハート|en|Let Me Call You Sweetheart}}』の大合唱となったが、それを聞いたマッカーサーは感激のあまり、普段は家族の前でしかやらないジーンとの抱擁を公衆の面前で行った<ref name="P397">{{harvnb|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=397}}</ref>。その後、マッカーサーはマニラ中央にあるルネタ公園で多数の観衆の前で演説を行ったが、耐えがたい気持ちで別れの言葉を告げた。「歳月の重荷に耐えかねて、わたしはもう二度と、あの誓いは果たせそうにありません。'''『I shall return』'''あの誓いを」実際にこれが最後のフィリピン訪問となった{{sfn|メイヤー|1973|p=198}}。
トルーマン、アイゼンハワー両政権はマッカーサーに対し冷淡な態度に終始したが、第35代大統領[[ジョン・F・ケネディ]]もマッカーサーに好意を抱いておらず、むしろ尊大で過大評価された存在との認識であった。太平洋戦争時、ケネディはマッカーサーが率いた連合軍南西太平洋方面軍に所属した魚雷艇{{仮リンク|PT-109 (魚雷艇)|label=PT109|en|Motor Torpedo Boat PT-109}}の艇長で、マッカーサーの配下であった。ケネディはかつての上官マッカーサーと1961年4月にニューヨークで会談したが、その席でケネディのマッカーサーに対する見方が大きく変わり、1961年7月には[[エアフォースワン]]を派してマッカーサーをホワイトハウスの昼食会に招待している{{sfn|メイヤー|1973|p=199}}。その席でケネディとマッカーサーは意気投合し、昼食が終わった後、3時間も話し込んでいる。特に泥沼化しつつあったベトナム情勢での意見交換の中で、マッカーサーは[[ロバート・マクナマラ]]国防長官らケネディ側近が主張している[[ドミノ理論]]をせせら笑い{{sfn|ペレット|2014|p=1132}}「アジア大陸にアメリカの地上軍を投入しようと考える者は頭の検査でもしてもらった方がいい」と自分が朝鮮半島で失敗した苦い経験を活かした忠告を行ったが、その的を射た忠告は顧みられることはなく、ケネディは「軍事顧問団」と名付けられた正規軍の派遣を増強するなど[[ベトナム戦争]]への介入を進め、さらに[[ケネディ大統領暗殺事件|ケネディの暗殺]]後、後任の[[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]大統領はそのままベトナムの泥沼にはまり込んでいった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=399}}。
=== 死去 ===
[[ファイル:Macarthurtomb.JPG|thumb|マッカーサー記念館内のマッカーサーと妻ジーンの墓。ジーンは享年101という長寿であった。]]{{After float}}
[[1962年]]にアメリカ上下両院は、マッカーサーに対する「議会およびアメリカ国民の感謝の意」の特別決議案を採択した。ケネディは[[アメリカ合衆国財務省]]に命じてマッカーサーに贈る特別の[[金メダル]]を作らせた。83歳の誕生日を迎える前にケネディはマッカーサーに最後の公務を依頼した。[[1964年]]に開催予定の[[1964年東京オリンピックのアメリカ合衆国選手団|東京オリンピックのアメリカ選手団]]内で、{{仮リンク|全米陸上競技連盟|en|USA Track & Field}}(USATF)と[[全米大学体育協会]](NCAA)が一部選手の出場資格問題を巡って激しく対立しており、1928年のアムステルダムオリンピックアメリカ選手団団長の際、同様な紛争を仲裁した経験を持つマッカーサーに、USATFとNCAAの仲裁を依頼したのだった。マッカーサーはケネディの依頼を快諾し、ほどなく問題は解決した{{sfn|メイヤー|1973|p=201}}。しかし、自らが指揮した日本復興の象徴的なイベントとなった[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]をマッカーサーが見ることはなかった。
1962年5月、マッカーサーは、自らの華々しい軍歴の最初の地となり、かつて自分が校長を務めたウェストポイント陸軍士官学校から、同校で最高の賞となる{{仮リンク|シルバヌスセイヤー賞|en|Sylvanus Thayer Award}}を受け、士官学校生徒を前に人生最後の閲兵と演説を行った{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=295}}。
{{quotation|老い先短い思い出で、私はいつもウエスト・ポイントに戻る。そこでは常に『義務・名誉・祖国』という言葉が繰り返しこだまする。今日は私にとって諸君との最後の点呼となる。しかし諸君、どうか忘れないでいただきたい、私が黄泉路の川を渡る時、最後まで残った心は士官候補生団と、士官候補生団、士官候補生団とともにあることを。では諸君、さらば!}}
[[1964年]]3月6日に、[[老衰]]による[[肝臓]]・[[腎臓]]の機能不全で[[ワシントンD.C.]]のウォルターリード陸軍病院に入院した。3月29日の手術は腸を2.4mも切り取るなど大がかりなもので、術後そのまま危篤となり、3月30日には腎機能がほとんど停止して3度目の手術を受けた。マッカーサーは危篤状態にもかかわらず、医師、看護婦、付き添い妻に昔話をして笑わせた。入院前、ジーンに「私は今まで何度となくあの死というならず者と対面してきた。だが、今度はついに奴も私をつかまえたようだ。しかし、わたしは頑張るからな」と宣言したとおり4週間に渡って死と戦ったが、4月3日に意識不明となり、[[4月5日]]午後2時39分に死去した{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=404}}。{{没年齢|1880|1|26|1964|4|5}}。
翌日、遺体はニューヨークのユニバーサルフュネラル教会へ移送されて告別式を行った後、4月8日にワシントンD.C.に戻されて[[アメリカ合衆国議会議事堂|連邦議会議事堂]]に安置された。そして翌4月9日に[[バージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]まで運ばれ、4月11日に聖ポール教会で大統領リンドン・ジョンソンほか数千人が参列して[[国葬]]が執り行われた。日本からは代表として[[吉田茂]]が出席した。ジョンソンは、全世界のアメリカ軍基地に19発の[[弔砲]]を撃つように命じた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=404}}。
== マッカーサーの日本占領統治手法 ==
=== 昭和天皇との会談 ===
{{see|昭和天皇・マッカーサー会見}}
[[ファイル:Macarthur hirohito.jpg|thumb|アメリカ大使館での昭和天皇(1945年[[9月27日]]フェレイス撮影3枚中の1枚)]]{{After float}}
[[昭和天皇]]とマッカーサーの会談については、様々な関係者から内容が伝えられている。当事者である昭和天皇は「男の約束」として終生語らなかったが、一方のマッカーサーは多くの関係者に話し、1964年に執筆した『回顧録』でも披露している。それによると昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」{{sfn|津島 訳|2014|p=427}}と発言したとあり、それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる<ref>吉田茂『回想十年』(初版 新潮社 全4巻 1957年-1959年/東京白川書院と中公文庫 各全4巻で再刊)</ref>。
しかし、マッカーサーの『回顧録』は多くの「誇張」「思い違い」「事実と全く逆」があり、自己弁明と自慢と自惚れに溢れており、史料的な価値は低いものとの指摘もあり<ref>「マッカーサー戦記・虚構と真実」『文藝春秋』1964年6月号特集記事</ref>、この昭和天皇とのやり取りについても、非喫煙者であった昭和天皇にマッカーサーがアメリカ製のタバコを奨め、昭和天皇が震えた手でタバコを吸ったと言っているなど{{sfn|津島 訳|2014|p=426}}事実として疑わしい記述もある{{sfn|豊下|2008|p=3}}。
マッカーサーから会談の内容を聞いた関係者はかなりの数に上るが、その内容が各人によってかなり異なっている。
一番身近な関係者は妻の[[ジーン・マッカーサー]]で、マッカーサー記念館事務局が1984年に41回にもわたってジーンに初のロングインタビューを行っているが、ジーンはこの日の様子を、日本人の使用人が天皇と顔を合わせないよう1か所に閉じ込めておけという指示がマッカーサーからあったことや、昭和天皇は丁寧で礼儀正しい人物と聞いており、最初に出会った人物に深くお辞儀をすると予想されるため、ドアを開けて天皇を迎えるのはフィリピン人のボーイではなく、マッカーサーの副官のボナー・フェラーズ准将と通訳の[[フォービアン・バワーズ]]少佐にしようという打ち合わせをしたことなど鮮明に記憶しており、証言の信頼性が高いと思われる。ジーンと側近軍医ロジャー・O・エグバーグは会見の場所となったサロンに続く応接間のカーテンの裏から、この会見をのぞき見していたが、距離が遠くて話はほとんど聞こえなかった。しかし終始和やかな雰囲気で会談は進められていたのを確認している<ref>ロジャー・エグバーグ 『裸のマッカーサー 側近軍医50年後の証言』 林茂雄・北村哲男共訳、図書出版社、1995年 P.254</ref>。天皇が帰った後、ジーンはマッカーサーから天皇の発言の内容を聞かされたが、『回顧録』とほぼ同じ内容であったという。また、ジーンと会いたいと[[香淳皇后|皇后]]が希望していたとのことであったが、ジーンにその気はなく、結局実現しなかった{{sfn|工藤|2001|pp=11-19}}。
マッカーサーと昭和天皇を一緒に出迎えた(会談には同席していない)マッカーサーの専属通訳で「[[歌舞伎]]を救った男」として有名な[[フォービアン・バワーズ]]少佐も、マッカーサーから聞いた話として「[[巣鴨拘置所|巣鴨刑務所]]にいる人にかわり、私の命を奪ってください。彼等の戦争中の行為は私の名においてなされた。責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください」と昭和天皇が語ったと証言している<ref>『憲法100年 天皇はどう位置づけられてきたか』NHK 1989年5月3日放送</ref>。
[[極東国際軍事裁判]]の首席検事[[ジョセフ・キーナン]]は[[田中隆吉]]元[[少将]]に「マッカーサー元帥に面会した際、元帥はこう言った。自分は昨年9月末に日本の天皇に面会した。天皇はこの戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたいと言った。もし天皇を裁判に付せば、裁判の法廷で天皇はそのように主張するであろう。そうなれば、この裁判は成立しなくなるから、日本の天皇は裁判に出廷させてはならぬ。私は元帥の言もあり、日本にきてからあらゆる方法で天皇のことを調査したが、天皇は[[平和主義|平和主義者]]であることが明らかとなった。……私としては、天皇を無罪にしたい。貴君もそのように努力してほしい」と言ったとされる<ref>「かくて天皇は無罪となった」『文藝春秋』1965年8月号</ref>。
1955年8月に渡米した当時の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[重光葵]]はアメリカでマッカーサーと会談したが、その席でのマッカーサーの発言として、「陛下はまず戦争責在の開題を自ら持ち出され、次のようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなわち「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい」これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで証言台に上ることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」という話があったと語っている<ref>『続 重光葵手記』732頁、伊藤隆・渡遺行男編(中央公論社、1988年)</ref>。重光は渡米前に[[御用邸|那須御用邸]]で昭和天皇に拝謁したが、その際に昭和天皇は「もし、マッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人との友情を忘れた事はない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝してその健康を祈っている」と伝えてほしいと重光に依頼している。マッカーサーは昭和天皇からの伝言を聞くと「私は日本天皇の御伝言を他のなによりも喜ぶものである。私は陛下に御出会いして以来戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。それにもかかわらず陛下のなされたことは未だかつて十分に世に知られて居らぬ。十年前平和再来以来欧州のことが常に書き立てられて陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には天皇陛下こそ新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます」と述べている<ref name="『読売新聞』1955年9月14日朝刊(14版)"/>。
以上、内容は証言ごとに異なるが“昭和天皇が全責任を負う”とした基本的な部分はマッカーサーの『回顧録』に沿った証言が多い。しかし中には、マッカーサーの政治顧問[[ジョージ・アチソン]]がマッカーサーから聞いた話として「裕仁がマッカーサーを訪問したとき、天皇はマッカーサーが待っていた大使邸の応接室に入ると最敬礼した。握手を交しあったあと、天皇は『私は合衆国政府が日本の宣戦布告を受け取る前に[[真珠湾]]を攻撃するつもりはなかったが、東条が私をだましたのだ。しかし私は責在を免れるためにこんなことをいうのではない。私は日本国民の指導者であり、国民の行動に責在がある』と言った」と[[東條英機]]にも責任があるとも取れる発言をしたとの証言もある<ref>泰郁彦『裕仁天皇 五つの決断』、84頁(講談社、1984年)</ref>。この証言は、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』が昭和天皇・マッカーサー会談の2日前に、単独インタビューを天皇に行い、その際に記者が「宣戦の詔書が[[真珠湾攻撃|真珠湾の攻撃]]を開始するために東條大将が使用した如く使用されるというのは、陛下のご意思でありましたか?」と質問したのに対し、天皇が「宣戦の詔書を東條大将が使用した如くに(奇襲攻撃のため)使用する意思はなかった」と答えたため、新聞紙上に「ヒロヒト、真珠湾奇襲の責任をトージョーにおしつける」という大見出しが躍ることとなった事実と符合しており、この際の昭和天皇の発言をもって、天皇はマッカーサーとの会見でも東條に責任を押し付けるような発言をしたと主張する研究者もいる{{sfn|豊下|2008|p=8}}。
一方で日本側は、昭和天皇の他に通訳として[[外務省]]の[[奥村勝蔵]]が同席した。その奥村が会談の内容を会談後にまとめ、外務省と[[宮内庁]]が保管していた『御会見録』が2002年に情報公開されたが、その中にはマッカーサーの『回顧録』にあるような昭和天皇の全責任発言はなく、戦争責任に関する発言としては「此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス」「私モ日本国民モ敗戦ノ現実ヲ十分認識シテ居ルコトハ申ス迄モアリマセン。今後ハ平和ノ基礎ノ上二新日本ヲ建設スル為、私トシテモ出来ル限リ、力ヲ尽シタイト思ヒマス」とかなりトーンダウンしている。これは、作家・[[児島襄]]が1975年に取材先非公表ですっぱ抜いたスクープとほぼ同じ内容であったが<ref>児島襄「天皇とアメリカと太平洋戦争」『文藝春秋』1975年11月号</ref>、奥村の後を継いで天皇の通訳を務めた外務省の[[松井明]]が、天皇とマッカーサー、リッジウェイとの会見の詳細を記述した『松井文書』<ref group="注釈">松井は出版する気であったが出版に至らず、遺族の意向により全面的な公開はされておらず、一部が『朝日新聞』で記事となった。</ref> によれば、松井が「天皇が一切の責任を負われるという発言については、事の重大さを顧慮し自分の判断で記録から削除した」と奥村から直接聞いたと記述している{{sfn|豊下|2008|p=90}}。
また、この会見に同行した(会見の場に同席はしていない)[[侍従|侍従長]]・[[藤田尚徳]]の著書『侍従長の回想』によれば、「外務省でまとめた会見の模様」が便箋5枚にまとめられてきたが、そのまとめによると昭和天皇の発言は「敗戦に至った戦争の、色々な責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私は貴方にお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」であったという。この便箋は昭和天皇の御覧に供したが、そのまま藤田の手元には返ってこなかったとのことであった<ref>[[藤田尚徳]] 『侍従長の回想』 [[中公文庫]]、1987年</ref>。ただし、この記述は外務省公開の「御会見録」の内容とは一致しないため、違う資料を引用した可能性も指摘されている{{sfn|豊下|2008|p=28}}。
いずれにしても、昭和天皇との第1回会談の後に、マッカーサーの天皇への敬愛の情は深まったようで、通訳の奥村勝蔵によれば第1回会談の際には天皇を「{{lang|en|You}}」と呼び、奥村に通訳を求める時も「{{lang|en|Tell The Emperor}}(天皇に告げよ)」と高圧的だったが、その後は天皇を呼ぶときは「{{lang|en|Your Majesty}}(陛下)」と尊厳を込めて呼ぶようになったと証言している{{sfn|豊下|2008|p=27}}。
そしてマッカーサーは、1946年1月25日に[[アメリカ合衆国陸軍省|米陸軍省]]宛てに天皇に関する長文の極秘電文を打ったが、その内容は「天皇を戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるであろう。その結果もたらされる混乱を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば日本国家は分解する」「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地帯や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するといった希望はことごとく消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるであろう」「これらの事態が勃発した場合、100万人の軍隊が半永久的に駐留し続けなければならない」とワシントンを脅す内容で、アメリカ政府内での天皇の戦犯問題は、この電文により不問との方針で大方の合意が形成された。救われたのは昭和天皇ばかりでなく、天皇なしでは平穏無事な占領統治は不可能だったマッカーサーも救われたことになり、この会談の意義は極めて大きかったといえる{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.1490-1514}}。
マッカーサーが天皇の権威を日本統治に利用したように、日本側も昭和天皇の身の安全の保障と、民主主義国家日本の象徴(英語 symbol の訳語である)としての[[天皇制]]の存続のためにマッカーサーや進駐軍を利用すべく懐柔した。日本政府や[[皇室]]は、アメリカ人の[[貴族]]的な華麗と虚飾を好む性質を見抜くと、マッカーサーや進駐軍の最上層部に宮中の優雅な行事への招待状を定期的に送った。その行事とは皇居での花見、蛍狩り、竹の子狩り、伝統的な武道の御前試合などであったが{{sfn|ダワー|2004|p=39}}、特にアメリカ人を喜ばせたのは皇居で行われる鴨猟であった。皇室の鴨猟はアメリカ人たちがする銃猟ではなく、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網で飛び立つ鴨を捕らえるという猟の手法であり<ref>[https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/gaikodan/gaikodan01.html 宮内庁HP 「国際親善」「在日外交団の接遇」「鴨の捕獲・鴨場の接遇」]</ref>、宮廷らしい優雅さが、連合軍の高官や政府要人たちに好まれた。マッカーサー本人は参加しなかったが、妻のジーンや子供[[アーサー・マッカーサー4世]]は喜々として参加した。また、多くのGHQの高官の他、東京裁判の関係者[[ウィリアム・ウェブ]]裁判長や[[ジョセフ・キーナン]]首席検事なども喜んで参加し、日本での忘れがたい思い出となった。そして宮中の行事に参加したアメリカ人らには皇室の菊の紋章つきの引き出物も贈られた。GHQやアメリカのマスコミが日本の「アメリカ化」を得意となって誇っている間に、皇室を中心とする日本人は静かで巧みにアメリカ人を日本化して目的を達しようとしていたのである{{sfn|ダワー|2004|pp=40-41}}。そして昭和天皇の身の安全と天皇制の存続をはかるというアメリカと日本の共同作業は最終的に功を奏することとなった{{sfn|ダワー|2004|p=39}}。
=== マ元帥人気 ===
占領当時、マッカーサーは多くの日本国民より「マ元帥」(新聞記事、特に見出しではスペースの節約のためにこうした頭文字による略称を採る場合があり、それが読者の口語にも移植したものと考えられる)と慕われ、絶大な人気を得ていた。GHQ総司令部本部が置かれた[[第一生命館]]の前は、マッカーサーを見る為に集まった多くの群衆で賑わっていた<ref>[http://www.matsuyama-syobou.com/w10/m/m01/m01q.htm## 中島茂の点描 マッカーサー 2016年5月10日閲覧]</ref><ref group="注釈">手塚治虫の漫画『どついたれ』でマッカーサーを恨む山下哲が、第一生命館前の人ごみに紛れてマッカーサーを[[暗殺]]しようとする描写がある。</ref>。[[日本の降伏|敗戦]]によりそれまでの価値観を全て否定された[[日本人]]にとって、マッカーサーは征服者ではなく、新しい強力な指導者に見えたのがその人気の要因であるとの指摘や{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=78}}、「戦いを交えた敵が膝を屈して和を乞うた後は、敗者に対して慈愛を持つ」というアメリカ軍の伝統に基づく戦後の食糧支援などで、日本国民の保護者としての一面が日本人の心をとらえた、という指摘があるが<ref>『日米戦争と戦後日本』 P.177</ref>、自然発生的な人気ではなく、自分の人気を神経質に気にするマッカーサーの為に、GHQの[[民間情報教育局]](CIE)が仕向けたという指摘もある{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.3739}}。
マッカーサーとGHQは戦時中の日本軍捕虜の尋問などで、日本人の扱いを理解しており、公然の組織として日本のマスコミ等を管理・監督していたCIEと、日本国民には秘匿された組織であった[[民間検閲支隊]](CCD)を巧みに利用し、硬軟自在に日本人の思想改造・行動操作を行ったが、もっとも重要視されたのがマッカーサーに関する情報操作であった{{sfn|山本|2013|p=199}}。CIEが特に神経をとがらせていたのは、マッカーサーの日本国民に対する[[イメージ戦略]]であり、マッカーサーの存在を光り輝くものとして日本人に植え付けようと腐心していた。例えばマッカーサーは老齢でもあり前髪の薄さをかなり気にしていたため、帽子をかぶっていない写真は「威厳を欠く」として新聞への掲載を許さなかった。また、執務室では[[老眼鏡]]が必要であったが、眼鏡をかけた姿の撮影はご法度であった{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.6777}}。
写真撮影のアングルに対しては異常に細かい注文がつき、撮影はできればマッカーサー自身が、その風貌に自信がある顔、姿の右側からの撮影が要求され、アメリカ軍機関紙・[[星条旗新聞]]のカメラマンはひざまずいて、下からあおって撮影するように指示されていた{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=79}}{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.6777}}。
日本人によるGHQ幹部への贈答は日常茶飯事であったが、マッカーサーに対する贈答についての報道は「イメージを損ねる」として検閲の対象になることもあった。例えば、「[[埼玉県]]在住の画家が、同県選出の山口代議士と一緒にGHQを訪れ、マッカーサーに自分の作品を贈答した」という記事は検閲で公表禁止とされている<ref>『読売新聞』埼玉版 1951年4月12日</ref>。
マッカーサーへの非難・攻撃の記事はご法度で、[[時事通信社]]が「マッカーサー元帥を神の如く崇め立てるのは日本の民主主義のためにならない」という社説を載せようとしたところ、いったん検閲を通過したものの、参謀第2部(G2)部長の[[チャールズ・ウィロビー]]の目に止まり、既に50,000部印刷し貨車に積まれていた同紙を焼却するように命じている<ref name="P175">{{harvnb|袖井|1982|p=175}}</ref>。
一方で賛美の報道は奨励されていた。ある日、第一生命館前で日本の女性がマッカーサーの前で平伏した際に、マッカーサーはその女性に手を差し伸べて立ち上がらせて、塵<!--ちり-->を払ってやった後に「そういうことはしないように」と女性に言って聞かせ、女性が感激したといった出来事や、同じく第一生命館で、マッカーサーがエレベーターに乗った際に、先に乗っていた日本人の大工が遠慮して、お辞儀をしながらエレベーターを降りようとしたのをマッカーサーが止め、そのまま一緒に乗ることを許したことがあったが、後にその大工から「あれから一週間というもの、あなた様の礼節溢れるご厚意について頭を巡らしておりました。日本の軍人でしたら決して同じことはしなかったと思います」という感謝の手紙を受け取ったなど些細な出来事が、マッカーサー主導で大々的に報道されることがあった。特に大工の感謝状の報道については、当時の日本でマッカーサーの目論見どおり、広く知れ渡られることとなり、芝居化されたり、とある画家が『エレベーターでの対面』という絵画を描き、その複製が日本の家庭で飾られたりした{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=127}}。
しかし賛美一色ではアメリカ本国や特派員から反発を受け、ゆくゆくは日本人からの人気を失いかねないと認識していたマッカーサーは、過度の賛美についても規制を行っている。日本の現場の記者らは、その微妙なバランス取りに悩まされる事となった{{sfn|山本|2013|p=201}}。そのうちに日本のマスコミは、腫れ物に触らずという姿勢からか自主規制により、マッカーサーに関する報道はGHQの公式発表か、CIEの先導で作られた[[日本外国特派員協会|外国特派員協会]]に所属する外国のメディアの記者の配信した好意的な記事の翻訳に限ったため、マッカーサーのイメージ戦略に手を貸す形となり、日本国民のマッカーサー熱を大いに扇動する結果を招いた<ref name="P175"/>。
GHQはマッカーサーの意向により、マッカーサーの神話の構築に様々な策を弄しており、その結果として多くの日本国民に、マッカーサーは天皇以上のカリスマ性を持った「碧い目の大君」と印象付けられた。その印象構築の手助けとなったのは、昭和天皇とマッカーサー初会談時に撮影された、正装で直立不動の昭和天皇に対し、開襟の軍服で腰に手を当て悠然としているマッカーサーの写真であった{{sfn|山本|2013|p=203}}。
=== マッカーサーへの50万通の手紙 ===
マッカーサーのところに送られてくる日本の団体・個人から寄せられた手紙は全て英訳されて、重要なものはマッカーサーの目に通され、その一部が保存されていた{{sfn|山本|2013|p=200}}。
その手紙の一部の内容が[[袖井林二郎]]の調査により明らかにされた。ただし手紙の総数については、連合軍翻訳通信班(ATIS)の資料(ダグラス・マッカーサー記念館所蔵)で1946年5月 -1950年12月までに受け取った手紙が411,816通との記載があり、袖井は終戦から1946年4月までに受け取った手紙を10万通と推定して合計50万通としているが{{sfn|袖井|2002|p=12}}、CIEの集計によれば、終戦から1946年5月末までに寄せられた手紙は4,600通に過ぎず、合計しても50万通には及ばない<ref name="『敗戦 占領軍への50万通の手紙』P.22">『敗戦 占領軍への50万通の手紙』P.22</ref>。また手紙の宛先についても、マッカーサー個人宛だけではなく、GHQの各部局を宛先とした陳情・請願・告発・声明の他に、地方軍政を司った地方軍政部<ref>[http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_06-01/shishi_06-01-01-02-02.htm 函館市史 通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み アメリカ軍による軍政開始 P64-P66] 2016年5月10日閲覧</ref> を宛先とした手紙も相当数に上っている<ref name="『敗戦 占領軍への50万通の手紙』P.22"/>。
マッカーサーやGHQ当局への日本人の投書のきっかけは、1945年8月の終戦直後に[[東久邇宮稔彦王]]総理大臣が国民に向けて「私は国民諸君から直接手紙を戴きたい、嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でも何でも宜しい。私事でも結構だし公の問題でもよい…一般の国民の皆様からも直接意見を聞いて政治をやっていく上の参考としたい」と新聞記事を使って投書を呼び掛けたことにあった。その呼び掛けにより、[[東久邇宮内閣]]への投書と並行して、マッカーサーやGHQにも日本人からの手紙が届くようになった。しかし、当初はマッカーサーやGHQに届く手紙の数は少なく、1945年末までは800通足らずに過ぎなかった。しかし、11月頃には東久邇宮内閣に対する投書が激増し、ピーク時で一日1,371通もの大量の手紙が届くようになると、マッカーサーとGHQへの手紙も増え始め、東久邇宮内閣が早々に倒れると、日本政府に殺到していた手紙がマッカーサーやGHQに送られるようになった{{sfn|袖井|2002|p=9}}。マッカーサーやGHQに手紙が大量に届くような流れを作ったのは東久邇宮稔彦王であるが、日本国民はマッカーサーやGHQの意向で早々と倒れる日本の内閣よりも、日本の実質的な支配者であったマッカーサーやGHQを頼りとすることとなったのである。
マッカーサーやGHQへの投書の内容は多岐に渡るが、未だ投書が少なかった1945年10月の投書の内容について、東京発UP電が報じている。報道によれば「マ元帥への投書、戦争犯罪人処罰、配給制度改訂等、1か月余りに300通」その内「日本語で書かれたものは100通」であり、「反軍国主義28通」「連合軍の占領並びにマ元帥への賛意25通」から「節酒と禁酒の熱望2通」まで、内容はおおまかに21通りに分れていた<ref>『毎日新聞』1946年10月15日</ref>。中でもGHQがもっとも関心を寄せた投書が天皇に関する投書であり、『ヒロヒト天皇に関する日本人の投書』という資料名を付され、[[極東国際軍事裁判]]の国際検察局(IPS)の重要資料として管理・保管されており、1975年まで秘密文書扱いであった{{sfn|袖井|2002|p=77}}。昭和天皇が[[人間宣言]]を行った以降は、日本国民の間で天皇制に対する関心が高まり、1945年11月から1946年1月までのGHQへの投書1,488通の内で、もっとも多い22.6%にあたる337通が天皇制に関するものであった。投書を分析したCIEによれば、天皇制存続と廃止・否定の意見はほぼ二分されていた、ということであったが、CIEは「このような論争の激しい主題については、体制を変革しようとしている方(天皇制廃止主張派)が体制を受け入れる方(存続派)より盛んに主張する傾向がある」と冷静に分析しており<ref>『敗戦 占領軍への50万通の手紙』P.152 -P.153</ref>、1946年2月に天皇制の是非について世論調査をしたところ、支持91% 反対9%で世論は圧倒的に天皇制存続が強かった{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=102}}。手紙も存続派の方が長文で熱烈なものが多く、中には「アメリカという国の勝手気儘さに歯を喰いしばって堪えていたが、もう我慢ができない」や「陛下にもし指一本でもさしてみるがいい、私はどんな危険をおかしてもマッカーサーを刺殺する」という過激なものもあった<ref>『敗戦 占領軍への50万通の手紙』P.152</ref>。
天皇制が[[日本国憲法]]公布により一段落すると、もっとも多い手紙は嘆願となり、当時の時代相をあらわした種々の嘆願がなされた{{sfn|袖井|2002|p=331}}。その内容は「英語を学びたい娘に就職を斡旋してほしい<ref>『マッカーサーへの100通の手紙』P.133</ref>」「村内のもめごとを解決してほしい{{sfn|袖井|2002|p=340}}」「[[アンゴラウサギ]]の飼育に支援を<ref>『マッカーサーへの100通の手紙』P.340</ref>」「国民体位の維持向上のため日本国民に[[納豆|糸引納豆]]の摂取奨励を{{sfn|袖井|2002|p=327}}」などと内容は数えきれないほど多岐に渡ったが、1946年後半から[[復員]]が本格化すると、その関連の要望・嘆願が激増した。1947年以降は復員関連の要望・嘆願の手紙が全体の90%にも達している<ref>NHK ETV特集「マッカーサーへの手紙」1999年5月24日、午後10時放映</ref>。特にソ連による[[シベリア抑留]]については、この頃より引き揚げ促進の為に全国にいくつもの団体が組織され<ref>『マッカーサーへの100通の手紙』P.186 -P.188</ref>、団体が抑留者の家族に対して「親よ、妻よ、兄弟よ、起ち上がりましょう。日本政府は当てになりません。占領軍総司令官マッカーサー元帥の人類愛に縋り、援助を要請する他はありません。」などと組織的にマッカーサーに対して投書を行うよう指示しており、特に児童から大量の投書が行われている{{sfn|富田武|2013|p=127}}。このような動きは満州や朝鮮半島に取り残された元居留民の家族でも行われており、[[公文書館|福岡共同公文書館]]には[[大分県]]の[[国民学校]]の生徒からマッカーサーに送られた「北鮮や満州のお父さんやお母さんや妹や皆な1日でも早く早く内地へかへして下さいたのみます」という投書が展示されている<ref>[http://kobunsyokan.pref.fukuoka.lg.jp/] 福岡共同公文書館公式サイト</ref>。
また、外地で進行していた[[BC級戦犯]]裁判の被告や[[受刑者]]の家族による助命・刑の軽減嘆願や、消息の調査要請などの投書も多く寄せられている{{sfn|袖井|2002|p=367}}。
従って、一部で事実誤認があるように、GHQに一日に何百通と届く手紙はマッカーサー個人へのファンレター{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=79}}だけではなく、占領軍の組織全体に送られた日本人の切実な陳情・請願・告発・声明が圧倒的だったが、{{仮リンク|ルシアス・D・クレイ|en|Lucius D. Clay}}が統治した[[西ドイツ]]では限定的にしか見られなかった現象であり、マッカーサーの強烈な個性により、日本人に、マッカーサーならどんな嘆願でも聞き入れてくれるだろうと思わせる磁力のようなものがあったという指摘もある{{sfn|袖井|2002|p=3}}。マッカーサー個人宛てに送られていた手紙には、「マッカーサー元帥の銅像をつくりたい」「あなたの子供をうみたい(ただし原書は存在せず)」「世界中の主様であらせられますマッカーサー元帥様」「吾等の偉大なる解放者マッカーサー元帥閣下」と当時のマッカーサーへの熱烈な人気や厚い信頼をうかがわせるものもあり<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080623/163401/?rt=nocnt 絶望よりも反省よりも『拝啓マッカーサー元帥様』 -我々は権力者を信じることで、何かを忘れようとする] 尹 雄大 2016年5月10日閲覧</ref>、他の多くの権力者と同様に、自分への賛美・賞賛を好んだマッカーサーは{{sfn|山本|2013|p=200}}、そのような手紙を中心に、気に入った自分宛ての手紙3,500通をファイルし終生手もとに置いており、死後はマッカーサー記念館で保存されているが{{sfn|袖井|2002|p=10}}、前述のとおり、そのような手紙は全体としては少数であった。マッカーサーは送られてきた手紙をただ読むのではなく、内容を分析し、世論や[[民主化]]の進行度を測る手段の一つとして重要視し占領政策を進めていくうえでうまく活用している<ref>『マッカーサーへの100通の手紙』P.8</ref>。
=== マッカーサー人気の終焉 ===
[[ファイル:Mac111.jpg|thumb|1951年4月11日、総司令官を更迭されて総司令部本部を後にするマッカーサー]]{{After float}}
[[検閲]]の中枢を担ったCCDが1949年10月に廃止され、マッカーサーが更迭されて帰国する頃は既にGHQの検閲は有名無実化しており{{sfn|山本|2013|p=174}}、マッカーサーに対しても冷静な報道を行う報道機関も出ていた。たとえば『[[北海道新聞]]』などは、マッカーサー離日の数日後に「神格化はやめよう」というコラムを掲載し「宗教の自由がある以上、いかなる神の[[氏子]]になるのも勝手だが、日本の民主化にとって大事な事は国民一人一人が自分自身の心の中に自立の『神』を育てることであろう」と[[宗教]]を例にして、暗にマッカーサーの盲目崇拝への批判を行っていた<ref>『北海道新聞』「時評」1951年4月22日夕刊</ref>。しかし、依然として多くのマスコミが自主規制によりマッカーサーへの表立った批判は避けており、同じマッカーサー離日時には「受持の先生に替られた女学生のように、マ元帥に名残を惜しむことであった。さすが苦労人の[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]]大使は帰京の日「今日は日本はマ元帥の思いでいっぱいだろうから私は何も言わぬ」と察しのよいことを言った」<ref>『朝日新聞』「[[天声人語]]」1951年4月21日</ref> や「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓からすくい上げてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。今年もみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八ヶ月のにわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。元帥!どうか、おからだをお大事に」<ref>『毎日新聞』1951年4月17日夕刊</ref><ref>『敗北を抱きしめて 下』 P.404</ref> などと別れを大げさに惜しむ報道をおこなう報道機関も多かった。
帰国したマッカーサーが、1951年5月3日から開催された上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会で「[[#日本人は12歳]]」証言を行ったことが日本に伝わると、この証言が日本人、特にマスコミに与えた衝撃は大きく、『朝日新聞』は5月16日付の新聞1面に大きく【マ元帥の日本観】という特集記事を掲載し「文化程度は“少年”」と日本人に対し否定的な部分を強調して報じた<ref>『朝日新聞』「天声人語」1951年5月16日朝刊1面</ref>。さらに社説で「マ元帥は[[アメリカ合衆国議会|米議会]]の証言で「日本人は勝者にへつらい、敗者を見下げる傾向がある」とか「日本人は現代文明の標準からみてまだ12歳の少年である」などと言っている。元帥は日本人に多くの美点長所があることもよく承知しているが、十分に一人前だとも思っていないようだ。日本人へのみやげ物話としてくすぐったい思いをさせるものではなく、心から素直に喜ばれるように、時期と方法をよく考慮する必要があろう」<ref>『朝日新聞』「天声人語」1951年5月17日</ref> と一転してマッカーサーに対し苦言を呈するなど、日本のマスコミにおけるマッカーサーへの自主規制も和らぎ、報道方針が変化していくに連れて、日本国民は、征服者であったマッカーサーにすり寄っていたことを恥じて、マッカーサー熱は一気に冷却化することとなった<ref>『敗北を抱きしめて 下』 P.407</ref>。
そのため、政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」は先送り「マッカーサー記念館の建設」計画はほぼ白紙撤回となり、[[三共 (製薬会社)|三共]]、日本光学工業(現[[ニコン]])、[[味の素]]の3社が「12歳ではありません」と銘打ち、[[タカジアスターゼ]]、[[ニコンのレンズ製品一覧|ニッコール]]、味の素の3製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった<ref>[http://www007.upp.so-net.ne.jp/snakayam/senden.html 特集 広告からみた占領下の日本-広告からうかびあがる占領下の日本の姿-] 2016年5月14日閲覧</ref>。
== 家族 ==
[[ファイル:Douglas MacArthur and family, 1950.jpg|thumb|1950年、妻ジーンと息子のアーサー・マッカーサー4世]]
=== 母親 ===
{{After float}}
マッカーサーの人格形成に大きな影響を与えたのが母メアリー・ピンクニー・ハーディ(通称ピンキー)であった。マッカーサーは成人になってからもピンキーから強く支配されており、いつまでも母親離れできない特異性から{{sfn|林茂雄|1986|p=213}}、マッカーサーは生涯にわたって[[マザーコンプレックス]]にとらわれていたという指摘もある{{sfn|袖井|2004|p=13}}{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.2552}}。マッカーサーは幼少の頃に軍の砦内で生活していたため、マッカーサーが6歳になるまでピンキーが勉強を教えていた。ピンキーはその間、マッカーサーが自分に依存する期間を長引かせるため、髪を長くカールし[[おさげ]]にさせ、スカートをはかせていた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=55}}。
その後、父親アーサーがワシントンに転勤したこともあり、マッカーサーは8歳に小学校に入学すると、その後はウェスト・テキサス軍人養成学校に進学し軍人への道を歩んでいく。しかしながらピンキーは依然強い影響を及ぼし続けた。その一例として、マッカーサーが13歳の時に小遣い稼ぎのために新聞売りのアルバイトをしたことが、他のアルバイトの学生らに販売実績でマッカーサーが負けたことを知ったピンキーは、「明日もう一度行って新聞を全部売ってきなさい。売りきるまで帰ってきてはいけません」と厳しく言いつけた。マッカーサーは翌日の夜になってから、服はボロボロであちこちに生傷をつくりながらも母親の言いつけどおり新聞を全部売り切ってから帰宅した{{sfn|ペレット|2014|p=40}}。ピンキーはこのような厳しい教育方針により、マッカーサーが生まれ持っていた勝利への強い執念を、さらに育成し磨いていった。マッカーサーはウェスト・テキサス軍人養成学校に入学した頃は普通の成績であったが、ピンキーに磨かれた負けん気で勉強に打ち込みだすと、旺盛な知識欲も刺激され、相乗効果で2年生に進学する頃には優等生となっていた{{sfn|ペレット|2014|p=41}}。
ピンキーの教育方針はマッカーサーを優秀な人間に育成した一方で、限りなく自己中心的で自閉的な人間にしていった。マッカーサーは自分の間違いを認めることができない人間となっていき、常に「世間の人間は自分を陥れようとしている」と被害妄想を抱くようになっていた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.2598}}。そのせいでマッカーサーはウェスト・テキサス軍人養成学校から進学したウエスト・ポイントで同級生の中で孤立しており、ウエスト・ポイントの卒業生の結婚式では、卒業生の団結力を反映してクラスメイト達の華やかな社交の場となるのが通例であるが、マッカーサーの結婚式にはたった1名の同級生しか出席しなかった。ピンキーの教育は、マッカーサーに純粋な同志的友情を構築する能力を欠乏させたが、マッカーサー自身も友人を必要とはしなかった{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.2580}}。
マッカーサーの私生活にもピンキーは多大な影響を及ぼしていた。ピンキーはマッカーサーの最初の結婚相手ルイーズを気に入らず、婚約したと聞いたときに傷心のあまりに病床についたほどであった。ルイーズが[[資産家]]であったため式は豪華なものであったが、ピンキーは招待を断り式には参列しなかった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=143}}。結婚してからもピンキーとルイーズのそりは合わず、ルイーズは後に離婚に至った原因として「義母(ピンキー)がいろいろ口出しするので、私たちの結婚は破局を迎えることとなった」と話している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=154}}。
マッカーサーは2度目のフィリピン勤務時に、当時で33歳年下で16歳のイザベルを愛人とし、自分がアメリカ本土に異動となると、イザベルをアメリカに呼び寄せた。ピンキーに知られたくなかったため、ピンキーと同居している自宅に呼び寄せることができずに、[[ジョージタウン (ワシントンD.C.)]]にアパートを借りそこで囲わねばならなかった<ref name="P288">{{harvnb|ペレット|2014|p=288}}</ref>。
ピンキーの目を盗んで密会しないといけないのと、マッカーサーが参謀総長に就任し多忙になったため、次第にマッカーサーとイザベルは疎遠となっていった。マッカーサーはイザベルをフィリピンに帰らせようとフィリピン行きの船のチケットを渡したが、イザベルはフィリピンに帰らずマッカーサーに金を無心してきたため、困ったマッカーサーはイザベルに経済的な自立を促そうと求人情報のチラシを送りつけている{{sfn|ペレット|2014|p=322}}。結局、イザベルはマッカーサーと敵対したジャーナリストに協力し、スキャンダルとなって世間やピンキーにイザベルとの関係を知られたくなかったマッカーサーの弱みに付け込み15,000ドルの慰謝料を受け取ることに成功している{{sfn|ペレット|2014|p=327}}。イザベルはその後もフィリピンに帰ることはなく、[[ハリウッド]]で[[俳優#性別での分類|女優]]となったが端役だけで大成することもなかった。その後も職を転々として[[1960年]]に自殺するという悲劇的な最期をとげている{{Sfn|シャラー|1996|p=40}}。
マッカーサーが軍事顧問に就任し3回目のフィリピン行きとなったとき、82歳となっていたピンキーが随行した。フィリピンに向かう船中で初めて会ったジーンをピンキーは即座に気に入り、ピンキーのお墨付きとなったジーンとマッカーサーは船中で意気投合し交際を開始、その後ジーンはマッカーサーの2番目の妻となった。ピンキーはその結婚を見ることなく1935年11月にフィリピンに到着した直後に亡くなっている{{sfn|ペレット|2014|p=371}}。マッカーサーの落ち込み方は相当なもので、フィリピンでマッカーサーの副官をしていたアイゼンハワーは「将軍の気持ちに何か月もの間、影響を及ぼした」と書き記したほどであった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=179}}。
=== その他 ===
兄の[[アーサー・マッカーサー3世]]は[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ海軍兵学校]]に入学し、[[海軍大佐]]に昇進したが、1923年に病死した。弟マルコムは1883年に死亡している。兄アーサーの三男である[[ダグラス・マッカーサー2世]]は[[駐日アメリカ合衆国大使]]となった。
1938年にマニラで妻ジーンとの間に出来た長男がいる。マッカーサー家は代々、家長とその長男がアーサー・マッカーサーを名乗ってきたが、兄アーサー・マッカーサー3世の三男がダグラス・マッカーサー2世になり、三男であるダグラスの長男がアーサー4世になっている。
その[[アーサー・マッカーサー4世]]は、日本在住の時にはマッカーサー元帥の長男として日本のマスメディアで取り上げられることもあった。マッカーサーとジーンは父親らと同様に軍人になることを願ったが、父の功績により無試験で入学できた陸軍士官学校には進まず、[[コロンビア大学]]音楽科に進み、ジャズ・ピアニストとなった。マッカーサーはアーサーの選択を容認したが、そのことについて問われると「私は母の期待が大変な負担であった。一番になるということは本当につらいことだよ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった」と答えたという{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=402}}。それでもマッカーサーという名前はアーサーにとっては負担でしかなかったのか、マッカーサーの死後は名前と住所を変え、[[グリニッジ・ヴィレッジ]]に集まる[[ヒッピー]]の一人になったと言われている<ref name="P171"/>。
== マッカーサーのアメリカ議会証言録 ==
総司令官解任後の[[1951年]][[5月3日]]から、マッカーサーを証人とした[[アメリカ合衆国上院|上院]]の軍事外交共同委員会が開催された。主な議題は「マッカーサーの解任の是非」と「極東の軍事情勢」についてであるが、日本についての質疑も行われている。
=== 日本が戦争に突入した目的は主として安全保障(security)によるもの ===
質問者より[[朝鮮戦争]]における[[中華人民共和国]](赤化中国)に対しての海空封鎖戦略についての意見を問われ、[[太平洋戦争]]での経験を交えながら下記のように答えている。
{{quotation|
{{lang|en|STRATEGY AGAINST JAPAN IN WORLD WAR II}}
<ref>p.57, [https://catalog.hathitrust.org/Record/001606736 Military situation in the Far East. pt. 1] Published: Washington, U. S. Govt. Print. Off., 1951.</ref>
{{ul
|{{lang|en|Senator Hicknlooper. Question No.5: Isn't your proposal for sea and air blockade of Red China the same strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?}}
{{ubl|style=margin-left: 1em;|(ヒックンルーパー上院議員・第5質問:赤化中国に対する海空封鎖というあなたの提案は、アメリカが太平洋において日本に勝利したのと同じ戦略ではありませんか?)}}
|<div {{lang属性|en}}>
General MacArthur. Yes, sir. In the Pacific we by-passed them. We closed in. …
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.
The raw materials -- those countries which furnished raw materials for their manufacture -- such countries as Malaya, Indonesia, the Philippines, and so on -- they, with the advantage of preparedness and surprise, seized all those bases, and their general strategic concept was to hold those outlying bastions, the islands of the Pacific, so that we would bleed ourselves white in trying to reconquer them, and that the losses would be so tremendous that we would ultimately acquiesce in a treaty which would allow them to control the basic products of the places they had captured.
In meeting that, we evolved an entirely new strategy. They held certain bastion points, and what we did was to evade those points, and go around them.
We came in behind them, and we crept up and crept up, and crept up, always approaching the lanes of communication which led from those countries, conquered countries, to Japan.
</div>
{{ubl|style=margin-left: 1em;|(マッカーサー将軍:はい。太平洋において、我々は、彼らを回避して、これを包囲しました。(中略)…日本は産品がほとんど何もありません、蚕(絹産業)を除いて。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)の必要に迫られてのことでした。原材料、すなわち、日本の製造業に必要な原材料、これを提供する国々である、[[マレーシア|マレー]]、[[インドネシア]]、フィリピンなどは、事前準備と奇襲の優位により日本が占領していました。日本の一般的な戦略方針は、太平洋上の島々を外郭陣地として確保し、我々がその全てを奪い返すには多大の損失が生じると思わせることによって、日本が占領地から原材料を確保することを我々に黙認させる、というものでした。これに対して、我々は全く新規の戦略を編み出しました。日本軍がある陣地を保持していても、我々はこれを飛び越していきました。我々は日本軍の背後へと忍び寄り、忍び寄り、忍び寄り、常に日本とそれらの国々、占領地を結ぶ補給線に接近しました。)}}
}}
|p.170|General Macarthur Speeches & Reports: 1908-1964<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=F-ILUHbWtncC General Macarthur Speeches & Reports: 1908-1964] 出版社: Turner Pub Co (2000/06)、ISBN 1563115891、ISBN 978-1563115899、発売日: 2000/06</ref>
}}
[[秦郁彦]]は、[[小堀桂一郎]]などの東京裁判批判を行う論客たちがこの発言を「(マッカーサーが太平洋戦争を)自衛戦争として認識していた証拠」として取り上げる論点であると指摘している<ref>{{Cite book|和書|author=秦郁彦|title=陰謀史観|publisher=新潮新書|year=2012|pages=136-137|ISBN=978-4-10-610465-7}}</ref>。小堀はこの個所を「これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分がsecurity([[安全保障]])の必要に迫られてのことだつたのです」と訳している<ref>『東京裁判 日本の弁明』小堀桂一郎編、講談社学術文庫、1995年8月</ref><ref>牛田久美解説、『正論』2004年1月号(原文41-65頁)</ref>。<!--ただしマッカーサーの発言の要旨は[[中華人民共和国]](赤化中国)に対しての海空封鎖戦略の有効性についてであり、日本の戦争目的を擁護する意図は含まれていない{{要出典|date=2020年7月}}。----->マッカーサーが、「絹産業以外には、国有の産物はほとんど何も無い」日本が、「安全保障の必要に迫られてのことだった」と証言した意味には、暗に米国の日本に対する厳しい経済封鎖が巻き起こした施策(戦争)であったという含意が看取できる<ref>{{Harvnb|水間|2013|p=8}}</ref>。
<!--{{要出典範囲|date=2015年6月19日 (金) 00:41 (UTC)|また[[朝鮮戦争]]が本格化した頃には、戦前の日本が担っていた満州地域での[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[南下政策]]や中国や朝鮮の共産主義ゲリラ勢力と対峙する役割を、日本軍に替わって米国の若者が担わざるをえなくなった事に対して「我々は戦う相手を間違えた。日本が1930年代に何をしようとしていたのか、ようやく理解できた」と部下に呟いたといわれている}}。----->
<!--
なおこの箇所には以下のような続きがあり、[[経済封鎖]]という非軍事的強制行為の外交上の有効性を証言している。
: The raw materials—those countries which furnished raw materials for their manufacture—such countries as Malaya, Indonesia, the Philippines, and so on—they, with the advantage of preparedness and surprises, seized all those bases, and their general strategic concept was to hold those outlying bastions, the islands of the Pacific, so that we would bleed ourselves white in trying to reconquer them, and that the losses would be so tremendous that we would ultimately acquiesce in a treaty which would allow them to control the basic products of the places they had captured.
: In meeting that, we evolved an entirely new strategy. They held certain bastion points, and what we did was to evade those points, and go around them.
: We came in behind them, and we crept up and crept up, and crept up, always approaching the lanes of communication which led from those countries, conquered countries, to Japan.
: By the time we had seized the Philippines, and Okinawa, we were enabled to lay down a sea and Navy blockade so that the supplies for the maintenance of the Japanese armed forces to reach Japan.
: The minute we applied that blockade, the defeat of Japan was a certainty.
: The ultimate result was that when Japan surrendered, they had at least 3,000,000 of as fine ground troops as I have ever known, that laid down their arms because they didn't have the materials to fight with, and they didin't have potential to gather them at the points of importance where we would attack. We hit them where they weren't; and, as a result, that magnificent army of theirs, very wisely surrendered.
: The ground forces that were available in the Pacific were probably at no time more than one-third of the ground forces that Japan had available; but, as I say, when we blockaded that way, when we disrupted their entire economic system, they could not supply the sinews to their troops that were necessary to keep them in active combat and , therefore, they surrendered.
: 原材料・それらのマラヤ、インドネシア、フィリピン、そして、それらの製造、そのような国の原料を内装の国はとても準備し、これらすべての拠点を押収した驚きの利点を備えたオン彼ら、そして彼らの一般的な戦略構想にはあった我々は彼らを征服しようとしている中で自分が白い血を流すであろうように、損失は、我々は最終的に彼らは基本的な製品を制御できるようになる条約に同意するであろうように、途方もないであろうと、それらの辺境要塞、太平洋の島々を保持場所彼らは捕獲した。
: 以下のことを満たし、我々は完全に新たな戦略を展開した。彼らは、特定の要塞ポイントを開催し、私たちがやったことは、これらのポイントを回避し、彼らの周りに行くことでした。
: 我々は、彼らの後ろに来て、私たちは忍び寄りと忍び寄り、と忍び寄り、常にそれらの国々から導か通信のレーンに接近し、日本に、国を征服した。
: 私たちは、フィリピン、[[沖縄県|沖縄]]を押収した時点で、我々は海と日本軍の保守のための物資が日本に到達するように、海軍の封鎖を置くために有効になっていました。
: 私たちはその封鎖を適用分は、日本の敗北は確実だった。
: 究極の結果は、日本が降伏したとき、彼らはと戦うために材料を持っていなかったので、自分の腕を置いた私が今まで知っていたとして罰金地上部隊としての少なくとも300万を持っていたということでした、そして、彼らは可能性を秘めているdidin't我々が攻撃する重要なポイントでそれらを収集します。彼らはありませんでしたどこに私たちは、それらをヒット、そして、結果として、彼らのその壮大な軍隊は、非常に賢明に降伏した。
: 太平洋に用意されていた地上部隊は時間がないのは、おそらくもっと日本が利用できる持っていた地上部隊の3分の1以上であった、我々は彼らの経済システム全体を破壊したとき、我々はそのように封鎖されたとき、私が言うように、彼らそれらアクティブ戦闘と、それゆえ、彼らは投降を保つために必要であった彼らの軍隊に元手を供給することができませんでした。--><!--酷い機械翻訳が付加されており、この状態では英文とも記述しておく品質にない。適訳を望む。-->
=== 日本人は12歳 ===
公聴会3日目は5月5日の午前10時35分から始まり<ref>p.204, [https://catalog.hathitrust.org/Record/001606736 Military situation in the Far East. pt. 1] Published: Washington, U. S. Govt. Print. Off., 1951.</ref>、午前12時45分から午後1時20分まで休憩を挟んだ後に<ref>p.234, [https://catalog.hathitrust.org/Record/001606736 Military situation in the Far East. pt. 1] Published: Washington, U. S. Govt. Print. Off., 1951.</ref>、マッカーサーの日本統治についての質疑が行われた。マッカーサーはその質疑の中で、人類の歴史において占領の統治がうまくいったためしがないが、例外として[[ガイウス・ユリウス・カエサル|ジュリアス・シーザー]]の占領と、自らの日本統治があるとし、その成果により一度民主主義を享受した日本がアメリカ側の陣営から出ていくことはないと強調したが、質問者のロング委員より[[ヴァイマル共和政]]で民主主義を手にしながら[[ナチズム]]に走ったドイツを例に挙げ、質問を受けた際の質疑が下記のとおりである<ref>『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史』 P.26</ref>。
{{quotation|
{{lang|en|RELATIVE MATURITY OF JAPANESE AND OTHER NATIONS}}
{{ul
|{{lang|en|Senator Long.}}(ロング上院議員)<div {{lang属性|en}}>
Germany might be cited as an exception to that, however. Have you considered the fact that Germany at one time had a democratic government after World War I and later followed Hitler, and enthusiastically apparently at one time.
</div>
{{Ubl|style=margin-left: 1em;|(しかしドイツはそれに対する例外として挙げられるかも知れません。ドイツは一度、第一次世界大戦の後に民主主義の政府を有したのに、その後、一時は熱狂的にヒトラーの後を追ったという事実をあなたは考慮しましたか?)}}
|{{lang|en|General MacArthur.}} (マッカーサー元帥)<div {{lang属性|en}}>
Well, the German problem is a completely and entirely different one from the Japanese problem. The German people were a mature race. If the Anglo-Saxon was say 45 years of age in his development, in the sciences, the arts, divinity, culture, the Germans were quite as mature.
The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of 12 as compared with our development of 45 years.
Like any tuitionary period, they were susceptible to following new models, new ideas. You can implant basic concepts there. They were still close enough to origin to be elastic and acceptable to new concepts.
The German was quite as mature as we ware. Whatever the German did in dereliction of the standards of modern morality, the international standards, he did deliberately.
He didn't do it because of a lack of knowledge of the world. He didn't do it because he stumbled into it to some extent as the Japanese did. He did it as a considered policy in which he believed in his own military might, in which he believed that its application would be a short cut to the power and economic domination that he desired.
Now you are not going to change the German nature. He will come back to the path that he believes is correct by the pressure of public opinion, by the pressure of world philosophies, by his own interests and many other reasons, and he, in my belief, will develop his own Germanic tribe along the lines that he himself believes in which do not in many basic ways differ from our own.
But the Japanese were entirely different. There is no similarity. One of the great mistakes that was made was to try to apply the same policies which were so successful in Japan to Germany, where they were not quite so successful,to say the least.
They were working on a different level.
</div>
{{ubl|style=margin-left: 1em;|(まぁ、ドイツの問題は日本の問題と完全に、そして、全然異なるものでした。ドイツ人は成熟した人種でした。アングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45歳の年齢に達しているとすれば、ドイツ人は同じくらい成熟していました。しかし日本人は歴史は古いにもかかわらず、教えを受けるべき状況にありました。'''現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のようなものです。'''他のどのような教えを受けている間と同様に、彼等は新しいモデルに影響されやすく、基本的な概念を植え付ける事ができます。日本人は新しい概念を受け入れる事ができるほど白紙に近く、柔軟性もありました。ドイツ人は我々と全く同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の国際的な規範や道徳を放棄したときは、それは故意によるものでした。ドイツ人は国際的な知識が不足していたからそのような事をしたわけではありません。日本人がいくらかはそうであったように、つい過ってやったわけでもありません。ドイツ自身の軍事力を用いることが、彼等が希望した権力と経済支配への近道であると思っており、熟考の上に軍事力を行使したのです。現在、あなた方はドイツ人の性格を変えようとはしないはずです。ドイツ人は世界哲学の圧力と世論の圧力と彼自身の利益と多くの他の理由によって、彼等が正しいと思っている道に戻っていくはずです。そして、我々のものとは多くは変わらない彼等自身が考える路線に沿って、彼等自身の信念でゲルマン民族を作り上げるでしょう。しかし、日本人はまったく異なりました。全く類似性がありません。大きな間違いの一つはドイツでも日本で成功していた同じ方針を適用しようとしたことでした。控え目に言っても、ドイツでは同じ政策でも成功していませんでした。ドイツ人は異なるレベルで活動していたからです。)
}}
}}|p.312|Military situation in the Far East. Corporate Author: United States.(1951)<ref>[https://catalog.hathitrust.org/Record/001606736 Military situation in the Far East. pt. 1] Published: Washington, U. S. Govt. Print. Off., 1951.</ref>}}
この発言が多くの日本人には否定的に受け取られ、日本におけるマッカーサー人気冷却化の大きな要因となった([[#マッカーサー人気の終焉]])。当時の日本人はこの発言により、マッカーサーから愛されていたのではなく、“昨日の敵は今日の友”と友情を持たれていたのでもなく、軽蔑されていたに過ぎなかったことを知ったという指摘がある<ref>『マッカーサーの二千日』1976年版 [[佐藤忠男]]巻尾解説文</ref>。
さらにマッカーサーは、同じ日の公聴会の中で「日本人は12歳」発言の前にも「日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。アメリカ人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって現れた時、日本人に強い印象を与えた」{{sfn|袖井|2004|p=392}}「それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、アメリカ人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である」などと日本人を幼稚と見下げて、「日本人は12歳」発言より強く日本人を侮辱したと取られかねない発言も行っていた<ref>『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史』 P.17</ref>。
また、自分の日本の占領統治をシーザーの偉業と比肩すると自負したり、「(日本でマッカーサーが行った改革は)イギリス国民に自由を齎した[[マグナ・カルタ]]、フランス国民に自由と博愛を齎した[[フランス革命]]、地方主権の概念を導入した我が国の[[アメリカ独立戦争]]、我々が経験した世界の偉大な革命とのみ比べることができる」と証言しており、マッカーサーは証言で、自身が日本で成し遂げたと考えていた業績を弁護していたという解釈もある{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.1252}}。
一方で、マッカーサーは「老兵は死なず……」のフレーズで有名な1951年4月19日の上下両院議員を前にした演説では「戦争以来、日本人は近代史に記録された中で最も立派な改革を成し遂げた」や「賞賛に足る意志と、学習意欲と、抜きんでた理解力をもって、日本人は戦争が残した灰の中から、個人の自由と人格の尊厳に向けた大きな建造物を建設した。政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、今や日本は地球上にある多くの自由国家と肩を並べており、決して再び世界の信頼を裏切る事はないであろう」と日本を称賛しており、「日本人は12歳」発言は日本人はドイツ人より信頼できることを強調したかっただけでマッカーサーの真意がうまく伝わらなかったという解釈や<ref>『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史』 P.35</ref>、マッカーサーと関係が深かった[[吉田茂]]のように「元帥の演説の詳細を読んでみると「[[自由主義]]や民主主義政治というような点では、日本人はまだ若いけれど」という意味であって「古い独自の文化と優秀な素質とを持っているから、西洋風の文物制度の上でも、日本人の将来の発展は頗る有望である」ということを強調しており、依然として日本人に対する高い評価と期待を変えていないのがその真意である」との好意的な解釈もある<ref>吉田茂『回想十年』第1巻 中公文庫 1998年</ref>。なぜマッカーサーが「12歳」と言って「13歳」でなかったのかは、英語の感覚で言えば12歳は「ティーンエイジャー」ではまだないということである。まだ精神年齢が熟しきっておらず、新しい事柄を受け入れることが可能だと強調しているのである。
=== その他 ===
この委員会では、他にも「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」と述べ、アジアにおける共産勢力の脅威を強調している<ref name=":0" />。
[[ラッセル・ロング]]からは「連合国軍総司令部は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と水を向けられたが、「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が[[枢軸国|敗戦国]]を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」と答えている。また、別の上院議員から[[日本への原子爆弾投下|広島・長崎の原爆被害]]を問われると、「熟知している。数は両地域で異なるが、'''虐殺'''はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えて、原爆投下の指示を出したトルーマンを暗に批判している<ref name=":0" />。
== マッカーサー記念館 ==
[[ファイル:MacArthur Memorial.jpg|thumb|left|upright|マッカーサー記念館]]{{After float}}
[[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]のノーティカスから東へ約400m行ったところにあるダウンタウンのマッカーサー・スクエアには、19世紀の市庁舎をそのまま記念館としたダグラス・マッカーサー記念館が立地している。館内にはマッカーサー夫妻の墓や、博物館、図書館が設けられている<ref>[http://www.macarthurmemorial.org/]. MacArthur Memorial.</ref>。博物館には軍関連品だけでなく、マッカーサーのトレードマークであった[[コーンパイプ]]などの私物も多数展示されている。また、[[伊万里焼|伊万里]]、[[九谷焼|九谷]]、[[薩摩焼|薩摩]]の[[磁器]]や[[七宝 (技法)#有線七宝|有線七宝]]など、マッカーサーが、離日にあたって皇室をはじめ各界から贈られた国宝級の持ち帰った日本の逸品も惜しげもなく展示されている<ref>[http://www.macarthurmemorial.org/museum.asp Museum]. MacArthur Memorial.</ref>。建物は「旧ノーフォーク市庁舎」として[[アメリカ合衆国国家歴史登録財|国家歴史登録財]]に指定されている<ref>[https://web.archive.org/web/20101117072108/http://www.dhr.virginia.gov/registers/RegisterMasterList.pdf Virginia Landmarks Register, National Register of Historic Places]. p.12. Virginia Department of Historic Resources, Commonwealth of Virginia. 2011年4月8日. (PDFファイル)</ref>。記念館の正面にはマッカーサーの銅像が立っている。
日本でもマッカーサー解任前後に「マッカーサー記念館」を建設する計画が発足した。この建設発起人には[[秩父宮雍仁親王|秩父宮]]、[[田中耕太郎]][[最高裁判所長官]]、[[金森徳次郎]][[国立国会図書館]]館長、[[野村吉三郎]]元駐米大使、[[本田親男]][[毎日新聞社|毎日新聞社長]]、[[長谷部忠]][[朝日新聞社|朝日新聞社長]]ら各界の有力者が名を連ねていた{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.7427}}。この施設は「マッカーサー神社」と呼称されていることがあるが<ref>『マッカーサーと日本占領』P.40</ref>、この計画は、マッカーサー在任中から「ニュー・ファミリー・センター」という団体が計画していた「青年の家」という青少年の啓蒙施設の建設計画を発展させたものであり、「元帥の功績を永遠に記念するため、威厳と美しさを備えた喜びと教養の殿堂にしたい」という趣旨の下で、記念館、公会堂、プール、運動施設、宿泊施設を整備するものであって、特に宗教色のない計画であった{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=140}}。
その後に当初の14名の発起人に加え、[[藤山愛一郎]][[日本商工会議所]]会頭、[[浅沼稲次郎]][[日本社会党|社会党]]書記長、[[安井誠一郎]][[東京都知事]]らも参加して「マッカーサー会館建設期成会」が発足、まずは総事業費4億5,000万円をかけて[[三宅坂]]の[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]跡に鉄筋コンクリートの3階建ビルを建てる計画で募金を募ったが、募金開始が「日本人は12歳」発言でマッカーサー熱が急速に冷却化していた1952年2月であり、60万円の宣伝費をかけて集まった募金はわずか84,000円と惨憺たるありさまだった{{sfn|袖井|1982|p=174}}。1年後には募金どころか借金が300万円まで膨らみ、計画は立ち消えになった<ref>『[[サンデー毎日]]』1953年6月28日号</ref>。他にも東京湾に「マッカーサー灯台」を建設し、降伏調印式の際に戦艦ミズーリが停泊した辺りを永遠に照らす計画や、また「マッカーサー記念館」や「マッカーサー灯台」の計画より前の1949年には[[浜離宮恩賜庭園|浜離宮]]に[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]と同じ高さのマッカーサーの銅像を建設しようとする「マッカーサー元帥銅像建設会」が発足していた。随筆家[[高田保]]にも委員就任の勧誘がなされるなど<ref>[http://books.salterrae.net/amizako/html4/takada_hyoutan3.html 高田保 第三ブラリひょうたん 銅像] 2016年1月6日閲覧</ref> 広い範囲に声がかけられ(ただし高田は委員就任を見送り)募金も開始されたが、これも他の計画と同じ時期に立ち消えになり、集まった募金の行方がどうなったか不明である<ref name="P171">{{harvnb|袖井|1982|p=171}}</ref>。
{{-}}
== 人物評 ==
[[ファイル:President Truman pinning medal on General MacArthur on Wake Island.jpg|thumb|ウェーク島の会談でマッカーサーに勲章を授与する[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]]]{{After float}}
マッカーサーの下で太平洋戦争を戦った[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]司令の{{仮リンク|ジョージ・ケニー|en|George Kenney}} 中将がマッカーサーについて「ダグラス・マッカーサーを本当に知る者はごくわずかしかいない。彼を知る者、または知っていると思う者は、彼を賛美するか嫌うかのどちらかで中間はあり得ない」と評しているように、評価が分れる人物である{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=174}}。
マッカーサーにとって忠誠心とは部下から一方的に向けられるものとの認識であり、自分が仕えているはずの大統領や軍上層部に対する忠誠心を持つことはなかったため{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.2747}}、マッカーサーに対する歴代大統領や軍上層部の人物評は芳しいものではなかった。
ルーズベルトは「マッカーサーは使うべきで信頼すべきではない」「我が国で最も危険な人物2人は[[ヒューイ・ロング]]とダグラス・マッカーサーだ」<ref>『The Years of MacArthur, Volume 1: 1880-1941』P.411</ref> とマッカーサーの能力の高さを評価しながら信用はしてはおらず、万が一に備えてマッカーサーが太平洋戦争開戦前に軍に提出した『日本軍が我が島嶼への空襲能力を欠くため、フィリピンは保持できる』という報告書を手もとに保管していた{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.2865}}。また、政治への進出にマッカーサーが強い野心を抱いているのを見抜いて「ダグラス、君は我が国最高の将軍だが、我が国最悪の政治家になると思うよ」 と釘を刺したこともあった{{sfn|津島 訳|1964|p=96}}。
更迭に至るまで激しくマッカーサーと対立していたトルーマンの評価はもっと辛辣で、就任間もない1945年に未だ直接会ったこともないマッカーサーに対し「あのうぬぼれやを、あのような地位につけておかなかればならないとは。なぜルーズベルトはマッカーサーをみすみす救国のヒーローにしたてあげたのか、私にはわからない…もし我々にマッカーサーのような役者兼ペテン師ではなく[[ジョナサン・ウェインライト|ウェインライト]]がいたならば、彼こそが真の将軍、戦う男だった<ref>『Off the Record: The Private Papers of Harry S. Truman』P.47</ref>」と否定的な評価をしていた。しかしマッカーサーの圧倒的な実績と人気に、全く気が進まなかったがGHQの最高司令官に任命している{{sfn|ペレット|2014|p=918}}。トルーマンのマッカーサーへの評価は悪化する事はあっても改善することはなく、1948年にはマッカーサーを退役させ、西ドイツの軍政司令官{{仮リンク|ルシアス・D・クレイ|en|Lucius D. Clay}}をGHQ最高司令官の後任にしようと画策したこともあったが、トルーマンの打診をクレイは断り実現はしなかった<ref>『Lucius D. Clay: An American Life』P.525</ref>。
一方で、マッカーサーもトルーマンを最後まで毛嫌いしていた。更迭された直後は「あの小男には私を首にする勇気があった。だから好きだよ」「私の扱い方から見ると、あの男はいい[[フルバック]]になれるな」と知り合いに語るなど寛容な態度で余裕も見せていたが、1950年にトルーマンが出版した回顧録で、朝鮮戦争初期の失態はマッカーサーの責任であると非難されているのを知ると激怒して{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=390}}、トルーマンの回顧録に対して[[ライフ (雑誌)|ライフ]]誌上で反論を行ない、非公式の場では「いやしいチビの道化師、根っからの嘘つき」と汚い言葉で罵倒していた{{sfn|ペレット|2014|p=1128}}。
朝鮮戦争において、当初は参謀本部副参謀長としてマッカーサーの独断専行に振り回され、後にマッカーサーの後任として国連軍を率いたリッジウェイはマッカーサーの性格について、「自分がやったのではない行為についても名誉を受けたがったり、明らかな自分の誤りに対しても責任を否認しようという賞賛への渇望」「多くの将兵の前で常にポーズをとりたがる、人目につく立場への執着」「天才に必要な孤独を愛する傾向」「論理的な思考を無視してなにものかに固執する、強情な性質」「無[[誤謬]]の信念を抱かせた、自分自身に対する自信」と分析していた。一方で、マッカーサーの問題の核心を明らかにする能力と、目標に向かって迅速・果敢に行動する積極性に対して、他の人はマッカーサーを説き伏せたり、強く反駁することは困難であって、マッカーサーに疑いを抱くものは逆に自分自身を疑わせてしまうほど真に偉大な将帥の一人であったと賞賛もしている{{sfn|リッジウェイ|1976|p=171}}。
上司にあたる人物よりの評価が厳しい一方で、部下らからの評価や信頼は高かった。GHQでマッカーサーの下で働いた極東空軍司令の{{仮リンク|ジョージ.E.ストラトメイヤー|en|George E. Stratemeyer}} 中将は「アメリカ史における最も偉大な指導者であり、最も偉大な指揮官であり、もっとも偉大な英雄」{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=14}}と称え、第10軍司令官[[エドワード・アーモンド]]中将は「残念ながら時代が違うので、[[ナポレオン・ボナパルト]]や[[ハンニバル]]ら有史以来の偉大な将軍らと同列に論ずることはできないが、マッカーサーこそ20世紀でもっとも偉大な軍事的天才である」とライフ誌の取材に答えている{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.1194}}。
特にフィリピン時代からマッカーサーに重用されていた『バターン・ギャング』と呼ばれたGHQ幕僚たちのマッカーサーに対する評価と信頼は極めて高く、その内の一人であるウィロビーは、マッカーサーに出した手紙に「あなたに匹敵する人物は誰もいません、結局人々が愛着を覚えるのは偉大な指導者、思想ではなく、人間です。…紳士(ウィロビーのこと)は大公(マッカーサー)に仕えることができます。そのような形で勤めを終えることができれば本望です」と書いたほどであった<ref>『Origins of the Korean War, Vol. 1: Liberation and the Emergence of Separate Regimes, 1945-1947』 P.106</ref>。
しかし、ウィロビーらのように盲目的に従ってくれているような部下であっても、マッカーサーは部下と手柄を分かち合おうという認識はなく、部下がいくらでも名声を得るのに任せたアイゼンハワーと対照的だった{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.2737}}。例えば、マッカーサーの配下で第8軍を指揮した[[ロバート・アイケルバーガー]]大将が、[[サタデー・イブニング・ポスト]]などの雑誌にとりあげられたことがあったが、これがマッカーサーの不興を買い、マッカーサーはアイケルバーガーを呼びつけると「私は明日にでも君を大佐に降格させて帰国させることが出来る。分っているのか?」と叱責したことがあった{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.2747}}。叱責を受けたアイケルバーガーは「作戦勝報に自分の名前が目立つぐらいならポケットに生きた[[ガラガラヘビ属|ガラガラヘビ]]を入れてもらった方がまだましだ」と部下の広報士官に語っている{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.2742}}。
マッカーサーの指揮下で上陸作戦の指揮を執ったアメリカ海軍第7水陸両用部隊司令{{仮リンク|ダニエル・バーベイ|en|Daniel E. Barbey}}少将は、海軍の立場から、そのようなマッカーサーと陸軍の部下将官との関係を冷静に観察しており、「マッカーサーが自分の側近たちと親しい仲間意識をもつことは決してなかった。彼は尊敬されはしたが、部下の共感と理解を得ることは無かったし、愛されもしなかった。彼の態度はあまりにもよそよそしすぎ、その言動はもちろん、服装に至るまで隙が無さ過ぎた」と評している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=14}}。
=== マッカーサーとアイゼンハワー ===
マッカーサーを最もよく知る者の1人が7年間に渡って副官を勤めたアイゼンハワーであった。アイゼンハワーはマッカーサー参謀総長の副官時代を振り返って、「マッカーサー将軍は下に仕える者として働き甲斐のある人物である。マッカーサーは一度任務を与えてしまうと時間は気にせず、後で質問することもなく、仕事がきちんとなされることだけを求められた」「任務が何であれ、将軍の知識はいつも驚くほど幅広く、概ね正確で、しかも途切れることなく言葉となって出てきた」「将軍の能弁と識見は、他に例のない驚異的な記憶力のたまものであった。演説や文章の草稿は、一度読むと逐語的に繰り返すことができた」と賞賛している{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=163}}。アイゼンハワーは参謀総長副官としての公務面だけでなく、マッカーサーが、元愛人イザベルに和解金として15,000ドルを支払ったときには、同じ副官の{{仮リンク|トーマス・ジェファーソン・デービス|en|Thomas Jefferson Davis}}大尉と代理人となってイザベル側と接触するなど、公私両面でマッカーサーを支えている{{Sfn|シャラー|1996|p=39}}。
しかしアイゼンハワーは、マッカーサーの側近として長年働きながら、「バターン・ギャング」のサザーランドやホイットニーのように、マッカーサーの魅力に絡めとられなかった数少ない例外であり、フィリピンでの副官時代は、「バターン・ギャング」の幕僚らとは異なり、マッカーサーとの議論を厭わなかった{{sfn|ペレット|2014|p=410}}。
アイゼンハワーのマッカーサーに対する思いの大きな転換点となったのが、マッカーサーが{{仮リンク|リテラリー・ダイジェスト|en|The Literary Digest}} という雑誌の記事を鵜呑みにし、[[1936年アメリカ合衆国大統領選挙]]でルーズベルトが落選するという推測を広めていたのをアイゼンハワーが止めるように助言したのに対し、マッカーサーは逆にアイゼンハワーを怒鳴りつけたことであった。この日以降、アイゼンハワーはマッカーサーの下で働くのに辟易とした素振りを見せ、健康上の理由で本国への帰還を申し出たが、アイゼンハワーの実務能力を重宝していたマッカーサーは慌てて引き留めを図っている{{sfn|ペレット|2014|p=412}}。両者の関係を決定づけたのは、この後に起こった、マッカーサー独断でのフィリピン軍によるマニラ行進計画がケソンの怒りを買ったため、アイゼンハワーら副官に責任転嫁をした事件であり([[#フィリピン生活]])、アイゼンハワーはこの事件で「決して再び、我々はこれまでと同じ温かい、心からの友人関係にはならなかった」と回想している<ref>『アイゼンハワー』P.79</ref>。
この後、連合国遠征軍最高司令官、[[アメリカ陸軍参謀総長]]と順調に経歴を重ねていくアイゼンハワーは、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に「会ったところじゃないですよ、奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と総括したとも伝えられている{{sfn|ペレット|2014|p=417}}{{sfn|ハルバースタム|2012|ref=h1|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.6777}}。
ただ、当時のアメリカの一部マスコミが報じていた程は両者間に強い確執はなかったようで、アイゼンハワーは参謀総長在任時に何度もマッカーサーに意見を求める手紙や、参謀総長退任時には、マッカーサーとアイゼンハワーの対立報道を否定する手紙を出すなど、両者は継続して連絡を取り合っていた{{sfn|ペレット|2014|p=970}}。しかし、アイゼンハワーが第34代アメリカ合衆国大統領に着任すると、その付き合いは表面的なものとなり、アイゼンハワーがマッカーサーをホワイトハウスに昼食に招いた際には、懸命に助言を行うマッカーサーに耳を貸すことはなかったため、マッカーサーは[[昼食]]の席を立った後に、記者団に対して「責任は権力とともにある。私はもはや権力の場にはいないのだ」と不機嫌そうに語っている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=395}}。
== エピソード ==
=== 日本での生活 ===
* 日本滞在時のマッカーサーの生活は、朝8時に起床、家族と遅い[[朝食]]をとって10時に[[連合国軍最高司令官総司令部]]のある[[第一生命館]]に出勤、14時まで仕事をすると、昼休みのために日本滞在中の住居であったアメリカ大使公邸に帰宅し、昼食の後昼寝、16時に再度出勤し、勤務した後20時ごろ帰宅、夕食の後、妻ジーンや副官とアメリカから取り寄せた映画を観る、というのが日課だった。好きな映画は[[西部劇]]であった。マッカーサーはこのスケジュールを土日もなく毎日繰り返し、休みを取らなかった。日本国内の旅行は一切せず、遠出は厚木や羽田に重要な来客を迎えに行くときだけで、国外へも朝鮮戦争が始まるまでは、フィリピンと韓国の独立式典に出席した時だけだった{{sfn|袖井|1982|p=106}}。しかし例外として、ミズーリ艦上での降伏文書調印式を終えた後に[[鎌倉市|鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]を幕僚とともに参拝したことが、1945年9月18日の『[[讀賣報知|読売報知]]』で報じられている。マッカーサーにとって40年ぶりの訪問だったといわれる。
* 連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサーの執務室にあるデスクは足が4本あるだけのダイニングテーブルみたいなもので、引き出しが全くないものであった。これは第一生命の社長であった[[石坂泰三]]の「社長たるべき者は、持ち込まれた会社の問題は即決すべきで、引き出しの中に寝かせるべきでない」という思想から、あえて引き出しがないデスクを使用していたものであったが、その話を聞いたマッカーサーは石坂の思想に大いに共鳴して「最高の意思決定はまさにそうあるべきだ。自分もそのようにするので、このデスクをそのまま使うことにする」と言って、石坂が使用していたデスクを2,000日に及ぶ日本統治の期間内使用し続け、退庁する時にはデスクの上には何も残していかなかった{{sfn|林茂雄|1986|p=179}}。
* 日本での住居は、ホテルニューグランドと[[スタンダード・オイル]]日本支社長邸宅を経て{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=60}}、[[駐日アメリカ合衆国大使館]]公邸となったが、来日前は第8軍司令官アイケルバーガーに「私は皇居に住むつもりだ」と興奮して語っていた{{Sfn|シャラー|1996|p=182}}。大使公邸は1930年に当時の大統領フーヴァーがアメリカの国力を日本に誇示する為、当時の金額で100万ドルの巨費等投じて建築した耐震構造の頑丈な造りであり、空襲でも全壊はしなかったが、爆弾やその破片が屋根を貫通し室内は水浸しになって家具類は全滅していた。修理のために多くの日本人の職人が集められて修繕工事が行われたが、テーブルクロス・カーテンはハワイ、揺り椅子は[[ブリスベン]]など世界中から家具や室内装飾を取り寄せ、また宝石をちりばめた煙草入れや銀食器などの高級小物も揃えられた。また長男アーサーの玩具にマッカーサー愛用のコーンパイプを模した銀のパイプや象牙で作った人形なども揃えられた。コレヒドールからの脱出に同行した中国人使用人のアー・チュも引き続き使用人として一緒に来日したほか、マニラ・ホテルでボーイをしていたカルロスも呼び寄せ、日本人召使もクニとキヨという女性を含め数名が雇用されたが、日本人召使はアメリカの紋章が刺繍された茶色の着物をユニホームとして着せられていた。アメリカから実情調査にやってきたホーマー・ファガ―ソン上院議員は、このようなマッカーサーの豪勢な生活ぶりを見て「この素晴らしい宮殿はいったい誰のものかね?」と皮肉を言ったため、GHQの[[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]]外交局長がフォローしている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=174}}。
* マッカーサーは財布を持ち歩く習慣がなかったため、買い物は妻のジーンが全て行っていた。ジーンは最高司令官の妻にもかかわらず、自ら銀行口座を開設に行って家計を管理し、[[酒保|PX]]の長い行列に並んでいた。PXのマネージャーはそんなジーンを見て「日本にいる将軍の夫人の中で、特別待遇をお求めにならないのは貴方だけです」と感心している。マッカーサーが出先で買い物をする必要があったときは、副官が立て替えて、後にジーンが副官に支払っていた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=386}}。
* マッカーサー一家の“もてなし”を主に行っていたのが、[[宮内府]]であったが、なかでも「天皇の料理番」と呼ばれた主厨長[[秋山徳蔵]]は「ここまで来れたのはお上(天皇)のおかげ」と少しでも天皇処遇に好影響を与えられるよう、陣頭に立ってマッカーサー一家やGHQ高官らを接待した。マッカーサー記念館には、秋山が作ってマッカーサー公邸に届けた魚料理や鴨料理、長男アーサーに送ったプレゼント([[提灯]])に対して、マッカーサーが命じてGHQが秋山に送ったお礼状が残されている。昭和天皇からもマッカーサー一家への贈り物として、GHQからのお礼状が残っているものだけで、「マッカーサー夫妻への鮮やかな鉢植えの菊の花」「マッカーサー夫妻及び長男アーサーに[[クリスマス]]プレゼントとして贈った見事な木彫り」が贈られている。秋山はフランス語は堪能であったが、英語は不得意であったのにもかかわらず、GHQの高官やその夫人たちに好かれていた。ある夜、頭に真っ赤な口紅をつけて帰ってきたので、家族が驚いていると、秋山は「これは酔っぱらったジーン夫人につけられた」と言ったという。秋山がここまでやった理由について、侍従長の[[入江相政]]は「(アメリカは)今でも大嫌いですよ。しかし、日本は降伏したのだから、アメリカさんのご機嫌をとらなければ...陛下のためならどんなことでもしますよ」と秋山が述べたのを聞いている{{sfn|林茂雄|1986|p=71}}。
* マッカーサーが日本人と会うことはほとんどなく、定期的に会っていたのは昭和天皇と吉田茂ぐらいであった。他は不定期に閣僚や、[[女性参政権]]により初当選した35名の女性議員や、水泳の全米選手権出場の[[古橋広之進]]ら日本選手団などを招いて会う程度であった{{sfn|ペレット|2014|p=993}}。古橋らと面談したマッカーサーは「これ(パスポート)に私がサインすると出られるから、行ってこい。その代わり、負けたらだめだ。負けても卑屈になってはいけない。勝ったからといっておごってはだめだ。行く以上は頑張れ。負けたら、ひょっとして帰りのビザは取り消しになるかもわからない」と冗談を交えながら選手団を励ましている<ref>[http://www.nikken-ri.com/view/back/kouen2.pdf 「フジヤマの飛び魚が見た昭和とこれから」] 2016年1月6日閲覧</ref>。
* マッカーサーは日本滞在中に2回だけ病気に罹っている。一度目は歯に膿瘍ができ抜歯したときで、もう一度が喉に[[レンサ球菌]]が感染したときであるが、マッカーサーは医者嫌いであり、第一次世界大戦以降にまともに身体検査すらしていなかったほどであった。熱が出たため軍医が[[ペニシリン]]を注射しようとしたところ、マッカーサーは注射を恐れており「針が身体に刺さるなんて信じられない」と言って注射を拒否し、錠剤だけを処方してもらったが、さらに症状は悪化し40度の高熱となったため、仕方なく注射を受けて数日後に回復した{{sfn|ペレット|2014|p=998}}。
* 日本滞在中、マッカーサーは[[秋田犬]]のウキ、[[柴犬]]と[[テリア]]の雑種のブラウニー、[[アメリカン・コッカー・スパニエル]]のブラッキー、[[スパニエル]]系のコーノの4匹の犬を飼っていた。その内でマッカーサーの一番のお気に入りはアメリカン・コッカー・スパニエルのブラッキーであった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=180}}。また、栃木県在住の医師からカナリアを贈られて飼っていたが、1年後に更迭されて帰国することとなったため、そのカナリアは大使公邸でチーフ・コックをしていた林直一に下げ渡され、林は故郷に連れて帰って飼育した{{sfn|袖井|2002|p=169}}。
* 朝鮮戦争が開始されてからも、朝鮮戦争の指揮を任された総司令官にもかかわらず、朝鮮半島を嫌ったマッカーサーは一度も朝鮮に宿泊することがなかった。言い換えれば指揮や視察で、朝鮮を訪れても常に日帰りで<ref>『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 (上下)』{{出典無効|date=2017-01-21|title=書誌情報不足}}</ref>、必ず夜には日本に戻っていた。その為に戦場の様子を十分に把握することができず、中国義勇軍参戦による苦戦の大きな要因となった。
*連合軍総司令部(GHQ)主催によるパーティーに、招待された佐賀県出身の名陶工[[酒井田柿右衛門]]が、佐賀県の瀬頭酒造の「東長」を持参しマッカーサー元帥が飲んだところ気に入られ、その日本酒は連合軍総司令部(GHQ)の指定商品になったとか、[[洋菓子のヒロタ]]創業者廣田定一がマッカーサーにバースデーケーキを送り、それに感動したマッカーサーが感謝状を贈ったとか<ref>[https://www.athome.co.jp/vox/ovo/all/39400/ 「マッカーサーが愛したシュークリーム 70年ぶりに再現!」] 2022年3月20日閲覧</ref>、マッカーサーがアメリカ兵に食べさせたいので[[海老名市]]で[[レタス]]の栽培を奨励し、日本全国にレタスが普及したなど<ref>[https://web.archive.org/web/20220407143112/https://www.sankeibiz.jp/econome/news/171118/ecc1711181208006-n1.htm 「海老名 葉に厚み・おいしく “マッカーサーレタス”収獲ピーク」] 2022年3月20日閲覧</ref>、日本各地の名産品にマッカーサーと関連付けられたものが多く存在する。
==== 目玉焼き事件 ====
[[ファイル:Yamashita Park and Hotel Newgrand in Yokohama.jpg|thumb|280px|日本進駐当初にマッカーサーが宿泊したホテルニューグランド]]{{After float|7em}}
*厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、[[横浜市|横浜]]の「[[ホテルニューグランド]]」315号室に宿泊した。翌朝、マッカーサーは朝食に卵料理をオーダーした。アメリカ式の朝食の卵料理は「[[目玉焼き]]」にしても「[[スクランブルエッグ]]」にしても、一人分で卵2個が通常単位であったが、2時間も経ってようやく食卓に出てきたのは「1つ目玉の目玉焼き」であった。ホテルには生卵のストックはなく、マッカーサーのオーダーを聞いてから慌てて横浜市内を八方手を尽くして探してようやく1個の生卵を確保したというのが真相であった。マッカーサーは「1つ目玉の目玉焼き」を見るなりすべてを察して、軍用食料の現地(日本)調達計画の断念と、これからの占領政策の最重要施策は食料の供給であることを強く認識したという{{sfn|高森直史|2004|p=8}}。しかし、このエピソードについてはマッカーサー本人の回顧録、同席した副官の[[コートニー・ホイットニー]]や側近軍医ロジャー・O・エグバーグの著書にも記述はなく、ホテルニューグランド側でも会長の野村洋三や、この日マッカーサーを接客したホテル従業員霧生正子らの証言にも出てこないため真実味は薄い{{sfn|高森直史|2004|p=9}}。
*マッカーサー一行に最初に出された食事については、ホテルニューグランドに記録は残っておらず、正確なメニューは不明で、それが朝食であったのか昼食であったのかも実ははっきりしていない{{sfn|高森直史|2004|p=96}}。当時のホテルニューグランド会長の野村洋三の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出されたのは「遅い昼食」であり、メニューは冷凍の[[スケトウダラ|スケソウダラ]]と[[サバ]]、どっぷりと[[酢]]をかけた[[キュウリ]]であった。マッカーサーは一口食べると(食べたものは不明)無言になり、後は手をつけなかった<ref>『横浜の歴史』(横浜市教育委員会編)より</ref>。また、野村はマッカーサーらを迎える準備として、自身が理事をしていた[[横浜訓盲学院|横浜訓盲院]]から卵を10個融通してもらっているが、この卵が食卓に出されたかは不明である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.concierge.ne.jp/500_column/nostalgia_020.html |title=ホテル・ノスタルジア 第20回:マッカーサー元帥のホテル秘話 |work=富田昭次のコンシェルジュコラム |archiveurl=https://archive.fo/8BmzL|archivedate=2016-01-10 |accessdate=2017-11-11}}</ref>。
* マッカーサーらのニューグランドでの初めての食事のウェイトレスをした霧生正子によれば、当時、ホテルに肉は準備できなかったので、出したのはスケソウダラとポテトとスープであり、マッカーサーはスケソウダラを見るなり「これはなんだ?」と聞き、霧生が「スケソウダラです」と答えると、「こんなもの食べられるか」という顔をして手も付けず黙っていた。その後、食後のデザートに出したケーキにも手を付けず、黙って席を立っている<ref>025.1. A Japanese lady who worked for GEN MacArthur / マッカーサー元帥の思い出 USArmyInJapan</ref>。
*マッカーサー本人にはこの日の記憶はなかったようで、自身の回顧録には副官ホイットニーの著書「MacArthur: his rendezvous with history」の記述を引用している。ホイットニーによれば、ホテルニューグランドでの最初の食事は「[[夕食]]のサービス」であり、メニューは[[ビーフステーキ]]であった。ホイットニーはマッカーサーの料理に毒が盛られていないか心配し[[毒見]]をしたいと申し出たが、マッカーサーは微笑みながら「誰も永遠には生きられないよ」と言って構わず手を付けたという{{sfn|津島 訳|2014|p=381}}。
*ホイットニーがビーフステーキと思っていたのは、実は[[鯨肉]]のステーキであったとの説もある。牛肉は入手困難であったが鯨肉は日本陸海軍が相当量を保存しており、ホテル側も入手が容易であったという当時の食料事情もあった。鯨肉を食する習慣のないマッカーサーやホイットニーらアメリカ人は、出された肉が鯨のものと判断できずにビーフステーキと誤認していた可能性も指摘されている{{sfn|高森直史|2004|p=96}}。
*マッカーサーの側近軍医エグバーグ医師もその食事の席に同席していたが、メニューはスープとバター付きパンと冷凍の副食(食材は不明)だったと著書に記述している<ref>ロジャー・エグバーグ 『裸のマッカーサー 側近軍医50年後の証言』 林茂雄・北村哲男共訳、図書出版社、1995年 P.235</ref>。
==== マッカーサー元帥杯スポーツ競技会 ====
*関西の実業家池田政三がスポーツにより日本の復興に寄与しようと、全国規模でのスポーツ大会の開催を計画した。池田はマッカーサーを敬愛していたことから、大会名を『マッカーサー元帥杯競技』とすることを望み、知人のアメリカ人実業家[[ウィリアム・メレル・ヴォーリズ]]を通じマッカーサーと面会する機会を得て、自費で作成した大会のカップを持参し競技会開催を直談判した結果、マッカーサーより大会開催とマッカーサーの名前を大会名とすることを許可された<ref>『一すじの道 -池田政三の八十年-』P.614</ref>。
*大会の種目は、池田との関係が深かった[[ソフトテニス|軟式テニス]]、硬式[[テニス]]、[[卓球]]の3種目となった。池田は私財から100万円の資金と、マッカーサーのサイン入りの3つの銀製カップを準備したが、『マッカーサー元帥杯』と冠名があっても、GHQは運営面での支援はせず、1948年8月開催の第一回の西宮大会の運営費24万円の内20万円は池田からの支援、残りは大会収入で賄われた<ref>『第1回マックアーサー元帥杯競技大会報告書』マ杯委員会 P.7-8</ref>。
*当時の日本では、GHQにより全体的行進、宗教的行動、[[君が代|国歌]]斉唱、[[日本の国旗|国旗]]の掲揚などが禁止されており、京都で開催された[[第1回国民体育大会]]の開会式は音楽もなく、選手宣誓と関係者挨拶の質素なものであったが、マ元帥杯は特別に入場行進も許可され、アメリカ軍の軍楽隊による演奏、マッカーサー、総理大臣、[[文部大臣]](いずれも代理)による祝辞等、敗戦間もない当時としては、スポーツ大会らしからぬ絢爛豪華な開会式となった。競技会には男子271名女子120名合計391名が参加し盛大に行われた<ref>『第一回マックアーサー元帥杯競技大会報告書』マ杯委員会 P.34</ref>。優勝者には銀製カップの他にマッカーサーの横顔が刻印されたメダルと賞状も授与された<ref>[https://web.archive.org/web/20190619192558/http://blogs.yahoo.co.jp/shigeoka_siraoka/26056501.html 埼玉県議会議員 岡しげお活動日記 2014年4月11日][https://archive.fo/5ZDhf] 2016年5月25日閲覧</ref>。
*マッカーサーが直接許可した大会であったためか、第2回目の東京大会は特別に皇居内で開催された。これは2016年時点で皇居内で行われた唯一の全国規模のスポーツ大会となる<ref>大久保英哲, 山岸孝吏, 「[https://hdl.handle.net/2297/713 マッカーサー元帥杯スポーツ競技会の成立と廃止]」『金沢大学教育学部紀要.教育科学編』 53巻 p.89-100 2004年, 金沢大学教育学部, 2016年5月25日閲覧。</ref>。その後は大会を主導していた[[日本体育協会]]の尽力もあり、第6回の長崎大会まで各地方都市で開催され、地方都市でのスポーツ振興に貢献することとなった。しかし、マッカーサーが更迭され、日本人は12歳発言で日本での人気が収束すると、『マッカーサー元帥杯』という大会名を見直そうという動きが始まり、第7回岡山大会では『マッカーサー記念杯全国都市対抗』という大会名に改称、第9回大会の開催地会津若松市からは「マ元帥杯」という名前は困るとの申し出があるに至り<ref>『第8回マックアーサー元帥杯競技大会報告書』マ杯委員会 P.33-34</ref>、1955年の第9回の会津若松市での大会は『全国市長会長杯』とマッカーサーの名前を一切排した大会名に改称され、『マッカーサー元帥杯』は8年で幕を下ろす事となった。その後もこの大会は形式や名称を変え最後は『全国都市対抗三競技大会』という名称となり、1975年の第30回大会(福岡市)まで継続された<ref>[https://www.nittaku.com/history/ ニッタクヒストリー ニッタクの歩み] 2016年9月27日閲覧</ref>。その後、硬式テニスの全国大会のみが、翌1976年から開始された[[全日本都市対抗テニス大会]]に引き継がれている<ref>[http://www.naganotennis.jp/sensyuken/tositaiko/ken/tositaikokiroku1.htm 全日本都市対抗テニス大会 主管(長野県開催大会) 長野県テニス協会] 2016年9月27日閲覧</ref>。
=== 軍装 ===
マッカーサーの[[トレードマーク]]は[[コーンパイプ]]と、服装規則違反の[[フィリピン軍]]の[[制帽]]であった。
マッカーサーは将官ながら、正装の[[軍服 (アメリカ合衆国)|軍服]]を着用することが少なく、略装を好んだ。第一次世界大戦でレインボー師団の参謀長として従軍した際にはヘルメットを被らずわざと形を崩した軍帽、分厚いタートルネックのセーター、母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを着用し、いつもピカピカに磨いている光沢のあるブーツを履いて、手には乗馬鞭というカジュアルな恰好をしていた。部下のレインボー師団の兵士らもマッカーサーに倣ってラフな服装をしていたため、部隊を視察した派遣軍総司令官のパーシングは「この師団は恥さらしだ、兵士らの規律は不十分でかつ訓練は不適切で、服装は今まで見た中で最低だ」と師団長ではなく、元凶となったマッカーサーを激しく叱責したが、マッカーサーが自分のスタイルを変えることはなかった{{sfn|ペレット|2014|p=546}}。
しかし、その風変わりな服装が危険を招いたこともあり、前線で指揮の為に地図を広げていたマッカーサーを見たアメリカ軍の他の部隊の兵士らが、普段見慣れない格好をしているマッカーサーをドイツ軍将校と勘違いし、銃を突き付け捕虜としたことがあった{{sfn|マンチェスター|1985|loc=上巻|ref=m1|p=171}}。
元帥となっても、重要な会合や、自分より地位が高い者と同席する場合でも略装で臨むことが多かったために、批判されたこともある<ref name="『ザ・フィフティーズ 第1部』"/>。右の天皇との会見写真でも、夏の略装にノーネクタイというラフな格好で臨んだため、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた<ref>[[竹田恒徳]]「この道」(『雲の上、下 思い出話』 [[東京新聞社]]、1987年)。</ref>。不敬と考えた内務省は、この写真が掲載された新聞を回収しようと試みたが、GHQによって制止されたため、この写真は内務省による言論統制の終焉も証明することになった<ref>[[ジョン・ダワー]] 『敗北を抱きしめて』 [[岩波書店]]、2001年</ref>。ただし、当時のアメリカ大使館には冷房設備がなかったこともあり、夏の暑さを避けるためにマッカーサーは意図せず略装で迎えたともいわれている。
[[松本健一]]は、[[リチャード・ニクソン]]の回想<ref>リチャード・ニクソン 『指導者とは』 [[徳岡孝夫]]訳、文藝春秋、1986年</ref> において、マッカーサーの略式軍装は彼の奇行が習慣化したもので、1950年に朝鮮戦争問題で会見したトルーマンは、彼のサングラス、シャツのボタンを外す、金モールぎらぎらの帽子という「19かそこらの中尉と同じ格好」に憤慨したと述べている。また、マッカーサーの服装とスタイルには一種の「ダンディズム」ともいえる独特な性向があり、「天皇の前でのスタイルはいつものものでもはるかにましなものであった」とも指摘している。ニクソンが回想する「サングラス、色褪せた夏軍服、カジュアルな帽子、そしてコーンパイプ」という第二次世界大戦中のマッカーサーのスタイルは、まさに厚木飛行場に降り立った時の彼の姿であった<ref>松本健一『昭和天皇伝説 たった一人のたたかい』 河出書房新社、pp.123-130。朝日文庫で再刊</ref>。
=== コーンパイプ ===
[[ファイル:General MacArthur surveys the beachhead on Leyte Island, soon after American forces swept ashore from a gigantic... - NARA - 513210.tif|thumb|180px|トレードマークのコーンパイプをくわえ、フィリピン軍の制帽をかぶったマッカーサー]]{{After float}}
マッカーサーのトレードマークと言えば[[コーンパイプ]]であるが、1911年にテキサス州で行われた演習の際の写真で、既に愛用しているのが確認できる{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=17}}。マッカーサーのコーンパイプはコーンパイプメイカー最大手の{{仮リンク|ミズーリ・メシャム社|en|Missouri Meerschaum}}の特注であり、戦時中にもかかわらず、マッカーサーが同社のコーンパイプをくわえた写真が、同社の『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌の広告に使用されている<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=8UkEAAAAMBAJ&pg=PA130&lpg=PA130&dq=Missouri+Meerschaum+Douglas+MacArthur%E3%80%80money&source=bl&ots=BlsZi_PymD&sig=Ot3EXG01Q9V8-SjM490mMY8vgiM&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjz2uuKn67KAhXiMKYKHcsmDd8Q6AEIXjAI#v=onepage&q&f=false LIFE 1945年5月7日号] 2016年6月1日閲覧</ref>。
階級が上がるに従ってコーンパイプも大きくなっていき、[[タバコ]]葉を何倍も多く詰められるように深くなっている。現在ではこのような形のコーンパイプを「マッカーサータイプ」と呼ぶ。マッカーサーは自分のパイプを識別するために、横軸の真ん中あたりを軽く焼いて焦げ目をつけて印とした。現在のマッカーサータイプのコーンパイプも、機能には関係ないが、その印がされて販売されている。
しかし、マッカーサーの通訳官ジョージ・キザキ(日系2世、2018年6月没)<ref>聞き手野村旗守「[http://blog.livedoor.jp/nomuhat/archives/1038255029.html 私はマッカーサーの「直属通訳官だった。]」、野村旗守ブログ2015年8月27日付</ref>によれば、マッカーサーは室内ではコーンパイプは一切使わず、[[エイジュ|ブライヤ]]やメシャムの高級素材のパイプを愛用しており、屋外ではわざと粗野に映るコーンパイプを咥え、軍人としての荒々しさを演出する道具だったと証言している<ref>[[野村旗守]]「[http://blog.livedoor.jp/nomuhat/archives/1028460350.html GHQ日系通訳官が初めて語った『素顔のマッカーサー元帥』]」、『週刊新潮』2014年6月20日号 P.62、および野村ブログ、2015年5月24日付</ref>。1948年の『ライフ』誌の報道では、当時マッカーサーが使用していた17本のパイプの内でコーン・パイプはわずか5本であった{{sfn|袖井|福嶋|2003|p=36}}。
マッカーサー記念館にはマッカーサーが愛用したブライヤパイプとパイプ立てが展示されており、退任後に私人として『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌の表紙に登場した際にくゆらせていたのもブライヤパイプであった。
=== 日本キリスト教国化 ===
マッカーサーは占領は日本における[[キリスト教]]宣教の「またとない機会」であるとして、記者発表や個人的書簡を通じて、日本での宣教を奨励した<ref name=nakamura>中村敏 [http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/026-2a_in_printable.pdf 占領下の日本とプロテスタント伝道]</ref><ref name=wittner>Wittner, L. S. (1971). MacArthur and the Missionaries: God and Man in Occupied Japan. Pacific Historical Review, 40(1), 77–98. {{doi|10.2307/3637830}}</ref>。マッカーサーはキリスト教を広めることが日本の民主化に役立つと考えていた<ref>Steele, M. William , 2016: 国際基督教大学アジア文化研究所 , 23–30 p. [https://doi.org/10.34577/00004153 The Cold War and the Founding of ICU] p.26</ref>。中でも[[南部バプテスト連盟]]{{仮リンク|ルイ・ニュートン|en|Louie De Votie Newton}}への書簡が知られている<ref name="Lewis 1945 s984">{{cite web | last=Lewis | first=Darren Micah | title=Christ and the remaking of the Orient | website=Christian History Institute | date=1945-09-02 | url=https://christianhistoryinstitute.org/magazine/article/christ-and-the-remaking-of-the-orient | access-date=2023-09-25}}</ref><ref name=wittner/>。
マッカーサーは[[キリスト教]][[聖公会]]の熱心な信徒であり<ref name="P23"/>、キリスト教は「アメリカの家庭の最も高度な教養と徳を反映するもの」であり、「極東においてはまだ弱いキリスト教を強化できれば、何億という文明の遅れた人々が、人間の尊厳、人生の目的という新しい考えを身に付け、強い精神力を持つようになる」と考えていた{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.1112-1118}}。そのような考えのマッカーサーにとって、日本占領は「アジアの人々にキリスト教を広めるのに、キリスト生誕以来の、比類ない機会」と映り{{sfn|袖井|2004|p=255}}、アメリカ議会に「日本国民を改宗させ、太平洋の平和のための強力な防波堤にする」と報告している{{Sfn|シャラー|1996|p=194}}。日本の実質最高権力者が、このように特定の宗教に肩入れするのは、マッカーサー自身が推進してきた[[信教の自由]]とも矛盾するという指摘が、キリスト教関係者の方からも寄せられることとなったが、マッカーサーはCIEの宗教課局長を通じ「特定の宗教や信仰が弾圧されているのでない限り、占領軍はキリスト教を広めるあらゆる権利を有する」と返答している{{sfn|袖井|2004|p=257}}。[[民間情報教育局]](CIE)宗教課長ウィリアム・バンスは占領軍の政策がキリスト教偏重になっているような印象を与えないようにと努力した<ref name=shisounokagaku>『共同研究 日本占領軍その光と影 [下巻]』68-73ページ</ref>。マッカーサーは当初CIEにはかることなくキリスト教を支援するような発言をすることがあったが、後にそれを表立って行うことは控えるようになった<ref name=shisounokagaku/>。
マッカーサーは、[[国家神道]]が天皇制の宗教的基礎であり、日本国民を呪縛してきたものとして、1945年(昭和20年)12月15日に、[[神道指令]]で廃止を命じた<ref>SCAPIN-448「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」</ref>。神道を国家から分離([[政教分離]])し、その政治的役割に終止符を打とうとする意図に基づく指令であった<ref name="P23">{{harvnb|袖井|2004|p=23}}</ref>。
マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された{{Sfn|シャラー|1996|p=195}}。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた{{sfn|袖井|2004|p=256}}。また日本での活動を望む{{仮リンク|ポケット聖書連盟|en|Pocket Testament League}}のために書いた推薦状の中で、聖書配布の活動を1000万冊規模に増強するよう要望した<ref>『共同研究 日本占領軍その光と影 [下巻]』66-67ページ</ref>。(実際には11万冊を配布した<ref>https://jp.ptl.org/code/news.php</ref>。)
1947年にキリスト教徒で[[日本社会党]]の[[片山哲]]が首相になる([[片山内閣]])と、「歴史上実に初めて、日本はキリスト教徒で、全生涯を通じて長老派教会の信徒として過ごした指導者によって、指導される」として、同じくキリスト教徒であった中国の[[蒋介石]]、フィリピンの[[マニュエル・ロハス]]と並ぶ者として片山を支持する声明を出した<ref name=nakamura/>。しかしマッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9か月で瓦解した{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.1739}}。
[[ジョン・ガンサー]]が伝えるところによると、マッカーサーは「今日の世界でキリスト教を代表する二人の指導的人物こそ、自分と[[教皇|法王]]だとさえ考え」ていた{{sfn|袖井|2004|p=255}}。[[米国キリスト教会協議会]]もマッカーサーに対し「極東の救済のために神は“自らの代わり”として、あなたを差し向けたのだと、我々は信ずる」と賞賛していたが{{sfn|袖井|2004|pp=260-261}}、マッカーサーが、布教の成果を確認する為に、CIEの宗教課に日本のキリスト教徒数の調査を命じたところ、戦前に20万人の信者がいたのに対し、現在は逆に数が減っているということが判明し、その調査結果を聞いた宗教課局長は「総司令はこの報告に満足しないし、怒るだろう」と頭を抱えることになった。マッカーサーらはフィリピンと[[インドシナ]]以外のアジア人は、当時、キリスト教にほとんど無関心で{{Sfn|シャラー|1996|p=196}}、大量に配布された聖書の多くが、読まれることもなく、刻みタバコの巻紙に利用されているのを知らなかった{{sfn|西|2005|p=|loc=電子版, 位置No.1139}}。
局長から調査報告書を突き返された宗教課の将校らは、マッカーサーを満足させるためには0を何個足せばいいかと討議した挙句、何の根拠もない200万人というキリスト教徒数を捏造して報告した。マッカーサーもその数字を鵜呑みにして、1947年2月、陸軍省に「過去の信仰の崩壊によって日本人の生活に生じた精神的真空を満たす手段として…キリスト教を信じるようになった日本人の数はますます増え、既に200万人を超すものと推定されるのである」と報告している。結局、マッカーサーが日本を去った1951年時点でキリスト教徒は、[[カトリック教会|カトリック]]、[[プロテスタント]]で25万7,000人と、戦前の20万人と比較し微増したが、占領下に注がれた膨大な資金と、協会や宣教師の努力を考えると、十分な成果とは言えなかった。「占領軍の宗教」とみなされ、他の宗教に比べて圧倒的に有利な立場にあったにもかかわらず、マッカーサーの理想とした「日本のキリスト教国化」は失敗に終わった{{sfn|袖井|2004|pp=261-263}}。
==== 国際基督教大学 ====
キリスト教の精神に基づき、宗派を越えた大学を作るといった構想がラルフ・ディッフェンドルファー宣教師を中心に進んでおり、1948年に「[[国際基督教大学]] 財団」が設立されたが、マッカーサーはこの動きに一方ならぬ関心を示し、同大学の財団における名誉理事長を引き受けると、米国での募金運動に尽力した<ref>[http://jicuf.org/about-us/our-history/ Our History - JAPAN ICU FOUNDATION] 2011年11月9日閲覧</ref>。[[ジョン・ロックフェラー2世]]にも支持を求めたが、その際に「ここに提案されている大学は、キリスト教と教育のユニークな結合からして、日本の将来にとってまことに重要な役割を必ずや果たすことでありましょう」と熱意のこもった手紙を出している。大学設置はマッカーサーが解任されて2年後の1953年であった<ref name="P164">{{harvnb|袖井|1982|p=164}}</ref>。
<!--{{独自研究範囲|'''条約'''|date=2023年1月}}{{要出典|date=2023年1月}}
{{独自研究範囲|いままでGHQは日本に条約を結んだが日本史に紹介されていないものを紹介する。たとえば「パンと牛乳を無償で提供する」と|date=2023年1月}}{{要出典|date=2023年1月}}
{{独自研究範囲|夢のような話ですがじつはこのような洗脳政策がとられていました。なんとアメリカは「長年[[ご飯|米]]を食べる人と[[パン]]をたべるかで対立が続いていて日本人のコメを食べる脳を子供のうちから根本的に破壊する」というものでこれはあまり紹介されていないと思います。これがアメリカが結んだ条約でこのパンは全くと言っていいほど栄養素が全然なく、[[牛乳]]も添加物満載の牛乳でやはり栄養はありません。あとこれは「アメリカが出したカス」といっても過言ではないでしょうか。しかし味音痴な先生や他の生徒は「おいしい!!」といいながらおかわりしています。私はこの条約の破棄がいつかされることを願ってます|date=2023年1月}}{{誰|date=2023年1月}}{{要校閲|date=2023年1月}}{{要出典|date=2023年1月}}-->
=== その他 ===
1946年に特使の立場で、訪日した[[ハーバート・フーヴァー]]と会談し「[[フランクリン・ルーズベルト]]はドイツと戦争を行うために日本を戦争に引きずり込んだ」と述べたことを受け、マッカーサーも「ルーズベルトは1941年に[[近衛文麿]]首相が模索した日米首脳会談をおこなって戦争を回避する努力をすべきであった」の旨を述べている<ref name="sankei20111207">[[佐々木類]] [[産経新聞]] {{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm |title=「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判 |accessdate=2012年3月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130415022616/http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm |archivedate=2013年4月15日 }}</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20180331-JQDMVBYBHJMUREAWBHHP2AQSIY/ 「ルーズベルトは狂気の男」フーバー元大統領が回顧録で批判] 『産経新聞』2018年3月31日</ref>。
占領当時のマッカーサーは[[フリーメイソン]]のフィリピン・グランドロッジ(Manila Lodge No.1)に所属しており、32位階の地位にあったとされる<ref>Denslow, W., ''10,000 Famous Freemasons from K to Z'', p 112</ref><ref>[http://www.lodgestpatrick.co.nz/famous2.php#M Famous Freemasons M-Z]</ref>。
韓国でのマッカーサーの評価は、毀誉褒貶相半ばするものがあり、2005年には[[仁川市]]自由公園にあるマッカーサーの銅像撤去を主張する団体と銅像を保護しようとする団体が集会を開き対峙、警官隊ともみ合う事件も起きた<ref>{{Cite web|和書|date= 2005-09-12|url= https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=67567|title= マッカーサー銅像「死守-撤去」保守と進歩が衝突|publisher= 中央日報|accessdate=2018-11-22}}</ref>。また、2018年にはマッカーサー像に[[火刑]]と称して像の周囲で可燃物を燃やす[[放火]]事件も発生している<ref>{{Cite web|和書|date=2018-11-21 |url= https://japanese.joins.com/article/362/247362.html|title=「新植民地はうんざり」 マッカーサー銅像に火を付けた反米団体牧師=韓国 |publisher=中央日報 |accessdate=2018-11-22}}</ref>。
== マッカーサーを扱った作品 ==
;映画
*『[[マッカーサー (映画)|マッカーサー]]』 ''MacArthur'' (1977年 監督:[[ジョセフ・サージェント]] マッカーサー役:[[グレゴリー・ペック]])
*『[[インチョン!]]』 ''Inchon!'' (1982年 監督:[[テレンス・ヤング]] マッカーサー役:[[ローレンス・オリヴィエ]])
*『[[小説吉田学校#映画|小説吉田学校]]』(1983年 監督:[[森谷司郎]] マッカーサー役:[[リック・ジェイソン]])
*『[[太陽 (映画)|太陽]]』 ''Солнце''(2005年 監督:[[アレクサンドル・ソクーロフ]] マッカーサー役:[[ロバート・ドーソン]])
*『[[日輪の遺産]]』 (2010年 監督:[[佐々部清]] マッカーサー役:[[ジョン・サヴェージ]])
*『[[終戦のエンペラー]]』 ''Emperor'' (2012年 監督:[[ピーター・ウェーバー]] マッカーサー役:[[トミー・リー・ジョーンズ]])
*『[[オペレーション・クロマイト]]』 ''인천상륙작전'' (2016年 監督:[[イ・ジェハン]] マッカーサー役:[[リーアム・ニーソン]])
*『[[日本独立]]』(2020年 監督:[[伊藤俊也]] マッカーサー役:[[アダム・テンプラー]])
;テレビドラマ(一部)
*『[[日本の戦後]]第9集 老兵は死なず マッカーサー解任』(1978年 [[NHKスペシャル|NHK特集]]シリーズ マッカーサー役:ドナルド・ノード)
*『[[白洲次郎 (テレビドラマ)|白洲次郎]]』(2009年 [[日本放送協会|NHK]] マッカーサー役:TIMOTHY HARRIS)
*『[[負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜]]』(2012年 NHK[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマスペシャル]] マッカーサー役:[[デヴィッド・モース]])
;宝塚歌劇
*『[[黎明の風]]』 マッカーサー役:[[大和悠河]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://archive.kageki.hankyu.co.jp/revue/backnumber/08/cosmos_tokyo_reimei/index.html |title=cosmos troupe 宙組公演 ミュージカル・プレイ 黎明の風 |access-date=2023-01-31 |publisher=宝塚歌劇団}}</ref>
;演劇
*『引退屋リリー』([[つかこうへい]]) ヒロインがマッカーサーと[[美空ひばり]]の偽物との間にできた隠し子との設定
;漫画
*『[[どついたれ]]』([[手塚治虫]])
*『[[天下無双 江田島平八伝]]』([[宮下あきら]])
*『[[はだしのゲン]]』([[中沢啓治]])
*『Mの首級(しるし) マッカーサー暗殺計画』([[リチャード・ウー]]・[[池上遼一]])
*『[[ゴールデンカムイ]]』([[野田サトル]])
*『[[疾風の勇人]]』([[大和田秀樹]])
*『[[昭和天皇物語]]』([[能條純一]])
== 階級 ==
=== アメリカ合衆国陸軍における階級 ===
{|class="wikitable" style="background:white;"
|-
|align="center" |
|工兵少尉, 連邦常備陸軍([[:en:Regular Army (United States)|Regular Army]]), 1903年6月11日
|-
|align="center" |[[ファイル: US-O2 insignia.svg|13px]]
|工兵中尉, 連邦常備陸軍, 1904年4月23日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O3 insignia.svg|33px]]
|工兵大尉, 連邦常備陸軍, 1911年2月27日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O4 insignia.svg|40px]]
|工兵少佐, 連邦常備陸軍, 1915年12月11日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O6 insignia.svg|60px]]
|歩兵大佐, 合衆国陸軍([[:en:National Army (USA)|National Army]]), 1917年8月5日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O7 insignia.svg|33px]]
|准将, 合衆国陸軍, 1918年6月26日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O7 insignia.svg|33px]]
|准将, 連邦常備陸軍, 1920年1月20日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O8 insignia.svg|66px]]
|少将, 連邦常備陸軍, 1925年1月17日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O10 insignia.svg|133px]]
|大将, 一時的階級(temporary rank), 1930年11月21日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O8 insignia.svg|66px]]
|少将, 連邦常備陸軍, 1935年10月1日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O10 insignia.svg|133px]]
|大将, 退役者リスト, 1938年1月1日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O8 insignia.svg|66px]]
|少将, 連邦常備陸軍(現役復帰), 1941年7月26日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O9 insignia.svg|100px]]
|中将, 合衆国陸軍([[:en:Army of the United States|Army of the United States]])1941年7月27日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O10 insignia.svg|133px]]
|大将, 合衆国陸軍, 1941年12月22日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O11 insignia.svg|95px]]
|元帥, 合衆国陸軍, 1944年12月18日
|-
|align="center" |[[ファイル:US-O11 insignia.svg|95px]]
|元帥, 連邦常備陸軍, 1946年3月23日
|}
=== その他の国における階級 ===
*{{仮リンク|元帥 (フィリピン)|en|Field marshal (Philippines)|label=フィリピン元帥}} - 1936年8月24日<ref name="James1970">{{cite book
|last=James
|first=D. Clayton
|work=The Years of MacArthur
|title= Volume 1, 1880–1941
|publisher=Houghton Mifflin
|location=Boston
|year=1970
|page=505
|isbn=0-395-10948-5
|oclc=60070186
}}</ref> - 1937年12月31日<ref name="James1970" />
== 栄典 ==
<!--this section links to Infobox at main article, please update if you move or rename.-->
[[ファイル:MacMeds2.jpg|thumb|right|280px|マッカーサーが受けた主なアメリカ軍勲章の[[略綬]].]] <!-- Per Army regulations, the Army DSM would go before the Navy DSM. For all services, a person's "own" service DSM goes before the others and then goes Navy, Army, Air Force, Coast Guard in that order if you're not in that service. -->{{After float}}
マッカーサーは国内外で多くの栄典を受けたが、主なものを記載する。マッカーサーはアメリカ国内だけでも100個以上の勲章を受けているが、5つ星の元帥章以外は[[略綬]]さえ一切身に付けなかった。栄誉を飾らないのがマッカーサーの流儀であった{{sfn|袖井|1982|p=163}}。
=== アメリカ国内 ===
{|
|-
|[[ファイル:Medal of Honor ribbon.svg|80px]]
|[[名誉勲章]]<ref group="注釈">父アーサーも南北戦争で叙勲されており、2016年時点で親子揃って名誉勲章を受けたのはマッカーサー親子だけとなる</ref>
|-89+38=73
|{{Ribbon devices|number=2|type=oak|ribbon=Distinguished Service Cross ribbon.svg|width=80}}
|[[殊勲十字章 (アメリカ合衆国)|殊勲十字賞]]5回
|-
|{{Ribbon devices|number=6|type=oak|ribbon=Silver Star ribbon.svg|width=80}}
|[[シルバースター]]7回
|-
|[[ファイル:Distinguished Flying Cross ribbon.svg|80px]]
|[[殊勲飛行十字章]]
|-
|{{Ribbon devices|number=0|other_device=v|ribbon=Bronze Star ribbon.svg|width=80}}
|[[ブロンズスターメダル]]
|-
|{{Ribbon devices|number=1|type=oak|ribbon=Purple Heart ribbon.svg|width=80}}
|[[パープルハート章]]
|-
|[[ファイル:Air Medal ribbon.svg|80px]]
|[[エア・メダル]]
|}
他多数
=== アメリカ国外 ===
* [[ファイル:JPN Kyokujitsu-sho Paulownia BAR.svg|80px]] [[旭日章]]([[勲一等旭日桐花大綬章]]ほか)
* {{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Order_of_the_Bath_%28ribbon%29.svg|width=80}} [[バス勲章]]
* {{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Legion Honneur GC ribbon.svg|width=80}} [[レジオンドヌール勲章]]
* [[ファイル:POL Polonia Restituta Wielki BAR.svg|80px]] [[ポーランド復興勲章]]
* {{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Taeguk Cordon Medal.png|width=80}} [[武功勲章 (大韓民国)|武功勲章]]
* [[宝鼎勲章]]
他多数
== 関連図書 ==
; 当時の文献
* ダグラス・マッカーサー 「陸海軍省併合及空軍独立論に対する米軍参謀総長の意見」
::(『隣邦軍事研究の参考 第四号』)、[[偕行社]]編纂部発行、1933年(昭和8年)
* 『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』 [[袖井林二郎]]編訳・解説、[[法政大学出版局]]、2000年/[[講談社学術文庫]](改訂版)、2012年
* [[コートニー・ホイットニー]] 『日本におけるマッカーサー 彼はわれわれに何を残したか』(抄訳) [[毎日新聞社]]外信部訳、[[毎日新聞社]]、1957年
* [[チャールズ・ウィロビー]]<ref group="注釈">側近2名の回想だが、研究が進んだ今日では、双方とも(回想録と同様に人物研究以外では)史料としての価値は低いとされる。</ref> 『マッカーサー戦記』 [[大井篤]]訳、時事通信社(全3巻)、1956年/[[朝日ソノラマ]]文庫(全2巻)、1988年
* [[ジョン・ガンサー]] 『マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東』 [[木下秀夫]]・安保長春訳、[[時事通信社]]、1951年
* ラッセル・ブラインズ<ref group="注釈">ラッセル・ブラインズは、当時[[AP通信]]東京支局長で、マッカーサーに最も近いジャーナリストと言われた。</ref> 『マッカーサーズ・ジャパン 米人記者が見た日本戦後史のあけぼの』(抄訳) 長谷川幸雄訳、中央公論社、1949年/朝日ソノラマ、1977年
* [[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド|ウィリアム・シーボルド]] 『日本占領外交の回想』 野末賢三訳、[[朝日新聞社]]、1966年
;伝記研究
* ロジャー・エグバーグ 『裸のマッカーサー 側近軍医50年後の証言』 林茂雄・北村哲男共訳、図書出版社、1995年
*『戦後60年記念 別冊[[歴史読本]]18号 日本の決断とマッカーサー』 [[新人物往来社]]、2005年
* [[リチャード・ボズウェル・フィン|リチャード・B・フィン]]『マッカーサーと吉田茂』(上下)、同文書院インターナショナル、1993年/[[角川文庫]](巻末の書誌索引は省略)、1995年
* [[半藤一利]] 『マッカーサーと日本占領』 PHP研究所、のちPHP文庫
* 榊原夏 『マッカーサー元帥と昭和天皇』 [[集英社新書]]、2000年、主に写真での案内
* 河原匡喜 『マッカーサーが来た日 8月15日からの20日間』 新人物往来社、1995年/[[光人社]]NF文庫、2005年、ISBN 476982470X、写真多数
* [[児島襄]] 『日本占領』([[文藝春秋]] のち[[文春文庫]])
** 同 『講和条約』([[新潮社]] のち中公文庫)、『[[昭和天皇]] 戦後』(小学館)
* [[三好徹]] 『興亡と夢 戦火の昭和史 5』([[集英社]] のち集英社文庫)
* [[田中宏巳]]『消されたマッカーサーの戦い 日本人に刷り込まれた〈太平洋戦争史〉』[[吉川弘文館]]、2014年
* [[谷光太郎]] 「[[トーマス・C・ハート|ハート]] [[合衆国艦隊|アジア艦隊司令官]]」『米軍提督と太平洋戦争』より 学習研究社、2000年
* [[川島高峰]] 『敗戦 占領軍への50万通の手紙』 読売新聞社 1998年
* 伴野昭人 『マッカーサーへの100通の手紙』 現代書館 2012年
* D. クレイトン.ジェームズ『The Years of MacArthur, Volume 1: 1880-1941』ホートン・ミフリン・ハーコート、1970年
; その他
* 本間富士子「悲劇の将軍・本間雅晴と共に」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』昭和39年11月号
* [[重光葵]] 「[[巣鴨日記]]」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』昭和27年8月号 - 昭和28年に[[文藝春秋]](正・続)。新版・[[吉川弘文館]]、2021年
* [[デービッド・ハルバースタム]] 『ザ・フィフティーズ』 峯村利哉訳([[ちくま文庫]] 全3巻、2015年)
* [[多賀敏行]] 『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史』 新潮新書 2004年
* [[五百旗頭真]] 『日米戦争と戦後日本』講談社学術文庫 2005年
* [[ジョン・ダワー]]『敗北を抱きしめて』 (上・下)、三浦陽一ほか訳、岩波書店 2001年、改訂版2004年
* {{Cite book|和書|author=ハンソン・ボールドウィン|title=勝利と敗北 第二次大戦の記録|publisher=朝日新聞社 |date=1967 |ref=ボールドウィン}}
; 以下は英語原本
* [[オマール・ブラッドレー]]『A General's Life: An Autobiography』サイモン&シュスター 1983年
* ブルース・カミングス『Origins of the Korean War, Vol. 1: Liberation and the Emergence of Separate Regimes, 1945-1947』プリンストン大学、1981年
* ジーン・エドワード・スミス『Lucius D. Clay: An American Life』ヘンリーホルトコーポレーション、1990年
* [[ハリー・S・トルーマン]]『Off the Record: The Private Papers of Harry S. Truman』ロバート・H・フェレル編、ミズーリ大学、1997年
* ペーター・ライオン『アイゼンハワー』ボストン社 1974年
* [[ディーン・アチソン]]『Among friends: Personal letters of Dean Acheson』ドッド・ミード社 1980年 ISBN 0396077218
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
{{col-list|45em|
* {{Citation|和書|author1=ダグラス・マッカーサー|others=津島一夫 訳|title=[[マッカーサー回想記]] |date=1964-1965年|publisher=[[朝日新聞社]](上・下)|ref={{SfnRef|津島 訳|1964}}|isbn=}}各・抜粋訳
** {{Citation|和書|author=ダグラス・マッカーサー|others=津島一夫 訳|title=マッカーサー大戦回顧録 上・下|date=2003-07|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公文庫]]|isbn=4122042399 }}ISBN 4122042380
*** {{Citation|和書|author=ダグラス・マッカーサー|others=津島一夫 訳|title=マッカーサー大戦回顧録 |year=2014|publisher=中公文庫(改版全1巻)|ref={{SfnRef|津島 訳|2014}}|isbn=4122059771}}
* {{Citation|和書|author=ウィリアム・マンチェスター|others=[[鈴木主税]]・高山圭 訳|title=ダグラス・マッカーサー 上|year=1985|volume=|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=4309221157|ref=m1}}
* {{Citation|和書|author=ウィリアム・マンチェスター|others=鈴木主税・高山圭 訳|title=ダグラス・マッカーサー 下|year=1985|volume=|publisher=河出書房新社|isbn=4309221165|ref=m2}}
* {{Citation|和書|author=ジェフリー・ペレット|others=林義勝、寺澤由紀子、金澤宏明、武井望、藤田怜史 訳|title=ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず|year=2016|publisher=鳥影社|ref={{SfnRef|ペレット|2014}}|isbn=9784862655288}}
* {{Citation|和書|author=クレイ・ブレア Jr. |others=[[大前正臣]] 訳|title=マッカーサー その栄光と挫折|year=1978|publisher=パシフィカ|ref={{SfnRef|ブレア Jr.|1978}}|isbn=4309221165}}{{ASIN|B000J8RXO4}}、※映画『マッカーサー』の原作。
* {{Citation|和書|last=増田|first=弘|author-link=増田弘|editor=|title=マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ|year=2009|series=[[中公新書]]|publisher=中央公論新社|isbn=9784121019929}}
* {{Citation|和書|last=西|first=鋭夫|author-link=西鋭夫|title=國破れてマッカーサー|year=2005|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|edition=[[電子書籍]]|isbn=4122045568}}
* {{Citation|和書|last=袖井|first=林二郎|author-link= 袖井林二郎|editor=|title=マッカーサーの二千日|year=2004|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|edition=改版|isbn=4122043972}}
* {{Citation|和書|last=袖井|first=林二郎 |title=拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙|year=2002|publisher=岩波書店|series=[[岩波現代文庫]]|isbn=4006030614}}改訂新版
* {{Citation|和書|last1=袖井|first1=林二郎|author1-link=袖井林二郎|last2=福嶋|first2=鑄郎|author2-link=福島鋳郎|editor=太平洋戦争研究会|title=図説 マッカーサー|year=2003 |series=ふくろうの本 |publisher=河出書房新社|isbn=4309760384}}
* {{Citation|和書|last=|first=|editor=袖井林二郎・福島鑄郎|title=マッカーサー 記録・戦後日本の原点|year=1982|publisher=[[日本放送出版協会]]|pages= |isbn=4140082771}}大判本
* {{Cite book |和書 |author=林茂雄|year=1986|title=マッカーサーへの手紙 |publisher=図書出版社 |ref={{SfnRef|林茂雄|1986}} }}
* {{Citation|和書|author=[[マイケル・シャラー]]|others=豊島哲訳 |title=マッカーサーの時代 |year=1996|publisher=恒文社|ref={{SfnRef|シャラー|1996}}|isbn=4770408552}}
* {{Citation|和書|author=ジョン・ダワー|author-link=ジョン・ダワー |others=[[三浦陽一]]ほか 訳|title=敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人|year=2004|publisher=[[岩波書店]]|ref={{SfnRef|ダワー|2004}}|isbn=4000244213}}
* {{Cite book |和書 |editor=田村吉雄 |year=1953 |title=秘録大東亜戦史 4 比島編 |publisher=富士書苑 |asin=B000JBGYJ6 |ref={{SfnRef|秘録大東亜戦史④|1953}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=池田佑 |year=1969 |title=秘録大東亜戦史 3 フィリピン編 |publisher=富士書苑 |asin=B07Z5VWVKM |ref={{SfnRef|大東亜戦史③|1969}} }}
* {{Citation|和書|author1=デイヴィッド・ハルバースタム|author1-link=デイヴィッド・ハルバースタム|others=山田耕介・[[山田侑平]] 訳|title=ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争|year=2009|volume=下|publisher=文藝春秋|ref={{SfnRef|ハルバースタム|2009}}|isbn=9784163718200}}
** {{Citation|和書|author1=デイヴィッド・ハルバースタム|series=文春文庫|others=山田耕介・山田侑平 訳|title=ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争|year=2012|volume=上|edition=Kindle|publisher=文藝春秋|ref=h1|isbn=}}{{ASIN|B01C6ZB0V4}}
** {{Citation|和書|author1=デイヴィッド・ハルバースタム|series=文春文庫|others=山田耕介・山田侑平 訳|title=ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争|year=2012|volume=下|edition=Kindle|publisher=文藝春秋|ref=h2|isbn=}}{{ASIN|B01C6ZB0UU}}
* {{Citation|和書|author=[[ジョン・トーランド]]|others=[[千早正隆]] 訳 |title=勝利なき戦い 朝鮮戦争 下|year=1997|publisher=[[光人社]]|ref={{SfnRef|トーランド|1997}}|volume=|isbn=4769808119}}
* {{Citation|和書|author1=[[マシュー・リッジウェイ|マシュウ・B.リッジウェイ]]|others=熊谷正巳・秦恒彦 訳|title=朝鮮戦争|year=1976|publisher=恒文社|ref={{SfnRef|リッジウェイ|1976}}||isbn=4770408110}}
* {{Cite book |和書 |author=トーマス・アレン |author2=ノーマン・ボーマー |others=栗山洋児 訳 |year=1995 |title=日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌 |publisher=光人社 |isbn=4769807236 |ref={{SfnRef|アレン・ボーマー|1995}} }}
* {{Cite book |和書 |author=トーマス・B・ブュエル |others=小城正 訳 |year=2000 |title=提督スプルーアンス |publisher=学習研究社 |series=WW selection |isbn=4-05-401144-6 |ref={{SfnRef|ブュエル|2000}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ハンソン・W・ボールドウィン |others=木村忠雄 訳 |year=1967 |title=勝利と敗北 第二次世界大戦の記録 |publisher=朝日新聞社 |asin=B000JA83Y6|ref={{SfnRef|ボールドウィン|1967}} }}
* {{Citation|和書|author1=シドニー・メイヤー|others=芳地昌三 訳|title=マッカーサー : 東京への長いながい道 |year=1971|publisher=サンケイ新聞社出版局|ref={{SfnRef|メイヤー|1971}}|series=第二次世界大戦ブックス|isbn=4383011381}}
* {{Citation|和書|author1=シドニー・メイヤー|others=[[新庄哲夫]] 訳|title=日本占領 |year=1973|publisher=サンケイ新聞社出版局|ref={{SfnRef|メイヤー|1973}}|series=第二次世界大戦ブックス|isbn=4383012981}}
* {{Citation|和書|last=豊下|first=楢彦|author-link=豊下楢彦|editor=|title=昭和天皇・マッカーサー会見|year=2008|series=岩波現代文庫|publisher=岩波書店|isbn=9784006001933}}
* {{Citation|和書|last=工藤 |first=美代子|author-link=工藤美代子 |title=マッカーサー伝説|year=2001|publisher=恒文社21|isbn=4770410581}}
* {{Cite book|和書 |author=伊藤正徳|author-link=伊藤正徳 |year=1960 |title=帝国陸軍の最後〈第3〉死闘篇 |publisher=文藝春秋新社 |asin=B000JBM31E |ref={{SfnRef|伊藤正徳・3|1960}}}}
* {{Cite book|和書 |author=伊藤正徳 |year=1961 |title=帝国陸軍の最後〈第5〉終末篇 |publisher=文藝春秋新社 |asin=B000JBM30U |ref={{SfnRef|伊藤正徳・5|1961}}}}
* {{Cite book |和書 |author=イアン・トール |others=[[村上和久]]訳 |year=2021 |title=太平洋の試練 下 ガダルカナルからサイパン陥落まで |publisher=文藝春秋 |series=太平洋の試練 |asin=B098NJN6BQ |ref={{SfnRef|イアン・トール|2021}} }}
* {{Cite book |和書 |author=イアン・トール |others=村上和久訳 |year=2022 |title=太平洋の試練 レイテから終戦まで 上 |publisher=文藝春秋 |series=太平洋の試練 |asin=B09W9FL4K8 |ref={{SfnRef|トール|2022a}} }}
* {{Cite book |和書 |author=イアン・トール |others=村上和久訳 |year=2022 |title=太平洋の試練 レイテから終戦まで 下 |publisher=文藝春秋 |series=太平洋の試練 |asin=B09W9GN8FD |ref={{SfnRef|トール|2022b}} }}3部作(全6巻)
* {{Cite book |和書 |author=大岡昇平|authorlink=大岡昇平 |year=1974 |title=[[レイテ戦記]] 上巻 |publisher=中央公論社|series=中公文庫 |isbn=978-4122001329|ref={{SfnRef|大岡昇平①|1974}}}}中公文庫(改版全4巻)、2018年
* {{Cite book |和書 |author=大岡昇平|authorlink=大岡昇平 |year=1974 |title=レイテ戦記 中巻 |publisher=中央公論社|series=中公文庫 |isbn=978-4122001411|ref={{SfnRef|大岡昇平②|1974}}}}
* {{Cite book |和書 |author=大岡昇平|authorlink=大岡昇平 |year=1974 |title=レイテ戦記 下巻 |publisher=中央公論社|series=中公文庫 |isbn=978-4122001527|ref={{SfnRef|大岡昇平③|1974}}}}
* {{Citation|和書|last=山本|first=武利|author-link=山本武利|title=GHQの検閲・諜報・宣伝工作|year=2013|series=[[岩波現代全書]] |publisher=岩波書店|isbn=9784000291071}}
* {{Cite book |和書 |author=安延多計夫 |year=1995 |title=あヽ神風特攻隊 むくわれざる青春への鎮魂 |publisher=[[潮書房光人新社|光人社NF文庫]] |isbn=4769821050 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=デニス・ウォーナー|others=妹尾作太男訳 |year=1982 |title=ドキュメント神風 |volume=上 |publisher=時事通信社 |asin=B000J7NKMO |ref={{SfnRef|ウォーナー|1982a}} }}
* {{Cite book |和書 |author=デニス・ウォーナー|others=妹尾作太男訳 |year=1982 |title=ドキュメント神風 |volume=下 |publisher=時事通信社 |asin=B000J7NKMO |ref={{SfnRef|ウォーナー|1982b}} }}
* {{Cite book |和書 |author=カール・バーガー |others=[[中野五郎 (著述家)|中野五郎]] 訳 |year=1971 |title=B29―日本本土の大爆撃 |publisher=サンケイ新聞社出版局 |series=第二次世界大戦ブックス 4 |asin=B000J9GF8I |ref={{SfnRef|カール・バーカー|1971}} }}
* {{Cite book |和書 |author=リチャード・F.ニューカム |others=田中至 訳 |year=1966 |title=硫黄島 |publisher=[[弘文堂]] |asin=B000JAB852 |ref={{SfnRef|ニューカム|1966}} }}光人社NF文庫、改訂新版2006年
* {{Cite book |和書 |author=アーサー・スウィンソン |others=長尾睦也 訳 |year=1969 |title=四人のサムライ―太平洋戦争を戦った悲劇の将軍たち |publisher=[[早川書房]] |asin=B000J9HI5C|ref={{SfnRef|スウィンソン|1969}} }}
* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎|author-link=木俣滋郎 |year=2013 |title=陸軍航空隊全史―その誕生から終焉まで |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769828578 |ref={{SfnRef|木俣滋郎|2013}}}}
* {{Cite book |和書 |author= |year=1978 |title=[[児島襄]]戦史著作集8 英霊の谷 マニラ海軍陸戦隊 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4165094807|ref={{SfnRef|児島襄|1978}} }}
* {{Cite book |和書 |author=高森直史|authorlink=高森直史 |year=2004 |title=マッカーサーの目玉焼き 進駐軍がやって来た!―戦後「食糧事情」よもやま話 |publisher=光人社 |isbn=978-4769812012|ref={{SfnRef|高森直史|2004}} }}
* {{Cite book |和書 |author1=[[冨永謙吾]] |author2=安延多計夫 |year=1972 |title=神風特攻隊 壮烈な体あたり作戦 |publisher=秋田書店 |asin=B000JBQ7K2 |ref={{SfnRef|冨永|安延|1972}} }}
* {{Cite book |和書 |author=富田武|authorlink=富田武 |year=2013 |title=シベリア抑留者たちの戦後:冷戦下の世論と運動 1945-56年 |publisher=[[人文書院]] |isbn=978-4409520598 |ref={{SfnRef|富田武|2013}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室|editor-link=防衛研究所 |year=1969 |title=豪北方面陸軍作戦 |publisher=[[朝雲新聞]]社 |series=[[戦史叢書]]23 |ref={{SfnRef|戦史叢書23|1969}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=新人物往来社|editor-link=新人物往来社 |year=1995 |title=ドキュメント 日本帝国最期の日 |publisher=新人物往来社 |isbn=978-4404022318 |ref={{SfnRef|新人物往来社|1995}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=読売新聞社|editor-link=読売新聞社 |year=2011 |title=昭和史の天皇 2 - 和平工作の始まり |publisher=中公文庫|edition=改訂新版 |isbn=978-4122055834 |ref={{SfnRef|昭和史の天皇2|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=読売新聞社 編 |year=2012 |title=昭和史の天皇 4 - 玉音放送まで |publisher=中公文庫|edition=改訂新版 |isbn=978-4122056343 |ref={{SfnRef|昭和史の天皇4|2012}} }}全4巻
* {{Cite book |和書 |author=[[読売新聞]]社編 |year=1970 |title=昭和史の天皇 11 |publisher=読売新聞社|series=昭和史の天皇11 |asin=B000J9HYBA |ref={{SfnRef|昭和史の天皇11|1971}} }}
* {{Cite book |和書 |author=読売新聞社編 |year=1970 |title=昭和史の天皇 12 |publisher=読売新聞社|series=昭和史の天皇12 |asin=B000J9HYB0 |ref={{SfnRef|昭和史の天皇12|1971}} }}
* {{Cite book |和書 |author=読売新聞社編 |year=1970 |title=昭和史の天皇 13 |publisher=読売新聞社|series=昭和史の天皇13 |asin=B000J9HYAQ |ref={{SfnRef|昭和史の天皇13|1971}} }}全30巻
* {{Cite book |和書 |author=読売新聞社編 |year=1983 |title=フィリピンー悲島 |publisher=読売新聞社|series=新聞記者が語りつぐ戦争〈18〉|asin=B000J74OBA |ref={{SfnRef|新聞記者が語りつぐ戦争18|1983}} }}
* {{Cite book |last= Mamoulides |first=Jim |year=2017 |title=PenHero Quarterly Q2 2017 |publisher=PenHero.com LLC |isbn=978-0999051016 |ref={{SfnRef|Jim Mamoulides|2017}}}}
* {{Citation|和書|author=[[水間政憲]] |date=2013-08 |title=ひと目でわかる「アジア解放」時代の日本精神 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=978-4569813899 |ref={{Harvid|水間|2013}}}}
* {{cite journal|last1=Giangreco|first1=D. M.|s2cid=159870872|title=Casualty Projections for the U.S. Invasions of Japan, 1945-1946: Planning and Policy Implications|journal=Journal of Military History |volume=61 |issue=3 |year=1997 |issn=0899-3718 |doi=10.2307/2954035 |jstor=2954035|ref={{SfnRef|Giangreco|1995}}}}
}}
== 関連項目 ==
{{ul
|人物{{columns-list|15em|
* [[昭和天皇]]
* [[幣原喜重郎]]
* [[吉田茂]]
* [[芦田均]]
* [[白洲次郎]]
* [[川村吾蔵]]
* [[笠井重治]]
* [[ダグラス・マッカーサー2世]]{{inline block|(甥。[[駐日アメリカ合衆国大使]])}}
* [[マシュー・ペリー]]
* [[ウォルドルフ=アストリア]]
* [[チャールズ・ウィロビー]]
* [[ジョン・フォスター・ダレス]]{{inline block|([[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]])}}
* [[コートニー・ホイットニー]]
}}
|出来事{{columns-list|15em|
* [[ポツダム宣言]]
* [[日本の降伏]]
* [[ロングアイランド・マッカーサー空港]]
* [[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)
* [[連合国軍占領下の日本]]
* [[戦後混乱期]]
* [[プレスコード]]
* [[朝鮮戦争]]
* [[マッカーサー・ライン]]
* [[ドッジ・ライン]]
* [[日本国との平和条約]]
}}
}}
== 外部リンク ==
{{commons|Douglas MacArthur}}
{{after float}}
{{col-list|40em|
* [https://history.army.mil/faq/mac_bio.htm Douglas MacArthur's biography at the Official U.S. Army website]
* [http://www.macarthurmemorial.org/ The MacArthur Memorial] - The MacArthur Memorial at Norfolk, Virginia
* [https://mmb.org.au/ MacArthur Museum Brisbane] - The MacArthur Museum at Brisbane, Queensland, Australia
* [http://www.pbs.org/wgbh/amex/macarthur/index.html MacArthur] - a site about MacArthur from PBS.
* [http://killingthebuddha.com/mag/confession/red-flags-and-christian-soldiers/ Killing the Budda - Red Flags and Christian Soldiers] - about MacArthur's effort and vision to establish International Christian University
* {{科学映像館|genre=education|id=7170|name=アメリカ占領下の日本 第2巻 最高司令官マッカーサー}}
* {{Kotobank|マッカーサー}}
}}
{{S-start}}
{{Succession box
| title = [[アメリカ陸軍参謀総長]]
| years = 第10代:1930年11月21日 - 1935年10月1日
| before = [[チャールズ・P・サマーオール]]
| after = [[マリン・クレイグ]]
}}
{{Succession box
| title = [[連合国軍最高司令官総司令部|連合軍最高司令官(SCAP)]]
| years = 初代:1945年8月14日 - 1951年4月16日
| before = -
| after = [[マシュー・リッジウェイ]]
}}
{{S-end}}
{{琉球列島米国民政府の高官}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:まつかあさあ たくらす}}
[[Category:ダグラス・マッカーサー|*]]
[[Category:連合国軍最高司令官総司令部の人物]]
[[Category:20世紀の軍人]]
[[Category:アメリカ合衆国陸軍元帥]]
[[Category:アメリカ合衆国陸軍参謀総長]]
[[Category:第一次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人]]
[[Category:第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人]]
[[Category:太平洋戦争の人物]]
[[Category:朝鮮戦争の人物]]
[[Category:議会名誉黄金勲章受章者]]
[[Category:陸軍名誉勲章受章者]]
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]
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[[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]]
[[Category:アメリカ合衆国大統領候補者]]
[[Category:アメリカ合衆国の反共主義者]]
[[Category:アメリカ合衆国の実業家]]
[[Category:軍事顧問]]
[[Category:占領下の日本]]
[[Category:アメリカ合衆国のフリーメイソン]]
[[Category:国際基督教大学の人物]]
[[Category:在日アメリカ人]]
[[Category:宝鼎勲章受章者]]
[[Category:マッカーサー家|たくらす]]
[[Category:アメリカ陸軍士官学校出身の人物]]
[[Category:イングランド系アメリカ人]]
[[Category:リトルロック出身の人物]]
[[Category:19世紀アメリカ合衆国の人物]]
[[Category:20世紀アメリカ合衆国の人物]]
[[Category:1880年生]]
[[Category:1964年没]]
[[Category:国葬された人物]]
|
2003-08-17T12:45:13Z
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2023-12-31T04:51:19Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC
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1の補数
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1の補数(、英: ones' complement)は、2 を位取り記数法の基数とした場合の減基数の補数である。すなわち、整数 x との和が 2 の冪乗 2 から 1 を引いた数に等しい数 xc = (2 − 1) − x のことをいう(例:2 − 1 = 15 について、4 に対する1の補数は 11)。
数 x とその1の補数 xc を二進法で表せば、1の補数 xc は x との和が n 桁の二進数として表せる最大の数となる数といえる(例:2 − 1 = 11112 について、410 = 01002 の1の補数は 1110 = 10112)。
二進法において、ある数の1の補数を反数と見なせば、決まった桁数の二進数をそれぞれ非負の数と負の数に対応づけられる(#負の数の表現)。
1の補数表現はコンピュータの分野において、固定長の符号付きの整数型などの表現として利用されることがある。
1の補数を用いて二進数を負の整数に対応づけられる。1の補数の定義より、n 桁の二進数 x とその補数 xc は以下の関係を満たす:
右辺の 2 − 1 の倍数を 0 と同一視すれば、上記の関係は以下のように解釈できる:
これは x の補数 xc を x の反数 −x と見なすことを意味する。
#負の数の表現節の方法で反数および減法が定義されているとする。更に 0 から 2 − 1 までの非負整数をそのまま通常の位取り記数法における二進表示、
に対応づければ、これらの数の補数として負の整数に対する1の補数表現が得られる。
具体例として、n = 4 桁の二進数における対応表を以下に示す:
結局、n 桁の二進数の k + 1 桁目の値を bk ∈ {0, 1} とすれば、1の補数表現は以下のように表せる:
1の補数で表される数は、対応する二進数表示の最上位の値 bn−1 が 0 なら負でない値を取り、1 なら正でない値を取る。
1の補数表現において、二進数をビット列とみなせば、符号の反転はビット列 x のビットを反転することによって行える。x とそれをビット反転させた x は常に以下を満たす:
上記より、x の1の補数は xc = x と表せる。従って減法は、
と書き換えられる。ビット反転が反数に対応することから、0 は 000...002 と 111...112 の2つの表現方法を持つ。
|
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"text": "1の補数(、英: ones' complement)は、2 を位取り記数法の基数とした場合の減基数の補数である。すなわち、整数 x との和が 2 の冪乗 2 から 1 を引いた数に等しい数 xc = (2 − 1) − x のことをいう(例:2 − 1 = 15 について、4 に対する1の補数は 11)。",
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"text": "数 x とその1の補数 xc を二進法で表せば、1の補数 xc は x との和が n 桁の二進数として表せる最大の数となる数といえる(例:2 − 1 = 11112 について、410 = 01002 の1の補数は 1110 = 10112)。",
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"text": "1の補数表現はコンピュータの分野において、固定長の符号付きの整数型などの表現として利用されることがある。",
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1の補数(いちのほすう、は、2 を位取り記数法の基数とした場合の減基数の補数である。すなわち、整数 x との和が 2 の冪乗 2n から 1 を引いた数に等しい数 xc = − x のことをいう。 数 x とその1の補数 xc を二進法で表せば、1の補数 xc は x との和が n 桁の二進数として表せる最大の数となる数といえる。 二進法において、ある数の1の補数を反数と見なせば、決まった桁数の二進数をそれぞれ非負の数と負の数に対応づけられる。 1の補数表現はコンピュータの分野において、固定長の符号付きの整数型などの表現として利用されることがある。
|
{{出典の明記|date=2023年3月30日 (木) 05:11 (UTC)}}
{{読み仮名|'''1の補数'''|いちのほすう|{{Lang-en-short|ones' complement}}}}は、{{math|2}} を[[位取り記数法]]の基数とした場合の[[補数|減基数の補数]]である{{sfn|JIS X 0005:2002|2002|loc=05.08.07 1の補数}}{{sfn|ISO/IEC 2382:2015|2015|loc=2. Terms and definition. 2121103. ones complement}}{{sfn|JIS X 0005:2002|2002|loc=05.08.02 基数の補数}}{{sfn|ISO/IEC 2382:2015|2015|loc=2. Terms and definition. 2121098. radix complement}}{{sfn|JIS X 0005:2002|2002|loc=05.08.01 補数}}{{sfn|ISO/IEC 2382:2015|2015|loc=2. Terms and definition. 2121097. complement}}。すなわち、[[整数]] {{mvar|x}} との[[加法|和]]が {{math|2}} の[[冪乗]] {{math|2{{sup|''n''}}}} から {{math|1}} を引いた数に等しい数 {{math|1=''x''{{sub|c}} = (2{{sup|''n''}} − 1) − ''x''}} のことをいう(例:{{math|1=2{{sup|4}} − 1 = 15}} について、{{math|4}} に対する1の補数は {{math|11}})。
数 {{mvar|x}} とその1の補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} を[[二進法]]で表せば、1の補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} は {{mvar|x}} との和が {{mvar|n}} 桁の二進数として表せる最大の数となる数といえる(例:{{math|1=2{{sup|4}} − 1 = 1111{{sub|2}}}} について{{efn2|下付きの添字は[[位取り記数法]]の基数を表す。}}、{{math|1=4{{sub|10}} = 0100{{sub|2}}}} の1の補数は {{math|1=11{{sub|10}} = 1011{{sub|2}}}})。
二進法において、ある数の1の補数を[[反数]]と見なせば、決まった桁数の二進数をそれぞれ[[正の数と負の数|非負]]の数と負の数に対応づけられる([[#負の数の表現]])。
1の補数表現は[[コンピュータ]]の分野において、固定長の[[符号]]付きの[[整数型]]などの表現として利用されることがある。
== 負の数の表現 ==
1の補数を用いて[[二進法|二進数]]を[[正の数と負の数|負]]の[[整数]]に対応づけられる。1の補数の[[定義]]より、{{mvar|n}} 桁の二進数 {{mvar|x}} とその補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} は以下の関係を満たす:
:<math>
x + x_\mathrm{c} = 2^n - 1 \,.
</math>
右辺の {{math|2{{sup|''n''}} − 1}} の[[倍数]]を {{math|0}} と同一視すれば、上記の関係は以下のように解釈できる:
:<math>
x + x_\mathrm{c} \equiv 0 \,.
</math>
これは {{mvar|x}} の補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} を {{mvar|x}} の[[反数]] {{math|−''x''}} と見なすことを意味する。
:<math>
y - x \equiv y + x_\mathrm{c} \,.
</math>
== 1の補数表現 ==
[[#負の数の表現]]節の方法で[[反数]]および[[減法]]が[[定義]]されているとする。更に {{math|0}} から {{math|2{{sup|''n''−1}} − 1}} までの非負整数をそのまま通常の[[位取り記数法]]における二進表示、
: <math>0_2, 1_{2}, {10}_2, \dots, \underbrace{011\cdots11}_{n \text{桁}}{}_{2}</math>
に対応づければ、これらの数の[[補数]]として[[正の数と負の数|負]]の[[整数]]に対する1の補数表現が得られる。
具体例として、{{math|1=''n'' = 4}} 桁の二進数における対応表を以下に示す:
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+ {{math|2{{sup|4}}}} についての1の補数表現における、二進数と対応する整数の一覧
|-
! 対応する整数 !! 二進数 !! 対応する整数 !! 二進数
|-
| {{math|0}} || {{math|0000{{sub|2}}}}
| {{math|0}} || {{math|1111{{sub|2}}}}
|-
| {{math|1}} || {{math|0001{{sub|2}}}}
| {{math|−1}} || {{math|1110{{sub|2}}}}
|-
| {{math|2}} || {{math|0010{{sub|2}}}}
| {{math|−2}} || {{math|1101{{sub|2}}}}
|-
| {{math|3}} || {{math|0011{{sub|2}}}}
| {{math|−3}} || {{math|1100{{sub|2}}}}
|-
| {{math|4}} || {{math|0100{{sub|2}}}}
| {{math|−4}} || {{math|1011{{sub|2}}}}
|-
| {{math|5}} || {{math|0101{{sub|2}}}}
| {{math|−5}} || {{math|1010{{sub|2}}}}
|-
| {{math|6}} || {{math|0110{{sub|2}}}}
| {{math|−6}} || {{math|1001{{sub|2}}}}
|-
| {{math|7}} || {{math|0111{{sub|2}}}}
| {{math|−7}} || {{math|1000{{sub|2}}}}
|}
結局、{{mvar|n}} 桁の二進数の {{math|1=''k'' + 1}} 桁目の値を {{math|''b{{sub|k}}'' ∈ {{mset|0, 1}}}} とすれば、1の補数表現は以下のように表せる:
: <math>
{b_{n-1} b_{n-2} \cdots b_1 b_0}_{(2)}
\mapsto
\sum_{k=0}^{n-2} {b_k \cdot 2^k}
- b_{n-1}\cdot (2^{n-1} - 1) \,.
</math>
=== 1の補数表現における演算 ===
1の補数で表される数は、対応する二進数表示の最上位の値 {{math|''b''{{sub|''n''−1}}}} が {{math|0}} なら負でない値を取り、{{math|1}} なら正でない値を取る。
1の補数表現において、二進数を[[ビット]]列とみなせば、符号の反転はビット列 {{mvar|x}} の[[ビット演算#NOT|ビットを反転]]{{efn2|ここで[[ビット演算#NOT|ビット反転]]とは各ビットに対する否定演算を指す。すなわち入力が {{math|0}} なら {{math|1}} を出力し、入力が {{math|1}} なら {{math|0}} を出力する。}}することによって行える。{{mvar|x}} とそれをビット反転させた {{math|{{sup|f}}''x''}} は常に以下を満たす:
: <math>
x + {}^\mathrm{f}x \equiv 0 \,.
</math>
上記より、{{mvar|x}} の1の補数は {{math|1=''x''{{sub|c}} = {{sup|f}}''x''}} と表せる。従って[[減法]]は、
:<math>
y - x \equiv y + {}^\mathrm{f}x
</math>
と書き換えられる。ビット反転が反数に対応することから、{{math|0}} は {{math|000...00{{sub|2}}}} と {{math|111...11{{sub|2}}}} の2つの表現方法を持つ。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書
|title=JIS X 0005:2002 情報処理用語(データの表現)
|publisher=日本規格協会
|editor1=日本規格協会
|editor2=情報処理学会
|date=2002-08-31
|ref={{sfnref|JIS X 0005:2002|2002}}
}}
* {{cite book
|title=ISO/IEC 2382:2015 Information technology — Vocabulary
|publisher=ISO/IEC
|editor1=ISO
|editor2=IEC
|date=2015-05
|ref={{sfnref|ISO/IEC 2382:2015|2015}}
}}
== 関連項目 ==
* [[符号付数値表現]]
* [[コンピュータの数値表現]]
* [[補数]]
* [[2の補数]]
{{DEFAULTSORT:いちのほすう}}
[[Category:コンピュータの算術]]
[[Category:コンピュータのデータ]]
[[Category:プログラミング]]
[[Category:数の表現]]
[[Category:数学に関する記事|/1いちのほすう]]
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2023-04-04T01:18:37Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E3%81%AE%E8%A3%9C%E6%95%B0
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13,423 |
物理単位
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物理単位(ぶつりたんい)とは、物理学や計測学において、種々の物理量を表す単位として選ばれた基準の量である。
単に単位と呼ばれることが多いが、物理量ではないもののための単位と区別する場合には特に「物理単位」と言う。本項において、特に断りのない場合は「単位」とは物理単位を指すものとする。
単位には明確で使いやすい定義が必要である。実験結果の再現性は科学的方法において重要である。そのためには測定の基準が必要となり、測定の基準を便利なものにするために単位が必要となる。科学的な単位は、当初は商業の目的のために発展してきた度量衡の概念を様式化したものである。
複数の単位を組み合わせて体系としたものが単位系である。
国際単位系(SI)の考え方および表記に従えば、物理量の値 (the value of a quantity) Qは、その数値 (numerical value) を示す数値 (number) n と単位 (unit) Uとの積として表される(従って単位の取り方に依存して数値は変更を受ける)。乗法記号(×)は省略して、「半角数字+line-breakingしない四分の一角スペース+半角英文字」と表記することが標準的である。
また、商の形による表記も可能である。
具体例として、1 Pa の圧力 P を考えると、Q = P, n = 1, U = Pa であり、下記のようになる。
なお国際単位系 (SI) のルールでは、数値 n を示す場合には上記の商の形を用いる。従って物理量の値 Q の数値 n を数表の欄内に示す場合やグラフの軸に数値 n を付記する場合なども、それらのタイトル名としては単位 U で除算した Q/U の形を用いる(例:「圧力/Pa」)。
上記の物理量 Q や物理単位 U には次元という概念が定められている(数値 n は無次元量である)。上記の式も両辺の次元は一致している。無次元量は log などのべき乗 x 以外の関数の引数に取ることができる。
ガイドライン
単位の換算には、異なる物理量の基準(単一の物理量の、または物理量と他の物理量の組み合わせの)の比較が必要となる。単位の間の換算比率はほとんどの場合ある程度不正確であり、より正確な比較が行えれば、より正確な換算が行えることになる。
例えば長さを示すのに常にメートルのみを用いていたのでは、地球から他の天体までの距離は非常に大きな数値となり、逆に分子、素粒子などの大きさは非常に小さな数値となってしまう。大きな値や小さな値でも扱いやすい数値で表せるようにするために、基本となる単位の倍量・分量を示す単位が作られている。
SIをはじめとするメートル法では、元の単位に対する倍数を意味するSI接頭語が使用される。例えば、接頭語センチ (c) は0.01倍を意味し、センチメートル (cm) は0.01×メートルとなる。接頭語ミリ (m) は0.001倍を意味し、ミリニュートン (mN) は 0.001×N となる。
ただし、1つだけ例外がある。歴史的な理由により、質量の単位キログラム(kg)はすでに単位名に接頭語を含んでおり、接頭語はキログラムではなくグラム(g)に対してつけることになっている。すなわち、キログラムの10倍は、マイクロキログラム(μkg)ではなくミリグラム(mg)となる。
接頭語はちょうどの数値として定義されており、接頭語を使用する際には単位の換算を必要としない。例えば、"cm" と "0.01 m" とは全く同じ値である。これは単位の換算ではなく、「"4×5"と"20"とは同じ値である」というのと同様の、単なる数値的な換算である。
メートル法以外の単位系では、倍量単位・分量単位にも固有の名称をつけていることが多い。例えば尺貫法では、長さの基本となる単位は尺であるが、その10分の1は寸、6倍は間、10倍は丈となっている。また、メートル法のような10の累乗倍だけではなく、3倍、6倍、12倍などといった半端な数値が使われている。
なお、ここでいう「基本となる単位」のことを基本単位、倍量単位・分量単位のことを補助単位(または補助計量単位)と呼ぶこともある。SIでも同じ用語が使われているが、これとは異なる意味である。
数値の表し方として、単名数・複名数の概念がある。 単位を使ってある値を表す場合、1つの単位のみで表したものを単名数(たんめいすう)、それに対して、2つ以上の単位を使って表したものを複名数(ふくめいすう)または諸等数(しょとうすう)という。 詳細は、単名数・複名数を参照のこと。
|
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"text": "単位には明確で使いやすい定義が必要である。実験結果の再現性は科学的方法において重要である。そのためには測定の基準が必要となり、測定の基準を便利なものにするために単位が必要となる。科学的な単位は、当初は商業の目的のために発展してきた度量衡の概念を様式化したものである。",
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"text": "なお国際単位系 (SI) のルールでは、数値 n を示す場合には上記の商の形を用いる。従って物理量の値 Q の数値 n を数表の欄内に示す場合やグラフの軸に数値 n を付記する場合なども、それらのタイトル名としては単位 U で除算した Q/U の形を用いる(例:「圧力/Pa」)。",
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"text": "例えば長さを示すのに常にメートルのみを用いていたのでは、地球から他の天体までの距離は非常に大きな数値となり、逆に分子、素粒子などの大きさは非常に小さな数値となってしまう。大きな値や小さな値でも扱いやすい数値で表せるようにするために、基本となる単位の倍量・分量を示す単位が作られている。",
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}
] |
物理単位(ぶつりたんい)とは、物理学や計測学において、種々の物理量を表す単位として選ばれた基準の量である。 単に単位と呼ばれることが多いが、物理量ではないもののための単位と区別する場合には特に「物理単位」と言う。本項において、特に断りのない場合は「単位」とは物理単位を指すものとする。 単位には明確で使いやすい定義が必要である。実験結果の再現性は科学的方法において重要である。そのためには測定の基準が必要となり、測定の基準を便利なものにするために単位が必要となる。科学的な単位は、当初は商業の目的のために発展してきた度量衡の概念を様式化したものである。 複数の単位を組み合わせて体系としたものが単位系である。
|
{{出典の明記|date=2013年10月}}
{{数量の比較}}
'''物理単位'''(ぶつりたんい)とは、[[物理学]]や[[計測学]]において、種々の[[物理量]]を表す[[単位]]として選ばれた基準の量である。
単に'''単位'''と呼ばれることが多いが、物理量ではないもののための単位と区別する場合には特に「物理単位」と言う。本項において、特に断りのない場合は「単位」とは物理単位を指すものとする。
単位には明確で使いやすい定義が必要である。実験結果の[[再現性]]は[[科学的方法]]において重要である。そのためには測定の基準が必要となり、測定の基準を便利なものにするために単位が必要となる。科学的な単位は、当初は商業の目的のために発展してきた[[度量衡]]の概念を様式化したものである。
複数の単位を組み合わせて体系としたものが[[単位系]]である。
== 次元としての単位 ==
[[国際単位系]](SI)の考え方および表記に従えば、[[物理量]]の値 (the value of a quantity) {{mvar|Q}}は、その数値 (numerical value) を示す数値 (number) {{mvar|n}} と単位 (unit) {{mvar|'''U'''}}との積として表される(従って単位の取り方に依存して数値は変更を受ける<ref name=nmij>外部リンク参照;{{PDFlink|[https://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf 国際単位系 第8版 日本語訳]|531 [[キビバイト|KiB]]}} 5.3.1 量の値と数値、及び量の四則演算。</ref>)。[[乗法]]記号(×)は省略して、「半角数字+line-breakingしない四分の一角スペース<ref group="注釈">日本語文中では、半角スペースで代用することが多い。</ref>+半角英文字」と表記することが標準的である<ref>[[Wikipedia:表記ガイド#単位]]。</ref>。<!--(「[[数学記号の表#代数学の記号|算術記号]]」を参照)。物理量の値は単位系に依存しないが、その数値は単位系により異なる。-->
:<math>Q = n \times \boldsymbol{U} = n \, \boldsymbol{U} </math>
また、商の形による表記も可能である。
:<math>Q / \boldsymbol{U} = n </math>
具体例として、{{math|1=1 Pa}} の圧力 {{mvar|P}} を考えると、{{math|1=''Q'' = ''P''}}, {{math|1=''n'' = 1}}, {{math|1='''''U''''' = Pa}} であり、下記のようになる<ref group="注釈">なお推奨されない表記例は、{{math|1=''P'' [Pa] = 1}}, {{math|1=''P'' (Pa) = 1}} など、物理量(の変数)に除算以外の形で単位を添える例がある。</ref>。
:<math>P = 1\, \mathrm{Pa}</math>
:<math>P / \mathrm{Pa} = 1 </math>
:<math>\log (P / \mathrm{Pa}) = 0 </math>
なお[[国際単位系]] (SI) のルールでは、数値 {{mvar|n}} を示す場合には上記の商の形を用いる。従って物理量の値 {{mvar|Q}} の数値 {{mvar|n}} を数表の欄内に示す場合やグラフの軸に数値 {{mvar|n}} を付記する場合なども、それらのタイトル名としては単位 {{mvar|'''U'''}} で除算した {{math|''Q''/'''''U'''''}} の形を用いる(例:「圧力/Pa」)<ref name=nmij/>{{refnest|group="注釈"|商の形での表記では明確にわかるのだが、これらの数式における {{mvar|Q}} や {{mvar|'''U'''}} は単なる記号や名称ではなく、また単に『ある量という概念』だけを示しているのでもなく、四則演算可能な定量的実在を示している。<ref>{{Citation|和書|author1=森川鉄朗 |author2=西山保子 |url=https://hdl.handle.net/10513/284 |title=科学教育における量の計算法について |periodical=上越教育大学研究紀要 |volume=17 |number=1 |date=1997-9 |pages=365–375 |year=1997 |issn=0915-8162 }}</ref>}}。
上記の物理量 {{mvar|Q}} や物理単位 {{mvar|'''U'''}} には[[量の次元|次元]]という概念が定められている(数値 {{mvar|n}} は[[無次元量]]である)。上記の式も両辺の次元は一致している。無次元量は {{math|log}} などのべき乗 {{mvar|x{{sup|n}}}} 以外の関数の引数に取ることができる<ref group="注釈">ただし、式全体で次元のつじつまが合うならば、次元を持つ物理量を対数関数の引数に取る形が特に悪いわけではない。例えば、{{math|1=log ''P'' = log(1 Pa)}}。</ref>。
{{Main|次元解析}}
<!--単位とその基準とは区別されなければならない。単位はその定義によって固定されており、温度のような物理的な状態から独立している。それに対して、基準は単位を実際に[[現示]]するものであり、特定の物理的な状態の下でのみ単位を現示できる。例えば、メートルは単位であり、メートル原器は基準である。1メートルは温度に関係なく常に同じ長さであるが、メートル原器は特定の温度のときだけ1メートルの長さを現示できる。-->
=== 単位の組み立て ===
ガイドライン
* 量は数値と[[単位記号]]の積として扱うので、単位量を対応する単位記号で割ると、[[無次元量]]となる。2つの異なる単位記号をかけると新しい単位記号となる。例えば、[[国際単位系|SI]]における速度の単位は、メートル毎秒(m/s)である。[[次元解析]]を参照のこと。同じ単位記号同士をかけると、[[累乗]]のような表現をする新しい単位記号となる(例: m<sup>2</sup>(平方メートル))
* いくつかの[[組立単位]]には固有の名称と[[単位記号|記号]]が与えられている。例えば1[[ニュートン (単位)|ニュートン]](N)は1 kg m/s<sup>2</sup>に等しい。固有の名称を持つ組立単位は、他の単位の組み立てに使用することができる。例えば、[[表面張力]]の単位はN/m(ニュートン毎メートル)ともkg/s<sup>2</sup>(キログラム毎秒毎秒)とも表現される。
* 「密度は単位体積当たりの質量である」という表現は「体積の『単位』によって割られた質量」という意味ではない。この「単位体積」という表現は「数値1と現在使用している体積の単位記号の積によって作られる『体積』」を示す。たとえば体積の単位としてm<sup>3</sup>を用いている場合、「単位体積」は 1 m<sup>3</sup> である。ある均質な物質の質量を''m''、体積を''V''、現在使用している単位系での単位体積を''V''<sub>0</sub>とすると、この物質の密度ρおよび単位体積当たりの質量''m''<sub>0</sub>は以下のように表される。
*:<math>\rho = \frac{m}{V} = \frac{m_0}{V_0} </math>
== 単位の換算 ==
[[単位の換算]]には、異なる物理量の基準(単一の物理量の、または物理量と他の物理量の組み合わせの)の比較が必要となる。単位の間の換算比率はほとんどの場合ある程度不正確であり、より正確な比較が行えれば、より正確な換算が行えることになる。
== 倍量単位・分量単位 ==
例えば長さを示すのに常にメートルのみを用いていたのでは、地球から他の天体までの距離は非常に大きな数値となり、逆に分子、素粒子などの大きさは非常に小さな数値となってしまう。大きな値や小さな値でも扱いやすい数値で表せるようにするために、基本となる単位の倍量・分量を示す単位が作られている。
SIをはじめとするメートル法では、元の単位に対する倍数を意味する[[SI接頭語]]が使用される。例えば、接頭語[[センチ]] (c) は0.01倍を意味し、センチメートル (cm) は0.01×メートルとなる。接頭語[[ミリ]] (m) は0.001倍を意味し、ミリニュートン (mN) は 0.001×N となる。
ただし、1つだけ例外がある。歴史的な理由により、質量の単位[[キログラム]](kg)はすでに単位名に接頭語を含んでおり、接頭語はキログラムではなくグラム(g)に対してつけることになっている。すなわち、キログラムの10<sup>−6</sup>倍は、マイクロキログラム(µkg)ではなくミリグラム(mg)となる。
[[SI接頭語|接頭語]]はちょうどの数値として定義されており、接頭語を使用する際には単位の換算を必要としない。例えば、"cm" と "0.01 m" とは全く同じ値である。これは単位の換算ではなく、「"4×5"と"20"とは同じ値である」というのと同様の、単なる数値的な換算である。
メートル法以外の単位系では、倍量単位・分量単位にも固有の名称をつけていることが多い。例えば尺貫法では、長さの基本となる単位は[[尺]]であるが、その10分の1は寸、6倍は間、10倍は丈となっている。また、メートル法のような10の累乗倍だけではなく、3倍、6倍、12倍などといった半端な数値が使われている。
なお、ここでいう「基本となる単位」のことを'''基本単位'''、倍量単位・分量単位のことを'''[[補助単位]]'''(または補助計量単位)と呼ぶこともある。SIでも同じ用語が使われているが、これとは異なる意味である。
=== 単名数・複名数 ===
数値の表し方として、[[単名数・複名数]]の概念がある。
単位を使ってある値を表す場合、1つの単位のみで表したものを'''単名数'''(たんめいすう)、それに対して、2つ以上の単位を使って表したものを'''複名数'''(ふくめいすう)または'''諸等数'''(しょとうすう)という。
詳細は、[[単名数・複名数]]を参照のこと。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
* [[計量単位一覧]]
==外部リンク==
*[http://www.convertworld.com/ja/ Convertworld.com]
*[https://unit.aist.go.jp/nmij/library/#si 国際単位系(SI)](国立研究開発法人[[産業技術総合研究所]] 計量標準総合センター)
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維摩経
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『維摩経』 (ゆいまきょう、ゆいまぎょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra 蔵: དྲི་མ་མེད་པར་གྲགས་པས་བསྟན་པ་ཞེས་བྱ་བ་མདོ ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。
サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。
維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。
内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。
維摩が病気になったので、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。
維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。
インドにおいては、2世紀頃にはナーガルジュナ(龍樹)が他の思想家に先駆けて『維摩経』の研究を行った。『大智度論』や『中論』において、彼は『維摩経』の引用をたびたび行い、自説の補強を図っている。また、仏教学者の石田瑞麿によれば、4世紀頃から5世紀頃に活躍した瑜伽派のヴァスバンドゥ(世親)は、浄土教について説いた『浄土論』に登場する比喩を『維摩経』から引いていたようである。さらに、7世紀には、チャンドラキルティー(月称)が『中論釈(英語版)』で、シャーンティデーヴァ(寂天)が『大乗集菩薩学論』において、この経典を引いている。同時期にインドに赴いた玄奘によると、維摩は現地の人々に実在視されており、ヴァイシャーリー市には彼に由来するとされる史跡が残っていたとしている。
『維摩経』はインドを超えて中央アジア、中国へと広まった。中央アジアにおいてはコータン語やソグド語に翻訳された。また、莫高窟などに見られるような維摩変や維摩図像が制作されるなど、民衆にも受容されていたようである。
中国における初訳は、後漢の漢人出家者であった厳仏調による『古維摩詰経』である。しかし、こちらは早い段階で散逸したらしく、後代への影響も明らかではない。その後、三国時代には江南で活動した支謙が『維摩詰経』二巻を、西晋では渡来僧の竺叔蘭(中国語版)と竺法護がそれぞれ『異維摩詰経』三巻と『維摩詰諸説法門経』一巻を著した。竺叔蘭・竺法護らの訳は現存しないが、当時流行していた清談と相まって、格義仏教の成立に大きく寄与したと考えられる。中国、そして朝鮮と日本に徹底的な影響を残したのが、五胡十六国時代の僧侶、鳩摩羅什による漢訳『維摩経』である。同時代のギータミトラ(祇多蜜)や、唐代の玄奘によるより正確な訳『説無垢称経』は用いられることはほぼなく、もっぱら鳩摩羅什の訳によって維摩経の研究が行われた。特に、鳩摩羅什の弟子であった後秦の僧侶、僧肇が完成させた中国における最初の注釈書、『註維摩詰経』は、もっとも基本的な注釈と考えられ、現代における維摩経研究においても重要視されている。
維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間と出世間、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。
たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。
これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。
この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。
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『維摩経』 は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。 サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。 日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。
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[[ファイル:Old Tibetan Chronicle, Pelliot tibétain 1287, p. 21. Vimalakīrti Nirdeśa Sūtra in Chinese.jpg|サムネイル|264x264ピクセル|敦煌[[莫高窟]]第17窟で[[ポール・ペリオ]]によって発見された『維摩経』断簡。裏面は『{{仮リンク|吐蕃賛普伝記|zh|吐蕃贊普傳記|en|Old Tibetan Chronicle}}』。]]
『'''維摩経'''』 (ゆいまきょう、ゆいまぎょう、{{lang-sa-short|Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra}} {{Lang-bo-short|དྲི་མ་མེད་པར་གྲགས་པས་བསྟན་པ་ཞེས་བྱ་བ་མདོ}} ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ<ref>「ニルデーシャ」(nirdeśa)とは、「[[演説]]・[[説教]]」のこと。</ref>)は、[[大乗仏教]][[スートラ|経典]]の一つ。別名『'''不可思議解脱経'''』(ふかしぎげだつきょう)。
[[サンスクリット]]原典<ref>それ以前は逸失したものと思われていたが、1999年に[[大正大学]]学術調査隊によって、チベット・[[ラサ]]の[[ポタラ宮]]の[[ダライ・ラマ]]の書斎で発見された。</ref>と、[[チベット語]]訳、3種の[[漢訳]]が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、[[支謙]]訳『維摩詰経』・[[鳩摩羅什]]訳『維摩詰所説経』・[[玄奘]]訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
[[日本]]でも、[[仏教公伝|仏教伝来]]間もない頃から広く親しまれ、[[聖徳太子]]の[[三経義疏]]の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。
==概要==
維摩経は初期大乗仏典で、全編[[戯曲]]的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し[[在家]]者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。
内容は中インド・[[ヴァイシャーリー]]の長者[[維摩居士|ヴィマラキールティ]](維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。
維摩が病気<ref>この病気は、風邪や腹痛、伝染病などではない。維摩の言葉、「[[衆生]]が病むがゆえに、我もまた病む」は大乗仏教の慣用句となっている。</ref>になったので、[[釈迦]]が[[舎利弗]]・[[目連]]・[[迦葉]]などの弟子達や、[[弥勒菩薩]]などの[[菩薩]]にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、[[文殊菩薩]]が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。
維摩経は明らかに[[般若経典]]群の流れを引いているが、大きく違う点もある。
*一般に般若経典は[[呪術]]的な面が強く、経自体を受持し[[読誦]]することの[[功徳]]を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
*般若経典では一般に「[[空 (仏教)|空]]」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。
== 普及 ==
インドにおいては、[[2世紀]]頃には[[ナーガルジュナ]](龍樹)が他の思想家に先駆けて『維摩経』の研究を行った{{Sfn|石田|1966|p=247}}。『[[大智度論]]』や『[[中論]]』において、彼は『維摩経』の引用をたびたび行い、自説の補強を図っている。また、仏教学者の[[石田瑞麿]]によれば、4世紀頃から5世紀頃に活躍した[[瑜伽行唯識学派|瑜伽派]]の[[ヴァスバンドゥ]](世親)は、[[浄土教]]について説いた『[[浄土論]]』に登場する比喩を『維摩経』から引いていたようである{{Sfn|石田|1966|p=251}}。さらに、7世紀には、[[月称|チャンドラキルティー]](月称)が『{{仮リンク|中論釈|en|Prasannapada}}』で、[[シャーンティデーヴァ]](寂天)が『大乗集菩薩学論』において、この経典を引いている{{Sfn|石田|1966|p=252}}。同時期にインドに赴いた玄奘によると、維摩は現地の人々に実在視されており、[[ヴァイシャーリー|ヴァイシャーリー市]]には彼に由来するとされる史跡が残っていたとしている。
『維摩経』はインドを超えて中央アジア、中国へと広まった。中央アジアにおいては[[コータン語]]や[[ソグド語]]に翻訳された。また、[[莫高窟]]などに見られるような維摩変や維摩図像が制作されるなど、民衆にも受容されていたようである{{Sfn|石田|1966|p=252}}。
中国における初訳は、[[後漢]]の漢人出家者であった[[厳仏調]]による『古維摩詰経』である。しかし、こちらは早い段階で散逸したらしく、後代への影響も明らかではない{{Sfn|石田|1966|p=253}}。その後、[[三国時代 (中国)|三国時代]]には[[江南 (中国)|江南]]で活動した支謙が『維摩詰経』二巻を、[[西晋]]では渡来僧の{{仮リンク|竺叔蘭|zh|竺叔兰}}と[[竺法護]]がそれぞれ『異維摩詰経』三巻と『維摩詰諸説法門経』一巻を著した。竺叔蘭・竺法護らの訳は現存しないが、当時流行していた[[清談]]と相まって、[[格義仏教]]の成立に大きく寄与したと考えられる{{Sfn|石田|1966|p=253}}。中国、そして朝鮮と日本に徹底的な影響を残したのが、[[五胡十六国時代]]の僧侶、[[鳩摩羅什]]による漢訳『維摩経』である。同時代のギータミトラ(祇多蜜)や、唐代の玄奘によるより正確な訳『説無垢称経』は用いられることはほぼなく、もっぱら鳩摩羅什の訳によって維摩経の研究が行われた。特に、鳩摩羅什の弟子であった[[後秦]]の僧侶、[[僧肇]]が完成させた中国における最初の注釈書、『註維摩詰経』<ref>羅什の説と、同じく羅什の門下にあった[[竺道生]]の説、そして僧肇自身の説を併記している。</ref>は、もっとも基本的な注釈と考えられ、現代における維摩経研究においても重要視されている{{Sfn|石田|1966|p=256}}。
== 不二法門 ==
維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、[[生]]と[[終末|滅]]、[[垢]]と[[常楽我浄|浄]]、[[善]]と[[悪|不善]]、罪と福、[[有漏]](うろ)と[[無漏]](むろ)、[[世間]]と[[出世間]]、[[我]]と[[無我]]、[[生死]](しょうじ)と[[涅槃]]、[[煩悩]]と[[菩提]]などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。
たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。
これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。
この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『[[碧巌録]]』の第84則「維摩不二」の禅の[[公案]]にまでなっている。
==原典・主な訳注==
*[[渡辺海旭|渡邊海旭]] 『國譯維摩詰所説經』(國譯大藏經 第十巻 解題・原文)國民文庫刊行会、1917年、原文は弘教藏より収録
**同上(復刻)[[第一書房]]、1974年 ISBN 978-4-8042-0251-8
*[[長尾雅人]] 『維摩経、首楞厳三昧経』[[中央公論新社]]「大乗仏典7」、[[中公文庫]](新版)、2002年 ISBN 978-4122040786、[[チベット語]]訳からの現代語訳、後者は[[丹治昭義]]と共訳。
*『梵蔵漢対照 維摩經』、『智光明莊嚴經』解説、[[大正大学]]綜合仏教研究所梵語佛典研究会編、大正大学出版会、2004年 ISBN 4-924297-16-X
*『梵蔵漢対照 維摩経』大正大学綜合仏教研究所梵語佛典研究会編、大正大学出版会、2004年 ISBN 4-924297-17-8
*高橋尚夫<ref>大正大学教授</ref>・西野翠<ref>大正大学総合仏教研究所研究員</ref> 『梵文和訳 維摩経』 [[春秋社]]、2011年 ISBN 978-4-393-11308-0
*[[植木雅俊]] 『維摩経 梵漢和対照・現代語訳』 [[岩波書店]]、2011年 ISBN 978-400-0254137([[パピルス賞]]受賞)
**改訂版『維摩経 サンスクリット版全訳 現代語訳』[[角川ソフィア文庫]]、2019年 ISBN 978-404-4004873 上記の本から現代語訳と一部の訳注を抜粋して一部文章を改訂したもの。
*[[石田瑞麿]] 『維摩経 不思議のさとり』 [[平凡社東洋文庫]]、1966年、ISBN 978-4582800678 漢訳仏典に基づく。
===主な解説講話===
*[[鎌田茂雄]] 『維摩経講話』 [[講談社学術文庫]]、1990年 ISBN 978-4-06-158919-3
*[[紀野一義]] 『維摩経』 [[大蔵出版]]〈佛典講座〉 新装版、2004年 ISBN 978-4804354514
*[[菅沼晃]] 『維摩経をよむ』 日本放送協会出版〈NHKライブラリー〉、1999年 ISBN 978-4140841020
**増訂版 『誰でもわかる維摩経』 [[大法輪閣]]、2011年 ISBN 9784804613208
*『[[ひろさちや]]の『維摩経』講話』 [[春秋社]]、2012年 ISBN 9784393135525
*長尾雅人 『『維摩経』を読む』 [[岩波現代文庫]](新版)、2014年 ISBN 978-4-00-600320-3。旧版:[[岩波書店]]<岩波セミナーブックス>、1986年
==注・出典==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=石田瑞麿|authorlink=石田瑞麿|date=1966-5-10|title=維摩経 不思議のさとり|publisher=[[平凡社]]|ref={{SfnRef|石田|1966}}}}
==関連項目==
*[[居士]]
*[[法四依]]
*[[経集部 (大正蔵)]]
*[[天女散花]]
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13,428 |
ポジトロン断層法
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ポジトロン断層法(ポジトロンだんそうほう、英語: positron emission tomography:PET)とは、陽電子検出を利用したコンピューター断層撮影技術である。
CTやMRIが主に組織の形態を観察するための検査法であるのに対し、PETはSPECTなど他の核医学検査と同様に、生体の機能を観察することに特化した検査法である。主に中枢神経系の代謝レベルを観察するのに用いられてきたが、近年、腫瘍組織における糖代謝レベルの上昇を検出することにより癌の診断に利用されるようになった。患者への被曝量はCTに比べて少ないが、医療スタッフの被曝量に注意が必要である。ただし、下述するようにPET/CT装置を用いた検査の場合の被曝量はCTに比べても大きくなる場合がある。
CTとPETを比較すると、CTでは外部からX線を照射して全体像を観察しているのに対して、PETなどの核医学検査では生体内部の放射性トレーサーを観察しているという違いがある。ここで、CT像は解剖学的な情報にすぐれているので形態画像と呼ばれ、PET像は生理学的な情報に勝れているので機能画像(functional image)と呼ばれる。なお、両者の利点を総合的に利用するために、PETとCTを一体化した装置・PET/CTも開発されており、診断には両画像をソフトウェア的に重ね合わせた融合画像が主流となりつつある。
陽電子反β崩壊する核種で標識された化合物を放射性トレーサーとして用いる。そのような核種の半減期は一般に短い(O:2分、N:10分、C:20分、F:110分など)。そのため、投与直前に加速器(サイクロトロンなど)を用いて製造される。一般的に放射性同位元素を作成するには原子炉等で中性子を照射するが、陽電子放出核種は原子核内の陽子数が過多であることによりβ+壊変するため、加速器で陽子や重陽子を照射して作成する。放射性トレーサは、病院内に設置した加速器で生成するか、一部、比較的長半減期のものにおいては放射性医薬品会社から供給を受けることも可能である。
人体に投与されたトレーサー中の陽電子放出核種は、体内で崩壊して凡そ96.7〜99.9%の確率で1個の陽電子を放出する。放出された陽電子は近傍の原子(生体の70%は水で構成されているのでおそらくは水分子)の電子と対消滅し、電子の静止質量に等しいエネルギー(511keV)の光子(ガンマ線)が2個放出される(消滅放射線)。この時、おのおのの光子は元の電子と陽電子の運動量を保存する為に、正反対の運動量をもつ。すなわち、反対方向へ対で放出される。
PET装置は、人体の周囲を取り巻くように配列された多数のガンマ線検出器と、2個の光子の信号を組み合わせる同時計数回路からなる。検出器のうちいずれか2つが同時にガンマ線を検出したとき、その2つの検出器を結ぶ直線上のどこかで対消滅が起きたと考えられる。そこで、この情報を集めてCTと同様のコンピューター画像処理を施すことにより、トレーサーの分布を示す三次元画像を作成する。SPECTとは異なり、放射線の入射方向を限定する鉛コリメータを用いなくても、同時計数により原理的に飛来方向が判明するため、検出器の前に遮蔽体を置く必要がない。したがって、一般的にPETはSPECTよりも感度が高く定量性にも勝れている。ただし、長半減期のトレーサが少ないなどの問題があり、PETの潜在能力を十分に引き出すためには、更なるトレーサーの開発が必要不可欠である。
脳内での神経活動が高まるとその部位で代謝量や血液流量が増大するので、捉えたい指標に合わせて上に述べたトレーサーを選ぶことで、間接的に脳内で活動が活発になっている部位を特定することができる。
他にもアルツハイマー病の診断に有効である。
FDG-PETについて
PETとCTを一体化したPET-CT装置を用いた検査の場合、1回の検査における放射線被曝は、23–26 ミリシーベルト(mSv)になる(体重70キロの人体の場合)。これに対し、放射線診療における代表的なX線検査での被曝量は、胸部 0.04mSv、腹部1.2mSv、上部消化管 8.7mSv、胸部CT 7.8mSv、腹部CT 7.6mSvである。日本では、人体は自然界から年間2.1mSv前後の被曝を受けている(2011年推定)。
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ポジトロン断層法とは、陽電子検出を利用したコンピューター断層撮影技術である。
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[[画像:ECAT-Exact-HR--PET-Scanner.jpg|300px|thumb|PET]]
'''ポジトロン断層法'''(ポジトロンだんそうほう、{{lang-en|positron emission tomography:PET}})とは、[[陽電子]]検出を利用したコンピューター[[トモグラフィー|断層撮影]]技術である。
== 概要 ==
[[コンピュータ断層撮影|CT]]や[[核磁気共鳴画像法|MRI]]が主に組織の形態を観察するための検査法であるのに対し、PETは[[単一光子放射断層撮影|SPECT]]など他の[[放射線療法|核医学]]検査と同様に、生体の機能を観察することに特化した検査法である。主に[[中枢神経系]]の[[代謝]]レベルを観察するのに用いられてきたが、近年、[[腫瘍]]組織における糖代謝レベルの上昇を検出することにより[[悪性腫瘍|癌]]の診断に利用されるようになった。患者への[[被曝]]量はCTに比べて少ないが、医療スタッフの被曝量に注意が必要である。ただし、下述するように[[PET/CT]]装置を用いた検査の場合の被曝量はCTに比べても大きくなる場合がある。
CTとPETを比較すると、CTでは外部から[[X線]]を照射して全体像を観察しているのに対して、PETなどの[[放射線療法|核医学]]検査では生体内部の[[放射性トレーサー]]を観察しているという違いがある。ここで、CT像は解剖学的な情報にすぐれているので形態画像と呼ばれ、PET像は生理学的な情報に勝れているので機能画像(functional image)と呼ばれる。なお、両者の利点を総合的に利用するために、PETとCTを一体化した装置・PET/CTも開発されており、診断には両画像をソフトウェア的に重ね合わせた融合画像が主流となりつつある。
== 原理 ==
[[画像:PET-image.jpg|thumb|脳のPETスキャンの例。]]
[[File:PET-MIPS-anim.gif|thumb|<sup>18</sup>F-FDGをトレーサーとして用いた、全身PETスキャンの例。]]
[[陽電子]][[陽電子放出|反β崩壊]]する[[核種]]で標識された化合物を[[放射性トレーサー]]として用いる。そのような核種の半減期は一般に短い([[酸素の同位体|<sup>15</sup>O]]:2分、[[窒素13|<sup>13</sup>N]]:10分、[[炭素の同位体|<sup>11</sup>C]]:20分、[[フッ素18|<sup>18</sup>F]]:110分など)。そのため、投与直前に[[加速器]]([[サイクロトロン]]など)を用いて製造される。一般的に放射性同位元素を作成するには原子炉等で中性子を照射するが、陽電子放出核種は原子核内の陽子数が過多であることによりβ+[[壊変]]するため、加速器で陽子や重陽子を照射して作成する。放射性トレーサは、病院内に設置した加速器で生成するか、一部、比較的長半減期のものにおいては放射性医薬品会社から供給を受けることも可能である。
人体に投与されたトレーサー中の陽電子放出核種は、体内で崩壊して凡そ96.7〜99.9%の確率で1個の陽電子を放出する。放出された陽電子は近傍の原子(生体の70%は水で構成されているのでおそらくは水分子)の[[電子]]と[[対消滅]]し、[[電子の静止質量]]に等しいエネルギー(511k[[電子ボルト|eV]])の光子([[ガンマ線]])が2個放出される(消滅放射線)。この時、おのおのの[[光子]]は元の[[電子]]と[[陽電子]]の[[運動量]]を保存する為に、正反対の運動量をもつ。すなわち、反対方向へ対で放出される。
PET装置は、人体の周囲を取り巻くように配列された多数のガンマ線検出器と、2個の光子の信号を組み合わせる同時計数回路からなる。検出器のうちいずれか2つが同時にガンマ線を検出したとき、その2つの検出器を結ぶ直線上のどこかで対消滅が起きたと考えられる。そこで、この情報を集めてCTと同様のコンピューター画像処理を施すことにより、トレーサーの分布を示す三次元画像を作成する。[[SPECT]]とは異なり、放射線の入射方向を限定する鉛コリメータを用いなくても、同時計数により原理的に飛来方向が判明するため、検出器の前に遮蔽体を置く必要がない。したがって、一般的にPETはSPECTよりも感度が高く定量性にも勝れている。ただし、長半減期のトレーサが少ないなどの問題があり、PETの潜在能力を十分に引き出すためには、更なるトレーサーの開発が必要不可欠である。
== 応用 ==
=== 脳機能 ===
[[脳]]内での神経活動が高まるとその部位で[[代謝]]量や[[血液]]流量が増大するので、捉えたい指標に合わせて上に述べたトレーサーを選ぶことで、間接的に脳内で活動が活発になっている部位を特定することができる。
*[[グルコース]]代謝量を測定したいときにはトレーサーとして<sup>18</sup>F-fluorodeoxy glucose(フルオロデオキシグルコース、FDG)を主に用いる。<sup>18</sup>F-FDGは、グルコース(ブドウ糖)に似た物質に放射性の[[フッ素]](<sup>18</sup>F)をつけたもので、体内にはグルコースと同じように取り込まれるがグルコースと違う点は<sup>18</sup>F-FDGが尿といっしょに、腎臓、尿管、膀胱を経由し体外に排泄されることである<ref>渡邉一夫監修『切らずに治すがん治療』[[主婦の友社]] 2013年、88頁 ISBN 978-4-07-288610-6</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.seirei.or.jp/hamamatsu/hama/guide/pet/under/pet_b_01.htm|title=聖隷PETセンター|date=20151028080042}}</ref>。
*脳血流量や酸素代謝量の測定には、トレーサーとして、<sup>15</sup>OでラベルしたH<sub>2</sub>O、CO<sub>2</sub>、O<sub>2</sub>などを用いる。
他にも[[アルツハイマー病]]の診断に有効である。
=== 癌診断 ===
FDG-PETについて<ref>日本医事新報 2005; 4234: 97</ref>
*癌腫の多くが、[[ブドウ糖]]代謝が活発なことを利用している([[ワールブルク効果 (腫瘍学)|ワールブルク効果]])。
*検出感度の良くない悪性腫瘍も複数種ある。
**[[胃癌]]、[[大腸癌]]、[[肝細胞癌]]、[[脳腫瘍]]など、生理的に正常細胞もブドウ糖代謝の旺盛な組織においては、腫瘍と正常組織のFDG集積の差が少なく検出感度がさがる。
**[[肺癌]]<ref>Gould MK,et al:Accuracy of positron emission tomography for diagnosis of pulmonary nodules and mass lesions:A metaanalysis.JAMA 285:914-924,2001.</ref>では一般的にPETは有用であるが、細気管支肺胞上皮癌などは[[細胞分化|分化]]度の高い[[腺癌]]で、FDG取り込みが高くなく、検出しにくい。
**[[腎細胞癌]]・[[膀胱癌]]を含めた腎尿路系は、FDGが腎から排泄され集積するため、腫瘍と正常組織の差が少なく、検出しにくい。
*[[乳癌]]・[[前立腺癌]]はブドウ糖代謝が旺盛でないことも多く、FDG集積がなく検出しにくい。
*腸管や炎症巣への生理的蓄積、良性腫瘍などが[[偽陽性]]となることがある。
== 被曝 ==
PETとCTを一体化したPET-CT装置を用いた検査の場合、1回の検査における放射線被曝は、23–26 ミリ[[シーベルト]](mSv)になる(体重70キロの人体の場合)<ref>{{Cite journal |author=Brix G, Lechel U, Glatting G, ''et al.'' |title=Radiation exposure of patients undergoing whole-body dual-modality 18F-FDG PET/CT examinations |journal=J. Nucl. Med. |volume=46 |issue=4 |pages=608–13 |year=2005 |month=April |pmid=15809483 |doi= |url=}}</ref>。これに対し、放射線診療における代表的なX線検査での被曝量は、胸部 0.04mSv、腹部1.2mSv、上部消化管 8.7mSv、胸部CT 7.8mSv、腹部CT 7.6mSvである<ref>[[草間朋子]]『あなたと患者のための放射線防護Q&A』[[医療科学社]]、ISBN 978-4900770522。</ref>。日本では、人体は自然界から年間2.1mSv前後の被曝を受けている([[2011年]]推定)<ref name="KEK">[http://rcwww.kek.jp/kurasi/page-41.pdf 大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構>放射線科学センター >暮らしの中の放射線>自然放射線の量]</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[対消滅]]
*[[医用画像処理]]
*[[脳機能イメージング]]
*[[OsiriX]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|PET}}
* [https://www.nirs.qst.go.jp/usr/medical-imaging/ja/study/main.html 次世代PET開発研究会報告書] - [[量子科学技術研究開発機構]]
* [http://www.jcpet.jp/ HOME-PET & PET] - [[日本核医学会]]PET核医学分科会、臨床PET推進会議
{{放射線}}
{{核技術}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ほしとろんたんそうほう}}
[[Category:画像診断]]
[[Category:医療機器]]
[[Category:放射線療法]]
[[Category:先端医療]]
[[Category:医学物理学]]
[[Category:トモグラフィー]]
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13,429 |
晋
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晋(しん)
中国本土の華北の地域名、国名、王朝名。黄土高原の東端に位置し、太行山脈と呂梁山脈に挟まれた汾水流域の河谷の盆地を中核とし、現在の山西省一帯に広がる地方にあたる。そのため山西省の雅称としても用いられる。
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晋(しん)
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'''晋'''(しん)
== 地名・王朝 ==
[[中国本土]]の[[華北]]の地域名、国名、王朝名。[[黄土高原]]の東端に位置し、[[太行山脈]]と[[呂梁山脈]]に挟まれた[[汾水]]流域の[[河谷]]の[[盆地]]を中核とし、現在の[[山西省]]一帯に広がる地方にあたる。そのため山西省の[[雅称]]としても用いられる。
*[[晋 (春秋)]](紀元前11世紀 - 紀元前376年) - [[周|西周]]時代に汾水の支流晋水流域唐の地に封ぜられた唐叔虞を始祖とし、春秋時代に現在の山西省一帯に勢力を広げた国。
*[[晋 (王朝)]](265年 - 316年・317年 - 419年) - [[魏_(三国)|曹魏]]から晋王に封ぜられた[[司馬昭]]の長男[[司馬炎]]が曹魏からの禅譲により建てた王朝。[[永嘉の乱]]を境に中国本土全体を治めた西晋と、華北を放棄して[[江南]]に依った東晋の2期に分けられる。
**[[西晋]](265年 - 316年) - 司馬炎が265年に魏から禅譲を受けて建てた王朝。
**[[東晋]](317年 - 419年) - 西晋が[[匈奴]]の建国した[[前趙|漢]]に滅ぼされた後、王族の[[司馬睿]]が江南で再興した王朝。
*[[五代十国時代|五代時代]]に汾水上流の[[太原]]を本拠地とした[[沙陀族]]軍閥河東[[節度使]]の建てた王朝
**[[前晋]](883年 - 923年) - 沙陀族長[[李存勗]]の建てた政権。華北を統一した李存勗が皇帝に就き、[[唐]]の正統継承者を称して[[後唐]](923年 - 936年)と改めるまでの旧称。
**[[後晋]](936年 - 946年) - 沙陀族軍閥の[[ソグド]]系の将[[石敬瑭]]が後唐から自立して皇帝に即位し、そのまま後唐を滅ぼして建てた国。
== その他 ==
* [[晋 (姓)]] - [[漢姓]]の一つ。
==関連項目==
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13,431 |
1684年
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1684年(1684 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。
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1684年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。
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{{year-definition|1684}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲子]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天和 (日本)|天和]]4年、[[貞享]]元年2月21日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2344年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]23年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]10年
** [[檀君紀元|檀紀]]4017年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]5年
* [[仏滅紀元]] : 2226年 - 2227年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1095年 - 1096年
* [[ユダヤ暦]] : 5444年 - 5445年
* [[ユリウス暦]] : 1683年12月22日 - 1684年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1684}}
== できごと ==
* [[イギリス]]、記録にある中で最も寒い冬([[1683年から1684年の大寒波]])。
* [[4月5日]](天和4年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) - 日本、[[改元]]して[[貞享]]元年
* [[10月7日]](貞享元年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[江戸幕府]][[大老]]・[[堀田正俊]]が[[江戸城]]内で暗殺される。
* [[ジョン・バニヤン]]、『[[天路歴程]]』第二部を執筆。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1684年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月16日]] - [[ボフスラフ・チェルノホルスキー]]、[[作曲家]]、音楽教師(+ [[1742年]])
* [[3月31日]] - [[フランチェスコ・ドゥランテ]]、作曲家(+ [[1755年]])
* [[4月15日]] - [[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]]、第2代[[ツァーリ|ロシア皇帝]](+ [[1727年]])
* [[6月22日]] - [[フランチェスコ・マンフレディーニ]]、作曲家、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1762年]])
* [[9月11日]]([[康熙]]23年8月2日) - [[玉城朝薫]]、[[琉球王朝]]の[[踊奉行]](+ [[1734年]])
* [[9月18日]] - [[ヨハン・ゴットフリート・ヴァルター]]、作曲家(+ [[1748年]])
* [[10月10日]] - [[アントワーヌ・ヴァトー]]、[[画家]](+ [[1721年]])
* [[10月20日]] - [[マリア・バルバラ・バッハ]]、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]の先妻、[[ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ]]および[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ]]の母(+ [[1720年]])
* [[11月17日]](貞享元年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]) - [[徳川吉宗]]、第8代[[征夷大将軍]](+ [[1751年]])
* [[12月3日]] - [[ルズヴィ・ホルベア]]、[[作家]]・[[文学者]](+ [[1754年]])
* 月日不明 - [[フランソワ・ダジャンクール]]、作曲家、[[鍵盤楽器]]奏者(+ [[1758年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1684年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月15日]] - [[カスパル・ネッチェル]]、画家(* [[1639年]])
* [[3月6日]]([[貞享]]元年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[木庵性瑫]]、中国から来日した[[黄檗宗]]の僧(* [[1611年]])
* [[3月24日]]埋葬 - [[ピーテル・デ・ホーホ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/271165/Pieter-de-Hooch |title=Pieter de Hooch (Dutch painter) |publisher=Encyclopædia Britannica, Inc. |accessdate=2021-04-21}}</ref>、画家(* [[1629年]])
* [[4月1日]] - [[ロジャー・ウィリアムズ]]、[[神学者]](* [[1603年]])
* [[4月12日]] - [[ニコロ・アマティ]]、[[ヴァイオリン]]製作者(* [[1596年]])
* [[5月12日]] - [[エドム・マリオット]]、[[司祭]]、[[物理学者]](* [[1620年]]頃)
* [[9月12日]] - [[ヨハン・ローゼンミュラー]]、作曲家、[[オルガニスト]]、[[トロンボーン]]奏者(* [[1619年]])
* [[10月1日]] - [[ピエール・コルネイユ]]、[[劇作家]](* [[1606年]])
* [[10月3日]] - [[フアン・カレーニョ・デ・ミランダ]]、[[画家]](* [[1614年]])
* [[10月7日]](貞享元年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[堀田正俊]]、[[大老]](* [[1634年]])
* 月日不明 - [[非人清光 (初代)|加州清光]]、[[刀工]](* 生年不明)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1519年
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]] : [[己卯]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[永正]]16年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2179年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[正徳 (明)|正徳]]14年
