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東京メトロ丸ノ内線
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丸ノ内線(まるのうちせん)は、東京都豊島区の池袋駅から杉並区の荻窪駅までを結ぶ本線と、中野区の中野坂上駅から杉並区の方南町駅までを結ぶ分岐線(通称:方南町支線)から構成される東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は4号線丸ノ内線および4号線丸ノ内線分岐線。なお、新宿 - 荻窪間と中野坂上 - 方南町間は1972年(昭和47年)まで荻窪線(おぎくぼせん)あるいは荻窪線分岐線と呼ばれていた。
路線名の由来は、東京駅付近の地名である丸の内より。1970年(昭和45年)の住居表示制度実施より千代田区の「丸ノ内」は「丸の内」へと表記が変更されたが、地下鉄線の表記はそれ以降も「丸ノ内線」のまま変更されていない。
車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカーレット」(#f62e36、赤)。路線記号は本線がM、分岐線がMb(2016年11月中旬まではm)。
本線は池袋駅から東京駅を経て新宿駅まで山手線の内側を「コ」の字形に走行し、新宿駅からはそのまま直線的に荻窪駅まで走るルートをとる。分岐線は、本線の中野坂上駅から分岐し、方南町駅まで至る。分岐線の途中に中野車両基地があり、入出庫を兼ねた運用も存在する。使用車両は2000系6両編成と02系6両編成である。
東京地下鉄の路線では銀座線とこの丸ノ内線のみ標準軌で、第三軌条集電方式を採用している。このため、駅や分岐器の前後にデッドセクションが存在するが、丸ノ内線では02系以前から、銀座線より分岐線用に転用された2000形(2000系とは別)をのぞいて車両に電動発電機 (MG) を搭載することで室内灯の消灯を防止していた。
なお、丸ノ内線の建設以降は郊外各線との直通を行う方針に沿う形で架空線式にて建設されたため、東京の地下鉄としては最後の第三軌条方式の路線となった。
規格の違いにより他路線との営業車両による直通運転は行われていないが、赤坂見附駅の国会議事堂前駅側に銀座線との渡り線があり、同線車両の点検整備や留置のために中野工場や中野検車区小石川分室へ回送される列車が通る。過去には同線車両による隅田川花火大会(「花火ライナー」荻窪発浅草行や「新春浅草・荻窪号」)などのイベント臨時列車運行時に利用されることがあった。ただし、銀座線のトンネルは丸ノ内線のトンネルより小さいため、物理的な理由で丸ノ内線の車両が銀座線に入線することはない。
また、都心部の地形の起伏の関係で茗荷谷 - 後楽園間、御茶ノ水 - 淡路町間の神田川橋梁、四ツ谷駅付近と、地上走行区間がこまめに存在することも特徴の一つである。また、地下鉄は用地買収の都合から公道の地下を通す場合が多いが、当路線は私有地の地下を通過している部分が多い。
1995年3月20日に霞ケ関駅などで発生した無差別テロ事件「地下鉄サリン事件」の現場となった路線の一つであり、多数の死傷者を出している。
「丸ノ内線」として開業した池袋 - 新宿間の建設に要した費用は総額278億500万円(予定含む)である。主な内訳は用地費が12億8282万4000円、土木費が150億6922万6000円、諸建物費が8億8062万6000円、軌道費が6億7572万円、電気費が21億4551万円、車両費が37億8292万2000円、電車庫費が1億4635万1000円、測量監督費、総係費等が38億182万1000円である。
「荻窪線」として開業した新宿 - 荻窪間、中野坂上 - 方南町間の建設に要した費用は総額201億3050万円である。主な内訳は土木関係費が109億4146万8000円、電気関係費が14億190万5000円、車両関係費が46億3332万2000円、その他費用が31億5380万5000円である。
本路線の地上区間は計3か所ある。総計は2177.26 m(約2.2 km)である。
1925年(大正14年)3月30日、当時の内務省が告示した「東京都市計画高速度交通機関路線網」の5路線のうち、第4号線新宿駅 - 四谷見附 - 日比谷 - 築地 - 蛎殻町 - 御徒町 - 本郷三丁目 - 竹早町(文京区小日向付近) - 大塚駅間20.0 kmに位置付けられたルートを前身とする路線である。
東京23区の前身にあたる東京市は前述の「内務省告示第56号」に基づいて、同年5月16日に第4号線新宿 - 大塚間の路線免許を取得する。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線渋谷 - 巣鴨間と第5号線池袋 - 洲崎間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の公債があり、財政悪化を懸念した内務省と大蔵省の反対があり、許可を得ることができなかった。
東京市は1932年(昭和7年)10月に都市計画第3号線渋谷駅 - 桜田本郷(現・西新橋付近) - 東京駅前間(8.4 km)および都市計画第4号線新宿 - 四谷見附 - 日比谷 - 築地間の(7.3 km)路線免許(全区間ではなく一部の区間)を、東京横浜電鉄(東急電鉄の前身)系列の総帥、五島慶太が率いる東京高速鉄道に譲渡した。このうち第3号線渋谷 - 新橋間は東京高速鉄道線(現在の銀座線)として開業している。 さらに東京高速鉄道は1937年(昭和12年)2月、第3号線と第4号線を結ぶ連絡線を計画し、四谷見附 - 赤坂見附間(1.4 km)の路線免許を取得する。この計画に合わせて1938年(昭和13年)に開業した赤坂見附駅は、当初から二層構造となっている。
帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され、1941年(昭和16年)9月1日に東京市・東京高速鉄道が所有していたすべての路線免許は営団地下鉄へ有償譲渡された。
営団設立後の1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まったが、営団地下鉄は設立の使命である地下鉄新路線の建設計画を進めた。緊急施工路線として第4号線新宿 - 東京間を建設することとし、四谷見附 - 赤坂見附間を1942年度(昭和17年度)着工、1945年度(昭和20年度)完成、新宿 - 四谷見附間および赤坂見附 - 東京間を1943年度(昭和18年度)着工、1946年度(昭和21年度)完成予定とした。車両120両および新宿車庫計画を含めた建設費用は1億4050万円を計画した。
続いて第4号線東京 - 池袋間(車両162両を含めた建設費用は1億5,506万8,000円)、「五反田線」築地 - 五反田間(車両118両を含めた建設費用は1億1544万6000円)を1942年度(昭和17年度)より順次着工、1947年(昭和22年)以降の完成を目途に建設することを計画した。
そして、1942年(昭和17年)6月5日に四谷見附 - 赤坂見附間の起工式を行い、弁慶濠付近の建設に着手したが、太平洋戦争の戦局悪化により資金、資材、労働力が不足したことから、1944年(昭和19年)6月に建設工事は中止した。
戦後の1946年(昭和21年)12月7日、戦前の「東京都市計画高速度交通機関路線網」(内務省告示第56号)を改訂した戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道網」が告示され、戦後の第4号線は「中野区富士見町 - 新宿駅 - 四ツ谷駅 - 赤坂見附 - 永田町 - 日比谷 - 東京駅 - 神田駅 - 御茶ノ水駅 - 本郷三丁目 - 富坂町 - 池袋駅 - 豊島区向原町」22.1 kmとされた。
この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、1949年(昭和24年)4月28日に第4号線新宿 - 大塚間(大正14年5月16日取得)の起業目論見変更認可を申請し、同年5月23日に新宿 - 池袋間(16.86 km)の路線免許として変更認可を受けた。同年12月12日、営団地下鉄は第4号線のうち池袋 - 神田間7.7 kmの建設を決定し、1951年(昭和26年)3月30日、池袋駅東口で起工式が開催された。
1953年(昭和28年)11月4日には、国鉄神田駅付近を経由することが予算的、工期的、技術的に困難なことが明らかとなり、大手町を経由するルートへの変更を告示する。
このうち、最初に開業した池袋 - 御茶ノ水間は営団地下鉄(現・東京地下鉄)銀座線、大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)御堂筋線・四つ橋線に次ぐ日本4番目の地下鉄として開業。その後、丸の内経由で新宿方面へ順次延伸され、1959年までに池袋 - 新宿間が全通した。
車両の塗色(1970年以降はラインカラー)として採用された赤色(スカーレット)は、当時の鈴木清秀営団総裁と東義胤運転部・車両部分掌理事が当路線の建設に先立って世界各国を視察した際に、飛行機の中で購入したイギリス製タバコの「ベンソン&ヘッジス」の缶の色に魅せられて決めたものである。
前述の戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道網」において、新宿以西は車庫用地(中野車両基地)を確保していた中野富士見町へまっすぐ西進する予定とされ、池袋以西は豊島区向原町に至る路線であった。
都市交通審議会答申第1号に基づいて1957年(昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号では、都市計画第4号線は「荻窪駅 - 馬橋(杉並区) - 高円寺 - 本町通 - 柏木 - 新宿駅 - 四ツ谷駅 - 永田町 - 霞ケ関 - 数寄屋橋 - 東京駅 - 御茶ノ水 - 本郷三丁目 - 茗荷谷 - 池袋駅 - 板橋区向原町」間27.4 kmの本線と「本町通三丁目 - 本郷通二丁目 - 本郷通三丁目 - 富士見町 - 方南町」間2.7 kmの分岐線とされた。すなわち、国鉄中央線の混雑緩和を目的として、青梅街道に沿って荻窪へ延伸することとなり、また車庫周辺の鉄道空白地帯解消を目的に、中野坂上より方南町へ至る分岐線を設けることとなった。同区間は荻窪線の路線名で1962年までに全通。当初より丸ノ内線・荻窪線で一体的な運行を行っていたが、1972年に荻窪線を丸ノ内線に編入し、現在の路線網を形成した。
銀座線と丸ノ内線は共通の運賃であったが、当初の荻窪線区間は別料金制(特殊運賃制度)としていた。銀座線・丸ノ内線の普通運賃は25円均一であったが、荻窪線の普通運賃は20円均一とし、銀座線・丸ノ内線から荻窪線を相互に乗車した場合には、均一運賃とはならず40円の割高な普通運賃になった(定期乗車券も同様に割高となっていた)。ただし、後に日比谷線が開業するなど路線延長に伴い均一運賃では不合理となることから、1961年(昭和36年)11月1日から営団地下鉄全線にキロ制運賃が導入された。
一方、池袋 - 向原間は長らく手付かずの状態であったが、営団地下鉄は1959年(昭和34年)8月、池袋 - 向原間の建設準備に着手することとした。1961年(昭和36年)11月27日、第4号線池袋 - 向原間の地方鉄道敷設免許を申請し、翌1962年(昭和37年)12月8日に同区間の路線免許を取得した。営団地下鉄は1962年(昭和37年)以降、第4号線池袋 - 向原間の建設工事に着手しようとするが、大蔵省から予算の認可が下りず、建設工事は行われなかった。
1962年(昭和37年)6月8日の都市交通審議会答申第6号、それを踏まえて8月29日に告示された建設省告示第2187号により、第4号線は「荻窪及び方南町の各方面より中野坂上、新宿、赤坂見附、西銀座(現・銀座駅)、春日町、池袋及び向原の各方面を経て成増方面に至る路線」に改訂された。しかし、1968年(昭和43年)4月10日の同答申第10号、それを踏まえて12月28日に告示された建設省告示第3731号により、第4号線の終点は成増から池袋へと短縮され、池袋以西の区間は第8号線(有楽町線)として分離された。
1990年代後半に荻窪から練馬区を経由し、朝霞方面への延伸に関する陳情が東京都議会で出されていたが、計画が具体化することなく結局消滅した。
本路線は3期に分けて建設が行われ(当初「丸ノ内線」として建設された区間)、第1期は池袋 - 御茶ノ水間(建設キロ:6.6 km)、第2期は御茶ノ水 - 西銀座(現・銀座駅)間(建設キロ:3.4 km)、第3期は西銀座 - 新宿間(建設キロ:6.9 km)である。
丸ノ内線は当初より最混雑時の運転本数を6両編成2分間隔とすることを想定しており、第2期開業時から各駅ホームは6両編成長に対応した120 mの長さで建設した。第1期開業時は4両編成長に対応した80 mで建設し、将来必要になった時点で2両分40 mを延伸可能な構造とした。後述する荻窪線建設と並行して、丸ノ内線第1期区間の6両編成に対応したホーム延伸工事と信号設備の改良が実施された。
電化方式は先に開業していた銀座線に合わせた第三軌条方式を採用することとし、電圧は直流750 Vとすることとしていたが、変電所を銀座線と共用することや、銀座線は車両基地の収容力不足が深刻なことから、銀座線車両を丸ノ内線の車両基地に回送運転することを考慮して、銀座線と同様の直流600 Vを採用することとなった。
本路線のトンネル区間は、ほとんどが開削工法によって建設している。ただし、丸ノ内線第3期区間は軟弱地盤地域を通過することを考慮して、特殊な工法を採用している。
「荻窪線」として建設された区間(新宿 - 荻窪間・中野坂上 - 方南町間)は全区間が開削工法によって建設している。新宿 - 荻窪間は、ほぼ全区間が青梅街道の地下に建設されたが、開業当時は地上の青梅街道を、全く同じルートを取る都電杉並線(14系統)が走っていた。しばらくは両線は併存する形となっていたが、荻窪線全線開業の翌年である1963年(昭和38年)12月に都電杉並線は廃止され、その後地下鉄側に西新宿駅・東高円寺駅が新設されている。
「荻窪線」として開業した区間も、基本的に各駅ホームは6両編成長に対応した120 mの長さで建設した。ただし、新中野駅は地形の関係で140 mの長さ、方南町駅は110 mの長さである。分岐線駅のホームは輸送需要が少ないことから、6両編成長は必要ないとも考えられたが、中野車両基地から入出庫する本線列車が回送として走るのではなく、営業列車として運転できるよう6両編成長を確保したものである。方南町駅ホームは開業当初から6両編成に対応していたが、6両編成の長さ108 mに対して2 mしか余裕距離がなく、実際は6両編成の乗り入れはしなかった。6両編成の運用を可能にするため、2019年に方南町駅のホーム延伸工事が行われ、同年7月より6両編成の乗り入れが開始された。
新宿 - 中野坂上間(当時西新宿駅は未開業)では、荻窪線建設と並行して(厳密には開削トンネルの埋戻し時期)地下鉄トンネルの上に洞道を構築した。新宿駅西口地下には、当時の淀橋浄水場からの送水幹線や各種地下埋設物を収容する「淀橋共同溝」を構築、淀橋浄水場前から淀橋までの延長982 mには東京電力の「東電淀橋洞道」を、淀橋から警視庁中野警察署前までの延長843 mには東京電力、日本電信電話公社(当時)、東京ガスの「三社共同溝」を構築した。
山手線の新宿駅 - 池袋駅間が開いたU字型の路線のため、山手線内部での比較的短距離の流動が多く、支線以外の路線は山手線と似たダイヤ構成になっており、本線と支線の列車は中野坂上駅で相互連絡するようにダイヤが組まれている。全線を通した所要時分は本線で49分40秒、支線では6分25秒となっている。
平日は新宿駅 - 池袋駅間において、朝夕ラッシュ時約1分半 - 2分間隔(日本一の高密度運転間隔)、日中4分間隔で運行されている。
池袋駅 - 荻窪駅間の直通運転と、池袋駅 - 方南町駅間の支線直通運転を基本とする(日中は概ね30分に1本が池袋駅 - 方南町駅間区間運転)。朝夕と深夜には車両基地への入出庫のため池袋駅 - 茗荷谷駅や中野富士見町駅・新宿三丁目駅・新宿駅・中野坂上駅が始発・終着となる列車が設定されているほか、早朝のみ後楽園駅発池袋駅行きが1本設定されている(前日夜間に方南町駅から後楽園駅北側の留置線まで回送される)。
大晦日から元旦の終夜運転は池袋駅 - 荻窪駅間の全線で実施される。後楽園駅が最寄りの東京ドームでコンサートイベントが行われることから、2010年代前半よりその対応として、一部時間帯で終夜運転列車を増発している。この増発列車の一部は池袋駅 - 銀座駅間の運転であるため、終夜運転実施時の年1回のみではあるが、銀座駅発着が設定されている(銀座駅では非常渡り線を使用して折り返す)。
車両は2000系と02系の本線用6両編成を使用する。
平日朝夕ラッシュ時は約4分間隔、日中は6分40秒間隔(うち本線直通30分間隔)で運行されている。
中野坂上駅 - 方南町駅間を往復する列車と池袋駅 - 方南町駅間の本線直通列車が基本的に運転されている。朝夕と深夜には池袋駅 - 中野富士見町駅間の列車、早朝と休日夕方に中野富士見町発方南町行きの列車、入庫の関係で平日終電頃の2本のみ荻窪発中野富士見町行きの列車(中野坂上駅で方向転換を行う)がある。
車両は2000系と02系の6両編成が使われる。分岐線には本線との直通列車を除き、銀座線で使われていた100形(1968年5月運用終了)、2000形(1993年7月運用終了)、本線運用から外れた500形(1996年7月運用終了)といったすべて非冷房の中古車両が永らく主力として使用されていた。1996年に登場した02系80番台は、本線とのサービス格差をなくす目的で開業以来初めて分岐線専用に新製された。2022年8月のダイヤ改正より全列車が6両編成に統一され、3両編成の02系80番台は運用を離脱した。
本路線は開業以来、保安装置に打子式ATS装置を使用し、最高速度は65 km/h、1981年(昭和56年)11月以降の全線所要時分は本線49分50秒、分岐線7分00秒で運転されていた。その後、1996年5月の西新宿駅開業時に本線の所要時分は50分40秒に増加した。
そして、1998年(平成10年)3月7日には全線での新CS-ATC化を踏まえたダイヤ改正を実施し、02系統一による車両性能の向上(旧型車両と比較して、02系は30 km/h以上の加速性能が優れている)と曲線および分岐器通過速度の向上、さらに本線の最高速度を75 km/hに向上させ、全線所要時分を本線48分15秒(2分25秒短縮)、分岐線6分20秒(40秒短縮)に短縮した。所要時分の短縮により、車両の運用本数を増やさずに朝ラッシュ時に1本の増発を行っており、1時間あたりの最大運転本数は31本(一部1分50秒、平均1分55秒間隔)から32本(1分50秒)に増発した。
2001年(平成13年)2月には本線において、駅停止精度の向上及び定時運転の確保を図るため、定位置停止装置 (TASC) の使用を開始した。続いて分岐線においても2002年(平成14年)11月からTASCの使用を開始している。
その後、後述するホームドアの設置に伴い全線所要時間に見直しがあり、2007年(平成19年)8月30日のダイヤ改正では1分25秒増加した49分40秒となった。分岐線は6分25秒となっている。
旧型車両の塗色である「スカーレット・メジアム」は当時の鈴木清秀総裁と東義胤運転部・車両部分掌理事が当路線の建設に先立って世界各国を視察した際に、飛行機の中で購入したイギリス製タバコの「ベンソン&ヘッジス」の缶の色に魅せられて決めたものである。
1400形は丸ノ内線用の車両ではないが、最初の開業に向けて銀座線において乗務員および整備担当者の教習に使用され、丸ノ内線の開業に大きな役割を果たした車両である。
丸ノ内線の初期開業に先立って、300形に使用する機器や台車など一式を銀座線用に1400形として2両に新製装備し、1953年(昭和28年)6月より半年間、銀座線上で丸ノ内線運転士の運転技術習得運転(試運転)を実施した。同年8月から11月にかけては車両の整備保守担当者に対しても、保守技術の実習が行われた。丸ノ内線開業後、1400形の機器は300形2両に譲った。
当路線の全駅に可動式ホーム柵(ホームドア)が設置されている。ホーム柵は京三製作所製である。
2004年(平成16年)5月8日に分岐線(中野坂上 - 方南町間)にホーム柵を設置し、同年7月31日には中野坂上 - 方南町間で運行される3両編成の区間列車に限ってワンマン運転を開始した。
池袋 - 荻窪間については、2006年(平成18年)6月の荻窪駅と南阿佐ケ谷駅を皮切りに、翌年9月までに本線全25駅に順次設置され、設置された駅から順次稼動を開始した。ただし、銀座駅と御茶ノ水駅は、一度はホーム柵を設置したものの、車両とホームの隙間を調整する工事を行うこととなったため、正式稼働は2008年(平成20年)3月23日からとなった。
ホーム柵設置当初は、車掌が柵の線路側にあるボタンの操作によりホーム柵の開閉を行い(ホーム柵を開けた後車両のドア開放 閉扉時は逆順)、案内放送に「ホームドアを使用しています」を加えた。2007年(平成19年)12月1日より(御茶ノ水・銀座の両駅は翌年3月23日より)、車両ドアと柵が連動して開閉するようになり、車掌は車両側のドアスイッチのみを操作していた。東京地下鉄では本線へのホーム柵設置について、「乗客の安全性向上のため」との見解を示していた。
本線用車両(6両編成)では2005年(平成17年)2月からホームドア連動・ワンマン運転対応改造を実施してきており、2007年(平成19年)8月までに全編成の対応改造を完了した。この時点でホームドア連動、車上CCTV(ホーム監視用モニター)の設置や自動放送装置・車内表示器の改修などが実施された。
その後、2007年11月から2009年(平成21年)1月かけてATO運転を実施するための改造工事が実施された。そして、ATO対応改造車が出揃った2008年12月27日からはTASC運転からATO運転への切り換えが実施された。その後、2009年3月28日より、丸ノ内線全線でワンマン運転を開始した。この間、2008年6月14日より車載メロディが使用開始された。
この時点でATO運転を開始したのは本線池袋 - 荻窪間全線と分岐線中野坂上 - 中野富士見町間を走行する6両編成列車とされた。その後、2010年(平成22年)5月には中野坂上 - 方南町間を走行する3両編成の区間列車においてもATO運転が開始され、丸ノ内線全線全列車においてATO運転が実施されている。
ワンマン運転開始と同時に車載メロディをわずか1年弱で一旦使用を停止し、池袋 - 荻窪間の各駅にて方面毎別の発車メロディを使用開始したが、この発車メロディはすぐに使用中止となり、再び方面別車載メロディを再開させていた。発車メロディの使用中止となった理由は不明である。2012年(平成24年)2月1日より、再び駅別発車メロディの使用を開始した。ただし、四ツ谷駅と池袋駅では放送装置の改修が追いつかなかったため、2月1日の使用開始後数日で使用が休止したが、3月になってから再度使用開始した。また、ラッシュ時には、今まで通りの車載メロディを使用する。ただし、茗荷谷駅では近隣住民からの苦情により、車載メロディ・発車メロディ共に使用を中止していたが、2009年12月21日より早朝・深夜の時間帯(22:00 - 翌日7:30)をのぞき営団時代からの発車ブザーの使用を再開した(早朝・深夜の時間帯は乗務員からの車内放送あるいは車内自動放送のみ)。これには発車メロディの鳴動システムが流用されており、乗務員が運転台の乗降促進を「車上側」から「ホーム側」に切り替えて操作している。
前述の通り、2008年6月14日に車載メロディが、また2009年3月28日からのワンマン運転開始に伴い、茗荷谷駅を除く各駅に従来のブザーに代わり発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。全てスイッチの制作で、塩塚博、福嶋尚哉、谷本貴義、松澤健、熊木理砂、三留研介・若林剛太、串田亨の7組が作曲を手掛けた。
曲名はスイッチの音源リストおよび同社が運営する「鉄道モバイル」による。
方南町駅のホーム6両編成対応化に伴う2019年7月5日のダイヤ改正時に発車メロディが導入されている。全てスイッチの制作で、塩塚と福嶋が作曲を手掛けた。なお、車載メロディは本線と同じ曲を使用する。
2021年(令和3年)度における最混雑区間の混雑率は、A線(新大塚 → 茗荷谷間)で109%、B線(四ツ谷 → 赤坂見附)で96%である。
A線、B線とも東京駅に向かう区間が最混雑区間となっている。A線の最短運転間隔は1分50秒間隔であり、日本一の過密ダイヤによる運行となっている。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
池袋 - 御茶ノ水間が開業した1954年(昭和29年)1月20日当日の池袋駅は見物目的の客が多数押し寄せて大変な混雑となり、営団地下鉄側が臨時出札口を設けて対応にあたるほどで午前10時の時点で池袋駅から乗車した者の数は1万5千人を越えていた。またこの日、神田の商店連合会ではその開通を祝って花火を打ち上げたり神田川に屋形船を運航させたりして大騒ぎだったと当時の新聞に掲載されている。
『東京地下鉄道丸ノ内線建設史』によると、四ツ谷 - 赤坂見附の設計図には、カーブの半径が「182.11」と記載されている。この数値を戦前のヤード・ポンド法に換算すると、ちょうど200ヤードになる。この区間は戦時中の1942年に建設が開始されている(メートル法表記採用は戦後から)。
他の東京メトロ路線では、駅ホームでの接近放送はすべて「まもなく」が文頭に来るが、当路線では「お待たせ致しました」を文頭にした、旧型の接近自動放送が2019年まで使用されていた。またJR線接続駅のうち池袋、御茶ノ水、荻窪で、「国鉄線」を「○○線」と各路線名に言い換えた国鉄分割民営化当初の台詞を、2019年の更新(後述)まで継続していた。
新宿駅 - 新宿三丁目駅は駅間が300 mしかなく、東京メトロの中で一番駅間が短い区間である。
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"text": "路線名の由来は、東京駅付近の地名である丸の内より。1970年(昭和45年)の住居表示制度実施より千代田区の「丸ノ内」は「丸の内」へと表記が変更されたが、地下鉄線の表記はそれ以降も「丸ノ内線」のまま変更されていない。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカーレット」(#f62e36、赤)。路線記号は本線がM、分岐線がMb(2016年11月中旬まではm)。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "本線は池袋駅から東京駅を経て新宿駅まで山手線の内側を「コ」の字形に走行し、新宿駅からはそのまま直線的に荻窪駅まで走るルートをとる。分岐線は、本線の中野坂上駅から分岐し、方南町駅まで至る。分岐線の途中に中野車両基地があり、入出庫を兼ねた運用も存在する。使用車両は2000系6両編成と02系6両編成である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "東京地下鉄の路線では銀座線とこの丸ノ内線のみ標準軌で、第三軌条集電方式を採用している。このため、駅や分岐器の前後にデッドセクションが存在するが、丸ノ内線では02系以前から、銀座線より分岐線用に転用された2000形(2000系とは別)をのぞいて車両に電動発電機 (MG) を搭載することで室内灯の消灯を防止していた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "なお、丸ノ内線の建設以降は郊外各線との直通を行う方針に沿う形で架空線式にて建設されたため、東京の地下鉄としては最後の第三軌条方式の路線となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "規格の違いにより他路線との営業車両による直通運転は行われていないが、赤坂見附駅の国会議事堂前駅側に銀座線との渡り線があり、同線車両の点検整備や留置のために中野工場や中野検車区小石川分室へ回送される列車が通る。過去には同線車両による隅田川花火大会(「花火ライナー」荻窪発浅草行や「新春浅草・荻窪号」)などのイベント臨時列車運行時に利用されることがあった。ただし、銀座線のトンネルは丸ノ内線のトンネルより小さいため、物理的な理由で丸ノ内線の車両が銀座線に入線することはない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "また、都心部の地形の起伏の関係で茗荷谷 - 後楽園間、御茶ノ水 - 淡路町間の神田川橋梁、四ツ谷駅付近と、地上走行区間がこまめに存在することも特徴の一つである。また、地下鉄は用地買収の都合から公道の地下を通す場合が多いが、当路線は私有地の地下を通過している部分が多い。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1995年3月20日に霞ケ関駅などで発生した無差別テロ事件「地下鉄サリン事件」の現場となった路線の一つであり、多数の死傷者を出している。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "「丸ノ内線」として開業した池袋 - 新宿間の建設に要した費用は総額278億500万円(予定含む)である。主な内訳は用地費が12億8282万4000円、土木費が150億6922万6000円、諸建物費が8億8062万6000円、軌道費が6億7572万円、電気費が21億4551万円、車両費が37億8292万2000円、電車庫費が1億4635万1000円、測量監督費、総係費等が38億182万1000円である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "「荻窪線」として開業した新宿 - 荻窪間、中野坂上 - 方南町間の建設に要した費用は総額201億3050万円である。主な内訳は土木関係費が109億4146万8000円、電気関係費が14億190万5000円、車両関係費が46億3332万2000円、その他費用が31億5380万5000円である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "本路線の地上区間は計3か所ある。総計は2177.26 m(約2.2 km)である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1925年(大正14年)3月30日、当時の内務省が告示した「東京都市計画高速度交通機関路線網」の5路線のうち、第4号線新宿駅 - 四谷見附 - 日比谷 - 築地 - 蛎殻町 - 御徒町 - 本郷三丁目 - 竹早町(文京区小日向付近) - 大塚駅間20.0 kmに位置付けられたルートを前身とする路線である。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "東京23区の前身にあたる東京市は前述の「内務省告示第56号」に基づいて、同年5月16日に第4号線新宿 - 大塚間の路線免許を取得する。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線渋谷 - 巣鴨間と第5号線池袋 - 洲崎間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の公債があり、財政悪化を懸念した内務省と大蔵省の反対があり、許可を得ることができなかった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "東京市は1932年(昭和7年)10月に都市計画第3号線渋谷駅 - 桜田本郷(現・西新橋付近) - 東京駅前間(8.4 km)および都市計画第4号線新宿 - 四谷見附 - 日比谷 - 築地間の(7.3 km)路線免許(全区間ではなく一部の区間)を、東京横浜電鉄(東急電鉄の前身)系列の総帥、五島慶太が率いる東京高速鉄道に譲渡した。このうち第3号線渋谷 - 新橋間は東京高速鉄道線(現在の銀座線)として開業している。 さらに東京高速鉄道は1937年(昭和12年)2月、第3号線と第4号線を結ぶ連絡線を計画し、四谷見附 - 赤坂見附間(1.4 km)の路線免許を取得する。この計画に合わせて1938年(昭和13年)に開業した赤坂見附駅は、当初から二層構造となっている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され、1941年(昭和16年)9月1日に東京市・東京高速鉄道が所有していたすべての路線免許は営団地下鉄へ有償譲渡された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "営団設立後の1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まったが、営団地下鉄は設立の使命である地下鉄新路線の建設計画を進めた。緊急施工路線として第4号線新宿 - 東京間を建設することとし、四谷見附 - 赤坂見附間を1942年度(昭和17年度)着工、1945年度(昭和20年度)完成、新宿 - 四谷見附間および赤坂見附 - 東京間を1943年度(昭和18年度)着工、1946年度(昭和21年度)完成予定とした。車両120両および新宿車庫計画を含めた建設費用は1億4050万円を計画した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "続いて第4号線東京 - 池袋間(車両162両を含めた建設費用は1億5,506万8,000円)、「五反田線」築地 - 五反田間(車両118両を含めた建設費用は1億1544万6000円)を1942年度(昭和17年度)より順次着工、1947年(昭和22年)以降の完成を目途に建設することを計画した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "そして、1942年(昭和17年)6月5日に四谷見附 - 赤坂見附間の起工式を行い、弁慶濠付近の建設に着手したが、太平洋戦争の戦局悪化により資金、資材、労働力が不足したことから、1944年(昭和19年)6月に建設工事は中止した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "戦後の1946年(昭和21年)12月7日、戦前の「東京都市計画高速度交通機関路線網」(内務省告示第56号)を改訂した戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道網」が告示され、戦後の第4号線は「中野区富士見町 - 新宿駅 - 四ツ谷駅 - 赤坂見附 - 永田町 - 日比谷 - 東京駅 - 神田駅 - 御茶ノ水駅 - 本郷三丁目 - 富坂町 - 池袋駅 - 豊島区向原町」22.1 kmとされた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、1949年(昭和24年)4月28日に第4号線新宿 - 大塚間(大正14年5月16日取得)の起業目論見変更認可を申請し、同年5月23日に新宿 - 池袋間(16.86 km)の路線免許として変更認可を受けた。同年12月12日、営団地下鉄は第4号線のうち池袋 - 神田間7.7 kmの建設を決定し、1951年(昭和26年)3月30日、池袋駅東口で起工式が開催された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1953年(昭和28年)11月4日には、国鉄神田駅付近を経由することが予算的、工期的、技術的に困難なことが明らかとなり、大手町を経由するルートへの変更を告示する。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "このうち、最初に開業した池袋 - 御茶ノ水間は営団地下鉄(現・東京地下鉄)銀座線、大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)御堂筋線・四つ橋線に次ぐ日本4番目の地下鉄として開業。その後、丸の内経由で新宿方面へ順次延伸され、1959年までに池袋 - 新宿間が全通した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "車両の塗色(1970年以降はラインカラー)として採用された赤色(スカーレット)は、当時の鈴木清秀営団総裁と東義胤運転部・車両部分掌理事が当路線の建設に先立って世界各国を視察した際に、飛行機の中で購入したイギリス製タバコの「ベンソン&ヘッジス」の缶の色に魅せられて決めたものである。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "前述の戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道網」において、新宿以西は車庫用地(中野車両基地)を確保していた中野富士見町へまっすぐ西進する予定とされ、池袋以西は豊島区向原町に至る路線であった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "都市交通審議会答申第1号に基づいて1957年(昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号では、都市計画第4号線は「荻窪駅 - 馬橋(杉並区) - 高円寺 - 本町通 - 柏木 - 新宿駅 - 四ツ谷駅 - 永田町 - 霞ケ関 - 数寄屋橋 - 東京駅 - 御茶ノ水 - 本郷三丁目 - 茗荷谷 - 池袋駅 - 板橋区向原町」間27.4 kmの本線と「本町通三丁目 - 本郷通二丁目 - 本郷通三丁目 - 富士見町 - 方南町」間2.7 kmの分岐線とされた。すなわち、国鉄中央線の混雑緩和を目的として、青梅街道に沿って荻窪へ延伸することとなり、また車庫周辺の鉄道空白地帯解消を目的に、中野坂上より方南町へ至る分岐線を設けることとなった。同区間は荻窪線の路線名で1962年までに全通。当初より丸ノ内線・荻窪線で一体的な運行を行っていたが、1972年に荻窪線を丸ノ内線に編入し、現在の路線網を形成した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "銀座線と丸ノ内線は共通の運賃であったが、当初の荻窪線区間は別料金制(特殊運賃制度)としていた。銀座線・丸ノ内線の普通運賃は25円均一であったが、荻窪線の普通運賃は20円均一とし、銀座線・丸ノ内線から荻窪線を相互に乗車した場合には、均一運賃とはならず40円の割高な普通運賃になった(定期乗車券も同様に割高となっていた)。ただし、後に日比谷線が開業するなど路線延長に伴い均一運賃では不合理となることから、1961年(昭和36年)11月1日から営団地下鉄全線にキロ制運賃が導入された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一方、池袋 - 向原間は長らく手付かずの状態であったが、営団地下鉄は1959年(昭和34年)8月、池袋 - 向原間の建設準備に着手することとした。1961年(昭和36年)11月27日、第4号線池袋 - 向原間の地方鉄道敷設免許を申請し、翌1962年(昭和37年)12月8日に同区間の路線免許を取得した。営団地下鉄は1962年(昭和37年)以降、第4号線池袋 - 向原間の建設工事に着手しようとするが、大蔵省から予算の認可が下りず、建設工事は行われなかった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1962年(昭和37年)6月8日の都市交通審議会答申第6号、それを踏まえて8月29日に告示された建設省告示第2187号により、第4号線は「荻窪及び方南町の各方面より中野坂上、新宿、赤坂見附、西銀座(現・銀座駅)、春日町、池袋及び向原の各方面を経て成増方面に至る路線」に改訂された。しかし、1968年(昭和43年)4月10日の同答申第10号、それを踏まえて12月28日に告示された建設省告示第3731号により、第4号線の終点は成増から池袋へと短縮され、池袋以西の区間は第8号線(有楽町線)として分離された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1990年代後半に荻窪から練馬区を経由し、朝霞方面への延伸に関する陳情が東京都議会で出されていたが、計画が具体化することなく結局消滅した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "本路線は3期に分けて建設が行われ(当初「丸ノ内線」として建設された区間)、第1期は池袋 - 御茶ノ水間(建設キロ:6.6 km)、第2期は御茶ノ水 - 西銀座(現・銀座駅)間(建設キロ:3.4 km)、第3期は西銀座 - 新宿間(建設キロ:6.9 km)である。",
"title": "建設"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "丸ノ内線は当初より最混雑時の運転本数を6両編成2分間隔とすることを想定しており、第2期開業時から各駅ホームは6両編成長に対応した120 mの長さで建設した。第1期開業時は4両編成長に対応した80 mで建設し、将来必要になった時点で2両分40 mを延伸可能な構造とした。後述する荻窪線建設と並行して、丸ノ内線第1期区間の6両編成に対応したホーム延伸工事と信号設備の改良が実施された。",
"title": "建設"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "電化方式は先に開業していた銀座線に合わせた第三軌条方式を採用することとし、電圧は直流750 Vとすることとしていたが、変電所を銀座線と共用することや、銀座線は車両基地の収容力不足が深刻なことから、銀座線車両を丸ノ内線の車両基地に回送運転することを考慮して、銀座線と同様の直流600 Vを採用することとなった。",
"title": "建設"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "本路線のトンネル区間は、ほとんどが開削工法によって建設している。ただし、丸ノ内線第3期区間は軟弱地盤地域を通過することを考慮して、特殊な工法を採用している。",
"title": "建設"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "「荻窪線」として建設された区間(新宿 - 荻窪間・中野坂上 - 方南町間)は全区間が開削工法によって建設している。新宿 - 荻窪間は、ほぼ全区間が青梅街道の地下に建設されたが、開業当時は地上の青梅街道を、全く同じルートを取る都電杉並線(14系統)が走っていた。しばらくは両線は併存する形となっていたが、荻窪線全線開業の翌年である1963年(昭和38年)12月に都電杉並線は廃止され、その後地下鉄側に西新宿駅・東高円寺駅が新設されている。",
"title": "建設"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "「荻窪線」として開業した区間も、基本的に各駅ホームは6両編成長に対応した120 mの長さで建設した。ただし、新中野駅は地形の関係で140 mの長さ、方南町駅は110 mの長さである。分岐線駅のホームは輸送需要が少ないことから、6両編成長は必要ないとも考えられたが、中野車両基地から入出庫する本線列車が回送として走るのではなく、営業列車として運転できるよう6両編成長を確保したものである。方南町駅ホームは開業当初から6両編成に対応していたが、6両編成の長さ108 mに対して2 mしか余裕距離がなく、実際は6両編成の乗り入れはしなかった。6両編成の運用を可能にするため、2019年に方南町駅のホーム延伸工事が行われ、同年7月より6両編成の乗り入れが開始された。",
"title": "建設"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "新宿 - 中野坂上間(当時西新宿駅は未開業)では、荻窪線建設と並行して(厳密には開削トンネルの埋戻し時期)地下鉄トンネルの上に洞道を構築した。新宿駅西口地下には、当時の淀橋浄水場からの送水幹線や各種地下埋設物を収容する「淀橋共同溝」を構築、淀橋浄水場前から淀橋までの延長982 mには東京電力の「東電淀橋洞道」を、淀橋から警視庁中野警察署前までの延長843 mには東京電力、日本電信電話公社(当時)、東京ガスの「三社共同溝」を構築した。",
"title": "建設"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "山手線の新宿駅 - 池袋駅間が開いたU字型の路線のため、山手線内部での比較的短距離の流動が多く、支線以外の路線は山手線と似たダイヤ構成になっており、本線と支線の列車は中野坂上駅で相互連絡するようにダイヤが組まれている。全線を通した所要時分は本線で49分40秒、支線では6分25秒となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "平日は新宿駅 - 池袋駅間において、朝夕ラッシュ時約1分半 - 2分間隔(日本一の高密度運転間隔)、日中4分間隔で運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "池袋駅 - 荻窪駅間の直通運転と、池袋駅 - 方南町駅間の支線直通運転を基本とする(日中は概ね30分に1本が池袋駅 - 方南町駅間区間運転)。朝夕と深夜には車両基地への入出庫のため池袋駅 - 茗荷谷駅や中野富士見町駅・新宿三丁目駅・新宿駅・中野坂上駅が始発・終着となる列車が設定されているほか、早朝のみ後楽園駅発池袋駅行きが1本設定されている(前日夜間に方南町駅から後楽園駅北側の留置線まで回送される)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "大晦日から元旦の終夜運転は池袋駅 - 荻窪駅間の全線で実施される。後楽園駅が最寄りの東京ドームでコンサートイベントが行われることから、2010年代前半よりその対応として、一部時間帯で終夜運転列車を増発している。この増発列車の一部は池袋駅 - 銀座駅間の運転であるため、終夜運転実施時の年1回のみではあるが、銀座駅発着が設定されている(銀座駅では非常渡り線を使用して折り返す)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "車両は2000系と02系の本線用6両編成を使用する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "平日朝夕ラッシュ時は約4分間隔、日中は6分40秒間隔(うち本線直通30分間隔)で運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "中野坂上駅 - 方南町駅間を往復する列車と池袋駅 - 方南町駅間の本線直通列車が基本的に運転されている。朝夕と深夜には池袋駅 - 中野富士見町駅間の列車、早朝と休日夕方に中野富士見町発方南町行きの列車、入庫の関係で平日終電頃の2本のみ荻窪発中野富士見町行きの列車(中野坂上駅で方向転換を行う)がある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "車両は2000系と02系の6両編成が使われる。分岐線には本線との直通列車を除き、銀座線で使われていた100形(1968年5月運用終了)、2000形(1993年7月運用終了)、本線運用から外れた500形(1996年7月運用終了)といったすべて非冷房の中古車両が永らく主力として使用されていた。1996年に登場した02系80番台は、本線とのサービス格差をなくす目的で開業以来初めて分岐線専用に新製された。2022年8月のダイヤ改正より全列車が6両編成に統一され、3両編成の02系80番台は運用を離脱した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "本路線は開業以来、保安装置に打子式ATS装置を使用し、最高速度は65 km/h、1981年(昭和56年)11月以降の全線所要時分は本線49分50秒、分岐線7分00秒で運転されていた。その後、1996年5月の西新宿駅開業時に本線の所要時分は50分40秒に増加した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "そして、1998年(平成10年)3月7日には全線での新CS-ATC化を踏まえたダイヤ改正を実施し、02系統一による車両性能の向上(旧型車両と比較して、02系は30 km/h以上の加速性能が優れている)と曲線および分岐器通過速度の向上、さらに本線の最高速度を75 km/hに向上させ、全線所要時分を本線48分15秒(2分25秒短縮)、分岐線6分20秒(40秒短縮)に短縮した。所要時分の短縮により、車両の運用本数を増やさずに朝ラッシュ時に1本の増発を行っており、1時間あたりの最大運転本数は31本(一部1分50秒、平均1分55秒間隔)から32本(1分50秒)に増発した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2001年(平成13年)2月には本線において、駅停止精度の向上及び定時運転の確保を図るため、定位置停止装置 (TASC) の使用を開始した。続いて分岐線においても2002年(平成14年)11月からTASCの使用を開始している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "その後、後述するホームドアの設置に伴い全線所要時間に見直しがあり、2007年(平成19年)8月30日のダイヤ改正では1分25秒増加した49分40秒となった。分岐線は6分25秒となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "旧型車両の塗色である「スカーレット・メジアム」は当時の鈴木清秀総裁と東義胤運転部・車両部分掌理事が当路線の建設に先立って世界各国を視察した際に、飛行機の中で購入したイギリス製タバコの「ベンソン&ヘッジス」の缶の色に魅せられて決めたものである。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1400形は丸ノ内線用の車両ではないが、最初の開業に向けて銀座線において乗務員および整備担当者の教習に使用され、丸ノ内線の開業に大きな役割を果たした車両である。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "丸ノ内線の初期開業に先立って、300形に使用する機器や台車など一式を銀座線用に1400形として2両に新製装備し、1953年(昭和28年)6月より半年間、銀座線上で丸ノ内線運転士の運転技術習得運転(試運転)を実施した。同年8月から11月にかけては車両の整備保守担当者に対しても、保守技術の実習が行われた。丸ノ内線開業後、1400形の機器は300形2両に譲った。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "当路線の全駅に可動式ホーム柵(ホームドア)が設置されている。ホーム柵は京三製作所製である。",
"title": "ワンマン運転とホーム柵の設置"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2004年(平成16年)5月8日に分岐線(中野坂上 - 方南町間)にホーム柵を設置し、同年7月31日には中野坂上 - 方南町間で運行される3両編成の区間列車に限ってワンマン運転を開始した。",
"title": "ワンマン運転とホーム柵の設置"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "池袋 - 荻窪間については、2006年(平成18年)6月の荻窪駅と南阿佐ケ谷駅を皮切りに、翌年9月までに本線全25駅に順次設置され、設置された駅から順次稼動を開始した。ただし、銀座駅と御茶ノ水駅は、一度はホーム柵を設置したものの、車両とホームの隙間を調整する工事を行うこととなったため、正式稼働は2008年(平成20年)3月23日からとなった。",
"title": "ワンマン運転とホーム柵の設置"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ホーム柵設置当初は、車掌が柵の線路側にあるボタンの操作によりホーム柵の開閉を行い(ホーム柵を開けた後車両のドア開放 閉扉時は逆順)、案内放送に「ホームドアを使用しています」を加えた。2007年(平成19年)12月1日より(御茶ノ水・銀座の両駅は翌年3月23日より)、車両ドアと柵が連動して開閉するようになり、車掌は車両側のドアスイッチのみを操作していた。東京地下鉄では本線へのホーム柵設置について、「乗客の安全性向上のため」との見解を示していた。",
"title": "ワンマン運転とホーム柵の設置"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "本線用車両(6両編成)では2005年(平成17年)2月からホームドア連動・ワンマン運転対応改造を実施してきており、2007年(平成19年)8月までに全編成の対応改造を完了した。この時点でホームドア連動、車上CCTV(ホーム監視用モニター)の設置や自動放送装置・車内表示器の改修などが実施された。",
"title": "ワンマン運転とホーム柵の設置"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "その後、2007年11月から2009年(平成21年)1月かけてATO運転を実施するための改造工事が実施された。そして、ATO対応改造車が出揃った2008年12月27日からはTASC運転からATO運転への切り換えが実施された。その後、2009年3月28日より、丸ノ内線全線でワンマン運転を開始した。この間、2008年6月14日より車載メロディが使用開始された。",
"title": "ワンマン運転とホーム柵の設置"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "この時点でATO運転を開始したのは本線池袋 - 荻窪間全線と分岐線中野坂上 - 中野富士見町間を走行する6両編成列車とされた。その後、2010年(平成22年)5月には中野坂上 - 方南町間を走行する3両編成の区間列車においてもATO運転が開始され、丸ノ内線全線全列車においてATO運転が実施されている。",
"title": "ワンマン運転とホーム柵の設置"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ワンマン運転開始と同時に車載メロディをわずか1年弱で一旦使用を停止し、池袋 - 荻窪間の各駅にて方面毎別の発車メロディを使用開始したが、この発車メロディはすぐに使用中止となり、再び方面別車載メロディを再開させていた。発車メロディの使用中止となった理由は不明である。2012年(平成24年)2月1日より、再び駅別発車メロディの使用を開始した。ただし、四ツ谷駅と池袋駅では放送装置の改修が追いつかなかったため、2月1日の使用開始後数日で使用が休止したが、3月になってから再度使用開始した。また、ラッシュ時には、今まで通りの車載メロディを使用する。ただし、茗荷谷駅では近隣住民からの苦情により、車載メロディ・発車メロディ共に使用を中止していたが、2009年12月21日より早朝・深夜の時間帯(22:00 - 翌日7:30)をのぞき営団時代からの発車ブザーの使用を再開した(早朝・深夜の時間帯は乗務員からの車内放送あるいは車内自動放送のみ)。これには発車メロディの鳴動システムが流用されており、乗務員が運転台の乗降促進を「車上側」から「ホーム側」に切り替えて操作している。",
"title": "ワンマン運転とホーム柵の設置"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "前述の通り、2008年6月14日に車載メロディが、また2009年3月28日からのワンマン運転開始に伴い、茗荷谷駅を除く各駅に従来のブザーに代わり発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。全てスイッチの制作で、塩塚博、福嶋尚哉、谷本貴義、松澤健、熊木理砂、三留研介・若林剛太、串田亨の7組が作曲を手掛けた。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "曲名はスイッチの音源リストおよび同社が運営する「鉄道モバイル」による。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "方南町駅のホーム6両編成対応化に伴う2019年7月5日のダイヤ改正時に発車メロディが導入されている。全てスイッチの制作で、塩塚と福嶋が作曲を手掛けた。なお、車載メロディは本線と同じ曲を使用する。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)度における最混雑区間の混雑率は、A線(新大塚 → 茗荷谷間)で109%、B線(四ツ谷 → 赤坂見附)で96%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "A線、B線とも東京駅に向かう区間が最混雑区間となっている。A線の最短運転間隔は1分50秒間隔であり、日本一の過密ダイヤによる運行となっている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "池袋 - 御茶ノ水間が開業した1954年(昭和29年)1月20日当日の池袋駅は見物目的の客が多数押し寄せて大変な混雑となり、営団地下鉄側が臨時出札口を設けて対応にあたるほどで午前10時の時点で池袋駅から乗車した者の数は1万5千人を越えていた。またこの日、神田の商店連合会ではその開通を祝って花火を打ち上げたり神田川に屋形船を運航させたりして大騒ぎだったと当時の新聞に掲載されている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "『東京地下鉄道丸ノ内線建設史』によると、四ツ谷 - 赤坂見附の設計図には、カーブの半径が「182.11」と記載されている。この数値を戦前のヤード・ポンド法に換算すると、ちょうど200ヤードになる。この区間は戦時中の1942年に建設が開始されている(メートル法表記採用は戦後から)。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "他の東京メトロ路線では、駅ホームでの接近放送はすべて「まもなく」が文頭に来るが、当路線では「お待たせ致しました」を文頭にした、旧型の接近自動放送が2019年まで使用されていた。またJR線接続駅のうち池袋、御茶ノ水、荻窪で、「国鉄線」を「○○線」と各路線名に言い換えた国鉄分割民営化当初の台詞を、2019年の更新(後述)まで継続していた。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "新宿駅 - 新宿三丁目駅は駅間が300 mしかなく、東京メトロの中で一番駅間が短い区間である。",
"title": "その他"
}
] |
丸ノ内線(まるのうちせん)は、東京都豊島区の池袋駅から杉並区の荻窪駅までを結ぶ本線と、中野区の中野坂上駅から杉並区の方南町駅までを結ぶ分岐線から構成される東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は4号線丸ノ内線および4号線丸ノ内線分岐線。なお、新宿 - 荻窪間と中野坂上 - 方南町間は1972年(昭和47年)まで荻窪線(おぎくぼせん)あるいは荻窪線分岐線と呼ばれていた。 路線名の由来は、東京駅付近の地名である丸の内より。1970年(昭和45年)の住居表示制度実施より千代田区の「丸ノ内」は「丸の内」へと表記が変更されたが、地下鉄線の表記はそれ以降も「丸ノ内線」のまま変更されていない。 車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカーレット」(#f62e36、赤)。路線記号は本線がM、分岐線がMb(2016年11月中旬まではm)。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Tokyo Metro logo.svg|20px|東京地下鉄|link=東京地下鉄]] 丸ノ内線
|路線色=#f62e36
|ロゴ=[[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|40px|シンボルマーク]] [[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi branch Line.svg|40px|シンボルマーク]]
|画像=Tokyo-Metro-Series02-2000.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=丸ノ内線を走る[[営団02系電車|02系]]と[[東京メトロ2000系電車|2000系]]([[四ツ谷駅]]付近)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]
|種類=[[地下鉄]]
|路線網=[[東京地下鉄|東京メトロ]]
|起点=[[池袋駅]](本線)<br>[[中野坂上駅]](分岐線)
|終点=[[荻窪駅]](本線)<br>[[方南町駅]](分岐線)
|駅数=28駅(本線25駅・分岐線3駅)<ref name="metro2" />
|輸送実績=2,538,064千[[輸送量の単位|人キロ]]<small>(2019年度)<ref name="passenger numbers">{{Cite web|和書|url= https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19qa041401.xls|title=東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)/運輸|format=XLS|publisher=[[東京都]]|accessdate =2021-07-31}}</ref></small>
|1日利用者数=
|路線記号=M、Mb
|路線番号=4号線
|路線色3={{Legend2|#f62e36|スカーレット}}
|開業=[[1954年]][[1月20日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東京地下鉄]]
|運営者=東京地下鉄
|車両基地=[[中野車両基地|中野検車区]]、[[小石川車両基地|中野検車区小石川分室]]
|使用車両=[[東京メトロ2000系電車|2000系]]・[[営団02系電車|02系]]
|路線構造=
|路線距離=24.2 [[キロメートル|km]](本線)<ref name="metro2" /><br>3.2 km(分岐線)<ref name="metro2" />
|営業キロ=
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]])<ref name="metro2">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211017105609/http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|title=令和3年度 地下鉄事業の現況|work=7.営業線の概要|date=2021-10|archivedate=2021-10-17|accessdate=2021-10-17|publisher=[[日本地下鉄協会|一般社団法人日本地下鉄協会]]|format=PDF|language=日本語|pages=3 - 4|deadlinkdate=}}</ref>
|線路数=[[複線]]
|複線区間=全区間
|電化方式=[[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]]([[第三軌条方式]])<ref name="metro2" />
|最大勾配 =35 [[パーミル|‰]]<ref name="Marunouchi-Const2-249-250">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.249 - 250。</ref><ref name="Ogikubo-Const-138">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、p.138。</ref>
|最小曲線半径=本線:140 m(銀座駅付近)<ref name="Marunouchi-Const2-8">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、p.8。</ref>{{Refnest|group="注釈"|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)では「一部に120 m、140 mがあるが、原則としては160 m」とあるが<ref name="Marunouchi-Const2-249">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、p.249。</ref>、「120 m」の表記はおそらく誤記。}}<br>分岐線:125 m([[中野区]][[本町 (中野区)|本町]]三丁目付近)<ref name="Ogikubo-Const-138"/>
|閉塞方式=速度制御式
|保安装置=[[自動列車制御装置|新CS-ATC]]<br>[[自動列車運転装置|ATO]](全線)
|最高速度=75 [[キロメートル毎時|km/h]](本線)<ref name="metro2" /><br>65 km/h(分岐線)<ref name="metro2" />
|路線図=File:丸ノ内線案内.png
}}
'''丸ノ内線'''(まるのうちせん)は、[[東京都]][[豊島区]]の[[池袋駅]]から[[杉並区]]の[[荻窪駅]]までを結ぶ本線と、[[中野区]]の[[中野坂上駅]]から杉並区の[[方南町駅]]までを結ぶ'''分岐線'''(通称:'''方南町支線'''{{refnest|group="注釈"|和久田康雄『日本の地下鉄』<ref>和久田康雄『日本の地下鉄』岩波書店〈岩波新書〉、1987年、pp.102-103</ref>に「方南町支線」の表記例がみられる。}})から構成される[[東京地下鉄]](東京メトロ)が運営する[[鉄道路線]]である。『[[鉄道要覧]]』における名称は'''4号線丸ノ内線'''および'''4号線丸ノ内線分岐線'''。なお、新宿 - 荻窪間と中野坂上 - 方南町間は[[1972年]]([[昭和]]47年)まで'''荻窪線'''(おぎくぼせん)あるいは'''荻窪線分岐線'''と呼ばれていた。
路線名の由来は、東京駅付近の地名である[[丸の内]]より。[[1970年]](昭和45年)の[[住居表示]]制度実施より[[千代田区]]の「丸ノ内」は「丸の内」へと表記が変更されたが、地下鉄線の表記はそれ以降も「丸ノ内線」のまま変更されていない{{Efn|なお、千代田線[[二重橋前駅]]の副駅名は「丸の内」。}}。
車体および路線図や乗り換え案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「[[スカーレット]]」(#f62e36、赤)<ref>[https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/cars/working/marunouchi_02/index.html 丸ノ内線02系] - 東京メトロ</ref><ref name="color">{{Cite web|和書|url=https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210604113943/https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|title=東京メトロ オープンデータ 開発者サイト|archivedate=2021-06-04|accessdate=2021-06-04|publisher=東京地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。路線記号は本線が'''M'''、分岐線が'''Mb'''{{Efn|name="BranchLineLetter"|丸ノ内線分岐線を意味する'''M'''arunouchi '''b'''ranch line<ref group="報道" name="Numbering" />の頭文字。ただし特に区別しない場合、分岐線区間も'''M'''の路線記号で案内されることが多い。}}(2016年11月中旬までは'''m'''<ref group="報道" name="Numbering"/>)。
== 概要 ==
{{東京メトロ丸ノ内線路線図}}
本線は[[池袋駅]]から[[東京駅]]を経て[[新宿駅]]まで[[山手線]]の内側を「コ」の字形に走行し<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/95674/3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210920001546/https://trafficnews.jp/post/95674/3|title=東京メトロ丸ノ内線 なぜ「コ」の字型? 見方を変えると放射状 都心を目指した2路線|website=乗りものニュース|date=2020-04-22|accessdate=2021-09-20|page=3|archivedate=2021-09-20}}</ref><ref group="注釈">[[新宿]]・[[池袋]]の2つの副都心のターミナル駅からそれぞれ[[丸の内]]などの[[都心]]・[[中心業務地区]] (CBD) を結ぶ線形となっている。</ref>、新宿駅からはそのまま直線的に荻窪駅まで走るルートをとる<ref group="注釈">池袋駅から淡路町駅付近までは南東方向に、淡路町駅から銀座駅までは南南西方向、銀座駅から中野坂上駅までほぼ北西方向、中野坂上駅から新高円寺駅までは西方向、新高円寺駅から荻窪駅までは北西方向を向くといった経路をとる。</ref>。分岐線は、本線の中野坂上駅から分岐し、方南町駅まで至る。分岐線の途中に[[中野車両基地]]があり、入出庫を兼ねた運用も存在する。使用車両は[[東京メトロ2000系電車|2000系]]6両編成と[[営団02系電車|02系]]6両編成である。
東京地下鉄の路線では銀座線とこの丸ノ内線のみ[[標準軌]]で、[[第三軌条方式|第三軌条集電方式]]を採用している。このため、駅や分岐器の前後に[[デッドセクション]]が存在するが、丸ノ内線では02系以前から、銀座線より分岐線用に転用された[[営団2000形電車|2000形]](2000系とは別)をのぞいて車両に[[電動発電機]] (MG) を搭載することで室内灯の消灯を防止していた。
なお、丸ノ内線の建設以降は郊外各線との直通を行う方針に沿う形で[[架空電車線方式|架空線式]]にて建設されたため、東京の地下鉄としては最後の第三軌条方式の路線となった。
規格の違いにより他路線との営業車両による[[直通運転]]は行われていないが、[[赤坂見附駅]]の国会議事堂前駅側に[[東京メトロ銀座線|銀座線]]との渡り線があり、同線車両の点検整備や留置のために中野工場や[[小石川車両基地|中野検車区小石川分室]]へ回送される列車が通る。過去には同線車両による[[隅田川花火大会]](「花火ライナー」荻窪発浅草行や「新春浅草・荻窪号」)などのイベント臨時列車運行時に利用されることがあった。ただし、銀座線のトンネルは丸ノ内線のトンネルより小さいため、物理的な理由で丸ノ内線の車両が銀座線に入線することはない。
<gallery widths="200px">
Nakano kenshaku 1.jpg|中野車両基地に並ぶ02系
KoishikawaDepot_2019.jpg|小石川車両基地に並ぶ02系
</gallery>
また、都心部の地形の起伏の関係で茗荷谷 - 後楽園間、御茶ノ水 - 淡路町間の[[神田川 (東京都)|神田川]]橋梁、[[四ツ谷駅]]付近と、地上走行区間がこまめに存在することも特徴の一つである。また、地下鉄は用地買収の都合から[[公道]]の地下を通す場合が多いが、当路線は私有地の地下を通過している部分が多い。
[[1995年]][[3月20日]]に[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]などで発生した無差別テロ事件「[[地下鉄サリン事件]]」の現場となった路線の一つであり、多数の死傷者を出している。
[[File:Ochanomizu Crossing 2020-03-17.jpg|thumb|200px|none|御茶ノ水駅付近]]
[[File:Tokyo metro map marunouchi.png|360px|thumb|none|丸ノ内線の位置]]
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):
** 本線:池袋駅 - 荻窪駅間 24.2 [[キロメートル|km]](うち地上部:2.2 km)<ref name="metro2" />
** 分岐線:中野坂上駅 - 方南町駅間 3.2 km<ref name="metro2" />
* [[軌間]]:1,435 [[ミリメートル|mm]]<ref name="metro2" />
* 駅数:28駅(本線25駅(起終点駅含む)・分岐線3駅(中野坂上駅を除く))<ref name="metro2" />
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]]、[[第三軌条方式]])<ref name="metro2" />
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:速度制御式([[自動列車制御装置|新CS-ATC]])・[[自動列車運転装置|ATO]](全線)
*[[列車無線]]方式:[[誘導無線]] (IR) 方式
* 最高速度:75 [[キロメートル毎時|km/h]](本線)・65 km/h(分岐線)(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 平均速度:37.2 km/h(本線)・34.9 km/h(分岐線)(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* [[表定速度]]:29.2 km/h(本線)・29.9 km/h(分岐線)(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 全線所要時分:49分40秒(本線)・6分25秒(分岐線)(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 最急勾配:35 [[パーミル|‰]]
** 本線の[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]] - [[四ツ谷駅]]間の各区間<ref name="Marunouchi-Const2-249"/>と分岐線<ref name="Ogikubo-Const-285">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.285 - 287。</ref>([[中野新橋駅]] - [[中野富士見町駅]]間を除く<ref name="Ogikubo-Const-285"/>)にある。
** 本線ではないが、中野富士見町駅から中野車両基地への入出庫線には、50 ‰の急勾配がある<ref name="Ogikubo-Const-213">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、p.213。</ref>
* [[車両基地]]:[[中野車両基地|中野検車区]]、[[小石川車両基地|中野検車区小石川分室]]
* 工場:[[中野車両基地#中野工場|中野工場]]
* 地上区間:茗荷谷・後楽園・御茶ノ水・四ツ谷の各駅付近([[#地上区間|後節]]参照)
* 2010年度までに本線・分岐線の全列車が[[自動列車運転装置]] (ATO) にて自動運転を行っている<ref name="ATO">レールアンドテック出版『鉄道車両と技術』No.177記事「ATOの技術」参照。</ref>。
=== 建設費用 ===
「丸ノ内線」として開業した池袋 - 新宿間の建設に要した費用は総額278億500万円(予定含む)である<ref name="Marunouchi-Const1-33">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、p.33。</ref>。主な内訳は用地費が12億8282万4000円、土木費が150億6922万6000円、諸建物費が8億8062万6000円、軌道費が6億7572万円、電気費が21億4551万円、車両費が37億8292万2000円、電車庫費が1億4635万1000円、測量監督費、総係費等が38億182万1000円である<ref name="Marunouchi-Const1-33"/>。
「荻窪線」として開業した新宿 - 荻窪間、中野坂上 - 方南町間の建設に要した費用は総額201億3050万円である<ref name="Ogikubo-Const-14">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.14・93。</ref>。主な内訳は土木関係費が109億4146万8000円<ref name="Ogikubo-Const-14"/>、電気関係費が14億190万5000円<ref name="Ogikubo-Const-14"/>、車両関係費が46億3332万2000円<ref name="Ogikubo-Const-14"/>、その他費用が31億5380万5000円である<ref name="Ogikubo-Const-14"/>。
=== 地上区間 ===
本路線の地上区間は計3か所ある。総計は2177.26 m(約2.2 km)である<ref name="Marunouchi-Const1-278">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.278 - 279。</ref>。
; 茗荷谷 - 後楽園付近:1797.02 m<ref name="Marunouchi-Const1-143">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、p.143。</ref><ref name="Marunouchi-Const1-278"/>
:茗荷谷駅 - 安藤坂道路のトンネル(正式なトンネル名ではない)入口までの延長1,133 m{{Refnest|group="注釈"|name="茗荷谷"|池袋駅方面から進行して、茗荷谷駅隧道終端は3 K033.000 m、安藤坂の隧道入口は4 K166.000 m、隧道終端は4 K535.000 mと書かれている。後楽園駅から本郷三丁目駅に向かった隧道入口は5 K199.02 mと書かれている<ref name="Marunouchi-Const1-74-75-1">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.74 - 75の別図1。</ref>}}<ref name="Marunouchi-Const1-143"/>。途中の安藤坂道路と立体交差する箇所はトンネル構造(延長369 m)である<ref name="Marunouchi-Const1-143"/><ref name="Marunouchi-Const1-74-75-1"/>。安藤坂道路のトンネル出口 - 後楽園駅 - 本郷三丁目駅に向かう延長664.02 m<ref name="Marunouchi-Const1-143"/><ref name="Marunouchi-Const1-74-75-1"/>。
:地上区間においては[[踏切]]とはせず、[[立体交差]]を原則としたことから<ref name="Marunouchi-Const2-27">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.27 - 29。</ref>、茗荷谷駅 - 安藤坂道路のトンネルまで、約1 kmの区間にもかかわらず7か所もの[[跨線橋]]があり<ref name="Marunouchi-Const2-27"/>、小石川車両基地付近は、築堤構造となることから交差道路4か所は道路函渠(どうろかんきょ)構造である<ref name="Marunouchi-Const2-27"/>。
:この付近を地上に建設したのは、周辺の地形を考慮したこと、建設費用の削減、当時の後楽園駅には地下鉄5号線([[東京メトロ東西線|東西線]])が通る計画があり、この関係で駅位置が制約されたためである<ref name="Marunouchi-Const1-18">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.17 - 18。</ref>。計画変更で、地下鉄5号線(→後に地下鉄6号線([[都営地下鉄三田線]]))は道路下に建設することとなり、問題はなくなった<ref name="Marunouchi-Const1-18"/>。
; 御茶ノ水駅付近神田川橋梁と御茶ノ水駅中央・総武線跨線橋:122.24 m(神田川橋梁付近82.1 m・御茶ノ水駅跨線橋約40.1 m){{Refnest|group="注釈"|name="御茶ノ水駅隧道"|御茶ノ水駅隧道終端6 K668.020 m、御茶ノ水橋梁の中心位置6 K709.070 m、国鉄中央・総武線跨線橋中心位置6 K769.679 m、隧道入口6 K790.257 mと書かれている<ref name="Marunouchi-Const1-74-75-2">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.74 - 75の別図2。</ref>。}}<ref name="Marunouchi-Const1-278"/>
:御茶ノ水駅付近で神田川を橋梁で渡る<ref name="Marunouchi-Const2-75">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.75 - 78。</ref>。この区間は82.1 mで<ref name="Marunouchi-Const1-74-75-2"/>、神田川橋梁は横河橋梁製作所(現:[[横河ブリッジ]])製<ref name="Marunouchi-Const2-75"/>、延長は36.0 mである<ref name="Marunouchi-Const2-75"/>。曲線半径180 mの区間にあり、淡路町駅方面に向かって下り18 ‰の勾配区間に位置することから、左右の橋台で65 cmの高低差がある<ref name="Marunouchi-Const2-75"/>。
:[[中央線快速|中央快速線]]並びに[[中央・総武緩行線]]御茶ノ水駅の地下を横切るが、丸ノ内線建設史(上巻)によれば、この区間(延長約40.1 m)は地下区間ではなく、地上区間([[跨線橋]]、鉄道同士の[[立体交差]])となっている<ref name="Marunouchi-Const1-74-75-2"/>。丸ノ内線が地下を通過するにあたり、中央快速線は[[プレストレスト・コンクリート橋|PC桁橋]]<ref name="Marunouchi-Const2-78">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.78 - 81。</ref>、中央・総武緩行線はコンクリートの壁式ラーメン構造で軌道を支持してから、丸ノ内線のトンネルを構築している<ref name="Marunouchi-Const2-78"/>。
; 四ツ谷駅付近258.0 m<ref name="Marunouchi-Const1-278"/>
:赤坂見附駅 - 四谷見附(四ツ谷)間は、戦前に計画・[[太平洋戦争]]中に営団が建設に着手しており、国鉄中央線の地下を通す計画であったが<ref name="Marunouchi-Const2-120">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.120 - 121。</ref>、戦局の悪化に伴い中止となっていた(沿革の項目を参照)<ref name="Marunouchi-Const2-120"/>。戦前の計画では四ツ谷駅を地下で通すことから、その先の新宿方面は当時の[[防空]]対策([[空襲]]対策)もあって<ref name="Marunouchi-Const2-120"/>地下深くを通る計画で、建設費用の大幅な増加が見込まれた<ref name="Marunouchi-Const2-120"/>。
:しかし、戦後の計画では四ツ谷駅を地上(国鉄中央線の上を跨ぐ)で通すことで<ref name="Marunouchi-Const2-120"/>、新宿方面の地下トンネルは浅い構造となり、建設費用を大幅に節約することに繋がった<ref name="Marunouchi-Const2-120"/>。ただし、赤坂見附駅から四ツ谷駅に向かって、上り35 ‰の急勾配が約650 mにわたり連続することとなった<ref name="Marunouchi-Const2-120"/>。後年の[[東京メトロ南北線|南北線]]建設時、連絡通路の新設に伴って、新宿方面の地上区間には人工地盤が設けられている<ref name="Namboku-Const545">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.545 - 548。</ref>。
== 沿革 ==
=== 戦前 ===
[[1925年]]([[大正]]14年)[[3月30日]]、当時の[[内務省 (日本) |内務省]]が告示した「[[大正14年内務省告示第56号|東京都市計画高速度交通機関路線網]]」の5路線<ref>大正14年内務省告示第56号 {{NDLJP|2955926/9}}</ref>のうち、第4号線[[新宿駅]] - [[四谷|四谷見附]] - [[日比谷]] - [[築地]] - [[日本橋蛎殻町|蛎殻町]] - [[御徒町]] - 本郷三丁目 - 竹早町([[文京区]][[小日向]]付近) - [[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]間20.0 kmに位置付けられたルートを前身とする路線である<ref name="Marunouchi-Const1-295">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.295 - 299。</ref>。
[[東京都区部|東京23区]]の前身にあたる[[東京市]]は前述の「内務省告示第56号」に基づいて、同年[[5月16日]]に第4号線新宿 - 大塚間の路線免許を取得する<ref name="Marunouchi-Const1-300">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.300 - 305・316。</ref>。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線[[渋谷駅|渋谷]] - [[巣鴨駅|巣鴨]]間<ref group="注釈">現在(戦後)の都市計画第3号線([[東京メトロ銀座線]])とは異なる。</ref>と第5号線[[池袋駅|池袋]] - [[洲崎 (東京都)|洲崎]]間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の[[公債]]があり、財政悪化を懸念した内務省と[[大蔵省]]の反対があり、許可を得ることができなかった。
東京市は[[1932年]](昭和7年)10月に都市計画第3号線[[渋谷駅]] - 桜田本郷(現・[[西新橋]]付近) - [[東京駅]]前間(8.4 km)および都市計画第4号線新宿 - 四谷見附 - 日比谷 - 築地間の(7.3 km)路線免許(全区間ではなく一部の区間)を、[[東京横浜電鉄]]([[東急電鉄]]の前身)系列の総帥、[[五島慶太]]が率いる[[東京高速鉄道]]に譲渡した<ref name="Marunouchi-Const1-300"/>。このうち第3号線渋谷 - 新橋間は東京高速鉄道線(現在の[[東京メトロ銀座線|銀座線]])として開業している。
さらに東京高速鉄道は1937年(昭和12年)2月、第3号線と第4号線を結ぶ連絡線を計画し、[[四ツ谷|四谷見附]] - 赤坂見附間(1.4 km)の路線免許を取得する<ref name="Marunouchi-Const1-300"/>。この計画に合わせて[[1938年]]([[昭和]]13年)に開業した[[赤坂見附駅]]は、当初から二層構造となっている。
=== 営団地下鉄の設立 ===
[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)が設立され、[[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]に東京市・東京高速鉄道が所有していたすべての路線免許は営団地下鉄へ有償譲渡された<ref name="Marunouchi-Const1-300"/>。
営団設立後の[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]、[[太平洋戦争]]が始まったが、営団地下鉄は設立の使命である地下鉄新路線の建設計画を進めた<ref name="Marunouchi-Const1-84">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.84 - 86。</ref>。緊急施工路線として第4号線新宿 - 東京間を建設することとし<ref name="Marunouchi-Const1-84"/>、四谷見附 - 赤坂見附間を[[1942年]]度(昭和17年度)着工、[[1945年]]度(昭和20年度)完成、新宿 - 四谷見附間および赤坂見附 - 東京間を[[1943年]]度(昭和18年度)着工、1946年度(昭和21年度)完成予定とした<ref name="Marunouchi-Const1-84"/>。車両120両および新宿車庫計画を含めた建設費用は1億4050万円を計画した<ref name="Marunouchi-Const1-84"/>。
続いて第4号線東京 - 池袋間(車両162両を含めた建設費用は1億5,506万8,000円)、「五反田線」築地 - 五反田<ref group="注釈">「五反田線」は築地 - 銀座 - 日比谷 - 南佐久間町(現・[[西新橋]]付近) - [[泉岳寺駅|泉岳寺前]] - 五反田 - [[東急目蒲線]](当時)[[不動前駅]]間の本線と泉岳寺前 - 品川間の分岐線。</ref>間(車両118両を含めた建設費用は1億1544万6000円)を1942年度(昭和17年度)より順次着工<ref name="Marunouchi-Const1-84"/>、[[1947年]](昭和22年)以降の完成を目途に建設することを計画した<ref name="Marunouchi-Const1-84"/>。
そして、[[1942年]](昭和17年)6月5日に四谷見附 - 赤坂見附間の起工式を行い、弁慶濠付近の建設に着手したが<ref name="Marunouchi-Const1-84"/><ref name="eidan29-30">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.29-30。</ref><ref name="eidan563">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.563。</ref>、[[太平洋戦争]]の戦局悪化により資金、資材、労働力が不足したことから、[[1944年]](昭和19年)6月に建設工事は中止した<ref name="Marunouchi-Const1-84"/>。
=== 戦後 ===
戦後の[[1946年]](昭和21年)[[12月7日]]、戦前の「東京都市計画高速度交通機関路線網」(内務省告示第56号)を改訂した[[戦災復興院告示第252号|戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道網」]]が告示され<ref name="Marunouchi-Const1-97">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.97 - 98。</ref>、戦後の第4号線は「中野区富士見町 - [[新宿駅]] - [[四ツ谷駅]] - 赤坂見附 - 永田町 - 日比谷 - [[東京駅]] - [[神田駅 (東京都)|神田駅]] - [[御茶ノ水駅]] - 本郷三丁目 - 富坂町 - [[池袋駅]] - 豊島区[[向原 (板橋区)|向原町]]」22.1 kmとされた<ref name="eidan33">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.33。</ref><ref name="Marunouchi-Const1-97"/>。
この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、[[1949年]](昭和24年)[[4月28日]]に第4号線新宿 - 大塚間(大正14年5月16日取得)の起業目論見変更認可を申請し、同年[[5月23日]]に新宿 - 池袋間(16.86 km)の路線免許として変更認可を受けた<ref name="Marunouchi-Const1-300"/>{{Refnest|group="注釈"|丸ノ内線(池袋 - 新宿間)の路線免許は、池袋 - 赤坂見附間および四ツ谷 - 新宿間は大正14年5月に東京市が取得した路線免許、赤坂見附 - 四ツ谷間は東京高速鉄道が昭和12年2月に取得した路線免許の起業目論見変更扱いとなっている<ref name="Marunouchi-Const1-316">[[#Morunouchi-Const1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、p.316。</ref>。}}。同年[[12月12日]]、営団地下鉄は第4号線のうち池袋 - 神田間7.7 kmの建設を決定し<ref name="eidan33"/>、[[1951年]](昭和26年)3月30日、池袋駅東口で起工式が開催された<ref name="eidan569">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.569。</ref>。
[[1953年]](昭和28年)[[11月4日]]には、[[日本国有鉄道|国鉄]][[神田駅 (東京都)|神田駅]]付近を経由することが予算的、工期的、技術的に困難なことが明らかとなり、大手町を経由するルートへの変更を告示する。
このうち、最初に開業した池袋 - 御茶ノ水間は営団地下鉄(現・東京地下鉄)[[東京メトロ銀座線|銀座線]]、[[大阪市営地下鉄]](現・[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]])[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]・[[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]に次ぐ日本4番目の地下鉄として開業。その後、丸の内経由で新宿方面へ順次延伸され、[[1959年]]までに池袋 - 新宿間が全通した。
車両の塗色(1970年以降はラインカラー)として採用された赤色(スカーレット)は、当時の鈴木清秀営団総裁と[[関義臣#家族|東義胤]]運転部・車両部分掌理事が当路線の建設に先立って世界各国を視察した際に、[[飛行機]]の中で購入した[[イギリス]]製[[タバコ]]の「[[ベンソン&ヘッジス]]」の缶の色に魅せられて決めたものである<ref name="RJ794_111">{{Cite journal|和書|author=里田啓一(元営団地下鉄車両部長)|title=【連載】私の鉄道人生75年史-第10回 再び本社車両課に勤務(その2)-日比谷線3000系の設計-|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2007-10-01|volume=57|issue=第10号(通巻第794号)|page=111|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
=== 荻窪線の建設と向原方面への延伸 ===
前述の戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道網」において、新宿以西は車庫用地([[中野車両基地]])を確保していた中野富士見町へまっすぐ西進する予定とされ、池袋以西は豊島区[[向原 (板橋区)|向原町]]に至る路線であった<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>。
[[都市交通審議会答申第1号]]に基づいて[[1957年]](昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号では、都市計画第4号線は「荻窪駅 - 馬橋(杉並区) - [[高円寺]] - [[本町 (中野区)|本町通]] - [[西新宿|柏木]] - 新宿駅 - 四ツ谷駅 - 永田町 - [[霞が関|霞ケ関]] - [[数寄屋橋]] - 東京駅 - 御茶ノ水 - 本郷三丁目 - 茗荷谷 - 池袋駅 - 板橋区向原町」間27.4 kmの本線と「本町通三丁目 - 本郷通二丁目 - 本郷通三丁目 - 富士見町 - 方南町」間2.7 kmの分岐線とされた<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>。すなわち、国鉄[[中央本線|中央線]]の混雑緩和を目的として、[[青梅街道]]に沿って荻窪へ延伸することとなり、また車庫周辺の[[鉄道空白地帯]]解消を目的に、中野坂上より方南町へ至る分岐線を設けることとなった<ref name="Ogikubo-Const-25">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.25 - 26。</ref>。同区間は'''荻窪線'''の路線名で[[1962年]]までに全通。当初より丸ノ内線・荻窪線で一体的な運行を行っていたが、[[1972年]]に荻窪線を丸ノ内線に編入し、現在の路線網を形成した。
銀座線と丸ノ内線は共通の[[運賃]]であったが、当初の荻窪線区間は別料金制(特殊運賃制度)としていた<ref name="Ogikubo-Const-17">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.17・84 - 85。</ref>。銀座線・丸ノ内線の普通運賃は25円均一であったが、荻窪線の普通運賃は20円均一とし<ref name="Ogikubo-Const-17"/>、銀座線・丸ノ内線から荻窪線を相互に乗車した場合には、均一運賃とはならず40円の割高な普通運賃になった([[定期乗車券]]も同様に割高となっていた)<ref name="Ogikubo-Const-17"/>。ただし、後に[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]が開業するなど路線延長に伴い均一運賃では不合理となることから<ref name="Ogikubo-Const-17"/>、[[1961年]](昭和36年)11月1日から営団地下鉄全線にキロ制運賃が導入された<ref name="Ogikubo-Const-17"/>。
一方、池袋 - 向原間は長らく手付かずの状態であったが、営団地下鉄は[[1959年]](昭和34年)8月、池袋 - 向原間の建設準備に着手することとした<ref name="Marunouchi-Const1-290">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.290 - 291。</ref>。[[1961年]](昭和36年)[[11月27日]]、第4号線池袋 - 向原間の地方鉄道敷設免許を申請し、翌[[1962年]](昭和37年)12月8日に同区間の路線免許を取得した<ref name="Ogikubo-Const-399">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.399 - 400。</ref>。営団地下鉄は[[1962年]](昭和37年)以降、第4号線池袋 - 向原間の建設工事に着手しようとするが、[[大蔵省]]から予算の認可が下りず、建設工事は行われなかった。
[[1962年]](昭和37年)[[6月8日]]の[[都市交通審議会答申第6号]]、それを踏まえて[[8月29日]]に告示された建設省告示第2187号により、第4号線は「荻窪及び方南町の各方面より中野坂上、新宿、赤坂見附、西銀座(現・[[銀座駅]])、春日町、池袋及び向原の各方面を経て[[成増]]方面に至る路線」に改訂された<ref name="Tozai-Const38">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.38 - 40。</ref>。しかし、[[1968年]](昭和43年)[[4月10日]]の[[都市交通審議会答申第10号|同答申第10号]]、それを踏まえて[[12月28日]]に告示された建設省告示第3731号により、第4号線の終点は成増から'''池袋'''へと短縮され、池袋以西の区間は'''第8号線'''([[東京メトロ有楽町線|有楽町線]])として分離された<ref name="Tozai-Const159">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.159 - 163。</ref>。
[[1990年代]]後半に荻窪から[[練馬区]]を経由し、[[朝霞市|朝霞]]方面への延伸に関する陳情が[[東京都議会]]で出されていたが、計画が具体化することなく結局消滅した。
=== 年表 ===
* [[1925年]]([[大正]]14年)
** [[3月30日]]:内務省より「東京都市計画高速度交通機関路線」の改訂が行われ、都市計画第4号線は新宿駅 - 大塚駅間として告示される<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>。
** [[5月6日]]:東京市は前述の告示に基づいて第4号線ほかの路線免許申請を行い、[[5月16日]]に取得する<ref name="Marunouchi-Const1-300"/>。
* [[1932年]]([[昭和]]7年)[[10月1日]]:東京市が保有する第3号線渋谷 - 東京駅前間および第4号線新宿 - 築地間の路線免許を東京高速鉄道へ譲渡<ref name="Marunouchi-Const1-300"/>。
* [[1937年]](昭和12年)[[2月12日]]:東京高速鉄道が四谷見附 - 赤坂見附駅間の路線免許を取得する(免許申請は[[1934年]](昭和9年)10月)<ref name="Marunouchi-Const1-300"/>。
* [[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され(設立は[[7月4日]])、東京市・東京高速鉄道が所有していた第4号線の路線免許が営団地下鉄に譲渡される<ref name="Marunouchi-Const1-300"/>。
* [[1942年]](昭和17年)[[6月5日]]:赤坂見附 - 四谷見附間起工式<ref name="eidan563"/>。
* [[1944年]](昭和19年)[[6月16日]]:赤坂見附 - 四谷見附間建設工事中止<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.564。</ref>。
* [[1946年]](昭和21年)[[12月7日]]:戦災復興院より「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、第4号線は中野富士見町 - 向原町間の路線として告示される<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>。
* [[1949年]](昭和24年)[[12月12日]]:第4号線池袋 - 神田間建設決定<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.568。</ref>。
* [[1951年]](昭和26年)
** [[3月30日]]:池袋 - 神田間起工式<ref name="eidan569"/>。
** [[4月20日]]:池袋 - 神田間着工<ref name="eidan569"/>。
* [[1952年]](昭和27年)[[11月22日]]:建設計画を池袋 - 神田から池袋 - 御茶ノ水に変更<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.570。</ref>。
* [[1953年]](昭和28年)
** [[9月19日]]:御茶ノ水 - 西銀座(銀座)間建設計画決定<ref name="eidan571">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.571。</ref>。
** [[10月30日]]:経由地を神田から淡路町へ変更認可<ref name="eidan571"/>。
** [[12月1日]]:第4号線池袋 - 新宿間を'''丸ノ内線'''と呼称決定<ref name="eidan571"/>。
* [[1954年]](昭和29年)
** [[1月20日]]:池袋(仮駅) - 御茶ノ水間 (6.4 km) 開業<ref name="eidan571"/>。この時点では[[営団500形電車|300形]]30両を新製して、朝夕の混雑時は3分30秒間隔、昼間は4分間隔で、いずれも3両編成で運転した<ref name="Marunouchi-Const1-50">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.50・56。</ref>。ただし、4月1日からは朝混雑時以外は2両編成での運転となった<ref name="Marunouchi-Const1-50"/>。池袋駅と新宿駅は仮駅設備で開業し、後年に本駅に切り替えられた([[#特別な工事をした駅|後述]]参照)。
** [[8月5日]]:御茶ノ水 - 東京間着工<ref name="eidan572">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.572。</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)[[8月29日]]:西銀座(銀座) - 新宿間建設計画決定<ref name="eidan572"/>。
* [[1956年]](昭和31年)
** [[1月15日]]:東京 - 西銀座(銀座)間着工<ref name="eidan573">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.573。</ref>。
** [[3月20日]]:御茶ノ水 - 淡路町間 (0.8 km) 開業<ref name="eidan573"/>。延伸開業に合わせて400形を導入した<ref name="Marunouchi-Const1-186">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.186 - 187・232。</ref>。この開業時は御茶ノ水駅の東京寄りにある両渡り線を使用して、A・B線交互の単線折り返し運転を行った<ref name="Marunouchi-Const2-315">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.315 - 317。</ref>。
** [[7月20日]]:淡路町 - 東京間 (1.4 km) 開業<ref name="eidan573"/>。朝混雑時のみ4両編成での運転が開始された<ref name="Marunouchi-Const1-50"/>。
** [[8月28日]]:西銀座(銀座) - 新宿間着工<ref name="eidan573"/>。
* [[1957年]](昭和32年)
** [[5月18日]]:第4号線新宿 - 荻窪間および分岐線中野坂上 - 方南町間建設決定<ref name="Ogikubo-Const-25"/>。
** [[12月15日]]:東京 - 西銀座(銀座)間 (1.1 km) 開業<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.575。</ref>。延伸開業に合わせて500形を導入した<ref name="Marunouchi-Const1-186">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.186 - 187・232。</ref>。
* [[1958年]](昭和33年)
** [[3月1日]]:第4号線新宿 - 荻窪間および分岐線中野坂上 - 方南町間の地方鉄道敷設免許を取得<ref name="Ogikubo-Const-19">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、p.19。</ref>。
** [[10月15日]]:西銀座(銀座) - 霞ケ関間 (1.1 km) 開業<ref name="eidan576">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.576。</ref>。この開業時は、西銀座 - 霞ケ関間のA線を使用して単線折り返し運転を行った<ref name="Marunouchi-Const1-260">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.260 - 261。</ref><ref name="Marunouchi-Const2-315"/>。これは[[小石川車両基地]]の拡張工事が完成しておらず、同区間のB線に新造車両15両を留置しておくためであった<ref name="Marunouchi-Const2-315"/>。
* [[1959年]](昭和34年)
** [[3月14日]]:新宿 - 荻窪間および中野坂上 - 方南町間着工<ref name="eidan576"/>。
** [[3月15日]]:霞ケ関 - 新宿(仮駅)間 (5.8 km) 開業、丸ノ内線(池袋 - 新宿間)全線開通<ref name="eidan576"/>。朝夕の混雑時は4両編成で2分30秒間隔、昼間は4両または3両編成の4分間隔で運転した<ref name="Marunouchi-Const1-67">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.67 - 72。</ref>。
* [[1960年]](昭和35年)
** [[10月21日]]:4号線新宿以西を'''荻窪線'''と呼称決定<ref name="eidan578">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.578。</ref>。
** [[11月6日]]:池袋駅を仮駅(相対式ホーム)から本駅(島式ホーム)に切り替え<ref name="Ogikubo-Const-63">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、p.63。</ref><ref name="RP489_99" />。
** [[11月28日]]:新宿駅を仮駅から本駅に切り替え<ref name="Ogikubo-Const-63"/>。これに伴い、朝ラッシュ時に5両編成の運転を開始した<ref name="Ogikubo-Const-63"/>。
* [[1961年]](昭和36年)
** [[2月8日]]:荻窪線の新宿 - 新中野間 (3.0 km)・中野坂上 - 中野富士見町間 (1.9 km) 開業<ref name="eidan578"/>。運転本数は丸ノ内線池袋 - 新宿間の2本に1本が荻窪線まで直通運転し<ref name="Ogikubo-Const-61">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.61・82 - 83。</ref>、荻窪線内は朝混雑時は5両編成で4分45秒間隔、夕混雑時は4両編成で6分間隔、昼間は4両編成の8分間隔で運転した<ref name="Ogikubo-Const-61"/>。分岐線の線内折返し列車は2両編成で運転した<ref name="Ogikubo-Const-61"/>。
** [[11月1日]]:新中野 - 南阿佐ケ谷間 (3.1 km) 開業<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.579。</ref>。
* [[1962年]](昭和37年)
** [[1月23日]]:南阿佐ケ谷 - 荻窪間 (1.5 km) 開業、新宿 - 荻窪間が全通<ref name="eidan580">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.580。</ref>。この時から6両編成の運転を開始した<ref name="Ogikubo-Const-92">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、p.92。</ref>。運転本数は朝夕の混雑時は丸ノ内線池袋 - 新宿間の2本に1本が、昼間は3本に2本が荻窪線まで直通運転し<ref name="Ogikubo-Const-61"/>、荻窪線内は朝混雑時は4分30秒間隔、夕混雑時および昼間は6分間隔で、4 - 6両編成で運転した<ref name="Ogikubo-Const-61"/><ref group="注釈">昼間時における池袋 - 新宿間4分間隔(1時間あたり15本)、新宿 - 荻窪間6分間隔(1時間あたり10本)のダイヤ構成は、2015年12月のダイヤ改正まで半世紀以上にわたって続いた。</ref>。
** [[3月23日]]:中野富士見町 - 方南町間 (1.3 km) 開業、荻窪線全線開通<ref name="eidan580"/>。
* [[1963年]](昭和38年)[[11月1日]]:荻窪線内(新宿 - 荻窪間)終日6両編成での運転を開始<ref name="Ogikubo-Const-399" />。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[8月29日]]:日比谷線霞ケ関 - 東銀座間開通により西銀座駅を銀座駅に改称<ref name="eidan583">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.583。</ref>、銀座線銀座駅と合わせて総合駅化。
** [[9月18日]]:東高円寺駅開業(新高円寺 - 新中野間)<ref name="eidan583"/>。
* [[1968年]](昭和43年)5月 - 7月:分岐線用に使用していた[[営団100形電車|100形]]車両10両を[[営団2000形電車|2000形]]10両に置き換え<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.587。</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)[[4月1日]]:荻窪線を丸ノ内線に名称統一<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.591。</ref>。
* [[1981年]](昭和56年)[[11月16日]]:分岐線用車両を2両編成5本から3両編成6本に組み換え、輸送力増強を実施<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.600。</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)[[10月17日]]:[[営団02系電車|02系]]営業運転開始<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.606。</ref>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[7月18日]]:冷房車両の運転を開始<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.608。</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** 4月1日:02系の1編成を用い[[広告貸切列車]]「U-LINER」運行開始<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.611。</ref>(2005年9月運行終了)。
** [[7月6日]]:分岐線で2000形車両の営業運転を終了<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.612。</ref>。
** [[11月21日]]:後楽園第二架道橋の架替工事に伴い、始発から7時30分まで茗荷谷 - 御茶ノ水間を運休<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.231 - 232。</ref>。
* [[1995年]](平成7年)
** [[2月28日]]:本線での500形車両の営業運転を終了<ref name="交通950303" group="新聞">{{Cite news |title=「赤い電車」本線から引退 また一つ消える東京の風物 営団丸ノ内線500形 アルゼンチンで第二の人生|newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-03-03 |page=3 }}</ref>。旧形車は分岐線用のみに{{R|group="新聞"|交通950303}}。
** 3月20日:[[地下鉄サリン事件]]発生。
** [[7月23日]]:池袋駅分岐器交換工事に伴い、始発から21時まで池袋 - 新大塚間を運休、新大塚 - 茗荷谷間でB線を使用し2両編成の区間列車(旧形車使用)を運転<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.245 - 246。</ref>。
* [[1996年]](平成8年)
** [[5月28日]]:西新宿駅開業(中野坂上 - 新宿間)<ref name="eidan616">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.616。</ref><ref group="新聞" name="koutuu19960529">{{Cite news|title=営団丸ノ内線 新駅「西新宿」が開業 高齢者、身障者に配慮|newspaper=交通新聞|date=1996-05-29|publisher=交通新聞社|page=3}}</ref>。
** [[7月3日]]:分岐線で同区間専用の02系80番台営業運転開始<ref name="RF426_104" />。
** [[7月18日]]:分岐線において500形車両の営業運転を終了<ref name="RF426_104">{{Cite journal|和書|author=伊藤丈浩|date=1996-10-01|title=さようなら 丸ノ内線の赤い電車|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=36|issue=第10号(通巻426号)|pages=104 - 105|publisher=[[交友社]]}}</ref>。丸ノ内線から旧形車が全廃された。7月20日にはさよなら運転(後楽園駅 - [[中野車両基地]]間)が行われた<ref name="RF426_104" />。これにより、線内の冷房化100%達成<ref name="eidan616"/>。
* [[1998年]](平成10年)
** [[2月27日]]:保安装置を[[自動列車停止装置#打子式ATS|打子式ATS]]から全線で新CS-ATC化を実施<ref name="eidan618">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.618。</ref>。本線の最高速度を65 km/hから75 km/hに向上<ref group="報道" name="pr19980202" />。
** [[3月7日]]:新CS-ATC化を踏まえたダイヤ改正を実施<ref group="報道" name="pr19980202">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/98-03.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205231427/http://www.tokyometro.go.jp/news/98-03.html|language=日本語|title=人にやさしい、より便利な地下鉄を目指して 丸ノ内線のダイヤ改正を行います。「池袋~荻窪間を3分短縮いたします。|publisher=営団地下鉄|date=1998-02-02|accessdate=2021-01-29|archivedate=2004-02-05}}</ref><ref name="eidan618"/><ref name="jtoa1998-3">{{Cite journal|和書|author=佐藤浩一(帝都高速度交通運輸本部運輸部運転課)|title=営団地下鉄丸ノ内線リニューアルによるスピードアップと輸送力増強|journal=運転協会誌|date=1998-03-01|volume=40|issue=第3号(通巻第465号)|pages=6 - 9|publisher=[[日本鉄道運転協会]]|issn=}}</ref>。池袋 - 荻窪間を3分短縮<ref group="報道" name="pr19980202" /><ref name="jtoa1998-3"/>。
* [[2003年]](平成15年)冬:開業50周年を記念して500形などで採用されていた赤い塗装を02系1編成(第50編成)にラッピング。車内および車体の広告は[[ロッテ]]「ガーナチョコレート」で、車内自動放送開始時にはテーマソングを[[オルゴール]]の音色で流していた。翌2004年1月24日に臨時列車に運用され、その後翌2月25日から通常ダイヤに組み込んで運転したが、民営化と同時に運転を終了した。
* [[2004年]](平成16年)
** 4月1日:[[帝都高速度交通営団]]の民営化により東京地下鉄(東京メトロ)に承継<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-05-14|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
** [[5月8日]]:中野坂上 - 方南町間に可動式ホーム柵([[ホームドア]])、中野新橋と中野富士見町の2駅に可動ステップを設置<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2004/2004-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512204047/http://www.tokyometro.jp/news/2004/2004-01.html|language=日本語|title=丸ノ内線4駅(中野坂上−方南町間)に「可動式ホーム柵」を設置 丸ノ内線中野新橋駅、中野富士見町駅に「可動ステップ」を設置|publisher=東京地下鉄|date=2004-04-14|accessdate=2020-11-21|archivedate=2012-05-12}}</ref><ref name="RP926">{{Cite journal|和書|author=米元和重(東京地下鉄鉄道本部運転部輸送課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=36|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
** [[7月31日]]:分岐線において[[ワンマン運転]]開始(線内運転の3両編成列車のみ)<ref group="報道" name="one-man" /><ref name="RP926" />。
* [[2005年]](平成17年)
** 3月:本線6両編成・ワンマン対応改造車運転開始。
** 9月:可動式ホーム柵設置工事のため、霞ケ関・四ツ谷・新高円寺の各駅で停車位置を変更。
* [[2006年]](平成18年)[[4月28日]]:池袋 - 荻窪間の各駅で可動式ホーム柵設置工事開始。6月から翌2007年9月まで各駅に順次設置。
* [[2008年]](平成20年)
** [[6月14日]]:池袋 - 荻窪間の各駅(一部駅を除く)にて車載メロディの使用開始。曲名は、荻窪・中野富士見町方面が「街並みはるか」、池袋方面が「舞フラワー」<ref>[http://www.switching.co.jp/index2.html 株式会社スイッチ ホームページ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140222093600/http://www.switching.co.jp/index2.html |date=2014年2月22日 }}</ref>。ただし混雑時には通常通りブザーを使用する。
** [[12月27日]]:池袋 - 荻窪間において[[自動列車運転装置|ATO]]運転開始<ref group="報道" name="one-man"/><ref name="RP926" />。
* [[2009年]](平成21年)[[3月28日]]:池袋 - 荻窪間全線でワンマン運転開始<ref group="報道" name="one-man">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-14.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190112145948/https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-14.html|language=日本語|title=東京メトロ丸ノ内線全線ワンマン運転実施のお知らせ 平成21年3月28日(土)より|publisher=東京地下鉄|date=2009-03-13|accessdate=2020-03-09|archivedate=2019-01-12}}</ref><ref name="RP926" />。
* [[2010年]](平成22年)
** [[2月16日]]:02系リニューアル車(B修車)の営業運転開始<ref group="報道" name="press20100114">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201224110432/https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-01.html|language=日本語|title=丸ノ内線車両に懐かしのサインウェーブが復活いたします 平成22年01月14日(木)より|publisher=東京地下鉄|date=2010-01-14|accessdate=2020-12-24|archivedate=2019-01-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2010-02-17 |url=https://railf.jp/news/2010/02/17/160200.html |title=丸ノ内線02系大規模改修車が営業運転を開始 |website=鉄道ファン・railf.jp |publisher=交友社 |accessdate=2020-12-25}}</ref>。
** [[5月]]:分岐線用3両編成列車においてもATO運転開始<ref name="RP926" /><ref name="ATO"/>。
* [[2012年]](平成24年)
** [[8月30日]]:茗荷谷駅 - 淡路町駅間で[[携帯電話]]の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121029Metronews_keitaiarea.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170245/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121029Metronews_keitaiarea.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリアが大幅に拡大しさらに便利になります! 丸ノ内線 茗荷谷駅〜淡路町駅間 日比谷線 日比谷駅〜中目黒駅間 千代田線 綾瀬駅〜湯島駅間 南北線 後楽園駅〜本駒込駅間 東京メトロホームページで利用可能区間のご案内を始めます|publisher=東京地下鉄|date=2012-08-27|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。
** [[11月12日]]:新中野駅 - 荻窪駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121107metroNews_keitaierea2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170337/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121107metroNews_keitaierea2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリアが拡大します! 丸ノ内線 新中野駅〜荻窪駅間 日比谷線 築地駅〜日比谷駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-11-07|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。
** [[11月26日]]:霞ケ関駅 - 赤坂見附駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121121_1284.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170420/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121121_1284.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東西線地下区間の一部で初めてご利用いただけるようになります 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリアが拡大します! 丸ノ内線 霞ケ関駅〜赤坂見附駅間 東西線 日本橋駅〜西葛西駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-11-21|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。
** [[12月20日]]:池袋駅 - 茗荷谷駅間と東京駅 - 霞ケ関駅間、中野新橋駅 - 方南町駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121213_1292.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212100521/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121213_1292.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ますます拡大! 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア 平成24年12月20日(木)より半蔵門線・副都心線の一部の駅間でも初めて携帯電話の利用が可能に! 丸ノ内線 池袋駅〜茗荷谷駅、東京駅〜霞ケ関駅、中野新橋駅〜方南町駅間 半蔵門線 三越前駅〜押上駅間 副都心線 雑司が谷駅〜渋谷駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-12-13|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-12-12}}</ref>。
** [[12月26日]]:赤坂見附駅 - 新宿御苑前駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121219_12-97.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170543/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121219_12-97.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成24年12月26日(水)よりますます拡大! 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア 丸ノ内線 赤坂見附駅〜新宿御苑前駅間 千代田線 霞ケ関駅〜代々木上原駅間 半蔵門線 永田町駅〜神保町駅間 副都心線 千川駅〜要町駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-12-19|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** [[1月24日]]:淡路町駅 - 東京駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130116_13-01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718062850/http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130116_13-01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年1月17日(木)・24日(木)より 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア拡大 銀座線 銀座駅〜青山一丁目駅間 丸ノ内線 淡路町駅〜東京駅間 半蔵門線 神保町駅〜三越前駅間|publisher=東京地下鉄|date=2013-01-16|accessdate=2021-01-31|archivedate=2017-07-18}}</ref>。
** [[3月21日]]:新宿御苑前駅 - 新中野駅間と中野新橋駅 - 中野坂上駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201106181153/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年3月21日(木)正午より、東京メトロの全線で携帯電話が利用可能に!|publisher=東京地下鉄/NTTドコモ/KDDI/ソフトバンクモバイル/イー・アクセス|date=2013-03-18|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-11-06}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)11月:訪日外国人旅行者の利便性向上のため、分岐線の方南町 (m-03)・中野富士見町 (m-04)・中野新橋 (m-05) の各駅について、駅ナンバリングが発音上同一であった本線側の新高円寺 (M-03)・東高円寺 (M-04)・新中野 (M-05) の各駅と自動放送による発音上の区別がつくよう、分岐線の路線記号を'''m'''(小文字のエム)から'''Mb'''(エムビー)に変更<ref group="報道" name="Numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20161104_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200308145340/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20161104_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=丸ノ内線 方南町〜中野新橋駅間の駅ナンバリングを訪日外国人旅行者の利便性向上のため、2016年11月から順次変更します|publisher=東京地下鉄|date=2016-11-04|accessdate=2020-03-09|archivedate=2020-03-08}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
** [[2月23日]]:[[東京メトロ2000系電車|2000系]]営業運転開始<ref group="報道" name="press20190219">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190218_18.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190220002738/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190218_18.pdf|format=PDF|language=日本語|title=丸ノ内線新型車両2000系いよいよデビュー! 2019年2月23日(土)より運行開始します!|publisher=東京地下鉄|date=2019-02-19|accessdate=2020-03-09|archivedate=2019-02-20}}</ref><ref group="新聞" name="news20190223">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASM2R2S2TM2RUTIL006.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210210073451/https://www.asahi.com/articles/ASM2R2S2TM2RUTIL006.html|title=丸ノ内線に「真っ赤でまあるい」新型車両 約30年ぶり|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2019-02-23|accessdate=2021-02-10|archivedate=2021-02-10}}</ref>。
** [[7月5日]]:方南町駅のホーム6両化完成に伴い、6両編成での池袋駅 - 方南町駅間の直通運転開始<ref group="報道" name="press20190606">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190606_3.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190616000910/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190606_3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年7月5日(金)丸ノ内線でダイヤを改正します|publisher=東京地下鉄|date=2019-06-06|accessdate=2020-03-09|archivedate=2019-06-16}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)[[6月6日]]:[[銀座駅]]と有楽町線[[銀座一丁目駅]]との乗り換え業務を開始<ref group="報道" name="transfer">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514061131/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ線でのお乗換えがさらに便利になります! 新たな乗換駅の設定(虎ノ門駅⇔虎ノ門ヒルズ駅、銀座駅⇔銀座一丁目駅)改札外乗換時間を30分から60分に拡大|publisher=東京地下鉄|date=2020-05-14|accessdate=2020-05-14|archivedate=2020-05-14}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[3月13日]]:分岐線(中野坂上駅 - 方南町駅間)の折り返し列車にて朝・夜の一部時間帯で6両編成の運行を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20210317-1811055/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211230101817/https://news.mynavi.jp/article/20210317-1811055/|title=東京メトロ丸ノ内線 中野坂上~方南町間折返し列車、一部6両編成に|date=2021-03-17|archivedate=2021-12-30|accessdate=2021-12-30|website=マイナビニュース|publisher=マイナビ|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** [[8月27日]]:分岐線での3両編成(02系80番台)の運行を終了し、全ての列車を6両編成に統一<ref group="報道" name="press20220707">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220707_38.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220707121650/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220707_38.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線、丸ノ内線、東西線、千代田線 2022年8月ダイヤ改正のお知らせ|publisher=東京地下鉄|date=2022-07-07|accessdate=2022-07-07|page=2|archivedate=2022-07-07}}</ref>。
** [[11月]]:四ツ谷駅 - 荻窪駅間で無線式列車制御システム(CBTCシステム)の走行試験を開始<ref group="報道" name="press20221201">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221201_82.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221201062513/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221201_82.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜新たな信号システムで地下鉄をより安全、安心に〜 11月から丸ノ内線の一部区間において 無線式列車制御システム(CBTCシステム)の走行試験を開始しました|publisher=東京地下鉄|date=2022-12-01|accessdate=2022-12-01|archivedate=2022-12-01}}</ref>。
== 建設 ==
本路線は3期に分けて建設が行われ(当初「丸ノ内線」として建設された区間)<ref name="Marunouchi-Const2-1">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.1 - 9。</ref>、第1期は池袋 - 御茶ノ水間(建設キロ:6.6 km)、第2期は御茶ノ水 - 西銀座(現・銀座駅)間(建設キロ:3.4 km)、第3期は西銀座 - 新宿間(建設キロ:6.9 km)である<ref name="Marunouchi-Const2-1"/>。
丸ノ内線は当初より最混雑時の運転本数を6両編成2分間隔とすることを想定しており、第2期開業時から各駅ホームは6両編成長に対応した120 mの長さで建設した<ref name="Marunouchi-Const2-1"/>。第1期開業時は4両編成長に対応した80 mで建設し、将来必要になった時点で2両分40 mを延伸可能な構造とした<ref name="Marunouchi-Const2-1"/>。後述する荻窪線建設と並行して、丸ノ内線第1期区間の6両編成に対応したホーム延伸工事と信号設備の改良が実施された<ref name="Ogikubo-Const-269">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.269 - 274・341。</ref>。
電化方式は先に開業していた銀座線に合わせた[[第三軌条方式]]を採用することとし、電圧は直流750 Vとすることとしていたが<ref name="Marunouchi-Const2-1"/>、[[変電所]]を[[東京メトロ銀座線|銀座線]]と共用することや<ref name="Marunouchi-Const2-1" />、銀座線は車両基地の収容力不足が深刻なことから、銀座線車両を丸ノ内線の車両基地に[[回送]]運転することを考慮して、銀座線と同様の直流600 Vを採用することとなった<ref name="Marunouchi-Const2-1"/>。
本路線のトンネル区間は、ほとんどが[[トンネル#開鑿(開削)工法|開削工法]]によって建設している<ref name="Marunouchi-Const2-30">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.30・73。</ref><ref name="Marunouchi-Const2-126">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.126 - 145・162 - 166。</ref>。ただし、丸ノ内線第3期区間は[[軟弱地盤]]地域を通過することを考慮して、特殊な工法を採用している<ref name="Marunouchi-Const2-30"/><ref name="Marunouchi-Const2-126"/>。
; 潜函工法(ニューマチック・ケーソン工法)
:地上に潜函([[ケーソン]])を建設し、これを地下に沈下させてトンネルを構築するものである<ref name="Marunouchi-Const2-126" />。
:* 銀座 - 霞ケ関間のうち、[[千代田区]][[内幸町]]の[[帝国ホテル]]と[[東京宝塚ビル]]に挟まれた道路の延長144 mの区間、長さ28.0 m・幅9.6 m・重量約1,500 tのケーソン5基を沈下<ref name="Marunouchi-Const2-126"/>
:* 前記区間に隣接して[[日比谷通り]]の地下を横断する区間・延長44 m、長さ21.0 m・幅10.2 m・重量1,259 tのケーソン2基を沈下(道路覆工下に構築する路下式ケーソン)<ref name="Marunouchi-Const2-126"/>
:* 国会議事堂前 - 赤坂見附間のうち、港区山王下の[[日枝神社 (千代田区)|日枝神社]]と[[山王ホテル]](現在は[[山王パークタワー]])に挟まれた狭隘な区間・延長約120 m・長さ28.5 - 30.0 mのケーソン4基を沈下<ref name="Marunouchi-Const2-126"/>。この区間は上下2段構造の[[赤坂見附駅]]に近い区間で、潜函は半径160 mの曲線や上下2層構造となっている<ref name="Marunouchi-Const2-126"/>。
:
; ルーフ・シールド工法
: [[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関]] - [[赤坂見附駅|赤坂見附]]間の231 [[メートル|m]]ほどの区間は日本の地下鉄としては初めて[[シールドトンネル|シールド工法]]で掘削を実施した<ref name="RP759_103">{{Cite journal|和書|author=的場純一(東京地下鉄建設部計画課)|title=東京メトロの地下鉄トンネル形態の変遷|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=103|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref name="Marunouchi-Const1-30">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.30 - 31。</ref>。日本国内においてルーフ・シールド工法を採用したのは、[[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]]に続いて2番目である<ref name="Marunouchi-Const1-30"/>。
: これは霞ケ関駅の付近のトンネルは約15 mと深く、当時の開削工法では建設が困難であったためである<ref name="Marunouchi-Const2-151">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.151 - 162。</ref>。掘削にあたっては、最初に側壁導坑を築造し、それを土台に半円形のルーフ[[シールドマシン]]で掘削するものである<ref name="Marunouchi-Const1-30"/><ref name="Marunouchi-Const2-151"/>。この構造は「半円形ルーフ・シールドトンネル」と呼ばれるものであるが、その後は円形シールド工法が主流となったため、この方式による掘削は駅ホーム部で採用例があるのみで、駅間では行われていない。
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ファイル:Marunouchi-Kasumigaseki01.jpg|国会議事堂前駅から見た半円形ルーフ・シールドトンネル
ファイル:Marunouchi-Kasumigaseki02.jpg|半円形のアーチを描いたトンネルである
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=== 荻窪線区間 ===
「荻窪線」として建設された区間(新宿 - 荻窪間・中野坂上 - 方南町間)は全区間が開削工法によって建設している<ref name="Ogikubo-Const-135">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.135 - 137・154 - 155。</ref>。新宿 - 荻窪間は、ほぼ全区間が[[青梅街道]]の地下に建設されたが<ref name="Ogikubo-Const-135"/>、開業当時は地上の青梅街道を、全く同じルートを取る[[都電杉並線]](14系統)が走っていた<ref name="Ogikubo-Const-135"/>。しばらくは両線は併存する形となっていたが<ref name="Ogikubo-Const-135"/>、荻窪線全線開業の翌年である1963年(昭和38年)12月に都電杉並線は廃止され<ref name="Ogikubo-Const-135"/>、その後地下鉄側に西新宿駅・東高円寺駅が新設されている。
「荻窪線」として開業した区間も、基本的に各駅ホームは6両編成長に対応した120 mの長さで建設した<ref name="Ogikubo-Const-4">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.4 - 5。</ref>。ただし、[[新中野駅]]は地形の関係で140 mの長さ<ref name="Ogikubo-Const-4"/><ref name="Ogikubo-Const-138">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、p.138。</ref>、方南町駅は110 mの長さである<ref name="Ogikubo-Const-4"/>。分岐線駅のホームは輸送需要が少ないことから<ref name="Ogikubo-Const-148">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.147 - 148。</ref>、6両編成長は必要ないとも考えられたが<ref name="Ogikubo-Const-148"/>、中野車両基地から入出庫する本線列車が[[回送]]として走るのではなく、営業列車として運転できるよう6両編成長を確保したものである<ref name="Ogikubo-Const-148"/>。方南町駅ホームは開業当初から6両編成に対応していたが<ref name="Ogikubo-Const-4"/>、6両編成の長さ108 mに対して2 mしか余裕距離がなく、実際は6両編成の乗り入れはしなかった。6両編成の運用を可能にするため、2019年に方南町駅のホーム延伸工事が行われ、同年7月より6両編成の乗り入れが開始された。
新宿 - 中野坂上間(当時西新宿駅は未開業)では、荻窪線建設と並行して(厳密には開削トンネルの埋戻し時期)地下鉄トンネルの上に[[洞道]]を構築した<ref name="Ogikubo-Const-154">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.154・168 - 170。</ref>。新宿駅西口地下には、当時の[[淀橋浄水場]]からの送水幹線や各種地下埋設物を収容する「淀橋共同溝」を構築<ref name="Ogikubo-Const-154"/>、淀橋浄水場前から[[淀橋]]までの延長982 mには[[東京電力ホールディングス|東京電力]]の「東電淀橋洞道」を<ref name="Ogikubo-Const-154"/>、淀橋から[[警視庁]][[中野警察署 (東京都)|中野警察署]]前までの延長843 mには東京電力、[[日本電信電話公社]](当時)、[[東京ガス]]の「三社共同溝」を構築した<ref name="Ogikubo-Const-154"/>。
=== 特別な工事をした駅 ===
; [[池袋駅]]
: 池袋駅は国鉄池袋駅の中央地下に島式構造のホームを建設する予定であったが、当時国鉄池袋駅の改良計画が進められており、どの様な連絡施設を整えるか構想されていなかったことから、営団地下鉄が単独で恒久的な施設を建設するのは躊躇し、取り敢えず丸ノ内線池袋駅は新大塚駅寄りに仮駅構造で設けられた<ref name="Marunouchi-Const1-131">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、p.131。</ref><ref name="Marunouchi-Const2-18">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.18 - 19。</ref><ref name="RP489_99">{{Cite journal|和書|author=中川浩一|title=営団地下鉄の史跡をたどる|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1987-12-10|volume=37|issue=第12号(通巻489号)|pages=99 - 100|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。将来の本駅への改造を容易にするため、仮駅では延長77 mの板張りの相対式ホームとした<ref name="Marunouchi-Const2-18"/><ref name="RP489_99" />。
: [[1958年]](昭和33年)[[10月16日]]、丸ノ内線池袋本駅の設置に関する営団、国鉄、[[東武鉄道]]、[[西武鉄道]]の各社間で工事計画に関する協定(池袋駅構内営団線乗入れおよび旅客連絡設備工事誓約書)が成立した<ref name="Ogikubo-Const-13-219">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.13 - 14・219 - 223。</ref><ref name="RP489_99" />。今まで[[跨線橋]]によって連絡していた地上への通路を地下コンコースに収容し、さらに東口・西口を結ぶ連絡地下通路を設けることで、大幅な利便性の向上を図ることとなった<ref name="Ogikubo-Const-13-219"/>。同年11月1日に着工した<ref name="Ogikubo-Const-13-219"/><ref name="RP489_99" />。
: [[1960年]](昭和35年)11月5日・6日に池袋仮駅(相対式ホーム)から本駅(現在の島式ホーム)に切り替えを行った<ref name="Ogikubo-Const-13-219"/><ref name="RP489_99" />。地下通路の整備などを実施し、最終的に[[1963年]](昭和38年)6月5日に池袋本駅の工事が完成した<ref name="Ogikubo-Const-13-219"/>。
; [[赤坂見附駅]]
: 赤坂見附駅は[[東京高速鉄道]]時代に丸ノ内線の建設を想定して、[[東京メトロ銀座線|銀座線]]とは上下2層構造の同一方向ホームとして建築されていた<ref name="Marunouchi-Const2-167">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.167 - 170。</ref>。
: しかし、戦後に改めて丸ノ内線を建設することになると、当時の規格では狭すぎるため、主に丸ノ内線側の構築を改造することとした<ref name="Marunouchi-Const2-167"/>。ホーム幅員4.85 m、ホーム延長80 mからホーム幅員8 - 11 m、ホーム延長は銀座線側96 m、丸ノ内線側120 mに改築した。丸ノ内線側の旧構築は約1年かけて取り壊し、新構築を施工した<ref name="Marunouchi-Const2-167"/>。この拡張工事にあたって、下水溝が約120 mに渡って駅構築に支障することから、下水溝の移設作業も同時施工した<ref name="Marunouchi-Const2-167"/>。
; [[新宿駅]]
: [[新宿]]には営団地下鉄が[[1944年]](昭和19年)3月に4号線の路線建設と駅舎建築用地として、東京都から国鉄新宿駅の西側に約3,300 m<sup>2</sup>の用地を譲り受けていた<ref name="Marunouchi-Const2-262">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.262 - 263。</ref><ref name="Ogikubo-Const-7-13">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.7 - 9・13。</ref>。しかし、同用地は[[戦後混乱期|終戦後の混乱期]]に乗じて多数の商店等が建築されて、不法に土地占有が行われている状態であった<ref name="Marunouchi-Const2-262"/><ref name="Ogikubo-Const-7-13"/>。
: 営団地下鉄は用地の占有者と土地の明け渡しを求めて交渉していたが、話し合いが難航したことから<ref name="Marunouchi-Const1-67"/><ref name="Marunouchi-Const2-262"/>、営団は1957年(昭和32年)6月に建物の収去と土地の明け渡しを求めて[[東京地方裁判所]](東京地裁)に提訴した<ref name="Marunouchi-Const1-67"/><ref name="Marunouchi-Const2-262"/>。
: このうち路線が通過する場所約797 m<sup>2</sup>については、荻窪線区間の建設にも支障することから<ref name="Marunouchi-Const1-67"/><ref name="Marunouchi-Const2-262"/>、営団は1958年(昭和33年)3月に「建物収去、土地明渡断行の仮処分命令」を東京地裁に申請し、1959年(昭和34年)1月に営団側が勝訴した<ref name="Marunouchi-Const1-67"/><ref name="Marunouchi-Const2-262"/>。
: この裁判を契機に話し合いが進み、同年3月7日には裁判上の和解が成立、1961年(昭和36年)3月末までに土地の明け渡しが行われることとなった<ref name="Marunouchi-Const2-262"/>。この影響で1959年(昭和34年)の開業時に、新宿駅は仮駅構造で開業した<ref name="Marunouchi-Const1-67"/>。開業時点でのホームは延長95 mを確保し、そのうち新宿三丁目駅寄りの40 mは仮ホームであった<ref name="Marunouchi-Const2-123">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.123 - 125。</ref>。その後、本駅工事が行われ、[[1960年]](昭和35年)11月28日から本駅の使用を開始した<ref name="Ogikubo-Const-63"/>。
: この場所は新宿地下鉄ビルディング([[メトロ食堂街]]などが入っていたビル)が建っていた場所である<ref name="Ogikubo-Const-160">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、pp.160 - 165。</ref>。この新宿地下鉄ビルディングは丸ノ内線の直上に建設することから<ref name="Ogikubo-Const-160"/>、丸ノ内線のトンネル構築もそれに耐えうる[[鉄骨鉄筋コンクリート構造]]と[[深礎工法|深礎基礎]]となっている<ref name="Ogikubo-Const-160"/>。なお、新宿地下鉄ビルディングは解体され、東京地下鉄と小田急電鉄の共同事業により、小田急百貨店新宿店本館と小田急新宿駅などを一体的に高さ260 m・48階建ての[[超高層建築物|超高層ビル]]に建て替える計画が進められており、2022年度に着工、2029年度の完成を予定している<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001t94w-att/o5oaa1000001t953.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210101170354/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001t94w-att/o5oaa1000001t953.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新宿駅西口地区の開発計画について|publisher=小田急電鉄/東京地下鉄|date=2020-09-09|accessdate=2021-04-19|archivedate=2021-01-01}}</ref>。
== 運行形態 ==
[[山手線]]の新宿駅 - 池袋駅間が開いたU字型の路線のため、山手線内部での比較的短距離の流動が多く、支線以外の路線は山手線と似たダイヤ構成になっており、本線と支線の列車は中野坂上駅で相互連絡するようにダイヤが組まれている。全線を通した所要時分は本線で49分40秒、支線では6分25秒となっている。
=== 池袋駅 - 荻窪駅間 ===
平日は新宿駅 - 池袋駅間において、朝夕ラッシュ時約1分半 - 2分間隔(日本一の高密度運転間隔)、日中4分間隔で運行されている。
池袋駅 - 荻窪駅間の直通運転と、池袋駅 - 方南町駅間の支線直通運転を基本とする(日中は概ね30分に1本が池袋駅 - 方南町駅間区間運転)。朝夕と深夜には車両基地への入出庫のため池袋駅 - 茗荷谷駅や中野富士見町駅・新宿三丁目駅・新宿駅・中野坂上駅が始発・終着となる列車が設定されているほか、早朝のみ後楽園駅発池袋駅行きが1本設定されている(前日夜間に方南町駅から後楽園駅北側の留置線まで回送される)。
[[大晦日]]から[[元旦]]の[[終夜運転]]は池袋駅 - 荻窪駅間の全線で実施される。後楽園駅が最寄りの[[東京ドーム]]でコンサートイベントが行われることから、[[2010年代]]前半よりその対応として、一部時間帯で終夜運転列車を増発している。この増発列車の一部は池袋駅 - 銀座駅間の運転であるため、終夜運転実施時の年1回のみではあるが、銀座駅発着が設定されている(銀座駅では非常渡り線を使用して折り返す)。
車両は[[東京メトロ2000系電車|2000系]]と[[営団02系電車|02系]]の本線用6両編成を使用する。
=== 中野坂上駅 - 方南町駅間 ===
平日朝夕ラッシュ時は約4分間隔、日中は6分40秒間隔(うち本線直通30分間隔)で運行されている。
中野坂上駅 - 方南町駅間を往復する列車と池袋駅 - 方南町駅間の本線直通列車が基本的に運転されている。朝夕と深夜には池袋駅 - 中野富士見町駅間の列車、早朝と休日夕方に中野富士見町発方南町行きの列車、入庫の関係で平日終電頃の2本のみ荻窪発中野富士見町行きの列車([[中野坂上駅]]で方向転換を行う)がある。
車両は2000系と02系の6両編成が使われる。分岐線には本線との直通列車を除き、[[東京メトロ銀座線|銀座線]]で使われていた[[東京高速鉄道100形電車|100形]](1968年5月運用終了)、[[営団2000形電車|2000形]](1993年7月運用終了)、本線運用から外れた[[営団500形電車|500形]](1996年7月運用終了)といったすべて非冷房の中古車両が永らく主力として使用されていた。[[1996年]]に登場した02系80番台は、本線とのサービス格差をなくす目的で開業以来初めて分岐線専用に新製された。2022年8月のダイヤ改正より全列車が6両編成に統一され、3両編成の02系80番台は運用を離脱した<ref group="報道" name="press20220707" />。
=== 運転時分と保安装置 ===
本路線は開業以来、[[自動列車保安装置|保安装置]]に[[自動列車停止装置#打子式ATS|打子式ATS]]装置を使用し<ref name="Marunouchi-Const1-32">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、p.32。</ref>、最高速度は65 km/h<ref name="jtoa1998-3"/>、[[1981年]](昭和56年)11月以降の全線所要時分は本線49分50秒、分岐線7分00秒で運転されていた<ref name="Fuku-Const916">[[#Fukutoshin-Const|東京地下鉄道副都心線建設史]]、p.916。</ref>。その後、[[1996年]]5月の[[西新宿駅]]開業時に本線の所要時分は50分40秒に増加した<ref name="Fuku-Const916"/>。
そして、[[1998年]](平成10年)[[3月7日]]には全線での[[自動列車制御装置|新CS-ATC]]化を踏まえたダイヤ改正を実施し、02系統一による車両性能の向上(旧型車両と比較して、02系は30 km/h以上の加速性能が優れている<ref name="jtoa1998-3"/>)と曲線および分岐器通過速度の向上、さらに本線の最高速度を75 km/hに向上させ、全線所要時分を本線48分15秒(2分25秒短縮)、分岐線6分20秒(40秒短縮)に短縮した<ref name="jtoa1998-3"/><ref name="Fuku-Const916"/>。所要時分の短縮により、車両の運用本数を増やさずに朝ラッシュ時に1本の増発を行っており、1時間あたりの最大運転本数は31本(一部1分50秒、平均1分55秒間隔)から32本(1分50秒)に増発した<ref name="jtoa1998-3"/>。
[[2001年]](平成13年)2月には本線において、駅停止精度の向上及び定時運転の確保を図るため、[[定位置停止装置]] (TASC) の使用を開始した<ref name="RP759_35">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=35|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。続いて分岐線においても2002年(平成14年)11月からTASCの使用を開始している<ref name="ATO"/>。
その後、後述するホームドアの設置に伴い全線所要時間に見直しがあり、[[2007年]](平成19年)[[8月30日]]のダイヤ改正では1分25秒増加した49分40秒となった<ref name="Fuku-Const916"/>。分岐線は6分25秒となっている<ref name="Fuku-Const916"/>。
== 車両 ==
=== 現在の車両 ===
* [[東京メトロ2000系電車|2000系]](6両編成)
* [[営団02系電車|02系]](6両編成)
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ファイル:Tokyo-Metro Series2000-2134.jpg|2000系(2022年11月8日 / 後楽園駅)
ファイル:Tokyo-Metro Series02-101.jpg|02系(B修繕施工車)(2022年11月8日 / 後楽園駅)
ファイル:Tokyo-Metro Series02-153.jpg|02系(2022年11月16日 / 後楽園駅)
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* [[営団500形電車|300形]]
* [[営団500形電車|400形]]
* [[営団500形電車|500形]]<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160720_60.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201105140108/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160720_60.pdf|format=PDF|language=日本語|title=アルゼンチン共和国ブエノスアイレスで活躍した丸ノ内線旧500形車両が約20年ぶりに東京に里帰りします!|publisher=東京地下鉄|date=2016-07-20|accessdate=2021-01-29|archivedate=2020-11-05}}</ref>
* [[営団500形電車|900形]]
* [[東京高速鉄道100形電車|100形]](分岐線専用)
* [[営団2000形電車|2000形]](同上)
* [[営団02系電車|02系]]80番台(分岐線専用3両編成)
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ファイル:Choshi Dentetsu 1002.jpg|[[銚子電気鉄道]]1000形<br />元は営団2000形で丸ノ内線支線復刻塗装となった。
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旧型車両の塗色である「[[スカーレット|スカーレット・メジアム]]」は当時の鈴木清秀総裁と[[関義臣#家族|東義胤]]運転部・車両部分掌理事が当路線の建設に先立って世界各国を視察した際に、[[飛行機]]の中で購入した[[イギリス]]製[[タバコ]]の「[[ベンソン&ヘッジス]]」の缶の色に魅せられて決めたものである<ref name="RJ794_111">{{Cite journal|和書|author=里田啓一(元営団地下鉄車両部長)|title=【連載】私の鉄道人生75年史-第10回 再び本社車両課に勤務(その2)-日比谷線3000系の設計-|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2007-10-01|volume=57|issue=第10号(通巻第794号)|page=111|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
=== 1400形 ===
[[営団1400形電車|1400形]]は丸ノ内線用の車両ではないが、最初の開業に向けて[[東京メトロ銀座線|銀座線]]において乗務員および整備担当者の教習に使用され、丸ノ内線の開業に大きな役割を果たした車両である<ref name="Marunouchi-Const1-154">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、p.154。</ref><ref name="Marunouchi-Const2-369">[[#Marunouchi-Con2|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)]]、pp.369 - 370。</ref>。
丸ノ内線の初期開業に先立って、300形に使用する機器や台車など一式を銀座線用に1400形として2両に新製装備し<ref name="Marunouchi-Const1-154"/><ref name="Marunouchi-Const2-369"/>、1953年(昭和28年)6月より半年間、銀座線上で丸ノ内線運転士の[[習熟運転|運転技術習得運転]]([[試運転]])を実施した<ref name="Marunouchi-Const1-154"/><ref name="Marunouchi-Const2-369"/>。同年8月から11月にかけては車両の整備保守担当者に対しても、保守技術の実習が行われた<ref name="Marunouchi-Const2-369"/>。丸ノ内線開業後、1400形の機器は300形2両に譲った<ref name="Marunouchi-Const1-154"/><ref name="Marunouchi-Const2-369"/>。
== ワンマン運転とホーム柵の設置 ==
当路線の全駅に可動式ホーム柵([[ホームドア]])が設置されている。ホーム柵は[[京三製作所]]製である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyosan.co.jp/ir/html/pdf/irks20080527.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120311090217/http://www.kyosan.co.jp/ir/html/pdf/irks20080527.pdf|title=株式会社 京三製作所 2008年3月期決算説明会|archivedate=2012-03-11|accessdate=2021-01-30|publisher=京三製作所|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2021年1月}}</ref>。
[[2004年]](平成16年)[[5月8日]]に分岐線(中野坂上 - 方南町間)にホーム柵を設置し、同年[[7月31日]]には中野坂上 - 方南町間で運行される3両編成の区間列車に限って[[ワンマン運転]]を開始した<ref group="報道" name="one-man"/>。
池袋 - 荻窪間については、[[2006年]](平成18年)6月の[[荻窪駅]]と[[南阿佐ケ谷駅]]を皮切りに、翌年9月までに本線全25駅に順次設置され、設置された駅から順次稼動を開始した。ただし、[[銀座駅]]と[[御茶ノ水駅]]は、一度はホーム柵を設置したものの、車両とホームの隙間を調整する工事を行うこととなったため、正式稼働は[[2008年]](平成20年)[[3月23日]]からとなった。
ホーム柵設置当初は、[[車掌]]が柵の線路側にあるボタンの操作によりホーム柵の開閉を行い(ホーム柵を開けた後車両のドア開放 閉扉時は逆順)、案内放送に「ホームドアを使用しています」を加えた。2007年(平成19年)[[12月1日]]より(御茶ノ水・銀座の両駅は翌年3月23日より)、車両ドアと柵が連動して開閉するようになり、車掌は車両側の[[車掌スイッチ|ドアスイッチ]]のみを操作していた。東京地下鉄では本線へのホーム柵設置について、「乗客の安全性向上のため」との見解を示していた。
本線用車両(6両編成)では[[2005年]](平成17年)2月からホームドア連動・ワンマン運転対応改造を実施してきており、[[2007年]](平成19年)8月までに全編成の対応改造を完了した。この時点でホームドア連動、車上CCTV(ホーム監視用モニター)の設置や[[車内放送|自動放送装置]]・[[車内案内表示装置|車内表示器]]の改修などが実施された<ref name="RP09-10EX">『鉄道ピクトリアル』2009年10月臨時増刊号 鉄道車両年鑑2009年版</ref>。
その後、2007年11月から[[2009年]](平成21年)1月かけて[[自動列車運転装置|ATO運転]]を実施するための改造工事が実施された。そして、ATO対応改造車が出揃った2008年[[12月27日]]からはTASC運転からATO運転への切り換えが実施された<ref name="RP09-10EX" />。その後、2009年[[3月28日]]より、丸ノ内線全線でワンマン運転を開始した<ref group="報道" name="one-man"/>。この間、2008年6月14日より[[乗車促進音|車載メロディ]]が使用開始された。
この時点でATO運転を開始したのは本線[[池袋駅|池袋]] - [[荻窪駅|荻窪]]間全線と分岐線[[中野坂上駅|中野坂上]] - [[中野富士見町駅|中野富士見町]]間を走行する6両編成列車とされた。その後、[[2010年]](平成22年)5月には中野坂上 - 方南町間を走行する3両編成の区間列車においてもATO運転が開始され、丸ノ内線全線全列車においてATO運転が実施されている<ref name="ATO" />。
{{要出典範囲|ワンマン運転開始と同時に車載メロディをわずか1年弱で一旦使用を停止し、池袋 - 荻窪間の各駅にて方面毎別の[[発車メロディ]]を使用開始したが、この発車メロディはすぐに使用中止となり、再び方面別車載メロディを再開させていた。|date=2011年3月}}発車メロディの使用中止となった理由は不明である。[[2012年]](平成24年)2月1日より、再び駅別発車メロディの使用を開始した<ref>{{Cite tweet|author=スイッチ|user=switch_ekimelo|number=164515685207248896|title=丸ノ内線の発車サイン音が始まったみたいですね。後で聞きに行ってみます!|date=2012-02-01|accessdate=2021-01-29}}</ref>。ただし、四ツ谷駅と池袋駅では放送装置の改修が追いつかなかったため、2月1日の使用開始後数日で使用が休止したが、3月になってから再度使用開始した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/news/archives/343|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140308120312/http://www.switching.co.jp/news/archives/343|title=東京メトロ「丸ノ内線」駅メロディ リニューアル!|date=2012-03-22|archivedate=2014-03-08|accessdate=2021-01-29|publisher=スイッチ|language=日本語}}</ref>。また、ラッシュ時には、今まで通りの車載メロディを使用する。ただし、茗荷谷駅では近隣住民からの苦情により、車載メロディ・発車メロディ共に使用を中止していたが<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL9F3DZ1L9FUTIL00G.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200517163244/https://www.asahi.com/articles/ASL9F3DZ1L9FUTIL00G.html|title=(各駅停話)茗荷谷駅 発車の曲鳴らさぬ地上駅|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2018-10-15|accessdate=2021-01-29|archivedate=2020-05-17}}</ref>、2009年12月21日より早朝・深夜の時間帯(22:00 - 翌日7:30)をのぞき営団時代からの発車ブザーの使用を再開した(早朝・深夜の時間帯は乗務員からの車内放送あるいは車内自動放送のみ)。これには発車メロディの鳴動システムが流用されており、乗務員が運転台の乗降促進を「車上側」から「ホーム側」に切り替えて操作している。
== 発車メロディ ==
=== 本線 ===
[[#ワンマン運転とホーム柵の設置|前述]]の通り、2008年6月14日に[[乗車促進音|車載メロディ]]が、また2009年3月28日からのワンマン運転開始に伴い、茗荷谷駅を除く各駅に従来のブザーに代わり発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。全て[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、[[塩塚博]]、[[福嶋尚哉]]、[[谷本貴義]]、[[松澤健]]、熊木理砂、三留研介・若林剛太、串田亨の7組が作曲を手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ 駅発車メロディー & 駅ホーム自動放送 シリーズ[東京メトロ丸ノ内線 駅発車メロディー & 駅ホーム自動放送:TECD-25597] / TEICHIKU ENTERTAINMENT|url=https://www.teichiku.co.jp/catalog/tokyometro/products/TECD-25597.html|website=株式会社テイチクエンタテインメント|accessdate=2019-07-21|language=ja}}</ref>。
曲名はスイッチの[http://www.switching.co.jp/sound/index3.html 音源リスト]および同社が運営する「鉄道モバイル」による。
{| class="wikitable"
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|駅名
!colspan="2"|曲名
|-
!style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|A線(荻窪方面)
!style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|B線(池袋方面)
|-
!荻窪
|
|1:星の贈りもの【塩塚】<br /> 2:ハート畑【福嶋】
|-
!南阿佐ケ谷
|1:ひかりの反射【谷本】
|2:夢行きステップ【福嶋】
|-
!新高円寺
|1:Blue sky【谷本】
|2:ハートスタイル【福嶋】
|-
!東高円寺
|1:羽根をひろげて【塩塚】
|2:駅にサンキュー【福嶋】
|-
!新中野
|1:Comical Train【谷本】
|2:スイートムーン【福嶋】
|-
!中野坂上
|1:Endless Trip【谷本】
|3:角を曲がれば【塩塚】
|-
!西新宿
|1:ラッキーカード【塩塚】
|2:ピアノマン【松澤】
|-
!新宿
|1:ミツバチの兄弟【塩塚】
|2:きらめく小川【熊木】
|-
!新宿三丁目
|1:ステーションベル【福嶋】
|2:ひとやすみ【谷本】
|-
!新宿御苑前
|1:レインボウ電車【福嶋】
|2:駅メモリー【福嶋】
|-
!四谷三丁目
|1:トレインライト【福嶋】
|2:cielo azur(碧空)【三留・若林】
|-
!四ツ谷
|1:駅ウォーキング【串田】
|2:ヒーリング電車【串田】
|-
!赤坂見附
|2:メトロタウン【熊木】
|4:レインシャワー【塩塚】
|-
!国会議事堂前
|1:ランダムショット【塩塚】
|2:東京旅姿【福嶋】
|-
!霞ケ関
|1:Tokyo Line【谷本】
|2:スマイル電車【福嶋】
|-
!銀座
|3:明日の扉【串田】
|4:小鳥の行進【塩塚】
|-
!東京
|1:らくらく乗降【串田】
|2:夢心地【福嶋】
|-
!大手町
|1:快適乗降【串田】
|2:潤い電車【福嶋】
|-
!淡路町
|1:Safety【谷本】
|2:駅スイート【福嶋】
|-
!御茶ノ水
|1:ハートレール【串田】
|2:ジェントルトレイン【福嶋】
|-
!本郷三丁目
|1:素敵にハート【串田】
|2:サニーサイドステーション【福嶋】
|-
!後楽園
|1:マウンテン【塩塚】
|2:サークルゲーム【福嶋】
|-
!茗荷谷
|1:(ブザー)<ref group="*">当初は「スペシャルゲスト」(現・方南町駅1番線用)を使用していた。</ref>
|2:(ブザー)<ref group="*">当初は「希望の電車」(現・方南町駅2番線用)を使用していた。</ref>
|-
!新大塚
|1:もうすぐ扉が閉まります【谷本】
|2:ドリーム駅【福嶋】
|-
!池袋
|1:フランソワ【塩塚】<br />2:キラリトレイン【福嶋】
|
|-
!(車載メロディ)
|街並みはるか【谷本】
|舞フラワー【福嶋】
|}
* 上表の数字は各駅の番線、【】内は作曲者を表す。
=== 分岐線 ===
方南町駅のホーム6両編成対応化に伴う2019年7月5日のダイヤ改正時に発車メロディが導入されている。全てスイッチの制作で、塩塚と福嶋が作曲を手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ丸ノ内線分岐線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/485|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2020-02-27|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。なお、車載メロディは本線と同じ曲を使用する。
{| class="wikitable"
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|駅名
!colspan="2"|曲名
|-
!style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|A線(方南町方面)
!style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|B線(池袋方面)
|-
!'''方南町'''
|
|1:スペシャルゲスト【塩塚】<ref group="*">以前は茗荷谷駅1番線で使用していた。</ref><br />2:希望の電車【福嶋】<ref group="*">以前は茗荷谷駅2番線で使用していた。</ref>
|-
!'''中野富士見町'''
|1:スタイルブック【福嶋】
|2:コサージュ【福嶋】
|-
!'''中野新橋'''
|1:落ち葉の舗道【塩塚】
|2:ロッキンメトロ【塩塚】
|-
!'''中野坂上'''
|2(1番線側):ベリル【福嶋】
|2(3番線側):ラッキーボーイ【塩塚】
|}
* 上表の数字は各駅の番線、【】内は作曲者を表す。
{{Reflist|group="*"}}
<!--
== 変電所 ==
* 荻窪駅付近
* 新高円寺駅付近
* 西新宿駅
* 新宿御苑前駅付近
* 赤坂見附駅
* 霞ケ関駅 - 銀座駅間
* 東京駅付近
* 御茶ノ水駅付近
* 茗荷谷駅付近(小石川分室CR内)
* 池袋駅付近
* 中野富士見町駅付近(中野検車区内)
-->
== 利用状況 ==
2022年(令和4年)度における最混雑区間の[[乗車率|混雑率]]は、A線([[新大塚駅|新大塚]] → [[茗荷谷駅|茗荷谷]]間)で'''128%'''、B線([[四ツ谷駅|四ツ谷]] → [[赤坂見附駅|赤坂見附]])で'''112%'''である<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=3|format=PDF}}</ref>。
A線、B線とも東京駅に向かう区間が最混雑区間となっている。1969年6月2日のダイヤ改正以降、A線の最短運転間隔は1分50秒間隔であった。これは複線で日本一の過密ダイヤによる運行となっていたが、2022年8月27日のダイヤ改正で2分10秒間隔に減便された。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{|class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="3"|年度
!colspan="8"|最混雑区間輸送実績<ref>{{Cite web|和書|date=1987-09|url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月)|format=PDF|publisher=神奈川県|accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref>
!rowspan="3"|特記事項
|-
! colspan="4"|A線(新大塚 → 茗荷谷間) !! colspan="4"|B線(四ツ谷 → 赤坂見附間)
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|1963年(昭和38年)
| 29 || 22,011 || style="background-color: #ccffcc;"|42,758 || style="background-color: #ccffcc;"|'''194'''
| 29 || 22,011 || style="background-color: #ccffcc;"|43,018 || style="background-color: #ccffcc;"|'''195'''
|
|-
|1964年(昭和39年)
| 29 || 22,011 || 49,728 || '''226'''
| 29 || 22,011 || || ''' '''
|
|-
|1965年(昭和40年)
| 30 || 22,194 || 56,263 || '''254'''
| 30 || 22,194 || 55,152 || '''248'''
|
|-
|1966年(昭和41年)
| 30 || 22,194 || 52,675 || '''237'''
| 30 || 22,194 || 52,965 || '''239'''
|
|-
|1967年(昭和42年)
| 30 || 22,194 || 55,186 || '''249'''
| 30 || 22,194 || 52,955 || '''239'''
|
|-
|1968年(昭和43年)
| 30 || 22,194 || 56,343 || '''254'''
| 30 || 22,194 || 54,843 || '''247'''
|
|-
|1969年(昭和44年)
| 31 || 22,990 || 61,560 || '''268'''
| 30 || 22,248 || 57,745 || '''260'''
|
|-
|1970年(昭和45年)
| 31 || 22,990 || 63,673 || '''277'''
| 30 || 22,248 || 58,433 || '''263'''
|
|-
|1971年(昭和46年)
| 31 || 22,990 || style="background-color: #ffcccc;"|63,946 || style="background-color: #ffcccc;"|'''278'''
| 30 || 22,248 || style="background-color: #ffcccc;"|58,643 || style="background-color: #ffcccc;"|'''264'''
|
|-
|1972年(昭和47年)
| 31 || 22,990 || 58,829 || '''256'''
| 30 || 22,248 || 56,740 || '''255'''
|style="text-align:left;"|1972年10月20日、千代田線霞ケ関駅 - 代々木公園駅間開業
|-
|1973年(昭和48年)
| 31 || 22,990 || 58,829 || '''256'''
| 30 || 22,248 || 56,310 || '''253'''
|
|-
|1974年(昭和49年)
| 31 || 22,990 || 56,719 || '''247'''
| 30 || 22,248 || 54,536 || '''245'''
|style="text-align:left;"|1974年10月30日、有楽町線池袋駅 - 銀座一丁目駅間開業
|-
|1975年(昭和50年)
| 31 || 22,990 || 51,082 || '''222'''
| 30 || 22,248 || 52,104 || '''234'''
|
|-
|1976年(昭和51年)
| 31 || 22,990 || 50,460 || '''219'''
| 30 || 22,248 || 51,729 || '''234'''
|
|-
|1977年(昭和52年)
| 31 || 22,990 || 52,597 || '''229'''
| 30 || 22,248 || 51,307 || '''233'''
|
|-
|1978年(昭和53年)
| 31 || 22,990 || 49,449 || '''215'''
| 30 || 22,248 || 47,362 || '''213'''
|
|-
|1979年(昭和54年)
| 31 || 22,990 || 49,175 || '''214'''
| 30 || 22,248 || 46,160 || '''207'''
|
|-
|1980年(昭和55年)
| 31 || 22,990 || 46,265 || '''201'''
| 30 || 22,248 || 43,811 || '''197'''
|
|-
|1981年(昭和56年)
| 31 || 22,990 || 49,146 || '''214'''
| 30 || 22,248 || 45,277 || '''204'''
|
|-
|1982年(昭和57年)
| 31 || 22,990 || 50,827 || '''221'''
| 30 || 22,248 || 44,917 || '''202'''
|
|-
|1983年(昭和58年)
| 31 || 22,990 || 46,843 || '''204'''
| 30 || 22,248 || 45,400 || '''204'''
|
|-
|1984年(昭和59年)
| 31 || 22,990 || 44,248 || '''192'''
| 30 || 22,248 || 43,159 || '''194'''
|
|-
|1985年(昭和60年)
| 31 || 22,990 || 49,665 || '''216'''
| 30 || 22,248 || 43,659 || '''197'''
|
|-
|1986年(昭和61年)
| 31 || 22,990 || 50,131 || '''218'''
| 30 || 22,248 || 44,155 || '''198'''
|
|-
|1987年(昭和62年)
| 31 || 22,990 || 48,317 || '''210'''
| 30 || 22,248 || 42,678 || '''192'''
|
|-
|1988年(昭和63年)
| 31 || 22,990 || 50,197 || '''218'''
| 30 || 22,248 || 41,780 || '''188'''
|
|-
|1989年(平成元年)
| 31 || 22,990 || 50,205 || '''218'''
| 30 || 22,248 || 39,997 || '''180'''
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 31 || 22,990 || 49,722 || '''216'''
| 30 || 22,248 || 43,280 || '''195'''
|
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| 31 || 22,990 || 46,785 || '''204'''
| 30 || 22,248 || 42,684 || '''192'''
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| 31 || 22,990 || 46,581 || '''203'''
| 30 || 22,248 || 38,203 || '''172'''
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| 31 || 22,990 || 45,310 || '''197'''
| 30 || 22,248 || 36,295 || '''163'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 31 || 22,990 || 44,174 || '''192'''
| 30 || 22,248 || 35,961 || '''162'''
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 31 || 22,990 || 43,450 || '''189'''
| 30 || 22,248 || 35,434 || '''159'''
|style="text-align:left;"|1996年3月26日、南北線四ツ谷駅 - 駒込駅間開業
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 31 || 22,990 || 42,067 || '''183'''
| 30 || 22,248 || 35,144 || '''158'''
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 31 || 22,990 || 41,136 || '''179'''
| 30 || 22,248 || 34,648 || '''156'''
|style="text-align:left;"|1997年9月30日、南北線溜池山王駅 - 四ツ谷駅間開業
|-
|1998年(平成10年)
| 32 || 23,731 || 40,170 || '''169'''
| 30 || 22,248 || 34,370 || '''154'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 32 || 23,731 || 38,678 || '''163'''
| 30 || 22,248 || 33,789 || '''152'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 32 || 23,731 || 38,043 || '''160'''
| 30 || 22,248 || 33,267 || '''150'''
|
|-
|2001年(平成13年)
| 32 || 23,731 || || '''158'''
| 30 || 22,248 || || ''' '''
|
|-
|2002年(平成14年)
| 32 || 23,731 || 37,185 || '''157'''
| 30 || 22,248 || 31,294 || '''141'''
|
|-
|2003年(平成15年)
| 32 || 23,731 || 37,000 || '''156'''
| 30 || 22,248 || 31,122 || '''140'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 32 || 23,731 || || '''155'''
| 30 || 22,248 || || ''' '''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 32 || 23,731 || || '''156'''
| 30 || 22,248 || || ''' '''
|
|-
|2006年(平成18年)
| 32 || 23,731 || 37,120 || '''156'''
| 30 || 22,248 || 30,892 || '''139'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 32 || 23,731 || 37,690 || '''159'''
| 30 || 22,248 || 31,744 || '''143'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| 32 || 23,731 || 37,250 || '''157'''
| 30 || 22,248 || || ''' '''
|
|-
|2009年(平成21年)
| 32 || 23,731 || 37,240 || '''157'''
| 30 || 22,248 || 30,722 || '''138'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 32 || 23,731 || 36,335 || '''153'''
| 30 || 22,248 || 31,200 || '''140'''
|
|-
|2011年(平成23年)
| 32 || 23,731 || 36,099 || '''152'''
| 30 || 22,248 || 30,643 || '''138'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 32 || 23,731 || 36,541 || '''154'''
| 30 || 22,248 || 33,656 || '''151'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 32 || 23,731 || 37,225 || '''157'''
| 30 || 22,248 || 35,267 || '''159'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 32 || 23,731 || 37,680 || '''159'''
| 30 || 22,248 || 35,616 || '''160'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 32 || 23,731 || 38,051 || '''160'''
| 30 || 22,248 || 34,920 || '''157'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 32 || 23,731 || 38,129 || '''161'''
| 30 || 22,248 || 36,722 || '''165'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 31 || 22,989 || 37,859 || '''165'''
| 30 || 22,248 || 36,171 || '''163'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 31 || 22,989 || 38,815 || '''169'''
| 30 || 22,248 || 36,722 || '''165'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 31 || 24,552 || 39,049 || '''159'''
| 30 || 23,760 || 37,651 || '''158'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 31 || 24,552 || style="background-color: #ccffff;"|24,893 || style="background-color: #ccffff;"|'''101'''
| 30 || 23,760 || 22,891 || '''96'''
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 31 || 24,552 || 26,665 || '''109'''
| 30 || 23,760 || style="background-color: #ccffff;"|22,733 || style="background-color: #ccffff;"|'''96'''
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| 28 || 22,176 || 28,385 || '''128'''
| 29 || 22,968 || 25,724 || '''112'''
|
|}
== 駅一覧 ==
<!--接続路線の事業者名・駅番号は付けたほうがよいかと-->
* 駅番号はB線方向(荻窪から池袋の方向)に増加。正式には池袋起点だが、駅番号の若い荻窪側から記す。
* 全駅[[東京都]]内に所在。
* 四ツ谷駅と後楽園駅の2駅は地上駅で、ほかの駅はすべて地下駅となっている。(茗荷谷駅も地下駅だが、ホームの一部は地上部分に位置している。)
=== 本線 ===
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:3px solid #f62e36;"|駅番号
!style="width:8em; border-bottom:3px solid #f62e36;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #f62e36;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #f62e36;"|累計キロ
!style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|接続路線・備考
!style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|所在地
|-
!M-01
|[[荻窪駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|[[東日本旅客鉄道]]:[[file:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線(快速)]](JC 09)・[[file:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]](JB 04)
|rowspan="4"|[[杉並区]]
|-
!M-02
|[[南阿佐ケ谷駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|1.5
|
|-
!M-03
|[[新高円寺駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|2.7
|
|-
!M-04
|[[東高円寺駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|3.6
|
|-
!M-05
|[[新中野駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|4.6
|
|rowspan="2"|[[中野区]]
|-
!M-06
|[[中野坂上駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|5.7
|[[東京地下鉄]]:[[file:Logo of Tokyo Metro Marunouchi branch Line.svg|18px|Mb]] 丸ノ内線([[方南町駅|方南町]]方面)'''一部が直通運転'''<br />[[都営地下鉄]]:[[file:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-30)
|-
!M-07
|[[西新宿駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[東京医科大学病院|東京医大病院]]前)}}}}
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|6.8
|
|rowspan="6"|[[新宿区]]
|-
!M-08
|[[新宿駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|7.6
|都営地下鉄<ref group="*">都営新宿線・都営大江戸線の新宿駅とは連絡業務を行っていない。</ref>:[[file:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] 大江戸線([[新宿西口駅]]: E-01)<br />東日本旅客鉄道:[[file:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 11)・[[file:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 20)<br />・[[file:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] 中央線(快速)(JC 05)・[[file:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)(JB 10)・[[file:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 17)<br />[[京王電鉄]]:[[file:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王線]] (京王線新宿駅: KO01)・[[file:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王新線]] (新線新宿駅: KO01) <br />[[小田急電鉄]]:[[file:Odakyu odawara logo.svg|18px|OH]] [[小田急小田原線|小田原線]] (OH01)<br />[[西武鉄道]]:[[file:Seibu shinjuku logo.svg|18px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]]([[西武新宿駅]]: SS01)
|-
!M-09
|[[新宿三丁目駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[伊勢丹]]前)}}}}
|style="text-align:right;"|0.3
|style="text-align:right;"|7.9
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|F]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]] (F-13)<br />都営地下鉄:[[file:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|S]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]] (S-02)
|-
!M-10
|[[新宿御苑前駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|8.6
|
|-
!M-11
|[[四谷三丁目駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|9.5
|
|-
!M-12
|[[四ツ谷駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|10.5
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] [[東京メトロ南北線|南北線]] (N-08)<br />東日本旅客鉄道:[[file:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] 中央線(快速)(JC 04)・[[file:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)(JB 14)
|-
!M-13
|[[赤坂見附駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|11.8
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-05)、<br />[[file:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]([[永田町駅]]: Y-16)・[[file:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]](永田町駅: Z-04)・[[file:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] 南北線(永田町駅: N-07)
|[[港区 (東京都)|港区]]
|-
!M-14
|[[国会議事堂前駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|12.7
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] (C-07)、<br />[[file:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|G]] 銀座線([[溜池山王駅]]: G-06)・[[file:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] 南北線(溜池山王駅: N-06)
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[千代田区]]
|-
!M-15
|[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|13.4
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] (H-07)・[[file:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] 千代田線 (C-08)
|-
|colspan="6" style="text-align:center;"|この駅間に日比谷線・千代田線[[日比谷駅]] (H-08・C-09)があるが、丸ノ内線は経由しない<ref group="*">ただし、霞ケ関駅 - 銀座駅間で日比谷線日比谷駅経由を指定した定期券で丸ノ内線にも乗車可能である。</ref>。
|-
!M-16
|[[銀座駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|14.4
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|G]] 銀座線 (G-09)・[[file:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] 日比谷線 (H-09)、<br>[[file:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] 有楽町線([[銀座一丁目駅]]: Y-19){{Refnest|group="*"|name="norikae20200606"|2020年6月6日から乗換駅指定<ref group="報道" name="transfer"/>。}}<br />''地下通路で[[東銀座駅]]・日比谷駅・[[有楽町駅]]に連絡''<ref group="*">東銀座駅・日比谷駅・有楽町駅とは連絡業務を行っていない。</ref>
|[[中央区 (東京都)|中央区]]
|-
!M-17
|[[東京駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|15.5
|東日本旅客鉄道:[[file:Shinkansen-E.svg|17px|■]] [[東北新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]<br />・[[file:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] 中央線<!--早朝深夜に各駅停車も走行--> (JC 01)・[[file:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 01)・[[file:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 26)<br />・[[file:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]] (JT 01)・[[file:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[上野東京ライン]] (JU 01)<br />・[[file:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀・総武線(快速)]](JO 19)・[[ファイル:JR JE line symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] (JE 01)<br />[[東海旅客鉄道]]:[[file:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] [[東海道新幹線]]<br />''地下通路で[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]・[[二重橋前駅|二重橋前〈丸の内〉駅]]に連絡''<ref group="*">大手町駅・二重橋前〈丸の内〉駅とは連絡業務を行っていない。</ref>
|rowspan="3"|千代田区
|-
!M-18
|[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[産業経済新聞社|サンケイ]]前)}}}}
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|16.1
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|18px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] (T-09) ・[[file:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] 千代田線 (C-11) ・[[file:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] 半蔵門線 (Z-08)<br />都営地下鉄:[[file:Toei Mita line symbol.svg|18px|I]] [[都営地下鉄三田線|三田線]] (I-09)
|-
!M-19
|[[淡路町駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|17.0
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] 千代田線([[新御茶ノ水駅]]: C-12)<br />都営地下鉄:[[file:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|S]] 新宿線([[小川町駅 (東京都)|小川町駅]]: S-07)
|-