*** [[朱宸濠]] : [[順徳 (朱宸濠)|順徳]]元年6月 - 7月
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]14年
** [[檀君紀元|檀紀]]3852年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光紹]]4年
*** [[黎榜]] : [[大徳 (黎榜)|大徳]]2年?
*** [[黎ユウ|黎槱]] : [[天憲]]元年?
*** [[陳㫒]] : [[宣和 (陳昇)|宣和]]4年?
* [[仏滅紀元]] : 2061年 - 2062年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 924年 - 926年
* [[ユダヤ暦]] : 5279年 - 5280年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[5月 (旧暦)|5月]] - [[阿波国]][[守護]]の[[細川尚春]]が、[[細川澄元]]の家臣・[[三好之長]]によって殺される。
* [[8月10日]] - [[フェルディナンド・マゼラン]]の艦隊が世界周航に向けて[[セビリア]]を出航する{{要出典|date=2021-03}}。
* [[8月15日]] - [[ペドロ・アリアス・デ・アビラ]]([[:en:Pedro Arias de Avila]])によって[[パナマシティ]]建都{{要出典|date=2021-03}}。
* [[11月8日]] - [[エルナン・コルテス]]が[[アステカ帝国]]の都[[テノチティトラン]]に入り、[[モクテスマ2世]]と会見。
* [[11月 (旧暦)|11月]] - 細川澄元が[[四国]]勢を率いて[[上洛]]を開始し、[[兵庫津|兵庫]]に上陸する。
* [[ハバナ]]が現在の位置に移された。
* [[寧王の乱]]
== 誕生 ==
{{see also|Category:1519年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月31日]] - [[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]、[[フランス王]](+ [[1559年]])
* [[今川義元]]、[[駿河国|駿河]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]](+ [[1560年]])
* [[伊達晴宗]]、[[陸奥国|陸奥]]の守護大名・戦国大名(+ [[1578年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1519年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月12日]] - [[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1459年]])
* [[5月2日]] - [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Leonardo-da-Vinci Leonardo da Vinci Italian artist, engineer, and scientist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]]・[[科学者]](* [[1452年]])
* [[9月8日]](永正16年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[北条早雲]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将(* 諸説あり)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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下野国
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下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属し、現在の栃木県にあたる。
古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる政治勢力が存在し、前者が上下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」・「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる。毛野の起こりについては、『常陸国風土記』によると筑波はもともと紀の国であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。また『続日本紀』では毛野川は古くから常陸国と下総国の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の鬼怒川)の深い関わりがうかがわれる。『上野名跡志』では下野国河内郡衣川郷が毛野という国名の由来と推察されている。
国名の上下については、上総国と下総国などと同様、一国を「上」と「下」に二分したものとされるが、備・越・筑・豊・肥などのように前後(または前中後)に分けられた国との違いは不詳である。またこの分裂は史書に無く詳細は不明で、古くより議論がある(「毛野#毛野の分裂」を参照)。
『大宝律令』の制定にあたっては、下毛野の領域に那須の領域(栃木県北東部)を合わせ、「下毛野国(しもつけののくに/しもつけのくに)」として上毛野国とともに令制国の1つに定められたとされる(那須統合の時期は明らかとなっていない)。その後、下毛野国・上毛野国の国名は「下野国」・「上野国」に改名された。この際、「毛」の字は消えたものの「しもつけのくに」として、読みにその名残をとどめている。
「下野」の初見は『日本書紀』天武天皇5年(676年)5月条である。また、藤原宮跡出土木簡には大宝3年(703年)に「下毛野国」の記載があり、律令制施行後の初見である。
六国史(記紀)日本書紀によると、下野国の国造である下毛野君は紀元前50年(崇神天皇48年)に崇神天皇の命により東国を統治した豊城入彦命の子孫とされる。684年(天武天皇13年)に朝臣の姓を受けた下毛野君は、大宝律令編纂の中心人物のひとりで参議に列せられ直広肆・兵部卿・式部卿・造山陵司・大将軍を歴任した下毛野古麻呂を輩出したほか、征夷副将軍下毛野石代・遠江守下毛野多具比・外衛少将下毛野足麻呂・下野守下毛野根麻呂・備中介下毛野年継・信濃介下毛野文継などが中央政庁でも活躍した。その一方で、越前国や陸奥国、下野国の住人とされる吉弥侯根麻呂・吉弥侯部廣國・吉弥侯部念丸・大麻続部総持・大麻続部嗣吉等に下毛野公・下毛野静戸公・下毛野俯見公などの姓が授けられ、さらにこうした下毛野公の中にも下毛野公田主のように朝臣姓が賜姓される人物が出現している。その後、下毛野氏は歴史の表舞台からは遠ざかるが、一説に金太郎のモデルとされる下毛野公時は、藤原道長の随身として仕えている。
下野薬師寺は奈良時代初期に天武天皇が建立した官寺であり、当時の七大寺に数えられた寺院のひとつである。・良時代天平期に定められた諸寺墾田地限では下野薬師寺の墾田は500町とされ、奈良の大和国分金光明寺・元興寺・大安寺・薬師寺、興福寺・法華寺・弘福寺・法隆寺・新薬師寺・建興寺、河内の四天王寺、近江の崇福寺、筑紫の観世音寺と並び、中央政庁に管理されていた。また平安時代中期の874年(貞観16年)、平安京紫宸殿で60人の僧により3日にわたって行われた大般若経の転読会に際しては、金字仁王経71部が五畿七道各国に一部ずつ配置されるなか、大宰府観世音寺、豊前国弥勒寺とならび下野薬師寺にもそのうちの一部が配置されるなど、平安時代においても当寺が鎮護国家政策の一環として官寺の位置付けにあったことが覗われる。
下野薬師寺は、8世紀後半の政争に巻き込まれた高僧の配流地としても著名であり、754年(天平勝宝6年末)には奈良薬師寺の僧行信と宇佐神宮主神の大神多麿呂らが、また770年(宝亀元年)には孝謙上皇(後の称徳天皇(高野天皇))の寵愛を受け法王の称号と太政大臣の官職を歴任した弓削道鏡が、下野薬師寺に遣わされている。道鏡は造下野薬師寺別当のまま下野国で没し、庶民の格付けで葬られた。
延喜式が編纂された平安時代中期、延喜5年(905年)時点の下野国の格式は上国、遠国であるが、六国史(記紀)日本三代実録には准大国、準大国とある。国の格式に準じて国司が配置され時勢に応じて増員されたが、下野国では奈良時代に目(大目1、少目1)、平安期には掾(大掾1、少掾1)の増員が令されている。
六国史(記紀)には古代から平安時代中期にかけての歴史が記されている。下野国下では以下のような出来事があった。
天慶年間に平将門を討伐して下野守となった藤原秀郷は押領使を兼任し、子は都賀郡の小山城に居した。第12代小山朝政は下野国の大族である宇都宮朝綱、那須宗隆とともに源頼朝に従軍して功を挙げ、那須宗隆は那須一郡を賜り、宇都宮朝綱の子孫は宇都宮に居し小山氏と入れ代わりで下野守に任ぜられ、紀清両党はその傘下に隷属した。小山朝政の弟である宗政は長沼(芳賀郡)に城を置き、子孫はここに居して長沼氏を称した。源義家の孫である義康は足利郡で生計を立て、8代足利尊氏に至る。元弘の乱の末期、尊氏は兵を率いて西上し、官軍に降って京師を復した。宇都宮朝綱の8代の孫である公綱は、建武中、勤王方で働いて下野国守護を賜わった。既に公綱の子である氏綱は足利氏に付き、小山朝郷〈朝政より8代目〉は独り官軍に属して、次々代の義政〈朝郷の甥〉に至るまで宇都宮氏と接戦すること数回、弘和2年、足利氏満の軍と戦って敗死し、足利氏は結城基光の次男である泰朝に小山氏の名跡を継がせた(祇園城に居し、天正の末期に絶えた)後、小山、宇都宮、長沼、那須、及び下総の結城氏は八館に列された。足利成氏は両上杉氏と互いに鬩ぎ合い、長沼成宗は成氏を援けて敗れ出奔した。宇都宮氏は独り兵が威けており非常に強く、終いに下野国の州主と称し、壬生、泉、山田などの諸族が皆、宇都宮氏に帰属した。宇都宮氏の中興の祖であり17代当主である宇都宮成綱は、後北条氏での北条早雲のような戦国時代を生き抜くための革新的な思想、戦略的野望を抱いていた英主だといわれており、成綱の優れた才能によって家臣団を再編し、古河公方の内紛に介入したり、佐竹氏・岩城氏・蘆名氏などと戦い宇都宮氏の勢力を大きく拡大し、全盛期を築き上げた。
しかし、成綱が没した後は、家臣らとの対立が激しくなり、宇都宮氏は大きく衰退していくことになる。さらに天文年間、(那須郡烏山城に居していた)那須氏と戦って大敗し、諸族は皆那須氏に帰属してしまう。また北条氏が下野国南境を攻略し、宇都宮氏は衰退した。豊臣氏の東征では那須氏の地を収め那須家臣の大関高増を黒羽に大田原晴清を大田原に封じ、那須氏には僅か福原のみを与えた。宇都宮国綱は独りその旧封である18万7千余石を全うしたが、慶長2年に罪を蒙むり、其の封は蒲生秀行が賜わった。慶長6年、徳川氏は秀行を会津に移し、奥平家昌が代わって治めた。また数姓が交互に封じられた後、宝永年間に戸田忠真を封じた。戸田氏は後に島原に転封され、その曾孫である戸田忠寛が返り咲きで封じられた。その余封を受けたのが烏山(初めは松下重綱、大久保常春〉・壬生〈初め日根野正吉、後に鳥居忠英)・足利(戸田忠利)・佐野(堀田正敦)・吹上(有馬氏郁)、最後に戸田氏の支族である忠至を高徳に封じた(後、下総国の曾我野に移した〉。9藩が王政革新、日光県を置き、既に皆改めて県としまた廃して、橡木と宇都宮に県を置き、また宇都宮を廃して橡木に併合した。
『和名抄』(平安時代中期)では、国府は都賀郡にあるとする。次の遺構が見つかっている。
延喜式内社
明治維新直前の領域は、現在の足利市の一部(南大町・里矢場町・新宿町・藤本町・荒金町)を除く栃木県の全域と、群馬県桐生市の一部(菱町の全域および梅田町四・五丁目の一部)に相当する。
かつて栃木県は下野国と完全に同一の領域であったが、1959年(昭和34年)に足利郡菱村が、1968年(昭和43年)に安蘇郡田沼町の入飛駒地区がいずれも群馬県(旧上野国)桐生市に越境合併。また、1960年(昭和35年)に群馬県山田郡矢場川村の一部が足利市に編入された結果、下野国と完全には一致しなくなっている。栃木県の方が下野国よりわずかに面積が小さくなっている。
内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
国鉄時代は、下野○○と書いて「しもずけ○○○○」と呼ばせる駅名が県内に存在した。平成に入り、それらの駅はすべて「しもつけ○○○○」と読み方を変更された。
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"text": "しかし、成綱が没した後は、家臣らとの対立が激しくなり、宇都宮氏は大きく衰退していくことになる。さらに天文年間、(那須郡烏山城に居していた)那須氏と戦って大敗し、諸族は皆那須氏に帰属してしまう。また北条氏が下野国南境を攻略し、宇都宮氏は衰退した。豊臣氏の東征では那須氏の地を収め那須家臣の大関高増を黒羽に大田原晴清を大田原に封じ、那須氏には僅か福原のみを与えた。宇都宮国綱は独りその旧封である18万7千余石を全うしたが、慶長2年に罪を蒙むり、其の封は蒲生秀行が賜わった。慶長6年、徳川氏は秀行を会津に移し、奥平家昌が代わって治めた。また数姓が交互に封じられた後、宝永年間に戸田忠真を封じた。戸田氏は後に島原に転封され、その曾孫である戸田忠寛が返り咲きで封じられた。その余封を受けたのが烏山(初めは松下重綱、大久保常春〉・壬生〈初め日根野正吉、後に鳥居忠英)・足利(戸田忠利)・佐野(堀田正敦)・吹上(有馬氏郁)、最後に戸田氏の支族である忠至を高徳に封じた(後、下総国の曾我野に移した〉。9藩が王政革新、日光県を置き、既に皆改めて県としまた廃して、橡木と宇都宮に県を置き、また宇都宮を廃して橡木に併合した。",
"title": "沿革"
},
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"text": "『和名抄』(平安時代中期)では、国府は都賀郡にあるとする。次の遺構が見つかっている。",
"title": "国内の施設"
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"text": "延喜式内社",
"title": "国内の施設"
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{
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"text": "明治維新直前の領域は、現在の足利市の一部(南大町・里矢場町・新宿町・藤本町・荒金町)を除く栃木県の全域と、群馬県桐生市の一部(菱町の全域および梅田町四・五丁目の一部)に相当する。",
"title": "地域"
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"text": "かつて栃木県は下野国と完全に同一の領域であったが、1959年(昭和34年)に足利郡菱村が、1968年(昭和43年)に安蘇郡田沼町の入飛駒地区がいずれも群馬県(旧上野国)桐生市に越境合併。また、1960年(昭和35年)に群馬県山田郡矢場川村の一部が足利市に編入された結果、下野国と完全には一致しなくなっている。栃木県の方が下野国よりわずかに面積が小さくなっている。",
"title": "地域"
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"text": "内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。",
"title": "地域"
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"text": "国鉄時代は、下野○○と書いて「しもずけ○○○○」と呼ばせる駅名が県内に存在した。平成に入り、それらの駅はすべて「しもつけ○○○○」と読み方を変更された。",
"title": "鉄道駅での読み方"
}
] |
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属し、現在の栃木県にあたる。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 下野国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|下野国}}
|別称 = 野州(やしゅう)
|所属 = [[東山道]]
|領域 = [[栃木県]]、[[群馬県]]の一部<ref group="注釈">[[桐生市]]の[[桐生川]]以東。</ref>
|国力 = [[上国]]<ref group="注釈">[[六国史]]の『[[日本三代実録]]』には[[国司#国等級区分|准大国や準大国]]との記述があり、決裁において[[大国]]に准じる扱いを受けることもあった。</ref>
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 9郡70郷
|国府 = 栃木県[[栃木市]]([[下野国庁跡]])
|国分寺 = 栃木県[[下野市]]([[下野国分寺|下野国分寺跡]])
|国分尼寺 = 栃木県下野市([[下野国分尼寺跡]])
|一宮 = [[宇都宮二荒山神社]](栃木県[[宇都宮市]])<br/>[[日光二荒山神社]](栃木県[[日光市]])
}}
'''下野国'''(しもつけのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属し、現在の[[栃木県]]にあたる。
== 「下野」の由来と読み ==
<div class="thumb tright">
<div style="margin: 0px; padding: 2px; border: 1px solid #a2a9b1; text-align: center; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align:left">
; 毛野地域の変遷
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{{familytree|border=0|00|01| 00=<small>4世紀頃?</small>|01=[[毛野]]}}
{{familytree|border=0||||||D|~|7}}
{{familytree|border=0|00|01|02|03| 00=<small>5世紀末頃?</small>|01=[[上毛野国造|上毛野]]|02=[[下毛野国造|下毛野]]|03=[[那須国造|那須]]}}
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{{familytree|border=0|00|01||02| 00=<small>7世紀末</small>|01=[[上野国|上毛野国]]|02='''下毛野国'''}}
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{{familytree|border=0|00|01||02| 00=<small>現在の<br/>[[都道府県]]</small>|01=[[群馬県]]|02=[[栃木県]]}}
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</div>
[[関東地方#古代|古代関東]]には「[[毛野]](けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる政治勢力が存在し、前者が上下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」・「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる<ref name = sekai>『世界大百科事典』(平凡社)毛野(けぬ)項。</ref><ref>『国造本記』(『先代旧事本紀』第10巻)下毛野国造条。</ref>。毛野の起こりについては、『[[常陸国風土記]]』によると[[筑波]]はもともと[[毛野|紀の国]]であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。また『[[続日本紀]]』では毛野川は古くから[[常陸国]]と[[下総国]]の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の[[鬼怒川]])の深い関わりがうかがわれる。『[[上野名跡志]]』では'''下野国'''[[河内郡]]衣川郷が毛野という国名の由来と推察されている。
国名の[[上下]]については、[[上総国]]と[[下総国]]などと同様、一国を「上」と「下」に二分したものとされるが、備・越・筑・豊・肥などのように[[前後]](または前中後)に分けられた国との違いは不詳である<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&lsmp=1&kwup=%E6%AF%9B%E9%87%8E&kwbt=%E6%AF%9B%E9%87%8E&mcmd=25&mcup=25&mcbt=25&st=score&asc=desc&oldmc=25&oldst=score&oldasc=desc&id=1000115193 レファレンス協同データベース - 栃木県立図書館回答]。</ref>。またこの分裂は史書に無く詳細は不明で、古くより議論がある(「[[毛野#毛野の分裂]]」を参照)。
『[[大宝律令]]』の制定にあたっては、下毛野の領域に[[那須国造|那須]]の領域(栃木県北東部)を合わせ、「'''下毛野国'''(しもつけののくに/しもつけのくに)」として上毛野国とともに[[令制国]]の1つに定められたとされる<ref name="地名">『日本の地名 栃木県の地名』([[平凡社]])下野国節。</ref>(那須統合の時期は明らかとなっていない)。その後、下毛野国・上毛野国の国名は「'''下野国'''」・「[[上野国]]」に改名された。この際、「毛」の字は消えたものの「しもつ'''け'''のくに」として、読みにその名残をとどめている。
「下野」の初見は『[[日本書紀]]』[[天武天皇]]5年([[676年]])5月条である<ref name="地名"/>。また、[[藤原宮]]跡出土木簡には[[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]])に「下毛野国」の記載があり、律令制施行後の初見である<ref name="地名"/>。
== 沿革 ==
=== 下毛野君と下毛野一族 ===
[[六国史]]([[記紀]])[[日本書紀]]によると、'''下野国'''の[[国造]]である[[下毛野君]]は[[紀元前50年]]([[崇神天皇]]48年)に[[崇神天皇]]の命により東国を統治した[[豊城入彦命]]の子孫とされる。[[684年]]([[天武天皇]]13年)に[[朝臣]]の[[カバネ|姓]]を受けた下毛野君は、[[大宝律令]]編纂の中心人物のひとりで[[参議]]に列せられ直広肆・[[兵部卿]]・[[式部卿]]・[[造山陵司]]・[[大将軍]]を歴任した[[下毛野古麻呂]]を輩出したほか、征夷副将軍[[下毛野石代]]・[[遠江国|遠江守]][[下毛野多具比]]・[[外衛少将]][[下毛野足麻呂]]・[[下野守]][[下毛野根麻呂]]・[[備中国|備中介]][[下毛野年継]]・[[信濃国|信濃介]][[下毛野文継]]などが中央政庁でも活躍した。その一方で、[[越前国]]や[[陸奥国]]、下野国の住人とされる吉弥侯根麻呂・吉弥侯部廣國・吉弥侯部念丸・大麻続部総持・大麻続部嗣吉等に下毛野公・下毛野静戸公・下毛野俯見公などの姓が授けられ、さらにこうした下毛野公の中にも下毛野公田主のように朝臣姓が賜姓される人物が出現している。その後、[[毛野氏|下毛野氏]]は歴史の表舞台からは遠ざかるが、一説に[[金太郎]]のモデルとされる[[下毛野公時]]は、[[藤原道長]]の[[随身]]として仕えている。
=== 下野薬師寺 ===
[[薬師寺 (下野市)|下野薬師寺]]は[[奈良時代]]初期に[[天武天皇]]が建立した[[官寺]]であり、当時の七大寺に数えられた[[寺院]]のひとつである<ref>[[続日本後紀]]、[[848年]]([[嘉祥]]元年)[[11月3日 (旧暦)]]の条:「下野薬師寺は[[天武天皇]]が建立したもので、七大寺に数えられた。資財は巨多あり[[坂東]]10国に得度者がいた。」</ref>。・良時代[[天平時代|天平期]]に定められた[[諸寺墾田地限]]では下野薬師寺の墾田は500町とされ、[[大和国|奈良]]の[[東大寺|大和国分金光明寺]]・[[元興寺]]・[[大安寺]]・[[薬師寺]]、[[興福寺]]・[[法華寺]]・[[弘福寺]]・[[法隆寺]]・[[新薬師寺]]・[[建興寺]]、[[河内国|河内]]の[[四天王寺]]、[[近江国|近江]]の[[崇福寺 (大津市)|崇福寺]]、[[筑紫国|筑紫]]の[[観世音寺]]と並び、中央政庁に管理されていた<ref> [[続日本紀]]、[[749年]]([[天平勝宝]]元年)[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]の条:「[[諸寺墾田地限]]を定め、大安寺・薬師寺・興福寺・法華寺・[[国分寺|諸国分金光明寺]]は寺ごとに1,000町、大和国分金光明寺は4,000町、元興寺は2,000町、弘福寺・法隆寺・四天王寺・崇福寺・新薬師寺・建興寺・下野薬師寺・観世音寺は寺ごとに500町、[[国分尼寺|諸国法華寺]]は寺ごとに400町、[[定額寺]]は各寺100町とする。」</ref>。また[[平安時代]]中期の[[874年]]([[貞観 (日本)|貞観]]16年)、[[平安京]][[紫宸殿]]で60人の僧により3日にわたって行われた[[大般若経]]の[[転読]]会に際しては、金字[[仁王経]]71部が[[五畿七道]]各国に一部ずつ配置されるなか、[[大宰府]][[観世音寺]]、[[豊前国]][[宇佐神宮#祭神|弥勒寺]]とならび下野薬師寺にもそのうちの一部が配置されるなど、平安時代においても当寺が[[鎮護国家]]政策の一環として[[官寺]]の位置付けにあったことが覗われる<ref>[[日本三代実録]]、[[874年]]([[貞観 (日本)|貞観]]16年)[[閏4月25日 (旧暦)]]の条:「延べ60人の僧が([[平安京]]の)[[紫宸殿]]において3日間にわたり[[大般若経]]の[[転読]]を行った。この日、金字[[仁王経]]71部が配られ、[[五畿七道]]の各国に一部ずつ安置された。下野国薬師寺・[[大宰府]]観世音寺・[[豊前国]][[宇佐神宮#祭神|弥勒寺]]には、これとは別に一部ずつ置かれた。」</ref>。
下野薬師寺は、[[8世紀]]後半の政争に巻き込まれた高僧の[[配流]]地としても著名であり、[[754年]]([[天平勝宝]]6年末)には[[奈良]][[薬師寺]]の僧[[行信]]と[[宇佐神宮]]主神の[[大神多麿呂]]らが<ref>続日本紀、[[754年]]([[天平勝宝]]6年)[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]の条:「[[薬師寺]]の僧である[[行信]]と宇佐神宮の主神である[[大神多麻呂]]らは[[遠流]]の[[刑罰]]に該当する呪詛を行った。よって、[[多治比真人広足]]を遣って薬師寺にて詔を宣下し、下野薬師寺に配流とした。」(本来であれば刑罰として職官を剥ぎ遠隔地に流罪とすべきところを、これまでの足跡に免じ下野薬師寺での役職を与えたもの)</ref>、また[[770年]]([[宝亀]]元年)には[[孝謙天皇|孝謙上皇(後の称徳天皇(高野天皇))]]の寵愛を受け[[法王]]の称号と[[太政大臣]]の官職を歴任した[[道鏡|弓削道鏡]]が<ref>続日本紀、[[770年]]([[宝亀]]元年)[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]の条:「[[光仁天皇|皇太子]]は以下のように令旨した。『聞くところ、道鏡法師は永いこと竊挾舐粳の心があり、先帝の陵土が未だ乾かないうちにその姦謀が発覚した。これも神祇所護、社稷攸祐のおかげである。今顧みるに、先聖には厚い恩があり法によって刑罰に処することなど出来ない。よって、造下野国薬師寺別当の職に任じ遣わすものとする。』即日、[[左大弁]][[正四位下]][[佐伯宿祢今毛人]]と[[弾正尹]][[従四位下]][[藤原朝臣楓麻呂]]を遣わし、役を令し[[上道]]させた。」</ref>、下野薬師寺に遣わされている。道鏡は造下野薬師寺別当のまま下野国で没し、庶民の格付けで葬られた<ref>続日本紀、[[772年]](宝亀3年)[[4月7日 (旧暦)]]の条:「下野国は造薬師寺別当道鏡が死去した旨を[[光仁天皇]]に奏上した。道鏡は俗姓を[[弓削氏|弓削]][[連]](ゆげのむらじ)といい、[[河内国|河内]]の人である。[[梵文]]に通じ禅を行うと聞こえ、このため[[内道場]]に入って[[禅師]]に列せられた。[[天平宝字]]5年、孝謙上皇の[[保良宮]]御幸に従事し、上皇が病を患った時に病床の傍らで看病してその寵愛を受けるようになった。[[淳仁天皇|廃帝]]はこれに常に意見し、称徳天皇(孝謙上皇)とともに当たることは出来なかった。称徳天皇は[[平城京]]へ帰り別宮に居した。天平宝字8年、[[大師]][[藤原仲麻呂|藤原恵美押勝]]が謀反を起こし誅伐された。これをもって道鏡を[[太政大臣]]禅師とした。しばらくして、称徳天皇は崇敬する道鏡を[[法王]]とし、これをもって[[鸞輿]](天皇が乗る輿)に乗ることを許した。衣服や飮食も一とし、政務の巨細に関わらず決裁させた。道鏡の弟の[[弓削浄人]]は布衣に始まり8年間で[[従二位]][[大納言]]にまで昇進し、一門で五位の者は男女10人となった。時の[[大宰府]]の[[主神]]であった[[中臣習宜阿曾麻呂]]は[[宇佐八幡宮]]の神教と詐称して道鏡を誑かし、道鏡もこれを信じて神器の意を抱いた。この語りは高野天皇紀に記載されている。称徳天皇が崩御しても引き続きその威福をもって僥倖し、ご葬礼が終わった後も山陵を守り奉っていた。先帝の寵愛を受けていたため法で裁くには忍びず、よって道鏡を造下野国薬師寺別当とし、[[駅家|駅]]伝いに送ることによって赴任させた。死去に当たっては庶人として葬られた。」</ref>。
=== 奈良時代から平安時代中期の国勢 ===
[[延喜式]]が編纂された[[平安時代]]中期、[[延喜]]5年([[905年]])時点の下野国の格式は[[上国]]、[[遠国]]であるが、[[六国史]]([[記紀]])[[日本三代実録]]には[[大国|准大国、準大国]]とある<ref>日本三代実録、[[863年]]([[貞観 (日本)|貞観]]5年)[[5月2日 (旧暦)]]の条:「この日、下野国をもって[[大国|准大国]]に令す。」</ref><ref>日本三代実録、[[881年]]([[元慶]]5年)[[5月2日 (旧暦)]]の条:「この日、下野国をもって[[大国|準大国]]とする。」</ref>。国の格式に準じて[[国司]]が配置され時勢に応じて増員されたが、下野国では奈良時代に[[目 (国司)|目]](大目1、少目1)、平安期には[[掾]](大掾1、少掾1)の増員が令されている<ref>続日本紀、[[775年]]([[宝亀]]6年)[[3月2日 (旧暦)]]:「始めて[[伊勢国]]に少[[目 (国司)|目]]2員、[[三河国|参河国]]に大目1員と少目1員、[[遠江国]]に少目2員、[[駿河国]]に大目1員と少目1員、[[武蔵国]]に少目2員、[[下総国]]に少目2員、[[常陸国]]に[[少掾]]2員と少目2員、[[美濃国]]に少目2員、下野国に大目1員と少目1員、[[陸奥国]]に少目2員、[[越前国]]に少目2員、[[越中国]]に大目1員と少目1員、[[但馬国]]に大目1員と少目1員、[[因幡国]]に大目1員と少目1員、[[伯耆国]]に大目1員と少目1員、[[播磨国]]に少目2員、[[美作国]]に大目1員と少目1員、[[備中国]]に大目1員と少目1員、[[阿波国]]に大目1員と少目1員、[[伊予国]]に大目1員と少目1員、[[土佐国]]に大目1員と少目1員、[[肥後国]]に少目2員、[[豊前国]]に大目1員と少目1員を置く。」</ref><ref>[[文徳天皇実録]]、[[858年]]([[天安 (日本)|天安]]2年)[[4月15日 (旧暦)]]の条:「下野国に大掾と少掾を各1名ずつ配置する。」</ref>。
=== 六国史に見る下野国 ===
[[六国史]]([[記紀]])には[[古代]]から[[平安時代]]中期にかけての歴史が記されている。下野国下では以下のような出来事があった。
* [[紀元前50年]](崇神天皇48年)[[4月19日 (旧暦)|4月19日]] - 崇神天皇が[[豊城入彦命]]に東国を治めるよう命令する。この豊城入彦命が[[下毛野君]]の始祖となった。〔[[日本書紀]]〕
* [[676年]]([[天武天皇]]5年)[[5月7日 (旧暦)|5月7日]] - 下野国司は以下のように奏上した。「所部の百姓が凶年に遭い、飢えのため子を売ろうとしています。」しかし、朝廷はこれに取り合わなかった。〔日本書紀〕
* [[684年]]([[天武天皇]]13年)[[11月1日 (旧暦)|11月1日]] - 下毛野君ほか52氏が朝臣の姓を賜る。〔日本書紀〕
* [[687年]]([[持統天皇]]元年)[[3月22日 (旧暦)|3月22日]] - 帰化した14人の[[新羅]]人が下毛野国に居し、賦田を受けて扶持とし、安んじて生業させた。〔日本書紀〕
* [[689年]](持統天皇3年)[[10月22日 (旧暦)|10月22日]] - [[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|直広肆]]の[[下毛野古麻呂]]が奴婢600人の解放を奏上し、許可される。〔日本書紀〕
* [[698年]]([[文武天皇]]2年)[[7月17日 (旧暦)|7月17日]] - 下野国と備前国が[[赤烏]]を献上する。〔[[続日本紀]]〕
* [[699年]](文武天皇3年)[[3月4日 (旧暦)|3月4日]] - 下野国が[[雌黄]]を献上する。〔続日本紀〕
* [[713年]]([[和銅]]6年)[[5月11日 (旧暦)|5月11日]] - 下野国ほか相模・常陸・上野・武蔵が輸調するのは元来麻布であるが、今後は絁も併せて輸調するよう命じられる。〔続日本紀〕
* [[714年]](和銅7年)
** [[1月25日 (旧暦)|1月25日]] - 下野国ほか相模、常陸、上野、武蔵が輸布調を始め、輸布したい者にはこれを許可することとする。〔続日本紀〕
** [[10月1日 (旧暦)|10月1日]] - 下野国ほか美濃、武蔵、伯耆、播磨、伊予の6国で大風による被害があり、この年の租調が免じられる。〔続日本紀〕
* [[715年]]([[霊亀]]元年)[[5月30日 (旧暦)|5月30日]] - 下野国ほか相模、上総、常陸、上野、武蔵6国の富民1,000戸を[[陸奥国]]に移住させる。〔続日本紀〕
* [[716年]](霊亀2年)[[5月16日 (旧暦)|5月16日]] - 下野国ほか駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸7国の[[高句麗|高麗]]人1,799人を武蔵国に移し、[[高麗郡]]を置く。〔続日本紀〕
* [[719年]]([[養老]]3年)[[7月13日 (旧暦)|7月13日]] - [[按察使]]が新設され、下野国ほか相模、上野の3国は[[正四位下]]武蔵国守[[多治比縣守]]の管轄下に置かれる。〔続日本紀〕
* [[737年]]([[天平]]9年)[[4月14日 (旧暦)|4月14日]] - [[征夷大将軍|持節大使]][[藤原麻呂]]から朝廷に報告があった。「[[陸奥国]][[多賀城|多賀柵]]に無事到着し、[[鎮守府将軍]][[大野東人]]等と協議し、下野国などの騎兵1,000人を動員して山道および海道を開き、これに畏怖の念を抱いた[[蝦夷]]の民衆を懐柔策をもって鎮め、陸奥・[[出羽国|出羽]]各地([[玉造柵]]、[[新田柵]]、[[牡鹿柵]]、[[色麻柵]]、[[大室駅 (出羽国)|大室駅]])まで進み道路整備を行った。今、出羽[[比羅保許山]]に駐屯しているが、この先[[雄勝城|雄勝]]まで東人は武力制圧すると言っているが、麻呂の考えとしては蝦夷を帰順させて平章したいが、何れとするか勅令を賜りたい。」〔続日本紀〕
* [[749年]]([[天平勝宝]]元年)[[7月13日 (旧暦)|7月13日]] - [[諸寺墾田地限]]が定められ、[[薬師寺 (下野市)|下野薬師寺]]は[[奈良]]の[[法隆寺]]や[[四天王寺]]、[[崇福寺 (大津市)|崇福寺]]、[[新薬師寺]]、[[建興寺]]、[[筑紫国|筑紫]]の[[観世音寺]]などと並んで500町とされた。なお、[[東大寺|国分金光明寺]]は4,000町、[[大安寺]]、[[薬師寺]]、[[興福寺]]、[[法華寺]]、[[国分寺|諸国分金光明寺]]は寺毎に1,000町、[[国分尼寺|諸国法華寺]]は寺毎に400町、[[定額寺]]は各寺100町とされている。〔続日本紀〕
* [[754年]](天平勝宝6年)[[11月24日 (旧暦)|11月24日]] - [[薬師寺]]の僧である[[行信]]と[[宇佐神宮]]の主神である[[大神多麻呂]]が呪詛をしたとして下野薬師寺に配流される。〔続日本紀〕
* [[759年]]([[天平宝字]]3年)[[9月27日 (旧暦)|9月27日]] - 下野国ほか[[坂東]]8国と[[北陸道]]4国の浪人2,000人を[[雄勝城]]の柵戸とする。また、下野国ほか坂東7国より送られた軍士の武器が雄勝城および[[桃生城]]に貯蔵される。〔続日本紀〕
* [[761年]](天平字宝5年)[[11月17日 (旧暦)|11月17日]] - [[藤原朝狩|藤原恵美朝臣朝狩]]が[[東海道]]節度使となり、下野国も遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵等とともにその所管地域となる。船152隻、兵士15,700人、子弟78人、漕ぎ手7,520人を用いる。うち2,400人は[[肥前国]]から、200人は[[対馬国]]から徴発する。〔続日本紀〕
* [[764年]]([[天平神護]]元年)
** [[2月15日 (旧暦)|2月15日]] - 下野国ほか伊予、隠岐等が飢饉となったのでこれを救う。〔続日本紀〕
** [[3月4日 (旧暦)|3月4日]] - 下野国ほか上野、三河、常陸、下総の5国で[[旱魃]]となったため、この年の調庸が10分の7から8程度となる。〔続日本紀〕
* [[767年]]([[神護景雲]]元年)[[6月5日 (旧暦)|6月5日]] - [[東山道]][[巡察使]]の[[淡海三船]]は聡明だが自らの栄達を願い国司等の検察評価を厳しく報告した。下野国司等は不正を行っていたが、三船は前介の[[弓削薩摩]]の罪として薩摩を不当に職務に就かせなかった。これにより三船は現職から解任された。昨今、人を検め裁く者が法の文言に拘泥し正しい道理をもって判決していない。これは官吏の道に沿うものではない。今後このようなことがある場合は法をもって裁くこととする。〔続日本紀〕
* [[770年]]([[宝亀]]元年)[[8月21日 (旧暦)|8月21日]] - [[孝謙天皇|称徳天皇]]の崩御に伴い、[[宇佐八幡宮神託事件]]に連座した[[道鏡]]が造下野薬師寺別当として下野国に下向する。〔続日本紀〕
* [[771年]](宝亀2年)[[10月27日 (旧暦)|10月27日]] - [[武蔵国]]は元来山道に属し、(使節は)直に下野国[[足利庄|足利驛]]に至るところを枉げて上野国[[邑楽郡]]から5驛を経て武蔵国に至り、これを返して下野国に向かうため疲労が大きくなる。武蔵国は海道も兼ね[[東海道]]は相模国府から4驛にて下総国府に至っており(使節の)往来に便利である。よって、武蔵国を[[東山道]]から東海道に改めれば、取れば公(使節)私にわたり便利で人馬も休養できる、と奏上され[[光仁天皇]]はこれを許可した。これにより武蔵国は東海道に転属された。〔続日本紀〕
* [[772年]](宝亀3年)
** [[4月7日 (旧暦)|4月7日]] - 下野国が造薬師寺別当の道鏡が亡くなったことを光仁天皇に伝える。庶人の格式にて葬られた。〔続日本紀〕
** [[10月11日 (旧暦)|10月11日]] - 下野国が奏上した。「管内の百姓が陸奥国に逃亡すると、陸奥国は太政官符をもって受け入れています。姦偽の輩は争って課役を避け陸奥国に逃れたものは870人になります。下野国司はこれを禁じていますが止めることが出来ません。使者を遣わして確認させましたが、陸奥国は蝦夷寄りで民情が険悪であり、これを囲って相いに隠し合うため見出すことができません。」太政判官は判定した。「陸奥国司は下野国使とともに検めて、本の郷に還させること。」〔続日本紀〕
* [[773年]](宝亀4年)[[2月6日 (旧暦)|2月6日]] - 下野国で火災があり、正倉14宇、穀糒23,400斛が焼失した。〔続日本紀〕
* [[775年]](宝亀6年)
** [[3月2日 (旧暦)|3月2日]] - 下野国ほか22国に初めて[[少掾]]、大[[目 (国司)|目]]、少目計46人が配置された。〔続日本紀〕
** [[7月16日 (旧暦)|7月16日]] - 下野国が、[[都賀郡]]の黒鼠数百匹が草木の根を数十里に亘って食べてしまった、と言上する。〔続日本紀〕
** [[10月13日 (旧暦)|10月13日]] - 出羽国が蝦夷対策で国府を遷すため兵996人を派遣するよう言上したため、下野国ほか相模、武蔵、上野の4国の兵士が遣わされた。〔続日本紀〕
* [[776年]](宝亀7年)[[5月2日 (旧暦)|5月2日]] - 出羽国志波村で賊が反逆したため応戦したが官軍が不利となり、下野国ほか下総、常陸等から発した国騎兵がこれを征伐した。〔続日本紀〕
* [[777年]](宝亀8年)[[5月25日 (旧暦)|5月25日]] - 下野国ほか相模、武蔵、下総、越後に鎧200領を出羽国鎮所に送るよう依頼が出た。〔続日本紀〕
* [[782年]]([[延暦]]元年)[[5月3日 (旧暦)|5月3日]] - 下野国[[安蘇郡]][[主帳]]の外正六位下若麻続部牛養が軍粮を献じて外従五位下を授かる。〔続日本紀〕
* [[789年]](延暦8年)[[7月25日 (旧暦)|7月25日]] - 下野、美作の両国が飢饉となったため、救済した。〔続日本紀〕
* [[796年]](延暦15年)[[11月21日 (旧暦)|11月21日]] - 下野国ほか相模、武蔵、上総、常陸、上野、出羽、越後等の国民9,000人が[[陸奥国]][[伊治城]]に遷置される。〔[[日本後紀]]〕
* [[798年]](延暦17年)[[6月21日 (旧暦)|6月21日]] - 下野国ほか相模、武蔵、常陸、上野、出雲等に対し以下のように勅される。「帰降する夷俘には仁徳を施し、慈しみ恵んだので、命令することなく帰降を望むようになり、毎年服・禄・物を与えるので、その資粮が絶しかねない。また慈しみ恵むあまり、事は時節の饗賜の類にまで及んで、国司達はこれを命ずることが横行している。時節の饗賜は自所内で収め、先ずは申し出て、その後で実行するように。」〔[[類聚国史]]〕
* [[802年]](延暦21年)
** [[1月11日 (旧暦)|1月11日]] - 下野国ほか駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野等の浪人4,000人が[[陸奥国]][[胆沢城]]に配された。〔類聚国史、[[日本紀略]]〕
** [[9月3日 (旧暦)|9月3日]] - 下野国ほか全31国で田が損害を被ったため、租税徴調が免除された。〔類聚国史〕
* [[818年]]([[弘仁]]9年)7月 - 下野国(ほか相模、武蔵、常陸、下総、上野等)で地震が起きる。数里に亘って山が崩れ谷が埋まり、多数の百姓が圧死した。〔類聚国史〕
* [[823年]](弘仁14年)[[3月19日 (旧暦)|3月19日]] - [[吉弥侯部道足女]](下野国芳賀郡の人)が、村民の手本としてその行いが称えられ、[[少初位上]]の位階を授かり、[[田祖]]が終身免除された。〔類聚国史〕
* [[824年]]([[天長]]元年)[[11月14日 (旧暦)|11月14日]] - 下野国人の[[三村部吉成女]]が、旌節の行いにより終身の田祖が免除された。〔類聚国史〕
* [[831年]](天長8年)[[5月23日 (旧暦)|5月23日]] - 下野国の田地の400町5段を勅旨田とした。〔類聚国史〕
* [[835年]]([[承和 (日本)|承和]]2年)[[2月23日 (旧暦)|2月23日]] - 下野国[[武茂神]]が[[従五位下]]を奉授する。〔[[続日本後紀]]〕
* [[836年]](承和3年)[[12月25日 (旧暦)|12月25日]] - 下野国[[従五位上]]勲四等[[宇都宮二荒山神社|二荒神]]が[[正五位下]]を奉授する。〔続日本後紀〕
* [[838年]](承和5年)[[9月6日 (旧暦)|9月6日]] - 下野国[[那須郡]][[三和神]]が官社を受託する。〔続日本後紀〕
* [[841年]](承和8年)[[4月15日 (旧暦)|4月15日]] - 下野国正五位下勲四等二荒神が[[正五位上]]を奉授する。〔続日本後紀〕
* [[848年]]([[嘉祥]]元年)[[8月28日 (旧暦)|8月28日]] - 下野国正五位上勲四等二荒神が[[従四位下]]を奉授する。〔続日本後紀〕
* [[857年]]([[天安 (日本)|天安]]元年)[[11月17日 (旧暦)|11月17日]] - 下野国[[従三位]]勲四等二荒神に封戸1戸が充てられる。〔日本文徳天皇実録〕
* [[858年]](天安2年)[[4月15日 (旧暦)|4月15日]] - 下野国に大掾少掾各1名計2名をおくこととなる。〔日本文徳天皇実録〕
* [[859年]]([[貞観 (日本)|貞観]]元年)
** [[1月27日 (旧暦)|1月27日]] - 下野国従三位勲四等二荒神が[[正三位]]に進階する。〔[[日本三代実録]]〕
** [[4月7日 (旧暦)|4月7日]] - 下野国で大風の被害が出たのでこれを救済した。〔日本三代実録〕
* [[860年]](貞観2年)[[9月19日 (旧暦)|9月19日]] - 下野国正三位勲四等二荒神社に始めて神主を置く。〔日本三代実録〕
* [[863年]](貞観5年)
** [[5月2日 (旧暦)|5月2日]] - 下野国が准大国に制定される。〔日本三代実録〕
** [[10月7日 (旧暦)|10月7日]] - 下野国従五位上勲五等[[温泉神社|温泉神]]が従四位下を奉授する。〔日本三代実録〕
* [[865年]](貞観7年)[[12月21日 (旧暦)|12月21日]] - 下野国正三位勲四等二荒神が[[従二位]]を奉授する。〔日本三代実録〕
* [[869年]](貞観11年)[[2月28日 (旧暦)|2月28日]] - 下野国従二位勲四等二荒神が[[正二位]]に進階する。また、従四位下勲五等温泉神が[[従四位上]]を奉授する。〔日本三代実録〕
* [[874年]](貞観16年)閏[[4月25日 (旧暦)|4月25日]] - この日より3日間、60名の僧が[[平安京]][[紫宸殿]]において[[大般若経]]の伝読を行い、[[金字仁王経]]71部を[[五畿七道]]各国に1部ずつ安置する。また下野薬師寺、[[大宰府]][[観世音寺]]、[[豊前国]][[宇佐神宮|弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)]]に各1部を別途配置する。〔日本三代実録〕
* [[875年]](貞観17年)
** [[5月10日 (旧暦)|5月10日]] - 下総国の俘囚が反乱を起こし官庁や寺社を焼き払い良民を殺戮したと、下総国司[[甘楽麻呂]]が奏言してきた。このため、下野国ほか武蔵、上総、常陸等に各300人の兵の発動命令が出された。〔日本三代実録〕
** [[6月19日 (旧暦)|6月19日]] - 下野国が(下総国に出兵し、)反乱した俘囚89人を殺害または捕獲したと言上する。〔日本三代実録〕
** [[7月5日 (旧暦)|7月5日]] - 下野国が(下総国に出兵し、)賊徒27人を討殺し4人が投降して来たと言上する。〔日本三代実録〕
* 875年(貞観17年)[[12月27日 (旧暦)|12月27日]] - 下野国従五位下[[伊門神]]が従五位上を奉授する。〔日本三代実録〕
* [[878年]]([[元慶]]2年)
** [[4月28日 (旧暦)|4月28日]] - [[元慶の乱]]に対し下野および上野両国から1,000ずつの兵が徴発される。〔日本三代実録〕
** [[9月16日 (旧暦)|9月16日]] - 下野国[[賀蘇山神社|賀蘇山神]]が従五位下を賜る。〔日本三代実録〕
* [[879年]](元慶3年)
** [[3月9日 (旧暦)|3月9日]] - 下野国正六位上[[綾都比神]]が従五位下を奉授する。〔日本三代実録〕
** [[6月26日 (旧暦)|6月26日]] - 元慶の乱が鎮圧されたため軍が解かれ、官軍として従軍していた下野国前権少掾従七位下[[雀部茂世]]、権医師大初位下[[下毛野御安]]が他国の軍士とともに国許へ帰還したと奏言された。〔日本三代実録〕
* [[880年]](元慶4年)[[8月29日 (旧暦)|8月29日]] - 下野国従五位下三和神が正五位上を奉授する。〔日本三代実録〕
* [[881年]](元慶5年)[[5月2日 (旧暦)|5月2日]] - 下野国を準大国とする。〔日本三代実録〕
* [[882年]](元慶6年)[[12月13日 (旧暦)|12月13日]] - 下野国が[[連理樹]]が獲れた事を言上した。〔日本紀略〕
* [[885年]]([[仁和]]元年)[[2月10日 (旧暦)|2月10日]] - 下野国正五位上三和神が従四位下を奉授する。〔日本三代実録〕
=== 平安時代中期から中世の下野国 ===
[[天慶]]年間に[[平将門]]を討伐して下野守となった[[藤原秀郷]]は[[押領使]]を兼任し、子は都賀郡の[[小山城 (下野国)|小山城]]に居した。第12代[[小山朝政]]は下野国の大族である[[宇都宮朝綱]]、[[那須与一|那須宗隆]]とともに[[源頼朝]]に従軍して功を挙げ、那須宗隆は[[那須郡|那須]]一郡を賜り、宇都宮朝綱の子孫は[[宇都宮二荒山神社|宇都宮]]に居し小山氏と入れ代わりで下野守に任ぜられ、[[紀清両党]]はその傘下に隷属した。小山朝政の弟である[[長沼宗政|宗政]]は長沼([[芳賀郡]])に城を置き、子孫はここに居して[[長沼氏]]を称した。[[源義家]]の孫である[[源義康|義康]]は[[足利郡]]で生計を立て、8代[[足利尊氏]]に至る。[[元弘の乱]]の末期、尊氏は兵を率いて西上し、官軍に降って京師を復した。宇都宮朝綱の8代の孫である[[宇都宮公綱|公綱]]は、建武中、[[勤王]]方で働いて下野国[[守護]]を賜わった。既に公綱の子である[[宇都宮氏綱|氏綱]]は[[足利氏]]に付き、[[小山朝郷]]〈朝政より8代目〉は独り官軍に属して、次々代の[[小山義政|義政]]〈朝郷の甥〉に至るまで[[宇都宮氏]]と接戦すること数回、[[弘和]]2年、[[足利氏満]]の軍と戦って敗死し、足利氏は[[結城基光]]の次男である[[小山泰朝|泰朝]]に小山氏の名跡を継がせた([[小山城 (下野国)|祇園城]]に居し、[[天正]]の末期に絶えた)後、小山、宇都宮、長沼、那須、及び[[下総国|下総]]の[[結城氏]]は[[関東八屋形|八館]]に列された。[[足利成氏]]は両[[上杉氏]]と互いに鬩ぎ合い、[[長沼成宗]]は成氏を援けて敗れ出奔した。宇都宮氏は独り兵が威けており非常に強く、終いに下野国の州主と称し、壬生、泉、山田などの諸族が皆、宇都宮氏に帰属した。宇都宮氏の中興の祖であり17代当主である[[宇都宮成綱]]は、[[後北条氏]]での[[北条早雲]]のような[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を生き抜くための革新的な思想、戦略的野望を抱いていた英主だといわれており、成綱の優れた才能によって家臣団を再編し、[[永正の乱|古河公方の内紛]]に介入したり、[[佐竹氏]]・[[岩城氏]]・[[蘆名氏]]などと戦い宇都宮氏の勢力を大きく拡大し、全盛期を築き上げた。
しかし、成綱が没した後は、家臣らとの対立が激しくなり、宇都宮氏は大きく衰退していくことになる。さらに[[天文 (元号)|天文]]年間、(那須郡[[烏山城]]に居していた)那須氏と戦って大敗し、諸族は皆那須氏に帰属してしまう。また[[後北条氏|北条氏]]が下野国南境を攻略し、宇都宮氏は衰退した。[[豊臣氏]]の東征では那須氏の地を収め那須家臣の[[大関高増]]を黒羽に[[大田原晴清]]を大田原に封じ、那須氏には僅か福原のみを与えた。[[宇都宮国綱]]は独りその旧封である18万7千余石を全うしたが、[[慶長]]2年に罪を蒙むり、其の封は[[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]]が賜わった。慶長6年、[[徳川氏]]は秀行を[[会津]]に移し、[[奥平家昌]]が代わって治めた。また数姓が交互に封じられた後、[[宝永]]年間に[[戸田忠真]]を封じた。戸田氏は後に[[島原藩|島原]]に転封され、その曾孫である[[戸田忠寛]]が返り咲きで封じられた。その余封を受けたのが烏山(初めは[[松下重綱]]、[[大久保常春]]〉・壬生〈初め[[日根野吉明|日根野正吉]]、後に[[鳥居忠英]])・足利([[戸田忠利]])・佐野([[堀田正敦]])・吹上([[有馬氏郁]])、最後に[[戸田氏]]の支族である[[戸田忠至|忠至]]を高徳に封じた(後、下総国の曾我野に移した〉。9藩が[[王政革新]]、[[日光県]]を置き、既に皆改めて県としまた廃して、[[栃木市|橡木]]と[[宇都宮]]に県を置き、また宇都宮を廃して橡木に併合した<ref>[[日本地誌提要]]「二十八 下野」</ref>。
=== 近代以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,419村・765,763石2斗5升)。[[天領|幕府領]]は真岡代官所が管轄。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[都賀郡]](391村・222,766石7斗5升) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、宇都宮藩、'''[[壬生藩]]'''、足利藩、大田原藩、高徳藩、'''[[吹上藩]]'''、喜連川藩、[[出羽国|出羽]][[久保田藩]]、[[上野国|上野]][[館林藩]]、[[常陸国|常陸]][[下妻藩]]、[[下総国|下総]][[古河藩]]、下総[[結城藩]]、下総[[関宿藩]]、下総[[佐倉藩]]、下総[[多古藩]]、[[武蔵国|武蔵]][[六浦藩|金沢藩]]、[[対馬府中藩]]、日光領
** [[寒川郡 (栃木県)|寒川郡]](13村・8,960石余) - 下総古河藩
** [[安蘇郡]](64村・65,576石余) - 幕府領、旗本領、'''[[佐野藩]]'''、上野[[前橋藩]]、上野館林藩、下総古河藩、武蔵金沢藩、[[近江国|近江]][[彦根藩]]、対馬府中藩、[[三河国|三河]][[西端藩]]、[[土佐国|土佐]][[高知新田藩]]、日光領
** [[梁田郡]](29村・14,191石余) - 旗本領、足利藩、下総古河藩、[[美濃国|美濃]][[高富藩]]
** [[足利郡]](46村・32,747石余) - 幕府領、旗本領、'''[[足利藩]]'''、上野前橋藩、下総古河藩、美濃高富藩、[[河内国|河内]][[丹南藩]]
** [[河内郡]](234村・110,068石余) - 幕府領、旗本領、'''[[宇都宮藩]]'''、高徳藩、吹上藩、出羽久保田藩、下総関宿藩、下総多古藩、日光領
** [[芳賀郡]](195村・134,972石余) - 幕府領、旗本領、[[一橋徳川家]]、宇都宮藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩、吹上藩、喜連川藩、常陸[[谷田部藩]]、下総結城藩
** [[那須郡]](296村・120,895石余) - 幕府領、旗本領、'''[[烏山藩]]'''、'''[[黒羽藩]]'''、'''[[大田原藩]]'''、常陸[[水戸藩]]
** [[塩谷郡]](151村・55,582石余) - 幕府領、旗本領、一橋徳川家、宇都宮藩、大田原藩、'''[[高徳藩]]'''、'''[[喜連川藩]]'''、[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]、下総佐倉藩、日光領
* [[慶応]]4年
** [[5月24日 (旧暦)|5月24日]]([[1868年]][[7月13日]]) - 一橋徳川家が立藩して'''[[一橋徳川家|一橋藩]]'''となる。
** [[6月4日 (旧暦)|6月4日]](1868年[[7月23日]]) - [[佐賀藩|佐賀]][[藩士]]の[[鍋島道太郎]]が'''[[真岡知県事]]'''に就任。幕府領・旗本領を管轄。
** 8月 - [[日光奉行]]が管轄する日光領を収公。
* 明治元年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[1869年]][[1月19日]]) - 会津藩が[[改易]]となり、領地が真岡知県事の管轄となる。
* 明治2年
** [[2月15日 (旧暦)|2月15日]](1869年[[3月27日]]) - 真岡知県事が'''[[日光県]]'''に改称。
** [[6月23日 (旧暦)|6月23日]](1869年[[7月31日]]) - 金沢藩が任知藩事にともない'''[[六浦藩]]'''に改称。
** [[8月7日 (旧暦)|8月7日]](1869年[[9月12日]]) - 府中藩が任知藩事にともない'''[[厳原藩]]'''に改称。
** [[12月26日 (旧暦)|12月26日]]([[1870年]][[1月27日]]) - 一橋藩が廃藩となり、領地を日光県に編入(時期は不明)。
* 明治初年
** 足利藩の領地替えにより、都賀郡・足利郡の一部の領地が日光県の管轄、足利郡の幕府領・旗本領の各一部および梁田郡の旗本領の一部が足利藩の管轄となる。
** 館林藩の領地替えにより、都賀郡および安蘇郡の一部の領地が日光県の管轄、梁田郡のほぼ全域が館林藩の管轄となる。
** 前橋藩の領地替えにより、安蘇郡の領地の一部が日光県の管轄となる。
** 古河藩の領地替えにより、都賀郡の旗本領の一部が古河藩の管轄となる。
** 高知新田藩の領地替えにより、安蘇郡の飛地領が日光県の管轄となる。
** 厳原藩の領地替えにより、都賀郡・安蘇郡の飛地領が日光県の管轄となる。
* [[1870年]](明治3年)
** [[3月19日 (旧暦)|3月19日]](1870年[[4月19日]]) - 高徳藩が[[転封]]となり、領地を日光県に編入。
** [[7月17日 (旧暦)|7月17日]](1870年[[8月13日]]) - 喜連川藩が廃藩となり、領地を日光県に編入。
* [[1871年]](明治4年)
** [[1月13日 (旧暦)|1月13日]](1871年[[3月3日]]) - 久保田藩が'''[[秋田藩]]'''に改称。
** [[2月8日 (旧暦)|2月8日]](1871年[[3月28日]]) - 谷田部藩が藩庁を移転して'''[[茂木藩]]'''となる。
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により藩領が'''[[宇都宮県]]'''、'''[[烏山県]]'''、'''[[壬生県]]'''、'''[[黒羽県]]'''、'''[[茂木県]]'''、'''[[佐野県]]'''、'''[[大田原県]]'''、'''[[足利県]]'''、'''[[吹上県]]'''および[[秋田県]]、[[水戸県]]、[[前橋県]]、[[館林県]]、[[結城県]]、[[古河県]]、[[関宿県]]、[[佐倉県]]、[[多古県]]、[[六浦県]]、[[西端県]]、[[高富県]]、[[彦根県]]、[[丹南県]]の飛地となる。
** [[10月28日 (旧暦)|10月28日]](1871年[[12月10日]]) - 第1次府県統合により'''[[群馬県]]'''(第1次)が発足し、前橋県・館林県の飛地を管轄。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、都賀郡・寒川郡・安蘇郡・足利郡・梁田郡が'''[[栃木県]]'''、那須郡・塩谷郡・芳賀郡・河内郡が'''[[宇都宮県]]'''の管轄となる。それぞれ[[栃木市|栃木町]]、[[宇都宮市|宇都宮]]連雀町に県庁を設置。
* 明治6年([[1873年]])[[6月15日]] - 宇都宮県が'''[[栃木県]]'''に合併。
* [[昭和]]34年([[1959年]])[[1月1日]] - 足利郡[[菱村]]が[[群馬県]][[桐生市]]に編入([[越境合併]])。
* 昭和43年([[1968年]])[[4月1日]] - 安蘇郡[[田沼町]]の一部(大字飛駒の一部)が群馬県桐生市に編入(越境合併)。現在に至る。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
[[File:Shimotsuke Kokucho Ruins maedono.JPG|thumb|200px|right|[[下野国庁跡]](栃木市)]]
『[[和名抄]]』([[平安時代]]中期)では、国府は[[都賀郡]]にあるとする。<!--その所在地は江戸期までは國府村という地名に残されていたとされるが、現在その推定所在地(栃木市田村町宮ノ辺)の地名には「国府」の名残は無い。:要出典-->次の遺構が見つかっている。
* [[下野国庁跡]] ([[栃木市]]田村町宮ノ辺、{{Coord|36|22|47.66|N|139|47|06.64|E|region:JP-09_type:landmark|name=下野国庁跡}})
*: 国の史跡。調査は[[昭和]]51年([[1976年]])から始まり、4年目に現在の[[栃木市]]田村町の宮目(みやのめ)神社周辺で政庁跡とされる遺跡が発見された。この調査の結果、政庁は約90メートル四方の範囲を塀によって区画され、[[8世紀]]前半から[[10世紀]]初期まで機能していたと推定されている。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* [[下野国分寺跡]] ([[下野市]]国分寺、{{Coord|36|23|06.21|N|139|48|21.95|E|region:JP-09_type:landmark|name=下野国分寺跡}})
*: 国の史跡。東大寺式伽藍配置で、寺域は東西413メートル・南北457メートル。伽藍跡地の北東方に後継の[[下野国分寺|瑠璃光山東方院国分寺]](本尊:薬師如来)が立つ。
* [[下野国分寺跡#下野国分尼寺跡|下野国分尼寺跡]] (下野市国分寺、{{Coord|36|23|06.98|N|139|48|44.73|E|region:JP-09_type:landmark|name=下野国分尼寺跡}})
*: 国の史跡。国分寺跡東方600メートルに所在。東大寺式伽藍配置で、推定寺域は東西145メートル・南北470メートル。後継寺院はない。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社1座1社・小社11座11社の計12座12社が記載されている(「[[下野国の式内社一覧]]」参照)。大社1社は以下に示すもので、[[名神大社]]である。
* [[河内郡]] [[二荒山神社]]
** 比定[[論社]]:[[宇都宮二荒山神社|二荒山神社(宇都宮二荒山神社)]] ([[宇都宮市]]馬場通り)
** 比定論社:[[日光二荒山神社|二荒山神社(日光二荒山神社)]] ([[日光市]]内に3宮)
; [[総社]]・[[一宮]]
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 292-298。</ref>。
* 総社:[[大神神社 (栃木市)|大神神社]] ([[栃木市]]惣社町、{{Coord|36|24|21.30|N|139|46|55.76|E|region:JP-09_type:landmark|name=下野国総社:大神神社}})
* 一宮:次の2社が一宮を称する(「[[二荒山神社]]」参照)。
** [[宇都宮二荒山神社|二荒山神社(宇都宮二荒山神社)]] ([[宇都宮市]]馬場通り、{{Coord|36|33|45|N|139|53|9|E|region:JP-09_type:landmark|name=下野国一宮、名神大社論社:宇都宮二荒山神社}})
** [[日光二荒山神社|二荒山神社(日光二荒山神社)]] ([[日光市]]内に3宮、{{Coord|36|45|30.82|N|139|35|47.03|E|region:JP-09_type:landmark|name=下野国一宮、名神大社論社:日光二荒山神社}})
=== 安国寺利生塔 ===
* [[安国寺利生塔|安国寺]]:[[安国寺 (下野市)|医王山安国寺]] (下野市薬師寺) - [[真言宗智山派]]、本尊:薬師如来。[[利生塔]]の候補でもある。
== 地域 ==
=== 領域 ===
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[足利市]]の一部(南大町・里矢場町・新宿町・藤本町・荒金町)を除く[[栃木県]]の全域と、[[群馬県]][[桐生市]]の一部([[菱町 (桐生市)|菱町]]の全域および[[梅田町 (桐生市)|梅田町]]四・五丁目の一部<ref group="注釈">概ね[[桐生川]]以東。</ref>)に相当する。
かつて栃木県は下野国と完全に同一の領域であったが、[[1959年]]([[昭和]]34年)に[[足利郡]][[菱村]]が、[[1968年]](昭和43年)に[[安蘇郡]][[田沼町]]の入飛駒地区がいずれも群馬県(旧[[上野国]])桐生市に[[越境合併]]。また、[[1960年]](昭和35年)に群馬県[[山田郡 (群馬県)|山田郡]][[矢場川村]]の一部が足利市に編入された結果、下野国と完全には一致しなくなっている。栃木県の方が下野国よりわずかに面積が小さくなっている。
=== 郡 ===
* [[足利郡]]
* [[梁田郡]]
* [[安蘇郡]]
* [[都賀郡]]
* [[寒川郡 (栃木県)|寒川郡]]
* [[河内郡]]
* [[芳賀郡]]
* [[塩谷郡]]
* [[那須郡]]
=== 人口 ===
*[[1721年]]([[享保]]6年) - 56万0020人
*[[1750年]]([[寛延]]3年) - 55万4261人
*[[1756年]]([[宝暦]]6年) - 53万3343人
*[[1786年]]([[天明]]6年) - 43万4797人
*[[1792年]]([[寛政]]4年) - 40万4818人
*[[1798年]](寛政10年)- 41万3337人
*[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年)- 40万4495人
*[[1822年]]([[文政]]5年) - 39万5045人
*[[1828年]](文政11年)- 37万5957人
*[[1834年]]([[天保]]5年) - 34万2260人
*[[1840年]](天保11年)- 36万7654人
*[[1846年]]([[弘化]]3年) - 37万8665人
*[[1872年]]([[明治]]5年) - 49万8520人
内閣統計局・編、[[速水融]]・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、[[東洋書林]]。
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 下野守 ====
* [[多治比廣成]]([[708年]]〈[[和銅]]元年〉[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]) [[従五位下]] 〔[[続日本紀]]〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[伊吉古麻呂]]([[732年]]〈[[天平]]4年〉[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) [[従五位上]] 〔続日本紀〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[秦大魚]]([[746年]]〈天平18年〉9月1日) 従五位下 〔続日本紀〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[巨勢君成]] ([[748年]] 〈天平20年〉[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]) 従五位下 〔続日本紀〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[小野小贄]]([[752年]]〈[[天平勝宝]]4年〉[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) 従五位下 〔続日本紀〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[石川名足]]([[761年]]〈[[天平宝字]]5年〉[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) 従五位下 〔続日本紀〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[日下部子麻呂]]([[763年]]〈天平宝字7年〉[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) [[正五位上]] 〔続日本紀〕
* [[佐伯三野]]([[767年]]〈[[神護景雲]]元年〉[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]) 従五位下 〔続日本紀〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[佐伯伊多智]]([[771年]]〈[[宝亀]]2年〉閏3月1日) [[従四位上]] [[中衛府|中衛中将]] 〔続日本紀〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[大中臣宿奈麻呂]]([[774年]]〈宝亀5年〉[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) 従五位下 〔続日本紀〕 {{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[大中臣諸魚]]([[779年]]〈宝亀10年〉[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) 従五位下[[衛門佐]] 〔続日本紀〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[文室高嶋]]([[782年]]〈[[延暦]]元年〉閏[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) 従五位上 〔続日本紀〕{{Sfn|栃木県史 通史編2|1980|p=114}}
* [[佐伯葛城]]([[787年]]〈延暦6年〉[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) 従五位下 [[民部少輔]] [[征東副将軍]] 〔続日本紀〕
* [[安倍弟当]]([[789年]]〈延暦8年〉[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) 従五位上 [[左少弁]] 〔続日本紀〕
* [[百済王俊哲]]([[791年]]〈延暦10年〉[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]~同年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) 正五位上〔続日本紀〕
* 百済王俊哲(再任:791年〈延暦10年〉[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]~[[795年]]〈延暦14年〉[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]卒去) 正五位上、後に[[従四位上]]、陸奥[[鎮守将軍]]〔続日本紀〕
* [[巨勢野足]]([[796年]]〈延暦15年〉[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) [[正五位下]] 〔[[日本後紀]]〕
* [[大伴是成]]([[799年]]〈延暦18年〉[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) 従五位上 [[近衛少将]] 〔日本後紀〕
* 巨勢野足([[804年]]〈延暦23年〉[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) 従四位下 中衛少将 [[左衛士督]] [[左兵衛督]] 〔日本後紀〕
* [[藤原友人]]([[806年]]〈[[大同 (日本)|大同]]年初〉頃) 〔[[日本紀略]]、[[類聚国史]]〕
* [[賀陽豊年]]([[808年]]〈大同3年〉[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) 従四位下 [[式部大輔]] 〔日本後紀〕
* [[百済王教俊]]([[809年]]〈大同4年〉[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) 従五位下 〔日本後紀〕
* [[藤原道継]]([[812年]]〈[[弘仁]]3年〉[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) 正五位下 〔日本後紀〕
* [[春原五百枝]]([[815年]]〈弘仁6年〉[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) [[従三位]] [[右兵衛督]] 〔日本後紀〕
* [[藤原常嗣]]([[823年]]〈弘仁14年〉) 従五位下 春宮亮〔続日本後紀〕
* [[橘常主]]([[825年]]〈[[天長]]2年〉~[[826年]]〈天長3年〉[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]卒) 従四位下 [[参議]][[弾正大弼]]〔日本後紀、日本紀略〕
* 藤原常嗣(再任:[[832年]]〈天長9年〉) 従四位上 参議 勘解由長官 右大弁 後に近江権守を兼務〔続日本後紀〕
* [[永野王]]([[839年]]〈[[承和 (日本)|承和]]6年〉[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) 正五位下〔続日本後紀〕
* [[安倍安仁]]([[843年]]〈承和10年〉頃~ [[847年]]〈承和14年〉) 正四位下 参議 弾正大弼 春宮大夫 右大弁後に左大弁〔続日本後紀、[[日本三代実録]]〕
* [[藤原助]]([[847年]]〈承和14年〉[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]~ ) 従四位上 参議 弾正大弼 [[治部卿]] [[左兵衛督]] [[摂津国]]田使長官〔続日本後紀〕
* [[伴善男]]([[849年]]〈[[嘉祥]]2年〉~ [[851年]]〈[[仁寿]]元年〉[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) 従四位下、後に従四位上 参議 右大弁 [[右衛門督]] [[式部大輔]] [[中宮大夫]]〔続日本後紀、日本三代実録〕
* [[南淵永河]]([[851年]]〈仁寿元年〉1月12日) 正四位下〔[[文徳天皇実録]]〕
* [[藤原貞守]]([[854年]]〈[[斉衡]]元年〉[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) 従四位下後に従四位上 参議 右大弁〔文徳天皇実録〕
* [[橘永範]](権守:[[856年]]〈斉衡3年)[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) 従五位上〔文徳天皇実録〕
* [[豊江王]]([[858年]]〈[[天安 (日本)|天安]]2年〉1月16日~[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) 正四位下 [[山作司]]を兼務〔日本三代実録〕
* [[清原長田]](858年〈天安2年〉11月25日) 散位従四位上〔日本三代実録〕
* [[藤原三藤]]([[860年]]〈[[貞観 (日本)|貞観]]2年〉[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) 従五位上 [[陰陽頭]]〔日本三代実録〕
* [[基棟王]](権守、後に守:[[861年]]〈貞観3年〉[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]~[[863年]]〈貞観5年〉[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) 散位従四位上〔日本三代実録〕
* [[棟氏王]](861年〈貞観3年〉1月 ~ 863年〈貞観5年〉[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]卒) 散位従四位下〔日本三代実録〕
* [[伴河男]](863年〈貞観5年〉2月10日) 従五位下〔日本三代実録〕
* [[棟貞王]]([[864年]]〈貞観6年〉[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]~865年〈貞観7年〉[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) 従四位下〔日本三代実録〕
* [[橘忠宗]]([[865年]]〈貞観7年〉1月27日~865年〈貞観7年〉[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) 従五位下 [[治部少輔]]〔日本三代実録〕
* [[利基王]](権守:865年〈貞観7年〉5月16日) 従四位上〔日本三代実録〕
* [[眞内王]](権守:[[866年]]〈貞観8年〉[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) 散位従四位上〔日本三代実録〕
* [[紀本道]](866年〈貞観8年〉[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) 散位従五位下〔日本三代実録〕
* [[紀有常]](権守:[[867年]]〈貞観9年〉[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) 従五位上 [[刑部]][[大輔|権大輔]]〔日本三代実録〕
* [[南淵弘貞]]([[877年]]〈[[元慶]]元年〉頃) 従三位 参議 [[刑部卿]]〔日本三代実録〕
* [[小野俊生]]([[879年]]〈元慶3年〉頃) 従五位上〔日本三代実録〕
* [[源道]]([[885年]]〈[[仁和]]元年〉頃~[[886年]]〈仁和2年〉[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) 従五位下〔日本三代実録〕
* [[藤原有象]](?)[[鎮守府将軍]] 〔尊卑分脈〕
* [[藤原秀郷]]([[940年]]〈[[天慶]]3年〉~ ) 従四位下 [[武蔵国|武蔵]]守・[[鎮守府将軍]]
* [[平兼任]](?)〔尊卑分脈〕
* [[源満頼]](?)従五位下 〔尊卑分脈〕
* [[源満快]](?)〔尊卑分脈〕
* [[源満仲]]([[985年]]〈[[永観]]3年〉頃)〔尊卑分脈〕
* [[平維衡]]([[998年]]〈[[長徳]]4年〉~[[1006年]]〈[[寛弘]]3年〉) 〔[[日本外史]]〕現地には赴任せず。
* [[源政孝]]
* [[源頼信]](?)
* [[源頼光]](?)〔尊卑分脈〕
* [[源頼義]]([[1050年]]〈[[永承]]5年〉頃)
* [[源頼資]](~[[1062年]]〈[[康平]]5年〉頃)〔尊卑分脈、扶桑略記、百錬抄〕
* [[源頼綱]](?)〔尊卑分脈〕
* [[源仲政]](?)〔尊卑分脈〕
* [[源義家]]([[1070年]]〈[[延久]]2年〉~[[1075年]]〈[[承保]]2年〉)[[従五位下]]
* [[源義綱]](?)〔[[新拾遺集]]〕
* [[源経兼]]([[1098年]]〈[[承徳]]2年〉~ )〔[[袋草紙]]、[[十訓抄]]〕
* [[源明国]]([[1111年]]〈[[天永]]2年〉) 従五位下 〔尊卑分脈〕
* [[源為義]]([[1142年]]〈[[永治]]2年〉頃)
* [[源義朝]]([[1153年]]〈[[仁平]]3年〉~[[1159年]]〈[[平治]]元年〉[[12月10日 (旧暦)|12月10日]])従五位下 右馬助 右馬権頭 左馬権頭
* [[源季広]]([[1185年]]〈[[治承]]元年〉)正五位下 〔[[千載和歌集]]〕
* [[藤原行房]](?)〔[[吾妻鏡]]〕
* [[藤原行長]](?)〔尊卑分脈(吉川弘文館、1958年)第2篇、113頁〕
* [[源頼氏]](~[[1219年]]〈[[承久]]元年〉)
* [[小山朝政]](?)従五位下
* [[宇都宮泰綱]]([[1238年]]〈[[嘉禎]]4年〉~ )正五位下 [[美濃国|美濃]]守護。
* [[宇都宮景綱]]
* [[宇都宮貞綱]] 従五位上
* [[宇都宮氏綱]] 下野守護・[[上野国|上野]]守護・[[越後国|越後]]守護。
* [[宇都宮基綱]] 下野守護。
* [[宇都宮満綱]]
* [[宇都宮等綱]]
* [[宇都宮明綱]]
* [[宇都宮正綱]] 下野守護。
* [[源教春]]
* [[曾根逆修]]([[1485年]]〈[[文明 (日本)|文明]]17年〉頃)
* [[宇都宮成綱]] 下野守護。
* [[宇都宮忠綱]]
* [[宇都宮興綱]]
* [[源経家]]([[1541年]]〈[[天文 (日本)|天文]]10年〉頃)
* [[宇都宮尚綱]]
* [[南部宗秀]]
* [[宇都宮広綱]]
* [[宇都宮国綱]]
* [[宇都宮隆綱]]
* [[牧長義]]
* [[織田信清 (戦国武将)|織田信清]]
<!--武家官位はコメントアウト
* [[松平光長]]<[[承応]]2年([[1653年]])~ >従四位下 [[越後高田藩]]初代藩主。
* [[酒井忠寛 (伊勢崎藩主)|酒井忠寛]]<[[延宝]]6年([[1678年]])~ >従五位下 上野[[伊勢崎藩]]初代藩主。
* [[酒井忠告]] 従五位下 上野伊勢崎藩第2代藩主。
* [[酒井忠哲]] 従五位下 上野伊勢崎藩第4代藩主。
* [[青山忠高]] - 丹波[[篠山藩]]第2代藩主。
* [[青山忠裕]] - 丹波篠山藩第4代藩主。
* [[青山忠良]] - 丹波篠山藩第5代藩主。
* [[酒井忠強]] 正五位 上野伊勢崎藩第8代藩主。
-->
==== 下野介 ====
* [[弓削薩摩]] ([[員外介]]:[[764年]]〈[[天平宝字]]8年〉[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) [[従五位下]]〔[[続日本紀]]〕
* [[縣内麻呂]]([[767年]]〈[[神護景雲]]元年〉[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]) 従五位下〔続日本紀〕
* [[当麻王]]([[769年]]〈神護景雲3年〉[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]) [[少納言]]従五位下〔続日本紀〕
* [[桑原王]] (員外介:[[770年]]〈[[宝亀]]元年〉[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) 従五位下〔続日本紀〕
* [[下毛野根麻呂]]([[774年]]〈宝亀5年〉[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) [[外従五位下]]〔続日本紀〕
* [[大伴人足]]([[778年]]〈宝亀9年〉[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) 従五位下〔続日本紀〕
* [[久米眞上]]([[779年]]〈宝亀10年〉[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) 外従五位下〔続日本紀〕
* [[石川美奈伎麻呂]]([[781年]]〈[[天応 (日本)|天応]]元年〉[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) 従五位下〔続日本紀〕
* [[伊勢水通]]([[782年]]〈[[延暦]]元年〉[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]) 外従五位下〔続日本紀〕
* [[和國守]]([[785年]]〈延暦4年〉[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) 従五位下〔続日本紀〕
* [[高原源]]([[789年]]〈延暦8年〉頃) 外従五位下〔続日本紀、[[日本後紀]]〕
* [[百済王教俊]]([[799年]]〈延暦18年〉[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) 従五位下〔日本後紀〕
* [[大中臣常麻呂]]([[804年]]〈延暦23年〉[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) 従五位下〔日本後紀〕
* [[安倍清継]]([[808年]]〈[[大同 (日本)|大同]]3年〉[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) 従五位下 〔日本後紀〕
* [[紀百継]]([[810年]])〈[[弘仁]]元年〉頃 従五位下 [[少将]] 〔日本後紀〕
* [[安倍豊柄]]([[812年]]〈弘仁3年〉[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) 従五位下 〔日本後紀〕
* [[良岑木連]]([[831年]]〈[[天長]]8年〉1月) 従五位下 式部少輔〔[[続日本後紀]]〕
* [[浄野二腹]]([[838年]]〈[[承和 (日本)|承和]]5年〉[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) 従五位下〔続日本後紀〕
* [[高階岑緒]]([[846年]]〈承和13年〉1月13日) 従五位下〔続日本後紀〕
* [[小野興道]](権介:846年〈承和13年〉[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]) 従五位下 陸奥守〔続日本後紀〕
* [[都長近人]](権介:846年〈承和13年〉[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]) 従五位下 陸奥守〔続日本後紀〕
* [[藤原北雄]]([[850年]]〈[[嘉祥]]3年〉[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) 従五位下〔続日本後紀〕
* [[伴三宗]](権介:[[851年]]〈[[仁寿]]元年〉[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) 従五位下 [[鎮守将軍]]〔[[文徳天皇実録]]〕
* [[橘永範]]([[852年]]〈仁寿2年〉[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) 従五位下〔文徳天皇実録〕
* [[文室道世]](権介、後に介:[[855年]]〈[[斉衡]]2年〉[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) 従五位下、後に従五位上〔文徳天皇実録〕
* [[安倍安正]]([[857年]]〈[[天安 (日本)|天安]]元年〉[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) 従五位下〔文徳天皇実録〕
* [[多治比河雄]](権介:857年〈天安元年〉1月14日) 従五位下〔文徳天皇実録〕
* [[伴河男]]([[861年]]〈[[貞観 (日本)|貞観]]3年〉[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]~[[863年]]〈貞観5年〉[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) 従五位下、後に従五位上〔[[日本三代実録]]〕
* [[坂上岑雄]](863年〈貞観5年〉2月10日) 従五位下〔日本三代実録〕
* [[長田利世]]([[867年]]〈貞観9年〉[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) 外従五位下〔日本三代実録〕
* [[紀安雄]]([[869年]]〈貞観11年〉) 従五位下 勘解由次官〔日本三代実録〕
* [[多米弟益]](権介:869年〈貞観11年〉[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) 散位外従五位下〔日本三代実録〕
* [[高階令範]](権介:[[872年]]〈貞観14年〉[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) 従五位下 [[遣兵部]]少輔〔日本三代実録〕
* [[秦永原]](権介:[[883年]]〈[[元慶]]年〉頃) 〔日本三代実録〕
* [[山口連松]]([[886年]]〈[[仁和]]2年〉[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) 散位従五位下〔日本三代実録〕
* [[巨勢御津]](886年〈仁和2年〉[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]) 従五位下〔日本三代実録〕
* [[源経基]](?)〔尊卑文脈〕
* [[布留今道]]
* [[平良兼]]
==== 下野掾 ====
* [[嶋田清田]]([[権掾]]:[[827年]]〈[[天長]]4年〉~[[829年]]〈天長6年〉1月頃) [[正六位上]] [[大外記]]〔[[日本後紀]]、[[文徳天皇実録]]〕
* [[良岑清風]]([[838年]]〈[[承和 (日本)|承和]]5年〉~842年〈承和9年〉) 正六位上〔[[日本三代実録]]〕
* [[紀春常]](権掾:[[842年]]〈承和9年〉[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) [[正七位上]]〔[[続日本紀]]〕
* [[雀部茂世]]([[権少掾]]:[[879年]]〈[[元慶]]3年〉頃) [[従七位下]]〔日本三代実録〕
==== 下野目 ====
* [[阿刀祢守]](大[[目 (国司)|目]]:[[864年]]〈[[貞観 (日本)|貞観]]6年〉[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) [[正七位上]]〔日本三代実録〕
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*?~? - [[小山朝政]]
*?~? - [[小山朝長]]
*?~? - [[小山長村]]
*?~? - [[小山時長]]
*?~? - [[小山宗長]]
*?~? - [[小山貞朝]]
*1332年~1333年 - [[小山秀朝]]
==== 室町幕府 ====
*1334年~1335年 - 小山秀朝
*1336年~1346年 - [[小山朝氏]]
*1346年~? - [[小山氏政]]
*1348年~1351年 - [[高師直]]
*1351年~? - 高階氏
*1352年~1352年 - [[仁木頼兼]]
*1352年~1363年 - [[宇都宮氏綱]]
*1363年~1366年 - [[宇都宮基綱]]
*1366年~1380年 - [[小山義政]]
*1381年~1386年 - [[上杉憲方]](もしくは[[木戸法季]])
*1387年~1430年 - [[結城基光]]
*1441年~1471年 - [[小山持政]]
*?~? - [[宇都宮正綱]]
*?~? - [[宇都宮成綱]]
=== 武家官位としての下野守 ===
{{節スタブ}}
== 鉄道駅での読み方 ==
[[日本国有鉄道|国鉄]]時代は、'''下野○○'''と書いて「しもずけ○○○○」と呼ばせる駅名が県内に存在した。平成に入り、それらの駅はすべて「しもつけ○○○○」と読み方を変更された。
* '''下野○○'''と書いて「しもずけ○○○○」と呼ばれた主な駅
** [[日光線]][[下野大沢駅]]:[[1929年]](昭和4年)[[11月1日]]より[[1990年]](平成2年)[[11月30日]]までは'''しもずけおおさわ'''と呼ばれた
** [[烏山線]][[下野花岡駅]]:[[1934年]](昭和9年)[[8月15日]]より1990年(平成2年)11月30日までは'''しもずけはなおか'''と呼ばれた
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
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===出典===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|title=栃木県史|volume=通史編2・古代二|publisher=[[栃木県]]|editor=栃木県史編さん委員会|date=1980-3-31|id={{NDLJP|9641938}}|ref={{SfnRef|栃木県史 通史編2|1980}}}}{{要登録}}
* [[角川日本地名大辞典]] 9 栃木県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Shimotsuke Province}}
* [[令制国一覧]]
* [[両毛]]
* [[しもつけ (列車)]] - [[東武鉄道]]の[[特急列車]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{令制国一覧}}
{{下野国の郡}}
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[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:東山道|国しもつけ]]
[[Category:栃木県の歴史]]
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長編小説
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長編小説・長篇小説(ちょうへんしょうせつ)は、文学形式の一種。
Novelは古イタリア語の「新しい」という接頭辞からきている。小説のうちその分量が特に多く、構造的に長大なものを指す。
何を以て長編小説とするかについては議論が多いが、根本的な問題として小説はかぎりなく長くすることができる。しかしある程度以下には短くすることができない。長編小説には短編小説のごとき構造上の定式がなく、何をどう書いてもいい部分が多いので、その範疇ははなはだひろく、そこに含まれる作品もきわめて多い。長さも形式も自由であるといえる。
11世紀頃に書かれた源氏物語が世界最古の長編小説とされる。 (長編小説の定義を考慮しなければ、世界最古の恋愛小説はロンゴス作の『ダフニスとクロエ』であるという説もある。) 日本では通常、掌編(ショートショート、掌編小説など)、短編小説・中編小説に対立する語としてこの言葉が用いられる。新潮社出版部文芸第二編集部編集長の新井久幸は、400字詰め原稿用紙250枚が長編として出版できる下限であるとしている。
海外では、短編小説に対する長編小説という区分、対立の意識がつよい。つまり周到なプロットによって最後に読者を驚かせておしまいにするのが短編(例えば、O・ヘンリーの『賢者の贈物』の、夫が時計を売ったことが最後に明かされる仕掛け)であり、そのためには作者の語り口、つまり何を語り何を読者に対して秘密にするかがかなりその自由裁量にまかされている。これに対して、そうしたプロットを用いずに叙述を順次すすめてゆくのが長編小説であると考えられることが多い。このため、「長い短編小説」「短い長編小説」(手法的には短編/長編のそれによっているが分量が手法とは相反する)という呼名さえ存在する。
ただし上記のような区分も、例えば推理小説であればかならず短編的なプロットによる必要があるし、またいわゆる19世紀的な時系列を重んじる長編小説が廃れた現代文学においては長編という言葉が意味するものは多様化しており、短編、長編の手法論的分類はある程度以上には不可能である。
あまりにも長すぎる長編小説は「大河小説」と呼ばれることもある。
ヘンリー・ダーガーの『非現実の王国で』が目下最長だが、ダーガー本人が作家とは存命中に認識されていなかった上に未出版である。サイモン・ロバーツのニカーズは同一単語のコピペが発覚して、ギネス取り消しになった。栗本薫の『グイン・サーガ』は未完であることを理由にギネス申請が却下された。
現在のギネス記録はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』だが、実はこの作品も作者がゲラ刷りにすべて目を通すというプロセスが作者の死のため抜け落ちており、本来の意味では未完である。
作者存命中に出版された長編小説で、出版中に確実な数の読者が存在し、かつギネス記録が確実視されていたのはジュール・ロマン著『善意の人々』と山岡荘八の『徳川家康』であるが、現在はなぜか両作品ともに記録からは外されている。
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長編小説・長篇小説(ちょうへんしょうせつ)は、文学形式の一種。
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'''長編小説'''・'''長篇小説'''('''ちょうへんしょうせつ''')は、[[文学]]形式の一種。
==概要==
Novelは古イタリア語の「新しい」という接頭辞からきている。[[小説]]のうちその分量が特に多く、構造的に長大なものを指す。
何を以て長編小説とするかについては議論が多いが、根本的な問題として小説はかぎりなく長くすることができる。しかしある程度以下には短くすることができない。長編小説には短編小説のごとき構造上の定式がなく、何をどう書いてもいい部分が多いので、その範疇ははなはだひろく、そこに含まれる作品もきわめて多い。長さも形式も自由であるといえる。
11世紀頃に書かれた[[源氏物語]]が世界最古の長編小説とされる<ref>{{Cite web|和書|title=自動翻訳があるいま、言語を学ぶ意味は キャンベルさんを導いた金言:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ534FLMQ4TULEI00B.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |access-date=2022-06-02 |language=ja}}</ref>。
(長編小説の定義を考慮しなければ、世界最古の恋愛小説はロンゴス作の『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』であるという説もある。)
日本では通常、掌編([[ショートショート]]、[[掌編小説]]など)、[[短編小説]]・[[中編小説]]に対立する語としてこの言葉が用いられる。[[新潮社]]出版部文芸第二編集部編集長の新井久幸は、400字詰め[[原稿用紙]]250枚が長編として出版できる下限であるとしている<ref>{{Cite book|和書|title=書きたい人のためのミステリ入門|year=2020|publisher=新潮社|pages=113|author=新井 久幸}}</ref>。
海外では、短編小説に対する長編小説という区分、対立の意識がつよい。つまり周到なプロットによって最後に読者を驚かせておしまいにするのが短編(例えば、[[オー・ヘンリー|O・ヘンリー]]の『賢者の贈物』の、夫が時計を売ったことが最後に明かされる仕掛け)であり、そのためには作者の語り口、つまり何を語り何を読者に対して秘密にするかがかなりその自由裁量にまかされている。これに対して、そうしたプロットを用いずに叙述を順次すすめてゆくのが長編小説であると考えられることが多い。このため、「長い短編小説」「短い長編小説」(手法的には短編/長編のそれによっているが分量が手法とは相反する)という呼名さえ存在する。
ただし上記のような区分も、例えば[[推理小説]]であればかならず短編的なプロットによる必要があるし、またいわゆる[[19世紀]]的な時系列を重んじる長編小説が廃れた[[現代文学]]においては長編という言葉が意味するものは多様化しており、短編、長編の手法論的分類はある程度以上には不可能である。
あまりにも長すぎる長編小説は「大河小説」と呼ばれることもある。
==世界で最も長い長編小説==
[[ヘンリー・ダーガー]]の『[[非現実の王国で]]』が目下最長だが、ダーガー本人が作家とは存命中に認識されていなかった上に未出版である。[[サイモン・ロバーツ]]の[[ニカーズ]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://archive.md/zzeq3 |title = 2005年度の『ギネス世界記録』でイギリスのサイモン・ロバーツ (Simon Roberts) の『ニカーズ』 (Knickers) が1415万6074文字で世界最長と一度は認定されたものの、その後取り消されています。|website = ameblo.jp|publisher = ある女子大講師|date = 2023-02-28|accessdate = 2023-04-13}}</ref>は同一単語の[[コピー・アンド・ペースト|コピペ]]が発覚して、[[ギネス世界記録|ギネス]]取り消しになった。[[栗本薫]]の『[[グイン・サーガ]]』は未完であることを理由にギネス申請が却下された。
現在のギネス記録は[[マルセル・プルースト]]の『[[失われた時を求めて]]』だが、実はこの作品も作者がゲラ刷りにすべて目を通すというプロセスが作者の死のため抜け落ちており、本来の意味では未完である。
作者存命中に出版された長編小説で、出版中に確実な数の読者が存在し、かつギネス記録が確実視されていたのは[[ジュール・ロマン]]著『[[善意の人々]]』と[[山岡荘八]]の『徳川家康<ref>{{Cite web|和書|url = https://books.bunshun.jp/articles/-/3387 |title = ギネス記録を持つ“元祖・国民作家”山岡荘八|website = books.bunshun.jp|publisher = books.bunshun.jp|date = 2011-10-13|accessdate = 2023-04-12}}</ref>』であるが、現在はなぜか両作品ともに記録からは外されている。
== 脚注 ==
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<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[短編小説]]
== 外部リンク ==
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RSA暗号
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RSA暗号(RSAあんごう)とは、桁数が大きい合成数の素因数分解が現実的な時間内で困難であると信じられていることを安全性の根拠とした公開鍵暗号の一つである。暗号とデジタル署名を実現できる方式として最初に公開されたものである。
RSA暗号方式は、1977年に発明され、発明者であるロナルド・リベスト、アディ・シャミア、レオナルド・エーデルマンの原語表記の頭文字をつなげてこのように呼ばれる。前年(1976年)にディフィーとヘルマンによって発表されたばかりの公開鍵暗号という新しい概念に対し、秘匿や認証を実現できる具体的なアルゴリズムを与えた。発明者3氏は、この功績によって2002年のチューリング賞を受賞した。この暗号はフェルマーの小定理に基づいている。
RSA暗号は次のような方式である。
鍵のペア(公開鍵と秘密鍵)を作成して公開鍵を公開する。まず、適当な λ と互いに素な正整数 e を選択する。また、大きな2つの素数の組 {p, q} を生成し、それらの積 n (= pq) を求めて、e と n を平文の暗号化に使用する鍵(公開鍵)とし、n を法、e を公開指数という。素数の組 {p, q} から暗号文の復号に使用する鍵(秘密鍵)d を生成し、d を私有指数という。すなわち d = e mod λ となるような {p, q} をとる。d の生成後、λ も p も q も捨ててよい。ただしここで λ = lcm(p − 1, q − 1)。式中の mod は剰余演算を表し、d は λ を法とする e のモジュラ逆数であり、lcm は最小公倍数である。
暗号化(e 乗)は公開鍵 {e, n} があれば容易に計算でき、復号(d 乗)は秘密鍵 d と公開鍵 n があれば容易に計算できる。しかし、秘密鍵 d を知らずに解読する(法 n の下で e 乗根を計算する)のは、「n の素因数を知らないと難しい(大きい合成数の素因数分解も難しい)」と考えられている。つまり、「秘密鍵を用いずに暗号文から平文を得ることは難しい」と信じられている。これがRSA暗号の安全性の根拠である。
RSA暗号のアルゴリズムは、1983年9月20日にアメリカ合衆国で特許(4,405,829号)を取得し、RSA Security 社がライセンスを独占していたが、特許期間満了に伴って2000年9月6日からは誰でも自由に使用できるようになった。
暗号の用語については暗号#用語、暗号理論#用語を参照。
歴史的見解を正すのであれば、暗号に革命を起こしたこの理論の最初の発案者はジェイムズ・エリス(英語版)である。彼らはイギリス最高機密機関・英国政府通信本部 (GCHQ) の職員であり、その独創的な先見の明は内部文書として長い間公開されなかった。また実用にはコンピュータの性能等から機が熟していなかった。以下はその概要である。
エリスは1969年にこの理論を発見しているが、専門の数学者ではなかったため、具体的な方法を発見できなかった。幾人ものGCHQの優秀な数学者が挑戦したが、具体的な方法を提示することはできなかった。1973年、突拍子もない暗号のアイデアとしてエリスの「一方向関数(非対称性鍵の概念)・公開鍵」を用いた暗号論の話を聞かされ、わずか30分程度でモジュラー算術と素因数を用いた具体的な方法を考案したのは、GCHQ所属の若き数学者クリフォード・コックス(英語版)である(コックスは上記のリベストの計算式と同じものを発見した)。しかしエリスとコックスの業績は機密事項とされたため、1997年までは世に知られることはなかった。
鍵生成、暗号化、復号の3つのアルゴリズムで定義される。
p, q を異なる2つの素数とし n = pq とし λ(n) = (p − 1)(q − 1) とする。e を λ(n) と素な正整数とすると α ⋅ e + β ⋅ λ(n) = 1 となる2整数 α, β が存在する。α として1つの正整数 d を選択してそのときの β を −x とすると d ⋅ e = x ⋅ λ(n) + 1 となる。ここで d を秘密鍵とし、n と e を公開鍵とする。
ここで、α ⋅ e + β ⋅ λ(n) = 1 のとき i を整数とすると (α + i ⋅ λ(n)) ⋅ e + (β − i ⋅ e) ⋅ λ(n) = 1 であるから α に λ(n) の整数倍を加えたものも改めて α とできるため、α として正整数 d を選択できるとした。
以下 Zn を 0 以上 n 未満の整数の集合とする。
a ∈ Zn とし a を暗号化対象の平文とする。b = a mod n ∈ Zn を計算し、b を 平文 a の暗号文とする。
a′ = b mod n ∈ Zn を計算する。すると a′ = a となり a′ は 平文 a の暗号文 b の復号文となる。
定義により以下が成立する。
これにより以下も成立する。
a が n と互いに素な整数のときは a が2つの素数 p, q のそれぞれと互いに素であるから
フェルマーの小定理 により a p − 1 ≡ 1 ( mod p ) {\displaystyle a^{p-1}\equiv 1{\pmod {p}}} かつ a q − 1 ≡ 1 ( mod q ) {\displaystyle a^{q-1}\equiv 1{\pmod {q}}} であり
よって ( a λ ( n ) − 1 ) {\displaystyle (a^{\lambda (n)}-1)} は p, q で割り切れるから a λ ( n ) ≡ 1 ( mod n ) {\displaystyle a^{\lambda (n)}\equiv 1{\pmod {n}}} となり
となるが、 a , a ′ ∈ Z n {\displaystyle a,a'\in \mathbb {Z} _{n}} であるから
となる。
gcd ( n , a ) = p {\displaystyle \gcd(n,a)=p} であり、 a ∈ Z n − { 0 } {\displaystyle a\in \mathbb {Z} _{n}-\{0\}} のときは、a は q − 1 個の整数からなる集合 { 1 ⋅ p , 2 ⋅ p , 3 ⋅ p , ⋯ , ( q − 1 ) ⋅ p } {\displaystyle \{1\cdot p,2\cdot p,3\cdot p,\cdots ,(q-1)\cdot p\}} の元であって、a が p で割り切れるから a ≡ 0 ( mod p ) {\displaystyle a\equiv 0{\pmod {p}}} であり、a, q が素であるからフェルマーの小定理により a q − 1 ≡ 1 ( mod q ) {\displaystyle a^{q-1}\equiv 1{\pmod {q}}} であり
よって
よって
よって a' − a は p, q で割り切れるから
となるが、 a , a ′ ∈ Z n {\displaystyle a,a'\in \mathbb {Z} _{n}} であるから
となる。
gcd ( n , a ) = q {\displaystyle \gcd(n,a)=q} であり a ∈ Z n − { 0 } {\displaystyle a\in \mathbb {Z} _{n}-\{0\}} のときについても同様に a' = a となる。
a = 0 のときは b ∈ { z ∈ Z n ∣ z ≡ 0 e ( mod n ) } = { 0 } {\displaystyle b\in \{z\in \mathbb {Z} _{n}\mid z\equiv 0^{e}{\pmod {n}}\}=\{0\}} であるから b = 0 であり、 a ′ ∈ { z ∈ Z n ∣ z ≡ 0 d ( mod n ) } = { 0 } {\displaystyle a'\in \{z\in \mathbb {Z} _{n}\mid z\equiv 0^{d}{\pmod {n}}\}=\{0\}} であるから a' = 0 である。つまり a′ = a = 0 である。
以上何れにしても a' = a が成り立ち、平文 a の 暗号文 b は 秘密鍵 d と公開鍵の一つ n を用いて平文 a に復号できることが分かる。
セキュリティパラメータが1024の場合、n は1024ビットという大きな桁数の数となり、d も n とほぼ同じ桁数の数となる。 a = b d mod n {\displaystyle a=b^{d}{\bmod {n}}} を計算するには、バイナリ法というアルゴリズムを用いると、剰余乗算 ( 1024 b i t × 1024 b i t {\displaystyle 1024\mathrm {bit} \times 1024\mathrm {bit} } ) を、1500回程繰り返すことで実現できる。これには相当の計算時間を要するため、中国の剰余定理を用いて、
として求めることがある。
桁数が大きい場合、確実に素数であると保証できる整数を見つけることは容易ではない。このため実際には、素数であるとは断言できないものの、素数である可能性が非常に高い自然数を用いる。こういった自然数の生成はMiller–Rabinテストなどの確率的素数判定法によって高速に行える。確率的素数判定法をパスした自然数を確率的素数 (probable prime) という。確率的素数には、素数の他に擬素数が含まれるが、その確率は判定回数を増やすことで極めて低くすることができる(なお、拡張リーマン予想が正しければ、Miller–Rabinテストは素数かどうかを正しく判定する、という事実が知られている)。
2002年8月、インド工科大学 のアグラワルらが素数判定を多項式時間で行うAKS素数判定法を発表したが、これは多項式の次数が高すぎて遅いので未だRSAの鍵生成に実用するには足らない。
RSA暗号は、安全性が素因数分解問題と同値であると期待されている暗号方式であるが、本当に両者が同値であるかどうかについては分かっていない。
素因数分解を解けるオラクルを用いれば、n から p および q が計算できるので、鍵生成と同様にして秘密鍵 d を知ることができる。即ち、RSA暗号が解読できる。従って、RSA仮定が証明できれば素因数分解問題の困難性が示せる。しかし、逆が成立するかどうかはよく分かっていない。ある条件下では否定的な結果もでている。
RSA暗号が選択平文攻撃に対して完全解読できない、ということとRSA仮定とは同値である。
RSA問題を解く方法として、現在知られている有力な方法は、素因数分解問題を解くことに使える方法だけである。素因数分解問題を解く方法として、楕円曲線法や数体篩法などのアルゴリズムが知られているが、これらの方法はどれも準指数関数時間アルゴリズムであり、多項式時間で素因数分解問題を解く方法は知られていない。
暗号理論の世界では、多項式時間で解読することができない暗号方式を安全であると定義することがある(計算量的安全性)。この意味で、RSA暗号の安全性について、現在知られている範囲では安全であると期待されていて、その反証がないと言える。
RSA問題や素因数分解問題はNP問題であるので、これらの問題が(決定性のある)多項式時間では解けないことが証明できれば、P≠NP予想が肯定的に解決することになる。ただし、ハミルトン閉路問題など他のNP問題(NPかつNP困難なNP完全問題を含む)が多項式時間で解けることが証明されればP=NPとなってしまう。
2004年の時点では、インターネットで公募した数多くのPCを用いると512ビット程度の数なら素因数分解できるので、RSA暗号に使用する法 n は1024-4096ビット(10進数で300-1000桁程度)にすることが推奨されている。
しかしシャミアは、RSA問題を解くための専用装置 (TWIRL) を作成すれば、1024ビットの n に関するRSA問題ですら解くことができると主張している。また、実用的な量子コンピュータが登場した場合には、素因数分解の桁数増に対する計算時間の増加が緩やかなショアのアルゴリズム(英語版)と呼ばれる高速な量子コンピュータアルゴリズムが実行可能となるため、たとえ鍵のビット数を増やしてもRSA暗号の安全性が保証されなくなる可能性が指摘されている。
RSA社は「RSA Factoring Challenge」を1991年から2007年まで実施し、最新の計算機環境でどの程度のビット数の整数が素因数分解可能かを調べた。
以下は未踏
RSA暗号は選択暗号文攻撃を行なえば完全解読できる。また、RSA暗号は選択平文攻撃に対してすらindistinguishable(識別不能)ではない。よってRSA暗号は選択平文攻撃に対してnon-malleable(頑強性)でも semantic secure(強秘匿性)でもない。non-malleable と semantic secure の定義は公開鍵暗号に記されている。
RSA暗号の安全性が素因数が不明な法 n での冪根を求めるのが難しい事実に基づいていることから、その最大の攻撃が素因数分解であることは明白である。
しかし平文によっては、それ以外の攻撃方法でも暗号文から平文を入手することが可能である。
これは公開鍵暗号全般に言えることであるが、確定的暗号であれば、例えば平文が「はい」か「いいえ」のどちらかしか有り得ないなら、それぞれを暗号化したものと暗号文とを比較すれば平文を知ることができる。
実際の暗号への応用においては、フォーマットとして m の一部に毎回生成する乱数を挿入することで、この攻撃を回避している(復号側で乱数部分を無視するよう処理すればよい)。
もしも平文 m が、n の e 乗根よりも小さかったら、暗号文 c = m e mod n = m e {\displaystyle c=m^{e}\;\operatorname {mod} \;n=m^{e}} となるから、通常の冪根演算によって c の e 乗根を計算するだけで平文 m が復元できてしまう。
実際の暗号への応用においてはフォーマットの一部として、m の比較的高位のビットに1を挿入することでこの攻撃を回避している。
法 n における e乗根が計算できれば、暗号文を復号できる。当然これは(法 n の素因数が分からない限り)非常に難しいと考えられていて、RSA暗号の安全性の重要な根拠の一つになっている。
しかし、全く同一の平文を、異なる法において同一の e を用いて暗号化した暗号文を e 個以上集めることで、各々の法に関して中国の剰余定理を用いれば通常の冪根演算によって平文を復元できる。これが同報通信の誤用である。
ここから中国の剰余定理によって上記式を満たす、
を求めることができる。このとき c < n 1 n 2 n 3 ⋯ n e {\displaystyle c<n_{1}n_{2}n_{3}\dotsm n_{e}} であり、また m はどの法 n よりも小さいため m e < n 1 n 2 n 3 ⋯ n e {\displaystyle m^{e}<n_{1}n_{2}n_{3}\dotsm n_{e}} であることから、
この c の e 乗根を求めることで平文 m が求められる。
これは e として特に 3 や 65537 は、2進数表示したときに 1 の個数が少ないために暗号化処理を高速化できるという理由から好んで用いられるために発生しうる問題である。実際の暗号への応用においてはフォーマットとして、m の一部に毎回生成する乱数を挿入することでこの攻撃を回避している。
RSA暗号の入力は、公開鍵の法を n とすると 0 から n − 1 の範囲の整数である。n 以上の値の平文を暗号化する際には、平文を分割して処理することになる。
この時に留意しなければならない点として、例えば、n が1024ビット(= 128バイト)であるとき、平文を同じ 1024ビット毎に分割処理するのでは十分ではないという点がある。これは、n と m が共に 1024ビットであったとしても、n < m の場合には、結果として出力されるのは、 m mod n {\displaystyle m{\bmod {n}}} に対応する暗号文であり、復号しても m は出力されないためである。
平文をビット単位(やバイト単位)で分割する際には、まず、n の下限を定めた上で、平文の全ビットを 1 に(全バイトを F F 16 {\displaystyle \mathrm {FF_{16}} } に)しても n より小さくなるビット数(バイト数)で分割しなければならない。例えば、n の下限を n ≥ 2 1023 {\displaystyle n\geq 2^{1023}} とした場合、平文は 1023 ビットごとに分割する。こうすることで m < n の条件が常に満たされる。
一方で、出力となる暗号文は 0 から n − 1 の範囲の整数になるため、先の例で(n の下限より小さいビット数)1023ビット毎に分割された m に対応する暗号文の中には、1024ビットが必要となるものがある。つまり、平文をビット単位で分割する場合には暗号化によってメッセージサイズが増加するといえる。これを回避するにはビット単位で分割するのではなく、平文 m を n 進数表示したときの各桁毎に分割すればよい。
RSA暗号方式は、
などの脆弱性があり、RSA暗号方式をそのまま利用することは好ましくない。このため、実際のRSA暗号の実装では、暗号化する前に適切なパディングを行っている。代表的なパディングとしてOAEPがあり、公開鍵暗号標準であるPKCS#1(バージョン1.5以降)もこれを採用している。OAEPは確率的なパディングであり、すなわち、元の平文が同じであっても、パディングされた平文は時によって異なる(ランダムに選ばれた値に依存)。
OAEPパディングとRSA暗号の併用をRSA_OAEPと呼ぶことがある(これに対して、パディング処理を行わない素のRSA暗号方式を生RSA、教科書的RSAということがある)。RSA_OAEPは、公開鍵暗号における最も高い安全性である「適応的選択暗号文攻撃に対する識別不可能性」を持つことが示されている。
RSA暗号が実現した公開鍵暗号方式は、従来の暗号方式(共通鍵暗号)とは異なり、暗号化は公開鍵を使って誰でもできるが、復号は秘密鍵を持つ本人だけしかできない方式である。この復号は「本人だけしかできない」という性質を利用すると、デジタル署名(あるいは認証機能)が実現できる。
そのためには、公開鍵・秘密鍵を次のように使用する。
公開鍵と秘密鍵の役割は通常の場合においては上記の通り、公開鍵は暗号化に使われ、秘密鍵は復号に用いられるが、RSA暗号においては平文と暗号文の定義域が同じ(平文空間=暗号文空間である)ため、任意の文書(メッセージ)を暗号文とみなして復号することができる。つまり秘密鍵を用いて任意の文書について署名値を生成でき、公開鍵を用いてその署名値を暗号化して元の文書と一致するかを調べることで署名の検証ができる。
ただし、RSA暗号と同様に、生RSAでは、署名の潜在的偽造等の好ましくない性質があるため、パディングなどが必要である。また、暗号文空間よりも大きなメッセージを扱うためにハッシュ関数と組み合わせて使用する。
このようなパディングなども含めたものとして、
などがある。
1977年、マーティン・ガードナーがコラムを連載していたサイエンティフィック・アメリカン誌に129桁の法 n と公開指数 e = 9007 を使ったRSA方式で暗号化されたメッセージを掲載した。解読が成功した者にマサチューセッツ工科大学から100米ドルを与えるという懸賞金問題だった。当時、解読には4京年(40×10年)は必要だろうと予測されていた。掲載から16年後に、オックスフォード大学ポール・レイランド(英語版)、アイオワ州立大学マイケル・グラフ、マサチューセッツ工科大学デレク・アトキンス、アリエン・レンストラ(英語版)らが、インターネット上で(南極大陸を除くすべての大陸から20か国以上の)約600名のボランティアの協力を得て、二次ふるい法によってRSA-129に対する大規模攻撃を開始した。8か月で800万以上の下位問題が解かれ、得られた50万行50万列以上の疎行列から188614行188160列の行列による連立方程式を作った。これをスーパーコンピュータMP-1で45時間をかけて構造的ガウスの消去法によって解き、解読に成功した(1994年4月)。答えは“The magic words are squeamish ossifrage”[ossifrage(ヒゲワシ)はラテン語で「骨を折る者」の意。ロナルド・リベストによると暗号の答えはランダムで決められた。]
RSA暗号をサポートしているライブラリは以下の通り。
|
[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号(RSAあんごう)とは、桁数が大きい合成数の素因数分解が現実的な時間内で困難であると信じられていることを安全性の根拠とした公開鍵暗号の一つである。暗号とデジタル署名を実現できる方式として最初に公開されたものである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号方式は、1977年に発明され、発明者であるロナルド・リベスト、アディ・シャミア、レオナルド・エーデルマンの原語表記の頭文字をつなげてこのように呼ばれる。前年(1976年)にディフィーとヘルマンによって発表されたばかりの公開鍵暗号という新しい概念に対し、秘匿や認証を実現できる具体的なアルゴリズムを与えた。発明者3氏は、この功績によって2002年のチューリング賞を受賞した。この暗号はフェルマーの小定理に基づいている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号は次のような方式である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "鍵のペア(公開鍵と秘密鍵)を作成して公開鍵を公開する。まず、適当な λ と互いに素な正整数 e を選択する。また、大きな2つの素数の組 {p, q} を生成し、それらの積 n (= pq) を求めて、e と n を平文の暗号化に使用する鍵(公開鍵)とし、n を法、e を公開指数という。素数の組 {p, q} から暗号文の復号に使用する鍵(秘密鍵)d を生成し、d を私有指数という。すなわち d = e mod λ となるような {p, q} をとる。d の生成後、λ も p も q も捨ててよい。ただしここで λ = lcm(p − 1, q − 1)。式中の mod は剰余演算を表し、d は λ を法とする e のモジュラ逆数であり、lcm は最小公倍数である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "暗号化(e 乗)は公開鍵 {e, n} があれば容易に計算でき、復号(d 乗)は秘密鍵 d と公開鍵 n があれば容易に計算できる。しかし、秘密鍵 d を知らずに解読する(法 n の下で e 乗根を計算する)のは、「n の素因数を知らないと難しい(大きい合成数の素因数分解も難しい)」と考えられている。つまり、「秘密鍵を用いずに暗号文から平文を得ることは難しい」と信じられている。これがRSA暗号の安全性の根拠である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号のアルゴリズムは、1983年9月20日にアメリカ合衆国で特許(4,405,829号)を取得し、RSA Security 社がライセンスを独占していたが、特許期間満了に伴って2000年9月6日からは誰でも自由に使用できるようになった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "暗号の用語については暗号#用語、暗号理論#用語を参照。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "歴史的見解を正すのであれば、暗号に革命を起こしたこの理論の最初の発案者はジェイムズ・エリス(英語版)である。彼らはイギリス最高機密機関・英国政府通信本部 (GCHQ) の職員であり、その独創的な先見の明は内部文書として長い間公開されなかった。また実用にはコンピュータの性能等から機が熟していなかった。以下はその概要である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "エリスは1969年にこの理論を発見しているが、専門の数学者ではなかったため、具体的な方法を発見できなかった。幾人ものGCHQの優秀な数学者が挑戦したが、具体的な方法を提示することはできなかった。1973年、突拍子もない暗号のアイデアとしてエリスの「一方向関数(非対称性鍵の概念)・公開鍵」を用いた暗号論の話を聞かされ、わずか30分程度でモジュラー算術と素因数を用いた具体的な方法を考案したのは、GCHQ所属の若き数学者クリフォード・コックス(英語版)である(コックスは上記のリベストの計算式と同じものを発見した)。しかしエリスとコックスの業績は機密事項とされたため、1997年までは世に知られることはなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "鍵生成、暗号化、復号の3つのアルゴリズムで定義される。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "p, q を異なる2つの素数とし n = pq とし λ(n) = (p − 1)(q − 1) とする。e を λ(n) と素な正整数とすると α ⋅ e + β ⋅ λ(n) = 1 となる2整数 α, β が存在する。α として1つの正整数 d を選択してそのときの β を −x とすると d ⋅ e = x ⋅ λ(n) + 1 となる。ここで d を秘密鍵とし、n と e を公開鍵とする。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ここで、α ⋅ e + β ⋅ λ(n) = 1 のとき i を整数とすると (α + i ⋅ λ(n)) ⋅ e + (β − i ⋅ e) ⋅ λ(n) = 1 であるから α に λ(n) の整数倍を加えたものも改めて α とできるため、α として正整数 d を選択できるとした。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "以下 Zn を 0 以上 n 未満の整数の集合とする。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "a ∈ Zn とし a を暗号化対象の平文とする。b = a mod n ∈ Zn を計算し、b を 平文 a の暗号文とする。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "a′ = b mod n ∈ Zn を計算する。すると a′ = a となり a′ は 平文 a の暗号文 b の復号文となる。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "定義により以下が成立する。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "これにより以下も成立する。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "a が n と互いに素な整数のときは a が2つの素数 p, q のそれぞれと互いに素であるから",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "フェルマーの小定理 により a p − 1 ≡ 1 ( mod p ) {\\displaystyle a^{p-1}\\equiv 1{\\pmod {p}}} かつ a q − 1 ≡ 1 ( mod q ) {\\displaystyle a^{q-1}\\equiv 1{\\pmod {q}}} であり",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "よって ( a λ ( n ) − 1 ) {\\displaystyle (a^{\\lambda (n)}-1)} は p, q で割り切れるから a λ ( n ) ≡ 1 ( mod n ) {\\displaystyle a^{\\lambda (n)}\\equiv 1{\\pmod {n}}} となり",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "となるが、 a , a ′ ∈ Z n {\\displaystyle a,a'\\in \\mathbb {Z} _{n}} であるから",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "gcd ( n , a ) = p {\\displaystyle \\gcd(n,a)=p} であり、 a ∈ Z n − { 0 } {\\displaystyle a\\in \\mathbb {Z} _{n}-\\{0\\}} のときは、a は q − 1 個の整数からなる集合 { 1 ⋅ p , 2 ⋅ p , 3 ⋅ p , ⋯ , ( q − 1 ) ⋅ p } {\\displaystyle \\{1\\cdot p,2\\cdot p,3\\cdot p,\\cdots ,(q-1)\\cdot p\\}} の元であって、a が p で割り切れるから a ≡ 0 ( mod p ) {\\displaystyle a\\equiv 0{\\pmod {p}}} であり、a, q が素であるからフェルマーの小定理により a q − 1 ≡ 1 ( mod q ) {\\displaystyle a^{q-1}\\equiv 1{\\pmod {q}}} であり",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "よって",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "よって",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "よって a' − a は p, q で割り切れるから",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "となるが、 a , a ′ ∈ Z n {\\displaystyle a,a'\\in \\mathbb {Z} _{n}} であるから",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "gcd ( n , a ) = q {\\displaystyle \\gcd(n,a)=q} であり a ∈ Z n − { 0 } {\\displaystyle a\\in \\mathbb {Z} _{n}-\\{0\\}} のときについても同様に a' = a となる。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "a = 0 のときは b ∈ { z ∈ Z n ∣ z ≡ 0 e ( mod n ) } = { 0 } {\\displaystyle b\\in \\{z\\in \\mathbb {Z} _{n}\\mid z\\equiv 0^{e}{\\pmod {n}}\\}=\\{0\\}} であるから b = 0 であり、 a ′ ∈ { z ∈ Z n ∣ z ≡ 0 d ( mod n ) } = { 0 } {\\displaystyle a'\\in \\{z\\in \\mathbb {Z} _{n}\\mid z\\equiv 0^{d}{\\pmod {n}}\\}=\\{0\\}} であるから a' = 0 である。つまり a′ = a = 0 である。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "以上何れにしても a' = a が成り立ち、平文 a の 暗号文 b は 秘密鍵 d と公開鍵の一つ n を用いて平文 a に復号できることが分かる。",
"title": "暗号方式"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "セキュリティパラメータが1024の場合、n は1024ビットという大きな桁数の数となり、d も n とほぼ同じ桁数の数となる。 a = b d mod n {\\displaystyle a=b^{d}{\\bmod {n}}} を計算するには、バイナリ法というアルゴリズムを用いると、剰余乗算 ( 1024 b i t × 1024 b i t {\\displaystyle 1024\\mathrm {bit} \\times 1024\\mathrm {bit} } ) を、1500回程繰り返すことで実現できる。これには相当の計算時間を要するため、中国の剰余定理を用いて、",
"title": "性能"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "として求めることがある。",
"title": "性能"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "桁数が大きい場合、確実に素数であると保証できる整数を見つけることは容易ではない。このため実際には、素数であるとは断言できないものの、素数である可能性が非常に高い自然数を用いる。こういった自然数の生成はMiller–Rabinテストなどの確率的素数判定法によって高速に行える。確率的素数判定法をパスした自然数を確率的素数 (probable prime) という。確率的素数には、素数の他に擬素数が含まれるが、その確率は判定回数を増やすことで極めて低くすることができる(なお、拡張リーマン予想が正しければ、Miller–Rabinテストは素数かどうかを正しく判定する、という事実が知られている)。",
"title": "性能"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2002年8月、インド工科大学 のアグラワルらが素数判定を多項式時間で行うAKS素数判定法を発表したが、これは多項式の次数が高すぎて遅いので未だRSAの鍵生成に実用するには足らない。",
"title": "性能"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号は、安全性が素因数分解問題と同値であると期待されている暗号方式であるが、本当に両者が同値であるかどうかについては分かっていない。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "素因数分解を解けるオラクルを用いれば、n から p および q が計算できるので、鍵生成と同様にして秘密鍵 d を知ることができる。即ち、RSA暗号が解読できる。従って、RSA仮定が証明できれば素因数分解問題の困難性が示せる。しかし、逆が成立するかどうかはよく分かっていない。ある条件下では否定的な結果もでている。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号が選択平文攻撃に対して完全解読できない、ということとRSA仮定とは同値である。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "RSA問題を解く方法として、現在知られている有力な方法は、素因数分解問題を解くことに使える方法だけである。素因数分解問題を解く方法として、楕円曲線法や数体篩法などのアルゴリズムが知られているが、これらの方法はどれも準指数関数時間アルゴリズムであり、多項式時間で素因数分解問題を解く方法は知られていない。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "暗号理論の世界では、多項式時間で解読することができない暗号方式を安全であると定義することがある(計算量的安全性)。この意味で、RSA暗号の安全性について、現在知られている範囲では安全であると期待されていて、その反証がないと言える。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "RSA問題や素因数分解問題はNP問題であるので、これらの問題が(決定性のある)多項式時間では解けないことが証明できれば、P≠NP予想が肯定的に解決することになる。ただし、ハミルトン閉路問題など他のNP問題(NPかつNP困難なNP完全問題を含む)が多項式時間で解けることが証明されればP=NPとなってしまう。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2004年の時点では、インターネットで公募した数多くのPCを用いると512ビット程度の数なら素因数分解できるので、RSA暗号に使用する法 n は1024-4096ビット(10進数で300-1000桁程度)にすることが推奨されている。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "しかしシャミアは、RSA問題を解くための専用装置 (TWIRL) を作成すれば、1024ビットの n に関するRSA問題ですら解くことができると主張している。また、実用的な量子コンピュータが登場した場合には、素因数分解の桁数増に対する計算時間の増加が緩やかなショアのアルゴリズム(英語版)と呼ばれる高速な量子コンピュータアルゴリズムが実行可能となるため、たとえ鍵のビット数を増やしてもRSA暗号の安全性が保証されなくなる可能性が指摘されている。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "RSA社は「RSA Factoring Challenge」を1991年から2007年まで実施し、最新の計算機環境でどの程度のビット数の整数が素因数分解可能かを調べた。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "以下は未踏",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号は選択暗号文攻撃を行なえば完全解読できる。また、RSA暗号は選択平文攻撃に対してすらindistinguishable(識別不能)ではない。よってRSA暗号は選択平文攻撃に対してnon-malleable(頑強性)でも semantic secure(強秘匿性)でもない。non-malleable と semantic secure の定義は公開鍵暗号に記されている。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号の安全性が素因数が不明な法 n での冪根を求めるのが難しい事実に基づいていることから、その最大の攻撃が素因数分解であることは明白である。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "しかし平文によっては、それ以外の攻撃方法でも暗号文から平文を入手することが可能である。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "これは公開鍵暗号全般に言えることであるが、確定的暗号であれば、例えば平文が「はい」か「いいえ」のどちらかしか有り得ないなら、それぞれを暗号化したものと暗号文とを比較すれば平文を知ることができる。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "実際の暗号への応用においては、フォーマットとして m の一部に毎回生成する乱数を挿入することで、この攻撃を回避している(復号側で乱数部分を無視するよう処理すればよい)。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "もしも平文 m が、n の e 乗根よりも小さかったら、暗号文 c = m e mod n = m e {\\displaystyle c=m^{e}\\;\\operatorname {mod} \\;n=m^{e}} となるから、通常の冪根演算によって c の e 乗根を計算するだけで平文 m が復元できてしまう。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "実際の暗号への応用においてはフォーマットの一部として、m の比較的高位のビットに1を挿入することでこの攻撃を回避している。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "法 n における e乗根が計算できれば、暗号文を復号できる。当然これは(法 n の素因数が分からない限り)非常に難しいと考えられていて、RSA暗号の安全性の重要な根拠の一つになっている。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "しかし、全く同一の平文を、異なる法において同一の e を用いて暗号化した暗号文を e 個以上集めることで、各々の法に関して中国の剰余定理を用いれば通常の冪根演算によって平文を復元できる。これが同報通信の誤用である。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ここから中国の剰余定理によって上記式を満たす、",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "を求めることができる。このとき c < n 1 n 2 n 3 ⋯ n e {\\displaystyle c<n_{1}n_{2}n_{3}\\dotsm n_{e}} であり、また m はどの法 n よりも小さいため m e < n 1 n 2 n 3 ⋯ n e {\\displaystyle m^{e}<n_{1}n_{2}n_{3}\\dotsm n_{e}} であることから、",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "この c の e 乗根を求めることで平文 m が求められる。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "これは e として特に 3 や 65537 は、2進数表示したときに 1 の個数が少ないために暗号化処理を高速化できるという理由から好んで用いられるために発生しうる問題である。実際の暗号への応用においてはフォーマットとして、m の一部に毎回生成する乱数を挿入することでこの攻撃を回避している。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号の入力は、公開鍵の法を n とすると 0 から n − 1 の範囲の整数である。n 以上の値の平文を暗号化する際には、平文を分割して処理することになる。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "この時に留意しなければならない点として、例えば、n が1024ビット(= 128バイト)であるとき、平文を同じ 1024ビット毎に分割処理するのでは十分ではないという点がある。これは、n と m が共に 1024ビットであったとしても、n < m の場合には、結果として出力されるのは、 m mod n {\\displaystyle m{\\bmod {n}}} に対応する暗号文であり、復号しても m は出力されないためである。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "平文をビット単位(やバイト単位)で分割する際には、まず、n の下限を定めた上で、平文の全ビットを 1 に(全バイトを F F 16 {\\displaystyle \\mathrm {FF_{16}} } に)しても n より小さくなるビット数(バイト数)で分割しなければならない。例えば、n の下限を n ≥ 2 1023 {\\displaystyle n\\geq 2^{1023}} とした場合、平文は 1023 ビットごとに分割する。こうすることで m < n の条件が常に満たされる。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "一方で、出力となる暗号文は 0 から n − 1 の範囲の整数になるため、先の例で(n の下限より小さいビット数)1023ビット毎に分割された m に対応する暗号文の中には、1024ビットが必要となるものがある。つまり、平文をビット単位で分割する場合には暗号化によってメッセージサイズが増加するといえる。これを回避するにはビット単位で分割するのではなく、平文 m を n 進数表示したときの各桁毎に分割すればよい。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号方式は、",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "などの脆弱性があり、RSA暗号方式をそのまま利用することは好ましくない。このため、実際のRSA暗号の実装では、暗号化する前に適切なパディングを行っている。代表的なパディングとしてOAEPがあり、公開鍵暗号標準であるPKCS#1(バージョン1.5以降)もこれを採用している。OAEPは確率的なパディングであり、すなわち、元の平文が同じであっても、パディングされた平文は時によって異なる(ランダムに選ばれた値に依存)。",
"title": "安全性"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "OAEPパディングとRSA暗号の併用をRSA_OAEPと呼ぶことがある(これに対して、パディング処理を行わない素のRSA暗号方式を生RSA、教科書的RSAということがある)。RSA_OAEPは、公開鍵暗号における最も高い安全性である「適応的選択暗号文攻撃に対する識別不可能性」を持つことが示されている。",
"title": "安全性"
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "RSA暗号が実現した公開鍵暗号方式は、従来の暗号方式(共通鍵暗号)とは異なり、暗号化は公開鍵を使って誰でもできるが、復号は秘密鍵を持つ本人だけしかできない方式である。この復号は「本人だけしかできない」という性質を利用すると、デジタル署名(あるいは認証機能)が実現できる。",
"title": "デジタル署名方式への応用"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "そのためには、公開鍵・秘密鍵を次のように使用する。",
"title": "デジタル署名方式への応用"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "公開鍵と秘密鍵の役割は通常の場合においては上記の通り、公開鍵は暗号化に使われ、秘密鍵は復号に用いられるが、RSA暗号においては平文と暗号文の定義域が同じ(平文空間=暗号文空間である)ため、任意の文書(メッセージ)を暗号文とみなして復号することができる。つまり秘密鍵を用いて任意の文書について署名値を生成でき、公開鍵を用いてその署名値を暗号化して元の文書と一致するかを調べることで署名の検証ができる。",
"title": "デジタル署名方式への応用"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ただし、RSA暗号と同様に、生RSAでは、署名の潜在的偽造等の好ましくない性質があるため、パディングなどが必要である。また、暗号文空間よりも大きなメッセージを扱うためにハッシュ関数と組み合わせて使用する。",
"title": "デジタル署名方式への応用"
},
{
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"tag": "p",
"text": "このようなパディングなども含めたものとして、",
"title": "デジタル署名方式への応用"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "などがある。",
"title": "デジタル署名方式への応用"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1977年、マーティン・ガードナーがコラムを連載していたサイエンティフィック・アメリカン誌に129桁の法 n と公開指数 e = 9007 を使ったRSA方式で暗号化されたメッセージを掲載した。解読が成功した者にマサチューセッツ工科大学から100米ドルを与えるという懸賞金問題だった。当時、解読には4京年(40×10年)は必要だろうと予測されていた。掲載から16年後に、オックスフォード大学ポール・レイランド(英語版)、アイオワ州立大学マイケル・グラフ、マサチューセッツ工科大学デレク・アトキンス、アリエン・レンストラ(英語版)らが、インターネット上で(南極大陸を除くすべての大陸から20か国以上の)約600名のボランティアの協力を得て、二次ふるい法によってRSA-129に対する大規模攻撃を開始した。8か月で800万以上の下位問題が解かれ、得られた50万行50万列以上の疎行列から188614行188160列の行列による連立方程式を作った。これをスーパーコンピュータMP-1で45時間をかけて構造的ガウスの消去法によって解き、解読に成功した(1994年4月)。答えは“The magic words are squeamish ossifrage”[ossifrage(ヒゲワシ)はラテン語で「骨を折る者」の意。ロナルド・リベストによると暗号の答えはランダムで決められた。]",
"title": "デジタル署名方式への応用"
},
{
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"tag": "p",
"text": "RSA暗号をサポートしているライブラリは以下の通り。",
"title": "実装ライブラリ"
}
] |
RSA暗号(RSAあんごう)とは、桁数が大きい合成数の素因数分解が現実的な時間内で困難であると信じられていることを安全性の根拠とした公開鍵暗号の一つである。暗号とデジタル署名を実現できる方式として最初に公開されたものである。
|
{{出典の明記|date=2017-03}}
{{Infobox Encryption method
|name = RSA
|designers = [[ロナルド・リベスト]]、[[アディ・シャミア]]、[[レオナルド・エーデルマン]]
|publish date = 1977
|type = 公開鍵
|derived from =
|derived to =
|related to =
|certification = [[PKCS|PKCS#1]], [[ANSI X9.31]], [[P1363|IEEE 1363]]
|key size =1,024 to 4,096 bit typical
|block size =
|structure =
|rounds = 1
|cryptanalysis = 829 bit key (RSA-250)は解読済み
}}
'''RSA暗号'''(RSAあんごう)とは、桁数が大きい[[合成数]]の[[素因数分解]]が現実的な時間内で困難であると信じられていることを安全性の根拠とした[[公開鍵暗号]]の一つである。<!-- 素因数分解問題はNP困難とは予想されていない -->[[暗号]]<ref>{{lang-en-short|cipher}}</ref>と[[デジタル署名]]を実現できる方式として最初に公開されたものである。<!-- RSA以前に同方式は発明されていたが、公開されなかった。 -->
== 概要 ==
RSA暗号方式は、[[1977年]]に発明され、発明者である[[ロナルド・リベスト]]、[[アディ・シャミア]]、[[レオナルド・エーデルマン]]の原語表記の頭文字をつなげてこのように呼ばれる<ref name=スチュアート2010>{{Cite book|和書 |author=イアン・スチュアート |authorlink=イアン・スチュアート |year=2010 |title=数学の魔法の宝箱 |publisher=ソフトバンク クリエイティブ |chapter=おおっぴらにできる暗号 |isbn=978-4-7973-5982-4}}</ref>{{Rp|page=63}}。前年(1976年)に[[ホイットフィールド・ディフィー|ディフィー]]と[[マーティン・ヘルマン|ヘルマン]]によって発表されたばかりの公開鍵暗号という新しい[[概念]]に対し、[[秘匿]]や[[認証#認証 (セキュリティ)|認証]]を実現できる具体的な[[アルゴリズム]]を与えた。発明者3氏は、この功績によって[[2002年]]の[[チューリング賞]]を受賞した。この暗号は[[フェルマーの小定理]]に基づいている<ref name=スチュアート2010 />{{要ページ番号|date=2023年10月}}。
RSA暗号は次のような方式である。
鍵のペア([[公開鍵#鍵の種類|公開鍵と秘密鍵]])を作成して公開鍵を公開する。まず<ref>[[PKCS]]#1ではe、p、qの選択順序を規定しておらず、それらの満たすべき属性や互いの関係について記載している。</ref>、適当な {{mvar|λ}}<ref>[[カーマイケルのλ関数]]でなく、[[オイラーのφ関数]]で書く説明の流儀もあるが、どちらの関数値で算出しても、RSAの鍵としては等価になる。</ref> と[[互いに素 (整数論)|互いに素]]な正整数 {{mvar|e}} を選択する<ref>[[X.509]]勧告v1のAnnex C.7では、固定のeとして[[ピエール・ド・フェルマー|フェルマー]]のF<sub>4</sub>すなわち[[65537]]にある利点の記載がある。</ref>。また、大きな2つ<ref>PKCS#1では2つ'''以上'''の素数だが、簡単のため当記事では2つの素数で説明している。</ref>の[[素数]]の組 {{math2|{{mset|''p'', ''q''}}}} <ref>pとqが同一だと[[開平法|開平]]でnを素因数分解できるので、たいていpとqは違う値にする。CA/Browser ForumのBaseline Requrementsでは素数の累乗を非推奨にしている。pとqの異なるばあい、pとqの順序は任意である。</ref>を生成し、それらの積 {{math2|1=''n'' (= ''pq'')}} を求めて、{{mvar|e}} と {{mvar|n}} を平文の暗号化に使用する公開鍵とし、{{mvar|n}} を[[整数の合同#法 n に関する合同|法]](モジュラス)、{{mvar|e}} を公開指数という。素数の組 {{math2|{{mset|''p'', ''q''}}}} から暗号文の復号に使用する秘密鍵 {{mvar|d}} を生成し、{{mvar|d}} を私有指数という。すなわち {{math2|''d'' {{=}} ''e''{{sup|−1}} mod ''λ''}} となるような {{math2|{{mset|''p'', ''q''}}}} をとる。{{math2|''d''}} の生成後、{{mvar|λ}} も {{mvar|p}} も {{mvar|q}} も捨ててよい。ただしここで {{math2|''λ'' {{=}} lcm(''p'' − 1, ''q'' − 1)}}<ref>(p-1)*(q-1)とする説明の流儀もあるが、どちらで算出しても、RSAの鍵としては等価になる。</ref>。式中の {{math2|mod}} は[[剰余演算]]を表し、{{mvar|d}} は {{mvar|λ}} を法とする {{mvar|e}} の[[モジュラ逆数]]であり、{{math2|lcm}} は[[最小公倍数]]である。
* 暗号化([[平文]] {{mvar|m}} から暗号文 {{mvar|c}} を作成する):{{math2|''c'' {{=}} ''m''{{sup|''e''}} mod ''n''}}
* 復号(暗号文 {{mvar|c}} から元の平文 {{mvar|m}} を得る):{{math2|''m'' {{=}} ''c''{{sup|''d''}} mod ''n''}}
暗号化({{mvar|e}} 乗)は公開鍵 {{math2|{{mset|''e'', ''n''}}}} があれば容易に計算でき、復号({{mvar|d}} 乗)は秘密鍵 {{mvar|d}} と公開鍵 {{mvar|n}} があれば容易に計算できる。しかし、秘密鍵 {{mvar|d}} を知らずに解読する(法 {{mvar|n}} の下で {{mvar|e}} 乗根を計算する)のは、「{{mvar|n}} の素因数を知らないと難しい(大きい合成数の素因数分解も難しい)」と考えられている。つまり、「秘密鍵を用いずに暗号文から平文を得ることは難しい」と信じられている。これがRSA暗号の安全性の根拠である。
RSA暗号のアルゴリズムは、[[1983年]][[9月20日]]に[[アメリカ合衆国]]で[[特許]](4,405,829号)を取得し、[[RSA Security]] 社がライセンスを独占していたが、特許期間満了に伴って[[2000年]][[9月6日]]からは誰でも自由に使用できるようになった。
暗号の用語については[[暗号#用語]]、[[暗号理論#用語]]を参照。
== 歴史 ==
歴史的見解を正すのであれば、暗号に革命を起こしたこの理論の最初の発案者は{{仮リンク|ジェイムズ・エリス|en|James H. Ellis}}である。彼らはイギリス最高機密機関・英国[[政府通信本部]] (GCHQ) の職員であり、その独創的な先見の明は内部文書として長い間公開されなかった。また実用にはコンピュータの性能等から機が熟していなかった。以下はその概要である。
エリスは1969年にこの理論を発見しているが、専門の[[数学者]]ではなかったため、具体的な方法を発見できなかった。幾人ものGCHQの優秀な数学者が挑戦したが、具体的な方法を提示することはできなかった。1973年、'''突拍子もない暗号のアイデア'''としてエリスの「一方向関数(非対称性鍵の概念)・公開鍵」を用いた暗号論の話を聞かされ、わずか30分程度で[[剰余演算|モジュラー算術]]と素因数を用いた具体的な方法を考案したのは、GCHQ所属の若き数学者{{仮リンク|クリフォード・コックス|en|Clifford Cocks}}である(コックスは上記のリベストの計算式と同じものを発見した)。しかしエリスとコックスの業績は機密事項とされたため、1997年までは世に知られることはなかった<ref name=スチュアート2010></ref>{{Rp|page=66}}。
== 暗号方式 ==
[[鍵 (暗号)|鍵生成]]、[[暗号化]]、[[復号]]の3つのアルゴリズムで定義される。
=== 鍵生成 ===
{{math2|''p'', ''q''}} を異なる2つの素数とし {{math2|1=''n'' = ''pq''}} とし {{math2|''λ''(''n'') {{=}} (''p'' − 1)(''q'' − 1)}} とする。{{mvar|e}} を {{math2|''λ''(''n'')}} と素な正整数とすると {{math2|''α'' ⋅ ''e'' + ''β'' ⋅ ''λ''(''n'') {{=}} 1}} となる2整数 {{math2|''α'', ''β''}} が存在する<ref>このような2整数は、[[ユークリッドの互除法#拡張された互除法|拡張ユークリッド互除法]]で簡単に見つけることができる。</ref>。{{mvar|α}} として1つの正整数 {{mvar|d}} を選択してそのときの {{mvar|β}} を {{math2|−''x''}} とすると {{math2|''d'' ⋅ ''e'' {{=}} ''x'' ⋅ ''λ''(''n'') + 1}} となる。ここで {{mvar|d}} を秘密鍵とし、{{mvar|n}} と {{mvar|e}} を公開鍵とする。
ここで、{{math2|''α'' ⋅ ''e'' + ''β'' ⋅ ''λ''(''n'') {{=}} 1}} のとき {{mvar|i}} を整数とすると {{math2|(''α'' + ''i'' ⋅ ''λ''(''n'')) ⋅ ''e'' + (''β'' − ''i'' ⋅ ''e'') ⋅ ''λ''(''n'') {{=}} 1}} であるから {{mvar|α}} に {{math2|''λ''(''n'')}} の整数倍を加えたものも改めて {{mvar|α}} とできるため、{{mvar|α}} として正整数 {{mvar|d}} を選択できるとした。
以下 {{math2|ℤ{{sub|''n''}}}} を {{math|0}} 以上 {{mvar|n}} 未満の整数の[[集合]]とする。
=== 暗号化 ===
{{math2|''a'' ∈ ℤ{{sub|''n''}}}} とし {{mvar|a}} を暗号化対象の平文とする。{{math2|''b'' {{=}} ''a''{{sup|''e''}} mod ''n'' ∈ ℤ{{sub|''n''}}}} を計算し、{{mvar|b}} を 平文 {{mvar|a}} の[[暗号文]]とする。
=== 復号 ===
{{math2|''a''′ {{=}} ''b''{{sup|''d''}} mod ''n'' ∈ ℤ{{sub|''n''}}}} を計算する。すると {{math2|''a''′ {{=}} ''a''}} となり {{math|''a''′}} は 平文 {{mvar|a}} の暗号文 {{mvar|b}} の復号文となる。
=== 完全性の証明 ===
定義により以下が成立する。
:<math>a' \equiv a^{(d \cdot e)} \pmod{n} = a^{(x\cdot\lambda(n)+1)} = (a^{\lambda(n)})^x \cdot a</math>
これにより以下も成立する。
:<math>\begin{align}
a' \equiv (a^{\lambda(n)})^x \cdot a \pmod{p} \\
a' \equiv (a^{\lambda(n)})^x \cdot a \pmod{q}
\end{align}</math>
{{mvar|a}} が {{mvar|n}} と互いに素な整数のときは {{mvar|a}} が2つの素数 {{math2|''p'', ''q''}} のそれぞれと互いに素であるから
[[フェルマーの小定理]] により <math>a^{p-1} \equiv 1 \pmod{p}</math> かつ <math>a^{q-1} \equiv 1 \pmod{q}</math> であり
:<math>\begin{align}
a^{\lambda(n)} = (a^{p-1})^{q-1} \equiv 1^{(q-1)} \pmod{p} = 1 \\
a^{\lambda(n)} = (a^{q-1})^{p-1} \equiv 1^{(p-1)} \pmod{q} = 1
\end{align}</math>
よって <math>(a^{\lambda(n)}-1)</math> は {{math2|''p'', ''q''}} で割り切れるから <math>a^{\lambda(n)} \equiv 1 \pmod{n}</math> となり
:<math>a' \equiv (a^{\lambda(n)})^x \cdot a \pmod{n} \equiv 1^x \cdot a \pmod{n} = a</math>
となるが、<math>a,a' \in \mathbb Z_n</math> であるから
:<math>a'=a</math>
となる。
<math>\gcd(n,a) = p</math> であり、<math>a \in \mathbb Z_n - \{0\}</math> のときは、{{mvar|a}} は {{math2|''q'' − 1}} 個の整数からなる[[集合]] <math>\{1 \cdot p,2 \cdot p,3 \cdot p, \cdots, (q-1) \cdot p\}</math> の元であって、{{mvar|a}} が {{mvar|p}} で割り切れるから <math>a \equiv 0 \pmod{p}</math> であり、{{math2|''a'', ''q''}} が素であるから[[フェルマーの小定理]]により <math>a^{q-1} \equiv 1 \pmod{q}</math> であり
:<math>a^{\lambda(n)} = (a^{q-1})^{p-1} \equiv 1^{(p-1)} \pmod{q} = 1</math>
よって
:<math>\begin{align}
a' \equiv (a^{\lambda(n)})^x \cdot a \pmod{p} \equiv (a^{\lambda(n)})^x \cdot 0 \pmod{p} = 0 \\
a' \equiv (a^{\lambda(n)})^x \cdot a \pmod{q} \equiv 1^x \cdot a \pmod{q} = a
\end{align}</math>
よって
:<math>\begin{align}
a' \equiv 0 \pmod{p} \equiv a \pmod{p} \\
a' \equiv a \pmod{q}
\end{align}</math>
よって {{math2|''a''' − ''a''}} は {{math2|''p'', ''q''}} で割り切れるから
:<math>a' \equiv a \pmod{n}</math>
となるが、<math>a,a' \in \mathbb Z_n</math> であるから
:<math>a'=a</math>
となる。
<math>\gcd(n,a) = q</math> であり <math>a \in \mathbb Z_n - \{0\}</math> のときについても同様に {{math2|1=''a''' = ''a''}} となる。
{{math2|1=''a'' = 0}} のときは <math>b \in \{z \in \mathbb Z_n\mid z \equiv 0^e\pmod{n} \}=\{0\}</math> であるから {{math2|1=''b'' = 0}} であり、<math>a' \in \{z \in \mathbb Z_n\mid z \equiv 0^d\pmod{n} \}=\{0\}</math> であるから {{math2|1=''a''' = 0}} である。つまり {{math2|1=''a''′ = ''a'' = 0}} である。
以上何れにしても {{math2|1=''a''' = ''a''}} が成り立ち、平文 {{mvar|a}} の 暗号文 {{mvar|b}} は 秘密鍵 {{mvar|d}} と公開鍵の一つ {{mvar|n}} を用いて平文 {{mvar|a}} に復号できることが分かる。
== 性能 ==
=== ''n'' を法とする冪剰余の計算 ===
{{記事参照|冪剰余}}
セキュリティパラメータが1024の場合、{{mvar|n}} は1024ビットという大きな桁数の数となり、{{mvar|d}} も {{mvar|n}} とほぼ同じ桁数の数となる。<math>a = b^d \bmod n</math> を計算するには、[[冪乗#効率的な演算法|バイナリ法]]というアルゴリズムを用いると、剰余乗算 (<math>1024\mathrm {bit} \times 1024\mathrm{bit}</math>) を、1500回程繰り返すことで実現できる。これには相当の計算時間を要するため、[[中国の剰余定理]]を用いて、
:<math>\begin{align}
ap &= b^{d \bmod \lambda(p)} \bmod p \\
aq &= b^{d \bmod \lambda(q)} \bmod q \\
a' &= ap (q^{-1} \bmod p) q + aq (p^{-1} \bmod q) p
\end{align}</math>
として求めることがある。
=== 素数生成 ===
桁数が大きい場合、確実に素数であると保証できる整数を見つけることは容易ではない。このため実際には、素数であるとは断言できないものの、素数である可能性が非常に高い自然数を用いる。こういった自然数の生成は[[ミラー–ラビン素数判定法|Miller–Rabinテスト]]などの[[素数判定#確率的素数判定法|確率的素数判定法]]によって高速に行える。確率的素数判定法をパスした自然数を[[確率的素数]] (probable prime) という。確率的素数には、素数の他に[[フェルマーの小定理#フェルマーテスト|擬素数]]が含まれるが、その確率は判定回数を増やすことで極めて低くすることができる(なお、拡張[[リーマン予想]]が正しければ、Miller–Rabinテストは素数かどうかを正しく判定する、という事実が知られている{{要出典|date=2023年10月}})。<!-- MRテストにはいくつか変形があるので補足が必要な気がする -->
2002年8月、[[インド工科大学]] のアグラワルらが素数判定を[[多項式時間]]で行う[[AKS素数判定法]]を発表した{{要出典|date=2023年10月}}が、これは多項式の次数が高すぎて遅いので未だRSAの鍵生成に実用するには足らない。
== 安全性 ==
=== RSA暗号と素因数分解問題の関係 ===
RSA暗号は、安全性が素因数分解問題と[[同値]]であると期待されている暗号方式であるが、本当に両者が同値であるかどうかについては分かっていない。
素因数分解を解ける[[オラクル (曖昧さ回避)|オラクル]]を用いれば、{{mvar|n}} から {{mvar|p}} および {{mvar|q}} が計算できるので、鍵生成と同様にして秘密鍵 {{mvar|d}} を知ることができる。即ち、RSA暗号が解読できる。従って、RSA仮定が証明できれば素因数分解問題の困難性が示せる。しかし、逆が成立するかどうかはよく分かっていない。ある条件下では否定的な結果もでている。<!-- RSA-P→IFP なのでは? --><!-- 逆なので直しました -->
RSA暗号が[[選択平文攻撃]]に対して完全解読できない、ということと[[RSA仮定]]とは同値である。
[[RSA問題]]を解く方法として、現在知られている有力な方法は、素因数分解問題を解くことに使える方法だけである。素因数分解問題を解く方法として、[[楕円曲線法]]や[[数体篩法]]などのアルゴリズムが知られているが、これらの方法はどれも準[[指数関数時間]]アルゴリズムであり、[[多項式時間]]で素因数分解問題を解く方法は知られていない。
[[暗号理論]]の世界では、多項式時間で解読することができない暗号方式を安全であると定義することがある(計算量的安全性)。この意味で、RSA暗号の安全性について、現在知られている範囲では安全であると期待されていて、その反証がないと言える。
RSA問題や素因数分解問題は[[NP]]問題であるので、これらの問題が(決定性のある)多項式時間では解けないことが証明できれば、[[P≠NP予想]]が肯定的に解決することになる。<!-- 確認? --><!-- 解決されます -->ただし、[[ハミルトン閉路問題]]など他のNP問題(NPかつ[[NP困難]]な[[NP完全]]問題を含む)が多項式時間で解けることが証明されればP=NPとなってしまう。
=== 素因数分解可能な範囲 ===
2004年の時点では、インターネットで公募した数多くのPCを用いると512ビット程度の数なら素因数分解できるので、RSA暗号に使用する法 {{mvar|n}} は1024-4096ビット(10進数で300-1000桁程度)にすることが推奨されている。
しかしシャミアは、RSA問題を解くための専用装置 (''TWIRL'') を作成すれば、1024ビットの {{mvar|n}} に関するRSA問題ですら解くことができると主張している。また、実用的な[[量子コンピュータ]]が登場した場合には、素因数分解の桁数増に対する計算時間の増加が緩やかな{{ill|ショアのアルゴリズム|en|Shor's algorithm}}と呼ばれる高速な量子コンピュータアルゴリズムが実行可能となるため、たとえ鍵のビット数を増やしてもRSA暗号の安全性が保証されなくなる可能性が指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01191/012900001/ |title=量子コンピューターが暗号技術を「破壊」する?その真偽を検証してみた |work=日経xTECH |date=2020-01-30 |accessdate=2022-09-21}}</ref>。
==== RSA暗号解読コンテスト ====
RSA社は「[[:en:RSA Factoring Challenge|RSA Factoring Challenge]]」を1991年から2007年まで実施し、最新の計算機環境でどの程度のビット数の整数が素因数分解可能かを調べた。
* 1991年4月1日 RSA-100 (330ビット)
* 1992年4月14日 RSA-110 (364ビット)
* 1993年6月9日 RSA-120 (397ビット)
* 1994年4月26日 RSA-129 (426ビット)
* 1996年4月10日 RSA-130 (430ビット)
* 1999年2月2日 RSA-140 (463ビット)
* 2004年4月16日 RSA-150 (496ビット)
* 1999年8月22日 RSA-155 (512ビット)
* 2003年4月1日 RSA-160 (530ビット)
* 2009年12月29日 RSA-170 (563ビット)
* 2003年12月3日 RSA-576 (576ビット、10進174桁)
* 2010年5月8日 RSA-180 (596ビット)
* 2010年11月8日 RSA-190 (629ビット)
* 2005年11月2日 RSA-640 (640ビット)
* 2005年5月9日 RSA-200 (663ビット、10進200桁)
* 2013年9月26日 RSA-210 (696ビット、10進210桁)
* 2012年7月2日 RSA-704 (704ビット)
* 2016年5月13日 RSA-220 (729ビット)
* 2018年8月15日 RSA-230 (762ビット)
* 2020年2月17日 RSA-232 (768ビット)
* 2009年12月12日 RSA-768 (768ビット)
* 2019年12月2日 RSA-240 (795ビット)
* 2020年2月28日 RSA-250 (829ビット)
以下は未踏
* RSA-896
* RSA-1024
* RSA-1536
* RSA-2048
=== RSA暗号の性質 ===
RSA暗号は[[選択暗号文攻撃]]を行なえば完全解読できる。また、RSA暗号は[[選択平文攻撃]]に対してすら[[indistinguishable]](識別不能)ではない。よってRSA暗号は[[選択平文攻撃]]に対してnon-malleable([[頑強性]])でも semantic secure([[強秘匿性]])でもない。{{lang|en|non-malleable}} と {{lang|en|semantic secure}} の定義は[[公開鍵暗号]]に記されている。
=== RSA暗号の誤用 ===
==== 特殊な(誤った)応用 ====
; 共通の法 {{mvar|n}}
: ユーザー管理等の利便性や素数探索の労を避けるため、法である {{mvar|n}} を共通として各々に個別の {{mvar|e}} と {{mvar|d}} を与えるのは誤りである。もしも法 {{mvar|n}} とそれに対応する {{mvar|e}} と {{mvar|d}} の組を一つでも知ることができれば、法 {{mvar|n}} の[[素因数分解]]が容易となり安全ではなくなるからである。
; 同報通信
: '''全く同一の平文'''を複数の送信先へ各々の公開鍵で暗号化して同報通信するには適していない。同じ {{mvar|e}} を持つ公開鍵([[ハミング重み]] {{math2|1=''HW'' = 2}} である {{math|3}} や {{math|65537}} が好んで用いられる)で暗号化された {{mvar|e}} 個以上の暗号文を手に入れたなら各々の公開鍵の法に関して[[中国の剰余定理]]を用いることで、通常の[[冪根]]によって平文を復元できるからである。詳しくは下記の同一平文を参照のこと。
: このため、現在規格化されている暗号への応用においては、パディングとして毎回[[乱数]]を生成して挿入するなどの対策がされている。
{{節スタブ}}
=== 脆弱な平文 ===
RSA暗号の安全性が素因数が不明な法 {{mvar|n}} での[[冪根]]を求めるのが難しい事実に基づいていることから、その最大の攻撃が[[素因数分解]]であることは明白である。
しかし平文によっては、それ以外の攻撃方法でも暗号文から平文を入手することが可能である。
==== 決まりきった平文 ====
これは[[公開鍵暗号]]全般に言えることであるが、確定的暗号であれば、例えば平文が「はい」か「いいえ」のどちらかしか有り得ないなら、それぞれを暗号化したものと暗号文とを比較すれば平文を知ることができる。
実際の暗号への応用においては、フォーマットとして {{mvar|m}} の一部に毎回生成する[[乱数]]を挿入することで、この攻撃を回避している(復号側で乱数部分を無視するよう処理すればよい)。
==== 小さな''m'' ====
もしも平文 {{mvar|m}} が、{{mvar|n}} の {{mvar|e}} 乗根よりも小さかったら、暗号文 <math>c = m^e \; \operatorname{mod}\; n = m^e</math> となるから、通常の[[冪根]]演算によって {{mvar|c}} の {{mvar|e}} 乗根を計算するだけで平文 {{mvar|m}} が復元できてしまう。
実際の暗号への応用においてはフォーマットの一部として、{{mvar|m}} の比較的高位の[[ビット]]に1を挿入することでこの攻撃を回避している。
==== 同一平文 ====
法 {{mvar|n}} における {{mvar|e}}乗根が計算できれば、暗号文を復号できる。当然これは(法 {{mvar|n}} の素因数が分からない限り)非常に難しいと考えられていて、RSA暗号の安全性の重要な根拠の一つになっている。
しかし、全く同一の平文を、異なる法において同一の {{mvar|e}} を用いて暗号化した暗号文を {{mvar|e}} 個以上集めることで、各々の法に関して[[中国の剰余定理]]を用いれば通常の[[冪根]]演算によって平文を復元できる。これが同報通信の誤用である。
:<math>\begin{align}
c_1 &\equiv m^e \pmod{n_1} \\
c_2 &\equiv m^e \pmod{n_2} \\
c_3 &\equiv m^e \pmod{n_3} \\
\\
c_e &\equiv m^e \pmod{n_e}
\end{align}</math>
ここから[[中国の剰余定理]]によって上記式を満たす、
:<math>c \equiv m^e \pmod{n_1 n_2 n_3 \dotsm n_e}</math>
を求めることができる。このとき <math>c < n_1 n_2 n_3 \dotsm n_e</math> であり、また {{mvar|m}} はどの法 {{mvar|n}} よりも小さいため <math>m^e < n_1 n_2 n_3 \dotsm n_e</math> であることから、
:<math>c = m^e</math>
この {{mvar|c}} の {{mvar|e}} 乗根を求めることで平文 {{mvar|m}} が求められる。
これは {{mvar|e}} として特に {{math|3}} や {{math|65537}} は、{{math|2}}進数表示したときに {{math|1}} の個数が少ない<!--素数である上に小さい-->ために暗号化処理を高速化できるという理由から好んで用いられるために発生しうる問題である。実際の暗号への応用においてはフォーマットとして、{{mvar|m}} の一部に毎回生成する[[乱数]]を挿入することでこの攻撃を回避している。
=== その他 ===
RSA暗号の入力は、公開鍵の法を {{mvar|n}} とすると {{math|0}} から {{math2|''n'' − 1}} の範囲の整数である。{{mvar|n}} 以上の値の平文を暗号化する際には、平文を分割して処理することになる。
この時に留意しなければならない点として、例えば、{{mvar|n}} が{{math|1024}}[[ビット]]({{math2|1== 128}}[[バイト (情報)|バイト]])であるとき、平文を同じ {{math|1024}}ビット毎に分割処理するのでは十分ではないという点がある。これは、{{mvar|n}} と {{mvar|m}} が共に {{math|1024}}ビットであったとしても、{{math2|''n'' < ''m''}} の場合には、結果として出力されるのは、<math>m \bmod n</math> に対応する暗号文であり、復号しても {{mvar|m}} は出力されないためである。
平文をビット単位(やバイト単位)で分割する際には、まず、{{mvar|n}} の下限を定めた上で、平文の全ビットを {{math|1}} に(全バイトを <math>\mathrm{FF_{16}}</math> に)しても {{mvar|n}} より小さくなるビット数(バイト数)で分割しなければならない。例えば、{{mvar|n}} の下限を <math>n\geq 2^{1023}</math> とした場合、平文は {{math|1023}} ビットごとに分割する。こうすることで {{math2|''m'' < ''n''}} の条件が常に満たされる。
一方で、出力となる暗号文は {{math|0}} から {{math|''n'' − 1}} の範囲の整数になるため、先の例で({{mvar|n}} の下限より小さいビット数){{math|1023}}ビット毎に分割された {{mvar|m}} に対応する暗号文の中には、{{math|1024}}ビットが必要となるものがある。つまり、平文をビット単位で分割する場合には暗号化によってメッセージサイズが増加するといえる。これを回避するにはビット単位で分割するのではなく、平文 {{mvar|m}} を {{mvar|n}} 進数表示したときの各桁毎に分割すればよい。<!--
;書いてみたが不必要と感じたのでコメントアウト
RSA暗号を安全に利用するためには、メッセージに乱数を付加してパディングする必要があり、平文のサイズは {{mvar|n}} のサイズよりもずっと少ない。PKCS#1 v2.1では、SHA1を用いたRSAES-OAEPの場合には、鍵長が {{math|1024}}ビット({{math2|1==128}}バイト)のとき、平文のサイズは{{math|86}}バイトと定めされている。-->
=== パディング ===
RSA暗号方式は、
* 平文が小さいと、暗号文から平文が容易に計算できてしまう、
* 暗号文を分解して、個々の暗号文に対応する平文を入手できる(選択暗号文攻撃)と、元の暗号文に対応する平文を求めることができてしまう、
* 攻撃者が暗号文を変形して、平文自体を知ることはできないが、平文を変形できてしまう(非展性がない)、
などの脆弱性があり、RSA暗号方式をそのまま利用することは好ましくない。このため、実際のRSA暗号の実装では、暗号化する前に適切なパディングを行っている。代表的なパディングとして[[Optimal Asymmetric Encryption Padding|OAEP]]があり、公開鍵暗号標準である[[PKCS]]#1(バージョン1.5以降)もこれを採用している。OAEPは確率的なパディングであり、すなわち、元の平文が同じであっても、パディングされた平文は時によって異なる(ランダムに選ばれた値に依存)。
OAEPパディングとRSA暗号の併用をRSA_OAEPと呼ぶことがある(これに対して、パディング処理を行わない素のRSA暗号方式を生RSA、教科書的RSAということがある)。RSA_OAEPは、公開鍵暗号における最も高い安全性である「適応的選択暗号文攻撃に対する識別不可能性」を持つことが示されている<ref>{{Citation |author1=藤崎英一郎 |author2=岡本龍明 |first3=David |last3=Pointcheval |first4=Jacques |last4=Stern |contribution=RSA-OAEP is secure under the RSA assumption |url= http://eprint.iacr.org/2000/061.pdf |title=Advances in Cryptology — CRYPTO 2001 |volume=2139 |pages=260-274 |journal=Lecture Notes in Computer Science |publisher=Springer-Verlag |year=2001}}</ref>。
== デジタル署名方式への応用 ==
=== RSA署名 ===
RSA暗号が実現した公開鍵暗号方式は、従来の暗号方式(共通鍵暗号)とは異なり、暗号化は公開鍵を使って誰でもできるが、復号は秘密鍵を持つ本人だけしかできない方式である。この復号は「本人だけしかできない」という性質を利用すると、[[デジタル署名]](あるいは認証機能)が実現できる。
そのためには、公開鍵・秘密鍵を次のように使用する。
* 暗号の場合
*: 平文 → 公開鍵(暗号化)→ 暗号文、暗号文→ 秘密鍵(復号)→ 平文
* 署名の場合
*: 文書 → 秘密鍵(署名生成)→ 署名値、署名値→ 公開鍵(署名検証)→ 文書
公開鍵と秘密鍵の役割は通常の場合においては上記の通り、公開鍵は暗号化に使われ、秘密鍵は復号に用いられるが、RSA暗号においては平文と暗号文の定義域が同じ(平文空間=暗号文空間である)ため、任意の文書(メッセージ)を暗号文とみなして復号することができる。つまり秘密鍵を用いて任意の文書について署名値を生成でき、公開鍵を用いてその署名値を''暗号化''して元の文書と一致するかを調べることで署名の検証ができる。
ただし、RSA暗号と同様に、生RSAでは、署名の潜在的偽造等の好ましくない性質があるため、パディングなどが必要である。また、暗号文空間よりも大きなメッセージを扱うために[[ハッシュ関数]]と組み合わせて使用する。
このようなパディングなども含めたものとして、
* RSA_PSS with SHA-1
などがある。
=== RSA-129 ===
[[1977年]]、[[マーティン・ガードナー]]がコラムを連載していた[[サイエンティフィック・アメリカン]]誌に129桁の法 {{mvar|n}} と公開指数 {{math2|1=''e'' = 9007}} を使ったRSA方式で暗号化されたメッセージを掲載した<ref name="Gardner.1977">{{Cite journal|last=Gardner|first=Martin|title=Mathematical Games, August 1977|url=http://simson.net/ref/1977/Gardner_RSA.pdf|journal=Scientific American|volume=237|issue=2|pages=120–124|doi=10.1038/scientificamerican0877-120|year=1977}}</ref>。解読が成功した者に[[マサチューセッツ工科大学]]から100[[米ドル]]を与えるという懸賞金問題だった{{R|Gardner.1977}}。当時、解読には4京年(40×10<sup>15</sup>年)は必要だろうと予測されていた{{R|Gardner.1977}}。掲載から16年後に、[[オックスフォード大学]]{{仮リンク|ポール・レイランド|en|Paul Leyland}}、[[アイオワ州立大学]]マイケル・グラフ、マサチューセッツ工科大学デレク・アトキンス、{{仮リンク|アリエン・レンストラ|en|Arjen Lenstra}}らが、インターネット上で(南極大陸を除くすべての大陸から20か国以上の)約600名の[[ボランティア]]の協力を得て、二次ふるい法によってRSA-129に対する大規模攻撃を開始した。8か月で800万以上の下位問題が解かれ、得られた50万行50万列以上の[[疎行列]]から188614行188160列の[[行列 (数学)|行列]]による[[連立方程式]]を作った。これをスーパーコンピュータMP-1で45時間をかけて構造的[[ガウスの消去法]]によって解き、解読に成功した(1994年4月)<ref>{{Cite news |author=Derek Atkins |title=RSA-129 |newspaper=sci.math, sci.crypt, alt.security etc. |publisher=Internet news |date=1994-04-27 |url=https://ns1.omnitech.net/data//Books/Math/94/ras129.ans |accessdate=2020-12-10}}</ref>。答えは“<code {{lang属性|en}}>The magic words are squeamish ossifrage</code>”[ossifrage([[ヒゲワシ]])は[[ラテン]]語で「骨を折る者」の意。[[ロナルド・リベスト]]によると暗号の答えは[[ランダム]]で決められた。<ref>{{cite web|url=http://bit-player.org/wp-content/extras/bph-publications/AmSci-1994-07-Hayes-RSA-129.pdf|title=The Magic Words are Squeamish Ossifrage|date=July 1994|publisher=Advances in Cryptology - ASIACRYPT'94|last1=Hayes|first1=Brian|accessdate=28 September 2015}}</ref>]
== 実装ライブラリ ==
RSA暗号をサポートしているライブラリは以下の通り。
* [[Botan]]
* [[:en:Bouncy_Castle_(cryptography)|Bouncy Castle]]
* [[:en:Cryptlib|cryptlib]]
* [[:en:Crypto++|Crypto++]]
* [[:en:Libgcrypt|Libgcrypt]]
* [[:en:Nettle_(cryptographic_library)|Nettle]]
* [[OpenSSL]]
* [[wolfCrypt]]
* [[GnuTLS]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
=== 原論文 ===
* {{Citation |first=Clifford C. |last=Cocks |url=https://web.archive.org/web/20080227001905/http://www.cesg.gov.uk/site/publications/media/notense.pdf |title=A Note on Non-Secret Encryption |publisher=CESG |date=1973-11-20 |accessdate=2015-07-10}}:CocksがCESG([[政府通信本部|GCHQ]]の一部局)に提出したメモ
* {{Citation |url=https://people.csail.mit.edu/rivest/Rsapaper.pdf |title=A Method for Obtaining Digital Signature and Public-key Cryptsystems |first1=Ronald L. |last1=Rivest |first2=Adi |last2=Shamir |first3=Len M. |last3=Adelman |publisher=MIT Laboratory for Computer Science |journal=MIT-LCS-TM-082 |date=1977-07-04 |accessdate=2015-07-10}}:「日経エレクトロニクス」に全訳があるとされる。
== 関連項目 ==
* [[暗号]]
* [[暗号理論]]
* [[Optimal Asymmetric Encryption Padding]] (RSA-OAEP)
* [[素因数分解]]
* [[ElGamal暗号]]
* [[楕円曲線暗号]]
* [[:en:RSA numbers]] - [[:en:RSA Factoring Challenge]]
== 外部リンク ==
* {{高校数学の美しい物語|1146|RSA暗号の仕組みと安全性・具体例}}
{{cryptography navbox|public-key}}
[[Category:暗号]]
[[Category:イギリス政府通信本部]]
[[Category:エポニム]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-08-17T15:54:26Z
|
2023-12-29T04:01:16Z
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玉置成実
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玉置 成実(たまき なみ、1988年6月1日 - )は、日本の歌手、女優、声優、YouTuber。HIGHWAY STAR所属。和歌山県和歌山市出身。血液型はO型。
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玉置 成実は、日本の歌手、女優、声優、YouTuber。HIGHWAY STAR所属。和歌山県和歌山市出身。血液型はO型。
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{{存命人物の出典明記|date=2018年4月}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = 玉置 成実<br />たまき なみ
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| Img_capt = 玉置成実
| Alias =
| Born = {{生年月日と年齢|1988|6|1}}
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'''玉置 成実'''(たまき なみ、[[1988年]][[6月1日]] - )は、[[日本]]の[[歌手]]、[[俳優#性別での分類|女優]]、[[声優]]、[[YouTuber]]。[[HIGHWAY STAR (音楽プロダクション)|HIGHWAY STAR]]所属。[[和歌山県]][[和歌山市]]出身<ref>{{Cite web|和書|title=和歌山出身の歌手・玉置成実さんが来ました!|和歌山市観光協会 公式HP|トピックス|url=http://www.wakayamakanko.com/topics/?p=1092|website=和歌山市観光協会 公式HP|accessdate=2020-11-18|language=ja}}</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。
== 略歴 ==
; 2003年まで
* [[1988年]][[6月1日]]、[[和歌山県]][[和歌山市]]に生まれる。「成功の実がいくつも成るように」との願いを込めて成実と名付けられる。
* 3歳からクラシックバレエを習い始める<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=今日のゲストは玉置成実さん! -ディアフレンズ - TOKYO FM 80.0MHz - 坂本美雨|url=https://www.tfm.co.jp/dear/index.php?catid=693&itemid=37322|website=www.tfm.co.jp|accessdate=2020-11-18}}</ref>。
* 幼い頃から[[エンターテインメント|エンターテイメント]]の世界への憧れがあったが、初めから歌手になりたかったわけではなく、最初は[[バレリーナ]]、次にパレードで踊るお姉さん、そして[[ダンサー]]に憧れ、歌手になりたいと思ったのは最後のことだった<ref>タレントデータバンク</ref>。憧れの歌手は[[ジャネット・ジャクソン]]で、ジャネットのようになりたくて[[筋力トレーニング]]をしているという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tfm.co.jp/dear/index.php?itemid=37322&catid=693|title=On Air Report『今日のゲストは玉置成実さん!』|publisher=[[エフエム東京|TOKYO FM]]『[[ディア・フレンズ]]』番組公式サイト|date=2011-01-12|accessdate=2014-10-16}}</ref>。
* [[SPEED]]の大ファンでもあり、1999年からアクターズスクールに通いJAZZ.HIP HOP.HOUSEなど様々なジャンルのダンスと歌を習い、2001年から2002年にかけて開かれた[[Sony Music Audition]]に合格。[[Zepp|Zepp Tokyo]]で行われた最終審査では[[デスティニーズ・チャイルド|Destiny's Child]]の『Survivor』などを歌った。
* 中学3年生になる2003年(平成15年)を期として3月に上京し、『Believe』の発表をもって4月に歌手としてデビュー。『[[機動戦士ガンダムSEED]]』の第3クールのオープニングテーマとして起用された<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=ぴいぷる:ZAKZAK|url=https://www.zakzak.co.jp/people/archive/20050208.html|website=www.zakzak.co.jp|accessdate=2020-11-18}}</ref>。
* 7月に『Realize』を発表。この楽曲も『機動戦士ガンダムSEED』の第4クールのオープニングテーマとなり、[[オリコンチャート|オリコン]]初登場第3位を記録。
* 夏には[[東京]]・[[大阪市|大阪]]・[[福岡市|福岡]]でフリーライブを行い、年末には『機動戦士ガンダムSEED』のイベントコンサートに出演し、2回の公演で計2万人を超えるオーディエンスたちの前で熱唱する。
; 2004年
* 3月に発表された第18回[[日本ゴールドディスク大賞]]でニュー・アーティスト・オブ・ザ・イヤーを受賞。
* 4月には北九州[[スペースワールド]]でデビュー1周年ライヴ、[[ニッポン放送]]で「[[玉置成実ヒット・エンドスマイル]]」スタート。
* 5月に、東京・大阪で初の単独コンサート「Tamaki Nami 1st CONCERT "Greeting"」を行い、夏には東京・[[新潟市|新潟]]・[[神戸市|神戸]]を含む全国7ヶ所で追加公演を行う(福岡公演は台風のため中止となった)。
* 5月にはイベント、ボイス・ダンスレッスン、新曲プロモの撮影で渡米。8月21日にはニッポン放送のライブイベント『そんなのありーな!?2004SUMMER』に出演。
* 6thシングル『Reason』が10月9日スタートの『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』の第1クールのエンディングテーマになり、オリコンランキングで、自己最高記録の第2位を記録した。
* [[日本放送協会|NHK]]の[[テレビアニメ|アニメ]]、「[[アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル]]」にゲスト声優として出演。
; 2005年
* 1月26日に自身初のアーティストブック『TN』を発売、これを携えて初の握手会イベントを開く。
* 1月27日に発売された[[PlayStation 2]]専用ソフト「[[ラジアータストーリーズ]]」のテーマソングに、7thシングル『Fortune』が起用。謎の歌姫『ナミ・タマキ』として声優も担当した。
* 5月11日に2ndアルバム『Make Progress』を発表、オリコンランキングでシングル・アルバムを通じて自身初の首位を獲得する。7月には2ndコンサート『Tamaki Nami 2nd CONCERT "Make Progress"〜road to〜』が、[[名古屋市|名古屋]]・大阪・東京の[[Zepp]]で開催され、その模様を収録した自身初のライブビデオが発売された。
* 11月に発表した9枚目のシングルでは、[[TM NETWORK]]の『Get Wild』を[[小室哲哉]]プロデュースでカヴァーした。
; 2006年
* 3月24日に記念すべき10枚目のシングル『MY WAY / Sunrize』を発表。初の両A面シングルでリリースされ、『MY WAY』は第37回 [[全国高等学校バレーボール選抜優勝大会|春の高校バレー全国大会]]のイメージソングに起用された。
* 5月3日にシングル『Result』を発表。『機動戦士ガンダムSEED DESTINY スペシャルエディション 砕かれた世界』のエンディングテーマに起用され、ガンダムシリーズでソロアーティストとしては過去最多の4度目の主題歌を歌うこととなった<ref>グループだと[[TWO-MIX]]が『[[JUST COMMUNICATION]]』(TV『[[新機動戦記ガンダムW]]』前期オープニング主題歌)、『[[RHYTHM EMOTION]]』(TV『新機動戦記ガンダムW』後期オープニング主題歌)、『[[WHITE REFLECTION]]』(OVA『[[新機動戦記ガンダムW Endless Waltz]]』主題歌)、『[[LAST IMPRESSION]]』(映画『[[新機動戦記ガンダムW Endless Waltz#劇場版|新機動戦記ガンダムW Endless Walz 特別編]]』主題歌)の4曲が最多。</ref>。
* 7月には映画『[[ラブ★コン]]』に出演し[[俳優|女優]]としてもデビュー、9月には[[ブロードウェイ]][[ミュージカル]]『スウィート・チャリティ』で初舞台にして主演を務めた。
* 7月12日に3枚目となるアルバム『Speciality』を発表。前作『Make Progress』に次ぎ首位を獲得する。『Speciality』でデイリーランキングでは一度も1位にならないで週間首位という珍しい現象が起こった。
* 11月29日に初のシングルベストアルバム『Graduation〜Singles〜』をリリース。2007年の3月で[[高等学校|高校]]を卒業することについての記念の意味が込められていた。
; 2007年
* 前年リリースされたベストアルバムを引っさげて『NAMI TAMAKI Best CONCERT “My Graduation”』を4箇所で行う。後にライブの模様を収録したDVDをリリース。
* 3月14日にはシングル『CROSS SEASON』と3冊目となるアーティストブックを同時発売。
* 4月からアニメ「[[D.Gray-man]]」のオープニングテーマとして起用されていた『[[Brightdown]]』を8月29日に発売。
* 自身2度目となるミュージカル「[[ハイスクール・ミュージカル]]」にも出演。
* [[ソフトバンク]]と[[コラボレーション]]して玉置成実モデルの携帯電話も発売された。
* 12月26日には初のバラードシングルとなる『[[Winter Ballades]]』を発売した。
* 12月には[[Mobage|モバゲータウン]]にて[[ブログ]]も開設した。
; 2008年
* デビュー5周年はまず、デビュー日となる4月23日におよそ2年ぶりとなるオリジナルアルバム『[[Don't Stay]]』を発売。
* 東京と大阪でデビュー5周年記念ライブを行う。ライブに先駆けて公式サイトでは歌って欲しい曲のリクエストを受け付けていた。
; 2009年
* レコード会社を[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルJ]]に移籍。
* 2月から[[アメーバブログ]]にてオフィシャルブログを開設。
* 3月25日、およそ1年3ヶ月ぶりとなる16thシングル『[[GIVE ME UP (玉置成実の曲)|GIVE ME UP]]』を発売。テレビアニメ『[[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン]]』の5代目エンディングテーマに起用される。
* 6月3日から『願い星』を初のデジタルシングルとして配信開始。
* 7月29日、[[ダリヤ]]「Palty」CMソングの17thシングル『[[Friends!]]』を発売。『願い星』がファンの声により、初回限定盤Aに収録された。
* 10月14日、18thシングル『[[もしも願いが…]]』発売。
* 10月、11月公演のミュージカル「ALL SHOOK UP」に出演。
; 2010年
* 2月17日、一週間後にリリースを控えた5thアルバム『[[STEP (玉置成実のアルバム)|STEP]]』の先行シングル(通算19枚目)『[[思い出になるの?]]』をnami名義で発売。
* 2月24日、[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルJ]]移籍後初となるオリジナル・アルバム(通算5枚目)『[[STEP (玉置成実のアルバム)|STEP]]』と、同じくユニバーサルJ移籍後に発売された全シングル(『[[思い出になるの?]]』は未収録)のPVを収録したCLIP集『STEP DVD』を同時発売。
* 4月10日、11日、5thアルバム『[[STEP (玉置成実のアルバム)|STEP]]』を引っさげてのスペシャルライブ「NAMI TAMAKI 7th Live"STEP"」を[[新宿FACE]]にて開催。
* 7月1日、東京・新木場[[スタジオコースト]]にて、開催された総合エンターテイメント・ダンスイベント『[[プレシャスランド]]』にスペシャルゲストとして参加。
** ダンスイベントにゲストとして参加し、[[プレシャスランド]]限定パフォーマンスとして、アンドレ・フエンテス振付による「EDEN」やトニー・ザー振付による「GIVE ME UP」を熱唱。ダンススキルの高さも見せつけた。
; 2011年
* 1月12日、[[SUPERNOVA (音楽グループ)|超新星]]とコラボした20thシングル『[[Missing You〜Time To Love〜feat.KWANGSOO,JIHYUK,GEONIL(from 超新星)]]』をリリース。
* 2月23日、自身6枚目となるアルバム『[[Ready (玉置成実のアルバム)|Ready]]』をリリース。
* 10月3日 - 13日「ジンギスカン 〜わが剣、熱砂を染めよ〜」ボルテ役で出演
* 同年暮れ、[[インペリアルレコード (日本)|インペリアルレコード]]に移籍。
; 2012年
* 1月25日、インペリアル移籍第一弾シングル『LADY MIND』を発売。
*4月13日-5月13日、ミュージカル「コーヒープリンス1号店」- ハン・ユジュ 役
* 7月29日、香港ワンマンライブ「Nami Tamaki Live in Hong Kong 2012」を開催。
*9月ミュージカル「走れメロス」- 太田静子役
* 10月10日『Paradise』リリース
; 2013年
* 4月17日 - デビュー10周年記念シングル『[[REAL (玉置成実の曲)|REAL]]』を発売。カップリングにて自身のデビュー曲である『Believe』をセルフ・カヴァーした。
* 4月23日 - デビュー満10年を迎える。
*「戦国BASARA3 宴」(2013年4月 - 5月、キャナルシティ劇場・中日劇場・日本青年館・森ノ宮ピロティホール) - お市 役
*ミュージカル「エニシング・ゴーズ」(2013年10月 - 11月、帝国劇場・シアターBRAVA!) - アーマ 役
; 2014年
*6月25日 - 自身初となるカバー・アルバム『[[NT GUNDAM COVER]]』リリース。歴代のガンダムシリーズの楽曲をカバーした。
*8月ミュージカル「タイトル・オブ・ショウ」- ハイディ 役
*10月 - 12月「戦国BASARA4」 - お市 役
* 11月19日、24thシングル『[[Vivid Telepathy]]』発売。テレビアニメ『[[白銀の意思 アルジェヴォルン]]』の後期エンディングテーマとなる。
* 同年暮れごろ、所属レーベルを[[インペリアルレコード]]から[[SPACE SHOWER MUSIC]]へ移籍したとみられる。
; 2015年
*6月3日 - 25枚目のシングル『Everlasting love』をリリース。テレビアニメ『[[VAMPIRE HOLMES]]』のテーマソングとなる。
*ロックオペラ「サイケデリック・ペイン」(2015年4月-5月、東京天王洲銀河劇場・福岡キャナルシティ・梅田芸術劇場) -レディ・パンドラ/ミツコ役
*ミュージカル「ファウスト〜最後の聖戦〜」(2015年7月-8月、東京芸術劇場プレイハウス・森之宮ピロティーホール) -マルガレーテ役 *ヒロイン
*10月30日 - 自身主催のライブイベント『MUSIC HOLIC vol.3-ANIME HALLOWEEN-』を開催。
*[[電撃オンライン]]の[[ニコニコ生放送]]で「玉置成実のゲーム征服」という月一ゲーム実況生放送番組をスタート。
; 2016年
*1月 - 2月ミュージカル「花より男子 The Musical」 - 浅井百合子 役
*2月、所属事務所を[[スマイルカンパニー]]から[[東宝芸能]]へ移籍<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toho-ent.co.jp/information/article.php?record=2067|title=お知らせ>TOPICS|玉置成実が東宝芸能所属になりました|publisher=東宝芸能|date=2016-02-08|accessdate=2016-02-25}}</ref>。
* 5月25日 - 山本陽介 feat.玉置成実としてシングル『ALL-WAYS』をリリース。テレビアニメ『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜THE LAST SONG』のエンディングテーマとなる。
*ブロードウェイミュージカル「キンキーブーツ」(2016年7月 - 9月、新国立劇場中劇場 / オリックス劇場 / シアターオーブ) - ニコラ 役
*50Shades〜クリスチャン・グレイの歪んだ性癖〜(2016年11月 - 12月、新宿FACE / サンケイホールブリーゼ) - アナ 役*ヒロイン[6]
; 2017年
*9月1日 - 所属事務所を[[東宝芸能]]から[[HIGHWAY STAR (音楽プロダクション)|HIGHWAY STAR]]へ移籍<ref>{{Cite web|和書|url=http://highwaystar.co.jp/img/tamaki.jpg|title=お知らせ>TOPICS|【所属のお知らせ】玉置成実 2017年9月1日より|publisher=ハイウェイスター|date=2017-09-01|accessdate=2017-10-01}}</ref>。
* ミュージカル「BEFORE AFTER」(2017年2月8日 - 12日 中目黒キンケロシアター) - エイミー役
* ミュージカル「Finding Mr.DESTINY あなたの初恋探します。」(2017年8月4日 - 13日、DDD青山クロスシアター / 2017年8月17日 - 18日、ABCホール) -アン・リタ役 '''*ヒロイン'''
*9月23-24日 東京ゲームショウ スクウェア・エニックスステージMC
*10月21日HOKURIKU Girls girls FESTIVAL2017 出演
; 2018年
*3月25日 gravity Live vol.8「Alpha+」出演
*5月26日 Super★Premium vol.7出演
*乃木坂46版ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」(2018年6月-9月天王洲銀河劇場/赤坂ACTシアター) - クイン・ベリル役
*8月4日 上海にてChinaJoy出演
*歌喜劇「市場三郎~グアムの恋」(2018年11月7日 - 12月2日、[[東京グローブ座]]/12月7日 - 10日、[[シアター・ドラマシティ]])
; 2019年
*2月13日 [[クラシカロイド]]音楽祭出演([[中野サンプラザ]])
*ブロードウェイミュージカル「キンキーブーツ」再演(2019年4月 - 5月、 シアターオーブ/オリックス劇場) - ニコラ 役
*7月23日 [[ランティス祭り]]2019出演([[幕張メッセ]])
*8月16日 「[[Bilibili World|BILIBILI WORLD広州]]」出演
*10月19日 [[バンダイナムコエンターテインメントフェスティバル]]出演([[東京ドーム]])
*音楽劇『ロード・エルメロイII世の事件簿 –case.剥離城アドラ-』 (2019年12月-2020年1月、市川市文化会館大ホール/なかのZERO大ホール/サンケイホールブリーゼ/久留米シティプラザ グランドホール/新宿文化センター大ホール)-ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト役
; 2020年
*8月5日 自身としては約5年ぶりである、26thシングル「[[Connect the Truth]]」(テレビドラマ[[ウルトラマンZ]]前期エンディングテーマ)をリリース。テレビドラマのテーマソングを担当するのは初である。
; 2021年
* 10月29日、配信アニメ『[[バトルスピリッツ 赫盟のガレット|バトルスピリッツ ミラージュ]]』のメインテーマソング「Open the GATE (feat. [[きただにひろし]])」を配信リリース<ref>{{Cite web|和書|url=https://sunrise-music.co.jp/list/detail.php?id=509 |title=【配信】「Open the GATE」(玉置成実 feat. きただにひろし)ー『バトルスピリッツミラージュ』メインテーマソングー |publisher=サンライズミュージック |accessdate=2021-11-23}}</ref>。
* 11月22日、[[チームスマイル|豊洲PIT]]にて行われるアニソンフェス『アニレヴ2021 in チームスマイル 豊洲PIT』に出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://highwaystarclub.com/contents/473217 |title=【玉置成実】11/22 AniRAVE 2021 in チームスマイル豊洲PIT に出演決定! |publisher=[[ハイウェイスター (企業)|株式会社ハイウェイスター]] |accessdate=2021-11-23}}</ref>。
* 11月23日・24日、和歌山ビッグホエールで行われる[[hyde|HYDE]]のオーケストラ・コンサート『20th Orchestra Concert HYDE 黑ミサ 2021 Wakayama』にゲストボーカルとして出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/453752 |title=HYDE「黑ミサ」和歌山公演に同郷・玉置成実がゲスト出演 |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |accessdate=2021-11-23}}</ref>。
; 2022年
*ミュージカル「犬との約束」(4月 - 5月、よみうり大手町ホール / 松下IMPホール)
*ブロードウェイミュージカル「キンキーブーツ」再再演(10月 - 11月、東急シアターオーブ / オリックス劇場 ) - ニコラ役
*OFFICE SHIKA MUSICAL『私は怪獣-ネオンキッズ Live beat-』(2022年12月10日-18日、CBGKシブゲキ!!) - マリリン役
*12月29日ウルトラヒーローズEXPO 2023 『ULTRAMAN MUSIC LIVE 』
; 2023年
* 日中国交正常化50周年・日中平和友好条約45周年記念公演 音楽劇「李香蘭-花と華-](1月、紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA) -川島芳子役・リュバチカ役
* 4月23日、[[浅草花やしき|浅草花劇場]]にてデビュー20周年記念ライブ『Nami Tamaki 20th Anniversary LIVE』を開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/513698 |title=「Believe」から20年、玉置成実デビュー20周年ライブ開催 |publisher=音楽ナタリー|date=2023-2-21|accessdate=2023-4-3}}</ref>。また、新たなYouTubeチャンネル『Nami Tamaki Music Channel』を開設し、デビュー曲である「Believe」や「Realize」「Reason」のミュージック・ビデオを公開した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000233052 |title=玉置成実、デビュー20周年記念プロジェクト始動。「Believe」などの初期曲MVが公開に |publisher=[[BARKS]] |accessdate=2023-04-24}}</ref>。
*a new musical『ヴァグラント』(8月-9月、 明治座/新歌舞伎座)-アケミ役
*11/19「機動戦士ガンダムSEED FESTIVAL~CONNECT あの時代(とき)を越えて~」出演(文京シビックホール)
*11月26日「Anime Festival Asia Singapore 2023」出演
*12/31(日)『第7回 ももいろ歌合戦 』初出場(横浜アリーナ)
;2024年
*1月24日『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』オフィシャルサポーターソング「Reborn」リリース
*3月17日渋谷WWW Xにてワンマンライブ「Nami Tamaki 20th Anniversary LIVE -Focus-」を開催。
*4月27日、5月5日「スーパーロボット魂 2024」出演(Zepp Haneda/大阪なんばHatch)
== 人物・その他 ==
* 兄と姉がいる<ref name=":1" />。
* 性格はさばさばしていてまっすぐ。嘘をつけないタイプである。
* 3歳からピアノとバレエを習い<ref name=":0" />、幼少期から習字や英語なども習っていた。
* 10代の頃から時間ができるとダンスレッスンのため度々[[ロサンゼルス|LA]]や[[ニューヨーク|NY]]に単身渡米。
* 趣味は[[映画]]観賞、[[料理]]、絵を描くこと、[[ゲーム]]、[[ドライブ]]、[[海外旅行]]。ツーリング
* 『[[ゲーマー]]歴20年』を称する。[[ゲーム]]を好み、現在電撃オンラインの[[ニコニコ生放送|生放送]]で「玉置成実のゲーム征服」というゲーム実況生放送や「ゲームプリンセス」というゲーム番組にレギュラー出演中。2021年3月26日にはYouTubeチャンネルを開設した。特に[[モンスターハンターシリーズ]]、[[コール オブ デューティシリーズ]]、[[DARK SOULS]]シリーズ、[[Dead by Daylight]] が好き。
* 自身主催のライブイベント「MUSIC HOLIC」を開催している。今までのゲストには[[ももいろクローバーZ]]・[[SCANDAL (日本のバンド)|SCANDAL]]・[[黒崎真音]]・AKIRA・[[ELISA (歌手)|ELISA]]・[[PaniCrew]]・[[ET-KING]]など。ジャンルを超えたエンターテイメントイベントになっている。
* 愛犬はロングコートチワワで名前は「ポップ」。
* 元愛車は[[ホンダ・クロスロード]]。
* 元[[阪神タイガース]]の[[玉置隆]]は従兄にあたる<ref name=":1" />。
* 2019年に大型二輪免許取得、現在の愛車は[[トライアンフ|Triumph]]・Bonneville Bobber(ボンネビルボバー)。
== ディスコグラフィ ==
=== シングル ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! rowspan="2"|#
! rowspan="2"|発売日
! rowspan="2"|タイトル
! colspan="2"|規格品番
! rowspan="2" style="width:30em;"|備考
|-
! 初回限定盤 !! 通常盤
|-
!{{0}}1
| 2003年4月23日
| '''[[Believe (玉置成実の曲)|Believe]]'''
|rowspan="6"|
| SRCL-5772
| 完全初回限定パッケージ/通常盤の2形態でリリース、レーベルゲートCD
|-
!{{0}}2
| 2003年7月24日
| '''[[Realize (玉置成実の曲)|Realize]]'''
| SRCL-6088
| 完全初回限定パッケージ/通常盤の2形態でリリース、レーベルゲートCD
|-
!{{0}}3
|nowrap| 2003年11月12日
| '''[[Prayer (玉置成実の曲)|Prayer]]'''
| SRCL-6094
| 初回限定盤/通常盤の2形態でリリース、レーベルゲートCD
|-
!{{0}}4
| 2004年1月28日
| '''[[Shining Star ☆忘れないから☆]]'''
| SRCL-6100
| 初回限定盤/通常盤の2形態でリリース、レーベルゲートCD
|-
!{{0}}5
| 2004年7月14日
| '''[[大胆にいきましょう ↑Heart&Soul↑]]'''
| SRCL-6109
| 初回限定盤/通常盤の2形態でリリース、レーベルゲートCD
|-
!{{0}}6
| 2004年11月10日
| '''[[Reason (玉置成実の曲)|Reason]]'''
| SRCL-5826
| 完全初回限定パッケージ/通常盤の2形態でリリース
|-
!{{0}}7
| 2005年1月26日
| '''[[Fortune (玉置成実の曲)|Fortune]]'''
| SRCL-5864 || SRCL-5865
| 初回生産限定盤/通常盤の2形態でリリース
|-
!{{0}}8
| 2005年4月6日
| '''[[Heroine (玉置成実の曲)|Heroine]]'''
| SRCL-5901 || SRCL-5902
| 初回生産限定盤/通常盤の2形態でリリース
|-
!{{0}}9
| 2005年11月2日
| '''[[Get Wild (玉置成実の曲)|Get Wild]]'''
| rowspan="5"| || SRCL-6057
| 初回盤/通常盤の2形態でリリース
|-
! 10
| 2006年3月24日
| '''[[MY WAY/Sunrize]]'''
| SRCL-6236
| 初回盤/通常盤の2形態でリリース
|-
! 11
| 2006年5月3日
| '''[[Result]]'''
| SRCL-6258
| 初回盤/通常盤の2形態でリリース
|-
! 12
| 2006年6月7日
| '''[[Sanctuary (玉置成実の曲)|Sanctuary]]'''
| SRCL-6275
| 初回盤/通常盤の2形態でリリース
|-
! 13
| 2007年3月14日
| '''[[CROSS SEASON]]'''
| SRCL-6514||初回盤/通常盤の2形態でリリース
|-
! 14
| 2007年8月29日
| '''[[Brightdown]]'''||SRCL-6618/9||SRCL-6620
| CD+DVD(初回盤)/CD(通常盤)の2形態でリリース
|-
! 15
| 2007年12月26日
| '''[[Winter Ballades]]'''
| SRCL-6664/5 || SRCL-6666
| CD+DVD(初回生産限定盤)/CD(通常盤)の2形態でリリース
|-
! 16
| 2009年3月25日
| '''[[GIVE ME UP (玉置成実の曲)|GIVE ME UP]]'''
| UPCH-9465 (A)<br />UPCH-9466 (B) || UPCH-5575
| [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルJ]]移籍第一弾シングル<br />CD+DVD(初回盤A)/CD+Photoカード(初回盤B)/CD(通常盤)の3形態でリリース
|-
! 17
| 2009年7月29日
| '''[[Friends!]]'''
| UPCH-9494 (A)<br />UPCH-9495 (B) || UPCH-5608
| CD+DVD(初回盤A)/CD+DVD(初回盤B)/CD(通常盤)の3形態でリリース
|-
! 18
| 2009年10月14日
| '''[[もしも願いが…]]'''
| UPCH-9524(生産限定)<br />UPCH-9525 || UPCH-5628
| CD+2010年卓上カレンダー(初回限定生産盤)/CD+DVD(初回盤)/CD(通常盤)の3形態でリリース
|-
! 19
| 2010年2月17日
| '''[[思い出になるの?]]'''
| rowspan="2"| || UPCH-5641
| nami名義でのシングル、CDのみの1形態でリリース
|-
! 20
| 2011年1月12日
| '''[[Missing You〜Time To Love〜feat.KWANGSOO,JIHYUK,GEONIL(from 超新星)|Missing You〜Time To Love〜<br />feat.KWANGSOO,JIHYUK,GEONIL(from 超新星)]]'''
| UPCH-5677
| CDのみの1形態でリリース
|-
! 21
| 2012年1月25日
| '''LADY MIND'''
| TECI-248 || TECI-249
| [[インペリアルレコード (日本)|インペリアルレコード]]移籍第一弾シングル<br />CD+DVD(初回盤)/CD(通常盤)の2形態でリリース
|-
! 22
| 2012年10月10日
| '''PARADISE'''
| TECI-265 || TECI-266
| 初回限定盤/通常盤の2形態でリリース
|-
! 23
| 2013年4月17日
| '''[[REAL (玉置成実の曲)|REAL]]'''
| TECI-301 || TECI-302
| 初回限定盤/通常盤の2形態でリリース
|-
! 24
| 2014年11月19日
| '''[[Vivid Telepathy]]'''
| 1000527681 || 1000527682
| 初回限定盤/通常盤の2形態でリリース。<br />テレビアニメ『[[白銀の意思 アルジェヴォルン]]』後期エンディングテーマ。
|-
!25
|2015年6月3日
|'''Everlasting Love'''
|
|XQBZ-1037
|テレビアニメ『[[VAMPIRE HOLMES]]』主題歌。
|-
!26
|2020年8月5日
|'''[[Connect the Truth]]'''
|
|LACM-24015
|特撮テレビドラマ『[[ウルトラマンZ]]』エンディングテーマ。
|-
!27
|2024年1月{{0}}24日
|'''Reborn'''
|VVCL-2436~2473
|VVCL-2435
|CD+Blu-ray (期間生産限定盤)/CD (通常盤)の2形態でリリース
劇場版アニメ『'''機動戦士ガンダムSEED FREEDOM'''』オフィシャルサポートソング
|}
==== リプロダクション・シングル ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! #
! 発売日
! タイトル
! 規格品番
! 備考
|-
! 1
|nowrap| 2003年5月21日
| '''[[Believe (玉置成実の曲)|Believe Reproduction 〜GUNDAM SEED EDITION〜]]'''
| SRCL-6085
|初回限定パッケージ/通常盤の2形態でリリース、レーベルゲートCD
|-
! 2
| 2003年9月26日
| '''[[Realize (玉置成実の曲)|Realize Reproduction 〜GUNDAM SEED EDITION〜]]'''
| SRCL-6091
|初回限定パッケージ/通常盤の2形態でリリース、レーベルゲートCD
|}
==== コラボレーション・シングル ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! rowspan="2"|発売日 !! rowspan="2"|タイトル !! rowspan="2"|名義 !! colspan="2"|規格品番 !! rowspan="2"|備考
|-
! CD+DVD !! CD
|-
|nowrap| 2011年4月20日
| '''百花繚乱/祈り'''
| 名古屋おもてなし武将隊 starring Nami Tamaki
| VIZL-417
| VICL-36640
| 『[[名古屋おもてなし武将隊]]』ソング。「祈り」歌唱。
|-
| 2016年5月25日
| '''ALL-WAYS'''
| [[山本陽介]] feat.玉置成実
| LACM-14486
| LACM-14487
|テレビアニメ『[[コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜|コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜THE LAST SONG]]』第14話 - 第23話EDテーマ(「ALL-WAYS」)
同上第24話EDテーマ(「THE LAST SONG」)
|}
==== 配信限定 ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! #
! 発売日
! タイトル
! 備考
|-
! 1
|2020年8月28日
| '''[[BREAK THE CHAIN]]'''
|配信アニメ『[[バトルスピリッツ 赫盟のガレット]]』主題歌
|-
! 2
| 2021年10月29日
| '''[[Open the GATE (feat. きただにひろし)]]'''
|配信アニメ『バトルスピリッツ ミラージュ』メインテーマソング
|-
! 3
| 2023年6月20日
| '''[[Resolve]]'''
|パチンコ『Pフィーバー機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』収録曲<br>「BEYOND THE TIME -メビウスの宇宙を越えて-」のカバーも収録
|}
=== アルバム ===
==== オリジナル・アルバム ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! rowspan="2"|#
! rowspan="2"|発売日
! rowspan="2"|タイトル
! colspan="2"|規格品番
! rowspan="2"|備考
|-
! 初回限定盤 !! 通常盤
|-
! 1
| 2004年2月25日
| '''[[Greeting]]'''
| SRCL-5651/2 || SRCL-5972
|初回生産限定盤/通常盤の2形態でリリース、レーベルゲートCD
|-
! 2
| 2005年5月11日
| '''[[Make Progress]]'''
| SRCL-5906/7 || SRCL-5908
|初回生産限定盤/通常盤の2形態でリリース
|-
! 3
| 2006年7月12日
| '''[[Speciality]]'''
| SRCL-6288/9 || SRCL-6290
|CD+DVD(初回盤)/CD(通常盤)の2形態でリリース
|-
! 4
| 2008年4月23日
| '''[[Don't Stay]]'''
| SRCL-6776/7 || SRCL-6778
|CD+DVD(初回生産限定盤)/CD(通常盤)の2形態でリリース
|-
! 5
| 2010年2月24日
| '''[[STEP (玉置成実のアルバム)|STEP]]'''
| UPCH-9544 || UPCH-1765
|[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルJ]]移籍後初アルバム<br />CD+DVD(初回限定盤)/CD(通常盤)の2形態でリリース
|-
! 6
| 2011年2月23日
| '''[[Ready (玉置成実のアルバム)|Ready]]'''
| UPCH-9620 || UPCH-1826
|CD+DVD(初回限定盤)/CD(通常盤)の2形態でリリース
|-
!7
|2024年3月13日
|Singularity
|
|SRML-1075
|20周年記念アルバム
|-
|}
==== ベスト・アルバム ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! rowspan="2"|#
! rowspan="2"|発売日
! rowspan="2"|タイトル
! colspan="2"|規格品番
! rowspan="2"|最高位
! rowspan="2"|備考
|-
|-
! 初回限定盤 !! 通常盤
|-
! 1
|nowrap| 2006年11月29日
| '''[[Graduation 〜Singles〜]]'''
| SRCL-6437/8 || SRCL-6439
|6位
|CD+DVD(初回生産限定盤)/CD(通常盤)の2形態でリリース
|-
! 2
| 2009年{{0}}3月25日
| '''[[TAMAKI NAMI REPRODUCT BEST]]'''
| || SRCL-6986
|84位
|ダンスフロア対応型のリミックス・ベストアルバム
|}
==== カバー・アルバム ====
* '''[[NT GUNDAM COVER]]'''(2014年6月25日発売)
=== 映像作品 ===
* Believe DVD(2003年11月12日発売)
* Realize DVD(2003年12月17日発売)
* Greeting DVD(2004年5月19日発売)
* Make Progress DVD(2005年7月6日発売)
* NAMI TAMAKI 2nd CONCERT Make Progress 〜road to〜(2005年10月5日発売)
* Speciality DVD(2006年8月30日発売)
* NAMI TAMAKI Best CONCERT "My Graduation"(2007年6月13日発売)
* STEP DVD(2010年2月17日発売)
* 月刊NEO 玉置成実(2011年2月24日発売)
=== 参加作品 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
!形態
!発売日
!タイトル
!参加楽曲
|-
| [[コンピレーション・アルバム]]
| 2004年1月15日
| '''機動戦士ガンダムSEED COMPLETE BEST'''
| M-3「[[Believe (玉置成実の曲)|Believe]]」<br />M-5「[[Realize (玉置成実の曲)|Realize]]」<br />M-10「[[Believe (玉置成実の曲)|Believe -FREEDOM G CONTROL MIX-]]」<br />M-12「Realize -EVERLASTING MIX-」(新リミックス)
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2004年{{0}}4月14日
| '''THE JAPAN GOLD DISC AWARD 2004'''
| DISC2/M-8「[[Believe (玉置成実の曲)|Believe]]」
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2004年{{0}}8月{{0}}4日
| '''TEENAGE POP'''
| M-7「[[Shining Star ☆忘れないから☆]]」
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2005年{{0}}9月21日
| '''Diva'''
| M-14「[[Heroine (玉置成実の曲)|Heroine]]」
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2005年11月{{0}}2日
| '''[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY COMPLETE BEST]]'''
| M-2「[[Reason (玉置成実の曲)|Reason]]」<br />M-12「Reason -NYLON Stay Cool Mix-」(新リミックス)
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2006年{{0}}1月25日
| '''HIT STYLE'''
| M-10「[[Reason (玉置成実の曲)|Reason]]」
|-
| [[トリビュート・アルバム]]
| 2006年{{0}}1月25日
| '''MATCHY TRIBUTE'''
| M-4「[[ブルージーンズ メモリー (シングル)|ブルージーンズ メモリー]]」
|- "
| トリビュート・アルバム
| 2006年{{0}}3月{{0}}8日
| '''[[14プリンセス 〜PRINCESS PRINCESS CHILDREN〜]]'''
| M-1「19 GROWING UP -ode to my buddy -」
|-
| [[サウンドトラック]]
| 2006年12月20日
| '''TVアニメ牙オリジナルサウンドトラックVol.1'''
| M-25「Sanctuary (TV ver.)」
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2007年{{0}}8月22日
| '''姫トランス3'''
| M-22「Believe」
|-
| オリジナル・アルバム
| 2007年{{0}}8月22日
| '''Music Conductor A・T'''/[[m.c.A・T]]
| DISC2/M-3「[[Make Progress|Future Step]]」
|-
| サウンドトラック
|nowrap| 2007年12月19日
| '''D.Gray-man Original Soundtrack 2'''
| M-1「Brightdown (TV ver.)」
|-
| トリビュート・アルバム
| 2007年12月19日
| '''[[LUNA SEA MEMORIAL COVER ALBUM -Re:birth-]]'''
| M-3「STORM」
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2008年{{0}}3月26日
| '''39 Anime×Music Collaboration'02-'07'''
| DISC1/M-3「[[Believe (玉置成実の曲)|Believe]]」 M-5「[[Realize (玉置成実の曲)|Realize]]」<br />DISC2/M-4「[[Reason (玉置成実の曲)|Reason]]」
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2008年{{0}}9月24日
| '''D.Gray-man COMPLETE BEST'''
| M-4「[[Brightdown]]」
|-
| [[オムニバス]]・アルバム
| 2009年{{0}}7月{{0}}8日
| '''ジブリ meets Lovers Reggae'''
| M-1「となりのトトロ JAZZIDA GRANDE feat.NAMI TAMAKI」
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2010年{{0}}2月24日
| '''GUNDAM 30th ANNIVERSARY「GUNDAM SONGS 145」'''
| Disc-07/M-4「[[Believe (玉置成実の曲)|Believe]]」 M-6「[[Realize (玉置成実の曲)|Realize]]」<br />Disc-08/M-2「[[Reason (玉置成実の曲)|Reason]]」 M-13「[[Result]]」
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2010年{{0}}5月12日
| '''[[松本隆]]作詞活動40周年記念アルバム「松本隆に捧ぐ-風街DNA-」'''
| M-7「[[Romanticが止まらない]]」
|-
| サウンドトラック
| 2017年{{0}}3月{{0}}1日
| '''CAPCOM「[[CROSS×BEATS|クロスビーツ]]・オリジナルサウンドトラック」'''
| Disc-03/M-21「アレルヤ HAKKYOU-KUN feat.玉置成実」
|-
| サウンドトラック
| 2018年{{0}}2月14日
| '''[[クラシカロイド]] MUSIK Collection Vol.5'''
| M-4「Mephisto Sheriff 〜[[メフィスト・ワルツ]]より〜」
|-
| コンピレーション・アルバム
| 2020年{{0}}10月21日
| '''最新 ウルトラマン主題歌集 [[ウルトラマンZ]]'''
| Disc-01/M-2「Connect the Truth」
|-
| ゲーム特典
| 2022年{{0}}9月15日
| '''[[フェアリーフェンサー エフ Refrain Chord]] サウンドトラック'''
| 「道化」
|}
== 出演 ==
=== ラジオ番組 ===
*[[ゴチャ・まぜっ!月曜日]](2006年4月10日 - 2006年10月2日、[[MBSラジオ]])
*[[ゴチャ・まぜっ!火曜日 (2006年から2009年まで)|ゴチャ・まぜっ!火曜日]](2006年10月10日 - 2007年10月2日、MBSラジオ)
*[[ゴチャ・まぜっ!水曜日 (2005年から2009年まで)|ゴチャ・まぜっ!水曜日]](2007年10月10日 - 2008年4月2日、MBSラジオ)
=== 舞台 ===
* ミュージカル「[[スイート・チャリティー|スウィート・チャリティー]]」(2006年9月 - 10月、[[ル テアトル銀座 by PARCO|ル・テアトル銀座]]・[[梅田芸術劇場#シアター・ドラマシティ|シアタードラマシティ]]) - チャリティ・ホープ・ヴァレンタイン役 '''*主演'''
* ミュージカル「[[ハイスクール・ミュージカル#舞台版|ハイスクール・ミュージカル]]」(2007年7月 - 8月、[[青山劇場]]・NHK大阪ホール) - ガブリエラ・モンテス役 '''*ヒロイン'''
* ミュージカル「[[ALL SHOOK UP]]」(2009年10月 - 11月、青山劇場・シアターBRAVA!・[[愛知県芸術劇場]]大ホール)- ナタリー役'''*ヒロイン'''
* 「ジンギスカン 〜わが剣、熱砂を染めよ〜」(2011年10月3日 - 13日、渋谷区文化総合センター大和田) - ボルテ役
* ミュージカル「[[コーヒープリンス1号店]]」(2012年4月13日 - 21日、青山劇場・2012年5月10日 - 13日、[[森ノ宮ピロティホール]]) - ハン・ユジュ役
* ミュージカル「走れメロス」(2012年9月、[[Bunkamura]][[オーチャードホール]]・[[中日劇場]]・シアターBRAVA!) - 太田静子役
* ミュージカルライブ「ミュージカルライブ2013」(2013年6月22日 - 23日)
* 舞台「[[戦国BASARA#舞台|戦国BASARA]]」 - お市役
** 「戦国BASARA3 宴」(2013年4月 - 5月、[[キャナルシティ劇場]]・中日劇場・[[日本青年館]]・森ノ宮ピロティホール)
** 「戦国BASARA4」(2014年10月 - 12月、東京ドームシティホール・キャナルシティ劇場・森ノ宮ピロティホール・中日劇場)
* ミュージカル「[[エニシング・ゴーズ (ミュージカル)|エニシング・ゴーズ]]」(2013年10月 - 11月、[[帝国劇場]]・シアターBRAVA!) - アーマ役
* ミュージカル「タイトル・オブ・ショウ」(2014年8月 シアタークリエ・名鉄ホール・サンケイホールプリーゼ) - ハイディ役
* ロックオペラ「サイケデリック・ペイン」(2015年4月 - 5月、東京[[天王洲 銀河劇場]]・福岡キャナルシティ・[[梅田芸術劇場]]) - レディ・パンドラ / ミツコ役
* ミュージカル「ファウスト〜最後の聖戦〜」(2015年7月 - 8月、東京芸術劇場プレイハウス・森ノ宮ピロティーホール) - マルガレーテ役 '''*ヒロイン'''
* ミュージカル「[[花より男子]] The Musical」(2016年1月 - 2月、シアタークリエ・福岡サンパレスホテル&ホール・愛知県芸術劇場大ホール・サンケイホールブリーゼ) - 浅井百合子役
* ブロードウェイミュージカル「[[キンキーブーツ (ミュージカル)|キンキーブーツ]]」(2016年7月 - 9月、[[新国立劇場]]中劇場 / [[オリックス劇場]] / シアターオーブ) - ニコラ役
** ブロードウェイミュージカル「[[キンキーブーツ (ミュージカル)|キンキーブーツ]]」(東京公演:2019年4月16日~5月12日[[東急シアターオーブ]] / 大阪公演2019年5月19日~5月28日[[オリックス劇場]])
* 50Shades〜クリスチャン・グレイの歪んだ性癖〜(2016年11月 - 12月、新宿FACE / サンケイホールブリーゼ) - アナ役'''*ヒロイン'''<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/201845|title=浜中文一主演「50 Shades!」玉置成実ら全キャスト&公演日程発表|newspaper=ステージナタリー|date=2016-09-14|accessdate=2016-09-14}}</ref>
* ミュージカル「BEFORE AFTER」(2017年2月8日 - 12日 中目黒キンケロシアター) - エイミー役
* ミュージカル「Finding Mr.DESTINY あなたの初恋探します。」(2017年8月4日 - 13日、DDD青山クロスシアター / 2017年8月17日 - 18日、ABCホール) - アン・リタ役 '''*ヒロイン'''
* ミュージカル「[[美少女戦士セーラームーン (ミュージカル)#登場人物(乃木坂46版)|美少女戦士セーラームーン]](乃木坂46版)」(2018年6月8日 - 24日、天王州 銀河劇場 / 9月21日 - 30日、赤坂ACTシアター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sailormoon-official.com/stage/nogizaka/ticket/ |title=チケット |publisher=セーラームーン25thアニバーサリープロジェクト オフィシャルサイト |accessdate=2018-08-31}}</ref>) - クイン・ベリル役<ref>{{Cite web|和書|url=http://sailormoon-official.com/stage/nogizaka/cast_staff/ |title=キャスト&スタッフ |publisher=セーラームーン25thアニバーサリープロジェクト オフィシャルサイト |accessdate=2018-08-31}}</ref>
** ミュージカル「美少女戦士セーラームーン(乃木坂46版)」(2019年10月10日 - 14日[[TOKYO DOME CITY HALL]] / 2019年11月22日 - 24日、上海美琪大戯院(MAJESTIC THEATRE))
* 歌喜劇「市場三郎~グアムの恋」<ref>{{Cite web|和書|url=http://sailormoon-official.com/stage/nogizaka/cast_staff/ |title=歌喜劇「市場三郎~グアムの恋」オフィシャルサイト |publisher=東京グローブ座 |accessdate=2018-08-31}}</ref>(2018年11月7日 - 12月2日、[[東京グローブ座]] / 12月7日 - 10日、[[シアター・ドラマシティ]])
* 音楽劇『[[ロード・エルメロイII世の事件簿#舞台|ロード・エルメロイII世の事件簿 -case.剥離城アドラ-]]』(2019年12月15日 - 2020年1月19日、千葉県 / 東京都 / 大阪府 / 福岡県 / 東京都 5公演) - ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/337410|title=「ロード・エルメロイII世の事件簿」納谷健、伊崎龍次郎ら全キャスト明らかに|newspaper=[[ステージナタリー]]|publisher=ナターシャ|date=2019-06-27|accessdate=2019-07-07}}</ref>
*ロックオペラ「ザ・パンデモ二アム・ロック・ショウ」(2021年9月 - 10月、[[天王洲 銀河劇場|日本青年館]]・森ノ宮ピロティホール) - 荒木三枝子役
* ミュージカル「犬との約束」(2022年4月15日 - 24日、[[読売新聞ビル#よみうり大手町ホール|よみうり大手町ホール]] / 4月29日 - 5月4日、[[松下IMPビル#松下IMPホール|松下IMPホール]])<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/463654|title=織山尚大がミュージカル初主演、「犬との約束」に横山だいすけ・岡幸二郎ら|newspaper=ステージナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-01-29|accessdate=2022-01-29}}</ref>
*ブロードウェイミュージカル「キンキーブーツ」(2022年10月 - 11月、東急シアターオーブ / オリックス劇場 ) - ニコラ役
*OFFICE SHIKA MUSICAL『私は怪獣-ネオンキッズ Live beat-』(2022年12月10日-18日、CBGKシブゲキ!!) - マリリン役
*日中合作 音楽劇「李香蘭-花と華-」日中国交正常化50周年・日中平和友好条約45周年記念公演(2023年1月13日~22日、紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA) - 川島芳子役・リュバチカ役(回替わり)
*a new musical「ヴァグラント」(2023年8月 - 9月、明治座/新歌舞伎座) - アケミ役
* SWEET 19 BLUES(2023年12月28・30日、RED°TOKYO TOWER SKY STADIUM) - '''カスミ''' 役<ref>{{Cite web2|df=ja|url=https://sweet19blues.com/schedule/|title=Schedule|publisher= SWEET 19 BLUES 公式サイト|accessdate=2023-12-16}}</ref><!-- 2023-12-28 -->
=== 映画 ===
* [[ラブ★コン]](2006年) - 石原信子役
* [[一遍上人]](2012年) - お銀役
=== ゲーム ===
*[[ラジアータストーリーズ]](2005年) - ナミ・タマキ役
* [[VAMPIRE HOLMES]] ハンレット忘却曲線(2015年) - ハンレット役
* crossbeats REV. SUNRISE(2017年) - アレルヤ 歌唱(HAKKYOU-KUN feat.玉置成実 名義)
* フェアリーフェンサー エフ Refrain Chord(2022年) - 黒の歌姫グラースの楽曲「道化」歌唱担当
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* {{Official website|http://www.tamaki-nami.net/}}
* {{Ameba ブログ|tamakinami-blog|玉置成実オフィシャルブログ「 I AM ME」}}
* {{Twitter|NamiTamaki0601|玉置成実}}
* {{YouTube|channel=UCYIYWTy1nxhPKEMh_OWiSwA|たまきなみちゃんねる}}
* {{YouTube|channel=UCt_yRA4KGB6ONBBLXmlLS1w|Nami Tamaki Music Channel}}
* {{allcinema name|728229}}
* {{IMDb name|1992092|Nami Tamaki}}
* {{ann|people|14224|Nami TAMAKI}}
{{玉置成実}}
{{HIGHWAY STAR}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たまき なみ}}
[[Category:日本の女性ポップ歌手]]
[[Category:アニメソング歌手]]
[[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアーティスト]]
[[Category:ユニバーサルミュージックジャパンのアーティスト]]
[[Category:テイチクエンタテインメントのアーティスト]]
[[Category:日本の女性YouTuber]]
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]
[[Category:日本の女性声優]]
[[Category:過去の東宝芸能所属者]]
[[Category:HIGHWAY STAR]]
[[Category:和歌山県出身の人物]]
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下野
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下野
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下野
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'''下野'''
== 下野(しもつけ) ==
* [[下野国]] - かつての令制国のひとつ。
* [[下野風土記]]には、阿蘇川原並美加保乃関とある。
* [[下野市]] - [[2006年]]1月に発足した[[栃木県]]の市。
* [[下野新聞]] - 栃木県の[[地方紙]]。
* [[シモツケ]] - [[バラ]]科[[シモツケ属]]の落葉低木(樹高約100cm)。 初夏にピンクまたは白色の集合花を咲かせ、秋には紅葉する。古くから庭木として用いられる(学名: ''Spiraea Japonica'')。 [[コデマリ]]、[[ユキヤナギ]]も同じシモツケ属(''Spiraea L.'')の仲間である。
* [[シモツケソウ]] - バラ科[[シモツケソウ属]](''Filipendula'')の多年草。[[オニシモツケ]]、[[コシジシモツケソウ]]、[[アカバナシモツケソウ]]などがある。
* [[しもつけ (列車)]] - [[東武鉄道]]が[[浅草駅]] - [[東武宇都宮駅]]間を[[東武伊勢崎線]]・[[東武日光線]]・[[東武宇都宮線]]経由で運行した[[特別急行列車]]。過去の列車「しもつけ」については以下を参照。
** かつて、[[日本国有鉄道|国鉄]]が、[[上野駅]] - [[黒磯駅]]・[[日光駅]]間を[[東北本線]]・[[日光線]]経由で運行した[[準急行列車]]・[[急行列車]]。[[おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ#宇都宮線優等列車沿革]]を参照。
** かつて、東武鉄道が、浅草駅 - 東武宇都宮駅間を東武伊勢崎線・東武日光線・東武宇都宮線経由で運行した[[急行列車]]。[[しもつけ (列車)#東武宇都宮線優等列車沿革]]を参照。
* [[百官名]]の一つ。
== 下野(しもの) ==
* [[下野氏]] - [[日本]]の[[姓]]の一つ
* [[下野 (能代市)]] - 秋田県[[能代市]]の地名。
* [[下野 (市原市)]] - [[千葉県]][[市原市]] 大字の一つ
* [[下野 (杉戸町)]] - [[埼玉県]][[杉戸町]] 大字の一つ。
== 下野(げや) ==
* '''野に下る'''(や-に-くだ-る)とも。
** [[政府]]の一員だった[[大臣 (日本)|閣僚]]・[[与党]][[議員]]・[[首長]]・[[官僚]]・[[軍人]]などの[[官吏]]が自ら辞職するか、あるいは辞職に追い込まれ、[[在野]]([[民間人]])になること。
** [[対義語]]は[[仕官]]([[官]]に仕える)。
* [[政府]]・[[与党]]だった[[政党]]が、[[政権交代]]など何らかの理由で[[野党]]に退くこと。
* [[転義法|比喩]]的に、[[学者]]が[[大学]]などの[[研究所|研究機関]]を去ること。
== 関連項目 ==
* {{Prefix}}
* [[上野 (曖昧さ回避)]]
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[[Category:日本の旧地域名]]
[[Category:日本語の姓|しもの]]
[[Category:百官名]]
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石城
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石城(いわき、せきじょう)
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石城(いわき、せきじょう)
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'''石城'''(いわき、せきじょう)
== いわき ==
{{See also|いわき}}
* [[石城国]] - 奈良時代の日本に短期間置かれた[[令制国]]
* [[石城郡]] - [[石城国]]、[[陸奥国]]、[[福島県]]に置かれた[[郡]]。
* [[伊予石城駅]] - [[愛媛県]][[西予市]]にある[[四国旅客鉄道|JR四国]][[予讃線]]の駅。
== せきじょう ==
* 石城 - [[福岡県]][[福岡市]]の[[博多]]のかつての別名。[[江戸時代]]に『石城志』が出版される。
* [[石城 (伊予国)]] - [[愛媛県]][[宇和島市]][[吉田町 (愛媛県)|吉田町]]にあった[[山城]]。
* 石城里 - [[台湾]][[宜蘭県]][[頭城鎮]]に位置する[[里 (台湾)|里]]。
** [[石城駅]] - 石城里にある台湾鉄路管理局[[宜蘭線]]の駅。
* [[石城県]] - [[中華人民共和国]][[江西省]][[贛州市]]に位置する[[県 (中華人民共和国)|県]]。
* 石城県 - 中華人民共和国[[広東省]]の[[廉江市]]に位置していた県。
* [[:zh:石城镇|石城鎮]] - 中国各地にある[[鎮]]。
* [[:zh:石城乡|石城郷]] - 中国各地にある[[郷]]。
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陸奥
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陸奥、正字: 陸奧(むつ、みちのく、りくおう)
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陸奥、正字: 陸奧(むつ、みちのく、りくおう) 陸奥国(みちのくのくに、むつのくに) - 日本の令制国の一つ。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部に相当する
陸奥国 (1869-)(むつのくに、りくおうのくに) - 日本の明治時代初期の地方区分の一つ。現在の青森県と岩手県の一部に相当 以下はみなこの陸奥にちなむ 陸奥 (戦艦) - 日本海軍の戦艦
陸奥 (相撲) - 大相撲の年寄名跡の一つ
青森県むつ市
むつ (列車) - 日本国有鉄道・JR東日本の優等列車。かもしか (列車)を参照
陸奥 (リンゴ)、サン陸奥 - リンゴの品種の一つ
百官名の一つ
|
{{TOCright}}
'''陸奥'''、[[正字]]: '''陸奧'''(むつ、みちのく、りくおう)
* [[陸奥国]](みちのくのくに、むつのくに) - 日本の[[令制国]]の一つ。現在の[[福島県]]、[[宮城県]]、[[岩手県]]、[[青森県]]、[[秋田県]]の一部に相当する
** [[陸奥国 (1869-)]](むつのくに、りくおうのくに) - 日本の明治時代初期の地方区分の一つ。現在の[[青森県]]と[[岩手県]]の一部に相当
以下はみなこの陸奥にちなむ
* [[陸奥 (戦艦)]] - 日本海軍の戦艦
* [[陸奥 (相撲)]] - [[大相撲]]の[[年寄名跡]]の一つ
* 青森県[[むつ市]]
* むつ (列車) - 日本国有鉄道・JR東日本の優等列車。[[かもしか (列車)]]を参照
* [[陸奥 (リンゴ)]]、サン陸奥 - [[リンゴ]]の品種の一つ
* [[百官名]]の一つ
== 姓 ==
[[日本]]の[[姓]]の一つ。
* [[陸奥氏]]([[伊達氏]]家臣)
* [[陸奥丈部氏]]
** [[陸奥丈部立男]]
** [[阿部陸奥氏]](あべのむつし)([[那須国造]])
*** [[阿倍陸奥継島]](阿倍丈部臣繼島)(陸奥[[丈部氏|丈部]][[臣]]、阿倍陸奥臣)(つぐしま)、9世紀の日本の陸奥国の人物
*** [[阿倍陸奥善福]](ぜんふく)、9世紀の日本の陸奥国の人物
*** [[阿倍陸奥永宗]](ながむね)、9世紀の日本の陸奥国の人物、柴田郡郡司
* [[陸奥家]]([[紀州伊達氏]]の一族)
** [[陸奥宗光]]
** [[陸奥亮子]]
** [[陸奥廣吉]]
* [[陸奥A子]] - 漫画家
* [[陸奥明]] - 作曲家
; 陸奥介
* [[陸奥介氏]]
** [[陸奥介景衡]]
** [[陸奥介景綱]]
; 陸奥守
* [[陸奥守吉行]] - 刀工
* [[陸奥守忠吉]] - 江戸時代の刀工
=== 四股名 ===
* [[陸奥北海勝昭]]、[[伊勢ヶ濱部屋|安治川部屋]]、[[伊勢ヶ濱部屋]]所属の力士
* [[陸奥嵐幸雄]]、[[宮城野部屋]]に所属した力士
; 陸奥錦
{{main|陸奥錦}}
* [[陸奥錦建市]]、[[振分部屋]]に所属した力士
* [[陸奥錦秀二郎]]、振分部屋に所属した力士
; 陸奥ノ里
* [[陸奥ノ里敏男]]、[[出羽海部屋]]に所属した力士
== 関連項目 ==
* {{Prefix}}
* [[陸奥介]]
* [[むつ]](曖昧さ回避)
* [[みちのく]]
* [[陸州]]、[[奥州]]
* [[陸羽 (曖昧さ回避)]]、[[奥羽]]
{{Aimai}}
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[[Category:日本の地名]]
[[Category:同名の地名]]
[[Category:日本の旧地域名|みちのく]]
[[Category:日本語の姓]]
[[Category:百官名]]
[[Category:四股名]]
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武蔵
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武蔵(むさし、たけぞう)
多くは宮本武蔵をモチーフとした作品。
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武蔵(むさし、たけぞう)
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'''武蔵'''(むさし、たけぞう)
== 地名 ==
; 自治体
* [[武蔵野市]] - [[東京都]]の自治体(旧:武蔵野村)
; 町・字
* 東京都西多摩郡瑞穂町武蔵
* 奈良県吉野郡十津川村武蔵
* 福岡県筑紫野市武蔵
* [[武蔵ヶ辻]] - [[石川県]][[金沢市]]の地名
; その他
* [[武蔵国]] - 日本の[[令制国]]の一つで21の郡を有した大国。現在の[[東京都]]、[[埼玉県]]、[[川崎市]]、[[横浜市]]の大部分に当たる。
* [[武蔵野]] - 武蔵国の一部を指す汎称地名。
== 人名 ==
* [[百官名]]の一つ。
* 日本語の姓。
; 実在の人物
* [[宮本武蔵]] - 江戸時代の剣豪。これを由来とする架空の人名などが多数ある。
* [[武蔵 (格闘家)]] - 空手の選手、元格闘家。
* [[ゲガール・ムサシ]] - [[オランダ]]出身の[[総合格闘家]]。
* [[MUSASHI (漫画家)]] - 日本の漫画家。
* [[武蔵丸]] - アメリカ・[[ハワイ州]]出身の大相撲力士。
* [[六三四Musashi]] - [[ロックバンド]]。
* MUSASHI - [[佐々木大地 (プロレスラー)]]のリングネーム。
; 架空の人名
* [[ムサシ (アニメポケットモンスター)]] - アニメ『[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]]』の登場人物。
* アニメ『[[しゅごキャラ!]]』に出てくる、三条海里のしゅごキャラ。
* アニメ『[[からくり剣豪伝ムサシロード]]』の主人公。
* ゲームソフト『[[ブレイヴフェンサー 武蔵伝]]』、『[[武蔵伝II ブレイドマスター]]』の主人公。
* 漫画『[[9番目のムサシ]]』の主人公の一人。
* 『[[恐竜大戦争アイゼンボーグ]]』の登場人物。
* 巴武蔵 - 『[[ゲッターロボ]]』、『[[真ゲッターロボ 世界最後の日]]』の登場人物。
* 武蔵厳 - 漫画『[[アイシールド21]]』の登場人物。通称「ムサシ」。名字の読みは「たけくら」。[[泥門デビルバッツ#武蔵厳]]を参照。
* 宮本ムサシ - [[格闘料理人ムサシ]]の主人公。
* 春野ムサシ - 特撮番組『[[ウルトラマンコスモス]]』の主人公。{{main|[[ウルトラマンコスモス#TEAM EYESメンバー]]}}
* 夏木六三四 - 漫画『[[六三四の剣]]』の主人公。
== 教育機関 ==
* [[武蔵大学]] - [[武蔵高等学校 (旧制)|旧制武蔵高等学校]]を前身とする私立四年制大学。
* [[武蔵高等学校中学校]] - [[東京都]][[練馬区]]に所在する私立中高一貫校。
* [[東京都立武蔵高等学校・附属中学校]] - [[東京都]][[武蔵野市]]に所在する都立併設型中高一貫校。
== 乗り物 ==
; 列車
* むさし - [[西武池袋線]]で運行している特別急行列車。
{{main|[[ちちぶ (列車)]]}}
; 日本海軍の軍艦
* [[武蔵艦]]
* [[武蔵 (スループ)]] - 初代・[[葛城型スループ|葛城型]]の三番艦、鉄骨木皮[[スループ]]。
* [[武蔵 (戦艦)]] - [[大和型戦艦]]の二番艦。
; その他
* [[深田サルベージ建設]]が所有する起重機船(主巻定格荷重3,700トン吊)
* むさし号 - [[さいたま市]]で運行されている[[乗合タクシー]]。{{Main|[[さいたま市乗合タクシー#桜区大久保・中央区西与野地区乗合タクシー「むさし号」]]}}
== 企業、店舗名 ==
* [[武蔵精密工業]] - 自動車部品メーカー([[愛知県]][[豊橋市]])
* [[麺屋武蔵]] - ラーメンチェーン店([[東京都]][[新宿区]])
* [[武蔵コーポレーション]] - 不動産会社([[東京都]][[千代田区]])
* [[武蔵システム (東京都)]] - 電気機器([[東京都]][[三鷹市]])
* [[むさし証券]] - 証券会社([[埼玉県]][[さいたま市]])
* [[武蔵通商]] - 物流会社([[東京都]][[武蔵村山市]])
* [[武蔵システム (新潟県)]] - ソフトウェア([[新潟県]][[長岡市]])
* [[武蔵観光]] - 陸運業([[埼玉県]][[秩父郡]])
* [[ムサシ (企業)]] - 情報・産業機材、選挙機材を扱う企業(JASDAQ:7521)。
* ホームセンター武蔵 - 日本の[[ホームセンター]]。[[アークランドサカモト]]を参照。
* [[むすび むさし]] - [[広島市]]を中心に展開する[[おにぎり]]、[[うどん]]、[[蕎麦]]の専門店。
* [[武蔵一族]] - 1582年の徳川家康の伊賀越えに随従した後、徳川家と幕府に仕えた伊賀者忍士(しのびさむらい)永持・柴田両家の子孫を中心に形成された一族。2019年にNPO法人武蔵忍士団を設立。文化の振興及び国際交流の推進を図り、もって公益に寄与することを目的としている。
== スポーツチーム ==
* [[埼玉武蔵ヒートベアーズ]] - [[ベースボール・チャレンジ・リーグ]](BCリーグ)に加盟する[[プロ野球]]チーム(2018年9月までは「武蔵ヒートベアーズ」)。
== 生物 ==
* [[musashi]] - ショウジョウバエの遺伝子。宮本武蔵にちなんで名付けられた。
* [[MUSASHI'S]] - ネコ5匹からなるボーカルユニット。
== 作品名 ==
多くは宮本武蔵をモチーフとした作品。
* [[武蔵 MUSASHI]] - NHK[[大河ドラマ]]。
* [[ムサシ (戯曲)]] - [[井上ひさし]]作の舞台劇。
* [[武蔵 -むさし-]] - 2019年公開の日本映画。
* [[MUSASHI (映画)]] - 1996年公開の日本映画。
* [[武蔵 (漫画)]] - [[本宮ひろ志]]の漫画。
* [[MUSASHI -GUN道-]] - [[モンキー・パンチ]]原作のテレビアニメ。
* ムサシ - [[吉川晃司]]の楽曲。アルバム『[[TARZAN]]』に収録。
== 関連項目 ==
* [[634]] - 武蔵(むさし)の語呂合わせ([[東京スカイツリー]]等)
* {{Prefix}}
* {{Intitle}}
* {{Intitle|むさし}}
* {{Intitle|ムサシ}}
{{Aimai}}
{{DEFAULTSORT:むさし}}
[[Category:日本の地名]]
[[Category:同名の地名]]
[[Category:日本の旧地域名]]
[[Category:百官名]]
[[Category:日本語の姓]]
[[Category:日本海軍・海上自衛隊の同名艦船]]
[[Category:同名の作品]]
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13,450 |
安房
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安房(あわ、あぼう、あんぼう)は、日本の地名。
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安房(あわ、あぼう、あんぼう)は、日本の地名。
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'''安房'''(あわ、あぼう、あんぼう)は、[[日本]]の地名。
== あわ ==
* [[千葉県]][[房総半島]]南部の地域名。
** [[安房国]]
** [[安房郡]]
* [[安房町]] - [[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]の町名。
* 安房国(厳密には安房守の官名)に由来して[[百官名]]にもなっている。
== あぼう ==
* [[安房峠]]
** [[安房峠道路]]
== あんぼう ==
* [[茨城県]][[鉾田市]]の[[大字]]。
* [[鹿児島県]][[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[屋久島町]]の大字。
** [[安房森林軌道]]
** [[安房港]]
== 関連項目 ==
* [[安房神社 (曖昧さ回避)]]
* {{Prefix}}
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[[Category:同名の地名]]
[[Category:百官名|あわ]]
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若狭
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若狭(わかさ)
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若狭(わかさ)
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'''若狭'''(わかさ)
== 地名 ==
* [[若狭国]]
**[[若狭地方]]([[嶺南]]地域) - かつて若狭国だった部分に[[敦賀市]]を加えた地域の呼称。
* [[若狭湾]]
=== 自治体 ===
* [[若狭町]] - [[福井県]][[三方上中郡]]若狭町(わかさちょう)
* 若狭村 - 町村制施行に伴い[[富山県]][[婦負郡]][[山田村 (富山県婦負郡)|山田村]]に編入。現・[[富山市]]。
=== 大字・町丁 ===
* [[埼玉県]][[所沢市]]若狭 → [[若狭 (所沢市)]]を参照。
* [[福井県]][[小浜市]]若狭
* [[沖縄県]][[那覇市]]若狭
== その他 ==
* [[わかさ (海洋観測艦)]] - [[海上自衛隊]]の艦船
* [[いわみ型巡視船|わかさ(巡視船)]] - [[海上保安庁]]の船艇
*
* [[わかさ (列車)]] - [[日本国有鉄道]]・[[西日本旅客鉄道]]の[[急行列車]]。[[小浜線]]経由の優等列車全般について記述する。
* [[わかさライナー]] - [[大阪府]][[大阪市]]と[[福井県]][[嶺南]]地方([[北近畿]])を結んでいた[[高速バス]]。
* [[若狭 (八板清定女)]] - [[種子島]]の刀鍛冶[[八板金兵衛]]の娘で、[[火縄銃]]複製に不可欠な[[ねじ]]の製法習得のためポルトガル人に嫁がされたとされる。
* [[日本人]]の[[姓]]の一つ。
** [[若狭得治]] - [[運輸省|運輸]][[官僚]]、[[全日本空輸]]社長。
** [[若狭勝]] - [[衆議院議員]](2014年 - 2017年)、[[弁護士]]。
** [[若狭敬一]] - [[アナウンサー]]。
== 関連項目 ==
* {{Prefix}}
* {{Intitle}}
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[[Category:同名の地名]]
[[Category:日本の地名]]
[[Category:日本語の姓]]
[[Category:北陸地方由来の姓]]
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越前
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越前、えちぜん
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越前、えちぜん
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'''越前'''、'''えちぜん'''
== 地名 ==
*[[越前国]] - かつての[[令制国]]のひとつ。[[北陸道]]に属し、主に現在の[[福井県]][[嶺北]]地方にあたる。
**派生して、越前国の[[守護|守護職]]ないしは[[国司|国守]]・国主・[[受領名]]を略して用いる場合もある。[[江戸幕府]][[町奉行]]の[[大岡忠相]]などが挙げられる。
=== 自治体名 ===
*福井県[[越前市]]
*福井県丹生郡[[越前町]]
*福井県南条郡[[南越前町]]
=== 町・字 ===
; えちぜんちょう
* [[越前町 (京都市)]] - 京都府京都市伏見区
* [[越前町 (土佐清水市)]] - 高知県土佐清水市
; えちぜんまち
* [[越前町 (江差町)]] - 北海道檜山郡江差町
* [[越前町 (富山市)]] - 富山県富山市
* [[越前町 (高知市)]] - 高知県高知市
; その他
* [[栗沢町越前]] - 北海道岩見沢市
* [[十文字町越前]] - 秋田県横手市
* [[越前浜]] - 新潟県新潟市西蒲区
* 金石上越前町、金石下越前町 - 石川県金沢市 →「[[金石 (金沢市)]]」を参照。
* [[大聖寺越前町]] - 石川県加賀市
== その他 ==
*列車名「越前」
**1962年6月から1965年10月の間、大阪駅・敦賀駅と金沢駅の間を運行した急行列車。運行系統では後の[[サンダーバード (列車)]](旧:雷鳥)にあたる。
**1965年10月から1982年11月の間、上野駅と福井駅間を運行した夜行急行列車。[[能登 (列車)]]・[[あさま]]を参照。
*えちぜん(ファミリーレストラン) : [[コロワイド]]の傘下である[[アトム (飲食業)|株式会社アトム]]が経営する和食レストラン。
*[[日本人]]の[[姓]]の一つ。
*[[百官名]]の一つ。
== 関連項目 ==
* {{Prefix}}
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[[Category:同名の地名]]
[[Category:日本語の姓]]
[[Category:北陸地方由来の姓]]
[[Category:百官名]]
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13,456 |
加賀
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加賀(かが、かか)
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加賀(かが、かか) 日本の地名
加賀国 - 令制国の一つ
加賀藩 - 加賀、能登、越中の3国にわたって領地をもった藩
加賀市 - 石川県最南部の市
加賀郡 (加賀国) - 加賀国の郡。後の河北郡
加賀郡 - 岡山県の郡
加賀 (柏市) - 千葉県柏市の地名
加賀 (足立区) - 東京都足立区の地名
加賀 (板橋区) - 東京都板橋区の地名
島根町加賀 - 島根県松江市の地名
加賀町 (曖昧さ回避) - 日本の町丁
人名
日本語の姓の一つ。加賀姓の人物については関連項目も参照
加賀氏 - 日本の氏族
美福門院加賀 - 平安時代末期の女房・歌人。藤原親忠の娘で藤原為忠と結婚して藤原隆信を生み、夫の出家後、藤原俊成と再婚して藤原成家・定家らを生んだ
艦艇名
加賀 (空母) - 大日本帝国海軍の軍艦
かが (護衛艦) - 海上自衛隊の護衛艦。いずも型護衛艦の2番艦
列車名
1959年より1991年まで大阪駅 - 金沢駅間を運行した準急列車・急行列車。サンダーバード (列車)を参照
1993年より1997年まで上野駅 - 金沢駅間を運行した急行列車。能登 (列車)を参照
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'''加賀'''(かが、かか)
* 日本の地名
** [[加賀国]] - 令制国の一つ
** [[加賀藩]] - 加賀、[[能登国|能登]]、[[越中国|越中]]の3国にわたって領地をもった藩
** [[加賀市]] - [[石川県]]最南部の市
** [[加賀郡 (加賀国)]] - 加賀国の郡。後の[[河北郡]]
** [[加賀郡]] - [[岡山県]]の郡
** [[加賀 (柏市)]] - [[千葉県]][[柏市]]の地名
** [[加賀 (足立区)]] - [[東京都]][[足立区]]の地名
** [[加賀 (板橋区)]] - 東京都[[板橋区]]の地名
** [[島根町加賀]] - [[島根県]][[松江市]]の地名
** [[加賀町 (曖昧さ回避)]] - 日本の町丁
* 人名
** 日本語の[[姓]]の一つ。加賀姓の人物については関連項目も参照
** [[加賀氏]] - 日本の氏族
** [[美福門院加賀]] - 平安時代末期の女房・歌人。[[藤原親忠]]の娘で[[藤原為忠]]と結婚して[[藤原隆信]]を生み、夫の出家後、[[藤原俊成]]と再婚して[[藤原成家]]・[[藤原定家|定家]]らを生んだ
* 艦艇名
** [[加賀 (空母)]] - 大日本帝国海軍の軍艦
** [[かが (護衛艦)]] - 海上自衛隊の護衛艦。[[いずも型護衛艦]]の2番艦
* 列車名
** 1959年より1991年まで大阪駅 - 金沢駅間を運行した準急列車・急行列車。[[サンダーバード (列車)]]を参照
** 1993年より1997年まで上野駅 - 金沢駅間を運行した急行列車。[[能登 (列車)]]を参照
== 関連項目 ==
* {{Prefix}}
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[[Category:同名の地名]]
[[Category:日本の地名]]
[[Category:日本語の姓]]
[[Category:日本海軍・海上自衛隊の同名艦船]]
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13,457 |
能登
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能登(のと)
日本の北陸地方の地名。
日本人の姓のひとつ。
能登屋・能登谷という変種が存在する。
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能登(のと)
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'''能登'''(のと)
{{TOCright}}
== 地名 ==
日本の[[北陸地方]]の地名。
* [[能登半島]]
* [[能登国]] - 日本の[[令制国]]のひとつ。[[北陸道]]にある。
* 能登地方 - [[石川県]]内で能登国にあたる地方。現在の行政区域では[[宝達志水町]]から北の地域を指す。
* [[能登町]] - [[石川県]][[鳳珠郡]]にある町。
* [[能登 (新潟市)]] - [[新潟市]][[南区 (新潟市)|南区]]の地名。
== 姓 ==
[[日本人]]の[[姓]]のひとつ。
* [[能登有沙]](タレント)
* [[能登麻美子]](声優)
[[能登屋]]・[[能登谷]]という変種が存在する。
== その他 ==
* [[能登 (船)]] - [[奈良時代]]の[[遣渤海使]]船。
* [[能登 (列車)]] - かつて[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)および[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が運行していた[[急行列車]]の[[列車愛称]]。
== 関連項目 ==
* {{Prefix}}
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[[Category:同名の地名]]
[[Category:日本の地名]]
[[Category:日本語の姓]]
[[Category:北陸地方由来の姓]]
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13,461 |
上野国
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上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の令制国の一つ。東山道に属する。おおむね現在の群馬県にあたる。別名は、上州(じょうしゅう)、上毛野(かみつけの・かみつけぬ)、上毛(じょうもう・かみつけ)など。
古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる地域と、それぞれを拠点とする政治勢力が存在した。そして前者の毛野が上・下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる。毛野の起こりについては、『常陸国風土記』によると筑波はもともと紀の国であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。また『続日本紀』では毛野川は古くから常陸国と下総国の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の鬼怒川)の深い関わりがうかがわれる。『上野名跡志』では下野国河内郡衣川郷が毛野という名称の由来と推察されている。
国名の上下については、上総国と下総国などと同様、一国を「上」と「下」に二分したものとされるが、備・越・筑・豊・肥等のように前後に分けられた国との違いは不詳である。またこの分裂は史書に無く詳細は不明で、古くから議論がある(「毛野#毛野の分裂」を参照)。
『大宝律令』の制定においても、上毛野は「上毛野国(かみつけの/かみつけぬ)」として令制国の1つに定められた。その後、上毛野国・下毛野国の国名は「上野国」・「下野国」と改められた。この際、「毛」の字は消えたものの「こうずけのくに」として読みにその名残をとどめている。「上毛(じょうもう)」という別称は今でも用いられている。なお「かみつけ」からの転訛であるが、読みは慣用的に「こうづけ」でなく、四つ仮名の混同により(現代仮名遣いでは)「こうずけ」と振られて表記される。
読みについて、『和名抄』には「加三豆介乃」、『万葉集』には「可美都氣努」「可美都氣野」などが見られる。同集で当国名が詠まれた12首のうち11首までは末尾を「努(ヌ)」と詠んでいるのに対し「乃(ノ)」としているのは1首のみで、奈良時代頃までは「かみつけぬ」後世に「かみつけの」と読みが変わったものと推定されている。さらに、「美」については「ウ」とも読み、「ウ」の次の読みは濁ることが多く「ヅ」となり訛って「ノ」を省き「カウヅケ」となったとの解釈がある。そして、「かう〔kau〕二重母音」→「こー〔kɔː〕(長母音・円唇後舌半広母音)」のように変化していったものと思われる。
「努」の読みの解釈については「努」は万葉仮名の「ノ(甲類)」であるとし、「けぬ」は江戸時代以来の誤った読みとする説もある。ただし、万葉集では「努」はもとより「野」についても「ヌ」の読みに充てている例もあるため、「毛野」を「けの」または「けぬ」とする例も少なからず見られる。
藤原宮跡出土木簡の中には「上毛野国車評桃井里」の記載が見られる。
『日本書紀』によると、上毛野国造の上毛野君は崇神天皇長子で東国の統治を任じられた豊城入彦命を祖とするとされる。また上野は日本武尊が蝦夷を平定し日高見国から西南の地常陸国に戻って甲斐国に至り、その北にあって従わない信濃および越を征するため武蔵および上野を経由して碓日坂を登り碓日峰で東南を見下ろして「吾嬬者耶」と言ったことで知られる。
また、書紀では上毛野君は仁徳天皇の御世に新羅と戦い捕虜を得たといい、またその後天智天皇の御世には百済が新羅に攻められた際、百済を軍事的に支援するため朝鮮半島に遣わされたという。この間推古天皇9年(601年)9月8日には新羅人の間諜者である迦摩多が対馬で捕えられ上野に配流されており、上野国と朝鮮半島が古い時期から深く関わりを有していたことがうかがわれる。「国造本紀」では仁徳朝に下毛野国造が分置されたとされる。
和銅4年(711年)に甘楽郡(かむらのこほり)の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田(やた)・大家(おおや)の4郷、緑野郡(みとののこほり)の武美1郷、片岡郡(かたおかのこほり)の山等(やまな)1郷、計6郷が各郡から分離され多胡郡(たごのこほり)が新設され、倭名類聚抄の成立期には碓氷(うすひ)・片岡(かたおか)・甘楽(かむら)・多胡(たご)・緑野(みとの)・那波(なは)・群馬(くるま)・吾妻(あかつま)・利根(とね)・勢多(せた)・佐位(さゐ)・新田(にふた)・山田(やまた)・邑楽(おはらき)の計14郡があった。
国級は上国であったが、弘仁2年(811年)2月15日に大国に変更となり、天長3年(826年)旧暦9月6日、上野国と常陸国、上総国の3国には国守として親王が遥任される親王任国となった。このため、上野国の現地長官は次官の上野介であった。良馬の産地として勅旨牧がおかれた。
全国に10余りしか現存しない奈良時代以前の石碑のうち、3つが多胡郡にある。藤原宮木簡には、上毛野国と表記。国衙のあった国府は群馬郡にあった。現在の前橋市元総社町付近と推定されているが、その遺跡の所在を確認するには至っていない。その周辺には国分寺跡・国分尼寺跡・総社神社がある。
天慶年間に関東東部で内乱を起こした平将門は上野国府を落とし、一時上野国を支配するが、藤原秀郷によって討ち取られた。秀郷の子孫は上野各地に進出し、淵名・佐位・吾妻・薗田・大胡・山上などの一族に分かれ、有力な武士団として成長した。
12世紀初頭の天仁元年(1108年)、浅間山の噴火により、上野国一円の農耕地は甚大な被害を受けた。荒廃した耕地は、在地領主の大規模な再開発によって私領となり、その権益を守るために中央の貴族に寄進され、荘園が成立する。上野国の荘園として、八幡荘・淵名荘・土井出笠科荘・佐貫荘・吾妻荘・新田荘や、伊勢神宮の御厨として玉村御厨・細井御厨・邑楽御厨がみえる。これらの荘園の開発に成功したのは秀郷流藤原氏や、新勢力として進出した源義重に始まる新田氏であった。
治承4年(1180年)に源頼朝が相模国鎌倉に入り武家政権を樹立すると、源義重は自立を目指し抵抗するが、最後には頼朝の軍門に下った。また、藤原秀郷の系譜を引く藤姓足利氏の足利俊綱は、頼朝に抗して没落した。
こうして上野国に鎌倉幕府の秩序が打ち立てられた。守護となったのは安達氏であり、弘安8年(1285年)の霜月騒動で安達氏が没落するまで、上野国を支配し続けた。その後、守護は幕府滅亡時まで北条得宗家であった。その下に、上野武士団は御家人として鎌倉に出仕した。御家人としては、新田一族をはじめ、佐貫・大胡・山上・沼田・吾妻・那波・淵名氏がみえる。
元弘3年(1333年)、新田荘生品神社で挙兵した新田義貞は鎌倉を攻め、幕府を滅亡させた。
室町幕府の下、上野守護に任じられたのは上杉氏である。八幡荘が守護領とされ、守護所は板鼻に置かれた。ただし、上杉氏は関東管領を兼ねて鎌倉におり、在地支配は守護代の長尾氏に任された。長尾氏は惣社・白井の二家に分かれ、それぞれ上野国府、白井城に拠点を築いた。
天文15年(1546年)、河越夜戦での上杉憲政方が大敗。
天文21年(1552年)、平井城が北条氏康に攻め落とされ、関東管領上杉憲政(山内上杉家)が敗走し、越後に逃れた。
天正6年(1578年)、上杉謙信の死去を以って、関東管領の統治が終わった。
永禄年間に後北条氏が上野国を領国化した。
永禄4年(1561年)に甲斐国の武田信玄による西上野侵攻の結果、西上野が甲斐武田氏支配下となり、城代を置いた。
天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、倉賀野秀景は織田信長方の滝川一益に従った。
天正10年(1582年)、神流川の戦いにて後北条氏と滝川一益(織田氏)が戦い、後北条氏方が勝利した。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、上野国の武将の一部は後北条氏武将として小田原城に籠城した。
江戸時代には、沼田藩、前橋藩、安中藩、高崎藩、伊勢崎藩、七日市藩、吉井藩、小幡藩、および館林藩が置かれた。この他、明治維新まで実質的に命運を保つことができなかった藩として総社藩、那波藩、板鼻藩、矢田藩、上野豊岡藩、大胡藩、白井藩、青柳藩、上里見藩および篠塚藩がある。
群馬郡国府村にあったとする説(『上野名跡考』)があり、のちに群馬郡旧元総社村(現在の群馬県前橋市元総社町付近)の蒼海城跡とする説(『群馬郡村誌』など)が定説になったが、近藤義雄による群馬郡大友村(現在の群馬県前橋市大友町付近)の南の平坦地とする説が一時定説化していた。
国府域を確定させるため近藤説に基づいて1961年(昭和36年)から尾崎喜左雄らによって発掘調査が行われたが、むしろ元総社地区が最有力という結論になった。ただし、国府域や国衙跡は不明のままである。
延喜式内社
総社・一宮以下
利生塔は未詳。
明治維新直前の領域は、現在の桐生市の一部(菱町の全域および梅田町四・五丁目の一部)を除く群馬県の全域と、栃木県足利市の一部(南大町・里矢場町・新宿町・藤本町・荒金町)に相当する。
かつて群馬県は上野国と完全に同一の領域であったが、1959年(昭和34年)に栃木県(旧下野国)足利郡菱村が、1968年(昭和43年)に栃木県安蘇郡田沼町の入飛駒地区がいずれも桐生市に越境合併。また、1960年(昭和35年)に山田郡矢場川村の一部が栃木県足利市に編入された結果、上野国とは完全には一致しなくなっている。群馬県の方が上野国よりわずかに面積が大きくなっている。
出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
国司は天皇より叙任され、国内の政治事すべてを司った。
※日付=旧暦 ※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
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"text": "読みについて、『和名抄』には「加三豆介乃」、『万葉集』には「可美都氣努」「可美都氣野」などが見られる。同集で当国名が詠まれた12首のうち11首までは末尾を「努(ヌ)」と詠んでいるのに対し「乃(ノ)」としているのは1首のみで、奈良時代頃までは「かみつけぬ」後世に「かみつけの」と読みが変わったものと推定されている。さらに、「美」については「ウ」とも読み、「ウ」の次の読みは濁ることが多く「ヅ」となり訛って「ノ」を省き「カウヅケ」となったとの解釈がある。そして、「かう〔kau〕二重母音」→「こー〔kɔː〕(長母音・円唇後舌半広母音)」のように変化していったものと思われる。",
"title": "「上野」の由来と読み"
},
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"paragraph_id": 5,
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"text": "「努」の読みの解釈については「努」は万葉仮名の「ノ(甲類)」であるとし、「けぬ」は江戸時代以来の誤った読みとする説もある。ただし、万葉集では「努」はもとより「野」についても「ヌ」の読みに充てている例もあるため、「毛野」を「けの」または「けぬ」とする例も少なからず見られる。",
"title": "「上野」の由来と読み"
},
{
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"text": "藤原宮跡出土木簡の中には「上毛野国車評桃井里」の記載が見られる。",
"title": "「上野」の由来と読み"
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"text": "『日本書紀』によると、上毛野国造の上毛野君は崇神天皇長子で東国の統治を任じられた豊城入彦命を祖とするとされる。また上野は日本武尊が蝦夷を平定し日高見国から西南の地常陸国に戻って甲斐国に至り、その北にあって従わない信濃および越を征するため武蔵および上野を経由して碓日坂を登り碓日峰で東南を見下ろして「吾嬬者耶」と言ったことで知られる。",
"title": "沿革"
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"text": "また、書紀では上毛野君は仁徳天皇の御世に新羅と戦い捕虜を得たといい、またその後天智天皇の御世には百済が新羅に攻められた際、百済を軍事的に支援するため朝鮮半島に遣わされたという。この間推古天皇9年(601年)9月8日には新羅人の間諜者である迦摩多が対馬で捕えられ上野に配流されており、上野国と朝鮮半島が古い時期から深く関わりを有していたことがうかがわれる。「国造本紀」では仁徳朝に下毛野国造が分置されたとされる。",
"title": "沿革"
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"text": "和銅4年(711年)に甘楽郡(かむらのこほり)の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田(やた)・大家(おおや)の4郷、緑野郡(みとののこほり)の武美1郷、片岡郡(かたおかのこほり)の山等(やまな)1郷、計6郷が各郡から分離され多胡郡(たごのこほり)が新設され、倭名類聚抄の成立期には碓氷(うすひ)・片岡(かたおか)・甘楽(かむら)・多胡(たご)・緑野(みとの)・那波(なは)・群馬(くるま)・吾妻(あかつま)・利根(とね)・勢多(せた)・佐位(さゐ)・新田(にふた)・山田(やまた)・邑楽(おはらき)の計14郡があった。",
"title": "沿革"
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"text": "国級は上国であったが、弘仁2年(811年)2月15日に大国に変更となり、天長3年(826年)旧暦9月6日、上野国と常陸国、上総国の3国には国守として親王が遥任される親王任国となった。このため、上野国の現地長官は次官の上野介であった。良馬の産地として勅旨牧がおかれた。",
"title": "沿革"
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{
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"text": "全国に10余りしか現存しない奈良時代以前の石碑のうち、3つが多胡郡にある。藤原宮木簡には、上毛野国と表記。国衙のあった国府は群馬郡にあった。現在の前橋市元総社町付近と推定されているが、その遺跡の所在を確認するには至っていない。その周辺には国分寺跡・国分尼寺跡・総社神社がある。",
"title": "沿革"
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{
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"text": "天慶年間に関東東部で内乱を起こした平将門は上野国府を落とし、一時上野国を支配するが、藤原秀郷によって討ち取られた。秀郷の子孫は上野各地に進出し、淵名・佐位・吾妻・薗田・大胡・山上などの一族に分かれ、有力な武士団として成長した。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 13,
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"text": "12世紀初頭の天仁元年(1108年)、浅間山の噴火により、上野国一円の農耕地は甚大な被害を受けた。荒廃した耕地は、在地領主の大規模な再開発によって私領となり、その権益を守るために中央の貴族に寄進され、荘園が成立する。上野国の荘園として、八幡荘・淵名荘・土井出笠科荘・佐貫荘・吾妻荘・新田荘や、伊勢神宮の御厨として玉村御厨・細井御厨・邑楽御厨がみえる。これらの荘園の開発に成功したのは秀郷流藤原氏や、新勢力として進出した源義重に始まる新田氏であった。",
"title": "沿革"
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{
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"text": "治承4年(1180年)に源頼朝が相模国鎌倉に入り武家政権を樹立すると、源義重は自立を目指し抵抗するが、最後には頼朝の軍門に下った。また、藤原秀郷の系譜を引く藤姓足利氏の足利俊綱は、頼朝に抗して没落した。",
"title": "沿革"
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{
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"text": "こうして上野国に鎌倉幕府の秩序が打ち立てられた。守護となったのは安達氏であり、弘安8年(1285年)の霜月騒動で安達氏が没落するまで、上野国を支配し続けた。その後、守護は幕府滅亡時まで北条得宗家であった。その下に、上野武士団は御家人として鎌倉に出仕した。御家人としては、新田一族をはじめ、佐貫・大胡・山上・沼田・吾妻・那波・淵名氏がみえる。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "元弘3年(1333年)、新田荘生品神社で挙兵した新田義貞は鎌倉を攻め、幕府を滅亡させた。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "室町幕府の下、上野守護に任じられたのは上杉氏である。八幡荘が守護領とされ、守護所は板鼻に置かれた。ただし、上杉氏は関東管領を兼ねて鎌倉におり、在地支配は守護代の長尾氏に任された。長尾氏は惣社・白井の二家に分かれ、それぞれ上野国府、白井城に拠点を築いた。",
"title": "沿革"
},
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"text": "天文15年(1546年)、河越夜戦での上杉憲政方が大敗。",
"title": "沿革"
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{
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"tag": "p",
"text": "天文21年(1552年)、平井城が北条氏康に攻め落とされ、関東管領上杉憲政(山内上杉家)が敗走し、越後に逃れた。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "天正6年(1578年)、上杉謙信の死去を以って、関東管領の統治が終わった。",
"title": "沿革"
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"text": "永禄年間に後北条氏が上野国を領国化した。",
"title": "沿革"
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"text": "永禄4年(1561年)に甲斐国の武田信玄による西上野侵攻の結果、西上野が甲斐武田氏支配下となり、城代を置いた。",
"title": "沿革"
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"text": "天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、倉賀野秀景は織田信長方の滝川一益に従った。",
"title": "沿革"
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"text": "天正10年(1582年)、神流川の戦いにて後北条氏と滝川一益(織田氏)が戦い、後北条氏方が勝利した。",
"title": "沿革"
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"text": "天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、上野国の武将の一部は後北条氏武将として小田原城に籠城した。",
"title": "沿革"
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"text": "江戸時代には、沼田藩、前橋藩、安中藩、高崎藩、伊勢崎藩、七日市藩、吉井藩、小幡藩、および館林藩が置かれた。この他、明治維新まで実質的に命運を保つことができなかった藩として総社藩、那波藩、板鼻藩、矢田藩、上野豊岡藩、大胡藩、白井藩、青柳藩、上里見藩および篠塚藩がある。",
"title": "沿革"
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"text": "群馬郡国府村にあったとする説(『上野名跡考』)があり、のちに群馬郡旧元総社村(現在の群馬県前橋市元総社町付近)の蒼海城跡とする説(『群馬郡村誌』など)が定説になったが、近藤義雄による群馬郡大友村(現在の群馬県前橋市大友町付近)の南の平坦地とする説が一時定説化していた。",
"title": "国内の施設"
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"text": "国府域を確定させるため近藤説に基づいて1961年(昭和36年)から尾崎喜左雄らによって発掘調査が行われたが、むしろ元総社地区が最有力という結論になった。ただし、国府域や国衙跡は不明のままである。",
"title": "国内の施設"
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"text": "延喜式内社",
"title": "国内の施設"
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"text": "総社・一宮以下",
"title": "国内の施設"
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"text": "利生塔は未詳。",
"title": "国内の施設"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "明治維新直前の領域は、現在の桐生市の一部(菱町の全域および梅田町四・五丁目の一部)を除く群馬県の全域と、栃木県足利市の一部(南大町・里矢場町・新宿町・藤本町・荒金町)に相当する。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "かつて群馬県は上野国と完全に同一の領域であったが、1959年(昭和34年)に栃木県(旧下野国)足利郡菱村が、1968年(昭和43年)に栃木県安蘇郡田沼町の入飛駒地区がいずれも桐生市に越境合併。また、1960年(昭和35年)に山田郡矢場川村の一部が栃木県足利市に編入された結果、上野国とは完全には一致しなくなっている。群馬県の方が上野国よりわずかに面積が大きくなっている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "国司は天皇より叙任され、国内の政治事すべてを司った。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "※日付=旧暦 ※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。",
"title": "人物"
}
] |
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の令制国の一つ。東山道に属する。おおむね現在の群馬県にあたる。別名は、上州(じょうしゅう)、上毛野(かみつけの・かみつけぬ)、上毛(じょうもう・かみつけ)など。
|
{{Redirect|上州|[[中華人民共和国]]の[[湖北省]]・[[陝西省]]にかつてあった州|上州 (中国)|中華人民共和国の[[陝西省]]にかつてあった州|綏州}}
{{基礎情報 令制国
|国名 = 上野国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|上野国}}
|別称 = 上州(じょうしゅう)<br>上毛(じょうもう・かみつけ)<br>上毛野(かみつけの・かみつけぬ)
|所属 = [[東山道]]
|領域 = [[群馬県]]<ref group="注釈">[[桐生市]]のうち[[桐生川]]以東は含まない。</ref>
|国力 = [[上国]]のち[[大国 (令制国)|大国]]<ref group="注釈">『[[記紀]]』・『[[六国史]]』での格は[[811年]]([[弘仁]]2年)までは[[上国]]、以後は大国。</ref>
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 14郡102郷
|国府 = [[群馬県]][[前橋市]]
|国分寺 = [[群馬県]][[前橋市]]・[[高崎市]]([[上野国分寺跡]])
|国分尼寺 = [[群馬県]][[前橋市]]・[[高崎市]]
|一宮 = [[一之宮貫前神社]]([[群馬県]][[富岡市]])
}}
'''上野国'''(こうずけのくに<ref>「上野国」『国史大辞典』吉川弘文館。</ref>、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて[[日本]]の[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。おおむね現在の[[群馬県]]にあたる。別名は、'''上州'''(じょうしゅう)、'''上毛野'''(かみつけの・かみつけぬ)、'''上毛'''(じょうもう・かみつけ)など。
== 「上野」の由来と読み ==
<div class="tright" style="border:1px solid #a2a9b1;text-align:left;padding:2px;">
; 毛野地域の変遷
{{familytree/start|style=font-size:95%}}
{{familytree|border=0|00|01| 00=<small>4世紀頃?</small>|01=[[毛野]]}}
{{familytree|border=0||||||D|~|7}}
{{familytree|border=0|00|01|02|03| 00=<small>5世紀末頃?</small>|01=[[上毛野国造|上毛野]]|02=[[下毛野国造|下毛野]]|03=[[那須国造|那須]]}}
{{familytree|border=0||||||:||L|V|J}}
{{familytree|border=0|00|01||02| 00=<small>7世紀末</small>|01='''上毛野国'''|02=[[下野国|下毛野国]]}}
{{familytree|border=0||||||!|||!}}
{{familytree|border=0|00|01||02| 00=<small>8世紀初頭</small>|01='''上野国'''|02=[[下野国]]}}
{{familytree|border=0||||||!|||!}}
{{familytree|border=0||||||:|||:}}
{{familytree|border=0||||01||01| 01=↓}}
{{familytree|border=0|00|01||02| 00=<small>現在の<br/>[[都道府県]]</small>|01=[[群馬県]]|02=[[栃木県]]}}
{{familytree/end}}
</div>
古代関東には「[[毛野]](けの/けぬ)」および「[[那須国|那須]](なす)」と呼ばれる地域と、それぞれを拠点とする政治勢力が存在した。そして前者の毛野が上・下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる<ref name = sekai>『世界大百科事典』(平凡社)毛野(けぬ)項。</ref><ref>『国造本記』(『先代旧事本紀』第10巻)下毛野国造条。</ref>。毛野の起こりについては、『[[常陸国風土記]]』によると[[筑波国造|筑波]]はもともと[[毛野|紀の国]]であるといい、この紀の国と毛野が同一かは不詳だが、「毛野河」は筑波西部の郡の境界とある。また『[[続日本紀]]』では毛野川は古くから[[常陸国]]と[[下総国]]の境界であると記されているなど、毛野と毛野川(現在の[[鬼怒川]])の深い関わりがうかがわれる。『[[上野名跡志]]』では[[下野国]][[河内郡]]衣川郷が毛野という名称の由来と推察されている。
国名の[[上下]]については、[[上総国]]と[[下総国]]などと同様、一国を「上」と「下」に二分したものとされるが、備・越・筑・豊・肥等のように[[前後]]に分けられた国との違いは不詳である<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&lsmp=1&kwup=%E6%AF%9B%E9%87%8E&kwbt=%E6%AF%9B%E9%87%8E&mcmd=25&mcup=25&mcbt=25&st=score&asc=desc&oldmc=25&oldst=score&oldasc=desc&id=1000115193 レファレンス協同データベース - 栃木県立図書館回答]。</ref>。またこの分裂は史書に無く詳細は不明で、古くから議論がある(「[[毛野#毛野の分裂]]」を参照)。
『[[大宝律令]]』の制定においても、上毛野は「'''上毛野国'''(かみつけの/かみつけぬ)」として[[令制国]]の1つに定められた<ref>『日本の地名 群馬県の地名』([[平凡社]])上野国節。</ref>。その後、上毛野国・下毛野国の国名は「'''上野国'''」・「下野国」と改められた。この際、「毛」の字は消えたものの「こうず'''け'''のくに」として読みにその名残をとどめている。「'''[[上毛]](じょうもう)'''」という別称は今でも用いられている。なお「かみつけ」からの転訛であるが、読みは慣用的に「こうづけ」でなく、[[四つ仮名]]の混同により(現代仮名遣いでは)「こうずけ」と振られて表記される。
読みについて、『[[和名抄]]』には「加三豆介乃」<ref>『和名抄』。</ref>、『[[万葉集]]』には「可美都氣努」「可美都氣野」などが見られる。同集で当国名が詠まれた12首のうち11首までは末尾を「努(ヌ)」と詠んでいるのに対し「乃(ノ)」としているのは1首のみで<ref>『万葉集』。</ref>、[[奈良時代]]頃までは「かみつけぬ」後世に「かみつけの」と読みが変わったものと推定されている。さらに、「美」については「ウ」とも読み<ref group="注釈">助動詞「む」から「う」が生まれたように、「mi(み)」の「i(い)」が取れて、「m(む)」になり、さらに「[[ウ音便]]化」したものと想定される。</ref>、「ウ」の次の読みは濁ることが多く「ヅ」となり訛って「ノ」を省き「カウヅケ」となったとの解釈がある<ref>『[[古事記伝]]』</ref>。そして、「かう〔kau〕[[二重母音]]」→「こー〔kɔː〕([[長母音]]・[[円唇後舌半広母音]])」のように変化していったものと思われる。
「努」の読みの解釈については「努」は[[万葉仮名]]の「ノ(甲類)」であるとし、「けぬ」は江戸時代以来の誤った読みとする説もある<ref>日本古典文学大系本『萬葉集 一』(岩波書店、昭和32年)。</ref><ref>[http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php 万葉集検索システム](山口大学教育学部)、佐佐木信綱『新訓萬葉集』(岩波文庫)参照。</ref><ref>『大辞林』(第三版)毛野項。</ref><ref>熊倉浩靖 『古代東国の王者 上毛野氏の研究 2008年改訂増補版』(雄山閣)p.5。</ref>。ただし、万葉集では「努」はもとより「野」についても「ヌ」の読みに充てている例もあるため、「毛野」を「けの」または「けぬ」とする例も少なからず見られる<ref name = sekai/><ref>日本大百科全書、ニッポニカ・プラス(小学館)</ref><ref>大辞泉(JapanKnowledge)</ref>。
[[藤原宮]]跡出土木簡の中には「上毛野国車評桃井里」の記載が見られる<ref>『国史大辞典』([[吉川弘文館]])上野国項。</ref>。
== 沿革 ==
『[[日本書紀]]』によると、[[上毛野国造]]の[[上毛野氏|上毛野君]]は[[崇神天皇]]長子で東国の統治を任じられた[[豊城入彦命]]を祖とするとされる<ref name = nihonshoki>日本書紀</ref>。また上野は[[日本武尊]]が[[蝦夷]]を平定し[[日高見国]]から西南の地[[常陸国]]に戻って[[甲斐国]]に至り、その北にあって従わない[[信濃国|信濃]]および[[越国|越]]を征するため[[武蔵国|武蔵]]および'''上野'''を経由して碓日坂を登り碓日峰で東南を見下ろして「吾嬬者耶」と言ったことで知られる<ref name = nihonshoki>日本書紀</ref>。
また、書紀では上毛野君は[[仁徳天皇]]の御世に[[新羅]]と戦い捕虜を得たといい、またその後[[天智天皇]]の御世には[[百済]]が[[新羅]]に攻められた際、百済を軍事的に支援するため朝鮮半島に遣わされたという<ref name = nihonshoki/>。この間[[推古天皇]]9年([[601年]])9月8日には[[新羅]]人の間諜者である迦摩多が[[対馬国|対馬]]で捕えられ上野に配流されており<ref name = nihonshoki/>、上野国と朝鮮半島が古い時期から深く関わりを有していたことがうかがわれる。「[[国造本紀]]」では仁徳朝に[[下毛野国造]]が分置されたとされる。
和銅4年(711年)に[[甘楽郡]](かむらのこほり)の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田(やた)・大家(おおや)の4郷、[[緑野郡]](みとののこほり)の武美1郷、[[片岡郡]](かたおかのこほり)の山等(やまな)1郷、計6郷が各郡から分離され[[多胡郡]](たごのこほり)が新設され<ref>続日本紀</ref>、[[倭名類聚抄]]の成立期には碓氷(うすひ)・片岡(かたおか)・甘楽(かむら)・多胡(たご)・緑野(みとの)・那波(なは)・群馬(くるま)・吾妻(あかつま)・利根(とね)・勢多(せた)・佐位(さゐ)・新田(にふた)・山田(やまた)・邑楽(おはらき)の計14郡があった<ref>[[倭名類聚抄]]</ref>。
=== 親王任国の統治時代 ===
国級は[[国司#国等級区分|上国]]であったが、[[弘仁]]2年([[811年]])[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]に[[大国 (令制国)|大国]]に変更となり<ref>[[日本後紀]]</ref>、[[天長]]3年([[826年]])旧暦9月6日、上野国と[[常陸国]]、[[上総国]]の3国には[[国司|国守]]として[[親王]]が[[遥任]]される[[親王任国]]となった<ref name = ruijusandai/>。このため、上野国の現地長官は次官の上野介であった。良馬の産地として[[勅旨牧]]がおかれた。
全国に10余りしか現存しない[[奈良時代]]以前の石碑のうち、3つが[[多胡郡]]にある。藤原宮木簡には、上毛野国と表記。[[国衙]]のあった[[国府]]は[[群馬郡]]にあった。現在の[[前橋市]]元総社町付近と推定されているが、その遺跡の所在を確認するには至っていない。その周辺には[[国分寺]]跡・国分尼寺跡・総社神社がある。
==== 武士の進出 ====
[[天慶]]年間に関東東部で内乱を起こした[[平将門]]は上野国府を落とし、一時上野国を支配するが、[[藤原秀郷]]によって討ち取られた。秀郷の子孫は上野各地に進出し、淵名・佐位・吾妻・薗田・大胡・山上などの一族に分かれ、有力な[[武士団]]として成長した。
12世紀初頭の[[天仁]]元年([[1108年]])、浅間山の噴火により、上野国一円の農耕地は甚大な被害を受けた。荒廃した耕地は、[[在地領主]]の大規模な再開発によって私領となり、その権益を守るために中央の貴族に寄進され、[[荘園]]が成立する。上野国の荘園として、[[八幡荘 (上野国)|八幡荘]]・[[淵名荘]]・土井出笠科荘・佐貫荘・吾妻荘・[[新田荘]]や、[[伊勢神宮]]の[[御厨]]として玉村御厨・細井御厨・邑楽御厨がみえる。これらの荘園の開発に成功したのは秀郷流藤原氏や、新勢力として進出した[[源義重]]に始まる[[新田氏]]であった。
=== 守護の統治時代 ===
==== 鎌倉幕府 ====
治承4年(1180年)に源頼朝が[[相模国]][[鎌倉]]に入り武家政権を樹立すると、源義重は自立を目指し抵抗するが、最後には頼朝の軍門に下った。また、藤原秀郷の系譜を引く[[足利氏 (藤原氏)|藤姓足利氏]]の[[足利俊綱]]は、頼朝に抗して没落した。
こうして上野国に[[鎌倉幕府]]の秩序が打ち立てられた。[[守護]]となったのは[[安達氏]]であり、[[弘安]]8年([[1285年]])の[[霜月騒動]]で安達氏が没落するまで、上野国を支配し続けた。その後、守護は幕府滅亡時まで[[得宗|北条得宗家]]であった。その下に、上野武士団は[[御家人]]として鎌倉に出仕した。御家人としては、新田一族をはじめ、佐貫・大胡・山上・沼田・吾妻・那波・淵名氏がみえる。
[[元弘]]3年([[1333年]])、新田荘[[生品神社]]で挙兵した[[新田義貞]]は鎌倉を攻め、幕府を滅亡させた。
==== 室町幕府 ====
[[室町幕府]]の下、上野守護に任じられたのは[[上杉氏]]である。八幡荘が守護領とされ、[[守護所]]は[[板鼻]]に置かれた。ただし、上杉氏は[[関東管領]]を兼ねて鎌倉におり、在地支配は守護代の[[長尾氏]]に任された。長尾氏は惣社・白井の二家に分かれ、それぞれ上野国府、[[白井城]]に拠点を築いた。
=== 関東管領の統治時代 ===
==== 山内上杉氏統治時代 ====
[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])、[[河越夜戦]]での[[上杉憲政]]方が大敗。
[[天文 (元号)|天文]]21年([[1552年]])、[[平井城]]が[[北条氏康]]に攻め落とされ、[[関東管領]][[上杉憲政]]([[山内上杉家]])が敗走し、[[越後]]に逃れた。
[[天正]]6年(1578年)、[[上杉謙信]]の死去を以って、[[関東管領]]の統治が終わった。
=== 後北条氏統治時代 ===
[[永禄年間]]に[[後北条氏]]が上野国を領国化した。
=== 武田氏統治時代 ===
{{main|西上野侵攻}}
[[永禄]]4年([[1561年]])に[[甲斐国]]の[[武田信玄]]による[[西上野侵攻]]の結果、西上野が甲斐[[武田氏]]支配下となり、城代を置いた。
* 上野国[[箕輪城]]([[群馬県]][[高崎市]])の[[内藤昌秀]]
* 上野国[[松井田城]]([[群馬県]][[安中市]])の[[小山田虎満]]
==== 武田氏滅亡時 ====
[[天正]]10年([[1582年]])、[[武田氏]]が滅亡すると、[[金井秀景|倉賀野秀景]]は[[織田信長]]方の[[滝川一益]]に従った。
[[天正]]10年([[1582年]])、[[神流川の戦い]]にて[[後北条氏]]と[[滝川一益]]([[織田氏]])が戦い、[[後北条氏]]方が勝利した。
==== 小田原征伐 ====
[[天正]]18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]が行われると、上野国の武将の一部は[[後北条氏]]武将として[[小田原城]]に籠城した。
=== 江戸時代 ===
[[江戸時代]]には、[[沼田藩]]、[[前橋藩]]、[[安中藩]]、[[高崎藩]]、[[伊勢崎藩]]、[[七日市藩]]、[[吉井藩]]、[[小幡藩]]、および[[館林藩]]が置かれた。この他、[[明治維新]]まで実質的に命運を保つことができなかった藩として[[総社藩]]、[[那波藩]]、[[板鼻藩]]、[[矢田藩]]、[[上野豊岡藩]]、[[大胡藩]]、[[白井藩]]、[[青柳藩]]、[[上里見藩]]および[[篠塚藩]]がある。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
[[File:Miyanabe-jinja.JPG|thumb|200px|right|宮鍋神社(前橋市元総社町)<br/>上野国府推定地。]]
[[群馬郡]]国府村にあったとする説(『上野名跡考』)があり、のちに群馬郡旧元総社村(現在の[[群馬県]][[前橋市]]元総社町付近)の蒼海城跡とする説(『群馬郡村誌』など)が定説になったが、近藤義雄による群馬郡大友村(現在の群馬県前橋市[[大友町 (前橋市)|大友町]]付近)の南の平坦地とする説が一時定説化していた<ref name="kanazawa">{{Cite web|和書|title=上野国府とその付近の東山道、および群馬、佐位駅家について|url=http://hist-geo.jp/img/archive/016_047.pdf|author=金沢清則|accessdate=2022-10-23}}</ref>。
国府域を確定させるため近藤説に基づいて1961年(昭和36年)から[[尾崎喜左雄]]らによって発掘調査が行われたが、むしろ元総社地区が最有力という結論になった<ref name="kanazawa" />。ただし、国府域や国衙跡は不明のままである<ref name="kanazawa" />。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* [[上野国分寺跡]] ([[群馬県]][[前橋市]]元総社町と[[高崎市]]東国分町・引間町、{{Coord|36|23|42.27|N|139|01|20.72|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国分寺跡}})
*: 国の史跡。東大寺式伽藍配置で、寺域は東西220メートル・南北235メートル。北方に後継の国分寺(高崎市東国分町、{{Coord|36|23|58.53|N|139|01|17.19|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国分寺(後継寺院)}})が所在。
* [[上野国分尼寺跡]] (群馬県前橋市元総社町と高崎市東国分町、{{Coord|36|23|39.45|N|139|01|41.64|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国分尼寺跡}})
*: 僧寺跡の東方に所在。東大寺式または法華寺式伽藍配置で、推定寺域は1.5町四方。発掘された遺構は埋め戻されている。後継はない。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社3座3社・小社9座9社の計12座12社が記載されている(「[[上野国の式内社一覧]]」参照)。大社3社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。
* [[甘楽郡]] 貫前神社
** 比定社:[[一之宮貫前神社]] ([[群馬県]][[富岡市]]一ノ宮)
* [[群馬郡]] 伊加保神社
** 比定社(山宮):[[伊香保神社]] (群馬県[[渋川市]]伊香保町伊香保、{{Coord|36|29|45.31|N|138|54|57.00|E|region:JP-10_type:landmark|name=名神大社(山宮):伊香保神社}})
** 比定社(里宮):[[三宮神社 (吉岡町)|三宮神社]] (群馬県[[北群馬郡]][[吉岡町]])
* [[勢多郡]] [[赤城神社]]
** 比定社(山宮):[[赤城神社 (前橋市三夜沢町)|赤城神社]] (群馬県[[前橋市]]三夜沢町、{{Coord|36|29|03.94|N|139|10|41.08|E|region:JP-10_type:landmark|name=名神大社(山宮):赤城神社}})
** 比定社(里宮):[[二宮赤城神社]] (群馬県前橋市二之宮町)
** 参考社:[[赤城神社 (前橋市富士見町赤城山)|赤城神社]] (群馬県前橋市富士見町赤城山、{{Coord|36|33|10.12|N|139|11|00.50|E|region:JP-10_type:landmark|name=名神大社参考社:赤城神社}})
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 276-283。</ref>。
* 総社:[[総社神社 (前橋市)|総社神社]] (群馬県前橋市元総社町、{{Coord|36|23|16.79|N|139|02|16.39|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国総社:総社神社}})
* 一宮:[[一之宮貫前神社]] (群馬県富岡市一ノ宮、{{Coord|36|15|18.60|N|138|51|27.50|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国一宮、名神大社:一之宮貫前神社}})
* 二宮:[[二宮赤城神社]] (群馬県前橋市二之宮町、{{Coord|36|22|02.08|N|139|10|03.56|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国二宮、名神大社(里宮):二宮赤城神社}})
*: 現在は山宮の[[赤城神社 (前橋市三夜沢町)|赤城神社]](群馬県[[前橋市]]三夜沢町)も二宮を称する。
* 三宮:[[三宮神社 (吉岡町)|三宮神社]] (群馬県北群馬郡吉岡町大久保、{{Coord|36|26|22.08|N|139|00|49.42|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国三宮、名神大社(里宮):三宮神社}})
*: 現在は山宮の[[伊香保神社]](群馬県[[渋川市]]伊香保町伊香保)も三宮を称する。
* 四宮:[[甲波宿禰神社 (渋川市川島)|甲波宿禰神社]] (群馬県渋川市川島、{{Coord|36|31|50.22|N|138|58|03.28|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国四宮:甲波宿禰神社}})
* 五宮:[[若伊香保神社]] (群馬県渋川市有馬、{{Coord|36|27|58.28|N|138|59|41.63|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国五宮:若伊香保神社}})
* 六宮:[[榛名神社]] (群馬県[[高崎市]]榛名山町、{{Coord|36|27|30.55|N|138|51|08.03|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国六宮:榛名神社}})
* 七宮:[[小祝神社]] (群馬県高崎市石原町、{{Coord|36|18|43.69|N|139|00|03.64|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国七宮:小祝神社}})
* 八宮:[[火雷神社 (玉村町)|火雷神社]] (群馬県[[佐波郡]][[玉村町]]下之宮、{{Coord|36|18|09.65|N|139|09|05.38|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国八宮:火雷神社}})
* 九宮:[[倭文神社 (伊勢崎市)|倭文神社]] (群馬県[[伊勢崎市]]東上之町、{{Coord|36|18|39.99|N|139|09|05.17|E|region:JP-10_type:landmark|name=上野国九宮:倭文神社}})
<!--美和神社を十宮、賀茂神社を十一宮、宇芸神社を十二宮とする記載は学術的な典拠不明により、十分な出典が提示されるまで不記載とする。-->
=== 安国寺利生塔 ===
* [[安国寺利生塔|安国寺]]:慈光山常昭院安国寺 (高崎市通町) - 浄土宗、本尊:阿弥陀如来
[[利生塔]]は未詳。
== 地域 ==
=== 領域 ===
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[桐生市]]の一部([[菱町 (桐生市)|菱町]]の全域および[[梅田町 (桐生市)|梅田町]]四・五丁目の一部<ref group="注釈">概ね[[桐生川]]以東。</ref>)を除く[[群馬県]]の全域と、[[栃木県]][[足利市]]の一部(南大町・里矢場町・新宿町・藤本町・荒金町)に相当する。
かつて群馬県は上野国と完全に同一の領域であったが、[[1959年]]([[昭和]]34年)に栃木県(旧[[下野国]])[[足利郡]][[菱村]]が、[[1968年]](昭和43年)に栃木県[[安蘇郡]][[田沼町]]の入飛駒地区がいずれも桐生市に[[越境合併]]。また、[[1960年]](昭和35年)に[[山田郡 (群馬県)|山田郡]][[矢場川村]]の一部が栃木県足利市に編入された結果、上野国とは完全には一致しなくなっている。群馬県の方が上野国よりわずかに面積が大きくなっている。
=== 郡 ===
* [[碓氷郡]]
* [[片岡郡]]
* [[甘楽郡]]
* [[多胡郡]]
* [[緑野郡]]
* [[那波郡]]
* [[群馬郡]]
* [[吾妻郡]]
* [[利根郡]]
* [[勢多郡]]
* [[佐位郡]]
* [[新田郡]]
* [[山田郡 (群馬県)|山田郡]]
* [[邑楽郡]]
=== 人口 ===
*1721年(享保6年) - 56万9550人
*1750年(寛延3年) - 57万6075人
*1756年(宝暦6年) - 57万9987人
*1786年(天明6年) - 52万2869人
*1792年(寛政4年) - 51万3915人
*1798年(寛政10年)- 51万4172人
*1804年(文化元年)- 49万7034人
*1822年(文政5年) - 45万6950人
*1828年(文政11年)- 46万4226人
*1834年(天保5年) - 45万1830人
*1840年(天保11年)- 42万6073人
*1846年(弘化3年) - 42万8092人
*1872年(明治5年) - 50万7235人
出典: 内閣統計局・編、[[速水融]]・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、[[東洋書林]]。
==== 近代以降の沿革 ====
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り<ref>吉井藩領の「旧高旧領取調帳」の記載は岩鼻県。本項では「角川日本地名大辞典」の記述による。</ref>(1,263村・635,181石余)。[[天領|幕府領]]は[[関東在方掛]]の岩鼻陣屋が管轄。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[群馬郡]](208村・120,536石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、'''[[前橋藩]]'''、'''[[高崎藩]]'''、安中藩、吉井藩
** [[勢多郡]](181村・77,263石余) - 幕府領、旗本領、前橋藩、[[山城国|山城]][[淀藩]]、[[出羽国|出羽]][[庄内藩#出羽松山藩|松山藩]]、[[陸奥国|陸奥]][[泉藩]]、[[下野国|下野]][[佐野藩]]、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]
** [[利根郡]](117村・30,820石余) - 幕府領、旗本領、'''[[沼田藩]]'''
** [[碓氷郡]](79村・41,482石余) - 幕府領、旗本領、'''[[安中藩]]'''、高崎藩、小幡藩、吉井藩
** [[吾妻郡]](89村・25,038石余) - 幕府領、旗本領
** [[甘楽郡]](138村・57,044石余) - 幕府領、'''[[小幡藩]]'''、'''[[七日市藩]]'''、吉井藩
** [[佐位郡]](40村・21,508石余) - 幕府領、旗本領、前橋藩、'''[[伊勢崎藩]]'''、[[上総国|上総]][[一宮藩]]
** [[多胡郡]](28村・12,615石余) - 幕府領、小幡藩、'''[[吉井藩]]'''
** [[緑野郡]](45村・31,439石余) - 幕府領、旗本領、高崎藩、吉井藩、下野佐野藩
** [[片岡郡]](3村・4,267石余) - 高崎藩
** [[那波郡]](62村・28,511石余) - 幕府領、旗本領、前橋藩、高崎藩、吉井藩、伊勢崎藩、武蔵岩槻藩
** [[新田郡]](117村・67,151石5斗) - 幕府領、旗本領、前橋藩、館林藩、下野佐野藩、武蔵[[岡部藩]]、[[三河国|三河]][[西端藩]]
** [[山田郡 (群馬県)|山田郡]](64村・37,029石余) - 幕府領、旗本領、前橋藩、出羽松山藩、下野佐野藩、上総[[請西藩]]
** [[邑楽郡]](92村・80,473石余) - 幕府領、'''[[館林藩]]'''、前橋藩、三河西端藩
* [[慶応]]4年
** [[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[1868年]][[5月5日]]) - 岡部藩が藩庁を移転して三河'''[[半原藩]]'''となる。飛地領は存続。
** [[6月17日 (旧暦)|6月17日]](1868年[[8月5日]]) - 新政府が岩鼻陣屋に'''[[岩鼻県]]'''を設置。幕府領・旗本領を管轄。
* 明治初年
** 前橋藩の領地替えにより、碓氷郡・那波郡・群馬郡・勢多郡で幕府領・旗本領などの一部が前橋藩の管轄となる。
** 館林藩の領地替えにより、新田郡・山田郡・邑楽郡で幕府領・旗本領などの一部が館林藩の管轄となる。
** 前橋藩・館林藩の領地替えにより、邑楽郡の前橋藩領が館林藩領となる。
** 伊勢崎藩の領地替えにより、佐位郡で幕府領・旗本領などの一部が伊勢崎藩の管轄となる。
** 上総一宮藩の領地替えにより、佐位郡の飛地領が岩鼻県の管轄となる。
** 上総請西藩の改易、出羽松山藩の減封により、山田郡の領地が岩鼻県の管轄となる。
* 明治2年
** 6月 - 出羽松山藩が'''[[松嶺藩]]'''に改称。
** [[12月26日 (旧暦)|12月26日]]([[1870年]][[1月27日]]) - 吉井藩が廃藩となり、領地が岩鼻県の管轄となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - 廃藩置県により藩領が'''[[前橋県]]'''、'''[[高崎県]]'''、'''[[安中県]]'''、'''[[小幡県]]'''、'''[[七日市県]]'''、'''[[伊勢崎県]]'''、'''[[館林県]]'''および[[松嶺県]]、[[泉県]]、[[佐野県]]、[[岩槻県]]、[[淀県]]、[[半原県]]、[[西端県]]の飛地となる。
** [[10月28日 (旧暦)|10月28日]](1871年[[12月10日]]) - 第1次[[府県統合]]により、新田郡・山田郡・邑楽郡を除く上野国各郡が'''[[群馬県]]'''(第1次)の管轄となる。群馬郡[[高崎市|高崎町]]に県庁を設置。一時的に新田郡・山田郡の前橋県の管轄地域も管轄。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、新田郡・山田郡・邑楽郡が'''[[栃木県]]'''の管轄となる。[[下野国]][[都賀郡]][[栃木市|栃木町]]に県庁を設置。
* 明治6年([[1873年]])[[6月15日]] - 群馬県(第1次)が[[入間県]]と合併して'''[[熊谷県]]'''となる。[[武蔵国]][[大里郡]][[熊谷市|熊谷駅]]に県庁を設置。
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により、熊谷県が武蔵国の管轄地域を[[埼玉県]]に合併、栃木県から山田郡・新田郡・邑楽郡を編入のうえ、県庁を群馬郡高崎町に移転して'''群馬県'''(第2次)に改称。上野国全域が群馬県の管轄となる。
* [[昭和]]35年([[1960年]])[[7月1日]] - [[山田郡 (群馬県)|山田郡]][[矢場川村]]の一部(大字矢場・植木野の各一部を除く)が栃木県[[足利市]]に編入。
== 人物 ==
=== 国司 ===
[[国司]]は天皇より叙任され、国内の政治事すべてを司った。
==== 上野守 ====
※日付=旧暦 ※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
* [[田口益人]]([[708年]]〈[[和銅]]元年〉[[3月13日 (旧暦)|3月13日]] - ) [[従五位上]]〔[[続日本紀]]〕
* [[平群安麻呂]]([[709年]]〈和銅2年〉[[11月2日 (旧暦)|11月2日]] - ) [[従五位下]]〔続日本紀〕
* [[大宅大國]]([[714年]]〈和銅7年〉[[10月13日 (旧暦)|10月13日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[小野綱手]]([[746年]]〈[[天平]]18年〉[[4月21日 (旧暦)|4月21日]] - ) [[外従五位下]]〔続日本紀〕
* [[笠蓑麻呂]]([[752年]]〈[[天平勝宝]]4年〉[[5月26日 (旧暦)|5月26日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[大伴伯麻呂]]([[752年]]〈天平勝宝4年〉[[11月3日 (旧暦)|11月3日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[高橋人足]]([[759年]]〈[[天平宝字]]3年〉[[1月11日 (旧暦)|1月11日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[藤原宿奈麻呂]]([[761年]]〈天平宝字5年〉[[1月16日 (旧暦)|1月16日]] - ) [[従五位上]]、後に[[造宮大輔]]を兼務〔続日本紀〕
* [[大原今城]]([[763年]]〈天平宝字7年〉[[4月14日 (旧暦)|4月14日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[上毛野馬長]]([[764年]]〈天平宝字8年〉[[10月20日 (旧暦)|10月20日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[藤原小黒麻呂]]([[771年]]〈宝亀2年〉[[5月14日 (旧暦)|5月14日]] - ) [[正五位下]]〔続日本紀〕
* [[藤原鷲取]]([[779年]]〈宝亀10年〉[[2月23日 (旧暦)|2月23日]] - ) 従五位上 [[中務大輔]]〔続日本紀〕
* [[文室忍坂麻呂]]([[779年]]〈宝亀10年〉[[11月28日 (旧暦)|11月28日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[安倍家麻呂]]([[781年]]〈[[天応 (日本)|天応]]元年〉[[5月25日 (旧暦)|5月25日]] - ) [[正五位上]]〔続日本紀〕
* [[大神船人]]([[785年]]〈[[延暦]]4年〉[[1月15日 (旧暦)|1月15日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[粟田鷹守]]([[786年]]〈延暦5年〉[[8月8日 (旧暦)|8月8日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[紀作良]]([[788年]]〈延暦7年〉[[3月21日 (旧暦)|3月21日]] - ) 従五位上〔続日本紀〕
* [[三方広名]]([[791年]]〈延暦10年〉[[7月28日 (旧暦)|7月28日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[佐伯清岑]]([[大同 (日本)|大同]]年間頃) 従五位下〔[[類聚国史]]、[[日本紀略]]〕
* [[大庭王]]([[806年]]〈大同元年〉[[1月28日 (旧暦)|1月28日]] - ) [[従四位下]] [[侍従]]〔[[日本後紀]]〕
* [[春原五百枝]]([[814年]]〈[[弘仁]]5年〉[[8月28日 (旧暦)|8月28日]] - ) [[従三位]] [[右兵衛督]]〔日本後紀〕
* [[阿倍雄能麻呂]]([[815年]]〈弘仁6年〉[[1月14日 (旧暦)|1月14日]] - ) 従五位上 [[左馬頭]]〔日本後紀〕
* [[文室弟直]]([[824年]]〈[[天長]]元年〉 - 同2年頃) 従四位下 [[治部大輔]] [[備中守]]〔日本後紀〕
==== 上野太守 ====
* [[葛井親王]]([[826年]]〈[[天長]]3年〉 - ) [[四品]]〔続日本後紀〕
* [[明日香親王]]([[831年]]〈天長8年〉[[1月25日 (旧暦)|1月25日]] - ) [[三品]]〔日本後紀〕
* [[阿保親王]]([[834年]]〈[[承和 (日本)|承和]]元年〉[[3月21日 (旧暦)|3月21日]] - ) 三品 [[治部卿]]後[[宮内卿]]、後に[[兵部卿]]を兼務〔日本後紀〕
* [[葛原親王]]([[838年]]〈承和5年〉[[1月13日 (旧暦)|1月13日]] - ) [[一品]] [[式部卿]]〔日本後紀〕
* [[秀良親王]]([[842年]]〈承和9年〉1月13日 - ) [[二品]]〔続日本後紀〕
* [[仲野親王]]([[846年]]〈承和13年〉1月13日 - ) 三品〔続日本後紀〕
* [[本康親王]]([[850年]]〈[[嘉祥]]3年〉[[1月15日 (旧暦)|1月15日]] - ) 四品〔続日本後紀〕
* [[国康親王]]([[854年]]〈[[斉衡]]元年〉[[1月16日 (旧暦)|1月16日]] - ) 四品〔[[文徳天皇実録]]〕
* [[忠良親王]]([[860年]]〈[[貞観 (日本)|貞観]]2年〉1月16日 - ) 二品 兵部卿その後式部卿〔日本三代実録〕
* [[光孝天皇|時康親王]]([[864年]]〈貞観6年〉1月16日 - [[866年]]〈貞観8年〉1月13日) 三品 [[中務卿]]〔日本三代実録〕
* [[賀陽親王]]([[867年]]〈貞観9年〉[[1月12日 (旧暦)|1月12日]] - ) 二品 治部卿〔日本三代実録〕
* 忠良親王(再任:[[871年]]〈貞観13年〉[[1月29日 (旧暦)|1月29日]] - [[872年]]〈貞観14年〉[[2月29日 (旧例)|2月29日]]) 二品 式部卿〔日本三代実録〕
* [[惟喬親王]](872年〈貞観14年〉2月29日 - ) 四品 [[守弾正尹]]〔日本三代実録〕
* 時康親王(再任:[[873年]]〈貞観15年〉1月13日 - ) 二品 中務卿〔日本三代実録〕
* [[惟恒親王]]([[875年]]〈貞観15年〉1月13日 - ) 四品 治部卿〔日本三代実録〕
* [[惟彦親王]]([[881年]]〈[[元慶]]5年〉[[1月15日 (旧暦)|1月15日]] - ) 中務卿〔日本三代実録〕
* [[貞保親王]]([[882年]]〈元慶6年〉[[4月28日 (旧暦)|4月28日]] - ) 三品〔日本三代実録〕
* 惟恒親王([[883年]]〈元慶7年〉[[2月14日 (旧暦)|2月14日]] - ) 四品 守弾正その後兵部卿〔日本三代実録〕
* [[貞元親王]]([[887年]]〈[[仁和]]3年〉[[2月17日 (旧暦)|2月17日]] - ) 四品〔日本三代実録〕
==== 上野介 ====
* [[田口大戸]](764年〈[[天平宝字]]8年〉[[1月21日 (旧暦)|1月21日]] - ) 従五位下〔[[続日本紀]]〕
* [[橘綿裳]](員外介:764年〈天平宝字8年〉[[8月4日 (旧暦)|8月4日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[林雑物]](767年〈[[神護景雲]]元年〉[[7月3日 (旧暦)|7月3日]] - ) 外従五位下〔続日本紀〕
* [[佐伯伊多智]](員外介:768年〈神護景雲2年〉頃) 従四位下 左衛子督〔続日本紀〕
* [[池田真枚]](770年〈[[宝亀]]元年〉[[10月23日 (旧暦)|10月23日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[賀茂人麻呂]](774年〈宝亀5年〉[[3月5日 (旧暦)|3月5日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[大伴上足]](776年〈宝亀7年〉[[3月6日 (旧暦)|3月6日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[吉弥侯横刀]](783年〈[[延暦]]2年〉[[2月25日 (旧暦)|2月25日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[島田宮成]](783年〈延暦2年〉[[11月12日 (旧暦)|11月12日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[路玉守]](784年〈延暦3年〉[[4月2日 (旧暦)|4月2日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[中臣丸馬主]](788年〈延暦7年〉[[2月6日 (旧暦)|2月6日]] - ) 従五位下〔続日本紀〕
* [[御長広岳]](796年〈延暦15年〉[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]頃) 正六位上〔[[日本後紀]]〕
* [[紀百継]](権介:808年〈[[大同 (日本)|大同]]3年〉[[6月21日 (旧暦)|6月21日]] - ) 従五位下〔日本後紀〕
* [[伊勢徳成]](権介:810年〈[[弘仁]]元年〉[[10月19日 (旧暦)|10月19日]] - ) 従五位下〔日本後紀〕
* 伊勢徳成(811年〈弘仁2年〉10月19日) 従五位下〔日本後紀〕
* [[息長家成]]( - [[812年]]〈弘仁3年〉[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) 従五位下〔日本後紀〕
* [[甘南備高直]]([[815年]]〈弘仁6年〉頃) 従五位下〔[[続日本後紀]]〕
* [[朝野鹿取]]([[817年]]〈弘仁8年〉 - [[819年]]〈弘仁10年〉) 従五位上 [[内蔵頭]]〔続日本後紀〕
* [[清峯門継]]([[821年]]〈弘仁12年〉4月 - [[822年]]〈弘仁13年〉) 従五位下〔文徳天皇実録〕
* [[藤原貞吉]]([[839年]]〈[[承和 (日本)|承和]]6年〉[[5月11日 (旧暦)|5月11日]] - ) 従五位上〔続日本後紀〕
* [[藤原世数]]([[843年]]〈承和10年〉[[1月12日 (旧暦)|1月12日]] - ) 従五位下〔続日本後紀〕
* [[清原長統|長統王]]([[851年]]〈[[仁寿]]元年〉[[1月11日 (旧暦)|1月11日]] - ) 従五位下〔文徳天皇実録〕
* [[橘安吉雄]]([[855年]]〈[[斉衡]]2年〉[[1月15日 (旧暦)|1月15日]] - ) 従五位下〔文徳天皇実録〕
* [[清原道雄]]([[859年]]〈[[貞観 (日本)|貞観]]元年〉[[1月13日 (旧暦)|1月13日]] - ) 従五位下〔[[日本三代実録]]〕
* [[滋野安成]](権介:[[859年]]〈貞観元年〉[[4月9日 (旧暦)|4月9日]] - ) 従五位下その後従五位上 [[大外記]]〔日本三代実録〕
* [[藤原有蔭]]([[863年]]〈貞観5年〉[[2月10日 (旧暦)|2月10日]] - [[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) 従五位下 [[民部少輔]]〔日本三代実録〕
* [[紀真丘]]([[863年]]〈貞観5年〉2月16日 - [[865年]]〈貞観7年〉[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) 従五位下〔日本三代実録〕
* [[小野春枝]](権介:863年〈貞観5年〉2月16日 - [[864年]]〈貞観6年〉[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) 従五位下 [[鎮守将軍]]〔日本三代実録〕
* [[賀茂岑雄]](権介:[[864年]]〈貞観6年〉1月16日 - [[866年]]〈貞観8年〉1月13日) 従五位下〔日本三代実録〕
* [[安倍貞行]](865年〈貞観7年〉1月27日 - ) 従五位上〔日本三代実録〕
* [[文室甘楽麻呂]](866年〈貞観8年〉1月13日 - ) 従五位下 鎮守将軍〔日本三代実録〕
* [[良岑経世]]([[869年]]〈貞観11年〉[[3月4日 (旧暦)|3月4日]] - ) [[正五位下]] 陸奥守〔日本三代実録〕
* [[源建]]([[878年]]〈[[元慶]]2年〉[[2月15日 (旧暦)|2月15日]] - ) 従五位下 [[右京]]権介〔日本三代実録〕
* [[橘茂生]](878年〈元慶2年〉[[8月14日 (旧暦)|8月14日]] - ) 従五位上〔日本三代実録〕
* [[平季長]](権介:[[883年]]〈元慶7年〉[[1月11日 (旧暦)|1月11日]] - ) 従五位上 守[[左近衛]] 権[[少将]]〔日本三代実録〕
* [[安倍興行]]([[884年]]〈元慶8年〉[[3月9日 (旧暦)|3月9日]] - ) 従五位上その後正五位下〔日本三代実録〕
* [[源頼信]]: 999年(長保元年)9月2日 - 1001年(長保3年)2月26日、従四位下
* [[平直方]]
*[[藤原時明]]
*[[平重義]]
*[[藤原敦基]]
* [[結城朝光]]
*[[藤原範季]]
*[[藤原隆信]]
* [[結城広綱]]<!-- 以下は「[[武家官位]]」 です
* [[本多正純]]
* [[織田信包]]
* [[吉良義央]]
* [[小栗忠順]]-->
==== 上野掾 ====
* [[酒人人]]([[大掾]]:[[812年]]〈[[弘仁]]3年〉[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) [[正六位上]]〔[[日本後紀]]〕
* [[源満頼]] - [[源経基]]の子。
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*1190年 - [[?年|?]] - [[比企能員]]?
*1210年 - 1212年 - [[安達景盛]]
*この間 - [[安達氏]]
*1244年 - 1285年 - [[安達泰盛]]
*1285年 - 1333年 - [[北条氏]]
==== 室町幕府 ====
* 1335年 - 1336年 - [[上杉憲房 (南北朝時代)|上杉憲房]]
* 1336年 - 1352年 - [[上杉憲顕]]
* 1352年 - 1363年 - [[宇都宮氏綱]]
* 1363年 - 1368年 - [[上杉憲顕]]
* 1368年 - 1371年? - [[上杉能憲]]
* 1371年 - 1379年 - [[上杉憲春]]
* 1379年 - 1394年 - [[上杉憲方]]
* 1395年 - 1412年 - [[上杉憲定]]
* 1416年 - 1418年 - [[上杉憲基]]
* 1419年 - 1439年 - [[上杉憲実]]
* 1447年 - 1454年 - [[上杉憲忠]]
* 1455年 - 1466年 - [[上杉房顕]]
* 1467年 - 1510年 - [[上杉顕定]]
* 1510年 - 1512年 - [[上杉顕実]](関東管領のみ)
* 1510年 - 1525年 - [[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]](関東管領のみ)
* 1525年 - 1531年 - [[上杉憲寛]](関東管領のみ)
* 1531年 - 1561年 - [[上杉憲政]](関東管領のみ)
* 1561年 - 1578年 - [[上杉謙信]](関東管領のみ)
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
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}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 10 群馬県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kozuke Province}}
* [[下野国]](しもつけのくに)
* [[令制国一覧]]
* [[両毛]]
* [[からっ風]] - 現在でも「上州名物」として紹介される、冬に吹く北西の強風。
* [[吉良義央|吉良上野介]]
* [[上毛かるた]]
{{令制国一覧}}
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[[Category:東山道|国こうすけ]]
[[Category:群馬県の歴史]]
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上野
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上野(うえの)は、東京都台東区の町名。また、上野駅を中心とした副都心。現行行政地名は上野一丁目から上野七丁目。郵便番号は110-0005。
広域地名としては浅草とともに上野・浅草副都心を形成する、上野駅を中心とする一帯の地域を指す。ここでいう上野エリアは、台東区上野、北上野、東上野、上野公園などからなり、日本最初の公園である上野恩賜公園(上野公園)や、デパートや飲食店などが集まる繁華街、喫茶店発祥の地を地域内に持つ。山手線の繁華街の中でも下町的な雰囲気を残す。上野駅は東京でも屈指のターミナル駅であり、かつては北関東や東北地方などの列車や新幹線の起点として、「北の玄関口」の機能を果たしていた。
上野駅から御徒町駅にかけて、全国的に著名なアメヤ横丁(通称:アメ横)が広がっている。上野公園南側の上野仲町通は歓楽街的な雰囲気をもつ。また上野は戦前から男娼が集まったゲイ・タウンとしても知られる。
上野公園は東京国立博物館や国立西洋美術館、東京都美術館などの博物館や美術館が日本で最も集積した地域であり、また東京大学や東京芸術大学も近くにあるため「文化・芸術・学問」の街としての性格をもつ。他にも上野公園内には日本最古の動物園である上野動物園が位置しており、国内外から多くの観光客を集める。
和文通話表で、「う」を送る際に「上野のウ」という。
下谷地域の南部に位置し、千代田区(外神田)・文京区(湯島)との区境に当たる。
地形は、上野恩賜公園のある上野山が北区の方面から伸びる上野台地(武蔵野台地の分脈)の先端部分に当たる。下谷地域に属する。正確には台地である上野山は標高20mほどの高さを持ち、上野の街は上野山の東と南に開けている。上野台地の西には東京大学の位置する文京区の本郷台地があり、上野公園西南部にある不忍池はもともと両台地の間の谷(谷中・根津)を流れてきた谷田川(藍染川)が流れ込む場所に自然に形成された池である。現在では谷田川は地表から消滅し、不忍池も面積を縮小させている。
戦国時代には『小田原衆所領役帳』に江戸上野という記述が見られ、北条領であった。
上野山は、戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々江戸においては人口の少ない地域であった。
1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡には、伊賀国上野(現・三重県伊賀市)を本拠地とする外様大名・藤堂高虎の屋敷が置かれた。
後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開けた。この頃から、寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは、藤堂家の所領である上野(三重県伊賀市)に地形が似ていたためと言われている。寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ、江戸幕府から保護されたので繁栄し、それに伴って門前町の上野も発展した。上野寛永寺は、江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都の延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の寺でもあった。地名発祥の三重県伊賀市上野は、現在は「伊賀上野」と呼ばれることが多い。
明暦の大火後には上野に広小路が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。
1868年に新政府軍と彰義隊による上野戦争で寛永寺が焼失し、その跡地が上野公園となった。その後、東京市15区6郡制の下で、上野公園とかつての門前町は下谷区に編入される。
1883年の上野駅開業後には、上野駅が東北本線の始発駅となったことから、東京の北の玄関口の役割を担うようになり、街も発展した。1947年に東京都の区が23区に再編されると、下谷区と浅草区が合併し、台東区となるとその一部となり、現在に至っている。
第二次世界大戦後、戦災や外地からの引揚げなどで行き場を失ったホームレスや戦災孤児が多数、駅の地下街や周辺で寝起きするようになった。彼らの置かれた環境は劣悪で、しばしば凍死者が出たほか、発疹チフスなどに流行元になることがあった。人通りの多さから闇市が形成されアメヤ横丁に発展。駅周辺に繁華街が形成された。また、パチンコが流行し始めると昭和通りを挟んだ向かいにはパチンコ関連企業が集まる「パチンコ村」(住所としては東上野)と呼ばれるエリアが形成。駅周辺には小規模なパチンコ店が多数出店するようになった。また、1980年代には昭和通り沿いにバイク店、バイク用品店が多数出店していた時期があったが、21世紀現在は多数が退店して数店が残るのみとなっている。
2019年(令和元年)10月1日、東京都は上野一丁目、四丁目及び六丁目を暴力団排除条例に基づき暴力団排除特別強化地域に指定。 地域内では暴力団と飲食店等との間で、みかじめ料のやりとりや便宜供与などが禁止され、違反者は支払った側であっても懲役1年以下または罰金50万円以下の罰則が科されることとなっている。
「上野」という地名の由来には諸説有る。
2020年(令和2年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。
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上野(うえの)は、東京都台東区の町名。また、上野駅を中心とした副都心。現行行政地名は上野一丁目から上野七丁目。郵便番号は110-0005。
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'''上野'''(うえの)は、[[東京都]][[台東区]]の[[町名]]。また、[[上野駅]]を中心とした[[都心#副都心|副都心]]<ref group="注">隣接する[[浅草]]とともに'''[[上野・浅草副都心]]'''として指定。</ref>。現行行政地名は上野一丁目から上野七丁目。[[日本の郵便番号|郵便番号]]は110-0005<ref name="postal" />。
== 概要 ==
広域地名としては[[浅草]]とともに[[上野・浅草副都心]]を形成する、[[上野駅]]を中心とする一帯の[[地域]]を指す。ここでいう上野エリアは、台東区'''上野'''、[[北上野]]、[[東上野]]、上野公園などからなり、[[日本]]最初の[[公園]]である[[上野恩賜公園]](上野公園)や、[[デパート]]や[[飲食店]]などが集まる[[繁華街]]、[[喫茶店]]発祥の地を地域内に持つ。[[山手線]]の繁華街の中でも[[下町]]的な雰囲気を残す。上野駅は東京でも屈指の[[ターミナル駅]]であり、かつては[[北関東]]や[[東北地方]]などの列車や新幹線の起点として、「北の玄関口」の機能を果たしていた。
上野駅から[[御徒町駅]]にかけて、全国的に著名な[[アメヤ横丁]](通称:アメ横)が広がっている。上野公園南側の上野仲町通は[[歓楽街]]的な雰囲気をもつ。また上野は[[戦前]]から[[男娼]]が集まった[[ゲイ・タウン]]としても知られる。
上野公園は[[東京国立博物館]]や[[国立西洋美術館]]、[[東京都美術館]]などの博物館や美術館が日本で最も集積した地域であり、また[[東京大学]]や[[東京芸術大学]]も近くにあるため「文化・芸術・学問」の街としての性格をもつ。他にも上野公園内には日本最古の[[動物園]]である[[恩賜上野動物園|上野動物園]]が位置しており、国内外から多くの観光客を集める。
[[通話表#和文通話表|和文通話表]]で、「[[う]]」を送る際に「'''上野のウ'''」という。
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{{See also|ゲイ・タウン#上野・浅草}}
== 地理 ==
下谷地域の南部に位置し、[[千代田区]]([[外神田]])・[[文京区]]([[湯島]])との区境に当たる。
地形は、上野恩賜公園のある上野山が[[北区 (東京都)|北区]]の方面から伸びる上野台地([[武蔵野台地]]の分脈)の先端部分に当たる。[[下谷#下谷(地域)|下谷地域]]に属する。正確には台地である上野山は標高20mほどの高さを持ち、上野の街は上野山の東と南に開けている。上野台地の西には[[東京大学]]の位置する[[文京区]]の[[本郷 (文京区)|本郷]]台地があり、上野公園西南部にある[[不忍池]]はもともと両台地の間の谷([[谷中 (台東区)|谷中]]・[[根津]])を流れてきた[[石神井川#谷田川|谷田川]](藍染川)が流れ込む場所に自然に形成された池である。現在では谷田川は地表から消滅し、不忍池も面積を縮小させている。
== 歴史 ==
=== 戦国時代 ===
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には『小田原衆所領役帳』に'''江戸上野'''という記述が見られ、北条領であった。
=== 江戸時代 ===
[[画像:1752 Schely Plan or Map of Edo or Tokyo, Japan - Geographicus - EdoTokyo-schley-1752.jpg|thumb|1752年の地図上の[[不忍池]](中央上やや右)。[[:w:Jakob van der Schley|シュリ]]画。]]
上野山は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には'''忍岡'''(しのぶのおか)と呼ばれており、元々[[江戸]]においては[[人口]]の少ない地域であった。
[[1603年]]に[[江戸幕府]]が開かれた頃、忍岡には、[[伊賀国]][[上野市|上野]](現・三重県伊賀市)を本拠地とする[[外様大名]]・[[藤堂高虎]]の屋敷が置かれた。
後に[[徳川将軍家]]の菩提寺である[[寛永寺]]が建立され、[[門前町]]が開けた。この頃から、寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは、[[藤堂家]]の所領である上野(三重県伊賀市)に地形が似ていたためと言われている。寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ、[[江戸幕府]]から保護されたので繁栄し、それに伴って門前町の上野も発展した。上野寛永寺は、江戸城から見て[[陰陽道]]上の[[鬼門]]に当たり、[[京都]]の[[延暦寺]](京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の[[寺院|寺]]でもあった。地名発祥の三重県伊賀市上野は、現在は「伊賀上野」と呼ばれることが多い。
[[明暦の大火]]後には上野に[[広小路]]が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は[[江戸時代]]には「[[下谷広小路]]」と呼ばれていた。
=== 明治時代以後 ===
[[1868年]]に新政府軍と[[彰義隊]]による[[上野戦争]]で寛永寺が焼失し、その跡地が上野公園となった。その後、[[東京市]]15区6郡制の下で、上野公園とかつての門前町は[[下谷区]]に編入される。
[[1883年]]の[[上野駅]]開業後には、上野駅が[[東北本線]]の始発駅となったことから、東京の北の玄関口の役割を担うようになり、街も発展した。[[1947年]]に[[東京都]]の区が[[東京都区部|23区]]に再編されると、下谷区と[[浅草区]]が合併し、台東区となるとその一部となり、現在に至っている。
=== 第二次世界大戦後 ===
[[第二次世界大戦]]後、戦災や外地からの引揚げなどで行き場を失った[[ホームレス]]や戦災孤児が多数、駅の地下街や周辺で寝起きするようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220815-IAA45KEKIRLLROA4572C2BVQYI/ |title=子供たちを翻弄した戦争 上野駅地下道にあふれた孤児 |publisher=産経新聞 |date=2022-08-15 |accessdate=2023-09-19}}</ref>。彼らの置かれた環境は劣悪で、しばしば凍死者が出たほか、[[発疹チフス]]などに流行元になることがあった<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=76 |isbn=9784816922749}}</ref>。人通りの多さから[[闇市]]が形成されアメヤ横丁に発展。駅周辺に繁華街が形成された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ameyoko.net/ |title=アメ横ってどんなところ? |publisher=アメ横商店街公式ガイド |date= |accessdate=2023-09-19}}</ref>。また、[[パチンコ]]が流行し始めると[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]を挟んだ向かいにはパチンコ関連企業が集まる「パチンコ村」(住所としては[[東上野]])と呼ばれるエリアが形成。駅周辺には小規模な[[パチンコ]]店が多数出店するようになった。また、1980年代には昭和通り沿いに[[オートバイ|バイク]]店、バイク用品店が多数出店していた時期があったが、21世紀現在は多数が退店して数店が残るのみとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://nikkan-spa.jp/1856707/2 |title=パチンコの聖地・上野でパチンコ店閉店ラッシュ。軒数は全盛期の10分の1以下に |publisher=SPA |date=2022 |accessdate=2022-09-06}}</ref>。
=== 21世紀 ===
[[2019年]](令和元年)[[10月1日]]、東京都は上野一丁目、四丁目及び六丁目を[[暴力団排除条例]]に基づき暴力団排除特別強化地域に指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/anzen/tsuiho/haijo_seitei/haijo_q_a.files/bouhai_kyoukachiiki.pdf |title=暴力団排除特別強化地域 |publisher=警視庁|date=2019 |accessdate=2022-08-22}}</ref>。
地域内では[[暴力団]]と飲食店等との間で、[[みかじめ料]]のやりとりや便宜供与などが禁止され、違反者は支払った側であっても[[懲役]]1年以下または[[罰金]]50万円以下の罰則が科されることとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tomin-anzen.metro.tokyo.lg.jp/chian/chiankaizen/bouryokudan/jyourei/index.html |title=東京都暴力団排除条例 |publisher=東京都ホームページ |date= 2019|accessdate=2022-08-22}}</ref>。
=== 地名の由来 ===
「上野」という地名の由来には諸説有る。
* [[藤堂高虎]]が、当地の地形が本拠地たる「[[伊賀上野]](いがうえの/現在の[[三重県]][[伊賀市]][[上野町 (三重県)|上野]])」に似ている点から「上野」と命名したという説。
* [[小野篁]]が「[[上野国]](こうずけのくに/現在の[[群馬県]])」での任を終えて[[京都|京]]へ帰る途中で、当地に館を建ててしばらく滞在し、その際地元の人が篁のことを呼んだ「上野殿」が地名になったという説。
* 付近の「[[下谷]](したや)」に対して、「上野」と呼ばれるようになったという説。
* [[ソメイヨシノ]]の原木が植えられたことに因むという説。
== 世帯数と人口 ==
[[2020年]](令和2年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"/>。
{|class="wikitable"
![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]
|-
|上野一丁目
|style="text-align:right"|380世帯
|style="text-align:right"|615人
|-
|上野二丁目
|style="text-align:right"|98世帯
|style="text-align:right"|144人
|-
|上野三丁目
|style="text-align:right"|526世帯
|style="text-align:right"|765人
|-
|上野四丁目
|style="text-align:right"|23世帯
|style="text-align:right"|37人
|-
|上野五丁目
|style="text-align:right"|463世帯
|style="text-align:right"|635人
|-
|上野六丁目
|style="text-align:right"|136世帯
|style="text-align:right"|217人
|-
|上野七丁目
|style="text-align:right"|758世帯
|style="text-align:right"|1,297人
|-
|style="text-align:center"|計
|style="text-align:right"|2,384世帯
|style="text-align:right"|3,710人
|}
== 小・中学校の学区 ==
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school">{{Cite web|和書|url=http://www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/kyoiku/kuritsushocyugakko/tsuugakukuiki.html |title=区立小学校・中学校の通学区域 |publisher=台東区 |date=2016-09-05 |accessdate=2017-12-29}}</ref>。
{|class="wikitable"
!丁目!!番地!!小学校!!中学校
|-
|上野一丁目||全域||rowspan="5"|[[台東区立黒門小学校]]||rowspan="2"|[[台東区立上野中学校]]
|-
|上野二丁目||全域
|-
|rowspan="2"|上野三丁目||1〜9番<br />27番1〜6号、11〜13号||[[台東区立御徒町台東中学校]]
|-
|その他||rowspan="2"|[[台東区立忍岡中学校]]
|-
|上野四丁目||全域
|-
|rowspan="3"|上野五丁目||1〜9番||[[台東区立平成小学校]]||rowspan="2"|台東区立御徒町台東中学校
|-
|11〜19番<br />20番1〜4号、11〜16号||rowspan="4"|台東区立黒門小学校
|-
|その他||rowspan="2"|台東区立忍岡中学校
|-
|rowspan="2"|上野六丁目||5〜16番
|-
|その他||台東区立御徒町台東中学校
|-
|上野七丁目||全域||[[台東区立上野小学校]]||台東区立忍岡中学校
|}
== 施設 ==
; [[教育]]([[学校]])
* [[台東区立黒門小学校]]
* [[岩倉高等学校]]
* [[東京都立上野高等学校]]
; [[企業]]
* [[アブアブ赤札堂]][[本社]]
* [[吉池]]本社
* [[丸善 (食品メーカー)|丸善]]本社
== 観光 ==
; [[名所]]・[[史跡]]
* [[アブアブ赤札堂]] 上野店 / 広小路店
* [[アメヤ横丁]]
* [[鈴本演芸場]]
* [[松坂屋]] 上野店
* [[吉池]] 本店
; [[寺社]]
* [[徳大寺|徳大寺(下谷摩利支天)]]
== 交通 ==
; [[鉄道]]
* [[東日本旅客鉄道|JR東日本]] [[上野駅]]([[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[京浜東北線]] [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]] [[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[宇都宮線]] [[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[高崎線]] [[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] [[常磐快速線]] {{Color|purple|■}}[[上野東京ライン]])
* [[東京メトロ銀座線]] [[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] [[上野駅]] - [[東京メトロ日比谷線]]への連絡通路が設けられている。
* [[都営地下鉄大江戸線]] [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] [[上野御徒町駅]]
* 東京メトロ銀座線 [[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] [[上野広小路駅]]
* [[東京メトロ日比谷線]] [[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] [[仲御徒町駅]]
* JR東日本 [[御徒町駅]]([[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線)
* [[京成本線]] [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] [[京成上野駅]] - 出入口が設けられている。(所在地:上野公園)
; [[新幹線]]
* JR東日本 上野駅([[File:Shinkansen jre.svg|15px]] [[東北新幹線|東北]]・[[山形新幹線|山形]]・[[秋田新幹線|秋田]]・[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線]])
; [[道路]]
* [[国道4号]]([[昭和通り (東京都)|昭和通り]])
* [[東京都道403号大手町湯島線|東京都道403号大手町湯島線(昌平橋通り)]]
* [[東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線|東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線(不忍通り]]・[[中央通り (東京都)|中央通り]])
* [[東京都道452号神田白山線]]([[中央通り (東京都)|中央通り]])
* [[東京都道453号本郷亀戸線]]([[春日通り]])
; [[首都高速道路]]・出入口
* [[首都高速1号上野線]]
* [[上野出入口]]
== 画像一覧 ==
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上野公園航空写真1984.jpg|1984年撮影、上野付近の航空写真
View of Ueno in 1930s.jpg|1930年代の上野の眺望
</gallery>
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ueno, Tokyo}}
* [[上野警察署]] - 同町周辺の管轄に当たる。(所在地:[[東上野]])
* [[東京消防庁第六消防方面本部|上野消防署]] - 同町周辺の管轄に当たる。(所在地:東上野)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.city.taito.lg.jp/ 台東区]
{{台東区の町名}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:うえの}}
[[Category:下谷]]
[[Category:上野|*]]
[[Category:台東区の町名]]
[[Category:日本のゲイ・タウン]]
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2003-08-17T19:41:45Z
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2023-11-11T13:16:48Z
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JR九州885系電車
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885系電車(885けいでんしゃ)は、九州旅客鉄道(JR九州)の交流特急形電車。
2000年(平成12年)3月11日に営業運転を開始した。
783系と485系を使用していた特急「かもめ」の速度向上を目的とした振り子式車両である。デザインは水戸岡鋭治主宰のドーンデザイン研究所が担当した。
2001年(平成13年)に「ソニック」増発用の2次車が製造された。2003年(平成15年)に2次車の6両化用として4両が、2004年(平成16年)に事故廃車(後述)された補充として3両が製造された。
全車が日立製作所で製造された。車両価格は6両編成で10億8000万円。
最高速度は883系と同じ130km/hで、80km/hまでの加速性能も883系と同じだが、それ以上の速度領域では加速力を向上させることで高速性能の改善を図っている。本形式は883系と異なりアルミ車体が採用されたが、振り子式車両への導入は381系以来であり、JRグループの新型車両では当形式が唯一の存在である。
2001年に鉄道友の会第44回ブルーリボン賞、ブルネル賞、財団法人産業デザイン振興会グッドデザイン賞を受賞した。
車体は日立製作所のモジュール構体システム「A-train」を採用し、摩擦撹拌方式 (FSW) により製造されたダブルスキン構造のアルミニウム合金製である。ダブルスキン構造の内部に制振材を挿入し、床面上部にも貼り付けることで騒音防止を図っている。前頭部は新幹線や、ドイツの高速列車ICE3を彷彿させるような、非貫通構造で丸みの帯びた流線型とし、併結用の密着連結器はカバーで車体と一体になるようにデザインされている。前照灯のデザインは、スポーツカー「アウディ・TT」のものを基にしている。前照灯はロービームの際は2箇所のシールドビームしか点灯しないが、ハイビームでは787系と同様に運転室窓上のシールドビームも点灯する。尾灯は前照灯の下部に横方向に配置されている。
側面窓は883系に比べやや小さくなるとともに、窓ガラスはUVカットガラスに変更された。また乗降扉の横幅も883系に比べ100mm縮められ、900mmとされた。ただし、床面高さを低くしたことにより、ホームとの段差が小さくなったため出入台にステップは設置されていない。
行先表示器はLED式で、一定速度以上で走行中は表示が消え、停車中に消すことも可能である。上部約2/3では、列車名と行先が表示される。上部より英語列車名、日本語種別・列車名、日本語行先、英語行先となっている。下部約1/3は、号車番号、座席種別(グリーン/指定/自由、禁煙/喫煙)およびその英語表記が表示される。これらは別個に設定可能である。
塗装はそれまでのJR九州の車両に多かった原色を用いたデザインから一変し、白一色で車体下部と前面運転台窓周りに帯を入れたデザインとなっている。この帯の色は「かもめ」に充当される1次車が黄色、「ソニック」に充当される2次車が青色と区別され、ロゴもそれぞれ異なっていた。ただし予備車が少ないことから運用上の自由度を高めるため、車体側面エンブレムは後に撤去され、帯の色も2012年上期までに青色への統一が完了した。
このデザインを採用するにあたり、ICE3のデザイナーであるアレクサンダー・ノイマイスターと親交がある水戸岡は、ノイマイスター本人から快諾を得たという。
座席は全席リクライニングシートで、普通席・グリーン席ともに本皮革張りとしている。これにより構造上、座席背面にテーブルを設置することができないため、側面窓の窓かまちを設けることで小物を置くスペースの確保を図っている。また、ヘッドレスト背面にはチケットホルダーが設置されている。座席の本革は、商品価値を損なわない程度の微細な傷などが入ったもの(いわゆるアウトレット品)を用いている。そのため、製造コストは通常の座席と大差はない。なお、運転席はレカロ社に特注したセミバケットシートを採用している。
しかし汚れ付着防止のため、各編成の座席が順次皮革からモケットに変更されることとなっており、2012年にSM2編成で実施された。
グリーン席の座席はすべて1人掛け座席となっているが、中央のC列の座席を片側に寄せてD列席と隣接させることで1+2列配列並みの配置としている(席番配置はA+CD)。また座席背面のフットレストが省略された。A列の壁面とC・D列の中間部に折りたたみ式の木製テーブルを設置している。定員は12名で、883系より1列分少なくなっている。
普通席は一般的な2+2列配置の座席で、座席の前後間隔は883系に比べて20mm短い980mmとなった。普通席では中ひじ掛けに収納式の木製テーブルを設置している(画像でも解るが手前には2つ設置されている。これは、座席を回転させた際にテーブルの位置がずれてしまう為の対策である)。
側面化粧板は白色、床はフローリングとしている。ただし、サハ885形100番台および300番台(いずれも3号車)の化粧板はダークグレーである。
本系列では883系に設けられていた客室中央部のセンターブースは廃止され、代わりにデッキの面積を拡大し、車端部にコモンスペースを設けた。コモンスペースには縦長の窓が設けられている。
仕切扉には、車両間の半透明ガラス扉、普通客室とデッキを仕切る上部透明/下部半透明のガラス扉、グリーン客室とデッキを仕切る木製扉の3種類があり、全て自動扉であるが、木製扉は手でセンサに触れなければ開かない。これらのうち、ガラス扉は乗務員室からの操作による一括開閉が可能である。また車両間の扉は、一方の扉の開閉と連動して他方の扉も開閉する。
LED式案内表示器は、客室端部(仕切扉上部)に天井から吊るす形で設置されている。LEDの大きさや配置は883系に準じ、左側から禁煙表示灯、号車番号表示、座席種別表示(グリーン車:グリーンマーク、普通車指定席:緑色で「指」、普通自由席:橙色で「自」)、スクロール式情報表示(8文字分で、当初は「見えるラジオ」を利用したニュース配信も行われていたが、「見えるラジオ」の終了により、現在は、乗客への注意喚起や特別企画乗車券等の自社広告などが流れている)、携帯電話使用禁止表示、トイレ使用中表示となっている。また、6号車に指定席と自由席が混在していた時期(2003 - 2007年)は、通常の座席種別表示は使用されず、「指/自」と表記されたプレートが当該部分に貼付されていた。
各車両一部座席を撤去し、大型の荷物を置くことができる荷物スペースを設置している。
主幹制御器は左手操作ワンハンドル式(手前から力行5段、中立、抑速ブレーキ、常用ブレーキ7段、非常ブレーキ)とされた。また右側のグリップには勾配起動スイッチが備わっている。運転室と客室との仕切は液晶ガラスとなっており、通常は透明であり客室から前方の風景を見ることができる。なお、停留中や事故などで先頭車のマスコンハンドルが非常ブレーキ位置にあるときは瞬時に不透明になる機構を備える。ちなみに、運転席右部にこのスイッチがあり、ONにすれば常時透明のままになる。
また、三菱電機製乗務員支援モニタ(合成音声とチャイムによる停車駅接近予告機能を付加。客扱いをしない停車駅でも予告)も備えている。後日装備であるが、運転台の上にATS-DK形のコンソールが搭載された。
本系列ではミュージックホーンも搭載されているが、883系と同様に運転台の下のペダルで操作するのではなく、運転室のコンソールボックスの中のスイッチを操作して吹鳴させる。これは各種試験動作などの注意啓発の合図のために設置されたもので、通常は聞くことができない。
主回路機器は815系をベースに特急形として見直しを図っている。主回路制御方式は、883系に続いてVVVFインバータ制御を採用する。
主変換装置は、IGBT(3300V/1200A)素子を使用したPWMコンバータ+VVVFインバータで構成される。
主変圧器は自冷式を採用し、モハ885形に搭載される。モハ885形0・400番台は隣接するクモハ885形にも給電することから、二次巻線2線と三次巻線で構成された2M車タイプを搭載する。モハ885形100・200番台は自車のみ給電であることから、二次巻線を1線とした1M車用を搭載する。
また、中間電動車のモハ885形(2・5号車)にシングルアーム式パンタグラフを1基ずつ装備している。パンタグラフ位置が車体の振り子動作に影響されないように、パンタグラフ台は台車枠直結の支持台上に設置されており、パンタグラフを備えるモハ885形のこの部分はデッドスペースとなっている。
主電動機は、883系で実績のある MT402K (定格出力190kW)を電動車両1両あたり4基搭載する。
消費電力は、1両あたりの消費電力の理論値ベースで415系の消費電力を100とした場合、885系は約65パーセントとなっている。
台車は空気式制御付自然振り子台車のDT406K(電動車)/TR406K(制御車・付随車)となっている。台車の外観や寸法などは883系に類似しているが、台車形式は883系とは異なっている。
883系投入線区のほとんどは最高速度で走行可能で、100km/h未満の速度制限箇所が一部存在するが、長崎本線肥前鹿島駅 - 諫早駅間では日豊本線より厳しい制限70km/h - 75km/hの急曲線が連続するため、振り子電車としての車体傾斜による安定性を高めることを目的に、空気ばねの左右間隔を883系より10cm広い1,900mmとしている。80km/h以上の速度領域での加速度向上を図ったのも同様の理由のためである。
本節における「前位」および「後位」とは、クロハ884形以外の形式では「前位」が門司港寄り、クロハ884形では「前位」が「みどり」では佐世保、「かささぎ」では肥前鹿島寄り、「ソニック」では博多・大分・佐伯寄りである。
1次車(SM1 - 7)は2000年に「かもめ」用に投入された編成である。各車の車両番号の末尾2桁が編成番号と同じ01 - 07に揃えられている。座席表地の色は普通席・グリーン席ともに黒色となっている。
2003年7月18日に長崎本線肥前長田駅 - 小江駅間で発生した脱線転覆事故によりSM3編成の博多寄り3両(クモハ885-3・モハ885-3・サハ885-3)が事故廃車とされ、2004年に代替車3両(400番台車:クモハ885-403・モハ885-403・サハ885-403)が新製された。400番台は基本的に1次車に準じているが、先頭車のワイパーが2次車と同じ2本で、背もたれ上部の取っ手の取付け方が1次車、2次車のいずれとも異なるなど、細かな違いがあるほか、編成内の他の車両と末尾番号を揃えるため、番号は403とされている。
登場時は車体下部の帯と前面窓回りは黄色で、「かもめ」ロゴが配されていたが、車体側面の「かもめ」エンブレムは後に撤去された。2010年12月にSM5編成が2次車と同じ青帯に塗り替えられ、車体側面のロゴも「AROUND THE KYUSHU」と入ったものに変更されたが、先頭部など一部にまだ「かもめ」ロゴが残っていた。その後、他の1次車も順次青帯へと変更され、2012年6月までに885系全編成が青帯に統一された。当初は、雑誌等で青帯化された1次車を「ソニック編成」として扱った場合もあったが、そもそも「かもめ」用の編成や「ソニック」用の編成という区別はなくなっており、今回の塗色変更は885系全編成の帯色統一(1次車の青帯化)によるものである。
SM1編成は2000年10月に大宮総合車両センターで開催された「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」(現・「鉄道のまち大宮 鉄道ふれあいフェア」)にて展示が行われた。
2次車(SM8 - 11)は2001年に「ソニック」用に投入された編成である。5両編成で落成したため一部の車内設備の配置が変更され、新区分番台としてモハ885形200番台が登場した。その後2003年に新区分番台サハ885形300番台を組み込み6両編成となっている。それ以外の車両の車両番号末尾2桁は編成番号と同じ08 - 11に揃えられている。
車体下部の帯と前面窓回りは青色で、「SONIC」ロゴが付いていた(客用窓下にもステンレス切抜文字ロゴが付いていた)。1次車よりも側面裾部の帯が若干太い。また前照灯の形状が変更されるとともに、1次車では3本あったワイパーが2本とされた。座席表地の色は普通車がエボニー、グリーン車がマゼンタに変更され、1次車と比べ暖色系のカラースキームとされた。また1次車で窓かまちに取り付けられていた小形テーブルは廃止された。このほかドアチャイムも設置された。
前照灯はロービームの際は、1次車と同一だが、ハイビームではシールドビームの内側にある灯火および運転室窓上のシールドビームも点灯し、都合5箇所が点灯する。尾灯は1次車と同一である。
2022年(令和4年)9月3日現在、6両編成11本の計66両が南福岡車両区(本ミフ)に在籍する。編成番号はSM1 - 11で、「SM」の「S」は885系を、「M」は南福岡車両区所属を表す記号である。以下は2022年9月23日時点での状況について記す。
この他、宮崎地区で大幅なダイヤの乱れが発生した場合、「にちりんシーガイア」の大分駅以北を「ソニック」用の車両で先発して運転することがある。なおこの時、大分駅に遅れて到着した「にちりんシーガイア」は大分駅で運転を打ち切り、翌日の運用の都合から多くは後続の「ソニック」の運用を代走することで車両を南福岡へ返却する。
なお2003年2月までは、以下のような運用形態が見られた。
この他、小倉駅 - 西小倉駅間の橋梁工事に伴う車両運用の変更や、口蹄疫問題で県内経済が大きなダメージを受けた宮崎県への応援キャンペーンの一環などで、臨時で「にちりん」「にちりんシーガイア」の運用に入ったことがある。
3M3T(電動車3両、付随車3両)の6両で構成される。下り長崎・佐伯寄りからクロハ884形 - モハ885形100番台/200番台 - サハ885形100番台/300番台 - サハ885形 - モハ885形 - クモハ885形となっている。
サハ885形100番台もしくは300番台(いずれも3号車)を編成中から外し、5両編成 (3M2T) で運転することも可能である。このため、同車および同車との連結面は密着連結器となっている。他は、先頭部を除き半永久連結器である。
台湾高速鉄道(台湾新幹線)の建設予定がない東部幹線の速達化をはかるため、2004年に中華民国台湾鉄路管理局(台鉄)は丸紅を通して日立製作所に885系の同等車(TEMU1000型)8両編成6本(48両)を発注した。2006年に3本が納車され、2007年に残り3本が納車された。さらに48両発注する計画があったが、コスト合意できないなど理由で2009年に計画中止になった。これにより、台北駅 - 花蓮駅間は従来より30分程度短縮され、2時間以内とされた。運賃設定は「自強号」と同一である。
発注の目的は速達化のみならず、プッシュプル型「自強号」(E1000型)において韓国(現代精工業、現在のロテム)製客車が故障などの不具合が多く遅延や運休を生じているため、その入れ替えの目的もある。
2006年1月17日、台鉄の公募により、列車の愛称は花蓮近郊の太魯閣国家公園にちなんだ「太魯閣号(タロコ号)」に決定した。
2014年12月28日、政府交通部は当形式2編成16両を追加発注することを決定し、2016年より投入された。
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"text": "885系電車(885けいでんしゃ)は、九州旅客鉄道(JR九州)の交流特急形電車。",
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"text": "2000年(平成12年)3月11日に営業運転を開始した。",
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"text": "783系と485系を使用していた特急「かもめ」の速度向上を目的とした振り子式車両である。デザインは水戸岡鋭治主宰のドーンデザイン研究所が担当した。",
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"text": "2001年(平成13年)に「ソニック」増発用の2次車が製造された。2003年(平成15年)に2次車の6両化用として4両が、2004年(平成16年)に事故廃車(後述)された補充として3両が製造された。",
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"text": "全車が日立製作所で製造された。車両価格は6両編成で10億8000万円。",
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"text": "最高速度は883系と同じ130km/hで、80km/hまでの加速性能も883系と同じだが、それ以上の速度領域では加速力を向上させることで高速性能の改善を図っている。本形式は883系と異なりアルミ車体が採用されたが、振り子式車両への導入は381系以来であり、JRグループの新型車両では当形式が唯一の存在である。",
"title": "概要"
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"text": "2001年に鉄道友の会第44回ブルーリボン賞、ブルネル賞、財団法人産業デザイン振興会グッドデザイン賞を受賞した。",
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"text": "車体は日立製作所のモジュール構体システム「A-train」を採用し、摩擦撹拌方式 (FSW) により製造されたダブルスキン構造のアルミニウム合金製である。ダブルスキン構造の内部に制振材を挿入し、床面上部にも貼り付けることで騒音防止を図っている。前頭部は新幹線や、ドイツの高速列車ICE3を彷彿させるような、非貫通構造で丸みの帯びた流線型とし、併結用の密着連結器はカバーで車体と一体になるようにデザインされている。前照灯のデザインは、スポーツカー「アウディ・TT」のものを基にしている。前照灯はロービームの際は2箇所のシールドビームしか点灯しないが、ハイビームでは787系と同様に運転室窓上のシールドビームも点灯する。尾灯は前照灯の下部に横方向に配置されている。",
"title": "車両概説"
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"text": "側面窓は883系に比べやや小さくなるとともに、窓ガラスはUVカットガラスに変更された。また乗降扉の横幅も883系に比べ100mm縮められ、900mmとされた。ただし、床面高さを低くしたことにより、ホームとの段差が小さくなったため出入台にステップは設置されていない。",
"title": "車両概説"
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"text": "行先表示器はLED式で、一定速度以上で走行中は表示が消え、停車中に消すことも可能である。上部約2/3では、列車名と行先が表示される。上部より英語列車名、日本語種別・列車名、日本語行先、英語行先となっている。下部約1/3は、号車番号、座席種別(グリーン/指定/自由、禁煙/喫煙)およびその英語表記が表示される。これらは別個に設定可能である。",
"title": "車両概説"
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"text": "塗装はそれまでのJR九州の車両に多かった原色を用いたデザインから一変し、白一色で車体下部と前面運転台窓周りに帯を入れたデザインとなっている。この帯の色は「かもめ」に充当される1次車が黄色、「ソニック」に充当される2次車が青色と区別され、ロゴもそれぞれ異なっていた。ただし予備車が少ないことから運用上の自由度を高めるため、車体側面エンブレムは後に撤去され、帯の色も2012年上期までに青色への統一が完了した。",
"title": "車両概説"
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"text": "このデザインを採用するにあたり、ICE3のデザイナーであるアレクサンダー・ノイマイスターと親交がある水戸岡は、ノイマイスター本人から快諾を得たという。",
"title": "車両概説"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "座席は全席リクライニングシートで、普通席・グリーン席ともに本皮革張りとしている。これにより構造上、座席背面にテーブルを設置することができないため、側面窓の窓かまちを設けることで小物を置くスペースの確保を図っている。また、ヘッドレスト背面にはチケットホルダーが設置されている。座席の本革は、商品価値を損なわない程度の微細な傷などが入ったもの(いわゆるアウトレット品)を用いている。そのため、製造コストは通常の座席と大差はない。なお、運転席はレカロ社に特注したセミバケットシートを採用している。",
"title": "車両概説"
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"text": "しかし汚れ付着防止のため、各編成の座席が順次皮革からモケットに変更されることとなっており、2012年にSM2編成で実施された。",
"title": "車両概説"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "グリーン席の座席はすべて1人掛け座席となっているが、中央のC列の座席を片側に寄せてD列席と隣接させることで1+2列配列並みの配置としている(席番配置はA+CD)。また座席背面のフットレストが省略された。A列の壁面とC・D列の中間部に折りたたみ式の木製テーブルを設置している。定員は12名で、883系より1列分少なくなっている。",
"title": "車両概説"
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"text": "普通席は一般的な2+2列配置の座席で、座席の前後間隔は883系に比べて20mm短い980mmとなった。普通席では中ひじ掛けに収納式の木製テーブルを設置している(画像でも解るが手前には2つ設置されている。これは、座席を回転させた際にテーブルの位置がずれてしまう為の対策である)。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "側面化粧板は白色、床はフローリングとしている。ただし、サハ885形100番台および300番台(いずれも3号車)の化粧板はダークグレーである。",
"title": "車両概説"
},
{
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"text": "本系列では883系に設けられていた客室中央部のセンターブースは廃止され、代わりにデッキの面積を拡大し、車端部にコモンスペースを設けた。コモンスペースには縦長の窓が設けられている。",
"title": "車両概説"
},
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"text": "仕切扉には、車両間の半透明ガラス扉、普通客室とデッキを仕切る上部透明/下部半透明のガラス扉、グリーン客室とデッキを仕切る木製扉の3種類があり、全て自動扉であるが、木製扉は手でセンサに触れなければ開かない。これらのうち、ガラス扉は乗務員室からの操作による一括開閉が可能である。また車両間の扉は、一方の扉の開閉と連動して他方の扉も開閉する。",
"title": "車両概説"
},
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"paragraph_id": 19,
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"text": "LED式案内表示器は、客室端部(仕切扉上部)に天井から吊るす形で設置されている。LEDの大きさや配置は883系に準じ、左側から禁煙表示灯、号車番号表示、座席種別表示(グリーン車:グリーンマーク、普通車指定席:緑色で「指」、普通自由席:橙色で「自」)、スクロール式情報表示(8文字分で、当初は「見えるラジオ」を利用したニュース配信も行われていたが、「見えるラジオ」の終了により、現在は、乗客への注意喚起や特別企画乗車券等の自社広告などが流れている)、携帯電話使用禁止表示、トイレ使用中表示となっている。また、6号車に指定席と自由席が混在していた時期(2003 - 2007年)は、通常の座席種別表示は使用されず、「指/自」と表記されたプレートが当該部分に貼付されていた。",
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"text": "各車両一部座席を撤去し、大型の荷物を置くことができる荷物スペースを設置している。",
"title": "車両概説"
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"text": "主幹制御器は左手操作ワンハンドル式(手前から力行5段、中立、抑速ブレーキ、常用ブレーキ7段、非常ブレーキ)とされた。また右側のグリップには勾配起動スイッチが備わっている。運転室と客室との仕切は液晶ガラスとなっており、通常は透明であり客室から前方の風景を見ることができる。なお、停留中や事故などで先頭車のマスコンハンドルが非常ブレーキ位置にあるときは瞬時に不透明になる機構を備える。ちなみに、運転席右部にこのスイッチがあり、ONにすれば常時透明のままになる。",
"title": "車両概説"
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"text": "また、三菱電機製乗務員支援モニタ(合成音声とチャイムによる停車駅接近予告機能を付加。客扱いをしない停車駅でも予告)も備えている。後日装備であるが、運転台の上にATS-DK形のコンソールが搭載された。",
"title": "車両概説"
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"text": "本系列ではミュージックホーンも搭載されているが、883系と同様に運転台の下のペダルで操作するのではなく、運転室のコンソールボックスの中のスイッチを操作して吹鳴させる。これは各種試験動作などの注意啓発の合図のために設置されたもので、通常は聞くことができない。",
"title": "車両概説"
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"text": "主回路機器は815系をベースに特急形として見直しを図っている。主回路制御方式は、883系に続いてVVVFインバータ制御を採用する。",
"title": "車両概説"
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"text": "主変換装置は、IGBT(3300V/1200A)素子を使用したPWMコンバータ+VVVFインバータで構成される。",
"title": "車両概説"
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"text": "主変圧器は自冷式を採用し、モハ885形に搭載される。モハ885形0・400番台は隣接するクモハ885形にも給電することから、二次巻線2線と三次巻線で構成された2M車タイプを搭載する。モハ885形100・200番台は自車のみ給電であることから、二次巻線を1線とした1M車用を搭載する。",
"title": "車両概説"
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"text": "また、中間電動車のモハ885形(2・5号車)にシングルアーム式パンタグラフを1基ずつ装備している。パンタグラフ位置が車体の振り子動作に影響されないように、パンタグラフ台は台車枠直結の支持台上に設置されており、パンタグラフを備えるモハ885形のこの部分はデッドスペースとなっている。",
"title": "車両概説"
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{
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"text": "主電動機は、883系で実績のある MT402K (定格出力190kW)を電動車両1両あたり4基搭載する。",
"title": "車両概説"
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"text": "消費電力は、1両あたりの消費電力の理論値ベースで415系の消費電力を100とした場合、885系は約65パーセントとなっている。",
"title": "車両概説"
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"text": "台車は空気式制御付自然振り子台車のDT406K(電動車)/TR406K(制御車・付随車)となっている。台車の外観や寸法などは883系に類似しているが、台車形式は883系とは異なっている。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "883系投入線区のほとんどは最高速度で走行可能で、100km/h未満の速度制限箇所が一部存在するが、長崎本線肥前鹿島駅 - 諫早駅間では日豊本線より厳しい制限70km/h - 75km/hの急曲線が連続するため、振り子電車としての車体傾斜による安定性を高めることを目的に、空気ばねの左右間隔を883系より10cm広い1,900mmとしている。80km/h以上の速度領域での加速度向上を図ったのも同様の理由のためである。",
"title": "車両概説"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "本節における「前位」および「後位」とは、クロハ884形以外の形式では「前位」が門司港寄り、クロハ884形では「前位」が「みどり」では佐世保、「かささぎ」では肥前鹿島寄り、「ソニック」では博多・大分・佐伯寄りである。",
"title": "形式"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "1次車(SM1 - 7)は2000年に「かもめ」用に投入された編成である。各車の車両番号の末尾2桁が編成番号と同じ01 - 07に揃えられている。座席表地の色は普通席・グリーン席ともに黒色となっている。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2003年7月18日に長崎本線肥前長田駅 - 小江駅間で発生した脱線転覆事故によりSM3編成の博多寄り3両(クモハ885-3・モハ885-3・サハ885-3)が事故廃車とされ、2004年に代替車3両(400番台車:クモハ885-403・モハ885-403・サハ885-403)が新製された。400番台は基本的に1次車に準じているが、先頭車のワイパーが2次車と同じ2本で、背もたれ上部の取っ手の取付け方が1次車、2次車のいずれとも異なるなど、細かな違いがあるほか、編成内の他の車両と末尾番号を揃えるため、番号は403とされている。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "登場時は車体下部の帯と前面窓回りは黄色で、「かもめ」ロゴが配されていたが、車体側面の「かもめ」エンブレムは後に撤去された。2010年12月にSM5編成が2次車と同じ青帯に塗り替えられ、車体側面のロゴも「AROUND THE KYUSHU」と入ったものに変更されたが、先頭部など一部にまだ「かもめ」ロゴが残っていた。その後、他の1次車も順次青帯へと変更され、2012年6月までに885系全編成が青帯に統一された。当初は、雑誌等で青帯化された1次車を「ソニック編成」として扱った場合もあったが、そもそも「かもめ」用の編成や「ソニック」用の編成という区別はなくなっており、今回の塗色変更は885系全編成の帯色統一(1次車の青帯化)によるものである。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "SM1編成は2000年10月に大宮総合車両センターで開催された「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」(現・「鉄道のまち大宮 鉄道ふれあいフェア」)にて展示が行われた。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2次車(SM8 - 11)は2001年に「ソニック」用に投入された編成である。5両編成で落成したため一部の車内設備の配置が変更され、新区分番台としてモハ885形200番台が登場した。その後2003年に新区分番台サハ885形300番台を組み込み6両編成となっている。それ以外の車両の車両番号末尾2桁は編成番号と同じ08 - 11に揃えられている。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "車体下部の帯と前面窓回りは青色で、「SONIC」ロゴが付いていた(客用窓下にもステンレス切抜文字ロゴが付いていた)。1次車よりも側面裾部の帯が若干太い。また前照灯の形状が変更されるとともに、1次車では3本あったワイパーが2本とされた。座席表地の色は普通車がエボニー、グリーン車がマゼンタに変更され、1次車と比べ暖色系のカラースキームとされた。また1次車で窓かまちに取り付けられていた小形テーブルは廃止された。このほかドアチャイムも設置された。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "前照灯はロービームの際は、1次車と同一だが、ハイビームではシールドビームの内側にある灯火および運転室窓上のシールドビームも点灯し、都合5箇所が点灯する。尾灯は1次車と同一である。",
"title": "次車別解説"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)9月3日現在、6両編成11本の計66両が南福岡車両区(本ミフ)に在籍する。編成番号はSM1 - 11で、「SM」の「S」は885系を、「M」は南福岡車両区所属を表す記号である。以下は2022年9月23日時点での状況について記す。",
"title": "現況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "この他、宮崎地区で大幅なダイヤの乱れが発生した場合、「にちりんシーガイア」の大分駅以北を「ソニック」用の車両で先発して運転することがある。なおこの時、大分駅に遅れて到着した「にちりんシーガイア」は大分駅で運転を打ち切り、翌日の運用の都合から多くは後続の「ソニック」の運用を代走することで車両を南福岡へ返却する。",
"title": "現況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお2003年2月までは、以下のような運用形態が見られた。",
"title": "現況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "この他、小倉駅 - 西小倉駅間の橋梁工事に伴う車両運用の変更や、口蹄疫問題で県内経済が大きなダメージを受けた宮崎県への応援キャンペーンの一環などで、臨時で「にちりん」「にちりんシーガイア」の運用に入ったことがある。",
"title": "現況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "3M3T(電動車3両、付随車3両)の6両で構成される。下り長崎・佐伯寄りからクロハ884形 - モハ885形100番台/200番台 - サハ885形100番台/300番台 - サハ885形 - モハ885形 - クモハ885形となっている。",
"title": "編成表"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "サハ885形100番台もしくは300番台(いずれも3号車)を編成中から外し、5両編成 (3M2T) で運転することも可能である。このため、同車および同車との連結面は密着連結器となっている。他は、先頭部を除き半永久連結器である。",
"title": "編成表"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "台湾高速鉄道(台湾新幹線)の建設予定がない東部幹線の速達化をはかるため、2004年に中華民国台湾鉄路管理局(台鉄)は丸紅を通して日立製作所に885系の同等車(TEMU1000型)8両編成6本(48両)を発注した。2006年に3本が納車され、2007年に残り3本が納車された。さらに48両発注する計画があったが、コスト合意できないなど理由で2009年に計画中止になった。これにより、台北駅 - 花蓮駅間は従来より30分程度短縮され、2時間以内とされた。運賃設定は「自強号」と同一である。",
"title": "台湾への輸出"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "発注の目的は速達化のみならず、プッシュプル型「自強号」(E1000型)において韓国(現代精工業、現在のロテム)製客車が故障などの不具合が多く遅延や運休を生じているため、その入れ替えの目的もある。",
"title": "台湾への輸出"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2006年1月17日、台鉄の公募により、列車の愛称は花蓮近郊の太魯閣国家公園にちなんだ「太魯閣号(タロコ号)」に決定した。",
"title": "台湾への輸出"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2014年12月28日、政府交通部は当形式2編成16両を追加発注することを決定し、2016年より投入された。",
"title": "台湾への輸出"
}
] |
885系電車(885けいでんしゃ)は、九州旅客鉄道(JR九州)の交流特急形電車。 2000年(平成12年)3月11日に営業運転を開始した。
|
{{Dablink|「'''白いかもめ'''」、「'''白いソニック'''」、「'''白いみどり'''」はこの項目へ[[Wikipedia:リダイレクト|転送]]されています。
* 「白いかもめ」の名称で案内のあった列車については「[[かもめ (列車)]]」をご覧ください。
* 「白いソニック」の名称で案内のあった列車については「[[ソニック (列車)]]」をご覧ください。
* 白緑色については「[[アイスグリーン]]」をご覧ください。}}
{{鉄道車両
| 車両名 = JR九州885系電車
| 背景色 = #FF0000
| 文字色 = #FFFFFF
| 画像 = L_Nippo_885.jpg
| 画像説明 = 特急ソニックとして運用される885系電車<br>(2021年3月 朽網駅 - 苅田駅間)
| 運用者 = [[九州旅客鉄道]]
| 製造所 = [[日立製作所]][[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]]
| 製造年 = 2000年 - 2004年
| 製造数 = 69両(11編成66両+代替車3両)
| 運用開始 = 2000年3月11日
| 編成 = 6両編成
| 軌間 = 1,067 mm
| 電気方式 = [[交流電化|交流]]20,000V (60Hz)
| 最高運転速度 = 130 km/h(曲線通過 +30 km/h)
| 設計最高速度 = 150 km/h(曲線通過 +40 km/h){{要出典|date=2015年3月}}
| 起動加速度 = 2.2 km/h/s
| 常用減速度 = 4.3 km/h/s
| 非常減速度 = 5.2 km/h/s
| 編成定員 = 314名(6両編成)
| 車両定員 =
| 自重 =
| 編成重量 = 228.4 t
| 編成長 =
| 全長 = 20,500 mm<br>21,650 mm ([[制御車|先頭車]])
| 全幅 = 2,910 mm
| 全高 = 3,825 mm
| 車体材質 = [[アルミニウム合金]] ([[A-train (日立製作所)|A-train]])
| 台車 =
| 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]
| 主電動機出力 =
| 駆動方式 = [[TD平行カルダン駆動方式|TD継手式中実軸平行カルダン駆動方式]]
| 歯車比 =
| 編成出力 = 190kW×12=2,280kW (3M3T)
| 制御方式 =[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]
| 制御装置 =
| 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ]]
| 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SK]]、[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-DK]]
| 備考 =
| 備考全幅 = {{ブルーリボン賞 (鉄道)|44|2001}}
}}
'''885系電車'''(885けいでんしゃ)は、[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[交流電化|交流]][[特急形車両|特急形]][[電車]]。
[[2000年]]([[平成]]12年)[[3月11日]]に営業運転を開始した。
== 概要 ==
[[JR九州783系電車|783系]]と[[国鉄485系電車|485系]]を使用していた[[特別急行列車|特急]]「[[かもめ (列車)|かもめ]]」の速度向上を目的とした[[車体傾斜式車両|振り子式車両]]である。デザインは[[水戸岡鋭治]]主宰のドーンデザイン研究所が担当した。
[[2001年]](平成13年)に「[[ソニック (列車)|ソニック]]」増発用の2次車が製造された<ref name="RJ415_76">[[#RJ415|『鉄道ジャーナル』通巻415号、p.76]]</ref>。[[2003年]](平成15年)に2次車の6両化用として4両が、[[2004年]](平成16年)に事故[[廃車 (鉄道)|廃車]](後述)された補充として3両が製造された。
全車が[[日立製作所]]で製造された。車両価格は6両編成で10億8000万円。
最高速度は[[JR九州883系電車|883系]]と同じ130km/hで、80km/hまでの加速性能も883系と同じだが、それ以上の速度領域では加速力を向上させることで高速性能の改善を図っている<ref name="RF469_42">[[#鉄道ファン469|『鉄道ファン』通巻469号、p.42]]</ref>。本形式は883系と異なりアルミ車体が採用されたが、振り子式車両への導入は[[国鉄381系電車|381系]]以来であり、[[JR]]グループの新型車両では当形式が唯一の存在である。
[[2001年]]に[[鉄道友の会]][[第44回ブルーリボン賞 (鉄道)|第44回ブルーリボン賞]]、[[ブルネル賞]]、[[財団法人]]産業デザイン振興会[[グッドデザイン賞]]を受賞した。
== 車両概説 ==
=== 車体 ===
[[ファイル:JR Kyushu 885 SM6 6th car side.png|thumb|200px|クモハ885の先頭部]]
車体は日立製作所のモジュール構体システム「[[A-train (日立製作所)|A-train]]」を採用し、[[摩擦攪拌接合|摩擦撹拌方式]] (FSW) により製造された[[ダブルスキン構造]]の[[アルミニウム合金]]製である<ref name="RF469_42" />。ダブルスキン構造の内部に制振材を挿入し、床面上部にも貼り付けることで騒音防止を図っている<ref name="RF469_42" />。前頭部は新幹線や、ドイツの高速列車[[ICE 3|ICE3]]を彷彿させるような、非貫通構造で丸みの帯びた流線型とし、併結用の密着[[連結器]]はカバーで車体と一体になるようにデザインされている<ref name="RF469_43">[[#鉄道ファン469|『鉄道ファン』通巻469号、p.43]]</ref>。前照灯のデザインは、スポーツカー「[[アウディ・TT]]」のものを基にしている{{Sfn|水戸岡|2009|pp=128-129}}。[[前照灯]]はロービームの際は2箇所の[[シールドビーム]]しか点灯しないが、ハイビームでは[[JR九州787系電車|787系]]と同様に運転室窓上のシールドビームも点灯する。[[尾灯]]は前照灯の下部に横方向に配置されている。
側面窓は883系に比べやや小さくなるとともに、[[窓ガラス]]は[[紫外線|UV]]カットガラスに変更された。また乗降扉の横幅も883系に比べ100mm縮められ、900mmとされた。ただし、床面高さを低くしたことにより、[[プラットホーム|ホーム]]との段差が小さくなったため出入台にステップは設置されていない。
[[方向幕|行先表示器]]は[[発光ダイオード|LED]]式で、一定速度以上で走行中は表示が消え、停車中に消すことも可能である。上部約2/3では、列車名と行先が表示される。上部より[[英語]]列車名、[[日本語]][[列車種別|種別]]・列車名、日本語行先、英語行先となっている。下部約1/3は、号車番号、座席種別(グリーン/指定/自由、禁煙/喫煙)およびその英語表記が表示される。これらは別個に設定可能である。
*[[大分駅]]で「にちりん」と接続する「ソニック」では、英語名の表記が省略されるとともに、列車名と行先がそれぞれ「ソニック(&にちりん)」「大分([[宮崎空港駅|宮崎空港]]又は[[南宮崎駅|南宮崎]])」となっている。また、その下に「大分駅で「にちりん号」と接続」の表記が加わる。
塗装はそれまでのJR九州の車両に多かった原色を用いたデザインから一変し、白一色で車体下部と前面[[操縦席|運転台]]窓周りに帯を入れたデザインとなっている。この帯の色は「かもめ」に充当される1次車が黄色、「ソニック」に充当される2次車が青色と区別され、[[ロゴタイプ|ロゴ]]もそれぞれ異なっていた。ただし予備車が少ないことから運用上の自由度を高めるため、車体側面エンブレムは後に撤去され{{Sfn|JR特急列車年鑑|2011|pages=90-91}}、帯の色も2012年上期までに青色への統一が完了した{{Sfn|鉄道ファン|2012|page=33,170}}。
このデザインを採用するにあたり、ICE3のデザイナーである[[アレクサンダー・ノイマイスター]]と親交がある水戸岡は、ノイマイスター本人から快諾を得たという<ref>{{Cite journal |和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/385999?page=2|title=オランダに485系、日欧「似たもの列車」大集合|publisher=東洋経済新報社|accessdate=2021-02-21|journal=東洋経済ONLINE|date=2020年11月6日}}</ref>。
=== 内装 ===
==== 車内 ====
[[鉄道車両の座席|座席]]は全席[[リクライニングシート]]で、[[普通車 (鉄道車両)|普通席]]・[[グリーン車|グリーン席]]ともに本[[皮革]]張りとしている。これにより構造上、座席背面にテーブルを設置することができないため、側面窓の窓かまちを設けることで小物を置くスペースの確保を図っている。また、ヘッドレスト背面にはチケットホルダーが設置されている。座席の本革は、商品価値を損なわない程度の微細な傷などが入ったもの(いわゆる[[アウトレットモール#概要|アウトレット]]品)を用いている。そのため、製造コストは通常の座席と大差はない。なお、運転席は[[レカロ]]社に特注した[[バケットシート|セミバケットシート]]を採用している{{Sfn|水戸岡|2009|p=77}}。
しかし汚れ付着防止のため、各編成の座席が順次皮革からモケットに変更されることとなっており<ref>{{Cite journal|和書|date=2013-05|journal=鉄道ジャーナル|volume=47|issue=5|page=34}}</ref>、2012年にSM2編成で実施された<ref>{{Cite journal|和書|date=2012-11-09|journal=JR電車編成表 2013冬|page=208|isbn=978-4-330-33112-6|purpose=交通新聞社}}</ref>。
グリーン席の座席はすべて1人掛け座席となっているが、中央のC列の座席を片側に寄せてD列席と隣接させることで1+2列配列並みの配置としている(席番配置はA+CD)。また座席背面のフットレストが省略された。A列の壁面とC・D列の中間部に折りたたみ式の木製テーブルを設置している。定員は12名で、883系より1列分少なくなっている。
普通席は一般的な2+2列配置の座席で、座席の前後間隔は883系に比べて20mm短い980mmとなった。普通席では中ひじ掛けに収納式の木製テーブルを設置している(画像でも解るが手前には2つ設置されている。これは、座席を回転させた際にテーブルの位置がずれてしまう為の対策である)。
<gallery widths="200" heights="150">
ファイル:JRK 885 series Reservedcar interior.JPG|指定席車の車内(※画像は1号車後室)
ファイル:885_SM-2_moha885-2.jpg|モケットに交換された車内
ファイル:JRK 885Siries Kamome Greencar Interior.JPG |1次車のグリーン車の車内。普通車同様黒いシートにカモメのロゴが入っている。
ファイル:JRK 885Siries Greencar Interior.JPG|2次車のグリーン車の車内。えんじ色のシートにSの文字が入っている。
ファイル:885Siries EMU TABLE Close.JPG|1次車グリーン車のテーブルを閉じた状態。金属部分にロゴが入る。
ファイル:885Siries EMU TABLE OPEN.JPG|1次車グリーン車のテーブルを開いた状態。
</gallery>
==== その他車内設備 ====
[[ファイル:JRK 885 Common space.jpg|thumb|right|200px|1次車コモンスペース]]
側面化粧板は白色、床は[[フローリング]]としている。ただし、サハ885形100番台および300番台(いずれも3号車)の化粧板はダークグレーである。
本系列では883系に設けられていた客室中央部のセンターブースは廃止され、代わりにデッキの面積を拡大し、車端部にコモンスペースを設けた。コモンスペースには縦長の窓が設けられている。
仕切扉には、車両間の半透明ガラス扉、普通客室とデッキを仕切る上部透明/下部半透明のガラス扉、グリーン客室とデッキを仕切る木製扉の3種類があり、全て[[自動ドア|自動扉]]であるが、木製扉は手でセンサに触れなければ開かない。これらのうち、ガラス扉は乗務員室からの操作による一括開閉が可能である。また車両間の扉は、一方の扉の開閉と連動して他方の扉も開閉する。
LED式案内表示器は、客室端部(仕切扉上部)に天井から吊るす形で設置されている。LEDの大きさや配置は883系に準じ、左側から禁煙表示灯、号車番号表示、座席種別表示(グリーン車:グリーンマーク、普通車[[座席指定席|指定席]]:緑色で「指」、普通[[自由席]]:橙色で「自」)、スクロール式情報表示(8文字分で、当初は「[[文字多重放送|見えるラジオ]]」を利用したニュース配信も行われていたが、「見えるラジオ」の終了により、現在は、乗客への注意喚起や[[特別企画乗車券]]等の自社広告などが流れている)、[[携帯電話]]使用禁止表示、[[列車便所|トイレ]]使用中表示となっている。また、6号車に指定席と自由席が混在していた時期(2003 - 2007年)は、通常の座席種別表示は使用されず、「指/自」と表記されたプレートが当該部分に貼付されていた。
各車両一部座席を撤去し、大型の荷物を置くことができる荷物スペースを設置している。
<gallery widths="200" heights="150">
ファイル:885Siries EMU GREEN CAR ENTRANCE DOOR.JPG|グリーン車入口の木製ドア(SM3かもめ編成)。
ファイル:885Siries Economy Class Entrance.JPG |普通車入口。上部案内表示機周辺を除き、すりガラスとなっている。
ファイル:885Siries EMU multi-purpose space.JPG|デッキとグリーン車室内にある多目的スペース。新聞・雑誌・車内販売のメニューが置いてある。
</gallery>
==== 乗務員室 ====
[[file:JR Kyushu 885 driving cab 2001.jpg|thumb|右|運転台とセミバケットシート]]
[[file:885_SM-10.jpg|thumb|右|運転台(ATS-DK設置後)]]
[[マスター・コントローラー|主幹制御器]]は左手操作ワンハンドル式(手前から力行5段、中立、[[抑速ブレーキ]]、常用ブレーキ7段、非常ブレーキ)とされた。また右側のグリップには[[坂道発進補助装置|勾配起動スイッチ]]が備わっている。運転室と客室との仕切は[[液晶]]ガラスとなっており、通常は透明であり客室から前方の風景を見ることができる。なお、停留中や事故などで先頭車のマスコンハンドルが非常ブレーキ位置にあるときは瞬時に不透明になる機構を備える。ちなみに、運転席右部にこのスイッチがあり、ONにすれば常時透明のままになる。
また、[[三菱電機]]製[[鉄道車両のモニタ装置|乗務員支援モニタ]](合成音声と[[チャイム]]による停車駅接近予告機能を付加。客扱いをしない停車駅でも予告)も備えている。後日装備であるが、運転台の上に[[ATS-DK|ATS-DK形]]のコンソールが搭載された。
本系列では[[警笛#鉄道車両|ミュージックホーン]]も搭載されているが、883系と同様に運転台の下のペダルで操作するのではなく、運転室のコンソールボックスの中のスイッチを操作して吹鳴させる。これは各種試験動作などの注意啓発の合図のために設置されたもので、通常は聞くことができない。
=== 機器類 ===
主回路機器は[[JR九州815系電車|815系]]をベースに特急形として見直しを図っている<ref name="RF469_50">[[#鉄道ファン469|『鉄道ファン』通巻469号、p.50]]</ref>。主回路制御方式は、883系に続いて[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]を採用する。
[[主変換装置]]は、[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]](3300V/1200A)素子を使用した[[パルス幅変調|PWM]][[コンバータ]]+VVVFインバータで構成される<ref name="RF469_50" />。
主変圧器は自冷式を採用し、モハ885形に搭載される。モハ885形0・400番台は隣接するクモハ885形にも給電することから、二次巻線2線と三次巻線で構成された2M車タイプを搭載する<ref name="RF469_50" />。モハ885形100・200番台は自車のみ給電であることから、二次巻線を1線とした1M車用を搭載する<ref name="RF469_50" />。
また、中間電動車のモハ885形(2・5号車)にシングルアーム式[[集電装置|パンタグラフ]]を1基ずつ装備している。パンタグラフ位置が車体の振り子動作に影響されないように、パンタグラフ台は台車枠直結の支持台上に設置されており、パンタグラフを備えるモハ885形のこの部分はデッドスペースとなっている。
主電動機は、883系で実績のある MT402K (定格出力190kW)を電動車両1両あたり4基搭載する<ref name="RF469_50" />。
消費電力は、1両あたりの消費電力の理論値ベースで415系の消費電力を100とした場合、885系は約65パーセントとなっている<ref>{{Wayback |url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/csr/environment/report/effort3.html |title=九州を走るエコ車両 |date=20171002062251}} - 九州旅客鉄道 2017年10月1日</ref>。
<gallery widths="200" heights="150">
ファイル:Moha885-11_toshiba.jpg|東芝製主変換装置
ファイル:Moha885-204_HITACHI.jpg|日立製主変換装置
</gallery>[[鉄道車両の台車|台車]]は空気式制御付自然振り子台車のDT406K([[動力車|電動車]])/TR406K([[制御車]]・[[付随車]])となっている。台車の外観や寸法などは883系に類似しているが、台車形式は883系とは異なっている。
883系投入線区のほとんどは最高速度で走行可能で、100km/h未満の速度制限箇所が一部存在するが、[[長崎本線]][[肥前鹿島駅]] - [[諫早駅]]間では[[日豊本線]]より厳しい制限70km/h - 75km/hの急[[線形 (路線)|曲線]]が連続するため、振り子電車としての車体傾斜による安定性を高めることを目的に、空気ばねの左右間隔を883系より10cm広い1,900mmとしている。80km/h以上の速度領域での加速度向上を図ったのも同様の理由のためである。
== 形式 ==
{| class="wikitable" summary="方面別編成表" style="text-align: center; font-size:80%; margin:1em 0em 1em 3em;"
|-
!rowspan="2"|編成番号
|colspan="6"|{{TrainDirection|早岐・肥前鹿島・大分|佐世保・小倉}}
|-style="background-color:#6; border-bottom:solid 4px #69f;"
|style="width:7em; background-color:#cf9;"|クロハ884形<br /> (T’hsc)
|style="width:7em;"|モハ885形<br /> (M1/M2)
|style="width:7em;"|サハ885形<br /> (T1/T3)
|style="width:7em;"|サハ885形<br /> (T)
|style="width:7em;"|モハ885形<br /> (M)
|style="width:7em;"|クモハ885形<br /> (Mc)
|-
!SM1 - 7
| 0番台 || 100番台 || 100番台 || 0・400番台 || 0・400番台 || 0・400番台
|-
!SM8 - 11
| 0番台 || 200番台 || 300番台<ref group="注">2003年、2次車の5両化の際に製造・編成組込</ref> || 0番台 || 0番台 || 0番台
|-
|}
本節における「前位」および「後位」とは、クロハ884形以外の形式では「前位」が[[門司港駅|門司港]]寄り、クロハ884形では「前位」が「[[みどり (列車)|みどり]]」では[[佐世保駅|佐世保]]、「[[かささぎ (列車)|かささぎ]]」では[[肥前鹿島駅|肥前鹿島]]寄り、「[[ソニック (列車)|ソニック]]」では博多・大分・佐伯寄りである。
; クモハ885形(Mc:1 - 11・403)
: 上り寄り先頭の[[制御車|制御電動車]]。編成内の6号車に連結される。[[主変換装置]]を備えているが、隣のモハ885形0番台より[[単相交流]]を受電するため、パンタグラフと[[変圧器|主変圧器]]は備えていない。また、[[圧縮機|空気圧縮機]] (CP) を1台備える。クモハ885-3はモハ885-3・サハ885-3と同様の事故によって2003年に事故廃車となり、代替として403号が新製された。車内は、前位側より運転室、客室、出入台、[[便器#腰掛大便器(洋式・洋風大便器)|洋式トイレ]](男女別)およびフリースペースとなっている。本形式は[[喫煙席|喫煙車]]として使用されていた期間が長いため内装が黄色に変色した箇所がある。定員48名(4列×12)。{{-}}
; モハ885形
: 中間[[動力車|電動車]]。共通事項として、[[集電装置#Z型・シングルアーム型|シングルアーム式パンタグラフ]]と主変圧器を備える。
:; 0・400番台(M:1 - 11・403)
::「[[かもめ (列車)|かもめ]]」「[[ソニック (列車)|ソニック]]」の5号車に連結される中間電動車である。モハ885-3はクモハ885-3・サハ885-3 と同様の事故によって2003年に事故廃車となり、代替として403が新製されている。車内は、前位側より客室、出入台、[[自動販売機]]およびフリースペースとなっている。定員60名(4列×15)。{{-}}
:; 100番台(M1:101 - 107)
:: 1次車のみの番台区分で、2号車に連結される。[[車椅子]]対応座席およびバリアフリー対応トイレを備えているほか、全席に[[配線用差込接続器|コンセント]]を備えている(座席間の肘掛の前面に2口設置。車椅子対応座席については窓下の壁面に設置)。本系列で車内[[公衆電話]]を設ける車両は、本区分番台と200番台のみである。製造当時はすでに[[携帯電話]]が普及し、車内電話の利用率が下がっていたため、車内電話は編成中1か所のみとしている。車内は、前位側より客室(後位側に車椅子対応座席あり)、バリアフリー対応トイレ、出入台、電話室(2009年10月31日限りで車内公衆電話サービス廃止)およびフリースペースとなっている。定員46名(4列×10/2列+車椅子対応座席×2)。{{-}}
:; 200番台(M2:201 - 204)
:: 2次車のみの番台区分で、2号車に連結される。100番台と同様、車椅子対応座席、バリアフリー対応トイレ、コンセント、車内電話を備える。「[[かもめ (列車)|かもめ]]」では3号車のサハ885形100番台に「ミニショップ」と呼ばれる[[売店]]兼[[車内販売]]準備室を設けたが、「ソニック」では当初サハ885形100番台を連結しない5両編成とするため、本番台にミニショップを設けた。車内は、前位側より客室(後位側に車椅子対応座席あり)、バリアフリー対応トイレ、出入台、電話室(2009年10月31日限りで車内公衆電話サービス廃止)およびミニショップ(2015年3月13日限りで車内販売サービス廃止)となっている。定員46名(4列×10/2列+車椅子対応座席×2)。{{-}}
; クロハ884形(T'hsc:1 - 11)
:下り寄り先頭車となる[[グリーン車|グリーン]]・普通[[合造車]]の[[制御車]]で、編成内の1号車に連結される。また、「見えるラジオ」でのニュース配信用として文字放送受信装置ニュース配信用)も設置している。車内は、前位側より運転室、グリーン客室、グリーン客用洋式トイレおよびフリースペース、出入台、普通客室となっている。定員40名(グリーン室3列×4、普通室4列×7)。{{-}}
; サハ885形
: [[付随車]]。100番台および300番台車は、編成から外して運転可能である。
:; 0・400番台(T:1 - 11・403)
::「[[かもめ (列車)|かもめ]]」「[[ソニック (列車)|ソニック]]」の4号車に連結される車両で、編成中間に専務車掌室がないため、本区分番台にはデッキに簡易車掌台([[車掌スイッチ]](いわゆる「他これスイッチ」)、[[車内放送]]設備、戸閉知らせ灯など)が設置されており、この部分の窓は開閉可能(鍵必要)である。また、CPを2台備える。サハ885-3はモハ885-3・クモハ885-3と同様の事故によって2003年に事故廃車となり、代替として同一仕様の403が新製されている。車内は、前位側より客室、簡易車掌台出入台、洋式トイレ(男女別)およびフリースペースとなっている。定員60名(4列×15)。{{-}}
:; 100番台(T1:101 - 107)
:: 1次車のみの番台区分で、3号車に連結される。モハ885形200番台の節で述べたように、「ミニショップ」を設ける。車内は、前位側より客室、出入台、ミニショップ(2015年3月13日限りで車内販売サービス廃止)およびフリースペースとなっている。定員60名(4列×15)。{{-}}
:; 300番台(T3:301 - 304)
:: 2次車のみの番台区分で、3号車に連結される。2003年に「ソニック」の6両編成化に伴い製造された。コモンスペースが拡大されるとともに、[[衛星放送]]の受信が可能となった。車内は、前位側より客室、出入台およびフリースペースとなっている。定員60名(4列×15)。
<gallery widths="160" perrow="4" style="font-size:90%;">
File:JR Kyushu 885 SM6 6th car.png|クモハ885形0番台
File:JR Kyushu 885 SM6 5th car.png|モハ885形0番台
File:JR Kyushu 885 SM6 2nd car.png|モハ885形100番台
File:JR Kyushu 885 SM8 2nd car.png|モハ885形200番台
File:JR Kyushu 885 SM6 1st car.png|クロハ884形0番台
File:JR Kyushu 885 SM6 4th car.png|サハ885形0番台
File:JR Kyushu 885 SM6 3rd car.png|サハ885形100番台
File:JR Kyushu 885 SM8 3rd car.png|サハ885形300番台
</gallery>
== 次車別解説 ==
=== 1次車 (SM1 - 7) ===
[[File:JR Kyushu 885 Kamome emblem.png|thumb|200px|1次車の車体側面エンブレム(後に撤去された)]]
1次車(SM1 - 7)は2000年に「[[かもめ (列車)|かもめ]]」用に投入された編成である。各車の[[鉄道の車両番号|車両番号]]の末尾2桁が編成番号と同じ01 - 07に揃えられている。座席表地の色は普通席・グリーン席ともに黒色となっている。
[[File:JR Kyushu 885 SM3 1st car and 6th car.png|thumb|120px|<small>SM3編成の両先頭車(下がクモハ885-403)</small>]]2003年[[7月18日]]に[[長崎本線]][[肥前長田駅]] - [[小江駅]]間で発生した[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#長崎本線特急列車脱線転覆事故|脱線転覆事故]]によりSM3編成の[[博多駅|博多]]寄り3両(クモハ885-3・モハ885-3・サハ885-3)が事故廃車とされ、2004年に代替車3両(400番台車:クモハ885-403・モハ885-403・サハ885-403)が新製された。400番台は基本的に1次車に準じているが、先頭車の[[ワイパー]]が2次車と同じ2本で、背もたれ上部の取っ手の取付け方が1次車、2次車のいずれとも異なるなど、細かな違いがあるほか、編成内の他の車両と末尾番号を揃えるため、番号は403とされている。
登場時は車体下部の帯と前面窓回りは黄色で、「かもめ」ロゴが配されていたが、車体側面の「かもめ」エンブレムは後に撤去された{{Sfn|JR特急列車年鑑|2011|pages=90-91}}。[[2010年]]12月にSM5編成が2次車と同じ青帯に塗り替えられ<ref name="railf20101227">{{Cite news|和書 |url=http://railf.jp/news/2010/12/27/193400.html |title=885系SM5編成が青帯に |newspaper=『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』railf.jp 鉄道ニュース |publisher=[[交友社]] |date=2010年12月27日 |accessdate=2012年10月13日}}</ref>{{Sfn|坂|2011|p=29}}、車体側面のロゴも「AROUND THE KYUSHU」と入ったものに変更されたが、先頭部など一部にまだ「かもめ」ロゴが残っていた<ref name="railf20101227" />。その後、他の1次車も順次青帯へと変更され、2012年6月までに885系全編成が青帯に統一された{{Sfn|鉄道ファン|2012|page=33,170}}。当初は、雑誌等で青帯化された1次車を「ソニック編成」として扱った場合もあったが{{Sfn|坂|2011|p=29}}{{Sfn|鶴|2011|p=85}}、そもそも「かもめ」用の編成や「ソニック」用の編成という区別はなくなっており{{Sfn|JR特急列車年鑑|2011|pages=90-91}}{{Sfn|坂|2011|p=29}}、今回の塗色変更は885系全編成の帯色統一(1次車の青帯化)によるものである{{Sfn|鶴|2011|p=82}}。
SM1編成は2000年10月に[[大宮総合車両センター]]で開催された「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」(現・「[[鉄道のまち大宮 鉄道ふれあいフェア]]」)にて展示が行われた。
<gallery>
File:Kyushu Railway - Series 885 - 01.JPG|塗装変更後の1次車
File:JR Kyushu 885 SM4 AROUND THE KYUSHU 03.png|運転室扉の横には「かもめ」ロゴが残る
File:JR Kyushu 885 SM4 AROUND THE KYUSHU 02.png|先頭部にも「かもめ」ロゴ・エンブレムが残る
File:JR Kyushu 885 AROUND THE KYUSHU emblem.png|新ロゴ (AROUND THE KYUSHU)
</gallery>
=== 2次車 (SM8 - 11) ===
[[ファイル:Series885-Kamome.jpg|thumb|right|240px|2次車(SM10編成)]]
[[File:JR Kyushu 885 Sonic emblem.png|thumb|200px|2次車の車体側面エンブレム(後に撤去された)]]
2次車(SM8 - 11)は2001年に「[[ソニック (列車)|ソニック]]」用に投入された編成である<ref name="RJ415_76" />。5両編成で落成したため一部の車内設備の配置が変更され、新区分番台としてモハ885形200番台が登場した<ref name="RJ415_76" />。その後2003年に新区分番台サハ885形300番台を組み込み6両編成となっている。それ以外の車両の車両番号末尾2桁は編成番号と同じ08 - 11に揃えられている。
車体下部の帯と前面窓回りは青色で、「SONIC」ロゴが付いていた(客用窓下にもステンレス切抜文字ロゴが付いていた)<ref name="RJ415_76" />。1次車よりも側面裾部の帯が若干太い<ref name="RJ415_76" />。また前照灯の形状が変更される<ref>[[JR九州885系電車#RJ415|『鉄道ジャーナル』通巻415号、p.72]]</ref>とともに、1次車では3本あったワイパーが2本とされた。座席表地の色は普通車がエボニー、グリーン車がマゼンタに変更され、1次車と比べ暖色系のカラースキームとされた。また1次車で窓かまちに取り付けられていた小形テーブルは廃止された<ref name="RJ415_76" />。このほか[[ドアチャイム]]も設置された<ref>[[JR九州885系電車#RJ415|『鉄道ジャーナル』通巻415号、p.77]]</ref>。
前照灯はロービームの際は、1次車と同一だが、ハイビームではシールドビームの内側にある灯火および運転室窓上のシールドビームも点灯し、都合5箇所が点灯する。尾灯は1次車と同一である。
== 沿革 ==
* [[2000年]]([[平成]]12年)
** [[2月6日]]:1次車(SM1 - 7編成)6両編成7本が南福岡電車区(本ミフ)に配属(配属完了は[[3月7日]])。
** [[3月11日]]:ダイヤ改正。「かもめ」のパターンダイヤ16往復および「ソニック」2往復、[[門司港駅|門司港]]行き「[[きらめき (列車)|きらめき]]」に投入。
* [[2001年]](平成13年)
** [[3月3日]]:2次車(SM8 - 11編成)5両編成4本が南福岡電車区に配属。2次車を「ソニック」に投入(一部は[[佐伯駅|佐伯]]発着)する<ref>{{Cite news |和書|title=新型特急デビュー |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-03-06 |page=1 }}</ref>とともに、1次車は「かもめ」専用となる。
** 4月:所属車両基地名が「南福岡電車区(本ミフ)」から「南福岡電車区(北ミフ)」に変更。
** [[7月6日]]:[[ブルネル賞]]を受賞。
** [[8月25日]]:[[鉄道友の会]]第44回[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を受賞。
** [[10月1日]]:産業デザイン振興会[[グッドデザイン賞]]を受賞。
*[[2002年]](平成14年)
** [[10月21日]]:ダイヤ修正により「[[みどり (列車)|みどり]]」1往復に投入。ただしこの列車は佐賀駅・肥前山口駅発着の「かもめ」を臨時延長扱いで[[佐世保駅]]発着にしたため、[[佐世保線]]内は臨時列車扱いであった。
*[[2003年]](平成15年)
**[[2月20日]]:サハ885形300番台投入により、全編成が6両となる(6両化完了は[[2月23日|23日]])。
**[[3月15日]]:ダイヤ改正に伴い「みどり」から撤退。
**[[7月18日]]:SM3編成が長崎線特急列車脱線転覆事故で被災。同編成は運用を離脱するとともに、大破した博多寄り3両は同年[[9月1日]]付で廃車。
**10月:SM8 - 11編成の[[日本の鉄道車両検査#重要部検査・台車検査|要部検査]]入場に伴い、「ソニック」の1運用(佐伯駅に乗り入れない運用)を一部期間883系AO1 - 5編成が代走( - 2004年3月まで。[[鉄道駅|駅]]や市販の大型[[時刻表]]でも案内されていた)。
*[[2004年]](平成16年)
**[[3月23日]]:400番台3両が落成し、損傷の少なかった為修理された長崎寄りの3両と連結してSM3編成が運用復帰。
*[[2005年]](平成17年)
**[[3月1日]]:[[中津駅 (大分県)|中津]]発着の「ソニック」(101・104号)へ投入。「きらめき」からは撤退し、門司港までの運用が消滅。
**[[10月8日]]:SM11編成が、宮崎地区のイベント列車として日豊本線[[南宮崎駅]]まで入線([[10月10日|10日]]まで)。885系の同線佐伯駅以南での営業運行は、これが初めてである。
*[[2007年]](平成19年)
**[[3月18日]]:全列車全面禁煙化。また、中津発着の「ソニック」を101・102号に変更の上、営業運転区間を[[柳ヶ浦駅]]まで延長。
*[[2008年]](平成20年)
**[[7月19日]]:「きらめき」への運用が復活。
*[[2009年]](平成21年)
**[[3月14日]]:「きらめき」への運用から撤退。
*[[2010年]](平成22年)
**4月:所属車両基地名が「南福岡電車区(北ミフ)」から「南福岡車両区(本ミフ)」に変更。
**9月:専用のラッピングを施したSM8編成が土休日に限り[[にちりん (列車)|にちりんシーガイア]]7・20号に使用される。[[宮崎空港駅]]への乗り入れは初となった。
*[[2011年]](平成23年)
**1月:SM5編成が青帯に変更された。
**3月:「ソニック」の別府→大分間昼間の下り列車において、[[石丸謙二郎]]によるナレーション「大分市観光ナレーション」が放送開始される。
*[[2012年]](平成24年)
**6月までに、1次車全車両の青帯化が完了した。
[[ファイル:福山雅治 かもめ(海鷗號) 新鳥栖 Shin-Tosu - 21351952928.jpg|サムネイル|200px|[[福山雅治]]のラッピング(新鳥栖駅にて)]]
*[[2015年]](平成27年)
**8月23日:[[福山雅治]]のデビュー25周年を記念してSM7編成がラッピングされた<ref>{{Cite web|和書|title=JR九州にて『福が来た!プロジェクト』始動!! |url=https://fmsp.amob.jp/mob/index.php |website=福山雅治オフィシャルサイト |access-date=2023-05-04 |language=ja}}</ref>。
*[[2018年]](平成30年)
**3月1日:[[サガン鳥栖]]ラッピングトレインとしてSM9編成がラッピングされた。
*[[2019年]](平成31年/[[令和]]元年)
**3月1日:サガン鳥栖ラッピングトレインとしてSM8編成がラッピングされた。サガン鳥栖のラッピングが行われたのはこれで2回目である。
**7月11日:現川駅 - 浦上駅間のトンネル上部で掘削作業をしていた機材が天井を突き抜けて「かもめ」16号に運用中のSM10編成に当たり、先頭と左側面が損傷した。
*[[2020年]](令和2年)
**[[3月14日]]:ダイヤ改正。「かもめ」における885系の定期運用が16往復から13往復に減少。
**9月29日:『[[劇場版 鬼滅の刃 無限列車編]]』の公開を記念してSM10編成がラッピングされた。1号車から順に各号車には竈門炭治郎、竈門禰豆子、我妻善逸、嘴平伊之助、煉獄杏寿郎、PRポスターの載ったラッピングが施された。
*[[2021年]](令和3年)
**[[3月13日]]:ダイヤ改正。「かもめ」は1往復臨時化、1往復廃止で定期11往復に減少。また肥前鹿島駅始発の102号は787系に変更。「ソニック」での運用は11往復から13往復に増加。
*[[2022年]](令和4年)
**3月:利用減少のため、車内設置の自動販売機サービスが終了<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2022/01/14/220114_jidouhanbaiki_shuryo.pdf |format=PDF |title=車内飲料自動販売機サービスの終了について |accessdate=2022-01-30 |publisher=九州旅客鉄道株式会社(JR九州)}}</ref>。
**[[9月23日]]:ダイヤ改正<ref name="press20220610">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/06/10/220610_september_23rd.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220610082713/https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/06/10/220610_september_23rd.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年9月23日ダイヤ改正 西九州新幹線が開業します 在来線各線区でダイヤを見直します|publisher=九州旅客鉄道|page=8|date=2022-06-10|accessdate=2022-06-18|archivedate=2022-06-10}}</ref>
**# 「かもめ」は新幹線列車への移行に伴い在来線特急としては廃止。
**# ダイヤ改正で新設された「リレーかもめ」4往復、「かささぎ」2往復(土曜・休日は上り1本追加)に投入、また「みどり」での運用が復活(5往復。下り1本・上り2本は「みどり(リレーかもめ)」として運転)。
**# 以上の運用変更に伴い佐世保線での運用が復活(定期列車としては初の運用)、逆に長崎本線肥前鹿島駅 - 長崎駅間からは撤退。
== 現況 ==
2022年(令和4年)9月3日現在、6両編成11本の計66両が[[南福岡車両区]](本ミフ)に在籍する。編成番号はSM1 - 11で、「SM」の「S」は885系を、「M」は南福岡車両区所属を表す記号である。以下は2022年9月23日時点での状況について記す。
=== 現在使用されている列車 ===
*「[[かもめ (列車)|リレーかもめ]]」(2022年9月23日 - ):下り17・45・49・53号・83号/上り20・48・52・56号・84号
** 83・84号は繁忙期のみ運転
*「[[みどり (列車)|みどり]]」(2002年10月21日 - 2003年3月14日・2022年9月23日 - ):下り23・43・59・63・67号/上り6・10・14・34・54号
** 14・43・54号は「みどり(リレーかもめ)」として運転。
** 2002年から2003年にかけての運用の際は佐世保線内は臨時列車扱いであった。
*「[[かもめ (列車)|かささぎ]]」(2022年9月23日 - ):下り105・113号/上り104・110・252号
** 252号は佐賀駅始発、土曜・休日のみ運転。104号は博多駅到着後、吉塚駅まで普通列車として運転。
** 改正初日のみ252号SM10編成(その後所定787系、22/12/3-23/2/26の土曜・休日、22/12/30-23/1/3のみ885系で運転)。
*「[[ソニック (列車)|ソニック]]」(2000年3月 - ):下り5・11・15・17・19・27・33・37・39・41・49・55・59・201号/上り6・10・12・14・22・28・32・34・36・44・50・54・56・202号
** 12・41号は佐伯駅発着、201・202号は中津駅発着。17・34号は臨時列車扱いで毎日運転。当系列での運用は全て博多駅に乗り入れるものとなっている。
この他、宮崎地区で大幅なダイヤの乱れが発生した場合、「にちりんシーガイア」の大分駅以北を「ソニック」用の車両で先発して運転することがある。なおこの時、大分駅に遅れて到着した「にちりんシーガイア」は大分駅で運転を打ち切り、翌日の運用の都合から多くは後続の「ソニック」の運用を代走することで車両を南福岡へ返却する。
なお2003年2月までは、以下のような運用形態が見られた。
*2次車が登場するまでの「ソニック」2往復は「かもめ」運用とは分離されており、充当編成の変更は南福岡車両区入庫時に併せて行われていた。
*2001年以降、1次車が「ソニック」運用に入る場合であっても、5両に減車されず6両編成のままだった。
*2002年ごろ、佐賀発着の臨時「かもめ」が、5両編成時代の2次車で運転されていた。
=== 過去に使用されていた列車 ===
[[ファイル:JR Kyushu 885 SM8 TAMA.JPG|thumb|right|240px|「がんばれ宮崎!」ラッピングのSM8編成で運行された「にちりんシーガイア」]]
*「[[きらめき (列車)|きらめき]]」(2000年3月 - 2005年3月・2008年7月 - 2009年3月)
**翌朝に運行される列車(2000年から2005年までは[[門司港駅]]始発の「かもめ」、2008年から2009年までは小倉駅始発の「ソニック」)への送り込みを兼ねてのものであった。
*「かもめ」(2000年3月11日 - 2022年9月22日)
** 本系列の「かもめ」は長らく毎時1本(16往復)運転だったが、2020年3月改正以降は一部列車が787系に置き換えられ、末期は博多駅 - 長崎駅間11往復、土曜・休日のみ佐賀駅→博多駅間上り1本の運転であった。この本数は2022年9月23日以降に、本系列を充当する「リレーかもめ」「みどり」「かささぎ」の本数の合計と同等である。また停車駅も二日市駅通過・肥前山口駅(現在の江北駅)停車が原則であったが、末期はその逆の二日市駅停車・肥前山口駅通過の列車も数本見られた。
この他、小倉駅 - [[西小倉駅]]間の橋梁工事に伴う車両運用の変更や、[[口蹄疫]]問題で県内経済が大きなダメージを受けた[[宮崎県]]への応援キャンペーンの一環などで、臨時で「[[にちりん (列車)|にちりん]]」「にちりんシーガイア」の運用に入ったことがある。
== 編成表 ==
3M3T(電動車3両、付随車3両)の6両で構成される。下り[[長崎駅|長崎]]・[[佐伯駅|佐伯]]寄りからクロハ884形 - モハ885形100番台/200番台 - サハ885形100番台/300番台 - サハ885形 - モハ885形 - クモハ885形となっている。
サハ885形100番台もしくは300番台(いずれも3号車)を編成中から外し、5両編成 (3M2T) で運転することも可能である。このため、同車および同車との連結面は[[連結器#密着連結器|密着連結器]]となっている。他は、先頭部を除き[[連結器#棒連結器(永久連結器)・半永久連結器|半永久連結器]]である。
{| class="wikitable" summary="方面別編成表" style="text-align:center; font-size:small; margin:1em 0em 1em 3em;"
|-
! colspan="2" rowspan="3" style="background-color:#ccc; width:5em;" |編成
| colspan="6" style="text-align:left; background-color:#eee;" |<div style="float:left;margin-right:2.4em">← 早岐・肥前鹿島</div><div style="float:right;">佐世保/博多 →</div><div style="text-align:center;">(リレーかもめ・みどり・かささぎ)</div>
|-
| colspan="6" style="text-align:left; background-color:#eee;" |<div style="float:left;margin-right:2.4em">← 佐伯/博多</div><div style="float:right;">小倉 →</div><div style="text-align:center;">(ソニック)</div>
|- style="border-bottom:solid 4px #36c;"
| style="width:6em; background-color:#cf9;" |クロハ884
| style="width:6em;" |モハ885
| style="width:6em;" |サハ885
| style="width:6em;" |サハ885
| style="width:6em;" |モハ885
| style="width:6em;" |クモハ885
|-
! rowspan="7" style="width:1.6em; text-align:center" |1次車
! style="width:6em; " |SM1
| 1 || 101 || 101 || 1 || 1 || 1
|-
! style="width:6em;" |SM2
| 2 || 102 || 102 || 2 || 2 || 2
|-
! style="width:6em;" |SM3
| 3 || 103 || 103 || 403 || 403 || 403
|-
! style="width:6em;" |SM4
| 4 || 104 || 104 || 4 || 4 || 4
|-
! style="width:6em;" |SM5
| 5 || 105 || 105 || 5 || 5 || 5
|-
! style="width:6em;" |SM6
| 6 || 106 || 106 || 6 || 6 || 6
|-
! style="width:6em;" |SM7
| 7 || 107 || 107 || 7 || 7 || 7
|-
! rowspan="4" style="width:1.6em; text-align:center" |2次車
! style="width:6em;" |SM8
| 8 || 201 || 301 || 8 || 8 || 8
|-
! style="width:6em;" |SM9
| 9 || 202 || 302 || 9 || 9 || 9
|-
! style="width:6em;" |SM10
| 10 || 203 || 303 || 10 || 10 || 10
|-
! style="width:6em;" |SM11
| 11 || 204 || 304 || 11 || 11 || 11
|}
== 台湾への輸出 ==
{{右|[[ファイル:TRA TEMU1000 TED1007 Xizhi 20130807.jpg|thumb|240px|none|885系の同等車である、台湾鉄路管理局のTEMU1000形([[汐止駅]])]]}}
[[台湾高速鉄道]](台湾新幹線)の建設予定がない[[東部幹線]]の速達化をはかるため、2004年に[[中華民国]][[台湾鉄路管理局]](台鉄)は[[丸紅]]を通して[[日立製作所]]に885系の同等車([[台湾鉄路管理局TEMU1000型電車|TEMU1000型]])8両編成6本(48両)を発注した。2006年に3本が納車され、2007年に残り3本が納車された。さらに48両発注する計画があったが、コスト合意できないなど理由で2009年に計画中止になった。これにより、[[台北駅]] - [[花蓮駅]]間は従来より30分程度短縮され、2時間以内とされた。[[運賃]]設定は「[[自強号]]」と同一である。
発注の目的は速達化のみならず、[[動力集中方式|プッシュプル]]型「自強号」([[台湾鉄路管理局E1000型電車|E1000型]])において[[大韓民国|韓国]](現代精工業、現在の[[現代ロテム|ロテム]])製[[客車]]が故障などの不具合が多く遅延や運休を生じているため、その入れ替えの目的もある。
2006年1月17日、台鉄の公募により、列車の愛称は[[花蓮県|花蓮]]近郊の[[太魯閣国家公園]]にちなんだ「[[太魯閣号]](タロコ号)」に決定した。
2014年12月28日、政府交通部は当形式2編成16両を追加発注することを決定し、2016年より投入された。<ref>{{Wayback |url=http://www.railway.gov.tw/tw/news_Detail.aspx?SN=8586&NewsType=0 |title=臺鐵局積極回應民眾東部運輸服務期待,完成增購4組列車,將於明年底陸續交車投入營運{{Zh-tw icon}} |date=20141229024634}} - 交通部臺灣鐵路管理局</ref>
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
;専門記事
* {{Cite journal |和書 |author=大坪孝一(JR九州運輸部車両課) |year=2000 |month=5 |title=885系特急形交流電車|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |issue=通巻469号|pages= 42 - 51|publisher=[[交友社]] |ref = 鉄道ファン469}}
* {{Cite journal |和書 |author=鉄道ジャーナル編集部 |year=2001 |month=5 |title=新型車両プロフィールガイド 白いソニック 885系第2次車|journal=[[鉄道ジャーナル]] |issue=通巻415号|pages= 72-77 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] |ref = RJ415 }}
;特集
* {{Citation |和書 |last=水戸岡 |first=鋭治 |author-link=水戸岡鋭治 |year=2009 |title=水戸岡鋭治の「正しい」鉄道デザイン―私はなぜ九州新幹線に金箔を貼ったのか? |publisher=[[交通新聞社]] |series=交通新聞社新書}}
* {{Cite book|和書|editor= |title=JR特急列車年鑑 2011 |year=2010 |publisher=[[イカロス出版]] |series=イカロス・ムック |isbn=978-4863203785 |ref={{SfnRef|JR特急列車年鑑|2011}} }}
* {{Citation |和書 |last=坂 |first=正博 |date=2011-3 |title=JR九州新幹線・特急列車の運転体系概要|journal=[[鉄道ダイヤ情報]] |issue=323 |pages=28-35 |publisher=交通新聞社}}
* {{Cite journal |和書|author= 鶴通孝 |year=2011 |month=3 |title=INTERCITY 787 AROUND THE KYUSHU |journal=鉄道ジャーナル |volume=45 |issue=第6号(通巻533号) |pages=74-88 |publisher=鉄道ジャーナル社 |issn=0288-2337}}
* {{Cite journal |和書 |author= |title= |year=2012 |month=9 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=617 |ref={{SfnRef|鉄道ファン|2012}} }}
== 関連項目 ==
{{commonscat|JR Kyushu 885}}
*[[車体傾斜式車両]]
*[[ICE 3|ICE3]]
*[[台湾鉄路管理局TEMU1000形電車]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jrkyushu.co.jp/trains/kamome/ 885系 リレーかもめ | JR九州の列車たち ~JR九州 観光列車【D&S列車】・新幹線~]
{{JR九州の車両リスト|国鉄含=1}}
{{ブルーリボン賞選定車両一覧}}
{{デフォルトソート:しえいああるきゆうしゆう885けいてんしや}}
[[Category:九州旅客鉄道の電車|885]]
[[Category:2000年製の鉄道車両]]
[[Category:日立製作所製の電車]]
[[Category:車体傾斜式車両]]
[[Category:グッドデザイン賞受賞車 (鉄道車両)]]
|
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|
2023-11-20T05:46:21Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E4%B9%9D%E5%B7%9E885%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
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13,469 |
マッチングパズル
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マッチングパズルとは、パネルやタイルまたは積み木などのブロックを用い、それらに描かれた色や模様が意味のある図柄や法則性のある模様になるよう、位置や形を揃えるパズルである。
ジグソーパズルもこの範疇に入ると考えられる。
|
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マッチングパズルとは、パネルやタイルまたは積み木などのブロックを用い、それらに描かれた色や模様が意味のある図柄や法則性のある模様になるよう、位置や形を揃えるパズルである。 ジグソーパズルもこの範疇に入ると考えられる。
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'''マッチングパズル'''とは、パネルやタイルまたは積み木などのブロックを用い、それらに描かれた色や模様が意味のある図柄や法則性のある模様になるよう、位置や形を揃える[[パズル]]である。
[[ジグソーパズル]]もこの範疇に入ると考えられる。
==主なパズル==
;マクマホンタイル
:正方形の4辺を塗り分けたタイルを用い、同じ色の辺が隣り合うように並べるパズル。3色24枚のセットを用い、辺の色が1色の長方形を作ることができる。
;ザイルトリック
:ロープが書かれたタイルを並べ、1つながりのロープを作るパズル。
;ドデカパズル
:[[正十二面体]]の表面に条件に沿ってタイルを張るパズル。頂点の合計が9になるようにする「ノナ」と呼ばれる作品が有名である。
== 関連項目 ==
* [[ワンのタイル]]
* [[ドミノタイリング]]
[[Category:パズル|まつちんくはする]]
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13,470 |
シルエットパズル
|
シルエットパズルとは、様々な形のピースを組み合わせて形を作るパズル。問題となる枠やシルエットが提示され、与えられているピースをいかに使って同じ形を作るかを考察することから、この名称がある。他に「知恵板」、英語ではDissection puzzle等とも。
記録に残っている最も古いシルエットパズルは紀元前3世紀頃のギリシアで生まれたとされている。「アルキメデスの小筥」又は「ストマッキオン」と呼ばれるこのパズルは正方形を14片に分割した物である。このパズルは道具を使うパズル全般の中でも、最も古いパズルとされる。
タングラムについては、中国の宋の時代に黄伯思という人物が著した「燕几図」という机の並べ方に関する書物があり、7個の長方形の机を並べる物であった。これを基に明の厳澄が、三角形や台形を用いた「蝶翅几」を考案し、それらを更に発展させたのがタングラムであるという説がある。
1742年に日本で「清少納言智恵の板」が刊行される。同名のシルエットパズルが紹介されているが、考案者については記されていない。翌1743年には中根彦循が著書の中で正方形を6片に切って様々な形を作ることができる例を発表している。
中国では1803年に「七巧八分図」、1813年に「七巧図合壁」という本が刊行される。これらの本はタングラムに関する本である。タングラムは19世紀初頭には欧米で広まり、ナポレオンなど様々な人が遊んだとされる。
19世紀末にはドイツのリヒター社が煉瓦と同じ素材を使ったシルエットパズルを製造・販売を開始している。アンカーパズルと呼ばれたこの商品は第一次世界大戦時に流行し、ピースの形を変えた多くのシルエットパズルが発売されるようになる。大戦終了後の需要の低下と安価なプラスチック製品の流通によりアンカーパズルは姿を消すが、いくつかの作品は名前や材質を変え販売が行われている。
正方形などの図形を数片(5-10片くらいの範囲が一般的)に分割し、さまざまな形を作るもの。タングラムが代表的な存在である。
タングラムの他に、以下のような物が市販されている。
知恵の板の中には10以上の片を使用するものがいくつかある。片が多くなることで、より複雑な形をあらわすことも可能となる。
以下にあげるものはすべて正方形を分割したものである。
あらかじめ与えられたピースを用いて指定された形を作るもの。 以下のものが代表的
|
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シルエットパズルとは、様々な形のピースを組み合わせて形を作るパズル。問題となる枠やシルエットが提示され、与えられているピースをいかに使って同じ形を作るかを考察することから、この名称がある。他に「知恵板」、英語ではDissection puzzle等とも。
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'''シルエットパズル'''とは、様々な形のピースを組み合わせて形を作る[[パズル]]。問題となる[[枠]]や[[シルエット]]が提示され、与えられているピースをいかに使って同じ形を作るかを考察することから、この名称がある。他に「知恵板」<ref>『数理パズル』 P.146-</ref>、英語では[[:en:Dissection puzzle|Dissection puzzle]]等とも。
== 歴史 ==
記録に残っている最も古いシルエットパズルは[[紀元前3世紀]]頃の[[ギリシア]]で生まれたとされている。「[[アルキメデス]]の小筥」又は「[[ストマッキオン]]」と呼ばれるこのパズルは正方形を14片に分割した物である。このパズルは[[メカニカルパズル|道具を使うパズル]]全般の中でも、最も古いパズルとされる。
[[タングラム]]については、中国の[[北宋|宋]]の時代に黄伯思という人物が著した「燕几図」という[[机]]の並べ方に関する書物があり、7個の長方形の机を並べる物であった。これを基に[[明]]の厳澄が、三角形や台形を用いた「蝶翅几」を考案し、それらを更に発展させたのがタングラムであるという説がある。
1742年に日本で「[[清少納言智恵の板]]」が刊行される。同名のシルエットパズルが紹介されているが、考案者については記されていない。翌1743年には[[中根彦循]]が著書の中で正方形を6片に切って様々な形を作ることができる例を発表している。
中国では1803年に「七巧八分図」、1813年に「七巧図合壁」という本が刊行される。これらの本はタングラムに関する本である。タングラムは[[19世紀]]初頭には欧米で広まり、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]など様々な人が遊んだとされる。
19世紀末にはドイツの[[リヒター (玩具メーカー)|リヒター社]]が煉瓦と同じ素材を使ったシルエットパズルを製造・販売を開始している。アンカーパズルと呼ばれたこの商品は[[第一次世界大戦]]時に流行<ref>『パズルその全宇宙』P.28</ref>し、ピースの形を変えた多くのシルエットパズルが発売されるようになる。大戦終了後の需要の低下と安価なプラスチック製品の流通によりアンカーパズルは姿を消すが、いくつかの作品は名前や材質を変え販売が行われている。
== 代表的なシルエットパズル ==
=== 知恵の板 ===
[[正方形]]などの図形を数片(5-10片くらいの範囲が一般的)に分割し、さまざまな形を作るもの。[[タングラム]]が代表的な存在である。
'''タングラム'''の他に、以下のような物が市販されている。
;[[ラッキーパズル]]
:長方形を7片に分割。十字架が作れることから「クロスパズル」の別称がある。
;IVYパズル
:'''小黒三郎'''の作。正六角形を7片に分割。7片中の3片がそれぞれ''I'',''V''.''Y''をかたどっている。
;デビル(コボルト)
:長方形(あるいは菱形を2つ直角に重ねた形)を7片に分割。
;サーキュラーパズル
:円を10片に分割。
;[[コロンブスの卵 (シルエットパズル)|コロンブスの卵]]
:卵形を9片に分割。鳥形の造形が多い。
;[[清少納言知恵の板]]
:正方形を7片に分割。[[18世紀]]の日本で生まれたとされる。
==== 片数の多いもの ====
知恵の板の中には10以上の片を使用するものがいくつかある。片が多くなることで、より複雑な形をあらわすことも可能となる。
以下にあげるものはすべて正方形を分割したものである。
;アルキメデスの小筥([[ストマッキオン]])
:14片からなる。紀元前のギリシアで生まれたもので、記録が確認できる最古のシルエットパズルである。
;益智図
:15片からなる。中国で生まれた。半円の片がある。
;知恵の板
:15片の物と19片の物がある。18世紀末の日本で生まれた。益智図と同様、半円の片がある。
=== 文字パズル ===
あらかじめ与えられたピースを用いて指定された形を作るもの。
以下のものが代表的
;[[Tパズル]]
:4片で「T」の文字を作る。
;Fパズル
:6片で「F」の文字を作る。[[芦ヶ原伸之]]の作。
;十字架パズル
:十字架を作る。片数はいくつかのバリエーションがある。
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*池野信一・[[高木茂男]]・土橋創作・[[中村義作]]『数理パズル』 ISBN 4-12-100427-2
*ジェリー・スローカム ジャック・ボタマンズ著・[[芦ヶ原伸之]]訳『パズルその全宇宙』 ISBN 4-8203-8818-5
== 外部リンク ==
* [http://www1.kamakuranet.ne.jp/usasan/ 休日のタングラム] タングラムを始めとする各種シルエットパズルの紹介・作品・フリーウェアなど
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ムアッジン
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ムアッジン (مؤذن、mu'azzin) は、アラビア語でイスラム教の礼拝(サラート)を呼びかける役の人、またアザーンをとなえる人のこと。
大きなモスクにはワクフの資金で雇われた専業のムアッジンがいることがあり、一日五回の礼拝の前に、モスクのミナレットの上からアザーンを唱え、ムスリム(イスラム教徒)に礼拝を呼びかける仕事をする。
元来は各ミナレットの回廊を歩きながら呼びかけて回っていたが、後には回廊へ上がったムアッジンが手持ちの拡声器で、さらにはモスクの中の一人のムアッジンがマイクの前で呼びかけ、ミナレットなどに取り付けられた拡声器で声を流すようになった。 また、どこであろうともムスリムが集団礼拝する時には、誰かがアザーンを唱える役を務めなければならないが、このような臨時のムアッジンがアザーンを唱える場合は特に声量は求められない。
最初のムアッジンと言われているビラール・ビン=ラバーフは現代でもムアッジンの目指すべき姿として尊敬されている。コーランの読謡者やムアッジンはよく耳の後ろに手を当ててとなえていたりするが、このしぐさはビラールの時代より伝わっている。
ムアッジンを務めることには大きな功徳が有り、「死後の審判の日には、審判者から目立つ存在になれるように首が長くなる」「ムアッジンを7年努めると地獄行きを免れる、12年努めると天国へ行ける」といった伝承がある。
ハディースによれば、各モスクには2人のムアッジンを置くことが望ましいとされている。また、ムアッジンを務める者には様々な要件が課せられており、それらに反することは嫌悪される。
なお、盲人や物心がつなかい子供でも、ムワッカトと呼ばれる時間を守る役目の補助者がいればムアッジンになれる場合があった。
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== 概要 ==
大きなモスクには[[ワクフ]]の資金で雇われた専業のムアッジンがいることがあり、一日五回の礼拝の前に、[[モスク]]の[[ミナレット]]の上から[[アザーン]]を唱え、[[ムスリム]](イスラム教徒)に礼拝を呼びかける仕事をする。
元来は各ミナレットの回廊を歩きながら呼びかけて回っていたが、後には回廊へ上がったムアッジンが手持ちの拡声器で、さらにはモスクの中の一人のムアッジンがマイクの前で呼びかけ、ミナレットなどに取り付けられた拡声器で声を流すようになった。
また、どこであろうともムスリムが集団礼拝する時には、誰かがアザーンを唱える役を務めなければならないが、このような臨時のムアッジンがアザーンを唱える場合は特に声量は求められない{{sfn|堀内 |1990|p=38-41}}。
最初のムアッジンと言われている[[ビラール・ビン=ラバーフ]]は現代でもムアッジンの目指すべき姿として尊敬されている。[[コーラン]]の読謡者やムアッジンはよく耳の後ろに手を当ててとなえていたりするが、このしぐさはビラールの時代より伝わっている{{sfn|堀内 |1990|p=38-41}}。
ムアッジンを務めることには大きな[[功徳]]が有り、「死後の審判の日には、審判者から目立つ存在になれるように首が長くなる」「ムアッジンを7年努めると地獄行きを免れる、12年努めると天国へ行ける」といった伝承がある。
== ムアッジンに関する規則 ==
[[ハディース]]によれば、各モスクには2人のムアッジンを置くことが望ましいとされている。また、ムアッジンを務める者には様々な要件が課せられており、それらに反することは[[嫌悪]]される{{sfn|堀内 |1990|p=38-41}}。
#ムアッジンとなる者はムスリムであること。
#理性ある者であること。[[きちがい|狂人]]、[[酔っぱらい]]、[[失神]]するくせのある者、物心がつなかい子供であってはならない。
#男であること。女や[[去勢]]された男であってはならない。
#病気などの理由がない限り立って行うこと。
#決まった所作を守ること。
#清潔さを保つこと。
#甲高い声の持ち主であること。
#原則として、最初から最後まで1人で唱えること。
#正しい心構えを持ってから唱えること。
#アザーンに変化や工夫を加えてはならない。
なお、盲人や物心がつなかい子供でも、ムワッカトと呼ばれる時間を守る役目の補助者がいればムアッジンになれる場合があった。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{Commonscat|Muezzins}}
* {{Cite journal |和書 |author = [[堀内勝]] |title = イスラームの儀礼・アザーンについて |journal = 儀礼と音楽 I |date = 1990 |publisher = 東京書籍 |series = 民族音楽叢書 |isbn = 978-4-487-75254-6 |ref = harv }}
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ビラール・ビン=ラバーフ
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ビラール・ビン=ラバーフ・アル=ハバシー(アラビア語:بلال بن رباح الحبشي ;Bilal bin Rabah al-Habashi、580年 – 640年?)は、サハーバ(イスラム教の預言者ムハンマドの教友)で、「ムアッジン(アザーンを行う者)の祖」。ムハンマドが所有していた黒人奴隷。ムアッジンを目指す者にとっての聖人と言われている。ふつうはより短く、ビラール・ビン=ラバーフ(بلال بن رباح ;Bilal bin Rabah)または、ビラール・アル=ハバシー(بلال الحبشي ;Bilal al-Habashi)と呼ばれる。ハバジー家の祖。
アビシニア(エチオピア)生まれの黒人・ハバシャ族(الحبشية Habesha)の奴隷の子なので、ビラール・アル=ハバシー(ハバシャ族のビラール)と称することが多い。マッカ(メッカ)で入信した最初期のムスリム(イスラム教徒)のひとり。彼の主人によって棄教を迫られ拷問を受けているところをアブー・バクルによって買い取られて解放された。ヒジュラの後、イスラム教団の礼拝の方法を整備する過程で、肉声による礼拝の呼びかけ(アザーン)が定められ、美声であったとされるビラールが最初のムアッジンに選ばれたという。
ドバイの映画製作会社Barajoun Entertainmentによって、ビラールを題材にしたフル3Dアニメーション『Bilal(英語版)』が制作され2015年に公開予定である。
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'''ビラール・ビン=ラバーフ・アル=ハバシー'''(<small>[[アラビア語]]</small>:بلال بن رباح الحبشي ;'''Bilal bin Rabah al-Habashi'''、[[580年]] – [[640年]]?)は、[[サハーバ]]([[イスラム教]]の[[預言者]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の教友)で、「[[ムアッジン]]([[アザーン]]を行う者)の祖」。ムハンマドが所有していた黒人奴隷。[[ムアッジン]]を目指す者にとっての[[聖人]]と言われている。ふつうはより短く、'''ビラール・ビン=ラバーフ'''(بلال بن رباح ;Bilal bin Rabah)または、'''ビラール・アル=ハバシー'''(بلال الحبشي ;Bilal al-Habashi)と呼ばれる。ハバジー家の祖。
アビシニア([[エチオピア]])生まれの[[黒人]]・[[ハバシャ]]族(الحبشية [[:en:Habesha people|Habesha]])の[[奴隷]]の子なので、ビラール・アル=ハバシー(ハバシャ族のビラール)と称することが多い。[[マッカ]](メッカ)で入信した最初期の[[ムスリム]](イスラム教徒)のひとり。彼の主人によって棄教を迫られ拷問を受けているところを[[アブー・バクル]]によって買い取られて解放された。[[ヒジュラ]]の後、イスラム教団の礼拝の方法を整備する過程で、肉声による礼拝の呼びかけ(アザーン)が定められ、美声であったとされるビラールが最初のムアッジンに選ばれたという。
ドバイの映画製作会社Barajoun Entertainmentによって、ビラールを題材にしたフル3Dアニメーション『{{仮リンク|Bilal|en|Bilal: A New Breed of Hero}}』が制作され2015年に公開予定である。
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快速列車
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快速列車(かいそくれっしゃ)(英:rapid train)は、鉄道において一般に急行料金などの追加料金は要しないが、途中駅の一部または全部を通過し、主要駅のみに停車することで目的地駅への速達サービスを提供する列車である。なお、日本国有鉄道(国鉄)・JRの旅客営業規則における用語では、快速列車は広義の普通列車に含まれる。
ここでは特に断りがない限り、日本における快速列車を主題として解説している。また、「通勤快速」など「快速」の名がつく派生種別についても扱う。
JRグループの旅客営業規則においては普通列車の一種であり、急行料金が必要となる急行列車(優等列車)に対して料金不要で乗車できる種別である。
快速列車であっても、各駅に停車する区間においては「普通」と案内される場合がある。例えば、京阪神地区の東海道・山陽本線(琵琶湖・JR京都・神戸線)や、常磐線中距離列車(普通列車)の快速は、快速運転区間においては「快速」、各駅停車となる区間は「普通」として案内されている。これらの快速は市販の時刻表では「快速」の表記がなく、普通列車の扱いである。変わった例として、湘南新宿ラインでは、横須賀線( - 宇都宮線)系統の列車が停車する西大井駅・新川崎駅・保土ケ谷駅・東戸塚駅を東海道線( - 高崎線)系統の列車が通過するため、後者は東海道線の普通列車に相当する停車駅ながら「快速」として運転される。
このような列車は比較的長い距離を運転するものが多いものの、末端区間では各駅停車となる場合も多い。ただ、直通列車や速達列車の存在自体が重宝される場合もある。例えば、兵庫県相生市や赤穂市は「京阪神まで新快速1本」で行けることをアピールして観光や定住促進活動を行ってきたが、2016年3月26日のダイヤ改正で日中の新快速の乗り入れがなくなり、区間運転の普通列車に代替された。これらの沿線では通過運転は行っていないので減便となったわけではないが、沿線自治体から懸念されるほどの事態となった。また、速達列車が昼間のみの運転であっても、その列車が存在することで不動産広告などに所要時間を掲載できるといったメリットもある(通勤時間帯の所要時間が増える場合や速達列車の運転がない場合はその旨を付記する必要があるが、その付記は小さい)。
特急列車や急行列車とは異なり、使用する車種は基本的に定められていないが、通常は普通列車用車両(一般形車両・近郊形車両・通勤形車両)が使用される。ただし、運用上の兼ね合いで特急形車両が使用される場合もあり、この例として過去にJR北海道の「エアポート」で行われていた運用が挙げられる。1992年7月から2016年3月まで、「エアポート」の一部列車は札幌駅 - 旭川駅間の特急列車(781系、785系、789系1000番台)が札幌駅で快速「エアポート」に種別変更し、直通運転する形で運行されていた。JR東日本では、「ホリデー快速」に代表される首都圏の臨時快速列車の一部に特急形車両(185系・E257系等)を使用している。
また、格下げの形で特急形車両をそのまま充当する列車も存在した。例えばJR東日本では特急「北越」廃止後に新設され、2017年3月4日ダイヤ改正まで運行していた新潟駅 - 糸魚川駅間の快速列車には485系が使用されていた。2015年3月14日のダイヤ改正までは「あいづライナー」や「くびき野」にも485系が使用されていたが、列車廃止や新形車両への置き換えによる特急格上げなどに伴い充当を終了した。過去には急行形車両を使用した列車も存在しており、間合い運用はもとより、格下げの形としては京阪神地区の新快速や中京地区の快速に153系が使用されていたほか、快速「みえ」にはキハ58系・キハ65形が使用され、「ムーンライトえちご」には165系が使用されていた。
地方都市間路線や観光路線では、一部の車両、または全車を指定席車とし、乗車券のほかに指定席券を必要とする列車や、グリーン車を連結する列車もある。
JR北海道の快速列車はほとんどに列車愛称が付与されているが、それ以外の地域では列車愛称がないケースが大半である。しかし、「とっとりライナー」(山陰本線)・「アクティー」(東海道本線)・「シーサイドライナー」(大村線など)・夜行列車の「ムーンライト○○」などのように愛称付きの快速が運転されている(いた)ケースもある。
「エアポート」・「マリンライナー」・「はまゆり」・「みえ」・「ホームライナー」など指定席を設定している列車は、指定席発券システムの管理に際しては、列車番号ではなく、列車愛称によって列車を特定する。このため、同名の列車が2本以上運行される場合、号数(例:「マリンライナーXX号」)が付与されている。
全車自由席の快速列車において愛称が付与される列車は以下のものが挙げられる。
電車特定区間を中心に、通過駅を伴う電車により運転されている列車を「快速電車」と呼ぶ。これは主に各駅停車に対する速達の意味合いであるものの、中距離列車(普通列車)と並走する場合に齟齬を来すことがある。
上記にある、常磐線やJR京都線・神戸線の普通列車が電車特定区間内において「快速」と案内されるのは、別に運行される各駅停車との区別や、既にある圏外を結ぶ中距離列車である(電車による)「普通列車」との停車駅の統一によるものである。
常磐線では、通勤五方面作戦による増強計画で複々線計画から外れた三河島駅・南千住駅や大幅に遅れた天王台駅には快速電車が停車していたものの、普通列車は通過していた(過去はそれ以外にも通過駅があった)。2004年3月13日の改正で停車駅が統一され、そして10月16日の改正で案内が「快速」に統一された。
元々は、中央線において速達種別として「急行電車」が運転されるようになったが、有料の急行列車が運転されるようになると、紛らわしさから快速電車に改称されたという経緯がある。中央線でも、快速電車よりも普通列車の方が停車駅が少なかったことがある(ただし、ビューやまなしなどの一部の快速列車は、中央快速線内では「普通」の停車駅を踏襲している)。
通過駅を持たせたまま、あるいは特別通過する形態で「普通」扱いにする列車もある。また旧国鉄時代には、地方の路線において朝晩の時間帯に乗降客の少ない駅やホームの短い駅を通過する設定があったが、快速とはせず単に普通列車として扱われていた。高山本線では2017年時点でも高山駅 - 岐阜駅間を運行する始発および最終列車は「普通」であるが、下呂駅 - 岐阜駅間は各駅に停車し、高山駅 - 下呂駅間は久々野駅・飛騨小坂駅・飛騨萩原駅のみに停車する。
逆に、全運転区間で通過駅が1駅しかないにもかかわらず「快速」を名乗る場合もある。例えば、2013年3月16日改正時点では、山陰本線・舞鶴線・播但線といった北近畿地区を運行する一部の快速などにこの事象が見られる。また、中央線快速の武蔵小金井駅・立川駅・豊田駅 - 高尾駅・大月駅間のみを運転する快速電車に至っては、通過駅が1駅も存在しない(ただし、案内上は各駅停車である)。
同じく、播州赤穂行きの新快速は赤穂線内は各駅に止まるが、種別幕は「新快速」のままである。
私鉄・第三セクター鉄道においても、快速という列車種別が設定されている鉄道会社があり、JRグループと異なり、特急や急行・準急等と共に優等列車として扱われることもあるが、料金不要列車も優等列車の範疇に含めるかどうかは事業者によって相違しており、国鉄・JRと同様に「優等列車」として扱わない鉄道会社もある。例として東武鉄道伊勢崎・日光線において2017年4月まで運行していた快速・区間快速は当該列車で運用することを目的としたセミクロスシート車両である6050系で運行していたが、同社では料金不要列車には速達種別であっても優等列車という表現を用いず、一般列車と表現している。京王電鉄においても各駅停車を除く列車は優等列車ではなく、急行系列車と表現している。また、横浜市営地下鉄ブルーラインや東京メトロ東西線、都営地下鉄浅草線、都営地下鉄新宿線など、地下鉄路線でも運行されていることがある。
準急・急行などの列車種別との上下関係は鉄道会社によって異なり、下表のように3パターンに分けられる。
首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス・東京地下鉄(東京メトロ)東西線など、優等列車として「快速」および「通勤快速」などの快速の派生種別のみ設定されている路線も存在する。
快速の種別を設定している私鉄は東日本の事業者が多く、関東地区の大手私鉄では小田急電鉄以外の各社で設定されたことがある。その一方、西日本の事業者での設定は少なく、大手私鉄では阪急電鉄(京都本線)が2022年12月17日のダイヤ改正をもって運行を終了したのを最後に消滅した。また、関西の私鉄の沿線住民の間では、快速急行の略称として「快速」と呼ばれることもある。
使用する車両は特急列車や一部の急行列車とは異なり、専属で使用する車種が定められていないことがほとんどであり、基本的に一般車両(大手私鉄では通勤形車両)が使用される。例外的に専用の車両を使用する事例として、東武鉄道では伊勢崎・日光線では6050系を使用することは前記した。過去には前身車種である6000系や特急から格下げされた5700系が使用されていた。鹿島臨海鉄道ではかつて運行していた「マリンライナーはまなす」は専用車両として7000系が使用されていた。この他北近畿タンゴ鉄道宮津線では2007年3月17日まで「特急用車両を使用している」との理由から、宮津駅→西舞鶴駅間の22時台に通過駅のない「各駅停車の快速」を設定していたことがあった。
一部の私鉄で運行している快速列車には運賃の他に料金を徴収するものもあり、2021年現在ではしなの鉄道の「しなのサンライズ号・しなのサンセット号」(2015年3月以降~2020年7月までは全席自由席に変更して運行)、あいの風とやま鉄道およびIRいしかわ鉄道が運行している「あいの風ライナー」は運賃の他に指定席券(ライナー券)を必要とする。過去の例では鹿島臨海鉄道が運行していた「マリンライナーはまなす」は運賃のほかに乗車整理券200円が必要であった。この他に東武鉄道と伊豆箱根鉄道では一部座席指定の快速列車を運行していた(ホームライナー#私鉄・第三セクターにおける類似列車も参照)。
かつては京成電鉄や東武鉄道、神戸電鉄にて急行よりも上位種別である快速が設定されていたが、2023年3月に東武東上本線の快速が廃止されたことにより、快速と急行の双方が設定されている事業者においては全て快速が急行より下位となった。また、西武新宿線では、1993年12月6日のダイヤ改正から2001年12月のダイヤ改正まで、急行よりも上位種別の「快速」が存在していたが、これは平日朝ラッシュ時に本川越発の「急行」と千鳥停車を行っていた、拝島・西武遊園地発で、上石神井通過の「急行」を置き換えたものである(2012年6月に廃止された拝島快速とは異なる)。
JR以外で快速列車を運行する事業者・路線を下表に示す。「通勤快速」など快速の派生種別を運行する事業者・路線については派生種別の項を参照。
各駅に停車する線区は、いずれも通過する線区と直通運転を行う。
いくつかの路線で、「特別快速」「新快速」などといった快速列車の派生種別が存在する。また、他の種別と同様に「通勤〜」や「区間〜」、「直通〜」が付く快速も少なくない。各線区における列車の位置づけは、一覧の「詳細ページ」の項を参照。
JR(旧国鉄)における快速列車の派生種別を下表に示す。
特筆すべきは、JR西日本京阪神地区(アーバンネットワーク)では運行線区に応じた愛称が与えられているものがある。基本的には通常の快速と同じ位置づけの種別であるが、例えば、「みやこ路快速」は同じ線区で運行する快速よりも停車駅を少なくしている。その他の列車も停車駅は通常の快速と同じではあるものの、JR発足後に新規製造した車両のみを使用し高速度運転するダイヤを組んでおり、通常の快速よりも到達時間を短くしているものが多い。
また、休日にのみに運転されるものの中にはホリデー快速の名称を与えるものもある。しかし、運行路線が多く、いわゆる「休日運行」の快速列車格であったホリデー快速「おくたま」・「あきがわ」のような列車から、「ホリデー快速富士山」のように臨時列車の扱いで運行されるものもある。
JR以外の事業者における快速列車の派生種別を下表に示す。「」表記は廃止された事業者・路線を示す。なお、かつて近畿日本鉄道で運転されていた「区間快速」は、正式には「区間快速急行」という快速急行の派生種別であるため、ここには記載しない。
いくつかの事業者において「快速特急」や「快速急行」など、特急や急行の頭に快速を付ける列車種別が運転されている。それらは、特急や急行より停車駅が少ない列車となっている。詳細は各項目を参照されたい。
なお、かつて小田急電鉄では「快速準急」が設定されていた。日中の準急を速達化したもので、準急と急行の間の位置付けだった。この種別は1971年、急行に統合される形で廃止された。
快速の英訳には"Rapid (Service)"が当てられ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の快速列車ではRapid Service trainと表記される。
ただし英語圏では、"RAPID"は快速(列車)という意味ではなく、「迅速な」という形容詞である(rapidsだと「急流」)。 停車駅が少ないことも含意するとは限らない。 またロマンス語圏においては、特急列車の種別名にRapidやそれと同じ語源の言葉を用いることがあった(フランス国鉄#列車の種類)。 ドイツ語圏では昔の"Eilzug"が日本の快速列車に近い。
派生種別については、区間快速はSection Rapid、通勤快速はCommuter Rapid、特別快速はSpecial Rapidとするのが一般である。
ただしこれも事業者によって異なり、JR東海の東海道本線や首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスでは区間快速の英語表記がSemi Rapidとなっている。また、JR西日本では新快速をSpecial Rapid Service、区間快速をRegional Rapid Serviceとし、JR東海では新快速をNew Rapidとしている。これはJR東海には特別快速が存在するためである。
JR西日本の直通快速はDirect Rapid Serviceとなっている。
東京モノレールの空港快速・区間快速はそれぞれHANEDA EXPRESS、RAPIDとなっている。
北越急行の超快速はChō-Rapid、神戸電鉄の特快速はSpecial Rapid Expressとなっている。
日本国外の鉄道においては、日本の列車種別を明確に当てはめることは難しいが、日本以外では概ね以下のように考えることができる。
路線バスの内、中間停車停留所を精選するなど速達運転を行うものについても、事業者によっては「快速」の種別を称する場合がある。急行バスの項も参照のこと。
|
[
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"text": "快速列車(かいそくれっしゃ)(英:rapid train)は、鉄道において一般に急行料金などの追加料金は要しないが、途中駅の一部または全部を通過し、主要駅のみに停車することで目的地駅への速達サービスを提供する列車である。なお、日本国有鉄道(国鉄)・JRの旅客営業規則における用語では、快速列車は広義の普通列車に含まれる。",
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},
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"text": "ここでは特に断りがない限り、日本における快速列車を主題として解説している。また、「通勤快速」など「快速」の名がつく派生種別についても扱う。",