!M-20
|[[御茶ノ水駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|17.8
|東日本旅客鉄道:[[file:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] 中央線(快速)(JC 03)・[[file:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)(JB 18)
|rowspan="5"|[[文京区]]
|-
!M-21
|[[本郷三丁目駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|18.6
|都営地下鉄:[[file:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] 大江戸線 (E-08)<ref group="*">いったん地上に出る必要がある。</ref>
|-
!M-22
|[[後楽園駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|19.4
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] 南北線 (N-11)<br />都営地下鉄:[[file:Toei Mita line symbol.svg|18px|I]] 三田線([[春日駅 (東京都)|春日駅]]: I-12)・[[file:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] 大江戸線(春日駅: E-07)
|-
!M-23
|[[茗荷谷駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|21.2
|
|-
!M-24
|[[新大塚駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|22.4
|
|-
!M-25
|[[池袋駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|24.2
|東京地下鉄:[[file:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] 有楽町線 (Y-09) ・[[file:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|F]] 副都心線 (F-09)<br />東日本旅客鉄道:[[file:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] 埼京線 (JA 12)・[[file:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] 湘南新宿ライン (JS 21)・[[file:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 13)<br />[[東武鉄道]]:[[file:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] [[東武東上本線|東上線]] (TJ-01)<br />西武鉄道:[[file:Seibu ikebukuro logo.svg|18px|SI]] [[西武池袋線|池袋線]] (SI01)
|[[豊島区]]
|}
{{Reflist|group="*"}}
* [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]とは乗り換え駅がないが、[[銀座駅]]と[[東銀座駅]]を結ぶ地下通路(およそ450 - 500 m)を使うことで、乗り継ぎ割引は適用されないが乗り換えそのものは可能である。
* [[東京メトロ千代田線|千代田線]]・[[東京メトロ南北線|南北線]]・[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]とは異名駅を含めて乗り換え駅が4つずつ存在するが、乗り換えに時間がかかる駅が多い。
* 四ツ谷駅 - 霞ケ関駅間は当線経由の定期券で複数の異経路乗車が可能である。詳細は[[東京地下鉄#運賃]]を参照。
=== 分岐線 ===
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:3px solid #f62e36;"|駅番号
!style="width:8em; border-bottom:3px solid #f62e36;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #f62e36;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #f62e36;"|累計キロ
!style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|接続路線・備考
!style="border-bottom:3px solid #f62e36;"|所在地
|-
!Mb-03
|[[方南町駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|
|style="white-space:nowrap;"|[[杉並区]]
|-
!Mb-04
|[[中野富士見町駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|1.3
|
|rowspan="3"|[[中野区]]
|-
!Mb-05
|[[中野新橋駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|1.9
|
|-
!M-06
|中野坂上駅
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|3.2
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] 丸ノ内線(池袋方面・荻窪方面)'''一部が直通運転'''<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] 大江戸線 (E-30)
|}
== その他 ==
池袋 - 御茶ノ水間が開業した[[1954年]](昭和29年)[[1月20日]]当日の池袋駅は見物目的の客が多数押し寄せて大変な混雑となり、営団地下鉄側が臨時出札口を設けて対応にあたるほどで午前10時の時点で池袋駅から乗車した者の数は1万5千人を越えていた<ref group="新聞" name="asahi19540120">{{Cite news|title=きょうばかりはサービス満点 地下鉄新路線開通|newspaper=朝日新聞|date=1954-01-20|page=3 夕刊|publisher=朝日新聞社}}</ref>。またこの日、神田の商店連合会ではその開通を祝って花火を打ち上げたり神田川に屋形船を運航させたりして大騒ぎだったと当時の新聞に掲載されている<ref group="新聞" name="asahi19540120" />。
『東京地下鉄道丸ノ内線建設史』によると、四ツ谷 - 赤坂見附の設計図には、カーブの半径が「182.11」と記載されている。この数値を戦前の[[ヤード・ポンド法]]に換算すると、ちょうど200[[ヤード]]になる。この区間は戦時中の1942年に建設が開始されている([[メートル法]]表記採用は戦後から)。
他の東京メトロ路線では、駅ホームでの接近放送はすべて「まもなく」が文頭に来るが、当路線では「お待たせ致しました」を文頭にした、旧型の接近自動放送が2019年まで使用されていた。またJR線接続駅のうち池袋、御茶ノ水、荻窪で、「国鉄線」を「○○線」と各路線名に言い換えた<ref group="注釈">池袋は「(有楽町線、副都心線、)山手線、埼京線、(西武池袋線、東武東上線はお乗り換えです)」(湘南新宿ラインはアナウンスされず)。御茶ノ水は「中央線、総武線は…」。荻窪は「中央線は…」。</ref>[[国鉄分割民営化]]当初の台詞を、2019年の更新(後述)まで継続していた<ref group="注釈">更新後、御茶ノ水は「JR線は…」に変更され、池袋と荻窪は乗換案内自体を割愛。</ref>。
[[新宿駅]] - [[新宿三丁目駅]]は駅間が300 [[メートル|m]]しかなく、東京メトロの中で一番駅間が短い区間である。
== 今後の予定 ==
* 銀座線とともに、走行安定性向上のため第三軌条に給電する標準電圧を600 Vから750 Vに昇圧することが2016年に発表された。具体的な実施時期は示されていない<ref name="tmp2018_p16">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130122303/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf|title=東京メトログループ中期経営計画 東京メトロプラン2018 〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜|page=16|archivedate=2021-01-30|accessdate=2021-02-03|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
* 無線式列車制御システムである[[CBTC]]の当線への導入を2024年度中に実施する予定である<ref group="報道" name="press20221201" /><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160128_04.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201127071925/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20160128_04.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜日本の地下鉄用列車制御システムとして初導入〜 丸ノ内線に無線式列車制御システム(CBTCシステム)を導入します|publisher=東京地下鉄|date=2016-01-28|accessdate=2020-11-27|archivedate=2020-11-27}}</ref>。2022年11月に四ツ谷駅 - 荻窪駅間で走行試験を開始した<ref group="報道" name="press20221201" />。
* 2018 - 2023年度に、新型車両2000系全52編成を導入する予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_2020_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201201153638/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_2020_2.pdf|title=2020年度(第17期)事業計画(説明資料)|date=2020-03|archivedate=2020-12-01|accessdate=2020-12-01|page=13|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 報道発表資料 ===
{{Reflist|group="報道"|2}}
=== 新聞記事 ===
{{Reflist|group="新聞"}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_marunouchi.html/|date=1960-03-31|title=東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Marunouchi-Con1}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_marunouchi.html/|date=1960-03-31|title=東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)|publisher=帝都高速度交通営団|ref= Marunouchi-Con2}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_ogikubo.html/|date=1967-03-31|title=東京地下鉄道荻窪線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Ogikubo-Con}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_touzai.html/|date=1978-07-31|title=東京地下鉄道東西線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Tozai-Const}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_nanboku.html/|date=2002-03-31|title=東京地下鉄道南北線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=namboku}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_fukutoshin.html/|date=2009-03-31|title=東京地下鉄副都心線建設史|publisher=東京地下鉄|ref=Fukutoshin-Const}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tokyo Metro Marunouchi Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[丸ノ内サディスティック]] - 当路線を題材とした[[椎名林檎]]の楽曲。
* [[猫 (フォークグループ)]] - 代表曲『地下鉄にのって』(作詞:[[岡本おさみ]]、作曲:[[吉田拓郎]])は当路線を題材にしたもので、歌詞には赤坂見附、四ツ谷、新宿の各駅が登場する。のちに吉田拓郎自身もセルフカバーしている。
== 外部リンク ==
* [https://www.tokyometro.jp/station/line_marunouchi/ 丸ノ内線/M | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
* [https://metroarchive.jp/content/marunouchi.html/ 丸ノ内線の歴史] - メトロアーカイブアルバム(公益財団法人メトロ文化財団)
{{東京の地下鉄路線}}
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サミーラ・アッ=シャフバンダル
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サミーラ・アッ=シャフバンダル(سميرة الشهبندر Samira Shahbandar、1946年 - )は、イラクの大統領サッダーム・フセインの愛人(第二夫人とも紹介されるが正式な婚姻はしていない)。
サッダームとの間に、彼女にとっては長男、サッダームにとっては三男に当たる息子が1人いるとされるが、サッダームの主治医でもあったアラ・バシールは著書で「サミーラには前の夫との間に子供はいるが、サッダームとの間には子供はいない。」と記しており、インタビューでは「(サッダームとサミーラの間の子供とされる)アリー・サッダーム・フセインは架空の人物」と語っている。
ちなみにサッダーム・フセインの孫に、サミーラとの間に生まれた子とされたアリー・サッダーム・フセインと同姓同名の「アリー・サッダーム・フセイン・マジード」がいる。この孫と混同された可能性が高い。
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サミーラ・アッ=シャフバンダルは、イラクの大統領サッダーム・フセインの愛人(第二夫人とも紹介されるが正式な婚姻はしていない)。
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'''サミーラ・アッ=シャフバンダル'''('''سميرة الشهبندر''' Samira Shahbandar、[[1946年]] - )は、[[イラク]]の大統領[[サッダーム・フセイン]]の[[愛人]](第二夫人とも紹介されるが正式な婚姻はしていない)。
== 経歴 ==
サッダームとの間に、彼女にとっては長男、サッダームにとっては三男に当たる息子が1人いるとされるが、サッダームの主治医でもあったアラ・バシールは著書で「サミーラには前の夫との間に子供はいるが、サッダームとの間には子供はいない。」と記しており、インタビューでは「(サッダームとサミーラの間の子供とされる)アリー・サッダーム・フセインは架空の人物」と語っている。
ちなみにサッダーム・フセインの孫に、サミーラとの間に生まれた子とされたアリー・サッダーム・フセインと同姓同名の「'''アリー・サッダーム・フセイン・マジード'''」がいる。この孫と混同された可能性が高い。
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イラク人の一覧
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イラク人の一覧(イラクじんのいちらん)
この一覧は、イラク出身の有名人についての人名記事を名の50音順に配列したものである。ここでは、イラクという国家がおおよそ現在の枠組みに定まった20世紀のイラク王国期以降の人物に限定する。
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イラク人の一覧(イラクじんのいちらん) この一覧は、イラク出身の有名人についての人名記事を名の50音順に配列したものである。ここでは、イラクという国家がおおよそ現在の枠組みに定まった20世紀のイラク王国期以降の人物に限定する。 アブドゥルアズィーズ・ハキーム
アフマド・チャラビー
イッザト・イブラーヒーム
イッズッディーン・サリーム
イヤード・アッラーウィー
ウダイ・サッダーム・フセイン
ガーズィー・ヤーワル
クサイ・サッダーム・フセイン
サージダ・ハイラッラー
サッダーム・フセイン
サブアーウィー・イブラーヒーム・ハサン
サミーラ・アッ=シャフバンダル
ターハー・ヤースィーン・ラマダーン
ターリク・ミハイル・アズィーズ
バルザーン・イブラーヒーム・ハサン
ムハンマド・バーキル・ハキーム
ワトバーン・イブラーヒーム・ハサン
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'''イラク人の一覧'''(イラクじんのいちらん)
この一覧は、[[イラク]]出身の有名人についての人名記事を名の50音順に配列したものである。ここでは、イラクという国家がおおよそ現在の枠組みに定まった[[20世紀]]のイラク王国期以降の人物に限定する。
* [[アブドゥルアズィーズ・ハキーム]]
* [[アフマド・チャラビー]]
* [[イッザト・イブラーヒーム]]
* [[イッズッディーン・サリーム]]
* [[イヤード・アッラーウィー]]
* [[ウダイ・サッダーム・フセイン]]
* [[ガーズィー・ヤーワル]]
* [[クサイ・サッダーム・フセイン]]
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== 関連項目 ==
* [[出身別の人名記事一覧の一覧]]
* [[アラブ人]]
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天空のエスカフローネ
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『天空のエスカフローネ』(てんくうのエスカフローネ、The Vision of Escaflowne)は、サンライズ制作の日本のテレビアニメ。1996年4月2日から9月24日までテレビ東京をキー局として全26話が放送された。
2000年には設定を一新した劇場版『エスカフローネ』が公開された。
ロボットアニメに少女漫画の要素を融合したものとして構想された当初の企画では、『空中騎行戦記』というファンタジー要素を持つ可変戦闘機ものだった。
ファンタジー、運命、科学、恋愛などさまざまなテーマを複雑に絡めたストーリー展開、菅野よう子や溝口肇による音楽などが特色。作画補助としてCGが実験的に使われたことや、フルオーケストラ(ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団、ローマ歌劇場)による音楽も話題を呼んだほか、主人公・神崎ひとみの声を担当した坂本真綾が当時16歳の高校生であったことも注目された。坂本は本作がテレビアニメ初出演、初レギュラー、初主演となり、オープニングテーマの歌唱も担当した。また、ゆかり/ミラーナ役の飯塚雅弓も本作がテレビアニメ初出演となった。
高校1年生の占い好きな少女、神崎ひとみは突然地球から異世界ガイアに飛ばされてしまう。月と地球を天空に抱くその世界では人の“想い”が世界を変える力となる。その地で、彼女は自国(ファーネリア)を滅ぼされた若き王、バァンと、彼の乗る人型機械(ガイメレフ)「エスカフローネ」、陰のある騎士アレンたちと共にガイア全土を取り巻く戦いへと巻き込まれていく。
(以下、特に区分されていない場合はテレビ版での設定)
「けものびと」と読む。猫や犬などの動物に似た、皮膚を覆う体毛や尻尾などの特徴を備えた人々。多くは二本足で立ち陸上で生活しているが、水中で生活する下半身が魚の種族もいる。迫害の対象ともなっており、作中ではいわれのない理由により焼き討ちにされたり、観賞用として捕らえられたりしている。それ故か、単独の種族で小さな集落を作って生活している者も多く、獣人による国家は存在しない。
主要人物中では、メルル、ナリア・エリヤ姉妹、ジャジュカが獣人である。
浮き岩を硬式飛行船のガス嚢のように用い、それに推進用の動力をつけて操縦可能にした一種の航空機。小型の快速艇から、浮遊要塞、巨大な商船、超巨大なイスパーノ工房船まで、様々な大きさと形、目的の浮き船が存在する
放送日時はIBC岩手放送と山形放送とBS・CS放送局、個別に出典が提示されているものを除き1996年7月上旬時点のものとする。
『エスカフローネ』(Escaflowne)。2000年6月24日公開。サンライズと韓国企業との初の正式製作&出資で作られた日韓米合作アニメーション映画。TVシリーズが韓国で高視聴率を取り韓国側からのオファーで映画化が実現した。製作総予算は3億円。設定、ストーリーを大幅に変更し声優も一部入れ替えられた完全な新作映画として製作された。日本では一般公開ではなくシネマコンプレックス企業と組む変則的な公開だったため興行収益が振るわなかったが、その後本格的なアニメーション映画として各国で公開された。
生きる理由を見失っていた女子高生のひとみは、ある日異世界ガイアへと連れて行かれ翼の神と呼ばれるようになった。黒竜族と戦うアレン率いるアバハラキの一団と同行することになったひとみは、黒竜族の総帥フォルケンの弟であり、竜の鎧エスカフローネを動かせる竜族の末裔バァンという青年と出会い惹かれるようになる。
テレビ版と違い、ひとみは陸上を止め、自分の存在意義を見出せずにいた。そこにフォルケンが現れエスカフローネを蘇らせる「翼の神」としてガイアに召喚される。バァンとフォルケンは「竜族」(竜神人のような白い翼を持つ)の王の子。フォルケンは自分ではなく弟に「王の印」が現れたために一族を抜け、「黒竜族」の軍隊を率いて一族を滅ぼしガイアそのものを消し去ろうとする。
アレンやミラーナは黒竜軍に国を滅ぼされたものたちが結成したレジスタンス「アバハラキ」のメンバーとして登場。バァンとメルルもそこに身を置いている。ディランドゥは、フォルケンによって拾われた竜族の血を引く少年という設定。
竜族のバァン、フォルケン、ディランドゥの3人は魔導力なる超能力が使える。ガイメレフは生物的なデザインへとアレンジされている。古代の遺物であり新たに製造することは出来ず、「竜の鎧」としてエスカフローネとアルセイデスの2機しか登場しない。また操縦には魔導力が必要である。また、地球上での舞台が湘南から東京に変更されており、原宿や国立競技場などが出て来る。
いずれもストーリー、設定などがアニメと異なっている。
PC向けHybrid版CD-ROM『天空のエスカフローネCOLLECTION』(ISBN 4-89601-280-1 C0876 P5974E)が1996年に発売。企画・販売は ムービック、制作はリンク工房。
劇場版の公開に合わせて放送。
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『天空のエスカフローネ』は、サンライズ制作の日本のテレビアニメ。1996年4月2日から9月24日までテレビ東京をキー局として全26話が放送された。 2000年には設定を一新した劇場版『エスカフローネ』が公開された。
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{{出典の明記|date=2014年7月}}
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|ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
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『'''天空のエスカフローネ'''』(てんくうのエスカフローネ、''The Vision of Escaflowne'')は、[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]制作の日本の[[テレビアニメ]]。[[1996年]][[4月2日]]から[[9月24日]]まで[[テレビ東京]]をキー局として全26話が放送された。
[[2000年]]には設定を一新した劇場版『'''[[#劇場版|エスカフローネ]]'''』が公開された。
== 概要 ==
ロボットアニメに少女漫画の要素を融合したものとして構想された当初の企画では、『空中騎行戦記』というファンタジー要素を持つ[[可変戦闘機 (マクロスシリーズ)|可変戦闘機]]ものだった<ref>『ロマンアルバム 天空のエスカフローネ メモリアルコレクション』より</ref>{{要ページ番号|date=2019-05-06}}。
ファンタジー、運命、科学、恋愛などさまざまなテーマを複雑に絡めたストーリー展開、[[菅野よう子]]や[[溝口肇]]による音楽などが特色。作画補助として[[コンピュータグラフィックス|CG]]が実験的に使われたことや、フルオーケストラ([[ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[ローマ歌劇場]])による音楽も話題を呼んだほか、主人公・神崎ひとみの声を担当した[[坂本真綾]]が当時16歳の高校生であったことも注目された。坂本は本作がテレビアニメ初出演、初レギュラー、初主演となり、オープニングテーマの歌唱も担当した{{efn|なお、後年に坂本の夫となる[[鈴村健一]]は本作の制作当時に何らかの役のオーディションを受けるも落選しており、2019年4月28日に[[NHK BSプレミアム]]で放送された『[[アニソン!プレミアム!]]』にてその旨を坂本についての話題と共に明かしている<ref>[https://www4.nhk.or.jp/anisonpremium/x/2019-04-28/10/21440/2254004/ アニソン!プレミアム!▽TRUEほか▽鈴村健一初披露曲・水樹奈々ライブリポも! - NHK]</ref>。}}。また、ゆかり/ミラーナ役の[[飯塚雅弓]]も本作がテレビアニメ初出演となった。
== ストーリー ==
{{不十分なあらすじ|date=2013年5月}}
高校1年生の占い好きな少女、神崎ひとみは突然地球から異世界ガイアに飛ばされてしまう。月と地球を天空に抱くその世界では人の“想い”が世界を変える力となる。その地で、彼女は自国(ファーネリア)を滅ぼされた若き王、バァンと、彼の乗る人型機械(ガイメレフ)「エスカフローネ」、陰のある騎士アレンたちと共にガイア全土を取り巻く戦いへと巻き込まれていく。
== 登場人物 ==
(以下、特に区分されていない場合はテレビ版での設定)
=== 地球 ===
; 神崎 ひとみ
: [[声優|声]] - [[坂本真綾]]<ref>{{Cite interview |和書|subject=[[坂本真綾]] |url=http://otalab.net/news/detail.php?news_id=2010 |title=TV放送から15周年、坂本真綾が当時を振り返る「天空のエスカフローネ」Blu-ray化&BS11放送 |date=2011-10-07 |work=オタラボ |accessdate=2015-07-14}}</ref>
: 本作の主人公。高校生で陸上部の短距離選手。大会で通用する唯一の一年生。憧れの先輩・天野が外国に行ってしまうと聞き、「100メートルで13秒を切れたら、わたしのファーストキス! お願いします!!」という台詞にもあるように思い切った言動が多い。基本的に明るく前向きだが少々短気で、一つのことに集中すると周りが見えなくなってしまうことも。
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: 「竜退治の儀」で地球に迷い込んだバァンと出会い、巻き込まれる形でガイアに渡る。
: 天野にそっくりなアレンに恋するが、やがてそれは本物ではないと気づき、自分が本当に好きなのは誰かを知ることになる。
:: '''【劇場版】'''テレビ版とは大幅に設定が異なり、共通しているのは陸上部に所属していたこと程度。「足を痛めて陸上を断念、自分の存在の希薄さを感じ、自らの消失を願う」という陰のある人物像に変更されている。その他、家族構成が[[一人っ子]]、住んでいる街が[[湘南]]から[[東京]]に変更されているという相違がある(小説版では生地はTV版同様)。フォルケンによってエスカフローネを蘇らせる「翼の神」としてガイアに召喚される。
:
; 天野 進
: 声 - [[三木眞一郎]]
: ひとみが恋心を抱く、陸上部の先輩。彼もひとみを憎からず思っていたが、外国へ引っ越すことになっていた。しかし、ひとみがガイアに転移する瞬間に立ち会ったことに責任を感じ、日本に留まることに。
:
; 内田 ゆかり
: 声 - [[飯塚雅弓]]
: ひとみの親友。陸上部マネージャー。天野に想いを伝えるよう、ひとみの背中を押していたが、実は彼女自身が天野に好意を持っていた。
:: '''【劇場版】'''陸上部をやめ無気力になったひとみを心配するが、彼女に拒絶されてしまう。
:
; ひとみの母
: ひとみの行方不明事件を受けて、神崎家を訪問した天野とゆかりに、ひとみの祖母の体験を話し聞かせる。
:
; ひとみの祖母
: 今は亡き、ひとみにペンダントを遺した人。実はひとみと同年代の頃、夏祭りに出かけた時にガイアへ飛ばされたことがある。その際、アレンの父レオンと交流を持っていた。
: 矢代ゆずるの漫画版では名前は'''ゆり'''とされている。
=== ガイア ===
==== ファーネリア王国 ====
; バァン・ファーネル
: 声 - [[関智一]](子供時代:[[亀井芳子]])
: 本名'''バァン・スランザール・デ・ファーネル'''。天空の竜に守られしファーネリア国の王子。シリーズ冒頭にて、試練“竜退治の儀”を果たして王となり、ガイメレフ・エスカフローネと血の契約を結ぶ。無口で不器用。王としての使命、戦うことの苦しみや命の重さに悩むことも。言葉でのコミュニケーション能力には欠けるが、本質は優しく、少しとぼけた性格。人間の父と竜神人の母の血を引いており、背中に白い翼を生やすことができる。兄であるフォルケンが「“竜退治の儀”を逃げた」と陰口を叩かれたため、戦いに背を向けて逃げることを何よりも嫌う。
:: '''【劇場版】'''幼いころに兄率いる黒竜族によって国を滅ぼされた竜族最後の王。兄への復讐のみを目的に戦っている。エスカフローネの中から現れたひとみを最初は訝しんでいたが、彼女との交流で本来の人間性を取り戻す。
:
; メルル
: 声 - [[大谷育江]]
: バァンを慕う猫人の少女。一応バァンの侍女的立場にある。バァンのためなら身を挺することも厭わない。最初はひとみを疎んじていたが、次第に打ち解ける。戦災孤児で、幼さが目立つ言動の一方、大人びた側面も持っている。
:: '''【劇場版】'''幼少期に天涯孤独となったバァンと同じアドムの村で育ち、現在はバァンとともにアバハラキに身を寄せている。バァンの本来の優しさを知っているため今の状態を案じている。TV版と違いパンツを履いている設定である。
:
; ゴオウ
: 声 - [[大塚明夫]]
: 先代のファーネリア王でフォルケン、バァンの父。ヴァリエと出会い、周囲の反対を押し切り結婚。バァンが物心つく前に病死した。祖父の頃に完成したエスカフローネの搭乗者でもあった。
:: '''【劇場版】'''登場せず、後述する'''竜王'''がその役割を担っている。
:
; ヴァリエ
: 声 - [[榊原良子]]
: バァンの母。竜神人の末裔。“運命の出会い”として、ファーネリア王ゴオウに嫁ぐ。ゴオウの死後、“竜退治の儀”において行方不明となったフォルケンを追い、竜の森で失踪。最終回の描写からは既に他界している模様。
:: '''【劇場版】'''既に故人で、ディランドゥの生母(ゴオウの愛人)に嫉妬して追放するなど、狭量な一面が追加された(小説で明記されている)。また、フォルケンとは実の母子関係ではなくなっている。
:
; バルガス
: 声 - [[玄田哲章]]
: ファーネリア王国の侍大将。バァンとアレンの剣の師でもある。ガイア三剣豪の一人。ガイメレフに剣のみで立ち向かえるほどの力を持つ。ザイバッハ帝国軍によるファーネリア侵攻に際し、アルセイデス1体を倒すも討ち死に。漫画版ではシアンという実娘がおり、彼女はひとみやバァンの旅に同行している。
:
; アソナ
: 声 - [[岩田安生]]
: ファーネリアの侍大将。専用メレフを持っている。ザイバッハ帝国軍との戦闘にて戦死。
:
; ユリゼン
: 声 - [[土師孝也]]
: ファーネリアの侍大将。専用メレフを持っている。ザイバッハ帝国軍との戦闘にて戦死。
:
; ルヴァ
: 声 - [[中嶋聡彦]]
: ファーネリアの侍大将。専用メレフを持っている。ザイバッハ帝国軍との戦闘にて戦死。
==== アストリア王国 ====
; アレン・クルゼード・シェザール
: 声 - [[三木眞一郎]]
: 無敵と謳われるアストリア王国の騎士。地球年齢で21歳相当。ひとみの先輩の天野に瓜二つの容貌の持ち主。女性に紳士的な優男である一方、剣やガイメレフの操縦にも卓越しており、シリーズ序盤ではバァンと手合わせをして彼に勝っている。
: 少年時代、父親が家族を捨てて己の道を走り、その心労で母親が病死。妹のセレナも行方不明になったことで一度は盗賊業に身を落としたが、バルガスとの出会いにより改心。その後、王国で12人しかいない誉れ高き「天空の騎士」に任命される。王国の第一王女、マレーネと恋仲となり、2人の間に出来た子がシド王子である。マレーネと別れた後は辺境の砦警備の任に就き、荒くれ者の部下たちを率いることになる。部下には「お頭」と呼ばれている。
: 家庭を捨てた父親レオンを長年憎み続けていたが後に幻の谷で死んだ父親と再会、そこで両親が愛し合っていたことを知り和解した。
:: '''【劇場版】'''黒竜族と戦う組織「アバハラキ」のリーダー。仲間と打ち解けようとしないバァンを挑発しつつも、その能力を高く買っている。テレビ版の部下たちも「アバハラキ」のメンバーとして登場。
:
; アストン・サラ・ミラーナ
: 声 - 飯塚雅弓(TV版)、武田亜希(劇場版)
: アストリア王国の第三王女。勝気な性格で、思ったことは強引に実行に移す傾向がある。アレンに好意を寄せており、ひとみとライバル的な関係になるが徐々に友人としても打ち解けていく。人の役に立ちたいと医術を学び、アレンの負傷に際して初めての手術を成功させるなど非常に勉強家な側面もある。地球年齢で15歳相当。
:: '''【劇場版】'''「アバハラキ」に所属する女戦士でナイフ使いと、テレビ版とは設定が大きく異なる。性格も姉御肌となっている。
:
; エリーズ・アストン
: 声 - [[天野由梨]]
: アストリア王国の第二王女。物静かで実直な女性。アレンに密かに惹かれていたが、それを表に出す事はなかった。
:
; マレーネ・アストン
: 声 - [[稀代桜子]]
: フレイド公国の項参照。
:
; ガデス
: 声 - [[大川透]]
: アレンの副官。階級は軍曹。アレンが不在、もしくはシェラザードで出撃している時はクルゼードの指揮を執っていた。
:
; キオ
: 声 - [[松尾銀三]]
: 口ひげを生やし、いつも鎧を着込んでいるクルゼード隊の隊員。クルゼード内では操舵手。
:
; テオ
: 声 - [[中嶋聡彦]]
: 褐色の肌で短髪、茶色の鎧を着ているクルゼード隊の隊員。
:
; リデン
: 声 - [[うえだゆうじ|上田祐司]]
: 頭にスカーフを巻いたクルゼード隊の隊員。クルゼード内では潜望鏡のようなもので外部を観測している。
:
; オルト
: 声 - [[檜山修之]]
: スキンヘッドの頭に大きな傷を持つクルゼード隊の隊員。
:
; カッツ
: 声 - [[小野英昭]]
: 筋肉質な金髪のクルゼード隊員。細いタレ目が特徴。
:
; バイル
: 声 - [[室園丈裕]]
: 鼻が赤いクルゼード隊の隊員。
:
; モグラ男
: 声 - [[茶風林]]
: モグラ人。森の民。元はカステーロの砦に捕らえられていたコソ泥であるが意外と博識で、なぜかアレン達と行動を共にするようになった。
:: '''【劇場版】'''「アバハラキ」の一員。ひとみの出現を予言したが、いんちき占い師と呼ばれている。
:
; メイデン・ファッサ
: 声 - [[阪脩]]
: アストリアの豪商。ドライデンの父。アストリアの政治にも関わっている。エスカフローネを値踏みしたり、ヤモリ人を使ってひとみをさらおうとしたりと、貪欲な性質が窺える。
:
; ドライデン・ファッサ
: 声 - [[小杉十郎太]]
: ミラーナの許嫁。アストリアの豪商メイデンの跡取り息子で、船団を率いてガイアを旅しながら商売していた。本業が順風満帆であるのは勿論のこと、自室は本で溢れ、学者に負けない知識を持つと自負する。飄々とした性格である。劇中では親子の絡みは描写されていない上、本人も父親を軽視している節がある。
:: '''【劇場版】'''鉱山都市トルシナの富豪で、「アバハラキ」のスポンサー。
:
; 番頭
: 声 - [[亀山助清]]
: 弱気なネズミ人の老人。ドライデンの右腕だが、常に彼の金銭感覚の低さを危惧している。
:
; レオン
: 声 - 土師孝也
: アレンの父。しがらみを嫌い、家族をアストリアに置いて単身旅を続けていた。その旅の果てにひとみの祖母と出会う。その後、アトランティスの謎を求めて幻の谷への旅を続けていたが、同じくアトランティスの謎を追っていたアイザックことドルンカークに日誌を奪われ殺された。
:
; エンシア
: アレンの母。家族を捨てたレオンを最後まで愛していた。レオンの日記が独りでに自宅に戻った所を目撃しており、同時に彼の死に勘づいた模様。アレンの妹セレナが神隠しにあった後、心労により病死。
==== ザイバッハ帝国 ====
; ディランドゥ・アルバタウ、セレナ・シェザール
: 声 - [[高山みなみ]]
: ザイバッハ帝国のガイメレフ部隊、「竜撃隊」を指揮する少年。[[奇人|エキセントリック]]で残虐非道、何よりも戦いや殺しを楽しみとしており、鏡を見て陶酔することもあるナルシスト。しかし一方で、「竜撃隊」の隊員たちからは、死してなお彼を守ろうとするほどの信望を集めてもいた。その正体は、運命改変の実験のため連れ去られ、性別さえも含む姿と記憶を変えられたアレンの妹セレナである。
:: '''【劇場版】'''「黒竜族」の竜撃隊([[騎兵]]部隊・メンバーはTV版と同じ)隊長。バァンたちの父である竜王の庶子でバァン、フォルケンとは異母兄弟。かつて荒野で獣同然の生活をしていたところを、竜族の血を引く手駒としてフォルケンに拾われた身。セレナとは別人になっており、性別は純然たる男性。小説版ではアルセイデスに意識を転写してバァンと戦い、戦死。
:
; フォルケン・ラクール・デ・ファーネル
: 声 - [[中田譲治]]
: バァンの兄。バァンと同様ファーネリアの王子であったが、王位継承の儀式である“竜退治の儀”の途中で行方不明になった。その後、ザイバッハ帝国の軍師としてバァンの前に現れ、エスカフローネを狙う。フレイド攻略の際は、交渉において、全権を任されるほどの力を持っている。元・魔道士。
: 竜退治の儀で戦った竜に右腕を食いちぎられ、保護されたザイバッハ帝国において機械の義手を与えられた。
: 元来はバァン同様白い翼を持っていたが、いつの間にか黒く変わっていた。
: 本当は誰よりも世界のことを想っており、争いのない世界を作るためにドルンカークに与することを選んだ。しかし、次第にその行動に疑問を感じるようになり、やがて離反。刃を向けるが叶わず、命を落とす。
:: '''【劇場版】'''ガイア全土を席巻する「黒竜族」の宗主。元は竜族王家の長子だったが、継承者の条件である王の印が現れなかったため竜族の特徴である翼を捨て、自らの手で国を滅ぼした。悲しみに満ちたガイアを消し去ろうとしており、「翼の神」ひとみをガイアに呼び寄せた張本人。TV版と違い異母兄弟。
:
; シェスタ
: 声 - [[山口勝平]]
: 竜撃隊隊員。フレイド攻略後、エスカフローネとの戦闘において戦死。透視能力を持つ。
:: '''【劇場版】'''生き残り、ディランドゥと最後まで同行する。
:
; ミゲル・ラバリエル
: 声 - [[松野太紀]]
: 竜撃隊隊員。フレイド攻略前、アレン達に捕虜にされる。逃亡の最中、功を焦って失敗。負傷したところを、作戦の口封じのためゾンギに殺された。
:: '''【劇場版】'''アレンに返り討ちにされた。
:
; ガァティ
: 声 - [[真殿光昭]]
: 竜撃隊隊員。他の竜撃隊員とともにエスカフローネに倒される。
:: '''【劇場版】'''シェスタ同様、ディランドゥと同行。
:
; ダレット
: 声 - [[有馬克明]]
: 竜撃隊隊員。
:: '''【劇場版】'''ディランドゥと同行。
:
; ナリア
: 声 - [[天野由梨]]
: 豹人の幸運強化兵。エリヤの双子の姉。本名'''ナルナル'''(ナリアはフォルケンに与えられた名)。銀色の髪を持つ。幼い頃、人間による焼き討ちで両親を失い、エリヤと共に迫害されていたところをフォルケンに助けられた。以来、彼を慕い続けている。エリヤと共に、ザイバッハ本国での魔道士たちによる訓練を終え、フォルケンの下に配属された。専用ガイメレフ・テイリングを駆りアストリア王国を襲撃。
:: '''【劇場版】'''ドライデンの酒場の歌姫として登場。ストーリーには絡んでこない。
:
; エリヤ
: 声 - [[日高奈留美]]
: 豹人の幸運強化兵。ナリアの双子の妹。本名'''ベルベル'''(エリヤはフォルケンに与えられた名)。金色の髪を持つ。姉のナリア同様フォルケンを慕い、忠実に仕える。ナリアと共に魔道士に訓練を受けた後、フォルケンの下に配属された。専用ガイメレフ・テイリングを駆りアストリア王国を襲撃。
:: '''【劇場版】'''ナリア同様ドライデンの酒場の歌姫として登場。
:
; ジャジュカ
: 声 - [[辻谷耕史]]
: 犬人。セレナがザイバッハにさらわれてきた当時の世話役。セレナがディランドゥになってからは、竜撃隊全滅後に与えられた、ただ一人の部下として現れ、ディランドゥが唯一心を開く存在となる。
:: '''【劇場版】'''ディランドゥの副官を務める竜撃隊隊員。元は黒竜族に自分の里を滅ぼされた身で、フォルケンに復讐する機会をうかがっていた。
:
; ゾンギ
: 声 - [[塩沢兼人]]
: まやかし人と呼ばれるカメレオン人。フォルケンの忠実な部下。特殊な変身能力によって、プラクトゥに成り代わり、フレイド公国に潜入。公国を混乱させるが、任務終了後、ミゲルを殺した咎でディランドゥによって殺される。他国に潜入していた時分、その敵国で任務にあたっていた兄を殺してしまった過去を持つ。
:
; アデルフォス・ゲイン
: 声 - [[銀河万丈]]
:: ディランドゥの直接の上司で、赤銅の軍を率いるザイバッハの将軍。ザイバッハ四魔将の筆頭。フレイド公国侵攻などに参加している。他国から恐れられていたことは容易に想像できる。が、アストリアと同盟国との戦闘の際、バスラム軍が使用したエナジスト爆弾によって、彼の乗る浮遊要塞は大破・着底した。アデルフォス自身は四魔将軍の中で唯一生存している。
:
; ヘリオ
: 声 - [[西村知道]]
: ザイバッハ四魔将のひとつ、青銅の軍を率いる。上記エナジスト爆弾によって戦死。
:
; ゾディア
: 声 - [[江角英明]]
: ザイバッハ四魔将のひとつ、黒鉄の軍を率いる。上記エナジスト爆弾によって戦死。
:
; ゲティン
: 声 - [[郷里大輔]]
: ザイバッハ四魔将のひとつ、白鉄の軍を率いる。上記エナジスト爆弾によって戦死。
:
; ドルンカーク
: 声 - [[山内雅人]]
: ザイバッハ帝国皇帝。元々は17〜18世紀の地球に生きていた科学者で、本名は'''アイザック'''。「人間の運命を科学的に解明したい」と、死の床に伏しても研究を望む想いが彼をガイアに転移させた。その後、貧しかったザイバッハ発展のため尽くしてきたが、大国となった今、研究への想いは再び燃え上がり、ザイバッハをも含むガイア全土を混乱させていく。過去に惑星ガイアに転移したひとみの祖母と出会っている。
: モデルは[[万有引力]]を発見した実在の科学者・錬金術師の[[アイザック・ニュートン]]。
==== フレイド公国 ====
; シド・ザール・フレイド
: 声 - 高山みなみ
: フレイド公国の王子。登場時はアレンを英雄として単純に憧れたり、戦闘に脅えるなどの幼さを見せたが、ザイバッハとの戦の後、若きフレイド公王として大きく成長を始めた。実はマレーネ姫とアレンの間に出来た子だが、本人はその事実を知らない。
:
; マレーネ
: 声 - [[稀代桜子]]
: アストリア王国の第一王女でミラーナの姉。劇中ではすでに故人で、回想シーンにしか登場しない。
: アレンと愛し合っていたが政治的策略によりフレイド公国に嫁がされる。しかし、その時すでにアレンの子(=シド王子)を身ごもっていた。結婚後フレイド公王の愛情に触れ、やがて自身も彼を慕うようになるが、病を得て夭折。死の床でフレイド公王への愛を口にした。
:
; マハド・ダル・フレイド
: 声 - [[仲野裕]]
: フレイド公国の王。マレーネの夫。マレーネとシドを愛し、シドと血の繋がりがないことを知りながらも我が子として大切に育てる。厳格さと愛情深い側面を併せ持ち、アレンをも含む民衆の尊敬を集めた名君。ザイバッハ帝国との戦いで死亡。
:
; ボリス
: 声 - [[飯塚昭三]]
: フレイド公国の執政官(摂政官とも)。ザイバッハとの決戦において、伝書・獅子の巻を決行、他の僧兵たちと共に国のために命を落とした。
:
; カジャ
: 声 - [[藤原啓治]]
: フレイドの秘宝をフォルトナ寺院で守るゼグウ一族の長。
=== ゲーム版オリジナルの登場人物 ===
; 天野 みづる
: 声 - [[天野由梨]]
: ドルンカークによってその特性から来る高い幸運偏差値を見込まれ、「幻の月」から召喚された神崎ひとみの同級生。幸運強化兵となってエスカフローネを襲うが、最終的にはひとみと和解し、一足先に光の柱によって幻の月(地球)に帰還する。
; レフィーヌ
: 声 - [[日高奈留美]]
: ザイバッハの女戦士。ディランドゥに思いを寄せていて、彼に喜んで欲しいため、バァンを付け狙う。
=== 劇場版オリジナルの登場人物 ===
; ソラ
: 声 - 飯塚雅弓(歌:[[シャンティ・スナイダー]])
: フォルケンに寄り添う神秘的な少女。フォルケンの侵略により滅びた一族の生き残り。フォルケンの亡骸と共に崩壊する要塞の中に消えた。
:
; ヌクシ
: 声 - [[松山鷹志]]
: 自分の村を人質に黒竜軍の特殊兵にされた獣人。彼の村とアドムの村は交流があったらしく、バァンとも顔見知り。ひとみを拉致するが、バァンに阻止されたことをディランドゥに咎められ、処刑された。
: 小説版ではバァンと決闘の末に戦死している。
:
; リュオン
: 声 - [[河野健裕]]
: 劇場版初登場のディランドゥの部下。シェスタ同様生き延びた。
:
; 竜王
: 声 - 玄田哲章
: 劇場版におけるフォルケン、バァン兄弟の父。占いによりデューン(フォルケン)ではなくバァンを跡継ぎとしたことが悲劇を呼ぶ。
== ガイアという世界 ==
; ガイア
: 大昔の地球で破滅に瀕した古代アトランティス人たちの生き残りがその“想いの力”を結集して作り上げた星。文化イメージは[[産業革命]]前後の地球。いくつもの国があり、竜や獣人を始めとした地球とは違うさまざまな生き物が息づいている。そして、浮き船やメレフなどのテクノロジーが、ガイアの人々の暮らしを支えている。
:
; 幻の月
: ガイアの空に月と並んで見ることができる地球のこと。「幻の月は災いを呼ぶ」と言われ、不吉の前兆とされる。
; アスガルド大陸
: 暗黒大陸とも呼ばれる。嵐や周辺にある浮き岩のせいか、辿り着くのは非常に難しい。幻の谷があると伝えられる。
:
; 幻の谷
: 竜神人が住むという。アスガルド大陸にあると伝えられていたが、実際は、異次元にあり、地球上にあるはずの滅亡した古代アトランティスの都市であった。
:
; アトランティス
: ガイアではなく、地球上に存在した古代の超文明。
=== ガイアの国々 ===
; ファーネリア王国
: 山間にある侍の国。小国だが、イスパーノ製の白いガイメレフ、エスカフローネを持つ。バァン、フォルケン、メルル、そして、バルガスの故国。“侍”と呼ばれる戦士たちが国土を竜や他国から守っている。バルガスはその侍大将4人のうちの一人、バァンが王となった直後、ザイバッハ竜撃隊の奇襲により滅びた。その際バルガスたち侍大将は討ち死に、生き残った人々も散り散りとなった。この国では、王候補である王子たちには、王になるため、竜を倒してドラグエナジストを取り出し持ち帰るという“竜退治の儀”が課せられる。バァンの父で先代の王は、ゴオウ、母でその王妃はヴァリエ。
:
; アストリア王国
: 南部[[ヨーロッパ]]を連想させる、商業で栄える王国。[[ベネツィア]]を想起させる、水路が入り組む華やかな水の都パラスを首都に持つ。獣人が虐げられることの多いガイアだが、パラスの市場では多くの獣人が行き交い、王国の懐の深さが窺える。物語途中まではザイバッハ帝国と同盟を組んでいたが、フォルケンのパラス襲撃を受けて同盟を破棄。反ザイバッハ同盟の盟主的存在となる。
: アストリアの由来はアストリアの英雄アリーアから取られた。
:
; ザイバッハ帝国
: 北方に位置する[[ロシア]]的な自然の厳しい軍事国家。元は酷暑と厳寒の痩せた貧しい土地であったが、ドルンカークが皇帝として君臨する現在は、[[錬金術]](科学)による工業で財をなし、ガイア有数の軍事大国に成長した。赤銅、青銅、白鉄、黒鉄の四魔軍と魔道士集団を擁し、その軍事力を背景にガイア統一をもくろむ。が、終盤、ドルンカークの理論追求のため、進軍を許されず、その間にエナジストを用いた大量破壊兵器を投下され、軍の大半を失う。
:
; フレイド公国
: [[東南アジア]]風の雰囲気を持つ国で、仏教の僧のような風貌の兵士たちがいる宗教色のつよい国家。国土にフレイドの秘宝と呼ばれるパワースポットを持つ。パワースポットには、古代アトランティスを滅ぼした力が眠っており、何世代にも渡ってフレイドの民により守られてきた。しかしザイバッハ帝国の侵攻により王は戦死。その遺志を継いだシド王子によりザイバッハへ引き渡された。首都・ゴダシム。
:
; バスラム共和国
: ザイバッハに決戦を挑んだアストリアの同盟国の一つ。決戦の最中、勝利を焦ったバスラム所属の将のひとりが禁断の兵器であるエナジスト爆弾を投下、味方の軍もろともザイバッハ軍の大半を消滅させた。
:
; デイダラス王国
: ザイバッハに決戦を挑んだアストリアの同盟国の一つ。
:
; チェザリオ王国
: ザイバッハに決戦を挑んだアストリアの同盟国の一つ。ザイバッハとの決戦では、戦場へ先遣隊を送り込んでいる。その先遣隊と幻の月(地球)から戻ったバァンとひとみが出会い、請われて、バァンは彼らと共に戦うこととなる。
:
; エグザルディア王国
: ザイバッハに決戦を挑んだアストリアの同盟国の一つ。実は、ミラーナ姫が初登場時に着ていた服装はこの国の物である。
=== ガイアの人々と生き物 ===
; 竜神人(りゅうじんびと)
: 地球からガイアに渡った古代アトランティス人たちのガイアにおける通称。背に白い翼を持つ。古代アトランティスを滅ぼした呪われた一族として忌み嫌われ、恐れられている。ガイアでもめったに出会うことはないらしい。バァンの母ヴァリエは純粋な竜神人。死期が近づくと背中の翼は白から黒に変色するという。
:
; 侍
: 王を含むファーネリアを守る戦士(兵士)たち。
:
; 騎士
: アストリアの戦士階級を騎士と呼ぶ。
:
; 天空の騎士
: アストリアの騎士、その中で、選ばれた12人のみが『天空の騎士』となり、ガイメレフ・シェラザードを与えられる。アレンもその一人。
: マレーネの日誌が読みあげられるシーンで全員勢ぞろいする場面がある。
:
; 僧兵
: フレイド公国を守る戦士(兵士)たち。
:
; プラクトゥ
: フレイド公国の僧兵の中でも特に催眠暗示による尋問に長けた者を指す。代々のフレイドの王家の者はこのプラクトゥの言うことを聞かねばならない。
:
; イスパーノ一族
: アトランティスの民の技を受け継ぎし一族。普段は工房船とともに異次元にいる。エスカフローネを造った。彼らは、全身を覆うローブから、まるでカメラのレンズのようなものが覗いているという、変わった風貌をしている。
:
; 竜撃隊(りゅうげきたい)
: ディランドゥを隊長とするガイメレフ部隊。能力の高い美少年ばかりが集められている。隊員は皆ディランドゥに心酔しており、死した後も霊魂となって彼を守ろうとしたことからも、その度合いがうかがえる。
: ガアティ、ダレット、シェスタ、リュオン、ディオレ(3話冒頭でそれらしき人物がディランドゥの前にひざまずいている姿勢で一瞬登場)が名前つきで登場。
:
; 魔道士
: ドルンカーク直属の、運命について研究を行う科学者たち。さらって来た子供を使って人体実験を行う者や幸運強化について研究する者など、彼らによっていくつもの研究がなされている。フォルケンも元はその一人。
:
; 幸運強化兵(こううんきょうかへい)
: 己に有利な事象を人為的に引き起こすために、運命改変を施されたザイバッハ兵士、作中ではナリア・エリヤ姉妹のみ確認できる。そして、2人は更なる強化のため幸運血液を輸血している。
==== 獣人 ====
「けものびと」と読む。[[ネコ|猫]]や[[犬]]などの動物に似た、皮膚を覆う体毛や尻尾などの特徴を備えた人々。多くは二本足で立ち陸上で生活しているが、水中で生活する下半身が魚の種族もいる。迫害の対象ともなっており、作中ではいわれのない理由により焼き討ちにされたり、観賞用として捕らえられたりしている。それ故か、単独の種族で小さな集落を作って生活している者も多く、獣人による国家は存在しない。
主要人物中では、メルル、ナリア・エリヤ姉妹、ジャジュカが獣人である。
; 猫人
: メルルが登場している。
:
; 狼人
: ルムを族長とする一族が登場している。遠吠えにより、遠くまで言葉を伝えることが可能である。
:
; 犬人
: ジャジュカが登場している。
:
; 豹人
: ナリア・エリヤ姉妹が登場している。両親は、人間たちからいわれのない襲撃を受け、不幸にも命を奪われている。
:
; イルカ人
: ひとみやバァン、ミラーナたちが繰り出したパラスのバザーで登場。ひとみがすれ違った。
:
; 鷹人
: ひとみやバァン、ミラーナたちが繰り出したパラスのバザーで登場。ひとみがすれ違った。
:
; 人魚
: シルフィという人魚が登場している。観賞用として捕まっていた所を、ドライデンに助けられ、ドライデンの商船の水槽に入っていた。
:
; ヤモリ人(ヤモリびと)
: 手足を使い、壁面を自由に動き回れる。作中では、メイデンに雇われ、ひとみをさらっている。
:
; まやかし人(まやかしびと)
: カメレオン人。変化の能力を持つ獣人の一族。一族の定めとして、傭兵となってガイアの各国に所属して戦う者が多い。ゾンギもその一人。
==== 生き物他 ====
; 竜
: 地竜。2本足で腕の無い巨大な爬虫類的生物。体内のドラグエナジストはメレフや浮き船などの動力源となる。また作中ではバァンを竜神人の末裔であり、またエスカフローネに乗っていることから「竜」と呼ぶこともある。
:
; 海竜神ジェチア
: アストリアの守護神。パラスの港に街を見守るように石像が立てられている。その手にはエナジストがある。
=== ガイアの事物 ===
; エナジスト
: 鉱山で採掘されたエナジスト鉱石を精製してできる。竜の体内で精製されたものは特に'''ドラグエナジスト'''という。メレフや浮き船などの動力源となり、はては現代の核兵器のようなすべてを破壊してしまう強力な兵器の元にもなっている。作中のガイメレフへ搭載されたものを見ると、かなりの大きさのものも造られていることがわかる。搭載される個数はそのガイメレフの強さのバロメーターとも言える。
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; ドラグエナジスト
: エナジスト鉱石を食べた竜が体内で濃縮、精製したエナジストのことで、通常のものよりも価値が高い。ガイメレフの動力源。ドラグエナジストは、薔薇の花のような形をした宝石のような外見をしている。大きさは大人の拳を一回り大きくした程度のもの。通常、ドラグエナジストは化石化した竜の骨のあるところから発掘されている。冒頭のバァンの得たような、生きた竜から取り出したドラグエナジストはより大きな力を持つと思われる。
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; エナジスト爆弾
: エナジスト鉱石のエネルギーを利用した大量破壊兵器。製造方法自体はすでに解明されていたが、予測される破壊力があまりにも大きいために、ガイアの各国は今まで製造することはなかった。
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; 浮き岩
: 普段から空中に浮遊している岩。これを利用して、大小さまざまな多くの浮き船が造られている。熱すると浮力を失う。
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; グラールの葉
: モグラ男を始めとした“森の民”が携帯する薬草。大抵の毒は中和できるらしい。あまり人間たちには知られていないらしく、バァンがこの葉の存在を知っていることにモグラ男は驚いている。バァンは兄フォルケンからこの薬草のことを聞かされていた。
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; イスパーノホワイト
: イスパーノ製の、エスカフローネを覆っている白い色をこう呼ぶ。また、その特徴的な色から転じて装甲そのものも指す。通常のガイメレフの装甲と比較して軽量かつ強靭であるらしい。
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; ひとみのペンダント
: 実は古代アトランティス人の持っていたペンダント。アレンの父レオンがどこかで手に入れ、ひとみの祖母を通してその手に渡っていた。
==== 浮き船 ====
浮き岩を[[硬式飛行船]]のガス嚢のように用い、それに推進用の動力をつけて操縦可能にした一種の航空機。小型の快速艇から、浮遊要塞、巨大な商船、超巨大なイスパーノ工房船まで、様々な大きさと形、目的の浮き船が存在する
; クルゼード
: アレンを頭とするクルゼード隊の快速艇。アレン達のいた砦(カステーロの砦)の地下に隠されていた。竜撃隊による奇襲の際には付近の滝の裏にあった出入り口より登場した。ガイメルフ2機(シェラザード、エスカフローネ)を搭載可能な母艦でもある。
: クルゼードのような快速艇の速度を凌ぐ浮き船はない。それだけに、空を飛び、しかも、クルゼードに軽々と追いついたガイメレフ・アルセイデスの存在はアレン達を驚かせた。アレンのミドルネームでもある。
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; 浮遊要塞
: 様々な形・大きさが確認できるガイア各国にある軍事用の浮き船。ただしザイバッハ帝国のものを含めて基本的に火器が装備されておらず{{Efn|ガイアでは[[大砲]]や[[銃]]はまだ発明されていない。}}、浮遊要塞自体の戦闘力は低い。主な用途は移動司令部か、ガイメルフを含む軍勢の輸送用といったところ。
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; ヴィワン
: ザイバッハ帝国竜撃隊の浮遊要塞。作品中盤、テイリングがパラスを襲った際には、浮遊要塞として初めてステルス・システムを搭載した。第21話でバァンに撃沈され、アストリア沖に沈んだ。
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; ディレイト
: ザイバッハ帝国軍の浮遊要塞。終盤、ディランドゥとジャジュカが他の部隊と共に乗っていた。ヴィワンと同様にステルス・システムを搭載している。アストリアのランパントを奇襲した。
:
; イスパーノ工房船
: 普段は[[異次元]]に存在する船で、ヒトの[[胎児]]のようなシルエットを持つイスパーノ一族の超大型[[工作艦]]。クルゼードと比べれば十分に大きいと思われるドライデンの商船さえ、小さいと思わせるほどの巨体を持つ。作中ではイスパーノのガイメレフであるエスカフローネの装置により、通常空間へ呼び出された。浮き船に分類はされてはいるが、外見から見るに浮き岩を利用しておらず、原理的にはガイアの物とは異なるアトランティスのテクノロジーによって航行している模様。
==== アストリア王国関連 ====
; カステーロの砦
: 序盤、アレン達が警備をしていた辺境警備の砦。竜撃隊の襲撃を受けて壊滅した。近くの滝から砦の下に続く洞穴があり、そこに浮き船クルゼードを格納していた。この名は本編には出てこない。
:
; ランパント
: 浮き船の港。ザイバッハとの決戦の前に、同盟軍の浮き船が多数集結、会議を開こうとしていた場所。そこをステルスシステムを搭載した浮遊要塞ディレイトによる奇襲を受け、壊滅した。
==== ザイバッハ帝国関連 ====
; ガルフォ
: ザイバッハ辺境の地。ランパント奇襲後、ディランドゥとジャジュカが32番隊と共に配置された。
:
; 流体金属
: ザイバッハのガイメレフ(アルセイデスなど)に搭載されている様々に形を変えることができる金属。衝撃緩和剤としてメルフやガイメルフの操演宮を満たし、搭乗者の動きをガイメレフに伝えている。また、形を変えて武器や盾にもなり、ガイメレフ自身の骨格さえも形作る。「クリーマの爪」として槍状に伸ばして射出し、飛び道具的に使うこともできる。
: デメリットは引火性が高いことである。これを利用して火焔放射やテイリングの推進剤などにも利用されるが、撃破されると即座に引火炎上し搭乗者も脱出する間もなく焼死してしまうため、これが防御・脱出上の弱点ともなっている。
:
; 幸運増幅機
: ヴィワンに搭載されていた。後に、アストリアにより沈没したヴィワンより引き上げられている。
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; 幸運血液
: ザイバッハの国民の中でも、特に運勢の強い者・生存確率の高い者から採取した「幸運[[デオキシリボ核酸]]」を用いて作られた人工血液。幸運強化兵・ナリアとエリヤの幸運を更に強化するために使われた。
: ただし、その反作用が現われた時、投与者は幸運どころか生命をも失い、急激に老衰して死亡する。
:
; 運命加速装置
: 運命素粒子を加速する装置で、運命改変装置の一部。「恋の黄金律作戦」で使用。
:
; 運命予測装置
: 運命を予測する装置。大型の天体望遠鏡に似た構造となっており、ドルンカークはこれを覗き込むことで運命を観測していた。「不確定要素」ひとみの出現によって、誤差の発生や予測そのものが見えなくなるといった障害が発生した。
:
; 運命改変装置
: 運命を改変する装置。ドルンカークの「理想の未来」実現のため、予測された運命を改変するために用いられ、ひとみとバァンの仲を一時的に裂いた。最終的な起動によって絶対幸運圏を生成する。
:
; アトランティスマシーン
: 作中では明確に言及されていないが、運命加速装置や運命予測装置といった一連の装置の総称と思われる。もともと、名称どおり、古代アトランティスにあったものであり、アトランティス人が全知全能になろうとして、作り出した。竜神人を含むアトランティス人が背に翼を持つのは、この機械によるものと考えられる。
: ドルンカークは研究の末、この機械と同じものをザイバッハに作り上げた。
:
; 絶対幸運圏(ぜったいこううんけん)
: 運命改変装置の最終的な起動による「運命改変」効果が及ぶ範囲のこと。圏内に存在する全ての人の想いが叶えられる。
==== フレイド公国関連 ====
; フォルトナ寺院
: 僧兵の中でも精鋭部隊であるゼグウ一族が守るフレイド最古の寺。ゴダシムを後にした公王達が向かった場所。フレイドの秘宝があると言われている。
:
; 伝書・獅子の巻
: フレイド公国に伝わる秘密の作戦を伝えた書物と思われる。首都ゴダシムの城の内部に敵を誘い込み、敵味方もろとも城を潰すという強烈な作戦。多数の味方の兵を犠牲にしなければならないが、敵方にも相応の痛手を与え、それに乗じて、王族たち等を逃がすことができる。
: 作中では、ボリスが城の内部で球形の石(キーストーン)を破壊し、城全体を崩壊させた。
:
; パワースポット
: ガイアを創り上げたアトランティスの想いの力、そのかけらがガイアには点在している。それがパワースポットである。
: フレイドのフォルトナ寺院には、最大級のパワースポットが隠されていた。
:
; フレイドの秘宝
: フレイド公国最古の寺、フォルトナ寺院で代々守られているガイア最大級のパワースポットを指している。
:
; 封印の間
: フォルトナ寺院内、パワースポットに関わるからくりがある部屋。
: 封印の剣を持つ王家の者とゼグウ一族のみが入るのを許されている。部屋の中心にはジャガーの像が据えられている。
:
; 秘宝・封印の剣
: “封印の間”において、パワースポットを解放させる鍵となる宝刀。柄にはエナジストが埋め込まれており、アトランティス滅亡時の口伝が刻まれている。石版の中心に突き立てれば、エナジストが光り、口伝を壁に描き出す。そして、ジャガーの像にはめ込めば、パワースポットが解放される。
==== メレフとガイメレフ ====
; メレフ
: 中にある操演宮に人間が入り、その人間の動きに合わせて動く鎧のようなもの。もともと竜退治のために造られたが、今は主に軍事利用されている。動力源はエナジスト。ガイアにある各国には、さまざまなメレフが存在している。軍の戦士にとって、メレフを与えられるのは名誉なことであり、戦士の中でもエリートとされる。しかし、戦いに備えたものばかりではなく、作中では、ザイバッハのブルドーザーのような作業用やアストリアの観賞用も確認できる。(参考:[[パワードスーツ]])
:
; ガイメレフ
: 戦士の操るメレフの中でも、通常の2倍近い大きさがあり、複数のエナジストを搭載している上位機種(ザイバッハのアルセイデスのみ通常一つ)。メレフもそうだが、職人による手作業で生産されるためメレフより手間のかかるガイメレフは極端に少ない。その製作には数十年から百年前後かかる。
: 個人が所有するガイメレフも存在する。アストリアの闘技場では、サジマを始めとする賞金稼ぎ3名がガイメレフを駆って、エスカフローネと対峙し、ドライデン・ファッサの船団に一体シェラザードがドライデン・ファッサの個人保有で確認されている(ドライデン・ファッサによると飾り)。
==== 各国のメレフ・ガイメレフ ====
; エスカフローネ
: ファーネリアで確認できる唯一のガイメレフで、王の専用機。血の契約(いわばバイオメトリクスまたは個人認証)をした者しか乗り込んで操縦できない。搭載するエナジストは両肩に緑のエナジスト、左胸に赤いエナジスト、さらに赤いエナジストの内部に埋め込まれるドラグエナジストの計4つである。伸縮式の両刃の剣を背に納めている。特徴は、イスパーノ・ホワイトと呼ばれる白い機体色および装甲と、飛竜の形に変形することである。変形時には搭乗者が竜の背中に当る部分で手綱のようなものを用いて操作する。このときは推力機関は外部に露出していない。また、さらに搭乗者の想いに反応して4本足を収納した高速飛行形態にも変形する。この高速形態ではジェットエンジンのような推力発生機関が露出する。
: 伝説のイスパーノ一族の製造であり、通常のガイメレフ製作期間よりも長い150年もの歳月を費やして作られている。作中での修理代が5千万ギルド(アレンの部下たちの給料2千年分)。作中では現ファーネリア王バァンが駆り、王の剣と共にファーネリア王の証である。
: なお作中においてザイバッハ側が作成したイメージ映像では、1つの戦場に多数のエスカフローネが姿を現し、肩のエナジストからビームを放って浮遊要塞を沈めている。
:
; シェラザード
: アストリアの“天空の騎士”専用ガイメレフ。“天空の騎士"が12人いることとミラーナ姫の結婚式には複数のシェラザードが確認できたことから、アストリア王国保有としては12体あると思われる。西洋の騎士を思わせる風貌をもち、[[レイピア]]を使う。アレン・シェザールの搭乗機もこれである。また“天空の騎士"以外にドライデン・ファッサの船団に一体個人保有で確認されている。これはドライデン曰く「動かない観賞用」だと述べているが、後にアレン機の修理用として部品取りに使われた。アレン機は最終局面にて絶対幸運圏による運命改変の影響のもと、バァンの搭乗するエスカフローネと一騎打ちを繰り広げた。
: コミック版では飛行能力も持つ。本来なら第二の主役機といえる立場だが、劇場版や『[[サンライズ英雄譚]]シリーズ』などにこの機体は登場していない。
:
; シャファリス
: フレイド公国の王専用ガイメレフ。後光を示すようなバックパックを背中に持ち、仏像のような雰囲気を醸し出している。ガイメレフをも貫く巨大な弓矢を武器とする。ザイバッハ帝国軍との決戦で大破した。
:
; テルセイロ
: フレイド公国のガイメレフ。ボリスがこれに乗り、“伝書・獅子の巻”を実行に移した。劇中には既に片腕が破損した状態で登場。
:
; アルセイデス
: ザイバッハ帝国製。従来のガイメレフと異なり、駆動部に製作の手間のかかる精密部品を使用せずに流体金属を用いたことが特徴である。これにより、ガイアにおいて初めて1ヶ月の短期間での量産(他のガイメレフの製造には一体あたり30年前後かかる)に成功した。色は青。浮き岩が内蔵されており、足を折りたたみ、立ち上がった姿勢のまま飛行することができる(この状態を浮遊態と呼び、原理的には飛行よりも浮遊に近いのがうかがえる)。エナジストは左肩に1つ。
: アルセイデスに限らず、ザイバッハ帝国のガイメルフは流体金属を武器(クリーマの爪・炎など)や骨格として使用しているが、引火性の高い流体金属の性質上、撃破されると搭乗者ごと青い炎に包まれて融け崩れてしまう。
:
; 旧型アルセイデス
: ザイバッハ製、エナジスト採掘場で使用されている旧型ガイメレフ。飛行能力を持たず、流体金属製ではない通常の剣を持っている。アイザックの回想シーンでは、帝都の建築作業に当たる描写がある。
:
; 竜撃隊用アルセイデス
: 本体は量産されているアルセイデスであるが、ステルスマントを持ち、マントで自身を覆い透明になって移動(飛行時をのぞく)することができる。竜撃隊所属機は第14話で壊滅した。
:
; ディランドゥ専用アルセイデス
: 色が赤く、指揮官用の[[シャア専用ザク]]などと同じく頭部に角を持つアルセイデス。もちろんステルスマントを持つ。動力となるエナジストは両肩に1つずつの2つに増えている。設定書ではガルディオーラという名前があった。
: [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]ゲーム本編中には、デイランドウ専用機に準じた仕様の黒いフォルケン専用アルセイデスも登場する。
:
; テイリング
: 獣人の豹姉妹ナリヤ、エリヤ専用のザイバッハ製ガイメレフ。ナリヤ機は銀色、エリヤ機は金色の毛髪状の放熱索を備えている。アルセイデスのように変形して飛行するが、そのときは、足だけでなく腕もたたんで水平になり、より航空機的な空気抵抗の少ない形状になるため、その速度はエスカフローネの高速形態に匹敵する。又状況によって浮遊時などには(20話)中間形態も使用している。エスカフローネとの空戦では流体金属を弾丸として連射する[[機関砲]]的な武装も披露した。
: アルセイデスとは異なり、液体金属を燃焼させる一種のロケット式エンジンを備えて高速飛行可能だが、反面流体金属の消耗は激しく、高速飛行での持続時間は約3分が限界。なお、ナリヤ・エリヤ姉妹の死後、ザイバッハを離脱したフォルケンが遺されたエリア機を使用した。
:
; ナイアデス
: PlayStationのゲーム版にのみ登場するカスタマイズ・ガイメレフ。名称の由来はギリシア神話の[[ニュンペー|ニンフ]](精霊)ナイアスの複数形から。「幻の月の女」として幸運強化兵となったひとみの同級生「天野みづる」専用機として開発され、制御の難しい高純度の楕円形エナジストを、彼女自身の高い「幸運偏差値」により、コンバーターを介して制御。飛行中もクリーマの爪およびステルス・マントが使用可能。
:
; オレアデス
: 物語終盤でディランドゥ機とジャジュカ機のみ確認されたザイバッハ製ガイメレフ。アルセイデスの完成形とも言える姿で、両肩に4個ずつの計8つのエナジストを持ち、アルセイデスよりもひと回り大型の機体となっている。ディランドゥ機は赤で角があり、ジャジュカ機は青。エナジストが増えたため、浮遊態でも新たに装備されたステルス・システムの使用が可能となっている。また、腕にある流体金属射出のための穴の数が増え、腕にある流体金属でない折りたたみ式の爪が3本から4本に増えた。最終局面においてディランドゥ機はエスカフローネに敗北するが、ディランドゥの正体がセレナであることに気付いたアレンが庇ったことで、上述のエスカフローネとシェラザードの一騎打ちという事態に発展する。
:
; イスパーノのガイメレフ
: エスカフローネに代表されるイスパーノ一族が製作したガイメレフ、工房船ではさらに数体が製作過程にあった。エスカフローネに似たタイプだが詳細は不明。
: 古文書には、「イスパーノのガイメレフは使い手を取り殺す」「イスパーノのガイメレフは血の契約により、主(あるじ)を決める。その主死するまで」とある。
: イスパーノ人が劇中でエスカフローネとの異常なシンクロを見せるバァンのことを指し、「竜人族の血使う、イスパーノ保証できない」と述べている。
:
; 侍大将のメレフ
: ファーネリアの侍大将が使用したメレフで4機が登場。元々は同型機だが意匠と武装をカスタマイズして特色を出している。竜撃隊と交戦して全滅した。
:
; アストリアのメレフ
: クルゼード隊やランパントの守備兵が用いていた歩兵型のメレフ。やられ役扱いでアルセイデスには敵わなかった。
:
; 弩弓メレフ
: 両肩に超大型の[[連弩]]を固定装備したメレフ。ファッサ家の私物で数体が対空用としてドライデンの商船に搭載されていたほか、ミラーナの結婚式にも儀仗用に配備されていたが、飛来したテイリングに応戦するも幸運強化兵により不運に見舞われて、発射前に弦が弾け飛んでしまった。
:
; 作業メレフ
: ザイバッハ帝国製。エナジスト採掘用であり、ブルドーザー型とショベル型の2体が登場。採掘場を守る為に旧型アルセイデスと共にエスカフローネに果敢に挑むも、一蹴されてしまった。
== スタッフ ==
* 企画 - [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]
* 原作 - [[矢立肇]]、[[河森正治]]
* 監督 - [[赤根和樹]]
* キャラクターデザイン - [[結城信輝]]
* アニメーションディレクター - [[逢坂浩司]]
* メカニカルデザイン - [[山根公利]]
* メカニカルディレクター - [[佐野浩敏]]
* 美術監督 - [[東潤一]]
* 色彩設計 - 中山しほ子
* 撮影監督 - 桶田一展
* 音響監督 - [[若林和弘]]
* 音楽 - [[菅野よう子]]、[[溝口肇]]
* 音楽プロデューサー - [[佐々木史朗 (音楽プロデューサー)|佐々木史朗]]、太田敏明
* 音楽制作 - [[ビクターエンタテインメント]]
* 効果 - [[倉橋静男]]
* 編集 - 鶴渕友彰
* プロデューサー - 村瀬由美(テレビ東京)・[[南雅彦]](サンライズ)
* 制作協力 - [[バンダイビジュアル]]、高梨実、梅澤勝路
* 製作 - テレビ東京・サンライズ
* 著作 - (C)1996 SUNRISE INC.・テレビ東京
== 主題歌 ==
; オープニングテーマ「[[約束はいらない]]」
: 作詞 - [[岩里祐穂]] / 作曲・編曲 - [[菅野よう子]] / 歌 - [[坂本真綾]]
:
; エンディングテーマ「MYSTIC EYES」
: 作詞・作曲・歌 - [[h-wonder|和田弘樹]] / 編曲 - 和田弘樹、[[本間昭光]]
:
; 劇場版主題歌「[[指輪 (坂本真綾の曲)|指輪]]」
: 作詞 - 岩里祐穂 / 作曲・編曲 - 菅野よう子 / 歌 - 坂本真綾
== 各話リスト ==
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!出典
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|第1話||'''1996年'''<br />4月2日||運命の告白||[[河森正治]]||rowspan="2"|[[赤根和樹]]||武井良幸||[[逢坂浩司]]||
|-
|第2話||4月9日||幻の月の少女||rowspan="2"|[[山口亮太]]||吉本毅||工原しげき||
|-
|第3話||4月16日||華麗なる剣士||colspan="2" align="center"|[[河本昇悟]]||[[菅野宏紀]]||
|-
|第4話||4月23日||魔性の美少年||稲荷昭彦||colspan="2" align="center"|武井良幸||[[小森高博]]||
|-
|第5話||4月30日||兄弟の刻印||[[北嶋博明]]||colspan="2" align="center"|[[渡辺信一郎 (アニメ監督)|渡辺信一郎]]||逢坂浩司||
|-
|第6話||5月7日||策謀の都||山口亮太||河本昇悟||吉本毅||菅野宏紀<br />[[入江泰浩]](協力)||
|-
|第7話||5月14日||予期せぬ別れ||稲荷昭彦||colspan="2" align="center"|武井良幸||工原しげき||
|-
|第8話||5月21日||天使の舞う日||北嶋博明||colspan="2" align="center"|渡辺信一郎||[[しんぼたくろう]]<br />[[久行宏和]]||
|-
|第9話||5月28日||羽根の記憶||山口亮太||赤根和樹||吉本毅||小森高博||
|-
|第10話||6月4日||青き瞳の王子||稲荷昭彦||colspan="2" align="center"|河本昇悟||逢坂浩司||
|-
|第11話||6月11日||死の予言||北嶋博明||colspan="2" align="center"|武井良幸||しんぼたくろう||<ref name="Animage19-7">{{Cite journal|和書 |date = 1996-07 |journal = アニメージュ |volume = 19 |issue = 7 |page = 194 |publisher = 徳間書店 }}</ref>
|-
|第12話||6月18日||秘密の扉||山口亮太||渡辺信一郎||吉本毅||しんぼたくろう<br />[[柳沢テツヤ|柳沢哲也]](協力)||<ref name="Animage19-7"/>
|-
|第13話||6月25日||赤い運命||稲荷昭彦||colspan="2" align="center"|河本昇悟||菅野宏紀||<ref name="Animage19-7"/>
|-
|第14話||7月2日||危険な傷跡||北嶋博明||colspan="2" align="center"|武井良幸||工原しげき||<ref name="Animage19-7"/>
|-
|第15話||7月9日||失われた楽園||山口亮太||[[佐藤順一|甚目喜一]]||佐藤育郎||小森高博||<ref name="Animage19-7"/>
|-
|第16話||7月16日||導かれし者||稲荷昭彦||渡辺信一郎||吉本毅||しんぼたくろう<br />柳沢哲也||<ref name="Animage19-8">{{Cite journal|和書 |date = 1996-08 |journal = アニメージュ |volume = 19 |issue = 8 |page = 194 |publisher = 徳間書店 }}</ref>
|-
|第17話||7月23日||この世の果て||山口亮太||colspan="2" align="center"|河本昇悟||逢坂浩司||<ref name="Animage19-8"/>
|-
|第18話||7月30日||運命の引力||稲荷昭彦||colspan="2" align="center"|武井良幸||しんぼたくろう<br />柳沢哲也||<ref name="Animage19-8"/>
|-
|第19話||8月6日||恋の黄金律作戦||山口亮太||[[山口祐司 (アニメーション監督)|山口祐司]]||佐藤育郎||菅野宏紀||<ref name="Animage19-8"/>
|-
|第20話||8月13日||偽りの契り||稲荷昭彦||河森正治||吉本毅||小森高博||<ref name="Animage19-9">{{Cite journal|和書 |date = 1996-09 |journal = アニメージュ |volume = 19 |issue = 9 |page = 194 |publisher = 徳間書店 }}</ref>
|-
|第21話||8月20日||幸運の反作用||北嶋博明||[[高本宣弘]]||河本昇悟||入江泰浩<br />[[都留稔幸]](協力)||<ref name="Animage19-9"/>
|-
|第22話||8月27日||黒き翼の天使||山口亮太||[[近藤信宏]]||武井良幸||逢坂浩司||<ref name="Animage19-9"/>
|-
|第23話||9月3日||嵐の予感||稲荷昭彦||高本宣弘||佐藤育郎||[[竹内浩志]]||<ref name="Animage19-9"/>
|-
|第24話||9月10日||運命の選択||北嶋博明||colspan="2" align="center"|赤根和樹||工原しげき||<ref name="Animage19-9"/>
|-
|第25話||9月17日||絶対幸運圏||稲荷昭彦||河本昇悟<br />赤根和樹||吉本毅||小森高博<br />菅野宏紀||<ref name="Animage19-10">{{Cite journal|和書 |date = 1996-10 |journal = アニメージュ |volume = 19 |issue = 10 |page = 194 |publisher = 徳間書店 }}</ref>
|-
|第26話||9月24日||永遠の想い||山口亮太||赤根和樹||武井良幸||逢坂浩司||<ref name="Animage19-10"/>
|}
== 放送局 ==
{{節スタブ}}
放送日時はIBC岩手放送と山形放送とBS・CS放送局、個別に出典が提示されているものを除き1996年7月上旬時点のものとする<ref>『アニメディア』1996年7月号『TV STATION NETWORK』115 - 117頁。</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列!!備考
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]||[[テレビ東京]]||rowspan="6"|[[1996年]][[4月2日]] - [[9月24日]]||rowspan="6"|火曜 18:00 - 18:30||rowspan="6"|[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]||'''製作局'''
|-
|[[北海道]]||[[テレビ北海道]]||
|-
|[[愛知県]]||[[テレビ愛知]]||
|-
|[[大阪府]]||[[テレビ大阪]]||
|-
|[[岡山県・香川県の放送|岡山県・香川県]]||[[テレビせとうち]]||
|-
|[[福岡県]]||TXN九州||現・[[TVQ九州放送]]
|-
|[[岩手県]]||[[IBC岩手放送]]|| ||rowspan="2"|不明||[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]||
|-
|[[山形県]]||[[山形放送]]|| ||[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]||
|-
|[[新潟県]]||[[新潟放送]]|| (1997年6月時点) || 金曜 1:35 - 2:05<ref name="9706a">『[[アニメディア]]』1997年7月号『TV STATION NETWORK』111 - 113頁。</ref> ||TBS系列||
|-
|[[長野県]]||[[テレビ信州]]||1996年[[5月14日]] - 1996年[[11月5日]]<ref> 1996年5月14日、11月5日 信濃毎日新聞 テレビ欄</ref> ||火曜 17:00 - 17:30 ||日本テレビ系列||
|-
|[[三重県]]||[[三重テレビ放送|三重テレビ]]|| (1997年6月時点) || 月曜 17:05 - 17:35<ref name="9706a" /> ||rowspan="4"|[[全国独立放送協議会|独立UHF局]]||
|-
|[[滋賀県]]||[[びわ湖放送]]|| || 日曜 7:30 - 8:00||
|-
|[[奈良県]]||[[奈良テレビ放送|奈良テレビ]]|| || rowspan="2"|日曜 8:30 - 9:00 ||
|-
|[[和歌山県]]||[[テレビ和歌山]]||||
|-
|[[広島県]]||[[テレビ新広島]]|| || 金曜 5:25 - 5:55||[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]||
|-
|[[沖縄県]]||[[琉球放送]]|| || 木曜 16:00 - 16:30||TBS系列||
|-
|rowspan="3"|[[全国放送|日本全域]]||[[アニメシアターX|AT-X]]|| ||rowspan="2"|不明||rowspan="2"|[[日本における衛星放送#CS放送|CS放送]]||rowspan="2"|リピート放送あり
|-
|[[アニマックス]]||
|-
|[[日本BS放送|BS11]]||[[2011年]][[10月8日]] - [[2012年]][[3月31日]]||土曜 23:00 - 23:30||[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BSデジタル放送]]||『[[ANIME+]]』枠<br />{{Efn|Blu-ray BOX化に先駆けてHDリマスター版をテレビ初放送した。}}
|}
== 劇場版 ==
{{Infobox Film
| 作品名 = エスカフローネ
| 原題 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[赤根和樹]]
| 脚本 = [[山口亮太]]<br />赤根和樹
| 原案 =
| 原作 = [[矢立肇]]<br />[[河森正治]]
| 製作 = [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]<br />[[バンダイビジュアル]]
| 製作総指揮 =
| ナレーター =
| 出演者 = [[坂本真綾]]<br />[[関智一]]<br />[[中田譲治]]<br />[[飯塚雅弓]]<br />[[三木眞一郎]]
| 音楽 = 菅野よう子<br />溝口肇
| 主題歌 = 坂本真綾『[[指輪 (坂本真綾の曲)|指輪]]』
| 撮影 = 桶田一展{{small|(撮影監督)}}
| 編集 = 山森重之
| 制作会社 =
| 製作会社 = サンライズ
| 配給 = [[オメガ・プロジェクト]]
| 公開 = {{Flagicon|JPN}} [[2000年]][[6月24日]]
| 上映時間 = 110分
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 製作費 =
| 興行収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
『'''エスカフローネ'''』(Escaflowne)。[[2000年]][[6月24日]]公開。サンライズと韓国企業との初の正式製作&出資で作られた日韓米合作アニメーション映画。TVシリーズが[[大韓民国|韓国]]で高視聴率を取り韓国側からのオファーで映画化が実現した。製作総予算は3億円。設定、ストーリーを大幅に変更し声優も一部入れ替えられた完全な新作映画として製作された。日本では一般公開ではなく[[シネマコンプレックス]]企業と組む変則的な公開だったため興行収益が振るわなかったが、その後本格的なアニメーション映画として各国で公開された。
=== ストーリー ===
生きる理由を見失っていた女子高生のひとみは、ある日異世界ガイアへと連れて行かれ翼の神と呼ばれるようになった。黒竜族と戦うアレン率いるアバハラキの一団と同行することになったひとみは、黒竜族の総帥フォルケンの弟であり、竜の鎧エスカフローネを動かせる竜族の末裔バァンという青年と出会い惹かれるようになる。
=== 主な変更点 ===
テレビ版と違い、ひとみは陸上を止め、自分の存在意義を見出せずにいた。そこにフォルケンが現れエスカフローネを蘇らせる「翼の神」としてガイアに召喚される。バァンとフォルケンは「竜族」(竜神人のような白い翼を持つ)の王の子。フォルケンは自分ではなく弟に「王の印」が現れたために一族を抜け、「黒竜族」の軍隊を率いて一族を滅ぼしガイアそのものを消し去ろうとする。
アレンやミラーナは黒竜軍に国を滅ぼされたものたちが結成したレジスタンス「アバハラキ」のメンバーとして登場。バァンとメルルもそこに身を置いている。ディランドゥは、フォルケンによって拾われた竜族の血を引く少年という設定。
竜族のバァン、フォルケン、ディランドゥの3人は魔導力なる超能力が使える。ガイメレフは生物的なデザインへとアレンジされている。古代の遺物であり新たに製造することは出来ず、「竜の鎧」としてエスカフローネとアルセイデスの2機しか登場しない。また操縦には魔導力が必要である。また、地球上での舞台が湘南から東京に変更されており、[[原宿]]や[[国立霞ヶ丘競技場|国立競技場]]などが出て来る。
=== スタッフ ===
* 原作 - [[矢立肇]]、[[河森正治]]
* 脚本 - [[山口亮太]]、[[赤根和樹]]
* キャラクターデザイン・アニメーションディレクター - [[結城信輝]]
* メカニカルデザイン - [[山根公利]]
* 甲冑デザイン協力 - [[出渕裕]]
* 演出 - 武井良幸
* 作画監督 - [[逢坂浩司]]、[[菅野宏紀]]、[[川元利浩]]、[[小森高博]]、[[斎藤恒徳]]、[[横山彰利]]
* メカニカル作画監督 - [[佐野浩敏]]、杉浦幸次
* セットデザイン - 武半慎吾、[[佐山善則]]
* 美術監督 - 東潤一
* 色彩設計 - 中山しほ子
* 撮影監督 - 桶田一展
* 編集 - 山森重之
* 音響監督 - [[亀山俊樹]]
* 音楽 - 菅野よう子、溝口肇
* プロデューサー - [[植田益朗]]、高梨実、南雅彦、横浜豊行
* アニメーション制作 - [[ボンズ (アニメ制作会社)|BONES]]
* 制作 - サンライズ
* 製作 - サンライズ・バンダイビジュアル
* 製作協力 - BONES
* 配給 - [[ソーシャル・エコロジー・プロジェクト|オメガ・プロジェクト]]
* 監督 - [[赤根和樹]]
=== 主題歌 ===
; 主題歌「指輪」
: 作詞 - 岩里祐穂 / 作曲・編曲 - 菅野よう子 / 歌 - [[坂本真綾]]
:
; 挿入歌
:; 「SORA」
:: 作詞 - Gabriela Robin / 作曲・編曲 - 菅野よう子 / 歌 - [[シャンティ・スナイダー|Shanti Snyder]]
::
:; 「SORA -酒場にて」
:: 作詞 - Gabriela Robin / 作曲・編曲 - 菅野よう子 / 歌 - [[Midori (歌手)|Midori]]
== 関連作品 ==
=== 漫画 ===
いずれもストーリー、設定などがアニメと異なっている。
; 『[[少年エース]]』版
: 作者は[[克・亜樹]]。『少年エース』([[角川書店]])で1994年12月号 - 1998年1月号まで連載された。
: 主人公の名前('''星野ひとみ''')を始め、設定が大きく異なる。克によれば、結果的にボツになってしまった初期設定を元にしてストーリーを構成したとのことが理由であるらしい。単行本は全8巻。
:
; 『[[ASUKA FANTASY DX]]』版
: 作者は[[矢代ゆずる]]。『ASUKA FANTASY DX』(角川書店)で1996年5月号 - 1997年2月号まで連載された。
: 作品タイトルは連載時には『'''メサイア・ナイト天空のエスカフローネ'''』だったが、単行本では『'''HITOMI天空のエスカフローネ'''』となっている。単行本は全2巻。
=== 小説 ===
; 『天空のエスカフローネ』
: 著者は[[塚本裕美子]]。テレビ版のノベライズで、内容は本編のストーリーに沿っている(全6巻、角川書店、1996、1997年)。
:
; 『エスカフローネ』
: 著者は[[山口亮太]]。劇場版のノベライズ(角川書店、[[角川スニーカー文庫]]、2000年)。
=== CD-ROM ===
PC向けHybrid版CD-ROM『天空のエスカフローネCOLLECTION』(ISBN 4-89601-280-1 C0876 P5974E)が1996年に発売。企画・販売は [[ムービック]]、制作はリンク工房。
=== ゲーム ===
; 天空のエスカフローネ
: [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ゲーム。
: テレビ放映版をベースに新たに設定されたガイメレフや人物が登場する。限定版にはテレビ放送でタイトルと同時に登場していた[[タロットカード]](全26話分の26枚)と、スペシャルムック(小冊子)が付属。
:
; [[スーパーロボット大戦COMPACT3]]
: 2003年発売の[[ワンダースワンカラー]]用ゲーム。
: 『[[マジンガーZ]]』や『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]』といったシリーズ常連の作品や、同じくファンタジー要素の強い『[[聖戦士ダンバイン]]』と共演した。
: 開発時には特殊システムやエスカフローネの武装には作中イメージ映像に登場するだけだった、肩のエナジストからのビーム攻撃も武装に取り入れられる予定だったが削除された。また、高速形態のエスカフローネではパイロットのバァンがむき出しになる上にコクピット内は吹き曝しのため、宇宙マップは登場しない。
: 条件を満たすとエリヤ、ナリアが仲間になる。他にも条件を満たすとディランドゥがセレナに戻り合流するといった展開が用意されている。
:
; [[サンライズ英雄譚2]]
: [[PlayStation 2]]用ゲーム。
: [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]制作のアニメ作品によるクロスオーバーが特徴のソフトで、本作からはバァンやひとみ、メカはエスカフローネが登場している。
: また続編『[[サンライズ・ワールド・ウォー]]』にも一部キャラクターが登場している。
:
; GBハロボッツ
: [[ゲームボーイ]]用ゲーム。
: エスカフローネとシェラザードが登場する。
: また同作品の系統を組む[[ゲームボーイアドバンス]]専用ソフト『[[ハロボッツ ロボヒーローバトリング!!]]』にも同ユニットが登場している。
:
; [[スーパーロボット大戦X-Ω]]
: [[スマートフォン]]用ゲーム。
: [[スーパーロボット大戦シリーズ]]の参戦は『COMPACT3』以来から約16年ぶり。
=== ラジオ ===
劇場版の公開に合わせて放送。
* 坂本真綾のエスカフローネ・アイズ
*: [[文化放送]]にて2000年7月5日-9月27日まで水曜25:30-26:00。パーソナリティに坂本真綾を迎えスタッフ、キャストとのトークなどを放送。
* エスカフローネプロローグ
*: [[エフエム大阪|FM大阪]]にて2000年5月22日-の月-木深夜27:10『MUSIC CUBE』のコーナーとして放送されたラジオドラマ。地球編12話とガイア編12話からなる。
=== ドラマCD ===
; 天空のエスカフローネ オリジナルドラマアルバム ジェチアの想い
: テレビ放映版第5話、第6話の挿入話。
:
; エスカフローネ プロローグ 1 EARTH、エスカフローネ プロローグ 2 GAEA
: 前述のラジオドラマのCD化。
:
; サンライズワールド〜オープン前夜、キャラ大混乱!!〜
: [[サンライズラヂオEX。|サンライズラヂオ]]からのドラマCDでガンダムや勇者シリーズなどのキャラが出演。バァンも出演している。
=== パチンコ ===
* CR天空のエスカフローネ([[エース電研]]、2011年1月発売)
=== 玩具展開 ===
いくつかはテレビ放送時期に展開された。
* リミテッドモデル
*: バンダイが発売したプラモデルの簡略版。単色成型が多く接着剤を必要としたガレージキットに近い組み立てモデルとなっている
*: ラインナップはエスカフローネ、シェラザード、アルセイデスの三種。
* 完全変形エスカフローネ
*: スタジオ・ハーフアイが発売した組み立て式レジンキット。人型から竜形態に変形する。組み立てには高度な技術を要する。
* 変形エスカフローネ
*: やまとが発売した上記の完全変形モデルの完成品。ただし簡易モデルなので首は可動しない、翼は別パーツなどの問題点も多いが変形は再現されている。バァンのフィギュアは付属しない。
=== その他 ===
* 制作会社サンライズの所在地の[[上井草駅]]駅前の洋食レストランに当該作品をもじったメニューの中にエスカフロートがある。サンライズのスタッフがよく利用する店のため。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.escaflowne.jp/ 天空のエスカフローネ]
* [https://www.bs11.jp/anime/post-67/ 天空のエスカフローネ - BS11]
* [http://animejapan.cplaza.ne.jp/b-ch/index.html BANDAICHANNEL/バンダイチャンネル]
** [https://www.b-ch.com/titles/134/ 天空のエスカフローネ]
** [https://www.b-ch.com/titles/238/ エスカフローネ Escaflowne The Movie]
* [http://www.pachinko-live.com/machine/ef/ CR天空のエスカフローネ](エース電研)
* {{Wayback |url=http://www.nifty.com/escaflowne/ |title=エスカフローネ公式ホームページ |date=20000816042824 }}
* [https://web.archive.org/web/19970411000350fw_/http://www.niftyserve.or.jp/station/ssunrise/ESCA.HTM サンライズエスカフローネホームページ]
* 劇場版
** {{Allcinema title|233773|エスカフローネ}}
** {{Kinejun title|32124|エスカフローネ}}
** {{Movie Walker|mv31654|エスカフローネ}}
** {{映画.com title|35042|エスカフローネ}}
{{前後番組
|放送局=[[テレビ東京]][[TXNネットワーク|系列]]
|放送枠=[[テレビ東京平日夕方6時枠のアニメ|火曜18:00枠]]
|番組名=天空のエスカフローネ<br />(1996年4月2日 - 9月24日)
|前番組=[[爆れつハンター]]<br />(1995年10月3日 - 1996年3月26日)
|次番組=[[セイバーマリオネット|セイバーマリオネットJ]]<br />(1996年10月1日 - 1997年3月25日)
|2放送局=[[文化放送]]
|2放送枠=水曜25:30枠|
|2番組名=坂本真綾のエスカフローネ・アイズ<br />(2000年7月5日 - 9月27日)
|2前番組=[[チャンス〜トライアングルセッション〜|トライアングルセッション]]<br />(2000年4月 - 6月)
|2次番組=ラジオ de クロスオーバー<br />(2000年10月 - 12月)
}}
{{河森正治}}
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{{赤根和樹監督作品}}
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エアバスA380
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エアバス A380Airbus A380
エミレーツ航空のA380-800
エアバスA380(Airbus A380)は、ヨーロッパのエアバス社によって開発・製造された、ターボファンエンジンを4発装備した超大型ワイドボディ機。世界初の総2階建旅客機でもあり、旅客機としては(旅客数)世界最大の機種である。航空機全体の中ではAn-225 ムリーヤに次いで世界第2位の大きさであったが、An-225が2022年にロシア軍の攻撃によって失われて以降は、稼働している最大の航空機となった。A380は完成披露の時点で、「ジャンボジェット」と呼ばれた大型機のボーイング747を抜いて、乗客数の面では世界最大かつ史上最大の超大型機となった。
生産が開始されたのは2002年1月24日からであり、原型機が初飛行したのは2005年4月27日。また、型式証明の取得は2006年12月であった。初期の構想から初飛行まで16年の歳月を要した。初飛行から10年後の2015年末時点で、エアバスは中東や東南アジア地域を中心に300機を超える受注を獲得した。
総二階建てかつ800席の超巨人機を目指し、A380は1990年初頭にA3XXとして開発が始まった。一度に大量の乗客を輸送することにより、空港の混雑を緩和し、航空輸送の経済性を高めると同時に航空会社の利益を上げやすくするというのが主な狙いであった。エアバス社のほかにもボーイング社やマクドネル・ダグラス社が次世代大型旅客機として ボーイング747-Xとマクドネル・ダグラス MD-12を計画していたが、いずれも開発は凍結された。この後、ボーイング社は総2階建のNLAの開発を試みるが、これも中止された。スホーイによるKR-860の計画があった。かつてロッキード社も総2階建旅客機を計画したが、構想の段階で終わっている。
A380-800は全長が約73 mで、全幅は約80 m、最大離陸重量560 t、航続距離15,400 kmである。また、巡航速度は1,050 km/h、最高速度1,185 km/h、航続距離15,200km。ジェットエンジンは、エンジン・アライアンス GP7200もしくはロールス・ロイス トレント900を使用する。座席定員は、全席をエコノミークラスにした場合、最大で853人となる。
機体が大きいため総延長500 kmに及ぶ複雑な電気配線が間に合わなかったことが原因で、量産に入るのは当初の計画よりも1年半遅れ、2007年10月15日、ローンチカスタマーであるシンガポール航空にA380の1号機が引き渡された。シンガポール航空はA380を導入すると、シドニーをはじめロンドンや東京、北米など世界各地へ就航させていった。2020年現在で、シンガポール航空を含め、エミレーツ航空など15の航空会社がA380を保有している。特にエミレーツ航空は、他社とは桁違いに多いA380を導入し、その運航機数は優に100機を超えたことから、他機種に比べセールスの向上しなかったA380の唯一の救いとなった。
A380は2020年9月現在で合計251機が生産されており、全てA380-800型である。エアバスは他にも、胴体を延長させた-900型や、貨物型などの派生型を複数計画したが、それらはいずれも計画段階で終わり、開発に至ることは無かった。
2018年以降、導入を計画していた各航空会社の計画の見直しが相次ぎ、2019年2月14日、エアバスのトム・エンダース最高経営責任者はA380の生産を中止し、2021年以降は納入しないことを発表した。
2021年12月16日、エミレーツ航空向けの最終号機(MSN:272,登録記号:A6-EVS)の引き渡しをもって受注分が全て完納となり、14年間の生産に終止符が打たれた。なお、同型機の生産終了をもって、エアバス社の民間航空機部門において生産されている航空機から四発エンジン機が消えることとなった。
2020年9月現在までに、A380に関して7件の機体損失事故あるいは事件が発生しているものの、死亡事故、または機体の全損事故は起きていない。
1980年代末になると、ボーイング747初期型の後継機が求められるようになった。エアバスはボーイング747に対抗できる輸送力を持つ機体として、1989年からUHCA(ウルトラ・ハイ・キャパシティ・エアクラフト)構想の実現に向けての作業を開始した。ボーイング社はこれに過敏に反応し、1991年に747改良型など3種の計画を発表し、UHCA阻止の動きに出た(詳しくはこちらを参照)。この動きに対し、エアバスを構成する(当時)アエロスパシアル、DASA、BAe、CASAの4社はボーイング社と共同で、1993年1月にUHCAとは別にVLCT(ベリー・ラージ・コマーシャル・トランスポート)と呼ぶ大型輸送機構想を発表した。当初、ボーイングとエアバスによる市場調査では、2種類の機種があっても揃って成功する規模の市場は無いと判断されていた。しかし、ライバル同士の意見がかみ合わず、エアバスは1994年6月、UHCAをA3XX(530席 - 570席の100型と630席 - 680席の200型の構想)として計画に着手したことを発表し、VLCTは中止された。
ボーイング社はこれに対抗し、同年に747-500Xと747-600Xを発表、対決する構えを見せた(747X計画)。747X計画はさまざまに変遷する流動的なものであったが、その間にもボーイング社はエアバス社に対する露骨なネガティブキャンペーンを繰り広げ、A3XXのイメージダウンを図った(ソニック・クルーザーを参照)が、エアバスは計画を進めた。
2000年12月19日、エアバスは62機の受注を獲得したことから、A3XXをA380として開発に入ったことを発表した。ボーイング社は翌年に747X計画を延期し、ソニック・クルーザー計画を発表したものの、2003年には計画を凍結し、その開発能力を中型機ボーイング787へと注力していった。しかし、その後ボーイング社は、A380と777-300ERやA340-600の間を埋めるという理由で、747-400ER、747-8型(計画名 747Advanced)などの大型機の開発を開始した。
A380の1号機は2005年1月18日にトゥールーズの本社工場で完成披露の式典が行われた。
6月1日にエアバス社は、「納入を2か月から6か月遅らせる」と発表した。問題は主翼の強度不足と機内配線による重量オーバーだった。前者は直ちに改善されたが、後者の解決は困難であった。A380の最大定員853席すべてに個別に引かれた電線は延べ約563kmにおよび、接続や収納に予想以上の時間を要していることと、サービスの一環として座席に配したオーディオ機器の配線によって重量が予想以上に増え、対応に時間がかかった。
18日の時点でアメリカン・インターナショナル・グループ (AIG) のリース部門・インターナショナル・リース・ファイナンス (International Lease Finance Corporation, ILFC) を含む16の航空会社がA380型機を発注しており、その数は27機の貨物機を含め159機にのぼった。エアバス社CEOのノエル・フォルジャールは「この航空機を500機販売する」という期待を表明している。
予定ではローンチカスタマーのシンガポール航空は2006年の第4四半期 - 同年末に最初のA380型機を受け取り、カンタス航空は2007年4月、エミレーツ航空は2008年より前にA380型機の引渡しを受けることになっていた。A380型機の最初の路線就航は2006年末のロンドン発シンガポール経由シドニー行シンガポール航空便、続いて同じくシンガポール航空によるシンガポール発香港経由サンフランシスコ行、シンガポールから成田経由ロサンゼルス行、パリ、フランクフルトへの直行便が就航する予定であった。また、カンタス航空はA380型機をロサンゼルス - シドニー便に投入すると公表した。また、この頃にはエアバス社は月に4機のペースで引き渡しを行うと表明していた。
しかし、2006年6月13日、エアバス社は引渡しが再び6 - 7か月遅れることを発表した。理由は生産上の遅れとしているが、顧客ごとに異なる内装仕様に対応するため、機内の配線設置に手間取っていることが原因とされている。社内で使用しているCADソフトCATIAが、ドイツとスペインではバージョン4を使っていたのに対し、イギリスとフランスではバージョン5に変更していたことでデータの共有に問題が起き、ケーブルの長さが設計変更に対応していなかったという。なお、引渡し機数に関しても計画の年25機(2009年から年45機)から2007年は9機、2008年以降も予定より5 - 9機縮小するとした。これにより、さらに大幅な受領の遅れが生じるため、航空会社の心証が悪化した。エアバス社は、影響を受ける航空会社各社に対し大規模な補償交渉を行なったほか、安価なリースパッケージを提供することで旅客機型のキャンセルを回避しようとした。また、引き渡し延期をめぐっては、エアバス親会社のEADS株の急落に加え、EADS・エアバス両社幹部がこの発表前に大量の株を売却したインサイダー問題が発覚しており、EADS社元CEOノエル・フォルジャールが逮捕、その他10人がフランス当局によって告発されている。
さらに、2006年9月21日には、EADSが3度目となる納入スケジュールの遅れを発表。続く10月3日には最大の発注元であるエミレーツ航空が、「エアバスからA380計画がさらに10か月遅れ、機体引き渡しは2008年8月になるとの連絡を受けた」という声明を出している。エミレーツ航空は同声明の中で「当社にとって極めて深刻な問題で(契約に関する)すべての選択肢を見直している」としていたが、その後2007年5月14日に4機の追加発注を受けたことで契約のキャンセルは回避された。その後、2007年6月22日に行われたパリ航空ショーにおいて、8機が追加発注され、さらに2013年11月のドバイのエアーショーにて50機の追加発注が決定し合計140機となり、同機における最大のカスタマーとなっている。
2006年11月7日、貨物型の導入を予定していたフェデックスが、発注をキャンセルしたことを明らかにした。次いで2007年3月2日に、貨物型の導入を予定していたユナイテッド・パーセル・サービス (UPS) は、エアバスが再建計画の一環として旅客機の生産を優先すると発表したことで、引き渡しがさらに遅れることを懸念し、発注をキャンセルした(UPSは、のちにB747-8Fを新規発注)。さらには旅客・貨物の両型式を発注していたILFCも貨物型だけ注文をキャンセルし、旅客型のみの納入を受けることを明らかにしている。
エアバス社はこの時点でオプションを含め80機あった貨物型の受注を全て失い、貨物型の開発を一時中断した。旅客型の受注件数は基本設計から半世紀が経過し、大型化に限界があるボーイング747の発展形であるボーイング747-8の受注件数を上回っているが、貨物型はボーイング747-8に大きく遅れをとることとなった。
2005年4月27日にフランスのトゥールーズで初飛行した。
2006年11月からA380 MSN002(ロールス・ロイス トレント 900型を装備、製造番号2:F-WXXL)を用い、世界の空港の滑走路、誘導路、PBB(パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ)が適合するかどうかのテストと、PRの一環として世界周遊飛行を行った。行程はトゥールーズから出発し、4回に分けて10都市を回るもので、1回目の飛行では、シンガポール(11月14日)、大韓民国・ソウル(11月15日)に寄港。2回目に香港(11月18日)と成田(11月19日 - 11月20日)、3回目は中華人民共和国を中心として、広州(11月22日)、北京、および上海(11月23日)に飛行。4回目では、南アフリカ・ヨハネスブルグ(11月26日)に立ち寄り、南極点上空を通過して、オーストラリア・シドニー(11月28日)に寄港。太平洋を横断してカナダ・バンクーバー(11月29日)に飛行したあと、北極点上空を通過しトゥールーズに戻った。
この飛行の成功により、12月12日に欧州航空安全庁 (EASA) および米国連邦航空局 (FAA) の型式証明を同時に取得した。この際、FAAがアメリカ機に義務付けている燃料タンク爆発防止装置の装備がなされていないことを指摘した。欧州機では装備義務はなく、エアバスもアメリカ機(ボーイング機)との構造の違いを主張し、装備の必要はないとしている。ただし、アメリカの航空会社に採用される場合はFAA基準が適用される可能性がある。
同機は「ワールド・ツアー2007」の一環としてA380 MSN007(製造者連番7:F-WWJB)で2007年6月4日に成田空港に再度飛来し、6月6日にシドニーに向かった。
また、A380 MSN009(製造者連番9:F-WWEA)を用いて、エンジン・アライアンス社製GP7000エンジンを搭載したA380の型式証明取得のため、テスト飛行を行った。2007年9月26日から、コロンビアのボゴタを振り出しに、北米・南米・中近東へ断続的にテストフライトを行い、10月18日に関西空港に寄港、その後トゥールーズに戻った。このエンジンを搭載したA380-861型は2007年12月に型式証明を取得した。
2007年10月15日、初飛行以来30か月間のテストを経て、最初の納入先、シンガポール航空に機体が引き渡された。同年10月16日にパイロットや技術者などのシンガポール航空関係者が乗り込みエアバス本社(トゥールーズ)からシンガポールに向けて飛び立った。そして同年10月25日よりSQ380便としてシンガポール - シドニー間に就航した。この初号便の座席はeBayによるインターネットオークションで販売され、売り上げは慈善団体に寄付される。また「現在運航している世界最大の旅客機」がボーイング747からA380に代わった。
結果として、最初の納入は当初予定から1年半遅れた。2007年11月末での受注数は193機であるが、一説によれば遅れに伴う補償費用や生産設備の稼働率低下、人海戦術に伴う人件費増大等によってエアバスは60億ユーロ(約1兆円)のプロジェクト経費増大を来たしており、さらに米ドルに対するユーロ高傾向もあってA380の採算ラインは、当初の270機から、420機程度にまで悪化していると言われる。
2007年11月12日、エアバス社はサウジアラビア王子のアル・ワリードがA380をプライベート機として購入するため売買契約を結んだと発表した。2つのダイニングやゲームルーム、主寝室などを備え、機体に3億ドル、改装費に1億ドル。ミサイル防衛システムも含まれている。エアバス社では"The Flying Palace"(空飛ぶ宮殿)と呼んでいる。この機体は元々エティハド航空に納入予定であった飛行試験2号機であった。
シンガポール航空による定期就航が始まったことにより、A380 の順調なスタートにこぎ着けたと思われたが、エアバスは2008年5月13日、量産計画を再調整し、ウェーブ1(量産化前段階)からウェーブ2(量産移行後)においての引き渡し計画を修正する発表を行った。その結果、2006年に計画された急激な量産化は達成不可能となったことが確認されウェーブ2への移行に若干の遅れが生じた。これは、ウェーブ1における作業が予想以上に時間を要したことが原因としている。
今後の展望として、同日、エアバス社は次の通り発表した。
これ以降の引き渡し機数については、今後顧客との話し合いによって決まるとしている。その後2008年9月のカンタス航空向け初号機、製造通算14号機の引き渡しに先立ち、エアバス社は2008年と2009年の引き渡し数は12機と21機を堅持、2010年については30機から40機の間になると公表した。2008年12月30日に2008年の12機目となるエミレーツ航空向け4号機が引き渡された。なお、2008年後半に顕在化した世界金融危機のため、エアライン各社は引き渡しペースの鈍化をエアバス社に要望し、それに応える形で2009年5月には2009年中の引き渡し数を14機に削減するむね再度発表されている。
2008年7月28日、エアバス社のハンブルク施設に新設されたユルゲン・トーマス・デリバリーセンターでエミレーツ航空に対してA380-861が引き渡された。A380の航空会社への引渡しはこれが6機目で、これまでの5機はいずれもシンガポール航空に引き渡されていたことから、エミレーツ航空はA380を受領した二番目の航空会社である。
今回の引渡し機は同年8月1日にドバイ - ニューヨーク(ジョン・F・ケネディ)線で初就航した。そのほかに長距離路線の就航先として、ロンドン、シドニー、オークランドがあるが、今後の機数増加によって就航都市は増える予定である。2009年3月、エミレーツ航空は、採算悪化を受けドバイ - ニューヨーク(ジョン・F・ケネディ)線からA380撤退を決定、ボーイング777-300ERに変更した。
同機は商業運航の合間にクルーと整備員の訓練研修を兼ねて飛行していたが、同年9月に入り原因不明の電子機器トラブルが発生し飛行作業を中断した。商業運航が再開されたのは同年9月12日であった。
2008年9月19日、豪カンタス航空に同社向けA380-842(製造通算14号機)が引き渡され、同年9月21日にシドニーに到着した。同航空では約一か月間慣熟訓練を行ない、同年10月20日にメルボルン - ロサンゼルス線で商業運航を開始した。
2013年3月14日、通算100号機のA380がマレーシア航空へ引き渡された。マレーシア航空にとっては6機目の機体。しかしながら2015年5月、同社は業績不振の影響もあって近い将来にA380の放出を示唆した。2016年2月、同社CEOは、売却を延期し、少なくとも2018年まで同型機保有総数は現在の6機のまま据え置く、と述べた。同年11月30日、A380型機を新たな航空会社に移管し、イスラム教のメッカ巡礼のためのフライト計画を発表した。
2017年11月3日、エミレーツ航空に同社100機目のA380(機体番号:A6-EUV)が引き渡された。2018年に(UAE)の初代ザイード大統領の生誕100年を迎えることから、「100th A380」のロゴに加え、同氏を描いた特別塗装機となっている。
主な就航路線(2023年11月現在)(注)都市名が同じ場合、空港は同じとする。
日本路線は、2008年5月20日にシンガポール航空がシンガポール - 東京/成田線で運航開始したのが最初である。だが、悪天候により中部国際空港へ回避着陸(ダイバート)し、その後4時間ほど遅れて成田に到着した。なお当日は成田空港開港30周年の日であった。
その後、2010年6月12日到着便よりルフトハンザドイツ航空がフランクフルト - 東京/成田線(2014年3月の羽田線復帰以降、成田に乗り入れておらず、2018年1月現在では事実上撤退となっている)で、2011年6月17日より大韓航空がソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:KE701・復路:702便)でそれぞれ運航開始。同年7月1日よりシンガポール航空がシンガポール - 東京/成田 - ロサンゼルス線でボーイング777-300ERに代わり運航開始、以遠権のフライトで初めて就航した。2012年7月1日よりエミレーツ航空がドバイ - 東京/成田線に就航し、成田空港の第2ターミナルビルに初めてA380が発着(ゲートは66番)したが、翌2013年5月31日をもってA380での就航を終了した 。 そして2016年(?) 再び就航した。
一方で、2010年9月2日到着便よりエールフランスがパリ - 東京/成田線で運航開始したものの、2014年5月11日をもってボーイング777-300ERに機材変更された。大韓航空もデイリー運航から曜日限定運航に切り替え、2012年4月以降は全便他機材に切り替えたが、2012年10月28日から2013年3月30日まではA380での運航が復活している(往路:KE705・復路:706便。ただし、他の機材により運航される場合がある)。
シンガポール航空では2012年8月10日 - 8月15日に、大阪就航40周年を記念してシンガポール - 大阪/関西(往路:SQ618・復路:SQ619便)線で運航し、関西国際空港に定期旅客便として初めてA380が就航した。なお、当路線では2013年・2014年にも8月中旬に運航している。また、2014年8月9日・8月13日には名古屋就航25周年を記念してシンガポール - 名古屋/中部(往路:SQ672・復路:SQ671便)線でも運航し、中部国際空港にも定期旅客便として初めてA380が就航した。
タイ国際航空が、2013年1月1日からバンコク - 東京/成田線で運航開始(往路:TG676・復路:TG677便)。さらに同年12月1日からは、東京/成田線で午前出発便もA380に変更(往路:TG641便・復路:TG640便)、またバンコク - 大阪/関西線(往路:TG622・復路:TG623便)でも運航開始。2015年5月からB747-400に機材変更し運航していたが、2016年5月16日から10月29日までの間、再投入され、2017年1月前後にB747-400となったが、2017年9月現在、成田発夕刻便とその復路便、関空発夕刻便とその復路便をA380で運航している。
アシアナ航空が、2014年6月13日からソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:OZ102・復路:OZ101便)、同年7月29日からソウル/仁川 - 大阪/関西線(往路:OZ112・復路:OZ111便)で、同年8月19日まで一時的に投入された。そして、2016年10月30日から11月9日の間、ソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:OZ102・復路:OZ101便)で期間限定投入され、2年ぶりに日本に同社のA380が飛来した。2017年10月29日から2018年3月24日まで、再度ソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:OZ102・復路:OZ101便)にA380を投入している。
シンガポール航空の路線計画変遷に伴い、2016年10月22日をもってロサンゼルス-東京/成田線-シンガポール線(SQ11/12)におけるA380の運航が終了となった。同路線は翌日よりB777-300ERとなったが、東京/成田線-シンガポール線(SQ637/638)がA380になるとの発表もない。また同社は羽田線も有していることから、A380は東京/成田線から事実上の撤退となった可能性が高い。この後、大阪/関西線については同年12月4日から2017年始にかけて期間限定で運用されている。
マレーシア航空が、ロンドン線のみで使用しているA380を2017年8-9月の期間限定で成田路線に導入し、東京/成田線-クアラルンプール線(MH89/88)に運用した。また、2015年12月14日、同月20日に決勝戦が開かれる「FIFAクラブワールドカップ2015」に出場するFCバルセロナ(欧州代表)の選手とサポーターを乗せたバルセロナ-東京/成田直行チャーター便は、同クラブ首脳がVIP席の多さにこだわった結果A380となり、マレーシア航空所有6機目、A380累計100機目のロゴ入り機であった。
以上のように、本機体の初就航当時は日本への乗り入れに積極的なエアラインが多数あったものの、2017年3月現在は撤退あるいはデイリーから季節限定あるいは期間限定に切り替えとするエアラインが増えつつある。しかし、エミレーツ航空が2017年3月26日からドバイ - 東京/成田線にA380を再就航させ、日本に定期的に乗り入れる外資系のA380はタイ国際航空と合わせて2社となった。
2022年10月、F1日本グランプリに伴い大韓航空がチャーターされシンガポール/チャンギ-名古屋/中部(KE9642)で初上陸した。
日本はA380と同じく大型旅客機と呼ばれているボーイング747を世界で最も多く導入していたことから、日本航空や、全日本空輸がA380を導入する可能性があると言われていた。2010年10月、羽田にデモフライトした際、エアバス側の意向で新千歳空港での適合テストも行なわれた。
スカイマークは国際線参入の一環として2010年11月8日に同機購入に基本合意し、2011年2月17日に6機(うち2機はオプション)の購入契約を正式に締結した。この正式契約成立により、日本の航空会社として初めてエアバスA380が導入され、同時に日本籍で初めてエアバス社製・四発ワイドボディ機が登録されることになり、契約通りに進めば2014年に2機導入の予定であり、ロンドンやフランクフルト、ニューヨークへ就航させるほか、2018年以降にも9機追加導入する計画を明らかにしていた。スカイマークカラーに塗られた機体の試験飛行も行われていたが、スカイマーク側が経営悪化を理由に契約変更を申し出たところエアバス側が拒否し購入契約が決裂。購入キャンセルについて交渉中であることが明らかにされた。
2014年7月28日、2014年前期に円安に伴う燃料費高騰や格安航空会社 (LCC) の台頭などによって経営が赤字転落した状況から、スカイマーク側がエアバスに「2機の導入延期、および4機の契約解除」とする案を打診した。するとエアバス側はスカイマークに「大手航空会社の傘下」に入ることを要求し、さらにこれを拒否して契約をキャンセルした場合は「違約金」を請求することになる、とブルームバーグが報道した。これを受けてスカイマークは「当社の経営の主体性を揺るがすような主張は受け入れられない」とする声明を発表したが、この声明を受けたエアバス側は「スカイマークとの協議および同社の機体に対する姿勢を受け」て契約協議の終了を通知し、さらに「すべての権利及び権利侵害における救済措置を保持している」として、最大700億円規模の違約金を請求される事態となった。
ところが、スカイマークに販売予定だった機体を別の航空会社に売る目処がついたこともあって2014年10月に最低200億円まで減額に合意する方針と朝日新聞が報道。その後、スカイマーク側の経営不振による資金不足もあり、2014年12月の時点でスカイマークとの契約が解除された機体がまだ他社に納入されていないことが会員制写真投稿サイトのAirliners.netで確認されている。また違約金交渉が最終合意された事実はないが、12月19日になってエアバス側が英国商事裁判所に対して訴訟準備を開始したことが報道され、スカイマーク広報もこれを追認した。スカイマーク向けに製造された2機は、2016年にエミレーツ航空へ売却された。
全日本空輸は、当初A380導入の是非について、2008年内に結論を出す予定であったが、2008年12月に世界経済の悪化を受け、「ボーイング747-8とともに大型機の導入計画を一時凍結する」と発表した。理由は世界の金融不況に伴うもので、「新大型機検討委員会は廃止されずに時期を見て再開させる」とされていた。
しばらく話の進展がなかったが2014年3月27日、同社は5機種の機材発注を同時決定した。そのうち、大型機として既存のボーイング777-300ERに加え、ボーイング777-9が新たに加わった。2014年3月31日をもって同社からボーイング747が全機退役したにもかかわらず導入話の進展がなかったことに加えて、「新大型機1種」は777-9として選定された。エアバスA380を全日空が導入する話は一旦ここで終了した。
2016年1月に、ANAの親会社ANAホールディングスが、A380型機を3機導入すると日本経済新聞より報道された。
スカイマーク破綻による債権者集会でANAによる再建案に最大債権者であるエアバス、ロールスロイスが賛成するとの取引によりスカイマーク再建がANA支援決定後、この機体は当初予想されたスカイマーク向けではなく、全日空向けの新規発注機材であった。当時は2018年頃に納入される予定で全日本空輸のハワイ路線に投入され、成功すれば追加発注につながる可能性もあると報じられた。 2016年1月29日、ANAホールディングスはA380型機3機導入を正式発表した。その後特別塗装デザインと、愛称「FLYING HONU」を決定。2019年3月14日に1号機を受領、同年5月24日に成田-ホノルル線に同機が週3往復で就航を開始した。また、2019年度第1四半期には2号機を受領、同年6月18日に就航した。座席は、520席と現在日本最大の有償座席数が用意され、2階にファーストクラス8席、ビジネスクラス56席、プレミアム・エコノミー73席とエコノミークラス以外の全てのクラスが導入された。
しかしCOVID-19の影響により全機運航停止となり、定期的に遊覧チャーター飛行などで運航している。さらに2019年10月に初飛行した最終号機である3号機は2020年10月にエアバス書類上は引き渡しが完了しているものの、同社の大幅赤字と多額の借入金のために、引き取りを延期し、仏トゥルーズで約1年整備保管されていたが、2021年10月に引き取り、同月16日に初飛行から2年、引き渡しから1年経過して来日となり。初飛行から4年近く経過した2023年10月20日に営業運航された。
本来の命名規則によればA340、A350と続くはずであったが、この機種はいきなりA380になっている。理由は以下の通り。
A380型機は、低翼で後退角を持った主翼、通常形式の尾翼、主翼パイロンに装着したエンジンなどの一般的なジェット旅客機と同じ特徴を持っている。ボーイング747の機体上部は2階建て部分のみ膨らんでいるが、A380は総2階建てであるため段差は無い。
航空会社によるオプションとして垂直尾翼の前縁頂点部に機外カメラを取り付けることが可能で、機内のモニターには高さ24mからの映像が映し出される。
エアバスでは航空機各部を各国の組み立て工場から、最終組み立て工場があるトゥールーズやハンブルクまでエアバス ベルーガにより自前で空輸しているが、A380の胴体セクションや主翼は巨大すぎて格納できないため、船舶と陸路による輸送を行っている。なおベルーガの後継機として貨物室の容積を拡大したエアバス ベルーガ XLにも搭載できない(最大でもA350まで)。
2階建ての客室の1階(主デッキ)は最大幅6.58mで、ボーイング747-400の主デッキ客室最大幅より45.7cm広い。また上部デッキの客室最大幅は5.92mでエアバス社の従来のワイドボディ機の客室最大幅5.62mよりわずかに広い。ボーイング747と違い2階席も通路が2つある。
エアバスはその客室の広さを活かしラウンジ、滝、バー、免税品店やシャワールームなどを設けることも可能としており、実際にエミレーツ航空はファーストクラス利用者向けのシャワールームを設置した。しかし、飛行中は不測の乱気流で機体が大きく揺れることがあり、乗客が怪我や死亡する危険を最小限にするには、乗客が常に立ち歩く状態は好ましくない。作ったとしてもすぐに廃れる、という意見もあるが、エミレーツ航空はブルジュ・アル・アラブおよびパーム・ジュメイラの装飾を施したバーを導入している。
なおボーイング747の開発時にも接客設備の採用が検討され、ラウンジはいくつかの航空会社において実現したものの、座席数を増やすためにその後廃止された。
キャビンの総面積はB747-400の約1.5倍、座席数はファースト・ビジネス・エコノミーの3クラスからなる標準座席仕様で同じく約1.3倍である。エアバスでは「従来の大型機と比べて同じ座席仕様でありながら、1人当たりの占有面積が広くなる」を同機のセールスポイントとしている。エティハド航空では、これを活かし通路を1つとする代わりにベッドを座席ごとに設置することで、通常のファーストクラスよりさらに上位のクラス「ザ・レジデンス」(The Residence)を導入している。
座席の機内が総2階建て構造であることから、客室の最前部(メインデッキのL1/R1ドア付近)と最後部にそれぞれ直線式と螺旋式の階段が設けられ、最前部の階段では大人2人が楽にすれ違える幅がとられている。なお、2017年に最前部階段の位置を従来のメインデッキのL1/R1ドア付近からL2/R2ドア付近への設計変更が可能になることが発表された。これにより、一例として4クラス497席の座席数から78席増の575席へと座席数を増やすことが可能となる。更に2018年4月には、新造機だけでなく既存機にも適用可能な「キャビン・フレックス」オプションが導入された。これは、2階のドア3を機能させないことで、プレミアムエコノミーで最大11席、ビジネスクラスで7席増やすことが可能になる。
民間旅客部門では今までにない座席数である。例としてエール・オーストラルはモノクラス(エコノミークラスのみ)の仕様で計840座席とし、世界最多有償座席数として記録が更新される計画もあったが、発注はキャンセルされた。2クラス仕様では2015年11月4日にエミレーツ航空が中距離2クラス仕様・615席(ビジネス58席・エコノミー席557席)を受領した事で、2クラス仕様における世界最多有償座席数であったANAのボーイング747-400D(2014年3月31日をもって全機退役)の569席を上回り、記録を更新した。2016年7月現在、2クラスで世界最多の有償座席数そして世界初の600席台有償提供である。標準座席仕様では、2011年12月12日まで、エールフランスが538席として、有償提供をしていた。3クラス仕様における初の500席台であり、世界最多有償座席数の記録を更新している。
2000年代後半以降では、ワンランク上のエコノミークラス(プレミアムエコノミーなど)を導入して4クラス仕様とする航空会社があるが、エールフランスが2018年現在516席として、有償提供をしている。この仕様においても初の500席台であり、当時世界最多有償座席数の記録を更新していたが、2019年3月20日に全日本空輸の520席(ファースト8席・ビジネス56席・プレミアムエコノミー73席・エコノミー383席)に4クラス世界最多有償座席数の記録を抜かれた。
操縦室と乗務員休憩区画などは2階建て客室部分の前にあり、メインデッキと呼ばれる1階とアッパーデッキと呼ばれる2階の間の1階より少し上がった中2階の高さに位置している。これは視界の確保と他のエアバス機との互換性のことも考えての設計である。
操縦室は予備席も含めて5つの座席が備わる。2人乗務による操縦を行えるように、最前部左の機長席とその右の副操縦席の2座席を取り巻き操縦装置類が配置されている。操縦室後半には間隔を開けて2つまたは3つの座席が備わっている。
本機はLCD(液晶ディスプレイ)グラスコックピットを備えている。ただし、エアバス社の従来のグラスコックピットと違う点は、一辺8インチの正方形のLCD6面から、縦8インチ横6インチの縦長のLCDが8面へと増えたことであるこれにより、コックピットに持ち込む書類数削減が可能となる。操舵形態は同社ではエアバスA320以来採用されているサイドスティック方式である。
2社が製造するエンジンから1種類を選ぶことができる。これらはいずれも主翼下面にパイロンを介して左右に2つずつ合計4基が取りつけられる高バイパス比ターボファンエンジンである。1つはロールス・ロイス・ホールディングス製トレント 900、もう1つはエンジン・アライアンス(GE・P&Wの合弁企業)製GP7270である。トレント 900はA380が初飛行した時のエンジンであり、最初は数多く販売されたが、その後GP7200の販売も伸びてきており、トレント 900の発注と肩を並べるまでになっている。エンジンのメーカー別にA380の型式がロールス・ロイス トレント900シリーズはA380-84X、エンジン・アライアンス GP7200シリーズはA380-86Xと表され区別できる。
着陸滑走時には、ボーイング747などの4発機はエンジン4基全ての逆噴射装置を使用するが、A380では内側の第2と第3エンジンの2基分のみを使用する。操縦席のリバース操作レバーも、第2と第3エンジンの部分のみである。なお、計画当初A380はブレーキ性能が十分とのことで逆噴射装置を採用する予定はなかった。重量軽減と信頼性向上のため、逆噴射装置では民間機では初となる電気で作動するETRAS (Electrical Thrust Reverser Actuation System) を採用している。
低騒音で低二酸化炭素排出量を実現し、世界一運航規制の厳しいロンドン・ヒースロー空港でも24時間運用が可能である。このことから広告では「環境にやさしい飛行機」であることを売りにしている。
巨体を支える降着装置のタイヤは、ノーズギア2本、ボディギア12本(6輪ボギー×2)、ウイングギア8本(4輪ボギー×2)の計22本である。なお、ボーイング747のタイヤはノーズギア2本、ボディギア8本、ウイングギア8本の計18本、ボーイング777ではノーズギア2本、ボディギア12本の計14本である。
航空交通管制では後方乱気流を考慮した飛行間隔を決定する際、最大離陸重量で区別しており、 通常300,000ポンド(136t)以上をヘビー(Heavy)として扱うが、A380の登場によりスーパー(Super)のカテゴリーを新設した。このため空中で着陸の順番待ちや離陸滑走において747などの従来の大型ジェット機以上に間隔が必要となり、空港の利用効率化にはネックとなる。
国際民間航空機関(ICAO)では、A380型機などの新大型航空機に対応する新たな飛行場等級「コードF」を設定し、滑走路や誘導路など基本施設の整備について細かな基準を設けている。それまではボーイング747-400型機などの大型ジェット機を想定したコードEが最高ランクであった。
旅客取扱施設においては、総2階建てという新型機の特性から、固定ゲートを利用して航空機に搭乗する際のPBB(パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ:搭乗橋)の運用が大きな課題となる。エアバス社によれば、現在世界の空港で広く採用されている、1機あたり2本のPBBで十分対応可能であるが、メインデッキ2本使用で140分、アッパーデッキ、メインデッキ各1本、計2本使用で90分のターンアラウンド(便間作業)タイムを設定している。アッパーデッキ1本、メインデッキ2本、計3本のPBBが使用出来れば、さらに乗降に必要な時間や機内清掃など作業時間なども短縮されるため、乗客の利便性がさらに向上するとしている。このほか、ゲートラウンジの拡張や、駐機中の航空機に電気や空調を供給する地上動力装置(GPU)の能力アップなどが必要となる。
日本の空港では、成田国際空港が2020年時点で第1ターミナルビルの15番・26番・45番・46番・54番、第2ターミナルビルの66番、96番が対応している。東京国際空港(羽田空港)は、第3ターミナルの107番スポットが該当する(ただし、混雑する昼間の定期乗り入れは後方乱気流の問題から、国土交通省は認可しない方針だが、成田空港閉鎖時の代替着陸による緊急運用を見込んでいる。詳細は羽田空港発着枠を参照)。関西国際空港は第1ターミナル国際線の11番、31番が該当する。首都圏以外でも、2014年11月時点で中部国際空港、新千歳空港が運用可能空港となっている。但しチャーター便での貨物未搭載、国内短距離飛行による燃料削減などの機体重量制限のうえ滑走路タキシーダウン運用し駐機場周辺支障の少ないオープンスポット限定という変則運用で那覇空港や下地島空港でも運航可能となっている。
シドニー国際空港などではA380に対応するため、地盤を固めたり、ボーディングブリッジを減らしたりなどの処置を行った。そのためスポット運用がぎりぎりになり、他機がスポットが空くのを待つという光景も見受けられた。
また、ブラジルで2014 FIFAワールドカップが開催される際、エールフランスが大会期間中に需要の増加が予想されるサンパウロ国際空港へ同型機の就航を計画していたが、ブラジル政府航空当局が事前に同空港を調査したところ、前述の飛行場等級コードFの規定を一部満たせていない可能性があり、改修工事の目途も立たないことから、当局が大会期間中の同型機の同空港への就航は認可しない方針(大会後改修対応)を明らかにするなど、充分に対応しきれない空港もある。
A380(その他総2階席を持つ旅客機)を発注する航空会社が増えれば、空港側の施設改修も期待できるが、航空会社側では空港が対応しない限り就航路線が増やせず、空港側も単なる見込みで費用をかけて改修するわけにはいかないため、本機への対応改修を実施するのは、国家を代表する国際空港や国際線のメインハブ空港に留まっている。A380の登場以降は燃費の良い双発中型機が主流となっており、ボーイングがA380と777-300ERのギャップを埋めるべく開発した747-8ですら、発注がないほど低迷していた中、2019年2月になってA380の生産中止を発表した。
生産中止になったことから、今後A380の運用の増加が見込めず、運航効率の良い中小型機やA380のような3クラス500席級の4発エンジン大型機ではなく、B777やA350のような3クラス300~400席級の大型機がトレンドとなっている航空情勢下で、A380を凌駕する超大型旅客機が登場する可能性は極めて低いため、空港側が新たにA380のような超大型機に対応できるように改修する可能性も極めて低い。
A380の生産には、日本企業の21社が参加している。
2002年4月に床下・垂直尾翼の部材担当として東邦テナックス、ジャムコ、住友金属工業、東レの4社が参入、6月に三菱重工業(前・後部カーゴドア)、SUBARU(垂直尾翼前縁・翼端、フェアリング)、日本飛行機(水平尾翼端)、10月に新明和工業、横浜ゴム、日機装が、2003年2月に横河電機、カシオ計算機、牧野フライス製作所が、6月にブリヂストン、三菱レイヨンが参加を決定した。とくに日本の炭素繊維の技術に目が向けられフレームなどの主要な部分に多用されている。
A380は数タイプの派生型(貨物機型、長距離型など)の開発も構想していたが、2021年で生産中止となったため、実機として運用されたのは旅客仕様基本型のA380-800型の1タイプのみとなった。
旅客仕様の基本型で、2007年10月25日にシンガポール航空が商業飛行を開始した。
当面はこの型のみの販売・引渡しを行うことにしており、
など、段階的な性能向上プログラムも検討されている。これらの改良を取り入れた第一段階の生産機は2012年頃から納入されると考えられている。この機体はエアバス社のエンジン換装型新型機プログラムと同様に、A380もA320neoやA321neoなどといった一連の「neoシリーズ」に加わる事となり、「A380neo」として改良が施された新型機となる。2016年にはUAEのエミレーツ航空が、改良機構想の「A380neo」に関する発表を行っており、同社はエンジン換装などが施されない場合でも、アビオニクスを中心とした改良機を追加発注する用意があるとしている。
2015年6月に2機の発注を検討していることが報道されたユナイテッド航空も含めると、A380-800型機を導入した航空会社数は世界全体で14社となる。この発注が実現に至った場合、ユナイテッド航空がアメリカ合衆国の航空会社として初めてのA380-800型機発注となる。アジアではシンガポール共和国のフラッグキャリアであるシンガポール航空が、A380シリーズ全体でのローンチカスタマーとして初号機を受領し、シンガポール発欧米路線やオセアニア路線などで活躍している他、保有機材数としてもアジア地区最多の機数を有している。その他にタイ国際航空などが、繁盛期ごとの臨時定期便で日本の成田国際空港へ定期乗り入れを行っている。
現状ではエミレーツ航空がA380-800型機の最大の顧客で、2016年3月には日本のスカイマーク向けに製造途中だった機材を引き受ける形で2機追加購入する契約を結んでいる。
基本型の-800型の発展型として開発調査に着手することが発表された初めての型。2017年6月18日(現地時間)にパリ航空ショー2017にて発表されたA380-800型機の効率向上モデル。同航空ショーでコンセプトモデル(既存のA380-800型機に後述の大型ウイングレットをモックアップで装着)が展示され、基本型に比べて効率性と経済性を向上させ、外観ではウィングレットをより大きくし、翼端を上下に分かれる形状に変更したものである(上方に3.5m、下方に1.2mと、上下で4.7mの高さを持つ)。他には翼および空力的観点での見直しも行われ、燃料消費率も最大4%の減少が達成される見込みである。また、機内では2階席への階段やクルーレスト、サイドウォールなどの見直しで、客室をより最適化して基本型よりも最大で80席を増加できるようにしたという(エアバス社では「Cabin enablers」と称している)。具体的には、A380-800型機の標準座席数は4クラス497席であるが「Cabin enablers」を導入すると575席に増加できる。また、最大離陸重量は578トンに増加し、航続距離は300nm(555.6キロ)延長される。最大78席を増席した場合、A380-800型機と同じ航続距離8200nmとなる。さらにエアバス社は、メンテナンス間隔を延長してメンテナンスコストを削減できるとしている。開発が正式決定すれば初のA380発展型となるが、同年11月に最大顧客のエミレーツ航空が提案を受け入れなかったことが明らかになっている。2019年2月14日に同社が生産終了を発表したことにより、開発に至ることなく計画で終わった。
貨物機型も貨物航空会社へ提案されている。貨物機型については重量物が運べないのでそれほどメリットがないとされ、ボーイング社はA380Fより777Fや747-8Fのほうがロスが少ないと説明している。
世界最大の旅客・貨物機だけに貨物容積は広いが、機体の大きさのわりに搭載量は少なく、ノーズ部が開かないため長い貨物が積めず、専用ローダーがないと2階へ搭載できないなど、高速貨物輸送用途でライバルとなる747貨物型に比べると不利な点が多い。747貨物型で出来たことが出来なくなるばかりか、747貨物型では必要なかった設備を新たに用意しなければならないため、経済性には大きく劣り、貨物機としては関心を集めていない。
実際、エミレーツ航空は旅客機としてはA380を発注しているが、貨物機は747-8Fを発注している。また、比較的軽い貨物を扱うFedExとUPS、ILFCはA380-800Fを発注したが、旅客型が何度も納入遅延を起こしたため、貨物型についても納入遅延の懸念から最初にFedExが発注をキャンセルし、続いて2007年3月にUPS(2016年に747-8Fを発注)、ILFCがキャンセルした。このためエアバス社は貨物型のすべての受注を失い、2017年6月現在、試験機を含めて実機は1機も存在せず貨物機の開発は中断している。発注する会社が出てくれば開発は再開される予定であったが、2019年2月14日に同社が生産終了を発表したことにより、開発に至ることなく計画で終わった。
2020年5月には新型コロナウイルス感染症の影響で旅客需要が減少し、貨物需要が増大する中、ルフトハンザドイツ航空の子会社で航空機の改造やメンテナンスを手掛けるルフトハンザ・テクニークにA380旅客型を貨物用に改修する依頼があったことが明らかにされた。顧客(航空会社)名は明らかにされなかったが、後にポルトガルのハイフライ航空の元シンガポール航空のリースされたA380型機(機体記号9H-MIP)がこの改造対象になっていたと複数のメディアが報じている。
既にCOVID-19の影響に対応するため、旅客機の座席に貨物を積載したり、座席そのものを撤去して貨物を積載したりといった事例は存在する。しかし、ルフトハンザ・テクニークによれば、この改修は単に座席の撤去に留まるものではないという。
しかし、貨物ドアの設置などは行われないと報じられており、貨物の積載時には旅客用の狭いドアを使用する必要がある。また、2階部分の床板が貨物の重量を想定していないため、貨物機としては問題が多いとの指摘もある。
2020年5月19日、ハイフライ・マルタのA380機体記号9H-MIPが5/14~18にかけてポルトガルのベージャ空軍基地から中国の天津、ドミニカのラス・アメリカス空港を経由し世界一周運用で運航された事が発表され、COVID-19対応で中国からドミニカへ約15tの医療用物資を輸送したとされ、後日このA380が一部座席撤去された機体であることが公表された。同年11月になりCOVID-19流行により旅客チャーター事業→貨物チャーター事業に機体仕様変更対応したが、それでも超大型機の需要減少により同年末のリース期限をもって返却すると発表されている。
以下の派生型はいずれも発注している航空会社がない。2019年2月14日に同社が生産終了を発表したことにより、開発に至ることなく計画で終わった。
前述したように、A380は大きすぎて採算に合う路線が限られていることに加え、双発機の大型化・性能向上などに伴う大型4発機の受注低迷も相まって、2014年・2015年と2年連続して航空会社からの新規受注を1件も獲得できず(受注を獲得できたのはリース会社からのみ)、今後もこの傾向が続くようであれば2018年にも生産を打ち切る可能性があると示唆していた。2016年7月12日には、2018年以降の生産ペースを年27機から12機へ大幅に引き下げると発表した。
しかし、2016年5月に世界最大のA380オペレーターであり、104機のA380-800型機を世界各地を結ぶ国際線の主要超大型機材として運航しているエミレーツ航空が、さらに追加発注を行う用意があると報じられた。 ロイター通信は、エミレーツ航空CEOの「発注は通算で『確定発注200機以上』になる」とのコメントを紹介しており、すでにエアバス社から計画全体で黒字達成が発表されているA380プロジェクトをさらに後押しすることになると共に、総二階建機の生産体制が2020年代まで継続することになった。
一方で、エンジンを一新した「A380neo」の開発も視野に入っており、近い将来、その可否が決定する見込みであった。上記のような、新世代型の開発の一環として2017年6月に「A380plus」の開発調査を発表。A380plusは燃費を最大4%削減できる新たな大型ウイングレットの搭載、主翼の改良による空力性能向上を実現しており、2017年4月に発表済みの客室改良を合わせて実施すると、既存のA380と比べ、座席当たりのコストを13%削減できると発表していた。A380plusは最大離陸重量を578トンに増加し、従来と同じ航続距離8,200海里で最大80名多く輸送、または航続距離を300海里延伸することができると発表していた。
また、2017年から比較的機材更新の早いシンガポール航空では一部機材で入れ替えを開始しており、発注残5機を新機内仕様で受領して運用中の5機をリース会社に返却し、残りの保有14機を新機内仕様に改修して、最終的に新機内仕様19機で運用する予定であった。リース会社は2018年までにシンガポール航空からの退役機の引受先を探していたが交渉は難航しており、少なくとも2機が今後部品取りのために解体される見込みである。
エミレーツ航空から追加受注の可能性があることから当面は生産継続の方針となったが、2019年に入り雲行きが怪しくなり始めた。エミレーツ航空が直近で発注した20機の一部あるいは全てについて、ダウンサイズのA350ファミリーやA330neo等への切り替えを検討していると報じられたためである。
2019年2月には、オーストラリアのカンタス航空が受領待ちとなっていた8機をキャンセルした。2019年2月14日には、頼みの綱であったエミレーツ航空が発注残のうち39機をキャンセルし、A330-900 40機、A350-900 30機を代替発注することを発表、遂にエアバスはA380の生産を2021年で打ち切ると発表した。これにより、A380は旅客基本型の800型の1タイプのみで生産終了することとなり、エアバスが将来に構想していたA380plusやA380-800Fを始めとした派生型は開発されることなく計画のまま終わった。
総純受注数は、2019年3月時点で251機(民間航空会社からの受注分:251機,その他の会社からの受注分:なし)であった。エアバス社は、B747(主にボーイング747-400)型機に代わる世界のエアラインのフラッグシップとなることで700-750機の受注を目論んでいたが、受注数は目論見からは大きく下回ることとなる。また北米と南米そしてアフリカ大陸の航空会社からの受注は、皆無になる。ただ世界の航空情勢を見ても、双発機へのシフトそしてダウンサイジングという意向を示しており、一部のエアライン(例:エールフランスは2022年までに全機退役を表明)では放出計画が出ていた。さらに2020年に入り、新型コロナウイルスの影響により、エールフランスが当初の退役予定の2022年から退役の前倒しを表明、そしてエミレーツ航空も一部のA380の退役を検討し、さらには未受領分のA380もキャンセルの方向でエアバス社との交渉を始めた。
このように2020年に入ると、2月に起き始めた新型コロナウイルスの世界的な感染も相まって、世界のエアラインがこぞって運航停止を強いられた。その関係でA380最大オペレータであるエミレーツ航空のような最大手航空会社でさえも放出の計画が始まっており、他の世界のA380オペレータも退役の計画(例:ルフトハンザドイツ航空、カタール航空等)を示しており、各航空会社では段々と双発化そしてダウンサイジング(主にB777-300ER/-8X/9X,A350-900/-1000)の風潮が強まっている。その中で欧米No.1規模を誇るエールフランスが当初の予定(2022年)から前倒しして6月26日をもって全機退役、そして奇しくも時期同じくしてエミレーツ航空向けの最終号機となる機首と前部胴体がトゥールーズへ運ばれた。
2020年9月、最終機の組み立てが完了し、これを以て機体製造は完了となった。2021年度10月16日、書類の上では引き渡したものの受領を保留(エアバス社の工場にて保管)にしていたANA向けの3号機(登録記号:JA383A)が受理され、デリバリーフライトが行われ、日本に到着した。この引き渡しを以て、エミレーツ航空を除くエアライン向けへの納入は完了となった。同年12月16日、エミレーツ航空向けの最終号機(製造番号:272,登録記号:A6-EVS)が引き渡された。この引き渡しを以て完納となり、14年間の生産に終止符が打たれることとなった。これにより、エアバス社で生産されている民間航空機から四発エンジン機が姿を消すこととなった。また、ライバル機種としていたB747(-100型)に比べて30年以上も後に開発された型式であるものの、B747(-8型)に比べて先に生産終了と言う形になった。
諸元
性能
下記すべてA380-800(生産は旅客型のみ、2023年現在)
A380-800F(貨物機型)も含む(2019年現在)
2021年現在、機体損失事故および死者・負傷者を伴う事故は発生していない。
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"text": "エミレーツ航空のA380-800",
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"text": "エアバスA380(Airbus A380)は、ヨーロッパのエアバス社によって開発・製造された、ターボファンエンジンを4発装備した超大型ワイドボディ機。世界初の総2階建旅客機でもあり、旅客機としては(旅客数)世界最大の機種である。航空機全体の中ではAn-225 ムリーヤに次いで世界第2位の大きさであったが、An-225が2022年にロシア軍の攻撃によって失われて以降は、稼働している最大の航空機となった。A380は完成披露の時点で、「ジャンボジェット」と呼ばれた大型機のボーイング747を抜いて、乗客数の面では世界最大かつ史上最大の超大型機となった。",
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"text": "生産が開始されたのは2002年1月24日からであり、原型機が初飛行したのは2005年4月27日。また、型式証明の取得は2006年12月であった。初期の構想から初飛行まで16年の歳月を要した。初飛行から10年後の2015年末時点で、エアバスは中東や東南アジア地域を中心に300機を超える受注を獲得した。",
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"text": "総二階建てかつ800席の超巨人機を目指し、A380は1990年初頭にA3XXとして開発が始まった。一度に大量の乗客を輸送することにより、空港の混雑を緩和し、航空輸送の経済性を高めると同時に航空会社の利益を上げやすくするというのが主な狙いであった。エアバス社のほかにもボーイング社やマクドネル・ダグラス社が次世代大型旅客機として ボーイング747-Xとマクドネル・ダグラス MD-12を計画していたが、いずれも開発は凍結された。この後、ボーイング社は総2階建のNLAの開発を試みるが、これも中止された。スホーイによるKR-860の計画があった。かつてロッキード社も総2階建旅客機を計画したが、構想の段階で終わっている。",
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"text": "A380-800は全長が約73 mで、全幅は約80 m、最大離陸重量560 t、航続距離15,400 kmである。また、巡航速度は1,050 km/h、最高速度1,185 km/h、航続距離15,200km。ジェットエンジンは、エンジン・アライアンス GP7200もしくはロールス・ロイス トレント900を使用する。座席定員は、全席をエコノミークラスにした場合、最大で853人となる。",
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"text": "機体が大きいため総延長500 kmに及ぶ複雑な電気配線が間に合わなかったことが原因で、量産に入るのは当初の計画よりも1年半遅れ、2007年10月15日、ローンチカスタマーであるシンガポール航空にA380の1号機が引き渡された。シンガポール航空はA380を導入すると、シドニーをはじめロンドンや東京、北米など世界各地へ就航させていった。2020年現在で、シンガポール航空を含め、エミレーツ航空など15の航空会社がA380を保有している。特にエミレーツ航空は、他社とは桁違いに多いA380を導入し、その運航機数は優に100機を超えたことから、他機種に比べセールスの向上しなかったA380の唯一の救いとなった。",
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"text": "A380は2020年9月現在で合計251機が生産されており、全てA380-800型である。エアバスは他にも、胴体を延長させた-900型や、貨物型などの派生型を複数計画したが、それらはいずれも計画段階で終わり、開発に至ることは無かった。",
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"text": "2018年以降、導入を計画していた各航空会社の計画の見直しが相次ぎ、2019年2月14日、エアバスのトム・エンダース最高経営責任者はA380の生産を中止し、2021年以降は納入しないことを発表した。",
"title": "概要"
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"text": "2021年12月16日、エミレーツ航空向けの最終号機(MSN:272,登録記号:A6-EVS)の引き渡しをもって受注分が全て完納となり、14年間の生産に終止符が打たれた。なお、同型機の生産終了をもって、エアバス社の民間航空機部門において生産されている航空機から四発エンジン機が消えることとなった。",
"title": "概要"
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"text": "2020年9月現在までに、A380に関して7件の機体損失事故あるいは事件が発生しているものの、死亡事故、または機体の全損事故は起きていない。",
"title": "概要"
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"text": "1980年代末になると、ボーイング747初期型の後継機が求められるようになった。エアバスはボーイング747に対抗できる輸送力を持つ機体として、1989年からUHCA(ウルトラ・ハイ・キャパシティ・エアクラフト)構想の実現に向けての作業を開始した。ボーイング社はこれに過敏に反応し、1991年に747改良型など3種の計画を発表し、UHCA阻止の動きに出た(詳しくはこちらを参照)。この動きに対し、エアバスを構成する(当時)アエロスパシアル、DASA、BAe、CASAの4社はボーイング社と共同で、1993年1月にUHCAとは別にVLCT(ベリー・ラージ・コマーシャル・トランスポート)と呼ぶ大型輸送機構想を発表した。当初、ボーイングとエアバスによる市場調査では、2種類の機種があっても揃って成功する規模の市場は無いと判断されていた。しかし、ライバル同士の意見がかみ合わず、エアバスは1994年6月、UHCAをA3XX(530席 - 570席の100型と630席 - 680席の200型の構想)として計画に着手したことを発表し、VLCTは中止された。",
"title": "開発経緯"
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"text": "ボーイング社はこれに対抗し、同年に747-500Xと747-600Xを発表、対決する構えを見せた(747X計画)。747X計画はさまざまに変遷する流動的なものであったが、その間にもボーイング社はエアバス社に対する露骨なネガティブキャンペーンを繰り広げ、A3XXのイメージダウンを図った(ソニック・クルーザーを参照)が、エアバスは計画を進めた。",
"title": "開発経緯"
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "2000年12月19日、エアバスは62機の受注を獲得したことから、A3XXをA380として開発に入ったことを発表した。ボーイング社は翌年に747X計画を延期し、ソニック・クルーザー計画を発表したものの、2003年には計画を凍結し、その開発能力を中型機ボーイング787へと注力していった。しかし、その後ボーイング社は、A380と777-300ERやA340-600の間を埋めるという理由で、747-400ER、747-8型(計画名 747Advanced)などの大型機の開発を開始した。",
"title": "開発経緯"
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"tag": "p",
"text": "A380の1号機は2005年1月18日にトゥールーズの本社工場で完成披露の式典が行われた。",
"title": "開発経緯"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "6月1日にエアバス社は、「納入を2か月から6か月遅らせる」と発表した。問題は主翼の強度不足と機内配線による重量オーバーだった。前者は直ちに改善されたが、後者の解決は困難であった。A380の最大定員853席すべてに個別に引かれた電線は延べ約563kmにおよび、接続や収納に予想以上の時間を要していることと、サービスの一環として座席に配したオーディオ機器の配線によって重量が予想以上に増え、対応に時間がかかった。",
"title": "開発経緯"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "18日の時点でアメリカン・インターナショナル・グループ (AIG) のリース部門・インターナショナル・リース・ファイナンス (International Lease Finance Corporation, ILFC) を含む16の航空会社がA380型機を発注しており、その数は27機の貨物機を含め159機にのぼった。エアバス社CEOのノエル・フォルジャールは「この航空機を500機販売する」という期待を表明している。",
"title": "開発経緯"
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"text": "予定ではローンチカスタマーのシンガポール航空は2006年の第4四半期 - 同年末に最初のA380型機を受け取り、カンタス航空は2007年4月、エミレーツ航空は2008年より前にA380型機の引渡しを受けることになっていた。A380型機の最初の路線就航は2006年末のロンドン発シンガポール経由シドニー行シンガポール航空便、続いて同じくシンガポール航空によるシンガポール発香港経由サンフランシスコ行、シンガポールから成田経由ロサンゼルス行、パリ、フランクフルトへの直行便が就航する予定であった。また、カンタス航空はA380型機をロサンゼルス - シドニー便に投入すると公表した。また、この頃にはエアバス社は月に4機のペースで引き渡しを行うと表明していた。",
"title": "開発経緯"
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"text": "しかし、2006年6月13日、エアバス社は引渡しが再び6 - 7か月遅れることを発表した。理由は生産上の遅れとしているが、顧客ごとに異なる内装仕様に対応するため、機内の配線設置に手間取っていることが原因とされている。社内で使用しているCADソフトCATIAが、ドイツとスペインではバージョン4を使っていたのに対し、イギリスとフランスではバージョン5に変更していたことでデータの共有に問題が起き、ケーブルの長さが設計変更に対応していなかったという。なお、引渡し機数に関しても計画の年25機(2009年から年45機)から2007年は9機、2008年以降も予定より5 - 9機縮小するとした。これにより、さらに大幅な受領の遅れが生じるため、航空会社の心証が悪化した。エアバス社は、影響を受ける航空会社各社に対し大規模な補償交渉を行なったほか、安価なリースパッケージを提供することで旅客機型のキャンセルを回避しようとした。また、引き渡し延期をめぐっては、エアバス親会社のEADS株の急落に加え、EADS・エアバス両社幹部がこの発表前に大量の株を売却したインサイダー問題が発覚しており、EADS社元CEOノエル・フォルジャールが逮捕、その他10人がフランス当局によって告発されている。",
"title": "開発経緯"
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"text": "さらに、2006年9月21日には、EADSが3度目となる納入スケジュールの遅れを発表。続く10月3日には最大の発注元であるエミレーツ航空が、「エアバスからA380計画がさらに10か月遅れ、機体引き渡しは2008年8月になるとの連絡を受けた」という声明を出している。エミレーツ航空は同声明の中で「当社にとって極めて深刻な問題で(契約に関する)すべての選択肢を見直している」としていたが、その後2007年5月14日に4機の追加発注を受けたことで契約のキャンセルは回避された。その後、2007年6月22日に行われたパリ航空ショーにおいて、8機が追加発注され、さらに2013年11月のドバイのエアーショーにて50機の追加発注が決定し合計140機となり、同機における最大のカスタマーとなっている。",
"title": "開発経緯"
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"text": "2006年11月7日、貨物型の導入を予定していたフェデックスが、発注をキャンセルしたことを明らかにした。次いで2007年3月2日に、貨物型の導入を予定していたユナイテッド・パーセル・サービス (UPS) は、エアバスが再建計画の一環として旅客機の生産を優先すると発表したことで、引き渡しがさらに遅れることを懸念し、発注をキャンセルした(UPSは、のちにB747-8Fを新規発注)。さらには旅客・貨物の両型式を発注していたILFCも貨物型だけ注文をキャンセルし、旅客型のみの納入を受けることを明らかにしている。",
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"text": "エアバス社はこの時点でオプションを含め80機あった貨物型の受注を全て失い、貨物型の開発を一時中断した。旅客型の受注件数は基本設計から半世紀が経過し、大型化に限界があるボーイング747の発展形であるボーイング747-8の受注件数を上回っているが、貨物型はボーイング747-8に大きく遅れをとることとなった。",
"title": "開発経緯"
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"text": "2005年4月27日にフランスのトゥールーズで初飛行した。",
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"text": "2006年11月からA380 MSN002(ロールス・ロイス トレント 900型を装備、製造番号2:F-WXXL)を用い、世界の空港の滑走路、誘導路、PBB(パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ)が適合するかどうかのテストと、PRの一環として世界周遊飛行を行った。行程はトゥールーズから出発し、4回に分けて10都市を回るもので、1回目の飛行では、シンガポール(11月14日)、大韓民国・ソウル(11月15日)に寄港。2回目に香港(11月18日)と成田(11月19日 - 11月20日)、3回目は中華人民共和国を中心として、広州(11月22日)、北京、および上海(11月23日)に飛行。4回目では、南アフリカ・ヨハネスブルグ(11月26日)に立ち寄り、南極点上空を通過して、オーストラリア・シドニー(11月28日)に寄港。太平洋を横断してカナダ・バンクーバー(11月29日)に飛行したあと、北極点上空を通過しトゥールーズに戻った。",
"title": "開発経緯"
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"text": "この飛行の成功により、12月12日に欧州航空安全庁 (EASA) および米国連邦航空局 (FAA) の型式証明を同時に取得した。この際、FAAがアメリカ機に義務付けている燃料タンク爆発防止装置の装備がなされていないことを指摘した。欧州機では装備義務はなく、エアバスもアメリカ機(ボーイング機)との構造の違いを主張し、装備の必要はないとしている。ただし、アメリカの航空会社に採用される場合はFAA基準が適用される可能性がある。",
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"text": "同機は「ワールド・ツアー2007」の一環としてA380 MSN007(製造者連番7:F-WWJB)で2007年6月4日に成田空港に再度飛来し、6月6日にシドニーに向かった。",
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"text": "また、A380 MSN009(製造者連番9:F-WWEA)を用いて、エンジン・アライアンス社製GP7000エンジンを搭載したA380の型式証明取得のため、テスト飛行を行った。2007年9月26日から、コロンビアのボゴタを振り出しに、北米・南米・中近東へ断続的にテストフライトを行い、10月18日に関西空港に寄港、その後トゥールーズに戻った。このエンジンを搭載したA380-861型は2007年12月に型式証明を取得した。",
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2007年10月15日、初飛行以来30か月間のテストを経て、最初の納入先、シンガポール航空に機体が引き渡された。同年10月16日にパイロットや技術者などのシンガポール航空関係者が乗り込みエアバス本社(トゥールーズ)からシンガポールに向けて飛び立った。そして同年10月25日よりSQ380便としてシンガポール - シドニー間に就航した。この初号便の座席はeBayによるインターネットオークションで販売され、売り上げは慈善団体に寄付される。また「現在運航している世界最大の旅客機」がボーイング747からA380に代わった。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "結果として、最初の納入は当初予定から1年半遅れた。2007年11月末での受注数は193機であるが、一説によれば遅れに伴う補償費用や生産設備の稼働率低下、人海戦術に伴う人件費増大等によってエアバスは60億ユーロ(約1兆円)のプロジェクト経費増大を来たしており、さらに米ドルに対するユーロ高傾向もあってA380の採算ラインは、当初の270機から、420機程度にまで悪化していると言われる。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2007年11月12日、エアバス社はサウジアラビア王子のアル・ワリードがA380をプライベート機として購入するため売買契約を結んだと発表した。2つのダイニングやゲームルーム、主寝室などを備え、機体に3億ドル、改装費に1億ドル。ミサイル防衛システムも含まれている。エアバス社では\"The Flying Palace\"(空飛ぶ宮殿)と呼んでいる。この機体は元々エティハド航空に納入予定であった飛行試験2号機であった。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "シンガポール航空による定期就航が始まったことにより、A380 の順調なスタートにこぎ着けたと思われたが、エアバスは2008年5月13日、量産計画を再調整し、ウェーブ1(量産化前段階)からウェーブ2(量産移行後)においての引き渡し計画を修正する発表を行った。その結果、2006年に計画された急激な量産化は達成不可能となったことが確認されウェーブ2への移行に若干の遅れが生じた。これは、ウェーブ1における作業が予想以上に時間を要したことが原因としている。",
"title": "引き渡し、就航"
},
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "今後の展望として、同日、エアバス社は次の通り発表した。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "これ以降の引き渡し機数については、今後顧客との話し合いによって決まるとしている。その後2008年9月のカンタス航空向け初号機、製造通算14号機の引き渡しに先立ち、エアバス社は2008年と2009年の引き渡し数は12機と21機を堅持、2010年については30機から40機の間になると公表した。2008年12月30日に2008年の12機目となるエミレーツ航空向け4号機が引き渡された。なお、2008年後半に顕在化した世界金融危機のため、エアライン各社は引き渡しペースの鈍化をエアバス社に要望し、それに応える形で2009年5月には2009年中の引き渡し数を14機に削減するむね再度発表されている。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2008年7月28日、エアバス社のハンブルク施設に新設されたユルゲン・トーマス・デリバリーセンターでエミレーツ航空に対してA380-861が引き渡された。A380の航空会社への引渡しはこれが6機目で、これまでの5機はいずれもシンガポール航空に引き渡されていたことから、エミレーツ航空はA380を受領した二番目の航空会社である。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "今回の引渡し機は同年8月1日にドバイ - ニューヨーク(ジョン・F・ケネディ)線で初就航した。そのほかに長距離路線の就航先として、ロンドン、シドニー、オークランドがあるが、今後の機数増加によって就航都市は増える予定である。2009年3月、エミレーツ航空は、採算悪化を受けドバイ - ニューヨーク(ジョン・F・ケネディ)線からA380撤退を決定、ボーイング777-300ERに変更した。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "同機は商業運航の合間にクルーと整備員の訓練研修を兼ねて飛行していたが、同年9月に入り原因不明の電子機器トラブルが発生し飛行作業を中断した。商業運航が再開されたのは同年9月12日であった。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2008年9月19日、豪カンタス航空に同社向けA380-842(製造通算14号機)が引き渡され、同年9月21日にシドニーに到着した。同航空では約一か月間慣熟訓練を行ない、同年10月20日にメルボルン - ロサンゼルス線で商業運航を開始した。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2013年3月14日、通算100号機のA380がマレーシア航空へ引き渡された。マレーシア航空にとっては6機目の機体。しかしながら2015年5月、同社は業績不振の影響もあって近い将来にA380の放出を示唆した。2016年2月、同社CEOは、売却を延期し、少なくとも2018年まで同型機保有総数は現在の6機のまま据え置く、と述べた。同年11月30日、A380型機を新たな航空会社に移管し、イスラム教のメッカ巡礼のためのフライト計画を発表した。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2017年11月3日、エミレーツ航空に同社100機目のA380(機体番号:A6-EUV)が引き渡された。2018年に(UAE)の初代ザイード大統領の生誕100年を迎えることから、「100th A380」のロゴに加え、同氏を描いた特別塗装機となっている。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "主な就航路線(2023年11月現在)(注)都市名が同じ場合、空港は同じとする。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本路線は、2008年5月20日にシンガポール航空がシンガポール - 東京/成田線で運航開始したのが最初である。だが、悪天候により中部国際空港へ回避着陸(ダイバート)し、その後4時間ほど遅れて成田に到着した。なお当日は成田空港開港30周年の日であった。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "その後、2010年6月12日到着便よりルフトハンザドイツ航空がフランクフルト - 東京/成田線(2014年3月の羽田線復帰以降、成田に乗り入れておらず、2018年1月現在では事実上撤退となっている)で、2011年6月17日より大韓航空がソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:KE701・復路:702便)でそれぞれ運航開始。同年7月1日よりシンガポール航空がシンガポール - 東京/成田 - ロサンゼルス線でボーイング777-300ERに代わり運航開始、以遠権のフライトで初めて就航した。2012年7月1日よりエミレーツ航空がドバイ - 東京/成田線に就航し、成田空港の第2ターミナルビルに初めてA380が発着(ゲートは66番)したが、翌2013年5月31日をもってA380での就航を終了した 。 そして2016年(?) 再び就航した。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一方で、2010年9月2日到着便よりエールフランスがパリ - 東京/成田線で運航開始したものの、2014年5月11日をもってボーイング777-300ERに機材変更された。大韓航空もデイリー運航から曜日限定運航に切り替え、2012年4月以降は全便他機材に切り替えたが、2012年10月28日から2013年3月30日まではA380での運航が復活している(往路:KE705・復路:706便。ただし、他の機材により運航される場合がある)。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "シンガポール航空では2012年8月10日 - 8月15日に、大阪就航40周年を記念してシンガポール - 大阪/関西(往路:SQ618・復路:SQ619便)線で運航し、関西国際空港に定期旅客便として初めてA380が就航した。なお、当路線では2013年・2014年にも8月中旬に運航している。また、2014年8月9日・8月13日には名古屋就航25周年を記念してシンガポール - 名古屋/中部(往路:SQ672・復路:SQ671便)線でも運航し、中部国際空港にも定期旅客便として初めてA380が就航した。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "タイ国際航空が、2013年1月1日からバンコク - 東京/成田線で運航開始(往路:TG676・復路:TG677便)。さらに同年12月1日からは、東京/成田線で午前出発便もA380に変更(往路:TG641便・復路:TG640便)、またバンコク - 大阪/関西線(往路:TG622・復路:TG623便)でも運航開始。2015年5月からB747-400に機材変更し運航していたが、2016年5月16日から10月29日までの間、再投入され、2017年1月前後にB747-400となったが、2017年9月現在、成田発夕刻便とその復路便、関空発夕刻便とその復路便をA380で運航している。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アシアナ航空が、2014年6月13日からソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:OZ102・復路:OZ101便)、同年7月29日からソウル/仁川 - 大阪/関西線(往路:OZ112・復路:OZ111便)で、同年8月19日まで一時的に投入された。そして、2016年10月30日から11月9日の間、ソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:OZ102・復路:OZ101便)で期間限定投入され、2年ぶりに日本に同社のA380が飛来した。2017年10月29日から2018年3月24日まで、再度ソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:OZ102・復路:OZ101便)にA380を投入している。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "シンガポール航空の路線計画変遷に伴い、2016年10月22日をもってロサンゼルス-東京/成田線-シンガポール線(SQ11/12)におけるA380の運航が終了となった。同路線は翌日よりB777-300ERとなったが、東京/成田線-シンガポール線(SQ637/638)がA380になるとの発表もない。また同社は羽田線も有していることから、A380は東京/成田線から事実上の撤退となった可能性が高い。この後、大阪/関西線については同年12月4日から2017年始にかけて期間限定で運用されている。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "マレーシア航空が、ロンドン線のみで使用しているA380を2017年8-9月の期間限定で成田路線に導入し、東京/成田線-クアラルンプール線(MH89/88)に運用した。また、2015年12月14日、同月20日に決勝戦が開かれる「FIFAクラブワールドカップ2015」に出場するFCバルセロナ(欧州代表)の選手とサポーターを乗せたバルセロナ-東京/成田直行チャーター便は、同クラブ首脳がVIP席の多さにこだわった結果A380となり、マレーシア航空所有6機目、A380累計100機目のロゴ入り機であった。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "以上のように、本機体の初就航当時は日本への乗り入れに積極的なエアラインが多数あったものの、2017年3月現在は撤退あるいはデイリーから季節限定あるいは期間限定に切り替えとするエアラインが増えつつある。しかし、エミレーツ航空が2017年3月26日からドバイ - 東京/成田線にA380を再就航させ、日本に定期的に乗り入れる外資系のA380はタイ国際航空と合わせて2社となった。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2022年10月、F1日本グランプリに伴い大韓航空がチャーターされシンガポール/チャンギ-名古屋/中部(KE9642)で初上陸した。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "日本はA380と同じく大型旅客機と呼ばれているボーイング747を世界で最も多く導入していたことから、日本航空や、全日本空輸がA380を導入する可能性があると言われていた。2010年10月、羽田にデモフライトした際、エアバス側の意向で新千歳空港での適合テストも行なわれた。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "スカイマークは国際線参入の一環として2010年11月8日に同機購入に基本合意し、2011年2月17日に6機(うち2機はオプション)の購入契約を正式に締結した。この正式契約成立により、日本の航空会社として初めてエアバスA380が導入され、同時に日本籍で初めてエアバス社製・四発ワイドボディ機が登録されることになり、契約通りに進めば2014年に2機導入の予定であり、ロンドンやフランクフルト、ニューヨークへ就航させるほか、2018年以降にも9機追加導入する計画を明らかにしていた。スカイマークカラーに塗られた機体の試験飛行も行われていたが、スカイマーク側が経営悪化を理由に契約変更を申し出たところエアバス側が拒否し購入契約が決裂。購入キャンセルについて交渉中であることが明らかにされた。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2014年7月28日、2014年前期に円安に伴う燃料費高騰や格安航空会社 (LCC) の台頭などによって経営が赤字転落した状況から、スカイマーク側がエアバスに「2機の導入延期、および4機の契約解除」とする案を打診した。するとエアバス側はスカイマークに「大手航空会社の傘下」に入ることを要求し、さらにこれを拒否して契約をキャンセルした場合は「違約金」を請求することになる、とブルームバーグが報道した。これを受けてスカイマークは「当社の経営の主体性を揺るがすような主張は受け入れられない」とする声明を発表したが、この声明を受けたエアバス側は「スカイマークとの協議および同社の機体に対する姿勢を受け」て契約協議の終了を通知し、さらに「すべての権利及び権利侵害における救済措置を保持している」として、最大700億円規模の違約金を請求される事態となった。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ところが、スカイマークに販売予定だった機体を別の航空会社に売る目処がついたこともあって2014年10月に最低200億円まで減額に合意する方針と朝日新聞が報道。その後、スカイマーク側の経営不振による資金不足もあり、2014年12月の時点でスカイマークとの契約が解除された機体がまだ他社に納入されていないことが会員制写真投稿サイトのAirliners.netで確認されている。また違約金交渉が最終合意された事実はないが、12月19日になってエアバス側が英国商事裁判所に対して訴訟準備を開始したことが報道され、スカイマーク広報もこれを追認した。スカイマーク向けに製造された2機は、2016年にエミレーツ航空へ売却された。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "全日本空輸は、当初A380導入の是非について、2008年内に結論を出す予定であったが、2008年12月に世界経済の悪化を受け、「ボーイング747-8とともに大型機の導入計画を一時凍結する」と発表した。理由は世界の金融不況に伴うもので、「新大型機検討委員会は廃止されずに時期を見て再開させる」とされていた。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しばらく話の進展がなかったが2014年3月27日、同社は5機種の機材発注を同時決定した。そのうち、大型機として既存のボーイング777-300ERに加え、ボーイング777-9が新たに加わった。2014年3月31日をもって同社からボーイング747が全機退役したにもかかわらず導入話の進展がなかったことに加えて、「新大型機1種」は777-9として選定された。エアバスA380を全日空が導入する話は一旦ここで終了した。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2016年1月に、ANAの親会社ANAホールディングスが、A380型機を3機導入すると日本経済新聞より報道された。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "スカイマーク破綻による債権者集会でANAによる再建案に最大債権者であるエアバス、ロールスロイスが賛成するとの取引によりスカイマーク再建がANA支援決定後、この機体は当初予想されたスカイマーク向けではなく、全日空向けの新規発注機材であった。当時は2018年頃に納入される予定で全日本空輸のハワイ路線に投入され、成功すれば追加発注につながる可能性もあると報じられた。 2016年1月29日、ANAホールディングスはA380型機3機導入を正式発表した。その後特別塗装デザインと、愛称「FLYING HONU」を決定。2019年3月14日に1号機を受領、同年5月24日に成田-ホノルル線に同機が週3往復で就航を開始した。また、2019年度第1四半期には2号機を受領、同年6月18日に就航した。座席は、520席と現在日本最大の有償座席数が用意され、2階にファーストクラス8席、ビジネスクラス56席、プレミアム・エコノミー73席とエコノミークラス以外の全てのクラスが導入された。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "しかしCOVID-19の影響により全機運航停止となり、定期的に遊覧チャーター飛行などで運航している。さらに2019年10月に初飛行した最終号機である3号機は2020年10月にエアバス書類上は引き渡しが完了しているものの、同社の大幅赤字と多額の借入金のために、引き取りを延期し、仏トゥルーズで約1年整備保管されていたが、2021年10月に引き取り、同月16日に初飛行から2年、引き渡しから1年経過して来日となり。初飛行から4年近く経過した2023年10月20日に営業運航された。",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "引き渡し、就航"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "本来の命名規則によればA340、A350と続くはずであったが、この機種はいきなりA380になっている。理由は以下の通り。",
"title": "名前の由来"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "A380型機は、低翼で後退角を持った主翼、通常形式の尾翼、主翼パイロンに装着したエンジンなどの一般的なジェット旅客機と同じ特徴を持っている。ボーイング747の機体上部は2階建て部分のみ膨らんでいるが、A380は総2階建てであるため段差は無い。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "航空会社によるオプションとして垂直尾翼の前縁頂点部に機外カメラを取り付けることが可能で、機内のモニターには高さ24mからの映像が映し出される。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "エアバスでは航空機各部を各国の組み立て工場から、最終組み立て工場があるトゥールーズやハンブルクまでエアバス ベルーガにより自前で空輸しているが、A380の胴体セクションや主翼は巨大すぎて格納できないため、船舶と陸路による輸送を行っている。なおベルーガの後継機として貨物室の容積を拡大したエアバス ベルーガ XLにも搭載できない(最大でもA350まで)。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2階建ての客室の1階(主デッキ)は最大幅6.58mで、ボーイング747-400の主デッキ客室最大幅より45.7cm広い。また上部デッキの客室最大幅は5.92mでエアバス社の従来のワイドボディ機の客室最大幅5.62mよりわずかに広い。ボーイング747と違い2階席も通路が2つある。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "エアバスはその客室の広さを活かしラウンジ、滝、バー、免税品店やシャワールームなどを設けることも可能としており、実際にエミレーツ航空はファーストクラス利用者向けのシャワールームを設置した。しかし、飛行中は不測の乱気流で機体が大きく揺れることがあり、乗客が怪我や死亡する危険を最小限にするには、乗客が常に立ち歩く状態は好ましくない。作ったとしてもすぐに廃れる、という意見もあるが、エミレーツ航空はブルジュ・アル・アラブおよびパーム・ジュメイラの装飾を施したバーを導入している。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "なおボーイング747の開発時にも接客設備の採用が検討され、ラウンジはいくつかの航空会社において実現したものの、座席数を増やすためにその後廃止された。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "キャビンの総面積はB747-400の約1.5倍、座席数はファースト・ビジネス・エコノミーの3クラスからなる標準座席仕様で同じく約1.3倍である。エアバスでは「従来の大型機と比べて同じ座席仕様でありながら、1人当たりの占有面積が広くなる」を同機のセールスポイントとしている。エティハド航空では、これを活かし通路を1つとする代わりにベッドを座席ごとに設置することで、通常のファーストクラスよりさらに上位のクラス「ザ・レジデンス」(The Residence)を導入している。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "座席の機内が総2階建て構造であることから、客室の最前部(メインデッキのL1/R1ドア付近)と最後部にそれぞれ直線式と螺旋式の階段が設けられ、最前部の階段では大人2人が楽にすれ違える幅がとられている。なお、2017年に最前部階段の位置を従来のメインデッキのL1/R1ドア付近からL2/R2ドア付近への設計変更が可能になることが発表された。これにより、一例として4クラス497席の座席数から78席増の575席へと座席数を増やすことが可能となる。更に2018年4月には、新造機だけでなく既存機にも適用可能な「キャビン・フレックス」オプションが導入された。これは、2階のドア3を機能させないことで、プレミアムエコノミーで最大11席、ビジネスクラスで7席増やすことが可能になる。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "民間旅客部門では今までにない座席数である。例としてエール・オーストラルはモノクラス(エコノミークラスのみ)の仕様で計840座席とし、世界最多有償座席数として記録が更新される計画もあったが、発注はキャンセルされた。2クラス仕様では2015年11月4日にエミレーツ航空が中距離2クラス仕様・615席(ビジネス58席・エコノミー席557席)を受領した事で、2クラス仕様における世界最多有償座席数であったANAのボーイング747-400D(2014年3月31日をもって全機退役)の569席を上回り、記録を更新した。2016年7月現在、2クラスで世界最多の有償座席数そして世界初の600席台有償提供である。標準座席仕様では、2011年12月12日まで、エールフランスが538席として、有償提供をしていた。3クラス仕様における初の500席台であり、世界最多有償座席数の記録を更新している。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2000年代後半以降では、ワンランク上のエコノミークラス(プレミアムエコノミーなど)を導入して4クラス仕様とする航空会社があるが、エールフランスが2018年現在516席として、有償提供をしている。この仕様においても初の500席台であり、当時世界最多有償座席数の記録を更新していたが、2019年3月20日に全日本空輸の520席(ファースト8席・ビジネス56席・プレミアムエコノミー73席・エコノミー383席)に4クラス世界最多有償座席数の記録を抜かれた。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "操縦室と乗務員休憩区画などは2階建て客室部分の前にあり、メインデッキと呼ばれる1階とアッパーデッキと呼ばれる2階の間の1階より少し上がった中2階の高さに位置している。これは視界の確保と他のエアバス機との互換性のことも考えての設計である。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "操縦室は予備席も含めて5つの座席が備わる。2人乗務による操縦を行えるように、最前部左の機長席とその右の副操縦席の2座席を取り巻き操縦装置類が配置されている。操縦室後半には間隔を開けて2つまたは3つの座席が備わっている。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "本機はLCD(液晶ディスプレイ)グラスコックピットを備えている。ただし、エアバス社の従来のグラスコックピットと違う点は、一辺8インチの正方形のLCD6面から、縦8インチ横6インチの縦長のLCDが8面へと増えたことであるこれにより、コックピットに持ち込む書類数削減が可能となる。操舵形態は同社ではエアバスA320以来採用されているサイドスティック方式である。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2社が製造するエンジンから1種類を選ぶことができる。これらはいずれも主翼下面にパイロンを介して左右に2つずつ合計4基が取りつけられる高バイパス比ターボファンエンジンである。1つはロールス・ロイス・ホールディングス製トレント 900、もう1つはエンジン・アライアンス(GE・P&Wの合弁企業)製GP7270である。トレント 900はA380が初飛行した時のエンジンであり、最初は数多く販売されたが、その後GP7200の販売も伸びてきており、トレント 900の発注と肩を並べるまでになっている。エンジンのメーカー別にA380の型式がロールス・ロイス トレント900シリーズはA380-84X、エンジン・アライアンス GP7200シリーズはA380-86Xと表され区別できる。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "着陸滑走時には、ボーイング747などの4発機はエンジン4基全ての逆噴射装置を使用するが、A380では内側の第2と第3エンジンの2基分のみを使用する。操縦席のリバース操作レバーも、第2と第3エンジンの部分のみである。なお、計画当初A380はブレーキ性能が十分とのことで逆噴射装置を採用する予定はなかった。重量軽減と信頼性向上のため、逆噴射装置では民間機では初となる電気で作動するETRAS (Electrical Thrust Reverser Actuation System) を採用している。",
"title": "機体"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "低騒音で低二酸化炭素排出量を実現し、世界一運航規制の厳しいロンドン・ヒースロー空港でも24時間運用が可能である。このことから広告では「環境にやさしい飛行機」であることを売りにしている。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "巨体を支える降着装置のタイヤは、ノーズギア2本、ボディギア12本(6輪ボギー×2)、ウイングギア8本(4輪ボギー×2)の計22本である。なお、ボーイング747のタイヤはノーズギア2本、ボディギア8本、ウイングギア8本の計18本、ボーイング777ではノーズギア2本、ボディギア12本の計14本である。",
"title": "機体"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "航空交通管制では後方乱気流を考慮した飛行間隔を決定する際、最大離陸重量で区別しており、 通常300,000ポンド(136t)以上をヘビー(Heavy)として扱うが、A380の登場によりスーパー(Super)のカテゴリーを新設した。このため空中で着陸の順番待ちや離陸滑走において747などの従来の大型ジェット機以上に間隔が必要となり、空港の利用効率化にはネックとなる。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "国際民間航空機関(ICAO)では、A380型機などの新大型航空機に対応する新たな飛行場等級「コードF」を設定し、滑走路や誘導路など基本施設の整備について細かな基準を設けている。それまではボーイング747-400型機などの大型ジェット機を想定したコードEが最高ランクであった。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "旅客取扱施設においては、総2階建てという新型機の特性から、固定ゲートを利用して航空機に搭乗する際のPBB(パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ:搭乗橋)の運用が大きな課題となる。エアバス社によれば、現在世界の空港で広く採用されている、1機あたり2本のPBBで十分対応可能であるが、メインデッキ2本使用で140分、アッパーデッキ、メインデッキ各1本、計2本使用で90分のターンアラウンド(便間作業)タイムを設定している。アッパーデッキ1本、メインデッキ2本、計3本のPBBが使用出来れば、さらに乗降に必要な時間や機内清掃など作業時間なども短縮されるため、乗客の利便性がさらに向上するとしている。このほか、ゲートラウンジの拡張や、駐機中の航空機に電気や空調を供給する地上動力装置(GPU)の能力アップなどが必要となる。",
"title": "機体"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "日本の空港では、成田国際空港が2020年時点で第1ターミナルビルの15番・26番・45番・46番・54番、第2ターミナルビルの66番、96番が対応している。東京国際空港(羽田空港)は、第3ターミナルの107番スポットが該当する(ただし、混雑する昼間の定期乗り入れは後方乱気流の問題から、国土交通省は認可しない方針だが、成田空港閉鎖時の代替着陸による緊急運用を見込んでいる。詳細は羽田空港発着枠を参照)。関西国際空港は第1ターミナル国際線の11番、31番が該当する。首都圏以外でも、2014年11月時点で中部国際空港、新千歳空港が運用可能空港となっている。但しチャーター便での貨物未搭載、国内短距離飛行による燃料削減などの機体重量制限のうえ滑走路タキシーダウン運用し駐機場周辺支障の少ないオープンスポット限定という変則運用で那覇空港や下地島空港でも運航可能となっている。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "シドニー国際空港などではA380に対応するため、地盤を固めたり、ボーディングブリッジを減らしたりなどの処置を行った。そのためスポット運用がぎりぎりになり、他機がスポットが空くのを待つという光景も見受けられた。",
"title": "機体"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "また、ブラジルで2014 FIFAワールドカップが開催される際、エールフランスが大会期間中に需要の増加が予想されるサンパウロ国際空港へ同型機の就航を計画していたが、ブラジル政府航空当局が事前に同空港を調査したところ、前述の飛行場等級コードFの規定を一部満たせていない可能性があり、改修工事の目途も立たないことから、当局が大会期間中の同型機の同空港への就航は認可しない方針(大会後改修対応)を明らかにするなど、充分に対応しきれない空港もある。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "A380(その他総2階席を持つ旅客機)を発注する航空会社が増えれば、空港側の施設改修も期待できるが、航空会社側では空港が対応しない限り就航路線が増やせず、空港側も単なる見込みで費用をかけて改修するわけにはいかないため、本機への対応改修を実施するのは、国家を代表する国際空港や国際線のメインハブ空港に留まっている。A380の登場以降は燃費の良い双発中型機が主流となっており、ボーイングがA380と777-300ERのギャップを埋めるべく開発した747-8ですら、発注がないほど低迷していた中、2019年2月になってA380の生産中止を発表した。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "生産中止になったことから、今後A380の運用の増加が見込めず、運航効率の良い中小型機やA380のような3クラス500席級の4発エンジン大型機ではなく、B777やA350のような3クラス300~400席級の大型機がトレンドとなっている航空情勢下で、A380を凌駕する超大型旅客機が登場する可能性は極めて低いため、空港側が新たにA380のような超大型機に対応できるように改修する可能性も極めて低い。",
"title": "機体"
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"paragraph_id": 86,
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"text": "A380の生産には、日本企業の21社が参加している。",
"title": "機体"
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"paragraph_id": 87,
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"text": "2002年4月に床下・垂直尾翼の部材担当として東邦テナックス、ジャムコ、住友金属工業、東レの4社が参入、6月に三菱重工業(前・後部カーゴドア)、SUBARU(垂直尾翼前縁・翼端、フェアリング)、日本飛行機(水平尾翼端)、10月に新明和工業、横浜ゴム、日機装が、2003年2月に横河電機、カシオ計算機、牧野フライス製作所が、6月にブリヂストン、三菱レイヨンが参加を決定した。とくに日本の炭素繊維の技術に目が向けられフレームなどの主要な部分に多用されている。",
"title": "機体"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "A380は数タイプの派生型(貨物機型、長距離型など)の開発も構想していたが、2021年で生産中止となったため、実機として運用されたのは旅客仕様基本型のA380-800型の1タイプのみとなった。",
"title": "派生型"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "旅客仕様の基本型で、2007年10月25日にシンガポール航空が商業飛行を開始した。",
"title": "派生型"
},
{
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"text": "当面はこの型のみの販売・引渡しを行うことにしており、",
"title": "派生型"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "など、段階的な性能向上プログラムも検討されている。これらの改良を取り入れた第一段階の生産機は2012年頃から納入されると考えられている。この機体はエアバス社のエンジン換装型新型機プログラムと同様に、A380もA320neoやA321neoなどといった一連の「neoシリーズ」に加わる事となり、「A380neo」として改良が施された新型機となる。2016年にはUAEのエミレーツ航空が、改良機構想の「A380neo」に関する発表を行っており、同社はエンジン換装などが施されない場合でも、アビオニクスを中心とした改良機を追加発注する用意があるとしている。",
"title": "派生型"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "2015年6月に2機の発注を検討していることが報道されたユナイテッド航空も含めると、A380-800型機を導入した航空会社数は世界全体で14社となる。この発注が実現に至った場合、ユナイテッド航空がアメリカ合衆国の航空会社として初めてのA380-800型機発注となる。アジアではシンガポール共和国のフラッグキャリアであるシンガポール航空が、A380シリーズ全体でのローンチカスタマーとして初号機を受領し、シンガポール発欧米路線やオセアニア路線などで活躍している他、保有機材数としてもアジア地区最多の機数を有している。その他にタイ国際航空などが、繁盛期ごとの臨時定期便で日本の成田国際空港へ定期乗り入れを行っている。",
"title": "派生型"
},
{
"paragraph_id": 93,
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"text": "現状ではエミレーツ航空がA380-800型機の最大の顧客で、2016年3月には日本のスカイマーク向けに製造途中だった機材を引き受ける形で2機追加購入する契約を結んでいる。",
"title": "派生型"
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"text": "",
"title": "派生型"
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"paragraph_id": 95,
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"text": "基本型の-800型の発展型として開発調査に着手することが発表された初めての型。2017年6月18日(現地時間)にパリ航空ショー2017にて発表されたA380-800型機の効率向上モデル。同航空ショーでコンセプトモデル(既存のA380-800型機に後述の大型ウイングレットをモックアップで装着)が展示され、基本型に比べて効率性と経済性を向上させ、外観ではウィングレットをより大きくし、翼端を上下に分かれる形状に変更したものである(上方に3.5m、下方に1.2mと、上下で4.7mの高さを持つ)。他には翼および空力的観点での見直しも行われ、燃料消費率も最大4%の減少が達成される見込みである。また、機内では2階席への階段やクルーレスト、サイドウォールなどの見直しで、客室をより最適化して基本型よりも最大で80席を増加できるようにしたという(エアバス社では「Cabin enablers」と称している)。具体的には、A380-800型機の標準座席数は4クラス497席であるが「Cabin enablers」を導入すると575席に増加できる。また、最大離陸重量は578トンに増加し、航続距離は300nm(555.6キロ)延長される。最大78席を増席した場合、A380-800型機と同じ航続距離8200nmとなる。さらにエアバス社は、メンテナンス間隔を延長してメンテナンスコストを削減できるとしている。開発が正式決定すれば初のA380発展型となるが、同年11月に最大顧客のエミレーツ航空が提案を受け入れなかったことが明らかになっている。2019年2月14日に同社が生産終了を発表したことにより、開発に至ることなく計画で終わった。",
"title": "派生型"
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"text": "",
"title": "派生型"
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"text": "貨物機型も貨物航空会社へ提案されている。貨物機型については重量物が運べないのでそれほどメリットがないとされ、ボーイング社はA380Fより777Fや747-8Fのほうがロスが少ないと説明している。",
"title": "派生型"
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"tag": "p",
"text": "世界最大の旅客・貨物機だけに貨物容積は広いが、機体の大きさのわりに搭載量は少なく、ノーズ部が開かないため長い貨物が積めず、専用ローダーがないと2階へ搭載できないなど、高速貨物輸送用途でライバルとなる747貨物型に比べると不利な点が多い。747貨物型で出来たことが出来なくなるばかりか、747貨物型では必要なかった設備を新たに用意しなければならないため、経済性には大きく劣り、貨物機としては関心を集めていない。",
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"text": "実際、エミレーツ航空は旅客機としてはA380を発注しているが、貨物機は747-8Fを発注している。また、比較的軽い貨物を扱うFedExとUPS、ILFCはA380-800Fを発注したが、旅客型が何度も納入遅延を起こしたため、貨物型についても納入遅延の懸念から最初にFedExが発注をキャンセルし、続いて2007年3月にUPS(2016年に747-8Fを発注)、ILFCがキャンセルした。このためエアバス社は貨物型のすべての受注を失い、2017年6月現在、試験機を含めて実機は1機も存在せず貨物機の開発は中断している。発注する会社が出てくれば開発は再開される予定であったが、2019年2月14日に同社が生産終了を発表したことにより、開発に至ることなく計画で終わった。",
"title": "派生型"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2020年5月には新型コロナウイルス感染症の影響で旅客需要が減少し、貨物需要が増大する中、ルフトハンザドイツ航空の子会社で航空機の改造やメンテナンスを手掛けるルフトハンザ・テクニークにA380旅客型を貨物用に改修する依頼があったことが明らかにされた。顧客(航空会社)名は明らかにされなかったが、後にポルトガルのハイフライ航空の元シンガポール航空のリースされたA380型機(機体記号9H-MIP)がこの改造対象になっていたと複数のメディアが報じている。",
"title": "派生型"
},
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"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "既にCOVID-19の影響に対応するため、旅客機の座席に貨物を積載したり、座席そのものを撤去して貨物を積載したりといった事例は存在する。しかし、ルフトハンザ・テクニークによれば、この改修は単に座席の撤去に留まるものではないという。",
"title": "派生型"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "しかし、貨物ドアの設置などは行われないと報じられており、貨物の積載時には旅客用の狭いドアを使用する必要がある。また、2階部分の床板が貨物の重量を想定していないため、貨物機としては問題が多いとの指摘もある。",
"title": "派生型"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "2020年5月19日、ハイフライ・マルタのA380機体記号9H-MIPが5/14~18にかけてポルトガルのベージャ空軍基地から中国の天津、ドミニカのラス・アメリカス空港を経由し世界一周運用で運航された事が発表され、COVID-19対応で中国からドミニカへ約15tの医療用物資を輸送したとされ、後日このA380が一部座席撤去された機体であることが公表された。同年11月になりCOVID-19流行により旅客チャーター事業→貨物チャーター事業に機体仕様変更対応したが、それでも超大型機の需要減少により同年末のリース期限をもって返却すると発表されている。",
"title": "派生型"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "以下の派生型はいずれも発注している航空会社がない。2019年2月14日に同社が生産終了を発表したことにより、開発に至ることなく計画で終わった。",
"title": "派生型"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "前述したように、A380は大きすぎて採算に合う路線が限られていることに加え、双発機の大型化・性能向上などに伴う大型4発機の受注低迷も相まって、2014年・2015年と2年連続して航空会社からの新規受注を1件も獲得できず(受注を獲得できたのはリース会社からのみ)、今後もこの傾向が続くようであれば2018年にも生産を打ち切る可能性があると示唆していた。2016年7月12日には、2018年以降の生産ペースを年27機から12機へ大幅に引き下げると発表した。",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "しかし、2016年5月に世界最大のA380オペレーターであり、104機のA380-800型機を世界各地を結ぶ国際線の主要超大型機材として運航しているエミレーツ航空が、さらに追加発注を行う用意があると報じられた。 ロイター通信は、エミレーツ航空CEOの「発注は通算で『確定発注200機以上』になる」とのコメントを紹介しており、すでにエアバス社から計画全体で黒字達成が発表されているA380プロジェクトをさらに後押しすることになると共に、総二階建機の生産体制が2020年代まで継続することになった。",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "一方で、エンジンを一新した「A380neo」の開発も視野に入っており、近い将来、その可否が決定する見込みであった。上記のような、新世代型の開発の一環として2017年6月に「A380plus」の開発調査を発表。A380plusは燃費を最大4%削減できる新たな大型ウイングレットの搭載、主翼の改良による空力性能向上を実現しており、2017年4月に発表済みの客室改良を合わせて実施すると、既存のA380と比べ、座席当たりのコストを13%削減できると発表していた。A380plusは最大離陸重量を578トンに増加し、従来と同じ航続距離8,200海里で最大80名多く輸送、または航続距離を300海里延伸することができると発表していた。",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "また、2017年から比較的機材更新の早いシンガポール航空では一部機材で入れ替えを開始しており、発注残5機を新機内仕様で受領して運用中の5機をリース会社に返却し、残りの保有14機を新機内仕様に改修して、最終的に新機内仕様19機で運用する予定であった。リース会社は2018年までにシンガポール航空からの退役機の引受先を探していたが交渉は難航しており、少なくとも2機が今後部品取りのために解体される見込みである。",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "エミレーツ航空から追加受注の可能性があることから当面は生産継続の方針となったが、2019年に入り雲行きが怪しくなり始めた。エミレーツ航空が直近で発注した20機の一部あるいは全てについて、ダウンサイズのA350ファミリーやA330neo等への切り替えを検討していると報じられたためである。",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "2019年2月には、オーストラリアのカンタス航空が受領待ちとなっていた8機をキャンセルした。2019年2月14日には、頼みの綱であったエミレーツ航空が発注残のうち39機をキャンセルし、A330-900 40機、A350-900 30機を代替発注することを発表、遂にエアバスはA380の生産を2021年で打ち切ると発表した。これにより、A380は旅客基本型の800型の1タイプのみで生産終了することとなり、エアバスが将来に構想していたA380plusやA380-800Fを始めとした派生型は開発されることなく計画のまま終わった。",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "総純受注数は、2019年3月時点で251機(民間航空会社からの受注分:251機,その他の会社からの受注分:なし)であった。エアバス社は、B747(主にボーイング747-400)型機に代わる世界のエアラインのフラッグシップとなることで700-750機の受注を目論んでいたが、受注数は目論見からは大きく下回ることとなる。また北米と南米そしてアフリカ大陸の航空会社からの受注は、皆無になる。ただ世界の航空情勢を見ても、双発機へのシフトそしてダウンサイジングという意向を示しており、一部のエアライン(例:エールフランスは2022年までに全機退役を表明)では放出計画が出ていた。さらに2020年に入り、新型コロナウイルスの影響により、エールフランスが当初の退役予定の2022年から退役の前倒しを表明、そしてエミレーツ航空も一部のA380の退役を検討し、さらには未受領分のA380もキャンセルの方向でエアバス社との交渉を始めた。",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "このように2020年に入ると、2月に起き始めた新型コロナウイルスの世界的な感染も相まって、世界のエアラインがこぞって運航停止を強いられた。その関係でA380最大オペレータであるエミレーツ航空のような最大手航空会社でさえも放出の計画が始まっており、他の世界のA380オペレータも退役の計画(例:ルフトハンザドイツ航空、カタール航空等)を示しており、各航空会社では段々と双発化そしてダウンサイジング(主にB777-300ER/-8X/9X,A350-900/-1000)の風潮が強まっている。その中で欧米No.1規模を誇るエールフランスが当初の予定(2022年)から前倒しして6月26日をもって全機退役、そして奇しくも時期同じくしてエミレーツ航空向けの最終号機となる機首と前部胴体がトゥールーズへ運ばれた。",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "2020年9月、最終機の組み立てが完了し、これを以て機体製造は完了となった。2021年度10月16日、書類の上では引き渡したものの受領を保留(エアバス社の工場にて保管)にしていたANA向けの3号機(登録記号:JA383A)が受理され、デリバリーフライトが行われ、日本に到着した。この引き渡しを以て、エミレーツ航空を除くエアライン向けへの納入は完了となった。同年12月16日、エミレーツ航空向けの最終号機(製造番号:272,登録記号:A6-EVS)が引き渡された。この引き渡しを以て完納となり、14年間の生産に終止符が打たれることとなった。これにより、エアバス社で生産されている民間航空機から四発エンジン機が姿を消すこととなった。また、ライバル機種としていたB747(-100型)に比べて30年以上も後に開発された型式であるものの、B747(-8型)に比べて先に生産終了と言う形になった。",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "生産終了"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "諸元",