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"text": "JRグループの旅客営業規則においては普通列車の一種であり、急行料金が必要となる急行列車(優等列車)に対して料金不要で乗車できる種別である。",
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"text": "快速列車であっても、各駅に停車する区間においては「普通」と案内される場合がある。例えば、京阪神地区の東海道・山陽本線(琵琶湖・JR京都・神戸線)や、常磐線中距離列車(普通列車)の快速は、快速運転区間においては「快速」、各駅停車となる区間は「普通」として案内されている。これらの快速は市販の時刻表では「快速」の表記がなく、普通列車の扱いである。変わった例として、湘南新宿ラインでは、横須賀線( - 宇都宮線)系統の列車が停車する西大井駅・新川崎駅・保土ケ谷駅・東戸塚駅を東海道線( - 高崎線)系統の列車が通過するため、後者は東海道線の普通列車に相当する停車駅ながら「快速」として運転される。",
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"text": "このような列車は比較的長い距離を運転するものが多いものの、末端区間では各駅停車となる場合も多い。ただ、直通列車や速達列車の存在自体が重宝される場合もある。例えば、兵庫県相生市や赤穂市は「京阪神まで新快速1本」で行けることをアピールして観光や定住促進活動を行ってきたが、2016年3月26日のダイヤ改正で日中の新快速の乗り入れがなくなり、区間運転の普通列車に代替された。これらの沿線では通過運転は行っていないので減便となったわけではないが、沿線自治体から懸念されるほどの事態となった。また、速達列車が昼間のみの運転であっても、その列車が存在することで不動産広告などに所要時間を掲載できるといったメリットもある(通勤時間帯の所要時間が増える場合や速達列車の運転がない場合はその旨を付記する必要があるが、その付記は小さい)。",
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"text": "特急列車や急行列車とは異なり、使用する車種は基本的に定められていないが、通常は普通列車用車両(一般形車両・近郊形車両・通勤形車両)が使用される。ただし、運用上の兼ね合いで特急形車両が使用される場合もあり、この例として過去にJR北海道の「エアポート」で行われていた運用が挙げられる。1992年7月から2016年3月まで、「エアポート」の一部列車は札幌駅 - 旭川駅間の特急列車(781系、785系、789系1000番台)が札幌駅で快速「エアポート」に種別変更し、直通運転する形で運行されていた。JR東日本では、「ホリデー快速」に代表される首都圏の臨時快速列車の一部に特急形車両(185系・E257系等)を使用している。",
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"text": "また、格下げの形で特急形車両をそのまま充当する列車も存在した。例えばJR東日本では特急「北越」廃止後に新設され、2017年3月4日ダイヤ改正まで運行していた新潟駅 - 糸魚川駅間の快速列車には485系が使用されていた。2015年3月14日のダイヤ改正までは「あいづライナー」や「くびき野」にも485系が使用されていたが、列車廃止や新形車両への置き換えによる特急格上げなどに伴い充当を終了した。過去には急行形車両を使用した列車も存在しており、間合い運用はもとより、格下げの形としては京阪神地区の新快速や中京地区の快速に153系が使用されていたほか、快速「みえ」にはキハ58系・キハ65形が使用され、「ムーンライトえちご」には165系が使用されていた。",
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"text": "地方都市間路線や観光路線では、一部の車両、または全車を指定席車とし、乗車券のほかに指定席券を必要とする列車や、グリーン車を連結する列車もある。",
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"text": "JR北海道の快速列車はほとんどに列車愛称が付与されているが、それ以外の地域では列車愛称がないケースが大半である。しかし、「とっとりライナー」(山陰本線)・「アクティー」(東海道本線)・「シーサイドライナー」(大村線など)・夜行列車の「ムーンライト○○」などのように愛称付きの快速が運転されている(いた)ケースもある。",
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},
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"text": "「エアポート」・「マリンライナー」・「はまゆり」・「みえ」・「ホームライナー」など指定席を設定している列車は、指定席発券システムの管理に際しては、列車番号ではなく、列車愛称によって列車を特定する。このため、同名の列車が2本以上運行される場合、号数(例:「マリンライナーXX号」)が付与されている。",
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"text": "全車自由席の快速列車において愛称が付与される列車は以下のものが挙げられる。",
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"text": "電車特定区間を中心に、通過駅を伴う電車により運転されている列車を「快速電車」と呼ぶ。これは主に各駅停車に対する速達の意味合いであるものの、中距離列車(普通列車)と並走する場合に齟齬を来すことがある。",
"title": "JR"
},
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"text": "上記にある、常磐線やJR京都線・神戸線の普通列車が電車特定区間内において「快速」と案内されるのは、別に運行される各駅停車との区別や、既にある圏外を結ぶ中距離列車である(電車による)「普通列車」との停車駅の統一によるものである。",
"title": "JR"
},
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"text": "常磐線では、通勤五方面作戦による増強計画で複々線計画から外れた三河島駅・南千住駅や大幅に遅れた天王台駅には快速電車が停車していたものの、普通列車は通過していた(過去はそれ以外にも通過駅があった)。2004年3月13日の改正で停車駅が統一され、そして10月16日の改正で案内が「快速」に統一された。",
"title": "JR"
},
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"text": "元々は、中央線において速達種別として「急行電車」が運転されるようになったが、有料の急行列車が運転されるようになると、紛らわしさから快速電車に改称されたという経緯がある。中央線でも、快速電車よりも普通列車の方が停車駅が少なかったことがある(ただし、ビューやまなしなどの一部の快速列車は、中央快速線内では「普通」の停車駅を踏襲している)。",
"title": "JR"
},
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"text": "通過駅を持たせたまま、あるいは特別通過する形態で「普通」扱いにする列車もある。また旧国鉄時代には、地方の路線において朝晩の時間帯に乗降客の少ない駅やホームの短い駅を通過する設定があったが、快速とはせず単に普通列車として扱われていた。高山本線では2017年時点でも高山駅 - 岐阜駅間を運行する始発および最終列車は「普通」であるが、下呂駅 - 岐阜駅間は各駅に停車し、高山駅 - 下呂駅間は久々野駅・飛騨小坂駅・飛騨萩原駅のみに停車する。",
"title": "JR"
},
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"text": "逆に、全運転区間で通過駅が1駅しかないにもかかわらず「快速」を名乗る場合もある。例えば、2013年3月16日改正時点では、山陰本線・舞鶴線・播但線といった北近畿地区を運行する一部の快速などにこの事象が見られる。また、中央線快速の武蔵小金井駅・立川駅・豊田駅 - 高尾駅・大月駅間のみを運転する快速電車に至っては、通過駅が1駅も存在しない(ただし、案内上は各駅停車である)。",
"title": "JR"
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"text": "同じく、播州赤穂行きの新快速は赤穂線内は各駅に止まるが、種別幕は「新快速」のままである。",
"title": "JR"
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"text": "私鉄・第三セクター鉄道においても、快速という列車種別が設定されている鉄道会社があり、JRグループと異なり、特急や急行・準急等と共に優等列車として扱われることもあるが、料金不要列車も優等列車の範疇に含めるかどうかは事業者によって相違しており、国鉄・JRと同様に「優等列車」として扱わない鉄道会社もある。例として東武鉄道伊勢崎・日光線において2017年4月まで運行していた快速・区間快速は当該列車で運用することを目的としたセミクロスシート車両である6050系で運行していたが、同社では料金不要列車には速達種別であっても優等列車という表現を用いず、一般列車と表現している。京王電鉄においても各駅停車を除く列車は優等列車ではなく、急行系列車と表現している。また、横浜市営地下鉄ブルーラインや東京メトロ東西線、都営地下鉄浅草線、都営地下鉄新宿線など、地下鉄路線でも運行されていることがある。",
"title": "民鉄事業者"
},
{
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"text": "準急・急行などの列車種別との上下関係は鉄道会社によって異なり、下表のように3パターンに分けられる。",
"title": "民鉄事業者"
},
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"tag": "p",
"text": "首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス・東京地下鉄(東京メトロ)東西線など、優等列車として「快速」および「通勤快速」などの快速の派生種別のみ設定されている路線も存在する。",
"title": "民鉄事業者"
},
{
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"text": "快速の種別を設定している私鉄は東日本の事業者が多く、関東地区の大手私鉄では小田急電鉄以外の各社で設定されたことがある。その一方、西日本の事業者での設定は少なく、大手私鉄では阪急電鉄(京都本線)が2022年12月17日のダイヤ改正をもって運行を終了したのを最後に消滅した。また、関西の私鉄の沿線住民の間では、快速急行の略称として「快速」と呼ばれることもある。",
"title": "民鉄事業者"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "使用する車両は特急列車や一部の急行列車とは異なり、専属で使用する車種が定められていないことがほとんどであり、基本的に一般車両(大手私鉄では通勤形車両)が使用される。例外的に専用の車両を使用する事例として、東武鉄道では伊勢崎・日光線では6050系を使用することは前記した。過去には前身車種である6000系や特急から格下げされた5700系が使用されていた。鹿島臨海鉄道ではかつて運行していた「マリンライナーはまなす」は専用車両として7000系が使用されていた。この他北近畿タンゴ鉄道宮津線では2007年3月17日まで「特急用車両を使用している」との理由から、宮津駅→西舞鶴駅間の22時台に通過駅のない「各駅停車の快速」を設定していたことがあった。",
"title": "民鉄事業者"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "一部の私鉄で運行している快速列車には運賃の他に料金を徴収するものもあり、2021年現在ではしなの鉄道の「しなのサンライズ号・しなのサンセット号」(2015年3月以降~2020年7月までは全席自由席に変更して運行)、あいの風とやま鉄道およびIRいしかわ鉄道が運行している「あいの風ライナー」は運賃の他に指定席券(ライナー券)を必要とする。過去の例では鹿島臨海鉄道が運行していた「マリンライナーはまなす」は運賃のほかに乗車整理券200円が必要であった。この他に東武鉄道と伊豆箱根鉄道では一部座席指定の快速列車を運行していた(ホームライナー#私鉄・第三セクターにおける類似列車も参照)。",
"title": "民鉄事業者"
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"text": "かつては京成電鉄や東武鉄道、神戸電鉄にて急行よりも上位種別である快速が設定されていたが、2023年3月に東武東上本線の快速が廃止されたことにより、快速と急行の双方が設定されている事業者においては全て快速が急行より下位となった。また、西武新宿線では、1993年12月6日のダイヤ改正から2001年12月のダイヤ改正まで、急行よりも上位種別の「快速」が存在していたが、これは平日朝ラッシュ時に本川越発の「急行」と千鳥停車を行っていた、拝島・西武遊園地発で、上石神井通過の「急行」を置き換えたものである(2012年6月に廃止された拝島快速とは異なる)。",
"title": "民鉄事業者"
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"text": "JR以外で快速列車を運行する事業者・路線を下表に示す。「通勤快速」など快速の派生種別を運行する事業者・路線については派生種別の項を参照。",
"title": "民鉄事業者"
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"text": "各駅に停車する線区は、いずれも通過する線区と直通運転を行う。",
"title": "民鉄事業者"
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"tag": "p",
"text": "いくつかの路線で、「特別快速」「新快速」などといった快速列車の派生種別が存在する。また、他の種別と同様に「通勤〜」や「区間〜」、「直通〜」が付く快速も少なくない。各線区における列車の位置づけは、一覧の「詳細ページ」の項を参照。",
"title": "快速の派生種別"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "JR(旧国鉄)における快速列車の派生種別を下表に示す。",
"title": "快速の派生種別"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "特筆すべきは、JR西日本京阪神地区(アーバンネットワーク)では運行線区に応じた愛称が与えられているものがある。基本的には通常の快速と同じ位置づけの種別であるが、例えば、「みやこ路快速」は同じ線区で運行する快速よりも停車駅を少なくしている。その他の列車も停車駅は通常の快速と同じではあるものの、JR発足後に新規製造した車両のみを使用し高速度運転するダイヤを組んでおり、通常の快速よりも到達時間を短くしているものが多い。",
"title": "快速の派生種別"
},
{
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"text": "また、休日にのみに運転されるものの中にはホリデー快速の名称を与えるものもある。しかし、運行路線が多く、いわゆる「休日運行」の快速列車格であったホリデー快速「おくたま」・「あきがわ」のような列車から、「ホリデー快速富士山」のように臨時列車の扱いで運行されるものもある。",
"title": "快速の派生種別"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "JR以外の事業者における快速列車の派生種別を下表に示す。「」表記は廃止された事業者・路線を示す。なお、かつて近畿日本鉄道で運転されていた「区間快速」は、正式には「区間快速急行」という快速急行の派生種別であるため、ここには記載しない。",
"title": "快速の派生種別"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "いくつかの事業者において「快速特急」や「快速急行」など、特急や急行の頭に快速を付ける列車種別が運転されている。それらは、特急や急行より停車駅が少ない列車となっている。詳細は各項目を参照されたい。",
"title": "快速○○"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "なお、かつて小田急電鉄では「快速準急」が設定されていた。日中の準急を速達化したもので、準急と急行の間の位置付けだった。この種別は1971年、急行に統合される形で廃止された。",
"title": "快速○○"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "快速の英訳には\"Rapid (Service)\"が当てられ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の快速列車ではRapid Service trainと表記される。",
"title": "各国での言語表記"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "ただし英語圏では、\"RAPID\"は快速(列車)という意味ではなく、「迅速な」という形容詞である(rapidsだと「急流」)。 停車駅が少ないことも含意するとは限らない。 またロマンス語圏においては、特急列車の種別名にRapidやそれと同じ語源の言葉を用いることがあった(フランス国鉄#列車の種類)。 ドイツ語圏では昔の\"Eilzug\"が日本の快速列車に近い。",
"title": "各国での言語表記"
},
{
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"text": "派生種別については、区間快速はSection Rapid、通勤快速はCommuter Rapid、特別快速はSpecial Rapidとするのが一般である。",
"title": "各国での言語表記"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "ただしこれも事業者によって異なり、JR東海の東海道本線や首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスでは区間快速の英語表記がSemi Rapidとなっている。また、JR西日本では新快速をSpecial Rapid Service、区間快速をRegional Rapid Serviceとし、JR東海では新快速をNew Rapidとしている。これはJR東海には特別快速が存在するためである。",
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"text": "JR西日本の直通快速はDirect Rapid Serviceとなっている。",
"title": "各国での言語表記"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "東京モノレールの空港快速・区間快速はそれぞれHANEDA EXPRESS、RAPIDとなっている。",
"title": "各国での言語表記"
},
{
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"tag": "p",
"text": "北越急行の超快速はChō-Rapid、神戸電鉄の特快速はSpecial Rapid Expressとなっている。",
"title": "各国での言語表記"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日本国外の鉄道においては、日本の列車種別を明確に当てはめることは難しいが、日本以外では概ね以下のように考えることができる。",
"title": "日本国外"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "路線バスの内、中間停車停留所を精選するなど速達運転を行うものについても、事業者によっては「快速」の種別を称する場合がある。急行バスの項も参照のこと。",
"title": "路線バスにおける快速"
}
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快速列車(かいそくれっしゃ)は、鉄道において一般に急行料金などの追加料金は要しないが、途中駅の一部または全部を通過し、主要駅のみに停車することで目的地駅への速達サービスを提供する列車である。なお、日本国有鉄道(国鉄)・JRの旅客営業規則における用語では、快速列車は広義の普通列車に含まれる。 ここでは特に断りがない限り、日本における快速列車を主題として解説している。また、「通勤快速」など「快速」の名がつく派生種別についても扱う。
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{{脚注の不足|date=2014年3月}}
[[ファイル:JR-West207(3).jpg|thumb|240px|[[JR西日本207系電車]]の快速表示の例([[JR東西線]]直通電車)]]
'''快速列車'''(かいそくれっしゃ)(英:rapid train)は、鉄道において一般に[[急行券|急行料金]]などの追加料金は要しないが、途中[[鉄道駅|駅]]の一部または全部を通過し、主要駅のみに停車することで目的地駅への速達サービスを提供する[[列車]]である{{refnest|group="注"|ただし、鉄道事業者によっては「特急」「急行」などの種別も速度に対する料金を取らない場合があり、それらと「快速」の種別がともに存在している場合は、停車パターンの区別を表している。}}。なお、[[日本国有鉄道]](国鉄)・[[JR]]の旅客営業規則における用語では、快速列車は広義の[[普通列車]]に含まれる<ref name="jre-regulation">例えば、東日本旅客鉄道旅客営業規則[http://www.jreast.co.jp/ryokaku/01_hen/index.html 旅規第3条(5)]、東日本旅客鉄道</ref>。
ここでは特に断りがない限り、日本における快速列車を主題として解説している。また、「通勤快速」など「快速」の名がつく派生種別についても扱う。
== JR ==
[[JR]]グループの旅客営業規則においては'''[[普通列車]]の一種'''であり、急行料金が必要となる急行列車([[優等列車]])に対して料金不要で乗車できる種別である<ref name="jre-regulation"/>。
快速列車であっても、各駅に停車する区間においては「普通」と案内される場合がある。例えば、[[アーバンネットワーク|京阪神地区]]の[[東海道本線|東海道]]・[[山陽本線]]([[琵琶湖線|琵琶湖]]・[[JR京都線|JR京都]]・[[JR神戸線|神戸線]])や、[[常磐線]][[中距離電車|中距離列車]](普通列車)の快速は、快速運転区間においては「快速」、各駅停車となる区間は「普通」として案内されている。これらの快速は市販の[[時刻表]]では「快速」の表記がなく、普通列車の扱いである<ref name="時刻表">各出版社の時刻表の当該路線のページを参照。</ref>{{refnest|group="注"|[[JTBパブリッシング]]発行の時刻表では東海道本線・山陽本線の当該区間に「[[京都駅|京都]] - [[西明石駅|西明石]]間は快速停車駅のみ掲載(列車種別の表記がないものはこの間快速で運転)」との記載があり、また[[交通新聞社]]発行の「JR時刻表」では欄外に「京都 - 西明石間は快速停車駅を掲載しています」との表記がされている。また、JR京都線・神戸線の全列車を掲載している携帯全国時刻表などでは「快速」として掲載している。}}。変わった例として、[[湘南新宿ライン]]では、[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]( - [[宇都宮線]])系統の列車が停車する[[西大井駅]]・[[新川崎駅]]・[[保土ケ谷駅]]・[[東戸塚駅]]を[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]( - [[高崎線]])系統の列車が通過するため、後者は東海道線の普通列車に相当する停車駅ながら「快速」として運転される。
このような列車は比較的長い距離を運転するものが多いものの、末端区間では各駅停車となる場合も多い。ただ、直通列車や速達列車の存在自体が重宝される場合もある。例えば、兵庫県[[相生市]]や[[赤穂市]]は「京阪神まで[[新快速]]1本」で行けることをアピールして観光や定住促進活動を行ってきたが、2016年3月26日のダイヤ改正で日中の新快速の乗り入れがなくなり、区間運転の普通列車に代替された。これらの沿線では通過運転は行っていないので減便となったわけではないが、沿線自治体から懸念されるほどの事態となった<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201512/0008648442.shtml JR西、新快速減便か 赤穂線の自治体「定住に打撃」] - 2015年12月15日 神戸新聞NEXT<br> [http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/201512/0008658033.shtml JR西ダイヤ改正 赤穂線新快速減便に不安や落胆] - 2015年12月19日 神戸新聞NEXT</ref>。また、速達列車が昼間のみの運転であっても、その列車が存在することで不動産広告などに所要時間を掲載できるといったメリットもある<ref>{{PDFlink|http://www.sfkoutori.or.jp/consumer/alacarte.pdf 不動産広告あらかると}} - [http://www.sfkoutori.or.jp/consumer/ 公益社団法人首都圏不動産公正取引協議会] P.5(交通の利便)</ref>(通勤時間帯の所要時間が増える場合や速達列車の運転がない場合はその旨を付記する必要があるが、その付記は小さい)。
=== 車両 ===
[[特別急行列車|特急列車]]や[[急行列車]]とは異なり{{refnest|group="注"|優等列車(特に特急列車)はその性質上、速達性と快適性が追求されるため、基本的に専用の車両が使用される<ref>PHP研究所 [[梅原淳]]『雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 特急列車のすべて』p.78</ref>。}}、使用する車種は基本的に定められていないが、通常は普通列車用車両([[一般形車両 (鉄道)|一般形車両]]・[[近郊形車両]]・[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形車両]])が使用される。ただし、運用上の兼ね合いで[[特急形車両]]が使用される場合もあり、この例として過去にJR北海道の「[[エアポート (列車)|エアポート]]」で行われていた運用が挙げられる。1992年7月から2016年3月まで、「エアポート」の一部列車は[[札幌駅]] - [[旭川駅]]間の特急列車([[国鉄781系電車|781系]]、[[JR北海道785系電車|785系]]、[[JR北海道789系電車#1000番台|789系1000番台]])が札幌駅で快速「エアポート」に種別変更し、直通運転する形で運行されていた{{refnest|group="注"|785系・789系による「エアポート」の運用は、2016年3月26日のダイヤ改正で廃止。それ以降、旭川方面とは札幌駅で乗り換えの必要が生じている。}}。JR東日本では、「[[ホリデー快速]]」に代表される首都圏の臨時快速列車の一部に特急形車両([[国鉄185系電車|185系]]・[[JR東日本E257系電車|E257系]]等)を使用していた(現在はほとんどの列車が特急に格上げされている)。
また、[[格下げ車両|格下げ]]の形で特急形車両をそのまま充当する列車も存在した。例えばJR東日本では特急「[[北越 (列車)|北越]]」廃止後に新設され、2017年3月4日ダイヤ改正まで運行していた[[新潟駅]] - [[糸魚川駅]]間の快速列車には[[国鉄485系電車|485系]]が使用されていた。2015年3月14日のダイヤ改正までは「[[あいづ|あいづライナー]]」や「くびき野」にも485系が使用されていたが、列車廃止や新形車両への置き換えによる特急格上げなどに伴い充当を終了した。過去には[[急行形車両]]を使用した列車も存在しており、間合い運用はもとより、格下げの形としては京阪神地区の新快速や中京地区の快速に[[国鉄153系電車|153系]]が使用されていたほか、快速「みえ」には[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]・[[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]が使用され、「[[ムーンライトえちご]]」には[[国鉄165系電車|165系]]が使用されていた。
地方都市間路線や観光路線では、一部の車両、または全車を[[座席指定席|指定席車]]とし、乗車券のほかに[[座席指定券|指定席券]]を必要とする列車や、[[グリーン車]]を連結する列車もある。
<gallery widths="220" perrow="6" style="font-size:100%">
JRE Series-E233-T4.jpg|一般型通勤タイプ([[JR東日本E233系電車|E233系]])を使用する中央線の快速電車
JR-Series223-2000 V19 (2021-11-24).jpg|近郊形([[JR西日本223系電車|223系]])を使用するJR神戸線の快速電車
HB-E210 C-7.jpg|一般形([[JR東日本HB-E210系気動車|HB-E210系]])を使用する仙石東北ラインの快速列車
</gallery>
<gallery widths="220" perrow="6" style="font-size:100%">
ファイル:JR hokkaido 789-1000 airport super kamui minamichitose.jpg|特急形([[JR北海道789系電車|789系1000番台]])を使用していた当時の快速「エアポート」
ファイル:485系3000番台.jpg|新潟駅 - 糸魚川駅間で運行されていた[[国鉄485系電車|485系]]による快速
ファイル:Kiha58 5101 mie.jpg|急行形を使用していた快速「みえ」
ファイル:JRE Rapid Fairway 165 EMU.JPG|「ムーンライトえちご」にも用いられていた[[国鉄165系電車|165系]]
</gallery>
=== 愛称 ===
[[File:JRS Series5000-M5 Marine-liner-41.jpg|thumb|200px|列車愛称がある快速列車の例:マリンライナー]]
JR北海道の快速列車はほとんどに[[列車愛称]]が付与されているが、それ以外の地域では列車愛称がないケースが大半である<ref name="時刻表"/>。しかし、「[[とっとりライナー]]」([[山陰本線]])・「[[東海道線 (JR東日本)#快速「アクティー」|アクティー]]」([[東海道本線]])・「[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]」([[大村線]]など)・[[夜行列車]]の「[[ムーンライト (列車)|ムーンライト○○]]」などのように愛称付きの快速が運転されている(いた)ケースもある。
「[[エアポート (列車)|エアポート]]」・「[[マリンライナー]]」・「[[はまゆり (列車)|はまゆり]]」・「[[みえ (列車)|みえ]]」・「[[ホームライナー]]」など指定席を設定している列車は、[[マルス (システム)|指定席発券システム]]の管理に際しては、[[列車番号]]ではなく、列車愛称によって列車を特定する。このため、同名の列車が2本以上運行される場合、号数(例:「マリンライナーXX号」)が付与されている。
全車自由席の快速列車において愛称が付与される列車は以下のものが挙げられる。
;[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)
:特別快速「[[きたみ (列車)|きたみ]]」(旭川駅 - [[北見駅]])、「[[なよろ (列車)|なよろ]]」(旭川駅 - [[名寄駅]])、「[[ノサップ (列車)|はなさき]]」「[[ノサップ (列車)|ノサップ]]」([[釧路駅]] - [[根室駅]])など、大半の快速に愛称が付与{{refnest|group="注"|2016年3月26日から運行している『[[はこだてライナー]]』は快速列車でも運行されるが、半数以上は普通列車である。}}されている([[新得駅|新得]]発[[帯広駅|帯広]]行の快速列車など、愛称がないものもごく一部存在する)。この他、かつては「[[アイリス (列車)|アイリス]]」([[函館駅]] - [[長万部駅]])、「[[あばしり (列車)|あばしり]]」([[遠軽駅]] - [[網走駅]])、「[[留萌本線#運行形態|るもい]]」(下り旭川駅→[[増毛駅]]、上り[[留萌駅]]→[[深川駅]])など、多くの愛称付き快速列車が存在した。
;[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
:JR発足間もない頃に新設された快速列車には列車愛称を付与していたが、2000年代以降列車愛称の整理を実施しており、「[[仙石線|うみかぜ]]」・「[[仙山 (列車)|仙山]]」・「[[あいづ|ばんだい]]」・「[[京葉線|マリンドリーム]]」「[[仙台シティラビット]]」などの愛称が廃止・削減されている。東北地方(特に仙台・秋田支社管内)の快速列車にこの傾向が強い{{refnest|group="注"|[[JRダイヤ改正]]を参照。}}が、すべての愛称が廃止されたわけではなく、「[[リアス (列車)|リアス]]」のように愛称が付与された快速列車も存在する。首都圏では[[上野東京ライン]]経由の快速列車は快速運転区間において「[[東海道線 (JR東日本)|アクティー]]」「[[高崎線|アーバン]]」「[[宇都宮線|ラビット]]」といった愛称が付与されるが、通勤快速や[[湘南新宿ライン]]経由の快速・特別快速には愛称が付与されないなど、列車愛称付きの列車と愛称なしの列車が混在している例がある。[[横須賀・総武快速線|横須賀線・総武快速線]]においては成田空港駅発着の快速列車に「エアポート成田」という愛称を付与していたが、2002年12月のダイヤ改正で成田空港駅発の列車は愛称が廃止され、成田空港行の列車にのみ「エアポート成田」の愛称が付与されていた。同じ区間を走る列車でも上下列車で愛称の有無が異なる状態となっていたが、2018年3月のダイヤ改正で成田空港行の列車も愛称が廃止され、上下ともに無愛称の快速となって他の横須賀・総武快速線電車と同じ扱いとなった(停車駅に変更なし)<ref>[http://www.jreast.co.jp/press/2017/20171213.pdf 2018年3月 ダイヤ改正について(東日本旅客鉄道株式会社 プレスリリース)](2017年12月15日)</ref>。
:[[2013年]][[3月16日]]のダイヤ改正前においては[[京葉線]]の快速は方面によって停車駅が異なっていたことから、蘇我方面の快速列車を「[[京葉線#快速(旧・京葉快速)|京葉快速]]」、[[武蔵野線]]直通の快速列車を「[[京葉線#武蔵野線直通列車|武蔵野快速]]」として案内していた。ただし京葉線・武蔵野線系統とも正式な種別は「快速」であることから、「京葉快速」および「武蔵野快速」は、あくまでも愛称としての位置づけであった。
;[[東海旅客鉄道]](JR東海)
:自由席のみで組成される快速列車には列車愛称は基本的に付与されないが、例外的に[[飯田線]]とJR東日本[[中央本線]]・[[篠ノ井線]]を直通する快速列車([[飯田駅|飯田]]発[[長野駅|長野]]行と[[松本駅|松本]]発飯田行を1日1本ずつ運転)には「みすず」という愛称が付与されている。飯田線内では快速運転を行うが、飯田発長野行の列車は[[岡谷駅]]で種別を変更し、中央本線・篠ノ井線内では普通「みすず」として運行される。
;[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
:中国地方の快速列車は「◯◯ライナー」という愛称が付与される(「通勤ライナー」、「シティライナー」、「とっとりライナー」など)。このうち「サンライナー」、「アクアライナー」は2022年春ダイヤ改正にて全廃となる。
:[[津山線]]で運行している快速列車「ことぶき」は運行開始当初は指定席が設定されていたため、列車愛称が付与されたものである。
;[[四国旅客鉄道]](JR四国)
:[[瀬戸大橋線]]開業時から[[高松駅 (香川県)|高松駅]] - [[岡山駅]]間には「マリンライナー」が運行されているが、一部は全車自由席である。2002年以降は[[予讃線]]の高松駅 - [[坂出駅]]間にて快速運転を行い、坂出駅以遠で各駅に停車する列車には「[[サンポート (列車)|サンポート]]」の愛称が付与されている。さらに、「サンポート」のうち特急「[[南風 (列車)|南風]]」に接続するものには「サンポート南風リレー号」の愛称が付与される。
:過去には徳島地区の「鳴門きんときライナー」などがあった。
;[[九州旅客鉄道]](JR九州)
:[[鹿児島本線]][[荒尾駅 (熊本県)|荒尾駅]]以北で運行している快速列車(区間快速を含む)や[[福北ゆたか線]]([[筑豊本線]]・[[篠栗線]])の快速列車のように列車愛称がつけられないケースがある一方で{{refnest|group="注"|筑豊本線・篠栗線ではキハ200系で運行していた時代には「赤い快速」という列車愛称が付与されていた}}、地方で運行している快速列車には「なのはな」([[指宿枕崎線]])や「シーサイドライナー」([[大村線]]など)、「日南マリーン号」([[日南線]])のように愛称が付与されている。過去には、鹿児島本線[[鳥栖駅]]以南で快速運転を行う「[[くまもとライナー]]」等があった。この他にも[[肥薩おれんじ鉄道]]から直通運転を行っている快速列車には「スーパーおれんじ」「オーシャンライナーさつま」の愛称が付与されている。
=== 快速電車 ===
{{節スタブ}}
<!--東京の-->[[電車特定区間]]を中心に、通過駅を伴う電車により運転されている列車を「快速電車」と呼ぶ。これは主に[[各駅停車]]に対する速達の意味合いであるものの、中距離列車(普通列車)と並走する場合に齟齬を来すことがある。
上記にある、常磐線やJR京都線・神戸線の普通列車が電車特定区間内において「快速」と案内されるのは、別に運行される各駅停車との区別や、既にある圏外を結ぶ中距離列車である(電車による)「普通列車」との停車駅の統一によるものである。
常磐線では、[[通勤五方面作戦]]による増強計画で複々線計画から外れた[[三河島駅]]・[[南千住駅]]や大幅に遅れた[[天王台駅]]には快速電車が停車していたものの、普通列車は通過していた(過去はそれ以外にも通過駅があった)。2004年3月13日の改正で停車駅が統一され、そして10月16日の改正で案内が「快速」に統一された。
元々は、[[中央線快速|中央線]]において速達種別として「[[急行列車#急行電車(急電)|急行'''電車''']]」が運転されるようになったが、有料の急行'''列車'''が運転されるようになると、紛らわしさから快速電車に改称されたという経緯がある。中央線でも、快速電車よりも普通列車の方が停車駅が少なかったことがある(ただし、ビューやまなしなどの一部の快速'''列車'''は、中央快速線内では「普通」の停車駅を踏襲している)。
=== その他 ===
通過駅を持たせたまま、あるいは特別通過する形態で「[[普通列車|普通]]」扱いにする列車もある{{refnest|group="注"|一例として、JR北海道では旧仮乗降場、JR東日本では[[磐越西線]]や[[羽越本線]]、[[北越急行]]から直通運転する普通列車などが挙げられる。}}。また旧国鉄時代には、地方の路線において朝晩の時間帯に乗降客の少ない駅やホームの短い駅を通過する設定があったが、快速とはせず単に普通列車として扱われていた。[[高山本線]]では[[2017年]]時点でも[[高山駅]] - [[岐阜駅]]間を運行する始発および最終列車は「普通」であるが、[[下呂駅]] - 岐阜駅間は各駅に停車し、高山駅 - 下呂駅間は[[久々野駅]]・[[飛騨小坂駅]]・[[飛騨萩原駅]]のみに停車する。
{{see also|普通列車#通過駅}}
逆に、全運転区間で通過駅が1駅しかないにもかかわらず「快速」を名乗る場合もある。例えば、2013年3月16日改正時点では、[[山陰本線]]・[[舞鶴線]]・[[播但線]]といった北近畿地区を運行する一部の快速などにこの事象が見られる。また、[[中央線快速]]の[[武蔵小金井駅]]・[[立川駅]]・[[豊田駅]] - [[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]・[[大月駅]]間のみを運転する快速電車に至っては、通過駅が1駅も存在しない(ただし、案内上は各駅停車である)。
同じく、播州赤穂行きの新快速は赤穂線内は各駅に止まるが、種別幕は「新快速」のままである。
== 民鉄事業者 ==
[[ファイル:AIZURAILWAY SERIES6050 62201F RPD.JPG|thumb|200px|専用の車両で運行していた[[東武伊勢崎線]]の快速列車]]
{{節スタブ}}
[[私鉄]]・[[第三セクター鉄道]]においても、'''快速'''という[[列車種別]]が設定されている鉄道会社があり、JRグループと異なり、特急や急行・準急等と共に'''[[優等列車]]'''として扱われることもあるが<ref name="Seibu">一例として、[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/05/21/20120521daiyakaisei.pdf 2012年6月30日(土)ダイヤ改正を実施します] - 西武鉄道 2012年5月21日</ref>、料金不要列車も優等列車の範疇に含めるかどうかは事業者によって相違しており、国鉄・JRと同様に「優等列車」として扱わない鉄道会社もある。例として[[東武鉄道]]伊勢崎・日光線において2017年4月まで運行していた快速・区間快速は当該列車で運用することを目的としたセミクロスシート車両である[[東武6050系電車|6050系]]で運行していたが、同社では料金不要列車には速達種別であっても優等列車という表現を用いず、'''一般列車'''と表現している<ref>{{PDFlink|[http://www.tobu.co.jp/file/pdf/2647e3941996778a3a8afbb919eccd2f/170228_4.pdf 4月21日(金) ダイヤ改正を実施!東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線など【特急列車以外の一般列車】]}} - 東武鉄道、2017年2月28日</ref>。京王電鉄においても各駅停車を除く列車は優等列車ではなく、'''急行系列車'''と表現している<ref>交通新聞社『京王電鉄の世界』p.77</ref>。また、[[横浜市営地下鉄ブルーライン]]や[[東京メトロ東西線]]、都営地下鉄浅草線、都営地下鉄新宿線など、地下鉄路線でも運行されていることがある。
{{see also|優等列車#私鉄|急行列車#料金不要の「急行」}}
準急・急行などの列車種別との上下関係は鉄道会社によって異なり、下表のように3パターンに分けられる。
[[首都圏新都市鉄道]][[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]・[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ東西線|東西線]]など、優等列車として「快速」および[[#私鉄の派生種別|「通勤快速」などの快速の派生種別]]のみ設定されている{{refnest|group="注"|なお、かつて東京メトロ東西線では通勤快速が運転されるようになる以前は快速の種類を分別していなかったが、内部では列車番号から[[西船橋駅]] - [[東陽町駅]]間無停車の「A快速」・[[浦安駅 (千葉県)|浦安]]のみ停車の「B快速」・浦安駅 - 東陽町駅間は各駅停車の「C快速」と呼称されていたことがあるが、正式な種別名として用いていなかった。なお、現行ダイヤの快速は「B快速」、通勤快速は「C快速」がそれぞれ相当する。}}路線も存在する。
快速の種別を設定している私鉄は東日本の事業者が多く、関東地区の大手私鉄では[[小田急電鉄]]以外の各社で設定されたことがある。その一方、西日本の事業者での設定は少なく、大手私鉄では[[阪急電鉄]]([[阪急京都本線|京都本線]])が<ref group="注">ただし、[[京阪電気鉄道]]では一時期、臨時列車の種別に「快速」の名前が使用されたことがある。当初は「臨時」幕を使用していたが後に快速の専用幕が追加されたが短命に終わり、正式種別になることなく運転を終了した。あくまで臨時列車であるため正式な種別に快速は含まれない。また、[[近畿日本鉄道]](近鉄)でも不定期に快速が運行されていた。</ref>2022年12月17日のダイヤ改正をもって運行を終了したのを最後に消滅した。また、関西の私鉄の沿線住民の間では、快速急行の略称として「快速」と呼ばれることもある。
使用する車両は特急列車や一部の急行列車とは異なり、専属で使用する車種が定められていないことがほとんどであり、基本的に一般車両(大手私鉄では通勤形車両)が使用される。例外的に専用の車両を使用する事例として、東武鉄道では伊勢崎・日光線では6050系を使用することは前記した。過去には前身車種である[[東武6000系電車|6000系]]や特急から格下げされた[[東武5700系電車|5700系]]が使用されていた。[[鹿島臨海鉄道]]ではかつて運行していた「マリンライナーはまなす」は専用車両として7000系が使用されていた。この他北近畿タンゴ鉄道宮津線では[[2007年]][[3月17日]]まで「特急用車両を使用している」との理由から、宮津駅→西舞鶴駅間の22時台に通過駅のない「各駅停車の快速」を設定していたことがあった。
一部の私鉄で運行している快速列車には運賃の他に料金を徴収するものもあり、2021年現在では[[しなの鉄道]]の「[[しなのサンライズ号・しなのサンセット号]]」(2015年3月以降~2020年7月までは全席自由席に変更して運行)、[[あいの風とやま鉄道]]および[[IRいしかわ鉄道]]が運行している「[[あいの風ライナー]]」は運賃の他に指定席券(ライナー券)を必要とする。過去の例では鹿島臨海鉄道が運行していた「マリンライナーはまなす」は運賃のほかに乗車整理券200円が必要であった。この他に東武鉄道と伊豆箱根鉄道では一部座席指定の快速列車を運行していた([[ホームライナー#私鉄・第三セクターにおける類似列車]]も参照)。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
|+JR以外の事業者における列車種別の類型
|-
!colspan=2|類型及びその説明
!路線
!列車種別の序列<br>(速達順)
!詳細
|-
!style="text-align: center" rowspan="2"|1
|rowspan=2|JRと同じく、急行と[[各駅停車]]・[[普通列車|普通]]との間に位置する
|[[京王線]]
|特急<br />急行<br />区間急行<br />'''快速'''
|style="text-align: left;"|[[京王井の頭線|井の頭線]]を除く「京王線系統」で実施されている種別区分。なお、井の頭線には快速という列車種別自体が運行されていない。
|-
|[[相鉄本線]]
|特急<br />通勤特急<br />急行<br />通勤急行<br />'''快速'''
|style="text-align: left;"|
|-
! style="text-align: center;" |2
|快速が急行・準急の間となるもの
|[[西武池袋線]]
|[[レッドアロー|特急]]<br />[[S-TRAIN]]<br />快速急行<br />急行・通勤急行<br />'''快速'''<br />通勤準急<br />準急
|style="text-align: left;"|
|-
|}
かつては京成電鉄や東武鉄道、神戸電鉄にて急行よりも上位種別である快速が設定されていたが、2023年3月に[[東武東上本線]]の快速が廃止されたことにより、快速と急行の双方が設定されている事業者においては全て快速が急行より下位となった。また、[[西武新宿線]]では、1993年12月6日のダイヤ改正から2001年12月のダイヤ改正まで、急行よりも上位種別の「快速」が存在していたが、これは平日朝ラッシュ時に本川越発の「急行」と千鳥停車を行っていた、拝島・西武遊園地発で、上石神井通過の「急行」を置き換えたものである(2012年6月に廃止された[[拝島快速]]とは異なる)。
JR以外で快速列車を運行する事業者・路線を下表に示す。「通勤快速」など快速の派生種別を運行する事業者・路線については[[#快速の派生種別|派生種別]]の項を参照。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+JR以外の事業者において運行中の快速列車
!rowspan=2|運行事業者
!colspan=2|運行線区
!colspan=2|他の優等列車
!rowspan=2|備考
|-
!通過駅あり
!各駅に停車
!style="white-space:nowrap" |快速の<br />派生種別
!style="text-align: center; width: 5em"|その他の<br />優等種別
|-
|[[青い森鉄道]]
|[[青い森鉄道線]]
|<ref group="注">ただし、[[八戸駅]]発着の「しもきた」の一部は、JR大湊線内各駅に停車する。</ref>
|なし
|なし
|2018年3月17日ダイヤ改正で、線内完結列車が廃止され、[[野辺地駅]]からJR[[大湊線]]へ直通する「[[しもきた (列車)|しもきた]]」のみとなる。なお、同日ダイヤ改正で、青森発八戸行の始発列車は、'''普通列車'''ながら西平内駅と狩場沢駅を通過する<ref group="注">該当の普通列車は、2016年3月26日から2018年3月16日まで、通過駅は変わらずに快速列車として運行されていた。</ref>が、2021年3月13日ダイヤ改正で、通過駅が狩場沢駅から千曳駅に変更されている。
|-
|[[秋田内陸縦貫鉄道]]
|[[秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線|秋田内陸線]]
|
|なし
|あり
|
|-
|[[仙台空港鉄道]]
|[[仙台空港鉄道仙台空港線|仙台空港線]]
|
|なし
|なし
|[[仙台駅]]までJR線との相互直通運転。
|-
|[[会津鉄道]]
|[[会津鉄道会津線|会津線]]
|
|区間快速
|なし
|[[会津鉄道会津線#運行形態]]を参照。
|-
|[[関東鉄道]]
|[[関東鉄道常総線|常総線]]
|
|なし
|なし
|詳細は[[関東鉄道常総線#快速列車]]を参照。
|-
|[[首都圏新都市鉄道]]
|[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]
|
| style="white-space:nowrap" |区間快速<br />通勤快速
|なし
|通勤快速は2012年10月15日ダイヤ改正日から。平日ラッシュ時間(朝は上り・夕・夜間は下り)に運転。通勤快速運転時間帯は快速の運転はない。
|-
|[[いすみ鉄道]]
|[[いすみ鉄道いすみ線|いすみ線]]
|
|なし
|あり
|快速は、土休日朝の[[大多喜駅|大多喜]]発[[大原駅 (千葉県)|大原]]行の1本のみ運行。なお、上位種別である急行列車も、土休日のみの運行。
|-
|[[東葉高速鉄道]]<br />[[東京地下鉄]]<br />(東京メトロ)<br />東日本旅客鉄道<br />(JR東日本)
|[[東京メトロ東西線|東西線]]
|[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]<br />[[中央・総武緩行線|総武線]]<br />[[中央・総武緩行線|中央線]]
|通勤快速
|なし
|
|-
|[[京成電鉄]]<br />[[芝山鉄道]]<br />[[東京都交通局]]<br />[[京浜急行電鉄]]
|[[京成本線|本線]]<br />[[京成押上線|押上線]]
|[[京成東成田線|東成田線]]<br />[[芝山鉄道線]]<br />[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]<br />[[京急本線]]
| なし
|あり
|京急線内は泉岳寺 - 品川間のみ。
|-
|[[京王電鉄]]<br />東京都交通局
|[[京王線]]
|[[京王新線|新線]]<br />[[京王相模原線|相模原線]]<br />[[京王高尾線|高尾線]]<br />[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]
|style="white-space:nowrap" |なし<ref group="注">後述するが、2013年2月22日のダイヤ改定までは通勤快速も設定されていたが、当該列車は区間急行に改称され、日中にも運転されるようになった。</ref>
|あり
|新宿線の種別としては2013年2月22日のダイヤ改定で廃止となった。<br />(事業者の境界駅である[[新線新宿駅]]で種別変更を行うようになった。)
|-
|[[西武鉄道]]<br />[[東京地下鉄]]<br />(東京メトロ)
|[[西武池袋線|池袋線]]
|style="white-space:nowrap" |[[西武狭山線|狭山線]]<br />[[西武有楽町線]]<br />[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]
|なし
|あり
|有楽町線の種別としては2008年6月14日のダイヤ改正で廃止となった。<br />(事業者の境界駅である[[小竹向原駅]]で種別変更を行うようになった。)<br />2001年12月までは[[西武新宿線|新宿線]]系統にも設定されていた<ref name="SHIN-5_p44">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=44}}</ref>。
|-
|[[相模鉄道]]
|[[相鉄本線|本線]]
|[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]]
|なし
|あり
|本線の通過運転区間は[[横浜駅]] - [[西谷駅]]間のみ。いずみ野線内と本線西谷駅 - [[海老名駅]]間は各駅に停車。
|-
|[[横浜市交通局]]
|[[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン]]
|
|なし
|なし
|2015年7月18日ダイヤ改正日から、日中のみに運転。
|-
|[[しなの鉄道]]
|[[しなの鉄道線]]<br />[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]
|
|なし
|なし
|愛称無しの快速列車の他に、それぞれ停車駅の異なる快速「[[軽井沢リゾート号]]」「[[しなのサンライズ号・しなのサンセット号|しなのサンライズ号]]」「[[しなのサンライズ号・しなのサンセット号|しなのサンセット号]]」が運行されている。
|-
|style="white-space:nowrap" |[[あいの風とやま鉄道]]
|style="white-space:nowrap" |[[あいの風とやま鉄道線]]<br />[[IRいしかわ鉄道線]]
|
|なし
|なし
|IRいしかわ鉄道線内は金沢駅以外全て通過。乗車にはライナー券が必要。土休日運休。
|-
|[[えちぜん鉄道]]
|[[えちぜん鉄道勝山永平寺線|勝山永平寺線]]<br />[[えちぜん鉄道三国芦原線|三国芦原線]]
|
|なし
|なし
|勝山駅→福井駅間と三国港駅→福井駅間のみ運行。
|-
|[[大井川鐵道]]
|[[大井川鐵道大井川本線|大井川本線]]
|
|なし
|あり
|
|-
|[[近江鉄道]]
|[[近江鉄道八日市線|八日市線]]
|
|なし
|なし
|かつては本線にも設定されていた。
|-
|[[WILLER TRAINS]]<br />(京都丹後鉄道)
|[[京都丹後鉄道宮福線|宮福線]]<br />[[京都丹後鉄道宮豊線|宮豊線]]<br />[[京都丹後鉄道宮舞線|宮舞線]]
|
|なし
|あり
|特急用車両を用いる「通勤ライナー」は快速列車であるが乗車には追加料金が必要であり、これは着席サービスを伴わない日本の定期列車としては唯一の例である<ref>臨時列車としては全車グリーン車のジョイフルトレインによるものが他に存在する。</ref>。
|-
|[[土佐くろしお鉄道]]
|[[土佐くろしお鉄道阿佐線|阿佐線]]
|
|なし
|なし
|JR線[[高知駅]]まで直通運転
|-
|[[松浦鉄道]]
|[[松浦鉄道西九州線|西九州線]]
|
|なし
|なし
|[[佐々駅]] - [[佐世保駅]]間で朝夕に運行<ref name="MR20190316down">{{Cite web|和書|url=http://matutetu.com/publics/index/576/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190413114433/http://matutetu.com/publics/index/576/|archivedate=2019-04-13|title=下り時刻表2019年3月16日改正|author=松浦鉄道|accessdate=2019-04-13}}</ref><ref name="MR20190316up">{{Cite web|和書|url=http://matutetu.com/publics/index/577/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190413114354/http://matutetu.com/publics/index/577/|archivedate=2019-04-13|title=上り時刻表2019年3月16日改正|author=松浦鉄道|accessdate=2019-04-13}}</ref>
|}
各駅に停車する線区は、いずれも通過する線区と直通運転を行う。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+JR以外の事業者における廃止された快速列車
!運行事業者
!運行線区
!備考
|-
|style="white-space:nowrap" |[[北海道ちほく高原鉄道]]
|[[北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線|ふるさと銀河線]]
|快速「銀河」として[[根室本線]][[帯広駅]]まで乗入れていた<ref>{{Cite book|和書|author=寺田裕一|year =2004|title = ローカル私鉄 列車ダイヤ25年 東日本編|publisher =JTB|isbn =978-4533054846|page=6}}</ref>。
|-
|[[弘南鉄道]]
|[[弘南鉄道弘南線|弘南線]]・[[弘南鉄道大鰐線|大鰐線]]
|大鰐線は本数の削減により、弘南線は2007年6月に[[平賀駅]]構内で発生した脱線事故の影響から、それぞれ廃止。
|-
|[[IGRいわて銀河鉄道]]
|[[いわて銀河鉄道線]]
|[[2015年]][[3月14日]]のダイヤ改正で、青い森鉄道線からの直通列車、及びJR[[花輪線]]から乗り入れる「[[八幡平 (列車)|八幡平]]」が廃止。
|-
|[[山形鉄道]]
|[[山形鉄道フラワー長井線|フラワー長井線]]
|1993年3月8日改正で新設、1995年12月廃止<ref>{{Cite book|和書|author=寺田裕一|year =2004|title = ローカル私鉄 列車ダイヤ25年 東日本編|publisher =JTB|isbn =978-4533054846|page=63}}</ref>。
|-
|[[上信電鉄]]
|[[上信電鉄上信線|上信線]]
|1985年前後に廃止。
|-
| style="white-space:nowrap" |[[鹿島臨海鉄道]]
|[[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線|大洗鹿島線]]
|[[1998年]]12月のダイヤ改正で廃止。料金不要の「はまなす」と有料の「マリンライナーはまなす」を運行していた。
|-
|[[東武鉄道]]
|[[東武伊勢崎線|スカイツリーライン]]<br />[[東武日光線|日光線]]<br />[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]<br />[[東武東上本線|東上線]]
|本線系統の快速は2017年4月のダイヤ改正で廃止。2006年以降は急行より上位の種別であった。それ以前では現行の急行電車とは異なる[[急行列車#有料急行列車|有料急行列車]]「ゆのさと」・「しもつけ」・「きりふり」が存在したため、快速はその下位であった(類型2に近い形)。快速が料金を徴収しない列車種別としては最上位種別となっている点は以前と変わりがない。1964年から1976年までは一部座席指定であった。<br />東上線の快速は2013年3月から2023年3月まで運転。末期の本線系統と同様、急行より上位の種別であった。
|-
|[[東京モノレール]]
|[[東京モノレール羽田線|モノレール羽田線]]
|2010年時点では「空港快速」・「区間快速」に再編され、「空港快速」が最上位に位置している。
|-
|[[東京急行電鉄]]
|[[東急田園都市線|田園都市線]]
|「急行」に統合され廃止。なお2007年から運転されている準急は停車駅がほぼ同じで、実質的には当時の快速の後継列車となっている。{{refnest|group="注"|ただし、準急は快速が通過していた[[あざみ野駅]]に停車する。}}
|-
|[[上田交通]]<!--当時-->
|[[上田電鉄別所線|別所線]]
|1990年3月10日改正で新設、1993年3月18日改正で廃止<ref>{{Cite book|和書|author=寺田裕一|year =2004|title = ローカル私鉄 列車ダイヤ25年 東日本編|publisher =JTB|isbn =978-4533054846|page=83}}</ref>。
|-
|[[のと鉄道]]
|[[のと鉄道七尾線|七尾線]]・[[のと鉄道能登線|能登線]]
|1988年3月25日に快速「のと恋路」号として運行開始。1991年9月1日からは「のと恋路」号が急行に昇格し、快速の愛称が無くなる。1999年廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 6号 北信越―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900401|page=56}}</ref>。
|-
|[[伊豆箱根鉄道]]
|[[伊豆箱根鉄道駿豆線|駿豆線]]
|1988年頃から1998年3月まで運行。一部座席指定であった。
|-
|[[静岡鉄道]]
| style="white-space:nowrap" |[[静岡鉄道駿遠線|駿遠線]]<br />[[静岡鉄道静岡清水線|静岡清水線]]・[[静岡鉄道清水市内線|清水市内線]]
|駿遠線は1958年5月20日から1967年10月16日まで、静岡清水線と清水市内線(港橋方面)は1953年11月24日から1958年3月9日まで存在(静岡清水線の快速は翌日以降「急行」に変更)<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳7号 東海―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900418|page=47}}</ref>。
|-
|[[天竜浜名湖鉄道]]
|[[天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線|天竜浜名湖線]]
|1996年3月16日改正で新設、2000年3月26日改正で廃止<ref>{{Cite book|和書|author=寺田裕一|year =2004|title = ローカル私鉄 列車ダイヤ25年 東日本編|publisher =JTB|isbn =978-4533054846|page=163}}</ref>。
|-
|[[愛知環状鉄道]]
|[[愛知環状鉄道線]]
|2005年3月1日から9月30日まで、[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[中央本線]][[名古屋駅]]から[[高蔵寺駅]]経由で愛知環状鉄道線万博八草駅(現・[[八草駅]])まで快速「[[エキスポシャトル]]」が運行されていた。
|-
|[[長良川鉄道]]
|[[長良川鉄道越美南線|越美南線]]
|1997年10月1日改正で新設<ref>{{Cite book|和書|author=寺田裕一|year =2004|title = ローカル私鉄 列車ダイヤ25年 西日本編|publisher =JTB|isbn =978-4533055850|page=23}}</ref>、1998年内に廃止<ref>『JR時刻表』、弘済出版社、1998年12月号、282 - 285頁</ref>。
|-
|[[近畿日本鉄道]]
|[[近鉄南大阪線|南大阪線]]・[[近鉄吉野線|吉野線]]
|[[近鉄特急#吉野特急(大阪 - 吉野間)|吉野特急]]の設定前、不定期で[[大阪阿部野橋駅]] - [[吉野駅 (奈良県)|吉野駅]]間に料金不要の快速列車が運行されていた。特急と急行の中間に位置する種別で、[[1959年]] - [[1965年]]に「かもしか号」の[[列車愛称]]をつけて不定期特急とともに運行されていた<ref name="kintetsultdexp-1-145">{{Cite book|和書|title=近鉄特急 上|author=田淵仁|date=2004-04|publisher=JTBパブリッシング|ISBN=9784533051715|page=145}}</ref>。
|-
|[[京阪電気鉄道]]
|[[京阪本線|本線]]
|かつて行楽期や[[京都競馬場]][[重賞]]競走開催日に臨時列車として運転されていたが、2010年時点では運転されていない。<br />「[[京阪本線#臨時列車]]」参照。停車駅は列車によって異なる{{refnest|group="注"|一時期[[京阪9000系電車|9000系]]には「快速」の幕(黄色の地に黒文字)があった。臨時の快速は主に[[京阪7200系電車|7200系]]や[[京阪9000系電車|9000系]]が充当されることが多かったが、「京都ロマンス快速」のように[[京阪8000系電車|8000系]]特急車が使われることもあった。なお、京阪の快速は急行より停車駅が少なく、当時の特急より停車駅が多く設定されていた。現行ダイヤの特急・快速急行の方が、当時の快速より停車駅が多い。}}。
|-
|[[阪急電鉄]]
|[[阪急京都本線|京都本線]]
|2001年に急行に統合され廃止されたが、2007年より臨時列車の種別として復活、2010年3月のダイヤ改正時には定期列車で復活。2022年12月のダイヤ改正で急行(3代目)に改称され再び廃止された。
|-
|[[神戸新交通]]
|[[神戸新交通ポートアイランド線|ポートライナー]]
|[[神戸空港駅]]までの延伸開業とともに[[2006年]]2月2日より運行開始。空港系統でのみ運行され、[[三宮駅]]を出発後、[[中公園駅]]、[[みなとじま駅]]、[[市民広場駅]]、[[医療センター駅]]、[[計算科学センター駅|京コンピュータ前駅]]の順に停車。朝夕ラッシュ時を除いた時間帯に1時間あたり2本運行されており、三宮駅 - 神戸空港駅間を16分半で結んでいた。2016年3月28日のダイヤ改正で廃止。
|-
|[[神戸市交通局]]
|[[神戸市営地下鉄西神・山手線|西神・山手線]]
|[[西神ニュータウン]]の開発に伴う人口増加による利用需要増に備え、1993年7月に運転を開始。<br/>停車駅は、[[西神中央駅]]・[[名谷駅]]・[[新長田駅]]・[[三宮駅]]・[[新神戸駅]]で、[[神戸総合運動公園野球場]](グリーンスタジアム神戸)<!--当時は命名権導入前-->や[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場]]でイベントが開催される際には[[総合運動公園駅]]にも[[停車 (鉄道)#臨時停車・特別停車|臨時停車]]していた。<br/>1995年に発生した[[阪神・淡路大震災]]の影響により休止となっていたが、各駅停車との所要時間の差がわずか6分だったこともあり実質廃止となった。
|-
|[[神戸電鉄]]
|[[神戸電鉄有馬線|有馬線]]<br />[[神戸電鉄粟生線|粟生線]]<br />[[神戸電鉄三田線|三田線]]
|三田線直通列車は2007年に急行に置き換わり廃止となった。三田線内は各駅に停車していた。粟生線直通の快速は1991年の登場後一旦廃止されていたものの、2009年3月20日のダイヤ改正で復活した<ref name="shinchosha-10-57">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=57}}</ref>が、2020年3月14日のダイヤ改正で再び消滅した<ref name="shintetsu-20200121">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200216174326/https://www.shintetsu.co.jp/release/2019/200121.pdf|url=https://www.shintetsu.co.jp/release/2019/200121.pdf|format=pdf|title=ダイヤ改正の実施について|publisher=神戸電鉄|date=2020-01-21|archivedate=2020-06-14|accessdate=2020-06-14}}</ref><ref name="shintetsu-202006">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200614034303/https://www.shintetsu.co.jp/railway/timetbl/t_stop/|url=https://www.shintetsu.co.jp/railway/timetbl/t_stop/index.html|title=時刻表・ダイヤ案内/停車駅のご案内|publisher=神戸電鉄|archivedate=2020-06-14|accessdate=2020-06-14}}</ref>。<br />なお、快速の英語表記は[[快速急行]]を意味する「'''RAPID EXPRESS'''」となっていた(現行の特快速は「'''SPECIAL RAPID EXPRESS'''」)<ref name="shintetsu-202002">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200222093330/https://www.shintetsu.co.jp/railway/timetbl/t_stop/index.html|url=https://www.shintetsu.co.jp/railway/timetbl/t_stop/index.html|title=時刻表・ダイヤ案内/停車駅のご案内|publisher=神戸電鉄|archivedate=2020-02-22|accessdate=2020-06-14}}</ref>。
|-
|[[高千穂鉄道]]
|[[高千穂鉄道高千穂線|高千穂線]]
|1991年3月16日改正より[[高千穂鉄道TR-300形気動車|TR-300形気動車]]使用の座席指定快速「たかちほ」として運行開始。2003年3月15日、TR-300形廃車に伴い廃止<ref>{{Cite book|和書|author=寺田裕一|year =2004|title = ローカル私鉄 列車ダイヤ25年 西日本編|publisher =JTB|isbn =978-4533055850|page=107}}</ref>
|-
|[[肥薩おれんじ鉄道]]
|[[肥薩おれんじ鉄道線]]
|快速は土休日のみの運行。なお、全線通し運行される列車は、鹿児島中央発[[新八代駅|新八代]]行の「オーシャンライナーさつま4号」{{refnest|group="注"|但し、阿久根→八代間は、各駅停車。}}と<!---[[川内駅 (鹿児島県)|川内]]発新八代行き「[[おれんじ食堂]]」の2便以外に無く 「おれんじ食堂」は予約制で、乗車券のみで乗れる列車ではないので、コメントアウト。--->、JR[[鹿児島本線]][[鹿児島中央駅]]から[[出水駅]]<ref>出典:交通新聞社発行小型時刻表2015年12月号488ページと大型時刻表2016年3月号419ページから</ref>まで乗り入れる「オーシャンライナーさつま号(1~3号)」と、JR鹿児島本線[[熊本駅]]から出水駅まで乗り入れる「スーパーおれんじ号(全車)」があったが、2021年3月13日ダイヤ改正までに全廃された。{{main|肥薩おれんじ鉄道線#廃止・休止された列車}}
|}
== 快速の派生種別 ==
いくつかの路線で、「特別快速」「新快速」などといった快速列車の派生種別が存在する。また、他の種別と同様に「通勤〜」や「区間〜」、「直通〜」が付く快速も少なくない。各線区における列車の位置づけは、一覧の「詳細ページ」の項を参照。
=== JR ===
JR(旧国鉄)における快速列車の派生種別を下表に示す。
特筆すべきは、JR西日本[[京阪神]]地区([[アーバンネットワーク]])では運行線区に応じた愛称が与えられているものがある。基本的には通常の快速と同じ位置づけの種別であるが、例えば、「みやこ路快速」は同じ線区で運行する快速よりも停車駅を少なくしている。その他の列車も停車駅は通常の快速と同じではあるものの、JR発足後に新規製造した車両のみを使用し高速度運転するダイヤを組んでおり、通常の快速よりも到達時間を短くしているものが多い。
また、休日にのみに運転されるものの中には[[ホリデー快速]]の名称を与えるものもある。しかし、運行路線が多く、いわゆる「休日運行」の快速列車格であった[[ホリデー快速おくたま|ホリデー快速「おくたま」・「あきがわ」]]のような列車から、「[[ホリデー快速富士山]]」のように[[臨時列車]]の扱いで運行されるものもある。
*各線区ごとにその位置づけは異なるため、詳細については表の「詳細ページ」の項から各線区についての説明を参照。
*「<sup>×</sup>」表記はすでに廃止されている線区・種別などを示す。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|一部区間は快速と同じ停車駅に、他は各駅に停車するもの
!style="text-align: center; width: 7em"|種別名
!運行系統
!詳細ページ
!備考
|-
!rowspan=10|区間快速
| style="white-space:nowrap" |<sup>×</sup>[[函館本線]](小樽 - 札幌 - 岩見沢)
|[[いしかりライナー]]
|[[エアポート (列車)|快速「エアポート」]]・[[ニセコライナー|快速「ニセコライナー」]]との差違による名称。[[手稲駅]] - [[札幌駅]]間、もしくは札幌駅 - [[江別駅]]間のどちらかで快速運転を行う。2020年3月14日ダイヤ改正により、廃止。
|-
|[[武豊線]] - [[東海道本線]]
| style="white-space:nowrap" |[[武豊線#運行形態]]<br />および[[東海道線 (名古屋地区)#運行形態]]
|
|-
|[[中央本線]](予定)
|[[中央線 (名古屋地区)#運行形態]]
|2024年3月16日より<ref>[https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000043113.pdf 2024年3月ダイヤ改正について] – 東海旅客鉄道、2023年12月15日、6頁</ref>。
|-
|[[関西本線]]
|[[関西線 (名古屋地区)#区間快速]]
|2009年3月14日のダイヤ改正で昼間時間に停車駅を減らした「快速」が設定されたことによりこの種別が登場した。それ以前の「快速」([[みえ (列車)|快速みえ]]とは異なる)の停車駅が引き継がれている。
|-
|[[奈良線]]・[[関西本線]]([[大和路線]])
|[[奈良線#区間快速]]
|
|-
|大和路線 - [[大阪環状線]]
|[[大和路線#区間快速]]
|一部[[和歌山線]]・[[桜井線]]直通
|-
|[[阪和線]]
|[[阪和線#区間快速]]
|
|-
|関西本線(大和路線)・[[片町線]](学研都市線)<br /> - [[JR東西線]]
|[[片町線#区間快速]]
|JR宝塚線塚口駅以北・JR神戸線の直通列車の場合、尼崎方面行きは[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]で直通先の種別・列車番号に、四条畷方面行きは[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]で学研都市線内の種別・列車番号に変更する。
|-
|[[東海道本線]]([[JR神戸線]])・[[福知山線]](JR宝塚線)
|[[福知山線#運行形態]]
|[[川西池田駅]]以北は各駅に停車
|-
|[[鹿児島本線]](門司港 - 八代)
|[[鹿児島本線#区間快速]]
|一部[[長崎本線]]直通
|-
|[[佐世保線]] - [[大村線]] - [[長崎本線]](佐世保 - 長崎)
|[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]
|「シーサイドライナー」のうち、日中時間帯に運行されるものは種別を「区間快速」として[[佐世保駅]] - [[竹松駅]]間の各駅に停車する。
|-
!rowspan=2|<sup>×</sup>B快速
|<sup>×</sup>[[阪和線]]
|[[阪和線#B快速]]
|[[天王寺駅]] - [[熊取駅]]間で快速運転を行い、熊取駅 - [[和歌山駅]]間は各駅停車していた。末期は早朝の1本のみに運行される大阪環状線・梅田貨物線経由新大阪行きのみの運行であった。<br />停車駅案内<ref>[https://www.jr-odekake.net/eki/pdf/teisya_02.pdf 停車駅ご案内 大阪環状線・JRゆめ咲線・大和路線・阪和線・関西空港線] – 西日本旅客鉄道</ref>や市販の時刻表では「快速」と表記するものがある。
|-
|<sup>×</sup>[[仙石線]]
|[[仙石線#快速列車]]
|仙石線快速において停車駅が2種類あった時代、あおば通駅 - 多賀城駅間を各駅停車する快速列車で使用していた<ref name="JRE201012">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130619214444/http://www.jr-sendai.com/doc/100924-3.pdf 2010年12月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社 2010年9月24日(2013年6月19日時点でのインターネットアーカイブ)</ref><ref name="RJ547">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』No.547 p.65</ref>。ただし市販の時刻表では「快速」と表記<ref name="JTBTIMETABLE201303">JTBパブリッシング 『JTB時刻表』2013年3月号 仙石線のページ参照。</ref>。
|-
!<sup>×</sup>準快速
|<sup>×</sup>[[鹿児島本線]]
|[[鹿児島本線#準快速(廃止)]]
|2004年3月13日のダイヤ改正で折尾駅 - 赤間駅間を各駅停車する快速列車で使用していた。2011年3月12日のダイヤ改正で門司港駅 - 福間駅間各駅停車となったのち、2018年3月16日で区間快速に変更され名称は消滅。
|-
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|快速より停車駅を少なくしたもの
!style="text-align: center; width: 7em"|種別名
!運行系統
!詳細ページ
!運行本数・時間
!備考
|-
!rowspan=8|[[特別快速]]
|千歳線「エアポート」
|[[エアポート (列車)|エアポート(列車)]]
|1日2往復
|札幌都心から空港アクセスの混雑緩和を目的として、朝に新千歳空港行き2本、夜に札幌行き2本が設定される。
|-
|石北本線「きたみ」
|[[きたみ (列車)|きたみ(列車)]]
|1日1往復のみ
|下位となる「快速」がないことから事実上快速格であるが、特急並みに停車駅が絞られていることから(現在は[[上川駅]] - [[北見駅]]間では[[瀬戸瀬駅]]・[[西留辺蘂駅]]を除く各駅に停車、下りはさらに[[旭川駅]] - [[当麻駅]]間各駅停車。)、登場時以来この列車種別を用いている。
|-
|仙石東北ライン<br />([[東北本線]]・[[仙石線]])
|[[仙石東北ライン]]
|1日1往復のみ
|
|-
|[[常磐快速線]]
|[[常磐快速線]]<br />[[特別快速#常磐線]]
|日中のみ
|全列車[[上野駅]]以南[[上野東京ライン]]直通、東海道線[[品川駅]]まで運行。
停車駅:[[品川駅]]、[[新橋駅]]、[[東京駅]]、[[上野駅]]、[[日暮里駅]]、[[北千住駅]]、[[松戸駅]]、[[柏駅]]、[[取手駅]]、[[藤代駅]]、[[龍ケ崎市駅]]、[[牛久駅]]、[[ひたち野うしく駅]]、[[荒川沖駅]]、[[土浦駅]]
取手駅 - 土浦駅間は各駅停車である。2015年3月13日までは北千住駅を通過していた。
|-
|湘南新宿ライン<br />(東海道線 - 高崎線系統)
|[[湘南新宿ライン]]<br />[[特別快速]]
|
|湘南新宿ラインの「快速」に対する上位種別であり、[[東海道線 (JR東日本)#快速「アクティー」|東海道線快速「アクティー」]]・[[高崎線#快速「アーバン」|高崎線快速「アーバン」]]と同格である。
快速「アーバン」や[[高崎線]]通勤快速と異なり、[[北本駅]]に停車する。[[新川崎駅]]、[[西大井駅]]、[[恵比寿駅]]は通過する。
停車駅:[[小田原駅]]、[[国府津駅]]、[[平塚駅]]、[[茅ケ崎駅]]、[[藤沢駅]]、[[大船駅]]、[[戸塚駅]]、[[横浜駅]]、[[武蔵小杉駅]]、[[大崎駅]]、[[渋谷駅]]、[[新宿駅]]、[[池袋駅]]、[[赤羽駅]]、[[浦和駅]]、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]、[[上尾駅]]、[[桶川駅]]、[[北本駅]]、[[鴻巣駅]]、[[熊谷駅]]、[[籠原駅]]、[[深谷駅]]、[[岡部駅]]、[[本庄駅]]、[[神保原駅]]、[[新町駅]]、[[倉賀野駅]]、[[高崎駅]]
小田原駅 - 横浜駅間の停車駅は「アクティー」と同一である。戸塚駅では[[横須賀線]]のホームに停車する。2013年3月15日までは浦和駅は通過していた。高崎線の熊谷駅 - 高崎駅間は各駅停車である。
|-
|東海道本線<br />(JR東海・名古屋圏)
| [[東海道線 (名古屋地区)]]
|
|快速・普通列車として運行区間では最速達種別
|-
|<sup>×</sup>指宿枕崎線「なのはなDX」
| style="white-space:nowrap" |[[指宿枕崎線#特急「指宿のたまて箱」・快速「なのはな」]]
| style="white-space:nowrap" |2004年から<br />2011年まで運行
|この場合、快速「なのはな」との差別化を図る意味合いがあるとされ、速達化とは必ずしも一致しない。
|-
|<sup>×</sup>成田線・総武本線・<br />横須賀線「エアポート成田」
|[[総武快速線]]
|1995年まで運行
|横須賀線内は大船駅までの運行で、現行の快速「エアポート成田」同様、普通「エアポート成田」扱い。
|-
!中央特快
|rowspan=2|[[中央線快速|中央線(快速)]]・[[青梅線]]
|rowspan=2|[[特別快速#中央線・青梅線]]
|rowspan=2|下り平日夕方<br />ラッシュ時以外<br />毎日運行
|rowspan=2|
|-
!青梅特快
|-
!rowspan=3|[[新快速]]
|東海道本線<br />(JR東海・名古屋圏)
|[[東海道線 (名古屋地区)]]<br />[[新快速#名古屋地区(JR東海)]]
|
|特別快速の下位種別である
|-
| style="white-space:nowrap" |[[アーバンネットワーク]]<br />東海道本線(JR西日本)・山陽本線<br />([[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]・[[JR神戸線|神戸線]])<br />北陸本線・湖西線・赤穂線
|[[京阪神快速]]<br />[[新快速#京阪神地区(JR西日本)]]
|
|快速・普通列車として運行区間では最速達種別。ただし湖西線内においては2012年3月11日までは上り快速のほうが停車駅が2駅少なく(当時湖西線内唯一の12両で運行したため新旭、近江高島、北小松を通過し雄琴に停車)所要時間も短いという逆転現象が生じていた。
|-
|<sup>×</sup>阪和線
|[[新快速#阪和線]]
|1972年から<br />1978年まで運行
|
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|ラッシュ時のみに運転されるもの
!style="text-align: center; width: 7em"|種別名
!運行系統
!詳細ページ
!運行本数・時間
!備考
|-
!rowspan=8|通勤快速
|<sup>×</sup>東海道本線東京近郊区間
|[[東海道線 (JR東日本)]]
|2021年3月12日で廃止<br />平日夜間下り3本のみ
|遠距離速達目的のため、[[川崎駅]]・[[横浜駅]]・[[戸塚駅]]通過(それ以外は「[[東海道線 (JR東日本)#快速「アクティー」|アクティー]]」と同一)。[[品川駅]]の次の停車駅は[[大船駅]]となる。土曜・休日ダイヤでは日中時間帯運行の快速「アクティー」として運行。<br>
停車駅:[[東京駅]]、[[新橋駅]]、[[品川駅]]、[[大船駅]]、[[藤沢駅]]、[[茅ケ崎駅]]、[[平塚駅]]、[[国府津駅]]、[[小田原駅]]
|-
|総武本線(快速)・成田線
|[[総武快速線]]
|2022年3月11日で廃止<br />平日1日2往復のみ
|土曜・休日ダイヤでは快速として運行。総武快速線から乗り入れる[[横須賀線]]では各駅に停車。扱いも普通列車になる。
|-
|<sup>×</sup>高崎線・[[上越線]]・[[両毛線]]
|[[高崎線]]
|2021年3月12日で廃止<br />平日夕方ラッシュ時のみ
|登場時には快速「タウン」の愛称があった。土曜・休日ダイヤでは昼間時運行の快速「アーバン」として運行。<br>
[[湘南新宿ライン]]特別快速や「アーバン」と異なり、[[北本駅]]は全列車が通過<ref>[[北本駅]]には[[湘南新宿ライン]]特別快速は停車するが、快速アーバンおよび通勤快速は通過する。</ref>、[[上尾駅]]と[[桶川駅]]には一部列車のみ停車する<ref>[[上尾駅]]および[[桶川駅]]に停車する[[高崎線]]通勤快速は下りの2本のみである。</ref>が、[[尾久駅]]には全列車が停車する。<br>
停車駅:[[上野駅]]、[[尾久駅]]、[[赤羽駅]]、[[浦和駅]]、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]、([[上尾駅]])、([[桶川駅]])、[[鴻巣駅]]、[[熊谷駅]]、[[籠原駅]]、[[深谷駅]]、[[岡部駅]]、[[本庄駅]]、[[神保原駅]]、[[新町駅]]、[[倉賀野駅]]、[[高崎駅]]、[[高崎問屋町駅]]、[[井野駅 (群馬県)|井野駅]]、[[新前橋駅]]、[[前橋駅]]<br>
高崎線の熊谷駅 - 高崎駅間と、上越線、両毛線は各駅停車となる。
|-
|<sup>×</sup>東北本線<br />(宇都宮線)
|[[宇都宮線]]
|2021年3月12日で廃止<br />平日夕方ラッシュ時のみ
|登場時には快速「スイフト」の愛称があった。土曜・休日ダイヤでは昼間時運行の快速「ラビット」として運行。<br>
[[湘南新宿ライン]]快速や「ラビット」と異なり、[[蓮田駅]]は通過するが、[[尾久駅]]には停車する。<br>
停車駅:[[上野駅]]、[[尾久駅]]、[[赤羽駅]]、[[浦和駅]]、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]、[[久喜駅]]、[[古河駅]]、[[小山駅]]、[[小金井駅]]、[[自治医大駅]]、[[石橋駅 (栃木県)|石橋駅]]、[[雀宮駅]]、[[宇都宮駅]]<br>
小山駅 - 宇都宮駅間は各駅停車となる。
|-
|中央本線・[[青梅線]]・[[五日市線]]・[[八高線]]
|[[中央線快速]]
|平日夕方下りのみ
|通勤快速が運行される時間帯には中央特快・青梅特快が運行されないことや、土曜・休日ダイヤでは中央特快・青梅特快が代替として運行されることから、事実上特別快速と同等の扱いを受ける。
|-
|京葉線 - [[内房線]]・[[外房線]] - [[東金線]]
|[[京葉線]]
|平日朝上り内房線・外房線直通各2本、<br/>夕方下り内房線・外房線直通各1本
|土曜・休日ダイヤでは快速として運行。<br />内房線・外房線 - 東金線直通列車のみとなる。
|-
|埼京線・[[川越線]]
|[[埼京線]]
|平日朝・夕および夜間
|土曜・休日ダイヤでは快速として運行。直通先の川越線・[[東京臨海高速鉄道りんかい線]]内では各駅停車。通勤快速の運行時間帯には快速は運行されない。日本で最初に運行された路線かつ、日本一本数が多い。
|-
|<sup>×</sup>常磐線
|[[常磐線]]
|2007年3月17日まで朝上り3本、夜下り1本
|上りは平日のみ運転。特別快速よりも上位格。
|-
!通勤特快
|中央本線・青梅線
|[[中央線快速]]
|平日朝上りのみ。
|
|-
!rowspan=3|直通快速
|<sup>×</sup>[[東北本線]] - [[石巻線]]
|[[東北本線]]
|上下朝1本、夕1本 (2012年3月16日までは朝の上りと夕方の下りのみで土休日運休、翌17日からこれについては毎日運行となり、増発分が土休日運休)
|仙台駅~石巻駅間途中停車駅なし。東日本大震災において仙石線が被災したため、2015年度予定の復旧までの暫定的な運行。仙石線の代替のため、定期券・回数券は仙石線経由のものが利用可能となっていた。
|-
|[[大阪環状線]] - <br />[[阪和線]]←[[紀勢本線|きのくに線]]・[[関西空港線]]
|[[阪和線#直通快速]]
|平日朝ラッシュのみ
|環状線内では各駅停車。この区間で通過運転を行う[[関空快速・紀州路快速]]や快速列車と区別するために設定された。休日は関空・紀州路快速と快速列車が代替。
|-
| style="white-space:nowrap" |(<sup>×</sup>[[JR東西線]] - 片町線(学研都市線) -) <br />[[おおさか東線]] - 関西本線(大和路線)
| style="white-space:nowrap" |[[おおさか東線#直通快速]]
|朝夕ラッシュ時に運行(平日朝は奈良駅→新大阪駅間、夕方は新大阪駅→奈良駅間のみ)
|2019年3月15日までは片町線(学研都市線)とJR東西線を経由して尼崎駅まで直通運転していた。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|京阪神地区の路線別に名称が与えられている列車
!style="text-align: center; width: 7em"|種別名
!運行系統
!詳細ページ
!運行本数・時間
!備考
|-
!みやこ路快速
|[[奈良線]]・関西本線(大和路線)
|[[奈良線#運行形態]]
|rowspan=2|日中のみ運行
|
|-
!大和路快速
|[[大阪環状線]]・<br />[[関西本線]]([[大和路線]])・[[和歌山線]]
|[[大和路快速]]
|休日は運行時間を拡大。土曜・休日の一部列車は、[[和歌山線]]直通。
|-
!関空快速
|大阪環状線・[[阪和線]]・[[関西空港線]]
|[[関空快速・紀州路快速#関空快速]]
|rowspan=2|平日朝ラッシュ時の上り以外運行
|早朝・夜間を除き日根野駅 - 大阪方面間は紀州路快速と併結運転。
|-
!紀州路快速
|大阪環状線・阪和線
|[[関空快速・紀州路快速#紀州路快速]]
|一部を除き日根野駅 - 大阪方面間は関空快速と併結運転。
|-
!<sup>×</sup>関空特快<br />「ウイング」
| style="white-space:nowrap" |<sup>×</sup>大阪環状線・阪和線・関西空港線
| style="white-space:nowrap" |[[関空快速・紀州路快速#関空特快「ウイング」]]
|日中1時間1本(当時)
|現在は運行されていない
|-
!丹波路快速
|東海道本線(JR神戸線)・<br />[[福知山線|福知山線(JR宝塚線)]]
|[[福知山線#運行形態]]及び[[丹波路快速]]
|朝および14時30分以降
|停車駅は快速と変わらない。大阪駅発着列車のうち大半に愛称が付けられ、JR東西線・学研都市線発着列車には付与されない。<br />2012年3月17日から223・225系使用の篠山口駅・福知山駅発着列車に設定を拡大。東海道線に乗り入れは無い。<br />2020年3月14日から日中の列車を区間快速に格下げ
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|その他
!style="text-align: center; width: 7em"|種別名
!運行系統
!詳細ページ
!備考
|-
!<sup>×</sup>A快速
| style="white-space:nowrap" |<sup>×</sup>[[仙石線]]
| style="white-space:nowrap" |[[仙石線#快速列車]]
|上位種別がないことから事実上快速格であるが、仙石線快速において停車駅が2種類あった時代、仙台駅 - 多賀城駅間を速達運転する快速列車で使用していた<ref name="JRE201012"/><ref name="RJ547"/>。ただし市販の時刻表では「快速」と表記<ref name="JTBTIMETABLE201303"/>。
|-
|}
{{節スタブ}}
=== JR以外の事業者 ===
JR以外の事業者における快速列車の派生種別を下表に示す。「<sup>×</sup>」表記は廃止された事業者・路線を示す。なお、かつて[[近畿日本鉄道]]で運転されていた「区間快速」は、正式には「[[近鉄大阪線#区間快速急行|区間快速急行]]」という[[快速急行]]の派生種別であるため、ここには記載しない。
{{Main2|「快速急行」および「快速特急」|#快速○○}}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|ラッシュ時間帯に運行する種別 - (A):快速より上位 (B):快速より下位
!style="text-align: center; width: 7em" rowspan=2|種別名
!rowspan=2|運行事業者
!colspan=2|運行線区
!rowspan=2|備考・詳細ページ
|-
!通過駅あり
!各駅に停車
|-
!rowspan=7|'''通勤快速'''
|<sup>×</sup>[[京王電鉄]]
|<sup>×</sup>[[京王線]] (A)
|<sup>×</sup>[[京王新線]]<br /><sup>×</sup>[[京王高尾線|高尾線]]<br /><sup>×</sup>[[京王相模原線|相模原線]]
|[[京王線#通勤快速]]<br />2013年2月22日改定で「区間急行」へ改称。
|-
|[[東京地下鉄]](東京メトロ)
|[[東京メトロ東西線|東西線]] (B)
|
|
|-
|[[東葉高速鉄道]]
|
|[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]] (B)
|
|-
|[[首都圏新都市鉄道]]
|[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]] (B)
|
|2012年10月15日ダイヤ改正で新設<br />[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス#列車種別|つくばエクスプレス#列車種別]]
|-
|<sup>×</sup>[[松浦鉄道]]
|<sup>×</sup>[[松浦鉄道西九州線|西九州線]]
|
|現在は単なる「快速」として運行
|-
|<sup>×</sup>[[東武鉄道]]
|<sup>×</sup>[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]・<sup>×</sup>[[東武日光線|日光線]]
|<sup>×</sup>[[東武宇都宮線|宇都宮線]]
|1972年頃まで存在した<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|pages=47-51}}</ref>。
|-
|<sup>×</sup>[[西武鉄道]]
|<sup>×</sup>[[西武池袋線|池袋線]]
|
|2001年12月15日廃止<ref name="SHIN-5_p44"/>。
|-
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|快速より下位の種別
!style="text-align: center; width: 7em" rowspan=2|種別名
!rowspan=2|運行事業者
!colspan=2|運行線区
!rowspan=2|備考・詳細ページ
|-
!通過駅あり
!各駅に停車
|-
!rowspan=3|区間快速
|<sup>×</sup>東武鉄道
|[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]<br />[[東武日光線|日光線]]
|[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]
|[[東武日光線#快速・区間快速]]
|-
|[[首都圏新都市鉄道]]
|[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]
|
|[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス#列車種別|つくばエクスプレス#列車種別]]
|-
|[[東京モノレール]]
|[[東京モノレール羽田空港線]]
|
|[[東京モノレール羽田空港線#運行形態]]<br>英語表記は「'''RAPID'''」。
|-
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|快速(急行)より上位の種別
!style="text-align: center; width: 7em" rowspan=2|種別名
!rowspan=2|運行事業者
!colspan=2|運行線区
!rowspan=2|備考・詳細ページ
|-
!通過駅あり
!各駅に停車
|-
! 空港快速
| style="white-space:nowrap" |東京モノレール
| style="white-space:nowrap" |[[東京モノレール羽田空港線]]
|
|[[東京モノレール羽田空港線#運行形態]]<br>英語表記は「'''HANEDA EXPRESS'''」。<br>2016年現在、下位となる「快速」がないことから事実上快速格である。
|-
! [[超快速]]
|<sup>×</sup>[[北越急行]]
|<sup>×</sup>[[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]<br /><sup>×</sup>[[信越本線|JR信越本線]]<br /><sup>×</sup>[[上越線|JR上越線]]
|
|<sup>×</sup>愛称は「[[スノーラビット]]」。2023年3月廃止。
|-
! 特快速
|[[神戸電鉄]]
|[[神戸電鉄有馬線|有馬線]] - [[神戸電鉄三田線|三田線]]
|
|[[神戸電鉄有馬線#列車種別]]<br />英語表記は「'''SPECIAL RAPID EXPRESS'''」<ref name="shintetsu-202006"/>。
|-
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|<sup>×</sup>かつて運行された種別
!style="text-align: center; width: 7em" rowspan=2|種別名
!rowspan=2|運行事業者
!colspan=2|運行線区
!rowspan=2|備考・詳細ページ
|-
!通過駅あり
!各駅に停車
|-
! 準快速
|東武鉄道
|[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]<br />[[東武日光線|日光線]]
|[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]
|[[東武日光線#かつての準快速|東武日光線かつての「準快速」]]
|-
! 拝島快速
|西武鉄道
|[[西武新宿線|新宿線]] - [[西武拝島線|拝島線]]
|
|[[西武新宿線#拝島快速]]<br />急行より上位の種別であった。
|-
! 東葉快速
| style="white-space:nowrap" |東葉高速鉄道・東京メトロ
|東葉高速線 - 東西線
|
|[[東葉高速鉄道東葉高速線#東葉快速|東葉高速線#東葉快速]]
|}
== 快速○○ ==
いくつかの事業者において「[[快速特急]]」や「[[快速急行]]」など、特急や急行の頭に'''快速'''を付ける列車種別が運転されている。それらは、特急や急行より停車駅が少ない列車となっている。詳細は各項目を参照されたい。
なお、かつて小田急電鉄では「快速準急」が設定されていた。日中の準急を速達化したもので、準急と急行の間の位置付けだった。この種別は1971年、急行に統合される形で廃止された{{refnest|group="注"|同種種別では快速以外においては「区間急行」がある([[京阪電気鉄道]]を除く)。}}。
== 各国での言語表記 ==
快速の英訳には'''"Rapid (Service)"'''が当てられ、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の快速列車では'''Rapid Service train'''と表記される。
ただし英語圏では、"RAPID"は快速(列車)という意味ではなく{{refnest|group="注"|英語版Wikipediaによる後述"[[:en:Eilzug|Eilzug]]"の解説では、"fast-stopping train"、"semi-fast train"、などと称するのが近い。 [[:en:Limited-stop|Limited-stop]]、[[:en:Skip-stop|Skip-stop]]、も参照。}}、「迅速な」という形容詞である(rapidsだと「急流」)。 停車駅が少ないことも含意するとは限らない。 またロマンス語圏においては、特急列車の種別名にRapidやそれと同じ語源の言葉を用いることがあった([[フランス国鉄#列車の種類]])。 ドイツ語圏では昔の"[[:de:Eilzug|Eilzug]]"が日本の快速列車に近い。
=== 派生種別の英語表記 ===
{{Double image aside|right|Infomation board HANEDA EXPRESS ja.jpg|200|Infomation board HANEDA EXPRESS en.jpg|200|東京モノレールでの英語表記事例。「空港快速」はHANEDA EXPRESS、「区間快速」がRAPIDとなっている}}
派生種別については、区間快速は'''Section Rapid'''、通勤快速は'''Commuter Rapid'''、特別快速は'''Special Rapid'''とするのが一般である。
ただしこれも事業者によって異なり、JR東海の[[東海道本線]]や首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスでは'''区間快速'''の英語表記が'''Semi Rapid'''となっている。また、JR西日本では新快速を'''Special Rapid Service'''、区間快速を'''Regional Rapid Service'''とし、JR東海では新快速を'''New Rapid'''としている。これはJR東海には特別快速が存在するためである。
JR西日本の直通快速は'''Direct Rapid Service'''となっている<ref>{{Cite web|和書|title=北新地駅で見た奈良行きの直通快速。あと2か月で見納めの光景 |url=https://www.neyagawa-np.jp/photo/direct-rapid-kita-shinchi-station-20190121.html |website=寝屋川つーしん |date=2019-01-21 |access-date=2022-05-15 |language=ja}}</ref>。
東京モノレールの空港快速・区間快速はそれぞれ'''HANEDA EXPRESS'''、'''RAPID'''となっている。
北越急行の超快速は'''Chō-Rapid'''、神戸電鉄の特快速は'''Special Rapid Express'''となっている<ref>{{Cite web |date=2019-03-16 |url=https://hokuhoku-line.jp/pdf/2019jikoku.pdf |title=Timetable of Hokuhoku Line |website=Hokuetsu Express |format=PDF |accessdate=2019-09-10 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=神戸電鉄レア種別 - NISSEI LIMITED.EXPRESS:楽天ブログ |url=http://plaza.rakuten.co.jp/hk9000ltdexp/diary/200701010000/ |website=楽天ブログ |access-date=2022-05-15 |language=ja}}</ref>。
== 日本国外 ==
日本国外の鉄道においては、日本の列車種別を明確に当てはめることは難しいが、日本以外では概ね以下のように考えることができる。
* [[中華人民共和国の鉄道]](香港含む)では「特快列車」、「快速列車」が運行されているが、これらは日本の'''急行列車'''に相当する。2010年代から、一部の地下鉄も日本の'''快速列車'''に相当する列車が運行されている。
** [[上海軌道交通16号線]]
*** 2013年12月19日に開業した[[上海軌道交通16号線]]では、快速列車に相当する種別として大駅車(<small>簡体中文:</small>'''{{lang|zh|大站车}}'''・英語表記:'''Major Station Train''')が運転されている。これは中国の地下鉄では初めての快速列車であったが、輸送力不足による混雑の影響により2014年1月29日から運転を取り止めた。その後、車両増備により輸送力増強がなされたことにより、2016年3月21日に運転を再開した。2020年6月18日から、ノンストップ列車に相当する種別として直達車(<small>簡体中文:</small>'''{{lang|zh|直达车}}'''・英語表記:'''Nonstop Train''')が運転されている。
** [[広州地下鉄14号線]]・[[広州地下鉄18号線|18号線]]・[[広州地下鉄21号線|21号線]]
*** 2018年12月28日に全線開業した[[広州地下鉄14号線]]では、快速列車に相当する種別として快車(<small>簡体中文:</small>'''{{lang|zh|快车}}'''・英語表記:'''Express''')が運転されている。2019年に全線開業した[[広州地下鉄21号線|21号線]]と2021年に開業した[[広州地下鉄18号線|18号線]]も快車が運転されている。
* [[台湾]]では[[区間車|区間快車]](英語表記:''Local Express'')が運行されているが、これは[[日本]]の快速列車に相当する。この他に運賃制度上は区間快車と同格であるが全席指定の[[復興号]]も運行されている。
** 2017年3月2日に開業した[[桃園機場捷運]]では、快速列車に相当する種別として直達車(<small>繁體中文:</small>'''{{lang|zh|直達車}}''')が運転されている。
* [[大韓民国|韓国]]では、[[ソウル特別市|ソウル首都圏]]の[[広域電鉄]]の一部路線で[[急行列車 (韓国)|急行列車]](英語表記:''Rapid'')が運行されており、こちらも日本の快速列車に相当する。
* [[ドイツ鉄道]] (DB) の「[[レギオナルエクスプレス]]」(RE:RegionalExpress)、[[スイス連邦鉄道]] (SBB CFF FFS) の「レギオエクスプレス」(RE:RegioExpress)、[[オーストリア連邦鉄道]] (ÖBB) の「レギオナルエクスプレス」(REX:RegionalExpress)が、特別料金を要さないこと、普通列車よりも停車駅が少ないこと、特急列車よりは遅いが速達性を重視していること、地域圏輸送を主目的とすることなどの点から、日本の鉄道の「快速」に相当する種別と考えることができる。
* [[ドイツ]]の「[[ミュンヘン・ニュルンベルク・エクスプレス]]」や、[[フランス]]・[[アルザス地域圏]]の「[[地域圏急行輸送#著名な列車|TER200]]」のように、特別料金不要ながら、最高速度200km/hで運転する列車も存在する。
* [[イギリス]]の場合、そもそもExpress自体が「各駅停車と同じ料金{{refnest|group="注"|現実にはExpressに3等車が併結されず、最低2等以上の料金が必要なケースも多かった(例:初期の[[フライング・スコッツマン]])。}}で途中駅通過で終点まで早くつく」という快速列車の定義にそのまま当てはまる車種である<ref>高畠潔 著、『イギリスの鉄道の話』株式会社成山堂書店、2004年、P20、ISBN 4425960610</ref>。<!--ただし、一部駅を通過する列車は多く設定されているものの、'''停車駅が区別された列車種別は厳密には存在せず'''、案内放送、時刻表においては停車駅(必要なら愛称)のみが案内される。 ←英国の各駅停車とExpressは標識灯でも別区分なので「列車種別がない」ってことは無理がないでしょうか?-->
==路線バスにおける快速==
[[路線バス]]の内、中間停車停留所を精選するなど速達運転を行うものについても、事業者によっては「快速」の種別を称する場合がある。[[急行バス]]の項も参照のこと。
==参考文献==
* [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』
** No.558 特集:列車種別バラエティ
** No.613 特集:快速ウオッチング
* [[交通新聞社]]『JR時刻表』各号
* [[JTBパブリッシング]]『JTB時刻表』各号
* [[創元社]] [[所澤秀樹]]『鉄道の基礎知識』ISBN 9784422240671
* [[鉄道ジャーナル社]]『鉄道ジャーナル』No.561 特集:大都市圏の「快速」電車
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[列車種別]]
* [[列車愛称]]
* [[日本の列車愛称一覧]]
{{日本における列車種別一覧}}
{{DEFAULTSORT:かいそくれつしや}}
[[Category:列車種別]]
|
2003-08-18T04:54:15Z
|
2023-12-23T06:30:11Z
| false | false | false |
[
"Template:Reflist",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Main2",
"Template:Cite book",
"Template:Refnest",
"Template:節スタブ",
"Template:See also",
"Template:Lang",
"Template:Cite web",
"Template:脚注の不足",
"Template:Double image aside",
"Template:PDFlink",
"Template:日本における列車種別一覧",
"Template:Main"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%AB%E9%80%9F%E5%88%97%E8%BB%8A
|
13,480 |
準急列車
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準急列車(じゅんきゅうれっしゃ)は、停車駅が急行列車より多く普通列車より少ない列車のこと。列車種別の一種。準急行列車(じゅんきゅうこうれっしゃ)ともいい、略して準急(じゅんきゅう)という。
通常英訳には「Semi Express」および、略語「Semi-Exp.」が当てられるが、事業者によっては「LOCAL EXP」など異なる表記もされる。
本項では、以下ともに総括して詳述する。
国鉄では戦前と戦後の一時期に準急列車が設定されていた。 戦前の列車は運賃のみで乗車できたのに対し、戦後のものは準急料金が徴収されるなど、その性質が異なる。
1926年(大正15年)9月に東海道本線の東京駅 - 名古屋駅、名古屋駅 - 神戸駅間に設定された列車が「準急」を名乗ったのが始まりである。この当時は比較的長距離を、運賃以外の料金が不要で急行列車よりやや劣る速度で走る、現在の快速列車に相当するサービス的列車であった。したがって、「準急」は現在の快速列車の当時の呼称ともいえ、一部の地域では同様の列車が既に「快速列車」「快速度列車」とも呼ばれていたとされる。
その後は長 - 短距離で同種の列車が設定された。戦前の黄金期といえる1934年(昭和9年)12月の改正当時の特徴的な列車としては、次のようなものが挙げられる。
翌1935年(昭和10年)12月には、関西本線の湊町駅(現・JR難波駅) - 名古屋駅間を3時間1分で結ぶ列車も設定されている。なお急行「かすが」が2006年の廃止直前時点で名古屋駅 - 奈良駅間を約2時間10分で結んでいたが、天王寺駅方面から奈良駅までを走る快速の所要時間を加味すると、70年前の当時とほとんど変わりがない。
さらに鉄道省では、関東大震災や昭和金融恐慌・世界恐慌などの影響を受けて日本が深刻な不況に陥り、それを受けて利用客の減少に悩まされていたことから、イメージアップと呼び込みを兼ねてシーズンになると観光地へ向けて臨時の準急列車をいくつも走らせた。その中には、当時正式には特急列車にしか付けられていなかった列車愛称を地方局独自でつけていたものもあった。代表的なものに下記がある。
しかしこれらの列車は、1937年(昭和12年)の日中戦争開戦後、戦時体制が強まるにつれて同年12月15日に廃止された。
戦後1946年(昭和21年)11月、上野駅 - 金沢駅間と上野駅 - 秋田駅間に再び「準急」と名乗る列車が登場した。「急行」として運転するには設備・車両が不十分であるという理由から設定され、この時から「準急料金」というものが定められて「優等列車」となった。しかし当時は運転事情が安定せず、翌1947年(昭和22年)の1月から6月にかけて石炭・車両事情の悪化から一時消滅し、6月から再び中央本線、日豊本線、山陰本線、予讃本線、土讃本線などに設定されている。
その後は比較的近距離(300km未満)の区間に設定され、急行列車の補助としての役割を果たしていくが、昭和30年代には次のような急行を凌ぐ列車も設定されている。
なお、急行列車の一部区間のみ「準急」として運行する事例が存在した。この場合の料金は、急行区間のみを利用する場合は急行料金を、準急区間のみを利用する場合は準急料金を、急行区間と準急区間を跨って利用する場合は全乗車区間の営業キロに対応する急行料金をそれぞれ徴収していた。
この初例としては、1949年に函館駅 - 釧路駅間で運行を開始した急行3・4列車であり、函館駅 - 札幌駅間は急行列車として運行し、札幌駅 - 釧路駅間は準急列車として運行していた。なお、この列車は1950年には全区間急行として運行されるようになり、1951年には列車愛称として「まりも」が付与された。
函館本線を運行した急行列車「あかしあ」は当初、函館駅 - 札幌駅間を運行する急行列車として設定されたが、運行区間を旭川駅まで延長した際に従来小樽駅 - 旭川駅間を運行していた準急列車「石狩」のダイヤを踏襲する関係から小樽駅を境に函館駅 - 小樽駅間を急行列車、小樽駅 - 旭川駅間を準急列車の扱いとした。このため、函館駅 - 旭川駅間など小樽駅を通過して乗車する際には「急行・準急券」が発行された。
また、こうした施策は支線直通急行列車に用いられることが多かった。たとえば、中央本線で運行していた急行「天竜」は、中央本線内(新宿 - 辰野間)は急行、飯田線内(辰野 - 天竜峡間)は準急となっていた。また、急行「白馬」は、中央本線・篠ノ井線内(新宿 - 松本間)は急行、大糸線内(松本 - 信濃森上間)は準急となっていた。
準急列車に運用される車両は旧型客車をはじめ、153系電車、157系電車、キハ55系気動車をはじめとする準急形車両で運行されるのが基本であった。新性能電車や気動車は後に急行列車にも進出するようになったことから急行形車両と呼ばれるようになり、キハ58系気動車など、製造時から急行形と呼ばれた車両も充当されることがあった。中にはキハ10系気動車やキハ20系気動車、80系電車などの一般形車両が使われることもあった。
1966年(昭和41年)3月に、準急行券の販売を営業キロ100kmまでに制限し、その額をその距離の急行料金と同額にした。また、準急行券での急行の利用(100km以下の利用)、急行券での準急の利用を、それぞれ可能とした。これにより100kmを超えて走行する準急はすべて急行列車となった。
そして、「ヨン・サン・トオ改正」と称される1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正で、残った準急列車も全て急行列車に統合され、これをもって国鉄の準急列車は消滅した。準急という列車種別は消滅したものの、かつての国鉄の準急列車の多くは、JRの特急列車のネットワークに形を変え、あるものは新幹線の各駅停車列車(「こだま」・「なすの」など)に形を変えて現在に引き継がれている。
国鉄分割民営化以後も、準急は急行料金が必要な種別であるため、JRグループにおいては準急の種別は全く使用されていない。
国鉄では、準急料金が不要である準急電車の設定も阪和線で実施していた時期もあった。
準急料金が必要な「準急列車」と区別するため、準急料金が不要な阪和線準急は「準急電車」と案内されていた。車両は現在の近郊形電車や通勤形電車に相当するものが使用されていた。現在の「区間快速」に相当する。詳細は阪和線を参照。
2022年現在、準急という種別の列車は私鉄・地下鉄の一部で運行されている。また、「準急」の名がつく派生種別を運行している事業者もある。
扱いについては各事業者一様ではないが、多くの事業者に共通することは、料金不要の優等列車のうち、原則として通過運転を行う列車で最も停車駅の多い種別という扱いになっていることである。なお、優等列車として準急料金が必要な列車(いわゆる旧国鉄の準急に相当する列車)は2015年時点では津軽鉄道で毎年12月1日 - 3月31日に運行しているストーブ列車のみである。
私鉄では西日本の事業者に設定されることが多く、関西の大手私鉄では2022年現在、5社全てに準急列車が設定されている。関東の大手私鉄では準急は廃止・未設定の事業者が多く、2022年現在は5社のみの設定となる。
特急や一部の急行とは異なり、専用の車両を使用する事業者はなく、基本的に一般車両(大手私鉄では通勤形車両)が使用される。なお、津軽鉄道で毎年12月1日 - 3月31日に運行されるストーブ列車には客車が使用される。
大半の私鉄の準急は、都市部では急行などの上位の速達種別と同じ(または少し多い)停車駅で運行し郊外では各駅に停車するという区間急行的な種別として設定されている。このほかには、全区間で通過運転をするが急行よりも停車駅の多い種別として設定される、区間急行とともに運転され、区間急行よりも通過運転区間が短い種別として設定されるなどの例がある。
東武鉄道では、本線と東上線で性質がやや異なっている。
本線では、東京メトロ半蔵門線直通列車の列車種別として主に朝ラッシュ時間帯で運転され、新越谷駅を境に都市側では急行と同じ停車駅で運行され、郊外側では各駅に停車して中距離利用者の速達性向上と輸送力確保としての立場となっている。本線には準急の派生種別である区間準急も運行されており、こちらは自社線内完結運用を原則として浅草駅 - 北千住駅間も各駅に停車し、準急と同じ停車駅であっても北千住発着となる列車も区間準急として案内される。もともとは本線の中距離列車として、伊勢崎線、日光線、宇都宮線の全線にわたって運行され、北千住駅 - 東武動物公園駅間(一部は北千住駅 - 太田駅)間で通過運転をし、それ以外を各駅に停車する列車として存在し、本線の無料優等列車として最も長い歴史があった。同列車は2006年3月18日のダイヤ改正で区間急行に名称変更されたが、準急が通過運転をする曳舟駅 - 北千住駅間を各駅に停車する一方で、準急が各駅に止まる越谷駅 - 東武動物公園駅も通過運転を実施するなど、現行の準急との優劣が曖昧になっている。
一方で東上線では、池袋駅 - 成増駅間では上板橋駅のみ停車、成増駅より郊外側では各駅に停車することによって、郊外において各駅停車を補完する列車として存在する。
小田急電鉄小田原線の準急は、2018年3月16日までは登戸駅を境に、上りでは急行と同じ停車駅で運行し、下りでは各駅に停車する、区間急行的な種別として設定されていた(2018年3月17日以降は、急行通過駅の千歳船橋駅・祖師ヶ谷大蔵駅・狛江駅が停車駅に追加されている)。上り方面行き(東京メトロ千代田線および常磐緩行線直通と2018年3月16日までの新宿駅行き)に関しては、登戸駅以西の駅(新百合ヶ丘駅、町田駅など)では「登戸まで各駅に停まります」とアナウンスされるが、実質、登戸駅の1つ前である向ヶ丘遊園駅から急行運転とみなされており、同駅からの複々線区間では原則として、2018年3月16日までは急行線、2018年3月17日からは緩行線を走行するが通過運転を行う(反対に、下り方面では登戸駅から各駅停車同様のアナウンスに切り替わる)。2014年のダイヤ改正から2018年3月16日までは、多摩線(新百合ヶ丘駅 - 唐木田駅)でも平日朝の下り(新宿駅発、唐木田駅行き)1本のみ運行されていた。
東急電鉄田園都市線の準急は一般的な私鉄の準急とは異なり、郊外側の長津田駅 - 中央林間駅間が各駅に停車する他に都市側の渋谷駅 - 二子玉川駅間(および直通運転している東京メトロ半蔵門線内)でも各駅に停車する。2019年までは都市側のみ各駅に停車していた。これは2007年に平日朝ラッシュ時上りのみに運行することを目的として新たに設定された種別であり、朝ラッシュ時の上り線の二子玉川駅 - 渋谷駅間において、各駅停車の乗客が途中の桜新町駅における急行の通過待ちを嫌って急行電車に殺到することにより混雑率の増大ならびに列車遅延が発生していたことを踏まえ、この区間を各駅に停車させこの通過待ちをなくすことで混雑率の均等化を図り、路線全体の遅延を抑制するためであった。
阪急電鉄の準急はいずれも、現在は一般的な私鉄の準急と同様に郊外側で各駅に停車する。しかし、京都本線で2001年まで運転されていた茨木市駅発(土曜日は高槻市駅発)梅田駅行き準急は東急電鉄田園都市線の準急とほぼ同様に、郊外側の高槻市駅 - 淡路駅では急行(現・準特急)と同じ停車駅で運行し、都市側の淡路駅 - 梅田駅では各駅に停車していた。
阪神電気鉄道では、阪神なんば線において、直通先の近鉄奈良線で準急として運転される列車が線内でも準急として運転されているが、自社線内は各駅に停車する。2009年3月19日までは、本線で通過駅のある種別として運行されていた。本線での準急は、ラッシュ時に各駅停車用車両が不足することと、一部の駅のホームの有効長が4両分しかないなどの事情から「主にラッシュ時に運転される、6両編成の急行用車両を用いて普通を補完するための列車」という位置づけであった。前述のホーム有効長の問題と高加減速性能を有する各駅停車用車両を使用した普通列車との性能差を調整するためにごく一部の駅を通過扱いにしているだけで、2駅連続して通過する区間が皆無であった。
名古屋鉄道では路線ごとに性格が異なる。犬山線と瀬戸線のものは、他社でよく見られるような、都市部では急行停車駅に停車して郊外では各駅に停車、というようなパターンである。そのほかの路線については、名古屋本線では8駅、常滑線では2駅、急行よりも停車駅が多くなっている。また、豊川線・河和線・空港線・津島線(上りにのみ設定)・尾西線(佐屋駅 - 須ヶ口駅間の上りにのみ設定)においても準急が設定されているが、これらの路線内での停車駅は急行と同一である。
1990年から2005年までは瀬戸線以外では準急の設定がなかった。
京阪電気鉄道では他の私鉄の一般的な種別立てと異なり、急行より下位、区間急行より上位という位置づけとなっている。そのためか、他の私鉄で準急に使われている英語名「Semi-exp.」は区間急行に割り当てられ、準急には一般に区間急行で使われる「Sub-exp.」の英語名が割り当てられている。
準急の派生種別として通勤種別の通勤準急や、準急よりもさらに通過駅が少なく各駅停車区間が長い区間準急がある。このほか、過去には快速準急、準急A、準急Bなどといった派生種別を用いた鉄道事業者が存在した。
小田急電鉄が1964年から1972年まで小田原線に設定していた種別で、同線の準急を昼間時に速達化する目的で運行されていたものである。
東武鉄道と北陸鉄道がかつて停車駅別に準急を区別する際に用いていた種別である。東武鉄道では伊勢崎線、北陸鉄道では石川線にそれぞれ設定されていた。
東武鉄道では伊勢崎線の準急Aは日中の伊勢崎発着のみ設定されていたが、準急Bは東武日光線直通列車を含め全時間に設定され、複々線を擁する北千住駅 - 北越谷駅間では急行線の基礎列車の役割も果たしていた。なお、東武時刻表の当該路線のページには単に準急と記載され、準急の種類は分別していなかった。
北陸鉄道では曽谷駅を通過する準急を準急A、同駅に停車する準急を準急Bとしていた。準急Aと準急Bが30分間隔で毎時各1本ずつ設定され、昼間帯は準急Aが全区間、準急Bが野町駅 - 鶴来駅間の区間運転となっていたが、1995年(平成7年)3月30日のダイヤ改正で準急に統一され消滅した。
西日本鉄道では準急に相当する列車種別として准急(じゅんきゅう)という列車種別が存在した。同社では1958年4月1日に准急が廃止されるまで一貫して「准」表記を使用しており、「“準”急」が設定されたことはない。
日本国外の列車は日本の列車種別を明確に当てはめることは難しいが、台湾の台湾鉄路管理局における座席指定優等列車である復興号は日本国有鉄道(国鉄)の準急列車に相当する列車種別として扱われることがある。ただし運賃制度上は座席指定の有無以外は区間車・区間快車と同格であるため、全席指定の快速列車に相当する場合もある。
路線バスにおいては下記の会社・路線にて運行されている。
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "東急電鉄田園都市線の準急は一般的な私鉄の準急とは異なり、郊外側の長津田駅 - 中央林間駅間が各駅に停車する他に都市側の渋谷駅 - 二子玉川駅間(および直通運転している東京メトロ半蔵門線内)でも各駅に停車する。2019年までは都市側のみ各駅に停車していた。これは2007年に平日朝ラッシュ時上りのみに運行することを目的として新たに設定された種別であり、朝ラッシュ時の上り線の二子玉川駅 - 渋谷駅間において、各駅停車の乗客が途中の桜新町駅における急行の通過待ちを嫌って急行電車に殺到することにより混雑率の増大ならびに列車遅延が発生していたことを踏まえ、この区間を各駅に停車させこの通過待ちをなくすことで混雑率の均等化を図り、路線全体の遅延を抑制するためであった。",
"title": "私鉄・地下鉄"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "阪急電鉄の準急はいずれも、現在は一般的な私鉄の準急と同様に郊外側で各駅に停車する。しかし、京都本線で2001年まで運転されていた茨木市駅発(土曜日は高槻市駅発)梅田駅行き準急は東急電鉄田園都市線の準急とほぼ同様に、郊外側の高槻市駅 - 淡路駅では急行(現・準特急)と同じ停車駅で運行し、都市側の淡路駅 - 梅田駅では各駅に停車していた。",
"title": "私鉄・地下鉄"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "阪神電気鉄道では、阪神なんば線において、直通先の近鉄奈良線で準急として運転される列車が線内でも準急として運転されているが、自社線内は各駅に停車する。2009年3月19日までは、本線で通過駅のある種別として運行されていた。本線での準急は、ラッシュ時に各駅停車用車両が不足することと、一部の駅のホームの有効長が4両分しかないなどの事情から「主にラッシュ時に運転される、6両編成の急行用車両を用いて普通を補完するための列車」という位置づけであった。前述のホーム有効長の問題と高加減速性能を有する各駅停車用車両を使用した普通列車との性能差を調整するためにごく一部の駅を通過扱いにしているだけで、2駅連続して通過する区間が皆無であった。",
"title": "私鉄・地下鉄"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "名古屋鉄道では路線ごとに性格が異なる。犬山線と瀬戸線のものは、他社でよく見られるような、都市部では急行停車駅に停車して郊外では各駅に停車、というようなパターンである。そのほかの路線については、名古屋本線では8駅、常滑線では2駅、急行よりも停車駅が多くなっている。また、豊川線・河和線・空港線・津島線(上りにのみ設定)・尾西線(佐屋駅 - 須ヶ口駅間の上りにのみ設定)においても準急が設定されているが、これらの路線内での停車駅は急行と同一である。",
"title": "私鉄・地下鉄"
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"text": "1990年から2005年までは瀬戸線以外では準急の設定がなかった。",
"title": "私鉄・地下鉄"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "京阪電気鉄道では他の私鉄の一般的な種別立てと異なり、急行より下位、区間急行より上位という位置づけとなっている。そのためか、他の私鉄で準急に使われている英語名「Semi-exp.」は区間急行に割り当てられ、準急には一般に区間急行で使われる「Sub-exp.」の英語名が割り当てられている。",
"title": "私鉄・地下鉄"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "準急の派生種別として通勤種別の通勤準急や、準急よりもさらに通過駅が少なく各駅停車区間が長い区間準急がある。このほか、過去には快速準急、準急A、準急Bなどといった派生種別を用いた鉄道事業者が存在した。",
"title": "私鉄・地下鉄"
},
{
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"text": "小田急電鉄が1964年から1972年まで小田原線に設定していた種別で、同線の準急を昼間時に速達化する目的で運行されていたものである。",
"title": "私鉄・地下鉄"
},
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"text": "東武鉄道と北陸鉄道がかつて停車駅別に準急を区別する際に用いていた種別である。東武鉄道では伊勢崎線、北陸鉄道では石川線にそれぞれ設定されていた。",
"title": "私鉄・地下鉄"
},
{
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"text": "東武鉄道では伊勢崎線の準急Aは日中の伊勢崎発着のみ設定されていたが、準急Bは東武日光線直通列車を含め全時間に設定され、複々線を擁する北千住駅 - 北越谷駅間では急行線の基礎列車の役割も果たしていた。なお、東武時刻表の当該路線のページには単に準急と記載され、準急の種類は分別していなかった。",
"title": "私鉄・地下鉄"
},
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"text": "北陸鉄道では曽谷駅を通過する準急を準急A、同駅に停車する準急を準急Bとしていた。準急Aと準急Bが30分間隔で毎時各1本ずつ設定され、昼間帯は準急Aが全区間、準急Bが野町駅 - 鶴来駅間の区間運転となっていたが、1995年(平成7年)3月30日のダイヤ改正で準急に統一され消滅した。",
"title": "私鉄・地下鉄"
},
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "西日本鉄道では準急に相当する列車種別として准急(じゅんきゅう)という列車種別が存在した。同社では1958年4月1日に准急が廃止されるまで一貫して「准」表記を使用しており、「“準”急」が設定されたことはない。",
"title": "准急"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日本国外の列車は日本の列車種別を明確に当てはめることは難しいが、台湾の台湾鉄路管理局における座席指定優等列車である復興号は日本国有鉄道(国鉄)の準急列車に相当する列車種別として扱われることがある。ただし運賃制度上は座席指定の有無以外は区間車・区間快車と同格であるため、全席指定の快速列車に相当する場合もある。",
"title": "日本国外の同種列車"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "路線バスにおいては下記の会社・路線にて運行されている。",
"title": "路線バスにおける準急"
}
] |
準急列車(じゅんきゅうれっしゃ)は、停車駅が急行列車より多く普通列車より少ない列車のこと。列車種別の一種。準急行列車(じゅんきゅうこうれっしゃ)ともいい、略して準急(じゅんきゅう)という。 通常英訳には「Semi Express」および、略語「Semi-Exp.」が当てられるが、事業者によっては「LOCAL EXP」など異なる表記もされる。 本項では、以下ともに総括して詳述する。 かつて日本国有鉄道(国鉄)で運行されていた、優等列車(長距離列車)としての準急列車
国鉄線内は準急、私鉄線内は特急として運行されていた「特別準急」
かつて阪和線で運転されていた国鉄の「準急電車」
現在私鉄で運行されている、料金不要の優等列車としての準急
鉄道以外の準急
|
{{複数の問題
|正確性=2016年4月
|独自研究=2016年4月
|言葉を濁さない=2016年4月}}
[[ファイル:Kiha55 Kinokuni.jpg|thumb|250px|right|[[国鉄キハ55系気動車|国鉄キハ55系]]による準急「きのくに」(1960年頃)]]
'''準急列車'''(じゅんきゅうれっしゃ)は、停車駅が[[急行列車]]より多く[[普通列車]]より少ない列車のこと。[[列車種別]]の一種。'''準急行列車'''(じゅんきゅうこうれっしゃ)ともいい、略して'''準急'''(じゅんきゅう)という。
通常英訳には「{{lang|en|Semi Express}}」および、略語「{{lang|en|Semi-Exp.}}」が当てられるが、事業者によっては「{{lang|en|LOCAL EXP}}」など異なる表記もされる。
本項では、以下ともに総括して詳述する。
*かつて[[日本国有鉄道]](国鉄)で運行されていた、[[優等列車]]([[長距離列車]])としての準急列車
*国鉄線内は準急、私鉄線内は特急として運行されていた「特別準急」
*かつて[[阪和線]]で運転されていた国鉄の「準急電車」
*現在私鉄で運行されている、料金不要の優等列車{{refnest|group="注釈"|私鉄の場合、普通列車は基本的に各駅停車する列車として案内されていることがほとんどであるため、優等列車は料金徴収の有無を問わず速達列車として解釈されているが、国鉄・JR同様に優等列車は運賃のほかに料金を徴収する列車として解釈され、必ずしも全ての速達列車が優等列車とは言い切れない部分もあり、料金不要列車には速達列車であっても優等列車という表現を用いない事業者もある([[優等列車#私鉄]]も参照)。}}としての準急
*鉄道以外の準急
== 日本国有鉄道 ==
[[日本国有鉄道|国鉄]]では戦前と戦後の一時期に'''準急列車'''が設定されていた。
戦前の列車は運賃のみで乗車できたのに対し、戦後のものは準急料金が徴収されるなど、その性質が異なる。
=== 戦前の準急列車 ===
[[1926年]](大正15年)9月に[[東海道本線]]の[[東京駅]] - [[名古屋駅]]、名古屋駅 - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間に設定された列車が「準急」を名乗ったのが始まりである。この当時は比較的長距離を、運賃以外の料金が不要で[[急行列車]]よりやや劣る速度で走る、現在の[[快速列車]]に相当するサービス的列車であった<ref>JTBパブリッシング 岡田誠一『キャンブックス 国鉄準急列車物語』p.7</ref>。したがって、「準急」は現在の快速列車の当時の呼称ともいえ、一部の地域では同様の列車が既に「快速列車」「快速度列車」とも呼ばれていたとされる。
その後は長 - 短距離で同種の列車が設定された。戦前の黄金期といえる[[1934年]](昭和9年)12月の改正当時の特徴的な列車としては、次のようなものが挙げられる。
* '''221・224列車''' (東海道本線)東京駅 - [[沼津駅]]間運転。
** 箱根・伊豆方面の観光客向けの列車で、[[小田急小田原線|小田急線]]などと競合するためか、同区間においては急行列車よりも速く、[[特別急行列車|特急列車]]並みの速度で走った([[踊り子 (列車)#踊り子|特急「踊り子」の歴史]]も参照)。
* '''442・447列車''' ([[山陽本線]]、東海道本線、[[草津線]]、[[関西本線]]、[[参宮線]]経由)[[姫路駅]] - [[鳥羽駅]]間運転。
** [[近畿地方|関西圏]]から[[伊勢神宮]]参拝へ向かう人のための列車で、[[1931年]](昭和6年)に開業した[[参宮急行電鉄]](参急、現在の[[近畿日本鉄道|近鉄]])と競合するため速度も速く(東海道本線内では超特急「[[東海道本線優等列車沿革|燕]]」並みの速度で運転)、簡易の[[食堂車]]も連結されていた([[近鉄特急史#大阪・京都 - 伊勢間(草津経由)|近鉄と競合する国鉄・JR線の優等列車]]も参照)。
* '''801・802列車''' ([[東北本線]]、[[日光線]]・冬季運休)[[上野駅]] - [[日光駅]]間運転。
** 国際観光地日光への列車。[[東武鉄道]][[東武日光線|日光線]]と競合するため高速運転を行い(東北本線内では急行列車より速い速度で運転)、上野駅 - 日光駅間を2時間半で結んだ。食堂車も連結した([[日光 (列車)#国鉄・JR東日本日光線優等列車沿革|国鉄・JR日光線の優等列車]]も参照)。
* '''101・102列車''' (東北本線)上野駅 - [[青森駅]]間運転。
** 北海道連絡の一翼を担う列車で、[[A寝台|二等寝台車]]・食堂車を連結。
翌[[1935年]](昭和10年)12月には、関西本線の湊町駅(現・[[JR難波駅]]) - 名古屋駅間を3時間1分で結ぶ列車も設定されている。<!-- 距離が15 kmほど短かったとはいえ、当時名古屋駅 - [[大阪駅]]間は急行列車が3時間半から4時間、特急「[[富士 (列車)|富士]]」が2時間50分、「[[つばめ (列車)|燕]]」でも2時間38分を要していたから、[[複線]]の東海道本線に対し[[単線]]の[[関西本線]]でこのような列車を運転していたとは驚異といえるだろう([[近鉄特急史#大阪 - 名古屋間|近鉄と競合する国鉄・JR線の優等列車]]も参照)。:ただの感想 -->なお急行「[[かすが (列車)|かすが]]」が[[2006年]]の廃止直前時点で名古屋駅 - 奈良駅間を約2時間10分で結んでいたが、天王寺駅方面から奈良駅までを走る快速の所要時間を加味すると、70年前の当時とほとんど変わりがない。
さらに鉄道省では、[[関東大震災]]や[[昭和金融恐慌]]・[[世界恐慌]]などの影響を受けて日本が深刻な不況に陥り、それを受けて利用客の減少に悩まされていたことから、イメージアップと呼び込みを兼ねてシーズンになると観光地へ向けて臨時の準急列車をいくつも走らせた<ref>JTBパブリッシング 岡田誠一『キャンブックス 国鉄準急列車物語』p.8</ref>。その中には、当時正式には特急列車にしか付けられていなかった[[列車愛称]]を地方局独自でつけていたものもあった。代表的なものに下記がある。
* '''[[さざなみ (列車)|漣]](さざなみ)・[[わかしお (列車)|潮]](うしお)''' (前者は房総西線…後の[[内房線]]、後者は房総東線…後の[[外房線]]経由・夏季運行)[[両国駅]] - [[安房鴨川駅]]間等で運転。
** 東京から[[房総半島]]へ向かう[[海水浴]]客向けの列車で、繁忙期にはどちらも日4 - 5往復が設定された。
* '''[[ホリデー快速富士山|高嶺]](たかね)''' ([[中央本線]]、[[富士急行線|富士山麓電鉄大月線]]・夏季運行)[[新宿駅]] - 富士吉田駅(現、[[富士山駅]])間運転。
** [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]等の[[登山]]客向けの列車で、富士山麓電鉄(現・[[富士急行]])へ乗り入れて最繁忙期には日に4本程度が設定された。
* '''[[黒潮号]](くろしおごう)''' ([[南海本線]]、[[阪和電気鉄道#保有路線|阪和電鉄本線]]…後の[[阪和線]]、紀勢西線…後の[[紀勢本線]]・下り土曜、上り日曜運行)[[難波駅 (南海)|難波駅]]・阪和天王寺駅(現、[[天王寺駅]]) - 白浜口駅(現、[[白浜駅]])間運転。
** 関西から[[南紀白浜温泉]]へ湯浴みをしに行く客のための列車で、[[大阪市|大阪]] - [[和歌山市|和歌山]]間で競合路線を有していた南海鉄道(現、[[南海電気鉄道]])と[[阪和電気鉄道]](JR阪和線の当時の運営会社)の両私鉄へそれぞれ国鉄の客車が乗り入れ、東和歌山駅(現・[[和歌山駅]])で両社からの車両を併結・分割する形で運行した。
しかしこれらの列車は、[[1937年]](昭和12年)の[[日中戦争]]開戦後、戦時体制が強まるにつれて同年12月15日に廃止された。
=== 戦後の準急列車 ===
戦後[[1946年]](昭和21年)11月、上野駅 - [[金沢駅]]間と上野駅 - [[秋田駅]]間に再び「準急」と名乗る列車が登場した。「急行」として運転するには設備・車両が不十分であるという理由から設定され、この時から「準急料金」というものが定められて「[[優等列車]]」となった。しかし当時は運転事情が安定せず、翌[[1947年]](昭和22年)の1月から6月にかけて石炭・車両事情の悪化から一時消滅し、6月から再び[[中央本線]]、[[日豊本線]]、[[山陰本線]]、[[予讃線|予讃本線]]、[[土讃線|土讃本線]]などに設定されている<ref>JTBパブリッシング 岡田誠一『キャンブックス 国鉄準急列車物語』p.9</ref>。
その後は比較的近距離(300km未満)の区間に設定され、急行列車の補助としての役割を果たしていくが、昭和30年代には次のような急行を凌ぐ列車も設定されている。
* '''[[かすが (列車)|かすが]]''' (関西本線)名古屋駅 - 湊町駅間運転。
** [[1949年]](昭和24年)9月に関西本線には3往復の準急列車が設定されるが、その内1往復が[[1955年]](昭和30年)7月に'''日本初'''の'''[[気動車]]'''列車での運用となり、[[国鉄キハ10系気動車|キハ17系気動車]]の初の2台機関搭載車'''[[国鉄キハ10系気動車|キハ50]]'''形式2両とキハ17形式と'''[[国鉄キハ10系気動車|キロハ18]]'''形式各1両の4両編成による準急列車となる。翌年7月にはキハ17系の2機関搭載車の量産形式の'''[[国鉄キハ10系気動車|キハ51]]'''形式が入線し、キハ17形式とキロハ18形式の転入で、すべての'''準急列車が気動車'''に置き換わった。それにより余剰車となる'''[[国鉄キハ10系気動車|キハ50]]'''形式は沼津機関区に転属して、御殿場線での使用となる。[[1956年]](昭和31年)11月当時は、東海道本線の特急が名古屋駅 - 大阪駅間を2時間30分 - 35分、急行が3時間 - 3時間15分で走る中、2時間47分 - 3時間で走破していた。当時は[[近畿日本鉄道]](近鉄)も大阪線と名古屋線の軌間相違から[[伊勢中川駅]]での乗り換えを要したため、名阪間の輸送においては最も優位に立っていた。[[1958年]](昭和33年)11月に「かすが」と命名されている。[[1966年]](昭和41年)3月、急行列車に昇格([[近鉄特急史#関西本線|近鉄と競合する国鉄・JR線の優等列車]]も参照)。
* '''[[日光 (列車)#国鉄・JR東日本日光線優等列車沿革|日光]]''' (東北本線、日光線)上野駅 - 日光駅間運転。
** 1956年(昭和31年)10月に、戦前同様競争状態にあった東武鉄道との対抗馬として、[[客車]]列車と同水準の設備を持った[[国鉄キハ55系気動車|キハ55系気動車]]を使用し運転を開始する。当初、上野駅 - 日光駅間を2時間で結んだ。東武鉄道の優等列車の始発が[[浅草駅]]であるのに対し、国鉄は上野駅でアクセスのよさでは格段の差があり、運賃も安かったこともあって東武鉄道に大きな痛手を負わせる事に成功する。翌[[1957年]](昭和32年)10月には東京駅始発となり、利便が図られた。[[1959年]](昭和34年)9月に宇都宮 - 日光間が電化されたのに伴い、「日光」は特急列車並の設備を持った[[国鉄157系電車|157系電車]]に置き換えられた。1966年(昭和41年)3月、急行列車に格上げとなる([[日光 (列車)#国鉄・JR東日本日光線優等列車沿革|国鉄・JR日光線の優等列車]]も参照)。
* '''[[ひかり (列車)#九州急行・準急「ひかり」|ひかり]]''' ([[鹿児島本線]]、日豊本線、[[豊肥本線]])[[博多駅]]・[[門司港駅]] - [[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] - [[大分駅]] - [[熊本駅]]間運転。
** [[1958年]](昭和33年)4月、博多駅 - 小倉駅 - [[別府駅 (大分県)|別府駅]]間に気動車([[国鉄キハ55系気動車|キハ55形]])の[[臨時列車|臨時]]急行列車として設定。同年8月に運転区間を前述のように拡大した上、定期の準急列車となる。準急といっても気動車であるから、例えば小倉駅 - 大分駅間では「[[サンロクトオ|サン・ロク・トオ]]」と呼ばれた[[1961年]](昭和36年)10月改正当時、急行列車「[[彗星 (列車)|日向]]」・「[[富士 (列車)|高千穂]]」などが同区間を約2時間50分で運転していたのに対して、「ひかり」は2時間9分で走破し俊足を見せ付けた。[[1962年]](昭和37年)10月に急行に格上げとなる。この2年後、「ひかり」の愛称名も東海道新幹線の速達列車に使われることになり、「ひまわり」・「くさせんり」へ改称されることになる。
==== 急行の準急への格下げ ====
なお、[[急行列車]]の一部区間のみ「準急」として運行する事例が存在した。この場合の料金は、急行区間のみを利用する場合は[[急行券|急行料金]]を、準急区間のみを利用する場合は[[急行券|準急料金]]を、急行区間と準急区間を跨って利用する場合は全乗車区間の営業キロに対応する急行料金をそれぞれ徴収していた<ref>JTBパブリッシング 寺本光照『キャンブックス さよなら急行列車』p.76</ref>。
この初例としては、1949年に函館駅 - 釧路駅間で運行を開始した急行3・4列車であり、函館駅 - 札幌駅間は急行列車として運行し、札幌駅 - 釧路駅間は準急列車として運行していた。なお、この列車は1950年には全区間急行として運行されるようになり、1951年には列車愛称として「[[まりも (列車)|まりも]]」が付与された。
函館本線を運行した急行列車「あかしあ」は当初、函館駅 - 札幌駅間を運行する急行列車として設定されたが、運行区間を旭川駅まで延長した際に従来小樽駅 - 旭川駅間を運行していた準急列車「[[カムイ (列車)|石狩]]」のダイヤを踏襲する関係から小樽駅を境に函館駅 - 小樽駅間を急行列車、小樽駅 - 旭川駅間を準急列車の扱いとした。このため、函館駅 - 旭川駅間など小樽駅を通過して乗車する際には「[[急行券|急行・準急券]]」が発行された<ref>JTBパブリッシング 岡田誠一『キャンブックス 国鉄準急列車物語』p.142-143</ref>。
{{Main|ニセコライナー#函館本線(長万部 - 小樽間)間における優等列車の沿革}}
また、こうした施策は支線直通急行列車に用いられることが多かった。たとえば、中央本線で運行していた急行「天竜」は、中央本線内(新宿 - 辰野間)は急行、飯田線内(辰野 - 天竜峡間)は準急となっていた<ref>JTBパブリッシング 岡田誠一『キャンブックス 国鉄準急列車物語』p.104</ref>。また、急行「白馬」は、中央本線・篠ノ井線内(新宿 - 松本間)は急行、大糸線内(松本 - 信濃森上間)は準急となっていた<ref>日本交通公社『交通公社の時刻表』1964年10月号 中央本線・篠ノ井線及び大糸線のページを参照。</ref>。
{{Main|あずさ_(列車)#戦後の展開}}
==== 車両 ====
{{main|急行形車両}}
準急列車に運用される車両は[[旧型客車]]をはじめ、[[国鉄153系電車|153系電車]]、[[国鉄157系電車|157系電車]]、[[国鉄キハ55系気動車|キハ55系気動車]]をはじめとする準急形車両で運行されるのが基本であった。新性能電車や気動車は後に急行列車にも進出するようになったことから[[急行形車両]]と呼ばれるようになり、[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系気動車]]など、製造時から急行形と呼ばれた車両も充当されることがあった。中には[[国鉄キハ10系気動車|キハ10系気動車]]や[[国鉄キハ20系気動車|キハ20系気動車]]、[[国鉄80系電車|80系電車]]などの[[一般形車両 (鉄道)|一般形車両]]が使われることもあった。
=== 準急列車の廃止とその後 ===
1966年(昭和41年)3月に、準急行券の販売を[[営業キロ]]100kmまでに制限し、その額をその距離の急行料金と同額にした<ref>[[所澤秀樹]]『国鉄の基礎知識 敗戦から解体まで[昭和20年-昭和62年]』創元社、2011年、p.133</ref>{{Refnest|group="注釈"|それ以前は準急料金は距離にかかわらず一定、一方急行料金は300kmを境に2種類の料金が設定されており、300kmまでの急行料金でも準急料金より高額であった<ref>『コンパス時刻表』1965年10月号、弘済出版社、p.48</ref>。}}。また、準急行券での急行の利用(100km以下の利用)、急行券での準急の利用を、それぞれ可能とした。これにより100kmを超えて走行する準急はすべて急行列車となった。
そして、「[[ヨンサントオ|ヨン・サン・トオ]]改正」と称される[[1968年]](昭和43年)10月の[[ダイヤ改正]]で、残った準急列車も全て急行列車に統合され、これをもって国鉄の準急列車は消滅した。準急という列車種別は消滅したものの、かつての国鉄の準急列車の多くは、JRの特急列車のネットワークに形を変え、あるものは新幹線の各駅停車列車(「[[こだま (列車)|こだま]]」・「[[なすの (列車)|なすの]]」など)に形を変えて現在に引き継がれている。
[[国鉄分割民営化]]以後も、準急は急行料金が必要な種別であるため、JRグループにおいては準急の種別は全く使用されていない。
== 特別準急 ==
;列車種別としての特別準急
:かつて存在した列車種別として「特別準急」がある。これは、[[日本国有鉄道|国鉄]]乗り入れの際に[[#国鉄の「準急電車」|準急]]として運行されるが、自社線内は[[特別急行列車|特急]]扱いで運行された列車のことで、以下の会社・路線・列車で使用されていた。
*[[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]]:[[ふじさん|「銀嶺」(ぎんれい)・「芙蓉」(ふよう)・「朝霧」・「長尾」]]
;特別準急と同種の運行形態を取っていた列車
:なお、かつては[[名古屋鉄道]]や[[南海電気鉄道]]においても、国鉄に乗り入れて国鉄線内で準急列車として運転される有料の[[気動車]]列車が存在したが、そこでも自社線内では「特急」として運転された。ちなみに小田急とは異なり、自社線内では旅客案内上も名鉄では「座席指定特急」、南海では「特急」であった。
;列車種別以外での用法
[[File:157series05.JPG|thumb|200px|157系]]
:[[#日本国有鉄道|国鉄準急]]のうち、157系電車を使用したものがこのように称されたこともあった<ref>JTBパブリッシング [[寺本光照]]『キャンブックス 国鉄・JR 悲運の特急・急行列車50選』p.52</ref>。これについての詳細は[[国鉄157系電車]]の項を参照のこと。
== 国鉄の「準急電車」 ==
国鉄では、準急料金が不要である準急電車の設定も阪和線で実施していた時期もあった。
準急料金が必要な「準急'''列車'''」と区別するため、準急料金が不要な阪和線準急は「準急'''電車'''」と案内されていた。車両は現在の[[近郊形車両|近郊形電車]]や[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]に相当するものが使用されていた。現在の「区間快速」に相当する。詳細は[[阪和線]]を参照。
== 私鉄・地下鉄 ==
[[ファイル:Senboku7000・Nankai6200.jpg|thumb|right|200px|私鉄の「準急」の例([[南海電鉄|南海高野線]]において[[泉北高速鉄道]]の準急が各駅停車を追い抜く)]]
2022年現在、'''[[#top|準急]]'''という種別の列車は[[私鉄]]・[[地下鉄]]の一部で運行されている<ref group="注釈">[[南海電気鉄道]]・[[泉北高速鉄道]]では準急列車を表記上は「'''準急'''」、アナウンスでは「'''準急行'''」と使い分けている</ref>。また、「準急」の名がつく派生種別を運行している事業者もある。
扱いについては各事業者一様ではないが、多くの事業者に共通することは、料金不要の[[優等列車]]のうち、原則として通過運転を行う列車で最も停車駅の多い種別という扱いになっている<ref group="注釈">私鉄各社のホームページにある「停車駅案内」などで確認できる</ref>ことである。なお、優等列車として準急料金が必要な列車(いわゆる旧国鉄の準急に相当する列車)は2015年時点では[[津軽鉄道]]で毎年12月1日 - 3月31日に運行しているストーブ列車のみである<ref group="注釈">券としての正式名は「ストーブ列車券」。なお、2006年までは運賃のみで乗車することができた。</ref>。
私鉄では西日本の事業者に設定されることが多く、関西の大手私鉄では2022年現在、5社全てに準急列車が設定されている。関東の大手私鉄では準急は廃止・未設定の事業者が多く、2022年現在は5社のみの設定となる。
特急や一部の急行とは異なり、専用の車両を使用する事業者はなく{{refnest|group="注釈"|特急列車はその性質上、速達性と快適性が追求されるため、基本的に専用の車両が使用される<ref>PHP研究所 [[梅原淳]]『雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 特急列車のすべて』p.78</ref>。}}、基本的に一般車両(大手私鉄では通勤形車両)が使用される<ref group="注釈">特殊な例として[[名古屋鉄道]]では特急に使用される一部特別車編成が間合い運用として使用される。この場合特別車は締め切り。</ref>。なお、津軽鉄道で毎年12月1日 - 3月31日に運行されるストーブ列車には客車が使用される。
大半の私鉄の準急は、都市部では急行などの上位の速達種別<ref group="注釈">[[西武池袋線]]・[[阪急京都本線]]では快速</ref>と同じ(または少し多い)停車駅で運行し郊外では各駅に停車するという'''区間急行'''的な種別として設定されている。このほかには、全区間で通過運転をするが急行よりも停車駅の多い種別として<ref group="注釈">[[名古屋鉄道]](一部路線を除く)など</ref>設定される、区間急行とともに運転され、区間急行よりも通過運転区間が短い種別として設定されるなどの例がある。
=== 準急の運行形態の例 ===
==== 東武鉄道 ====
[[東武鉄道]]では、本線と東上線で性質がやや異なっている。
[[東武本線|本線]]では、[[東京メトロ半蔵門線]]直通列車の列車種別として主に朝ラッシュ時間帯で運転され、[[新越谷駅]]を境に都市側では急行と同じ停車駅で運行され、郊外側では各駅に停車して中距離利用者の速達性向上と輸送力確保としての立場となっている。本線には準急の派生種別である区間準急も運行されており、こちらは自社線内完結運用を原則として[[浅草駅]] - 北千住駅間も各駅に停車し、準急と同じ停車駅であっても北千住発着となる列車も区間準急として案内される。もともとは本線の中距離列車として、[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]、[[東武日光線|日光線]]、[[東武宇都宮線|宇都宮線]]の全線にわたって運行され、北千住駅 - [[東武動物公園駅]]間(一部は北千住駅 - [[太田駅 (群馬県)|太田駅]])間で通過運転をし、それ以外を各駅に停車する列車として存在し、本線の無料優等列車として最も長い歴史があった。同列車は2006年3月18日のダイヤ改正で区間急行に名称変更されたが、準急が通過運転をする曳舟駅 - 北千住駅間を各駅に停車する一方で、準急が各駅に止まる[[越谷駅]] - 東武動物公園駅も通過運転を実施するなど、現行の準急との優劣が曖昧になっている。
一方で[[東武東上本線|東上線]]では、[[池袋駅]] - [[成増駅]]間では[[上板橋駅]]のみ停車、成増駅より郊外側では各駅に停車することによって、郊外において各駅停車を補完する列車として存在する。
==== 小田急電鉄 ====
[[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]]の準急は、2018年3月16日までは[[登戸駅]]を境に、上りでは急行と同じ停車駅で運行し、下りでは各駅に停車する、区間急行的な種別として設定されていた(2018年3月17日以降は、急行通過駅の[[千歳船橋駅]]・[[祖師ヶ谷大蔵駅]]・[[狛江駅]]が停車駅に追加されている<ref name="oer20171101">{{Cite press release|和書|author=|date=2017-11-01|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8701_5820170_.pdf|title=2018年3月 新ダイヤ運行開始|publisher=[[小田急電鉄]]|language=日本語|accessdate=2018-03-21}}</ref>)。上り方面行き([[東京メトロ千代田線]]および[[常磐緩行線]]直通と2018年3月16日までの[[新宿駅]]行き)に関しては、登戸駅以西の駅([[新百合ヶ丘駅]]、[[町田駅]]など)では「登戸まで各駅に停まります」とアナウンスされるが、実質、登戸駅の1つ前である[[向ヶ丘遊園駅]]から急行運転とみなされており<ref group="注釈">実際、向ヶ丘遊園駅到着直前の段階で、「この電車は準急○○行きです」とアナウンスされる。</ref>、同駅からの複々線区間では原則として、2018年3月16日までは急行線、2018年3月17日からは緩行線を走行するが通過運転を行う(反対に、下り方面では登戸駅から各駅停車同様のアナウンスに切り替わる)。[[2014年]]の[[ダイヤ改正]]から2018年3月16日までは、[[小田急多摩線|多摩線]](新百合ヶ丘駅 - [[唐木田駅]])でも平日朝の下り(新宿駅発、唐木田駅行き)1本のみ運行されていた。
==== 東急電鉄 ====
[[東急電鉄]][[東急田園都市線|田園都市線]]の準急は一般的な私鉄の準急とは異なり、郊外側の[[長津田駅]] - [[中央林間駅]]間が各駅に停車する他に都市側の[[渋谷駅]] - 二子玉川駅間(および直通運転している[[東京メトロ半蔵門線]]内)でも各駅に停車する。2019年までは都市側のみ各駅に停車していた<ref group="注釈">2019年10月のダイヤ改正以降、郊外側(長津田駅 - 中央林間駅間)でも各駅に停車するようになった。</ref>。これは2007年に平日朝ラッシュ時上りのみに運行することを目的として新たに設定された種別であり、<ref group="注釈">2014年のダイヤ改正以降、日中などでも運行されるようになった。</ref>朝ラッシュ時の上り線の二子玉川駅 - 渋谷駅間において、各駅停車の乗客が途中の[[桜新町駅]]における急行の通過待ちを嫌って急行電車に殺到することにより混雑率の増大ならびに列車遅延が発生していたことを踏まえ、この区間を各駅に停車させこの通過待ちをなくすことで混雑率の均等化を図り、路線全体の遅延を抑制するためであった<ref> [http://www.tokyu.co.jp/railway/hot/0703/densya01.html 朝ラッシュ時(渋谷着8時台)、田園都市線上り急行を「準急」にします]東京急行電鉄、2007年3月。</ref>。
==== 阪急電鉄 ====
[[阪急電鉄]]の準急はいずれも、現在は一般的な私鉄の準急と同様に郊外側で各駅に停車する。しかし、[[阪急京都本線|京都本線]]で2001年まで運転されていた茨木市駅発(土曜日は高槻市駅発)梅田駅行き準急は[[東急電鉄]][[東急田園都市線|田園都市線]]の準急とほぼ同様に、郊外側の高槻市駅 - 淡路駅では急行(現・準特急)と同じ停車駅で運行し、都市側の淡路駅 - 梅田駅では各駅に停車していた<ref group="注釈">ただし中津駅は京都線にホームがないので通過。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankyu.co.jp/rail/image/kyoto_keito.jpg |title=京都線路線図 |access-date=2023-10-8 |publisher=阪急電鉄 |archive-date=1997-07-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/19970723194046/http://www.hankyu.co.jp/rail/image/kyoto_keito.jpg}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankyu.co.jp/hankyu/news/191010202100136.html |title=京都線のダイヤ改正を実施いたします |access-date=2023-10-8 |publisher=阪急電鉄 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010821203523/http://www.hankyu.co.jp/hankyu/news/191010202100136.html |archive-date=2001-08-21}}</ref>。
==== 阪神電気鉄道 ====
[[阪神電気鉄道]]では、[[阪神なんば線]]において、直通先の[[近鉄奈良線]]で準急として運転される列車が線内でも準急として運転されているが、自社線内は各駅に停車する<ref>[http://rail.hanshin.co.jp/station/ 阪神電気鉄道 停車駅案内](種別をクリックすると確認できる)</ref>。[[2009年]][[3月19日]]までは、[[阪神本線|本線]]で通過駅のある種別として運行されていた<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20090116-2.pdf 平成21年1月16日 阪神電気鉄道株式会社 プレスリリース]}}</ref>。本線での準急は、ラッシュ時に[[ジェットカー|各駅停車用車両]]が不足することと、一部の駅のホームの有効長が4両分しかないなどの事情から「主にラッシュ時に運転される、6両編成の[[赤胴車|急行用車両]]を用いて普通を補完するための列車」という位置づけであった。前述のホーム有効長の問題と高加減速性能を有する各駅停車用車両を使用した普通列車との性能差を調整するためにごく一部の駅を通過扱いにしているだけで、2駅連続して通過する区間が皆無であった<ref group="注釈">尼崎発甲子園行で途中通過駅が1駅([[尼崎センタープール前駅]])だけという列車も存在した。</ref>。
==== 名古屋鉄道 ====
[[名古屋鉄道]]では路線ごとに性格が異なる。犬山線と瀬戸線のものは、他社でよく見られるような、都市部では急行停車駅に停車して郊外では各駅に停車、というようなパターンである。そのほかの路線については、名古屋本線では8駅、常滑線では2駅、急行よりも停車駅が多くなっている。また、豊川線・河和線・空港線・津島線(上りにのみ設定)・尾西線(佐屋駅 - 須ヶ口駅間の上りにのみ設定)においても準急が設定されているが、これらの路線内での停車駅は急行と同一である<ref name="MT26-3"> {{Cite book|和書||year=2011|title=名鉄時刻表 Vol.26 2011.12.17号|publisher=名古屋鉄道|page=③頁(丸3頁)<!--p.3ではない-->}}</ref>。
1990年から2005年までは瀬戸線以外では準急の設定がなかった。
==== 京阪電気鉄道 ====
[[京阪電気鉄道]]では他の私鉄の一般的な種別立てと異なり、急行より下位、区間急行より上位という位置づけとなっている<ref>{{PDFlink| [http://www.keihan.co.jp/traffic/station/pdf/rosenzu_20110528.pdf 停車駅案内]}} - 京阪電気鉄道</ref>。そのためか、他の私鉄で準急に使われている英語名「{{lang|en|Semi-exp.}}」は区間急行に割り当てられ、準急には一般に区間急行で使われる「{{lang|en|Sub-exp.}}」の英語名が割り当てられている。
=== 列車一覧 ===
{{単一の出典|section=1|date=2019年3月}}
*表中の「派生種別」については準急の派生に限る。特急・急行など他の派生種別は各項を参照。
*地下鉄については別枠でまとめた。
*「<sup>×</sup>」表記のものはかつて運行されていた運行会社・路線および派生種別。
*表中の「廃止日」は、原則として当該列車が設定されなくなった[[ダイヤ改正]]日を示すが、一部は運行された最終日を記載しているものもある。<!--[[ノート:急行列車]]で記載しているように、現状は混在している状況にありますので、今後の統一も目指して記載します。-->
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|北海道・東北地方
!rowspan="2"|運行事業者
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|<sup>×</sup>[[じょうてつ|定山渓鉄道]]
|<sup>×</sup>[[定山渓鉄道線]]
|
|
|1964年10月1日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 1号 北海道―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900357|pages=56-57}}</ref>
|-
|[[津軽鉄道]]
|[[津軽鉄道線]]
|
|
|
|-
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|関東地方
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行事業者
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:5.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|<sup>×</sup>[[上信電鉄]]
|<sup>×</sup>[[上信電鉄上信線|上信線]]
|
|
|1996年10月1日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=寺田裕一|year =2004|title = ローカル私鉄 列車ダイヤ25年 東日本編|publisher =JTB|isbn =978-4533054846|page=127}}</ref>
|-
|<sup>×</sup>[[秩父鉄道]]
|<sup>×</sup>[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]
|
|
|1990年代まで運行
|-
|rowspan=2|[[西武鉄道]]
|[[西武新宿線|新宿線]]
|[[西武拝島線|拝島線]]
|
|
|-
|[[西武池袋線|池袋線]]
|[[西武有楽町線]]<br />[[西武狭山線|狭山線]]<br /><sup>×</sup>[[西武秩父線]]
|通勤準急<br /><sup>×</sup>区間準急
|
|-
|rowspan=2|[[東武鉄道]]
|[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]
|[[東武日光線|日光線]]<br /><sup>×</sup>[[東武宇都宮線|宇都宮線]]
|区間準急<br /><sup>×</sup>準急A<br /><sup>×</sup>準急B
|現在の準急は2006年3月18日に従来の半蔵門線直通タイプの区間準急を名称変更し設定されたものであり、2006年3月17日以前は現在の区間急行が準急を名乗っていた。
|-
|[[東武東上本線|東上本線]]
|
|
|
|-
|<sup>×</sup>[[京成電鉄]]
|<sup>×</sup>[[京成本線|本線]]<br /><sup>×</sup>[[京成押上線|押上線]]
|
|<sup>×</sup>通勤準急
|1968年11月9日廃止<ref name="SHIN-5_p52">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=52}}</ref>
|-
|<sup>×</sup>[[京王電鉄]]
|<sup>×</sup>[[京王線#準急|京王線]]
|
|<sup>×</sup>通勤準急
|1963年10月1日廃止<ref name="SHIN-5_p42">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=42}}</ref>
|-
|[[東急電鉄]]
|[[東急田園都市線|田園都市線]]
|
|
|
|-
|<sup>×</sup>[[京急電鉄]]
|<sup>×</sup>[[京急本線|本線]]
|
|
|1954年7月6日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=33}}</ref>
|-
|<sup>×</sup>[[相模鉄道]]
|<sup>×</sup>[[相鉄本線|本線]]
|
|
|小田急線[[本厚木駅]]まで乗入れ。1964年11月5日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=36}}</ref>。
|-
|[[小田急電鉄]]
|[[小田急小田原線|小田原線]]
|<sup>×</sup>[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]<br /><sup>×</sup>[[小田急多摩線|多摩線]]
|<sup>×</sup>特別準急<br /><sup>×</sup>快速準急<br />通勤準急<br /><sup>×</sup>桜準急<br /><sup>×</sup>区間準急
|江ノ島線の準急は2002年3月22日廃止<br />多摩線の準急は2018年3月16日廃止<ref name="oer20171101"/>
|-
|<sup>×</sup>[[箱根登山鉄道]]
|
|<sup>×</sup>[[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]]
|
|2008年3月廃止<ref>交通新聞社『2006 小田急時刻表』</ref>
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|東海地方
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行事業者
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:5.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|rowspan=2|[[名古屋鉄道]]
|[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄竹鼻線|竹鼻線]]<br />[[名鉄犬山線|犬山線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄一宮線|一宮線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄広見線|広見線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄八百津線|八百津線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄各務原線|各務原線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄小牧線|小牧線]]<br />[[名鉄常滑線|常滑線]]<br />[[名鉄河和線|河和線]]<br />[[名鉄津島線|津島線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄西尾線|西尾線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄蒲郡線|蒲郡線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄三河線|三河線]]
|[[名鉄豊川線|豊川線]]<br />[[名鉄空港線|空港線]]<br />[[名鉄尾西線|尾西線]]
|
|一宮線の準急は1959年4月1日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 7号 東海―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900418|page=53}}</ref><br />竹鼻線の準急は1970年12月25日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=徳田耕一|year=2015|title=名鉄 昭和のスーパーロマンスカー|publisher=JTBパブリッシング|ISBN=978-4533106392|page=60}}</ref><br />三河線の準急は1971年12月27日改正から1974年9月17日改正までに廃止<ref name="romancecar-tokuda2015"/><ref>名古屋鉄道作成『三河線列車運行図表』1974年9月17日改正</ref><br />広見線の準急は1971年12月27日改正から1974年9月17日改正までに廃止<ref name="romancecar-tokuda2015">{{Cite book|和書|author=徳田耕一|year=2015|title=名鉄 昭和のスーパーロマンスカー|publisher=JTBパブリッシング|ISBN=978-4533106392|pages=70,82,88}}</ref><ref name="komaki-hiromi1974">名古屋鉄道作成『ラインパークモノレール線・八百津支線・小牧広見線列車運行図表』1974年9月17日改正</ref><br />蒲郡線の準急は1974年9月17日改正以降に廃止(<!--1968年5月12日時点では通過駅あり。停車駅は三河鳥羽・西幡豆・東幡豆・西浦・形原-->1974年9月17日時点では線内各駅停車<ref>名古屋鉄道作成『蒲郡西尾線列車運行図表』1974年9月17日改正</ref>)<ref name="romancecar-tokuda2015"/><br />小牧線の準急は1975年9月16日廃止<ref name="SHIN-7_p75"/><ref name="komaki-hiromi1974"/><!--1974年9月17日時点での停車駅は味鋺・味美・間内・小牧 - 犬山間各駅--><br />八百津線の準急は1977年3月20日廃止<ref name="SHIN-7_p75">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 7号 東海―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900418|page=75}}</ref><!--1974年9月17日現在では存在。線内停車駅は兼山のみ<ref name="komaki-hiromi1974"/>--><br />各務原線の準急は2011年3月26日廃止<br />西尾線の準急は2019年3月16日廃止<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2018/__icsFiles/afieldfile/2019/01/23/release190123_train.pdf|date=2019-01-23|accessdate= 2019-01-23|title=3月16日(土)に一部ダイヤ改正を実施します|publisher=名古屋鉄道|format=PDF}}</ref>
|-
|[[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]
|
|
|
|-
||[[近畿日本鉄道]]
|[[近鉄名古屋線|名古屋線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄山田線|山田線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄志摩線|志摩線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄湯の山線|湯の山線]]
|<sup>×</sup>[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]]
|
|志摩線の準急は1969年12月10日廃止<ref name="rp954-129">{{Cite journal|和書|author=寺本光照 |year=2018 |month=12 |title=近鉄の列車運転アラカルト |journal=鉄道ピクトリアル |issue=第954号(2018年12月臨時増刊号)|page=129 |publisher=電気車研究会}}</ref><br />湯の山線の準急は1971年12月8日廃止<ref name="rp954-129"/><br />山田線・鳥羽線・鈴鹿線の準急は1983年3月18日廃止<ref name="rp954-129"/><ref name="kinjikoku1982">{{Cite book|和書|author=近畿日本鉄道業務局営業企画部|year =1982|title = 近鉄時刻表1982年号|publisher =近畿日本鉄道|page=7}}</ref><ref name="kinjikoku1983">{{Cite book|和書|author=近畿日本鉄道業務局営業企画部|year =1983|title = 近鉄時刻表1983年春・夏号|publisher =近畿日本鉄道|page=7}}</ref><ref name="SHIN-10_p33"/><!--鉄道ピクトリアルには鈴鹿線のことが書かれていないため-->
|-
|<sup>×</sup>[[三重電気鉄道]]
|<sup>×</sup>湯の山線
|
|
|1964年3月23日から近畿日本鉄道合併まで運行、合併後も運行継続<ref name="rp954-141">{{Cite journal|和書|author=寺本光照 |year=2018 |month=12 |title=近鉄の列車運転アラカルト |journal=鉄道ピクトリアル |issue=第954号(2018年12月臨時増刊号)|page=141 |publisher=電気車研究会}}</ref>
|-
|<sup>×</sup>[[伊勢電気鉄道]]
|<sup>×</sup>本線
|
|
|参宮急行電鉄合併まで運行、合併後も運行継続<ref name="SHIN-10_p33">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=33}}</ref>
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|北陸地方
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行事業者
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:5.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|<sup>×</sup>[[新潟交通]]
|<sup>×</sup>[[新潟交通電車線|電車線]]
|
|
|1971年以降に廃止<ref name="SHIN-6_p57">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 6号 北信越―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900401|page=57}}</ref>
|-
|<sup>×</sup>[[越後交通]]
|<sup>×</sup>[[越後交通栃尾線|栃尾線]]
|
|
|1967年6月20日廃止<ref name="SHIN-6_p57"/>
|-
|<sup>×</sup>[[富山地方鉄道]]
|<sup>×</sup>[[富山地方鉄道本線|本線]]<ref name="SHIN-6_p57"/>
|
|
|1982年冬ダイヤまで存在した<ref>{{Cite journal|和書|author = 新関裕仁|title = 富山地方鉄道|date = 1986-03 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 461|page=149}}</ref>
|-
|rowspan=3|<sup>×</sup>[[北陸鉄道]]
|<sup>×</sup>[[北陸鉄道石川線|石川線]]
|
|<sup>×</sup>準急A<br /><sup>×</sup>準急B
|2006年11月30日廃止<ref name="SHIN-6_p56"/>
|-
|<sup>×</sup>[[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]
|
|
|1970年廃止<ref name="SHIN-6_p56"/>
|-
|<sup>×</sup>[[北陸鉄道山中線|山中線]]
|
|
|1969年廃止<ref name="SHIN-6_p56"/>
|-
|<sup>×</sup>[[福井鉄道]]
|<sup>×</sup>[[福井鉄道福武線|福武線]]<ref name="SHIN-6_p56">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 6号 北信越―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900401|page=56}}</ref>
|<sup>×</sup>[[福井鉄道鯖浦線|鯖浦線]]
|
|鯖浦線の準急は1972年廃止<ref name="SHIN-6_p56"/><br />福武線の準急は2004年10月1日廃止<!--左記出典には1971年以降とのみ記載-->
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|近畿地方
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行事業者
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:5.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|rowspan=4|[[近畿日本鉄道]]
|[[近鉄大阪線|大阪線]]
|<sup>×</sup>[[近鉄信貴線|信貴線]]
|区間準急
|信貴線の準急は1967年12月20日廃止<ref name="sharyohattatsu-ltdexp">{{Cite book|和書|title=車両発達史シリーズ2 近畿日本鉄道特急車|author=藤井信夫|date=1992-08-01|publisher=関西鉄道研究会|page=36}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.kintetsu.jp/news/files/20101203shigisanhukkatuunten.pdf |title= 大阪上本町 - 信貴山口間の臨時直通列車を復活運転!|accessdate= 2018-12-09|date=2010-12-03|archiveurl= https://web.archive.org/web/20111130092138/https://www.kintetsu.jp/news/files/20101203shigisanhukkatuunten.pdf|archivedate=2011-11-13|author=近畿日本鉄道|format=PDF}}</ref>
|-
|[[近鉄奈良線|奈良線]]
|[[近鉄難波線|難波線]]
|区間準急
|
|-
|[[近鉄京都線|京都線]]
|<sup>×</sup>[[近鉄橿原線|橿原線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄天理線|天理線]]
|
|橿原線・天理線の準急は1972年11月7日廃止<ref name="kansai-13-14">{{Cite_journal|和書||title=関西線と近鉄 列車運行の概史|author=中村卓之|date=1985-01|publisher=関西鉄道研究会|journal=関西の鉄道
|issue=13|page=14}}</ref>
|-
|[[近鉄南大阪線|南大阪線]]
|[[近鉄吉野線|吉野線]]<br />[[近鉄御所線|御所線]]<br />[[近鉄長野線|長野線]]
|
|
|
|-
| <sup>×</sup>[[奈良電気鉄道]]
|<sup>×</sup>奈良電気鉄道線
|
|
|近畿日本鉄道合併まで運行、合併後も運行継続<ref name="SHIN-10_p58">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=58}}</ref>
|-
|rowspan=2|[[南海電気鉄道]]
|[[南海本線]]
|
|
|
|-
|[[南海高野線|高野線]]
|
|
|rowspan=2|高野線・泉北高速鉄道線間で直通運転を行っており、泉北高速鉄道線内は各駅に停車する。
|-
|[[泉北高速鉄道]]
|
|[[泉北高速鉄道線]]
|
|-
|<sup>×</sup>[[阪和電気鉄道]]
|<sup>×</sup>[[阪和電気鉄道#駅一覧|本線]]
|
|
|1940年8月8日廃止<ref>竹田辰男 『阪和電気鉄道史』 鉄道資料保存会、1989年。ISBN 978-4885400612。200頁。</ref>
|-
|rowspan=2|[[京阪電気鉄道]]
|[[京阪本線]]
|[[京阪鴨東線|鴨東線]]<br />[[京阪中之島線|中之島線]]<br /><sup>×</sup>[[京阪交野線|交野線]]
|通勤準急
|交野線の準急は2008年10月19日廃止<ref>
{{Cite press release|和書|url=http://www.keihan.co.jp/news/kcompany/news/news03/2003-17.pdf|deadlinkdate = 2019-01-13|title=9月6日(土)京阪線のダイヤ改正を実施します|accessdate= 2019-01-13|date=2003-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030713071210/http://www.keihan.co.jp/news/kcompany/news/news03/2003-17.pdf|archivedate=2003-07-13|author=京阪電気鉄道|format=PDF}}</ref><ref name="keihan20181019">{{Cite press release|和書|url=http://www.keihan.co.jp/news/data_h20/2008-08-25.pdf|deadlinkdate = 2019-01-13|title=中之島線開業にあわせ10月19日(日)初発から、京阪線で新ダイヤを実施します|accessdate= 2019-01-13|date=2008-08-25|archiveurl= https://web.archive.org/web/20080911145755/http://www.keihan.co.jp/news/data_h20/2008-08-25.pdf|archivedate=2008-09-11|author=京阪電気鉄道|format=PDF}}</ref>
|-
|<sup>×</sup>[[京阪京津線|京津線]]
|<sup>×</sup>[[京阪石山坂本線|石山坂本線]]
|
|石山坂本線の準急は1981年1月9日<!--京阪線・石山坂本線の直通運転廃止時-->廃止<ref name="daijikoku198103-337">{{Cite journal|和書|date =1981-03|journal = 大時刻表|publisher =弘済出版社|issue = 215|page=337}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=京阪電気鉄道|title=『京阪百年のあゆみ』資料編|page=242}}</ref><br />京津線の準急は1997年10月12日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=48}}</ref>
|-
|rowspan=3|[[阪急電鉄]]
|[[阪急神戸本線|神戸本線]]<br />[[阪急今津線|今津線]]
|
|
|線形の都合上、特急停車駅である[[西宮北口駅]]を通過する。
|-
|[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]
|<sup>×</sup>[[阪急箕面線|箕面線]]
|<sup>×</sup>通勤準急
|箕面線の準急は2018年7月7日廃止
|-
| [[阪急京都本線|京都本線]]<br />[[阪急千里線|千里線]]<ref group="注釈">阪急千里線では堺筋線直通([[天神橋筋六丁目駅]] - [[淡路駅|淡路]])のみで運行されているが、[[日本万国博覧会]](大阪万博)開催期間中は梅田・堺筋線方面 - [[北千里駅]]間の直通も運行されていた。</ref>
|
|(堺筋準急)
|天神橋筋六丁目方面の千里線は便宜上「堺筋準急」と称する
|-
|[[阪神電気鉄道]]
|<sup>×</sup>[[阪神本線|本線]]
|[[阪神なんば線]]
|区間準急
|阪神なんば線の準急は近鉄奈良線内準急となる列車のみであり、自社線内は各駅に停車する。<br />本線の準急は2009年3月20日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=54}}</ref>。
|-
|[[神戸電鉄]]
|[[神戸電鉄有馬線|有馬線]]
|[[神戸電鉄三田線|三田線]]<br />[[神戸電鉄粟生線|粟生線]]<br />[[神戸電鉄神戸高速線|神戸高速線]]
|
|
|-
|<sup>×</sup>[[山陽電気鉄道]]
|<sup>×</sup>[[山陽電気鉄道本線|本線]]
|
|
|1943年3月4日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=55}}</ref>
|-
|<sup>×</sup>[[淡路鉄道]]
|<sup>×</sup>[[淡路鉄道|淡路交通線]]
|
|
|1966年10月1日廃止<ref name="SHIN-10_p58">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=58}}</ref>
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|四国地方
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行事業者
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:5.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|<sup>×</sup>[[高松琴平電気鉄道]]
|<sup>×</sup>[[高松琴平電気鉄道琴平線|琴平線]]
|
|
|1991年3月16日廃止<ref name="SHIN-11_p56">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 11号 中国四国―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900456|page=56}}</ref>
|-
|<sup>×</sup>[[土佐電気鉄道]]
|<sup>×</sup>[[とさでん交通後免線|後免線]]
|<sup>×</sup>[[土佐電気鉄道安芸線|安芸線]]<br /><sup>×</sup>[[とさでん交通伊野線|伊野線]]
|
|廃止時期不明<ref name="SHIN-11_p56"/>
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|地下鉄
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行事業者
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:5.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
| rowspan="3" |[[東京地下鉄]]<br />(東京メトロ)
|<sup>×</sup>[[東京メトロ有楽町線#準急|有楽町線]]
|
|
|2010年3月6日廃止<ref>[http://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-06.html 東京メトロ 2010年2月3日 ニュースリリース]</ref>
|-
|
|[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]
|
|東武伊勢崎線および東急田園都市線への直通運転
|-
|
|[[東京メトロ千代田線|千代田線]]
|
|小田急小田原線への直通運転
|-
|[[大阪市高速電気軌道]]<br />(Osaka Metro)
|
|[[大阪市営地下鉄堺筋線|堺筋線]]
|
|阪急京都線への直通運転
|}
=== 準急の派生種別 ===
準急の派生種別として[[列車種別#通勤種別|通勤種別]]の'''通勤準急'''や、準急よりもさらに通過駅が少なく各駅停車区間が長い'''区間準急'''がある。このほか、過去には'''快速準急'''、'''準急A'''、'''準急B'''などといった派生種別を用いた鉄道事業者が存在した。
==== 通勤準急 ====
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|運行中の通勤準急
!rowspan="2"|運行事業者
!colspan="2"|運行線区
!rowspan="2"|英語表記
!rowspan="2"|備考
|-
!style="white-space:nowrap" |通過駅あり
!style="white-space:nowrap" |各駅に停車
|-
|[[西武鉄道]]
||[[西武池袋線|池袋線]]
|
| style="white-space:nowrap" |Commuter Semi Express<ref>{{Cite web |url= http://www.seibu-group.co.jp/railways/tourist/english/timetables_fares/timetables_tokorozawa.pdf|title= To Timetable Tokorozawa Station (PDF)|accessdate=2015-08-13|format=PDF|publisher=Seibu Railway}}</ref>
|[[石神井公園駅]]を通過する準急列車<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.seibu-group.co.jp/railways/railway/rosen/__icsFiles/afieldfile/2013/03/14/pdf_ikb_130316.pdf|title= 西武池袋線停車駅 ごあんない|accessdate=2015-08-13|format=PDF|publisher=西武鉄道}}</ref>。2008年6月14日のダイヤ改正までは練馬も通過していた。全列車が朝ラッシュ時に[[小手指駅]]発池袋行きの上り列車として運転されている。同時間帯には地下鉄線へ直通する通常の準急も運転されている。いずれの列車もひばりヶ丘で急行・快速急行の追い抜きがある。かつては[[飯能駅|飯能]]・[[所沢駅|所沢]]始発上りや池袋発小手指・所沢行きの下りなども設定されていた。
|-
|[[小田急電鉄]]
|[[小田急小田原線|小田原線]]
|
|Commuter Semi Express<ref name="OER_railmap">{{Cite web|和書|url= https://www.odakyu.jp/rail/img/railmap.jpg|title= 停車駅のご案内|accessdate=2018-03-21|format=jpg|publisher=小田急電鉄}}</ref>
|[[千歳船橋駅]]・[[祖師ヶ谷大蔵駅]]・[[狛江駅]]を通過する準急列車<ref name="OER_railmap"/>。かつて、1960年3月25日のダイヤ改正で設定されたが、1964年11月5日に快速準急の設定により、日中の準急がなくなったため区別の意味がなくなり、準急に改称するため廃止されていた<ref name="rp405-20">{{Cite journal|和書|author = 刈田草一|title = 小田急列車運転慨史|date = 1982-06 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 405|page=20}}</ref>。その後、2018年3月17日のダイヤ改正に伴い、2018年3月19日より運行を再開した。
|-
| style="white-space:nowrap" |[[京阪電気鉄道]]
|[[京阪本線]]
|[[京阪鴨東線|鴨東線]]<br />[[京阪中之島線|中之島線]]
|Commuter Sub-exp.<ref>{{Cite web |url= http://www.keihan.co.jp/en/station/pdf/route_map.pdf|title= Route Map and Stations|accessdate=2015-08-13|format=PDF|publisher=Keihan Railway}}</ref>
|[[守口市駅]]を通過する準急列車<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.keihan.co.jp/traffic/station/pdf/rosenzu_20130316.pdf|title= 京阪電車 電車の種別と停車駅のご案内|accessdate=2015-08-13|format=PDF|publisher=京阪電気鉄道}}</ref>。2008年10月19日ダイヤ改正に伴い、2008年10月20日から運行を開始。同改正以前は、準急は時間帯によって守口市を通過するものと停車するものの両方が存在しており(以前は日中以外は守口市を通過していた)、この改正で守口市を通過する準急を「通勤準急」として独立させたものである<ref name="keihan20181019"/>。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|廃止された通勤準急
!rowspan="2" style="white-space:nowrap;" |運行事業者
!colspan="2"|運行線区
!rowspan="2"|備考
|-
!style="white-space:nowrap;" |通過駅あり
!style="white-space:nowrap;" |各駅に停車
|-
| style="white-space:nowrap" |[[京成電鉄]]
|[[京成本線|本線]]<br />[[京成押上線|押上線]]
|
|rowspan="2"|最初に「通勤準急」を用いた事業者(1957年12月1日運行開始)。1968年11月9日に準急とともに廃止<ref name="SHIN-5_p52" />。
1964年10月1日改正で浅草線への直通開始。定期列車として初の地下鉄線直通の優等列車になった。
|-
| style="white-space:nowrap" |[[都営地下鉄]]
|
|[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]
|-
|[[東武鉄道]]
|style="white-space:nowrap;" |[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]
|[[東武日光線|日光線]]
|2006年3月17日改正より急行に名称変更し通勤時間帯以外にも運行時間を拡大。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/news/2005/12/051216.pdf |title= "より便利に" "より快適に" 3月18日 伊勢崎線・日光線でダイヤ改正を実施|accessdate= 2015-08-13|date=2005-12-16|archiveurl= https://web.archive.org/web/20060110195921/http://www.tobu.co.jp/news/2005/12/051216.pdf|archivedate=2006-01-10|format=PDF}}</ref>
|-
|[[京王電鉄]]
|colspan="2" align=center|[[京王線]]
|運行期間・停車駅など不明<ref name="SHIN-5_p42"/>。
|-
|[[小田急電鉄]]
|
| style="white-space:nowrap" |[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]
|1964年11月4日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=39}}</ref><ref name="rp405-20"/>。小田原線では同日廃止後、上記の通り運行を再開。
|-
|[[阪急電鉄]]
|[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]
|[[阪急箕面線|箕面線]]
|1997年11月16日改正で運転を開始<ref name="RP650">{{Cite journal|和書|date=1998-03|title=1997年11月16日阪急宝塚線ダイヤ改正|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=48|issue=3|page=93|publisher=[[電気車研究会]]}}</ref>。当時の[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]では、高架化工事が進行中であり、[[曽根駅 (大阪府)|曽根駅]]の待避線が使えなくなった。そのため、平日朝の各駅停車の一部を置き換え、同時に登場した通勤急行と千鳥停車を行うことによって、[[豊中駅|豊中]] - [[十三駅|十三]]間の途中駅の利便性を極力下げない配慮と急行・特急のスピードダウンをさせないために登場した種別だった。2000年に高架化工事が一段落すると、通勤急行と共に廃止。2003年8月30日に停車駅を急行と同じものとし再登場したが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hankyu.co.jp/ir/data/200307144N4.pdf |title=宝塚線ダイヤ改正について |access-date=2023-5-21 |archive-date=2003-08-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20030806184609/http://www.hankyu.co.jp/ir/data/200307144N4.pdf}}</ref>、2015年3月21日改正で廃止<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankyu.co.jp/company/news/pdf/20150120_2871.pdf |title=3月21日初発より宝塚線のダイヤ改正を実施 |access-date=2023-5-21 |publisher=阪急電鉄株式会社 |archive-date=2022-11-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221125163154/https://www.hankyu.co.jp/company/news/pdf/20150120_2871.pdf}}</ref>。
|}
==== 区間準急 ====
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|運行中の区間準急
!rowspan="2"|運行事業者
!colspan="2"|運行線区
!rowspan="2"|英語表記
!rowspan="2"|備考
|-
!通過駅あり
!各駅に停車
|-
|[[東武鉄道]]
| style="white-space:nowrap" |[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]
|[[東武日光線|日光線]]
|Section Semi Express
|最初に「区間準急」を用いた事業者。運行時期により、停車駅・運行区間の設定に差違が生じている。
#1997年の登場時は、[[北千住駅]]発着で、北千住駅 - [[新越谷駅]]間<ref group="注釈">登場時から深夜に1本だけ浅草駅発が設定されていたが、それだけは一貫して浅草駅 - 北千住駅間を各駅停車している。</ref>
#2003年より[[東京メトロ半蔵門線|営団(→東京メトロ)半蔵門線]]及び[[東急田園都市線]]直通で[[曳舟駅]] - 新越谷駅間、または線内完結運用かつ北千住駅 - 新越谷駅。
#2006年より[[浅草駅]]・北千住駅(つまり東武線内)発着で北千住駅 - 新越谷駅間
|-
|rowspan="2"|[[近畿日本鉄道]]
|[[近鉄奈良線|奈良線]]
|[[近鉄難波線|難波線]]
|Suburban Semi-Express
|阪神なんば線の区間準急が直通乗り入れしている。<br>日中と深夜(土休日の上りはない)運転
|-
|[[近鉄大阪線|大阪線]]
|
| style="white-space:nowrap" |Suburban Semi-Express
|日中と早朝の上りに運転
|-
| style="white-space:nowrap" |[[阪神電気鉄道]]
|
| style="white-space:nowrap" |[[阪神なんば線]]
|Suburban Semi-Express
|近鉄奈良線の区間準急が直通乗り入れしている。なお、阪神電鉄線内は各駅に停車する<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20090116-2.pdf 阪神なんば線【3月20日(金・祝)】の開通に伴うダイヤ改正の実施!]}} 阪神電気鉄道 2009年1月16日。</ref>。<br>日中と深夜(土休日の上りはない)運転。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|廃止された区間準急
!rowspan="2" style="white-space:nowrap" |運行事業者
!colspan="2"|運行線区
!rowspan="2"|英語表記
!rowspan="2"|備考
|-
!style="white-space:nowrap" |通過駅あり
!style="white-space:nowrap" |各駅に停車
|-
| [[西武鉄道]]
|[[西武池袋線|池袋線]]
|
|
|1998年3月26日改正から2003年3月12日改正まで設定されていた<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=44}}</ref><ref> {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20030308002149/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2003/0124dia.pdf 西武鉄道 2003年1月24日ニュースリリース]}} - インターネットアーカイブ</ref>。この列車は池袋 - 練馬間のみ準急運転し、練馬 - 石神井公園間を各駅に停車していた。廃止後も行先表示器の字幕自体は新タイプを含めそのまま存在している。<br />なお、ダイヤが乱れている等で池袋線と有楽町線・副都心線との直通運転を中止した時に、練馬 - 石神井公園間に停車する列車が激減することを救済する目的で準急が練馬以降各駅停車となる場合には、池袋駅で『区間準急』と案内されることがある。
|-
|[[小田急電鉄]]
|[[小田急小田原線|小田原線]]
|[[小田急多摩線|多摩線]]
|style="white-space:nowrap" |Section Semi Express
|小田原線[[複々線]]化工事に伴う[[東北沢駅]]待避設備撤去により、[[新宿]]から複々線区間の入口である[[梅ヶ丘駅]]までの間を上位種別の列車から逃げ切り運転することを目的に、普通列車を格上げする形で新設された。設定された事情が他社の同種別とは異なるため、全運転区間に対する通過運転区間の割合が非常に短い点が特徴で、新宿駅における発着ホームや使用車両など旅客案内上、運用上は各駅停車と同様に扱われていた。<br />2016年3月のダイヤ改正をもって廃止された。
|}
==== 快速準急 ====
{{see also|小田急電鉄のダイヤ改正#快速準急}}
[[小田急電鉄]]が1964年から1972年まで[[小田急小田原線|小田原線]]に設定していた種別<ref>{{Cite journal|和書|author = 楠居利彦|title = 特集:列車種別バラエティ|date = 2007-10 |publisher = 交友社 |journal = 鉄道ファン |volume = 558|page=38}}</ref>で、同線の準急を昼間時に速達化する目的で運行されていたものである<ref group="注釈">他社であれば快速もしくは区間急行(京阪を除く)に相当する種別である</ref>。
==== 準急A・準急B ====
{{see also|東武伊勢崎線#準急A、B|北陸鉄道石川線#運行形態}}
[[東武鉄道]]<ref name="RP2001-7-2,56">電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2001年7月号 p.2、p.56</ref>と[[北陸鉄道]]<ref>{{Cite journal|和書|author = 西脇恵|title = 北陸鉄道|date = 1986-03 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 461|page=136}}</ref>がかつて停車駅別に準急を区別する際に用いていた種別である。東武鉄道では[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]、北陸鉄道では[[北陸鉄道石川線|石川線]]にそれぞれ設定されていた。
東武鉄道では伊勢崎線の準急Aは日中の伊勢崎発着のみ設定されていたが、準急Bは[[東武日光線]]直通列車を含め全時間に設定され、[[複々線]]を擁する[[北千住駅]] - [[北越谷駅]]間では[[急行線]]の基礎列車の役割も果たしていた<ref name="RP2001-7-2,56"/><ref>東武鉄道『東武時刻表』 1988年10月号 列車種別と停車駅案内図のページを参照。</ref>。なお、東武時刻表の当該路線のページには単に準急と記載され、準急の種類は分別していなかった<ref>東武鉄道『東武時刻表』 1988年10月号 伊勢崎線のページを参照。</ref>。
北陸鉄道では[[曽谷駅]]を通過する準急を準急A、同駅に停車する準急を準急Bとしていた。準急Aと準急Bが30分間隔で毎時各1本ずつ設定され、昼間帯は準急Aが全区間、準急Bが[[野町駅]] - [[鶴来駅]]間の区間運転となっていたが、[[1995年]](平成7年)[[3月30日]]のダイヤ改正で準急に統一され消滅した<ref>[[川島令三]] 『[[全国鉄道事情大研究]] 北陸篇(1)』[[草思社]]、1995年、ISBN 978-4794206169 p.170</ref>。
== 准急 ==
[[西日本鉄道]]では準急に相当する列車種別として'''[[西鉄天神大牟田線#准急(じゅんきゅう)|准急]]'''(じゅんきゅう)という列車種別が存在した。同社では1958年4月1日に准急が廃止されるまで一貫して「准」表記を使用しており、「“準”急」が設定されたことはない<ref name="rpic517">
{{Cite journal|和書 |author=吉富実 |year=1989 |month=9 |title=西鉄大牟田線 列車運転の移り変わり |journal=鉄道ピクトリアル |issue=第517号(1989年9月臨時増刊号) |pages=pp. 130-135 |publisher=電気車研究会}}</ref>。
== 日本国外の同種列車 ==
日本国外の列車は日本の列車種別を明確に当てはめることは難しいが、[[台湾]]の[[台湾鉄路管理局]]における座席指定優等列車である[[復興号]]は日本国有鉄道(国鉄)の準急列車に相当する列車種別として扱われることがある。ただし運賃制度上は座席指定の有無以外は[[区間車|区間車・区間快車]]と同格であるため<ref>交通新聞社 『トラベルMOOK 台湾鉄道パーフェクト』p.18</ref>、全席指定の快速列車に相当する場合もある<ref>東京堂出版 谷川一巳『普通列車の謎と不思議』p.251 - 252</ref>。
== 路線バスにおける準急 ==
{{See also|急行バス}}
路線バスにおいては下記の会社・路線にて運行されている。
*[[京王バス]](東京都):[[京王バス高尾営業所#館ヶ丘線|高24系統]] [[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]南口 - [[東京医科大学八王子医療センター|医療センター]] - [[八王子市立館小中学校|館中学校]]前 - [[穎明館中学校・高等学校|穎明館高校]]前 - 館ヶ丘団地
*[[阪急バス]](兵庫県):[[阪急バス清和台営業所#運行路線|川西バスターミナル - 湯山台・けやき坂・清和台営業所・日生中央]]
*[[南海バス]](大阪府):[[南海バス堺営業所#住之江匠町線|S11系統 住之江公園駅前 - 松屋大和川通三丁 - 松屋大和川通 - 匠町]]
*[[神姫バス]](兵庫県)
** 11系統 [[新三田駅]] - センチュリープラザ前 - [[関西学院]]前 - [[みなぎ台]] - 渡瀬
** 55系統 新三田駅 - センチュリープラザ前 - 三田西陵高校前 - 関西学院前 - 相野駅 - つつじが丘北口
*[[サンデン交通]](山口県):[[サンデン交通#一般路線バス|下関 - 青海島]] 下関 → [[美祢駅]]
*[[鹿児島交通]](鹿児島県):[[鹿児島交通#主な路線|鹿児島 - 加世田]]
*[[佐賀市交通局]](佐賀市営バス・佐賀県):[[佐賀駅バスセンター]] - [[佐賀空港]]
== 参考文献 ==
*[[JTBパブリッシング]] [[岡田誠一 (鉄道研究家)|岡田誠一]]『キャンブックス 国鉄準急列車物語』
*[[電気車研究会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』2001年10月号 特集:都市鉄道の急行運転
*[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2007年10月号 特集:列車種別バラエティ
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 参照元 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[旅客列車]]
*[[列車種別]]
*[[日本の列車愛称一覧]]
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ハディース
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ハディース(الحديث al-ḥadīth(伝承) 発音)は、イスラム教の預言者ムハンマドの言行録。クルアーンがムハンマドへの啓示というかたちで天使を通して神が語った言葉とされるのに対して、ハディースはムハンマド自身が日常生活の中で語った言葉やその行動についての証言をまとめたものである。クルアーンが第一聖典であり、ハディースが第二聖典とされる。ただし、ハディースの一部はクルアーンよりも優先されると考えられるときがある。クルアーンと異なり、一冊の本にまとまっているような類のものではない。伝えられる言行一つ一つがハディースである。
また、ハディースの内容は預言者ムハンマドや教友(サハーバ)たちなどの日常生活や信仰に関わる様々なことについて体験したことを述べられており、礼拝方法から用便の所作、戦争にいたるまでムスリムの信仰生活について広範な規範・遵守すべき慣行(スンナ)を提示している。このためハディースはイスラーム法(シャリーア)上、クルアーンと並ぶ重要な法源として位置付けられている。スンナ派やシーア派、さらにイスラーム法学派ごとに採用されるハディース、およびハディース集成書に違いがある。9世紀頃、アッバース朝ではブハーリーやイブン・ハンバルなど有名なハディース学者、法学者たちによって様々な形式のハディース集成書が多数編纂された。
なお、ハディース批判はイスラム教の歴史において、最も初期の段階から活発であったが、ハディースの正当性や権威を否定する動きとしてはハディース批判、またはクルアーン主義という思想も存在する。
ハディースは、個々の伝承についての内容である「本文」(متن Matn, マトン)とそれに附随して伝承者たちの名前を列記した「伝承経路」(إسناد isnād, イスナード)の二つの部分から成り立っている。すなわち、「ムハンマドが○○と言った、とAが言った、とBが言った、とCが言った、とDが言った」と言う形で伝えられる(実際にははるかに長くまた複雑であるが)。この「」内全てが「ハディース」となる。情報が常に出典つきで伝えられることとなるため、その信頼性が吟味しやすい。当然、同じ内容で違う経路を持つハディースが存在することとなるが、これが信頼性の面で大きな意味を持つ。
この研究を行うハディース学は、実証主義的な歴史学の源流の一つとも言われる。ハディース学上、ハディースの種類についてはその信憑性によって、サヒーフ(真正)、ハサン(良好)、ダイーフ(脆弱)の3つのグループに大別される。特にハディース学者によって「真正」のものと判別されたハディースは『真正集』(Jāmi‘ Ṣaḥīḥ)として編纂された。スンナ派ではブハーリーとムスリム・イブン・ハッジャージュの『真正集』が最も権威の高いハディース集成として、その真正がムスリム共同体内部で合意(イジュマー)を得て来た。
また、ハディースの役割として、支配地域の宗教や信仰の内容を取り入れるという側面もあった。これはアラブ征服時代などでイスラーム政権の支配に下った地域において「異教徒の改宗」の過程について間接的に知る手掛かりとなると考えられている。例えば、『マタイ福音書』所収のイエスによる「ぶどう園のたとえ話(英語版)」とそっくりの内容を、ムハンマドが説教している箇所がハディースにはある。またイエスの十字架上の言葉である
という言葉もハディースで登場する。これはモーセの言葉として紹介され、さらにその姿がムハンマドと重なって見えるという内容である。アル=ブハーリー『真正集』「背教者と反抗者に悔い改めを求めること、および彼らと戦うこと」五の一には次のようにある。
特に、ハディースの信憑性を判断する等級のうち、ダイーフ(脆弱)以下の「偽ハディース」の類いが流布される場合、その土地ごとに見られる政治的宗教的問題を預言者などのハディースに仮託して正統化したりあるいは反発したりしている面が現在の歴史学や社会学方面のハディース研究で指摘されており、近年、これらの「偽ハディース」の思想的・社会的影響についても注目されるようになって来ている。
ハディースは一つ一つが非常に長い。しかも、様式を見ればわかるとおり原則口伝であったため、優秀な信徒・ウラマー・研究者となるためには高い暗記力が要求された。このため、イスラーム圏において暗記力が尊ばれる一因となっている。
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ハディースは、イスラム教の預言者ムハンマドの言行録。クルアーンがムハンマドへの啓示というかたちで天使を通して神が語った言葉とされるのに対して、ハディースはムハンマド自身が日常生活の中で語った言葉やその行動についての証言をまとめたものである。クルアーンが第一聖典であり、ハディースが第二聖典とされる。ただし、ハディースの一部はクルアーンよりも優先されると考えられるときがある。クルアーンと異なり、一冊の本にまとまっているような類のものではない。伝えられる言行一つ一つがハディースである。 また、ハディースの内容は預言者ムハンマドや教友(サハーバ)たちなどの日常生活や信仰に関わる様々なことについて体験したことを述べられており、礼拝方法から用便の所作、戦争にいたるまでムスリムの信仰生活について広範な規範・遵守すべき慣行(スンナ)を提示している。このためハディースはイスラーム法(シャリーア)上、クルアーンと並ぶ重要な法源として位置付けられている。スンナ派やシーア派、さらにイスラーム法学派ごとに採用されるハディース、およびハディース集成書に違いがある。9世紀頃、アッバース朝ではブハーリーやイブン・ハンバルなど有名なハディース学者、法学者たちによって様々な形式のハディース集成書が多数編纂された。 なお、ハディース批判はイスラム教の歴史において、最も初期の段階から活発であったが、ハディースの正当性や権威を否定する動きとしてはハディース批判、またはクルアーン主義という思想も存在する。
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'''ハディース'''({{lang|ar|'''الحديث'''}} {{lang|ar-Latn|al-ḥadīth}}(伝承<ref>[[小田淑子]]「[https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B9-115298#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 ハディース]」『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』[[小学館]]、[[コトバンク]]</ref>){{発音|Hadith Nabawi Arabic pronunciation.ogg}})は、[[イスラム教]]の預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の言行録。[[クルアーン]]がムハンマドへの[[啓示]]というかたちで[[天使]]を通して神が語った言葉とされるのに対して、ハディースはムハンマド自身が日常生活の中で語った言葉やその行動についての証言をまとめたものである。クルアーンが第一聖典であり、ハディースが第二聖典とされる。ただし、ハディースの一部はクルアーンよりも優先されると考えられるときがある。クルアーンと異なり、一冊の本にまとまっているような類のものではない。伝えられる言行一つ一つがハディースである。
また、ハディースの内容は預言者ムハンマドや教友([[サハーバ]])たちなどの日常生活や信仰に関わる様々なことについて体験したことを述べられており、[[サラート|礼拝]]方法から[[イスラム世界の便所マナー|用便の所作]]、戦争<ref>「[[ジハード]]」参照。</ref>にいたるまで[[ムスリム]]の信仰生活について広範な規範・遵守すべき慣行([[スンナ]])を提示している。このためハディースはイスラーム法([[シャリーア]])上、クルアーンと並ぶ重要な[[法源]]として位置付けられている。[[スンナ派]]や[[シーア派]]、さらに[[イスラーム法学派]]ごとに採用されるハディース、およびハディース集成書に違いがある。[[9世紀]]頃、アッバース朝では[[ブハーリー]]や[[イブン・ハンバル]]など有名なハディース学者、法学者たちによって様々な形式のハディース集成書が多数編纂された。
なお、[[ハディース批判]]はイスラム教の歴史において、最も初期の段階から活発であったが、ハディースの正当性や権威を否定する動きとしては[[ハディース批判]]、または[[クルアーン主義]]という思想も存在する。
== 特徴 ==
ハディースは、個々の伝承についての内容である「本文」({{lang|ar|متن}} {{lang|ar|Matn}}, マトン)とそれに附随して伝承者たちの名前を列記した「伝承経路」({{lang|ar|'''إسناد'''}} {{lang|ar|isnād}}, イスナード)の二つの部分から成り立っている。すなわち、「ムハンマドが○○と言った、とAが言った、とBが言った、とCが言った、とDが言った」と言う形で伝えられる(実際にははるかに長くまた複雑であるが)。この「」内全てが「ハディース」となる。情報が常に出典つきで伝えられることとなるため、その信頼性が吟味しやすい。当然、同じ内容で違う経路を持つハディースが存在することとなるが、これが信頼性の面で大きな意味を持つ。
この研究を行うハディース学は、[[実証主義]]的な[[歴史学]]の源流の一つとも言われる。ハディース学上、ハディースの種類についてはその信憑性によって、サヒーフ(真正)、ハサン(良好)、ダイーフ(脆弱)の3つのグループに大別される。特にハディース学者によって「真正」のものと判別されたハディースは『真正集』({{lang|ar|Jāmi‘ Ṣaḥīḥ}})として編纂された。スンナ派では[[ムハンマド・アル=ブハーリー|ブハーリー]]と[[ムスリム・イブン・ハッジャージュ]]の『真正集』が最も権威の高いハディース集成として、その真正がムスリム共同体内部で合意([[イジュマー]])を得て来た。
また、ハディースの役割として、支配地域の宗教や信仰の内容を取り入れるという側面もあった。これはアラブ征服時代などでイスラーム政権の支配に下った地域において「[[異教徒]]の[[改宗]]」の過程について間接的に知る手掛かりとなると考えられている。例えば、『[[マタイ福音書]]』所収の[[イエス・キリスト|イエス]]による「{{仮リンク|ぶどう園のたとえ話|en|Parable of the Workers in the Vineyard}}」とそっくりの内容を、ムハンマドが説教している箇所がハディースにはある。またイエスの十字架上の言葉である
:「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」([[聖書 口語訳|口語訳]]『[[ルカ福音書]]』23:34)
という言葉もハディースで登場する。これは[[モーセ]]の言葉として紹介され、さらにその姿がムハンマドと重なって見えるという内容である。アル=ブハーリー『[[サヒーフ・アル=ブハーリー|真正集]]』「背教者と反抗者に悔い改めを求めること、および彼らと戦うこと」五の一には次のようにある。
:「アブド・アッラー・ブン・マスウードは言った。わたしは今なお預言者(=ムハンマド)の姿をまのあたり見る思いがするが、彼は、自分の民に打たれ、傷つけられ、滴る血を顔から拭いながら『主よ、わたしの民をお赦し下さい、彼らはなすべきことを知らないのですから』と言った預言者ムーサー(モーセ)のようであった、と」
特に、ハディースの信憑性を判断する等級のうち、ダイーフ(脆弱)以下の「偽ハディース」の類いが流布される場合、その土地ごとに見られる政治的宗教的問題を預言者などのハディースに仮託して正統化したりあるいは反発したりしている面が現在の歴史学や社会学方面のハディース研究で指摘されており、近年、これらの「偽ハディース」の思想的・社会的影響についても注目されるようになって来ている。
ハディースは一つ一つが非常に長い。しかも、様式を見ればわかるとおり原則口伝であったため、優秀な信徒・[[ウラマー]]・研究者となるためには高い暗記力が要求された。このため、イスラーム圏において暗記力が尊ばれる一因となっている<ref>[[島崎晋]]『これだけは知っておきたいコーラン入門』[[大川玲子]]監修、[[洋泉社]]、2007年、65頁。ISBN 4862481515。</ref>。
== 代表的なハディース集成書 ==
* スンナ派の六大真正ハディース集成書(六書)。主に9世紀から[[10世紀]]に編纂された。
** [[ムハンマド・アル=ブハーリー|アル=ブハーリー]](870年没) 『[[サヒーフ・アル=ブハーリー|真正集]]』({{lang|ar|al-Ṣaḥīḥ}})
** ムスリム・イブン・ハッジャージュ(875年没) 『[[サヒーフ・ムスリム|真正集]]』({{lang|ar|al-Ṣaḥīḥ}})
** アブー・ダーウード(888年没) 『[[スナン・アブー・ダーウード|スナン]]』({{lang|ar|al-Sunan}})
** アル=ティルミズィー(892年没) 『[[スナン・アル=ティルミズィー|スナン]]』({{lang|ar|al-Jāmi‘}})
** イブン・マージャ(896年没) 『[[スナン・イブン・マージャ|スナン]]』({{lang|ar|al-Sunan}})
** アル=ナサーイー(915年没) 『[[スナン・アル=ナサーイー|スナン]]』({{lang|ar|al-Sunan}})
* シーア派の四大ハディース集成書(四書)。主に10世紀から[[11世紀]]に編纂された。
** アル=クライニー(941年没) 『[[カーフィーの書]]』
** イブン・バーバワイヒ(991年没) 『[[法学者不在のとき]]』
** アル=トゥースィー(1067年没) 『[[律法規定の修正]]』、『[[異論伝承に関する考察]]』
* その他の著明な人物によるハディース集成書。
** イブン・ハンバル 『ムスナド』({{lang|ar|al-Musnad}})
==日本語訳==
*『ハディース イスラーム伝承集成』 [[牧野信也]]訳、[[中央公論新社|中央公論社]](上中下)、1993-94年 / [[中公文庫]](全6巻)、2001年
*:[[サヒーフ・アル=ブハーリー|アル=ブハーリー『真正集』]]の日本語訳
*『日訳[[サヒーフ・ムスリム]] 預言者正伝集』全3巻、磯崎定基・[[飯森嘉助]]・小笠原良治訳
*:[[日本サウディアラビア協会]](非売品)、1987-89年、[[日本ムスリム協会]]、2001年(第1巻は[[電子書籍]]化、2013年)
*: ムスリム・イブン・ハッジャージュ『真正集』の日本語訳
*『ムハンマドのことば ハディース』 [[小杉泰]]編訳、[[岩波文庫]]、2019年
==関連項目==
*[[コーラン]]([[クルアーン]])
== 脚注 ==
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==関連文献==
* [[牧野信也]]『イスラームの原点-コーランとハディース』中央公論社、1996年。ISBN 4120026353。
==外部リンク==
===スンナ派のハディース===
==== サヒーフ・ムスリム日本語訳(日本ムスリム協会) ====
*[http://www.muslim.or.jp/hadith/smuslim-top-s.html サヒーフ・ムスリム ハディース検索/日本ムスリム協会](Web検索が可能)
==== サヒーフ・アル=ブハーリー日本語訳(牧野信也・訳) ====
*[http://islamjp.com/culture/buhari_yuiitsusei_01.html 神の唯一性(五分の一)・ブハーリーの編纂したハディース]
*[http://islamjp.com/culture/buhari_yuiitsusei_02.html 神の唯一性(五分の二)・ブハーリーの編纂したハディース]
*[http://islamjp.com/culture/buhari_yuiitsusei_03.html 神の唯一性(五分の三)・ブハーリーの編纂したハディース]
*[http://islamjp.com/culture/buhari_yuiitsusei_04.html 神の唯一性(五分の四)・ブハーリーの編纂したハディース]
*[http://islamjp.com/culture/buhari_yuiitsusei_05.html 神の唯一性(五分の五)・ブハーリーの編纂したハディース]
*[http://islamjp.com/culture/buhari_yume_01.html 夢の解釈(二分の一)・ブハーリーの編纂したハディース]
*[http://islamjp.com/culture/buhari_yume_02.html 夢の解釈(二分の二)・ブハーリーの編纂したハディース]
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ヒジャーズ
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ヒジャーズ(ヒジャズ、ヘジャズ、Hejaz、Hijaz、Hedjaz; アラビア語表記: الحجاز al-Ḥijāz)は、アラビア半島の紅海沿岸の地方。
マッカ(メッカ)、マディーナ(メディナ)の二大聖地を含む、アラブおよびイスラームにとって歴史的・宗教的・政治的に重要な地であった。またこの地域の最大都市ジッダ(ジェッダ)は聖地への海からの入口であるだけでなく、ヒジャーズの政治的中心として重要性を持ったこともあった。
ヒジャーズは今日のサウジアラビア王国の北西部にあたる。アラビア半島の西端にはヒジャーズ山脈およびその南のアスィール山脈という一続きの山脈が走っている。アラビア半島の紅海沿岸は大きく南北に分けられ、北はヒジャーズ、南はアスィール州(アシール、Asir、山岳地帯)およびティハーマ(ティハマー、Tihamah、Tehama、海岸沿いの平野地帯)と呼ばれる。アスィールとティハーマは一部イエメンにかかっており、最近まで両国間に国境や帰属をめぐる議論があった。ヒジャーズ地方はヒジャーズ山脈を挟んだ両側をさす。
ヒジャーズ山脈はヨルダンとサウジの国境付近から発し、部分的に標高2,000mを超える高さとなり、南はマッカ周辺で600mほどに低くなるまで続く。その西麓は急激に海に向かって落ち込んでおりところどころで断崖絶壁をなし、海岸平野はわずかで天然の良港はほとんどない。その代わり、ヒジャーズ西麓にたまに起こる大嵐は雨で山の土をむき出しにし、このため丘陵地には肥沃な農地がある。ヒジャーズ東麓は西側よりも緩やかに下っており、半島中央部の高原地帯、ナジュド(ナジド、Najd)に続いている。気候は乾燥しており、雨のときしか流れないワジ(涸れ川)がいくつか走っており、人々はオアシスやワジの付近で細々と農耕をしている。オアシスのうち最も大きな街がマディーナである。アラビア語で、ヒジャーズとは「障壁」を意味し、東のナジュドと南西のティハーマを分ける山並であった。このため、ヒジャーズ地方に、ナジュドとティハーマを分ける高い山地、サラワト山脈(アスィールの一部)を含む場合がある。
ヒジャーズには古来から人が居住し農耕を営み、また南のイエメンに産する乳香など香料を北のエジプトなど地中海沿岸に運ぶための陸路や海路が整備され交易が行われていた。古代ローマはイエメンに軍を送り、ヒジャーズの一部はローマ帝国のアラビア属州に組み込まれていたと見られる。
ヒジャーズはイスラム帝国発祥の地であったが、13世紀以降からエジプトの政権やオスマン帝国の宗主権のもと、マッカの太守(シャリーフ)ハーシム家の自治が続いた。これが変化するのは第一次世界大戦時、イギリスがオスマン帝国の後方のアラブ人を立ち上がらせ戦わせようとしたときだった。ハーシム家のフサイン・イブン・アリーはイギリスとフサイン=マクマホン協定を結び、イラクやシリア、パレスチナも含むアラビア全域の独立と支配をもくろんでアラブ反乱を起こした。この際、トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)は反乱軍を支援し、オスマン帝国がダマスクスからマディーナまでヒジャーズを縦断して敷設したヒジャーズ鉄道を破壊するなどの戦闘に協力。1916年には、フサイン・イブン・アリーはイギリスの後ろ盾でヒジャーズ王国を建国し、ヒジャーズは独立したがその期間は短かった。フサイン・イブン・アリーは結局王国をアラブ全体に広げることはできず、1924年にはナジュドからアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードが侵攻、フサイン・イブン・アリーは退位してキプロスに逃れたが、その翌年には長男アリー・イブン・フセインが降伏し、弟のイラク王国に亡命することで、ハーシム家のヒジャーズ支配は終焉する。
ヒジャーズを攻略したアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードは1926年にヒジャーズ王を称し、1931年にはヒジャーズ=ナジュド王国という連合王国の王となり、1932年にはこれをサウジアラビア王国と改称した。
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"text": "ヒジャーズは今日のサウジアラビア王国の北西部にあたる。アラビア半島の西端にはヒジャーズ山脈およびその南のアスィール山脈という一続きの山脈が走っている。アラビア半島の紅海沿岸は大きく南北に分けられ、北はヒジャーズ、南はアスィール州(アシール、Asir、山岳地帯)およびティハーマ(ティハマー、Tihamah、Tehama、海岸沿いの平野地帯)と呼ばれる。アスィールとティハーマは一部イエメンにかかっており、最近まで両国間に国境や帰属をめぐる議論があった。ヒジャーズ地方はヒジャーズ山脈を挟んだ両側をさす。",
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ヒジャーズは、アラビア半島の紅海沿岸の地方。
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{{Otheruses||[[アラブ音楽]]のヒジャーズ|マカーム#アラブのマカーム}}
'''ヒジャーズ'''(ヒジャズ、ヘジャズ、Hejaz、Hijaz、Hedjaz; [[アラビア語]]表記: الحجاز al-Ḥijāz)は、[[アラビア半島]]の[[紅海]]沿岸の地方。
== 地理 ==
[[ファイル:Saudi Arabia - Hejaz region locator.png|thumb|left|サウジアラビア内のヒジャーズの位置、現在はいくつかの州に分割されている]]
[[マッカ]](メッカ)、[[マディーナ]](メディナ)の二大聖地を含む、[[アラブ]]および[[イスラーム]]にとって歴史的・宗教的・政治的に重要な地であった。またこの地域の最大都市[[ジッダ]](ジェッダ)は聖地への海からの入口であるだけでなく、ヒジャーズの政治的中心として重要性を持ったこともあった。
ヒジャーズは今日の[[サウジアラビア|サウジアラビア王国]]の北西部にあたる。アラビア半島の西端にはヒジャーズ山脈およびその南の[[アスィール山脈]]という一続きの山脈が走っている。アラビア半島の紅海沿岸は大きく南北に分けられ、北はヒジャーズ、南は[[アスィール州]](アシール、Asir、山岳地帯)および[[ティハーマ]](ティハマー、Tihamah、Tehama、海岸沿いの平野地帯)と呼ばれる。アスィールとティハーマは一部[[イエメン]]にかかっており、最近まで両国間に国境や帰属をめぐる議論があった。ヒジャーズ地方はヒジャーズ山脈を挟んだ両側をさす。
ヒジャーズ山脈は[[ヨルダン]]とサウジの国境付近から発し、部分的に標高2,000mを超える高さとなり、南は[[マッカ]]周辺で600mほどに低くなるまで続く。その西麓は急激に海に向かって落ち込んでおりところどころで断崖絶壁をなし、海岸平野はわずかで天然の良港はほとんどない。その代わり、ヒジャーズ西麓にたまに起こる大嵐は雨で山の土をむき出しにし、このため丘陵地には肥沃な農地がある。ヒジャーズ東麓は西側よりも緩やかに下っており、半島中央部の高原地帯、[[ナジュド]](ナジド、Najd)に続いている。気候は乾燥しており、雨のときしか流れない[[ワジ]](涸れ川)がいくつか走っており、人々は[[オアシス]]やワジの付近で細々と農耕をしている。オアシスのうち最も大きな街が[[マディーナ]]である。アラビア語で、ヒジャーズとは「'''障壁'''」を意味し、東の[[ナジュド]]と南西の[[ティハーマ]]を分ける山並であった。このため、ヒジャーズ地方に、ナジュドとティハーマを分ける高い山地、サラワト山脈(アスィールの一部)を含む場合がある。
== 歴史 ==
ヒジャーズには古来から人が居住し農耕を営み、また南のイエメンに産する[[乳香]]など[[香料]]を北の[[エジプト]]など[[地中海]]沿岸に運ぶための陸路や海路が整備され交易が行われていた。[[古代ローマ]]は[[イエメン]]に軍を送り、ヒジャーズの一部はローマ帝国の[[アラビア属州]]に組み込まれていたと見られる<ref>[http://www.saudiaramcoworld.com/issue/200103/well.of.good.fortune.htm]</ref>。
ヒジャーズは[[イスラム帝国]]発祥の地であったが、[[13世紀]]以降から[[エジプト]]の政権や[[オスマン帝国]]の宗主権のもと、マッカの太守([[シャリーフ]])[[ハーシム家]]の自治が続いた。これが変化するのは[[第一次世界大戦]]時、[[イギリス]]がオスマン帝国の後方のアラブ人を立ち上がらせ戦わせようとしたときだった。ハーシム家の[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]はイギリスと[[フサイン=マクマホン協定]]を結び、[[イラク]]や[[シリア]]、[[パレスチナ]]も含むアラビア全域の独立と支配をもくろんで[[アラブ反乱]]を起こした。この際、[[トーマス・エドワード・ロレンス]](アラビアのロレンス)は反乱軍を支援し、オスマン帝国が[[ダマスクス]]からマディーナまでヒジャーズを縦断して敷設した[[ヒジャーズ鉄道]]を破壊するなどの戦闘に協力。[[1916年]]には、フサイン・イブン・アリーはイギリスの後ろ盾で[[ヒジャーズ王国]]を建国し、ヒジャーズは独立したがその期間は短かった。フサイン・イブン・アリーは結局王国をアラブ全体に広げることはできず、[[1924年]]には[[ナジュド]]から[[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード]]が侵攻、フサイン・イブン・アリーは退位して[[キプロス]]に逃れたが、その翌年には長男[[アリー・イブン・フセイン]]が降伏し、弟の[[イラク王国]]に亡命することで、ハーシム家のヒジャーズ支配は終焉する。
ヒジャーズを攻略したアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードは[[1926年]]にヒジャーズ王を称し、[[1931年]]には[[ナジュド及びヒジャーズ王国|ヒジャーズ=ナジュド王国]]という連合王国の王となり、[[1932年]]にはこれをサウジアラビア王国と改称した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|Hejaz}} -->
*[[ヒジャーズ王国]]
*[[ヒジャーズ鉄道]]
*[[マッカ]]
*[[マディーナ]]
*[[ジッダ]]
== 参考文献 ==
{{節スタブ}}
*[[ジョン・フィルビー]]著、岩永博、富塚俊夫訳『サウジアラビア王朝史』(法政大学出版局)
*ブノア・メシャン著『砂漠の豹 イブン・サウード』
== 外部リンク ==
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[[Category:ヒジャーズ|*]]
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マディーナ
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アル=マディーナ・アル=ムナウワラ(المدينة المنوّرة)または単にマディーナ(المدينة)は、アラビア半島の都市で、マッカ(メッカ)に次ぐイスラームの第2の聖地である。メディナともいう。
なお、マディーナ(メディナ)は本来アラビア語で「町」を意味する普通名詞であり、北アフリカ(マグリブ)などでは「旧市街」の意味で用いられる。世界遺産のフェズのメディナ、同じく世界遺産のスースのメディナ、マラケシュのメディナなどが有名である。
半島紅海側のヒジャーズ地方に位置する。現在はサウジアラビアのマディーナ州の州都で、人口は130万人ほどである。
アラビア語で「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビー(madīnat an-nabī)の略。預言者ムハンマドの墓を有する預言者のモスクが町の中心にあり、マッカとあわせて「二聖都(アル・ハラマイン)」と称される。
マッカの北約500kmの地にあって、ムハンマドの時代以前は名前をヤスリブと言い、アラブ人の二部族とユダヤ教徒の数部族が住む町であった。622年、マッカで迫害を受けていたムハンマドは、ヤスリブの部族間の調停を依頼されたのを機にマッカを脱出し、ヤスリブに移住した(ヒジュラ)。ムハンマドは現在の預言者のモスクの場所に住居を置き、イスラム共同体(ウンマ)の建設とマッカとの戦いを指揮し、ここで亡くなった。こうしてイスラム教の聖地となったメディナは、第四代カリフのアリーがイラクのクーファに移るまで、初期のイスラム共同体の首都として機能した。また、この地にはイスラム教史上初のクバー・モスクもある。
イスラム教徒以外は市内への立ち入りが厳しく制限されていたが、2019年以降異教徒でも入れるようになり、預言者のモスクやクバー・モスクなどの内部へは入ることが出来ないが、建物のすぐ近くから見られるようになった。
2006年6月、アブドラ国王主導でMedina Knowledge Economic Cityプロジェクトが立ち上げられた。
マディーナ周辺の土壌は主に玄武岩でできている。
紅海から内陸150kmに位置し、海抜は620mである。
典型的な砂漠気候であり、非常に降水量が少なく乾燥する。夏は非常に高温であり、最高気温は45°C、最低気温でも30°C以上になる日も多い。雨は秋から春を中心に降り、夏はほとんど見られない。
マディーナは周辺でナツメヤシが栽培されており、有名である。
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アル=マディーナ・アル=ムナウワラまたは単にマディーナ(المدينة)は、アラビア半島の都市で、マッカ(メッカ)に次ぐイスラームの第2の聖地である。メディナともいう。
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{{出典の明記|date=2019年9月}}
{{Redirect5||メディーナ (曖昧さ回避)|メディーナ|メディナ}}
{{世界の市
|正式名称 =アル=マディーナ・アル=ムナウワラ
|公用語名称 ={{lang|ar|المدينة المنورة}}<br/>{{flagicon|Saudi Arabia}}
|愛称 =マディーナ、メディナ
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|位置図B = {{Location map|Saudi Arabia#Middle East|float=center|label=マディーナ}}
|緯度度=24 |緯度分=28 |緯度秒= |N(北緯)及びS(南緯)=N
|経度度=39 |経度分=36 |経度秒= |E(東経)及びW(西経)=E
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|下位区分種類1 =[[サウジアラビアの州|州]]
|下位区分名1 =[[マディーナ州]]
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|総面積(平方キロ) =589
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|水面面積比率 =
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|都市圏人口密度(平方キロ)=
|市街地人口 =
|等時帯 =AST
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|夏時間の等時帯 =なし
|夏時間の協定世界時との時差=
|公式ウェブサイト =
|備考 =
}}
{{maplink2|frame=yes|frame-width=230|zoom=13|type=point|text=地図}}
'''アル=マディーナ・アル=ムナウワラ'''(المدينة المنوّرة)または単に'''マディーナ'''(المدينة)は、[[アラビア半島]]の都市で、[[メッカ|マッカ]](メッカ)に次ぐ[[イスラム教|イスラーム]]の第2の聖地である。'''メディナ'''ともいう<ref>アンソニー・テイラー『世界の聖地バイブル : パワースポット&スピリチュアルスポットのガイド決定版』ガイアブックス、産調出版、236ページ、2011年、ISBN 978-4-88282-780-1</ref>。
== 名称 ==
なお、マディーナ(メディナ)は本来[[アラビア語]]で「[[町]]」を意味する[[普通名詞]]であり、[[北アフリカ]]([[マグリブ]])などでは「[[旧市街]]」の意味で用いられる。[[世界遺産]]の[[フェズ]]のメディナ、同じく世界遺産の[[スース]]のメディナ、[[マラケシュ]]のメディナなどが有名である。
[[File:Madina Haram at evening.jpg|center|thumb|800px|マディーナ]]
== 概要 ==
半島[[紅海]]側の[[ヒジャーズ]]地方に位置する。現在は[[サウジアラビア]]のマディーナ州の州都で、人口は130万人ほどである。
アラビア語で「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビー(madīnat an-nabī)の略。預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の墓を有する'''[[預言者のモスク]]'''が町の中心にあり、マッカとあわせて「二聖都(アル・ハラマイン)」と称される。
== 歴史 ==
マッカの北約500kmの地にあって、ムハンマドの時代以前は名前を'''ヤスリブ'''と言い、[[アラブ人]]の二部族と[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]の数部族が住む町であった。[[622年]]、マッカで迫害を受けていたムハンマドは、ヤスリブの部族間の調停を依頼されたのを機にマッカを脱出し、ヤスリブに移住した([[ヒジュラ]])。ムハンマドは現在の'''預言者のモスク'''の場所に住居を置き、[[イスラム共同体]]([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]])の建設とマッカとの戦いを指揮し、ここで亡くなった。こうしてイスラム教の聖地となったメディナは、第四代[[カリフ]]の[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]]が[[イラク]]の[[クーファ]]に移るまで、初期のイスラム共同体の首都として機能した。また、この地にはイスラム教史上初の[[クバー・モスク]]もある。
イスラム教徒以外は市内への立ち入りが厳しく制限されていたが、2019年以降異教徒でも入れるようになり、[[預言者のモスク]]やクバー・モスクなどの内部へは入ることが出来ないが、建物のすぐ近くから見られるようになった。
== 特色 ==
{{main|[[:en:Destruction of early Islamic heritage sites|Destruction of early Islamic heritage sites]]}}
[[2006年]]6月、[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ|アブドラ国王]]主導で[[:en:Knowledge Economic City, Medina|Medina Knowledge Economic City]]プロジェクトが立ち上げられた。
== 地理 ==
マディーナ周辺の土壌は主に[[玄武岩]]でできている。
[[紅海]]から内陸150kmに位置し、海抜は620mである。
== 気候 ==
典型的な[[砂漠気候]]であり、非常に[[降水量]]が少なく乾燥する。夏は非常に高温であり、最高気温は45℃、最低気温でも30℃以上になる日も多い。雨は秋から春を中心に降り、夏はほとんど見られない。
{{Weather box
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|Jan mean C = 17.9
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== 経済 ==
マディーナは周辺で[[ナツメヤシ]]が栽培されており、有名である。
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源義仲
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源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍(征夷大将軍とも)となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる。
『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄で義賢嫡男の仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。
『源平盛衰記』によると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある。諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。こうしたこととも関係してか、後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。
治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政とともに宇治で討死している。
同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためといわれている。
翌年の治承5年(1181年)6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆(平賀氏等)・甲斐衆(上州衆との説もある)など3千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。
寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護したことで頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送ることで頼朝との対立は一応の決着がつくが、後にまた対立する。
4月、平氏は京の兵糧の供給地である北陸道の回復を図り、平維盛を大将として北陸に出陣。越前国で火打城の戦いに勝利した平氏軍は、加賀国に入っても連戦連勝で破竹の進撃を続ける。義仲は今井兼平に6千の先遣隊を率いさせ、平氏軍の平盛俊による先遣隊が陣を張る越中国の般若野を奇襲する(般若野の戦い)。この奇襲が功を奏して平家軍は越中・加賀国の国境にある礪波山倶利伽羅峠の西に戻ることになる。
5月11日、義仲は倶利伽羅峠の戦いで10万ともいわれる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く加賀国での篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。6月10日には越前国、13日には近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦することになる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」といういささか恫喝めいたものだった。7月22日に義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなる。また、源行家が伊賀方面から進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫り、摂津国の多田行綱も不穏な動きを見せるようになる。25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。
なお、義仲の名が『玉葉』に初めて登場するのは倶利伽羅峠の戦いについて記した寿永2年(1183年)5月16日条であり、その直前の4月25日条では東国・北国の反乱の中心を頼朝・武田信義としており、無位無官の義仲は京で存在を知られていなかった。義仲の上洛が迫った7月2日条でも、今回は義仲・行家のみが上洛して頼朝は上洛しないと記されており、著者の九条兼実は源氏勢力を一体視している。このことが入京後の義仲を頼朝代官とする見方を生むことになる。
7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家とともに蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた。また2人の風体のみすぼらしさは「夢か、夢に非ざるか」と貴族を仰天させた。
30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した。
8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられる。『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予守に、行家が備前守に遷ったとしているが、この時点では義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌避した記録は見られない。行家は13日に備前守に遷ったが、今度はこれに不満を示した義仲が15日に伊予守に遷り、再び行家が義仲と差があると不満を示して閉門するに至った。
後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てた。
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いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのである。
また義仲は京都の治安回復にも期日を要した。養和の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。9月になると「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」 という有様で、治安は悪化の一途をたどった。京中守護軍は義仲の部下ではなく、行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、義仲が全体を統制できる状態になかった。
『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米がなければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。
後白河法皇は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」 と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。
義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」というもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」 と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。
義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清・海野幸広を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。
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これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している。義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。
11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げた(『玉葉』同日条)。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」 と慨嘆している。義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという。20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首をさらした。
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11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する。10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた。
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戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の家臣とともに落ち延びるが、21日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」 と評した。享年31。26日、検非違使が七條河原で義仲と郎党高梨忠直、兼平、行親らの首を獄門の前の樹に掛けた(『吾妻鏡』)。
『平家物語』には、義仲が幼い頃から苦楽を共にしてきた巴御前との別れ、兼平との語らい等、巴や兼平の義仲へのお互いの苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。
義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれた。義仲の家系は絶えたとされるが諸説あり、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。
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"text": "5月11日、義仲は倶利伽羅峠の戦いで10万ともいわれる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く加賀国での篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。6月10日には越前国、13日には近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦することになる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」といういささか恫喝めいたものだった。7月22日に義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなる。また、源行家が伊賀方面から進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫り、摂津国の多田行綱も不穏な動きを見せるようになる。25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。",
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"text": "なお、義仲の名が『玉葉』に初めて登場するのは倶利伽羅峠の戦いについて記した寿永2年(1183年)5月16日条であり、その直前の4月25日条では東国・北国の反乱の中心を頼朝・武田信義としており、無位無官の義仲は京で存在を知られていなかった。義仲の上洛が迫った7月2日条でも、今回は義仲・行家のみが上洛して頼朝は上洛しないと記されており、著者の九条兼実は源氏勢力を一体視している。このことが入京後の義仲を頼朝代官とする見方を生むことになる。",
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"text": "7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家とともに蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた。また2人の風体のみすぼらしさは「夢か、夢に非ざるか」と貴族を仰天させた。",
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"text": "30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した。",
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"text": "8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられる。『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予守に、行家が備前守に遷ったとしているが、この時点では義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌避した記録は見られない。行家は13日に備前守に遷ったが、今度はこれに不満を示した義仲が15日に伊予守に遷り、再び行家が義仲と差があると不満を示して閉門するに至った。",
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"text": "後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てた。",
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"text": "しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側が受け入れるはずもなかった。摂政・九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」 と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。朝廷では義仲を制するための御占が数度行われた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという。",
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"text": "いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのである。",
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"text": "また義仲は京都の治安回復にも期日を要した。養和の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。9月になると「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」 という有様で、治安は悪化の一途をたどった。京中守護軍は義仲の部下ではなく、行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、義仲が全体を統制できる状態になかった。",
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"text": "『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米がなければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。",
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"text": "後白河法皇は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」 と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。",
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"text": "義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」というもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」 と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。",
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"text": "義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清・海野幸広を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。",
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"text": "義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった。",
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"text": "11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示すが、法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を計った。さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ。",
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"text": "院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていたが、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった。",
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"text": "これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している。義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。",
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"text": "11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げた(『玉葉』同日条)。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」 と慨嘆している。義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという。20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首をさらした。",
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"text": "21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」 と命じ、22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。『平家物語』は義仲が基房の娘(藤原伊子とされる)を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる。",
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"text": "11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する。10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた。",
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"text": "寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵はなく、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。",
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"text": "戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の家臣とともに落ち延びるが、21日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」 と評した。享年31。26日、検非違使が七條河原で義仲と郎党高梨忠直、兼平、行親らの首を獄門の前の樹に掛けた(『吾妻鏡』)。",
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"text": "『平家物語』には、義仲が幼い頃から苦楽を共にしてきた巴御前との別れ、兼平との語らい等、巴や兼平の義仲へのお互いの苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。",
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"text": "義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれた。義仲の家系は絶えたとされるが諸説あり、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "※日付=旧暦",
"title": "経歴"
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] |
源 義仲 は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍(征夷大将軍とも)となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
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{{Otheruses|みなもとのよしなか|その他の源義仲|源義仲 (曖昧さ回避)}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 源 義仲
| 画像 = Minamoto no Yoshinaka.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = ([[徳音寺]]所蔵)
| 時代 = [[平安時代]]末期
| 生誕 = [[1154年]]
| 死没 = [[治承]]8年[[1月21日 (旧暦)|1月20日]]([[1184年]][[3月4日]])<br />享年31
| 改名 = 駒王丸→源義仲
| 別名 =木曽次郎、朝日将軍、旭将軍
| 戒名 = 徳音院義山宣公
| 墓所 = [[滋賀県]][[大津市]]馬場の朝日山[[義仲寺]]<br />[[京都市]][[東山区]][[法観寺]](首塚)<br />[[長野県]][[木曽郡]] 徳音寺
| 官位 = [[従四位下]]、[[馬寮|左馬頭]]、[[越後国|越後守]]、[[伊予国|伊予守]]<br/>[[征東大将軍]]<ref group="注釈" name="seitoudaisyougun">従前は『[[吾妻鏡]]』などを根拠に、義仲が[[任官]]したのは「[[征夷大将軍]]」とする説が有力で、『[[玉葉]]』に記されている「征東大将軍」説を唱えるのは少数派だったが、『三槐荒涼抜書要』所収の『[[山槐記]]』建久3年(1192年)7月9日条に、[[源頼朝]]の[[征夷大将軍]][[任官]]の経緯の記述が発見された。それによると、「大将軍」を要求した頼朝に対して、[[朝廷 (日本)|朝廷]]では検討の末、義仲の任官した「征東大将軍」などを凶例としてしりぞけ、[[坂上田村麻呂]]の[[任官]]した「[[征夷大将軍]]」を吉例として、これを与えることを決定したという。こうして義仲が任官したのは「征東大将軍」だったことが同時代の一級史料で確認できたため、今日ではこちらの説の方が有力となっている(櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」 『明月記研究』9号、2004年)。</ref>
| 主君 =
| 氏族 = [[清和源氏]][[源為義|為義流]]([[河内源氏]])
| 父母 = 父:[[源義賢]]、母:遊女<ref>『[[尊卑分脈]]』</ref>([[小枝御前]]?)<br />養父:''[[中原兼遠]]''
| 兄弟 = [[源仲家|仲家]]、'''義仲'''、[[宮菊姫]]
| 妻 = 正室:<ref group="注釈">『[[源平盛衰記]]』において、義仲は巴御前に向かって[[信濃国|信濃]]の妻に再び会えないのが心残りだと言っているが、その女性の素性は不明。</ref><br />[[中原兼遠]]の娘?<ref group="注釈">『[[尊卑分脈]]』では義高の母を[[今井兼平]]の娘としているが、兼平は義仲と同年代の乳母子なので、義高の母は兼平の妹と推定される。</ref>、[[金刺盛澄]]の娘?{{efn|『[[諏訪大明神画詞]]』によれば、[[金刺盛澄]]は義仲を婿にしたという<ref>久保田昌希編『戦国・織豊期と地方史研究』(岩田書院、2020年)</ref>。}}、[[藤原伊子]]?<br />妾:[[巴御前]]?