"title": "仕様(A380-800型機)"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "性能",
"title": "仕様(A380-800型機)"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "仕様(A380-800型機)"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "下記すべてA380-800(生産は旅客型のみ、2023年現在)",
"title": "運用状況"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "A380-800F(貨物機型)も含む(2019年現在)",
"title": "運用状況"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "2021年現在、機体損失事故および死者・負傷者を伴う事故は発生していない。",
"title": "事故・故障・事件"
}
] |
エアバスA380は、ヨーロッパのエアバス社によって開発・製造された、ターボファンエンジンを4発装備した超大型ワイドボディ機。世界初の総2階建旅客機でもあり、旅客機としては(旅客数)世界最大の機種である。航空機全体の中ではAn-225 ムリーヤに次いで世界第2位の大きさであったが、An-225が2022年にロシア軍の攻撃によって失われて以降は、稼働している最大の航空機となった。A380は完成披露の時点で、「ジャンボジェット」と呼ばれた大型機のボーイング747を抜いて、乗客数の面では世界最大かつ史上最大の超大型機となった。
|
{{Infobox 航空機
| 名称= エアバス A380<br>Airbus A380
| 画像= File:A6-EDY A380 Emirates 31 jan 2013 jfk (8442269364) (cropped).jpg
| キャプション= [[エミレーツ航空]]のA380-800
| 用途= [[旅客機]]
| 分類= [[ワイドボディ機]]
| 設計者=
| 製造者= {{flagicon|EUR}} [[エアバス]]
| 運用者=<br/>
** [[エミレーツ航空]]
** [[シンガポール航空]]
** [[ルフトハンザドイツ航空]]
** [[ブリティッシュ・エアウェイズ]]
** [[全日本空輸]]
** など
| 初飛行年月日=2005年4月27日
| 総生産数= 251機
| 生産開始年月日= 2002年1月24日
| 生産終了年月日= 2021年12月16日
| 運用開始年月日= 2007年10月25日
| 退役年月日=
| 運用状況= 運用中
| ユニットコスト=4億4560万<!--4億1440万--> USドル
}}
'''エアバスA380'''({{lang|en|'''Airbus A380'''}})は、[[ヨーロッパ]]の[[エアバス]]社によって開発・製造された、[[ターボファンエンジン]]を[[クワッドジェット|4発]]装備した超大型[[ワイドボディ機]]。世界初の総2階建[[旅客機]]でもあり<ref group="注">[[エアバス]]社は、同じ2階席を持つボーイング747(前方の一部が2階建て)との差別化を図るために「総2階建て」という表現を使用している。英語では、ボーイング社は747を「Double Deck」、エアバス社はA380を「All Double Deck」と表現。</ref>、旅客機としては(旅客数)世界最大の機種である。航空機全体の中では[[An-225 (航空機)|An-225 ムリーヤ]]に次いで世界第2位の大きさであったが、An-225が2022年に[[ロシア連邦軍|ロシア軍]]の攻撃によって失われて以降は、稼働している最大の航空機となった。A380は完成披露の時点で、「ジャンボジェット」と呼ばれた大型機の[[ボーイング747]]を抜いて、乗客数の面では世界最大かつ史上最大の超大型機となった<ref group="注">A380(73.0 m)より「全長」の長い旅客機として[[ボーイング747-8]](76.3 m)、[[ボーイング777|ボーイング777-300]] (73.9 m)、[[エアバスA340|A340-600]](75.3 m)がある。</ref>。
== 概要 ==
生産が開始されたのは[[2002年]][[1月24日]]からであり、原型機が初飛行したのは[[2005年]][[4月27日]]{{Sfn|kb}}。また、型式証明の取得は2006年12月であった{{Sfn|kb}}。初期の構想から初飛行まで16年の歳月を要した。初飛行から10年後の2015年末時点で、[[エアバス]]は[[中東]]や[[東南アジア]]地域を中心に300機を超える受注を獲得した<!--この時点でA380プロジェクト全体としての損益分岐点に到達し、計画全体での黒字化に成功したと発表された{{要出典||date=2019年8月}}-->。
総二階建てかつ800席の超巨人機を目指し{{Sfn|kb}}、A380は1990年初頭に'''A3XX'''として開発が始まった。一度に大量の[[乗客]]を輸送することにより、[[空港]]の混雑を緩和し、航空輸送の経済性を高めると同時に航空会社の利益を上げやすくするというのが主な狙いであった{{Sfn|kb}}。エアバス社のほかにも[[ボーイング]]社や[[マクドネル・ダグラス]]社が次世代大型旅客機として [[ボーイングNLA#%E4%BB%96%E3%81%AE%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%A9%9F%E4%BD%93%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%83%E3%82%AF|ボーイング747-X]]と[[マクドネル・ダグラス MD-12]]を計画していたが、いずれも開発は凍結された。この後、ボーイング社は総2階建の[[ボーイングNLA|NLA]]の開発を試みるが、これも中止された。[[スホーイ]]による[[KR-860 (航空機)|KR-860]]の計画があった。かつて[[ロッキード・マーティン|ロッキード]]社も総2階建旅客機を計画したが、構想の段階で終わっている。
A380-800は全長が約73 mで、全幅は約80 m、最大離陸重量560 t、航続距離15,400 kmである{{Sfn|kb}}。また、巡航速度は1,050 km/h、最高速度1,185 km/h、航続距離15,200km。[[ジェットエンジン]]は、[[エンジン・アライアンス GP7000|エンジン・アライアンス GP7200]]もしくは[[ロールス・ロイス トレント|ロールス・ロイス トレント900]]を使用する。座席定員は、全席を[[エコノミークラス]]にした場合、最大で853人となる{{Sfn|kb}}。
機体が大きいため総延長500 kmに及ぶ複雑な電気配線が間に合わなかったことが原因で、量産に入るのは当初の計画よりも1年半遅れ、2007年10月15日、[[ローンチカスタマー]]である[[シンガポール航空]]にA380の1号機が引き渡された{{Sfn|kb}}。シンガポール航空はA380を導入すると、[[シドニー国際空港|シドニー]]をはじめ[[ロンドン・ヒースロー空港|ロンドン]]や[[成田国際空港|東京]]、[[北米]]など世界各地へ就航させていった。2020年現在で、シンガポール航空を含め、エミレーツ航空など15の航空会社がA380を保有している<ref group="注">15社のうち1社([[ハイフライ・マルタ]])はシンガポール航空からのリース。</ref>。特にエミレーツ航空は、他社とは桁違いに多いA380を導入し、その運航機数は優に100機を超えたことから、他機種に比べセールスの向上しなかったA380の唯一の救いとなった。
A380は2020年9月現在で合計251機が生産されており、全てA380-800型である。エアバスは他にも、胴体を延長させた-900型や、[[貨物機|貨物型]]などの派生型を複数計画したが、それらはいずれも計画段階で終わり、開発に至ることは無かった。
2018年以降、導入を計画していた各航空会社の計画の見直しが相次ぎ、2019年2月14日、エアバスのトム・エンダース最高経営責任者はA380の生産を中止し、2021年以降は納入しないことを発表した<ref>{{Cite web|title=Airbus and Emirates reach agreement on A380 fleet, sign new widebody orders|url=https://www.airbus.com/newsroom/press-releases/en/2019/02/airbus-and-emirates-reach-agreement-on-a380-fleet--sign-new-widebody-orders.html|website=Airbus|accessdate=2019-02-14|language=en|deadlinkdate=2023-11-23}}</ref>。
2021年12月16日、エミレーツ航空向けの最終号機(MSN:272,登録記号:A6-EVS)の引き渡しをもって受注分が全て完納となり、14年間の生産に終止符が打たれた。なお、同型機の生産終了をもって、エアバス社の民間航空機部門において生産されている航空機から四発エンジン機が消えることとなった。
2020年9月現在までに、A380に関して7件の機体損失事故あるいは事件が発生しているものの、死亡事故、または機体の全損事故は起きていない。
== 開発経緯 ==
=== 欧米の巨大機開発競争 ===
[[ファイル:Airbus-A380-Pushback-001.ogv|サムネイル|プッシュバックするA380]]
1980年代末になると、ボーイング747初期型の後継機が求められるようになった{{Sfnp|青木|2019|pp=62-65}}。エアバスはボーイング747に対抗できる輸送力を持つ機体として、[[1989年]]から'''UHCA'''(ウルトラ・ハイ・キャパシティ・エアクラフト)構想の実現に向けての作業を開始した。ボーイング社はこれに過敏に反応し、[[1991年]]に747改良型など3種の計画を発表し、UHCA阻止の動きに出た(詳しくは[[ボーイング747-8#ボーイングとエアバスのポスト747構想|こちら]]を参照){{Sfnp|杉浦|2008|p=21}}。この動きに対し、エアバスを構成する(当時)[[アエロスパシアル]]、[[DASA]]、[[BAe]]、[[コンストルクシオネス・アエロナウティカス S.A.|CASA]]の4社はボーイング社と共同で、[[1993年]]1月にUHCAとは別にVLCT(ベリー・ラージ・コマーシャル・トランスポート)と呼ぶ大型輸送機構想を発表した。当初、ボーイングとエアバスによる市場調査では、2種類の機種があっても揃って成功する規模の市場は無いと判断されていた{{Sfnp|青木|2019|pp=62-65}}。しかし、ライバル同士の意見がかみ合わず、エアバスは[[1994年]]6月、UHCAを'''A3XX'''(530席 - 570席の100型と630席 - 680席の200型の構想)として計画に着手したことを発表し、VLCTは中止された{{Sfnp|杉浦|2008|p=22}}。
ボーイング社はこれに対抗し、同年に747-500Xと747-600Xを発表、対決する構えを見せた{{Sfnp|杉浦|2008|p=24}}([[ボーイング747-8#747X計画|747X計画]])。747X計画はさまざまに変遷する流動的なものであったが、その間にもボーイング社は<!--「これからは大型機が大規模空港を結んで、そこから小型機で小規模空港へ行く、という時代ではなく、中型機が各空港を直接結ぶ」<ref>[[地球ドラマチック]] 2015年5月30日放送分</ref>という喧伝などの-テレビ番組視聴メモにつきコメント化-->エアバス社に対する露骨な[[ネガティブキャンペーン]]を繰り広げ、A3XXのイメージダウンを図った([[ソニック・クルーザー]]を参照)が、エアバスは計画を進めた。
[[2000年]][[12月19日]]、エアバスは62機の受注を獲得したことから、A3XXを'''A380'''として開発に入ったことを発表した{{Sfnp|杉浦|2008|p=27}}。ボーイング社は翌年に747X計画を延期し、[[ソニック・クルーザー]]計画を発表したものの、[[2003年]]には計画を凍結し、その開発能力を中型機[[ボーイング787]]へと注力していった{{Sfnp|杉浦|2008|pp=27-29}}。しかし、その後ボーイング社は、A380と[[ボーイング777 #777-300ER (77W)|777-300ER]]や[[エアバスA340|A340-600]]の間を埋めるという理由で、[[ボーイング747-400 #747-400ER型|747-400ER]]、[[ボーイング747-8|747-8]]型(計画名 747Advanced)などの大型機の開発を開始した。
=== スケジュールの遅延と受注 ===
[[ファイル:A380_Reveal_1.jpg|サムネイル|2005年1月18日、[[トゥールーズ]]で開催されたA380の完成披露式典]]
[[ファイル:Transport A380 en.svg|thumb|[[トゥールーズ]]におけるA380の最終組立までの地理的物流経路]]
[[ファイル:A380 transport Port de Bordeaux.jpg|thumb|荷船でトゥールーズへ輸送されるA380の胴体]]
A380の1号機は[[2005年]][[1月18日]]にトゥールーズの本社工場で完成披露の式典が行われた{{Sfnp|杉浦|2008|p=37}}。
6月1日にエアバス社は、「納入を2か月から6か月遅らせる」と発表した。問題は主翼の強度不足と機内配線による重量オーバーだった。前者は直ちに改善されたが、後者の解決は困難であった{{Sfnp|杉浦|2008|p=48}}。A380の最大定員853席すべてに個別に引かれた電線は延べ約563km{{Sfnp|杉浦|2008|p=49}}におよび、接続や収納に予想以上の時間を要していることと、サービスの一環として座席に配したオーディオ機器の配線によって重量が予想以上に増え、対応に時間がかかった。
18日の時点で[[アメリカン・インターナショナル・グループ]] (AIG) のリース部門・[[インターナショナル・リース・ファイナンス]] (International Lease Finance Corporation, ILFC) を含む16の[[航空会社]]がA380型機を発注しており、その数は27機の[[貨物機]]を含め159機{{Sfnp|杉浦|2008|p=47}}にのぼった。エアバス社[[CEO]]のノエル・フォルジャールは「この航空機を500機販売する」という期待を表明している。
予定では[[ローンチカスタマー]]の[[シンガポール航空]]は[[2006年]]の第4四半期 - 同年末に最初のA380型機を受け取り、[[カンタス航空]]は[[2007年]]4月、[[エミレーツ航空]]は[[2008年]]より前にA380型機の引渡しを受けることになっていた。A380型機の最初の路線就航は2006年末の[[ロンドン・ヒースロー空港|ロンドン]]発[[シンガポール・チャンギ国際空港|シンガポール]]経由[[シドニー国際空港|シドニー]]行シンガポール航空便、続いて同じくシンガポール航空によるシンガポール発[[香港国際空港|香港]]経由[[サンフランシスコ国際空港|サンフランシスコ]]行、シンガポールから[[成田国際空港|成田]]経由[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス]]行、[[シャルル・ド・ゴール国際空港|パリ]]、[[フランクフルト空港|フランクフルト]]への直行便が就航する予定であった。また、カンタス航空はA380型機をロサンゼルス - シドニー便に投入すると公表した。また、この頃にはエアバス社は月に4機のペースで引き渡しを行うと表明していた。
しかし、2006年[[6月13日]]、エアバス社は引渡しが再び6 - 7か月遅れることを発表した{{Sfnp|杉浦|2008|p=51}}。理由は生産上の遅れとしているが、顧客ごとに異なる内装仕様に対応するため、機内の配線設置に手間取っていることが原因とされている。社内で使用している[[CAD]]ソフト[[CATIA]]が、ドイツとスペインではバージョン4を使っていたのに対し、イギリスとフランスではバージョン5に変更していたことでデータの共有に問題が起き、ケーブルの長さが設計変更に対応していなかったという<ref>[http://worldcadaccess.typepad.com/blog/2006/09/a380_delayed_by.html A380 Delayed by CATIA 4/5 Mix - WorldCAD Access]</ref>。なお、引渡し機数に関しても計画の年25機([[2009年]]から年45機)から2007年は9機、2008年以降も予定より5 - 9機縮小するとした。これにより、さらに大幅な受領の遅れが生じるため、航空会社の心証が悪化した。エアバス社は、影響を受ける航空会社各社に対し大規模な補償交渉を行なったほか、安価なリースパッケージを提供することで旅客機型のキャンセルを回避しようとした。また、引き渡し延期をめぐっては、エアバス親会社の[[エアバス・グループ|EADS]]株の急落に加え、EADS・エアバス両社幹部がこの発表前に大量の株を売却した[[内部者取引|インサイダー]]問題が発覚しており、EADS社元CEOノエル・フォルジャールが逮捕、その他10人がフランス当局によって告発されている。
さらに、2006年[[9月21日]]には、EADSが3度目となる納入スケジュールの遅れを発表。続く[[10月3日]]には最大の発注元であるエミレーツ航空が、「エアバスからA380計画がさらに10か月遅れ、機体引き渡しは2008年8月になるとの連絡を受けた」という声明を出している。エミレーツ航空は同声明の中で「当社にとって極めて深刻な問題で(契約に関する)すべての選択肢を見直している」としていたが、その後2007年[[5月14日]]に4機の追加発注を受けたことで契約のキャンセルは回避された。その後、2007年[[6月22日]]に行われた[[パリ航空ショー]]において、8機が追加発注され、さらに2013年11月のドバイのエアーショーにて50機の追加発注が決定し合計140機となり、同機における最大のカスタマーとなっている。
2006年[[11月7日]]、貨物型の導入を予定していた[[フェデックス・エクスプレス|フェデックス]]が、発注をキャンセルしたことを明らかにした。次いで2007年[[3月2日]]に、貨物型の導入を予定していた[[ユナイテッド・パーセル・サービス]] (UPS) は、エアバスが再建計画の一環として旅客機の生産を優先すると発表したことで、引き渡しがさらに遅れることを懸念し、発注をキャンセルした(UPSは、のちにB747-8Fを新規発注)。さらには旅客・貨物の両型式を発注していたILFCも貨物型だけ注文をキャンセルし、旅客型のみの納入を受けることを明らかにしている。
エアバス社はこの時点でオプションを含め80機あった貨物型の受注を全て失い、貨物型の開発を一時中断した。旅客型の受注件数は基本設計から半世紀が経過し、大型化に限界があるボーイング747の発展形である[[ボーイング747-8]]の受注件数を上回っているが、貨物型はボーイング747-8に大きく遅れをとることとなった<ref group="注">またA380は機首部分下部に大型のノーズギアを格納する際に開くドアがある(上記エアバスカラーの画像参照、ちなみに747はノーズより若干後ろにノーズギア装置一式があり、コクピットは2階席部分しかも鼻先部分から離れて配置されている)ことから機首にノーズカーゴドア機構を採用できないことも、差が生じている原因である。</ref><ref group="注">機構の違いは、A380が「旅客機」として開発されたことによること、一方747は(元を正せば)「軍用輸送機」として開発されたことによる(結果として、民間旅客機に転用された)。使い勝手の面から見ても、2階を支える桁の関係上長さ以外の面を含めて最大積載サイズは747の方が大きい。</ref><ref>旅客機型式シリーズ3「ジャンボジェットBoeing747Classic」(イカロス出版)</ref><ref>旅客機型式シリーズ スペシャル「エアバスA380」イカロス出版。</ref>。
=== テスト飛行 ===
[[ファイル:1er vol de l' A380.jpg|thumb|初飛行後に着陸するA380の試作機]]
[[2005年]][[4月27日]]に[[フランス]]の[[トゥールーズ]]で初飛行した{{Sfnp|杉浦|2008|p=39}}。
[[2006年]]11月からA380 MSN002([[ロールス・ロイス]] [[ロールス・ロイス トレント|トレント 900型]]を装備、製造番号2:F-WXXL)を用い、世界の[[空港]]の[[滑走路]]、[[誘導路]]、PBB([[ボーディング・ブリッジ|パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ]])が適合するかどうかのテストと、PRの一環として世界周遊飛行を行った。行程はトゥールーズから出発し、4回に分けて10都市を回るもので、1回目の飛行では、[[シンガポール・チャンギ国際空港|シンガポール]]([[11月14日]])、[[仁川国際空港|大韓民国・ソウル]]([[11月15日]])に寄港。2回目に[[香港国際空港|香港]]([[11月18日]])と[[成田国際空港|成田]]([[11月19日]] - [[11月20日]])、3回目は[[中華人民共和国]]を中心として、[[広州白雲国際空港|広州]]([[11月22日]])、[[北京首都国際空港|北京]]、および[[上海浦東国際空港|上海]]([[11月23日]])に飛行。4回目では、[[ヨハネスブルグ国際空港|南アフリカ・ヨハネスブルグ]]([[11月26日]])に立ち寄り、[[南極点]]上空を通過して、[[シドニー国際空港|オーストラリア・シドニー]]([[11月28日]])に寄港。[[太平洋]]を横断して[[バンクーバー国際空港|カナダ・バンクーバー]](11月29日)に飛行したあと、[[北極点]]上空を通過しトゥールーズに戻った。
この飛行の成功により、[[12月12日]]に[[欧州航空安全庁]] (EASA) および[[連邦航空局|米国連邦航空局]] (FAA) の型式証明を同時に取得した{{Sfnp|杉浦|2008|p=135}}。この際、FAAがアメリカ機に義務付けている燃料タンク爆発防止装置の装備がなされていないことを指摘した。欧州機では装備義務はなく、エアバスもアメリカ機(ボーイング機)との構造の違いを主張し、装備の必要はないとしている。ただし、アメリカの航空会社に採用される場合はFAA基準が適用される可能性がある。
同機は「ワールド・ツアー2007」の一環としてA380 MSN007(製造者連番7:F-WWJB)で[[2007年]][[6月4日]]に成田空港に再度飛来し、[[6月6日]]にシドニーに向かった。
また、A380 MSN009(製造者連番9:F-WWEA)を用いて、[[エンジン・アライアンス]]社製[[エンジン・アライアンス GP7000|GP7000エンジン]]を搭載したA380の型式証明取得のため、テスト飛行を行った。2007年[[9月26日]]から、[[コロンビア]]の[[ボゴタ]]を振り出しに、北米・南米・中近東へ断続的にテストフライトを行い、[[10月18日]]に[[関西国際空港|関西空港]]に寄港、その後トゥールーズに戻った<ref>{{PDFlink|[http://www.kiac.co.jp/news/2007/626/A380HP.pdf 関西国際空港株式会社 - 広報], www.kiac.co.jp}}</ref>。このエンジンを搭載したA380-861型は2007年12月に型式証明を取得した。
== 引き渡し、就航 ==
[[ファイル:Singapore Airlines A380-800(9V-SKA).jpg|thumb|[[シンガポール航空]]のA380]]
[[ファイル:Drone footage of Airbus A380 Wings moved from the factory in Broughton Deeside, Wales to Mostyn.webm|thumb|ウェールズの工場からモスティンの港に輸送されるエアバスA380の翼を撮影したドローン映像。最終組み立てはフランスで行われる。(2020年3月)]]
2007年[[10月15日]]、初飛行以来30か月間のテストを経て、最初の納入先、シンガポール航空に機体が引き渡された{{Sfnp|杉浦|2008|p=191}}。同年[[10月16日]]にパイロットや技術者などのシンガポール航空関係者が乗り込み[[エアバス]]本社([[トゥールーズ]])からシンガポールに向けて飛び立った。そして同年[[10月25日]]よりSQ380便としてシンガポール - シドニー間に就航した。この初号便の座席は[[eBay]]による[[インターネットオークション]]で販売され、売り上げは慈善団体に寄付される。また「現在運航している世界最大の旅客機」がボーイング747からA380に代わった。
結果として、最初の納入は当初予定から1年半遅れた。2007年11月末での受注数は193機であるが、一説によれば遅れに伴う補償費用や生産設備の稼働率低下、人海戦術に伴う人件費増大等によってエアバスは60億[[ユーロ]](約1兆円)のプロジェクト経費増大を来たしており、さらに米ドルに対するユーロ高傾向もあってA380の採算ラインは、当初の270機から、420機程度にまで悪化している{{Sfnp|杉浦|2008|p=52}}と言われる。
2007年11月12日、エアバス社は[[サウジアラビア]]王子の[[アル・ワリード王子|アル・ワリード]]がA380をプライベート機として購入するため売買契約を結んだと発表した。2つのダイニングやゲームルーム、主寝室などを備え、機体に3億ドル、改装費に1億ドル。ミサイル防衛システムも含まれている。エアバス社では"The Flying Palace"(空飛ぶ宮殿)と呼んでいる{{Sfnp|杉浦|2008|p=179}}。この機体は元々[[エティハド航空]]に納入予定であった飛行試験2号機であった。
シンガポール航空による定期就航が始まったことにより、A380 の順調なスタートにこぎ着けたと思われたが、エアバスは2008年5月13日、量産計画を再調整し、ウェーブ1(量産化前段階)からウェーブ2(量産移行後)においての引き渡し計画を修正する発表を行った。その結果、2006年に計画された急激な量産化は達成不可能となったことが確認されウェーブ2への移行に若干の遅れが生じた。これは、ウェーブ1における作業が予想以上に時間を要したことが原因としている。
今後の展望として、同日、エアバス社は次の通り発表した。
* 予定のA380の引き渡し機数
** 2008年:13機→12機(1機減)
** 2009年:25機→21機(4機減)
これ以降の引き渡し機数については、今後顧客との話し合いによって決まるとしている。その後2008年9月のカンタス航空向け初号機、製造通算14号機の引き渡しに先立ち、エアバス社は2008年と2009年の引き渡し数は12機と21機を堅持、2010年については30機から40機の間になると公表した。2008年12月30日に2008年の12機目となるエミレーツ航空向け4号機が引き渡された。なお、2008年後半に顕在化した[[リーマン・ショック|世界金融危機]]のため、エアライン各社は引き渡しペースの鈍化をエアバス社に要望し、それに応える形で2009年5月には2009年中の引き渡し数を14機に削減するむね再度発表されている。
2008年[[7月28日]]、エアバス社のハンブルク施設に新設されたユルゲン・トーマス・デリバリーセンターでエミレーツ航空に対してA380-861が引き渡された。A380の航空会社への引渡しはこれが6機目で、これまでの5機はいずれもシンガポール航空に引き渡されていたことから、エミレーツ航空はA380を受領した二番目の航空会社である。
今回の引渡し機は同年8月1日にドバイ - ニューヨーク(ジョン・F・ケネディ)線で初就航した。そのほかに長距離路線の就航先として、ロンドン、シドニー、オークランドがあるが、今後の機数増加によって就航都市は増える予定である。2009年3月、エミレーツ航空は、採算悪化を受けドバイ - ニューヨーク(ジョン・F・ケネディ)線からA380撤退を決定、ボーイング777-300ERに変更した。
同機は商業運航の合間にクルーと整備員の訓練研修を兼ねて飛行していたが、同年9月に入り原因不明の電子機器トラブルが発生し飛行作業を中断した。商業運航が再開されたのは同年9月12日であった。
2008年[[9月19日]]、豪カンタス航空に同社向けA380-842(製造通算14号機)が引き渡され、同年9月21日にシドニーに到着した。同航空では約一か月間慣熟訓練を行ない、同年10月20日にメルボルン - ロサンゼルス線で商業運航を開始した。
2013年[[3月14日]]、通算100号機のA380がマレーシア航空へ引き渡された<ref>{{Cite web|和書|date=2013-03-14|url=http://www.aviationwire.jp/archives/17293|title=100号機目のA380、マレーシア航空に引き渡し|publisher=Aviation Wire|accessdate=2013-03-14}}</ref>。マレーシア航空にとっては6機目の機体。しかしながら2015年5月、同社は業績不振の影響もあって近い将来にA380の放出を示唆した<ref>[http://www.businessnewsline.com/news/201505011110180000.html マレーシア航空、保有する6機のA380機を全て売却へ]</ref>。2016年2月、同社CEOは、売却を延期し、少なくとも2018年まで同型機保有総数は現在の6機のまま据え置く、と述べた<ref>[http://jp.reuters.com/article/idJPL3N15U28S マレーシア航空、A380機の売却は少なくとも2年延期=CEO] - Reuters(2016年2月15日)</ref>。同年11月30日、A380型機を新たな航空会社に移管し、イスラム教のメッカ巡礼のためのフライト計画を発表した<ref>[https://www.traicy.com/20161201-MHa380 マレーシア航空、エアバスA380型機をメッカ巡礼に活用 新たな航空会社設立] - トライシー(2016年12月1日)</ref>。
2017年11月3日、エミレーツ航空に同社100機目のA380(機体番号:A6-EUV)が引き渡された<ref>[https://www.emirates.com/media-centre/emirates-welcomes-100th-a380-to-its-fleet#conversations Emirates welcomes 100th A380 to its fleet]</ref><ref>[http://www.airbus.com/newsroom/press-releases/en/2017/11/emirates-welcomes-100th-a380-to-its-fleet.html Emirates welcomes 100th A380 to its fleet]</ref>。2018年に[[アラブ首長国連邦|(UAE)]]の初代ザイード大統領の生誕100年を迎えることから、「100th A380」のロゴに加え、同氏を描いた特別塗装機となっている。
[[ファイル:World A380 map NEW 2013.png|thumb|upright=1.35| {{legend|#000000|A380を1機以上保有する国}} {{legend|#9412D0|将来導入予定の国}}]]
[[ファイル:LAX-TBIT-Jan2015.jpg|thumb|アメリカ・[[ロサンゼルス国際空港]]に並ぶエアバスA380]]
'''主な就航路線(2023年11月現在)'''(注)都市名が同じ場合、空港は同じとする。
* [[シンガポール航空]] - 出発地:[[シンガポール・チャンギ国際空港|シンガポール]]
** 就航地:ロンドン・シドニー・パリ・[[香港国際空港|香港]]・[[成田国際空港|東京/成田]]メルボルン・[[チューリッヒ国際空港|チューリッヒ]]
* [[ルフトハンザドイツ航空]] - 出発地:[[フランクフルト空港|フランクフルト]]
** 就航地:[[北京首都国際空港|北京]]・香港・ヨハネスブルグ・ニューヨーク・[[サンフランシスコ国際空港|サンフランシスコ]]
* [[エミレーツ航空]] - 出発地:[[ドバイ国際空港|ドバイ]]
** 就航地:ロンドン・[[マンチェスター空港|マンチェスター]]・パリ・チューリッヒ・フランクフルト・デュッセルドルフ・ミュンヘン・マドリード・バルセロナ・アムステルダム・ローマ・ミラノ・シドニー・ブリスベン・メルボルン・パース・北京・上海・香港・東京/成田・[[トロント・ピアソン国際空港|トロント]]・サンフランシスコ・ロサンゼルス・ニューヨーク・ダラス・ヒューストン・バンコク・クアラルンプール・シンガポール・ソウル・[[キング・アブドゥルアズィーズ国際空港|ジェッダ]]・クウェート・ムンバイ・モーリシャス
** 以遠就航地:シドニー - [[オークランド国際空港 (ニュージーランド)|オークランド]]・バンコク - 香港・ブリスベン - オークランド・メルボルン - オークランド
* [[カンタス航空]] - 出発地:[[シドニー国際空港|シドニー]]・[[メルボルン空港 (オーストラリア)|メルボルン]]
** 就航地:(シドニー・メルボルン)- ロンドン・ロサンゼルス・ダラス
** 以遠就航地:(シドニー・メルボルン)- ドバイ - ロンドン
* [[大韓航空]] - 出発地:[[仁川国際空港|ソウル/仁川]]
** 就航地:ロサンゼルス・ニューヨーク・[[ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港|アトランタ]]・パリ・香港
* [[ブリティッシュ エアウェイズ]] - 出発地:[[ロンドン・ヒースロー空港|ロンドン]]
** 就航地:ロサンゼルス・香港・ヨハネスブルグ・ワシントン・シンガポール
* [[アシアナ航空]] - 出発地:ソウル
** 就航地:ロサンゼルス・ニューヨーク・香港・バンコク・東京/成田
* [[カタール航空]] - 出発地:ドーハ
** 就航地:ロンドン・パリ・バンコク
* [[エティハド航空]] - 出発地:アブダビ
** 就航地:ロンドン
* [[全日本空輸]] - 出発地:東京/成田
** 就航地:[[ホノルル]]
=== 日本への就航 ===
[[日本]]路線は、[[2008年]][[5月20日]]にシンガポール航空がシンガポール - 東京/成田線で運航開始したのが最初である。だが、悪天候により[[中部国際空港]]へ回避着陸([[ダイバート]])し、その後4時間ほど遅れて成田に到着した。なお当日は成田空港開港30周年の日であった。
その後、[[2010年]][[6月12日]]到着便よりルフトハンザドイツ航空がフランクフルト - 東京/成田線(2014年3月の羽田線復帰以降、成田に乗り入れておらず、2018年1月現在では事実上撤退となっている)で、[[2011年]][[6月17日]]より大韓航空が[[仁川国際空港|ソウル/仁川]] - 東京/成田線(往路:KE701<ref group="注">初便の往路便のみ便名はKE380であった。</ref>・復路:702便)でそれぞれ運航開始。同年[[7月1日]]よりシンガポール航空がシンガポール - 東京/成田 - [[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス]]線でボーイング777-300ERに代わり運航開始、[[以遠権]]のフライトで初めて就航した。[[2012年]]7月1日よりエミレーツ航空がドバイ - 東京/成田線に就航し、成田空港の第2ターミナルビルに初めてA380が発着(ゲートは66番)したが、翌2013年5月31日をもってA380での就航を終了した 。 そして2016年(?) 再び就航した。
一方で、2010年[[9月2日]]到着便よりエールフランスがパリ - 東京/成田線で運航開始したものの、2014年[[5月11日]]をもってボーイング777-300ERに機材変更された。大韓航空もデイリー運航から曜日限定運航に切り替え、2012年4月以降は全便他機材に切り替えたが、2012年[[10月28日]]から[[2013年]][[3月30日]]まではA380での運航が復活している(往路:KE705・復路:706便。ただし、他の機材により運航される場合がある)。
シンガポール航空では2012年[[8月10日]] - [[8月15日]]に、大阪就航40周年を記念してシンガポール - 大阪/関西(往路:SQ618・復路:SQ619便)線で運航し、[[関西国際空港]]に定期旅客便として初めてA380が就航した。なお、当路線では2013年・2014年にも8月中旬<ref>2013年は11日 - 17日、2014年は9日 - 17日の予定。</ref><ref>[http://www.nkiac.co.jp/news/2013/1729/sqa380kix.pdf#search='%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%88%AA%E7%A9%BA+%E9%96%A2%E8%A5%BF%E7%A9%BA%E6%B8%AF+%EF%BC%A1%EF%BC%93%EF%BC%980' シンガポール航空 関西=シンガポール線 本年もA380型機の期間運航が決定] 新関西国際空港株式会社 2013年4月25日付</ref><ref>[http://www.nkiac.co.jp/news/2013/1917/ozsqa380.pdf#search='%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%88%AA%E7%A9%BA+%E9%96%A2%E8%A5%BF%E7%A9%BA%E6%B8%AF+%EF%BC%A1%EF%BC%93%EF%BC%980' アシアナ航空 シンガポール航空 A380型機を期間運航 〜アシアナ航空 シンガポール航空 関西空港就航20周年〜] 新関西国際空港株式会社 2014年3月26日付</ref><ref>[http://www.kansai-airport.or.jp/a380/ この夏、3社のエアバスA380が関西空港に集合!] 関西国際空港</ref>に運航している。また、[[2014年]][[8月9日]]・[[8月13日]]には名古屋就航25周年を記念してシンガポール - 名古屋/中部(往路:SQ672・復路:SQ671便)線でも運航し、中部国際空港にも定期旅客便として初めてA380が就航した<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20140809k0000e040177000c.html 中部国際空港:世界最大のエアバスA380が飛来] 毎日新聞 2014年8月9日付</ref><ref>[http://www.aviationwire.jp/archives/43037 シンガポール航空、中部にA380特別便 名古屋就航25周年] Aviation Wire 2014年8月9日付</ref>。
タイ国際航空が、2013年[[1月1日]]からバンコク - 東京/成田線で運航開始(往路:TG676・復路:TG677便)。さらに同年[[12月1日]]からは、東京/成田線で午前出発便もA380に変更(往路:TG641便・復路:TG640便)、またバンコク - 大阪/関西線(往路:TG622・復路:TG623便)でも運航開始。[[2015年]]5月からB747-400に機材変更し運航していたが、[[2016年]][[5月16日]]から10月29日までの間、再投入され<ref>[http://flyteam.jp/news/article/60137 タイ国際航空、5月16日から関西/バンコク線にA380を投入] FlyTeam 2016年2月24日付</ref>、2017年1月前後にB747-400となったが{{要出典|date=2017年9月}}、2017年9月現在、成田発夕刻便とその復路便、関空発夕刻便とその復路便をA380で運航している<ref>[http://www.thaiair.co.jp/special/a380/ エアバスA380 新登場 | タイ国際航空]</ref>。
アシアナ航空が、2014年[[6月13日]]からソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:OZ102・復路:OZ101便)、同年[[7月29日]]からソウル/仁川 - 大阪/関西線(往路:OZ112・復路:OZ111便)で、同年[[8月19日]]まで一時的に投入された<ref>[http://flyteam.jp/news/article/32196 アシアナ航空のA380、2階席のエコノミーは「2-4-2」] FlyTeam ニュース 2014年4月15日付</ref><ref>[http://jp.flyasiana.com/C/ja/boardContents.do?menuId=004001000000000&menuType=BOARD&boardCode=BOARD_NEWS&newsSeq=2748&newsCateCode=NEWS01&boardCmd=VIEW ASIANA380 運航路線情報]</ref>。そして、2016年10月30日から11月9日の間、ソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:OZ102・復路:OZ101便)で期間限定投入され、2年ぶりに日本に同社のA380が飛来した<ref>[http://flyteam.jp/news/article/69916 アシアナ航空、10月30日から11月9日に成田/仁川線にA380を投入]</ref>。2017年10月29日から2018年3月24日まで、再度ソウル/仁川 - 東京/成田線(往路:OZ102・復路:OZ101便)にA380を投入している<ref>[http://flyteam.jp/news/article/84129 アシアナ航空、10月29日から成田/仁川線にA380投入 正式発表] - Fly Team(2017年9月12日)</ref>。
シンガポール航空の路線計画変遷に伴い、2016年[[10月22日]]をもってロサンゼルス-東京/成田線-シンガポール線(SQ11/12)におけるA380の運航が終了となった<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160616-00000005-awire-bus_all シンガポール航空、成田経由便777に A380から若返り]</ref>。同路線は翌日よりB777-300ERとなったが、東京/成田線-シンガポール線(SQ637/638)がA380になるとの発表もない。また同社は羽田線も有していることから、A380は東京/成田線から事実上の撤退となった可能性が高い。この後、大阪/関西線については同年12月4日から2017年始にかけて期間限定で運用されている<ref>[http://flyteam.jp/airline_route/kix_sin/news/article/69582 シンガポール航空、12月4日から年始までA380を関西線に投入へ]</ref>。
マレーシア航空が、ロンドン線のみで使用しているA380を2017年8-9月の期間限定で成田路線に導入し、東京/成田線-クアラルンプール線(MH89/88)に運用した<ref>[http://marcoflyer.com/2017/06/03/mh_a380_to_tokyo_seoul/ 【2017年8-9月限定】マレーシア航空のエアバスA380が東京成田/ソウル仁川線に期間限定就航!]</ref>。また、2015年12月14日、同月20日に決勝戦が開かれる「[[FIFAクラブワールドカップ2015]]」に出場する[[FCバルセロナ]](欧州代表)の選手とサポーターを乗せたバルセロナ-東京/成田直行チャーター便は、同クラブ首脳がVIP席の多さにこだわった結果A380となり、マレーシア航空所有6機目、A380累計100機目のロゴ入り機であった<ref>[http://www.aviationwire.jp/archives/77184 マレーシア航空、成田にA380 FCバルセロナ来日便] - Aviation Wire(2015年12月15日)</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2015/12/15/kiji/K20151215011688890.html バルサ 超VIP待遇の来日、チャーター機手配で往復に数億円] - スポニチアネックス(2015年12月15日)</ref>。
以上のように、本機体の初就航当時は日本への乗り入れに積極的なエアラインが多数あったものの、2017年3月現在は撤退あるいはデイリーから季節限定あるいは期間限定に切り替えとするエアラインが増えつつある。しかし、エミレーツ航空が2017年3月26日からドバイ - 東京/成田線にA380を再就航させ<ref>[http://www.aviationwire.jp/archives/115460 エミレーツ航空、成田へA380復活 3年9カ月ぶり] Aviation Wire 2017年3月26日 2017年3月29日閲覧</ref>、日本に定期的に乗り入れる外資系のA380はタイ国際航空と合わせて2社となった。
2022年10月、[[日本グランプリ (4輪)|F1日本グランプリ]]に伴い大韓航空がチャーターされシンガポール/チャンギ-名古屋/中部(KE9642)で初上陸した<ref>{{Cite web|和書|title=中部空港に大韓航空の巨大機「A380」が初飛来… なぜ?(乗りものニュース) |url=https://news.line.me/detail/oa-trafficnews/ghhbnorrhhfp |website=LINE NEWS |access-date=2022-10-13 |language=ja}}</ref>。
=== 日本の航空会社の動向 ===
日本はA380と同じく大型旅客機と呼ばれているボーイング747を世界で最も多く導入していたことから、[[日本航空]]や、[[全日本空輸]]がA380を導入する可能性があると言われていた。2010年10月、羽田にデモフライトした際、エアバス側の意向で[[新千歳空港]]での適合テストも行なわれた。
==== スカイマーク ====
[[スカイマーク]]は国際線参入の一環として2010年11月8日に同機購入に基本合意し、2011年2月17日に6機(うち2機はオプション)の購入契約を正式に締結した。この正式契約成立により、日本の航空会社として初めてエアバスA380が導入され、同時に日本籍で初めてエアバス社製・四発ワイドボディ機が登録されることになり、契約通りに進めば2014年に2機導入の予定であり<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-08|url=http://www.skymark.co.jp/ja/company/press/press101108.html|title=エアバス社とA380型機導入に関する基本合意書を締結|publisher=スカイマーク株式会社|accessdate=2011-01-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-08|url=http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-18056420101108|title=スカイマーク、エアバスA380型機6機購入へ|publisher=ロイター日本語ニュース|accessdate=2011-01-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-12|url=http://www.airbusjapan.com/press-release-details/detail/a3804/|title=スカイマーク株式会社がエアバスの大型機A380を4機購入する覚書を締結|publisher=エアバス・ジャパン|accessdate=2011-01-10}}</ref>、ロンドンやフランクフルト、ニューヨークへ就航させるほか、2018年以降にも9機追加導入する計画を明らかにしていた<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-12|url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-18148120101112|title=海外展開でA380を15機導入、大量輸送で低価格実現へ=スカイマーク|publisher=ロイター|accessdate=2011-01-10}}</ref>。スカイマークカラーに塗られた機体の試験飛行も行われていたが、スカイマーク側が経営悪化を理由に契約変更を申し出たところエアバス側が拒否し購入契約が決裂。購入キャンセルについて交渉中であることが明らかにされた<ref name="nikkei140729">{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ2900E_Z20C14A7MM0000/|title=スカイマーク、エアバスとA380解約交渉 国際線見直し|publisher=日本経済新聞|date=2014-7-29|accessdate=2019-2-14}}</ref><ref name="sky140729">{{Cite web|和書|format=pdf|url=http://www.skymark.co.jp/ja/company/press/140729_press.pdf|title=エアバスA380導入に関するお知らせ|date=2014-7-29|publisher=スカイマーク|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140802083032/http://www.skymark.co.jp:80/ja/company/press/140729_press.pdf|archivedate=2014-8-2|accessdate=2019-2-14}}</ref>。
[[2014年]][[7月28日]]、2014年前期に円安に伴う燃料費高騰や[[格安航空会社]] (LCC) の台頭などによって経営が赤字転落した状況から、スカイマーク側がエアバスに「2機の導入延期、および4機の契約解除」とする案を打診した。するとエアバス側はスカイマークに「大手航空会社の傘下」に入ることを要求し、さらにこれを拒否して契約をキャンセルした場合は「[[違約金]]」を請求することになる、と[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]が報道<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140729-00000002-bloom_st-bus_all エアバス、スカイマークのA380発注キャンセルで合意] ブルームバーグ、2014年7月30日閲覧。</ref>した。これを受けてスカイマークは「当社の経営の主体性を揺るがすような主張は受け入れられない」とする声明を発表したが、この声明を受けたエアバス側は「スカイマークとの協議および同社の機体に対する姿勢を受け」て契約協議の終了を通知<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140730-00050140-yom-bus_all エアバス、スカイマークとの交渉打ち切りを表明] [[読売新聞]]、2014年7月30日閲覧。</ref><ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N9FF3I6JIJUQ01.html エアバス、スカイマークの購入契約解除-西久保社長は諦めず] ブルームバーグ、2014年7月30日閲覧。</ref>し、さらに「すべての権利及び権利侵害における救済措置を保持している」として、最大700億円規模の[[違約金]]を請求される事態となった<ref name=J-CAST_20140730>{{Cite news |和書 |date=2014-07-30 |title=エアバスへの違約金最大700億円 スカイマークの経営に「深刻打撃」|url=https://www.j-cast.com/2014/07/30211913.html?p=all |publisher=[[ジェイ・キャスト]] |newspaper=[[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]] |accessdate=2014-07-30 }}</ref>。
ところが、スカイマークに販売予定だった機体を別の航空会社に売る目処がついたこともあって2014年10月に最低200億円まで減額に合意する方針と[[朝日新聞]]が報道<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASGB25R4RGB2ULFA02K.html スカイマーク、違約金200億円で大筋合意 エアバスと]</ref>。その後、スカイマーク側の経営不振による資金不足もあり、2014年12月の時点でスカイマークとの契約が解除された機体がまだ他社に納入されていないことが会員制写真投稿サイトの[[Airliners.net]]で確認されている<ref>[http://www.airliners.net/photo/Untitled-%28Skymark%29/Airbus-A380-841/2555858/&sid=44b730fa9e835232023f54c18ca349df]</ref>。また違約金交渉が最終合意された事実はないが、12月19日になってエアバス側が英国商事裁判所に対して訴訟準備を開始したことが報道され、スカイマーク広報もこれを追認した<ref>[http://www.skymark.co.jp/ja/company/investor/141219_ir.pdf エアバス社との交渉に関する一部報道について]</ref>。スカイマーク向けに製造された2機は、2016年にエミレーツ航空へ売却された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO00364950S6A500C1TJC000/|title=スカイマーク契約解除のA380、エミレーツに売却|accessdate=2019-01-14|website=日本経済新聞 電子版|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://newspicks.com/news/1498747/|title=DJ-エミレーツ、「A380」2機発注-スカイマーク取消分を引き継ぎ|accessdate=2019-01-14|date=2016-04-13|website=NewsPicks}}</ref>。
==== 全日本空輸 ====
[[ファイル:All Nippon Airways A380 (JA381A) @ NRT, April 2019.jpg|thumb|ANAのA380-800「FLYING HONU」1号機(JA381A)]]
[[全日本空輸]]は、当初A380導入の是非について、[[2008年]]内に結論を出す予定であったが、2008年12月に[[世界金融危機 (2007年-)|世界経済の悪化]]を受け、「[[ボーイング747-8]]とともに大型機の導入計画を一時凍結する」と発表した。理由は世界の金融不況に伴うもので、「新大型機検討委員会は廃止されずに時期を見て再開させる」とされていた。
しばらく話の進展がなかったが2014年3月27日、同社は5機種の機材発注を同時決定した。そのうち、大型機として既存のボーイング777-300ERに加え、[[ボーイング777X|ボーイング777-9]]が新たに加わった<ref>[http://www.anahd.co.jp/pr/201403/20140327-2.html ANAグループ、5機種の機材発注を同時決定]</ref>。2014年3月31日をもって同社からボーイング747が全機退役したにもかかわらず導入話の進展がなかったことに加えて、「新大型機1種」は777-9として選定された。エアバスA380を全日空が導入する話は一旦ここで終了した。
[[2016年]]1月に、ANAの親会社[[ANAホールディングス]]が、A380型機を3機導入すると[[日本経済新聞]]より報道された<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ24HSI_R31C15A2MM8000/ ANA、超大型エアバスA380導入 3機1500億円] - 日本経済新聞電子版(2016/1/1 2:00配信)</ref>。
[[スカイマーク]]破綻による債権者集会でANAによる再建案に最大債権者であるエアバス、ロールスロイスが賛成するとの取引によりスカイマーク再建がANA支援決定後、この機体は当初予想されたスカイマーク向けではなく、全日空向けの新規発注機材であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aviationwire.jp/archives/154542|title=ANAのA380、最終組立工場からロールアウト|accessdate=2019-01-14|website=Aviation Wire|language=ja-JP}}</ref>。当時は2018年頃に納入される予定で全日本空輸のハワイ路線に投入され、成功すれば追加発注につながる可能性もあると報じられた<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-O0ARA36KLVR401.html エアバス、ANAHDから超大型機A380の契約獲得-関係者] - [[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg.co.jp]](2016/01/02 08:38 JST配信)</ref>。
2016年1月29日、ANAホールディングスはA380型機3機導入を正式発表した。その後特別塗装デザインと、愛称「FLYING HONU」を決定<ref name=ANA_20170306>{{Cite web|和書|date=2017-03-06 |title=A380型機 特別塗装機が「FLYING HONU」に決定! |url=https://www.anahd.co.jp/group/pr/201703/20170306.html |publisher=[[ANAホールディングス]]株式会社 |work=ANA |accessdate=2020-12-22 }}</ref>{{Sfn|『エアライン 2017年5月号』}}<ref name="乗りもの_20181231ed">{{Cite news |和書 |author=恵 知仁 |date=2018年12月31日更新 |title=エアバスの「納車式」がカッコイイ! 警報音のあとに現れた、ANAの巨大なA380(写真62枚) |url=https://trafficnews.jp/post/82543 |publisher=株式会社[[メディア・ヴァーグ]] |newspaper=乗りものニュース |accessdate=2019-01-13 }}</ref>。2019年3月14日に1号機を受領<ref name=ANA_20190321>https://www.anahd.co.jp/group/pr/201903/20190321.html</ref>、同年5月24日に成田-ホノルル線に同機が週3往復で就航を開始した<ref name=ANA_20190628>https://www.anahd.co.jp/ana_news/archives/2019/06/28/20190628-2.html</ref>。また、2019年度第1四半期には2号機を受領、同年6月18日に就航した<ref name=ANA_20190619>https://www.anahd.co.jp/ana_news/archives/2019/06/19/20190619-1.html</ref>。座席は、520席と現在日本最大の有償座席数が用意され、2階に[[ファーストクラス]]8席、[[ビジネスクラス]]56席、[[プレミアム・エコノミー]]73席と[[エコノミークラス]]以外の全てのクラスが導入された。
しかし[[COVID-19]]の影響により全機運航停止となり、定期的に遊覧チャーター飛行などで運航している。さらに2019年10月に初飛行した最終号機である3号機は2020年10月にエアバス書類上は引き渡しが完了しているものの、同社の大幅赤字と多額の借入金のために、引き取りを延期し、仏トゥルーズで約1年整備保管されていたが、2021年10月に引き取り、同月16日に初飛行から2年、引き渡しから1年経過して来日となり<ref name=ANA_20211015>https://www.anahd.co.jp/group/pr/202110/20211015-3.html</ref><ref>https://sky-budget.com/2021/09/27/ana-flying-honu-3rd/</ref><ref>https://www.aviationwire.jp/archives/235640</ref>。初飛行から4年近く経過した2023年10月20日に営業運航された<ref>[https://www.aviationwire.jp/archives/286201 ANAのA380、オレンジ3号機就航 日本到着から2年、3機出そろう]</ref>。
<!--ANAによるとキャラクター名と機体はひも付いておらず、3体の名前は機体の愛称ではないという。<ref>[https://www.aviationwire.jp/archives/282891 ANA、A380 3号機10/20就航 日本到着2年で初の商業運航へ]</ref>また、A380説明としても不適(wikiは宣伝ではない)
{| class="wikitable"
|+ 全日本空輸のA380一覧
! 機 !! 愛称 !! 登録記号 !! 受領 !! 就航 !! カラーリング !! ウミガメの目
|-
! 初号機
| ラニ || JA381A || 2019年3月14日(成田着 同21日)<ref name=ANA_20190321></ref> || 2019年5月24日<ref name=ANA_20190628></ref> || 青(ANAブルー) || 開く
|-
! 2号機
| カイ || JA382A || 2019年5月15日(成田着 同18日)<ref name=ANA_20190518>https://www.anahd.co.jp/group/pr/201905/20190518.html</ref> || 2019年6月18日<ref name=ANA_20190619></ref> || 深緑(エメラルドグリーン) || ほほ笑む
|-
! 3号機
| ラー || JA383A || 2021年10月13日(成田着 同16日) <ref name=ANA_20211015></ref> || 2023年10月20日<ref>https://www.anahd.co.jp/group/pr/202308/20230822.html</ref> || オレンジ(サンセットオレンジ) || まつげ付き
|}-->
== 名前の由来 ==
本来の命名規則によればA340、A350と続くはずであったが、この機種はいきなりA380になっている。理由は以下の通り。
* A340-300の標準座席227席の2倍となる550席の標準座席から、340の「40」を倍数の「80」にしたため{{Sfnp|青木|2019|pp=62-65}}。
* 航続距離が8,000マイル(約12,800km)に向上し、それを強調するため
== 機体 ==
=== 外形 ===
A380型機は、低翼で後退角を持った[[主翼]]、通常形式の[[尾翼]]、主翼[[パイロン]]に装着したエンジンなどの一般的なジェット[[旅客機]]と同じ特徴を持っている。ボーイング747の機体上部は2階建て部分のみ膨らんでいるが、A380は総2階建てであるため段差は無い。
航空会社によるオプションとして垂直尾翼の前縁頂点部に機外カメラを取り付けることが可能で、機内のモニターには高さ24mからの映像が映し出される。
エアバスでは航空機各部を各国の組み立て工場から、最終組み立て工場がある[[トゥールーズ]]や[[ハンブルク]]まで[[エアバス ベルーガ]]により自前で空輸しているが、A380の胴体セクションや主翼は巨大すぎて格納できないため、船舶と陸路による輸送を行っている。なおベルーガの後継機として貨物室の容積を拡大した[[エアバス ベルーガ XL]]にも搭載できない(最大でもA350まで)。
<gallery>
ファイル:Air France Airbus A380, United Boeing 747, SFO (26442706223).jpg|747(下)とA380(上)の形状比較
ファイル:A380 Ansicht Heckkamera.jpg|機内のモニターに映し出された垂直尾翼カメラの映像
</gallery>
=== 客室 ===
2階建ての客室の1階(主デッキ)は最大幅6.58mで、ボーイング747-400の主デッキ客室最大幅より45.7cm広い。また上部デッキの客室最大幅は5.92mでエアバス社の従来のワイドボディ機の客室最大幅5.62mよりわずかに広い{{Sfnp|青木|2011|pp=177-179}}。ボーイング747と違い2階席も通路が2つある<ref group="注">機体規模を他の旅客機に例えるなら[[ボーイング777 #777-300 (773)|ボーイング777-300]](1階席)の上に[[エアバスA340]](2階席)を上乗せした大きさである。</ref>。
==== 店舗・サービス設備 ====
エアバスはその客室の広さを活かし[[待合室|ラウンジ]]、[[滝]]、[[バー (酒場)|バー]]、[[免税店|免税品店]]や[[シャワールーム]]などを設けることも可能としており、実際に[[エミレーツ航空]]は[[ファーストクラス]]利用者向けのシャワールームを設置した。しかし、飛行中は不測の[[乱気流]]で機体が大きく揺れることがあり、乗客が怪我や死亡する危険を最小限にするには、乗客が常に立ち歩く状態は好ましくない<ref group="注">航空会社としては乗客に飛行中は常に座席ベルトの着用を求めており、立ち歩く設備を設置・運営して、もしも事故があると、訴訟によって航空会社の責任を問われた時に不利になる可能性がある。</ref>。作ったとしてもすぐに廃れる、という意見もあるが、エミレーツ航空は[[ブルジュ・アル・アラブ]]および[[パーム・ジュメイラ]]の装飾を施したバーを導入している。
なおボーイング747の開発時にも接客設備の採用が検討され、ラウンジはいくつかの航空会社において実現したものの、座席数を増やすためにその後廃止された。
==== 座席数 ====
キャビンの総面積はB747-400の約1.5倍、座席数は[[ファーストクラス|ファースト]]・[[ビジネスクラス|ビジネス]]・[[エコノミークラス|エコノミー]]の3クラスからなる標準座席仕様で同じく約1.3倍である。エアバスでは「従来の大型機と比べて同じ座席仕様でありながら、1人当たりの占有面積が広くなる」を同機のセールスポイントとしている<ref group="注">一部の報道等では「座席数は、現行の747に比べて約2倍の800席が可能」等の表現がされていたが、747の400席は3クラス仕様の標準座席数であり、A380の800席はエコノミークラスだけのモノクラス仕様での標準座席数であるため、これらの数値で比較するのは公平を欠いている。エアバスもこのような「2倍」という表現はしていない。</ref>。[[エティハド航空]]では、これを活かし通路を1つとする代わりにベッドを座席ごとに設置することで、通常のファーストクラスよりさらに上位のクラス「ザ・レジデンス」(The Residence)を導入している。
座席の機内が総2階建て構造であることから、客室の最前部(メインデッキのL1/R1ドア付近)と最後部にそれぞれ直線式と螺旋式の階段が設けられ、最前部の階段では大人2人が楽にすれ違える幅がとられている。なお、2017年に最前部階段の位置を従来のメインデッキのL1/R1ドア付近からL2/R2ドア付近への設計変更が可能になることが発表された<ref name="broomberg170405">[http://www.aviationwire.jp/archives/117018 エアバス、A380に新客室オプション 階段変更で575席] - Bloomberg 2017年4月5日</ref>。これにより、一例として4クラス497席の座席数から78席増の575席へと座席数を増やすことが可能となる。更に2018年4月には、新造機だけでなく既存機にも適用可能な「キャビン・フレックス」オプションが導入された<ref>[http://www.airbusjapan.com/single-jp/detail/a380-47/ A380向けキャビン・フレックスをローンチ] - エアバス 2018年4月10日(2018年4月14日閲覧)</ref>。これは、2階のドア3を機能させないことで、プレミアムエコノミーで最大11席、ビジネスクラスで7席増やすことが可能になる。
民間旅客部門では今までにない座席数である。例として[[エール・オーストラル]]はモノクラス(エコノミークラスのみ)の仕様で計840座席とし、世界最多有償座席数として記録が更新される計画もあったが、発注はキャンセルされた<ref name="broomberg160411">[https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2016-04-11/O5H81R6KLVRO01 欧州エアバス、840人乗り「空飛ぶいわしの缶詰」の受注失う] - Bloomberg 2016年4月12日</ref>。2クラス仕様では2015年11月4日にエミレーツ航空が中距離2クラス仕様・615席(ビジネス58席・エコノミー席557席)を受領した事で、2クラス仕様における世界最多有償座席数であった[[全日本空輸|ANA]]の[[ボーイング747-400 #747-400D型|ボーイング747-400D(2014年3月31日をもって全機退役)]]の569席を上回り、記録を更新した。2016年7月現在、2クラスで世界最多の有償座席数そして世界初の600席台有償提供である。標準座席仕様では、2011年12月12日まで、エールフランスが538席<ref group="注">3クラス仕様から4クラス仕様(507席→2018年現在は516席。ファースト9席・ビジネス80席・プレミアムエコノミー38席・エコノミー380席→2018年現在は389席)への移行に伴い2011年12月13日以降は、ルフトハンザドイツ航空の526席(ファースト8席・ビジネス98席・エコノミー420席)が最多となったが、同社も2018年現在は4クラス509席(ファースト8席・ビジネス78席・プレミアムエコノミー52席・エコノミー371席)となっており、2018年現在はエミレーツ航空、カタール航空の517席(エミレーツ航空はファースト14席・ビジネス76席・エコノミー427席。カタール航空はファースト8席・ビジネス48席・エコノミー461席)が3クラス最多の有償座席数となっている。</ref>として、有償提供をしていた。3クラス仕様における初の500席台であり、世界最多有償座席数の記録を更新している。
2000年代後半以降では、ワンランク上のエコノミークラス(プレミアムエコノミーなど)を導入して4クラス仕様とする航空会社があるが、エールフランスが2018年現在516席<ref group="注">2011年12月12日までは、3クラス538席と混在していたが、2011年12月13日以降はこの4クラス仕様(当時は507席)に完全移行した。</ref>として、有償提供をしている。この仕様においても初の500席台であり、当時世界最多有償座席数の記録を更新していたが、2019年3月20日に[[全日本空輸]]の520席(ファースト8席・ビジネス56席・プレミアムエコノミー73席・エコノミー383席)に4クラス世界最多有償座席数の記録を抜かれた。
{{main|en:Seat configurations of Airbus A380}}
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ファイル:Airbus A380 cross section.svg|[[断面図]]
ファイル:A380 - Main Deck Cabin (3776703539).jpg|メインデッキ
ファイル:A380 - Upper Deck Cabin (3776703987).jpg|アッパーデッキ
ファイル:Bathroom on an Emirates Airbus A380.jpg|[[エミレーツ航空]]ファーストクラス専用のシャワールーム
ファイル:Emirates Airbus A380-861 onboard bar Iwelumo.jpg|エミレーツ航空機内にあるバー
ファイル:A380 The Residence Apartment Etihad Airways ITB2015 (1).JPG|[[エティハド航空]]機内の「ザ・レジデンス」のベッドルーム
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=== 操縦室 ===
操縦室と乗務員休憩区画などは2階建て客室部分の前にあり、メインデッキと呼ばれる1階とアッパーデッキと呼ばれる2階の間の1階より少し上がった中2階の高さに位置している<ref group="注">1階席からコクピットに上がるための小階段が設置されている。</ref>。これは視界の確保と他のエアバス機との互換性のことも考えての設計である。
操縦室は予備席も含めて5つの座席が備わる。2人乗務による操縦を行えるように、最前部左の機長席とその右の副操縦席の2座席を取り巻き操縦装置類が配置されている。操縦室後半には間隔を開けて2つまたは3つの座席が備わっている<ref group="注">操縦士用の乗務員休憩区画が操縦室のすぐ後ろにあり、脚格納室と操縦室の間と前部階段室の上階に主電子機器室と副電子機器室がある。</ref>。
本機はLCD([[液晶ディスプレイ]])[[グラスコックピット]]を備えている。ただし、エアバス社の従来のグラスコックピットと違う点は、一辺8インチの正方形のLCD6面から、縦8インチ横6インチの縦長のLCDが8面へと増えたことである{{Sfnp|青木|2011|p=159}}これにより、コックピットに持ち込む書類数削減が可能となる。<!-- 以下、主観ではないでしょうか? それが結果今の不細工な格好を作り出してしまった。-->操舵形態は同社では[[エアバスA320]]以来採用されている[[旅客機のコックピット#操縦桿とサイドスティック|サイドスティック]]方式である。
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ファイル:747 vs A380, FRA;09.07.2010 (4783442600).jpg|747(左)とA380(右)の比較。操縦室の位置が低いことが分かる。
ファイル:Airbus A380 cockpit.jpg|操縦室内部
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=== エンジン ===
[[ファイル:British Airways Airbus A380-841 F-WWSK PAS 2013 07 Trent 970 engine.jpg|thumb|[[w:Rolls-Royce Trent 900|ロールス・ロイス トレント 900]]の[[ジェットエンジン]]を搭載した[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]のA380]]
2社が製造するエンジンから1種類を選ぶことができる。これらはいずれも主翼下面にパイロンを介して左右に2つずつ合計4基が取りつけられる高バイパス比[[ターボファンエンジン]]である。1つは[[ロールス・ロイス・ホールディングス]]製[[ロールス・ロイス トレント|トレント 900]]、もう1つは[[エンジン・アライアンス]]([[GE・アビエーション|GE]]・[[プラット・アンド・ホイットニー|P&W]]の合弁企業)製[[エンジン・アライアンス GP7000#GP7270 諸元|GP7270]]である。トレント 900はA380が初飛行した時のエンジンであり、最初は数多く販売されたが、その後GP7200の販売も伸びてきており、トレント 900の発注と肩を並べるまでになっている<ref group="注">[[2008年]]2月1日にはテスト機の4つの[[ロールス・ロイス トレント|トレント 900]]エンジンのうち1つに[[GTL]]を含む燃料を使用して、[[イギリス]]の{{仮リンク|ブリストル=フィルトン空港|en|Bristol Filton Airport}}からフランスの[[トゥールーズ国際空港]] ([[:en:Toulouse Blagnac International Airport|en]]) までの約3時間のテスト飛行を成功させている。</ref>。エンジンのメーカー別にA380の型式がロールス・ロイス トレント900シリーズはA380-84X、エンジン・アライアンス GP7200シリーズはA380-86Xと表され区別できる。
着陸滑走時には、ボーイング747などの4発機はエンジン4基全ての[[逆噴射装置]]を使用するが、A380では内側の第2と第3エンジンの2基分のみを使用する。操縦席のリバース操作レバーも、第2と第3エンジンの部分のみである。なお、計画当初A380はブレーキ性能が十分とのことで逆噴射装置を採用する予定はなかった。重量軽減と信頼性向上のため、逆噴射装置では民間機では初となる電気で作動するETRAS (Electrical Thrust Reverser Actuation System) を採用している<ref>Hispano-Suiza and Honeywell Electrical thrust reverser actuation system (ETRAS®)http://www.hispano-suiza-sa.com/spip.php?rubrique48&lang=en</ref>。
低騒音で低二酸化炭素排出量を実現し、世界一運航規制の厳しい[[ロンドン・ヒースロー空港]]でも24時間運用が可能である。このことから広告では「環境にやさしい飛行機」であることを売りにしている<ref group="注">2008年のシンガポール航空ショーでは機体に「Greener.Cleaner.Quieter.Smarter」と塗装し、曲芸時にアピールした。</ref>。
=== タイヤ ===
巨体を支える[[降着装置]]の[[タイヤ]]は、ノーズギア2本、ボディギア12本(6輪ボギー×2)、ウイングギア8本(4輪ボギー×2)の計22本である。なお、ボーイング747のタイヤはノーズギア2本、ボディギア8本、ウイングギア8本の計18本、ボーイング777ではノーズギア2本、ボディギア12本の計14本である。
* タイヤを製造しているのは、[[ブリヂストン]]である<ref>『エアバスA380』40頁、41頁 [[イカロス出版]]より</ref>。初号機にはブリヂストンのタイヤが採用された<ref>{{Cite web|和書|date=2007-10-31|url=http://response.jp/article/2007/10/31/101282.html|title=ブリヂストン、エアバス A380 初号機にタイヤ納入|publisher=[[Response.]]|accessdate=2011-01-10}}</ref>。また、[[エミレーツ航空]]向けの機材には[[ミシュラン]]がタイヤを製造すると報道された<ref>{{PDFlink|[http://www.michelin.co.jp/content/download/3857/141282/version/2/file/081104.pdf ミシュラン該当ページの12ページ目にその記述がある]}}</ref>。
=== 空港の対応 ===
[[航空交通管制]]では[[後方乱気流]]を考慮した飛行間隔を決定する際、[[最大離陸重量]]で区別しており、 通常300,000ポンド(136t)以上をヘビー(Heavy)として扱う<ref>[https://news.mynavi.jp/article/airline-25/ 航空トリビア(25) A380も787-8も同じ大型機!? 大型機・中型機・小型機の正しい基準って?] - マイナビニュース</ref>が、A380の登場によりスーパー(Super)のカテゴリーを新設した{{Sfnp|村山|2018|p=122}}。このため空中で着陸の順番待ちや離陸滑走において747などの従来の大型ジェット機以上に間隔が必要となり、空港の利用効率化にはネックとなる。
[[国際民間航空機関]](ICAO)では、A380型機などの新大型航空機に対応する新たな飛行場等級「コードF」を設定し、滑走路や誘導路など基本施設の整備について細かな基準を設けている。それまでは[[ボーイング747-400]]型機などの大型ジェット機を想定したコードEが最高ランクであった。
旅客取扱施設においては、総2階建てという新型機の特性から、固定ゲートを利用して航空機に搭乗する際の[[ボーディングブリッジ|PBB]](パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ:搭乗橋)の運用が大きな課題となる。エアバス社によれば、現在世界の空港で広く採用されている、1機あたり2本のPBBで十分対応可能であるが、メインデッキ2本使用で140分、アッパーデッキ、メインデッキ各1本、計2本使用で90分のターンアラウンド(便間作業)タイムを設定している<ref>[http://www.airbus.com/content/dam/corporate-topics/publications/backgrounders/techdata/aircraft_characteristics/Airbus-Commercial-Aircraft-AC-A380-Dec-2016.pdf A380マニュアル 170ページ/326ページ TERMINAL SERVICING参照、便間作業ダイヤグラム貼付有、公式英文マニュアル]</ref>。アッパーデッキ1本、メインデッキ2本、計3本のPBBが使用出来れば、さらに乗降に必要な時間や機内清掃など作業時間なども短縮されるため、乗客の利便性がさらに向上するとしている。このほか、ゲートラウンジの拡張や、駐機中の航空機に電気や空調を供給する{{仮リンク|地上動力装置|en|Shorepower}}(GPU)の能力アップなどが必要となる<ref group="注">世界の国際空港の大半はボーイング747-400の乗降に対応できるが、これを上回る大きさであるので空港改修が必要である。その一つとして、2階席もワイドボディ旅客機なみの収容数であるため、空港施設の搭乗橋を増設し、1階席に2口、2階席に1口とする改修がある。ボーイング747も前方が2階建てであるが、2階席は人数はそれほど多くないため1階席2口で処理している。2階席の乗客が1階の乗降口を利用するので、全体としての乗降時間が比較的長くなる。また、単独歩行が困難ないしは不可能な旅客や幼児同伴の旅客などは、階段の昇降を要する2階席の利用は安全上の配慮により認めていない。また、ターミナルビルには対応ゲートを設ける。</ref>。
[[ファイル:Airbus A380-800 of Lufthansa in Frankfurt Germany - Aircraft ground handling at FRA EDDF.jpg|thumb|[[フランクフルト空港]]における[[ルフトハンザドイツ航空]]のA380-841型機の[[グランドハンドリング]]]]
[[日本の空港]]では、[[成田国際空港]]が2020年時点で第1ターミナルビルの15番・26番・45番・46番・54番、第2ターミナルビルの66番、96番<!--準備工事のみ 67番・68番-->が対応している。[[東京国際空港]](羽田空港)は、第3ターミナルの107番スポットが該当する(ただし、混雑する昼間の定期乗り入れは後方乱気流の問題から、[[国土交通省]]は認可しない方針だが、成田空港閉鎖時の代替着陸による緊急運用を見込んでいる<ref>[http://www.aviationwire.jp/archives/125063 なぜA380は羽田に就航できないのか 特集・訪日4000万人達成を考える] Aviation Wire 2017年7月20日付</ref>。詳細は[[羽田空港発着枠]]を参照)。[[関西国際空港]]は第1ターミナル国際線の11番、31番が該当する<ref group="注">{{Cite web|和書|author=新関西国際空港株式会社 広報グループ |date=2014-10-17 |title=A380 アッパーデッキ対応の搭乗橋を関西空港で初めて供用開始!< ニュースリリース |url=http://www.nkiac.co.jp/news/2014/2050/kixa380upperdeck.pdf |publisher=[[新関西国際空港]]株式会社 |format=PDF |accessdate=2020-12-22 }}</ref>。[[首都圏 (日本)|首都圏]]以外でも、2014年11月時点で[[中部国際空港]]、[[新千歳空港]]<ref group="注">これら2空港は、成田・羽田・関西空港のようにアッパーデッキに直接つながる3口搭乗方式のゲートはなく、通常のメインデッキからの2口搭乗方式である。そのため、2階席利用の搭乗客は、前方の座席の場合は前方の階段、後方の座席の場合は最後部の階段を使って搭乗する。</ref>が運用可能空港となっている。但しチャーター便での貨物未搭載、国内短距離飛行による燃料削減などの機体重量制限のうえ滑走路タキシーダウン運用し駐機場周辺支障の少ないオープンスポット限定という変則運用で[[那覇空港]]や[[下地島空港]]でも運航可能となっている。
[[シドニー国際空港]]などではA380に対応するため、地盤を固めたり、ボーディングブリッジを減らしたりなどの処置を行った。そのためスポット運用がぎりぎりになり、他機がスポットが空くのを待つという光景も見受けられた。
また、[[ブラジル]]で[[2014 FIFAワールドカップ]]が開催される際、エールフランスが大会期間中に需要の増加が予想される[[グアルーリョス国際空港|サンパウロ国際空港]]へ同型機の就航を計画していたが、ブラジル政府航空当局が事前に同空港を調査したところ、前述の飛行場等級コードFの規定を一部満たせていない可能性があり、改修工事の目途も立たないことから、当局が大会期間中の同型機の同空港への就航は認可しない方針(大会後改修対応)を明らかにするなど<ref>[http://flyteam.jp/airport/sao-paulo-guarulhos-international-airport/news/article/32228 サンパウロにA380就航はダメ グアルーリョス国際空港が基準満たず]</ref>、充分に対応しきれない空港もある。
A380(その他総2階席を持つ旅客機)を発注する航空会社が増えれば、空港側の施設改修も期待できるが、航空会社側では空港が対応しない限り就航路線が増やせず、空港側も単なる見込みで費用をかけて改修するわけにはいかないため、本機への対応改修を実施するのは、[[国家]]を代表する国際空港や国際線のメインハブ空港に留まっている。A380の登場以降は燃費の良い双発中型機が主流となっており、ボーイングがA380と[[ボーイング777 #777-300ER (77W)|777-300ER]]のギャップを埋めるべく開発した[[ボーイング747-8|747-8]]ですら、発注がないほど低迷していた中、2019年2月になってA380の生産中止を発表した。
生産中止になったことから、今後A380の運用の増加が見込めず、運航効率の良い中小型機やA380のような3クラス500席級の4発エンジン大型機ではなく、B777やA350のような3クラス300~400席級の大型機がトレンドとなっている航空情勢下で、A380を凌駕する超大型旅客機が登場する可能性は極めて低いため、空港側が新たにA380のような超大型機に対応できるように改修する可能性も極めて低い。
=== 日本企業の参加 ===
A380の生産には、日本企業の21社が参加している{{Sfnp|杉浦|2008|pp=161-168}}。
[[2002年]]4月に床下・[[垂直尾翼]]の部材担当として[[東邦テナックス]]、[[ジャムコ]]、[[住友金属工業]]、[[東レ]]の4社が参入、6月に[[三菱重工業]](前・後部カーゴドア)、[[SUBARU]](垂直尾翼前縁・翼端、フェアリング)、[[日本飛行機]]([[水平尾翼]]端)、10月に[[新明和工業]]、[[横浜ゴム]]、[[日機装]]が、[[2003年]]2月に[[横河電機]]、[[カシオ計算機]]、[[牧野フライス製作所]]が、6月に[[ブリヂストン]]、[[三菱レイヨン]]が参加を決定した。とくに日本の[[炭素繊維]]の技術に目が向けられフレームなどの主要な部分に多用されている。
== 派生型 ==
A380は数タイプの派生型([[貨物機]]型、長距離型など)の開発も構想していたが、[[2021年]]で生産中止となったため、実機として運用されたのは旅客仕様基本型のA380-800型の1タイプのみとなった。
=== A380-800型機 ===
旅客仕様の基本型で、2007年10月25日にシンガポール航空が商業飛行を開始した。
{| class=wikitable style="text-align: center;"
|+ 型式名と装備エンジンの一覧
|-
! 機種 !! エンジン !! 型式証明取得
|-
| A380-841 || R-R Trent 970-84/970B-84 || 2006年12月12日
|-
| A380-842 || R-R Trent 972-84/972B-84 || 2006年12月12日
|-
| A380-861 || EA GP7270 || 2007年12月14日
|-
| colspan=6 style="text-align:left; font-size:90%;" |
* 出典:<ref>{{cite web | url = http://www.easa.europa.eu/certification/type-certificates/docs/aircrafts/EASA-TCDS-A.110_Airbus_A380-05-01122009.pdf|format=PDF| title =EASA Type-Certificate Data Sheet (TCDS) A.110 Issue 05.0| publisher = EASA| date=1 December 2009| accessdate=11 April 2011}}</ref><ref name="FAA A380">{{cite web | url = http://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgMakeModel.nsf/0/55dee2ac296beaa58625754c0070d4db/$FILE/A58NM.pdf |format=PDF| title =FAA Type Certificate Data Sheet (TCDS) NO.A58NM Revision 4 | publisher = FAA| date=26 January 2009| accessdate=19 January 2013 }}</ref>
* {{nowrap|R-R}}: [[ロールス・ロイス・ホールディングス|ロールス・ロイス]]、EA: [[エンジン・アライアンス]]
|}
当面はこの型のみの販売・引渡しを行うことにしており、
* 機体重量の軽減
* [[アビオニクス]]の改善(新たに開発される[[エアバスA350 XWB|A350]]との共通性を高めたデザインが予想されている)
* より効率的なエンジンの搭載(これもA350向けに新たに開発されるTrentXWBの装備が考慮されている)
* 最大離陸重量の増加による航続距離の延伸
など、段階的な性能向上プログラムも検討されている。これらの改良を取り入れた第一段階の生産機は2012年頃から納入されると考えられている。この機体は[[エアバス]]社のエンジン換装型新型機プログラムと同様に、A380も[[エアバスA320neo|A320neoやA321neo]]などといった一連の「neoシリーズ」に加わる事となり、「A380neo」として改良が施された新型機となる。[[2016年]]には[[アラブ首長国連邦|UAE]]のエミレーツ航空が、改良機構想の「A380neo」に関する発表を行っており、同社はエンジン換装などが施されない場合でも、アビオニクスを中心とした改良機を追加発注する用意があるとしている。
[[2015年]]6月に2機の発注を検討していることが報道された[[ユナイテッド航空]]も含めると、A380-800型機を導入した航空会社数は世界全体で14社となる。この発注が実現に至った場合、ユナイテッド航空が[[アメリカ合衆国]]の航空会社として初めてのA380-800型機発注となる。アジアでは[[シンガポール共和国]]のフラッグキャリアである[[シンガポール航空]]が、A380シリーズ全体での[[ローンチカスタマー]]として初号機を受領し、[[シンガポール]]発欧米路線やオセアニア路線などで活躍している他、保有機材数としてもアジア地区最多の機数を有している。その他に[[タイ国際航空]]などが、繁盛期ごとの臨時定期便で[[日本国|日本]]の[[成田国際空港]]へ定期乗り入れを行っている。
現状ではエミレーツ航空がA380-800型機の最大の顧客で、[[2016年]][[3月]]には日本の[[スカイマーク]]向けに製造途中だった機材を引き受ける形で2機追加購入する契約を結んでいる。
{{Anchors|A380plus}}
=== A380plus型機(計画) ===
[[ファイル:Airbus A380plus (35273954212).jpg|サムネイル|右|A380plusで構想されていた主翼とウィングレット(モックアップ)]]
基本型の-800型の発展型として開発調査に着手することが発表された初めての型。2017年6月18日(現地時間)にパリ航空ショー2017にて発表されたA380-800型機の効率向上モデル。同航空ショーでコンセプトモデル(既存のA380-800型機に後述の大型ウイングレットをモックアップで装着)が展示され、基本型に比べて効率性と経済性を向上させ、外観ではウィングレットをより大きくし、翼端を上下に分かれる形状に変更したものである(上方に3.5m、下方に1.2mと、上下で4.7mの高さを持つ)。他には翼および空力的観点での見直しも行われ、燃料消費率も最大4%の減少が達成される見込みである。また、機内では2階席への階段やクルーレスト、サイドウォールなどの見直しで、客室をより最適化して基本型よりも最大で80席を増加できるようにしたという(エアバス社では「Cabin enablers」と称している)<ref>[http://www.airbus.com/newsroom/press-releases/en/2017/06/airbus-presents-the-a380plus.html Airbus presents the A380plus]</ref>。具体的には、A380-800型機の標準座席数は4クラス497席であるが「Cabin enablers」を導入すると575席に増加できる。また、最大離陸重量は578トンに増加し、航続距離は300nm(555.6キロ)延長される。最大78席を増席した場合、A380-800型機と同じ航続距離8200nmとなる。さらにエアバス社は、メンテナンス間隔を延長してメンテナンスコストを削減できるとしている。開発が正式決定すれば初のA380発展型となるが、同年11月に最大顧客のエミレーツ航空が提案を受け入れなかったことが明らかになっている<ref>[http://aviationweek.com/commercial-aviation/emirates-dismisses-a380plus-concept-negotiations-continue Emirates Dismisses A380plus Concept As Negotiations Continue]</ref>。2019年2月14日に同社が生産終了を発表したことにより、開発に至ることなく計画で終わった。
{{Anchors|A380-800F}}
=== A380-800F型機(計画) ===
貨物機型も貨物航空会社へ提案されている。貨物機型については重量物が運べないのでそれほどメリットがないとされ、ボーイング社はA380Fより777Fや747-8Fのほうがロスが少ないと説明している。
世界最大の旅客・貨物機だけに貨物容積は広いが、機体の大きさのわりに搭載量は少なく、ノーズ部が開かないため長い貨物が積めず、専用ローダーがないと2階へ搭載できないなど、高速貨物輸送用途でライバルとなる747貨物型に比べると不利な点が多い。747貨物型で出来たことが出来なくなるばかりか、747貨物型では必要なかった設備を新たに用意しなければならないため、経済性には大きく劣り、貨物機としては関心を集めていない。
実際、エミレーツ航空は旅客機としてはA380を発注しているが、貨物機は747-8Fを発注している。また、比較的軽い貨物を扱うFedExとUPS、ILFCはA380-800Fを発注したが、旅客型が何度も納入遅延を起こしたため、貨物型についても納入遅延の懸念から最初にFedExが発注をキャンセルし、続いて2007年3月にUPS(2016年に747-8Fを発注)、ILFCがキャンセルした。このためエアバス社は貨物型のすべての受注を失い、2017年6月現在、試験機を含めて実機は1機も存在せず貨物機の開発は中断している。発注する会社が出てくれば開発は再開される予定であったが、2019年2月14日に同社が生産終了を発表したことにより、開発に至ることなく計画で終わった。
=== ルフトハンザ・テクニークによる貨物型改修 ===
[[2020年]]5月には[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の影響で旅客需要が減少し、貨物需要が増大する中、[[ルフトハンザドイツ航空]]の子会社で航空機の改造やメンテナンスを手掛ける[[:en:Lufthansa Technik|ルフトハンザ・テクニーク]]にA380旅客型を貨物用に改修する依頼があったことが明らかにされた<ref name="forbes_a380_freighter">{{Cite web |url=https://www.forbes.com/sites/willhorton1/2020/05/06/a380-freighter-might-be-more-trouble-than-its-worth-for-covid-19-air-cargo/ |title=A380 Freighter Might Be More Trouble Than It’s Worth For COVID-19 Air Cargo|date=2020-05-06 |accessdate=2020-05-11}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.aircargonews.net/airlines/a380-finally-lands-freighter-role-with-lht-modification/ |title=A380 finally lands freighter role with LHT modification|date=2020-05-07 |accessdate=2020-05-11}}</ref>。顧客(航空会社)名は明らかにされなかったが、後に[[ポルトガル]]の[[ハイフライ航空]]の元シンガポール航空のリースされたA380型機([[機体記号]]9H-MIP)がこの改造対象になっていたと複数のメディアが報じている<ref name="aviationwire_206213">{{Cite web|和書|url=https://www.aviationwire.jp/archives/206213 |title=ハイフライのA380、エコノミークラスを臨時貨物室に 新型コロナで|date=2020-07-08 |accessdate=2020-07-09}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.flightglobal.com/fleets/hi-fly-confirms-lht-oversaw-a380-freighter-conversion/139202.article |title=Hi Fly confirms LHT oversaw A380 freighter conversion|date=2020-07-09 |accessdate=2020-07-09}}</ref>。
既にCOVID-19の影響に対応するため、旅客機の座席に貨物を積載したり<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20200511/k00/00m/020/032000c |title=航空各社、旅客いなくても貨物で収益 客席も活用 背景に貨物運賃高騰|date=2020-05-11 |accessdate=2020-05-11}}</ref>、座席そのものを撤去して貨物を積載したりといった事例は存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://flyteam.jp/news/article/123747 |title=エア・カナダ、旅客機777-300ERを改修 貨物機として運航|date=2020-04-13 |accessdate=2020-05-11}}</ref>。しかし、ルフトハンザ・テクニークによれば、この改修は単に座席の撤去に留まるものではないという<ref name="forbes_a380_freighter" />。
しかし、貨物ドアの設置などは行われないと報じられており、貨物の積載時には旅客用の狭いドアを使用する必要がある。また、2階部分の床板が貨物の重量を想定していないため、貨物機としては問題が多いとの指摘もある<ref name="forbes_a380_freighter" />。
2020年5月19日、ハイフライ・マルタのA380機体記号9H-MIPが5/14~18にかけてポルトガルのベージャ空軍基地から中国の天津、ドミニカのラス・アメリカス空港を経由し世界一周運用で運航された事が発表され、COVID-19対応で中国からドミニカへ約15tの医療用物資を輸送したとされ<ref>{{Cite news|title=ハイ・フライ・マルタA380貨物仕様、4日で世界一周 医療物資を輸送|date=2020-05-27|newspaper=Fly team|url=https://flyteam.jp/news/article/125046|accessdate=2020-11-16}}</ref>、後日このA380が一部座席撤去された機体であることが公表された<ref>{{Cite news|title=ハイ・フライのA380、エコノミー席を取り外して貨物輸送|date=2020-07-08|newspaper=Fly team|url=https://flyteam.jp/news/article/126272|accessdate=2020-11-16}}</ref>。同年11月になりCOVID-19流行により旅客チャーター事業→貨物チャーター事業に機体仕様変更対応したが、それでも超大型機の需要減少により同年末のリース期限をもって返却すると発表されている<ref>{{Cite news|title=ハイフライ、A380退役を決定 コロナでリー延延長せず|date=2020-11-04|newspaper=Fly team|url=https://flyteam.jp/news/article/129119|accessdate=2020-11-16}}</ref>。
=== 計画のみの派生型 ===
以下の派生型はいずれも発注している航空会社がない。2019年2月14日に同社が生産終了を発表したことにより、開発に至ることなく計画で終わった。
* A380-700 (A380の胴体短縮型)
* A380-800C(メインデッキの一部を貨物室としたコンビ型、397席 - 454席)
* A380-800R(A380-800の長距離型。ブリティッシュ・エアウェイズやカンタス航空、シンガポール航空等の超長距離路線向けに提案)
* A380-800S(A380-800の短距離型)
* A380-900 (A380の胴体延長型。標準座席構成で3クラス656席。エミレーツ航空やヴァージン・アトランティック航空などが興味を示していた)
* A380-900S(A380-900の短距離型)
* A380neo(A380の後継機としてエンジン換装などを検討している報道があり、2014年12月にエミレーツ航空の社長が興味を示し<ref>[http://flyteam.jp/news/article/44040 「A380neo 140機を発注する」 エミレーツのティム・クラーク社長] FlyTeam ニュース 2014年12月12日付。</ref>、2023年6月にも改めて開発を求めた<ref>[https://www.flightglobal.com/airlines/clark-reiterates-plea-for-a380neo/153733.article Clark reiterates plea for A380neo] - FlightGlobal・2023年6月16日</ref>)
== 生産終了 ==
前述したように、A380は大きすぎて採算に合う路線が限られていることに加え、双発機の大型化・性能向上などに伴う大型4発機の受注低迷も相まって、2014年・2015年と2年連続して航空会社からの新規受注を1件も獲得できず(受注を獲得できたのはリース会社からのみ)、今後もこの傾向が続くようであれば[[2018年]]にも生産を打ち切る可能性があると示唆していた<ref>[http://flyteam.jp/news/article/44020 大型機にとって受難の時代 A380生産が2018年にも終了する可能性] FlyTeam ニュース 2014年12月11日付</ref>。2016年7月12日には、2018年以降の生産ペースを年27機から12機へ大幅に引き下げると発表した<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160713-00000092-asahi-bus_all エアバス、A380の生産大幅減へ 航空会社の戦略変化]</ref>。
しかし、[[2016年]]5月に世界最大のA380オペレーターであり、104機のA380-800型機を世界各地を結ぶ国際線の主要超大型機材として運航しているエミレーツ航空が、さらに追加発注を行う用意があると報じられた。 [[ロイター通信]]は、エミレーツ航空[[CEO]]の「発注は通算で『確定発注200機以上』になる」とのコメントを紹介しており、すでにエアバス社から計画全体で[[黒字]]達成が発表されているA380プロジェクトをさらに後押しすることになると共に、総二階建機の生産体制が[[2020年代]]まで継続することになった。
一方で、エンジンを一新した「A380neo」の開発も視野に入っており、近い将来、その可否が決定する見込みであった<ref>[http://www.businessnewsline.com/news/201412161052490000.html Airbus: 燃費改良版のA380neoの開発でRolls-Royceと近く合意の見通し]</ref>。上記のような、新世代型の開発の一環として2017年6月に「A380plus」の開発調査を発表。A380plusは燃費を最大4%削減できる新たな大型ウイングレットの搭載、主翼の改良による空力性能向上を実現しており、2017年4月に発表済みの客室改良を合わせて実施すると、既存のA380と比べ、座席当たりのコストを13%削減できると発表していた。A380plusは最大離陸重量を578トンに増加し、従来と同じ航続距離8,200海里で最大80名多く輸送、または航続距離を300海里延伸することができると発表していた<ref name=FlyTeam_20170620>{{Cite news |和書 |date=2017-06-20 |title=エアバス、大型ウイングレットの搭載「A380plus」の開発調査に着手 |url=https://flyteam.jp/news/article/80692 |publisher= |newspaper=FlyTeam |accessdate=2020-12-22 }}</ref>。
また、2017年から比較的機材更新の早いシンガポール航空では一部機材で入れ替えを開始しており、発注残5機を新機内仕様で受領して運用中の5機をリース会社に返却し、残りの保有14機を新機内仕様に改修して、最終的に新機内仕様19機で運用する予定であった<ref name=AviationWire_20171214>{{Cite web|和書|author=Yusuke Kohase |date=2017-12-14 |title=シンガポール航空、機内刷新のA380初号機受領 フルフラットベッドのスイート |url=https://www.aviationwire.jp/archives/136249 |publisher=Aviation Wire株式会社 |work=Aviation Wire |accessdate=2020-12-22 }}</ref>。リース会社は2018年までにシンガポール航空からの退役機の引受先を探していたが交渉は難航しており、少なくとも2機が今後[[部品取り]]のために解体される見込みである<ref name="産経_20180620">{{Cite news |和書 |author=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] Tom Lovell、Benedikt Kammel |date=2018-06-20 |title=「A380」2機、エアバス超大型機お荷物に 利用航空会社決まらず |url=https://web.archive.org/web/20181027061701/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/180620/mcb1806200500006-n1.htm |publisher=株式会社[[産業経済新聞社#産経デジタル|産経デジタル]] |newspaper=SankeiBiz |accessdate=2018-10-27 }}</ref>。
エミレーツ航空から追加受注の可能性があることから当面は生産継続の方針となったが、2019年に入り雲行きが怪しくなり始めた<ref name=Bloomberg_20190201>{{Cite web|和書|author=Benjamin Katz |author2=Layan Odeh |date=2019-02-01 |title=エアバスがA380生産打ち切りも、エミレーツが注文機種変更を検討 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-02-01/PM8VOCSYF01T01 |publisher=ブルームバーグ・エル・ピー |work=Bloomberg |accessdate=2019-02-04 }}</ref>。エミレーツ航空が直近で発注した20機の一部あるいは全てについて、ダウンサイズのA350ファミリーやA330neo等への切り替えを検討していると報じられたためである。
2019年2月には、オーストラリアのカンタス航空が受領待ちとなっていた8機をキャンセルした<ref name=AviationWire_20190208>{{Cite web|和書|author=Yusuke Kohase |date=2019-02-08 |title=カンタス航空、A380残り8機キャンセル 既存機は運航継続 |url=https://www.aviationwire.jp/archives/166133 |publisher=Aviation Wire株式会社 |work=Aviation Wire |accessdate=2019-02-08 }}</ref>。2019年2月14日には、頼みの綱であったエミレーツ航空が発注残のうち39機をキャンセルし、[[エアバスA330|A330-900]] 40機、[[A350-900]] 30機を代替発注することを発表<ref name=AviationWire_20190214>{{Cite web|和書|author=Yusuke Kohase |date=2019-02-14 |title=A380、2021年に生産終了へ エミレーツ航空、39機キャンセル |url=https://www.aviationwire.jp/archives/166681 |publisher=Aviation Wire株式会社 |work=Aviation Wire |accessdate=2019-02-08 }}</ref>、遂にエアバスはA380の生産を2021年で打ち切ると発表した<ref name=AFP_20190214>{{Cite news |和書 |date=2019-02-14 |title=エアバス、超大型機A380の生産打ち切り発表 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3211140 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] |newspaper=AFPBB News |accessdate=2020-12-22 }}</ref>。これにより、A380は旅客基本型の800型の1タイプのみで生産終了することとなり、エアバスが将来に構想していたA380plusやA380-800Fを始めとした派生型は開発されることなく計画のまま終わった。
総純受注数は、2019年3月時点で251機(民間航空会社からの受注分:251機,その他の会社からの受注分:なし)であった。エアバス社は、B747(主に[[ボーイング747-400]])型機に代わる世界のエアラインのフラッグシップとなることで700-750機の受注を目論んでいたが、受注数は目論見からは大きく下回ることとなる<ref group="注">なお、この傾向はライバルのB747も同様で、2006年にローンチしたB747-8はB747-8Fの受注残を製造終了する[[2022年]]には生産が終了すると見込まれている。</ref>。また北米と南米そしてアフリカ大陸の航空会社からの受注は、皆無になる。ただ世界の航空情勢を見ても、双発機へのシフトそしてダウンサイジングという意向を示しており、一部のエアライン(例:エールフランスは2022年までに全機退役を表明<ref>{{Cite web|和書|title=エールフランスのA380、22年退役へ|url=https://www.aviationwire.jp/archives/179904|website=Aviation Wire|accessdate=2021-03-09|language=ja-JP}}</ref>)では放出計画が出ていた。さらに2020年に入り、[[2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|新型コロナウイルスの影響]]により、エールフランスが当初の退役予定の2022年から退役の前倒しを表明<ref name=47news_20200521>{{Cite news |和書 |author=パリ共同通信 |date=2020-05-21 |title=仏航空、超大型機の運航終了 A380、コロナで前倒し |url=https://www.47news.jp/4831777.html |publisher=[[共同通信社]] |newspaper=[[47NEWS]] |accessdate=2020-12-22 }}</ref>、そしてエミレーツ航空も一部のA380の退役を検討し<ref name=Traicy_20200518>{{Cite news |和書 |date=2020-05-18 |title=エミレーツ航空、エアバスA380型機のうち4割の退役を検討か |url=https://www.traicy.com/posts/20200518160107/ |publisher=株式会社トライシージャパン |newspaper=[[Traicy]] |accessdate=2020-12-22 }}</ref>、さらには未受領分のA380もキャンセルの方向でエアバス社との交渉を始めた<ref name=sky-budget_20200521>{{Cite news |和書 |date=2020-05-21 |title=エミレーツ航空、未受領分のA380のキャンセルをエアバスと交渉へ |url=http://sky-budget.com/2020/05/21/emirates-cancel-a380/ |publisher=sky-budget スカイバジェット |accessdate=2020-12-22 }}</ref>。
このように2020年に入ると、2月に起き始めた新型コロナウイルスの世界的な感染も相まって、世界のエアラインがこぞって運航停止を強いられた。その関係でA380最大オペレータであるエミレーツ航空のような最大手航空会社でさえも放出の計画が始まっており、他の世界のA380オペレータも退役の計画(例:ルフトハンザドイツ航空、カタール航空等)を示しており、各航空会社では段々と双発化そしてダウンサイジング(主にB777-300ER/-8X/9X,A350-900/-1000)の風潮が強まっている。その中で欧米No.1規模を誇るエールフランスが当初の予定(2022年)から前倒しして6月26日をもって全機退役、そして奇しくも時期同じくしてエミレーツ航空向けの最終号機となる機首と前部胴体がトゥールーズへ運ばれた<ref name=AviationWire_20200626>{{Cite web|和書|author=Tadayuki Yoshikawa |date=2020-06-26 |title=A380最終号機の機首がトゥールーズ到着 2021年生産完了、エミレーツ向け |url=https://www.aviationwire.jp/archives/205483 |publisher=Aviation Wire株式会社 |work=Aviation Wire |accessdate=2020-12-22 }}</ref>。
2020年9月、最終機の組み立てが完了し、これを以て機体製造は完了となった。2021年度10月16日、書類の上では引き渡したものの受領を保留(エアバス社の工場にて保管)にしていたANA向けの3号機(登録記号:JA383A)が受理され、デリバリーフライトが行われ、日本に到着した<ref>{{Cite news|title=ANAのA380、まつげのあるオレンジ3号機が成田到着 就航は未定|newspaper=Aviation Wire|date=2021-10-16|url=https://www.aviationwire.jp/archives/236739|accessdate=2021-12-17}}</ref>。この引き渡しを以て、エミレーツ航空を除くエアライン向けへの納入は完了となった。同年12月16日、エミレーツ航空向けの最終号機(製造番号:272,登録記号:A6-EVS)が引き渡された。この引き渡しを以て完納となり、14年間の生産に終止符が打たれることとなった。これにより、エアバス社で生産されている民間航空機から四発エンジン機が姿を消すこととなった<ref>{{Cite news|title=A380最終号機、エミレーツ航空に納入 14年で完納|newspaper=Aviation Wire|date=2021-12-17|url=https://www.aviationwire.jp/archives/240965|accessdate=2021-12-17}}</ref>。また、ライバル機種としていたB747(-100型)に比べて30年以上も後に開発された型式であるものの、B747(-8型)に比べて先に生産終了と言う形になった。
{{Anchors|A380-800 date}}
== 仕様(A380-800型機) ==
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| header = 巨大な飛行機の大きさ比較
| header_align = center
| header_background = palegoldenrod
| image1 = Giant planes comparison.svg
| width1 = 300
| caption1 = {{Color|#a4b8e8|■}}[[:en:Boeing 747-8|Boeing 747-8]]([[ボーイング747-8]])<br />{{Color|#e9a4a4|■}}[[:en:Airbus A380#Specifications (A380-800, Trent engines)|'''Airbus A380-800''']](エアバスA380-800)<br />{{Color|#7fdf8a|■}}[[:en:Antonov An-225 Mriya|Antonov An-225 Mriya]]([[An-225 (航空機)|An-225 ムリーヤ]])<br />
{{Color|#d6c35b|■}}[[:en:Hughes H-4 Hercules|Hughes H-4 Hercules]]([[H-4 (航空機)|ヒューズ H-4 ハーキュリーズ]])<br />{{Color|plum|■}}[[:en:Scaled Composites Stratolaunch|Scaled Composites Stratolaunch]]([[スケールド・コンポジッツ ストラトローンチ]])
}}
{{multiple image
|direction = vertical
| header = {{font color|white|A380-800型機<br />519席の座席配置}}
| header_align = center
| header_background = royalblue
|width = 150
|image1 = Airbus A380 seatmap.svg
|caption1 = 1階に[[ファーストクラス|ファースト]]および[[エコノミークラス|エコノミー]]両クラスの331席を配置し、2階に[[ビジネスクラス|ビジネス]]およびエコノミー両クラスの188席を配置している。
}}
{{航空機スペック
|固定翼 or 回転翼?=固定翼<!-- 選択肢: 固定翼/回転翼 -->
|ジェット or プロペラ?=ジェット<!-- 選択肢: ジェット/プロペラ/混載/その他 -->
|出典=
|乗員=2名(操縦士)
|定員=3クラス 525名、モノクラス 853名
|ペイロード SI=66,400 kg
|ペイロード fp=146,387 lb
|全長 SI=73 m
|全長 fp=239 ft 6 in
|スパン SI=79.8 m
|スパン fp=261 ft 10 in
|全高 SI=24.1 m
|全高 fp=79 ft 1 in
|面積 SI=845 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]
|面積 fp=9,100 [[平方フィート|ft<sup>2</sup>]]
|翼型=
|空虚重量 SI=<!-- kg -->
|空虚重量 fp=<!-- lb -->
|運用時重量 SI=276,800 kg
|運用時重量 fp=610,240 lb
|有効搭載量 SI=<!-- kg -->
|有効搭載量 fp=<!-- lb -->
|最大離陸重量 SI=560,000 kg
|最大離陸重量 fp=1,235,000 lb
|その他の諸元=
* '''貨物(-800F型)''': 38 LD3 (Unit Load Device) コンテナ または 13 パレット
|エンジン名(ジェット)=[[ロールス・ロイス・ホールディングス|ロールス・ロイス]] [[ロールス・ロイス トレント|トレント 970]] または [[エンジン・アライアンス]] [[エンジン・アライアンス GP7000|GP 7270]]
|エンジン種類(ジェット)=[[ジェットエンジン|ターボファンエンジン]]<!--ターボジェット/ターボファン/など-->
|エンジン数(ジェット)=4<!--1つなら1と書くこと-->
|推力 SI=311 kN
|推力 fp=69,915 lbf
|推力 original=
|推力 more=
|最大速度 SI=[[マッハ数|マッハ]] 0.89
|最大速度 fp=約1,090 km/h, 589 kt
|最大速度 more=
|巡航速度 SI=マッハ 0.85
|巡航速度 fp=約1,041 km/h, 562 kt
|巡航速度 more=
|失速速度 SI=<!-- km/h -->
|失速速度 fp=<!-- kt -->
|失速速度 more=
|超過禁止速度 SI=<!-- km/h -->
|超過禁止速度 fp=<!-- kt -->
|航続距離 SI=15,200 km
|航続距離 fp=8,200 海里
|航続距離 more=
|フェリーレンジ SI=<!-- km -->
|フェリーレンジ fp=<!-- 海里 -->
|フェリーレンジ more=
|上昇限度 SI=<!-- m -->
|上昇限度 fp=<!-- ft -->
|上昇率 SI=<!-- m/min -->
|上昇率 fp=<!-- ft/s -->
|翼面(円板)荷重 SI=<!-- kg/m<sup>2</sup> -->
|翼面(円板)荷重 fp=<!-- lb/ft<sup>2</sup> -->
|推力重量比= <!--計算して無次元数にする-->
|馬力荷重 SI=<!-- kW/kg -->
|馬力荷重 fp=<!-- hp/lb -->
|最大馬力荷重 SI=
|最大馬力荷重 fp=
|最大推力重量比=
|その他の性能=
* '''巡航高度''': 13,100 m (43,000 ft)
* '''離陸滑走距離'''
** '''トレント 970''': 2,990 m
** '''GP 7270''': 3,030 m
* '''着陸滑走距離''': 2,100 m
|アビオニクス=
}}
{{Clear}}
== 運用状況 ==
下記すべてA380-800(生産は旅客型のみ、2023年現在)<ref>{{Cite web|title=Orders and deliveries|url=https://www.airbus.com/aircraft/market/orders-deliveries.html|website=Airbus|accessdate=2019-10-05|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=Airbus A380 Production List|url=https://www.planespotters.net/production-list/Airbus/A380?refresh=1|website=www.planespotters.net|accessdate=2020-09-23}}</ref>
{| class="sortable wikitable" style="border-collapse:collapse"
!航空会社!!画像!!運航開始年!!引き渡し数!!運用数!!エンジン!!備考
|-
|{{flagicon|Singapore}} [[シンガポール航空]]
|[[ファイル:Singapore_Airlines_Airbus_A380-841;_9V-SKC@HKG;31.07.2011_614sf_(6052911549).jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2007
| style="text-align:right" |24
| style="text-align:right" |15
| style="text-align:right" |トレント900
|2017年12月から未受領5機導入<br>既存5機と入れ替え2018年7月完了<br>COVID-19流行もあり退役9機<br>他15機が2021年末より順次復帰中
|-
|{{flagicon|United Arab Emirates}} [[エミレーツ航空]]
|[[ファイル:Emirates_Airbus_A380-861_A6-EER_MUC_2015_04.jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2008
| style="text-align:right" |123
| style="text-align:right" |119
| style="text-align:right" |GP7200(90)<br>トレント900(33)
| 2020年以降、一部経年機の退役解体を開始<ref>[https://flyteam.jp/news/article/129006 エミレーツ航空、A380で初の退役機]</ref><ref>[https://flyteam.jp/news/article/134750 生まれ変わったA380を所有!!解体したエミレーツ初号機の部品販売へ]</ref><br>2022年に一部客室仕様改修し運用継続の意向<ref>[https://www.aviationwire.jp/archives/258740 エミレーツ航空、A380と777にプレエコ 11月から大規模改修、120機]</ref><br>2032年までに退役見込み<br>[[スカイマーク]]がキャンセルした2機のA380を運用中
|-
|{{flagicon|Australia}} [[カンタス航空]]
|[[ファイル:QANTAS_A380_VH-OQF_4974.jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" | 2008
| style="text-align:right" | 12
| style="text-align:right" | 10
| style="text-align:right" | トレント900
| 2019年1月未受領8機取り消し<br>COVID-19流行により米国内整備待機、2機退役<br>2022年から残10機順次復帰中<ref>[https://flyteam.jp/news/article/134843 カンタス航空のA380、593日ぶりにオーストラリアへ帰還]</ref><br>2033年までに退役見込み
|-
|{{flagicon|France}} [[エールフランス]]
|[[ファイル:Air_France_A380-800(F-HPJD)_(5233706017).jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2009
| style="text-align:right" |10
| style="text-align:right" |全機退役
| style="text-align:right" |GP7200
| 2020年にCOVID-19流行により全機退役を決定<ref>{{Cite web |title=Phase-out of Air France entire Airbus A380 fleet |url=https://www.airfranceklm.com/en/phase-out-air-france-entire-airbus-a380-fleet |website=Air France KLM |date=2020-05-20 |accessdate=2020-09-23 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=仏航空、超大型機の運航終了 A380、コロナで前倒し | 共同通信 |url=https://web.archive.org/web/20200521094155/https://this.kiji.is/635937616522118241 |website=共同通信 |date=2020-05-20 |accessdate=2020-09-23 |language=ja |last=共同通信}}</ref><br>同年6月26日引退フライト実施<ref>{{Cite web|和書|title=エールフランス、A380ラストフライト 11年の歴史に幕 |url=https://www.aviationwire.jp/archives/205561 |website=Aviation Wire |accessdate=2020-09-23 |language=ja-JP}}</ref>
|-
|{{flagicon|Germany}} [[ルフトハンザドイツ航空]]
|[[ファイル:Airbus_A380_(Lufthansa)_(4666628616).jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" | 2010
| style="text-align:right" | 14
| style="text-align:right" | 8
| style="text-align:right" | トレント900
| 6機はエアバスへ売却退役予定<ref>{{Cite web |title=Newsroom |url=https://www.lufthansagroup.com/en/newsroom.html |website=Lufthansa Group |accessdate=2020-09-23 |language=en |first=Lufthansa |last=Group}}</ref><br>残り8機も当初退役見通し<ref>{{Cite news|title=ルフトハンザ、4発機は747-8Iのみ運航継続 A380は退役|date=2021-03-05|newspaper=FLy Team|url=https://flyteam.jp/news/article/131462|accessdate=2021-03-06}}</ref>であったが、<br>更新機材計画遅延や急速な需要回復のため<br>2023年から順次復帰中で<ref>[https://www.aviationwire.jp/archives/253882 ルフトハンザ、A380を23年夏に再就航 777X納入遅延も影響]</ref>、<br>2024年には8機再稼働見込み
|-
|{{flagicon|China}} [[中国南方航空]]
|[[ファイル:B-6136_-_A380-841_-_China_Southern_Airlines_-_HKG_(9738813669).jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2011
| style="text-align:right" |5
| style="text-align:right" |全機退役
| style="text-align:right" |トレント900
| 2022年に全機退役<ref>{{Cite web|和書|title=中国南方航空A380、年内に完全退役 退役機の解体はじまる {{!}} FlyTeam ニュース |url=https://flyteam.jp/news/article/136025 |website=FlyTeam(フライチーム) |accessdate=2022-03-12 |language=ja}}</ref>
|-
|{{flagicon|South Korea}} [[大韓航空]]
|[[ファイル:HL7613_A380_Korean_Airlines_(7567522426).jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2011
| style="text-align:right" |10
| style="text-align:right" |10
| style="text-align:right" |GP7200
| [[仁川国際空港]]にて整備待機中、2022年から一部運用復帰<br>2026年以降全機退役見込み<ref>[https://flyteam.jp/news/article/133948 大韓航空、A380は5年程度運用 747-8は10年程度]</ref>
|-
|{{flagicon|South Korea}} [[アシアナ航空]]
|[[ファイル:Asiana_Airlines,_Airbus_A380-800_HL7635_NRT_(18795248805).jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2014
| style="text-align:right" |6
| style="text-align:right" |6
| style="text-align:right" |トレント900
| [[仁川国際空港]]にて整備待機中、2022年から一部運用復帰<br>EAエンジンを運用する[[大韓航空]]に吸収合併されることに伴い早期退役見込み
|-
|{{flagicon|Malaysia}} [[マレーシア航空]]
|[[ファイル:Malaysia_Airlines_A380-841_(9M-MNA)_pushback_at_London_Heathrow_Airport.jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2012
| style="text-align:right" |6
| style="text-align:right" |全機退役
| style="text-align:right" |トレント900
| 2020年以降全機の売却先を募集<br>(売却まではハッジフライトで臨時運用)<br>2022年にエアバス社がA350導入と引き換え下取り<ref>{{Cite web|和書|title=行き場を失ったマレーシア航空 A380、2022年中にエアバス引き取りへ {{!}} FlyTeam ニュース |url=https://flyteam.jp/news/article/137732 |website=FlyTeam(フライチーム) |access-date=2022-10-08 |language=ja}}</ref>
|-
|{{flagicon|Thailand}} [[タイ国際航空]]
|[[ファイル:Airbus_A380-800_Thai_AW_(THA)_F-WWSE_-_MSN_122_-_Will_be_HS-TUD_-_Named_Phayuha_Khiri_(10295501225).jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2012
| style="text-align:right" |6
| style="text-align:right" |
| style="text-align:right" |トレント900
| COVID-19の影響で経営破綻したため、2020年に全機タイ国内整備保管<br>(新規他機種購入担保としてエアバス下取り見込み)
|-
|{{flagicon|United Kingdom}} [[ブリティッシュ・エアウェイズ]]
|[[ファイル:British_Airways_A380-800_F-WWSC_(1).jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2013
| style="text-align:right" |12
| style="text-align:right" |12
| style="text-align:right" |トレント900
| COVID-19流行により整備保管後、2021年末から復帰<br>2027年までメンテナンス契約延長済み<ref>[https://www.aviationwire.jp/archives/232385 BA、A380整備契約延長 ルフトハンザ・テクニークと]</ref><br>2026年以降に777-9で機材更新予定
|-
|{{flagicon|United Arab Emirates}} [[エティハド航空]]
|[[ファイル:Etihad_Airways_Airbus_A380-861_at_Finkenwerder.jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2014
| style="text-align:right" |10
| style="text-align:right" |6
| style="text-align:right" |GP7200
|COVID-19流行により [[アブダビ国際空港]]にて整備保管、4機退役<br>2023年夏から復帰予定<ref>[https://flyteam.jp/news/article/138148 エティハド航空、A380復活!2023年夏から4機]</ref>
|-
|{{flagicon|Qatar}} [[カタール航空]]
|[[ファイル:A7-APB_Qatar_Airways_Airbus_A380-861_lining_up_on_Runway18_for_departure_to_Doha_@_Frankfurt_Rhein-Main.jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2014
| style="text-align:right" |10
| style="text-align:right" |10
| style="text-align:right" |GP7200
| 2024年から段階的に退役見込み<br>2021年にA350塗装剥離問題により一部機体が復帰<ref>[https://flyteam.jp/news/article/134354 カタール航空、A380を11月にも復帰 A350の運航停止が影響]</ref><br>A350問題和解により順次退役見込み
|-
|{{Flagicon|MLT}} [[ハイフライ・マルタ]]
|[[ファイル:9H-MIP@TSN_(20200515140112).jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2018
|
| style="text-align:right" |リース満期返却
| style="text-align:right" |トレント900
| 元SQの9V-SKCを[[ハイフライ航空|ハイフライグループ]]へリース<ref>{{Cite web|和書|title=機体記号 : 9H-MIP (ハイ・フライ・マルタ) 航空機体ガイド |url=https://flyteam.jp/registration/9H-MIP |website=FlyTeam(フライチーム) |accessdate=2020-09-23}}</ref><br>COVID-19流行により一部座席を撤去し貨物仕様へ改修も<br>2020年末リース期限をもって返却<ref>{{Cite news|title=ハイフライ、A380退役を決定 コロナでリース延長せず|date=2020-11-04|newspaper=Fly team|url=https://flyteam.jp/news/article/129119/43860|accessdate=2020-11-16}}</ref>
|-
|{{flagicon|Japan}} [[全日本空輸]]
|[[ファイル:Airbus A380 ANA (Lani Livery) F-WWSH.jpg|フレームなし|200x200ピクセル]]
| style="text-align:right" |2019
| style="text-align:right" |3
| style="text-align:right" |3
| style="text-align:right" |トレント900
|[[成田国際空港|東京/成田]] - [[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]線専用機材、愛称'''「FLYING HONU」'''<br>2020年からCOVID-19の影響で一時運休整備保管<br>2022年7月より一部運航再開<ref name="名前なし-pQbO-1" /><br>3機目は引渡先送り後減価償却対策のため、2023年10月20日より就航
|-
|{{flagicon|United Kingdom}} [[グローバル・エアラインズ]]
|
| style="text-align:right" |2024<br>(予定)
| style="text-align:right" |1(+3)
| style="text-align:right" |
| style="text-align:right" |トレント900
| ハイフライグループがリースした9H-MIPを購入<br>就航までに3機追加購入予定<ref>[https://trafficnews.jp/post/126124 時代に逆行!? あえて「世界最大の旅客機を主力機」にする新航空誕生か? どんな戦略なのか]</ref><br>(全機元シンガポール航空中古機見込み)
|-<!--
|- style="background: #EFEFEF" class="sortbottom"
! colspan="2" | 合計
! 251
!
!
! -->
|}
=== 取消顧客 ===
A380-800F(貨物機型)も含む(2019年現在)
* {{Flagicon|Réunion}} [[エール・オーストラル]]<ref name="broomberg160411" />
* {{Flagicon|India}} [[キングフィッシャー航空]](倒産)
* {{Flagicon|Japan}} [[スカイマーク]]<ref name="nikkei140729" /><ref name="sky140729" />
* {{Flagicon|Hong Kong}} [[香港航空]]
* {{Flagicon|Russia}} [[トランスアエロ航空]](倒産)
* {{Flagicon|Iran}} [[イラン航空]]<ref>{{Cite web|和書|title=イラン航空、超大型機A380購入を見送り-エアバスへの発注削減|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2016-12-18/OIELHP6JTSE801|website=Bloomberg.com|accessdate=2020-09-23|language=ja}}</ref>
* {{Flagicon|Saudi Arabia}} [[キングダム・ホールディング・カンパニー]]<ref group="注">サウジアラビアのアル・ワリード王子が運営する同国最大の会社で、公的な持株会社。</ref>
* {{Flagicon|USA}} [[フェデックス・エクスプレス]]
* {{Flagicon|USA}} [[インターナショナル・リース・ファイナンス|ILFC]]<ref group="注">航空機リース会社。</ref>
* {{Flagicon|USA}} [[ユナイテッド・パーセル・サービス#航空部門|UPS航空]]
* {{Flagicon|UK}} [[ヴァージン・アトランティック航空]]
{{main|en:List of Airbus A380 orders and deliveries}}
== 事故・故障・事件 ==
{{Anchors|事故|故障|事件}}
2021年現在、機体損失事故および死者・負傷者を伴う事故は発生していない。
* [[2009年]][[8月21日]]、[[シンガポール航空]]のA380が香港国際空港を離陸直前に故障のため、17時間後に再離陸した。
* [[2009年]][[9月29日]]、[[シンガポール航空]]のA380が[[パリ]]の[[シャルル・ド・ゴール国際空港]]を離陸2時間45分後にエンジン(Trent 900)故障のため、パリに引き返した。
* [[2010年]][[11月4日]]、[[カンタス航空]]のA380-842型機(機体記号VH-OQA)がシンガポールからシドニーへ向けて飛行中、左翼内側の第2エンジンが一部破損し[[シンガポール・チャンギ国際空港]]に緊急着陸した。乗客440名・乗員29名の計469名とエンジンの破片が直撃した民家の住民に負傷者はいなかった。この時、燃料系統とブレーキ系統それぞれの約半分が故障し、空中で燃料を投棄できず、ブレーキも不十分な状態に陥っていた。原因はエンジンの製造ミスによって生じた金属疲労により破断したパイプからオイルが漏れて爆発炎上したためであった。なお、この事故を受け、同社が当時運航している事故機を含めた6機全てが一時的に運航を停止した<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-04|url=http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-17999820101104|title=豪カンタスがエンジントラブルでA380型運航停止、シンガポール航空などは継続|publisher=ロイター|accessdate=2011-01-09}}</ref>。
{{Main|カンタス航空32便エンジン爆発事故}}
: また、[[シンガポール航空]]も保有する11機全ての運航を見合わせた。エンジンを供給するロールス・ロイス社とエアバス社の要請によるものである<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-04|url=http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101104/asi1011042312005-n1.htm|title=A380の運航見合わせ シンガポール航空|publisher=MSN産経ニュース|accessdate=2011-01-09}}</ref>。翌11月5日、シンガポール航空の保有分11機に関しては、全機が安全であることが確認され、同社分に関しては運航が再開された<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-05|url=http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPnJS877872220101105|title=シンガポール航空、A380型機の運航を再開|publisher=ロイター|accessdate=2011-01-10}}</ref>。
: 一方で同11月5日、[[ルフトハンザドイツ航空]]が、この事故を受けて同日の成田発フランクフルト行の便をエンジン検査のため欠航とした<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-05|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201011/2010110500438|title=成田発ルフトハンザ便が欠航|publisher=時事ドットコム|accessdate=2011-01-09}}</ref>。カンタス航空の保有分に関しては、安全点検を受け問題の有無を確認した<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-05|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201011/2010110500420|title=点検で問題なければ運航再開へ=豪カンタス航空|publisher=時事ドットコム|accessdate=2011-01-09}}</ref>。同年11月27日から運航再開となった<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-23|url=http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101123/asi1011231210003-n1.htm|title=カンタスがA380の運航再開|publisher=MSN産産経ニュース|accessdate=2011-01-09}}</ref>。
* [[2011年]][[4月11日]]午後8時25分、[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]にて滑走路へタクシング中の[[エールフランス]]7便(エアバスA380・機体記号F-HPJD)の左側主翼端が、駐機場にいた[[コムエアー]]6293便([[ボンバルディア CRJ#CRJ700|ボンバルディアCRJ-700]]・機体記号N641CA)の[[垂直尾翼]]に接触した<ref name="NSTB110412">{{Cite web|date=2011-04-12|url=http://www.ntsb.gov/Pressrel/2011/110412.html|title=NTSB INVESTIGATING WING CLIPPING INCIDENT AT JFK AIRPORT|publisher=National Transportation Safety Board|accessdate=2011-04-14}}</ref>。A380のウイングチップとCRJ-700の垂直尾翼が破損<ref name="NSTB110412"/>。負傷者は報告されていない<ref name="NSTB110412"/>。
* [[2014年]][[7月2日]]、[[カンタス航空]]94便[[ロサンゼルス国際空港]]発[[メルボルン空港 (オーストラリア)|メルボルン空港]]行で、離陸から約1時間後、水を流す配管から漏れ出した水により2階部分で大量の水漏れが発生、1階にも降り注ぐ事態となり、出発地のロサンゼルス国際空港に引き返した<ref>{{Cite web|和書|date=2014-07-03|url=http://www.cnn.co.jp/business/35050320.html|title=A380機で大量の水漏れ、通路が「川」に 豪カンタス|newspaper=CNN.co.jp|publisher=Turner Broadcasting System, Inc.|accessdate=2014-07-03}}</ref>。
* 2014年12月5日、離陸のため滑走路に向かい始めた[[大韓航空]]86便(機体番号HL7627)にファーストクラスの乗客として乗っていた同社副社長[[趙顕娥|チョ・ヒョナ]]が、客室乗務員の対応にクレームをつけた上、機を搭乗ゲートに引き返させて機内サービス責任者を降機させた。ナッツをきっかけにして暴言を吐き、引き返し(ランプリターン)をしたため、しばしば短く「ナッツリターン」と呼ばれている。{{main|大韓航空ナッツ・リターン}}
* [[2017年]][[9月30日]]、[[パリ=シャルル・ド・ゴール空港|パリ]]発ロサンゼルス行きの[[エールフランス]]66便、A380-861型機(機体記号F-HPJE)が、大西洋上[[グリーンランド]]西の上空を飛行中、4発ある[[エンジン・アライアンス]]社製[[エンジン・アライアンス GP7000|GP7270]]エンジンのうち、右翼の第4エンジンが爆発し、残り3発のエンジンで1時間ほど飛行を続け、[[カナダ]]東部の{{仮リンク|グースベイ空軍基地|en|CFB Goose Bay}}に15時42分(GMT)へ緊急着陸した。同機には24人の乗組員と496人の乗客が乗っていたが、怪我人などはなかった<ref>{{Cite web|date=2017-10-01|accessdate=2017-10-01|url=http://www.bbc.com/news/world-europe-41454712|title=Air France plane engine fails over Atlantic}}</ref><ref>[http://www.aviationwire.jp/archives/130809 エールフランスのA380、エンジン損傷し緊急着陸 LA行きAF66便] - Aviation Wire(2017年10月2日 07:37 JST版)2017年10月5日閲覧</ref><ref>[https://jp.reuters.com/article/paris-airbus-investigation-idJPKCN1C903L エアバス超大型機A380のエンジン爆発事故、仏当局が調査主導へ] - [[ロイター]](2017年10月4日 / 10:36版)2017年10月5日閲覧</ref>。エールフランスは代替着陸した乗客輸送のため[[ボーイング777#777-300ER (77W)|ボーイング777-300ER]]型機(自社機:機体記号F-GZNO:旅客定員472名)、別途[[ボーイング737]]型機(リースチャーター機)も派遣し輸送した<ref>[http://flyteam.jp/news/article/84896 エールフランス航空のAF66便、第4エンジン破損でカナダに緊急着陸]</ref>。事故機は2017年12月6日までに現地にて第4エンジンを換装し、4基のエンジンでAF371V便としてパリへ空輸され、2018年1月15日から営業運航便AF990便パリ発ヨハネスブルグ行きで運用復帰している<ref>[https://blog.flightradar24.com/blog/air-france-flight-af66-suffers-engine-failure-over-greenland/ Air France Flight AF66 Suffers Engine Failure over Greenland]</ref><ref>[https://www.planespotters.net/airframe/Airbus/A380/F-HPJE-Air-France F-HPJE Air France Airbus A380-800]</ref>。{{main|エールフランス66便エンジン爆発事故}}
== 競合機種 ==
* [[ボーイング747-400]]
* [[ボーイング747-8]]
* [[ボーイング777 #777-300ER (77W)|ボーイング777-300ER]]
* [[ボーイング777X|ボーイング777-8X/-9X]](開発中)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="名前なし-pQbO-1">[https://www.traicy.com/posts/20220510240015/ ANA、エアバスA380型機「フライングホヌ」の運航再開を正式発表 成田〜ホノルル線に7/1から週2便] ({{date|2022-05-10|ymd}})</ref>
}}
== 参考文献 ==
* <!--あおき-->{{Cite book |和書 |author=青木謙知|authorlink=青木謙知 |date=2011-11-24 |title=図解 ボーイング787 vs. エアバスA380 {{small|新世代旅客機を徹底比較}} |publisher=[[講談社]] |series=[[ブルーバックス]] B-1748 |ref={{SfnRef|青木|2011}} }}{{small|{{ISBN2|4-06-257748-8}}、{{ISBN2|978-4-06-257748-9}}、{{oclc|763157065}}。}}
* <!--すぎうら-->{{Cite book |和書 |author=杉浦一機 |date=2008-03-12 |title=超巨大旅客機エアバス380 |publisher=[[平凡社]] |series=[[平凡社新書]] 413 |ref={{SfnRef|杉浦|2008}} }}{{small|{{ISBN2|4-582-85413-3}}、{{ISBN2|978-4-582-85413-8}}、{{oclc|676561934}}。}}<!--※書籍名は「…エアバスA380」ではなく「…エアバス380」です。正誤いずれも出典に用いられていました(2020年12月22日改訂)。以後はご注意を。-->
* <!--むらやま-->{{Cite book |和書 |author=村山哲也 |date=2018-12-15 |title=クローズアップ!航空管制官 航空安全の守護神、その実像に迫る! |publisher=[[イカロス出版]] |series=きらきらキャリアBOOKS |ref={{SfnRef|村山|2018}} }}{{small|{{ISBN2|4-8022-0624-0}}、{{ISBN2|978-4-8022-0624-2}}、{{oclc|1083618589}}。}}
<!--※以下は著者が法人。今は無し。-->
<!--※雑誌等-->
* <!--イカロス-->{{Cite journal |和書 |date=2017-03-30 |title=エアライン 2017年5月号 |edition=月刊版 |publisher=イカロス出版 |journal=[[エアライン (雑誌)|エアライン]] |volume=2017年5月号 |issue= |asin=B06XG6P8MK |pages=75 |ref={{SfnRef|『エアライン 2017年5月号』}} }}
* <!--ぶんりんどう-->{{Cite journal |和書 |date=2019-03-20 |title=航空ファン 2019年5月号 |url= |publisher=[[文林堂]] |journal=[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]] |volume=2019年5月号 |issue=通巻797号 |asin= |pages=62-65 |ref={{SfnRef|『航空ファン 2019年5月号』}} }}
** {{Wikicite |ref={{SfnRef|青木|2019}} |reference=[[青木謙知]]「超大型旅客機の終焉とA380の"残したもの"」}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[ボーイングとエアバス]]
* [[旅客機の構造]]
* [[旅客機のコックピット]]
* [[リチャード・ブランソン]]
* [[KR-860 (航空機)]]
* [[マクドネル・ダグラス MD-12]]
* {{Portal-inline|航空}}
== 外部リンク ==
* {{Wikicite |ref={{SfnRef|official}} |reference={{Official website|www.airbus.com|Airbus}} (official website)}}{{en icon}}
** {{Cite web|和書|title=日本におけるエアバスエア |url=https://www.airbus.com/company/worldwide-presence/japan/japan-jp.html |publisher=エアバス・ジャパン株式会社 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2020-12-22 |ref={{SfnRef|official-ja}} }}
** {{Cite web |title=A380 |url=https://www.airbus.com/aircraft/passenger-aircraft/a380.html |accessdate=2020-12-22 |ref={{SfnRef|official-A380}} }}{{en icon}}
* {{Cite web|和書|title=エアバスA380 |url=https://kotobank.jp/word/エアバスA380-156545 |author=『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』|publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2020-12-22 |ref={{SfnRef|kb}} }}
* [https://www.google.co.jp/maps/@25.2429109,55.3720675,3a,82y,201.76h,76.96t/data=!3m7!1e1!3m5!1s74aFKFRGWxkAAAQIt3wicw!2e0!3e2!7i13312!8i6656 Emirates Airbus A380-800] - [[Google ストリートビュー]]
* {{YouTube|_gqWeJGwV_U|Airbus A380 Evacuation Test}} - エアバス社によるA380の使用可能非常口半数90秒脱出テスト(Discovery Channel){{リンク切れ|date=2020年12月22日}}
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ブラックジャック
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ブラックジャック(英語: Blackjack)は、トランプを使用するゲームの一種。カジノで行われるカードゲームではポーカーやバカラと並ぶ人気ゲームである。カードの合計点数が21点を超えないように、プレイヤーがディーラーより高い点数を得ることを目指す。バカラやおいちょかぶと似たスタイルのゲームである。
ポントゥーン(pontoon)や21(twenty-one)という別名もある。
イギリスにはクレイジーエイトの系統でブラックジャック(Black Jack)というゲームがあるが、ルールは全く別である。
もとは21という名前で、その起源は不明である。ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテスは賭博も行っており、著書『Rinconete y Cortadillo(スペイン語版)』作中の主要人物であるイカサマ師コンビにイカサマを仕掛けさせている。この作品では、スペイン語で21を意味するveintiunaという名前が確認できる。
ブラックジャックという呼び名には諸説ある。アメリカでのローカルルールとして、黒いシンボルのクラブもしくはスペードのジャック、そしてスペードのエースからなる役を「ブラックジャック」と呼びボーナスが付くようにしていたという説。そしてフランスの歴史家Thierry Depaulis(英語版)は、それが誤りでクロンダイク・ゴールドラッシュの採掘者たちが遊んでいた時に、彼らがブラックジャックと呼んでいた金を含む閃亜鉛鉱にちなんで付けたという説を唱えた。
プレイヤーはディーラー(胴元)との間で1対1の勝負を行う。つまり、プレイヤーが複数いる場合には、ディーラーは複数のプレイヤーと同時に勝負をすることになる。
各プレイヤーの目標は、21を超えないように手持ちのカードの点数の合計を21に近づけ、その点数がディーラーを上回ることである。
手の中のカードの点数は、カード2~10ではその数字通りの値であり、また、絵札であるK(キング)、Q(クイーン)、J(ジャック)は10と数える。A(エース)は、1と11のどちらか、都合のよい方で数えることができる。
各プレイヤーが初めの賭け(ベット)を終えると、ディーラーはカードを自分自身を含めた参加者全員に2枚ずつ配る。ディーラーの2枚のカードのうちの1枚は表向き(アップカード)にされ、皆が見ることができる。もう1枚のカードは伏せられている。伏せられたカードをホールカードと呼ぶ。プレイヤーの行動が全て終わった時点ではじめてディーラーの2枚目のカードが表向きにされる。
プレイヤーのカードはカジノによって表向きの場合と裏向きの場合があるが、現在主流になっている6デッキ以上を利用するルールにおいてはフェイスアップで配られることが通例である。この時点で、プレイヤーが21(1枚は10、J、Q、Kのうちのどれかで、もう1枚はAという組み合わせの場合のみ可能)であれば「ナチュラル21」又は「ナチュラルブラックジャック」と呼ばれ、ディーラーが21でなかった場合には、ベットの2.5倍の払い出しを受ける。
プレイヤーとディーラー、双方がナチュラル21の場合には引き分けとなる。プレイヤーがナチュラル21にならず、ディーラーがナチュラル21の場合には自動的にプレイヤーの負けとなる。
次のステップでは、プレイヤーはヒットまたはスタンドの選択を行う。ルールによっては、ヒットとスタンド以外にも追加のルールを採用しているところもある(下記「特別ルール」参照)
プレイヤーは21を超えなければ何回でもヒットすることができる。21を超えてしまうことをバスト(bust)と呼び、直ちにプレイヤーの負けとなる。プレイヤーが全員スタンドするとディーラーは自分のホールカードを開く。
ディーラーは、自分の手が17以上になるまでカードを引かなければならず、17以上になったら、その後は追加のカードを引くことはできない(初めから17以上の場合もカードを引くことができない)。ディーラーが21を超えた場合には、バストしなかったプレイヤーは全員勝利である。プレイヤーとディーラーが同じ点数の場合には引き分けとなる。但しディーラーがソフト17(Aが含まれておりそのAを11と数えた上で合計が17の場合)ではヒットするカジノもある(その場合でもソフト18、ハード17ではスタンドとなる)。
一見すると、選択肢の多いプレイヤー側に有利かのように見えるゲームだが、2枚配られた時点でハード12以上のときにもう1枚カードを引く場合は常にバストの可能性がある、両者バーストした場合プレイヤーの敗北となる、等のルールにより実はプレイヤー側が不利といえる。
カジノによってはヒットとスタンド以外の選択肢が用意されている場合がある。いずれの特別ルールもプレイヤーを助けるものであるため、これらを採用する代わりにプレイヤーがブラックジャックで勝利した場合の配当を2.2倍に引き下げている場合や、最低賭け単位(ミニマムベット)が高額の台のみこれらのルールを採用するカジノもある。
以下の項目は実際にブラックジャックを行う上での超簡単なストラテジーである。これらの事項を守ることで、カジノの控除率を1%以下にすることが出来る。但し、この目安は常にシャッフルされた直後の新しいデッキを使用していることを前提に設定されており、更に高度な戦略を用いることで控除率をさらに低くすることも可能である。なお、ディーラーの手はアップカードが2~6のときは弱い、7~Aのときは強いとしている。
ほとんどのカジノのゲームは、長期的にはカジノ側がプレイヤーよりも統計的に有利になるようにできている。その中でブラックジャックはプレイヤー側の選択の幅が大きく、「基本戦略(Basic Strategy)」と呼ばれる統計学的に最適な行動をとることによりカジノの優位をおおいに縮小することが出来る。細かいルールの相違にもよるが、基本戦略に従った場合、カジノの控除率は0.0%~0.6%程度である。稀ではあるが「基本戦略」のみでプレーした場合にも、プレイヤー側が有利となるルールが提供された例もある。
以下の戦略表はプレイヤーの手(ハンド)およびディーラーの表向きのカード(フェイスアップカード)に基づいて、プレイヤーの最適な行動を決定するものである。ただし、カジノのルールや使用するデッキの数などにより影響を受けるため、すべての場合で最適なわけではない。また、この基本戦略の期待値は他のカード(現在ゲームに使われていない状態のカード)がすべて山に残っていることが前提であり、例えばエースがすべて見えてしまっている状態で、10点の手をダブルダウンすることは好ましくない。
ただし、基本的な4デッキ以上、ディーラーのソフト17はスタンド、ラスベガスルールの場合である。
S:スタンド、H:ヒット、D:ダブルダウン(できない場合はヒット)、D(S):ダブルダウン(できない場合はスタンド)、R:サレンダー(できない場合はヒット)
〇:スプリットする、×:スプリットしない(ハードのトータルの場合に従う)、△:スプリット後のダブルダウンの可否で異なる(可能ならばスプリットし、不可能ならばしない)
太字は超簡易版ストラテジーと共通なので必ずそのアクションを行うこと。細字は覚えきれない場合や気分次第で括弧内のアクション(超簡易版ストラテジー)でも良い。
*スプリットできない場合。通常はスプリットする。
*ルールによっては7,7,7の21で配当が跳ね上がる場合があるため、ダブルダウンの選択肢もある。
カジノやゲーム規制当局が引用するブラックジャック ゲームのハウス エッジの見積もりは、プレーヤーが基本的な戦略に従うという前提に基づいています。
ほとんどのブラックジャック ゲームには 0.5% から 1% のハウス エッジがあり、ブラックジャックはプレーヤーにとって最も安価なカジノ テーブル ゲームの 1 つです。 無料のマッチ プレイ バウチャーや 2 対 1 のブラックジャック ペイアウトなどのカジノ プロモーションにより、プレイヤーは基本戦略から逸脱することなくアドバンテージを得ることができます。
基本戦略は、デッキが全て残っていることを前提としたものである。しかし、カウンティング対策をしないカジノでは配り終わったカードは元に戻さずにディスカードトレーと呼ばれるトレーにそのまま置いておく。通常、シューと呼ばれる複数セット(デッキ)の塊を用い、この手順によって複数回のゲームを進行する。シャッフルしないカジノでは一つのシューにおけるゲームのある時点で残っているカードにはばらつきが生じる。情報理論的表現をすれば、シューは記憶のある情報源である。従って、残りカードの組み合わせによって、プレイヤーが有利になっている状態が生じる。ここが、無記憶情報源であるサイコロを用いたクラップスやルーレット等のカードを用いないカジノゲームとの大きな相違点である。
残りデッキに、10点やAのカードが多く残っている場合にはプレイヤー有利、4,5,6等のカードが多く残っている場合にはディーラー有利になることが多いことがシミュレーション及び理論解析によって確かめられている。また、基礎戦略とは異なるプレーが最適となるケースが出てくる。説明のため、非常に人工的な2つの状況を述べる。
上記の3例のような非常に単純な状況であれば、プレイヤーが有利かどうかの判断、最適戦術の判断を即座に判断出来る。しかし、より一般的な状況においては、まず配られたカードを全て記憶することは非常に難しい。また仮に、残りのカード状況を完璧に把握していたとしても、プレイヤーが有利かどうか、どのような戦略を取るべきかを計算するためには、考えられる全ての場合について確率を数え上げる必要が出てくるので、これを人間の頭で計算することは非常に難しい。このように、残りカードに応じてプレイヤーの有利不利や最適な戦略を『近似的に』判断することが可能となる。これがカードカウンティング(card counting)と呼ばれている手法である。
代表的なカウンティング手法であるHi-Loをここに示す。まずシューの配り始めにおける、カウント値を0とする。カードが開かれていくのに合わせて
というルールに従ってカウントを増減させていく。ここで、そのカウントがある一定の閾値を越えれば、プレイヤーに有利であると判断しベットを増やし積極的なプレイを行い、逆に、ある閾値以下であればプレイヤー不利判断し、ベットを減らし消極的なプレイを行う。また、戦略変更(strategy change, index change とも; 基本戦略からの逸脱)も、このカウント値に基づいて行う。但し、同じカウント値であっても、残りのカード枚数が少ない方が、よりカードが偏っていると考えられるので、上述のカウント値を残りのカードの枚数(あるいはデッキ数)で割って正規化した「トゥルーカウント(true count)」を用いることが行われる。
このようなカウンティングを利用することで、総合的にプレイヤーが有利に戦える可能性が出てくる。カウンティングはあくまで近似的な手法であるため、厳密な計算を行った場合には、カウントが大幅にプラスになっていてもプレーヤーが不利な状況や、逆にカウントがマイナスでもプレイヤーが有利な状況もありえる。例えば、上記例1では残りカードが全て8だということは、その時点で-1と数えるカードも+1と数えるカードも出尽くしてしまっている訳であるから、カウントの値も0に戻っている。従ってカウント値からは、この状況は有利でも不利でもないと判断される。にもかかわらず実際には、圧倒的にプレイヤーが有利な状況となっているのであるから、この場合、Hi-Loカウントは「誤判断」を行っている訳である。
そこで、カウンティングの効率の指標として、厳密に有利な状況を、有利であると判定する確率が考えられる。これがベッティングコリレーション(Betting Correlation)またはBetting Efficiencyと呼ばれるものである。上記Hi-Loと同等レベルの複雑さをもつカウンティング手法においては、ベッティングコリレーションは90%以上の高い精度を示す。即ち、プレイヤーの有利不利をかなりの高確率で判断する性能がある。
一方、あるカウンティングが正しいプレーを指摘する確率はプレーイングコリレーション(Playing Correlation)またはPlaying Efficiencyと呼ばれる。プレーイングコリレーションは通常あまり高くなく、70%程度が限界値であるとされている。
但し、これらの指標はあるカウンティング手法の性能の目安であり、どの程度プレイヤーが有利になるかは、
等によって変わってくる。これを判断するためのデータ集やシミュレーションソフト等は、専門ショップ等で購入することが出来る。
一般的に、複雑な手法はより一層の効率の上昇が期待できるが、記憶力や疲労とのトレードオフとなる。そのため、カウンティング手法にも難易度や着目すべき点によっていくつかの種類がある。
Hi-Loと同程度の複雑さの手法の代表的なのものは
である。
また、カウントを行うときにカードの種類によってその重みを変更(例えば5をプラス1と数えるのではなくプラス2、あるいはプラス3と数える)することによる性能向上を狙った手法にOmega II, Zen などがある。 これらの戦略は書籍やWebサイト等で有料もしくは無料で配布されており、またBlackjack Forumのような戦略研究専門雑誌も発刊されている。
なお、一時期はポケコンを用いたカウンティングをする者もおり、すべての出現カードに対して正確にカウントでき、その後の期待値の計算なども正確に行えるため、詰んだ状況以外では理想的なプレイを行える。もちろん、現在このような機器の持込を許可するようなハウスは存在しない。
有名なエドワード・ソープ博士の"Beat the Dealer"によって、カウンティングの有効性が一般大衆に知られるようになって以来、カウンティングで収入を得ることを正業とするカードカウンターが非常に多く出現した。日系アメリカ人のケン・ユーストンも偉大なカードプレイヤーの一人に数えられている。また、1970年代から20世紀の終わりにかけて、カードカウンティングの研究も非常に盛んに行われた。このため、カジノはカードカウンターを排除すべく様々な対抗策を取ってきた。
まず法律的には、世界中のほとんどの地域でカウンティングを行うことを直接禁止する法律はなく、直接禁止することは不可能であり、各ケースでの判決判例になる。ラスベガスのあるネバダ州では「カジノは私的設備であるので、任意の第三者の入場を拒否することが出来る」という判断によってカードカウンターをいかさまとして排除している。
残りカードを十分残してシャッフルすればカウンティングの収益は激減するので、これを常時励行したり、カードカウンターらしき人物がプレイしている場合に特別に行ったりするという策もある。
更に、21世紀に入り、カードカウンターを発見することはピットボスの観察という人間的な手法に頼っていたものを、機械的にプレイヤーのベットの上げ下げやプレーの変更を記録することにより、酔っ払ったふりをしていい加減なプレイをするといったカモフラージュをしている場合や、カードカウンターが負けている場合でも、そのプレイヤーのカードカウンティングの技術レベルを正しく判定する装置が導入されるようになり、高額プレイを行うカードカウンターが収益を上げることの出来る機会は大幅に減ってきた。また、生体認証を用いて脅威となるプレイヤーを同定するシステムも、主に高額の賭けが行われる所では導入が進んでいる。
さらに、連続シャッフルマシンの導入も世界各国のカジノで進められてきている。連続シャッフルが行われた場合は、カードカウンティングの効果は全くなくなる。また、連続シャッフルが行われるゲームは、「カードの流れを読んでプレー」をしたいプレイヤー(言うまでも無くこのような手法に有効性は実証されていない)や、「ディーラーの運を読んでプレイ」をしたいプレイヤー(こちらも当然ながら有効性は実証されていない)も敬遠するようになる。
また、単純に控除率を上げることでの対処として、「イーブンをプレイヤーの負けとして扱う」ハウスもある(この場合、イーブンマネーは成立せず、ナチュラル21の手にインシュランスを掛けて成功しても配当はトータルで元返しとなる。これによる理不尽感を払拭するため、このようなハウスではプレイヤーのナチュラル21が成立した場合、ディーラーの手に関係なく即座に配当を行うルールにされることが多い)。
他には、ベット可能額の幅を小さくすることで「プレイヤーに有利なゲームで特別に厚く張る」ことを防止できる。中には、最小額=上限額といったハウスもある。
このように、カウンティングによってプレイヤーがカジノに対して数学的に有利にプレーすることが出来る可能性があり、またカウンティングを行わなくても基本戦略に従ってプレーするという努力を行ってプレイした場合の控除率が、カジノで提供されるゲームの中では非常に低い、という稀有なゲーム(完全技術介入下において控除率が0%未満になるゲームは、カジノでは他に存在しない)であったブラックジャックも大幅なルール変更によりその魅力は失われつつあり、また人気も徐々に低くなりつつあるのが現状である。
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"text": "このようなカウンティングを利用することで、総合的にプレイヤーが有利に戦える可能性が出てくる。カウンティングはあくまで近似的な手法であるため、厳密な計算を行った場合には、カウントが大幅にプラスになっていてもプレーヤーが不利な状況や、逆にカウントがマイナスでもプレイヤーが有利な状況もありえる。例えば、上記例1では残りカードが全て8だということは、その時点で-1と数えるカードも+1と数えるカードも出尽くしてしまっている訳であるから、カウントの値も0に戻っている。従ってカウント値からは、この状況は有利でも不利でもないと判断される。にもかかわらず実際には、圧倒的にプレイヤーが有利な状況となっているのであるから、この場合、Hi-Loカウントは「誤判断」を行っている訳である。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "そこで、カウンティングの効率の指標として、厳密に有利な状況を、有利であると判定する確率が考えられる。これがベッティングコリレーション(Betting Correlation)またはBetting Efficiencyと呼ばれるものである。上記Hi-Loと同等レベルの複雑さをもつカウンティング手法においては、ベッティングコリレーションは90%以上の高い精度を示す。即ち、プレイヤーの有利不利をかなりの高確率で判断する性能がある。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一方、あるカウンティングが正しいプレーを指摘する確率はプレーイングコリレーション(Playing Correlation)またはPlaying Efficiencyと呼ばれる。プレーイングコリレーションは通常あまり高くなく、70%程度が限界値であるとされている。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "但し、これらの指標はあるカウンティング手法の性能の目安であり、どの程度プレイヤーが有利になるかは、",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "等によって変わってくる。これを判断するためのデータ集やシミュレーションソフト等は、専門ショップ等で購入することが出来る。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "一般的に、複雑な手法はより一層の効率の上昇が期待できるが、記憶力や疲労とのトレードオフとなる。そのため、カウンティング手法にも難易度や着目すべき点によっていくつかの種類がある。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "Hi-Loと同程度の複雑さの手法の代表的なのものは",
"title": "応用戦略"
},
{
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"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "また、カウントを行うときにカードの種類によってその重みを変更(例えば5をプラス1と数えるのではなくプラス2、あるいはプラス3と数える)することによる性能向上を狙った手法にOmega II, Zen などがある。 これらの戦略は書籍やWebサイト等で有料もしくは無料で配布されており、またBlackjack Forumのような戦略研究専門雑誌も発刊されている。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "なお、一時期はポケコンを用いたカウンティングをする者もおり、すべての出現カードに対して正確にカウントでき、その後の期待値の計算なども正確に行えるため、詰んだ状況以外では理想的なプレイを行える。もちろん、現在このような機器の持込を許可するようなハウスは存在しない。",
"title": "応用戦略"
},
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "有名なエドワード・ソープ博士の\"Beat the Dealer\"によって、カウンティングの有効性が一般大衆に知られるようになって以来、カウンティングで収入を得ることを正業とするカードカウンターが非常に多く出現した。日系アメリカ人のケン・ユーストンも偉大なカードプレイヤーの一人に数えられている。また、1970年代から20世紀の終わりにかけて、カードカウンティングの研究も非常に盛んに行われた。このため、カジノはカードカウンターを排除すべく様々な対抗策を取ってきた。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "まず法律的には、世界中のほとんどの地域でカウンティングを行うことを直接禁止する法律はなく、直接禁止することは不可能であり、各ケースでの判決判例になる。ラスベガスのあるネバダ州では「カジノは私的設備であるので、任意の第三者の入場を拒否することが出来る」という判断によってカードカウンターをいかさまとして排除している。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "残りカードを十分残してシャッフルすればカウンティングの収益は激減するので、これを常時励行したり、カードカウンターらしき人物がプレイしている場合に特別に行ったりするという策もある。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "更に、21世紀に入り、カードカウンターを発見することはピットボスの観察という人間的な手法に頼っていたものを、機械的にプレイヤーのベットの上げ下げやプレーの変更を記録することにより、酔っ払ったふりをしていい加減なプレイをするといったカモフラージュをしている場合や、カードカウンターが負けている場合でも、そのプレイヤーのカードカウンティングの技術レベルを正しく判定する装置が導入されるようになり、高額プレイを行うカードカウンターが収益を上げることの出来る機会は大幅に減ってきた。また、生体認証を用いて脅威となるプレイヤーを同定するシステムも、主に高額の賭けが行われる所では導入が進んでいる。",
"title": "応用戦略"
},
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"text": "さらに、連続シャッフルマシンの導入も世界各国のカジノで進められてきている。連続シャッフルが行われた場合は、カードカウンティングの効果は全くなくなる。また、連続シャッフルが行われるゲームは、「カードの流れを読んでプレー」をしたいプレイヤー(言うまでも無くこのような手法に有効性は実証されていない)や、「ディーラーの運を読んでプレイ」をしたいプレイヤー(こちらも当然ながら有効性は実証されていない)も敬遠するようになる。",
"title": "応用戦略"
},
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"text": "また、単純に控除率を上げることでの対処として、「イーブンをプレイヤーの負けとして扱う」ハウスもある(この場合、イーブンマネーは成立せず、ナチュラル21の手にインシュランスを掛けて成功しても配当はトータルで元返しとなる。これによる理不尽感を払拭するため、このようなハウスではプレイヤーのナチュラル21が成立した場合、ディーラーの手に関係なく即座に配当を行うルールにされることが多い)。",
"title": "応用戦略"
},
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"paragraph_id": 48,
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"text": "他には、ベット可能額の幅を小さくすることで「プレイヤーに有利なゲームで特別に厚く張る」ことを防止できる。中には、最小額=上限額といったハウスもある。",
"title": "応用戦略"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "このように、カウンティングによってプレイヤーがカジノに対して数学的に有利にプレーすることが出来る可能性があり、またカウンティングを行わなくても基本戦略に従ってプレーするという努力を行ってプレイした場合の控除率が、カジノで提供されるゲームの中では非常に低い、という稀有なゲーム(完全技術介入下において控除率が0%未満になるゲームは、カジノでは他に存在しない)であったブラックジャックも大幅なルール変更によりその魅力は失われつつあり、また人気も徐々に低くなりつつあるのが現状である。",
"title": "応用戦略"
}
] |
ブラックジャックは、トランプを使用するゲームの一種。カジノで行われるカードゲームではポーカーやバカラと並ぶ人気ゲームである。カードの合計点数が21点を超えないように、プレイヤーがディーラーより高い点数を得ることを目指す。バカラやおいちょかぶと似たスタイルのゲームである。 ポントゥーン(pontoon)や21(twenty-one)という別名もある。 イギリスにはクレイジーエイトの系統でブラックジャックというゲームがあるが、ルールは全く別である。
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{{Otheruses|トランプゲーム|手塚治虫の漫画|ブラック・ジャック|その他}}
'''ブラックジャック'''({{Lang-en|Blackjack}})は、[[トランプ]]を使用する[[ゲーム]]の一種。[[カジノ]]で行われるカードゲームでは[[ポーカー]]や[[バカラ (トランプゲーム)|バカラ]]と並ぶ人気ゲームである。カードの合計点数が21点を超えないように、プレイヤーがディーラーより高い点数を得ることを目指す。バカラや[[おいちょかぶ]]と似たスタイルのゲームである。
'''ポントゥーン(pontoon)'''や'''21(twenty-one)'''という別名もある。
[[イギリス]]には[[クレイジーエイト]]の系統でブラックジャック({{lang|en|Black Jack}})というゲームがあるが、ルールは全く別である。
== 歴史 ==
もとは'''21'''という名前で、その起源は不明である。[[ドン・キホーテ]]の作者[[ミゲル・デ・セルバンテス]]は賭博も行っており、著書『{{仮リンク|Rinconete y Cortadillo|es|Rinconete y Cortadillo}}』作中の主要人物である[[イカサマ]]師コンビにイカサマを仕掛けさせている。この作品では、スペイン語で21を意味する{{lang|es|veintiuna}}という名前が確認できる。<ref>{{cite book | last = Fontbona | first = Marc | title = Historia del Juego en España. De la Hispania romana a nuestros días | isbn = 978-84-96495-30-2 | url = https://www.casadellibro.com/libro-historia-del-juego-en-espana-de-la-hispania-romana-a-nuestros-di-as/9788496495302/1226464 | year = 2008 | publisher = Flor del Viento Ediciones | location = Barcelona | page = 89}}</ref>
ブラックジャックという呼び名には諸説ある。アメリカでのローカルルールとして、黒いシンボルの[[クラブ (シンボル)|クラブ]]もしくは[[スペード (シンボル)|スペード]]の[[ジャック (トランプ)|ジャック]]、そして[[スペードのエース]]からなる役を「ブラックジャック」と呼びボーナスが付くようにしていたという説。そしてフランスの歴史家{{仮リンク|Thierry Depaulis|en|Thierry Depaulis}}は、それが誤りで[[クロンダイク・ゴールドラッシュ]]の採掘者たちが遊んでいた時に、彼らがブラックジャックと呼んでいた金を含む[[閃亜鉛鉱]]にちなんで付けたという説を唱えた{{sfn|Depaulis|2009|pp=238-244}}。
== 遊び方 ==
[[ファイル:Blackjack game example.JPG|thumb|上の写真がゲーム開始直後、下の写真がゲーム終了後の様子。]]
[[プレイヤー (ゲーム)|プレイヤー]]は'''ディーラー(胴元)'''との間で1対1の勝負を行う。つまり、プレイヤーが複数いる場合には、ディーラーは複数のプレイヤーと同時に勝負をすることになる。
各プレイヤーの目標は、'''21'''を超えないように手持ちのカードの点数の合計を21に近づけ、その点数がディーラーを上回ることである。
手の中のカードの点数は、カード2~10ではその数字通りの値であり、また、絵札であるK(キング)、Q(クイーン)、J(ジャック)は10と数える。A(エース)は、1と11のどちらか、都合のよい方で数えることができる。
各プレイヤーが初めの賭け(ベット)を終えると、ディーラーはカードを自分自身を含めた参加者全員に2枚ずつ配る。ディーラーの2枚のカードのうちの1枚は'''表向き(アップカード)'''にされ、皆が見ることができる。もう1枚のカードは伏せられている。伏せられたカードを'''ホールカード'''と呼ぶ。プレイヤーの行動が全て終わった時点ではじめてディーラーの2枚目のカードが表向きにされる。
プレイヤーのカードはカジノによって表向きの場合と裏向きの場合があるが、現在主流になっている6デッキ以上を利用するルールにおいてはフェイスアップで配られることが通例である。この時点で、プレイヤーが21(1枚は10、J、Q、Kのうちのどれかで、もう1枚はAという組み合わせの場合のみ可能)であれば「'''ナチュラル21'''」又は「'''ナチュラルブラックジャック'''」と呼ばれ、ディーラーが21でなかった場合には、ベットの2.5倍の払い出しを受ける。
プレイヤーとディーラー、双方がナチュラル21の場合には引き分けとなる。プレイヤーがナチュラル21にならず、ディーラーがナチュラル21の場合には自動的にプレイヤーの負けとなる。
次のステップでは、プレイヤーは'''ヒット'''または'''スタンド'''の選択を行う。ルールによっては、ヒットとスタンド以外にも追加のルールを採用しているところもある(下記「特別ルール」参照)
; ヒット (Hit)
: カードをもう1枚引く。
: ''動作:テーブルを叩く、あるいは自分に向かって手招きをする。''
; スタンド (Stand)/ステイ (Stay)
: カードを引かずにその時点の点数で勝負する。
: ''動作:手のひらを下に向け水平に振る。''
プレイヤーは21を超えなければ何回でもヒットすることができる。21を超えてしまうことを'''バスト'''(bust)と呼び、直ちにプレイヤーの負けとなる<ref>日本語ではバストを「ドボン」と言うこともある。</ref>。プレイヤーが全員スタンドするとディーラーは自分のホールカードを開く。
ディーラーは、自分の手が17以上になるまでカードを引かなければならず、17以上になったら、その後は追加のカードを引くことはできない(初めから17以上の場合もカードを引くことができない)。ディーラーが21を超えた場合には、バストしなかったプレイヤーは全員勝利である。プレイヤーとディーラーが同じ点数の場合には引き分けとなる。但しディーラーがソフト17(Aが含まれておりそのAを11と数えた上で合計が17の場合)ではヒットするカジノもある(その場合でもソフト18、ハード17ではスタンドとなる)。
一見すると、選択肢の多いプレイヤー側に有利かのように見えるゲームだが、2枚配られた時点でハード12以上のときにもう1枚カードを引く場合は常にバストの可能性がある、両者バーストした場合プレイヤーの敗北となる、等のルールにより実はプレイヤー側が不利といえる。
== 特別ルール ==
カジノによってはヒットとスタンド以外の選択肢が用意されている場合がある。いずれの特別ルールもプレイヤーを助けるものであるため<ref>正しい判断に基づかずに行なった場合はかえって不利になる場合もあり得る。下記「プレイの目安」の項を参照のこと。</ref>、これらを採用する代わりにプレイヤーがブラックジャックで勝利した場合の配当を2.2倍に引き下げている場合や、最低賭け単位(ミニマムベット)が高額の台のみこれらのルールを採用するカジノもある。
; スプリット (Split)
: 配られた2枚のカードが同じ数字の場合、初めのベットと同額のチップを追加することで、それを2つに分けてプレイすることができる。この場合、1枚ずつに分けたカードにそれぞれ1枚が追加で配られ、2つの手となる。10と数えられるカード (10,J,Q,K) は全てペアと見なすことが出来るカジノもある。また、ほとんどのカジノでは A のペアのスプリットでは、スプリットした後はそれぞれ1枚しか引くことができない。スプリット後にさらに同じ数字が配られた場合に、重ねてスプリットが可能なルールもある。
: ''動作:初めのベットの横に同額をベッティングボックスの外に置き、二本の指をV字に広げる。''
; ダブルダウン (Double down)
: プレイヤーは最初の2枚のカードを見てからベットを2倍にしてもう1枚だけカードを引くことが出来る。さらに追加して引くことはできない。多くのカジノでは最初の数がいくつでもダブルダウンすることが出来るが、カジノによってはカードの合計が11,10(又は11,10,9)の場合にのみダブルダウンできるルールを採用している所もある。また、スプリット後のダブルダウンが可能かどうかも、カジノごとに差異がある。なお、ディーラーがナチュラル21となっているかの確認をプレイヤーのアクションの後に行うカジノにおいては、結果的にディーラーがナチュラル21であった場合に、スプリットやダブルダウンによって賭け増したベット分をプレイヤーの負けとするか、無勝負として元返しとするかについてはカジノごとに細かなルールの相違がある。
: ''動作:初めのベットの隣に同額を置き、人差し指で指差す。''
; サレンダー (Surrender)
: プレイヤーの手が悪く、勝ち目がないと判断した場合に賭け金の半額を放棄してプレイを降りること。たとえばディーラーがAでナチュラル21の可能性があり、プレイヤーが6でバストの確率が高い場合など。ナチュラル21をチェックする前にサレンダーが可能なルール(アーリーサレンダー)と、ナチュラル21ではない場合のみ可能なルール(レイトサレンダー)に大別される。サレンダーは採用していないカジノも多く、特にアーリーサレンダーを採用するルールは稀である。
; インシュアランス (Insurance)/インシュランス
: ディーラーの表向きのカードがAのときには、最初のベットの半額を追加することにより、保険(インシュアランス)をかけることができる。ディーラーがナチュラル21であった場合には保険として掛けた額の2倍の保険金が払い戻され、そうでない場合は保険の掛け金は没収される。例えばプレイヤーが最初に$10を賭けており、プレイヤーのカードは8と10、ディーラーの表向きのカードがAであったとする。ここでプレイヤーがインシュアランスを選択した場合、$5を保険の掛け金として追加する。逆にインシュアランスを選択しない場合には追加の掛け金は発生しない。全てのプレイヤーのインシュアランスの意思を確認した後、ディーラーはプレイヤーには見えないようにしてディーラーの裏向きのカードの数字を調べる。ディーラーの裏向きのカードが例えば10の場合にはナチュラル21となる。この時、裏向きだったカードは表向きにされ、プレイヤーの最初の掛け金である$10は没収されるが、インシュアランスの保険金として$10が払い戻され、保険の掛け金$5もプレイヤーに戻る。この場合、プレイヤーの損得は±0である。一方、ディーラーの裏向きのカードが例えば3であり、ナチュラル21ではなかった場合には保険の掛け金である$5は没収され、ディーラーの裏向きのカードは裏返されたままの状態で引き続き通常通りのプレイ(ホールドやヒットの選択)が行われる。このインシュアランスはプレイヤーにとって確率的には不利なオプションだが、多くのカジノでこのオプションは提示される。プレイヤーがナチュラル21の場合は、プレイヤーがインシュアランスを宣言すると同時に最初のベットと同額が配当される(イーブンマネー)。これは、インシュアランスが成功(掛け金に対して引き分けで0倍、保険料に対して2倍で合計して掛け金の1倍の配当)しても失敗(掛け金に対してナチュラルにより1.5倍の配当、保険料は没収で合計して掛け金の1倍の配当)してもトータルの配当は変わらないためである。ディーラーの表向きのカードが10、J、Q、Kのいずれかであればディーラーがナチュラル21である可能性はあるが、この場合にはインシュアランスは宣言できない。
== 超簡易版ストラテジー ==
以下の項目は実際にブラックジャックを行う上での超簡単なストラテジーである。これらの事項を守ることで、カジノの[[控除率]]を1%以下にすることが出来る。但し、この目安は常にシャッフルされた直後の新しいデッキを使用していることを前提に設定されており、更に高度な戦略を用いることで控除率をさらに低くすることも可能である。なお、ディーラーの手はアップカードが2~6のときは弱い、7~Aのときは強いとしている。
* Aか8のペアはできるなら必ずスプリットする。4,5,10のペアは絶対スプリットしない。その他のペアはディーラーが弱いときはできるならスプリットし、強いときはできてもしない。
** Aのペアはスプリットすれば21になる可能性が高いので絶対スプリットすべきである。8のペアはそのままだと16という最悪の手だがスプリットすればそこそこ強い手になりやすいのでこれもスプリットした方が有利である。
** 5のペアはそのまま10として扱えばかなり強く、スプリットすると悪い手になりやすいので絶対にスプリットしてはいけない。10のペアも20はほぼ最強の手なのでせっかくの手が悪くなるリスクを冒してスプリットすべきではない。4のペアも8はそこそこ強いがスプリットすると悪い手になりやすいのでスプリットしないのがいい。
** その他のペアはそのままもスプリットも強さに大差はないので勝てそうかどうか、すなわちディーラーの手で判断する。ディーラーが弱いときはスプリットして賭け金を2倍にしてチャンスを広げ、強いときは傷口を広げないようにすべくスプリットしないのが良い。
*ダブルダウンは、ソフトハンド(Aを1枚だけ11と読む手)の16~18、及びハードハンド(Aがないか、全てのAを1と読む手)の9ではディーラーが弱いとき、ハードハンドの10または11ではディーラーのアップカードが自分の合計より小さいとき(但し、11点以下では強制的にヒットさせられるハウスもある)に行う。それ以外では行わない。
**ソフトハンド及び9以下のハードハンドからのダブルダウンはディーラーのバースト待ちである。但し絶対にバーストするわけではないので自分の手があまり強くなりそうにないとき(ソフトハンドの15以下・ハードハンドの8以下)はすべきではない。ステイで十分強い場合(19以上)もリスクを冒さずそのままの数字で勝負する方が良い。
**ハードハンドの10及び11からのダブルダウンは相手より強い手作り狙いである。ディーラーのアップカードと自分の合計の比較で判断するのはそのためである。ディーラーのアップカードが自分の合計より高い場合はダブルダウンすべきでないのはもちろんだが、同点の場合もダブルダウンでの勝率は五分五分なのに対ししなければ手によっては再度ヒットすることもできる分勝率が上がるのでしない方が良い。
*ハードハンドでは、ディーラーが弱いときは12以上になったらスタンド、強いときは17以上になるまでヒットする。
**ディーラーが弱いときはバーストしてくれる可能性が高いので自分がバーストするリスクを避けるのが第一。ディーラーが強いときはバーストしなさそうなのでバースト覚悟で最低17以上を目指さざるを得ない。
*ソフトハンドでは、ディーラーが弱いときは18以上、強いときは19以上になるまでヒットする。ハードハンドになってしまったらハードハンドの場合に従う。
**ソフトハンドからバーストする可能性はないのでハードハンドより強気にヒットできる分より高い数字を狙うようにする。
*サレンダーは自分がスプリットできないハード16、ディーラーのアップカードが10の場合のみ行う。
**自分とディーラーがどんなハンドでも勝てる可能性はあるので無条件で負けを認めるサレンダーは基本的にすべきでない。
*インシュランスは行わない。
**インシュランスは実は本勝負とは関係ないサイドベットであるが、確率的に不利なベットなのですべきでない。
== 基本戦略 ==
ほとんどのカジノのゲームは、長期的にはカジノ側がプレイヤーよりも統計的に有利になるようにできている。その中でブラックジャックはプレイヤー側の選択の幅が大きく、「基本戦略(Basic Strategy)」と呼ばれる統計学的に最適な行動をとることによりカジノの優位をおおいに縮小することが出来る。細かいルールの相違にもよるが、基本戦略に従った場合、カジノの控除率は0.0%~0.6%程度である。稀ではあるが「基本戦略」のみでプレーした場合にも、プレイヤー側が有利となるルールが提供された例もある。
以下の戦略表はプレイヤーの手(ハンド)およびディーラーの表向きのカード(フェイスアップカード)に基づいて、プレイヤーの最適な行動を決定するものである。ただし、カジノのルールや使用するデッキの数などにより影響を受けるため、すべての場合で最適なわけではない。また、この基本戦略の期待値は他のカード(現在ゲームに使われていない状態のカード)がすべて山に残っていることが前提であり、例えばエースがすべて見えてしまっている状態で、10点の手をダブルダウンすることは好ましくない。
=== 基本戦略の表 ===
ただし、基本的な4[[デッキ]]以上、ディーラーのソフト17はスタンド、[[ラスベガス]]ルールの場合である。
S:スタンド、H:ヒット、D:ダブルダウン(できない場合はヒット)、D(S):ダブルダウン(できない場合はスタンド)、R:サレンダー(できない場合はヒット)
〇:スプリットする、×:スプリットしない(ハードのトータルの場合に従う)、△:スプリット後のダブルダウンの可否で異なる(可能ならばスプリットし、不可能ならばしない)
'''太字'''は超簡易版ストラテジーと共通なので必ずそのアクションを行うこと。細字は覚えきれない場合や気分次第で括弧内のアクション(超簡易版ストラテジー)でも良い。
{| class="wikitable" border="1"
! ハンド!! colspan="10" | ディーラーのフェイスアップカード
|-
| || 2|| 3|| 4|| 5|| 6|| 7|| 8|| 9|| 10|| A
|-
! colspan="11" |ハード(11と数えるAがない場合)のトータル
|-
| 17-21|| colspan="10" | '''S'''
|-
| 16|| colspan="5" rowspan="3" | '''S'''|| colspan="2" rowspan="2" | '''H'''|| R(H)
|'''R'''
|R(H)
|-
| 15|| '''H'''|| R(H)|| '''H'''
|-
| 13-14|| colspan="5" rowspan="2" | '''H'''
|-
| 12|| colspan="2" | H(S)|| colspan="3" | '''S'''
|-
| 11|| colspan="9" | '''D'''|| '''H'''
|-
| 10|| colspan="8" | '''D'''|| colspan="2" | '''H'''
|-
| 9|| H(D)|| colspan="4" | '''D'''|| colspan="5" | '''H'''
|-
| 4-8|| colspan="10" | '''H'''
|-
! colspan="11" | ソフト(11と数えるAがある場合)のトータル
|-
| A,8-10|| colspan="10" | '''S'''
|-
| A,7|| S(D)|| colspan="4" | '''D(S)'''|| colspan="2" | S(H)|| colspan="3" | '''H'''
|-
| A,6|| H(D)|| colspan="4" | '''D'''|| colspan="5" rowspan="5" | '''H'''
|-
| A,5|| colspan="2" | H(D)|| colspan="3" | '''D'''
|-
|A,4
| colspan="2" |'''H'''
| colspan="3" |D(H)
|-
| A,2-3|| colspan="3" | '''H'''|| colspan="2" | D(H)
|-
|A,A*
| colspan="4" |'''H'''
|D(H)
|-
! colspan="11" | ペア
|-
| A,A 8,8|| colspan="10" | '''〇'''
|-
| 9,9|| colspan="5" | '''〇'''|| '''×'''|| colspan="2" | 〇(×)|| colspan="2" | '''×'''
|-
| 7,7*|| colspan="5" | '''〇'''
|〇(×)|| colspan="4" | '''×'''
|-
| 2,2 3,3|| colspan="2" | △(〇)|| colspan="3" | '''〇'''
|〇(×)|| colspan="4" | '''×'''
|-
| 6,6|| △(〇)
| colspan="4" |'''〇'''|| colspan="5" | '''×'''
|-
| 4,4|| colspan="3" | '''×'''|| colspan="2" | △(×)|| colspan="5" | '''×'''
|-
|5,5 10,10
| colspan="10" |'''×'''
|}
<nowiki>*</nowiki>スプリットできない場合。通常はスプリットする。
<nowiki>*</nowiki>ルールによっては7,7,7の21で配当が跳ね上がる場合があるため、ダブルダウンの選択肢もある。
カジノやゲーム規制当局が引用するブラックジャック ゲームのハウス エッジの見積もりは、プレーヤーが基本的な戦略に従うという前提に基づいています。
ほとんどのブラックジャック ゲームには 0.5% から 1% のハウス エッジがあり、ブラックジャックはプレーヤーにとって最も安価なカジノ テーブル ゲームの 1 つです。 無料のマッチ プレイ バウチャーや 2 対 1 のブラックジャック ペイアウトなどのカジノ プロモーションにより、プレイヤーは基本戦略から逸脱することなくアドバンテージを得ることができます。<ref>{{Cite web|和書| url=https://goodluckmate.com/jp/geimu/buratsukuziyatsuku| title=ブラックジャック ルール | accessdate=2019-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=https://xn--0ck7c3c.com/blackjack-rules/| title=ブラックジャックのルール・攻略について | accessdate=2019-10-29}}</ref>
== 応用戦略 ==
基本戦略は、デッキが全て残っていることを前提としたものである。しかし、カウンティング対策をしないカジノでは配り終わったカードは元に戻さずに'''ディスカードトレー'''と呼ばれるトレーにそのまま置いておく。通常、'''シュー'''と呼ばれる複数セット(デッキ)の塊を用い、この手順によって複数回のゲームを進行する。シャッフルしないカジノでは一つのシューにおけるゲームのある時点で残っているカードにはばらつきが生じる。情報理論的表現をすれば、シューは'''記憶のある情報源'''である。従って、残りカードの組み合わせによって、プレイヤーが有利になっている状態が生じる。ここが、'''無記憶情報源'''であるサイコロを用いたクラップスやルーレット等のカードを用いないカジノゲームとの大きな相違点である。
残りデッキに、10点やAのカードが多く残っている場合にはプレイヤー有利、4,5,6等のカードが多く残っている場合にはディーラー有利になることが多いことがシミュレーション及び理論解析によって確かめられている。また、基礎戦略とは異なるプレーが最適となるケースが出てくる。説明のため、非常に人工的な2つの状況を述べる。
; 例1 残りカードが全て8である場合
: プレイヤーは8が2枚配られた段階で、'''スタンド'''する。ディーラーにも8が2枚配られ、16となるがルールによってディーラーは'''ヒット'''しなければならない。結果として、ディーラーには8が3枚配られ'''バスト'''するので、プレイヤーは必ず勝つことになる。この場合には必ず勝つので賭け金を出来るだけ大きくすることが最適となる。また、(説明のため'''スプリット'''が許されないルールであるとすると、)戦術上は基本戦略とは異なり、2枚の8を'''ヒット'''せずに'''スタンド'''することが最適な戦略となる。
; 例2 残りカードが全て6である場合
: ディーラーは、ルールによって、必ず6が3枚の18となる。従って、プレイヤーはディーラの6を見て自身の2枚の6に対して基本戦略通り'''スタンド'''をすると、必ず負けてしまう。そこで基本戦略とは異なり'''ヒット'''をする。結果的に、プレイヤーもディーラーも18となるので、必ず引き分けとなる。従って、この状況はプレイヤーにもディーラーにも有利ではない。但し、負けないためにはプレイヤーが12を'''ヒット'''することが戦略上必須となる。
; 例3 残りカードが全て3である場合
: ディーラーは、ルールによって、必ず3が6枚の18となる。従って、プレイヤーは基本戦略通りプレイすると3が5枚の15になった時点で'''スタンド'''することになるが、これでは負けてしまう。そこで基本戦略とは異なり3が7枚の21になるまで'''ヒット'''をすればプレイヤーは必ず勝てる。但し、勝つためにはプレイヤーが21になるまで'''ヒット'''することが戦略上必須である。
上記の3例のような非常に単純な状況であれば、プレイヤーが有利かどうかの判断、最適戦術の判断を即座に判断出来る。しかし、より一般的な状況においては、まず配られたカードを全て記憶することは非常に難しい。また仮に、残りのカード状況を完璧に把握していたとしても、プレイヤーが有利かどうか、どのような戦略を取るべきかを計算するためには、考えられる全ての場合について確率を数え上げる必要が出てくるので、これを人間の頭で計算することは非常に難しい<ref>[[レインマン]]のように残りカードを全て記憶出来ればディーラーに対して有利にプレー出来ると解説されることが多いが、残りカードを完全に記憶しても残りカードに基づき厳密に確率計算を行う必要がある。</ref>。このように、残りカードに応じてプレイヤーの有利不利や最適な戦略を『近似的に』判断することが可能となる。これが'''カードカウンティング'''(card counting)と呼ばれている手法である。
代表的なカウンティング手法であるHi-Loをここに示す。まずシューの配り始めにおける、カウント値を0とする。カードが開かれていくのに合わせて
* ハイカード(high card; 10点カードとA)が見えたら -1
* ローカード(low card; 2~6点のカード)が見えたら +1
* その他のカードは 0
というルールに従ってカウントを増減させていく。ここで、そのカウントがある一定の閾値を越えれば、プレイヤーに有利であると判断しベットを増やし積極的なプレイを行い、逆に、ある閾値以下であればプレイヤー不利判断し、ベットを減らし消極的なプレイを行う。また、戦略変更(strategy change, index change とも; 基本戦略からの逸脱)も、このカウント値に基づいて行う。但し、同じカウント値であっても、残りのカード枚数が少ない方が、よりカードが偏っていると考えられるので、上述のカウント値を残りのカードの枚数(あるいはデッキ数)で割って正規化した「トゥルーカウント(true count)」を用いることが行われる。
このようなカウンティングを利用することで、総合的にプレイヤーが有利に戦える可能性が出てくる。カウンティングはあくまで近似的な手法であるため、厳密な計算を行った場合には、カウントが大幅にプラスになっていてもプレーヤーが不利な状況や、逆にカウントがマイナスでもプレイヤーが有利な状況もありえる。例えば、上記例1では残りカードが全て8だということは、その時点で-1と数えるカードも+1と数えるカードも出尽くしてしまっている訳であるから、カウントの値も0に戻っている。従ってカウント値からは、この状況は有利でも不利でもないと判断される。にもかかわらず実際には、圧倒的にプレイヤーが有利な状況となっているのであるから、この場合、Hi-Loカウントは「誤判断」を行っている訳である。
そこで、カウンティングの効率の指標として、厳密に有利な状況を、有利であると判定する確率が考えられる。これが'''ベッティングコリレーション'''(Betting Correlation)またはBetting Efficiencyと呼ばれるものである。上記Hi-Loと同等レベルの複雑さをもつカウンティング手法においては、'''ベッティングコリレーション'''は90%以上の高い精度を示す。即ち、プレイヤーの有利不利をかなりの高確率で判断する性能がある。
一方、あるカウンティングが正しいプレーを指摘する確率は'''プレーイングコリレーション'''(Playing Correlation)またはPlaying Efficiencyと呼ばれる。'''プレーイングコリレーション'''は通常あまり高くなく、70%程度が限界値であるとされている。
但し、これらの指標はあるカウンティング手法の性能の目安であり、どの程度プレイヤーが有利になるかは、
* カードの残り枚数がどの程度でシャッフルが行われるか(penetrationとも呼ばれる)
* ベット金額の幅(Bet Spread)はどの程度か?
* 戦略変更の閾値となるカウント値をどの程度覚えておくのか?
* デッキ数、細かなルールの有無
等によって変わってくる。これを判断するためのデータ集やシミュレーションソフト等は、専門ショップ等で購入することが出来る。
一般的に、複雑な手法はより一層の効率の上昇が期待できるが、記憶力や疲労との[[トレードオフ]]となる。そのため、カウンティング手法にも難易度や着目すべき点によっていくつかの種類がある。
Hi-Loと同程度の複雑さの手法の代表的なのものは
; KO
: トゥルーカウントへの変更という操作を必要としない手法
; Hi-Opt I
: メインとなるカウントの他に、Aの枚数を別にカウントすることにより'''ベッティングコリレーション'''の向上を狙った手法
である。
また、カウントを行うときにカードの種類によってその重みを変更(例えば5をプラス1と数えるのではなくプラス2、あるいはプラス3と数える)することによる性能向上を狙った手法に'''Omega II''', '''Zen''' などがある。
これらの戦略は書籍やWebサイト等で有料もしくは無料で配布されており、またBlackjack Forumのような戦略研究専門雑誌も発刊されている。
なお、一時期は[[ポケットコンピュータ|ポケコン]]を用いたカウンティングをする者もおり、すべての出現カードに対して正確にカウントでき、その後の期待値の計算なども正確に行えるため、詰んだ状況以外では理想的なプレイを行える。もちろん、現在このような機器の持込を許可するようなハウスは存在しない。
有名なエドワード・ソープ博士の"Beat the Dealer"によって、カウンティングの有効性が一般大衆に知られるようになって以来、カウンティングで収入を得ることを正業とする'''カードカウンター'''が非常に多く出現した。日系アメリカ人の[[ケン・ユーストン]]も偉大なカードプレイヤーの一人に数えられている。また、1970年代から20世紀の終わりにかけて、カードカウンティングの研究も非常に盛んに行われた。このため、カジノは'''カードカウンター'''を排除すべく様々な対抗策を取ってきた。
まず法律的には、世界中のほとんどの地域でカウンティングを行うことを直接禁止する法律はなく、直接禁止することは不可能であり、各ケースでの判決判例になる。ラスベガスのあるネバダ州では「カジノは私的設備であるので、任意の第三者の入場を拒否することが出来る」という判断によってカードカウンターをいかさまとして排除している。
残りカードを十分残してシャッフルすればカウンティングの収益は激減するので、これを常時励行したり、カードカウンターらしき人物がプレイしている場合に特別に行ったりするという策もある。
更に、21世紀に入り、カードカウンターを発見することはピットボスの観察という人間的な手法に頼っていたものを、機械的にプレイヤーのベットの上げ下げやプレーの変更を記録することにより、酔っ払ったふりをしていい加減なプレイをするといったカモフラージュをしている場合や、カードカウンターが負けている場合でも、そのプレイヤーのカードカウンティングの技術レベルを正しく判定する装置が導入されるようになり、高額プレイを行うカードカウンターが収益を上げることの出来る機会は大幅に減ってきた。また、[[生体認証]]を用いて脅威となるプレイヤーを同定するシステムも、主に高額の賭けが行われる所では導入が進んでいる。
さらに、連続シャッフルマシンの導入も世界各国のカジノで進められてきている。連続シャッフルが行われた場合は、カードカウンティングの効果は全くなくなる。また、連続シャッフルが行われるゲームは、「カードの流れを読んでプレー」をしたいプレイヤー(言うまでも無くこのような手法に有効性は実証されていない)や、「ディーラーの運を読んでプレイ」をしたいプレイヤー(こちらも当然ながら有効性は実証されていない)も敬遠するようになる。
また、単純に控除率を上げることでの対処として、「イーブンをプレイヤーの負けとして扱う」ハウスもある(この場合、イーブンマネーは成立せず、ナチュラル21の手にインシュランスを掛けて成功しても配当はトータルで元返しとなる。これによる理不尽感を払拭するため、このようなハウスではプレイヤーのナチュラル21が成立した場合、ディーラーの手に関係なく即座に配当を行うルールにされることが多い)。
他には、ベット可能額の幅を小さくすることで「プレイヤーに有利なゲームで特別に厚く張る」ことを防止できる。中には、最小額=上限額といったハウスもある。
このように、'''カウンティング'''によってプレイヤーがカジノに対して数学的に有利にプレーすることが出来る可能性があり、またカウンティングを行わなくても基本戦略に従ってプレーするという努力を行ってプレイした場合の控除率が、カジノで提供されるゲームの中では非常に低い、という稀有なゲーム(完全技術介入下において控除率が0%未満になるゲームは、カジノでは他に存在しない)であったブラックジャックも大幅なルール変更によりその魅力は失われつつあり、また人気も徐々に低くなりつつあるのが現状である。
== ブラックジャックを扱ったフィクション映画 ==
* [[レインマン]] ''Rain Man'' (1988年) - 登場人物がラスベガスのカジノにおいてカウンティングを行うシーンがある。
* [[ラスベガスをぶっつぶせ]](2008年) - 実際に起きた組織的なカウンティング事件を題材にしている。
;漫画
* 「[[ひっとらぁ伯父サン]]」(1969年) - [[藤子不二雄A]]の短編漫画(『[[ビッグコミック]]』1969年4月1日号)。『[[藤子不二雄Aブラックユーモア短編|藤子不二雄Aブラックユーモア短篇]]集』第1巻([[中公文庫]])などに収録。
* 「B・J(ブラックジャック)ブルース」(1969年) - 藤子不二雄Aの短編漫画(『ビッグコミック』1969年9月25日号)。[[リノ (ネバダ州)|リノ]]のカジノが舞台。『藤子不二雄Aブラックユーモア短篇集』第2巻(中公文庫)などに収録。
* 「スターダスト・ラプソディ」(1971年) - 藤子不二雄Aの短編漫画(『[[月刊明星]]』1971年5月号)。ラスベガスのカジノが舞台。
* 『[[100万$キッド]]』(1986-1988年) - [[石垣ゆうき]](原案協力:[[宮崎まさる]])のギャンブル漫画。第19話および第50話〜第58話はブラックジャックでの対決を描いている。
* 『ワールド漂流記』(1993-1995年) - 藤子不二雄Aの漫画。第5話「ラスベガスの熱い夜」はブラックジャックが主題となっている。
* 『[[世紀末博狼伝サガ]]』(1995年-1998年) - [[宮下あきら]]の漫画。BET.45-46「背水のB・J」はブラックジャックが題材となっている。
* 『[[ギャンブルフィッシュ]]』(2007-2010年) - [[青山広美]]原作・[[山根和俊]]作画のギャンブル漫画。第6話〜第13話はブラックジャックでの対決を描いている。
* 『[[ノーゲーム・ノーライフ]]』(2012年4月 -現在まで)-[[榎宮祐]]作の漫画及び原作アニメ。第5話「{{Ruby|駒並べ|ウィークスクエア}}」にて、空とステファニー・ドーラのブラックジャックでの戦いを書いている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=川上二郎|authorlink=川上二郎|year=1997|month=3|title=カジノ・ブラックジャック必勝法|publisher=近代文芸社|isbn=4-89039-262-9}}
* {{Cite book|和書|author=斎藤隆浩|authorlink=斎藤隆浩|year=1996|month=1|title=ブラックジャック必勝法|publisher=データハウス|isbn=4-88718-363-1}}
* {{Cite book|和書|author=谷岡一郎|authorlink=谷岡一郎|year=2001|month=11|title=確率・統計であばくギャンブルのからくり 「絶対儲かる必勝法」のウソ|publisher=講談社|series=ブルーバックス |isbn=4-06-257352-0|url=http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2573520}} - 第4章に「ブラックジャックの必勝戦術」がある。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Blackjack}}
* [[トランプ]]
* [[カードゲーム]]
{{トランプ}}
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{{DEFAULTSORT:ふらつくしやつく}}
[[Category:トランプゲーム]]
[[Category:カジノゲーム]]
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中東戦争
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中東戦争(ちゅうとうせんそう、アラビア語: الصراع العربي الإسرائيلي Al-Sira'a Al'Arabi Al'Israili、ヘブライ語: הסכסוך הישראלי-ערבי Ha'Sikhsukh Ha'Yisraeli-Aravi、英語: Arab–Israeli conflict)は、ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家間の戦争。
1948年から1973年までに大規模な戦争が4度起こり、それぞれ第一次~第四次に分類される。
イスラエルとエジプトの和平などにより国家間紛争が沈静化した以降もパレスチナ解放機構(PLO)などの非政府組織との軍事衝突が頻発している。
アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、代理戦争の側面も含む。ただしイデオロギーより中東地域の利権や武器売買などの経済的な動機が重さを占めていた。
そのため初期にイスラエルに支援や武器供給したイギリス・フランスは第3次中東戦争以降石油政策などからアラブ側に回り、さらに中国やイラン革命後のイランが武器供給や軍事支援においてアラブ側に入り込むなど、大国や周辺諸国の思惑の入り混じる戦争でもある。
また双方の宗教の聖地であるエルサレム、ヘブロンなどの帰属問題の絡んだ宗教戦争の側面もある。
今でもイスラエルとアラブ諸国は犬猿の仲で、テロは絶えず、イスラエル人は親米のサウジアラビアやクウェートでさえも入国できず、国交のあるエジプトとヨルダン、アラブ首長国連邦、バーレーン、スーダンのみしか入国できない。
パスポートにイスラエルの入国スタンプがあるだけでアラブ諸国では入国拒否される程で、旅行者はイスラエル入国スタンプを別紙に押せば回避ができる。
また、イスラエルオリンピック委員会・サッカーイスラエル代表はアジアオリンピック評議会・アジアサッカー連盟からヨーロッパオリンピック委員会・欧州サッカー連盟に移籍している。
パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下だったが、この地に居住するイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の三者は共存関係を維持してきた。しかし19世紀末、ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活していたユダヤ人によるパレスチナ入植が始まった。当時のパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であり、こうした入植は規制されなかった。ドレフュス事件などの影響もあり、パレスチナ入植のユダヤ人の数は徐々に増え始めた。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って参戦したオスマン帝国に対し、協商国側のイギリスが侵攻を開始した。イギリスは諸民族の混在する中東地域に目を付け、各勢力を味方に引き入れるため様々な協定を結んだ。まず、1915年10月にはメッカ太守であるアラブ人のフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でフサイン=マクマホン協定が結ばれ、中東地域のアラブ人の独立支持を約束した。次いで1916年5月には秘密協定としてイギリス、フランス、ロシアの間でサイクス・ピコ協定が結ばれ、この3国によるオスマン領中東地域の分割が決定された。さらに1917年11月にはイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアがバルフォア宣言を発し、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を表明した。この3つの協定はサイクス・ピコ協定とフサイン=マクマホン協定の間でわずかな矛盾が生じるほかは、どれも相互に矛盾しているわけではない。しかしこれらの協定は結果的に戦後の両勢力の不満を増大させ、中東戦争の大きな原因のひとつとなった。
オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナは結局イギリスの委任統治領として植民地化された(イギリス委任統治領パレスチナ)。イギリスの委任統治領となった後も、ユダヤ人の移民は増加し続けた。バルフォア宣言でユダヤ人の居住地の建設に賛意を示していたこともあり、イギリスは初め入植を規制しなかった。
しかし、入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった。アラブ人はイギリスに対して入植の制限を求めたため、イギリスはアラブとユダヤの板挟みに合うこととなり、戦間期のパレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。こうした中、1937年にはイギリス王立調査団がパレスチナをアラブとユダヤに分割して独立させるパレスチナ分割案を提案した。この案ではユダヤ国家が北部のハイファやテルアビブを中心としたパレスチナの約20%の土地を与えられ、中部・南部を中心とした残りの80%はアラブ側に与えられることとなっていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とし海岸部までの細い回廊を含めたパレスチナ中部の小さな地域は委任統治領となっていた。この案をユダヤ側は受け入れたがアラブ側は拒否し、パレスチナの独立は第二次世界大戦後まで持ち越しとなった。
第二次世界大戦期にはナチス・ドイツの反ユダヤ政策により、シオニズム運動はより盛んになった。戦中・戦後に発生したユダヤ人難民のうち相当数が「約束の地」パレスチナを目指したため、ユダヤ人の入植は急増しアラブ人との摩擦はますます強くなった。1947年2月7日、両派による武力衝突が頻発する中、事態収拾を困難と見たイギリスはパレスチナの委任統治を終了させる意向を表明した。
イギリスは1947年4月2日、国際連合にパレスチナ問題を提訴した。国連は1947年11月に、パレスチナを分割しアラブとユダヤの二国家を建設する決議(パレスチナ分割決議)を採択し、イギリスによる委任統治が終了することが決定した。
この分割案は1937年のイギリス王立調査団案に比べはるかにユダヤ人に有利になっており、ユダヤ人国家はパレスチナの56%、アラブ人国家はパレスチナの43%を占めることとなっていた。
ユダヤ人国家はハイファやテルアビブなどの大都市およびその間の肥沃な平野を手に入れたが、それ以外の土地の大部分はネゲヴの砂漠であった。ユダヤ人側の領土の方が大きいのは、第二次世界大戦後も続々と流入の続くユダヤ人難民を収容する意図も込められていた。また、ユダヤ国家とされた地域においてはユダヤ人が55%、アラブ人が45%とユダヤ人がやや優位な状態となっていたが、アラブ国家とされた地域にはユダヤ人はほとんど存在せず、ユダヤ人1%に対しアラブ人人口は99%を占めていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とする国土中央部のわずかな地域(パレスチナ総面積の1%)は国連管理地区として中立地区となる予定であった。
ユダヤ人側の大部分はこの決議を歓迎し受け入れを表明したものの、アラブ人側はこの国連決議を不合理なものとして反発し、ほとんどの組織が受け入れ反対を表明した。この決議案はそれまでもくすぶり続けていた両民族の対立をさらに決定的なものとし、これ以降ユダヤ人とアラブ人双方の間で、武力衝突(暴動・テロ・民兵同士の戦闘)が頻発することとなった。イギリスの委任統治領政府はもはや無力なものとなり果て、パレスチナは事実上の内戦状態となっていった。
1948年5月14日、イギリスによるパレスチナ統治終了の日に、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言した(イスラエル独立宣言)。しかし翌日には、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争が勃発・多くのパレスチナ難民も発生した。
広島大学人間社会科学研究科教授・吉村慎太郎は、歴史学、イラン近現代史戦争とイスラムを因果関係の中で捉える根拠は存在せず、第二次大戦後の中東における戦争多発の原因を、19世紀以来の植民地支配以来の中東をめぐる他律的な政治社会構造の組み替えと大国政治の継続的な関与という問題に求められると指摘している。今日の中東諸国家体制は、19世紀以来の植民地支配体制により、政治的に規定され成立され、英仏を中心としたヨーロッパ列強の思惑から領土分割がなされたばかりでなく、国家基盤が存在しないところに「人工国家」が作られ、いびつな統治システムと独裁政権の創設・温存が図られた点に原因があるとする。ジハードを含むイスラム的言説が多用されているものの、戦争原因の根本には「平和の担い手」という使命を掲げ、その実、国益の維持・拡大のために様々な介入を繰り返して止まない欧米列強の大国主義・覇権主義であり、また、ヨーロッパ列強によるこうした大国政治の暗躍は、ヨーロッパとアジアの間に介在する中東の地政学的位置関係と中東の石油・天然ガスなど豊富なエネルギー資源に深く関わっていると見ている。
1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言すると、パレスチナの内戦はすぐさま国家間の戦争と化した。翌5月15日にはイスラエル独立に反対する周辺アラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン)がパレスチナへ進軍し、パレスチナ人側に立ってイスラエルと戦闘を始めた。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍したが、各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。しかし、二度の休戦期間の間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。アラブ諸国の足並みの乱れもあり、ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になった。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れた。イスラエルでは、この戦争を独立戦争と呼ぶ。この戦争によって、イスラエルは独立を確保し、領土も国連による分割決議以上の範囲が確保された。ただし聖都であるエルサレムは西側の新市街地区しか確保することができず、首都機能は海岸部のテルアビブに暫定的に置かれることとなった。パレスチナにおいてアラブ側に残された土地は、エルサレム旧市街(東エルサレム)を含むヨルダン川西岸がトランスヨルダンに、地中海沿岸のガザ地区がエジプトに、それぞれ分割された。
この戦争の結果は双方に不満を残すものだった。イスラエル側は念願の独立国家の建国に成功し、国連分割決議よりもはるかに広い領土を確保したものの、肝心のユダヤ教の聖地である嘆きの壁を含むエルサレム旧市街はイスラム教国であるトランスヨルダンの手にわたり、ユダヤ教徒は聖地への出入りが不可能になってしまった。アラブ側もイスラエルの建国を許し、人口比に比べわずかな領土しか確保することができなかったため、イスラエルに対する敵意を募らせた。終戦後も両勢力の敵対は全く収まらず、以後21世紀に入っても続く対立の原型はこの時期に形作られた。また、この戦争によって主にイスラム系のパレスチナ人が多く国を追われ、大量のパレスチナ難民となって周辺各国へと流入した。イスラエルは首都をエルサレムへと移転させたが、この移転は世界各国から認められず、各国大使館は旧暫定首都であるテルアビブに置かれたままとなった。
スエズ運河の権益確保を目指す英仏とナセル政権打倒を目論むイスラエルが「共謀」し、エジプトを侵略した戦争。植民地大国が参戦した点において、他の中東戦争とは様相が異なる。
1956年7月19日アメリカ(アイゼンハワー政権)はエジプトに、アスワン・ハイダム建設計画への支援中止を通告した。7月26日エジプト大統領ナセルは対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとしてスエズ運河を利用するイギリス(イーデン政権)・フランス(モレ政権)両国はこれに反発した。英仏は10月の攻撃開始まで、軍事行動の準備を進めながら、国際社会の支持を得るための開戦の口実(casus belli) を探す外交を展開した。
イギリスは、スエズ運河確保とナセル政権打倒にはアメリカの支持が不可欠と考えた。フランスとの共同軍事行動を検討しつつ、アメリカに自国の行動への支持を要請し続けた。アメリカは、英仏の植民地主義に与することはなく、終始エジプトへの軍事行動に反対した。アラブ側への配慮を通して石油資源の確保とソ連の中東への影響力拡大阻止を目指す姿勢であった。
三国共同軍事行動を仲介したのはフランスであった。
7月31日フランスは仏軍が英軍の指揮下に入ることで合意した。フランスが考案した開戦の口実は『イスラエルとエジプトの戦闘から運河の安全を守る』であった。フランスは、危機当初から軍事行動によるナセル政権打倒を方針としていた。アルジェリア戦争で独立勢力を支援するナセルを敵視したフランスは、エジプトと対立するイスラエル(ベン=グリオン政権)に軍事支援を実施した。更に小型原子炉の提供に合意した。9月にはイスラエルに軍事行動への参加を打診した。参加を了承したイスラエルとフランスは、秘密裏に攻撃計画作成に着手した。
10月中旬イギリスによる軍事行動への支持要請にアメリカが応える見込みが消えた時期、フランスがイギリスに対しイスラエルを含めた三国による共同軍事行動を極秘に提案した。22日から24日にかけてパリ郊外のセーヴルにおいて、三国の代表は秘密裏にかつ断続的に会談を行った。イスラエルが先制攻撃を実施し英仏が侵攻する計画に三国は合意した。攻撃は10月29日19時(イスラエル時間)開始と決定された。
侵略は10月29日イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、イスラエル軍はエジプト軍の各拠点を撃破占拠した。シナイ半島の大半はイスラエル軍が占領することとなった。10月31日両国が停戦に応じないことを理由に、英仏両軍はエジプト空爆を開始した。一方、これらの侵略に対して、エジプトを支援してきたソ連、イギリス・フランスがあわよくば支持を期待していたアメリカも含め、国際的な非難が沸き起った。国連緊急総会が開催され、英・仏・イスラエルに対し即時停戦撤退を求める総会決議997が11月2日に採択された。この国連総会決議を無視する形で、イスラエル軍はシナイ半島での攻撃を継続し、11月5日イスラエル軍はシナイ半島のエジプト軍を壊滅させ攻撃を完了した。同5日イギリス軍・フランス軍のパラシュート部隊がポートサイドに降下し、翌6日マルタ・キプロスからの海上輸送部隊がポートサイド上陸作戦を敢行した。エジプト軍および民間人の抵抗を受けながら両軍は運河沿いに南下を試みた。
軍事的には劣勢であったエジプト側は戦場以外でも抵抗をみせた。11月3日シリア軍工作隊が石油パイプラインを爆破した。4日エジプトは廃船をスエズ運河に沈めて航行不能とした。6日サウジアラビアは英仏と断交し、タンカーへの石油積載を禁止した。中東から西欧への石油供給は途絶した。
アメリカ・国連・ソ連からの圧力を受け、まず、エジプト、イスラエルが停戦に応じた。11月6日英仏政府は、国連決議、国際世論の反対、アメリカの不支持、経済的苦境、により、軍事行動継続が限界にあることを認識した。イギリスが6日午前中の閣議で停戦受諾を決定した。閣議後イーデンはモレに電話をかけて停戦受諾を促した。モレはこれを受け入れた。11月7日午前2時(カイロ時間)停戦が発効した。
侵略開始後から、アメリカはイギリスへの経済支援に関する外交交渉を拒否した。イギリスの外貨準備は急激に減少し、IMF基金引き出し、借款繰延等のポンド防衛策は実施できず、イギリス経済は混乱した。この混乱がイギリス軍の無条件撤退への大きな圧力となった。
停戦後「条件付き撤退」を目論む三国の姿勢に国際社会は反発した。11月24日国連総会は「即時無条件撤退」決議を採択した。国連やアメリカの圧力に屈した英仏は止む無くこの決議を受け入れ、12月3日撤退声明を発し21日に英仏軍は撤退を完了した。一方11月8日イスラエルは、占領地からの無条件撤退要求を拒否し、条件付き撤退を求めていく声明を発した。アメリカや国連との強引な交渉によりチラン海峡の自由航行を確保したイスラエルが撤退を声明して完了したのは1957年3月7日であった。エジプトは1957年3月にスエズ運河の運行を再開した。
イスラエルは軍事的にはエジプトを圧倒した。しかしアメリカやソ連などの外交的介入によりナセル政権打倒という目的を達することはできず、戦争を開始した当事国として国際社会から強く非難された。一方、ガザ地区のゲリラ拠点を破壊し、チラン海峡の自由航行を確保できた点は、イスラエルにとっては侵略の成果であった。
エジプトは軍事的には敗北したものの、外交によってスエズ運河国有化を果たすことに成功した。エジプトのアラブ世界における威信は高まり、ナセルはアラブの盟主としての地位を獲得した。
1954年のディエンビエンフー敗退に続くこの戦争の失敗は、フランスにとって大きな痛手となった。この後、植民地であるアルジェリアでの戦争(1954年~1962年)への対応を巡り国内政治は混乱した。
スエズ戦争は巨大な損失と不名誉をイギリスに残した。戦費は推定5億ポンドにのぼり、スエズからの撤兵までに、エジプト国内に保有していたイギリス政府および民間の全資産を凍結された。中東からの石油輸入が途絶えアメリカへの経済依存を招いた。外貨準備の流出が続き、アメリカからの資金調達により経済的危機を脱することになった。アラブの共通の敵イスラエルとの「共謀」が、イラクなど中東における「イギリスの友人」を含む、アラブ諸国との関係を悪化させた。中東地域におけるイギリスの権威と利益は決定的に傷つき、「世界の大国」の地位と権威を失った。
ソ連は、長距離の軍事派遣が難しいと判断し、エジプトからの繰り返される軍事支援要請を拒否。11月5日の夜、英仏とイスラエルの三国に対して、停戦合意に応じない場合は核攻撃も辞さないという核による威嚇を発した。英仏の停戦交渉に影響を与え、イスラエルはこれを非常に深刻に受け止めた。ソ連のこの行動は、アラブ世界では好意的に受け止められ、中東への影響力拡大に繋がった。
エジプトを侵略した三国との対決姿勢を見せたアメリカはアラブ諸国内での影響力を高めた。この政治状況を背景に、中東におけるイギリスの衰退による空白を埋め石油資源を確保すること、および、共産主義の浸透を阻止することを主たる目標として、スエズ危機後、新たな中東政策を宣言した。それは、1957年1月5日アイゼンハワーが議会両院総会において発表した、アメリカの軍事的経済的協力を求める中東諸国民に対する援助プログラムであった。これが「アイゼンハワー・ドクトリン」とよばれるようになったのである。
6日で勝敗が決したため「六日戦争」とも呼ばれる。ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合共和国)のガザ地区とシナイ半島(シナイ半島占領(英語版))・シリアのゴラン高原を迅速に占領し、6月7日にはユダヤ教の聖地を含む東エルサレムを占領。開戦わずか4日後の6月8日にイスラエルとヨルダンおよびエジプトの停戦が成立し、シリアとも6月10日に停戦。
この戦争においてはイスラエルがその高い軍事能力を存分に発揮し、周辺各国全てを相手取って完勝した。イスラエルは旧パレスチナ地区のすべてを支配下に置いたばかりか、さらにシナイ半島とゴラン高原をも入手し、戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大した。しかし国連によってこの領土拡大は承認されず、国際的に公認されたイスラエルの領土は建国当初の領域のみとされた。日本の地図において現在はイスラエルの支配下にあるゴラン高原がシリアの領土として表示されているのはこのためである。また、ユダヤ教徒の悲願であった嘆きの壁を含むエルサレム旧市街(東エルサレム)の支配権もイスラエルが獲得し、エルサレムはすべてイスラエル領となった。ただしこの併合も国際社会からは認められず、後の論争の火種となった。そしてこの劇的な勝利により、イスラエルは中東紛争における圧倒的な優勢を獲得した。この優勢は現代にいたるまで揺らいでいない。
アラブ側においては全くの完敗であり、第一次中東戦争において確保していたパレスチナの残存部分をもイスラエルに占領され、パレスチナからアラブ側の領土は消滅した。ナセルの威信はこの戦争によって決定的に低下し、もともと足並みのそろっていないアラブ側の混乱がさらに顕著となった。第二次中東戦争においてエジプトが確保したスエズ運河も、運河の東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、運河は通航不能となった。このためヨーロッパ・アメリカ東海岸からアジアへと向かう船はすべて喜望峰回りを余儀なくされることとなり、世界経済に多大な影響を与えた。スエズ運河は、第四次中東戦争が終結しエジプト・イスラエル間の関係がやや落ち着いた1975年に再開されるまでの8年間閉鎖されたままだった。ただし、イスラエルの存在を認めず、敵対を続けるという一点においてはアラブ側は一致しており、戦争終結後まもない8月末から9月にかけて行われたアラブ首脳会議において、アラブ連盟はイスラエルに対し「和平せず、交渉せず、承認せず」という原則を打ち出した。また、それまでアラブ側国家の支配のもとにあったヨルダン川西岸やガザ地区などのパレスチナ残存地域やゴラン高原、シナイ半島がイスラエルの手に落ちたことで、第一次中東戦争を上回る多数のパレスチナ難民が発生した。
この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「消耗戦争」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1968年9月から1970年8月まで続いた。この「消耗戦争」を、それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある。この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。消耗戦争はエジプト側がスエズ運河の西岸からイスラエル占領地側の軍に向けて砲撃を行い、イスラエル側は先制攻撃を基本とし効率的な防御態勢を持っていなかったため、優勢な空軍力でエジプトに侵入し爆撃を行うといった形で行われた。
ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)に起きたのでヨム・キプール戦争とも呼ばれる。1973年10月6日、エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始された。ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、イスラエルの休日であった。イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅れたといわれている。一方エジプト、シリア連合軍は周到に準備をしており、第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北を招いた反省から、地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。この「ミサイルの傘作戦」は成功し、イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、その東岸を確保することに成功した。
初戦において後れを取ったイスラエルであるが、反撃にかかるのは迅速だった。ヨム・キプールは安息日であり、予備役は自宅で待機しているものがほとんどだったため、素早い召集が可能だったのである。10月9日より、イスラエル軍による反撃が開始され、まずシリアとの前線である北部戦線に集中的に兵力を投入する戦略がとられた。大量の増援を受けたイスラエル軍は、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにいたり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。
この戦争においては、両者ともに痛み分けともいえる結果となった。イスラエルは最終的には盛り返し、軍事的には一応の勝利を得たものの、初戦における大敗北はそれまでのイスラエル軍無敗の伝説を覆すものであり、イスラエルの軍事的威信は大きく損なわれた。エジプトは純軍事的には最終的に敗北したものの、初戦において大勝利したことで軍事的威信を回復し、エジプト大統領アンワル・サダトの名声は非常に高まった。さらに緒戦においてではあるが、エジプトが勝利し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、エジプトはイスラエルを交渉のテーブルにつかせることに成功。後のキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びついた。
なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルがスエズ運河を逆渡河しイスラエルが優勢になりはじめた10月16日、石油輸出国機構の中東6カ国が原油価格を70%引き上げ、翌10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助するアメリカとオランダへの石油の禁輸を決定し、さらに非友好的な西側諸国への石油供給の段階的削減を決定。石油戦略と呼ばれるこの戦略によって世界の石油の安定供給が脅かされ、原油価格は急騰して世界で経済混乱を引き起こした。第一次オイルショックである。これによって、もともと1970年代に入り原油価格への影響力を強めていた産油国はオイルメジャーから価格決定権を完全に奪取し、それまでのオイルメジャーに代わり価格カルテル化したOPECが原油価格に決定的な影響を与えるようになった。また、これによってそれまでよりはるかに多額の資金が産油国に流入するようになり、産油国の経済開発が進展することとなった。
4度の戦争を経過するに当たり、中東各国はまずアラブ連盟を結成し、イスラエルへの対抗姿勢を示すことでは一致した。また、イスラエルや西側に対抗するために、ソビエト連邦との関係を強め、あるいはエジプトのナセル大統領の提唱した汎アラブ主義に基づいて各国が合併や連合したが、産油国と非産油国の思惑は常にすれ違い、こちらはいずれも失敗した。
連合した国と期間
第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。いくつかの理由が挙げられるが、第一に、ナセルの後を引き継いだサダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換し、1978年3月に単独でキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に調印したためである。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。エジプトは[アラブ連盟の盟主であったが、1979年にはこの和平を理由として連盟から追放されてしまい、1990年まで復帰を許されなかった。サダトはイスラエル首相のメナヘム・ベギンとともに1978年度のノーベル平和賞を受賞したが、1981年10月、イスラム復興主義者により暗殺(英語版)された。
第二に、1979年にイランで起きたイスラム革命である。イスラム原理主義による国政を目指す勢力が、国王を国外追放して政権を握ってしまったことは、社会の近代化を進めようとするサウジアラビアなどのアラブの王国にとって脅威であった。アラブ諸国は革命が自国に飛び火することを恐れ、イランに対する締め付けを図った。それはイスラム革命の世界的広がりを恐れるソビエト連邦・中華人民共和国やアメリカ合衆国なども同じであった。1980年、アラブを代表して国境を接するイラクがイランとの全面戦争(イラン・イラク戦争)に突入し、アラブ各国をはじめ、米ソもイラクを支援した。
こうしてイスラエルの敵対勢力は、アラブ国家から非政府運動組織であるパレスチナ解放機構(PLO)などへと移行し、正規軍同士の戦いから対ゲリラ・テロ戦争へと変化していった(中東戦争は終結した訳ではなく戦争の形態が変化しただけとも言える)。PLOはファタハが加わってヤセル・アラファトが議長になると、その指導の下で国際連合総会オブザーバーの地位を得るなど事実上のパレスチナ自治政府としての地位を確立した。
イスラエルが1982年に行ったレバノン侵攻と、それに続く諸勢力の内戦は、アラブ側では「第五次中東戦争」と認識されている。この戦いではレバノンの覇権をめぐってシリアとイスラエルが介入し、当時レバノンを拠点としていたPLOは双方から排除を受けてチュニスに移転した。この戦いではイスラエルは軍事的優勢を保ち、レバノンの首都ベイルートにまで侵攻したものの、目的である親イスラエル政権の樹立に失敗した。さらに、それまでのイスラエルの戦争は自衛、もしくはそれに類すると少なくともイスラエルでは考えられており、戦争に対しては一致団結していたものが、このレバノン侵攻に関しては差し迫った国家の危機があるわけではなかったため、イスラエル世論は戦争の継続に否定的だった。こうしたなか、イスラエル軍は消耗戦へと追い込まれ、泥沼化する情勢の中で撤退に追い込まれた。ただしレバノン南部への駐留は続行し、この地域からの撤退は2000年になるまで持ち越された。
1987年12月9日には、ガザにおいてイスラエル軍に対する大規模な抗議行動が起き、以後イスラエル占領地域や難民キャンプのパレスチナ人が、PLOへの期待の薄れから自ら抵抗運動を行い、イスラエル軍との軍事衝突が頻発した。これを指して、第1次インティファーダと呼ぶ。
イラン・イラク戦争後の1990年、イラクはクウェートに侵攻、翌1991年にはアメリカとの湾岸戦争に突入した。アラブ諸国はアメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ同士が対立する結果となった。またPLOは成り行きからイラクを支持したためにアラブ諸国からの支援を打ち切られ、苦境に立たされた。
1991年に中東和平会議が開かれ、1992年6月のイスラエルの総選挙で和平派の労働党連合が圧勝。1993年、アメリカ合衆国大統領に中東和平を重視した民主党のビル・クリントンが就任すると、前年にイスラエル首相となったイツハク・ラビンとともに、アラブ各国への根回しをしながら和平交渉に乗り出した。9月、PLOとイスラエルが相互承認した上でパレスチナの暫定自治協定に調印した。これによってヨルダン川西岸とガザ地区はパレスチナ・アラブ人の自治を承認した。協定は1994年5月に発効してパレスチナ自治政府が設立され、アラファトが初代大統領に就任したが、ラビンの和平路線は国内の極右勢力から憎まれた。また、イスラエルの存在を認めたPLOに対し、パレスチナの過激派からも不満が出た。
1994年7月、ラビンはパレスチナの国際法上の領主ヨルダンとの戦争状態終結を宣言し、10月にイスラエル・ヨルダン平和条約を結び、その直前にラビンはアラファトとともにノーベル平和賞を受賞した。
1995年3月にはゴラン高原をめぐってシリアと直接交渉を開始、イスラエル軍が段階的に撤退することとなり、ゴラン高原は国連の監視下に入った。9月、イスラエルとPLOはパレスチナの自治拡大協定に調印し、パレスチナのアラブ国家建設への道が築かれた。
1995年11月、ラビンは極右のユダヤ人青年に射殺された。また1996年2月から3月にかけ、パレスチナ過激派がイスラエルでラビン暗殺に抗議する爆弾テロを引き起こし、和平はついに暗礁に乗り上げた。PLOは4月に民族憲章からイスラエル破壊条項を削除し、和平維持を望んだ。
9月、エルサレムでアラブ系住民が暴動を起こし、イスラエルは軍をもってこれを鎮圧した。1997年、イスラエルはパレスチナのヘブロンから撤退する一方、アラブ人の住む東エルサレムにユダヤ人用集合住宅を強行着工、国連は2度の緊急総会を開いて入植禁止を決議するに至った。ところが、イスラエルで爆弾テロが起こり、アメリカは和平継続を求めて中東を歴訪した。アラブ各国は中東和平交渉の再開に賛成し、一応の安定を見た。
1999年、PLOはパレスチナ独立宣言を延期。イスラエルはシリアと和平交渉に就いた。2000年にパレスチナ村の完全自治移行を決定した。しかし、聖地エルサレムの帰属をめぐって交渉は決裂した。イスラエルの右派政党党首アリエル・シャロンはエルサレムの「神殿の丘」を訪れ、パレスチナ人の感情を逆撫でする行動を取った。これを機に、パレスチナ全域で反イスラエル暴動が起こり(第2次インティファーダ)、中東和平はここに崩壊した。アラファトは親族の汚職疑惑などでPLOやパレスチナ自治政府における求心力を失っており、テロを抑止する事が出来なかった。
2001年3月、イスラエル首相に就任した右派シャロンは、PLOや武装勢力ハマースを自爆テロを引き起こし国内を混乱させている勢力であるとみなし、その幹部殺害を始めた。また分離フェンスを設置しパレスチナ側から非難を招いた。その結果パレスチナ側は自爆テロをエスカレートさせた。2002年にサウジアラビアのアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ国王はイスラエルの占領地撤退と引き換えに全アラブ諸国は国交正常化するという前代未聞のアラブ和平イニシアティブを提唱してアラブ連盟に全会一致で可決させ、イスラム諸国会議機構全加盟国の支持も受け、当時のイスラエル国防大臣だったベンヤミン・ベン・エリエゼルも「シオニズム運動史上最大の成果」と絶賛した。2004年にアラファトが死去、後を継いだマフムード・アッバースPLO議長がパレスチナ自治政府の2代目大統領に就任、「ヌアクショットからインドネシアまで全アラブ・イスラム諸国がイスラエルと和平を結び、国交を正常化する」としてアラブ和平イニシアチブの受け入れの要求をイスラエルの各主要新聞で大々的に宣伝した。一方、ガザ政府のハマースはイスラエルの承認になることからアラブ和平イニシアティブに否定的であり、ファタハと統一内閣をつくる際もアッバースからアラブ和平イニシアティブへの態度を改めるよう要請された。
2006年7月、イスラエルのレバノン侵攻によりアラブ諸国がイスラエルを非難。
2008年12月27日、ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織「ハマース」とイスラエルとの間に戦争が勃発(ガザ紛争)。2009年1月18日まで戦争は続いた。アラブ諸国はこの戦争を「ガザの虐殺」と呼び、イスラエルに対する憎悪が高まっている。ハマースとの停戦条約は締結されておらず、また、イスラエルによるガザ地区の封鎖継続は、2010年に至るまで人道危機を引き起している。
2011年9月にはアッバース大統領がパレスチナ自治政府の国連への加盟申請を表明、2012年11月29日には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で承認された。これに反発してイスラエル国内ではパレスチナ排除を主張する極右勢力が伸長し、緊張が高まっている。年末には長期化しているシリア内戦における戦闘の砲弾がイスラエル領内に着弾、これにイスラエル軍が警告射撃を行う事態も発生している。
エジプトでは、サダトの親イスラエル路線を継承して30年間大統領職にあったホスニー・ムバーラクが2011年のエジプト革命により退陣、ムスリム同胞団出身でパレスチナ寄りのムハンマド・ムルシーが新大統領に就任、ハマースへの経済制裁の緩和を行った。しかし2013年にムルシー政権が軍部のクーデターにより倒されると、再び親イスラエルに回帰した同国にてガザへの密輸規制が強化され、結果弱体化したハマースが主流派ファタハに接近、パレスチナ挙国一致政権が発足した。これに反発したイスラエルが翌年に再度ガザに侵攻した。
2017年、ドナルド・トランプ米大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定し米大使館をテルアビブから移転すると表明、2019年にはゴラン高原におけるイスラエルの主権を認める文書に署名を行うなど、和平の仲介役を務めてきたアメリカの中東政策を大きくイスラエル寄りに方針転換しており、パレスチナ側やイスラム教徒の反発を招いている。2020年にはアメリカの仲介でバーレーン、アラブ首長国連邦(UAE)、スーダン、モロッコが相次いでイスラエルとの国交正常化を合意、これに反発したハマースとイスラエルの軍事衝突が発生している。
2023年10月にはハマースがイスラエルに対し大規模な奇襲攻撃を行い、これに対してイスラエルが第4次中東戦争以来の正式な宣戦布告を行う事態が発生している(2023年パレスチナ・イスラエル戦争)。
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"text": "中東戦争(ちゅうとうせんそう、アラビア語: الصراع العربي الإسرائيلي Al-Sira'a Al'Arabi Al'Israili、ヘブライ語: הסכסוך הישראלי-ערבי Ha'Sikhsukh Ha'Yisraeli-Aravi、英語: Arab–Israeli conflict)は、ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家間の戦争。",
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"text": "1948年から1973年までに大規模な戦争が4度起こり、それぞれ第一次~第四次に分類される。",
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"text": "アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、代理戦争の側面も含む。ただしイデオロギーより中東地域の利権や武器売買などの経済的な動機が重さを占めていた。",
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"text": "そのため初期にイスラエルに支援や武器供給したイギリス・フランスは第3次中東戦争以降石油政策などからアラブ側に回り、さらに中国やイラン革命後のイランが武器供給や軍事支援においてアラブ側に入り込むなど、大国や周辺諸国の思惑の入り混じる戦争でもある。",
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"text": "パスポートにイスラエルの入国スタンプがあるだけでアラブ諸国では入国拒否される程で、旅行者はイスラエル入国スタンプを別紙に押せば回避ができる。",
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"text": "また、イスラエルオリンピック委員会・サッカーイスラエル代表はアジアオリンピック評議会・アジアサッカー連盟からヨーロッパオリンピック委員会・欧州サッカー連盟に移籍している。",
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"text": "パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下だったが、この地に居住するイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の三者は共存関係を維持してきた。しかし19世紀末、ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活していたユダヤ人によるパレスチナ入植が始まった。当時のパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であり、こうした入植は規制されなかった。ドレフュス事件などの影響もあり、パレスチナ入植のユダヤ人の数は徐々に増え始めた。",
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"text": "1914年に第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って参戦したオスマン帝国に対し、協商国側のイギリスが侵攻を開始した。イギリスは諸民族の混在する中東地域に目を付け、各勢力を味方に引き入れるため様々な協定を結んだ。まず、1915年10月にはメッカ太守であるアラブ人のフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でフサイン=マクマホン協定が結ばれ、中東地域のアラブ人の独立支持を約束した。次いで1916年5月には秘密協定としてイギリス、フランス、ロシアの間でサイクス・ピコ協定が結ばれ、この3国によるオスマン領中東地域の分割が決定された。さらに1917年11月にはイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアがバルフォア宣言を発し、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を表明した。この3つの協定はサイクス・ピコ協定とフサイン=マクマホン協定の間でわずかな矛盾が生じるほかは、どれも相互に矛盾しているわけではない。しかしこれらの協定は結果的に戦後の両勢力の不満を増大させ、中東戦争の大きな原因のひとつとなった。",
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"text": "オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナは結局イギリスの委任統治領として植民地化された(イギリス委任統治領パレスチナ)。イギリスの委任統治領となった後も、ユダヤ人の移民は増加し続けた。バルフォア宣言でユダヤ人の居住地の建設に賛意を示していたこともあり、イギリスは初め入植を規制しなかった。",
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"text": "しかし、入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった。アラブ人はイギリスに対して入植の制限を求めたため、イギリスはアラブとユダヤの板挟みに合うこととなり、戦間期のパレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。こうした中、1937年にはイギリス王立調査団がパレスチナをアラブとユダヤに分割して独立させるパレスチナ分割案を提案した。この案ではユダヤ国家が北部のハイファやテルアビブを中心としたパレスチナの約20%の土地を与えられ、中部・南部を中心とした残りの80%はアラブ側に与えられることとなっていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とし海岸部までの細い回廊を含めたパレスチナ中部の小さな地域は委任統治領となっていた。この案をユダヤ側は受け入れたがアラブ側は拒否し、パレスチナの独立は第二次世界大戦後まで持ち越しとなった。",
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"text": "第二次世界大戦期にはナチス・ドイツの反ユダヤ政策により、シオニズム運動はより盛んになった。戦中・戦後に発生したユダヤ人難民のうち相当数が「約束の地」パレスチナを目指したため、ユダヤ人の入植は急増しアラブ人との摩擦はますます強くなった。1947年2月7日、両派による武力衝突が頻発する中、事態収拾を困難と見たイギリスはパレスチナの委任統治を終了させる意向を表明した。",
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"text": "イギリスは1947年4月2日、国際連合にパレスチナ問題を提訴した。国連は1947年11月に、パレスチナを分割しアラブとユダヤの二国家を建設する決議(パレスチナ分割決議)を採択し、イギリスによる委任統治が終了することが決定した。",
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"text": "この分割案は1937年のイギリス王立調査団案に比べはるかにユダヤ人に有利になっており、ユダヤ人国家はパレスチナの56%、アラブ人国家はパレスチナの43%を占めることとなっていた。",
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"text": "ユダヤ人国家はハイファやテルアビブなどの大都市およびその間の肥沃な平野を手に入れたが、それ以外の土地の大部分はネゲヴの砂漠であった。ユダヤ人側の領土の方が大きいのは、第二次世界大戦後も続々と流入の続くユダヤ人難民を収容する意図も込められていた。また、ユダヤ国家とされた地域においてはユダヤ人が55%、アラブ人が45%とユダヤ人がやや優位な状態となっていたが、アラブ国家とされた地域にはユダヤ人はほとんど存在せず、ユダヤ人1%に対しアラブ人人口は99%を占めていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とする国土中央部のわずかな地域(パレスチナ総面積の1%)は国連管理地区として中立地区となる予定であった。",
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"text": "ユダヤ人側の大部分はこの決議を歓迎し受け入れを表明したものの、アラブ人側はこの国連決議を不合理なものとして反発し、ほとんどの組織が受け入れ反対を表明した。この決議案はそれまでもくすぶり続けていた両民族の対立をさらに決定的なものとし、これ以降ユダヤ人とアラブ人双方の間で、武力衝突(暴動・テロ・民兵同士の戦闘)が頻発することとなった。イギリスの委任統治領政府はもはや無力なものとなり果て、パレスチナは事実上の内戦状態となっていった。",
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"text": "1948年5月14日、イギリスによるパレスチナ統治終了の日に、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言した(イスラエル独立宣言)。しかし翌日には、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争が勃発・多くのパレスチナ難民も発生した。",
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"text": "広島大学人間社会科学研究科教授・吉村慎太郎は、歴史学、イラン近現代史戦争とイスラムを因果関係の中で捉える根拠は存在せず、第二次大戦後の中東における戦争多発の原因を、19世紀以来の植民地支配以来の中東をめぐる他律的な政治社会構造の組み替えと大国政治の継続的な関与という問題に求められると指摘している。今日の中東諸国家体制は、19世紀以来の植民地支配体制により、政治的に規定され成立され、英仏を中心としたヨーロッパ列強の思惑から領土分割がなされたばかりでなく、国家基盤が存在しないところに「人工国家」が作られ、いびつな統治システムと独裁政権の創設・温存が図られた点に原因があるとする。ジハードを含むイスラム的言説が多用されているものの、戦争原因の根本には「平和の担い手」という使命を掲げ、その実、国益の維持・拡大のために様々な介入を繰り返して止まない欧米列強の大国主義・覇権主義であり、また、ヨーロッパ列強によるこうした大国政治の暗躍は、ヨーロッパとアジアの間に介在する中東の地政学的位置関係と中東の石油・天然ガスなど豊富なエネルギー資源に深く関わっていると見ている。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言すると、パレスチナの内戦はすぐさま国家間の戦争と化した。翌5月15日にはイスラエル独立に反対する周辺アラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン)がパレスチナへ進軍し、パレスチナ人側に立ってイスラエルと戦闘を始めた。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍したが、各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。しかし、二度の休戦期間の間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。アラブ諸国の足並みの乱れもあり、ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になった。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れた。イスラエルでは、この戦争を独立戦争と呼ぶ。この戦争によって、イスラエルは独立を確保し、領土も国連による分割決議以上の範囲が確保された。ただし聖都であるエルサレムは西側の新市街地区しか確保することができず、首都機能は海岸部のテルアビブに暫定的に置かれることとなった。パレスチナにおいてアラブ側に残された土地は、エルサレム旧市街(東エルサレム)を含むヨルダン川西岸がトランスヨルダンに、地中海沿岸のガザ地区がエジプトに、それぞれ分割された。",
"title": "第一次中東戦争"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "この戦争の結果は双方に不満を残すものだった。イスラエル側は念願の独立国家の建国に成功し、国連分割決議よりもはるかに広い領土を確保したものの、肝心のユダヤ教の聖地である嘆きの壁を含むエルサレム旧市街はイスラム教国であるトランスヨルダンの手にわたり、ユダヤ教徒は聖地への出入りが不可能になってしまった。アラブ側もイスラエルの建国を許し、人口比に比べわずかな領土しか確保することができなかったため、イスラエルに対する敵意を募らせた。終戦後も両勢力の敵対は全く収まらず、以後21世紀に入っても続く対立の原型はこの時期に形作られた。また、この戦争によって主にイスラム系のパレスチナ人が多く国を追われ、大量のパレスチナ難民となって周辺各国へと流入した。イスラエルは首都をエルサレムへと移転させたが、この移転は世界各国から認められず、各国大使館は旧暫定首都であるテルアビブに置かれたままとなった。",
"title": "第一次中東戦争"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "スエズ運河の権益確保を目指す英仏とナセル政権打倒を目論むイスラエルが「共謀」し、エジプトを侵略した戦争。植民地大国が参戦した点において、他の中東戦争とは様相が異なる。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1956年7月19日アメリカ(アイゼンハワー政権)はエジプトに、アスワン・ハイダム建設計画への支援中止を通告した。7月26日エジプト大統領ナセルは対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとしてスエズ運河を利用するイギリス(イーデン政権)・フランス(モレ政権)両国はこれに反発した。英仏は10月の攻撃開始まで、軍事行動の準備を進めながら、国際社会の支持を得るための開戦の口実(casus belli) を探す外交を展開した。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "イギリスは、スエズ運河確保とナセル政権打倒にはアメリカの支持が不可欠と考えた。フランスとの共同軍事行動を検討しつつ、アメリカに自国の行動への支持を要請し続けた。アメリカは、英仏の植民地主義に与することはなく、終始エジプトへの軍事行動に反対した。アラブ側への配慮を通して石油資源の確保とソ連の中東への影響力拡大阻止を目指す姿勢であった。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
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"text": "三国共同軍事行動を仲介したのはフランスであった。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "7月31日フランスは仏軍が英軍の指揮下に入ることで合意した。フランスが考案した開戦の口実は『イスラエルとエジプトの戦闘から運河の安全を守る』であった。フランスは、危機当初から軍事行動によるナセル政権打倒を方針としていた。アルジェリア戦争で独立勢力を支援するナセルを敵視したフランスは、エジプトと対立するイスラエル(ベン=グリオン政権)に軍事支援を実施した。更に小型原子炉の提供に合意した。9月にはイスラエルに軍事行動への参加を打診した。参加を了承したイスラエルとフランスは、秘密裏に攻撃計画作成に着手した。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "10月中旬イギリスによる軍事行動への支持要請にアメリカが応える見込みが消えた時期、フランスがイギリスに対しイスラエルを含めた三国による共同軍事行動を極秘に提案した。22日から24日にかけてパリ郊外のセーヴルにおいて、三国の代表は秘密裏にかつ断続的に会談を行った。イスラエルが先制攻撃を実施し英仏が侵攻する計画に三国は合意した。攻撃は10月29日19時(イスラエル時間)開始と決定された。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "侵略は10月29日イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、イスラエル軍はエジプト軍の各拠点を撃破占拠した。シナイ半島の大半はイスラエル軍が占領することとなった。10月31日両国が停戦に応じないことを理由に、英仏両軍はエジプト空爆を開始した。一方、これらの侵略に対して、エジプトを支援してきたソ連、イギリス・フランスがあわよくば支持を期待していたアメリカも含め、国際的な非難が沸き起った。国連緊急総会が開催され、英・仏・イスラエルに対し即時停戦撤退を求める総会決議997が11月2日に採択された。この国連総会決議を無視する形で、イスラエル軍はシナイ半島での攻撃を継続し、11月5日イスラエル軍はシナイ半島のエジプト軍を壊滅させ攻撃を完了した。同5日イギリス軍・フランス軍のパラシュート部隊がポートサイドに降下し、翌6日マルタ・キプロスからの海上輸送部隊がポートサイド上陸作戦を敢行した。エジプト軍および民間人の抵抗を受けながら両軍は運河沿いに南下を試みた。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "軍事的には劣勢であったエジプト側は戦場以外でも抵抗をみせた。11月3日シリア軍工作隊が石油パイプラインを爆破した。4日エジプトは廃船をスエズ運河に沈めて航行不能とした。6日サウジアラビアは英仏と断交し、タンカーへの石油積載を禁止した。中東から西欧への石油供給は途絶した。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "アメリカ・国連・ソ連からの圧力を受け、まず、エジプト、イスラエルが停戦に応じた。11月6日英仏政府は、国連決議、国際世論の反対、アメリカの不支持、経済的苦境、により、軍事行動継続が限界にあることを認識した。イギリスが6日午前中の閣議で停戦受諾を決定した。閣議後イーデンはモレに電話をかけて停戦受諾を促した。モレはこれを受け入れた。11月7日午前2時(カイロ時間)停戦が発効した。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "侵略開始後から、アメリカはイギリスへの経済支援に関する外交交渉を拒否した。イギリスの外貨準備は急激に減少し、IMF基金引き出し、借款繰延等のポンド防衛策は実施できず、イギリス経済は混乱した。この混乱がイギリス軍の無条件撤退への大きな圧力となった。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "停戦後「条件付き撤退」を目論む三国の姿勢に国際社会は反発した。11月24日国連総会は「即時無条件撤退」決議を採択した。国連やアメリカの圧力に屈した英仏は止む無くこの決議を受け入れ、12月3日撤退声明を発し21日に英仏軍は撤退を完了した。一方11月8日イスラエルは、占領地からの無条件撤退要求を拒否し、条件付き撤退を求めていく声明を発した。アメリカや国連との強引な交渉によりチラン海峡の自由航行を確保したイスラエルが撤退を声明して完了したのは1957年3月7日であった。エジプトは1957年3月にスエズ運河の運行を再開した。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "イスラエルは軍事的にはエジプトを圧倒した。しかしアメリカやソ連などの外交的介入によりナセル政権打倒という目的を達することはできず、戦争を開始した当事国として国際社会から強く非難された。一方、ガザ地区のゲリラ拠点を破壊し、チラン海峡の自由航行を確保できた点は、イスラエルにとっては侵略の成果であった。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "エジプトは軍事的には敗北したものの、外交によってスエズ運河国有化を果たすことに成功した。エジプトのアラブ世界における威信は高まり、ナセルはアラブの盟主としての地位を獲得した。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1954年のディエンビエンフー敗退に続くこの戦争の失敗は、フランスにとって大きな痛手となった。この後、植民地であるアルジェリアでの戦争(1954年~1962年)への対応を巡り国内政治は混乱した。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
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"paragraph_id": 36,
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"text": "スエズ戦争は巨大な損失と不名誉をイギリスに残した。戦費は推定5億ポンドにのぼり、スエズからの撤兵までに、エジプト国内に保有していたイギリス政府および民間の全資産を凍結された。中東からの石油輸入が途絶えアメリカへの経済依存を招いた。外貨準備の流出が続き、アメリカからの資金調達により経済的危機を脱することになった。アラブの共通の敵イスラエルとの「共謀」が、イラクなど中東における「イギリスの友人」を含む、アラブ諸国との関係を悪化させた。中東地域におけるイギリスの権威と利益は決定的に傷つき、「世界の大国」の地位と権威を失った。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
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"paragraph_id": 37,
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"text": "ソ連は、長距離の軍事派遣が難しいと判断し、エジプトからの繰り返される軍事支援要請を拒否。11月5日の夜、英仏とイスラエルの三国に対して、停戦合意に応じない場合は核攻撃も辞さないという核による威嚇を発した。英仏の停戦交渉に影響を与え、イスラエルはこれを非常に深刻に受け止めた。ソ連のこの行動は、アラブ世界では好意的に受け止められ、中東への影響力拡大に繋がった。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "エジプトを侵略した三国との対決姿勢を見せたアメリカはアラブ諸国内での影響力を高めた。この政治状況を背景に、中東におけるイギリスの衰退による空白を埋め石油資源を確保すること、および、共産主義の浸透を阻止することを主たる目標として、スエズ危機後、新たな中東政策を宣言した。それは、1957年1月5日アイゼンハワーが議会両院総会において発表した、アメリカの軍事的経済的協力を求める中東諸国民に対する援助プログラムであった。これが「アイゼンハワー・ドクトリン」とよばれるようになったのである。",
"title": "第二次中東戦争(スエズ危機)"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "6日で勝敗が決したため「六日戦争」とも呼ばれる。ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合共和国)のガザ地区とシナイ半島(シナイ半島占領(英語版))・シリアのゴラン高原を迅速に占領し、6月7日にはユダヤ教の聖地を含む東エルサレムを占領。開戦わずか4日後の6月8日にイスラエルとヨルダンおよびエジプトの停戦が成立し、シリアとも6月10日に停戦。",
"title": "第三次中東戦争"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "この戦争においてはイスラエルがその高い軍事能力を存分に発揮し、周辺各国全てを相手取って完勝した。イスラエルは旧パレスチナ地区のすべてを支配下に置いたばかりか、さらにシナイ半島とゴラン高原をも入手し、戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大した。しかし国連によってこの領土拡大は承認されず、国際的に公認されたイスラエルの領土は建国当初の領域のみとされた。日本の地図において現在はイスラエルの支配下にあるゴラン高原がシリアの領土として表示されているのはこのためである。また、ユダヤ教徒の悲願であった嘆きの壁を含むエルサレム旧市街(東エルサレム)の支配権もイスラエルが獲得し、エルサレムはすべてイスラエル領となった。ただしこの併合も国際社会からは認められず、後の論争の火種となった。そしてこの劇的な勝利により、イスラエルは中東紛争における圧倒的な優勢を獲得した。この優勢は現代にいたるまで揺らいでいない。",
"title": "第三次中東戦争"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "アラブ側においては全くの完敗であり、第一次中東戦争において確保していたパレスチナの残存部分をもイスラエルに占領され、パレスチナからアラブ側の領土は消滅した。ナセルの威信はこの戦争によって決定的に低下し、もともと足並みのそろっていないアラブ側の混乱がさらに顕著となった。第二次中東戦争においてエジプトが確保したスエズ運河も、運河の東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、運河は通航不能となった。このためヨーロッパ・アメリカ東海岸からアジアへと向かう船はすべて喜望峰回りを余儀なくされることとなり、世界経済に多大な影響を与えた。スエズ運河は、第四次中東戦争が終結しエジプト・イスラエル間の関係がやや落ち着いた1975年に再開されるまでの8年間閉鎖されたままだった。ただし、イスラエルの存在を認めず、敵対を続けるという一点においてはアラブ側は一致しており、戦争終結後まもない8月末から9月にかけて行われたアラブ首脳会議において、アラブ連盟はイスラエルに対し「和平せず、交渉せず、承認せず」という原則を打ち出した。また、それまでアラブ側国家の支配のもとにあったヨルダン川西岸やガザ地区などのパレスチナ残存地域やゴラン高原、シナイ半島がイスラエルの手に落ちたことで、第一次中東戦争を上回る多数のパレスチナ難民が発生した。",
"title": "第三次中東戦争"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「消耗戦争」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1968年9月から1970年8月まで続いた。この「消耗戦争」を、それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある。この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。消耗戦争はエジプト側がスエズ運河の西岸からイスラエル占領地側の軍に向けて砲撃を行い、イスラエル側は先制攻撃を基本とし効率的な防御態勢を持っていなかったため、優勢な空軍力でエジプトに侵入し爆撃を行うといった形で行われた。",
"title": "消耗戦争"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)に起きたのでヨム・キプール戦争とも呼ばれる。1973年10月6日、エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始された。ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、イスラエルの休日であった。イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅れたといわれている。一方エジプト、シリア連合軍は周到に準備をしており、第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北を招いた反省から、地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。この「ミサイルの傘作戦」は成功し、イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、その東岸を確保することに成功した。",
"title": "第四次中東戦争"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "初戦において後れを取ったイスラエルであるが、反撃にかかるのは迅速だった。ヨム・キプールは安息日であり、予備役は自宅で待機しているものがほとんどだったため、素早い召集が可能だったのである。10月9日より、イスラエル軍による反撃が開始され、まずシリアとの前線である北部戦線に集中的に兵力を投入する戦略がとられた。大量の増援を受けたイスラエル軍は、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにいたり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。",
"title": "第四次中東戦争"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "この戦争においては、両者ともに痛み分けともいえる結果となった。イスラエルは最終的には盛り返し、軍事的には一応の勝利を得たものの、初戦における大敗北はそれまでのイスラエル軍無敗の伝説を覆すものであり、イスラエルの軍事的威信は大きく損なわれた。エジプトは純軍事的には最終的に敗北したものの、初戦において大勝利したことで軍事的威信を回復し、エジプト大統領アンワル・サダトの名声は非常に高まった。さらに緒戦においてではあるが、エジプトが勝利し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、エジプトはイスラエルを交渉のテーブルにつかせることに成功。後のキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びついた。",
"title": "第四次中東戦争"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルがスエズ運河を逆渡河しイスラエルが優勢になりはじめた10月16日、石油輸出国機構の中東6カ国が原油価格を70%引き上げ、翌10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助するアメリカとオランダへの石油の禁輸を決定し、さらに非友好的な西側諸国への石油供給の段階的削減を決定。石油戦略と呼ばれるこの戦略によって世界の石油の安定供給が脅かされ、原油価格は急騰して世界で経済混乱を引き起こした。第一次オイルショックである。これによって、もともと1970年代に入り原油価格への影響力を強めていた産油国はオイルメジャーから価格決定権を完全に奪取し、それまでのオイルメジャーに代わり価格カルテル化したOPECが原油価格に決定的な影響を与えるようになった。また、これによってそれまでよりはるかに多額の資金が産油国に流入するようになり、産油国の経済開発が進展することとなった。",
"title": "第四次中東戦争"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "4度の戦争を経過するに当たり、中東各国はまずアラブ連盟を結成し、イスラエルへの対抗姿勢を示すことでは一致した。また、イスラエルや西側に対抗するために、ソビエト連邦との関係を強め、あるいはエジプトのナセル大統領の提唱した汎アラブ主義に基づいて各国が合併や連合したが、産油国と非産油国の思惑は常にすれ違い、こちらはいずれも失敗した。",
"title": "アラブの連合"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "連合した国と期間",
"title": "アラブの連合"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。いくつかの理由が挙げられるが、第一に、ナセルの後を引き継いだサダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換し、1978年3月に単独でキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に調印したためである。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。エジプトは[アラブ連盟の盟主であったが、1979年にはこの和平を理由として連盟から追放されてしまい、1990年まで復帰を許されなかった。サダトはイスラエル首相のメナヘム・ベギンとともに1978年度のノーベル平和賞を受賞したが、1981年10月、イスラム復興主義者により暗殺(英語版)された。",
"title": "中東戦争終結の理由"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "第二に、1979年にイランで起きたイスラム革命である。イスラム原理主義による国政を目指す勢力が、国王を国外追放して政権を握ってしまったことは、社会の近代化を進めようとするサウジアラビアなどのアラブの王国にとって脅威であった。アラブ諸国は革命が自国に飛び火することを恐れ、イランに対する締め付けを図った。それはイスラム革命の世界的広がりを恐れるソビエト連邦・中華人民共和国やアメリカ合衆国なども同じであった。1980年、アラブを代表して国境を接するイラクがイランとの全面戦争(イラン・イラク戦争)に突入し、アラブ各国をはじめ、米ソもイラクを支援した。",
"title": "中東戦争終結の理由"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "こうしてイスラエルの敵対勢力は、アラブ国家から非政府運動組織であるパレスチナ解放機構(PLO)などへと移行し、正規軍同士の戦いから対ゲリラ・テロ戦争へと変化していった(中東戦争は終結した訳ではなく戦争の形態が変化しただけとも言える)。PLOはファタハが加わってヤセル・アラファトが議長になると、その指導の下で国際連合総会オブザーバーの地位を得るなど事実上のパレスチナ自治政府としての地位を確立した。",
"title": "中東戦争終結の理由"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "イスラエルが1982年に行ったレバノン侵攻と、それに続く諸勢力の内戦は、アラブ側では「第五次中東戦争」と認識されている。この戦いではレバノンの覇権をめぐってシリアとイスラエルが介入し、当時レバノンを拠点としていたPLOは双方から排除を受けてチュニスに移転した。この戦いではイスラエルは軍事的優勢を保ち、レバノンの首都ベイルートにまで侵攻したものの、目的である親イスラエル政権の樹立に失敗した。さらに、それまでのイスラエルの戦争は自衛、もしくはそれに類すると少なくともイスラエルでは考えられており、戦争に対しては一致団結していたものが、このレバノン侵攻に関しては差し迫った国家の危機があるわけではなかったため、イスラエル世論は戦争の継続に否定的だった。こうしたなか、イスラエル軍は消耗戦へと追い込まれ、泥沼化する情勢の中で撤退に追い込まれた。ただしレバノン南部への駐留は続行し、この地域からの撤退は2000年になるまで持ち越された。",
"title": "中東戦争終結の理由"
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1987年12月9日には、ガザにおいてイスラエル軍に対する大規模な抗議行動が起き、以後イスラエル占領地域や難民キャンプのパレスチナ人が、PLOへの期待の薄れから自ら抵抗運動を行い、イスラエル軍との軍事衝突が頻発した。これを指して、第1次インティファーダと呼ぶ。",
"title": "中東戦争終結の理由"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "イラン・イラク戦争後の1990年、イラクはクウェートに侵攻、翌1991年にはアメリカとの湾岸戦争に突入した。アラブ諸国はアメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ同士が対立する結果となった。またPLOは成り行きからイラクを支持したためにアラブ諸国からの支援を打ち切られ、苦境に立たされた。",
"title": "中東戦争終結の理由"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1991年に中東和平会議が開かれ、1992年6月のイスラエルの総選挙で和平派の労働党連合が圧勝。1993年、アメリカ合衆国大統領に中東和平を重視した民主党のビル・クリントンが就任すると、前年にイスラエル首相となったイツハク・ラビンとともに、アラブ各国への根回しをしながら和平交渉に乗り出した。9月、PLOとイスラエルが相互承認した上でパレスチナの暫定自治協定に調印した。これによってヨルダン川西岸とガザ地区はパレスチナ・アラブ人の自治を承認した。協定は1994年5月に発効してパレスチナ自治政府が設立され、アラファトが初代大統領に就任したが、ラビンの和平路線は国内の極右勢力から憎まれた。また、イスラエルの存在を認めたPLOに対し、パレスチナの過激派からも不満が出た。",
"title": "中東和平交渉"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1994年7月、ラビンはパレスチナの国際法上の領主ヨルダンとの戦争状態終結を宣言し、10月にイスラエル・ヨルダン平和条約を結び、その直前にラビンはアラファトとともにノーベル平和賞を受賞した。",
"title": "中東和平交渉"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1995年3月にはゴラン高原をめぐってシリアと直接交渉を開始、イスラエル軍が段階的に撤退することとなり、ゴラン高原は国連の監視下に入った。9月、イスラエルとPLOはパレスチナの自治拡大協定に調印し、パレスチナのアラブ国家建設への道が築かれた。",
"title": "中東和平交渉"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1995年11月、ラビンは極右のユダヤ人青年に射殺された。また1996年2月から3月にかけ、パレスチナ過激派がイスラエルでラビン暗殺に抗議する爆弾テロを引き起こし、和平はついに暗礁に乗り上げた。PLOは4月に民族憲章からイスラエル破壊条項を削除し、和平維持を望んだ。",
"title": "中東和平交渉"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "9月、エルサレムでアラブ系住民が暴動を起こし、イスラエルは軍をもってこれを鎮圧した。1997年、イスラエルはパレスチナのヘブロンから撤退する一方、アラブ人の住む東エルサレムにユダヤ人用集合住宅を強行着工、国連は2度の緊急総会を開いて入植禁止を決議するに至った。ところが、イスラエルで爆弾テロが起こり、アメリカは和平継続を求めて中東を歴訪した。アラブ各国は中東和平交渉の再開に賛成し、一応の安定を見た。",
"title": "中東和平交渉"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1999年、PLOはパレスチナ独立宣言を延期。イスラエルはシリアと和平交渉に就いた。2000年にパレスチナ村の完全自治移行を決定した。しかし、聖地エルサレムの帰属をめぐって交渉は決裂した。イスラエルの右派政党党首アリエル・シャロンはエルサレムの「神殿の丘」を訪れ、パレスチナ人の感情を逆撫でする行動を取った。これを機に、パレスチナ全域で反イスラエル暴動が起こり(第2次インティファーダ)、中東和平はここに崩壊した。アラファトは親族の汚職疑惑などでPLOやパレスチナ自治政府における求心力を失っており、テロを抑止する事が出来なかった。",
"title": "中東和平交渉"
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"text": "2001年3月、イスラエル首相に就任した右派シャロンは、PLOや武装勢力ハマースを自爆テロを引き起こし国内を混乱させている勢力であるとみなし、その幹部殺害を始めた。また分離フェンスを設置しパレスチナ側から非難を招いた。その結果パレスチナ側は自爆テロをエスカレートさせた。2002年にサウジアラビアのアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ国王はイスラエルの占領地撤退と引き換えに全アラブ諸国は国交正常化するという前代未聞のアラブ和平イニシアティブを提唱してアラブ連盟に全会一致で可決させ、イスラム諸国会議機構全加盟国の支持も受け、当時のイスラエル国防大臣だったベンヤミン・ベン・エリエゼルも「シオニズム運動史上最大の成果」と絶賛した。2004年にアラファトが死去、後を継いだマフムード・アッバースPLO議長がパレスチナ自治政府の2代目大統領に就任、「ヌアクショットからインドネシアまで全アラブ・イスラム諸国がイスラエルと和平を結び、国交を正常化する」としてアラブ和平イニシアチブの受け入れの要求をイスラエルの各主要新聞で大々的に宣伝した。一方、ガザ政府のハマースはイスラエルの承認になることからアラブ和平イニシアティブに否定的であり、ファタハと統一内閣をつくる際もアッバースからアラブ和平イニシアティブへの態度を改めるよう要請された。",
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"text": "2006年7月、イスラエルのレバノン侵攻によりアラブ諸国がイスラエルを非難。",
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"text": "2008年12月27日、ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織「ハマース」とイスラエルとの間に戦争が勃発(ガザ紛争)。2009年1月18日まで戦争は続いた。アラブ諸国はこの戦争を「ガザの虐殺」と呼び、イスラエルに対する憎悪が高まっている。ハマースとの停戦条約は締結されておらず、また、イスラエルによるガザ地区の封鎖継続は、2010年に至るまで人道危機を引き起している。",
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"text": "2011年9月にはアッバース大統領がパレスチナ自治政府の国連への加盟申請を表明、2012年11月29日には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で承認された。これに反発してイスラエル国内ではパレスチナ排除を主張する極右勢力が伸長し、緊張が高まっている。年末には長期化しているシリア内戦における戦闘の砲弾がイスラエル領内に着弾、これにイスラエル軍が警告射撃を行う事態も発生している。",
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"text": "エジプトでは、サダトの親イスラエル路線を継承して30年間大統領職にあったホスニー・ムバーラクが2011年のエジプト革命により退陣、ムスリム同胞団出身でパレスチナ寄りのムハンマド・ムルシーが新大統領に就任、ハマースへの経済制裁の緩和を行った。しかし2013年にムルシー政権が軍部のクーデターにより倒されると、再び親イスラエルに回帰した同国にてガザへの密輸規制が強化され、結果弱体化したハマースが主流派ファタハに接近、パレスチナ挙国一致政権が発足した。これに反発したイスラエルが翌年に再度ガザに侵攻した。",
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"text": "2017年、ドナルド・トランプ米大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定し米大使館をテルアビブから移転すると表明、2019年にはゴラン高原におけるイスラエルの主権を認める文書に署名を行うなど、和平の仲介役を務めてきたアメリカの中東政策を大きくイスラエル寄りに方針転換しており、パレスチナ側やイスラム教徒の反発を招いている。2020年にはアメリカの仲介でバーレーン、アラブ首長国連邦(UAE)、スーダン、モロッコが相次いでイスラエルとの国交正常化を合意、これに反発したハマースとイスラエルの軍事衝突が発生している。",
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"text": "2023年10月にはハマースがイスラエルに対し大規模な奇襲攻撃を行い、これに対してイスラエルが第4次中東戦争以来の正式な宣戦布告を行う事態が発生している(2023年パレスチナ・イスラエル戦争)。",
"title": "中東和平交渉"
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中東戦争は、ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家間の戦争。 1948年から1973年までに大規模な戦争が4度起こり、それぞれ第一次~第四次に分類される。 イスラエルとエジプトの和平などにより国家間紛争が沈静化した以降もパレスチナ解放機構(PLO)などの非政府組織との軍事衝突が頻発している。
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{{出典の明記|date=2009年1月}}
{{Infobox Arab-Israeli conflict}}
'''中東戦争'''(ちゅうとうせんそう、{{lang-ar|الصراع العربي الإسرائيلي}} Al-Sira'a Al'Arabi Al'Israili、{{lang-he|הסכסוך הישראלי-ערבי}} Ha'Sikhsukh Ha'Yisraeli-Aravi、{{lang-en|Arab–Israeli conflict}})は、[[ユダヤ人]]国家[[イスラエル]]と周辺[[アラブ世界|アラブ国家]]間の[[戦争]]。
[[1948年]]から[[1973年]]までに大規模な戦争が4度起こり、それぞれ第一次~第四次に分類される。
イスラエルと[[エジプト]]の和平などにより国家間紛争が沈静化した以降も[[パレスチナ解放機構]](PLO)などの[[非政府組織]]との軍事衝突が頻発している。
== 概要 ==
{{独自研究|section=1|date=2023年10月}}
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]・[[フランス]]がイスラエルに、[[ソビエト連邦|ソ連]]がアラブ側に対し支援や[[武器]]を供給していたことから、[[代理戦争]]の側面も含む。ただし[[イデオロギー]]より中東地域の利権や武器売買などの経済的な動機が重さを占めていた。
そのため初期にイスラエルに支援や武器供給したイギリス・フランスは第3次中東戦争以降[[石油]]政策などからアラブ側に回り、さらに[[中華人民共和国|中国]]や[[イラン革命]]後の[[イラン]]が武器供給や軍事支援においてアラブ側に入り込むなど、大国や周辺諸国の思惑の入り混じる戦争でもある。
また双方の宗教の[[聖地]]である[[エルサレム]]、[[ヘブロン]]などの帰属問題の絡んだ[[宗教戦争]]の側面もある。
今でもイスラエルとアラブ諸国は犬猿の仲で、テロは絶えず、イスラエル人は[[親米]]のサウジアラビアやクウェートでさえも入国できず、国交のあるエジプトとヨルダン、アラブ首長国連邦、バーレーン、スーダンのみしか入国できない{{要出典|date=2023年10月}}。
パスポートにイスラエルの入国スタンプがあるだけでアラブ諸国では入国拒否される程で、旅行者はイスラエル入国スタンプを別紙に押せば回避ができる{{要出典|date=2023年10月}}。
また、[[オリンピックのイスラエル選手団|イスラエルオリンピック委員会]]・[[サッカーイスラエル代表]]は[[アジアオリンピック評議会]]・[[アジアサッカー連盟]]から[[ヨーロッパオリンピック委員会]]・[[欧州サッカー連盟]]に移籍している。
== 背景 ==
{{独自研究|section=1|date=2023年10月}}
=== アラブとユダヤの対立 ===
{{main|パレスチナ問題}}
[[パレスチナ]]は長い間イスラーム国家の支配下だったが、この地に居住する[[ムスリム|イスラム教徒]]と[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]・[[キリスト教徒]]の三者は共存関係を維持してきた。しかし19世紀末、ヨーロッパではパレスチナ帰還運動([[シオニズム]])が起き、ヨーロッパ諸国や[[アメリカ合衆国]]で離散生活していたユダヤ人によるパレスチナ入植が始まった。当時のパレスチナを支配していたのは[[オスマン帝国]]であり、こうした入植は規制されなかった。[[ドレフュス事件]]などの影響もあり、パレスチナ入植のユダヤ人の数は徐々に増え始めた。
[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、[[中央同盟国]]側に立って参戦したオスマン帝国に対し、[[連合国 (第一次世界大戦)|協商国]]側のイギリスが侵攻を開始した。[[イギリス]]は諸民族の混在する中東地域に目を付け、各勢力を味方に引き入れるため様々な協定を結んだ。まず、1915年10月には[[メッカ]]太守であるアラブ人の[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]とイギリスの駐エジプト高等弁務官[[ヘンリー・マクマホン]]との間で[[フサイン=マクマホン協定]]が結ばれ、中東地域のアラブ人の独立支持を約束した。次いで1916年5月には秘密協定としてイギリス、[[フランス]]、[[ロシア]]の間で[[サイクス・ピコ協定]]が結ばれ、この3国によるオスマン領中東地域の分割が決定された。さらに1917年11月にはイギリスの外務大臣[[アーサー・バルフォア]]が[[バルフォア宣言]]を発し、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を表明した。この3つの協定はサイクス・ピコ協定とフサイン=マクマホン協定の間でわずかな矛盾が生じるほかは、どれも相互に矛盾しているわけではない。しかしこれらの協定は結果的に戦後の両勢力の不満を増大させ、中東戦争の大きな原因のひとつとなった。{{main|三枚舌外交}}
オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナは結局イギリスの[[委任統治]]領として[[植民地]]化された([[イギリス委任統治領パレスチナ]])。イギリスの委任統治領となった後も、ユダヤ人の移民は増加し続けた。バルフォア宣言でユダヤ人の居住地の建設に賛意を示していたこともあり、イギリスは初め入植を規制しなかった。
しかし、入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった。アラブ人はイギリスに対して入植の制限を求めたため、イギリスはアラブとユダヤの板挟みに合うこととなり、戦間期のパレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。こうした中、[[1937年]]にはイギリス王立調査団がパレスチナをアラブとユダヤに分割して独立させるパレスチナ分割案を提案した。この案ではユダヤ国家が北部の[[ハイファ]]や[[テルアビブ]]を中心としたパレスチナの約20%の土地を与えられ、中部・南部を中心とした残りの80%はアラブ側に与えられることとなっていた。また、エルサレムと[[ベツレヘム]]を中心とし海岸部までの細い回廊を含めたパレスチナ中部の小さな地域は委任統治領となっていた{{sfn|笈川博一|2010|p=191}}。この案をユダヤ側は受け入れたがアラブ側は拒否し、パレスチナの独立は第二次世界大戦後まで持ち越しとなった。
=== パレスチナ分割決議 ===
{{main|パレスチナ分割決議}}
[[第二次世界大戦]]期には[[ナチス・ドイツ]]の反ユダヤ政策により、シオニズム運動はより盛んになった。戦中・戦後に発生したユダヤ人難民のうち相当数が「約束の地」パレスチナを目指したため、ユダヤ人の入植は急増しアラブ人との摩擦はますます強くなった。1947年2月7日、両派による武力衝突が頻発する中、事態収拾を困難と見たイギリスはパレスチナの委任統治を終了させる意向を表明した。
イギリスは1947年4月2日、[[国際連合]]にパレスチナ問題を提訴した。国連は1947年11月に、パレスチナを分割しアラブとユダヤの二国家を建設する決議([[パレスチナ分割決議]])を採択し、[[イギリス]]による委任統治が終了することが決定した。
この分割案は1937年のイギリス王立調査団案に比べはるかにユダヤ人に有利になっており、ユダヤ人国家はパレスチナの56%、アラブ人国家はパレスチナの43%を占めることとなっていた。
ユダヤ人国家はハイファやテルアビブなどの大都市およびその間の肥沃な平野を手に入れたが、それ以外の土地の大部分はネゲヴの砂漠であった。ユダヤ人側の領土の方が大きいのは、第二次世界大戦後も続々と流入の続くユダヤ人難民を収容する意図も込められていた。また、ユダヤ国家とされた地域においてはユダヤ人が55%、アラブ人が45%とユダヤ人がやや優位な状態となっていたが、アラブ国家とされた地域にはユダヤ人はほとんど存在せず、ユダヤ人1%に対しアラブ人人口は99%を占めていた。また、エルサレムと[[ベツレヘム]]を中心とする国土中央部のわずかな地域(パレスチナ総面積の1%)は国連管理地区として中立地区となる予定であった。
ユダヤ人側の大部分はこの決議を歓迎し受け入れを表明したものの、アラブ人側はこの国連決議を不合理なものとして反発し、ほとんどの組織が受け入れ反対を表明した。この決議案はそれまでもくすぶり続けていた両民族の対立をさらに決定的なものとし、これ以降ユダヤ人とアラブ人双方の間で、武力衝突(暴動・テロ・民兵同士の戦闘)が頻発することとなった。イギリスの委任統治領政府はもはや無力なものとなり果て、パレスチナは事実上の内戦状態となっていった。
[[1948年]][[5月14日]]、イギリスによるパレスチナ統治終了の日に、ユダヤ人は[[イスラエル]]建国を宣言した([[イスラエル独立宣言]])。しかし翌日には、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、[[第一次中東戦争]]が勃発・多くの[[パレスチナ難民]]も発生した。
=== 植民地支配以来の欧米列強による覇権主義 ===
[[広島大学]]人間社会科学研究科教授・吉村慎太郎は、[[歴史学]]、[[イラン]]近現代史戦争とイスラムを因果関係の中で捉える根拠は存在せず、[[第二次大戦]]後の中東における戦争多発の原因を、[[19世紀]]以来の[[植民地]]支配以来の中東をめぐる他律的な政治社会構造の組み替えと大国政治の継続的な関与という問題に求められると指摘している。今日の中東諸国家体制は、19世紀以来の植民地支配体制により、政治的に規定され成立され、英仏を中心としたヨーロッパ列強の思惑から[[領土]]分割がなされたばかりでなく、国家基盤が存在しないところに「人工国家」が作られ、いびつな統治システムと[[独裁政権]]の創設・温存が図られた点に原因があるとする。[[ジハード]]を含むイスラム的言説が多用されているものの、戦争原因の根本には「平和の担い手」という使命を掲げ、その実、[[国益]]の維持・拡大のために様々な介入を繰り返して止まない欧米列強の[[大国主義]]・[[覇権主義]]であり、また、ヨーロッパ列強によるこうした大国政治の暗躍は、[[ヨーロッパ]]と[[アジア]]の間に介在する中東の地政学的位置関係と中東の[[石油]]・[[天然ガス]]など豊富な[[エネルギー資源]]に深く関わっていると見ている<ref name="hiroshima">{{Cite web|date=|url=https://home.hiroshima-u.ac.jp/shinyo/newpage8.html|title=「イスラームと戦争―その関係性の変容と中東―」(『平和文化』平成14年3月号掲載)|publisher=広島大学総合科学部助教授吉村慎太郎|accessdate=2023-10-10}}</ref>。
== 第一次中東戦争 ==
{{main|第一次中東戦争}}
[[1948年]][[5月14日]]、[[イスラエル]]が独立を宣言すると、パレスチナの内戦はすぐさま国家間の戦争と化した。翌5月15日にはイスラエル独立に反対する周辺アラブ諸国([[エジプト]]、[[サウジアラビア]]、[[イラク]]、[[ヨルダン|トランスヨルダン]]、[[シリア]]、[[レバノン]])がパレスチナへ進軍し、パレスチナ人側に立ってイスラエルと戦闘を始めた。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍したが、各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。しかし、二度の休戦期間の間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。アラブ諸国の足並みの乱れもあり、ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になった。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れた。イスラエルでは、この戦争を''独立戦争''と呼ぶ。この戦争によって、イスラエルは独立を確保し、領土も国連による分割決議以上の範囲が確保された。ただし聖都であるエルサレムは西側の新市街地区しか確保することができず、首都機能は海岸部の[[テルアビブ]]に暫定的に置かれることとなった。パレスチナにおいてアラブ側に残された土地は、エルサレム旧市街([[東エルサレム]])を含む[[ヨルダン川西岸地区|ヨルダン川西岸]]がトランスヨルダンに、地中海沿岸の[[ガザ地区]]がエジプトに、それぞれ分割された。
この戦争の結果は双方に不満を残すものだった。イスラエル側は念願の独立国家の建国に成功し、国連分割決議よりもはるかに広い領土を確保したものの、肝心のユダヤ教の聖地である[[嘆きの壁]]を含むエルサレム旧市街は[[イスラム教]]国であるトランスヨルダンの手にわたり、ユダヤ教徒は聖地への出入りが不可能になってしまった。アラブ側もイスラエルの建国を許し、人口比に比べわずかな領土しか確保することができなかったため、イスラエルに対する敵意を募らせた。終戦後も両勢力の敵対は全く収まらず、以後21世紀に入っても続く対立の原型はこの時期に形作られた。また、この戦争によって主にイスラム系のパレスチナ人が多く国を追われ、大量のパレスチナ難民となって周辺各国へと流入した。イスラエルは首都をエルサレムへと移転させたが、この移転は世界各国から認められず、各国大使館は旧暫定首都であるテルアビブに置かれたままとなった。
== 第二次中東戦争(スエズ危機) ==
[[Image:1956 Suez war - conquest of Sinai.jpg|300px|thumb|'''第二次中東戦争''' 青い矢印はイスラエル軍の進路(1956年11月1日〜5日)]]
{{main|第二次中東戦争}}
=== 概要 ===
スエズ運河の権益確保を目指す英仏と[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル]]政権打倒を目論むイスラエルが「共謀」し、エジプトを侵略した戦争。植民地大国が参戦した点において、他の中東戦争とは様相が異なる。
=== 危機の開始 ===
1956年7月19日アメリカ([[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]政権)はエジプトに、[[アスワン・ハイ・ダム|アスワン・ハイダム]]建設計画への支援中止を通告した。7月26日エジプト大統領ナセルは対抗手段として[[スエズ運河]]の国有化を発表した<ref>{{Cite book|和書 |title=中東戦争と米国 ~米国・エジプト関係史の文脈~ |date=2003年3月25日 |publisher=御茶ノ水書房 |page=81 |author=鹿島正裕}}</ref>。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとしてスエズ運河を利用するイギリス([[アンソニー・イーデン|イーデン]]政権)・フランス([[ギー・モレ|モレ]]政権)両国はこれに反発した。英仏は10月の攻撃開始まで、軍事行動の準備を進めながら、国際社会の支持を得るための開戦の口実(''casus belli)'' を探す外交を展開した。
イギリスは、スエズ運河確保とナセル政権打倒にはアメリカの支持が不可欠と考えた。フランスとの共同軍事行動を検討しつつ、アメリカに自国の行動への支持を要請し続けた。アメリカは、英仏の植民地主義に与することはなく、終始エジプトへの軍事行動に反対した。アラブ側への配慮を通して石油資源の確保とソ連の中東への影響力拡大阻止を目指す姿勢であった<ref>{{Cite book|和書 |title=イギリス帝国とスエズ戦争 |date=1997年2月28日 |publisher=名古屋大学出版会 |pages=162-192 |author=佐々木雄太}}</ref>。
=== 三国の共謀 ===
三国共同軍事行動を仲介したのはフランスであった。
7月31日フランスは[[フランス軍|仏軍]]が[[イギリス軍|英軍]]の指揮下に入ることで合意した<ref>{{Cite journal|和書|author=池田亮|year=1999|title=イギリスとスエズ戦争|journal=一橋論叢|volume=第121巻、第1号|page=125}}</ref>。フランスが考案した開戦の口実は『イスラエルとエジプトの戦闘から運河の安全を守る』であった。フランスは、危機当初から軍事行動によるナセル政権打倒を方針としていた。[[アルジェリア戦争]]で独立勢力を支援するナセルを敵視したフランスは、エジプトと対立するイスラエル([[ダヴィド・ベン=グリオン|ベン=グリオン]]政権)に軍事支援を実施した。更に小型原子炉の提供に合意した<ref>{{Cite book |title=Israel and The Bomb. |year=1998 |publisher=Columbia University Press |pages=52-54 |author=Avner Cohen}}</ref>。9月にはイスラエルに軍事行動への参加を打診した。参加を了承したイスラエルとフランスは、秘密裏に攻撃計画作成に着手した<ref>{{Cite book |title=The Arab-Israeli Wars, War and Peace in the Middle East from the 1948 Independence to the Present |year=2005 |publisher=Vintage Books |pages=113-114 |author=Chaim Herzog}}</ref>。
10月中旬イギリスによる軍事行動への支持要請にアメリカが応える見込みが消えた時期、フランスがイギリスに対しイスラエルを含めた三国による共同軍事行動を極秘に提案した。22日から24日にかけてパリ郊外のセーヴルにおいて、三国の代表は秘密裏にかつ断続的に会談を行った。イスラエルが先制攻撃を実施し英仏が侵攻する計画に三国は合意した。攻撃は10月29日19時(イスラエル時間)開始と決定された<ref>{{Cite journal|author=Avi Shlaim|year=1997|title=The Protocol of Sevres, 1956: Anatomy of a War Plot|journal=International Affairs|volume=Vol.73, No.3|page=509-530}}</ref>。
=== 侵略から停戦 ===
侵略は10月29日イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、イスラエル軍はエジプト軍の各拠点を撃破占拠した。シナイ半島の大半はイスラエル軍が占領することとなった。10月31日両国が停戦に応じないことを理由に、英仏両軍はエジプト空爆を開始した。一方、これらの侵略に対して、エジプトを支援してきたソ連、イギリス・フランスがあわよくば支持を期待していたアメリカも含め、国際的な非難が沸き起った。国連緊急総会が開催され、英・仏・イスラエルに対し即時停戦撤退を求める総会決議997が11月2日に採択された。この国連総会決議を無視する形で、イスラエル軍はシナイ半島での攻撃を継続し、11月5日[[イスラエル国防軍|イスラエル軍]]はシナイ半島の[[エジプト軍]]を壊滅させ攻撃を完了した。同5日イギリス軍・フランス軍のパラシュート部隊がポートサイドに降下し、翌6日[[マルタ]]・[[キプロス]]からの海上輸送部隊がポートサイド上陸作戦を敢行した<ref>{{Cite book|和書 |title=イギリス帝国とスエズ戦争 |date=1997年2月28日 |publisher=名古屋大学出版会 |pages=204-206 |author=佐々木雄太}}</ref>。エジプト軍および民間人の抵抗を受けながら両軍は運河沿いに南下を試みた<ref>{{Cite book |title=The Arab-Israeli Wars. War and Peace in the Middle East from the 1948 Independence to the Present |year=2005 |publisher=Vintage Books |pages=114-139 |author=Chaim Herzog}}</ref>。
軍事的には劣勢であったエジプト側は戦場以外でも抵抗をみせた。11月3日[[シリア軍]]工作隊が石油パイプラインを爆破した。4日エジプトは廃船をスエズ運河に沈めて航行不能とした。6日サウジアラビアは英仏と断交し、タンカーへの石油積載を禁止した。中東から西欧への石油供給は途絶した<ref>{{Cite book|和書 |title=幻の同盟【下】:冷戦初期アメリカの中東政策 |date=2016年2月27日 |publisher=名古屋大学出版会 |page=786 |author=小野沢透}}</ref>。
アメリカ・国連・ソ連からの圧力を受け、まず、エジプト、イスラエルが停戦に応じた。11月6日英仏政府は、国連決議、国際世論の反対、アメリカの不支持、経済的苦境、により、軍事行動継続が限界にあることを認識した。イギリスが6日午前中の閣議で停戦受諾を決定した<ref>C.M.56(80), 6th November, 1956, CAB128/30, Cabinet Conclusions 1955-1957, ''The Cabinet Papers''. United Kingdom National Archives.</ref>。閣議後イーデンはモレに電話をかけて停戦受諾を促した。モレはこれを受け入れた<ref>{{Cite book |title=Khrushchv's Cold War, The Inside Story of America's Adversary |year=2006 |publisher=Norton |page=136 |author2=Timothy Naftali |author=Aleksandr Fursenko}}</ref>。11月7日午前2時(カイロ時間)停戦が発効した<ref>Telegram From the Department of State to the Embassy in Egypt, Washington , November 6, 1956—6:29 p.m., ''FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES,'' 1955–1957, SUEZ CRISIS, JULY 26–DECEMBER 31, 1956, VOLUME XVI, pp.1032-1033.</ref>。
=== 三国の撤退 ===
侵略開始後から、アメリカはイギリスへの経済支援に関する外交交渉を拒否した。イギリスの外貨準備は急激に減少し、[[国際通貨基金|IMF]]基金引き出し、借款繰延等の[[スターリング・ポンド|ポンド]]防衛策は実施できず、イギリス経済は混乱した。この混乱がイギリス軍の無条件撤退への大きな圧力となった<ref>{{Cite book|和書 |title=イギリス帝国とスエズ戦争 |date=1997年2月28日 |publisher=名古屋大学出版会 |pages=208-227 |author=佐々木雄太}}</ref>。
停戦後「条件付き撤退」を目論む三国の姿勢に国際社会は反発した。11月24日国連総会は「即時無条件撤退」決議を採択した<ref>Editorial Note, ''FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES'', 1955–1957, SUEZ CRISIS, JULY 26–DECEMBER 31, 1956, VOLUME XVI, pp.1192-1193.</ref>。国連やアメリカの圧力に屈した英仏は止む無くこの決議を受け入れ、12月3日撤退声明を発し<ref>C.M.(56)96, CAB128/30, 3rd December, 1956, Cabinet Conclusions 1955-1957, ''The Cabinet Papers,'' United Kingdom National Archives.</ref>21日に英仏軍は撤退を完了した。一方11月8日イスラエルは、占領地からの無条件撤退要求を拒否し、条件付き撤退を求めていく声明を発した<ref>12. Israeli Government Statement, 8 November 1956, IX. THE SINAI CAMPAIGN, Israel's Foreign Relations Volumes 1-2: 1947-1974. </ref>。アメリカや国連との強引な交渉により[[チラン海峡]]の自由航行を確保した<ref>{{Cite book |title=American Orientalism: The United States and the Middle East since 1945 |year=2003 |publisher=I.B.Tauris |pages=91-93 |author=Douglas Little}}</ref>イスラエルが撤退を声明して<ref>29. Statement to the Knesset by Prime Minister Ben-Gurion, 5 March 1957, IX. THE SINAI CAMPAIGN, ''Israel's Foreign Relations'', Volumes 1-2: 1947-1974. </ref>完了したのは1957年3月7日であった<ref>Message From Prime Minister Ben Gurion to President Eisenhower, Jerusalem, March 7, 1957, ''FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES'', 1955–1957, ARAB-ISRAELI DISPUTE, 1957, VOLUME XVII, pp.379-380.</ref>。エジプトは1957年3月にスエズ運河の運行を再開した。
=== 危機後の影響 ===
イスラエルは軍事的にはエジプトを圧倒した。しかしアメリカやソ連などの外交的介入によりナセル政権打倒という目的を達することはできず、戦争を開始した当事国として国際社会から強く非難された。一方、ガザ地区のゲリラ拠点を破壊し、チラン海峡の自由航行を確保できた点は、イスラエルにとっては侵略の成果であった<ref>{{Cite book |title=Israel and The American National Interest, A Critical Examination |year=1986 |publisher=University of Illinoi Press |page=84 |author=Cheryl A. Rubenberg}}</ref>。
エジプトは軍事的には敗北したものの、外交によってスエズ運河国有化を果たすことに成功した。エジプトのアラブ世界における威信は高まり、ナセルはアラブの盟主としての地位を獲得した<ref>{{Cite book |title=Arab Nationalism in The Twentieth Century, from Triumph to Despair |year=2003 |publisher=Princeton University Press |page=131 |author=Adeed Dawisha}}</ref><ref>{{Cite book |title=The Global War, Third World Interventions and the making of Our Times |year=2007 |publisher=Cambridge University Press |page=126 |author=Odd Arne Westad}}</ref>。
1954年のディエンビエンフー敗退に続くこの戦争の失敗は、フランスにとって大きな痛手となった。この後、植民地であるアルジェリアでの戦争(1954年~1962年)への対応を巡り国内政治は混乱した<ref>Telegram From the Consulate General at Algiers to the Department of State, Algiers, June 4, 1957—11 a.m., FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES, 1955–1957, AFRICA, VOLUME XVIII, pp.262-263.</ref>。
スエズ戦争は巨大な損失と不名誉をイギリスに残した。戦費は推定5億ポンドにのぼり、スエズからの撤兵までに、エジプト国内に保有していた[[イギリス政府]]および民間の全資産を凍結された。中東からの石油輸入が途絶えアメリカへの経済依存を招いた。外貨準備の流出が続き、アメリカからの資金調達により経済的危機を脱することになった。アラブの共通の敵イスラエルとの「共謀」が、イラクなど中東における「イギリスの友人」を含む、アラブ諸国との関係を悪化させた。中東地域におけるイギリスの権威と利益は決定的に傷つき、「世界の大国」の地位と権威を失った<ref>{{Cite book|和書 |title=イギリス帝国とスエズ戦争 |publisher=名古屋大学出版会 |pages=3-4 |author=佐々木雄太 |date=1997年2月28日}}</ref>。
ソ連は、長距離の軍事派遣が難しいと判断し、エジプトからの繰り返される軍事支援要請を拒否。11月5日の夜、英仏とイスラエルの三国に対して、停戦合意に応じない場合は核攻撃も辞さないという核による威嚇を発した。英仏の停戦交渉に影響を与え、イスラエルはこれを非常に深刻に受け止めた<ref>{{Cite book |title=The United Staes and Israel: The Limits of The Special Relationship |year=1993 |publisher=Columbia University Press |author=Abraham Ben-Zvi |pages=63-64}}</ref>。ソ連のこの行動は、アラブ世界では好意的に受け止められ、中東への影響力拡大に繋がった<ref>{{Cite book |title=Khrushchev's Cold War, The Inside Story of an America's Adversary |year=2006 |publisher=Norton |pages=132-136 |author=Aleksandr Fursenko |author2=Timothy Naftali}}</ref><ref>{{Cite book |title=We Now Know, Rethinking Cold War History |year=1998 |publisher=Oxford University Press |page=173 |author=John Lewis Gaddis}}</ref>。
エジプトを侵略した三国との対決姿勢を見せたアメリカはアラブ諸国内での影響力を高めた。この政治状況を背景に、中東におけるイギリスの衰退による空白を埋め石油資源を確保すること、および、[[共産主義]]の浸透を阻止することを主たる目標として、スエズ危機後、新たな中東政策を宣言した。それは、1957年1月5日アイゼンハワーが議会両院総会において発表した、アメリカの軍事的経済的協力を求める中東諸国民に対する援助プログラムであった。これが「[[アメリカ合衆国大統領のドクトリン|アイゼンハワー・ドクトリン]]」とよばれるようになったのである<ref>{{Cite book|和書 |title=中東戦争と米国 ~米国・エジプト関係史の文脈~ |date=2003年3月25日 |publisher=御茶ノ水書房 |page=106 |author=鹿島正裕}}</ref>。
== 第三次中東戦争 ==
{{main|第三次中東戦争}}
6日で勝敗が決したため「'''六日戦争'''」とも呼ばれる。ゴラン高原における[[ユダヤ人入植地]]の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった[[1967年]][[6月5日]]、イスラエルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルは[[ヨルダン]]の[[ヨルダン川西岸地区]]・[[エジプト]](当時[[アラブ連合共和国]])の[[ガザ地区]]と[[シナイ半島]]({{仮リンク|イスラエルのシナイ半島占領|label=シナイ半島占領|en|Israeli occupation of the Sinai Peninsula}})・シリアの[[ゴラン高原]]を迅速に占領し、6月7日にはユダヤ教の聖地を含む東エルサレムを占領{{sfn|笈川博一|2010|p=219}}。開戦わずか4日後の6月8日にイスラエルとヨルダンおよびエジプトの停戦が成立し、シリアとも6月10日に停戦。
この戦争においてはイスラエルがその高い軍事能力を存分に発揮し、周辺各国全てを相手取って完勝した。イスラエルは旧パレスチナ地区のすべてを支配下に置いたばかりか、さらにシナイ半島とゴラン高原をも入手し、戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大した。しかし国連によってこの領土拡大は承認されず、国際的に公認されたイスラエルの領土は建国当初の領域のみとされた。日本の地図において現在はイスラエルの支配下にあるゴラン高原がシリアの領土として表示されているのはこのためである。また、ユダヤ教徒の悲願であった嘆きの壁を含むエルサレム旧市街(東エルサレム)の支配権もイスラエルが獲得し、エルサレムはすべてイスラエル領となった。ただしこの併合も国際社会からは認められず、後の論争の火種となった。そしてこの劇的な勝利により、イスラエルは中東紛争における圧倒的な優勢を獲得した。この優勢は現代にいたるまで揺らいでいない。
アラブ側においては全くの完敗であり、第一次中東戦争において確保していたパレスチナの残存部分をもイスラエルに占領され、パレスチナからアラブ側の領土は消滅した。ナセルの威信はこの戦争によって決定的に低下し、もともと足並みのそろっていないアラブ側の混乱がさらに顕著となった。第二次中東戦争においてエジプトが確保したスエズ運河も、運河の東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、運河は通航不能となった。このためヨーロッパ・アメリカ東海岸からアジアへと向かう船はすべて[[喜望峰]]回りを余儀なくされることとなり、世界経済に多大な影響を与えた。スエズ運河は、第四次中東戦争が終結しエジプト・イスラエル間の関係がやや落ち着いた1975年に再開されるまでの8年間閉鎖されたままだった。ただし、イスラエルの存在を認めず、敵対を続けるという一点においてはアラブ側は一致しており、戦争終結後まもない8月末から9月にかけて行われたアラブ首脳会議において、[[アラブ連盟]]はイスラエルに対し「和平せず、交渉せず、承認せず」という原則を打ち出した{{sfn|岡倉徹志|2000|p=165}}。また、それまでアラブ側国家の支配のもとにあったヨルダン川西岸やガザ地区などのパレスチナ残存地域やゴラン高原、シナイ半島がイスラエルの手に落ちたことで、第一次中東戦争を上回る多数のパレスチナ難民が発生した。
== 消耗戦争 ==
{{main|[[消耗戦争]]}}
この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「消耗戦争」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1968年9月から1970年8月まで続いた。この「消耗戦争」を、それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある{{sfn|ジョセフ・S・ナイ・ジュニア|2002|p=220}}。この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。消耗戦争はエジプト側がスエズ運河の西岸からイスラエル占領地側の軍に向けて砲撃を行い、イスラエル側は先制攻撃を基本とし効率的な防御態勢を持っていなかったため、優勢な空軍力でエジプトに侵入し爆撃を行うといった形で行われた{{sfn|横田勇人|2004|p=38}}。
== 第四次中東戦争 ==
{{main|第四次中東戦争}}
ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)に起きたので'''ヨム・キプール戦争'''とも呼ばれる。[[1973年]][[10月6日]]、エジプトが前戦争での失地回復のため、[[シリア]]とともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始された。ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、イスラエルの休日であった。イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅れたといわれている。一方エジプト、シリア連合軍は周到に準備をしており、第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北を招いた反省から、地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。この「ミサイルの傘作戦」は成功し、イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、その東岸を確保することに成功した。
初戦において後れを取ったイスラエルであるが、反撃にかかるのは迅速だった。ヨム・キプールは安息日であり、予備役は自宅で待機しているものがほとんどだったため、素早い召集が可能だったのである{{sfn|笈川博一|2010|p=237}}。10月9日より、イスラエル軍による反撃が開始され、まずシリアとの前線である北部戦線に集中的に兵力を投入する戦略がとられた{{sfn|横田勇人|2004|p=42}}。大量の増援を受けたイスラエル軍は、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにいたり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。
この戦争においては、両者ともに痛み分けともいえる結果となった。イスラエルは最終的には盛り返し、軍事的には一応の勝利を得たものの、初戦における大敗北はそれまでのイスラエル軍無敗の伝説を覆すものであり、イスラエルの軍事的威信は大きく損なわれた。エジプトは純軍事的には最終的に敗北したものの、初戦において大勝利したことで軍事的威信を回復し、[[エジプトの大統領|エジプト大統領]][[アンワル・アッ=サーダート|アンワル・サダト]]の名声は非常に高まった。さらに緒戦においてではあるが、エジプトが勝利し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、エジプトはイスラエルを交渉のテーブルにつかせることに成功。後の[[キャンプ・デービッド合意]](エジプト-イスラエル和平合意)に結びついた。
なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルがスエズ運河を逆渡河しイスラエルが優勢になりはじめた10月16日、[[石油輸出国機構]]の中東6カ国が原油価格を70%引き上げ{{sfn|岡倉徹志|2000|p=173}}、翌10月17日には[[アラブ石油輸出国機構]](OAPEC)がイスラエルを援助するアメリカとオランダへの石油の禁輸を決定し、さらに非友好的な西側諸国への石油供給の段階的削減を決定{{sfn|岡倉徹志|2000|p=174}}。石油戦略と呼ばれるこの戦略によって世界の[[石油]]の安定供給が脅かされ、原油価格は急騰して世界で経済混乱を引き起こした。第一次[[オイルショック]]である。これによって、もともと1970年代に入り原油価格への影響力を強めていた産油国は[[国際石油資本|オイルメジャー]]から価格決定権を完全に奪取し、それまでのオイルメジャーに代わり価格カルテル化したOPECが原油価格に決定的な影響を与えるようになった。また、これによってそれまでよりはるかに多額の資金が産油国に流入するようになり、産油国の経済開発が進展することとなった。
== アラブの連合 ==
4度の戦争を経過するに当たり、中東各国はまず[[アラブ連盟]]を結成し、イスラエルへの対抗姿勢を示すことでは一致した。また、イスラエルや[[西側諸国|西側]]に対抗するために、[[ソビエト連邦]]との関係を強め、あるいはエジプトの[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル]]大統領の提唱した[[汎アラブ主義]]に基づいて各国が合併や連合したが、[[産油国]]と非産油国の思惑は常にすれ違い、こちらはいずれも失敗した。
'''連合した国と期間'''
* [[エジプト]]・[[シリア]] - [[アラブ連合共和国]] [[1958年]]〜[[1961年]](シリア離脱)
* [[イラク]]・[[ヨルダン]] - [[アラブ連邦]] [[1958年]][[5月]]〜[[8月]]([[7月]]に[[イラク革命]]が起き[[イラク王国]]が崩壊したため)
* イラク・シリア - イラク・シリア連邦 [[1962年]](両国とも[[クーデター]]政権のため政情不安定)
* エジプト・シリア・[[リビア]] - [[アラブ共和国連邦]] [[1971年]]〜[[1973年]](緩やかな連邦制、エジプトは1973年に更なる合一を目指したが、リビアのカダフィが反対した)
* イラク・シリア - 統合憲章に調印 [[1979年]](サダム・フセイン副大統領等がバクル大統領(イラク)の健康不安から主導権をアサド大統領(シリア)に奪われる事に反対した)
* シリア・リビア - 単一国家樹立を宣言 [[1980年]]
== 中東戦争終結の理由 ==
{{独自研究|section=1|date=2023年10月}}
第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。いくつかの理由が挙げられるが、第一に、ナセルの後を引き継いだサダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換し、[[1978年]][[3月]]に単独でキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に調印したためである。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。エジプトは[アラブ連盟の盟主であったが、1979年にはこの和平を理由として連盟から追放されてしまい、1990年まで復帰を許されなかった。サダトはイスラエル首相の[[メナヘム・ベギン]]とともに1978年度の[[ノーベル平和賞]]を受賞したが、[[1981年]][[10月]]、イスラム復興主義者により{{仮リンク|アンワル・アッ=サーダート暗殺事件|en|Assassination of Anwar Sadat|label=暗殺}}された。
第二に、[[1979年]]に[[イラン]]で起きた[[イスラム革命]]である。[[イスラム原理主義]]による国政を目指す勢力が、国王を国外追放して政権を握ってしまったことは、社会の近代化を進めようとする[[サウジアラビア]]などのアラブの王国にとって脅威であった。アラブ諸国は革命が自国に飛び火することを恐れ、イランに対する締め付けを図った。それはイスラム革命の世界的広がりを恐れる[[ソビエト連邦]]・[[中華人民共和国]]や[[アメリカ合衆国]]なども同じであった。[[1980年]]、アラブを代表して国境を接する[[イラク]]がイランとの全面戦争([[イラン・イラク戦争]])に突入し、アラブ各国をはじめ、米ソもイラクを支援した。
こうしてイスラエルの敵対勢力は、アラブ国家から非政府運動組織である[[パレスチナ解放機構]](PLO)などへと移行し、正規軍同士の戦いから対[[ゲリラ]]・[[テロリズム|テロ]]戦争へと変化していった(中東戦争は終結した訳ではなく戦争の形態が変化しただけとも言える)。PLOは[[ファタハ]]が加わって[[ヤーセル・アラファート|ヤセル・アラファト]]が議長になると、その指導の下で[[国際連合総会オブザーバー]]の地位を得るなど事実上のパレスチナ自治政府としての地位を確立した。
イスラエルが[[1982年]]に行った[[レバノン内戦|レバノン侵攻]]と、それに続く諸勢力の内戦は、アラブ側では「'''第五次中東戦争'''」と認識されている<ref>[[Japan Mail Media]] [[安武塔馬]] 2006年8月22日 [http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report6_110.html レバノン:揺れるモザイク社会 第30回「戦争の風景8:脆い停戦」]」</ref>。この戦いではレバノンの覇権をめぐってシリアとイスラエルが介入し、当時[[レバノン]]を拠点としていたPLOは双方から排除を受けて[[チュニス]]に移転した。この戦いではイスラエルは軍事的優勢を保ち、レバノンの首都[[ベイルート]]にまで侵攻したものの、目的である親イスラエル政権の樹立に失敗した。さらに、それまでのイスラエルの戦争は自衛、もしくはそれに類すると少なくともイスラエルでは考えられており、戦争に対しては一致団結していたものが、このレバノン侵攻に関しては差し迫った国家の危機があるわけではなかったため、イスラエル世論は戦争の継続に否定的だった。こうしたなか、イスラエル軍は消耗戦へと追い込まれ、泥沼化する情勢の中で撤退に追い込まれた。ただしレバノン南部への駐留は続行し、この地域からの撤退は[[2000年]]になるまで持ち越された。
1987年12月9日には、ガザにおいてイスラエル軍に対する大規模な抗議行動が起き、以後イスラエル占領地域や難民キャンプのパレスチナ人が、PLOへの期待の薄れから自ら抵抗運動を行い、イスラエル軍との軍事衝突が頻発した。これを指して、[[第1次インティファーダ]]と呼ぶ。
イラン・イラク戦争後の[[1990年]]、イラクは[[クウェート侵攻|クウェートに侵攻]]、翌[[1991年]]にはアメリカとの[[湾岸戦争]]に突入した。アラブ諸国はアメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ同士が対立する結果となった。またPLOは成り行きからイラクを支持したためにアラブ諸国からの支援を打ち切られ、苦境に立たされた。
== 中東和平交渉 ==
[[1991年]]に[[中東和平会議]]が開かれ、[[1992年]]6月のイスラエルの総選挙で和平派の[[労働党 (イスラエル)|労働党]]連合が圧勝。[[1993年]]、[[アメリカ合衆国大統領]]に中東和平を重視した[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ビル・クリントン]]が就任すると、前年にイスラエル首相となった[[イツハク・ラビン]]とともに、アラブ各国への根回しをしながら和平交渉に乗り出した。9月、PLOとイスラエルが相互承認した上でパレスチナの暫定自治協定に調印した。これによって[[ヨルダン川西岸地区|ヨルダン川西岸]]と[[ガザ地区]]はパレスチナ・アラブ人の自治を承認した。協定は[[1994年]][[5月]]に発効して[[パレスチナ自治政府]]が設立され、アラファトが初代大統領に就任したが、ラビンの和平路線は国内の[[極右]]勢力から憎まれた。また、イスラエルの存在を認めたPLOに対し、パレスチナの[[過激派]]からも不満が出た。
[[1994年]][[7月]]、ラビンはパレスチナの国際法上の領主[[ヨルダン]]との戦争状態終結を宣言し、[[10月]]に[[イスラエル・ヨルダン平和条約]]を結び、その直前にラビンはアラファトとともに[[ノーベル平和賞]]を受賞した。
[[1995年]][[3月]]には[[ゴラン高原]]をめぐって[[シリア]]と直接交渉を開始、イスラエル軍が段階的に撤退することとなり、ゴラン高原は国連の監視下に入った。[[9月]]、イスラエルとPLOはパレスチナの自治拡大協定に調印し、パレスチナのアラブ国家建設への道が築かれた。
1995年11月、ラビンは極右のユダヤ人青年に{{仮リンク|イツハク・ラビン暗殺事件|en|Assassination of Yitzhak Rabin|label=射殺}}された。また[[1996年]]2月から3月にかけ、パレスチナ過激派がイスラエルでラビン暗殺に抗議する爆弾テロを引き起こし、和平はついに暗礁に乗り上げた。PLOは4月に民族憲章からイスラエル破壊条項を削除し、和平維持を望んだ。
9月、[[エルサレム]]でアラブ系住民が暴動を起こし、イスラエルは軍をもってこれを鎮圧した。[[1997年]]、イスラエルはパレスチナのヘブロンから撤退する一方、アラブ人の住む東エルサレムにユダヤ人用集合住宅を強行着工、国連は2度の緊急総会を開いて入植禁止を決議するに至った。ところが、イスラエルで爆弾テロが起こり、アメリカは和平継続を求めて中東を歴訪した。アラブ各国は中東和平交渉の再開に賛成し、一応の安定を見た。
[[1999年]]、PLOはパレスチナ独立宣言を延期。イスラエルはシリアと和平交渉に就いた。[[2000年]]にパレスチナ村の完全自治移行を決定した。しかし、聖地エルサレムの帰属をめぐって交渉は決裂した。イスラエルの[[右翼|右派]]政党党首[[アリエル・シャロン]]はエルサレムの「神殿の丘」を訪れ、パレスチナ人の感情を逆撫でする行動を取った。これを機に、パレスチナ全域で反イスラエル暴動が起こり(第2次インティファーダ)、中東和平はここに崩壊した。アラファトは親族の汚職疑惑などでPLOやパレスチナ自治政府における求心力を失っており、テロを抑止する事が出来なかった。
[[2001年]][[3月]]、イスラエル首相に就任した右派シャロンは、PLOや武装勢力[[ハマース]]を自爆テロを引き起こし国内を混乱させている勢力であるとみなし、その幹部殺害を始めた。また分離フェンスを設置しパレスチナ側から非難を招いた。その結果パレスチナ側は自爆テロをエスカレートさせた。[[2002年]]に[[サウジアラビア]]の[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ]]国王はイスラエルの占領地撤退と引き換えに全アラブ諸国は国交正常化するという前代未聞の[[:en:Arab Peace Inisiative|アラブ和平イニシアティブ]]を提唱して[[アラブ連盟]]に全会一致で可決させ、[[イスラム諸国会議機構]]全加盟国の支持も受け<ref>http://theelders.org/article/qa-arab-peace-initiative</ref>、当時のイスラエル国防大臣だった[[:en:Binyamin Ben-Eliezer|ベンヤミン・ベン・エリエゼル]]も「シオニズム運動史上最大の成果」<ref>2008年10月30日付al-Quds al-Arabi紙</ref>と絶賛した。[[2004年]]にアラファトが死去、後を継いだ[[マフムード・アッバース]]PLO議長がパレスチナ自治政府の2代目大統領に就任、「[[ヌアクショット]]から[[インドネシア]]まで全アラブ・イスラム諸国がイスラエルと和平を結び、国交を正常化する」<ref>Issacharoff, Avi (March 29, 2007). "Arab states unanimously approve Saudi peace initiative". Haaretz.</ref>としてアラブ和平イニシアチブの受け入れの要求をイスラエルの各主要新聞で大々的に宣伝した<ref>Arab peace plan ads in Israeli papers. The Brunei Times. November 21, 2008.</ref><ref>Breathing New Life Into the Arab Peace Initiative. By Yossi Alpher. The Council for Peace and Security. November 24, 2008.</ref>。一方、[[ガザ政府]]のハマースはイスラエルの承認になることからアラブ和平イニシアティブに否定的であり<ref>Haneya Reiterates Hamas Rejection to Arab Peace Initiative. Xinhua News Agency. October 9, 2006.</ref>、ファタハと統一内閣をつくる際もアッバースからアラブ和平イニシアティブへの態度を改めるよう要請された<ref>Abbas, Hamas agree on national coalition govt. Xinhua News Agency. September 12, 2006.</ref>。
[[2006年]][[7月]]、イスラエルの[[レバノン侵攻 (2006年)|レバノン侵攻]]によりアラブ諸国がイスラエルを非難。
[[2008年]][[12月27日]]、[[ガザ地区]]を実効支配する[[イスラム原理主義]]組織「[[ハマース]]」とイスラエルとの間に戦争が勃発([[ガザ紛争 (2008年-2009年)|ガザ紛争]])。[[2009年]][[1月18日]]まで戦争は続いた。アラブ諸国はこの戦争を「'''ガザの虐殺'''」と呼び<ref>{{citenews|url=http://electronicintifada.net/bytopic/687.shtml|title=Gaza massacres (27 December 2008 - 18 January 2009)|publisher=THE ELECTORONIC INTIFADA}}</ref>、イスラエルに対する憎悪が高まっている。ハマースとの停戦条約は締結されておらず、また、イスラエルによるガザ地区の封鎖継続は、[[2010年]]に至るまで人道危機を引き起している。
{{main|ガザ・イスラエル紛争}}
[[2011年]]9月にはアッバース大統領がパレスチナ自治政府の[[国際連合|国連]]への加盟申請を表明、[[2012年]][[11月29日]]には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で承認された<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM3001P_Q2A131C1MM0000/ 国連、パレスチナ「国家」格上げ決議 米など反発] - 日本経済新聞 2012年11月30日</ref>。これに反発してイスラエル国内ではパレスチナ排除を主張する極右勢力が伸長し、緊張が高まっている。年末には長期化している[[シリア内戦]]における戦闘の砲弾がイスラエル領内に着弾、これにイスラエル軍が警告射撃を行う事態も発生している。
エジプトでは、サダトの親イスラエル路線を継承して30年間大統領職にあった[[ホスニー・ムバーラク]]が[[エジプト革命 (2011年)|2011年のエジプト革命]]により退陣、[[ムスリム同胞団]]出身でパレスチナ寄りの[[ムハンマド・ムルシー]]が新大統領に就任、ハマースへの経済制裁の緩和を行った。しかし[[2013年]]にムルシー政権が[[2013年エジプトクーデター|軍部のクーデター]]により倒されると、再び親イスラエルに回帰した同国にてガザへの密輸規制が強化され、結果弱体化したハマースが主流派ファタハに接近、パレスチナ挙国一致政権が発足した。これに反発したイスラエルが翌年に再度[[ガザ侵攻 (2014年)|ガザに侵攻]]した。
[[2017年]]、[[ドナルド・トランプ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が[[エルサレム]]を[[エルサレムをイスラエルの首都とするアメリカ合衆国の承認|イスラエルの首都と認定]]し米大使館を[[テルアビブ]]から移転すると表明、[[2019年]]には[[ゴラン高原]]におけるイスラエルの主権を認める文書に署名を行うなど、和平の仲介役を務めてきたアメリカの中東政策を大きくイスラエル寄りに方針転換しており、パレスチナ側やイスラム教徒の反発を招いている。[[2020年]]にはアメリカの仲介で[[バーレーン]]、[[アラブ首長国連邦]](UAE)、[[スーダン]]、[[モロッコ]]が相次いで[[イスラエル]]との国交正常化を合意、これに反発したハマースとイスラエルの軍事衝突が発生している。
[[2023年]]10月にはハマースがイスラエルに対し大規模な奇襲攻撃を行い、これに対してイスラエルが第4次中東戦争以来の正式な[[宣戦布告]]を行う事態が発生している([[2023年パレスチナ・イスラエル戦争]])。
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite |和書
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| title = パレスチナ紛争史
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== 関連項目 ==
* [[中東]]
* [[パレスチナ]]
* [[パレスチナ問題]]
* [[パレスチナ人民連帯国際デー]]
* [[イラン・イラク戦争]]([[1980年]]〜[[1988年]])
* [[湾岸戦争]]([[1991年]])
* [[イラク戦争]]([[2003年]])
*[[イスラエルとモロッコの国交正常化]]
*[[アブラハム合意]]
* [[:en:List_of_villages_depopulated_during_the_1948_Arab-Israeli_war|1948年のアラブ-イスラエル戦争中に人が排除された村のリスト(Wikipedia英語版)]]
** [[Al-Nahr]]その一例
*『[[50年戦争 イスラエルとアラブ]]』 - ドキュメンタリー番組
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:イスラエル・アラブ戦争|*]]
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反応性イオンエッチング
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反応性イオンエッチング (はんのうせいイオンエッチング、Reactive Ion Etching; RIE) はドライエッチングに分類される微細加工技術の一つである。
原理としては、反応室内でエッチングガスにマイクロ波等の電磁波を照射することによりプラズマ化し、同時に試料を置く陰極に高周波電圧を印加する。すると試料とプラズマの間に自己バイアス電位が生じ、プラズマ中のイオン種やラジカル種が試料方向に加速されて衝突する。その際、イオンによるスパッタリングと、エッチングガスの化学反応が同時に起こり、微細加工に適した高い精度でのエッチングが行える。
通常のドライエッチングと違い、異方性エッチングも出来ることが特徴である。
磁性体は反応性イオンエッチングの難しい遷移金属元素を主成分としており、さらに多くは多結晶体であるため、化学的組成や結晶構造の違いを問題としない汎用プロセスの開発が難しく実用化への障壁となっていた。一酸化炭素(CO)ガスを用いたプラズマにアンモニア(NH3)ガスを加えたことでCOプラズマで鉄のエッチングを試みると不均化反応によってCOがCとCO2に分かれて鉄と反応することで蒸発しにくい炭化鉄が生成されるが、NH3ガスを加えるとCOのまま鉄と反応するため、蒸発しやすい鉄カルボニルが生成され、エッチングが可能になる。
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反応性イオンエッチング (はんのうせいイオンエッチング、Reactive Ion Etching; RIE) はドライエッチングに分類される微細加工技術の一つである。 原理としては、反応室内でエッチングガスにマイクロ波等の電磁波を照射することによりプラズマ化し、同時に試料を置く陰極に高周波電圧を印加する。すると試料とプラズマの間に自己バイアス電位が生じ、プラズマ中のイオン種やラジカル種が試料方向に加速されて衝突する。その際、イオンによるスパッタリングと、エッチングガスの化学反応が同時に起こり、微細加工に適した高い精度でのエッチングが行える。 通常のドライエッチングと違い、異方性エッチングも出来ることが特徴である。 磁性体は反応性イオンエッチングの難しい遷移金属元素を主成分としており、さらに多くは多結晶体であるため、化学的組成や結晶構造の違いを問題としない汎用プロセスの開発が難しく実用化への障壁となっていた。一酸化炭素(CO)ガスを用いたプラズマにアンモニア(NH3)ガスを加えたことでCOプラズマで鉄のエッチングを試みると不均化反応によってCOがCとCO2に分かれて鉄と反応することで蒸発しにくい炭化鉄が生成されるが、NH3ガスを加えるとCOのまま鉄と反応するため、蒸発しやすい鉄カルボニルが生成され、エッチングが可能になる。
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'''反応性イオンエッチング''' (はんのうせいイオンエッチング、'''Reactive Ion Etching'''; RIE) は[[ドライエッチング]]に分類される[[微細加工技術]]の一つである。
原理としては、反応室内で[[エッチングガス]]に[[マイクロ波]]等の[[電磁波]]を照射することにより[[プラズマ]]化し、同時に試料を置く陰極に高周波電圧を印加する。すると試料とプラズマの間に[[自己バイアス]][[電位]]が生じ、プラズマ中の[[イオン]]種や[[ラジカル (化学)|ラジカル]]種が試料方向に加速されて衝突する。その際、イオンによる[[スパッタリング]]と、エッチングガスの[[化学反応]]が同時に起こり、微細加工に適した高い精度でのエッチングが行える。
通常の[[ドライエッチング]]と違い、[[異方性エッチング]]も出来ることが特徴である。
[[磁性体]]は反応性イオンエッチングの難しい[[遷移金属]]元素を主成分としており、さらに多くは[[多結晶]]体であるため、化学的組成や結晶構造の違いを問題としない汎用プロセスの開発が難しく実用化への障壁となっていた。[[一酸化炭素]](CO)ガスを用いた[[プラズマ]]に[[アンモニア]](NH<sub>3</sub>)ガスを加えたことでCOプラズマで鉄のエッチングを試みると[[不均化反応]]によってCOがCとCO<sub>2</sub>に分かれて鉄と反応することで蒸発しにくい[[炭化鉄]]が生成されるが、NH<sub>3</sub>ガスを加えるとCOのまま鉄と反応するため、蒸発しやすい[[鉄カルボニル]]が生成され、エッチングが可能になる<ref name="nanonet">[http://nanonet.mext.go.jp/magazine/index.php?JNB,No.094,2005年8月3日発行/金属磁性体で微細構造をつくる%20〜ナノ粒子化からナノ加工プラズマプロセスまで〜 金属磁性体で微細構造をつくる ~ナノ粒子化からナノ加工プラズマプロセスまで~]</ref>。
== プラズマ発生法による分類 ==
* [[容量結合プラズマ|容量結合]]型(平行平板型)(CCP-RIE:Capacitive Coupled Plasma-RIE)
* [[誘導結合プラズマ|誘導結合]]型(ICP-RIE:Inductive Coupled Plasma-RIE)
* ECR-RIE(Electron Cyclotron Resonance-RIE)
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[深掘りRIE]]
* [[ドライエッチング]]
* [[ウエットエッチング]]
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点 (数学)
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数学における点(てん、英: point)の概念は、今日では非常に広範な意味を持つものとして扱われる。歴史的には、「点」というものは、古代ギリシアの幾何学者が想定したように、直線・平面・空間を形作る根元的な「構成要素」、「原子」となるべきものであり、直線、平面、空間は点からなる集合(点集合)ということになる。しかし、19世紀の終わりごろにゲオルク・カントールによる集合論の創始と、それに続く数多くの「数学的構造」の出現があって以降は、その文脈で「空間」と呼ぶことにした任意の集合における任意の元という意味で「点」という用語が用いられる(例えば、距離空間の点、位相空間の点、射影空間の点、など)。古代ギリシア人は「点」と「数」とを区別して扱ったが、それとは対照的に、この文脈では「数(実数)」は実数直線上の点であるという言い回しを用いることができる。
つまり数学者にとって最も一般の意味での「点」とは、集合が「空間」と捉えられかつ公理によって規定される特定の性質を備えているという状況さえあれば十分で、そのような「空間」の任意の元がすなわち「点」なのである。したがって、今日における術語「空間」は全体集合に、また術語「点」は元に、ほぼ同義である。考えている問題がもはや幾何学とは何の関係もないような場合でさえ、何らかの示唆的な期待によって「点」や「空間」という語が用いられている。
ユークリッド幾何学における点は大きさ、方向など位置以外のあらゆる特徴を持たない。 ユークリッドの公理や仮定では、一部の場合には点の存在が明らかだとする。 つまり例えば、1平面上の2直線が平行でなければ、その両線上に位置する1点が確実に存在する。
時にユークリッドはこの公理に沿わない事実があることを想定した。 例えば線上の点の順序についてや、時に有限個の点ではない点の存在についてである。 そのため、点に対する伝統的公理は全てが完全で決定的というわけではない。
ユークリッドの『原論』によれば、「位置をもち、部分を持たないものである」と定義されている。 また、公理からの演繹を重視する現代数学においては、「点とは何か」ということを直接に定義せず、単に幾何学的な集合(空間)の元のことであるとみなされる。 これは、点(または直線など)を実体のない無定義術語として導入しておいて、その性質として幾つかの公理を満たすことを要請するという立場である。
たとえば、ユークリッド幾何学とよばれる普通の幾何学が成立する空間(ユークリッド空間)では、点は
などの公理(原論では公準)を満たす。 もちろん他の無定義述語や定義された述語に関する公理も含めてユークリッド幾何学が形成されるのである。 ユークリッド幾何学についての詳細はユークリッド原論などを参照されたい。
文書などに点を記載する場合は、面積を持った塗りつぶされた円やXといった記号が使われる。また、平面上、空間上の座標を示す方法もある。
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数学における点の概念は、今日では非常に広範な意味を持つものとして扱われる。歴史的には、「点」というものは、古代ギリシアの幾何学者が想定したように、直線・平面・空間を形作る根元的な「構成要素」、「原子」となるべきものであり、直線、平面、空間は点からなる集合(点集合)ということになる。しかし、19世紀の終わりごろにゲオルク・カントールによる集合論の創始と、それに続く数多くの「数学的構造」の出現があって以降は、その文脈で「空間」と呼ぶことにした任意の集合における任意の元という意味で「点」という用語が用いられる(例えば、距離空間の点、位相空間の点、射影空間の点、など)。古代ギリシア人は「点」と「数」とを区別して扱ったが、それとは対照的に、この文脈では「数(実数)」は実数直線上の点であるという言い回しを用いることができる。 つまり数学者にとって最も一般の意味での「点」とは、集合が「空間」と捉えられかつ公理によって規定される特定の性質を備えているという状況さえあれば十分で、そのような「空間」の任意の元がすなわち「点」なのである。したがって、今日における術語「空間」は全体集合に、また術語「点」は元に、ほぼ同義である。考えている問題がもはや幾何学とは何の関係もないような場合でさえ、何らかの示唆的な期待によって「点」や「空間」という語が用いられている。
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{{出典の明記|date=2017年12月}}
[[数学]]における'''点'''(てん、{{lang-en-short|''point''}})の概念は、今日では非常に広範な意味を持つものとして扱われる。歴史的には、「点」というものは、古代ギリシアの[[幾何学者]]が想定したように、[[直線]]・[[平面]]・[[空間]]を形作る根元的な「構成要素」、「原子」となるべきものであり、直線、平面、空間は点からなる[[集合]]([[点集合]])ということになる。しかし、19世紀の終わりごろに[[ゲオルク・カントール]]による[[集合論]]の創始と、それに続く数多くの「数学的構造」の出現があって以降は、その文脈で「空間」と呼ぶことにした任意の集合における任意の元という意味で「点」という用語が用いられる(例えば、[[距離空間]]の点、[[位相空間]]の点、[[射影空間]]の点、など)。古代ギリシア人は「点」と「[[数]]」とを区別して扱ったが、それとは対照的に、この文脈では「数(実数)」は[[実数直線]]上の点であるという言い回しを用いることができる。
つまり数学者にとって最も一般の意味での「点」とは、集合が「空間」と捉えられかつ公理によって規定される特定の性質を備えているという状況さえあれば十分で、そのような「空間」の任意の元がすなわち「点」なのである。したがって、今日における術語「空間」は[[全体集合]]に、また術語「点」は[[元 (数学)|元]]に、ほぼ同義である。考えている問題がもはや[[幾何学]]とは何の関係もないような場合でさえ、何らかの示唆的な期待によって「点」や「空間」という語が用いられている。
==ユークリッドの点==
[[ユークリッド幾何学]]における'''点'''は大きさ、方向など位置以外のあらゆる特徴を持たない。
[[エウクレイデス|ユークリッド]]の[[公理]]や仮定では、一部の場合には点の存在が明らかだとする。
つまり例えば、1平面上の2直線が平行でなければ、その両線上に位置する1点が確実に存在する。
時にユークリッドはこの公理に沿わない事実があることを想定した。
例えば線上の点の順序についてや、時に有限個の点ではない点の存在についてである。
そのため、点に対する伝統的公理は全てが完全で決定的というわけではない。
ユークリッドの『[[ユークリッド原論|原論]]』によれば、「位置をもち、部分を持たないものである」と'''[[定義]]'''されている。
また、公理からの[[演繹]]を重視する現代数学においては、「点とは何か」ということを直接に定義せず、単に[[幾何学]]的な[[集合]]([[空間]])の元のことであるとみなされる。
これは、点(または[[直線]]など)を[[実体]]のない[[無定義術語]]として導入しておいて、その性質として幾つかの公理を満たすことを'''要請'''するという立場である。
たとえば、ユークリッド幾何学とよばれる'''普通の'''幾何学が成立する空間([[ユークリッド空間]])では、点は
* 任意の一点から他の一点に対して直線([[線分]])を引くことができる。
* 任意の点を中心として任意の長さ([[半径]])で[[円 (数学)|円]]を描くことができる。
などの公理(原論では'''公準''')を満たす。
もちろん他の無定義述語や定義された述語に関する公理も含めてユークリッド幾何学が形成されるのである。
ユークリッド幾何学についての詳細は[[ユークリッド原論]]などを参照されたい。
== 点の表記方法 ==
文書などに点を記載する場合は、面積を持った塗りつぶされた円やXといった記号が使われる。また、平面上、空間上の座標を示す方法もある。
== 関連項目 ==
== 外部リンク ==
* {{MathWorld|urlname=Point|title=Point|author=Stover, Christopher; Weisstein, Eric W.}}
* {{nlab|urlname=point|title=point}}
* {{PlanetMath|urlname=Point|title=point}}
* {{ProofWiki|urlname=Definition:Point|title=Definition:Point}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てん}}
[[category:幾何学]]
[[Category:空間 (数学)]]
[[Category:点集合論]]
[[Category:数学の概念]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-07-24T11:17:51Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9_(%E6%95%B0%E5%AD%A6)
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気温
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気温(きおん)とは、大気(空気)の温度のこと。気象を構成する要素の1つ。通常は地上の大気の温度の事を指す。
「気温」だけを表す単語は日本語や中国語など一部の言語にしかなく、英語では「温度」を表すTemperatureが気温の意味で代用され、厳密に「気温」を表す場合はAir temperatureやAtmospheric temperatureなどが使用されている。
天気や気候について考えるときの気温は「地上の気温」である。気温は温度計により測定するが、構造や測定値の特性が異なるいくつかの種類の温度計が存在するため、測定値を利用する際に留意する必要がある。地上の気温の測定方法は世界気象機関(WMO)により規定されており、地上から1.25〜2.0mの高さで、温度計を直接外気に当てないようにして測定することと定められている。なお日本では、気象庁が測定高さを1.5mと定めている。
ふつう、上記の測定方法を満たすため、温度計や同じような測定環境が求められる湿度計は、ファン付きの通風筒や百葉箱に入れられる。
温度計が雨の侵入や結露によって濡れたり、雪の侵入や霜によって凍結したりすると、水の蒸発や融解による潜熱吸収の作用で温度が低下し、誤差の原因となる。また、太陽光が直接当たったり、温度計の周りの空気の流れが滞ったりすると、本来の周囲の気温以上に温度が上昇し、これも誤差の原因となる。これを防ぐために、通風筒や百葉箱は雨・雪が侵入しにくい構造になっており、通風筒ではファンにより強制的に、百葉箱では風を通しやすい構造により換気を行っている。なお、ファンの発熱の影響を少なくするため、通風筒内では外気の出口にファンを設ける構造が適切とされている。
温度計を納めた通風筒や百葉箱の設置環境としては、本来の周囲の気温に近づけるために周囲の風通しが良いこと、日陰になって必要以上に低温にならないために周囲の一定範囲内に樹木や構造物などが無いこと、加熱により必要以上に高温にならないように周囲に熱源となるものが無いことなどが望まれる。気象庁の「気象観測の手引き」では、開けた平らな土地で、かつ近くに木々や建物などの他の障害物のない場所で行うことと定められており、急な傾斜地の上や窪地の中は避けるべきだが、やむを得ず設置する場合は周囲の気温と比較して特性を把握しておくべきとされている。また、通風筒や百葉箱の下の地面(露場)は、丈の短い芝生が最も望ましく、難しければ周辺と同じ土壌でもよいが、雑草の繁茂を防ぐ管理上の理由から人工芝も認められている。一方、照り返しの強いアスファルトなどは不適当とされている。露場の面積は広ければ広いほど良いとされるが、気象庁のアメダス観測所ではおおむね70m以上の露場が確保されている。
気象予報に利用するため、上空の気温の観測も行われている。定時・定点の観測として、ゴム気球に温度センサを取りつけて空に放つラジオゾンデが最もよく用いられている。ラジオゾンデは対流圏を通過し成層圏内の上空30km程度まで到達する。また、航空機も随時・定時に気温の観測を行い、航空気象に利用されている。
また、世界気象機関のほか、日本をはじめとした多くの地域では気温を摂氏(°C)で表すが、アメリカ合衆国では伝統的に華氏(°F)で表すことが多い。
気温はふつう一定の間隔で連続的に観測される。このデータの中で、1日や1年など一定期間における、最も高い気温を最高気温、最も低い気温を最低気温と言う。一般的には単に「最高気温」「最低気温」という場合、天気予報において良く使われることから、1日の最高気温や最低気温を指すことが多い。また、一定期間における平均の気温を平均気温と言う。
気温の統計では、その測定間隔に注意する必要がある。SYNOPは3時間ごと、MATERは1時間ごとの測定(通報)であるため、これらのデータを用いた平均気温は、日平均気温であれば8回や24回の平均となる。この間隔は技術革新により次第に短くなってきており、アメダスの例を挙げれば2002年までは1時間ごと、2008年までは10分ごと、2008年以降は10秒ごとと改良されている。これにより誤差が出る事も分かっている。平均すると、1時間ごとの最高気温は0.5°C、10分ごとの最高気温は0.2°C、それぞれ現在よりも低い値であるほか、1時間ごとの最低気温は0.2°C、10分ごとの最低気温は0.1°C、それぞれ現在よりも高い値であると報告されている。
気温は気候を構成する要素の1つでもある。地球規模で見ると、気温は緯度との相関性が最も顕著に表れ、緯度が高いほど気温は低い。右図においても、年平均気温が同じ同色の領域は、緯線に平行な帯状に分布している。これに次ぐ因子は標高や海流である。右図では、標高が高いアジア中部のヒマラヤ山脈・チベット高原や南アメリカ西岸のアンデス山脈が黄色や水色で表示され、同緯度よりも寒いことが分かる。また、強い暖流のある北大西洋やヨーロッパは黄色や水色の領域が周囲よりも北側に大きくはみ出しており、同緯度よりも暖かいことが分かる。また、北極よりも南極の方が気温が低く表示されているが、これは北極は海洋であるのに対して、南極は大陸で厚い氷床により標高が高いためである。年平均値や極値では北極よりも南極の方が寒い。
また、夏と冬の気温の差(最暖月と最寒月の気温差)は、低緯度地域より高緯度地域、海洋部より大陸部の方が大きい。世界の観測所で最も月平均気温の差が大きい場所はロシア・シベリアのオイミャコンで、1971年 - 2000年の平年値で実に60.2°Cにもなる(1月が−45.9°C、7月が14.3°C)。
こうした気温の特性のほか、降水などの特徴を総合的に勘案して気候を分類した、気候区分が作られている。
ある地点における気温は1年周期の季節変化や1日周期の日変化だけではなく、日々の天候や、数年かそれ以上の規模での気候変動により変化する。主なものとしては、いわゆる氷期と呼ばれる寒冷期とそうでない温暖期(間氷期)が交互に繰り返す変動が知られており、更新世の約250万年間には数万年-十数万年周期でこの変動が起こったと推定されている。現在は「後氷期」と呼ばれる温暖期にあるが、その間にもさらに短周期の亜氷期(寒冷期)と亜間氷期(温暖期)を繰り返す変動も知られている。紀元前500年頃から現在までは「サブアトランティック」(英語版)と呼ばれる温暖期にあり、その間にもさらに中世の温暖期(IPCC AR4によるとヨーロッパに限られた温暖期)や小氷期(IPCC AR4によると平均気温の低下が1度未満の弱い寒冷期)と呼ばれる短周期の変動が知られている。
なお、特に19世紀半ばの産業革命以降は地球規模で気温が上昇していることが分かっている(地球温暖化)。例えば、100年間余りのデータがある日本の年平均気温は上昇傾向にあり、平年差が最も大きかった年は1990年の+1.04°Cで、次いで2004年の+1.00°Cとなっている。地球温暖化の主な原因は人為的な温室効果ガスの排出増加とされ、気候変動枠組条約や京都議定書などの国際的枠組みを設けて対策が行われている。
2019年2月6日、世界気象機関(WMO)は、2015年から4年間の世界の気温が観測史上最高だったことを確認した。また、2018年の世界の平均気温が産業革命前比で1度上昇し、過去4番目に高かったと発表した。2015年から4年連続で異例の高温が続き、上昇傾向が続き地球温暖化が進行している証拠だとしている。WMOによると、2016年の平均気温の上昇幅は1.2度で観測史上最高を記録した。WMOのペッテリ・ターラス(Petteri Taalas)事務局長は、単年の記録の上位20位が過去22年間に集中しており、「長期的な気温の傾向は単年の順位よりもはるかに重要であり、長期傾向は上昇を示している」とした上で、「過去4年間の気温上昇は陸上と海面の双方で異常な水準にある」と述べた。ハリケーンや干ばつ、洪水といった異常気象の要因にもなったと指摘している。
最高気温や最低気温のデータとなる気温の観測間隔は、気象台・測候所・特別地域気象観測所では10秒ごと(観測時刻の1分未満の端数は切り上げ)、地域気象観測所では2002年以前は1時間ごと、2003年以降は10分ごとである。2008年3月26日より全国の地域気象観測所が順次10秒ごとの観測となり、気象台等と同様の観測間隔となった。地域気象観測所での気温観測は1994年4月 - 2002年12月でも10分ごとに行われていたが、現時点では、当時の正式な記録は1時間ごとの値となっている。
※を付した観測地点は気象官署、それ以外はアメダスである。
※を付した観測地点は気象官署、それ以外はアメダスである。
ハーバード大学医学部によると、高温は心臓病のリスクを高める。 気温が高いときは、屋内にとどまり、20分ごとに屋外で水分補給し、フルーツジュースを飲まないこと。
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"text": "気温(きおん)とは、大気(空気)の温度のこと。気象を構成する要素の1つ。通常は地上の大気の温度の事を指す。",
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"text": "「気温」だけを表す単語は日本語や中国語など一部の言語にしかなく、英語では「温度」を表すTemperatureが気温の意味で代用され、厳密に「気温」を表す場合はAir temperatureやAtmospheric temperatureなどが使用されている。",
"title": "「気温」の表現"
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"text": "天気や気候について考えるときの気温は「地上の気温」である。気温は温度計により測定するが、構造や測定値の特性が異なるいくつかの種類の温度計が存在するため、測定値を利用する際に留意する必要がある。地上の気温の測定方法は世界気象機関(WMO)により規定されており、地上から1.25〜2.0mの高さで、温度計を直接外気に当てないようにして測定することと定められている。なお日本では、気象庁が測定高さを1.5mと定めている。",
"title": "気温の測定と統計"
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"text": "ふつう、上記の測定方法を満たすため、温度計や同じような測定環境が求められる湿度計は、ファン付きの通風筒や百葉箱に入れられる。",
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"text": "温度計が雨の侵入や結露によって濡れたり、雪の侵入や霜によって凍結したりすると、水の蒸発や融解による潜熱吸収の作用で温度が低下し、誤差の原因となる。また、太陽光が直接当たったり、温度計の周りの空気の流れが滞ったりすると、本来の周囲の気温以上に温度が上昇し、これも誤差の原因となる。これを防ぐために、通風筒や百葉箱は雨・雪が侵入しにくい構造になっており、通風筒ではファンにより強制的に、百葉箱では風を通しやすい構造により換気を行っている。なお、ファンの発熱の影響を少なくするため、通風筒内では外気の出口にファンを設ける構造が適切とされている。",
"title": "気温の測定と統計"
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"text": "温度計を納めた通風筒や百葉箱の設置環境としては、本来の周囲の気温に近づけるために周囲の風通しが良いこと、日陰になって必要以上に低温にならないために周囲の一定範囲内に樹木や構造物などが無いこと、加熱により必要以上に高温にならないように周囲に熱源となるものが無いことなどが望まれる。気象庁の「気象観測の手引き」では、開けた平らな土地で、かつ近くに木々や建物などの他の障害物のない場所で行うことと定められており、急な傾斜地の上や窪地の中は避けるべきだが、やむを得ず設置する場合は周囲の気温と比較して特性を把握しておくべきとされている。また、通風筒や百葉箱の下の地面(露場)は、丈の短い芝生が最も望ましく、難しければ周辺と同じ土壌でもよいが、雑草の繁茂を防ぐ管理上の理由から人工芝も認められている。一方、照り返しの強いアスファルトなどは不適当とされている。露場の面積は広ければ広いほど良いとされるが、気象庁のアメダス観測所ではおおむね70m以上の露場が確保されている。",
"title": "気温の測定と統計"
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"text": "気象予報に利用するため、上空の気温の観測も行われている。定時・定点の観測として、ゴム気球に温度センサを取りつけて空に放つラジオゾンデが最もよく用いられている。ラジオゾンデは対流圏を通過し成層圏内の上空30km程度まで到達する。また、航空機も随時・定時に気温の観測を行い、航空気象に利用されている。",
"title": "気温の測定と統計"
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"text": "また、世界気象機関のほか、日本をはじめとした多くの地域では気温を摂氏(°C)で表すが、アメリカ合衆国では伝統的に華氏(°F)で表すことが多い。",
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"text": "気温はふつう一定の間隔で連続的に観測される。このデータの中で、1日や1年など一定期間における、最も高い気温を最高気温、最も低い気温を最低気温と言う。一般的には単に「最高気温」「最低気温」という場合、天気予報において良く使われることから、1日の最高気温や最低気温を指すことが多い。また、一定期間における平均の気温を平均気温と言う。",
"title": "気温の測定と統計"
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"text": "気温の統計では、その測定間隔に注意する必要がある。SYNOPは3時間ごと、MATERは1時間ごとの測定(通報)であるため、これらのデータを用いた平均気温は、日平均気温であれば8回や24回の平均となる。この間隔は技術革新により次第に短くなってきており、アメダスの例を挙げれば2002年までは1時間ごと、2008年までは10分ごと、2008年以降は10秒ごとと改良されている。これにより誤差が出る事も分かっている。平均すると、1時間ごとの最高気温は0.5°C、10分ごとの最高気温は0.2°C、それぞれ現在よりも低い値であるほか、1時間ごとの最低気温は0.2°C、10分ごとの最低気温は0.1°C、それぞれ現在よりも高い値であると報告されている。",
"title": "気温の測定と統計"
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"text": "気温は気候を構成する要素の1つでもある。地球規模で見ると、気温は緯度との相関性が最も顕著に表れ、緯度が高いほど気温は低い。右図においても、年平均気温が同じ同色の領域は、緯線に平行な帯状に分布している。これに次ぐ因子は標高や海流である。右図では、標高が高いアジア中部のヒマラヤ山脈・チベット高原や南アメリカ西岸のアンデス山脈が黄色や水色で表示され、同緯度よりも寒いことが分かる。また、強い暖流のある北大西洋やヨーロッパは黄色や水色の領域が周囲よりも北側に大きくはみ出しており、同緯度よりも暖かいことが分かる。また、北極よりも南極の方が気温が低く表示されているが、これは北極は海洋であるのに対して、南極は大陸で厚い氷床により標高が高いためである。年平均値や極値では北極よりも南極の方が寒い。",
"title": "世界の気温と気候"
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"text": "また、夏と冬の気温の差(最暖月と最寒月の気温差)は、低緯度地域より高緯度地域、海洋部より大陸部の方が大きい。世界の観測所で最も月平均気温の差が大きい場所はロシア・シベリアのオイミャコンで、1971年 - 2000年の平年値で実に60.2°Cにもなる(1月が−45.9°C、7月が14.3°C)。",
"title": "世界の気温と気候"
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"text": "こうした気温の特性のほか、降水などの特徴を総合的に勘案して気候を分類した、気候区分が作られている。",
"title": "世界の気温と気候"
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"text": "ある地点における気温は1年周期の季節変化や1日周期の日変化だけではなく、日々の天候や、数年かそれ以上の規模での気候変動により変化する。主なものとしては、いわゆる氷期と呼ばれる寒冷期とそうでない温暖期(間氷期)が交互に繰り返す変動が知られており、更新世の約250万年間には数万年-十数万年周期でこの変動が起こったと推定されている。現在は「後氷期」と呼ばれる温暖期にあるが、その間にもさらに短周期の亜氷期(寒冷期)と亜間氷期(温暖期)を繰り返す変動も知られている。紀元前500年頃から現在までは「サブアトランティック」(英語版)と呼ばれる温暖期にあり、その間にもさらに中世の温暖期(IPCC AR4によるとヨーロッパに限られた温暖期)や小氷期(IPCC AR4によると平均気温の低下が1度未満の弱い寒冷期)と呼ばれる短周期の変動が知られている。",
"title": "世界の気温と気候"
},
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"text": "なお、特に19世紀半ばの産業革命以降は地球規模で気温が上昇していることが分かっている(地球温暖化)。例えば、100年間余りのデータがある日本の年平均気温は上昇傾向にあり、平年差が最も大きかった年は1990年の+1.04°Cで、次いで2004年の+1.00°Cとなっている。地球温暖化の主な原因は人為的な温室効果ガスの排出増加とされ、気候変動枠組条約や京都議定書などの国際的枠組みを設けて対策が行われている。",
"title": "世界の気温と気候"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "2019年2月6日、世界気象機関(WMO)は、2015年から4年間の世界の気温が観測史上最高だったことを確認した。また、2018年の世界の平均気温が産業革命前比で1度上昇し、過去4番目に高かったと発表した。2015年から4年連続で異例の高温が続き、上昇傾向が続き地球温暖化が進行している証拠だとしている。WMOによると、2016年の平均気温の上昇幅は1.2度で観測史上最高を記録した。WMOのペッテリ・ターラス(Petteri Taalas)事務局長は、単年の記録の上位20位が過去22年間に集中しており、「長期的な気温の傾向は単年の順位よりもはるかに重要であり、長期傾向は上昇を示している」とした上で、「過去4年間の気温上昇は陸上と海面の双方で異常な水準にある」と述べた。ハリケーンや干ばつ、洪水といった異常気象の要因にもなったと指摘している。",
"title": "世界の気温と気候"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "最高気温や最低気温のデータとなる気温の観測間隔は、気象台・測候所・特別地域気象観測所では10秒ごと(観測時刻の1分未満の端数は切り上げ)、地域気象観測所では2002年以前は1時間ごと、2003年以降は10分ごとである。2008年3月26日より全国の地域気象観測所が順次10秒ごとの観測となり、気象台等と同様の観測間隔となった。地域気象観測所での気温観測は1994年4月 - 2002年12月でも10分ごとに行われていたが、現時点では、当時の正式な記録は1時間ごとの値となっている。",
"title": "気温の日本記録"
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"text": "※を付した観測地点は気象官署、それ以外はアメダスである。",
"title": "気温の日本記録"
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"text": "※を付した観測地点は気象官署、それ以外はアメダスである。",
"title": "気温の日本記録"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ハーバード大学医学部によると、高温は心臓病のリスクを高める。 気温が高いときは、屋内にとどまり、20分ごとに屋外で水分補給し、フルーツジュースを飲まないこと。",
"title": "気温と健康"
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気温(きおん)とは、大気(空気)の温度のこと。気象を構成する要素の1つ。通常は地上の大気の温度の事を指す。
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[[File:Prosek, displej času a teploty a kamera, teplota.jpg|thumb|right|200px|屋外に設けられた気温表示ディスプレイ]]
'''気温'''(きおん)とは、[[大気]](空気)の[[温度]]のこと。[[気象]]を構成する要素の1つ。通常は地上の大気の温度の事を指す。
== 「気温」の表現 ==
「気温」だけを表す単語は[[日本語]]や[[中国語]]など一部の言語{{efn2|主に[[漢字文化圏]]の言語。}}にしかなく、英語では「温度」を表すTemperatureが気温の意味で代用され、厳密に「気温」を表す場合はAir temperatureやAtmospheric temperatureなどが使用されている。
== 気温の測定と統計 ==
[[File:Hodkovice, Pražský okruh, měřicí přístroj (02).jpg|thumb|right|200px|気象観測所の気温計]]
[[File:20050501 1315 2558-Bimetall-Zeigerthermometer.jpg|thumb|right|200px|バイメタル式気温計]]
[[File:Ladakhtemp2.svg|thumb|right|200px|気温のグラフの例。月平均の最低・最高気温が示されている]]
=== 測定 ===
天気や気候について考えるときの気温は「地上の気温」である。気温は[[温度計]]により測定するが、構造や測定値の特性が異なるいくつかの種類の温度計が存在するため、測定値を利用する際に留意する必要がある。地上の気温の測定方法は[[世界気象機関]](WMO)により規定されており、地上から1.25〜2.0mの高さで、温度計を直接外気に当てないようにして[[測定]]することと定められている。なお日本では、[[気象庁]]が測定高さを1.5mと定めている<ref name="jmatebiki-1">[[#jmatebiki|気象庁『気象観測の手引き』]]、1-3,9-15頁</ref>。
ふつう、上記の測定方法を満たすため、温度計や同じような測定環境が求められる[[湿度計]]は、[[送風機|ファン]]付きの[[通風筒]]や[[百葉箱]]に入れられる<ref name="jmatebiki-1"/>。
温度計が[[雨]]の侵入や[[結露]]によって濡れたり、[[雪]]の侵入や[[霜]]によって凍結したりすると、水の蒸発や融解による[[潜熱]]吸収の作用で温度が低下し、誤差の原因となる。また、[[太陽光]]が直接当たったり、温度計の周りの空気の流れが滞ったりすると、本来の周囲の気温以上に温度が上昇し、これも誤差の原因となる。これを防ぐために、通風筒や百葉箱は雨・雪が侵入しにくい構造になっており、通風筒ではファンにより強制的に、百葉箱では風を通しやすい構造により[[換気]]を行っている。なお、ファンの発熱の影響を少なくするため、通風筒内では外気の出口にファンを設ける構造が適切とされている<ref name="jmatebiki-1"/>。
温度計を納めた通風筒や百葉箱の設置環境としては、本来の周囲の気温に近づけるために周囲の風通しが良いこと、日陰になって必要以上に低温にならないために周囲の一定範囲内に[[樹木]]や構造物などが無いこと、加熱により必要以上に高温にならないように周囲に熱源となるものが無いことなどが望まれる。気象庁の「気象観測の手引き」では、開けた平らな土地で、かつ近くに木々や[[建物]]などの他の障害物のない場所で行うことと定められており、急な傾斜地の上や窪地の中は避けるべきだが、やむを得ず設置する場合は周囲の気温と比較して特性を把握しておくべきとされている。また、通風筒や百葉箱の下の地面(露場)は、丈の短い[[芝|芝生]]が最も望ましく、難しければ周辺と同じ土壌でもよいが、雑草の繁茂を防ぐ管理上の理由から人工芝も認められている。一方、照り返しの強いアスファルトなどは不適当とされている。露場の面積は広ければ広いほど良いとされるが、気象庁の[[アメダス]]観測所ではおおむね70[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]以上の露場が確保されている<ref name="jmatebiki-1"/>。
気象予報に利用するため、上空の気温の観測も行われている。定時・定点の観測として、ゴム気球に温度センサを取りつけて空に放つ[[ラジオゾンデ]]が最もよく用いられている。ラジオゾンデは[[対流圏]]を通過し[[成層圏]]内の上空30km程度まで到達する。また、航空機も随時・定時に気温の観測を行い、航空気象に利用されている。
また、世界気象機関のほか、日本をはじめとした多くの地域では気温を[[摂氏]]({{℃}})で表すが、[[アメリカ合衆国]]では伝統的に[[華氏]]({{°F}})で表すことが多い。
=== 統計 ===
気温はふつう一定の間隔で連続的に観測される。このデータの中で、1日や1年など一定期間における、最も高い気温を最高気温、最も低い気温を最低気温と言う。一般的には単に「最高気温」「最低気温」という場合、天気予報において良く使われることから、1日の最高気温や最低気温を指すことが多い。また、一定期間における平均の気温を平均気温と言う。
気温の統計では、その測定間隔に注意する必要がある。[[地上実況気象通報式|SYNOP]]は3時間ごと、[[定時飛行場実況気象通報式|MATER]]は1時間ごとの測定(通報)であるため、これらのデータを用いた平均気温は、日平均気温であれば8回や24回の平均となる。この間隔は技術革新により次第に短くなってきており、[[アメダス]]の例を挙げれば2002年までは1時間ごと、2008年までは10分ごと、2008年以降は10秒ごとと改良されている。これにより誤差が出る事も分かっている。平均すると、1時間ごとの最高気温は0.5℃、10分ごとの最高気温は0.2℃、それぞれ現在よりも低い値であるほか、1時間ごとの最低気温は0.2℃、10分ごとの最低気温は0.1℃、それぞれ現在よりも高い値であると報告されている<ref>「{{PDFLink|[https://web.archive.org/web/20160305085820/http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/kaisetu/doc/henkou200803.pdf アメダスデータ等統合処理システムの運用開始と気象観測統計の変更について]}}」、気象庁、2008年3月</ref>。
== 気温に関する用語 ==
; 最高気温
: 日最高気温ともいう。着目している日、すなわち0時から24時までに[[観測]]された気温の最高値。[[晴れ|晴天]]の日では12時から15時の間に観測されることが多いが、そのときの[[気圧配置]]によって夜中に観測されることもある。[[天気予報]]などで「日中の最高気温」と明示した場合は、「9時から18時までの最高気温」となる。新聞などでは「0時から15時までの最高気温」が掲載される場合が多い。また、着目している月内に観測された気温の最高値を、月最高気温という。
; 最低気温
: 日最低気温ともいう。着目している日、すなわち0時から24時までに観測された気温の最低値。晴天の日では3時から9時の間に観測されることが多いが、その日の気圧配置によっては昼間に観測されることもある。天気予報などで「明日朝の最低気温」と明示した場合は、「明日0時から9時までの最低気温」となる。新聞などでは「前日21時から当日9時までの最低気温」が掲載される場合が多い。また、着目している月内で観測された気温の最低値を、月最低気温という。
; 平均気温
: 一日の場合は1〜24時の毎正時24回の気温の平均、1か月(1年)の場合は毎日(毎月)の平均気温の平均のことを指す。また、日本の平均気温を算出する場合、全ての観測地の平均気温ではなく、都市化の影響が少なく特定の地域に偏らない、[[1898年]]以降継続して観測が続けられている17地点<ref group="注">網走、根室、寿都、山形、石巻、水戸、銚子、伏木(高岡市)、長野、飯田、彦根、境、浜田、多度津、宮崎、名瀬、石垣島</ref>における、平均気温と平年値の差を、17地点の平均値で表す。よって、絶対値で○{{℃}}ではなく、平年差±○{{℃}}で表す。この方法は[[過去の気温変化#産業革命以降の世界的な気温変化|世界の平均気温]]でも用いられている。
; [[日較差]]
: 一日に観測された最高気温と最低気温の差。
; 月較差
: ひと月に観測された最高気温と最低気温の差。
; [[年較差]]
: 一年間に観測された最高気温と最低気温の差。最暖月(最も気温が高い月)と最寒月(最も気温が低い月)の月平均気温の差を言う場合もある。
; 冬日(ふゆび)
: 日最低気温が0{{℃}}未満の日。
; [[熱帯夜]](ねったいや)
: '''夜間の最低気温'''が25{{℃}}以上のこと(気象庁の予報用語による)。
: 気象庁が統計しているのは熱帯夜ではなく、正確には「'''日最低気温'''が25{{℃}}以上の日」である。
; 真冬日(まふゆび)
: 日最高気温が0{{℃}}未満の日。
; 夏日(なつび)
: 日最高気温が25{{℃}}以上の日。
; 真夏日(まなつび)
: 日最高気温が30{{℃}}以上の日。
; [[猛暑]]日(もうしょび)
: 日最高気温が35{{℃}}以上の日。
: [[2006年]]以前はマスコミ等で'''酷暑日'''(こくしょび)と表現されることが多かったが、[[2007年]][[4月1日]]に行われた予報用語改正によって正式に定義され、同年の[[新語・流行語大賞]]でトップ10入りしている<ref>[https://www.jiyu.co.jp/singo/index.php?eid=00024 ユーキャン新語・流行語大賞]</ref>。
== 気温を左右する要因 ==
{{Double image aside|right|Hokkaido Sapporo Odori Park.jpg|200|Malmousque.JPG|260|緯度が同じ日本の[[札幌市|札幌]]とフランスの[[マルセイユ]]の2月の風景。積雪の有無、樹木の葉の有無などから気温の違いが分かる。}}
* '''[[太陽光]]'''([[日射]]) - 地球上の気温に最も大きな影響力を持つ。太陽と地球の天体運動に伴う太陽光の入射角度の変化により、気温は1年周期で季節変化し、1日周期で日変化する。一般的に、太陽高度が高いほど、気温は高くなる。また、日射が少なく大気放射が多くなるため、同じ時期でも晴れの日より曇りの日や雨の日の方が気温の変化は緩やかである。
* '''大気放射''' - すべての物質は[[ステファン・ボルツマンの法則]]により[[絶対温度]]の4乗に比例して単位時間当たりのエネルギーを放出している。大気圏においては主に[[水蒸気]]、[[二酸化炭素]]が大気から放たれる赤外線をよく吸収する。
* '''地球[[放射]]''' - 太陽光により受けた熱は、地表から上空に向けて[[赤外線]]として放射される、これを地球放射という。夜間は地球放射により地表温度が下がり、顕熱によって気温が低下する。これを[[放射冷却]]と呼ぶ。雲が少なく風が弱い日には特に気温の低下が大きくなる。水蒸気や雲が多いと、水蒸気や雲からの赤外線の放射が地球放射と相殺するため、気温の低下幅が小さくなる。夜間から朝にかけて放射冷却が続くため、1日の気温は、放射冷却の効果を上回る日射が始まる早朝に最低となることが多い。
* '''[[顕熱]]'''
* '''[[潜熱]]'''
* '''[[排熱]]''' - 特に都市部では、人為的活動に伴う排熱が気温を上昇させることがある。 また、ビルの側面からの放射熱が気温の低下を妨げる要因になる。
* '''[[地形]]''' - [[盆地]]や内陸、[[砂漠]]などの晴れが多い地域では、日射も地球放射も効率が良いため気温の変化が大きい。
* '''[[海洋]]'''・'''水辺''' - 水は熱容量が大きく温度変化が緩やかなため海上では気温の変化も小さく、陸上にあっても[[海岸|海辺]]では[[海陸風]]により海と陸の空気が入れ替わるため気温の変化が小さい。同様に水を湛える[[河川]]や[[湖沼]]も同じような効果を持ち、その周囲の気温の変化は小さくなる傾向にある。また、暖流や寒流が南北に流れてくる地域では、海洋の影響により暖かくなったり寒くなったりする。
* '''[[標高]]''' - 対流圏の空気は温度成層を成しており、通常は標高が高いほど気温が低くなる。この低下率を[[気温減率]]といい、海抜0〜2000m付近では標高が100m高くなるごとに平均で0.65{{℃}}ずつ気温が低下する。
* '''[[植生]]''' - [[蒸散]]や土壌の水分などによる[[潜熱]]の放出、反射率が低いことなどから、気温の変化が小さくなる。
* 地表の構成物 - 地面や人工物は、色や組成により日射の反射率や熱容量が異なり、気温に影響を与える。
* '''[[氷]]の存在''' - [[氷河]]や[[積雪]]などの形で存在する氷は、反射率が高いため日射による気温の上昇を抑える効果がある。また、熱容量が大きいため、特に春先などの融解時に気温の変化を抑える効果がある。
* '''[[移流]]''' - 暖かい空気や冷たい空気が風により他の場所から移動してくるもの。[[気圧配置]]が大きく関係する。
** '''[[フェーン現象|フェーン]]''' - 暖かく湿った空気が山脈を越える際、降雨に伴い潜熱が放出され加熱される効果により、気温が上昇する。
** '''[[ボーラ]]''' - 冷たい空気が山脈の尾根を伝って吹き下ろし、気温が下がるもの。
** '''[[雷雨]]に伴う冷気''' - [[積乱雲]]の衰弱期に冷たい下降気流が吹き下ろし地表を広がるもの(冷気外出流)。[[ガストフロント]]、[[ダウンバースト]]はこの一種。
== 世界の気温と気候 ==
[[File:Annual Average Temperature Map.jpg|right|thumb|300px|世界の地表平均気温、1961-1990年]]
気温は気候を構成する要素の1つでもある。地球規模で見ると、気温は緯度との相関性が最も顕著に表れ、緯度が高いほど気温は低い。右図においても、年平均気温が同じ同色の領域は、緯線に平行な帯状に分布している。これに次ぐ因子は標高や海流である。右図では、標高が高い[[アジア]]中部の[[ヒマラヤ山脈]]・[[チベット高原]]や[[南アメリカ]]西岸の[[アンデス山脈]]が黄色や水色で表示され、同緯度よりも寒いことが分かる。また、強い暖流のある[[北大西洋]]や[[ヨーロッパ]]は黄色や水色の領域が周囲よりも北側に大きくはみ出しており、同緯度よりも暖かいことが分かる。また、[[北極]]よりも[[南極]]の方が気温が低く表示されているが、これは北極は海洋であるのに対して、南極は大陸で厚い[[氷床]]により標高が高いためである。年平均値や極値では北極よりも南極の方が寒い。
また、夏と冬の気温の差(最暖月と最寒月の気温差)は、低緯度地域より高緯度地域、海洋部より大陸部の方が大きい。世界の観測所で最も月平均気温の差が大きい場所は[[ロシア]]・[[シベリア]]の[[オイミャコン]]で、1971年 - 2000年の平年値で実に60.2{{℃}}にもなる(1月が−45.9{{℃}}、7月が14.3{{℃}})。
こうした気温の特性のほか、降水などの特徴を総合的に勘案して気候を分類した、[[気候区分]]が作られている。
[[File:Instrumental Temperature Record.png|right|thumb|200px|地球全体の平均気温の推移]]
ある地点における気温は1年周期の季節変化や1日周期の日変化だけではなく、日々の天候や、数年かそれ以上の規模での[[気候変動]]により変化する。主なものとしては、いわゆる[[氷期]]と呼ばれる寒冷期とそうでない温暖期([[間氷期]])が交互に繰り返す変動が知られており、[[更新世]]の約250万年間には数万年-十数万年周期でこの変動が起こったと推定されている。現在は「[[後氷期]]」と呼ばれる温暖期にあるが、その間にもさらに短周期の亜氷期(寒冷期)と亜間氷期(温暖期)を繰り返す変動も知られている。紀元前500年頃から現在までは「サブアトランティック」<small>([[:en:Anthropocene|英語版]])</small>と呼ばれる温暖期にあり、その間にもさらに[[中世の温暖期]]([[IPCC第4次評価報告書|IPCC AR4]]によるとヨーロッパに限られた温暖期)や[[小氷期]](IPCC AR4によると平均気温の低下が1度未満の弱い寒冷期)と呼ばれる短周期の変動が知られている。
なお、特に19世紀半ばの[[産業革命]]以降は地球規模で気温が上昇していることが分かっている([[地球温暖化]])。例えば、100年間余りのデータがある日本の年平均気温は上昇傾向にあり、平年差が最も大きかった年は[[1990年]]の+1.04{{℃}}で、次いで2004年の+1.00{{℃}}となっている。地球温暖化の主な原因は人為的な[[温室効果ガス]]の排出増加とされ、[[気候変動枠組条約]]や[[京都議定書]]などの国際的枠組みを設けて対策が行われている。
2019年2月6日、[[世界気象機関]]([[WMO]])は、2015年から4年間の世界の気温が観測史上最高だったことを確認した。また、2018年の世界の平均気温が産業革命前比で1度上昇し、過去4番目に高かったと発表した。2015年から4年連続で異例の高温が続き、上昇傾向が続き地球温暖化が進行している証拠だとしている。WMOによると、2016年の平均気温の上昇幅は1.2度で観測史上最高を記録した。WMOのペッテリ・ターラス(Petteri Taalas)事務局長は、単年の記録の上位20位が過去22年間に集中しており、「長期的な気温の傾向は単年の順位よりもはるかに重要であり、長期傾向は上昇を示している」とした上で、「過去4年間の気温上昇は陸上と海面の双方で異常な水準にある」と述べた。ハリケーンや干ばつ、洪水といった異常気象の要因にもなったと指摘している<ref>{{Cite web|和書|title=2018年の気温、過去4番目の高さ WMO「温暖化進行の証拠」|url=https://mainichi.jp/articles/20190207/k00/00m/040/016000c|website=毎日新聞|accessdate=2019-02-07|publisher=毎日新聞社|date=2019-02-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190209124205/https://mainichi.jp/articles/20190207/k00/00m/040/016000c|archivedate=2019-02-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=2015〜18年の世界気温は観測史上最高 国連WMOが報告|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3210013|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-02-07|publisher=AFP|date=2019-02-07}}</ref>。
== 気温の世界記録 ==
{{Main|最高気温記録一覧|最低気温記録一覧|世界の最低気温記録|世界の最高気温記録}}
===一覧表===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:center"
!大陸
!colspan="2"|最高気温
!colspan="2"|最低気温
|-
![[アジア]]
|colspan="2"|54.0{{℃}}(129.2{{°F}})<br />{{KUW}}<br />[[:en:Mitribah|Mitribah]]<br />[[2016年]][[7月21日]]
|{{Nowiki|−}}67.8{{℃}}(−90.0{{°F}})<br />{{RUS}}<br />[[サハ共和国]] [[ベルホヤンスク]]<br />[[1892年]][[2月7日]]
|{{Nowiki|−}}71.2{{℃}}(−96.2{{°F}})<br />{{RUS}}<br />サハ共和国 [[オイミャコン]]<br />[[1926年]][[1月26日]]
|-
![[アフリカ]]
|colspan="2"|55.0{{℃}}(131.0{{°F}})<br />{{TUN}}<br />[[:en:Kebili|Kebili]]<br />[[1931年]][[7月7日]]
|colspan="2"|{{Nowiki|−}}24.0{{℃}}(−11.0{{°F}})<br />{{MAR}}<br />[[:en:Ifrane|Ifrane]]<br />[[1935年]][[2月11日]]
|-
![[ヨーロッパ]]
|colspan="2"|50.0{{℃}}(122.0{{°F}})<br />{{ESP}}<br />[[アンダルシア州]] [[セビリア]]<br />[[1881年]][[8月4日]]
|{{Nowiki|−}}58.1{{℃}}(−72.6{{°F}})<br />{{RUS}}<br />[[コミ共和国]] [[:en:Ust-Shchuger|Ust-Shchuger]]<br />[[1978年]][[12月31日]]
|{{Nowiki|−}}51.4{{℃}}(−60.5{{°F}})<br />{{NOR}}<br />[[フィンマルク県]] [[カラショーク]]<br />[[1886年]][[1月1日]]
|-
![[北アメリカ]]
|colspan="2"|'''56.7{{℃}}(134.0{{°F}})<br />{{USA}}<br />[[カリフォルニア州]] [[デスヴァレー (カリフォルニア州)|デスヴァレー]]<br />[[1913年]][[7月10日]]'''
|{{Nowiki|−}}63.0{{℃}}(−81.4{{°F}})<br />{{CAN}}<br />[[ユーコン準州]] [[:en:Snag, Yukon|Snag]]<br />[[1947年]][[2月3日]]
|{{Nowiki|−}}66.1{{℃}}(−87{{°F}})<br />[[グリーンランド]]<br />Northice<br />[[1954年]][[1月9日]]
|-
![[南アメリカ]]
|colspan="2"|48.9{{℃}}(120.0{{°F}})<br />{{ARG}}<br />[[リバダビア]]<br />[[1905年]][[12月11日]]
|colspan="2"|{{Nowiki|−}}33.0{{℃}}(−27.4{{°F}})<br />{{ARG}}<br />[[チュブ州]] [[:en:Sarmiento, Chubut|Sarmiento]]<br />[[1907年]][[6月1日]]
|-
![[オーストラリア]]
|colspan="2"|53.1{{℃}}(128.0{{°F}})<br />{{AUS}}<br />[[クイーンズランド州]] [[:en:Cloncurry, Queensland|Cloncurry]]<br />[[1889年]][[1月16日]]
|colspan="2"|{{Nowiki|−}}23.0{{℃}}(−10.4{{°F}})<br />{{AUS}}<br />[[ニューサウスウェールズ州]] [[:en:Charlotte Pass, New South Wales|Charlotte Pass]]<br />[[1994年]][[6月29日]]
|-
![[オセアニア]]
|colspan="2"|42.4{{℃}}(108.3{{°F}})<br />{{NZL}}<br />[[カンタベリー (ニュージーランド)|カンタベリー地区]] [[ランギオラ]]<br />[[1973年]][[2月7日]]
|colspan="2"|{{Nowiki|−}}25.6{{℃}}(−14.1{{°F}})<br />{{NZL}}<br />[[:en:Ranfurly, New Zealand|Ranfurly]]<br />[[1903年]][[7月18日]]
|-
! [[南極]]
|colspan="2"|14.6{{℃}}(58.3{{°F}})<br />[[バンダ基地]]<br />[[1974年]][[1月5日]]
|colspan="2"|'''−89.2{{℃}}(−128.6{{°F}})<br />[[ボストーク基地]]<br />[[1983年]][[7月21日]]<br />*−93.2°C<br />[[ドームA]]付近<br />[[2010年]][[8月10日]]'''
|-
|colspan="5" style="text-align:left; width:0em"|
* [[ロシア]]は[[ウラル山脈]]を境界にアジアとヨーロッパに分割。
* オセアニアはオーストラリアを除く。
* 世界最高気温の記録:[[アメリカ海洋大気庁|NOAA]]や[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]などの記録によれば「[[リビア]]・[[アジージーヤ]]の58.0{{℃}} ([[1922年]][[9月13日]])」とされていたが、[[2012年]]に[[世界気象機関|WMO]]はアジージーヤの記録が観測ミスによる誤りで、実際は「アメリカ合衆国・カリフォルニア州デスヴァレーの56.7{{℃}} (1913年7月10日)」であったと発表した<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012091301025 世界最高気温58度は間違い=1922年のリビア記録-WMOチームが調査] 時事ドットコム、2012年[[9月13日]]</ref>。一方、日本の気象庁の記録では長らく「[[イラク]]・[[バスラ]]の58.8{{℃}} ([[1921年]][[7月8日]])」とされてきたが、[[2013年]]に気象庁[[気象研究所]]の藤部文昭が「イギリスの気象学会誌で1922年に報告された『セ氏53.8{{℃}}、カ氏128.9{{°F}}』の誤記であり、この最高気温を記録した日付も同学会誌のグラフでは[[7月15日]]と[[7月17日|17日]]であった(''8日は最低気温が最も高かった日'')」とする調査結果を発表している<ref>{{Cite news|title=「バスラ58.8度」は誤記か=日本で有名な「世界最高気温」-気象研研究者|newspaper=[[時事ドットコム]]|date=2013-08-17|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201308/2013081700142|access-date=2022-05-05|archive-url=https://web.archive.org/web/20140108054923/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201308/2013081700142|archive-date=2014-01-08}}</ref>。
* 世界最低気温の記録:地球観測衛星[[ランドサット]]の観測データによれば、[[2010年]][[8月10日]]に-93.2{{℃}}の温度を観測したことが[[2013年]]に判明している。場所は[[南極大陸]]の日本のドームふじ基地(標高3810メートル)がある山頂と[[ドームA]](標高4093メートル)がある山頂の間を走る尾根の中腹<ref>{{Cite news |title= NASA-USGS Landsat 8 Satellite Pinpoints Coldest Spots on Earth |date=2013-12-09 |author=NASA |url= http://www.nasa.gov/content/goddard/nasa-usgs-landsat-8-satellite-pinpoints-coldest-spots-on-earth/ |accessdate = 2013-12-10}}</ref>。ただしこれは気温ではなく地表面温度であり、気温と地表面温度は異なる温度を示すため、更新記録とされるかは不明である<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1005G_Q3A211C1CR8000/ 南極で氷点下93.2度 10年に観測、史上最低気温下回る]、日本経済新聞、2013年12月10日</ref>。
* 南極の最高気温:2020年2月に[[シーモア島]]で(Seymour Island)史上最高の20.75℃が観測された<ref>{{Cite web|和書|title=南極で初の20度超え 史上最高気温20.75度を観測|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3268228|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-07-08|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=南極史上初の20.75℃観測も「なんの意味もない」の意味(森さやか) - Yahoo!ニュース|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/5dc161b4ca78a66b07125d8a4caca8c2e15e197d|website=Yahoo!ニュース 個人|accessdate=2020-07-08|language=ja}}</ref>。
|}
===その他の記録===
* 最も急速な気温の上昇:2分間に27{{℃}}(49{{°F}}) - {{USA}} [[サウスダコタ州]] Spearfish、[[1943年]][[1月22日]]<ref name="a">Lyons, Walter A(1997). The Handy Weather Answer Book, 2nd Edition, Detroit, Michigan: Visible Ink press. ISBN 0-7876-1034-8</ref>
* 最も急速な気温の低下:15分間に26{{℃}}(47{{°F}}) - {{USA}} サウスダコタ州 [[ラピッドシティ]]、[[1911年]][[1月10日]]<ref name="a"/>
** いずれも[[チヌーク]]と呼ばれる乾燥した高温風の影響によるものである。
== 気温の日本記録 ==
最高気温や最低気温のデータとなる気温の観測間隔は、[[気象台]]・[[測候所]]・[[特別地域気象観測所]]では10秒ごと(観測時刻の1分未満の端数は切り上げ)、[[アメダス|地域気象観測所]]では[[2002年]]以前は1時間ごと、[[2003年]]以降は10分ごとである。[[2008年]][[3月26日]]より全国の地域気象観測所が順次10秒ごとの観測となり、気象台等と同様の観測間隔となった<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/press/0803/07b/amedas080306.html アメダスデータ等統合処理システムの運用開始について]</ref>。地域気象観測所での気温観測は[[1994年]]4月 - 2002年12月でも10分ごとに行われていたが、現時点では、当時の正式な記録は1時間ごとの値となっている。
===最高気温===
* [[日本]]の[[気象官署]]・アメダスにおける気温の最高記録は、[[2018年]][[7月23日]]に[[埼玉県]][[熊谷市]]の[[熊谷地方気象台]]、[[2020年]][[8月17日]]に[[静岡県]][[浜松市]]の浜松特別地域気象観測所でそれぞれ観測された41.1{{℃}}である<ref name="ranking">[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rankall.php 気象庁歴代全国ランキング] 気象庁。2019年10月14日閲覧</ref>。
* [[山形県]][[山形市]]では[[1933年]][[7月25日]]に40.8{{℃}}を観測し、[[2007年]][[8月16日]]に埼玉県熊谷市と[[岐阜県]][[多治見市]]で40.9{{℃}}を観測するまでの74年間、日本における最高気温の記録を保持していた。
* [[首都大学東京]]は[[東京都]]の気象観測機器網「メトロス」を2006年に引き継ぎ、[[首都圏 (日本)|首都圏]]約200か所に「広域メトロス」を展開。その測定結果によると上記の2007年8月16日、アメダス空白地である埼玉県[[川越市]]の最高気温は41.6{{℃}}であった。首都大の研究チームは、東京のヒートアイランド現象が午後の海風を妨げるため、川越が日本で最も暑い地域である可能性があるとの見解を示している<ref>「川越41・6度 暑さ日本一?/首都圏200カ所で独自観測」『[[日本経済新聞]]』朝刊2017年7月23日サイエンス面</ref>。
<div style="float:left; vertical-align:top; white-space:nowrap; margin-right:1em">
====最高気温の上位記録====
{| class="wikitable"
!順位
!気温
!観測地点
!起日
|-
| rowspan="2" |1位
| rowspan="2" |41.1°C
|埼玉県熊谷市※
|2018年7月23日
|-
|静岡県浜松市[[中区 (浜松市)|中区]]※
|2020年8月17日
|-
| rowspan="3" |3位
| rowspan="3" |41.0{{℃}}
|岐阜県[[美濃市]]
|2018年[[8月8日]]
|-
|-
|-
|岐阜県[[下呂市]]金山
|2018年[[8月6日]]
|-
|-
|-
|[[高知県]][[四万十市]]江川崎
|[[2013年]][[8月12日]]
|-<!--
| rowspan="2" |5位
| rowspan="2" |40.9{{℃}}
|静岡県浜松市[[天竜区]]船明
|2020年8月16日
|-
|-
|-
|岐阜県多治見市
|2007年8月16日
|- -->
|rowspan="2"|参考
|42.5{{℃}}
|[[徳島県]][[板野郡]][[撫養町]](現・[[鳴門市]])<br />(区内観測所)<ref name="nenkan">気象庁監修『気象年鑑』 - 2007年版以前に掲載の「参考資料 日本と世界の気象記録」を参照のこと</ref>
|[[1923年]]8月6日
|-
|42.7{{℃}}
|東京都[[足立区]]江北<br />東京都環境科学研究所調べ<ref>[[饒村曜]] [https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/6861cf41d5f11b01d193ca47eeda393fb8ec18fa 最高気温の記録の裏側] Yahoo!ニュース。2019年10月14日閲覧</ref>
|[[2004年]][[7月20日]]
|}
</div><div style="float:left; vertical-align:top; white-space:nowrap; margin-right:1em">
====最高気温の下位記録====
{| class="wikitable"
!順位
!気温
!観測地点
!起日
|-
|1位
|{{Nowiki|-}}32.0{{℃}}
|富士山頂※
|[[1936年]][[1月31日]]
|-
|2位
|{{Nowiki|-}}22.5{{℃}}
|[[北海道]][[上川郡 (石狩国)|石狩国上川郡]]旭川町(現・[[旭川市]])※
|[[1909年]][[1月12日]]
|-
|3位
|{{Nowiki|-}}21.2{{℃}}
|北海道[[上川郡 (天塩国)|天塩国上川郡]][[和寒町]]
|[[1985年]][[1月24日]]
|-
|4位
|{{Nowiki|-}}20.3{{℃}}
|北海道[[名寄市]]
|[[1977年]][[1月21日]]
|-
|5位
|{{Nowiki|-}}20.1{{℃}}
|北海道[[士別市]]
|1985年[[1月25日]]
|}
<span style="font-size:smaller">※を付した観測地点は気象官署、それ以外はアメダスである。</span>
</div>{{clear|left}}
====備考====
* 撫養の42.5{{℃}}は、アメダス導入以前に気象庁が観測業務を委託していた[[区内観測所]]での記録であるが、委託観測であることや、風の弱い晴天時の[[百葉箱]]内では実際よりも高い気温が観測されることがある<ref group="注">詳細は[[百葉箱#特徴(観測値の誤差)]]を参照。</ref>ため、気象官署や現在の記録とは単純に比較はできない。なお、当日の[[徳島市]]では最高気温が33.6℃と<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=71&block_no=47895&year=1923&month=8&day=&view= 徳島 1923年8月(日ごとの値)主な要素] 気象庁。2019年10月14日閲覧</ref>、極端な高温は観測されていない。
* 東京(当時の[[中央気象台]])では1923年[[9月2日]]に46.4{{℃}}<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/984965 『関東大震災調査報告(気象篇)』] 中央気象台、1924年、17、19頁。2019年11月6日閲覧</ref>または46.3{{℃}}<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081452 『中央気象台月報(大正12年9月)』] 中央気象台、1925年、61頁。2019年11月6日閲覧</ref>(47.3{{℃}}<ref>[http://blogs.weathermap.co.jp/otenkiya/intro.html お天気や] - 公演の紹介文に記述あり</ref>とも)を観測しているが、これは[[関東大震災]]の火災の影響によるものであり、公式な記録としては認められていない。東京の公式記録では、当日の最高気温は欠測扱いとなっている<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=44&block_no=47662&year=1923&month=9&day=&view= 東京 1923年9月(日ごとの値)主な要素] 気象庁。2019年10月14日閲覧</ref>。
* [[沖縄県]]は[[海洋性気候]]であるため日較差が小さく、県内の観測史上最高は36.1{{℃}}{{Refnest|group="注"|[[石垣市]]伊原間([[2012年]][[7月8日]])、[[南城市]]玉城糸数([[2013年]][[8月6日]])、[[宮古島市]]下地([[2016年]][[7月5日]])の3地点で記録<ref>[https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/51251 下地島空港で36.1度 沖縄県内最高タイ] 沖縄タイムス+プラス(2016年7月6日)。2019年11月6日閲覧</ref>。}}と、都道府県別の高温極値は全国で最も低い。なお、北海道の観測史上最高は39.5{{℃}}である{{Refnest|group="注"|[[佐呂間町]]([[2019年]][[5月26日]])で記録<ref>[https://web.archive.org/web/20190526083035/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20190526/k10011929861000.html 北海道 佐呂間町で最高気温が39度超 各地で熱中症に厳重警戒を] [[日本放送協会]](2019年5月26日)、2019年5月26日時点の[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20190526/k10011929861000.html オリジナル]よりアーカイブ、2019年5月26日閲覧</ref>。}}。
===最低気温===
* 日本の気象官署・アメダスにおける気温の最低記録は、[[1902年]][[1月25日]]に北海道[[上川郡 (石狩国)|石狩国上川郡]]旭川町(現・[[旭川市]])で観測された-41.0{{℃}}である<ref name="ranking"/>。
<div style="float:left; vertical-align:top; white-space:nowrap; margin-right:1em">
====最低気温の下位記録====
{| class="wikitable"
!順位
!気温
!観測地点
!起日
|-
|1位
|{{Nowiki|-}}41.0{{℃}}
|北海道石狩国上川郡旭川町(現・旭川市)※
|1902年1月25日
|-
|2位
|{{Nowiki|-}}38.2{{℃}}
|北海道[[河西郡]]下帯広村(現・[[帯広市]])※
|1902年[[1月26日]]
|-
|3位
|{{Nowiki|-}}38.1{{℃}}
|北海道旭川市江丹別
|[[1978年]][[2月17日]]
|-
|4位
|{{Nowiki|-}}38.0{{℃}}
|富士山頂※
|[[1981年]][[2月27日]]
|-
|5位
|{{Nowiki|-}}37.9{{℃}}
|北海道[[枝幸郡]][[枝幸町]]歌登
|1978年2月17日
|-
|rowspan="3"|参考
|{{Nowiki|-}}41.5{{℃}}
|北海道[[中川郡 (天塩国)|天塩国中川郡]][[美深町]]<br />(区内観測所)<ref name="nenkan"/>
|rowspan="2"|[[1931年]][[1月27日]]
|-
|{{Nowiki|-}}44.0{{℃}}
|北海道枝幸郡[[歌登町|枝幸村]](現・枝幸町)上幌別<br />(北海道森林気象観測所)<ref>北海道庁拓殖部編[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146400 『北海道森林気象略報(昭和6年)』]63頁。ただし、北海道林業試験場編[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146510 『北海道森林気象略報(昭和11年)』]133頁では、上幌別における[[1928年]] - [[1935年]]の最低気温の極値を[[1933年]][[1月31日]]に記録した-41.0{{℃}}としている。また、[https://web.archive.org/web/20060506042156/http://www.town.esashi.hokkaido.jp/contents/anschluss/utanobori/kisho.htm 歌登町のお天気]には上幌別の幌別尋常小学校(現・歌登小学校)で1933年[[1月29日]]に-41{{℃}}を記録したとある。</ref>
|-
|{{Nowiki|-}}41.2{{℃}}
|北海道[[雨竜郡]][[幌加内町]]母子里<br />(北海道大学雨竜演習林)<ref name="nenkan"/>
|1978年2月17日
|}
</div><div style="float:left; vertical-align:top; white-space:nowrap; margin-right:1em">
====最低気温の上位記録====
{| class="wikitable"
!順位
!気温
!観測地点
!起日
|-
|1位
|31.4{{℃}}
|[[新潟県]][[糸魚川市]]
|[[2023年]][[8月10日]]
|-
| rowspan="2" |2位
| rowspan="2" |30.8{{℃}}
|新潟県[[上越市]][[高田市|高田]]※
|2023年8月10日
|-
|新潟県[[佐渡市]][[相川町|相川]]※
|[[2019年]][[8月15日]]
|-
|4位
|30.7{{℃}}
|[[鳥取県]][[境港市]]※
|2023年8月10日
|-
|5位
|30.6{{℃}}
|新潟県[[岩船郡]][[粟島浦村]]
|2023年8月10日
|}
<span style="font-size:smaller">※を付した観測地点は気象官署、それ以外はアメダスである。</span>
</div>{{clear|left}}
====備考====
* 美深の-41.5{{℃}}は、気象庁が観測業務を委託していた[[区内観測所]]での記録だが、委託観測であることなどから、気象官署や現在の記録とは単純に比較はできない。