| 子 = [[源義高 (清水冠者)|義高]]、[[源義重 (朝日次郎)|義重]]?、[[源義基 (木曾義基)|義基]]?、[[木曾基宗|義宗]]?、[[源頼家]]妾([[竹御所]]母)?<!-- 尊卑分脈など史料で確認できる人物のみ-->
}}
'''源 義仲''' (みなもと の よしなか)は、[[平安時代]]末期の[[信濃源氏]]の[[武将]]。[[河内源氏]]の一族、[[源義賢]]の次男。[[源頼朝]]・[[源義経|義経]]兄弟とは従兄弟にあたる。'''木曾 義仲'''(きそ よしなか)の名でも知られる<ref>檀一雄『木曾義仲』上・下(筑摩書房、1955年)</ref><ref>西田直敏「平家物語の性格造型手法―平重盛・木曾義仲の表現をめぐって―」(『解釈』3巻5号、1957年)</ref><ref>齋藤純一「木曾義仲と項羽―国文学と漢籍その一―」(『解釈』3巻6号、1957年)</ref>。『[[平家物語]]』においては'''朝日将軍'''<ref>長島喜平『朝日将軍木曾義仲』(国書刊行会、1991年)</ref><ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』(株式会社三省堂、2009年) 27頁。</ref>(あさひしょうぐん、'''旭将軍'''とも)と呼ばれている。
[[以仁王]]の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を[[北陸宮]]として擁護し、[[倶利伽羅峠の戦い]]で[[伊勢平氏|平氏]]の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより[[後白河天皇|後白河法皇]]と不和となる。[[法住寺合戦]]に及んで法皇と[[後鳥羽天皇]]を幽閉して[[征東大将軍]](征夷大将軍とも)<ref group="注釈" name="seitoudaisyougun"/>となるが、源頼朝が送った[[源範頼]]・義経の軍勢により、[[粟津の戦い]]で討たれた。
== 生涯 ==
[[File:Dai_Nihon_Rokujūyoshō%2C_Shinano_Asahishōgun_Minamoto_no_Yoshinaka_by_Yoshitora.jpg|thumb|「大日本六十余将」より『信濃 旭将軍源義仲』、大判錦絵]]
=== 生い立ち ===
河内源氏の一門で[[東宮]][[帯刀先生]]を務めた[[源義賢]]の次男として生まれる。幼名は'''駒王丸'''。義賢は[[武蔵国]]の最大勢力である[[秩父重隆]]と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・[[埼玉県]][[比企郡]][[嵐山町]])と伝えられる<ref group="注釈">義賢が関東に下り最初に居住した[[上野国]][[多胡郡]](現・[[群馬県]][[多野郡]])の可能性もある。</ref>。
『[[平家物語]]』や『[[源平盛衰記]]』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・[[源義朝|義朝]]との対立により[[大蔵合戦]]で義朝の長男(義仲にとって従兄)・[[源義平|義平]]に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、[[畠山重能]]・[[斎藤実盛]]らの計らいで[[信濃国]]へ逃れたという。『[[吾妻鏡]]』によれば、駒王丸は乳父である[[中原兼遠]]の腕に抱かれて信濃国[[木曽谷]](現在の[[長野県]][[木曽郡]][[木曽町]])に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を'''木曾次郎'''と名乗った。異母兄で義賢嫡男の[[源仲家|仲家]]は義賢の死後、京都で[[源頼政]]の養子となっている。
『源平盛衰記』によると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡[[朝日村]](朝日村木曽部桂入周辺)という説もある<ref group="注釈">全国の朝日とつく名前の町村は、朝日将軍義仲のゆかりが深いところが多い。1894年(明治27年)9月に東京帝国大学史編纂官の[[重野安繹]]が、旧制松本中学(現[[長野県松本深志高等学校]])で「木曽義仲松本成長説」を講演した。その要旨は、「義仲を匿った中原兼遠は信濃国の権守であったため、国府のあった松本で信濃国中の政務を執っていた。義仲も成長すると、中原兼遠のいた松本、今井兼平の居住する今井村、樋口兼光が居住する樋口村の間で、26,7歳まで暮らした」という説で、松本地方の学生たちに故郷の英雄として[[松本盆地]]に多く残る義仲の史跡を調べたほうがよかろうなど鼓舞した。『義仲と松本平―旭将軍義仲とその子清水冠者義高』([[飯沼伴雄]]著、松本市歴研刊行会)など研究書もつくられ、松本で義仲顕彰活動の輪が広がっており、松本・義仲復権の会では『木曽義仲~江戸浮世絵武者絵に見る義仲像』『木曽義仲と松本平史跡マップ』などを刊行している。</ref>。[[諏訪大社]]に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である[[金刺盛澄]]に預けられて修行したといわれている。こうしたこととも関係してか、後に[[手塚光盛]]などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。
=== 挙兵 ===
[[ファイル:Kiso-Yoshinaka&Tomoe-gozen_statue_Kiso-t.jpg|thumb|義仲館の銅像。巴御前と並ぶ]]
[[治承]]4年([[1180年]])、[[以仁王]]が全国に[[伊勢平氏|平氏]]打倒を命じる[[令旨]]を発し、叔父・[[源行家]]が諸国の[[源氏]]に挙兵を呼びかける。[[暲子内親王|八条院]][[蔵人]]となっていた兄・仲家は、5月の[[以仁王の挙兵]]に参戦し、頼政とともに宇治で討死している。
同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい([[市原合戦]])、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは[[足利氏 (藤原氏)|藤姓足利氏]]と衝突することを避けるためといわれている<ref group="注釈">義仲が木曾谷で成長していることから、当然のように木曾谷にて挙兵したと考えられている。『源平盛衰記』でも、滋野行親が木曾谷の山下(現在の木曽町新開上田付近)で兵を集めたと記述されている。だが、[[一志茂樹]]はこの記述に疑問を抱き、義仲が根拠地としたのは滋野氏の本拠があった[[東信地方|東信]]・西上野であると説いた(「木曽義仲挙兵の基地としての東信地方」(『千曲』創刊号、1974年))。[[菱沼一憲]]も、後の[[横田河原の戦い]]にて義仲方に参加した木曾谷の武士(木曾衆)で姓氏が明確なのは中原兼遠の子供達のみであり、義仲が木曾谷で挙兵したとしても本拠地としたのは[[佐久郡|佐久]]・[[小県郡|小県]]の両郡および西上野の一部であり、市原合戦や横田河原の戦いもそれを前提に考えるべきであるとする(菱沼一憲「木曽義仲の挙兵と市原・横田河原の合戦」(初出:『群馬歴史民俗』25号(2004年)/改題:「木曽義仲の挙兵と東信濃・西上野地域社会」菱沼『中世地域社会と将軍権力』(汲古書院、2011年) ISBN 978-4-7629-4210-5 Ⅰ部第二章1節)。</ref>。
翌年の治承5年([[1181年]])6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆([[平賀氏]]等)・甲斐衆(上州衆との説もある)など3千騎を集結、[[越後国]]から攻め込んできた[[城長茂|城助職]]を[[横田河原の戦い]]で破り、そのまま越後から[[北陸道]]へと進んだ。[[寿永]]元年([[1182年]])、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・[[北陸宮]]を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した[[武田信光]]ら[[甲斐源氏]]との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。
寿永2年([[1183年]])2月、頼朝と敵対し敗れた[[源義広 (志田三郎先生)|志田義広]]と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護したことで頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・[[源義高 (清水冠者)|義高]]に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送ることで頼朝との対立は一応の決着がつくが、後にまた対立する。
4月、平氏は京の兵糧の供給地である北陸道の回復を図り、[[平維盛]]を大将として北陸に出陣。[[越前国]]で[[火打城の戦い]]に勝利した平氏軍は、[[加賀国]]に入っても連戦連勝で破竹の進撃を続ける。義仲は[[今井兼平]]に6千の先遣隊を率いさせ、平氏軍の[[平盛俊]]による先遣隊が陣を張る[[越中国]]の[[般若野]]を奇襲する([[般若野の戦い (平安時代)|般若野の戦い]])。この奇襲が功を奏して平家軍は越中・加賀国の国境にある礪波山[[倶利伽羅峠]]の西に戻ることになる。
5月11日、義仲は[[倶利伽羅峠の戦い]]で10万ともいわれる[[平維盛]]率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く加賀国での[[篠原の戦い]]にも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで[[平安京|京都]]を目指して進軍する。6月10日には越前国、13日には[[近江国]]へ入り、6月末に都への最後の関門である[[延暦寺]]との交渉を始める。[[右筆]]の大夫房[[覚明]]に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は[[大衆 (仏教)|大衆]]と合戦することになる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」といういささか恫喝めいたものだった。7月22日に義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなる。また、源行家が伊賀方面から進攻し、[[安田義定]]ら他の源氏武将も都に迫り、[[摂津国]]の[[多田行綱]]も不穏な動きを見せるようになる。25日、都の防衛を断念した平氏は[[安徳天皇]]とその異母弟・[[守貞親王]](皇太子に擬された)を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は[[比叡山]]に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。
なお、義仲の名が『[[玉葉]]』に初めて登場するのは倶利伽羅峠の戦いについて記した寿永2年(1183年)5月16日条であり、その直前の4月25日条では東国・北国の反乱の中心を頼朝・[[武田信義]]としており、無位無官の義仲は京で存在を知られていなかった。義仲の上洛が迫った7月2日条でも、今回は義仲・行家のみが上洛して頼朝は上洛しないと記されており、著者の[[九条兼実]]は源氏勢力を一体視している。このことが入京後の義仲を頼朝代官とする見方を生むことになる。
=== 入京 ===
7月27日、後白河法皇は義仲に同心した[[山本義経]]の子、[[錦部義高|錦部冠者義高]]に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家とともに[[蓮華王院]]に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた<ref group="注釈">『玉葉』7月28日条には、「参入の間、かの両人相並び、敢へて前後せず。争権の意趣これを以て知るべし」とある。</ref>。また2人の風体のみすぼらしさは「夢か、夢に非ざるか」と貴族を仰天させた<ref>『[[吉記]]』</ref>。
30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった<ref>『玉葉』7月30日条</ref>。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した<ref>『吉記』7月30日条</ref>。
8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は[[従五位|従五位下]]・[[馬寮|左馬頭]]・越後守、行家は従五位下・[[備後国|備後守]]に任ぜられる<ref>『[[百錬抄]]』同日条、『[[玉葉]]』8月11日条</ref>。『平家物語』ではここで義仲が'''朝日の将軍'''という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある[[伊予国|伊予守]]に、行家が[[備前国|備前守]]に遷ったとしているが、この時点では義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌避した記録は見られない<ref name="『玉葉』8月12日条">『玉葉』8月12日条</ref>。行家は13日に備前守に遷ったが、今度はこれに不満を示した義仲が15日に伊予守に遷り、再び行家が義仲と差があると不満を示して閉門するに至った。
=== 皇位継承問題への介入 ===
後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった<ref name="『玉葉』8月12日条"/>。やむを得ず、都に残っている[[高倉天皇|高倉上皇]]の二人の[[皇子]]、三之宮([[惟明親王]])か四之宮(尊成親王、後の[[後鳥羽天皇]])のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が[[即位]]していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の[[俊堯]]を介して[[朝廷 (日本)|朝廷]]に申し立てた。
しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側が受け入れるはずもなかった。摂政・[[九条兼実]]が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」<ref>『玉葉』8月14日条</ref> と言うように、[[武士]]などの「皇族・貴族にあらざる人」が[[皇位継承問題]]に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。朝廷では義仲を制するための御占が数度行われた末、8月20日に四之宮が[[践祚]]した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・[[高階栄子|丹後局]]の夢想が大きく作用したという<ref>『玉葉』8月18日条</ref><ref group="注釈">三之宮が丹後局と寵愛を競う坊門局(平信重の娘・[[円恵法親王]]の生母)の姪孫であったことも影響があったと考えられている。</ref>。
いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や[[公卿]]達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのである。
=== 治安回復の遅れ ===
また義仲は京都の治安回復にも期日を要した。[[養和の飢饉]]で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。9月になると「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」<ref>『玉葉』9月3日条</ref> という有様で、治安は悪化の一途をたどった。京中守護軍は義仲の部下ではなく、行家や安田義定、[[近江源氏]]・[[美濃源氏]]・[[摂津源氏]]などの混成軍であり、義仲が全体を統制できる状態になかった。
『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米がなければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。
後白河法皇は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」<ref>『玉葉』9月21日条</ref> と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の[[樋口兼光]]を京都に残して[[播磨国]]へ下向した。
=== 後白河法皇への抗議 ===
義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」というもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」<ref>『玉葉』10月2日条</ref> と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には[[寿永二年十月宣旨]]を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える<ref>『百錬抄』</ref>。
義仲は、[[西国]]で苦戦を続けていた。閏10月1日の[[水島の戦い]]では平氏軍に惨敗し、有力武将の[[源義清 (矢田判官代)|矢田義清]]・海野幸広を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて[[上洛]]するという情報だった<ref>『玉葉』閏10月17日条</ref><ref group="注釈">『玉葉』閏10月17日条には、「或人云はく、頼朝の郎従等、多く以て秀平の許に向ふ。仍つて秀平頼朝の士卒異心ある由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す」とあり、[[藤原秀衡]]が義仲に情報を伝えたとしている。</ref>。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした<ref name="『玉葉』同日条">『玉葉』同日条</ref>。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし[[御教書]]の発給<ref>『玉葉』閏10月21日条</ref>、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。
義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し<ref>『玉葉』閏10月20日条</ref>、26日には[[興福寺]]の衆徒に頼朝討伐の命が下された<ref>『玉葉』閏10月26日条</ref>。しかし、前者は行家、[[源光長|土岐光長]]の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は[[瓦解]]状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった<ref>『玉葉』閏10月27日条</ref><ref group="注釈">義仲に従ったのは子飼いの部下を除くと、志田義広と近江源氏だけだった。義広は義仲滅亡後も抵抗を続けるが、元暦元年(1184年)5月4日に鎌倉軍との戦闘で討ち取られる。近江源氏の山本義経は法住寺合戦後に若狭守に任じられるが、その後の消息は不明である。</ref>。
=== 決裂 ===
11月4日、[[源義経]]の軍が布和の関([[不破関|不破の関]])にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示すが<ref>『玉葉』11月16日条</ref>、法皇は延暦寺や[[園城寺]]の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ[[法住寺 (京都市)|法住寺殿]]の武装化を計った。さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ。
院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていたが<ref>『玉葉』11月8日条</ref>、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。[[院宣]]に背いて頼朝軍と戦うのであれば、[[宣旨]]によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった<ref>『玉葉』11月17日条、『[[吉記]]』『百錬抄』11月18日条</ref>。
これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している<ref>『玉葉』11月18日条</ref>。義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に[[後鳥羽天皇]]、[[守覚法親王]]、[[円恵法親王]]、[[天台座主]]・[[明雲]]が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。
=== 法住寺殿襲撃 ===
{{Main|法住寺合戦}}
11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は土岐光長・[[源光経|光経]]父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。義仲の士卒は、[[御所]]から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げた(『玉葉』同日条)。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」<ref>『玉葉』11月22日条</ref> と慨嘆している。義仲は[[天台宗]]の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという<ref>『[[愚管抄]]』</ref>。20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首をさらした<ref>『百錬抄」同日条、『吉記』は21日とする。</ref>。
21日、義仲は[[松殿基房]](前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」<ref name="『玉葉』同日条"/> と命じ、22日、基房の子・[[松殿師家|師家]]を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。『平家物語』は義仲が基房の娘([[藤原伊子]]とされる)を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる<ref group="注釈">義仲と基房の娘の婚姻を語るのは『平家物語』だけで、『玉葉』『愚管抄』には記述がないため、『平家物語』の創作とする見解もある。</ref>。
11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・[[近衛基通]]の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、[[中納言]]・[[藤原朝方]]以下43人が[[解官]]された<ref>『吉記』『百錬抄』同日条、『玉葉』29日条</ref>。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する<ref name="『吉記』同日条">『吉記』同日条</ref><ref group="注釈">平治の乱以降、院御厩別当と左馬頭は平氏一門が独占していた。ただし12月10日には、左馬頭を辞任している。同一人物が両方の職を兼任することはなかったため、その先例に従ったものと推測される。</ref><ref name="『吉記』同日条"/>。10日には源頼朝追討の[[院庁下文]]を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた<ref>『百錬抄』『吉記』同日条</ref>。
=== 木曾殿最期 ===
[[寿永]]3年([[1184年]])1月6日、鎌倉軍が[[墨俣町|墨俣]]を越えて[[美濃国]]へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを[[征東大将軍]]に任命させた<ref group="注釈" name="seitoudaisyougun"/>。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、[[源範頼]]・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵はなく、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した([[宇治川の戦い]])。
戦いに敗れた義仲は[[今井兼平]]ら数名の家臣とともに落ち延びるが、21日、近江国粟津(現在の[[滋賀県]][[大津市]])で討ち死にした([[粟津の戦い]])。[[九条兼実]]は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。[[藤原信頼|信頼]]の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」<ref name="『玉葉』同日条"/> と評した。[[享年]]31。26日、検非違使が七條河原で義仲と郎党[[高梨忠直]]、兼平、行親らの首を獄門の前の樹に掛けた(『吾妻鏡』)。
『[[平家物語]]』には、義仲が幼い頃から苦楽を共にしてきた[[巴御前]]との別れ、兼平との語らい等、巴や兼平の義仲へのお互いの苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。
義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]の婿として[[鎌倉]]にいたが、逃亡を図って討たれた。義仲の家系は絶えたとされるが諸説あり、[[戦国大名]]の[[木曾氏]]は義仲の子孫を自称している。
== 経歴 ==
[[File:鎌形八幡宮.jpg|thumb|150px|鎌形八幡宮 比企郡嵐山町鎌形1993最寄東武東上線武蔵嵐山駅]]
[[File:木曽義仲産湯清水.jpg|thumb|150px|木曽義仲産湯清水 鎌形八幡宮本殿石段右、石碑に刻字]]
※日付=旧暦
* [[寿永]]2年([[1183年]])
** 8月10日:[[従五位|従五位下]]に叙し、[[馬寮|左馬頭]]に[[任官]]。[[越後国|越後守]]兼任。
** 8月16日:[[伊予国|伊予守]]兼任。越後守の任替。
** 10月13日:従五位上に昇叙。伊予守如元。
** 12月1日:院御厩別当(みまやのべっとう)に任官。
** 12月10日:左馬頭辞任
* [[寿永]]3年([[1184年]])
** 1月2日:[[従四位|従四位下]]に昇叙。[[昇殿]]を許される。伊予守如元。
** 1月15日:[[征東大将軍]][[宣下]]<ref group="注釈" name="seitoudaisyougun"/>。
== 人物 ==
; 生誕地
: 義仲の生誕地は、現在の[[埼玉県]][[比企郡]][[嵐山町]]だといわれている。現在は生誕地に鎌形八幡神社が建ち、義仲の産湯の清水が残されている<ref>島崎直人「木曾義仲関係史蹟を歩く」(鈴木彰・樋口州男・松井吉昭編著『木曾義仲のすべて』新人物往来社、2008年)182頁</ref>。義賢の居住地の[[上野国]][[多胡郡]]の説もある。『尊卑文脈』によると母親は遊女とある。
; 家臣・協力者
: 義仲の下で活躍した、[[今井兼平]]、[[樋口兼光]]、[[根井行親]]、[[楯親忠]]の4人の武将を'''義仲四天王'''という。養父に[[中原兼遠]]、[[右筆]]に[[覚明]]。
; 容貌
: 「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしかりけり」「色白う眉目は好い男にて有りけれども立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」(『[[源平盛衰記]]』)
; 銅像
:* [[般若野の戦い (平安時代)|般若野の戦い]]の古戦場とされる[[富山県]][[高岡市]]の[[弓の清水]]に義仲の銅像がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takaoka.or.jp/viewpoint/archives/885|title=弓の清水|website=高岡市観光ポータルサイト「たかおか道しるべ」|publisher=高岡市観光協会・高岡市観光交流課|accessdate=2022-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.info-toyama.com/attractions/21099|title=弓の清水|website=富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ」|publisher=富山県地方創生局観光振興室・とやま観光推進機構|accessdate=2022-04-17}}</ref>。また、同市の中田中央公園にも義仲の銅像がある<ref>「とやまの公園空中散歩 中田中央公園(高岡市常国)」『[[北日本新聞]]』2018年5月8日付、11面。</ref>。
:* 富山県[[小矢部市]]の[[埴生護国八幡宮]]に騎馬姿で手綱を持った義仲の銅像がある<ref>{{Cite news|和書|title=義仲像すっきり 小矢部・埴生護国八幡宮、おみぬぐい|newspaper=[[富山新聞]]|date=2021-12-14|url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/tym/607044|access-date=2022-04-17}}</ref>。また、同市の[[石動駅]]前にも義仲の銅像がある<ref>{{Cite book|和書|title=徹底ガイド!北陸新幹線まるわかりBOOK|publisher=[[マイナビ]]|year=2015|page=110|isbn=978-4-8399-5292-1}}</ref>。
:* [[長野県]][[木曽郡]][[木曽町]](旧・[[日義村]])の歴史資料館「義仲館」の中庭に、[[巴御前]]と並ぶ銅像が立つ。
; 唱歌・地名
: 義仲は「[[信濃の国]]」(長野県歌)に「朝日将軍義仲」として、[[武田盛信|仁科の五郎信盛]]、[[太宰春台|春台太宰先生]]、[[佐久間象山|象山佐久間先生]]とともに信州出身の著名人として詠われている。また義仲が育った木曽郡日義村は、「朝'''日'''将軍'''義'''仲」に由来して明治7年([[1874年]])に命名された地名であった(日義村は[[2005年]][[11月1日]]から木曽町となり消滅)。
; 祭事・催事
: [[清和源氏]]発祥の地、[[兵庫県]][[川西市]]で毎年4月に行われる[[源氏まつり]]の「懐古行列」では、先祖・[[源満仲]]を始めとする清和源氏累代の武将達と並び騎馬武者姿の義仲が登場する。
; 神楽
: 胡四王神楽。[[岩手県]]指定無形民俗文化財。早池峰岳流山伏神楽の弟子神楽。[[慶長]]3年([[1598年]])幕銘の獅子頭が伝承されており、そのころから始まっていた。「[http://www.h3.dion.ne.jp/~iwagei/ko4o&natui04.htm 岩手県立博物館平成16年度伝統芸能鑑賞会/岩手県文化財愛護協会第57回岩手郷土芸能祭]」に詳しい。
== 評価 ==
* 小説家[[芥川龍之介]]は「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯」「彼は赤誠の人也、彼は熱情の人也」と義仲を評して、敬愛していた。<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/539069|title=芥川龍之介が3万字論文書いた「木曽義仲」の魅力 松尾芭蕉も愛惜した猛将の知られざる実像|website=歴史|publisher=東洋経済オンライン|date=2022-03-21|accessdate=2023-10-15}}</ref>
== 墓所 ==
[[ファイル:KisoYoshinaka-Haka-M1924.jpg|thumb|大津市義仲寺の境内にある義仲の墓]]
* 義仲の墓所は、[[室町時代]]に没地近くに開かれた朝日山[[義仲寺]]([[滋賀県]][[大津市]]馬場)にあり、義仲寺は[[江戸時代]]の俳人・[[松尾芭蕉]]の墓があることでも有名な寺である<ref>{{Cite web|和書|url= https://allabout.co.jp/gm/gc/398342/|title= 木曽義仲と松尾芭蕉のお墓がある滋賀県の義仲寺|publisher=ALL About|date=2012年8月14日|accessdate=2022年8月28日}}</ref>。芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、生前から義仲の隣に葬って欲しいと言っていた。芭蕉は江戸在住だったが、大阪の句会に出席したとき亡くなったので、弟子が義仲寺に運んだという。
* [[京都市]][[東山区]]の[[法観寺]]には、[[首塚]]がある。義仲の首は京都でさらし首にされた。後に、法観寺の近くに埋葬されていた。これを移したものである。
* [[長野県]][[木曽町]]日義の[[徳音寺]]には、義仲の霊廟と、上段に義仲を、一段下に樋口兼光、巴御前、小枝御前、今井四郎の墓が建立されている。
* [[長野県]][[木曽町]]福島の[[興禅寺]]には、義仲と木曽氏の三基並んだ墓を木曽氏が建立したという。
* 尚、木曽家の家紋としては[[竜胆]]紋、[[九曜紋]]が用いられているとのこと。
== 子孫 ==
{{main|木曾氏}}
* [[源義基 (木曾義基)|木曾義基]] - 義仲の三男。父・義仲の敗死後、安曇郡の豪族[[仁科氏|仁科義重]]に臣従し、曽山神明宮(長野県大町市八坂)に庇護され、のちに木曽谷の領主に据えられた<ref>曽山(2015)、p.30</ref>。また、[[粟津の戦い]]で義仲が戦死すると、家臣であった[[今井氏]]、[[高梨氏]]、[[楯氏]]、町田・小野沢・萩原・串渕・宮川・諸田などに匿われ、現在の[[群馬県]][[渋川市]][[北橘村]]箱田に落ち延びたともされる。義仲の崇敬社である[[岡田神社]]、[[沙田神社]]、[[阿禮神社]]の分霊を勧請し[[木曾三社神社]]・[[木曾三柱神社]]を創建。箱田に住居を構えたことが始まりとされる<ref>今井善兵衛『更生農村 ―北橘村の実情―』(日本評論社、1935年)</ref>。墓は群馬県渋川市北橘町箱田777番地の[[木曾三柱神社]]境内に[[朝日塚古墳]]として残る。
* [[葦原検校]](木曾義長) - 義仲の子孫と称した[[江戸幕府]]の[[奥医師]]。木曾氏の再興を目指した人物<ref>大浦宏勝「[http://jsmh.umin.jp/journal/51-2/322.pdf 葦原検校の遺跡と木像]」(『日本医史学雑誌』51巻2号、2005年)</ref>。
== 名所・旧跡・観光スポット ==
* [[箱田城]]址
* [[木曾三社神社]]
* [[木曾三柱神社]]
* [[義仲寺]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 鈴木彰・[[樋口州男]]・松井吉昭編著『木曾義仲のすべて』[[新人物往来社]]、[[2008年]][[12月]]。
* 曽山友滋『木曽義仲遺児「万寿丸」と安曇豪族「仁科氏」』歴研、2015年。
* 今井善兵衛『更生農村 : 北橘村の実情 』日本評論社、1935年。
* 今井善一郎『習俗歳時記』煥乎堂、[[1975年]]。
* 今井善一郎『赤城の神』煥乎堂、[[1974年]]。
== 関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
; 評論
* [[芥川龍之介]]「木曾義仲論」(1910年 [[東京都立両国高等学校・附属中学校|東京府立第三中學校]]学友会誌)
; 小説
* [[檀一雄]]『木曾義仲』(1955年 [[筑摩書房]])
* [[松本利昭]]『木曽義仲』(1993年 [[光文社文庫]])
* [[山田智彦]]『木曽義仲』(1999年 [[日本放送協会]])
* [[小川由秋]]『木曽義仲 「朝日将軍」と称えられた源氏の豪将』(2004年 [[PHP文庫]])
* [[天野純希]]『猛き朝日』(2023年 [[中央公論新社]])
; 映画
* 『[[新・平家物語 義仲をめぐる三人の女]]』(1956年 [[大映]] 監督:[[衣笠貞之助]] 主演:[[長谷川一夫]])
; テレビドラマ
*『[[武蔵坊弁慶 (テレビドラマ)|武蔵坊弁慶]]』(NHK、1986年、演:[[佐藤浩市]])
*『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』(NHK大河ドラマ、2005年、演:[[小澤征悦]])
*『[[鎌倉殿の13人]]』(NHK大河ドラマ、2022年、演:[[青木崇高]])
; 教養番組
* [[英雄たちの選択]]『地方の怒り 都を制圧す!~木曾義仲の野望と挫折~』(2019年2月21日 [[NHK BSプレミアム]])
; 歌謡曲
* [[三波春夫]]「木曽義仲一代記」(1994年 [[テイチクエンタテインメント]])
== 関連項目 ==
* [[弓の清水]]
* [[項羽]] - [[平家物語]]における義仲の最期の場面が、『[[史記]]』の「項羽本紀」の項羽の最期の場面と重ね合わせられたものであるという。
* [[光輪寺 (長野県朝日村)|光輪寺]] - 中興を義仲とする[[高野山真言宗]]の古刹。義仲が[[鉢盛山]]の[[鉢盛峠]]を越えよく参詣したといわれている。
* [[木曾冠者源義仲及其一門]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Minamoto no Yoshinaka}}
* [https://yoshinakayakata.com/ 義仲館 YOSHINAKA MUSEUM]
* [https://www.town-kiso.com/manabu/rekishi/100211/ 木曽義仲 - 木曽町公式サイト]
* [https://www.pref.toyama.jp/1103/kurashi/kyouiku/shougaigakushuu/kj00012567.html 富山県/「木曾義仲・巴御前 出世街道」再発見・再発信事業]
* {{Kotobank}}
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信濃国
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信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。
『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。
古くは「しなぬ」と呼ばれ、継体天皇条には「斯那奴阿比多」、欽明天皇条には「斯那奴次酒」と「斯那奴」(しなぬ)の字が充てられている。
「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代の国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから唱えられている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。また級長戸辺命(しなとべのみこと、風神)説もある。
小林敏男は、「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとした。
7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の木簡は、7世紀末の藤原宮跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『古事記』にある「科野国造」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである。これが大宝4年(704年)の諸国印鋳造時に信濃国に改められた。「科野」は和銅6年(713年)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715年~740年)の木簡となる。『日本書紀』には信濃国について、「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、南宋から帰朝した禅宗の留学僧によって「信州」と称されるようになった。治承3年(1179年)に仁科盛家が覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡御厨藤尾郷」とあるのが初出である。
神代の国譲りにおいて、出雲の地で建御雷神に敗れた建御名方神が、科野国の洲羽の海(諏訪湖)まで逃れ、「この地から出ないし、父の大国主神や兄の事代主神に従う。葦原の国は天の神に奉るから殺さないでくれ」と言って同地に鎮まったことが『古事記』に見える。
一方『諏訪大明神絵詞』など諏訪に伝わる伝承では、建御名方神が洲羽に侵入し、土着の洩矢神とそれぞれ藤蔓と鉄鑰を持って争い、建御名方神が勝利したと伝わる。この後、建御名方神の後裔は大祝の諏訪氏に、洩矢神の後裔が神長官の守矢氏になったとされる。
また建御名方神が八坂刀売神を娶って生まれた御子神達が、科野国の発展に大きく貢献したとされる。
史書によると、崇神天皇の時代に神武天皇後裔の多氏族である武五百建命が初代科野国造に任じられたと伝わる。信濃国の国造についての実像は不明であるが、広大な信濃を1氏族のみが支配していたとは考え難く、出雲国の出雲国造のように国内で突出した存在がいたのではなく、讃岐国のように複数の氏族が国造として任命されており、欽明天皇の宮に舎人として集ったことに由来する金刺氏や、敏達天皇の宮に舎人として集ったことに由来する他田氏のような、疑似的同族関係を結んでいたと考えられる。
考古遺物としては、これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・松原遺跡の中心部分が、1990年の上信越自動車道建設に伴う長野インターチェンジ予定地付近の発掘調査で発見された。これは縄文時代から中世に至る各時代の包含層が千曲川の洪水堆積層を挟んでいることが判明しており最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ程入る規模がある。同時に日本海側から千曲川を遡り関東平野に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。また3世紀の遺跡として、木島平村で根塚遺跡が発見されている。この遺跡からは鉄剣が出土しているが、同様の鉄剣は韓国の蔚山下垡遺跡からも発見されており、渡来人との関連性が指摘されている。また、弥生時代の遺跡として伊勢宮遺跡と篠ノ井遺跡が発見されているが、この遺跡から発見された人骨は渡来人の特徴が見られた。
4世紀前期から6世紀初頭にかけて、北信で埴科古墳群や川柳将軍塚古墳など、ヤマト王権の影響を受けた前方後円墳が多数築造された。また埴科古墳群の森将軍塚古墳の被葬者は初代科野国造の建五百建命とする説がある。一方南信では4世紀に代田山狐塚古墳が造営され、その後1世紀ほど築造が途絶えるものの、5世紀後半から6世紀末頃にかけて飯田古墳群が成立し、多種多様な古墳が築造された。6世紀中期には現在の箕輪町に松島王墓古墳が築造され、筑摩郡周辺にも弘法山古墳が造営された4世紀以降2世紀近く途絶えていた古墳が円墳を中心に再び築造される。しかし諏訪地域への古墳文化の流入は遥かに遅く、5世紀代にフネ古墳、片山古墳が築造されるものの、前方後円墳は下諏訪青塚古墳が唯一築造されるにとどまった。
4世紀から5世紀後半にかけての北部シナノの千曲川中流域における前方後円墳の集中と、5世紀後半から6世紀にかけての南部シナノの天竜川流域における前方後円墳の集中という交代現象は、シナノ特有の在地首長の移住というものではなく、全国的な動きであった。
古墳時代には、倭系百済官僚として科野の氏(ウジ)を持つ人物が史書に見える。科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する。信濃の人間が外交に従事したのは、ヤマト王権内で信濃の人間が一定の役割を担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が伝えられたからであると考えられる。現在の伊那市手良には「大百済毛・小百済毛」という地域があるが、この地名は百済からの渡来人によって開発されたという伝承がある。また、手良という地名も、『新撰姓氏録』に見える「弖良公」に由来するという。
現在の長野市篠ノ井にある長谷寺やその境内にある長谷神社は、小長谷部が創建したと考えられている。小長谷部は、5世紀末期から6世紀初期に存在した可能性がある武烈天皇の部民とされる。『日本書紀』によれは、武烈天皇3年には、大伴室屋が信濃国の男丁(よぼろ)を集めて城を作るように武烈天皇から詔を受けているが、この「信濃国の男丁」は小長谷部のことであると考えられている。また、小長谷部の人物として名前が残っているのは、天平勝宝4年(752年)に正倉院に奉納された白布に記された「小長谷部尼麻呂」がいる。さらに、姨捨山(おばすて)も小長谷部(おはつせべ)に由来するとされる。6世紀後半には欽明天皇の時代に科野国造後裔の金刺舎人直、敏達天皇の時代に同じく科野国造後裔の他田舎人直が成立し、後世に諏訪大社下社・上社の大祝家や信濃国内の複数の郡司を務めた。その一方で、安曇郡司は安曇部氏が務めた。
信濃国に存在した名代・部曲は、史料に見えるものは刑部、小長谷部、金刺舎人、他田舎人、生王部、物部、尾張部、神人部である。その他には屋代古墳群出土の木簡に見える金刺部、他田部、若帯部(舒明・皇極の名代)、穂積部、守部、酒人部、宍部、宍人部、三家人部、石田部、戸田部や、それ以外の木簡に見える私部(天平20年(748年)4月の写書所解に更級郡村神郷戸主の私部知麻呂や同戸口の私部乙麻呂の名が見える)、倉橋部(平城宮若犬養門地区から出土した木簡に見える筑摩郡山家郷の椋橋部逆や『続日本紀』神護景雲2年(768年)5月条に水内郡の人として見える倉橋部広人がいる)、丸子(仁寿3年(853年)の願経に佐久郡の丸子真智成が見える)、久米舎人(『類聚国史』巻87の延暦14年4月条に小県郡人久米舎人望足が見え、『続日本紀』天平19年(747年)5月条に叙位の記事が見える、高句麗系のウジ名を持つ前部宝公の妻・久米舎人妹女は、小県郡あるいは更級郡に居住していたと考えられている)、大伴、安曇部、建部、爪工部、辛犬甘がいる。允恭天皇期の刑部、武烈天皇期の小長谷部、欽明天皇期の金刺舎人などの名代は、安曇郡、高井郡を除く信濃国全ての郡に分布している。信濃国におけるウジ名や部名の特徴として、大宝2年(701年)の『御野国戸籍』など、東山道の隣国である美濃国に分布するものが見えることが挙げられる。特に、若帯部、守部、穂積部などは、美濃国以外にはあまり例が知られていない。以上の部の設定は、古くても5世紀末、その多くは6世紀前半以降に順次設定されていったと考えられる。
飛鳥時代中期の皇極天皇3年(644年)、本多善光により開基された善光寺は、諏訪大社と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。大化元年(645年)には、大化の改新によって令制国が発足し、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「評」と呼ばれる行政区画を全国に設置した。信濃国は当初、伊那(伊奈)評・諏方(諏訪)評・束間(筑摩)評・安曇(阿曇)評・水内評・高井評・小懸(小県)評・佐久評・科野評(後に更級と埴科に分立)などが成立していたと考えられ、現在の木曽地方を欠く大部分を領域とした。これらの評は、大宝律令の成立後、郡に改組された。越国に大化3年(647年)に渟足柵が、大化4年(648年)に磐舟柵が作られて科野から柵戸が派遣された。また、斉明天皇6年(660年)12月には、科野国が、蝿の大群が巨坂を西の方向に飛び越えて行ったことを朝廷に報告したとあり、それに先立つ推古天皇35年(627年)5月には、蝿の集団が信濃坂を越えて東の方へ行き、上野国で散り失せるとあることから、蝿に関して対応する特徴的な記述がされている。
天武天皇元年(672年)の壬申の乱には、科野の兵が土師馬手らに従い、大海人皇子(天武天皇)の側に立って活躍した。天武天皇14年(685年)には高田新家らに「束間温湯」(つかまのゆ)に行宮(あんぐう)を造らせている。持統天皇5年(691年)の「須波神」「水内神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。大宝2年(702年)12月に、始めて美濃国に木曾山道を開くという記述があり、和銅6年(713年)7月には、美濃国と信濃国の国境の道が険阻であり、往還が難しいということで、木曽路が開通している。また、これらの記述の他にも、「信濃路は 今の墾道刈株に 足踏ましなむ 沓はけ我が背」(万葉集 巻14-3399 相聞 東歌)と詠まれており、飛鳥時代の末期からは、信濃国における官道の開発がすすんでいた。
奈良時代には、左馬寮の管轄下で望月牧など、官営による16の勅旨牧と、それを統括するための牧監庁が置かれた。養老5年(721年)6月26日に南部を諏方国として分置したが、天平3年(731年)3月7日に合併して元に復した。養老3年(719年)以後は美濃按察使の管轄下に置かれた。8世紀前半のものとみられる屋代遺跡出土の木簡には、「埴科郡大穴郷高家里」と「守部安万呂」の名前が併記されており、この「高家(たかやけ)」は、大きな高い建物の宅(屯倉)の意味で、ここに住んでいた守部安万呂は屯倉の管理者であったと考えられる。神護景雲2年(768年)には、各々の善行に対して朝廷から褒美を得た全国9人のうち、信濃国からは水内郡の刑部智麻呂と倉橋部広人や更級郡の建部大垣、伊那郡の他田舎人千世売と4人までもを占めた。
奈良時代末期から平安時代初期にかけては、信濃国内の渡来人の改姓が続々と進んだ。『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761年)3月に、百済人の余民善女等の4人が百済公、韓遠智などの4人が中山連、王国嶋など5人が楊津連、甘良東人等3人が清篠連、刀利甲斐麻呂等7人が丘上連、戸浄道等4人が松井連、憶頼子老等41人が石野連、竹志麻呂等4人が坂原連、生河内等2人が清湍連、面得敬等4人が春野連、高牛養等8人が浄野造、卓杲智等2人が御池造、延爾豊成等4人が長沼造、伊志麻呂が福地造、陽麻呂が高代造、烏那竜神が水雄造、科野友麻呂などの2人が清田造、斯葛国足等2人が清海造、佐魯牛養等3人が小川造、王宝受等4人が楊津造、答他伊奈麻呂等5人が中野造、調阿気麻呂等20人が豊田造(ここまで百済人)、高麗人の達沙仁徳等2人が朝日連、上部王虫麻呂が豊原連、前部高文信が福当連、前部白公等6人が御坂連、後部王安成等2人が高里連、後部高呉野が大井連、上部王弥夜大理等10人が豊原造、前部選理等3人が柿井造、上部君足等2人が雄坂造、前部安人が御坂造(ここまで高句麗人)、新羅人の新良木舍姓県麻呂等7人が清住造、須布呂比満麻呂等13人が狩高造(ここまで新羅人)、漢人の伯徳広足等6人が雲梯連、伯徳諸足等2人が雲梯造に改姓した。天平神護2年(766年)には、従七位上・科野石弓が石橋連の姓を賜っている。また延暦8年(789年)には、筑摩郡人の外少初位下後部牛養が田河造の姓を賜っている。延暦16年(797年)には、外從八位下前部綱麻呂が安坂姓を下賜され、これに続くように延暦18年(799年)には、信濃国人の外從六位下卦婁眞老、後部黒足、前部黒麻呂、前部佐根人、下部奈弖麻呂、前部秋足、小縣郡人の无位上部豊人、下部文代、高麗家継、高麗継楯、前部貞麻呂、上部色布知等が、自分たちの先祖が飛鳥時代に帰化していることと天平勝宝9年(757年)4月4日の勅令を根拠として、自らの高句麗人の姓を日本人の姓に改めたいと朝廷に請願した結果、卦婁眞老等は須須岐姓、後部黒足等は豊岡姓、前部黒麻呂は村上姓、前部秋足等は篠井姓、上部豊人等は玉川姓、下部文代等は清岡姓。高麗家継等は御井姓。前部貞麻呂は朝治姓。上部色布知は玉井姓をそれぞれ下賜された。田河造は田川、安坂は筑北村安坂、須須岐は松本市薄、豊岡は長野市戸隠豊岡、村上は坂城町村上や大町市村上、篠井は長野市篠ノ井、御井は東御市深井に由来する、前部秋足が住んでいたと考えられる篠ノ井には、軻良根古神社(からねこじんじゃ)が存在しているが、この神社は「韓(から)の根子(高貴な男性に対する尊称)」という意味で、秋足のような高句麗系渡来人が祭祀していた神社であった可能性が指摘されている。そして千曲川対岸の雨宮には唐崎神社があり屋代には須須岐水神社もあって同様に渡来人の祭祀が関連するものと考えられる。
弘仁8年(817年)には最澄が東山道神坂峠の信濃側に広拯院を建立した。初期荘園の立荘と並行して、仁和元年(885年)には公営田の設置が見られた。同4年(888年)には前年に発生した仁和地震の影響により八ヶ岳の山麓が大規模に崩壊し千曲川を約1年に渡って堰き止め、日本最大規模とされる河道閉塞を形成した。これはその後決壊し、「仁和大水」と言われる大洪水を起こした。この被害は100km以上下流まで及んだとされる。そして千曲市では屋代条里田が4mの堆積砂、その対岸に当たる長野市の石川条里田は2mの堆積砂の下に各々発見されている。
また、信濃国は罪人の配所に定められ、中流の範囲とされた。なお、元慶3年(879年)9月に鳥居峠をもって美濃・信濃の国境と定められた。
平安時代の中期には桓武平氏の平将門が、東山道を京に向かう平貞盛に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した滋野氏や小県郡の郡司他田氏と合戦に及ぶなど(938年2月29日)、この時代における平氏内紛の舞台ともなった。また清和源氏は経基王以来、信濃守に任官される者が多く、源氏の土着が相次いで見られた(信濃源氏)。この頃には古今和歌集や大和物語集、今昔物語集によって信濃に姨捨伝説の存在することが知られ月見の名所としても姨捨の名を高める。古代の律令体制から中世の権門体制に移行する中で、院政の時代になると、院宮分国制の進展により白河法皇や鳥羽法皇の知行国となり、その後は公卿に引き継がれた。11世紀後半以降には最高権力者である院や摂関家への寄進地系荘園の立荘が本格化し、国衙領は縮小する傾向にあった。1108年(天仁元年)には、浅間山で天明噴火の数倍と言われる規模の大噴火(天仁噴火)が発生し、山麓では大火砕流によって複数の集落が埋没した可能性がある。
平安時代末期に入ると、源氏内紛による久寿2年(1155年)の大蔵合戦で敗れた河内源氏源義賢の遺児源義仲が木曾谷の中原兼遠の元に匿われた。保元元年(1156年)の保元の乱、平治元年(1159年)の平治の乱に際して、滋野氏、諏訪氏、片桐氏、平賀氏など多くの信濃武士は、源義賢と敵対した兄の源義朝に従った。ただし、崇徳上皇の近臣であった村上氏は、信濃に所領を持つ伊勢平氏の平家弘らと共に上皇方についた。後白河法皇の第三皇子以仁王は信濃を含む東山・東海・北陸道の武士に平家追討の令旨を発し、源行家によって、新羅三郎源義光の子孫である平賀盛義・義信父子(平賀冠者)、岡田親義(岡田冠者)、そして源(木曾)義仲に伝えられた(『平家物語』)。義仲は信濃の兵を統べて挙兵し、横田河原の戦いで平氏の軍勢を破ると、以仁王の遺児北陸宮を奉じて北陸道経由で入洛したが、この動きに対し、源義朝の嫡男源頼朝は北条時政をして伊那や諏訪の武士を糾合させ、黄瀬川の戦いに出陣させた。村上氏、平賀氏らも頼朝に従った。その後、義仲は西国の平家追討のため京を離れたが水島の戦いで敗れ、さらに上洛した頼朝の弟範頼、義経らに近江国で討伐された(粟津の戦い)。平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期は不明で、室町時代後期の木曽地方は公式にはまだ美濃国に属しており戦国時代にまで下る可能性があるとする説もある。
鎌倉時代初期には関東御分国の1つとして鎌倉幕府の知行国であった。その後の知行権は公卿や興福寺・東大寺等の有力寺院の手に移るが、在庁官人や国人衆の幕府御家人化が進み、京都の遙任国司や知行国主、荘園領家らの影響力は薄れ、鎌倉幕府の介在なしには税の徴収も困難となり、「国司その用あてざる国」と揶揄された(『明月記』)。戦国時代まで存在した守護職には比企氏や執権北条氏、小笠原氏、諏訪氏、吉良氏、上杉氏、斯波氏、武田氏らがいた。
幕府樹立後、初代の信濃守護には比企能員が就任し、信濃国目代を兼帯して国衙機構も掌握したが、建仁3年(1203年)の比企能員の変で北条時政に滅ぼされ、将軍源頼家の近習で、十三人の合議制に対抗する側近であった中野能成や小笠原長経も連座した。時政は比企氏以外にも幕府重臣の粛清を進め、元久2年(1205年)には平賀義信の次男平賀朝雅を傀儡の新将軍として擁立しようとしたが、失脚した(牧氏事件)。建暦3年(1213年)、御家人泉親衡が、信濃武士と結んで頼家の遺児千寿丸を将軍に擁立し、信濃守護も兼帯する執権北条義時の打倒を図る陰謀が発覚した(泉親衡の乱)。承久3年(1221年)の承久の乱では幕府の仁科盛遠への処遇も乱勃発の一端となった。信濃武士の多くは幕府方につき、東山道軍の武田信光、小笠原長清に従い、後鳥羽上皇方の仁科氏らは北条朝時の北陸道軍に敗れた。幕府方についた信濃武士は新補地頭として西国に所領を得たが、それまで東国に限定的であった幕府の権威を浸透させる目的で西遷を余儀なくされた者も多かった。また幕府が朝廷に対して優位に立ち、信濃国内における北条氏の所領も関東御領の春近領を中核として拡大すると、宝治元年(1247年)の宝治合戦で武功を挙げた諏訪盛重や内管領を務めた諏訪盛経に代表されるように、北条氏の得宗被官(御内人)として活躍する者も現れた。得宗専制が強化されてゆく中、弘安8年(1285年)の霜月騒動では幕府の有力御家人安達泰盛の姻戚であった伴野氏や、小笠原氏が巻き込まれ、逼塞を余儀なくされた。
この時代の仏教の信者で多いのが臨済宗、曹洞宗などの禅宗と一向宗、浄土宗(禅林寺派)などである。特に塩田流北条氏の塩田荘は「信州の学海」(『仏心禅師大明国師無関大和尚塔銘』)と称されるほど、禅宗文化の中心地となった。弘安年間、興福寺が知行国主であった時、目代に補任された願舜坊定尭なる僧は信濃からの検注物や年貢を横領し、弘安7年(1284年)、本所法である「満寺評定」によって、国外追放刑となった。延慶2年(1309年)の国衙領の検注の調進は国司目代が行っているが、応安6年(1373年)には守護使に代わっている。このように信濃においても国衙は次第に形骸化され、国司の権能は守護に遷移していったことがうかがえる。
鎌倉時代末期、元弘元年(1331年)からの元弘の乱では、信濃の御家人は、信濃守護を兼帯する探題北方北条仲時に従い、後醍醐天皇の拠る笠置山や赤坂城を攻めた(『光明寺残篇』)。しかし元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が鎌倉幕府追討の宣旨を下し、足利尊氏、新田義貞ら幕府の有力御家人が幕府から離反すると、小笠原貞宗もこれに従って鎌倉攻めに加わり、後に新たな信濃守護に補任された。一方、北条仲時は京都から逃る途中で自害に追い込まれた。東勝寺合戦では御内人の諏訪直性が得宗北条高時に殉じて自害するが、高時の遺児北条時行は諏訪氏に匿われた。建武2年(1335年)、諏訪神党の諏訪頼重や滋野氏・仁科氏らは時行を奉じて挙兵し、鎌倉を奪還したが(中先代の乱)、わずか20日で鎮圧され、諏訪氏らは自害し、時行は逃亡した。翌年に入ると北条時興が南朝に呼応して京都から麻績御厨に入って挙兵し(『市河家文書』)、小笠原貞宗や村上信貞の軍勢と衝突したが破れた。その後は吉良満義が守護となり、北条残党一掃のため吉良時衡が派遣された。
後醍醐天皇の建武の新政では公家中心の政治に対して武士の不満が高まった。延元の乱で尊氏が建武政権から離反すると、天皇方は鎌倉に向けて東海・東山両道に大軍を発し、忠房親王率いる東山道軍が大井城を落城させた。尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏・祢津氏・望月氏・海野氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏・高梨氏との間で抗争が繰り広げられた。暦応3年/興国元年(1340年)には、北条時行が遠江国から伊那谷に入り大徳王寺城に拠ったが、小笠原氏がこれを破った。観応元年(1350年)の観応の擾乱では南朝方足利直義派の諏訪直頼らも呼応して挙兵し、高師冬を討つなどの戦功を挙げ、直義が守護の任免権も掌握すると、観応2年(1351年)には直頼が信濃守護に補任されたが、尊氏派が勢力を盛り返すと薩埵山体制により守護は小笠原氏に復した。
南朝方は後醍醐天皇の皇子で、興国5年(1344年)から信濃に入国した征夷大将軍宗良親王(信濃宮)を奉じて、香坂高宗の拠る伊那谷に一大拠点を築いた。文和元年(1352年)には親王が信濃の南朝勢を糾合して武蔵野合戦に出陣したが敗北し、文和4年(1355年)の桔梗ヶ原の戦いでも小笠原氏に敗北すると、信濃における南朝勢力の衰微は決定的となり、諏訪氏や仁科氏なども北朝側に寝返って、ついには将軍足利義詮に従属するようになり、文中3年(1374年)親王も信濃を去った。信濃は暦応2年/延元4年(1339年)から康永3年/興国5年(1344年)までと、貞治4年/正平20年(1365年)から応安3年/建徳元年(1370年)まで、室町幕府から鎌倉府の管轄に移行したが、再び幕府に取り戻された。幕府と鎌倉府の融和によって、鎌倉府の推挙で上杉朝房が守護に任じられたが、将軍足利義満と公方足利氏満が対立すると、信濃は鎌倉府監視の最前線となり、鎌倉時代とは一変して、京都の政情が大きく影響するようになった。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変での大幅な守護改替により斯波義種が守護に補任された。
明徳3年(1392年)の明徳の和約による南北朝の合一後、幕府は在地豪族の荘園や公領の横領・濫妨を守護に命じて停止させようとしたため、複雑な対立関係が発生し、斯波氏に対する国人衆の反乱が起きた。その後、明徳の乱や応永の乱で武功を上げ信濃守護に復した小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が、国人衆(大文字一揆)を巻き込んで争い(大塔合戦)、小笠原長秀は京都へ追放された。応永9年(1402年)信濃は室町幕府料国(直轄地)となり、政所の直接支配下に置かれ、守護職は空白化した。その間、幕府代官として細川氏が派遣されたが、応永10年(1403年)から翌年にかけて、村上氏や高梨氏を中心とした国人衆の反乱が起きた。その後は将軍と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が大きく影響を及ぼし、強力な支配権を持つ自立した大名が登場することはなかった。将軍足利義教により信濃守護に復し、上杉禅秀の乱や永享の乱、結城合戦などで活躍した小笠原政康は、公方足利持氏派の村上氏 を抑えて信濃を一時平定したが、嘉吉の乱で義教の後ろ盾を失い、政康の没後、小笠原氏の家督相続と守護叙任に幕府有力者の畠山氏と細川氏の対立関係が絡んで、小笠原氏は三家に分裂した。幕府による享徳の乱への出陣命令にも応えられないほど衰亡し、守護権力も地に堕ち、上杉房定に半国守護を抑えられた。
室町末期にかけて下克上の様相を呈し、在地豪族の諸勢力が拮抗を続けた。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏、木曽谷に割拠する木曾氏らがその代表格であり、この4氏を後世「信濃四大将」と呼ぶ。他にも小笠原一族で守護代を務め、幼少期の古河公方足利成氏を庇護した大井氏、越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高梨氏、関東管領山内上杉氏を後ろ盾とした海野氏、逸早く土着し信濃源氏の祖となった井上氏、京武者として朝廷と強く結びつき、安曇郡に拠って一大勢力を築く仁科氏などの旧来の名族も健在であった。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では仁科氏、木曾氏、伊那小笠原両氏、諏訪大社上社などが東軍(細川勝元)、府中小笠原氏が西軍(山名宗全)についた。長享元年(1487年)の長享・延徳の乱に始まる幕府の六角氏征伐では、仁科氏、木曾氏、村上氏、海野氏、小笠原氏らが将軍足利義尚、足利義稙に従って出兵した。
戦国時代には隣国甲斐国や越後国との関係が深くなった。諏訪氏は甲斐守護武田氏と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏、村上氏は武田信虎と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが(海野平の戦い)、同年に甲斐で晴信(信玄)への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、諏訪大社上社(諏訪氏)と下社(金刺氏)、諏訪宗家と高遠諏訪家の対立が絡んで、晴信による信濃侵攻が本格化する。武田氏は諏訪頼重、仁科盛政を滅ぼし、守護小笠原長時や村上義清らを追い、木曾義康や真田幸隆を従属させ、佐久郡において関東管領上杉憲政を破ると(小田井原の戦い)、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・川中島を巡る川中島の戦いへと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合戦後には将軍足利義輝は甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の戦いは最大の衝突となった永禄4年(1561年)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。晴信は元亀2年(1571年)、三河国山間部を攻略する過程で、同国加茂郡から現・根羽村の地域を信濃国に編入し伊那郡の一部とした。
武田晴信の死後、その後を継いだ武田勝頼が上杉景勝と同盟を結び、信濃を統一支配したが、天正10年(1582年)、織田信長に敗れて滅亡し、高遠城主仁科盛信らが戦死した。その後は織田家の版図に加えられ、森長可(北信)、滝川一益(東信)、毛利長秀(伊那)、河尻秀隆(諏訪)、木曾義昌(安曇、筑摩)らに与えられた。しかし約三ヵ月後には本能寺の変が起き、信濃においても一向一揆が発生したことで織田家の勢力は瓦解し、権力の空白地帯となった信濃には徳川氏・後北条氏・上杉氏の勢力が進出した(天正壬午の乱)。やがて後北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により関東へ撤退した。
この結果、北信濃四郡は上杉氏、それ以外は徳川氏の領国となったが、両者の対立の狭間で真田昌幸が自立し第一次上田合戦を生じた。この対立はのちに徳川家康と豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従することで、天正18年(1590年)に関東に移封されると、徳川方の国衆も随行し、譜代大名や旗本となった者も多かった。信濃は豊臣方の武将の支配下に収まり、仙石秀久(佐久)、石川数正(安曇、筑摩)、毛利秀頼(伊那)、日根野高吉(諏訪)が入封し、木曽は秀吉の蔵入地となった。さらに慶長3年(1598年)に北信濃四郡を治めた上杉景勝が越後から会津に移封されると、北信濃には関一政、田丸直昌が入封したが、秀吉の死後、家康は両者を美濃に移し、代わって配下の森忠政を入封させた。
真田氏はかつては徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原の戦いにおいて西軍方についたため、徳川秀忠の軍勢は、小山評定から関ヶ原に向けて中山道を進軍する途上、真田昌幸、信繁父子の居城上田城を攻めたが敗れた(第二次上田合戦)。しかし石田三成ら西軍首脳が本戦で敗れたため、昌幸は高野山に流罪となった。その後、東軍の真田信幸が上田から松代城に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の大坂の陣で武名を挙げた。
江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松代藩の他、松本藩、上田藩、飯山藩、小諸藩、岩村田藩、龍岡藩(田野口藩)、高島藩、高遠藩、飯田藩、須坂藩)。また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領(山村代官所)であり、伊那郡内には美濃国高須藩(竹佐陣屋)及び陸奥国白河藩(市田陣屋)、高井郡内には越後国椎谷藩(六川陣屋)、佐久郡内には三河国奥殿藩(後に藩庁を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。その他善光寺、戸隠神社、諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野・中之条・御影・飯島・塩尻の5つの代官所、伊那衆三家を含む旗本知行所(維新まで存続したものは12ヶ所)などが置かれた。
正保元年(1644年)、幕府は正保国絵図の信濃分の作成を松代藩、上田藩、飯山藩、松本藩、飯田藩に命じた。この時代には貞享3年(1686年)の松本藩貞享騒動や宝暦11年(1761年)の上田藩宝暦騒動など大規模な農民一揆が発生した。また、主に北信濃の豪雪地の農村を中心に多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸川柳や狂歌に多く詠まれることとなった。天明年間の浅間山大噴火や天明の大飢饉も農民の都市への逃散の一因を成した。文化13年(1816年)には天領代官所に信濃国悪党取締出役が設置され、天保年間からは天領代官が大名・旗本領に立ち入り、他国から流入する無宿者の取締りに従事する事例が増加した。弘化4年(1847年)には善光寺地震が発生し、死者8000-12000人と広範囲に大規模な被害が及んだ。その一方で五郎兵衛用水や拾ヶ堰などの灌漑用水の開削によって、新田開発が進み、信濃一国の石高は慶長3年(1598年)には約40万石であったものが、天保5年(1843年)には約75万石まで増加した。また寛文年間ころから農閑期の農民が担い手となり、中馬という新たな内陸交通手段が発達したが、宿場町の伝馬制を圧迫し、軋轢を生じたため、明和元年(1764年)に幕府は裁許状を発し、条件を付けて公認した。
幕末になると、東海地方から南信濃に平田国学が移入され、水戸学の影響も加わって、俄かに勤王・攘夷思想が盛んになった。嘉永6年(1853年)に黒船が来航し、幕府から松代藩は品川台場の警固、松本藩、飯田藩、田野口藩は浦賀の警固を命ぜられ、重い負担を強いられた。文久元年(1861年)の和宮の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が乗輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。元治元年(1864年)には天狗党の乱が関東から京へ向けて信濃国内を通行したが、実際に交戦したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗党に畏怖し通行を黙認した。同年、開国派の松代藩士佐久間象山は京都で尊王攘夷派に暗殺された。慶応3年(1867年)には東海地方から「ええじゃないか」と御札降りの騒動が信濃国全体に波及し、庶民の間に世直しの機運が醸成された。
戊辰戦争では外様の松代藩・須坂藩はいち早く倒幕を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多く、積極的な佐幕論は見えない中、次第に官軍に恭順していった。慶応4年(1868年)官軍より信濃諸藩に赤報隊の捕縛命令が下り、下諏訪宿で相楽総三らが処刑された。4月下旬、越後から進出した衝鋒隊が飯山城下を占領すると、信濃諸藩は東山道先鋒総督府の岩村精一郎の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま北越戦争、会津戦争に転戦した。賞典禄は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。明治維新に前後して、折柄の贋金の流通による経済の混乱も相まって信濃各地で木曽騒動、上田騒動、会田・麻績騒動、松代騒動などの世直し一揆が多発し、中でも最大規模の中野騒動では県庁舎が焼失し、県庁の長野移転の契機となった。
現代では、旧信濃国の領域は、ごくわずか(旧神坂村・旧山口村)が岐阜県中津川市に編入されているほかは、長野県の領域と一致している。広大な県域を持つ長野県では、地域間、特に長野市と松本市との対立の歴史がある。そのため、県を表す名称としては、長野市を由来とする「長野県」よりも、「信州」「信濃」の名称がニュートラルであるとして好まれる傾向にある(県歌「信濃の国」、信州大学など)。
歴史的文献に現れる国府の所在地として、『和名類聚抄』、『拾芥抄』、『易林本』の節用集のいずれにも全て筑摩郡と記述されている。現在の松本市域に比定される。
ただし諸説として、国分寺及び総社のひとつである科野大宮社が上田市にあること、東山道のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)、科野国造の本拠地であったことなどから推測して、『和名抄』編纂以前には小県郡に国府があったとする学説もあるが、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2022年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。
また、一時的に信濃国から分立した諏方国の国府も未詳である。
平安中期の944年、天災により国衙が倒壊し国司が圧死した記録が残る。
鎌倉初期には善光寺近傍に「後庁(御庁)」(長野市後町)が建てられ、国司の目代や在庁官人が置かれた。1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。
国分寺・国分尼寺
定額寺
安国寺利生塔
延喜式内社
総社・一宮以下
以上のほか、沙田神社(松本市島立三ノ宮)を三宮とする伝承がある。
守護所は守護の交代によって位置は移り変わり、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。
埴原牧に牧監庁を併設。左馬寮に属し、後に左馬寮領の荘園となった。
信濃国に存在した郡と、現在の長野県に存在する郡の対応。
括弧内は任官年。延喜式では上国となっており、国司構成は除目により、四等官が各1名ずつの他、3名の史生からなる。
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"text": "信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。",
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"text": "『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。",
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"text": "古くは「しなぬ」と呼ばれ、継体天皇条には「斯那奴阿比多」、欽明天皇条には「斯那奴次酒」と「斯那奴」(しなぬ)の字が充てられている。",
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"text": "「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代の国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから唱えられている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。また級長戸辺命(しなとべのみこと、風神)説もある。",
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"text": "小林敏男は、「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとした。",
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"text": "7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の木簡は、7世紀末の藤原宮跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『古事記』にある「科野国造」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである。これが大宝4年(704年)の諸国印鋳造時に信濃国に改められた。「科野」は和銅6年(713年)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715年~740年)の木簡となる。『日本書紀』には信濃国について、「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある。",
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"text": "平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、南宋から帰朝した禅宗の留学僧によって「信州」と称されるようになった。治承3年(1179年)に仁科盛家が覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡御厨藤尾郷」とあるのが初出である。",
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"text": "神代の国譲りにおいて、出雲の地で建御雷神に敗れた建御名方神が、科野国の洲羽の海(諏訪湖)まで逃れ、「この地から出ないし、父の大国主神や兄の事代主神に従う。葦原の国は天の神に奉るから殺さないでくれ」と言って同地に鎮まったことが『古事記』に見える。",
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"text": "一方『諏訪大明神絵詞』など諏訪に伝わる伝承では、建御名方神が洲羽に侵入し、土着の洩矢神とそれぞれ藤蔓と鉄鑰を持って争い、建御名方神が勝利したと伝わる。この後、建御名方神の後裔は大祝の諏訪氏に、洩矢神の後裔が神長官の守矢氏になったとされる。",
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"text": "また建御名方神が八坂刀売神を娶って生まれた御子神達が、科野国の発展に大きく貢献したとされる。",
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"text": "史書によると、崇神天皇の時代に神武天皇後裔の多氏族である武五百建命が初代科野国造に任じられたと伝わる。信濃国の国造についての実像は不明であるが、広大な信濃を1氏族のみが支配していたとは考え難く、出雲国の出雲国造のように国内で突出した存在がいたのではなく、讃岐国のように複数の氏族が国造として任命されており、欽明天皇の宮に舎人として集ったことに由来する金刺氏や、敏達天皇の宮に舎人として集ったことに由来する他田氏のような、疑似的同族関係を結んでいたと考えられる。",
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"text": "考古遺物としては、これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・松原遺跡の中心部分が、1990年の上信越自動車道建設に伴う長野インターチェンジ予定地付近の発掘調査で発見された。これは縄文時代から中世に至る各時代の包含層が千曲川の洪水堆積層を挟んでいることが判明しており最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ程入る規模がある。同時に日本海側から千曲川を遡り関東平野に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。また3世紀の遺跡として、木島平村で根塚遺跡が発見されている。この遺跡からは鉄剣が出土しているが、同様の鉄剣は韓国の蔚山下垡遺跡からも発見されており、渡来人との関連性が指摘されている。また、弥生時代の遺跡として伊勢宮遺跡と篠ノ井遺跡が発見されているが、この遺跡から発見された人骨は渡来人の特徴が見られた。",
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"text": "4世紀前期から6世紀初頭にかけて、北信で埴科古墳群や川柳将軍塚古墳など、ヤマト王権の影響を受けた前方後円墳が多数築造された。また埴科古墳群の森将軍塚古墳の被葬者は初代科野国造の建五百建命とする説がある。一方南信では4世紀に代田山狐塚古墳が造営され、その後1世紀ほど築造が途絶えるものの、5世紀後半から6世紀末頃にかけて飯田古墳群が成立し、多種多様な古墳が築造された。6世紀中期には現在の箕輪町に松島王墓古墳が築造され、筑摩郡周辺にも弘法山古墳が造営された4世紀以降2世紀近く途絶えていた古墳が円墳を中心に再び築造される。しかし諏訪地域への古墳文化の流入は遥かに遅く、5世紀代にフネ古墳、片山古墳が築造されるものの、前方後円墳は下諏訪青塚古墳が唯一築造されるにとどまった。",
"title": "歴史"
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"text": "4世紀から5世紀後半にかけての北部シナノの千曲川中流域における前方後円墳の集中と、5世紀後半から6世紀にかけての南部シナノの天竜川流域における前方後円墳の集中という交代現象は、シナノ特有の在地首長の移住というものではなく、全国的な動きであった。",
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"text": "古墳時代には、倭系百済官僚として科野の氏(ウジ)を持つ人物が史書に見える。科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する。信濃の人間が外交に従事したのは、ヤマト王権内で信濃の人間が一定の役割を担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が伝えられたからであると考えられる。現在の伊那市手良には「大百済毛・小百済毛」という地域があるが、この地名は百済からの渡来人によって開発されたという伝承がある。また、手良という地名も、『新撰姓氏録』に見える「弖良公」に由来するという。",
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"text": "現在の長野市篠ノ井にある長谷寺やその境内にある長谷神社は、小長谷部が創建したと考えられている。小長谷部は、5世紀末期から6世紀初期に存在した可能性がある武烈天皇の部民とされる。『日本書紀』によれは、武烈天皇3年には、大伴室屋が信濃国の男丁(よぼろ)を集めて城を作るように武烈天皇から詔を受けているが、この「信濃国の男丁」は小長谷部のことであると考えられている。また、小長谷部の人物として名前が残っているのは、天平勝宝4年(752年)に正倉院に奉納された白布に記された「小長谷部尼麻呂」がいる。さらに、姨捨山(おばすて)も小長谷部(おはつせべ)に由来するとされる。6世紀後半には欽明天皇の時代に科野国造後裔の金刺舎人直、敏達天皇の時代に同じく科野国造後裔の他田舎人直が成立し、後世に諏訪大社下社・上社の大祝家や信濃国内の複数の郡司を務めた。その一方で、安曇郡司は安曇部氏が務めた。",
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"text": "信濃国に存在した名代・部曲は、史料に見えるものは刑部、小長谷部、金刺舎人、他田舎人、生王部、物部、尾張部、神人部である。その他には屋代古墳群出土の木簡に見える金刺部、他田部、若帯部(舒明・皇極の名代)、穂積部、守部、酒人部、宍部、宍人部、三家人部、石田部、戸田部や、それ以外の木簡に見える私部(天平20年(748年)4月の写書所解に更級郡村神郷戸主の私部知麻呂や同戸口の私部乙麻呂の名が見える)、倉橋部(平城宮若犬養門地区から出土した木簡に見える筑摩郡山家郷の椋橋部逆や『続日本紀』神護景雲2年(768年)5月条に水内郡の人として見える倉橋部広人がいる)、丸子(仁寿3年(853年)の願経に佐久郡の丸子真智成が見える)、久米舎人(『類聚国史』巻87の延暦14年4月条に小県郡人久米舎人望足が見え、『続日本紀』天平19年(747年)5月条に叙位の記事が見える、高句麗系のウジ名を持つ前部宝公の妻・久米舎人妹女は、小県郡あるいは更級郡に居住していたと考えられている)、大伴、安曇部、建部、爪工部、辛犬甘がいる。允恭天皇期の刑部、武烈天皇期の小長谷部、欽明天皇期の金刺舎人などの名代は、安曇郡、高井郡を除く信濃国全ての郡に分布している。信濃国におけるウジ名や部名の特徴として、大宝2年(701年)の『御野国戸籍』など、東山道の隣国である美濃国に分布するものが見えることが挙げられる。特に、若帯部、守部、穂積部などは、美濃国以外にはあまり例が知られていない。以上の部の設定は、古くても5世紀末、その多くは6世紀前半以降に順次設定されていったと考えられる。",
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"text": "飛鳥時代中期の皇極天皇3年(644年)、本多善光により開基された善光寺は、諏訪大社と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。大化元年(645年)には、大化の改新によって令制国が発足し、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「評」と呼ばれる行政区画を全国に設置した。信濃国は当初、伊那(伊奈)評・諏方(諏訪)評・束間(筑摩)評・安曇(阿曇)評・水内評・高井評・小懸(小県)評・佐久評・科野評(後に更級と埴科に分立)などが成立していたと考えられ、現在の木曽地方を欠く大部分を領域とした。これらの評は、大宝律令の成立後、郡に改組された。越国に大化3年(647年)に渟足柵が、大化4年(648年)に磐舟柵が作られて科野から柵戸が派遣された。また、斉明天皇6年(660年)12月には、科野国が、蝿の大群が巨坂を西の方向に飛び越えて行ったことを朝廷に報告したとあり、それに先立つ推古天皇35年(627年)5月には、蝿の集団が信濃坂を越えて東の方へ行き、上野国で散り失せるとあることから、蝿に関して対応する特徴的な記述がされている。",
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"text": "天武天皇元年(672年)の壬申の乱には、科野の兵が土師馬手らに従い、大海人皇子(天武天皇)の側に立って活躍した。天武天皇14年(685年)には高田新家らに「束間温湯」(つかまのゆ)に行宮(あんぐう)を造らせている。持統天皇5年(691年)の「須波神」「水内神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。大宝2年(702年)12月に、始めて美濃国に木曾山道を開くという記述があり、和銅6年(713年)7月には、美濃国と信濃国の国境の道が険阻であり、往還が難しいということで、木曽路が開通している。また、これらの記述の他にも、「信濃路は 今の墾道刈株に 足踏ましなむ 沓はけ我が背」(万葉集 巻14-3399 相聞 東歌)と詠まれており、飛鳥時代の末期からは、信濃国における官道の開発がすすんでいた。",
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"text": "奈良時代には、左馬寮の管轄下で望月牧など、官営による16の勅旨牧と、それを統括するための牧監庁が置かれた。養老5年(721年)6月26日に南部を諏方国として分置したが、天平3年(731年)3月7日に合併して元に復した。養老3年(719年)以後は美濃按察使の管轄下に置かれた。8世紀前半のものとみられる屋代遺跡出土の木簡には、「埴科郡大穴郷高家里」と「守部安万呂」の名前が併記されており、この「高家(たかやけ)」は、大きな高い建物の宅(屯倉)の意味で、ここに住んでいた守部安万呂は屯倉の管理者であったと考えられる。神護景雲2年(768年)には、各々の善行に対して朝廷から褒美を得た全国9人のうち、信濃国からは水内郡の刑部智麻呂と倉橋部広人や更級郡の建部大垣、伊那郡の他田舎人千世売と4人までもを占めた。",
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"text": "奈良時代末期から平安時代初期にかけては、信濃国内の渡来人の改姓が続々と進んだ。『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761年)3月に、百済人の余民善女等の4人が百済公、韓遠智などの4人が中山連、王国嶋など5人が楊津連、甘良東人等3人が清篠連、刀利甲斐麻呂等7人が丘上連、戸浄道等4人が松井連、憶頼子老等41人が石野連、竹志麻呂等4人が坂原連、生河内等2人が清湍連、面得敬等4人が春野連、高牛養等8人が浄野造、卓杲智等2人が御池造、延爾豊成等4人が長沼造、伊志麻呂が福地造、陽麻呂が高代造、烏那竜神が水雄造、科野友麻呂などの2人が清田造、斯葛国足等2人が清海造、佐魯牛養等3人が小川造、王宝受等4人が楊津造、答他伊奈麻呂等5人が中野造、調阿気麻呂等20人が豊田造(ここまで百済人)、高麗人の達沙仁徳等2人が朝日連、上部王虫麻呂が豊原連、前部高文信が福当連、前部白公等6人が御坂連、後部王安成等2人が高里連、後部高呉野が大井連、上部王弥夜大理等10人が豊原造、前部選理等3人が柿井造、上部君足等2人が雄坂造、前部安人が御坂造(ここまで高句麗人)、新羅人の新良木舍姓県麻呂等7人が清住造、須布呂比満麻呂等13人が狩高造(ここまで新羅人)、漢人の伯徳広足等6人が雲梯連、伯徳諸足等2人が雲梯造に改姓した。天平神護2年(766年)には、従七位上・科野石弓が石橋連の姓を賜っている。また延暦8年(789年)には、筑摩郡人の外少初位下後部牛養が田河造の姓を賜っている。延暦16年(797年)には、外從八位下前部綱麻呂が安坂姓を下賜され、これに続くように延暦18年(799年)には、信濃国人の外從六位下卦婁眞老、後部黒足、前部黒麻呂、前部佐根人、下部奈弖麻呂、前部秋足、小縣郡人の无位上部豊人、下部文代、高麗家継、高麗継楯、前部貞麻呂、上部色布知等が、自分たちの先祖が飛鳥時代に帰化していることと天平勝宝9年(757年)4月4日の勅令を根拠として、自らの高句麗人の姓を日本人の姓に改めたいと朝廷に請願した結果、卦婁眞老等は須須岐姓、後部黒足等は豊岡姓、前部黒麻呂は村上姓、前部秋足等は篠井姓、上部豊人等は玉川姓、下部文代等は清岡姓。高麗家継等は御井姓。前部貞麻呂は朝治姓。上部色布知は玉井姓をそれぞれ下賜された。田河造は田川、安坂は筑北村安坂、須須岐は松本市薄、豊岡は長野市戸隠豊岡、村上は坂城町村上や大町市村上、篠井は長野市篠ノ井、御井は東御市深井に由来する、前部秋足が住んでいたと考えられる篠ノ井には、軻良根古神社(からねこじんじゃ)が存在しているが、この神社は「韓(から)の根子(高貴な男性に対する尊称)」という意味で、秋足のような高句麗系渡来人が祭祀していた神社であった可能性が指摘されている。そして千曲川対岸の雨宮には唐崎神社があり屋代には須須岐水神社もあって同様に渡来人の祭祀が関連するものと考えられる。",
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"text": "弘仁8年(817年)には最澄が東山道神坂峠の信濃側に広拯院を建立した。初期荘園の立荘と並行して、仁和元年(885年)には公営田の設置が見られた。同4年(888年)には前年に発生した仁和地震の影響により八ヶ岳の山麓が大規模に崩壊し千曲川を約1年に渡って堰き止め、日本最大規模とされる河道閉塞を形成した。これはその後決壊し、「仁和大水」と言われる大洪水を起こした。この被害は100km以上下流まで及んだとされる。そして千曲市では屋代条里田が4mの堆積砂、その対岸に当たる長野市の石川条里田は2mの堆積砂の下に各々発見されている。",
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"text": "また、信濃国は罪人の配所に定められ、中流の範囲とされた。なお、元慶3年(879年)9月に鳥居峠をもって美濃・信濃の国境と定められた。",
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"text": "平安時代の中期には桓武平氏の平将門が、東山道を京に向かう平貞盛に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した滋野氏や小県郡の郡司他田氏と合戦に及ぶなど(938年2月29日)、この時代における平氏内紛の舞台ともなった。また清和源氏は経基王以来、信濃守に任官される者が多く、源氏の土着が相次いで見られた(信濃源氏)。この頃には古今和歌集や大和物語集、今昔物語集によって信濃に姨捨伝説の存在することが知られ月見の名所としても姨捨の名を高める。古代の律令体制から中世の権門体制に移行する中で、院政の時代になると、院宮分国制の進展により白河法皇や鳥羽法皇の知行国となり、その後は公卿に引き継がれた。11世紀後半以降には最高権力者である院や摂関家への寄進地系荘園の立荘が本格化し、国衙領は縮小する傾向にあった。1108年(天仁元年)には、浅間山で天明噴火の数倍と言われる規模の大噴火(天仁噴火)が発生し、山麓では大火砕流によって複数の集落が埋没した可能性がある。",
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"text": "平安時代末期に入ると、源氏内紛による久寿2年(1155年)の大蔵合戦で敗れた河内源氏源義賢の遺児源義仲が木曾谷の中原兼遠の元に匿われた。保元元年(1156年)の保元の乱、平治元年(1159年)の平治の乱に際して、滋野氏、諏訪氏、片桐氏、平賀氏など多くの信濃武士は、源義賢と敵対した兄の源義朝に従った。ただし、崇徳上皇の近臣であった村上氏は、信濃に所領を持つ伊勢平氏の平家弘らと共に上皇方についた。後白河法皇の第三皇子以仁王は信濃を含む東山・東海・北陸道の武士に平家追討の令旨を発し、源行家によって、新羅三郎源義光の子孫である平賀盛義・義信父子(平賀冠者)、岡田親義(岡田冠者)、そして源(木曾)義仲に伝えられた(『平家物語』)。義仲は信濃の兵を統べて挙兵し、横田河原の戦いで平氏の軍勢を破ると、以仁王の遺児北陸宮を奉じて北陸道経由で入洛したが、この動きに対し、源義朝の嫡男源頼朝は北条時政をして伊那や諏訪の武士を糾合させ、黄瀬川の戦いに出陣させた。村上氏、平賀氏らも頼朝に従った。その後、義仲は西国の平家追討のため京を離れたが水島の戦いで敗れ、さらに上洛した頼朝の弟範頼、義経らに近江国で討伐された(粟津の戦い)。平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期は不明で、室町時代後期の木曽地方は公式にはまだ美濃国に属しており戦国時代にまで下る可能性があるとする説もある。",
"title": "歴史"
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"text": "鎌倉時代初期には関東御分国の1つとして鎌倉幕府の知行国であった。その後の知行権は公卿や興福寺・東大寺等の有力寺院の手に移るが、在庁官人や国人衆の幕府御家人化が進み、京都の遙任国司や知行国主、荘園領家らの影響力は薄れ、鎌倉幕府の介在なしには税の徴収も困難となり、「国司その用あてざる国」と揶揄された(『明月記』)。戦国時代まで存在した守護職には比企氏や執権北条氏、小笠原氏、諏訪氏、吉良氏、上杉氏、斯波氏、武田氏らがいた。",
"title": "歴史"
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"text": "幕府樹立後、初代の信濃守護には比企能員が就任し、信濃国目代を兼帯して国衙機構も掌握したが、建仁3年(1203年)の比企能員の変で北条時政に滅ぼされ、将軍源頼家の近習で、十三人の合議制に対抗する側近であった中野能成や小笠原長経も連座した。時政は比企氏以外にも幕府重臣の粛清を進め、元久2年(1205年)には平賀義信の次男平賀朝雅を傀儡の新将軍として擁立しようとしたが、失脚した(牧氏事件)。建暦3年(1213年)、御家人泉親衡が、信濃武士と結んで頼家の遺児千寿丸を将軍に擁立し、信濃守護も兼帯する執権北条義時の打倒を図る陰謀が発覚した(泉親衡の乱)。承久3年(1221年)の承久の乱では幕府の仁科盛遠への処遇も乱勃発の一端となった。信濃武士の多くは幕府方につき、東山道軍の武田信光、小笠原長清に従い、後鳥羽上皇方の仁科氏らは北条朝時の北陸道軍に敗れた。幕府方についた信濃武士は新補地頭として西国に所領を得たが、それまで東国に限定的であった幕府の権威を浸透させる目的で西遷を余儀なくされた者も多かった。また幕府が朝廷に対して優位に立ち、信濃国内における北条氏の所領も関東御領の春近領を中核として拡大すると、宝治元年(1247年)の宝治合戦で武功を挙げた諏訪盛重や内管領を務めた諏訪盛経に代表されるように、北条氏の得宗被官(御内人)として活躍する者も現れた。得宗専制が強化されてゆく中、弘安8年(1285年)の霜月騒動では幕府の有力御家人安達泰盛の姻戚であった伴野氏や、小笠原氏が巻き込まれ、逼塞を余儀なくされた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "この時代の仏教の信者で多いのが臨済宗、曹洞宗などの禅宗と一向宗、浄土宗(禅林寺派)などである。特に塩田流北条氏の塩田荘は「信州の学海」(『仏心禅師大明国師無関大和尚塔銘』)と称されるほど、禅宗文化の中心地となった。弘安年間、興福寺が知行国主であった時、目代に補任された願舜坊定尭なる僧は信濃からの検注物や年貢を横領し、弘安7年(1284年)、本所法である「満寺評定」によって、国外追放刑となった。延慶2年(1309年)の国衙領の検注の調進は国司目代が行っているが、応安6年(1373年)には守護使に代わっている。このように信濃においても国衙は次第に形骸化され、国司の権能は守護に遷移していったことがうかがえる。",
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"text": "鎌倉時代末期、元弘元年(1331年)からの元弘の乱では、信濃の御家人は、信濃守護を兼帯する探題北方北条仲時に従い、後醍醐天皇の拠る笠置山や赤坂城を攻めた(『光明寺残篇』)。しかし元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が鎌倉幕府追討の宣旨を下し、足利尊氏、新田義貞ら幕府の有力御家人が幕府から離反すると、小笠原貞宗もこれに従って鎌倉攻めに加わり、後に新たな信濃守護に補任された。一方、北条仲時は京都から逃る途中で自害に追い込まれた。東勝寺合戦では御内人の諏訪直性が得宗北条高時に殉じて自害するが、高時の遺児北条時行は諏訪氏に匿われた。建武2年(1335年)、諏訪神党の諏訪頼重や滋野氏・仁科氏らは時行を奉じて挙兵し、鎌倉を奪還したが(中先代の乱)、わずか20日で鎮圧され、諏訪氏らは自害し、時行は逃亡した。翌年に入ると北条時興が南朝に呼応して京都から麻績御厨に入って挙兵し(『市河家文書』)、小笠原貞宗や村上信貞の軍勢と衝突したが破れた。その後は吉良満義が守護となり、北条残党一掃のため吉良時衡が派遣された。",
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"text": "後醍醐天皇の建武の新政では公家中心の政治に対して武士の不満が高まった。延元の乱で尊氏が建武政権から離反すると、天皇方は鎌倉に向けて東海・東山両道に大軍を発し、忠房親王率いる東山道軍が大井城を落城させた。尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏・祢津氏・望月氏・海野氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏・高梨氏との間で抗争が繰り広げられた。暦応3年/興国元年(1340年)には、北条時行が遠江国から伊那谷に入り大徳王寺城に拠ったが、小笠原氏がこれを破った。観応元年(1350年)の観応の擾乱では南朝方足利直義派の諏訪直頼らも呼応して挙兵し、高師冬を討つなどの戦功を挙げ、直義が守護の任免権も掌握すると、観応2年(1351年)には直頼が信濃守護に補任されたが、尊氏派が勢力を盛り返すと薩埵山体制により守護は小笠原氏に復した。",
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"text": "南朝方は後醍醐天皇の皇子で、興国5年(1344年)から信濃に入国した征夷大将軍宗良親王(信濃宮)を奉じて、香坂高宗の拠る伊那谷に一大拠点を築いた。文和元年(1352年)には親王が信濃の南朝勢を糾合して武蔵野合戦に出陣したが敗北し、文和4年(1355年)の桔梗ヶ原の戦いでも小笠原氏に敗北すると、信濃における南朝勢力の衰微は決定的となり、諏訪氏や仁科氏なども北朝側に寝返って、ついには将軍足利義詮に従属するようになり、文中3年(1374年)親王も信濃を去った。信濃は暦応2年/延元4年(1339年)から康永3年/興国5年(1344年)までと、貞治4年/正平20年(1365年)から応安3年/建徳元年(1370年)まで、室町幕府から鎌倉府の管轄に移行したが、再び幕府に取り戻された。幕府と鎌倉府の融和によって、鎌倉府の推挙で上杉朝房が守護に任じられたが、将軍足利義満と公方足利氏満が対立すると、信濃は鎌倉府監視の最前線となり、鎌倉時代とは一変して、京都の政情が大きく影響するようになった。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変での大幅な守護改替により斯波義種が守護に補任された。",
"title": "歴史"
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"text": "明徳3年(1392年)の明徳の和約による南北朝の合一後、幕府は在地豪族の荘園や公領の横領・濫妨を守護に命じて停止させようとしたため、複雑な対立関係が発生し、斯波氏に対する国人衆の反乱が起きた。その後、明徳の乱や応永の乱で武功を上げ信濃守護に復した小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が、国人衆(大文字一揆)を巻き込んで争い(大塔合戦)、小笠原長秀は京都へ追放された。応永9年(1402年)信濃は室町幕府料国(直轄地)となり、政所の直接支配下に置かれ、守護職は空白化した。その間、幕府代官として細川氏が派遣されたが、応永10年(1403年)から翌年にかけて、村上氏や高梨氏を中心とした国人衆の反乱が起きた。その後は将軍と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が大きく影響を及ぼし、強力な支配権を持つ自立した大名が登場することはなかった。将軍足利義教により信濃守護に復し、上杉禅秀の乱や永享の乱、結城合戦などで活躍した小笠原政康は、公方足利持氏派の村上氏 を抑えて信濃を一時平定したが、嘉吉の乱で義教の後ろ盾を失い、政康の没後、小笠原氏の家督相続と守護叙任に幕府有力者の畠山氏と細川氏の対立関係が絡んで、小笠原氏は三家に分裂した。幕府による享徳の乱への出陣命令にも応えられないほど衰亡し、守護権力も地に堕ち、上杉房定に半国守護を抑えられた。",
"title": "歴史"
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"text": "室町末期にかけて下克上の様相を呈し、在地豪族の諸勢力が拮抗を続けた。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏、木曽谷に割拠する木曾氏らがその代表格であり、この4氏を後世「信濃四大将」と呼ぶ。他にも小笠原一族で守護代を務め、幼少期の古河公方足利成氏を庇護した大井氏、越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高梨氏、関東管領山内上杉氏を後ろ盾とした海野氏、逸早く土着し信濃源氏の祖となった井上氏、京武者として朝廷と強く結びつき、安曇郡に拠って一大勢力を築く仁科氏などの旧来の名族も健在であった。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では仁科氏、木曾氏、伊那小笠原両氏、諏訪大社上社などが東軍(細川勝元)、府中小笠原氏が西軍(山名宗全)についた。長享元年(1487年)の長享・延徳の乱に始まる幕府の六角氏征伐では、仁科氏、木曾氏、村上氏、海野氏、小笠原氏らが将軍足利義尚、足利義稙に従って出兵した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "戦国時代には隣国甲斐国や越後国との関係が深くなった。諏訪氏は甲斐守護武田氏と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏、村上氏は武田信虎と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが(海野平の戦い)、同年に甲斐で晴信(信玄)への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、諏訪大社上社(諏訪氏)と下社(金刺氏)、諏訪宗家と高遠諏訪家の対立が絡んで、晴信による信濃侵攻が本格化する。武田氏は諏訪頼重、仁科盛政を滅ぼし、守護小笠原長時や村上義清らを追い、木曾義康や真田幸隆を従属させ、佐久郡において関東管領上杉憲政を破ると(小田井原の戦い)、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・川中島を巡る川中島の戦いへと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合戦後には将軍足利義輝は甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の戦いは最大の衝突となった永禄4年(1561年)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。晴信は元亀2年(1571年)、三河国山間部を攻略する過程で、同国加茂郡から現・根羽村の地域を信濃国に編入し伊那郡の一部とした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "武田晴信の死後、その後を継いだ武田勝頼が上杉景勝と同盟を結び、信濃を統一支配したが、天正10年(1582年)、織田信長に敗れて滅亡し、高遠城主仁科盛信らが戦死した。その後は織田家の版図に加えられ、森長可(北信)、滝川一益(東信)、毛利長秀(伊那)、河尻秀隆(諏訪)、木曾義昌(安曇、筑摩)らに与えられた。しかし約三ヵ月後には本能寺の変が起き、信濃においても一向一揆が発生したことで織田家の勢力は瓦解し、権力の空白地帯となった信濃には徳川氏・後北条氏・上杉氏の勢力が進出した(天正壬午の乱)。やがて後北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により関東へ撤退した。",
"title": "歴史"
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"text": "この結果、北信濃四郡は上杉氏、それ以外は徳川氏の領国となったが、両者の対立の狭間で真田昌幸が自立し第一次上田合戦を生じた。この対立はのちに徳川家康と豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従することで、天正18年(1590年)に関東に移封されると、徳川方の国衆も随行し、譜代大名や旗本となった者も多かった。信濃は豊臣方の武将の支配下に収まり、仙石秀久(佐久)、石川数正(安曇、筑摩)、毛利秀頼(伊那)、日根野高吉(諏訪)が入封し、木曽は秀吉の蔵入地となった。さらに慶長3年(1598年)に北信濃四郡を治めた上杉景勝が越後から会津に移封されると、北信濃には関一政、田丸直昌が入封したが、秀吉の死後、家康は両者を美濃に移し、代わって配下の森忠政を入封させた。",
"title": "歴史"
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"text": "真田氏はかつては徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原の戦いにおいて西軍方についたため、徳川秀忠の軍勢は、小山評定から関ヶ原に向けて中山道を進軍する途上、真田昌幸、信繁父子の居城上田城を攻めたが敗れた(第二次上田合戦)。しかし石田三成ら西軍首脳が本戦で敗れたため、昌幸は高野山に流罪となった。その後、東軍の真田信幸が上田から松代城に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の大坂の陣で武名を挙げた。",
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"text": "江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松代藩の他、松本藩、上田藩、飯山藩、小諸藩、岩村田藩、龍岡藩(田野口藩)、高島藩、高遠藩、飯田藩、須坂藩)。また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領(山村代官所)であり、伊那郡内には美濃国高須藩(竹佐陣屋)及び陸奥国白河藩(市田陣屋)、高井郡内には越後国椎谷藩(六川陣屋)、佐久郡内には三河国奥殿藩(後に藩庁を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。その他善光寺、戸隠神社、諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野・中之条・御影・飯島・塩尻の5つの代官所、伊那衆三家を含む旗本知行所(維新まで存続したものは12ヶ所)などが置かれた。",
"title": "歴史"
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"text": "正保元年(1644年)、幕府は正保国絵図の信濃分の作成を松代藩、上田藩、飯山藩、松本藩、飯田藩に命じた。この時代には貞享3年(1686年)の松本藩貞享騒動や宝暦11年(1761年)の上田藩宝暦騒動など大規模な農民一揆が発生した。また、主に北信濃の豪雪地の農村を中心に多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸川柳や狂歌に多く詠まれることとなった。天明年間の浅間山大噴火や天明の大飢饉も農民の都市への逃散の一因を成した。文化13年(1816年)には天領代官所に信濃国悪党取締出役が設置され、天保年間からは天領代官が大名・旗本領に立ち入り、他国から流入する無宿者の取締りに従事する事例が増加した。弘化4年(1847年)には善光寺地震が発生し、死者8000-12000人と広範囲に大規模な被害が及んだ。その一方で五郎兵衛用水や拾ヶ堰などの灌漑用水の開削によって、新田開発が進み、信濃一国の石高は慶長3年(1598年)には約40万石であったものが、天保5年(1843年)には約75万石まで増加した。また寛文年間ころから農閑期の農民が担い手となり、中馬という新たな内陸交通手段が発達したが、宿場町の伝馬制を圧迫し、軋轢を生じたため、明和元年(1764年)に幕府は裁許状を発し、条件を付けて公認した。",
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"text": "幕末になると、東海地方から南信濃に平田国学が移入され、水戸学の影響も加わって、俄かに勤王・攘夷思想が盛んになった。嘉永6年(1853年)に黒船が来航し、幕府から松代藩は品川台場の警固、松本藩、飯田藩、田野口藩は浦賀の警固を命ぜられ、重い負担を強いられた。文久元年(1861年)の和宮の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が乗輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。元治元年(1864年)には天狗党の乱が関東から京へ向けて信濃国内を通行したが、実際に交戦したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗党に畏怖し通行を黙認した。同年、開国派の松代藩士佐久間象山は京都で尊王攘夷派に暗殺された。慶応3年(1867年)には東海地方から「ええじゃないか」と御札降りの騒動が信濃国全体に波及し、庶民の間に世直しの機運が醸成された。",
"title": "歴史"
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"text": "戊辰戦争では外様の松代藩・須坂藩はいち早く倒幕を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多く、積極的な佐幕論は見えない中、次第に官軍に恭順していった。慶応4年(1868年)官軍より信濃諸藩に赤報隊の捕縛命令が下り、下諏訪宿で相楽総三らが処刑された。4月下旬、越後から進出した衝鋒隊が飯山城下を占領すると、信濃諸藩は東山道先鋒総督府の岩村精一郎の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま北越戦争、会津戦争に転戦した。賞典禄は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。明治維新に前後して、折柄の贋金の流通による経済の混乱も相まって信濃各地で木曽騒動、上田騒動、会田・麻績騒動、松代騒動などの世直し一揆が多発し、中でも最大規模の中野騒動では県庁舎が焼失し、県庁の長野移転の契機となった。",
"title": "歴史"
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"text": "現代では、旧信濃国の領域は、ごくわずか(旧神坂村・旧山口村)が岐阜県中津川市に編入されているほかは、長野県の領域と一致している。広大な県域を持つ長野県では、地域間、特に長野市と松本市との対立の歴史がある。そのため、県を表す名称としては、長野市を由来とする「長野県」よりも、「信州」「信濃」の名称がニュートラルであるとして好まれる傾向にある(県歌「信濃の国」、信州大学など)。",
"title": "歴史"
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"text": "歴史的文献に現れる国府の所在地として、『和名類聚抄』、『拾芥抄』、『易林本』の節用集のいずれにも全て筑摩郡と記述されている。現在の松本市域に比定される。",
"title": "国内の施設"
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"text": "ただし諸説として、国分寺及び総社のひとつである科野大宮社が上田市にあること、東山道のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)、科野国造の本拠地であったことなどから推測して、『和名抄』編纂以前には小県郡に国府があったとする学説もあるが、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2022年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。",
"title": "国内の施設"
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"text": "また、一時的に信濃国から分立した諏方国の国府も未詳である。",
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"text": "平安中期の944年、天災により国衙が倒壊し国司が圧死した記録が残る。",
"title": "国内の施設"
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"text": "鎌倉初期には善光寺近傍に「後庁(御庁)」(長野市後町)が建てられ、国司の目代や在庁官人が置かれた。1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。",
"title": "国内の施設"
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"text": "国分寺・国分尼寺",
"title": "国内の施設"
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"text": "定額寺",
"title": "国内の施設"
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"text": "安国寺利生塔",
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"text": "延喜式内社",
"title": "国内の施設"
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"text": "総社・一宮以下",
"title": "国内の施設"
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"text": "以上のほか、沙田神社(松本市島立三ノ宮)を三宮とする伝承がある。",
"title": "国内の施設"
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"text": "守護所は守護の交代によって位置は移り変わり、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。",
"title": "国内の施設"
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"text": "埴原牧に牧監庁を併設。左馬寮に属し、後に左馬寮領の荘園となった。",
"title": "国内の施設"
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"text": "信濃国に存在した郡と、現在の長野県に存在する郡の対応。",
"title": "地域"
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"text": "括弧内は任官年。延喜式では上国となっており、国司構成は除目により、四等官が各1名ずつの他、3名の史生からなる。",
"title": "人物"
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] |
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。
|
{{Otheruseslist|[[令制国]]の信濃国|長野県歌|信濃の国|のちにこの信濃国となる、[[科野国造]]が支配した地域|科野国造#支配領域}}
{{基礎情報 令制国
|国名 = 信濃国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|信濃国}}
|別称 = 信州(しんしゅう)
|所属 = [[東山道]]
|領域 = [[長野県]]、[[岐阜県]][[中津川市]]の一部<ref group="注釈" name=diff>旧[[神坂村]]・旧[[山口村 (長野県)|山口村]]</ref>
|国力 = [[上国]]
|距離 = [[中国 (令制国)|中国]]
|郡 = 10郡67郷
|国府 = 1.(推定)長野県[[上田市]]<br />2.(推定)長野県[[松本市]]
|国分寺 = 長野県上田市([[信濃国分寺#信濃国分寺跡|信濃国分寺跡]])
|国分尼寺 = 長野県上田市([[信濃国分寺#信濃国分尼寺跡|信濃国分尼寺跡]])
|一宮 = [[諏訪大社]](長野県諏訪地域)
}}
'''信濃国'''(しなののくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。
『[[万葉集]]』での[[枕詞]]は「水薦苅(みこもかる {{efn|『長野県史 通史編』は、「賀茂真淵らの誤読により『みすずかる』が広がったが、今もって通用しているのは地元長野県内だけである。通常『みこもかる』と読んでいることは、われわれ長野県人が充分承知しなくてはならない問題点である」と指摘している。(第1巻 p.849)}})」。
== 「信濃」の名称と由来 ==
古くは「しなぬ」と呼ばれ、[[継体天皇]]条には「[[斯那奴阿比多]]」、[[欽明天皇]]条には「斯那奴次酒」と「斯那奴」(しなぬ)の字が充てられている。
「科野」の語源については諸説あるが、[[江戸時代]]の[[国学者]]である[[谷川士清]]は『日本書紀通證』に「[[シナノキ|科の木]]この国に出ず」と記し、[[賀茂真淵]]の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「[[シナノキ|科の木]]」に由来する説が古くから唱えられている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。また[[級長戸辺命]](しなとべのみこと、[[風神]])説もある<ref>古川貞雄「風土と人間」(古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社、 2003年) 2頁</ref>。
[[小林敏男 (歴史学者)|小林敏男]]は、「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとした<ref name="名前なし-1"> 井上今朝男、牛山佳幸編『論集 東国信濃の古代中世史』(岩田書院、2008年)</ref>。
7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の[[木簡]]は、7世紀末の[[藤原京|藤原宮]]跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『[[古事記]]』にある「[[科野国造]]」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」(『古代学』4号、2012年)17頁・20頁。</ref>。これが[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])の諸[[国印]]鋳造時に信濃国に改められた<ref>鎌田元一「律令制国名表記の成立」(『律令公民制の研究』塙書房、2001年)</ref>。「科野」は[[和銅]]6年([[713年]])の『[[風土記]]』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、[[平成]]6年([[1994年]])に[[千曲市]]屋代遺跡群から発見され、現在は[[長野県立歴史館]]に所蔵されている[[8世紀]]前半([[715年]]~[[740年]])の木簡となる。『[[日本書紀]]』には信濃国について、「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある<ref>『日本書紀』巻七 景行天皇四十年是歳条</ref>。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、南宋から帰朝した禅宗の留学僧によって「'''信州'''」と称されるようになった。[[治承]]3年([[1179年]])に[[仁科盛家]]が[[覚音寺 (大町市)|覚薗寺]]に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡[[仁科御厨|御厨]]藤尾郷」とあるのが初出である。
== 神代に見える科野国 ==
[[神代]]の[[国譲り]]において、[[出雲国|出雲]]の地で[[建御雷神]]に敗れた[[建御名方神]]が、科野国の洲羽の海([[諏訪湖]])まで逃れ、「この地から出ないし、父の[[大国主神]]や兄の[[事代主神]]に従う。葦原の国は[[天津神|天の神]]に奉るから殺さないでくれ」と言って同地に鎮まったことが『[[古事記]]』に見える。
一方『[[諏訪大明神絵詞]]』など諏訪に伝わる伝承では、建御名方神が洲羽に侵入し、土着の[[洩矢神]]とそれぞれ藤蔓と鉄鑰を持って争い、建御名方神が勝利したと伝わる。この後、建御名方神の後裔は大祝の[[諏訪氏]]に、洩矢神の後裔が神長官の[[守矢氏]]になったとされる。
また建御名方神が[[八坂刀売神]]を娶って生まれた御子神達{{efn|御子神の数は22柱、19柱、13柱と資料によって異なる。}}が、科野国の発展に大きく貢献したとされる。
== 歴史 ==
=== 古代 ===
史書によると、[[崇神天皇]]の時代に[[神武天皇]]後裔の[[多氏|多氏族]]である[[武五百建命]]が初代[[科野国造]]に任じられたと伝わる。信濃国の国造についての実像は不明であるが、広大な信濃を1氏族のみが支配していたとは考え難く、[[出雲国]]の[[出雲国造]]のように国内で突出した存在がいたのではなく、[[讃岐国]]のように複数の氏族が国造として任命されており、[[欽明天皇]]の宮に舎人として集ったことに由来する[[金刺氏]]や、[[敏達天皇]]の宮に舎人として集ったことに由来する[[他田氏]]のような、疑似的同族関係を結んでいたと考えられる<ref name="名前なし-2">佐藤雄一『古代信濃の氏族と信仰』(吉川弘文館、2021年)</ref>。
考古遺物としては、これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・<nowiki>松原遺跡</nowiki>の中心部分が、1990年の上信越自動車道建設に伴う長野インターチェンジ予定地付近の発掘調査で発見された。これは縄文時代から中世に至る各時代の包含層が[[信濃川|千曲川]]の洪水堆積層を挟んでいることが判明しており最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ程入る規模がある。同時に日本海側から千曲川を遡り[[関東平野]]に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。また[[3世紀]]の遺跡として、[[木島平村]]で[[根塚遺跡]]が発見されている。この遺跡からは鉄剣が出土しているが、同様の鉄剣は[[韓国]]の蔚山下垡遺跡からも発見されており、渡来人との関連性が指摘されている。また、[[弥生時代]]の遺跡として[[伊勢宮遺跡]]と[[篠ノ井遺跡]]が発見されているが、この遺跡から発見された人骨は[[渡来人]]の特徴が見られた<ref>川崎保『「シナノ」の王墓の考古学』(雄山閣、2006年)</ref>。
[[4世紀]]前期から[[6世紀]]初頭にかけて、北信で[[埴科古墳群]]や[[川柳将軍塚古墳]]など、[[ヤマト王権]]の影響を受けた[[前方後円墳]]が多数築造された。また埴科古墳群の森将軍塚古墳の被葬者は初代科野国造の建五百建命とする説がある。一方南信では4世紀に[[代田山狐塚古墳]]が造営され、その後1世紀ほど築造が途絶えるものの、[[5世紀]]後半から6世紀末頃にかけて[[飯田古墳群]]が成立し、多種多様な古墳が築造された。6世紀中期には現在の[[箕輪町]]に[[松島王墓古墳]]が築造され、[[筑摩郡]]周辺にも[[弘法山古墳]]が造営された4世紀以降2世紀近く途絶えていた古墳が[[円墳]]を中心に再び築造される。しかし[[諏訪地域]]への古墳文化の流入は遥かに遅く、5世紀代に[[フネ古墳]]、[[片山古墳]]が築造されるものの、前方後円墳は[[下諏訪青塚古墳]]が唯一築造されるにとどまった。
4世紀から5世紀後半にかけての北部シナノの千曲川中流域における前方後円墳の集中と、5世紀後半から6世紀にかけての南部シナノの[[天竜川]]流域における前方後円墳の集中という交代現象は、シナノ特有の在地首長の移住というものではなく、全国的な動きであった<ref name="名前なし-1"/>。
[[古墳時代]]には、[[百済|倭系百済官僚]]として'''科野'''の[[氏|氏(ウジ)]]を持つ人物が史書に見える。科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる<ref>「第三節 大和王権と科野のクニ」『[[長野県史]] 通史編 第一巻 原始・古代』(1989年)312頁。</ref>。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、[[カバネ|姓]]を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、[[氏姓制度]]が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する<ref>{{Cite journal|和書|author=河内春人 |date=2017-03 |title=古代東アジアにおける政治的流動性と人流 |journal=専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報 |publisher=専修大学社会知性開発研究センター |volume=3 |pages=103-121 |naid=120006785668 |doi=10.34360/00008258 |url=https://doi.org/10.34360/00008258}}</ref>。信濃の人間が外交に従事したのは、ヤマト王権内で信濃の人間が一定の役割を担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が伝えられたからであると考えられる<ref name="名前なし-2"/>。現在の[[伊那市]]手良には「大百済毛・小百済毛」という地域があるが、この地名は[[百済]]からの[[渡来人]]によって開発されたという伝承がある。また、手良という地名も、『[[新撰姓氏録]]』に見える「弖良公」に由来するという<ref>『日本歴史地名大系 第20巻 長野県の地名』(平凡社、1979年)</ref>。
現在の[[長野市]]篠ノ井にある[[長谷寺 (長野市)|長谷寺]]やその境内にある[[長谷神社]]は、[[長谷部氏|小長谷部]]が創建したと考えられている。小長谷部は、5世紀末期から6世紀初期に存在した可能性がある[[武烈天皇]]の[[部民]]とされる。『[[日本書紀]]』によれは、[[武烈天皇]]3年には、[[大伴室屋]]が信濃国の男丁(よぼろ)を集めて城を作るように武烈天皇から詔を受けているが、この「信濃国の男丁」は小長谷部のことであると考えられている。また、小長谷部の人物として名前が残っているのは、[[天平勝宝]]4年([[752年]])に正倉院に奉納された白布に記された「小長谷部尼麻呂」がいる<ref>川崎保『赤い土器のクニ」の考古学』(雄山閣、2008年)</ref>。さらに、[[冠着山|姨捨山]](おばすて)も小長谷部(おはつせべ)に由来するとされる。6世紀後半には[[欽明天皇]]の時代に科野国造後裔の[[金刺氏|金刺舎人直]]、[[敏達天皇]]の時代に同じく科野国造後裔の[[他田氏|他田舎人直]]が成立し、後世に[[諏訪大社]]下社・上社の大祝家や信濃国内の複数の郡司を務めた。その一方で、安曇郡司は[[安曇氏|安曇部氏]]が務めた。
信濃国に存在した[[名代]]・[[部曲]]は、史料に見えるものは[[刑部]]、[[長谷部|小長谷部]]、[[金刺氏|金刺舎人]]、[[他田氏|他田舎人]]、[[壬生部|生王部]]、[[物部]]、[[尾張氏|尾張部]]、[[神人部氏|神人部]]である。その他には屋代古墳群出土の木簡に見える[[金刺氏|金刺部]]、[[他田氏|他田部]]、[[若帯部]]([[舒明天皇|舒明]]・[[皇極天皇|皇極]]の名代)、[[穂積部]]、[[守部]]、[[酒人部]]、[[宍部]]、[[宍人部]]、[[屯倉|三家人部]]、[[田部|石田部]]、[[田部|戸田部]]や、それ以外の木簡に見える[[私部]]([[天平]]20年([[748年]])4月の写書所解に[[更級郡]]村神郷戸主の[[私部知麻呂]]や同戸口の[[私部乙麻呂]]の名が見える)、[[倉橋部]](平城宮若犬養門地区から出土した木簡に見える[[筑摩郡]][[山家郷]]の[[椋橋部逆]]や『[[続日本紀]]』[[神護景雲]]2年([[768年]])5月条に[[水内郡]]の人として見える[[倉橋部広人]]がいる)、[[丸子]]([[仁寿]]3年([[853年]])の願経に[[佐久郡]]の[[丸子真智成]]が見える)、[[久米氏|久米舎人]](『[[類聚国史]]』巻87の[[延暦]]14年4月条に[[小県郡]]人[[久米望足|久米舎人望足]]が見え、『[[続日本紀]]』[[天平]]19年([[747年]])5月条に叙位の記事が見える、[[高句麗]]系のウジ名を持つ[[前部宝公]]の妻・[[久米舎人妹女]]は、[[小県郡]]あるいは[[更級郡]]に居住していたと考えられている)、[[大伴]]、[[安曇氏|安曇部]]、[[建部]]、[[爪工部]]、[[辛犬甘氏|辛犬甘]]がいる<ref name="名前なし-3">傳田伊史『古代信濃の地域社会構造』(同成社、2017年)</ref>。[[允恭天皇]]期の刑部、[[武烈天皇]]期の小長谷部、[[欽明天皇]]期の金刺舎人などの[[名代]]は、[[安曇郡]]、[[高井郡]]を除く信濃国全ての郡に分布している<ref name="名前なし-1"/>。信濃国におけるウジ名や部名の特徴として、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[701年]])の『御野国戸籍』など、[[東山道]]の隣国である[[美濃国]]に分布するものが見えることが挙げられる。特に、若帯部、守部、穂積部などは、美濃国以外にはあまり例が知られていない。以上の部の設定は、古くても5世紀末、その多くは6世紀前半以降に順次設定されていったと考えられる<ref name="名前なし-3"/>。
[[飛鳥時代]]中期の皇極天皇3年(644年)、[[本多善光]]により開基された[[善光寺]]は、[[諏訪大社]]と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。[[大化]]元年([[645年]])には、[[大化の改新]]によって[[令制国]]が発足し、それまでの[[国造]]の支配に依拠してきた地方支配を改め、「[[評]]」と呼ばれる行政区画を全国に設置した。信濃国は当初、[[伊那郡|伊那(伊奈)評]]・[[諏訪郡|諏方(諏訪)評]]・[[筑摩郡|束間(筑摩)評]]・[[安曇郡|安曇(阿曇)評]]・[[水内郡|水内評]]・[[高井郡|高井評]]・[[小県郡|小懸(小県)評]]・[[佐久郡|佐久評]]・科野評(後に[[更級郡|更級]]と[[埴科郡|埴科]]に分立)などが成立していたと考えられ<ref>福島正樹「信濃国のなり立ち」 (古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社、 2003年) 42ページ</ref>、現在の[[木曽地域|木曽地方]]を欠く大部分を領域とした。これらの評は、[[大宝律令]]の成立後、[[郡]]に改組された。[[越国]]に大化3年(647年)に[[渟足柵]]が、大化4年(648年)に[[磐舟柵]]が作られて科野から[[柵戸]]が派遣された。また、[[斉明天皇]]6年(660年)12月には、科野国が、[[蝿]]の大群が巨坂を西の方向に飛び越えて行ったことを[[朝廷 (日本)|朝廷]]に報告した<ref>『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)十二月庚寅廿四</ref>とあり、それに先立つ[[推古天皇]]35年(627年)5月には、蝿の集団が信濃坂を越えて東の方へ行き、[[上野国]]で散り失せるとあることから<ref>『日本書紀』巻二二推古天皇三五年(六二七)五月</ref>、蝿に関して対応する特徴的な記述がされている。
天武天皇元年(672年)の[[壬申の乱]]には、科野の兵が[[土師馬手]]らに従い、大海人皇子([[天武天皇]])の側に立って活躍した。天武天皇14年(685年)には[[高田新家]]らに「束間温湯」(つかまのゆ)に[[行宮]](あんぐう)を造らせている。[[持統天皇]]5年(691年)の「須波神」「水内神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。大宝2年(702年)12月に、始めて美濃国に木曾山道を開くという記述があり<ref>『続日本紀』巻二大宝二年(七〇二)十二月壬寅十</ref>、和銅6年(713年)7月には、美濃国と信濃国の国境の道が険阻であり、往還が難しいということで、[[木曽街道|木曽路]]が開通している<ref>『続日本紀』巻六和銅六年(七一三)七月戊辰七</ref>。また、これらの記述の他にも、「信濃路は 今の墾道刈株に [[足]]踏ましなむ [[沓]]はけ我が背」([[万葉集]] 巻14-3399 相聞 東歌)と詠まれており、飛鳥時代の末期からは、信濃国における[[東山道|官道]]の開発がすすんでいた。
[[奈良時代]]には、[[馬寮|左馬寮]]の管轄下で[[望月牧]]など、官営による16の[[勅旨牧]]と、それを統括するための牧監庁が置かれた。[[養老]]5年([[721年]])[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]に南部を[[諏方国]]として分置したが、[[天平]]3年([[731年]])[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]に合併して元に復した。[[養老]]3年([[719年]])以後は[[美濃按察使]]の管轄下に置かれた。8世紀前半のものとみられる屋代遺跡出土の木簡には、「埴科郡大穴郷高家里」と「守部安万呂」の名前が併記されており、この「高家(たかやけ)」は、大きな高い建物の宅([[屯倉]])の意味で、ここに住んでいた守部安万呂は屯倉の管理者であったと考えられる<ref name="名前なし-1"/>。[[神護景雲]]2年([[768年]])には、各々の善行に対して朝廷から褒美を得た全国9人のうち、信濃国からは[[水内郡]]の[[刑部氏|刑部]]智麻呂と[[倉橋部]]広人や[[更級郡]]の[[建部氏|建部大垣]]、[[伊那郡]]の[[他田舎人千世売]]と4人までもを占めた。
奈良時代末期から[[平安時代]]初期にかけては、信濃国内の[[渡来人]]の改姓が続々と進んだ。『[[続日本紀]]』によれば、[[天平宝字]]5年([[761年]])3月に、[[百済]]人の余民善女等の4人が百済公、韓遠智などの4人が中山連、王国嶋など5人が楊津連、甘良東人等3人が清篠連、刀利甲斐麻呂等7人が丘上連、戸浄道等4人が松井連、憶頼子老等41人が石野連、竹志麻呂等4人が坂原連、生河内等2人が清湍連、面得敬等4人が春野連、高牛養等8人が浄野造、卓杲智等2人が御池造、延爾豊成等4人が長沼造、伊志麻呂が福地造、陽麻呂が高代造、烏那竜神が水雄造、科野友麻呂などの2人が清田造、斯葛国足等2人が清海造、佐魯牛養等3人が小川造、王宝受等4人が楊津造、答他伊奈麻呂等5人が中野造、調阿気麻呂等20人が豊田造(ここまで百済人)、高麗人の達沙仁徳等2人が朝日連、上部王虫麻呂が豊原連、前部高文信が福当連、前部白公等6人が御坂連、後部王安成等2人が高里連、後部高呉野が大井連、上部王弥夜大理等10人が豊原造、前部選理等3人が柿井造、上部君足等2人が雄坂造、前部安人が御坂造(ここまで[[高句麗]]人)、[[新羅]]人の新良木舍姓県麻呂等7人が清住造、須布呂比満麻呂等13人が狩高造(ここまで新羅人)、漢人の伯徳広足等6人が雲梯連、伯徳諸足等2人が雲梯造に改姓した<ref name="名前なし-2"/>。[[天平神護]]2年([[766年]])には、従七位上・[[科野石弓]]が石橋連の姓を賜っている。また[[延暦]]8年([[789年]])には、[[筑摩郡]]人の外少初位下[[高句麗五部|後部]]牛養が田河造の姓を賜っている<ref>『続日本紀』巻四十延暦八年(七八九)五月庚午廿九</ref>。延暦16年(797年)には、外從八位下[[高句麗五部|前部]]綱麻呂が安坂姓を下賜され<ref>『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)三月癸卯十七</ref>、これに続くように延暦18年(799年)には、信濃国人の外從六位下[[高句麗五部|卦婁]]眞老、後部黒足、前部黒麻呂、前部佐根人、[[高句麗五部|下部]]奈弖麻呂、前部秋足、[[小県郡|小縣郡]]人の无位上部豊人、下部文代、高麗家継、高麗継楯、前部貞麻呂、上部色布知等が、自分たちの先祖が飛鳥時代に帰化していることと天平勝宝9年(757年)4月4日の勅令<ref>『続日本紀』巻廿天平宝字元年(七五七)四月辛巳戊寅朔四</ref>を根拠として、自らの高句麗人の姓を日本人の姓に改めたいと朝廷に請願した結果、卦婁眞老等は須須岐姓、後部黒足等は豊岡姓、前部黒麻呂は村上姓、前部秋足等は篠井姓、上部豊人等は玉川姓、下部文代等は清岡姓。高麗家継等は御井姓。前部貞麻呂は朝治姓。上部色布知は玉井姓をそれぞれ下賜された<ref>『日本後紀』巻八延暦十八年(七九九)十二月甲戌五</ref>。田河造は[[田川 (長野県)|田川]]、安坂は[[筑北村]]安坂、須須岐は[[松本市]][[須々岐水神社 (松本市)|薄]]、豊岡は[[長野市]]戸隠豊岡、村上は[[坂城町]]村上や大町市村上、篠井は[[長野市]]篠ノ井、御井は[[東御市]]深井に由来する<ref name="名前なし-2"/><ref>東部町誌編纂委員会『東部町誌 歴史編』(東部町、1990年)</ref>、前部秋足が住んでいたと考えられる篠ノ井には、[[軻良根古神社]](からねこじんじゃ)が存在しているが、この神社は「韓(から)の根子(高貴な男性に対する尊称)」という意味で、秋足のような高句麗系渡来人が祭祀していた神社であった可能性が指摘されている<ref>黒坂周平先生の喜寿を祝う会編『信濃の歴史と文化の研究』(黒坂周平先生の喜寿を祝う会、1990年)</ref>。そして千曲川対岸の雨宮には唐崎神社があり屋代には須須岐水神社もあって同様に渡来人の祭祀が関連するものと考えられる。
[[弘仁]]8年(817年)には[[最澄]]が[[東山道]][[神坂峠]]の信濃側に[[信濃比叡広拯院|広拯院]]を建立した。[[初期荘園]]の立荘と並行して、[[仁和]]元年([[885年]])には[[公営田]]の設置が見られた。同4年([[888年]])には前年に発生した[[仁和地震]]の影響により八ヶ岳の山麓が大規模に崩壊し千曲川を約1年に渡って堰き止め、日本最大規模とされる河道閉塞を形成した。これはその後決壊し、「仁和大水」と言われる大[[洪水]]を起こした。この被害は100km以上下流まで及んだとされる。そして千曲市では屋代条里田が4mの堆積砂、その対岸に当たる長野市の石川条里田は2mの堆積砂の下に各々発見されている。
また、信濃国は罪人の配所に定められ、[[流罪|中流]]の範囲とされた<ref>『延喜式』卷第廿九 刑部省 延長五年(九二七)十二月廿六日</ref>。なお、[[元慶]]3年(879年)9月に[[鳥居峠 (長野県)|鳥居峠]]をもって美濃・信濃の国境と定められた。
平安時代の中期には[[平氏|桓武平氏]]の[[平将門]]が、東山道を京に向かう[[平貞盛]]に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した[[滋野氏]]や小県郡の郡司[[他田氏]]と合戦に及ぶなど(938年2月29日)、この時代における平氏内紛の舞台ともなった。また[[清和源氏]]は[[源経基|経基王]]以来、信濃守に任官される者が多く、源氏の土着が相次いで見られた([[信濃源氏]])。この頃には[[古今和歌集]]や[[大和物語]]集、[[今昔物語集]]によって信濃に姨捨伝説の存在することが知られ[[月見]]の[[名所]]としても[[姨捨山|姨捨]]の名を高める。古代の[[律令制|律令体制]]から中世の[[権門体制]]に移行する中で、[[院政]]の時代になると、[[院宮分国制]]の進展により[[白河天皇|白河法皇]]や[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の知行国となり、その後は[[公卿]]に引き継がれた。11世紀後半以降には最高権力者である院や摂関家への[[寄進地系荘園]]の立荘が本格化し、[[国衙領]]は縮小する傾向にあった。1108年(天仁元年)には、浅間山で[[天明大噴火|天明噴火]]の数倍と言われる規模の大噴火(天仁噴火)が発生し、山麓では大火砕流によって複数の集落が埋没した可能性がある。
平安時代末期に入ると、源氏内紛による[[久寿]]2年(1155年)の[[大蔵合戦]]で敗れた[[河内源氏]][[源義賢]]の遺児[[源義仲]]が木曾谷の[[中原兼遠]]の元に匿われた。[[保元]]元年(1156年)の[[保元の乱]]、[[平治]]元年(1159年)の[[平治の乱]]に際して、滋野氏、[[諏訪氏]]、[[片桐氏]]、[[平賀氏]]など多くの信濃武士は、源義賢と敵対した兄の[[源義朝]]に従った。ただし、[[崇徳天皇|崇徳上皇]]の近臣であった[[村上氏]]は、信濃に所領を持つ[[伊勢平氏]]の[[平家弘]]らと共に上皇方についた。[[後白河天皇|後白河法皇]]の第三皇子[[以仁王]]は信濃を含む東山・東海・北陸道の武士に平家追討の令旨を発し、[[源行家]]によって、新羅三郎[[源義光]]の子孫である[[源盛義|平賀盛義]]・[[平賀義信|義信]]父子(平賀冠者)、[[源親義|岡田親義]](岡田冠者)、そして源(木曾)義仲に伝えられた(『[[平家物語]]』)。義仲は信濃の兵を統べて挙兵し、[[横田河原の戦い]]で平氏の軍勢を破ると、以仁王の遺児[[北陸宮]]を奉じて北陸道経由で入洛したが、この動きに対し、源義朝の嫡男[[源頼朝]]は[[北条時政]]をして伊那や諏訪の武士を糾合させ、[[富士川の戦い|黄瀬川の戦い]]に出陣させた。村上氏、平賀氏らも頼朝に従った。その後、義仲は西国の平家追討のため京を離れたが[[水島の戦い]]で敗れ、さらに上洛した頼朝の弟[[源範頼|範頼]]、[[源義経|義経]]らに[[近江国]]で討伐された([[粟津の戦い]])。[[平安時代]]から[[鎌倉時代]]に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期は不明で、[[室町時代]]後期の木曽地方は公式にはまだ美濃国に属しており[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にまで下る可能性があるとする説<ref>[[山本英二]], 2008年</ref>もある。
=== 中世 ===
鎌倉時代初期には[[関東御分国]]の1つとして鎌倉幕府の[[知行国]]であった。その後の知行権は[[公卿]]や[[興福寺]]・[[東大寺]]等の有力寺院の手に移るが、[[在庁官人]]や[[国人]]衆の[[御家人#中世の御家人|幕府御家人]]化が進み、京都の[[遙任]]国司や知行国主、荘園[[領家]]らの影響力は薄れ、鎌倉幕府の介在なしには税の徴収も困難となり、「国司その用あてざる国」と揶揄された(『[[明月記]]』)。戦国時代まで存在した[[守護]]職には[[比企氏]]や[[執権]][[北条氏]]、[[小笠原氏]]、[[諏訪氏]]、[[吉良氏]]、[[上杉氏]]、[[斯波氏]]、[[武田氏]]らがいた。
幕府樹立後、初代の信濃守護には[[比企能員]]が就任し、信濃国[[目代]]を兼帯して国衙機構も掌握したが、[[建仁]]3年(1203年)の[[比企能員の変]]で北条時政に滅ぼされ、将軍[[源頼家]]の近習で、[[十三人の合議制]]に対抗する側近であった[[中野能成]]や[[小笠原長経]]も連座した。時政は比企氏以外にも幕府重臣の粛清を進め、[[元久]]2年(1205年)には平賀義信の次男[[平賀朝雅]]を傀儡の新将軍として擁立しようとしたが、失脚した([[牧氏事件]])。[[建暦]]3年(1213年)、御家人[[泉親衡]]が、信濃武士と結んで頼家の遺児[[栄実|千寿丸]]を将軍に擁立し、信濃守護も兼帯する執権[[北条義時]]の打倒を図る陰謀が発覚した([[泉親衡の乱]])。[[承久]]3年(1221年)の[[承久の乱]]では幕府の[[仁科盛遠]]への処遇も乱勃発の一端となった。信濃武士の多くは幕府方につき、東山道軍の[[武田信光]]、[[小笠原長清]]に従い、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]方の仁科氏らは[[北条朝時]]の北陸道軍に敗れた。幕府方についた信濃武士は[[地頭|新補地頭]]として西国に所領を得たが、それまで東国に限定的であった幕府の権威を浸透させる目的で西遷を余儀なくされた者も多かった。また幕府が朝廷に対して優位に立ち、信濃国内における北条氏の所領も[[関東御領]]の春近領{{efn|平安時代後半、国衙領が私領化するにつれ、有力在庁が請負人と成り設立した在庁名の一つが春近で、収入の安定した国衙領を朝廷の役所に配分してその役所を領家とした。その費用を負担する郷邑を春近領という}}を中核として拡大すると、[[宝治]]元年(1247年)の[[宝治合戦]]で武功を挙げた[[諏訪盛重]]や[[内管領]]を務めた[[諏訪盛経]]に代表されるように、北条氏の[[得宗]][[被官]]([[御内人]])として活躍する者も現れた。[[得宗専制]]が強化されてゆく中、[[弘安]]8年(1285年)の[[霜月騒動]]では幕府の有力御家人[[安達泰盛]]の姻戚であった[[伴野氏]]や、小笠原氏が巻き込まれ、逼塞を余儀なくされた。
この時代の仏教の信者で多いのが[[臨済宗]]、[[曹洞宗]]などの[[禅宗]]と[[一向宗]]、[[浄土宗]](禅林寺派)などである。特に[[塩田流北条氏]]の塩田荘は「信州の学海」(『仏心禅師大明国師無関大和尚塔銘』)と称されるほど、禅宗文化の中心地となった。[[弘安]]年間、興福寺が知行国主であった時、目代に補任された願舜坊定尭なる僧は信濃からの[[検注|検注物]]や年貢を横領し、弘安7年(1284年)、[[本所法]]である「満寺評定」によって、国外追放刑となった。[[延慶 (日本)|延慶]]2年(1309年)の国衙領の検注の調進は国司目代が行っているが、[[応安]]6年(1373年)には守護使に代わっている<ref>[[市河家文書]]</ref>。このように信濃においても国衙は次第に形骸化され、国司の権能は守護に遷移していったことがうかがえる。
鎌倉時代末期、[[元弘]]元年(1331年)からの[[元弘の乱]]では、信濃の御家人は、信濃守護を兼帯する[[六波羅探題|探題北方]][[北条仲時]]に従い、[[後醍醐天皇]]の拠る[[笠置山 (京都府)|笠置山]]や赤坂城を攻めた(『[[光明寺残篇]]』)。しかし[[元弘]]3年/[[正慶]]2年(1333年)に後醍醐天皇が[[鎌倉幕府]]追討の宣旨を下し、[[足利尊氏]]、[[新田義貞]]ら幕府の有力御家人が幕府から離反すると、[[小笠原貞宗]]もこれに従って[[鎌倉の戦い|鎌倉攻め]]に加わり、後に新たな信濃守護に補任された。一方、北条仲時は京都から逃る途中で自害に追い込まれた。[[東勝寺合戦]]では御内人の[[諏訪直性]]が得宗[[北条高時]]に殉じて自害するが、高時の遺児[[北条時行]]は諏訪氏に匿われた。建武2年(1335年)、[[諏訪神党]]の[[諏訪頼重 (南北朝時代)|諏訪頼重]]や滋野氏・仁科氏らは時行を奉じて挙兵し、[[鎌倉市|鎌倉]]を奪還したが([[中先代の乱]])、わずか20日で鎮圧され、諏訪氏らは自害し、時行は逃亡した。翌年に入ると[[北条泰家|北条時興]]が南朝に呼応して京都から[[麻績御厨]]に入って挙兵し(『[[市河家文書]]』)、小笠原貞宗や[[村上信貞]]の軍勢と衝突したが破れた。その後は[[吉良満義]]が守護となり、北条残党一掃のため[[吉良時衡]]が派遣された。
後醍醐天皇の[[建武の新政]]では[[公家]]中心の政治に対して[[武士]]の不満が高まった。[[延元の乱]]で尊氏が建武政権から離反すると、天皇方は鎌倉に向けて東海・東山両道に大軍を発し、[[忠房親王]]率いる東山道軍が[[大井城]]を落城させた。尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に入ると、[[吉野朝廷|南朝]]方の[[諏訪氏]]や[[仁科氏]]・[[香坂氏]]・[[根津氏|祢津氏]]・[[望月氏]]・[[海野氏]]らと[[持明院統|北朝]]方の小笠原氏や[[信濃村上氏|村上氏]]・[[高梨氏]]との間で抗争が繰り広げられた。暦応3年/興国元年(1340年)には、北条時行が[[遠江国]]から伊那谷に入り大徳王寺城に拠ったが、小笠原氏がこれを破った。観応元年(1350年)の[[観応の擾乱]]では南朝方[[足利直義]]派の[[諏訪直頼]]らも呼応して挙兵し、[[高師冬]]を討つなどの戦功を挙げ、直義が守護の任免権も掌握すると、観応2年(1351年)には直頼が信濃守護に補任されたが、尊氏派が勢力を盛り返すと[[薩埵山体制]]により守護は小笠原氏に復した。
南朝方は後醍醐天皇の皇子で、[[興国]]5年(1344年)から信濃に入国した[[征夷大将軍]][[宗良親王]](信濃宮)を奉じて、[[香坂高宗]]の拠る伊那谷に一大拠点を築いた。[[文和]]元年([[1352年]])には親王が信濃の南朝勢を糾合して[[武蔵野合戦]]に出陣したが敗北し、文和4年(1355年)の[[桔梗ヶ原の戦い]]でも小笠原氏に敗北すると、信濃における南朝勢力の衰微は決定的となり、諏訪氏や仁科氏なども北朝側に寝返って、ついには将軍[[足利義詮]]に従属するようになり、[[文中]]3年(1374年)親王も信濃を去った。信濃は[[暦応]]2年/延元4年(1339年)から康永3年/興国5年(1344年)までと、貞治4年/正平20年(1365年)から応安3年/建徳元年(1370年)まで、[[室町幕府]]から[[鎌倉府]]の管轄に移行したが、再び幕府に取り戻された。幕府と鎌倉府の融和によって、鎌倉府の推挙で[[上杉朝房]]が守護に任じられたが、将軍[[足利義満]]と公方[[足利氏満]]が対立すると、信濃は鎌倉府監視の最前線となり、鎌倉時代とは一変して、京都の政情が大きく影響するようになった。[[天授 (日本)|天授]]5年/[[康暦]]元年(1379年)の[[康暦の政変]]での大幅な守護改替により[[斯波義種]]が守護に補任された。
[[明徳]]3年(1392年)の[[明徳の和約]]による南北朝の合一後、幕府は在地豪族の荘園や公領の横領・濫妨を守護に命じて停止させようとしたため、複雑な対立関係が発生し、斯波氏に対する国人衆の反乱が起きた。その後、[[明徳の乱]]や[[応永の乱]]で武功を上げ信濃守護に復した小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が、国人衆(大文字一揆)を巻き込んで争い([[大塔合戦]])、[[小笠原長秀]]は京都へ追放された。[[応永]]9年(1402年)信濃は室町幕府料国(直轄地)となり、[[政所]]の直接支配下に置かれ、守護職は空白化した。その間、幕府代官として[[細川氏]]が派遣されたが、応永10年(1403年)から翌年にかけて、村上氏や高梨氏を中心とした国人衆の反乱が起きた。その後は将軍と[[鎌倉公方]]、鎌倉公方と[[関東管領]]との対立が大きく影響を及ぼし、強力な支配権を持つ自立した大名が登場することはなかった。将軍[[足利義教]]により信濃守護に復し、[[上杉禅秀の乱]]や[[永享の乱]]、[[結城合戦]]などで活躍した[[小笠原政康]]は、公方[[足利持氏]]派の村上氏
を抑えて信濃を一時平定したが、[[嘉吉の乱]]で義教の後ろ盾を失い、政康の没後、小笠原氏の家督相続と守護叙任に幕府有力者の[[畠山氏]]と細川氏の対立関係が絡んで、小笠原氏は三家に分裂した。幕府による[[享徳の乱]]への出陣命令にも応えられないほど衰亡し、守護権力も地に堕ち、[[上杉房定]]に半国守護を抑えられた。
室町末期にかけて[[下克上]]の様相を呈し、在地豪族の諸勢力が拮抗を続けた。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する[[村上氏]]、諏訪大社の信仰を背景とする[[諏訪氏]]、信濃[[守護]]家として幕府と強い繋がりを持つ[[小笠原氏]]、[[木曽谷]]に割拠する[[木曾氏]]らがその代表格であり、この4氏を後世「信濃四大将」と呼ぶ。他にも小笠原一族で[[守護代]]を務め、幼少期の[[古河公方]][[足利成氏]]を庇護した[[大井氏]]、[[越後国|越後]][[長尾氏]]と縁戚関係を結ぶ[[高梨氏]]、関東管領[[山内上杉氏]]を後ろ盾とした[[海野氏]]、逸早く土着し信濃源氏の祖となった[[井上氏]]、京武者として朝廷と強く結びつき、安曇郡に拠って一大勢力を築く[[仁科氏]]などの旧来の名族も健在であった。[[応仁]]元年(1467年)からの[[応仁の乱]]では仁科氏、木曾氏、伊那小笠原両氏、諏訪大社上社などが東軍([[細川勝元]])、府中小笠原氏が西軍([[山名宗全]])についた。[[長享]]元年(1487年)の[[長享・延徳の乱]]に始まる幕府の六角氏征伐では、仁科氏、木曾氏、村上氏、海野氏、小笠原氏らが将軍[[足利義尚]]、[[足利義稙]]に従って出兵した。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には隣国[[甲斐国]]や[[越後国]]との関係が深くなった。諏訪氏は甲斐守護[[武田氏]]と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏、村上氏は[[武田信虎]]と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが([[海野平の戦い]])、同年に甲斐で[[武田信玄|晴信]](信玄)への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、諏訪大社上社(諏訪氏)と下社(金刺氏)、諏訪宗家と[[高遠氏|高遠諏訪家]]の対立が絡んで、晴信による[[信濃侵攻]]が本格化する。武田氏は[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]、[[仁科盛政]]を滅ぼし、守護[[小笠原長時]]や[[村上義清]]らを追い、[[木曾義康]]や[[真田幸隆]]を従属させ、佐久郡において関東管領[[上杉憲政]]を破ると([[小田井原の戦い]])、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎([[上杉謙信]])を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・[[川中島]]を巡る[[川中島の戦い]]へと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合戦後には将軍[[足利義輝]]は甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の戦いは最大の衝突となった永禄4年(1561年)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。晴信は元亀2年(1571年)、[[三河国]]山間部を攻略する過程で、同国[[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]から現・[[根羽村]]の地域を信濃国に編入し伊那郡の一部とした。
武田晴信の死後、その後を継いだ[[武田勝頼]]が[[上杉景勝]]と同盟を結び、信濃を統一支配したが、[[天正]]10年([[1582年]])、[[織田信長]]に敗れて滅亡し、[[高遠城]]主[[仁科盛信]]らが戦死した。その後は織田家の版図に加えられ、[[森長可]](北信)、[[滝川一益]](東信)、[[毛利秀頼|毛利長秀]](伊那)、[[河尻秀隆]](諏訪)、[[木曾義昌]](安曇、筑摩)らに与えられた。しかし約三ヵ月後には[[本能寺の変]]が起き、信濃においても[[一向一揆]]が発生したことで織田家の勢力は瓦解し、権力の空白地帯となった信濃には[[徳川氏]]・[[後北条氏]]・上杉氏の勢力が進出した([[天正壬午の乱]])。やがて後北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により関東へ撤退した。
この結果、北信濃四郡は上杉氏、それ以外は徳川氏の領国となったが、両者の対立の狭間で[[真田昌幸]]が自立し第一次[[上田合戦]]を生じた。この対立はのちに[[徳川家康]]と[[豊臣秀吉]]の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従することで、天正18年([[1590年]])に関東に移封されると、徳川方の国衆も随行し、[[譜代大名]]や[[旗本]]となった者も多かった。信濃は[[豊臣氏|豊臣]]方の武将の支配下に収まり、[[仙石秀久]](佐久)、[[石川数正]](安曇、筑摩)、[[毛利秀頼]](伊那)、[[日根野高吉]](諏訪)が入封し、木曽は秀吉の蔵入地となった。さらに[[慶長]]3年(1598年)に北信濃四郡を治めた上杉景勝が越後から会津に移封されると、北信濃には[[関一政]]、[[田丸直昌]]が入封したが、秀吉の死後、家康は両者を美濃に移し、代わって配下の[[森忠政]]を入封させた。
真田氏はかつては徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、[[関ヶ原の戦い]]において西軍方についたため、[[徳川秀忠]]の軍勢は、小山評定から[[関ケ原町|関ヶ原]]に向けて中山道を進軍する途上、[[真田昌幸]]、[[真田信繁|信繁]]父子の居城[[上田城]]を攻めたが敗れた(第二次[[上田合戦]])。しかし[[石田三成]]ら西軍首脳が本戦で敗れたため、昌幸は[[高野山]]に流罪となった。その後、東軍の[[真田信之|真田信幸]]が上田から[[松代城]]に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の[[大坂の陣]]で武名を挙げた。
=== 近世 ===
[[江戸時代]]は、途中廃絶も含めて[[松代藩]]等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松代藩の他、[[松本藩]]、[[上田藩]]、[[飯山藩]]、[[小諸藩]]、[[岩村田藩]]、[[奥殿藩|龍岡藩]]([[奥殿藩|田野口藩]])、[[諏訪藩|高島藩]]、[[高遠藩]]、[[信濃飯田藩|飯田藩]]、[[須坂藩]])。また木曽地方は全域が[[尾張国]][[名古屋藩]]領(山村代官所)であり、伊那郡内には[[美濃国]][[高須藩]](竹佐陣屋)及び[[陸奥国]][[白河藩]](市田陣屋)、高井郡内には[[越後国]][[椎谷藩]](六川陣屋)、佐久郡内には[[三河国]][[奥殿藩]](後に藩庁を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。その他[[善光寺]]、[[戸隠神社]]、[[諏訪大社]]等の[[寺社領]]、天領支配のための[[中野陣屋|中野]]・[[中之条陣屋|中之条]]・[[御影陣屋|御影]]・[[飯島陣屋|飯島]]・[[塩尻陣屋|塩尻]]の5つの[[代官所]]、[[伊那衆]]三家を含む[[旗本]][[知行|知行所]](維新まで存続したものは12ヶ所)などが置かれた。
[[正保]]元年(1644年)、幕府は[[正保国絵図]]の信濃分の作成を松代藩、上田藩、飯山藩、松本藩、飯田藩に命じた。この時代には[[貞享]]3年(1686年)の松本藩[[貞享騒動]]や[[宝暦]]11年(1761年)の上田藩[[上田騒動|宝暦騒動]]など大規模な農民[[一揆]]が発生した。また、主に北信濃の豪雪地の農村を中心に多くの[[出稼ぎ]]労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「[[ムクドリ|椋鳥]]」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸[[川柳]]や[[狂歌]]に多く詠まれることとなった<ref>大久保忠国・木下和子編『新装普及版 江戸語辞典』(東京堂出版、2014年) 412頁</ref>。[[天明]]年間の[[天明大噴火|浅間山大噴火]]や[[天明の大飢饉]]も農民の都市への逃散の一因を成した。[[文化 (元号)|文化]]13年(1816年)には天領代官所に信濃国悪党取締出役が設置され、天保年間からは天領代官が大名・旗本領に立ち入り、他国から流入する[[無宿者]]の取締りに従事する事例が増加した。[[弘化]]4年(1847年)には[[善光寺地震]]が発生し、死者8000-12000人と広範囲に大規模な被害が及んだ。その一方で[[五郎兵衛用水]]や[[拾ヶ堰]]などの[[灌漑]]用水の開削によって、[[新田|新田開発]]が進み、信濃一国の石高は慶長3年(1598年)には約40万石であったものが、天保5年(1843年)には約75万石まで増加した。また[[寛文]]年間ころから農閑期の農民が担い手となり、[[中馬]]という新たな内陸交通手段が発達したが、[[宿場町]]の[[駅伝制|伝馬制]]を圧迫し、軋轢を生じたため、[[明和]]元年(1764年)に幕府は裁許状を発し、条件を付けて公認した。
幕末になると、東海地方から南信濃に[[平田篤胤|平田]][[国学]]が移入され、[[水戸学]]の影響も加わって、俄かに[[勤王]]・[[攘夷論|攘夷]]思想が盛んになった。[[嘉永]]6年(1853年)に[[黒船来航|黒船が来航]]し、幕府から松代藩は[[台場|品川台場]]の警固、松本藩、飯田藩、田野口藩は浦賀の警固を命ぜられ、重い負担を強いられた。[[文久]]元年(1861年)の[[和宮親子内親王|和宮]]の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が乗輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。[[元治]]元年(1864年)には[[天狗党の乱]]が関東から京へ向けて信濃国内を通行したが、実際に交戦したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗党に畏怖し通行を黙認した。同年、[[開国]]派の松代藩士[[佐久間象山]]は京都で[[尊王攘夷]]派に暗殺された。[[慶応]]3年(1867年)には東海地方から「[[ええじゃないか]]」と御札降りの騒動が信濃国全体に波及し、庶民の間に世直しの機運が醸成された。
[[戊辰戦争]]では外様の松代藩・須坂藩はいち早く[[倒幕]]を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多く、積極的な[[佐幕]]論は見えない中、次第に[[官軍]]に恭順していった。[[慶応]]4年([[1868年]])官軍より信濃諸藩に[[赤報隊]]の捕縛命令が下り、[[下諏訪宿]]で[[相楽総三]]らが処刑された。4月下旬、越後から進出した[[衝鋒隊]]が[[飯山城]]下を占領すると、信濃諸藩は[[東山道]]先鋒総督府の[[岩村精一郎]]の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま[[北越戦争]]、[[会津戦争]]に転戦した。[[賞典禄]]は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。明治維新に前後して、折柄の贋金の流通による経済の混乱も相まって信濃各地で[[木曽騒動]]、[[上田騒動]]、[[会田・麻績騒動]]、[[松代騒動]]などの[[世直し一揆]]が多発し、中でも最大規模の[[中野騒動]]では県庁舎が焼失し、県庁の長野移転の契機となった。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,774村・786,062石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[水内郡]](225村・110,270石余) - [[天領|幕府領]](中野代官所・松代藩[[預地]])、松代藩、'''[[飯山藩]]'''、[[越後国|越後]][[椎谷藩]]
** [[高井郡]](153村・86,336石余) - 幕府領(中野代官所・松代藩預地)、松代藩、'''[[須坂藩]]'''、越後椎谷藩
** [[埴科郡]](40村・25,162石余) - 幕府領(中之条代官所)、'''[[松代藩]]'''
** [[更級郡]](125村・59,050石余) - 幕府領(中之条代官所)、[[地方知行|旗本領]]、松代藩、上田藩
** [[小県郡]](154村・76,998石余) - 幕府領(中之条代官所)、旗本領、'''[[上田藩]]'''、小諸藩、岩村田藩
** [[佐久郡]](210村・98,319石余) - 幕府領(御影代官所・中之条代官所)、旗本領、'''[[岩村田藩]]'''、'''[[小諸藩]]'''、'''[[奥殿藩|田野口藩]]'''
** [[筑摩郡]](236村・84,451石) - 幕府領(塩尻代官所を経て松本藩預地)、'''[[松本藩]]'''、高遠藩、高島藩、[[尾張国|尾張]][[尾張藩|名古屋藩]]
** [[安曇郡]](179村・64,235石余) - 松本藩
** [[諏訪郡]](157村・43,779石余) - '''[[諏訪藩|高島藩]]'''
** [[伊那郡]](295村・137,459石余) - 幕府領(飯島代官所・松本藩預地・[[千村氏]]預地)、旗本領、'''[[高遠藩]]'''、'''[[信濃飯田藩|飯田藩]]'''、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]、[[美濃国|美濃]][[高須藩]]
* [[慶応]]2年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1866年]][[7月30日]]) - 白河藩が[[棚倉藩]]に転封。
* 慶応4年
** [[2月1日 (旧暦)|2月1日]]([[1868年]][[2月23日]]) - 棚倉藩が白河藩に転封(実行されず)。
** [[2月17日 (旧暦)|2月17日]](1868年[[3月10日]]) - 幕府領が名古屋藩の管轄となる。
** [[8月2日 (旧暦)|8月2日]](1868年[[9月17日]]) - [[府藩県三治制]]による'''[[伊那県]]'''を飯島陣屋に設置。
* 明治元年
** [[10月4日 (旧暦)|10月4日]](1868年[[11月17日]]) - 伊那郡の幕府領の一部(飯島代官所)が伊那県の管轄となる。
** [[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1869年]][[1月17日]]) - 白河藩が[[戊辰戦争]]後の処分により[[減封]]。伊那郡の領地は伊那県の管轄となる。
* 明治2年
** [[2月30日 (旧暦)|2月30日]](1869年[[4月11日]]) - 伊那郡を除く国内の幕府領の一部(中野・中之条・御影の各代官所)が伊那県の管轄となる。
** このころ国内の旗本領および幕府領の一部(松本藩預地)が伊那県の管轄となる。
** [[6月22日 (旧暦)|6月22日]](1869年[[7月30日]]) - 任知藩事にともない田野口藩が改称して'''[[竜岡藩]]'''となる。
** 9月 - 伊那郡の幕府領(千村氏預地・[[知久氏]]預地)が伊那県の管轄となる。
* 明治3年
** このころ国内の幕府領の残部(松代藩預地)が伊那県の管轄となる。
** [[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[1870年]][[10月11日]]) - 伊那県のうち更級郡・水内郡・高井郡・埴科郡・小県郡・佐久郡が分立して'''[[中野県]]'''が発足。筑摩郡・伊那郡は引き続き伊那県が管轄。
** [[12月23日 (旧暦)|12月23日]]([[1871年]][[2月12日]]) - 高須藩が廃藩。伊那郡の領地は名古屋藩の管轄となる。
* 明治4年
** [[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1871年[[7月19日]]) - 竜岡藩が廃藩。佐久郡の領地は中野県の管轄となる。
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により藩領が'''[[高遠県]]'''、'''[[飯田県]]'''、'''[[高島県]]'''、'''[[松本県]]'''、'''[[松代県]]'''、'''[[上田県]]'''、'''[[飯山県]]'''、'''[[須坂県]]'''、'''[[小諸県]]'''、'''[[岩村田県]]'''および[[名古屋県]]、[[椎谷県]]の飛地となる。
** 9月 - 国内の名古屋県の管轄地域が伊那県の管轄となる。
** [[7月25日 (旧暦)|7月25日]](1871年[[9月9日]]) - '''長野県'''成立。
** [[11月20日 (旧暦)|11月20日]](1871年[[12月31日]]) - 第1次府県統合により、埴科郡・高井郡・水内郡・佐久郡・更級郡・小県郡が'''[[長野県]]'''、筑摩郡・伊那郡・諏訪郡・安曇郡が'''[[筑摩県]]'''の管轄となる。
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により、筑摩県のうち信濃国が長野県に編入。
* [[昭和]]33年([[1958年]])[[10月15日]] - [[木曽郡|西筑摩郡]][[神坂村]]が[[岐阜県]][[中津川市]]に編入。
* [[平成]]17年([[2005年]])[[2月13日]] - [[木曽郡]][[山口村 (長野県)|山口村]]が岐阜県中津川市に編入。
=== 現代 ===
現代では、旧信濃国の領域は、ごくわずか(旧[[神坂村]]・旧[[山口村 (長野県)|山口村]])が[[岐阜県]][[中津川市]]に編入されているほかは、長野県の領域と一致している。広大な県域を持つ長野県では、地域間、特に[[長野市]]と[[松本市]]との対立の歴史がある。そのため、県を表す名称としては、長野市を由来とする「長野県」よりも、「信州」「信濃」の名称がニュートラルであるとして好まれる傾向にある(県歌「[[信濃の国]]」、[[信州大学]]など)<ref>{{Cite web|和書|title=信濃の由来|須坂のまるごと博物館 |url=https://suzaka-marugotomuseum.jp/ |website=suzaka-marugotomuseum.jp |access-date=2023-08-29 |language=ja}}</ref>。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
歴史的文献に現れる国府の所在地として、『[[和名類聚抄]]』、『[[拾芥抄]]』、『[[易林本]]』の節用集のいずれにも全て[[筑摩郡]]と記述されている{{efn|10世紀に編纂された『和名抄』(流布本)巻五の信濃国の項に「国府在筑摩郡」の注記があることから、平安時代中期には筑摩郡に国府があったことが知られる}}。現在の[[松本市#歴史|松本市]]域に比定される。
ただし諸説として、[[国分寺]]{{efn|[[1963年]]([[昭和]]38年)からの発掘調査によって国分僧寺・国分尼寺跡が[[上田市]]国分の地で確認され、国府と国分寺は一般的傾向として通常近接したところに立地するという点から小県郡に国府を推定する説。}}及び[[総社]]のひとつである科野大宮社が[[上田市#歴史|上田市]]にあること、[[東山道]]のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)、科野国造の本拠地であったことなどから推測して、『和名抄』編纂以前には[[小県郡]]に国府があったとする学説もあるが<ref>参考:長野県史刊行会編『長野県史』通史編 第1巻原始・古代 1989年、山川出版『長野県の歴史』ISBN 4634322005、『松本市史』第2巻 歴史編I「原始・古代・中世」、『上田市誌』 歴史編2「上田の弥生・古墳時代」・歴史編3「東山道と信濃国分寺」など多数。</ref>、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2022年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。
また、一時的に信濃国から分立した[[諏方国]]の国府も未詳である。
平安中期の[[944年]]、天災により国衙が倒壊し[[国司]]が圧死した記録が残る。
鎌倉初期には[[善光寺]]近傍に「後庁(御庁)」(長野市後町)が建てられ、国司の目代や在庁官人が置かれた。[[1335年]]には、[[建武の新政]]に反旗を翻した[[諏訪頼重 (南北朝時代)|諏訪頼重]]が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、[[守護]]を務める[[武家]]にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。
=== 寺院 ===
'''[[国分寺]]・[[国分尼寺]]'''
* [[信濃国分寺#信濃国分寺跡|信濃国分寺跡]] ([[上田市]]国分、{{Coord|36|22|48.27|N|138|16|15.01|E|region:JP-20_type:landmark|name=信濃国分寺跡}})
*: 国の[[史跡]]。北方に後継の[[信濃国分寺|国分寺]](上田市国分、{{Coord|36|22|58.93|N|138|16|15.90|E|region:JP-20_type:landmark|name=信濃国分寺(後継寺院)}})が所在。
* [[信濃国分寺#信濃国分尼寺跡|信濃国分尼寺跡]] (上田市国分、{{Coord|36|22|50.04|N|138|16|07.75|E|region:JP-20_type:landmark|name=信濃国分尼寺跡}})
*: 国の史跡(「信濃国分寺跡」に包括)。
'''[[定額寺]]'''
: [[貞観 (日本)|貞観]]9年(867年)に[[藤原良房]]によって定められた。
* 寂光寺(伊那郡)
* 錦織寺(筑摩郡)
* 安養寺(更級郡)
* 屋代寺(埴科郡)
* 妙楽寺(佐久郡)
'''[[安国寺利生塔]]'''
* [[安国寺 (茅野市)|安国禅寺]](茅野市宮川)
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社7座5社・小社41座41社の計48座46社が記載されている(「[[信濃国の式内社一覧]]」参照)。大社5社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。
* [[諏方郡]] 南方刀美神社二座
** 比定社:[[諏訪大社]] (諏訪地域に二社四宮)
* [[安曇郡]] 穂高神社
** 比定社:[[穂高神社]] ([[安曇野市]]穂高)
* [[更級郡]] 武水別神社
** 比定論社:[[武水別神社]] ([[千曲市]]八幡、{{Coord|36|31|10.12|N|138|06|10.81|E|region:JP-20_type:landmark|name=名神大社論社:武水別神社}})
** 比定論社:[[桶知大神社]] (長野市大岡丙、{{Coord|36|29|36.24|N|138|1|16.97|E|region:JP-20_type:landmark|name=名神大社論社:桶知大神社}})
* [[水内郡]] [[健御名方富命彦神別神社]]
** 比定論社:[[健御名方富命彦神別神社 (長野市箱清水)|健御名方富命彦神別神社]] (長野市箱清水、{{Coord|36|39|41.54|N|138|11|31.71|E|region:JP-20|name=名神大社論社:健御名方富命彦神別神社}})
** 比定論社:[[健御名方冨命彦神別神社 (長野市信州新町)|健御名方冨命彦神別神社]] (長野市信州新町、{{Coord|36|34|31.29|N|138|02|56.30|E|region:JP-20|name=名神大社論社:健御名方冨命彦神別神社}})
** 比定論社:[[健御名方富命彦神別神社 (飯山市)|健御名方富命彦神別神社]] (飯山市豊田、{{Coord|36|55|15.85|N|138|22|29.45|E|region:JP-20|name=名神大社論社:健御名方富命彦神別神社}})
* [[小県郡]] 生島足島神社二座
** 比定社:[[生島足島神社]] ([[上田市]]下之郷、{{Coord|36|21|36.90|N|138|13|5.50|E|region:JP-20_type:landmark|name=名神大社:生島足島神社}})
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>中世諸国一宮制研究会編『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 264-270。</ref>。
* 総社:次の2社の説がある。
** [[科野大宮社]] ([[上田市]]常田、{{Coord|36|23|40.04|N|138|15|28.80|E|region:JP-20_type:landmark|name=信濃国総社か:科野大宮社}})
** [[伊和神社 (松本市)|伊和神社]] ([[松本市]]惣社、{{Coord|36|14|18.15|N|137|59|27.51|E|region:JP-20_type:landmark|name=信濃国総社か:伊和神社}})
* 一宮:[[諏訪大社]] (諏訪地域、{{Coord|35|59|53.37|N|138|07|10.09|E|region:JP-20_type:landmark|name=信濃国一宮、名神大社:諏訪大社(上社本宮)}})
* 二宮:[[小野神社・矢彦神社|小野神社]] ([[塩尻市]]北小野、{{Coord|36|03|18.02|N|137|58|10.32|E|region:JP-20_type:landmark|name=信濃国二宮:小野神社}})
* 三宮:[[穂高神社]] ([[安曇野市]]穂高、{{Coord|36|20|19.28|N|137|53|3.57|E|region:JP-20_type:landmark|name=信濃国三宮、名神大社:穂高神社}})
* 四宮:武水別神社(千曲市八幡、北緯36度31分10.12秒 東経138度06分10.81秒)
以上のほか、[[沙田神社]](松本市島立三ノ宮)を三宮とする伝承がある<ref>沙田神社由緒書。</ref>。
=== 守護所 ===
守護所は守護の交代によって位置は移り変わり、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。
=== 勅旨牧 ===
{{columns-list|colwidth=12em|
*大室牧(水内郡)
*笠原牧(高井郡)
*高井牧(高井郡)
*新張牧(小県郡)
* [[塩原牧]](小県郡)
* [[望月牧]](佐久郡)
*長倉牧(佐久郡)
*塩野牧(佐久郡)
* [[猪鹿牧]](安曇郡)
* [[埴原牧]](筑摩郡)
* [[大野牧]](筑摩郡)
*岡屋牧(諏訪郡)
*山鹿牧(諏訪郡)
*萩倉牧(諏訪郡)
*平井手牧(伊那郡)
*宮処牧(伊那郡)
}}
埴原牧に牧監庁を併設。左馬寮に属し、後に左馬寮領の荘園となった。
=== 御厨 ===
: いずれも伊勢神宮領。
*芳美御厨(高井郡)
*保科御厨(高井郡)
*長田御厨(高井郡)
*布施御厨(更級郡)
*富部御厨(更級郡)
*村上御厨(更級郡)
*藤長御厨(更級郡)
* [[仁科御厨]](安曇郡)
* [[矢原御厨]](安曇郡)
* [[麻績御厨]](筑摩郡)
* [[会田御厨]](筑摩郡)
== 地域 ==
=== 郡 ===
信濃国に存在した郡と、現在の長野県に存在する郡の対応。
* [[伊那郡|伊奈郡]](いな)→[[上伊那郡]] - [[下伊那郡]]
**[[輔衆郷]] - 『[[和名抄]]』高山寺本には無記載
**[[伴野郷]]
**[[小村郷]]
**[[麻績郷]](「麻続」と記す場合もある)
**[[福智郷]]
* [[諏訪郡|諏方郡]](すは、すわ)→諏訪郡(字体だけ変更)
**[[土武郷]]
**[[佐補郷]]
**[[美和郷]]
**[[桑原郷]]
**[[神戸郷]] - 『[[和名抄]]』高山寺本には無記載
**[[山鹿郷]]
**[[氐良郷]] - (「返良」と記す場合もある)
* [[筑摩郡]](ちくま、つかま)→[[東筑摩郡]] - [[木曽郡]](西筑摩郡から改称)
**[[良田郷]]
**[[崇賀郷]] - (「宇賀」と記す場合もある)
**[[辛犬郷]]
**[[錦服郷]]
**[[山家郷]]
**[[大井郷]]
**[[荒田郷]]
* [[安曇郡]](あづみ)→[[北安曇郡]] - [[南安曇郡]](消滅)
**[[高家郷]]
**[[八原郷]]
**[[前科郷]]
**[[村上郷]]
* [[更級郡]](さらしな)(消滅)
**[[麻績郷]](「麻続」と記す場合もある)
**[[村上郷]]
**[[当信郷]] - (「等信」「当科」と記す場合もある)
**[[小谷郷]]
**[[更級郷]]
**[[清水郷]]
**[[斗女郷]]
**[[池郷郷]]
**[[氷銫郷]]
**[[余戸郷]]
**[[長谷郷]]?
* [[水内郡]](みぬち、みのち)→[[上水内郡]] - [[下水内郡]]
**[[芋井郷]]
**[[大田郷]]
**[[芹田郷]]
**[[尾張郷]]
**[[大嶋郷]]
**[[古野郷]]
**[[赤生郷]]
**[[中嶋郷]]
* [[高井郡]](たかい)→[[上高井郡]] - [[下高井郡]]
**[[穂科郷]]
**[[小内郷]]
**[[稲向郷]]
**[[日野郷]]
**[[神戸郷]]
* [[埴科郡]](はにしな)
**[[倉科郷]]
**[[磯部郷]]
**[[船山郷]]
**[[大穴郷]]
**[[英多郷]]
**[[坂城郷]]
* [[小県郡]](ちいさがた)
**[[童女郷]]
**[[山家郷]]
**[[須波郷]]
**[[跡部郷]]
**[[安宗郷]]
**[[福田郷]]
**[[海部郷]]
**[[余戸郷]]
* [[佐久郡]](さく)→[[北佐久郡]] - [[南佐久郡]]
**[[美理郷]]
**[[大村郷]]
**[[大井郷]]
**[[余戸郷]]
**[[刑部郷]]
**[[青治郷]]
**[[茂理郷]]
**[[小治郷]]
**[[大穴郷]]
== 人物 ==
=== 国司 ===
括弧内は任官年。[[延喜式]]では[[上国]]となっており、国司構成は[[除目]]により、[[四等官]]が各1名ずつの他、3名の[[史生]]からなる。
==== 信濃守 ====
===== 飛鳥・奈良時代 =====
{{columns-list|2|
* [[小治田宅持]]{{efn|文献上に現れる初代信濃国司。}} (708年)
* [[佐伯沙弥麻呂]] (714年)
* [[巨勢又兄]] (731年)
* [[物部依羅人曾]] (746年)
* [[坂合部金綱]] (747年)
* [[佐伯大成 (公家)|佐伯大成]]{{efn|[[橘奈良麻呂の乱]]で処罰され任国配流。}} (757年)
* [[忌部鳥麻呂]] (757年)
* [[藤原継縄]] (764年)
* [[三河王]] (764年)
* [[多犬養]] (766年)
* [[藤原楓麻呂]] (769年)
* [[菅生王]] (771年)
* [[多治比豊浜]] (772年)
* [[石川望足]] (774年)
* [[大原浄貞]] (778年)
* [[大伴不破麻呂]] (778年)
* [[紀家継]] (781年)
* [[巨勢苗麻呂]] (784年)
* [[中臣鷹主]] (785年)
* [[縣犬養堅魚麻呂]](786年)
* [[藤原乙叡]] (790年)
}}
===== 平安時代 =====
{{columns-list|2|
* [[笠江人]] (795年頃?)
* [[藤原継業]] (799年以後?)
* [[出雲広貞]] (権守) (812年頃?)
* [[宇智王]] (813年)
* [[仲雄王]] (818年頃?)
* [[菅原清公]] (826年)
* [[紀百継]] (828年)
* [[南淵弘貞]] (833年)
* [[源弘]] (833年)
* [[清原長谷]] (833年)
* [[源弘]](再任) (835年)
* [[藤原大津]] (836年)
* [[興世書主]] (840年)
* [[紀綱麻呂]] (権守) (841年)
* [[小野篁]] (848年)
* [[藤原助]] (851年)
* [[久賀三夏]] (852年)
* [[平実雄]] (853年)
* [[源多]] (858年)
* [[南淵年名]] (858年)
* [[橘安吉雄]] (権守) (861年)
* [[在原行平]] (862年)
* [[橘安吉雄]] (守に昇格) (864年)
* [[有宗益門]] (権守) (865年)
* [[源頴]] (867年)
* [[藤原水谷]] (権守) (869年)
* [[滋野善根]] (870年)
* [[源興基]] (権守) (870年)
* [[紀有常]] (権守) (871年)
* [[在原守平]] (874年)
* [[源近善]] (権守) (877年)
* [[源包]] (878年)
* [[橘良基]] (884年)
* [[源近善]] (権守) (884年頃?)
* [[藤原有蔭]] (885年以前?)
* [[源道]] (権守) (886年)
* [[藤原諸房]] (887年)
* [[源定有]] (権守) (887年頃?)
* [[藤原扶幹]] (895年)
* [[源実]] (899年)
* [[源義]] (899年頃?)
* [[小野清実]] (904年)
* [[源清蔭]] (権守) (907年)
* [[源恵]] (908年)
* [[源是茂]] (権守) (915年)
* [[藤原忠房]] (権守) (916年)
* [[藤原俊蔭]] (権守) (917年)
* [[橘公頼]] (923年)
* [[平時望]] (権守) (924年)
* [[源師尚]] (925年以前?)
* [[藤原公葛]] (925年)
* [[源宗于]] (権守) (925年)
* [[源善延]] (927年頃?)
* [[高階師尚]] (936年)
* [[藤原良載]] (936年以前?)
* [[源公家]] (938年以前?)
* [[源師保]] (944年以前?)
* [[紀文幹]]{{efn|国衙が倒壊し圧死。}} (944年頃?)
* [[源重光]] (権守) (950年)
* [[源信明]] (953年)
* [[源経基]] (961年以前?)
* [[源惟正]] (961年)
* [[平維茂]] {{efn|『[[紅葉狩 (能)|紅葉狩]]』の登場人物で知られる。(近年の伝説では969年に維茂が信濃国に赴いたとされるが、『紅葉狩』や江戸時代の書物には維茂が信濃国に赴いた年は記されていない。)}}
* [[源重之]](969年頃?)
* [[藤原季平]] (977年以前?)
* [[藤原陳忠]]{{efn|『[[今昔物語集]]』の[[受領]]のエピソードで知られる。}} (982年頃?)
* [[藤原在国]] (権守) (988年)
* [[藤原永年]]{{efn|[[藤原尹文]]の子か。}} (989年以前?)
* [[藤原惟正]] (992年頃?)
* [[藤原隆家]] (権守) (993年)
* [[源満仲]] (997年以前?)
* [[佐伯公行]] (998年以前?)
* [[藤原伊祐]] (998年以前?)
* [[中原致時]] (998年)
* [[源道方]] (権守) (1001年)
* [[源済政]] (1002年)
* [[源定長]] (1004年以前?)
* [[藤原佐光]] (1004年)
* [[藤原弘道]] (権守) (1007年)
* [[藤原公則]] (1012年)
* [[源道成]] (1017年頃?)
* [[藤原惟任]] (1022年頃?)
* [[藤原信理]] (1023年以前?)
* [[大江保資]] (1027年頃?)
* [[藤原家経]] (1032年)
* [[菅原忠貞]] (1040年以前?)
* [[平孝義]] (1040年)
* [[源頼親]] (1043年頃?)
* [[源経隆]] (1047年頃?)
* [[藤原伊綱]] (1057年以前?)
* [[橘俊通]] (1057年)
* [[大江成衡]] (1063年以前?)
* [[藤原惟経]] (1069年以前?)
* [[源隆基]] (1072年以前?)
* [[藤原知言]] (1077年以前?)
* [[源清実]] (1077年以前?)
* [[浦野重遠]] (1079年以前?)
* [[源国信]] (権守) (1079年)
* [[藤原敦憲]] (1080年頃?)
* [[藤原家綱]] (1089年頃?)
* [[高階為章]] (1091年頃?)
* [[藤原定仲]] (権守) (1095年頃?)
* [[藤原永清]] (1096年頃?)
* [[源師光 (清和源氏)|源師光]] (1096年)
* [[源国房]] (1096年以前?)
* [[藤原永実]] (1100年)
* [[藤原斎長]] (1105年頃?)
* [[高階為行]] (1107年頃?)
* [[橘広房]]{{efn|[[源明国]]に殺害された}} (1108年)
* [[大江広仲]] (1112年以前?)
* [[藤原惟明]] (1112年)
* [[平盛基]] (1116年)
* [[藤原兼定]] (権守) (1116年)
* [[源重時]] (1120年)
* [[藤原盛重]] (1127年)
* [[藤原重万]] (権守) (1130年頃?)
* [[大江季重]] (権守) (1132年)
* [[源義綱]] (1132年以前?)
* [[藤原親隆]] (1132年)
* [[藤原朝隆]] (1139年)
* [[藤原賢行]] (1143年)
* [[藤原親康]] (権守) (1146年)
* [[藤原清通]]{{efn|[[藤原伊通]]の孫か。}} (1148年)
* [[藤原長親]] (権守) (1149年頃?)
* [[中原兼遠]] (権守) (1155年頃?)
* [[藤原行道]] (1156年頃?)
* [[藤原顕賢]] (1157年)
* [[藤原是憲]] (1158年){{efn|[[信西]](藤原通憲)の子。[[平治の乱]]で免職され佐渡島に流罪。後に出家し、[[円照 (遊蓮房)]]となり[[法然]]の弟子となる<ref>『法然上人絵伝(下)』(岩波文庫)211頁</ref>。}}
* [[源重成]] (1159年)
* [[藤原伊輔]] (1160年)
* [[藤原親経]] (権守) (1160年)
* [[藤原伊輔]] (再任) (1163年)
* [[藤原隆雅]]{{efn|[[藤原家長]]の子か。}} (1168年)
* [[藤原実教]] (1172年)
* [[大江泰友]] (権守) (1174年)
* [[大中臣盛実]] (権守) (1178年)
* [[藤原盛長]] (1179年頃)
* [[藤原景清]] (1180年)
* [[大江成棟]] (権守) (1182年以前?)
* [[藤原能成]] (権守) (1183年)
* [[加賀美遠光|加々美遠光]]{{efn|平氏追討の勲功。}} (1185年)
* [[吉田資経]] (1190年)
* [[源進]](年代不詳)
* [[源為公]](年代不詳)
* [[源有房]] (年代不詳)
* [[平正家]](年代不詳)
* [[中原頼季]] (権守) (年代不詳)
}}
===== 鎌倉時代 =====
{{columns-list|2|
* [[源遠義]] (1193年頃?)
* [[卜部兼直]] (権守) (1199年)
* [[藤原長兼]] (1202年)
* [[姉小路公宣]] (権守) (1203年)
* [[藤原資頼]] (1203年)
* [[藤原家時]] (1205年)
* [[藤原基綱]] (1206年)
* [[藤原隆綱]] (1210年)
* [[二階堂行光]] (1216年頃?)
* [[藤原親輔]] (権守) (1217年)
* [[藤原隆雅]]{{efn|[[藤原隆房]]の子か。}} (1226年)
* [[藤原信忠]] (1227年)
* [[源頼俊]] (1231年)
* [[阿野公佐|藤原公佐]] (1232年以前?)
* [[源輔通]] (1232年)
* [[藤原宗範]] (権守) (1233年)
* [[諏訪信重]] (権守) (1239年頃?)
* [[源季遠]] (権守) (1243年)
* [[佐々木泰清]] (1258年)
* [[源秀清]] (1258年頃?)
* [[藤原教房]] (1258年以前?)
* [[源通頼]] (1260年)
* [[小笠原長忠]] (1264年以前?)
* [[二階堂行実]] (1268年)
* [[二階堂行章]] (1274年)
* [[藤原親世]] (1287年)
* [[安倍雅遠]] (1288年)
* [[藤原雅任]] (1289年)
* [[小笠原長政 (鎌倉時代)|小笠原長政]] (1294年以前?)
* [[二階堂行貞]] (1295年)
* [[太田時連]] (1298年)
* [[荒井頼任]] (1303年頃?)
* [[小笠原長氏 (鎌倉時代)|小笠原長氏]] (1310年以前?)
* [[三条実治 (南北朝時代)|三条実治]] (権守) (1330年)
* [[小笠原宗長]] (1330年以前?)
* [[清原氏|清原]]某{{efn|堀川中納言藤原光継の直前の前任者であるとの記録があり、左近少将入道と同一人物とする説あり。}} (1333年)
* [[赤松範資]] (1333年頃?)
* [[伊東祐光]] (年代不詳)
}}
===== 南北朝時代 =====
<!-- 朝廷の除目による -->
{{columns-list|2|
* [[坊門清忠]](権守)(1334年)
* [[資英王]]{{efn|name="sirakawahakuou"|[[白川伯王家]] }} (1334年)
* [[小笠原貞宗]] (1334年頃?)
* [[近衛府|左近少将入道]]某{{efn|1333年10月に就任した清原真人某と同一人物か。[[中先代の乱]]で戦死。}} (1335年)
* [[藤原光継]]{{efn|解任後、1338年の南都合戦で戦死。}} (1335年)
* [[仁科重貞]] (1336年頃)
* [[風間信昭]] (1338頃?)
* [[太田氏|太田]]某 (1340年頃?)
* [[園基隆]] (権守) (1346年)
* [[諏訪頼嗣]] (権守) (1347年)
* [[源利治]] (1347年)
* [[安倍豊房]] (権守) (1350年)
* [[藤原行盛]] (1350年)
* 諏訪頼嗣 (守に昇格) (1350年頃?)
* [[諏訪直頼]] (1351年)
* [[源秀時]] (1351年)
* [[安倍泰規]] (1352年)
* 海老名某 (1352年頃?)