* 母子里では、順位表に挙げられている-41.2{{℃}}の同日に-44.8{{℃}}(非公式)を、また1977年から[[1982年]]まで6年連続で-40.0{{℃}}以下(非公式)を観測している<ref>北海道大学農学部附属演習林『演習林業務資料・第22号(雨竜地方演習林の気象報告)』43、47頁</ref>。なお、-41.2{{℃}}は戦後の日本国内における最低気温記録である。
* 非公式の参考記録としては、北海道天塩国上川郡[[風連町]](現・[[名寄市]])における個人観測で、[[1953年]][[1月3日]]に-45.0{{℃}}を記録した例がある<ref>[https://web.archive.org/web/20160306212644/http://city.hokkai.or.jp/~oya88888/fu-rekisi.htm ふうれんの取り柄] 2016年3月7日時点の[http://city.hokkai.or.jp/~oya88888/fu-rekisi.htm オリジナル]よりアーカイブ、2017年9月16日閲覧 - 1999年刊『風連町史(第2巻)』33頁も参照</ref>。ただし、当日の最低気温は旭川市で{{Nowiki|-}}24.8{{℃}}<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=12&block_no=47407&year=1953&month=1&day=&view= 旭川 1953年1月(日ごとの値)主な要素] 気象庁。2019年11月6日閲覧</ref>、帯広市で{{Nowiki|-}}29.1{{℃}}<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=20&block_no=47417&year=1953&month=1&day=&view= 帯広 1953年1月(日ごとの値)主な要素] 気象庁。2019年11月6日閲覧</ref>など、周辺部で極端な低温は観測されていない。
* 順位表は同一地点の複数記載はされていないが、
**旭川は2位よりも上位に入る低温(-38.2{{℃}}未満)を、-41.0{{℃}}を含めて6回観測している。
**糸魚川は2位相当の高温(30.8℃)を[[1990年]][[8月22日]]に、2位よりも上位に入る高温(31.3℃)を2019年8月15日に観測している。
* 最低気温の高温上位を観測した2023年8月10日は、[[令和5年台風第6号|台風第6号]]に起因するフェーン現象が発生していた。
* 日本国内の観測ではないものの、[[南極]]の[[昭和基地]]では[[1982年]][[9月4日]]に-45.3{{℃}}を記録している<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=99&prec_ch=%93%EC%8B%C9&block_no=89532&block_ch=%8F%BA%98a%8A%EE%92n&year=&month=&day=&elm=rank&view= 昭和基地における観測史上1〜10位の値] - 気象庁</ref>。
* 以前の日本領という範囲では、南樺太の[[樺太庁|樺太]][[豊栄郡]][[落合町 (樺太)|落合町]]で[[1908年]][[1月19日]]に観測された-45.6{{℃}}という記録もある<ref>[http://ezo-engosaku.seesaa.net/article/387501902.html 幻の日本一 てんき屋の風船な日々] 2019年11月6日閲覧 - 樺太庁観測所『樺太気象累年報』140頁も参照</ref>。
* 旭川で史上最低の-41.0{{℃}}を観測した1902年1月25日をはさむ同23日から27日にかけて、青森県で[[八甲田雪中行軍遭難事件]]が発生し、行軍参加210名中199名が凍死した。
== 気温と健康 ==
ハーバード大学医学部によると、高温は心臓病のリスクを高める。 気温が高いときは、屋内にとどまり、20分ごとに屋外で水分補給し、フルーツジュースを飲まないこと<ref>{{Cite web |title=Heart problems and the heat: What to know and do |url=https://www.health.harvard.edu/blog/heart-problems-and-the-heat-what-to-know-and-do-202206212765 |website=Harvard Health |date=2022-06-21 |access-date=2022-06-21 |language=en |first=Matthew |last=Solan}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Anchors|jmatebiki}}気象庁『{{PDFLink|[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kansoku_guide/tebiki.pdf 気象観測の手引き]}}』平成10年(1998年)9月の版
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|気温}}
* [[不快指数]]
* [[湿球黒球温度]]
* [[ヒートアイランド]]
* [[地球温暖化]]
==外部リンク==
* 気象庁 [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/kion.html 予報用語(気温に関する用語)]
* 気象庁 [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/mdrr/tem_rct/index_mxtem.html 気温の状況]
* 気象庁 [https://www.jma.go.jp/bosai/wdist/#elements:maxmin_temp 最高・最低気温分布予想]
* 気象庁 [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php 過去の気象データ検索]
* 気象庁 [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rankall.php 歴代全国ランキング]
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[[Category:気象学]]
[[Category:温度]]
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世界水泳選手権
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世界水泳選手権(せかいすいえいせんしゅけん World Aquatics Championships)は、世界水泳連盟(旧称:国際水泳連盟)が主催する水泳の国際大会である。通称世界水泳。
水泳界において、夏季オリンピックに次ぐ重要な大会とされる。かつては2~5年間隔で不定期に行われてきたが、2001年の第9回日本・福岡大会以降は夏季オリンピックの前年と翌年の奇数年に開催されている。
基本的には7-8月に開催されているが、2007年にオーストラリアで開催された時は、南半球の季節の関係で3-4月に繰り上げて開催された。そのため、この年8月に競泳のみインターナショナル・スイム・ミート2007(日本名:世界競泳2007)が日本の千葉県国際総合水泳場で開催された。
本大会は世界最高スイマーが一堂に集う大会であり、特に競泳競技では世界記録がここで更新されることがある。また、五輪の前年にあたる大会では、五輪に向けた調整や、前哨戦としても大変重要な大会になる。正式種目として五輪にはない、自由形以外の50m競技も行われる。2015年以降は世界マスターズ水泳選手権大会も実質統合され、この大会と連続して行われるようになっている。
なお、偶数年に開催されている短水路の世界選手権は世界短水路選手権を参照。
第1回世界水泳選手権は1973年ユーゴスラビア(現セルビア)の首都ベオグラードで、47カ国から686人が参加して開催された。ちなみに2009年ローマ大会では、185の国と地域から総勢2556人が出場している。世界の水泳界においては、オリンピックの存在感が大変大きかったこともあって、比較的その歴史は浅い。
競泳では、第1回大会から長くアメリカと東ドイツの実力が圧倒的で、まさに水泳界の2大大国であった。しかしながら、第3回大会頃から徐々に旧ソビエト連邦の実力も目立つようになり、米、東独の2強にソ連が次ぐ、という構図が見られた。1990年代に入って、大きく躍進した新勢力はオーストラリアであった。1998年パース大会で、長らくアメリカに次ぐ水泳大国だったドイツやロシアなどをおさえ、メダル獲得数で第2位に躍り出た。この大会以降、1位アメリカ、そしてオーストラリアがこれに続き、ドイツ、ロシアなどが2強を追う構図となっている。非欧米諸国の中では、中国、日本など東アジア勢が有力であったが、2005年モントリオール大会では、アフリカから南アフリカ・ジンバブエがそれぞれ健闘した。
一方アーティスティックスイミングでは、競泳と同じく第1回ベオグラード大会から常に実施されているが、第1回大会以降、長く金メダルをアメリカとカナダで競いあう時代が続いた。そしてほぼ例外なく、3番手には日本がつけていた。しかし1998年パース大会で、これまで全くメダル争いに加わっていなかったロシアが、いきなり3種目で金メダルを独占し女王の座についた。2番手には、長く万年銅メダルに甘んじできた日本が台頭してきた。そして3位以下にかつてのシンクロ2強の米・加両国と、フランスが続いた。2009年大会では、スペインがロシアに迫る活躍を見せて、3番手には中国がつけている。なお、2003年大会から、「フリールーティーンコンビネーション」が実施された。また2007年大会から、ソロ・デュエット・チームがこれまでの予選・テクニカルルーティンと決勝・フリールーティンの合計点で競っていたが、テクニカルルーティンとフリールーティンが分離された。2019年大会から「ハイライトルーティン」が実施される。これまでの4種目から種目数が拡大しメダル獲得のチャンスも広がったが、全種目に出場する選手はかなりの負担がかかることになる。
2013年大会から男子27m、女子20mで行われるハイダイビングが行われ、2015年大会から競泳で混合4x100mフリーリレー、混合4x100mメドレーリレーが、アーティスティックスイミングで混合デュエットのテクニカルルーティン、フリールーティンが行われた。
日本は第1回大会から参加していたが、金メダルが取れなかった。開催国となった2001年福岡大会のシンクロナイズトスイミング・デュエットで、立花美哉・武田美保組が初めての金メダルを獲得した。シンクロでは第1回大会から全ての大会でメダルを獲得していたが、2009年のローマ大会で初めてメダルなしに終わった。
競泳では第1回ベオグラード、第2回カリ大会で平泳ぎの田口信教が2大会連続でメダルを獲得するなどしたが、その後は日本勢の不振に伴ってメダルをしばらく得られないでいた。再び日本チームがメダルを得たのは、1991年パース大会で、その後日本勢は徐々に復調を見せた。2003年バルセロナ大会の100m平泳ぎと200m平泳ぎで、北島康介が初めての金メダルを獲得。2005年モントリオール大会では、金メダルこそ獲得できなかったものの、平泳ぎの北島康介や自由形長距離の柴田亜衣などを中心として過去最高の9つのメダルを獲得、総数で初めて米豪に次ぐ第3位となった。
飛込では2001年福岡大会男子3m板飛込で寺内健が初メダルとなる銅メダルを獲得している。この大会では女子10mシンクロ高飛込でも宮嵜多紀理・大槻枝美組が銅メダルを獲得している。
第8回まではNHKが衛星放送などで放送していた。
2001年(第9回)の福岡以後はテレビ朝日が日本国内における放送権の独占契約を結んだ。地上波のANN系列と衛星波子会社のBS朝日、CS放送のテレ朝チャンネル2 ニュース・スポーツで独占中継している。基本的に生放送であるが、競技の進行状況その他によってはニアライブ(撮って出し)を行う日もある。
なお、2007年は先述の季節上の関係で世界水泳は3-4月の開催だったため、翌年2008年の北京オリンピックの前哨戦という位置づけで、世界水泳をしのぐ「夢の国際競泳大会」、「2007年の真の競泳世界一決定戦」として「インターナショナル・スイム・ミート2007(世界競泳)」がテレビ朝日・日本水泳連盟・国際水泳連盟との共同企画により千葉県習志野市の千葉県国際総合水泳場で開催され、同様にテレビ中継された。
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"text": "なお、2007年は先述の季節上の関係で世界水泳は3-4月の開催だったため、翌年2008年の北京オリンピックの前哨戦という位置づけで、世界水泳をしのぐ「夢の国際競泳大会」、「2007年の真の競泳世界一決定戦」として「インターナショナル・スイム・ミート2007(世界競泳)」がテレビ朝日・日本水泳連盟・国際水泳連盟との共同企画により千葉県習志野市の千葉県国際総合水泳場で開催され、同様にテレビ中継された。",
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世界水泳選手権は、世界水泳連盟が主催する水泳の国際大会である。通称世界水泳。 水泳界において、夏季オリンピックに次ぐ重要な大会とされる。かつては2~5年間隔で不定期に行われてきたが、2001年の第9回日本・福岡大会以降は夏季オリンピックの前年と翌年の奇数年に開催されている。
|
{{スポーツ大会シリーズ
|大会名 =世界水泳選手権
|画像 =
|開始年 =1973
|終了年 =
|主催 =[[世界水泳連盟]]
|参加チーム数 =
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|前回優勝 =
|最多優勝 =
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}}
'''世界水泳選手権'''(せかいすいえいせんしゅけん World Aquatics Championships)は、[[世界水泳連盟]](旧称:国際水泳連盟)が主催する[[水泳]]の国際大会である。通称'''世界水泳'''。
水泳界において、[[夏季オリンピック]]に次ぐ重要な大会とされる。かつては2~5年間隔で不定期に行われてきたが、[[2001年世界水泳選手権|2001年]]の第9回日本・福岡大会以降は夏季オリンピックの前年と翌年の奇数年に開催されている。
== 概要 ==
基本的には7-8月に開催されているが、[[2007年世界水泳選手権|2007年]]にオーストラリアで開催された時は、南半球の季節の関係で3-4月に繰り上げて開催された。そのため、この年8月に競泳のみ[[インターナショナル・スイム・ミート2007]](日本名:世界競泳2007)が日本の[[千葉県国際総合水泳場]]で開催された。
本大会は世界最高スイマーが一堂に集う大会であり、特に[[競泳]]競技では[[競泳の世界記録一覧|世界記録]]がここで更新されることがある。また、五輪の前年にあたる大会では、五輪に向けた調整や、前哨戦としても大変重要な大会になる。正式種目として五輪にはない、自由形以外の50m競技も行われる。2015年以降は[[世界マスターズ水泳選手権]]大会も実質統合され、この大会と連続して行われるようになっている。
なお、偶数年に開催されている短水路の世界選手権は[[世界短水路選手権]]を参照。
== 大会一覧 ==
{| class="wikitable" style="font-size:95%; text-align:center" width="100%"
! 回
! 年
! 開催地
! 開催国
! 開催日程
! 開催アリーナ
! 参加国・地域
! 競技者数
|-
| 1
| [[1973年世界水泳選手権|1973年]]
| [[ベオグラード]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{YUG45}} <small>(1)</small>
| [[1973年]][[8月31日]] - [[9月9日]]
| タシュマイダン・スポーツセンター
| 47
| 686
|-
| 2
| [[1975年世界水泳選手権|1975年]]
| [[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{COL}} <small>(1)</small>
| [[1975年]][[7月19日]] - [[7月27日]]
| ヘルナンド・ボテロ・オバーン・スイミングプール
| 39
| 682
|-
| 3
| [[1978年世界水泳選手権|1978年]]
| [[ベルリン]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{FRG}} <small>(1)</small>
| [[1978年]][[8月20日]] - [[8月28日]]
| [[ベルリン・オリンピアシュタディオン|オリンピアパルク・スイムシュタディオン]]
| 49
| 828
|-
| 4
| [[1982年世界水泳選手権|1982年]]
| [[グアヤキル]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{ECU}} <small>(1)</small>
| [[1982年]][[7月29日]] - [[8月8日]]
| アルベルト・ヴァラリーノ・プール
| 52
| 848
|-
| 5
| [[1986年世界水泳選手権|1986年]]
| [[マドリード]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{ESP}} <small>(1)</small>
| [[1986年]][[8月13日]] - [[8月23日]]
| M86スイミングセンター
| 34
| 1119
|-
| 6
| [[1991年世界水泳選手権|1991年]]
| [[パース (西オーストラリア州)|パース]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{AUS}} <small>(1)</small>
| [[1991年]][[1月3日]] - [[1月13日]]
| クレアモント・スーパードローム
| 60
| 1142
|-
| 7
| [[1994年世界水泳選手権|1994年]]
| [[ローマ]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{ITA}} <small>(1)</small>
| [[1994年]][[9月1日]] - [[9月11日]]
| [[フェロ・イタリコ]]
| 102
| 1400
|-
| 8
| [[1998年世界水泳選手権|1998年]]
| パース <small>(2)</small>
| align="left"| {{AUS}} <small>(2)</small>
| [[1998年]][[1月8日]] - [[1月17日]]
| パース・スーパードローム
| 121
| 1371
|-
| 9
| [[2001年世界水泳選手権|2001年]]
| [[福岡市|福岡]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{JPN}} <small>(1)</small>
| [[2001年]][[7月16日]] - [[7月29日]]
| [[マリンメッセ福岡]]
| 134
| 1498
|-
| 10
| [[2003年世界水泳選手権|2003年]]
| [[バルセロナ]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{ESP}} <small>(2)</small>
| [[2003年]][[7月12日]] - [[7月27日]]
| [[パラウ・サン・ジョルディ]]
| 157
| 2015
|-
| 11
| [[2005年世界水泳選手権|2005年]]
| [[モントリオール]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{CAN}} <small>(1)</small>
| [[2005年]][[7月16日]] - [[7月31日]]
| ジャン・トゥラボ
| 144
| 1784
|-
| 12
| [[2007年世界水泳選手権|2007年]]
| [[メルボルン]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{AUS}} <small>(3)</small>
| [[2007年]][[3月18日]] - [[4月1日]]
| [[ロッド・レーバー・アリーナ]]
| 167
| 2158
|-
| 13
| [[2009年世界水泳選手権|2009年]]
| ローマ <small>(2)</small>
| align="left"| {{ITA}} <small>(2)</small>
| [[2009年]][[7月17日]] - [[8月2日]]
| フォロ・イタリコ
| 185
| 2556
|-
| 14
| [[2011年世界水泳選手権|2011年]]
| [[上海市|上海]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{CHN}} <small>(1)</small>
| [[2011年]][[7月16日]] - [[7月31日]]
| [[上海東方体育中心]]
| 181
| 2220
|-
| 15
| [[2013年世界水泳選手権|2013年]]
| バルセロナ <small>(2)</small>
| align="left"| {{ESP}} <small>(3)</small>
| [[2013年]][[7月19日]] - [[8月4日]]
| パラウ・サン・ジョルディ
| 180
| 2293
|-
| 16
| [[2015年世界水泳選手権|2015年]]
| [[カザン]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{RUS}} <small>(1)</small>
| [[2015年]][[7月24日]] - [[8月9日]]
| [[カザン・アリーナ]]
| 190
| 2400
|-
| 17
| [[2017年世界水泳選手権|2017年]]
| [[ブダペスト]] <small>(1)</small>
| align="left"|{{HUN}} <small>(1)</small>
| [[2017年]][[7月14日]] - [[7月30日]]
| [[ドナウ・アレーナ]]
| 182
| 2360
|-
| 18
| [[2019年世界水泳選手権|2019年]]
| [[光州広域市]] <small>(1)</small>
| align="left"|{{KOR}} <small>(1)</small>
| [[2019年]][[7月12日]] - [[7月28日]]
| 南部大学校
| 192
| 2623
|-
| 19
| [[2022年世界水泳選手権|2022年]]
| ブダペスト <small>(2)</small>
| align="left"|{{HUN}} <small>(2)</small>
| [[2022年]][[6月18日]] - [[7月3日]]
| [[ドナウ・アレーナ]]
| 185
| 2034
|-
| 20
| [[2023年世界水泳選手権|2023年]]
| 福岡 <small>(2)</small>
| align="left"| {{JPN}} <small>(2)</small>
| [[2023年]][[7月14日]] - [[7月30日]]
| マリンメッセ福岡A館・B館
| 195
| 2392
|-
| 21
| [[2024年世界水泳選手権|2024年]]
| [[ドーハ]] <small>(1)</small>
| align="left"| {{QAT}} <small>(1)</small>
| [[2024年]][[2月2日]] - [[2月18日]]
| [[ルサイル・スポーツ・アリーナ]]
|
|
|-
| 22
| [[2025年世界水泳選手権|2025年]]
| [[カラン]]<ref name="2025 and 2027">{{Cite web|url=https://www.fina.org/news/3055165/world-aquatics-championships-2025-awarded-to-singapore|title=World Aquatics Championships 2025 awarded to Singapore|date=9 February 2023|access-date=9 February 2023|website=World Aquatics}}</ref> <small>(1)</small>
| align="left"| {{SGP}} <small>(1)</small>
| [[2025年]]
|
|
|
|-
| 23
| [[2027年世界水泳選手権|2027年]]
| ブダペスト <small>(3)</small>
| align="left"| {{HUN}} <small>(3)</small>
| [[2027年]]
|
|
|
|}
== 実施競技・種目一覧(2023) ==
*
*[[競泳|競泳競技]](42種目)50~200mの個人種目は予選・準決勝・決勝、400m以上の個人種目とリレーは予選・決勝。
**[[自由形]] (50m, 100m, 200m, 400m, 800m, 1500m) (男・女)
**[[平泳ぎ]] (50m, 100m, 200m) (男・女)
**[[背泳ぎ]] (50m, 100m, 200m) (男・女)
**[[バタフライ]] (50m, 100m, 200m) (男・女)
**[[個人メドレー]] (200m, 400m) (男・女)
**[[フリーリレー]] (4×100m, 4×200m) (男・女)
**[[メドレーリレー]] (4×100m) (男・女)
**[[フリーリレー]] (4×100m) (混合:男2+女2)
**[[メドレーリレー]] (4×100m) (混合:男2+女2)
*[[飛込競技]](13種目)
**飛板飛込 (1m, 3m) (男・女)
**シンクロナイズド飛板飛込 (3m) (男・女)
**高飛込 (10m) (男・女)
**シンクロナイズド高飛込 (10m) (男・女)
**シンクロナイズド飛板飛込 (3m) (混合:男1+女1)
**シンクロナイズド高飛込 (10m) (混合:男1+女1)
**チーム (飛板3m+高飛込10m) (混合:男1+女1を含む4名以下)
*[[ハイダイビング|ハイダイビング競技]](2種目)
**ハイダイビング (20m) (女)
**ハイダイビング (27m) (男)
*[[水球|水球競技]](2種目)
**水球 (男・女)
*[[アーティスティックスイミング|アーティスティックスイミング競技]](11種目)
**ソロ テクニカルルーティン(女)
**ソロ フリールーティン(女)
**男子ソロ テクニカルルーティン(男)
**男子ソロ フリールーティン(男)
**デュエット テクニカルルーティン(女)
**デュエット フリールーティン(女)
**ミックスデュエット テクニカルルーティン(混合:男1+女1)
**ミックスデュエット フリールーティン(混合:男1+女1)
**チーム テクニカルルーティン(オープン)
**チーム フリールーティン(オープン)
**チーム アクロバティックルーティン(オープン)
*[[オープンウォータースイミング|オープンウォータースイミング競技]](5種目)
**オープンウォータースイミング (5km, 10km) (男・女)
**リレー (4×1.5km) (混合:男2+女2)
== 歴史 ==
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
! rowspan="2"| 種目
! colspan="18" | 大会
|-
! [[1973年世界水泳選手権|1973]]
! [[1975年世界水泳選手権|1975]]
! [[1978年世界水泳選手権|1978]]
! [[1982年世界水泳選手権|1982]]
! [[1986年世界水泳選手権|1986]]
! [[1991年世界水泳選手権|1991]]
! [[1994年世界水泳選手権|1994]]
! [[1998年世界水泳選手権|1998]]
! [[2001年世界水泳選手権|2001]]
! [[2003年世界水泳選手権|2003]]
! [[2005年世界水泳選手権|2005]]
! [[2007年世界水泳選手権|2007]]
! [[2009年世界水泳選手権|2009]]
! [[2011年世界水泳選手権|2011]]
! [[2013年世界水泳選手権|2013]]
! [[2015年世界水泳選手権|2015]]
! [[2017年世界水泳選手権|2017]]
! [[2019年世界水泳選手権|2019]]
|- align="center"
| [[競泳]] || 29 || 29 || 29 || 29 || 32 || 32 || 32 || 32 || 40 || 40 || 40 || 40 || 40 || 40 || 40
|42
|42
|42
|- align="center"
| [[飛込競技|飛込]]|| 4 || 4 || 4 || 4 || 4 || 6 || 6 || 10 || 10 || 10 || 10 || 10 || 10 || 10 || 10
|13
|13
|13
|- align="center"
| [[飛込競技#ハイダイビング|ハイダイビング]]
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|2
|2
|2
|2
|- align="center"
| [[世界水泳選手権水球競技|水球]] || 1 || 1 || 1 || 1 || 2 || 2 || 2 || 2 || 2 || 2 || 2 || 2 || 2 || 2 || 2
|2
|2
|2
|- align="center"
| [[アーティスティックスイミング]] || 3 || 3 || 3 || 3 || 3 || 3 || 3 || 3 || 3 || 4 || 4 || 7 || 7 || 7 || 7
|9
|9
|10
|- align="center"
| [[オープンウォータースイミング]] || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 2 || 2 || 4 || 6 || 6 || 6 || 6 || 6 || 7 || 7
|7
|7
|7
|- align="center"
! 合計 !! 37 !! 37 !! 37 !! 37 !! 41 !! 45 !! 45 !! 51 !! 61 !! 62 !! 62 !! 65 !! 65 !! 66 !! 68
!75
!75
!76
|}
第1回世界水泳選手権は1973年ユーゴスラビア(現セルビア)の首都ベオグラードで、47カ国から686人が参加して開催された。ちなみに2009年ローマ大会では、185の国と地域から総勢2556人が出場している。世界の水泳界においては、オリンピックの存在感が大変大きかったこともあって、比較的その歴史は浅い。
競泳では、第1回大会から長くアメリカと東ドイツの実力が圧倒的で、まさに水泳界の2大大国であった。しかしながら、第3回大会頃から徐々に旧ソビエト連邦の実力も目立つようになり、米、東独の2強にソ連が次ぐ、という構図が見られた。1990年代に入って、大きく躍進した新勢力はオーストラリアであった。[[1998年]]パース大会で、長らくアメリカに次ぐ水泳大国だったドイツやロシアなどをおさえ、メダル獲得数で第2位に躍り出た。この大会以降、1位アメリカ、そしてオーストラリアがこれに続き、ドイツ、ロシアなどが2強を追う構図となっている。非欧米諸国の中では、中国、日本など東アジア勢が有力であったが、[[2005年]]モントリオール大会では、アフリカから南アフリカ・ジンバブエがそれぞれ健闘した。
一方アーティスティックスイミングでは、競泳と同じく第1回ベオグラード大会から常に実施されているが、第1回大会以降、長く金メダルをアメリカとカナダで競いあう時代が続いた。そしてほぼ例外なく、3番手には日本がつけていた。しかし1998年パース大会で、これまで全くメダル争いに加わっていなかったロシアが、いきなり3種目で金メダルを独占し女王の座についた。2番手には、長く万年銅メダルに甘んじできた日本が台頭してきた。そして3位以下にかつてのシンクロ2強の米・加両国と、フランスが続いた。[[2009年]]大会では、スペインがロシアに迫る活躍を見せて、3番手には中国がつけている。なお、[[2003年]]大会から、「フリールーティーンコンビネーション」が実施された。また[[2007年]]大会から、ソロ・デュエット・チームがこれまでの予選・テクニカルルーティンと決勝・フリールーティンの合計点で競っていたが、テクニカルルーティンとフリールーティンが分離された。2019年大会から「ハイライトルーティン」が実施される。これまでの4種目から種目数が拡大しメダル獲得のチャンスも広がったが、全種目に出場する選手はかなりの負担がかかることになる。
2013年大会から男子27m、女子20mで行われるハイダイビングが行われ、2015年大会から競泳で混合4x100mフリーリレー、混合4x100mメドレーリレーが、アーティスティックスイミングで混合デュエットのテクニカルルーティン、フリールーティンが行われた。
== 国別メダル受賞総数 ==
{| {{RankedMedalTable}}
|-
|rowspan="1"| '''1''' ||align=left| {{USA}} || 231 || 181 || 126 || 538
|-
|rowspan="1"| '''2''' ||align=left| {{CHN}} || 118 || 83 || 65 || 266
|-
|rowspan="1"| '''3''' ||align=left| {{RUS}}<sup>(2)</sup> || 98 || 83 || 75 || 256
|-
|rowspan="1"| '''4''' ||align=left| {{GER}}<sup>(1)</sup> || 91 || 104 || 99 || 294
|-
|rowspan="1"| '''5''' ||align=left| {{AUS}} || 79 || 82 || 64 || 225
|-
|rowspan="1"| '''6''' ||align=left| {{HUN}} || 31 || 24 || 28 || 83
|-
|rowspan="1"| '''7''' ||align=left| {{ITA}} || 28 || 29 || 43 || 100
|-
|rowspan="1"| '''8''' ||align=left| {{CAN}} || 20 || 41 || 43 || 104
|-
|rowspan="1"| '''9''' ||align=left| {{GBR}} || 20 || 18 || 36 || 74
|-
|rowspan="1"| '''10''' ||align=left| {{FRA}} || 19 || 22 || 22 || 63
|-
|rowspan="1"| '''11''' ||align=left| {{NED}} || 16 || 30 || 28 || 74
|-
|rowspan="1"| '''12''' ||align=left| {{SWE}} || 11 || 15 || 15 || 41
|-
|rowspan="1"| '''13''' ||align=left| {{BRA}} || 11 || 7 || 11 || 29
|-
|rowspan="1"| '''14''' ||align=left| {{JPN}} || 10 || 33 || 58 || 101
|-
|rowspan="1"| '''15''' ||align=left| {{ZAF}} || 10 || 5 || 12 || 27
|-
|rowspan="1"| '''16''' ||align=left| {{UKR}} || 9 || 8 || 13 || 30
|-
|rowspan="1"| '''17''' ||align=left| {{ESP}} || 8 || 26 || 25 || 59
|-
|rowspan="1"| '''18''' ||align=left| {{SRB}}<sup>(3)</sup> || 7 || 4 || 5 || 16
|-
|rowspan="1"| '''19''' ||align=left| {{POL}} || 6 || 8 || 8 || 22
|-
|rowspan="1"| '''20''' ||align=left| {{DEN}} || 4 || 8 || 7 || 19
|-
|rowspan="1"| '''21''' ||align=left| {{ZIM}} || 4 || 5 || 0 || 9
|-
|rowspan="1"| '''22''' ||align=left| {{GRE}} || 4 || 4 || 5 || 13
|-
|rowspan="1"| '''23''' ||align=left| {{FIN}} || 3 || 2 || 2 || 7
|-
|rowspan="1"| '''24''' ||align=left| {{TUN}} || 2 || 2 || 4 || 8
|-
|rowspan="1"| '''25''' ||align=left| {{ROU}} || 2 || 1 || 7 || 10
|-
|rowspan="1"| '''26''' ||align=left| {{BLR}} || 2 || 1 || 1 || 4
|-
|rowspan="1"| '''27''' ||align=left| {{KOR}} || 2 || 0 || 1 || 3
|-
|rowspan="1"| '''28''' ||align=left| {{MEX}} || 1 || 4 || 9 || 14
|-
|rowspan="1"| '''29''' ||align=left| {{SUI}} || 1 || 4 || 1 || 6
|-
|rowspan="1"| '''30''' ||align=left| {{CRO}} || 1 || 3 || 3 || 7
|-
|rowspan="1"| '''31''' ||align=left| {{LTU}} || 1 || 2 || 2 || 5
|-
|rowspan="1"| '''32''' ||align=left| {{BGR}} || 1 || 1 || 4 || 6
|-
|rowspan="2"| '''33''' ||align=left| {{BEL}} || 1 || 1 || 2 || 4
|-
|align=left| {{CRC}} || 1 || 1 || 2 || 4
|-
|rowspan="1"| '''35''' ||align=left| {{NOR}} || 1 || 1 || 1 || 3
|-
|rowspan="1"| '''36''' ||align=left| {{PRK}} || 1 || 0 || 1 || 2
|-
|rowspan="2"| '''37''' ||align=left| {{COL}} || 1 || 0 || 0 || 1
|-
|align=left| {{SUR}} || 1 || 0 || 0 || 1
|-
|rowspan="1"| '''39''' ||align=left| {{NZL}} || 0 || 5 || 5 || 10
|-
|rowspan="1"| '''40''' ||align=left| {{AUT}} || 0 || 3 || 3 || 6
|-
|rowspan="1"| '''41''' ||align=left| {{SVK}} || 0 || 3 || 2 || 5
|-
|rowspan="1"| '''42''' ||align=left| {{CZE}}<sup>(4)</sup> || 0 || 3 || 1 || 4
|-
|rowspan="3"| '''43''' ||align=left| {{CUB}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
|align=left| {{ISL}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
|align=left| {{JAM}} || 0 || 1 || 1 || 2
|-
|rowspan="1"| '''46''' ||align=left| {{MNE}} || 0 || 1 || 0 || 1
|-
|rowspan="1"| '''47''' ||align=left| {{MAS}} || 0 || 0 || 3 || 3
|-
|rowspan="1"| '''48''' ||align=left| {{ARG}} || 0 || 0 || 2 || 2
|-
|rowspan="5"| '''49''' ||align=left| {{EGY}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{PUR}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{SIN}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{TRI}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
|align=left| {{VEN}} || 0 || 0 || 1 || 1
|-
!colspan=2| 総計 || 857 || 861 || 852 || 2570
|}
* (<sup>1</sup>) -- <small>[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]と[[西ドイツ]]を含む</small>
* (<sup>2</sup>) -- <small>[[ソビエト連邦]]を含む</small>
* (<sup>3</sup>) -- <small>[[ユーゴスラビア連邦共和国|ユーゴスラビア]]と[[セルビア・モンテネグロ]]を含む</small>
* (<sup>4</sup>) -- <small>[[チェコスロバキア]]を含む</small>
== 競泳大会記録 ==
=== 男子 ===
{|class=wikitable style="width: 95%; font-size: 95%;"
! 種目 !! 記録 !! 選手 !! 国籍 !! 樹立年 !! 大会
|-
|-
|align=right|50m自由形
|align=right|21秒04
|[[ケーレブ・ドレッセル]]
|{{USA}}
|2019年
|{{flagicon|KOR}} [[光州大会]]
|-
|align=right|100m自由形
|align=right|46秒91
|セーザル・シエロ
|{{BRA}}
|2009年
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|200m自由形
|align=right|1分42秒00
|[[パウル・ビーデルマン]]
|{{GER}}
|2009年
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|400m自由形
|align=right|3分40秒07
|パウル・ビーデルマン
|{{GER}}
|2009年
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|800m自由形
|align=right|7分32秒12
|{{仮リンク|張琳 (競泳選手)|en|Zhang Lin (swimmer)|label=張琳}}
|{{CHN}}
|2009年
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|1500m自由形
|align=right|14分34秒14
|[[孫楊]]
|{{CHN}}
|2011年
|{{flagicon|CHN}} [[2011年世界水泳選手権|上海大会]]
|-
|align=right|50m背泳ぎ
|align=right|24秒04
|[[リアム・タンコック]]
|{{GBR}}
|2009年
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|100m背泳ぎ
|align=right|52秒19
|[[アーロン・ピアソル]]
|{{USA}}
|2009年
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|200m背泳ぎ
|align=right|1分51秒92
|アーロン・ピアソル
|{{USA}}
|2009年
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|50m平泳ぎ
|align=right|25秒95
|[[アダム・ピーティ]]
|{{GBR}}
|2017年
|{{flagicon|HUN}} ブダペスト大会
|-
|align=right|100m平泳ぎ
|align=right|56秒88
|[[アダム・ピーティ]]
|{{GBR}}
|2019年
|{{flagicon|KOR}} 光州大会
|-
|align=right|200m平泳ぎ
|align=right|2分05秒48
|[[覃海洋]]
|{{CHN}}
|2023年
||{{flagicon|JPN}} [[福岡大会]]
|-
|align=right|50mバタフライ
|align=right|22秒35
|[[ケーレブ・ドレッセル]]
|{{USA}}
|2019年
|{{flagicon|KOR}} 光州大会
|-
|align=right|100mバタフライ
|align=right|49秒50
|[[ケーレブ・ドレッセル]]
|{{USA}}
|2019年
|{{flagicon|KOR}} 光州大会
|-
|align=right|200mバタフライ
|align=right|1分50秒73
|クリストフ・ミラーク
|{{HUN}}
|2019年
|{{flagicon|KOR}} 光州大会
|-
|align=right|200m個人メドレー
|align=right|1分54秒00
|[[ライアン・ロクテ]]
|{{USA}}
|2011年
|{{flagicon|CHN}} 上海大会
|-
|align=right|400m個人メドレー
|align=right|4分02秒50
|レオン・マルシャン
|{{FRA}}
|2023年
|{{flagicon|JPN}} [[福岡大会]]
|-
|align=right|4x100mフリーリレー
|align=right|3分09秒21
|マイケル・フェルプス(47秒78)<br/>ライアン・ロクテ(47秒03)<br/>[[マット・グレイバーズ]](47秒61)<br/>[[ネイサン・エイドリアン]](46秒79)
|{{USA}}
|2009年7月26日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|4x200mフリーリレー
|align=right|6分58秒55
|マイケル・フェルプス(1分44秒49)<br/>{{仮リンク|リッキー・ベレンズ|en|Ricky Berens}}(1分44秒13)<br/>{{仮リンク|デビッド・ウォルターズ|en|David Walters (swimmer)}}(1分45秒47)<br/>ライアン・ロクテ(1分44秒46)
|{{USA}}
|2009年7月31日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|4x100mメドレーリレー
|align=right|3分27秒28
|アーロン・ピアソル(52秒19)<br/>{{仮リンク|エリック・シャントゥ|en|Eric Shanteau}}(58秒57)<br/>マイケル・フェルプス(49秒72)<br/>デビッド・ウォルターズ(46秒80)
|{{USA}}
|2009年8月2日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|}
=== 女子 ===
{|class=wikitable style="width: 95%; font-size: 95%;"
! 種目 !! 記録 !! 選手 !! 国籍 !! 日時 !! 大会
|-
|align=right|50m自由形
|align=right|23秒61
|[[サラ・ショーストロム]]
|{{SWE}}
|2023年7月29日
|{{flagicon|JPN}} [[2023年世界水泳選手権|福岡大会]]
|-
|align=right|100m自由形
|align=right|52秒07
|ブリッタ・シュテフェン
|{{GER}}
|2009年7月31日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|200m自由形
|align=right|1分52秒85
|[[モリー・オキャラハン]]
|{{AUS}}
|2023年7月29日
|{{flagicon|JPN}} 福岡大会
|-
|align=right|400m自由形
|align=right|3分59秒15
|フェデリカ・ペレグリニ
|{{ITA}}
|2009年7月26日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|800m自由形
|align=right|8分13秒86
|[[ケイティ・レデッキー]]
|{{USA}}
|2013年8月3日
|{{flagicon|ESP}} [[2013年世界水泳選手権|バルセロナ大会]]
|-
|align=right|1500m自由形
|align=right|15分36秒53
|ケイティ・レデッキー
|{{USA}}
|2013年7月30日
|{{flagicon|ESP}} バルセロナ大会
|-
|align=right|50m背泳ぎ
|align=right|27秒06
|{{仮リンク|趙菁|en|Zhao Jing (swimmer)}}
|{{CHN}}
|2009年7月30日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|100m背泳ぎ
|align=right|58秒12
|{{仮リンク|ジェマ・スポフォース|en|Gemma Spofforth}}
|{{GBR}}
|2009年7月28日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|200m背泳ぎ
|align=right|2分04秒76
|[[メリッサ・フランクリン]]
|{{USA}}
|2013年8月3日
|{{flagicon|ESP}} バルセロナ大会
|-
|align=right|50m平泳ぎ
|align=right|29秒48
|[[ルタ・メイルティテ]]
|{{LTU}}
|2013年8月3日
|{{flagicon|ESP}} バルセロナ大会
|-
|align=right|100m平泳ぎ
|align=right|1分04秒35
|ルタ・メイルティテ
|{{LTU}}
|2013年7月29日
|{{flagicon|ESP}} バルセロナ大会
|-
|align=right|200m平泳ぎ
|align=right|2分19秒11
|{{仮リンク|リッケ・メラー・ペデルセン|en|Rikke Møller Pedersen}}
|{{DEN}}
|2013年8月1日
|{{flagicon|ESP}} バルセロナ大会
|-
|align=right|50mバタフライ
|align=right|25秒07
|{{仮リンク|テレーズ・アルシャマー|en|Therese Alshammar}}
|{{SWE}}
|2009年7月31日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|100mバタフライ
|align=right|56秒06
|[[サラ・ショーストレム]]
|{{SWE}}
|2009年7月27日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|200mバタフライ
|align=right|2分03秒41
|[[ジェシカ・シッパー]]
|{{AUS}}
|2009年7月30日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|200m個人メドレー
|align=right|2分06秒15
|{{仮リンク|アリアナ・クーカーズ|en|Ariana Kukors}}
|{{USA}}
|2009年7月27日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|400m個人メドレー
|align=right|4分30秒31
|[[ホッスー・カティンカ|カティンカ・ホッスー]]
|{{HUN}}
|2009年8月2日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|4x100mフリーリレー
|align=right|3分31秒72
|{{仮リンク|インヘ・デッカー|en|Inge Dekker}}(53秒61)<br/>[[ラノミ・クロモウィジョジョ]](52秒30)<br/>{{仮リンク|フェムカ・ヘームスケルク|en|Femke Heemskerk}}(53秒03)<br/>[[マルリーン・フェルトハイス]](52秒78)
|{{NED}}
|2009年7月26日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|4x200mフリーリレー
|align=right|7分42秒08
|{{仮リンク|楊雨|en|Yang Yu (swimmer)}}(1分55秒47)<br/>{{仮リンク|朱倩蔚|en|Zhu Qianwei}}(1分55秒79)<br/>{{仮リンク|劉京 (水泳選手)|en|Liu Jing (swimmer)|label=劉京}}(1分56秒09)<br/>[[龐佳穎]](1分54秒73)
|{{CHN}}
|2009年7月30日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|-
|align=right|4x100mメドレーリレー
|align=right|3分52秒19
|趙菁(58秒98)<br/>{{仮リンク|陳慧佳|en|Chen Huijia}}(1分04秒12)<br/>[[焦劉洋]](56秒28)<br/>{{仮リンク|李哲思|en|Li Zhesi}}(52秒81)
|{{CHN}}
|2009年8月1日
|{{flagicon|ITA}} ローマ大会
|}
== 日本の大会別獲得メダル数 ==
{| {{MedalTable}}
|-
| style="text-align:left" | [[1973年世界水泳選手権|1973年 ベオグラード]] || 0 || 0 || 6 || 6
|-
| style="text-align:left" | [[1975年世界水泳選手権|1975年 カリ]] || 0 || 1 || 3 || 4
|-
| style="text-align:left" | [[1978年世界水泳選手権|1978年 ベルリン]] || 0 || 2 || 1 || 3
|-
| style="text-align:left" | [[1982年世界水泳選手権|1982年 グアヤキル]] || 0 || 0 || 3 || 3
|-
| style="text-align:left" | [[1986年世界水泳選手権|1986年 マドリード]] || 0 || 0 || 2 || 2
|-
| style="text-align:left" | [[1991年世界水泳選手権|1991年 パース]] || 0 || 2 || 3 || 5
|-
| style="text-align:left" | [[1994年世界水泳選手権|1994年 ローマ]] || 0 || 2 || 1 || 3
|-
| style="text-align:left" | [[1998年世界水泳選手権|1998年 パース]] || 0 || 4 || 4 || 8
|-style="background:#ccccff"
| style="text-align:left" | [[2001年世界水泳選手権|2001年 福岡]](開催国) || 1 || 1 || 7 || 9
|-
| style="text-align:left" | [[2003年世界水泳選手権|2003年 バルセロナ]] || 3 || 3 || 3 || 9
|-
| style="text-align:left" | [[2005年世界水泳選手権|2005年 モントリオール]] || 0 || 5 || 7 || 12
|-
| style="text-align:left" | [[2007年世界水泳選手権|2007年 メルボルン]] || 1 || 4 || 8 || 13
|-
| style="text-align:left" | [[2009年世界水泳選手権|2009年 ローマ]] || 1 || 2 || 1 || 4
|-
| style="text-align:left" | [[2011年世界水泳選手権|2011年 上海]] || 0 || 4 || 2 || 6
|-
| style="text-align:left" | [[2013年世界水泳選手権|2013年 バルセロナ]] || 1 || 2 || 3 || 6
|-
| style="text-align:left" | [[2015年世界水泳選手権|2015年 カザン]] || 3 || 1 || 4 || 8
|-
| style="text-align:left" | [[2017年世界水泳選手権|2017年 ブダペスト]] || 0 || 4 || 5 || 9
|-
| style="text-align:left" | [[2019年世界水泳選手権|2019年 光州]] || 2 || 2 || 6 || 10
|-
| style="text-align:left" | [[2022年世界水泳選手権|2022年 ブダペスト]] || 2 || 8 || 3 || 13
|-style="background:#ccccff"
| style="text-align:left" | [[2023年世界水泳選手権|2023年 福岡]](開催国) || 4 || 1 || 5 || 10
|-
! 合計 !! 18 !! 48 !! 77 !! 143
|}
日本は第1回大会から参加していたが、金メダルが取れなかった。開催国となった2001年福岡大会のシンクロナイズトスイミング・デュエットで、[[立花美哉]]・[[武田美保]]組が初めての金メダルを獲得した。シンクロでは第1回大会から全ての大会でメダルを獲得していたが、2009年のローマ大会で初めてメダルなしに終わった。
競泳では第1回ベオグラード、第2回カリ大会で平泳ぎの[[田口信教]]が2大会連続でメダルを獲得するなどしたが、その後は日本勢の不振に伴ってメダルをしばらく得られないでいた。再び日本チームがメダルを得たのは、1991年パース大会で、その後日本勢は徐々に復調を見せた。2003年バルセロナ大会の100m平泳ぎと200m平泳ぎで、[[北島康介]]が初めての金メダルを獲得。2005年モントリオール大会では、金メダルこそ獲得できなかったものの、平泳ぎの北島康介や自由形長距離の[[柴田亜衣]]などを中心として過去最高の9つのメダルを獲得、総数で初めて米豪に次ぐ第3位となった。
飛込では2001年福岡大会男子3m板飛込で[[寺内健]]が初メダルとなる銅メダルを獲得している。この大会では女子10mシンクロ高飛込でも[[宮嵜多紀理]]・[[大槻枝美]]組が銅メダルを獲得している。
== 日本でのテレビ中継 ==
第8回までは[[日本放送協会|NHK]]が衛星放送などで放送していた。
2001年(第9回)の福岡以後は[[テレビ朝日]]が日本国内における放送権の独占契約を結んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-asahi.co.jp/announcer/personal/women/miyajima/essay/74.html |title=スペインシンクロ大躍進の陰に日本人コーチ藤木麻祐子の存在があった。 |publisher=[[テレビ朝日]] |date=2007-03-05 |accessdate=2012-06-04 }}</ref>。地上波の[[All-nippon News Network|ANN]]系列と衛星波子会社の[[ビーエス朝日|BS朝日]]、CS放送の[[テレ朝チャンネル|テレ朝チャンネル2 ニュース・スポーツ]]で独占中継している。基本的に生放送であるが、競技の進行状況その他によっては[[ニアライブ]]([[撮って出し]])を行う日もある。
* 大会テレビ中継のテーマソングは2001年と2003年(第10回)は[[B'z]](「[[ultra soul]]」・「[[GOLD (B'zの曲)|GOLD]]」・「[[ultra soul#収録曲|スイマーよ 2001!!]]」・「[[IT'S SHOWTIME!!]]」・「[[野性のENERGY]]」)だったが、2005年(第11回)以降はテレビ朝日のスポーツ中継統一テーマ曲が用いられている(2005年は[[SMAP]]の「[[BANG! BANG! バカンス!]]」、2007年はSMAPの「[[Mermaid (SMAPの曲)|Mermaid]]」、2009年はSMAPの「スーパースター★」)。2011年からは再びB'zの「ultra soul」がテーマ曲となり、この年はアレンジされた「[[C'mon#収録曲|ultra soul 2011]]」がテーマ曲となった。2013年は「ultra soul」オリジナルバージョンが2001年以来12年ぶりにテーマ曲として復活し、以降の大会でもオリジナルバージョンが使用されている。2022年からは、テーマ曲と並行してB'zの「[[Highway X|You Are My Best]]」が世界水泳応援ソングとして使用される。
* 2001年と2003年は[[古舘伊知郎]]が特別実況を務めた。担当したレースは[[イアン・ソープ]]と[[北島康介]]のレース。
* 2005年はカナダで行われたため、時差の関係で競泳決勝の一部が「[[スーパーモーニング]]」の枠内にかかった。このため、通常同番組を放送している系列外の局も競泳決勝(土日を除く)のみ放送された。
* [[マスコット]]として、2001年の福岡大会に使用した後、日本水泳連盟の公認マスコットキャラクターとなった『'''ぱちゃぽ'''』を毎回使用している。<!-- [http://www.swim.or.jp/06_info/17/20021015-141.html] を参照)// リンク切れ // -->
* テレビでは、視聴者にわかりやすいように、世界記録のペースを赤色のラインで表示し、これより先を進んでいれば世界記録ペースで泳いでいることを示している。
* 大会によっては競技の開催時間帯であっても[[撮って出し]]による[[ニアライブ|時差録画]]となるために、放送前に競技の結果がウェブニュースや放送などで分かってしまう「[[ネタバレ]]」となるケースがある。<ref>事例として2013年バルセロナ大会における、男子400m個人メドレー。中継は全英女子オープンゴルフ生中継の関係でその後からの撮って出し放送だったため、中継が始まる前に瀬戸大也の優勝が、[[NHKラジオ第1放送]]・[[NHK-FM放送|FMラジオ放送]]、及びウェブなどで報じられてしまっていた</ref>
なお、[[2007年]]は先述の季節上の関係で世界水泳は3-4月の開催だったため、翌年[[2008年]]の[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の前哨戦という位置づけで、世界水泳をしのぐ「夢の国際競泳大会」、「2007年の真の競泳世界一決定戦」として「[[インターナショナル・スイム・ミート2007]](世界競泳)」がテレビ朝日・日本水泳連盟・国際水泳連盟との共同企画により[[千葉県]][[習志野市]]の[[千葉県国際総合水泳場]]で開催され、同様にテレビ中継された。
=== テレビ朝日中継関係者 ===
; 放送キャスター
: [[松岡修造]](2001年 - <ref>[http://teleco.tv/news/detail?id=841 「世界水泳」の顔に7大会連続で松岡修造] - テレコ!、2013年7月22日閲覧。</ref>)メインキャスター
: [[寺川綾]]
: [[萩野公介]](競泳解説も担当)
; 解説者
:*[[田中ウルヴェ京]](シンクロ)
:*[[武田美保]](シンクロ。衆議院議員夫人)
:*[[小谷実可子]](シンクロ)
:*[[高橋繁浩]](競泳)
:*[[松田丈志]](競泳)
:*[[寺内健]](飛び込み・ハイダイビング)
; 実況アナウンサー(いずれもテレビ朝日)
:*[[森下桂吉]](競泳)
:*[[吉野真治]](競泳)
:*[[清水俊輔]](競泳)
:*[[寺川俊平]](競泳。インタビューも担当)
:*[[三上大樹]](競泳)
:*[[野上慎平]](競泳)
:*[[山崎弘喜]](競泳)
:*[[角澤照治]](シンクロ)
:*[[大西洋平 (アナウンサー)|大西洋平]](シンクロ)
:*[[進藤潤耶]](シンクロ)
:*[[田畑祐一 (アナウンサー)|田畑祐一]](飛び込み・ハイダイビング)
; 過去
:*[[優香]](2001年大会女子シンクロ飛び込み銅メダリストの大槻枝美と中学時代の同級生)
:*[[長島三奈]](2001年のみ)
:*[[古舘伊知郎]](実況)
:*[[中山貴雄]](実況。当時テレビ朝日アナウンサー)
:*[[武内絵美]](進行キャスター。テレビ朝日アナウンサー)
:*[[山本貴司]](解説)
:*[[鈴木大地]](解説。現[[日本水泳連盟]]会長)
:*[[赤江珠緒]](2005年。放送当時[[朝日放送テレビ|朝日放送]]東京支社勤務アナウンサーで、「スーパーモーニング」MCだったことによる)
:*[[宮下純一]](2009年、2011年。元五輪選手で、キャスター、リポーター担当)
:*[[竹内由恵]](2011年進行キャスター。テレビ朝日アナウンサー)
:*[[北島康介]](2009年 肩書き上は「スペシャルゲスト」)
=== 提供出し ===
* この大会期間中、テレビ朝日では[[提供クレジット]]出し(番組・大会の協賛スポンサー表示)は画面下に出す程度でクレジットのアナウンスは行わない。([[全英オープンゴルフ]]と同要領)
=== その他 ===
*アジア・オセアニア以外で当大会が開催される場合、時差の都合上日本時間の深夜~早朝に開催されてしまう。この大会の開催時期が概ね7月下旬-8月初めとなることが多いため、この場合「[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]]」「[[全英女子オープン]]」(ともにR&A主催)の生中継や「[[速報!甲子園への道]]」の放送にも影響が出やすい。特に「-甲子園への道」は2005年以後、同番組製作局の[[朝日放送テレビ|朝日放送→朝日放送テレビ]]([[大阪府]])以外の多くが午前0時台以後(土曜・日曜は朝日放送テレビを含め最終版ANNニュース明け)に放送されるところもあるが、これを世界水泳の生中継終了後に延期し、早朝番組となるケースもある。
*23時台の「[[ネオバラエティ]]」は朝日放送テレビのみ唯一全国ネットスポンサーセールス(前半のみ)ながら時差放送扱いされているが、世界水泳の開催時間によっては23時台の「[[ナイトinナイト]]」(ローカル差し替え枠)を休止し、ネオバラの同時放送にすることもある。
*大会開催時期には、[[ミニ番組]]『[[全力坂]]』が[[コラボレーション]]として、タレントが[[水着]]で出演し、[[プール]]を全力で泳ぎきる『'''全力水'''』を放送する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.worldaquatics.com/ 世界水泳連盟] {{en icon}}
* [https://www.swimrankings.net/index.php?page=meetSelect&selectPage=BYTYPE&meetType=2 Swim Rankings results] {{en icon}}
* [https://www.tv-asahi.co.jp/swimming/ テレ朝水泳] - テレビ朝日
** [https://www.tv-asahi.co.jp/sekaisuiei/ 世界水泳]
{{世界水泳連盟世界選手権}}
{{水泳競技}}
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[[Category:世界水泳選手権|*]]
[[Category:世界選手権|すいえい]]
[[Category:1973年開始のスポーツイベント]]
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2003-07-24T12:43:40Z
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2023-11-26T01:29:31Z
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12,142 |
インチ
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インチ(inch、記号:in)は、ヤード・ポンド法の長さの計量単位である。国際インチにおける1インチは正確に25.4 mmと定められている。1インチは1国際フィート(= 正確に304.8 mm)の12分の1であり、1ヤード(= 正確に914.4 mm)の36分の1 である。
インチの単位記号は、ISOにおいてもJISにおいても「in」と定められている。これを受けて、日本の計量法でも単位記号は「in」としている。米国の政府刊行物のスタイルマニュアルであるGPO Style Manual でも、「in」と定めている。
ただしイギリスの人文系論文のスタイルマニュアルである、en:MHRA Style Guide では、曖昧さを避けるために、単位記号を「in.」とピリオドを付するように定めている。
「′′」(ダブルプライム記号)によっても書かれる。例えば「10′′」は10インチの意味である。「′′」はしばしば、不正確だが「”」(閉じ二重引用符)や、ASCIIの「"」(引用符)や「''」(アポストロフィ2つ)とも書かれる。
フィートは「′」(プライム記号)で表記されるので、「5′10′′」は5フィート10インチを表す。
なお、「′」と「′′」は、時間の分と秒、角度の分と秒の表記にも用いられるので、「5′10′′」は時間または角度の5分10秒とも読め、文脈によっては混乱を引き起こすおそれがある。
インチの長さは、東アジアで用いられる寸(約3 cm)に近い。そこで、中国ではインチのことを「英寸」と呼んでおり、日本では明治時代に「吋」という国字が作られた。
現在の日本では、計量法の規定により「インチ」そのものを取引・証明に使えないので、インチ規格を「型」と呼ぶ。たとえば「30型テレビ」など。
「インチ」(またはそれに相当する言葉)は時代によって、また国によって異なった値をとった。それらはほとんど統一されたか、あるいは、統一される前にメートル法の単位に置き換えられた。今日、ほとんどの国において、「インチ」といえばそれは国際インチ (International inch) のことを指す。
国際インチは、正確に0.0254 m(25.4 mm)と定義されている。この定義は、アメリカ合衆国、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの6ヶ国が1958年に協定を締結し、1959年7月1日に発効したヤード(国際ヤード=正確に0.9144 m)の定義に基づくものである。
現在でも「1インチは約2.54 cm」との表記がみられる。しかし、国際インチにおける1インチは正確に2.54 cmであるため、このような表記は不正確かつ不適当である。ただし、国際インチの制定より前の事柄、例えば「戦艦『三笠』の12インチ主砲」に言及する場合は、「1インチ=約2.54 cm」が適切な表記である。
元々のインチは、男性の親指(爪の付け根部分)の幅に由来する身体尺だったと考えられている。古代ローマにおいて、フィートと関連づけられてその12等分した長さが1インチとされた。
インチ (inch) という言葉の語源は、ラテン語で「12分の1」を意味する uncia であり、質量の単位であるオンスと同一語源である。長さのインチのもとは uncia pes (pes は足、英語のフート)であり、質量のオンスのもとは uncia libra (libraが英語のポンドにあたる)である。古英語の ynce(ユンチェ)を経て、inch となった。
また、親指の幅であることから「親指幅」とも呼ばれた。現在でも、多くの言語でこの単位は「親指」という言葉に似た、または同じ名称で呼ばれている。
1150年ごろにスコットランド王デイヴィッド1世は、体格の異なる3人の人間の親指の爪の付け根の部分の幅を測り、その平均を1インチとしたと伝えられる。1300年ごろにイングランド王エドワード1世は鉄製のアルナ(ulna、ラテン語で尺骨を意味し、ヤードに相当)原器を作り、その1⁄36をインチとしたが、それと同時にオオムギ3粒の長さをインチと定めている。14世紀のエドワード2世は、オオムギの粒の長さをバーリーコーン (barleycorn) と呼び、その3倍を1インチと定義した。
1588年にエリザベス1世が新しいヤードの標準 (Exchequer Standards) を定め、この基準が19世紀に帝国単位が制定されるまで続いた。
19世紀、スウェーデンではメートル法への移行が行われた。まず、1855年から1863年までの間で、インチが、フィートの1⁄10である十進インチ(約0.03 m)に置き換えられた。十進法を導入することで計算が単純化されるとして導入されたが、他国で使用されていた1⁄12フィートのインチと1⁄10フィートのインチの2種類があることで余計に複雑になってしまったことから、1878年から1889年にかけてメートル法の単位が導入されることになった。
イギリスとイギリス連邦諸国は、「帝国ヤード標準原器」の12分の1の長さ、約 25.3998 mm(いわゆる「イギリスインチ」)としていた。
アメリカ合衆国では1893年、メンデンホール指令 (Mendenhall Order) により、1インチ = 100⁄3937 m(いわゆる「アメリカインチ」)と定義された。したがって、1インチ = 約25.400050800102 mm であった。カナダもこれを採用した。
いくつかの国では、1959年以前に行われた測量の結果の互換性のために、1959年以降も、以前に測量のために使われていた各国ばらばらのフィートの定義を保持している。これを測量フィート (survey foot) という。たとえば、2022年12月末まではアメリカ合衆国測量フィート (U.S. survey foot) としてアメリカフィートが使われていた。ただし、このような制度はフィートのみに適用されるのであり、アメリカインチが合衆国内の測量に使われることはない。
日本においては、インチというヤード・ポンド法の計量単位を使用することは、特別の場合(ヤード・ポンド法#日本における使用)以外は計量法上、禁止されている。したがって、以下の製品のサイズ表記は、- 型と表記されるか、表記寸法が単に 25.4 mm の倍数となっているが、「インチ表記」ということではない。
インチ規格部品と、ISO規格部品が混在し、製造上問題になるのは、パーソナルコンピュータなどの電子機器である。メートル法を使う国々でも、このような、アメリカやイギリスを起源とする商品は、互換性の維持のため、製造設備の設計上の理由、または商慣行上、現在もインチ単位を基準に設計・製造されることがある。
インチねじは、ねじ山のピッチがISOミリねじ規格より粗く、直径とピッチがインチ単位で作られている。インチねじにはいくつかの規格があるが、主に使われるのはユニファイねじとウィットワースねじである。日本国内で生産される商品としては、3.5インチハードディスクドライブの固定用ねじや、カメラの固定ねじ等に用いられている。これら精密機械に使われる小径ねじはユニファイであることが多い。ウィットワースは建築関係で用いられる太い径のものが多い。
インチより細かい長さは2の冪 (2, 4, 8, 16, 32, 64。128は細か過ぎて実用的でないので使われない)を分母とする分数で表すことが比較的多い。
工学分野では、サウ (thou) またはミル (mil) という単位が国際インチの1000分の1 (25.4 μm) の意味で用いられることがある。今日では、サウやミルは用いず、SI単位を使用すべきとされている。
1⁄12 インチ = 2.117 mm をラインと呼び、単位記号「′′′」(トリプルプライム)で表す。
印刷などではパイカ(現在のDTPでは1⁄6インチ、約 4.233 mm)およびポイント(パイカの1⁄12、約 0.353 mm)を使用する。
1⁄8 in (= 3.175 mm) は尺貫法における1分(= 0.1寸 = 約3.03 mm)に近いため、日本では「1⁄8 in ≒ 1分」とみなして、インチ規格を分や、さらにその1⁄10の厘(= 0.01寸 = 0.1分)で表すことがある。大工や機械工などの間で使われる。これらは「1フィート≒1尺」とみなすことに相当する。
主に使われるのは表の呼び名になる。
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"text": "「インチ」(またはそれに相当する言葉)は時代によって、また国によって異なった値をとった。それらはほとんど統一されたか、あるいは、統一される前にメートル法の単位に置き換えられた。今日、ほとんどの国において、「インチ」といえばそれは国際インチ (International inch) のことを指す。",
"title": "国際インチ"
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"text": "国際インチは、正確に0.0254 m(25.4 mm)と定義されている。この定義は、アメリカ合衆国、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの6ヶ国が1958年に協定を締結し、1959年7月1日に発効したヤード(国際ヤード=正確に0.9144 m)の定義に基づくものである。",
"title": "国際インチ"
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"text": "現在でも「1インチは約2.54 cm」との表記がみられる。しかし、国際インチにおける1インチは正確に2.54 cmであるため、このような表記は不正確かつ不適当である。ただし、国際インチの制定より前の事柄、例えば「戦艦『三笠』の12インチ主砲」に言及する場合は、「1インチ=約2.54 cm」が適切な表記である。",
"title": "国際インチ"
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"text": "元々のインチは、男性の親指(爪の付け根部分)の幅に由来する身体尺だったと考えられている。古代ローマにおいて、フィートと関連づけられてその12等分した長さが1インチとされた。",
"title": "歴史"
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"text": "インチ (inch) という言葉の語源は、ラテン語で「12分の1」を意味する uncia であり、質量の単位であるオンスと同一語源である。長さのインチのもとは uncia pes (pes は足、英語のフート)であり、質量のオンスのもとは uncia libra (libraが英語のポンドにあたる)である。古英語の ynce(ユンチェ)を経て、inch となった。",
"title": "歴史"
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"text": "また、親指の幅であることから「親指幅」とも呼ばれた。現在でも、多くの言語でこの単位は「親指」という言葉に似た、または同じ名称で呼ばれている。",
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"text": "1150年ごろにスコットランド王デイヴィッド1世は、体格の異なる3人の人間の親指の爪の付け根の部分の幅を測り、その平均を1インチとしたと伝えられる。1300年ごろにイングランド王エドワード1世は鉄製のアルナ(ulna、ラテン語で尺骨を意味し、ヤードに相当)原器を作り、その1⁄36をインチとしたが、それと同時にオオムギ3粒の長さをインチと定めている。14世紀のエドワード2世は、オオムギの粒の長さをバーリーコーン (barleycorn) と呼び、その3倍を1インチと定義した。",
"title": "歴史"
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"text": "1588年にエリザベス1世が新しいヤードの標準 (Exchequer Standards) を定め、この基準が19世紀に帝国単位が制定されるまで続いた。",
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"text": "19世紀、スウェーデンではメートル法への移行が行われた。まず、1855年から1863年までの間で、インチが、フィートの1⁄10である十進インチ(約0.03 m)に置き換えられた。十進法を導入することで計算が単純化されるとして導入されたが、他国で使用されていた1⁄12フィートのインチと1⁄10フィートのインチの2種類があることで余計に複雑になってしまったことから、1878年から1889年にかけてメートル法の単位が導入されることになった。",
"title": "歴史"
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"text": "イギリスとイギリス連邦諸国は、「帝国ヤード標準原器」の12分の1の長さ、約 25.3998 mm(いわゆる「イギリスインチ」)としていた。",
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"text": "アメリカ合衆国では1893年、メンデンホール指令 (Mendenhall Order) により、1インチ = 100⁄3937 m(いわゆる「アメリカインチ」)と定義された。したがって、1インチ = 約25.400050800102 mm であった。カナダもこれを採用した。",
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"text": "いくつかの国では、1959年以前に行われた測量の結果の互換性のために、1959年以降も、以前に測量のために使われていた各国ばらばらのフィートの定義を保持している。これを測量フィート (survey foot) という。たとえば、2022年12月末まではアメリカ合衆国測量フィート (U.S. survey foot) としてアメリカフィートが使われていた。ただし、このような制度はフィートのみに適用されるのであり、アメリカインチが合衆国内の測量に使われることはない。",
"title": "歴史"
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"text": "日本においては、インチというヤード・ポンド法の計量単位を使用することは、特別の場合(ヤード・ポンド法#日本における使用)以外は計量法上、禁止されている。したがって、以下の製品のサイズ表記は、- 型と表記されるか、表記寸法が単に 25.4 mm の倍数となっているが、「インチ表記」ということではない。",
"title": "工業での使用"
},
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"text": "インチ規格部品と、ISO規格部品が混在し、製造上問題になるのは、パーソナルコンピュータなどの電子機器である。メートル法を使う国々でも、このような、アメリカやイギリスを起源とする商品は、互換性の維持のため、製造設備の設計上の理由、または商慣行上、現在もインチ単位を基準に設計・製造されることがある。",
"title": "工業での使用"
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"text": "インチねじは、ねじ山のピッチがISOミリねじ規格より粗く、直径とピッチがインチ単位で作られている。インチねじにはいくつかの規格があるが、主に使われるのはユニファイねじとウィットワースねじである。日本国内で生産される商品としては、3.5インチハードディスクドライブの固定用ねじや、カメラの固定ねじ等に用いられている。これら精密機械に使われる小径ねじはユニファイであることが多い。ウィットワースは建築関係で用いられる太い径のものが多い。",
"title": "工業での使用"
},
{
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"tag": "p",
"text": "インチより細かい長さは2の冪 (2, 4, 8, 16, 32, 64。128は細か過ぎて実用的でないので使われない)を分母とする分数で表すことが比較的多い。",
"title": "分量単位"
},
{
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"tag": "p",
"text": "工学分野では、サウ (thou) またはミル (mil) という単位が国際インチの1000分の1 (25.4 μm) の意味で用いられることがある。今日では、サウやミルは用いず、SI単位を使用すべきとされている。",
"title": "分量単位"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1⁄12 インチ = 2.117 mm をラインと呼び、単位記号「′′′」(トリプルプライム)で表す。",
"title": "分量単位"
},
{
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"tag": "p",
"text": "印刷などではパイカ(現在のDTPでは1⁄6インチ、約 4.233 mm)およびポイント(パイカの1⁄12、約 0.353 mm)を使用する。",
"title": "分量単位"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1⁄8 in (= 3.175 mm) は尺貫法における1分(= 0.1寸 = 約3.03 mm)に近いため、日本では「1⁄8 in ≒ 1分」とみなして、インチ規格を分や、さらにその1⁄10の厘(= 0.01寸 = 0.1分)で表すことがある。大工や機械工などの間で使われる。これらは「1フィート≒1尺」とみなすことに相当する。",
"title": "分量単位"
},
{
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"text": "主に使われるのは表の呼び名になる。",
"title": "分量単位"
}
] |
インチは、ヤード・ポンド法の長さの計量単位である。国際インチにおける1インチは正確に25.4 mmと定められている。1インチは1国際フィートの12分の1であり、1ヤードの36分の1 である。
|
{{単位
|名称=インチ
|英字=inch
|記号=in, ″
|単位系=[[ヤード・ポンド法]]
|物理量=[[長さ]]
|定義={{分数|12}} [[フィート|ft]]
|SI=正確に 25.4 [[ミリメートル|mm]](国際インチ)
|画像=
[[ファイル:Inch tape.jpg|250px|サムネイル]]<br>インチ単位で長さが記された巻き尺
}}
'''インチ'''(inch、[[単位記号|記号]]:in)は、[[ヤード・ポンド法]]の[[長さ]]の[[計量単位]]である。国際インチにおける1インチは'''正確に25.4 [[ミリメートル|mm]]'''と定められている。1インチは1[[フィート#国際フィート|国際フィート]](= 正確に304.8 mm)の12分の1であり、1[[ヤード]](= 正確に914.4 mm)の36分の1 である。
== 単位記号 ==
インチの[[単位記号]]は、[[ISO]]においても[[JIS]]においても「'''in'''」と定められている<ref>[[ISO 31-1]]:1992(翻訳は、[http://kikakurui.com/z8/Z8202-1-2000-01.html JIS Z 8202-1:2000 量及び単位−第1部:空間及び時間]) 付属書A(参考)フート、ポンド及び秒を基本とする単位及びその他の単位 (なお、「これらの単位は、用いない方がよい。」との記述があることに注意)</ref>。これを受けて、日本の[[計量法]]でも単位記号は「in」としている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#95 計量単位規則 別表第6] 長さの欄</ref>。米国の政府刊行物の[[スタイルマニュアル]]である[[合衆国政府印刷局|GPO]] Style Manual でも、「in」と定めている<ref>[https://www.govinfo.gov/content/pkg/GPO-STYLEMANUAL-2016/pdf/GPO-STYLEMANUAL-2016.pdf Style Manual, An official guide to the form and style of Federal Government publishing, 2016] 9.58., p.237</ref>。
ただし[[イギリス]]の人文系論文の[[スタイルガイド|スタイルマニュアル]]である、[[:en:MHRA Style Guide]] では、曖昧さを避けるために、単位記号を「in.」とピリオドを付するように定めている<ref>[http://www.mhra.org.uk/style/8.5 8.5 Weights and Measures] The [[:en:MHRA Style Guide]] Online, "Note that most such abbreviations do not take a full stop or plural s: but, to avoid ambiguity, use ‘in.’ for ‘inch(es)’." ,2020 [[:en:Modern Humanities Research Association]] </ref>。
「'''[[プライム|″]]'''」(ダブル[[プライム]]記号)によっても書かれる。例えば「10″」は10インチの意味である。「″」はしばしば、不正確だが「[[引用符|”]]」(閉じ二重[[引用符]])や、[[ASCII]]の「"」(引用符)や「<nowiki>''</nowiki>」([[アポストロフィ]]2つ)とも書かれる。
フィートは「′」(プライム記号)で表記されるので、「5′10″」は5フィート10インチを表す。
なお、「′」と「″」は、[[時間]]の[[分]]と[[秒]]、[[角度]]の[[分 (角度)|分]]と[[秒 (角度)|秒]]の表記にも用いられるので、「5′10″」は時間または角度の5分10秒とも読め、文脈によっては混乱を引き起こすおそれがある。
== 呼び名 ==
インチの長さは、[[東アジア]]で用いられる[[寸]](約3 cm)に近い。そこで、[[中国]]ではインチのことを「'''英寸'''」と呼んでおり、日本では[[明治時代]]に「'''[[wikt:吋|吋]]'''」という[[国字]]が作られた。
現在の日本では、[[計量法]]の規定により「インチ」そのものを取引・証明に使えないので、インチ規格を「型」と呼ぶ。たとえば「[[画面サイズ|30型]]テレビ」など。
== 国際インチ ==
「インチ」(またはそれに相当する言葉)は時代によって、また国によって異なった値をとった。それらはほとんど統一されたか、あるいは、統一される前に[[メートル法]]の単位に置き換えられた。今日、ほとんどの国において、「インチ」といえばそれは'''[[国際ヤード・ポンド|国際インチ]]''' ([[:en:Inch#International inch |International inch]]) のことを指す。
国際インチは、正確に0.0254 m(25.4 [[ミリメートル|mm]])と定義されている。この定義は、[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の6ヶ国が[[1958年]]に協定を締結し、[[1959年]][[7月1日]]に発効した[[ヤード]](国際ヤード=正確に0.9144 m)の定義に基づくものである<ref>Barbrow, Louis E. and Judson, Lewis V. (1976). ''[http://www.nist.gov/pml/pubs/sp447/index.cfm Weights and measures standards of the United States: A brief history] (NBS Special Publication 447).'' Washington D.C.: Superintendent of Documents. Appendix 5. The United States Yard and Pound, Refinement of Values for the Yard and the Pound, pp. 30–31.</ref>。
現在でも「1インチは'''約'''2.54 [[センチメートル|cm]]」との表記がみられる<ref>[https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/%E7%AC%AC41%E5%9B%9E-%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%81 10分でわかるカタカナ語 第41回 インチ] ことばのコラム、筆者:三省堂編修所、2006年4月12日</ref><ref>[https://life-freedom888.com/2inch-cm/ 2インチは何センチか?] 暮らしの知恵、ウルトラフリーダム、「まず1インチ=約2.54cmという換算式が成り立つ」と記述している。</ref><ref>[https://zatsuneta.com/archives/001385.html 1インチとは大麦3粒分(約2.54cm)] 雑学ネタ帳、「アメリカで使用されている長さの単位。1インチ(吋)は約2.54cm。」とある。</ref><ref>[http://jp.malltail.com/jp_wp/ct/import_guide/2187/ アメリカ(米国)の長さ・重さの単位表記について] 個人輸入・商業輸入ガイド、malltail </ref><ref>[https://faq.teral.net/faq/show/3401?category_id=371&site_domain=public 【用語】 インチサイズ(いんちさいず) inch size] テラル株式会社</ref>。しかし、国際インチにおける1インチは正確に2.54 cmであるため、このような表記は不正確かつ不適当である。ただし、国際インチの制定より前の事柄、例えば「[[戦艦]]『[[三笠]]』の12インチ[[主砲]]」に言及する場合は、「1インチ=約2.54 cm」が適切な表記である。
== 歴史 ==
=== 由来 ===
元々のインチは、男性の[[親指]]([[爪]]の付け根部分)の幅に由来する[[身体尺]]だったと考えられている。[[古代ローマ]]において、フィートと関連づけられてその12等分した長さが1インチとされた。
インチ (inch) という言葉の語源は、[[ラテン語]]で「12分の1」を意味する ''uncia'' であり、[[質量]]の単位である[[オンス]]と同一語源である。長さのインチのもとは uncia pes (pes は足、英語のフート)であり、質量のオンスのもとは uncia libra (libraが英語のポンドにあたる)である<ref>[[高田誠二]]、「単位の進化 原始単位から原子単位へ」pp.27-28、ISBN 978-4-06-159831-7、[[講談社学術文庫]]1831、講談社、2007-08-10発行(原本は[[講談社ブルーバックス]]、1970年)</ref>。[[古英語]]の ynce(ユンチェ)を経て、inch となった。
また、[[親指]]の幅であることから「親指幅」とも呼ばれた。現在でも、多くの言語でこの単位は「親指」という言葉に似た、または同じ名称で呼ばれている。
{|class="wikitable"
!言語!!インチ!!親指
|-
|フランス語||pouce||pouce
|-
|イタリア語||pollice||pollice
|-
|スペイン語||pulgada||pulgar
|-
|ポルトガル語||polegada||polegar
|-
|スウェーデン語||tum||tumme
|-
|オランダ語||duim||duim
|}
1150年ごろに[[スコットランド]]王[[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]は、体格の異なる3人の人間の親指の爪の付け根の部分の幅を測り、その平均を1インチとしたと伝えられる<ref name="britannica">{{citation|url=https://www.britannica.com/science/inch|chapter=inch|title=Encyclopaedia Britannica}}</ref>。1300年ごろにイングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]は鉄製のアルナ(ulna、[[ラテン語]]で[[尺骨]]を意味し、ヤードに相当)原器を作り、その{{分数|36}}をインチとしたが、それと同時に[[オオムギ]]3粒の長さをインチと定めている<ref name="koizumi">{{citation|和書|author=[[小泉袈裟勝]]|title=数と量のこぼれ話|publisher=[[日本規格協会]]|year=1993|isbn=4542301311|pages=112-113}}</ref><ref name="pat">{{citation|url=http://metricationmatters.com/docs/WhichInch.pdf|title=Which inch?|author=Pat Naughtin|year=2009|publisher=Metrication matters}}</ref>。14世紀の[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]は、オオムギの粒の長さを[[バーリーコーン]] (barleycorn) と呼び、その3倍を1インチと定義した{{r|britannica}}{{r|koizumi}}。
1588年に[[エリザベス1世]]が新しいヤードの標準{{enlink|Exchequer Standards}}を定め{{r|pat}}、この基準が19世紀に[[帝国単位]]が制定されるまで続いた。
=== 十進インチ ===
19世紀、[[スウェーデン]]では[[メートル法]]への移行が行われた。まず、[[1855年]]から[[1863年]]までの間で、インチが、フィートの{{分数|10}}である[[十進法|十進]]インチ(約0.03 m)に置き換えられた。十進法を導入することで計算が単純化されるとして導入されたが、他国で使用されていた{{分数|12}}フィートのインチと{{分数|10}}フィートのインチの2種類があることで余計に複雑になってしまったことから、[[1878年]]から[[1889年]]にかけてメートル法の単位が導入されることになった。
=== イギリスインチとアメリカインチ ===
[[イギリス]]と[[イギリス連邦]]諸国は、「帝国ヤード標準原器」の12分の1の長さ、約 25.3998 mm(いわゆる「イギリスインチ」)としていた。
[[アメリカ合衆国]]では1893年、[[メンデンホール指令]] ({{interlang|en|Mendenhall Order}}) により、1インチ = {{分数|100|3937}} m(いわゆる「アメリカインチ」)と定義された。したがって、1インチ = 約{{val|25.400050800102|u=mm}} であった。[[カナダ]]もこれを採用した。
いくつかの国では、1959年以前に行われた[[測量]]の結果の互換性のために、1959年以降も、以前に測量のために使われていた各国ばらばらの[[フィート]]の定義を保持している。これを[[フィート#測量フィート|測量フィート]] ([[:en:Foot (unit)#Survey foot|survey foot]]) という。たとえば、2022年12月末まではアメリカ合衆国測量フィート ([[:en:U.S. survey foot|U.S. survey foot]]) としてアメリカフィートが使われていた。ただし、このような制度はフィートのみに適用されるのであり、アメリカインチが合衆国内の測量に使われることはない。
== 工業での使用 ==
=== 由来がインチサイズである工業製品 ===
日本においては、インチという[[ヤード・ポンド法]]の[[計量単位]]を使用することは、特別の場合([[ヤード・ポンド法#日本における使用]])以外は[[計量法]]上、禁止されている。したがって、以下の製品のサイズ表記は、'''- 型'''と表記されるか、表記寸法が単に 25.4 mm の倍数となっているが、「インチ表記」ということではない<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/51_qanda_tani.html#2-2Q8] Q:スポーツ用品(ゴルフクラブ、ボウリング、釣り用品等)、テレビ、フロッピーディスクについて長さや重さをインチやポンドによる表示を付して販売や譲渡等ができるか。(計量法第8条第1項関連)
A:テレビ等で行われている○×型というような表示は、製品の種類、規格等を示すものであり、消費者もインチ表示として捉えるのではなく、テレビの種類、規格等を表すものとして理解した上で、製品の購入の際の判断をしているものと考えられる。したがって、○×型という方式で表示を行う場合、非法定計量単位を用いたことにはならない。</ref>。
インチ規格部品と、[[国際標準化機構|ISO]]規格部品が混在し、製造上問題になるのは、[[パーソナルコンピュータ]]などの[[電子機器]]である。メートル法を使う国々でも、このような、アメリカやイギリスを起源とする商品は、互換性の維持のため、製造設備の設計上の理由、または商慣行上、現在もインチ単位を基準に設計・製造されることがある。
* [[半導体]]、[[コンピュータ]]関連 - インチを基準とするアメリカが主導的な役割となっているため多く使われている。
** [[集積回路|IC]]、[[集積回路|LSI]]、関連電子部品(特に[[端子]]間隔)
** 筐体のサイズ - [[19インチラック]]など
** 構成部品のサイズ - パソコンではアメリカのユニファイねじが多く用いられる。現在は、直径4 mm 以上では、[[ISO]]ねじと互換性がある。
** 媒体のサイズ - [[フロッピーディスク]]や[[ハードディスクドライブ]]の直径
*音楽・放送
** [[楽器]] - [[ドラムセット|ドラム]]の直径など
** 音響・放送機器 - [[19インチラック]]に合わせたサイズが多い。
** [[テレビ受像機]]・[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイモニタ]] - [[ブラウン管]]の対角寸法、[[薄型テレビ|FPD]]では表示部の対角寸法
** [[磁気テープ]] - 媒体幅。なお、長さの単位としてはフィートを使う。
**[[フォーンプラグ]] - 標準は1/4インチ(6.3 mm)である。
* 土木・建築
** ねじ - インチ系列であるウィットワースねじが用いられる場合も多い。
** 六角ボルト・六角ナット - 六角部の二面幅がインチ由来。
** [[異形鉄筋|鉄筋]] - JIS規格の異形棒鋼の定格品の直径がインチ由来。(呼び径D10=9.53 mm=1/4+1/8インチ、以降1/8インチ刻みでD13、D16…)
**[[配管]]材 - 近年ではまず表記されないが、内径はインチ単位がベースである
* [[航空機]]
** [[タイヤ]] - タイヤ内径と[[ホイール]]の直径及び[[リム (機械)|リム]]幅に用いられている。
** 部品 - [[SAE International]]による工業規格AS568は航空機油圧用の固定用Oリングを規定し、元来がインチ単位のためメートル単位では端数が生じる。
* [[自転車]] - [[タイヤ]]の内径と[[ホイール]]の直径及び[[リム (機械)|リム]]幅に用いられている。
* [[自動車]] - タイヤとホイールの他、[[クラッチ]]ディスク径、[[差動装置|デファレンシャル]]リングギア径、[[ブレーキ]]ピストン径、[[ナット座ピッチ直径]]などにインチ由来の数値や呼び径が見られる。
* [[柱時計]]の文字盤のサイズ
* [[銃]]用[[弾薬]]の呼び径 - 「.45」「.357」のように、十進法で小数点以下を表記することが多い。弾薬の種類によってはインチ表記とメートル法の呼称が併存する場合がある。
=== インチねじ ===
{{重複|dupe=ねじ#標準規格|section=1|date=2022年9月13日 (火) 03:17 (UTC)}}
インチねじは、ねじ山のピッチがISOミリねじ規格より粗く、直径とピッチがインチ単位で作られている。インチねじにはいくつかの規格があるが、主に使われるのはユニファイねじとウィットワースねじである。日本国内で生産される商品としては、3.5インチ[[ハードディスク]]ドライブの固定用ねじや、[[カメラ]]の固定ねじ等に用いられている。これら[[精密機械]]に使われる小径ねじはユニファイであることが多い。ウィットワースは建築関係で用いられる太い径のものが多い。
== 分量単位 ==
[[Image:Inch tape.jpg|right|250px|thumb|{{分数|32}}インチ目盛りの[[メジャー (測定機器)|メジャー]]]]
インチより細かい長さは2の[[冪]] (2, 4, 8, 16, 32, 64。128は細か過ぎて実用的でないので使われない)を[[分母]]とする[[分数]]で表すことが比較的多い。
=== サウ ===
{{main|サウ}}
工学分野では、サウ ({{en|thou}}) またはミル ({{en|mil}}) という単位が国際インチの1000分の1 (25.4 [[マイクロメートル|μm]]) の意味で用いられることがある。今日では、サウやミルは用いず、[[国際単位系|SI単位]]を使用すべきとされている{{誰|date=2012年2月|title=全世界(アメリカを含め)でそうなのか特定の国でそうなのか示すため「誰によって」が必要}}。
=== ライン ===
{{Seealso|ライン (単位)|リーニュ (単位)}}
{{分数|12}} インチ = 2.117 mm を[[ライン (単位)|ライン]]と呼び、単位記号「‴」(トリプルプライム)で表す。
=== パイカ ===
{{Seealso|パイカ}}
印刷などではパイカ(現在のDTPでは{{分数|6}}インチ、約 4.233 mm)およびポイント(パイカの{{分数|12}}、約 0.353 mm)を使用する。
=== 分・厘 ===
{{分数|8}} in (= 3.175 mm) は[[尺貫法]]における1[[分 (数)|分]](= 0.1[[寸]] = 約3.03 mm)に近いため、日本では「{{分数|8}} in ≒ 1分」とみなして、インチ規格を分や、さらにその{{分数|10}}の[[厘]](= 0.01寸 = 0.1分)で表すことがある<ref>[http://www.yacmo.co.jp/document/mame/index05.html ヤクモ株式会社 単位のイロイロ(後編)]</ref>。[[大工]]や機械工などの間で使われる。これらは「1フィート≒1[[尺]]」とみなすことに相当する。
主に使われるのは表の呼び名になる。
{|class="wikitable"
|-
! 分 !! インチ !! mm
|-
| 6分 || {{分数|3|4}} in || 19.05{{0|00}} mm
|-
| 5分 || {{分数|5|8}} in || 15.875{{0}} mm
|-
| 4分 || {{分数|1|2}} in || 12.7{{0|000}} mm
|-
| 3分 || {{分数|3|8}} in || {{0}}9.525{{0}} mm
|-
| 2分 || {{分数|1|4}} in || {{0}}6.35{{0|00}} mm
|-
| 1分 || {{分数|1|8}} in || {{0}}3.175{{0}} mm
|-
| 5厘 || {{分数|1|16}} in || {{0}}1.5875 mm
|}
== 組立単位 ==
*[[平方インチ]]
*[[立方インチ]]
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13260|33CC|-|SQUARE IN}}
|}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[長さの比較]]
*[[単位の換算一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.tan-i-kansan.com/category/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%81%E3%81%AE%E9%95%B7%E3%81%95%EF%BD%9C%E5%8D%98%E4%BD%8D%E6%8F%9B%E7%AE%97%E8%A1%A8/ インチ(長さ)単位換算表]
{{長さの単位 (短)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いんち}}
[[Category:ヤード・ポンド法]]
[[Category:長さの単位]]
[[Category:身体尺]]
[[fy:Tomme (lingtemaat)]]
|
2003-07-24T13:05:56Z
|
2023-09-23T11:31:39Z
| false | false | false |
[
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世界陸上競技選手権大会
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世界陸上競技選手権大会(せかいりくじょうきょうぎせんしゅけんたいかい、World Athletics Championships)は、奇数年8 - 9月に9 - 10日間開催される陸上競技で世界最高峰の大会である。通称世陸、世界陸上、世界選手権。
1980年モスクワオリンピックの西側諸国のボイコット問題(1979年12月に発生したソ連のアフガニスタン侵攻の影響)を機に新設され、1983年にヘルシンキで第1回大会を開催した。1991年東京大会までは4の倍数年の前年(卯年・未年・亥年)に開催されていたが、1993年シュトゥットガルト大会以降は4の倍数年の翌年(丑年・巳年・酉年)にも開催されるようになり、2年ごとに開催されている。当初はヨーロッパ地域での開催が多かったが2005年ヘルシンキ大会以降2019年までアジア(夏季オリンピック前年の大会)とヨーロッパ(夏季オリンピック翌年の大会)の交互開催となっていた。世界選手権は、選手にとってオリンピックに並ぶ価値を持ち、数々の名勝負を演出してきた。オリンピックよりも世界記録や参加する国と地域の総数が多く(2004年アテネオリンピックの202に対し、2003年パリ大会では210)、歴史は浅いが陸上競技では最高峰の大会である。
実施競技についてはこれまで次のように変化している。
この他、当時オリンピックで行われなかった種目についての世界選手権として、以下の2大会3種目がIAAFから認められている。
1983年のヘルシンキ大会から2013年のモスクワ大会まで14回の大会で通算632の競技が行われ、合計1901個のメダルが授与されている。そのうち、アメリカ合衆国選手団は国別で最多となる301個のメダルを獲得し、金メダル数では138個で他国を圧倒している(銀メダル88個、銅メダル75個)。メダル獲得総数・金メダル数とも2位はロシア連邦で、男子長距離走で有力な選手を多く揃えるケニアが金メダル数で3位となっている。また、今までに96の国や地域(現存しないものも含む)の選手がメダルを獲得し、そのうち64の国や地域(承前)では金メダルを獲得している。
全体の国別メダル獲得数は以下の通りである。
文字通り世界一の陸上競技選手を決する大会であるが、かつてのオリンピックの様に各国の陸上競技連盟の推薦のみ で選手出場を無条件に認めてしまうと参加選手数が激増し、大会が肥大化して宿泊施設、食事の供給、選手の移動、競技の長時間化など様々な面で支障が発生する。そのため、開催年毎に各種目ごとにA・B二段階参加標準記録 が設定されており、この標準記録を突破した選手のみに参加資格が与えられるという一種の足切りが行われている。ただし、遠征費用などの都合からこれ以外にも派遣設定記録など個別に派遣条件を課している国もあり、たとえ標準記録を突破していても自国から大会参加が認められるとは限らない。
参加資格は、大きく分けて以下に大別できる 。
*注記(項目1~3について) 第15回世界陸上競技選手権(2015/北京)から参加標準記録A、Bの区分は廃止された。
太字で記載されている記録は世界記録も兼ねている記録。
1997年より日本のTBS→TBSテレビがワールドアスレティックス(当時IAAF)のオフィシャルブロードキャスターとなっている。この大会以後、日本国内の民放では地上波・衛星を通してTBS系列の独占放送となっている。TBSの放映権取得後は、2022年の第18回オレゴン大会までの25年間・13大会にわたり織田裕二・中井美穂が進行役を務めた。
なお日本においては、第1回の1983年はテレビ朝日、第2回の1987年~第5回の1995年までは日本テレビ放送網が放映権を得ており、特に東京開催となった第3回・1991年大会はホストブロードキャスター(他にサブライセンスでNHK BS1(当時衛星第1放送))を担当した。
アメリカではNBCユニバーサル、ヨーロッパでは欧州放送連合加盟各局(ユーロビジョン・ネットワーク)、韓国ではKBS、中国ではCCTVがそれぞれ放送を行っている。
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"text": "1997年より日本のTBS→TBSテレビがワールドアスレティックス(当時IAAF)のオフィシャルブロードキャスターとなっている。この大会以後、日本国内の民放では地上波・衛星を通してTBS系列の独占放送となっている。TBSの放映権取得後は、2022年の第18回オレゴン大会までの25年間・13大会にわたり織田裕二・中井美穂が進行役を務めた。",
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世界陸上競技選手権大会は、奇数年8 - 9月に9 - 10日間開催される陸上競技で世界最高峰の大会である。通称世陸、世界陸上、世界選手権。
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{{スポーツ大会シリーズ
|大会名 =世界陸上競技選手権大会
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|開始年 =1983年
|終了年 =
|主催 =[[ワールドアスレティックス]]
|参加チーム数 =
|国 =
|前回優勝 =
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}}
'''世界陸上競技選手権大会'''(せかいりくじょうきょうぎせんしゅけんたいかい、World Athletics Championships)は、[[奇数]]年8 - 9月に9 - 10日間開催される[[陸上競技]]で世界最高峰の[[世界選手権大会|大会]]である。通称'''世陸'''、'''世界陸上'''、'''世界選手権'''。
== 歴史 ==
[[1980年モスクワオリンピック]]の西側諸国の[[ボイコット]]問題([[1979年]]12月に発生した[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]]の影響)を機に新設され、[[1983年]]に[[ヘルシンキ]]で[[1983年世界陸上競技選手権大会|第1回大会]]を開催した。[[1991年世界陸上競技選手権大会|1991年東京大会]]までは[[複偶数|4の倍数]]年の前年([[卯年]]・[[未年]]・[[亥年]])に開催されていたが、[[1993年世界陸上競技選手権大会|1993年シュトゥットガルト大会]]以降は4の倍数年の翌年([[丑年]]・[[巳年]]・[[酉年]])にも開催されるようになり、2年ごとに開催されている。当初は[[ヨーロッパ|ヨーロッパ地域]]での開催が多かったが[[2005年世界陸上競技選手権大会|2005年ヘルシンキ大会]]以降[[2019年]]までアジア(夏季オリンピック前年の大会)とヨーロッパ(夏季オリンピック翌年の大会)の交互開催となっていた。世界選手権は、選手にとってオリンピックに並ぶ価値を持ち、数々の名勝負を演出してきた。オリンピックよりも世界記録や参加する国と地域の総数が多く([[2004年アテネオリンピック]]の202に対し、[[2003年世界陸上競技選手権大会|2003年パリ大会]]では210)、歴史は浅いが陸上競技では最高峰の大会である。
実施競技についてはこれまで次のように変化している。
* [[1987年]] - 女子の[[10000メートル競走|10000m]]・[[10000メートル競歩|10km競歩]]を追加。
* [[1993年]] - 女子の[[三段跳]]を追加。
* [[1995年]] - 女子の[[5000メートル競走|5000m]]を追加し、[[3000メートル競走|3000m]]を除外。
* [[1999年]] - 女子の[[棒高跳]]・[[ハンマー投]]・[[20キロメートル競歩|20km競歩]]を追加し、10km競歩を除外。
* [[2005年]] - 女子の[[3000メートル障害|3000m障害]]を追加。
* [[2017年]] - 女子の[[50キロメートル競歩|50km競歩]]を追加。男子マラソンを大会最終日から女子と同じ大会3日目(8月6日)開催に変更。
* [[2022年]] - 男女の[[35km競歩]]を追加し、男女の[[50km競歩]]を除外。
== 大会一覧 ==
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!回数!!開催日程!!開催国 (回数)!!開催都市!!開催会場!!参加国・地域!!競技者数
|-
|style="text-align:center"|[[1983年世界陸上競技選手権大会|1]]||[[1983年]][[8月7日]] - [[8月14日|14日]]||{{FIN}}||[[ヘルシンキ]]||[[ヘルシンキ・オリンピックスタジアム]]||style="text-align:center"|153||style="text-align:center"|1333
|-
|style="text-align:center"|[[1987年世界陸上競技選手権大会|2]]||[[1987年]][[8月28日]] - [[9月6日]]||{{ITA1946}}||[[ローマ]]||[[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|スタディオ・オリンピコ]]||style="text-align:center"|156|| style="text-align:center" |1419
|-
|style="text-align:center"|[[1991年世界陸上競技選手権大会|3]]||[[1991年]][[8月23日]] - [[9月1日]]||{{JPN1947}}||[[東京都|東京]]||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|(旧)国立競技場]]||style="text-align:center"|162|| style="text-align:center" |1491
|-
|style="text-align:center"|[[1993年世界陸上競技選手権大会|4]]||[[1993年]][[8月13日]] - [[8月22日|22日]]||{{GER}}||[[シュトゥットガルト]]||[[メルセデス・ベンツ・アレーナ|ゴットリープ・ダイムラー・シュタディオン]]||style="text-align:center"|187||style="text-align:center"|1630
|-
|style="text-align:center"|[[1995年世界陸上競技選手権大会|5]]||[[1995年]][[8月5日]] - [[8月13日|13日]]||{{SWE}}||[[ヨーテボリ|イェーテボリ]]||[[ウッレヴィ]]||style="text-align:center"|190|| style="text-align:center" |1755
|-
|style="text-align:center"|[[1997年世界陸上競技選手権大会|6]]||[[1997年]][[8月1日]] - [[8月10日|10日]]||{{GRE}}||[[アテネ]]||[[アテネ・オリンピックスタジアム]]||style="text-align:center"|197|| style="text-align:center" |1785
|-
|style="text-align:center"|[[1999年世界陸上競技選手権大会|7]]||[[1999年]][[8月20日]] - [[8月29日|29日]]||{{ESP}}||[[セビリア]]||[[エスタディオ・オリンピコ・セビージャ|エスタディオ・オリンピコ]]||style="text-align:center"|200|| style="text-align:center" |1750
|-
|style="text-align:center"|[[2001年世界陸上競技選手権大会|8]]||[[2001年]][[8月3日]] - [[8月12日|12日]]||{{CAN}}||[[エドモントン]]||[[コモンウェルス・スタジアム (エドモントン)|コモンウェルススタジアム]]||style="text-align:center"|189||style="text-align:center"|1602
|-
|style="text-align:center"|[[2003年世界陸上競技選手権大会|9]]||[[2003年]][[8月23日]] - [[8月31日|31日]]||{{FRA1976}}||[[サン=ドニ]]||[[スタッド・ド・フランス|フランス競技場]]||style="text-align:center"|198||style="text-align:center"|1679
|-
|style="text-align:center"|[[2005年世界陸上競技選手権大会|10]]||[[2005年]][[8月6日]] - [[8月14日|14日]]||{{FIN}} (2)||ヘルシンキ||ヘルシンキ・オリンピックスタジアム||style="text-align:center"|191||style="text-align:center"|1687
|-
|style="text-align:center"|[[2007年世界陸上競技選手権大会|11]]||[[2007年]][[8月25日]] - [[9月2日]]||{{JPN}} (2)||[[大阪市|大阪]]||[[長居陸上競技場|長居スタジアム]]||style="text-align:center"|197|| style="text-align:center" |1800
|-
|style="text-align:center"|[[2009年世界陸上競技選手権大会|12]]||[[2009年]][[8月15日]] - [[8月23日|23日]]||{{GER}} (2)||[[ベルリン]]||[[ベルリン・オリンピアシュタディオン|オリンピアシュタディオン]]||style="text-align:center"|200|| style="text-align:center" |1895
|-
|style="text-align:center"|[[2011年世界陸上競技選手権大会|13]]||[[2011年]][[8月27日]] - [[9月4日]]||{{KOR}}||[[大邱広域市|大邱]]||[[大邱スタジアム]]||style="text-align:center"|199|| style="text-align:center" |1742
|-
|style="text-align:center"|[[2013年世界陸上競技選手権大会|14]]||[[2013年]][[8月10日]] - [[8月18日|18日]]||{{RUS}}||[[モスクワ]]||[[ルジニキ・スタジアム]]||style="text-align:center"|203|| style="text-align:center" |1784
|-
|style="text-align:center"|[[2015年世界陸上競技選手権大会|15]]||[[2015年]][[8月22日]] - [[8月30日|30日]]||{{CHN}}||[[北京市]]||[[北京国家体育場|国家体育場]]||style="text-align:center"|205|| style="text-align:center" |1761
|-
|style="text-align:center"|[[2017年世界陸上競技選手権大会|16]]||[[2017年]][[8月4日]] - [[8月13日|13日]]||{{UK}}||[[ロンドン]]||[[ロンドン・スタジアム]]||style="text-align:center"|197|| style="text-align:center" |1857
|-
|style="text-align:center"|[[2019年世界陸上競技選手権大会|17]]||[[2019年]][[9月27日]] - [[10月6日]]||{{QAT}}||[[ドーハ]]||[[ハリーファ国際スタジアム]]||style="text-align:center"|209||style="text-align:center"|1972
|-
|style="text-align:center"|[[2022年世界陸上競技選手権大会|18]]||[[2022年]][[7月15日]] - [[7月24日|24日]]<ref>{{Cite web|title=Dates World Championships Oregon 2022|url=https://www.worldathletics.org/competitions/world-athletics-championships/news/dates-world-championships-oregon-2022|website=www.worldathletics.org|accessdate=2020-06-28}}</ref>||{{USA}}||[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]([[オレゴン州]])||[[ヘイワード・フィールド]]||style="text-align:center"|192||style="text-align:center"|1705
|-
|style="text-align:center"|[[2023年世界陸上競技選手権大会|19]]||[[2023年]][[8月19日]] - [[8月27日|27日]]||{{HUN}}||[[ブダペスト]]||[[ナショナル・アスレチックス・センター]]||style="text-align:center"|202||style="text-align:center"|2187
|-
|style="text-align:center"|[[2025年世界陸上競技選手権大会|20]]||[[2025年]][[9月13日]] - [[9月21日|21日]]||{{JPN}} (3)||東京||[[国立競技場]]||style="text-align:center"| || style="text-align:center" |
|-
|colspan="7" style="text-align:right; line-height:95%"|日程は現地時間
|}
この他、当時オリンピックで行われなかった種目についての世界選手権として、以下の2大会3種目がIAAFから認められている。
*[[1976年]] - [[マルメ]]({{SWE}})
**男子50km競歩
*[[1980年]] - {{ill|シッタルト|en|Sittard}}({{NED}})
**女子3000m、女子400mハードル
== 全体の競技結果 ==
1983年のヘルシンキ大会から2013年のモスクワ大会まで14回の大会で通算632の競技が行われ、合計1901個のメダルが授与されている<ref>同着などの理由により、授与メダル数は金メダル632個、銀メダル638個、銅メダル631個とばらつきがある。</ref>。そのうち、[[アメリカ合衆国]]選手団は国別で最多となる301個のメダルを獲得し、金メダル数では138個で他国を圧倒している(銀メダル88個、銅メダル75個)。メダル獲得総数・金メダル数とも2位は[[ロシア連邦]]で、男子長距離走で有力な選手を多く揃える[[ケニア]]が金メダル数で3位となっている。また、今までに96の国や地域(現存しないものも含む)の選手がメダルを獲得し、そのうち64の国や地域(承前)では金メダルを獲得している。
全体の国別メダル獲得数は以下の通りである{{Medals table
| caption =
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| flag_template = flagIOC2
| event = World Athletics Championships
| team =
| source = [https://worldathletics.org/competitions/world-athletics-championships/budapest23/news/news/world-athletics-championships-budapest-23-statistical-booklet World Athletics Championships Budapest 23 – Statistical Booklet] [https://worldathletics.org/competitions/world-athletics-championships/budapest23/medaltable 2023 Medal Table]
| gold_USA = 195 | silver_USA = 134 | bronze_USA = 114
| gold_KEN = 65 | silver_KEN = 58 | bronze_KEN = 48
| gold_RUS = 42 | silver_RUS = 52 | bronze_RUS = 48
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| gold_ETH = 35 | silver_ETH = 38 | bronze_ETH = 31
| gold_GBR = 33 | silver_GBR = 40 | bronze_GBR = 48 | name_GBR = {{flagicon|UK}} [[Great Britain and Northern Ireland at the World Athletics Championships|Great Britain ]]
| gold_URS = 23 | silver_URS = 27 | bronze_URS = 28 | name_URS = ''{{flagicon|URS}} [[Soviet Union at the World Athletics Championships|Soviet Union]]''
| gold_CHN = 22 | silver_CHN = 26 | bronze_CHN = 27
| gold_CUB = 22 | silver_CUB = 25 | bronze_CUB = 16
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| gold_POL = 20 | silver_POL = 20 | bronze_POL = 25
| gold_AUS = 15 | silver_AUS = 16 | bronze_AUS = 14
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| gold_NAM = 1 | silver_NAM = 4 | bronze_NAM = 1
| gold_KAZ = 1 | silver_KAZ = 3 | bronze_KAZ = 5
| gold_TUR = 1 | silver_TUR = 3 | bronze_TUR = 0
| gold_BOT = 1 | silver_BOT = 2 | bronze_BOT = 1
| gold_ZAM = 1 | silver_ZAM = 2 | bronze_ZAM = 0
| gold_BUR = 1 | silver_BUR = 1 | bronze_BUR = 1
| gold_IND = 1 | silver_IND = 1 | bronze_IND = 1
| gold_TUN = 1 | silver_TUN = 1 | bronze_TUN = 1
| gold_ERI = 1 | silver_ERI = 1 | bronze_ERI = 0
| gold_PAN = 1 | silver_PAN = 1 | bronze_PAN = 0
| gold_SKN = 1 | silver_SKN = 0 | bronze_SKN = 4
| gold_SRB = 1 | silver_SRB = 0 | bronze_SRB = 3
| gold_SVK = 1 | silver_SVK = 0 | bronze_SVK = 3
| gold_BAR = 1 | silver_BAR = 0 | bronze_BAR = 2
| gold_SYR = 1 | silver_SYR = 0 | bronze_SYR = 2
| gold_SEN = 1 | silver_SEN = 0 | bronze_SEN = 1
| gold_SOM = 1 | silver_SOM = 0 | bronze_SOM = 1
| gold_PRK = 1 | silver_PRK = 0 | bronze_PRK = 0
| gold_HUN = 0 | silver_HUN = 7 | bronze_HUN = 8
| gold_CIV = 0 | silver_CIV = 4 | bronze_CIV = 1
| gold_ISR = 0 | silver_ISR = 3 | bronze_ISR = 2
| gold_PUR = 0 | silver_PUR = 3 | bronze_PUR = 1
| gold_BDI = 0 | silver_BDI = 2 | bronze_BDI = 1
| gold_DJI = 0 | silver_DJI = 2 | bronze_DJI = 1
| gold_CMR = 0 | silver_CMR = 2 | bronze_CMR = 0
| gold_AUT = 0 | silver_AUT = 1 | bronze_AUT = 3
| gold_BIH = 0 | silver_BIH = 1 | bronze_BIH = 1
| gold_CYP = 0 | silver_CYP = 1 | bronze_CYP = 1
| gold_GHA = 0 | silver_GHA = 1 | bronze_GHA = 1
| gold_LAT = 0 | silver_LAT = 1 | bronze_LAT = 1
| gold_PHI = 0 | silver_PHI = 1 | bronze_PHI = 1
| gold_KOR = 0 | silver_KOR = 1 | bronze_KOR = 1
| gold_SRI = 0 | silver_SRI = 1 | bronze_SRI = 1
| gold_SUR = 0 | silver_SUR = 1 | bronze_SUR = 1
| gold_TAN = 0 | silver_TAN = 1 | bronze_TAN = 1
| gold_BER = 0 | silver_BER = 1 | bronze_BER = 0
| gold_IVB = 0 | silver_IVB = 1 | bronze_IVB = 0
| gold_EGY = 0 | silver_EGY = 1 | bronze_EGY = 0
| gold_PAK = 0 | silver_PAK = 1 | bronze_PAK = 0
| gold_SUD = 0 | silver_SUD = 1 | bronze_SUD = 0
| gold_ASA = 0 | silver_ASA = 0 | bronze_ASA = 1
| gold_CAY = 0 | silver_CAY = 0 | bronze_CAY = 1
| gold_DMA = 0 | silver_DMA = 0 | bronze_DMA = 1
| gold_HAI = 0 | silver_HAI = 0 | bronze_HAI = 1
| gold_IRI = 0 | silver_IRI = 0 | bronze_IRI = 1
| gold_KSA = 0 | silver_KSA = 0 | bronze_KSA = 1
| gold_ZIM = 0 | silver_ZIM = 0 | bronze_ZIM = 1
}}
;Notes
{{note|a|[1]}} {{flag|ANA}} is the name under which Russian athletes competed in the [[2017 World Championships in Athletics|2017]] and [[2019 World Athletics Championships|2019]] Championships. Their medals were not included in the official medal table.<ref>{{cite web|url=https://www.worldathletics.org/competitions/world-athletics-championships/iaaf-world-championships-london-2017-7093740/medaltable|title=IAAF World Championships London 2017 Medal Table|website=worldathletics.org}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.worldathletics.org/competitions/world-athletics-championships/iaaf-world-athletics-championships-doha-2019-7125365/medaltable|title=IAAF World Championships DOHA 2019 Medal Table|website=worldathletics.org}}</ref>
== 主要各国と日本の年代別金メダル数の変遷 ==
{| class="wikitable"
! 国 !! 1983-1987 !! 1991-1999 !! 2001-2009 !! 2011-2019
|-
|{{flagcountry|USA}}||18||51||51||50
|-
|{{flagcountry|KEN}}||3||13||15||29
|-
|{{flagcountry|RUS}}||―||10||25||8
|-
|{{flagcountry|GER}}||―||18||8||12
|-
|{{flagcountry|JAM}}||1||3||10||21
|-
|{{flagcountry|GBR}}||3||8||5||14
|-
|{{flagcountry|ETH}}||0||5||13||11
|-
|{{flagcountry|CUB}}||0||10||9||3
|-
|{{flagcountry|CHN}}||0||7||3||9
|-
|{{flagcountry|POL}}||2||3||5||9
|-
|{{flagcountry|FRA}}||0||4||5||4
|-
|{{flagcountry|AUS}}||1||2||6||3
|-
|{{flagcountry|RSA}}||―||1||6||5
|-
|{{flagcountry|ITA}}||3||6||2||0
|-
|{{flagcountry|JPN}}||0||3||0||3
|}
== 選手の参加資格 ==
文字通り世界一の陸上競技選手を決する大会であるが、かつての[[近代オリンピック|オリンピック]]の様に各国の陸上競技連盟の推薦のみ<ref>[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]までは参加標準記録は設けられていたものの、標準記録を突破していなくても各種目に1名は出場可能という規定があった。現在は本大会同様AとBのどちらかの参加標準記録突破が必要で、全種目で突破者がいない国は特例として全種目を通じて男女1名ずつの出場が認められる。</ref> で選手出場を無条件に認めてしまうと参加選手数が激増し、大会が肥大化して宿泊施設、食事の供給、選手の移動、競技の長時間化など様々な面で支障が発生する。そのため、開催年毎に各種目ごとにA・B二段階[[参加標準記録]][http://www.iaaf.org/statistics/standards/newsid=59045.html] が設定されており、この標準記録を突破した選手のみに参加資格が与えられるという一種の[[足切り]]が行われている。ただし、遠征費用などの都合からこれ以外にも派遣設定記録など個別に派遣条件を課している国もあり、たとえ標準記録を突破していても自国から大会参加が認められるとは限らない。
参加資格は、大きく分けて以下に大別できる<ref>[https://www.iaaf.org/competition/standards COMPETITIONS ENTRY STANDARDS]</ref>
<ref>[https://www.iaaf.org/competition/standards/2017 COMPETITIONS ENTRY STANDARDS 2017]</ref>
<ref>[https://www.iaaf.org/responsive/download/downloadresultinfo?filename=ee27e984-97d5-43de-b70d-f2de42da3b93.pdf&urlslug=IAAF%20World%20Championships%20London%202017%20entry%20standards COMPETITIONS ENTRY STANDARDS-IAAF WORLD CHAMPIONSHIPS LONDON August 2017 pdf]</ref>
<ref>[https://www.iaaf.org/responsive/download/downloadresultinfo?filename=660ec380-3115-4103-b1ca-45e650e73d3e.pdf&urlslug=IAAF%20World%20Championships%20London%202017%20qualification%20system%20and%20entry%20standards IAAF World Championships London 2017 qualification system and entry standards pdf]</ref>。
#'''A標準記録突破者もしくはB標準記録突破者'''
#*A標準記録突破者は下記の特例選手を除いて1国3名まで(マラソンは7人エントリー5人出場<ref>2015年第15回大会から4人エントリー3人出場</ref>、リレーは6人エントリー4人出場)参加できる。
#*A標準記録突破者2名以内(0名の場合も含む)とB標準記録突破者1名の計3名までを参加させることができる<ref>[[2007年世界陸上競技選手権大会|2007年第11回大会]]から2人以上出場する場合の規定が変更になり、それ以前はB標準突破者を出場させる場合にはその1名のみでA標準記録突破者と混ぜる事はできなかった(オリンピックではこの制度が採用され続けている)。</ref>。
#*全種目でAとBいずれも突破者のいない国は特例として男女1名ずつの参加が許される<ref>2013年第14回大会から男女いずれか片方のみ</ref>。特例としての出場ではあるがその1名のエントリーは何種目でも構わない(ただし、10000メートル、3000メートル障害、十種競技、七種競技を除く)。
#:2009年大会より標準記録さえ突破していれば1種目につき補欠選手を含めた4名までエントリーできるようになった。実際に出場するのは従来どおり上記の3名まで。
#'''各個人種目のエリアチャンピオン'''
#:各個人種目のエリアチャンピオン([[アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]]などの優勝者)は自動的にエントリー資格を取得、A標準突破者として扱われる。(マラソンを除く)
#'''開催国枠'''
#:開催国に限り、標準記録突破者がいない場合でも各種目1名(もしくはリレー1チーム)の出場枠が設けられている。
#'''特別出場枠(ワイルドカード)'''
#:<!--各種目世界記録保持者と-->前回大会優勝者と、前年の[[IAAFダイヤモンドリーグ]]・ダイヤモンドレース優勝者<ref>2013年第14回大会から追加</ref> に、各国の出場枠に関係なくIAAFから特別出場枠(ワイルドカード)が与えられる。
#:ただし両者とも同じ国の場合は片方だけ与えられる<ref>[http://www.iaaf.org//aboutiaaf/news/newsid=62888.html IAAF news 2011年11月9日]</ref>。
*'''注記(項目1~3について)'''
'''第15回世界陸上競技選手権(2015/北京)から参加標準記録A、Bの区分は廃止された。'''
<ref>[https://www.iaaf.org/news/iaaf-news/world-championships-qualification-system-2015 New qualification system introduced for IAAF World Championships]</ref>
<ref>[http://www.jaaf.or.jp/jch/99/pdf/settei.pdf 第15回世界陸上競技選手権(2015/北京)参加標準記録・派遣設定記録pdf]</ref>
<ref>[http://www.jaaf.or.jp/rikuren/pdf/jiho/jiho_2015_06.pdf 陸連時報 ディベロップメントアスリート専任コーチ会議報告(2)2013年モスクワ世界選手権からの変更点pdf]</ref>
== 大会記録 ==
'''太字'''で記載されている記録は世界記録も兼ねている記録。
=== 男子 ===
{| class="wikitable sortable" style="text-align: center;"
!種目!!記録!!選手!!国籍!!日時!!大会
|-
|[[100メートル競走|100m]]||style="text-align:right"|'''9秒58'''|| rowspan="2" |[[ウサイン・ボルト]]|| rowspan="2" |{{JAM}}||[[2009年]][[8月16日]]|| rowspan="2" |{{Flagicon|GER}}[[2009年世界陸上競技選手権大会|ベルリン大会]]
|-
|[[200メートル競走|200m]]||style="text-align:right"|'''19秒19'''||2009年[[8月20日]]
|-
|[[400メートル競走|400m]]||style="text-align:right"|43秒18||[[マイケル・ジョンソン]]||{{USA}}||[[1999年]][[8月26日]]||{{Flagicon|ESP}}[[1999年世界陸上競技選手権大会|セビリア大会]]
|-
|[[800メートル競走|800m]]||style="text-align:right"|1分42秒34||[[ドノバン・ブレイジャー]]([[:en:Donovan Brazier|Donovan Brazier]])||{{USA}}||[[2019年]][[10月1日]]||{{Flagicon|QAT}}[[2019年世界陸上競技選手権大会|ドーハ大会]]
|-
|[[1500メートル競走|1500m]]||style="text-align:right"|3分27秒65||[[ヒシャム・エルゲルージ]]||{{MAR}}||1999年[[8月24日]]||{{Flagicon|ESP}}[[1999年世界陸上競技選手権大会|セビリア大会]]
|-
|[[5000メートル競走|5000m]]||style="text-align:right"|12分52秒79||[[エリウド・キプチョゲ]]||{{KEN}}||[[2003年]][[8月31日]]||{{Flagicon|FRA}}[[2003年世界陸上競技選手権大会|パリ大会]]
|-
|[[10000メートル競走|10000m]]||style="text-align:right"|26分46秒31||[[ケネニサ・ベケレ]]||{{ETH}}||[[2009年]][[8月17日]]|| {{Flagicon|GER}}[[2009年世界陸上競技選手権大会|ベルリン大会]]
|-
|[[マラソン]]||style="text-align:right"|2時間05分36秒||[[タミラト・トラ]]||{{ETH}}||[[2022年]][[7月17日]]|| {{Flagicon|USA}}[[2022年世界陸上競技選手権大会|オレゴン大会]]
|-
|[[110メートルハードル|110mハードル]]||style="text-align:right"|12秒91||[[コリン・ジャクソン]]||{{GBR}}||[[1993年]][[8月20日]]|| {{Flagicon|GER}}[[1993年世界陸上競技選手権大会|シュトゥットガルト大会]]
|-
|[[400メートルハードル|400mハードル]]||style="text-align:right"|46秒29||[[アリソン・ドス・サントス]]||{{BRA}}||2022年[[7月20日]]|| {{Flagicon|USA}}[[2022年世界陸上競技選手権大会|オレゴン大会]]
|-
|[[3000メートル障害|3000m障害]]||style="text-align:right"|8分00秒43||[[エゼキエル・ケンボイ]]||{{KEN}}||2009年[[8月18日]]||{{Flagicon|GER}}[[2009年世界陸上競技選手権大会|ベルリン大会]]
|-
|[[20キロメートル競歩|20km競歩]]||style="text-align:right"|1時間17分21秒||[[ジェファーソン・ペレス]]||{{ECU}}||2003年[[8月23日]]||{{Flagicon|FRA}}[[2003年世界陸上競技選手権大会|パリ大会]]
|-
|[[35キロメートル競歩|35km競歩]]||style="text-align:right"|2時間23分14秒||[[マッシモ・スタノ]]||{{ITA}}||2022年[[7月24日]]||{{Flagicon|USA}}[[2022年世界陸上競技選手権大会|オレゴン大会]]
|-
|[[50キロメートル競歩|50km競歩]]||style="text-align:right"|3時間36分03秒||[[ロベルト・コジェニョフスキ]]||{{POL}}||2003年[[8月27日]]||{{Flagicon|FRA}}[[2003年世界陸上競技選手権大会|パリ大会]]
|-
|[[400メートルリレー走|4×100mリレー]]||style="text-align:right"|37秒04||[[ネスタ・カーター]]<br/>[[マイケル・フレーター]]<br/>[[ヨハン・ブレーク]]<br/>ウサイン・ボルト||{{JAM}}||[[2011年]][[9月4日]]||{{Flagicon|KOR}}[[2011年世界陸上競技選手権大会|大邱大会]]
|-
|[[1600メートルリレー走|4×400mリレー]]||style="text-align:right"|'''2分54秒29'''||[[アンドリュー・バルモン]]<br />[[クインシー・ワッツ]]<br />[[ブッチ・レイノルズ]]<br />マイケル・ジョンソン||{{USA}}||1993年[[8月22日]]||{{Flagicon|GER}}[[1993年世界陸上競技選手権大会|シュトゥットガルト大会]]
|-
|[[走高跳]]||style="text-align:right"|2m41||[[ボーダン・ボンダレンコ]]||{{UKR}}||[[2013年]][[8月15日]]||{{Flagicon|RUS}}[[2013年世界陸上競技選手権大会|モスクワ大会]]
|-
|[[棒高跳]]||style="text-align:right"| '''6m21''' ||[[アルマンド・デュプランティス]]||{{SWE}}||2022年[[7月24日]]||{{Flagicon|USA}}[[2022年世界陸上競技選手権大会|オレゴン大会]]
|-
|[[走幅跳]]||style="text-align:right"|'''8m95'''||[[マイク・パウエル]]||{{USA}}||[[1991年]][[8月30日]]||{{Flagicon|JPN}}[[1991年世界陸上競技選手権大会|東京大会]]
|-
|[[三段跳]]||style="text-align:right"|'''18m29'''||[[ジョナサン・エドワーズ (陸上選手)|ジョナサン・エドワーズ]]||{{GBR}}||[[1995年]][[8月7日]]||{{Flagicon|SWE}}[[1995年世界陸上競技選手権大会|イェーテボリ大会]]
|-
|[[砲丸投]]||style="text-align:right"|23m51||[[ライアン・クルーザー]]||{{USA}}||2023年[[8月19日]]||{{Flagicon|HUN|}}[[2023年世界陸上競技選手権大会|ブダペスト大会]]
|-
|[[円盤投]]||style="text-align:right"|71m46||[[ダニエル・スタール]]||{{SWE}}||2023年[[8月21日]]||{{Flagicon|HUN|}}[[2023年世界陸上競技選手権大会|ブダペスト大会]]
|-
|[[ハンマー投]]||style="text-align:right"|83m63||[[イワン・チホン]]||{{BLR}}||2007年[[8月27日]]||{{Flagicon|JPN}}[[2007年世界陸上競技選手権大会|大阪大会]]
|-
|[[やり投]]||style="text-align:right"|92m80||[[ヤン・ゼレズニー]]||{{CZE}}||2001年[[8月12日]]||{{Flagicon|CAN}}[[2001年世界陸上競技選手権大会|エドモントン大会]]
|-
|[[十種競技]]||style="text-align:right"|9045点||[[アシュトン・イートン]]||{{USA}}||2015年[[8月29日]]||{{Flagicon|CHN}}[[2015年世界陸上競技選手権大会|北京大会]]
|}
=== 女子 ===
{| class="wikitable sortable" style="text-align: center;"
!種目!!記録!!選手!!国籍!!日時!!大会
|-
|[[100メートル競走|100m]]||style="text-align:right"|10秒65||[[S.リチャードソン]]||{{USA}}||2023年8月21日||{{Flagicon|HUN}}[[2023年世界陸上競技選手権大会|ブダペスト大会]]
|-
|[[200メートル競走|200m]]||style="text-align:right"|21秒41||[[シェリカ・ジャクソン]]||{{JAM}}||2023年8月25日||{{Flagicon|HUN}}[[2023年世界陸上競技選手権大会|ブダペスト大会]]
|-
|[[400メートル競走|400m]]||style="text-align:right"|47秒99|| rowspan="2" |[[ヤルミラ・クラトフビロバ]]|| rowspan="2" |{{TCH}}||[[1983年]][[8月10日]]|| rowspan="2" |{{Flagicon|FIN}}[[1983年世界陸上競技選手権大会|ヘルシンキ大会]]
|-
|[[800メートル競走|800m]]||style="text-align:right"|1分54秒68||1983年[[8月9日]]
|-
|[[1500メートル競走|1500m]]||style="text-align:right"|3分58秒52||[[タチアナ・トマショワ]]([[:en:Tatyana Tomashova|Tatyana Tomashova]])||{{RUS}}||2003年8月31日||{{Flagicon|FRA}}[[2003年世界陸上競技選手権大会|パリ大会]]
|-
|[[3000メートル競走|3000m]]||style="text-align:right"|8分28秒71||[[曲雲霞]]||{{CHN}}||1993年8月16日||{{Flagicon|GER}}[[1993年世界陸上競技選手権大会|シュトゥットガルト大会]]
|-
|[[5000メートル競走|5000m]]||style="text-align:right"|14分26秒83||[[アルマズ・アヤナ]]|| rowspan="3" |{{ETH}}||2015年8月30日||{{Flagicon|CHN}}[[2015年世界陸上競技選手権大会|北京大会]]
|-
|[[10000メートル競走|10000m]]||style="text-align:right"|30分04秒18||[[ベルハネ・アデレ]]||2003年[[8月23日]]||{{Flagicon|FRA}}[[2003年世界陸上競技選手権大会|パリ大会]]
|-
|[[マラソン]]||style="text-align:right"|2時間18分11秒||[[ゴティトム・ゲブレシラシエ]]||2022年[[7月18日]]||{{Flagicon|USA}}[[2022年世界陸上競技選手権大会|オレゴン22大会]]
|-
|[[100メートルハードル|100mハードル]]||style="text-align:right"|'''12秒12'''||[[トビ・アムサン]]||{{NGR}}||2022年7月24日||{{Flagicon|USA}}[[2022年世界陸上競技選手権大会|オレゴン22大会]]
|-
|[[400メートルハードル|400mハードル]]||style="text-align:right"|'''50秒68'''||[[シドニー・マクラフリン]]||{{USA}}||2022年[[7月22日]]||{{Flagicon|USA}}[[2022年世界陸上競技選手権大会|オレゴン22大会]]
|-
|[[3000メートル障害|3000m障害]]||style="text-align:right"|8分53秒02||[[ノラ・ジェルト]]||{{KAZ}}||[[2007年]]8月27日||{{Flagicon|USA}}[[2022年世界陸上競技選手権大会|オレゴン22大会]]
|-
|[[10000メートル競歩|10000m競歩]]||style="text-align:right"|42分55秒49||[[アナリタ・シドチ]]([[:en:Annarita Sidoti|Annarita Sidoti]])||{{ITA}}||[[1997年]]8月7日||{{Flagicon|GRE}}[[1997年世界陸上競技選手権大会|アテネ大会]]
|-
|[[10000メートル競歩|10km競歩]]||style="text-align:right"|42分13秒||[[イリナ・スタンキナ]]([[:en:Irina Stankina|Irina Stankina]])|| rowspan="2" |{{RUS}}||1995年[[8月7日]]||{{Flagicon|SWE}}[[1995年世界陸上競技選手権大会|イェーテボリ大会]]
|-
|[[20キロメートル競歩|20km競歩]]||style="text-align:right"|1時間25分41秒||[[オリンピアダ・イワノワ]]([[:en:Olimpiada Ivanova|Olimpiada Ivanova]])||2005年8月7日|||{{Flagicon|FIN}}[[2005年世界陸上競技選手権大会|ヘルシンキ大会]]
|-
|[[50キロメートル競歩|50km競歩]]||style="text-align:right"|4時間05分56秒||[[イネス・エンリケス]]||{{POR}}||2017年[[8月13日]]||{{Flagicon|GBR}}[[2017年世界陸上競技選手権大会|ロンドン大会]]
|-
|[[400メートルリレー走|4×100mリレー]]||style="text-align:right"|41秒07||[[ベロニカ・キャンベル=ブラウン]]<br />[[ナターシャ・モリソン]]([[:en:Natasha Morrison|Natasha Morrison]])<br />[[エレイン・トンプソン]]<br />[[シェリー=アン・フレーザー=プライス]]||{{JAM}}||2015年8月29日||{{Flagicon|CHN}}[[2015年世界陸上競技選手権大会|北京大会]]
|-
|[[1600メートルリレー走|4×400mリレー]]||style="text-align:right"|3分16秒71||[[グウェン・トーレンス]]<br />[[ジール・マイルス=クラーク|ジール・マイルス=クラーク]]<br />[[ナターシャ・カイザー]]<br />[[マイセル・マローン]]||{{USA}}||1993年8月22日||{{Flagicon|GER}}[[1993年世界陸上競技選手権大会|シュトゥットガルト大会]]
|-
|[[走高跳]]||style="text-align:right"|'''2m09'''||[[ステフカ・コスタディノヴァ]]||{{BUL}}||[[1987年]]8月30日||{{Flagicon|ITA}}[[1987年世界陸上競技選手権大会|ローマ大会]]
|-
|[[棒高跳]]||style="text-align:right"|5m01||[[エレーナ・イシンバエワ]]||{{RUS}}||2005年[[8月12日]]||{{Flagicon|FIN}}[[2005年世界陸上競技選手権大会|ヘルシンキ大会]]
|-
|[[走幅跳]]||style="text-align:right"|7m36||[[ジャッキー・ジョイナー・カーシー]]||{{USA}}||1987年9月4日||{{Flagicon|ITA}}[[1987年世界陸上競技選手権大会|ローマ大会]]
|-
|[[三段跳]]||style="text-align:right"|'''15m50'''||[[イネッサ・クラベッツ]]||{{UKR}}||1995年[[8月10日]]||{{Flagicon|SWE}}[[1995年世界陸上競技選手権大会|イェーテボリ大会]]
|-
| rowspan="2" |[[砲丸投]]|| rowspan="2" style="text-align:right"|21m24||[[ナタリア・リソフスカヤ]]||{{URS}}||1987年[[9月5日]]||{{Flagicon|ITA}}[[1987年世界陸上競技選手権大会|ローマ大会]]
|-
|[[バレリー・アダムス]]||{{NZL}}||2011年[[8月29日]]||{{Flagicon|KOR}}[[2011年世界陸上競技選手権大会|大邱大会]]
|-
|[[円盤投]]||style="text-align:right"|71m62||[[マルティナ・ヘルマン]]||{{GDR}}||1987年8月31日||{{Flagicon|ITA}}[[1987年世界陸上競技選手権大会|ローマ大会]]
|-
|[[ハンマー投]]||style="text-align:right"|80m85||[[アニタ・ヴォダルチク]]||{{POL}}||2015年[[8月27日]]||{{Flagicon|CHN}}[[2015年世界陸上競技選手権大会|北京大会]]
|-
|[[やり投]]||style="text-align:right"|71m99||[[マリア・アバクモワ]]||{{RUS}}||2011年[[9月2日]]||{{Flagicon|KOR}}[[2011年世界陸上競技選手権大会|大邱大会]]
|-
|[[七種競技]]||style="text-align:right"|7128点||[[ジャッキー・ジョイナー・カーシー]]||{{USA}}||1987年[[9月1日]]||{{Flagicon|ITA}}[[1987年世界陸上競技選手権大会|ローマ大会]]
|}
== 日本の大会別獲得メダル数 ==
{| {{MedalTable}}
|-
| style="text-align:left" | [[1983年世界陸上競技選手権大会|1983年 ヘルシンキ]] || 0 || 0 || 0 || 0
|-
| style="text-align:left" | [[1987年世界陸上競技選手権大会|1987年 ローマ]] || 0 || 0 || 0 || 0
|-
|-style="background:#ccccff"
| style="text-align:left" | [[1991年世界陸上競技選手権大会|1991年 東京]](開催国) || 1 || 1 || 0 || 2
|-
| style="text-align:left" | [[1993年世界陸上競技選手権大会|1993年 シュトゥットガルト]] || 1 || 0 || 1 || 2
|-
| style="text-align:left" | [[1995年世界陸上競技選手権大会|1995年 イェーテボリ]] || 0 || 0 || 0 || 0
|-
| style="text-align:left" | [[1997年世界陸上競技選手権大会|1997年 アテネ]] || 1 || 0 || 1 || 2
|-
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== テレビ中継放送 ==
{{Main2|日本における報道|日本における世界陸上競技選手権大会の報道}}
[[1997年]]より日本の[[TBSテレビ|TBS→TBSテレビ]]が[[ワールドアスレティックス]](当時IAAF)のオフィシャルブロードキャスターとなっている<ref>[http://www.iaaf.org/news/news/iaaf-and-tokyo-broadcasting-system-extend-par IAAF and Tokyo Broadcasting System extend partnership] IAAF(2009-08-19). [[2012年]][[4月6日]]閲覧</ref>。この大会以後、日本国内の民放では地上波・衛星を通して'''[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]<ref>[[TBSチャンネル]](2015年からはTBSチャンネル2)・[[BS-TBS]]を含む。BS・CSは翌日日中の[[遅れネット|ディレー放送]]が主。[[TBSニュースバード]]での放送実績はない。このため告知スポットでも必ず「TBS系列独占放送」との告知が表示されている。また、[[TBSラジオ]]は女子マラソンを中心に中継を行っている。</ref>の独占放送'''となっている。TBSの放映権取得後は、[[2022年]]の第18回オレゴン大会までの25年間・13大会にわたり[[織田裕二]]・[[中井美穂]]が進行役を務めた<ref>[https://www.sanspo.com/article/20220616-MZBW4UPTBBDLVD6KZIYRFWPR24/ 織田裕二&中井美穂の名コンビが“最後の世界陸上”へ TBS、7・16開幕「世界陸上」メインキャスター発表 - サンスポ](2022年6月19日閲覧)</ref>。
なお日本においては、第1回の[[1983年]]は[[テレビ朝日]]、第2回の[[1987年]]~第5回の[[1995年]]までは[[日本テレビ放送網]]が放映権を得ており、特に東京開催となった第3回・[[1991年]]大会はホストブロードキャスター(他にサブライセンスで[[NHK BS1]](当時衛星第1放送))を担当した。
アメリカでは[[NBCユニバーサル]]、ヨーロッパでは[[欧州放送連合]]加盟各局([[ユーロビジョン・ネットワーク]])、韓国では[[韓国放送公社|KBS]]、中国では[[中国中央電視台|CCTV]]がそれぞれ放送を行っている。
== 陸上競技主要大会 ==
*[[オリンピック陸上競技|夏季オリンピック]]
*[[世界室内陸上競技選手権大会]]
*[[U20世界陸上競技選手権大会]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[世界陸上競技選手権大会メダリスト一覧 (男子)]]
* [[世界陸上競技選手権大会メダリスト一覧 (女子)]]
* [[陸上競技日本代表#世界陸上競技選手権大会|陸上競技日本代表]]
== 外部リンク ==
* [https://www.worldathletics.org/competitions/world-athletics-championships/ 世界陸上競技選手権大会(IAAF公式)]{{en icon}}
* {{Wayback |url=http://www.tbs.co.jp/runner97/index-j.html |title=世界陸上1997アテネ大会・TBSサイト |date=19990427093830}}
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寛永通宝
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寛永通宝(かんえいつうほう、旧字体: 寬永通󠄁寶)は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨。寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造された。
形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ(円形方孔)、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。材質は、銅製の他、鉄、精鉄、真鍮製のものがあった。
貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文として通用した。当時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用(短陌・省陌)し、通し100文と呼ばれていた。
裏面に文・元・足・長・小・千・久・盛などといった文字(多くの場合1文字だが、十三・久二など2文字の場合もある)が表記されているものもあり、多くの場合は鋳造地を示すが、文銭の「文」や二水永の「三」などのように鋳造地ではなく製造された年代などを表すものもある。
寛永通宝は大別すると銅一文銭(古寛永・新寛永)・鉄一文銭・真鍮四文銭・鉄四文銭となる。
小判や丁銀は日常生活には大変高額であり財布に入れて使用される様なことはまず無かったが、銭は庶民の日常生活に愛用されて広く流通した。一分判や小玉銀(豆板銀)でさえ、銭屋と称する両替屋で銭に両替して使われていた。
江戸幕府が成立すると、幕府は金座・銀座を設置して金貨・銀貨を発行して統一を進めた。一方、銅銭については、慶長13年(1608年)に江戸を中心とした東国で通用していた永楽通宝(永楽銭)の発行を停止し、翌年には金1両=永楽銭1貫文=京銭4貫文=銀50目の公定相場を定めて、京都を中心に流通していた"京銭"の通称で呼ばれていた鐚銭という私鋳銭が幕府の標準銅貨とされた。これは、徳川の拠点であった東国の幕府領を対象にした撰銭令の一種であったが五街道の整備によって江戸と上方(京都・大坂)の交通整備を図っていた幕府が自らの拠点では一般的であっても日本全体では特異な流通であった永楽銭の通用を止めて京銭を基に銅銭の統一を図ったものであった。また、徳川家康・秀忠父子の上洛や大坂の陣による軍事行動の影響で東海道筋の伝馬・駄賃相場は不安定であり、銅銭の大量流通による撰銭が頻発していたことへの対応策として慶長から元和年間にかけて幕府は慶長13年の方針の延長線上にある撰銭令を複数回発令している。こうした方針は徳川氏と同様に豊臣政権下で領国内で独自の銅銭を発行していた諸藩を直ちに拘束するものではなかったが、幕府の政治的優位の確立と共にその政策にも影響を与えつつあった。京銭は対外取引の場でも採用され、オランダ・ポルトガルなどのヨーロッパの商船や日本の朱印船によって中国や東南アジアに輸出されていた。この大量輸出は日本国内における深刻な銅銭不足をもたらして銭相場を上昇させた。
平戸のオランダ商館にいたフランソワ・カロンが著した『日本大王国志』の寛永13年(1636年)の記述に寛永通宝の発行に関する言及があり、日本の皇帝(=将軍)が新しいカシー(貨幣)を発行する前に4年前から旧銭(京銭)を実際の相場より高い価格で買い入れていたと記している。また、寛永11年(1636年)には徳川家光の上洛に合わせて京都に滞在していた細川忠利が面識のある長崎奉行の榊原職直に送った書状(『大日本近世史料 細川家史料』18-2507号)の中で家光が戸田氏鉄と松平定綱に対して新銭発行の検討を命じたとする風説に関する問い合わせをしている。実際に寛永12年(1635年)6月には幕府は流通貨幣の全国調査を行い、諸大名に対しても貨幣の流通状況を報告させている。安国良一は幕府は家光上洛に合わせて江戸において贈答用の新銭を鋳造して京都に持ち込んだものの、京都郊外の坂本で大量の銅銭が鋳造されて海外に輸出されていることを知った家光や幕閣が衝撃を受けて、既存の流通銭である旧銭を買い上げて新たな銅銭(公鋳の寛永通宝)を発行することにしたと指摘している。また、安国は翌寛永12年(1635年)の朱印船貿易停止には銅銭の輸出を止める意図も含んでいた可能性や同年の武家諸法度改正によって導入された参勤交代によって交通量の増加や街道筋での貨幣使用量が増加することも見通していたとも指摘している。
寛永13年5月5日、幕府は江戸において6月1日より寛永通宝を発行する高札を立て、7日に京都・大坂にこの命令を伝えるために派遣された高札を持った幕府の徒目付が20日に大津に到着している。公式には当面の間は旧銭と新銭の併用を認めていたが、5月6日(高札が立てられた翌日)老中の酒井忠勝邸において諸藩の留守居を集めて行った説明会では旧銭の使用を停止する方針が説明されたらしく、この話を聞いた諸藩、とりわけ自前で私鋳銭を鋳造していた藩(長州藩・薩摩藩など)には動揺が広がったものの、幕府も十分な流通量の寛永通宝を用意することができず、幕府自身が東海道筋の銭不足を解消するために5月末までに遠江掛川と大坂にあった幕府の蔵にある古銭(京銭)を放出することを決め、大番方の久留正親・小幡重昌が派遣され、東海道の各宿に100貫文・バイパスの役割を果たしていた中山道西側および美濃路の各宿には60貫文を支給し、城下町などの特殊な需要のある宿には上乗せの支給を行った。さらにやや遅れて銅銭不足の最大の原因になっていた銅銭を含めた銅の輸出禁止措置を寛永通宝の鋳造材料の確保を名目に寛永14年(1637年)4月から開始し、途中で軍事物資の確保に目的を変えながら、輸出統制の仕組みが整備される正保3年(1646年)まで続けられた。
寛永通宝のうち、万治2年(1659年)までに鋳造されたものを古寛永(こかんえい)と呼ぶ。その後しばらく鋳造されない期間があり、寛文8年(1668年)以降に鋳造されたものを新寛永(しんかんえい)と呼ぶ。この古寛永と新寛永は、製法が異なり、銭文(貨幣に表された文字)の書体もあきらかな違いがある。
元文4年(1739年)頃、鉄製1文銭が出現する。
明和5年(1768年)、真鍮製4文銭制定。
万延元年(1860年)頃、鉄製4文銭が出現する。
銅または真鍮製の寛永通宝は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続け、昭和28年(1953年)末まで、真鍮4文銭は2厘、銅貨1文銭は1厘硬貨として法的に通用していた(通貨として実際的に使用されたのは明治中期頃までと推定される)。
また、中国各地での大量の出土例や記録文献などから、清代の中国でも寛永通宝が流通していたことが判っている。清に先立つ明では、銅銭使用を禁じ、紙幣に切り替えていたが、清代になってから銭貨の使用が復活した。しかし銭貨の流通量が少なかったため、銭貨需要に応えるべく、日本から寛永通宝が輸入された。
寛永3年(1626年)に常陸水戸の富商・佐藤新助が、江戸幕府と水戸藩の許可を得て鋳造したのが始まりだが、この時はまだ、正式な官銭ではなかった。
このとき鋳造されたとされるものが、いわゆる二水永(にすいえい)と呼ばれる「永」字が「二」と「水」字を組み合わせたように見えるものであり、背(裏面)下部には「三」と鋳込まれ、鋳造年の「寛永三年」を意味するといわれる。
新助はやがて病死し鋳造は途絶えるが、九年後の寛永12年(1635年)に新助の息子、佐藤庄兵衛が後を継ぎ再び鋳銭を願い出、翌寛永13年(1636年)に鋳造を再開した。このときの鋳銭が背面に「十三」と鋳込まれたものであるとされている 。
寛永13年6月(1636年)、幕府が江戸橋場と近江坂本に銭座を設置。公鋳銭として寛永通宝の製造を開始。
主な鋳造所は幕府の江戸と近江坂本の銭座であった。しかし水戸藩、仙台藩、松本藩、三河吉田藩、高田藩、岡山藩、長州藩、岡藩等でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造していた。
やがて、銭が普及したことから寛永15年(1638年)に1貫文=銀23匁前後であった銭相場が16年(1639年)に1貫文=銀16匁まで下落したため、『銭録』によれば寛永17年8月(1640年)に一旦銭座を停止したとある。ただし、これは諸藩に置かれた銭座に関する停止で、江戸や坂本・京都・大坂など幕領における銭座停止はもう少し遅く、寛永18年12月23日付で出された老中連署奉書によったとみられている。また、安国良一は銭相場の下落の原因は寛永飢饉(物価の上昇と銭の需要が強い庶民層への打撃)の影響が大きかったとしており、幕府は銭座に残った寛永通宝を公定価格で買い上げたり、宿場町に拝借金・拝借米を与えて寛永通宝で返済させることで幕府への事実上の回収(飢饉が収まって銭相場が安定した時点で再放出を意図している)を図ったりしている。また、当初の高水準の銭相場を背景にした運上を含めた利益を見込んだ幕府・銭座による過剰生産を抑止しきれなかったことや、原料の錫の不足などによる公鋳の銭座側の事情による部分と私鋳銭による部分によって生じた質の低下(皮肉にも銭座による鋳造停止による職人の失業が私鋳銭に拍車をかける)など、多くの課題も浮上しており、その後の鋳銭事業に生かされることになる。
その後銀12匁まで下落していたが、承応から明暦年間にかけて再び銭相場が銀18匁前後まで高騰したため、承応2年(1653年)、明暦2年(1656年)に銭座を設けて鋳銭を再開する。
これらの古寛永は大局的には以下のように分類される。鋳銭地は古銭収集界で現存するものを当てはめたものであり、これらの内発掘などで銭籍が確定しているものは一部のみであり、長門銭、水戸銭の一部、および松本銭である。
古寛永の総鋳造高については詳しい記録が見当たらず不明であるが、鋳銭目標などから推定した数値では325万貫文(32億5千万枚)とされ、この内、鳥越銭が30万貫文(3億枚)、沓谷銭は20万貫文(2億枚)との記録もある。
幕藩体制の確立とともに全国に普及、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃から行われた鋳造によって、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。寛文の鋳造開始時期は不明であるが、寛文5年(1665年)には既に鋳造が開始されたとみられている。また、安国良一は将軍の上洛や日光社参時に貨幣の新鋳・使用が行われた傾向から、当初は寛文3年(1663年)の将軍徳川家綱の日光社参の際に内々に鋳造する予定であったものが一般向けに切り替えられた可能性を指摘している。
寛文8年5月(1668年)、江戸亀戸で発行されたものは、寛文近江・若狭地震で損壊した京都・方広寺大仏(京の大仏)を鋳潰して鋳造したという風説が流布したこともあり、俗に「大仏銭」と呼ばれていた。また、裏に「文」の字があることから、文銭(ぶんせん)とも呼ばれていた。風説の真偽については諸説あるが、経済学者・貨幣史研究者の三上隆三は「大仏躯体の銅材を銭貨にした」ことは真実であるとしている。ただし三上は、大仏躯体の銅材を貨幣鋳造の原料に再利用されたとしても、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかったとしており、寛永通宝(文銭)の原料は全て大仏躯体の銅材で賄われたとする風説は誤りとしている。日本銀行金融研究所は上記風説の真偽について、寛永通宝(文銭)の原材料の化学的な成分分析の結果、方広寺大仏の鋳造がなされた豊臣秀頼期のものとは原材料の産出地が異なるとして、「たとえ鋳銭の原料に大仏を用いたとしても、それは(生産された文銭全体の割合からみれば)ごく一部に過ぎなかったと判断できる」との結論を出している。
江戸亀戸に設立された銭座で、後藤縫殿助、茶屋四郎次郎ら呉服師六軒仲間が請負って大規模に鋳造が行われ、発行された銭は良質で均質なものとなった。
新井白石は寛文8年(1668年)から天和3年(1683年)までの鋳造高を197万貫文(19億7千万枚)と推測しているが、『尾州茶屋家記録』では213万8710貫文(21億3871万枚)としている。この増鋳により寛永通寳は全国に広く行き渡り、寛文10年6月(1670年)には寛永新銭に従来の古銭を交えた売買や、銭屋における新銭と古銭を交えた商売を禁止した。
品位の低下した元禄金銀の発行により銭相場が高騰し、元禄7年(1694年)に金一両=4800文前後であったものが元禄13年(1700年)には一両=3700文前後となった。加えて経済発展により銭不足も目立ち始めたため、勘定奉行の荻原重秀は銅一文銭についても量目を減ずることとし、量目がこれまでの一匁(3.7グラム)程度から七分(2.6グラム)程度とされた。元禄11年(1698年)からは江戸亀戸で、元禄13年からは長崎屋忠七、菱屋五兵衛ら五人の糸割符仲間が請負って京都七条川原の銭座で鋳造を行った。このときの銭貨は俗称荻原銭(おぎわらせん)と呼ばれる。荻原重秀はこのとき「貨幣は国家の造る所、瓦礫を以て之にかえるといえども行うべし。今鋳るところの銅銭は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし。」と述べたとされる。
京都七条における元禄13年3月より宝永5年1月(1708年)までの鋳造高は1,736,684貫文(1,736,684,000枚)に上り、主に伊予立川銅山(別子銅山)の産銅が用いられた。
宝永5年(1708年)、江戸亀戸で鋳造されたものも小型のもので、四ツ宝銀のように質が悪いという意味から四ツ宝銭(よつほうせん)と呼ばれる。
正徳4年(1714年)、品位を慶長のものへ復帰した正徳金銀の発行を踏まえ、一文銭も文銭と同様の良質なものに復帰することとなった。このとき再び呉服師六軒仲間が請け負って亀戸で鋳造したとされるものが丸屋銭(まるやせん)、あるいは耳白銭(みみしろせん)であり、50万貫文(5億枚)が鋳造されたとされる。享保2年(1717年)には佐渡相川(背面に「佐」字)、享保11年(1726年)に江戸深川十万坪、京都七条、享保13年(1728年)に大坂難波、石巻、また詳細は不明であるが享保年間に下総猿江で鋳造が行われている。
元文2年(1737年)には前年(1736年)の品位を低下させた元文金銀の発行により、銭相場が一両=2800文前後まで急騰したのを受け銭貨の増産が図られ、これらの銭貨の背面には鋳造地を示す文字が鋳込まれるようになる。元文元年には深川十万坪、淀鳥羽横大路、京都伏見、元文2年には江戸亀戸、江戸本所小梅(背面に「小」字)、下野日光、紀伊宇津、元文3年(1737年)には秋田銅山、元文4年(1738年)には深川平野新田、相模藤沢、相模吉田島、下野足尾(「足」字)、長崎一ノ瀬(「一」字)、明和4年(1767年)には肥前長崎(「長」字)、など各地に銭座が設置され、小型の銭貨が大量に発行された。寛保元年(1741年)には摂津天王寺村の銀座役人徳倉長右衛門、平野屋六郎兵衛の請負った大坂高津銭座で元字銭(「元」字)が大規模に鋳造された。寛保2年(1742年)に勘定所は別子・立川両銅山の出銅の銅座分の五歩ほどずつを天王寺の銭座に渡すことを命じた。
江戸時代を通じた銅一文銭の総鋳造高は知る由も無いが、明治時代の大蔵省による流通高の調査では2,114,246,283枚としている。
元文4年(1738年)には銭相場の高値是正および材料の銅の供給不足などから、江戸深川十万坪、仙台石巻、江戸本所押上などの銭座で鉄一文銭の鋳造が始まり、さらに明和2年(1765年)から金座監督の下、江戸亀戸、明和4年(1767年)から京都伏見、明和5年(1768年)からは仙台石巻(「千」字)、常陸太田(「久、久二」字)などの銭座で鉄一文銭が大量に鋳造され、銭相場は下落し安永7年(1778年)頃には一両=6000文前後を付けるに至った。
鉄銭は鍋銭(なべせん)とも呼ばれ製作も悪く不評であった。伏見鉄銭以降の鉄銭について「コレヨリ後出ル所ノ鉄銭皆其質悪シ、茶碗ノ欠ヲ入ルコトハ、寶永ノ大銭ヨリ初マリ、土ヲ入ル事ハ此銭ヨリ初ルトイヘリ」、さらに「故ニカネノ音ハナシ」と揶揄されるほどであった。中世には私鋳銭などの粗悪な銭貨を指した「鐚銭」の語も、この時代には鉄一文銭の俗称となったという。
天保6年(1835年)12月より天保通寳と同時に江戸深川で鋳造された鉄銭は洲崎銭と呼ばれたが、天保通寳が広く流通したため58,100貫271文(58,100,271枚)と小額にとどまった。
日米修好通商条約において日本の銅銭輸出の禁止が明文化されていたが、日本国内では洋銀1ドル=銅銭4,976文替の相場であったのに対し、中国では800〜1,000文であったため、安政6年(1859年)の開港に伴い、外商らは競って日本の銅銭を中国に輸出した。これに対抗して幕府は銅一文銭を回収し、銅一文銭一貫文に対し鉄一文銭および天保通寳を差交えて一貫五百四十八文と引換え、四十八文は両替屋に手数料として与えた。このときの引き換え用に安政6年(1859年)9月より小菅において鉄一文銭520,000貫文(520,000,000枚)が吹立てられた。
安政年間には、鉄一文銭の鋳造に4文の費用がかかっていたが、幕府は四文銭・天保銭の流通を維持するために損害承知の上でこれを鋳造し続けた。目的は異なるが、今日の一円アルミ貨も同様に額面を超える製造費用がかかっている。
鉄一文銭の総鋳造高は明治時代の大蔵省による流通高の調査により、6,332,619,404枚とされ、中でも明和年間以降の鋳造高が特に多く、亀戸では2,262,589貫文(2,262,589,000枚)、伏見1,422,782貫文(1,422,782,000枚)、常陸太田690,500貫文(690,500,000枚)などとなっている。
鉄一文銭は見栄えも悪く不評であったことから川井久敬の建議により真鍮四文銭が制定され、明和5年(1768年)に江戸深川千田新田に銀座監督の下銭座が設けられ、四文銭が鋳造された。川井久敬が銀座に真鍮四文銭の鋳造を請負わせたのは、当時銀座にはおびただしい上納滞銀があり、これを幕府に返済させる手段としての理由があった。
一文銭よりやや大型で、背面に川井家の家紋である波を描きウコン色に輝くこの銭貨は波銭(なみせん)とも呼ばれ好評であった。四文銭については浪銭と表記されることもあるほか、青銭と呼ばれることもあった。量目は一匁四分(5.2グラム)、規定品位は銅68%、亜鉛24%、鉛など8%であった。発行初年は二十一波のものであったが、鋳造に困難を来したため、翌年(1769年)からは簡略化した十一波に変更された。
これが発行された頃から、物の値段に16文、24文など4の倍数が多くなり、1串に5つの団子を5文で売られていたのが、1串4つで4文になったという。また、現代の100円ショップに類似したものとして、4文均一の「四文屋」というのもあった。
文政4年(1821年)11月からは浅草橋場で四文銭の増産が行われた。このときのものは規定品位が銅75%、亜鉛15%、鉛など10%へ変更となり、赤みを帯びることから赤銭(あかせん)と呼ばれる。
安政4年(1857年)11月には江戸東大工町で四文銭の鋳造が始まり、規定品位が銅65%、亜鉛15%、鉛など20%となった。黒味を帯び、穿内にやすりがかけられ文久永寳に製作が類似するものがこれであるとされる。
真鍮四文銭の総鋳造高は157,425,360枚、あるいは22,145,520貫文(何枚を一貫文とするか不明)と文献により大きく異なり、明和年間における吹高は1年に55,000貫文と定められ安永3年(1774年)9月には吹高を半減し、その後も随時減じたとの記録もあり、また文政年間の鋳造高は79,700貫文との記録もある。
安政年間に入ると當百銭、真鍮銭、一文小銭などの相場にはそれぞれ差異が生じ、幕府はたびたび額面通り滞りなく通用するよう触書を出すが市場において差別通用が止まず、慶應元年(1865年)閏5月、ついに天然相場を容認し江戸市中両替屋で銅小銭、真鍮銭に対し増歩通用を認めるに至った。このとき鉄一文銭を基準として以下のような相場となった。天保通寳については従来通り100文で通用するよう申し渡した。
慶應3年(1867年)、幕府はすべての銭貨を天然相場に委ねる事としたが、銅銭および真鍮銭の相場はさらに上昇した。
万延元年12月(1861年)から四文銭も鉄銭として発行されるようになった。幕府は特に精錬した鉄地金を用いた精鉄四文銭(せいてつしもんせん)であることを強調したが、評判は悪く、鋳銭に関して損失が出るなどしたため発行は少数にとどまり、後にこれを受けて材質を銅に戻して寛永通寳真鍮四文銭より量目を減じた文久永寳が発行された。このときの銀座による鉄四文銭の鋳造高は101,887,062枚とされる。
万延元年からは東大工町、慶應元年(1865年)からは小梅の水戸藩邸(「ト」字)、慶應2年(1866年)からは陸奥大迫(「盛」字)、石巻(「千」字)、深川十万坪(「ノ」字)、慶應3年(1867年)からは安芸広島(「ア」字)でも鋳造された。
以上のように江戸幕府が発行した寛永通宝であるが、明治以降も補助貨幣として引き続き通用した。
倒幕後、慶應4年閏4月14日(1868年)、新政府は銅銭の海外流出、銅地金の高騰、さらに市場での相場の実態を踏まえて、太政官布告第306号により鉄一文銭に対する銅銭および真鍮銭の増歩をさらに引き上げ以下のように定めた。
精鉄四文銭については2文程度の通用価値となった。明治2年7月10日太政官布告第633号では金1両は銭10貫文と定められた。
明治4年(1871年)には新貨条例が制定され、円・銭・厘の通貨体制に移行したが、以降は次の額で通用した(新貨条例は単位を一厘とし十進法を採用したため、旧銭貨を従来の通用価値のまま混用流通させることは困難だった)。法貨としての通用制限額は、銅銭は新銅貨と同じく一圓まで、鉄銭は五十銭と定められた。
このうち銅銭・真鍮銭は引き続き通用した。特に明治政府の発行した1厘銅貨の枚数はあまり多くなく、1厘銅貨には直径が小さすぎるという流通の不便さもあり、竜1銭・半銭銅貨が十分な量が発行された明治21年(1888年)まで製造され続けたのに対し、それより先の明治17年(1884年)に直径が大きすぎる2銭銅貨と共に製造中止となったこともあり、1厘単位の貨幣として主な役割を果たしたのは寛永通宝であった。そのため明治時代には寛永通宝銅一文銭は「一厘銭」、寛永通宝真鍮四文銭は「二厘銭」と呼ばれていた。鉄銭については、明治6年(1873年)12月に太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失った(法的には明治30年9月末の貨幣法施行前まで通用)。しかし、明治30年(1897年)頃より次第に流通が減少し、明治45年(1912年)頃には厘位の代償としてマッチや紙などの日用品を用いるようになり、大正5年(1916年)4月1日には租税及び公課には厘位を切捨てることとなり、一般商取引もこれに準じたため不用の銭貨となった(『寛永錢記』)。寛永通宝が大部分の地域の一般商店等でほとんど使用されなくなった大正期や昭和初期でも、一部地方の商店等で用いられたり、あるいは銀行間決済の最小単位の通貨として用いられることがあったという。法的に寛永通宝の銅銭・真鍮銭が通用停止となったのは、昭和28年末の小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律の施行により円未満の通貨が全て通用停止とされた時であり、同時に1厘5毛通用とされていた文久永宝も通用停止となり、この時をもって江戸時代に発行された貨幣は全て通用停止となったことになる。以降はコイン収集家による収集対象となるのみである。
ただし、各地の例では銭形砂絵がある香川県観音寺市で寛永通宝が観光資源として位置づけられており、2010年(平成22年)4月4日から市内の地域通貨として寛永通宝を使用できるようになった。市内の使用可能店で1枚30円(銅一文銭・真鍮四文銭が使用可能だが両者の区別なくいずれも30円扱い、鉄銭は使用不可)で使用でき、商店は市の町おこしグループ「ドピカーン観音寺実行委員会」に持ち込めば1枚30円で換金できる。ただし、寛永通宝は本物であれば多く出回っているものでも買い取りで1枚10円程度、珍品なら数百万円するといわれており(下記外部リンク参照)、1枚30円として使用してしまうと大損をする場合もあり得るので注意が必要である。
常陸国の飯塚伊賀七は、寛永通宝を用いたそろばんを発明した。
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"text": "寛永通宝(かんえいつうほう、旧字体: 寬永通󠄁寶)は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨。寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造された。",
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"text": "形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ(円形方孔)、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。材質は、銅製の他、鉄、精鉄、真鍮製のものがあった。",
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"text": "貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文として通用した。当時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用(短陌・省陌)し、通し100文と呼ばれていた。",
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"text": "裏面に文・元・足・長・小・千・久・盛などといった文字(多くの場合1文字だが、十三・久二など2文字の場合もある)が表記されているものもあり、多くの場合は鋳造地を示すが、文銭の「文」や二水永の「三」などのように鋳造地ではなく製造された年代などを表すものもある。",
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"text": "寛永通宝は大別すると銅一文銭(古寛永・新寛永)・鉄一文銭・真鍮四文銭・鉄四文銭となる。",
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"text": "小判や丁銀は日常生活には大変高額であり財布に入れて使用される様なことはまず無かったが、銭は庶民の日常生活に愛用されて広く流通した。一分判や小玉銀(豆板銀)でさえ、銭屋と称する両替屋で銭に両替して使われていた。",
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"text": "江戸幕府が成立すると、幕府は金座・銀座を設置して金貨・銀貨を発行して統一を進めた。一方、銅銭については、慶長13年(1608年)に江戸を中心とした東国で通用していた永楽通宝(永楽銭)の発行を停止し、翌年には金1両=永楽銭1貫文=京銭4貫文=銀50目の公定相場を定めて、京都を中心に流通していた\"京銭\"の通称で呼ばれていた鐚銭という私鋳銭が幕府の標準銅貨とされた。これは、徳川の拠点であった東国の幕府領を対象にした撰銭令の一種であったが五街道の整備によって江戸と上方(京都・大坂)の交通整備を図っていた幕府が自らの拠点では一般的であっても日本全体では特異な流通であった永楽銭の通用を止めて京銭を基に銅銭の統一を図ったものであった。また、徳川家康・秀忠父子の上洛や大坂の陣による軍事行動の影響で東海道筋の伝馬・駄賃相場は不安定であり、銅銭の大量流通による撰銭が頻発していたことへの対応策として慶長から元和年間にかけて幕府は慶長13年の方針の延長線上にある撰銭令を複数回発令している。こうした方針は徳川氏と同様に豊臣政権下で領国内で独自の銅銭を発行していた諸藩を直ちに拘束するものではなかったが、幕府の政治的優位の確立と共にその政策にも影響を与えつつあった。京銭は対外取引の場でも採用され、オランダ・ポルトガルなどのヨーロッパの商船や日本の朱印船によって中国や東南アジアに輸出されていた。この大量輸出は日本国内における深刻な銅銭不足をもたらして銭相場を上昇させた。",
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"text": "平戸のオランダ商館にいたフランソワ・カロンが著した『日本大王国志』の寛永13年(1636年)の記述に寛永通宝の発行に関する言及があり、日本の皇帝(=将軍)が新しいカシー(貨幣)を発行する前に4年前から旧銭(京銭)を実際の相場より高い価格で買い入れていたと記している。また、寛永11年(1636年)には徳川家光の上洛に合わせて京都に滞在していた細川忠利が面識のある長崎奉行の榊原職直に送った書状(『大日本近世史料 細川家史料』18-2507号)の中で家光が戸田氏鉄と松平定綱に対して新銭発行の検討を命じたとする風説に関する問い合わせをしている。実際に寛永12年(1635年)6月には幕府は流通貨幣の全国調査を行い、諸大名に対しても貨幣の流通状況を報告させている。安国良一は幕府は家光上洛に合わせて江戸において贈答用の新銭を鋳造して京都に持ち込んだものの、京都郊外の坂本で大量の銅銭が鋳造されて海外に輸出されていることを知った家光や幕閣が衝撃を受けて、既存の流通銭である旧銭を買い上げて新たな銅銭(公鋳の寛永通宝)を発行することにしたと指摘している。また、安国は翌寛永12年(1635年)の朱印船貿易停止には銅銭の輸出を止める意図も含んでいた可能性や同年の武家諸法度改正によって導入された参勤交代によって交通量の増加や街道筋での貨幣使用量が増加することも見通していたとも指摘している。",
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"text": "寛永13年5月5日、幕府は江戸において6月1日より寛永通宝を発行する高札を立て、7日に京都・大坂にこの命令を伝えるために派遣された高札を持った幕府の徒目付が20日に大津に到着している。公式には当面の間は旧銭と新銭の併用を認めていたが、5月6日(高札が立てられた翌日)老中の酒井忠勝邸において諸藩の留守居を集めて行った説明会では旧銭の使用を停止する方針が説明されたらしく、この話を聞いた諸藩、とりわけ自前で私鋳銭を鋳造していた藩(長州藩・薩摩藩など)には動揺が広がったものの、幕府も十分な流通量の寛永通宝を用意することができず、幕府自身が東海道筋の銭不足を解消するために5月末までに遠江掛川と大坂にあった幕府の蔵にある古銭(京銭)を放出することを決め、大番方の久留正親・小幡重昌が派遣され、東海道の各宿に100貫文・バイパスの役割を果たしていた中山道西側および美濃路の各宿には60貫文を支給し、城下町などの特殊な需要のある宿には上乗せの支給を行った。さらにやや遅れて銅銭不足の最大の原因になっていた銅銭を含めた銅の輸出禁止措置を寛永通宝の鋳造材料の確保を名目に寛永14年(1637年)4月から開始し、途中で軍事物資の確保に目的を変えながら、輸出統制の仕組みが整備される正保3年(1646年)まで続けられた。",
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"text": "寛永通宝のうち、万治2年(1659年)までに鋳造されたものを古寛永(こかんえい)と呼ぶ。その後しばらく鋳造されない期間があり、寛文8年(1668年)以降に鋳造されたものを新寛永(しんかんえい)と呼ぶ。この古寛永と新寛永は、製法が異なり、銭文(貨幣に表された文字)の書体もあきらかな違いがある。",
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"text": "元文4年(1739年)頃、鉄製1文銭が出現する。",
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"text": "明和5年(1768年)、真鍮製4文銭制定。",
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"text": "万延元年(1860年)頃、鉄製4文銭が出現する。",
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"text": "銅または真鍮製の寛永通宝は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続け、昭和28年(1953年)末まで、真鍮4文銭は2厘、銅貨1文銭は1厘硬貨として法的に通用していた(通貨として実際的に使用されたのは明治中期頃までと推定される)。",
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"text": "また、中国各地での大量の出土例や記録文献などから、清代の中国でも寛永通宝が流通していたことが判っている。清に先立つ明では、銅銭使用を禁じ、紙幣に切り替えていたが、清代になってから銭貨の使用が復活した。しかし銭貨の流通量が少なかったため、銭貨需要に応えるべく、日本から寛永通宝が輸入された。",
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"text": "寛永3年(1626年)に常陸水戸の富商・佐藤新助が、江戸幕府と水戸藩の許可を得て鋳造したのが始まりだが、この時はまだ、正式な官銭ではなかった。",
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"text": "このとき鋳造されたとされるものが、いわゆる二水永(にすいえい)と呼ばれる「永」字が「二」と「水」字を組み合わせたように見えるものであり、背(裏面)下部には「三」と鋳込まれ、鋳造年の「寛永三年」を意味するといわれる。",
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"text": "新助はやがて病死し鋳造は途絶えるが、九年後の寛永12年(1635年)に新助の息子、佐藤庄兵衛が後を継ぎ再び鋳銭を願い出、翌寛永13年(1636年)に鋳造を再開した。このときの鋳銭が背面に「十三」と鋳込まれたものであるとされている 。",
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"text": "寛永13年6月(1636年)、幕府が江戸橋場と近江坂本に銭座を設置。公鋳銭として寛永通宝の製造を開始。",
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"text": "主な鋳造所は幕府の江戸と近江坂本の銭座であった。しかし水戸藩、仙台藩、松本藩、三河吉田藩、高田藩、岡山藩、長州藩、岡藩等でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造していた。",
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"text": "やがて、銭が普及したことから寛永15年(1638年)に1貫文=銀23匁前後であった銭相場が16年(1639年)に1貫文=銀16匁まで下落したため、『銭録』によれば寛永17年8月(1640年)に一旦銭座を停止したとある。ただし、これは諸藩に置かれた銭座に関する停止で、江戸や坂本・京都・大坂など幕領における銭座停止はもう少し遅く、寛永18年12月23日付で出された老中連署奉書によったとみられている。また、安国良一は銭相場の下落の原因は寛永飢饉(物価の上昇と銭の需要が強い庶民層への打撃)の影響が大きかったとしており、幕府は銭座に残った寛永通宝を公定価格で買い上げたり、宿場町に拝借金・拝借米を与えて寛永通宝で返済させることで幕府への事実上の回収(飢饉が収まって銭相場が安定した時点で再放出を意図している)を図ったりしている。また、当初の高水準の銭相場を背景にした運上を含めた利益を見込んだ幕府・銭座による過剰生産を抑止しきれなかったことや、原料の錫の不足などによる公鋳の銭座側の事情による部分と私鋳銭による部分によって生じた質の低下(皮肉にも銭座による鋳造停止による職人の失業が私鋳銭に拍車をかける)など、多くの課題も浮上しており、その後の鋳銭事業に生かされることになる。",
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"text": "その後銀12匁まで下落していたが、承応から明暦年間にかけて再び銭相場が銀18匁前後まで高騰したため、承応2年(1653年)、明暦2年(1656年)に銭座を設けて鋳銭を再開する。",
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"text": "これらの古寛永は大局的には以下のように分類される。鋳銭地は古銭収集界で現存するものを当てはめたものであり、これらの内発掘などで銭籍が確定しているものは一部のみであり、長門銭、水戸銭の一部、および松本銭である。",
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"text": "古寛永の総鋳造高については詳しい記録が見当たらず不明であるが、鋳銭目標などから推定した数値では325万貫文(32億5千万枚)とされ、この内、鳥越銭が30万貫文(3億枚)、沓谷銭は20万貫文(2億枚)との記録もある。",
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"text": "幕藩体制の確立とともに全国に普及、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃から行われた鋳造によって、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。寛文の鋳造開始時期は不明であるが、寛文5年(1665年)には既に鋳造が開始されたとみられている。また、安国良一は将軍の上洛や日光社参時に貨幣の新鋳・使用が行われた傾向から、当初は寛文3年(1663年)の将軍徳川家綱の日光社参の際に内々に鋳造する予定であったものが一般向けに切り替えられた可能性を指摘している。",
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"text": "寛文8年5月(1668年)、江戸亀戸で発行されたものは、寛文近江・若狭地震で損壊した京都・方広寺大仏(京の大仏)を鋳潰して鋳造したという風説が流布したこともあり、俗に「大仏銭」と呼ばれていた。また、裏に「文」の字があることから、文銭(ぶんせん)とも呼ばれていた。風説の真偽については諸説あるが、経済学者・貨幣史研究者の三上隆三は「大仏躯体の銅材を銭貨にした」ことは真実であるとしている。ただし三上は、大仏躯体の銅材を貨幣鋳造の原料に再利用されたとしても、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかったとしており、寛永通宝(文銭)の原料は全て大仏躯体の銅材で賄われたとする風説は誤りとしている。日本銀行金融研究所は上記風説の真偽について、寛永通宝(文銭)の原材料の化学的な成分分析の結果、方広寺大仏の鋳造がなされた豊臣秀頼期のものとは原材料の産出地が異なるとして、「たとえ鋳銭の原料に大仏を用いたとしても、それは(生産された文銭全体の割合からみれば)ごく一部に過ぎなかったと判断できる」との結論を出している。",
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"text": "江戸亀戸に設立された銭座で、後藤縫殿助、茶屋四郎次郎ら呉服師六軒仲間が請負って大規模に鋳造が行われ、発行された銭は良質で均質なものとなった。",
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"text": "新井白石は寛文8年(1668年)から天和3年(1683年)までの鋳造高を197万貫文(19億7千万枚)と推測しているが、『尾州茶屋家記録』では213万8710貫文(21億3871万枚)としている。この増鋳により寛永通寳は全国に広く行き渡り、寛文10年6月(1670年)には寛永新銭に従来の古銭を交えた売買や、銭屋における新銭と古銭を交えた商売を禁止した。",
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"text": "品位の低下した元禄金銀の発行により銭相場が高騰し、元禄7年(1694年)に金一両=4800文前後であったものが元禄13年(1700年)には一両=3700文前後となった。加えて経済発展により銭不足も目立ち始めたため、勘定奉行の荻原重秀は銅一文銭についても量目を減ずることとし、量目がこれまでの一匁(3.7グラム)程度から七分(2.6グラム)程度とされた。元禄11年(1698年)からは江戸亀戸で、元禄13年からは長崎屋忠七、菱屋五兵衛ら五人の糸割符仲間が請負って京都七条川原の銭座で鋳造を行った。このときの銭貨は俗称荻原銭(おぎわらせん)と呼ばれる。荻原重秀はこのとき「貨幣は国家の造る所、瓦礫を以て之にかえるといえども行うべし。今鋳るところの銅銭は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし。」と述べたとされる。",
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"text": "京都七条における元禄13年3月より宝永5年1月(1708年)までの鋳造高は1,736,684貫文(1,736,684,000枚)に上り、主に伊予立川銅山(別子銅山)の産銅が用いられた。",
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"text": "宝永5年(1708年)、江戸亀戸で鋳造されたものも小型のもので、四ツ宝銀のように質が悪いという意味から四ツ宝銭(よつほうせん)と呼ばれる。",
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"text": "正徳4年(1714年)、品位を慶長のものへ復帰した正徳金銀の発行を踏まえ、一文銭も文銭と同様の良質なものに復帰することとなった。このとき再び呉服師六軒仲間が請け負って亀戸で鋳造したとされるものが丸屋銭(まるやせん)、あるいは耳白銭(みみしろせん)であり、50万貫文(5億枚)が鋳造されたとされる。享保2年(1717年)には佐渡相川(背面に「佐」字)、享保11年(1726年)に江戸深川十万坪、京都七条、享保13年(1728年)に大坂難波、石巻、また詳細は不明であるが享保年間に下総猿江で鋳造が行われている。",
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"text": "元文2年(1737年)には前年(1736年)の品位を低下させた元文金銀の発行により、銭相場が一両=2800文前後まで急騰したのを受け銭貨の増産が図られ、これらの銭貨の背面には鋳造地を示す文字が鋳込まれるようになる。元文元年には深川十万坪、淀鳥羽横大路、京都伏見、元文2年には江戸亀戸、江戸本所小梅(背面に「小」字)、下野日光、紀伊宇津、元文3年(1737年)には秋田銅山、元文4年(1738年)には深川平野新田、相模藤沢、相模吉田島、下野足尾(「足」字)、長崎一ノ瀬(「一」字)、明和4年(1767年)には肥前長崎(「長」字)、など各地に銭座が設置され、小型の銭貨が大量に発行された。寛保元年(1741年)には摂津天王寺村の銀座役人徳倉長右衛門、平野屋六郎兵衛の請負った大坂高津銭座で元字銭(「元」字)が大規模に鋳造された。寛保2年(1742年)に勘定所は別子・立川両銅山の出銅の銅座分の五歩ほどずつを天王寺の銭座に渡すことを命じた。",
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"text": "江戸時代を通じた銅一文銭の総鋳造高は知る由も無いが、明治時代の大蔵省による流通高の調査では2,114,246,283枚としている。",
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"text": "元文4年(1738年)には銭相場の高値是正および材料の銅の供給不足などから、江戸深川十万坪、仙台石巻、江戸本所押上などの銭座で鉄一文銭の鋳造が始まり、さらに明和2年(1765年)から金座監督の下、江戸亀戸、明和4年(1767年)から京都伏見、明和5年(1768年)からは仙台石巻(「千」字)、常陸太田(「久、久二」字)などの銭座で鉄一文銭が大量に鋳造され、銭相場は下落し安永7年(1778年)頃には一両=6000文前後を付けるに至った。",
"title": "鉄一文銭"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "鉄銭は鍋銭(なべせん)とも呼ばれ製作も悪く不評であった。伏見鉄銭以降の鉄銭について「コレヨリ後出ル所ノ鉄銭皆其質悪シ、茶碗ノ欠ヲ入ルコトハ、寶永ノ大銭ヨリ初マリ、土ヲ入ル事ハ此銭ヨリ初ルトイヘリ」、さらに「故ニカネノ音ハナシ」と揶揄されるほどであった。中世には私鋳銭などの粗悪な銭貨を指した「鐚銭」の語も、この時代には鉄一文銭の俗称となったという。",
"title": "鉄一文銭"
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"text": "天保6年(1835年)12月より天保通寳と同時に江戸深川で鋳造された鉄銭は洲崎銭と呼ばれたが、天保通寳が広く流通したため58,100貫271文(58,100,271枚)と小額にとどまった。",
"title": "鉄一文銭"
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"text": "日米修好通商条約において日本の銅銭輸出の禁止が明文化されていたが、日本国内では洋銀1ドル=銅銭4,976文替の相場であったのに対し、中国では800〜1,000文であったため、安政6年(1859年)の開港に伴い、外商らは競って日本の銅銭を中国に輸出した。これに対抗して幕府は銅一文銭を回収し、銅一文銭一貫文に対し鉄一文銭および天保通寳を差交えて一貫五百四十八文と引換え、四十八文は両替屋に手数料として与えた。このときの引き換え用に安政6年(1859年)9月より小菅において鉄一文銭520,000貫文(520,000,000枚)が吹立てられた。",
"title": "鉄一文銭"
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"text": "安政年間には、鉄一文銭の鋳造に4文の費用がかかっていたが、幕府は四文銭・天保銭の流通を維持するために損害承知の上でこれを鋳造し続けた。目的は異なるが、今日の一円アルミ貨も同様に額面を超える製造費用がかかっている。",
"title": "鉄一文銭"
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"text": "鉄一文銭の総鋳造高は明治時代の大蔵省による流通高の調査により、6,332,619,404枚とされ、中でも明和年間以降の鋳造高が特に多く、亀戸では2,262,589貫文(2,262,589,000枚)、伏見1,422,782貫文(1,422,782,000枚)、常陸太田690,500貫文(690,500,000枚)などとなっている。",
"title": "鉄一文銭"
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"text": "鉄一文銭は見栄えも悪く不評であったことから川井久敬の建議により真鍮四文銭が制定され、明和5年(1768年)に江戸深川千田新田に銀座監督の下銭座が設けられ、四文銭が鋳造された。川井久敬が銀座に真鍮四文銭の鋳造を請負わせたのは、当時銀座にはおびただしい上納滞銀があり、これを幕府に返済させる手段としての理由があった。",
"title": "真鍮四文銭"
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"text": "一文銭よりやや大型で、背面に川井家の家紋である波を描きウコン色に輝くこの銭貨は波銭(なみせん)とも呼ばれ好評であった。四文銭については浪銭と表記されることもあるほか、青銭と呼ばれることもあった。量目は一匁四分(5.2グラム)、規定品位は銅68%、亜鉛24%、鉛など8%であった。発行初年は二十一波のものであったが、鋳造に困難を来したため、翌年(1769年)からは簡略化した十一波に変更された。",
"title": "真鍮四文銭"
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"text": "これが発行された頃から、物の値段に16文、24文など4の倍数が多くなり、1串に5つの団子を5文で売られていたのが、1串4つで4文になったという。また、現代の100円ショップに類似したものとして、4文均一の「四文屋」というのもあった。",
"title": "真鍮四文銭"
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"text": "文政4年(1821年)11月からは浅草橋場で四文銭の増産が行われた。このときのものは規定品位が銅75%、亜鉛15%、鉛など10%へ変更となり、赤みを帯びることから赤銭(あかせん)と呼ばれる。",
"title": "真鍮四文銭"
},
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"tag": "p",
"text": "安政4年(1857年)11月には江戸東大工町で四文銭の鋳造が始まり、規定品位が銅65%、亜鉛15%、鉛など20%となった。黒味を帯び、穿内にやすりがかけられ文久永寳に製作が類似するものがこれであるとされる。",
"title": "真鍮四文銭"
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"text": "真鍮四文銭の総鋳造高は157,425,360枚、あるいは22,145,520貫文(何枚を一貫文とするか不明)と文献により大きく異なり、明和年間における吹高は1年に55,000貫文と定められ安永3年(1774年)9月には吹高を半減し、その後も随時減じたとの記録もあり、また文政年間の鋳造高は79,700貫文との記録もある。",
"title": "真鍮四文銭"
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"text": "安政年間に入ると當百銭、真鍮銭、一文小銭などの相場にはそれぞれ差異が生じ、幕府はたびたび額面通り滞りなく通用するよう触書を出すが市場において差別通用が止まず、慶應元年(1865年)閏5月、ついに天然相場を容認し江戸市中両替屋で銅小銭、真鍮銭に対し増歩通用を認めるに至った。このとき鉄一文銭を基準として以下のような相場となった。天保通寳については従来通り100文で通用するよう申し渡した。",
"title": "真鍮四文銭"
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"text": "慶應3年(1867年)、幕府はすべての銭貨を天然相場に委ねる事としたが、銅銭および真鍮銭の相場はさらに上昇した。",
"title": "真鍮四文銭"
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{
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"text": "万延元年12月(1861年)から四文銭も鉄銭として発行されるようになった。幕府は特に精錬した鉄地金を用いた精鉄四文銭(せいてつしもんせん)であることを強調したが、評判は悪く、鋳銭に関して損失が出るなどしたため発行は少数にとどまり、後にこれを受けて材質を銅に戻して寛永通寳真鍮四文銭より量目を減じた文久永寳が発行された。このときの銀座による鉄四文銭の鋳造高は101,887,062枚とされる。",
"title": "鉄四文銭"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "万延元年からは東大工町、慶應元年(1865年)からは小梅の水戸藩邸(「ト」字)、慶應2年(1866年)からは陸奥大迫(「盛」字)、石巻(「千」字)、深川十万坪(「ノ」字)、慶應3年(1867年)からは安芸広島(「ア」字)でも鋳造された。",
"title": "鉄四文銭"
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"text": "以上のように江戸幕府が発行した寛永通宝であるが、明治以降も補助貨幣として引き続き通用した。",
"title": "明治以降"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "倒幕後、慶應4年閏4月14日(1868年)、新政府は銅銭の海外流出、銅地金の高騰、さらに市場での相場の実態を踏まえて、太政官布告第306号により鉄一文銭に対する銅銭および真鍮銭の増歩をさらに引き上げ以下のように定めた。",
"title": "明治以降"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "精鉄四文銭については2文程度の通用価値となった。明治2年7月10日太政官布告第633号では金1両は銭10貫文と定められた。",
"title": "明治以降"
},
{
"paragraph_id": 53,
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"text": "明治4年(1871年)には新貨条例が制定され、円・銭・厘の通貨体制に移行したが、以降は次の額で通用した(新貨条例は単位を一厘とし十進法を採用したため、旧銭貨を従来の通用価値のまま混用流通させることは困難だった)。法貨としての通用制限額は、銅銭は新銅貨と同じく一圓まで、鉄銭は五十銭と定められた。",
"title": "明治以降"
},
{
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"text": "このうち銅銭・真鍮銭は引き続き通用した。特に明治政府の発行した1厘銅貨の枚数はあまり多くなく、1厘銅貨には直径が小さすぎるという流通の不便さもあり、竜1銭・半銭銅貨が十分な量が発行された明治21年(1888年)まで製造され続けたのに対し、それより先の明治17年(1884年)に直径が大きすぎる2銭銅貨と共に製造中止となったこともあり、1厘単位の貨幣として主な役割を果たしたのは寛永通宝であった。そのため明治時代には寛永通宝銅一文銭は「一厘銭」、寛永通宝真鍮四文銭は「二厘銭」と呼ばれていた。鉄銭については、明治6年(1873年)12月に太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失った(法的には明治30年9月末の貨幣法施行前まで通用)。しかし、明治30年(1897年)頃より次第に流通が減少し、明治45年(1912年)頃には厘位の代償としてマッチや紙などの日用品を用いるようになり、大正5年(1916年)4月1日には租税及び公課には厘位を切捨てることとなり、一般商取引もこれに準じたため不用の銭貨となった(『寛永錢記』)。寛永通宝が大部分の地域の一般商店等でほとんど使用されなくなった大正期や昭和初期でも、一部地方の商店等で用いられたり、あるいは銀行間決済の最小単位の通貨として用いられることがあったという。法的に寛永通宝の銅銭・真鍮銭が通用停止となったのは、昭和28年末の小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律の施行により円未満の通貨が全て通用停止とされた時であり、同時に1厘5毛通用とされていた文久永宝も通用停止となり、この時をもって江戸時代に発行された貨幣は全て通用停止となったことになる。以降はコイン収集家による収集対象となるのみである。",
"title": "明治以降"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "ただし、各地の例では銭形砂絵がある香川県観音寺市で寛永通宝が観光資源として位置づけられており、2010年(平成22年)4月4日から市内の地域通貨として寛永通宝を使用できるようになった。市内の使用可能店で1枚30円(銅一文銭・真鍮四文銭が使用可能だが両者の区別なくいずれも30円扱い、鉄銭は使用不可)で使用でき、商店は市の町おこしグループ「ドピカーン観音寺実行委員会」に持ち込めば1枚30円で換金できる。ただし、寛永通宝は本物であれば多く出回っているものでも買い取りで1枚10円程度、珍品なら数百万円するといわれており(下記外部リンク参照)、1枚30円として使用してしまうと大損をする場合もあり得るので注意が必要である。",
"title": "明治以降"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "常陸国の飯塚伊賀七は、寛永通宝を用いたそろばんを発明した。",
"title": "その他"
}
] |
寛永通宝は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨。寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造された。
|
[[File:kanei_tuuhou.jpg|thumb|寛永通宝]]
[[File:Kaneitsuho.jpg|thumb|寛永通宝。上:裏面に波形が刻まれているもの(4文)、中:文銭、下:一般的なもの(1文)]]
'''寛永通宝'''(かんえいつうほう、{{旧字体|'''寬永通󠄁寶'''}})は、[[日本]]の[[江戸時代]]を通じて広く流通した[[銭貨]]。[[寛永]]13年([[1636年]])に創鋳、[[幕末]]まで[[鋳造]]された。
== 概要 ==
形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ(円形方孔)、表面には「'''寛永通寳'''」の文字が上下右左の順に刻印されている。材質は、[[銅]]製の他、[[鉄]]、精鉄、[[真鍮]]製のものがあった。
貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが'''4[[文 (通貨単位)|文]]'''、刻まれていないものが'''1文'''として通用した。当時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用([[短陌]]・省陌)し、通し100文と呼ばれていた<ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p144-146.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p55-57.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p97-99.]]</ref>。
裏面に文・元・足・長・小・千・久・盛などといった文字(多くの場合1文字だが、十三・久二など2文字の場合もある)が表記されているものもあり、多くの場合は鋳造地を示すが、文銭の「文」や二水永の「三」などのように鋳造地ではなく製造された年代などを表すものもある。
寛永通宝は大別すると銅一文銭(古寛永・新寛永)・鉄一文銭・真鍮四文銭・鉄四文銭となる。
[[小判]]や[[丁銀]]は日常生活には大変高額であり[[財布]]に入れて使用される様なことはまず無かったが<ref>[[#Zoheikyoku1940|造幣局(1940), p39.]]</ref>、銭は庶民の日常生活に愛用されて広く流通した<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p95.]]</ref>。[[一分金|一分判]]や小玉銀([[豆板銀]])でさえ、銭屋と称する[[両替商|両替屋]]で銭に両替して使われていた<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p45-47.]]</ref>。
== 発行の経緯 ==
江戸幕府が成立すると、幕府は[[金座]]・[[銀座 (歴史)|銀座]]を設置して金貨・銀貨を発行して統一を進めた<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p55-58.]]</ref>。一方、銅銭については、[[慶長]]13年([[1608年]])に[[江戸]]を中心とした東国で通用していた[[永楽通宝]](永楽銭)の発行を停止し、翌年には金1両=永楽銭1貫文=京銭4貫文=銀50目の公定相場を定めて、[[京都]]を中心に流通していた"京銭"の通称で呼ばれていた[[鐚銭]]という[[私鋳銭]]が幕府の標準銅貨とされた。これは、徳川の拠点であった東国の幕府領を対象にした[[撰銭令]]の一種であったが五街道の整備によって江戸と上方(京都・[[大坂]])の交通整備を図っていた幕府が自らの拠点では一般的であっても日本全体では特異な流通であった永楽銭の通用を止めて京銭を基に銅銭の統一を図ったものであった。また、[[徳川家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]父子の上洛や[[大坂の陣]]による軍事行動の影響で[[東海道]]筋の伝馬・駄賃相場は不安定であり、銅銭の大量流通による撰銭が頻発していたことへの対応策として慶長から[[元和 (日本)|元和]]年間にかけて幕府は慶長13年の方針の延長線上にある撰銭令を複数回発令している。こうした方針は徳川氏と同様に豊臣政権下で領国内で独自の銅銭を発行していた諸藩を直ちに拘束するものではなかったが、幕府の政治的優位の確立と共にその政策にも影響を与えつつあった<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p58-62, 183-191.]]</ref>。京銭は対外取引の場でも採用され、オランダ・ポルトガルなどのヨーロッパの商船や日本の[[朱印船]]によって中国や東南アジアに輸出されていた。この大量輸出は日本国内における深刻な銅銭不足をもたらして銭相場を上昇させた<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p41, 62-65.]]</ref>。
平戸の[[オランダ商館]]にいた[[フランソワ・カロン]]が著した『[[日本大王国志]]』の寛永13年([[1636年]])の記述に寛永通宝の発行に関する言及があり、日本の皇帝(=将軍)が新しいカシー(貨幣)を発行する前に4年前から旧銭(京銭)を実際の相場より高い価格で買い入れていたと記している。また、寛永11年(1636年)には[[徳川家光]]の上洛に合わせて京都に滞在していた[[細川忠利]]が面識のある[[長崎奉行]]の[[榊原職直]]に送った書状(『大日本近世史料 細川家史料』18-2507号)の中で家光が[[戸田氏鉄]]と[[松平定綱]]に対して新銭発行の検討を命じたとする風説に関する問い合わせをしている。実際に寛永12年(1635年)6月には幕府は流通貨幣の全国調査を行い、諸大名に対しても貨幣の流通状況を報告させている<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p69-70, 220-221.]]</ref>。[[安国良一]]は幕府は家光上洛に合わせて江戸において贈答用の新銭を鋳造して京都に持ち込んだものの、京都郊外の[[坂本 (大津市)|坂本]]で大量の銅銭が鋳造されて海外に輸出されていることを知った家光や幕閣が衝撃を受けて、既存の流通銭である旧銭を買い上げて新たな銅銭(公鋳の寛永通宝)を発行することにしたと指摘している。また、安国は翌寛永12年([[1635年]])の朱印船貿易停止には銅銭の輸出を止める意図も含んでいた可能性や同年の[[武家諸法度]]改正によって導入された[[参勤交代]]によって交通量の増加や街道筋での貨幣使用量が増加することも見通していたとも指摘している<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p67-69, 220-222.]]</ref>。
寛永13年5月5日、幕府は江戸において6月1日より寛永通宝を発行する[[高札]]を立て、7日に京都・大坂にこの命令を伝えるために派遣された高札を持った幕府の[[徒目付]]が20日に大津に到着している。公式には当面の間は旧銭と新銭の併用を認めていたが、5月6日(高札が立てられた翌日)老中の[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]邸において諸藩の[[留守居]]を集めて行った説明会では旧銭の使用を停止する方針が説明されたらしく、この話を聞いた諸藩、とりわけ自前で私鋳銭を鋳造していた藩([[長州藩]]・[[薩摩藩]]など)には動揺が広がったものの、幕府も十分な流通量の寛永通宝を用意することができず<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p70-72, 226-228.]]</ref>、幕府自身が東海道筋の銭不足を解消するために5月末までに[[遠江国|遠江]][[掛川藩|掛川]]と大坂にあった幕府の蔵にある古銭(京銭)を放出することを決め、[[大番方]]の[[久留正親]]・[[小幡重昌]]が派遣され、東海道の各宿に100貫文・バイパスの役割を果たしていた[[中山道]]西側および[[美濃路]]<ref group="注釈">(東海道/中山道[[草津宿]] - )中山道[[守山宿]] - 中山道[[垂井宿]] - 美濃路[[大垣宿]] - 美濃路[[名古屋宿]]( - 東海道[[宮宿]])</ref>の各宿には60貫文を支給し、[[城下町]]などの特殊な需要のある宿には上乗せの支給を行った<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p70-71, 191-193, 223.]]</ref>。さらにやや遅れて銅銭不足の最大の原因になっていた銅銭を含めた銅の輸出禁止措置を寛永通宝の鋳造材料の確保を名目に寛永14年([[1637年]])4月から開始し、途中で軍事物資の確保に目的を変えながら、輸出統制の仕組みが整備される[[正保]]3年([[1646年]])まで続けられた<ref name="名前なし-1">[[#Yasukuni2016|安国(2016), p248-262.]]</ref>。
== 略史 ==
寛永通宝のうち、[[万治]]2年([[1659年]])までに鋳造されたものを'''古寛永'''(こかんえい)と呼ぶ。その後しばらく鋳造されない期間があり、[[寛文]]8年([[1668年]])以降に鋳造されたものを'''新寛永'''(しんかんえい)と呼ぶ<ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p1.]]</ref><ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p80.]]</ref>。この古寛永と新寛永は、製法が異なり、銭文(貨幣に表された文字)の書体もあきらかな違いがある。
[[元文]]4年([[1739年]])頃、鉄製1文銭が出現する。
[[明和]]5年([[1768年]])、真鍮製4文銭制定。
[[万延]]元年([[1860年]])頃、鉄製4文銭が出現する。
銅または真鍮製の寛永通宝は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続け、[[昭和]]28年([[1953年]])末まで、真鍮4文銭は2厘、銅貨1文銭は1厘硬貨として法的に通用していた(通貨として実際的に使用されたのは[[明治]]中期頃までと推定される)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hamajima.co.jp/rekishi/qa/a14.html|title=寛永通宝の通用期間は1953年までで正しいの?|work=歴史のQ&A|publisher=[[浜島書店]]|accessdate=2022-2-15}}</ref>。
また、中国各地での大量の出土例や記録文献などから、[[清]]代の中国でも寛永通宝が流通していたことが判っている。清に先立つ[[明]]では、銅銭使用を禁じ、紙幣に切り替えていたが、清代になってから銭貨の使用が復活した。しかし銭貨の流通量が少なかったため、銭貨需要に応えるべく、日本から寛永通宝が輸入された。
== 銅一文銭 ==
=== 二水永 ===
寛永3年([[1626年]])に[[常陸国|常陸]]水戸の富商・佐藤新助が、[[江戸幕府]]と[[水戸藩]]の許可を得て鋳造したのが始まりだが、この時はまだ、正式な官銭ではなかった。
このとき鋳造されたとされるものが、いわゆる'''二水永'''(にすいえい)と呼ばれる「永」字が「二」と「水」字を組み合わせたように見えるものであり、背(裏面)下部には「三」と鋳込まれ、鋳造年の「寛永三年」を意味するといわれる<ref name="Aoyama1982-130">[[#Aoyama1982|青山(1982), p130.]]</ref>。
新助はやがて病死し鋳造は途絶えるが、九年後の寛永12年([[1635年]])に新助の息子、佐藤庄兵衛が後を継ぎ再び鋳銭を願い出、翌寛永13年(1636年)に鋳造を再開した。このときの鋳銭が背面に「十三」と鋳込まれたものであるとされている
<ref name="Aoyama1982-130" />。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="2"| 寛永年間私鋳
|-
|| [[Image:1926-Kaneitsuho-Nishui-Hai3.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永3年(1626年)<br />水戸銭<br />二水永背三
|| [[Image:1936-Kaneitsuho-Nishui-Haihoshi.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永13年(1636年)頃<br />水戸銭<br />二水永背星
|}
=== 古寛永 ===
寛永13年6月(1636年)、幕府が江戸橋場と近江坂本に[[銭座]]を設置。公鋳銭として寛永通宝の製造を開始。
主な鋳造所は幕府の江戸と[[近江国|近江]][[坂本 (大津市)|坂本]]の[[銭座]]であった。しかし[[水戸藩]]、[[仙台藩]]、[[松本藩]]、[[三河吉田藩]]、[[高田藩]]、[[岡山藩]]、長州藩、[[岡藩]]等でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造していた<ref name="Seihouro1967-12">[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p12-77.]]</ref>。
やがて、銭が普及したことから寛永15年(1638年)に1貫文=銀23匁前後であった銭相場が16年(1639年)に1貫文=銀16匁まで下落したため、『銭録』によれば寛永17年8月(1640年)に一旦銭座を停止したとある<ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p129-130.]]</ref>。ただし、これは諸藩に置かれた銭座に関する停止で、江戸や坂本・京都・大坂など幕領における銭座停止はもう少し遅く、寛永18年12月23日付で出された老中連署[[奉書]]によったとみられている<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p73, 229-232.]]</ref>。また、安国良一は銭相場の下落の原因は[[寛永飢饉]](物価の上昇と銭の需要が強い庶民層への打撃)の影響が大きかったとしており、幕府は銭座に残った寛永通宝を公定価格で買い上げたり、宿場町<ref group="注釈">安国の研究は、江戸幕府([[公儀]])による貨幣の統合とともに江戸幕府の貨幣政策と交通政策(街道整備・宿場町および伝馬システムの維持)との関係を重視している。</ref>に拝借金・拝借米を与えて寛永通宝で返済させることで幕府への事実上の回収(飢饉が収まって銭相場が安定した時点で再放出を意図している)を図ったりしている<ref name="名前なし-1"/>。また、当初の高水準の銭相場を背景にした[[運上]]を含めた利益を見込んだ幕府・銭座による過剰生産を抑止しきれなかった<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p73-74, 237.]]</ref>ことや、原料の[[スズ|錫]]の不足などによる公鋳の銭座側の事情による部分と私鋳銭による部分によって生じた質の低下(皮肉にも銭座による鋳造停止による職人の失業が私鋳銭に拍車をかける)<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p73, 229.]]</ref><ref group="注釈">私鋳銭に関しては、江戸幕府が寛永20年(1643年)2月に「諸国在々所々新銭鋳造禁止」を全国的に発令している(安国良一 『日本近世貨幣史の研究』 思文閣出版、2016年 P72)。</ref>など、多くの課題も浮上しており、その後の鋳銭事業に生かされることになる。
その後銀12匁まで下落していたが、[[承応]]から[[明暦]]年間にかけて再び銭相場が銀18匁前後まで高騰したため<ref>[[#RyogaeNendaiki-2|両替年代記(1933), p200-202.]]</ref>、承応2年([[1653年]])、明暦2年([[1656年]])に銭座を設けて鋳銭を再開する<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p72-77.]]</ref>。
これらの古寛永は大局的には以下のように分類される<ref name="masuo">増尾富房 『古寛永泉志』 穴銭堂、1971年</ref><ref name="Seihouro1967-12" />。鋳銭地は[[古銭]][[収集]]界で現存するものを当てはめたものであり、これらの内発掘などで銭籍が確定しているものは一部のみであり<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p60-67.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p190-192.]]</ref><ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p59-61.]]</ref>、長門銭、水戸銭の一部、および松本銭である。
; 寛永13年(1636年)銭座設置
* '''浅草銭'''/'''御蔵銭'''(あさくさせん/おくらせん):[[江戸]][[浅草]][[橋場]]の銭座で鋳造。
* '''芝銭'''(しばせん):[[芝 (東京都港区)|芝]]網縄手で鋳造。「通」字の[[辵部|之繞]]および「永」字などの点が[[草書体]]となった「草点」のものが多い。
* '''坂本銭'''(さかもとせん):[[近江国|近江]][[坂本 (大津市)|坂本]]で鋳造。「永」字が撥ねるものが多い。
; 寛永14年(1637年)銭座設置
* '''水戸銭'''(みとせん):[[常陸国|常陸]][[水戸藩|水戸]]で鋳造。
* '''仙台銭'''(せんだいせん):[[陸奥国|陸奥]][[仙台藩|仙台]]で鋳造。
* '''吉田銭'''(よしだせん):[[三河国|三河]][[三河吉田藩|吉田]]で鋳造。
* '''松本銭'''(まつもとせん):[[信濃国|信濃]][[松本藩|松本]]で鋳造。「寳」が仰いでおり「斜寳」と呼ばれる。鋳銭を請負った今井家に書状と未仕上げの枝銭が残されており、(現在は松本市に寄贈され、松本市立博物館で展示されている。)その書体(「斜寶縮寶」)より、松本銭が確定した。
* '''高田銭'''(たかだせん):[[越後国|越後]][[高田藩|高田]]で鋳造。
* '''萩銭'''/'''長門銭'''(はぎせん/ながとせん):[[長門国|長門]][[長州藩|萩]][[美弥郡]]赤村で鋳造。
* '''岡山銭'''(おかやません):[[備前国|備前]][[岡山藩|岡山]]で鋳造。
* '''竹田銭'''(たけたせん):[[豊後国|豊後]][[岡藩|竹田]]で鋳造。従来「斜寳」が充てられていたが、松本銭であることが確定した。
;寛永16年([[1639年]])銭座設置
* '''井之宮銭'''(いのみやせん):[[駿河国|駿河]]井之宮で鋳造。井之宮銭とされていたものは発掘事実により岡山銭に変更される。「寛」字が小さく「縮寛」と呼ばれる。
; 承応2年(1653年)銭座設置
* '''建仁寺銭'''(けんにんじせん):[[京都]][[建仁寺]]で鋳造。建仁寺銭とされているものは[[長崎奉行|長崎]]鋳造との説もあり。
; 明暦2年(1656年)銭座設置
* '''沓谷銭'''(くつのやせん):[[駿河国|駿河]]沓谷で鋳造。
* '''鳥越銭'''(とりごえせん):浅草[[鳥越 (台東区)|鳥越]]で鋳造。
古寛永の総鋳造高については詳しい記録が見当たらず不明であるが、鋳銭目標などから推定した数値では325万[[貫文]](32億5千万枚)とされ、この内、鳥越銭が30万貫文(3億枚)、沓谷銭は20万貫文(2億枚)との記録もある<ref name="Zuroku1973">[[#Zuroku1973|図録 日本の貨幣 2巻「近世幣制の成立」(1973).]]</ref><ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p131.]]</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="4"| 寛永年間鋳造
|-
|| [[Image:K-1936-1-Kaneitsuho-Asakusa.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永13年(1636年)<br />称浅草銭<br />御蔵銭
|| [[Image:K-1936-2-Kaneitsuho-Shiba.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永13年(1636年)<br />称芝銭<br />二草点
|| [[Image:K-1936-3-Kaneitsuho-Sakamoto.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永13年(1636年)<br />称坂本銭<br />跳永
|| [[Image:K-1937-1-Kaneitsuho-Mito.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永14年(1637年)<br />称水戸銭<br />力永
|-
|| [[Image:K-1937-2-Kaneitsuho-Sendai.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永14年(1637年)<br />称仙台銭<br />中字
|| [[Image:K-1937-3-Kaneitsuho-Yoshida.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永14年(1637年)<br />称吉田銭<br />広永
|| [[Image:K-1937-4-Kaneitsuho-Matsumoto.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永14年(1637年)<br />称松本銭<br />太細
|| [[Image:K-1937-5-Kaneitsuho-Takada.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永14年(1637年)<br />称高田銭<br />笹手永
|-
|| [[Image:K-1937-6-Kaneitsuho-Hagi.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永14年(1637年)<br />長門銭<br />俯永
|| [[Image:K-1937-7-Kaneitsuho-Okayama.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永14年(1637年)<br />称岡山銭<br />離頭通
|| [[Image:K-1937-8-Kaneitsuho-Taketa.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永14年(1637年)<br />松本銭<br />旧称竹田銭<br />斜寳
|| [[Image:K-1939-1-Kaneitsuho-Inomiya.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛永16年(1639年)?<br />岡山銭<br />旧称井之宮銭<br />縮寛
|}
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="3"| 承応・明暦年間鋳造
|-
|| [[Image:K-1953-1-Kaneitsuho-Kenninji.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />承応2年(1653年)<br />称建仁寺銭<br />大字
|| [[Image:K-1956-1-Kaneitsuho-Kutsunoya.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明暦2年(1656年)<br />称沓谷銭<br />正足寳
|| [[Image:K-1956-2-Kaneitsuho-Torigoe.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明暦2年(1656年)<br />称鳥越銭<br />
|}
=== 新寛永(文銭) ===
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|240px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ。ただし描かれている大仏は、地震の後に再建された木造の大仏である。]]
[[幕藩体制]]の確立とともに全国に普及、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃から行われた鋳造によって、[[永楽通宝]]をはじめとする[[渡来銭]]をほぼ完全に駆逐し、[[貨幣]]の純国産化を実現した。寛文の鋳造開始時期は不明であるが、寛文5年(1665年)には既に鋳造が開始されたとみられている。また、安国良一は将軍の上洛や[[日光社参]]時に貨幣の新鋳・使用が行われた傾向から、当初は寛文3年(1663年)の将軍[[徳川家綱]]の日光社参の際に内々に鋳造する予定であったものが一般向けに切り替えられた可能性を指摘している<ref>[[#Yasukuni2016|安国(2016), p224-246.]]</ref>。
寛文8年5月(1668年)、江戸[[亀戸]]で発行されたものは、[[寛文近江・若狭地震]]で損壊した京都・[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])を鋳潰して鋳造したという風説が流布したこともあり、俗に「大仏銭」と呼ばれていた。また、裏に「文」の字があることから、'''文銭'''(ぶんせん)とも呼ばれていた<ref>[[#Kusama1815|草間(1815), p136-138.]]</ref><ref group="注釈">表の「寛」の字とあわせて「寛文」となり、寛文年間の鋳造であることを表している</ref>。風説の真偽については諸説あるが、経済学者・貨幣史研究者の[[三上隆三]]は「大仏躯体の銅材を銭貨にした」ことは真実であるとしている。ただし三上は、大仏躯体の銅材を貨幣鋳造の原料に再利用されたとしても、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかったとしており、寛永通宝(文銭)の原料は全て大仏躯体の銅材で賄われたとする風説は誤りとしている<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p101-102.]]</ref>。[[日本銀行金融研究所]]は上記風説の真偽について、寛永通宝(文銭)の原材料の化学的な成分分析の結果、方広寺大仏の鋳造がなされた[[豊臣秀頼]]期のものとは原材料の産出地が異なるとして、「たとえ鋳銭の原料に大仏を用いたとしても、それは(生産された文銭全体の割合からみれば)ごく一部に過ぎなかったと判断できる」との結論を出している<ref>{{Cite book|和書|author=齋藤努 |author2=高橋照彦 ほか|title=近世銭貨に関する理化学的研究 : 寛永通寳と長崎貿易銭の鉛同位体比分析 |publisher=日本銀行金融研究所 |year=2000 |series=IMES discussion paper series |NCID=BA4665002X |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000040-I001407918-00}}</ref>。
江戸亀戸に設立された銭座で、[[後藤縫殿助]]、[[茶屋四郎次郎]]ら[[呉服|呉服師]]六軒仲間が請負って大規模に鋳造が行われ、発行された銭は良質で均質なものとなった<ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p136.]]</ref><ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p80-84.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p11-15.]]</ref>。
[[新井白石]]は寛文8年(1668年)から[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])までの鋳造高を197万貫文(19億7千万枚)<ref>[[新井白石]] 『[[折たく柴の記]]』</ref>と推測しているが、『尾州茶屋家記録』では213万8710貫文(21億3871万枚)としている<ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p131-133.]]</ref>。この増鋳により寛永通寳は全国に広く行き渡り、寛文10年6月(1670年)には寛永新銭に従来の[[宋銭|古銭]]を交えた売買や、銭屋における新銭と古銭を交えた商売を禁止した<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p211.]]</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="2"| 寛文年間鋳造
|-
|| [[Image:B-1668-1-Kaneitsuho-Bunsen.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛文8年(1668年)<br />亀戸銭<br />文銭
|| [[Image:B-1668-2-Kaneitsuho-ShimayaMuhai.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />延宝2年(1674年)?<br />亀戸銭<br />島屋無背
|}
=== 新寛永(元禄以降) ===
品位の低下した[[元禄小判|元禄金]][[元禄丁銀|銀]]の発行により銭相場が高騰し、[[元禄]]7年([[1694年]])に金一[[両]]=4800文前後であったものが元禄13年([[1700年]])には一両=3700文前後となった<ref>[[#RyogaeNendaiki-2|両替年代記(1933), p285-302.]]</ref>。加えて経済発展により銭不足も目立ち始めたため、[[勘定奉行]]の[[荻原重秀]]は銅一文銭についても量目を減ずることとし、量目がこれまでの一[[匁]](3.7[[グラム]])程度から七分(2.6グラム)程度とされた。元禄11年([[1698年]])からは江戸亀戸で、元禄13年からは長崎屋忠七、菱屋五兵衛ら五人の[[糸割符]]仲間が請負って京都[[七条通|七条]]川原の銭座で鋳造を行った。このときの銭貨は俗称'''荻原銭'''(おぎわらせん)と呼ばれる<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p85-88.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p15-17.]]</ref><ref name="Aoyama1982-137">[[#Aoyama1982|青山(1982), p137.]]</ref><ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p81-82.]]</ref>。荻原重秀はこのとき「貨幣は国家の造る所、瓦礫を以て之にかえるといえども行うべし。今鋳るところの銅銭は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし。」と述べたとされる。
京都七条における元禄13年3月より[[宝永]]5年1月([[1708年]])までの鋳造高は1,736,684貫文(1,736,684,000枚)に上り、主に[[伊予国|伊予]]立川銅山([[別子銅山]])の産銅が用いられた<ref>[[#Kobata1999|小葉田(1999), p84-87.]]</ref><ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p212-215.]]</ref>。
宝永5年(1708年)、江戸亀戸で鋳造されたものも小型のもので、[[宝永四ツ宝丁銀|四ツ宝銀]]のように質が悪いという意味から'''四ツ宝銭'''(よつほうせん)と呼ばれる<ref name="Aoyama1982-137" /><ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p88-90.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p18-19.]]</ref><ref group="注釈">ただし、従来荻原銭および四ツ宝銭とされてきたものは別の時代の鋳造であるとの説も浮上している。また、宝永期江戸亀戸銭の鋳造開始の方が四ツ宝銀より早く、少なくとも四ツ宝銀鋳造後にこの俗称が普及したとされる。</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="3"| 元禄・宝永年間鋳造
|-
|| [[Image:G-1697-Kaneitsuho-EdoOgiwara.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元禄10年(1697年)<br />元禄期亀戸銭<br />江戸荻原銭
|| [[Image:G-1700-Kaneitsuho-Ogiwara.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元禄13年(1700年)<br />元禄期京都七条銭<br />荻原銭
|| [[Image:G-1708-Kaneitsuho-Yotsuho.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />宝永5年(1708年)<br />宝永期亀戸銭<br />四ツ宝銭
|}
[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])、品位を慶長のものへ復帰した[[正徳小判|正徳金]][[正徳丁銀|銀]]の発行を踏まえ、一文銭も文銭と同様の良質なものに復帰することとなった。このとき再び呉服師六軒仲間が請け負って亀戸で鋳造したとされるものが'''丸屋銭'''(まるやせん)、あるいは'''耳白銭'''(みみしろせん)であり<ref>[[#Kusama1815|草間(1815), p143-144.]]</ref><ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p92-94.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p20-21.]]</ref>、50万貫文(5億枚)が鋳造されたとされる<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p215.]]</ref>。[[享保]]2年([[1717年]])には[[佐渡国|佐渡]][[佐渡金山|相川]](背面に「佐」字)、享保11年([[1726年]])に江戸[[深川 (江東区)|深川]]十万坪、京都七条、享保13年([[1728年]])に[[大坂]][[難波津|難波]]、石巻、また詳細は不明であるが享保年間に[[下総国|下総]][[猿江]]で鋳造が行われている<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p94-103.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p21-35.]]</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="4"| 正徳・享保年間鋳造
|-
|| [[Image:S-1714-1-Kaneitsuho-Maruya.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />正徳4年(1714年)頃<br />正徳期亀戸銭<br />丸屋銭
|| [[Image:S-1714-2-Kaneitsuho-Mimishiro.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />正徳4年(1714年)頃<br />正徳期亀戸銭<br />耳白銭
|| [[Image:S-1717-Kaneitsuho-Sado.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />享保2年(1717年)<br />享保期佐渡銭<br />佐
|| [[Image:S-1726-Kaneitsuho-Hukyute.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />享保11年(1726年)<br />享保期京都七条銭<br />不旧手
|-
|| [[Image:S-1728-1-Kaneitsuho-Sendai.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />享保13年(1728年)<br />享保期仙台石巻銭<br />仙
|| [[Image:S-1728-2-Kaneitsuho-IshinomakiIsho.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />享保13年(1728年)<br />享保期仙台石巻銭、異書<br />旧称猿江銭
|| [[Image:S-1728-3-Kaneitsuho-Nanba.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />享保13年(1728年)<br />享保期難波銭<br />
|}
元文2年([[1737年]])には前年([[1736年]])の品位を低下させた[[元文小判|元文金]][[元文丁銀|銀]]の発行により、銭相場が一両=2800文前後まで急騰したのを受け銭貨の増産が図られ、これらの銭貨の背面には鋳造地を示す文字が鋳込まれるようになる。元文元年には深川十万坪、[[淀藩|淀]][[鳥羽 (洛外)|鳥羽]]横大路、京都[[伏見宿|伏見]]、元文2年には江戸亀戸、江戸本所小梅(背面に「小」字)、[[下野国|下野]][[日光東照宮|日光]]、[[紀伊国|紀伊]]宇津、元文3年([[1737年]])には[[阿仁鉱山|秋田銅山]]、元文4年(1738年)には深川平野新田、[[相模国|相模]][[藤沢宿|藤沢]]、相模吉田島、下野[[足尾銅山|足尾]](「足」字)、長崎一ノ瀬(「一」字)、[[明和]]4年([[1767年]])には[[肥前国|肥前]][[長崎港|長崎]](「長」字)、など各地に銭座が設置され、小型の銭貨が大量に発行された<ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p35-70.]]</ref><ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p103-144.]]</ref><ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p216-224.]]</ref>。寛保元年([[1741年]])には[[摂津国|摂津]][[天王寺|天王寺村]]の銀座役人徳倉長右衛門、平野屋六郎兵衛の請負った大坂高津銭座で元字銭(「元」字)が大規模に鋳造された。寛保2年([[1742年]])に[[勘定所]]は別子・立川両銅山の出銅の[[銅座]]分の五歩ほどずつを天王寺の銭座に渡すことを命じた<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p221-223.]]</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="4"| 元文~明和年間鋳造
|-
|| [[Image:N-1736-1-Kaneitsuho-Janome.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元文元年(1736年)頃<br />元文期伏見銭<br />蛇之目
|| [[Image:N-1736-2-Kaneitsuho-Toranoo.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元文元年(1736年)<br />元文期平野新田銭<br />虎之尾寛
|| [[Image:N-1737-1-Kaneitsuho-Wakayama.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元文2年(1737年)<br />元文期和歌山中之島村銭<br />
|| [[Image:N-1737-2-Kaneitsuho-Koume.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元文2年(1737年)<br />元文期小梅銭<br />小
|-
|| [[Image:N-1737-3-Kaneitsuho-Nikko.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元文2年(1737年)<br />元文期日光久次良村銭<br />
|| [[Image:N-1738-1-Kaneitsuho-Akita.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元文3年(1738年)<br />元文期秋田銭<br />大字
|| [[Image:N-1741-3-Kaneitsuho-Ichinose.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元文5年(1740年)頃<br />寛保期長崎一之瀬銭<br />低寛
|| [[Image:N-1741-1-Kaneitsuho-Kozu.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛保元年(1741年)<br />寛保期高津銭<br />元
|-
|| [[Image:N-1741-2-Kaneitsuho-Ashio.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />寛保元年(1741年)<br />寛保期足尾銭<br />足
|| [[Image:N-1767-1-Kaneitsuho-Nagasaki.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明和4年(1767年)<br />明和期長崎銭<br />長
|| [[Image:N-1739-1-Kaneitsuho-HiranoShinden.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明和5年(1768年)<br />明和期亀戸銭<br />小様、四年銭
|}
江戸時代を通じた銅一文銭の総鋳造高は知る由も無いが、[[明治]]時代の[[大蔵省]]による流通高の調査では2,114,246,283枚としている<ref name="Okurasho1875">[[#Okurasho1875|大蔵省(1875).]]</ref>。
== 鉄一文銭 ==
元文4年([[1738年]])には銭相場の高値是正および材料の銅の供給不足などから、江戸深川十万坪、仙台[[石巻市|石巻]]、江戸[[本所 (墨田区)|本所]][[押上]]などの銭座で鉄一文銭の鋳造が始まり、さらに明和2年([[1765年]])から[[金座]]監督の下、江戸亀戸、明和4年([[1767年]])から京都伏見、明和5年([[1768年]])からは仙台石巻(「千」字)、[[常陸国|常陸]][[常陸太田市|太田]](「久、久二」字)などの銭座で鉄一文銭が大量に鋳造され<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p146-149, 152-154.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p71-74.]]</ref>、銭相場は下落し[[安永]]7年([[1778年]])頃には一両=6000文前後を付けるに至った<ref>[[#RyogaeNendaiki-2|両替年代記(1933), p341-349.]]</ref>。
鉄銭は'''鍋銭'''(なべせん)とも呼ばれ製作も悪く不評であった。伏見鉄銭以降の鉄銭について「コレヨリ後出ル所ノ鉄銭皆其質悪シ、茶碗ノ欠ヲ入ルコトハ、[[宝永通宝|寶永ノ大銭]]ヨリ初マリ、土ヲ入ル事ハ此銭ヨリ初ルトイヘリ」、さらに「故ニカネノ音ハナシ」と揶揄されるほどであった<ref>[[#Kusama1815|草間(1815), p159.]]</ref><ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p141.]]</ref>。中世には[[私鋳銭]]などの粗悪な銭貨を指した「[[鐚銭]]」の語も、この時代には鉄一文銭の俗称となったという。
[[天保]]6年([[1835年]])12月より[[天保通宝|天保通寳]]と同時に江戸深川で鋳造された鉄銭は洲崎銭と呼ばれたが<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p156-157.]]</ref>、天保通寳が広く流通したため58,100貫271文(58,100,271枚)<ref name="Zuroku1973" />と小額にとどまった。
[[日米修好通商条約]]において日本の銅銭輸出の禁止が明文化されていたが、日本国内では洋銀1ドル=銅銭4,976文替の相場であったのに対し、[[中国]]では800〜1,000文であったため、[[安政]]6年([[1859年]])の開港に伴い、外商らは競って日本の銅銭を中国に輸出した。これに対抗して幕府は銅一文銭を回収し、銅一文銭一貫文に対し鉄一文銭および天保通寳を差交えて一貫五百四十八文と引換え、四十八文は[[両替屋]]に手数料として与えた<ref name="Kobata1958-228">[[#Kobata1958|小葉田(1958), p228.]]</ref>。このときの引き換え用に安政6年(1859年)9月より[[小菅 (葛飾区)|小菅]]において鉄一文銭520,000貫文(520,000,000枚)が吹立てられた<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p159-161.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p74.]]</ref><ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p112-113.]]</ref>。
安政年間には、鉄一文銭の鋳造に4文の費用がかかっていたが、幕府は四文銭・天保銭の流通を維持するために損害承知の上でこれを鋳造し続けた。目的は異なるが、今日の[[一円硬貨#一円アルミニウム貨|一円アルミ貨]]も同様に額面を超える製造費用がかかっている<ref>日本専門図書出版『カラー版 日本通貨図鑑』</ref>。
鉄一文銭の総鋳造高は明治時代の大蔵省による流通高の調査により、6,332,619,404枚とされ<ref name="Okurasho1875" />、中でも明和年間以降の鋳造高が特に多く、亀戸では2,262,589貫文(2,262,589,000枚)、伏見1,422,782貫文(1,422,782,000枚)、常陸太田690,500貫文(690,500,000枚)などとなっている<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p224.]]</ref><ref name="Tebiki1998-95">[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p95.]]</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="4"| 鉄一文銭・元文~安政年間鋳造
|-
|| [[Image:T-1739-Kaneitsuho-Kashima.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />元文4年(1739年)<br />元文期中島加島村銭<br />
|| [[Image:T-1765-1-Kaneitsuho-Hushimi.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明和2年(1765年)<br />明和期伏見銭<br />
|| [[Image:T-1765-2-Kaneitsuho-Kameido.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明和2年(1765年)<br />明和期亀戸銭<br />
|| [[Image:T-1768-1-Kaneitsuho-Hisa.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明和5年(1768年)<br />明和期太田銭<br />久
|-
|| [[Image:T-1768-2-Kaneitsuho-Ishinomaki.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明和5年(1768年)<br />明和期石巻銭<br />千
|| [[Image:T-1774-Kaneitsuho-Hisani.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />安永3年(1774年)<br />安永期太田銭<br />久二
|| [[Image:T-1835-Kaneitsuho-Suzaki.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />天保6年(1835年)<br />天保期洲崎銭<br />十字寛
|| [[Image:T-1859-Kaneitsuho-Kosuge.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />安政6年(1859年)<br />安政期小菅銭<br />
|}
== 真鍮四文銭 ==
鉄一文銭は見栄えも悪く不評であったことから[[川井久敬]]の建議により真鍮四文銭が制定され、明和5年([[1768年]])に江戸深川[[千田 (江東区)|千田]]新田に[[銀座 (歴史)|銀座]]監督の下銭座が設けられ、四文銭が鋳造された。川井久敬が銀座に真鍮四文銭の鋳造を請負わせたのは、当時銀座にはおびただしい上納滞銀があり、これを幕府に返済させる手段としての理由があった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p300-301.]]</ref>。
一文銭よりやや大型で、背面に川井家の[[家紋]]である波を描きウコン色に輝くこの銭貨は'''波銭'''(なみせん)とも呼ばれ好評であった。四文銭については'''浪銭'''と表記されることもあるほか、'''青銭'''と呼ばれることもあった<ref name="adachi">{{Cite journal|和書|title=明治文学に現われた天保通宝 |author=阿達義雄 |year=1976 |journal=新潟青陵女子短期大学研究報告 |publisher=新潟青陵女子短期大学 |volume=6 |issue=6 |pages=1-19 |url=https://doi.org/10.32147/00001847 |doi=10.32147/00001847 |naid=110000299912 |ISSN=0386-5630 |accessdate=2022-08-17}}</ref>。量目は一匁四分(5.2グラム)、規定品位は銅68%、[[亜鉛]]24%、[[鉛]]など8%であった<ref name="Tebiki1998-99">[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p99.]]</ref>。発行初年は二十一波のものであったが、鋳造に困難を来したため、翌年([[1769年]])からは簡略化した十一波に変更された<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p145-146.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p75-78.]]</ref><ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p145-148.]]</ref>。
これが発行された頃から、物の値段に16文、24文など4の倍数が多くなり、1串に5つの団子を5文で売られていたのが、1串4つで4文になったという。また、現代の[[100円ショップ]]に類似したものとして、4文均一の「四文屋」というのもあった。
[[文政]]4年([[1821年]])11月からは浅草橋場で四文銭の増産が行われた。このときのものは規定品位が銅75%、亜鉛15%、鉛など10%へ変更となり<ref name="Tebiki1998-99" />、赤みを帯びることから'''赤銭'''(あかせん)と呼ばれる<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p155-156.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p78-80.]]</ref>。
[[安政]]4年([[1857年]])11月には江戸東大工町で四文銭の鋳造が始まり<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p158-159.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p80.]]</ref>、規定品位が銅65%、亜鉛15%、鉛など20%となった。黒味を帯び、穿内にやすりがかけられ[[文久永宝|文久永寳]]に製作が類似するものがこれであるとされる<ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p108.]]</ref>。
真鍮四文銭の総鋳造高は157,425,360枚<ref name="Okurasho1875" />、あるいは22,145,520貫文<ref name="Zuroku1973" /><ref name="Tebiki1998-95" />(何枚を一貫文とするか不明)と文献により大きく異なり、明和年間における吹高は1年に55,000貫文と定められ[[安永]]3年(1774年)9月には吹高を半減し、その後も随時減じたとの記録もあり、また文政年間の鋳造高は79,700貫文との記録もある<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p225.]]</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="4"| 真鍮當四文銭・明和~安政年間鋳造
|-
|| [[Image:M4-1768-Kaneitsuho-21NamiMeiwa.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明和5年(1768年)<br />明和期千田新田銭<br />二十一波
|| [[Image:M4-1769-Kaneitsuho-11NamiMeiwa.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />明和6年(1769年)<br />明和期千田新田銭<br />十一波
|| [[Image:M4-1821-Kaneitsuho-11NamiBunsei.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />文政4年(1821年)<br />文政期浅草橋場銭<br />赤銭
|| [[Image:M4-1857-Kaneitsuho-11NamiAnsei.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />安政4年(1857年)<br />安政期深川東大工町銭<br />
|}
安政年間に入ると當百銭、真鍮銭、一文小銭などの相場にはそれぞれ差異が生じ、幕府はたびたび額面通り滞りなく通用するよう触書を出すが市場において差別通用が止まず、慶應元年([[1865年]])[[閏]]5月、ついに天然相場を容認し江戸市中両替屋で銅小銭、真鍮銭に対し増歩通用を認めるに至った。このとき鉄一文銭を基準として以下のような相場となった<ref name="Kobata1958-228" />。天保通寳については従来通り100文で通用するよう申し渡した。
* 文銭および耳白銭:6文
* その他寛永通寳銅一文銭:4文
* 寛永通寳真鍮當四文銭:12文
* 文久永寳當四文銭:8文
慶應3年([[1867年]])、幕府はすべての銭貨を天然相場に委ねる事としたが、銅銭および真鍮銭の相場はさらに上昇した。
== 鉄四文銭 ==
万延元年12月(1861年)から四文銭も鉄銭として発行されるようになった。幕府は特に精錬した鉄地金を用いた'''精鉄四文銭'''(せいてつしもんせん)であることを強調したが<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p161-162.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p81-82.]]</ref>、評判は悪く、鋳銭に関して損失が出るなどしたため発行は少数にとどまり<ref name="Okurasho1875" /><ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p116-117.]]</ref>、後にこれを受けて材質を銅に戻して寛永通寳真鍮四文銭より量目を減じた[[文久永宝|文久永寳]]が発行された。このときの銀座による鉄四文銭の鋳造高は101,887,062枚とされる<ref name="Okurasho1875" /><ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p142.]]</ref><ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p226.]]</ref>。
万延元年からは東大工町、[[慶應]]元年([[1865年]])からは小梅の水戸藩邸(「ト」字)、慶應2年([[1866年]])からは陸奥大迫(「盛」字)、石巻(「千」字)、深川十万坪(「ノ」字)、慶應3年([[1867年]])からは[[安芸国|安芸]][[広島藩|広島]](「ア」字)でも鋳造された<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p166-178.]]</ref><ref>[[#Ogawa1966|小川(1966), p82-93.]]</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:left; white-space:nowrap; background-color:#ffffff;"
|-
! colspan="4"| 精鉄當四文銭・万延~慶應年間鋳造
|-
|| [[Image:T4-1860-Kaneitsuho-11NamiSeitetsu.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />万延元年(1860年)<br />万延期深川東大工町銭<br />精鉄
|| [[Image:T4-1865-Kaneitsuho-11NamiMito.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />慶應元年(1865年)<br />慶應期小梅水戸藩邸銭<br />ト
|| [[Image:T4-1866-1-Kaneitsuho-11NamiMorioka.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />慶應2年(1866年)<br />慶應期盛岡大迫銭<br />盛
|| [[Image:T4-1866-2-Kaneitsuho-11NamiIshinomaki.jpg|200px]]<br />寛永通寳<br />慶應2年(1866年)<br />慶應期石巻銭<br />千
|}
== 明治以降 ==
以上のように江戸幕府が発行した寛永通宝であるが、明治以降も[[日本の補助貨幣|補助貨幣]]として引き続き通用した。
倒幕後、慶應4年閏4月14日([[1868年]])、新政府は銅銭の海外流出、銅地金の高騰、さらに市場での相場の実態を踏まえて、[[太政官]]布告第306号により鉄一文銭に対する銅銭および真鍮銭の増歩をさらに引き上げ以下のように定めた<ref>[[#Zaiseishi1905|明治財政史(1905), p314-317.]]</ref>。
* 寛永通寳銅一文銭:12文
* 寛永通寳真鍮當四文銭:24文
* 文久永寳當四文銭:16文
* 天保通寳當百文銭:96文<ref group="注釈">省陌(短陌)勘定であり、96文を以て100文に通用させている。例えば真鍮四文銭(24文通用)は天保百文銭1枚に付4枚を以て換え、銅1文銭(12文通用)は天保銭1枚に付8枚を以て換えるとしている。[[竜切手|竜文切手]]も参照。</ref>
精鉄四文銭については2文程度の通用価値となった。明治2年7月10日太政官布告第633号では金1両は銭10貫文と定められた。
明治4年([[1871年]])には[[新貨条例]]が制定され、[[円 (通貨)|円]]・[[銭]]・[[厘]]の通貨体制に移行したが、以降は次の額で通用した(新貨条例は単位を一厘とし十進法を採用したため、旧銭貨を従来の通用価値のまま混用流通させることは困難だった<ref name="adachi" />)。[[法定通貨|法貨]]としての通用制限額は、銅銭は新銅貨と同じく一圓まで、鉄銭は五十銭と定められた<ref>[[#Zaiseishi1905|明治財政史(1905), p446-449.]]</ref>。
: 明治4年12月19日太政官布告第658号
* 寛永通寳銅一文銭:1厘
* 寛永通寳真鍮四文銭:2厘
: 明治5年9月24日太政官布告第283号
* 寛永通寳鉄一文銭:1/16厘
* 寛永通寳鉄四文銭:1/8厘
このうち銅銭・真鍮銭は引き続き通用した。特に明治政府の発行した[[一厘硬貨|1厘銅貨]]の枚数はあまり多くなく、1厘銅貨には直径が小さすぎるという流通の不便さもあり、[[一銭硬貨|竜1銭]]・[[半銭硬貨|半銭銅貨]]が十分な量が発行された明治21年([[1888年]])まで製造され続けたのに対し、それより先の明治17年([[1884年]])に直径が大きすぎる[[二銭硬貨|2銭銅貨]]と共に製造中止となったこともあり、1厘単位の貨幣として主な役割を果たしたのは寛永通宝であった。そのため明治時代には寛永通宝銅一文銭は「一厘銭」、寛永通宝真鍮四文銭は「二厘銭」と呼ばれていた。鉄銭については、明治6年([[1873年]])12月に太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失った(法的には明治30年9月末の[[貨幣法]]施行前まで通用)。しかし、明治30年([[1897年]])頃より次第に流通が減少し、明治45年([[1912年]])頃には厘位の代償として[[マッチ]]や[[紙]]などの日用品を用いるようになり、[[大正]]5年([[1916年]])4月1日には租税及び公課には厘位を切捨てることとなり、一般商取引もこれに準じたため不用の銭貨となった(『寛永錢記』)<ref>[[#Seihouro1967|青寳楼(1967), p7.]]</ref><ref>[[#Imaizumi1927|今泉(1927), p41.]]</ref>。寛永通宝が大部分の地域の一般商店等でほとんど使用されなくなった大正期や昭和初期でも、一部地方の商店等で用いられたり、あるいは銀行間決済の最小単位の通貨として用いられることがあったという。法的に寛永通宝の銅銭・真鍮銭が通用停止となったのは、[[1953年|昭和28年]]末の[[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律]]の施行により円未満の通貨が全て通用停止とされた時であり<ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p223.]]</ref><ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p216-217.]]</ref>、同時に1厘5毛通用とされていた文久永宝も通用停止となり、この時をもって江戸時代に発行された貨幣は全て通用停止となったことになる。以降は[[硬貨#コイン収集|コイン収集家]]による収集対象となるのみである。
[[File:Zenigata sunae.jpg|240px|thumb|[[琴弾公園]]の銭形砂絵]]
ただし、各地の例では[[銭形砂絵]]がある[[香川県]][[観音寺市]]で寛永通宝が観光資源として位置づけられており、[[2010年]](平成22年)4月4日から市内の[[地域通貨]]として寛永通宝を使用できるようになった。市内の使用可能店で1枚30円(銅一文銭・真鍮四文銭が使用可能だが両者の区別なくいずれも30円扱い、鉄銭は使用不可)で使用でき、商店は市の[[町おこし]]グループ「ドピカーン観音寺実行委員会」に持ち込めば1枚30円で換金できる<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20100406000075 「寛永通宝」で買い物楽しむ/観音寺お宝市 四国新聞社 2010年4月6日午前9時26分]</ref><ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20100216000097 「寛永通宝」でお買い物/観音寺、地域通貨に 四国新聞社 2012年2月16日午前9時35分]</ref>。ただし、寛永通宝は本物であれば多く出回っているものでも買い取りで1枚10円程度、珍品なら数百万円するといわれており(下記外部リンク参照)、1枚30円として使用してしまうと大損をする場合もあり得るので注意が必要である。
== その他 ==
[[常陸国]]の[[飯塚伊賀七]]は、寛永通宝を用いた[[そろばん]]を発明した<ref>[[#Setani1989|茨城地方史研究会 編『茨城の史跡は語る』瀬谷義彦・佐久間好雄 監修、茨城新聞社、平成元年12月30日、317pp.]]</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=今泉忠左エ門編 |title=寛永錢記 |publisher=泉行館 |date=1927 |doi=10.11501/1223782 |ref=Imaizumi1927 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223782}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳 |title=貨幣と鉱山 |edition= |series= |volume= |publisher=[[思文閣出版]] |date=1999 |isbn= 978-4-7842-1004-6 |ref=Kobata1999}}
* {{Cite book|和書|author=草間直方 |title=三貨図彙 |publisher= |date=1815 |ref=Kusama1815}}
* {{Cite book|和書|author=増尾富房 |title=古寛永泉志 |publisher=穴銭堂 |date=1971 |isbn= |ref=Masuo1971}}
* {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn= 978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}}
* {{Cite book|和書|author=青寳楼小川浩 |title=寛永通寳錢譜 |publisher=日本古錢研究会 |date=1967 |isbn= |ref=Seihouro1967}}
* {{Cite book|和書|author=小川吉儀 |title=新寛永銭鑑識と手引き |publisher=万国貨幣研究会 |date=1966 |isbn= |ref=Ogawa1966}}
* {{Cite book|和書|author=瀬谷義彦・佐久間好雄 監修、茨城地方史研究会 編 |title=茨城の史跡は語る |edition=初版 |series= |volume= |publisher=茨城新聞社 |date=1989-12-30 |isbn=978-4-872-73149-1 |ref=Setani1989}}
* {{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄 |title=日本の貨幣の歴史 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1996 |isbn= 4-642-06652-7 |ref=Takizawa1996}}
* {{Cite book|和書|author=瀧澤武雄, 西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn= 4-490-20353-5 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn= 978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|author=安国良一 |title=日本近世貨幣史の研究 |publisher=思文閣出版 |date=2016 |isbn= 978-4-7842-1848-6 |ref=Yasukuni2016}}
* {{Cite book|和書|editor=大蔵省 |title=新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書 |doi=10.11501/994141 |publisher=大蔵省 |date=1875 |isbn= |ref=Okurasho1875 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994141}}
* {{Cite book|和書|editor=大蔵省造幣局 |title=貨幣の生ひ立ち |edition= |series= |volume= |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1940 |isbn= |ref=Zoheikyoku1940}}
* {{Cite book|和書|editor=明治財政史編纂会 |title=明治財政史(第11巻)通貨 |edition= |series= |volume= |publisher=明治財政史発行所 |date=1905 |doi=10.11501/993256 |ref=Zaiseishi1905 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993256}}
* {{Cite book|和書|editor=日本銀行調査局土屋喬雄 |title=図録 日本の貨幣・2巻「近世幣制の成立」 |publisher=東洋経済新報社 |date=1973 |isbn= |ref=Zuroku1973}}
* {{Cite book|和書|editor=三井高維 |title=新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇 |edition= |series= |volume= |publisher=岩波書店 |date=1933 |ref=RyogaeNendaiki-2}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本の貨幣-収集の手引き- |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=1998 |isbn= |ref=Tebiki1998}}
== 関連項目 ==
* [[観音寺市]] - 寛永通寳をかたどった巨大な砂絵([[銭形砂絵]])がある
* [[銭形平次捕物控]] - 主人公の銭型平次が劇中で投げるのは寛永通宝真鍮四文銭。
* [[ブンセン]] - [[兵庫県]]の[[食品メーカー]]。社名の由来。
{{江戸時代の貨幣}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かんえいつうほう}}
[[Category:江戸時代の硬貨]]
[[Category:日本の硬貨]]
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尊王論
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尊王論(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。
儒教における理念で、仁徳による統治を意味する「王道」と、武力や策略による統治である「覇道」を対比し(孟子#王覇を参照)、王道を尊ぶことを説くのが尊王論である。(尊王斥覇(せきは))
中国においては「王者」のモデルは古代周王朝の王であったことからもともと「尊王」と書いた。
日本では当初鎌倉時代から南北朝時代にかけて尊王論が受容され、天皇を「王者」、武家政権(幕府)を「覇者」とみなし後者を否定する文脈で用いられ、鎌倉幕府の滅亡・建武の新政への原動力となった。
幕藩体制においては、朝廷は幕府の制約を受けていたが、権威的秩序、宗教的な頂点の存在として位置づけられた。幕政改革の混乱や、異国船の来航による対外的緊張等政治的混乱が起こると、幕府は秩序維持の為大政委任論に依存して朝廷権威を政治利用し、朝廷の権威が復興する。
江戸時代中期に国学がさかんになり、記紀や国史、神道等の研究が行われ、武士や豪農等の知識層へも広まる。また、天皇陵の修復や、藩祖を皇族に結びつける風潮も起こる。
幕末には、平田国学や水戸学等ナショナリズムとして絶対化され、仏教を排斥する廃仏毀釈としても現れる。幕府が諸外国と条約を結び、鎖国体制を解いて開国を行うと、攘夷論と結合して尊王攘夷(尊攘)となり、幕政批判や討幕運動等へと展開していく素地のひとつとなり、明治以降の国体論や国家神道へも影響する。
徳川幕府は朱子学を支配原理として採用し、官学として、儒教思想を定着させた。しかし、もともと武士の争乱の末に政権を奪取した徳川幕府は「王道」に反する「覇道」にあたるから、朱子学による幕府の正統化の論理は、最初から矛盾をはらんでいた。山鹿素行は、儒学のモデルであり、当時の憧れの対象であった中国明が滅び、清に支配されて、もはや規範ではなくなったため、日本こそが儒学の正統だとして、「日本こそ中国である」と論じた。また、儒教思想の日本への定着はすなわち、中華思想(華夷思想)の日本への定着を意味し、近代の皇国史観などに影響を与え、日本版中華思想ともいうべきものの下地となった。儒教では、湯武放伐を認めるかどうかが難題とされてきたが、徳川幕府は朱子学について孟子的理解に立ち、湯武放伐、易姓革命論を認めており、そうすると天皇を将軍が放伐してよいことになるため、山崎闇斎を始祖とする崎門学派が湯武放伐を否定して、体制思想としての朱子学を反体制思想へと転化させた。そして、従来は同じく中国思想であったものが日本化した攘夷論とむすびつき、幕府や幕藩体制を批判する先鋭的な政治思想へと展開していき、この思想が明治維新の原動力となった。また、「昭和維新」を標榜する昭和期の右翼や二・二六事件の反乱軍などにより「尊皇討奸」というスローガンが掲げられている。
なお幕末期における「尊王」の対義語として「佐幕」という言葉が使われることがあるが、「佐幕」は「尊王」と矛盾するものではなく、「佐幕」の対義語はあくまで「倒幕」である。なにより孝明天皇自身が討幕に強く反対していたこともあり、「尊王敬幕」というスタンスを打ち出した藩もあった。
板垣退助は、明治15年(1882年)3月、『自由党の尊王論』を著し、自由主義は尊皇主義と同一であることを力説し自由民権の意義を説いた。
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尊王論(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。
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{{独自研究|date=2015-3}}
[[ファイル:Kinki (1868).jpg|thumb|[[戊辰戦争]]で官軍が用いた[[錦の御旗|錦旗]]。]]
'''尊王論'''(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の[[儒教]]に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。
==概要==
{{要出典範囲|date=2015-01-18|[[儒教]]における理念で、仁徳による統治を意味する「[[王道]]」と、武力や策略による統治である「覇道」を対比し([[孟子#王覇]]を参照)、王道を尊ぶことを説くのが尊王論である。(尊王斥覇(せきは))}}
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==朱子学との関係==
[[江戸幕府|徳川幕府]]は朱子学を支配原理として採用し、官学として、[[儒教]]思想を定着させた。しかし、{{要出典範囲|date=2015-1-18|もともと武士の争乱の末に政権を奪取した徳川幕府は「王道」に反する「覇道」にあたるから、朱子学による幕府の正統化の論理は、最初から矛盾をはらんでいた}}。[[山鹿素行]]は、儒学のモデルであり、当時の憧れの対象であった中国[[明]]が滅び、[[清]]に支配されて、もはや規範ではなくなったため、日本こそが儒学の正統だとして、「日本こそ[[中国]]である」と論じた。また、儒教思想の日本への定着はすなわち、[[中華思想]](華夷思想)の日本への定着を意味し、近代の[[皇国史観]]などに影響を与え、日本版中華思想ともいうべきものの下地となった。儒教では、[[放伐|湯武放伐]]を認めるかどうかが難題とされてきたが、徳川幕府は朱子学について[[孟子]]的理解に立ち、湯武放伐、[[易姓革命]]論を認めており、そうすると天皇を将軍が放伐してよいことになるため、[[山崎闇斎]]を始祖とする崎門学派が湯武放伐を否定して、体制思想としての朱子学を反体制思想へと転化させた。そして、従来は同じく中国思想であったものが日本化した[[攘夷論]]とむすびつき、幕府や幕藩体制を批判する先鋭的な[[政治哲学|政治思想]]へと展開していき、この思想が[[明治維新]]の原動力となった。また、「[[昭和維新]]」を標榜する昭和期の右翼や[[二・二六事件]]の反乱軍などにより「尊皇討奸」というスローガンが掲げられている。
なお{{要出典範囲|date=2015-1-18|[[幕末]]期における「尊王」の対義語として「佐幕」という言葉が使われることがあるが}}、「佐幕」は「尊王」と矛盾するものではなく、{{要出典範囲|date=2015-1-18|「佐幕」の対義語はあくまで「倒幕」である}}。なにより[[孝明天皇]]自身が討幕に強く反対していたこともあり、{{要出典範囲|date=2015-1-18|「尊王敬幕」というスタンスを打ち出した藩もあった}}。
== 自由党の尊王論 ==
[[板垣退助]]は、明治15年([[1882年]])3月、『自由党の尊王論』を著し、[[自由主義]]は[[尊王|尊皇主義]]と同一であることを力説し[[自由民権運動|自由民権]]の意義を説いた。
{{quotation|世に[[尊王]]家多しと雖(いえど)も吾(わが)自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。世に忠臣少からずと雖も、吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。(中略)吾党は我 皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也。(中略)吾党は深く我 皇帝陛下を信じ奉る者也。又堅く我国の千歳に垂るるを信ずる者也。吾党は最も我 皇帝陛下の明治元年三月十四日の御誓文([[五箇条の御誓文]])、同八年四月十四日立憲の詔勅、及客年十月十二日の勅諭を信じ奉る者也。既に我 皇帝陛下には「'''広く会議を興し万機公論に決すべし'''」と宣(のたま)ひ、又「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」と宣(のたま)ひたり。吾党、固(もと)より我 皇帝陛下の之(これ)を履行し、之(これ)を拡充し給ふを信ずる也。又、立憲の政体を立て汝衆庶と俱(とも)に其慶幸に頼(たよ)らんと欲す。(中略)既に立憲政体を立てさせ給ひ、其慶幸に頼らんと宣ふ以上は、亦吾党に自由を与へ吾党をして自由の民たらしめんと欲するの叡慮なることを信ずる也。(中略)況や客年十月の聖諭の如きあり。断然二十三年を以て代議士を召し国会を開設せんと叡断あるに於ておや。(中略)故に'''吾党が平生自由を唱え権利を主張する者は悉く仁慈 皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、一点(の)私心を(も)其間に挟まざる者'''也。(中略)斯(かく)の如くにして吾党は 皇帝陛下を信じ、我 皇帝陛下の意の在る所に随ふて、此立憲政体の慶幸に頼らんと欲する者也。(中略)方今、支那、魯西亜(ロシア)、土耳古(トルコ)諸邦の形状を察すれば、其帝王は驕傲無礼にして人民を軽侮し土芥之を視、人民は其帝王を畏懼し、或は怨望し雷霆の如く、讎敵の如くし、故に君民上下の間に於て曾(かつ)て其親睦愛情の行はるる事なし。(中略)今、吾党の我日本 皇帝陛下を尊崇する所以(ゆえん)は、固(もと)より支那、土耳古(トルコ)の如きを欲せざる也。又、大(おおい)に魯西亜(ロシア)の如きを好まざる也。吾党は'''我人民をして自由の民'''たらしめ、'''我邦をして[[文明]]の国'''に位し、([[皇帝]]陛下を)'''自由貴重の民上に君臨'''せしめ、'''無上の光栄'''を保ち、'''無比の尊崇'''を受けしめんと企図する者也。(中略)是吾党が平生堅く聖旨を奉じ、自由の主義を執り、政党を組織し、国事に奔走する所以(ゆえん)也。乃(すなわ)ち皇国を千載に伝へ、皇統を無窮に垂れんと欲する所以(ゆえん)なり。世の真理を解せず、時情を悟らず、固陋自ら省みず、妄(みだ)りに尊王愛国を唱へ、却(かえっ)て聖旨に違(たが)ひ、立憲政体の準備計画を防遏(ぼうあつ)し、皇家を率ゐて危難の深淵に臨まんと欲する者と同一視すべからざる也。是れ吾党が古今[[尊王]]家多しと雖(いえど)も我自由党の如くは無し、古今忠臣義士尠(すくな)からずと雖も我自由党諸氏が忠愛真実なるに如(し)かずと為(な)す所以(ゆえん)なり。<br>
『自由党の尊王論』[[板垣退助]]著}}
== 参考文献 ==
*[[板垣退助]]『自由党の尊皇論』
*[[山本七平]]『現人神の創作者たち』
*[[小室直樹]]『論理の方法』
*[[橋爪大三郎]]『世界がわかる宗教社会学入門』
*[[中野正志]]『[[万世一系]]のまぼろし』
== 関連項目 ==
*『[[大日本史]]』 ‐ 『[[日本外史]]』
*[[尊王攘夷]] ‐ [[倒幕運動]]
*[[浅見絅斎]]
*[[中朝事実]]
*[[明和事件]]
*[[勤王]]
*[[君主制]]
*[[王党派]]
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攘夷論
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攘夷論(じょういろん)は、日本においては幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想である。元は中国の春秋時代の言葉で、西欧諸外国の日本進出に伴い、夷人(いじん)を夷狄 (いてき) 視し攘(はら)おう、つまり実力行使で外国人を排撃しようという考えであり、華夷思想による日本の独善的観念と国学に基づいた国家意識が源となっている。
攘夷論は、江戸時代後半の日本において、西洋諸国の接近に対応して海防論の一環として生まれ、展開した排外思想で、江戸時代にあっては、西洋列強の東アジア接近以前より、対外貿易は日本における有益の品々と外国産の無用の品々を交換するものにすぎないという貿易有害無益論があり、キリスト教の排斥とともに、いわば前提視されていた。
水戸藩を中心に朱子学の影響を強く受けた水戸学が隆盛し、1820年代から1830年代にかけては水戸学における攘夷論が確立した。これは、儒学における華夷思想を素地としており、欧米諸国は卑しむべき夷狄であるから、日本列島にその力が及んだ場合、直ちに打ち払うべきだとする考えであるが、こうした考えの根底にあったのは、西洋諸国との交わりはキリスト教その他の有害思想の浸透につながるという、一種の文化侵略に対する危機感であった。水戸藩領地沿岸には大津浜事件以外にもイギリスの捕鯨船がたびたび接近し、幕府及び藩の禁令を無視して漁民たちと交流および物資交換などを行っていたことも、水戸藩における攘夷論の高まりの遠因となっている。江戸幕府が文政8年(1825年)に発した異国船打払令も、こうした危機感の現れであった。
一方、国学の発展によって、日本は神国であるというナショナリズム(神国思想)が次第に力を増し、勤皇思想(尊王論)もまた力を得ていたが、これが現実の外国勢力の脅威下で攘夷論と結びついて尊王攘夷論が形作られた。尊王攘夷の思想は、特に 嘉永6年(1853年)の黒船来航(マシュー・ペリーの来航)によって開港された後、日米修好通商条約締結反対を主張する反幕勢力の思想的支柱となり、鎖国を維持しようとする諸藩の下級志士や公卿たちによって支持された。老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わった徳川斉昭は、水戸学の立場から強硬な攘夷論を主張した。そして、開国後から明治維新直後にかけて攘夷思想による外国人襲撃・殺害事件が頻発する。
しかし、攘夷を実行した長州藩による下関戦争は大敗北に終わり、外国艦隊との間の圧倒的な軍事力の差に直面したことにより、鎖国政策の維持に固執した攘夷論に対する批判が生じた。津和野藩の国学者大国隆正らは、国内統一を優先して、外国との交易によって富国強兵を図った上で諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする「大攘夷」論を主張し、これを長州藩の尊攘派も受け入れた。従来、攘夷運動の主力であった人びとが倒幕へ向かったのである。
なお、攘夷論は「攘夷か開国か」という形で開国論と対置される場合が多いが、厳密には、現実政策としての開国論と対立するのは鎖国論のはずである。一方、国際社会の捉え方という観点では、攘夷論(というよりも攘夷論の前提をなす華夷思想)と対立するのは、それぞれの国家は独立し、平等の存在であるべきだとする主権対等の観念であるといえる。
大政奉還後、薩長をはじめとする西南雄藩の出身者が中心となって明治政府が成立したが、「草莽」と呼ばれた一部の人びとは鎖国に固執し、攘夷運動を継続しようとした。明治2年(1869年)5月28日、新政府は、政府部内の公議所・上局から挙げられた「公議輿論」が、鎖国に立脚した攘夷は不可能であるというものであったことを理由に「開国和親」を国是とすることを決定し、以後は鎖国論を議題としない旨を公表した。また、「草莽の志士」に対しても、出稼ぎ農民とともに勝手に本国より離れたものとして人返しの対象にすることを決定した(五榜の掲示の第5札、実際の取締規定は明治2年以後である)。しかし、復古的な攘夷論がこれによって一掃されたわけではなく、大楽源太郎の反乱計画や二卿事件、久留米藩難など明治政府を倒して攘夷を断行しようとする事件が起こっている。
攘夷論は鎖国論と結びついて発生したものの、やがて西洋列強に並び立つための海外膨張論などを生み出し、やがて華夷思想の解体とともに消滅した。だが、富国強兵の後に攘夷を行う大攘夷主義と変化していく。
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"text": "攘夷論は鎖国論と結びついて発生したものの、やがて西洋列強に並び立つための海外膨張論などを生み出し、やがて華夷思想の解体とともに消滅した。だが、富国強兵の後に攘夷を行う大攘夷主義と変化していく。",
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攘夷論(じょういろん)は、日本においては幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想である。元は中国の春秋時代の言葉で、西欧諸外国の日本進出に伴い、夷人(いじん)を夷狄 (いてき) 視し攘(はら)おう、つまり実力行使で外国人を排撃しようという考えであり、華夷思想による日本の独善的観念と国学に基づいた国家意識が源となっている。
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[[ファイル:Yokohama-Sumo-Wrestler-Defeating-a-Foreigner-1961-Ipposai-Yoshifuji.png|thumb|220px|攘夷論の風刺図(開港直後の横浜で行われた相撲の模様を描いている)]]
'''攘夷論'''(じょういろん)は、[[日本]]においては[[幕末]]期に広まった、外国との[[貿易|通商]]反対や外国を撃退して[[鎖国]]を通そうとしたりする[[排外主義|排外思想]]である<ref>『[[大辞泉]]』小学館[https://kotobank.jp/word/%E6%94%98%E5%A4%B7%E8%AB%96-78825#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89]</ref>。元は[[中国]]の[[春秋時代]]の言葉で、[[西欧]]諸外国の日本進出に伴い、夷人(いじん)を[[夷狄]] (いてき) 視し攘(はら)おう、つまり[[実力行使]]で外国人を排撃しようという考えであり、[[中華思想|華夷思想]]による日本の独善的観念と[[国学]]に基づいた国家意識が源となっている<ref>『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』[https://kotobank.jp/word/%E6%94%98%E5%A4%B7%E8%AB%96-78825#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8]</ref>。
== 概要 ==
攘夷論は、[[江戸時代]]後半の日本において、[[西洋]]諸国の接近に対応して海防論の一環として生まれ、展開した[[排外主義|排外思想]]で<ref name=joui>[[#攘夷|『世界大百科事典』(1988)「攘夷論」]]</ref>、江戸時代にあっては、西洋列強の[[東アジア]]接近以前より、対外[[貿易]]は日本における有益の品々と外国産の無用の品々を交換するものにすぎないという貿易有害無益論があり、[[キリスト教]]の排斥とともに、いわば前提視されていた<ref name=kaibou>[[#海防|『世界大百科事典』(1988)「海防論」]]</ref>。
[[水戸藩]]を中心に[[朱子学]]の影響を強く受けた[[水戸学]]が隆盛し、[[1820年代]]から[[1830年代]]にかけては水戸学における攘夷論が確立した<ref name=kaibou/>。これは、[[儒学]]における華夷思想を素地としており、[[欧米]]諸国は卑しむべき夷狄であるから、[[日本列島]]にその力が及んだ場合、直ちに打ち払うべきだとする考えであるが、こうした考えの根底にあったのは、西洋諸国との交わりは[[キリスト教]]その他の有害思想の浸透につながるという、一種の文化侵略に対する危機感であった<ref name=kaibou/>。水戸藩領地沿岸には[[大津浜事件]]以外にもイギリスの捕鯨船がたびたび接近し、幕府及び藩の禁令を無視して漁民たちと交流および物資交換などを行っていたことも、水戸藩における攘夷論の高まりの遠因となっている<ref name=sonno>尊皇攘夷―水戸学の四百年―、片山杜秀、2021年</ref>。[[江戸幕府]]が[[文政]]8年([[1825年]])に発した[[異国船打払令]]も、こうした危機感の現れであった<ref group="注釈">異国船打払令は、[[文化 (元号)|文化]]5年[[8月 (旧暦)|8月]](西暦[[1808年]][[10月]])に起きた[[フェートン号事件]]に衝撃を受けた幕府が、文政7年の[[大津浜事件]]と[[宝島事件]]を危険視して発令したものである。</ref>。
一方、国学の発展によって、日本は[[神国]]であるという[[ナショナリズム]](神国思想)が次第に力を増し、[[勤皇]]思想([[尊王論]])もまた力を得ていたが、これが現実の外国勢力の脅威下で攘夷論と結びついて[[尊王攘夷]]論が形作られた。尊王攘夷の思想は、特に [[嘉永]]6年([[1853年]])の[[黒船来航]]([[マシュー・ペリー]]の来航)によって[[開港]]された後、[[日米修好通商条約]]締結反対を主張する反幕勢力の思想的支柱となり、[[鎖国]]を維持しようとする諸藩の下級志士や公卿たちによって支持された。老中首座・[[阿部正弘]]の要請により海防参与として幕政に関わった[[徳川斉昭]]は、水戸学の立場から強硬な攘夷論を主張した。そして、開国後から[[明治維新]]直後にかけて攘夷思想による[[幕末の外国人襲撃・殺害事件|外国人襲撃・殺害事件]]が頻発する。
しかし、攘夷を実行した[[長州藩]]による[[下関戦争]]は大敗北に終わり、外国艦隊との間の圧倒的な[[軍事力]]の差に直面したことにより、鎖国政策の維持に固執した攘夷論に対する批判が生じた。[[津和野藩]]の[[国学者]][[大国隆正]]らは、国内統一を優先して、外国との交易によって[[富国強兵]]を図った上で諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする「[[大攘夷]]」論を主張し、これを長州藩の尊攘派も受け入れた。従来、攘夷運動の主力であった人びとが[[倒幕]]へ向かったのである。
なお、攘夷論は「攘夷か開国か」という形で開国論と対置される場合が多いが、厳密には、現実政策としての開国論と対立するのは鎖国論のはずである<ref name=joui/>。一方、国際社会の捉え方という観点では、攘夷論(というよりも攘夷論の前提をなす華夷思想)と対立するのは、それぞれの[[国家]]は独立し、平等の存在であるべきだとする[[主権]]対等の観念であるといえる<ref name=joui/>。
[[大政奉還]]後、薩長をはじめとする[[西南雄藩]]の出身者が中心となって[[明治政府]]が成立したが、「[[草莽]]」と呼ばれた一部の人びとは鎖国に固執し、攘夷運動を継続しようとした。[[明治]]2年([[1869年]])5月28日、新政府は、政府部内の[[公議所]]・[[上局]]から挙げられた「[[公議輿論]]」が、鎖国に立脚した攘夷は不可能であるというものであったことを理由に「開国和親」を[[国是]]とすることを決定し、以後は鎖国論を議題としない旨を公表した。また、「草莽の志士」に対しても、[[出稼ぎ]]農民とともに勝手に本国より離れたものとして[[人返し]]の対象にすることを決定した([[五榜の掲示]]の第5札、実際の取締規定は明治2年以後である)。しかし、[[復古主義|復古]]的な攘夷論がこれによって一掃されたわけではなく、[[大楽源太郎]]の反乱計画や[[二卿事件]]、[[久留米藩難]]など明治政府を倒して攘夷を断行しようとする事件が起こっている。
攘夷論は鎖国論と結びついて発生したものの、やがて西洋列強に並び立つための海外膨張論などを生み出し、やがて華夷思想の解体とともに消滅した<ref name=joui/>。だが、富国強兵の後に攘夷を行う'''大攘夷主義'''と変化していく。
== 攘夷運動の代表例 ==
* '''[[下関戦争]]''' - {{flagicon image|Ichimonjimitsuboshi.svg}} [[長州藩]] vs {{Flagicon|GBR}} [[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]・{{FRA1852}}・{{NED}}・{{flagicon image|Flag of the United States (1863-1865).svg}} [[アメリカ合衆国]] 連合軍
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=|chapter=海防論|editor=平凡社(編)|year=1988|month=3|title=世界大百科事典4 オ-カイ|series=|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=海防}}
* {{Cite book|和書|author=|chapter=攘夷論|editor=平凡社(編)|year=1988|month=3|title=世界大百科事典13 シユ-シヨエ|series=|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=攘夷}}
* [[町田明広]]『攘夷の幕末史』[[講談社]]<[[講談社現代新書]]>、2010年
== 関連項目 ==
* [[英仏横浜駐屯軍]]
* [[征夷大将軍]]
* [[徳川斉昭]]
* [[攘夷実行の勅命]]
* [[対外硬派]]
* [[外国人嫌悪]](ゼノフォビア)
* [[四夷]]
* [[衛正斥邪]]
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[[Category:幕末の外交]]
[[Category:幕末の思想]]
[[Category:日本の外交政策・対外論]]
[[Category:日本のナショナリズム]]
[[Category:徳川斉昭]]
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卑金属
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卑金属(ひきんぞく、base metal)は、空気中に放置するときに酸化しやすく、水分や二酸化炭素などによって容易に侵食される金属のこと。「ベースメタル」「コモンメタル」などの別名がある。また、同音の非金属とは意味が異なる。一般的には貴金属が対義語とされている。
卑金属の名称は、卑金属がイオン化しやすく、イオン化傾向が高いという特徴から来ている。
また、その名前は大量に産出する安い金属ということから来ているとするものもある。
卑金属という言葉は古来、金と銀以外の金属全般を指していた。しかし、現在は他の定義も存在している。
産出量が少なかったり、環境問題などから生産コストが見合わなかったりするため、日本は国内で消費される卑金属のほぼ100%を輸入に頼っている。
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卑金属は、空気中に放置するときに酸化しやすく、水分や二酸化炭素などによって容易に侵食される金属のこと。「ベースメタル」「コモンメタル」などの別名がある。また、同音の非金属とは意味が異なる。一般的には貴金属が対義語とされている。
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{{出典の明記|date=2011-12}}
'''卑金属'''(ひきんぞく、base metal<ref>{{Cite web|title=Weblio和英辞書 - 「卑金属」の英語・英語例文・英語表現|url=https://ejje.weblio.jp/content/%E5%8D%91%E9%87%91%E5%B1%9E|website=ejje.weblio.jp|accessdate=2020-10-20}}</ref>)は、空気中に放置するときに酸化しやすく、水分や二酸化炭素などによって容易に侵食される金属のこと<ref>{{Cite book |和書|title=広辞苑第七版|date=|year=2018|publisher=岩波書店}}</ref>。「ベースメタル」「コモンメタル」などの別名がある<ref>{{Cite web|和書|title=Cute.Guides: 資源: 鉱物資源|url=https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/c.php?g=774896&p=5559434|website=guides.lib.kyushu-u.ac.jp|accessdate=2020-10-20|language=ja|first=長原|last=正人}}</ref>。また、同音の[[非金属元素|非金属]]とは意味が異なる<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.trc-center.imr.tohoku.ac.jp/63-zumen1.pdf軽量金属材料の基礎|title=軽量金属材料の基礎|accessdate=2020年10月20日|publisher=}}</ref>。一般的には[[貴金属]]が対義語とされている<ref>{{Cite web|和書|title=買取のたくみや {{!}} 貴金属の豆知識|url=https://www.tropesofthetimes.com/gold-platinum/precious-metal/|website=www.tropesofthetimes.com|accessdate=2020-10-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=さ「さ~そ・ざ~ぞ」意味{{!}}筑後市公式ホームページ|url=https://www.city.chikugo.lg.jp/kyoudo/_21588/_21676/_23365/_23375.html|website=www.city.chikugo.lg.jp|accessdate=2020-10-20}}</ref>。
== 語源 ==
卑金属の名称は、卑金属がイオン化しやすく、イオン化傾向が高いという特徴から来ている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sawa-mekki.co.jp/pdf/tec-rep18.pdf|title=腐食のメカニズムとめっき|accessdate=2020年10月20日|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=耐食性|url=http://www.jod.or.jp/jod-metuki/metuki_taisiyoku1.html|website=www.jod.or.jp|accessdate=2020-10-20}}</ref>。
また、その名前は大量に産出する安い金属ということから来ているとするものもある<ref>{{Cite web|和書|title=卑金属とは|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%91%E9%87%91%E5%B1%9E-119356|website=コトバンク|accessdate=2020-10-20|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,化学辞典|last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。
== 定義 ==
卑金属という言葉は古来、金と銀以外の金属全般を指していた<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=検定試験テキスト -貴金属取引の基礎知識- {{!}} 東京商品取引所|url=https://www.tocom.or.jp/jp/guide/study/textbook/preciousmetals/preciousmetals0.html#t1|website=www.tocom.or.jp|accessdate=2020-10-20}}</ref>。しかし、現在は他の定義も存在している。
; 化学
:化学の世界では、卑金属は空気中で熱したりすると容易に酸化される金属を指す。この定義の場合、アルカリ金属、アルカリ土類金属、アルミニウム、亜鉛などがこれに属する<ref name=":1" />。
; 貿易
:貿易分野においては、貴金属か卑金属かの是非によって関税にも影響が出るため、明確な基準として、鉄、銅、ニッケル、アルミニウム、鉛、亜鉛、すず、タングステン、モリブデン、タンタル、マグネシウム、コバルト、ビスマス、カドミウム、チタン、ジルコニウム、アンチモン、マンガン、ベリリウム、クロム、ゲルマニウム、バナジウム、ガリウム、ハフニウム、インジウム、ニオブ、レニウム、タリウムの28の元素のことだと定義されている。この際、銅は貿易上では卑金属だが、化学的に見ると貴金属に分類される<ref>{{Cite web|和書|title=貴金属と卑金属の境界はどこにあるのか?|url=https://news.livedoor.com/article/detail/13691779/|website=ライブドアニュース|accessdate=2020-10-20|language=ja}}</ref>。
== 活用 ==
* アルミニウムは卑金属の中でも最も軽い元素で、航空機や自動車の製造に不可欠となっている<ref name=":0" /><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=ベースメタルとは|url=https://www.netinbag.com/ja/science/what-is-a-base-metal.html|website=www.netinbag.com|accessdate=2020-10-20}}</ref>。
* 銅は高い電気伝導率と可鍛性から配管や電気配線に使われる最も一般的な金属となっている<ref name=":2" />。
* 亜鉛は空気にさらしても腐食しないため、鋼鉄の亜鉛めっきコーティングに使用されている<ref name=":2" />。
== 日本の卑金属 ==
産出量が少なかったり、環境問題などから生産コストが見合わなかったりするため、日本は国内で消費される卑金属のほぼ100%を輸入に頼っている<ref>{{Cite web|和書|title=世界の産業を支える鉱物資源について知ろう|url=https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/tokushu/anzenhosho/koubutsusigen.html|website=経済産業省 資源エネルギー庁|accessdate=2020-10-20|language=ja}}</ref>。
== 参考文献 ==
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文
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文(ぶん)とは、一つの完結した言明を表す言語表現の単位である。基本的には主語と述語(一方が省略されることもある)からなる。ただし、これに加えて話題(主題、題目)が重視される場合もある。
まず主語と述語を基本的関係(主述関係)とする文について説明する。主語はふつう名詞句からなる。言語によって主語は省略できたり、あるいは述語に抱合された形(分離できない)で表現されたりする。述語は動詞句(または それに相当するもの)で、動詞類、あるいはそれに加えて目的語、補語、副詞句などからなり、主語が関係すること(意味的には主語の状態、主語が起こす動作、主語が受ける行為など)を陳述する。
文は述語の形によって分類される。「A(主語)はB(補語)である」つまりA=Bの形の文を名詞文(コピュラ文)といい、述語が動詞などからなる文を動詞文と いう。多くの言語にこの区別があり、名詞文の動詞に相当するコピュラ(「である」)を使わない言語(「AB」という)も多い。
名詞文は意味的には、AとBを逆にしても同じ意味である(A=Bの意味である)指定文と、AとBを逆にできない(BはAの属性である)措定文に分けることができる。
英語など多くの言語では、形容詞を述語とする場合にも名詞文(措定文)と同じ形式をとる。一方、形容詞が動詞と同じまたは似た形式をとる言語もあり、この場合は形容詞が述語となる。例えば日本語では形容詞文・形容動詞文も区別される。
上記の最小単位の文は単文(simple sentence)という。それに対して単文相当の成分を含む複数の節(それぞれ形式的に切り離すことができる)を文の中に含むような文もあり、大きく重文と複文に分けることができる。
さらにこれらを組み合わせた重複文もある。
英語では次のように分類されるが、言語によってはより適切な分類がありうる。
このほか、挨拶などに用いる慣用句化された文もある。また形式的にはここに示した分類のいずれかに従いながら、別の機能を持つ文(例えば平叙文の代わりに疑問文を用いる反語、平叙文の命令的用法など)もある。
英語をはじめ、世界の多くの言語(主格優勢言語)では、上の主述関係が文の基本的な要素である。この主述関係とは別に、文の中心的な話題(主題、題目)という要素を加えた話題文(題述文)がある。日本語では、次の例でわかるように主語は文の重要な要素でなく、むしろ話題が重要である。このような言語を話題優勢言語という。
上の2つの文は、意味的には同じである。このうち2では、主語「英語を使う人々が」を入れることができる(英語に直訳するには主語Theyを入れなければならない)が、日本語ではそんなものを入れない。つまり「主語なし文」の方が自然であり、話題「英語では」が必須である。話題は語順(文頭にもってくるなど)や、日本語の助詞「は」などで標識される。
日本語では「は」を用いた文が普通の談話に必須である。話題を含む文は主語優勢言語にもあるが、基本的に重要ではなく、話題であると明示する必要もない(ただし話題を主題と一致させる傾向があり、行為対象を主語にする受動態などがその例である)。
話題は主述文から切り離して表現することができる(「何々については、・・・」といった表現:この場合、主述文が話題に対する陳述部となる)。特に話題優勢言語では、話題であることが何らかの方法で明示され、「象は鼻が長い」といった"二重主語文"(実際には「象は」が話題、「鼻が」が主語である)も用いられる。
話題は文全体で共通であることが多い(少なくとも独立節内では共通である)。普通の談話では、話題は文脈から理解できるものであって、その意味で「既知の情報」である。例えば小説の冒頭でいきなり「山椒魚は悲しんだ」と話題の形で出すことによって読者の驚きを文学的に狙うこともある。
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文(ぶん)とは、一つの完結した言明を表す言語表現の単位である。基本的には主語と述語(一方が省略されることもある)からなる。ただし、これに加えて話題(主題、題目)が重視される場合もある。
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{{Otheruses}}
{{出典の明記|date=2012-1}}
'''文'''(ぶん)とは、一つの完結した言明を表す[[言語]][[表現]]の[[単位]]である。基本的には[[主語]]と[[述語]](一方が省略されることもある)からなる。ただし、これに加えて[[話題]](主題、題目)が重視される場合もある。
==主述関係==
まず主語と述語を基本的関係(主述関係)とする文について[[説明]]する。主語はふつう[[名詞]][[句]]からなる。言語によって主語は省略できたり、あるいは述語に[[抱合語|抱合]]された形(分離できない)で表現されたりする。述語は[[動詞]]句(または
それに相当するもの)で、動詞類、あるいはそれに加えて[[目的語]]、[[補語]]、[[副詞]]句などからなり、主語が関係すること(意味的には主語の状態、主語が起こす動作、主語が受ける行為など)を陳述する。
==述語による分類==
文は述語の形によって分類される。「A(主語)はB(補語)である」つまりA=Bの形の文を'''名詞文'''(コピュラ文)といい、述語が動詞などからなる文を'''動詞文'''と
いう。多くの言語にこの区別があり、名詞文の動詞に相当する[[コピュラ]](「である」)を使わない言語(「AB」という)も多い。
名詞文は意味的には、AとBを逆にしても同じ意味である(A=Bの意味である)指定文と、AとBを逆にできない(BはAの属性である)措定文に分けることができる。
[[英語]]など多くの言語では、[[形容詞]]を述語とする場合にも名詞文(措定文)と同じ形式をとる。一方、形容詞が動詞と同じまたは似た形式をとる言語もあり、この場合は形容詞が述語となる。例えば[[日本語]]では形容詞文・[[形容動詞]]文も区別される。
==構成による分類==
上記の最小単位の文は'''単文'''(simple sentence)という。それに対して単文相当の成分を含む複数の[[節 (文法)|節]](それぞれ形式的に切り離すことができる)を文の中に含むような文もあり、大きく重文と[[複文]]に分けることができる。
; 重文(compound sentence)
: 複数の独立節からなり、単文を独立節にして、必要に応じ等位[[接続詞]](日本語では[[接続助詞]])を加えて結びつけたものである。<br>独立節を独立の文としても基本的な意味は通る。
; 複文(complex sentence)
: 主節と1つ以上の従属節からなり、主節のある成分が従属節に相当している。従って各節を独立させると、その関係を示す情報がなくなってしまう。
さらにこれらを組み合わせた重複文もある。
==用法による分類==
英語では次のように分類されるが、言語によってはより適切な分類がありうる。
; 平叙文
: 最も普通に用いられる、[[命題]]を表現する文をという。
; [[疑問文]]
: 未知の情報がある場合にその提供を希望するための文である。
; [[感嘆文]]
: 話者の感情を表現するために強調する文である。英語のWhat a wonderful day this is!など。
; [[命令文]]
: 他者に対する命令あるいは希望を表現する文である。ふつう主語は[[2人称]]であり、主語を省略することが多い。<br>また、[[1人称]]複数に対する命令文で勧誘を表現することもある(英語ではLet us ~で、形式的には2人称に対する命令文、1人称複数を使役する形)。
このほか、[[挨拶]]などに用いる[[慣用句]]化された文もある。また形式的にはここに示した分類のいずれかに従いながら、別の機能を持つ文(例えば平叙文の代わりに疑問文を用いる[[反語]]、平叙文の命令的用法など)もある。
==話題文==
英語をはじめ、世界の多くの言語([[主格優勢言語]])では、上の主述関係が文の基本的な要素である。この主述関係とは別に、文の中心的な[[話題]](主題、題目)という要素を加えた話題文(題述文)がある。日本語では、次の例でわかるように主語は文の重要な要素でなく、むしろ話題が重要である。このような言語を[[話題優勢言語]]という。
#「英語では主語が重視される。」
#「英語では主語を重視する。」
上の2つの文は、意味的には同じである。このうち2では、主語「英語を使う人々が」を入れることができる(英語に直訳するには主語Theyを入れなければならない)が、日本語ではそんなものを入れない。つまり「主語なし文」の方が自然であり、話題「英語では」が必須である。話題は[[語順]](文頭にもってくるなど)や、日本語の助詞「は」などで標識される。
日本語では「は」を用いた文が普通の談話に必須である。話題を含む文は主語優勢言語にもあるが、基本的に重要ではなく、話題であると明示する必要もない(ただし話題を主題と一致させる傾向があり、行為対象を主語にする[[受動態]]などがその例である)。
話題は主述文から切り離して表現することができる(「何々については、・・・」といった表現:この場合、主述文が話題に対する陳述部となる)。特に話題優勢言語では、話題であることが何らかの方法で明示され、「象は鼻が長い」といった"二重主語文"(実際には「象は」が話題、「鼻が」が主語である)も用いられる。
話題は文全体で共通であることが多い(少なくとも独立節内では共通である)。普通の談話では、話題は文脈から理解できるものであって、その意味で「既知の情報」である。例えば[[小説]]の冒頭でいきなり「山椒魚'''は'''悲しんだ」<ref>{{Cite book|和書|title=山椒魚|publisher=|author=[[井伏鱒二]]}}</ref>と話題の形で出すことによって読者の驚きを文学的に狙うこともある。
== 脚注 ==
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== 関連 ==
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12,153 |
毛利良勝
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毛利 良勝(もうり よしかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は新介、後に新左衛門。
尾張国の出身というが、出自については不明。織田信長に馬廻として仕えた。小姓であったとする説もある。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは、最初に斬りかかって負傷した服部一忠(小平太)を助け、今川義元の首を取り名を上げた。『信長公記』では、毛利新介のこの功名は「幼君(毛利秀頼)」を(一族の)毛利十郎が保護した冥加のおかげだと人々が噂したという話が書かれている。また、この際、指を噛み千切られた話があるが、これは『尾張志』や『太閤記』などにある逸話。桶狭間以後は諱を良勝と名乗り、通称は新介から新左衛門に改めた。
母衣衆が選抜されたときに黒母衣衆の一人に名を連ねた。
信長上洛後は、永禄12年(1569年)に大河内城攻めに参加した。信長の側近として尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)に属した。主に吏僚として活躍し、判物や書状、副状に署名を多く残している。
天正10年(1582年)、甲州攻めでも信長に随行して4月の諏訪在陣で興福寺大乗院より贈品を受けている。
同年6月の本能寺の変の際も信長に従って京に滞在しており、信長の嫡男で織田家当主の信忠を守って二条御新造に籠り、信忠と共に討死した。
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毛利 良勝は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は新介、後に新左衛門。
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'''毛利 良勝'''(もうり よしかつ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[織田氏]]の家臣。通称は'''新介'''、後に'''新左衛門'''。
== 略歴 ==
[[尾張国]]の出身というが、出自については不明。[[織田信長]]に[[馬廻]]として仕えた{{sfn|谷口|1995|p=446}}。[[小姓]]であったとする説もある。
[[永禄]]3年([[1560年]])、[[桶狭間の戦い]]では、最初に斬りかかって負傷した[[服部一忠]](小平太)を助け、[[今川義元]]の首を取り名を上げた{{sfn|谷口|1995|p=446}}<ref>{{Citation |和書|last=|first=|editor=近藤瓶城|year=1926|series=史籍集覧|volume=第19|title =信長公記|publisher=近藤出版部|url={{NDLDC|1920322/75}} 国立国会図書館デジタルコレクション|pages=31-32}}</ref>。『[[信長公記]]』では、毛利新介のこの功名は「幼君([[毛利秀頼]])」を(一族の)毛利十郎{{refnest|name="mouri"|毛利十郎は、天文16年に稲葉山城攻めで戦死した[[毛利敦元]]の子<ref>{{Harvnb|谷口|1995|p=444}}</ref>。桶狭間の戦いの前哨戦で、[[前田利家]]らと共に敵の首級を上げて信長に見せて来て、打ち棄ての方針を説明されている。}}が保護した冥加のおかげだと人々が噂したという話が書かれている{{sfn|近藤瓶城|1926|p=32}}。また、この際、[[指]]を噛み千切られた話がある{{Sfn|松永|1989|p=27}}が、これは『尾張志』や『[[太閤記]]』などにある逸話<ref>{{Citation|和書|editor=深田正韶|title=尾張志. 10 知多郡|year=1898|chapter=古戦場|publisher=博文社|page=86|url={{NDLDC|764871/87}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>。桶狭間以後は諱を'''良勝'''と名乗り、通称は新介から新左衛門に改めた。
母衣衆が選抜されたときに[[黒母衣衆]]の一人に名を連ねた{{sfn|谷口|1995|p=446}}。
信長上洛後は、永禄12年([[1569年]])に[[大河内城の戦い|大河内城攻め]]に参加した{{sfn|谷口|1995|p=446}}。信長の側近として尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)に属した{{sfn|谷口|1995|p=446}}。主に吏僚として活躍し、判物や書状、副状に署名を多く残している{{sfn|谷口|1995|p=446}}。
[[天正]]10年([[1582年]])、[[甲州征伐|甲州攻め]]でも信長に随行して4月の[[諏訪地域|諏訪]]在陣で[[興福寺]]大乗院より贈品を受けている{{sfn|谷口|1995|p=446}}。
同年6月の[[本能寺の変]]の際も信長に従って京に滞在しており、信長の[[嫡男]]で織田家当主の[[織田信忠|信忠]]を守って[[二条城|二条御新造]]に籠り、信忠と共に討死した{{sfn|谷口|1995|p=446}}。
== 関連作品 ==
; 小説
* [[新宮正春]]「首獲り新介」(『抜打ち庄五郎』)(1997年10月1日、[[講談社]])ISBN 978-4062088541
* 新宮正春「首獲り新介」(『抜打ち庄五郎(講談社文庫)』)(2005年6月1日、講談社)ISBN 978-4062751049
* [[中村彰彦]]『桶狭間の勇士』(2003年6月25日、[[文藝春秋]])ISBN 978-4163219400
* 中村彰彦『桶狭間の勇士(文春文庫)』(2006年6月9日、文藝春秋)ISBN 978-4167567101
* [[伊東潤]]「果報者の槍」(『王になろうとした男』)(2013年7月29日、文藝春秋)ISBN 978-4163823201
* 伊東潤「果報者の槍」(『王になろうとした男(文春文庫)』)(2016年3月10日、文藝春秋)ISBN 978-4167905682
; テレビドラマ
*『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』-[[村松克巳]]
*『[[麒麟がくる]]』-[[今井翼]]<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20200525091143/https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/429336.html|title=
『麒麟がくる』"越前&桶狭間へ" 新たな出演者発表!|access-date=2022-11-14|date=2020-05-18}}</ref><!--デッドリンクになった場合は削除-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* {{Citation |和書 |last=谷口 |first=克広 |author2=[[高木昭作]](監修) |author-link=谷口克広 |year=1995|title=織田信長家臣人名辞典|publisher=吉川弘文館|isbn=4642027432|ref=tani|pages=446|chapter=}}
* {{Citation |和書 |last=松永 |first=義弘 |author-link=松永義弘 |year=1989|title=合戦 -歴史の流れを変えた十のドラマ-|publisher=PHP文庫|isbn=4569562183}}
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[[Category:戦国武将]]
[[Category:尾張国の人物]]
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12,154 |
服部一忠
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服部 一忠(はっとり かずただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は小平太。名は春安、忠次とも。
尾張国津島の出身。はじめ織田信長に馬廻として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をつける戦功をあげた。しかし、義元の反撃を受け槍の穂先ともども膝を斬られたので、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。桶狭間の戦い以降は織田氏の配下として目立った活躍は知られていない。
天正10年(1582年)の本能寺の変では弟の小藤太が二条御所で戦死している。信長の死後は、再び馬廻として豊臣秀吉に仕えて黄母衣衆の一員となる。天正13年(1585年)、従五位下采女正の官位に叙せられた。また、小田原征伐の戦功により、天正19年(1591年)に松阪城主に抜擢されて伊勢国一志郡に3万5000石を与えられ、同時に当時、尾張・北伊勢を支配した羽柴秀次に付けられた。文禄元年(1592年)、文禄の役において漢城に進軍。
文禄4年(1595年)7月、豊臣秀次失脚に連座して所領を没収され、上杉景勝に預けられた後に切腹を命じられた。次男の勝長は、一忠と同じく秀次失脚のため自害した木村重茲の家臣・大崎長行の養子となり、紀州徳川家に仕えた。
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服部 一忠は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は小平太。名は春安、忠次とも。
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{{出典の明記|date=2018年5月5日 (土) 11:02 (UTC)}}
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'''服部 一忠'''(はっとり かずただ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。通称は'''小平太'''。名は'''春安'''、'''忠次'''とも。
== 生涯 ==
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文禄4年(1595年)7月、[[豊臣秀次#三好孫七郎|豊臣秀次失脚]]に連座して所領を没収され、[[上杉景勝]]に預けられた後に切腹を命じられた。次男の[[大崎勝長|勝長]]は、一忠と同じく秀次失脚のため自害した[[木村重茲]]の家臣・[[大崎長行]]の養子となり、[[紀州徳川家]]に仕えた。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Citation |和書 |last=松永 |first=義弘 |year=1989|title=合戦 -歴史の流れを変えた十のドラマ-|publisher=PHP文庫|isbn=4-569-56218-3|ref={{Sfnref |合戦 |1989}} }}
== 関連作品 ==
; 小説
* [[中村彰彦]]『桶狭間の勇士』(2003年6月25日、[[文藝春秋]])ISBN 978-4163219400
* 中村彰彦『桶狭間の勇士(文春文庫)』(2006年6月9日、文藝春秋)ISBN 978-4167567101
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[[Category:戦国武将]]
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12,159 |
元号
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元号(げんごう、旧字体: 元號、英語: regnal era name)または年号(ねんごう、旧字体: 年號)とは、古代支那で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は年の途中でも行われ、1年未満で改元された元号もある。
2023年(令和5年)時点、公的には世界では日本のみで制定、使用されている。ただし、台湾を統治する中華民国の民国紀元に基づく「民国」や、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の主体暦による「主体」が事実上は元号的な機能をしている。
日本における元号の使用は、孝徳天皇などの宮とする難波宮で行われた大化の改新時の「大化」から始まり、「大化」の年号と前後して「日本」という国号の使用も始まった。明治以降は一世一元の制が定着し元号法制定以後、「元号」が法的用語となった。
東アジア各国の歴史において、中央政権以外の政治勢力や宗教者、民間が独自に年号をつくった例もあり、「私年号」と呼ばれる。
紀年法のうち、西暦やイスラム紀元、皇紀(神武紀元)などが無限のシステム(紀元)であるのに対して、元号は有限のシステムである。皇帝や王など君主の即位、また治世の途中にも行われる改元によって元年から再度数え直され(リセット)、名称も改められる。日本では当たり前のことであるが、これは元号の大きな特徴である。
日本では一度使用された元号は二度と使用しない慣例があるが、支那などの他の元号文化圏ではそのような慣例は重視されておらず、かつて使用した元号を再使用する例が多くみられる。
元号は、古代支那の漢の武帝の時代に始まった制度で、皇帝 (支那)の時空統治権を象徴する称号である。『春秋公羊伝』隠元年では「元年者何。君之始年也」(元年とは何か、君主の治世が始まる年のことである。)とあり、これは皇帝権力の集中統一を重視する「大一統」思想の国制化であった。時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。
元号は漢字2字で表される場合が多く、まれに3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。最初期には改元の理由にちなんだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持った漢字の組み合わせを、漢籍古典を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字は2019年に始まった令和の時点でわずか73字であり、そのうち21字は10回以上用いられている。一番多く使われた文字は「永」で29回、2番目は「天」「元」のそれぞれ27回、4番目は「治」で21回、5番目は「応」「和」で20回である。なお、近代以降の元号のうち令和の「令」や平成の「成」、昭和の「昭」はそれぞれ初めて採用されたものである。また、平成の「平」は12回、大正の「大」は6回「正」は19回、明治の「明」は7回使われている。
独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、柔然、高昌、南詔、大理、渤海がある。また遼、西遼、西夏、金は中国史に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。
元号を用いた日本独自の紀年法は、西暦に対して和暦(あるいは邦暦や日本暦)と呼ばれることがある。
日本国内では今日においても西暦(グレゴリオ暦)と共に広く使用されている。
西暦2023年は「令和5年」。
2019年(令和元年)5月1日 に、前日(平成31年)4月30日の「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の規定により第125代天皇明仁の退位(上皇となる)に伴い、徳仁が第126代天皇に即位した。この皇位の継承を受けて、「元号法」の規定により同年4月1日に「元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)」が公布・5月1日に施行され、「令和」に改元された。
『昭和大礼記録(第一冊)』によると、一木喜徳郎宮内大臣は、漢学者で宮内省図書寮の編修官であった吉田増蔵に「左記の5項の範囲内において」元号選定にあたるように命じた。
なお、歴史的には「他国でかつて使われた元号等と同じものを用いてはならない」という条件はなかった。異朝でかつて使われた元号を意図して採用したたとえ話すらある。例えば、後醍醐天皇の定めた「建武」は、王莽を倒して漢朝を再興した光武帝の元号「建武」にあやかったものであった。また、徳川家康の命によって用いられた「元和」は、唐の憲宗の年号を用いたものである。近代の「明治」も大理国で用いられた例があり、「大正(たいせい)」もかつてベトナムの莫朝で用いられた。
1979年(昭和54年)10月、第1次大平内閣(大平正芳首相)は、「元号法に定める元号の選定」について、具体的な要領を定めた(昭和54年10月23日閣議報告)。
これによれば、元号は「候補名の考案」「候補名の整理」「原案の選定」「新元号の決定」の各段階を践んで決定される。最初に、候補名の考案は内閣総理大臣が選んだ若干名の有識者に委嘱され、各考案者は2 - 5の候補名を、その意味・典拠等の説明を付して提出する。総理府総務長官(後に内閣官房長官)は、提出された候補名について検討・整理し、結果を内閣総理大臣に報告する。このとき、次の事項に留意するものと定められている。
整理された候補名について、総理府総務長官、内閣官房長官、内閣法制局長官らによる会議において精査し、新元号の原案として数個の案を選定する。全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。内閣総理大臣は、新元号の原案について衆議院議長・副議長と参議院議員・副議長に連絡し、意見を聴取する。そして、新元号は、閣議において、改元の政令の決定という形で決められる。
日本の元号は伝統的に「2文字」であるが、元号に用いることのできる文字数は明確に制限されていない。この例外は聖武天皇・孝謙天皇の時代の約4半世紀、天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲の5つ(4文字)のみである。
日本において、元号は1979年制定の「元号法」(昭和54年法律第43号)によってその存在が定義されており、法的根拠があるが、その使用に関しては基本的に各々の自由で、私文書などで使用しなくても罰則などはない。一方で、西暦には元号法のような法律による何かしらの規定は存在しない(法令以外では日本産業規格 に見られるような公的な定義例がある)。なお、元号法制定にかかる国会審議で「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」との政府答弁があり、法制定後、多くの役所で国民に元号の使用を強制しないよう注意を喚起する通達が出されている。
また、元号法は「元号は政令で定める事」「元号は皇位の継承があった場合に限り改める事(一世一元の制)」を定めているにすぎず、公文書などにおいて元号の使用を規定するものではない。しかしながら、日本国民や在日外国人が記入して役所に提出する書類の多くは、年月日の年を元号で記入する書式になっている。ただし元号で書く前提のスペースに西暦で記入することは可能であり、市民団体「西暦表記を求める会」は、「私は西暦で記入します」と書いた意思表示用のカードを作成・配布している。
日本共産党は、元号の使用は慣習としては反対しないが、強制すべきではないという見解を示している。同様に、キリスト教原理主義者団体などは「元号の使用を強制し西暦の使用を禁止するのは、天皇を支持するか否かを調べる現代の踏み絵である」と主張している。
公用文作成の要領において年号を用いる際、元号か西暦のどちらを用いるべきかの旨は明文化されていないが、国(日本国政府)、地方公共団体などの発行する公文書(住民票、運転免許証、その他資格証など)ではほとんど元号が用いられる。一方、ウェブサイトでは、本文で元号を使用していても最終更新日やファイル名などは(管理上の都合で)西暦を使用していることもある。また、官公庁の中長期計画の名称など、キャッチフレーズとして年を印象付けさせる場合は、補助的に西暦が用いられることもある。国において、例外的に西暦が使用されている具体例には以下のものがある。
日本国内において西暦の併用が増加したのは、1964年(昭和39年)の東京夏季オリンピックに向けてのキャンペーンを経た後である。皇室典範改正により元号が法的根拠を失った後も、東京オリンピックのキャンペーンが始まる前までは、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効に伴う独立・主権回復以後も、米国による統治下に置かれ日本から切り離された沖縄と小笠原諸島、千島列島を除き、前述の背景により元号のみが常用されていた。とはいえ、1976年(昭和51年)に行われた元号に関する世論調査では、「国民の87.5%が元号を主に使用している」と回答しており、「併用」は7.1%、「西暦のみを使用」はわずか2.5%であった。元号が昭和から平成に変わり、2つの元号をまたぐことで年数の計算と変換が煩雑になるため、「西暦を併用する人」「西暦を主に使用する人」も次第に多くなってきた。特に21世紀に入った今日ではインターネットの普及などもあり、日常において「元号より西暦が主に使用されるケース」は格段に増えているため、元号では「今年が何年なのか判らない」「過去の出来事の把握が難しい」という人の割合も多くなってきている。
報道機関では『朝日新聞』が1976年(昭和51年)1月1日に、『毎日新聞』が1978年(昭和53年)1月1日に、『読売新聞』が1988年(昭和63年)1月1日に、『日本経済新聞』が1988年(昭和63年)9月23日に、『中日新聞』『東京新聞』が1988年(昭和63年)12月1日に、日付欄の表記を「元号(西暦)」から「西暦(元号)」に改めた。それでも昭和年間の末期には、未来の予測(会計年度など)を「(昭和)70年度末」といった表記をすることが多かった。1989年(平成元年)1月8日の平成改元以降、その他の各報道機関も本文中は原則として西暦記載、日付欄は「2012年(平成24年)」の様に「西暦(元号)」という順番の記載を行うところが多くなった。『産経新聞』 や『東京スポーツ』、一部の地方紙、NHKの国内ニュースのように本文中は原則元号記載、日付欄は「平成29年(2017年)」の様に「元号(西暦)」という順番の記載を行っている報道機関もある。日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』は平成改元以降、日付欄の元号併記を取りやめ西暦表記のみに変更していたが、2017年(平成29年)4月1日より元号を併記する「西暦(元号)」表記に改めた(本文中は引き続き西暦表記のみ)。
企業の決算や有価証券報告書など社外向け資料・プレスリリース、鉄道などの乗車券、金融機関の預金通帳なども、以前は和暦表記(元号の年部分表記)が主流であったが、2019年の改元 を前に、西暦表記に改める動きもみられた。
日本で発行されている切手には元号および西暦で発行年が記載されている。ただし歴史的にみれば大きな変遷がある。なお、記念切手には万国郵便連合(UPU)によって原則として西暦で発行年を入れるように規定されている。
日本の切手で発行年が入るものに記念切手があるが、記念切手の印面に第二次世界大戦前までは元号が入る場合と全くない場合が混在していた。ただし国立公園切手の小型シートには皇紀(西暦)とアラビア数字で記入されたものがある。戦後、発行された記念切手には「昭和二十二年」といったように漢数字で表記されていたが、経緯は不明であるが1949年(昭和24年)頃から西暦のみで表記されるようになった。ただし、年賀切手の中に一部例外があるほか、皇室の 慶事 に関する記念切手は元号のみの表示の場合があった。また年賀小型シートなどには「お年玉郵便切手昭和三十一年」といった元号による表記があるほか、切手シートの余白には元号で発行年月日が入っていたが、1960年(昭和35年)頃からなくなった。
1979年(昭和54年)に施行された元号法による政策のためか、1979年(昭和54年)7月14日に発行された「検疫制度100年記念切手」から西暦と元号で併記されるようになった。ただし、毎年発行される国際文通週間記念切手については西暦しか表記されていない。また切手シートの余白に1995年(平成7年)頃から「H10.7.23」というローマ字による発行年月日が、さらに2000年(平成12年)からは「平成12年7月23日」という元号表記が入るようになった。なお、令和に改元された2019年(令和元年)5月から9月までは切手面・余白の発行年月日ともに西暦のみの表記で、令和の使用は10月からとなっている。
なお、世界的に見ると切手に記入される年号としては西暦のほかには仏滅紀元、イスラム暦、北朝鮮の主体暦、中華民国(台湾)の民国紀元などがある
日本においては、「元号としてのみ認識される商標(例えば「平成」)は識別力がない」とされ、元号を商標登録に出願することができない。また、元号と普通名称等の識別力のない文字(例えば饅頭についての「まんじゅう」)とを組み合わせた商標(例えば「平成まんじゅう」)なども同様で、商標登録に出願できないが、商号(企業名・団体名・屋号など)での使用は制限されていない。
ただし、その商標を使用し続けたことによって、識別力と知名度が生じた場合(例えば「平成まんじゅう」という商標を長年使い続けた結果、だれもが「平成まんじゅう」といえばその饅頭のことだとわかるようになった場合)には商標登録される場合もある としており、実際に食品会社の「明治」や「大正製薬」は商標登録され、商号としても存続している。
特許庁では、以前から旧・元号も現行の元号と同様に取り扱われるとの解釈であったが、「商標登録できないのは現・元号の「平成」に限られ、「大化」から「昭和」までの旧・元号は商標登録でき、「令和」への改元後には「平成」も商標登録できる、と解釈される可能性」があり、実際にそのような報道もなされていた。
そのため、特許庁では2019年(平成31年)1月30日に審査基準を改訂し、「現元号(平成)以外の元号(昭和までの元号や、改元前に公表された新・元号)も登録を認めない」と明確化した。
元号使用のメリットとしては、以下の様な物がある。
一方、デメリットとしては以下の様な物があり、元号そのものに否定的な姿勢を示す者もいる。
公文書において、令和1年と表記するか令和元年と表記するかは、様々である。
登記の種類によって、「1年」とするか「元年」とするかは使い分けられている。
1)不動産登記及び商業・法人登記等
2)成年後見登記
3)動産譲渡登記及び債権譲渡登記
「令和元年度」「令和元年度予算」とすると定められている。
元号を採用している日本においても、コンピュータでは元号よりも西暦による処理の方が次の点において便利であるとされる。
これらの点から、日本でもコンピュータでの処理に際しては内部で西暦を用いているが、ほとんどの公文書(前述の通り、補助的に西暦を併用しているものも存在している)では元号を使用することを始め、一般にも書類事務は元号を用いるというニーズが根強いため、表示や入力に際しては元号を使用できるアプリケーションが多い。これは、特に使用者を限定せず多様な用途が想定されているオフィススイートに顕著である(ExcelやOpenOffice.orgなど多種)。
なお、昭和年間に使用されていたアプリケーションの中には、年を「昭和○○年」として入力し、処理されているものがある。平成以降も、内部的に昭和の続きとして扱うため、1989年(平成元年 = 昭和64年)、1990年(平成2年 = 昭和65年)、1991年(平成3年 = 昭和66年)...として処理される。しかし、3桁になる2025年(=令和7年=昭和100年)に誤作動が起きる可能性(昭和100年問題)が懸念されている。
Excel 98以前は、2桁で入力した場合は元号優先で処理していた。例えば、「08.03.01」と入力した場合、Excel 98以前のバージョンでは「1996年(平成8年)3月1日」と処理されていた(詳細は「Microsoft Excel#日付の変換問題」を参照)。なお、Excel 2000以降のバージョンでは西暦(この場合「2008年(平成20年)3月1日」)で処理されるようになっている。
なお、コンピュータにおけるファイル名の先頭部分に元号を用いた場合、単純に文字コードの順序で並べ替えると、利用者の意図しない順序になり、混乱を招くおそれがある。例として、本来「元治→慶応→明治→大正→昭和→平成→令和」の順序にすべきところが、「慶応→元治→昭和→大正→平成→明治→令和」の順序になる(文字コード「シフトJIS」の昇順で並べ替えた場合)。
元号による日付と西暦との対応表(日本産業規格JIS X 0301:2019)
西暦年から元号年を簡易に計算する方法として、知りたい年の西暦の紀年数から各元号の元年の前年(0年)の西暦を引いて元号の紀年数を算出する方法がある(逆に、加えると西暦が算出できる)。減算は、下2桁同士でもよい。
一般に難波宮で行われた大化の改新(645年)時に「大化」が用いられたのが最初であり、以降、日本という国号の使用が始まったとされる。なお、即位改元は南北朝以後から江戸時代前半期の数例(寛永など)を除いて確実に実施されている。
『日本書紀』の王暦は原則として王の即位の翌年を元年とする記述で整理されている。ただし『日本書紀』は後世に編纂されたもので各王の時にどのような紀年法だったかは別問題である。
『日本書紀』の王暦は前王の崩御と同じ年に即位したか翌年に即位したかにかかわらず原則として即位の翌年を元年とする記述で整理されている。例外的に孝徳天皇の元号「大化」と『続日本紀』の文武天皇の王暦は即位年が元年となっているが、いずれも譲位により即位した例で、諒闇即位の時は翌年を元年とし、譲位即位の時は同年を元年としている。『日本書紀』の王暦における即位翌年に改元する越年称元(踰年称元)は那珂通世によって指摘された。元号制度が確立されてからも即位翌年に改元する踰年改元の例は江戸時代までみられた。
一般には「大化」が日本最初の元号とされている。
元号制度が安定的にみられるのは文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元してからで、以降、独自の元号制度が展開されている。古墳時代はまだ見られず飛鳥時代の「大宝」から江戸時代末期(幕末)の「慶応」までは一代の天皇の間に複数回改元しうる制度であった。
平安時代末期、源頼朝は、寿永二年十月宣旨によって朝敵認定を赦免され東国支配権を認められるまで、養和ついで寿永への改元をいずれも認めず、それ以前の治承の年号を使い続けるなど、元号は強い政治性を帯びていた。
南北朝時代には、持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)がそれぞれ元号を制定したため、元徳3年/元弘元年(1331年)から元中9年/明徳3年(1392年)まで2つの元号が並存した。建武元年と同2年は朝廷が分裂する前であるため元号は共通であった。
室町時代には、朝廷が定めた新元号を、将軍が吉書として総覧して花押を据える「吉書始」と呼ばれる儀式で改元を宣言して、武家の間で使用されるようになった。そのため元号選定には武家の影響力は強いものであった。特に室町幕府第3代将軍の足利義満以降、改元に幕府の影響が強まった。一方で京都の幕府と対立した鎌倉府が改元を認めずに反抗するという事態も生じた。また応仁の乱などで朝廷と幕府が乱れると朝廷による改元と幕府の「吉書始」の間が開くようになり、新・元号と旧・元号が使用される混乱も見られた。
戦国時代末期、織田信長は元亀4年7月、将軍足利義昭を京都から追放した直後に元亀から天正への改元を主導し、織田政権の開始を象徴する出来事となった。
江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事(支那の元号の中から良いものを選べ。ただし、今後習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである)」とされ、徳川幕府が元号決定に介入することになった。また、改元後の新元号を実際に施行する権限は江戸幕府が有しており、朝廷から連絡を受けた幕府が大名・旗本を集めて改元の事実を告げた日(公達日)より施行されることになっていた。これは朝廷のある京都においても同様であり、朝廷が江戸の幕府に改元の正式な通知をして、幕府が江戸城で諸大名らに公達を行い、江戸から派遣された幕府の使者が京都町奉行に改元の公達を行い、町奉行が改元の町触を行った後で初めて施行されるものとされた。京都の役人や民衆はたとえ改元の事実を知っていても、町触が出される前に新元号を使うことは禁じられていた。
広く庶民にも年号が伝わるようになったのは、江戸時代になってからのことである。
江戸時代まで元号は一代の天皇の間に複数回改元しうるもので後世になるほど祥瑞や辛酉年での改元が増えた。即位改元では9世紀以降は践祚の翌年に改元する踰年改元、江戸時代には即位儀の翌年に改元するのが通例であった(ただし支那のように改元の月は正月に固定されなかった)。また、南北朝以後から江戸時代前半期にかけて即位改元が実施されなかった例がいくつかある(後水尾天皇の御世に改元された「寛永」は明正天皇が即位しても改元されなかった例など)。
慶応以前は、在位した天皇の交代時以外にも随意に改元(吉事の際の祥瑞改元、大規模な自然災害や戦乱などが発生した時の災異改元など)していた。しかし、戊辰戦争の結果として全国政府の座を奪取した明治政府は、明治に改元した時に一世一元の詔を発布し、明治以後は、現在に至る、新天皇の即位時に限定して改元する「一世一元の制」に変更された。これにより、辛酉改元や甲子改元も廃止された。さらに、1872年(明治5年)には、西洋に合わせて太陽暦(グレゴリオ暦)へと移行することになり、「旧暦(太陰太陽暦)に代わる暦として永久にこれを採用する」との太政官布告により採用された(詳細は「明治改暦」を参照)。それに伴い、元号や干支、神武天皇即位紀元(皇紀、神武暦) に加えて、キリスト紀元(西暦、西紀)の使用も始まったが、第二次世界大戦時には西暦はむしろ敵性語扱いされた節もあった。その後、太陽暦に移行しても、1910年代までは旧来の太陰太陽暦(天保暦)での暦が併記されていたように、年数を数えるにおいて民衆には浸透しづらかった側面もある。そして、1889年(明治22年)に公布された旧皇室典範と1909年(明治42年)に公布された登極令(皇室令の一部)に「(天皇の)践祚後は直ちに元号を改める」と規定され、元号の法的根拠が生じた。
第二次世界大戦敗戦後に、日本国憲法制定に伴う皇室典範の改正をもって、元号の法的根拠は一時消失した。しかし慣例という形で、官民を問わず「昭和」の元号が使用され続けた。だが、第二次世界大戦終結の翌年に当たる1946年(昭和21年)1月には、尾崎行雄が帝国議会衆議院議長に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた1945年(昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、1946年(昭和21年)をもって「新日本」の元年として、1946年(昭和21年)以後は無限の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。これに対して、石橋湛山は、『東洋経済新報』1946年(昭和21年)1月12日号のコラム「顕正義」において、「元号の廃止」と「西暦の使用」を主張した。1950年(昭和25年)2月下旬になると、国会参議院で「元号の廃止」が議題に上がった。ここで東京大学教授の坂本太郎は、元号の使用は「独立国の象徴」であり、「西暦の何世紀というような機械的な時代の区画などよりは、遙かに意義の深いものを持って」いる上、更に「大化の改新であるとか建武中興であるとか明治維新」という名称をなし、「日本歴史、日本文化と緊密に結合し」ていることは今後も同様であるため、便利な元号を「廃止する必要は全然認められない」一方で「存続しなければならん意義が沢山に存在する」と熱弁をふるい元号の正当性を主張し続けた。さらに1950年(昭和25年)5月、日本学術会議は吉田茂首相あてに「天皇統治を端的にあらわした元号は民主国家にふさわしくない」として、元号の廃止と西暦の採用を申し入れる決議を行った。
1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまることとなる。その後、1979年(昭和54年)に元号法が制定され、議論は事実上終結した。これは昭和天皇の高齢化と、1976年(昭和51年)当時の世論調査で国民の87.5%が元号を使用している実態 に鑑みたものである。元号法では「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、明治以来の「一世一元の制」が維持された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けることとなる。ただし、皇紀(神武天皇即位紀元)に関しては現在、(文化的な場での使用を除き)公文書にて使用されていない。
日本の元号で最も期間の長い元号は「昭和」の62年と14日。最も期間の短い元号は「暦仁」の2か月と14日である。昭和は日本だけでなく、元号を用いていた全ての国の元号の中でも最も長い元号である。
年数で最も長い元号も「昭和」で、64年まである。逆に元年のみ使われた元号は「朱鳥」と「天平感宝」がある。暦仁は期間内に元日を挟んでいるため2年まである。
支那で元号制度が始まるのは漢の武帝の時代のことである。漢の武帝の治世第36年 - 元鼎2年(紀元前115年)頃、治世第1年(紀元前140年)に遡及して「建元」という元号が創始されて以降、清まで用いられた。
支那の元号は、中華帝国の冊封を受けた朝鮮(高句麗、百済、新羅、高麗、李氏朝鮮)、雲南(南詔、大理)でもそのまま使われた。新羅による朝鮮半島統一の直前、新羅は独自の元号を使用したが、このときは、恐らくは白村江の戦いに先だつ唐との同盟締結のため、短期間で廃止された。高麗初期・朝鮮末期(韓末)にも独自の元号が短期間使用された。朝鮮においては、ベトナムと同様、紀年において支那の元号 + 年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号 + 干支を組み合わせて使うことがよくあった。
8世紀初頭以降の満州(大氏渤海国王大武芸の仁安元年以降、遼、金、後金を経て、愛新覚羅氏大清帝国・溥儀の宣統2年まで)、日本(文武天皇の治世第5年 = 大宝元年以降、現在まで)と、10世紀末以降のベトナム(丁氏大瞿越国の太平元年以降、阮氏大南帝国の保大20年まで)は、中華帝国の冊封を受けた時期もあったが、常に独自の元号を使用し、支那と対等の立場を表した。満州から出た清は支那本土(明)及び台湾(鄭氏東寧)を倒して中華帝国を統治し、満州の元号が支那本土及び台湾でも用いられた。ベトナムにおいても、朝鮮と同様に、紀年において支那の元号 + 年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号 + 干支を組み合わせて使うことがよくあった。ベトナム阮朝では、南ベトナムの広南阮氏の正史編纂に際し、阮氏歴代の廟号 + 干支、支那の元号と大越(北ベトナムの黎朝)の元号の三つを併記した。
伝承上の琉球国王の系譜は舜天氏(清和源氏の系統)と尚氏から成る。琉球は12世紀に日本本土から来た皇別氏族である清和源氏の舜天尊敦(源義家の四世孫である源為朝の子と伝えられる)によって建国された。この伝承によれば鎌倉幕府の源氏と琉球王国の舜天氏は一家である。その後、数代を経て舜天氏は尚氏(英祖)と交替した。尚氏琉球は元を倒した明に朝貢し、尚氏が大明皇帝によって琉球国王と認められる冊封体制に属した。17世紀初頭、島津氏による琉球侵攻による尚氏琉球の保護国化以降も、尚氏琉球は国内外で支那の元号(明及び清の年号) + 年数を使っていたが、琉球通信使などのような島津氏(同じく源義家の四世孫である源頼朝の庶出を自称するが、日向国島津荘にあった藤原北家 = 近衛家領地の荘官を兼ねており、領家であった藤原朝臣を本姓とする)や徳川氏(同じく源義家の四世孫である得川頼有/徳河頼有の子孫を自称)とのやりとりの際には日本の元号 + 年数を使った。
漢の武帝以前は王や皇帝の即位の年数による即位紀元の方式が用いられていた(在位紀年法、王暦)。当時の紀年法では新しい天子が即位した翌年を始めの年とする認識がとられていることが多い。例えば『資治通鑑』によれば周の威烈王23年の翌年が安王元年、高祖12年の翌年が高后元年となっている。また『史記』の孝武本紀では孝景の崩じた翌年を元年としている。このように王暦において即位の翌年から次の天子の元号を始めることを「踰年称元」といい、即位年(先の天子の没年)から次の天子の元号を始めることを「没年称元」という。ただし『史記』でも孝文本紀と孝景本紀とでは記載に混乱がみられ、史書によっても混乱がみられる部分がある。そのため史書の編纂の過程で『資治通鑑』のような体裁に整えられていったとする説がある。
元号制度が始まったのは漢の武帝の時代からだが、明の太祖洪武帝(朱元璋)により一世一元の制がとられるまで、一人の皇帝の治世中にしばしば改元された。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、麒麟捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。
支那では元号制度が正式に設けられた後も、即位改元の場合は原則として前皇帝が亡くなった年のうちは改元を行わず、新皇帝は翌年正月に改元する方式がとられた(踰年称元、踰年改元)。伊藤東涯は『制度通』において「先君崩薨の後、明年を元年と云、踰年改元すと云、是なり。」としている。ただし、王朝交替時には新皇帝の即位とほぼ同時、政変・譲位の時は新皇帝の即位と同時か間をおいて改元されることが多かった。
明の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに改元する一世一元の制を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。
1911年に辛亥革命によって満州族(愛新覚羅氏)王朝の清が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制になじまないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「民国紀元」が定められた。1916年に袁世凱が帝制(中華帝国)を敷いた時には「洪憲」の元号を建てた。ただし、清室優待条件によって宣統帝溥儀は紫禁城で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部(遜清皇室小朝廷)では「宣統」の元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。
満洲国が1932年に建国されると「大同」と建元し、1934年に溥儀が皇帝に即位して満洲帝国になると「康徳」と改元された。第二次世界大戦末期の1945年8月、ソビエト連邦による満洲侵攻で満洲帝国が滅亡すると、再び元号は廃止された。
中華人民共和国が大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用される。しかし、これはキログラムが「公斤」と、キロメートルが「公里」と表記されるのと同じで、元号としてではなく、common eraの中国語訳表記である。同様にベトナムでも公元 công nguyênという名称で西暦が採用される。
中華民国(台湾)では、正月(元旦節)は農暦正月(旧正月)を祝う一方、公元(西暦)と同期した「中華民国紀元」が、辛亥革命(1911年)の翌年(1912年)以降、台湾光復(1945年10月25日)、台北遷都(1949年12月7日)を経て現在に至るまで公式に用いられている。西暦1912年1月1日 = 黄帝紀元4609年旧暦11月13日 = 大清帝国宣統2年旧暦11月13日 = 中華民国元年1月1日( = 日本明治45年1月1日)。
民国紀元は、厳密には国号であって、紀元でも元号でもないが、元号のように公的な場で使用されている。台湾独立時代の元号として、鄭氏東寧国の永暦(もと南明の元号、1662年 - 1683年)、台湾民主国の永清(1895年)があるが、鄭氏東寧国や台湾民主国の建設、中華民国の台北遷都にちなむ台湾紀元のような紀年法はない。また、1949年以降の支那(中華人民共和国)では一般の公文書には「公元」(西暦)を使用し、元号やそれに準じた民国紀元のような紀年法は無く、西暦の使用が憚られる宗教建築の棟札などには干支と農暦(旧暦)による紀年が用いられる。西暦2023年は中華民国112年である。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、正月(元旦節)は陰暦正月(旧正月)を祝う一方、陽暦(西暦)と同期した「主体紀元」が、金正日の統治第3年(1997年)以降、現在に至るまで公式に用いられている。「1997年 = 主体86年」であり、元年~85年までは観念上の存在であって遡及的に使用され、金正日の父・金日成が生まれた「1912年(民国元年、大正元年)= (観念上の)元年」とする。
主体紀元は、厳密にはイデオロギー口号(こうごう、スローガン)であって、紀元でも元号でもないが、民国紀元と同様に公的な場で使用されている。日本では1872年 = 明治5年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1873年 = 明治6年以降、元号が西暦と同期するようになったが、李氏朝鮮国(1897年以降は李氏大韓帝国)においても1895年 = 開国504年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1896年 = 高宗建陽元年以降、李氏大韓帝国が消滅した1910年 = 純宗隆熙4年まで西暦と同期した元号が用いられた。1912年 = 【観念上の朝鮮開国521年】 = 【観念上の朝鮮純宗隆熙6年】 = 朝鮮主体元年 = 中華民国元年( = 日本大正元年)。このほか、李氏朝鮮国で1870年 - 1896年まで用いられた開国紀元(旧暦と同期、1392年を元年とする)や、大韓民国(韓国)の大韓民国紀元(西暦と同期、三一独立運動の年、大韓民国臨時政府(上海)成立の年、1919年を元年とする)、檀君紀元(もと旧暦と同期していたが1948年以降は西暦と同期する、開天紀元ともいう、『三国遺事』に記録された檀君神話に基づき、檀君即位の年である、支那の五帝・帝堯の治世第50年 = 紀元前2333年「旧暦10月3日」を元年 = 即位年即位日とし、今は西暦10月3日を開天節として祝う)などの紀年法がある。1961年以降の韓国では一般の公文書には「陽暦」(西暦)を使用し、檀君紀元は使用されず、元号やそれに準じた主体紀元のような紀年法もない。西暦2023年は朝鮮主体112年( = 中華民国112年)である。
ベトナム社会主義共和国(共和社会主義越南)の指導政党であるベトナム共産党の設立記念日は1930年2月3日(大南保大5年/旧暦1月5日)であり、必ず西暦で祝われ、旧暦1月5日に祝われることはない。一方、ベトナムもまた正月(元旦節)は台湾や朝鮮と同様に陰暦正月(旧正月)を祝う。また、元旦節や清明節、春分節などの伝統節日の紀年においては、公元(西暦)ではなく旧暦と同期した「共和社会主義越南紀元」が、ベトナム戦争を終結させたサイゴン陥落・南ベトナム革命(1975年)の翌年(1976年)以降、現在に至るまで非公式に用いられている。1976年 = 共和社会主義越南32年であり、元年~31年までは観念上の存在であって遡及的に使用される。共和社会主義越南紀元は、厳密には国号であって、紀元でも元号でもないが、ローマ字やキリスト紀元(西暦)の使用が憚られる宗教建築ー村落集会所(亭)や寺、廟、族祠の棟札などには、原則として漢字(及び喃字、チューノム)と漢数字で、阮氏大南帝国時代の元号(年号)のように使用されている。実際にはローマ字や算用数字で書く場合もあり、共和社会主義越南紀元の代わりに干支と陰暦(旧暦)による紀年が用いられる場合もあって、その使用は必ずしも絶対ではない。1945~1954年まで、ベトナムの亭、寺、廟、族祠などでは西暦を避けて干支、国長年号(保大または大南保大、仏軍支配地域のベトナムにおける旧阮朝帝室の国長制は1945~55年まで継続)、国号(越南民主共和)、準国号(越南民国、1945~54年まで、ベトナム民主共和国の官報は『越南民国公報』であった)を非公式に使用したと考えられる。旧北ベトナムの亭、寺、廟、族祠などでは1954~1975年まで1945年を元年とする越南民主共和紀元が非公式に使用され、旧南ベトナムでは1955~1975年まで1955年を元年とする越南共和紀元が非公式に使用されて、現存する寺社の棟札などでその使用を確認できる。共和社会主義越南紀元の観念上の元年は、越南民主共和紀元と同じ、八月革命の年、1945年である。1945年 = 大南保大20年 = 越南民主共和元年 = 【観念上の共和社会主義越南元年】(= 日本の昭和20年)である。
このほかに、同じく旧暦と同期した雄王紀元(フンヴオン紀元)がある。鴻厖紀元(ホンバン紀元)ともいう。雄王紀元は、『大越史記』及び『大越史記全書』に記録された神話(雄王祖 = 帝明説)に基づき、初代フンヴオン(雄王 = 涇陽王)鴻厖氏即位の年である、支那の三皇・炎帝神農氏の第三世孫(帝明)の没年 = 紀元前2879年を元年とする。このため、ベトナム人の間では「ベトナム五千年の歴史」という言い回しが存在する。ベトナムでは「ベトナム(鴻厖氏文郎国)建国の年・建国の日は、初代フンヴオンの父・王祖帝明の没年であり命日・忌日(ゾー Giỗ)である」という「没年称元」の観点から、建国記念日「旧暦3月10日」を雄王祖忌(ゾートーフンヴオン、Giỗ Tổ Hùng Vương)という。雄王紀元は雄王祖忌を祝う上での観念上の紀元であり、雄王祖忌以外の場で使用されることは稀である。
1887年のフランスによる阮氏大南帝国の保護国化以降、ベトナムの一般の公文書は「西紀」(西暦と同期する)と元号(年号、旧暦と同期する)が併記され、1945年以降の独立ベトナム諸政権は元号・旧暦を廃止して「公元」(西暦)だけを使用したため、旧暦3月10日に固定されたベトナムの建国記念日(雄王祖忌)は、旧正月(元旦節)とともに、ベトナムの国民の祝日のうち「移動祝日」(毎年西暦上の日付が移動する祝日)となっている。西暦2022年1月25日 = 【観念上の雄王紀元4900年旧暦正月元日】 = 共和社会主義越南77年旧暦正月元日(=日本令和4年1月25日)である。
旧暦と同期した支那の黄帝紀元、朝鮮(高麗)の檀君紀元、ベトナム(大越)の雄王紀元は、いずれも唐の司馬貞・補『史記』(732年頃完成、以下『補史記』と称する)の 三皇本紀 と司馬遷『史記』(紀元前90年頃完成)の五帝本紀に記載された支那神話(朝鮮の場合はプラスしてインド神話)に基づき、自らの王家の祖先を華裔(中華皇帝の血統)とする形で、13世紀までに創作された神話紀元である。『補史記』に基づいて古代の諸帝王の系譜を順に追うと、(1)第3代三皇 = 初代炎帝神農氏 = 帝石年、(2)帝臨魁(石年の子)、(3)帝承(帝臨魁の子)、(4)帝明(帝承の子、帝石年の三世孫)と続き、帝明の庶子がベトナムの初代フンヴオン(雄王 = 涇陽王)となる。その後、(5)帝直(帝明の子、初代フンヴオン涇陽王の異母兄、ベトナムの伝承では帝宜)、(6)帝嫠(帝直の子)、(7)帝哀(帝嫠の子、ベトナムの伝承では帝来で、第二代フンヴオン貉龍君の舅 = 妻・嫗姫の父)、(8)帝克(帝哀の子)(9)帝楡罔(帝克の子)と続き、帝楡罔を倒して三皇時代を終焉させ、新たな五帝時代を開始し、また干支を創ったのが、(1)初代五帝 = 黄帝である。三皇のうち庖犠と女媧は蛇身であり、神農は人身だがその子孫のベトナムの第二代フンヴオン貉龍君は再び蛇身(龍種)となっており、黄帝に至ってようやく人間が世界の統治者になったと伝えられる。黄帝に続いて、(2)帝顓頊(黄帝の二世孫)、(3)帝嚳(帝顓頊の甥、黄帝の三世孫)、(4)帝堯(帝嚳の子)と続き、帝堯の治世第50年に帝釈天(インドラ、桓因)の二世孫である檀君が朝鮮に降臨した(人間ではなく熊の体であったと伝えられる。『ラーマーヤナ』物語の猿王ヴァーリンは熊王であるともいわれ、檀君同様にインドラの子孫である)。その後、(5)帝舜(帝堯の女婿)が帝堯から禅譲を受け、次いで(1)初代夏王となる禹(夏禹、禹王)が帝舜から禅譲を受けて夏朝を創業した。以後、夏 → 殷 → 周(西周)へ至り、東周・春秋戦国時代以降は神話的記述が消えて歴史時代に入る。
1872年(明治5年)に制定された日本の神話紀元すなわち神武天皇即位紀元(皇紀)は、『日本書紀』(養老4年(720年)頃完成)の紀年(元嘉暦と儀鳳暦による干支紀年)を西暦に換算し、西暦と同期しており、またその由来が『補史記』(天平4年(732年)頃)に記述された支那神話とは無関係である点で、支那の黄帝紀元、朝鮮の檀君紀元、ベトナムの雄王紀元と異なる。しかし、日本の皇室に華裔伝承がなかったわけではない。支那側では『史記』の淮南衡山列伝に徐福伝が付記されて後代の皇祖=徐福説に影響を与え、三国志の『魏書』(魏志倭人伝)が「男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身...」と述べて皇祖=夏少康説を紹介し、『晋書』『梁書』にも「自云太伯之後」(倭人は周室の親戚で衡山に隠棲した呉太伯の後裔を自称する)という皇祖=呉太伯説が紹介されている。これらの華裔伝承は日本側に逆輸入され、特に日本の儒学者にとっての皇祖=呉太伯説は、日本の仏教者にとっての反本地垂迹説と同様に、日本皇室こそ周室の後裔であり、世界の中心にして正統であり、日本儒教こそ正しい儒教であると主張できる根拠であったため、林羅山などがこれを支持した。しかし、林羅山・林鵞峰父子らの『本朝通鑑』(寛文10年(1670年)頃)には皇祖=呉太伯説は記載されていない。一方、イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』(寛永10年(1633年)頃)はもう一つの異説を採用して、「日本の皇室は姫季歴の子孫」と記載した。鄭成功の幕僚で、南支那やベトナムを転戦したのち来日した儒学者(朱子学者)の朱舜水は、武人であると同時に当時の支那最高の儒学者であり、水戸黄門(徳川光圀)の保護を受けて水戸藩の儒学者らに学問を講じ、水戸学に大きな影響を及ぼしたが、皇祖=呉太伯説、皇祖=姫季歴説を自著で述べていない。上記のように、朱舜水同様、林羅山もまた皇祖=呉太伯説を自著で述べていないにもかかわらず、18世紀以降の水戸藩において、「林羅山・鵞峰らの『本朝通鑑』が皇祖=呉太伯説を採用し、これに怒った水戸黄門、佐々介三郎(すけさん)、安積覚兵衛(かくさん)らが、林家の妄説である皇祖=呉太伯説を断固として否定するため、『本朝通鑑』へのアンチテーゼとして『大日本史』執筆に取り組み、日本全国を探訪して史料蒐集をおこなった」という誤った伝承が存在し、『水戸黄門漫遊記』などの娯楽小説へとつながった。詳細は『本朝通鑑』による呉太伯説との関係を参照。
『書経』『史記』が記述する支那神話によれば、周の武王(姫発、紀元前1070年 - 1043年ごろ)の曽祖父である古公亶父には長男(長兄)の姫太伯、次男(長弟)の姫虞仲、三男(次弟)の姫季歴がおり、呉の子爵家は姫太伯(呉太伯)の子孫、周王家(周室)は姫季歴の子孫、周の武王は姫季歴の二世孫である。『日本教会史』の皇祖=姫季歴説は『大越史記全書』などにおける雄王祖=帝明説と酷似し、支那と自国の帝王の兄弟関係を強調するものである。このほかに、松野氏系譜(松野連系図)にも松野氏祖先の姫氏説(呉太伯の系統)がある。皇祖=呉太伯説、皇祖=姫季歴説はいずれも周室と皇室は同根として、皇室の万世一系の正統性を補強するものであった。そのため、日本における皇祖=呉太伯説の支持者たちにとって、1秦による周討伐(紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた)を正当化する理論を提供し、2周の武王による殷の紂王討伐を革命の例とした『孟子』の革命説は、周を滅ぼした理論、周を侮辱し皇祖に不敬をなす妄説であり、断固として否定すべきものであった。『孟子』は遣唐使によって早期に日本に持ち込まれていたにもかかわらず、鎌倉時代の花園天皇のような天皇自身による引用を除き、引用が憚られた。宋代の「国王一姓相伝六十四世」(『新唐書』日本伝)、明代の「有携其書(孟子)往者舟即覆溺」(『五雑俎』)などのように、日本の「天祖よりこのかた継体たがはずして唯一種まします」(『神皇正統記』における万世一系説)、「此書(孟子)を積みてきたる船は必ずしも暴風にあひて沈むよし」(『雨月物語』における孟舟即覆説)の元となる記述は支那史料が初出であるが、日本の儒教受容の当初から『孟子』が忌避されたことは事実と考えられる。日本の元号は宗教上・産業上の瑞祥を除き、基本的に四書五経を出典とするが、四書五経のうち『孟子』に由来する元号はいまだかつて存在しない。
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"text": "元号(げんごう、旧字体: 元號、英語: regnal era name)または年号(ねんごう、旧字体: 年號)とは、古代支那で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は年の途中でも行われ、1年未満で改元された元号もある。",
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"text": "2023年(令和5年)時点、公的には世界では日本のみで制定、使用されている。ただし、台湾を統治する中華民国の民国紀元に基づく「民国」や、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の主体暦による「主体」が事実上は元号的な機能をしている。",
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"text": "日本における元号の使用は、孝徳天皇などの宮とする難波宮で行われた大化の改新時の「大化」から始まり、「大化」の年号と前後して「日本」という国号の使用も始まった。明治以降は一世一元の制が定着し元号法制定以後、「元号」が法的用語となった。",
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"text": "東アジア各国の歴史において、中央政権以外の政治勢力や宗教者、民間が独自に年号をつくった例もあり、「私年号」と呼ばれる。",
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"text": "紀年法のうち、西暦やイスラム紀元、皇紀(神武紀元)などが無限のシステム(紀元)であるのに対して、元号は有限のシステムである。皇帝や王など君主の即位、また治世の途中にも行われる改元によって元年から再度数え直され(リセット)、名称も改められる。日本では当たり前のことであるが、これは元号の大きな特徴である。",
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"text": "日本では一度使用された元号は二度と使用しない慣例があるが、支那などの他の元号文化圏ではそのような慣例は重視されておらず、かつて使用した元号を再使用する例が多くみられる。",
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"text": "元号は、古代支那の漢の武帝の時代に始まった制度で、皇帝 (支那)の時空統治権を象徴する称号である。『春秋公羊伝』隠元年では「元年者何。君之始年也」(元年とは何か、君主の治世が始まる年のことである。)とあり、これは皇帝権力の集中統一を重視する「大一統」思想の国制化であった。時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。",
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"text": "元号は漢字2字で表される場合が多く、まれに3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。最初期には改元の理由にちなんだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持った漢字の組み合わせを、漢籍古典を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字は2019年に始まった令和の時点でわずか73字であり、そのうち21字は10回以上用いられている。一番多く使われた文字は「永」で29回、2番目は「天」「元」のそれぞれ27回、4番目は「治」で21回、5番目は「応」「和」で20回である。なお、近代以降の元号のうち令和の「令」や平成の「成」、昭和の「昭」はそれぞれ初めて採用されたものである。また、平成の「平」は12回、大正の「大」は6回「正」は19回、明治の「明」は7回使われている。",
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"text": "独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、柔然、高昌、南詔、大理、渤海がある。また遼、西遼、西夏、金は中国史に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。",
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"text": "元号を用いた日本独自の紀年法は、西暦に対して和暦(あるいは邦暦や日本暦)と呼ばれることがある。",
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"text": "西暦2023年は「令和5年」。",
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"text": "2019年(令和元年)5月1日 に、前日(平成31年)4月30日の「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の規定により第125代天皇明仁の退位(上皇となる)に伴い、徳仁が第126代天皇に即位した。この皇位の継承を受けて、「元号法」の規定により同年4月1日に「元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)」が公布・5月1日に施行され、「令和」に改元された。",
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"text": "『昭和大礼記録(第一冊)』によると、一木喜徳郎宮内大臣は、漢学者で宮内省図書寮の編修官であった吉田増蔵に「左記の5項の範囲内において」元号選定にあたるように命じた。",
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"text": "なお、歴史的には「他国でかつて使われた元号等と同じものを用いてはならない」という条件はなかった。異朝でかつて使われた元号を意図して採用したたとえ話すらある。例えば、後醍醐天皇の定めた「建武」は、王莽を倒して漢朝を再興した光武帝の元号「建武」にあやかったものであった。また、徳川家康の命によって用いられた「元和」は、唐の憲宗の年号を用いたものである。近代の「明治」も大理国で用いられた例があり、「大正(たいせい)」もかつてベトナムの莫朝で用いられた。",
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"text": "1979年(昭和54年)10月、第1次大平内閣(大平正芳首相)は、「元号法に定める元号の選定」について、具体的な要領を定めた(昭和54年10月23日閣議報告)。",
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"text": "これによれば、元号は「候補名の考案」「候補名の整理」「原案の選定」「新元号の決定」の各段階を践んで決定される。最初に、候補名の考案は内閣総理大臣が選んだ若干名の有識者に委嘱され、各考案者は2 - 5の候補名を、その意味・典拠等の説明を付して提出する。総理府総務長官(後に内閣官房長官)は、提出された候補名について検討・整理し、結果を内閣総理大臣に報告する。このとき、次の事項に留意するものと定められている。",
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"text": "整理された候補名について、総理府総務長官、内閣官房長官、内閣法制局長官らによる会議において精査し、新元号の原案として数個の案を選定する。全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。内閣総理大臣は、新元号の原案について衆議院議長・副議長と参議院議員・副議長に連絡し、意見を聴取する。そして、新元号は、閣議において、改元の政令の決定という形で決められる。",
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"text": "日本の元号は伝統的に「2文字」であるが、元号に用いることのできる文字数は明確に制限されていない。この例外は聖武天皇・孝謙天皇の時代の約4半世紀、天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲の5つ(4文字)のみである。",
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"text": "日本において、元号は1979年制定の「元号法」(昭和54年法律第43号)によってその存在が定義されており、法的根拠があるが、その使用に関しては基本的に各々の自由で、私文書などで使用しなくても罰則などはない。一方で、西暦には元号法のような法律による何かしらの規定は存在しない(法令以外では日本産業規格 に見られるような公的な定義例がある)。なお、元号法制定にかかる国会審議で「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」との政府答弁があり、法制定後、多くの役所で国民に元号の使用を強制しないよう注意を喚起する通達が出されている。",
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"text": "また、元号法は「元号は政令で定める事」「元号は皇位の継承があった場合に限り改める事(一世一元の制)」を定めているにすぎず、公文書などにおいて元号の使用を規定するものではない。しかしながら、日本国民や在日外国人が記入して役所に提出する書類の多くは、年月日の年を元号で記入する書式になっている。ただし元号で書く前提のスペースに西暦で記入することは可能であり、市民団体「西暦表記を求める会」は、「私は西暦で記入します」と書いた意思表示用のカードを作成・配布している。",
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"text": "日本共産党は、元号の使用は慣習としては反対しないが、強制すべきではないという見解を示している。同様に、キリスト教原理主義者団体などは「元号の使用を強制し西暦の使用を禁止するのは、天皇を支持するか否かを調べる現代の踏み絵である」と主張している。",
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"text": "公用文作成の要領において年号を用いる際、元号か西暦のどちらを用いるべきかの旨は明文化されていないが、国(日本国政府)、地方公共団体などの発行する公文書(住民票、運転免許証、その他資格証など)ではほとんど元号が用いられる。一方、ウェブサイトでは、本文で元号を使用していても最終更新日やファイル名などは(管理上の都合で)西暦を使用していることもある。また、官公庁の中長期計画の名称など、キャッチフレーズとして年を印象付けさせる場合は、補助的に西暦が用いられることもある。国において、例外的に西暦が使用されている具体例には以下のものがある。",
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"text": "日本国内において西暦の併用が増加したのは、1964年(昭和39年)の東京夏季オリンピックに向けてのキャンペーンを経た後である。皇室典範改正により元号が法的根拠を失った後も、東京オリンピックのキャンペーンが始まる前までは、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効に伴う独立・主権回復以後も、米国による統治下に置かれ日本から切り離された沖縄と小笠原諸島、千島列島を除き、前述の背景により元号のみが常用されていた。とはいえ、1976年(昭和51年)に行われた元号に関する世論調査では、「国民の87.5%が元号を主に使用している」と回答しており、「併用」は7.1%、「西暦のみを使用」はわずか2.5%であった。元号が昭和から平成に変わり、2つの元号をまたぐことで年数の計算と変換が煩雑になるため、「西暦を併用する人」「西暦を主に使用する人」も次第に多くなってきた。特に21世紀に入った今日ではインターネットの普及などもあり、日常において「元号より西暦が主に使用されるケース」は格段に増えているため、元号では「今年が何年なのか判らない」「過去の出来事の把握が難しい」という人の割合も多くなってきている。",
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"text": "報道機関では『朝日新聞』が1976年(昭和51年)1月1日に、『毎日新聞』が1978年(昭和53年)1月1日に、『読売新聞』が1988年(昭和63年)1月1日に、『日本経済新聞』が1988年(昭和63年)9月23日に、『中日新聞』『東京新聞』が1988年(昭和63年)12月1日に、日付欄の表記を「元号(西暦)」から「西暦(元号)」に改めた。それでも昭和年間の末期には、未来の予測(会計年度など)を「(昭和)70年度末」といった表記をすることが多かった。1989年(平成元年)1月8日の平成改元以降、その他の各報道機関も本文中は原則として西暦記載、日付欄は「2012年(平成24年)」の様に「西暦(元号)」という順番の記載を行うところが多くなった。『産経新聞』 や『東京スポーツ』、一部の地方紙、NHKの国内ニュースのように本文中は原則元号記載、日付欄は「平成29年(2017年)」の様に「元号(西暦)」という順番の記載を行っている報道機関もある。日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』は平成改元以降、日付欄の元号併記を取りやめ西暦表記のみに変更していたが、2017年(平成29年)4月1日より元号を併記する「西暦(元号)」表記に改めた(本文中は引き続き西暦表記のみ)。",
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "企業の決算や有価証券報告書など社外向け資料・プレスリリース、鉄道などの乗車券、金融機関の預金通帳なども、以前は和暦表記(元号の年部分表記)が主流であったが、2019年の改元 を前に、西暦表記に改める動きもみられた。",
"title": "元号使用の現状"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "日本で発行されている切手には元号および西暦で発行年が記載されている。ただし歴史的にみれば大きな変遷がある。なお、記念切手には万国郵便連合(UPU)によって原則として西暦で発行年を入れるように規定されている。",
"title": "元号使用の現状"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "日本の切手で発行年が入るものに記念切手があるが、記念切手の印面に第二次世界大戦前までは元号が入る場合と全くない場合が混在していた。ただし国立公園切手の小型シートには皇紀(西暦)とアラビア数字で記入されたものがある。戦後、発行された記念切手には「昭和二十二年」といったように漢数字で表記されていたが、経緯は不明であるが1949年(昭和24年)頃から西暦のみで表記されるようになった。ただし、年賀切手の中に一部例外があるほか、皇室の 慶事 に関する記念切手は元号のみの表示の場合があった。また年賀小型シートなどには「お年玉郵便切手昭和三十一年」といった元号による表記があるほか、切手シートの余白には元号で発行年月日が入っていたが、1960年(昭和35年)頃からなくなった。",
"title": "元号使用の現状"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1979年(昭和54年)に施行された元号法による政策のためか、1979年(昭和54年)7月14日に発行された「検疫制度100年記念切手」から西暦と元号で併記されるようになった。ただし、毎年発行される国際文通週間記念切手については西暦しか表記されていない。また切手シートの余白に1995年(平成7年)頃から「H10.7.23」というローマ字による発行年月日が、さらに2000年(平成12年)からは「平成12年7月23日」という元号表記が入るようになった。なお、令和に改元された2019年(令和元年)5月から9月までは切手面・余白の発行年月日ともに西暦のみの表記で、令和の使用は10月からとなっている。",
"title": "元号使用の現状"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "なお、世界的に見ると切手に記入される年号としては西暦のほかには仏滅紀元、イスラム暦、北朝鮮の主体暦、中華民国(台湾)の民国紀元などがある",
"title": "元号使用の現状"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "日本においては、「元号としてのみ認識される商標(例えば「平成」)は識別力がない」とされ、元号を商標登録に出願することができない。また、元号と普通名称等の識別力のない文字(例えば饅頭についての「まんじゅう」)とを組み合わせた商標(例えば「平成まんじゅう」)なども同様で、商標登録に出願できないが、商号(企業名・団体名・屋号など)での使用は制限されていない。",
"title": "元号使用の現状"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ただし、その商標を使用し続けたことによって、識別力と知名度が生じた場合(例えば「平成まんじゅう」という商標を長年使い続けた結果、だれもが「平成まんじゅう」といえばその饅頭のことだとわかるようになった場合)には商標登録される場合もある としており、実際に食品会社の「明治」や「大正製薬」は商標登録され、商号としても存続している。",
"title": "元号使用の現状"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "特許庁では、以前から旧・元号も現行の元号と同様に取り扱われるとの解釈であったが、「商標登録できないのは現・元号の「平成」に限られ、「大化」から「昭和」までの旧・元号は商標登録でき、「令和」への改元後には「平成」も商標登録できる、と解釈される可能性」があり、実際にそのような報道もなされていた。",
"title": "元号使用の現状"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "そのため、特許庁では2019年(平成31年)1月30日に審査基準を改訂し、「現元号(平成)以外の元号(昭和までの元号や、改元前に公表された新・元号)も登録を認めない」と明確化した。",
"title": "元号使用の現状"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "元号使用のメリットとしては、以下の様な物がある。",
"title": "元号使用のメリット・デメリット"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "一方、デメリットとしては以下の様な物があり、元号そのものに否定的な姿勢を示す者もいる。",
"title": "元号使用のメリット・デメリット"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "公文書において、令和1年と表記するか令和元年と表記するかは、様々である。",
"title": "表記(「1年」か「元年」か)"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "登記の種類によって、「1年」とするか「元年」とするかは使い分けられている。",
"title": "表記(「1年」か「元年」か)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1)不動産登記及び商業・法人登記等",
"title": "表記(「1年」か「元年」か)"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2)成年後見登記",
"title": "表記(「1年」か「元年」か)"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "3)動産譲渡登記及び債権譲渡登記",
"title": "表記(「1年」か「元年」か)"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "「令和元年度」「令和元年度予算」とすると定められている。",
"title": "表記(「1年」か「元年」か)"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "元号を採用している日本においても、コンピュータでは元号よりも西暦による処理の方が次の点において便利であるとされる。",
"title": "コンピュータでの処理"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "これらの点から、日本でもコンピュータでの処理に際しては内部で西暦を用いているが、ほとんどの公文書(前述の通り、補助的に西暦を併用しているものも存在している)では元号を使用することを始め、一般にも書類事務は元号を用いるというニーズが根強いため、表示や入力に際しては元号を使用できるアプリケーションが多い。これは、特に使用者を限定せず多様な用途が想定されているオフィススイートに顕著である(ExcelやOpenOffice.orgなど多種)。",
"title": "コンピュータでの処理"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なお、昭和年間に使用されていたアプリケーションの中には、年を「昭和○○年」として入力し、処理されているものがある。平成以降も、内部的に昭和の続きとして扱うため、1989年(平成元年 = 昭和64年)、1990年(平成2年 = 昭和65年)、1991年(平成3年 = 昭和66年)...として処理される。しかし、3桁になる2025年(=令和7年=昭和100年)に誤作動が起きる可能性(昭和100年問題)が懸念されている。",
"title": "コンピュータでの処理"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "Excel 98以前は、2桁で入力した場合は元号優先で処理していた。例えば、「08.03.01」と入力した場合、Excel 98以前のバージョンでは「1996年(平成8年)3月1日」と処理されていた(詳細は「Microsoft Excel#日付の変換問題」を参照)。なお、Excel 2000以降のバージョンでは西暦(この場合「2008年(平成20年)3月1日」)で処理されるようになっている。",
"title": "コンピュータでの処理"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "なお、コンピュータにおけるファイル名の先頭部分に元号を用いた場合、単純に文字コードの順序で並べ替えると、利用者の意図しない順序になり、混乱を招くおそれがある。例として、本来「元治→慶応→明治→大正→昭和→平成→令和」の順序にすべきところが、「慶応→元治→昭和→大正→平成→明治→令和」の順序になる(文字コード「シフトJIS」の昇順で並べ替えた場合)。",
"title": "コンピュータでの処理"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "元号による日付と西暦との対応表(日本産業規格JIS X 0301:2019)",
"title": "西暦と元号との変換"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "西暦年から元号年を簡易に計算する方法として、知りたい年の西暦の紀年数から各元号の元年の前年(0年)の西暦を引いて元号の紀年数を算出する方法がある(逆に、加えると西暦が算出できる)。減算は、下2桁同士でもよい。",
"title": "西暦と元号との変換"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "一般に難波宮で行われた大化の改新(645年)時に「大化」が用いられたのが最初であり、以降、日本という国号の使用が始まったとされる。なお、即位改元は南北朝以後から江戸時代前半期の数例(寛永など)を除いて確実に実施されている。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "『日本書紀』の王暦は原則として王の即位の翌年を元年とする記述で整理されている。ただし『日本書紀』は後世に編纂されたもので各王の時にどのような紀年法だったかは別問題である。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "『日本書紀』の王暦は前王の崩御と同じ年に即位したか翌年に即位したかにかかわらず原則として即位の翌年を元年とする記述で整理されている。例外的に孝徳天皇の元号「大化」と『続日本紀』の文武天皇の王暦は即位年が元年となっているが、いずれも譲位により即位した例で、諒闇即位の時は翌年を元年とし、譲位即位の時は同年を元年としている。『日本書紀』の王暦における即位翌年に改元する越年称元(踰年称元)は那珂通世によって指摘された。元号制度が確立されてからも即位翌年に改元する踰年改元の例は江戸時代までみられた。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "一般には「大化」が日本最初の元号とされている。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "元号制度が安定的にみられるのは文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元してからで、以降、独自の元号制度が展開されている。古墳時代はまだ見られず飛鳥時代の「大宝」から江戸時代末期(幕末)の「慶応」までは一代の天皇の間に複数回改元しうる制度であった。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "平安時代末期、源頼朝は、寿永二年十月宣旨によって朝敵認定を赦免され東国支配権を認められるまで、養和ついで寿永への改元をいずれも認めず、それ以前の治承の年号を使い続けるなど、元号は強い政治性を帯びていた。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "南北朝時代には、持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)がそれぞれ元号を制定したため、元徳3年/元弘元年(1331年)から元中9年/明徳3年(1392年)まで2つの元号が並存した。建武元年と同2年は朝廷が分裂する前であるため元号は共通であった。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "室町時代には、朝廷が定めた新元号を、将軍が吉書として総覧して花押を据える「吉書始」と呼ばれる儀式で改元を宣言して、武家の間で使用されるようになった。そのため元号選定には武家の影響力は強いものであった。特に室町幕府第3代将軍の足利義満以降、改元に幕府の影響が強まった。一方で京都の幕府と対立した鎌倉府が改元を認めずに反抗するという事態も生じた。また応仁の乱などで朝廷と幕府が乱れると朝廷による改元と幕府の「吉書始」の間が開くようになり、新・元号と旧・元号が使用される混乱も見られた。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "戦国時代末期、織田信長は元亀4年7月、将軍足利義昭を京都から追放した直後に元亀から天正への改元を主導し、織田政権の開始を象徴する出来事となった。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事(支那の元号の中から良いものを選べ。ただし、今後習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである)」とされ、徳川幕府が元号決定に介入することになった。また、改元後の新元号を実際に施行する権限は江戸幕府が有しており、朝廷から連絡を受けた幕府が大名・旗本を集めて改元の事実を告げた日(公達日)より施行されることになっていた。これは朝廷のある京都においても同様であり、朝廷が江戸の幕府に改元の正式な通知をして、幕府が江戸城で諸大名らに公達を行い、江戸から派遣された幕府の使者が京都町奉行に改元の公達を行い、町奉行が改元の町触を行った後で初めて施行されるものとされた。京都の役人や民衆はたとえ改元の事実を知っていても、町触が出される前に新元号を使うことは禁じられていた。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "広く庶民にも年号が伝わるようになったのは、江戸時代になってからのことである。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "江戸時代まで元号は一代の天皇の間に複数回改元しうるもので後世になるほど祥瑞や辛酉年での改元が増えた。即位改元では9世紀以降は践祚の翌年に改元する踰年改元、江戸時代には即位儀の翌年に改元するのが通例であった(ただし支那のように改元の月は正月に固定されなかった)。また、南北朝以後から江戸時代前半期にかけて即位改元が実施されなかった例がいくつかある(後水尾天皇の御世に改元された「寛永」は明正天皇が即位しても改元されなかった例など)。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "慶応以前は、在位した天皇の交代時以外にも随意に改元(吉事の際の祥瑞改元、大規模な自然災害や戦乱などが発生した時の災異改元など)していた。しかし、戊辰戦争の結果として全国政府の座を奪取した明治政府は、明治に改元した時に一世一元の詔を発布し、明治以後は、現在に至る、新天皇の即位時に限定して改元する「一世一元の制」に変更された。これにより、辛酉改元や甲子改元も廃止された。さらに、1872年(明治5年)には、西洋に合わせて太陽暦(グレゴリオ暦)へと移行することになり、「旧暦(太陰太陽暦)に代わる暦として永久にこれを採用する」との太政官布告により採用された(詳細は「明治改暦」を参照)。それに伴い、元号や干支、神武天皇即位紀元(皇紀、神武暦) に加えて、キリスト紀元(西暦、西紀)の使用も始まったが、第二次世界大戦時には西暦はむしろ敵性語扱いされた節もあった。その後、太陽暦に移行しても、1910年代までは旧来の太陰太陽暦(天保暦)での暦が併記されていたように、年数を数えるにおいて民衆には浸透しづらかった側面もある。そして、1889年(明治22年)に公布された旧皇室典範と1909年(明治42年)に公布された登極令(皇室令の一部)に「(天皇の)践祚後は直ちに元号を改める」と規定され、元号の法的根拠が生じた。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦敗戦後に、日本国憲法制定に伴う皇室典範の改正をもって、元号の法的根拠は一時消失した。しかし慣例という形で、官民を問わず「昭和」の元号が使用され続けた。だが、第二次世界大戦終結の翌年に当たる1946年(昭和21年)1月には、尾崎行雄が帝国議会衆議院議長に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた1945年(昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、1946年(昭和21年)をもって「新日本」の元年として、1946年(昭和21年)以後は無限の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。これに対して、石橋湛山は、『東洋経済新報』1946年(昭和21年)1月12日号のコラム「顕正義」において、「元号の廃止」と「西暦の使用」を主張した。1950年(昭和25年)2月下旬になると、国会参議院で「元号の廃止」が議題に上がった。ここで東京大学教授の坂本太郎は、元号の使用は「独立国の象徴」であり、「西暦の何世紀というような機械的な時代の区画などよりは、遙かに意義の深いものを持って」いる上、更に「大化の改新であるとか建武中興であるとか明治維新」という名称をなし、「日本歴史、日本文化と緊密に結合し」ていることは今後も同様であるため、便利な元号を「廃止する必要は全然認められない」一方で「存続しなければならん意義が沢山に存在する」と熱弁をふるい元号の正当性を主張し続けた。さらに1950年(昭和25年)5月、日本学術会議は吉田茂首相あてに「天皇統治を端的にあらわした元号は民主国家にふさわしくない」として、元号の廃止と西暦の採用を申し入れる決議を行った。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまることとなる。その後、1979年(昭和54年)に元号法が制定され、議論は事実上終結した。これは昭和天皇の高齢化と、1976年(昭和51年)当時の世論調査で国民の87.5%が元号を使用している実態 に鑑みたものである。元号法では「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められ、明治以来の「一世一元の制」が維持された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けることとなる。ただし、皇紀(神武天皇即位紀元)に関しては現在、(文化的な場での使用を除き)公文書にて使用されていない。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "日本の元号で最も期間の長い元号は「昭和」の62年と14日。最も期間の短い元号は「暦仁」の2か月と14日である。昭和は日本だけでなく、元号を用いていた全ての国の元号の中でも最も長い元号である。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "年数で最も長い元号も「昭和」で、64年まである。逆に元年のみ使われた元号は「朱鳥」と「天平感宝」がある。暦仁は期間内に元日を挟んでいるため2年まである。",
"title": "元号使用の歴史(日本)"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "支那で元号制度が始まるのは漢の武帝の時代のことである。漢の武帝の治世第36年 - 元鼎2年(紀元前115年)頃、治世第1年(紀元前140年)に遡及して「建元」という元号が創始されて以降、清まで用いられた。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "支那の元号は、中華帝国の冊封を受けた朝鮮(高句麗、百済、新羅、高麗、李氏朝鮮)、雲南(南詔、大理)でもそのまま使われた。新羅による朝鮮半島統一の直前、新羅は独自の元号を使用したが、このときは、恐らくは白村江の戦いに先だつ唐との同盟締結のため、短期間で廃止された。高麗初期・朝鮮末期(韓末)にも独自の元号が短期間使用された。朝鮮においては、ベトナムと同様、紀年において支那の元号 + 年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号 + 干支を組み合わせて使うことがよくあった。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "8世紀初頭以降の満州(大氏渤海国王大武芸の仁安元年以降、遼、金、後金を経て、愛新覚羅氏大清帝国・溥儀の宣統2年まで)、日本(文武天皇の治世第5年 = 大宝元年以降、現在まで)と、10世紀末以降のベトナム(丁氏大瞿越国の太平元年以降、阮氏大南帝国の保大20年まで)は、中華帝国の冊封を受けた時期もあったが、常に独自の元号を使用し、支那と対等の立場を表した。満州から出た清は支那本土(明)及び台湾(鄭氏東寧)を倒して中華帝国を統治し、満州の元号が支那本土及び台湾でも用いられた。ベトナムにおいても、朝鮮と同様に、紀年において支那の元号 + 年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号 + 干支を組み合わせて使うことがよくあった。ベトナム阮朝では、南ベトナムの広南阮氏の正史編纂に際し、阮氏歴代の廟号 + 干支、支那の元号と大越(北ベトナムの黎朝)の元号の三つを併記した。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "伝承上の琉球国王の系譜は舜天氏(清和源氏の系統)と尚氏から成る。琉球は12世紀に日本本土から来た皇別氏族である清和源氏の舜天尊敦(源義家の四世孫である源為朝の子と伝えられる)によって建国された。この伝承によれば鎌倉幕府の源氏と琉球王国の舜天氏は一家である。その後、数代を経て舜天氏は尚氏(英祖)と交替した。尚氏琉球は元を倒した明に朝貢し、尚氏が大明皇帝によって琉球国王と認められる冊封体制に属した。17世紀初頭、島津氏による琉球侵攻による尚氏琉球の保護国化以降も、尚氏琉球は国内外で支那の元号(明及び清の年号) + 年数を使っていたが、琉球通信使などのような島津氏(同じく源義家の四世孫である源頼朝の庶出を自称するが、日向国島津荘にあった藤原北家 = 近衛家領地の荘官を兼ねており、領家であった藤原朝臣を本姓とする)や徳川氏(同じく源義家の四世孫である得川頼有/徳河頼有の子孫を自称)とのやりとりの際には日本の元号 + 年数を使った。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "漢の武帝以前は王や皇帝の即位の年数による即位紀元の方式が用いられていた(在位紀年法、王暦)。当時の紀年法では新しい天子が即位した翌年を始めの年とする認識がとられていることが多い。例えば『資治通鑑』によれば周の威烈王23年の翌年が安王元年、高祖12年の翌年が高后元年となっている。また『史記』の孝武本紀では孝景の崩じた翌年を元年としている。このように王暦において即位の翌年から次の天子の元号を始めることを「踰年称元」といい、即位年(先の天子の没年)から次の天子の元号を始めることを「没年称元」という。ただし『史記』でも孝文本紀と孝景本紀とでは記載に混乱がみられ、史書によっても混乱がみられる部分がある。そのため史書の編纂の過程で『資治通鑑』のような体裁に整えられていったとする説がある。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "元号制度が始まったのは漢の武帝の時代からだが、明の太祖洪武帝(朱元璋)により一世一元の制がとられるまで、一人の皇帝の治世中にしばしば改元された。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、麒麟捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "支那では元号制度が正式に設けられた後も、即位改元の場合は原則として前皇帝が亡くなった年のうちは改元を行わず、新皇帝は翌年正月に改元する方式がとられた(踰年称元、踰年改元)。伊藤東涯は『制度通』において「先君崩薨の後、明年を元年と云、踰年改元すと云、是なり。」としている。ただし、王朝交替時には新皇帝の即位とほぼ同時、政変・譲位の時は新皇帝の即位と同時か間をおいて改元されることが多かった。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "明の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに改元する一世一元の制を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1911年に辛亥革命によって満州族(愛新覚羅氏)王朝の清が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制になじまないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「民国紀元」が定められた。1916年に袁世凱が帝制(中華帝国)を敷いた時には「洪憲」の元号を建てた。ただし、清室優待条件によって宣統帝溥儀は紫禁城で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部(遜清皇室小朝廷)では「宣統」の元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "満洲国が1932年に建国されると「大同」と建元し、1934年に溥儀が皇帝に即位して満洲帝国になると「康徳」と改元された。第二次世界大戦末期の1945年8月、ソビエト連邦による満洲侵攻で満洲帝国が滅亡すると、再び元号は廃止された。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "中華人民共和国が大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用される。しかし、これはキログラムが「公斤」と、キロメートルが「公里」と表記されるのと同じで、元号としてではなく、common eraの中国語訳表記である。同様にベトナムでも公元 công nguyênという名称で西暦が採用される。",
"title": "アジアにおける歴史"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "中華民国(台湾)では、正月(元旦節)は農暦正月(旧正月)を祝う一方、公元(西暦)と同期した「中華民国紀元」が、辛亥革命(1911年)の翌年(1912年)以降、台湾光復(1945年10月25日)、台北遷都(1949年12月7日)を経て現在に至るまで公式に用いられている。西暦1912年1月1日 = 黄帝紀元4609年旧暦11月13日 = 大清帝国宣統2年旧暦11月13日 = 中華民国元年1月1日( = 日本明治45年1月1日)。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "民国紀元は、厳密には国号であって、紀元でも元号でもないが、元号のように公的な場で使用されている。台湾独立時代の元号として、鄭氏東寧国の永暦(もと南明の元号、1662年 - 1683年)、台湾民主国の永清(1895年)があるが、鄭氏東寧国や台湾民主国の建設、中華民国の台北遷都にちなむ台湾紀元のような紀年法はない。また、1949年以降の支那(中華人民共和国)では一般の公文書には「公元」(西暦)を使用し、元号やそれに準じた民国紀元のような紀年法は無く、西暦の使用が憚られる宗教建築の棟札などには干支と農暦(旧暦)による紀年が用いられる。西暦2023年は中華民国112年である。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"paragraph_id": 79,
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"text": "朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、正月(元旦節)は陰暦正月(旧正月)を祝う一方、陽暦(西暦)と同期した「主体紀元」が、金正日の統治第3年(1997年)以降、現在に至るまで公式に用いられている。「1997年 = 主体86年」であり、元年~85年までは観念上の存在であって遡及的に使用され、金正日の父・金日成が生まれた「1912年(民国元年、大正元年)= (観念上の)元年」とする。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"text": "主体紀元は、厳密にはイデオロギー口号(こうごう、スローガン)であって、紀元でも元号でもないが、民国紀元と同様に公的な場で使用されている。日本では1872年 = 明治5年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1873年 = 明治6年以降、元号が西暦と同期するようになったが、李氏朝鮮国(1897年以降は李氏大韓帝国)においても1895年 = 開国504年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1896年 = 高宗建陽元年以降、李氏大韓帝国が消滅した1910年 = 純宗隆熙4年まで西暦と同期した元号が用いられた。1912年 = 【観念上の朝鮮開国521年】 = 【観念上の朝鮮純宗隆熙6年】 = 朝鮮主体元年 = 中華民国元年( = 日本大正元年)。このほか、李氏朝鮮国で1870年 - 1896年まで用いられた開国紀元(旧暦と同期、1392年を元年とする)や、大韓民国(韓国)の大韓民国紀元(西暦と同期、三一独立運動の年、大韓民国臨時政府(上海)成立の年、1919年を元年とする)、檀君紀元(もと旧暦と同期していたが1948年以降は西暦と同期する、開天紀元ともいう、『三国遺事』に記録された檀君神話に基づき、檀君即位の年である、支那の五帝・帝堯の治世第50年 = 紀元前2333年「旧暦10月3日」を元年 = 即位年即位日とし、今は西暦10月3日を開天節として祝う)などの紀年法がある。1961年以降の韓国では一般の公文書には「陽暦」(西暦)を使用し、檀君紀元は使用されず、元号やそれに準じた主体紀元のような紀年法もない。西暦2023年は朝鮮主体112年( = 中華民国112年)である。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"text": "ベトナム社会主義共和国(共和社会主義越南)の指導政党であるベトナム共産党の設立記念日は1930年2月3日(大南保大5年/旧暦1月5日)であり、必ず西暦で祝われ、旧暦1月5日に祝われることはない。一方、ベトナムもまた正月(元旦節)は台湾や朝鮮と同様に陰暦正月(旧正月)を祝う。また、元旦節や清明節、春分節などの伝統節日の紀年においては、公元(西暦)ではなく旧暦と同期した「共和社会主義越南紀元」が、ベトナム戦争を終結させたサイゴン陥落・南ベトナム革命(1975年)の翌年(1976年)以降、現在に至るまで非公式に用いられている。1976年 = 共和社会主義越南32年であり、元年~31年までは観念上の存在であって遡及的に使用される。共和社会主義越南紀元は、厳密には国号であって、紀元でも元号でもないが、ローマ字やキリスト紀元(西暦)の使用が憚られる宗教建築ー村落集会所(亭)や寺、廟、族祠の棟札などには、原則として漢字(及び喃字、チューノム)と漢数字で、阮氏大南帝国時代の元号(年号)のように使用されている。実際にはローマ字や算用数字で書く場合もあり、共和社会主義越南紀元の代わりに干支と陰暦(旧暦)による紀年が用いられる場合もあって、その使用は必ずしも絶対ではない。1945~1954年まで、ベトナムの亭、寺、廟、族祠などでは西暦を避けて干支、国長年号(保大または大南保大、仏軍支配地域のベトナムにおける旧阮朝帝室の国長制は1945~55年まで継続)、国号(越南民主共和)、準国号(越南民国、1945~54年まで、ベトナム民主共和国の官報は『越南民国公報』であった)を非公式に使用したと考えられる。旧北ベトナムの亭、寺、廟、族祠などでは1954~1975年まで1945年を元年とする越南民主共和紀元が非公式に使用され、旧南ベトナムでは1955~1975年まで1955年を元年とする越南共和紀元が非公式に使用されて、現存する寺社の棟札などでその使用を確認できる。共和社会主義越南紀元の観念上の元年は、越南民主共和紀元と同じ、八月革命の年、1945年である。1945年 = 大南保大20年 = 越南民主共和元年 = 【観念上の共和社会主義越南元年】(= 日本の昭和20年)である。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"paragraph_id": 82,
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"text": "このほかに、同じく旧暦と同期した雄王紀元(フンヴオン紀元)がある。鴻厖紀元(ホンバン紀元)ともいう。雄王紀元は、『大越史記』及び『大越史記全書』に記録された神話(雄王祖 = 帝明説)に基づき、初代フンヴオン(雄王 = 涇陽王)鴻厖氏即位の年である、支那の三皇・炎帝神農氏の第三世孫(帝明)の没年 = 紀元前2879年を元年とする。このため、ベトナム人の間では「ベトナム五千年の歴史」という言い回しが存在する。ベトナムでは「ベトナム(鴻厖氏文郎国)建国の年・建国の日は、初代フンヴオンの父・王祖帝明の没年であり命日・忌日(ゾー Giỗ)である」という「没年称元」の観点から、建国記念日「旧暦3月10日」を雄王祖忌(ゾートーフンヴオン、Giỗ Tổ Hùng Vương)という。雄王紀元は雄王祖忌を祝う上での観念上の紀元であり、雄王祖忌以外の場で使用されることは稀である。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"text": "1887年のフランスによる阮氏大南帝国の保護国化以降、ベトナムの一般の公文書は「西紀」(西暦と同期する)と元号(年号、旧暦と同期する)が併記され、1945年以降の独立ベトナム諸政権は元号・旧暦を廃止して「公元」(西暦)だけを使用したため、旧暦3月10日に固定されたベトナムの建国記念日(雄王祖忌)は、旧正月(元旦節)とともに、ベトナムの国民の祝日のうち「移動祝日」(毎年西暦上の日付が移動する祝日)となっている。西暦2022年1月25日 = 【観念上の雄王紀元4900年旧暦正月元日】 = 共和社会主義越南77年旧暦正月元日(=日本令和4年1月25日)である。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"text": "旧暦と同期した支那の黄帝紀元、朝鮮(高麗)の檀君紀元、ベトナム(大越)の雄王紀元は、いずれも唐の司馬貞・補『史記』(732年頃完成、以下『補史記』と称する)の 三皇本紀 と司馬遷『史記』(紀元前90年頃完成)の五帝本紀に記載された支那神話(朝鮮の場合はプラスしてインド神話)に基づき、自らの王家の祖先を華裔(中華皇帝の血統)とする形で、13世紀までに創作された神話紀元である。『補史記』に基づいて古代の諸帝王の系譜を順に追うと、(1)第3代三皇 = 初代炎帝神農氏 = 帝石年、(2)帝臨魁(石年の子)、(3)帝承(帝臨魁の子)、(4)帝明(帝承の子、帝石年の三世孫)と続き、帝明の庶子がベトナムの初代フンヴオン(雄王 = 涇陽王)となる。その後、(5)帝直(帝明の子、初代フンヴオン涇陽王の異母兄、ベトナムの伝承では帝宜)、(6)帝嫠(帝直の子)、(7)帝哀(帝嫠の子、ベトナムの伝承では帝来で、第二代フンヴオン貉龍君の舅 = 妻・嫗姫の父)、(8)帝克(帝哀の子)(9)帝楡罔(帝克の子)と続き、帝楡罔を倒して三皇時代を終焉させ、新たな五帝時代を開始し、また干支を創ったのが、(1)初代五帝 = 黄帝である。三皇のうち庖犠と女媧は蛇身であり、神農は人身だがその子孫のベトナムの第二代フンヴオン貉龍君は再び蛇身(龍種)となっており、黄帝に至ってようやく人間が世界の統治者になったと伝えられる。黄帝に続いて、(2)帝顓頊(黄帝の二世孫)、(3)帝嚳(帝顓頊の甥、黄帝の三世孫)、(4)帝堯(帝嚳の子)と続き、帝堯の治世第50年に帝釈天(インドラ、桓因)の二世孫である檀君が朝鮮に降臨した(人間ではなく熊の体であったと伝えられる。『ラーマーヤナ』物語の猿王ヴァーリンは熊王であるともいわれ、檀君同様にインドラの子孫である)。その後、(5)帝舜(帝堯の女婿)が帝堯から禅譲を受け、次いで(1)初代夏王となる禹(夏禹、禹王)が帝舜から禅譲を受けて夏朝を創業した。以後、夏 → 殷 → 周(西周)へ至り、東周・春秋戦国時代以降は神話的記述が消えて歴史時代に入る。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"text": "1872年(明治5年)に制定された日本の神話紀元すなわち神武天皇即位紀元(皇紀)は、『日本書紀』(養老4年(720年)頃完成)の紀年(元嘉暦と儀鳳暦による干支紀年)を西暦に換算し、西暦と同期しており、またその由来が『補史記』(天平4年(732年)頃)に記述された支那神話とは無関係である点で、支那の黄帝紀元、朝鮮の檀君紀元、ベトナムの雄王紀元と異なる。しかし、日本の皇室に華裔伝承がなかったわけではない。支那側では『史記』の淮南衡山列伝に徐福伝が付記されて後代の皇祖=徐福説に影響を与え、三国志の『魏書』(魏志倭人伝)が「男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身...」と述べて皇祖=夏少康説を紹介し、『晋書』『梁書』にも「自云太伯之後」(倭人は周室の親戚で衡山に隠棲した呉太伯の後裔を自称する)という皇祖=呉太伯説が紹介されている。これらの華裔伝承は日本側に逆輸入され、特に日本の儒学者にとっての皇祖=呉太伯説は、日本の仏教者にとっての反本地垂迹説と同様に、日本皇室こそ周室の後裔であり、世界の中心にして正統であり、日本儒教こそ正しい儒教であると主張できる根拠であったため、林羅山などがこれを支持した。しかし、林羅山・林鵞峰父子らの『本朝通鑑』(寛文10年(1670年)頃)には皇祖=呉太伯説は記載されていない。一方、イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』(寛永10年(1633年)頃)はもう一つの異説を採用して、「日本の皇室は姫季歴の子孫」と記載した。鄭成功の幕僚で、南支那やベトナムを転戦したのち来日した儒学者(朱子学者)の朱舜水は、武人であると同時に当時の支那最高の儒学者であり、水戸黄門(徳川光圀)の保護を受けて水戸藩の儒学者らに学問を講じ、水戸学に大きな影響を及ぼしたが、皇祖=呉太伯説、皇祖=姫季歴説を自著で述べていない。上記のように、朱舜水同様、林羅山もまた皇祖=呉太伯説を自著で述べていないにもかかわらず、18世紀以降の水戸藩において、「林羅山・鵞峰らの『本朝通鑑』が皇祖=呉太伯説を採用し、これに怒った水戸黄門、佐々介三郎(すけさん)、安積覚兵衛(かくさん)らが、林家の妄説である皇祖=呉太伯説を断固として否定するため、『本朝通鑑』へのアンチテーゼとして『大日本史』執筆に取り組み、日本全国を探訪して史料蒐集をおこなった」という誤った伝承が存在し、『水戸黄門漫遊記』などの娯楽小説へとつながった。詳細は『本朝通鑑』による呉太伯説との関係を参照。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"paragraph_id": 86,
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"text": "『書経』『史記』が記述する支那神話によれば、周の武王(姫発、紀元前1070年 - 1043年ごろ)の曽祖父である古公亶父には長男(長兄)の姫太伯、次男(長弟)の姫虞仲、三男(次弟)の姫季歴がおり、呉の子爵家は姫太伯(呉太伯)の子孫、周王家(周室)は姫季歴の子孫、周の武王は姫季歴の二世孫である。『日本教会史』の皇祖=姫季歴説は『大越史記全書』などにおける雄王祖=帝明説と酷似し、支那と自国の帝王の兄弟関係を強調するものである。このほかに、松野氏系譜(松野連系図)にも松野氏祖先の姫氏説(呉太伯の系統)がある。皇祖=呉太伯説、皇祖=姫季歴説はいずれも周室と皇室は同根として、皇室の万世一系の正統性を補強するものであった。そのため、日本における皇祖=呉太伯説の支持者たちにとって、1秦による周討伐(紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた)を正当化する理論を提供し、2周の武王による殷の紂王討伐を革命の例とした『孟子』の革命説は、周を滅ぼした理論、周を侮辱し皇祖に不敬をなす妄説であり、断固として否定すべきものであった。『孟子』は遣唐使によって早期に日本に持ち込まれていたにもかかわらず、鎌倉時代の花園天皇のような天皇自身による引用を除き、引用が憚られた。宋代の「国王一姓相伝六十四世」(『新唐書』日本伝)、明代の「有携其書(孟子)往者舟即覆溺」(『五雑俎』)などのように、日本の「天祖よりこのかた継体たがはずして唯一種まします」(『神皇正統記』における万世一系説)、「此書(孟子)を積みてきたる船は必ずしも暴風にあひて沈むよし」(『雨月物語』における孟舟即覆説)の元となる記述は支那史料が初出であるが、日本の儒教受容の当初から『孟子』が忌避されたことは事実と考えられる。日本の元号は宗教上・産業上の瑞祥を除き、基本的に四書五経を出典とするが、四書五経のうち『孟子』に由来する元号はいまだかつて存在しない。",
"title": "アジアにおける歴史"
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"text": "(キャッシュを破棄)",
"title": "元号一覧"
}
] |
元号または年号とは、古代支那で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は年の途中でも行われ、1年未満で改元された元号もある。 2023年(令和5年)時点、公的には世界では日本のみで制定、使用されている。ただし、台湾を統治する中華民国の民国紀元に基づく「民国」や、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の主体暦による「主体」が事実上は元号的な機能をしている。 日本における元号の使用は、孝徳天皇などの宮とする難波宮で行われた大化の改新時の「大化」から始まり、「大化」の年号と前後して「日本」という国号の使用も始まった。明治以降は一世一元の制が定着し元号法制定以後、「元号」が法的用語となった。 東アジア各国の歴史において、中央政権以外の政治勢力や宗教者、民間が独自に年号をつくった例もあり、「私年号」と呼ばれる。
|
{{Redirectlist|年号|時間の単位の一つ|年|年を数えたり記録する方法一般|紀年法}}
{{Otheruses||使われてきた元号の各国別の一覧|元号一覧}}
[[ファイル:Keizo Obuchi cropped Keizo Obuchi 19890107.jpg|thumb|250px|[[1989年]]([[昭和]]64年)[[1月7日]]、[[総理大臣官邸]]にて新元号「[[平成]]」を発表する[[内閣官房長官]][[小渕恵三]]。[[元号法]]に基づき史上初めて[[内閣 (日本)|内閣]]が元号を選定した。また、元号の発表が史上初めて[[テレビ中継]]された。]]
[[ファイル:Yoshihide Suga announcing new imperial era Reiwa 2 (cropped).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[2019年]]([[平成]]31年)[[4月1日]]、総理大臣官邸で新元号「[[令和]]」を発表する内閣官房長官[[菅義偉]]。憲政史上初めて元号が[[皇位継承]](元号法による[[改元]]の要件)の前に[[情報公開|公表]]された。また、元号の発表が史上初めて[[ネット配信|インターネット配信]]された。]]
'''元号'''(げんごう、{{旧字体|'''元號'''}}、{{Lang-en|regnal era name}})または'''年号'''(ねんごう、{{旧字体|'''年號'''}})とは、古代中国で創始された[[紀年法]]の一種。特定の年代に付けられる[[称号]]で、基本的に[[年]]を単位とするが、元号の変更([[改元]])は年の途中でも行われ、1年未満で改元された元号もある。
[[2023年]]([[令和]]5年)時点、公的には世界では[[日本]]のみで制定、使用されている。ただし、[[台湾]]を統治する[[中華民国]]の[[民国紀元]]に基づく「民国」や、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の[[主体暦]]による「主体」が事実上は元号的な機能をしている。
日本における元号の使用は、[[孝徳天皇]]などの宮とする[[難波宮]]で行われた[[大化の改新]]時の「[[大化]]」から始まり、「大化」の年号と前後して「日本」という[[国号]]の使用も始まった。[[明治]]以降は[[一世一元の制]]が定着し[[元号法]]制定以後、「元号」が法的用語となった。
東アジア各国の歴史において、中央政権以外の政治勢力や宗教者、民間が独自に年号をつくった例もあり、「[[私年号]]」と呼ばれる。
== 概説 ==
紀年法のうち、[[西暦]]や[[ヒジュラ暦|イスラム紀元]]、[[神武天皇即位紀元|皇紀(神武紀元)]]などが無限のシステム([[紀元]])であるのに対して、元号は'''有限'''のシステムである。[[皇帝]]や[[王]]など[[君主]]の[[即位]]、また治世の途中にも行われる改元によって元年から再度数え直され(リセット)、名称も改められる。日本では当たり前のことであるが、これは元号の大きな特徴である。
日本では一度使用された元号は二度と使用しない慣例がある<ref group="注">同音異字で再使用された例は数度みられる(例として「'''しょうわ'''」が挙げられる。[[鎌倉時代]]に「[[正和]]」が使用され、後に「[[昭和]]」として近現代で再使用された)。</ref>が、中国などの他の元号文化圏ではそのような慣例は重視されておらず、かつて使用した元号を再使用する例が多くみられる。
元号は、古代中国の[[前漢|漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の[[時代]]に始まった制度で<ref name="dobashi">{{Cite web|和書|author=土橋誠|url=http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/18dobashi.pdf|title=即位改元について|publisher=京都府埋蔵文化財調査研究センター|accessdate=2019-08-21}}</ref>、皇帝 (中国)の[[時空]][[統治権]]を象徴する称号である<ref name="togawa">[[戸川芳郎]]:元號「平成」攷『二松学舎大学院紀要』11巻(1997年3月31日、[[二松学舎大学]])331頁</ref>。『[[春秋公羊伝]]』隠元年では「元年者何。君之始年也」(元年とは何か、君主の治世が始まる年のことである。)とあり、これは皇帝権力の集中統一を重視する「大一統」思想の国制化であった<ref name="togawa"/>。時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった<ref group="注">このほか、日本では[[室町幕府]]と対立した[[古河公方]][[足利成氏]]が改元を無視して以前の元号を使い続けたという例もある。ただし改元詔書を室町幕府方の[[関東管領]][[上杉氏]]のみに下したとの説もある。詳細は「[[享徳]]」を参照。</ref>。
元号は[[漢字]]2字で表される場合が多く、まれに3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。最初期には改元の理由にちなんだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、[[縁起#転用|縁起]]の良い意味を持った漢字の組み合わせを、[[漢籍]][[古典]]を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字は2019年に始まった[[令和]]の時点でわずか73字であり<ref>「元号の千三百余年 文字は全部で72種〜縁起物…改元たびたび」『[[朝日新聞]]』[[1989年]]1月8日/参照:{{CRD|2000023430|「明治」、「大正」、「昭和」、「平成」などの元号(年号)で多く使われている漢字を調べる。|香川県立図書館}}の関連情報</ref><!--令和の「令」により73字となった-->、そのうち21字は10回以上用いられている。一番多く使われた文字は「永」で29回、2番目は「天」「元」のそれぞれ27回、4番目は「治」で21回、5番目は「応」「和」で20回である<ref name="朝19890107">『朝日新聞』1989年(昭和64年)1月7日号外({{Cite book|和書|title=昭和から平成へ : その日の朝日新聞 特別縮刷版|year=1989|publisher=朝日新聞社|isbn=4022584556}}所収)</ref><!--令和の「和」により、「応」と並び20回となった-->。なお、[[近代]]以降の元号のうち令和の「令」や[[平成]]の「成」、[[昭和]]の「昭」はそれぞれ初めて採用されたものである。また、平成の「平」は12回<ref>『朝日新聞』1989年(平成元年)1月8日14版第3面({{Cite book|和書|title=昭和から平成へ : その日の朝日新聞 特別縮刷版|year=1989|publisher=朝日新聞社|isbn=4022584556}}所収)</ref>、[[大正]]の「大」は6回「正」は19回、[[明治]]の「明」は7回使われている<ref name=朝19890107/>。
独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、[[柔然]]、[[高昌]]、[[南詔]]、[[大理国|大理]]、[[渤海 (国)|渤海]]がある。また[[遼]]、[[西遼]]、[[西夏]]、[[金 (王朝)|金]]は[[中国の歴史|中国史]]に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。
== 日本の元号 ==
{{Main2|日本における元号の一覧については、「[[元号一覧 (日本)]]」を}}
元号を用いた日本独自の紀年法は、[[西暦]]に対して'''[[和暦]]'''(あるいは邦暦や日本暦)と呼ばれることがある。
日本国内では今日においても西暦([[グレゴリオ暦]])と共に広く使用されている。
西暦[[{{#time:Y|+9hours}}年]]は「[[令和]]{{#expr:{{#time:Y|+9hours}}-2018}}年」。
{{現在の元号}}
[[2019年]]([[令和]]元年)[[5月1日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kanpou.npb.go.jp/20190401/20190401t00009/20190401t000090001f.html|title=官報特別号外第9号|publisher=インターネット版官報|accessdate=2019-04-01}}</ref> に、前日([[平成]]31年)[[4月30日]]の「[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]」の規定により第125代天皇[[明仁]]の[[退位]]([[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]となる)に伴い、[[徳仁]]が第126代天皇に即位した。この皇位の継承を受けて、「[[元号法]]」の規定により同年[[4月1日]]に「[[元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)]]」が公布・5月1日に施行され、「'''[[令和]]'''」に改元された。
=== 元号制定の条件 ===
『昭和大礼記録(第一冊)』によると、[[一木喜徳郎]][[宮内大臣]]は、[[漢学者]]で[[宮内省]][[図書寮]]の編修官であった[[吉田増蔵]]に「左記の5項の範囲内において」元号選定にあたるように命じた<ref>{{Cite book|和書|author=猪瀬直樹|authorlink=猪瀬直樹|title=日本の近代 猪瀬直樹著作集10 天皇の影法師|year=2002|publisher=小学館|isbn= 4-09-394240-4|page=162}}</ref>。
* 元号は[[日本]]はもとより言うを待たず、[[中国]]、[[朝鮮]]、[[南詔]]、[[交趾]](ベトナム)等の[[年号]]、その[[帝王]]、[[后妃]]、人臣の[[諡号]]、[[名字]]等及び[[宮殿]]、[[土地]]の名称等と重複せざるものなるべきこと。
* 元号は、[[国家]]の一大理想を表徴するに足るものとなるべきこと。
* 元号は、古典に出拠を有し、その字面は雅馴にして、その意義は深長なるべきこと。
* 元号は、称呼上、[[音階]]調和を要すべきこと。
* 元号は、その字面簡単平易なるべきこと。
なお、歴史的には「他国でかつて使われた元号等と同じものを用いてはならない」という条件はなかった。異朝でかつて使われた元号を意図して採用した[[たとえ話]]すらある。例えば、[[後醍醐天皇]]の定めた「[[建武 (日本)|建武]]」は、[[王莽]]を倒して漢朝を再興した[[光武帝]]の元号「[[建武 (漢)|建武]]」にあやかったものであった。また、[[徳川家康]]の命によって用いられた「[[元和 (日本)|元和]]」は、[[唐]]の[[憲宗 (唐)|憲宗]]の年号を用いたものである。[[近代]]の「[[明治 (大理)|明治]]」も[[大理国]]で用いられた例があり、「[[大正 (莫朝)|大正(たいせい)]]」もかつてベトナムの[[莫朝]]で用いられた。
==== 元号選定手続について ====
[[1979年]]([[昭和]]54年)10月、[[第1次大平内閣]]([[大平正芳]][[内閣総理大臣|首相]])は、「元号法に定める元号の選定」について、具体的な要領を定めた(昭和54年10月23日[[閣議 (日本)|閣議]]報告)<ref>[https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000268419&ID=M0000000000001159113&TYPE=&NO= 元号選定手続について] - [[1979年]]([[昭和]]54年)10月23日、内閣官房、[[国立公文書館]](ref.本館-3A-015-00・平11総01509100)。</ref>。
これによれば、元号は「候補名の考案」「候補名の整理」「原案の選定」「新元号の決定」の各段階を践んで決定される。最初に、候補名の考案は[[内閣総理大臣]]が選んだ若干名の有識者に委嘱され、各考案者は2 - 5の候補名を、その意味・典拠等の説明を付して提出する。[[総理府]]総務長官(後に[[内閣官房長官]])は、提出された候補名について検討・整理し、結果を内閣総理大臣に報告する。このとき、次の事項に留意するものと定められている。
# 国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。
# 漢字2字であること(3文字以上は不可。ただし、[[奈良時代]]の[[天平]]21年/[[天平感宝]]元年([[749年]])から[[神護景雲]]4年/[[宝亀]]元年([[770年]])にかけては、漢字4文字の元号が使用されている)。
# 書きやすいこと。
# 読みやすいこと。
# これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと(過去の元号の再使用は不可)。
# 俗用されているものでないこと(人名・[[地名]]・商品名・企業名等は不可)。
整理された候補名について、総理府総務長官、内閣官房長官、[[内閣法制局長官]]らによる会議において精査し、新元号の原案として数個の案を選定する。全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。内閣総理大臣は、新元号の原案について[[衆議院議長]]・副議長と[[参議院議員]]・副議長に連絡し、意見を聴取する。そして、新元号は、閣議において、改元の政令の決定という形で決められる。
==== 元号の字数 ====
日本の元号は伝統的に「2文字」であるが、元号に用いることのできる文字数は明確に制限されていない<ref group="注">元号法に定める元号の選定について、第1次大平内閣が具体的な要領を定めている(昭和54年10月23日閣議報告)。この要領では留意すべきことの一つとして「漢字2文字であること」としている。</ref>。この例外は[[聖武天皇]]・[[孝謙天皇]]の時代の約4半世紀、[[天平感宝]]、[[天平勝宝]]、[[天平宝字]]、[[天平神護]]、[[神護景雲]]の5つ(4文字)のみである。{{See|元号一覧 (日本)}}
== 元号使用の現状 ==
{{Seealso|和暦}}
日本において、元号は[[1979年]]制定の「元号法」(昭和54年法律第43号)によってその存在が定義されており、法的根拠がある<!--元号法は後述のように元号を定めるための法律であって、使用を規定するためのものではないため、表現を修正-->が、その使用に関しては基本的に各々の自由で、[[証書|私文書]]などで使用しなくても罰則などはない。一方で、西暦には元号法のような法律による何かしらの規定は存在しない(法令以外では[[日本産業規格]]<ref group="注">情報における日時データ形式を規定する、[[日本産業規格]](JIS)の JIS X 0301 においては国際規格 [[ISO 8601]] に準じて、西暦年を[[メートル条約]]の調印年を「1875」年としてこの起点から年の値を増減両方向に定義する紀年法として定めている。</ref> に見られるような公的な定義例がある)。なお、元号法制定にかかる国会審議で「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」との政府答弁があり<ref group="注">元号法案(趣旨説明)での答弁([https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=108715254X01319790427 参議院会議録情報 第087回国会 本会議 第13号]、[[1979年]]([[昭和]]54年)4月27日)を以下に抜粋する。
* 国務大臣([[三原朝雄]]君):(中略)次に、本法案が制定をされた後において、公の機関の[[ビジネスプロセス|手続]]あるいは届け出等において強制的な措置がとられるのではないか、現在でもそういうのが見られるがという御指摘でございました。御承知のように、私ども、本法案が制定されますれば、[[公共機関|公的な機関]]の手続なりあるいは届け出等に対しましては、[[行政]]の統一的な事務処理上ひとつ元号でお届けを願いたいという協力方はお願いをいたします。しかし、たって自分は西暦でいきたいという方につきましては、今日までと同様に、併用で、自由な立場で届け出を願ってもこれを受理すると、そういう考えでおるわけでございます。
* 国務大臣([[古井喜実]]君):法務に関する部分についてお答えを申し上げます。従来、[[戸籍]]などの諸届けの用紙に、不動文字で「昭和」と、こういうことを刷り込んでおることは事実でございます。これは申請者に便宜を与える、便宜を図るというだけの趣旨のものでございまして、強制するとか拘束するとかという趣旨ではございません。新しい元号法が施行されるといたしまして、その場合、この辺につきましては誤解が起こらぬように、強制する、拘束するものではないという趣旨を十分徹底して、行き違いがないようにいたしたいと思っております。
* 国務大臣([[渋谷直蔵]]君):私に対する質問は二問ございますが、一つは、ただいま法務大臣からも御答弁がありましたように、市町村における戸籍上の届け出、住民登録、印鑑登録など、現在法的根拠がないにもかかわらず強制しておるのではないかと、こういう御質問でございます。現在の[[住民基本台帳]]、それから[[印鑑登録]]のそれらの様式は、いずれもこれは市町村が自主的な判断で定めておるわけでございますが、一般に元号が使用されておりますけれども、これはもう御承知のように、従来からの慣行によって行われ、協力を求めておる、強制するというものでないことは言うまでもございません。このことによって別に不都合なことは生じておらないと考えております。</ref>、法制定後、多くの[[役所]]で国民に元号の使用を強制しないよう注意を喚起する通達が出されている。
また、元号法は「元号は[[政令]]で定める事」「元号は皇位の継承があった場合に限り改める事(一世一元の制)」を定めているにすぎず、[[公文書]]などにおいて元号の使用を規定するものではない。しかしながら、日本国民や[[日本の外国人|在日外国人]]が記入して役所に提出する書類の多くは、年月日の年を元号で記入する書式になっている<ref name=東京新聞20231127>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/292402 元号で書きたくありま宣言/役所に出すためのカード 市民団体が作成/あくまで事務上の慣行「使用の義務ないと知って」]『[[東京新聞]]』朝刊2023年11月27日[こちら特報部]20面(同日閲覧)</ref>。ただし元号で書く前提のスペースに西暦で記入することは可能であり、市民団体「西暦表記を求める会」は、「私は西暦で記入します」と書いた意思表示用のカードを作成・配布している<ref name=東京新聞20231127/>。
[[日本共産党]]は、元号の使用は慣習としては反対しないが、強制すべきではないという見解を示している<ref>[https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/04/post-826.html 慣習的使用に反対しないが、使用の強制に反対する―新元号の発表に際して 志位委員長が談話 「赤旗」2019年4月2日付] 日本共産党の政策 > 天皇の制度</ref>。同様に、[[キリスト教原理主義|キリスト教原理主義者]]団体などは「元号の使用を強制し西暦の使用を禁止するのは、天皇を支持するか否かを調べる[[現代 (時代区分)|現代]]の[[踏み絵]]である」と主張している<ref>[http://yokochu.seesaa.net/article/250486299.html 信教の自由を守る日] 日本キリスト改革派横浜中央教会(2012年5月2日)</ref>。
[[公用文作成の要領]]において年号を用いる際、元号か西暦のどちらを用いるべきかの旨は明文化されていないが、'''国'''('''[[日本国政府]]''')、'''[[地方公共団体]]などの発行する公文書([[住民票]]、[[運転免許証]]、その他資格証など)ではほとんど元号が用いられる'''。一方、[[ウェブサイト]]では、本文で元号を使用していても最終更新日やファイル名などは(管理上の都合で)西暦を使用していることもある。また、官公庁の中長期計画の名称など、[[キャッチフレーズ]]として年を印象付けさせる場合は、補助的に西暦が用いられることもある<ref name="aichi-choki">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.aichi.jp/soshiki/kikaku/0000072019.html|date=2015-04-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180321114437/http://www.pref.aichi.jp/soshiki/kikaku/0000072019.html|archivedate=2018-03-21|title=愛知県の長期計画の歴史について|author=[[愛知県]]政策企画局企画課|accessdate=2018-03-21}}</ref><ref name="aichi-choki-pdf">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/43315.pdf|format=pdf|date=2015-04-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180321114556/http://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/43315.pdf|archivedate=2018-03-21|title=愛知県の長期計画の推移と概要|author=愛知県政策企画局企画課|accessdate=2018-03-21}}</ref>。国において、例外的に西暦が使用されている具体例には以下のものがある。
* 2002年(平成14年)制定の[[気象測器検定]]規則(平成14年3月26日[[国土交通省]]令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示{{refnest|group="注"|13条2項で、検定証印の数字を「西暦年数の十位以下を表すものとする」と定めている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=414M60000800025 気象測器検定規則] e-Gov</ref>。}}など、西暦を使用するよう規定した法令も少数ながら存在する。
* [[旅券]](パスポート)は日本国外でも用いられるため、名義人の生年が西暦で記載されている。
* [[個人番号カード]](通称「[[マイナンバーカード]]」)やかつて発行されていた[[住民基本台帳カード]]は、有効期限が西暦で表記されている。個人番号カードの生年月日は[[日本国籍]]者については元号で、日本以外の[[国籍]]を有する者については西暦で表記されている<ref name="mynumber-card">{{Cite web|和書|url=https://www.j-lis.go.jp/data/open/cnt/3/1282/1/H2709_qa.pdf|format=pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190113121906/https://www.j-lis.go.jp/data/open/cnt/3/1282/1/H2709_qa.pdf|archivedate=2019-01-13|title=番号制度に関するQ&A|author=[[地方公共団体情報システム機構]]番号移行サポートセンター|accessdate=2019-01-13}} - 問3を参照</ref>。また[[法務大臣]]が外国人に交付する[[在留カード]]や[[特別永住者証明書]]でも、券面の年号(生年)で例外的に西暦で記載されている<ref name="zairyu-card">{{Cite web|和書|url=http://www.immi-moj.go.jp/tetuduki/zairyukanri/whatzairyu.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180429074403/http://www.immi-moj.go.jp/tetuduki/zairyukanri/whatzairyu.html|archivedate=2018-04-19|title=在留カードとは?|author=[[法務省]][[出入国管理庁|入国管理局]]|accessdate=2019-01-13}}</ref><ref name="tokubetsueiju-card">{{Cite web|和書|url=http://www.immi-moj.go.jp/newimmiact_2/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170523123546/http://www.immi-moj.go.jp/newimmiact_2/|archivedate=2017-05-23|title=特別永住者の皆さんへ 2012年7月9日(月)から特別永住者の制度が変わります!|author=法務省入国管理局|accessdate=2019-01-13}}</ref>。
* 都道府県[[公安委員会]]が発行する[[運転免許証]]は所持者の生年月日、交付年月日、各3種類(自動二輪車・小型特殊自動車・原動機付自転車、その他、第二種)の免許取得年月日については元号のみで表記されているが、有効期限年月日については[[2019年]](平成31年)3月末頃から順次、有効期限の西暦の後に括弧書きで元号を表記している<ref name="menkyo-sankei20181222">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/politics/news/181222/plt1812220003-n1.html|date=2018-12-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190113054132/https://www.sankei.com/politics/news/181222/plt1812220003-n1.html|archivedate=2019-01-13|title=運転免許、西暦と元号併記に 顔写真、医療用帽やヒジャブ容認|author=[[産経新聞]]||publisher=[[産業経済新聞社]]|accessdate=2019-01-13}}</ref>。
[[ファイル:Driving License.jpg|thumb|right|有効期限が「[[2024年]](平成36年)」と西暦と元号が併記された運転免許証。<br />改元政令が施行される前に発行された免許証なのでその時点での元号が用いられている<ref>[[2024年]]は改元後「令和6年」となったが、「平成36年」と表記されている。</ref>。]]
* [[特許庁]]が発行する公開特許公報等の[[工業所有権公報]]は、「平成22年1月1日(2010年(平成22年)1月1日)」の形で元号表記と西暦表記の日付を併記している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jpo.go.jp/torikumi/kouhou/kouhou2/kouhou_siyou_vol4-4.htm|title=公報仕様 特許、実用新案 第4.4版について|publisher=特許庁|date=2016-09-30|accessdate=2018-07-02}}</ref>。また、特許の出願番号等も「特許2000-123456」のように「西暦年 + 6桁の通番」の形式とされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pcinfo.jpo.go.jp/site/4_news/pdf/other-01.pdf|title=産業財産権制度125周年記念誌~産業財産権制度この15年の歩み~ 第4章 20年を迎えた世界初の電子出願、更なるIT化の進展 第2節 国際標準化への対応|publisher=特許庁|format=PDF|accessdate=2018-07-02}}</ref>。これは、日本以外での利用を考慮したためで、[[世界知的所有権機関]]が定める標準に準じて行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jpo.go.jp/seido/rekishi/pdf/kinenshi/04_02.pdf|title=国内手続書類の番号の記載について|publisher=特許庁|format=PDF|accessdate=2018-07-02}}</ref>。
* [[2018年]]3月30日の改正により、[[計量法]]に基づく計量法施行規則(平成5年通商産業省令第69号)第15条に規定する修理年、並びに食品店等の[[秤|質量計]]、[[ガソリンスタンド#付属・併設のサービスや設備|燃料油メーター]]、[[タクシーメーター]]等が対象である特定計量器検定検査規則(1993年通商産業省令第70号)第28条の3に定める検定証印などの有効期間満了年、検査の年、形式承認の年、修理の年、適合証印の年について、西暦で表示することとされた(アポストロフィ+2桁の西暦年(例:'17)としても良い)。ただし2018年12月31日までは経過措置として従前の元号表示も可としている<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/00_download/kaisyaku.pdf 計量法関係法令の解釈運用等について] C 検定等関係について、3 検定証印の有効期間の満了の年月の表示等について、p.6</ref><ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/32_seishoreikaisei_rireki.html 政省令等の改正履歴] ページ中の [https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/keiryoho_kaisei/180330kaisei/180330_022_kensoku.pdf 特定計量器検定検査規則の一部を改正する省令(新旧対照表)] 2021年05月22日閲覧</ref>。
* [[食品表示法]]に基づく食品表示基準(平成27年内閣府令第10号)に係る通知「食品表示基準について」(平成30年7月10日消食表第375号)の「(加工食品)」1-(3)-⑤に定める[[消費期限]]又は[[賞味期限]]表示例では元号との選択可として西暦の表示例も明記されている<ref>[http://www.caa.go.jp/policies/policy/food_labeling/food_labeling_act/ 食品表示法等(法令及び一元化情報)] ページ中の「食品表示基準について」の「本体」、2018年(平成30年)9月25日[[閲覧]](※ [[Portable Document Format|PDF]]自体の[[Uniform Resource Locator|URL]]は改版により変化しリンク切れになるため記載できません)。</ref>。
* [[2018年]](平成30年)6月15日に[[閣議 (日本)|閣議]]決定された「経済財政運営と改革の基本方針2018」([[骨太の方針|骨太方針]])において、表紙の日付、「平成n年度税制改正」等の名称中に含まれるもの、及び[[脚注]]の出典制定日を除外すると、64ページの「平成31年」1箇所を除き、過去未来共に西暦のみの表記となっている<ref>[https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/cabinet/2018/decision0615.html 経済財政運営と改革の基本方針2018~少子高齢化の克服による持続的な成長経路の実現~] - 2018年(平成30年)9月1日閲覧。</ref>。
日本国内において西暦の併用が増加したのは、[[1964年]](昭和39年)の[[1964年東京オリンピック|東京夏季オリンピック]]に向けての[[キャンペーン]]を経た後である。[[皇室典範]]改正により元号が法的根拠を失った後も、東京オリンピックのキャンペーンが始まる前までは、[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]の[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]発効に伴う独立・主権回復以後も、米国による統治下に置かれ日本から切り離された[[沖縄県|沖縄]]と[[小笠原諸島]]、[[千島列島]]を除き、前述の背景により元号のみが常用されていた。とはいえ、[[1976年]](昭和51年)に行われた元号に関する[[世論調査]]では、「国民の87.5%が元号を主に使用している」と回答しており、「併用」は7.1%、「西暦のみを使用」はわずか2.5%であった。元号が[[昭和]]から[[平成]]に変わり、2つの元号をまたぐことで年数の計算と変換が煩雑になるため、「西暦を併用する人」「西暦を主に使用する人」も次第に多くなってきた。特に[[21世紀]]に入った今日では[[インターネット]]の普及などもあり、日常において「元号より西暦が主に使用されるケース」は格段に増えているため、元号では「今年が何年なのか判らない」「過去の出来事の把握が難しい」という人の割合も多くなってきている<ref>「[https://sirabee.com/2018/02/10/20161485297/ 新元号誕生でさらに混乱が? 今が平成何年かわからなくなる人たち]」[[博報堂DYホールディングス|しらべぇ]](2018年2月10日)</ref>。
[[報道機関]]では『[[朝日新聞]]』が[[1976年]](昭和51年)[[1月1日]]に、『[[毎日新聞]]』が[[1978年]](昭和53年)1月1日に、『[[読売新聞]]』が[[1988年]](昭和63年)1月1日に、『[[日本経済新聞]]』が1988年(昭和63年)[[9月23日]]に、『[[中日新聞]]』『[[東京新聞]]』が1988年(昭和63年)[[12月1日]]に、[[日付]]欄の表記を「元号(西暦)」から「西暦(元号)」に改めた。それでも昭和年間の末期には、未来の予測(会計年度など)を「(昭和)70年度末」といった表記をすることが多かった。[[1989年]](平成元年)[[1月8日]]の[[平成]]改元以降、その他の各報道機関も本文中は原則として西暦記載、日付欄は「2012年(平成24年)」の様に「西暦(元号)」という順番の記載を行うところが多くなった。『[[産経新聞]]』<ref group="注">[[産業経済新聞社]]が発行する産経新聞は国内の記事に関して一貫して元号表記のみを行っており、同社が発行する『[[サンケイスポーツ]]』も原則元号表記のみとなっている(ただし、産経新聞の記事を配信するウェブサイト「産経ニュース」では、トップページの今日の日付は「2010(平成22)年04月04日」、個々の記事タイトルの下にある配信日時は「2010.4.4 02:04」、記事の本文中では「平成22年」のように不統一が見受けられる)。また同社が発行する新聞では[[夕刊フジ]]もかつては同様であったが、[[2007年]](平成19年)[[2月1日]]より原則西暦表記に変更している。さらに、同社が発行する[[タブロイド]]版日刊紙『[[SANKEI EXPRESS]]』は西暦を主に使用するなど、新聞によって方針が異なっている。</ref> や『[[東京スポーツ]]』、一部の[[地方紙]]<ref group="注">『[[河北新報]]』『[[静岡新聞]]』『[[熊本日日新聞]]』など。</ref>、[[日本放送協会|NHK]]の国内ニュース<ref group="注">ただし、2017年以降は国内ニュースであっても経済ニュースなどでは西暦を使用することもある。</ref>のように本文中は原則元号記載、日付欄は「平成29年(2017年)」の様に「元号(西暦)」という順番の記載を行っている報道機関もある。日本共産党の[[機関紙]]『[[しんぶん赤旗]]』は平成改元以降、日付欄の元号併記を取りやめ西暦表記のみに変更していたが、[[2017年]](平成29年)[[4月1日]]より元号を併記する「西暦(元号)」表記に改めた(本文中は引き続き西暦表記のみ)<ref>[https://www.sankei.com/article/20170401-Y5ZBFRQA25JO5AO4ETGYAN2GPI/ 共産党機関紙「赤旗」が元号を併記 28年ぶりに復活 「読者の便宜考えた…」]産経ニュース(2017年4月1日)</ref><ref>「[https://mainichi.jp/articles/20170401/k00/00e/040/232000c しんぶん赤旗 元号復活…28年ぶり、1日付紙面から]」[[毎日新聞]](2017年4月1日)</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK416WB9K41UTFK00M.html 「赤旗」28年ぶりに元号掲載 編集部には抗議も] [[朝日新聞デジタル]](2017年4月1日)</ref>。
企業の[[決算]]や[[有価証券報告書]]など社外向け資料・[[プレスリリース]]、[[鉄道]]などの[[乗車券]]、[[金融機関]]の[[預金通帳]]なども、以前は和暦表記(元号の年部分表記)が主流であったが、[[2019年]]の改元<ref group="注">この年の[[5月1日]]に改元したため、[[年度#日本の年度|年度]]においても[[平成]]と[[令和]]が混在。</ref> を前に、西暦表記に改める動きもみられた<ref name="sankei-20190323">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/west/news/190323/wst1903230023-n1.html|date=2019-03-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190324151953/https://www.sankei.com/west/news/190323/wst1903230023-n1.html|archivedate=2019-03-24|title=改元ひかえ企業に「元号離れ」 伝統重んじる声も|newspaper=[[産経デジタル|産経ニュース]]{{small|〈産経WEST〉}}|publisher=[[産業経済新聞社|産経新聞社]]|accessdate=2019-04-03}}</ref><ref name="chunichi-20180320">{{Cite news|url=http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2018032002000065.html|date=2018-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180320132238/http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2018032002000065.html|archivedate=2018-03-20|title=鉄道の切符を西暦表記に 本紙調査、改元で中部16事業者|newspaper=[[中日新聞]]|publisher=[[中日新聞社]]|accessdate=2018-03-20}}</ref><ref name="mizuhobank-20180215">{{Cite web|和書|url=https://www.mizuhobank.co.jp/transition/account/index.html|date=2018-02-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180320133314/https://www.mizuhobank.co.jp/transition/account/index.html|archivedate=2018-03-20|title=新システムへの移行に関するご案内 みずほ銀行のお客さまへ|author=[[みずほ銀行]]|accessdate=2018-03-20}} - Q7・A7に、[[通帳]]・入金帳の年表記を和暦から西暦に変更する内容がある。</ref>。
=== 切手における元号 ===
日本で発行されている[[切手]]には元号および西暦で発行年が記載されている。ただし歴史的にみれば大きな変遷がある。なお、[[記念切手]]には[[万国郵便連合]](UPU)によって原則として西暦で発行年を入れるように規定されている。
日本の切手で発行年が入るものに記念切手があるが、記念切手の印面に[[第二次世界大戦]][[戦前#日本|前]]までは元号が入る場合と全くない場合が混在していた。ただし[[国立公園]]切手の[[小型シート]]には皇紀(西暦)と[[アラビア数字]]で記入されたものがある。[[第二次世界大戦後#戦後|戦後]]、発行された記念切手には「昭和二十二年」といったように漢数字で表記されていたが、経緯は不明であるが[[1949年]](昭和24年)頃から西暦のみで表記されるようになった。ただし、[[年賀切手]]の中に一部例外があるほか、[[皇室]]の [https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%85%B6%E4%BA%8B/ 慶事] に関する記念切手は元号のみの表示の場合があった。また年賀小型シートなどには「お年玉郵便切手昭和三十一年」といった元号による表記があるほか、[[切手シート]]の余白には元号で発行年月日が入っていたが、[[1960年]](昭和35年)頃からなくなった。
[[1979年]](昭和54年)に施行された元号法による政策のためか、[[1979年]](昭和54年)7月14日に発行された「検疫制度100年記念切手」から西暦と元号で併記されるようになった。ただし、毎年発行される[[国際文通週間]]記念切手については西暦しか表記されていない。また切手シートの余白に[[1995年]](平成7年)頃から「H10.7.23」という[[ローマ字]]による発行年月日が、さらに[[2000年]](平成12年)からは「平成12年7月23日」という元号表記が入るようになった。なお、令和に改元された[[2019年]](令和元年)5月から9月までは切手面・余白の発行年月日ともに西暦のみの表記で、令和の使用は10月からとなっている。
なお、世界的に見ると切手に記入される年号としては西暦のほかには[[仏滅紀元]]、[[イスラム暦]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[主体暦]]、[[中華民国]]([[台湾]])の[[民国紀元]]などがある
<gallery height="210px" width="300px">
ファイル:Nomination of Crown Prince Japanese stamp of 24Yen in 1952.jpg|[[1952年]](昭和27年)に発行された[[皇太子]][[明仁]][[親王]](当時、現在の[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])の立太子禮記念切手。元号のみの表記である。
ファイル:Iron Manufacturing industry centenary in Japan.JPG|[[1957年]](昭和32年)に発行された製鉄100年記念切手。西暦のみの表記である。
ファイル:New year greeting stamp 1958 in Japan.jpg|[[1958年]](昭和33年)お年玉年賀切手の表記のある小型シート。切手には西暦のみの表記であるが、小型シートの余白は元号のみの表記である。
ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|[[1995年]](平成7年)に発行された[[伊能忠敬]]の[[肖像画]]の切手。西暦と元号が併記されている。
</gallery>
=== 元号と商標 ===
日本においては、「元号としてのみ認識される[[商標]](例えば「平成」)は識別力がない」とされ、元号を商標登録に出願することができない。また、元号と普通名称等の識別力のない文字(例えば[[饅頭]]についての「まんじゅう」)とを組み合わせた商標(例えば「平成まんじゅう」)なども同様で、[[日本の商標制度#商標の登録と用語|商標登録]]に出願できないが、[[商号]](企業名・団体名・屋号など)での使用は制限されていない。
ただし、その商標を使用し続けたことによって、識別力と知名度が生じた場合(例えば「平成まんじゅう」という商標を長年使い続けた結果、だれもが「平成まんじゅう」といえばその饅頭のことだとわかるようになった場合)には商標登録される場合もある<ref name="gengou_atukai">{{Cite web|和書|url=https://www.jpo.go.jp/seido/s_shouhyou/gengou_atukai.htm|title=元号に関する商標の取扱いについて|publisher=特許庁|accessdate=2018-08-28}}</ref> としており、実際に食品会社の「[[明治 (企業)|明治]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/web/TR/JPT_496702/25D0228CB0EF1F930F92A73FDF571BA4|title=商標登録0496702|work=特許情報プラットフォーム|publisher=工業所有権情報・研修館|accessdate=2018-08-28}}</ref>」や「[[大正製薬]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/web/TR/JPT_1353981/B1ED93F8BE592F222A19CD0844158471|title=商標登録1353981|work=特許情報プラットフォーム|publisher=工業所有権情報・研修館|accessdate=2018-08-28}}</ref>」は商標登録され、商号としても存続している。
[[特許庁]]では、以前から旧・元号も現行の元号と同様に取り扱われるとの解釈であったが、「商標登録できないのは現・元号の「平成」に限られ、「大化」から「昭和」までの旧・元号は商標登録でき、「令和」への改元後には「平成」も商標登録できる、と解釈される可能性」があり、実際にそのような報道もなされていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://president.jp/articles/-/24414|title=来春「改元」で「平成」が商標登録可能に(PRESIDENT 2018年1月29日号)|author=村上敬|work=プレジデントオンライン|publisher=プレジデント社|date=2018-03-26|accessdate=2018-08-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://economic.jp/?p=80974|title=「平成」の元号改変 企業への影響大|author=久保田雄城|publisher=エコノミックニュース|date=2018-07-02|accessdate=2018-08-28}}</ref>。
そのため、特許庁では2019年(平成31年)1月30日に審査基準を改訂し、'''「現元号(平成)以外の元号(昭和までの元号や、改元前に公表された新・元号)も登録を認めない」'''と明確化した<ref name="gengou_atukai" /><ref>[[田嶋慶彦]]「[https://www.asahi.com/articles/ASLC53TYRLC5UTFK009.html 商標登録、新元号も平成・昭和もできません 政府方針]」朝日新聞デジタル(2018年11月6日 1時28分)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190130110328/https://this.kiji.is/463164545394476129|title=特許庁、新旧元号の商標登録不可 改元で基準改訂、申請殺到回避へ|accessdate=2019-01-30|date=2019-01-30|website=[[共同通信]]|publisher=共同通信}}</ref>。
== 元号使用のメリット・デメリット ==
元号使用の[[wikt:長所|メリット]]としては、以下の様な物がある。
*「[[明治維新]]」「[[大正デモクラシー]]」「[[昭和恐慌]]」「[[昭和モダン]]」など歴史的な事象を表現する場合には、名詞である元号の方が区別しやすい。
* 年齢詐称などの確認(自分の生まれ年の元号は覚えている事が多いため、本人確認の際に有効となる面がある)。
一方、デメリットとしては以下の様な物があり、元号そのものに否定的な姿勢を示す者もいる。
* 西暦には終わりがなく、紀年数は常に変わらないが、元号には終わりがあり、いつかは変更(改元)される。[[明治維新]]前は大事件や政権を担う[[征夷大将軍]]の都合など、明確な基準がないまま幾度となく変更されていたが、明治維新後は新天皇の即位(天皇の[[崩御]]または生前退位による次期皇位継承者への[[譲位]])によって変更されている。このため、例えば「平成40年」(=西暦[[2028年]])のような遠い[[未来]]の紀年を正確に表現できない{{refnest|group="注"|昭和年間には、[[行政庁]]の政策計画に「昭和7n年」(昭和70年代)なるものまで存在した例や、[[荒俣宏]]の[[小説]]『[[帝都物語]]』に「昭和73年」([[1998年]]、実際の元号は平成10年)の用例がある。また、運転免許証の有効年月日が「昭和66年」(当時は3年有効のみ)という存在しなくなった年度のものを使用していた者も当時は少なくなかった。より極端な例では「昭和230年」(=令和137年=西暦2155年)と表記したものも見られた<ref name="kosei-1974">{{Cite web|和書|url=http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/kousei/1974/dl/03.pdf|format=pdf|date=1974-11-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180322124557/http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/kousei/1974/dl/03.pdf|archivedate=2018-03-22|title=厚生白書(昭和49年版)|author=[[厚生省]](現・[[厚生労働省]])|accessdate=2018-03-20}} - 57ページに「昭和200年」「昭和230年」などの表記が見られる。</ref>。2018年(平成30年)現在においても、例えば[[復興特別所得税]]が「平成49年」(令和19年=西暦[[2037年]])まで徴収されるという表記が見られる<ref name="kokuzei-fukkou">{{Cite web|和書|url=https://www.nta.go.jp/taxes/tetsuzuki/shinsei/annai/gensen/fukko/index.htm|year=2018|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180415050734/https://www.nta.go.jp/taxes/tetsuzuki/shinsei/annai/gensen/fukko/index.htm|archivedate=2018-04-15|title=復興特別所得税関係(源泉徴収関係)|author=[[国税庁]]|accessdate=2018-04-15}}</ref>ほか、公文書の保存期限に「平成61年」(令和31年=西暦2049年)などという表記も行われている例もある<ref name="npa-menkyo20180104_002">例:{{Cite web|和書|url=https://www.npa.go.jp/laws/notification/koutuu/menkyo/menkyo20180104_002.pdf|format=pdf|date=2018-01-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180415054151/https://www.npa.go.jp/laws/notification/koutuu/menkyo/menkyo20180104_002.pdf|archivedate=2018-04-15|title=道路交通法施行令の一部を改正する政令について(通達)|author=[[警察庁]]|accessdate=2018-04-15}}</ref>。<br />なお、平成3桁の年では「平成122年」(=令和92年=西暦[[2110年]])<ref name="syouraisuikeijinko24">{{Cite web|和書|url=http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/newest04/sh2401top.html|year=2012-01-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180415053104/http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/newest04/sh2401top.html|archivedate=2018-04-15|title=日本の将来推計人口(平成24年1月推計)|author=[[国立社会保障・人口問題研究所]]|accessdate=2018-04-15}} - 参考推計に“平成73(2061)年 - 平成122(2110)年”とある。</ref>、「平成222年」(=令和192年=西暦2210年)<ref name="kosaka-jinko">{{Cite web|和書|url=http://www.town.kosaka.akita.jp/machikekaku/image/5203download.pdf|format=pdf|date=2016-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180415050958/http://www.town.kosaka.akita.jp/machikekaku/image/5203download.pdf|archivedate=2018-04-15|title=小坂町人口ビジョン|author=[[秋田県]][[鹿角郡]][[小坂町]]|accessdate=2018-04-15}} - 35ページ(図表37)に「平成222年([[2210年]])」などの表記が見られる。</ref> などという表記が見られるものの、昭和230年などの例と異なり、西暦を併記している場合がほとんどである。}}。
* 日本独自の紀年であり、国外では通用しないため、[[外国人]]には理解されにくい。日本国内でも、元号ではなく西暦で時期を覚えている人にも同様の問題が生じ、同時代に生きていないと予備知識が必要となる<ref>[http://news.ameba.jp/special/2009/07/41146.html 若者の被告が相手の裁判 「元号」で検事困る] {{リンク切れ|date=2012年1月}}</ref>。
** 特定の[[国]]・[[地域]]で公的に用いられている紀年法として、[[中華民国]](台湾)の「[[民国紀元]]」や、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の「[[主体暦]]」などがあり、これらも同様に、日本を含む諸外国では通用しない。
* 西暦では1年に対する紀年数が常に1対1の関係にあるのに対し、日本の元号制度では「[[改元#種類|立年改元]]」ではなく「即日改元」を採用しているため、1つの西暦年に対して複数の元号([[1860年]] = [[安政]]7年/[[万延]]元年。[[1912年]] = [[明治]]45年/[[大正]]元年、[[1926年]] = 大正15年/昭和元年、[[1989年]] = [[昭和]]64年/[[平成]]元年、[[2019年]] = 平成31年/[[令和]]元年)が混在する例や、翌月が新しい元号の「元年」ではなく「2年」になる例が発生する。
** 過去の日本では、[[749年]]に、[[天平]] → [[天平感宝]] → [[天平勝宝]]と、3つの元号が混在した例がある。また、[[大正]]15年(西暦[[1926年]])12月10日の1ヶ月後の日付は、昭和2年(西暦[[1927年]])1月10日である。明治以後の現在は一世一元の改元であり、年に3代の天皇が即位する可能性は極めて低いが、当該事項のように複数の元号を充てる必要が発生した場合、大きな混乱が予想される。これらは特に、[[コンピュータ]]で年を扱う際の事務処理や変換の[[アルゴリズム]]が煩雑になる(「''[[昭和100年問題]]''」のような[[年問題]]も発生させている。後述)。
* 元号が異なる2つの年の前後関係を判別するには、元号の順序を記憶していなければならない。また、元号が異なる2つの年の間隔を計算するには、いったん西暦に変換しなければならないため、年の変換と計算作業が非常に煩雑になる(例:明治30年から平成10年まで何年離れているか、というような年数を数えにくい)。特に「和暦表記のみ」と「西暦表記のみ」が混在し、年号の表記が統一できていない場合はさらに混乱する(例:昭和58年から1996年まで何年離れているか、など)。
* [[会計年度]]の区切り<ref group="注">日本では[[1886年]](明治19年)以後、公共機関の会計年度は3月末で区切られる。[[会計年度#始期と終期]]を参照。</ref> が改元の区切りと一致せず、改元後年度の終了日までの呼称は旧元号による(例えば平成元年3月31日は昭和63年度に属する)ため、混乱を生じやすい。ただし、2019年の[[令和]]への改元時の[[平成三十一年度一般会計|2019年度(2019年4月1日から2020年(令和2年)3月31日まで)の国の予算]]は改元日以後、「令和元年度予算」として扱うものとされたため、平成31年4月1日から4月30日は新元号の年度である「令和元年度」に属することとなった<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000612239.pdf 元号を改める政令等について] 総務省(2019年4月2日)2023年11月27日閲覧</ref>。
<!--
** [[2019年]]を例とすれば、1月~3月は「'''平成30年度'''」であり、4月~2020年3月は「'''平成31年度'''」であるが、「令和元年度」が用いられず、2020年4月から「'''令和2年度'''」となるため、事務処理での変換が煩雑になる。
-->
== 表記(「1年」か「元年」か) ==
[[公文書]]において、令和'''1'''年と表記するか令和'''元'''年と表記するかは、様々である。
=== 登記関係 ===
[[登記]]の種類によって、「1年」とするか「元年」とするかは使い分けられている<ref>[https://houmukyoku.moj.go.jp/homu/page7_000026.html 登記簿における年の表記について] 法務局「改元に伴う登記事務の取扱いについて」(2019年4月24日)2023年11月27日閲覧</ref>。
1)不動産登記及び商業・法人登記等<ref group="注">数字の1(いち)を[[全角]]とするか[[半角]]とするかまでは定められていない。見本では全角となっている。</ref>
* 登記簿における表記(登記の日付、受付年月日、登記原因の日付、会社成立の年月日など)は、「令和1年」である(ただし電子化されていない登記簿では「令和元年」)。見本は、[https://houmukyoku.moj.go.jp/homu/content/001292960.pdf 【参考】改元後の登記事項証明書の見本(不動産登記)]
* 登記に関する証明書(例えば,登記事項証明書等)の認証日付・証明日付や登記識別情報通知書の通知日付等は,原則として,「令和元年」と表記される。見本は、[https://houmukyoku.moj.go.jp/homu/content/001292961.pdf 【参考】改元後の登記事項証明書の見本(商業登記)]
2)成年後見登記
* 証明日付及び登記事項に関する日付(生年月日,裁判確定日,作成年月日,登記年月日等)は「令和元年」と表記される。
3)動産譲渡登記及び債権譲渡登記
* 証明日付及び登記事項に関する日付(登記原因の日付,登記の存続期間の満了年月日、登記年月日等)は「令和1年」と表記される。
=== 会計年度の名称 ===
「令和元年度」「令和元年度予算」とすると定められている<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/it_policy/kaigen/20190402_kaigen_2.pdf 改元に伴う元号による年表示の取扱いについて] 新元号への円滑な移行に向けた関係省庁連絡会議申合せ、2019-04-01 </ref>。
== 元号をめぐる事件・出来事 ==
* 歴史上の[[大正]]初日は1912年7月30日であるが、この日受付の郵便物(実逓便)には「(明治)45年7月30日」の日付印が押印されている。「(大正)1年」の日付印が押印されたのは翌31日受付の郵便からであるとされている。「(大正)1年7月30日」の日付印が押印された実逓便の存在は確認されていない<!--記念押印なら存在する--><ref>「収友たちの宴会談義 番外編 郵便史コレクションの大正改元は7月31日であった、とすべきでしょう」『[[郵趣 (雑誌)|郵趣]]』1995年(平成7年)4月号([[日本郵趣協会]])82頁</ref>。
* 「大正16年元旦」([[1927年]]1月1日)に配達される予定であった[[年賀状|年賀郵便]]には「(大正)16年1月1日」の日付印が押印されていたが、[[1926年]](大正15年・昭和元年)末の12月25日に[[大正天皇]]が[[崩御]]したため、年賀郵便の取扱いそのものが中止になった。ただし、それまでに引き受けていた年賀郵便は年が明けて配達された。訂正の意味で「(昭和)2年1月1日」の日付印が押印されていたものもある<ref>「私の好きなこのマテリアル 大正16年1月1日の引受印と昭和2年1月1日の到着印の年賀状」『郵趣』1993年8月号89頁には、「16年1月1日」と「2年1月1日」の日付印が押印されている年賀はがきの写真が掲載されている。</ref>。
* 大正から昭和へ改元される際、『[[東京日日新聞]]』(現・『[[毎日新聞]]』)が新しい元号を「光文」との誤報を流した。{{main|光文事件}}
* 盗難預金[[通帳]]を偽造された[[保険証]]で本人確認をして銀行が払い戻しをした過失に対する民事訴訟で、銀行側が保険証の生年月日が「'''昭和元年6月1日'''」という存在しない日付(上記のとおり、昭和元年は12月25日からの1週間しかない)なのに気が付かなかった過失があるとして敗訴した事例<ref>「[http://shihoushoshi.main.jp/blog/archives/000834.html 昭和元年6月1日]」ひよっこ支部長の司法書士ブログ(BLOG)、2005年(平成17年)2月23日</ref>がある。
* [[平成]]から[[令和]]への改元に当たって「改元に乗じた[[詐欺]]」が相次いで発生し、被害者まで出た。ほぼ同時期には新しい元号を報じる新聞の[[号外]]を手に入れようと人々が殺到し、怪我人まで現れた。
== コンピュータでの処理 ==
{{see also|改元のコンピュータシステムへの影響}}
元号を採用している日本においても、[[コンピュータ]]では元号よりも西暦による処理の方が次の点において便利であるとされる。
* 元号では改元される毎に新元号に換算する処理を追加する必要があるが、西暦ではそれが不要である。ただし、アプリケーションによっては、コンピュータの内部処理として特定の日付を基準とした。例えば[[Microsoft Excel|Excel]]では1900年(明治33年)1月1日を基準日とする。シリアル値で管理しているので、西暦であっても基準日以前を使用する場合は別途計算処理が必要となる。
* 西暦を使用する外国の情報を利用する際に、元号で表記するには、西暦から和暦に換算する処理が必要となる。
* [[オペレーティングシステム]]の大半は、ファイル作成日付に見られるように西暦を使用している。
* [[Unicode]]では、「㍾ (Unicode U+337E)」「㍽ (Unicode U+337D)」「㍼ (Unicode U+337C)」「㍻ (Unicode U+337B)」については[[CJK互換用文字]]ブロックに合字が準備されており、「㋿(Unicode U+32FF)」にも新たに[[囲みCJK文字・月]]ブロックに合字が準備された<ref>{{Cite news|title=アドビのフォントが新元号「令和」に対応--2パターンの合字を追加|newspaper=CNET Japan|date=2019-04-01|url=https://japan.cnet.com/article/35135080/|accessdate=2019-04-03}}</ref>。これら以外の元号は入っておらず、4つ連続していたUnicodeの前後には別の文字が割り当てられている(U+337Aは㍺、U+337Fは㍿)。
これらの点から、日本でもコンピュータでの処理に際しては内部で西暦を用いているが、ほとんどの公文書(前述の通り、補助的に西暦を併用しているものも存在している)では元号を使用することを始め、一般にも書類事務は元号を用いるというニーズが根強いため、表示や入力に際しては元号を使用できるアプリケーションが多い。これは、特に使用者を限定せず多様な用途が想定されている[[オフィススイート]]に顕著である([[Microsoft Excel|Excel]]や[[OpenOffice.org]]など多種)。
なお、昭和年間に使用されていたアプリケーションの中には、年を「昭和○○年」として入力し、処理されているものがある。平成以降も、内部的に昭和の続きとして扱うため、[[1989年]](平成元年 = 昭和64年)、[[1990年]](平成2年 = 昭和65年)、[[1991年]](平成3年 = 昭和66年)…として処理される。しかし、3桁になる[[2025年]](=令和7年=昭和100年)に誤作動が起きる可能性([[昭和100年問題]])が懸念されている。
Excel 98以前は、2桁で入力した場合は元号優先で処理していた。例えば、「08.03.01」と入力した場合、Excel 98以前の[[バージョン]]では「1996年(平成8年)3月1日」と処理されていた(詳細は「[[Microsoft Excel#日付の変換問題]]」を参照)。なお、Excel 2000以降のバージョンでは西暦(この場合「2008年(平成20年)3月1日」)で処理されるようになっている。
なお、コンピュータにおける[[ファイル名]]の先頭部分に元号を用いた場合、単純に[[文字コード]]の順序で[[ソート|並べ替える]]と、利用者の意図しない順序になり、混乱を招くおそれがある。例として、本来「元治→慶応→明治→大正→昭和→平成→令和」の順序にすべきところが、「慶応→元治→昭和→大正→平成→明治→令和」の順序になる(文字コード「[[Shift JIS|シフトJIS]]」の昇順で並べ替えた場合)。
== 西暦と元号との変換 ==
{{Seealso|元号から西暦への変換表}}
元号による日付と西暦との対応表(日本産業規格JIS X 0301:2019)<ref>[https://www.kikakurui.com/x0/X0301-2019-02.html JIS X 0301:2019 情報交換のためのデータ要素及び 交換形式−日付及び時刻の表記 (追補1)]</ref>
{| class="wikitable"
!元号!!元号による最初の日付及び最後の日付!!対応する西暦日付
|-
|明治||M01.01.01([[#注1|注1]])||1868-01-25
|-
| ||M01.09.08(太政官令の発令日)||1868-10-23
|-
| ||M05.12.02([[#注2|注2]])||1872-12-31
|-
| ||M06.01.01(グレゴリオ暦採用の初日)||1873-01-01
|-
| ||M45.07.29||1912-07-29
|-
|大正||T01.07.30||1912-07-30
|-
| ||T15.12.24||1926-12-24
|-
|昭和||S01.12.25||1926-12-25
|-
| ||S64.01.07||1989-01-07
|-
|平成||H01.01.08||1989-01-08
|-
| ||H31.04.30||2019-04-30
|-
|令和||R01.05.01||2019-05-01
|}
*({{Visible anchor|注1}})明治時代までは、慣例として、元号が変わったとき、その年の1月1日に遡って、その元号の最初の日付としていた(最初の「[[大化]]」を除く)。[[太政官布告・太政官達|太政官令]]が発令されたのは明治元年9月8日で、その日付から明治となった。
*({{Visible anchor|注2}})M06.01.01より前は、日本は太陰太陽暦が使われていた。したがって、それ以前の元号表記は、この規格の適用範囲外であり、この期間の元号による日付の換算には特別な注意が必要である。
=== 簡易な換算法 ===
西暦年から元号年を簡易に計算する方法として、知りたい年の西暦の紀年数から各元号の元年の前年(0年)の西暦を引いて元号の紀年数を算出する方法がある(逆に、加えると西暦が算出できる)。減算は、下2桁同士でもよい。
* [[1867年]] = [[慶応]]3年 = '''[[明治]]0年'''
** 1878年:78 - 67 = 明治11年
** 明治11年:1867 + 11 = 1878年
** 1967年:1967 - 1867 = 明治100年
*:[[明治百年記念式典|「明治100年」の式典]]は [[1968年]](昭和43年)の10月23日に行われた。
* [[1911年]] = 明治44年 = '''[[大正]]0年'''
** 1919年:19 - 11 = 大正 8年
* [[1925年]] = 大正14年 = '''[[昭和]]0年'''
** 1947年:47 - 25 = 昭和22年
** 昭和63年:1925 + 63 = 1988年
*: 昭和は西暦と下1桁が5ずれているので、比較的数えやすい。
* [[1988年]] = 昭和63年 = '''[[平成]]0年'''
** 1990年:90 - 88 = 平成2年
** 1999年:99 - 88 = 平成11年
** 2008年:108 - 88 = 平成20年
*: 西暦に12を足して下2桁を読むことで、平成年を算出することもできる。
* [[2018年]] = 平成30年 = '''[[令和]]0年'''
*: 西暦から18を引いて下2桁を読むことで、令和年を算出することができる。
== 元号使用の歴史(日本) ==
[[ファイル:minamotokiyomaro.JPG|thumb|right|upright|宗福寺にある[[源清麿]]の墓。左下に「[[安政]]」の元号が刻まれている。]]
[[ファイル:Convention of retrocession of the Liatung Peninsula 8 November 1895.jpg|thumb|right|[[1895年]]([[明治]]28年)11月8日、<br />[[三国干渉]]の結果となった[[遼東半島]]還付条約。[[日本]]の「[[明治]]」と[[清]]の「[[光緒]]」、二ヶ国の年号が記されている。]]
一般に[[難波宮]]で行われた[[大化の改新]]([[645年]])時に「[[大化]]」が用いられたのが最初であり、以降、日本という国号の使用が始まったとされる。なお、即位改元は[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]以後から[[江戸時代]]前半期の数例([[寛永]]など)を除いて確実に実施されている<ref name="dobashi" />。
=== 前史 ===
『[[日本書紀]]』の王暦は原則として王の即位の翌年を元年とする記述で整理されている<ref name="dobashi" />。ただし『日本書紀』は後世に編纂されたもので各王の時にどのような紀年法だったかは別問題である<ref name="dobashi" />。
『日本書紀』の王暦は前王の崩御と同じ年に即位したか翌年に即位したかにかかわらず原則として即位の翌年を元年とする記述で整理されている<ref name="dobashi" />。例外的に[[孝徳天皇]]の元号「[[大化]]」と『[[続日本紀]]』の[[文武天皇]]の王暦は即位年が元年となっているが、いずれも譲位により即位した例で、[[諒闇]]即位の時は翌年を元年とし、譲位即位の時は同年を元年としている<ref name="dobashi" />。『日本書紀』の王暦における即位翌年に改元する越年称元(踰年称元)は[[那珂通世]]によって指摘された<ref name="dobashi" />。元号制度が確立されてからも即位翌年に改元する踰年改元の例は江戸時代までみられた<ref name="dobashi" />。
=== 古墳時代 〜 江戸時代 ===
一般には「[[大化]]」が日本最初の元号とされている。
元号制度が安定的にみられるのは[[文武天皇]]5年([[701年]])に「[[大宝 (日本)|大宝]]」と建元してからで、以降、独自の元号制度が展開されている<ref name="dobashi" />。[[古墳時代]]はまだ見られず[[飛鳥時代]]の「大宝」から[[江戸時代]]末期([[幕末]])の「[[慶応]]」までは一代の天皇の間に複数回改元しうる制度であった<ref name="dobashi" />。
[[平安時代]]末期、[[源頼朝]]は、[[寿永二年十月宣旨]]によって[[朝敵]]認定を赦免され[[東国]]支配権を認められるまで、[[養和]]ついで[[寿永]]への改元をいずれも認めず、それ以前の[[治承]]の年号を使い続けるなど、元号は強い政治性を帯びていた。
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には、[[持明院統]]([[北朝 (日本)|北朝]])、[[大覚寺統]]([[南朝 (日本)|南朝]])がそれぞれ元号を制定したため、元徳3年/元弘元年([[1331年]])から元中9年/明徳3年([[1392年]])まで2つの元号が並存した<ref>もぐら『アラサーの平成ちゃん日本人だから知りたい日本史を学ぶ』([[竹書房]]、2015年4月2日発行)101頁</ref>。[[建武 (日本)|建武]]元年と同2年は[[朝廷 (日本)|朝廷]]が分裂する前であるため元号は共通であった。
[[室町時代]]には、朝廷が定めた新元号を、[[足利将軍家|将軍]]が[[吉書]]として総覧して[[花押]]を据える「吉書始」と呼ばれる儀式で[[改元]]を宣言して、[[武家]]の間で使用されるようになった。そのため元号選定には武家の影響力は強いものであった。特に[[室町幕府]]第3代将軍の[[足利義満]]以降、改元に幕府の影響が強まった。一方で[[京都]]の幕府と対立した[[鎌倉府]]が改元を認めずに反抗するという事態も生じた。また[[応仁の乱]]などで朝廷と幕府が乱れると朝廷による改元と幕府の「吉書始」の間が開くようになり、新・元号と旧・元号が使用される混乱も見られた。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代末期]]、[[織田信長]]は[[元亀]]4年7月、将軍[[足利義昭]]を京都から追放した直後に元亀から[[天正]]への改元を主導し、[[織田政権]]の開始を象徴する出来事となった。
[[江戸時代]]に入ると[[江戸幕府|幕府]]によって出された[[禁中並公家諸法度]]第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事(中国の元号の中から良いものを選べ。ただし、今後習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである)」とされ、徳川幕府が元号決定に介入することになった。また、改元後の新元号を実際に施行する権限は江戸幕府が有しており、朝廷から連絡を受けた幕府が[[大名]]・[[旗本]]を集めて改元の事実を告げた日(公達日)より施行されることになっていた。これは朝廷のある京都においても同様であり、朝廷が江戸の幕府に改元の正式な通知をして、幕府が[[江戸城]]で諸大名らに公達を行い、江戸から派遣された幕府の使者が[[京都町奉行]]に改元の公達を行い、町奉行が改元の[[町触]]を行った後で初めて施行されるものとされた。京都の[[役人]]や[[庶民|民衆]]はたとえ改元の事実を知っていても、町触が出される前に新元号を使うことは禁じられていた<ref>[[久保貴子]]「改元にみる朝幕関係」『近世の朝廷運営-朝幕関係の展開-』([[岩田書院]]、1998年 ISBN 4-87294-115-2)pp.241-242</ref>。
広く庶民にも年号が伝わるようになったのは、江戸時代になってからのことである<ref>{{Cite book |和書 |author=山本博文|authorlink=山本博文|year=2017 |title=元号全247総覧 |publisher=悟空出版 |page=30 |isbn=978-4-908117-39-8 }}</ref>。
江戸時代まで元号は一代の天皇の間に複数回改元しうるもので後世になるほど祥瑞や辛酉年での改元が増えた<ref name="dobashi" />。即位改元では[[9世紀]]以降は[[践祚]]の翌年に改元する踰年改元、江戸時代には即位儀の翌年に改元するのが通例であった(ただし中国のように改元の月は正月に固定されなかった)<ref name="dobashi" />。また、南北朝以後から江戸時代前半期にかけて即位改元が実施されなかった例がいくつかある([[後水尾天皇]]の御世に改元された「寛永」は[[明正天皇]]が即位しても改元されなかった例など)<ref name="dobashi" />。
=== 明治時代以後 ===
[[慶応]]以前は、在位した天皇の交代時以外にも随意に改元(吉事の際の祥瑞改元、大規模な自然災害や戦乱などが発生した時の災異改元など)していた。しかし、戊辰戦争の結果として全国政府の座を奪取した明治政府は、[[明治]]に改元した時に[[一世一元の詔]]を発布し、明治以後は、現在に至る、新天皇の即位時に限定して改元する「'''[[一世一元の制]]'''」に変更された。これにより、[[辛酉]]改元や[[甲子]]改元も廃止された。さらに、[[1872年]]([[明治5年]])には、[[西洋]]に合わせて[[太陽暦]]([[グレゴリオ暦]])へと移行することになり、「''[[旧暦]]([[太陰太陽暦]])に代わる[[暦]]として永久にこれを採用する''」との[[太政官布告]]により採用された<ref>改暦ノ詔書並太陽暦頒布(明治5年11月9日太政官布告第337号) [{{NDLDC|787952/172}} 改暦詔書の全文]</ref>(詳細は「[[明治改暦]]」を参照)。それに伴い、元号や干支、[[神武天皇即位紀元]](皇紀、神武暦)<ref group="注">[[1840年代]]から[[1860年代]]にかけては、[[藤田東湖]]など[[国学]]者が皇紀を用いていた。</ref> に加えて、[[西暦|キリスト紀元]](西暦、西紀)の使用も始まったが、[[第二次世界大戦]]時には西暦はむしろ[[敵性語]]扱いされた節もあった。その後、太陽暦に移行しても、[[1910年代]]までは旧来の太陰太陽暦([[天保暦]])での暦が併記されていたように、年数を数えるにおいて民衆には浸透しづらかった側面もある。そして、[[1889年]]([[明治]]22年)に公布された[[旧皇室典範]]と[[1909年]](明治42年)に公布された[[登極令]]([[皇室令]]の一部)に「(天皇の)践祚後は直ちに元号を改める」と規定され、元号の法的根拠が生じた。
[[第二次世界大戦]][[日本の降伏|敗戦]]後に、[[日本国憲法]]制定に伴う[[皇室典範]]の改正をもって、元号の法的根拠は一時消失した。しかし'''慣例'''という形で、官民を問わず「[[昭和]]」の元号が使用され続けた。だが、第二次世界大戦終結の翌年に当たる[[1946年]]([[昭和]]21年)1月には、[[尾崎行雄]]が[[帝国議会]][[衆議院議長]]に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた[[1945年]](昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、[[1946年]](昭和21年)をもって「新日本」の元年として、[[1946年]](昭和21年)以後は'''無限'''の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。これに対して、[[石橋湛山]]は、『[[東洋経済新報]]』[[1946年]](昭和21年)[[1月12日]]号のコラム「顕正義」において、「元号の廃止」と「西暦の使用」を主張した。[[1950年]](昭和25年)2月下旬になると、[[国会 (日本)|国会]][[参議院]]で「元号の廃止」が議題に上がった。ここで[[東京大学]][[教授]]の[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]は、元号の使用は「独立国の象徴」であり、「西暦の何世紀というような機械的な時代の区画などよりは、遙かに意義の深いものを持って」いる上、更に「[[大化の改新]]であるとか[[建武の新政|建武中興]]であるとか[[明治維新]]」という名称をなし、「[[日本の歴史|日本歴史]]、[[日本の文化|日本文化]]と緊密に結合し」ていることは今後も同様であるため、便利な元号を「廃止する必要は全然認められない」一方で「存続しなければならん意義が沢山に存在する」と熱弁をふるい元号の正当性を主張し続けた<ref>「日本の年号の一考察―平成の改元を中心に―」王福順(2007年9月)</ref>。さらに1950年(昭和25年)5月、[[日本学術会議]]は[[吉田茂]]首相あてに「天皇統治を端的にあらわした元号は民主国家にふさわしくない」として、元号の廃止と西暦の採用を申し入れる決議を行った<ref>{{Cite web|和書|date=2020-10-28 |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62690 |title=「元号」にも断固反対する日本学術会議の露骨な偏り 日本の無力化、非武装化を目指したGHQの意向とぴったり合致 |publisher=JBpress |accessdate=2020-10-28}}</ref>。
1950年(昭和25年)6月に[[朝鮮戦争]]が勃発すると、元号の議題は棚上げされた。以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまることとなる。その後、[[1979年]](昭和54年)に'''[[元号法]]'''が制定され、議論は事実上終結した。これは[[昭和天皇]]の高齢化と、[[1976年]](昭和51年)当時の[[世論調査]]で国民の87.5%が元号を使用している実態<ref>[https://www8.cao.go.jp/survey/s51/S51-08-51-10.html 「元号に関する世論調査」]</ref> に鑑みたものである。元号法では「'''元号は皇位の継承があった場合に限り改める'''」と定められ、明治以来の「'''一世一元の制'''」'''が維持'''された。ここで再び元号の法的根拠が生まれ、現在に至るまで元号と西暦の双方が使用され続けることとなる。ただし、皇紀([[神武天皇即位紀元]])に関しては現在、(文化的な場での使用を除き)公文書にて使用されていない。
=== 最も期間の長い元号と短い元号 ===
日本の元号で最も期間の長い元号は「'''[[昭和]]'''」の'''62年と14日'''。最も期間の短い元号は「'''[[暦仁]]'''」の'''2か月と14日'''である。昭和は日本だけでなく、元号を用いていた全ての国の元号の中でも最も長い元号である。
年数で最も長い元号も「昭和」で、64年まである。逆に'''元年のみ'''使われた元号は「'''[[朱鳥]]'''」と「'''[[天平感宝]]'''」がある。暦仁は期間内に元日を挟んでいるため2年まである。
== アジアにおける歴史 ==
[[ファイル:Daimingbaochao.jpg|thumb|right|upright|[[明]]で発行された大明通行宝鈔と呼ばれる[[紙幣]]。左下に[[洪武]]の元号が書かれている。]]
中国で元号制度が始まるのは[[前漢|漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の時代のことである<ref name="dobashi" />。漢の武帝の治世第36年 - 元鼎2年([[紀元前115年]])頃、治世第1年(紀元前140年)に遡及して「[[建元 (漢)|建元]]」という元号が創始されて以降、[[清]]まで用いられた。
=== 前近代の朝鮮と雲南 ===
中国の元号は、中華帝国の[[冊封]]を受けた[[朝鮮]]([[高句麗]]、[[百済]]、[[新羅]]、[[高麗]]、[[李氏朝鮮]])、[[南詔|雲南(南詔]]、[[大理国|大理]])でもそのまま使われた。新羅による[[朝鮮半島]]統一の直前、新羅は独自の元号を使用したが、このときは、恐らくは[[白村江の戦い]]に先だつ[[唐]]との同盟締結のため、短期間で廃止された。高麗初期・朝鮮末期(韓末)にも独自の元号が短期間使用された。朝鮮においては、ベトナムと同様、紀年において中国の元号 + 年数の代わりに自国の[[国王|王]]や[[皇帝]]の廟号 + [[干支]]を組み合わせて使うことがよくあった。
=== 前近代の満州とベトナム(越南) ===
[[8世紀]]初頭以降の満州(大氏[[渤海 (国)|渤海]]国王[[大武芸]]の[[仁安 (渤海)|仁安]]元年以降、[[遼]]、[[金 (王朝)|金]]、[[後金]]を経て、[[愛新覚羅氏]]大清帝国・溥儀の[[宣統]]2年まで)、日本(文武天皇の治世第5年 = 大宝元年以降、現在まで)と、10世紀末以降のベトナム([[丁部領#大瞿越皇帝|丁氏大瞿越国]]の[[太平 (丁朝)|太平]]元年以降、[[阮朝|阮氏大南帝国]]の[[保大]]20年まで)は、中華帝国の冊封を受けた時期もあったが、常に独自の元号を使用し、中国と対等の立場を表した。満州から出た清は中国本土(明)及び[[台湾]]([[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏]]東寧)を倒して中華帝国を統治し、満州の元号が中国本土及び台湾でも用いられた。ベトナムにおいても、朝鮮と同様に、紀年において中国の元号 + 年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号 + 干支を組み合わせて使うことがよくあった。ベトナム阮朝では、南ベトナムの広南阮氏の正史編纂に際し、阮氏歴代の廟号 + 干支、中国の元号と大越(北ベトナムの黎朝)の元号の三つを併記した。
=== 前近代の琉球 ===
伝承上の[[琉球国王]]の系譜は[[舜天]]氏([[清和源氏]]の系統)と[[尚氏]]から成る。[[琉球王国|琉球]]は[[12世紀]]に日本本土から来た[[皇別]][[氏族]]である清和源氏の舜天尊敦([[源義家]]の[[続柄#曽孫|四世孫]]である[[源為朝]]の子と伝えられる)によって建国された。この伝承によれば[[鎌倉幕府]]の[[源氏]]と琉球王国の舜天氏は一家である。その後、数代を経て舜天氏は尚氏([[英祖 (琉球国王)|英祖]])と交替した。尚氏琉球は元を倒した明に朝貢し、尚氏が大明皇帝によって琉球国王と認められる[[冊封体制]]に属した。[[17世紀]]初頭、[[島津氏]]による[[琉球侵攻]]による尚氏琉球の[[保護国]]化以降も、尚氏琉球は国内外で中国の元号(明及び清の年号) + 年数を使っていたが、琉球通信使などのような島津氏(同じく源義家の四世孫である[[源頼朝]]の[[庶子|庶出]]を[[一人称|自称]]するが、[[日向国]]島津荘にあった[[藤原北家]] = [[近衛家]]領地の[[荘官]]を兼ねており、領家であった[[藤原氏|藤原]][[朝臣]]を本姓とする)や[[徳川氏]](同じく源義家の四世孫である[[得川頼有]]/[[徳河頼有]]の[[親族|子孫]]を自称)とのやりとりの際には日本の元号 + 年数を使った。
=== 中国 ===
漢の武帝以前は王や皇帝の即位の年数による即位紀元の方式が用いられていた(在位紀年法、王暦)<ref name="dobashi" />。当時の紀年法では新しい天子が即位した翌年を始めの年とする認識がとられていることが多い<ref name="dobashi" />。例えば『[[資治通鑑]]』によれば[[周]]の[[威烈王]]23年の翌年が[[安王]]元年、[[高祖]]12年の翌年が[[高后]]元年となっている<ref name="dobashi" />。また『[[史記]]』の孝武本紀では孝景の崩じた翌年を元年としている<ref name="dobashi" />。このように王暦において即位の翌年から次の[[天子]]の元号を始めることを「踰年称元」といい<ref name="dobashi" />、即位年(先の天子の没年)から次の天子の元号を始めることを「没年称元」という。ただし『史記』でも孝文本紀と孝景本紀とでは記載に混乱がみられ、史書によっても混乱がみられる部分がある<ref name="dobashi" />。そのため史書の編纂の過程で『資治通鑑』のような体裁に整えられていったとする説がある<ref name="dobashi" />。
元号制度が始まったのは漢の武帝の時代からだが、[[明]]の太祖洪武帝([[朱元璋]])により[[一世一元の制]]がとられるまで、一人の皇帝の治世中にしばしば改元された<ref name="dobashi" />。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、[[彗星]]出現の年を「光」、[[麒麟]]捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「[[元光 (漢)|元光]]」「[[元狩]]」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。
中国では元号制度が正式に設けられた後も、即位改元の場合は原則として前皇帝が亡くなった年のうちは改元を行わず、新皇帝は翌年正月に改元する方式がとられた(踰年称元、踰年改元)<ref name="dobashi" />。[[伊藤東涯]]は『[[制度通]]』において「先君崩薨の後、明年を元年と云、踰年改元すと云、是なり。」としている<ref name="dobashi" />。ただし、王朝交替時には新皇帝の即位とほぼ同時、政変・譲位の時は新皇帝の即位と同時か間をおいて改元されることが多かった<ref name="dobashi" />。
明の太祖([[朱元璋]])は、皇帝即位のたびに改元する[[一世一元の制]]を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。
[[1911年]]に[[辛亥革命]]によって[[満州族]]([[愛新覚羅氏]])王朝の[[清]]が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の[[黄帝紀元]]を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、[[共和制]]になじまないという理由で、[[中華民国]]建国に際し、[[1912年]]を中華民国元年(略して民国元年)とする「[[民国紀元]]」が定められた。[[1916年]]に[[袁世凱]]が[[君主制|帝制]]([[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]])を敷いた時には「[[洪憲]]」の元号を建てた。ただし、[[清室優待条件]]によって[[愛新覚羅溥儀|宣統帝溥儀]]は[[紫禁城]]で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部([[遜清皇室小朝廷]])では「[[宣統]]」の元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「[[張勲復辟|復辟(帝制復活)]]」への幻想を生んだ。
[[満洲国]]が[[1932年]]に建国されると「[[大同 (満州)|大同]]」と建元し、[[1934年]]に溥儀が皇帝に即位して満洲帝国になると「[[康徳]]」と改元された。第二次世界大戦末期の1945年8月、[[ソビエト連邦による満洲侵攻]]で満洲帝国が滅亡すると、再び元号は廃止された。
[[中華人民共和国]]が大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用される。しかし、これは[[キログラム]]が「公斤」と、[[キロメートル]]が「公里」と表記されるのと同じで、元号としてではなく、common eraの中国語訳表記である。同様にベトナムでも公元 công nguyênという名称で西暦が採用される。
=== 現代の台湾 ===
中華民国(台湾)では、正月(元旦節)は農暦正月([[旧正月]])を祝う一方、公元(西暦)と同期した「中華[[民国紀元]]」が、[[辛亥革命]]([[1911年]])の翌年([[1912年]])以降、[[台湾光復]]([[1945年]]10月25日)、台北遷都(1949年12月7日)を経て[[現在]]に至るまで公式に用いられている。西暦1912年1月1日 = [[黄帝紀元]]4609年旧暦11月13日 = 大清帝国宣統2年旧暦11月13日 = 中華民国元年1月1日( = 日本[[明治]]45年1月1日)。
民国紀元は、厳密には国号であって、紀元でも元号でもないが、元号のように公的な場で使用されている。台湾独立時代の元号として、[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏]]東寧国の永暦(もと南明の元号、1662年 - 1683年)、[[台湾民主国]]の永清(1895年)があるが、鄭氏東寧国や台湾民主国の建設、中華民国の台北遷都にちなむ台湾紀元のような紀年法はない。また、1949年以降の中国(中華人民共和国)では一般の[[公文書]]には「公元」(西暦)を使用し、元号やそれに準じた民国紀元のような紀年法は無く、西暦の使用が憚られる宗教建築の棟札などには干支と農暦(旧暦)による紀年が用いられる。西暦{{#time:Y|+8hours}}年は[[民国暦|中華民国]]{{#expr:{{#time:Y|+9hours}}-1911}}年である。
=== 現代の朝鮮 ===
[[朝鮮民主主義人民共和国]]([[北朝鮮]])では、正月(元旦節)は陰暦[[正月]](旧正月)を祝う一方、陽暦(西暦)と同期した「[[主体暦|主体]]紀元」が、[[金正日]]の統治第3年(1997年)以降、現在に至るまで公式に用いられている。「1997年 = 主体86年」であり、元年~85年までは[[観念]]上の存在であって遡及的に使用され、金正日の[[父親|父]]・[[金日成]]が生まれた「1912年(民国元年、大正元年)= (観念上の)元年」とする。
主体紀元は、厳密にはイデオロギー口号(こうごう、スローガン)であって、紀元でも元号でもないが、民国紀元と同様に公的な場で使用されている。日本では1872年 = 明治5年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1873年 = 明治6年以降、元号が西暦と同期するようになったが、李氏朝鮮国(1897年以降は李氏大韓帝国)においても1895年 = 開国504年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1896年 = 高宗建陽元年以降、李氏大韓帝国が消滅した1910年 = 純宗[[隆熙]]4年まで西暦と同期した元号が用いられた。1912年 = 【観念上の朝鮮開国521年】 = 【観念上の朝鮮純宗[[隆熙]]6年】 = 朝鮮主体元年 = 中華民国元年( = 日本[[大正]]元年)。このほか、李氏朝鮮国で1870年 - 1896年まで用いられた開国紀元(旧暦と同期、1392年を元年とする)や、大韓民国(韓国)の大韓民国紀元(西暦と同期、三一独立運動の年、大韓民国臨時政府(上海)成立の年、1919年を元年とする)、[[檀君紀元]](もと旧暦と同期していたが1948年以降は西暦と同期する、開天紀元ともいう、『三国遺事』に記録された檀君神話に基づき、檀君即位の年である、中国の五帝・[[帝堯]]の治世第50年 = 紀元前2333年「旧暦10月3日」を元年 = 即位年即位日とし、今は西暦10月3日を[[開天節]]として祝う)などの紀年法がある。1961年以降の[[大韓民国|韓国]]では一般の公文書には「陽暦」(西暦)を使用し、[[檀君紀元]]は使用されず、元号やそれに準じた主体紀元のような紀年法もない。西暦{{#time:Y|+8hours}}年は朝鮮主体{{#expr:{{#time:Y|+9hours}}-1911}}年( = 中華民国{{#expr:{{#time:Y|+9hours}}-1911}}年)である。
=== 現代のベトナム ===
[[File:Vietnamese reign era date (Bảo Đại 1-10-初10) and Gregorian calendar date (1926-10-23) - Annam như Tây du học bảo trợ hội (安南如西遊學保助會 - Société d’encouragement aux études occidentales).png|thumb|150px|[[仏領インドシナ]]時代の漢文の公文書表記<br />「中圻欽使」は仏領インドシナ総督府の機関であるので西暦で、「機密院」は阮朝大南政府の機関であるので「保大」が使われている。]]
[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]](共和社会主義越南)の指導政党である[[ベトナム共産党]]の設立記念日は1930年2月3日(大南保大5年/旧暦1月5日)であり、必ず西暦で祝われ、旧暦1月5日に祝われることはない。一方、ベトナムもまた正月(元旦節)は台湾や朝鮮と同様に陰暦正月(旧正月)を祝う。また、元旦節や清明節、春分節などの伝統節日の紀年においては、公元(西暦)ではなく旧暦と同期した{{要出典範囲|date=2022年3月|「共和社会主義越南紀元」}}が、[[ベトナム戦争]]を終結させた[[サイゴン陥落]]・南ベトナム革命(1975年)の翌年(1976年)以降、現在に至るまで非公式に用いられている。1976年 = 共和社会主義越南32年であり、元年~31年までは観念上の存在であって遡及的に使用される。共和社会主義越南紀元は、厳密には国号であって、紀元でも元号でもないが、[[ローマ字]]やキリスト紀元(西暦)の使用が憚られる宗教建築ー[[村落]]集会所(亭)や[[寺]]、[[廟]]、族祠の棟札などには、原則として漢字(及び[[喃字]]、チューノム)と漢数字で、阮氏大南帝国時代の元号(年号)のように使用されている。実際にはローマ字や算用数字で書く場合もあり、共和社会主義越南紀元の代わりに干支と陰暦(旧暦)による紀年が用いられる場合もあって、その使用は必ずしも絶対ではない。1945~1954年まで、ベトナムの亭、寺、廟、族祠などでは西暦を避けて干支、国長年号(保大または大南保大、仏軍支配地域のベトナムにおける旧阮朝帝室の国長制は1945~55年まで継続)、国号(越南民主共和)、準国号(越南民国、1945~54年まで、ベトナム民主共和国の官報は『越南民国公報』であった)を非公式に使用したと考えられる。旧北ベトナムの亭、寺、廟、族祠などでは1954~1975年まで1945年を元年とする越南民主共和紀元が非公式に使用され、旧南ベトナムでは1955~1975年まで1955年を元年とする越南共和紀元が非公式に使用されて、現存する寺社の棟札などでその使用を確認できる。共和社会主義越南紀元の観念上の元年は、越南民主共和紀元と同じ、八月革命の年、1945年である。1945年 = 大南保大20年 = 越南民主共和元年 = 【観念上の共和社会主義越南元年】(= 日本の昭和20年)である。
このほかに、同じく旧暦と同期した[[雄王]]紀元(フンヴオン紀元)がある。鴻厖紀元(ホンバン紀元)ともいう。雄王紀元は、『大越史記』及び『大越史記全書』に記録された神話(雄王祖 = 帝明説)に基づき、初代フンヴオン(雄王 = [[涇陽王]])鴻厖氏即位の年である、中国の三皇・炎帝神農氏の第三世孫(帝明)の没年 = 紀元前2879年を元年とする。このため、[[ベトナム人]]の間では「ベトナム五千年の歴史」という言い回しが存在する。ベトナムでは「ベトナム(鴻厖氏文郎国)建国の年・建国の日は、初代フンヴオンの父・王祖[[帝明]]の没年であり命日・忌日(ゾー Giỗ)である」という「没年称元」の観点から、建国記念日「旧暦3月10日」を雄王祖忌(ゾートーフンヴオン、Giỗ Tổ Hùng Vương)という。雄王紀元は雄王祖忌を祝う上での観念上の紀元であり、雄王祖忌以外の場で使用されることは稀である。
1887年の[[フランス]]による阮氏大南帝国の保護国化以降、ベトナムの一般の公文書は「西紀」(西暦と同期する)と元号(年号、旧暦と同期する)が併記され、1945年以降の独立ベトナム諸政権は元号・旧暦を廃止して「公元」(西暦)だけを使用したため、旧暦3月10日に固定されたベトナムの建国記念日(雄王祖忌)は、旧正月(元旦節)とともに、ベトナムの国民の祝日のうち「移動祝日」(毎年西暦上の日付が移動する祝日)となっている。西暦2022年1月25日 = 【観念上の雄王紀元4900年旧暦正月元日】 = 共和社会主義越南77年旧暦正月元日(=日本[[令和]]4年1月25日)である。
=== 東北アジア、東南アジアの神話紀元と王室の華裔伝承 ===
==== 朝鮮・ベトナム王室の華裔伝承 ====
旧暦と同期した中国の黄帝紀元、朝鮮([[高麗]])の檀君紀元、ベトナム(大越)の雄王紀元は、いずれも[[唐]]の[[司馬貞]]・補『史記』(732年頃完成、以下『補史記』と称する)の [http://gongsunlong.web.fc2.com/sankou-h.pdf 三皇本紀] と司馬遷『史記』(紀元前90年頃完成)の五帝本紀に記載された中国神話(朝鮮の場合はプラスして[[インド神話]])に基づき、自らの王家の[[先祖|祖先]]を華裔(中華皇帝の血統)とする形で、[[13世紀]]までに創作された[[神話]]紀元である。『補史記』に基づいて[[古代]]の諸帝王の系譜を順に追うと、(1)第3代三皇 = 初代炎帝神農氏 = 帝石年、(2)帝臨魁(石年の子)、(3)帝承(帝臨魁の子)、(4)帝明(帝承の子、帝石年の[[続柄#曽孫|三世孫]])と続き、帝明の[[庶子]]がベトナムの初代フンヴオン(雄王 = [[涇陽王]])となる。その後、(5)帝直(帝明の子、初代フンヴオン涇陽王の異母兄、ベトナムの伝承では帝宜)、(6)帝嫠(帝直の子)、(7)帝哀(帝嫠の子、ベトナムの伝承では帝来で、第二代フンヴオン[[貉龍君]]の舅 = 妻・嫗姫の父)、(8)帝克(帝哀の子)(9)帝楡罔(帝克の子)と続き、帝楡罔を倒して三皇[[時代]]を終焉させ、新たな五帝時代を開始し、また[[干支]]を創ったのが、(1)初代五帝 = 黄帝である。三皇のうち庖犠と女媧は蛇身であり、神農は人身だがその子孫のベトナムの第二代フンヴオン[[貉龍君]]は再び蛇身(龍種)となっており、黄帝に至ってようやく人間が世界の統治者になったと伝えられる。黄帝に続いて、(2)帝顓頊(黄帝の[[孫|二世孫]])、(3)帝嚳(帝顓頊の甥、黄帝の三世孫)、(4)帝堯(帝嚳の子)と続き、帝堯の治世第50年に帝釈天(インドラ、桓因)の二世孫である檀君が朝鮮に降臨した(人間ではなく[[クマ|熊]]の体であったと伝えられる。『ラーマーヤナ』物語の猿王ヴァーリンは熊王であるともいわれ、檀君同様にインドラの子孫である)。その後、(5)帝舜(帝堯の女婿)が帝堯から禅譲を受け、次いで(1)初代夏王となる[[禹]](夏禹、禹王)が帝舜から禅譲を受けて夏朝を創業した。以後、夏 → 殷 → 周(西周)へ至り、東周・春秋戦国時代以降は神話的記述が消えて[[歴史]]時代に入る。
==== 日本皇室の華裔伝承 ====
[[1872年]]([[明治5年]])に制定された日本の神話紀元すなわち[[神武天皇即位紀元]](皇紀)は、『[[日本書紀]]』([[養老]]4年([[720年]])頃完成)の紀年([[元嘉暦]]と[[儀鳳暦]]による干支紀年)を西暦に換算し、西暦と同期しており、またその由来が『補史記』([[天平]]4年([[732年]])頃)に記述された中国神話とは無関係である点で、中国の黄帝紀元、朝鮮の檀君紀元、ベトナムの雄王紀元と異なる。しかし、日本の皇室に華裔伝承がなかったわけではない。中国側では『史記』の淮南衡山列伝に徐福伝が付記されて後代の皇祖=徐福説に影響を与え、三国志の『魏書』(魏志倭人伝)が「男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身…」と述べて皇祖=夏少康説を紹介し、『晋書』『梁書』にも「自云太伯之後」([[倭人]]は周室の[[親戚]]で衡山に隠棲した呉太伯の後裔を自称する)という皇祖=呉太伯説が紹介されている。これらの華裔伝承は日本側に逆輸入され、特に日本の[[儒学者]]にとっての皇祖=呉太伯説は、日本の[[仏教]]者にとっての反本地垂迹説と同様に、日本皇室こそ周室の後裔であり、世界の中心にして正統であり、日本儒教こそ正しい儒教であると主張できる根拠であったため、[[林羅山]]などがこれを支持した。しかし、林羅山・[[林鵞峰]]父子らの『本朝通鑑』([[寛文]]10年([[1670年]])頃)には皇祖=呉太伯説は記載されていない。一方、[[イエズス会]][[宣教師]][[ジョアン・ロドリゲス]]の『日本教会史』([[寛永]]10年([[1633年]])頃)はもう一つの異説を採用して、「日本の皇室は姫季歴の子孫」と記載した。鄭成功の幕僚で、中国大陸南部やベトナムを転戦したのち来日した儒学者(朱子学者)の朱舜水は、武人であると同時に当時の中国最高の儒学者であり、水戸黄門([[徳川光圀]])の保護を受けて[[水戸藩]]の儒学者らに学問を講じ、[[水戸学]]に大きな影響を及ぼしたが、皇祖=呉太伯説、皇祖=姫季歴説を自著で述べていない。上記のように、朱舜水同様、林羅山もまた皇祖=呉太伯説を自著で述べていないにもかかわらず、[[18世紀]]以降の水戸藩において、「林羅山・鵞峰らの『本朝通鑑』が皇祖=呉太伯説を採用し、これに怒った水戸黄門、[[佐々介三郎]](すけさん)、[[安積覚兵衛]](かくさん)らが、[[林氏#林家|林家]]の妄説である皇祖=呉太伯説を断固として否定するため、『本朝通鑑』への[[アンチテーゼ]]として『大日本史』執筆に取り組み、日本全国を探訪して史料蒐集をおこなった」という誤った伝承が存在し、『水戸黄門漫遊記』などの[[大衆小説|娯楽小説]]へとつながった。詳細は'''[[本朝通鑑#呉太伯説との関係|『本朝通鑑』による呉太伯説との関係]]を参照'''。
==== 「万世一系」「孟舟即覆」 ====
『書経』『史記』が記述する中国神話によれば、[[武王 (周)|周の武王]](姫発、紀元前1070年 - 1043年ごろ)の[[曽祖父]]である古公亶父には[[息子|長男]]([[長兄]])の姫太伯、次男([[弟|長弟]])の姫虞仲、三男(次弟)の姫季歴がおり、呉の子爵家は姫太伯(呉太伯)の子孫、周王家(周室)は姫季歴の子孫、周の武王は姫季歴の二世孫である。『日本教会史』の皇祖=姫季歴説は『大越史記全書』などにおける雄王祖=帝明説と酷似し、中国と自国の帝王の兄弟関係を強調するものである。このほかに、[[松野氏]]系譜(松野連系図)にも松野氏祖先の姫氏説(呉太伯の系統)がある。皇祖=呉太伯説、皇祖=姫季歴説はいずれも周室と皇室は同根として、皇室の[[万世一系]]の正統性を補強するものであった。そのため、日本における皇祖=呉太伯説の支持者たちにとって、①[[秦]]による周討伐(紀元前249年、秦の[[呂不韋]]によって攻め滅ぼされた)を正当化する理論を提供し、②周の武王による殷の紂王討伐を革命の例とした『[[孟子 (書物)|孟子]]』の革命説は、周を滅ぼした理論、周を侮辱し皇祖に不敬をなす妄説であり、断固として否定すべきものであった。『孟子』は[[遣唐使]]によって早期に日本に持ち込まれていたにもかかわらず、鎌倉時代の[[花園天皇]]のような天皇自身による引用を除き、引用が憚られた。宋代の「国王一姓相伝六十四世」(『[[新唐書]]』日本伝)、明代の「有携其書(孟子)往者舟即覆溺」(『[[五雑俎]]』)などのように、日本の「天祖よりこのかた継体たがはずして唯一種まします」(『[[神皇正統記]]』における万世一系説)、「此書(孟子)を積みてきたる船は必ずしも暴風にあひて沈むよし」(『[[雨月物語]]』における孟舟即覆説)の元となる記述は中国史料が初出であるが、日本の儒教受容の当初から『孟子』が忌避されたことは事実と考えられる。日本の元号は宗教上・産業上の瑞祥を除き、基本的に[[四書五経]]を出典とするが、四書五経のうち『孟子』に由来する元号はいまだかつて存在しない。
== 元号一覧 ==
({{purge}})
* [[元号一覧 (日本)]] - 西暦[[{{#time:Y|+9hours}}年]]は[[日本]]の[[令和]]{{#expr:{{#time:Y|+9hours}}-2018}}年。
* [[元号一覧 (中国)]]
* [[元号一覧 (朝鮮)]] - 西暦{{#time:Y|+9hours}}年は[[北朝鮮]]の[[主体暦|主体]]{{#expr:{{#time:Y|+9hours}}-1911}}年。
* [[元号一覧 (ベトナム)]]
* [[元号一覧 (台湾)]] - 西暦{{#time:Y|+8hours}}年は[[台湾]]の[[民国暦|中華民国]]{{#expr:{{#time:Y|+8hours}}-1911}}年。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[所功]]『日本の年号 揺れ動く<元号>問題の原点』[[雄山閣]]、1977年
** 続刊『年号の歴史 元号制度の史的研究』雄山閣出版、1988年(増補版1989年)
* [[葦津珍彦]]・[[村松剛]]ほか『元号 いま問われているもの』[[日本教文社]]、[[1977年]]
* [[瀧川政次郎]]『元号考証』[[永田書房]]、1974年(新版1988年)
* 歴史と元号研究会『日本の元号』[[新人物往来社]]文庫、2012年、ISBN 404-6029501
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|紀年法|[[画像:Nuvola apps date.svg|34px]]}}
* [[即位紀元]]:[[君主]]の即位を紀元とする紀年法(例:[[便宜的国教徒禁止法案]]には「10 Anne」と書かれているが、これは「アン女王即位から10年目」の意である。)
* {{ill2|君主リスト|en|Regnal list}}:上記の即位紀元を読み解くのに必要な君主の一覧
* [[元号一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://ironna.jp/theme/743 なぜ日本人は元号を使い続けるのか] - [[産経新聞社|iRONNA]](2020年(令和2年)11月29日[[閲覧]])
* [https://www.benricho.org/nenrei/sei-gen.all.html 日本の元号・年号|ちょっと便利帳]
* [http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/nengoui.html 年号一覧表|熊本国府高等学校]
* [https://www.nengo-ichiran.com/ 年号元号一覧ナビ]
* [https://ksw.shoin.ac.jp/lib/tool/nengou.html 年号対応表]
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[[Category:紀年法]]
[[Category:東アジア]]
[[Category:東アジア史]]
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四十八願
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四十八願 (しじゅうはちがん)とは、浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分」に説かれる、法蔵菩薩 が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。
『仏説無量寿経』のサンスクリット原典である『スカーヴァティーヴューハ』には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。
中国の慧遠と憬興(きょうごう)は3つに分類している。其々の名と分類は以下の通り。
親鸞は、「浄土三部経」と七高僧の論釈章疏に依り『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を著し、「真実」と「方便」を顕かにしている。また、『教行信証』を注釈した存覚の『六要鈔』では「真実というのは、これ仮権に対す」としている。仮権はすなわち「権仮」(ごんけ)である。
これらの願は、すべて衆生の悲しみ苦しみをすべて観察した上で立てられたものであり、その解決としてある。本当の意味での「苦」の解決は、衆生が仏になることですべて解決されるから、往生浄土の上で仏となることが四十八願のもっとも重要な部分となる。
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四十八願 (しじゅうはちがん)とは、浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分」に説かれる、法蔵菩薩 が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。 『仏説無量寿経』のサンスクリット原典である『スカーヴァティーヴューハ』には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。
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{{Otheruses|仏教用語の四十八願|その他|四十八願 (曖昧さ回避)}}
{{複数の問題
|独自研究 = 2017年10月
|出典の明記 = 2017年10月
|観点 = 2018-01}}
'''四十八願''' (しじゅうはちがん)とは、[[浄土教]]の根本経典である『'''[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]'''』([[康僧鎧]]訳)「正宗分」に説かれる、法蔵菩薩<ref>法蔵菩薩とは、[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の因位の時(修行時)の名。</ref> が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。
『仏説無量寿経』の[[サンスクリット]]原典<ref>サンスクリット原典は、すべて消失している。現存する物は、写本のみ。</ref>である『[[無量寿経|スカーヴァティーヴューハ]]』には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。
== 概要 ==
{{Wikisource|仏説無量寿経}}
{{Wikiquote|仏説無量寿経}}
; {{Anchors|第一願}}第一願
: 願名 - 無三悪趣の願
: 原文 - 設我得佛 國有地獄餓鬼畜生者 不取正覺
; {{Anchors|第二願}}第二願
: 願名 - 不更悪趣の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 壽終之後 復更三惡道者 不取正覺
; {{Anchors|第三願}}第三願
: 願名 - 悉皆金色の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 不悉眞金色者 不取正覺
; {{Anchors|第四願}}第四願
: 願名 - 無有好醜の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 形色不同 有好醜者 不取正覺
; {{Anchors|第五願}}第五願
: 願名 - 宿命智通の願・令識宿命の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 不識宿命 下至不知百千億那由他 諸劫事者 不取正覺
; {{Anchors|第六願}}第六願
: 願名 - 令得天眼の願・天眼智通の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 不得天眼 下至不見百千億那由他 諸佛國者 不取正覺
; {{Anchors|第七願}}第七願
: 願名 - 天耳遥聞の願・天耳智通の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 不得天耳 下至聞百千億那由他 諸佛所説 不悉受持者 不取正覺
; {{Anchors|第八願}}第八願
: 願名 - 他心悉知の願・他心智通の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 不得見他心智 下至不知百千億那由他 諸佛國中 聚生心念者 不取正覺
; {{Anchors|第九願}}第九願
: 願名 - 神足如意の願・神足智通の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 不得神足 於一念頃 下至不能超過百千億那由他 諸佛國者 不取正覺
; {{Anchors|第十願}}第十願
: 願名 - 不貪計心の願・漏尽智通の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 若起想念 貪計身者 不取正覺
; {{Anchors|第十一願}}第十一願
: 願名 - '''必至滅度の願'''
: 原文 - 設我得佛 國中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覺
; {{Anchors|第十二願}}第十二願
: 願名 - '''光明無量の願'''<ref>漢本から言えば「光明勝過願」。</ref>
: 原文 - 設我得佛 光明有能限量 下至不照百千億那由他 諸佛國者 不取正覺
; {{Anchors|第十三願}}第十三願
: 願名 - '''寿命無量の願'''
: 原文 - 設我得佛 壽命有能限量 下至百千億那由他劫者 不取正覺
:* 第十一願の往生浄土する者を必ず成仏せしめるという誓いの後の第十二・十三願であるから、往生浄土したものに具わるべき徳。この第十二・十三願によって真仏土巻が説かれる。
:
; {{Anchors|第十四願}}第十四願
: 願名 - 声聞無量の願
: 原文 - 設我得佛 國中聲聞 有能計量 下至三千大千世界 聲聞縁覺 於百千劫 悉共計挍 知其數者 不取正覺
; {{Anchors|第十五願}}第十五願
: 願名 - 眷属長寿の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 壽命無能限量 除其本願 脩短自在 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第十六願}}第十六願
: 願名 - 離諸不善の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 乃至聞有 不善名者 不取正覺
; {{Anchors|第十七願}}第十七願
: 願名 - '''諸仏称名の願'''・'''諸仏称揚の願'''・'''諸仏称讃の願'''・'''諸仏咨嗟の願'''・'''往相廻向の願'''・'''選択称名願'''・往相正業(略文類)
: 原文 - 設我得佛 十方世界 無量諸佛 不悉咨嗟 稱我名者 不取正覺
:* 称讃・称名・咨嗟はともに讃歎の意味であり、名前を称える称名ではない。
:
; {{Anchors|第十八願}}第十八願
: 願名 - '''念仏往生の願'''・'''選択本願'''・'''本願三心の願'''・'''至心信楽の願'''・'''往相信心の願'''
: 原文 - 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法<!-- 浄土真宗諸派の聖典に「唯除五逆誹謗正法」の文言は記載されている。このページのノートに出典も明記してあり検証可能である。 -->
: 訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。 / たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
: 意訳 - 私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。(第十八念仏往生の願)<ref>『【現代語訳】浄土三部経』浄土宗総合研究所編、2011年、P.50より引用。</ref>わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国<ref>わたしの国とは、阿弥陀仏の[[仏国土]]、つまり[[極楽]][[浄土]]のこと。</ref>に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。<ref>『浄土真宗聖典-浄土三部経』本願寺出版、1996年、P.29より引用。</ref>
:* [[法然]]はこの願を最も重要な願ととらえ、『[[選択本願念仏集]]』において、「故知 四十八願之中 既以念仏往生之願<ref>念仏往生之願…第十八願のこと。</ref>而為本願中之王也」と解釈したことから、「'''王本願'''」とも呼ばれる。
:* [[親鸞]]は『[[尊号真像銘文]]』において、「唯除五逆誹謗正法」の真意を、''「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。''としている。
:; {{Anchors|唯除の文}}唯除の文
::親鸞は『[[顕浄土真実教行証文類|教行信証]]』「信巻」や『尊号真像銘文』において、「唯除五逆誹謗正法」についての了解を述べている。第十八願の願文のうち、「唯除五逆誹謗正法」の文言を「'''唯除の文'''」と呼ぶ。
::「信巻」では「唯除の文」について、[[曇鸞]]の『[[無量寿経優婆提舎願生偈註|浄土論註]]』と[[善導]]の『[[観無量寿経疏]]』から引用している。
::* '''『[[顕浄土真実教行証文類|教行信証]]』「信巻」'''<ref>『教行信証』「信巻」の原文は、[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2646_,83,0614c15:2646_,83,0615c20.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)『顯淨土眞實教行證文類』]を参照。</ref>
::* '''『尊号真像銘文』'''<ref>『尊号真像銘文』の原文は、[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2656_,83,0679a25:2656_,83,0679c11.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)『尊號眞像銘文』]を参照。</ref>
; {{Anchors|第十九願}}第十九願
: 願名 - '''至心発願の願'''・'''修諸功徳の願'''・'''臨終現前の願'''・'''現前導生の願'''・'''来迎引接の願'''・'''至心発願の願'''
: 原文 - 設我得佛 十方衆生 發菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正覺
; {{Anchors|第二十願}}第二十願
: 願名 - '''至心廻向の願'''・'''植諸徳本の願'''・'''係念定生の願'''・'''不果遂者の願'''・'''欲生果遂の願'''
: 原文 - 設我得佛 十方衆生 聞我名號 係念我國 殖諸德本 至心回向 欲生我國 不果遂者 不取正覺
:* 果遂について、親鸞は一生果遂の義。この果遂の願のままに、第十九願の仮門から第二十願の真門に入り、第十八願の弘願に転入する'''三願転入'''を説く。
:
; {{Anchors|第二十一願}}第二十一願
: 願名 - 具足諸相の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 不悉成滿 三十二大人相者 不取正覺
; {{Anchors|第二十二願}}第二十二願
: 願名 - '''還相廻向の願'''・'''必至補処の願'''・'''一生補処の願'''
: 原文 - 設我得佛 他方佛土 諸菩薩衆 來生我國 究竟必至 一生補處 除其本願 自在所化 爲衆生故 被弘誓鎧 積累德本 度脱一切 遊諸佛國 修菩薩行 供養十方 諸佛如來 開化恆沙 無量衆生 使立無上正眞之道 超出常倫 諸地之行現前 修習普賢之德 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第二十三願}}第二十三願
: 願名 - 供養諸仏の願
: 原文 - 設我得佛 國中菩薩 承佛神力 供養諸佛 一食之頃 不能徧至 無數無量那由他 諸佛國者 不取正覺
; {{Anchors|第二十四願}}第二十四願
: 願名 - 供養如意の願
: 原文 - 設我得佛 國中菩薩 在諸佛前 現其德本 諸所欲求 供養之具 若不如意者 不取正覺
; {{Anchors|第二十五願}}第二十五願
: 願名 - 説一切智の願
: 原文 - 設我得佛 國中菩薩 不能演説 一切智者 不取正覺
:* 一切智によって諸法を演説する。
:
; {{Anchors|第二十六願}}第二十六願
: 願名 - 得金剛身の願・那羅延身の願
: 原文 - 設我得佛 國中菩薩 不得金剛那羅延身者 不取正覺
; {{Anchors|第二十七願}}第二十七願
: 願名 - 万物厳浄の願・所須延身の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 一切万物 嚴淨光麗 形色殊特 窮微極妙 無能稱量 其諸衆生 乃至逮得天眼 有能明了 辯其名數者 不取正覺
; {{Anchors|第二十八願}}第二十八願
: 願名 - 道場樹の願・見道場樹の願
: 原文 - 設我得佛 國中菩薩 乃至少功德者 不能知見 其道場樹 無量光色 高四百万里者 不取正覺
; {{Anchors|第二十九願}}第二十九願
: 願名 - 得弁才智の願
: 原文 - 設我得佛 國中菩薩 若受讀經法 諷誦持説 而不得辯才智慧者 不取正覺
; {{Anchors|第三十願}}第三十願
: 願名 - 弁才無尽の願・智辯無窮の願
: 原文 - 設我得佛 國中菩薩 智慧辯才 若可限量者 不取正覺
; {{Anchors|第三十一願}}第三十一願
: 願名 - 国土清浄の願
: 原文 - 設我得佛 國土清淨 皆悉照見 十方一切 無量無數 不可思議 諸佛世界 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第三十二願}}第三十二願
: 願名 - 妙香合成の願・宝香合成の願
: 原文 - 設我得佛 自地已上 至于虚空 宮殿樓觀 池流華樹 國土所有 一切万物 皆以無量雜寶 百千種香 而共合成 嚴飾奇妙 超諸人天 其香普薫 十方世界 菩薩聞者 皆修佛行 若不如是者 不取正覺
:* 妙香・宝香の「香(かおり)」は({{lang-sa-short|gandha}})<ref>中村元 『広説佛教語大辞典』上巻 東京書籍 2001年6月 424頁「香」。</ref>。(manojña-gandha)で「心に適った香り」、(ati-gandha)で「強い香気([[硫黄]])を有するにおい」など{{要出典|date=2017年10月24日 (火) 22:32 (UTC)|title=}}。
:
; {{Anchors|第三十三願}}第三十三願
: 願名 - 触光柔軟の願
: 原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 衆生之類 蒙我光明 觸其身者 身心柔輭 超過人天 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第三十四願}}第三十四願
: 願名 - 聞名得忍の願
: 原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 衆生之類 聞我名字 不得菩薩 無生法忍 諸深總持者 不取正覺
; {{Anchors|第三十五願}}第三十五願
: 願名 - 女人成仏の願・女人往生の願(法然・大経釈)・変成男子の願(親鸞『浄土和讃』)・転女成男の願、聞名転女の願(存覚『女人往生聞書』)
: 原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 其有女人 聞我名字 歡喜信樂 發菩提心 厭惡女身 壽終之後 復爲女像者 不取正覺
:* 第18願の別願{{要出典|title=意味不明。|date=2017年10月}}。
:
; {{Anchors|第三十六願}}第三十六願
: 願名 - 聞名梵行の願・常修梵行の願
: 原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 常修梵行 至成佛道 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第三十七願}}第三十七願
: 願名 - 作礼致敬の願・人天致敬の願
: 原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸天人民 聞我名字 五體投地 稽首作禮 歡喜信樂 修菩薩行 諸天世人 莫不致敬 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第三十八願}}第三十八願
: 願名 - 衣服随念の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 欲得衣服 隨念即至 如佛所讚 應法妙服 自然在身 若有裁縫 擣染浣濯者 不取正覺
; {{Anchors|第三十九願}}第三十九願
: 願名 - 常受快楽の願・受楽無染の願
: 原文 - 設我得佛 國中人天 所受快樂 不如漏盡比丘者 不取正覺
; {{Anchors|第四十願}}第四十願
: 願名 - 見諸仏土の願
: 原文 - 設我得佛 國中菩薩 隨意欲見 十方無量 嚴淨佛土 應時如願 於寶樹中 皆悉照見 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第四十一願}}第四十一願
: 願名 - 聞名具根の願・諸根具足の願
: 原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 至于得佛 諸根闕陋 不具足者 不取正覺
; {{Anchors|第四十二願}}第四十二願
: 願名 - 聞名得定の願・住定供仏の願
: 原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 皆悉逮得 清淨解脱三昧 住是三昧 一發意頃 供養無量 不可思議 諸佛世尊 而不失定意 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第四十三願}}第四十三願
: 願名 - 聞名生貴の願・生尊貴家の願
: 原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 生尊貴家 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第四十四願}}第四十四願
: 願名 - 聞名具徳の願・具足徳本の願
: 原文…設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 歡喜踊躍 修菩薩行 具足德本 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第四十五願}}第四十五願
: 願名 - 聞名見仏の願・住定見仏の願
: 原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 皆悉逮得 普等三昧 住是三昧 至于成佛 常見無量 不可思議 一切諸佛 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第四十六願}}第四十六願
: 願名 - 随意聞法の願
: 原文 - 設我得佛 國中菩薩 隨其志願 所欲聞法 自然得聞 若不爾者 不取正覺
; {{Anchors|第四十七願}}第四十七願
: 願名 - 聞名不退の願・得不退転の願
: 原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 不退轉者 不取正覺
; {{Anchors|第四十八願}}第四十八願
: 願名 - 得三法忍の願
: 原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 第一第二第三法忍 於諸佛法 不能即得 不退轉者 不取正覺
== 分類 ==
=== 慧遠・憬興 ===
中国の[[慧遠 (東晋)|慧遠]]と憬興(きょうごう)は3つに分類している。其々の名と分類は以下の通り。
# 摂法身願・求仏身願 仏が自らの仏身を完成すること…[[#第十二願|第十二願]]・[[#第十三願|第十三願]]・[[#第十七願|第十七願]]
# 摂浄土願・求仏土願 衆生を往生せしめる仏土の完成…[[#第三十一願|第三十一願]]・[[#第三十二願|第三十二願]]
# 摂衆生願・利衆生願 正しく衆生の救済を願うもの…その他の43願
=== 親鸞 ===
[[親鸞]]は、「[[浄土三部経]]」と[[七高僧]]の論釈章疏に依り[[顕浄土真実教行証文類|『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)]]を著し、「'''真実'''」と「'''方便'''」を顕かにしている。また、『教行信証』を注釈した[[存覚]]の『六要鈔』では「真実というのは、これ仮権に対す」としている。仮権はすなわち「'''権仮'''」(ごんけ)である。
真実━'''教'''=『[[無量寿経#仏説無量寿経|大無量寿経]]』┳[[往相回向|往相]]━┳'''行'''━━━━━━[[#第十七願|諸仏称名の願(第十七願)]] 浄土真実の行 選択本願の行
┃ ┃
┃ ┣'''信'''━━━━━━[[#第十八願|至心信楽の願(第十八願)]] 正定聚の機
┃ ┃
┃ ┣'''証'''━━━━━━[[#第十一願|必至減度の願(第十一願)]] 難思議往生
┃ ┃
┃ ┗'''真仏土'''┳━━━[[#第十二願|光明無量の願(第十二願)]]
┃ ┃
┃ ┗━━━[[#第十三願|寿命無量の願(第十三願)]]
┃
┗[[還相回向|還相]]━('''証''')━━━━━[[#第二十二願|還相廻向の願(第二十二願)]]⇒『[[無量寿経優婆提舎願生偈註|浄土論註]]』
方便(権仮)━━━━━━━━━━━'''化身土'''┳要門━『[[観無量寿経#訳本|無量寿仏観経]]』 [[#第十九願|至心発願の願(第十九願)]] 邪定聚機 双樹林下往生
┃
┗真門━『[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|阿弥陀経]]』 [[#第二十願|至心廻向の願(第二十願)]] 不定聚機 難思往生
これらの願は、すべて衆生の悲しみ苦しみをすべて観察した上で立てられたものであり、その解決としてある。本当の意味での「苦」の解決は、衆生が仏になることですべて解決されるから、往生浄土の上で仏となることが四十八願のもっとも重要な部分となる。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
|author=浄土宗総合研究所 編
|year=2011
|title=【現代語訳】浄土三部経
|publisher=浄土宗出版
|id=ISBN 978-4-88363-052-3
}}
*{{Cite book|和書
|author=真宗聖典編纂委員会 編
|year=1978
|title=真宗聖典
|publisher=真宗大谷派宗務所出版部
|id=ISBN 4-8341-0070-7
}}
*{{Cite book|和書
|author=浄土真宗教学伝道研究センター 編
|year=1985
|title=浄土真宗聖典(原典版)
|publisher=本願寺出版社
|id=ISBN 4-89416-251-2
}}
*{{Cite book|和書
|author=浄土真宗教学伝道研究センター 編
|year=2004
|title=浄土真宗聖典(註釈版第2版)
|publisher=本願寺出版社
|id=ISBN 4-89416-270-9
}}
*{{Cite book|和書
|author1=中村元|authorlink1=中村元 (哲学者)|author2=福永光司|authorlink2=福永光司|author3=田村芳朗|authorlink3=田村芳朗|author4=末木文美士|authorlink4=末木文美士|author5=今野 達 編
|year=1995
|title=岩波仏教辞典 第二版
|publisher=岩波書店
|id=ISBN 4-00-080205-4
}}
*{{Cite book|和書
|author=河野法雲・雲山龍珠 監修
|edition=1935年発行、1994年新装
|title=真宗辞典
|publisher=法藏館
|id=ISBN 4-8318-7012-9
}}
*{{Cite book|和書
|editor1=瓜生津隆真|editor1-link=瓜生津隆真|editor2=細川行信
|edition=2000年新装版
|title=真宗小事典
|publisher=法藏館
|id=ISBN 4-8318-7067-6
}}
*{{Cite book|和書
|author1=中村 元|author2=早島鏡正|authorlink2=早島鏡正|author3=紀野一義 訳注|authorlink3=紀野一義
|year=1990
|title=浄土三部経(上)
|publisher=岩波書店(岩波文庫 青306-1)
|id=ISBN 4-00-333061-7
}}
*{{Cite book|和書
|author=中村 元・早島鏡正・紀野一義 訳注
|year=1990
|title=浄土三部経(下)
|publisher=岩波書店(岩波文庫 青306-2)
|id=ISBN 4-00-333062-5
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*{{Cite book|和書
|author=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂
|year=1996
|title=<浄土真宗聖典>浄土三部経 -現代語版-
|publisher=本願寺出版社
|id=ISBN 4-89416-601-1
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*{{Cite book|和書
|author1=親鸞|author2=金子大栄 校訂|authorlink2=金子大栄
|year=1957
|title=教行信証
|publisher=岩波書店(岩波文庫 青318-1)
|id=ISBN 4-00-333181-8
}}
*{{Cite book|和書
|author=浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂
|year=2000
|title=<浄土真宗聖典>顕浄土真実教行証文類 -現代語版-
|publisher=本願寺出版社
|id=ISBN 4-89416-668-2
}}
*{{Cite book|和書
|author=池田勇諦|authorlink=池田勇諦
|year=1993
|title=真と偽と仮
|publisher=樹心社
|id=ISBN 4-7952-2447-1
}}
*{{Cite book|和書
|author=一楽 真|authorlink=一楽真
|year=2009
|title=四十八願概説-法蔵菩薩の願いに聞く
|publisher=文英堂
|isbn=978-4-89243-711-3
}}
*{{Cite book|和書
|author=教学研究伝道センター 編纂
|year=2004
|title=尊号真像銘文-現代語版
|publisher=本願寺出版社
|series=浄土真宗聖典
|isbn=978-4-89416-254-9
}}
== 外部リンク ==
*[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/index.html SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)]
*[http://www.icho.gr.jp/seiten/index.html 聖教電子化研究会]
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サンリオ
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株式会社サンリオ(英文社名:Sanrio Company, Ltd. )は、東京都品川区に本社を置き、キャラクターグッズやグリーティングカード等のソーシャルコミュニケーションギフト商品(プレゼント用品)の企画・販売、およびテーマパークの運営などを事業とする日本の企業である。
みどり会の会員企業であり、三和グループに属している。
1960年(昭和35年)8月10日、株式会社山梨シルクセンター(やまなしシルクセンター)として東京都千代田区で会社設立。山梨県庁の職員だった辻信太郎が、山梨県の特産物である絹製品を販売する同県の外郭団体だった「山梨シルクセンター」を株式会社化、すなわち民営化の上で社名をそのまま引き継いで創業したのが始まりである。だが同社はその本業では早々に失敗して小物雑貨の販売に転じ、最初の成功は花柄を付けたゴム草履だったという。
その後、商品にきれいでかわいいイラストを付けることで売れ行きが大きく伸びることを知った辻は、キャラクター商品の開発に乗り出す。1955年(昭和30年)12月に同社が初めて大手菓子メーカーと取引する際に「缶入りキャンディ」を開発するにあたり、缶に海賊や花の模様を意匠化した事がキャラクター商品開発のきっかけになったとされる。当初は水森亜土・やなせたかし・トシコ・ムトー等、外部のイラストレーターや漫画家にデザインを依頼していたが、やがて自社が著作権を持つキャラクターの開発を目指すようになる。
山梨シルクセンターはこうした事業内容の変化に伴い、国際的にも通用する名称を求め、1973年(昭和48年)4月に株式会社サンリオへ商号変更するとともに、東京都品川区西五反田へ本社を移転した。
典型的な同族経営企業であり、創業者の辻信太郎が2020年まで一貫して社長を務めていた。2002年には信太郎の長男である辻邦彦が副社長に就任し、次期社長就任は確実とされていたが、当時海外事業を担当していた邦彦が出張先の米国ロサンゼルスで急逝した。。跡取り息子を失った信太郎は、2016年6月の株主総会で孫の辻朋邦を取締役へ就任させ、翌2017年には専務取締役へ昇格させ後継者に据えるとともに、朋邦の母である辻友子を取締役として若い息子の重責を補佐させていた。そして3年後の2020年7月1日付で、辻信太郎は代表権のある会長に退き、31歳となった辻朋邦を社長へ就任させ「代替わり」を行った。
社名「サンリオ」の由来については諸説ある。
まず、公式サイトにもあるサンリオの公式な説明として、スペイン語で「聖なる河」を意味する San río に由来するとしている。文明の発祥が大河のほとりにあったように、文化を興す河となることを願ってつけたというものである。2000年に出版された『これがサンリオの秘密です』(扶桑社)で、創業者の辻自身が述べている。また、現行のロゴマーク(1997年制定)も河の水をイメージしてデザインされたものである。
しかし、かつては異なった説明がなされていた。『これがサンリオの秘密です』の21年前に出版された1979年の上前淳一郎『サンリオの奇跡 -世界制覇を夢見る男達』(PHP研究所)ではそういった説明は一切ない。同書は辻やサンリオ関係者に取材したものであるが、サンリオの「サンリ」は「山梨」の音読みであり、残るオは「オウ、オウ、オウ」という叫び声が聞く者を陶然とさせるからと説明した。また、『週刊現代』の1978年6月8日号に掲載されたサンリオに関するレポート記事では「サンリは山梨、オはなんとなく語呂がいいから」とされた。月刊誌『宝石』の1980年7月号の対談記事では、辻自身がそれを認める発言が存在するという。
「山梨の王になる」という思いでサンリオ(山梨王)としたという説については、1989年の山根一眞『変体少女文字の研究』(講談社)の中で辻の言葉として挙げられているが、『これがサンリオの秘密です』、『サンリオの奇跡 -世界制覇を夢見る男達』、西沢正史『サンリオ物語 こうして一つの企業は生まれた』(サンリオ出版、1990年)のいずれもが否定している。また、フジテレビ『トリビアの泉』にて、視聴者から『山梨の王→サンリオ』の説が投稿されたが、フジテレビはサンリオの現在の説明(前述の「聖なる河」説)を正しいものとして、この番組の1コーナーである『ガセビアの沼』にて「ガセ」として否定した。
サンリオの月刊紙『いちご新聞』においては、辻信太郎は「山梨王」ならぬ「いちごの王様」を自称している。
なお、『いちご新聞』2015年8月号によれば、サンリオの創業目的は「友情と助け合いによる世界平和の実現」、サンリオの事業目的は「お互いのコミュニケーションのきっかけとなる小さな贈り物」を作ることとされている。
(特に出典の明記のない参考文献:サンリオ『月刊いちご新聞』2010年8月号、2015年8月号。)
ハローキティなど様々なファンシーキャラクターグッズが有名で、自社開発のキャラクター総数は400種を超える。グリーティングカード事業では日本最大手である。その他に映画製作や出版事業も行う。
サンリオピューロランド(東京都多摩市)、ハーモニーランド(大分県速見郡日出町)などのテーマパーク事業も手がける。
外食産業にも参入しており、埼玉県などの一部地域でケンタッキーフライドチキンのフランチャイジーとして出店している。
代表的なサンリオ映画には、1978年に第50回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞した『愛のファミリー(en)』をはじめ、『キタキツネ物語』、『親子ねずみの不思議な旅』、『シリウスの伝説』、『くるみ割り人形』、『おしん』、『星のオルフェウス』、『小さなジャンボ』(やなせたかし作)、『ユニコ』(手塚治虫作)、『チリンの鈴』(やなせたかし作)、『ロングラン』、『妖精フローレンス』、『想い出を売る店』などがある。
1980年(昭和55年)10月、千葉県松戸市に、松戸サンリオ劇場(1スクリーン、のち2スクリーン)を開業。のちに移転して松戸サンリオシアター(4スクリーン)となったが、2006年(平成18年)に隣接していた松戸シネマサンシャインを運営する佐々木興業に売却・統合し、映画興行事業を撤退。
また、1989年(平成元年)に興行事業から撤退を発表していた京王グループより水戸京王東宝劇場を買収し、水戸サンリオ東宝と改称して運営していたが、こちらは松戸の閉館よりかなり早く、わずか3年後の1992年(平成4年)1月26日に閉館している。
2015年(平成27年)、映画やアニメーションの製作、デジタル事業を世界規模で展開することを目的として、アメリカに子会社「サンリオメディア&ピクチャーズ・エンターテインメント(Sanrio Media & Pictures Entertainment, Inc.)」を設立。
定期刊行物として、『いちご新聞』(1975年創刊、最盛期には35万部を発行)、『詩とメルヘン』(やなせたかし編集。季刊→月刊。1973年春の号 - 2003年8月特別号)、『月刊いちごえほん』(『詩とメルヘン』のジュニア版。1975年1月号 - 1982年7月号)、『リリカ』(少女漫画雑誌。1976年11月号 - 1979年3月号)、『サンリオ』(1977年3月創刊)、『あそびの国』(4~6歳児対象の幼児向け雑誌。1979年 - 1995年12月号)、『KITTY GOODS COLLECTION』(1997年11月 - 2005年9月、創刊号('97年冬号)・VOL.1 - 29の全30号。2009年、ハローキティ誕生35周年を記念した復刻版として『KITTY GOODS COLLECTION MEMORIAL』全3号が発行された)、『わんぱく・ぶっく』(1993年創刊、2歳から5歳までの女児向け、季刊・ムック扱い)『なかよし・ぶっく』(2004年創刊、4歳から6歳までの女児向け、季刊・ムック扱い)などを発行。
刊行した書籍としては、1978年から1987年まで刊行されていたサンリオ文庫・サンリオSF文庫、1980年頃出版されていた「抒情詩集シリーズ」等がある。また、1981年から1985年まで刊行されたOL・主婦向けのラブロマンス小説シリーズ シルエット・ロマンス(その後ハーレクインに版権が移行し2006年まで刊行)などがある。これらの書籍の刊行の終了後は、以前から刊行していた幼児向けの児童書などを出版している。
1977年にサンリオは全額出資の子会社・サンリオ音楽出版社を設立し、音楽事業に参入した。
1977年 - 1980年代頃にかけて、サンリオレコードというレーベルから子供向けの楽曲を中心としたレコードを発売した。これらのレコードは一般のレコード店などでは販売されず、サンリオの直営・フランチャイズ店限定での販売であった。
楽曲の出版権がサンリオ系列の音楽出版社にあり、「あの子はキティ」B面曲の「ハローキティ」や、「あなたの友だちキキとララ」など、一部の楽曲は、後年にカバーされたものがサンリオ製作のOVA作品の主題歌としても起用されている。
現在でも例えば2019年3月6日に発売された「MEMORY BOYS〜想い出を売る店〜」(V-1260)のDVD/BDのジャケットなどに「サンリオ音楽出版社」のクレジット表記がある。
サンリオは、スポーツ支援活動として、若手女子ゴルファーの創出を目的とした「マイナビネクストヒロインゴルフツアー」や、フィンランド発祥のスポーツ「モルック」の普及活動を行う日本モルック協会などをスポンサード。
2022年9月には、Athlete Solutionと卓球・平野美宇選手とスポンサー契約を締結。サンリオがスポーツ選手とスポンサー契約を締結するのは、平野が初めてだった。
2023年4月21日付でスケートボーダーの西矢椛、織田夢海と所属選手契約を締結。サンリオ初の所属のスポーツ選手となった。
上記に挙げたもの以外にも、複数のサンリオキャラクターを集めたクロスオーバーブランドとして、『サンリオキャラクターズ』が存在する。
また、かつてはフィリックスを扱っていた時期も存在した。
サンリオ系以外でもユニバーサル・スタジオ・ジャパン(大阪府大阪市此花区)、リナワールド(山形県上山市)、西武園ゆうえんち(埼玉県所沢市)、那須ハイランドパーク(栃木県那須郡那須町)にもサンリオのキャラクターが使用されているゾーンやアトラクションがある。
これ以外にもマレーシアやインドネシアなどにハローキティに関するアミューズメント施設や商業施設がある。
定時株主総会は、サンリオピューロランド近くの「パルテノン多摩」で行われるのがここ数年の間の通例になっている(過去に一度だけ株主の声を受けてサンリオピューロランド内で行われたこともある)。 株主総会当日は、ピューロランドは一般には休館日であるが、特別運営されており、議決権行使書を提示することにより入場券を無料で入手できる。なお、全てのアトラクションは無料である(飲食、グッズなどは含まないが、株主割引がある場合がある。その際は別途案内がある)。株主総会会場に行くためには、一旦ピューロランドから出場しなければならないが、手にスタンプを押してもらうことで、総会終了後再入場が可能である。先に株主総会に出席してしまった場合は、株主総会の出席票を提出することでピューロランドに入場できる。ただし入場は議決権行使書の提示か出席票のどちらかのみが利用可能で、株主本人と同伴者1人、合計2人まで入場可能としている(2011年現在)。また、サンリオグッズがもれなく当たる「おみやげくじ」を提供するなどの工夫をしている。
2011年6月23日、東北地方太平洋沖地震による計画停電が心配されたなか行われた第51期株主総会でも、ピューロランドの特別運営は実施された(運営時間は短縮)。計画停電が実施された場合は特別運営の中止や打ち切りも案内され、計画停電が実施された場合、株主総会の開催を時間を繰り下げピューロランドで実施するとされた。
サンリオは株主優待が多い会社として知られている。毎年3月末および9月末の株主に優待品が送られる。
2011年9月末の株主優待より、500株以上の区分が新設され、共通株主優待券の枚数が変更(増加)された。
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"text": "典型的な同族経営企業であり、創業者の辻信太郎が2020年まで一貫して社長を務めていた。2002年には信太郎の長男である辻邦彦が副社長に就任し、次期社長就任は確実とされていたが、当時海外事業を担当していた邦彦が出張先の米国ロサンゼルスで急逝した。。跡取り息子を失った信太郎は、2016年6月の株主総会で孫の辻朋邦を取締役へ就任させ、翌2017年には専務取締役へ昇格させ後継者に据えるとともに、朋邦の母である辻友子を取締役として若い息子の重責を補佐させていた。そして3年後の2020年7月1日付で、辻信太郎は代表権のある会長に退き、31歳となった辻朋邦を社長へ就任させ「代替わり」を行った。",
"title": "概要"
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"text": "社名「サンリオ」の由来については諸説ある。",
"title": "概要"
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"text": "まず、公式サイトにもあるサンリオの公式な説明として、スペイン語で「聖なる河」を意味する San río に由来するとしている。文明の発祥が大河のほとりにあったように、文化を興す河となることを願ってつけたというものである。2000年に出版された『これがサンリオの秘密です』(扶桑社)で、創業者の辻自身が述べている。また、現行のロゴマーク(1997年制定)も河の水をイメージしてデザインされたものである。",
"title": "概要"
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"text": "しかし、かつては異なった説明がなされていた。『これがサンリオの秘密です』の21年前に出版された1979年の上前淳一郎『サンリオの奇跡 -世界制覇を夢見る男達』(PHP研究所)ではそういった説明は一切ない。同書は辻やサンリオ関係者に取材したものであるが、サンリオの「サンリ」は「山梨」の音読みであり、残るオは「オウ、オウ、オウ」という叫び声が聞く者を陶然とさせるからと説明した。また、『週刊現代』の1978年6月8日号に掲載されたサンリオに関するレポート記事では「サンリは山梨、オはなんとなく語呂がいいから」とされた。月刊誌『宝石』の1980年7月号の対談記事では、辻自身がそれを認める発言が存在するという。",
"title": "概要"
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"text": "「山梨の王になる」という思いでサンリオ(山梨王)としたという説については、1989年の山根一眞『変体少女文字の研究』(講談社)の中で辻の言葉として挙げられているが、『これがサンリオの秘密です』、『サンリオの奇跡 -世界制覇を夢見る男達』、西沢正史『サンリオ物語 こうして一つの企業は生まれた』(サンリオ出版、1990年)のいずれもが否定している。また、フジテレビ『トリビアの泉』にて、視聴者から『山梨の王→サンリオ』の説が投稿されたが、フジテレビはサンリオの現在の説明(前述の「聖なる河」説)を正しいものとして、この番組の1コーナーである『ガセビアの沼』にて「ガセ」として否定した。",
"title": "概要"
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"text": "サンリオの月刊紙『いちご新聞』においては、辻信太郎は「山梨王」ならぬ「いちごの王様」を自称している。",
"title": "概要"
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"text": "なお、『いちご新聞』2015年8月号によれば、サンリオの創業目的は「友情と助け合いによる世界平和の実現」、サンリオの事業目的は「お互いのコミュニケーションのきっかけとなる小さな贈り物」を作ることとされている。",
"title": "概要"
},
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"text": "(特に出典の明記のない参考文献:サンリオ『月刊いちご新聞』2010年8月号、2015年8月号。)",
"title": "沿革"
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"text": "ハローキティなど様々なファンシーキャラクターグッズが有名で、自社開発のキャラクター総数は400種を超える。グリーティングカード事業では日本最大手である。その他に映画製作や出版事業も行う。",
"title": "主な事業"
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"text": "サンリオピューロランド(東京都多摩市)、ハーモニーランド(大分県速見郡日出町)などのテーマパーク事業も手がける。",
"title": "主な事業"
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"text": "外食産業にも参入しており、埼玉県などの一部地域でケンタッキーフライドチキンのフランチャイジーとして出店している。",
"title": "主な事業"
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"text": "代表的なサンリオ映画には、1978年に第50回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞した『愛のファミリー(en)』をはじめ、『キタキツネ物語』、『親子ねずみの不思議な旅』、『シリウスの伝説』、『くるみ割り人形』、『おしん』、『星のオルフェウス』、『小さなジャンボ』(やなせたかし作)、『ユニコ』(手塚治虫作)、『チリンの鈴』(やなせたかし作)、『ロングラン』、『妖精フローレンス』、『想い出を売る店』などがある。",
"title": "主な事業"
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"text": "1980年(昭和55年)10月、千葉県松戸市に、松戸サンリオ劇場(1スクリーン、のち2スクリーン)を開業。のちに移転して松戸サンリオシアター(4スクリーン)となったが、2006年(平成18年)に隣接していた松戸シネマサンシャインを運営する佐々木興業に売却・統合し、映画興行事業を撤退。",
"title": "主な事業"
},
{
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"text": "また、1989年(平成元年)に興行事業から撤退を発表していた京王グループより水戸京王東宝劇場を買収し、水戸サンリオ東宝と改称して運営していたが、こちらは松戸の閉館よりかなり早く、わずか3年後の1992年(平成4年)1月26日に閉館している。",
"title": "主な事業"
},
{
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"text": "2015年(平成27年)、映画やアニメーションの製作、デジタル事業を世界規模で展開することを目的として、アメリカに子会社「サンリオメディア&ピクチャーズ・エンターテインメント(Sanrio Media & Pictures Entertainment, Inc.)」を設立。",
"title": "主な事業"
},
{
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"text": "定期刊行物として、『いちご新聞』(1975年創刊、最盛期には35万部を発行)、『詩とメルヘン』(やなせたかし編集。季刊→月刊。1973年春の号 - 2003年8月特別号)、『月刊いちごえほん』(『詩とメルヘン』のジュニア版。1975年1月号 - 1982年7月号)、『リリカ』(少女漫画雑誌。1976年11月号 - 1979年3月号)、『サンリオ』(1977年3月創刊)、『あそびの国』(4~6歳児対象の幼児向け雑誌。1979年 - 1995年12月号)、『KITTY GOODS COLLECTION』(1997年11月 - 2005年9月、創刊号('97年冬号)・VOL.1 - 29の全30号。2009年、ハローキティ誕生35周年を記念した復刻版として『KITTY GOODS COLLECTION MEMORIAL』全3号が発行された)、『わんぱく・ぶっく』(1993年創刊、2歳から5歳までの女児向け、季刊・ムック扱い)『なかよし・ぶっく』(2004年創刊、4歳から6歳までの女児向け、季刊・ムック扱い)などを発行。",
"title": "主な事業"
},
{
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"text": "刊行した書籍としては、1978年から1987年まで刊行されていたサンリオ文庫・サンリオSF文庫、1980年頃出版されていた「抒情詩集シリーズ」等がある。また、1981年から1985年まで刊行されたOL・主婦向けのラブロマンス小説シリーズ シルエット・ロマンス(その後ハーレクインに版権が移行し2006年まで刊行)などがある。これらの書籍の刊行の終了後は、以前から刊行していた幼児向けの児童書などを出版している。",
"title": "主な事業"
},
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"text": "1977年にサンリオは全額出資の子会社・サンリオ音楽出版社を設立し、音楽事業に参入した。",
"title": "主な事業"
},
{
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"text": "1977年 - 1980年代頃にかけて、サンリオレコードというレーベルから子供向けの楽曲を中心としたレコードを発売した。これらのレコードは一般のレコード店などでは販売されず、サンリオの直営・フランチャイズ店限定での販売であった。",
"title": "主な事業"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "楽曲の出版権がサンリオ系列の音楽出版社にあり、「あの子はキティ」B面曲の「ハローキティ」や、「あなたの友だちキキとララ」など、一部の楽曲は、後年にカバーされたものがサンリオ製作のOVA作品の主題歌としても起用されている。",
"title": "主な事業"
},
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"tag": "p",
"text": "現在でも例えば2019年3月6日に発売された「MEMORY BOYS〜想い出を売る店〜」(V-1260)のDVD/BDのジャケットなどに「サンリオ音楽出版社」のクレジット表記がある。",
"title": "主な事業"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "サンリオは、スポーツ支援活動として、若手女子ゴルファーの創出を目的とした「マイナビネクストヒロインゴルフツアー」や、フィンランド発祥のスポーツ「モルック」の普及活動を行う日本モルック協会などをスポンサード。",
"title": "スポーツ協賛"
},
{
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"text": "2022年9月には、Athlete Solutionと卓球・平野美宇選手とスポンサー契約を締結。サンリオがスポーツ選手とスポンサー契約を締結するのは、平野が初めてだった。",
"title": "スポーツ協賛"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "2023年4月21日付でスケートボーダーの西矢椛、織田夢海と所属選手契約を締結。サンリオ初の所属のスポーツ選手となった。",
"title": "スポーツ協賛"
},
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"text": "上記に挙げたもの以外にも、複数のサンリオキャラクターを集めたクロスオーバーブランドとして、『サンリオキャラクターズ』が存在する。",
"title": "主なキャラクター"
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"tag": "p",
"text": "また、かつてはフィリックスを扱っていた時期も存在した。",
"title": "グッズを販売している主な他社キャラクター"
},
{
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"tag": "p",
"text": "サンリオ系以外でもユニバーサル・スタジオ・ジャパン(大阪府大阪市此花区)、リナワールド(山形県上山市)、西武園ゆうえんち(埼玉県所沢市)、那須ハイランドパーク(栃木県那須郡那須町)にもサンリオのキャラクターが使用されているゾーンやアトラクションがある。",
"title": "テーマパーク"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "これ以外にもマレーシアやインドネシアなどにハローキティに関するアミューズメント施設や商業施設がある。",
"title": "テーマパーク"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "定時株主総会は、サンリオピューロランド近くの「パルテノン多摩」で行われるのがここ数年の間の通例になっている(過去に一度だけ株主の声を受けてサンリオピューロランド内で行われたこともある)。 株主総会当日は、ピューロランドは一般には休館日であるが、特別運営されており、議決権行使書を提示することにより入場券を無料で入手できる。なお、全てのアトラクションは無料である(飲食、グッズなどは含まないが、株主割引がある場合がある。その際は別途案内がある)。株主総会会場に行くためには、一旦ピューロランドから出場しなければならないが、手にスタンプを押してもらうことで、総会終了後再入場が可能である。先に株主総会に出席してしまった場合は、株主総会の出席票を提出することでピューロランドに入場できる。ただし入場は議決権行使書の提示か出席票のどちらかのみが利用可能で、株主本人と同伴者1人、合計2人まで入場可能としている(2011年現在)。また、サンリオグッズがもれなく当たる「おみやげくじ」を提供するなどの工夫をしている。",
"title": "株主総会と株主優待"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2011年6月23日、東北地方太平洋沖地震による計画停電が心配されたなか行われた第51期株主総会でも、ピューロランドの特別運営は実施された(運営時間は短縮)。計画停電が実施された場合は特別運営の中止や打ち切りも案内され、計画停電が実施された場合、株主総会の開催を時間を繰り下げピューロランドで実施するとされた。",
"title": "株主総会と株主優待"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "サンリオは株主優待が多い会社として知られている。毎年3月末および9月末の株主に優待品が送られる。",
"title": "株主総会と株主優待"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2011年9月末の株主優待より、500株以上の区分が新設され、共通株主優待券の枚数が変更(増加)された。",
"title": "株主総会と株主優待"
}
] |
株式会社サンリオは、東京都品川区に本社を置き、キャラクターグッズやグリーティングカード等のソーシャルコミュニケーションギフト商品(プレゼント用品)の企画・販売、およびテーマパークの運営などを事業とする日本の企業である。 みどり会の会員企業であり、三和グループに属している。
|
{{出典の明記|date = 2015年3月}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 株式会社サンリオ
|英文社名 = Sanrio Company, Ltd.
|ロゴ = [[File:サンリオ ロゴ.png|300px]]
|画像 = [[File:Gate city ohsaki shinagawa tokyo 2009-3.JPG|300px]]
|画像説明 = 本社が入居する[[ゲートシティ大崎]]ウエストタワー(右)
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|機関設計 =
|市場情報 = {{上場情報|東証プライム|8136}}
|略称 =
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 141-8603<ref name="事業所" />
|本社所在地 = [[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]一丁目11番1号<br />ゲートシティ大崎ウエストタワー14階<ref name="事業所" />
|本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) =
|本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) =
|座標右上表示 = Yes
|本社地図国コード =
|本店郵便番号 =
|本店所在地 = 東京都品川区大崎一丁目6番1号<ref name="法人番号" /><br />[[大崎ニューシティ|TOC大崎ビル]]
|本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) =
|本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) =
|本店地図国コード =
|設立 = [[1960年]][[8月10日]]<ref name="会社概要" />
|業種 = 6050
|法人番号 = 5010701003956
|事業内容 = ソーシャル・コミュニケーション・ギフト商品の企画・販売<br />[[グリーティングカード]]の企画・販売<br />[[出版物]]の企画・販売<br />[[飲食店|レストラン]]の運営<br />[[映画]]の製作・配給・興行<br />[[ビデオソフト]]の製作・販売<br />ライブエンターテイメントの企画・公演<br />[[著作権]]の許諾<br />[[テーマパーク]]事業<br />教育事業<br />[[デジタルコンテンツ]]の企画・販売および配信<br />[[広告代理店|広告事業]]<ref name="会社概要" />
|代表者 = [[代表取締役]][[社長]] [[辻朋邦]]<ref name="会社概要" />
|資本金 = 100億円(2023年3月31日現在)<ref name="会社概要" />
|発行済株式総数 = 8億万9065株<br />(2019年9月30日現在)
|売上高 = 726億2400万円(2023年3月期)<ref name="会社概要" />
|営業利益 =
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|純資産 =
|総資産 =
|従業員数 = 630名(嘱託・アルバイト等を除く、2023年3月31日現在)<ref name="会社概要" />
|支店舗数 =
|決算期 = 3月31日<ref name="会社概要" />
|会計監査人 =
|所有者 =
|主要株主 =
|主要部門 =
|主要子会社 = [[#関連会社|関連会社]]を参照
|関係する人物 = [[辻信太郎]](創業者・名誉会長)<ref name="会社概要" />
|外部リンク = [https://www.sanrio.co.jp/ サンリオ](消費者向けサイト)<br />[https://corporate.sanrio.co.jp/ 株式会社サンリオ](企業サイト)
|特記事項 =
}}
'''株式会社サンリオ'''([[英語|英文]]社名:Sanrio Company, Ltd. )は、[[東京都]][[品川区]]に[[本社]]を置き<ref name="事業所">[https://corporate.sanrio.co.jp/corporate/office/ 会社案内 - 事業所紹介] 株式会社サンリオ 企業サイト、2023年7月22日閲覧。</ref>、[[キャラクター]]グッズや[[グリーティングカード]]等のソーシャルコミュニケーションギフト商品(プレゼント用品)の企画・販売、および[[テーマパーク]]の運営などを事業とする[[日本]]の[[企業]]である<ref name="会社概要">[https://corporate.sanrio.co.jp/corporate/overview/ 会社案内 - 会社概要] 株式会社サンリオ 企業サイト、2023年7月22日閲覧。</ref>。
[[みどり会]]の会員企業であり、[[三和グループ]]に属している<ref>[https://www.midorikai.co.jp/member_company メンバー会社一覧] [[みどり会]]、2023年7月22日閲覧。</ref>。
== 概要 ==
[[1960年]]([[昭和]]35年)[[8月10日]]、'''株式会社山梨シルクセンター'''(やまなしシルクセンター)として東京都[[千代田区]]で会社設立<ref name="会社概要" /><ref name="sharedresearch" />{{efn|設立時の資本金は100万円であった。}}。[[山梨県庁]]の職員だった[[辻信太郎]]が、[[山梨県]]の[[特産物]]である[[絹]]製品を販売する同県の[[外郭団体]]だった「山梨シルクセンター」を[[株式会社]]化、すなわち[[民営化]]の上で社名をそのまま引き継いで創業したのが始まりである<ref name="SR8136-78">{{Cite web|和書|date=2015-08-21 |url=https://sharedresearch.jp//system/report_updates/pdfs/000/006/442/original/8136_JP_20150821.pdf?1440149497 |title=サンリオ 8136 |publisher=株式会社シェアードリサーチ |format=PDF |pages=78-79 |accessdate=2017-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170102080519/http://www.sharedresearch.jp/system/report_updates/pdfs/000/006/442/original/8136_JP_20150821.pdf?1440149497 |archivedate=2017-01-02 }}</ref><ref name="bj200617" />。だが同社はその本業では早々に失敗して小物雑貨の販売に転じ、最初の成功は花柄を付けた[[ゴム草履]]だったという<ref name="sanriohimitsu92">『これがサンリオの秘密です。』92-94頁。</ref>。
その後、商品にきれいでかわいい[[イラスト]]を付けることで売れ行きが大きく伸びることを知った辻は、キャラクター商品の開発に乗り出す。[[1955年]](昭和30年)12月に同社が初めて大手[[菓子]]メーカーと取引する際に「缶入り[[飴|キャンディ]]」を開発するにあたり、缶に海賊や花の模様を意匠化した事がキャラクター商品開発のきっかけになったとされる<ref>『レジャー産業資料』1978年11月号、116頁-119頁。</ref>。当初は[[水森亜土]]・[[やなせたかし]]・[[トシコ・ムトー]]等、外部の[[イラストレーター]]や[[漫画家]]に[[デザイン]]を依頼していたが<ref name="sanriohimitsu92" />、やがて自社が[[著作権]]を持つ[[キャラクター]]の開発を目指すようになる<ref name="sanriohimitsu96">『これがサンリオの秘密です。』96-99頁。</ref>。
山梨シルクセンターはこうした事業内容の変化に伴い、国際的にも通用する名称を求め<ref name="sanriohimitsu105">『これがサンリオの秘密です。』105-107頁。</ref>、[[1973年]](昭和48年)4月に'''株式会社サンリオ'''へ商号変更するとともに、東京都品川区[[西五反田]]へ本社を移転した<ref name="会社概要" /><ref name="sharedresearch" />。
典型的な[[同族経営]]企業であり、創業者の辻信太郎が[[2020年]]まで一貫して社長を務めていた<ref name="bj200617">{{Cite web|和書| url=https://biz-journal.jp/2020/06/post_163144.html| title=サンリオ、危機と迷走…創業者の孫31歳で社長昇格、取締役の母親が補佐する“閉じた経営” |website=[[Business Journal]] |publisher=[[サイゾー]] |date=2020-06-17 |accessdate=2020-7-16}}</ref>。[[2002年]]には信太郎の長男である[[辻邦彦]]が副社長に就任し、次期社長就任は確実とされていたが、当時海外事業を担当していた邦彦が出張先の[[米国]][[ロサンゼルス]]で急逝した<ref name="bj200617" /><ref name="nr131120">{{Cite web|和書|date=2013-11-20 |url=https://web.archive.org/web/20131213061206/http://navigator.eir-parts.net/EIRNavi/DocumentNavigator/ENavigatorBody.aspx?cat=tdnet&sid=1109211&code=8136&ln=ja&disp=simple |format=PDF |title=当社代表取締役の逝去に関するお知らせ |publisher=株式会社サンリオ |accessdate=2013-12-07}}{{リンク切れ|date=2019年9月}} (2013年12月13日時点のアーカイブ)</ref>。。跡取り息子を失った信太郎は、[[2016年]]6月の[[株主総会]]で孫の[[辻朋邦]]を[[取締役]]へ就任させ、翌[[2017年]]には[[専務取締役]]へ昇格させ後継者に据えるとともに、朋邦の母である辻友子を取締役として若い息子の重責を補佐させていた<ref name="bj200617" />。そして3年後の2020年[[7月1日]]付で、辻信太郎は代表権のある会長に退き、31歳となった辻朋邦を社長へ就任させ「代替わり」を行った<ref name="bj200617" /><ref name="nikkei200922">{{Cite news |和書|title=還暦サンリオ 31歳2代目社長が描く未来図 |newspaper=日本経済新聞 |date=2020-09-22 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63989250X10C20A9H11A00/ |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2021-10-10}}</ref>。
=== 社名の由来 ===
社名「サンリオ」の由来については諸説ある。
まず、公式サイトにもあるサンリオの公式な説明として、[[スペイン語]]で「聖なる河」を意味する {{Lang|es|San río}} に由来するとしている<ref name="sanriohimitsu96" /><ref name="moe438-21">{{Cite journal|和書|author= |date=2016-03-03 |title=サンリオが大好き! 巻頭大特集/キキ&ララ・マイメロディ 40周年記念 |journal=[[MOE (雑誌)|月刊モエ]] |issue=通巻438号(2016年4月号)|pages=21 |publisher=[[白泉社]]|issn=|ref=月刊モエ 438号}}</ref>。文明の発祥が大河のほとりにあったように、文化を興す河となることを願ってつけたというものである。[[2000年]]に出版された『これがサンリオの秘密です』([[扶桑社]])で、創業者の辻自身が述べている。また、現行のロゴマーク(1997年制定)も河の水をイメージしてデザインされたものである<ref name="trivia12">{{Cite book|和書 |author =フジテレビトリビア普及委員会 |year=2005-04-27 |title=トリビアの泉-へぇの本- |publisher=講談社 |volume=12 |pages=123-124 |isbn=978-4063527346}}</ref>。
しかし、かつては異なった説明がなされていた。『これがサンリオの秘密です』の21年前に出版された[[1979年]]の[[上前淳一郎]]『サンリオの奇跡 -世界制覇を夢見る男達』([[PHP研究所]])ではそういった説明は一切ない。同書は辻やサンリオ関係者に取材したものであるが、サンリオの「サンリ」は「山梨」の音読みであり、残るオは「オウ、オウ、オウ」という叫び声が聞く者を陶然とさせるからと説明した。また、『[[週刊現代]]』の[[1978年]]6月8日号に掲載されたサンリオに関するレポート記事では「サンリは山梨、オはなんとなく語呂がいいから」とされた。月刊誌『[[宝石]]』の[[1980年]]7月号の対談記事では、辻自身がそれを認める発言が存在するという。
「山梨の王になる」という思いでサンリオ(山梨王)としたという説については、1989年の[[山根一眞]]『変体少女文字の研究』([[講談社]])の中で辻の言葉として挙げられているが、『これがサンリオの秘密です』<ref name="sanriohimitsu105" />、『サンリオの奇跡 -世界制覇を夢見る男達』、[[西沢正史]]『サンリオ物語 こうして一つの企業は生まれた』(サンリオ出版、[[1990年]])のいずれもが否定している。また、[[フジテレビ]]『[[トリビアの泉]]』にて、視聴者から『山梨の王→サンリオ』の説が投稿されたが、フジテレビはサンリオの現在の説明(前述の「聖なる河」説)を正しいものとして、この番組の1コーナーである『ガセビアの沼』にて「ガセ」として否定した<ref name="trivia12"/>。
サンリオの月刊紙『[[いちご新聞]]』においては、辻信太郎は「山梨王」ならぬ「いちごの王様」を自称している。
なお、『[[いちご新聞]]』2015年8月号によれば、サンリオの創業目的は「友情と助け合いによる世界平和の実現」、サンリオの事業目的は「お互いのコミュニケーションのきっかけとなる小さな贈り物」を作ることとされている。
=== 地域連携 ===
* [[サンリオピューロランド]]が立地する東京都[[多摩市]]では、[[2002年]]度から「ハローキティにあえる街」として、サンリオと多摩市が連携して[[ハローキティ]]をはじめとしたサンリオキャラクターを活用した地域活性化に取り組んでいる<ref>[https://www.city.tama.lg.jp/kurashi/machi/tamacenter/1011293/index.html ハローキティにあえる街] 多摩市、</ref><ref>[https://www.city.tama.lg.jp/kurashi/machi/tamacenter/1011293/1006555.html ハローキティにあえる街 多摩センター] 多摩市、2023年3月24日更新、2023年7月22日閲覧。</ref>。コミュニティバス「[[多摩市ミニバス]]」にもサンリオラッピングの車両がある。またサンリオピューロランドの最寄り駅である[[多摩センター駅]]を走る[[京王電鉄]]および[[小田急電鉄]]もサンリオとタイアップし、多摩センター駅のサンリオキャラクター装飾を行っている。京王電鉄と[[京王電鉄バス]]では[[ラッピング車両|ラッピング]]電車・バスも運行している。
* 創業地は東京都[[千代田区]]であるが<ref name="sharedresearch">{{Cite web|和書|url=http://www.sharedresearch.jp/system/report_updates/pdfs/000/006/442/original/8136_JP_20150821.pdf?1440149497 |title=サンリオ 8136 |format = PDF |website=シェアードリサーチ |publisher=株式会社シェアードリサーチ |date=2015-08-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170102080519/http://www.sharedresearch.jp/system/report_updates/pdfs/000/006/442/original/8136_JP_20150821.pdf?1440149497 |pages=78 |archivedate= 2017-01-02 |accessdate=2023-07-22 }}</ref>、株式会社サンリオへ[[商号]]変更後は[[品川区]]([[五反田]]→[[大崎 (品川区)|大崎]])に本社を置いている。その縁から[[2017年]][[2月13日]]付で、品川区の「しながわ観光大使」に同社のキャラクター「シナモロール」が任命された<ref>[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/shinagawaphotonews/shinagawaphotonews-2017/hpg000030429.html しながわ観光大使にサンリオの“シナモロール”が就任] [[品川区]]、2017年2月13日、2023年7月22日閲覧。</ref>
== 沿革 ==
(特に出典の明記のない参考文献:サンリオ『月刊いちご新聞』2010年8月号、2015年8月号。{{要ページ番号|date=2023-07}})<!--※こうした出典の付け方では、後の編集で無出店の記述が追加されていくにつれ、どの部分が当該文献を参考としたかわからなくなる。出典は脚注をもって明記すること。-->
=== 山梨シルクセンター ===
* [[1960年]]([[昭和]]35年)[[8月10日]] - 創業者の[[辻信太郎]]が、株式会社山梨シルクセンターとして会社設立<ref name="会社概要" /><ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ">[https://corporate.sanrio.co.jp/corporate/history/ サンリオのあゆみ] 株式会社サンリオ 企業サイト、2023年7月22日閲覧。</ref>。本社を東京都千代田区に置く<ref name="会社概要" /><ref name="sharedresearch" />。
* [[1962年]](昭和37年) - オリジナルデザイン第1号「いちご」を開発、ギフト商品を発売<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" /><ref name="SR8136-78" />。この[[いちご]]柄の雑貨は子供たちの間で人気を博し、これを契機に本格的にキャラクター商品開発を開始。
* [[1965年]](昭和40年) - [[水森亜土]]デザインのキャラクター「亜土ネコミータン」を使用した[[陶磁器]]を発売、人気商品となる。
* [[1966年]](昭和41年)8月 - [[詩集]]『愛する歌』を刊行し、出版物の企画・販売を開始<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
* [[1968年]](昭和43年)11月 - '''サンリオ電機工業'''を設立。
* [[1969年]](昭和44年)[[12月11日]] - '''サンリオグリーティング株式会社'''を設立<ref name="あゆみ" />{{efn|山梨シルクセンターおよび[[平凡社]]・[[ダイニック|日本クロス工業]]の出資による。}}、グリーティングカードの企画・販売を開始<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。アメリカのグリーティングカード大手「ホールマーク (Hall Mark) 」の日本代理店であるJPCの業務を引き継いでメッセージカードの販売を始める。
* [[1970年]](昭和45年)
** [[五反田]]の[[TOCビル]]に[[ショールーム]]「'''サンリオギャラリー'''」を開設(のちに同ビル内に本社を移転)。
** キャラクター制作を、外部イラストレーターへの発注から自社制作へ変更。
* [[1971年]](昭和46年)
** [[新宿駅]]東口の新宿アドホックビルに、直営店「ギフトゲート」第1号店(現「新宿ギフトゲート」)を開店<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** 1月 - '''サンリオリース株式会社'''を設立(現・清川商事株式会社)、社有車や直営店の店舗用品のリース・社員の持ち株管理を行う。
* [[1972年]](昭和47年)12月 - {{要出典範囲|date=2023-07|サンリオ電機工業が山梨シルクセンターを合併。}}
=== 1970年代 ===
[[File:Gotanda TOC-building.JPG|thumb|かつて本社を置いていた五反田[[TOCビル]]]]
* [[1973年]](昭和48年)
** 4月 - '''株式会社サンリオ'''へ商号変更、同時に品川区[[西五反田]]の[[TOCビル]]へ本社を移転<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" /><ref name="SR8136-78" />。
** 6月 - 本社のあるTOCビルに、レストラン1号店「サンリオ・サロン」を開店し、飲食業へ進出<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** 10月 - サンリオがサンリオグリーティング株式会社を吸収合併<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />{{efn|これにより、サンリオの資本金が2億500万円となる。}}
* [[1974年]](昭和49年)
** 自社キャラクター第1弾として「[[ハローキティ]]」、「[[パティ&ジミー]]」を制作<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** 5月 - サンリオエンタープライズ株式会社を設立(現・光南商事株式会社)、社員の持ち株管理を行う。
** 12月 - アメリカ・[[ハリウッド]]に「Sanrio Film Corporation of America」を設立(現「Sanrio,Inc.」)を設立<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。同月よりアメリカで映画製作・配給業務を開始<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
* [[1975年]](昭和50年)3月
** ハローキティのキャラクター商品第1号として「プチパース」{{efn|子供の手のひらサイズの小さながま口財布(小銭入れ)にハローキティのイラストを描いたもの。}}を発売<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** 4月 - 『いちご新聞』を創刊<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** 8月 - アニメ映画第1作となる『ちいさなジャンボ』を公開<ref name="あゆみ" />。
** 「リトルツインスターズ」、「マイメロディ」のキャラクターを制作<ref name="あゆみ" />。
* [[1976年]](昭和51年)
** 4月 - 自社制作オリジナルキャラクターの使用許諾業務を開始、キャラクターの[[ライセンス]]ビジネスを始める<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** アメリカ・[[サンフランシスコ]]に現地法人「Sanrio,Inc.」を設立、サンフランシスコ州[[サンノゼ]]に海外ギフトゲート第1号店となる「サンノゼ・ギフトゲート」を開店<ref name="あゆみ" />。
* [[1978年]]4月(昭和52年)
** 映画『愛のファミリー』が[[アカデミー賞]]長編ドキュメンタリー部門を受賞<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** 7月 - 映画『[[キタキツネ物語]]』をロードショー公開(関連グッズも発売)<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" /><ref name="SR8136-78" />。
=== 1980年代 ===
[[File:Sanrio Strawberry House 20100704.jpg|thumb|東京都大田区田園調布にあった「[[いちごのお家]]」<br />(解体済)]]
* [[1980年]](昭和55年)10月 - [[千葉県]][[松戸市]]に[[映画館]]「'''[[松戸サンリオ劇場]]'''」を開館<ref>『映画年鑑 1981 別冊 映画館名簿』46頁、時事映画通信社、1981年。</ref>、映画興行事業に進出。
* [[1982年]](昭和57年)
** [[東京証券取引所市場]]第二部に[[上場]]<ref name="あゆみ" />。
** 5月 - [[西ドイツ]]・[[ハンブルク]]に駐在員事務所を設立(現「Sanrio G.m.b.H.」)、[[ヨーロッパ]]市場の拡大を図る<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
* [[1983年]](昭和58年)
** 西ドイツの駐在所を現地法人「Sanrio G.m.b.H.」として設立。
** [[スイス]]に現地法人として「Sanrio AG」を設立。
** ハローキティが米国[[ユニセフ]]子供大使に任命される<ref name="あゆみ" />。
** 12月 - 東京都[[大田区]][[田園調布]]に「'''[[いちごのお家]]'''」をオープン。
* [[1984年]](昭和59年)
** 1月 - 東京証券取引所市場第一部へ指定替え<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** '''株式会社ココロ'''を設立<ref name="あゆみ" />。
* [[1985年]](昭和60年)
** 10月 - テレビアニメ第1作となる『夢の星のボタンノーズ』を放送開始<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[ブラジル]]に現地法人として「Sanrio Do Brazil Comercio e Representacoes Ltda.」を設立<ref name="あゆみ" />。
* [[1987年]](昭和62年)
** 1月 - 東京都品川区大崎(現住所)へ本社を移転<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** 1月 - '''株式会社サンリオ・コミュニケーション・ワールド'''(現:株式会社[[サンリオエンターテイメント]])を設立<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。「多摩サンリオコミュニケーションワールド (T.S.C.W) 」建設の検討を始め、後の[[サンリオピューロランド]]建設へと繋がる。
** 3月 - 千葉県船橋市の「[[ららぽーとTOKYO-BAY|ららぽーと2]]」に、屋内型ミニテーマパーク「'''[[サンリオファンタージェン]]'''」をオープン。
** 10月 - アメリカのテレビ局である[[CBS]]で、テレビアニメ『ハローキティ・フェアリアル・シアター』を放送。
** 12月 - 東京都中央区[[銀座]]にコンセプトショップ「'''[[サンリオギャラリー|銀座サンリオギャラリー]]'''(「サンリオ 銀座ギフトゲート」)を開店。
* [[1988年]](昭和63年)
** 10月 - [[ハーモニーランド]]の運営会社である'''株式会社ハーモニーランド'''(大分県速見郡日出町)の設立に参加(のちサンリオエンターテイメントへ合併)<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
* [[1989年]](昭和64年/[[平成]]元年)1月 - [[京王グループ]]が[[茨城県]][[水戸市]]で運営していた映画館「[[水戸京王東宝劇場]]」の運営を引き継ぎ「水戸サンリオ東宝」へ改称{{R|Asahi1988-10}}。
=== 1990年代 ===
[[File:Sanrio Puroland.jpg|thumb|[[多摩ニュータウン]]に開園した[[サンリオピューロランド]]]]
* [[1990年]](平成2年)
** 4月 - 株式会社サンリオファーイーストを設立<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** 12月7日 - 東京都[[多摩市]]の[[多摩ニュータウン]]内に屋内大型テーマパーク「'''[[サンリオピューロランド]]'''」をオープン<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
* [[1991年]](平成3年)1月 - 大分県に「[[ハーモニーランド]]」がオープン。
* [[1992年]](平成4年) - [[台湾]]に現地法人として「三麗鷗有限公司」を設立<ref name="あゆみ" />。
* [[1994年]](平成6年)
** 5月 - 「ハローキティ」が[[日本ユニセフ協会]]の子供親善使節に任命される<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** [[香港]]に現地法人として「Sanrio(Hong Kong)Co., Ltd.」を設立<ref name="あゆみ" />。
* [[1996年]](平成8年) - 大人向け店舗「Vivitix」1号店を[[渋谷]]に開店。
* [[1997年]](平成9年) - [[ロゴマーク]]を現在のものへ変更<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.sanrio.co.jp/special/sanrio-himitsu/mame/logo.html |title=サンリオまめちしき - 昔のロゴ、知ってる? |publisher=サンリオ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160612052010/https://www.sanrio.co.jp/special/sanrio-himitsu/mame/logo.html |archivedate=2016年6月12日 |accessdate=2016-08-29}}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)7月 - [[韓国]]に現地法人として「Sanrio Korea Co., Ltd.」を設立<ref name="あゆみ" />。
=== 2000年代 ===
* [[2001年]](平成13年)
** 9月 - 「シナモロール」のキャラクターを制作<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
** 物流部門を東京都[[江東区]]および[[立川市]]から、東京都[[町田市]]へ移転し統合<ref name="あゆみ" />。
* [[2002年]](平成14年) - グリーティング事業に関する提携を[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]と締結。
* [[2003年]](平成15年)
** [[中華人民共和国|中国]]・[[上海]]に現地法人として「三麗鷗(上海)国際貿易有限公司」を設立<ref name="あゆみ" />。
** [[ロシア]]初のサンリオショップを[[モスクワ]]に開店<ref name="あゆみ" />。
* [[2004年]](平成16年)- 「シュガーバニーズ」のキャラクターを制作<ref name="あゆみ" />。
* [[2006年]](平成18年)[[3月31日]] - [[松戸サンリオシアター]]を[[シネマサンシャイン|佐々木興業]]に売却し、映画興行事業から撤退。
* [[2008年]](平成20年)
** 5月 - 「ハローキティ」が[[国土交通省]]「ビジット・ジャパン・キャンペーン 中国・香港 観光親善大使」に任命される<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
* 「[[ジュエルペット]]」のキャラクターを[[セガトイズ]]と共同開発<ref name="sharedresearch" /><ref name="あゆみ" />。
* [[2009年]](平成21年) - 株式会社[[サンリオエンターテイメント]]を設立、テーマパーク事業会社を統合<ref name="あゆみ" />。
=== 2010年代 ===
* [[2010年]](平成22年)
** [[7月6日]] - 資本金149億9999万4000円のうち49億9999万4000円を減少し、100億円に変更(第50回定時株主総会で承認可決)<ref>[https://www.sanrio.co.jp/corporate/ir/soukai/soukai2/no_50/ 第50回定時株主総会 公開情報]</ref>。
** 8月10日 - 創業50年を迎える。
** [[9月30日]] - 創業50周年に伴い、1株あたり5円の記念配当を実施<ref>{{PDFlink|[https://www.sanrio.co.jp/corporate/ir/disclosure/detail/51_0723.pdf 業績予想及び配当予想の修正、ならびに特別損失の計上に関するお知らせ]}}{{リンク切れ|date=2019年9月}} 2010年7月23日。</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[6月10日]] - 200,000株(0.2%)を上限とする自己株式取得を発表<ref>{{PDFLink|[https://web.archive.org/web/20111128193617/https://www.sanrio.co.jp/rs/corporate/ir/disclosure/detail/52_0610.pdf 自己株式取得に係る事項の決定に関するお知らせ]}}{{リンク切れ|date=2019年9月}} - サンリオ 2011年6月10日 (2011年11月28日時点のアーカイブ)</ref>。2011年[[6月20日]]に、200,000株を6億7373万2500円にて[[東京証券取引所]]における市場買付をしたと発表した<ref>{{PDFLink|[https://www.sanrio.co.jp/rs/corporate/ir/disclosure/detail/52_0620.pdf 自己株式の取得状況および取得終了に関するお知らせ]}}{{リンク切れ|date=2019年9月}} - サンリオ</ref>。
** [[6月23日]] - ストックオプションとして新株予約権を発行する会社決議が、株主総会で承認可決された<ref>{{PDFLink|[https://web.archive.org/web/20110910165603/https://www.sanrio.co.jp/rs/corporate/ir/disclosure/detail/52_0527_1.pdf 「当社の取締役、執行役員、従業員並びに当社子会社の取締役及び従業員に対するストックオプションの発行」に関するお知らせ]}}{{リンク切れ|date=2019年9月}} - サンリオ 2011年5月27日 (2011年9月10日時点のアーカイブ)</ref><ref name="51kabu">[https://www.sanrio.co.jp/corporate/ir/soukai/soukai2/no_51/ 第51回定時株主総会 公開情報]</ref>。
** [[6月24日]] - 普通配当10円、創業50周年記念配当5円、合計15円の期末配当を実施(これにより年間配当額20円、うち記念配当10円となった)<ref>{{PDF|[https://www.sanrio.co.jp/rs/corporate/ir/disclosure/detail/52_0527.pdf 剰余金の配当に関するお知らせ]}}{{リンク切れ|date=2019年9月}} - サンリオ </ref>。
** [[8月16日]] - B種優先株式240,000株の全株式を取得(強制償還)。[[10月3日]]に消却<ref>[http://navigator.eir-parts.net/EIRNavi/DocumentNavigator/ENavigatorBody.aspx?cat=tdnet&sid=978083&code=8136&ln=ja&disp=simple 平成24年3月期決算短信][日本基準](連結){{リンク切れ|date=2019年9月}} (2015年12月8日時点のアーカイブ)</ref>。
** 12月 - ヨーロッパで人気のキャラクター「[[ミスターメン]]」を買収<ref name="SR8136-78" /><ref name="Nikkei111206">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDD050JQ_V01C11A2TJ2000/ |date=2011-12-06 |title=サンリオ、欧州の人気キャラ買収 「ミスターメン」 |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2017-01-01}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[5月28日]] - 本社機能を[[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]1丁目11番1号へ移転<ref name="あゆみ" />。登記上の本店所在地は東京都品川区大崎1丁目6番1号のまま変更なし<ref name="法人番号">[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=5010701003956 株式会社サンリオの情報] [[国税庁]][[法人番号]]公表サイト、2023年7月22日閲覧。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20120630090427/http://navigator.eir-parts.net/EIRNavi/DocumentNavigator/ENavigatorBody.aspx?cat=ir_material&sid=15699&code=8136&ln=ja&tlang=ja&tcat=ir_material3&disp=simple 第52回定時株主総会招集ご通知]{{リンク切れ|date=2019年9月}} 株式会社サンリオ 2012年5月31日 (2012年6月30日時点のアーカイブ)</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[11月20日]] - 代表取締役副社長の[[辻邦彦]]が、出張先の[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]で急性心不全のため死去<ref name="bj200617" /><ref name="nr131120" />。
{{Wikinews|訃報 辻邦彦氏-サンリオ副社長|date=2013年11月20日}}
* [[2014年]](平成26年)2月 - ハローキティ専門店を[[ロシア連邦]]に開店<ref name="ボストーク通信">{{Cite web|和書|url=https://www.lapita.jp/2013/10/post-250.html|title=ロシアでハローキティの専門店が開設へ:ティーンエイジャーを狙う|publisher=ボストーク通信|date=|accessdate=2016-03-06}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** 1月1日 - [[中華人民共和国|中国]][[浙江省]][[安吉県|安吉]]にキャラクターのライセンスを付与して建設された海外初<ref name="Nikkei141128"/>の「ハローキティ」の屋外型テーマパークである「ハローキティパーク」がプレオープン<ref name="Nikkei141128">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDX28H1K_Y4A121C1TI0000/ |date=2014-11-28 |title=中国で「ハローキティパーク」落成式典 |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2017-01-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2011-05-09 |url=https://www.sanrio.co.jp/wp-content/uploads/2013/12/20110509.pdf |title=中国初のハローキティなどサンリオキャラクターのアミューズメント施設建設について |website=サンリオ |accessdate=2018-11-22 }}</ref>(全面開園は2015年7月1日)。
** 7月 - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]に子会社「サンリオメディア&ピクチャーズ・エンターテインメント(''Sanrio Media & Pictures Entertainment, Inc.'')」を設立<ref name="cinematoday150706"/>。
{{Wikinews|サンリオ株主の個人情報が外部へ流出か |date=2015年4月9日}}
=== 2020年代 ===
* [[2020年]](令和2年)
** 1月 - ベビーグッズの新ブランド「Sanrio Baby」を立ち上げる<ref>{{Cite news |和書|title=サンリオ、ベビーグッズの新ブランド「Sanrio Baby」を立ち上げ2020年冬に本格始動 |newspaper=日本経済新聞 |date=2020-01-31 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLRSP528122_R30C20A1000000/ |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2021-10-10}}</ref>。
** 7月 - 創業から60年にわたって社長を務めた辻信太郎が退任し、代表取締役会長に就任。後任の社長は孫(邦彦の長男)で[[専務取締役]]の[[辻朋邦]]<ref name="nikkei200922" />。
* [[2021年]](令和3年)8月 - 「Small Gift, Big Smile」に替わる新たなビジョン「One World, Connecting Smiles.」を制定する(企業サイト「トップメッセージ」を参照)。公式サイトもロゴマークの箇所などに修正が加えられる。
== 主な事業 ==
[[ハローキティ]]など様々な[[ファンシー]][[キャラクターグッズ]]が有名で、自社開発のキャラクター総数は400種を超える。グリーティングカード事業では日本最大手である。その他に映画製作や出版事業も行う。
[[サンリオピューロランド]](東京都[[多摩市]])、[[ハーモニーランド]]([[大分県]][[速見郡]][[日出町]])などの[[テーマパーク]]事業も手がける。
[[外食産業]]にも参入しており、[[埼玉県]]などの一部地域で[[ケンタッキーフライドチキン]]の[[フランチャイジー]]として出店している。
=== 映画事業 ===
代表的なサンリオ映画には、1978年に[[第50回アカデミー賞]]の[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー賞]]を受賞した『[[愛のファミリー]]([[:en:Who Are the DeBolts? And Where Did They Get Nineteen Kids?|en]])』をはじめ<ref name="nishizawa103">{{harvtxt|西沢正史|1990|pp=103-121}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/movie/58445/ |title=愛のファミリー |publisher=エイガ・ドット・コム |accessdate=2018-11-16 }}</ref>、『[[キタキツネ物語]]』<ref name="nishizawa103" />、『[[親子ねずみの不思議な旅]]』、『[[シリウスの伝説]]』、『[[くるみ割り人形]]』、『[[おしん]]』、『[[星のオルフェウス]]』、『[[小さなジャンボ]]』([[やなせたかし]]作)、『[[ユニコ]]』([[手塚治虫]]作)、『[[チリンの鈴]]』(やなせたかし作)、『[[ロングラン (1982年の映画)|ロングラン]]』、『[[妖精フローレンス]]』、『[[想い出を売る店]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/movie/35357/ |title=想い出を売る店 |publisher=エイガ・ドット・コム |accessdate=2018-11-16 }}</ref>などがある。
[[1980年]](昭和55年)[[10月]]、[[千葉県]][[松戸市]]に、[[松戸サンリオ劇場]](1スクリーン、のち2スクリーン)を開業。のちに移転して松戸サンリオシアター(4スクリーン)となったが、[[2006年]](平成18年)に隣接していた[[シネマサンシャイン|松戸シネマサンシャイン]]を運営する佐々木興業に売却・統合し、映画興行事業を撤退{{efn|その後、同館は2013年(平成25年)1月31日に閉館している。}}。
また、[[1989年]](平成元年)に興行事業から撤退を発表していた[[京王グループ]]より[[水戸京王東宝劇場]]を買収し、水戸サンリオ東宝と改称して運営していたが、こちらは松戸の閉館よりかなり早く、わずか3年後の[[1992年]](平成4年)[[1月26日]]に閉館している<ref name="Asahi1988-10">「映画上映25年の歴史に幕 水戸」『朝日新聞』1988年10月27日</ref>。
[[2015年]](平成27年)、映画やアニメーションの製作、デジタル事業を世界規模で展開することを目的として、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に子会社「サンリオメディア&ピクチャーズ・エンターテインメント(''Sanrio Media & Pictures Entertainment, Inc.'')」を設立<ref name="cinematoday150706">{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0074651|title=ハローキティ映画化でハリウッド本格進出!サンリオ、米子会社設立|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-07-06|accessdate=2015-07-07}}</ref>。
=== 出版事業 ===
定期刊行物として、『[[いちご新聞]]』(1975年創刊、最盛期には35万部を発行)、『[[詩とメルヘン]]』([[やなせたかし]]編集。季刊→月刊。1973年春の号 - 2003年8月特別号)、『[[月刊いちごえほん]]』(『詩とメルヘン』のジュニア版。[[1975年]][[1月]]号 - [[1982年]][[7月]]号)、『[[リリカ (雑誌)|リリカ]]』([[少女漫画]]雑誌。1976年11月号 - 1979年3月号)、『[[サンリオ (雑誌)|サンリオ]]』(1977年3月創刊)、『[[あそびの国]]』(4~6歳児対象の幼児向け雑誌。[[1979年]] - [[1995年]][[12月]]号)、『KITTY GOODS COLLECTION』(1997年11月 - 2005年9月、創刊号('97年冬号)・VOL.1 - 29の全30号。2009年、ハローキティ誕生35周年を記念した復刻版として『KITTY GOODS COLLECTION MEMORIAL』全3号が発行された)、『[[わんぱく・ぶっく]]』(1993年創刊、2歳から5歳までの女児向け、季刊・[[ムック (出版)|ムック]]扱い{{Efn|『あそびの国』の増刊として創刊され、妹分の意味合いも持たせていたが、同誌の[[休刊]]に伴い[[雑誌コード]]ごと独立。創刊当初は両性向けだったが、2000年代以降、サンリオキャラクターの女児向け中心路線に伴い、現在のような形となる。}})『[[なかよし・ぶっく]]』(2004年創刊、4歳から6歳までの女児向け、季刊・ムック扱い{{Efn|『わんぱく・ぶっく』の増刊かつ姉貴分にあたる。両性向けの『あそびの国』と異なり、女児向けかつ季刊に形態こそ変えているものの、対象年齢が同一であることから、事実上の後継誌である。}})などを発行。
刊行した書籍としては、1978年から1987年まで刊行されていた[[サンリオ文庫]]・[[サンリオSF文庫]]、1980年頃出版されていた「抒情詩集シリーズ」等がある。また、1981年から1985年まで刊行されたOL・主婦向けのラブロマンス小説シリーズ [[シルエット・ロマンス]](その後[[ハーレクイン (出版社)|ハーレクイン]]に版権が移行し2006年まで刊行)などがある。これらの書籍の刊行の終了後は、以前から刊行していた幼児向けの児童書などを出版している。
=== 音楽事業 ===
[[1977年]]にサンリオは全額出資の子会社・[[サンリオ音楽出版社]]を設立し、音楽事業に参入した。
1977年 - 1980年代頃にかけて、サンリオレコードというレーベルから子供向けの楽曲を中心としたレコードを発売した。これらのレコードは一般のレコード店などでは販売されず、サンリオの直営・フランチャイズ店限定での販売であった<ref>「サンリオ レコード分野に進出 『サンリオ音楽出版』設立──自社販売ルートに限定」『[[日経産業新聞]]』1977年4月5日、3頁。</ref>。
楽曲の出版権がサンリオ系列の[[音楽出版|音楽出版社]]にあり、「あの子はキティ」B面曲の「ハローキティ」や、「あなたの友だちキキとララ」など、一部の楽曲は、後年にカバーされたものがサンリオ製作の[[オリジナルビデオアニメーション|OVA作品]]の主題歌としても起用されている。
現在でも例えば2019年3月6日に発売された「[[MEMORY BOYS〜想い出を売る店〜]]」(V-1260)のDVD/BDのジャケットなどに「サンリオ音楽出版社」のクレジット表記がある。
; 代表曲
* いちご娘([[アイリーン・チャン|アイリーン]]、1971年<ref name="CDSOL-1781-3">{{Cite album-notes |和書|title=トイキャラポップコレクション Vol.2 ファンシー&カワイイ編 |year=1992-08-21 |pages=3-8 |type=ライナーノーツ |publisher=[[ウルトラ・ヴァイヴ]] |id=CDSOL-1781 |location=日本 |ref= |isbn= }}</ref>。)
*: ジャケットやレーベルに山梨シルクセンターのコピーライト表記があるが、「San-Rio」のロゴと共に、サンリオレコードの表記もある。
* あの子はキティ([[ハローキティ]]、1977年<ref name="CDSOL-1781-3" />)
* あなたの友だちキキとララ([[リトルツインスターズ]]、1977年<ref name="CDSOL-1781-3" />)
* みんな一緒に([[パティ&ジミー]]、1977年<ref name="CDSOL-1781-3" />)
* やっぱりおめでとう(作詞・作曲:[[小椋佳]]、1977年)
<!--* それはないよ子猫ちゃん(ロミオ、1980年)[[ポリドール・レコード|ポリドール]]-->
== スポーツ協賛 ==
サンリオは、スポーツ支援活動として、若手女子ゴルファーの創出を目的とした「マイナビネクストヒロインゴルフツアー」や、[[フィンランド]]発祥のスポーツ「[[モルック]]」の普及活動を行う日本モルック協会などをスポンサード<ref name="sanrio 20220902">{{Cite press release |language=ja |title=卓球 平野美宇選手とスポンサー契約を締結|publisher= サンリオ|date=2022-09-02|format=PDF|url= https://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS02450/a7781958/2e2b/4336/93fa/0a75c3ed5f1e/20220901200927346s.pdf|accessdate=2023-10-25}}</ref>。
2022年9月には、Athlete Solutionと卓球・[[平野美宇]]選手とスポンサー契約を締結。サンリオがスポーツ選手とスポンサー契約を締結するのは、平野が初めてだった<ref name="sanrio 20220902"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2247892/full/ |title=卓球・平野美宇、サンリオとスポンサー契約 “キティ屋”の夢から約20年「うれしい気持ちでいっぱい」 |access-date=2022-09-02 |publisher=[[オリコン|ORICON]] |date=2022-09-02}}</ref>。
2023年4月21日付でスケートボーダーの[[西矢椛]]、[[織田夢海]]と所属選手契約を締結。サンリオ初の所属のスポーツ選手となった<ref>{{Cite press release |language=ja |title= スケートボーダー 西矢椛選手と織田夢海選手 サンリオ所属契約を締結|publisher= サンリオ|date=2023-04-21|format=PDF|url= https://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS02450/f97bb418/b873/459b/beb4/8ec2726a0c3b/20230421100837196s.pdf|accessdate=2023-10-25}}</ref>。
== 主なキャラクター ==
{{main|サンリオキャラクター}}
* [[ハローキティ]]
** [[ディアダニエル]]
* [[マイメロディ]]
** [[クロミ]]
* [[リトルツインスターズ]](キキとララ)
* [[パティ&ジミー]]
* [[チアリーチャム]]
* [[ボタンノーズ]]
* [[マロンクリーム]]
* [[はぴだんぶい]] - サンリオ史上初のキャラクターユニット<ref>{{Cite web|和書|date=2020 |url=https://www.fashion-press.net/news/57917 |title=サンリオ史上初キャラユニット「はぴだんぶい」ポチャッコやタキシードサムのバンドデザイングッズ |website=FASHION PRESS |accessdate=2020-07-17 }}</ref>。1980年代から1990年代に注目を浴びたキャラクターから構成される。
** [[ポチャッコ]]
** [[バッドばつ丸]]
** [[ハンギョドン]]
** [[アヒルのペックル]]
** [[タキシードサム]]
** [[けろけろけろっぴ]]
* [[ぽこぽん日記]]
* [[おさるのもんきち]]
* [[みんなのたあ坊]]
* [[ザシキブタ]]
* [[ザ ラナバウツ]]
* [[ポムポムプリン]]
* [[コロコロクリリン]]
* [[しんかんせん|シンカンセン]]
* [[ウサハナ]]
* [[シナモロール]]
** [[シナモエンジェルス]]
** [[ルロロマニック]]
** [[I.CINNAMOROLL]]
* [[シュガーバニーズ]]
* [[ジュエルペット]]([[セガトイズ]]との共同開発)
* [[リルリルフェアリル]](セガトイズとの共同開発)
* [[Beatcats]] (セガトイズとの共同開発)
* [[ウィッシュミーメル|ウィッシュミーメル(Wish me mell)]]
* [[SHOW BY ROCK!!]]
* [[ぐでたま]]
* [[KIRIMIちゃん.]]