* [[二階堂行朝]] (1353年以前?)
* 蜂谷某 (1353年頃?)
* [[小笠原政長]] (1353年頃?)
* [[久我具通]] (権守) (1358年)
* [[安東高泰]] (1358年頃?)
* [[諏訪氏|諏訪]]某 (1358年頃?)
*八代某 (1358年頃?)
* [[山代氏|山代]]某 (1358年頃?)
* [[武田義武]] (1359年頃?)
* [[岡本富高]] (1364年頃?)
* [[小笠原長基]] (1365年頃?)
* [[二宮貞家]] (1366年)
* [[顕邦王]]{{efn|name="sirakawahakuou"}} (権守) (1375年)
* [[資方王]]{{efn|name="sirakawahakuou"}} (権守) (1383年頃?)
* [[二宮氏泰]]{{efn|守護斯波義種の守護代も務めた。}}(1386年頃?)
* [[小野氏信]] (1392年頃?)
}}
===== 室町時代 =====
<!-- 朝廷の除目による -->
{{columns-list|2|
* [[吉田兼敦]] (権守) (1398年)
* [[菅原長方]] (権守) (1406年)
* [[源為治]] (権守) (1421年)
* [[滋野井教国]] (権守) (1459年)
* [[久我嗣通]] (権守) (14639年)
* [[惟宗惟冬]] (権守) (1467年)
* [[源春朝]] (権守) (1475年)
* [[白川雅業王|雅業王]]{{efn|name="sirakawahakuou"}} (権守) (1522年)
}}
==== 信濃介 ====
===== 飛鳥・奈良時代 =====
{{columns-list|2|
* [[谷綿麻呂]] (738年頃?)
* [[紀僧麻呂]] (761年)
* [[当麻王]](767年)
* [[濃宜水通]] (768年)
* [[弓削大成]]{{efn|name="ingai"|員外国司 }} (769年)
* [[田口水直]]{{efn|name="ingai"}} (770年)
* [[多治比賀智]] (786年)
* [[平群清麻呂]] (790年)
}}
===== 平安時代 =====
{{columns-list|2|
* [[石川清主]] (795年頃?)
* [[藤原継業]] (のちに守) (799年)
* [[和弟長]] (804年)
* [[坂本佐太気麻呂]] (806年)
* [[安倍安仁]] (828年)
* [[藤原貞守]] (841年)
* [[下毛野文継]] (842年)
* [[伴御園]] (846年)
* [[佐伯雄勝]] (848年)
* [[紀最弟]] (852年)
* [[清原秋雄]] (852年)
* [[紀道茂]] (854年)
* [[藤原秀道]] (857年)
* [[田口統範]] (権介) (858年)
* [[紀冬雄]] (861年)
* [[藤原是縄]] (権介) (864年)
* [[大春日吉野]] (865年)
* [[滋野恒蔭]] (868年)
* [[佐伯子房]] (権介) (873年頃?)
* [[藤原恒実]] (権介) (878年)
* [[橘茂蔭]] (879年頃?)
* [[藤原有令]] (884年)
* [[良岑唯実]] (885年)
* [[小野滋蔭]] (893年)
* [[藤原恒佐]] (権介) (898年)
* [[小野美材]] (権介) (899年)
* [[紀淑望]] (権介) (913年)
* [[藤原顕忠]] (権介) (925年)
* [[三統公忠]] (権介) (941年)
* [[高向行方]] (979年)
* [[丹波茂忠]] (権介) (981年)
* [[平保忠]] (984年)
* [[平景盛]] (権介) (998年)
* [[藤原輔遠]] (権介) (998年以前?)
* [[清岳光明]] (権介) (999年)
*賀茂某 (1025年頃?)
* [[伴貞資]] (1033年)
*紀某 (1055年頃?)
* [[平康清]] (1176年)
* [[中原国盛]] (権介) (1181年)
* [[藤原良宏]] (権介) (1181年)
}}
===== 鎌倉時代 =====
{{columns-list|2|
* [[藤原祐康]] (1205年)
* [[藤原実嗣]] (1206年)
* [[三条実親]] (権介) (1206年)
* [[藤原盛兼]] (1219年)
* [[藤原親季]] (権介) (1223年)
* [[藤原兼頼]] (1229年)
* [[大江景頼]] (権介) (1231年)
* [[法性寺雅平|藤原雅平]] (権介) (1241年)
* [[藤原公齋]] (権介) (1243年)
* [[藤原茂通]] (権介) (1249年)
* [[中院通教]] (1255年)
* [[堀川具守]] (1260年)
* [[藤原季顕]] (権介) (1267年)
* [[藤原通雄]] (権介) (1272年)
* [[源為雄]] (1274年)
* [[藤原実時]] (権介) (1274年)
* [[藤原長忠]] (権介) (1278年)
* [[源長通]] (1294年)
}}
===== 南北朝・室町時代 =====
{{columns-list|2|
* [[久我通相]] (権介) (1334年)
* [[藤原実長]] (1342年)
* [[源有範]] (1347年)
* [[中山満親]] (権介) (1390年)
* [[下冷泉為豊]] (1522年)
}}
==== 信濃掾 ====
===== 平安時代 =====
{{columns-list|2|
* [[藤原忠房]]{{efn|916年に権守として再任。}}(887年)
* [[美努秀則]] (982年頃?)
* [[菅野貞頼]] (995年)
* [[秦員友]](権少掾) (995年)
* [[大宅清則]](権少掾) (998年)
* [[久米滋延]] (1000年)
* [[藤井国兼]](大掾) (1179年)
* [[藤原康義]] (1179年)
* [[藤原俊康]](少掾) (1180年)
}}
===== 南北朝・ 室町時代 =====
{{columns-list|2|
* [[中原重直]](大掾) (1344年)
* [[藤井有右]](大掾) (1350年)
* [[十市定之]](大掾) (1401年)
* [[高橋富里]] (1402年)
}}
==== 信濃目 ====
===== 鎌倉時代 =====
* [[藤井真里]] (1291年)
===== 南北朝・ 室町時代 =====
{{columns-list|2|
* [[藤井正次]] (1344年)
* [[清原長有]](少目) (1347年)
* [[八木重治]](権目) (1359年)
* [[浦地浪康]](権少目) (1361年)
* [[秦治徳]](大目) (1398年)
* [[椿戸花棟]](権目) (1402年)
* [[掃部里久]](大目) (1407年)
* [[御笠山高]](1410年)
}}
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
* 1190年 - 1203年:[[比企能員]]
* 1203年 - 1221年:[[北条義時]]
* 1225年 - 1246年:[[北条重時]]([[極楽寺流北条氏|極楽寺流]])
* 1265年 - 不明:[[北条義宗]]([[赤橋流北条氏|赤橋流]])
* 1280年 - 不明:[[北条久時]](赤橋流)
* 1310年 - 不明:[[北条基時]]([[普恩寺流北条氏|普恩寺流]])
*不明 - 1332年:[[北条仲時]](普恩寺流)
==== 室町幕府 ====
* 1336年:[[小笠原貞宗]]
* 1338年 - 不明:[[村上信貞]]
* 1340年 - 1341年:[[吉良満義]]
* 1342年 - 1347年:小笠原貞宗
* 1347年 - 1351年:[[小笠原政長]]
* 1351年:[[諏訪直頼]]
* 1352年:小笠原政長
* 1352年 - 1365年:[[小笠原長基]]
* 1366年 - 1377年:[[上杉朝房]]
* 1384年 - 1387年:[[斯波義種]]
* 1387年 - 1399年:[[斯波義将]]
* 1398年 - 1399年:[[斯波義重]]
* 1399年 - 1401年:[[小笠原長秀]]
* 1401年 - 1402年:斯波義将
* 1402年 - 1423年:幕府直轄{{efn|代官に[[細川慈忠]]、[[細川氏|細川持有]]}}
* 1425年 - 1442年:[[小笠原政康]]
*不明 - 1446年:[[小笠原宗康]]
* 1446年 - 1450年:[[小笠原光康]]{{efn|name="katsumoto"|[[細川勝元]]の推挙}}
* 1451年 - 1453年:[[小笠原持長 (信濃小笠原氏)|小笠原持長]]{{efn|[[畠山持国]]の推挙}}
* 1453年 - 1461年:小笠原光康{{efn|name="katsumoto"}}
* 1463年 - 1477年?:[[小笠原政秀]](半国守護)<ref name=kofukuji>1477年の[[興福寺]]の記録</ref>
* 1471年? - 1477年?:[[上杉房定]](半国守護)<ref name=kofukuji/>
* 1493年? - 1501年:[[小笠原長朝]]
* 1501年 - 1515年:[[小笠原貞朝]]
*不明 - 1542年:[[小笠原長棟]]
* 1542年 - 1550年?:[[小笠原長時]]
* 1559年 - 1573年:[[武田信玄|武田晴信]](信玄)
* 1574年 - 1582年:[[武田勝頼]]
=== 国人 ===
* [[諏訪氏]]
* [[高遠氏]] - 諏訪氏派生。
* [[村上氏]]
* [[高梨氏]]
* [[海野氏]]
* [[真田氏]]
* [[大井氏]]
* [[木曽氏]]
* [[仁科氏]] - 安曇郡
* [[藤沢氏]]
* [[滋野氏]]
* [[香坂氏]]
=== 武家官位としての信濃守 ===
=== 武家官位としての信濃守 ===
* [[武田信玄|武田晴信]] 信濃侵攻の大義名分のため。
* [[小出吉政]] [[但馬国|但馬]][[出石藩]]初代藩主・[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]第2代藩主。
* [[小出吉親]] 但馬出石藩第3代藩主、[[丹波国|丹波]][[園部藩]]初代藩主。
* [[小出英知]] 丹波園部藩第2代藩主。
* [[小出英貞]] 丹波園部藩第4代藩主。
* [[小出英持]] 丹波園部藩第5代藩主。
* [[小出英筠]] 丹波園部藩第7代藩主。
* [[小出英発]] 丹波園部藩第8代藩主。
* [[小出英教]] 丹波園部藩第9代藩主。
* [[柳沢里之]] [[越後国|越後]][[三日市藩]]第4代藩主。
* [[柳沢里世]] 越後三日市藩第5代藩主。
* [[柳沢徳忠]] 越後三日市藩第8代藩主。
* [[永井尚政]] [[下総国|下総]][[古河藩]]主。[[老中]]。
* [[永井直国]] [[大和国|大和]][[新庄藩]]第3代藩主。
* [[永井直温]] 大和新庄藩第4代藩主。
* [[永井直方]] 大和新庄藩第5代藩主。
* [[永井直養]] 大和新庄藩第6代藩主。
* [[永井直壮]] 大和新庄藩第8代藩主。大和[[櫛羅藩]]初代藩主。
* [[永井直哉]] 大和櫛羅藩第2代藩主。
* [[池田政言]] [[備中国|備中]]岡山新田藩([[鴨方藩]])初代藩主。
* [[南部利直]] 陸奥盛岡藩初代藩主
* [[南部行信]] 陸奥盛岡藩第4代藩主。
* [[小笠原長逵]] 播磨[[安志藩]]第2代藩主
* [[南部利済]] 陸奥盛岡藩第12代藩主。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 長野県史刊行会『[[長野県史]]』
* [[信濃史学会]]『信濃』
* 長野県下の各市郡町村誌
* [[角川日本地名大辞典]] 20 長野県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[令制国一覧]]
* [[信濃の国]] - 長野県歌
* [[信濃毎日新聞]]
* 列車名「しなの」 - [[中央本線]]・[[篠ノ井線]]・[[信越本線]]で運行する[[特別急行列車]]。→[[しなの (列車)]]を参照のこと。
* [[信濃グランセローズ]]
* [[信州大学]]
* [[テレビ信州]]
* 列車名「信州」(しんしゅう)
*# [[1961年]]([[昭和]]36年)10月から[[1963年]](昭和38年)10月の間[[名古屋駅]]~[[長野駅]]間で運行された急行列車。[[しなの (列車)]]を参照。
*# [[1963年]](昭和38年)10月から[[1985年]](昭和60年)3月の間[[上野駅]]~長野駅間で運行された急行列車。[[あさま]]を参照。
* [[シナノキ]] - 信濃の名の由来、語源について。
* [[信濃 (空母)|信濃(空母)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[航空母艦]]。艦名は信濃国に因む。
{{令制国一覧}}
{{信濃国の郡}}
{{DEFAULTSORT:しなののくに}}
[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:東山道|国しなの]]
[[Category:長野県の歴史]]
[[Category:中津川市の歴史]]
[[Category:信濃国|*]]
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諏方国
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諏方国(すわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。諏訪国とも表記。領域は現在の長野県西部にあたるが、短期間しか存続しなかった。
養老5年(721年)6月26日に信濃国から分立した。建国理由には諸説あるが、有力な説としては諏訪地方が古より独自の文化を形成していた地域(諏訪大社、洲羽国造)であったためという説と、分立前の信濃国は広大で地形も複雑であり当時の国府が北東の小県郡に位置していたため統治に難があったからという説がある。
領域は不明で諏方郡(後に編入された立場川以東を除く)と伊那郡の太田切川以北は確実だが、上2郡の他に筑摩郡(後に編入された木曽地域、筑北盆地を除く)と安曇郡を含める説も有力である。なお、国府の所在地等は不明。
同年8月19日には飛騨国と共に美濃按察使の下に付けられた。これは信濃国も前から美濃按察使の下にあったので、それを踏襲したものである。また、神亀元年(724年)3月1日には、流罪人の配流地の遠近の規程において、伊予国と共に距離中国と定められている。
その後、天平3年(731年)3月7日に廃止され、信濃国に復した。
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諏方国(すわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。諏訪国とも表記。領域は現在の長野県西部にあたるが、短期間しか存続しなかった。
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[[ファイル:Japan prov map suwa721.png|thumb|250px|right|諏方国の位置(721年)]]
'''諏方国'''(すわのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に位置する。'''諏訪国'''とも表記。領域は現在の[[長野県]]西部にあたるが、短期間しか存続しなかった。
== 沿革 ==
[[養老]]5年([[721年]])[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]に[[信濃国]]から分立した<ref>『[[続日本紀]]』該当年月条。以下特に注記しない限り同じ。</ref>。建国理由には諸説あるが、有力な説としては諏訪地方が古より独自の文化を形成していた地域([[諏訪大社]]、[[洲羽国造]])であったためという説と、分立前の信濃国は広大で地形も複雑であり当時の[[国府]]が北東の[[小県郡]]に位置していたため統治に難があったからという説がある。
領域は不明で[[諏訪郡|諏方郡]](後に編入された立場川以東を除く)と[[伊那郡]]の[[太田切川]]以北は確実だが、上2郡の他に[[筑摩郡]](後に編入された[[木曽地域]]、[[筑北盆地]]を除く)と[[安曇郡]]を含める説も有力である。なお、国府の所在地等は不明。
同年8月19日には[[飛騨国]]と共に[[美濃按察使]]の下に付けられた。これは信濃国も前から美濃按察使の下にあったので、それを踏襲したものである。また、[[神亀]]元年([[724年]])[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]には、流罪人の配流地の遠近の規程において、[[伊予国]]と共に距離[[中国 (令制国)|中国]]と定められている。
その後、[[天平]]3年([[731年]])[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]に廃止され、信濃国に復した。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[令制国一覧]]
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[[Category:廃止された令制国]]
[[Category:長野県の歴史]]
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13,490 |
仏滅
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仏滅(ぶつめつ)とは、仏・如来の入滅・滅度、すなわち死のこと。特に釈迦仏の滅度を指していわれる。 釈迦仏および阿羅漢などの死は煩悩を滅ぼしているものの、身体という重荷があるゆえの苦しみからの解放であり、絶対平安の境地そのものに入ることと考えられており、この涅槃を訳して「滅」あるいは「滅度」と呼んだ。
釈迦が入滅した年代は諸説あり、一致していない。
大乗仏教における三時説(末法思想)によれば、釈迦の入滅後、最初の1000年(500年とも)を正法、次の1000年を像法、その後の1万年を末法とする。末法に入ったとされる平安時代では仏滅を紀元前949年とする説が一般的だった。
現在では下記の説が存在する。
なお、周書異記は中国仏教が儒教に対する優位性を確保するために制作された偽書であるため、この説の正当性については疑問が残る、という指摘もある。
号泣するアーナンダに対し、釈迦は繰り返し無常を説いた。
Alaṃ ānanda mā soci, mā paridevi - nanu etaṃ ānanda mayā paṭikacceva akkhātaṃ sabbeheva piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo aññathābhāvo. Taṃ kutettha ānanda labbhā ’yantaṃ jātaṃ bhūtaṃ saṅkhataṃ palokadhammaṃ, taṃ vata tathāgatassāpi sarīraṃ’ māpalujjiti. Netaṃ ṭhānaṃ vijjati. Dīgharattaṃ kho te ānanda tathāgato paccupaṭṭhito mettena kāyakammena hitena sukhena advayena appamāṇena, mettena vacīkammena hitena sukhena advayena appamāṇena, mettena manokammena hitena sukhena advayena appamāṇena. Katapuñño’si tvaṃ ānanda padhānamanuyuñja , khippaṃ hehisi1 anāsavo"ti.
やめよ、アーナンダ。悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ、私は説いていたではないか。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在ではないかと。生まれ、存在し、形成され、壊れていくもの、それを「ああ、壊れるなかれ」ということがどうして得られようか。そのようなことはあり得ないのだ。 アーナンダよ、汝は長い間、慈愛あり、利益あり、幸いあり、比較できない無量の身体と言葉と心の行いによって如来に仕えてくれた。アーナンダよ、汝は善い行いをした。精進することに専修せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。
釈迦の最後の言葉は以下であった。
handa'dāni bhikkhave āmantayāmi vo, vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethā
さあ比丘たちよ、いまあなたたちに伝えよう。 さまざまの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。
|
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] |
仏滅(ぶつめつ)とは、仏・如来の入滅・滅度、すなわち死のこと。特に釈迦仏の滅度を指していわれる。
釈迦仏および阿羅漢などの死は煩悩を滅ぼしているものの、身体という重荷があるゆえの苦しみからの解放であり、絶対平安の境地そのものに入ることと考えられており、この涅槃を訳して「滅」あるいは「滅度」と呼んだ。
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{{Otheruses|[[仏]]・[[如来]]の入滅・滅度|六曜の一つである仏滅|六曜#仏滅}}
[[File:19th century sketch and 21st century photo collage, Cave 26 Ajanta, Buddha Parinirvana.jpg|thumb|450px|right|[[アジャンター石窟群]]に描かれた釈迦の入滅([[世界遺産]])]]
'''仏滅'''(ぶつめつ)とは、[[仏陀|仏]]・[[如来]]の入滅・滅度、すなわち[[死]]のこと。特に[[釈迦]]仏の滅度を指していわれる。
[[仏陀|釈迦仏]]および[[阿羅漢]]などの死は煩悩を滅ぼしているものの、身体という重荷があるゆえの苦しみからの解放であり、絶対平安の境地そのものに入ることと考えられており、この涅槃を訳して「滅」あるいは「滅度」と呼んだ。
{{main2|仏の滅度|無余涅槃}}
==釈迦の入滅==
{{Seealso|釈迦#死までの1年間}}
釈迦が入滅した年代は諸説あり、一致していない。
大乗仏教における三時説([[末法思想]])によれば、釈迦の入滅後、最初の1000年(500年とも)を[[正法]]、次の1000年を[[像法]]、その後の1万年を[[末法]]とする。末法に入ったとされる平安時代では仏滅を紀元前949年とする説が一般的だった。
現在では下記の説が存在する。
#[[周書異記]]の記述を根拠とする紀元前949年説
#東南アジアの仏教国に伝わる紀元前544-543年説
#<!--上に項目を追加すると番号が変わる→-->2を[[ギリシャ]]資料によって修正した紀元前486年もしくは紀元前477年説
#中国、チベットに残る記述から紀元前400-368年説
なお、周書異記は[[中国の仏教|中国仏教]]が[[儒教]]に対する優位性を確保するために制作された[[偽書]]であるため、この説の正当性については疑問が残る、という指摘もある。{{要出典|date=2008年3月}}
=== ことば ===
号泣する[[アーナンダ]]に対し、釈迦は繰り返し[[無常]]を説いた。
{{Quote|
Alaṃ ānanda mā soci, mā paridevi - nanu etaṃ ānanda mayā paṭikacceva akkhātaṃ sabbeheva piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo aññathābhāvo. Taṃ kutettha ānanda labbhā ’yantaṃ jātaṃ bhūtaṃ saṅkhataṃ palokadhammaṃ, taṃ vata tathāgatassāpi sarīraṃ’ māpalujjiti. Netaṃ ṭhānaṃ vijjati.<br>
Dīgharattaṃ kho te ānanda tathāgato paccupaṭṭhito mettena kāyakammena hitena sukhena advayena appamāṇena, mettena vacīkammena hitena sukhena advayena appamāṇena, mettena manokammena hitena sukhena advayena appamāṇena. Katapuñño’si tvaṃ ānanda padhānamanuyuñja , khippaṃ hehisi1 anāsavo"ti.
やめよ、アーナンダ。悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ、私は説いていたではないか。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在ではないかと。[[生 (仏教)|生まれ]]、[[有|存在]]し、[[サンカーラ|形成]]され、壊れていくもの、それを「ああ、壊れるなかれ」ということがどうして得られようか。そのようなことはあり得ないのだ。<br>
アーナンダよ、汝は長い間、[[慈 (仏教)|慈愛]]あり、利益あり、幸いあり、比較できない無量の身体と言葉と心の行いによって如来に仕えてくれた。アーナンダよ、汝は善い行いをした。精進することに専修せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。
|{{SLTP|[[長部 (パーリ)|長部]][[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]] 5.14}} <ref>{{Cite|和書|title=釈尊の生涯 |series=平凡社ライブラリ 新書 |date=2003|author=中村元|isbn=978-4582764789 |page=222}}</ref> }}
釈迦の最後の言葉は以下であった。
{{Quote|
handa'dāni bhikkhave āmantayāmi vo,<br>
vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethā
さあ比丘たちよ、いまあなたたちに伝えよう。<br>
[[サンカーラ|さまざまの事象]]は過ぎ去るものである。[[放逸|怠る]]ことなく修行を完成なさい。
|{{SLTP|[[長部 (パーリ)|長部]][[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]] 5.14}} }}
== 脚注 ==
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==関連項目==
*[[仏滅紀元]]
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[[Category:原始仏教]]
[[Category:仏教と死]]
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日吉駅 (神奈川県)
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日吉駅(ひよしえき)は、神奈川県横浜市港北区日吉二丁目にある東急電鉄、および同四丁目にある横浜市交通局(横浜市営地下鉄)の駅である。
以下の2社局4路線が乗り入れ、接続駅となっている。
日吉駅の北西にある日吉不動尊付近は東京急行電鉄の前身の一つである東京横浜電鉄が土取り場として最初に買収した地であり、そのため日吉は東急電鉄発祥の地とされている。1956年(昭和31年)にその地に「東急電鐵発祥之地」の記念碑が建立され、その後東急記念公園として整備されていたが、2001年に公園が閉鎖され2003年に元住吉駅構内の「東急教習所」に移設されている。
駅設置当時に橘樹郡日吉村大字矢上字一本松に位置していたことから、地名を採ったものである。
島式ホーム2面4線を有する半地下駅である。1988年から1991年まで改良工事を施工した関係でホームは半地下化されており、駅舎はホーム上に建設された人工地盤の上に立地する。
外側2線を東横線の電車、内側2線を目黒線の電車が使用している。また外側・内側の両線から東急新横浜線に直通する電車が発着している。
駅長所在駅であり、「日吉管内」として当駅と綱島駅を管理している。
東急管理のトイレは1階の改札内にある。ユニバーサルデザインの一環として車椅子などの利用に対応した個室(多機能トイレ)は設置されていなかったが、2006年12月頃に移転し、同時に多機能トイレの使用が開始された。
ホーム上にはエレベーターが設置されている。改良工事時点では日吉東急avenueにつながるもので、駅係員の付き添いがない限り利用できなかったが、その後横浜寄りに新しく自由に利用できるコンコースとのエレベーターが設置された。
2008年3月30日の横浜市営地下鉄グリーンライン開業に合わせて、東横線とグリーンラインを結ぶ地下通路の新設と東横線の改札口の増設が行われた。
当駅はもともと線路の位置が周囲の土地よりかなり低く、東西の改札口と駅舎は地上レベルであったが、ホームは掘割の底にあった。島式2面4線のホームと、綱島駅寄りに引き上げ線2本を併せ持つ構造が長らく続き、この時期には渋谷駅 - 日吉駅間において折り返し運転をする各駅停車と日比谷線直通電車がそれぞれ留置される光景も見られたほか、荷物電車や試運転列車の折り返しにも利用されていた。引き上げ線の有効長は列車の編成両数の増加に合わせ、最終的には18m車×8両の長さとなったため、水平な引き上げ線と綱島駅に向かって下り勾配となる本線との比高はかなりのものとなっていた。
1988年から1991年にかけて大規模な改良工事が行われ、この期間中は島式ホーム1面2線の状態となり、引き上げ線の使用も中止されたため、当駅での急行と各駅停車との緩急接続および始発・終着列車の設定が一時的に不可能となった。このため、当駅で急行の接続待ちを行っていた各駅停車は隣の元住吉駅における急行の通過待ちに変更され、さらに当駅発着の列車は元住吉駅あるいは菊名駅発着となった。この際、日比谷線直通電車の運転区間は、それまでの中目黒駅 - 当駅間から菊名駅まで延長された。
この改良工事が完成した後、島式2面4線ホームの構造に戻り、緩急接続も再び当駅で行われるようになり、日中の日比谷線直通電車も当駅発着に戻った。ただし、引き上げ線については1線に縮小された。
前項で述べた大規模な改良工事を行っていた一時期を除き、長らく内側2線(2・3番線)を待避線として使用し、ここで各駅停車が急行(後に通勤特急も)の接続待避や、特急運転開始後は特急の通過待避なども行っていた。また、終電間際には東横線内の当駅止まりの電車も設定されており、夜間に引き上げ線および2・3番線ホームに留置され、翌朝に始発列車として運転されていた。
目黒線が当駅まで延伸するのに先立って、2007年8月23日のダイヤ改正からこの待避線および引き上げ線を目黒線の設備に切り替える工事が行われることになり、待避線の使用や当駅発着列車の設定は再度不可能となった。このため、当駅における緩急接続や通過待ちは、すべて隣の元住吉駅での特急・通勤特急・急行いずれかの通過待避に変更されたほか、当駅発着列車については武蔵小杉行もしくは菊名行に変更され、日比谷線直通もこの時から菊名駅まで終日運行されるようになった。この転換工事完成の際に引き上げ線が1本から2本に再度増設されたが、有効長がそれぞれ異なり、2本のうち1本は20m車×8両編成分、もう一方は20m車×6両編成分である。
目黒線が当駅まで延伸されたのは2008年6月22日である。ホームドアも稼動開始され、色は群青色である。
2013年3月16日から開始された東横線と東京メトロ副都心線(およびその先の西武池袋線と東武東上線)との相互直通運転に合わせ、特急・通勤特急・急行が8両編成から10両編成に増強された。これに伴い、当駅の綱島駅寄りにおいてホーム延長の改築工事が実施された。
2012年より、神奈川東部方面線のうち羽沢横浜国大駅から当駅を結ぶ相鉄・東急直通線(相鉄新横浜線・東急新横浜線)の建設工事が鉄道建設・運輸施設整備支援機構によって進められた。
これに伴い、当駅の綱島方では東横線高架橋の架け替えなど大規模な工事が実施された。目黒線用の引き上げ線2本があった位置に、地下へと潜る東急新横浜線の線路が設けられたほか、上下線間に新たな目黒線用の引き上げ線1本(8両編成2本の縦列入線が可能)が設けられた。また、ホーム側でも工事に伴う列車停止位置の変更や目黒線での8両編成運行に伴う改良工事が行われた。
日比谷線直通電車のほか、東横線・みなとみらい線内を走る電車についても当駅発着列車が数本存在した。
2006年9月、武蔵小杉駅 - 当駅間が高架化および配線変更などにより、高架化された新しい元住吉駅構内と元住吉検車区を直接結ぶことが不可能な配線となった。それまで元住吉始発としていた各列車は武蔵小杉駅発着となり、下り線(元町・中華街方面行)については大半が当駅始発となった。これは、この高架線切り替えと同時に元住吉検車区から当駅までを直接結ぶ「下り出庫線」が設けられたためである。
島式ホーム1面2線を有する地下駅。東急線の駅とは直交しており、駅の半分は慶應義塾大学日吉キャンパス構内のいちょう並木の下に設けられている。地下3階がコンコースおよび改札口、地下4階がホームになっている。地下鉄の改札階には東急線の改札も新設され、地下での乗り換えが可能である。ステーションカラーは慶應義塾大学や商店街の賑わいや活気をイメージしてあか(薔薇色) 。
駅長所在駅。日吉管区駅として当駅 - 北山田間を管理している。
駅のデザインテーマは「かたらいのひろば」で、学生の街としての若々しい「動」と、静かで落ち着いた住宅地としての「静」を持ち合わせた駅の創造を目標とし、ガラスを使用して透明感のある外観にすることで周辺との調和が図られている。内部空間は、ガラスモザイクタイルを用いて人の流れを演出。コンコースの「赤」から地上部の「青」へ変化する様は、「動」から「静」への空間の移り変わりを表現している。
2008年に横浜市営地下鉄グリーンラインが開業したことにより、利用客は大幅に増加した。
各年度の1日平均乗降人員・乗換人員は下表の通り。
各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。
駅東側には、慶應義塾大学日吉キャンパスが綱島街道(県道2号)を挟んですぐの所にある。駅西側は商店街と住宅街だが、学術施設が多いため、学生が多く、学生向けの飲食店などが多い。
東急バスと川崎鶴見臨港バスが運行する路線バスと、東急バスとフジエクスプレスによる富士山・御殿場方面行き高速バスが運行されており、綱島街道沿いに南(綱島方)から番号順に0 - 4番乗り場が、日吉東急avenueの南側に5 - 7番乗り場がそれぞれ設置されている。なお、元住吉方向に行くバスは現在廃止になっている。
2008年3月30日に、綱島街道沿いのバス停留所名は「日吉駅東口」、日吉東急avenueの南側の停留所名は「日吉駅」とされた。
本駅の元住吉駅寄りの東側にバスの待機場があり、0 - 4番乗り場に発着するバスは一度待機場に進入して折り返す。かつては、ここに東急バス日吉営業所があったが、1993年にその機能は東山田営業所に移されている。
3番から発車している日40系統東山田営業所行きの内、深夜バスは0番のりばから発車する。ただし、現在は運休となっている。
かつては、東急バス運行の深夜急行バス「ミッドナイト・アロー」が当駅前を経由していた(降車専用)。なお現在は廃止されている。
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日吉駅(ひよしえき)は、神奈川県横浜市港北区日吉二丁目にある東急電鉄、および同四丁目にある横浜市交通局(横浜市営地下鉄)の駅である。
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{{駅情報
|駅名 = 日吉駅
|画像 = Tokyu Hiyoshi Station Hiyoshi-shotengai Exit.jpg
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|画像説明 = 駅舎西口(2016年10月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
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|電報略号 =
|所属事業者 = [[東急電鉄]]([[#東急電鉄|駅詳細]])<br />[[横浜市交通局]]([[#横浜市営地下鉄|駅詳細]])
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}}
[[画像:Tokyu Hiyoshi Sta 20150201-1.jpg|thumb|right|250px|駅舎東口(2015年2月)]]
'''日吉駅'''(ひよしえき)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]][[日吉 (横浜市)|日吉]]二丁目にある[[東急電鉄]]、および同四丁目にある[[横浜市交通局]]([[横浜市営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。
== 乗り入れ路線 ==
以下の2社局4路線が乗り入れ、接続駅となっている。
* 東急電鉄:
** [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] [[東急東横線|東横線]] - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''TY13'''」
** [[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] [[東急目黒線|目黒線]] - 当駅が終点。駅番号「'''MG13'''」
** [[File:Tokyu SH line symbol.svg|15px|SH]] [[東急新横浜線]] - 当駅が終点。駅番号「'''SH03'''」
* 横浜市交通局:[[File:Yokohama Municipal Subway Green Line symbol.svg|15px|G]] [[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン]]<ref>「グリーンライン」は営業上の路線呼称であり、正式路線名は「4号線」。</ref> - 当駅が終点。駅番号「'''G10'''」
== 歴史 ==
日吉駅の北西にある日吉不動尊付近は東京急行電鉄の前身の一つである[[東京横浜電鉄]]が土取り場として最初に買収した地であり、そのため日吉は東急電鉄発祥の地とされている<ref name="kinenhi">{{Cite journal|和書 |author =東京急行電鉄株式会社 社長室広報部広報課 柳沢成行 |title=東急電鉄発祥の地白吉 |journal =日吉町自治会だより |date=2012年6月 |url=http://hiyoshichou.net/tayori11.pdf |publisher=日吉町自治会 |accessdate=2015-01-21 |format=pdf}}</ref><ref name="jtb59">[[#jtb|東急の駅]]、p.59。</ref>。[[1956年]](昭和31年)にその地に「東急電鐵発祥之地」の記念碑が建立され、その後東急記念公園として整備されていたが、2001年に公園が閉鎖され2003年に[[元住吉駅]]構内の「東急教習所」に移設されている<ref name="kinenhi"/><ref name="jtb59"/><ref name="jtb4">[[#jtb|東急の駅]]、p.4。</ref>。
* [[1926年]]([[大正]]15年)[[2月14日]] - 東京横浜電鉄(後の東京急行電鉄)が開業<ref name="jtb59"/>。開業時は相対式ホーム<ref name="jtb59"/>。
* [[1936年]]([[昭和]]11年) - 島式2面4線の橋上駅となる<ref name="jtb59"/>。
* [[1964年]](昭和39年) - [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]相互直通運転の折り返し用に貨物線を廃止して、引き上げ線が2線設置される<ref name="jtb59"/>。
* [[1974年]](昭和49年)[[6月1日]] - 自動改札機設置<ref>{{Cite news |和書|title=七駅の改札口自動化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-05-29 |page=1 }}</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月11日]] - 改良工事着手<ref>https://www.tokyu.co.jp/file/000207.pdf</ref>。工事期間中は1面2線で、同年8月のダイヤ改正から急行の待避を元住吉駅で行い、日比谷線直通は菊名駅まで運転した。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[4月1日]] - 上り線を下り線の旧待避線(2番線・下りホームを島式として、上下線で共用)に移設<ref name="PIC1989-8">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1989年8月号「トピック・フォト」p.91。</ref>。
* [[1990年]](平成2年)
** [[4月7日]] - 上り線を地下化<ref name="PIC1990-7">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1990年7月号「トピック・フォト」p.82。</ref>(現行の4番線位置<ref name="PIC1990-7"/>)。
** [[8月31日]] - 下り線を地下化<ref name="PIC1990-12">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1990年12月号「トピック・フォト」p.89。</ref>(現在の3番線を暫定的に使用、上りホームを島式として、上下線で共用<ref name="PIC1990-12"/>)。
* [[1991年]](平成3年)
** [[5月29日]] - 下り線を本設の1番線に移設<ref name="PIC1991-10">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1991年10月号「トピック・フォト」p.83。</ref>。現行の下り線ホームを使用開始<ref name="PIC1991-10"/>。
** [[11月22日]] - 改良工事完成<ref name="交通911129">{{Cite news |和書|title=日吉駅の地下化完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-11-29 |page=4 }}</ref>。半地下の2面4線の駅になる{{R|交通911129}}。同時に日比谷線直通は日中が本駅での折り返しに変更された。
* [[1995年]](平成7年)7月 - ホームの真上に[[東急百貨店]]が完成。
* [[1999年]](平成11年) - [[関東の駅百選]]に選定<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=70 - 71・228頁|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。選定理由は「4層吹き抜けからやわらかな光が差し込む明るく開放的な駅」<ref name="stations" />。
* [[2003年]](平成16年)[[3月19日]] - [[通勤特急]]新設により、通勤特急の停車駅になる。
* [[2007年]](平成19年)[[8月23日]] - 2・3番線の東横線から目黒線への発着路線切り替えに伴う改良工事のため、本駅で行っていた特急の通過待ちや通勤特急・急行の待避は元住吉駅で行い、日比谷線直通電車は終日菊名駅発着に変更<ref>{{Cite journal|和書 |title=東横線・みなとみらい線 ダイヤ改正を行います |journal =HOT ほっと TOKYU |date=2007-08-20 |issue =326 |url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0709/0709.pdf |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2015-01-21 |format=pdf}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)
** [[3月7日]] - 2・3番線(目黒線用ホーム)にホームドアを設置。
** [[3月30日]] - 横浜市営地下鉄グリーンラインが開業<ref>{{Cite journal|和書 |title=グリーンライン連絡改札口を新設 |journal =HOT ほっと TOKYU |date=2008-02-20 |issue =332 |url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0803/0803.pdf |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2015-01-21 |format=pdf}}</ref>。
** [[6月22日]] - 目黒線[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]] - 当駅間が延伸開業。
* [[2012年]](平成24年)[[5月1日]] - [[docomo Wi-Fi]]による、[[無線LAN]]サービスを開始。
* [[2023年]]([[令和]]5年)[[3月18日]]:[[神奈川東部方面線|東急新横浜線]]開通<ref name="pr201812132">{{Cite press release|和書|title=神奈川東部方面線の路線名称を「相鉄新横浜線」「東急新横浜線」に決定 新幹線アクセス拠点エリアを路線名に|publisher=相模鉄道/東京急行電鉄|date=2018-12-13|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20181213-2.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201221061044/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20181213-2.pdf|archivedate=2020-12-21}}</ref><ref name="pr202012212">{{Cite press release|和書|title=東急新横浜線 綱島地区に開業する新駅の名称に「新綱島」駅を選定|publisher=東急電鉄|date=2020-12-21|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20201221-1.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201221055905/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20201221-1.pdf|archivedate=2020-12-21}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=相鉄・東急直通線 開業日に関するお知らせ|publisher=相模鉄道株式会社/東急電鉄株式会社/独立行政法人 鉄道建設・運輸施設整備支援機構|date=2022-12-16|url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-1.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2022-12-16|archiveurl=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20221216-1.pdf|archivedate=2022-12-16}}</ref>。
=== 駅名の由来 ===
{{See also|日吉 (横浜市)#地名の由来|[[日吉村 (神奈川県)]]}}
駅設置当時に[[橘樹郡]]'''日吉'''村大字矢上字一本松に位置していたことから、地名を採ったものである。
== 駅構造 ==
=== 東急電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #ee0011
|文字色 =
|駅名 = 東急 日吉駅
|画像 = Tokyu Hiyoshi Station Central Gate.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 中央改札口(2016年10月)
|よみがな = ひよし
|ローマ字 = Hiyoshi
|副駅名 =
|所属事業者 = [[東急電鉄]]
|乗入路線数 = 3
|所属路線1 = {{color|#da0442|■}}[[東急東横線|東横線]]
|前の駅1 = TY12 [[元住吉駅|元住吉]]
|駅間A1 = 1.5
|駅間B1 = 2.2
|次の駅1 = [[綱島駅|綱島]] TY14
|駅番号1 = {{駅番号r|TY|13|#da0442|3}}
|キロ程1 = 13.6
|起点駅1 = [[渋谷駅|渋谷]]
|所属路線2 = {{color|#009cd2|■}}[[東急目黒線|目黒線]]
|前の駅2 = MG12 元住吉
|駅間A2 = 1.5
|駅番号2 = {{駅番号r|MG|13|#009cd2|3}}
|キロ程2 = 11.9
|起点駅2 = [[目黒駅|目黒]]
|所属路線3 = {{color|#6f1585|■}}[[東急新横浜線]]
|駅間B3 = 2.2
|次の駅3 = [[新綱島駅|新綱島]] SH02
|駅番号3 = {{駅番号r|SH|03|#6f1585|3}}<ref name="pr20220916">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/k-info20220916-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220916092037/https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/k-info20220916-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月開業予定 相鉄新横浜線・東急新横浜線 開業PRロゴ・駅ナンバーを決定しました|publisher=相模鉄道/東急電鉄|date=2022-09-16|accessdate=2022-09-16|archivedate=2022-09-16}}</ref>
|キロ程3 = 5.8
|起点駅3 = [[新横浜駅|新横浜]]
|乗換 =
|所在地 = [[横浜市]][[港北区]][[日吉 (横浜市)|日吉]]二丁目1-1
|座標 = {{coord|35|33|11|N|139|38|48.4|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=東急 日吉駅}}
|駅構造 = [[半地下駅]]
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1926年]]([[大正]]15年)[[2月14日]]
|乗降人員 = (東横線)126,948人/日<br />(目黒線)45,899人/日<br /> (東急新横浜線)6,473人/日 <br />(合計)179,320
|統計年度 = 2022年
|備考 =
}}
[[島式ホーム]]2面4線を有する半[[地下駅]]である<ref name="tokyu">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/railway/station/info/?id=13 |title=日吉駅|各駅情報 |publisher=東急電鉄 |accessdate=2015-01-21}}</ref>。1988年から1991年まで改良工事を施工した関係でホームは半地下化されており、駅舎はホーム上に建設された人工地盤の上に立地する。
外側2線を東横線の電車、内側2線を目黒線の電車が使用している。また外側・内側の両線から東急新横浜線に直通する電車が発着している。
[[駅長]]所在駅であり、「日吉管内」として当駅と[[綱島駅]]を管理している<ref>鉄道ピクトリアル2015年12月臨時増刊号 【特集】東京急行電鉄 p.47</ref>。<!--{{要出典範囲|かつては[[新丸子駅]] - [[元住吉駅]]が日吉管内で、綱島駅は「[[菊名駅|菊名]]管内」であったが、2012年に新丸子 - 元住吉間は[[武蔵小杉駅]]が駅長所在駅として昇格し、「武蔵小杉管内」となり、綱島駅が菊名管内から日吉管内に移管された|date=2012年8月}}。--><!--5年半近く出典が示されていないのでコメントアウトとします-->
東急管理の[[便所|トイレ]]は1階の[[改札]]内にある。[[ユニバーサルデザイン]]の一環として[[車椅子]]などの利用に対応した個室(多機能トイレ)は設置されていなかった<!--(その上[[トイレットペーパー]]が設置されていない場合もあった)-日吉だけに限らない事象なのでコメント化-->が、2006年12月頃に移転し、同時に多機能トイレの使用が開始された。
ホーム上には[[エレベーター]]が設置されている。改良工事時点では[[日吉東急avenue]]につながるもので、駅係員の付き添いがない限り利用できなかったが、その後横浜寄りに新しく自由に利用できるコンコースとのエレベーターが設置された。
[[2008年]][[3月30日]]の横浜市営地下鉄グリーンライン開業に合わせて、東横線とグリーンラインを結ぶ地下通路の新設と東横線の改札口の増設が行われた<ref>{{Cite journal |和書 |title=グリーンライン連絡改札口を新設 |journal =HOT ほっと TOKYU |date=2008-02-20 |issue =332 |url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0803/0803.pdf |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2017-01-23 |format=PDF}}</ref>。
==== 改良工事 ====
===== 1988年 - 1991年の工事 =====
当駅はもともと[[線路 (鉄道)|線路]]の位置が周囲の[[土地]]よりかなり低く、東西の[[改札]]口と駅舎は地上レベルであったが、ホームは[[切土|掘割]]の底にあった。島式2面4線のホームと、[[綱島駅]]寄りに[[引き上げ線]]2本を併せ持つ構造が長らく続き、この時期には渋谷駅 - 日吉駅間において折り返し運転をする各駅停車と[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]][[直通運転|直通電車]]がそれぞれ留置される光景も見られたほか、[[荷物車|荷物電車]]や[[試運転]]列車の折り返しにも利用されていた。引き上げ線の有効長は列車の[[編成 (鉄道)|編成]]両数の増加に合わせ、最終的には18m車×8両の長さ<ref>東横線で使われていた20m車の[[東急8000系電車|8000系]]は7両編成まで収容できた。</ref>となったため、水平な引き上げ線と綱島駅に向かって下り勾配となる[[本線]]との比高はかなりのものとなっていた。
[[1988年]]から[[1991年]]にかけて大規模な改良工事が行われ、この期間中は島式ホーム1面2線の状態となり、引き上げ線の使用も中止されたため、当駅での急行と各駅停車との[[緩急接続]]および始発・終着列車の設定が一時的に不可能となった。このため、当駅で急行の接続待ちを行っていた各駅停車は隣の[[元住吉駅]]における急行の通過待ちに変更され、さらに当駅発着の列車は元住吉駅あるいは[[菊名駅]]発着となった。この際、日比谷線直通電車の運転区間は、それまでの[[中目黒駅]] - 当駅間から菊名駅まで延長された。
この改良工事が完成した後、島式2面4線ホームの構造に戻り、緩急接続も再び当駅で行われるようになり、日中の日比谷線直通電車も当駅発着に戻った。ただし、引き上げ線については1線に縮小された。
===== 目黒線への転換工事 =====
前項で述べた大規模な改良工事を行っていた一時期を除き、長らく内側2線(2・3番線)を[[待避駅|待避線]]として使用し、ここで各駅停車が急行(後に通勤特急も)の接続待避や、特急運転開始後は特急の通過待避なども行っていた<ref>かつては終日にわたり頻繁に急行の接続待避を行っていたが、2001年3月28日の特急運転開始によりダイヤが大幅に改正され、緩急接続は主に自由が丘駅と菊名駅で行われることになり、主に日比谷線直通電車が当駅で平日の朝夕ラッシュ時間帯に通勤特急の接続待避を、それ以外の時間帯に特急の通過待避を行っていた。また、時折運転される「[[みなとみらい号]]」や「[[伊豆のなつ号]]」などの臨時急行は当駅で特急の通過待ちを行うこともあった。</ref>。また、[[終電]]間際には東横線内の当駅止まりの電車も設定されており、夜間に引き上げ線および2・3番線ホームに留置され、翌朝に始発列車として運転されていた。
目黒線が当駅まで延伸するのに先立って、2007年8月23日のダイヤ改正からこの待避線および引き上げ線を目黒線の設備に切り替える工事が行われることになり、待避線の使用や当駅発着列車の設定は再度不可能となった<ref>{{PDFlink|[http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/070725_2.pdf 2007年8月23日(木)、東横線・みなとみらい線のダイヤ改正を実施]}} - 東京急行電鉄ニュースリリース 2007年7月25日</ref>。このため、当駅における緩急接続や通過待ちは、すべて隣の元住吉駅での特急・通勤特急・急行いずれかの通過待避に変更されたほか、当駅発着列車については武蔵小杉行もしくは菊名行に変更され、日比谷線直通もこの時から[[菊名駅]]まで終日運行されるようになった<ref>ただし、2013年3月現在のダイヤでも土・休日に限り元町・中華街発の各停1本([[横浜駅]]0時15分発)は本駅止まりであり、本駅まで客扱い後、元住吉駅の上り通過線に留置され、翌朝に武蔵小杉駅始発の急行渋谷行き(土・休日は渋谷まで回送した後に各停元町・中華街行き)として運用されている。</ref>。この転換工事完成の際に引き上げ線が1本から2本に再度増設されたが、[[有効長]]がそれぞれ異なり、2本のうち1本は20m車×8両[[編成 (鉄道)|編成]]分、もう一方は20m車×6両編成分である。
目黒線が当駅まで延伸されたのは2008年6月22日である。[[ホームドア]]も稼動開始され、色は[[群青色]]である<ref>[http://www.misono-web.net/tk/tk_news3.html あと1週間!元住吉、日吉の両駅では開業準備がすすむ] - MISONO-WEB</ref>。
===== 10両編成対応工事 =====
2013年3月16日から開始された東横線と[[東京メトロ副都心線]](およびその先の[[西武池袋線]]と[[東武東上本線|東武東上線]])との[[直通運転|相互直通運転]]に合わせ、特急・通勤特急・急行が8両編成から10両編成に増強された。これに伴い、当駅の綱島駅寄りにおいてホーム延長の改築工事が実施された。
===== 東急新横浜線建設に伴う工事 =====
{{Main|神奈川東部方面線#相鉄・東急直通線}}
[[2012年]]より、[[神奈川東部方面線]]のうち[[羽沢横浜国大駅]]から当駅を結ぶ'''相鉄・東急直通線'''([[相鉄新横浜線]]・東急新横浜線<ref name="toukyu20181213">{{Cite press release|和書|title=神奈川東部方面線の路線名称を「相鉄新横浜線」「東急新横浜線」に決定 |publisher=東京急行電鉄 |date=2018-12-13 |url=https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20181213-2.pdf |format=PDF |accessdate=2018-12-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190107181031/https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20181213-2.pdf |archivedate=2019-1-07 }}</ref>)の建設工事が[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]によって進められた。
これに伴い、当駅の綱島方では東横線高架橋の架け替えなど大規模な工事が実施された。目黒線用の引き上げ線2本があった位置に、地下へと潜る東急新横浜線の線路が設けられたほか、上下線間に新たな目黒線用の引き上げ線1本(8両編成2本の縦列入線が可能)が設けられた。また、ホーム側でも工事に伴う列車停止位置の変更<ref>{{PDFlink|[http://www.chokutsusen.jp/construction/hiyoshi/images/hiyoshi_teisiichi_201607.pdf 日吉駅の目黒線列車停止位置を変更します]}} - 東急電鉄</ref>や目黒線での8両編成運行に伴う改良工事が行われた。
==== 当駅発着列車 ====
日比谷線直通電車のほか、東横線・みなとみらい線内を走る電車についても当駅発着列車が数本存在した。
2006年9月、[[武蔵小杉駅]] - 当駅間が高架化および配線変更などにより、高架化された新しい元住吉駅構内と[[元住吉検車区]]を直接結ぶことが不可能な配線となった。それまで元住吉始発としていた各列車は[[武蔵小杉駅]]発着となり、下り線(元町・中華街方面行)については大半が当駅始発となった。これは、この高架線切り替えと同時に元住吉検車区から当駅までを直接結ぶ「下り出庫線」が設けられたためである。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!rowspan=2 | 1
|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
| rowspan=3 style="text-align:center" |下り
|[[横浜駅|横浜]]・[[元町・中華街駅|元町・中華街]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty13_hiyoshi2.pdf|title=東横線標準時刻表 日吉駅 横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023/03/18}}</ref>
|
|-
|rowspan="2" |[[File:Tokyu SH line symbol.svg|15px|SH]] 東急新横浜線
|rowspan="2" |[[新横浜駅|新横浜]]・[[二俣川駅|二俣川]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_sh03_hiyoshi3.pdf|title=東急新横浜線標準時刻表 日吉駅 新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18}}</ref>
|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線から直通
|-
! 2
|[[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線から直通
|-
! 3
|[[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線
| rowspan="2" style="text-align:center" |上り
|[[目黒駅|目黒]]・[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]・[[西高島平駅|西高島平]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_mg13_hiyoshi.pdf|title=目黒線標準時刻表 日吉駅 目黒方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023/03/18}}</ref>
|
|-
! 4
|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
|[[渋谷駅|渋谷]]・[[池袋駅|池袋]]・[[川越市駅|川越市]]・[[所沢駅|所沢]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty13_hiyoshi.pdf|title=東横線標準時刻表 日吉駅 渋谷方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023/03/18}}</ref>
|
|}
* 東横線の特急([[Fライナー]]含む、通勤特急除く)は当駅を通過する。そのため、東横線特急と東急新横浜線直通列車を利用する場合は、[[武蔵小杉駅]]で乗り換える必要がある。
<gallery>
Tokyu Hiyoshi-STA Gate.jpg|横浜市営地下鉄連絡改札口(2021年12月)
Tokyu-railway-Hiyoshi-station-platform-1-and-2.jpg|ホーム(2008年4月)
Construction of Tokyu Shin-Yokohama Line (near Hiyoshi Station) 02.jpg|新綱島駅へ至る地下区間への入口(東急新横浜線開業前)
</gallery>
==== 配線図 ====
{{駅配線図|image=Rail Tracks map Tokyu Hiyoshi Station.svg
|title=日吉駅 構内配線略図
|width=370px
|left=東横線(TY)<br />綱島方面
|down-align=left|down=東急新横浜線(SH)<br />新綱島方面
|right=東横線(TY)<br />目黒線(MG)<br />元住吉方面
|source=<ref>{{Cite journal|和書|author = 橋本浩史|title = 神奈川東部方面線(相鉄・東急直通線)建設の概要|date = 2023-04 |publisher = 電気車研究会|journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 1010|page= 140}}</ref>
|note=}}
=== 横浜市営地下鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #0d6aad
|文字色 =
|駅名 = 横浜市営地下鉄 日吉駅
|画像 = Yokohama Municipal Subway Hiyoshi Sta 20150201-1.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 慶應義塾大学日吉キャンパスに直結する出入口1(2015年2月)
|よみがな = ひよし
|ローマ字 = Hiyoshi
|電報略号 =
|所属事業者 = [[横浜市交通局]]([[横浜市営地下鉄]])
|所在地 = [[横浜市]][[港北区]][[日吉 (横浜市)|日吉]]四丁目1番11号<ref>『横浜市高速鉄道建設史III』 横浜市交通局、2011年3月、285ページ</ref>
|座標 = {{coord|35|33|12|N|139|38|48.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=横浜市営地下鉄 日吉駅}}
|開業年月日 = [[2008年]]([[平成]]20年)[[3月30日]]
|廃止年月日 =
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|乗降人員 = 69,446
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 =
|所属路線 = {{color|#048D58|■}}[[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン(4号線)]]
|隣の駅 =
|前の駅 = G09 [[日吉本町駅|日吉本町]]
|駅間A = 1.4
|駅間B =
|次の駅 =
|駅番号 = {{駅番号r|G|10|#048D58|6}}
|キロ程 = 13.0
|起点駅 = [[中山駅 (神奈川県)|中山]]
|乗換 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]<ref>[https://hiyosi.net/2017/01/11/greenline2017/ 市営地下鉄の「契約駅員」5名募集、グリーンラインほか受託各駅に勤務予定] - 横浜日吉新聞</ref>
}}
島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]。東急線の駅とは直交しており、駅の半分は[[慶應義塾大学]]日吉キャンパス構内のいちょう並木の下に設けられている<ref>『横浜市高速鉄道建設史III』 横浜市交通局、2011年3月、81-82ページ</ref>。地下3階がコンコースおよび改札口、地下4階がホームになっている。地下鉄の改札階には東急線の改札も新設され、地下での乗り換えが可能である。ステーションカラーは慶應義塾大学や商店街の賑わいや活気をイメージして'''あか(薔薇色)'''{{Colorbox|#EB6368}}<ref>横浜市交通局Q&A http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kids/hushigi/q03.html</ref>。
[[駅長]]所在駅。日吉管区駅として当駅 - [[北山田駅 (神奈川県)|北山田]]間を管理している<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/reiki/reiki_honbun/g202RG00001001.html 横浜市交通局現業機関設置規程]</ref>。
駅のデザインテーマは「かたらいのひろば」で、学生の街としての若々しい「動」と、静かで落ち着いた住宅地としての「静」を持ち合わせた駅の創造を目標とし、ガラスを使用して透明感のある外観にすることで周辺との調和が図られている。内部空間は、ガラス[[モザイクタイル]]を用いて人の流れを演出。コンコースの「赤」から地上部の「青」へ変化する様は、「動」から「静」への空間の移り変わりを表現している<ref>『横浜市高速鉄道建設史III』 横浜市交通局、2011年3月、179-182ページ</ref>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://navi.hamabus.city.yokohama.lg.jp/koutuu/pc/detail/Station?id=00007245 |title=日吉の駅情報 駅構内図 |publisher=横浜市交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
!1・2
|[[File:Yokohama Municipal Subway Green Line symbol.svg|15px|G]] グリーンライン
|[[中山駅 (神奈川県)|中山]]方面
|}
*上表の路線名は旅客案内上の名称(愛称)で記載している。
{{-}}
<gallery>
Yokohama Municipal Subway Hiyoshi Sta 2016-10-22-01.jpg|慶應義塾大学の敷地内にある出入口(2016年10月)
Yokohama Municipal Subway Hiyoshi Sta 2016-10-22-02.jpg|切符売り場(2016年10月)
Yokohama-City-Subway Hiyoshi-STA Gate.jpg|改札口(2021年12月)
Yokohama-City-Subway Hiyoshi-Station platform 20211218 090819.jpg|ホーム(2021年12月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2008年]]に[[横浜市営地下鉄]][[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン]]が開業したことにより、利用客は大幅に増加した。
* '''東急電鉄'''<ref group="利用客数">[https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ 2022年度乗降人員] - 東急電鉄</ref>
** '''東横線''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''126,948人'''である。
**: 東横線内では[[武蔵小杉駅]]に次いで第5位。東横線の特急通過駅では最も多く、特急停車駅の菊名駅、自由が丘駅よりも多い。
** '''目黒線''' - 2022年度の1日平均乗降人員は'''45,899人'''である。
**: 目黒線内では[[武蔵小山駅]]に次いで第3位。
** '''東急新横浜線''' - 2022年度の1日平均乗降人員は'''6,473人'''である。
* '''横浜市営地下鉄''' - 2022年度の1日平均乗降人員は'''69,446人'''(乗車人員:31,270人、降車人員:31,734人)である<ref group="乗降データ" name="yokohama">[https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/tokei-chosa/portal/tokeisho/09.html 横浜市統計ポータル] - 横浜市</ref>。
*: 同局の中では[[センター北駅]]に次いで第5位。
=== 年度別1日平均乗降・乗換人員 ===
各年度の1日平均'''乗降'''人員・'''乗換'''人員は下表の通り。
* 東横線・目黒線・東急新横浜線の値には、東急線相互間の乗換人員を含まない。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="yokohama" /><ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan=3|年度
!colspan=7|東急電鉄
!colspan=2|横浜市交通局
|-
!colspan=2|東横線
!rowspan=2|東横線<br>目黒線<br>乗換人員
!colspan=2|目黒線
!colspan=2|東急新横浜線
!colspan=2|グリーンライン
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2002年(平成14年)
|122,356||
|rowspan=6 style="text-align:center"|未開業
|colspan=2 rowspan=6 style="text-align:center"|未開業
|colspan=2 rowspan=20 style="text-align:center"|未開業
|colspan=2 rowspan=6 style="text-align:center"|未開業
|-
|2003年(平成15年)
|123,710||1.1%
|-
|2004年(平成16年)
|126,421||2.2%
|-
|2005年(平成17年)
|128,689||1.8%
|-
|2006年(平成18年)
|130,607||1.5%
|-
|2007年(平成19年)
|135,260||3.6%
|-
|2008年(平成20年)
|139,665||3.3%
|12,090
|24,284||
|46,740||
|-
|2009年(平成21年)
|135,380||−3.1%
|16,714
|37,685||55.2%
|52,945||13.3%
|-
|2010年(平成22年)
|137,679||1.7%
|16,484
|40,440||7.3%
|59,083||11.6%
|-
|2011年(平成23年)
|138,364||0.5%
|16,795
|42,131||4.2%
|62,374||5.6%
|-
|2012年(平成24年)
|141,122||2.0%
|17,367
|44,177||4.9%
|66,691||6.9%
|-
|2013年(平成25年)
|147,939||4.8%
|18,199
|45,996||4.1%
|71,892||7.8%
|-
|2014年(平成26年)
|146,201||−1.2%
|18,805
|47,901||4.6%
|73,156||1.8%
|-
|2015年(平成27年)
|147,992||1.2%
|19,415
|50,339||5.1%
|76,903||5.1%
|-
|2016年(平成28年)
|149,163||0.8%
|19,866
|52,468||4.2%
|79,763||3.7%
|-
|2017年(平成29年)
|150,563||0.9%
|20,254
|54,653||4.2%
|82,040||2.9%
|-
|2018年(平成30年)
|151,147||0.4%
|20,731
|56,473||3.3%
|85,361||4.0%
|-
|2019年(令和元年)
|148,863||−1.5%
|20,843
|57,438||1.7%
|84,908||−0.5%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|97,429||−34.6%
|
|36,219||−36.9%
|56,455||−33.5%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|113,212||16.2%
|
|40,054||10.6%
|63,004||11.6%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|126,948||12.1%
|
|45,899||14.6%
|6,473||
|69,446||10.2%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1980年 - 2000年) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="yokohama" />
!年度!!東急電鉄!!出典
|-
|1980年(昭和55年)
|53,496
|
|-
|1981年(昭和56年)
|53,805
|
|-
|1982年(昭和57年)
|54,008
|
|-
|1983年(昭和58年)
|54,579
|
|-
|1984年(昭和59年)
|55,153
|
|-
|1985年(昭和60年)
|56,485
|
|-
|1986年(昭和61年)
|57,877
|
|-
|1987年(昭和62年)
|59,443
|
|-
|1988年(昭和63年)
|60,732
|
|-
|1989年(平成元年)
|60,951
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|61,710
|
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|62,132
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|61,615
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|61,328
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|60,149
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|60,773
|<ref group="乗降データ">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|61,213
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|61,221
|
|-
|1998年(平成10年)
|61,161
|<ref group="神奈川県統計">平成12年</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|60,860
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|61,790
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" />
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="yokohama" />
!年度!!東急電鉄!!横浜市交通局!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|61,970
|rowspan="6" style="text-align:center"|未開業
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|61,729
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|62,403
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|63,847
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|64,773
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|65,699
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|68,008
|<ref group="備考">平成20年3月30日開業で2日間のデータ</ref>103,535
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|82,965
|23,107
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|103,959
|26,138
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|106,129
|29,173
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|107,624
|30,813
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|110,580
|32,998
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|115,654
|35,593
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|116,238
|36,292
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|119,008
|38,164
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|121,097
|39,622
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|123,271
|40,805
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|125,011
|42,454
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/73942/15_2.pdf 令和元年]}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|124,439
|42,230
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202015.pdf 令和2年]}} - 228ページ</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|80,654
|28,003
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|91,819
|31,270
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[画像:Ginkgo Avenue of Keio.png|thumb|250px|駅より慶應義塾大学[[イチョウ|銀杏]]並木を望む(2006年12月1日)]]
{{See also|日吉 (横浜市)}}
駅東側には、[[慶應義塾大学]]日吉キャンパスが[[東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線|綱島街道(県道2号)]]を挟んですぐの所にある。駅西側は[[商店街]]と住宅街だが、学術施設が多いため、学生が多く、学生向けの[[飲食店]]などが多い<ref name="ensen">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/ekitown/info/?id=13 |title=日吉駅|沿線・駅周辺ガイド |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2015-01-21}}</ref>。
=== 学校 ===
* [[慶應義塾大学]] 日吉キャンパス
* 慶應義塾大学 矢上キャンパス([[慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部|理工学部]])
* [[慶應義塾高等学校]]
* [[慶應義塾普通部]]
* [[日本大学高等学校・中学校]]
* [[東京綜合写真専門学校]]
* [[学校法人大原学園|資格の大原 日吉校]]
=== 小売店 ===
* [[日吉東急avenue]]<ref name="ensen"/>
=== その他 ===
* [[日吉公園]]
* 横浜市港北消防署日吉出張所
* 日吉駅内郵便局
* 日吉郵便局
* [[コーエーテクモホールディングス]]本社
* [[横浜銀行]]日吉支店
== バス路線 ==
[[画像:Hiyoshi-buswaitingarea-20070217.jpg|thumb|right|250px|バス待機場(2007年2月17日)]]
[[東急バス]]と[[川崎鶴見臨港バス]]が運行する[[路線バス]]と、東急バスと[[フジエクスプレス]]による富士山・御殿場方面行き[[高速バス]]が運行されており、[[東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線|綱島街道]]沿いに南(綱島方)から番号順に0 - 4番乗り場が、日吉東急avenueの南側に5 - 7番乗り場がそれぞれ設置されている。なお、元住吉方向に行くバスは現在廃止になっている。
[[2008年]][[3月30日]]に、綱島街道沿いの[[バス停留所]]名は「'''日吉駅東口'''」<ref name="bus1">{{Cite web|和書|url=https://transfer.navitime.biz/tokyubus/pc/diagram/BusAboardMap?stCode=00240851|title=日吉駅東口 のりば地図 {{!}} 東急バス|publisher=東急バス株式会社|accessdate=2019-08-14}}</ref>、日吉東急avenueの南側の停留所名は「'''日吉駅'''」<ref name="bus2">{{Cite web|和書|url=https://transfer.navitime.biz/tokyubus/pc/diagram/BusAboardMap?stCode=00240852&date=2019-08-14|title=日吉駅 のりば地図 {{!}} 東急バス|publisher=東急バス株式会社|accessdate=2019-08-14}}</ref>とされた。
本駅の元住吉駅寄りの東側にバスの待機場があり、0 - 4番乗り場に発着するバスは一度待機場に進入して折り返す。かつては、ここに東急バス日吉営業所があったが、[[1993年]]にその機能は[[東急バス東山田営業所|東山田営業所]]に移されている。
{{-}}
{|class="wikitable"
!colspan="2"|乗場<ref name="bus1" /><ref name="bus2" />!!stle="width:4em;"|系統!!主要経由地!!行先
!備考!!運行事業者
|-
!style="width:1.1em" rowspan="11"|日吉駅東口
! rowspan="3" |0
|日91||{{smaller|日大高校正門}}||{{smaller|【循環】}}綱島東四丁目
|
| rowspan="4" |{{Color|red|■}}東急
|-
|日92||{{smaller|南綱島住宅・広町}}||新綱島駅
|
|-
|日40 ||{{smaller|北綱島・[[高田駅 (神奈川県)|高田駅]]前・[[東山田駅]]}}||[[東急バス東山田営業所|東山田営業所]]
|深夜バス(休止中)
|-
! rowspan="2" |1
|日81||{{smaller|北綱島}}||新綱島駅
|
|-
|日95 ||{{smaller|江川町}}||[[新川崎駅|新川崎駅交通広場]]
|
|{{Color|red|■}}東急・{{Color|#0000cc|■}}臨港
|-
! rowspan="2" |2
|日93||{{smaller|[[南加瀬|江川町]]・鷹野大橋・駒岡}}||新綱島駅
|
| rowspan="4" |{{Color|red|■}}東急
|-
|日94||{{smaller|江川町}}||越路
|
|-
! rowspan="1" |3
|日40 ||{{smaller|北綱島・高田駅前・東山田駅}}||東山田営業所
|深夜バス除く
|-
! rowspan="3" |4
|日51||{{smaller|[[大塚製靴]]前・アリュール日吉本町・日吉台中学校}}||{{smaller|【循環】}}コンフォール南日吉
|
|-
| rowspan="2" |高速バス||{{smaller|[[御殿場プレミアム・アウトレット]]・[[富士急ハイランド]]}}||[[河口湖駅]]、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]五合目||富士山五合目行きは夏季のみ<br/>その他期間は河口湖駅行き||rowspan="2"|{{Color|red|■}}東急・{{Color|#1e83eb|■}}フジエクスプレス
|-
|{{smaller|[[スノータウンイエティ|フジヤマ スノーリゾートYeti]]}}||[[ぐりんぱ]]
|冬季のみ
|-
!style="width:1.1em" rowspan="3"|日吉駅
!5
|日22||{{smaller|下田仲町}}||サンヴァリエ日吉
|
| rowspan="3" |{{Color|red|■}}東急
|-
!6
|日21||{{smaller|下田仲町・下田町}}||高田町
|
|-
!7
|日23||{{smaller|井田病院正門前}}||[[さくらが丘Issac日吉|さくらが丘]]
|
|}
3番から発車している日40系統東山田営業所行きの内、深夜バスは0番のりばから発車する。ただし、現在は運休となっている。
かつては、東急バス運行の[[深夜急行バス (東急バス)|深夜急行バス]]「[[東急バス新羽営業所#深夜急行・高速新横浜線|ミッドナイト・アロー]]」が当駅前を経由していた(降車専用)。なお現在は廃止されている。
== 隣の駅 ==
=== 東急電鉄 ===
: [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
:: {{Color|#f7931d|■}}特急
:::; 通過
:: {{Color|#f7931d|□}}通勤特急
::: [[武蔵小杉駅]] (TY11) - '''日吉駅 (TY13)''' - [[菊名駅]] (TY16)
:: {{Color|#ef3123|■}}急行(一部は東急新横浜線直通)
::: 武蔵小杉駅 (TY11) - '''日吉駅 (TY13)''' - [[綱島駅]] (TY14)
:: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車
:::[[元住吉駅]] (TY12) - '''日吉駅 (TY13)''' - 綱島駅 (TY14)
: [[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線
:: {{Color|#ef3123|■}}急行
::: 武蔵小杉駅 (MG11) - '''日吉駅 (MG13)''' - (東急新横浜線)
:: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車
::: 元住吉駅 (MG12) - '''日吉駅 (MG13)''' - (東急新横浜線)
:[[File:Tokyu SH line symbol.svg|15px|SH]] 東急新横浜線
:: {{Color|#ef3123|■}}急行・{{Color|#1359a9|■}}各駅停車
::: (東横線・目黒線) - '''日吉駅 (SH03)''' - [[新綱島駅]] (SH02)
<!--リンクは1箇所に集約してください-->
=== 横浜市営地下鉄 ===
:[[File:Yokohama Municipal Subway Green Line symbol.svg|15px|G]] グリーンライン(4号線)
::: [[日吉本町駅]] (G09) - '''日吉駅 (G10)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 出典 ==
; 私鉄・地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; 私鉄・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; 神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|16em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=宮田道一 |title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |ref=jtb}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Hiyoshi Station (Kanagawa)}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[日吉駅 (京都府)]] - 同名駅で田園都市線の「高津」の同名駅と同じくJR西日本山陰本線(園部~福知山の間)にある。
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=13|name=日吉}}
* [http://navi.hamabus.city.yokohama.lg.jp/koutuu/pc/detail/Station?id=00007245 横浜市営地下鉄 日吉駅]
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{東急東横線}}
{{東急目黒線}}
{{東急新横浜線}}
{{横浜市営地下鉄グリーンライン}}
{{鉄道路線フッター}}
{{関東の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:ひよし}}
[[Category:港北区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ひ|よし]]
[[Category:東急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:横浜市交通局の鉄道駅]]
[[Category:1926年開業の鉄道駅]]
|
2003-08-18T09:39:31Z
|
2023-12-24T07:25:07Z
| false | false | false |
[
"Template:駅配線図",
"Template:東急新横浜線",
"Template:Cite web",
"Template:駅情報",
"Template:Main",
"Template:-",
"Template:Cite book",
"Template:Small",
"Template:Reflist",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:横浜市営地下鉄グリーンライン",
"Template:関東の駅百選",
"Template:Cite news",
"Template:R",
"Template:See also",
"Template:Colorbox",
"Template:Color",
"Template:Cite journal",
"Template:外部リンク/東急電鉄駅",
"Template:東急東横線",
"Template:東急目黒線",
"Template:Cite press release",
"Template:Commonscat",
"Template:鉄道路線ヘッダー",
"Template:0",
"Template:PDFlink",
"Template:鉄道路線フッター"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%89%E9%A7%85_(%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C)
|
13,492 |
出家
|
出家(しゅっけ、巴: pabbajjā、梵: प्रव्रज्या pravrajyā) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教コミュニティ(僧伽)に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。帰依する者(信者)の中では在家(Upāsaka; ざいけ)と対比される。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。
インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん,サマナ)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行に勤しんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。仏教における出家の伝統はこれに由来する。
仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。
Abbhokāso va pabbajjā iti disvāna pabbaji.
この在家(gharāvāso)の生活は妨げで、塵のつもる場所である。 出家はひろびろとした野外である、と見て出家した。
仏教徒は、在家と出家者である僧とに大別できる。
在家者(優婆塞・優婆夷)には、三宝に帰依する「三帰依戒」と、「五戒」(六斎日には「八斎戒」)が授けられる。
それに対し出家者の場合、見習い僧(沙弥・沙弥尼)の段階では、「三帰依戒」と、「沙弥戒」・「沙弥尼戒」としての「十戒」等を授かって出家する。(沙弥尼の場合、その後、式叉摩那(正学女)という六法戒が課された二年の期間が設けられる。)
そして、20歳を越えてから、「具足戒」(波羅提木叉)が授けられ、この具足戒を授かることにより、正式な僧伽(僧団)の一員としての出家修行者(比丘・比丘尼)となる。
具足戒の条項は数が多くかつ具体的であり、『四分律』では比丘は約250戒、比丘尼は約350戒にものぼる。釈迦を師とし出家修行を行うことはすなわちこの戒を守った修行スタイルを維持することに他ならない。また、戒を授かった修行者には目に見えない力である戒体が備わるとされる。
具足戒や僧伽の運営方法は、仏典の律蔵に収められており、釈尊が制定したこれらは弟子が勝手に変更することはできない。
上記した出家の雛形は、初期仏教、部派仏教の時代を通じて継承され、現在でも上座部仏教では基本的に維持されている。
大乗仏教や密教が段階的に伝播してきた中国仏教では、律宗を除いては、全般的に部派仏教時代の具足戒が重視されることはなかった。加えて、『梵網経』に基づく菩薩戒なども作られ、日本仏教にも大きな影響を与えることになった。
日本には奈良時代に律宗の鑑真が『四分律』を伝え、具足戒に則った伝統的な僧伽・出家の制度が確立された。
しかし、中国から天台宗を伝えた最澄は、具足戒を小乗の戒として軽視し、『梵網経』の菩薩戒に基づく独自の大乗戒壇を比叡山に創設した。日本の天台宗や、そこから派生した日蓮宗などの宗派は、当初から他国のような僧伽(基本は20人以上の出家の僧侶からなる僧団)としての伝統をもたない。また、天台宗より派生した他の宗派や禅宗では、具足戒は概して重視されず、鎌倉時代には、叡尊に始まる真言律宗など一部を除き、正式な具足戒、及び伝統的な僧伽・出家制度は衰退・消滅した。この時期には浄土真宗のように教義上で公式に妻帯を認め開祖の子孫による世襲制を行った宗派も出現した。
江戸時代には真言宗では「正法律」を唱えた慈雲尊者、天台宗では天皇から師として仰がれた豪潮律師らの活躍により日本でも一時期、正式な出家の戒律と僧伽がごく一部では復活したが、広まりはなかった。
明治時代になると、明治5年4月25日公布の太政官布告第133号「僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事」にて、僧侶の妻帯・肉食等を公的に許可し、それが近代の文明開化の一環として好意的に受容されたことで、ますます在家と出家の区別は有名無実化した。さらには明治8年2月13日公布の平民苗字必称義務令によりすべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることが義務付けられ、僧侶も例外とされなかったので、日本の僧侶は出家の身でありながら俗姓を戒名の上に付けて名乗る(たとえば朝比奈宗源・高田好胤など)ことになった。
なお、現在の日本では第二次世界大戦の影響もあって、それ以降は破戒僧という言葉も死語となり、「仏教としての僧侶」における立場よりも、釈尊の教えや仏教の戒律からは逸脱した葬式仏教に由来する、個人の信仰によらない「職業(さらには家業)としての僧侶」が定着した。一応は剃髪した僧侶が多いとされるが、浄土真宗を先例として中には剃髪せず、ごく一般的な髪型をしている者も数多く存在する。また、仏教では本来、出家者は在家者を教え導き、在家者は出家者を経済的に資助する者とされて、出家の精神的優位が説かれたが、紀元前1世紀頃に始まった大乗仏教においては、菩薩(ぼさつ)による衆生済度(しゅじょうさいど)の観点から、在家の意義も積極的に認めた。
チベット仏教では、大乗仏教・密教が混合しているとはいえ、アティーシャによって戒律復興運動がなされた結果、具足戒を経る僧伽・出家制度は、現在も多くの宗派で維持されている。
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"text": "出家(しゅっけ、巴: pabbajjā、梵: प्रव्रज्या pravrajyā) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教コミュニティ(僧伽)に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。帰依する者(信者)の中では在家(Upāsaka; ざいけ)と対比される。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。",
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"text": "インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん,サマナ)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行に勤しんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。仏教における出家の伝統はこれに由来する。",
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"text": "仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。",
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"text": "この在家(gharāvāso)の生活は妨げで、塵のつもる場所である。 出家はひろびろとした野外である、と見て出家した。",
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"text": "それに対し出家者の場合、見習い僧(沙弥・沙弥尼)の段階では、「三帰依戒」と、「沙弥戒」・「沙弥尼戒」としての「十戒」等を授かって出家する。(沙弥尼の場合、その後、式叉摩那(正学女)という六法戒が課された二年の期間が設けられる。)",
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"text": "そして、20歳を越えてから、「具足戒」(波羅提木叉)が授けられ、この具足戒を授かることにより、正式な僧伽(僧団)の一員としての出家修行者(比丘・比丘尼)となる。",
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"text": "具足戒の条項は数が多くかつ具体的であり、『四分律』では比丘は約250戒、比丘尼は約350戒にものぼる。釈迦を師とし出家修行を行うことはすなわちこの戒を守った修行スタイルを維持することに他ならない。また、戒を授かった修行者には目に見えない力である戒体が備わるとされる。",
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"text": "具足戒や僧伽の運営方法は、仏典の律蔵に収められており、釈尊が制定したこれらは弟子が勝手に変更することはできない。",
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"text": "大乗仏教や密教が段階的に伝播してきた中国仏教では、律宗を除いては、全般的に部派仏教時代の具足戒が重視されることはなかった。加えて、『梵網経』に基づく菩薩戒なども作られ、日本仏教にも大きな影響を与えることになった。",
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"text": "江戸時代には真言宗では「正法律」を唱えた慈雲尊者、天台宗では天皇から師として仰がれた豪潮律師らの活躍により日本でも一時期、正式な出家の戒律と僧伽がごく一部では復活したが、広まりはなかった。",
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"text": "明治時代になると、明治5年4月25日公布の太政官布告第133号「僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事」にて、僧侶の妻帯・肉食等を公的に許可し、それが近代の文明開化の一環として好意的に受容されたことで、ますます在家と出家の区別は有名無実化した。さらには明治8年2月13日公布の平民苗字必称義務令によりすべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることが義務付けられ、僧侶も例外とされなかったので、日本の僧侶は出家の身でありながら俗姓を戒名の上に付けて名乗る(たとえば朝比奈宗源・高田好胤など)ことになった。",
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"text": "なお、現在の日本では第二次世界大戦の影響もあって、それ以降は破戒僧という言葉も死語となり、「仏教としての僧侶」における立場よりも、釈尊の教えや仏教の戒律からは逸脱した葬式仏教に由来する、個人の信仰によらない「職業(さらには家業)としての僧侶」が定着した。一応は剃髪した僧侶が多いとされるが、浄土真宗を先例として中には剃髪せず、ごく一般的な髪型をしている者も数多く存在する。また、仏教では本来、出家者は在家者を教え導き、在家者は出家者を経済的に資助する者とされて、出家の精神的優位が説かれたが、紀元前1世紀頃に始まった大乗仏教においては、菩薩(ぼさつ)による衆生済度(しゅじょうさいど)の観点から、在家の意義も積極的に認めた。",
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"text": "チベット仏教では、大乗仏教・密教が混合しているとはいえ、アティーシャによって戒律復興運動がなされた結果、具足戒を経る僧伽・出家制度は、現在も多くの宗派で維持されている。",
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出家 とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教コミュニティ(僧伽)に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。帰依する者(信者)の中では在家と対比される。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん,サマナ)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行に勤しんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。仏教における出家の伝統はこれに由来する。 仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。
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{{出典の明記|date=2019年7月}}
{{Wiktionary|出家}}
{{ Infobox Buddhist term
| title = 出家
| en = to go forth
| pi = pabbajjā
| sa = प्रव्रज्या, pravrajya
| my =
| my-Latn =
| zh = 出家
| zh-Latn =
| ja = 出家
| ja-Latn =
}}
'''出家'''(しゅっけ、{{lang-pi-short|pabbajjā}}、{{lang-sa-short|प्रव्रज्या}} {{IAST|pravrajyā}}) とは、[[師僧]]から正しい[[戒律]]である『[[沙弥戒]]』や『[[具足戒]]』を授かって[[世俗]]を離れ、家庭生活を捨て[[仏教]]コミュニティ([[僧伽]])に入ることである。'''落飾'''(らくしょく)ともいう。帰依する者(信者)の中では[[在家]](Upāsaka; ざいけ)と対比される。対義語は[[還俗]](げんぞく、“俗界に還る”の意)。
[[インド]]では、[[紀元前5世紀]]頃、[[バラモン教]]の伝統的権威を認めない[[沙門]](しゃもん,サマナ)と呼ばれる[[修行者]]が現れ、[[解脱]](げだつ)への道を求めて[[禅定]]や苦行などの[[修行]]に勤しんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、[[釈迦]]もその沙門の1人であった。仏教における出家の伝統はこれに由来する。
仏教教団において[[剃髪]](ていはつ)して[[袈裟]]を被い、「'''正式に[[受戒]](じゅかい)して入門した[[沙弥]]や[[沙弥尼]]'''」になることを言うが、その後、「'''[[具足戒]]を受けて正規の[[僧]]となった[[比丘]]や[[比丘尼]]'''」を呼ぶ場合にも使う。
== 解説 ==
{{Quote|Sambādho'yaṃ gharāvāso rajassāyatanaṃ iti,<br>
Abbhokāso va pabbajjā iti disvāna pabbaji.
この在家(gharāvāso)の生活は妨げで、塵のつもる場所である。<br>
出家はひろびろとした野外である、と見て出家した。
| {{SLTP|[[スッタニパータ]] 408.}} }}
===区別===
[[仏教|仏教徒]]は、[[在家]]と出家者である[[僧]]とに大別できる。
====在家====
在家者([[優婆塞]]・[[優婆夷]])には、[[三宝]]に帰依する「三[[帰依]]戒」と、「[[五戒]]」([[六斎日]]には「[[八斎戒]]」)が授けられる。
====出家====
それに対し出家者の場合、見習い僧([[沙弥]]・[[沙弥尼]])の段階では、「三帰依戒」と、「[[沙弥戒]]」・「沙弥尼戒」としての「[[十戒 (仏教)|十戒]]」等を授かって出家する。(沙弥尼の場合、その後、[[式叉摩那]](正学女)という[[六法戒]]が課された二年の期間が設けられる。)
そして、20歳を越えてから、「[[具足戒]]」([[波羅提木叉]])が授けられ、この具足戒を授かることにより、正式な[[僧伽]](僧団)の一員としての出家修行者([[比丘]]・[[比丘尼]])となる。
===条項===
具足戒の条項は数が多くかつ具体的であり、『[[四分律]]』では[[僧|比丘]]は約250戒、[[僧|比丘尼]]は約350戒にものぼる。[[釈迦]]を師とし出家修行を行うことはすなわちこの戒を守った修行スタイルを維持することに他ならない。また、戒を授かった修行者には目に見えない力である[[戒体]]が備わるとされる。
===律蔵===
具足戒や僧伽の運営方法は、[[仏典]]の[[律蔵]]に収められており、[[釈尊]]が制定したこれらは弟子が勝手に変更することはできない<ref name="AUM">『オウムという悪夢』([[別冊宝島]]229) P206 [[橋爪大三郎]]著</ref>。<!--教派や地域によって若干の違いはあるものの、基本的な内容は[[大乗仏教]]や[[上座部仏教]]、金剛乗(真言乗)の[[密教]]でも変わることなく現在まで受け継がれている。-->
== 宗派別 ==
=== 上座部仏教 ===
[[File:Myanmar_Traditional_novitiation_march.JPG|thumb|right|[[ミャンマー]][[マンダレー]]の出家式(Shinbyu)]]
上記した出家の雛形は、初期仏教、[[部派仏教]]の時代を通じて継承され、現在でも[[上座部仏教]]では基本的に維持されている。
{{Main|:en:Shinbyu}}
=== 中国・日本(北伝仏教) ===
[[大乗仏教]]や[[密教]]が段階的に伝播してきた中国仏教では、[[律宗]]を除いては、全般的に部派仏教時代の[[具足戒]]が重視されることはなかった。加えて、『[[梵網経]]』に基づく[[菩薩戒]]なども作られ、日本仏教にも大きな影響を与えることになった。<!--[[中国]]では、仏教の出家主義は[[儒教]]の側から「[[孝]]」などの社会規範を乱すものとしてしばしば非難を受けた。また[[唐|唐代]]以降は、国家経済的見地から出家行為自体を統制し、出家者数を国家的に管理する[[度僧制度]]が整えられた。-->
日本には[[奈良時代]]に[[律宗]]の[[鑑真]]が『[[四分律]]』を伝え、[[具足戒]]に則った伝統的な[[僧伽]]・出家の制度が確立された。
しかし、中国から[[天台宗]]を伝えた[[最澄]]は、[[具足戒]]を[[小乗]]の戒として軽視し、『[[梵網経]]』の[[菩薩戒]]に基づく独自の[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]を[[比叡山]]に創設した。日本の[[天台宗]]や、そこから派生した[[日蓮宗]]などの宗派は、当初から他国のような僧伽(基本は20人以上の出家の僧侶からなる僧団)としての伝統をもたない。また、天台宗より派生した他の宗派や禅宗では、具足戒は概して重視されず、[[鎌倉時代]]には、[[叡尊]]に始まる[[真言律宗]]など一部を除き、正式な具足戒、及び伝統的な僧伽・出家制度は衰退・消滅した。この時期には[[浄土真宗]]のように教義上で公式に妻帯を認め開祖の子孫による[[世襲]]制を行った宗派も出現した。
[[江戸時代]]には<!--[[黄檗宗]]の開祖・[[隠元]]の来日などによって[[禅宗]]や[[真言宗]]、天台宗の各宗派が中国系の[[具足戒]]を伝え、-->真言宗では「正法律」を唱えた[[慈雲]]尊者、天台宗では[[天皇]]から師として仰がれた[[豪潮]]律師らの活躍により日本でも一時期、正式な出家の戒律と僧伽がごく一部では復活したが、広まりはなかった。
[[明治時代]]になると、[[1872年|明治5年]][[4月25日]]公布の[[太政官布告]]第133号「'''[{{NDLDC|788366/7}} 僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事]'''」にて、僧侶の妻帯・肉食等を公的に許可し、それが近代の[[文明開化]]の一環として好意的に受容されたことで、ますます在家と出家の区別は有名無実化した。さらには[[1875年|明治8年]][[2月13日]]公布の[[平民苗字必称義務令]]によりすべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることが義務付けられ、僧侶も例外とされなかったので、日本の僧侶は出家の身でありながら俗姓を戒名の上に付けて名乗る(たとえば[[朝比奈宗源]]・[[高田好胤]]など)ことになった。
なお、現在の日本では[[第二次世界大戦]]の影響もあって、それ以降は[[破戒僧]]という言葉も[[廃語|死語]]となり、「仏教としての僧侶」における立場よりも、[[釈尊]]の教えや仏教の戒律からは逸脱した[[葬式仏教]]に由来する、個人の信仰によらない「職業(さらには[[家業]])としての僧侶」が定着した。一応は[[剃髪]]した僧侶が多いとされるが、[[浄土真宗]]を先例として中には剃髪せず、ごく一般的な髪型をしている者も数多く存在する。また、仏教では本来、出家者は在家者を教え導き、在家者は出家者を経済的に資助する者とされて、出家の精神的優位が説かれたが、[[紀元前1世紀]]頃に始まった[[大乗仏教]]においては、[[菩薩]](ぼさつ)による[[衆生]]済度(しゅじょうさいど)の観点から、在家の意義も積極的に認めた。
=== チベット仏教 ===
[[チベット仏教]]では、大乗仏教・密教が混合しているとはいえ、[[アティーシャ]]によって戒律復興運動がなされた結果、具足戒を経る僧伽・出家制度は、現在も多くの[[宗派]]で維持されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[戒律]]・[[律 (仏教)|律]]
* [[具足戒]]・[[波羅提木叉]]
* [[僧伽]]
* [[得度]]
* [[度牒]]
* [[修行]]
* [[修験道]]
* [[托鉢]]
* [[出家詐欺]]
* [[サマナ (オウム真理教)]]
* [[還俗]]
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さとり
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さとり
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さとり 悟り 悟り - 宗教(特に仏教)の用語。
悟り (コスプレ) - 男性が顔を隠して女装コスプレを行うこと。
悟り (ジョン・レノンの曲) - ジョン・レノンのアルバム『ジョンの魂』収録の楽曲。 覚 覚 - 人の心を読む妖怪。 SATORI SATORI (日本のバンド) - 2010年に結成された日本のバンド。
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'''さとり'''
{{wiktionary}}
'''悟り'''
*[[悟り]] - 宗教(特に仏教)の用語。
*[[悟り (コスプレ)]] - 男性が顔を隠して女装コスプレを行うこと。
*[[悟り (ジョン・レノンの曲)]] - [[ジョン・レノン]]の[[アルバム]]『[[ジョンの魂]]』収録の楽曲。
'''覚'''
*[[覚]] - 人の心を読む[[妖怪]]。
'''SATORI'''
*[[SATORI (日本のバンド) ]] - 2010年に結成された日本のバンド。
== その他 ==
*[[長谷川奈央]] - かつて、「里璃(さとり)」という芸名で活動していた。
*[[古明地さとり]] - 東方Projectに登場するキャラクター。上記妖怪が元ネタ。
*[[武装少女マキャヴェリズム#天下五剣|眠目 さとり(たまば さとり)]] - 武装少女マキャヴェリズムのキャラクター。
*[[電池が切れるまで#主人公|川田さとり]] - 「電池が切れるまで」の主人公。
*[[さとり世代]] - 「欲がない」と言われている世代。
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急行列車
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急行列車(きゅうこうれっしゃ)とは、普通列車(緩行)に対し、一部の駅を通過して主要駅にのみ停車し、速達輸送を行なう列車のことをいう。 一般的に停車駅は、特別急行列車(特急)や快速急行より多く、準急列車(または快速列車)より少ない。急行列車の英訳はExpressが当てられる。 なお、広義の急行列車には特急列車や準急列車も含まれる。
本項では急行料金を必要とする優等列車のほか、以下の列車についても解説する。
急行列車の英語訳は一応"Express"であるが、これは日本語の「急行列車」とは一対一で対応するとは限らない。
そもそもExpress自体、イギリスでは各駅停車の列車(Stopping Train)に対し「途中駅通過をする(結果的に早くつく)」が割増料金を設けない列車として始まっているので、日本でいうと「快速列車」に近いものが起源だった。
日本の急行列車に相当する列車に与えられる列車種別としては、高速性が示せる言葉から自然発生した、"Flyer", "Mail Train", "Rapide(フランス語。英語の"Rapid"に相当)"、"Schnellzug(ドイツ語。"Schnell"は英語の"fast"に、"Zug"は英語の"Train"に相当)"といった用語と、事業者の創作・命名に由来するが、個別列車の愛称とははっきり区別できる"InterCity (IC) ", "InterRegio (IR) ", "EuroCity (EC) "などといった名称が存在する。また、日本語の「特別急行列車(特急)」「快速急行」と同様の、Expressという名称の変形として"Trans Europ Express (TEE) ", "InterCityExpress (ICE) ", "RegionalExpress (RE) "といったものが用いられることがある。一部の都市内路線や地下鉄では"Skip Stop","fast"という表現も用いられる。
急行列車の歴史については不明な点が多いが、最古の急行列車は"Mail Train"という名称を用い、他の列車とは速度の面で特に区別されて運行された1830年代のイギリスの郵便と旅客の混合列車であると推定される。19世紀のイギリスの鉄道は高速化に熱心で、"Express"、"Flyer"といった名称のついた列車が散見されるが、反面、需要の有無に関わらず、各駅停車に相当する列車の運行に極めて不熱心であった。イギリスの議会で低運賃の各駅停車の運行が義務づけられ、各駅停車の方が「議会列車"Parliament Train"」として認識されているほどであったことや、"Express"呼称と特別料金の有無が一致しなかったことから、こうした高速列車が優等列車として意識され、急行列車という名称が列車種別として意識されていたかどうかについては疑問の余地がある。 一応、時代が下ると各駅停車と途中駅通過の列車を信号所で見分ける必要が出たため、イギリスでは前面の標識灯の数で見分けられるように規定した(基本的に1つが各駅停車、2つがExpressになる)。
急行列車が発展した地域としては、他にアメリカ合衆国やヨーロッパなどを挙げることができる。長距離を走るアメリカの列車には速達性が求められ、19世紀末にはニューヨーク-シカゴ間の"Empire State Express"など、"Express"の呼称を用いた列車が多数存在した。ただし、20世紀以降は"Express"という名称は、フェデラルエクスプレスなど現在の宅配便に相当する小口荷物を輸送する「急行貨物列車」もしくは「急送便」といった意味合いで用いられることが多くなり、また、競合路線が多い中で旅客誘致をするためにも特別さをアピールできるものが相応しいことから、旅客列車には"Limited"という名称を用いることのほうが標準になった。現在のアムトラックの列車名を見ても、その路線の唯一の列車で、取り立てて高速でもない列車が" - Limited"を名乗るケースが多い。例外は、近郊鉄道や都市高速鉄道で、急行線を運行する電車を"Express"と名付ける習慣は現在のニューヨーク市地下鉄に残されている。アメリカにおいても"Express"呼称と特別料金の有無は現在でも一致していない。
ヨーロッパでは、1883年10月に国際寝台車会社 (Compagnie Internationale des Wagons-Lits) の寝台車によって国際急行列車"Orient-Expres"(オリエント急行)がパリ・ストラスブール駅-コンスタンティノープル間で運行された。国際寝台車会社の寝台車によって運行された国際急行列車「ヨーロッパ大急行」"Grands Express Europeens"は豪華さとともに、速達性によって第二次世界大戦前の花形列車としてヨーロッパで活躍した。ヨーロッパではこのほかにも座席車連結の国際急行や国内急行列車が存在した。これらは第二次世界大戦後に、国際特急TEE(のちにECとして発展的解消)やインターシティ(IC)サービスとして発展的解消を遂げたが、"Express"の名称自体はスペインやイタリアの列車種別として残されている。大陸ヨーロッパの諸国では、かならずしも"Express"呼称の列車に対してではないものの列車種別によって特別料金を取る列車が多く、列車本数も多いことから、急行という名称は列車種別として定着している模様である。
日本国有鉄道(国鉄)やそれを継承したJR各社の急行列車は、乗車のために急行券を必要とする。急行券のほか普通乗車券(Suica等交通系ICカードを含む)または回数乗車券が必要であり、定期乗車券による乗車はできないが、列車・区間を限定して乗車を認めている場合があった。
なおJR(国鉄)では、(規則上の)「急行列車」とは普通急行列車と特別急行列車の総称であるが、一般に「急行」または「急行列車」といえば前者を指し、後者は「特急」または「特急列車」と呼ばれる。ただし現在、前者の急行は定期運行されておらず、臨時列車のみとなっている。このほか、かつては準急行列車(準急)も運行されていたが、普通急行列車に統合されて消滅した。
以下、この節において急行列車という場合は狭義の急行列車、つまり普通急行列車のことを指すものとする。
日本初の「急行列車」は、1894年(明治27年)10月に山陽鉄道(現在の山陽本線)が神戸駅 - 広島駅間に運行したものである。3往復のうち1往復を主要駅のみ停車としたもので、両駅間を9時間弱で結んだ。これ以前にも、1882年(明治15年)3月1日に新橋駅 - 横浜駅間で運転を開始した列車を始めとして、『官報』掲載の時刻表で「急行」と表記された列車は存在したが、それらは現在の快速列車に近い存在で、長距離旅客の利便性やサービス向上を本格的に意識した列車はこれが初めてであった。翌1895年(明治28年)10月20日には官設鉄道に乗り入れ、京都駅発着となった。官設鉄道では1896年(明治29年)9月1日に、新橋 - 神戸間での急行列車を登場させた。それまで約20時間かかっていた両駅間が、17時間強で結ばれることになった。その後1899年(明治32年)には食堂車が、1900年(明治33年)に寝台車がそれぞれ山陽鉄道の急行列車に日本で初めて連結された。
その後、急行列車の本数は増加して「最急行」「最大急行」といった急行より格上の列車も登場したが、日露戦争中は削減または廃止されスピードも大幅に低下した。
日露戦争の終結後は急行列車券規定が公布され、1906年(明治39年)4月16日に新橋駅 - 神戸駅間に設定された最急行列車の利用に、初めて急行料金が必要となった。急行料金を必要とする列車は徐々に増加していき、明治最後の年である1912年(明治45年)6月には、最初に急行料金が必要になった最急行列車が格上げされ、日本初の特別急行列車(特急列車)となった。
大正から昭和時代初期にかけては第二次世界大戦前における急行列車の黄金時代で、日本の多くの幹線で急行列車が設定された。その頃の特急列車は東海道本線・山陽本線の「富士(ふじ)」「櫻(さくら)」「燕(つばめ)」「鴎(かもめ)」の4種類しかなかったので、東北本線をはじめとする東海道・山陽本線以外の幹線では急行列車は「最優等列車」として君臨し、特急列車にも引けを取らない設備を持つ急行列車も存在した。1934年(昭和9年)12月、丹那トンネルなどが開通した時に行われたダイヤ改正時、特に優れた設備を備えた急行列車には次のようなものがある。
日中戦争に突入した後も戦争の影響を受けて満洲や樺太などへの需要が増したことから、急行列車は各地で増発が続けられるが、太平洋戦争の戦況が悪化してきた1943年(昭和18年)2月頃から削減されるようになった。 1944年(昭和19年)3月14日には、決戦非常措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、特急および急行列車などの全廃が決定。1944年(昭和19年)4月に特急列車が全廃(同時に一等車・展望車・寝台車・食堂車の連結は全て中止)された。急行は全廃こそ逃れたが1945年(昭和20年)3月の時点では、全国でも東京駅 - 下関駅間(6月から東京駅 - 門司駅間)1・2列車の1往復を残すのみとなってしまう。
戦後は蒸気機関車の燃料である石炭や車両・整備の事情が戦時中以上に悪化し、1947年(昭和22年)1月 - 4月にはついに急行列車が消滅するという事態も迎えている。しかし同年6月頃からは、日本全国に準急列車とともに増発・新設されていくことになる。戦後はいわゆるローカル線などにも広く設定されていった。しかし準急列車は急行列車に統合される形で1966年(昭和41年)3月に100km以上を走行する本来の意味での「準急列車」は消滅、残りも1968年(昭和43年)10月に姿を消す。
かつては、首都圏の中央線や関西地区の東海道本線・山陽本線、阪和線といった路線では、急行料金不要の列車として、急行“列車”ではなく「急行“電車”(急電)」という列車が運行されていた。しかし、同様の種別名称で料金が必要なものとそうでないものが混在するのは、旅客案内上好ましくないことから、電車や気動車を使用した有料準急の新設をきっかけとして、1958年(昭和33年)10月に「急行電車」は「快速電車」に改称された(後述の「急行電車(急電)」も参照)。
戦時買収私鉄であった阪和線では「特急電車」「準急電車」も存在したが、この時に「特急電車」を「快速電車」に、「急行電車」と「準急電車」は「直行電車」(のちに「区間快速」)とした。
急行列車の最盛期となる昭和40年代には数多くの列車が設定されたが、その中には非常な長距離を走るもの、運行区間が独特なもの、分割・併結を繰り返すものなど、様々な特徴を持った列車も多く存在することとなった。1968年(昭和43年)10月改正(通称「ヨン・サン・トオ」)時の、それらの一例には下記のような列車がある。
特別急行列車が文字どおりの「特別」な列車であった時代は、急行列車は庶民の足として日本全国津々浦々で運転されていたが、1964年(昭和39年)10月に新幹線が、そして1972年(昭和47年)10月にエル特急が登場すると特急の大衆化が進む。高度経済成長に伴う鉄道輸送の飽和から列車運行速度の異なる急行形車両(運転最高速度95km/h - 110km/h)がダイヤ上のネックとなった。中長距離は特急列車に格上げし、近距離や一部の中距離列車(元準急列車が中心)を快速に格下げすることにより、列車速度の単純化と優等列車の車種統一による車両運用の合理化、さらには陳腐化していた急行列車のサービス向上などを図った。こういった施策は航空機や自動車、高速バスの普及したこの時期においては不可避だったとはいえ、特急格上げの際に車内設備の改善はともかく、所要時間短縮が少なかったことから、国鉄の増収手段の一つという批判も強かった。
この時期には、いわゆる新性能電車との置き換えなどにより、臨時列車(「はりま」など)や大都市圏(とりわけ首都圏の「かいじ」など)では、所定の車両が揃わない等の理由で、一般形車両により運行される急行列車もあった。それらの列車は「遜色急行」(そんしょくきゅうこう)と一部の鉄道ファンから揶揄された。これはかつての準急行列車が速度を第一とし、その対価として急行料金に比べ安価な準急行料金を徴したのだが、その準急以下と見られたからである。一方で西日本を中心に急行形車両への冷房取り付けも進み、一等車は1968年までに、関東以西の普通車(旧二等車)も1970年代後半までには完了したが、東北以北では気動車の普通車への冷房設置は遅々として進まなかった。
急行全盛期の列車編成に欠かすことのできない車両として、特別二等車・二等車(ともにのちの一等車・グリーン車)、食堂車(ないしは、ビュッフェ)・荷物車が挙げられたことから、ダイヤグラム作成に際して速度を含めて優等車両を備えた列車のことを、略して「優等列車」と呼ぶようになったともいわれている。
こういう経過の中でも存置された急行列車は、次第に特急と快速・普通列車に挟まれた中途半端な存在として利用客が減少していった。
1980年代以降の新幹線延伸により、在来線特急列車で使用されていた特急形車両が余剰になり、時を同じくして急行列車に使用していた車両の老朽化が進んだ。それに加え、航空機やマイカー、高速バスといった他の交通手段が台頭し、固定式ボックスクロスシートの普通車や3段式のB寝台車といった、旧態依然の設備そのものが利用客のニーズに合わなくなっていた。そのため急行列車は特急列車へ格上げ、快速列車・普通列車へ格下げ、または廃止され、大きく数を減らしていった。
1982年11月15日の国鉄ダイヤ改正を皮切りに、JR発足後もその流れは止まらず、ほぼ毎年のように急行列車が廃止された。JR四国は1999年3月、JR九州は2004年3月、JR東海は2008年3月、JR西日本は2012年3月の各改正をもって、それぞれの管内から定期急行列車が消滅している。
昼行急行列車は2009年3月改正で「つやま」が廃止されたことで全廃となった。その結果、定期運転の急行列車は夜行の「きたぐに」および「はまなす」のみとなったが、「きたぐに」は2012年3月改正で臨時列車に格下げされた後、翌年1月に廃止となった。最後に残った「はまなす」についても、2016年3月26日の北海道新幹線開業に伴い廃止された。これにより、国鉄時代から続いたJRグループの定期急行列車は消滅した。
グリーン車の連結は、定期昼行列車については、半室グリーン車キロハ28形を連結していた「つやま」が2003年9月30日に車両変更のため編成から外されたことで消滅した。グリーン車を連結する定期急行列車は、2012年3月改正において「きたぐに」の臨時格下げにより消滅した。なお、臨時列車化以降の「きたぐに」が廃止される2013年1月以降は、グリーン車を連結する列車は、使用車両の一部に設置ないしは、いわゆるジョイフルトレインを使用した列車に限られている。
1998年に廃止された周遊券のうち、均一周遊乗車券(ワイド周遊券・ミニ周遊券)では、出発地から自由周遊区間までの経路を含めて急行列車の自由席利用が可能となっていた。
急行列車は、153系・165系直流電車や455系・475系交直流電車、キハ28系・58系気動車、12系客車などの急行形車両や、旧型客車によって運行された。
列車によっては485系・583系電車や20系・14系客車、キハ181系気動車などの特急形車両や、113系・401・403/421・423系電車やキハ40系気動車などの一般形車両が使用された。後者については、通常の急行形車両よりサービス設備が見劣りすることから、“遜色急行”と呼ばれることがある。
JR化後、急行専用車両は開発されていない。キハ110系0番台は急行仕様の設備を有しているが、現在、定期列車では快速列車運用のみとなっている。JR化後の定期急行列車は、「ちくま」(2003年10月1日臨時列車化、2005年10月8日廃止)が383系、「かすが」(2006年3月廃止)がキハ75形を使用した以外は、全て国鉄時代の車両を改修して使用している。前述の急行「きたぐに」「はまなす」および「銀河」(東海道本線の東京駅 - 大阪駅間で運転されていた寝台列車)は特急形車両を使用した。
既述のとおり定期急行列車は全廃されたが、制度上急行の列車種別は廃止されていない。JR東海 やJR北海道のように、多客期や観光向けに臨時列車などを急行列車として運行する場合があるため、これらの列車には急行券が発売される。これらの列車には特急形車両のほか、一般形車両の改造車が使われている。車両だけなら特急列車でもおかしくないが、定期列車のダイヤを優先したり、ビューポイントで徐行運転や停車をしたりするなど、速達性の面で特急とは言い難い性格を持つ臨時列車の種別として実質的に用いられている。
なお、かつてはJR東日本水戸支社においても臨時急行列車を運行していたが、2017年11月を最後に運行は行われておらず、快速列車に格下げまたは特急「ときわ」に格上げされている。ちなみに常磐線では、2015年3月のダイヤ改正で全車指定席とする新特急料金を導入した結果、座席指定料金を含めた急行料金が新特急料金よりも高いという逆転現象が発生している。
また、リバイバルトレイン(復活運転)としてかつての急行列車を急行種別の臨時列車・団体列車として走らせることがある。こちらはリバイバルトレインの性格上、車両も急行形を使うが、他の国鉄車両が充てられる列車もある。
常磐緩行線上り電車にはJR東日本の公式サイトの時刻表上にのみ急行の列車種別が設定されているが、これはJR線内(綾瀬駅まで)において「各駅停車」として走る電車が直通先の小田急電鉄小田原線内において後述の料金不要の「急行」として走る(JR線の「快速列車」に相当する)ことを意味しており、本節で述べた「急行列車」とは全く性質の異なるものである。
昭和初期より、急行列車とは別に「急行電車(きゅうこうでんしゃ)」と呼ばれる急行料金を徴収しない列車が運行される路線があった。略称は「急電(きゅうでん)」である。 車両は近距離仕様の車両と同様のサービス設備を有したが、停車駅間が長くなるため一部の列車ではサニタリー設備が備え付けられた。また、京阪神間といった都市間連絡に使用される一部の車両は、近距離使用の車両に用いられるロングシートではなくセミクロスシートを有した。
日本では、高速度電気鉄道(路面電車に対し、本格的な鉄道設備の上を電車によって高速運転する鉄道)が普及し始めた頃、機関車が無動力の客車をけん引する動力集中方式の列車と、動力分散方式を採る電車は、「全く別の性格の乗り物」と定義されていた。そのため、旧国鉄においても電車で運転される「急行」を「急行電車」と呼び、急行料金を徴収する急行列車とは別に位置づけた。現在、JR東日本の社内規定における中央快速線の正式な名称が「中央急行線」であるのは、この名残である。このほかに、国鉄が戦時買収により阪和電気鉄道から買収した阪和線では、料金不要の特急電車・準急電車も存在した。また、現在の東海道本線・山陽本線の京阪神地区(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)を縦貫する快速電車も、その起源は「急行電車」からの改称であった(現在の「新快速」はその後に登場したものであり、急行電車を起源とするものではない)。「京阪神快速」「電車線・列車線」も参照。
しかし、1958年(昭和33年)に151系電車や153系電車が登場し、特急列車や急行列車に投入されたのに合わせ、国鉄の急行料金の不要な列車は順次「快速」へと呼称を変更した(阪和線では最上位の特急電車が快速列車となったため、同線の急行および準急電車は直行列車という新種別を設けて対応した)。
私鉄は1906年(明治39年)の鉄道国有法によって動力集中方式で長距離列車を運行する路線を有する会社が東武鉄道や南海鉄道などを除いてほぼ皆無となったことや、米国におけるインターアーバンを摸した高速度電気鉄道として出発した会社がほとんどである。そのため、急行列車が標準的な速達列車とならない場合がある。快速列車が急行列車より停車駅が少ない会社もある。
東武鉄道の場合、かつて東京と群馬県・栃木県とを結んだ東武本線系統において、国鉄の制度に準じた急行券を要する列車(東武伊勢崎線急行「りょうもう」や日光線系統の急行。以下「有料急行」)とは別に料金不要の「急行」を運行していた。この列車は1951年の運転系統の改正により名称上廃止され、「快速」「準快速」(停車駅が少ない)「準急」など(以下総称して「快速等」)と呼称変更された。
その後は「準急」(=無料かつ途中停車駅が比較的精選されていない列車)と有料急行の間に位置する列車種別として存在するものもあったが、有料急行については2006年3月のダイヤ改正までに「特急」に格上げされた。これに伴い、本線での料金不要の「急行」が前述の快速等とは別に設定された。
急行料金や座席指定料金を設定した急行列車を走らせている私鉄・第三セクター鉄道もある。かつての富士急行、長野電鉄、島原鉄道、アルピコ交通などの観光地の路線などでは、旧国鉄からの乗り入れ(またはその逆)を行なう関係で別途急行料金を徴収する事例があった。小田急電鉄の「あさぎり」、名古屋鉄道の「北アルプス」や南海電気鉄道の「きのくに」、そして富山地方鉄道に乗り入れていた国鉄の急行列車(「立山」「のりくら」)などは、国鉄線内は急行でも、私鉄線内では特急であった。
急行券が必要な急行列車は、定期列車としては以下の会社において運転されている。車両は専用車両が使われることが多い。
私鉄の多くが現在運行している「急行」は料金不要で速達運転を行なうものであり、先述した国鉄の「急行(電車)」と同じく、JRにおける「快速」(普通列車の一種)に相当する。1914年(大正3年)に京阪電気鉄道が京阪本線で運行したのが日本初とされる。同社はその後1916年(大正5年)にノンストップ運転であった従来の急行を「最急行」に改称し、「急行」を主要駅停車の列車としている(「京阪特急#前身」を参照)
通常、通勤形車両(一般車両)で運行されるが、特別仕様の車内設備を持つ車両で運行される場合もある。京浜急行電鉄、京成電鉄、都営地下鉄浅草線や京阪電鉄などでは、こういった専用車両を料金不要の「特急」に使用する場合がある。
往年の列車旅を再現するための企画として、夜行急行列車がパッケージツアーとして運行される場合がある。
ちなみに秩父鉄道では、日本旅行との共同企画として夜行急行列車を運行している 。
「急行」は通常、鉄道の列車を示すが、高速バスや路線バスにも超特急、特急、急行、快速便が存在する。これらの中にも急行券や座席指定券を必要とするものもある。バスの急行については「急行バス」参照。
また、かつての宇高航路にはホバークラフト、高速艇による急行便が存在した。これに乗船するときは、乗車券のほかに連絡船急行券を必要とした。ただしこの急行便は、運行時には接続する本州・宇野線側で既に特急・急行列車が寝台特急「瀬戸」以外設定されていなかったことや、宇野駅および高松駅では鉄道連絡船で運行されていた普通便とは別桟橋での発着であったこともあり、運賃上の連帯を行なうのみで鉄道側との乗り継ぎ料金制度は存在しなかった。「宇高連絡船」を参照。
このほかにもフェリーと高速艇を並行して運行する場合には、所要時間の短い高速艇を急行扱いとして料金を高く設定することがある。
船舶会社の社名に急行をつける例としては、四国フェリーグループの小豆島急行フェリーなどに事例がある。 バス会社の社名に急行をつける例としては、東武鉄道系・朝日自動車グループの東北急行バスなどに事例がある。
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"text": "急行列車(きゅうこうれっしゃ)とは、普通列車(緩行)に対し、一部の駅を通過して主要駅にのみ停車し、速達輸送を行なう列車のことをいう。 一般的に停車駅は、特別急行列車(特急)や快速急行より多く、準急列車(または快速列車)より少ない。急行列車の英訳はExpressが当てられる。 なお、広義の急行列車には特急列車や準急列車も含まれる。",
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"text": "本項では急行料金を必要とする優等列車のほか、以下の列車についても解説する。",
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"text": "急行列車の英語訳は一応\"Express\"であるが、これは日本語の「急行列車」とは一対一で対応するとは限らない。",
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"text": "そもそもExpress自体、イギリスでは各駅停車の列車(Stopping Train)に対し「途中駅通過をする(結果的に早くつく)」が割増料金を設けない列車として始まっているので、日本でいうと「快速列車」に近いものが起源だった。",
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"text": "日本の急行列車に相当する列車に与えられる列車種別としては、高速性が示せる言葉から自然発生した、\"Flyer\", \"Mail Train\", \"Rapide(フランス語。英語の\"Rapid\"に相当)\"、\"Schnellzug(ドイツ語。\"Schnell\"は英語の\"fast\"に、\"Zug\"は英語の\"Train\"に相当)\"といった用語と、事業者の創作・命名に由来するが、個別列車の愛称とははっきり区別できる\"InterCity (IC) \", \"InterRegio (IR) \", \"EuroCity (EC) \"などといった名称が存在する。また、日本語の「特別急行列車(特急)」「快速急行」と同様の、Expressという名称の変形として\"Trans Europ Express (TEE) \", \"InterCityExpress (ICE) \", \"RegionalExpress (RE) \"といったものが用いられることがある。一部の都市内路線や地下鉄では\"Skip Stop\",\"fast\"という表現も用いられる。",
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"text": "急行列車の歴史については不明な点が多いが、最古の急行列車は\"Mail Train\"という名称を用い、他の列車とは速度の面で特に区別されて運行された1830年代のイギリスの郵便と旅客の混合列車であると推定される。19世紀のイギリスの鉄道は高速化に熱心で、\"Express\"、\"Flyer\"といった名称のついた列車が散見されるが、反面、需要の有無に関わらず、各駅停車に相当する列車の運行に極めて不熱心であった。イギリスの議会で低運賃の各駅停車の運行が義務づけられ、各駅停車の方が「議会列車\"Parliament Train\"」として認識されているほどであったことや、\"Express\"呼称と特別料金の有無が一致しなかったことから、こうした高速列車が優等列車として意識され、急行列車という名称が列車種別として意識されていたかどうかについては疑問の余地がある。 一応、時代が下ると各駅停車と途中駅通過の列車を信号所で見分ける必要が出たため、イギリスでは前面の標識灯の数で見分けられるように規定した(基本的に1つが各駅停車、2つがExpressになる)。",
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"text": "日露戦争の終結後は急行列車券規定が公布され、1906年(明治39年)4月16日に新橋駅 - 神戸駅間に設定された最急行列車の利用に、初めて急行料金が必要となった。急行料金を必要とする列車は徐々に増加していき、明治最後の年である1912年(明治45年)6月には、最初に急行料金が必要になった最急行列車が格上げされ、日本初の特別急行列車(特急列車)となった。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "大正から昭和時代初期にかけては第二次世界大戦前における急行列車の黄金時代で、日本の多くの幹線で急行列車が設定された。その頃の特急列車は東海道本線・山陽本線の「富士(ふじ)」「櫻(さくら)」「燕(つばめ)」「鴎(かもめ)」の4種類しかなかったので、東北本線をはじめとする東海道・山陽本線以外の幹線では急行列車は「最優等列車」として君臨し、特急列車にも引けを取らない設備を持つ急行列車も存在した。1934年(昭和9年)12月、丹那トンネルなどが開通した時に行われたダイヤ改正時、特に優れた設備を備えた急行列車には次のようなものがある。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "日中戦争に突入した後も戦争の影響を受けて満洲や樺太などへの需要が増したことから、急行列車は各地で増発が続けられるが、太平洋戦争の戦況が悪化してきた1943年(昭和18年)2月頃から削減されるようになった。 1944年(昭和19年)3月14日には、決戦非常措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、特急および急行列車などの全廃が決定。1944年(昭和19年)4月に特急列車が全廃(同時に一等車・展望車・寝台車・食堂車の連結は全て中止)された。急行は全廃こそ逃れたが1945年(昭和20年)3月の時点では、全国でも東京駅 - 下関駅間(6月から東京駅 - 門司駅間)1・2列車の1往復を残すのみとなってしまう。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "戦後は蒸気機関車の燃料である石炭や車両・整備の事情が戦時中以上に悪化し、1947年(昭和22年)1月 - 4月にはついに急行列車が消滅するという事態も迎えている。しかし同年6月頃からは、日本全国に準急列車とともに増発・新設されていくことになる。戦後はいわゆるローカル線などにも広く設定されていった。しかし準急列車は急行列車に統合される形で1966年(昭和41年)3月に100km以上を走行する本来の意味での「準急列車」は消滅、残りも1968年(昭和43年)10月に姿を消す。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "かつては、首都圏の中央線や関西地区の東海道本線・山陽本線、阪和線といった路線では、急行料金不要の列車として、急行“列車”ではなく「急行“電車”(急電)」という列車が運行されていた。しかし、同様の種別名称で料金が必要なものとそうでないものが混在するのは、旅客案内上好ましくないことから、電車や気動車を使用した有料準急の新設をきっかけとして、1958年(昭和33年)10月に「急行電車」は「快速電車」に改称された(後述の「急行電車(急電)」も参照)。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "戦時買収私鉄であった阪和線では「特急電車」「準急電車」も存在したが、この時に「特急電車」を「快速電車」に、「急行電車」と「準急電車」は「直行電車」(のちに「区間快速」)とした。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "急行列車の最盛期となる昭和40年代には数多くの列車が設定されたが、その中には非常な長距離を走るもの、運行区間が独特なもの、分割・併結を繰り返すものなど、様々な特徴を持った列車も多く存在することとなった。1968年(昭和43年)10月改正(通称「ヨン・サン・トオ」)時の、それらの一例には下記のような列車がある。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "特別急行列車が文字どおりの「特別」な列車であった時代は、急行列車は庶民の足として日本全国津々浦々で運転されていたが、1964年(昭和39年)10月に新幹線が、そして1972年(昭和47年)10月にエル特急が登場すると特急の大衆化が進む。高度経済成長に伴う鉄道輸送の飽和から列車運行速度の異なる急行形車両(運転最高速度95km/h - 110km/h)がダイヤ上のネックとなった。中長距離は特急列車に格上げし、近距離や一部の中距離列車(元準急列車が中心)を快速に格下げすることにより、列車速度の単純化と優等列車の車種統一による車両運用の合理化、さらには陳腐化していた急行列車のサービス向上などを図った。こういった施策は航空機や自動車、高速バスの普及したこの時期においては不可避だったとはいえ、特急格上げの際に車内設備の改善はともかく、所要時間短縮が少なかったことから、国鉄の増収手段の一つという批判も強かった。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "この時期には、いわゆる新性能電車との置き換えなどにより、臨時列車(「はりま」など)や大都市圏(とりわけ首都圏の「かいじ」など)では、所定の車両が揃わない等の理由で、一般形車両により運行される急行列車もあった。それらの列車は「遜色急行」(そんしょくきゅうこう)と一部の鉄道ファンから揶揄された。これはかつての準急行列車が速度を第一とし、その対価として急行料金に比べ安価な準急行料金を徴したのだが、その準急以下と見られたからである。一方で西日本を中心に急行形車両への冷房取り付けも進み、一等車は1968年までに、関東以西の普通車(旧二等車)も1970年代後半までには完了したが、東北以北では気動車の普通車への冷房設置は遅々として進まなかった。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "急行全盛期の列車編成に欠かすことのできない車両として、特別二等車・二等車(ともにのちの一等車・グリーン車)、食堂車(ないしは、ビュッフェ)・荷物車が挙げられたことから、ダイヤグラム作成に際して速度を含めて優等車両を備えた列車のことを、略して「優等列車」と呼ぶようになったともいわれている。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "こういう経過の中でも存置された急行列車は、次第に特急と快速・普通列車に挟まれた中途半端な存在として利用客が減少していった。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1980年代以降の新幹線延伸により、在来線特急列車で使用されていた特急形車両が余剰になり、時を同じくして急行列車に使用していた車両の老朽化が進んだ。それに加え、航空機やマイカー、高速バスといった他の交通手段が台頭し、固定式ボックスクロスシートの普通車や3段式のB寝台車といった、旧態依然の設備そのものが利用客のニーズに合わなくなっていた。そのため急行列車は特急列車へ格上げ、快速列車・普通列車へ格下げ、または廃止され、大きく数を減らしていった。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1982年11月15日の国鉄ダイヤ改正を皮切りに、JR発足後もその流れは止まらず、ほぼ毎年のように急行列車が廃止された。JR四国は1999年3月、JR九州は2004年3月、JR東海は2008年3月、JR西日本は2012年3月の各改正をもって、それぞれの管内から定期急行列車が消滅している。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "昼行急行列車は2009年3月改正で「つやま」が廃止されたことで全廃となった。その結果、定期運転の急行列車は夜行の「きたぐに」および「はまなす」のみとなったが、「きたぐに」は2012年3月改正で臨時列車に格下げされた後、翌年1月に廃止となった。最後に残った「はまなす」についても、2016年3月26日の北海道新幹線開業に伴い廃止された。これにより、国鉄時代から続いたJRグループの定期急行列車は消滅した。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "グリーン車の連結は、定期昼行列車については、半室グリーン車キロハ28形を連結していた「つやま」が2003年9月30日に車両変更のため編成から外されたことで消滅した。グリーン車を連結する定期急行列車は、2012年3月改正において「きたぐに」の臨時格下げにより消滅した。なお、臨時列車化以降の「きたぐに」が廃止される2013年1月以降は、グリーン車を連結する列車は、使用車両の一部に設置ないしは、いわゆるジョイフルトレインを使用した列車に限られている。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1998年に廃止された周遊券のうち、均一周遊乗車券(ワイド周遊券・ミニ周遊券)では、出発地から自由周遊区間までの経路を含めて急行列車の自由席利用が可能となっていた。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "急行列車は、153系・165系直流電車や455系・475系交直流電車、キハ28系・58系気動車、12系客車などの急行形車両や、旧型客車によって運行された。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "列車によっては485系・583系電車や20系・14系客車、キハ181系気動車などの特急形車両や、113系・401・403/421・423系電車やキハ40系気動車などの一般形車両が使用された。後者については、通常の急行形車両よりサービス設備が見劣りすることから、“遜色急行”と呼ばれることがある。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "JR化後、急行専用車両は開発されていない。キハ110系0番台は急行仕様の設備を有しているが、現在、定期列車では快速列車運用のみとなっている。JR化後の定期急行列車は、「ちくま」(2003年10月1日臨時列車化、2005年10月8日廃止)が383系、「かすが」(2006年3月廃止)がキハ75形を使用した以外は、全て国鉄時代の車両を改修して使用している。前述の急行「きたぐに」「はまなす」および「銀河」(東海道本線の東京駅 - 大阪駅間で運転されていた寝台列車)は特急形車両を使用した。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "既述のとおり定期急行列車は全廃されたが、制度上急行の列車種別は廃止されていない。JR東海 やJR北海道のように、多客期や観光向けに臨時列車などを急行列車として運行する場合があるため、これらの列車には急行券が発売される。これらの列車には特急形車両のほか、一般形車両の改造車が使われている。車両だけなら特急列車でもおかしくないが、定期列車のダイヤを優先したり、ビューポイントで徐行運転や停車をしたりするなど、速達性の面で特急とは言い難い性格を持つ臨時列車の種別として実質的に用いられている。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "なお、かつてはJR東日本水戸支社においても臨時急行列車を運行していたが、2017年11月を最後に運行は行われておらず、快速列車に格下げまたは特急「ときわ」に格上げされている。ちなみに常磐線では、2015年3月のダイヤ改正で全車指定席とする新特急料金を導入した結果、座席指定料金を含めた急行料金が新特急料金よりも高いという逆転現象が発生している。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また、リバイバルトレイン(復活運転)としてかつての急行列車を急行種別の臨時列車・団体列車として走らせることがある。こちらはリバイバルトレインの性格上、車両も急行形を使うが、他の国鉄車両が充てられる列車もある。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "常磐緩行線上り電車にはJR東日本の公式サイトの時刻表上にのみ急行の列車種別が設定されているが、これはJR線内(綾瀬駅まで)において「各駅停車」として走る電車が直通先の小田急電鉄小田原線内において後述の料金不要の「急行」として走る(JR線の「快速列車」に相当する)ことを意味しており、本節で述べた「急行列車」とは全く性質の異なるものである。",
"title": "国鉄・JRにおける急行列車"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "昭和初期より、急行列車とは別に「急行電車(きゅうこうでんしゃ)」と呼ばれる急行料金を徴収しない列車が運行される路線があった。略称は「急電(きゅうでん)」である。 車両は近距離仕様の車両と同様のサービス設備を有したが、停車駅間が長くなるため一部の列車ではサニタリー設備が備え付けられた。また、京阪神間といった都市間連絡に使用される一部の車両は、近距離使用の車両に用いられるロングシートではなくセミクロスシートを有した。",
"title": "急行電車(急電)"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本では、高速度電気鉄道(路面電車に対し、本格的な鉄道設備の上を電車によって高速運転する鉄道)が普及し始めた頃、機関車が無動力の客車をけん引する動力集中方式の列車と、動力分散方式を採る電車は、「全く別の性格の乗り物」と定義されていた。そのため、旧国鉄においても電車で運転される「急行」を「急行電車」と呼び、急行料金を徴収する急行列車とは別に位置づけた。現在、JR東日本の社内規定における中央快速線の正式な名称が「中央急行線」であるのは、この名残である。このほかに、国鉄が戦時買収により阪和電気鉄道から買収した阪和線では、料金不要の特急電車・準急電車も存在した。また、現在の東海道本線・山陽本線の京阪神地区(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)を縦貫する快速電車も、その起源は「急行電車」からの改称であった(現在の「新快速」はその後に登場したものであり、急行電車を起源とするものではない)。「京阪神快速」「電車線・列車線」も参照。",
"title": "急行電車(急電)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "しかし、1958年(昭和33年)に151系電車や153系電車が登場し、特急列車や急行列車に投入されたのに合わせ、国鉄の急行料金の不要な列車は順次「快速」へと呼称を変更した(阪和線では最上位の特急電車が快速列車となったため、同線の急行および準急電車は直行列車という新種別を設けて対応した)。",
"title": "急行電車(急電)"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "私鉄は1906年(明治39年)の鉄道国有法によって動力集中方式で長距離列車を運行する路線を有する会社が東武鉄道や南海鉄道などを除いてほぼ皆無となったことや、米国におけるインターアーバンを摸した高速度電気鉄道として出発した会社がほとんどである。そのため、急行列車が標準的な速達列車とならない場合がある。快速列車が急行列車より停車駅が少ない会社もある。",
"title": "私鉄・第三セクター鉄道の急行列車"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "東武鉄道の場合、かつて東京と群馬県・栃木県とを結んだ東武本線系統において、国鉄の制度に準じた急行券を要する列車(東武伊勢崎線急行「りょうもう」や日光線系統の急行。以下「有料急行」)とは別に料金不要の「急行」を運行していた。この列車は1951年の運転系統の改正により名称上廃止され、「快速」「準快速」(停車駅が少ない)「準急」など(以下総称して「快速等」)と呼称変更された。",
"title": "私鉄・第三セクター鉄道の急行列車"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "その後は「準急」(=無料かつ途中停車駅が比較的精選されていない列車)と有料急行の間に位置する列車種別として存在するものもあったが、有料急行については2006年3月のダイヤ改正までに「特急」に格上げされた。これに伴い、本線での料金不要の「急行」が前述の快速等とは別に設定された。",
"title": "私鉄・第三セクター鉄道の急行列車"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "急行料金や座席指定料金を設定した急行列車を走らせている私鉄・第三セクター鉄道もある。かつての富士急行、長野電鉄、島原鉄道、アルピコ交通などの観光地の路線などでは、旧国鉄からの乗り入れ(またはその逆)を行なう関係で別途急行料金を徴収する事例があった。小田急電鉄の「あさぎり」、名古屋鉄道の「北アルプス」や南海電気鉄道の「きのくに」、そして富山地方鉄道に乗り入れていた国鉄の急行列車(「立山」「のりくら」)などは、国鉄線内は急行でも、私鉄線内では特急であった。",
"title": "私鉄・第三セクター鉄道の急行列車"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "急行券が必要な急行列車は、定期列車としては以下の会社において運転されている。車両は専用車両が使われることが多い。",
"title": "私鉄・第三セクター鉄道の急行列車"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "私鉄の多くが現在運行している「急行」は料金不要で速達運転を行なうものであり、先述した国鉄の「急行(電車)」と同じく、JRにおける「快速」(普通列車の一種)に相当する。1914年(大正3年)に京阪電気鉄道が京阪本線で運行したのが日本初とされる。同社はその後1916年(大正5年)にノンストップ運転であった従来の急行を「最急行」に改称し、「急行」を主要駅停車の列車としている(「京阪特急#前身」を参照)",
"title": "私鉄・第三セクター鉄道の急行列車"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "通常、通勤形車両(一般車両)で運行されるが、特別仕様の車内設備を持つ車両で運行される場合もある。京浜急行電鉄、京成電鉄、都営地下鉄浅草線や京阪電鉄などでは、こういった専用車両を料金不要の「特急」に使用する場合がある。",
"title": "私鉄・第三セクター鉄道の急行列車"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "往年の列車旅を再現するための企画として、夜行急行列車がパッケージツアーとして運行される場合がある。",
"title": "企画急行列車"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ちなみに秩父鉄道では、日本旅行との共同企画として夜行急行列車を運行している 。",
"title": "企画急行列車"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "「急行」は通常、鉄道の列車を示すが、高速バスや路線バスにも超特急、特急、急行、快速便が存在する。これらの中にも急行券や座席指定券を必要とするものもある。バスの急行については「急行バス」参照。",
"title": "鉄道以外の「急行」"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "また、かつての宇高航路にはホバークラフト、高速艇による急行便が存在した。これに乗船するときは、乗車券のほかに連絡船急行券を必要とした。ただしこの急行便は、運行時には接続する本州・宇野線側で既に特急・急行列車が寝台特急「瀬戸」以外設定されていなかったことや、宇野駅および高松駅では鉄道連絡船で運行されていた普通便とは別桟橋での発着であったこともあり、運賃上の連帯を行なうのみで鉄道側との乗り継ぎ料金制度は存在しなかった。「宇高連絡船」を参照。",
"title": "鉄道以外の「急行」"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "このほかにもフェリーと高速艇を並行して運行する場合には、所要時間の短い高速艇を急行扱いとして料金を高く設定することがある。",
"title": "鉄道以外の「急行」"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "船舶会社の社名に急行をつける例としては、四国フェリーグループの小豆島急行フェリーなどに事例がある。 バス会社の社名に急行をつける例としては、東武鉄道系・朝日自動車グループの東北急行バスなどに事例がある。",
"title": "鉄道以外の「急行」"
}
] |
急行列車(きゅうこうれっしゃ)とは、普通列車(緩行)に対し、一部の駅を通過して主要駅にのみ停車し、速達輸送を行なう列車のことをいう。
一般的に停車駅は、特別急行列車(特急)や快速急行より多く、準急列車(または快速列車)より少ない。急行列車の英訳はExpressが当てられる。
なお、広義の急行列車には特急列車や準急列車も含まれる。 本項では急行料金を必要とする優等列車のほか、以下の列車についても解説する。 急行電車(急電) - かつて日本国有鉄道(国鉄)で運行されていた追加料金不要の列車(普通列車)
私鉄の急行列車 - 有料列車のほか、料金不要の「急行」
企画急行列車 - パッケージツアーの一環として運行される列車
鉄道以外の「急行」
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{{otheruses||急行のその他の用法|急行|映画|喜劇急行列車}}
{{複数の問題
|脚注の不足=2014年1月
|出典の明記=2015年7月
|独自研究=2016年4月}}
[[ファイル:JNR Kiha58 ashizuri SUSAKI.jpg|thumb|250px|日本の急行列車の例:「[[あしずり (列車)#準急「足摺」から急行「あしずり」まで|あしずり]]」]]
[[File:Aff ciwl orient express4 jw.jpg|thumb|250px|[[ロンドン]]発[[コンスタンチノープル]]行き[[オリエント急行]]のポスター]]
'''急行列車'''(きゅうこうれっしゃ)とは、[[普通列車]](緩行)に対し、一部の[[鉄道駅|駅]]を通過して主要駅にのみ停車し、速達輸送を行なう[[列車]]のことをいう。
一般的に停車駅は、[[特別急行列車]](特急)や[[快速急行]]より多く、[[準急列車]](または[[快速列車]])より少ない。急行列車の英訳は''[[wikt:express|Express]]''が当てられる。
なお、広義の急行列車には特急列車や準急列車も含まれる。
本項では[[急行券|急行料金]]を必要とする[[優等列車]]のほか、以下の列車についても解説する。
* 急行電車(急電) - かつて[[日本国有鉄道]](国鉄)で運行されていた追加料金不要の列車([[普通列車]])
* [[私鉄]]の急行列車 - 有料列車のほか、料金不要の「急行」{{refnest|group="注釈"|日本国有鉄道(国鉄)・JRの旅客営業規則に照らし合わせれば普通列車に含まれる列車}}
* 企画急行列車 - パッケージツアーの一環として運行される列車
* 鉄道以外の「急行」
== 列車種別と急行列車の呼称 ==
急行列車の英語訳は一応"Express"であるが、これは日本語の「急行列車」とは一対一で対応するとは限らない。
そもそもExpress自体、[[イギリス]]では各駅停車の列車(Stopping Train)に対し「途中駅通過をする(結果的に早くつく)」が割増料金を設けない列車として始まっている<ref>高畠潔 著『イギリスの鉄道の話』(株式会社[[成山堂書店]]、2004年、ISBN 4425960610)p.20</ref>ので、日本でいうと「[[快速列車]]」に近いものが起源だった。
日本の急行列車に相当する列車に与えられる列車種別としては、高速性が示せる言葉から自然発生した、"Flyer", "Mail Train", "Rapide([[フランス語]]。英語の"Rapid"に相当)"、"Schnellzug([[ドイツ語]]。"Schnell"は英語の"fast"に、"Zug"は英語の"Train"に相当)"といった用語と、事業者の創作・命名に由来するが、個別列車の愛称とははっきり区別できる"InterCity (IC) ", "InterRegio (IR) ", "EuroCity (EC) "などといった名称が存在する。また、日本語の「[[特別急行列車]](特急)」「[[快速急行]]」と同様の、Expressという名称の変形として"Trans Europ Express ([[TEE]]) ", "InterCityExpress ([[ICE]]) ", "RegionalExpress (RE) "といったものが用いられることがある。一部の都市内路線や[[地下鉄]]では"Skip Stop","fast"という表現も用いられる。
== 欧米諸国の急行列車 ==
急行列車の歴史については不明な点が多いが、最古の急行列車は"Mail Train"という名称を用い<ref group="注釈"|>なお、"Mail Train"は[[イギリス領インド帝国|イギリスの植民地]]であった[[インドの鉄道]]の列車種別として現在でも用いられている。</ref>、他の列車とは速度の面で特に区別されて運行された1830年代のイギリスの郵便と旅客の混合列車であると推定される{{誰|date=2011年8月}}。19世紀のイギリスの鉄道は高速化に熱心で、"Express"、"Flyer"といった名称のついた列車が散見されるが、反面、需要の有無に関わらず、[[各駅停車]]に相当する列車の運行に極めて不熱心であった。[[イギリスの議会]]で低運賃の各駅停車の運行が義務づけられ、各駅停車の方が「[[議会列車]]"Parliament Train"」として認識されているほどであったことや、"Express"呼称と特別料金の有無が一致しなかったことから、こうした高速列車が優等列車として意識され、急行列車という名称が列車種別として意識されていたかどうかについては疑問の余地がある。
一応、時代が下ると各駅停車と途中駅通過の列車を信号所で見分ける必要が出たため、イギリスでは前面の[[通過標識灯#発祥|標識灯]]の数で見分けられるように規定した(基本的に1つが各駅停車、2つがExpressになる)<ref>高畠潔 著『続 イギリスの鉄道の話』(株式会社成山堂書店、2005年、ISBN 4-425-96101-3)pp.234-235</ref>。
急行列車が発展した地域としては、他に[[アメリカ合衆国]]や[[ヨーロッパ]]などを挙げることができる。長距離を走るアメリカの列車には速達性が求められ、19世紀末には[[ニューヨーク]]-[[シカゴ]]間の"Empire State Express"など、"Express"の呼称を用いた列車が多数存在した。ただし、20世紀以降は"Express"という名称は、[[フェデックス|フェデラルエクスプレス]]など現在の[[宅配便]]に相当する小口荷物を輸送する「急行貨物列車」もしくは「急送便」といった意味合いで用いられることが多くなり、また、競合路線が多い中で旅客誘致をするためにも特別さをアピールできるものが相応しいことから、旅客列車には"Limited"という名称を用いることのほうが標準になった。現在の[[アムトラック]]の列車名を見ても、その路線の唯一の列車で、取り立てて高速でもない列車が" - Limited"を名乗るケースが多い。例外は、近郊鉄道や都市高速鉄道で、[[急行線]]を運行する電車を"Express"と名付ける習慣は現在の[[ニューヨーク市地下鉄]]に残されている。アメリカにおいても"Express"呼称と特別料金の有無は現在でも一致していない。
ヨーロッパでは、1883年10月に[[国際寝台車会社]] (Compagnie Internationale des Wagons-Lits) の[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]によって国際急行列車"Orient-Expres"([[オリエント急行]])が[[パリ]]・[[ストラスブール]]駅-[[コンスタンティノープル]]間で運行された<ref>平井正『オリエント急行の時代 ― ヨーロッパの夢の軌跡』[[中公文庫]]、2007年</ref>。国際寝台車会社の寝台車によって運行された国際急行列車「ヨーロッパ大急行」"Grands Express Europeens"は豪華さとともに、速達性によって[[第二次世界大戦]]前の花形列車としてヨーロッパで活躍した。ヨーロッパではこのほかにも座席車連結の国際急行や国内急行列車が存在した。これらは第二次世界大戦後に、国際特急TEE(のちにECとして発展的解消)や[[インターシティ]](IC)サービスとして発展的解消を遂げたが、"Express"の名称自体は[[スペイン]]や[[イタリア]]の列車種別として残されている。[[大陸ヨーロッパ]]の諸国では、かならずしも"Express"呼称の列車に対してではないものの列車種別によって特別料金を取る列車が多く、列車本数も多いことから、急行という名称は列車種別として定着している模様である。
== 国鉄・JRにおける急行列車 ==
[[日本国有鉄道]](国鉄)やそれを継承した[[JR]]各社の急行列車は、乗車のために[[急行券]]を必要とする。急行券のほか[[普通乗車券]](Suica等交通系ICカードを含む)または[[回数乗車券]]が必要であり、[[定期乗車券]]による乗車はできないが、列車・区間を限定して乗車を認めている場合があった。
なおJR(国鉄)では、([[旅客営業規則|規則]]上の)「急行列車」とは'''普通急行列車'''と'''[[特別急行列車]]'''の総称であるが、一般に「急行」または「急行列車」といえば前者を指し、後者は「特急」または「特急列車」と呼ばれる。ただし現在、前者の急行は定期運行されておらず、[[臨時列車]]のみとなっている。このほか、かつては'''[[準急列車|準急行列車]]'''(準急)も運行されていたが、普通急行列車に統合されて消滅した。
以下、この節において急行列車という場合は狭義の急行列車、つまり普通急行列車のことを指すものとする。
=== 歴史 ===
==== 「急行列車」の登場 ====
日本初の「急行列車」は、[[1894年]]([[明治]]27年)10月に[[山陽鉄道]](現在の[[山陽本線]])が[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - [[広島駅]]間に運行したものである。3往復のうち1往復を主要駅のみ停車としたもので、両駅間を9時間弱で結んだ。これ以前にも、[[1882年]](明治15年)[[3月1日]]に[[汐留駅 (国鉄)|新橋駅]] - [[横浜駅]]間で運転を開始した列車を始めとして、『[[官報]]』掲載の[[時刻表]]で「急行」と表記された列車は存在したが、それらは現在の[[快速列車]]に近い存在で、長距離旅客の利便性やサービス向上を本格的に意識した列車はこれが初めてであった。翌[[1895年]](明治28年)[[10月20日]]には[[日本国有鉄道|官設鉄道]]に乗り入れ、[[京都駅]]発着となった。官設鉄道では[[1896年]](明治29年)[[9月1日]]に、新橋 - 神戸間での急行列車を登場させた。それまで約20時間かかっていた両駅間が、17時間強で結ばれることになった。その後[[1899年]](明治32年)には[[食堂車]]が、[[1900年]](明治33年)に[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]がそれぞれ山陽鉄道の急行列車に日本で初めて連結された。
その後、急行列車の本数は増加して[[最急行|「最急行」「最大急行」]]といった急行より格上の列車も登場したが、[[日露戦争]]中は削減または廃止されスピードも大幅に低下した。
日露戦争の終結後は急行列車券規定が公布され、[[1906年]](明治39年)4月16日に新橋駅 - 神戸駅間に設定された最急行列車の利用に、初めて急行料金が必要となった。急行料金を必要とする列車は徐々に増加していき、明治最後の年である[[1912年]](明治45年)6月には、最初に急行料金が必要になった最急行列車が格上げされ、日本初の特別急行列車(特急列車)となった。
==== 戦前の黄金期 ====
[[大正]]から[[昭和]]時代初期にかけては第二次世界大戦前における急行列車の黄金時代で、日本の多くの幹線で急行列車が設定された。その頃の特急列車は[[東海道本線]]・山陽本線の「[[富士 (列車)|富士(ふじ)]]」「[[さくら (列車)|櫻(さくら)]]」「[[つばめ (列車)#太平洋戦争前超特急「燕」|燕(つばめ)]]」「[[かもめ (列車)|鴎(かもめ)]]」の4種類しかなかったので、[[東北本線]]をはじめとする東海道・山陽本線以外の幹線では急行列車は「最優等列車」として君臨し、特急列車にも引けを取らない設備を持つ急行列車も存在した。[[1934年]](昭和9年)12月、[[丹那トンネル]]などが開通した時に行われた[[ダイヤ改正]]時、特に優れた設備を備えた急行列車には次のようなものがある。
; 7・8列車
: (東海道本線・山陽本線・[[呉線]])[[東京駅]] - [[下関駅]]間運転。下関駅では[[関釜連絡船|関釜航路]](下関 - [[釜山広域市|釜山]]間)と接続し、[[朝鮮]]・[[満洲]]・[[中国]]、さらには[[シベリア鉄道]]を経由して[[モスクワ]]([[ロシア]])や[[ベルリン]]([[ドイツ]])、[[ロンドン]](イギリス)などの欧州主要都市に向かう[[連絡運輸#国際連絡運輸|国際連絡運輸]]の一翼を担っていたほか、呉線全通後は同線を経由することで、[[呉鎮守府]]および呉在籍の艦船に赴任・出張する[[大日本帝国海軍|海軍]][[士官]]の足となった。格別な列車として、[[一等車|一等]]・[[二等車|二等]]・[[普通車 (鉄道車両)|三等]]の各等の[[座席車]]・寝台車を全て連結していた。また、食堂車は特急「櫻」を含む他の多くの列車が「和食堂車」である中、「洋食堂車」であった。当時、洋食堂車は和食堂車よりも高級感があるとされ、特急「富士」、「燕」と急行7・8列車、17・18列車(後述)の4本のみに連結される限られた車両であった。昼行区間(京都駅 - 下関駅間)では一等[[展望車]]も連結した。
; 17・18列車
: (東海道本線)東京駅 - 神戸駅間運転。[[関東地方]]と[[関西地方]]を結ぶ[[夜行列車]]で、神戸では[[基隆市|基隆]]([[台湾]])や[[上海市|上海]]([[中華民国]])、[[大連市|大連]]([[関東州]])などに向かう航路にも接続するなど、国際連絡の使命も帯びていた。一・二等寝台車、二等座席車と洋食堂車を連結していたが三等車は寝台車も座席車も連結されていなかった。寝台車は一等寝台車が3両、二等寝台車が5両もの多数が連結される一方、座席車は二等車1両のみであり、ある意味では「[[寝台列車]]」の走りともいえるような列車であった。その格の高さから政・官・財界の要人や高級将校、著名人が多く乗車し、「'''[[名士列車]]'''」とも呼ばれた。
; 201・202列車
: ([[常磐線]]・東北本線)[[上野駅]] - [[青森駅]]間運転。常磐線経由。[[東北地方|東北方面]]の列車には、[[北海道]]・[[樺太]]連絡の使命も与えられていたが、この列車はそれらのなかでも最も重要な位置付けをされていた。二・三等座席車と二・三等寝台車のみで一等車は連結されず、食堂車も和食堂車であったが(1934年以降、一等車および洋食堂車の連結は東海道・山陽本線のみとなった)、二等寝台車には一等寝台並みの設備を持つ「特別室」が設けられていたほか、和食堂車でありながら洋食堂車用のメニューも提供されていた。またこの改正時に大幅な速度向上が行われており、上野駅 - 青森駅間を下りが12時間45分、上りにいたっては12時間25分で走破し、上り列車の表定速度は時速60.47kmにも達していた。この記録は[[1958年]](昭和33年)10月に、東北初の特急列車「[[東北本線優等列車沿革|はつかり]]」が登場(上野駅 - 青森駅間を上下列車とも12時間で運転)するまでの18年間も破られなかった。
; 201・202列車
: ([[函館本線]]・[[室蘭本線]]・[[宗谷本線]])[[函館駅]] - [[稚内駅|稚内港駅]]間運転。時間短縮のため、[[札幌駅]]を通らずに室蘭本線経由で運転された。函館駅 - [[長万部駅]]間で函館本線経由札幌駅発着編成(急行1・2列車)を併結する。函館駅では[[青函連絡船]]をはさんで上述した東北本線・常磐線の'''201・202列車'''と接続し、稚内港駅では当時は日本領だった[[南樺太]]の[[大泊町|大泊]](現在の[[コルサコフ (サハリン州)|コルサコフ]])へ向かう[[稚泊連絡船]]に接続することで東京 - 樺太間連絡ルートの一翼を担っていた。樺太に向かう要人の利用を想定し、この列車にも「特別室」を持つ二等寝台車が連結されていた。
[[日中戦争]]に突入した後も戦争の影響を受けて満洲や樺太などへの需要が増したことから、急行列車は各地で増発が続けられるが、[[第二次世界大戦|太平洋戦争]]の戦況が悪化してきた[[1943年]](昭和18年)2月頃から削減されるようになった。
[[1944年]](昭和19年)[[3月14日]]には、[[決戦非常措置要綱]]に基づく旅客の輸送制限に関する件が[[閣議決定]]され、特急および急行列車などの全廃が決定<ref>「決戦に備えて旅行を大幅制限」昭和19年3月15日 [[毎日新聞]](東京)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』 ([[毎日コミュニケーションズ]]刊 1994年)p.783</ref>。[[1944年]](昭和19年)4月に特急列車が全廃(同時に[[一等車]]・[[展望車]]・寝台車・食堂車の連結は全て中止)された。急行は全廃こそ逃れたが[[1945年]](昭和20年)3月の時点では、全国でも東京駅 - 下関駅間(6月から東京駅 - [[門司駅]]間)1・2列車の1往復を残すのみとなってしまう。
==== 復興と特急への置き換え ====
戦後は[[蒸気機関車]]の燃料である[[石炭]]や車両・整備の事情が戦時中以上に悪化し、[[1947年]](昭和22年)1月 - 4月にはついに急行列車が消滅するという事態も迎えている。しかし同年6月頃からは、日本全国に[[準急列車]]とともに増発・新設されていくことになる。戦後はいわゆる[[ローカル線]]などにも広く設定されていった。しかし準急列車は急行列車に統合される形で[[1966年]](昭和41年)3月に100km以上を走行する本来の意味での「準急列車」は消滅、残りも[[1968年]](昭和43年)10月に姿を消す。
かつては、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の[[中央線快速|中央線]]や関西地区の東海道本線・山陽本線、[[阪和線]]といった路線では、急行料金不要の列車として、'''急行“列車”'''ではなく「'''急行“電車”(急電)'''」という列車が運行されていた。しかし、同様の種別名称で料金が必要なものとそうでないものが混在するのは、旅客案内上好ましくないことから、電車や気動車を使用した有料準急の新設をきっかけとして、[[1958年]](昭和33年)10月に「急行電車」は「快速電車」に改称された(後述の「[[#急行電車(急電)|急行電車(急電)]]」も参照)。
[[戦時買収私鉄]]であった阪和線では「特急電車」「準急電車」も存在したが、この時に「特急電車」を「快速電車」に、「急行電車」と「準急電車」は「[[直行 (列車)|直行電車]]」(のちに「区間快速」)とした。
急行列車の最盛期となる昭和40年代には数多くの列車が設定されたが、その中には非常な長距離を走るもの、運行区間が独特なもの、[[多層建て列車|分割・併結を繰り返すもの]]など、様々な特徴を持った列車も多く存在することとなった。1968年(昭和43年)10月改正(通称「[[ヨンサントオ|ヨン・サン・トオ]]」)時の、それらの一例には下記のような列車がある。
; [[富士 (列車)#戦後における「富士」の変遷|高千穂]]
: (東海道本線・山陽本線・[[日豊本線]])東京駅 - 西鹿児島駅(現在の[[鹿児島中央駅]])間運転。日豊本線周りで東京駅から西鹿児島駅までの1574.2kmを、この当時は28時間15分もかけて走破するという、屈指の長距離列車であった。なお、[[1965年]](昭和40年)10月 - [[1980年]](昭和55年)10月の[[寝台列車|寝台]]特急列車(いわゆる[[ブルートレイン_(日本)|ブルートレイン]])「[[富士 (列車)|富士]]」も同区間を運行していたが、「急行列車」の中では最長であった。なお、1968年10月のいわゆる「[[ヨンサントオ|ヨンサントオ改正]]」より東京駅から門司駅までは[[鹿児島本線]]経由の「[[はやぶさ (列車)|霧島]]」(のちに「桜島」と変更)と併結して運転し、またこの当時の東海道本線では唯一の昼行[[客車]]列車であった。この時点で既に座席車のみの編成となっていたが、併結相手の「霧島」には食堂車も連結され、東海道急行全盛期の名残をとどめていた。
; [[いそかぜ (列車)|さんべ]]
: ([[山陰本線]]・[[美祢線]]・[[山口線]]・山陽本線・鹿児島本線)[[米子駅]] - 小郡駅(現在の[[新山口駅]])・[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]・[[博多駅]]・[[熊本駅]]間運転。この当時は昼行2往復、夜行1往復の計3往復が設定されていたが、下りの「さんべ2号」と上りの「さんべ1号」は運行経路が複雑であった。下りの「さんべ2号」の場合、米子駅を発車して[[益田駅]]で山口線経由小郡駅行きの列車をまず分割するが、[[長門市駅]]でも山陰本線経由と美祢線・山陽本線経由の列車を分割して、その分割した編成を再び下関駅で併結するという運用を行っていたのである。この後もこの列車は昭和50年代末まで運行され、[[西村京太郎]]の作品の影響からか、いつしか「'''再婚列車'''」と呼ばれるようにもなっていた。
; 陸中
: (東北本線・[[釜石線]]・[[山田線]]・[[花輪線]]・[[奥羽本線]])[[仙台駅]] - [[秋田駅]]間運転。当時、仙台駅と秋田駅を最短経路の[[北上線]]経由で結ぶ急行「[[たざわ (列車)#田沢湖線・北上線・奥羽本線横手駅 - 秋田駅間の昼行優等列車の歴史・沿革|きたかみ]]」が同区間を4時間半で運転する一方、「陸中」は釜石線・山田線・花輪線を経由し13時間半もかけて運転するという奇妙な運行経路をとっていた。さらに、「陸中」は複数の急行列車と複雑な分割・併合を繰り返しながら運転されており、複雑な[[多層建て列車]]が多く存在した東北地区を象徴するような列車でもあった(詳しくは「[[はまゆり (列車)]]」参照)。
特別急行列車が文字どおりの「特別」な列車であった時代は、急行列車は庶民の足として日本全国津々浦々で運転されていたが、[[1964年]](昭和39年)10月に新幹線が、そして[[1972年]](昭和47年)10月に[[エル特急]]が登場すると特急の大衆化が進む。[[高度経済成長]]に伴う鉄道輸送の飽和から列車運行速度の異なる[[急行形車両]](運転最高速度95[[キロメートル毎時|km/h]] - 110km/h)がダイヤ上のネックとなった。中長距離は特急列車に格上げし、近距離や一部の中距離列車(元準急列車が中心)を快速に格下げすることにより、列車速度の単純化と優等列車の車種統一による車両運用の合理化、さらには陳腐化していた急行列車のサービス向上などを図った。こういった施策は航空機や自動車、[[高速バス]]の普及したこの時期においては不可避だったとはいえ、特急格上げの際に車内設備の改善はともかく、所要時間短縮が少なかったことから、国鉄の増収手段の一つという批判も強かった。
この時期には、いわゆる[[新性能電車]]との置き換えなどにより、[[臨時列車]](「[[東海道本線優等列車沿革|はりま]]」など)や大都市圏(とりわけ首都圏の「[[かいじ (列車)|かいじ]]」など)では、所定の車両が揃わない等の理由で、[[一般形車両 (鉄道)|一般形車両]]により運行される急行列車もあった。それらの列車は「'''[[遜色急行]]'''」(そんしょくきゅうこう)と一部の[[鉄道ファン]]から揶揄された。これはかつての[[準急列車|準急行列車]]が速度を第一とし、その対価として[[急行券|急行料金]]に比べ安価な[[急行券|準急行料金]]を徴したのだが、その準急以下と見られたからである。一方で[[西日本]]を中心に急行形車両への[[エア・コンディショナー|冷房]]取り付けも進み、一等車は1968年までに、関東以西の普通車(旧二等車)も1970年代後半までには完了したが、東北以北では[[気動車]]の普通車への冷房設置は遅々として進まなかった<ref group="注釈">キハ58系を中心に冷房準備工事車が多く配置されていたが、東北以北では猛暑期間が短く、冷房化の需要はなかった。</ref>。
急行全盛期の[[編成 (鉄道)|列車編成]]に欠かすことのできない車両として、[[特別二等車]]・[[二等車]](ともにのちの[[グリーン車|一等車・グリーン車]])、食堂車(ないしは、ビュッフェ)・[[荷物車]]が挙げられたことから、[[ダイヤグラム]]作成に際して速度を含めて優等車両を備えた列車のことを、略して「'''[[ダイヤグラム#ダイヤの作成|優等列車]]'''」と呼ぶようになったともいわれている。
こういう経過の中でも存置された急行列車は、次第に特急と快速・普通列車に挟まれた中途半端な存在として利用客が減少していった。
==== 衰退から消滅へ ====
1980年代以降の[[新幹線]]延伸により、[[在来線]]特急列車で使用されていた特急形車両が余剰になり、時を同じくして急行列車に使用していた車両の老朽化が進んだ。それに加え、航空機やマイカー、高速バスといった他の交通手段が台頭し、[[鉄道車両の座席#固定式クロスシート|固定式ボックスクロスシート]]の普通車や3段式のB寝台車といった、旧態依然の設備そのものが利用客のニーズに合わなくなっていた。そのため急行列車は特急列車へ格上げ、快速列車・普通列車へ格下げ、または廃止され、大きく数を減らしていった。
[[1982年11月15日国鉄ダイヤ改正|1982年11月15日の国鉄ダイヤ改正]]を皮切りに、JR発足後もその流れは止まらず、ほぼ毎年のように急行列車が廃止された。[[四国旅客鉄道|JR四国]]は[[1999年]]3月、[[九州旅客鉄道|JR九州]]は[[2004年]]3月、[[東海旅客鉄道|JR東海]]は[[2008年]]3月、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]は[[2012年]]3月の各改正をもって、それぞれの管内から定期急行列車が消滅している。
[[ファイル:Hamanasu.jpg|thumb|200px|JR最後の急行「はまなす」]]
昼行急行列車は[[2009年]]3月改正で「[[つやま (列車)|つやま]]」が廃止されたことで全廃となった。その結果、定期運転の急行列車は夜行の「[[きたぐに (列車)|きたぐに]]」および「[[はまなす (列車)|はまなす]]」のみとなったが、「きたぐに」は[[2012年]]3月改正で臨時列車に格下げされた後、翌年1月に廃止となった。最後に残った「はまなす」についても、2016年3月26日の[[北海道新幹線]]開業に伴い廃止された<ref>[http://www.jreast.co.jp/press/2015/20150914.pdf 北海道新幹線 新青森~函館北斗間開業に伴う運行計画の概要について] - JR東日本 2015年9月16日付 プレスリリース</ref>。これにより、国鉄時代から続いたJRグループの定期急行列車は消滅した<ref>[http://response.jp/article/2016/03/22/271971.html JR唯一の急行『はまなす』がラストラン…北海道から夜行列車が消える] - [[Response.]] 2016年3月22日(火)16時54分 (JST)発行 2016年5月1日閲覧</ref>。
[[グリーン車]]の連結は、定期昼行列車については、半室グリーン車キロハ28形を連結していた「つやま」が[[2003年]][[9月30日]]に車両変更のため編成から外されたことで消滅した。グリーン車を連結する定期急行列車は、[[2012年]]3月改正において「きたぐに」の臨時格下げにより消滅した。なお、臨時列車化以降の「きたぐに」が廃止される2013年1月以降は、グリーン車を連結する列車は、使用車両の一部に設置ないしは、いわゆる[[ジョイフルトレイン]]を使用した列車に限られている。
1998年に廃止された[[周遊券]]のうち、[[周遊券#種類|均一周遊乗車券(ワイド周遊券・ミニ周遊券)]]では、出発地から自由周遊区間までの経路を含めて急行列車の自由席利用が可能となっていた。
=== 急行列車の車両 ===
[[ファイル:JNR 475 tateyama osaka.jpg|thumb|200px|急行形車両の例:475系]]
{{See also|急行形車両}}
急行列車は、[[国鉄153系電車|153系]]・[[国鉄165系電車|165系]][[直流電化|直流電車]]や[[国鉄457系電車|455系・475系]][[交直流電車]]、[[国鉄キハ58系気動車|キハ28系・58系]]気動車、[[国鉄12系客車|12系]]客車などの急行形車両や、[[旧型客車]]によって運行された。
列車によっては[[国鉄485系電車|485系]]・[[国鉄583系電車|583系]]電車や[[国鉄20系客車|20系]]・[[国鉄14系客車|14系]]客車、[[国鉄キハ181系気動車|キハ181系]]気動車などの[[特急形車両]]や、[[国鉄113系電車|113系]]・[[国鉄415系電車|401・403/421・423系]]電車や[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系]]気動車などの一般形車両が使用された。後者については、通常の急行形車両よりサービス設備が見劣りすることから、“'''[[遜色急行]]'''”と呼ばれることがある。
JR化後、急行専用車両は開発されていない<ref group="注釈">国鉄・JRにおける急行専用車両は、電車が1971年の457系を最後に、気動車が1972年の[[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]を最後に、客車が1978年の12系を最後に製造中止となっていて、それ以後は国鉄・JRにおいては新製されていない。</ref>。[[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系0番台]]は急行仕様の設備を有しているが、現在、定期列車では快速列車運用のみとなっている。[[国鉄分割民営化|JR化]]後の定期急行列車は、「[[ちくま (列車)|ちくま]]」(2003年10月1日臨時列車化、2005年10月8日廃止)が[[JR東海383系電車|383系]]、「[[かすが (列車)|かすが]]」([[2006年]]3月廃止)が[[JR東海キハ75形気動車|キハ75形]]を使用した以外は、全て国鉄時代の車両を改修して使用している。前述の急行「きたぐに」「はまなす」および「[[銀河 (列車)|銀河]]」(東海道本線の東京駅 - [[大阪駅]]間で運転されていた寝台列車)は特急形車両を使用した。
=== 臨時急行列車 ===
既述のとおり定期急行列車は全廃されたが、制度上急行の列車種別は廃止されていない。[[東海旅客鉄道|JR東海]]<ref>[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000030316.pdf 臨時急行「トレインフェスタ号」の運転等について] - JR東海 平成28年4月12日付プレスリリース</ref><ref>{{Cite web|和書
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| first =
| author =
| authorlink =
| url = https://market.jr-central.co.jp/zairai/hikyoeki/
| title = 急行 飯田線 秘境駅号|東海旅客鉄道株式会社
| date =
| website = JR東海MARKET
| publisher = 東海旅客鉄道株式会社
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| doi =
| accessdate = 2023-03-31
}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000042720.pdf |title=「ラブライブ!サンシャイン!!」沼津ゲキ推しキャンペーン!第二弾!|accessdate=2023-7-23 |publisher=JR東海}}</ref>
や[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]<ref>{{Cite web|和書
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| url = https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/230329_KO_HanatabiSOYA2023.pdf
| title = 今年も「花たび そうや」号が宗谷線を走り抜けます!
| date = 2023-03-29
| website =
| publisher = 北海道旅客鉄道株式会社
| format =
| doi =
| accessdate = 2023-04-07
}}</ref>のように、多客期や観光向けに[[臨時列車]]などを急行列車として運行する場合があるため、これらの列車には[[急行券]]が発売される。これらの列車には特急形車両のほか、一般形車両の改造車が使われている。車両だけなら特急列車でもおかしくないが、定期列車のダイヤを優先したり、ビューポイントで[[徐行]]運転や停車をしたりするなど、速達性の面で特急とは言い難い性格を持つ臨時列車の種別として実質的に用いられている。
なお、かつては[[東日本旅客鉄道水戸支社|JR東日本水戸支社]]<ref>{{PDFlink|[http://www.jrmito.com/press/170120/press_04.pdf 春の臨時列車のお知らせ]}}</ref>においても臨時急行列車を運行していたが、2017年11月を最後に運行は行われておらず、快速列車に格下げまたは[[ひたち (列車)|特急「ときわ」]]に格上げされている。ちなみに[[常磐線]]では、2015年3月のダイヤ改正で全車指定席とする[[特別急行券#座席未指定券|新特急料金]]を導入した結果、[[座席指定券|座席指定料金]]を含めた急行料金が新特急料金よりも高いという逆転現象が発生している<ref group="注釈">通常期の座席指定を含めた急行料金は50kmまで1,050円、100kmまで1,290円、150kmまで1,530円、200kmまで1,630円に対し、ひたち・ときわの特急料金(事前料金)は、50kmまで760円、100kmまで1,020円、150kmまで1,580円、200kmまで2,240円であり、100km以下であれば特急の方が安い。</ref>。
また、[[リバイバルトレイン]](復活運転)としてかつての急行列車を急行種別の臨時列車・[[団体列車]]として走らせることがある。こちらはリバイバルトレインの性格上、車両も急行形を使うが<ref>{{Cite web|和書
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| author =
| authorlink =
| url = https://www.jreast.co.jp/press/2022/20220520_ho01.pdf
| title = JR東日本ニュース 夏の臨時列車の運転について
| date = 2022-08-22
| website =
| publisher = 東日本旅客鉄道株式会社
| format =
| doi =
| accessdate = 2023-03-31
}}</ref>、他の国鉄車両が充てられる列車もある<ref>{{Cite web|和書
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| authorlink =
| url = http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2023/02/08/230208_himuka_kinkou_hatsubai.pdf
| title = 713系で行く、復活運転!「快速ひむか」「急行錦江」の旅 発売のお知らせ
| date = 2023-02-08
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| publisher = JR九州
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| accessdate = 2023-03-31
}}</ref>。
=== 例外 ===
[[常磐緩行線]]上り電車にはJR東日本の公式サイトの時刻表上にのみ急行の列車種別が設定されているが、これはJR線内([[綾瀬駅]]まで)において「各駅停車」として走る電車が直通先の[[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]]内において後述の[[#料金不要の「急行」|料金不要の「急行」]]として走る(JR線の「[[快速列車]]」に相当する)ことを意味しており<ref group="注釈">[[相模鉄道]][[相鉄本線|本線]]・[[相鉄新横浜線]]内で「[[特別急行列車#料金不要の「特急」|特急]]」運転を行う[[埼京線]]・[[川越線]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]にも同様の記載があるが、小田急線内準急となる電車には記載がない。</ref>、本節で述べた「急行列車」とは全く性質の異なるものである。
== 急行電車(急電) ==
=== 概要 ===
[[ファイル:JGR_Moha52_secondmodel.jpg|thumb|200px|right|東海道線(京阪神地区)の[[京阪神快速|関西急電]]に使用された[[国鉄52系電車|52系]]]]
[[昭和初期]]より、急行'''列車'''とは別に「急行'''電車'''(きゅうこうでんしゃ)」と呼ばれる[[急行券|急行料金]]を徴収しない列車が運行される路線があった<ref group="注釈">当時の国鉄の電車は大都市近郊の近距離区間のみの運行となっており、急行料金を徴収する中長距離の急行列車への使用は全く想定されていなかったので、「急行電車」と呼ぶことで、機関車牽引の客車による急行列車と区別することができた。</ref>。略称は「'''急電'''(きゅうでん)」である。
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急行電車は、[[複々線]]化に際して近距離を利用する都市近郊客と遠距離利用客を分離ないしは、貨客分離を意図した場合において、[[各駅停車]](緩行電車)に対し、一部の駅を通過して速達サービスを提供した。
こういった列車には通常、-->車両は近距離仕様の車両と同様のサービス設備を有したが、停車駅間が長くなるため一部の列車では[[列車便所|サニタリー設備]]が備え付けられた。また、京阪神間といった都市間連絡に使用される一部の車両は、近距離使用の車両に用いられる[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]ではなく[[鉄道車両の座席#セミクロスシート|セミクロスシート]]を有した。
=== 歴史 ===
日本では、高速度電気鉄道([[路面電車]]に対し、本格的な鉄道設備の上を電車によって高速運転する鉄道)が普及し始めた頃、[[機関車]]が無動力の[[客車]]をけん引する[[動力集中方式]]の[[列車]]と、[[動力分散方式]]を採る[[電車]]は、「全く別の性格の乗り物」と定義されていた{{要出典|date=2016年10月}}。そのため、[[日本国有鉄道|旧国鉄]]においても電車で運転される「急行」を「急行電車」と呼び、急行料金を徴収する'''急行列車'''とは別に位置づけた<ref group="注釈">このことからも「急行電車」の語については、[[国鉄153系電車|153系]]以降のような「電車を使用した急行列車」とは異概念である場合が多い。</ref>。現在、JR東日本の社内規定における[[中央線快速|中央快速線]]の正式な名称が「'''中央急行線'''」であるのは、この名残である。このほかに、国鉄が[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により[[阪和電気鉄道]]から買収した[[阪和線]]では、料金不要の'''[[特別急行列車#特急電車|特急電車]]・準急電車'''も存在した。また、現在の東海道本線・山陽本線の[[京阪神]]地区([[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]・[[JR神戸線]])を縦貫する快速電車も、その起源は「急行電車」からの改称であった(現在の「新快速」はその後に登場したものであり、急行電車を起源とするものではない)。「[[京阪神快速]]」「[[電車線・列車線]]」も参照。
しかし、1958年(昭和33年)に[[国鉄181系電車|151系電車]]や[[国鉄153系電車|153系電車]]が登場し、特急列車や急行列車に投入されたのに合わせ、国鉄の急行料金の不要な列車は順次「[[快速列車|快速]]」へと呼称を変更した(阪和線では最上位の特急電車が快速列車となったため、同線の急行および準急電車は[[直行 (列車)|直行列車]]という新種別を設けて対応した<ref name=RP728-51>{{Cite journal |和書|author = 寺本光照|title = 阪和線 列車運転史|date = 2003-02|publisher = 鉄道図書刊行会 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 728 |page=51}}</ref>)。
== 私鉄・第三セクター鉄道の急行列車 ==
=== 概要 ===
私鉄は[[1906年]](明治39年)の[[鉄道国有法]]によって動力集中方式で長距離列車を運行する路線を有する会社が[[東武鉄道]]や[[南海電気鉄道|南海鉄道]]などを除いてほぼ皆無となったことや、[[アメリカ合衆国|米国]]における[[インターアーバン]]を摸した高速度電気鉄道として出発した会社がほとんどである。そのため、急行列車が標準的な速達列車とならない場合がある。[[快速列車]]が急行列車より[[列車種別#日本のその他の鉄道会社の列車種別|停車駅が少ない会社]]もある。
東武鉄道の場合、かつて[[東京]]と[[群馬県]]・[[栃木県]]とを結んだ[[東武本線]]系統において、国鉄の制度に準じた急行券を要する列車([[東武伊勢崎線]]急行「[[りょうもう]]」や[[スペーシア|日光線系統の急行]]。以下「有料急行」)とは別に料金不要の「急行」を運行していた。この列車は[[1951年]]の[[運転系統]]の改正により名称上廃止され、[[東武日光線#快速・区間快速|「快速」「準快速」]][[東武伊勢崎線#準急A・B|<small>(停車駅が少ない)</small>「準急」]]など(以下総称して「快速等」)と呼称変更された。
その後は「[[東武伊勢崎線#区間急行|準急]]」(=無料かつ途中停車駅が比較的精選されていない列車)と有料急行の間に位置する列車種別として存在するものもあったが、有料急行については[[2006年]][[3月]]の[[ダイヤ改正]]までに「特急」に格上げされた。これに伴い、本線での料金不要の「急行」が前述の快速等とは別に設定された。{{Main|けごん#東武日光線優等列車沿革|りょうもう#年表}}
急行料金や[[座席指定券#鉄道の座席指定券|座席指定料金]]を設定した急行列車を走らせている私鉄・[[第三セクター鉄道]]もある。かつての[[富士急行]]、[[長野電鉄]]、[[島原鉄道]]、アルピコ交通などの観光地の路線などでは、旧国鉄からの乗り入れ(またはその逆)を行なう関係で別途急行料金を徴収する事例があった。[[小田急電鉄]]の「[[ふじさん|あさぎり]]」、[[名古屋鉄道]]の「[[名鉄特急#高山本線直通列車|北アルプス]]」や南海電気鉄道の「[[きのくに (列車)|きのくに]]」、そして[[富山地方鉄道]]に乗り入れていた国鉄の急行列車(「立山」「のりくら」)などは、国鉄線内は急行でも、私鉄線内では特急であった。
=== 有料急行列車 ===
{{Main|急行形車両#有料急行列車専用車両}}
[[急行券]]が必要な急行列車は、定期列車としては以下の会社において運転されている。車両は専用車両が使われることが多い。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!運行会社
!愛称
!運行区間
!備考
|-
|[[秩父鉄道]]
|'''[[秩父路]]'''
|style="white-space:nowrap;" |([[羽生駅]] - )[[熊谷駅]] - [[影森駅]]( - [[三峰口駅]])
|ロングシート車で運用の場合も急行券が必要。<br>なお、2022年3月12日から2023年3月31日までは料金不要だった。また[[西武4000系電車|西武4000系]]での急行は料金不要。
|-
|[[秋田内陸縦貫鉄道]]
|'''[[もりよし]]'''
|[[角館駅]] - [[鷹巣駅#秋田内陸縦貫鉄道|鷹巣駅]]
|セミクロスシート車の[[秋田内陸縦貫鉄道AN-8800形気動車|AN8800形]]を使用。不定期だがクロスシート車の[[秋田内陸縦貫鉄道AN-8900形気動車|AN8900形]]や[[秋田内陸縦貫鉄道AN-2000形気動車|AN2000形]]も使用。
|-
|style="white-space:nowrap;" |[[えちごトキめき鉄道]]
|'''[[国鉄413系・717系電車#えちごトキめき鉄道|観光急行]]'''
|[[直江津駅]] - [[市振駅]]、[[糸魚川駅]]
|週末・祝日に上記区間を1往復ずつ運行。<br>1号車は指定席、2~3号車は[[自由席]]で、食事を予約できる<ref>【鉄道の旅】えちごトキめき鉄道「観光急行455」国鉄車両でタイムスリップ*釜飯とスイーツ味わう『[[日本経済新聞]]』朝刊2022年2月5日土曜別刷りNIKKEIプラス1(9面)</ref>。
|-
|[[大井川鐵道]]
|style="white-space:nowrap;" |'''[[かわね路号|かわね路号<br />南アルプス号]]'''
|[[新金谷駅]] - [[川根温泉笹間渡駅]]
|蒸気機関車牽引の「SL急行」、電気機関車牽引の「EL急行」があり、急行料金もそれぞれ異なる<ref>[https://daitetsu.jp/ft/fare 運賃|大井川鉄道【公式】]</ref>。
|}
<!--[[ノート:急行列車]]で記載しているように、現状は混在している状況にありますので、今後の統一も目指して記載します。-->
==== 廃止された列車 ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!運行会社
!愛称
!運行区間
!備考
|-
|大井川鉄道<br />(現:大井川鐵道)
|'''[[大井川鐵道大井川本線#急行・EL急行|(電車急行)]]'''
|[[金谷駅]] - [[千頭駅]]
|現在も臨時で運転する場合がある。<br>ただし、2017年に運転された「奥大井」は料金不要。
|-
|[[小田急電鉄]]
|'''[[ふじさん|あさぎり]]'''
|[[新宿駅]] - [[御殿場駅]]
|国鉄・JR線直通。正式表記は「'''[[小田急小田原線#特別準急・連絡急行|連絡急行]]'''」(小田急線内)。<br />現在は特急に格上げ後、2018年3月17日より「ふじさん」に改称。
|-
|[[島原鉄道]]
|'''[[島原鉄道線|(愛称名なし)]]'''
|[[諫早駅]] - [[加津佐駅]]
|10km以上乗車する場合に有料。現在は料金不要。
|-
|定山渓鉄道<br />(現:[[じょうてつ]])
|いでゆ<br />しらかば<br />みどり<br />むいね<br />もみじ
|(札幌駅 - )[[東札幌駅]] - [[定山渓駅]]
|国鉄函館本線直通<ref name="SHIN-1_p55-56">{{Cite book|和書|author1=今尾恵介|authorlink1=今尾恵介|author2=原武史(監修)|authorlink2=原武史|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 1号 北海道―全線全駅全優等列車|publisher =[[新潮社]]|isbn = 978-4107900357|pages=55-56}}</ref>。現在は鉄道事業から撤退。
|-
|rowspan="4"|[[東武鉄道]]
|'''[[りょうもう]]'''
|[[浅草駅]] - [[赤城駅]]、[[伊勢崎駅]]、[[葛生駅]]
|1999年より特急に格上げ。
|-
|'''[[しもつけ (列車)|しもつけ]]'''
|浅草駅 - [[東武宇都宮駅]]
|rowspan="3"|2006年より特急に格上げされたが、いずれも現在は廃止。
|-
|'''[[きりふり|ゆのさと]]'''
|浅草駅 - [[鬼怒川温泉駅]]、[[新藤原駅]]
|-
|'''[[きりふり]]'''
|浅草駅 - [[新栃木駅]]、[[東武日光駅]]
|-
|東武鉄道<br />[[野岩鉄道]]<br />[[会津鉄道]]
|'''[[南会津_(列車)|南会津]]'''
|浅草駅 - [[会津田島駅]]
|
|-
|東武鉄道<br />[[上毛電気鉄道]]
|'''[[りょうもう|じょうもう]]'''
|浅草駅 - [[中央前橋駅]]
|1963年廃止。
|-
|rowspan="2"|[[のと鉄道]]
|'''[[七尾線|能登路]]'''
|([[金沢駅]] - )[[七尾駅]] - [[輪島駅]]・[[珠洲駅]]
|JR[[七尾線]]直通。
|-
|'''[[のと鉄道能登線|のと恋路号]]'''
|七尾駅 - 珠洲駅
|自社線内のみ運行。
|-
|}
=== 有料車両・料金不要車両連結列車 ===
{{See also|特別急行列車#有料車両・料金不要車両連結列車}}
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!運行会社
!愛称
!運行区間
!備考
|-
|[[東急電鉄]]
|'''Qシート'''
|[[大井町駅]] → [[たまプラーザ駅]](Qシート区間)<br />[[渋谷駅]] → [[菊名駅]](Qシート区間)
|夕方の一部の[[長津田駅]]行き急行の1両が有料席のQシートである。<br />夜間の一部の[[元町・中華街駅]]行き急行の2両が有料席のQシートである。
|-
|[[名古屋鉄道]]
|'''[[名鉄特急#一部特別車急行|(愛称名なし)]]'''
|[[新鵜沼駅]] → [[豊川稲荷駅]]・[[河和駅]]<ref>“[https://web.archive.org/web/20210402112717/https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2020/__icsFiles/afieldfile/2021/03/04/210305_express_myuticket.pdf 一部の急行列車にて特別車両券「ミューチケット」を初めて発売します]”(PDF)、名古屋鉄道(ウェイバックマシンによるアーカイブ。2021年4月2日取得)、2023年3月18日閲覧</ref><br />[[名鉄岐阜駅]] - [[豊橋駅]]<ref>“[https://web.archive.org/web/20230117093525/https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2022/__icsFiles/afieldfile/2023/01/17/3.18daiyakaisei.pdf 3月18日(土)にダイヤ改正を実施します]”(PDF)、名古屋鉄道(ウェイバックマシンによるアーカイブ。2023年1月17日取得)、2023年3月18日閲覧。</ref>
|<ref>[https://railf.jp/news/2021/03/07/203000.html 「名鉄,平日の一部急行列車で特別車の利用を開始」][[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] 鉄道ニュース(2021年3月7日)2022年4月27日閲覧</ref>
|-
|[[明知鉄道]]
|'''[[大正ロマン号]]'''
|[[恵那駅]] - [[明智駅 (岐阜県恵那市)|明智駅]]
|一般車と食堂車を連結。食堂車の利用は予約と追加料金が必要。
|}
==== 過去 ====
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!運行会社
!愛称
!運行区間
!備考
|-
|[[京阪電気鉄道]]
|'''[[京阪本線|(愛称名なし)]]'''
|[[淀屋橋駅]]・[[寝屋川市駅]] → [[出町柳駅]]<br>出町柳駅 → [[淀駅]]
|[[京阪8000系電車|8000系]]で運行されるプレミアムカーに乗車の場合のみ、プレミアムカー券が必要。<br>その他は無料。2018年9月15日のダイヤ改正で急行での運用を廃止。
|-
|}
=== 料金不要の「急行」 ===
私鉄の多くが現在運行している「急行」は料金不要で速達運転を行なうものであり、先述した国鉄の「[[#急行電車(急電)|急行(電車)]]」と同じく、JRにおける「快速」(普通列車の一種)に相当する。[[1914年]](大正3年)に[[京阪電気鉄道]]が[[京阪本線]]で運行したのが日本初とされる。同社はその後[[1916年]](大正5年)に[[直行便|ノンストップ]]運転であった従来の急行を「最急行」に改称し、「急行」を主要駅停車の列車としている(「[[京阪特急#前身]]」を参照)
通常、通勤形車両(一般車両)で運行されるが、[[急行形車両#料金不要の「急行」を主体とする車両|特別仕様の車内設備を持つ車両]]で運行される場合もある。[[京浜急行電鉄]]、[[京成電鉄]]、[[都営地下鉄浅草線]]や京阪電鉄などでは、こういった専用車両を[[特別急行列車#料金不要の「特急」|料金不要の「特急」]]に使用する場合がある。
==== 列車一覧 ====
{{単一の出典|section=1|date=2019年3月}}
*一部を除いて全て電車で運転。
*表中の「派生種別」については、特急・快速特急(快特)および準急を除く。
*地下鉄については別枠でまとめた。
*「<sup>×</sup>」表記のものはかつて運行されていた運行会社・路線および派生種別
*表中の「廃止日」は、原則として当該列車が設定されなくなった[[ダイヤ改正]]日を示すが、一部は運行された最終日を記載しているものもある。<!--[[ノート:急行列車]]で記載しているように、現状は混在している状況にありますので、今後の統一も目指して記載します。-->
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|北海道地方
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行会社
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:7.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8.5em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|<sup>×</sup>[[じょうてつ|定山渓鉄道]]
|<sup>×</sup>[[定山渓鉄道線]]
|
|
|[[1965年]][[10月1日]]改正以降無料化。[[1966年]]10月1日廃止<ref name="SHIN-1_p55-56"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[夕張鉄道]]
|<sup>×</sup>[[北海道炭礦汽船夕張鉄道線|夕張鉄道線]]
|
|
|[[1967年]]10月1日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 1号 北海道―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900357|page=57}}</ref>
|-
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|関東地方
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行会社
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:7.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8.5em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|<sup>×</sup>[[上信電鉄]]
|<sup>×</sup>[[上信電鉄上信線|上信線]]
|
|
|1982年からは毎週日曜日運転分の列車において乗客に緑茶、<br />コーヒーの提供サービスが行われた<ref name="RP418">{{Cite journal ja-jp |author = 大島 登志彦|title =上信電鉄 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = |issue = 418 |serial = 1983年6月臨時増刊 |publisher = 鉄道図書刊行会 |pages =136 |ref= RP418}}</ref>。1992年7月15日廃止<ref name="RF636">{{Cite journal ja-jp |author = 寺田 裕一|title =日本のローカル私鉄 30年前の残照を訪ねて その12|journal = 鉄道ファン |volume = |issue = 636 |serial = 2014年4月号 |publisher = 交友社 |pages =109 |ref= RF636 }}</ref>。
|-
|[[小田急電鉄]]
|[[小田急小田原線|小田原線]]<br />[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]<br />[[小田急多摩線|多摩線]]
|
|[[快速急行]]<br />通勤急行<br /><sup>×</sup>[[湘南急行]]<br /><sup>×</sup>[[多摩急行]]
|
|-
|<sup>×</sup>[[箱根登山鉄道]]
|
|<sup>×</sup>[[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]]
|
|小田急線直通列車のみ、[[2008年]]3月のダイヤ改正で廃止。
|-
|rowspan="2"|[[京王電鉄]]
|[[京王線]]<br />[[京王高尾線|高尾線]]<br />[[京王相模原線|相模原線]]
|[[京王新線|新線]]<br />[[京王競馬場線|競馬場線]]<br />[[京王動物園線|動物園線]]
|<sup>×</sup>通勤急行<br />区間急行
|[[都営新宿線]]とも直通して運行。
|-
|[[京王井の頭線|井の頭線]]
|
|
|
|-
|[[京浜急行電鉄]]<br />(京急)
|[[京急本線|本線]]
|[[京急空港線|空港線]]<br />[[京急逗子線|逗子線]]<br /><sup>×</sup>[[京急久里浜線|久里浜線]]
|<sup>×</sup>通勤急行<br /><sup>×</sup>[[京急本線#エアポート急行|エアポート急行]]
|[[2010年]]5月のダイヤ改正で「エアポート急行」に名称変更されたが、[[2023年]]11月のダイヤ改正で再び「急行」に名称変更された。<br />久里浜線の急行は1970年6月20日廃止<ref name="SHIN-5_p32">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=32}}</ref>。
|-
|<sup>×</sup>[[京成電鉄]]
|<sup>×</sup>[[京成本線|本線]]<br /><sup>×</sup>[[京成押上線|押上線]]
|<sup>×</sup>[[京成東成田線|東成田線]]
|<sup>×</sup>通勤急行
|本線(押上線~北総線系統除く)・東成田線の急行は2002年10月11日廃止<ref name="SHIN-5_p52">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=52}}</ref>。<br />押上線の急行は2010年7月17日廃止<ref name="SHIN-5_p52"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[北総鉄道]]
|<sup>×</sup>[[北総鉄道北総線|北総線]]
|
|
|2022年11月26日廃止
|-
|<sup>×</sup>[[相模鉄道]]<br />(相鉄)
|<sup>×</sup>[[相鉄本線|本線]]
|
|通勤急行
|2023年3月18日休止。通過運転区間は[[横浜駅]] - [[二俣川駅]]間のみ。以西は各駅に停車。<br />詳細は[[相鉄本線#急行(旧称:準急)]]を参照。
|-
|rowspan="2"|[[西武鉄道]]
|[[西武池袋線|池袋線]]
|[[西武狭山線|狭山線]]<br />[[西武秩父線]]
|快速急行<br />通勤急行
|狭山線は臨時列車のみ運行。
|-
|[[西武新宿線|新宿線]]
|[[西武西武園線|西武園線]]<br />[[西武拝島線|拝島線]]<br />[[西武多摩湖線|多摩湖線]]
|快速急行<br />通勤急行
|
|-
|rowspan="2"|[[東急電鉄]]<br />(東急)<br />[[横浜高速鉄道]]
|[[東急東横線|東横線]]<br />[[東急目黒線|目黒線]]<br />[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]
|[[東急新横浜線]]
|
|東横線のみ平日夜の下りの一部の列車に2両に有料指定席(Qシート)がある。<br />東急新横浜線には日吉始発新横浜方面行の急行列車があり、東急線内は実質各駅停車となるが、これは東横線系統の列車種別が急行に統一されているためである。
|-
|[[東急田園都市線|田園都市線]]<br />[[東急大井町線|大井町線]]
|
|
|平日夜の下りの一部の列車に1両に有料指定席(Qシート)がある。
|-
|rowspan="3"|[[東武鉄道]]
|[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]<br />[[東武日光線|日光線]]
|
|区間急行
|日光線[[南栗橋駅]]以北の設定は2017年4月21日改正から。<br />日光線南栗橋駅以南の設定はそれ以前よりあるが各駅に停車。
|-
|[[東武野田線|野田線]]
|
|区間急行
|2016年3月26日運行開始。
|-
|[[東武東上本線|東上線]]
|
|快速急行<br /><sup>×</sup>通勤急行
|現在の快速急行は、以前は特急として運用されていた。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|[[東海地方]]
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行会社
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:7.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8.5em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|<sup>×</sup>[[伊豆箱根鉄道]]
|<sup>×</sup>[[伊豆箱根鉄道駿豆線|駿豆線]]
|
|
|1971年以降廃止<ref name="SHIN-7_p47">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 7号 東海―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900418|page=47}}</ref>。
|-
|<sup>×</sup>[[静岡鉄道]]
|<sup>×</sup>[[静岡鉄道静岡清水線|静岡清水線]]
|
|<sup>×</sup>通勤急行
|2011年に設定された2代目急行は下り列車([[新清水駅]]行き)のみ設定。2021年10月10日廃止。
|-
|<sup>×</sup>[[遠州鉄道]]
|<sup>×</sup>[[遠州鉄道鉄道線|鉄道線]]
|
|
|1972年10月1日廃止<ref name="SHIN-7_p47"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[豊橋鉄道]]
|<sup>×</sup>[[豊橋鉄道渥美線|渥美線]]
|
|
|1985年9月1日廃止<ref name="SHIN-7_p47"/>。
|-
|rowspan="3"|[[名古屋鉄道]]<br />(名鉄)
|[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄竹鼻線|竹鼻線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄羽島線|羽島線]]<br />[[名鉄犬山線|犬山線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄一宮線|一宮線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄広見線|広見線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄各務原線|各務原線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄小牧線|小牧線]]<br />[[名鉄常滑線|常滑線]]<br />[[名鉄河和線|河和線]]<br />[[名鉄津島線|津島線]]<br />[[名鉄西尾線|西尾線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄蒲郡線|蒲郡線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄三河線|三河線]]
|[[名鉄豊川線|豊川線]]<br />[[名鉄空港線|空港線]]<br />[[名鉄知多新線|知多新線]]<br />[[名鉄尾西線|尾西線]]
|快速急行<br /><sup>×</sup>半急行
|通過駅のない[[伊奈駅]]始発の上り列車も急行として運行。<br />一宮線の急行は1941年8月11日廃止<ref name="SHIN-7_p48">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 7号 東海―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900418|page=48}}</ref>。<br />小牧線の急行は1967年8月22日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=徳田耕一|authorlink=徳田耕一|year =2017|title = 名古屋鉄道 今昔(交通新聞社新書112)|publisher =[[交通新聞社]]|isbn = 978-4-330-81917-4|page=186}}</ref><ref>名古屋鉄道作成『ラインパークモノレール線・小牧広見線列車運行図表』1967年8月22日改正</ref><ref>名古屋鉄道作成『ラインパークモノレール線・小牧広見線列車運行図表』1968年5月12日改正</ref><!--停車駅:味鋺・味美・間内・小牧・田県神社前・楽田・明治村口-->。<br />三河線の急行は1981年11月20日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=1050}}</ref>。<br />竹鼻線、羽島線の急行は2001年10月1日廃止<ref>{{Cite journal|和書|author = 徳田耕一|title = 2001年10月1日 名古屋鉄道ダイヤ改正|date = 2002-01 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 712|page=138}}</ref>。<br />蒲郡線の急行は2005年1月29日廃止。<br />広見線の急行は2011年3月26日廃止。<br />各務原線の急行は2023年3月18日廃止。<br />半急行は1948年5月16日以前の東部線区で運行(西部線区は準急)<ref name="SHIN-7_p48"/><ref>{{Cite web|和書|date=2015-06|url=http://nagoyarail-acv.or.jp/nra/NRAnews20.pdf|author=白井昭|title=特集 白井昭の一口メモ
|work=NRA NEWS No.20|format=PDF|publisher=名古屋レールアーカイブス|accessdate=2018-10-18|page=11}}</ref>。
|-
|[[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]
|
|
|
|-
|<sup>×</sup>[[名鉄揖斐線|揖斐線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄谷汲線|谷汲線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄美濃町線|美濃町線]]
|<sup>×</sup>[[名鉄岐阜市内線|岐阜市内線]]<br /><sup>×</sup>[[名鉄田神線|田神線]]
|
|美濃町線・田神線の急行は1975年9月16日廃止。<br />谷汲線の急行は1984年3月20日廃止。<br />岐阜市内線・揖斐線の急行は2005年4月1日(路線廃止)まで運行。
|-
|<sup>×</sup>[[瀬戸電気鉄道]]
|<sup>×</sup>瀬戸電気鉄道線
|
|
|名古屋鉄道への合併まで運行、合併後も運行継続(1944年頃廃止)<ref name="SHIN-7_p48"/>
|-
|<sup>×</sup>[[知多鉄道]]
|rowspan="2"|<sup>×</sup>知多鉄道線<br /><sup>×</sup>常滑線
|rowspan="2"|
|rowspan="2"|
|rowspan="2"|名古屋鉄道への合併まで運行、合併後も運行継続(1944年8月廃止)<ref name="SHIN-7_p48"/>
|-
|rowspan="2"|<sup>×</sup>[[愛知電気鉄道]]
|-
|<sup>×</sup>豊橋線
|
|
|名古屋鉄道への合併まで運行、合併後も運行継続<ref name="SHIN-7_p48"/>
|-
|<sup>×</sup>[[豊川鉄道]]
|colspan="2"|<sup>×</sup>[[飯田線|豊川鉄道線]](停車駅不明)
|
|愛知電鉄の[[豊川駅 (愛知県)|豊川駅]]乗入れ([[神宮前駅]] - 豊川駅間)。<br />[[豊橋駅#愛知電気鉄道の乗り入れ|愛電の吉田駅(現・豊橋駅)方面全通]]に伴い1927年5月31日廃止<ref name="SHIN-7_p48"/>
|-
|[[明知鉄道]]
|[[明知鉄道明知線|明知線]]
|
|
|愛称は「[[大正ロマン号]]」で、気動車で運転。<br />明智駅行のみ食堂車を連結(要予約)。月曜は運休。
|-
||[[近畿日本鉄道]]<br />(近鉄)
|[[近鉄名古屋線|名古屋線]]<br />[[近鉄大阪線|大阪線]]<br />[[近鉄山田線|山田線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄志摩線|志摩線]]<br /><sup>×</sup>[[養老鉄道養老線|養老線]]
|[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]<br />[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]]
|快速急行<br /><sup>×</sup>区間快速急行
|英語表記は「EXP.」。<br />鳥羽線は朝夕のみ運行。<br />鈴鹿線は平日に名古屋線[[近鉄四日市駅]]から直通する[[平田町駅]]行き1本のみ。<br />志摩線の急行は1969年12月9日廃止<ref name="SHIN-10_p34">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=34}}</ref>。<br />養老線の急行は1983年3月24日廃止<ref name="SHIN-10_p34"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[伊勢電気鉄道]]
|<sup>×</sup>本線
|
|
|参宮急行電鉄合併まで運行、合併後も運行継続<ref name="SHIN-10_p33">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=33}}</ref>。
|-
|<sup>×</sup>[[三重交通]]→<br /><sup>×</sup>三重電気鉄道
|<sup>×</sup>志摩線
|
|
|近畿日本鉄道合併まで運行、合併後も運行継続<ref name="rp954-140">{{Cite journal|和書|author=寺本光照 |year=2018 |month=12 |title=近鉄の列車運転アラカルト |journal=鉄道ピクトリアル |issue=第954号(2018年12月臨時増刊号)|page=140 |publisher=電気車研究会}}</ref><ref name="SHIN-10_p34"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[三岐鉄道]]
|<sup>×</sup>[[三岐鉄道三岐線|三岐線]]
|
|
|1989年4月1日廃止<ref name="SHIN-7_p47"/>。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|[[北陸地方]]
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行会社
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:7.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8.5em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|[[富山地方鉄道]]<br />(地鉄)
|[[富山地方鉄道本線|本線]]<br />[[富山地方鉄道立山線|立山線]]
|
|快速急行<br /><sup>×</sup>A急行<br /><sup>×</sup>B急行
|<ref name="SHIN-6_p56">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 6号 北信越―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900401|page=56}}</ref>
|-
|rowspan="4"|<sup>×</sup>[[北陸鉄道]]
|<sup>×</sup>[[北陸鉄道石川線|石川線]]<br /><sup>×</sup>[[北陸鉄道能美線|能美線]]
|
|
|1978年12月改正当時は[[新寺井駅]]発[[野町駅]]行が<br />早朝片道1本のみ設定されていた<ref>{{Cite book|和書|author=寺田裕一|year =2004|title = ローカル私鉄 列車ダイヤ25年 西日本編|publisher =JTB|isbn =978-4533055850|page=182}}</ref>。
|-
|<sup>×</sup>[[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]
|
|
|2006年11月30日廃止<ref name="SHIN-6_p56"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[北陸鉄道山中線|山中線]]
|
|
|1971年7月1日廃止<ref name="SHIN-6_p56"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[北陸鉄道能登線|能登線]]
|
|
|1971年廃止<ref name="SHIN-6_p56"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[京福電気鉄道]]<br />福井本社
|<sup>×</sup>[[えちぜん鉄道勝山永平寺線|越前本線]]<br /><sup>×</sup>[[えちぜん鉄道三国芦原線|三国芦原線]]
|<sup>×</sup>[[京福電気鉄道永平寺線|永平寺線]]
|
|<ref name="SHIN-6_p56"/>
|-
|[[えちぜん鉄道]]
|[[えちぜん鉄道三国芦原線|三国芦原線]]
|
|
|
|-
|[[福井鉄道]]
|[[福井鉄道福武線|福武線]]
|
|区間急行
|
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|[[近畿地方]]
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行会社
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:7.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8.5em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|rowspan="4"|[[近畿日本鉄道]]<br />(近鉄)
|[[近鉄大阪線|大阪線]]<br />[[近鉄山田線|山田線]]
|[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]]
|<sup>×</sup>直通急行<br />快速急行<br /><sup>×</sup>区間快速急行<br /><sup>×</sup>通勤急行<br /><sup>×</sup>区間急行
|rowspan="4"|英語表記は「EXP.」。<br />長野線は平日朝上り、夕方下りのみ。<br />奈良線の快速急行は阪神電鉄線とも直通して運行。<br />御所線の定期列車の急行(休日のみ)は1994年3月15日廃止<ref name="1993-2-kintetsu_h_yoshino">{{Cite book|和書|author=近畿日本鉄道業務局営業企画部|year =1993|title = 近鉄時刻表1993秋・冬号|publisher =近畿日本鉄道|pages=424-449}}</ref><ref name="1994-kintetsu_h_yoshino">{{Cite book|和書|author=近畿日本鉄道業務局営業企画部|year =1994|title = 近鉄時刻表1994年号|publisher =近畿日本鉄道|pages=426-451}}</ref>。以降は臨時列車のみ。
|-
|[[近鉄奈良線|奈良線]]
|[[近鉄難波線|難波線]]
|快速急行
|-
|[[近鉄京都線|京都線]]<br />[[近鉄橿原線|橿原線]]
|[[近鉄天理線|天理線]]
|<sup>×</sup>快速急行
|-
|[[近鉄南大阪線|南大阪線]]
|[[近鉄吉野線|吉野線]]<br />[[近鉄長野線|長野線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄御所線|御所線]]
|区間急行
|-
|<sup>×</sup>[[奈良電気鉄道]]
|<sup>×</sup>奈良電気鉄道線
|
|
|近畿日本鉄道合併まで運行、合併後も運行継続<ref name="SHIN-10_p58">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=58}}</ref>
|-
|rowspan="2"|[[南海電気鉄道]]
|[[南海本線]]
|[[南海和歌山港線|和歌山港線]]<br />[[南海空港線|空港線]]<br /><sup>×</sup>[[南海多奈川線|多奈川線]]
|空港急行<br />-急行-<br />区間急行
|急行そのものの種別は[[ラッシュ時]]のみの運転。<br />-急行-(白線急行)は[[春木駅]]に停車する急行で、平日深夜の[[泉佐野駅]]行き最終列車の下り一本のみ運行。<br />多奈川線の急行は1993年4月18日廃止<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=43}}</ref>。
|-
|[[南海高野線|高野線]]
|
|快速急行<br />区間急行
|
|-
|<sup>×</sup>[[阪和電気鉄道]]<br />(<sup>×</sup>南海鉄道)
|<sup>×</sup>[[阪和線|本線]]<br />(<sup>×</sup>山手線)
|
|
|南海鉄道との合併まで運行、合併後も運行継続。<br />その後国有化により[[#急行電車(急電)|急電]]となり、1958年に準急と統合されて直行となった後、1968年より区間快速として運行されている。
|-
|<sup>×</sup>[[江若鉄道]]
|<sup>×</sup>江若鉄道線
|
|
|1969年11月1日廃止<ref name="SHIN-10_p58">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=58}}</ref>。
|-
|rowspan="2"|[[京阪電気鉄道]]
|[[京阪本線]]
|[[京阪中之島線|中之島線]]<br />[[京阪鴨東線|鴨東線]]<br /><sup>×</sup>[[京阪宇治線|宇治線]]
|<sup>×</sup>最急行<br />通勤快急<br />快速急行<br /><sup>×</sup>深夜急行<br />区間急行
|派生種別ではない急行そのものは、早朝と夕方・深夜に運転。<br />[[中之島駅]]発着は臨時列車のみ運行。<br />宇治線の急行は1989年9月26日廃止<ref name="SHIN-10_p48">
実質的に通常は京阪本線・鴨東線しか運行していない。
交野線では運行されたことがない。
{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=48}}</ref>。
深夜急行は2023年8月26日廃止<ref group="注釈">2021年9月25日のダイヤ改正で運行を休止したが公式時刻表には掲載されていた。2023年8月26日のダイヤ改正で公式時刻表から削除されて正式廃止となった。</ref>。
|-
|<sup>×</sup>[[京阪京津線|京津線]]
|<sup>×</sup>[[京阪石山坂本線|石山坂本線]]
|
|京津線の急行は1981年4月12日廃止<ref name="1980keihan_p5">{{Cite book|和書|author=京阪電気鉄道総務部|year =1980|title = 1980京阪時刻表|publisher =京阪電気鉄道|page=5}}</ref><ref name="SHIN-10_p48"/>。<br />石山坂本線の急行は1981年1月9日<!--京阪線・石山坂本線の直通運転廃止時-->廃止<ref name="daijikoku198103-337">{{Cite journal|和書|date =1981-03|journal = 大時刻表|publisher =弘済出版社|issue = 215|page=337}}</ref>。
|-
|[[阪神電気鉄道]]
|[[阪神本線|本線]]<br />[[阪神なんば線]]
|
|快速急行<br />区間急行
|阪神なんば線は、近鉄線と直通運転を行なう快速急行のみ。
|-
|[[神戸電鉄]]
|[[神戸電鉄有馬線|有馬線]]<br />[[神戸電鉄粟生線|粟生線]]
|[[神戸電鉄三田線|三田線]]<br />[[神戸電鉄神戸高速線|神戸高速線]]
|<sup>×</sup>通勤急行
|
|-
|<sup>×</sup>[[山陽電気鉄道]]
|
|<sup>×</sup>[[山陽電気鉄道本線|本線]]
|
|通過駅のある全線通しの急行は[[1984年]]休止。<br />阪神本線内で急行運転する直通列車は[[2009年]]3月休止。
|-
|<sup>×</sup>[[能勢電鉄]]
|<sup>×</sup>[[能勢電鉄妙見線|妙見線]]
|<sup>×</sup>[[能勢電鉄日生線|日生線]]
|<sup>×</sup>妙見急行<br /><sup>×</sup>日生急行
|「急行」という種別は公式には存在しない。<br />朝に[[川西能勢口駅]]行きのみで、妙見急行は日曜祝日を除き、日生急行は土曜日のみ運行。<br />どちらも[[2017年]]3月に廃止(日生急行は緊急用として使用されることがある)
|-
|rowspan="3"|阪急電鉄
|[[阪急神戸本線|神戸本線]]
|[[阪急神戸高速線|神戸高速線]]
|<sup>×</sup>快速急行<br />通勤急行
|快速急行は2022年12月のダイヤ改正で準特急に変更。
|-
|[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]
|
|<sup>×</sup>快速急行<br /><sup>×</sup>通勤急行
|
|-
|[[阪急京都本線|京都本線]]<br /><sup>×</sup>[[阪急千里線|千里線]]
|
|<sup>×</sup>直通急行<br /><sup>×</sup>快速急行<br /><sup>×</sup>堺筋急行<br /><sup>×</sup>堺筋快速急行
|[[2007年]]3月のダイヤ改正で準急に格下げされ廃止されたが、[[2022年]]12月のダイヤ改正でそれまでの快速の停車駅に西京極を追加する形で復活した。<br />堺筋急行・堺筋快速急行は現在は堺筋準急に格下げ。快速急行は2022年12月のダイヤ改正で準特急に変更。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|[[中国・四国地方]]
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行会社
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:7.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8.5em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|<sup>×</sup>[[井笠鉄道]]
|<sup>×</sup>[[井笠鉄道本線|本線]]
|
|
|1952年度中に廃止<ref name="SHIN-11_p56">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 11号 中国四国―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900456|page=56}}</ref>。
|-
|[[一畑電車]]
|[[一畑電車北松江線|北松江線]]<br />[[一畑電車大社線|大社線]]
|
|
|
|-
|<sup>×</sup>[[広島高速交通]]
|<sup>×</sup>[[広島高速交通広島新交通1号線|広島新交通1号線]]
|
|
|2004年3月20日廃止。<br />詳細は[[広島高速交通広島新交通1号線#急行列車]]を参照。
|-
|<sup>×</sup>[[高松琴平電気鉄道]]
|<sup>×</sup>[[高松琴平電気鉄道琴平線|琴平線]]
|
|
|1967年3月廃止<ref name="SHIN-11_p56"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[土佐電気鉄道]]
|<sup>×</sup>[[とさでん交通後免線|後免線]]
|<sup>×</sup>[[土佐電気鉄道安芸線|安芸線]]<br /><sup>×</sup>[[とさでん交通伊野線|伊野線]]
|
|1971年以降に廃止<ref name="SHIN-11_p56"/>。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|[[九州地方]]
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行会社
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:7.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8.5em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|[[西日本鉄道]]<br />(西鉄)
|[[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]
|[[西鉄太宰府線|太宰府線]]
|<sup>×</sup>快速急行<br /><sup>×</sup>ローカル急行
|ダイヤ上は太宰府線内は普通列車扱い。
|-
|[[島原鉄道]]
|[[島原鉄道線]]
|
|
|気動車で運転。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|地下鉄
!rowspan="2" style="width:9.5em;"|運行会社
!colspan="2"|運行路線
!rowspan="2" style="width:7.5em;"|派生種別
!rowspan="2"|備考
|-
!style="width:8.5em;"|通過駅あり
!style="width:7.5em;"|各駅に停車
|-
|[[京都市交通局]]<br />([[京都市営地下鉄]])
|
|[[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]
|
|昼間時のみ。<br />近鉄線内で急行運転をする直通列車のみ。
|-
|rowspan="4"|[[東京地下鉄]]<br />(東京メトロ)
|
|[[東京メトロ千代田線|千代田線]]
|<sup>×</sup>多摩急行
|小田急線内で急行運転をする直通列車のみ。
|-
|
|[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]
|
|東急線・東武線内で急行運転をする直通列車のみ。
|-
|
|[[東京メトロ南北線|南北線]]
|
|東急線内で急行運転をする直通列車のみ。
|-
|[[東京メトロ副都心線|副都心線]]
|
|通勤急行
|多くの列車に「[[Fライナー]]」の愛称が付く。<br />直通先では種別が変更される場合が多い。
|-
|rowspan="3"|[[東京都交通局]]<br />([[都営地下鉄]])
|
|[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]
|
|京急線でエアポート急行となる直通列車のみ。
|-
|[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]
|
|
|京王線とも直通運転を行なう。
|-
|
|[[都営地下鉄三田線|都営三田線]]
|
|東急線内で急行運転をする直通列車のみ。
|-
|[[埼玉高速鉄道]]
|
|[[埼玉高速鉄道線]]
|
|東急線内で急行運転をする直通列車のみ。
|-
|<sup>×</sup>[[大阪市交通局]]<br />([[大阪市営地下鉄]])
|
|<sup>×</sup>[[大阪市営地下鉄堺筋線|堺筋線]]
|<sup>×</sup>堺筋快速急行
|使用車両は阪急車のみ。<br />阪急京都本線朝時間帯の[[京都河原町駅]]発(夕時間帯は[[天下茶屋駅]]発の<br />堺筋快速急行)の直通列車のみ。<br />いずれも2007年3月のダイヤ改正で堺筋準急に格下げ。
|}
==== 派生種別 ====
*以下の種別およびそれらの派生種別については各項目を参照。
** 特急⇒[[特別急行列車#私鉄の特別急行列車]]
** 準急⇒[[準急列車#私鉄・地下鉄]]
** [[快速特急]](快特)
** [[快速急行]]
*「<sup>×</sup>」表記は、かつて運行されていた運行会社・路線および派生種別。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|通勤急行
!rowspan="2"|運行会社
!colspan="2"|運行線区
!rowspan="2"|備考
|-
!通過駅あり
!各駅に停車
|-
|[[小田急電鉄]]
|[[小田急小田原線|小田原線]]<br />[[小田急多摩線|多摩線]]<br /><sup>×</sup>[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]
|
|小田原線・江ノ島線では1972年3月廃止<ref name="SHIN-5_p39">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=39}}</ref>されたが、2018年3月19日より小田原線・多摩線で運行開始。
|-
|<sup>×</sup>京王帝都電鉄<br />(現:[[京王電鉄]])
|<sup>×</sup>[[京王線]]<br /><sup>×</sup>[[京王高尾線|高尾線]]
|
|1992年5月28日廃止<ref name="SHIN-5_p42">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=42}}</ref>。
|-
|<sup>×</sup>[[京浜急行電鉄]]
|<sup>×</sup>[[京急本線|本線]]
|<sup>×</sup>[[京急久里浜線|久里浜線]]
|1958年9月6日廃止<ref name="SHIN-5_p32"/>。
|-
|<sup>×</sup>[[京成電鉄]]
|<sup>×</sup>[[京成本線|本線]]<br /><sup>×</sup>[[京成押上線|押上線]]
|
|1974年12月15日廃止<ref name="SHIN-5_p52"/>。
|-
|rowspan="2"|[[西武鉄道]]
|[[西武池袋線|池袋線]]
|
|
|-
|[[西武新宿線|新宿線]]
|
|
|-
|<sup>×</sup>[[東武鉄道]]
|<sup>×</sup>[[東武東上本線|東上線]]
|
|2016年3月26日廃止。
|-
|[[東京地下鉄]]
|[[東京メトロ副都心線|副都心線]]
|
|
|-
|[[相模鉄道]]
|[[相鉄本線|本線]]
|[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]]
|
|-
|<sup>×</sup>[[静岡鉄道]]
|<sup>×</sup>[[静岡鉄道静岡清水線|静岡清水線]]
|
|上り列車([[新静岡駅]]行き)のみ設定。2021年10月10日廃止。
|-
|<sup>×</sup>[[近畿日本鉄道]]
|<sup>×</sup>[[近鉄大阪線|大阪線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄山田線|山田線]]
|
|1964年10月1日ダイヤ変更で廃止。区間急行に変更<ref>{{Cite_journal|和書||title=戦後 都市鉄道の輸送改善|author=佐藤信之|date=2015-04|publisher=電気車研究会|journal=鉄道ピクトリアル 別冊 京阪神都市鉄道プロジェクト|page=35}}</ref>。
|-
|<sup>×</sup>[[神戸電鉄]]
|<sup>×</sup>[[神戸電鉄有馬線|有馬線]]<br /><sup>×</sup>[[神戸電鉄粟生線|粟生線]]
|<sup>×</sup>[[神戸電鉄三田線|三田線]]<br /><sup>×</sup>[[神戸電鉄神戸高速線|神戸高速線]]
|1984年10月6日廃止、翌日から急行に統合・変更<ref name="SHIN-10_p57">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=57}}</ref>。
|-
|rowspan="2"|[[阪急電鉄]]
|[[阪急神戸本線|神戸本線]]
|
|
|-
|<sup>×</sup>[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]
|
|2015年3月20日のダイヤ改正で廃止。運行区間を[[川西能勢口駅]]→[[大阪梅田駅 (阪急)|梅田駅]]間に短縮し、通勤特急に変更。
|-
|<sup>×</sup>[[広島電鉄]]
|<sup>×</sup>[[広島電鉄宮島線|宮島線]]
|
|1960年代に運転。廃止時期は不明。<br />[[広電五日市駅]] - [[広電西広島駅]](当時は西広島駅)間のみ通過運転。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|区間急行
!rowspan=2|運行会社
!colspan=2|運行線区
!rowspan=2|備考
|-
!通過駅あり
!各駅に停車
|-
|rowspan=2|[[東武鉄道]]
|[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]
|[[東武日光線|日光線]]<br /><sup>×</sup>[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]
|鬼怒川線は[[新藤原駅]]6:03に発車する上り列車が1本のみ設定されている。
|-
|[[東武野田線|野田線]]
|
|
|-
|[[京王電鉄]]<br />[[東京都交通局]]<br />([[都営地下鉄]])
|[[京王線]]
|[[京王新線|新線]]<br />[[京王高尾線|高尾線]]<br />[[京王相模原線|相模原線]]<br />[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]
|2013年2月22日より、通勤快速を改称する形で日中にも運行開始。<br />2015年9月25日改正で[[仙川駅]]が停車駅に追加された。
|-
|[[福井鉄道]]
|[[福井鉄道福武線|福武線]]
|
|
|-
|[[大井川鐵道]]
|[[大井川鐵道大井川本線|大井川本線]]
|
|
|-
|rowspan=2|[[近畿日本鉄道]]
|<sup>×</sup>[[近鉄大阪線|大阪線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄山田線|山田線]]
|
|1978年3月14日廃止<ref name="SHIN-10_p33"/>。
|-
|[[近鉄南大阪線|南大阪線]]
|<sup>×</sup>[[近鉄吉野線|吉野線]]
|南大阪線で日中と深夜に運転。かつては吉野線でも上り1本のみ存在した。
|-
|rowspan=2|[[南海電気鉄道]]
|[[南海本線]]
|
|日中以外の運転(ただし土休日の上りの夕方から深夜の運行はなし)
|-
|[[南海高野線|高野線]]
|
|[[難波駅 (南海)|難波駅]] - [[林間田園都市駅]]間での運転。
|-
|[[泉北高速鉄道]]
|[[泉北高速鉄道線]]
|
|南海高野線との接続駅の[[中百舌鳥駅]]のみ通過。そのまま南海高野線に直通する。
|-
|[[京阪電気鉄道]]
|[[京阪本線]]
|[[京阪中之島線|中之島線]]
|他の私鉄の一般的な種別立てと異なり、準急より下位という位置づけとなっている。<br />朝と夕方から深夜にかけて運転。
|-
|[[阪神電気鉄道]]
|[[阪神本線|本線]]
|
|平日朝ラッシュ時のみ。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|[[直通急行]]
!rowspan="2"|運行会社
!colspan="2"|運行線区
!rowspan="2"|備考
|-
!通過駅あり
!各駅に停車
|-
|<sup>×</sup>[[近畿日本鉄道]]
|<sup>×</sup>[[近鉄大阪線|大阪線]]<br /><sup>×</sup>[[近鉄山田線|山田線]]
|
|伊勢志摩号として運行された臨時列車の種別。後に[[高速 (列車)|高速]]に改称。
|-
|<sup>×</sup>[[京阪電気鉄道]]<br /><sup>×</sup>京阪神急行電鉄
|<sup>×</sup>[[阪急京都本線|十三線]]<br /><sup>×</sup>[[阪急京都本線|新京阪線]]
|
|[[十三駅]] - [[京阪京都駅]]間直通運転開始時より使用。戦災による休止の後、「急行」として復活。
|}
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+style="text-align:left; padding-top:1em;"|その他<!--五十音順+廃止種別後回し-->
!種別名
!運行会社
!備考
|-
!<sup>×</sup>[[京急本線#エアポート急行|エアポート急行]]
|京浜急行電鉄
|2023年11月24日で廃止。原則として空港線に直通した。本線では[[蒲田駅]]で[[運行系統|系統]]分割されており、[[品川駅]]方面は従来の急行から改称された。横浜駅方面は1999年に廃止された急行を停車駅改定のうえ新設した。
|-
![[かわね路号|SL急行]]・[[大井川鐵道大井川本線#急行・EL急行|EL急行]]
|大井川鐵道
|SL急行は蒸気機関車牽引。EL急行は電気機関車牽引(2023年10月1日より定期運用開始)。
|-
![[南海本線#春木駅停車の急行(-急行-・白線急行)|-急行-]]
|[[南海電気鉄道]]
|種別表示器上での見た目から「白線急行」と呼ばれる。1994年に区間急行に統合され廃止されたが、2017年1月28日のダイヤ改正で復活。
|-
![[南海本線#空港急行|空港急行]]
|南海電気鉄道
|空港線に直通する。白線急行・区間急行と同じく春木駅に停車し、[[和歌山駅|和歌山]]方面の単なる「急行」より格下となる。
|-
!<sup>×</sup>[[京阪本線#急行・深夜急行|深夜急行]]
|<sup>×</sup>[[京阪電気鉄道]]
|2023年8月26日で廃止。[[淀屋橋駅]]0時20分発[[樟葉駅]]行きの1本のみ。淀屋橋駅発上り最終の優等列車となっていた。運行実績のある樟葉駅以西では、朝の下り淀屋橋駅方面に運行される通勤快急と停車駅が同じであった。
|-
!<sup>×</sup>[[多摩急行]]
| style="white-space:nowrap" |小田急電鉄・<br />東京地下鉄(東京メトロ)
|2018年3月で廃止。多摩線から東京メトロに直通する。急行が朝晩通過する[[経堂駅]]に停車し、急行が停車する[[向ヶ丘遊園駅]]を通過して[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]をしていた。
千代田線内では小田急線内乗り入れ列車の種別を表示していたが、各駅に停車していた。JR東日本から直通する列車もあったが、常磐線内は各駅停車であった。
|-
!<sup>×</sup>[[富山地方鉄道本線#過去の種別・停車駅|A急行・B急行]]
|[[富山地方鉄道]]
|
|-
!<sup>×</sup>[[湘南急行]]
|小田急電鉄
|江ノ島線に直通する。快速急行へと改変され廃止。
|-
! style="white-space:nowrap" |<sup>×</sup>[[阪急京都本線#過去の列車種別|堺筋急行・堺筋快速急行]]
|[[阪急電鉄]]・<br />[[大阪市交通局]]
|使用車両は阪急車のみ。堺筋線内では各駅に停車する。堺筋準急に格下げされ廃止。
|-
!<sup>×</sup>[[能勢電鉄妙見線#列車種別|妙見急行・日生急行]]
|[[能勢電鉄]]
|
|-
!<sup>×</sup>[[西鉄天神大牟田線#歴史|ローカル急行]]
|[[西日本鉄道]]
|[[西鉄天神大牟田線#准急|准急]]の後身として、[[1956年]]から[[1959年]]に設定された種別。
|}
== 企画急行列車 ==
{{See also|夜行列車#ローカル私鉄等の企画夜行列車}}
往年の列車旅を再現するための企画として、夜行急行列車が[[パッケージツアー]]として運行される場合がある。
ちなみに[[秩父鉄道]]では、[[日本旅行]]との共同企画として夜行急行列車を運行している
<ref>[https://www.nta.co.jp/news/2018/__icsFiles/afieldfile/2018/10/12/yakoukyuko.pdf 【秩父鉄道×日本旅行 共同企画】あの時の感動がよみがえる 12系客車夜行急行の旅] - 日本旅行(2018年10月12日)、2022年12月16日閲覧。</ref><ref>[https://www.nta.co.jp/news/2021/__icsFiles/afieldfile/2021/03/25/chichibu.pdf 秩父鉄道&日本旅行 共同企画 重連電機・12系客車 夜行急行「三峰51号」熊谷行の旅を発売!] - 日本旅行(2021年3月25日)、2022年12月16日閲覧。</ref><ref>[https://www.nta.co.jp/news/2022/__icsFiles/afieldfile/2022/07/28/okumusashi51.pdf 西武鉄道・秩父鉄道・日本旅行 三社共同企画 西武鉄道 4000 系で行く首都圏発夜行列車「臨時夜行急行『奥武蔵51号』西武鉄道線周遊・秩父鉄道線周遊 西武秩父行の旅」を発売] - 日本旅行(2022年7月28日)、2022年12月16日閲覧。</ref><ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/20221027/ 秩父鉄道&日本旅行共同企画 重連電機・12系客車 夜行急行「三峰51号」長瀞・熊谷行の旅] - 秩父鉄道(2022年10月27日)、2022年12月16日閲覧。</ref><ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/20230929/ 秩父鉄道&日本旅行共同企画 三重連電機&12系客車 夜行急行「三峰51号」熊谷・石原行] - 秩父鉄道(2023年10月17日)、2023年11月23日閲覧。</ref>。
== 鉄道以外の「急行」 ==
「急行」は通常、[[鉄道]]の列車を示すが、[[高速バス]]や[[路線バス]]にも[[超特急]]、特急、'''急行'''、快速便が存在する。これらの中にも[[急行券]]や[[座席指定券]]を必要とするものもある。バスの急行については「'''[[急行バス]]'''」参照。
また、かつての[[宇高連絡船|宇高航路]]には[[ホバークラフト]]、[[高速艇]]による'''急行便'''が存在した。これに乗船するときは、[[乗車券]]のほかに[[急行券|連絡船急行券]]を必要とした。ただしこの急行便は、運行時には接続する[[本州]]・[[宇野線]]側で既に特急・'''急行列車'''が[[ブルートレイン_(日本)|寝台特急]]「[[サンライズ瀬戸|瀬戸]]」以外設定されていなかったことや、[[宇野駅]]および[[高松駅_(香川県)|高松駅]]では[[鉄道連絡船]]で運行されていた普通便とは別桟橋での発着であったこともあり、運賃上の連帯を行なうのみで鉄道側との[[乗り継ぎ料金制度]]は存在しなかった。「[[宇高連絡船]]」を参照。
このほかにもフェリーと高速艇を並行して運行する場合には、所要時間の短い高速艇を'''急行'''扱いとして料金を高く設定することがある。
船舶会社の社名に急行をつける例としては、[[四国フェリー]]グループの[[小豆島]]急行フェリーなどに事例がある。
バス会社の社名に急行をつける例としては、東武鉄道系・朝日自動車グループの[[東北急行バス]]などに事例がある。
{{節スタブ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2015年7月}}
* [[電気車研究会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』No.784 特集:急行列車
* [[イカロス出版]]『J-train』No.13 特集:再考。急行列車
* [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2007年10月号 特集:列車種別バラエティ
== 関連項目 ==
* [[急行券]]
* [[旅客列車]]
* [[列車種別]]
* [[列車愛称]]
* [[日本の列車愛称一覧]]
* [[エクスプレス]]
* [[スリップ・コーチ]]
* [[東京急行]]([[曖昧さ回避]]のためのページ)
{{日本における列車種別一覧}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きゆうこうれつしや}}
[[Category:列車|種きゆうこうれつしや]]
[[Category:列車種別|†]]
|
2003-08-18T10:08:36Z
|
2023-11-25T15:30:25Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A5%E8%A1%8C%E5%88%97%E8%BB%8A
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13,498 |
煩悩
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煩悩(ぼんのう、サンスクリット語: क्लेश, kleśa、クレーシャ、巴: kilesa、キレーサ、英: Kleshas)とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う。同義語として、漏(ろ、aśrava、アーシュラヴァ、巴: asava、アーサヴァ)、随眠(ずいめん、anuśaya, アヌシャヤ、巴: anusaya、アヌサヤ)など、数多くの表現が用いられたりもする。
仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。釈迦は、まず煩悩の働きを止めるのは気づき(念)であり、そして根源から絶するものは般若(智慧)であると説いている。
部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。
煩悩の根本に三毒がある。人生においてどのような局面がどのような煩悩となるかをよく知る(遍知)ため、後代にそれを細かく分析し修習の助けとしたものであり、「数」を突き詰めれば無限にあると考えられる。このため、「稠林」(森林のように数多の煩悩)とも表される。
俗に煩悩は108あり、除夜の鐘を108回衝くのは108の煩悩を滅するためと言われるが、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちである。小は3にはじまり、通俗的には108、大は(約)84,000といわれる。
心所の区分から言えば、
を煩悩とみなすことができる。
また、説一切有部では、『倶舎論』「随眠品」などにも見られるように、伝統的に煩悩(随眠)を九十八随眠として表現することもある。
これは、貪・瞋・痴・慢・疑・見の六随眠を起点とし、三界の内の欲界に32、色界・無色界にそれぞれ28、計88の見惑(見道所断によって断たれる煩悩)を配置し、更に10の修惑(修道所断によって断たれる煩悩)を加えて、九十八随眠としたものである。
これに十纏とよばれる10の煩悩を付け加えたものが、俗に108つの煩悩と呼ばれているものである。
煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、
の3つとされ、これをあわせて三毒(さんどく)と呼ぶ。三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
煩悩は、我執(自己が実体的に存在すると考えて執着すること)から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる(日常語の愛と意味が異なることを注意)。
また、
の5つを、五蓋(ごがい)と呼ぶ。蓋とは文字通り、心を覆うものの意味であり、煩悩の異称。
これらは比丘の瞑想修行の妨げになるものとして、取り除くことが求められる。
修行者を欲界(下分)へと縛り付ける煩悩を、五下分結(ごげぶんけつ)と呼ぶ。結とは束縛の意。
この5つを絶つことで、不還果へと到達できる。
この5つの内、3.〜5.の3つを特に三結(さんけつ)と呼び、これらは四向四果の最初の段階である預流果において、早々に絶たれることになる。
修行者を色界・無色界(上分)へと縛り付ける煩悩を、五上分結(ごじょうぶんけつ)と呼ぶ。
この5つを絶つことで、四向四果の最終段階である阿羅漢果へと到達できる。
ブッダゴーサによると、釈迦は渇愛を川に喩え、「川の流れ」すなわち暴流(ogha)を渡って彼岸に至ることを涅槃と位置づけた。
Cattārome āvuso oghā: kāmoso bhavogho diṭṭhogho avijjogho. Ime kho āvuso cattāro oghāti. 友よ、これら四つの暴流がある。欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流。友よ、これらが四暴流である。
四暴流は四漏ともされる。これら四暴流を絶つ道は、八正道であると釈迦は述べている。
説一切有部では、煩悩を分析し、見惑と修惑(思惑)とに分け、また貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の6種を根本煩悩とした。さらに、付随する煩悩(随煩悩)を19種数える。
大乗仏教の瑜伽行派(ゆがぎょうは)では、上記の根本煩悩から派生するものとして、20種の随煩悩を立てた。
瑜伽行派の後継である東アジアの法相宗もこの説に従う。
如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心に偶発的に付着したものであると説く(客塵煩悩(きゃくじんぼんのう))。この煩悩を智慧によって断滅し、衆生が本来もっている仏性を明らかにすること、すなわち煩悩の束縛を脱して智慧を得ることが、大乗仏教の求める悟りにほかならない。
菩薩の四弘誓願(しぐぜいがん)に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずることが大乗仏教の基本思想であることを示す。
人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。
|
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"text": "Cattārome āvuso oghā: kāmoso bhavogho diṭṭhogho avijjogho. Ime kho āvuso cattāro oghāti. 友よ、これら四つの暴流がある。欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流。友よ、これらが四暴流である。",
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"text": "大乗仏教の瑜伽行派(ゆがぎょうは)では、上記の根本煩悩から派生するものとして、20種の随煩悩を立てた。",
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"text": "瑜伽行派の後継である東アジアの法相宗もこの説に従う。",
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"text": "如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心に偶発的に付着したものであると説く(客塵煩悩(きゃくじんぼんのう))。この煩悩を智慧によって断滅し、衆生が本来もっている仏性を明らかにすること、すなわち煩悩の束縛を脱して智慧を得ることが、大乗仏教の求める悟りにほかならない。",
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"text": "菩薩の四弘誓願(しぐぜいがん)に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずることが大乗仏教の基本思想であることを示す。",
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"text": "人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。",
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煩悩とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う。同義語として、漏、随眠など、数多くの表現が用いられたりもする。 仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。釈迦は、まず煩悩の働きを止めるのは気づき(念)であり、そして根源から絶するものは般若(智慧)であると説いている。 部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。
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{{出典の明記|date=2015年9月20日 (日) 06:31 (UTC)}}
{{Infobox Buddhist term
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| title=煩悩
| pi= kilesa [キレーサ]
| sa= क्लेश (kleśa) [クレーシャ]
| en= afflictions,<br />destructive emotions,<br />disturbing emotions,<br />negative emotions,<br />mind poisons,<br /> etc.
| bo= ཉོན་མོངས།
| bo-Latn= [[ワイリー方式|Wylie]]: nyon mongs; <br />[[THL Simplified Phonetic Transcription|THL]]: nyönmong
| mn= нисванис (nisvanis)
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| zh= 煩惱
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}}
'''煩悩'''(ぼんのう、{{翻字併記|sa|क्लेश|kleśa|n}}、クレーシャ、{{lang-pi-short|kilesa}}、キレーサ、{{lang-en-short|Kleshas}})とは、[[仏教]]の教義の一つで、身心を乱し悩ませ[[智慧]]を妨げる[[心]]の働き(汚れ)を言う。同義語として、[[漏]](ろ、{{ラテン翻字|sa|aśrava}}、アーシュラヴァ、{{lang-pi-short|asava}}、アーサヴァ){{efn2|「[[有漏]]」の項目も参照。}}{{efn2|例 : 「[[六神通|漏尽通]]」}}、[[随眠]](ずいめん、{{ラテン翻字|sa|anuśaya}}, アヌシャヤ、{{lang-pi-short|anusaya}}、アヌサヤ)など、数多くの表現が用いられたりもする。
仏教では、人の[[苦]]の原因を自らの煩悩ととらえ、その[[縁起]]を把握・克服する[[解脱]]・[[涅槃]]への道が求められた。釈迦は、まず煩悩の働きを止めるのは[[サティ (仏教)|気づき]](念)であり、そして根源から絶するものは[[般若]](智慧)であると説いている<ref name="uokawa">{{Cite|和書|title=仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か |author=魚川祐司 |publisher=新潮社 |isbn=978-4103391715 |date=2015-04 |pages=125}}</ref><ref>[[スッタニパータ]],section:1035</ref>。
[[部派仏教]]の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。
== 煩悩の数について ==
煩悩の根本に[[三毒]]がある。[[人生]]においてどのような局面がどのような煩悩となるかをよく知る(遍知)ため、後代にそれを細かく分析し修習の助けとしたものであり、「数」を突き詰めれば無限にあると考えられる。このため、「稠林」(森林のように数多の煩悩)とも表される。
俗に煩悩は108あり、[[除夜の鐘]]を108回衝くのは108の煩悩を滅するためと言われるが、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちである。小は3にはじまり、通俗的には108、大は(約)84,000といわれる。
[[心所]]の区分から言えば、
*[[上座部仏教]]([[分別説部]]、『[[アビダンマッタ・サンガハ]]』)では、不善心所の14種
*[[説一切有部]](『[[倶舎論]]』)では、大煩悩地法(6)・大不善地法(2)・小煩悩地法(10)・不定地法(8)の計26種
*[[大乗仏教]]の[[唯識派]]・[[法相宗]](『[[唯識三十頌]]』)では、煩悩心所(6)・随煩悩心所(20)・不定心所(4)の計30種
を煩悩とみなすことができる。
===九十八随眠===
また、[[説一切有部]]では、『[[倶舎論]]』「随眠品」などにも見られるように、伝統的に煩悩(随眠)を[[九十八随眠]]として表現することもある。
これは、貪・瞋・痴・慢・疑・見の六随眠を起点とし、[[三界]]の内の[[欲界]]に32、[[色界]]・[[無色界]]にそれぞれ28、計88の見惑(見道所断によって断たれる煩悩)を配置し、更に10の修惑(修道所断によって断たれる煩悩)を加えて、九十八随眠としたものである。
これに[[十纏]]とよばれる10の煩悩を付け加えたものが、俗に108つの煩悩と呼ばれているものである。
== 基本 ==
=== 三毒 ===
{{main|三毒}}
煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、
*[[貪|貪欲]](とんよく{{efn2|一般の読みと異なる。}})
*[[瞋|瞋恚]](しんに)
*[[癡|愚痴]](ぐち)
の3つとされ、これをあわせて三毒(さんどく)と呼ぶ。三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、[[十二因縁]]の[[無明]]が、最も根本的なものである。
煩悩は、[[我執]](自己が実体的に存在すると考えて執着すること{{refnest|name="ブリタアニカ_我執"|[https://kotobank.jp/word/%E6%88%91%E5%9F%B7-44383#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 「我執」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]、Britannica Japan。}})から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる(日常語の[[愛]]と意味が異なることを注意)。
=== 五蓋 ===
{{main|五蓋}}
また、
*[[欲 (仏教)|欲愛]]
*瞋恚
*[[惛沈]](こんじん)
*[[掉挙]](じょうこ)
*[[疑]](ぎ)
の5つを、五蓋(ごがい)と呼ぶ。蓋とは文字通り、心を覆うものの意味であり、煩悩の異称。
これらは[[比丘]]の[[瞑想]]修行の妨げになるものとして、取り除くことが求められる。
===五下分結・三結===
{{main|五下分結|三結}}
修行者を[[欲界]](下分)へと縛り付ける煩悩を、[[五下分結]](ごげぶんけつ)と呼ぶ。[[結 (仏教)|結]]とは束縛の意。
#[[欲 (仏教)|欲愛]](よくあい) - [[カーマ (ヒンドゥー教)|カーマ]](五感)への渇望・欲望
#[[瞋恚]](しんに) - 悪意・憎しみ
#[[有身見]](うしんけん) - 我執
#[[戒禁取見]](かいごんじゅけん) - 誤った戒律・禁制への執着
#[[疑]](ぎ) - 疑い
この5つを絶つことで、[[四向四果|不還果]]へと到達できる<ref name=fujimoto>[http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html 悟りの階梯] - [[藤本晃]]/[[日本テーラワーダ仏教協会]]</ref><ref name=paauk>[http://translation-buddhisttext.jimdo.com/app/download/4195029758/5367d310%2F3d7cee19dc88ebaf4bb40cc5e228f0899b244bbc%2F%E3%83%91%E3%82%AA%E6%A3%AE%E6%9E%97%E5%83%A7%E9%99%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A8%E4%BF%AE%E8%A1%8C.pdf?t=1278217918 パオ森林僧院における教えと修行 日本語訳] pp33-34</ref>。
この5つの内、3.〜5.の3つを特に[[三結]](さんけつ)と呼び、これらは[[四向四果]]の最初の段階である[[四向四果|預流果]]において、早々に絶たれることになる。
===五上分結===
{{main|五上分結}}
修行者を[[色界]]・[[無色界]](上分)へと縛り付ける煩悩を、[[五上分結]](ごじょうぶんけつ)と呼ぶ。
#色貪(しきとん) - [[色界]]に対する欲望・執着
#無色貪(むしきとん) - [[無色界]]に対する欲望・執着
#[[掉挙]](じょうこ) - (色界・無色界における)心の浮動
#[[慢]](まん) - 慢心
#[[無明]](むみょう) - 根本の無知
この5つを絶つことで、[[四向四果]]の最終段階である[[四向四果|阿羅漢果]]へと到達できる<ref name=fujimoto /><ref name=paauk />。
===四暴流===
[[ブッダゴーサ]]によると、釈迦は渇愛を川に喩え、「川の流れ」すなわち暴流(ogha)を渡って[[涅槃#彼岸|彼岸]]に至ることを[[涅槃]]と位置づけた<ref>{{Cite journal| |title=On the Metaphor of the Raft in the Mahāparinibbānasutta |author=Thero Ven Randombe Suneetha |journal=The Annals of the Research Project Center for the Comparative Study of Logic |volume=15 |pages=173-181 |date=2018 |naid=120006517938 }}</ref>。
{{Quote|
Cattārome āvuso oghā: kāmoso bhavogho diṭṭhogho avijjogho. Ime kho āvuso cattāro oghāti.<br>
友よ、これら四つの暴流がある。欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流。友よ、これらが四暴流である。
|{{SLTP|相応部 [[ジャンブカーダカ相応]] 暴流問経}} }}
* [[カーマ (ヒンドゥー教)|欲]]暴流(kāma ogha)
* [[生 (仏教)|生]]暴流(bhava ogha)
* [[見 (仏教)|見]]暴流(diṭṭhi ogha)
* [[無明]]暴流(avijjā ogha)
四暴流は[[漏|四漏]]ともされる。これら四暴流を絶つ道は、八正道であると釈迦は述べている<ref>{{SLTP|相応部 [[ジャンブカーダカ相応]] 暴流問経}}</ref>。
== 諸説 ==
=== 説一切有部 ===
[[説一切有部]]では、煩悩を分析し、見惑と修惑(思惑)とに分け、また[[貪]]・[[瞋]]・[[癡]]・[[慢]]・[[疑]]・[[悪見]]の6種を根本煩悩とした。さらに、付随する煩悩([[随煩悩]])を19種数える。
=== 唯識派・法相宗 ===
[[大乗仏教]]の[[瑜伽行派]](ゆがぎょうは)では、上記の根本煩悩から派生するものとして、20種の随煩悩を立てた。
瑜伽行派の後継である東アジアの[[法相宗]]もこの説に従う。
=== 如来蔵思想 ===
[[如来蔵]]思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心に偶発的に付着したものであると説く([[客塵煩悩]](きゃくじんぼんのう))。この煩悩を[[般若|智慧]]によって断滅し、[[衆生]]が本来もっている[[仏性]]を明らかにすること、すなわち煩悩の束縛を脱して智慧を得ることが、大乗仏教の求める[[悟り]]にほかならない。
[[菩薩]]の[[四弘誓願]](しぐぜいがん)に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずることが大乗仏教の基本思想であることを示す。
人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする[[煩悩即菩提]]の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。
== 脚注 ==
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=== 注釈===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[五位]]
* [[感情の一覧]]
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元住吉駅
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元住吉駅(もとすみよしえき)は、神奈川県川崎市中原区木月一丁目にある、東急電鉄の駅である。
線路名称上、当駅を通る路線は東横線のみであるが、当駅前後の複々線を利用して東横線の列車と目黒線の列車の2系統が乗り入れており、それぞれ別路線として案内されている。駅番号も個別に与えられており、東横線がTY12、目黒線がMG12である。
「元住吉」は地名ではない(旧住吉村の意味で駅名として命名された)。隣接する元住吉検車区の住所は神奈川県川崎市中原区木月三丁目であり、駅の住所とは異なる(元住吉駅は木月一丁目36-1、検車区は木月三丁目36-1)。
かつてこの辺りは橘樹郡住吉村であったが、1925年(大正14年)に中原町に合併され、「住吉」の地名がなくなったことから、翌1926年(大正15年)の東京横浜電鉄開業時にこの地に設置する駅の名称を地元からの要望にて「元住吉」と命名したことによる。「元の住吉村」という意味である。「元住吉」という地名は開業前も現在も存在しない。なお、所在地の「木月」は住吉村となる前の木月村に由来する。
島式ホーム2面6線の高架駅で、橋上駅舎を持つ。外側2線は東横線の特急・通勤特急・急行の通過線である。
東横線では、長らく日吉駅において各駅停車と急行との緩急接続が行われていた。1980年代末において日吉駅での大規模な改良工事の実施に伴い、待避線が使用できなくなった。このため、当該工事期間中に限り各駅停車は当駅で急行の通過待ちを行っていた。この改良工事完成後は日吉駅での緩急接続に戻され、早朝の各駅停車渋谷行1本のみが当駅で急行の通過待ちを行っていた。
しかし、目黒線延伸開業(武蔵小杉 - 日吉間)に先立ち、日吉駅の待避線を目黒線の線路に切り替えるための工事が実施されるため、2007年8月23日のダイヤ改正からは、日吉駅での速達列車の接続・通過待ちはすべて当駅での通過待ちに変更された。
駅舎や改札口のある改札階は渋谷寄りの3階(ホームの上)で、改札階と出入口の間は長いエスカレーターやエレベーターなどで連絡されている。ただし、階段とエレベーターは西口側に存在しているが、東口側にはない。出入口は東口と西口の2か所があり、踏切の脇に出る構造になっている。3階は開放的な造りのコンコースで植栽もされ、飲食店などの店舗も営業し、改札前広場のガラス張りの壁から階下の線路や列車を眺めることができる。改札内コンコースも広々と造られており、同じくガラス張りの壁からホームを見下ろせる。ホームは2階にあり、階段・エスカレーター・エレベーターで接続する。
また、トイレは旧駅舎時代、駅外に公衆トイレがあったことから構内には設置されていなかったが、駅舎改築に際して改札内に新設され、ユニバーサルデザインの一環として多機能トイレも併設された。洗浄にはホームや線路に貯めた雨水が使われている(後述)。
2012年2月から3月にかけて、西口出入口前に6店舗が入居する地域密着型の商業施設がオープンした。
当駅は、環境に配慮した駅を謳っているのが特徴に挙げられる。
ホームおよびコンコースの屋根部分に鉄道駅で最大級となる太陽光発電システムを導入しており、最大出力時に駅で使用する電力の約14%程度を賄えるという。また、改札内・外コンコースに液晶ディスプレイがそれぞれ1台設置され、発電量を表示するだけでなく、地域の既存ネットワークを活用した天気予報や企業広告などの表示も視野に入れている。なお、このディスプレイは大井町線の各駅などに設置されている「東急お知らせモニター」とは別物である。
発電パネルには田園都市線の南町田グランベリーパーク駅でも実績のある透過(採光)型建材一体型パネルが採用され、従来型パネルのバックシートを透過(採光)型に変更することで製品重量の増加を避けた。駅舎部のトップライトは耐火性が要求されるのでパネルの下面(室内側)に網入りガラスを取り付けた二重構造である。これは透過型で、日中はセルの隙間から太陽光を透過させて照明負荷の軽減を図りつつ、シルエットで太陽光発電の存在を認めうる。夜間はモジュール裏面(駅舎は網入りガラス裏面)に貼り付けた乳白色フィルムに室内照明光が反射し、内観は間接照明風で、昼夜で表情が異なる。パネル全体の透過率は約15%で、夏場のホームの暑さ対策を行っている。発電出力はホーム上家部で約100kW、コンコース部で約40kWであり、駅全体の消費電力の15%を賄う計画である。この発電パネルは新エネルギー・産業技術総合開発機構 (NEDO) の太陽光発電新技術フィールドテスト事業の建材一体型システムの共同研究として設置され、太陽光発電システム事業費の50%の助成を受けている。太陽電池モジュールは単位面積当たりの変換効率の高い単結晶セルを強化ガラスと透過性のあるバックシートでラミネートした構造である。発電した直流電流を系統交流電力に変換するパワーコンディショナーは、プラットホーム上下線を区分けして50kWを2台、コンコース用に40kW1台の構成で、故障時に備えた。交流に変換した電力は高圧一般配電線に系統連係され、駅構内の他負荷設備に供給される。この設備で年間約121,000kW/hの発電量が期待され、重量換算で約73tの二酸化炭素削減の効果がある。
また、ホームや線路に降った雨水を線路下の貯水タンクに貯めて浄水し、トイレの洗浄水として利用している。従来、駅構内トイレのように水道使用量が多大で、雨水利用による節水効果が高い施設での採用事例は少ない。本駅でのトイレ洗浄水量は1日約19L程度で、雨水利用による節水効果が高いと見られる。ホーム上家の雨水を雨水貯留タンク(約50L)に貯水し、濾過器で濾過した後、トイレ洗浄水として利用している。そのため、トイレ水使用量のうち25%を賄う計画となっている。鉄道駅の場合、大容量雨水貯留タンクをどこに設置するかが問題になるが、本駅はホーム下に設置された。また、トイレ洗浄水系統の給水ポンプも、地上階ではなくホーム階レベルに設置することにより、搬送動力削減も実現した。
2006年9月23日まで当駅は地上駅であり、島式ホーム2面4線で、内側が本線、外側が待避線であった。また、同日まで使用されていたホームは2代目であり、開業時から1963年頃までの初代のホームは現行の高架駅とほぼ同じ位置にあったが、元住吉検車区の拡張工事およびホーム有効長延伸工事に伴いホームを渋谷方に移動した。なお、ホームの数は初代から現行の3代目まで同じである。また、出入口は西口と東口の2か所で、それぞれ踏切の東西の脇に出るようになっていた。これは開業時からほぼ同位置である。
2006年9月23日までの地上駅時代は当駅南側の元住吉検車区に直接入庫・出庫が可能な構造であり、上下線双方から当駅が始発・終点となる列車が朝ラッシュ時や夜間に多数存在していた。さらに、当駅は特急・通勤特急・急行の通過駅であるが、検車区への出入庫を兼ねて当駅が始発・終点となる急行が設定されていた。
しかし、当駅が高架化されてからはホームが200m程日吉寄り、すなわち元住吉検車区の直上へ移設されたため、駅構内から検車区には直接入庫・出庫が不可能な構造になった。このため、隣の武蔵小杉および日吉からの出入庫となる。武蔵小杉方は目黒線の上下線路に接続されており、東横線の電車も武蔵小杉駅~当駅間では目黒線で出入庫回送する。武蔵小杉駅は渡り線などにより全ホームから検車区の入出庫が可能である。日吉方は東横線の下り線路のみに接続されており、横浜方面へ向かう電車の出庫のみに使われ、隣の日吉始発となる電車が多い。逆に日吉駅からの入庫は駅の構造上から不可能である。なお、かつて運行されていた東京メトロ日比谷線からの直通電車が元住吉検車区に出入庫する場合は全列車が武蔵小杉駅発着となっていた。
前述の通り、地上駅時代は上下線双方から当駅発着の電車が多数存在していたが、東横線横浜方面からの武蔵小杉行(検車区へ入庫する電車)は列車本数の少ない終電間際の一部電車に限られており、逆に東横線渋谷方面からの武蔵小杉行は朝ラッシュ時間帯後や夜間に多く設定されている。これは、横浜方面から入庫する場合、武蔵小杉駅で方向転換かつ目黒線上り線を横断し下り線に転線して検車区に向かう必要があり、運行に支障をきたしかねないためである。このことから、検車区への入庫も兼ねた東京メトロ03系または東急1000系による菊名始発当駅止まりは高架化を機に消滅し、駅高架化以降は回送扱いで武蔵小杉駅に到着した後、目黒線に転線した後に検車区に入庫するという運用方法が採られていた。
ただし、高架化後も東横線の上下線双方の終電(各駅停車)1本だけは従来通り当駅止まりであり、到着後そのままホームで留置され、翌日午前5時発の当駅始発列車(元町・中華街行と和光市行)として運行する。2021年ダイヤ改正により横浜方面からは元住吉行きのあとに菊名行きが新設される なお、目黒線の当駅止まり・始発の列車はない。
各線の2022年度の1日平均乗降人員は以下の通りである。目黒線が延伸するまでは東横線の各駅停車しか停車しない駅の中で最も多かった。
近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通り。
近年の1日平均乗車人員推移は下表の通り。
本駅から2つの商店街に直結している。西口からはブレーメン通り商店街、東口からはオズ通り商店街が伸び、駅前の踏切で結ばれている。
元住吉検車区の南にある綱島街道と尻手黒川道路との交差点である木月四丁目交差点は、四つ角の4か所に焼肉店があったため(2016年現在は0店)、通称「焼肉交差点」と呼ばれることもある。なお、この交差点の近くでは2006年9月24日に東横線と尻手黒川道路の逆立体化工事が行われ、それまで東横線が地平、尻手黒川道路が橋上であったのを、東横線が高架、尻手黒川道路が地平になるように切り替えられた。
駅東口側の綱島街道沿いにある「元住吉」停留所に川崎市交通局と川崎鶴見臨港バスが乗り入れるが、川崎鶴見臨港バスの乗り入れ本数は非常に少なく、さらに徒歩4分程度先の「木月住吉」停留所を案内している。また、綱島街道上にある「元住吉駅入口」停留所は、東急バスが運行する「ミッドナイトアロー」新横浜行の降車専用停留所となっている。
2011年5月23日までは駅西口付近に「元住吉駅前」停留所が存在したが、綱島街道拡幅整備に伴う停留所の使用休止(路線は木月四丁目経由に変更)を経て、この停留所を通るバス路線の経路が歩行者の安全を十分に確保できないことなどから2016年12月28日付けで復帰することなく廃止されている。
休止・廃止直前のデータ
休止・廃止直前のデータ
川崎縦貫高速鉄道線は、当初の計画では新百合ヶ丘駅から本駅までを結び、さらに川崎駅までを結ぶ予定だった。
しかし、採算性を理由に2005年に川崎市が本駅から武蔵小杉駅への接続に計画を変更している。さらに、同市は2006年4月1日をもって事業許可を取り下げている(当初は同年9月30日であったが、廃止日時を繰り上げた)。2012年時点では事業認可の再取得に向けた動きなどがあるが、2005年以降は地元住民向け説明会などが途絶えたまま具体的な話は進まずにおり、結局2013年に事実上の計画断念を発表した。
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"text": "駅舎や改札口のある改札階は渋谷寄りの3階(ホームの上)で、改札階と出入口の間は長いエスカレーターやエレベーターなどで連絡されている。ただし、階段とエレベーターは西口側に存在しているが、東口側にはない。出入口は東口と西口の2か所があり、踏切の脇に出る構造になっている。3階は開放的な造りのコンコースで植栽もされ、飲食店などの店舗も営業し、改札前広場のガラス張りの壁から階下の線路や列車を眺めることができる。改札内コンコースも広々と造られており、同じくガラス張りの壁からホームを見下ろせる。ホームは2階にあり、階段・エスカレーター・エレベーターで接続する。",
"title": "駅構造"
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"text": "また、トイレは旧駅舎時代、駅外に公衆トイレがあったことから構内には設置されていなかったが、駅舎改築に際して改札内に新設され、ユニバーサルデザインの一環として多機能トイレも併設された。洗浄にはホームや線路に貯めた雨水が使われている(後述)。",
"title": "駅構造"
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"text": "2012年2月から3月にかけて、西口出入口前に6店舗が入居する地域密着型の商業施設がオープンした。",
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"text": "当駅は、環境に配慮した駅を謳っているのが特徴に挙げられる。",
"title": "駅構造"
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"text": "ホームおよびコンコースの屋根部分に鉄道駅で最大級となる太陽光発電システムを導入しており、最大出力時に駅で使用する電力の約14%程度を賄えるという。また、改札内・外コンコースに液晶ディスプレイがそれぞれ1台設置され、発電量を表示するだけでなく、地域の既存ネットワークを活用した天気予報や企業広告などの表示も視野に入れている。なお、このディスプレイは大井町線の各駅などに設置されている「東急お知らせモニター」とは別物である。",
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"text": "発電パネルには田園都市線の南町田グランベリーパーク駅でも実績のある透過(採光)型建材一体型パネルが採用され、従来型パネルのバックシートを透過(採光)型に変更することで製品重量の増加を避けた。駅舎部のトップライトは耐火性が要求されるのでパネルの下面(室内側)に網入りガラスを取り付けた二重構造である。これは透過型で、日中はセルの隙間から太陽光を透過させて照明負荷の軽減を図りつつ、シルエットで太陽光発電の存在を認めうる。夜間はモジュール裏面(駅舎は網入りガラス裏面)に貼り付けた乳白色フィルムに室内照明光が反射し、内観は間接照明風で、昼夜で表情が異なる。パネル全体の透過率は約15%で、夏場のホームの暑さ対策を行っている。発電出力はホーム上家部で約100kW、コンコース部で約40kWであり、駅全体の消費電力の15%を賄う計画である。この発電パネルは新エネルギー・産業技術総合開発機構 (NEDO) の太陽光発電新技術フィールドテスト事業の建材一体型システムの共同研究として設置され、太陽光発電システム事業費の50%の助成を受けている。太陽電池モジュールは単位面積当たりの変換効率の高い単結晶セルを強化ガラスと透過性のあるバックシートでラミネートした構造である。発電した直流電流を系統交流電力に変換するパワーコンディショナーは、プラットホーム上下線を区分けして50kWを2台、コンコース用に40kW1台の構成で、故障時に備えた。交流に変換した電力は高圧一般配電線に系統連係され、駅構内の他負荷設備に供給される。この設備で年間約121,000kW/hの発電量が期待され、重量換算で約73tの二酸化炭素削減の効果がある。",
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"text": "また、ホームや線路に降った雨水を線路下の貯水タンクに貯めて浄水し、トイレの洗浄水として利用している。従来、駅構内トイレのように水道使用量が多大で、雨水利用による節水効果が高い施設での採用事例は少ない。本駅でのトイレ洗浄水量は1日約19L程度で、雨水利用による節水効果が高いと見られる。ホーム上家の雨水を雨水貯留タンク(約50L)に貯水し、濾過器で濾過した後、トイレ洗浄水として利用している。そのため、トイレ水使用量のうち25%を賄う計画となっている。鉄道駅の場合、大容量雨水貯留タンクをどこに設置するかが問題になるが、本駅はホーム下に設置された。また、トイレ洗浄水系統の給水ポンプも、地上階ではなくホーム階レベルに設置することにより、搬送動力削減も実現した。",
"title": "駅構造"
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"text": "2006年9月23日まで当駅は地上駅であり、島式ホーム2面4線で、内側が本線、外側が待避線であった。また、同日まで使用されていたホームは2代目であり、開業時から1963年頃までの初代のホームは現行の高架駅とほぼ同じ位置にあったが、元住吉検車区の拡張工事およびホーム有効長延伸工事に伴いホームを渋谷方に移動した。なお、ホームの数は初代から現行の3代目まで同じである。また、出入口は西口と東口の2か所で、それぞれ踏切の東西の脇に出るようになっていた。これは開業時からほぼ同位置である。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "2006年9月23日までの地上駅時代は当駅南側の元住吉検車区に直接入庫・出庫が可能な構造であり、上下線双方から当駅が始発・終点となる列車が朝ラッシュ時や夜間に多数存在していた。さらに、当駅は特急・通勤特急・急行の通過駅であるが、検車区への出入庫を兼ねて当駅が始発・終点となる急行が設定されていた。",
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"text": "しかし、当駅が高架化されてからはホームが200m程日吉寄り、すなわち元住吉検車区の直上へ移設されたため、駅構内から検車区には直接入庫・出庫が不可能な構造になった。このため、隣の武蔵小杉および日吉からの出入庫となる。武蔵小杉方は目黒線の上下線路に接続されており、東横線の電車も武蔵小杉駅~当駅間では目黒線で出入庫回送する。武蔵小杉駅は渡り線などにより全ホームから検車区の入出庫が可能である。日吉方は東横線の下り線路のみに接続されており、横浜方面へ向かう電車の出庫のみに使われ、隣の日吉始発となる電車が多い。逆に日吉駅からの入庫は駅の構造上から不可能である。なお、かつて運行されていた東京メトロ日比谷線からの直通電車が元住吉検車区に出入庫する場合は全列車が武蔵小杉駅発着となっていた。",
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"text": "前述の通り、地上駅時代は上下線双方から当駅発着の電車が多数存在していたが、東横線横浜方面からの武蔵小杉行(検車区へ入庫する電車)は列車本数の少ない終電間際の一部電車に限られており、逆に東横線渋谷方面からの武蔵小杉行は朝ラッシュ時間帯後や夜間に多く設定されている。これは、横浜方面から入庫する場合、武蔵小杉駅で方向転換かつ目黒線上り線を横断し下り線に転線して検車区に向かう必要があり、運行に支障をきたしかねないためである。このことから、検車区への入庫も兼ねた東京メトロ03系または東急1000系による菊名始発当駅止まりは高架化を機に消滅し、駅高架化以降は回送扱いで武蔵小杉駅に到着した後、目黒線に転線した後に検車区に入庫するという運用方法が採られていた。",
"title": "駅構造"
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"text": "ただし、高架化後も東横線の上下線双方の終電(各駅停車)1本だけは従来通り当駅止まりであり、到着後そのままホームで留置され、翌日午前5時発の当駅始発列車(元町・中華街行と和光市行)として運行する。2021年ダイヤ改正により横浜方面からは元住吉行きのあとに菊名行きが新設される なお、目黒線の当駅止まり・始発の列車はない。",
"title": "駅構造"
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"text": "各線の2022年度の1日平均乗降人員は以下の通りである。目黒線が延伸するまでは東横線の各駅停車しか停車しない駅の中で最も多かった。",
"title": "利用状況"
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"text": "近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通り。",
"title": "利用状況"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "近年の1日平均乗車人員推移は下表の通り。",
"title": "利用状況"
},
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"text": "本駅から2つの商店街に直結している。西口からはブレーメン通り商店街、東口からはオズ通り商店街が伸び、駅前の踏切で結ばれている。",
"title": "駅周辺"
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"text": "元住吉検車区の南にある綱島街道と尻手黒川道路との交差点である木月四丁目交差点は、四つ角の4か所に焼肉店があったため(2016年現在は0店)、通称「焼肉交差点」と呼ばれることもある。なお、この交差点の近くでは2006年9月24日に東横線と尻手黒川道路の逆立体化工事が行われ、それまで東横線が地平、尻手黒川道路が橋上であったのを、東横線が高架、尻手黒川道路が地平になるように切り替えられた。",
"title": "駅周辺"
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"text": "駅東口側の綱島街道沿いにある「元住吉」停留所に川崎市交通局と川崎鶴見臨港バスが乗り入れるが、川崎鶴見臨港バスの乗り入れ本数は非常に少なく、さらに徒歩4分程度先の「木月住吉」停留所を案内している。また、綱島街道上にある「元住吉駅入口」停留所は、東急バスが運行する「ミッドナイトアロー」新横浜行の降車専用停留所となっている。",
"title": "駅周辺"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "2011年5月23日までは駅西口付近に「元住吉駅前」停留所が存在したが、綱島街道拡幅整備に伴う停留所の使用休止(路線は木月四丁目経由に変更)を経て、この停留所を通るバス路線の経路が歩行者の安全を十分に確保できないことなどから2016年12月28日付けで復帰することなく廃止されている。",
"title": "駅周辺"
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"text": "休止・廃止直前のデータ",
"title": "駅周辺"
},
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"tag": "p",
"text": "休止・廃止直前のデータ",
"title": "駅周辺"
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"text": "川崎縦貫高速鉄道線は、当初の計画では新百合ヶ丘駅から本駅までを結び、さらに川崎駅までを結ぶ予定だった。",
"title": "川崎縦貫高速鉄道線計画"
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"text": "しかし、採算性を理由に2005年に川崎市が本駅から武蔵小杉駅への接続に計画を変更している。さらに、同市は2006年4月1日をもって事業許可を取り下げている(当初は同年9月30日であったが、廃止日時を繰り上げた)。2012年時点では事業認可の再取得に向けた動きなどがあるが、2005年以降は地元住民向け説明会などが途絶えたまま具体的な話は進まずにおり、結局2013年に事実上の計画断念を発表した。",
"title": "川崎縦貫高速鉄道線計画"
}
] |
元住吉駅(もとすみよしえき)は、神奈川県川崎市中原区木月一丁目にある、東急電鉄の駅である。 線路名称上、当駅を通る路線は東横線のみであるが、当駅前後の複々線を利用して東横線の列車と目黒線の列車の2系統が乗り入れており、それぞれ別路線として案内されている。駅番号も個別に与えられており、東横線がTY12、目黒線がMG12である。 「元住吉」は地名ではない(旧住吉村の意味で駅名として命名された)。隣接する元住吉検車区の住所は神奈川県川崎市中原区木月三丁目であり、駅の住所とは異なる(元住吉駅は木月一丁目36-1、検車区は木月三丁目36-1)。
|
{{駅情報
|社色 = #ee0011
|文字色 =
|駅名 = 元住吉駅
|画像 = Motosumiyoshi-Sta-W.JPG
|pxl = 300px
|画像説明 = 元住吉駅西口([[2015年]][[7月19日]])
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}}
|よみがな = もとすみよし
|ローマ字 = Motosumiyoshi
|副駅名 =
|所属事業者 = [[東急電鉄]]
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#da0442|■}}[[東急東横線|東横線]]
|前の駅1 = TY11 [[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]
|駅間A1 = 1.3
|駅間B1 = 1.5
|次の駅1 = [[日吉駅 (神奈川県)|日吉]] TY13
|駅番号1 = {{駅番号r|TY|12|#da0442|3}}
|キロ程1 = 12.1
|起点駅1 = [[渋谷駅|渋谷]]
|所属路線2 = {{color|#009cd2|■}}[[東急目黒線|目黒線]]
|前の駅2 = MG11 武蔵小杉
|駅間A2 = 1.3
|駅間B2 = 1.5
|次の駅2 = 日吉 MG13
|駅番号2 = {{駅番号r|MG|12|#009cd2|3}}
|キロ程2 = 10.4
|起点駅2 = [[目黒駅|目黒]]
|所在地 = [[川崎市]][[中原区]][[木月 (川崎市)|木月]]一丁目36-1
|緯度度 = 35 |緯度分 = 33 |緯度秒 = 51 |N(北緯)及びS(南緯) = N
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| 地図国コード = JP
| 座標右上表示 = Yes
|開業年月日 = [[1926年]]([[大正]]15年)[[2月14日]]<ref name="jtb57"/>
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面6線(2面4線)
|乗降人員 = <ref group="東急" name="tokyu2022" />(東横線)39,053人/日<br>(目黒線)16,461人/日<br />(合計)55,514
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|<br />元住吉駅<br />配線図|#ee0011}}
{{BS-table|配線}}
{{BS-colspan}}
↑[[武蔵小杉駅]]
{{BS6text|(6)|5|4|3|2|(1)||}}
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↓[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]
|}
|}
{{Vertical images list
|幅 = 220px
|1 = Motosumiyoshi-Sta-E.JPG
|2 = 東口(2015年7月19日)
|3 = Motosumi westgate.jpg
|4 = 改札口(2008年10月23日)
|5 = Tokyu Motosumiyoshi sta. platform.JPG
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|7 = Motosumiyoshi-Sta-Platform.JPG
|8 = ホーム(2015年7月19日)
}}
'''元住吉駅'''(もとすみよしえき)は、[[神奈川県]][[川崎市]][[中原区]][[木月 (川崎市)|木月]]一丁目にある、[[東急電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。
線路名称上、当駅を通る路線は[[東急東横線|東横線]]のみであるが、当駅前後の[[複々線]]を利用して東横線の列車と[[東急目黒線|目黒線]]の列車の2系統が乗り入れており、それぞれ別路線として案内されている。駅番号も個別に与えられており、東横線が'''TY12'''、目黒線が'''MG12'''である。
「元住吉」は地名ではない(旧[[住吉村 (神奈川県)|住吉村]]の意味で駅名として命名された)。隣接する元住吉検車区の住所は神奈川県川崎市中原区木月三丁目であり、駅の住所とは異なる(元住吉駅は木月一丁目36-1、検車区は木月三丁目36-1)。
== 歴史 ==
* [[1926年]]([[大正]]15年)[[2月14日]] - 開業<ref name="jtb57">[[#jtb|東急の駅]]、p.57。</ref>。
* [[1940年]]([[昭和]]15年) - 橋上駅舎化<ref name="jtb57"/>。
* [[1961年]]([[昭和]]36年)[[12月12日]] - 駅を北側に移動し、駅舎を地下化<ref name="jtb57"/>。
* [[1974年]](昭和49年)[[6月1日]] - 磁気式自動改札機を本格設置<ref>{{Cite news |和書|title=七駅の改札口自動化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-05-29 |page=1 }}</ref>。それ以前に、光学読取式自動改札機を試験設置したことがあったが、この時点から、他の10駅同様磁気式となった。
* [[2000年]](平成12年) [[3月30日]] - 当駅を含む武蔵小杉駅 - 日吉駅間の複々線化工事に着手<ref name="Tokyu2000-3-8">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20210205125748/https://www.tokyu.co.jp/file/000308.pdf 東横線武蔵小杉~日吉間線増工事に着手(東京急行電鉄ニューリリース)]}}(インターネットアーカイブ・2021年時点の版)</ref>。
* [[2006年]]([[平成]]18年)
** [[9月24日]] - 地上駅から高架駅に切り替わるとともに駅構造も2面4線から2面6線に変更<ref>{{Cite journal |和書 |title=元住吉駅を高架化します|journal =HOT ほっと TOKYU
|date=2006-08-20|issue =313|url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0609/0609.pdf |publisher=東京急行電鉄|accessdate=2017-01-22|format=PDF}}</ref>。高架駅は車両基地の直上に建設したため、前述したように地上駅の時より日吉方に約200m再移動。
** [[9月25日]] - 前日の24日まで設定されていた本駅始発・終着の急行が廃止。
* [[2007年]](平成19年)[[8月23日]] - 目黒線延伸工事(武蔵小杉駅 - 日吉駅間)の進捗に伴い、この日のダイヤ改正から隣の日吉駅待避線である2・3番線を目黒線の線路に転換する工事が行われることになり、待避線の使用ができなくなることから同駅で行っていた待避をすべて本駅に移転。
* [[2008年]](平成20年)
** [[2月28日]] - 3・4番線(目黒線ホーム)に[[ホームドア]]を設置。
** [[6月22日]] - 目黒線が[[武蔵小杉駅]]から延伸開業。
* [[2014年]](平成26年)[[2月15日]] - 下り線ホームに停車していた電車に後続の電車が追突([[日本の鉄道事故 (2000年以降)#東急東横線元住吉駅追突事故]])<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1500B_V10C14A2000000/ 東急東横線で電車追突、18人けが 元住吉駅] - 日本経済新聞 2014年2月15日</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** [[2月13日]] - 2・5番線(東横線ホーム)にもホームドアを設置。
=== 駅名の由来 ===
かつてこの辺りは[[橘樹郡]][[住吉村 (神奈川県)|住吉村]]であったが、[[1925年]](大正14年)に[[中原町 (神奈川県)|中原町]]に合併され、「住吉」の地名がなくなったことから、翌[[1926年]](大正15年)の[[東京横浜電鉄]]開業時にこの地に設置する駅の名称を地元からの要望にて「'''元'''住吉」と命名したことによる。「元の住吉村」という意味である。「元住吉」という地名は開業前も現在も存在しない。なお、所在地の「木月」は住吉村となる前の[[木月村 (神奈川県)|木月村]]に由来する。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面6線の[[高架駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を持つ。外側2線は東横線の[[東急東横線#特急(東横特急)|特急]]・[[東急東横線#通勤特急|通勤特急]]・[[東急東横線#急行|急行]]の通過線である。
東横線では、長らく[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]において[[東急東横線#各駅停車|各駅停車]]と急行との[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]が行われていた。[[1980年]]代末において日吉駅での大規模な改良工事の実施に伴い、待避線が使用できなくなった。このため、当該工事期間中に限り各駅停車は当駅で急行の通過待ちを行っていた。この改良工事完成後は日吉駅での緩急接続に戻され、早朝の各駅停車渋谷行1本のみが当駅で急行の通過待ちを行っていた。
しかし、[[東急目黒線|目黒線]]延伸開業(武蔵小杉 - 日吉間)に先立ち、日吉駅の待避線を目黒線の線路に切り替えるための工事が実施されるため、[[2007年]][[8月23日]]のダイヤ改正からは、日吉駅での速達列車の接続・通過待ちはすべて当駅での通過待ちに変更された。
駅舎や[[改札|改札口]]のある改札階は[[渋谷駅|渋谷]]寄りの3階(ホームの上)で、改札階と出入口の間は長い[[エスカレーター]]や[[エレベーター]]などで連絡されている。ただし、[[階段]]とエレベーターは西口側に存在しているが、東口側にはない。出入口は東口と西口の2か所があり、[[踏切]]の脇に出る構造になっている。3階は開放的な造りの[[コンコース]]で植栽もされ、[[飲食店]]などの店舗も営業し、改札前広場のガラス張りの壁から階下の線路や列車を眺めることができる。改札内コンコースも広々と造られており、同じくガラス張りの壁からホームを見下ろせる。ホームは2階にあり、階段・エスカレーター・エレベーターで接続する。
また、[[便所|トイレ]]は旧駅舎時代、駅外に[[公衆便所|公衆トイレ]]があったことから構内には設置されていなかったが、駅舎改築に際して改札内に新設され、[[ユニバーサルデザイン]]の一環として多機能トイレも併設された。洗浄にはホームや線路に貯めた[[雨水]]が使われている(後述)。
[[2012年]]2月から3月にかけて、西口出入口前に6店舗が入居する地域密着型の商業施設がオープンした<ref>[http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/120126-2.pdf 東横線・目黒線元住吉駅西口に地域密着型の商業施設がオープン] - 2012年1月26日、東京急行電鉄。</ref>。
=== 環境対策 ===
当駅は、環境に配慮した駅を謳っているのが特徴に挙げられる。
ホームおよび[[コンコース]]の屋根部分に鉄道駅で最大級となる[[太陽光発電]]システムを導入しており、最大出力時に駅で使用する電力の約14%程度を賄えるという。また、改札内・外コンコースに[[液晶ディスプレイ]]がそれぞれ1台設置され、発電量を表示するだけでなく、地域の既存ネットワークを活用した[[天気予報]]や企業[[広告]]などの表示も視野に入れている。なお、このディスプレイは[[東急大井町線|大井町線]]の各駅などに設置されている「東急お知らせモニター」とは別物である。
発電パネルには[[東急田園都市線|田園都市線]]の[[南町田グランベリーパーク駅]]でも実績のある透過(採光)型建材一体型パネルが採用され、従来型パネルのバックシートを透過(採光)型に変更することで製品重量の増加を避けた。駅舎部のトップライトは耐火性が要求されるのでパネルの下面(室内側)に網入りガラスを取り付けた二重構造である。これは透過型で、日中はセルの隙間から太陽光を透過させて[[照明]]負荷の軽減を図りつつ、シルエットで太陽光発電の存在を認めうる。夜間はモジュール裏面(駅舎は網入りガラス裏面)に貼り付けた乳白色フィルムに室内照明光が反射し、内観は間接照明風で、昼夜で表情が異なる。パネル全体の透過率は約15%で、夏場のホームの暑さ対策を行っている。発電出力はホーム上家部で約100kW、コンコース部で約40kWであり、駅全体の消費電力の15%を賄う計画である<ref name="ecosta">{{PDFlink|http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/pdf/051118.pdf}}</ref>。この発電パネルは[[新エネルギー・産業技術総合開発機構]] (NEDO) の太陽光発電新技術フィールドテスト事業の建材一体型システムの共同研究として設置され、太陽光発電システム事業費の50%の助成を受けている。[[太陽電池]]モジュールは単位面積当たりの変換効率の高い単結晶セルを強化ガラスと透過性のあるバックシートでラミネートした構造である。発電した[[直流]]電流を系統[[交流]]電力に変換するパワーコンディショナーは、プラットホーム上下線を区分けして50kWを2台、コンコース用に40kW1台の構成で、故障時に備えた。交流に変換した電力は高圧一般配電線に系統連係され、駅構内の他負荷設備に供給される。この設備で年間約121,000kW/hの発電量が期待され、重量換算で約73tの[[二酸化炭素]]削減の効果がある。
また、ホームや線路に降った雨水を線路下の貯水タンクに貯めて浄水し、トイレの洗浄水として利用している。従来、駅構内トイレのように水道使用量が多大で、雨水利用による節水効果が高い施設での採用事例は少ない。本駅でのトイレ洗浄水量は1日約19L程度で、雨水利用による節水効果が高いと見られる。ホーム上家の雨水を雨水貯留タンク(約50L)に貯水し、濾過器で濾過した後、トイレ洗浄水として利用している。そのため、トイレ水使用量のうち25%を賄う計画となっている<ref name="ecosta"></ref>。鉄道駅の場合、大容量雨水貯留タンクをどこに設置するかが問題になるが、本駅はホーム下に設置された。また、トイレ洗浄水系統の給水ポンプも、地上階ではなくホーム階レベルに設置することにより、搬送動力削減も実現した。
=== 駅構造の推移 ===
[[2006年]][[9月23日]]まで当駅は[[地上駅]]であり、島式ホーム2面4線で、内側が本線、外側が待避線であった。また、同日まで使用されていたホームは2代目であり、開業時から[[1963年]]頃までの初代のホームは現行の高架駅とほぼ同じ位置にあったが、[[元住吉検車区]]の拡張工事およびホーム[[有効長]]延伸工事に伴いホームを渋谷方に移動した。なお、ホームの数は初代から現行の3代目まで同じである。また、出入口は西口と東口の2か所で、それぞれ踏切の東西の脇に出るようになっていた。これは開業時からほぼ同位置である。
* '''初代ホーム'''(1926年2月14日 - 1963年頃)
** 改札:橋上式、階段:それぞれのホームの渋谷方の端、改札口:橋上の1か所のみ
* '''2代目ホーム'''(1963年頃 - 2006年9月22日)
** 改札:地下式、階段:それぞれのホームの横浜方の端、改札口:地下の1か所のみ<ref>[https://web.archive.org/web/20020614064342fw_/http://www.tokyu.co.jp/train/shisetsu/shisetsu_motosumiyoshi.html 元住吉駅](東京急行電鉄ホームページ・インターネットアーカイブ・2002年6月時点)。</ref>
* '''3代目ホーム'''(2006年9月23日 - )
** 改札:高架式、階段・エスカレーター・エレベーター:それぞれのホームの渋谷方の端(階段とエレベーターは西口側に存在し、東口側にはない)、改札口:ホーム上の1か所のみ
<gallery>
Former Motosumiyoshi station.jpg|旧プラットホーム。2008年6月の目黒線日吉延長後は内側2線を目黒線の上り勾配に改造、外側2線を入・出庫線としている
Tokyu Motosumiyoshi sta. east entrance.JPG|東口(2007年8月14日)
</gallery>
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!2
|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
|rowspan="2" style="text-align:center"|下り
|[[横浜駅|横浜]]・[[元町・中華街駅|元町・中華街]]・[[新横浜駅|新横浜]]・[[二俣川駅|二俣川]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty12_motosumiyoshi2.pdf|title=東横線標準時刻表 元住吉駅 横浜 元町・中華街 新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|-
!3
|rowspan="2"|[[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線
|[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]・新横浜・二俣川方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_mg12_motosumiyoshi2.pdf|title=目黒線標準時刻表 元住吉駅 日吉・新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|-
!4
|rowspan="2" style="text-align:center"|上り
|[[目黒駅|目黒]]・[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]・[[西高島平駅|西高島平]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_mg12_motosumiyoshi.pdf|title=目黒線標準時刻表 元住吉駅 目黒方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|-
!5
|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
|[[渋谷駅|渋谷]]・[[池袋駅|池袋]]・[[川越市駅|川越市]]・[[所沢駅|所沢]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty12_motosumiyoshi.pdf|title=東横線標準時刻表 元住吉駅 渋谷方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|}
=== 備考 ===
* 当駅では、[[東急新横浜線]]・[[相模鉄道|相鉄線]]との直通列車は目黒線ホームにのみ発着する(東横線の直通列車はすべて通過)。
* 東横線の通過線にホームはないが、下りが1番線、上りが6番線である。そのため、ホームの番線表示は2 - 5番線が振られている。
* 東横線は各駅停車のみの停車であるため、ホームの[[有効長]]は20m級車両8両分であるが、東横線の回送電車が当駅に停車する場合や非常時に備え、20m級10両編成の電車が停車できる様、非常用ホームとして2両分延長している。延長部は通常は柵で封鎖され、ホームドアも設置されない。
*後述の通り2番線と5番線に各1編成が夜間留置される。また通過線である6番線にも、平日は菊名駅、土休日は日吉駅から回送される1編成が夜間留置され、翌朝武蔵小杉方へ回送で出発する。
* 東横線の武蔵小杉寄りに非常用の渡り線が設置されており、ダイヤの乱れが発生した場合に使用される。
=== 元住吉検車区 ===
{{See also|元住吉検車区}}
[[2006年]][[9月23日]]までの地上駅時代は当駅南側の元住吉検車区に直接入庫・出庫が可能な構造であり、上下線双方から当駅が始発・終点となる列車が朝ラッシュ時や夜間に多数存在していた。さらに、当駅は特急・通勤特急・急行の通過駅であるが、検車区への出入庫を兼ねて当駅が始発・終点となる急行が設定されていた<ref>[https://web.archive.org/web/20010126064500fw_/http://www.tokyu.co.jp/jikoku/ty_wk_2_1.html 東横線渋谷駅下り時刻表(2000年9月改正時点)]平日朝ラッシュ終了後に多数の急行元住吉駅行きが設定されている(東京急行電鉄ホームページ・インターネットアーカイブ・2002年6月時点)。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20010417174837/http://www.tokyu.co.jp/jikoku/ty_wk_1_12.html 東横線元住吉駅上り時刻表(2000年9月改正時点)]急行は本来通過であるが、平日朝に当駅始発の急行(発車時刻入り)が設定されている。(東京急行電鉄ホームページ・インターネットアーカイブ・2002年6月時点)。</ref><ref>2009年4月時点でこのような運転方法を採用している駅として[[京阪本線]]の[[淀駅]]、[[東武伊勢崎線]]の[[北春日部駅]]、[[名鉄名古屋本線]]の[[須ヶ口駅]]、[[近鉄京都線]]の[[近鉄宮津駅]]、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[関西本線]](大和路線)の[[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]]があり、いずれも当時の本駅と同様に普通列車(各駅停車)と当該駅が始発・終点となる速達列車のみが停車する。なお一部停車する優等列車の種別は、京阪と近鉄は急行、東武は区間急行、JRは快速、名鉄の須ヶ口駅は快速急行と[[名鉄特急|特急]]である。また、1994年まではJR西日本[[阪和線]]の[[日根野駅]]も同駅発着の快速に限りこの事例に当てはまっていたが、こちらは同駅から分岐する[[関西空港線]]の開業により全快速列車が停車するようになったため、この事例に含まれなくなった。</ref>。
しかし、当駅が高架化されてからはホームが200m程日吉寄り、すなわち元住吉検車区の直上へ移設されたため、駅構内から検車区には直接入庫・出庫が不可能な構造になった。このため、隣の武蔵小杉および日吉からの出入庫となる。武蔵小杉方は目黒線の上下線路に接続されており、東横線の電車も武蔵小杉駅~当駅間では目黒線で出入庫回送する。武蔵小杉駅は渡り線などにより全ホームから検車区の入出庫が可能である。日吉方は東横線の下り線路のみに接続されており、横浜方面へ向かう電車の出庫のみに使われ、隣の日吉始発となる電車が多い。逆に日吉駅からの入庫は駅の構造上から不可能である。なお、かつて運行されていた[[東京メトロ日比谷線]]からの直通電車が元住吉検車区に出入庫する場合は全列車が武蔵小杉駅発着となっていた。
前述の通り、地上駅時代は上下線双方から当駅発着の電車が多数存在していたが、東横線横浜方面からの武蔵小杉行(検車区へ入庫する電車)は列車本数の少ない終電間際の一部電車に限られており、逆に東横線渋谷方面からの武蔵小杉行は朝ラッシュ時間帯後や夜間に多く設定されている。これは、横浜方面から入庫する場合、武蔵小杉駅で方向転換かつ目黒線上り線を横断し下り線に転線して検車区に向かう必要があり、運行に支障をきたしかねないためである。このことから、検車区への入庫も兼ねた[[営団03系電車|東京メトロ03系]]または[[東急1000系電車|東急1000系]]による菊名始発当駅止まりは高架化を機に消滅し、駅高架化以降は回送扱いで武蔵小杉駅に到着した後、目黒線に転線した後に検車区に入庫するという運用方法が採られていた。
ただし、高架化後も東横線の上下線双方の[[終電]](各駅停車)1本だけは従来通り当駅止まりであり、到着後そのままホームで[[夜間滞泊|留置]]され、翌日午前5時発の当駅[[始発列車]](元町・中華街行と[[和光市駅|和光市]]行)として運行する。2021年ダイヤ改正により横浜方面からは元住吉行きのあとに菊名行きが新設される なお、目黒線の当駅止まり・始発の列車はない。
=== 臨時運行による特例 ===
* ハイシーズンに運行される臨時急行「[[みなとみらい号]]」は、北千住発着列車は従来日吉で特急を待避していたが、目黒線の日吉乗り入れで待避が不可能になった関係で2006年12月運行分より本駅に停車し、待避するようになった。なお、2008年7月運行分より高島平発着列車が、同年12月運行分より浦和美園発着列車がそれぞれ本駅に停車するようになった。
* 2007年[[6月30日]]と[[7月1日]]に運転された[[臨時列車]]「リバイバル急行[[東急8000系電車|8000系]]号」で、上り一方向のみだが「急行 元住吉行」が復活した。本駅の5番線に乗客を降ろした後、[[回送]]扱いで武蔵小杉で折り返し、目黒線の線路を通って元住吉検車区に入庫した<ref>[http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/mid/oshirase/8000-Lastrun.html 東急線のお知らせ「リバイバル急行8000系号」を運転します]</ref>。
* 2007年[[7月12日]]に運転された東横線開業80周年記念の祝賀列車は渋谷からの片道運転で、本駅到着後日吉へ回送し、折り返し本駅を通過して武蔵小杉まで回送、さらに折り返して目黒線の線路を通って元住吉検車区に入庫した。
* 2008年[[1月13日]]に運転された8000系のさよなら運転<ref>[http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/mid/oshirase/071228_1_8000-Lastrun.html 東急線のお知らせ「8000系さよなら運転」]</ref>が実施された際は、今まで設定されたことのなかった「特急 元住吉行」が運行され、特急停車駅の他に通常特急が停車しない本駅にも停車した。また、本駅で定期列車の特急渋谷行および元町・中華街行を待避するという珍しい光景も見られた。
* [[2009年]][[9月21日]] - [[9月23日|23日]]に運転された臨時急行「[[開国博Y150|Y150たねまる]]号」は、ダイヤおよび待避設備の都合上本駅に臨時停車して、後続の特急を待避した。
== 利用状況 ==
各線の[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は以下の通りである<ref group="東急" name="tokyu2022" />。目黒線が延伸するまでは東横線の各駅停車しか停車しない駅の中で最も多かった。
* 東横線 - '''39,053人'''
* 目黒線 - '''16,461人'''
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan=3|年度
!colspan=4|東急電鉄
|-
!colspan=2|東横線
!colspan=2|目黒線
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2002年(平成14年)
|58,818||
|rowspan=6 colspan=2 style="text-align:center"|未開業
|-
|2003年(平成15年)
|58,406||−0.7%
|-
|2004年(平成16年)
|57,836||−1.0%
|-
|2005年(平成17年)
|58,147||0.5%
|-
|2006年(平成18年)
|60,049||3.3%
|-
|2007年(平成19年)
|61,425||2.3%
|-
|2008年(平成20年)
|51,529||−16.1%
|10,620||
|-
|2009年(平成21年)
|46,983||−8.8%
|15,085||42.0%
|-
|2010年(平成22年)
|45,859||−2.4%
|14,661||−2.8%
|-
|2011年(平成23年)
|45,308||−1.2%
|14,877||1.5%
|-
|2012年(平成24年)
|46,071||1.7%
|15,564||4.6%
|-
|2013年(平成25年)
|47,228||2.5%
|16,657||7.0%
|-
|2014年(平成26年)
|46,453||−1.6%
|17,130||2.8%
|-
|2015年(平成27年)
|46,595||0.3%
|17,651||3.0%
|-
|2016年(平成28年)
|47,085||1.1%
|18,378||4.1%
|-
|2017年(平成29年)
|47,191||0.2%
|19,318||5.1%
|-
|2018年(平成30年)
|47,688||1.1%
|20,304||5.1%
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="東急" name="tokyu2019">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2019.html |title=2019年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>47,049||−1.3%
|<ref group="東急" name="tokyu2019" />20,804||2.5%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="東急" name="tokyu2020">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2020.html |title=2020年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>34,632||−26.4%
|<ref group="東急" name="tokyu2020" />14,477||−30.4%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="東急" name="tokyu2021">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2021.html |title=2021年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>37,060||7.0%
|<ref group="東急" name="tokyu2021" />15,201||5.0%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="東急" name="tokyu2022">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ |title=2022年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>39,053||5.4%
|<ref group="東急" name="tokyu2022" />16,461||8.3%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員 ===
近年の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通り。
* 1日平均乗車人員は神奈川県県勢要覧を参照<!--神奈川県県勢要覧と川崎市統計書とでは集計方法が異なるため-->(目黒線の乗車人員を含む)。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[http://www.city.kawasaki.jp/shisei/category/51-4-15-0-0-0-0-0-0-0.html 川崎市統計書] - 川崎市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|32,210
|<ref group="乗降データ">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/992578_3227111_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}} - 24ページ</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|30,795
|<ref group="神奈川県統計">平成12年 - 222ページ</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|30,123
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" >{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}} - 224ページ</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|30,109
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|30,025
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|29,806
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|29,365
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|28,891
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}} - 224ページ</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|29,076
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}} - 224ページ</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|30,054
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}} - 226ページ</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|31,002
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}} - 230ページ</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|31,334
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}} - 240ページ</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|31,283
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|30,441
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|30,222
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}} - 234ページ</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|30,937
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}} - 236ページ</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|32,012
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|31,850
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|32,207
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}} - 246ページ</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|32,792
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}} - 238ページ</ref>
|}
== 駅周辺 ==
{{See also|木月 (川崎市)|木月住吉町}}
本駅から2つの[[商店街]]に直結している。西口からは[[ブレーメン通り商店街]]、東口からは[[オズ通り商店街]]が伸び、駅前の[[踏切]]で結ばれている。
元住吉検車区の南にある綱島街道と尻手黒川道路との交差点である木月四丁目交差点は、四つ角の4か所に焼肉店があったため(2016年現在は0店)、通称「[[焼肉]]交差点」と呼ばれることもある。なお、この交差点の近くでは2006年9月24日に東横線と尻手黒川道路の逆立体化工事が行われ、それまで東横線が地平、尻手黒川道路が橋上であったのを、東横線が高架、尻手黒川道路が地平になるように切り替えられた。
* [[住吉神社 (川崎市)|住吉神社]]
*[[労働者健康安全機構]] [[関東労災病院]]
* [[東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線]](綱島街道)
* [[神奈川県道14号鶴見溝ノ口線]](尻手黒川道路)
* 東京急行電鉄 [[元住吉検車区]]
** 東急教習所・動力車操縦者養成所
* [[神奈川県立住吉高等学校]]
* [[法政大学第二中・高等学校]]
* [[中原平和記念公園]]
* [[川崎市平和館]]
* [[川崎市国際交流センター]]
* [[住吉書房]] 本店
* 川崎木月[[郵便局]]
* 川崎ブレーメン通郵便局
* 川崎木月大町郵便局
* メディカルプラザD元住吉
=== 路線バス ===
駅東口側の綱島街道沿いにある「元住吉」停留所に[[川崎市交通局]]と[[川崎鶴見臨港バス]]が乗り入れるが、川崎鶴見臨港バスの乗り入れ本数は非常に少なく、さらに徒歩4分程度先の「木月住吉」停留所を案内している。また、綱島街道上にある「'''元住吉駅入口'''」停留所は、[[東急バス]]が運行する「ミッドナイトアロー」新横浜行の降車専用停留所となっている。
[[2011年]][[5月23日]]までは駅西口付近に「元住吉駅前」停留所が存在したが、綱島街道拡幅整備に伴う停留所の使用休止(路線は木月四丁目経由に変更)<ref>[http://www.city.kawasaki.jp/820/page/0000001042.html 元住吉駅前(もとすみよしえきまえ)] - 川崎市交通局 2011年4月28日</ref>を経て、この停留所を通るバス路線の経路が歩行者の安全を十分に確保できないことなどから2016年12月28日付けで復帰することなく廃止されている<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/182363 川崎市、バス路線廃止を届け出 元住吉駅前通経由バス 安全確保など難しく] - [[神奈川新聞]](カナロコ) 2016年6月29日掲載 2016年12月29日閲覧</ref>。
==== 元住吉停留所 ====
;1番乗り場
{| class="wikitable" style="text-align:left"
!系統名!!主要経由地!!行 先!! 運行事業者!!備 考
|-
|[[川崎市バス井田営業所#新城線|川66]]||江川町・小倉・塚越||川崎駅西口||rowspan="4"|川崎市バス||rowspan="2"|
|-
|[[川崎市バス上平間営業所#新城線|川66]]||平間駅前||上平間
|-
|[[川崎市バス井田営業所#新城線|杉01]]||労災病院前||小杉駅東口||日中のみ
|-
|[[川崎市バス井田営業所#新城線|杉02・杉03・杉04]]||小杉駅東口||横須賀線小杉駅||
|-
|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#原62系統(中原線)|原62]]||苅宿・北加瀬||新川崎交通広場||rowspan="4"|臨港バス||土曜のみ
|-
|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#元02系統(元住吉小倉循環線)|元02]]||新川崎交通広場||小倉循環||平日朝のみ
|-
|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#川60系統(塚越線)|川60]]||新川崎駅||rowspan="2"|川崎駅西口||日中のみ
|-
|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#川61系統(矢向線)|川61]]||[[矢向駅]]||朝のみ
|}
;2番乗り場
{| class="wikitable" style="text-align:left"
!系統名!!主要経由地!!行 先!! 運行事業者!!備 考
|-
|杉01||井田病院||中央療育センター前||rowspan="5"|川崎市バス||平日・土曜のみ
|-
|川66・杉02||井田||井田病院||
|-
|川66・杉03||||井田営業所前||
|-
|杉04||井田営業所前・千年||[[武蔵新城駅|新城駅前]]||
|-
|杉03||井田営業所前||蟹ヶ谷||
|-
|原62||||[[武蔵中原駅|中原駅]]前||rowspan="3"|臨港バス||土曜のみ
|-
|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#川53系統(末吉橋線)|川53]]||江川町・末吉橋||rowspan="2"|川崎駅西口||朝のみ
|-
|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#川54・55系統(江ヶ崎線)|川54]]||江川町・小倉下町||早朝および夜間のみ
|}
;3番乗り場
休止・廃止直前のデータ
{| class="wikitable" style="text-align:left"
!系統名!!主要経由地!!行 先!!運行事業者!!備 考
|-
|川63・川64・川66||江川町・小倉・塚越||川崎駅西口||rowspan="2"|川崎市バス||rowspan="3"|朝のみ
|-
|川63・川66||苅宿・平間駅||上平間
|-
|原62||苅宿・北加瀬||新川崎駅入口||臨港バス
|}
==== 元住吉駅前 ====
休止・廃止直前のデータ
{| class="wikitable" style="text-align:left"
!系統名!!主要経由地!!行 先!!運行事業者!!備 考
|-
|rowspan="2"|[[川崎市バス井田営業所#新城線|川63・川64・川66]]||江川町・小倉・塚越||[[川崎駅]]西口||rowspan="4"|川崎市バス||rowspan="3"|朝のみ
|-
|||元住吉
|-
|川63・川66||[[平間駅]]前||[[川崎市バス上平間営業所|上平間]]
|-
|[[川崎市バス井田営業所#新城線|杉02]]||||[[武蔵小杉駅|横須賀線小杉駅]]||平日・土曜朝のみ
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|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#原62系統(中原線)|原62]]||苅宿・北加瀬||[[新川崎駅]]入口||臨港バス||朝のみ
|}
== 川崎縦貫高速鉄道線計画 ==
[[川崎縦貫高速鉄道|川崎縦貫高速鉄道線]]は、当初の計画では[[新百合ヶ丘駅]]から本駅までを結び、さらに[[川崎駅]]までを結ぶ予定だった。
しかし、採算性を理由に[[2005年]]に[[川崎市]]が本駅から[[武蔵小杉駅]]への接続に計画を変更している。さらに、同市は2006年[[4月1日]]をもって事業許可を取り下げている(当初は同年9月30日であったが、廃止日時を繰り上げた)。2012年時点では事業認可の再取得に向けた動きなどがあるが、2005年以降は地元住民向け説明会などが途絶えたまま具体的な話は進まずにおり、結局2013年に事実上の計画断念を発表した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kanagawa/news/20130128-OYT8T01717.htm 「川崎地下鉄」計画を断念] 読売新聞(神奈川版)2013年1月29日</ref>。
== 隣の駅 ==
; 東急電鉄
: [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
:: {{Color|#f7931d|■}}特急・{{Color|#f7931d|□}}通勤特急・{{Color|#ef3123|■}}急行
:::; 通過
:: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車
::: [[武蔵小杉駅]] (TY11) - '''元住吉駅 (TY12)''' - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]] (TY13)
: [[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線
:: {{Color|#ef3123|■}}急行
:::; 通過
:: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車
::: 武蔵小杉駅 (MG11) - '''元住吉駅 (MG12)''' - 日吉駅 (MG13)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 出典 ==
; 東急電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="東急"|22em}}
; 私鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; 神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=宮田道一 |title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |ref=jtb}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Motosumiyoshi Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[ムロツヨシ]] - 親元を離れて最初に住んだ場所が元住吉<ref>[https://www.nhk.jp/p/kanpai/ NHK 家族に乾杯] 2021年11月08日放送回</ref>
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=12|name=元住吉}}
* [http://www.motosumi.com/ 元住吉の情報サイト「もとすみどっとこむ」]
{{東急東横線}}
{{東急目黒線}}
{{DEFAULTSORT:もとすみよし}}
[[Category:中原区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 も|とすみよし]]
[[Category:東急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1926年開業の鉄道駅]]
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2003-08-18T10:40:36Z
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新快速
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新快速(しんかいそく)は、日本国有鉄道(国鉄)が近畿圏の東海道本線・山陽本線などと阪和線で運転を開始し、現在は西日本旅客鉄道(JR西日本)の京阪神地区と、東海旅客鉄道(JR東海)の名古屋地区で運行されている快速列車で、普通列車の種別の一つである。
一般的な快速より停車駅が少ない列車種別であり、車両が新しいことを意味するものではない。また京阪神地区と名古屋地区では性格がかなり異なる。
JR西日本の新快速は、英語表記が"Special Rapid Service"、JR東海の新快速は、英語表記が"New Rapid Train"である。また、特別な料金が不要なのにもかかわらずその停車駅の少なさから無料の特急とも呼ばれている。
1970年10月1日に国鉄が京阪神地区(関西エリア)の東海道本線・山陽本線(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)系統で運行を開始した。特別料金不要の快速列車の種別の一つで、京都 - 大阪 - 神戸などの都市間輸送(インターアーバン)の基軸を担う最速達列車である。一部の区間では特急列車に匹敵、またはそれを上回る速達性を誇り、同区間の一般的な快速とはスピード面で大きな開きがある一方、運用車両に大きな差はない。
運行開始当初は京都駅 - 西明石駅間の運行で、途中停車駅は大阪駅、三ノ宮駅、明石駅の3駅のみと新幹線停車駅である新大阪駅も通過しており、京阪神間の最速輸送を重視していた。また運転本数も1日に6往復と少なかった。その後、運行区間、運行本数、停車駅、編成車両数などが拡大していき、次第に利便性が向上していった。現在はJR西日本のアーバンネットワーク(京阪神エリア)の区間を超えて、北陸本線敦賀駅 - 米原駅間、東海道本線米原駅 - 神戸駅間、山陽本線神戸駅 - 上郡駅間、赤穂線相生駅 - 播州赤穂駅間、および湖西線全線で運行される。敦賀駅 - 播州赤穂駅(275.5km)を米原駅(琵琶湖線)経由で走る新快速は在来線の普通列車で国内最長の運行距離を誇る。
JR神戸線・JR京都線は阪急電鉄や阪神電気鉄道・京阪電気鉄道・山陽電気鉄道など競合する関西私鉄が複数並行して走行しており、それら強力な並行私鉄路線に対抗するためにスピードや快適性、利便性を向上させていった。草津駅 - 西明石駅間の日本最長距離(120.9km)の複々線を生かした相互接続や京阪神圏外への直通運転、早朝から深夜までのフリークエントサービスなどのダイヤ面での工夫、特急列車に匹敵する最高速度130km/hによる高速運転、そして通勤型列車でありながら転換クロスシートを配した落ち着いたデザインの内装などが利用客に支持された。複々線区間においては快速列車の一種であるものの、特急列車や貨物列車が使用する外側線(急行線)を走行する(一般的な快速列車や普通列車は内側線(緩行線)を走行する)。所要時間に関しては大阪駅 - 三ノ宮駅間(30.6km)は21分、大阪駅 - 京都駅間は28分(42.8km)であり、大阪駅 - 京都駅間の表定速度は91.7km/hに達し、JRの特急列車に匹敵するほどの速さを誇る。ライバルの私鉄各社に対してスピード競争で完全に優位に立っており、「私鉄王国」と呼ばれる関西においてJR西日本が並行する私鉄路線に乗客を逃さない大きな原動力となった。また当初は最低限の停車駅で都市間の速達性を保っていた競合私鉄の優等列車も、新快速に対して都市間輸送における速達性でもはや対抗できなくなったため、次第にベッドタウンの主要駅の停車駅を増やして地域需要の利便性の確保に軸足を移していった。また、名神ハイウェイバスも新快速の滋賀県内への拡充に伴って滋賀県 - 京阪神間の輸送で鉄道に対する競争力が低下したことから、2000年代以降は滋賀県内の停留所を大幅に減らして名古屋 - 京阪神間の都市間輸送に特化していった。
さらには、新快速の高速運転、及び運転区間・停車駅の拡大により大阪に通勤・通学する郊外エリアの拡大に繋がった。兵庫県南部の神戸市以西(播磨地域)や滋賀県湖南・湖東のエリアでは、新快速停車により大阪市への通勤・通学圏に組み込まれ、大阪のベッドタウンとしてこの地域の人口増加に寄与した。特に京阪神への実質的な並行私鉄が存在しない滋賀県では、従来から大阪への通勤圏である大津市や草津市といった県南部だけではなく、湖南エリアの野洲駅、湖東エリアに位置する近江八幡駅、能登川駅の駅周辺の発展も促し、高層マンションなどの建設が現在も進んでいる。また、新快速の運行本数が運転開始初期から京阪神と同様の草津駅以南では、南草津駅が1994年開業の比較的新しい駅であるが、2011年の新快速停車以降、滋賀県内で乗降客数1位になるまで利用者数は増加し、駅周辺には新興マンションが数多く立ち並ぶまでに発展した。このように新快速は関西において街の様相や地域の人口動態にも大きな影響を与えた。上記のような速達性と利便性、またその与えた影響の大きさから関西では「新快速」という名称は単なる列車種別の枠を超えた「ブランド」として認識されており、新快速が走行する路線を指すこともある。また、不動産会社では新快速停車駅であることを積極的にアピールしている。
同様の性格の列車は、既に首都圏の中央線でも「特別快速」として運転されていた。当初、大阪鉄道管理局はこれに倣って「特別快速」という名称で国鉄本社の許可も得て運転をしようとしたが運転開始の直前に「フレッシュさを出したい」という理由で「新快速」という呼称に改めた。英語案内表記については、1990年代途中までは「新快速」を直訳した "New Rapid Service" であったが、「特別快速」と同様の "Special Rapid Service" に変更されている。なお、車内に設置しているLCD案内表示器では中国語表記はそのまま、”新快速”(拼音: xīnkuàisù)と表記される。また、韓国語の表記は車両によって異なる。223系電車では、「新」の表記を「新しい」を意味する固有語、”새”が用いられ、”새쾌속"(漢字: 새快速 2000年式: Saekwaesok MR式: Saek'waesok)と表記され、225系電車では、漢字表記をそのままハングルに直した”신쾌속”(漢字: 新快速 2000年式: Sinkwaesok MR式: Sin K'waesok)と表記されている。
2017年3月4日のダイヤ改正からは、路線記号の導入に伴い、湖西線経由の列車は上り(近江今津・敦賀方面行き)のみ水色のラインカラーに湖西線の路線記号 "B" を表示した種別幕が、それ以外の列車(湖西線経由の下り(姫路方面行き)も含む)は青色のラインカラーに北陸本線・東海道本線・山陽本線・赤穂線の路線記号 "A" を表示した種別幕が使用されている。2019年より、有料座席サービスの「Aシート」が一部編成に導入された(後述)。
2020年10月1日に運行50周年を迎えた際は、それを記念した各種イベントも実施された。
定期ダイヤにおける停車駅は以下の通り。なお = で示した駅間は互いに隣接しており、通過駅はない。
上記のほか、通常停車しない駅へ臨時停車する場合や、逆に臨時列車が一部の駅を通過する場合などがある。
当初、京都駅 - 西明石駅間で運転を開始した新快速は、その後徐々に運転区間を延ばしてきた。2022年3月12日現在の運転区間は、敦賀駅 - 北陸本線・琵琶湖線経由または湖西線経由 - 播州赤穂駅・上郡駅間である。
大阪駅を日中に発着する時間帯における1時間あたりの運転本数は、神戸・姫路方面が大阪駅 - 姫路駅間で4本である。京都・米原・敦賀方面は大阪駅 - 山科駅間で4本、山科駅 - 草津駅間で3本、草津駅-野洲駅間で2本、野洲駅 - 米原駅間で1本、米原駅 - 近江塩津駅間で1本、敦賀駅発着(湖西線経由)が1本である。平日の朝ラッシュ時は姫路・神戸方面と京都方面の双方から大阪駅に向けて8分間隔で運行されている。夕方ラッシュ時は大阪発で18時台において、神戸・姫路方面が8本、京都方面が7本(7分30秒間隔)となる。朝夕ラッシュ時点の運転間隔が短くなっているのは、JR京都線・神戸線を直通する列車に加え、大阪駅が始発駅・終着駅となる列車が入るからである。
敦賀駅に乗り入れる新快速は、朝晩は米原駅経由、日中は湖西線経由で運転されている。近江塩津駅で折り返す列車は米原駅を経由する。しかしながらその反面、一例として2006年10月21日の敦賀駅までの直流化開業と同時に設定された敦賀発米原経由播州赤穂行きなど、主要区間を12両編成で運転している列車を中心に、後述の通りホーム有効長の関係で分割併合作業を必要とするため、列車によっては始発駅から終着駅までの全区間を直通運転できないものが最低でも1日1本は発生するようになった。また2011年3月12日のダイヤ改正で日中の一部に敦賀駅 - 播州赤穂駅間の系統(湖西線経由)が設定された。
2008年3月15日改正時点での日中の平均所要時間は、長浜駅 - 大阪駅間が91分、近江今津駅 - 大阪駅間が78分、京都駅 - 大阪駅間が28分、大阪駅 - 三ノ宮駅間が20分、大阪駅 - 姫路駅間が61分となっている。通過運転を行う米原駅 - 姫路駅間198.4 kmの表定速度は約83 km/hである。同区間はJR各社の在来線の中でも特に線形や設備が良いこともあり、この数字は、東日本旅客鉄道(JR東日本)首都圏の特急列車の表定速度(おおむね65 - 90 km/h)とほぼ同程度である。
全列車が223系1000/2000・225系0/100番台で、最長12両で運転されている。ただし、ホーム有効長の関係から12両で運転可能なのは近江今津駅・米原駅 - 上郡駅間のみで、北陸本線長浜駅 - 敦賀駅間と湖西線永原駅 - 近江塩津駅間は4両、それ以外の区間では8両に制限される。そのため、近江今津駅・米原駅・京都駅・姫路駅・網干駅で12両編成や8両編成の分割併合作業がある。
2011年3月12日のダイヤ改正から、土休日ダイヤでは米原駅・近江今津駅 - 姫路駅間のすべての新快速が12両編成に増強され、平日ダイヤも12両編成で運転される列車が大幅に増加した(このため新旭駅のホーム有効長の延長工事が行われ、湖西線内も12両運転が可能となった)。これは5月4日の大阪ステーションシティのグランドオープンにより、大阪駅の利用増が予想されるための更なる需要喚起および混雑緩和策である。更に2017年3月4日のダイヤ改正から米原駅- 姫路駅間で終日12両運転を実現している。
12両編成での最長運転列車は、琵琶湖線系統(A)が米原駅 - 上郡駅間の233.7 km、湖西線系統(B)が近江今津駅 - 網干駅間の194.2 kmである。これは東日本旅客鉄道(JR東日本)上野東京ライン(東海道線 - 宇都宮線系統)の熱海駅 - 宇都宮駅間15両運転(214.3 km)に匹敵する。
平日の朝に1本のみ、湖西線経由敦賀行き(前4両)と琵琶湖線米原行き(後ろ8両)を京都駅で切り離す列車が設定されている。この列車は分岐点である次の山科駅にて敦賀行きの編成が米原行きの編成と接続を取って米原行きの編成が先に発車するため、新快速同士で追い越しする唯一の例となっている。かつてはそれ以外にもラッシュ時に米原駅で近江塩津・長浜発を連結する運用(これは長浜駅で分割併合の作業ができないことと、長浜・田村・坂田の各駅が12両編成に対応していないため)もあった。また、毎朝に米原発で下り1本のみ野洲駅まで各駅に停車し野洲駅から新快速に変わる列車や夜に姫路駅で播州赤穂行き・網干行きを分割して運転する列車(赤穂線直通は「普通」として運転) 、さらに昔(平成21年3月14日改正時点)は平日朝に上り1本のみ草津から各駅に停車する列車、同じく平日の朝に1本のみ野洲行きと近江今津行きを京都で切り離し、野洲行きは京都から各駅に停車する列車、近江今津始発で京都で増結する列車が存在した。さらにそれ以前には播州赤穂・上郡行きという列車も存在した。
新快速には特に愛称を付与していないが、ハイキングやスキー客の利便を図るため、定期列車にレジャー号の愛称を付与したものとして次の列車がある。
また、毎年8月に開催されるびわ湖大花火大会の開催日に限り膳所駅にも停車する。
沿線のイベントや行楽期においては、臨時列車の運転を行っていた。なお2020年度には実施されなかった。
山陰本線(嵯峨野線)嵯峨嵐山駅への観光客輸送のため、臨時列車(一部列車の嵯峨野線内は定期列車の代行運転)として、京都駅で折り返して嵯峨野線内に乗り入れる「嵐山さくら号」「嵐山わかば号」「嵐山もみじ号」が春・夏・秋の行楽シーズンに運転され、高槻駅 - 大阪駅・神戸駅間では新快速と案内されていたが、現在は運転されていない。
湖西線マキノ駅すぐ近くの海津大崎で桜の見ごろを迎える毎年4月第2土・日曜日とゴールデンウィークには、事前に通常の連結順序を入れ替え、京都駅での切り離しの際、本来なら京都駅止まりとなる8両編成を先に発車させた上で臨時列車として近江今津駅または永原駅まで運転し、残った4両が定期列車の敦賀行きとして続行運転することもある。
多客期に東海道・山陽本線内を大阪駅まで回送運転される列車が大阪行きの新快速として運転することがある。
毎年8月に行われるみなとこうべ海上花火大会当日や、12月に行われる神戸ルミナリエ期間中には三ノ宮駅発着の臨時新快速が設定されている。
過去には、1997年9月の京都駅ビル開業記念で土曜・休日に山陽本線を姫路駅以西はノンストップで、また、青春18きっぷの利用期間中の土曜・休日を中心に、赤穂線経由「赤穂備前ホリデー号」として 岡山駅発着で延長運転したこともあるが、1998年(平成10年)までに運転を終了しており、現在は運転されていない。このホリデー号には指定席車が連結されていた。
このほか、207系が神戸ルミナリエ開催中、もしくは御崎公園球技場(神戸ウイングスタジアム)での2002 FIFAワールドカップ開催時に、321系が2013年8月18日に神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で行われたサザンオールスターズのコンサート公演時に大阪 - 三ノ宮間でそれぞれ臨時列車として使用された。ただし通常時には使われない。
2019年3月16日より、223系1000番台(4両編成)のうち2編成のクハ222形を中央の扉を埋め込んだ2扉車に改造し(埋め込まれた扉周りの意匠は125系電車に類似する。)、有料座席サービス「Aシート」車両を導入した。12両編成の9号車(京都・野洲側先頭車両から数えて4両目)に連結される。「A」はAmenity(快適性)、JR神戸/京都/琵琶湖線の路線記号「A」、関西弁の「ええ(良い)」に由来する。
運行開始当初は1日4本で、平日は野洲駅 - 姫路駅と網干駅間で1往復ずつ、土休日は野洲駅 - 姫路駅間で2往復であった。下り(野洲発)を1号・3号、上り(野洲行き)を2号・4号とした。列車番号の末尾は、一般的な電車列車の「M」に対し、Aシート連結列車は「A」となる。
このAシートは普通車指定席であり、指定席料金は一律840円である(2022年10月時点)。特急列車ではないため、青春18きっぷなどの企画乗車券でも指定席券を購入することで利用が可能であるが、それら企画乗車券ではe5489利用のチケットレスサービス(全列車600円。2023年3月18日~同年4月28日乗車分については390円となっていた。)との併用はできないことになっている。なお、ダイヤが大きく乱れた場合は、「Aシート」車両は無料開放されたり、無料開放のままAシートの設定のない湖西線への直通や、快速、Aシート車が先頭になっての運用に就くこともある。
外観は、ドア横に“A-SEAT”のロゴマークをあしらい、特急サンダーバードと共通するブラックの窓回りに、521系(JR西日本所属車)にも似たブルーの帯を配したデザインとなった。車内には新たにパーティションが設けられ、そのパーティション内は有料座席エリアとされており、テーブルとコンセントを備えた、特急列車普通車と同等のリクライニングシートが2-2列で設けられている。シートピッチは首都圏の快速・普通列車グリーン車と同等の約970mm(現行910mm)とし、電球色に交換された照明、ブラウン木目調となった内装とあわせ、快適性を高めた落ち着きある空間となっている。ラック式の荷物スペースを備えるほか、無料Wi-Fiサービスが提供されている。トイレは洋式化され、車いす対応の多機能タイプとなっている。着席定員は46名。なお、有料座席エリア内では車内広告は一切排除されており、天井に広告吊りの留め金具はあるものの広告の掲出は行われていないほか、立席はできず必ず指定席券を購入の上着席する必要がある。一方、パーティションの外側であるドアおよびトイレ周辺は立席エリア(フリースペース)となっており、ここにいる限りは料金は発生しない。
2020年12月1日より2021年2月28日まで、試験的に1 - 3番の各席(12席分)を指定席として販売した。後に指定席の販売は拡大・延長され、2021年7月1日からは1 - 5番の各席(20席分)が指定席となった。その後、2022年3月12日のダイヤ改正より全席指定席となった。
2023年3月18日のダイヤ改正で、Aシート連結列車を6往復に増発した。増発分に対応するAシート車両については、既存車両の改造ではなく225系4次車2編成(クモハ224-701、702含む4両✕2編成)を新造し投入した。新造したAシート専用車両は、出入口は片開き2扉とした。既存車両との車内の細かい変更点については、立ち席エリアに介護者用座席(優先座席)を1席を設置や、大形つり手の採用。フリーストップカーテンの採用客室出入台の識別化がある。
国鉄時代の1972年(昭和47年)から1978年(昭和53年)まで、阪和線でも新快速が運行されていた。
1972年3月15日のダイヤ改正で天王寺駅 - 和歌山駅間に設定された。途中停車駅は鳳駅のみで、所要時間45 - 51分で阪和間を結んだ。最速列車の所要時間は前身の阪和電気鉄道が設定していた超特急以来のものである。日中の9時台から15時台に1時間間隔で運行していた。
車両は、それまで東海道・山陽本線の快速・新快速に使用していた113系が、このダイヤ改正で東海道・山陽本線に登場した153系「ブルーライナー」と同じ塗装(灰色9号地に青22号特帯)に変更して投入された。新造車両ではなかったものの阪和線では初めての冷房付きの車両で、いわゆる旧形国電中心だった阪和線の中では一際目立つ存在だった。円形に羽根を付けたデザインの専用ヘッドマークも新調の上装着された。そして1973年(昭和48年)9月20日に関西本線の湊町駅(現在のJR難波駅) - 奈良駅間が電化されると、関西本線快速用車両が当時の阪和線の車両配置区所であった鳳電車区所属となり、一部は阪和線と共通運用になったため、上記塗装とは帯色だけが異なるカラーリング(灰色9号地色に朱色3号帯色)の「春日塗り」の通称がある「関西快速色(春日色)」の113系も充当されるようになった。「ブルーライナー」に採用された塗装はその後も「阪和色」の通称で呼ばれ、2012年4月1日の団臨運転まで(定期運転は2011年12月上旬まで)使用された。
阪和電鉄以来の速達運転を実現した新快速だったが、元々阪和間の直通需要は京阪神間に比べると規模が小さく、利用は限られていた。このため、1977年(昭和52年)には和泉砂川駅と熊取駅を停車駅に追加し、所要時間は48 - 51分になった。しかし、大きく利用状況は改善せず、紀勢本線が電化された1978年10月2日のダイヤ改正で快速に統合される形で廃止された。
JR東海が東海道本線浜松駅 - 米原駅間に設定した快速列車の一種である。英語表記は "New Rapid (Train)"。同区間では他に「特別快速」と「快速」、そして「区間快速」という列車種別が存在しており、かつそれぞれに微妙な停車駅の違いがあるため、JR東海における「新快速」は単にそれらとを区分するための種別の一つとして存在している。なお、新快速と比較して、他の種別には以下の違いがある。
これらの違いは、すべて金山以東の停車駅の違いによるものであり、金山以西での違いはない。ただし、1999年12月のダイヤ改正までは、穂積駅には快速は停車し新快速は通過するという違いがあった。また、2017年3月現在でも一部の快速は平日のみ稲沢駅に停車するものもある。
2020年8月現在、全運行区間(浜松 - 米原駅間)を走破する新快速は下り列車のみであり、平日に浜松6:01発と9:43発の大垣行き、土休日に浜松17:01発の米原行き、合わせて3本が運行されている。かつては上り列車の設定もあり、2020年3月14日のダイヤ改正以前までは米原7:07発(8両編成、豊橋で後部4両切り離し)の浜松行きが1本運行されていた。
基本的な停車駅は以下のとおり。
浜松駅 - (この間各駅停車) - 豊橋駅 - 〔三河大塚駅*〕 - 〔三河三谷駅〕 - 蒲郡駅 - 〔幸田駅〕 - 岡崎駅 - 安城駅 - 刈谷駅 - 大府駅 - (笠寺駅) - (熱田駅) - 金山駅 - (尾頭橋駅) - 名古屋駅 - 尾張一宮駅 - 岐阜駅 - (この間各駅停車) - 米原駅
車両は313系と311系が用いられ、2006年(平成18年)10月1日のダイヤ改正からは同5000番台が中心となっている。過去には、313系と311系との併結運転、311系や117系、211系を使用した列車設定もあった。117系は2008年(平成20年)3月15日の改正より平日朝の岡崎発着列車に限り復活した。
名古屋駅からの標準所要時間は、豊橋駅まで50分、大垣駅まで31分となっている。
国鉄末期までの東海道本線(豊橋駅 - 名古屋駅 - 大垣駅間)は日中1時間あたり快速1本・普通1本という貧弱な路線であった。1971年(昭和46年)に運転を開始した快速に使用していた153系(155系・159系含む)の取替にあたって、117系を1982年(昭和57年)に投入し「東海ライナー」と命名した。だが、当時の普通列車は本数が少なく、米原・大垣と静岡・熱海・東京との直通運転が多かったために運転間隔も統一されていないなど、「使いやすいダイヤ」には程遠い状態であった。対する当時の名古屋鉄道名古屋本線では、特急・高速・急行を合わせて毎時約7本が設定されており、国鉄の輸送実績はこれに遠く及ばないものであった。
分割民営化直前の1986年(昭和61年)11月に行われたダイヤ改正で、名古屋鉄道管理局は名古屋都市圏の普通列車の輸送改善を目玉とし、6両編成9本の117系を新製先頭車を加えて4両編成18本にするなど、豊橋 - 大垣間で快速列車と普通列車の大幅な増発の実施でフリークエンシーを向上させた。さらに翌春誕生したJR東海は、この区間を経営上東海道新幹線に次ぐ在来線の重要区間として位置付け、新型車両の投入と増発を重ねていくことになる。
1989年(平成元年)3月11日に新快速がはじめて設定された。運転区間は蒲郡駅 - 大垣駅間に限定され、また当時は岐阜駅 - 大垣駅間はノンストップであった。車両は当初117系が用いられ、最高速度は110 km/hであったが、同年7月に311系を新造、新快速に集中的に投入することにより、最高速度が120 km/hに引き上げられた。その後1年を経て、311系は増備が続けられ新快速の全列車に投入されるとともに、運転区間も豊橋 - 大垣間に拡大している。これにより「新快速=311系」「快速=117系」という棲み分けがなされ、120 km/h運転を行う新快速は快速に比べて特別なフラッグシップ的存在となっていた。一方、快速の運転区間は浜松駅 - 米原駅間となり、比較的長距離を走る列車も増えていった。
並行する名鉄もJR同様に長距離利用の増加に対応する形で1990年(平成2年)に特急券不要の高速を特急に格上げし、名古屋本線では一部特別車(指定席)の特急が登場した。さらに翌年には専用車両(一部特別車の1000・1200系「パノラマSuper」)を登場させ、知立駅、新安城駅通過の列車が増えていった。
1999年(平成11年)に313系が登場し、311系を置き換える形で新快速に投入され、同年12月4日の改正で日中の列車はすべて313系となった。最高速度は120km/hのままであるが、加速性能の向上により所要時間の短縮を実現している。また、朝方はこの改正時に同時に新設した特別快速にほとんどが変更された。この改正で日中の普通列車を大垣折り返しから岐阜折り返しに短縮したことに伴い、岐阜 - 大垣間の快速・新快速は各駅に停車するようになった。同時に幸田、三河三谷に停車する列車も夕方以降に新設された。この列車は夕方以降の快速を格上げした列車であり、ラッシュ時には米原や浜松方面へ直通する列車も増発された。
ここでの大きな変化は、快速にも313系が投入されたことにより、新快速と快速の性能統一がなされたことが挙げられる。全体の底上げを行うことで、旧来の「停車駅が少なく、スピードが速い」という新快速のフラッグシップ的な要素は消え、「停車駅が1駅少ない快速」の位置付けに変化した。同時に登場した特別快速も同様である。
313系の大量投入により、それまでの新快速運用に充当されていた311系は普通列車に用いられることとなった。ただし、ラッシュ時間帯には311系も用いられたほか、117系の新快速も再設定され、313系の新快速より所要時間に余裕を持ったダイヤで運行された。
そのほか、313系の投入により、朝夕に豊橋で2両を分割した飯田線への直通運転が行われ、豊川・新城方面からの通勤サービスが図られていた。飯田線直通の大半は特別快速であったが、一部は新快速の列車もあった。
2006年(平成18年)10月1日のダイヤ改正において、終日混雑が激しい東海道本線の快速列車増強が実施された。新たに6両貫通編成の313系5000番台72両を投入し、昼間時においてはそれまでの4両編成から6両編成に編成を増強するとともに、朝夕のラッシュ時の増発および編成増強も行われている。一方で、飯田線への乗り入れは全廃されたほか、浜松駅発着の列車は大幅に削減された。
また、三河三谷および幸田駅については、これまで一部の快速・新快速で千鳥停車が行われてきたが、この改正で両駅に停車する新快速も設定された。一方で、両駅ともに停車する「快速」は設定されていないことから、「新快速」の位置付けはさらに曖昧なものとなり、「共和駅を通過する快速」との意味合いのみが残ったと言える。このほか、土休日においては、ラグーナテンボスへのアクセス改善として三河大塚停車の新快速(上りのみ)も設定された。
2008年(平成20年)3月15日の改正では、平日朝に岡崎発着の新快速が3本増発された。313系では車両運用に余裕がなく、117系での運転となっている。また、深夜にも増発が行われ、豊橋発下りの最終が22時56分となり名鉄特急の最終(22時45分発)より遅くなったほか、岡崎発の列車なども増発された。
JR東海で運行された車両を以下に記す。2012年現在は原則として大半が313系電車による運行である。
岐阜乗合自動車(岐阜バス)では、路線バスの優等種別として「新快速」を設定しており、大洞団地線、大野忠節線、黒野線、岐阜高富線などの各方面で、平日通勤時間帯に運行されている。
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"text": "新快速(しんかいそく)は、日本国有鉄道(国鉄)が近畿圏の東海道本線・山陽本線などと阪和線で運転を開始し、現在は西日本旅客鉄道(JR西日本)の京阪神地区と、東海旅客鉄道(JR東海)の名古屋地区で運行されている快速列車で、普通列車の種別の一つである。",
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"text": "一般的な快速より停車駅が少ない列車種別であり、車両が新しいことを意味するものではない。また京阪神地区と名古屋地区では性格がかなり異なる。",
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"text": "JR西日本の新快速は、英語表記が\"Special Rapid Service\"、JR東海の新快速は、英語表記が\"New Rapid Train\"である。また、特別な料金が不要なのにもかかわらずその停車駅の少なさから無料の特急とも呼ばれている。",
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"text": "1970年10月1日に国鉄が京阪神地区(関西エリア)の東海道本線・山陽本線(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)系統で運行を開始した。特別料金不要の快速列車の種別の一つで、京都 - 大阪 - 神戸などの都市間輸送(インターアーバン)の基軸を担う最速達列車である。一部の区間では特急列車に匹敵、またはそれを上回る速達性を誇り、同区間の一般的な快速とはスピード面で大きな開きがある一方、運用車両に大きな差はない。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "運行開始当初は京都駅 - 西明石駅間の運行で、途中停車駅は大阪駅、三ノ宮駅、明石駅の3駅のみと新幹線停車駅である新大阪駅も通過しており、京阪神間の最速輸送を重視していた。また運転本数も1日に6往復と少なかった。その後、運行区間、運行本数、停車駅、編成車両数などが拡大していき、次第に利便性が向上していった。現在はJR西日本のアーバンネットワーク(京阪神エリア)の区間を超えて、北陸本線敦賀駅 - 米原駅間、東海道本線米原駅 - 神戸駅間、山陽本線神戸駅 - 上郡駅間、赤穂線相生駅 - 播州赤穂駅間、および湖西線全線で運行される。敦賀駅 - 播州赤穂駅(275.5km)を米原駅(琵琶湖線)経由で走る新快速は在来線の普通列車で国内最長の運行距離を誇る。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "JR神戸線・JR京都線は阪急電鉄や阪神電気鉄道・京阪電気鉄道・山陽電気鉄道など競合する関西私鉄が複数並行して走行しており、それら強力な並行私鉄路線に対抗するためにスピードや快適性、利便性を向上させていった。草津駅 - 西明石駅間の日本最長距離(120.9km)の複々線を生かした相互接続や京阪神圏外への直通運転、早朝から深夜までのフリークエントサービスなどのダイヤ面での工夫、特急列車に匹敵する最高速度130km/hによる高速運転、そして通勤型列車でありながら転換クロスシートを配した落ち着いたデザインの内装などが利用客に支持された。複々線区間においては快速列車の一種であるものの、特急列車や貨物列車が使用する外側線(急行線)を走行する(一般的な快速列車や普通列車は内側線(緩行線)を走行する)。所要時間に関しては大阪駅 - 三ノ宮駅間(30.6km)は21分、大阪駅 - 京都駅間は28分(42.8km)であり、大阪駅 - 京都駅間の表定速度は91.7km/hに達し、JRの特急列車に匹敵するほどの速さを誇る。ライバルの私鉄各社に対してスピード競争で完全に優位に立っており、「私鉄王国」と呼ばれる関西においてJR西日本が並行する私鉄路線に乗客を逃さない大きな原動力となった。また当初は最低限の停車駅で都市間の速達性を保っていた競合私鉄の優等列車も、新快速に対して都市間輸送における速達性でもはや対抗できなくなったため、次第にベッドタウンの主要駅の停車駅を増やして地域需要の利便性の確保に軸足を移していった。また、名神ハイウェイバスも新快速の滋賀県内への拡充に伴って滋賀県 - 京阪神間の輸送で鉄道に対する競争力が低下したことから、2000年代以降は滋賀県内の停留所を大幅に減らして名古屋 - 京阪神間の都市間輸送に特化していった。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "さらには、新快速の高速運転、及び運転区間・停車駅の拡大により大阪に通勤・通学する郊外エリアの拡大に繋がった。兵庫県南部の神戸市以西(播磨地域)や滋賀県湖南・湖東のエリアでは、新快速停車により大阪市への通勤・通学圏に組み込まれ、大阪のベッドタウンとしてこの地域の人口増加に寄与した。特に京阪神への実質的な並行私鉄が存在しない滋賀県では、従来から大阪への通勤圏である大津市や草津市といった県南部だけではなく、湖南エリアの野洲駅、湖東エリアに位置する近江八幡駅、能登川駅の駅周辺の発展も促し、高層マンションなどの建設が現在も進んでいる。また、新快速の運行本数が運転開始初期から京阪神と同様の草津駅以南では、南草津駅が1994年開業の比較的新しい駅であるが、2011年の新快速停車以降、滋賀県内で乗降客数1位になるまで利用者数は増加し、駅周辺には新興マンションが数多く立ち並ぶまでに発展した。このように新快速は関西において街の様相や地域の人口動態にも大きな影響を与えた。上記のような速達性と利便性、またその与えた影響の大きさから関西では「新快速」という名称は単なる列車種別の枠を超えた「ブランド」として認識されており、新快速が走行する路線を指すこともある。また、不動産会社では新快速停車駅であることを積極的にアピールしている。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "同様の性格の列車は、既に首都圏の中央線でも「特別快速」として運転されていた。当初、大阪鉄道管理局はこれに倣って「特別快速」という名称で国鉄本社の許可も得て運転をしようとしたが運転開始の直前に「フレッシュさを出したい」という理由で「新快速」という呼称に改めた。英語案内表記については、1990年代途中までは「新快速」を直訳した \"New Rapid Service\" であったが、「特別快速」と同様の \"Special Rapid Service\" に変更されている。なお、車内に設置しているLCD案内表示器では中国語表記はそのまま、”新快速”(拼音: xīnkuàisù)と表記される。また、韓国語の表記は車両によって異なる。223系電車では、「新」の表記を「新しい」を意味する固有語、”새”が用いられ、”새쾌속\"(漢字: 새快速 2000年式: Saekwaesok MR式: Saek'waesok)と表記され、225系電車では、漢字表記をそのままハングルに直した”신쾌속”(漢字: 新快速 2000年式: Sinkwaesok MR式: Sin K'waesok)と表記されている。",
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"text": "2017年3月4日のダイヤ改正からは、路線記号の導入に伴い、湖西線経由の列車は上り(近江今津・敦賀方面行き)のみ水色のラインカラーに湖西線の路線記号 \"B\" を表示した種別幕が、それ以外の列車(湖西線経由の下り(姫路方面行き)も含む)は青色のラインカラーに北陸本線・東海道本線・山陽本線・赤穂線の路線記号 \"A\" を表示した種別幕が使用されている。2019年より、有料座席サービスの「Aシート」が一部編成に導入された(後述)。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "2020年10月1日に運行50周年を迎えた際は、それを記念した各種イベントも実施された。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "定期ダイヤにおける停車駅は以下の通り。なお = で示した駅間は互いに隣接しており、通過駅はない。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "上記のほか、通常停車しない駅へ臨時停車する場合や、逆に臨時列車が一部の駅を通過する場合などがある。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "当初、京都駅 - 西明石駅間で運転を開始した新快速は、その後徐々に運転区間を延ばしてきた。2022年3月12日現在の運転区間は、敦賀駅 - 北陸本線・琵琶湖線経由または湖西線経由 - 播州赤穂駅・上郡駅間である。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "大阪駅を日中に発着する時間帯における1時間あたりの運転本数は、神戸・姫路方面が大阪駅 - 姫路駅間で4本である。京都・米原・敦賀方面は大阪駅 - 山科駅間で4本、山科駅 - 草津駅間で3本、草津駅-野洲駅間で2本、野洲駅 - 米原駅間で1本、米原駅 - 近江塩津駅間で1本、敦賀駅発着(湖西線経由)が1本である。平日の朝ラッシュ時は姫路・神戸方面と京都方面の双方から大阪駅に向けて8分間隔で運行されている。夕方ラッシュ時は大阪発で18時台において、神戸・姫路方面が8本、京都方面が7本(7分30秒間隔)となる。朝夕ラッシュ時点の運転間隔が短くなっているのは、JR京都線・神戸線を直通する列車に加え、大阪駅が始発駅・終着駅となる列車が入るからである。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
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"paragraph_id": 14,
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"text": "敦賀駅に乗り入れる新快速は、朝晩は米原駅経由、日中は湖西線経由で運転されている。近江塩津駅で折り返す列車は米原駅を経由する。しかしながらその反面、一例として2006年10月21日の敦賀駅までの直流化開業と同時に設定された敦賀発米原経由播州赤穂行きなど、主要区間を12両編成で運転している列車を中心に、後述の通りホーム有効長の関係で分割併合作業を必要とするため、列車によっては始発駅から終着駅までの全区間を直通運転できないものが最低でも1日1本は発生するようになった。また2011年3月12日のダイヤ改正で日中の一部に敦賀駅 - 播州赤穂駅間の系統(湖西線経由)が設定された。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"text": "2008年3月15日改正時点での日中の平均所要時間は、長浜駅 - 大阪駅間が91分、近江今津駅 - 大阪駅間が78分、京都駅 - 大阪駅間が28分、大阪駅 - 三ノ宮駅間が20分、大阪駅 - 姫路駅間が61分となっている。通過運転を行う米原駅 - 姫路駅間198.4 kmの表定速度は約83 km/hである。同区間はJR各社の在来線の中でも特に線形や設備が良いこともあり、この数字は、東日本旅客鉄道(JR東日本)首都圏の特急列車の表定速度(おおむね65 - 90 km/h)とほぼ同程度である。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
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"paragraph_id": 16,
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"text": "全列車が223系1000/2000・225系0/100番台で、最長12両で運転されている。ただし、ホーム有効長の関係から12両で運転可能なのは近江今津駅・米原駅 - 上郡駅間のみで、北陸本線長浜駅 - 敦賀駅間と湖西線永原駅 - 近江塩津駅間は4両、それ以外の区間では8両に制限される。そのため、近江今津駅・米原駅・京都駅・姫路駅・網干駅で12両編成や8両編成の分割併合作業がある。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2011年3月12日のダイヤ改正から、土休日ダイヤでは米原駅・近江今津駅 - 姫路駅間のすべての新快速が12両編成に増強され、平日ダイヤも12両編成で運転される列車が大幅に増加した(このため新旭駅のホーム有効長の延長工事が行われ、湖西線内も12両運転が可能となった)。これは5月4日の大阪ステーションシティのグランドオープンにより、大阪駅の利用増が予想されるための更なる需要喚起および混雑緩和策である。更に2017年3月4日のダイヤ改正から米原駅- 姫路駅間で終日12両運転を実現している。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"tag": "p",
"text": "12両編成での最長運転列車は、琵琶湖線系統(A)が米原駅 - 上郡駅間の233.7 km、湖西線系統(B)が近江今津駅 - 網干駅間の194.2 kmである。これは東日本旅客鉄道(JR東日本)上野東京ライン(東海道線 - 宇都宮線系統)の熱海駅 - 宇都宮駅間15両運転(214.3 km)に匹敵する。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "平日の朝に1本のみ、湖西線経由敦賀行き(前4両)と琵琶湖線米原行き(後ろ8両)を京都駅で切り離す列車が設定されている。この列車は分岐点である次の山科駅にて敦賀行きの編成が米原行きの編成と接続を取って米原行きの編成が先に発車するため、新快速同士で追い越しする唯一の例となっている。かつてはそれ以外にもラッシュ時に米原駅で近江塩津・長浜発を連結する運用(これは長浜駅で分割併合の作業ができないことと、長浜・田村・坂田の各駅が12両編成に対応していないため)もあった。また、毎朝に米原発で下り1本のみ野洲駅まで各駅に停車し野洲駅から新快速に変わる列車や夜に姫路駅で播州赤穂行き・網干行きを分割して運転する列車(赤穂線直通は「普通」として運転) 、さらに昔(平成21年3月14日改正時点)は平日朝に上り1本のみ草津から各駅に停車する列車、同じく平日の朝に1本のみ野洲行きと近江今津行きを京都で切り離し、野洲行きは京都から各駅に停車する列車、近江今津始発で京都で増結する列車が存在した。さらにそれ以前には播州赤穂・上郡行きという列車も存在した。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "新快速には特に愛称を付与していないが、ハイキングやスキー客の利便を図るため、定期列車にレジャー号の愛称を付与したものとして次の列車がある。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "また、毎年8月に開催されるびわ湖大花火大会の開催日に限り膳所駅にも停車する。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "沿線のイベントや行楽期においては、臨時列車の運転を行っていた。なお2020年度には実施されなかった。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "山陰本線(嵯峨野線)嵯峨嵐山駅への観光客輸送のため、臨時列車(一部列車の嵯峨野線内は定期列車の代行運転)として、京都駅で折り返して嵯峨野線内に乗り入れる「嵐山さくら号」「嵐山わかば号」「嵐山もみじ号」が春・夏・秋の行楽シーズンに運転され、高槻駅 - 大阪駅・神戸駅間では新快速と案内されていたが、現在は運転されていない。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "湖西線マキノ駅すぐ近くの海津大崎で桜の見ごろを迎える毎年4月第2土・日曜日とゴールデンウィークには、事前に通常の連結順序を入れ替え、京都駅での切り離しの際、本来なら京都駅止まりとなる8両編成を先に発車させた上で臨時列車として近江今津駅または永原駅まで運転し、残った4両が定期列車の敦賀行きとして続行運転することもある。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "多客期に東海道・山陽本線内を大阪駅まで回送運転される列車が大阪行きの新快速として運転することがある。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "毎年8月に行われるみなとこうべ海上花火大会当日や、12月に行われる神戸ルミナリエ期間中には三ノ宮駅発着の臨時新快速が設定されている。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "過去には、1997年9月の京都駅ビル開業記念で土曜・休日に山陽本線を姫路駅以西はノンストップで、また、青春18きっぷの利用期間中の土曜・休日を中心に、赤穂線経由「赤穂備前ホリデー号」として 岡山駅発着で延長運転したこともあるが、1998年(平成10年)までに運転を終了しており、現在は運転されていない。このホリデー号には指定席車が連結されていた。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "このほか、207系が神戸ルミナリエ開催中、もしくは御崎公園球技場(神戸ウイングスタジアム)での2002 FIFAワールドカップ開催時に、321系が2013年8月18日に神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で行われたサザンオールスターズのコンサート公演時に大阪 - 三ノ宮間でそれぞれ臨時列車として使用された。ただし通常時には使われない。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2019年3月16日より、223系1000番台(4両編成)のうち2編成のクハ222形を中央の扉を埋め込んだ2扉車に改造し(埋め込まれた扉周りの意匠は125系電車に類似する。)、有料座席サービス「Aシート」車両を導入した。12両編成の9号車(京都・野洲側先頭車両から数えて4両目)に連結される。「A」はAmenity(快適性)、JR神戸/京都/琵琶湖線の路線記号「A」、関西弁の「ええ(良い)」に由来する。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "運行開始当初は1日4本で、平日は野洲駅 - 姫路駅と網干駅間で1往復ずつ、土休日は野洲駅 - 姫路駅間で2往復であった。下り(野洲発)を1号・3号、上り(野洲行き)を2号・4号とした。列車番号の末尾は、一般的な電車列車の「M」に対し、Aシート連結列車は「A」となる。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "このAシートは普通車指定席であり、指定席料金は一律840円である(2022年10月時点)。特急列車ではないため、青春18きっぷなどの企画乗車券でも指定席券を購入することで利用が可能であるが、それら企画乗車券ではe5489利用のチケットレスサービス(全列車600円。2023年3月18日~同年4月28日乗車分については390円となっていた。)との併用はできないことになっている。なお、ダイヤが大きく乱れた場合は、「Aシート」車両は無料開放されたり、無料開放のままAシートの設定のない湖西線への直通や、快速、Aシート車が先頭になっての運用に就くこともある。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "外観は、ドア横に“A-SEAT”のロゴマークをあしらい、特急サンダーバードと共通するブラックの窓回りに、521系(JR西日本所属車)にも似たブルーの帯を配したデザインとなった。車内には新たにパーティションが設けられ、そのパーティション内は有料座席エリアとされており、テーブルとコンセントを備えた、特急列車普通車と同等のリクライニングシートが2-2列で設けられている。シートピッチは首都圏の快速・普通列車グリーン車と同等の約970mm(現行910mm)とし、電球色に交換された照明、ブラウン木目調となった内装とあわせ、快適性を高めた落ち着きある空間となっている。ラック式の荷物スペースを備えるほか、無料Wi-Fiサービスが提供されている。トイレは洋式化され、車いす対応の多機能タイプとなっている。着席定員は46名。なお、有料座席エリア内では車内広告は一切排除されており、天井に広告吊りの留め金具はあるものの広告の掲出は行われていないほか、立席はできず必ず指定席券を購入の上着席する必要がある。一方、パーティションの外側であるドアおよびトイレ周辺は立席エリア(フリースペース)となっており、ここにいる限りは料金は発生しない。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2020年12月1日より2021年2月28日まで、試験的に1 - 3番の各席(12席分)を指定席として販売した。後に指定席の販売は拡大・延長され、2021年7月1日からは1 - 5番の各席(20席分)が指定席となった。その後、2022年3月12日のダイヤ改正より全席指定席となった。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2023年3月18日のダイヤ改正で、Aシート連結列車を6往復に増発した。増発分に対応するAシート車両については、既存車両の改造ではなく225系4次車2編成(クモハ224-701、702含む4両✕2編成)を新造し投入した。新造したAシート専用車両は、出入口は片開き2扉とした。既存車両との車内の細かい変更点については、立ち席エリアに介護者用座席(優先座席)を1席を設置や、大形つり手の採用。フリーストップカーテンの採用客室出入台の識別化がある。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "国鉄時代の1972年(昭和47年)から1978年(昭和53年)まで、阪和線でも新快速が運行されていた。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1972年3月15日のダイヤ改正で天王寺駅 - 和歌山駅間に設定された。途中停車駅は鳳駅のみで、所要時間45 - 51分で阪和間を結んだ。最速列車の所要時間は前身の阪和電気鉄道が設定していた超特急以来のものである。日中の9時台から15時台に1時間間隔で運行していた。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "車両は、それまで東海道・山陽本線の快速・新快速に使用していた113系が、このダイヤ改正で東海道・山陽本線に登場した153系「ブルーライナー」と同じ塗装(灰色9号地に青22号特帯)に変更して投入された。新造車両ではなかったものの阪和線では初めての冷房付きの車両で、いわゆる旧形国電中心だった阪和線の中では一際目立つ存在だった。円形に羽根を付けたデザインの専用ヘッドマークも新調の上装着された。そして1973年(昭和48年)9月20日に関西本線の湊町駅(現在のJR難波駅) - 奈良駅間が電化されると、関西本線快速用車両が当時の阪和線の車両配置区所であった鳳電車区所属となり、一部は阪和線と共通運用になったため、上記塗装とは帯色だけが異なるカラーリング(灰色9号地色に朱色3号帯色)の「春日塗り」の通称がある「関西快速色(春日色)」の113系も充当されるようになった。「ブルーライナー」に採用された塗装はその後も「阪和色」の通称で呼ばれ、2012年4月1日の団臨運転まで(定期運転は2011年12月上旬まで)使用された。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "阪和電鉄以来の速達運転を実現した新快速だったが、元々阪和間の直通需要は京阪神間に比べると規模が小さく、利用は限られていた。このため、1977年(昭和52年)には和泉砂川駅と熊取駅を停車駅に追加し、所要時間は48 - 51分になった。しかし、大きく利用状況は改善せず、紀勢本線が電化された1978年10月2日のダイヤ改正で快速に統合される形で廃止された。",
"title": "近畿地区(JR西日本)"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "JR東海が東海道本線浜松駅 - 米原駅間に設定した快速列車の一種である。英語表記は \"New Rapid (Train)\"。同区間では他に「特別快速」と「快速」、そして「区間快速」という列車種別が存在しており、かつそれぞれに微妙な停車駅の違いがあるため、JR東海における「新快速」は単にそれらとを区分するための種別の一つとして存在している。なお、新快速と比較して、他の種別には以下の違いがある。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "これらの違いは、すべて金山以東の停車駅の違いによるものであり、金山以西での違いはない。ただし、1999年12月のダイヤ改正までは、穂積駅には快速は停車し新快速は通過するという違いがあった。また、2017年3月現在でも一部の快速は平日のみ稲沢駅に停車するものもある。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2020年8月現在、全運行区間(浜松 - 米原駅間)を走破する新快速は下り列車のみであり、平日に浜松6:01発と9:43発の大垣行き、土休日に浜松17:01発の米原行き、合わせて3本が運行されている。かつては上り列車の設定もあり、2020年3月14日のダイヤ改正以前までは米原7:07発(8両編成、豊橋で後部4両切り離し)の浜松行きが1本運行されていた。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "基本的な停車駅は以下のとおり。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "浜松駅 - (この間各駅停車) - 豊橋駅 - 〔三河大塚駅*〕 - 〔三河三谷駅〕 - 蒲郡駅 - 〔幸田駅〕 - 岡崎駅 - 安城駅 - 刈谷駅 - 大府駅 - (笠寺駅) - (熱田駅) - 金山駅 - (尾頭橋駅) - 名古屋駅 - 尾張一宮駅 - 岐阜駅 - (この間各駅停車) - 米原駅",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "車両は313系と311系が用いられ、2006年(平成18年)10月1日のダイヤ改正からは同5000番台が中心となっている。過去には、313系と311系との併結運転、311系や117系、211系を使用した列車設定もあった。117系は2008年(平成20年)3月15日の改正より平日朝の岡崎発着列車に限り復活した。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "名古屋駅からの標準所要時間は、豊橋駅まで50分、大垣駅まで31分となっている。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "国鉄末期までの東海道本線(豊橋駅 - 名古屋駅 - 大垣駅間)は日中1時間あたり快速1本・普通1本という貧弱な路線であった。1971年(昭和46年)に運転を開始した快速に使用していた153系(155系・159系含む)の取替にあたって、117系を1982年(昭和57年)に投入し「東海ライナー」と命名した。だが、当時の普通列車は本数が少なく、米原・大垣と静岡・熱海・東京との直通運転が多かったために運転間隔も統一されていないなど、「使いやすいダイヤ」には程遠い状態であった。対する当時の名古屋鉄道名古屋本線では、特急・高速・急行を合わせて毎時約7本が設定されており、国鉄の輸送実績はこれに遠く及ばないものであった。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "分割民営化直前の1986年(昭和61年)11月に行われたダイヤ改正で、名古屋鉄道管理局は名古屋都市圏の普通列車の輸送改善を目玉とし、6両編成9本の117系を新製先頭車を加えて4両編成18本にするなど、豊橋 - 大垣間で快速列車と普通列車の大幅な増発の実施でフリークエンシーを向上させた。さらに翌春誕生したJR東海は、この区間を経営上東海道新幹線に次ぐ在来線の重要区間として位置付け、新型車両の投入と増発を重ねていくことになる。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1989年(平成元年)3月11日に新快速がはじめて設定された。運転区間は蒲郡駅 - 大垣駅間に限定され、また当時は岐阜駅 - 大垣駅間はノンストップであった。車両は当初117系が用いられ、最高速度は110 km/hであったが、同年7月に311系を新造、新快速に集中的に投入することにより、最高速度が120 km/hに引き上げられた。その後1年を経て、311系は増備が続けられ新快速の全列車に投入されるとともに、運転区間も豊橋 - 大垣間に拡大している。これにより「新快速=311系」「快速=117系」という棲み分けがなされ、120 km/h運転を行う新快速は快速に比べて特別なフラッグシップ的存在となっていた。一方、快速の運転区間は浜松駅 - 米原駅間となり、比較的長距離を走る列車も増えていった。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "並行する名鉄もJR同様に長距離利用の増加に対応する形で1990年(平成2年)に特急券不要の高速を特急に格上げし、名古屋本線では一部特別車(指定席)の特急が登場した。さらに翌年には専用車両(一部特別車の1000・1200系「パノラマSuper」)を登場させ、知立駅、新安城駅通過の列車が増えていった。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1999年(平成11年)に313系が登場し、311系を置き換える形で新快速に投入され、同年12月4日の改正で日中の列車はすべて313系となった。最高速度は120km/hのままであるが、加速性能の向上により所要時間の短縮を実現している。また、朝方はこの改正時に同時に新設した特別快速にほとんどが変更された。この改正で日中の普通列車を大垣折り返しから岐阜折り返しに短縮したことに伴い、岐阜 - 大垣間の快速・新快速は各駅に停車するようになった。同時に幸田、三河三谷に停車する列車も夕方以降に新設された。この列車は夕方以降の快速を格上げした列車であり、ラッシュ時には米原や浜松方面へ直通する列車も増発された。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ここでの大きな変化は、快速にも313系が投入されたことにより、新快速と快速の性能統一がなされたことが挙げられる。全体の底上げを行うことで、旧来の「停車駅が少なく、スピードが速い」という新快速のフラッグシップ的な要素は消え、「停車駅が1駅少ない快速」の位置付けに変化した。同時に登場した特別快速も同様である。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "313系の大量投入により、それまでの新快速運用に充当されていた311系は普通列車に用いられることとなった。ただし、ラッシュ時間帯には311系も用いられたほか、117系の新快速も再設定され、313系の新快速より所要時間に余裕を持ったダイヤで運行された。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "そのほか、313系の投入により、朝夕に豊橋で2両を分割した飯田線への直通運転が行われ、豊川・新城方面からの通勤サービスが図られていた。飯田線直通の大半は特別快速であったが、一部は新快速の列車もあった。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)10月1日のダイヤ改正において、終日混雑が激しい東海道本線の快速列車増強が実施された。新たに6両貫通編成の313系5000番台72両を投入し、昼間時においてはそれまでの4両編成から6両編成に編成を増強するとともに、朝夕のラッシュ時の増発および編成増強も行われている。一方で、飯田線への乗り入れは全廃されたほか、浜松駅発着の列車は大幅に削減された。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、三河三谷および幸田駅については、これまで一部の快速・新快速で千鳥停車が行われてきたが、この改正で両駅に停車する新快速も設定された。一方で、両駅ともに停車する「快速」は設定されていないことから、「新快速」の位置付けはさらに曖昧なものとなり、「共和駅を通過する快速」との意味合いのみが残ったと言える。このほか、土休日においては、ラグーナテンボスへのアクセス改善として三河大塚停車の新快速(上りのみ)も設定された。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)3月15日の改正では、平日朝に岡崎発着の新快速が3本増発された。313系では車両運用に余裕がなく、117系での運転となっている。また、深夜にも増発が行われ、豊橋発下りの最終が22時56分となり名鉄特急の最終(22時45分発)より遅くなったほか、岡崎発の列車なども増発された。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "JR東海で運行された車両を以下に記す。2012年現在は原則として大半が313系電車による運行である。",
"title": "名古屋地区(JR東海)"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "岐阜乗合自動車(岐阜バス)では、路線バスの優等種別として「新快速」を設定しており、大洞団地線、大野忠節線、黒野線、岐阜高富線などの各方面で、平日通勤時間帯に運行されている。",
"title": "バスにおける事例"
}
] |
新快速(しんかいそく)は、日本国有鉄道(国鉄)が近畿圏の東海道本線・山陽本線などと阪和線で運転を開始し、現在は西日本旅客鉄道(JR西日本)の京阪神地区と、東海旅客鉄道(JR東海)の名古屋地区で運行されている快速列車で、普通列車の種別の一つである。 一般的な快速より停車駅が少ない列車種別であり、車両が新しいことを意味するものではない。また京阪神地区と名古屋地区では性格がかなり異なる。 JR西日本の新快速は、英語表記が"Special Rapid Service"、JR東海の新快速は、英語表記が"New Rapid Train"である。また、特別な料金が不要なのにもかかわらずその停車駅の少なさから無料の特急とも呼ばれている。
|
'''新快速'''(しんかいそく)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)が[[近畿地方|近畿]]圏の[[東海道本線]]・[[山陽本線]]などと[[阪和線]]で運転を開始し、現在は[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[京阪神]]地区と、[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[名古屋市|名古屋]]地区で運行されている[[快速列車]]で、[[普通列車]]の種別の一つである。
一般的な快速より停車駅が少ない[[列車種別]]であり、車両が新しいことを意味するものではない。また京阪神地区と名古屋地区では性格がかなり異なる。
JR西日本の新快速は、英語表記が"Special Rapid Service"、JR東海の新快速は、英語表記が"New Rapid Train"である。また、特別な料金が不要なのにもかかわらずその停車駅の少なさから無料の特急とも呼ばれている。
== 近畿地区(JR西日本) ==
=== 東海道本線・山陽本線・北陸本線・赤穂線・湖西線===
{{see also|京阪神快速}}
{{Infobox 列車名
|列車名=新快速(京阪神地区)
|画像=Series-223-W28 (2022-01-19).jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[JR西日本223系電車|223系]]による新快速<br>(2022年1月 [[摂津本山駅]] - [[甲南山手駅]]間)
|国={{JPN}}
|種類=
|現況=運行中
|地域=[[福井県]]・[[滋賀県]]・[[京都府]]・[[大阪府]]・[[兵庫県]]
|前身=
|運行開始=[[1970年]][[10月1日]]
|運行終了=
|後継=
|運営者=[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
|旧運営者=[[日本国有鉄道]](国鉄)
|平均乗客数=
|起点=[[敦賀駅]]・[[近江塩津駅]]・[[長浜駅]]・[[米原駅]]・[[野洲駅]]・[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]
|停車地点数=
|終点=[[大阪駅]]・[[西明石駅]]・[[姫路駅]]・[[網干駅]]・[[播州赤穂駅]]・[[上郡駅]]
|営業距離={{Convert|275.5|km|mi|abbr=on}}(敦賀 - 播州赤穂間・米原経由)
|平均所要時間=250分 (敦賀 - 播州赤穂間)
|運行間隔=15分おき(京都 - 大阪 - 姫路)
|列車番号='''敦賀 - 米原間'''<br/>3200M - <br/>'''上記以外'''<br/>3401Mからの奇数(下り)<br/>3400Mからの偶数(上り)
|使用路線=[[北陸本線]]・[[湖西線]]・[[東海道本線]]・[[山陽本線]]・[[赤穂線]]
|クラス=[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]
|身障者対応=1号車、5号車または9号車
|座席=普通車[[座席指定席|指定席]]「Aシート」:9号車の一部<br />普通車[[自由席]]:上記以外
|荷物=
|その他=
|車両=[[JR西日本223系電車|223系電車]]([[網干総合車両所]])<br />[[JR西日本225系電車|225系電車]](網干総合車両所)
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|電化=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]
|最高速度=130 [[キロメートル毎時|km/h]]
|備考=英語表記は"Special Rapid Service"
|路線図={{BS-map|style=border:0px; width:100%
|map=
{{BS|KBHFa||[[敦賀駅]]||}}
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|路線図表示=collapsed
}}
<gallery>
ファイル:JRWest A Special Rapid Service.jpg|種別表示(幕式)
ファイル:A新快速 Special Rapid Service.png|種別表示(LED式)
</gallery>
==== 概要 ====
[[1970年]][[10月1日]]に[[日本国有鉄道|国鉄]]が[[京阪神]]地区([[関西]]エリア)の[[東海道本線]]・[[山陽本線]]([[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]・[[JR神戸線]])系統で運行を開始した。[[特別急行券|特別料金]]不要の快速列車の種別の一つで、[[京都市|京都]] - [[大阪市|大阪]] - [[神戸市|神戸]]などの都市間輸送([[インターアーバン]])の基軸を担う最速達列車である。一部の区間では特急列車に匹敵、またはそれを上回る速達性を誇り、同区間の一般的な快速とはスピード面で大きな開きがある一方、運用車両に大きな差はない。
運行開始当初は[[京都駅]] - [[西明石駅]]間の運行で、途中停車駅は[[大阪駅]]、[[三ノ宮駅]]、[[明石駅]]の3駅のみで、[[新幹線]]停車駅である[[新大阪駅]]は通過しており、[[京阪神]]間の最速輸送を重視していた。また運転本数も1日に6往復と少なかった<ref>{{Cite web|和書|title=新快速50周年:JRおでかけネット(アーカイブ) |url=https://web.archive.org/web/20201001060319/https://www.jr-odekake.net/railroad/shinkaisoku_50th/ |website=JRおでかけネット |accessdate=2023-01-16 |language=ja}}</ref>。その後、運行区間、運行本数、停車駅、編成車両数などが拡大していき、次第に利便性が向上していった。現在はJR西日本の[[アーバンネットワーク]](京阪神エリア)の区間を超えて、[[北陸本線]][[敦賀駅]] - [[米原駅]]間、東海道本線米原駅 - 神戸駅間、山陽本線神戸駅 - [[上郡駅]]間、[[赤穂線]][[相生駅 (兵庫県)|相生駅]] - [[播州赤穂駅]]間、および[[湖西線]]全線で運行される。敦賀駅 - 播州赤穂駅(275.5km)を米原駅(琵琶湖線)経由で走る新快速は在来線の普通列車で国内最長の運行距離を誇る。
JR神戸線・JR京都線は[[阪急電鉄]]や[[阪神電気鉄道]]・[[京阪電気鉄道]]・[[山陽電気鉄道]]など競合する[[関西私鉄]]が複数並行して走行しており、それら強力な並行私鉄路線に対抗するためにスピードや快適性、利便性を向上させていった。[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] - [[西明石駅]]間の日本最長距離(120.9km)の[[複々線]]を生かした[[停車 (鉄道)|相互接続]]や京阪神圏外への[[直通運転]]、早朝から深夜までの[[フリークエントサービス]]などの[[ダイヤグラム|ダイヤ]]面での工夫、[[特別急行列車|特急列車]]に匹敵する最高速度130km/hによる高速運転、そして通勤型列車でありながら[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|転換クロスシート]]を配した落ち着いたデザインの内装などが利用客に支持された。複々線区間においては快速列車の一種であるものの、特急列車や[[貨物列車]]が使用する外側線([[急行線]])を走行する(一般的な快速列車や普通列車は内側線([[急行線|緩行線]])を走行する)。所要時間に関しては大阪駅 - 三ノ宮駅間(30.6km)は21分、大阪駅 - 京都駅間は28分(42.8km)であり、大阪駅 - 京都駅間の[[表定速度]]は91.7km/hに達し、JRの特急列車に匹敵するほどの速さを誇る<ref>{{Cite web|和書|title=最高時速130km…とにかく速い!JR西「新快速」 半世紀にわたり走り続けた関西のスター|まいどなニュース|url=https://maidonanews.jp/article/14203156|website=まいどなニュース|accessdate=2021-03-23|language=ja-JP}}</ref>。ライバルの[[私鉄]]各社に対してスピード競争で完全に優位に立っており<ref>{{Cite web|和書|title=関西の鉄道「どんどん増える停車駅」事情 熾烈なライバル競争にも時代の変化?|url=https://trafficnews.jp/post/102646|website=乗りものニュース|accessdate=2020-12-12|language=ja}}</ref>、「私鉄王国」と呼ばれる関西においてJR西日本が並行する私鉄路線に乗客を逃さない大きな原動力となった<ref>{{Cite web|和書|title=特急並みに速い新快速、「お得感」が関西人気質にマッチ…誕生50年 : 経済 : ニュース|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20200928-OYT1T50139/|website=読売新聞オンライン|date=2020-09-28|accessdate=2020-12-01|language=ja}}</ref>。また当初は最低限の停車駅で都市間の速達性を保っていた競合私鉄の優等列車も、新快速に対して都市間輸送における速達性でもはや対抗できなくなったため、次第に[[ベッドタウン]]の主要駅の停車駅を増やして地域需要の利便性の確保に軸足を移していった<ref>{{Cite web|和書|title=関西の鉄道「どんどん増える停車駅」事情 熾烈なライバル競争にも時代の変化?|url=https://trafficnews.jp/post/102646|website=乗りものニュース|accessdate=2020-12-12|language=ja}}</ref>。また、[[名神ハイウェイバス]]も新快速の滋賀県内への拡充に伴って滋賀県 - 京阪神間の輸送で鉄道に対する競争力が低下したことから、[[2000年代]]以降は滋賀県内の停留所を大幅に減らして[[名古屋市|名古屋]] - 京阪神間の都市間輸送に特化していった。
さらには、新快速の高速運転、及び運転区間・停車駅の拡大により大阪に通勤・通学する[[郊外]]エリアの拡大に繋がった。[[兵庫県]]南部の神戸市以西([[播磨国|播磨]]地域)や[[滋賀県]]湖南・湖東のエリアでは、新快速停車により大阪市への通勤・通学圏に組み込まれ、大阪の[[ベッドタウン]]としてこの地域の人口増加に寄与した。特に京阪神への実質的な並行私鉄が存在しない滋賀県では、従来から大阪への通勤圏である[[大津市]]や[[草津市]]といった県南部だけではなく、湖南エリアの[[野洲駅]]、湖東エリアに位置する[[近江八幡駅]]、[[能登川駅]]の駅周辺の発展も促し、高層マンションなどの建設が現在も進んでいる<ref>辻󠄀 良樹「滋賀県に延伸をつづけた新快速」『[[鉄道ダイヤ情報]]』2012年2月号 [[交通新聞社]]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20210909/ddl/k25/010/355000c|title=人口増とにぎわい期待 日清紡工場跡地で再開発|accessdate=2021年9月9日|publisher=毎日新聞社}}</ref>。また、新快速の運行本数が運転開始初期から京阪神と同様の[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]以南では、[[南草津駅]]が[[1994年]]開業の比較的新しい駅であるが、[[2011年]]の新快速停車以降、滋賀県内で乗降客数1位になるまで利用者数は増加し、駅周辺には新興マンションが数多く立ち並ぶまでに発展した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20200928-OYT1T50139/|title=特急並みに速い新快速、「お得感」が関西人気質にマッチ…誕生50年|accessdate=2020/12/01|publisher=読売新聞}}</ref>。このように新快速は関西において街の様相や地域の人口動態にも大きな影響を与えた。上記のような速達性と利便性、またその与えた影響の大きさから関西では「新快速」という名称は単なる列車種別の枠を超えた「[[ブランド]]」として認識されており、新快速が走行する路線を指すこともある。また、[[不動産会社]]では新快速停車駅であることを積極的にアピールしている<ref>辻󠄀 良樹「滋賀県に延伸をつづけた新快速」『[[鉄道ダイヤ情報]]』2012年2月号 [[交通新聞社]] 33頁、44頁 </ref>。
同様の性格の列車は、既に首都圏の[[中央線快速|中央線]]でも「[[特別快速]]」として運転されていた。当初、[[鉄道管理局|大阪鉄道管理局]]はこれに倣って「特別快速」という名称で国鉄本社の許可も得て運転をしようとしたが運転開始の直前に「フレッシュさを出したい」という理由で「新快速」という呼称に改めた<ref>『私鉄王国の凋落』(川島令三著、草思社刊、2001年)P16-17。</ref>。[[英語]]案内表記については、[[1990年代]]途中までは「新快速」を直訳した "'''[[wikt:new|New]] [[wikt:rapid|Rapid]] Service'''" であったが、「特別快速」と同様の "'''[[wikt:special|Special]] Rapid Service'''" に変更されている。なお、車内に設置しているLCD案内表示器では[[中国語]]表記はそのまま、”{{lang|zh|新快速}}”([[拼音]]: xīnkuàisù)と表記される。また、[[朝鮮語|韓国語]]の表記は車両によって異なる。[[JR西日本223系電車|223系電車]]では、「新」の表記を「新しい」を意味する固有語、”[[wikt:새|새]]”が用いられ、”{{lang|ko|새쾌속}}"([[朝鮮における漢字|漢字]]: {{lang|ko|새快速}} [[文化観光部2000年式|2000年式]]: Saekwaesok [[マッキューン・ライシャワー式|MR式]]: Saek'waesok)と表記され、[[JR西日本223系電車|225系電車]]では、漢字表記をそのまま[[ハングル]]に直した”{{lang|ko|신쾌속}}”(漢字: {{lang|ko|新快速}} 2000年式: Sinkwaesok MR式: Sin K'waesok)と表記されている。
[[2017年]][[3月4日]]のダイヤ改正からは、路線記号の導入に伴い、湖西線経由の列車は上り(近江今津・敦賀方面行き)のみ水色のラインカラーに湖西線の路線記号 "'''B'''" を表示した種別幕が、それ以外の列車(湖西線経由の下り(姫路方面行き)も含む)は青色のラインカラーに北陸本線・東海道本線・山陽本線・赤穂線の路線記号 "'''A'''" を表示した種別幕が使用されている<ref>[http://railf.jp/news/2017/03/05/203000.html 網干総合車両所所属車両の路線記号表示開始] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース 2017年3月5日、2017年3月25日閲覧。</ref>。[[2019年]]より、有料座席サービスの「Aシート」が一部編成に導入された(後述)。
[[2020年]]10月1日に運行50周年を迎えた際は、それを記念した各種イベントも実施された<ref>{{Cite web|和書|date=2020-09-28 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200928_00_shinkaisoku50th.pdf |title=10月1日 新快速は運行開始から50年を迎えます! ~新快速50周年記念プロモーションのお知らせ~ |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |format=PDF |accessdate=2020-10-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-08-18 |url=http://www.kyotorailwaymuseum.jp/news/sysimg/00611/link_PkwAu.pdf?20200820114744 |title=新快速50周年「この秋は新快速で50!(ゴー!) ~学んで、遊んで、しんかいそく!~ 2020.9.19(土)出発進行! |publisher=[[京都鉄道博物館]] |format=PDF |accessdate=2020-10-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-09-30 |url=https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20200930/2000035494.html |title=JR新快速 10月1日50周年 |publisher=[[NHK大阪放送局]] |accessdate=2020-10-01}}</ref>。
===停車駅===
定期ダイヤにおける停車駅は以下の通り。なお = で示した駅間は互いに隣接しており、通過駅はない。
;[[北陸本線]]・[[東海道本線]]・[[山陽本線]]([[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]・[[JR神戸線]]の愛称区間を含む)
:[[敦賀駅]] = [[新疋田駅]] = [[近江塩津駅]] = [[余呉駅]] = [[木ノ本駅]] = [[高月駅]] = [[河毛駅]] = [[虎姫駅]] = [[長浜駅]] = [[田村駅]] = [[坂田駅]] = [[米原駅]] = [[彦根駅]] - [[能登川駅]] - [[近江八幡駅]] - [[野洲駅]] = [[守山駅 (滋賀県)|守山駅]] - [[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] = [[南草津駅]] - [[石山駅]] - [[大津駅]] = [[山科駅]] = [[京都駅]] - [[高槻駅]] - [[新大阪駅]] = [[大阪駅]] - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]] - [[芦屋駅 (JR西日本)|芦屋駅]] - [[三ノ宮駅]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - [[明石駅]] = [[西明石駅]] - [[加古川駅]] - [[姫路駅]] = [[英賀保駅]] = [[はりま勝原駅]] = [[網干駅]] = [[竜野駅]] = [[相生駅 (兵庫県)|相生駅]] = [[有年駅]] = [[上郡駅]]
;[[湖西線]]
:(敦賀方面)- [[近江塩津駅]] = [[永原駅]] = [[マキノ駅]] = [[近江中庄駅]] = [[近江今津駅]] = [[新旭駅]] = [[安曇川駅]] = [[近江高島駅]] = [[北小松駅]] = [[近江舞子駅]] - [[堅田駅]] - [[比叡山坂本駅]] - [[大津京駅]] = 山科駅 - (大阪方面)
: 北陸本線・湖西線内では快速列車として運転し、京都以西で種別を新快速に変更する列車もある(快速の場合は[[おごと温泉駅]]にも停車)。なお[[列車番号]]は種別を変更する駅ではなく近江今津駅で切り替わる。
;[[赤穂線]]
:(姫路方面)- [[相生駅 (兵庫県)|相生駅]] = [[西相生駅]] = [[坂越駅]] = [[播州赤穂駅]]
上記のほか、通常停車しない駅へ臨時停車する場合や、逆に[[臨時列車]]が一部の駅を通過する場合などがある。
==== 運行形態 ====
{{main|北陸本線#新快速・快速|湖西線#新快速・快速|琵琶湖線#新快速|JR京都線#新快速|JR神戸線#新快速|赤穂線#運行形態}}
当初、京都駅 - 西明石駅間で運転を開始した新快速は、その後徐々に運転区間を延ばしてきた。[[2022年]][[3月12日]]現在の運転区間は、敦賀駅 - 北陸本線・琵琶湖線経由または湖西線経由 - 播州赤穂駅・上郡駅間である。
大阪駅を日中に発着する時間帯における1時間あたりの運転本数は、神戸・姫路方面が大阪駅 - 姫路駅間で4本である。京都・米原・敦賀方面は大阪駅 - 山科駅間で4本、山科駅 - 草津駅間で3本、草津駅-野洲駅間で2本、野洲駅 - 米原駅間で1本、米原駅 - 近江塩津駅間で1本、敦賀駅発着(湖西線経由)が1本である。平日の朝ラッシュ時は姫路・神戸方面と京都方面の双方から大阪駅に向けて8分間隔で運行されている。夕方ラッシュ時は大阪発で18時台において、神戸・姫路方面が8本、京都方面が7本(7分30秒間隔)となる。朝夕ラッシュ時点の運転間隔が短くなっているのは、JR京都線・神戸線を直通する列車に加え、大阪駅が始発駅・終着駅となる列車が入るからである。
敦賀駅に乗り入れる新快速は、朝晩は米原駅経由<ref group="注釈">これは上り列車の場合、湖西線経由が大阪発15時15分(ほかに平日ダイヤのみ18時22分も設定されているが、そちらの1本だけは京都駅 - (湖西線経由) - 敦賀駅間は「新快速」ではなく「快速」として運転するため、通常の新快速停車駅のほか[[おごと温泉駅]]にも停車)を最後に運転されなくなることから、それを補完しつつ、日中は米原駅経由近江塩津駅折り返しとなっている大阪駅毎時30分発の列車をさらに敦賀駅まで延長する形で、米原駅 - 敦賀駅間の利便性を確保するため。</ref>、日中は湖西線経由で運転されている。近江塩津駅で折り返す列車は米原駅を経由する。しかしながらその反面、一例として[[2006年]][[10月21日]]の敦賀駅までの直流化開業と同時に設定された敦賀発米原経由播州赤穂行きなど、主要区間を12両編成で運転している列車を中心に、後述の通りホーム有効長の関係で分割併合作業を必要とするため、列車によっては始発駅から終着駅までの全区間を直通運転できないものが最低でも1日1本は発生するようになった<ref group="注釈">具体的には主に敦賀駅(または近江塩津駅) - 網干駅以西の系統を中心に、このような事例が存在する。</ref>。また2011年3月12日のダイヤ改正で日中の一部に敦賀駅 - 播州赤穂駅間の系統(湖西線経由)が設定された<ref group="注釈">但し2012年3月17日改正現在、[[交通新聞社]]刊『普通列車編成両数表(Vol.30 ジェー・アール・アール編)』(2012年6月25日発行)131頁または168頁にも記載されている通り、当該列車のうち平日播州赤穂駅12時37分発と平日同駅14時05分着の2列車のみ、播州赤穂駅 - 近江今津駅間では4+4の8両編成で運転し、近江今津駅のみで分割併合するため、全区間を直通運転する事例が存在する。</ref>。
2008年3月15日改正時点での日中の平均所要時間は、長浜駅 - 大阪駅間が91分、近江今津駅 - 大阪駅間が78分、京都駅 - 大阪駅間が28分、大阪駅 - 三ノ宮駅間が20分、大阪駅 - 姫路駅間が61分となっている。通過運転を行う米原駅 - 姫路駅間198.4 kmの[[表定速度]]は約83 km/hである。同区間はJR各社の在来線の中でも特に線形や設備が良いこともあり、この数字は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)首都圏の特急列車の表定速度(おおむね65 - 90 km/h)とほぼ同程度である。
全列車が[[JR西日本223系電車|223系1000/2000]]・[[JR西日本225系電車|225系0/100番台]]で、最長12両で運転されている。ただし、ホーム[[有効長]]の関係から12両で運転可能なのは近江今津駅・米原駅 - 上郡駅間のみで、北陸本線長浜駅 - 敦賀駅間と湖西線永原駅 - 近江塩津駅間は4両、それ以外の区間では8両に制限される。そのため、近江今津駅・米原駅・京都駅・姫路駅・網干駅で12両編成や8両編成の分割併合作業がある。
2011年3月12日のダイヤ改正から、土休日ダイヤでは米原駅・近江今津駅 - 姫路駅間のすべての新快速が12両編成に増強され、平日ダイヤも12両編成で運転される列車が大幅に増加した(このため新旭駅のホーム有効長の延長工事が行われ、湖西線内も12両運転が可能となった)。これは5月4日の[[大阪ステーションシティ]]のグランドオープンにより、大阪駅の利用増が予想されるための更なる需要喚起および混雑緩和策である<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース 2010年12月17日{{リンク切れ|date=2019年8月}}</ref>。更に2017年3月4日のダイヤ改正から米原駅- 姫路駅間で終日12両運転を実現している<ref group="注釈">但し平日夕方の大阪駅始発列車など一部を除く</ref><ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/161216_00_keihanshin.pdf 平成29年春ダイヤ改正について] - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース、2016年12月16日付、2016年12月17日閲覧。</ref>。
12両編成での最長運転列車は、琵琶湖線系統(A)が米原駅 - 上郡駅間の233.7 km、湖西線系統(B)が近江今津駅 - 網干駅間の194.2 kmである。これは[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[上野東京ライン]]([[東海道線 (JR東日本)|東海道線]] - [[宇都宮線]]系統)の[[熱海駅]] - [[宇都宮駅]]間15両運転(214.3 km)に匹敵する。
平日の朝に1本のみ、湖西線経由敦賀行き(前4両)と琵琶湖線米原行き(後ろ8両)を京都駅で切り離す列車が設定されている。この列車は分岐点である次の山科駅にて敦賀行きの編成が米原行きの編成と接続を取って米原行きの編成が先に発車するため、新快速同士で追い越しする唯一の例となっている。かつてはそれ以外にもラッシュ時に米原駅で近江塩津・長浜発を連結する運用(これは長浜駅で分割併合の作業ができないことと、長浜・田村・坂田の各駅が12両編成に対応していないため)もあった。また、毎朝に米原発で下り1本のみ野洲駅まで各駅に停車し野洲駅から新快速に変わる列車や夜に姫路駅で播州赤穂行き・網干行きを分割して運転する列車(赤穂線直通は「普通」として運転) 、さらに昔(平成21年3月14日改正時点)は平日朝に上り1本のみ草津から各駅に停車する列車、同じく平日の朝に1本のみ野洲行きと近江今津行きを京都で切り離し、野洲行きは京都から各駅に停車する列車、近江今津始発で京都で増結する列車が存在した。さらにそれ以前には播州赤穂・上郡行きという列車も存在した。<gallery>
ファイル:大阪駅時刻表平成21年改正.jpg|alt=|平成21年3月14日改正の大阪駅の時刻表
</gallery>
==== 車内自動放送 ====
:2017年より、[[タブレット (コンピュータ)|タブレット端末]]による車内自動放送が導入されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/fan/blog/article/2018/10/page_13247.html|title=自動放送アプリ ~Train Announce~|accessdate=2020年5月27日|publisher=}}</ref>。
==== 臨時停車・臨時列車 ====
===== 臨時停車 =====
新快速には特に[[列車愛称|愛称]]を付与していないが、[[ハイキング]]や[[スキー]]客の利便を図るため、定期列車にレジャー号の愛称を付与したものとして次の列車がある。
*「湖西レジャー号」 : 土休日ダイヤの、朝の近江今津・敦賀方面行きの4本と、午後の敦賀駅始発の4本を[[志賀駅]]に臨時停車していた。過去には、[[比良駅 (滋賀県)|比良駅]]に臨時停車する列車を「湖西レジャー号」としていることもあった<ref>[https://web.archive.org/web/19980205232915/http://www.westjr.co.jp/new/1press/n970822a.html 平成9年《秋》の臨時列車の運転について]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年8月22日</ref>が、現在は運転されていない。
*「湖北レジャー号」 : 午前中の長浜行き3本、夕方の姫路行き3本が[[安土駅]]に臨時停車していた<ref name="press_19970120">[https://web.archive.org/web/19980205234008/http://www.westjr.co.jp/new/1press/n970120b.html 平成9年《春》の臨時列車の運転について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年1月20日</ref>。現在は運転されていない。
また、毎年8月に開催される[[びわ湖大花火大会]]の開催日に限り[[膳所駅]]にも停車する。
===== 臨時列車 =====
沿線のイベントや行楽期においては、[[臨時列車]]の運転を行っていた。なお2020年度には実施されなかった。
[[山陰本線]]([[嵯峨野線]])[[嵯峨嵐山駅]]への観光客輸送のため、臨時列車(一部列車の嵯峨野線内は定期列車の代行運転)として、京都駅で折り返して嵯峨野線内に乗り入れる「嵐山さくら号」「嵐山わかば号」「嵐山もみじ号」が春・夏・秋の行楽シーズンに運転され、高槻駅 - 大阪駅・神戸駅間では新快速と案内されていたが、現在は運転されていない。{{main|嵯峨野線#大阪方面からの臨時列車}}
湖西線マキノ駅すぐ近くの[[海津大崎]]で[[サクラ|桜]]の見ごろを迎える毎年4月第2土・日曜日と[[ゴールデンウィーク]]には、事前に通常の連結順序を入れ替え、京都駅での切り離しの際、本来なら京都駅止まりとなる8両編成を先に発車させた上で臨時列車として近江今津駅または永原駅まで運転し、残った4両が定期列車の敦賀行きとして続行運転することもある。
多客期に東海道・山陽本線内を大阪駅まで[[回送]]運転される列車が大阪行きの新快速として運転することがある。
毎年8月に行われる[[みなとこうべ海上花火大会]]当日や、12月に行われる[[神戸ルミナリエ]]期間中には三ノ宮駅発着の臨時新快速が設定されている。
過去には、[[1997年]][[9月]]の京都駅ビル開業記念で土曜・休日に山陽本線を姫路駅以西はノンストップで、また、[[青春18きっぷ]]の利用期間中の土曜・休日を中心に、赤穂線経由「赤穂備前ホリデー号」として<ref name="press_19970120" /> [[岡山駅]]発着で延長運転したこともあるが、[[1998年]]([[平成]]10年)までに運転を終了しており、現在は運転されていない。このホリデー号には[[座席指定席|指定席]]車が連結されていた。
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ファイル:JRW series221 Kobe.jpg|神戸ルミナリエで設定された臨時新快速(2009年12月)
ファイル:207-Shinkaisoku.JPG|207系「新快速」(2002年6月 尼崎駅)
</gallery>
==== 歴史 ====
{{Main2|新快速の運転開始以前を含む歴史|京阪神快速#歴史}}
==== 歴代の新快速用車両 ====
* [[国鉄113系電車|113系電車]]
** 初代の車両で、1970年10月1日 - 1972年3月14日まで使用されていた。2004年10月10日に[[リバイバルトレイン|リバイバル新快速]]として、7両編成の湘南色車を使用し京都 - 西明石間で運転された。
* [[国鉄153系電車|153系電車]]
** 2代目の車両で、[[灰色9号]]地に[[青22号]]特帯の専用色に変更され、1972年3月 - 1980年7月まで使用されていた。制御車の一部は[[国鉄165系電車|165系]]のクハ165を使用。
* [[国鉄117系電車|117系電車]]
** 3代目は初の専用車両で、1980年1月22日 - 1999年5月10日まで使用されていた。1990年3月10日に115 km/h化改造されている。2004年10月10日にリバイバル新快速として、12両編成の原色車を使用し、草津 - 姫路間で運転された。2009年4月4・5・11・12日に臨時新快速として永原 - 京都間で運転。[[鉄道車両の愛称|愛称]]は「シティライナー」。
* [[JR西日本221系電車|221系電車]]
** 4代目の車両で、1987年のJR化後初めて導入された。1989年3月11日 - 2000年3月10日まで使用されていた。2000年以降も臨時列車のほか、大幅にダイヤが乱れた際に使用される。
* [[JR西日本223系電車|223系電車]](1000番台・2000番台)
** 5代目の車両で、1995年8月12日以降使用されている。2000番台1次車の投入とともに2000年3月11日から130 km/h化された。
** 1000番台の一部は2019年3月16日から有料座席車両「Aシート」を導入(後述)。
** 2000番台に存在する6両編成は、新快速の編成を原則8+4の12両にしたために定期列車では使われることはない。
* [[JR西日本225系電車|225系電車]](0番台・100番台)
** 6代目の車両として、0番台は2010年12月1日に運転開始<ref>[http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2010/05/post_1263.html JR西日本225系が完成。] - 鉄道ホビダス 編集長敬白 2010年5月19日</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/0002991115.shtml 脱線教訓に安全性向上 JR西が新型車両を公開] - [[神戸新聞]] 2010年5月17日</ref>、100番台は2016年7月7日に運用開始した。実質的に223系の増備扱いで性能も揃えられているため、223系以前のように、新快速の全列車を短期間で同一形式に置き換えて車種を統一することはしていない。
** 700番台は2023年3月18日から有料座席車両「Aシート」を導入(後述)。
** 100番台に存在する6両編成は、新快速の編成を原則8+4の12両にしたために定期列車では使われることはない。
このほか、[[JR西日本207系電車|207系]]が[[神戸ルミナリエ]]開催中、もしくは[[御崎公園球技場]](神戸ウイングスタジアム)での[[2002 FIFAワールドカップ]]開催時に、[[JR西日本321系電車|321系]]が2013年8月18日に[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場]]で行われた[[サザンオールスターズ]]のコンサート公演時に大阪 - 三ノ宮間で<ref>[http://railf.jp/news/2013/08/19/214000.html 321系による臨時新快速運転] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2013年8月19日</ref>それぞれ臨時列車として使用された。ただし通常時には使われない。
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ファイル:JRW series113 JR-Kobe.jpg|113系リバイバル運転(2004年)
ファイル:JNR SHIN KAISOKU at OSAKA 153.jpg|153系(1978年)
ファイル:JNR 117-103 shinkaisoku.jpg|117系(1991年)
ファイル:JR West 221 shinkaisoku.jpg|221系(1990年)
ファイル:Series-223-1000-V4 50th.jpg|223系1000番台(Aシート編成・2021年)
ファイル:Series223-2000-W35.jpg|223系2000番台(2021年)
ファイル:Series-225-U2 (2021-12-19).jpg|225系0番台(2021年)
ファイル:Series-225-100-I8.jpg|225系100番台(2021年)
</gallery>
==== Aシート ====
[[File:Kuha222-1007-2019-4-6.jpg|thumb|200px|クハ222-1007(Aシート車)]]
[[File:223 Special Rapid Service A-Seat.jpg|thumb|200px|Aシートの車内<br />(手前5列が指定席であった時代)]]
2019年3月16日より、223系1000番台(4両編成)のうち2編成のクハ222形を中央の扉を埋め込んだ2扉車に改造し(埋め込まれた扉周りの意匠は[[JR西日本125系電車|125系電車]]に類似する。)、有料座席サービス「'''Aシート'''」車両を導入した。12両編成の9号車(京都・野洲側先頭車両から数えて4両目)に連結される。「'''A'''」は'''A'''menity(快適性)、JR神戸/京都/琵琶湖線の路線記号「'''A'''」、関西弁の「'''ええ'''(良い)」に由来する。
運行開始当初は1日4本で、平日は野洲駅 - 姫路駅と網干駅間で1往復ずつ、土休日は野洲駅 - 姫路駅間で2往復であった<ref name=2019westpdf></ref>。下り(野洲発)を1号・3号、上り(野洲行き)を2号・4号とした<ref>{{Cite press release|和書|format=PDF |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201028_00_A-seat.pdf |title=有料座席サービス 新快速「Aシート」に期間限定で指定席を設置します |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2020-10-28 |accessdate=2020-10-28 }}</ref>。列車番号の末尾は、一般的な電車列車の「M」に対し、Aシート連結列車は「A」となる。
このAシートは'''普通車指定席'''であり、指定席料金は一律840円である(2022年10月時点)。[[特急列車]]ではないため、青春18きっぷなどの企画乗車券でも指定席券を購入することで利用が可能である<ref name="odekake10206">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220429135011/https://faq.jr-odekake.net/faq_detail.html?id=10206|url=https://faq.jr-odekake.net/faq_detail.html?id=10206|archivedate=2022-04-29|accessdate=2022-04-29|date=|title=新快速「Aシート」は「青春18きっぷ」で利用できますか。|publisher=西日本旅客鉄道}}</ref>が、それら企画乗車券では[[e5489]]利用のチケットレスサービス(全列車600円。2023年3月18日~同年4月28日乗車分については390円となっていた。<ref name="Aseat">{{Cite web|和書|url=https://tickets.jr-odekake.net/shohindb/view/consumer/tokutoku/detail.html?shnId=122000133#anchorPrice |title=【e5489専用】新快速[Aシート]チケットレス指定席券│トクトクきっぷ:JRおでかけネット |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date= |accessdate=2023-08-11 }}</ref>)との併用はできないことになっている{{refnest |group="注釈" |「おでかけネット」の当乗車券のページの「別途必要な乗車券(併用可能な乗車券)」には「普通乗車券」「回数乗車券」「定期乗車券(フレックス除く)」「ICカード」となっている<ref name="odekake10206" /><ref name="Aseat" />。}}。なお、ダイヤが大きく乱れた場合は、「Aシート」車両は無料開放されたり、無料開放のままAシートの設定のない湖西線への直通や、快速、Aシート車が先頭になっての運用に就くこともある。
* 運行開始当初は、空席がある場合に着席のうえ、車内改札時に現金もしくは[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード]]で係員に支払う定員制とし、着席料金は500円(均一料金)であった。着席中は着席整理券を座席前の専用ホルダーに入れておき、抜き取ったうえで降車する方式で、Aシートが満席の時は空席が出るまでこのエリアで待つ必要があるほか、有料座席エリアでは必ず着席する必要があった。
* 全席指定席化後は、車内で指定席券の発券は行われていない。そのため、事前に指定席券を購入していない場合、Aシートの利用は不可能である。
外観は、ドア横に“A-SEAT”のロゴマークをあしらい、特急[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]と共通するブラックの窓回りに、[[JR西日本521系電車|521系]](JR西日本所属車)にも似たブルーの帯を配したデザインとなった。車内には新たにパーティションが設けられ、そのパーティション内は有料座席エリアとされており、テーブルとコンセントを備えた、特急列車普通車と同等のリクライニングシートが2-2列で設けられている。シートピッチは首都圏の快速・普通列車グリーン車と同等の約970mm(現行910mm)とし、電球色に交換された照明、ブラウン木目調となった内装とあわせ、快適性を高めた落ち着きある空間となっている。ラック式の荷物スペースを備えるほか、無料Wi-Fiサービスが提供されている。[[列車便所|トイレ]]は洋式化され、車いす対応の多機能タイプとなっている。着席定員は46名<ref name=2019westpdf>{{Cite web|和書|format=pdf |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/181212_00_keihanshin_1.pdf |title=2019年3月16日にダイヤ改正を実施します(3ページ目参照) |publisher=西日本旅客鉄道(近畿統括本部) |date=2018-12-14 |accessdate=2018-12-15 }}</ref>。なお、有料座席エリア内では車内広告は一切排除されており、天井に広告吊りの留め金具はあるものの広告の掲出は行われていないほか、立席はできず必ず指定席券を購入の上着席する必要がある。一方、パーティションの外側であるドアおよびトイレ周辺は立席エリア(フリースペース)となっており、ここにいる限りは料金は発生しない。
2020年12月1日より2021年2月28日まで、試験的に1 - 3番の各席(12席分)を指定席として販売した。後に指定席の販売は拡大・延長され、2021年7月1日からは1 - 5番の各席(20席分)が指定席となった<ref>{{Cite press release|和書|format=PDF |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210521_00_aseat.pdf |title=有料座席サービス 新快速「Aシート」における指定席の設置を夏期間も継続します。 |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2021-5-21 |accessdate=2020-5-21 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/211015_05_aseat.pdf|title=JR西日本Aシート指定席継続プレスリリース2021/12|accessdate=2021/12/21|publisher=JR西日本}}</ref>。その後、2022年3月12日のダイヤ改正より全席指定席となった<ref>{{Cite web|和書|title=2022年春ダイヤ改正について:JR西日本|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2021/12/page_19144.html|website=www.westjr.co.jp|accessdate=2021-12-21|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/211217_05_keihanshin.pdf|title=JR西日本2022年春ダイヤ改正プレスリリース|accessdate=2021/12/21|publisher=JR西日本}}</ref>。
2023年3月18日のダイヤ改正で、Aシート連結列車を6往復に増発した<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/leisure/kansai/2023/01/18/0015975500.shtml|title=JR西日本から新快速の新車両、3月ダイヤ改正から運行開始|newspaper=デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ|date=2023-01-18|accessdate=2023-01-18}}</ref>。増発分に対応するAシート車両については、既存車両の改造ではなく225系4次車2編成(クモハ224-701、702含む4両✕2編成)を新造し投入した。新造したAシート専用車両は、出入口は'''片開き2扉'''とした。既存車両との車内の細かい変更点については、立ち席エリアに介護者用座席(優先座席)を1席を設置や、大形つり手の採用。フリーストップカーテンの採用客室出入台の識別化がある<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |title=2023 年 3 月 18 日(土)ダイヤ改正について |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/221216_00_press_daiyahonsya.pdf |website=www.westjr.co.jp |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2022-12-16 |accessdate=2023-01-18 |language=ja }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【お披露目レポ】JR西日本225系「Aシート」新造車 |url=https://tetsudo-shimbun.com/article/topic/entry-3420.html |publisher=鉄道新聞 |date=2023-01-18 |accessdate=2023-01-18 |language=ja }}</ref>。
=== 阪和線 ===
{{Infobox 列車名
|列車名=新快速(阪和線)
|画像=阪和線新快速.jpg
|画像サイズ=200px
|画像説明=阪和線の新快速(1978年撮影)
|国={{JPN}}
|現況=運行終了
|地域=[[大阪府]]・[[和歌山県]]
|前身=超特急
|運行開始=[[1972年]][[3月15日]]
|運行終了=[[1978年]][[10月2日]]
|運営者=
|旧運営者=[[日本国有鉄道]](国鉄)
|平均乗客数=
|起点=[[天王寺駅]]
|停車地点数=
|終点=[[和歌山駅]]
|営業距離={{Convert|61.3|km|mi|abbr=on}}
|平均所要時間=
|運行間隔=
|列車番号=
|使用路線=[[阪和線]]
|クラス=[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]
|身障者対応=
|座席=全車自由席
|荷物=
|その他=
|車両=[[国鉄113系電車|113系電車]]([[鳳電車区]])
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|電化=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]
|最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]]
|線路所有者=
|ルート番号=
|備考=
|路線図=
|路線図表示=<!--collapsed-->
}}
国鉄時代の[[1972年]]([[昭和]]47年)から[[1978年]](昭和53年)まで、阪和線でも新快速が運行されていた。
[[1972年3月15日国鉄ダイヤ改正|1972年3月15日のダイヤ改正]]で[[天王寺駅]] - [[和歌山駅]]間に設定された。途中停車駅は[[鳳駅]]のみで、所要時間45 - 51分で阪和間を結んだ。最速列車の所要時間は前身の[[阪和電気鉄道]]が設定していた[[阪和電気鉄道#ノンストップ超特急|超特急]]以来のものである。日中の9時台から15時台に1時間間隔で運行していた。
車両は、それまで東海道・山陽本線の快速・新快速に使用していた113系が、このダイヤ改正で東海道・山陽本線に登場した153系「ブルーライナー」と同じ塗装([[灰色9号]]地に[[青22号]]特帯)に変更して投入された。新造車両ではなかったものの阪和線では初めての冷房付きの車両で、いわゆる旧形国電中心だった阪和線の中では一際目立つ存在だった。円形に羽根を付けたデザインの専用ヘッドマークも新調の上装着された。そして[[1973年]](昭和48年)[[9月20日]]に[[関西本線]]の湊町駅(現在の[[JR難波駅]]) - [[奈良駅]]間が電化されると、関西本線快速用車両が当時の阪和線の車両配置区所であった[[鳳電車区]]所属となり、一部は阪和線と共通運用になったため、上記塗装とは帯色だけが異なるカラーリング(灰色9号地色に[[朱色3号]]帯色)の「春日塗り」の通称がある「'''関西快速色(春日色)'''」の113系も充当されるようになった。「ブルーライナー」に採用された塗装はその後も「'''阪和色'''」の通称で呼ばれ、2012年4月1日の団臨運転まで(定期運転は2011年12月上旬まで)使用された。
阪和電鉄以来の速達運転を実現した新快速だったが、元々阪和間の直通需要は京阪神間に比べると規模が小さく、利用は限られていた。このため、[[1977年]](昭和52年)には[[和泉砂川駅]]と[[熊取駅]]を停車駅に追加し、所要時間は48 - 51分になった。しかし、大きく利用状況は改善せず、[[紀勢本線]]が電化された[[ゴーサントオ|1978年10月2日のダイヤ改正]]で快速に統合される形で廃止された。
{{-}}<!-- {{tl|Infobox 列車名}}新快速(阪和線)が長すぎるので、ここでクリアしておく -->
== 名古屋地区(JR東海) ==
{{画像提供依頼|名古屋地区の新快速のLED式種別・行先表示|date=2023年4月|cat=鉄道}}
{{Infobox 列車名
|列車名=新快速(名古屋地区)
|画像=Series313-0 Y9.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[JR東海313系電車|313系]]による新快速<br/>(2022年1月 [[岐阜駅]] - [[木曽川駅]]間)
|国={{JPN}}
|種類=快速列車
|現況=運行中
|地域=[[静岡県]]・[[愛知県]]・[[岐阜県]]・[[滋賀県]]
|前身=
|運行開始=[[1989年]][[3月11日]]
|運行終了=
|後継=
|運営者=[[東海旅客鉄道]](JR東海)
|旧運営者=
|平均乗客数=
|起点=[[浜松駅]]・[[岡崎駅]]・[[豊橋駅]]
|停車地点数=13駅(豊橋 - 大垣間、起終点駅含む)
|終点=[[大垣駅]]・[[米原駅]]
|営業距離={{Convert|188.8|km|mi|abbr=on}}(浜松 - 米原間)
|平均所要時間=約2時間30分(浜松 - 米原間)<br/>約1時間14分(豊橋 - 岐阜間)
|運行間隔=快速と15分おき
|列車番号='''土休日運休列車'''<br/>2100Fからの奇数(下り)<br/>2100Fからの偶数(上り)<br/>'''土休日運転列車'''<br/>5300Fからの奇数(下り)<br/>5300Fからの偶数(上り)
|使用路線=東海道本線([[東海道線 (静岡地区)|静岡地区]]・[[東海道線 (名古屋地区)|名古屋地区]])
|クラス=普通車
|身障者対応=8両編成:1号車、3号車または1号車、5号車<br/>6両編成:1号車のみ、または1号車、3号車
|座席=全車自由席
|荷物=
|その他=
|車両=[[JR東海311系電車|311系電車]]([[大垣車両区]])<br />[[JR東海313系電車|313系電車]](大垣車両区)
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|電化=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]
|最高速度=120 [[キロメートル毎時|km/h]]
|備考=英語表記は"New Rapid"
|路線図=
|路線図表示=<!--collapsed-->
}}
[[ファイル:JR Central New Rapid Rollsign.jpg|none|250px|thumb|種別・行先表示]]
=== 概要 ===
JR東海が東海道本線[[浜松駅]] - [[米原駅]]間に設定した快速列車の一種である。英語表記は "'''New Rapid (Train)'''"<ref group="注釈">車両側の表示器では、英語表記は行先のみで、種別には付記されていない。なお、主要駅の電光掲示板には、"'''New Rapid'''"とだけ表示される。</ref><ref group="注釈">ただし米原駅だけは、同駅の在来線の管轄がJR西日本であるため、電光掲示板にはJR西日本の仕様である"'''Special Rapid'''"が表示される。</ref>。同区間では他に「特別快速」と「快速」、そして「[[列車種別#区間種別|区間快速]]」という列車種別が存在しており、かつそれぞれに微妙な停車駅の違いがあるため、JR東海における「新快速」は単にそれらとを区分するための種別の一つとして存在している。なお、新快速と比較して、他の種別には以下の違いがある。
* 特別快速:[[大府駅]]を通過する。(新快速は大府駅に停車)
* 快速:[[共和駅]]にも停車。
* 区間快速:快速に加えて[[岡崎駅]] - [[豊橋駅]]間および[[武豊線]]内各駅停車。
これらの違いは、すべて金山以東の停車駅の違いによるものであり、金山以西での違いはない。ただし、1999年12月のダイヤ改正までは、[[穂積駅]]には快速は停車し新快速は通過するという違いがあった。また、2017年3月現在でも一部の快速は平日のみ[[稲沢駅]]に停車するものもある。
2020年8月現在、全運行区間(浜松 - 米原駅間)を走破する新快速は下り列車のみであり、平日に浜松6:01発と9:43発の大垣行き、土休日に浜松17:01発の米原行き、合わせて3本が運行されている。かつては上り列車の設定もあり、2020年3月14日のダイヤ改正以前までは米原7:07発(8両編成、豊橋で後部4両切り離し)の浜松行きが1本運行されていた。
=== 停車駅 ===
{{see also|東海道線 (名古屋地区)}}
基本的な停車駅は以下のとおり。
[[浜松駅]] - (この間各駅停車) - [[豊橋駅]] - 〔[[三河大塚駅]]*〕 - 〔[[三河三谷駅]]〕 - [[蒲郡駅]] - 〔[[幸田駅]]〕 - [[岡崎駅]] - [[安城駅]] - [[刈谷駅]] - [[大府駅]] - ([[笠寺駅]]) - ([[熱田駅]]) - [[金山駅 (愛知県)|金山駅]] - ([[尾頭橋駅]]) - [[名古屋駅]] - [[尾張一宮駅]] - [[岐阜駅]] - (この間各駅停車) - [[米原駅]]
* 〔 〕内の駅は一部の列車のみ停車。<nowiki>*</nowiki>印は土休日のみ上りの3本が停車。
* ( )内の駅は特定日に一部臨時停車。
** 笠寺駅:[[名古屋市総合体育館]](日本ガイシホール)で大規模イベントがある場合、一部臨時停車。
** 熱田駅:[[正月三が日]]に[[熱田神宮]]への[[初詣|初詣客]]の為、一部臨時停車。
** 尾頭橋駅:[[中央競馬]]の[[競馬の競走格付け|GI競走]]開催日([[東京優駿|日本ダービー]]・[[ジャパンカップ]]・[[有馬記念]]等)に、同駅が最寄りの[[場外勝馬投票券発売所|場外馬券売場]]([[ウインズ名古屋]])へ向かう[[競馬ファン]]のため、一部臨時停車。
*豊橋駅 - 岐阜駅間の基本停車駅は[[1960年代]]まで同区間で運行されていた急行の停車駅とほぼ同じである(当時は金山駅が無く、[[熱田駅]]に急行が停車していた)。
=== 運行状況 ===
* データイム(日中)
** 快速と交互に15分間隔で運転されるのが基本である。おもに豊橋駅 - 大垣駅間に設定されている。原則として岐阜駅・名古屋駅・刈谷駅・岡崎駅(一部、蒲郡駅)で普通列車と緩急接続を行う。
** 2006年9月30日までは上下とも日中も1時間に1本が浜松駅 - 大垣駅間で運行されていた。
* ラッシュ時(豊橋駅 - 名古屋駅)
** 平日朝の豊橋方面から名古屋方面への下り列車は、特別快速との交互運転が基本であり、運転間隔は合わせて8分となるほか、一部に岡崎発着列車がある(土休日は非パターンダイヤで1時間約5本となり、岡崎発着列車はない)。また、夕方から夜にかけての豊橋方面行き上り列車は、特別快速との15分間隔の交互運転が基本となり、一部時間帯では運転間隔が短縮される。幸田駅・三河三谷駅のいずれかに停車(両方とも停車する列車もあり)する。21時台以降は、区間快速との交互運転となる。
* ラッシュ時(名古屋駅 - 大垣駅)
** 朝の大垣方面から名古屋方面行きの上り列車は、20分に快速2本・新快速1本の体制で運転される。夕方の大垣方面行きは特別快速との15分間隔の交互運転が基本で、一部快速(金山駅 - 米原駅間の運転で[[稲沢駅]]にも追加停車)が加わり10分間隔となる時間帯もある。一部は米原駅まで直通する。
車両は[[JR東海313系電車|313系]]と[[JR東海311系電車|311系]]が用いられ、2006年(平成18年)10月1日のダイヤ改正からは同5000番台が中心となっている。過去には、313系と311系との併結運転、311系や117系、[[国鉄211系電車|211系]]を使用した列車設定もあった。117系は2008年(平成20年)3月15日の改正より平日朝の岡崎発着列車に限り復活した。
名古屋駅からの標準所要時間は、豊橋駅まで50分、大垣駅まで31分となっている。<!-- 日中の下り列車は名古屋駅 - 尾張一宮駅間を9分45秒(尾張一宮駅15秒停車)、尾張一宮駅 - 岐阜駅間を7分45秒で走り、名岐間の表定速度は102.4km/hに達する。 -->
=== 歴史 ===
{{see also|東海道線 (名古屋地区)#東海道本線中京圏の列車の沿革}}
==== 設定以前の状況 ====
[[ファイル:JNR 117 series EMU 023 C.JPG|200px|thumb|right|117系(2009年撮影)]]
国鉄末期までの東海道本線(豊橋駅 - 名古屋駅 - 大垣駅間)は日中1時間あたり快速1本・普通1本という貧弱な路線であった。[[1971年]]([[昭和]]46年)に運転を開始した快速に使用していた153系(155系・159系含む)の取替にあたって、117系を[[1982年]](昭和57年)に投入し「東海ライナー」と命名した。だが、当時の普通列車は本数が少なく、米原・大垣と静岡・熱海・東京との直通運転が多かったために運転間隔も統一されていないなど、「使いやすいダイヤ」には程遠い状態であった。対する当時の[[名古屋鉄道]][[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]では、特急・[[高速 (列車)|高速]]・急行を合わせて毎時約7本が設定されており、国鉄の輸送実績はこれに遠く及ばないものであった。
分割民営化直前の[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正|1986年(昭和61年)11月に行われたダイヤ改正]]で、名古屋鉄道管理局は[[名古屋都市圏]]の普通列車の輸送改善を目玉とし、6両編成9本の117系を新製先頭車を加えて4両編成18本にするなど、豊橋 - 大垣間で快速列車と普通列車の大幅な増発の実施でフリークエンシーを向上させた。さらに翌春誕生したJR東海は、この区間を経営上[[東海道新幹線]]に次ぐ在来線の重要区間として位置付け、新型車両の投入と増発を重ねていくことになる。
==== フラッグシップとしての新快速時代 ====
[[ファイル:1992-8-11-jrc311.JPG|200px|thumb|right|311系(1992年撮影)]]
[[1989年]]([[平成]]元年)[[3月11日]]に新快速がはじめて設定された。運転区間は蒲郡駅 - 大垣駅間に限定され、また当時は岐阜駅 - 大垣駅間は[[直行便|ノンストップ]]であった。車両は当初117系が用いられ、最高速度は110 km/hであったが、同年7月に311系を新造、新快速に集中的に投入することにより、最高速度が120 km/hに引き上げられた。その後1年を経て、311系は増備が続けられ新快速の全列車に投入されるとともに、運転区間も豊橋 - 大垣間に拡大している。これにより「新快速=311系」「快速=117系」という棲み分けがなされ、120 km/h運転を行う新快速は快速に比べて特別な[[フラグシップ機|フラッグシップ]]的存在となっていた。一方、快速の運転区間は浜松駅 - 米原駅間となり、比較的長距離を走る列車も増えていった。
並行する[[名古屋鉄道|名鉄]]もJR同様に長距離利用の増加に対応する形で[[1990年]](平成2年)に特急券不要の高速を特急に格上げし、名古屋本線では一部[[名鉄特急#特別車|特別車]](指定席)の特急が登場した。さらに翌年には専用車両(一部特別車の[[名鉄1000系電車#1200系|1000・1200系「パノラマSuper」]])を登場させ、[[知立駅]]、[[新安城駅]]通過の列車が増えていった<ref group="注釈">後に知立駅は再び全列車停車となる。また、長距離通勤者の定年退職等に伴う全体的な利用距離の短縮や、沿線人口の増加に対応して、名鉄特急は停車駅を増やして利用者をこまめに拾う方針に変更されていった。</ref>。
==== 快速との性能統一・特別快速の設定 ====
1999年(平成11年)に313系が登場し、311系を置き換える形で新快速に投入され、同年12月4日の改正で日中の列車はすべて313系となった。最高速度は120km/hのままであるが、加速性能の向上により所要時間の短縮を実現している。また、朝方はこの改正時に同時に新設した特別快速にほとんどが変更された。この改正で日中の普通列車を大垣折り返しから岐阜折り返しに短縮したことに伴い、岐阜 - 大垣間の快速・新快速は各駅に停車するようになった。同時に幸田、三河三谷に停車する列車も夕方以降に新設された。この列車は夕方以降の快速を格上げした列車であり、ラッシュ時には米原や浜松方面へ直通する列車も増発された。
ここでの大きな変化は、快速にも313系が投入されたことにより、新快速と快速の性能統一がなされたことが挙げられる。全体の底上げを行うことで、旧来の「停車駅が少なく、スピードが速い」という新快速のフラッグシップ的な要素は消え、「停車駅が1駅少ない快速」の位置付けに変化した。同時に登場した特別快速も同様である。
313系の大量投入により、それまでの新快速運用に充当されていた311系は普通列車に用いられることとなった。ただし、ラッシュ時間帯には311系も用いられたほか、117系の新快速も再設定され、313系の新快速より所要時間に余裕を持ったダイヤで運行された。
そのほか、313系の投入により、朝夕に豊橋で2両を分割した[[飯田線]]への直通運転が行われ、豊川・新城方面からの通勤サービスが図られていた。飯田線直通の大半は特別快速であったが、一部は新快速の列車もあった。
==== 輸送力増強 ====
2006年(平成18年)10月1日のダイヤ改正において、終日混雑が激しい東海道本線の快速列車増強が実施された。新たに6両貫通編成の313系5000番台72両を投入し、昼間時においてはそれまでの4両編成から6両編成に編成を増強するとともに、朝夕のラッシュ時の増発および編成増強も行われている。一方で、飯田線への乗り入れは全廃されたほか、[[浜松駅]]発着の列車は大幅に削減された。
また、三河三谷および幸田駅については、これまで一部の快速・新快速で[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]が行われてきたが、この改正で両駅に停車する新快速も設定された。一方で、両駅ともに停車する「快速」は設定されていないことから、「新快速」の位置付けはさらに曖昧なものとなり、「[[共和駅]]を通過する快速」との意味合いのみが残ったと言える。このほか、土休日においては、[[ラグーナテンボス]]へのアクセス改善として[[三河大塚駅|三河大塚]]停車の新快速(上りのみ)も設定された。
2008年(平成20年)3月15日の改正では、平日朝に岡崎発着の新快速が3本増発された。313系では車両運用に余裕がなく、117系での運転となっている。また、深夜にも増発が行われ、豊橋発下りの最終が22時56分となり[[名鉄特急]]の最終(22時45分発)より遅くなったほか、岡崎発の列車なども増発された。
==== 歴代の新快速用車両 ====
JR東海で運行された車両を以下に記す。2012年現在は原則として大半が313系電車による運行である。<!--117系投入によりどうするか悩みましたが、極力元の文章を使い、「原則として」で説明しました。 -->
<!--*[[国鉄113系電車|113系電車]] -->
;[[国鉄117系電車|117系電車]]
:営業最高速度110km/h。1989年3月から1990年まで用いられたが、その後311系電車に置き換えられて運用が消滅。1999年12月改正で夜の浜松発米原行き(2001年10月改正より夕方の豊橋発米原行き)1本のみ再設定されたが、2006年10月改正で設定が消滅。2008年3月改正で平日朝の岡崎発名古屋行き2本、米原発岡崎行き1本に使用。加えて2009年3月改正に夜の豊橋発大垣行き1本が設定された。2012年3月改正で2本(米原発岡崎行、岡崎発名古屋行)設定。名古屋地区の313系追加導入により2013年3月までに運用消滅。
;[[国鉄211系電車|211系電車]](0番台)
:[[ファイル:211-0 C New Rapid.JPG|サムネイル|211系]]営業最高速度110km/h。のちに120km/h対応に改造され、311系と共通の性能とされた。1990年まで新快速の運用に充当されていたが、117系同様311系化により運用消滅。その後、2003年10月改正で休日の夕方に大垣駅発豊橋行きが1本再度設定されたが、2006年10月改正でいったんは運用消滅し、その後の2011年3月改正で平日の朝に岡崎駅発名古屋行きが1本再度設定された。しかし、名古屋地区への313系の導入により、2011年末までに運用消滅した。
;[[JR東海311系電車|311系電車]]
:営業最高速度120km/h。1989年7月より主力として運行されたが、1999年12月改正時に313系に置き換わる形で日中の新快速運用がほぼ消滅し、主にラッシュ時のみの設定となった。その後、2006年10月改正時に313系の追加投入が行われたため、本形式による新快速の設定は一旦消滅したが、2008年3月15日改正より大垣車両区への出入庫および米原地区と浜松地区への送り込み回送を兼ねて、上下線共にラッシュ時間帯において新快速の運用が復活した。2016年から2020年までは、土休日の大垣発浜松行き(8両編成、豊橋で後部4両切り離し)を当系列が充当していた。
;[[国鉄213系電車|213系電車]](5000番台)
:番外扱い。2013年1月に代走運行を行った実績がある<ref>[https://rail.hobidas.com/rmnews/242494/ 【JR海】213系が特別快速を代走] 鉄道ホビダス 2013年1月29日</ref>。
;[[JR東海313系電車|313系電車]](0番台・300番台・5000番台)
:営業最高速度120km/h。130km/h運転準備工事済みであるほか、311系に比べ加速性能が向上している。1999年より新快速の主力として運用され、2006年10月改正からは5000番台が投入。以降、ほぼ全列車が当系列で運用されるようになった。原則として普通列車で使用される1100番台(J編成)と、飯田線等で使用されるワンマン運転対応の3000番台(R100編成)も僅かではあるが運用されている。
== バスにおける事例 ==
[[岐阜乗合自動車]](岐阜バス)では、[[路線バス]]の優等種別として「新快速」を設定しており、大洞団地線<ref>{{PDFLink|[http://www.gifubus.co.jp/rosen/timetable/pdf/oobora.pdf 大洞団地線 時刻表]}} 岐阜乗合自動車、2019年4月1日改正(2019年5月24日閲覧)。</ref>、大野忠節線<ref>{{PDFLink|[http://www.gifubus.co.jp/rosen/timetable/pdf/oono-morera.pdf 大野忠節線・モレラ忠節線 時刻表]}} 岐阜乗合自動車、2019年4月1日改正(2019年5月24日閲覧)。</ref>、黒野線<ref>{{PDFLink|[http://www.gifubus.co.jp/rosen/timetable/pdf/kurono.pdf 黒野線 時刻表]}} 岐阜乗合自動車、2019年4月1日改正(2019年5月24日閲覧)。</ref>、岐阜高富線<ref>{{PDFLink|http://www.gifubus.co.jp/rosen/timetable/pdf/takatomi.pdf 岐阜高富線 時刻表]}} 岐阜乗合自動車、2019年4月1日改正(2019年5月24日閲覧)。</ref>などの各方面で、平日通勤時間帯に運行されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[新特急]]
* [[新急行]] - 「[[みすず (列車)#沿革|かもしか]]」などで使われた
* [[特別快速]]
{{日本における列車種別一覧}}
{{アーバンネットワーク}}
{{JR東海の在来線列車}}
{{DEFAULTSORT:しんかいそく}}
[[Category:列車種別]]
[[Category:東海旅客鉄道の列車]]
[[Category:西日本旅客鉄道の列車]]
[[Category:日本国有鉄道の列車]]
[[Category:東海道本線の列車]]
[[Category:山陽本線]]
[[Category:北陸本線]]
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1585年
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1585年(1585 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1585年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天正]]13年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2245年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]13年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]18年
** [[檀君紀元|檀紀]]3918年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[延成]]8年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]8年
* [[仏滅紀元]] : 2127年 - 2128年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 992年 - 994年
* [[ユダヤ暦]] : 5345年 - 5346年
* [[ユリウス暦]] : 1584年12月22日 - 1585年12月21日
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1585}}
== できごと ==
* [[正親町天皇]]より[[豊臣秀吉]]に[[関白]][[宣下]]{{要出典|date=2021-03}}。
* [[長宗我部元親]]、[[四国]]を統一する{{要出典|date=2021-03}}。
* 豊臣秀吉による[[四国攻め]]が起こる。
* [[人取橋の戦い]]が起こる。
* [[上田合戦|第一次上田合戦]]が起こる。
*[[天正地震]]が起きる。[[帰雲城]]が[[山崩れ]]により埋没。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1585年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月27日]] - [[ヘンドリック・アーフェルカンプ]]、[[オランダ]]の[[画家]](+ [[1634年]])
* [[3月5日]] - [[ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク1世]]、[[ザクセン選帝侯]](+ [[1656年]])
* [[3月22日]] - [[クシシュトフ・ラジヴィウ]]、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の[[シュラフタ|貴族]]、[[軍人]](+ [[1640年]])
* [[6月16日]] - [[アクセル・オクセンシェルナ]]、[[スウェーデン]]の[[宰相]]、[[政治家]]、軍人(+ [[1654年]])
* [[9月9日]] - [[リシュリュー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Armand-Jean-du-Plessis-cardinal-et-duc-de-Richelieu Armand-Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu French cardinal and statesman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[カトリック教会]]の聖職者、[[フランス王国]]の政治家(+ [[1642年]])
* [[10月4日]] - [[アンナ・フォン・ティロル]]、[[神聖ローマ皇帝]][[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]の皇后(+ [[1618年]])
* [[10月18日]] - [[ハインリヒ・シュッツ]]、[[ドイツ]]の[[作曲家]](+ [[1672年]])
* [[伊奈忠政]]、[[江戸時代]]の[[武将]]、第2代[[武蔵国]][[武蔵小室藩|小室藩]]主(+ [[1618年]])
* [[井上政重]]、江戸時代の[[大目付]]、[[大名]]、初代[[下総国|下総]][[高岡藩]]主(+ [[1661年]])
* [[片倉重長]]、江戸時代の武将、[[仙台藩]][[伊達氏]]の[[家臣]](+ [[1659年]])
* [[木村友重]]、江戸時代の[[武士]]、[[剣豪]](+ [[1654年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1585年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月15日]]([[天正]]13年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]) - [[丹羽長秀]]、[[武将]](* [[1535年]])
* [[5月31日]](天正13年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[毛利元秋]]、武将(* [[1552年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1585}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1592年
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1592年(1592 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
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1592年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天正]]20年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2252年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]20年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]25年
** [[檀君紀元|檀紀]]3925年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]15年
** [[莫朝]] : [[洪寧]]2年、[[武安]]元年11月 -
* [[仏滅紀元]] : 2134年 - 2135年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1000年 - 1001年
* [[ユダヤ暦]] : 5352年 - 5353年
* [[ユリウス暦]] : 1591年12月22日 - 1592年12月21日
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1592}}
== できごと ==
* [[1月30日]] - [[ローマ教皇]]に[[クレメンス8世_(ローマ教皇)|クレメンス8世]]が就任
* [[4月12日]] - [[小西行長]]が[[釜山]]に上陸、[[文禄・慶長の役|文禄の役]]が始まる(-[[1593年]])
* [[8月12日]] - 探検家[[ジョン・デイヴィス]]が[[フォークランド諸島]]を発見
* [[ベトナム]][[莫朝]]の[[莫茂洽]]が昇龍([[ハノイ]])を放棄し、[[鄭松]]擁する[[黎朝|後黎朝]]宮廷がハノイを回復。
* [[曹洞宗]]、[[旃檀林]](後の[[駒澤大学]])を駿河台[[吉祥寺]]に設置
* [[豊臣秀吉]]が「海路諸法度」を定める
* [[マニラ]]の[[スペイン領フィリピンの総督]][[ゴメス・ペレス・ダスマリニャス]]の使節として[[ドミニコ会]]の[[フアン・コボ]]が来日し秀吉に謁見した。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1592年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月16日]]([[天正]]20年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[松平忠輝]]、[[徳川家康]]の六男(+ [[1683年]])
* [[3月28日]] - [[ヨハネス・アモス・コメニウス]]、[[教育学者]](+ [[1670年]])
* [[11月4日]] - [[ヘラルト・ファン・ホントホルスト]]、[[画家]](+ [[1656年]])
* [[11月28日]]([[万暦]]20年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[ホンタイジ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Abahai Abahai Manchurian leader] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[清]]の第2代皇帝(+ [[1643年]])
* [[12月7日]]([[文禄]]元年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]) - [[隠元隆琦]]、[[禅宗]]の[[僧]](+ [[1673年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1592年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月29日]] - [[アレッサンドロ・ストリッジョ (作曲家)|アレッサンドロ・ストリッジョ]]、作曲家(* 1540年頃)
* [[9月13日]] - [[ミシェル・ド・モンテーニュ]]、哲学者、[[モラリスト]](* [[1533年]])
* [[11月17日]] - [[ヨハン3世 (スウェーデン王)|ヨハン3世]]、スウェーデン王(* [[1568年]])
* [[11月24日]] - [[顕如]]、僧(* [[1543年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1592}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1586年
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1586年(1586 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1586年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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{{年代ナビ|1586}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天正]]14年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2246年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]14年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]19年
** [[檀君紀元|檀紀]]3919年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[端泰]]元年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]9年
* [[仏滅紀元]] : 2128年 - 2129年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 994年 - 995年
* [[ユダヤ暦]] : 5346年 - 5347年
* [[ユリウス暦]] : 1585年12月22日 - 1586年12月21日
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1586}}
== できごと ==
* [[4月27日]] - [[土星]]において[[水星の太陽面通過 (土星)|水星の太陽面通過]]と[[金星の太陽面通過 (土星)|金星の太陽面通過]]が同時に起こる。太陽系で前回起こった惑星の同時太陽面通過。次回は[[3千年紀|2865年]][[12月29日]]に[[海王星]]で発生する{{要出典|date=2021-02}}。
=== 日本 ===
* [[1月29日]]([[天正]]13年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]) - [[天正地震]]{{要出典|date=2021-03}}。[[帰雲城]]埋没、[[木舟城]]、[[長浜城 (近江国)|長浜城]]大破。
* [[6月24日]] - [[木曽川]]水系で大洪水が発生。木曽川の流路が変わり、[[尾張国|尾張]]と[[美濃国|美濃]]の国境が変わる。
* [[10月27日]] - [[徳川家康]]が[[豊臣秀吉]]の臣下となる。
* [[春日神社 (春日市)|春日神社]]が焼失。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1586年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月20日]](天正14年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]) - [[蜂須賀至鎮]]、[[大名]]、[[徳島藩]]初代藩主(+ [[1620年]])
* [[3月16日]](天正14年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[浅野長晟]]、大名、安芸[[広島藩]]初代藩主(+ [[1632年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1586年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月25日]] - [[ルーカス・クラナッハ (子)|ルーカス・クラナッハ]](子)、[[画家]](* [[1515年]])
* [[1月29日]]([[天正]]13年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]) - [[羽柴秀勝]]、[[武将|戦国武将]](* [[1568年]])
* [[2月11日]] - [[アウグスト (ザクセン選帝侯)|アウグスト]]、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]](* [[1526年]])
* [[5月9日]] - [[ルイス・デ・モラレス]]、画家(* [[1510年]]?)
* [[6月20日]] (天正14年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[荒木村重]]、戦国武将 (* [[1535年]])
* [[7月8日]](天正14年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[蜂須賀正勝]]、戦国武将(* [[1526年]])
* [[9月10日]](天正14年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[高橋紹運]]、戦国武将(* [[1548年]])
* [[9月18日]] - [[オッターヴィオ・ファルネーゼ]]、[[パルマ公国|パルマ公]](* [[1524年]])
* [[10月17日]] - [[フィリップ・シドニー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Philip-Sidney Sir Philip Sidney English author and statesman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[詩人]](* [[1554年]])
* [[10月21日]](天正14年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]) - [[滝川一益]]、戦国武将(* [[1525年]])
* [[12月12日]] - [[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]](* [[1533年]])
* [[12月25日]](天正14年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[吉川元春]]、戦国武将(* [[1530年]])
<!-- 旧暦*[[長宗我部信親]]-->
* 月日不詳 - [[アンドレーア・ガブリエーリ]]、[[作曲家]](* [[1510年]]頃)
* 月日不詳 - [[福留儀重]]、戦国武将(* [[1549年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1586}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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ライナー列車
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ライナー列車(ライナーれっしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)及びそれを継承したJR各社において運行されている、快速列車(広義の普通列車)の一種であり、一般に乗車にあたっては乗車整理料金(乗車整理券)を要求する列車を指す。
本項では、国鉄・JR各社のライナー列車のほか、私鉄各社の有料座席指定制列車全般(特急列車を除く)についても述べる。
快速列車と同様に主要駅のみ停車する列車が多い。列車愛称は路線や運転時間帯によって「ホームライナー」、「ホームライナー○○」や「○○ライナー」などのバリエーションが存在する。
日中帯に運転された「セントラルライナー」のようなごく一部の例外を除けば、主として通勤時間帯に設定されることが大半で、基本的に朝ラッシュ時は郊外のベッドタウンから企業の集中する都心に向かって、帰宅時間帯となる夜間は逆に都心から郊外に向かって運行されることがほとんどであるが、地方都市圏においては静岡地区やかつての新潟地区のように、都市間で比較的長距離にわたって運行される列車もある。
JRグループにおける種別としては普通列車となるが、国鉄時代には団体専用列車として運転された列車も存在する。
都心に到着した優等列車を郊外の車両基地まで回送する代わりに営業列車とした早い例としては、1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正で設定された総武本線の気動車による快速列車がある。新宿駅に到着した房総方面からの急行列車の折り返しで、御茶ノ水駅発20時台に千葉駅行(停車駅は秋葉原駅・船橋駅の2駅)として2本運行された。ただし特別料金は徴収せず、回送列車のダイヤを踏襲したため所要時間も各駅停車と変わりなかった。
「ホームライナー」の名称で運行されたものの初出は、1984年(昭和59年)6月1日、当時の国鉄旅客局長だった須田寬の考案により、東北線上野駅 - 大宮駅間で回送する特急用電車を活用したものとされる。これは、当時私鉄各社で運行されていた通勤時の特急列車をヒントとして生まれたものであった。同列車は同年7月23日に「ホームライナー大宮」と命名され、次いで同日には総武快速線で「ホームライナー津田沼」が、同年9月からは阪和線で「ホームライナーいずみ」の運行が開始された。
運転開始当時は1編成のうちの数両あるグリーン車のみで客扱いを行っており、この際には普通車扱いとしていた。しかし運転開始当初より人気が高く常に満席となり、積み残し客の方が多くなることもあったことから、運転開始数日で急遽グリーン車の前後に連結している普通車も客扱いを開始することに変更したが、それでもまだ積み残しが出る状況だったため、そのわずか数ヵ月後には1編成すべてを開放して客扱いをするようになった。
1986年(昭和61年)11月1日に運行を開始した東海道線の「湘南ライナー」、阪和線の「はんわライナー」では、回送ダイヤの流用ではなく単独の列車運用を持つようになった。また、当初は回送列車扱いのため省略されていた車内整備も行われるようになった。
その後、特急列車や快速列車・普通列車への置き換え、首都圏ではこれに加えて一般の快速・普通列車へのグリーン車連結による利用者の減少などによって、数を減らしていくこととなる。西日本旅客鉄道(JR西日本)や九州旅客鉄道(JR九州)では2011年(平成23年)3月までに全廃され、東日本旅客鉄道(JR東日本)でも2021年(令和3年)3月で全廃となり、北海道旅客鉄道(JR北海道)も2023年(令和5年)に「ホームライナー」の愛称のまま全席指定制の普通列車(快速列車)の扱いへ転換したため、現在は東海旅客鉄道(JR東海)に残るのみとなっている。このほか四国旅客鉄道(JR四国)では徳島地区で一時試験的に運行されていた。
扱いとしては広義の普通列車であるため、乗車券(定期券を含む)に乗車整理券を追加で購入することで乗車が可能となる。一般には座席分の枚数しか発売されないため、着席が保証されるいわゆる座席定員制であるが、かつての札幌地区のように、事実上乗車整理券の発売枚数に制限がなく、着席保証がない場合もあった。また、運行区間末端方の乗車整理を発売しない停車駅は「降車専用駅」の扱いとして原則として乗車を認めないクローズドドア制で運転したり、通常の快速列車の扱いとして運転する列車も存在した。
使用車両にグリーン座席の設定がある場合、現存するJR東海においては、乗車整理券に代わって普通・快速列車に準じる自由席グリーン料金券を要求している。
かつては、列車により普通車扱いとして乗車整理券のみで乗車可能とする例や、車両そのものを締め切りとして開放しないケースもあった。
車両基地まで回送される特急形車両の有効活用を目的としたという登場経緯から、一般に特急形車両で運転されるが、JR東海ではライナー列車向けに新造した専用車両313系8000番台を充当したケースがあったほか、JR東日本では本来近郊形車両に分類される215系電車を用いる列車もあった。
また、基本的には自社の車両が運用されることが多いが、JR東海の東海道線名古屋地区のホームライナーでは、同地区へ直通するJR西日本の「しらさぎ」用の車両が間合い運用で用いられている。過去にはJR東日本の「ホームライナー古河」「ホームライナー鴻巣」でJR西日本の車両が、逆にJR西日本の「びわこライナー」でJR東日本の車両が用いられていたケースがる。
詳細な運行状況は各運行路線・個別記事で記載されているため、本節では運行される線区での概要のみを記載するにとどめる。
いずれも乗車整理券料金は330円となっている。
なお、「ホームライナー」の商標権はJR東海が有している。
静岡県内の東海道本線では、1989年(平成元年)7月から、乗車整理券方式の「花の木金号」が週末深夜に165系(運転開始直後はジョイフルトレインの「ゆうゆう東海」を優先的に使用、一時的に311系が使われたこともある)を用いた各駅停車として運行されており、1991年3月16日からはホームライナーとしての運行が開始された。同県3大都市の沼津駅・静岡駅・浜松駅の相互間で運行されており、列車名は終着駅名を採り「ホームライナー沼津」「ホームライナー静岡」「ホームライナー浜松」となっている。かつては三島駅発浜松駅行きの設定もあり、この列車の走行距離は営業キロで136.4キロメートルと、歴代ホームライナーの中では最長である。
車両はすべて373系の3両・6両編成だが、設定当初から2012年までは「あさぎり」用の371系も運用されていた。
なおこの地区では、ホームライナー設定以前のこの列車は後に「ホームライナー」に吸収された。
名古屋地区では名古屋駅を中心として東西南北4方向に路線が伸び、その全方向に対してホームライナーが設定されたが、現在は中央本線と東海道本線大垣方面の2方向のみの設定となった。列車愛称は朝・夜の列車とも郊外側の発着駅名を採って「ホームライナー○○」としている。
中央西線では、国鉄民営化直前の1987年3月23日に名古屋駅→中津川駅間で設定されたのが最初である。その後「ホームライナー中津川」のほか、「ホームライナー多治見」「ホームライナー瑞浪」も登場し、最終的には後述の「~太多」も含めて2022年3月までに「瑞浪」へ全列車が統一された。
車両は「しなの」用の383系が使用される。過去には313系8000番台も「~瑞浪」で2022年3月11日まで運用されていた。
1990年3月からはキハ85系を使用した太多線直通の「ホームライナー太多」(名古屋駅 - 美濃太田駅間)も設定されていたが、2012年3月のダイヤ改正で廃止されている。
またこの線区では、日中にホームライナーと同様の乗車制度を採用した「セントラルライナー」が1999年12月から2013年3月まで名古屋駅 - 中津川駅間で運行されていた。これが昼間帯に運行された定期ライナー列車の唯一の例である。
名古屋地区の東海道本線では、1988年3月に「ホームライナーながら」が名古屋駅 - 大垣駅間で設定されたのが最初である。その後同列車は「ホームライナー大垣」と改称され運行されている。かつては名古屋以南にも設定があり「ホームライナー豊橋」「ホームライナー岐阜」「ホームライナー蒲郡」「ホームライナー岡崎」や、大垣以北に行く「ホームライナー関ヶ原」も設定されていた。名古屋駅以東では新快速の停車駅に準じて停車していた。
車両はJR西日本の「しらさぎ」用681系・683系が使用されている。過去には485系電車、キハ85系気動車、373系電車も使用されていた。
札幌駅を中心とした札幌地区の函館本線では、札幌運転所の入出庫列車を活用し、1985年8月12日に手稲駅 - 札幌駅間で「ホームライナー」の運行が開始された。国鉄では4例目であり、平日運転の乗車整理券制列車であった。
その後、小樽駅→札幌駅間の列車の追加(1988年)と廃止(2015年)、夕方の札幌発列車の廃止(2017年)などを経て、2023年(令和5年)3月18日からは形態を毎日運転の全席座席指定制列車に改めたうえで、朝に手稲駅から札幌行きの3本が運転されている。
常磐線では、2005年12月16日から2007年3月16日まで、仙台駅 - 原ノ町駅間で「常磐ホームトレイン」が運行されていた。
首都圏では東京都心の山手線上の各ターミナル駅(東京駅・上野駅・新宿駅)と埼玉県・千葉県・神奈川県・茨城県・多摩地区の各ベッドタウンとの間で、これまでに大きく分けて6系統の列車が運行されてきた。列車愛称は朝時間帯に運行されたものに「おはようライナー○○」、夜時間帯に運行されたものに「ホームライナー○○」と名付けられている線区が多く、○○には郊外側の駅名が入るが、例外として「おはようライナー新宿」は都心側の駅名を採ることで東京駅方面の「湘南ライナー」と区別した。
運行開始当時は300円(のち310円)の「乗車整理券」での乗車制度となっていたが、1999年3月1日より500円(のち520円)に改定され、名称も「ライナー券」と改められた。朝ラッシュ時に運行される「湘南ライナー」「おはようライナー新宿」「おはようライナー逗子」では、1か月分のライナー券が1枚になった「ライナーセット券」が発売されていた。
普通列車へのグリーン車導入や通勤特急列車への置き換えが進み、2021年(令和3年)に全廃となった。使用車両はすべて電車である。
1984年6月1日に国鉄・JR最初のホームライナーとして上野駅→大宮駅間で運行が開始され、「ホームライナー大宮」と命名された。その後運行区間が宇都宮線古河駅、高崎線鴻巣駅まで延伸されて「ホームライナー古河」「ホームライナー鴻巣」となった。運行開始以来夜間のみの運行で、新宿駅発の列車も設定されていたことがある。
2014年3月15日改正において特急「スワローあかぎ」への置換えなどにより全列車が廃止された。
車両は185系・189系・485系・489系が用いられた。
総武快速線では、1984年7月13日に国鉄で2例目のホームライナーとして東京駅→津田沼駅間の「ホームライナー津田沼」が運行開始。翌年には新宿駅発列車も設定された。その後運行区間が千葉駅まで延長されて現在の名称「ホームライナー千葉」となった。朝の列車として「おはようライナー津田沼」が設定された時期もあったが、廃止時点では夜間のみ運行されていた。2019年3月16日改正において全列車が廃止された。廃止時点では、房総特急で使用される255系・E257系500番台を使用していた。過去には183系も使用された。
横須賀線では1990年3月10日に東京駅 - 逗子駅間で「おはようライナー逗子」「ホームライナー逗子」の運行が開始された。車両は当初は183系、その後はE257系500番台を使用し、2015年3月14日のダイヤ改正で廃止された。
東海道線東京口では1986年11月1日に小田原駅・平塚駅 - 東京駅間で「湘南ライナー」の運行が開始された。1988年からは走行ルートとして東海道貨物線が活用され、新宿駅発着の「湘南新宿ライナー」も新設された。この「湘南新宿ライナー」は後に「おはようライナー新宿」「ホームライナー小田原」と名称が変更されて現在に至っている。運行規模はJR全線区中最大を誇り、最盛期には朝12本・夜間13本、最末期は朝10本・夜間11本が運行されていた。
末期は、特急「踊り子」などで使用される185系のほか、近郊型の215系が使用されていた。かつては「スーパービュー踊り子」で使用されていた251系や中央線用の183系・E351系・E257系0番台も用いられていた。なお、下り列車については大船以西の区間は快速となり、着席保証はないものの一般乗客も乗車可能であった。
2021年3月13日改正で東京・新宿 - 小田原間で新設された特急「湘南」への置き換えにより全列車が廃止された。
常磐線では1989年3月11日に「ホームライナー土浦」、翌1990年3月10日に「おはようライナー土浦」がそれぞれ上野駅 - 土浦駅間で運行が開始された。車両は485系を使用。1998年12月8日に特急「フレッシュひたち」に置き換えられる形で廃止された。
中央線・青梅線では、1991年3月16日に高尾駅 - 新宿駅間で「おはようライナー高尾」「ホームライナー高尾」、新宿駅 - 青梅駅間で「ホームライナー青梅」の運行が開始された。2001年には東京駅発着となり、名称は高尾駅発着が「中央ライナー」、青梅駅発着が「青梅ライナー」に改められた。2019年3月16日改正において特急「はちおうじ」「おうめ」に置換えられ、全列車が廃止された。 廃止時点では、E257系0番台・E351系を使用していた。過去には183系・185系も使用されていた。
東京駅発着となって以降、この系統では座席指定を行っていたことも特徴であり、晩年は「えきねっと」加入者向けに携帯電話を使用した予約サービスも行われていた。
長野地区では、1989年(平成元年)3月より朝の信越本線軽井沢駅 - 長野駅間で、、特急「あさま」用の189系・489系を使用した快速「モーニングライナー」、夜の長野駅 - 小諸駅間で快速「みすず」用の165系・169系を使用した快速「ホームライナー」を運転していた。この列車は1997年(平成9年)に運行区間の一部がしなの鉄道に移管されたため、同社の「しなのサンライズ」「しなのサンセット」として継承された(以降は当該列車記事を参照)。
2004年(平成16年)10月16日には篠ノ井線松本駅 - 長野駅間に期間中の平日毎日運転の臨時快速列車の扱いで、「おはようライナー」の運行が開始され、翌2005年(平成17年)には塩尻駅 - 長野駅間に区間が延長、2019年(平成31年)3月16日改正に愛称無しの近郊型車両使用の臨時快速列車として置き換えられるまで運転された。
新潟駅を中心とした新潟地区では、1994年に信越本線新潟駅→長岡駅間で夜間に「らくらくライナー」として運行開始。2004年3月13日に白新線・羽越本線新潟駅→村上駅間の「らくらくトレイン村上」を新設し、従来の列車を「らくらくトレイン長岡」と改称した。「らくらくトレイン長岡」は2012年に運転区間を直江津駅まで延長し、「らくらくトレイン信越」と改称された。乗車整理券は300円。
廃止時点ではすべての列車でE653系を使用していた。それ以前は485系が使用されていた。
2021年に「おはよう信越」は全車指定席の快速列車「信越」に改称、「らくらくトレイン村上」は廃止となり、「信越」についても翌2022年のダイヤ改正で廃止となった。
関西本線名古屋口では、1988年7月1日から1990年3月9日まで名古屋駅 - 伊勢市駅間でキハ82系を使用して「ホームライナーみえ」が運転されたが、快速「みえ」へと発展的解消を遂げて廃止された。
また、1996年3月から2011年3月まで、四日市駅→名古屋駅間に「ホームライナー四日市」がキハ85系で運行されたが、これも快速「みえ」に代替される形で廃止された。
近畿圏では、大阪環状線内の大阪駅・天王寺駅を中心として大阪府南部 - 和歌山県方面・滋賀県方面・奈良県方面・兵庫県東部(丹波)方面の4線区で設定されていたが、2000年代以降は特急列車の通勤時間帯への拡充などにより、2011年3月を最後に全廃となった。各線区ごとに列車愛称が異なっていた。
阪和線では、国鉄時代の1984年9月に国鉄3例目、近畿圏では初のホームライナーとして「ホームライナーいずみ」が天王寺駅 - 日根野駅間で設定された。その後1986年11月に天王寺駅 - 和歌山駅間に運行区間が延長され、列車名も「はんわライナー」に改称。最盛期には朝3本・夜5本が運行され、近畿圏では最大の運行規模となったが、特急の増発に伴ってライナーの減便が行われ、2011年3月のダイヤ改正をもって全列車が廃止された。車両は「くろしお」用の381系が使用された。
琵琶湖線・JR京都線では、1987年10月より米原駅 - 大阪駅間で「びわこライナー」1往復が運行され、2003年6月に特急「びわこエクスプレス」に置き換えられる形で廃止された。車両は「雷鳥」用の485系が用いられていた。
大和路線では、1988年3月の加茂駅 - 木津駅間電化にあわせ、「やまとじライナー」の運行が開始された。運行区間は朝が木津駅→湊町駅(現在のJR難波駅)間、夜が大阪駅→加茂駅間であった。車両は381系を使用。2011年3月のダイヤ改正をもって区間快速に代替される形で廃止された。
JR宝塚線では、1988年3月より篠山口駅 - 大阪駅間で「ほくせつライナー」が運行された。車両は「北近畿」用の485系・183系のほか、「エーデル北近畿」用のキハ65形も用いられた。2002年10月に特急「北近畿」(現在は「こうのとり」に改称)に置き換えられる形で廃止された。
2006年(平成18年)に、鳴門線において「鳴門きんときライナー」と称する、定員制快速列車を試験運行したが、半年ほどで運行終了となっている。
JR九州では「エアポートライナー」を除き、朝の列車は「さわやかライナー」、夜の列車は「ホームライナー」の列車名で運行されていた。本社直轄の福岡都市圏と、鹿児島支社管内の宮崎地区・鹿児島地区の合計3地区で設定されたが、現在はいずれも運行されていない。各地区とも車両は主に485系が使用された。
これらのライナーは「エクセルパス」で乗車する場合、乗車整理券を不要としていた。
博多駅を中心とした福岡地区の鹿児島本線では、1987年6月より門司港駅 - 博多駅間で「エアポートライナー」「ホームライナー」の運行が開始され、2001年3月に特急「きらめき」に編入されるまで運行されていた。また、博多駅 - 大牟田駅でも設定されたが、こちらは1995年4月のダイヤ改正をもって廃止された。
宮崎駅を中心とした宮崎地区の日豊本線では、まず1990年3月に西都城駅→宮崎駅間に1本設定され、1992年7月には宮崎空港へのアクセス列車を兼ねて延岡駅 - 宮崎駅間において朝と夜に設定された。1996年7月の宮崎空港線開業後は延岡駅発着列車が同線宮崎空港駅まで延長された。車両は485系のほかに783系も使用されたが、2011年3月に特急「ひゅうが」「きりしま」に置き換えられて廃止された。
鹿児島地区では西鹿児島駅(後の鹿児島中央駅)を中心として、鹿児島本線と日豊本線で運行された。
鹿児島本線では、1989年3月に川内駅 - 西鹿児島駅間に設定され、後に運行区間が出水駅 - 西鹿児島駅・鹿児島駅間に延長されたが、2004年3月の九州新幹線部分開業とともに川内駅以北が経営分離されたのに伴い、再び川内駅 - 鹿児島中央駅間に短縮。2011年3月に特急「川内エクスプレス」に置き換えられ、廃止された。
日豊本線では、1990年3月より国分駅 - 西鹿児島駅間で運行されていたが、 2004年3月に特急「きりしま」に置き換えられて廃止された。
JR以外においても、ライナー列車に類似する列車を運行している鉄道事業者が存在する。ここではJRのライナーと同様に着席通勤を目的として座席定員制で運転されるものを中心に記載する。
なお、ライナー列車としての固有種別の形をとってはいないが、小田急電鉄や東武鉄道(伊勢崎線・日光線・野田線系統)・西武鉄道・名古屋鉄道・近畿日本鉄道・南海電気鉄道・泉北高速鉄道では通勤輸送向けに有料特急列車が設定されている。これらの列車は種別・運行形態・車両形式こそ基本的に日中の特急列車と変わらない が、利用実態はホームライナーに比較的近く、かつて国鉄がホームライナーを設定するにあたってのヒントともされた。これらについては、「ホームウェイ・モーニングウェイ」(小田急電鉄)、「スカイツリーライナー」「アーバンパークライナー」(以上東武鉄道)、「レッドアロー」(西武鉄道)、「名鉄特急」、「近鉄特急」、「泉北ライナー」も参照。
京成電鉄では、朝に上り「モーニングライナー」、夜間に下り「イブニングライナー」を本線にて運転している。これらは「スカイライナー」用のAE形(2010年7月16日まではAE100形)が充当され、ライナー券は座席指定でなく車両指定で、乗車整理券扱いとなっていたが、2015年12月5日改正からスカイライナー同様、全席座席指定に変わっている。
停車駅は「スカイライナー」より多く設定され 通勤客の利便が図られているものの、「シティライナー」が停車するJR総武線・東武野田線(東武アーバンパークライン)との乗換駅である京成船橋駅は通過として、あくまでも都心まで・都心からの乗り通しを前提としていたが、2015年12月5日改正から「シティライナー」定期運行便の廃止の代替として、同駅にも停車するようになった。これらの運行時間帯には、夕方の移行時間帯を除き「スカイライナー」が運転されないため、空港アクセス列車としても利用される。
京浜急行電鉄(京急電鉄)では、1992年4月から平日の夕方以降に座席定員制の「京急ウィング号」を運行している。列車は全席クロスシート車両である2100形が充当され、下り列車のみの運行で京急川崎駅・横浜駅を通過し、品川の次上大岡駅以遠からの乗車は料金不要といった特徴を持つ。モーニング・ウィング号の運転開始に伴い、「イブニング・ウィング号」に改称された。
2015年12月7日から平日の早朝に「モーニング・ウィング号」が運行開始。上り列車のみの運行で、「京急ウィング号」よりも停車駅が少ない、途中停車駅からの乗車でも別料金が必要等の特徴がある。当初は座席定員制だったが、2017年5月1日から全席指定となった。
東武東上線では2008年6月14日のダイヤ改正で、着席乗車目的の座席定員制「TJライナー」を夕方以降の時間帯に運転開始。本列車にはクロスシートとロングシートの両方に切替可能なデュアルシートを採用した50090型を新製充当。TJライナー運行時はクロスシートになる。下り列車にふじみ野以北から乗車する場合、乗車整理券は不要である。2016年3月26日からは平日のみ、2023年3月18日からは土休日においても朝時間帯の上り列車での運行を開始した。2019年3月16日より、着席方式が座席定員制から座席指定制に変更された。
東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)では2020年6月6日のダイヤ改正より、日比谷線との直通列車として70090型を使用した座席指定制列車「THライナー」を運行している。
西武鉄道他3社では2017年3月25日のダイヤ改正より、西武池袋線系統で座席指定制「S-TRAIN」を運転開始した。デュアルシート採用の西武40000系が用いられる。平日と土日で運行パターンが異なり、平日は通勤目的のために東京メトロ有楽町線に乗り入れ、土日は観光輸送のために東京メトロ副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線及び西武秩父線の西武秩父駅に直通する。また、有楽町線直通の平日のSトレインは通勤輸送に特化しているため、一大ターミナル駅の池袋駅を通過するという特徴をもつ。全区間で座席指定料金が必要である。
2018年3月10日のダイヤ改正より、西武新宿線・拝島線の西武新宿駅 - 拝島駅間で「拝島ライナー」の運転を開始した。こちらは途中の小平駅以降の停車駅から乗車する場合は座席指定料金は不要である。
京王電鉄では2018年2月22日のダイヤ改正より京王線・京王相模原線で「京王ライナー」の運行を開始した。定期列車では京王線新宿駅 - 京王八王子駅と京王線新宿駅 - 橋本駅の2系統が存在するほか、土休日ダイヤのみ京王線新宿駅 - 高尾山口駅を運行する「Mt.TAKAO号」がある。京王5000系(2代)が用いられ、京王ライナー運行時はクロスシートになる。遠近分離のため(特別料金不要の)特急停車駅の笹塚駅、千歳烏山駅、調布駅、京王稲田堤駅は通過するほか、下りのMt.TAKAO号は明大前駅 - 高尾山口駅間をノンストップで運行する。乗車には座席指定料金が必要であるが、京王ライナーの下り列車については途中停車駅の府中駅及び京王永山駅から乗車する場合の別料金は不要である。
しなの鉄道では、転換以前から運行されていたライナー列車を引き継ぐ形で1997年から「しなのサンライズ号」および「しなのサンセット号」を運行している。当初は乗車整理券制だったが、2015年に一旦料金不要に変更。その後SR1系の運行開始に伴い2020年から座席指定制に変更された。
あいの風とやま鉄道及び、IRいしかわ鉄道は、北陸本線からの転換後最初の平日となる2015年3月16日より、座席指定制の「あいの風ライナー」を朝夕の時間帯に運行する。
WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)は、2017年3月4日のダイヤ改正により、宮福線に朝の上り1本のみ「通勤ライナー」を運行している。JR西日本の同名の列車とは異なりライナー券を要する列車となっているが、ライナー券の発売枚数に制限はなく、着席保証はない。特急用車両であるKTR8000形「丹後の海」編成で運行されている。
京阪電気鉄道では、2017年8月21日から平日朝の下り方向に、全席指定制の「ライナー」を運転している。2018年9月15日のダイヤ改正から夕方から夜にかけて上り方向にも運転開始、下りも出町柳発の運転も開始した。同列車には特急専用車8000系が充当され、乗車する場合はライナー券(プレミアムカー乗車の場合はプレミアムカー券)が必要である。下りは出町柳駅から七条駅間の相互利用は不可能で、京橋駅から先はライナー券なしで一般車両に乗車可能である。上りは淀屋橋駅から京橋駅間の相互利用は不可能で、七条駅から先はライナー券なしで一般車両に乗車可能である。
阪神電気鉄道では、大阪梅田駅を基準に金曜日の夜間は他の曜日の同時間帯より利用者が増える傾向にあることを踏まえて、2022年12月23日と2023年1月6日・13日・20日(いずれも平日ダイヤの金曜日)の夜間に、大阪梅田発青木行きの夜間有料臨時列車「らくやんライナー」を試験運行した。
大阪梅田駅20:19発(1号)、21:43発(3号)の計2本を設定。停車駅は野田・尼崎・武庫川・甲子園・西宮・香櫨園・打出・芦屋の各駅で、うち大阪梅田駅と野田駅は乗車専用とし、尼崎駅以遠の停車駅は全て降車専用とした。車両は原則としてクロスシートを装備する8000系(初期型)または9300系を使用する計画で、定員は1列車180名(大阪梅田駅で150名、野田駅で30名の発売枠をそれぞれ設定)。神戸三宮寄り先頭車である6号車は野田駅乗車客専用とし、大阪梅田駅では1 - 5号車のみ乗車可能(車両間の移動は禁止)とした。料金は1乗車200円で現金のみとし、大阪梅田駅ではホームにいる担当の係員に、野田駅では乗車後に車内の乗務員に、それぞれ直接支払い整理券を受け取る。なお、指定席ではないが定員制のため着席は保証されるものの、使用車両は一部ロングシートであり、ロングシート車両への料金徴収は異例である。 なお、実際の運用では、全8本の列車とも全中間車がクロスシート(車端部のみロングシート)で、両端先頭車がロングシートである9300系が使用された。
名古屋鉄道が過去にホームライナーに相当する列車を運行していた。愛称は「ディーゼル特急」で、特急「北アルプス」の間合い運用でキハ8000系によって運行されていた。徳田耕一の文献によると、設定開始は1965年12月30日のダイヤ改正で、区間は豊橋 - 新名古屋(現名鉄名古屋)間。一等車であったキロ8100型も連結されており、運行開始当初は一等110円、二等50円の線内特急料金を要したが、座席が完全に指定され、なおかつ定期券での乗車が可能だったため好評だったという。翌1966年春のダイヤ改正で夕方に1往復増発され、さらに1970年秋の改正で昼間に4往復増発された。運行終了時期は定かではない。
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"text": "ライナー列車(ライナーれっしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)及びそれを継承したJR各社において運行されている、快速列車(広義の普通列車)の一種であり、一般に乗車にあたっては乗車整理料金(乗車整理券)を要求する列車を指す。",
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"text": "本項では、国鉄・JR各社のライナー列車のほか、私鉄各社の有料座席指定制列車全般(特急列車を除く)についても述べる。",
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"text": "快速列車と同様に主要駅のみ停車する列車が多い。列車愛称は路線や運転時間帯によって「ホームライナー」、「ホームライナー○○」や「○○ライナー」などのバリエーションが存在する。",
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"text": "日中帯に運転された「セントラルライナー」のようなごく一部の例外を除けば、主として通勤時間帯に設定されることが大半で、基本的に朝ラッシュ時は郊外のベッドタウンから企業の集中する都心に向かって、帰宅時間帯となる夜間は逆に都心から郊外に向かって運行されることがほとんどであるが、地方都市圏においては静岡地区やかつての新潟地区のように、都市間で比較的長距離にわたって運行される列車もある。",
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"text": "JRグループにおける種別としては普通列車となるが、国鉄時代には団体専用列車として運転された列車も存在する。",
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"text": "都心に到着した優等列車を郊外の車両基地まで回送する代わりに営業列車とした早い例としては、1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正で設定された総武本線の気動車による快速列車がある。新宿駅に到着した房総方面からの急行列車の折り返しで、御茶ノ水駅発20時台に千葉駅行(停車駅は秋葉原駅・船橋駅の2駅)として2本運行された。ただし特別料金は徴収せず、回送列車のダイヤを踏襲したため所要時間も各駅停車と変わりなかった。",
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"text": "「ホームライナー」の名称で運行されたものの初出は、1984年(昭和59年)6月1日、当時の国鉄旅客局長だった須田寬の考案により、東北線上野駅 - 大宮駅間で回送する特急用電車を活用したものとされる。これは、当時私鉄各社で運行されていた通勤時の特急列車をヒントとして生まれたものであった。同列車は同年7月23日に「ホームライナー大宮」と命名され、次いで同日には総武快速線で「ホームライナー津田沼」が、同年9月からは阪和線で「ホームライナーいずみ」の運行が開始された。",
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"text": "運転開始当時は1編成のうちの数両あるグリーン車のみで客扱いを行っており、この際には普通車扱いとしていた。しかし運転開始当初より人気が高く常に満席となり、積み残し客の方が多くなることもあったことから、運転開始数日で急遽グリーン車の前後に連結している普通車も客扱いを開始することに変更したが、それでもまだ積み残しが出る状況だったため、そのわずか数ヵ月後には1編成すべてを開放して客扱いをするようになった。",
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"text": "1986年(昭和61年)11月1日に運行を開始した東海道線の「湘南ライナー」、阪和線の「はんわライナー」では、回送ダイヤの流用ではなく単独の列車運用を持つようになった。また、当初は回送列車扱いのため省略されていた車内整備も行われるようになった。",
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"text": "その後、特急列車や快速列車・普通列車への置き換え、首都圏ではこれに加えて一般の快速・普通列車へのグリーン車連結による利用者の減少などによって、数を減らしていくこととなる。西日本旅客鉄道(JR西日本)や九州旅客鉄道(JR九州)では2011年(平成23年)3月までに全廃され、東日本旅客鉄道(JR東日本)でも2021年(令和3年)3月で全廃となり、北海道旅客鉄道(JR北海道)も2023年(令和5年)に「ホームライナー」の愛称のまま全席指定制の普通列車(快速列車)の扱いへ転換したため、現在は東海旅客鉄道(JR東海)に残るのみとなっている。このほか四国旅客鉄道(JR四国)では徳島地区で一時試験的に運行されていた。",
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"text": "扱いとしては広義の普通列車であるため、乗車券(定期券を含む)に乗車整理券を追加で購入することで乗車が可能となる。一般には座席分の枚数しか発売されないため、着席が保証されるいわゆる座席定員制であるが、かつての札幌地区のように、事実上乗車整理券の発売枚数に制限がなく、着席保証がない場合もあった。また、運行区間末端方の乗車整理を発売しない停車駅は「降車専用駅」の扱いとして原則として乗車を認めないクローズドドア制で運転したり、通常の快速列車の扱いとして運転する列車も存在した。",
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"text": "使用車両にグリーン座席の設定がある場合、現存するJR東海においては、乗車整理券に代わって普通・快速列車に準じる自由席グリーン料金券を要求している。",
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"text": "かつては、列車により普通車扱いとして乗車整理券のみで乗車可能とする例や、車両そのものを締め切りとして開放しないケースもあった。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "車両基地まで回送される特急形車両の有効活用を目的としたという登場経緯から、一般に特急形車両で運転されるが、JR東海ではライナー列車向けに新造した専用車両313系8000番台を充当したケースがあったほか、JR東日本では本来近郊形車両に分類される215系電車を用いる列車もあった。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "また、基本的には自社の車両が運用されることが多いが、JR東海の東海道線名古屋地区のホームライナーでは、同地区へ直通するJR西日本の「しらさぎ」用の車両が間合い運用で用いられている。過去にはJR東日本の「ホームライナー古河」「ホームライナー鴻巣」でJR西日本の車両が、逆にJR西日本の「びわこライナー」でJR東日本の車両が用いられていたケースがる。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "詳細な運行状況は各運行路線・個別記事で記載されているため、本節では運行される線区での概要のみを記載するにとどめる。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "いずれも乗車整理券料金は330円となっている。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "なお、「ホームライナー」の商標権はJR東海が有している。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "静岡県内の東海道本線では、1989年(平成元年)7月から、乗車整理券方式の「花の木金号」が週末深夜に165系(運転開始直後はジョイフルトレインの「ゆうゆう東海」を優先的に使用、一時的に311系が使われたこともある)を用いた各駅停車として運行されており、1991年3月16日からはホームライナーとしての運行が開始された。同県3大都市の沼津駅・静岡駅・浜松駅の相互間で運行されており、列車名は終着駅名を採り「ホームライナー沼津」「ホームライナー静岡」「ホームライナー浜松」となっている。かつては三島駅発浜松駅行きの設定もあり、この列車の走行距離は営業キロで136.4キロメートルと、歴代ホームライナーの中では最長である。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "車両はすべて373系の3両・6両編成だが、設定当初から2012年までは「あさぎり」用の371系も運用されていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "なおこの地区では、ホームライナー設定以前のこの列車は後に「ホームライナー」に吸収された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "名古屋地区では名古屋駅を中心として東西南北4方向に路線が伸び、その全方向に対してホームライナーが設定されたが、現在は中央本線と東海道本線大垣方面の2方向のみの設定となった。列車愛称は朝・夜の列車とも郊外側の発着駅名を採って「ホームライナー○○」としている。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "中央西線では、国鉄民営化直前の1987年3月23日に名古屋駅→中津川駅間で設定されたのが最初である。その後「ホームライナー中津川」のほか、「ホームライナー多治見」「ホームライナー瑞浪」も登場し、最終的には後述の「~太多」も含めて2022年3月までに「瑞浪」へ全列車が統一された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "車両は「しなの」用の383系が使用される。過去には313系8000番台も「~瑞浪」で2022年3月11日まで運用されていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1990年3月からはキハ85系を使用した太多線直通の「ホームライナー太多」(名古屋駅 - 美濃太田駅間)も設定されていたが、2012年3月のダイヤ改正で廃止されている。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "またこの線区では、日中にホームライナーと同様の乗車制度を採用した「セントラルライナー」が1999年12月から2013年3月まで名古屋駅 - 中津川駅間で運行されていた。これが昼間帯に運行された定期ライナー列車の唯一の例である。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "名古屋地区の東海道本線では、1988年3月に「ホームライナーながら」が名古屋駅 - 大垣駅間で設定されたのが最初である。その後同列車は「ホームライナー大垣」と改称され運行されている。かつては名古屋以南にも設定があり「ホームライナー豊橋」「ホームライナー岐阜」「ホームライナー蒲郡」「ホームライナー岡崎」や、大垣以北に行く「ホームライナー関ヶ原」も設定されていた。名古屋駅以東では新快速の停車駅に準じて停車していた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "車両はJR西日本の「しらさぎ」用681系・683系が使用されている。過去には485系電車、キハ85系気動車、373系電車も使用されていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "札幌駅を中心とした札幌地区の函館本線では、札幌運転所の入出庫列車を活用し、1985年8月12日に手稲駅 - 札幌駅間で「ホームライナー」の運行が開始された。国鉄では4例目であり、平日運転の乗車整理券制列車であった。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "その後、小樽駅→札幌駅間の列車の追加(1988年)と廃止(2015年)、夕方の札幌発列車の廃止(2017年)などを経て、2023年(令和5年)3月18日からは形態を毎日運転の全席座席指定制列車に改めたうえで、朝に手稲駅から札幌行きの3本が運転されている。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "常磐線では、2005年12月16日から2007年3月16日まで、仙台駅 - 原ノ町駅間で「常磐ホームトレイン」が運行されていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "首都圏では東京都心の山手線上の各ターミナル駅(東京駅・上野駅・新宿駅)と埼玉県・千葉県・神奈川県・茨城県・多摩地区の各ベッドタウンとの間で、これまでに大きく分けて6系統の列車が運行されてきた。列車愛称は朝時間帯に運行されたものに「おはようライナー○○」、夜時間帯に運行されたものに「ホームライナー○○」と名付けられている線区が多く、○○には郊外側の駅名が入るが、例外として「おはようライナー新宿」は都心側の駅名を採ることで東京駅方面の「湘南ライナー」と区別した。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "運行開始当時は300円(のち310円)の「乗車整理券」での乗車制度となっていたが、1999年3月1日より500円(のち520円)に改定され、名称も「ライナー券」と改められた。朝ラッシュ時に運行される「湘南ライナー」「おはようライナー新宿」「おはようライナー逗子」では、1か月分のライナー券が1枚になった「ライナーセット券」が発売されていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "普通列車へのグリーン車導入や通勤特急列車への置き換えが進み、2021年(令和3年)に全廃となった。使用車両はすべて電車である。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1984年6月1日に国鉄・JR最初のホームライナーとして上野駅→大宮駅間で運行が開始され、「ホームライナー大宮」と命名された。その後運行区間が宇都宮線古河駅、高崎線鴻巣駅まで延伸されて「ホームライナー古河」「ホームライナー鴻巣」となった。運行開始以来夜間のみの運行で、新宿駅発の列車も設定されていたことがある。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2014年3月15日改正において特急「スワローあかぎ」への置換えなどにより全列車が廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "車両は185系・189系・485系・489系が用いられた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "総武快速線では、1984年7月13日に国鉄で2例目のホームライナーとして東京駅→津田沼駅間の「ホームライナー津田沼」が運行開始。翌年には新宿駅発列車も設定された。その後運行区間が千葉駅まで延長されて現在の名称「ホームライナー千葉」となった。朝の列車として「おはようライナー津田沼」が設定された時期もあったが、廃止時点では夜間のみ運行されていた。2019年3月16日改正において全列車が廃止された。廃止時点では、房総特急で使用される255系・E257系500番台を使用していた。過去には183系も使用された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "横須賀線では1990年3月10日に東京駅 - 逗子駅間で「おはようライナー逗子」「ホームライナー逗子」の運行が開始された。車両は当初は183系、その後はE257系500番台を使用し、2015年3月14日のダイヤ改正で廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "東海道線東京口では1986年11月1日に小田原駅・平塚駅 - 東京駅間で「湘南ライナー」の運行が開始された。1988年からは走行ルートとして東海道貨物線が活用され、新宿駅発着の「湘南新宿ライナー」も新設された。この「湘南新宿ライナー」は後に「おはようライナー新宿」「ホームライナー小田原」と名称が変更されて現在に至っている。運行規模はJR全線区中最大を誇り、最盛期には朝12本・夜間13本、最末期は朝10本・夜間11本が運行されていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "末期は、特急「踊り子」などで使用される185系のほか、近郊型の215系が使用されていた。かつては「スーパービュー踊り子」で使用されていた251系や中央線用の183系・E351系・E257系0番台も用いられていた。なお、下り列車については大船以西の区間は快速となり、着席保証はないものの一般乗客も乗車可能であった。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2021年3月13日改正で東京・新宿 - 小田原間で新設された特急「湘南」への置き換えにより全列車が廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "常磐線では1989年3月11日に「ホームライナー土浦」、翌1990年3月10日に「おはようライナー土浦」がそれぞれ上野駅 - 土浦駅間で運行が開始された。車両は485系を使用。1998年12月8日に特急「フレッシュひたち」に置き換えられる形で廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "中央線・青梅線では、1991年3月16日に高尾駅 - 新宿駅間で「おはようライナー高尾」「ホームライナー高尾」、新宿駅 - 青梅駅間で「ホームライナー青梅」の運行が開始された。2001年には東京駅発着となり、名称は高尾駅発着が「中央ライナー」、青梅駅発着が「青梅ライナー」に改められた。2019年3月16日改正において特急「はちおうじ」「おうめ」に置換えられ、全列車が廃止された。 廃止時点では、E257系0番台・E351系を使用していた。過去には183系・185系も使用されていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "東京駅発着となって以降、この系統では座席指定を行っていたことも特徴であり、晩年は「えきねっと」加入者向けに携帯電話を使用した予約サービスも行われていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "長野地区では、1989年(平成元年)3月より朝の信越本線軽井沢駅 - 長野駅間で、、特急「あさま」用の189系・489系を使用した快速「モーニングライナー」、夜の長野駅 - 小諸駅間で快速「みすず」用の165系・169系を使用した快速「ホームライナー」を運転していた。この列車は1997年(平成9年)に運行区間の一部がしなの鉄道に移管されたため、同社の「しなのサンライズ」「しなのサンセット」として継承された(以降は当該列車記事を参照)。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2004年(平成16年)10月16日には篠ノ井線松本駅 - 長野駅間に期間中の平日毎日運転の臨時快速列車の扱いで、「おはようライナー」の運行が開始され、翌2005年(平成17年)には塩尻駅 - 長野駅間に区間が延長、2019年(平成31年)3月16日改正に愛称無しの近郊型車両使用の臨時快速列車として置き換えられるまで運転された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "新潟駅を中心とした新潟地区では、1994年に信越本線新潟駅→長岡駅間で夜間に「らくらくライナー」として運行開始。2004年3月13日に白新線・羽越本線新潟駅→村上駅間の「らくらくトレイン村上」を新設し、従来の列車を「らくらくトレイン長岡」と改称した。「らくらくトレイン長岡」は2012年に運転区間を直江津駅まで延長し、「らくらくトレイン信越」と改称された。乗車整理券は300円。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "廃止時点ではすべての列車でE653系を使用していた。それ以前は485系が使用されていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2021年に「おはよう信越」は全車指定席の快速列車「信越」に改称、「らくらくトレイン村上」は廃止となり、「信越」についても翌2022年のダイヤ改正で廃止となった。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "関西本線名古屋口では、1988年7月1日から1990年3月9日まで名古屋駅 - 伊勢市駅間でキハ82系を使用して「ホームライナーみえ」が運転されたが、快速「みえ」へと発展的解消を遂げて廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "また、1996年3月から2011年3月まで、四日市駅→名古屋駅間に「ホームライナー四日市」がキハ85系で運行されたが、これも快速「みえ」に代替される形で廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "近畿圏では、大阪環状線内の大阪駅・天王寺駅を中心として大阪府南部 - 和歌山県方面・滋賀県方面・奈良県方面・兵庫県東部(丹波)方面の4線区で設定されていたが、2000年代以降は特急列車の通勤時間帯への拡充などにより、2011年3月を最後に全廃となった。各線区ごとに列車愛称が異なっていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "阪和線では、国鉄時代の1984年9月に国鉄3例目、近畿圏では初のホームライナーとして「ホームライナーいずみ」が天王寺駅 - 日根野駅間で設定された。その後1986年11月に天王寺駅 - 和歌山駅間に運行区間が延長され、列車名も「はんわライナー」に改称。最盛期には朝3本・夜5本が運行され、近畿圏では最大の運行規模となったが、特急の増発に伴ってライナーの減便が行われ、2011年3月のダイヤ改正をもって全列車が廃止された。車両は「くろしお」用の381系が使用された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖線・JR京都線では、1987年10月より米原駅 - 大阪駅間で「びわこライナー」1往復が運行され、2003年6月に特急「びわこエクスプレス」に置き換えられる形で廃止された。車両は「雷鳥」用の485系が用いられていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "大和路線では、1988年3月の加茂駅 - 木津駅間電化にあわせ、「やまとじライナー」の運行が開始された。運行区間は朝が木津駅→湊町駅(現在のJR難波駅)間、夜が大阪駅→加茂駅間であった。車両は381系を使用。2011年3月のダイヤ改正をもって区間快速に代替される形で廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "JR宝塚線では、1988年3月より篠山口駅 - 大阪駅間で「ほくせつライナー」が運行された。車両は「北近畿」用の485系・183系のほか、「エーデル北近畿」用のキハ65形も用いられた。2002年10月に特急「北近畿」(現在は「こうのとり」に改称)に置き換えられる形で廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)に、鳴門線において「鳴門きんときライナー」と称する、定員制快速列車を試験運行したが、半年ほどで運行終了となっている。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "JR九州では「エアポートライナー」を除き、朝の列車は「さわやかライナー」、夜の列車は「ホームライナー」の列車名で運行されていた。本社直轄の福岡都市圏と、鹿児島支社管内の宮崎地区・鹿児島地区の合計3地区で設定されたが、現在はいずれも運行されていない。各地区とも車両は主に485系が使用された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "これらのライナーは「エクセルパス」で乗車する場合、乗車整理券を不要としていた。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "博多駅を中心とした福岡地区の鹿児島本線では、1987年6月より門司港駅 - 博多駅間で「エアポートライナー」「ホームライナー」の運行が開始され、2001年3月に特急「きらめき」に編入されるまで運行されていた。また、博多駅 - 大牟田駅でも設定されたが、こちらは1995年4月のダイヤ改正をもって廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "宮崎駅を中心とした宮崎地区の日豊本線では、まず1990年3月に西都城駅→宮崎駅間に1本設定され、1992年7月には宮崎空港へのアクセス列車を兼ねて延岡駅 - 宮崎駅間において朝と夜に設定された。1996年7月の宮崎空港線開業後は延岡駅発着列車が同線宮崎空港駅まで延長された。車両は485系のほかに783系も使用されたが、2011年3月に特急「ひゅうが」「きりしま」に置き換えられて廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "鹿児島地区では西鹿児島駅(後の鹿児島中央駅)を中心として、鹿児島本線と日豊本線で運行された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "鹿児島本線では、1989年3月に川内駅 - 西鹿児島駅間に設定され、後に運行区間が出水駅 - 西鹿児島駅・鹿児島駅間に延長されたが、2004年3月の九州新幹線部分開業とともに川内駅以北が経営分離されたのに伴い、再び川内駅 - 鹿児島中央駅間に短縮。2011年3月に特急「川内エクスプレス」に置き換えられ、廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "日豊本線では、1990年3月より国分駅 - 西鹿児島駅間で運行されていたが、 2004年3月に特急「きりしま」に置き換えられて廃止された。",
"title": "国鉄及びJR各社におけるライナー列車"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "JR以外においても、ライナー列車に類似する列車を運行している鉄道事業者が存在する。ここではJRのライナーと同様に着席通勤を目的として座席定員制で運転されるものを中心に記載する。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "なお、ライナー列車としての固有種別の形をとってはいないが、小田急電鉄や東武鉄道(伊勢崎線・日光線・野田線系統)・西武鉄道・名古屋鉄道・近畿日本鉄道・南海電気鉄道・泉北高速鉄道では通勤輸送向けに有料特急列車が設定されている。これらの列車は種別・運行形態・車両形式こそ基本的に日中の特急列車と変わらない が、利用実態はホームライナーに比較的近く、かつて国鉄がホームライナーを設定するにあたってのヒントともされた。これらについては、「ホームウェイ・モーニングウェイ」(小田急電鉄)、「スカイツリーライナー」「アーバンパークライナー」(以上東武鉄道)、「レッドアロー」(西武鉄道)、「名鉄特急」、「近鉄特急」、「泉北ライナー」も参照。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "京成電鉄では、朝に上り「モーニングライナー」、夜間に下り「イブニングライナー」を本線にて運転している。これらは「スカイライナー」用のAE形(2010年7月16日まではAE100形)が充当され、ライナー券は座席指定でなく車両指定で、乗車整理券扱いとなっていたが、2015年12月5日改正からスカイライナー同様、全席座席指定に変わっている。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "停車駅は「スカイライナー」より多く設定され 通勤客の利便が図られているものの、「シティライナー」が停車するJR総武線・東武野田線(東武アーバンパークライン)との乗換駅である京成船橋駅は通過として、あくまでも都心まで・都心からの乗り通しを前提としていたが、2015年12月5日改正から「シティライナー」定期運行便の廃止の代替として、同駅にも停車するようになった。これらの運行時間帯には、夕方の移行時間帯を除き「スカイライナー」が運転されないため、空港アクセス列車としても利用される。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "京浜急行電鉄(京急電鉄)では、1992年4月から平日の夕方以降に座席定員制の「京急ウィング号」を運行している。列車は全席クロスシート車両である2100形が充当され、下り列車のみの運行で京急川崎駅・横浜駅を通過し、品川の次上大岡駅以遠からの乗車は料金不要といった特徴を持つ。モーニング・ウィング号の運転開始に伴い、「イブニング・ウィング号」に改称された。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2015年12月7日から平日の早朝に「モーニング・ウィング号」が運行開始。上り列車のみの運行で、「京急ウィング号」よりも停車駅が少ない、途中停車駅からの乗車でも別料金が必要等の特徴がある。当初は座席定員制だったが、2017年5月1日から全席指定となった。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "東武東上線では2008年6月14日のダイヤ改正で、着席乗車目的の座席定員制「TJライナー」を夕方以降の時間帯に運転開始。本列車にはクロスシートとロングシートの両方に切替可能なデュアルシートを採用した50090型を新製充当。TJライナー運行時はクロスシートになる。下り列車にふじみ野以北から乗車する場合、乗車整理券は不要である。2016年3月26日からは平日のみ、2023年3月18日からは土休日においても朝時間帯の上り列車での運行を開始した。2019年3月16日より、着席方式が座席定員制から座席指定制に変更された。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)では2020年6月6日のダイヤ改正より、日比谷線との直通列車として70090型を使用した座席指定制列車「THライナー」を運行している。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "西武鉄道他3社では2017年3月25日のダイヤ改正より、西武池袋線系統で座席指定制「S-TRAIN」を運転開始した。デュアルシート採用の西武40000系が用いられる。平日と土日で運行パターンが異なり、平日は通勤目的のために東京メトロ有楽町線に乗り入れ、土日は観光輸送のために東京メトロ副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線及び西武秩父線の西武秩父駅に直通する。また、有楽町線直通の平日のSトレインは通勤輸送に特化しているため、一大ターミナル駅の池袋駅を通過するという特徴をもつ。全区間で座席指定料金が必要である。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
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"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2018年3月10日のダイヤ改正より、西武新宿線・拝島線の西武新宿駅 - 拝島駅間で「拝島ライナー」の運転を開始した。こちらは途中の小平駅以降の停車駅から乗車する場合は座席指定料金は不要である。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "京王電鉄では2018年2月22日のダイヤ改正より京王線・京王相模原線で「京王ライナー」の運行を開始した。定期列車では京王線新宿駅 - 京王八王子駅と京王線新宿駅 - 橋本駅の2系統が存在するほか、土休日ダイヤのみ京王線新宿駅 - 高尾山口駅を運行する「Mt.TAKAO号」がある。京王5000系(2代)が用いられ、京王ライナー運行時はクロスシートになる。遠近分離のため(特別料金不要の)特急停車駅の笹塚駅、千歳烏山駅、調布駅、京王稲田堤駅は通過するほか、下りのMt.TAKAO号は明大前駅 - 高尾山口駅間をノンストップで運行する。乗車には座席指定料金が必要であるが、京王ライナーの下り列車については途中停車駅の府中駅及び京王永山駅から乗車する場合の別料金は不要である。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
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"text": "しなの鉄道では、転換以前から運行されていたライナー列車を引き継ぐ形で1997年から「しなのサンライズ号」および「しなのサンセット号」を運行している。当初は乗車整理券制だったが、2015年に一旦料金不要に変更。その後SR1系の運行開始に伴い2020年から座席指定制に変更された。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
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"text": "あいの風とやま鉄道及び、IRいしかわ鉄道は、北陸本線からの転換後最初の平日となる2015年3月16日より、座席指定制の「あいの風ライナー」を朝夕の時間帯に運行する。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
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"text": "WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)は、2017年3月4日のダイヤ改正により、宮福線に朝の上り1本のみ「通勤ライナー」を運行している。JR西日本の同名の列車とは異なりライナー券を要する列車となっているが、ライナー券の発売枚数に制限はなく、着席保証はない。特急用車両であるKTR8000形「丹後の海」編成で運行されている。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
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"text": "京阪電気鉄道では、2017年8月21日から平日朝の下り方向に、全席指定制の「ライナー」を運転している。2018年9月15日のダイヤ改正から夕方から夜にかけて上り方向にも運転開始、下りも出町柳発の運転も開始した。同列車には特急専用車8000系が充当され、乗車する場合はライナー券(プレミアムカー乗車の場合はプレミアムカー券)が必要である。下りは出町柳駅から七条駅間の相互利用は不可能で、京橋駅から先はライナー券なしで一般車両に乗車可能である。上りは淀屋橋駅から京橋駅間の相互利用は不可能で、七条駅から先はライナー券なしで一般車両に乗車可能である。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
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"text": "阪神電気鉄道では、大阪梅田駅を基準に金曜日の夜間は他の曜日の同時間帯より利用者が増える傾向にあることを踏まえて、2022年12月23日と2023年1月6日・13日・20日(いずれも平日ダイヤの金曜日)の夜間に、大阪梅田発青木行きの夜間有料臨時列車「らくやんライナー」を試験運行した。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
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"text": "大阪梅田駅20:19発(1号)、21:43発(3号)の計2本を設定。停車駅は野田・尼崎・武庫川・甲子園・西宮・香櫨園・打出・芦屋の各駅で、うち大阪梅田駅と野田駅は乗車専用とし、尼崎駅以遠の停車駅は全て降車専用とした。車両は原則としてクロスシートを装備する8000系(初期型)または9300系を使用する計画で、定員は1列車180名(大阪梅田駅で150名、野田駅で30名の発売枠をそれぞれ設定)。神戸三宮寄り先頭車である6号車は野田駅乗車客専用とし、大阪梅田駅では1 - 5号車のみ乗車可能(車両間の移動は禁止)とした。料金は1乗車200円で現金のみとし、大阪梅田駅ではホームにいる担当の係員に、野田駅では乗車後に車内の乗務員に、それぞれ直接支払い整理券を受け取る。なお、指定席ではないが定員制のため着席は保証されるものの、使用車両は一部ロングシートであり、ロングシート車両への料金徴収は異例である。 なお、実際の運用では、全8本の列車とも全中間車がクロスシート(車端部のみロングシート)で、両端先頭車がロングシートである9300系が使用された。",
"title": "私鉄・第三セクターにおける類似列車"
},
{
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"text": "名古屋鉄道が過去にホームライナーに相当する列車を運行していた。愛称は「ディーゼル特急」で、特急「北アルプス」の間合い運用でキハ8000系によって運行されていた。徳田耕一の文献によると、設定開始は1965年12月30日のダイヤ改正で、区間は豊橋 - 新名古屋(現名鉄名古屋)間。一等車であったキロ8100型も連結されており、運行開始当初は一等110円、二等50円の線内特急料金を要したが、座席が完全に指定され、なおかつ定期券での乗車が可能だったため好評だったという。翌1966年春のダイヤ改正で夕方に1往復増発され、さらに1970年秋の改正で昼間に4往復増発された。運行終了時期は定かではない。",
"title": "JRの運行開始以前に運行されたホームライナーに相当する列車"
}
] |
ライナー列車(ライナーれっしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)及びそれを継承したJR各社において運行されている、快速列車(広義の普通列車)の一種であり、一般に乗車にあたっては乗車整理料金(乗車整理券)を要求する列車を指す。 本項では、国鉄・JR各社のライナー列車のほか、私鉄各社の有料座席指定制列車全般(特急列車を除く)についても述べる。
|
{{半保護}}
'''ライナー列車'''(ライナーれっしゃ)とは、[[日本国有鉄道]](国鉄)及びそれを継承した[[JR]]各社において運行されている、[[快速列車]](広義の[[普通列車]])の一種であり、一般に乗車にあたっては乗車整理料金([[乗車整理券]])を要求する列車を指す<ref>{{Cite web |title=旅客営業規則 第2編 旅客営業 第3章 旅客運賃・料金 -第12節 特殊料金 |url=https://www.jreast.co.jp/ryokaku/02_hen/03_syo/12_setsu/#140-2 |website=www.jreast.co.jp |access-date=2023-11-25 |publisher=[[東日本旅客鉄道]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20231125034426/https://www.jreast.co.jp/ryokaku/02_hen/03_syo/12_setsu/#140-2 |archive-date=2023-11-25}}</ref><ref name=":0">{{Cite web |title=乗車整理券 |url=https://railway.jr-central.co.jp/ticket-rule/rule46.html |website=railway.jr-central.co.jp |access-date=2023-11-25 |publisher=[[東海旅客鉄道]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20231125034432/https://railway.jr-central.co.jp/ticket-rule/rule46.html |archive-date=2023-11-25}}</ref>。
本項では、国鉄・JR各社のライナー列車のほか、[[私鉄]]各社の有料座席指定制列車全般(特急列車を除く)についても述べる。<!-- 「通勤ライナー」という表現では通勤用に限定され、「ホームライナーに類似」というのも名前から通勤用を連想しかねないため不適切かと思います。 -->
{{TOC limit|5}}
== 概要 ==
快速列車と同様に主要駅のみ停車する列車が多い。[[列車愛称]]は路線や運転時間帯によって「'''ホームライナー'''」、「ホームライナー○○」や「○○ライナー」などのバリエーションが存在する。
日中帯に運転された「[[セントラルライナー]]」のようなごく一部の例外を除けば、主として[[ラッシュ時|通勤時間帯]]に設定されることが大半で、基本的に朝ラッシュ時は郊外の[[ベッドタウン]]から企業の集中する都心に向かって、帰宅時間帯となる夜間は逆に都心から郊外に向かって運行されることがほとんどであるが、地方都市圏においては静岡地区やかつての新潟地区のように、都市間で比較的長距離にわたって運行される列車もある。
== 国鉄及びJR各社におけるライナー列車 ==
[[JR|JRグループ]]における[[列車種別|種別]]としては普通列車となるが、国鉄時代には[[団体専用列車]]として運転された列車も存在する。
=== 登場の経緯と現状 ===
都心に到着した[[優等列車]]を郊外の車両基地まで回送する代わりに営業列車とした早い例としては、[[1968年]](昭和43年)10月1日[[ヨンサントオ|ダイヤ改正]]で設定された[[総武本線]]の[[気動車]]による[[快速列車]]がある。[[新宿駅]]に到着した[[房総半島|房総]]方面からの[[急行列車]]の折り返しで、[[御茶ノ水駅]]発20時台に[[千葉駅]]行(停車駅は[[秋葉原駅]]・[[船橋駅]]の2駅)として2本運行された。ただし特別料金は徴収せず、回送列車の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]を踏襲したため所要時間も[[各駅停車]]と変わりなかった<ref name="佐藤(1994) p.58"/>。
「ホームライナー」の名称で運行されたものの初出は、[[1984年]]([[昭和]]59年)[[6月1日]]、当時の国鉄旅客局長だった[[須田寬]]の考案により、[[宇都宮線|東北線]][[上野駅]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]間で回送する特急用電車を活用したものとされる。これは、当時[[私鉄]]各社で運行されていた通勤時の[[特別急行列車|特急列車]]をヒントとして生まれたものであった。同列車は同年[[7月23日]]に「[[ホームライナー古河・ホームライナー鴻巣|ホームライナー大宮]]」と命名され、次いで同日には[[総武快速線]]で「[[ホームライナー千葉|ホームライナー津田沼]]」が、同年9月からは[[阪和線]]で「ホームライナーいずみ」の運行が開始された<ref name="rp200406-052"/><ref name="rp200406-JRW"/>。
運転開始当時は1編成のうちの数両ある[[グリーン車]]のみで客扱いを行っており、この際には普通車扱いとしていた。しかし運転開始当初より人気が高く常に満席となり、積み残し客の方が多くなることもあったことから、運転開始数日で急遽グリーン車の前後に連結している普通車も客扱いを開始することに変更したが、それでもまだ積み残しが出る状況だったため、そのわずか数ヵ月後には1編成すべてを開放して客扱いをするようになった。
[[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]に運行を開始した[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]の「[[湘南ライナー]]」、阪和線の「はんわライナー」では、回送ダイヤの流用ではなく単独の[[運用 (鉄道)|列車運用]]を持つようになった。また、当初は回送列車扱いのため省略されていた車内整備も行われるようになった。
その後、[[特別急行列車|特急列車]]や[[快速列車]]・[[普通列車]]への置き換え、首都圏ではこれに加えて一般の快速・普通列車へのグリーン車連結による利用者の減少などによって、数を減らしていくこととなる。[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)や[[九州旅客鉄道]](JR九州)では[[2011年]](平成23年)3月までに全廃され、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)でも2021年(令和3年)3月で全廃となり<ref>{{Cite web|和書|date=2021-01-30 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210130-OYT1T50144/ |title=「必ず座れる」JR東の通勤ライナー、3月でお別れ…コロナ禍と重なり需要減 |publisher=読売新聞 |accessdate=2021-01-30}}</ref>、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)も2023年(令和5年)に「ホームライナー」の愛称のまま全席指定制の普通列車(快速列車)の扱いへ転換したため、現在は[[東海旅客鉄道]](JR東海)に残るのみとなっている。このほか[[四国旅客鉄道]](JR四国)では徳島地区で一時試験的に運行されていた。
=== 乗車制度 ===
[[File:Tokyo_Station_011.JPG|thumb|right|200px|ホーム上に設置されているライナー券専用自動券売機。上部に各乗車口の残席数が表示されている。<br />後ろの列車は発券中のホームライナー13号で、乗車案内中であるが、ライナー券の検札を行う乗車口以外は締切となっている。(東京駅)]]{{See also|乗車整理券}}
扱いとしては広義の[[普通列車]]であるため、[[乗車券]]([[定期乗車券|定期券]]を含む)に[[乗車整理券]]を追加で購入することで乗車が可能となる<ref name=":0" />{{Efn2|「青春18きっぷ」などでも乗車整理券またはライナー券を購入すれば乗車可能とされている。「フルムーン夫婦グリーンパス」や「ジャパンレールパス」などの特急・急行列車に乗車可能な特別企画乗車券を所持する場合でも、乗車整理券またはライナー券を必要とする。}}。一般には座席分の枚数しか発売されないため、着席が保証されるいわゆる座席定員制であるが、かつての札幌地区のように、事実上乗車整理券の発売枚数に制限がなく、着席保証がない場合もあった<ref name="大塚 p.112" /><ref name="大塚 p.118" />。また、運行区間末端方においては、停車駅を「降車専用駅」の扱いとして乗車を認めない[[クローズドドアシステム|クローズドドア制]]で運転したり、通常の快速列車の扱いとして運転する列車も存在した。
==== グリーン座席の扱い ====
使用車両に[[グリーン車|グリーン座席]]の設定がある場合、現存するJR東海においては、乗車整理券に代わって普通・快速列車に準じる[[グリーン券|自由席グリーン料金]]券を要求している<ref name=":0" />。
かつては、列車により[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]扱いとして乗車整理券のみで乗車可能とする例や、車両そのものを締め切りとして開放しないケースもあった<ref name="徳田(1998) p.80" />。
=== 使用車両 ===
[[車両基地]]まで回送される[[特急形車両]]の有効活用を目的としたという登場経緯から、一般に特急形車両で運転されるが、JR東海ではライナー列車向けに新造した専用車両[[JR東海313系電車#8000番台|313系8000番台]]を充当したケースがあったほか、JR東日本では本来近郊形車両に分類される[[JR東日本215系電車|215系電車]]を用いる列車もあった。
また、基本的には自社の車両が運用されることが多いが、JR東海の[[東海道線 (名古屋地区)|東海道線名古屋地区]]のホームライナーでは、同地区へ直通するJR西日本の「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」用の車両が間合い運用で用いられている。過去にはJR東日本の[[ホームライナー古河・ホームライナー鴻巣|「ホームライナー古河」「ホームライナー鴻巣」]]でJR西日本の車両が、逆にJR西日本の「[[びわこエクスプレス|びわこライナー]]」でJR東日本の車両が用いられていたケースがる<ref name="rp200406-052" /><ref name="rp200406-JRW" />。
=== 運行概況 ===
詳細な運行状況は各運行路線・個別記事で記載されているため、本節では運行される線区での概要のみを記載するにとどめる。
==== JR東海 ====
いずれも乗車整理券料金は330円となっている<ref>[https://www.jreast.co.jp/kippu/19.html 乗車整理券] - JR東日本(2021年5月2日閲覧)</ref>。
なお、「ホームライナー」の[[商標権]]はJR東海が有している<ref group="注">登録第3022530号。[[サービスマーク|役務商標]]を認める[[商標法]]改正が施行された1992年に出願された。</ref>。
===== 静岡地区 =====
{{See also|東海道線 (静岡地区)#ホームライナー}}
静岡県内の[[東海道線 (静岡地区)|東海道本線]]では、1989年(平成元年)7月から、乗車整理券方式の「'''花の木金号'''」が週末深夜に[[国鉄165系電車|165系]](運転開始直後はジョイフルトレインの「[[ゆうゆう東海]]」を優先的に使用、一時的に[[JR東海311系電車|311系]]が使われたこともある)を用いた各駅停車として運行されており、1991年3月16日からはホームライナーとしての運行が開始された。同県3大都市の[[沼津駅]]・[[静岡駅]]・[[浜松駅]]の相互間で運行されており、列車名は終着駅名を採り「'''ホームライナー沼津'''」「'''ホームライナー静岡'''」「'''ホームライナー浜松'''」となっている。かつては[[三島駅]]発浜松駅行きの設定もあり、この列車の走行距離は[[営業キロ]]で136.4キロメートルと、歴代ホームライナーの中では最長である<ref group="注">次点は0.1キロメートル差で「らくらくトレイン信越」の136.3キロメートル。</ref>。
車両はすべて[[JR東海373系電車|373系]]の3両・6両編成だが、設定当初から2012年までは「[[あさぎり (列車)|あさぎり]]」用の[[JR東海371系電車|371系]]も運用されていた。
なおこの地区では、ホームライナー設定以前のこの列車は後に「ホームライナー」に吸収された。
===== 名古屋地区 =====
名古屋地区では[[名古屋駅]]を中心として東西南北4方向に路線が伸び、その全方向に対してホームライナーが設定されたが、現在は中央本線と東海道本線大垣方面の2方向のみの設定となった。列車愛称は朝・夜の列車とも郊外側の発着駅名を採って「ホームライナー○○」としている<ref name="rp200406-JRC" />。
====== 中央本線 ======
{{See also|中央線 (名古屋地区)#ホームライナー}}{{Main2|セントラルライナー|セントラルライナー}}
[[中央線 (名古屋地区)|中央西線]]では、国鉄民営化直前の[[1987年]]3月23日に名古屋駅→[[中津川駅]]間で設定されたのが最初である。その後「'''ホームライナー中津川'''」のほか、「'''ホームライナー[[多治見駅|多治見]]'''」「'''ホームライナー[[瑞浪駅|瑞浪]]'''」も登場し、最終的には後述の「~太多」も含めて[[2022年]]3月までに「ホームライナー瑞浪」へ全列車が統一された。
車両は「[[しなの (列車)|しなの]]」用の[[JR東海383系電車|383系]]が使用される。過去には[[JR東海313系電車#8000番台|313系8000番台]]も「ホームライナー瑞浪」で2022年3月11日まで運用されていた。
1990年3月からは[[JR東海キハ85系気動車|キハ85系]]を使用した[[太多線]]直通の「'''ホームライナー太多'''」(名古屋駅 - [[美濃太田駅]]間)も設定されていたが、2012年3月のダイヤ改正で廃止されている。
またこの線区では、日中にホームライナーと同様の乗車制度を採用した「'''[[セントラルライナー]]'''」が[[1999年]]12月から[[2013年]]3月まで名古屋駅 - 中津川駅間で運行されていた。これが昼間帯に運行された定期ライナー列車の唯一の例である。
====== 東海道本線 ======
{{See also|東海道線 (名古屋地区)#ホームライナー}}
名古屋地区の[[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]]では、1988年3月に「'''ホームライナーながら'''」が名古屋駅 - [[大垣駅]]間で設定されたのが最初である。その後同列車は「'''ホームライナー大垣'''」と改称され運行されている。かつては名古屋以南にも設定があり「'''ホームライナー豊橋'''」「'''ホームライナー[[岐阜駅|岐阜]]'''」「'''ホームライナー[[蒲郡駅|蒲郡]]'''」「'''ホームライナー[[岡崎駅|岡崎]]'''」や、大垣以北に行く「'''ホームライナー[[関ケ原駅|関ヶ原]]'''」も設定されていた。名古屋駅以東では新快速の停車駅に準じて停車していた。
車両はJR西日本の「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」用[[JR西日本681系電車|681系]]・[[JR西日本683系電車|683系]]が使用されている。過去には485系電車、キハ85系気動車、373系電車も使用されていた<ref name="railf20130317-373">{{Cite_web|date=2013-03-16|url=http://railf.jp/news/2013/03/16/141800.html|title=373系の名古屋地区“ホームライナー”運用が終了|work=鉄道ファン railf.jp|publisher=交友社|accessdate=2013-03-17}}</ref>。
<gallery>
ファイル:JRC373 HomeLiner Shizuoka.jpg|373系「ホームライナー静岡」
ファイル:JR central-dc85.jpg|キハ85系「ホームライナー太多」
ファイル:JRW 683-2000 HomeLiner.jpg|683系「ホームライナー大垣」
ファイル:JRC373 HomeLiner.jpg|373系「ホームライナー豊橋」
</gallery>
=== 過去の事例 ===
==== JR北海道 ====
[[File:JRH-kiha261_HomeLiner.jpg|thumb|160px|キハ261系<br />「ホームライナー」]]{{See also|ホームライナー (JR北海道)}}
[[札幌駅]]を中心とした札幌地区の[[函館本線]]では、[[札幌運転所]]の入出庫列車を活用し、[[1985年]]8月12日に[[手稲駅]] - 札幌駅間で「'''ホームライナー'''」の運行が開始された。国鉄では4例目であり、平日運転の乗車整理券制列車であった。
その後、[[小樽駅]]→札幌駅間の列車の追加(1988年)と廃止(2015年)<ref name="rp200406-044" /><ref>{{PDFlink|[http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141219-1.pdf 平成27年春ダイヤ改正について]}} - JR北海道プレスリリース 2014年12月19日</ref>、夕方の札幌発列車の廃止(2017年)などを経て、2023年(令和5年)3月18日からは形態を毎日運転の全席座席指定制列車に改めたうえで、朝に手稲駅から札幌行きの3本が運転されている<ref>{{PDFlink|[https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/221216_KO_homeliner.pdf ホームライナーが便利に生まれ変わります! ~チケットレスサービス導入でご予約・ご乗車がスムーズに~]}} - JR北海道プレスリリース 2022年12月16日</ref>。
==== JR東日本 ====
===== 仙台地区 =====
{{main|常磐線#過去の列車}}
[[常磐線]]では、2005年12月16日から2007年3月16日まで、仙台駅 - 原ノ町駅間で「'''常磐ホームトレイン'''」が運行されていた。
===== 首都圏 =====
首都圏では東京都心の[[山手線]]上の各ターミナル駅([[東京駅]]・[[上野駅]]・[[新宿駅]])と[[埼玉県]]・[[千葉県]]・[[神奈川県]]・[[茨城県]]・[[多摩地域|多摩地区]]の各ベッドタウンとの間で、これまでに大きく分けて6系統の列車が運行されてきた。列車愛称は朝時間帯に運行されたものに「おはようライナー○○」、夜時間帯に運行されたものに「ホームライナー○○」と名付けられている線区が多く、○○には郊外側の駅名が入るが、例外として「おはようライナー新宿」は都心側の駅名を採ることで東京駅方面の「湘南ライナー」と区別した。
運行開始当時は300円(のち310円)の「乗車整理券」での乗車制度となっていたが、[[1999年]]3月1日より500円(のち520円)に改定され<ref name="RJ1999"/>、名称も「[[乗車整理券#ライナー券|ライナー券]]」と改められた。朝ラッシュ時に運行される「湘南ライナー」「おはようライナー新宿」「おはようライナー逗子」では、1か月分のライナー券が1枚になった「ライナーセット券」が発売されていた<ref name="rp200406-041" />。
普通列車へのグリーン車導入や通勤特急列車への置き換えが進み、2021年(令和3年)に全廃となった。使用車両はすべて電車である。
====== 宇都宮線・高崎線 ======
{{main|ホームライナー古河・ホームライナー鴻巣}}
[[1984年]]6月1日に国鉄・JR最初のホームライナーとして上野駅→[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]間で運行が開始され、「'''ホームライナー大宮'''」と命名された<ref name="rp200406-052"/><ref name="rp200406-JRE"/>。その後運行区間が[[宇都宮線]][[古河駅]]、[[高崎線]][[鴻巣駅]]まで延伸されて「'''ホームライナー古河'''」「'''ホームライナー鴻巣'''」となった。運行開始以来夜間のみの運行で、新宿駅発の列車も設定されていたことがある。
[[2014年]]3月15日改正において特急「[[あかぎ (列車)|スワローあかぎ]]」への置換えなどにより全列車が廃止された<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131217.pdf 2014年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2013年12月20日付、同月22日閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/takasaki/news/docs/2014dia.pdf 2014年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道高崎支社プレスリリース 2013年12月20日付、同月22日閲覧。</ref>。
車両は[[国鉄185系電車|185系]]・[[国鉄183系電車|189系]]・[[国鉄485系電車|485系・489系]]が用いられた。
====== 総武快速線 ======
{{main|横須賀・総武快速線#ホームライナー}}
[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]では、1984年7月13日に国鉄で2例目のホームライナーとして東京駅→[[津田沼駅]]間の「'''ホームライナー津田沼'''」が運行開始。翌年には新宿駅発列車も設定された<ref name="rp200406-052"/><ref name="rp200406-JRE"/>。その後運行区間が[[千葉駅]]まで延長されて現在の名称「'''ホームライナー千葉'''」となった。朝の列車として「'''おはようライナー津田沼'''」が設定された時期もあったが、廃止時点では夜間のみ運行されていた。[[2019年]]3月16日改正において全列車が廃止された<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2018/20181213.pdf 2019年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2018年12月14日付、同月16日閲覧。</ref>。廃止時点では、房総特急で使用される[[JR東日本255系電車|255系]]・[[JR東日本E257系電車|E257系]]500番台を使用していた。過去には[[国鉄183系電車|183系]]も使用された。
====== 東海道線 ======
{{main|湘南 (列車)}}
[[東海道線 (JR東日本)|東海道線東京口]]では[[1986年]]11月1日に[[小田原駅]]・[[平塚駅]] - 東京駅間で「'''湘南ライナー'''」の運行が開始された<ref name="rp200406-052"/><ref name="rp200406-JRE"/>。[[1988年]]からは走行ルートとして[[東海道貨物線]]が活用され、新宿駅発着の「'''湘南新宿ライナー'''」も新設された<ref name="rp200406-052"/><ref name="rp200406-JRE"/>。この「湘南新宿ライナー」は後に「'''おはようライナー新宿'''」「'''ホームライナー小田原'''」と名称が変更されて現在に至っている。運行規模はJR全線区中最大を誇り、最盛期には朝12本・夜間13本、最末期は朝10本・夜間11本が運行されていた。
末期は、特急「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」などで使用される[[国鉄185系電車|185系]]のほか、近郊型の[[JR東日本215系電車|215系]]が使用されていた。かつては「スーパービュー踊り子」で使用されていた[[JR東日本251系電車|251系]]や中央線用の183系・[[JR東日本E351系電車|E351系]]・E257系0番台も用いられていた。なお、下り列車については[[大船駅|大船]]以西の区間は[[快速列車|快速]]となり、着席保証はないものの一般乗客も乗車可能であった。
2021年3月13日改正で東京・新宿 - 小田原間で新設された特急「'''湘南'''」への置き換えにより全列車が廃止された<ref name="pr20201112">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201112063532/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東海道線特急が新しく生まれ変わります|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-12|archivedate=2020-11-12}}</ref>。
====== 常磐線 ======
{{See also|ひたち (列車)#常磐線優等列車としての「ひたち」と派生列車群}}
[[常磐線]]では[[1989年]]3月11日に「'''ホームライナー土浦'''」、翌[[1990年]]3月10日に「'''おはようライナー土浦'''」がそれぞれ上野駅 - [[土浦駅]]間で運行が開始された。車両は485系を使用。[[1998年]]12月8日に特急「[[ひたち (列車)|フレッシュひたち]]」に置き換えられる形で廃止された。
====== 横須賀線 ======
{{main|横須賀・総武快速線#ホームライナー}}[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]では1990年3月10日に東京駅 - [[逗子駅]]間で「'''おはようライナー逗子'''」「'''ホームライナー逗子'''」の運行が開始された<ref name="rp200406-052" /><ref name="rp200406-JRE" />。車両は当初は183系、その後はE257系500番台を使用していた。2015年3月14日のダイヤ改正で廃止された。
====== 中央線・青梅線 ======
{{See also|はちおうじ・おうめ}}
[[中央線快速|中央線]]・[[青梅線]]では、[[1991年]]3月16日に[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]] - 新宿駅間で「'''おはようライナー高尾'''」「'''ホームライナー高尾'''」、新宿駅 - [[青梅駅]]間で「'''ホームライナー青梅'''」の運行が開始された<ref name="rp200406-052" /><ref name="rp200406-JRE" />。[[2001年]]には東京駅発着となり、名称は高尾駅発着が「'''中央ライナー'''」、青梅駅発着が「'''青梅ライナー'''」に改められた。[[2019年]]3月16日改正において[[はちおうじ・おうめ|特急「はちおうじ」「おうめ」]]に置換えられ、全列車が廃止された<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2018/20181213.pdf 2019年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2019年12月14日付、同月16日閲覧。</ref>。
廃止時点では、E257系0番台・E351系を使用していた。過去には183系・185系も使用されていた。
東京駅発着となって以降、この系統では座席指定を行っていたことも特徴であり、晩年は「[[えきねっと]]」加入者向けに[[携帯電話]]を使用した予約サービスも行われていた<ref name="rp200406-044" /><ref>[http://jreast.eki-net.com/mobile/liner.html ライナー券携帯電話予約サービス] - 東日本旅客鉄道ウェブサイト、2012年1月20日閲覧。</ref>。
<gallery>
ファイル:JR East 185-200 HomeLiner.jpg|185系「ホームライナー鴻巣」
ファイル:JNR 489-homeliner.jpg|489系「ホームライナー鴻巣」
ファイル:JNR 185 sries EMU 041.JPG|185系「ホームライナー古河」
ファイル:Series185-C6 Shonan-Liner.jpg|185系「湘南ライナー」
ファイル:Series215-NL1.jpg|215系「湘南ライナー」
ファイル:251系_1.jpg|251系「おはようライナー新宿」
ファイル:JREast183Chuoliner.JPG|183系「中央ライナー」
ファイル:E351 ChuoLiner.jpg|E351系「中央ライナー」
ファイル:E257 ChuoLiner.jpg|E257系「中央ライナー」
ファイル:E257OmeLiner.JPG|E257系「青梅ライナー」
</gallery>
===== 長野地区 =====
{{See also|おはようライナー (長野)|しなのサンライズ号・しなのサンセット号}}
====== 信越本線 ======
長野地区では、[[1989年]](平成元年)3月より朝の[[信越本線]][[軽井沢駅]] - [[長野駅]]間で、、特急「[[あさま]]」用の189系・489系を使用した快速「'''モーニングライナー'''」、夜の長野駅 - [[小諸駅]]間で快速「[[みすず (列車)|みすず]]」用の165系・169系を使用した快速「'''ホームライナー'''」を運転していた<ref>平成9年3月22日改正 上田駅監修 信越線/中央線時刻表</ref>。この列車は[[1997年]](平成9年)に運行区間の一部が[[しなの鉄道]]に移管されたため、同社の「'''[[しなのサンライズ]]'''」「'''[[しなのサンセット]]'''」として継承された(以降は当該列車記事を参照)。
====== 篠ノ井線 ======
{{See also|おはようライナー (長野)}}[[File:Series189 liner.jpg|thumb|160px|189系「おはようライナー」]][[2004年]](平成16年)10月16日には[[篠ノ井線]][[松本駅]] - [[長野駅]]間に期間中の平日毎日運転の臨時快速列車の扱いで<ref>(株)交通新聞社 全国版 コンパス時刻表 2018年5月 第580項</ref>、「'''[[おはようライナー (長野)|おはようライナー]]'''」の運行が開始され、翌[[2005年]](平成17年)には[[塩尻駅]] - 長野駅間に区間が延長、[[2019年]](平成31年)[[3月16日]]改正に愛称無しの近郊型車両使用の臨時快速列車として置き換えられるまで運転された<ref>JR東日本長野支社 ポケットJR時刻表 2019春号 3月16日ダイヤ改正列車掲載 第69項</ref>。
===== 新潟地区 =====
[[ファイル:485rakurakutrain-shinetsu.JPG|thumb|160px|485系「らくらくトレイン信越」]]
{{Main|信越 (列車)}}
[[新潟駅]]を中心とした新潟地区では、[[1994年]]に信越本線新潟駅→[[長岡駅]]間で夜間に「'''らくらくライナー'''」として運行開始。2004年3月13日に[[白新線]]・[[羽越本線]]新潟駅→[[村上駅 (新潟県)|村上駅]]間の「'''らくらくトレイン村上'''」を新設し、従来の列車を「'''らくらくトレイン長岡'''」と改称した<ref name="rp200406-044" />。「らくらくトレイン長岡」は[[2012年]]に運転区間を[[直江津駅]]まで延長し、「'''らくらくトレイン信越'''」と改称された<ref name="jrengt-20111216">{{PDFlink|[http://www.jrniigata.co.jp/press/20111216daiyakaisei.pdf 2012年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道新潟支社プレスリリース、2011年12月16日付、2013年1月14日閲覧。</ref>。乗車整理券は300円。
廃止時点ではすべての列車で[[JR東日本E653系電車|E653系]]を使用していた。それ以前は485系が使用されていた。
2021年に「おはよう信越」は全車指定席の快速列車「'''信越'''」に改称、「らくらくトレイン村上」は廃止となり、「信越」についても翌2022年のダイヤ改正で廃止となった。
==== JR東海 ====
===== 関西本線 =====
{{See also|関西線_(名古屋地区)#ホームライナー四日市|みえ (列車)}}
[[関西線 (名古屋地区)|関西本線名古屋口]]では、[[1988年]][[7月1日]]から[[1990年]][[3月9日]]まで名古屋駅 - 伊勢市駅間で[[国鉄キハ80系気動車|キハ82系]]を使用して「'''ホームライナーみえ'''」が運転されたが、快速「[[みえ (列車)|みえ]]」へと発展的解消を遂げて廃止された。
また、1996年3月から[[2011年]]3月まで、[[四日市駅]]→名古屋駅間に「'''ホームライナー四日市'''」がキハ85系で運行されたが、これも快速「みえ」に代替される形で廃止された。
==== JR西日本 ====
近畿圏では、[[大阪環状線]]内の[[大阪駅]]・[[天王寺駅]]を中心として[[大阪府]]南部 - [[和歌山県]]方面・[[滋賀県]]方面・[[奈良県]]方面・[[兵庫県]]東部(丹波)方面の4線区で設定されていたが、[[2000年代]]以降は特急列車の通勤時間帯への拡充などにより、2011年3月を最後に全廃となった。各線区ごとに列車愛称が異なっていた<ref name="rp200406-JRW" />。
===== 阪和線 =====
{{See also|阪和線#はんわライナー}}
[[阪和線]]では、国鉄時代の1984年9月に国鉄3例目、近畿圏では初のホームライナーとして「'''ホームライナーいずみ'''」が天王寺駅 - [[日根野駅]]間で設定された。その後1986年11月に天王寺駅 - [[和歌山駅]]間に運行区間が延長され、列車名も「'''はんわライナー'''」に改称。最盛期には朝3本・夜5本が運行され、近畿圏では最大の運行規模となったが、特急の増発に伴ってライナーの減便が行われ、2011年3月のダイヤ改正をもって全列車が廃止された。車両は「[[くろしお (列車)|くろしお]]」用の[[国鉄381系電車|381系]]が使用された。
===== 東海道本線(琵琶湖線・JR京都線) =====
{{See also|びわこエクスプレス}}
[[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]では、1987年10月より[[米原駅]] - 大阪駅間で「'''びわこライナー'''」1往復が運行され、[[2003年]]6月に特急「[[びわこエクスプレス]]」に置き換えられる形で廃止された。車両は「[[サンダーバード (列車)|雷鳥]]」用の485系が用いられていた。
===== 関西本線(大和路線) =====
{{See also|大和路線#やまとじライナー}}
[[大和路線]]では、1988年3月の[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]] - [[木津駅 (京都府)|木津駅]]間電化にあわせ、「'''やまとじライナー'''」の運行が開始された。運行区間は朝が木津駅→湊町駅(現在の[[JR難波駅]])間、夜が大阪駅→加茂駅間であった。車両は381系を使用。2011年3月のダイヤ改正をもって区間快速に代替される形で廃止された。
===== 福知山線(JR宝塚線) =====
[[福知山線|JR宝塚線]]では、1988年3月より篠山口駅 - 大阪駅間で「'''ほくせつライナー'''」が運行された。車両は「[[こうのとり (列車)|北近畿]]」用の485系・183系のほか、「エーデル北近畿」用の[[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]も用いられた。2002年10月に特急「北近畿」(現在は「こうのとり」に改称)に置き換えられる形で廃止された。
<gallery>
File:Hanwa-Liner2.jpg|381系<br />「はんわライナー」
File:JRW_381_Yamatoji-Liner.jpg|381系<br />「やまとじライナー」
File:Kiha65_ederutkitakinki_hokusetsu.jpg|キハ65系<br />「ほくせつライナー」
</gallery>
==== JR四国 ====
{{See also|鳴門線#鳴門きんときライナー}}
2006年(平成18年)に、鳴門線において「'''鳴門きんときライナー'''」と称する定員制快速列車を試験運行したが、半年ほどで運行終了となっている。
==== JR九州 ====
[[File:Jrk485hl.jpg|thumb|160px|485系<br />「ホームライナー」]]
JR九州では「エアポートライナー」を除き、朝の列車は「'''さわやかライナー'''」、夜の列車は「'''ホームライナー'''」の列車名で運行されていた。本社直轄の[[福岡都市圏]]と、[[九州旅客鉄道鹿児島支社|鹿児島支社]]管内の宮崎地区・鹿児島地区の合計3地区で設定されたが、現在はいずれも運行されていない。各地区とも車両は主に485系が使用された<ref name="rp200406-044" />。
これらのライナーは「[[エクセルパス]]」で乗車する場合、乗車整理券を不要としていた<ref group="注">JR九州公式サイト「[https://www.jrkyushu.co.jp/tabi/ticket/excel.jsp 特急定期券エクセルパス]」では「さわやかライナー、ホームライナーにも乗車可能」との記載があった。</ref>。
===== 福岡・北九州地区 =====
[[博多駅]]を中心とした福岡地区の[[鹿児島本線]]では、1987年6月より[[門司港駅]] - 博多駅間で「'''エアポートライナー'''」「'''ホームライナー'''」の運行が開始され、2001年3月に特急「[[きらめき (列車)|きらめき]]」に編入されるまで運行されていた。また、博多駅 - [[大牟田駅]]でも設定されたが、こちらは[[1995年]]4月のダイヤ改正をもって廃止された。
===== 宮崎地区 =====
[[宮崎駅]]を中心とした宮崎地区の[[日豊本線]]では、まず1990年3月に[[西都城駅]]→宮崎駅間に1本設定され、1992年7月には[[宮崎空港]]への[[空港連絡鉄道|アクセス列車]]を兼ねて[[延岡駅]] - 宮崎駅間において朝と夜に設定された。1996年7月の[[宮崎空港線]]開業後は延岡駅発着列車が同線[[宮崎空港駅]]まで延長された。車両は485系のほかに[[JR九州783系電車|783系]]も使用されたが、2011年3月に特急「[[ひゅうが (列車)|ひゅうが]]」「[[きりしま (列車)|きりしま]]」に置き換えられて廃止された。
===== 鹿児島地区 =====
鹿児島地区では西鹿児島駅(後の[[鹿児島中央駅]])を中心として、鹿児島本線と日豊本線で運行された。
鹿児島本線では、1989年3月に[[川内駅 (鹿児島県)|川内駅]] - 西鹿児島駅間に設定され、後に運行区間が[[出水駅]] - 西鹿児島駅・[[鹿児島駅]]間に延長されたが、2004年3月の[[九州新幹線]]部分開業とともに[[肥薩おれんじ鉄道線|川内駅以北が経営分離された]]のに伴い、再び川内駅 - 鹿児島中央駅間に短縮。2011年3月に特急「[[川内エクスプレス]]」に置き換えられ、廃止された。
日豊本線では、1990年3月より[[国分駅 (鹿児島県)|国分駅]] - 西鹿児島駅間で運行されていたが、 2004年3月に特急「きりしま」に置き換えられて廃止された。
== 私鉄・第三セクターにおける類似列車 ==
JR以外においても、ライナー列車に類似する列車を運行している[[鉄道事業者]]が存在する。ここではJRのライナーと同様に着席通勤を目的として座席定員制で運転されるものを中心に記載する。
なお、ライナー列車としての固有種別の形をとってはいないが、[[小田急電鉄]]や[[東武鉄道]]([[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]・[[東武日光線|日光線]]・[[東武野田線|野田線]]系統)・[[西武鉄道]]・[[名古屋鉄道]]・[[近畿日本鉄道]]・[[南海電気鉄道]]・[[泉北高速鉄道]]では通勤輸送向けに有料特急列車が設定されている。これらの列車は種別・運行形態・車両形式こそ基本的に日中の特急列車と変わらない<ref group="注">路線によっては平日ダイヤ時、あるいは朝夕[[ラッシュ時]]のみ運行されるケースも多い。</ref> が、利用実態はホームライナーに比較的近く、かつて国鉄がホームライナーを設定するにあたってのヒントともされた<ref name="rp200406-052"/>。これらについては、「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|ホームウェイ・モーニングウェイ]]」(小田急電鉄)、「[[アーバンパークライナー#スカイツリーライナー|スカイツリーライナー]]」「[[アーバンパークライナー]]」(以上東武鉄道)、「[[レッドアロー]]」(西武鉄道)、「[[名鉄特急]]」、「[[近鉄特急]]」、「[[泉北ライナー]]」も参照。
=== 京成電鉄 ===
{{Main|スカイライナー}}
[[京成電鉄]]では、朝に上り「'''モーニングライナー'''」、夜間に下り「'''イブニングライナー'''」を[[京成本線|本線]]にて運転している。これらは「スカイライナー」用の[[京成AE形電車 (2代)|AE形]](2010年7月16日までは[[京成AE100形電車|AE100形]])が充当され、ライナー券は座席指定でなく車両指定で、[[乗車整理券]]扱いとなっていたが、2015年12月5日改正からスカイライナー同様、全席座席指定に変わっている。
停車駅は「スカイライナー」より多く設定され<ref group="注">現在のスカイライナーは当ライナーとは異なるルートである[[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス)を経由するが、ほとんどの列車が日暮里 - 空港第2ビル間はノンストップで運転している(一部[[青砥駅]]と[[新鎌ヶ谷駅]]にも停車)。</ref> 通勤客の利便が図られているものの、「シティライナー」が停車するJR総武線・東武野田線(東武アーバンパークライン)との乗換駅である[[京成船橋駅]]は通過として、あくまでも都心まで・都心からの乗り通しを前提としていたが、2015年12月5日改正から「シティライナー」定期運行便の廃止の代替として、同駅にも停車するようになった。これらの運行時間帯には、夕方の移行時間帯を除き「スカイライナー」が運転されないため、空港アクセス列車としても利用される。
{{-}}
=== 京浜急行電鉄 ===
[[file:京急2100形2173編成.JPG|thumb|160px|京急ウィング号]]
{{Main|京急ウィング号}}
[[京浜急行電鉄]](京急電鉄)では、[[1992年]]4月から平日の夕方以降に座席定員制の「'''京急ウィング号'''」を運行している。列車は全席クロスシート車両である[[京急2100形電車|2100形]]が充当され、下り列車のみの運行で[[京急川崎駅]]・[[横浜駅]]を通過し、品川の次[[上大岡駅]]以遠からの乗車は料金不要といった特徴を持つ。モーニング・ウィング号の運転開始に伴い、「'''イブニング・ウィング号'''」に改称された。
[[2015年]][[12月7日]]から平日の早朝に「'''モーニング・ウィング号'''」が運行開始。上り列車のみの運行で、「京急ウィング号」よりも停車駅が少ない、途中停車駅からの乗車でも別料金が必要等の特徴がある。当初は座席定員制だったが、2017年5月1日から全席指定となった。{{-}}
=== 東武鉄道 ===
[[File:Tobu_Railway_50090_TJ-Liner.jpg|thumb|160px|東武東上線<br>「TJライナー」]]
{{Main|TJライナー|THライナー}}
[[東武東上本線|東武東上線]]では[[2008年]][[6月14日]]のダイヤ改正で、着席乗車目的の座席定員制「'''TJライナー'''」を夕方以降の時間帯に運転開始。本列車にはクロスシートとロングシートの両方に切替可能なデュアルシートを採用した[[東武50000系電車#50090型|50090型]]を新製充当。TJライナー運行時はクロスシートになる。下り列車にふじみ野以北から乗車する場合、乗車整理券は不要である。[[2016年]]3月26日からは平日のみ、[[2023年]]3月18日からは土休日においても朝時間帯の上り列車での運行を開始した。[[2019年]]3月16日より、着席方式が座席定員制から座席指定制に変更された。
[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)では[[2020年]][[6月6日]]のダイヤ改正より、[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]との直通列車として[[東武70000系#70090型|70090型]]を使用した座席指定制列車「'''THライナー'''」を運行している。
{{-}}
=== 西武鉄道・東京地下鉄・東急電鉄・横浜高速鉄道 ===
[[file:Seibu 40101 S-Train Jiyūgaoka Station 20180319.jpg|thumb|160px|西武池袋線<br>「S-TRAIN」]]
{{Main|S-TRAIN|拝島ライナー}}
[[西武鉄道]]他3社では[[2017年]]3月25日のダイヤ改正より、[[西武池袋線]]系統で座席指定制「'''S-TRAIN'''」を運転開始した。デュアルシート採用の[[西武40000系電車|西武40000系]]が用いられる。平日と土日で運行パターンが異なり、平日は通勤目的のために[[東京メトロ有楽町線]]に乗り入れ、土日は観光輸送のために[[東京メトロ副都心線]]・[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]及び[[西武秩父線]]の[[西武秩父駅]]に直通する。また、有楽町線直通の平日のSトレインは通勤輸送に特化しているため、一大[[ターミナル駅]]の[[池袋駅]]を通過するという特徴をもつ。全区間で座席指定料金が必要である。
[[2018年]]3月10日のダイヤ改正より、[[西武新宿線]]・[[西武拝島線|拝島線]]の[[西武新宿駅]] - [[拝島駅]]間で「'''拝島ライナー'''」の運転を開始した<ref name="press0125">{{Cite press release|和書|title=2018年3月10日(土)から「拝島ライナー」の運行を開始します!|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20180125_haijimaliner2.pdf|publisher=西武鉄道|format=PDF|date=2018-01-25|accessdate=2018-01-25}}</ref>。こちらは途中の[[小平駅]]以降の停車駅から乗車する場合は座席指定料金は不要である。
{{-}}
=== 京王電鉄 ===
[[File:Keio Series5000-5737 Keio-Liner-36.jpg|thumb|160px|京王線<br>「京王ライナー」]]
{{Main|京王ライナー}}
[[京王電鉄]]では2018年2月22日のダイヤ改正より[[京王線]]・[[京王相模原線]]で「'''京王ライナー'''」の運行を開始した。定期列車では[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|京王線新宿駅]] - 京王八王子駅と京王線新宿駅 - 橋本駅の2系統が存在するほか、土休日ダイヤのみ京王線新宿駅 - [[高尾山口駅]]を運行する「'''Mt.TAKAO号'''」がある。[[京王5000系電車 (2代)|京王5000系(2代)]]が用いられ、京王ライナー運行時はクロスシートになる。遠近分離のため(特別料金不要の)特急停車駅の[[笹塚駅]]、[[千歳烏山駅]]、[[調布駅]]、[[京王稲田堤駅]]は通過するほか、下りのMt.TAKAO号は明大前駅 - 高尾山口駅間をノンストップで運行する。乗車には座席指定料金が必要であるが、京王ライナーの下り列車については途中停車駅の[[府中駅 (東京都)|府中駅]]及び[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]から乗車する場合の別料金は不要である。
{{-}}
=== しなの鉄道 ===
[[File:Series-SR1-S103 Shinano-sunrise.jpg|thumb|160px|しなの鉄道線<br />「しなのサンライズ号」]]
{{Main|しなのサンライズ号・しなのサンセット号}}
[[しなの鉄道]]では、転換以前から運行されていたライナー列車を引き継ぐ形で[[1997年]]から「'''しなのサンライズ号'''」および「'''しなのサンセット号'''」を運行している。当初は乗車整理券制だったが、[[2015年]]に一旦料金不要に変更<ref>{{PDFlink|[http://www.shinanorailway.co.jp/news/docs/2702_liner_haisi_1.pdf 快速乗車整理券(200円)の廃止について]}} - しなの鉄道公式サイト、2015年2月27日。2015年3月7日閲覧。</ref>。その後[[しなの鉄道SR1系電車|SR1系]]の運行開始に伴い[[2020年]]から座席指定制に変更された。
{{-}}
=== あいの風とやま鉄道・IRいしかわ鉄道 ===
{{Main|あいの風ライナー}}
[[あいの風とやま鉄道]]及び、[[IRいしかわ鉄道]]は、[[北陸本線]]からの転換後最初の平日となる[[2015年]][[3月16日]]より、座席指定制の「'''あいの風ライナー'''」を朝夕の時間帯に運行する<ref name="dia">[http://ainokaze.co.jp/678 開業時の列車運行ダイヤについて] - あいの風とやま鉄道、2015年1月8日、同日閲覧。</ref>。
{{-}}
=== WILLER TRAINS(京都丹後鉄道) ===
{{Main|京都丹後鉄道宮福線#通勤ライナー}}
[[WILLER TRAINS]](京都丹後鉄道)は、[[2017年]][[3月4日]]のダイヤ改正により、[[京都丹後鉄道宮福線|宮福線]]に朝の上り1本のみ「'''通勤ライナー'''」を運行している<ref>[http://trains.willer.co.jp/news/2017/0106_01.html 平成29年3月ダイヤ改正について] - 京都丹後鉄道 2017年1月12日</ref>。JR西日本の同名の列車とは異なりライナー券を要する列車となっているが、ライナー券の発売枚数に制限はなく、着席保証はない<ref>[http://trains.willer.co.jp/support/faq/index.html よくあるご質問] - 京都丹後鉄道 2017年6月2日閲覧</ref>。特急用車両である[[北近畿タンゴ鉄道KTR8000形気動車|KTR8000形]]「丹後の海」編成で運行されている。
{{-}}
=== 京阪電気鉄道 ===
{{Main|京阪特急|京阪本線}}
[[京阪電気鉄道]]では、2017年8月21日から平日朝の下り方向に、全席指定制の「'''ライナー'''」を運転している。2018年9月15日のダイヤ改正から夕方から夜にかけて上り方向にも運転開始、下りも出町柳発の運転も開始した。同列車には特急専用車[[京阪8000系電車|8000系]]が充当され、乗車する場合はライナー券(プレミアムカー乗車の場合はプレミアムカー券)が必要である。下りは出町柳駅から[[七条駅]]間の相互利用は不可能で、[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]から先はライナー券なしで一般車両に乗車可能である。上りは[[淀屋橋駅]]から京橋駅間の相互利用は不可能で、七条駅から先はライナー券なしで一般車両に乗車可能である。
=== 阪神電気鉄道 ===
{{main|阪神本線}}
[[阪神電気鉄道]]では、大阪梅田駅を基準に金曜日の夜間は他の曜日の同時間帯より利用者が増える傾向にあることを踏まえて、2022年12月23日と2023年1月6日・13日・20日(いずれも平日ダイヤの金曜日)の夜間に、大阪梅田発青木行きの夜間有料[[臨時列車]]「'''らくやんライナー'''」を試験運行した。
大阪梅田駅20:19発(1号)、21:43発(3号)の計2本を設定。停車駅は野田・尼崎・武庫川・甲子園・西宮・香櫨園・打出・芦屋の各駅で、うち大阪梅田駅と野田駅は乗車専用とし、尼崎駅以遠の停車駅は全て降車専用とした。車両は原則としてクロスシートを装備する[[阪神8000系電車|8000系]](初期型)または[[阪神9300系電車|9300系]]を使用する計画で、定員は1列車180名(大阪梅田駅で150名、野田駅で30名の発売枠をそれぞれ設定)。神戸三宮寄り先頭車である6号車は野田駅乗車客専用とし、大阪梅田駅では1 - 5号車のみ乗車可能(車両間の移動は禁止)とした。料金は1乗車200円で現金のみとし、大阪梅田駅ではホームにいる担当の係員に、野田駅では乗車後に車内の乗務員に、それぞれ直接支払い整理券を受け取る<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20221201-unyu-rakuyanraina.pdf |title=【期間限定】夜間有料臨時列車(らくやんライナー)の運行について |publisher=[[阪神電気鉄道]] |date=2022-12-01 |accessdate=2022-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221201060432/https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20221201-unyu-rakuyanraina.pdf |archivedate=2022-12-01 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/123521 |title=阪神初の「課金列車」に長蛇の列 「らくやんライナー」200円で”絶対座れる阪神”大盛況の現場 |publisher=乗りものニュース |date=2022-12-24 |accessdate=2022-12-24 }}</ref>。なお、指定席ではないが定員制のため着席は保証されるものの、使用車両は一部[[ロングシート]]であり、ロングシート車両への料金徴収は異例である<ref>{{Cite web|和書|url=https://merkmal-biz.jp/post/28221 |title=1月運行 阪神の夜間有料臨時列車「らくやんライナー」、成功のカギはどうみても「座席」なワケ |publisher=メディア・ヴァーグ |date=2022-12-22 |accessdate=2023-01-11 }}</ref>。
なお、実際の運用では、全8本の列車とも全中間車がクロスシート(車端部のみロングシート)で、両端先頭車がロングシートである9300系が使用された。
== JRの運行開始以前に運行されたホームライナーに相当する列車 ==
[[名古屋鉄道]]が過去にホームライナーに相当する列車を運行していた。愛称は「ディーゼル特急」で、特急「[[北アルプス (列車)|北アルプス]]」の間合い運用で[[名鉄キハ8000系気動車|キハ8000系]]によって運行されていた。[[徳田耕一]]の文献によると、設定開始は1965年12月30日のダイヤ改正で、区間は[[豊橋駅|豊橋]] - 新名古屋(現[[名鉄名古屋駅|名鉄名古屋]])間。一等車であったキロ8100型も連結されており、運行開始当初は一等110円、二等50円の線内特急料金を要したが<ref group="注">当時の名鉄特急はこのディーゼル特急と初詣時の臨時特急以外原則として料金不要で乗車することが可能であった。</ref>、座席が完全に指定され、なおかつ定期券での乗車が可能だったため好評だったという。翌1966年春のダイヤ改正で夕方に1往復増発され、さらに1970年秋の改正で昼間に4往復増発された。運行終了時期は定かではない<ref name="徳田パノラマp.41"/>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="佐藤(1994) p.58">[[#佐藤(1994)|佐藤(1994) p.58]]</ref>
<ref name="徳田(1998) p.80">[[#徳田(1998)|徳田(1998) p.80]]</ref>
<ref name="RJ1999">[[#RJ1999|RJ1999 p.83]]</ref>
<ref name="徳田パノラマp.41">[[#徳田パノラマ|徳田 p.41]]</ref>。
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}}
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Home Liner (train)|ホームライナー (列車)}}
* [[通勤輸送向け着席保証列車]]
* [[列車種別#通勤種別]]
* {{prefix|ホームライナー}}
{{日本における列車種別一覧}}
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バロック音楽
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バロック音楽(バロックおんがく)は、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。この時代はルネサンス音楽と古典派音楽の間に位置する。絶対王政の時代とほぼ重なる。
バロック(仏英: baroque)という語はポルトガル語 barocco (いびつな真珠)が由来であるとされ、過剰な装飾を持つ建築を批判するための用語として18世紀に登場した。転じて、17世紀から18世紀までの芸術一般における、ある種の様式を指す語として定着した。
音楽史的な観点から「バロック音楽」に組織的に言及したのは、ドイツの音楽学者クルト・ザックス(1888年 - 1959年)である。彼の1919年の論文 "Barockmusik" によれば、バロック音楽は「彫刻や絵画等と同じように速度や強弱、音色などに対比があり、劇的な感情の表出を特徴とした音楽」と定義される。
しかし、17世紀から18世紀にかけての音楽には、地方や時期によって様々なスタイルのものがあるため、バロック音楽の特徴を簡略に総括する事は難しい。たとえば、フランスでは、フランス音楽史にバロック音楽は存在しない、と主張し、この時期の音楽を「古典フランス音楽」(la musique française classique)と呼ぶ者もいる。ノルベール・デュフォルク Norbert Dufourcq は1961年の論文 "Terminologia organistica" の中で、17世紀前半のフランス芸術は古典主義に席捲されているため、ドイツ音楽史学で広く用いられる「バロック」の語は、フランスの音楽や文化に当てはめる事ができない、と述べている。
今では「バロック音楽」の用語は、音楽様式・時代様式だけでなく、むしろ、音楽史上の年代を指すものとしても広く受け入れられている。
以下では年代を追ってバロック音楽の変遷を記述する。それぞれの年代、地域に特徴的な潮流を説明するにあたって、その時代や地域の代表的な音楽家の活動を通して説明を試みている。これらの音楽家はある種の典型例の一つに過ぎず、実際は他の多くの音楽家やパトロン等によって形作られていた音楽環境がそれぞれの地域・時代の音楽の潮流を重層的かつ多様性のあるものとして作り出していた事に注意しなければならない。より詳しくはバロック音楽の作曲家一覧などから個々の作曲家の記事などを参照されたい。
1600年以前のルネサンス音楽では、多くの音楽作品は対位法にのっとって作曲されており、声部の模倣や不協和音の利用法に多くの制限があった。これに対して、北イタリアのマドリガーレ作曲家たちは、詩の内容や詩に現れる個々の語の感情 affetto を音楽的に表現する手段を探求していた。また、フィレンツェのカメラータでは、古代ギリシアの音楽悲劇の復興の観点から、感情と結びついた音楽表現を探求した。これらはそれぞれ違う動機を持ってはいたものの、音楽における感情の劇的な表現という観点を共有しており、それぞれルネサンス音楽の作曲法の枠を打ち破ろうとしていた。
このような運動を推し進めたマドリガーレ作曲家としてはクラウディオ・モンテヴェルディ(1567年 - 1643年)が有名である。彼はしばしば作中で「予備のない不協和音」を用いたが、この事に対するジョヴァンニ・マリア・アルトゥージの批判に応えて、モンテヴェルディはルネサンスの規範による旧来の作曲法を「第一作法」(prima pratica)、それに対し、彼自身を含め新たな技法によって劇的な音楽の表出を目指す作曲法を「第二作法」(seconda pratica) と呼んで、後者を擁護した。
ルネサンス音楽において声楽は3声部以上を持つものが主流であったが、カメラータでは劇中の音楽として、劇の登場人物が1人で歌唱する作品の形式を発案した。これをモノディー形式と呼ぶ。カメラータの音楽劇の最初のまとまった試みは1598年にヤーコポ・ペーリ(1561年 - 1633年)を中心として行われた音楽劇「ダフネ」の上演であり、これを以てオペラの誕生とする意見もある。モノディー形式の例として今日最も有名なのは、ジュリオ・カッチーニ(1545年頃 - 1618年)の Le nuove musiche(「新音楽」、1601年)である。「新音楽」の作品は、歌手の歌うメロディーと伴奏用の低音パートの2声部に加えて、低音パートに数字を添えて記譜されている。数字は低音の上に奏すべき和音を示しており、これはいわゆる通奏低音の原型とも言うべきものである。モノディー歌曲は、ストロペ(同じ旋律の歌詞を変えての繰り返し)を持たない通作形式であり、レチタティーボの先駆でもある。
これらの潮流は孤立して存在していたのではなく、互いに影響を及ぼしあい、また宗教音楽やオルガン・チェンバロ用の鍵盤音楽、またリュートの音楽など他のジャンルにも大きな影響を及ぼした。バロック時代を通して見られる半音階の使用や比較的自由な不協和音の使用もこの時期に一般的となった。
ヴェネツィアでは都市の繁栄に裏付けられた富裕層がいたが、これらの市民のためのオペラ劇場が17世紀中ごろまでに相次いで建てられ、オペラが大流行する事になる。この時期のヴェネツィア風のオペラとしてはモンテヴェルディやその弟子のフランチェスコ・カヴァッリ(1602年 - 1676年)によるものが有名である。これらの作品では、カメラータの音楽劇とは違って、レチタティーヴォとアリア、および器楽のリトルネロによってオペラを構成する形式へと変化しつつあった。また、これらのオペラや各種の祝祭における器楽の需要によってヴェネツィアでは器楽も発達した。ヴェネツィアではルネサンス末期、ジョヴァンニ・ガブリエリ(1554年頃 - 1612年)らによって、コンチェルタート形式の器楽が発達していた。オペラのリトルネッロではガブリエリ以来の器楽技法を受け継いでいたが、それとは別に、ダリオ・カステッロ(? - 1630年頃)ら器楽のヴィルトゥオーゾたちによって、旋律楽器の独奏あるいは二重奏と通奏低音による(単一楽章形式の)ソナタが作られた。
同じ頃、ローマでも教皇庁やそこに集まってくる貴族や外国人の邸宅などを中心として音楽活動が盛んに行われていた。これら貴族の邸宅での音楽実践の中で、レチタティーボとアリアの形式を取り入れた室内カンタータが発生していった。また、教皇庁や教会では通常の典礼のためのミサ曲などが作られ続けた一方、祈祷所での宗教的修養が盛んに行われており、その一環として宗教的な題材の詩にカンタータ形式の音楽を付けたオラトリオが演奏されるようになった。初期のカンタータやオラトリオの作曲家としてはジャコモ・カリッシミ(1605年 - 1674年)が重要である。ローマでも器楽は盛んであり、オルガニストのジローラモ・フレスコバルディ(1583年 - 1643年)などが人気を博していた。
フランスではリュートの作曲と研究が隆盛を極めた。ゴーティエ一族(エヌモン・ゴーティエ(1575年? - 1651年)、ドニ・ゴーティエ(1603年 - 1672年))を筆頭とするリュート奏者たちは、様々な調弦法を試みた末、ニ短調調弦の新しいリュート(バロックリュート)を確立させた。
オーストリアや南ドイツの諸侯や都市は16世紀後半からイタリアの音楽家を招聘したり、若い音楽家をイタリアに派遣し勉強させたりした。この時期にイタリアに音楽を学びに行った音楽家の中で今日特に有名なのはハインリヒ・シュッツ(1585年 - 1672年)である。ヴェネツィアに2度遊学し、ジョヴァンニ・ガブリエリとクラウディオ・モンテヴェルディに師事した。音楽人生のほとんどをドレスデンの宮廷楽長として過ごした彼は、イタリアで作られたオペラやカンタータ、器楽等に用いられる様式を踏襲しつつ、イタリアの最新の流行を追うというよりは、独自の音楽表現を作り出していったようである。彼のドイツ語の聖書物語に基づく作品はルター派の地域に広く受け入れられ、いわゆるドイツ風の音楽のひとつの基盤が作られたといえる。
一方、北ドイツではヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(1562年 - 1621年)の弟子たちによる北ドイツ・オルガン楽派があり、これもドイツ風の音楽を考えるときには欠かせない要素である。またミヒャエル・プレトリウス (1571年 - 1621年)は、ルター派独特のコラール音楽を多彩に発展させた。このように、プロテスタント・ルター派文化の素地の上にイタリアの音楽の形式が輸入されたことで、ルター派の盛んな北部ドイツを中心として独自のバロック音楽の形式が作られることとなる。
17世紀前半にイタリアで興った新しい音楽の流れ、特にオペラの発生と通奏低音の使用は、直接にせよ間接にせよ、他のヨーロッパの国々に影響を与えていくことになる。
フランスでは、17世紀前半まで宮廷バレエ(ballet de cour)やエール・ド・クール(リュート伴奏による世俗歌曲)など比較的独自の音楽文化を持っていた。1650年頃に、イタリア出身のマザラン卿がイタリアのオペラを紹介した事などで、イタリア風の音楽が流入した。
ルイ14世の宮廷では1670年頃まで依然として宮廷バレエが盛んであった。イタリアから招かれたジャン=バティスト・リュリ(1632年 - 1687年)は、ルイ14世の宮廷で多くのバレエ音楽、コメディ=バレを作った。やがてフランスでイタリア風オペラが流行するが、リュリはイタリア風のレチタティーヴォやアリアはフランス語の音素と相いれないものであるとして、フランス独自のオペラのジャンル、叙情悲劇(tragédie lyrique)を打ち立てた。この叙情悲劇は、歌手の歌うレシ(récit)と舞曲から構成されていた。レシはレチタティーヴォをフランス語の発音にあうように改変したものであり、舞曲は宮廷バレエから引き継がれたものである。リュリがルイ14世の宮廷で圧倒的な影響力を誇っていた事もあって、結果的にリュリの作品群によってその後のフランスにおけるバロック音楽の独自の形式が確立される事となった。
この時期のフランスではリュリの他にもマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643年 - 1704年)がモテ(motet)や劇音楽、室内楽の分野で活躍した他、マラン・マレ(1656年 - 1728年)などのヴィオール奏者や、クラヴサン奏者たちが、器楽独奏による組曲の形式で多くの優れた作品を残した。
オーストリアや南ドイツでは、前時代に引き続いてより直接的にイタリアの音楽の輸入が行われた。ウィーン宮廷はヴェネツィアから大勢の音楽家を招いてイタリア系音楽が盛んであり、イタリアでカリッシミやフレスコバルディに学んだヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616年 - 1667年)、ヨハン・カスパール・ケルル(1627年 - 1693年)といったドイツ人の音楽家も活躍しはじめた。ヨハン・パッヘルベル(1653年 - 1706年)はウィーンで学んだのちドイツ中部~南部のルター派圏で活躍した。彼らによってもたらされたオラトリオや教会カンタータといったイタリア教会音楽の新様式が、ルター派のドイツ語テクストにも適用されてドイツ独自の発展を遂げた。
北ドイツ・オルガン楽派の流れを引き継ぐ中期バロックの音楽家としてはディートリヒ・ブクステフーデ(1637年頃 - 1707年)がいた。この時期の北ドイツのオルガン楽派はその高度なテクニック、特に巧みにペダル鍵盤を操ることで知られる。ブクステフーデのオルガン用のコラール前奏曲や、ドイツ語カンタータはこの時期のドイツのバロック音楽の一つの典型的な作品であるといえる。パッセージの作り方で北ドイツ・オルガン楽派の方法を引き継いでいる一方で、チャコーナ、パッサカリアといった形式をしばしば使用しており、ブクステフーデ自身はイタリアで学んだ事はなかったが、楽曲の形式などではイタリア風の音楽の影響が見られる。
イギリスでは、16世紀末頃から17世紀前半まではリュートの伴奏による独唱曲(リュートエア lute ayre)や、ヴィオール族のためのヴァイオル・コンソートの音楽などがジョン・ダウランド(1563年 - 1626年)やウィリアム・ローズ(1602年 - 1645年)らによって作られた。はじめはルネサンス時代のイギリス音楽の特徴を残した独特の音楽を持っていたが、リュートエアに関しては、イタリアのモノディー様式やレチタティチーヴォ、アリアの影響を次第に受けるようになる。バロック中期にイギリスで活躍した作曲家としてはヘンリー・パーセル(1659年 - 1695年)があげられる。パーセルの時代にはイギリスにはリュリ式のフランス風の音楽が輸入され始めていた。パーセルは、歌曲の分野ではイタリアモノディーの影響を受けた作品を残した一方で、劇音楽の分野では、フランス風序曲やフランス風の舞曲を使用しており、フランス音楽の影響も強く見られる。しかしながら、パーセルの音楽は、イタリア音楽やフランス音楽の模倣というよりはむしろそれらを取り入れた独自の形式であったと評価されている。
このころ、イタリアではアルカンジェロ・コレッリ(1653年 - 1713年)が新たな形式の音楽を作り出していた。彼の新たな作曲法はトリオソナタやヴァイオリンソナタに典型的に現れている。彼の音楽はルネサンス的な対位法から完全に離れて、機能和声的な観点から各声部を緻密に書き込むといったものであり、それに従って、通奏低音パートに書き込まれるバスの数字も、初期バロックの作品とは異なり、細部に渡って詳細に書き記されている。結果として、曲想は初期バロックのそれよりも抑制され、均整のとれたものとなっている。コレッリのトリオソナタやヴァイオリンソナタは、1681年から1700年に相次いで出版されるや否や全ヨーロッパで人気を博し、瞬く間にこの「コレッリ様式」が普及する事となる。また、合奏協奏曲の形式が作られたのもこの時期であり、コレッリも合奏協奏曲を残している。
フランソワ・クープラン(1668年 - 1733年)はフランスにおけるコレッリ様式の擁護者のひとりであり、多くのトリオソナタを残している。彼はフランス風の音楽とイタリア風(コレッリ風)の音楽を融合させることを試みており、「コレッリ賛」(L'Apothéose de Corelli)と名付けられたトリオソナタを曲集「趣味の融合」(Les goûts-réünis)(1724年)の中に収録している。また、その次の年に出版された「リュリ賛」(Apothéose ... de l'incomparable Monsieur de Lully, 1725年)は、それぞれの曲にリュリにまつわる表題が付けられており、パルナッソス山に登ったリュリが、コレッリとともにヴァイオリンを奏でる、といった筋書きが設定されている。
イタリアのオペラやカンタータ、オラトリオの分野ではアレッサンドロ・スカルラッティ(1660年 - 1725年)に言及せねばならない。彼のオペラは生前からとても人気があったが、音楽史的な観点から重要なのはその形式上の変化である。スカルラッティのオペラでは様々な点でより古典期以降のオペラに近づいている。この事はたとえば、三部形式のダ・カーポアリアの使用や、器楽におけるホルンの利用などから知ることができる。
このように、中期バロックの時代には、初期バロックに見られた極端なものや奇異なるものから、より緻密に作られた均整のとれたものへと趣味が変化していった他、楽器に関しても、弦楽器ではヴァイオリン族、管楽器ではフルート、オーボエといった現代のオーケストラで用いられる楽器の直接の祖先が定着し始めていた事から、「バロック的」なものから古典主義的なもの、あるいは古典派音楽への遷移の始まりであったとみなす事もできる。
イタリアの後期バロックにおいて今日最も有名なのはアントニオ・ヴィヴァルディ(1678年 - 1741年)だろう。彼の作曲活動はオペラやオラトリオを含む多くのジャンルにわたっていたが、特に協奏曲に彼の独自性が現れている。ヴィヴァルディの協奏曲では、トゥッティ(全奏、tutti)部分とソロ部分の対比が合奏協奏曲よりも明確となり、独奏楽器の技術を誇示するような傾向がより強まっている。ヴィヴァルディによって急-緩-急の3楽章形式の協奏曲形式が確立され、この形式は以降古典派、ロマン派にまで受け継がれていくことになる。
この時期のイタリアの作曲家たち、たとえばドメニコ・スカルラッティ(1685年 - 1757年)、ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(1698年 - 1775年)、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710年 - 1736年)、ドメニコ・アルベルティ(1710年頃 - 1740年)などは、年代的には「後期バロック」に位置しながら、作曲技法においては既に古典派音楽の特色を多く有しており、この時期のイタリア半島の音楽はすでに古典派に移行しつつあったといえる。
フランスではジャン=フィリップ・ラモー(1683年 - 1764年)がフランス風のオペラの伝統を継承し、いくつかのオペラ=バレ opéra-ballet や音楽悲劇 tragédie en musique を残した。ラモーはクラヴサン音楽の分野でも重要な足跡を残している。オペラにおけるレシの様式はほぼ完全にリュリ以来の形式に則しており、クラヴサン音楽においても形式上はフランス風音楽の伝統の上に立っているが、オペラにおける序曲等の器楽やクラヴサン音楽にはギャラント様式や古典派の先駆と見られるような特色も数多く現れる。理論家としても有名で、機能和声についての最初の体系的な理論書を残した事で知られる。
ドイツでは、中期バロック期に作られたドイツ風の音楽に加えて、イタリアやフランスの新しい音楽の潮流がどん欲に取り入れられ、「趣味の融合」が本格的に行われていく事になる。そのような潮流を代表しているのがゲオルク・フィリップ・テレマン(1681年 - 1767年)である。彼はこの時期のドイツにおいて最も評価の高かった作曲家であり、多作な事でも知られる。テレマンは、イタリア、フランスの最新の様式を取り入れ、音楽監督を務めたハンブルクで上演されるオペラを作曲したほか、器楽の分野ではトリオソナタ、協奏曲、フランス風管弦楽組曲など幅広い種類の音楽を作曲し、教会カンタータやオラトリオも多数残している。ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699年-1783年)は、18世紀中頃において最も人気があり成功したオペラ作家の一人で、ヨーロッパ各地で120曲以上のオペラを作曲し、詩人ピエトロ・メタスタージオ(1698年-1782年)と共にオペラ・セリアの確立に寄与した。ドイツ人のオペラ作曲家としては、フリードリヒ大王の宮廷楽長を務めていたカール・ハインリヒ・グラウン(1704年 - 1759年)も重要な存在である。バロック期を通じてヨーロッパで人気の有ったリュートは、この時期他国では急速に需要が衰えたが、ドイツではシルヴィウス・レオポルト・ヴァイス(1687年 - 1750年)が、楽器開発・作曲技法の両面でバロックリュートを完成させ、有終の美を飾った。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685年 - 1750年)は、当時傑出したオルガニストとして知られ、オルガンやチェンバロのための作品の他、多数の教会カンタータ、室内楽等を残したもののオペラは全く作曲しなかった。彼もまたテレマンと同様、当時のヨーロッパで流行していた様式に則った音楽を作ったが、その対位法への傾倒は同時代人からは反時代的なものとして評価されていた。19世紀におけるバッハの再評価以来、バッハはバロック時代を代表する音楽家と考えられてきたが、それまでのバロック音楽をバッハ中心の視点で捉えることは必ずしも適切とはいえない。
イギリスでは植民地経営によって経済的に潤うと多くの富裕市民があらわれ、18世紀には市民の間でオペラの人気が非常に高まった。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685年 - 1759年)はイギリスで活躍したドイツ生まれの作曲家である。ヘンデルが活躍したのは主にオペラやオラトリオの分野であり、これらはつねに当時流行のスタイルで書かれていた。オペラ作品は概してイタリアオペラの書法に則ってはいたが、序曲や舞曲に関してはフランス風の音楽の影響も見られる。美しく、わかりやすいメロディーでロンドン市民に大いに親しまれたが、パーセルに見られたようなイギリス独特の要素はほとんど見られなかった。
また、これらの諸国以外にも、チェコのボフスラフ・チェルノホルスキー(1684年 - 1742年)やオランダのウィレム・デ・フェッシュ(1687年 - 1761年)、スウェーデンのユーハン・ヘルミク・ルーマン(1694年 - 1758年)のように、ヨーロッパ周辺の諸国にも個性的な活動を繰り広げた後期バロックの音楽家たちがいる。
バロック音楽から古典派音楽への推移を、対位法的なものからホモフォニックなものへの転換と見るならば、バロック音楽それ自体が同様の推移をたどっており、バロック音楽といわゆる古典派音楽の境界を明確に線引きする事は難しい。連続的な趣味の変化に伴い、過去の遺物としてみなされるようになったバロック時代の音楽は18世紀後半の時点ではすでにほぼ完全に忘却されたと見られている。
しかし、やがてロマン派期に入ると、メンデルスゾーンによるバッハのマタイ受難曲の「再発見」に象徴されるように、再びバロック時代の音楽へと関心が向けられるようになり、作品にバロック風の味付けを施す作曲家も現れた(たとえばブラームスやフランクなど)。
19世紀末から20世紀の音楽家たちも、バロック期の音楽に興味を抱き、その形式の一部を模倣するような作曲を行なった(たとえばグリーグの「ホルベアの時代から」、ドビュッシーの「ラモー賛 Hommage à Rameau」、ラヴェルの「クープランの墓 Le tombeau de Couperin」、レーガーの一連の作品、マーラーの交響曲第7番など)。
20世紀前半を通してバロック音楽への関心は持続された。新古典主義音楽の時期にはストラヴィンスキーやプーランクらがバロックを模した楽曲を発表した。やがて、バロック時代には現代とは異なる楽器が使用されていた事が、特に鍵盤楽器に関して注目を引き、チェンバロの復興が行われたが、当初は、チェンバロへの様々な誤解がある上に、ピアノ製造の技術を流用して作られた事などからこれらは今日では(逆説的にも)モダン・チェンバロなどと呼ばれている(チェンバロの歴史を参照)。
1970年代から、バロック(以前)の音楽の演奏に際しては、博物館や個人の収集で残されている同時代の楽器(オリジナル楽器)や、それらの楽器の忠実なレプリカ(ヒストリカル楽器)を使用し、同時代の文献などによって奏法研究を行うことで徹底的にバロック期の音楽を再現しようとする動きが活発になった。このような潮流を古楽運動とよび、このような観点で用いられるオリジナル楽器やヒストリカル楽器を古楽器と呼ぶ。管弦楽曲に関しても、大編成のオーケストラではなく小規模なアンサンブルを用いることが多い。
一方、グレン・グールドのピアノによるJ.S.バッハ録音に代表されるように、近現代の楽器でバロックが演奏される機会も多い。
シンセサイザーなどの電子楽器を使ったりポピュラー音楽に転用される例もある。パッヘルベルの「カノン」におけるコード進行(D-A-Bm-F#m-G-D-G(Em/G)-A、いわゆる大逆循環)は俗に「カノン進行」、「カノンコード」とも呼ばれ、最も良く知られた進行の一つである。アフロディテス・チャイルドの「雨と涙 (Rain and Tears)」を皮切りに、ポピュラー音楽、特にJ-POPでの引用例は枚挙に暇がない(山下達郎「クリスマス・イヴ」やZARD「負けないで」など多数)。
また、ディープ・パープルやレインボーのギタリストとして知られるリッチー・ブラックモアはクラシック音楽の素養があり、ブルース一辺倒だったロックにクラシック要素を積極的に持ち込んだ。代表曲「ハイウェイ・スター」「紫の炎」ではJ・S・バッハの楽曲を引用している。彼に触発されたランディ・ローズやイングヴェイ・マルムスティーンらもクラシックの教育を受けており、やはりバッハからの影響を受けている。これらバロック音楽とロックの融合は、ヘヴィメタルの様式美的な特徴を決定づける多大な影響を残した。
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"text": "バロック音楽(バロックおんがく)は、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。この時代はルネサンス音楽と古典派音楽の間に位置する。絶対王政の時代とほぼ重なる。",
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"text": "バロック(仏英: baroque)という語はポルトガル語 barocco (いびつな真珠)が由来であるとされ、過剰な装飾を持つ建築を批判するための用語として18世紀に登場した。転じて、17世紀から18世紀までの芸術一般における、ある種の様式を指す語として定着した。",
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"text": "音楽史的な観点から「バロック音楽」に組織的に言及したのは、ドイツの音楽学者クルト・ザックス(1888年 - 1959年)である。彼の1919年の論文 \"Barockmusik\" によれば、バロック音楽は「彫刻や絵画等と同じように速度や強弱、音色などに対比があり、劇的な感情の表出を特徴とした音楽」と定義される。",
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"text": "しかし、17世紀から18世紀にかけての音楽には、地方や時期によって様々なスタイルのものがあるため、バロック音楽の特徴を簡略に総括する事は難しい。たとえば、フランスでは、フランス音楽史にバロック音楽は存在しない、と主張し、この時期の音楽を「古典フランス音楽」(la musique française classique)と呼ぶ者もいる。ノルベール・デュフォルク Norbert Dufourcq は1961年の論文 \"Terminologia organistica\" の中で、17世紀前半のフランス芸術は古典主義に席捲されているため、ドイツ音楽史学で広く用いられる「バロック」の語は、フランスの音楽や文化に当てはめる事ができない、と述べている。",
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"text": "今では「バロック音楽」の用語は、音楽様式・時代様式だけでなく、むしろ、音楽史上の年代を指すものとしても広く受け入れられている。",
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"text": "以下では年代を追ってバロック音楽の変遷を記述する。それぞれの年代、地域に特徴的な潮流を説明するにあたって、その時代や地域の代表的な音楽家の活動を通して説明を試みている。これらの音楽家はある種の典型例の一つに過ぎず、実際は他の多くの音楽家やパトロン等によって形作られていた音楽環境がそれぞれの地域・時代の音楽の潮流を重層的かつ多様性のあるものとして作り出していた事に注意しなければならない。より詳しくはバロック音楽の作曲家一覧などから個々の作曲家の記事などを参照されたい。",
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"text": "1600年以前のルネサンス音楽では、多くの音楽作品は対位法にのっとって作曲されており、声部の模倣や不協和音の利用法に多くの制限があった。これに対して、北イタリアのマドリガーレ作曲家たちは、詩の内容や詩に現れる個々の語の感情 affetto を音楽的に表現する手段を探求していた。また、フィレンツェのカメラータでは、古代ギリシアの音楽悲劇の復興の観点から、感情と結びついた音楽表現を探求した。これらはそれぞれ違う動機を持ってはいたものの、音楽における感情の劇的な表現という観点を共有しており、それぞれルネサンス音楽の作曲法の枠を打ち破ろうとしていた。",
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"text": "このような運動を推し進めたマドリガーレ作曲家としてはクラウディオ・モンテヴェルディ(1567年 - 1643年)が有名である。彼はしばしば作中で「予備のない不協和音」を用いたが、この事に対するジョヴァンニ・マリア・アルトゥージの批判に応えて、モンテヴェルディはルネサンスの規範による旧来の作曲法を「第一作法」(prima pratica)、それに対し、彼自身を含め新たな技法によって劇的な音楽の表出を目指す作曲法を「第二作法」(seconda pratica) と呼んで、後者を擁護した。",
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"text": "ルネサンス音楽において声楽は3声部以上を持つものが主流であったが、カメラータでは劇中の音楽として、劇の登場人物が1人で歌唱する作品の形式を発案した。これをモノディー形式と呼ぶ。カメラータの音楽劇の最初のまとまった試みは1598年にヤーコポ・ペーリ(1561年 - 1633年)を中心として行われた音楽劇「ダフネ」の上演であり、これを以てオペラの誕生とする意見もある。モノディー形式の例として今日最も有名なのは、ジュリオ・カッチーニ(1545年頃 - 1618年)の Le nuove musiche(「新音楽」、1601年)である。「新音楽」の作品は、歌手の歌うメロディーと伴奏用の低音パートの2声部に加えて、低音パートに数字を添えて記譜されている。数字は低音の上に奏すべき和音を示しており、これはいわゆる通奏低音の原型とも言うべきものである。モノディー歌曲は、ストロペ(同じ旋律の歌詞を変えての繰り返し)を持たない通作形式であり、レチタティーボの先駆でもある。",
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"text": "これらの潮流は孤立して存在していたのではなく、互いに影響を及ぼしあい、また宗教音楽やオルガン・チェンバロ用の鍵盤音楽、またリュートの音楽など他のジャンルにも大きな影響を及ぼした。バロック時代を通して見られる半音階の使用や比較的自由な不協和音の使用もこの時期に一般的となった。",
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"text": "ヴェネツィアでは都市の繁栄に裏付けられた富裕層がいたが、これらの市民のためのオペラ劇場が17世紀中ごろまでに相次いで建てられ、オペラが大流行する事になる。この時期のヴェネツィア風のオペラとしてはモンテヴェルディやその弟子のフランチェスコ・カヴァッリ(1602年 - 1676年)によるものが有名である。これらの作品では、カメラータの音楽劇とは違って、レチタティーヴォとアリア、および器楽のリトルネロによってオペラを構成する形式へと変化しつつあった。また、これらのオペラや各種の祝祭における器楽の需要によってヴェネツィアでは器楽も発達した。ヴェネツィアではルネサンス末期、ジョヴァンニ・ガブリエリ(1554年頃 - 1612年)らによって、コンチェルタート形式の器楽が発達していた。オペラのリトルネッロではガブリエリ以来の器楽技法を受け継いでいたが、それとは別に、ダリオ・カステッロ(? - 1630年頃)ら器楽のヴィルトゥオーゾたちによって、旋律楽器の独奏あるいは二重奏と通奏低音による(単一楽章形式の)ソナタが作られた。",
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"text": "同じ頃、ローマでも教皇庁やそこに集まってくる貴族や外国人の邸宅などを中心として音楽活動が盛んに行われていた。これら貴族の邸宅での音楽実践の中で、レチタティーボとアリアの形式を取り入れた室内カンタータが発生していった。また、教皇庁や教会では通常の典礼のためのミサ曲などが作られ続けた一方、祈祷所での宗教的修養が盛んに行われており、その一環として宗教的な題材の詩にカンタータ形式の音楽を付けたオラトリオが演奏されるようになった。初期のカンタータやオラトリオの作曲家としてはジャコモ・カリッシミ(1605年 - 1674年)が重要である。ローマでも器楽は盛んであり、オルガニストのジローラモ・フレスコバルディ(1583年 - 1643年)などが人気を博していた。",
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"text": "フランスではリュートの作曲と研究が隆盛を極めた。ゴーティエ一族(エヌモン・ゴーティエ(1575年? - 1651年)、ドニ・ゴーティエ(1603年 - 1672年))を筆頭とするリュート奏者たちは、様々な調弦法を試みた末、ニ短調調弦の新しいリュート(バロックリュート)を確立させた。",
"title": "年代別概観"
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"text": "オーストリアや南ドイツの諸侯や都市は16世紀後半からイタリアの音楽家を招聘したり、若い音楽家をイタリアに派遣し勉強させたりした。この時期にイタリアに音楽を学びに行った音楽家の中で今日特に有名なのはハインリヒ・シュッツ(1585年 - 1672年)である。ヴェネツィアに2度遊学し、ジョヴァンニ・ガブリエリとクラウディオ・モンテヴェルディに師事した。音楽人生のほとんどをドレスデンの宮廷楽長として過ごした彼は、イタリアで作られたオペラやカンタータ、器楽等に用いられる様式を踏襲しつつ、イタリアの最新の流行を追うというよりは、独自の音楽表現を作り出していったようである。彼のドイツ語の聖書物語に基づく作品はルター派の地域に広く受け入れられ、いわゆるドイツ風の音楽のひとつの基盤が作られたといえる。",
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"text": "一方、北ドイツではヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(1562年 - 1621年)の弟子たちによる北ドイツ・オルガン楽派があり、これもドイツ風の音楽を考えるときには欠かせない要素である。またミヒャエル・プレトリウス (1571年 - 1621年)は、ルター派独特のコラール音楽を多彩に発展させた。このように、プロテスタント・ルター派文化の素地の上にイタリアの音楽の形式が輸入されたことで、ルター派の盛んな北部ドイツを中心として独自のバロック音楽の形式が作られることとなる。",
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"text": "17世紀前半にイタリアで興った新しい音楽の流れ、特にオペラの発生と通奏低音の使用は、直接にせよ間接にせよ、他のヨーロッパの国々に影響を与えていくことになる。",
"title": "年代別概観"
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"text": "フランスでは、17世紀前半まで宮廷バレエ(ballet de cour)やエール・ド・クール(リュート伴奏による世俗歌曲)など比較的独自の音楽文化を持っていた。1650年頃に、イタリア出身のマザラン卿がイタリアのオペラを紹介した事などで、イタリア風の音楽が流入した。",
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"text": "ルイ14世の宮廷では1670年頃まで依然として宮廷バレエが盛んであった。イタリアから招かれたジャン=バティスト・リュリ(1632年 - 1687年)は、ルイ14世の宮廷で多くのバレエ音楽、コメディ=バレを作った。やがてフランスでイタリア風オペラが流行するが、リュリはイタリア風のレチタティーヴォやアリアはフランス語の音素と相いれないものであるとして、フランス独自のオペラのジャンル、叙情悲劇(tragédie lyrique)を打ち立てた。この叙情悲劇は、歌手の歌うレシ(récit)と舞曲から構成されていた。レシはレチタティーヴォをフランス語の発音にあうように改変したものであり、舞曲は宮廷バレエから引き継がれたものである。リュリがルイ14世の宮廷で圧倒的な影響力を誇っていた事もあって、結果的にリュリの作品群によってその後のフランスにおけるバロック音楽の独自の形式が確立される事となった。",
"title": "年代別概観"
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"text": "この時期のフランスではリュリの他にもマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643年 - 1704年)がモテ(motet)や劇音楽、室内楽の分野で活躍した他、マラン・マレ(1656年 - 1728年)などのヴィオール奏者や、クラヴサン奏者たちが、器楽独奏による組曲の形式で多くの優れた作品を残した。",
"title": "年代別概観"
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"text": "オーストリアや南ドイツでは、前時代に引き続いてより直接的にイタリアの音楽の輸入が行われた。ウィーン宮廷はヴェネツィアから大勢の音楽家を招いてイタリア系音楽が盛んであり、イタリアでカリッシミやフレスコバルディに学んだヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616年 - 1667年)、ヨハン・カスパール・ケルル(1627年 - 1693年)といったドイツ人の音楽家も活躍しはじめた。ヨハン・パッヘルベル(1653年 - 1706年)はウィーンで学んだのちドイツ中部~南部のルター派圏で活躍した。彼らによってもたらされたオラトリオや教会カンタータといったイタリア教会音楽の新様式が、ルター派のドイツ語テクストにも適用されてドイツ独自の発展を遂げた。",
"title": "年代別概観"
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"text": "北ドイツ・オルガン楽派の流れを引き継ぐ中期バロックの音楽家としてはディートリヒ・ブクステフーデ(1637年頃 - 1707年)がいた。この時期の北ドイツのオルガン楽派はその高度なテクニック、特に巧みにペダル鍵盤を操ることで知られる。ブクステフーデのオルガン用のコラール前奏曲や、ドイツ語カンタータはこの時期のドイツのバロック音楽の一つの典型的な作品であるといえる。パッセージの作り方で北ドイツ・オルガン楽派の方法を引き継いでいる一方で、チャコーナ、パッサカリアといった形式をしばしば使用しており、ブクステフーデ自身はイタリアで学んだ事はなかったが、楽曲の形式などではイタリア風の音楽の影響が見られる。",
"title": "年代別概観"
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"text": "イギリスでは、16世紀末頃から17世紀前半まではリュートの伴奏による独唱曲(リュートエア lute ayre)や、ヴィオール族のためのヴァイオル・コンソートの音楽などがジョン・ダウランド(1563年 - 1626年)やウィリアム・ローズ(1602年 - 1645年)らによって作られた。はじめはルネサンス時代のイギリス音楽の特徴を残した独特の音楽を持っていたが、リュートエアに関しては、イタリアのモノディー様式やレチタティチーヴォ、アリアの影響を次第に受けるようになる。バロック中期にイギリスで活躍した作曲家としてはヘンリー・パーセル(1659年 - 1695年)があげられる。パーセルの時代にはイギリスにはリュリ式のフランス風の音楽が輸入され始めていた。パーセルは、歌曲の分野ではイタリアモノディーの影響を受けた作品を残した一方で、劇音楽の分野では、フランス風序曲やフランス風の舞曲を使用しており、フランス音楽の影響も強く見られる。しかしながら、パーセルの音楽は、イタリア音楽やフランス音楽の模倣というよりはむしろそれらを取り入れた独自の形式であったと評価されている。",
"title": "年代別概観"
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"text": "このころ、イタリアではアルカンジェロ・コレッリ(1653年 - 1713年)が新たな形式の音楽を作り出していた。彼の新たな作曲法はトリオソナタやヴァイオリンソナタに典型的に現れている。彼の音楽はルネサンス的な対位法から完全に離れて、機能和声的な観点から各声部を緻密に書き込むといったものであり、それに従って、通奏低音パートに書き込まれるバスの数字も、初期バロックの作品とは異なり、細部に渡って詳細に書き記されている。結果として、曲想は初期バロックのそれよりも抑制され、均整のとれたものとなっている。コレッリのトリオソナタやヴァイオリンソナタは、1681年から1700年に相次いで出版されるや否や全ヨーロッパで人気を博し、瞬く間にこの「コレッリ様式」が普及する事となる。また、合奏協奏曲の形式が作られたのもこの時期であり、コレッリも合奏協奏曲を残している。",
"title": "年代別概観"
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"text": "フランソワ・クープラン(1668年 - 1733年)はフランスにおけるコレッリ様式の擁護者のひとりであり、多くのトリオソナタを残している。彼はフランス風の音楽とイタリア風(コレッリ風)の音楽を融合させることを試みており、「コレッリ賛」(L'Apothéose de Corelli)と名付けられたトリオソナタを曲集「趣味の融合」(Les goûts-réünis)(1724年)の中に収録している。また、その次の年に出版された「リュリ賛」(Apothéose ... de l'incomparable Monsieur de Lully, 1725年)は、それぞれの曲にリュリにまつわる表題が付けられており、パルナッソス山に登ったリュリが、コレッリとともにヴァイオリンを奏でる、といった筋書きが設定されている。",
"title": "年代別概観"
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"text": "イタリアのオペラやカンタータ、オラトリオの分野ではアレッサンドロ・スカルラッティ(1660年 - 1725年)に言及せねばならない。彼のオペラは生前からとても人気があったが、音楽史的な観点から重要なのはその形式上の変化である。スカルラッティのオペラでは様々な点でより古典期以降のオペラに近づいている。この事はたとえば、三部形式のダ・カーポアリアの使用や、器楽におけるホルンの利用などから知ることができる。",
"title": "年代別概観"
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"text": "このように、中期バロックの時代には、初期バロックに見られた極端なものや奇異なるものから、より緻密に作られた均整のとれたものへと趣味が変化していった他、楽器に関しても、弦楽器ではヴァイオリン族、管楽器ではフルート、オーボエといった現代のオーケストラで用いられる楽器の直接の祖先が定着し始めていた事から、「バロック的」なものから古典主義的なもの、あるいは古典派音楽への遷移の始まりであったとみなす事もできる。",
"title": "年代別概観"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "イタリアの後期バロックにおいて今日最も有名なのはアントニオ・ヴィヴァルディ(1678年 - 1741年)だろう。彼の作曲活動はオペラやオラトリオを含む多くのジャンルにわたっていたが、特に協奏曲に彼の独自性が現れている。ヴィヴァルディの協奏曲では、トゥッティ(全奏、tutti)部分とソロ部分の対比が合奏協奏曲よりも明確となり、独奏楽器の技術を誇示するような傾向がより強まっている。ヴィヴァルディによって急-緩-急の3楽章形式の協奏曲形式が確立され、この形式は以降古典派、ロマン派にまで受け継がれていくことになる。",
"title": "年代別概観"
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"text": "この時期のイタリアの作曲家たち、たとえばドメニコ・スカルラッティ(1685年 - 1757年)、ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(1698年 - 1775年)、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710年 - 1736年)、ドメニコ・アルベルティ(1710年頃 - 1740年)などは、年代的には「後期バロック」に位置しながら、作曲技法においては既に古典派音楽の特色を多く有しており、この時期のイタリア半島の音楽はすでに古典派に移行しつつあったといえる。",
"title": "年代別概観"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "フランスではジャン=フィリップ・ラモー(1683年 - 1764年)がフランス風のオペラの伝統を継承し、いくつかのオペラ=バレ opéra-ballet や音楽悲劇 tragédie en musique を残した。ラモーはクラヴサン音楽の分野でも重要な足跡を残している。オペラにおけるレシの様式はほぼ完全にリュリ以来の形式に則しており、クラヴサン音楽においても形式上はフランス風音楽の伝統の上に立っているが、オペラにおける序曲等の器楽やクラヴサン音楽にはギャラント様式や古典派の先駆と見られるような特色も数多く現れる。理論家としても有名で、機能和声についての最初の体系的な理論書を残した事で知られる。",
"title": "年代別概観"
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"text": "ドイツでは、中期バロック期に作られたドイツ風の音楽に加えて、イタリアやフランスの新しい音楽の潮流がどん欲に取り入れられ、「趣味の融合」が本格的に行われていく事になる。そのような潮流を代表しているのがゲオルク・フィリップ・テレマン(1681年 - 1767年)である。彼はこの時期のドイツにおいて最も評価の高かった作曲家であり、多作な事でも知られる。テレマンは、イタリア、フランスの最新の様式を取り入れ、音楽監督を務めたハンブルクで上演されるオペラを作曲したほか、器楽の分野ではトリオソナタ、協奏曲、フランス風管弦楽組曲など幅広い種類の音楽を作曲し、教会カンタータやオラトリオも多数残している。ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699年-1783年)は、18世紀中頃において最も人気があり成功したオペラ作家の一人で、ヨーロッパ各地で120曲以上のオペラを作曲し、詩人ピエトロ・メタスタージオ(1698年-1782年)と共にオペラ・セリアの確立に寄与した。ドイツ人のオペラ作曲家としては、フリードリヒ大王の宮廷楽長を務めていたカール・ハインリヒ・グラウン(1704年 - 1759年)も重要な存在である。バロック期を通じてヨーロッパで人気の有ったリュートは、この時期他国では急速に需要が衰えたが、ドイツではシルヴィウス・レオポルト・ヴァイス(1687年 - 1750年)が、楽器開発・作曲技法の両面でバロックリュートを完成させ、有終の美を飾った。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685年 - 1750年)は、当時傑出したオルガニストとして知られ、オルガンやチェンバロのための作品の他、多数の教会カンタータ、室内楽等を残したもののオペラは全く作曲しなかった。彼もまたテレマンと同様、当時のヨーロッパで流行していた様式に則った音楽を作ったが、その対位法への傾倒は同時代人からは反時代的なものとして評価されていた。19世紀におけるバッハの再評価以来、バッハはバロック時代を代表する音楽家と考えられてきたが、それまでのバロック音楽をバッハ中心の視点で捉えることは必ずしも適切とはいえない。",
"title": "年代別概観"
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"text": "イギリスでは植民地経営によって経済的に潤うと多くの富裕市民があらわれ、18世紀には市民の間でオペラの人気が非常に高まった。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685年 - 1759年)はイギリスで活躍したドイツ生まれの作曲家である。ヘンデルが活躍したのは主にオペラやオラトリオの分野であり、これらはつねに当時流行のスタイルで書かれていた。オペラ作品は概してイタリアオペラの書法に則ってはいたが、序曲や舞曲に関してはフランス風の音楽の影響も見られる。美しく、わかりやすいメロディーでロンドン市民に大いに親しまれたが、パーセルに見られたようなイギリス独特の要素はほとんど見られなかった。",
"title": "年代別概観"
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"text": "また、これらの諸国以外にも、チェコのボフスラフ・チェルノホルスキー(1684年 - 1742年)やオランダのウィレム・デ・フェッシュ(1687年 - 1761年)、スウェーデンのユーハン・ヘルミク・ルーマン(1694年 - 1758年)のように、ヨーロッパ周辺の諸国にも個性的な活動を繰り広げた後期バロックの音楽家たちがいる。",
"title": "年代別概観"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "バロック音楽から古典派音楽への推移を、対位法的なものからホモフォニックなものへの転換と見るならば、バロック音楽それ自体が同様の推移をたどっており、バロック音楽といわゆる古典派音楽の境界を明確に線引きする事は難しい。連続的な趣味の変化に伴い、過去の遺物としてみなされるようになったバロック時代の音楽は18世紀後半の時点ではすでにほぼ完全に忘却されたと見られている。",
"title": "忘却と再生"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "しかし、やがてロマン派期に入ると、メンデルスゾーンによるバッハのマタイ受難曲の「再発見」に象徴されるように、再びバロック時代の音楽へと関心が向けられるようになり、作品にバロック風の味付けを施す作曲家も現れた(たとえばブラームスやフランクなど)。",
"title": "忘却と再生"
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"text": "19世紀末から20世紀の音楽家たちも、バロック期の音楽に興味を抱き、その形式の一部を模倣するような作曲を行なった(たとえばグリーグの「ホルベアの時代から」、ドビュッシーの「ラモー賛 Hommage à Rameau」、ラヴェルの「クープランの墓 Le tombeau de Couperin」、レーガーの一連の作品、マーラーの交響曲第7番など)。",
"title": "忘却と再生"
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"text": "20世紀前半を通してバロック音楽への関心は持続された。新古典主義音楽の時期にはストラヴィンスキーやプーランクらがバロックを模した楽曲を発表した。やがて、バロック時代には現代とは異なる楽器が使用されていた事が、特に鍵盤楽器に関して注目を引き、チェンバロの復興が行われたが、当初は、チェンバロへの様々な誤解がある上に、ピアノ製造の技術を流用して作られた事などからこれらは今日では(逆説的にも)モダン・チェンバロなどと呼ばれている(チェンバロの歴史を参照)。",
"title": "忘却と再生"
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"text": "1970年代から、バロック(以前)の音楽の演奏に際しては、博物館や個人の収集で残されている同時代の楽器(オリジナル楽器)や、それらの楽器の忠実なレプリカ(ヒストリカル楽器)を使用し、同時代の文献などによって奏法研究を行うことで徹底的にバロック期の音楽を再現しようとする動きが活発になった。このような潮流を古楽運動とよび、このような観点で用いられるオリジナル楽器やヒストリカル楽器を古楽器と呼ぶ。管弦楽曲に関しても、大編成のオーケストラではなく小規模なアンサンブルを用いることが多い。",
"title": "忘却と再生"
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"text": "一方、グレン・グールドのピアノによるJ.S.バッハ録音に代表されるように、近現代の楽器でバロックが演奏される機会も多い。",
"title": "忘却と再生"
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バロック音楽(バロックおんがく)は、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。この時代はルネサンス音楽と古典派音楽の間に位置する。絶対王政の時代とほぼ重なる。
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'''バロック音楽'''(バロックおんがく)は、[[ヨーロッパ]]における[[17世紀]]初頭から[[18世紀]]半ばまでの音楽の総称である。この時代は[[ルネサンス音楽]]と[[古典派音楽]]の間に位置する。[[絶対王政]]の時代とほぼ重なる<ref>{{Cite |和書
|author = [[岡田暁生]]
|title = 西洋音楽史 : 「クラシック」の黄昏
|date = 2005
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|publisher = 中央公論新社
|isbn = 978-4121018168
|series = 中公新書
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== 語源 ==
[[バロック]](仏英: baroque)という語はポルトガル語 barocco (いびつな真珠)が由来であるとされ、過剰な装飾を持つ建築を批判するための用語として18世紀に登場した。転じて、17世紀から18世紀までの芸術一般における、ある種の様式を指す語として定着した。
音楽史的な観点から「バロック音楽」に組織的に言及したのは、ドイツの[[音楽学]]者[[クルト・ザックス]]([[1888年]] - [[1959年]])である。彼の[[1919年]]の論文 "Barockmusik" によれば、バロック音楽は「彫刻や絵画等と同じように速度や強弱、音色などに対比があり、劇的な感情の表出を特徴とした音楽」と定義される。
しかし、17世紀から18世紀にかけての音楽には、地方や時期によって様々なスタイルのものがあるため、バロック音楽の特徴を簡略に総括する事は難しい。たとえば、フランスでは、フランス音楽史にバロック音楽は存在しない、と主張し、この時期の音楽を「古典フランス音楽」(la musique française classique)と呼ぶ者もいる。ノルベール・デュフォルク Norbert Dufourcq は[[1961年]]の論文 "Terminologia organistica" の中で、17世紀前半のフランス芸術は[[古典主義]]に席捲されているため、ドイツ音楽史学で広く用いられる「バロック」の語は、フランスの音楽や文化に当てはめる事ができない、と述べている。
今では「バロック音楽」の用語は、音楽様式・時代様式だけでなく、むしろ、音楽史上の年代を指すものとしても広く受け入れられている。
== 年代別概観 ==
以下では年代を追ってバロック音楽の変遷を記述する。それぞれの年代、地域に特徴的な潮流を説明するにあたって、その時代や地域の代表的な音楽家の活動を通して説明を試みている。これらの音楽家はある種の典型例の一つに過ぎず、実際は他の多くの音楽家やパトロン等によって形作られていた音楽環境がそれぞれの地域・時代の音楽の潮流を重層的かつ多様性のあるものとして作り出していた事に注意しなければならない。より詳しくは[[バロック音楽の作曲家一覧]]などから個々の作曲家の記事などを参照されたい。
=== 初期バロック ===
[[1600年]]以前の[[ルネサンス音楽]]では、多くの音楽作品は[[対位法]]にのっとって作曲されており、声部の模倣や[[協和音と不協和音|不協和音]]の利用法に多くの制限があった。これに対して、北イタリアの[[マドリガーレ]]作曲家たちは、詩の内容や詩に現れる個々の語の感情 ''affetto'' を音楽的に表現する手段を探求していた。また、[[フィレンツェ]]の[[カメラータ]]では、[[古代ギリシア]]の音楽[[悲劇]]の復興の観点から、感情と結びついた音楽表現を探求した。これらはそれぞれ違う動機を持ってはいたものの、音楽における感情の劇的な表現という観点を共有しており、それぞれルネサンス音楽の作曲法の枠を打ち破ろうとしていた。
このような運動を推し進めたマドリガーレ作曲家としては[[クラウディオ・モンテヴェルディ]]([[1567年]] - [[1643年]])が有名である。彼はしばしば作中で「予備のない不協和音」を用いたが、この事に対する[[ジョヴァンニ・マリア・アルトゥージ]]の批判に応えて、モンテヴェルディはルネサンスの規範による旧来の作曲法を「[[第一作法]]」(prima pratica)、それに対し、彼自身を含め新たな技法によって劇的な音楽の表出を目指す作曲法を「[[第二作法]]」(seconda pratica) と呼んで、後者を擁護した。
ルネサンス音楽において声楽は3声部以上を持つものが主流であったが、カメラータでは劇中の音楽として、劇の登場人物が1人で歌唱する作品の形式を発案した。これを[[モノディー]]形式と呼ぶ。カメラータの音楽劇の最初のまとまった試みは[[1598年]]に[[ヤーコポ・ペーリ]]([[1561年]] - [[1633年]])を中心として行われた音楽劇「ダフネ」の上演であり、これを以て[[オペラ]]の誕生とする意見もある。モノディー形式の例として今日最も有名なのは、[[ジュリオ・カッチーニ]]([[1545年]]頃 - [[1618年]])の ''Le nuove musiche''(「新音楽」、[[1601年]])である。「新音楽」の作品は、歌手の歌うメロディーと伴奏用の低音パートの2声部に加えて、低音パートに数字を添えて記譜されている。数字は低音の上に奏すべき和音を示しており、これはいわゆる[[通奏低音]]の原型とも言うべきものである。モノディー歌曲は、[[ストロペ]](同じ旋律の歌詞を変えての繰り返し)を持たない通作形式であり、[[レチタティーボ]]の先駆でもある。
これらの潮流は孤立して存在していたのではなく、互いに影響を及ぼしあい、また[[宗教音楽]]や[[オルガン]]・[[チェンバロ]]用の鍵盤音楽、また[[リュート]]の音楽など他のジャンルにも大きな影響を及ぼした。バロック時代を通して見られる[[半音階]]の使用や比較的自由な[[不協和音]]の使用もこの時期に一般的となった。
[[ヴェネツィア]]では都市の繁栄に裏付けられた富裕層がいたが、これらの市民のためのオペラ劇場が17世紀中ごろまでに相次いで建てられ、オペラが大流行する事になる。この時期のヴェネツィア風のオペラとしてはモンテヴェルディやその弟子の[[フランチェスコ・カヴァッリ]]([[1602年]] - [[1676年]])によるものが有名である。これらの作品では、カメラータの音楽劇とは違って、[[レチタティーヴォ]]と[[アリア]]、および器楽の[[リトルネロ]]によってオペラを構成する形式へと変化しつつあった。また、これらのオペラや各種の祝祭における器楽の需要によってヴェネツィアでは器楽も発達した。ヴェネツィアではルネサンス末期、[[ジョヴァンニ・ガブリエリ]]([[1554年]]頃 - [[1612年]])らによって、[[コンチェルタート]]形式の器楽が発達していた。オペラのリトルネッロではガブリエリ以来の器楽技法を受け継いでいたが、それとは別に、[[ダリオ・カステッロ]](? - [[1630年]]頃)ら器楽のヴィルトゥオーゾたちによって、旋律楽器の独奏あるいは二重奏と通奏低音による(単一楽章形式の)[[ソナタ]]が作られた。
同じ頃、[[ローマ]]でも[[教皇庁]]やそこに集まってくる貴族や外国人の邸宅などを中心として音楽活動が盛んに行われていた。これら貴族の邸宅での音楽実践の中で、[[レチタティーボ]]と[[アリア]]の形式を取り入れた室内[[カンタータ]]が発生していった。また、教皇庁や教会では通常の典礼のための[[ミサ曲]]などが作られ続けた一方、祈祷所での宗教的修養が盛んに行われており、その一環として宗教的な題材の詩に[[カンタータ]]形式の音楽を付けた[[オラトリオ]]が演奏されるようになった。初期のカンタータやオラトリオの作曲家としては[[ジャコモ・カリッシミ]]([[1605年]] - [[1674年]])が重要である。ローマでも器楽は盛んであり、オルガニストの[[ジローラモ・フレスコバルディ]]([[1583年]] - [[1643年]])などが人気を博していた。
フランスでは[[リュート]]の作曲と研究が隆盛を極めた。ゴーティエ一族([[エヌモン・ゴーティエ]]([[1575年]]? - [[1651年]])、[[ドニ・ゴーティエ]]([[1603年]] - [[1672年]]))を筆頭とするリュート奏者たちは、様々な調弦法を試みた末、ニ短調調弦の新しいリュート(バロックリュート)を確立させた。
オーストリアや南ドイツの諸侯や都市は16世紀後半からイタリアの音楽家を招聘したり、若い音楽家をイタリアに派遣し勉強させたりした。この時期にイタリアに音楽を学びに行った音楽家の中で今日特に有名なのは[[ハインリヒ・シュッツ]]([[1585年]] - [[1672年]])である。[[ヴェネツィア]]に2度遊学し、[[ジョヴァンニ・ガブリエリ]]と[[クラウディオ・モンテヴェルディ]]に師事した。音楽人生のほとんどを[[ドレスデン]]の[[宮廷楽長]]として過ごした彼は、イタリアで作られたオペラや[[カンタータ]]、器楽等に用いられる様式を踏襲しつつ、イタリアの最新の流行を追うというよりは、独自の音楽表現を作り出していったようである。彼のドイツ語の聖書物語に基づく作品は[[ルター派]]の地域に広く受け入れられ、いわゆるドイツ風の音楽のひとつの基盤が作られたといえる。
一方、北ドイツでは[[ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク]]([[1562年]] - [[1621年]])の弟子たちによる[[北ドイツ・オルガン楽派]]があり、これもドイツ風の音楽を考えるときには欠かせない要素である。また[[ミヒャエル・プレトリウス]] ([[1571年]] - [[1621年]])は、[[ルター派]]独特の[[コラール]]音楽を多彩に発展させた。このように、プロテスタント・ルター派文化の素地の上にイタリアの音楽の形式が輸入されたことで、ルター派の盛んな北部ドイツを中心として独自のバロック音楽の形式が作られることとなる。
=== 中期バロック ===
17世紀前半にイタリアで興った新しい音楽の流れ、特に[[オペラ]]の発生と通奏低音の使用は、直接にせよ間接にせよ、他のヨーロッパの国々に影響を与えていくことになる。
フランスでは、17世紀前半まで宮廷[[バレエ]](ballet de cour)や[[エール・ド・クール]](リュート伴奏による世俗歌曲)など比較的独自の音楽文化を持っていた。1650年頃に、イタリア出身の[[ジュール・マザラン|マザラン卿]]がイタリアのオペラを紹介した事などで、イタリア風の音楽が流入した。
[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の宮廷では1670年頃まで依然として宮廷バレエが盛んであった。イタリアから招かれた[[ジャン=バティスト・リュリ]]([[1632年]] - [[1687年]])は、ルイ14世の宮廷で多くのバレエ音楽、コメディ=バレを作った。やがてフランスでイタリア風オペラが流行するが、リュリはイタリア風の[[レチタティーヴォ]]や[[アリア]]はフランス語の音素と相いれないものであるとして、フランス独自のオペラのジャンル、[[叙情悲劇]](tragédie lyrique)を打ち立てた。この叙情悲劇は、歌手の歌うレシ(récit)と舞曲から構成されていた。レシはレチタティーヴォをフランス語の発音にあうように改変したものであり、舞曲は宮廷バレエから引き継がれたものである。リュリがルイ14世の宮廷で圧倒的な影響力を誇っていた事もあって、結果的にリュリの作品群によってその後のフランスにおけるバロック音楽の独自の形式が確立される事となった。
この時期のフランスではリュリの他にも[[マルカントワーヌ・シャルパンティエ]]([[1643年]] - [[1704年]])がモテ(motet)や劇音楽、室内楽の分野で活躍した他、[[マラン・マレー|マラン・マレ]]([[1656年]] - [[1728年]])などの[[ヴィオール]]奏者や、[[チェンバロ|クラヴサン]]奏者たちが、器楽独奏による[[組曲]]の形式で多くの優れた作品を残した。
オーストリアや南ドイツでは、前時代に引き続いてより直接的にイタリアの音楽の輸入が行われた。ウィーン宮廷はヴェネツィアから大勢の音楽家を招いてイタリア系音楽が盛んであり、イタリアでカリッシミやフレスコバルディに学んだ[[ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー]]([[1616年]] - [[1667年]])、[[ヨハン・カスパール・ケルル]]([[1627年]] - [[1693年]])といったドイツ人の音楽家も活躍しはじめた。[[ヨハン・パッヘルベル]]([[1653年]] - [[1706年]])はウィーンで学んだのちドイツ中部~南部のルター派圏で活躍した。彼らによってもたらされたオラトリオや教会カンタータといったイタリア教会音楽の新様式が、ルター派のドイツ語テクストにも適用されてドイツ独自の発展を遂げた。
北ドイツ・オルガン楽派の流れを引き継ぐ中期バロックの音楽家としては[[ディートリヒ・ブクステフーデ]]([[1637年]]頃 - [[1707年]])がいた。この時期の北ドイツのオルガン楽派はその高度なテクニック、特に巧みにペダル鍵盤を操ることで知られる。ブクステフーデのオルガン用の[[コラール前奏曲]]や、ドイツ語カンタータはこの時期のドイツのバロック音楽の一つの典型的な作品であるといえる。パッセージの作り方で北ドイツ・オルガン楽派の方法を引き継いでいる一方で、[[シャコンヌ|チャコーナ]]、[[パッサカリア]]といった形式をしばしば使用しており、ブクステフーデ自身はイタリアで学んだ事はなかったが、楽曲の形式などではイタリア風の音楽の影響が見られる。
イギリスでは、16世紀末頃から17世紀前半までは[[リュート]]の伴奏による独唱曲(リュートエア lute ayre)や、[[ヴィオール族]]のためのヴァイオル・[[コンソート]]の音楽などが[[ジョン・ダウランド]]([[1563年]] - [[1626年]])や[[ウィリアム・ローズ]]([[1602年]] - [[1645年]])らによって作られた。はじめはルネサンス時代のイギリス音楽の特徴を残した独特の音楽を持っていたが、リュートエアに関しては、イタリアのモノディー様式やレチタティチーヴォ、アリアの影響を次第に受けるようになる。バロック中期にイギリスで活躍した作曲家としては[[ヘンリー・パーセル]]([[1659年]] - [[1695年]])があげられる。パーセルの時代にはイギリスにはリュリ式のフランス風の音楽が輸入され始めていた。パーセルは、歌曲の分野ではイタリアモノディーの影響を受けた作品を残した一方で、劇音楽の分野では、[[フランス風序曲]]やフランス風の舞曲を使用しており、フランス音楽の影響も強く見られる。しかしながら、パーセルの音楽は、イタリア音楽やフランス音楽の模倣というよりはむしろそれらを取り入れた独自の形式であったと評価されている。
このころ、イタリアでは[[アルカンジェロ・コレッリ]]([[1653年]] - [[1713年]])が新たな形式の音楽を作り出していた。彼の新たな作曲法は[[トリオソナタ]]や[[ヴァイオリンソナタ]]に典型的に現れている。彼の音楽はルネサンス的な対位法から完全に離れて、[[和声|機能和声]]的な観点から各声部を緻密に書き込むといったものであり、それに従って、通奏低音パートに書き込まれるバスの数字も、初期バロックの作品とは異なり、細部に渡って詳細に書き記されている。結果として、曲想は初期バロックのそれよりも抑制され、均整のとれたものとなっている。コレッリのトリオソナタやヴァイオリンソナタは、[[1681年]]から[[1700年]]に相次いで出版されるや否や全ヨーロッパで人気を博し、瞬く間にこの「コレッリ様式」が普及する事となる。また、[[合奏協奏曲]]の形式が作られたのもこの時期であり、コレッリも合奏協奏曲を残している。
[[フランソワ・クープラン]]([[1668年]] - [[1733年]])はフランスにおけるコレッリ様式の擁護者のひとりであり、多くのトリオソナタを残している。彼はフランス風の音楽とイタリア風(コレッリ風)の音楽を融合させることを試みており、「コレッリ賛」(''L'Apothéose de Corelli'')と名付けられたトリオソナタを曲集「趣味の融合」(''Les goûts-réünis'')([[1724年]])の中に収録している。また、その次の年に出版された「リュリ賛」(''Apothéose ... de l'incomparable Monsieur de Lully'', [[1725年]])は、それぞれの曲にリュリにまつわる表題が付けられており、[[パルナッソス山]]に登ったリュリが、コレッリとともにヴァイオリンを奏でる、といった筋書きが設定されている。
イタリアのオペラやカンタータ、オラトリオの分野では[[アレッサンドロ・スカルラッティ]]([[1660年]] - [[1725年]])に言及せねばならない。彼のオペラは生前からとても人気があったが、音楽史的な観点から重要なのはその形式上の変化である。スカルラッティのオペラでは様々な点でより[[古典派音楽|古典期]]以降のオペラに近づいている。この事はたとえば、[[三部形式]]の[[ダ・カーポ (演奏記号)|ダ・カーポ]]アリアの使用や、器楽における[[ホルン]]の利用などから知ることができる。
このように、中期バロックの時代には、初期バロックに見られた極端なものや奇異なるものから、より緻密に作られた均整のとれたものへと趣味が変化していった他、楽器に関しても、弦楽器では[[ヴァイオリン族]]、管楽器では[[フルート]]、[[オーボエ]]といった現代のオーケストラで用いられる楽器の直接の祖先が定着し始めていた事から、「バロック的」なものから[[古典主義]]的なもの、あるいは[[古典派音楽]]への遷移の始まりであったとみなす事もできる。
=== 後期バロック ===
イタリアの後期バロックにおいて今日最も有名なのは[[アントニオ・ヴィヴァルディ]]([[1678年]] - [[1741年]])だろう。彼の作曲活動はオペラやオラトリオを含む多くのジャンルにわたっていたが、特に[[協奏曲]]に彼の独自性が現れている。ヴィヴァルディの協奏曲では、トゥッティ(全奏、tutti)部分とソロ部分の対比が[[合奏協奏曲]]よりも明確となり、独奏楽器の技術を誇示するような傾向がより強まっている。ヴィヴァルディによって急-緩-急の3楽章形式の協奏曲形式が確立され、この形式は以降[[古典派音楽|古典派]]、[[ロマン派音楽|ロマン派]]にまで受け継がれていくことになる。
この時期のイタリアの作曲家たち、たとえば[[ドメニコ・スカルラッティ]]([[1685年]] - [[1757年]])、[[ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ]]([[1698年]] - [[1775年]])、[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ]]([[1710年]] - [[1736年]])、[[ドメニコ・アルベルティ]]([[1710年]]頃 - [[1740年]])などは、年代的には「後期バロック」に位置しながら、作曲技法においては既に古典派音楽の特色を多く有しており、この時期のイタリア半島の音楽はすでに古典派に移行しつつあったといえる。
フランスでは[[ジャン=フィリップ・ラモー]]([[1683年]] - [[1764年]])がフランス風のオペラの伝統を継承し、いくつかの[[オペラ=バレ]] opéra-ballet や[[音楽悲劇]] tragédie en musique を残した。ラモーは[[チェンバロ|クラヴサン]]音楽の分野でも重要な足跡を残している。オペラにおけるレシの様式はほぼ完全にリュリ以来の形式に則しており、クラヴサン音楽においても形式上はフランス風音楽の伝統の上に立っているが、オペラにおける序曲等の器楽やクラヴサン音楽には[[ギャラント様式]]や古典派の先駆と見られるような特色も数多く現れる。理論家としても有名で、[[和声|機能和声]]についての最初の体系的な理論書を残した事で知られる。
ドイツでは、中期バロック期に作られたドイツ風の音楽に加えて、イタリアやフランスの新しい音楽の潮流がどん欲に取り入れられ、「趣味の融合」が本格的に行われていく事になる。そのような潮流を代表しているのが[[ゲオルク・フィリップ・テレマン]]([[1681年]] - [[1767年]])である。彼はこの時期のドイツにおいて最も評価の高かった作曲家であり、多作な事でも知られる。テレマンは、イタリア、フランスの最新の様式を取り入れ、音楽監督を務めたハンブルクで上演されるオペラを作曲したほか、器楽の分野ではトリオソナタ、協奏曲、フランス風管弦楽組曲など幅広い種類の音楽を作曲し、教会カンタータやオラトリオも多数残している。[[ヨハン・アドルフ・ハッセ]]([[1699年]]-[[1783年]])は、18世紀中頃において最も人気があり成功したオペラ作家の一人で、ヨーロッパ各地で120曲以上のオペラを作曲し、詩人[[ピエトロ・メタスタージオ]]([[1698年]]-[[1782年]])と共に[[オペラ・セリア]]の確立に寄与した<ref>{{Cite book|title=オックスフォード オペラ大事典|url=https://www.worldcat.org/oclc/674991537|publisher=平凡社|date=1996|isbn=4-582-12521-2|oclc=|others=Warrack, John Hamilton, 1928-, West, Ewan., 大崎, 滋生, 1948-, 西原, 稔, 1952-|year=|page=478}}</ref><ref>{{Cite book|title=新 西洋音楽史(中)|url=https://www.worldcat.org/oclc/41371082|location=|isbn=4-276-11212-5|oclc=|others=グラウト/パリスカ 戶口幸策, 1927-, 津上英輔, 1955-|last=Grout, Donald Jay,|date=|year=|publisher=音楽之友社|page=245, 246}}</ref>。ドイツ人のオペラ作曲家としては、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]の宮廷楽長を務めていた[[カール・ハインリヒ・グラウン]](1704年 - 1759年)も重要な存在である<ref>{{Cite book|title=オックスフォード オペラ大事典|url=https://www.worldcat.org/oclc/674991537|publisher=平凡社|date=1996|isbn=4-582-12521-2|oclc=|others=Warrack, John Hamilton, 1928-, West, Ewan., 大崎, 滋生, 1948-, 西原, 稔, 1952-|year=|page=203}}</ref>。バロック期を通じてヨーロッパで人気の有ったリュートは、この時期他国では急速に需要が衰えたが、ドイツでは[[シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス]]([[1687年]] - [[1750年]])が、楽器開発・作曲技法の両面でバロックリュートを完成させ、有終の美を飾った。[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]([[1685年]] - [[1750年]])は、当時傑出したオルガニストとして知られ、オルガンやチェンバロのための作品の他、多数の教会カンタータ、室内楽等を残したもののオペラは全く作曲しなかった。彼もまたテレマンと同様、当時のヨーロッパで流行していた様式に則った音楽を作ったが、その対位法への傾倒は同時代人からは反時代的なものとして評価されていた。19世紀におけるバッハの再評価以来、バッハはバロック時代を代表する音楽家と考えられてきたが<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%28Johann+Sebastian+Bach%29-1579637 バッハ (Johann Sebastian Bach) ] [[日本大百科全書]]</ref>、それまでのバロック音楽をバッハ中心の視点で捉えることは必ずしも適切とはいえない<ref>{{Cite journal|author=|editor-last=Silbiger|editor-first=Alexander|year=|date=2004-08-02|title=Keyboard Music Before 1700 (2nd ed.). Routledge.|url=https://doi.org/10.4324/9780203642122|journal=|volume=|page=|doi=10.4324/9780203642122}}</ref>。
イギリスでは植民地経営によって経済的に潤うと多くの富裕市民があらわれ、18世紀には市民の間でオペラの人気が非常に高まった。[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]([[1685年]] - [[1759年]])はイギリスで活躍したドイツ生まれの作曲家である。ヘンデルが活躍したのは主にオペラやオラトリオの分野であり、これらはつねに当時流行のスタイルで書かれていた。オペラ作品は概してイタリアオペラの書法に則ってはいたが、序曲や舞曲に関してはフランス風の音楽の影響も見られる。美しく、わかりやすいメロディーでロンドン市民に大いに親しまれたが、パーセルに見られたようなイギリス独特の要素はほとんど見られなかった。
また、これらの諸国以外にも、[[チェコ]]の[[ボフスラフ・チェルノホルスキー]]([[1684年]] - [[1742年]])や[[オランダ]]の[[ウィレム・デ・フェッシュ]]([[1687年]] - [[1761年]])、[[スウェーデン]]の[[ユーハン・ヘルミク・ルーマン]]([[1694年]] - [[1758年]])のように、ヨーロッパ周辺の諸国にも個性的な活動を繰り広げた後期バロックの音楽家たちがいる。
== 忘却と再生 ==
バロック音楽から[[古典派音楽]]への推移を、[[対位法]]的なものから[[ホモフォニー|ホモフォニック]]なものへの転換と見るならば、バロック音楽それ自体が同様の推移をたどっており、バロック音楽といわゆる古典派音楽の境界を明確に線引きする事は難しい。連続的な趣味の変化に伴い、過去の遺物としてみなされるようになったバロック時代の音楽は18世紀後半の時点ではすでにほぼ完全に忘却されたと見られている。
しかし、やがて[[ロマン派音楽|ロマン派]]期に入ると、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]によるバッハの[[マタイ受難曲]]の「再発見」に象徴されるように、再びバロック時代の音楽へと関心が向けられるようになり、作品にバロック風の味付けを施す作曲家も現れた(たとえば[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]や[[セザール・フランク|フランク]]など)。
19世紀末から20世紀の音楽家たちも、バロック期の音楽に興味を抱き、その形式の一部を模倣するような作曲を行なった(たとえば[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]の「[[ホルベアの時代から]]」、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の「[[映像 (ドビュッシー)|ラモー賛]] ''Hommage à Rameau''」、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の「[[クープランの墓]] Le tombeau de Couperin」、[[マックス・レーガー|レーガー]]の一連の作品、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第7番 (マーラー)|交響曲第7番]]など)。
20世紀前半を通してバロック音楽への関心は持続された。[[新古典主義音楽]]の時期には[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]や[[フランシス・プーランク|プーランク]]らがバロックを模した楽曲を発表した。やがて、バロック時代には現代とは異なる楽器が使用されていた事が、特に鍵盤楽器に関して注目を引き、[[チェンバロ]]の復興が行われたが、当初は、チェンバロへの様々な誤解がある上に、ピアノ製造の技術を流用して作られた事などからこれらは今日では(逆説的にも)モダン・チェンバロなどと呼ばれている([[チェンバロの歴史]]を参照)。
[[1970年代]]から、バロック(以前)の音楽の演奏に際しては、博物館や個人の収集で残されている同時代の楽器(オリジナル楽器)や、それらの楽器の忠実なレプリカ(ヒストリカル楽器)を使用し、同時代の文献などによって奏法研究を行うことで徹底的にバロック期の音楽を再現しようとする動きが活発になった。このような潮流を[[古楽]]運動とよび、このような観点で用いられるオリジナル楽器やヒストリカル楽器を[[古楽器]]と呼ぶ。管弦楽曲に関しても、大編成の[[オーケストラ]]ではなく小規模な[[アンサンブル]]を用いることが多い。
一方、[[グレン・グールド]]のピアノによるJ.S.バッハ録音に代表されるように、近現代の楽器でバロックが演奏される機会も多い。
[[シンセサイザー]]などの電子楽器を使ったり[[ポピュラー音楽]]に転用される例もある。パッヘルベルの「[[カノン (パッヘルベル)|カノン]]」におけるコード進行(D-A-Bm-F#m-G-D-G(Em/G)-A、いわゆる大逆循環)は俗に「カノン進行」、「カノンコード」とも呼ばれ、最も良く知られた進行の一つである。[[アフロディテス・チャイルド]]の「雨と涙 (Rain and Tears)」を皮切りに、ポピュラー音楽、特に[[J-POP]]での引用例は枚挙に暇がない([[山下達郎]]「[[クリスマス・イブ (山下達郎の曲)|クリスマス・イヴ]]」や[[ZARD]]「[[負けないで]]」など多数)。
また、[[ディープ・パープル]]や[[レインボー (バンド)|レインボー]]の[[ギタリスト]]として知られる[[リッチー・ブラックモア]]はクラシック音楽の素養があり、[[ブルース]]一辺倒だった[[ロック (音楽)|ロック]]にクラシック要素を積極的に持ち込んだ。代表曲「[[ハイウェイ・スター (曲)|ハイウェイ・スター]]」「[[紫の炎 (曲)|紫の炎]]」ではJ・S・バッハの楽曲を引用している。彼に触発された[[ランディ・ローズ]]や[[イングヴェイ・マルムスティーン]]らもクラシックの教育を受けており、やはりバッハからの影響を受けている。これらバロック音楽とロックの融合は、[[ヘヴィメタル]]の様式美的な特徴を決定づける多大な影響を残した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2012年12月29日 (土) 01:45 (UTC)|section=1}}
* H.M.ブラウン著/藤江効子、村井範子訳 「ルネサンスの音楽」 東海大学出版会 (1994) ISBN 4-486-01324-7
* C. V. パリスカ著/藤江効子、村井範子訳 「バロックの音楽」 東海大学出版会 (1975) ISBN 4-486-00102-8
* カーティス・プライス 編/美山良夫 監訳 「オペラの誕生と教会音楽−初期バロック」 音楽之友社 (1996) ISBN 4276112338
* [[皆川達夫]] 『バロック音楽』講談社学術文庫 ISBN 4061597523
* Palisca, C.V., ''Baroque'', Grove Music Online, ed. L. Macy (Accessed 2006.10.04). (2011年現在、[http://www.oxfordmusiconline.com/public/book/omo_gmo Oxford Music Online]で参照可能。会員制) 作曲家、形式等他の項目も参照した。
== 関連項目 ==
{{Portal クラシック音楽}}
* [[バロック音楽の作曲家一覧]]
* [[クラシック音楽]]
* [[ルネサンス音楽]]
* [[古典派音楽]]
* [[古楽]]
* [[古楽器]]
{{音楽}}
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ヴィヴァルディ
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ヴィヴァルディまたはビバルディ(Vivaldi)は、イタリア人の姓、ラテン語の「生命」(Vita)に由来する。
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ヴィヴァルディまたはビバルディ(Vivaldi)は、イタリア人の姓、ラテン語の「生命」(Vita)に由来する。
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'''ヴィヴァルディ'''または'''ビバルディ'''(Vivaldi)は、イタリア人の姓、ラテン語の「生命」(Vita)に由来する。
== 人物 ==
*[[アントニオ・ヴィヴァルディ]] - [[ヴェネツィア共和国]]の[[作曲家]]。
*[[ヴァンディーノ・ヴィヴァルディ]] - [[ジェノヴァ共和国]]の航海者、ウゴリーノの兄弟。
*[[ウゴリーノ・ヴィヴァルディ]] - ジェノヴァ共和国の航海者、ヴァンディーノの兄弟。
**[[ウゴリーノ・ヴィヴァルディ (駆逐艦)]] - [[イタリア王立海軍]]の[[駆逐艦]]。
== その他 ==
*[[Vivaldi (ウェブブラウザ)]] - [[ウェブブラウザ]]。
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諸法実相
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諸法実相(しょほうじっそう、梵: dharmatā)とは、仏教において、全ての存在のありのままの真実の姿のこと。
諸法実相は仏教の真理を指す言葉の一つであり、大乗仏教の根本思想であるが、その意義は宗派ごとに様々である。
三論宗では、空理を諸法の実相とする。
天台宗では、諸法実相をいう場合に三重の区別があり、初重は因縁所生の諸法がそのまま空であることを指して実相とする。二重は、空と有を諸法とし、別に中道第一義諦の理を立てて実相とする。三重は、差別の現象を全て諸法といい、その諸法が三諦円融している真実のあり方を指して実相とする。
日蓮宗では、本門の題目に関して諸法実相の意を解釈する。
禅宗では、本来の面目が諸法の実相をあらわすものとする。
浄土真宗では、真如の理を諸法実相とし、南無阿弥陀仏の名号を実相法と呼ぶ。
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諸法実相とは、仏教において、全ての存在のありのままの真実の姿のこと。
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'''諸法実相'''(しょほうじっそう、{{lang-sa-short|dharmatā}}{{efn|原語は{{lang-sa-short|dharmatā}}の他にも複数ある<ref name="kb926" />。}})とは、[[仏教]]において、全ての存在のありのままの真実の姿のこと<ref name="kb926">{{Cite book |和書 |author=中村元 |authorlink=中村元 (哲学者) |coauthors= |others= |date=2001-06 |title=広説佛教語大辞典 |edition= |publisher=東京書籍 |volume=中巻 |page=926-927 |isbn=}}</ref><ref name="コトバンク諸法実相">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%AE%9F%E7%9B%B8-80606|title=諸法実相(しょほうじっそう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-09-22}}</ref>。
== 語義 ==
諸法実相は仏教の真理を指す言葉の一つであり、[[大乗仏教]]の根本思想であるが、その意義は[[宗派]]ごとに様々である<ref name="kb926" /><ref name="コトバンク諸法実相" />。
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[[天台宗]]では、諸法実相をいう場合に三重の区別があり、初重は[[因縁]]所生の[[法 (仏教)|諸法]]がそのまま[[空 (仏教)|空]]であることを指して実相とする<ref name="kb926" />。二重は、空と有を諸法とし、別に[[諦#世俗諦と勝義諦|中道第一義諦]]の理を立てて実相とする<ref name="kb926" />。三重は、差別の現象を全て諸法といい、その諸法が三諦円融している真実のあり方を指して実相とする<ref name="kb926" />。
=== 日蓮宗 ===
[[日蓮宗]]では、本門の[[題目]]に関して諸法実相の意を解釈する<ref name="kb926" />。
=== 禅宗 ===
[[禅]]宗では、本来の面目が諸法の実相をあらわすものとする<ref name="kb926" />。
=== 浄土真宗 ===
[[浄土真宗]]では、[[真如]]の理を諸法実相とし、[[南無阿弥陀仏]]の[[名号]]を実相法と呼ぶ<ref name="kb926" />。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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13,509 |
ブラストビート
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ブラストビートとは、主としてエクストリーム・メタルで用いられるドラム・ビートの一種であり、交互または同時に高速で(主としてバス・ドラムとスネア・ドラムを)打つ事によるビートである。 その音はマシンガンの発射音にも似ていて、爆風をイメージさせ、人間が叩ける速さの限界に挑むような叩き方である。表打ちと裏打ちがある。
ジーン・ホグラン (Gene Hoglan) (ストラッピング・ヤング・ラッド、ダーク・エンジェル)、アレックス・ヘルナンデス(イモレイション)、そしてフロ・モーニエ(クリプトプシー)、ドミネイター(ダーク・フューネラル)らの様な技巧派奏者により、様々なパターンやタイミングも頻繁に用いられている。 ピート・サンドヴァル(テロライザー、モービッド・エンジェル)によるバス・ドラム2打の後スネア・ドラム1打のスタイル、マックス・デュアメル(カタクリズム)によるバス・ドラムを叩く回数の少ないスタイル等も存在する。
ブラストビートの起源は、60年代から70年代のジャズドラマーの演奏にある。それはトニー・ウィリアムスやアンジェロ・スパンピナート、そしてサニー・マレイ (Sunny Murray) の1964年グリニッジ・ヴィレッジでのアルバート・アイラーとのレコーディングの1曲“HOLY GHOST”に顕著である。 オールミュージックガイド寄稿者のトム・ユーレクはウィリアムスを「ブラストビートの真の発明者」と評している。 ハードコア・パンクに於ける起源は、D.R.I.の1983年のファーストLP収録の“No Sense”や、ビースティ・ボーイズのファーストEP「Pollywog Stew」収録の“Riot Fight”まで辿る事が出来る。他にもハートアタック (Heart Attack) 、クリプティック・スローター (Cryptic Slaughter) 、ラーム (Lärm) 、シージ、ヘラシー (Heresy) らに見る事が出来る。 それらは、パワー・ヴァイオレンス (power violence) 、スラッシュコア (thrashcore) 、クラストコア、グラインドコア、デスメタル、そしてブラック・メタルに於いて顕著であるが、その他のジャンルに於いても見る事が出来る。
メタルに於ける起源は、デイヴ・ロンバード (Dave Lombardo) (スレイヤー)、デイヴ・“グレイヴ”・ホリングスヘッド(リバルジョン (Repulsion) )、チャーリー・ベナンテ (Charlie Benante) (アンスラックス、SOD)らにあるとされている。グレイヴはreceived most of the credit for the "single footer."。ベナンテはSODのアルバム『Speak English or Die』の曲“Milk”に於いて、ダブルハンド・ブラストビートを披露し、後にライヴ・アルバム『Live at Budokan』に於いてはシングルハンドで演奏している。しかし、ボーカリストとしてデスヴォイスに於けるグロウルの先駆者としても有名であるドラマーのキャム・リー (Kam Lee) が、“Reign Of Terror”や“Curse Of The Priest”の様な曲で披露した、デスの1984年のデモにまで遡る事も出来る。Members from Repulsion (back when they were known as Genocide) temporarily joined Death in 1985, so it's been speculated that they started their trademark widespread usage after first hearing it during their short tenure with Death.
ブラストビートがより広範囲に使われる様になった切っ掛けは、ナパーム・デスの最初期のドラマーミック・ハリス (Mick Harris) である。ハリスはそれを、初期ナパーム・デスに於ける楽曲の根本的な特徴とした。As perhaps the most important of innovations、ニューヨークのデスメタル・グループ、サフォケイションのマイク・スミス (Mike Smith (musician)) invented and pioneered the technique of a blast beat that is played with the snare and bass drum synchronized and the cymbals on the off beat, as opposed to the original form, which most attribute to Napalm Death's Mick Harris, where the snare drum alternates with the bass drum and cymbal.
日本ではSxOxB、ROSEROSE等がいち早く導入した。Forceの夏目陽一郎、Die You Bastard!のアイアンフィスト辰嶋、324の坂田がブラストビートの名手として知られている。
初期のブラストビートは、今日に於ける基準と比べると、明らかに遅く、また正確さの面でも到底及ばない。 しかし今日では、ブラストビートと言えば通常180bpm以上で演奏され、グラヴィティ・ロール (gravity roll) と呼ばれるワン・ハンド・ロールを含むものは、“グラヴィティ・ブラスト”と呼ばれる。このテクニックはスネアのリムをスティックを前後に固定する為の支点 (Fulcrum) として用い、1回の腕のストロークでスネアを2度叩くものであり(1度は腕の振り下ろし時、もう1度は腕の振り上げ時)、本来は両手で行う動作を片手で行っている。
典型的なブラストビートは、バス・ドラムとスネア・ドラムが交互に現れ、それにハイハットかライド・シンバル (Ride cymbal) を同期させた、8分音符のパターンから成る。 バリエーションとして、例えばプログレッシブなジャンルで変拍子が使われているような場合に、ハイハットやライド・シンバル、スネア・ドラム、バス・ドラムのタイミングをずらしたり、スプラッシュ・シンバル (Splash cymbal) やクラッシュ・シンバル (Clash cymbals) 、チャイナ・シンバル (China cymbal) 、タンバリン等をアクセントとして用いる事もある。 8分音符や8分音符の3連符を演奏する際、一部のドラマーは片足のみで叩き通すが、その他のドラマーは8分音符を両足に割り当てて叩く。
ジョージ・コリアスの様な一部のドラマーは、ブラストビートを演奏する際には片足のみを使う事を好む。両足を使って正確な演奏をするのは難しい為である。
ブラストビートの譜例:
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ブラストビートとは、主としてエクストリーム・メタルで用いられるドラム・ビートの一種であり、交互または同時に高速で(主としてバス・ドラムとスネア・ドラムを)打つ事によるビートである。
その音はマシンガンの発射音にも似ていて、爆風をイメージさせ、人間が叩ける速さの限界に挑むような叩き方である。表打ちと裏打ちがある。 ジーン・ホグラン (Gene Hoglan) (ストラッピング・ヤング・ラッド、ダーク・エンジェル)、アレックス・ヘルナンデス(イモレイション)、そしてフロ・モーニエ(クリプトプシー)、ドミネイター(ダーク・フューネラル)らの様な技巧派奏者により、様々なパターンやタイミングも頻繁に用いられている。
ピート・サンドヴァル(テロライザー、モービッド・エンジェル)によるバス・ドラム2打の後スネア・ドラム1打のスタイル、マックス・デュアメル(カタクリズム)によるバス・ドラムを叩く回数の少ないスタイル等も存在する。
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{{翻訳中途|1=[http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Blast_beat&oldid=235116370 英語版 "Blast_beat" 03:11, 30 August 2008 (UTC)]|date=2008年10月}}
'''ブラストビート'''とは、主として[[エクストリーム・メタル]]で用いられる[[ドラム・ビート]]の一種であり、交互または同時に高速で(主として[[バスドラム|バス・ドラム]]と[[スネア・ドラム]]を)打つ事によるビートである。
その音は[[機関銃|マシンガン]]の発射音にも似ていて、爆風をイメージさせ、人間が叩ける速さの限界に挑むような叩き方である。表打ちと裏打ちがある。
[[ジーン・ホグラン]]{{enlink|Gene Hoglan}}([[ストラッピング・ヤング・ラッド]]、[[ダーク・エンジェル (バンド)|ダーク・エンジェル]])、アレックス・ヘルナンデス([[イモレイション]])、そしてフロ・モーニエ([[クリプトプシー]])、ドミネイター([[ダーク・フューネラル]])らの様な技巧派奏者により、様々なパターンやタイミングも頻繁に用いられている。
[[ピート・サンドヴァル]]([[テロライザー]]、[[モービッド・エンジェル]])によるバス・ドラム2打の後スネア・ドラム1打のスタイル、マックス・デュアメル([[カタクリズム]])によるバス・ドラムを叩く回数の少ないスタイル等も存在する。
== 歴史 ==
ブラストビートの起源は、[[1960年代|60年代]]から[[1970年代|70年代]]の[[ジャズ]][[ドラマー]]の演奏にある。それは[[トニー・ウィリアムス]]やアンジェロ・スパンピナート、そして[[サニー・マレイ]]{{enlink|Sunny Murray}}の1964年[[グリニッジ・ヴィレッジ]]での[[アルバート・アイラー]]とのレコーディングの1曲“HOLY GHOST”に顕著である。
[[オールミュージック|オールミュージックガイド]]寄稿者のトム・ユーレクはウィリアムスを「ブラストビートの真の発明者」と評している。<ref>[http://www.allmusic.com/album/the-trio-of-doom-live-mw0000578391 Review of ''The Trio of Doom Live''] by Thom Jurek, [[オールミュージック|オールミュージックガイド]].</ref>
[[ハードコア・パンク]]に於ける起源は、[[D.R.I.]]の1983年のファーストLP収録の“No Sense”や、[[ビースティ・ボーイズ]]のファーストEP「Pollywog Stew」収録の“Riot Fight”まで辿る事が出来る。他にも[[ハートアタック (バンド)|ハートアタック]]{{enlink|Heart Attack (band)|Heart Attack}}、[[クリプティック・スローター]]{{enlink|Cryptic Slaughter|Cryptic Slaughter}}、[[ラーム]]{{enlink|Lärm|Lärm}}、[[シージ]]、[[ヘラシー (バンド)|ヘラシー]]{{enlink|Heresy (band)|Heresy}}らに見る事が出来る。
それらは、[[パワー・ヴァイオレンス]]{{enlink|power violence}}、[[スラッシュコア]]{{enlink|thrashcore}}、[[クラストコア]]、[[グラインドコア]]、[[デスメタル]]、そして[[ブラック・メタル]]に於いて顕著であるが、その他のジャンルに於いても見る事が出来る。
[[ヘヴィメタル|メタル]]に於ける起源は、[[デイヴ・ロンバード]]{{enlink|Dave Lombardo}}([[スレイヤー]])、デイヴ・“グレイヴ”・ホリングスヘッド([[リパルジョン (バンド)|リバルジョン]]{{enlink|Repulsion (band)|Repulsion}})、[[チャーリー・ベナンテ]]{{enlink|Charlie Benante}}([[アンスラックス]]、[[ストームトゥルーパーズ・オブ・デス|SOD]])らにあるとされている。グレイヴはreceived most of the credit for the "single footer."。ベナンテはSODのアルバム『Speak English or Die』の曲“Milk”に於いて、ダブルハンド・ブラストビートを披露し、後にライヴ・アルバム『Live at Budokan』に於いてはシングルハンドで演奏している。しかし、ボーカリストとして[[デスヴォイス]]に於けるグロウルの先駆者としても有名であるドラマーの[[キャム・リー]]{{enlink|Kam Lee}}が、“Reign Of Terror”や“Curse Of The Priest”の様な曲で披露した、[[デス (バンド)|デス]]の1984年のデモにまで遡る事も出来る。Members from Repulsion (back when they were known as Genocide) temporarily joined Death in 1985, so it's been speculated that they started their trademark widespread usage after first hearing it during their short tenure with Death.
ブラストビートがより広範囲に使われる様になった切っ掛けは、[[ナパーム・デス]]の最初期のドラマー[[ミック・ハリス]]{{enlink|Mick Harris}}である。ハリスはそれを、初期ナパーム・デスに於ける楽曲の根本的な特徴とした。As perhaps the most important of innovations、ニューヨークのデスメタル・グループ、[[サフォケイション]]の[[マイク・スミス (音楽)|マイク・スミス]]{{enlink|Mike Smith (musician)}} invented and pioneered the technique of a blast beat that is played with the snare and bass drum synchronized and the cymbals on the off beat, as opposed to the original form, which most attribute to Napalm Death's Mick Harris, where the snare drum alternates with the bass drum and cymbal.
日本では[[SxOxB]]、ROSEROSE等がいち早く導入した。[[Force (バンド)|Force]]の夏目陽一郎、[[Die You Bastard!]]のアイアンフィスト辰嶋、[[324 (バンド)|324]]の坂田がブラストビートの名手として知られている。
== 特徴 ==
初期のブラストビートは、今日に於ける基準と比べると、明らかに遅く、また正確さの面でも到底及ばない。
しかし今日では、ブラストビートと言えば通常180[[bpm]]以上で演奏され、[[グラヴィティ・ロール]]{{enlink|gravity roll}}と呼ばれるワン・ハンド・ロールを含むものは、“グラヴィティ・ブラスト”と呼ばれる。このテクニックはスネアの[[リム (楽器)|リム]]を[[ドラムスティック|スティック]]を前後に固定する為の[[支点 (ドラム)|支点]]{{enlink|Fulcrum (drumming)|Fulcrum}}として用い、1回の腕のストロークでスネアを2度叩くものであり(1度は腕の振り下ろし時、もう1度は腕の振り上げ時)、本来は両手で行う動作を片手で行っている。
典型的なブラストビートは、バス・ドラムとスネア・ドラムが交互に現れ、それに[[ハイハット]]か[[ライド・シンバル]]{{enlink|Ride cymbal}}を同期させた、8分音符のパターンから成る。
バリエーションとして、例えばプログレッシブなジャンルで変拍子が使われているような場合に、ハイハットやライド・シンバル、スネア・ドラム、バス・ドラムのタイミングをずらしたり、[[スプラッシュ・シンバル]]{{enlink|Splash cymbal}}や[[クラッシュ・シンバル]]{{enlink|Clash cymbals}}、[[チャイナ・シンバル]]{{enlink|China cymbal}}、[[タンブリン|タンバリン]]等をアクセントとして用いる事もある。
8分音符や8分音符の3連符を演奏する際、一部のドラマーは片足のみで叩き通すが、その他のドラマーは8分音符を両足に割り当てて叩く。
[[ジョージ・コリアス]]の様な一部のドラマーは、ブラストビートを演奏する際には片足のみを使う事を好む。両足を使って正確な演奏をするのは難しい為である。
ブラストビートの譜例:
<pre style="font-family:'VL ゴシック','Osaka−等幅',IPAMonaGothic,'MS Gothic','MS ゴシック',monospace;">
H- x-x-x-x-x-x-x-x-| H- x-x-x-x-x-x-x-x-| H- x-x-x-x-x-x-x-x-| R- x-x-x-x-x-x-x-x-|
S- o-o-o-o-o-o-o-o-| S- -o-o-o-o-o-o-o-o| S- o-o-o-o-o-o-o-o-| S- oooooooooooooooo|
B- o-o-o-o-o-o-o-o-| B- o-o-o-o-o-o-o-o-| B- oooooooooooooooo| B- o-o-o-o-o-o-o-o-|</pre>
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
*[http://www.drummerworld.com/Drumclinic/Thomaslangblast.html Drummerworld: Thomas Lang - Blastbeats]
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{{ハードコア・パンク}}
{{DEFAULTSORT:ふらすとひいと}}
[[category:演奏技法]]
[[Category:リズム]]
[[category:打楽器]]
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