* [[アグレッシブ烈子]]([[TBSテレビ|TBS]]系[[王様のブランチ]]内のアニメコーナーにおける同名アニメが初出)
* [[サンリオ男子]]
* [[まるもふびより]]
* [[こぎみゅん]]
* [[ミュークルドリーミー]]
* チョコレイト共同開発
** [[がおぱわるぅ]]
** [[ぽっきょくてん]]
** [[クマミレン]]
* [[はなまるおばけ]]
* サンボ・アンド・ハンナ
上記に挙げたもの以外にも、複数のサンリオキャラクターを集めた[[クロスオーバー作品|クロスオーバー]][[ブランド]]として、『'''サンリオキャラクターズ'''』が存在する。
=== 主なコラボレーションキャラクター ===
* ハローちゃん([[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]⦅[[1980年]]〜[[1995年]]⦆)
* [[ターフィー]]([[日本中央競馬会]])
* [[ポップンベリー]]([[バンダイ]])
* [[AHII]]([[全日本プロレス]])
* [[ゴーちゃん。]](ゴーエクスパンダ)([[テレビ朝日]])
* ふくちゃん([[くすりの福太郎]])
* リトルラヴィン([[愛知銀行]])<ref>[https://goodway.co.jp/fip/htdocs/josu1ujuo-303/?block_id=303&active_action=journal_view_main_detail&post_id=108204&comment_flag=1 【愛知銀行】新マスコットキャラクターの発表について]</ref>
* [[かぶきにゃんたろう]]([[松竹]])
*れおすけ([[新浜レオン]])
*[[アドローザトルマリィ]]([[Ado]])
*JOCHUM([[JO1]])
== グッズを販売している主な他社キャラクター ==
* [[ピーナッツ (漫画)|ピーナッツ]]([[スヌーピー]]他)
*: ごく初期からの長い付き合いがある外部[[版権]]キャラクター。オリジナルキャラクターができる前の看板版権だった。
* [[ディズニー]]もの([[ミッキーマウス]]、[[クマのプーさん|くまのプーさん]]、[[おしゃれキャット|マリー]]他)
* [[ベイブレードバースト]]{{Efn|同作ではキティがアンバサダーに就任している。}}
* [[ルーニー・テューンズ]]
* [[セサミストリート]]
* [[たまごっち|たまごっちプラス]](2005年11月販売開始)
* [[ブルーズ・クルーズ]](2007年以後販売開始)
* [[ドラえもん]](2014年・ハローキティとコラボ関係のため)
*: これとは別に、キティとのコラボで用いられたものによるサンリオオリジナルデザインが“'''I'm Doraemon'''”の[[ブランド]]名で[[スピンオフ]]されている{{Efn|オリジナルデザインのため、[[著作権]]の表記上は[[知的財産権|IP]]保有元の[[藤子・F・不二雄プロ|藤子プロ(Fujiko-Pro)]]のみだが、このブランドに関しては、[[小学館]]に加え、サンリオも著作権の管理をしている。}}。[[CanCam]]にも登場することがある。
* [[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]](2019年2月・ハローキティとコラボ関係のため)
* [[PUI PUI モルカー]](2021年)
*: 自社が担当したオリジナルのデザイン。
* [[おぱんちゅうさぎ]]
*: スヌーピー同様に当たりくじ等を販売している。
* [[ちいかわ]]
*: グリーティングカード等を販売している。
また、かつては[[フィリックス]]を扱っていた時期も存在した。
== サンリオの映画・OVA ==
{{main|サンリオ作品}}
== テーマパーク ==
; 日本
* [[サンリオピューロランド]]([[東京都]][[多摩市]])
* [[ハーモニーランド]]([[大分県]][[速見郡]][[日出町]])
サンリオ系以外でも[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]([[大阪府]][[大阪市]][[此花区]])、[[リナワールド]]([[山形県]][[上山市]])、[[西武園ゆうえんち]]([[埼玉県]][[所沢市]]){{Efn|2020年に終了}}、[[那須ハイランドパーク]]([[栃木県]][[那須郡]][[那須町]])にもサンリオのキャラクターが使用されているゾーンやアトラクションがある。
; 海外
* [[ハローキティ・アイランド]]([[大韓民国]]・[[済州特別自治道]][[西帰浦市]]、2013年12月開業<ref>[https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=7466 Hello Kitty Island In 済州]、Konest。 - 2018年11月22日閲覧。</ref>。運営は韓国企業のjacob C&E<ref>[https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=207994 韓国春川にハローキティのテーマパーク…2018年初めオープン目標]、中央日報日本語版、2015年11月5日 15時20分。</ref>)
* [[ハローキティ・パーク]]([[中華人民共和国]]・[[浙江省]][[湖州市]][[安吉県]]、2015年1月1日部分開業<ref name="Nikkei141128" />、同年7月1日開業<ref>{{Cite web|和書|date=2015-07-02 |url=http://japanese.china.org.cn/travel/txt/2015-07/02/content_35965190.htm |title=中国初ハローキティのテーマパークがオープン |website=[[中国網]] |accessdate=2018-11-22 }}</ref><ref name="SR8136-31">{{Cite web|和書|url=http://www.sharedresearch.jp/system/report_updates/pdfs/000/006/442/original/8136_JP_20150821.pdf?1440149497 |title=サンリオ 8136 |format = PDF |website=シェアードリサーチ |publisher=株式会社シェアードリサーチ |date=2015-08-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170102080519/http://www.sharedresearch.jp/system/report_updates/pdfs/000/006/442/original/8136_JP_20150821.pdf?1440149497 |pages=31 |archivedate= 2017-01-02 |accessdate=2023-07-22 }}</ref>)
これ以外にも[[マレーシア]]や[[インドネシア]]などにハローキティに関するアミューズメント施設や商業施設がある<ref name="SR8136-31" />。
== 株主総会と株主優待 ==
=== 株主総会 ===
[[File:Sanrio_Puroland_Outside_Shareholders'_meeting_Special_operations_2009.jpg|thumb|right|200px|サンリオ株主総会での特別運営を行うサンリオピューロランド]]
定時株主総会は、[[サンリオピューロランド]]近くの「[[パルテノン多摩]]」で行われるのがここ数年の間の通例になっている(過去に一度だけ株主の声を受けてサンリオピューロランド内で行われたこともある<ref>{{Cite news |title=サンリオ株主総会ピューロランドで、「ハローキティ」30周年を機に。 |newspaper=[[日本経済新聞]] 朝刊 |date=2004-02-28 |publisher=[[日本経済新聞社]] |page=15 }}</ref>)。
株主総会当日は、ピューロランドは一般には休館日であるが、特別運営されており、議決権行使書を提示することにより入場券を無料で入手できる。なお、全てのアトラクションは無料である(飲食、グッズなどは含まないが、株主割引がある場合がある。その際は別途案内がある)。株主総会会場に行くためには、一旦ピューロランドから出場しなければならないが、手にスタンプを押してもらうことで、総会終了後再入場が可能である。先に株主総会に出席してしまった場合は、株主総会の出席票を提出することでピューロランドに入場できる。ただし入場は議決権行使書の提示か出席票のどちらかのみが利用可能で、株主本人と同伴者1人、合計2人まで入場可能としている(2011年現在)。また、サンリオグッズがもれなく当たる「おみやげくじ」を提供するなどの工夫をしている。
[[2011年]][[6月23日]]、[[東北地方太平洋沖地震]]による[[輪番停電|計画停電]]が心配されたなか行われた第51期株主総会でも、ピューロランドの特別運営は実施された(運営時間は短縮)。計画停電が実施された場合は特別運営の中止や打ち切りも案内され、計画停電が実施された場合、株主総会の開催を時間を繰り下げピューロランドで実施するとされた<ref name="51kabu" /><ref>{{PDFLink|[https://www.sanrio.co.jp/rs/corporate/ir/invitation/detail/51_invitation.pdf 第51回定時株主総会招集ご通知]|約1MB}}{{リンク切れ|date=2019年9月}}</ref>。
=== 株主優待 ===
サンリオは[[株主優待]]が多い会社として知られている。毎年3月末および9月末の株主に優待品が送られる。
* サンリオピューロランド、ハーモニーランド共通株主優待券(パスポート券と同等品)
{|class="wikitable"
!保有株数!!優待券枚数
|-
|100株以上||3枚
|-
|500株以上||6枚
|-
|1,000株以上||8枚
|-
|4,000株以上||10枚
|-
|10,000株以上||12枚
|-
|50,000株以上||15枚
|-
|100,000株以上||20枚
|}
2011年9月末の株主優待より、500株以上の区分が新設され、共通株主優待券の枚数が変更(増加)された<ref>「{{PDFlink|1=[https://web.archive.org/web/20120122093743/http://navigator.eir-parts.net/EIRNavi/DocumentNavigator/ENavigatorBody.aspx?cat=ir_material&sid=12926&code=8136&ln=ja&tlang=ja&tcat=ir_material2&disp=simple&groupsid=3463 サンリオIRレター株主のみなさまへ 第52期第2四半期営業のご報告]}}」{{リンク切れ|date=2019年9月}} 20p. 株式会社サンリオ 2011年12月</ref>。
* 株主ご優待券(1000円割引券)
* 株主限定オリジナルデザイン商品
* [[いちご新聞]]
== 関連会社 ==
=== 日本 ===
* 株式会社[[サンリオエンターテイメント]]
* 株式会社[[ココロ (企業)|ココロ]]
* 株式会社サンリオファーイースト
* サンリオ自動車リース株式会社
* 株式会社サンリオエンタープライズ
* 株式会社サンリオ音楽出版社
* 株式会社[[サンリオウェーブ]]
* 株式会社パントゥリー
* 清川商事株式会社 - 持ち株管理会社。サンリオリース株式会社として設立し社有車・直営店舗用品のリース・社員の持ち株管理を行っていた。サンリオ上場に伴いリース業から撤退し、社名を変更。
* 光南商事株式会社 - 持ち株管理会社。サンリオリースに[[キャピタル・ゲイン]]が発生するのを避けるために、サンリオエンタープライズ株式会社として設立。サンリオ上場に伴い社名を変更。1980年代に平凡社が経営不振になった際、同社は売却したサンリオ株をすべて引き取った。
=== 海外 ===
* Sanrio, Inc.(米国) - 1976年設立
* Sanrio Media & Pictures Entertainment, Inc.(米国)<ref name="cinematoday150706"/>
* Sanrio do Brasil Comerico e Representacoes Ltda.(ブラジル)
* 三麗鷗股份有限公司 [Sanrio Taiwan Co., Ltd.](台湾)
* Sanrio GmbH(ドイツ) - 1983年設立
* Sanrio (Hong Kong) Co., Ltd.(香港)
* Sanrio Korea Co., Ltd.(韓国)
* 三麗鷗上海国際貿易有限公司 [Sanrio Shanghai International Trading Co., Ltd.](中国)
* Sanrio Asia Merchandise Co., Ltd.(香港)
* Sanrio Wave Hong Kong Co., Ltd.(香港)
* Sanrio Global Ltd.(英国)
* Mister Men Ltd.(英国)
* THOIP(英国)
* Mister Films Ltd.(英国)
* Sanrio UK Finance Ltd.(英国)
* Sanrio Chile SpA.(チリ)
* Sanrio Global Asia Ltd.(香港)
== 不祥事・事案など ==
* [[1988年]][[7月22日]]、サンリオの[[黒人]]をモチーフとしたキャラクター「サンボ・アンド・ハンナ」が[[アメリカ合衆国]]で問題視され、[[人種差別|黒人差別]]の実例として同日付の[[ワシントン・ポスト]]に掲載された。サンリオは記事が掲載された即日に発売中止・回収を決定し、現地法人のSanrio Inc.も対策を取った。その後に[[社会福祉]]・文化交流の計画を具体的に打ち出したこともあり、結果的にアメリカの[[マスメディア]]や黒人団体から「対米進出企業の模範」と賞賛され、サンリオのイメージアップに繋がった<ref>{{Cite news |title=災い転じて米で信頼回復、黒人人形で非難のサンリオ、「子供大使」「子供の日」事業。 |newspaper=日本経済新聞 朝刊 |date=1988-11-15 |publisher=日本経済新聞社 |page=31 }}</ref>。
* [[2010年]]10月、サンリオが自社制作したキャラクター「キャシー」が、[[ディック・ブルーナ]]のキャラクター「[[うさこちゃん|ミッフィー]]」に酷似しているとして、ブルーナから[[著作権侵害]]で提訴された<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-04 |url=https://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102001001005.html |title=ミッフィー生みの親サンリオ提訴 著作権侵害と |website =[[47NEWS]] |publisher=[[共同通信社]] |accessdate=2016-09-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101023080038/http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102001001005.html |archivedate=2010-10-23 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2010-10-21 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG20056_R21C10A0000000/ |title=「ミッフィー」生みの親、著作権侵害とサンリオ提訴 |website=[[日本経済新聞]]電子版|publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2016-09-11 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。同年11月2日、[[アムステルダム]]の裁判所はブルーナの主張を認め、[[ベネルクス三国]]での製造販売差し止めと、判決に従わない場合の間接強制(製造販売を取り止めるまでの間、1日につき2万5千[[ユーロ]])を言い渡された<ref>[https://web.archive.org/web/20140822054946/https://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010110300073 サンリオに製造停止命令=ミッフィー著作権侵害訴訟―オランダ] 時事通信{{リンク切れ|date=2011年5月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-03 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0205A_S0A101C1CC1000/ |title=「ミッフィー模倣」サンリオに生産停止命令 オランダの裁判所 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2016-09-11 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。これに対しサンリオでは、訴訟に先駆けて自社の決定により、2009年11月以降は「キャシー」を製品に使用していなかったが<ref name="nr110607" />、裁判の場では「原告の権利を侵害していないと主張していく」として、オランダの裁判所に不服申立てをしていた<ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-04 |url=https://www.sanrio.co.jp/rs/corporate/ir/disclosure/detail/51_1104.pdf |title=当社に対する仮処分命令の決定に関するお知らせ |publisher=サンリオ |format=PDF |accessdate=2016-09-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101121154623/http://www.sanrio.co.jp/rs/corporate/ir/disclosure/detail/51_1104.pdf |archivedate=2010-11-21 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2010-11-04 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0300W_T01C10A1CR8000/ |title=サンリオ「ミッフィー模倣」でオランダ裁判所に不服申し立ても |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2016-09-11 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。そして翌[[2011年]][[3月11日]]に[[東日本大震災]]が発生したことから、同年[[6月7日]]、ブルーナの[[知的財産権|知的所有権]]を管理するメルシス社(オランダ・アムステルダム)とサンリオは「訴訟を行うことにより費やす両社の諸費用をむしろ日本の復旧・復興のために寄付すべきである」という結論に至り、両社は係争中の訴訟のすべてを取り下げて[[和解]]し、2社共同で15万ユーロ(約1,750万円)を東日本大震災への義援金として寄付することとした(サンリオはそれとは別に義援金や支援物資の寄付をしている)<ref name="nr110607">{{Cite web|和書|url=https://www.sanrio.co.jp/corporate/release/detail/382 |title=メルシス社(オランダ)と株式会社サンリオの係争和解合意について |publisher=株式会社サンリオ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110610124808/https://www.sanrio.co.jp/corporate/release/detail/382 |archivedate=2011-06-10 |accessdate=2023-07-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2011-06-07 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFL070CB_X00C11A6000000/ |title=訴訟やめて被災地寄付 ミッフィー著作権巡りサンリオなど |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2016-09-11 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
* [[2018年]][[12月12日]] - 商品の製造業者176社に対し、納品から半年以上経過した商品を引き取るよう強要し、約1,800万円の不利益を生じさせたとして、[[公正取引委員会]]から[[下請代金支払遅延等防止法|下請法]]違反で勧告を受けた<ref>{{Cite web|和書|url= https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181212/k10011744751000.html |title=サンリオが下請けいじめ 公取委が再発防止を勧告 |website=NHKニュース |publisher=[[日本放送協会]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181216074144/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181212/k10011744751000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001 |date=2018年12月12日 |archivedate=2018年12月16日 |accessdate=2023年7月22日}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 上前淳一郎『サンリオの奇跡 ―世界制覇を夢見る男達』、PHP研究所、1979年。
* {{Cite book |和書 |author = 西沢正史 |date = 1990-11-20 |year = 1990 |title = サンリオ物語 ―こうして一つの企業は生まれた |publisher = サンリオ |page = |isbn = 4-387-90198-5 |ref = harv
}}
* [[辻信太郎]]『これがサンリオの秘密です。』、扶桑社、2000年。ISBN 4-594-02866-7
* [[竹村真奈]]『Sanrio Days』ビー・エヌ・エヌ新社、2008年、ISBN 978-4861005572
* 竹村真奈『サンリオデイズ いちご新聞篇 ー「いちご新聞」から生まれたキャラクターのヒミツがいっぱい ー』ビー・エヌ・エヌ新社、2013年、ISBN 978-4861009020
* {{Cite web|和書|date = 2018-05-11 |url = https://sharedresearch.jp/system/report_updates/pdfs/000/019/192/original/8136_JP_20180511.pdf |title = サンリオ 8136 |website = シェアードリサーチ |format = PDF |accessdate = 2018-11-22 |ref = shared }}
== 関連項目 ==
* サンリオに関係する記事の書き方に関しては[[プロジェクト:サンリオ]]を参照。
* [[キティズパラダイス]] - サンリオキャラクターの大半が出演する[[テレビ番組]]。
* [[キティズパーティー]] - 過去に放送されたハーモニーランドの[[広報]]番組で、ハーモニーランドで撮影されたもの以外の映像と[[音楽]]は、全て外部から購入したものであった。
* [[サンリオタイムネット]] - [[ロールプレイングゲーム]]。多数のサンリオキャラクターが登場する。
* [[セガサミーホールディングス]] - 2006年10月よりサンリオの筆頭株主となった。
* [[サンリオいちご絵本童話と絵本グランプリ]] - サンリオ主催の[[児童文学]]の賞。
* [[香美市立やなせたかし記念館]] - 『詩とメルヘン』『いちごえほん』などを収蔵した「詩とメルヘン絵本館」がある。
* [[キャラクターソフト]] - かつて存在した[[ゲーム会社]]で、サンリオの子会社であった。ソフトの[[著作権]]表記はサンリオ本体のものを用いていた。
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ジャン=ジャック・ルソー
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ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、フランス語圏ジュネーヴ共和国に生まれ、主にフランスで活躍した哲学者、政治哲学者、作曲家。
ジャン=ジャック・ルソーは、1712年6月28日、ジュネーヴのグラン・リュ街にて誕生した。父はイザーク・ルソー、母はシュザンヌ・ベルナール。
ルソー家の先祖はパリ近郊モンレリ(英語版)に由来し、1549年にディディエ・ルソーがプロテスタント弾圧から逃れるためにジュネーヴに移住したことに起源がある。ジュネーヴはカルヴァン派のユグノーが構成するプロテスタントの都市共和国であり、当時はまだスイス誓約者同盟に加盟していなかった。ジュネーヴはルソーの故郷であり続け、自分をジュネーヴ市民として見ていた。
父イザークは陽気で温和な性格をもった時計職人であり、ルソー家が代々営んでいた「時計師」は、当時のジュネーヴでは上位身分であった市民と町民のみに限定される職であった(母方の祖父も時計師であった)。要するにジャン=ジャックは貧困層ではない中間的な職人階級の家に生まれたのであるが、幸せな家庭環境や安定した人生に恵まれなかった。7月7日、ジャン=ジャックは生後9日にして母を喪っている。母シュザンヌ・ベルナールは裕福な一門の出で、賢さと美しさを具えていたと言われている。ジャン=ジャックは母からこうした美点を受けついで誕生するが、幼いころは病弱であった。病気がちであったことは精神面の敏感さと共に生涯にわたって苦悩の原因になっていく。5年後の1717年にルソー家は上流階級の住む街グラン・リュから庶民の住むサン=ジェルヴェ地区に居を移し、ジャン=ジャックは父方の叔母シュザンヌ・ルソーの養育を受け、父親を手本に文字の読み書きなどを教わりながら育った。7歳の頃から父とともにかなり高度な読書をおこない、小説やプルタルコスの『英雄伝』などの歴史の書物を読む。この時の体験から、理性よりも感情を重んじる思想の素地が培われた。
1722年、ルソーが10歳のころ、彼の人生は一変する。
父は、ザクセン選帝侯に仕えた元軍人のゴーティエという貴族との喧嘩がもとで、剣を抜いたという一件で告訴され、ジュネーヴから逃亡することになった。兄は徒弟奉公に出され(後に出奔して行方知れず)、孤児同然となったジャン=ジャックは、母方の叔父である技師ガブリエルによって従兄のアブラハム・ベルナールと共にランベルシェという牧師に預けられたが、ジュネーヴ郊外のボセーで不自由な寄宿生活を送ることになった。しかし、ルソーにとってここでの暮らしは決してよい生活ではなく、牧師の妹で未婚の40代女性ランベルシェ嬢から身に覚えのない罪で度々折檻もされたという。この時期、不法な支配への反発心がありました。
1724年秋にジュネーヴに帰ってから司法書記マスロンのもとで書記見習いとなるも長続きせず、1ヶ月半後には、横暴で教育能力のない20歳の彫金師デュマコンのもとで5年契約の徒弟奉公を強いられた。ルソーは日常的に虐待を受け、次第に虚言を語り、仕事をさぼって悪事や盗みを働く素行不良な非行少年となっていた。ただし、生活環境が悪化して無気力になっていたものの読書の習慣は続いていた。貸本屋で本を借りて読書に耽っては仕事をさぼり、親方に本を取り上げられたり、捨てられたりしながらも読書を続けた。ルソーにとって読書は唯一の逃避だったのである。
1728年3月14日、ルソーは市の城門の閉門時間に遅れて、親方からの罰への恐怖から遂に出奔を決意する。従兄のベルナールから僅かな金と護身用の剣を受け取り、一年に及ぶ放浪生活に入った。当初、南に向かって歩き始め、サルディニア王国のトリノに行くが落ち着き先を得られずに放浪した。やがて、サヴォワ領のコンフィニョンに流れ着き、カトリック司祭のポンヴェールの保護を受け、落ち着き先を手配された。それがルソーの生涯に大きな影響を与える貴婦人の屋敷であった。
1728年3月21日、ルソーはアヌシーのヴァランス男爵夫人の屋敷を訪ねて世話を受けるようになった。ルソー15歳、フランソワーズ=ルイーズ・ド・ラ・トゥール・ド・ヴァランスはこのとき29歳であった。二人の出会いについてルソーはこう回想している。
ルソーはヴァランス夫人に恋をした。そのヴァランス夫人は15歳でセバスチャン=イザーク・ド・ロワと結婚したが、夫との不仲のため家を出てカトリックに改宗し、サルデーニャ王でもあるサヴォワ公ヴィットーリオ・アメデーオ2世の保護を受け1500リーブルという多額の年金を与えられていた。
彼女はルソーと暮らすことはなく、彼をカトリック改宗のためにトリノの救護院に行くように手配する。救護院では二カ月ほど缶詰状態の暮しであったが、形ばかりの改宗の後、20フランを与えられて解放され、再び自由の身となった。その後もさまざまな職業を試したが、不良時代の名残で素行が悪く盗みを働いたり、虚言で人に罪を着せたりとしたため信用を失い、結局どの職にも落ち着くことができなかった。
その間、懇意になったジャン=クロード・ゲームという、20歳ほど年上のサヴォアの助任司祭から温かい援助を受けていた。ゲームは裕福なわけでも仕事の紹介や世話をしたわけではないが、悪事を働きそのたびに失敗するルソーが生き方を改められるように「小さな義務を果たすことは英雄的行為に匹敵するほど大事なことで、常に人から尊敬されるように心がけるよう」助言を与えた。幸福になるためこれまでの生き方を捨て健全な道徳と正しい理性を保って生きるように、ゲームから勧められ励ましてもらったことを、ルソーは後に「当時、わたしが無為のあまり邪道におちいりそうなのを救ってくれたことで、測りしれぬ恩恵をあたえてくれた」と回想している。
この時の経験は後にルソーが執筆した『エミール』第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」の思想で中核を占める部分となる。
ルソーはその後も使用人などの職を転々として各地を放浪していたが、1729年春、ヴァランス夫人のもとに再び戻ることになる。ヴァランス夫人はルソーの無事を喜びルソーを引き取ることを決心する。夫人は母のようにルソーにキスをして撫で「坊や」と呼び、ルソーは夫人を「ママン」と呼んだという。親子のような情愛を受けルソーは幸福であった。
ヴァランス夫人はルソーを神学校や音楽学校に入れ、将来の職を得られるように図ったが、ルソーは夫人からなかなか離れようとはせず学業は長続きしなかった。夫人はルソーが不在の折にパリに出立して消息を絶ってしまう。ルソーは突如孤独となったが夫人の女中メルスレが親元に帰るのに同行することになった。ルソーはジュネーヴを経由し、ニヨンに立ち寄って父イザークを訪ねた。二人は涙を流して再会を喜んだ。しかし、ルソーは父親と暮らす意思はないことを父に伝えた。その後、メルスレを実家に送り戻したがルソーはアヌシーに帰らず、再び放浪を始めた。
ルソーは音楽が好きであったため(教えるほどの力はなかったが)音楽家を自称して音楽教師になろうとした。能力不足とはいえ、音楽を勉強する機会になったという。1731年4月、エルサレムの僧院長を自称する詐欺師に秘書兼通訳志としてスイスのベルンで行動を共にしているところを、フランス大使館に引き留められ保護されることになった。フランス大使館の書記官の計らいでパリに行く機会を与えられる。
ルソーはパリにはじめて到着したが、そこで目にしたのは悪臭に満ちた街路、黒くて汚い家々、乞食があふれる不潔な大都市であった。大使館から与えられたルソーの所持金はなくなりつつあった。しかし、ルソーはヴァランス夫人に再会できずにいた。夫人は二か月前に同地を発っていたのである。
そこでルソーは無一文であったが徒歩でリヨンに向かった。途中途中美しい田園風景が広がっており、ルソーは農家の家に泊めてもらいながら旅をした。ルソーはフランス農村部の百姓の暮らしを見ることになる。ルソーは歩き通しで空腹に耐えかね、農家に宿を借りた。ルソーは夕食に油分を絞った後の薄いミルクと大麦パンという質素な食事を一気に食べる。これを見た主人はルソーが役人ではないことを理解し、今度は隠していた小麦のパンとハムとワインを用意してオムレツまで提供したという。度重なる重税から逃れるために貧しい暮らしを演じていたのである。
ルソーのこの旅行での経験はルソーにとって意義深いものとなった、「自然が美しい豊かな恵みを与えているのに、それを重税が破壊してしまう」様を目の当たりにしたのである。リヨンに着いてヴァランス夫人を探したものの、夫人はいなかった。だが、夫人の知人と会うことができ、連絡を取る約束を得た。ルソーは楽譜の写本の仕事をしながら滞在し、夫人からの連絡を待っていた。しばらくのち、シャンベリーにいた夫人から手紙と旅費が届き、1731年9月夫人と再会を果たす。
ルソーは土地測量の書記の仕事を紹介され地図作成の技術を教わり、デッサンに興味を持つ。ルソーは植物のデッサンにそのときのスキルを生かしている。しかし、ヴァランス夫人との生活はルソーの自立を困難なものにした。共通の趣味となった音楽に嵌まり、仕事を半年余りで投げ出してしまう。
夫人が自宅で開く月一の音楽会では、若くて麗しい美男子のルソーは女性たちの関心の的となっていた。ルソーはラール夫人から娘の家庭教師を引き受けてほしいと頼まれたが、夫人のルソーへの関心を知るヴァランス夫人はこれを聞き、ルソーを他の女性から守ろうと考え始める。ルソーはヴァランス夫人と性交渉を持ち、女性を教わることになる。ヴァランス夫人との関係は1732年以降、保護者と被保護者の関係を越えた愛人関係になっていく。ルソーはこの時の心境をかく告白している。
「わたくしははじめて女性の腕に抱かれた。熱愛する女性の腕に抱かれていたのだ。わたくしは幸福であったであろうか。そうではなかった。わたくしはあたかも近親相姦を犯したような気持ちであった。」
そんな時期、夫人が手掛ける薬品の製作の補助で事故がおこり、ルソーは一時生死をさまよう。その後も思うような回復が見られなかったことから、農村のレ・シュルメットに転居する。同地でルソーは好きな読書に励み、菜園での果樹の栽培をおこなうなど快適な暮らしをしていた。しかし、身体の変調からルソーは死を感じるほど患い、これによりルソーの人生に再び重要な転機が起こる。残り僅かの人生だと覚悟し、これを有意義に使おうと考えるようになったのだ。ルソーは元々の読書力を駆使して哲学、幾何学、ラテン語を学習し、独学で膨大な書物を読破して研鑽し、教養を身につけた。哲学では、『ポール・ロワイヤル論理学』やジョン・ロックの『人間悟性論』、マールブランシュ、ライプニッツ、デカルトなど書物を読み、哲学と科学の学習を始めた。その庇護の許に青年時代を送り、音楽を勉強し、貪婪なほどの好奇心でギリシア哲学やモラリストの著作、啓蒙主義などの自学自習に没頭して教養をつくった。ヴァランス夫人の感化とルソーの敬愛の情は彼自身が認めるように大きかった。なかば母子でもあり愛人関係でもあるかたちでヴァランス夫人のもとで庇護されながら、さまざまな教育を受けた。この時期については晩年、生涯でもっとも幸福な時期として回想している。
1737年、医師の診断を受けるためにモンペリエに出かけた後、ルソーはヴァランス夫人との我が家に異変を感じる。ヴァランス夫人が18歳のヴィンシェンリードという新しい愛人を家に入れていたのである。ルソーは新しい愛人と折り合うのを拒み、ヴァランス夫人と距離を置きはじめた結果、二人の関係は冷めていってしまう。ルソーは夫人に家を出ることを伝え、自分の進むべき道を探求する決意を告げた。マブリ家の家庭教師を務めるつもりであることを説明して、夫人はこれに賛同し、ルソーは独立する。
ヴァランス夫人と別れた後、1740年からリヨンのマブリ家(哲学者マブリ、コンディヤックの実兄の家)に逗留し、マブリ家の二人の子供の家庭教師を務めた。しかし長続きしなかった。ルソーは家庭教師もうまくいかず、さらにワインの盗み飲みを発見されて、マブリ家にいづらくなっていた。レ・シュルメットのヴァランス夫人の家に一時戻るが、夫人の家は(ルソーがいたころからであるが)家計が長く傾いており、そこにルソーの居場所はなかった。ルソーはヴァランス夫人への恩返しのためにパリでの立身出世を志すようになる。
ルソーは家庭教師の職を辞めた後、1742年に数字によって音階を表す音楽の新しい記譜法を考案し、それを元手にパリに出て、一儲けしようと考える。パリ、ソルボンヌに近いコルディエ街のサン=カンタンというホテルに居住しながら執筆をおこない、8月22日、パリの科学アカデミーに『新しい音符の表記に関する試案』を提出した。ルソーに対してはいくらかの賛辞が贈られたが、経済的に用立つような職への紹介や斡旋は無かった。音楽の個人教師をしながら生計を立てるという生活が続き、外出もなく孤独に引き篭もる毎日だったという。例外でドゥニ・ディドロと親しくなり、カステル神父の紹介で社交界の女性たちと交友する機会を得ている。
文化人の一人として活動するようになったものの、ルソーはサヴォア地方の田舎上がりの人物で、パリ社交界の中心的な存在とは程遠かった。社交界には当時最高の美女と評されたデュパン夫人や大物知識人ヴォルテールの姿もあった。
1743年ルソーは、ヴェネツィアにフランスの大使の秘書として勤務したが、大使の横暴に耐えかね一年後に辞職していた。やむなくパリに帰るが、俸給の給与を受けられないなど不条理な扱いを受けた。さらに、音楽家として生きる道を志していたが、満足いく評価を得られず大成の道は困難となっていた。また、1745年にはオペラの楽曲として『恋のミューズたち』の作曲活動に従事していた。
ルソーはサン=カンタンのホテルで23歳の女中テレーズ・ルヴァスール(フランス語版)に出会い、恋に落ちる。テレーズに教養は無く、文字の読み書きも満足にできなかったというが、ルソーは彼女の素朴さに惹かれたようである。
二人は「決して捨てないし結婚もしない」という条件で生涯添い遂げるが、晩年になるまで正式な結婚はしなかった。この二人の関係は、周囲の状況に影響を受け順調にはいかなかった。テレーズの親類縁者がルソーを図々しく頼り、ルソーは稼がなくてはならなくなる。また、二人の間には1747年から1753年までに五人の子供ができるが、経済力のないルソーは当時では珍しいことではないのだが、わが子を孤児院に入れている。当時のパリでは年間3千人の捨て子が発生しており、この問題はすでに社会現象化していた。ルソーも当時の悪しき社会慣行に従ったわけだが、この出来事は『エミール』を書くときに深い反省を強いるものになり、ルソーに強い後悔の念をもたらしていく。
この時期のルソーは窮乏しており、デュパン夫人とその義理の息子であったフランクィユ氏の秘書をして暮らしを立てていた。
1749年、友人のディドロが『盲人書簡』という冊子を匿名で出版するが、内容に無神論的な記述があったため、ヴァンセンヌの監獄に収監された。ルソーは度々ディドロを訪ねている。
こうした状況の1750年、ルソーは『メルキュール・ド・フランス』という雑誌の広告を目にし、ディジョン科学アカデミー(フランス語版)が「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」という課題の懸賞論文を募集していることを知る。ルソーに突然の閃きが生じて、三十分にわたり精神が高揚して動けなくなってしまったという。ルソーはこのときの感想を「これを読んだ瞬間、わたくしは他の世界を見た。わたくしは他の人間になってしまった。」と述べている。『ファブリキウスの弁論』という小論をディドロに読んで聞かせて感想を求めた。ディドロは速やかに論文を執筆するように助言し、ルソーは早速執筆をすすめアカデミーに論文を提出した。
ルソーは文明への道徳的批判のテーマを掲げて持論を展開させ、自分自身の確固たるものとなっていた信念を一流の論述によって表現した。
「人間は本来善良であるが、堕落を正当化する社会制度によって邪悪となっている」という直感のもとに、学問・芸術の発達が素朴さに表されるような美徳を喪失させて、衒学的な知識と享楽的な文化を用いて人々に専制君主のもとでの奴隷状態を好ませていると批判を展開していく。「学問、芸術の光が地平線の上にのぼるにつれて、美徳が逃れ去るのがみられる」と述べて、文化・文明の発達は不平等の起源であり、道徳の堕落と併行すると主張したのである。質実剛健と公的精神にあふれた古代スパルタの市民の道徳的な貞潔さや健全さを指摘、郷愁に満ちた思いのうちに答えを見出そうとした。文化を健全化させるには人間自身に内在している「自然の導きに従えば良い」と見解を示し、人間の良識に学問や哲学、芸術を基礎付けるべきだと主張した。
ルソーは、学問と芸術の発達が人間の腐敗と堕落をもたらすことを主張するとともに、文化は圧政を布く専制君主が人々を支配して抑圧に順応させるための懐柔策だと指摘して、論壇に衝撃を与えたのである。彼が執筆した著作『学問芸術論』(Discours sur les sciences et les arts, 1750)は見事入選を果たす。
これが契機となり不遇な状態は一変、以後次々と意欲的な著作・音楽作品を創作する。ルソーは自分が有名になって以降、パトロンとして保護したいというフランクィユ氏など周囲からの申し出を断り、独力で音楽活動にも邁進しながら楽譜の写本などの手段で生計を立てる道を模索する。
1752年の春、ルソーは健康状態がすぐれなかったためパシーにいた。そこで『村の占い師』を作曲する。この楽曲は王宮で公演され、国王ルイ15世の関心を惹くことになった。ルソーは国王から年金給与の申し出を受け、拝謁の機会を賜っている。しかし、ルソーは泌尿器系の持病をもち瀕尿であったため、人前で失禁する恐怖を感じながら生活をしていた。社交界での活動を控え、引き篭もるような暮らしをしていたのには、こうした身体面での悩みのためであった。また、国王とうまく話せる自信がなかったため、国王の申し出を辞退する。この一件は人々から厳しく非難され、ディドロもルソーを咎めた。このような行動は発言や執筆の自由を失うことを恐れたことが要因であるとも考えられている。
1753年、ディジョンのアカデミーが再び「人々の間における不平等の起源は何であるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」という主題のもと懸賞論文を募った。ルソーは論文執筆のためにサンジェルマンに行った。かの地で、ルソーは彼にとってさらに本質的な問いに対して『人間不平等起源論』(Discours sur l'orgine de l'inégalité parmi les hommes, 1755)を著した。ルソーは『学問芸術論』の論文の文明批判の思想を更に展開させた。『人間不平等起源論』は41歳にして書き上げたルソー初の大作であり、懸賞論文への解答であった。
ルソーは、原初の自然人は与えられた自然環境のもとでその日暮らしをしており、自己愛と同情心以外の感情は何も持たない無垢な精神の持ち主であったと想像した。冒頭に登場する自然人の描写は「原始人」といってもよい段階である。ルソーは本書において進化論を採用しなかったものの、現代科学でいうなら旧石器時代に現れた化石人類に相当する種をイメージしたと考えられる。先史時代における平等で争いのない自然状態を描きだしていった。
しかし、こうした理想の状態は人間自身の技術的な進歩によって失われていったと見た。狩猟の道具が高度になり、獲物の数も増え人口も増加した。狩猟採集段階に到達した人類の「自然人」イメージはインディアンやコイサン族など現存する未開人をモデルに描かれた。やがて、人々が農業を始め土地を耕し家畜を飼い文明化していく中で、生産物から「余剰」が、すなわち不平等の原因となる富が作り出され、富をめぐって人々がしだいに競い合いながら不正と争いを引き起こしていったと考えた。「私有財産制度がホッブス的闘争状態を招いた」と指摘したのである。また、文明化によって人間は「協力か死か」という状況に遭遇するが、相互不信のため協力することは難しいと喝破した。これは一般的にルソーの「鹿狩りの寓話」として知られる。
やがて、こうした状況への対処として争いで人間が滅亡しないように「欺瞞の社会契約」がなされる。その結果、富の私有を公認する私有財産制が法になり、国家によって財産が守られるようになる。かくして不平等が制度化され、現在の社会状態へと移行したのだと結論付けた。富の格差とこれを肯定する法が強者による弱者への搾取と支配を擁護し、専制に基づく政治体制が成立する。「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に基づく桎梏に人々を閉ざし、不平等という弊害が拡大していくにつれて悪が社会に蔓延していくのだと述べた。ルソーはこうした仮説に基づいて、文明化によって人民が本源的な自由を失い、社会的不平等に陥った過程を追究、現存社会の不法を批判した。
不平等によって人間にとっての自然が破壊され、やがて道徳的な退廃に至るという倫理的メッセージを含んだ迫力は人々のこころに恐怖感を煽るほどの強烈な衝撃となった。その後この書はヴォルテールなど進歩的知識人の反発を強めさせ、進歩の背後に堕落という負の側面を指摘する犬儒性の故に「世紀の奇書」とも評された。
1754年6月1日、ルソーはテレーズと共にジュネーヴに帰郷した。ルソーはジュネーヴの共和政を愛していた。「市民は教育されており、確固として慎み深く、また、その権利を認識しており、勇敢に主張」するとともに、「他人の権利を尊重」している社会であると見ていた。しかし、ルソー自身はかつて若いころにカトリック教徒に改宗していた。ジュネーブはジャン・カルヴァンが導いたプロテスタント国なのでルソーは宗派の違いに悩み、ジュネーヴ市民になるためにプロテスタントに再び改宗した。だが、ジュネーヴでのルソーの評価は芳しくなかった。ルソーは『人間不平等起源論』をジュネーヴ市民に捧げて献辞も捧げたが、これについても予想していたような好評は得られなかった。ルソーはパリでの生活を整理するために一時パリに戻るが、ジュネーヴでの評判が思わしくないのを知り、ジュネーヴに戻るのを断念したため滞在はごく短期間に終わる。
ルソーはデピネ夫人からモンモランシーにレルミタージュ(隠者の庵)という小さめの邸宅を宛がわれた。ヴォルテールとの関係は好ましいものではなかった。『人間不平等起源論』を贈っているが、「人はあなたの著作を読むと四足で歩きたいと思うでしょう」と嫌味を言われている。こうしたこともあって、ヴォルテールがジュネーヴで暮らすのを聞き、そこでの生活を断念した。ルソーは1756年からモンモランシーで暮らすことになった。ルソーの新しい住居はパリから16キロ離れた田園地帯にあり、都市の喧騒から離れたいと願っていたルソーにとって非常に良い環境にあった。
ルソーは邸宅の周辺の森を散歩しながら哲学、政治思想、教育理論に関する思索をおこない『政治制度論』を執筆し、『社会契約論』や『エミール』の中心部分を仕上げていった。また、ときには恋愛について夢想して『新エロイーズ』といった作品の執筆活動を進めていった。そんな中、ルソーは友人サン・ラベールの愛人であったデュドト夫人の訪問を受ける。夫人は30歳にちかい年齢の女性で美人ではなかったというが、柔和で優しい生き生きとした女性であった。ルソーは彼女に心奪われてしまう。デュドト夫人にはルソーと恋仲になるつもりはなかったので片思いで終わるが、ルソーと夫人は親しく交流し、ルソーにヴァランス夫人やテレーズでは得られなかった幸福な思いをもたらした。
しかし、恋に夢中となってデピネ夫人との関係は悪くなった。デピネ夫人が妬みを起こして二人の関係を裂こうとしたのである。デピネ夫人にグリムやディドロ、そして妻のテレーズも加担していたので、ディドロとの関係も悪化した。とうとうレルミタージュから出ていくことになり、パトロンであったコンティ公の計らいで彼の税理士だったマタス氏がモンモランシーに所有していたプティ・モン・ルイという小さな田舎家を借りて暮らすことになる。
ルソーが名を馳せるようになったことが縁で、一時期では『百科全書』に「政治経済論」を執筆・寄稿している。しかし、1755年に10万人の死傷者を出す大災害リスボン地震が発生、ヨーロッパに衝撃が広まった。ヴォルテールは『リスボンの災禍にかんする詩』において神の存在性と慈悲に対する批判をおこなった。これに対して、ヴォルテールに手紙を書いて自説を展開させている。ルソーは地震の災厄が深刻化したのは神の非情さではなく、都市の過密によるものであり、これは人災であるという見方を提示した。文明への過度の依存が持つリスクに対して警鐘を鳴らすとともに自然と調和することの必要性を説いてヴォルテールの見解に異論を唱えたのである。こうした論争の中で対立関係は決定的なものとなった。
次の『演劇に関するダランベールへの手紙』(La Lettre à d'Alembert sur les spectacles, 1758)に至ってヴォルテール、ジャン・ル・ロン・ダランベール、ディドロら当時の思想界の主流とほとんど絶交状態となった。ダランベールが『百科全書』の「ジュネーヴ」の項に町に劇場がないことを批判する一文を載せた。カルヴァンが町に劇場を建てることを禁じたため、劇場がなかったのである。ルソーはジュネーヴでの劇場の建設は市民の徳を堕落させるもので有害であると見解を示した。そして、こうした立場の故、ヴォルテール、ディドロら他の啓蒙思想家たちの無神論的で文明賛美的な傾向との違いが顕著となり、彼らとの関係は決定的に破局した。これは思想的な対立によるものだけでなく、感情的な反感も含まれている。ディドロはルソーの引き篭もりと田舎暮らしを批判し、またデピネ夫人との確執に首を突っ込み、ルソーの家族を引き離そうと画策した。こうした争いの結果、ルソーはかつての友人たちと仲違していく。
彼の思想は壮年期の大作にしてベストセラーとなった書簡体の恋愛小説である『新エロイーズ』(Julie ou La Nouvelle Héloïse, 1761)が発表される。この手紙体の長編小説は自然への回帰による人間性、家族関係、恋愛感情、自然感情等の調和的回復を謳い、熱狂的な反響を呼んだ。
1762年4月、彼の思想は『社会契約論』(Le Contrat social, 1762)によって決定的な展開、完成を示した。
ルソーは、『人間不平等起源論』の続編として国家形成の理想像を提示しようとする。ホッブスやロックから「社会契約」という概念を継承しながら、さまざまな人々が社会契約に参加して国家を形成するとした。そのうえで、人々の闘争状態を乗り越え、さらに自由で平等な市民として共同体を形成できるよう、社会契約の形式を示した。まず、社会契約にあたっては「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてを挙げて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人がすべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」を前提とした上で、多人数の人々が契約を交わして共同体を樹立するとした。ルソーによると、暗黙に承認されねばならない「社会契約」の条項は次のたった一つの要件に要約される。それは、これまで持っていた特権と従属を共同体に譲渡して平等な市民として国家の成員になること。そのうえで市民は国家から生命と財産の安全を保障されるという考えを提示した。
社会契約によってすべての構成員が自由で平等な単一の国民となって、国家の一員として政治を動かしていく。だが、めいめいが自分の私利私欲を追求すれば、政治は機能せず国家も崩壊してしまう。そこで、ルソーは各構成員は共通の利益を志向する「一般意志」のもとに統合されるべきだと主張した。公共の正義を欲する一般意志に基づいて自ら法律を作成して自らそれに服従する、人間の政治的自律に基づいた法治体制の樹立の必要性を呼びかけた。
このように、主権者と市民との同一性に基づく人民主権論を展開し、近代民主主義の古典として以後の政治思想に大きな影響を及ぼした。そして政府は人民の「公僕」であるべきだと論じつつ、国民的な集会による直接民主制の可能性も論じた。ただし、人民の意志を建前に圧政がしかれる可能性があり、『社会契約論』には過酷な政治原理が提唱されていると指摘する論者もいる。そのため、この著書には今日でも賛否両論が存在している。
1762年5月、小説的な構成をもつ斬新な教育論『エミール』(Émile ou De l'éducation, 1762)が刊行される。
『エミール』では理想となる教育プランを構想している。ルソーは自分を教師として位置付け、架空の孤児「エミール」をマン・ツー・マンで育成する思考実験を行い、教育を理論化しようとした。社会からの余計な影響を受けないよう家庭教師による個別指導に徹するべきだと主張した。そのうえで、「自然による教育、人間による教育、事物による教育」という三つの柱を示した。自然による教育だが、これは子どもの成長のことである。人間による教育は、教師や大人による教育である。最後に事物による教育は外界に関する経験から学ぶということである。また、教育期間の段階も三段階に整理した。第一に、12歳までの子どもを感覚的生の段階にあるとし、身体の発育(自然による教育)と外界に見られる因果律についての経験(事物による教育)を中心に成長とする。第二に、12歳から15歳までは事物の効用の判断を鍛えて、有用性のために技術や学習をする功利的生の段階を経る。最後に15歳以降、神や自然、社会に関する知識と洞察が開かれ、道徳と宗教を身につける理性的道徳的生の段階へと至る。
ルソーは「子どもを小さな大人」として見る社会通念を否定し、「子どもは大人ではない。子どもは子どもである」とする立場を打ち出した。そして、子どもの自主性を重んじ、子どもの成長に即して子どもの能力を活用しながら教育をおこなうべきだという考えを示した。
ルソーは、子どもは年齢に応じた発達段階に合わせて、教訓や体罰によらず危険なことからは力(保護)で制止し、有用な知識は読書ではなく自分の経験から学習させ教育していくべきだと考えた。幼い子ども(5歳以下)に対しては情操面の発達を重んじ、児童期(5~12歳)には感覚や知覚で理解できる範囲を経験で教えていく。自然人として理想的な状態をつくっていくことを目標とした。ルソーは「私たちは、いわば、二回生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。」と語っている。成人すると社会で生きていく必要があるので社会人になれるような教育を行う必要がある。感覚教育から理性教育の段階へと移行していく。
子どもが思春期(12~15歳)に入って理性に目覚めると「理性の教育の時代」が始まり、本格的な教育を受けるべきだと考えた。ルソーはエミールを野外へと連れていき、迷わずに周囲を巡るには太陽の位置などを参考に方位を手がかりとして地図を読むなど、天文や地理に関する基本的な知識や情報が必要になることを教える。ルソーは生活のために役に立つ知識を出発点にして専門的な学問へとエミールの関心を刺激し、自ら体系的な理解や知識を構築していく力を鍛えることへ注意を向けさせる重要性を指摘した。青年期(15歳以降)に入ると道徳感情から社会を学んだり、自然の法則から神の存在を確信して、やがて宗教から生きる意味を考えたり、歴史に関する知識も与えられていく。このように、成長と共に教育を受けて人間としても市民としても相応しい大人となっていく過程が描かれた。
『エミール』において、ルソーはエミールが成人した後に理想のフランス人男性を描写しようとした。ルソーは彼が大人になって農夫(フランスの「普通の男性」)となるとしたのである。そして伴侶を探す旅の途中、エミールは出会った女性ソフィーに一目惚れをして結婚、やがてソフィーと家族をつくるという設定でストーリーを終えている。『人間不平等起源論』では先史時代が人類の歴史の舞台であったが、『エミール』においてルソーのイメージする市民エミールは、農村で慎ましく生活し、家族を養い、そして学んだ知識をもとに隣人のために知恵を働かせる、そうした人物として描かれた。これは自営の農家とその暮らしぶりを理想化したルソーが長年愛したフランス農村への憧憬を示すと考えられる。
『人間不平等起源論』、『社会契約論』、『エミール』は三部作の関係である。
『エミール』はオランダとパリで印刷され、出版される運びとなった。『社会契約論』は自由と平等を重んじ、特権政治を否定する立場が表明された。それ以上に問題になるのは、『エミール』第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」が持つ理神論的で自然宗教的な内容が、物議を醸すことであった。 カトリック教会を否定する思想は当時の世では危険思想であった。印刷の段階で中断が相次ぎ、容易に出版には入れなかったこともあり、ルソーは状況を心配せねばならなくなる。懸念していた通り、「サヴォア人司祭の信仰告白」はパリ大学神学部から厳しく断罪された。『エミール』はパリ高等法院から焚書とされ、1762年6月9日ルソー自身に対しても逮捕状が出た。前日の深夜、このころ支援者となっていたリュクサンブール元帥の忠告に従い、ルソーはモンモランシーを離れて一路スイスはジュネーブに亡命しようと計る。しかし、支援者のロガン氏がいたが、ジュネーヴでも一時の滞在地に選んだイヴェントンでもルソーへの迫害がはじまり、ルソーの居場所はどこにもなくなりつつあった。
スイスのヌーシャテル地方のモチエ村にロガン氏の縁者が所有する家があり、ルソーはそこに落ち着き先を得る。モチエ村はプロイセン領であり、当時プロイセン王国は啓蒙専制君主フリードリヒ大王の治世であった。ルソーは「以前から王についての悪い事を言ってきており今後も言うかもしれない」としながらも、寛大で知られる王との「庇護ではない契約」を求める手紙を王に送った。ルソーはキース卿に手紙を書き、受け入れてほしいと願う。ルソーの願いは聞き入れられ、隠遁が許される。ルソーにとって望まぬ迫害より辛いのは、この年育ての親であり恩人であったヴァランス夫人が亡くなったことである。1754年にジュネーヴに訪問する際に会った折、ルソーは既に零落していた夫人を引き取って旧恩に報いることを考えおり、夫人に提案していたが夫人がこれを固辞し、以来二人は会っていなかった。ルソーは母親代わりの女性に孝行できなかったのである。
悲しみに暮れるルソーを世間は放置しなかった。モチエにもルソーへの非難と迫害がはじまり、ルソーは居場所を失う。ルソーはカトリック教会の教義に反発し、人間の権威には従わないと語ったが、これはカトリックだけでなくプロテスタント側からも反感を買った。当てにしていたジュネーヴの冷淡さに失望したルソーは1764年『山からの手紙』を書いてジュネーヴ批判と自分の弁明を始めていく。だが、ルソーの弁明に対してさらなる攻撃がおこなわれる。ジュネーヴ市民という匿名を持ってヴォルテールからもプライベートな家族の問題、とりわけ子どもを孤児院に送り捨てた過去をやり玉に挙げられ非難された。ルソーへの糾弾は思想対立ではなく、誹謗中傷を伴なう人格攻撃へと変わっていたのである。
ルソーは命の危険を感じてモチエ村を離れビール湖のサン・ピエール島に避難する。ルソーはこの島の自然を気に入るようになり、植物収集をして楽しみ、傷心を慰めている。
だが、サン・ピエール島でもいられなくなって1765年ベルリンを目指して途中ストラスブールに立ち寄る。ストラスブールでは大歓迎を受けたため、ルソーはこの地で落ち着くことを考えるが、ヴェルドラン夫人がフランスの通行許可証を用意してイギリスへの渡航を提案した。ロンドンにはルソーと同様高名な哲学者デイヴィッド・ヒュームがおり、二人を引き合わせようと手筈を整えていた。自由で寛容なイギリスでならルソーも暮らしていけるだろうと考えたのである。ヒュームからも招待したいという手紙が届き、ルソーはロンドンに行くことを決意する。
1765年12月ルソーはパリに向かい、コンティ公から保護を受けてホテル・サンシマンに投宿する。しばらくは人目を忍んでいたが、すぐ人々の知るところとなり、人々が続々とルソーを訪問した。実質的にパリへの凱旋となった。そこで、ヒュームとも出会っている。ヒュームはルソーにすぐさま好感を感じ、すっかり心酔してしまったようである。しかし、ルソーはヒュームの友人ホーレス・ウォルポールの皮肉に嫌悪感を抱いていた。
1766年1月、ルソーはヒュームに連れられてロンドンに向かって出立した。
ロンドンに到着して、ヒュームはルソーを宿泊先としてエリオット夫人の邸宅を指定したが、そこにルソーに対して敵対的なスイスの医者トロンシャンの息子がいて、二人が鉢合わせしたため、ルソーが侮辱されることを恐れてエリオット夫人に他の住居を求めるといった悶着があった。ロンドンに滞在中もルソーは熱烈な歓迎を受けており、人々の訪問を受けた。国王ジョージ3世もルソーを訪ねたという。ヒュームはウーットンに住居を用意して新居にルソーが入れるように手配したが、その際、手配役がルソーに路銀の節約のために自分の馬車を提供したところ、この対応がルソーの機嫌を損ねてヒュームと喧嘩するといったことが起こった。
ルソーは配慮に欠くヒュームの振る舞いに次第に不信感を持つようになる。ウォルポールがルソーを非難するために作成したフリードリヒ大王の偽造書簡を新聞に掲載されたといったことがあったが、ヒュームはウォルポールの冗談として済ませたこともルソーにとって不愉快なことであった。ルソーが嫌いな人物をヒュームが弁護するのが我慢できなくなっていた。ルソーはヒュームに騙されていると感じ始めるようになる。一方、ヒュームは国王からルソーに対して年100ポンドの年金を支給するように嘆願をして、ルソーのために八方手を尽くして奔走していた。ルソーはヒュームを信じられなくなり、ついに6月23日にヒュームと絶交を宣言した。
この時期、ルソーは度重なる誹謗中傷に対して自分の弁明をしなければと考え、回想録を書こうと考える。スイスでの流転やヒュームへの不信と確執は『告白』(Les Confessions, 1782-89)を書き始める契機となった。
ルソーの精神状態はひどい状態になっていた。現在でいえば統合失調症とも言えるような状態で、極度の不安と人間不信、被害妄想に悩まされた。もはやイギリスにはいられないと考え、フランスに帰る決断をした。そして5月半ばにドーバーからカレーに赴き、フランスに帰ってしまう。
ルソーがフランスに帰国することは多くの人々の知るところとなった。兼ねてより親交をもっていたコンティ公やオノーレ・ミラボーに状況を知らせて保護を求めた。まだパリ高等法院の逮捕状は効力を持っていたため、身を隠さなくてはならなかった。そこで、コンティ公はトリーの城にルソーを匿うことにした。1768年までの一年間ルソーはこの城で過ごすことになる。ルソーの精神は錯乱状態になっていた。ルソーはヒュームから攻撃されるという妄想に苛まれ、城の関係者が敵のスパイではないかと怯えながら暮らしていた。病人がでたり、関係者に不幸があったりすると、城の中には暗殺者がひそみ毒を盛ったり盛られたりしているのだと思い込んだりするほど切迫した精神状態であった。この時期はまともな精神状態ではなかったため執筆活動はほとんどできなかった。
1768年、ルソーはリヨンに向かい、そこからグルノーブルに進んで旅をする。この旅ではルソーの尊敬する人々やルソーを敬愛する人たちに会う機会があり、シャンベリーに行ってヴァランス夫人の墓参りもした。テレーズもルソーのもとに到着し、二人はブルゴワン近郊のホテル「ラ・フォンテーヌ・ド・オル」で正式に結婚する。テレーズはついにルソー夫人になったわけである。
しかし、ルソーの病状は好転しては悪化したりを繰り返していて、この旅のさなかでも極度の不安に陥ることがしばしばあった。
1770年、ルソーは友人の反対にもかかわらずパリに帰る。パリでは依然としてお尋ね者であったが、市民の人気は熱狂的なもので、警察はルソーの所在を知っていたが、まったく捜索や逮捕などしようとしなかった。そのため、ルソーはパリで思うように好きに過ごすことができ、もてなしを受けたり、譜面の写本の仕事をしながら植物採集を楽しみ執筆活動に従事した。パリでは、被害妄想に悩まされつつ晩年の自伝的作品『告白』(Les Confessions, 1782-89)を完成させた。ルソーは要注意人物であったため出版は禁じられていたため、『告白』は朗読会で公表された。
この頃の暮らしは5時ごろに起床して楽譜を写す仕事をして、7時半ごろ朝食、午前中は仕事をして、午後になってからカフェに行ったり、植物採集をしたりして夕方になるころに帰宅し、21時ごろには寝るという暮らしだったという。ルソーは体調不良が続く中で『ポーランド統治論』 (Considérations sur le gouvernement de Pologne, 1771)も執筆し、政治制度に関する研究や提言もおこなっている。まもなくポーランドはプロイセン、オーストリア、ロシアの三国による分割によって消滅する。
精神状態は悪化の一途を辿っていた。ルソーは迫害の恐怖に恐れおののき正気を保てなくなっていった。そこで、1772年からルソーは自己弁明のために『ルソー、ジャン=ジャックを裁く - 対話』 (Rousseau juge de Jean-Jacques, 1777)を執筆に取り組み始めている。ノートルダム寺院に奉納しようとするが門が閉じていたため目的を果たせず、神さえ敵と共謀していると考えるようになった。ルソーはビラを印刷して人民に自分の身の潔白を訴えようとした。そして自分を見つめることに老年の仕事を見出し、『孤独な散歩者の夢想』(Les Rêveries du promeneur solitaire, 1776-78)の執筆を始める。これらも『新エロイーズ』とともにロマン主義文学に,自然と自我の問題を提起して広大な影響を及ぼした。
だが、ルソーは年齢と共に体力も衰えて貧困に窮していき、病気になったテレーズの看病をしなくてはならず執筆活動を中断させたままとなった。1778年、愛読者のジラルダン侯爵の好意を受けてパリ郊外のエルムノンヴィル(フランス語版)に移る。この地でルソーはジラルダン侯爵と好きな植物採集を楽しんだりしている。しかし、7月2日、ジラルダン侯爵の娘にピアノを教えるため支度をしている際、ルソーは倒れる。死因は尿毒症と言われているが、ルソーの容態は急激に悪化して、そのまま帰らぬ人となる。66歳。7月4日ルソーの遺体はポプラ島に埋葬された。
その死後、フランス革命が勃発、かれは革命の功績者と讃えられ、栄誉の殿堂パンテオンに合祀されている。
先駆のトマス・ホッブズやジョン・ロックと並びルソーは、近代的な「社会契約(Social Contract)説」の論理を提唱した主要な哲学者の一人である。
まず、1755年に発表した『人間不平等起源論』において、自然状態と、理性による社会化について論じた。ホッブズの自然状態論を批判し、ホッブズの論じているような、人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態はすでに社会状態であって自然状態ではないとした。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している状態(孤独と自由)を自然状態として論じた。無論、そこには家族などの社会もない。
ルソーは、自然状態の人間について次のように語っている。
理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態が訪れたとして、社会状態を規定する(「堕落」)。自然状態の自由と平和を好意的に描き、社会状態を堕落した状態と捉えるが、もはや人間はふたたび文明を捨てて自然に戻ることができないということを認めて思弁を進める。
1762年に発表した『社会契約論』において、社会契約と一般意志なる意志による政治社会の理想を論じた。社会契約が今後の理想として説かれる点で、ルソーの社会契約説は、イギリスにおいて現状の政治社会がどのような目的の社会契約によって形成されたのかについて研究したホッブズやロックの社会契約説と異なる。『社会契約論』においてルソーは、「一般意志」を民意や世論といった単純な「特殊意志(個人の意志)」の総和(全体意志)としてではなく、それぞれの「特殊意志」から相殺しあう過不足を除き「相違の総和」として残された共通の社会的利益として考えていた。この社会的利益は要するに公共の福祉になるのだと説明している。ルソーは、ロック的な選挙を伴う議会政治(間接民主制、代表制、代議制)とその多数決を否定し、あくまでも一般意志による全体の一致を目指しているが、その理由は、ルソーが、政治社会(国家)はすべての人間の自由と平等をこそ保障する仕組みでなければならないと考えていたためである。そのため、政治の一般意志への絶対服従によって、党派政治や一部の政治家による利権政治を排した真に民主的な「共和国」の樹立を求めた。ただし、ルソーが言う「共和国」とは一般的な意味での共和国ではなく、君主政体でも法治主義が徹底されていれば「共和国」ということになる。ルソーの議論が導く理想は政治が一般意志に服従した人民主権(国民主権)の体制であった。ただし、ルソーは一般意志による政治について、民主政の他に君主政や貴族政を排除せず、政体はあくまでも時代や国家の規模によって適するものも異なるとし、社会契約による国家が君主政であるにせよ、あるいは貴族政であるにせよ、民主政であったとしても民意による支持があればそれで良く、政体は国情によって決まられるべきと考えていた。ルソーは、君主制とか共和制といった政体よりも国家を担う統治者が国民の一般意志に服従しているかどうかを重要視していたと考えられる。
『言語起源論』は、『人間不平等起源論』とともに構想されたルソーの著作であり、言語の起源を音声(音声言語)に求める。そしてエクリチュール(書かれたもの)については、情念から自然に発声される詩や歌を文字で表そうとする試みが、あくまでもその根源であるとする。そして歴史的な過程の中で言語からは情念が失われ(「堕落」)、理性的で合理的な説得の技術が重要となり、そしてそれは政治的な権力に代わったと、ルソーは考える。
20世紀、ジャック・デリダは、存在論に関する主著『グラマトロジーについて』の中で、ルソーの『言語起源論』を何度も引用しながら、言語におけるエクリチュールに対するパロール(話し言葉)の優越を語ってきた思想史を批判し、エクリチュールとパロールの二項対立と差異について論じている(デリダ哲学における脱構築も参照)。
文明を主題にしたルソーの著作は、『学問芸術論』、『言語起源論』、『人間不平等起源論』など多い。その一貫した主張として、悪徳の起源を、奢侈、学問、芸術など、文明にこそ求めている点は非常に特徴的である。それらは、文明による「堕落」という言葉を以て示される。その文明に関する考え方は、まず『人間不平等起源論』に示される。前提として仮定される自然状態における自然人は、理性を持たず、他者を認識せず、孤独、自由、平和に存在している。それが、理性を持つことにより他者と道徳的(理性的)関係を結び、理性的文明的諸集団に所属することで、不平等が生まれたとされる。東浩紀は、ルソーの一般意志に関する研究書の中で、「社会の誕生を悪の起源とみなす。人間と人間の触れあいを否定的に評価する。これは社会思想家としては稀有な立場である。ルソーは多くの哲学者と異なり、人間の社交性に重要な価値を認めなかった」と特筆し、思想史上、極めて特異なルソーの文明観に着目している。ルソーが、「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)。しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略)奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」と述べている部分に、その主張を端的に読み取ることができる。
1755年リスボン地震に関して、啓蒙思想家ヴォルテールが発表した『リスボンの災禍に関する詩』に対するルソーの批判にも、その文明観を見ることができる。ヴォルテールは、理性主義(合理主義)と理神論、理性的な文明を志向する思想の下、精力的に宗教批判や教会批判を行ってきた。そのためヴォルテールは、罪なき多くの人間が犠牲となったリスボンの災禍を教会批判に用い、非合理的な宗教を誤謬の象徴として捉え、教会が守ろうとしてきた社会に対して、その最善の世界で何故このような災禍が起こるのかと問いを提起した(教会信者の楽天主義に対する批判)。これはヴォルテールの啓蒙活動のなかでも重要なものとなり、ヴォルテールは理性による社会改革を訴える。そうした一連の主張に対して、ルソーは強く批判を行った。ルソーの考えによれば、自然災害にあたって甚大な被害が起こるとき、それは、理性的、文明的、社会的な要因により発展した、人々が密集する都市、高度な技術を用いた文明が存在することによって、自然状態よりも被害が大きくなっているということなのである。ルソーは『ヴォルテール氏への手紙』において、次のように述べている。「思い違いをしないでいただきたい。あなたの目論見とはまったく反対のことが起こるのです。あなたは楽天主義を非常に残酷なものとお考えですが、しかしこの楽天主義は、あなたが耐えがたいものとして描いて見せてくださるまさにその苦しみのゆえに、私には慰めとなっています」、そして「私たちめいめいが苦しんでいるか、そうではないかを知ることが問題なのではなくて、宇宙が存在したのはよいことなのかどうか、また私たちの不幸は宇宙の構成上不可避であったのかどうかを知ることが問題なのです」。
上述のようにルソーは、理性とそれによる文明や社会を悲観的に捉えている。それゆえルソーは、主に教育論に関して論じた『エミール』において、「自然の最初の衝動はつねに正しい」という前提を立てた上で、子の自発性を重視し、子の内発性を社会から守ることに主眼を置いた教育論を展開している。初期の教育について、「徳や真理を教えること」ではなく、「心を悪徳から、精神を誤謬から保護すること」を目的とする。
作曲家としてのルソーは、オペラ『村の占師』(Le Devin du village 1752年、パリ・オペラ座で初演)などの作品で知られる。なお、このオペラの挿入曲が、後に日本では『むすんでひらいて』のタイトルでよく知られるようになった童謡である。この作品はモーツァルトのオペラ『バスティアンとバスティエンヌ』の元になったことでも知られ、また、オペラの中のコランのアリア「いやいや、コレットは偽らない」(Non, non, Colette n'est point trompeuse)はベートーヴェンによって編曲されている(WoO. 158c)。
音楽理論家としては、音楽理論を整理し、音をより数学的に表現するため、「数字記譜法」を発案し、『音楽のための新記号案』を科学アカデミーにおいて発表した。その後、自身の音楽研究を『近代音楽論究』としてまとめている。また作曲の他に、晩年には『音楽事典』も出版している。
起源を音声に求めるルソーの言語論は、その音楽論と表裏一体の議論である。
1750年代のブフォン論争においては、イタリアのオペラ・ブッファの擁護者の代表として、フランス音楽を痛烈に批判した。
博物学的な観察によって、植物を分類し、植物学に関する体系的な著作を残している。『孤独な散歩者の夢想』においてルソーが自認しているとおり、ルソーは、他者との社交よりも、自然と孤独を好んだ。そして思想的進歩性から迫害されることもあったルソーは、特にスイス亡命中に植物の観察を多く行っている。ルソーは、長い時間をかけて植物の形態と表象的な記号を詳細に記録し、分類した。『植物学』は、ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテが博物画を担当し、ルソーの死後に刊行されている。また、ルソーは独自に編纂した『植物用語辞典』の出版を計画しており、遺稿として残されている。
ディドロやダランベールなど、いわゆる百科全書派と深い交流を持ち、自身も百科全書のいくつかの項目を執筆したが、後に互いの主義主張の違いや、ルソー本人の被害妄想の悪化などが原因で決裂することとなる。
ルソーから影響を受けた人物としては、哲学者のイマヌエル・カントが有名である。 ある日、いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々は何かあったのかと大きな騒ぎになった。実はその日、カントはルソーの著作『エミール』をつい読み耽ってしまい、すっかりいつもの散歩を忘れてしまっていたのであった。カントはルソーについて、『美と崇高の感情に関する観察』への覚書にて次のように書き残している。
ルソーの思想はカントの他、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルなどにも影響を与え、ドイツ観念論の主軸の流れに強い影響を及ぼした。
ルソーと同じくカントに影響を与えた哲学者の一人として知られるイギリスのデイヴィッド・ヒュームは、ルソーと交友関係があった。しかし、ヒュームとルソーは後に絶交する。
ルソーの影響は、20世紀以降のフランス現代思想にも見られる。クロード・レヴィ=ストロースは、人類学の一つの起源としてルソーを再評価している。ポスト構造主義の現象学系哲学者ジャック・デリダは、『グラマトロジーについて』(特にルソー論となっているその後半部分)において、脱構築的読解(散種)によって、『言語起源論』をはじめとするルソーの諸著作を再読している。
また、詩人フリードリヒ・ヘルダーリンもルソーの影響を深く受けた。ヘルダーリンの詩編を詳細に分析したマルティン・ハイデッガーがなぜかルソーに言及しないことに注目したフィリップ・ラクー=ラバルトは、ハイデッガーにおけるルソー的な問題設定の逆説的な反映を『歴史の詩学』(日本語版 藤原書店, 2007)において論じた。
帝政ロシアの作家レフ・トルストイは青年期にルソーを愛読し、生涯その影響を受けた。地主でもあったトルストイの生活と作品には「自然に帰れ!」の思想が反映している。
なお、ルソーの思想を語る際に「自然に帰れ!」というフレーズがよく引き合いに出されるが、ルソーの著作には「自然に帰れ!」という具体的な文句は一度も登場しない。ルソーの著作のひとつの解釈として、ルソーはそのように言っているようなものであるという譬えであり、このような評はルソーの在世中にもあったが、誤解であると言われる。
哲学者としては啓蒙思想家(フィロゾフ)に位置づけられるルソーであるが、作家としても大きな成功を収めており、その「私」を強烈に押し出した作風は、後のロマン主義の先駆けとなったといわれ、その長大かつ詳細な自伝である『告白』は『懺悔録』の名で日本語訳され、太宰治などのエッセイにもその言及がみられる。また、本人が「空想のままにペンを走らせた」という『新エロイーズ』は18世紀フランスにおける最大級のベストセラーとなり、ヴォルテールの『カンディード』と並び称された。
ルソーを含む近代哲学者の思想的影響を受けたとされ、ルソーの死後に始まったフランス革命においては、「反革命派」と名指しされた者に対して迫害、虐殺、裁判を経ない処刑が行われるなど、恐怖政治が行われた。マクシミリアン・ロベスピエールやナポレオン・ボナパルトといった指導者たちが「一般意志」などルソーの概念を援用し、人民の代表者、憲法制定権力を有する者と自称して、独裁政治を行ったということは、歴史的事実である。しかし、ルソーの存在しない時代において行われたそれらがルソーの理想するところであったかどうかについては、留意すべき点である。後述のように、そもそもルソー自身は、その思想において、代表制の政治に非常に懐疑的である。
また、「ダランベール氏への手紙:演劇について」においては、演劇の持つカタルシスの機能を批判した。
中江兆民、生田長江、大杉栄らはルソーの翻訳をし、また作家の島崎藤村は明治42年(1909年)3月に「ルウソオの『懺悔』中に見出したる自己」を発表し、ルソーの『懺悔録』(『告白』)に深い影響を受けたと述べている。
明治10年(1877年)12月に日本で初めてのルソーの日本語訳である「民約論」(服部徳訳・田中弘義閲 有村壮一)が発表され、明治15年(1882年)には中江兆民訳で「民約訳解」が発表されて以降、現在に至るまで多数の訳書が日本では刊行されている。
デリダ派哲学者として知られる東浩紀は、新しい政治構想として、解釈が難しく全体主義の一つの起源とまでされた一般意志を、ジークムント・フロイトの無意識論における集合的無意識と結びつけるという思想史的に見て非常に特異な解釈を示し、それをさらに情報化社会においてデータとして蓄積される集合知と結びつけることによって、現代の政治に一般意志を用いる構想を行っている(『一般意志2.0』)。
一般にフランス王妃マリー・アントワネットが言ったものとして流布している「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」という言葉(「お菓子」の代わりにケーキやクロワッサンなどとも。原文は S'ils n'ont pas de pain, qu'ils mangent de la brioche、直訳すれば「パンがないのであればブリオッシュを食べてはどうか」)の出所は、『告白』第6巻に書かれた記事(小咄)である。原典では「たいへんに身分の高い女性」の言葉とされており、発言者がマリー・アントワネット(『告白』第6巻が執筆された1765年当時は9歳のオーストリア大公女だった)と結び付けられるのは後世である(考証は「ケーキを食べればいいじゃない」参照)。
明治時代から平成に至る日本語訳書の一覧は、ルソー翻訳作品年表を参照。
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"text": "ジャン=ジャック・ルソーは、1712年6月28日、ジュネーヴのグラン・リュ街にて誕生した。父はイザーク・ルソー、母はシュザンヌ・ベルナール。",
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"text": "ルソー家の先祖はパリ近郊モンレリ(英語版)に由来し、1549年にディディエ・ルソーがプロテスタント弾圧から逃れるためにジュネーヴに移住したことに起源がある。ジュネーヴはカルヴァン派のユグノーが構成するプロテスタントの都市共和国であり、当時はまだスイス誓約者同盟に加盟していなかった。ジュネーヴはルソーの故郷であり続け、自分をジュネーヴ市民として見ていた。",
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"text": "父イザークは陽気で温和な性格をもった時計職人であり、ルソー家が代々営んでいた「時計師」は、当時のジュネーヴでは上位身分であった市民と町民のみに限定される職であった(母方の祖父も時計師であった)。要するにジャン=ジャックは貧困層ではない中間的な職人階級の家に生まれたのであるが、幸せな家庭環境や安定した人生に恵まれなかった。7月7日、ジャン=ジャックは生後9日にして母を喪っている。母シュザンヌ・ベルナールは裕福な一門の出で、賢さと美しさを具えていたと言われている。ジャン=ジャックは母からこうした美点を受けついで誕生するが、幼いころは病弱であった。病気がちであったことは精神面の敏感さと共に生涯にわたって苦悩の原因になっていく。5年後の1717年にルソー家は上流階級の住む街グラン・リュから庶民の住むサン=ジェルヴェ地区に居を移し、ジャン=ジャックは父方の叔母シュザンヌ・ルソーの養育を受け、父親を手本に文字の読み書きなどを教わりながら育った。7歳の頃から父とともにかなり高度な読書をおこない、小説やプルタルコスの『英雄伝』などの歴史の書物を読む。この時の体験から、理性よりも感情を重んじる思想の素地が培われた。",
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"text": "1722年、ルソーが10歳のころ、彼の人生は一変する。",
"title": "生涯"
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"text": "父は、ザクセン選帝侯に仕えた元軍人のゴーティエという貴族との喧嘩がもとで、剣を抜いたという一件で告訴され、ジュネーヴから逃亡することになった。兄は徒弟奉公に出され(後に出奔して行方知れず)、孤児同然となったジャン=ジャックは、母方の叔父である技師ガブリエルによって従兄のアブラハム・ベルナールと共にランベルシェという牧師に預けられたが、ジュネーヴ郊外のボセーで不自由な寄宿生活を送ることになった。しかし、ルソーにとってここでの暮らしは決してよい生活ではなく、牧師の妹で未婚の40代女性ランベルシェ嬢から身に覚えのない罪で度々折檻もされたという。この時期、不法な支配への反発心がありました。",
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"text": "1724年秋にジュネーヴに帰ってから司法書記マスロンのもとで書記見習いとなるも長続きせず、1ヶ月半後には、横暴で教育能力のない20歳の彫金師デュマコンのもとで5年契約の徒弟奉公を強いられた。ルソーは日常的に虐待を受け、次第に虚言を語り、仕事をさぼって悪事や盗みを働く素行不良な非行少年となっていた。ただし、生活環境が悪化して無気力になっていたものの読書の習慣は続いていた。貸本屋で本を借りて読書に耽っては仕事をさぼり、親方に本を取り上げられたり、捨てられたりしながらも読書を続けた。ルソーにとって読書は唯一の逃避だったのである。",
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"text": "1728年3月14日、ルソーは市の城門の閉門時間に遅れて、親方からの罰への恐怖から遂に出奔を決意する。従兄のベルナールから僅かな金と護身用の剣を受け取り、一年に及ぶ放浪生活に入った。当初、南に向かって歩き始め、サルディニア王国のトリノに行くが落ち着き先を得られずに放浪した。やがて、サヴォワ領のコンフィニョンに流れ着き、カトリック司祭のポンヴェールの保護を受け、落ち着き先を手配された。それがルソーの生涯に大きな影響を与える貴婦人の屋敷であった。",
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"text": "1728年3月21日、ルソーはアヌシーのヴァランス男爵夫人の屋敷を訪ねて世話を受けるようになった。ルソー15歳、フランソワーズ=ルイーズ・ド・ラ・トゥール・ド・ヴァランスはこのとき29歳であった。二人の出会いについてルソーはこう回想している。",
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"text": "ルソーはヴァランス夫人に恋をした。そのヴァランス夫人は15歳でセバスチャン=イザーク・ド・ロワと結婚したが、夫との不仲のため家を出てカトリックに改宗し、サルデーニャ王でもあるサヴォワ公ヴィットーリオ・アメデーオ2世の保護を受け1500リーブルという多額の年金を与えられていた。",
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"text": "彼女はルソーと暮らすことはなく、彼をカトリック改宗のためにトリノの救護院に行くように手配する。救護院では二カ月ほど缶詰状態の暮しであったが、形ばかりの改宗の後、20フランを与えられて解放され、再び自由の身となった。その後もさまざまな職業を試したが、不良時代の名残で素行が悪く盗みを働いたり、虚言で人に罪を着せたりとしたため信用を失い、結局どの職にも落ち着くことができなかった。",
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"text": "その間、懇意になったジャン=クロード・ゲームという、20歳ほど年上のサヴォアの助任司祭から温かい援助を受けていた。ゲームは裕福なわけでも仕事の紹介や世話をしたわけではないが、悪事を働きそのたびに失敗するルソーが生き方を改められるように「小さな義務を果たすことは英雄的行為に匹敵するほど大事なことで、常に人から尊敬されるように心がけるよう」助言を与えた。幸福になるためこれまでの生き方を捨て健全な道徳と正しい理性を保って生きるように、ゲームから勧められ励ましてもらったことを、ルソーは後に「当時、わたしが無為のあまり邪道におちいりそうなのを救ってくれたことで、測りしれぬ恩恵をあたえてくれた」と回想している。",
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"text": "この時の経験は後にルソーが執筆した『エミール』第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」の思想で中核を占める部分となる。",
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"text": "ルソーはその後も使用人などの職を転々として各地を放浪していたが、1729年春、ヴァランス夫人のもとに再び戻ることになる。ヴァランス夫人はルソーの無事を喜びルソーを引き取ることを決心する。夫人は母のようにルソーにキスをして撫で「坊や」と呼び、ルソーは夫人を「ママン」と呼んだという。親子のような情愛を受けルソーは幸福であった。",
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"paragraph_id": 14,
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"text": "ヴァランス夫人はルソーを神学校や音楽学校に入れ、将来の職を得られるように図ったが、ルソーは夫人からなかなか離れようとはせず学業は長続きしなかった。夫人はルソーが不在の折にパリに出立して消息を絶ってしまう。ルソーは突如孤独となったが夫人の女中メルスレが親元に帰るのに同行することになった。ルソーはジュネーヴを経由し、ニヨンに立ち寄って父イザークを訪ねた。二人は涙を流して再会を喜んだ。しかし、ルソーは父親と暮らす意思はないことを父に伝えた。その後、メルスレを実家に送り戻したがルソーはアヌシーに帰らず、再び放浪を始めた。",
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"text": "ルソーは音楽が好きであったため(教えるほどの力はなかったが)音楽家を自称して音楽教師になろうとした。能力不足とはいえ、音楽を勉強する機会になったという。1731年4月、エルサレムの僧院長を自称する詐欺師に秘書兼通訳志としてスイスのベルンで行動を共にしているところを、フランス大使館に引き留められ保護されることになった。フランス大使館の書記官の計らいでパリに行く機会を与えられる。",
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"paragraph_id": 16,
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"text": "ルソーはパリにはじめて到着したが、そこで目にしたのは悪臭に満ちた街路、黒くて汚い家々、乞食があふれる不潔な大都市であった。大使館から与えられたルソーの所持金はなくなりつつあった。しかし、ルソーはヴァランス夫人に再会できずにいた。夫人は二か月前に同地を発っていたのである。",
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"paragraph_id": 17,
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"text": "そこでルソーは無一文であったが徒歩でリヨンに向かった。途中途中美しい田園風景が広がっており、ルソーは農家の家に泊めてもらいながら旅をした。ルソーはフランス農村部の百姓の暮らしを見ることになる。ルソーは歩き通しで空腹に耐えかね、農家に宿を借りた。ルソーは夕食に油分を絞った後の薄いミルクと大麦パンという質素な食事を一気に食べる。これを見た主人はルソーが役人ではないことを理解し、今度は隠していた小麦のパンとハムとワインを用意してオムレツまで提供したという。度重なる重税から逃れるために貧しい暮らしを演じていたのである。",
"title": "生涯"
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"text": "ルソーのこの旅行での経験はルソーにとって意義深いものとなった、「自然が美しい豊かな恵みを与えているのに、それを重税が破壊してしまう」様を目の当たりにしたのである。リヨンに着いてヴァランス夫人を探したものの、夫人はいなかった。だが、夫人の知人と会うことができ、連絡を取る約束を得た。ルソーは楽譜の写本の仕事をしながら滞在し、夫人からの連絡を待っていた。しばらくのち、シャンベリーにいた夫人から手紙と旅費が届き、1731年9月夫人と再会を果たす。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ルソーは土地測量の書記の仕事を紹介され地図作成の技術を教わり、デッサンに興味を持つ。ルソーは植物のデッサンにそのときのスキルを生かしている。しかし、ヴァランス夫人との生活はルソーの自立を困難なものにした。共通の趣味となった音楽に嵌まり、仕事を半年余りで投げ出してしまう。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "夫人が自宅で開く月一の音楽会では、若くて麗しい美男子のルソーは女性たちの関心の的となっていた。ルソーはラール夫人から娘の家庭教師を引き受けてほしいと頼まれたが、夫人のルソーへの関心を知るヴァランス夫人はこれを聞き、ルソーを他の女性から守ろうと考え始める。ルソーはヴァランス夫人と性交渉を持ち、女性を教わることになる。ヴァランス夫人との関係は1732年以降、保護者と被保護者の関係を越えた愛人関係になっていく。ルソーはこの時の心境をかく告白している。",
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "「わたくしははじめて女性の腕に抱かれた。熱愛する女性の腕に抱かれていたのだ。わたくしは幸福であったであろうか。そうではなかった。わたくしはあたかも近親相姦を犯したような気持ちであった。」",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "そんな時期、夫人が手掛ける薬品の製作の補助で事故がおこり、ルソーは一時生死をさまよう。その後も思うような回復が見られなかったことから、農村のレ・シュルメットに転居する。同地でルソーは好きな読書に励み、菜園での果樹の栽培をおこなうなど快適な暮らしをしていた。しかし、身体の変調からルソーは死を感じるほど患い、これによりルソーの人生に再び重要な転機が起こる。残り僅かの人生だと覚悟し、これを有意義に使おうと考えるようになったのだ。ルソーは元々の読書力を駆使して哲学、幾何学、ラテン語を学習し、独学で膨大な書物を読破して研鑽し、教養を身につけた。哲学では、『ポール・ロワイヤル論理学』やジョン・ロックの『人間悟性論』、マールブランシュ、ライプニッツ、デカルトなど書物を読み、哲学と科学の学習を始めた。その庇護の許に青年時代を送り、音楽を勉強し、貪婪なほどの好奇心でギリシア哲学やモラリストの著作、啓蒙主義などの自学自習に没頭して教養をつくった。ヴァランス夫人の感化とルソーの敬愛の情は彼自身が認めるように大きかった。なかば母子でもあり愛人関係でもあるかたちでヴァランス夫人のもとで庇護されながら、さまざまな教育を受けた。この時期については晩年、生涯でもっとも幸福な時期として回想している。",
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1737年、医師の診断を受けるためにモンペリエに出かけた後、ルソーはヴァランス夫人との我が家に異変を感じる。ヴァランス夫人が18歳のヴィンシェンリードという新しい愛人を家に入れていたのである。ルソーは新しい愛人と折り合うのを拒み、ヴァランス夫人と距離を置きはじめた結果、二人の関係は冷めていってしまう。ルソーは夫人に家を出ることを伝え、自分の進むべき道を探求する決意を告げた。マブリ家の家庭教師を務めるつもりであることを説明して、夫人はこれに賛同し、ルソーは独立する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ヴァランス夫人と別れた後、1740年からリヨンのマブリ家(哲学者マブリ、コンディヤックの実兄の家)に逗留し、マブリ家の二人の子供の家庭教師を務めた。しかし長続きしなかった。ルソーは家庭教師もうまくいかず、さらにワインの盗み飲みを発見されて、マブリ家にいづらくなっていた。レ・シュルメットのヴァランス夫人の家に一時戻るが、夫人の家は(ルソーがいたころからであるが)家計が長く傾いており、そこにルソーの居場所はなかった。ルソーはヴァランス夫人への恩返しのためにパリでの立身出世を志すようになる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ルソーは家庭教師の職を辞めた後、1742年に数字によって音階を表す音楽の新しい記譜法を考案し、それを元手にパリに出て、一儲けしようと考える。パリ、ソルボンヌに近いコルディエ街のサン=カンタンというホテルに居住しながら執筆をおこない、8月22日、パリの科学アカデミーに『新しい音符の表記に関する試案』を提出した。ルソーに対してはいくらかの賛辞が贈られたが、経済的に用立つような職への紹介や斡旋は無かった。音楽の個人教師をしながら生計を立てるという生活が続き、外出もなく孤独に引き篭もる毎日だったという。例外でドゥニ・ディドロと親しくなり、カステル神父の紹介で社交界の女性たちと交友する機会を得ている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "文化人の一人として活動するようになったものの、ルソーはサヴォア地方の田舎上がりの人物で、パリ社交界の中心的な存在とは程遠かった。社交界には当時最高の美女と評されたデュパン夫人や大物知識人ヴォルテールの姿もあった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1743年ルソーは、ヴェネツィアにフランスの大使の秘書として勤務したが、大使の横暴に耐えかね一年後に辞職していた。やむなくパリに帰るが、俸給の給与を受けられないなど不条理な扱いを受けた。さらに、音楽家として生きる道を志していたが、満足いく評価を得られず大成の道は困難となっていた。また、1745年にはオペラの楽曲として『恋のミューズたち』の作曲活動に従事していた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "ルソーはサン=カンタンのホテルで23歳の女中テレーズ・ルヴァスール(フランス語版)に出会い、恋に落ちる。テレーズに教養は無く、文字の読み書きも満足にできなかったというが、ルソーは彼女の素朴さに惹かれたようである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "二人は「決して捨てないし結婚もしない」という条件で生涯添い遂げるが、晩年になるまで正式な結婚はしなかった。この二人の関係は、周囲の状況に影響を受け順調にはいかなかった。テレーズの親類縁者がルソーを図々しく頼り、ルソーは稼がなくてはならなくなる。また、二人の間には1747年から1753年までに五人の子供ができるが、経済力のないルソーは当時では珍しいことではないのだが、わが子を孤児院に入れている。当時のパリでは年間3千人の捨て子が発生しており、この問題はすでに社会現象化していた。ルソーも当時の悪しき社会慣行に従ったわけだが、この出来事は『エミール』を書くときに深い反省を強いるものになり、ルソーに強い後悔の念をもたらしていく。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "この時期のルソーは窮乏しており、デュパン夫人とその義理の息子であったフランクィユ氏の秘書をして暮らしを立てていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1749年、友人のディドロが『盲人書簡』という冊子を匿名で出版するが、内容に無神論的な記述があったため、ヴァンセンヌの監獄に収監された。ルソーは度々ディドロを訪ねている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "こうした状況の1750年、ルソーは『メルキュール・ド・フランス』という雑誌の広告を目にし、ディジョン科学アカデミー(フランス語版)が「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」という課題の懸賞論文を募集していることを知る。ルソーに突然の閃きが生じて、三十分にわたり精神が高揚して動けなくなってしまったという。ルソーはこのときの感想を「これを読んだ瞬間、わたくしは他の世界を見た。わたくしは他の人間になってしまった。」と述べている。『ファブリキウスの弁論』という小論をディドロに読んで聞かせて感想を求めた。ディドロは速やかに論文を執筆するように助言し、ルソーは早速執筆をすすめアカデミーに論文を提出した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ルソーは文明への道徳的批判のテーマを掲げて持論を展開させ、自分自身の確固たるものとなっていた信念を一流の論述によって表現した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "「人間は本来善良であるが、堕落を正当化する社会制度によって邪悪となっている」という直感のもとに、学問・芸術の発達が素朴さに表されるような美徳を喪失させて、衒学的な知識と享楽的な文化を用いて人々に専制君主のもとでの奴隷状態を好ませていると批判を展開していく。「学問、芸術の光が地平線の上にのぼるにつれて、美徳が逃れ去るのがみられる」と述べて、文化・文明の発達は不平等の起源であり、道徳の堕落と併行すると主張したのである。質実剛健と公的精神にあふれた古代スパルタの市民の道徳的な貞潔さや健全さを指摘、郷愁に満ちた思いのうちに答えを見出そうとした。文化を健全化させるには人間自身に内在している「自然の導きに従えば良い」と見解を示し、人間の良識に学問や哲学、芸術を基礎付けるべきだと主張した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ルソーは、学問と芸術の発達が人間の腐敗と堕落をもたらすことを主張するとともに、文化は圧政を布く専制君主が人々を支配して抑圧に順応させるための懐柔策だと指摘して、論壇に衝撃を与えたのである。彼が執筆した著作『学問芸術論』(Discours sur les sciences et les arts, 1750)は見事入選を果たす。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "これが契機となり不遇な状態は一変、以後次々と意欲的な著作・音楽作品を創作する。ルソーは自分が有名になって以降、パトロンとして保護したいというフランクィユ氏など周囲からの申し出を断り、独力で音楽活動にも邁進しながら楽譜の写本などの手段で生計を立てる道を模索する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1752年の春、ルソーは健康状態がすぐれなかったためパシーにいた。そこで『村の占い師』を作曲する。この楽曲は王宮で公演され、国王ルイ15世の関心を惹くことになった。ルソーは国王から年金給与の申し出を受け、拝謁の機会を賜っている。しかし、ルソーは泌尿器系の持病をもち瀕尿であったため、人前で失禁する恐怖を感じながら生活をしていた。社交界での活動を控え、引き篭もるような暮らしをしていたのには、こうした身体面での悩みのためであった。また、国王とうまく話せる自信がなかったため、国王の申し出を辞退する。この一件は人々から厳しく非難され、ディドロもルソーを咎めた。このような行動は発言や執筆の自由を失うことを恐れたことが要因であるとも考えられている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1753年、ディジョンのアカデミーが再び「人々の間における不平等の起源は何であるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」という主題のもと懸賞論文を募った。ルソーは論文執筆のためにサンジェルマンに行った。かの地で、ルソーは彼にとってさらに本質的な問いに対して『人間不平等起源論』(Discours sur l'orgine de l'inégalité parmi les hommes, 1755)を著した。ルソーは『学問芸術論』の論文の文明批判の思想を更に展開させた。『人間不平等起源論』は41歳にして書き上げたルソー初の大作であり、懸賞論文への解答であった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ルソーは、原初の自然人は与えられた自然環境のもとでその日暮らしをしており、自己愛と同情心以外の感情は何も持たない無垢な精神の持ち主であったと想像した。冒頭に登場する自然人の描写は「原始人」といってもよい段階である。ルソーは本書において進化論を採用しなかったものの、現代科学でいうなら旧石器時代に現れた化石人類に相当する種をイメージしたと考えられる。先史時代における平等で争いのない自然状態を描きだしていった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "しかし、こうした理想の状態は人間自身の技術的な進歩によって失われていったと見た。狩猟の道具が高度になり、獲物の数も増え人口も増加した。狩猟採集段階に到達した人類の「自然人」イメージはインディアンやコイサン族など現存する未開人をモデルに描かれた。やがて、人々が農業を始め土地を耕し家畜を飼い文明化していく中で、生産物から「余剰」が、すなわち不平等の原因となる富が作り出され、富をめぐって人々がしだいに競い合いながら不正と争いを引き起こしていったと考えた。「私有財産制度がホッブス的闘争状態を招いた」と指摘したのである。また、文明化によって人間は「協力か死か」という状況に遭遇するが、相互不信のため協力することは難しいと喝破した。これは一般的にルソーの「鹿狩りの寓話」として知られる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "やがて、こうした状況への対処として争いで人間が滅亡しないように「欺瞞の社会契約」がなされる。その結果、富の私有を公認する私有財産制が法になり、国家によって財産が守られるようになる。かくして不平等が制度化され、現在の社会状態へと移行したのだと結論付けた。富の格差とこれを肯定する法が強者による弱者への搾取と支配を擁護し、専制に基づく政治体制が成立する。「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に基づく桎梏に人々を閉ざし、不平等という弊害が拡大していくにつれて悪が社会に蔓延していくのだと述べた。ルソーはこうした仮説に基づいて、文明化によって人民が本源的な自由を失い、社会的不平等に陥った過程を追究、現存社会の不法を批判した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "不平等によって人間にとっての自然が破壊され、やがて道徳的な退廃に至るという倫理的メッセージを含んだ迫力は人々のこころに恐怖感を煽るほどの強烈な衝撃となった。その後この書はヴォルテールなど進歩的知識人の反発を強めさせ、進歩の背後に堕落という負の側面を指摘する犬儒性の故に「世紀の奇書」とも評された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "1754年6月1日、ルソーはテレーズと共にジュネーヴに帰郷した。ルソーはジュネーヴの共和政を愛していた。「市民は教育されており、確固として慎み深く、また、その権利を認識しており、勇敢に主張」するとともに、「他人の権利を尊重」している社会であると見ていた。しかし、ルソー自身はかつて若いころにカトリック教徒に改宗していた。ジュネーブはジャン・カルヴァンが導いたプロテスタント国なのでルソーは宗派の違いに悩み、ジュネーヴ市民になるためにプロテスタントに再び改宗した。だが、ジュネーヴでのルソーの評価は芳しくなかった。ルソーは『人間不平等起源論』をジュネーヴ市民に捧げて献辞も捧げたが、これについても予想していたような好評は得られなかった。ルソーはパリでの生活を整理するために一時パリに戻るが、ジュネーヴでの評判が思わしくないのを知り、ジュネーヴに戻るのを断念したため滞在はごく短期間に終わる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ルソーはデピネ夫人からモンモランシーにレルミタージュ(隠者の庵)という小さめの邸宅を宛がわれた。ヴォルテールとの関係は好ましいものではなかった。『人間不平等起源論』を贈っているが、「人はあなたの著作を読むと四足で歩きたいと思うでしょう」と嫌味を言われている。こうしたこともあって、ヴォルテールがジュネーヴで暮らすのを聞き、そこでの生活を断念した。ルソーは1756年からモンモランシーで暮らすことになった。ルソーの新しい住居はパリから16キロ離れた田園地帯にあり、都市の喧騒から離れたいと願っていたルソーにとって非常に良い環境にあった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ルソーは邸宅の周辺の森を散歩しながら哲学、政治思想、教育理論に関する思索をおこない『政治制度論』を執筆し、『社会契約論』や『エミール』の中心部分を仕上げていった。また、ときには恋愛について夢想して『新エロイーズ』といった作品の執筆活動を進めていった。そんな中、ルソーは友人サン・ラベールの愛人であったデュドト夫人の訪問を受ける。夫人は30歳にちかい年齢の女性で美人ではなかったというが、柔和で優しい生き生きとした女性であった。ルソーは彼女に心奪われてしまう。デュドト夫人にはルソーと恋仲になるつもりはなかったので片思いで終わるが、ルソーと夫人は親しく交流し、ルソーにヴァランス夫人やテレーズでは得られなかった幸福な思いをもたらした。",
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"paragraph_id": 46,
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"text": "しかし、恋に夢中となってデピネ夫人との関係は悪くなった。デピネ夫人が妬みを起こして二人の関係を裂こうとしたのである。デピネ夫人にグリムやディドロ、そして妻のテレーズも加担していたので、ディドロとの関係も悪化した。とうとうレルミタージュから出ていくことになり、パトロンであったコンティ公の計らいで彼の税理士だったマタス氏がモンモランシーに所有していたプティ・モン・ルイという小さな田舎家を借りて暮らすことになる。",
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "ルソーが名を馳せるようになったことが縁で、一時期では『百科全書』に「政治経済論」を執筆・寄稿している。しかし、1755年に10万人の死傷者を出す大災害リスボン地震が発生、ヨーロッパに衝撃が広まった。ヴォルテールは『リスボンの災禍にかんする詩』において神の存在性と慈悲に対する批判をおこなった。これに対して、ヴォルテールに手紙を書いて自説を展開させている。ルソーは地震の災厄が深刻化したのは神の非情さではなく、都市の過密によるものであり、これは人災であるという見方を提示した。文明への過度の依存が持つリスクに対して警鐘を鳴らすとともに自然と調和することの必要性を説いてヴォルテールの見解に異論を唱えたのである。こうした論争の中で対立関係は決定的なものとなった。",
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"paragraph_id": 48,
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"text": "次の『演劇に関するダランベールへの手紙』(La Lettre à d'Alembert sur les spectacles, 1758)に至ってヴォルテール、ジャン・ル・ロン・ダランベール、ディドロら当時の思想界の主流とほとんど絶交状態となった。ダランベールが『百科全書』の「ジュネーヴ」の項に町に劇場がないことを批判する一文を載せた。カルヴァンが町に劇場を建てることを禁じたため、劇場がなかったのである。ルソーはジュネーヴでの劇場の建設は市民の徳を堕落させるもので有害であると見解を示した。そして、こうした立場の故、ヴォルテール、ディドロら他の啓蒙思想家たちの無神論的で文明賛美的な傾向との違いが顕著となり、彼らとの関係は決定的に破局した。これは思想的な対立によるものだけでなく、感情的な反感も含まれている。ディドロはルソーの引き篭もりと田舎暮らしを批判し、またデピネ夫人との確執に首を突っ込み、ルソーの家族を引き離そうと画策した。こうした争いの結果、ルソーはかつての友人たちと仲違していく。",
"title": "生涯"
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"text": "彼の思想は壮年期の大作にしてベストセラーとなった書簡体の恋愛小説である『新エロイーズ』(Julie ou La Nouvelle Héloïse, 1761)が発表される。この手紙体の長編小説は自然への回帰による人間性、家族関係、恋愛感情、自然感情等の調和的回復を謳い、熱狂的な反響を呼んだ。",
"title": "生涯"
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"text": "1762年4月、彼の思想は『社会契約論』(Le Contrat social, 1762)によって決定的な展開、完成を示した。",
"title": "生涯"
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"text": "ルソーは、『人間不平等起源論』の続編として国家形成の理想像を提示しようとする。ホッブスやロックから「社会契約」という概念を継承しながら、さまざまな人々が社会契約に参加して国家を形成するとした。そのうえで、人々の闘争状態を乗り越え、さらに自由で平等な市民として共同体を形成できるよう、社会契約の形式を示した。まず、社会契約にあたっては「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてを挙げて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人がすべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」を前提とした上で、多人数の人々が契約を交わして共同体を樹立するとした。ルソーによると、暗黙に承認されねばならない「社会契約」の条項は次のたった一つの要件に要約される。それは、これまで持っていた特権と従属を共同体に譲渡して平等な市民として国家の成員になること。そのうえで市民は国家から生命と財産の安全を保障されるという考えを提示した。",
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"text": "社会契約によってすべての構成員が自由で平等な単一の国民となって、国家の一員として政治を動かしていく。だが、めいめいが自分の私利私欲を追求すれば、政治は機能せず国家も崩壊してしまう。そこで、ルソーは各構成員は共通の利益を志向する「一般意志」のもとに統合されるべきだと主張した。公共の正義を欲する一般意志に基づいて自ら法律を作成して自らそれに服従する、人間の政治的自律に基づいた法治体制の樹立の必要性を呼びかけた。",
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"text": "このように、主権者と市民との同一性に基づく人民主権論を展開し、近代民主主義の古典として以後の政治思想に大きな影響を及ぼした。そして政府は人民の「公僕」であるべきだと論じつつ、国民的な集会による直接民主制の可能性も論じた。ただし、人民の意志を建前に圧政がしかれる可能性があり、『社会契約論』には過酷な政治原理が提唱されていると指摘する論者もいる。そのため、この著書には今日でも賛否両論が存在している。",
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"text": "1762年5月、小説的な構成をもつ斬新な教育論『エミール』(Émile ou De l'éducation, 1762)が刊行される。",
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"text": "『エミール』では理想となる教育プランを構想している。ルソーは自分を教師として位置付け、架空の孤児「エミール」をマン・ツー・マンで育成する思考実験を行い、教育を理論化しようとした。社会からの余計な影響を受けないよう家庭教師による個別指導に徹するべきだと主張した。そのうえで、「自然による教育、人間による教育、事物による教育」という三つの柱を示した。自然による教育だが、これは子どもの成長のことである。人間による教育は、教師や大人による教育である。最後に事物による教育は外界に関する経験から学ぶということである。また、教育期間の段階も三段階に整理した。第一に、12歳までの子どもを感覚的生の段階にあるとし、身体の発育(自然による教育)と外界に見られる因果律についての経験(事物による教育)を中心に成長とする。第二に、12歳から15歳までは事物の効用の判断を鍛えて、有用性のために技術や学習をする功利的生の段階を経る。最後に15歳以降、神や自然、社会に関する知識と洞察が開かれ、道徳と宗教を身につける理性的道徳的生の段階へと至る。",
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"text": "ルソーは「子どもを小さな大人」として見る社会通念を否定し、「子どもは大人ではない。子どもは子どもである」とする立場を打ち出した。そして、子どもの自主性を重んじ、子どもの成長に即して子どもの能力を活用しながら教育をおこなうべきだという考えを示した。",
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"text": "ルソーは、子どもは年齢に応じた発達段階に合わせて、教訓や体罰によらず危険なことからは力(保護)で制止し、有用な知識は読書ではなく自分の経験から学習させ教育していくべきだと考えた。幼い子ども(5歳以下)に対しては情操面の発達を重んじ、児童期(5~12歳)には感覚や知覚で理解できる範囲を経験で教えていく。自然人として理想的な状態をつくっていくことを目標とした。ルソーは「私たちは、いわば、二回生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。」と語っている。成人すると社会で生きていく必要があるので社会人になれるような教育を行う必要がある。感覚教育から理性教育の段階へと移行していく。",
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"text": "子どもが思春期(12~15歳)に入って理性に目覚めると「理性の教育の時代」が始まり、本格的な教育を受けるべきだと考えた。ルソーはエミールを野外へと連れていき、迷わずに周囲を巡るには太陽の位置などを参考に方位を手がかりとして地図を読むなど、天文や地理に関する基本的な知識や情報が必要になることを教える。ルソーは生活のために役に立つ知識を出発点にして専門的な学問へとエミールの関心を刺激し、自ら体系的な理解や知識を構築していく力を鍛えることへ注意を向けさせる重要性を指摘した。青年期(15歳以降)に入ると道徳感情から社会を学んだり、自然の法則から神の存在を確信して、やがて宗教から生きる意味を考えたり、歴史に関する知識も与えられていく。このように、成長と共に教育を受けて人間としても市民としても相応しい大人となっていく過程が描かれた。",
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"text": "『エミール』において、ルソーはエミールが成人した後に理想のフランス人男性を描写しようとした。ルソーは彼が大人になって農夫(フランスの「普通の男性」)となるとしたのである。そして伴侶を探す旅の途中、エミールは出会った女性ソフィーに一目惚れをして結婚、やがてソフィーと家族をつくるという設定でストーリーを終えている。『人間不平等起源論』では先史時代が人類の歴史の舞台であったが、『エミール』においてルソーのイメージする市民エミールは、農村で慎ましく生活し、家族を養い、そして学んだ知識をもとに隣人のために知恵を働かせる、そうした人物として描かれた。これは自営の農家とその暮らしぶりを理想化したルソーが長年愛したフランス農村への憧憬を示すと考えられる。",
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"text": "『人間不平等起源論』、『社会契約論』、『エミール』は三部作の関係である。",
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"text": "『エミール』はオランダとパリで印刷され、出版される運びとなった。『社会契約論』は自由と平等を重んじ、特権政治を否定する立場が表明された。それ以上に問題になるのは、『エミール』第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」が持つ理神論的で自然宗教的な内容が、物議を醸すことであった。 カトリック教会を否定する思想は当時の世では危険思想であった。印刷の段階で中断が相次ぎ、容易に出版には入れなかったこともあり、ルソーは状況を心配せねばならなくなる。懸念していた通り、「サヴォア人司祭の信仰告白」はパリ大学神学部から厳しく断罪された。『エミール』はパリ高等法院から焚書とされ、1762年6月9日ルソー自身に対しても逮捕状が出た。前日の深夜、このころ支援者となっていたリュクサンブール元帥の忠告に従い、ルソーはモンモランシーを離れて一路スイスはジュネーブに亡命しようと計る。しかし、支援者のロガン氏がいたが、ジュネーヴでも一時の滞在地に選んだイヴェントンでもルソーへの迫害がはじまり、ルソーの居場所はどこにもなくなりつつあった。",
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"text": "スイスのヌーシャテル地方のモチエ村にロガン氏の縁者が所有する家があり、ルソーはそこに落ち着き先を得る。モチエ村はプロイセン領であり、当時プロイセン王国は啓蒙専制君主フリードリヒ大王の治世であった。ルソーは「以前から王についての悪い事を言ってきており今後も言うかもしれない」としながらも、寛大で知られる王との「庇護ではない契約」を求める手紙を王に送った。ルソーはキース卿に手紙を書き、受け入れてほしいと願う。ルソーの願いは聞き入れられ、隠遁が許される。ルソーにとって望まぬ迫害より辛いのは、この年育ての親であり恩人であったヴァランス夫人が亡くなったことである。1754年にジュネーヴに訪問する際に会った折、ルソーは既に零落していた夫人を引き取って旧恩に報いることを考えおり、夫人に提案していたが夫人がこれを固辞し、以来二人は会っていなかった。ルソーは母親代わりの女性に孝行できなかったのである。",
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"paragraph_id": 63,
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"text": "悲しみに暮れるルソーを世間は放置しなかった。モチエにもルソーへの非難と迫害がはじまり、ルソーは居場所を失う。ルソーはカトリック教会の教義に反発し、人間の権威には従わないと語ったが、これはカトリックだけでなくプロテスタント側からも反感を買った。当てにしていたジュネーヴの冷淡さに失望したルソーは1764年『山からの手紙』を書いてジュネーヴ批判と自分の弁明を始めていく。だが、ルソーの弁明に対してさらなる攻撃がおこなわれる。ジュネーヴ市民という匿名を持ってヴォルテールからもプライベートな家族の問題、とりわけ子どもを孤児院に送り捨てた過去をやり玉に挙げられ非難された。ルソーへの糾弾は思想対立ではなく、誹謗中傷を伴なう人格攻撃へと変わっていたのである。",
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"text": "ルソーは命の危険を感じてモチエ村を離れビール湖のサン・ピエール島に避難する。ルソーはこの島の自然を気に入るようになり、植物収集をして楽しみ、傷心を慰めている。",
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"text": "だが、サン・ピエール島でもいられなくなって1765年ベルリンを目指して途中ストラスブールに立ち寄る。ストラスブールでは大歓迎を受けたため、ルソーはこの地で落ち着くことを考えるが、ヴェルドラン夫人がフランスの通行許可証を用意してイギリスへの渡航を提案した。ロンドンにはルソーと同様高名な哲学者デイヴィッド・ヒュームがおり、二人を引き合わせようと手筈を整えていた。自由で寛容なイギリスでならルソーも暮らしていけるだろうと考えたのである。ヒュームからも招待したいという手紙が届き、ルソーはロンドンに行くことを決意する。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 66,
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"text": "1765年12月ルソーはパリに向かい、コンティ公から保護を受けてホテル・サンシマンに投宿する。しばらくは人目を忍んでいたが、すぐ人々の知るところとなり、人々が続々とルソーを訪問した。実質的にパリへの凱旋となった。そこで、ヒュームとも出会っている。ヒュームはルソーにすぐさま好感を感じ、すっかり心酔してしまったようである。しかし、ルソーはヒュームの友人ホーレス・ウォルポールの皮肉に嫌悪感を抱いていた。",
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"text": "1766年1月、ルソーはヒュームに連れられてロンドンに向かって出立した。",
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"paragraph_id": 68,
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"text": "ロンドンに到着して、ヒュームはルソーを宿泊先としてエリオット夫人の邸宅を指定したが、そこにルソーに対して敵対的なスイスの医者トロンシャンの息子がいて、二人が鉢合わせしたため、ルソーが侮辱されることを恐れてエリオット夫人に他の住居を求めるといった悶着があった。ロンドンに滞在中もルソーは熱烈な歓迎を受けており、人々の訪問を受けた。国王ジョージ3世もルソーを訪ねたという。ヒュームはウーットンに住居を用意して新居にルソーが入れるように手配したが、その際、手配役がルソーに路銀の節約のために自分の馬車を提供したところ、この対応がルソーの機嫌を損ねてヒュームと喧嘩するといったことが起こった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "ルソーは配慮に欠くヒュームの振る舞いに次第に不信感を持つようになる。ウォルポールがルソーを非難するために作成したフリードリヒ大王の偽造書簡を新聞に掲載されたといったことがあったが、ヒュームはウォルポールの冗談として済ませたこともルソーにとって不愉快なことであった。ルソーが嫌いな人物をヒュームが弁護するのが我慢できなくなっていた。ルソーはヒュームに騙されていると感じ始めるようになる。一方、ヒュームは国王からルソーに対して年100ポンドの年金を支給するように嘆願をして、ルソーのために八方手を尽くして奔走していた。ルソーはヒュームを信じられなくなり、ついに6月23日にヒュームと絶交を宣言した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 70,
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"text": "この時期、ルソーは度重なる誹謗中傷に対して自分の弁明をしなければと考え、回想録を書こうと考える。スイスでの流転やヒュームへの不信と確執は『告白』(Les Confessions, 1782-89)を書き始める契機となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 71,
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"text": "ルソーの精神状態はひどい状態になっていた。現在でいえば統合失調症とも言えるような状態で、極度の不安と人間不信、被害妄想に悩まされた。もはやイギリスにはいられないと考え、フランスに帰る決断をした。そして5月半ばにドーバーからカレーに赴き、フランスに帰ってしまう。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ルソーがフランスに帰国することは多くの人々の知るところとなった。兼ねてより親交をもっていたコンティ公やオノーレ・ミラボーに状況を知らせて保護を求めた。まだパリ高等法院の逮捕状は効力を持っていたため、身を隠さなくてはならなかった。そこで、コンティ公はトリーの城にルソーを匿うことにした。1768年までの一年間ルソーはこの城で過ごすことになる。ルソーの精神は錯乱状態になっていた。ルソーはヒュームから攻撃されるという妄想に苛まれ、城の関係者が敵のスパイではないかと怯えながら暮らしていた。病人がでたり、関係者に不幸があったりすると、城の中には暗殺者がひそみ毒を盛ったり盛られたりしているのだと思い込んだりするほど切迫した精神状態であった。この時期はまともな精神状態ではなかったため執筆活動はほとんどできなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1768年、ルソーはリヨンに向かい、そこからグルノーブルに進んで旅をする。この旅ではルソーの尊敬する人々やルソーを敬愛する人たちに会う機会があり、シャンベリーに行ってヴァランス夫人の墓参りもした。テレーズもルソーのもとに到着し、二人はブルゴワン近郊のホテル「ラ・フォンテーヌ・ド・オル」で正式に結婚する。テレーズはついにルソー夫人になったわけである。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "しかし、ルソーの病状は好転しては悪化したりを繰り返していて、この旅のさなかでも極度の不安に陥ることがしばしばあった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1770年、ルソーは友人の反対にもかかわらずパリに帰る。パリでは依然としてお尋ね者であったが、市民の人気は熱狂的なもので、警察はルソーの所在を知っていたが、まったく捜索や逮捕などしようとしなかった。そのため、ルソーはパリで思うように好きに過ごすことができ、もてなしを受けたり、譜面の写本の仕事をしながら植物採集を楽しみ執筆活動に従事した。パリでは、被害妄想に悩まされつつ晩年の自伝的作品『告白』(Les Confessions, 1782-89)を完成させた。ルソーは要注意人物であったため出版は禁じられていたため、『告白』は朗読会で公表された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "この頃の暮らしは5時ごろに起床して楽譜を写す仕事をして、7時半ごろ朝食、午前中は仕事をして、午後になってからカフェに行ったり、植物採集をしたりして夕方になるころに帰宅し、21時ごろには寝るという暮らしだったという。ルソーは体調不良が続く中で『ポーランド統治論』 (Considérations sur le gouvernement de Pologne, 1771)も執筆し、政治制度に関する研究や提言もおこなっている。まもなくポーランドはプロイセン、オーストリア、ロシアの三国による分割によって消滅する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "精神状態は悪化の一途を辿っていた。ルソーは迫害の恐怖に恐れおののき正気を保てなくなっていった。そこで、1772年からルソーは自己弁明のために『ルソー、ジャン=ジャックを裁く - 対話』 (Rousseau juge de Jean-Jacques, 1777)を執筆に取り組み始めている。ノートルダム寺院に奉納しようとするが門が閉じていたため目的を果たせず、神さえ敵と共謀していると考えるようになった。ルソーはビラを印刷して人民に自分の身の潔白を訴えようとした。そして自分を見つめることに老年の仕事を見出し、『孤独な散歩者の夢想』(Les Rêveries du promeneur solitaire, 1776-78)の執筆を始める。これらも『新エロイーズ』とともにロマン主義文学に,自然と自我の問題を提起して広大な影響を及ぼした。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "だが、ルソーは年齢と共に体力も衰えて貧困に窮していき、病気になったテレーズの看病をしなくてはならず執筆活動を中断させたままとなった。1778年、愛読者のジラルダン侯爵の好意を受けてパリ郊外のエルムノンヴィル(フランス語版)に移る。この地でルソーはジラルダン侯爵と好きな植物採集を楽しんだりしている。しかし、7月2日、ジラルダン侯爵の娘にピアノを教えるため支度をしている際、ルソーは倒れる。死因は尿毒症と言われているが、ルソーの容態は急激に悪化して、そのまま帰らぬ人となる。66歳。7月4日ルソーの遺体はポプラ島に埋葬された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 79,
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"text": "その死後、フランス革命が勃発、かれは革命の功績者と讃えられ、栄誉の殿堂パンテオンに合祀されている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "先駆のトマス・ホッブズやジョン・ロックと並びルソーは、近代的な「社会契約(Social Contract)説」の論理を提唱した主要な哲学者の一人である。",
"title": "思想"
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{
"paragraph_id": 81,
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"text": "まず、1755年に発表した『人間不平等起源論』において、自然状態と、理性による社会化について論じた。ホッブズの自然状態論を批判し、ホッブズの論じているような、人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態はすでに社会状態であって自然状態ではないとした。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している状態(孤独と自由)を自然状態として論じた。無論、そこには家族などの社会もない。",
"title": "思想"
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{
"paragraph_id": 82,
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"text": "ルソーは、自然状態の人間について次のように語っている。",
"title": "思想"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態が訪れたとして、社会状態を規定する(「堕落」)。自然状態の自由と平和を好意的に描き、社会状態を堕落した状態と捉えるが、もはや人間はふたたび文明を捨てて自然に戻ることができないということを認めて思弁を進める。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "1762年に発表した『社会契約論』において、社会契約と一般意志なる意志による政治社会の理想を論じた。社会契約が今後の理想として説かれる点で、ルソーの社会契約説は、イギリスにおいて現状の政治社会がどのような目的の社会契約によって形成されたのかについて研究したホッブズやロックの社会契約説と異なる。『社会契約論』においてルソーは、「一般意志」を民意や世論といった単純な「特殊意志(個人の意志)」の総和(全体意志)としてではなく、それぞれの「特殊意志」から相殺しあう過不足を除き「相違の総和」として残された共通の社会的利益として考えていた。この社会的利益は要するに公共の福祉になるのだと説明している。ルソーは、ロック的な選挙を伴う議会政治(間接民主制、代表制、代議制)とその多数決を否定し、あくまでも一般意志による全体の一致を目指しているが、その理由は、ルソーが、政治社会(国家)はすべての人間の自由と平等をこそ保障する仕組みでなければならないと考えていたためである。そのため、政治の一般意志への絶対服従によって、党派政治や一部の政治家による利権政治を排した真に民主的な「共和国」の樹立を求めた。ただし、ルソーが言う「共和国」とは一般的な意味での共和国ではなく、君主政体でも法治主義が徹底されていれば「共和国」ということになる。ルソーの議論が導く理想は政治が一般意志に服従した人民主権(国民主権)の体制であった。ただし、ルソーは一般意志による政治について、民主政の他に君主政や貴族政を排除せず、政体はあくまでも時代や国家の規模によって適するものも異なるとし、社会契約による国家が君主政であるにせよ、あるいは貴族政であるにせよ、民主政であったとしても民意による支持があればそれで良く、政体は国情によって決まられるべきと考えていた。ルソーは、君主制とか共和制といった政体よりも国家を担う統治者が国民の一般意志に服従しているかどうかを重要視していたと考えられる。",
"title": "思想"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "『言語起源論』は、『人間不平等起源論』とともに構想されたルソーの著作であり、言語の起源を音声(音声言語)に求める。そしてエクリチュール(書かれたもの)については、情念から自然に発声される詩や歌を文字で表そうとする試みが、あくまでもその根源であるとする。そして歴史的な過程の中で言語からは情念が失われ(「堕落」)、理性的で合理的な説得の技術が重要となり、そしてそれは政治的な権力に代わったと、ルソーは考える。",
"title": "思想"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "20世紀、ジャック・デリダは、存在論に関する主著『グラマトロジーについて』の中で、ルソーの『言語起源論』を何度も引用しながら、言語におけるエクリチュールに対するパロール(話し言葉)の優越を語ってきた思想史を批判し、エクリチュールとパロールの二項対立と差異について論じている(デリダ哲学における脱構築も参照)。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "文明を主題にしたルソーの著作は、『学問芸術論』、『言語起源論』、『人間不平等起源論』など多い。その一貫した主張として、悪徳の起源を、奢侈、学問、芸術など、文明にこそ求めている点は非常に特徴的である。それらは、文明による「堕落」という言葉を以て示される。その文明に関する考え方は、まず『人間不平等起源論』に示される。前提として仮定される自然状態における自然人は、理性を持たず、他者を認識せず、孤独、自由、平和に存在している。それが、理性を持つことにより他者と道徳的(理性的)関係を結び、理性的文明的諸集団に所属することで、不平等が生まれたとされる。東浩紀は、ルソーの一般意志に関する研究書の中で、「社会の誕生を悪の起源とみなす。人間と人間の触れあいを否定的に評価する。これは社会思想家としては稀有な立場である。ルソーは多くの哲学者と異なり、人間の社交性に重要な価値を認めなかった」と特筆し、思想史上、極めて特異なルソーの文明観に着目している。ルソーが、「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)。しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略)奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」と述べている部分に、その主張を端的に読み取ることができる。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "1755年リスボン地震に関して、啓蒙思想家ヴォルテールが発表した『リスボンの災禍に関する詩』に対するルソーの批判にも、その文明観を見ることができる。ヴォルテールは、理性主義(合理主義)と理神論、理性的な文明を志向する思想の下、精力的に宗教批判や教会批判を行ってきた。そのためヴォルテールは、罪なき多くの人間が犠牲となったリスボンの災禍を教会批判に用い、非合理的な宗教を誤謬の象徴として捉え、教会が守ろうとしてきた社会に対して、その最善の世界で何故このような災禍が起こるのかと問いを提起した(教会信者の楽天主義に対する批判)。これはヴォルテールの啓蒙活動のなかでも重要なものとなり、ヴォルテールは理性による社会改革を訴える。そうした一連の主張に対して、ルソーは強く批判を行った。ルソーの考えによれば、自然災害にあたって甚大な被害が起こるとき、それは、理性的、文明的、社会的な要因により発展した、人々が密集する都市、高度な技術を用いた文明が存在することによって、自然状態よりも被害が大きくなっているということなのである。ルソーは『ヴォルテール氏への手紙』において、次のように述べている。「思い違いをしないでいただきたい。あなたの目論見とはまったく反対のことが起こるのです。あなたは楽天主義を非常に残酷なものとお考えですが、しかしこの楽天主義は、あなたが耐えがたいものとして描いて見せてくださるまさにその苦しみのゆえに、私には慰めとなっています」、そして「私たちめいめいが苦しんでいるか、そうではないかを知ることが問題なのではなくて、宇宙が存在したのはよいことなのかどうか、また私たちの不幸は宇宙の構成上不可避であったのかどうかを知ることが問題なのです」。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "上述のようにルソーは、理性とそれによる文明や社会を悲観的に捉えている。それゆえルソーは、主に教育論に関して論じた『エミール』において、「自然の最初の衝動はつねに正しい」という前提を立てた上で、子の自発性を重視し、子の内発性を社会から守ることに主眼を置いた教育論を展開している。初期の教育について、「徳や真理を教えること」ではなく、「心を悪徳から、精神を誤謬から保護すること」を目的とする。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "作曲家としてのルソーは、オペラ『村の占師』(Le Devin du village 1752年、パリ・オペラ座で初演)などの作品で知られる。なお、このオペラの挿入曲が、後に日本では『むすんでひらいて』のタイトルでよく知られるようになった童謡である。この作品はモーツァルトのオペラ『バスティアンとバスティエンヌ』の元になったことでも知られ、また、オペラの中のコランのアリア「いやいや、コレットは偽らない」(Non, non, Colette n'est point trompeuse)はベートーヴェンによって編曲されている(WoO. 158c)。",
"title": "思想"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "音楽理論家としては、音楽理論を整理し、音をより数学的に表現するため、「数字記譜法」を発案し、『音楽のための新記号案』を科学アカデミーにおいて発表した。その後、自身の音楽研究を『近代音楽論究』としてまとめている。また作曲の他に、晩年には『音楽事典』も出版している。",
"title": "思想"
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"text": "起源を音声に求めるルソーの言語論は、その音楽論と表裏一体の議論である。",
"title": "思想"
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"text": "1750年代のブフォン論争においては、イタリアのオペラ・ブッファの擁護者の代表として、フランス音楽を痛烈に批判した。",
"title": "思想"
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"text": "博物学的な観察によって、植物を分類し、植物学に関する体系的な著作を残している。『孤独な散歩者の夢想』においてルソーが自認しているとおり、ルソーは、他者との社交よりも、自然と孤独を好んだ。そして思想的進歩性から迫害されることもあったルソーは、特にスイス亡命中に植物の観察を多く行っている。ルソーは、長い時間をかけて植物の形態と表象的な記号を詳細に記録し、分類した。『植物学』は、ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテが博物画を担当し、ルソーの死後に刊行されている。また、ルソーは独自に編纂した『植物用語辞典』の出版を計画しており、遺稿として残されている。",
"title": "思想"
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"text": "ディドロやダランベールなど、いわゆる百科全書派と深い交流を持ち、自身も百科全書のいくつかの項目を執筆したが、後に互いの主義主張の違いや、ルソー本人の被害妄想の悪化などが原因で決裂することとなる。",
"title": "人物"
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"text": "ルソーから影響を受けた人物としては、哲学者のイマヌエル・カントが有名である。 ある日、いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々は何かあったのかと大きな騒ぎになった。実はその日、カントはルソーの著作『エミール』をつい読み耽ってしまい、すっかりいつもの散歩を忘れてしまっていたのであった。カントはルソーについて、『美と崇高の感情に関する観察』への覚書にて次のように書き残している。",
"title": "評価・影響"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "ルソーの思想はカントの他、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルなどにも影響を与え、ドイツ観念論の主軸の流れに強い影響を及ぼした。",
"title": "評価・影響"
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"text": "ルソーと同じくカントに影響を与えた哲学者の一人として知られるイギリスのデイヴィッド・ヒュームは、ルソーと交友関係があった。しかし、ヒュームとルソーは後に絶交する。",
"title": "評価・影響"
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"text": "ルソーの影響は、20世紀以降のフランス現代思想にも見られる。クロード・レヴィ=ストロースは、人類学の一つの起源としてルソーを再評価している。ポスト構造主義の現象学系哲学者ジャック・デリダは、『グラマトロジーについて』(特にルソー論となっているその後半部分)において、脱構築的読解(散種)によって、『言語起源論』をはじめとするルソーの諸著作を再読している。",
"title": "評価・影響"
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"text": "また、詩人フリードリヒ・ヘルダーリンもルソーの影響を深く受けた。ヘルダーリンの詩編を詳細に分析したマルティン・ハイデッガーがなぜかルソーに言及しないことに注目したフィリップ・ラクー=ラバルトは、ハイデッガーにおけるルソー的な問題設定の逆説的な反映を『歴史の詩学』(日本語版 藤原書店, 2007)において論じた。",
"title": "評価・影響"
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"text": "帝政ロシアの作家レフ・トルストイは青年期にルソーを愛読し、生涯その影響を受けた。地主でもあったトルストイの生活と作品には「自然に帰れ!」の思想が反映している。",
"title": "評価・影響"
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"text": "なお、ルソーの思想を語る際に「自然に帰れ!」というフレーズがよく引き合いに出されるが、ルソーの著作には「自然に帰れ!」という具体的な文句は一度も登場しない。ルソーの著作のひとつの解釈として、ルソーはそのように言っているようなものであるという譬えであり、このような評はルソーの在世中にもあったが、誤解であると言われる。",
"title": "評価・影響"
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"text": "哲学者としては啓蒙思想家(フィロゾフ)に位置づけられるルソーであるが、作家としても大きな成功を収めており、その「私」を強烈に押し出した作風は、後のロマン主義の先駆けとなったといわれ、その長大かつ詳細な自伝である『告白』は『懺悔録』の名で日本語訳され、太宰治などのエッセイにもその言及がみられる。また、本人が「空想のままにペンを走らせた」という『新エロイーズ』は18世紀フランスにおける最大級のベストセラーとなり、ヴォルテールの『カンディード』と並び称された。",
"title": "評価・影響"
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"text": "ルソーを含む近代哲学者の思想的影響を受けたとされ、ルソーの死後に始まったフランス革命においては、「反革命派」と名指しされた者に対して迫害、虐殺、裁判を経ない処刑が行われるなど、恐怖政治が行われた。マクシミリアン・ロベスピエールやナポレオン・ボナパルトといった指導者たちが「一般意志」などルソーの概念を援用し、人民の代表者、憲法制定権力を有する者と自称して、独裁政治を行ったということは、歴史的事実である。しかし、ルソーの存在しない時代において行われたそれらがルソーの理想するところであったかどうかについては、留意すべき点である。後述のように、そもそもルソー自身は、その思想において、代表制の政治に非常に懐疑的である。",
"title": "評価・影響"
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"text": "また、「ダランベール氏への手紙:演劇について」においては、演劇の持つカタルシスの機能を批判した。",
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"text": "中江兆民、生田長江、大杉栄らはルソーの翻訳をし、また作家の島崎藤村は明治42年(1909年)3月に「ルウソオの『懺悔』中に見出したる自己」を発表し、ルソーの『懺悔録』(『告白』)に深い影響を受けたと述べている。",
"title": "評価・影響"
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"paragraph_id": 107,
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"text": "明治10年(1877年)12月に日本で初めてのルソーの日本語訳である「民約論」(服部徳訳・田中弘義閲 有村壮一)が発表され、明治15年(1882年)には中江兆民訳で「民約訳解」が発表されて以降、現在に至るまで多数の訳書が日本では刊行されている。",
"title": "評価・影響"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "デリダ派哲学者として知られる東浩紀は、新しい政治構想として、解釈が難しく全体主義の一つの起源とまでされた一般意志を、ジークムント・フロイトの無意識論における集合的無意識と結びつけるという思想史的に見て非常に特異な解釈を示し、それをさらに情報化社会においてデータとして蓄積される集合知と結びつけることによって、現代の政治に一般意志を用いる構想を行っている(『一般意志2.0』)。",
"title": "評価・影響"
},
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"paragraph_id": 109,
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"text": "一般にフランス王妃マリー・アントワネットが言ったものとして流布している「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」という言葉(「お菓子」の代わりにケーキやクロワッサンなどとも。原文は S'ils n'ont pas de pain, qu'ils mangent de la brioche、直訳すれば「パンがないのであればブリオッシュを食べてはどうか」)の出所は、『告白』第6巻に書かれた記事(小咄)である。原典では「たいへんに身分の高い女性」の言葉とされており、発言者がマリー・アントワネット(『告白』第6巻が執筆された1765年当時は9歳のオーストリア大公女だった)と結び付けられるのは後世である(考証は「ケーキを食べればいいじゃない」参照)。",
"title": "その他"
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{
"paragraph_id": 110,
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"text": "明治時代から平成に至る日本語訳書の一覧は、ルソー翻訳作品年表を参照。",
"title": "日本語訳"
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] |
ジャン=ジャック・ルソーは、フランス語圏ジュネーヴ共和国に生まれ、主にフランスで活躍した哲学者、政治哲学者、作曲家。
|
{{Infobox 哲学者
| region = [[西洋哲学]]
| era = 18世紀の思想家
| image_name = Jean-Jacques Rousseau (painted portrait).jpg
| image_size = 200px
| image_alt = ルソーの肖像
| image_caption = ルソーの肖像
| name = ジャン=ジャック・ルソー<br />{{lang|fr|Jean-Jacques Rousseau}}
| other_names =
| birth_date = {{生年月日と年齢|1712|6|28|no}}
| birth_place = [[File:Flag of Canton of Geneva.svg|20px]][[ジュネーヴ州|ジュネーヴ共和国]]、[[ジュネーヴ]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1712|6|28|1778|7|2}}
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| school_tradition = [[百科全書派]]、[[社会契約|社会契約説]]、[[ロマン主義]]
| main_interests = [[政治哲学]]、[[音楽理論]]、[[言語の起源]]、[[教育哲学]]、[[文学理論]]、[[自伝]]、[[植物学]]
| notable_ideas = [[一般意志]]、自己愛、自尊心、人間本性、[[児童中心主義|児童中心主義教育]]、市民宗教など。一般意志の概念を提出したことによって[[国民主権]]概念の発展に強い影響を与えた他、[[自由主義]]思想史においては[[積極的自由]]を掲げた思想家と位置づけられる。
| influences = [[プラトン]]、[[アリストテレス]]、[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]、[[プルタルコス]]、[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]、[[ミシェル・ド・モンテーニュ]]、[[ルネ・デカルト]]、[[フーゴー・グローティウス]]、[[トマス・ホッブズ]]、[[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[ザミュエル・フォン・プーフェンドルフ]]、[[ジョン・ロック]]、[[シャルル・ド・モンテスキュー]]、[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]]、[[ドゥニ・ディドロ]]、[[ヴォルテール]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]など
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| signature = Jean-Jacques Rousseau Signature.svg
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}}
'''ジャン=ジャック・ルソー'''({{lang|fr|Jean-Jacques Rousseau}}、[[1712年]][[6月28日]] - [[1778年]][[7月2日]])は、[[フランス語圏]][[ジュネーヴ]]共和国に生まれ、主に[[フランス王国|フランス]]で活躍した{{efn|ジュネーヴは当時、フランス王国にもスイス連邦にも属していない共和制の独立都市であった。<br>ジャン=ジャック・ルソーは自著に「ジュネーヴ市民ジャン=ジャック・ルソー」と署名していた<ref>中央公論新社『哲学の歴史 6』</ref>。}}[[哲学者]]、[[政治哲学|政治哲学者]]、[[作曲家]]<ref>{{Cite book|和書|author=白石正樹 |year=1983 |month=4 |title=ルソーの政治哲学〈上巻〉 - その体系的解釈 |publisher=早稲田大学出版部}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=レイモン・ポラン |others=水波朗 他訳 |year=1982 |month=4 |title=孤独の政治学 - ルソーの政治哲学試論 |publisher=九州大学出版会}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=土橋貴 |year=1988 |month=7 |title=ルソーの政治哲学 - 宗教・倫理・政治の三層構造 |publisher=青峰社 |isbn=978-4795274105}}</ref>。
== 生涯 ==
=== ジュネーブでの幼年期 ===
[[ファイル:Rousseau Geneve House.JPG|thumb|upright|ルソーの生家]]
ジャン=ジャック・ルソーは、[[1712年]][[6月28日]]、[[ジュネーヴ]]のグラン・リュ街にて誕生した。父はイザーク・ルソー、母はシュザンヌ・ベルナール<ref name="中里(1969)27">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.27</ref>。
ルソー家の先祖は[[パリ]]近郊{{仮リンク|モンレリ|en|Montlhéry}}に由来し、1549年にディディエ・ルソーが[[プロテスタント]]弾圧から逃れるためにジュネーヴに移住したことに起源がある。[[ジュネーヴ]]は[[カルヴァン]]派の[[ユグノー]]が構成するプロテスタントの都市共和国であり、当時はまだ[[スイス|スイス誓約者同盟]]に加盟していなかった{{sfn|桑瀬編|2010|p=6}}。[[ジュネーヴ]]はルソーの故郷であり続け、自分を[[ジュネーヴ]]市民として見ていた<ref name="中里(1969)27">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.27</ref>。
父イザークは陽気で温和な性格をもった時計職人であり、ルソー家が代々営んでいた「時計師」は、当時のジュネーヴでは上位身分であった市民と町民のみに限定される職であった{{sfn|桑瀬編|2010|p=6}}(母方の祖父も時計師であった{{sfn|永見|2012|p=17}})。要するにジャン=ジャックは貧困層ではない中間的な職人階級の家に生まれたのであるが、幸せな家庭環境や安定した人生に恵まれなかった。7月7日、ジャン=ジャックは生後9日にして母を喪っている{{sfn|永見|2012|p=18}}<ref name="中里(1969)27-28">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.27-28</ref>。母シュザンヌ・ベルナールは裕福な一門の出で、賢さと美しさを具えていたと言われている。ジャン=ジャックは母からこうした美点を受けついで誕生するが、幼いころは病弱であった。病気がちであったことは精神面の敏感さと共に生涯にわたって苦悩の原因になっていく。5年後の1717年にルソー家は上流階級の住む街グラン・リュから庶民の住むサン=ジェルヴェ地区に居を移し{{sfn|永見|2012|pp=18-19}}、ジャン=ジャックは父方の叔母シュザンヌ・ルソーの養育を受け、父親を手本に文字の読み書きなどを教わりながら育った。7歳の頃から父とともにかなり高度な読書をおこない、小説や[[プルタルコス]]の『英雄伝』などの歴史の書物を読む。この時の体験から、理性よりも感情を重んじる思想の素地が培われた<ref name="中里(1969)28-30">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.28-30</ref>。
1722年、ルソーが10歳のころ、彼の人生は一変する。
父は、ザクセン選帝侯に仕えた元軍人のゴーティエという貴族との喧嘩がもとで、剣を抜いたという一件で告訴され、ジュネーヴから逃亡することになった<ref name="中里(1969)30-31">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.30-31</ref>。兄は徒弟奉公に出され(後に出奔して行方知れず)、孤児同然となったジャン=ジャックは、母方の叔父である技師ガブリエルによって従兄のアブラハム・ベルナールと共にランベルシェという牧師に預けられたが、ジュネーヴ郊外のボセーで不自由な寄宿生活を送ることになった。しかし、ルソーにとってここでの暮らしは決してよい生活ではなく、牧師の妹で未婚の40代女性ランベルシェ嬢から身に覚えのない罪で度々折檻もされたという。この時期、不法な支配への反発心がありました。
1724年秋にジュネーヴに帰ってから司法書記マスロンのもとで書記見習いとなるも長続きせず、1ヶ月半後には、横暴で教育能力のない20歳の[[彫金]]師デュマコンのもとで5年契約の徒弟奉公を強いられた{{sfn|永見|2012|p=21}}。ルソーは日常的に[[虐待]]を受け、次第に虚言を語り、仕事をさぼって悪事や盗みを働く素行不良な非行少年となっていた。ただし、生活環境が悪化して無気力になっていたものの読書の習慣は続いていた。貸本屋で本を借りて読書に耽っては仕事をさぼり、親方に本を取り上げられたり、捨てられたりしながらも読書を続けた。ルソーにとって読書は唯一の逃避だったのである<ref name="中里(1969)33-35">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.33-35</ref>。
=== 青年時代 ===
==== ヴァランス夫人との出会い ====
[[ファイル:FrancoiseLouiseWarens.jpg|thumb|right|{{仮リンク|ヴァランス夫人|en|Françoise-Louise de Warens}}。ルソーの保護者であり、一時愛人となった女性。]]
1728年3月14日、ルソーは市の城門の閉門時間に遅れて、親方からの罰への恐怖から遂に出奔を決意する。従兄のベルナールから僅かな金と護身用の剣を受け取り、一年に及ぶ放浪生活に入った<ref name="中里(1969)36">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.36</ref>。当初、南に向かって歩き始め、[[サルディニア王国]]の[[トリノ]]に行くが落ち着き先を得られずに放浪した。やがて、[[サヴォイア公国|サヴォワ領]]のコンフィニョンに流れ着き、カトリック司祭のポンヴェール<!--Benoît de Pontverre-->の保護を受け、落ち着き先を手配された。それがルソーの生涯に大きな影響を与える貴婦人の屋敷であった<ref name="中里(1969)37">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.37</ref>。
1728年3月21日、ルソーは[[アヌシー]]のヴァランス男爵夫人の屋敷を訪ねて世話を受けるようになった。ルソー15歳、フランソワーズ=ルイーズ・ド・ラ・トゥール・ド・ヴァランスはこのとき29歳であった。二人の出会いについてルソーはこう回想している。
{{Quotation|「わたくしはとうとう着いた。わたくしはヴァラン夫人にあった。……この一瞥の瞬間の驚きはいかばかりだったであろう。……。ボンヴェール司祭の言う親切な婦人というのは、私の考えでは、それ以外にはありえなかった。しかし、わたくしは、優美さに満ちた顔、やさしい青い美しい目、まばゆいばかりの顔色、そしてうっとりとさせるほどの胸の輪郭を見たのだ。若い改宗者は、すばやい一瞥でなにも見逃さなかった。若い改宗者と言ったのは、その瞬間わたくしは彼女のものとなってしまっていたし、また、この伝導師によって伝えられた宗教は、きっと天国に導いてくれると確信するようになったからである。……。ボンヴェール司祭の手紙をちらりと見てから、彼女はわたくしをどっきとさせた調子で『坊や、こんなに若いのに放浪しているの。本当にお気の毒です。』といい、さらに、『わたくしの家にいってわたくしをお待ちなさい。そして食事を言いつけなさい。ミサが済みましたらお話にいきます。』といった。」<ref name="中里(1969)37-38">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.37-38</ref>}}
ルソーはヴァランス夫人に恋をした<ref name="中里(1969)39">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.39</ref>。そのヴァランス夫人は15歳でセバスチャン=イザーク・ド・ロワと結婚したが、夫との不仲のため家を出てカトリックに改宗し、[[サルデーニャ]]王でもあるサヴォワ公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]の保護を受け1500リーブルという多額の年金を与えられていた<ref name="中里(1969)38">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.38</ref>。
==== サヴォアの助任司祭 ====
彼女はルソーと暮らすことはなく、彼をカトリック改宗のためにトリノの救護院に行くように手配する<ref name="中里(1969)40">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.40</ref>。救護院では二カ月ほど缶詰状態の暮しであったが、形ばかりの改宗の後、20フランを与えられて解放され、再び自由の身となった<ref name="中里(1969)41">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.41</ref>。その後もさまざまな職業を試したが、不良時代の名残で素行が悪く盗みを働いたり、虚言で人に罪を着せたりとしたため信用を失い、結局どの職にも落ち着くことができなかった<ref name="中里(1969)42-43">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.42-43</ref>。
その間、懇意になったジャン=クロード・ゲームという、20歳ほど年上のサヴォアの助任司祭から温かい援助を受けていた。ゲームは裕福なわけでも仕事の紹介や世話をしたわけではないが、悪事を働きそのたびに失敗するルソーが生き方を改められるように「小さな義務を果たすことは英雄的行為に匹敵するほど大事なことで、常に人から尊敬されるように心がけるよう」助言を与えた。幸福になるためこれまでの生き方を捨て健全な道徳と正しい理性を保って生きるように、ゲームから勧められ励ましてもらったことを、ルソーは後に「当時、わたしが無為のあまり邪道におちいりそうなのを救ってくれたことで、測りしれぬ恩恵をあたえてくれた」と回想している<ref name="中里(1969)44-45">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.44-45</ref>。
この時の経験は後にルソーが執筆した『[[エミール (ルソー)|エミール]]』第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」の思想で中核を占める部分となる。
==== ヴァランス夫人との暮らし ====
ルソーはその後も使用人などの職を転々として各地を放浪していたが、1729年春、ヴァランス夫人のもとに再び戻ることになる。ヴァランス夫人はルソーの無事を喜びルソーを引き取ることを決心する。夫人は母のようにルソーにキスをして撫で「坊や」と呼び、ルソーは夫人を「ママン」と呼んだという。親子のような情愛を受けルソーは幸福であった<ref name="中里(1969)47-48">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.47-48</ref>。
ヴァランス夫人はルソーを神学校や音楽学校に入れ、将来の職を得られるように図ったが、ルソーは夫人からなかなか離れようとはせず学業は長続きしなかった<ref name="中里(1969)49">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.49</ref>。夫人はルソーが不在の折にパリに出立して消息を絶ってしまう<ref name="中里(1969)50">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.50</ref>。ルソーは突如孤独となったが夫人の女中メルスレが親元に帰るのに同行することになった。ルソーはジュネーヴを経由し、ニヨンに立ち寄って父イザークを訪ねた。二人は涙を流して再会を喜んだ。しかし、ルソーは父親と暮らす意思はないことを父に伝えた<ref name="中里(1969)50">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.50</ref>。その後、メルスレを実家に送り戻したがルソーはアヌシーに帰らず、再び放浪を始めた。
==== 再びの放浪生活 ====
ルソーは音楽が好きであったため(教えるほどの力はなかったが)音楽家を自称して音楽教師になろうとした。能力不足とはいえ、音楽を勉強する機会になったという<ref name="中里(1969)51-52">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.51-52</ref>。1731年4月、[[エルサレム]]の僧院長を自称する詐欺師に秘書兼通訳志としてスイスの[[ベルン]]で行動を共にしているところを、フランス大使館に引き留められ保護されることになった。フランス大使館の書記官の計らいで[[パリ]]に行く機会を与えられる<ref name="中里(1969)53">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.53</ref>。
[[ファイル:Carte topographique des environs et du plan de Paris - 1735 - btv1b8442730b.jpg|thumb|200px|[[1735年]]のパリの地図]]
ルソーは[[パリ]]にはじめて到着したが、そこで目にしたのは悪臭に満ちた街路、黒くて汚い家々、乞食があふれる不潔な大都市であった<ref name="中里(1969)53">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.53</ref>。大使館から与えられたルソーの所持金はなくなりつつあった。しかし、ルソーはヴァランス夫人に再会できずにいた。夫人は二か月前に同地を発っていたのである。
そこでルソーは無一文であったが徒歩で[[リヨン]]に向かった。途中途中美しい田園風景が広がっており、ルソーは農家の家に泊めてもらいながら旅をした。ルソーはフランス農村部の百姓の暮らしを見ることになる。ルソーは歩き通しで空腹に耐えかね、農家に宿を借りた。ルソーは夕食に油分を絞った後の薄いミルクと大麦パンという質素な食事を一気に食べる。これを見た主人はルソーが役人ではないことを理解し、今度は隠していた小麦のパンとハムとワインを用意してオムレツまで提供したという。度重なる重税から逃れるために貧しい暮らしを演じていたのである。
ルソーのこの旅行での経験はルソーにとって意義深いものとなった、「自然が美しい豊かな恵みを与えているのに、それを重税が破壊してしまう」様を目の当たりにしたのである<ref name="中里(1969)54-55">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.54-55</ref>。リヨンに着いてヴァランス夫人を探したものの、夫人はいなかった。だが、夫人の知人と会うことができ、連絡を取る約束を得た。ルソーは楽譜の写本の仕事をしながら滞在し、夫人からの連絡を待っていた。しばらくのち、シャンベリーにいた夫人から手紙と旅費が届き、1731年9月夫人と再会を果たす<ref name="中里(1969)56">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.56</ref>。
==== ヴァランス夫人との愛人生活 ====
ルソーは土地測量の書記の仕事を紹介され地図作成の技術を教わり、デッサンに興味を持つ。ルソーは植物のデッサンにそのときのスキルを生かしている。しかし、ヴァランス夫人との生活はルソーの自立を困難なものにした。共通の趣味となった音楽に嵌まり、仕事を半年余りで投げ出してしまう<ref name="中里(1969)57">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.57</ref>。
夫人が自宅で開く月一の音楽会では、若くて麗しい美男子のルソーは女性たちの関心の的となっていた。ルソーはラール夫人から娘の家庭教師を引き受けてほしいと頼まれたが、夫人のルソーへの関心を知るヴァランス夫人はこれを聞き、ルソーを他の女性から守ろうと考え始める。ルソーはヴァランス夫人と[[性交渉]]を持ち、女性を教わることになる。ヴァランス夫人との関係は1732年以降、保護者と被保護者の関係を越えた愛人関係になっていく<ref name="中里(1969)58-59">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.58-59</ref>。ルソーはこの時の心境をかく告白している。
[[ファイル:LesCharmettes.jpg|thumb|right|1735年から1736年にかけてヴァランス夫人と暮らした屋敷]]
「わたくしははじめて女性の腕に抱かれた。熱愛する女性の腕に抱かれていたのだ。わたくしは幸福であったであろうか。そうではなかった。わたくしはあたかも[[近親相姦]]を犯したような気持ちであった。」<ref name="中里(1969)59">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.59</ref>
そんな時期、夫人が手掛ける薬品の製作の補助で事故がおこり、ルソーは一時生死をさまよう。その後も思うような回復が見られなかったことから、農村のレ・シュルメットに転居する。同地でルソーは好きな読書に励み、菜園での果樹の栽培をおこなうなど快適な暮らしをしていた<ref name="中里(1969)60">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.60</ref>。しかし、身体の変調からルソーは死を感じるほど患い、これによりルソーの人生に再び重要な転機が起こる。残り僅かの人生だと覚悟し、これを有意義に使おうと考えるようになったのだ。ルソーは元々の読書力を駆使して哲学、幾何学、ラテン語を学習し、独学で膨大な書物を読破して研鑽し、教養を身につけた。哲学では、『[[ポール・ロワイヤル論理学]]』や[[ジョン・ロック]]の『[[人間悟性論]]』、[[マールブランシュ]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]、[[ルネ・デカルト|デカルト]]など書物を読み、哲学と科学の学習を始めた。その庇護の許に青年時代を送り、音楽を勉強し、貪婪なほどの好奇心で[[ギリシア哲学]]や[[モラリスト]]の著作、[[啓蒙主義]]などの自学自習に没頭して教養をつくった。ヴァランス夫人の感化とルソーの敬愛の情は彼自身が認めるように大きかった。なかば母子でもあり愛人関係でもあるかたちでヴァランス夫人のもとで庇護されながら、さまざまな教育を受けた<ref name="中里(1969)61-62">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.62-62</ref>。この時期については晩年、生涯でもっとも幸福な時期として回想している。
1737年、医師の診断を受けるために[[モンペリエ]]に出かけた後、ルソーはヴァランス夫人との我が家に異変を感じる。ヴァランス夫人が18歳のヴィンシェンリードという新しい愛人を家に入れていたのである。ルソーは新しい愛人と折り合うのを拒み、ヴァランス夫人と距離を置きはじめた結果、二人の関係は冷めていってしまう。ルソーは夫人に家を出ることを伝え、自分の進むべき道を探求する決意を告げた。マブリ家の家庭教師を務めるつもりであることを説明して、夫人はこれに賛同し、ルソーは独立する<ref name="中里(1969)63">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.63</ref>。
ヴァランス夫人と別れた後、[[1740年]]から[[リヨン]]のマブリ家(哲学者マブリ、[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック|コンディヤック]]の実兄の家)に逗留し、マブリ家の二人の子供の[[家庭教師]]を務めた。しかし長続きしなかった。ルソーは家庭教師もうまくいかず、さらにワインの盗み飲みを発見されて、マブリ家にいづらくなっていた<ref name="中里(1969)63">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.63</ref>。レ・シュルメットのヴァランス夫人の家に一時戻るが、夫人の家は(ルソーがいたころからであるが)家計が長く傾いており、そこにルソーの居場所はなかった。ルソーはヴァランス夫人への恩返しのためにパリでの立身出世を志すようになる<ref name="中里(1969)64">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.64</ref>。
=== パリ時代 ===
==== 学界デビュー ====
[[ファイル:Louise Marie Madeleine Fontaine 1706-1799.jpg|thumb|200px|right|若き日の{{仮リンク|デュパン夫人|en|Louise Marie Madeleine Fontaine|fr|Madame Dupin}}]]
ルソーは家庭教師の職を辞めた後、[[1742年]]に数字によって音階を表す音楽の新しい記譜法を考案し、それを元手にパリに出て、一儲けしようと考える。パリ、[[ソルボンヌ]]に近いコルディエ街のサン=カンタンというホテルに居住しながら執筆をおこない、8月22日、パリの[[科学アカデミー]]に『新しい音符の表記に関する試案』を提出した<ref name="中里(1969)65">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.65</ref>。ルソーに対してはいくらかの賛辞が贈られたが、経済的に用立つような職への紹介や斡旋は無かった。音楽の個人教師をしながら生計を立てるという生活が続き、外出もなく孤独に引き篭もる毎日だったという。例外で[[ドゥニ・ディドロ]]と親しくなり、カステル神父の紹介で社交界の女性たちと交友する機会を得ている<ref name="中里(1969)66-67">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.66-67</ref>。
[[ファイル:Louis-Michel_van_Loo_001.jpg|thumb|right|[[ドゥニ・ディドロ]]]]
文化人の一人として活動するようになったものの、ルソーはサヴォア地方の田舎上がりの人物で、パリ社交界の中心的な存在とは程遠かった。社交界には当時最高の美女と評されたデュパン夫人や大物知識人[[ヴォルテール]]の姿もあった<ref name="中里(1969)67">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.67</ref>。
1743年ルソーは、[[ヴェネツィア]]にフランスの大使の秘書として勤務したが、大使の横暴に耐えかね一年後に辞職していた。やむなくパリに帰るが、俸給の給与を受けられないなど不条理な扱いを受けた<ref name="中里(1969)68">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.68</ref>。さらに、音楽家として生きる道を志していたが、満足いく評価を得られず大成の道は困難となっていた。また、1745年にはオペラの楽曲として『恋のミューズたち』の作曲活動に従事していた<ref name="中里(1969)69">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.69</ref>。
==== テレーズとの出会い ====
ルソーはサン=カンタンのホテルで23歳の女中{{仮リンク|テレーズ・ルヴァスール|fr|Marie-Thérèse Le Vasseur}}に出会い、恋に落ちる。テレーズに教養は無く、文字の読み書きも満足にできなかったというが、ルソーは彼女の素朴さに惹かれたようである<ref name="中里(1969)69">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.69</ref>。
二人は「決して捨てないし結婚もしない」という条件で生涯添い遂げるが、晩年になるまで正式な結婚はしなかった。この二人の関係は、周囲の状況に影響を受け順調にはいかなかった。テレーズの親類縁者がルソーを図々しく頼り、ルソーは稼がなくてはならなくなる<ref name="中里(1969)70">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.70</ref>。また、二人の間には1747年から1753年までに五人の子供ができるが、経済力のないルソーは当時では珍しいことではないのだが、わが子を孤児院に入れている<ref name="中里(1969)72">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.72</ref>。当時のパリでは年間3千人の捨て子が発生しており、この問題はすでに社会現象化していた。ルソーも当時の悪しき社会慣行に従ったわけだが、この出来事は『エミール』を書くときに深い反省を強いるものになり、ルソーに強い後悔の念をもたらしていく。
この時期のルソーは窮乏しており、デュパン夫人とその義理の息子であったフランクィユ氏の秘書をして暮らしを立てていた<ref name="中里(1969)72">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.72</ref>。
==== 『学問芸術論』の執筆 ====
1749年、友人のディドロが『盲人書簡』という冊子を匿名で出版するが、内容に無神論的な記述があったため、ヴァンセンヌの監獄に収監された。ルソーは度々ディドロを訪ねている<ref name="中里(1969)73">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.73</ref>。
こうした状況の1750年、ルソーは『メルキュール・ド・フランス』という雑誌の広告を目にし、{{仮リンク|ディジョン科学アカデミー|fr|Académie des sciences, arts et belles-lettres de Dijon}}が「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」という課題の懸賞論文を募集していることを知る。ルソーに突然の閃きが生じて、三十分にわたり精神が高揚して動けなくなってしまったという。ルソーはこのときの感想を「これを読んだ瞬間、わたくしは他の世界を見た。わたくしは他の人間になってしまった。」と述べている。『ファブリキウスの弁論』という小論をディドロに読んで聞かせて感想を求めた。ディドロは速やかに論文を執筆するように助言し、ルソーは早速執筆をすすめアカデミーに論文を提出した<ref name="中里(1969)73-74">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.73-74</ref>。
ルソーは文明への道徳的批判のテーマを掲げて持論を展開させ、自分自身の確固たるものとなっていた信念を一流の論述によって表現した。
「人間は本来善良であるが、堕落を正当化する社会制度によって邪悪となっている」という直感のもとに、学問・芸術の発達が素朴さに表されるような美徳を喪失させて、衒学的な知識と享楽的な文化を用いて人々に専制君主のもとでの奴隷状態を好ませていると批判を展開していく<ref name="ルソー 『学問芸術論』 (1968)14-15">{{Harvnb|ルソー|1968}} pp.14-15</ref>。「学問、芸術の光が地平線の上にのぼるにつれて、美徳が逃れ去るのがみられる」と述べて、文化・文明の発達は不平等の起源であり、道徳の堕落と併行すると主張したのである<ref name="ルソー 『学問芸術論』 (1968)19">{{Harvnb|ルソー|1968}} p.19</ref>。質実剛健と公的精神にあふれた古代[[スパルタ]]の市民の道徳的な貞潔さや健全さを指摘、郷愁に満ちた思いのうちに答えを見出そうとした<ref name="ルソー 『学問芸術論』 (1968)24">{{Harvnb|ルソー|1968}} p.24</ref>。文化を健全化させるには人間自身に内在している「自然の導きに従えば良い」と見解を示し、人間の良識に学問や哲学、芸術を基礎付けるべきだと主張した<ref name="ルソー 『学問芸術論』 (1968)29-30">{{Harvnb|ルソー|1968}} pp.29-30</ref><ref name="桑原(1962)3-5">{{Harvnb|桑原|1962}} pp.3-5</ref>。
ルソーは、学問と芸術の発達が人間の腐敗と堕落をもたらすことを主張するとともに、文化は圧政を布く専制君主が人々を支配して抑圧に順応させるための懐柔策だと指摘して、論壇に衝撃を与えたのである<ref name="ルソー 『学問芸術論』 (1968)14-15">{{Harvnb|ルソー|1968}} pp.14-15</ref><ref name="桑原(1962)3-5">{{Harvnb|桑原|1962}} pp.3-5</ref>。彼が執筆した著作『[[学問芸術論]]』({{lang|fr|''Discours sur les sciences et les arts, 1750''}})は見事入選を果たす。
これが契機となり不遇な状態は一変、以後次々と意欲的な著作・音楽作品を創作する。ルソーは自分が有名になって以降、パトロンとして保護したいというフランクィユ氏など周囲からの申し出を断り、独力で音楽活動にも邁進しながら楽譜の写本などの手段で生計を立てる道を模索する<ref name="中里(1969)76-77">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.76-77</ref>。
1752年の春、ルソーは健康状態がすぐれなかったため[[パシー]]にいた。そこで『村の占い師』を作曲する。この楽曲は王宮で公演され、国王[[ルイ15世]]の関心を惹くことになった。ルソーは国王から年金給与の申し出を受け、拝謁の機会を賜っている。しかし、ルソーは泌尿器系の持病をもち瀕尿であったため、人前で失禁する恐怖を感じながら生活をしていた。社交界での活動を控え、引き篭もるような暮らしをしていたのには、こうした身体面での悩みのためであった。また、国王とうまく話せる自信がなかったため、国王の申し出を辞退する。この一件は人々から厳しく非難され、ディドロもルソーを咎めた。このような行動は発言や執筆の自由を失うことを恐れたことが要因であるとも考えられている<ref name="中里(1969)77-78">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.77-78</ref>。
==== 『人間不平等起源論』の執筆 ====
1753年、ディジョンのアカデミーが再び「人々の間における[[不平等]]の起源は何であるか、そしてそれは[[自然法]]によって容認されるか」という主題のもと懸賞論文を募った<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)8">{{Harvnb|ルソー|1933}} p.8</ref><ref name="桑原(1962)12">{{harvnb|桑原|1962}} p.12</ref>。ルソーは論文執筆のために[[サンジェルマン]]に行った。かの地で、ルソーは彼にとってさらに本質的な問いに対して『[[人間不平等起源論]]』({{lang|fr|''Discours sur l'orgine de l'inégalité parmi les hommes, 1755''}})を著した。ルソーは『学問芸術論』の論文の文明批判の思想を更に展開させた。『人間不平等起源論』は41歳にして書き上げたルソー初の大作であり、懸賞論文への解答であった<ref name="中里(1969)79">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.79</ref>。
ルソーは、原初の[[自然人]]は与えられた自然環境のもとでその日暮らしをしており、自己愛と同情心以外の感情は何も持たない無垢な精神の持ち主であったと想像した。冒頭に登場する自然人の描写は「原始人」といってもよい段階である。ルソーは本書において[[人類の進化|進化論]]を採用しなかったものの、現代科学でいうなら[[旧石器時代]]に現れた[[化石人類]]に相当する種をイメージしたと考えられる。先史時代における[[平等]]で争いのない[[自然状態]]を描きだしていった<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)80">{{Harvnb|ルソー|1933}} p.80</ref><ref name="桑原(1962)14-15">{{harvnb|桑原|1962}} pp.14-15</ref>。
しかし、こうした理想の状態は人間自身の技術的な進歩によって失われていったと見た。狩猟の道具が高度になり、獲物の数も増え人口も増加した。[[狩猟採集]]段階に到達した人類の「自然人」イメージは[[インディアン]]や[[コイサン族]]など現存する[[未開人]]をモデルに描かれた。やがて、人々が農業を始め土地を耕し家畜を飼い文明化していく中で、生産物から「余剰」が、すなわち不平等の原因となる[[富]]が作り出され、富をめぐって人々がしだいに競い合いながら不正と争いを引き起こしていったと考えた<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)96-97">{{Harvnb|ルソー|1933}} pp.96-100</ref>。「私有財産制度が[[ホッブス]]的闘争状態を招いた」と指摘したのである<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)103">{{Harvnb|ルソー|1933}} p.103</ref><ref name="桑原(1962)16">{{harvnb|桑原|1962}} p.16</ref>。また、文明化によって人間は「協力か死か」という状況に遭遇するが、相互不信のため協力することは難しいと喝破した。これは一般的にルソーの「[[鹿狩りの寓話]]」として知られる。
やがて、こうした状況への対処として争いで人間が滅亡しないように「欺瞞の[[社会契約]]」がなされる。その結果、富の私有を公認する私有財産制が法になり、国家によって財産が守られるようになる。かくして不平等が制度化され、現在の社会状態へと移行したのだと結論付けた<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)104-105">{{Harvnb|ルソー|1933}} pp.104-106</ref>。富の格差とこれを肯定する法が強者による弱者への[[搾取]]と支配を擁護し、[[専制]]に基づく政治体制が成立する。「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に基づく桎梏に人々を閉ざし、不平等という弊害が拡大していくにつれて悪が社会に蔓延していくのだと述べた<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)130">{{Harvnb|ルソー|1933}} p.130</ref>。ルソーはこうした仮説に基づいて、文明化によって人民が本源的な自由を失い、社会的不平等に陥った過程を追究、現存社会の不法を批判した<ref name="桑原(1962)16-20">{{harvnb|桑原|1962}} pp.16-20</ref>。
不平等によって人間にとっての自然が破壊され、やがて道徳的な退廃に至るという倫理的メッセージを含んだ迫力は人々のこころに恐怖感を煽るほどの強烈な衝撃となった。その後この書はヴォルテールなど進歩的知識人の反発を強めさせ、進歩の背後に堕落という負の側面を指摘する犬儒性の故に「世紀の奇書」とも評された<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)190-193">{{Harvnb|ルソー|1933}} pp.190-193</ref>。
=== 思想の巨人ルソー ===
==== モンモラシーへ ====
1754年6月1日、ルソーはテレーズと共にジュネーヴに帰郷した。ルソーはジュネーヴの共和政を愛していた。「市民は教育されており、確固として慎み深く、また、その権利を認識しており、勇敢に主張」するとともに、「他人の権利を尊重」している社会であると見ていた。しかし、ルソー自身はかつて若いころにカトリック教徒に改宗していた。ジュネーブは[[ジャン・カルヴァン]]が導いたプロテスタント国なのでルソーは宗派の違いに悩み、ジュネーヴ市民になるためにプロテスタントに再び改宗した。だが、ジュネーヴでのルソーの評価は芳しくなかった。ルソーは『人間不平等起源論』をジュネーヴ市民に捧げて献辞も捧げたが、これについても予想していたような好評は得られなかった。ルソーはパリでの生活を整理するために一時パリに戻るが、ジュネーヴでの評判が思わしくないのを知り、ジュネーヴに戻るのを断念したため滞在はごく短期間に終わる<ref name="中里(1969)80-81">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.80-81</ref>。
[[ファイル:Louise d'Epinay Liotard.jpg|right|thumb|200px|デピネ夫人]]
ルソーはデピネ夫人から[[モンモランシー (ヴァル=ドワーズ県)|モンモランシー]]にレルミタージュ(隠者の庵)という小さめの邸宅を宛がわれた。ヴォルテールとの関係は好ましいものではなかった。『人間不平等起源論』を贈っているが、「人はあなたの著作を読むと四足で歩きたいと思うでしょう」と嫌味を言われている<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)190">{{Harvnb|ルソー|1933}} p.190</ref>。こうしたこともあって、ヴォルテールがジュネーヴで暮らすのを聞き、そこでの生活を断念した。ルソーは1756年からモンモランシーで暮らすことになった。ルソーの新しい住居はパリから16キロ離れた田園地帯にあり、都市の喧騒から離れたいと願っていたルソーにとって非常に良い環境にあった<ref name="中里(1969)82">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.82</ref>。
ルソーは邸宅の周辺の森を散歩しながら哲学、政治思想、教育理論に関する思索をおこない『政治制度論』を執筆し、『社会契約論』や『エミール』の中心部分を仕上げていった。また、ときには恋愛について夢想して『新エロイーズ』といった作品の執筆活動を進めていった<ref name="中里(1969)83">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.83</ref>。そんな中、ルソーは友人サン・ラベールの愛人であったデュドト夫人の訪問を受ける。夫人は30歳にちかい年齢の女性で美人ではなかったというが、柔和で優しい生き生きとした女性であった。ルソーは彼女に心奪われてしまう。デュドト夫人にはルソーと恋仲になるつもりはなかったので片思いで終わるが、ルソーと夫人は親しく交流し、ルソーにヴァランス夫人やテレーズでは得られなかった幸福な思いをもたらした<ref name="中里(1969)84-86">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.84-86</ref>。
しかし、恋に夢中となってデピネ夫人との関係は悪くなった。デピネ夫人が妬みを起こして二人の関係を裂こうとしたのである。デピネ夫人にグリムやディドロ、そして妻のテレーズも加担していたので、ディドロとの関係も悪化した。とうとうレルミタージュから出ていくことになり、パトロンであった[[ルイ・フランソワ1世 (コンティ公)|コンティ公]]の計らいで彼の税理士だったマタス氏がモンモランシーに所有していたプティ・モン・ルイという小さな田舎家を借りて暮らすことになる<ref name="中里(1969)87">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.87</ref>。
==== 百科全書派との断交 ====
[[ファイル:Voltaire3.jpg|thumb|left|200px|ヴォルテール]]
ルソーが名を馳せるようになったことが縁で、一時期では『百科全書』に「政治経済論」を執筆・寄稿している。しかし、1755年に10万人の死傷者を出す大災害[[リスボン地震 (1755年)|リスボン地震]]が発生、ヨーロッパに衝撃が広まった。ヴォルテールは『リスボンの災禍にかんする詩』において神の存在性と慈悲に対する批判をおこなった。これに対して、ヴォルテールに手紙を書いて自説を展開させている。ルソーは地震の災厄が深刻化したのは神の非情さではなく、都市の過密によるものであり、これは人災であるという見方を提示した。文明への過度の依存が持つリスクに対して警鐘を鳴らすとともに自然と調和することの必要性を説いてヴォルテールの見解に異論を唱えたのである。こうした論争の中で対立関係は決定的なものとなった。
次の『演劇に関するダランベールへの手紙』({{lang|fr|''La Lettre à d'Alembert sur les spectacles, 1758''}})に至って[[ヴォルテール]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]、ディドロら当時の思想界の主流とほとんど絶交状態となった。ダランベールが『百科全書』の「ジュネーヴ」の項に町に劇場がないことを批判する一文を載せた。カルヴァンが町に劇場を建てることを禁じたため、劇場がなかったのである。ルソーはジュネーヴでの劇場の建設は市民の徳を堕落させるもので有害であると見解を示した。そして、こうした立場の故、ヴォルテール、ディドロら他の啓蒙思想家たちの無神論的で文明賛美的な傾向との違いが顕著となり、彼らとの関係は決定的に破局した。これは思想的な対立によるものだけでなく、感情的な反感も含まれている。ディドロはルソーの引き篭もりと田舎暮らしを批判し、またデピネ夫人との確執に首を突っ込み、ルソーの家族を引き離そうと画策した。こうした争いの結果、ルソーはかつての友人たちと仲違していく<ref name="中里(1969)88-89">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.88-89</ref>。
彼の思想は壮年期の大作にしてベストセラーとなった書簡体の恋愛小説である『新エロイーズ』({{lang|fr|''Julie ou La Nouvelle Héloïse, 1761''}})が発表される。この手紙体の長編小説は自然への回帰による人間性、家族関係、恋愛感情、自然感情等の調和的回復を謳い、熱狂的な反響を呼んだ<ref name="中里(1969)90">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.90</ref>。
==== 『社会契約論』と『エミール』 ====
1762年4月、彼の思想は『[[社会契約論]]』({{lang|fr|''Le Contrat social, 1762''}})によって決定的な展開、完成を示した。
ルソーは、『人間不平等起源論』の続編として国家形成の理想像を提示しようとする。ホッブスやロックから「[[社会契約]]」という概念を継承しながら、さまざまな人々が社会契約に参加して国家を形成するとした<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)29">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.29</ref>。そのうえで、人々の闘争状態を乗り越え、さらに自由で平等な市民として共同体を形成できるよう、社会契約の形式を示した<ref name="桑原(1962)31-32">{{harvnb|桑原|1962}} pp.31-32</ref>。まず、社会契約にあたっては「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてを挙げて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人がすべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」を前提とした上で、多人数の人々が契約を交わして共同体を樹立するとした<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)29">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.29</ref>。ルソーによると、暗黙に承認されねばならない「社会契約」の条項は次のたった一つの要件に要約される。それは、これまで持っていた特権と従属を共同体に譲渡して平等な市民として国家の成員になること<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)30">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.30</ref>。そのうえで市民は国家から生命と財産の安全を保障されるという考えを提示した<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)29">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.29</ref>。
社会契約によってすべての構成員が自由で平等な単一の国民となって、国家の一員として政治を動かしていく<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)41">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.41</ref><ref name="桑原(1962)32-33">{{harvnb|桑原|1962}} pp.32-33</ref>。だが、めいめいが自分の私利私欲を追求すれば、政治は機能せず国家も崩壊してしまう<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)35">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.35</ref>。そこで、ルソーは各構成員は共通の利益を志向する「[[一般意志]]」のもとに統合されるべきだと主張した<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)31">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.31</ref>。公共の正義を欲する一般意志に基づいて自ら法律を作成して自らそれに服従する、人間の政治的自律に基づいた法治体制の樹立の必要性を呼びかけた<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)35">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.35</ref><ref name="桑原(1962)34-35">{{harvnb|桑原|1962}} pp.34-35</ref>。
このように、主権者と市民との同一性に基づく[[人民主権]]論を展開し<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)37">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.37</ref>、近代[[民主主義]]の古典として以後の政治思想に大きな影響を及ぼした。そして政府は人民の「公僕」であるべきだと論じつつ<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)84">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.84</ref>、国民的な集会による直接民主制の可能性も論じた<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)95-97">{{Harvnb|ルソー|1954}} pp.95-97</ref><ref name="桑原(1962)38-39">{{harvnb|桑原|1962}} pp.38-39</ref>。ただし、人民の意志を建前に圧政がしかれる可能性があり、『社会契約論』には過酷な政治原理が提唱されていると指摘する論者もいる。そのため、この著書には今日でも賛否両論が存在している<ref name="仲正(2010)172-188">{{Harvnb|仲正|2010}} pp.172-188</ref>。
1762年5月、小説的な構成をもつ斬新な教育論『[[エミール (ルソー)|エミール]]』({{lang|fr|''Émile ou De l'éducation, 1762''}})が刊行される。
『エミール』では理想となる教育プランを構想している。ルソーは自分を教師として位置付け、架空の孤児「エミール」をマン・ツー・マンで育成する思考実験を行い、教育を理論化しようとした。社会からの余計な影響を受けないよう家庭教師による個別指導に徹するべきだと主張した<ref name="桑原(1962)57">{{harvnb|桑原|1962}} p.57</ref><ref name="仲正(2010)214">{{Harvnb|仲正|2010}} p.214</ref>。そのうえで、「自然による教育、人間による教育、事物による教育」という三つの柱を示した。自然による教育だが、これは子どもの成長のことである。人間による教育は、教師や大人による教育である。最後に事物による教育は外界に関する経験から学ぶということである<ref name="仲正(2010)210">{{Harvnb|仲正|2010}} p.210</ref>。また、教育期間の段階も三段階に整理した。第一に、12歳までの子どもを感覚的生の段階にあるとし、身体の発育(自然による教育)と外界に見られる因果律についての経験(事物による教育)を中心に成長とする。第二に、12歳から15歳までは事物の効用の判断を鍛えて、有用性のために技術や学習をする功利的生の段階を経る。最後に15歳以降、神や自然、社会に関する知識と洞察が開かれ、道徳と宗教を身につける理性的道徳的生の段階へと至る<ref name="桑原(1962)48-49">{{harvnb|桑原|1962}} pp.46-47</ref>。
ルソーは「子どもを小さな大人」として見る社会通念を否定し、「子どもは大人ではない。子どもは子どもである」とする立場を打ち出した<ref name="ルソー 『エミール』(上) (1962)80">{{Harvnb|ルソー|1963}} p.80</ref><ref name="桑原(1962)46-47">{{harvnb|桑原|1962}} pp.46-47</ref>。そして、子どもの自主性を重んじ<ref name="ルソー 『エミール』(上) (1962)161, 278-279 ">{{Harvnb|ルソー|1963}} p.161, pp.278-279</ref>、子どもの成長に即して子どもの能力を活用しながら教育をおこなうべきだという考えを示した<ref name="ルソー 『エミール』(上) (1962)125">{{Harvnb|ルソー|1963}} p.125</ref><ref name="中里(1969)140-141">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.140-141</ref><ref name="仲正(2010)210">{{Harvnb|仲正|2010}} p.210</ref>。
ルソーは、子どもは年齢に応じた発達段階に合わせて、教訓や体罰によらず危険なことからは力(保護)で制止し、有用な知識は読書ではなく自分の経験から学習させ教育していくべきだと考えた<ref name="ルソー 『エミール』(上) (1962)126-129,184-185">{{Harvnb|ルソー|1963}} pp.126-129, pp.184-185</ref><ref name="中里(1969)154-155">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.154-155</ref>。幼い子ども(5歳以下)に対しては情操面の発達を重んじ<ref name="中里(1969)144-147">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.144-147</ref>、児童期(5~12歳)には感覚や知覚で理解できる範囲を経験で教えていく<ref name="ルソー 『エミール』(上) (1962)374-375">{{Harvnb|ルソー|1963}} pp.374-375</ref><ref name="中里(1969)154-155">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.154-155</ref>。自然人として理想的な状態をつくっていくことを目標とした。ルソーは「私たちは、いわば、二回生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。」と語っている<ref name="ルソー 『エミール』(中) (1962)374-375">{{Harvnb|ルソー|1963}} p.5</ref>。成人すると社会で生きていく必要があるので社会人になれるような教育を行う必要がある。感覚教育から理性教育の段階へと移行していく。
子どもが思春期(12~15歳)に入って理性に目覚めると「理性の教育の時代」が始まり、本格的な教育を受けるべきだと考えた<ref name="仲正(2010)214-215">{{Harvnb|仲正|2010}} pp.214-215</ref>。ルソーはエミールを野外へと連れていき、迷わずに周囲を巡るには太陽の位置などを参考に方位を手がかりとして地図を読むなど、天文や地理に関する基本的な知識や情報が必要になることを教える<ref name="ルソー 『エミール』(上) (1962)319-320">{{Harvnb|ルソー|1963}} pp.319-320</ref>。ルソーは生活のために役に立つ知識を出発点にして専門的な学問へとエミールの関心を刺激し、自ら体系的な理解や知識を構築していく力を鍛えることへ注意を向けさせる重要性を指摘した。青年期(15歳以降)に入ると道徳感情から社会を学んだり<ref name="ルソー 『エミール』(上) (1962)335-337">{{Harvnb|ルソー|1963}} pp.335-337</ref>、自然の法則から神の存在を確信して<ref name="ルソー 『エミール』(中) (1962)143-144">{{Harvnb|ルソー|1963}} pp.143-144</ref>、やがて宗教から生きる意味を考えたり<ref name="ルソー 『エミール』(中) (1962)152-155">{{Harvnb|ルソー|1963}} pp.152-155</ref>、歴史に関する知識も与えられていく。このように、成長と共に教育を受けて人間としても市民としても相応しい大人となっていく過程が描かれた<ref name="桑原(1962)62">{{harvnb|桑原|1962}} p.62</ref>。
『エミール』において、ルソーはエミールが成人した後に理想のフランス人男性を描写しようとした。ルソーは彼が大人になって農夫(フランスの「普通の男性」)となるとしたのである。そして伴侶を探す旅の途中、エミールは出会った女性ソフィーに一目惚れをして結婚、やがてソフィーと家族をつくるという設定でストーリーを終えている。『人間不平等起源論』では先史時代が人類の歴史の舞台であったが、『エミール』においてルソーのイメージする市民エミールは、農村で慎ましく生活し、家族を養い、そして学んだ知識をもとに隣人のために知恵を働かせる、そうした人物として描かれた。これは自営の農家とその暮らしぶりを理想化したルソーが長年愛したフランス農村への憧憬を示すと考えられる。
『人間不平等起源論』、『社会契約論』、『エミール』は三部作の関係である。
=== 亡命、そして帰国 ===
==== 迫害 ====
[[ファイル:Allan Ramsay - Jean-Jacques Rousseau (1712 - 1778) - Google Art Project.jpg|thumb|upright|アルメニア人風衣装を着た1766年のルソー]]
『エミール』はオランダとパリで印刷され、出版される運びとなった。『社会契約論』は自由と平等を重んじ、特権政治を否定する立場が表明された。それ以上に問題になるのは、『[[エミール (ルソー)|エミール]]』第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」が持つ[[理神論]]的で自然宗教的な内容が、物議を醸すことであった。
カトリック教会を否定する思想は当時の世では危険思想であった。印刷の段階で中断が相次ぎ、容易に出版には入れなかったこともあり、ルソーは状況を心配せねばならなくなる。懸念していた通り、「サヴォア人司祭の信仰告白」は[[パリ大学]]神学部から厳しく断罪された<ref name="中里(1969)92">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.92</ref>。『エミール』はパリ高等法院から焚書とされ、1762年6月9日ルソー自身に対しても逮捕状が出た。前日の深夜、このころ支援者となっていたリュクサンブール元帥の忠告に従い、ルソーはモンモランシーを離れて一路スイスはジュネーブに亡命しようと計る<ref name="中里(1969)93">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.93</ref>。しかし、支援者のロガン氏がいたが、ジュネーヴでも一時の滞在地に選んだイヴェントンでもルソーへの迫害がはじまり、ルソーの居場所はどこにもなくなりつつあった。
スイスの[[ヌーシャテル]]地方のモチエ村にロガン氏の縁者が所有する家があり、ルソーはそこに落ち着き先を得る。モチエ村はプロイセン領であり、当時[[プロイセン王国]]は[[啓蒙専制君主]][[フリードリヒ大王]]の治世であった。ルソーは「以前から王についての悪い事を言ってきており今後も言うかもしれない」としながらも、寛大で知られる王との「庇護ではない契約」を求める手紙を王に送った。ルソーはキース卿に手紙を書き、受け入れてほしいと願う。ルソーの願いは聞き入れられ、隠遁が許される<ref name="中里(1969)94">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.94</ref>。ルソーにとって望まぬ迫害より辛いのは、この年育ての親であり恩人であったヴァランス夫人が亡くなったことである。1754年にジュネーヴに訪問する際に会った折、ルソーは既に零落していた夫人を引き取って旧恩に報いることを考えおり、夫人に提案していたが夫人がこれを固辞し、以来二人は会っていなかった。ルソーは母親代わりの女性に孝行できなかったのである<ref name="中里(1969)94">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.94</ref>。
悲しみに暮れるルソーを世間は放置しなかった。モチエにもルソーへの非難と迫害がはじまり、ルソーは居場所を失う<ref name="中里(1969)95">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.95</ref>。ルソーはカトリック教会の教義に反発し、人間の権威には従わないと語ったが、これはカトリックだけでなくプロテスタント側からも反感を買った。当てにしていたジュネーヴの冷淡さに失望したルソーは1764年『山からの手紙』を書いてジュネーヴ批判と自分の弁明を始めていく。だが、ルソーの弁明に対してさらなる攻撃がおこなわれる。ジュネーヴ市民という匿名を持ってヴォルテールからもプライベートな家族の問題、とりわけ子どもを孤児院に送り捨てた過去をやり玉に挙げられ非難された。ルソーへの糾弾は思想対立ではなく、誹謗中傷を伴なう人格攻撃へと変わっていたのである<ref name="中里(1969)96-97">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.96-97</ref>。
ルソーは命の危険を感じてモチエ村を離れ[[ビール湖]]のサン・ピエール島に避難する。ルソーはこの島の自然を気に入るようになり、植物収集をして楽しみ、傷心を慰めている<ref name="中里(1969)97">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.97</ref>。
だが、サン・ピエール島でもいられなくなって1765年ベルリンを目指して途中[[ストラスブール]]に立ち寄る<ref name="中里(1969)97">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.97</ref>。ストラスブールでは大歓迎を受けたため、ルソーはこの地で落ち着くことを考えるが、ヴェルドラン夫人がフランスの通行許可証を用意してイギリスへの渡航を提案した。ロンドンにはルソーと同様高名な哲学者[[デイヴィッド・ヒューム]]がおり、二人を引き合わせようと手筈を整えていた。自由で寛容なイギリスでならルソーも暮らしていけるだろうと考えたのである。ヒュームからも招待したいという手紙が届き、ルソーはロンドンに行くことを決意する<ref name="中里(1969)98">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.98</ref>。
1765年12月ルソーはパリに向かい、[[ルイ・フランソワ1世 (コンティ公)|コンティ公]]から保護を受けてホテル・サンシマンに投宿する。しばらくは人目を忍んでいたが、すぐ人々の知るところとなり、人々が続々とルソーを訪問した。実質的にパリへの凱旋となった<ref name="中里(1969)99">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.99</ref>。そこで、ヒュームとも出会っている。ヒュームはルソーにすぐさま好感を感じ、すっかり心酔してしまったようである。しかし、ルソーはヒュームの友人ホーレス・ウォルポールの皮肉に嫌悪感を抱いていた<ref name="中里(1969)99-100">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.99-100</ref>。
==== イギリスへ ====
[[ファイル:David Hume.jpg|thumb|200px|upright|デイヴィッド・ヒューム]]
1766年1月、ルソーはヒュームに連れられてロンドンに向かって出立した。
ロンドンに到着して、ヒュームはルソーを宿泊先としてエリオット夫人の邸宅を指定したが、そこにルソーに対して敵対的なスイスの医者トロンシャンの息子がいて、二人が鉢合わせしたため、ルソーが侮辱されることを恐れてエリオット夫人に他の住居を求めるといった悶着があった。ロンドンに滞在中もルソーは熱烈な歓迎を受けており、人々の訪問を受けた。国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]もルソーを訪ねたという。ヒュームはウーットンに住居を用意して新居にルソーが入れるように手配したが、その際、手配役がルソーに路銀の節約のために自分の馬車を提供したところ、この対応がルソーの機嫌を損ねてヒュームと喧嘩するといったことが起こった<ref name="中里(1969)100-101">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.100-101</ref>。
ルソーは配慮に欠くヒュームの振る舞いに次第に不信感を持つようになる。ウォルポールがルソーを非難するために作成したフリードリヒ大王の偽造書簡を新聞に掲載されたといったことがあったが、ヒュームはウォルポールの冗談として済ませたこともルソーにとって不愉快なことであった。ルソーが嫌いな人物をヒュームが弁護するのが我慢できなくなっていた。ルソーはヒュームに騙されていると感じ始めるようになる。一方、ヒュームは国王からルソーに対して年100ポンドの年金を支給するように嘆願をして、ルソーのために八方手を尽くして奔走していた。ルソーはヒュームを信じられなくなり、ついに6月23日にヒュームと絶交を宣言した<ref name="中里(1969)102">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.102</ref>。
この時期、ルソーは度重なる誹謗中傷に対して自分の弁明をしなければと考え、回想録を書こうと考える。スイスでの流転やヒュームへの不信と確執は『[[告白 (ルソー)|告白]]』({{lang|fr|''Les Confessions, 1782-89''}})を書き始める契機となった<ref name="中里(1969)103">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.103</ref>。
ルソーの精神状態はひどい状態になっていた。現在でいえば[[統合失調症]]とも言えるような状態で、極度の不安と人間不信、[[被害妄想]]に悩まされた。もはやイギリスにはいられないと考え、フランスに帰る決断をした。そして5月半ばにドーバーからカレーに赴き、フランスに帰ってしまう<ref name="中里(1969)103-104">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.103-104</ref>。
=== 晩年 ===
[[ファイル:Rousseau in later life.jpg|thumb|upright|晩年のルソー]]
ルソーがフランスに帰国することは多くの人々の知るところとなった。兼ねてより親交をもっていた[[ルイ・フランソワ1世 (コンティ公)|コンティ公]]や[[オノーレ・ミラボー]]に状況を知らせて保護を求めた。まだパリ高等法院の逮捕状は効力を持っていたため、身を隠さなくてはならなかった。そこで、コンティ公はトリーの城にルソーを匿うことにした。1768年までの一年間ルソーはこの城で過ごすことになる。ルソーの精神は錯乱状態になっていた。ルソーはヒュームから攻撃されるという妄想に苛まれ、城の関係者が敵のスパイではないかと怯えながら暮らしていた。病人がでたり、関係者に不幸があったりすると、城の中には暗殺者がひそみ毒を盛ったり盛られたりしているのだと思い込んだりするほど切迫した精神状態であった。この時期はまともな精神状態ではなかったため執筆活動はほとんどできなかった<ref name="中里(1969)105-105">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.105-106</ref>。
1768年、ルソーは[[リヨン]]に向かい、そこから[[グルノーブル]]に進んで旅をする。この旅ではルソーの尊敬する人々やルソーを敬愛する人たちに会う機会があり、[[シャンベリー]]に行ってヴァランス夫人の墓参りもした。テレーズもルソーのもとに到着し、二人はブルゴワン近郊のホテル「ラ・フォンテーヌ・ド・オル」で正式に結婚する。テレーズはついにルソー夫人になったわけである<ref name="中里(1969)106-107">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.106-107</ref>。
しかし、ルソーの病状は好転しては悪化したりを繰り返していて、この旅のさなかでも極度の不安に陥ることがしばしばあった<ref name="中里(1969)107">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.107</ref>。
1770年、ルソーは友人の反対にもかかわらずパリに帰る。パリでは依然としてお尋ね者であったが、市民の人気は熱狂的なもので、警察はルソーの所在を知っていたが、まったく捜索や逮捕などしようとしなかった。そのため、ルソーはパリで思うように好きに過ごすことができ、もてなしを受けたり、譜面の写本の仕事をしながら植物採集を楽しみ執筆活動に従事した<ref name="中里(1969)107">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.107</ref>。パリでは、被害妄想に悩まされつつ晩年の自伝的作品『[[告白 (ルソー)|告白]]』({{lang|fr|''Les Confessions, 1782-89''}})を完成させた。ルソーは要注意人物であったため出版は禁じられていたため、『告白』は朗読会で公表された<ref name="中里(1969)108-109">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.108-109</ref>。
この頃の暮らしは5時ごろに起床して楽譜を写す仕事をして、7時半ごろ朝食、午前中は仕事をして、午後になってからカフェに行ったり、植物採集をしたりして夕方になるころに帰宅し、21時ごろには寝るという暮らしだったという<ref name="中里(1969)109-110">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.109-110</ref>。ルソーは体調不良が続く中で『ポーランド統治論』 ({{lang|fr|''Considérations sur le gouvernement de Pologne, 1771''}})も執筆し、政治制度に関する研究や提言もおこなっている。まもなくポーランドはプロイセン、オーストリア、ロシアの三国による[[ポーランド分割|分割]]によって消滅する<ref name="中里(1969)109">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.109</ref>。
精神状態は悪化の一途を辿っていた。ルソーは迫害の恐怖に恐れおののき正気を保てなくなっていった。そこで、1772年からルソーは自己弁明のために『ルソー、ジャン=ジャックを裁く - 対話』 ({{lang|fr|''Rousseau juge de Jean-Jacques, 1777''}})を執筆に取り組み始めている。[[ノートルダム寺院]]に奉納しようとするが門が閉じていたため目的を果たせず、神さえ敵と共謀していると考えるようになった。ルソーはビラを印刷して人民に自分の身の潔白を訴えようとした<ref name="中里(1969)110">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.110</ref>。そして自分を見つめることに老年の仕事を見出し、『孤独な散歩者の夢想』({{lang|fr|''Les Rêveries du promeneur solitaire, 1776-78''}})の執筆を始める<ref name="中里(1969)111">[[#中里(1969)|中里(1969)]] p.111</ref>。これらも『新エロイーズ』とともにロマン主義文学に,自然と自我の問題を提起して広大な影響を及ぼした。
[[ファイル:Jean-Jacques ROUSSEAU au Panthéon (Lunon).jpg|thumb|[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に安置されたルソーの棺]]
だが、ルソーは年齢と共に体力も衰えて貧困に窮していき、病気になったテレーズの看病をしなくてはならず執筆活動を中断させたままとなった。1778年、愛読者のジラルダン侯爵の好意を受けてパリ郊外の{{仮リンク|エルムノンヴィル|fr|Ermenonville}}に移る。この地でルソーはジラルダン侯爵と好きな植物採集を楽しんだりしている。しかし、7月2日、ジラルダン侯爵の娘にピアノを教えるため支度をしている際、ルソーは倒れる。死因は[[尿毒症]]と言われているが、ルソーの容態は急激に悪化して、そのまま帰らぬ人となる。66歳。7月4日ルソーの遺体はポプラ島に埋葬された<ref name="中里(1969)111-112">[[#中里(1969)|中里(1969)]] pp.111-112</ref>。
その死後、[[フランス革命]]が勃発、かれは革命の功績者と讃えられ、栄誉の殿堂[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に合祀されている。
== 思想 ==
=== 社会契約説 ===
{{see also|民主政}}
先駆の[[トマス・ホッブズ]]や[[ジョン・ロック]]と並びルソーは、近代的な「[[社会契約]]({{lang|en|Social Contract}})説」の論理を提唱した主要な哲学者の一人である。
まず、1755年に発表した『[[人間不平等起源論]]』において、[[自然状態]]と、[[理性]]による社会化について論じた。ホッブズの[[自然状態|自然状態論]]を批判し、ホッブズの論じているような、人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態はすでに社会状態であって自然状態ではないとした<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)68-75">{{Harvnb|ルソー|1933}} pp.68-75</ref>。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)27">{{Harvnb|ルソー|1933}} p.27</ref>、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している状態(孤独と自由)を自然状態として論じた<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)43-49">{{Harvnb|ルソー|1933}} pp.43-49</ref>。無論、そこには家族などの社会もない。
ルソーは、自然状態の人間について次のように語っている。{{Quotation|……森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。……技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。|ルソー|『人間不平等起源論』、[[本田喜代治]]、[[平岡昇]]共訳、[[岩波文庫]]、1972年、80頁。}}
理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態が訪れたとして、社会状態を規定する(「堕落」)<ref name="ルソー 『人間不平等起源論』 (1933)103-107">{{Harvnb|ルソー|1933}} pp.103-107</ref>。自然状態の自由と平和を好意的に描き、社会状態を堕落した状態と捉えるが、もはや人間はふたたび文明を捨てて自然に戻ることができないということを認めて思弁を進める<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)28-29">{{Harvnb|ルソー|1954}} pp.28-29</ref>。
1762年に発表した『[[社会契約論]]』において、社会契約と[[一般意志]]なる意志による政治社会の理想を論じた<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)29-31">{{Harvnb|ルソー|1954}} pp.29-31</ref>。社会契約が今後の理想として説かれる点で、ルソーの社会契約説は、イギリスにおいて現状の政治社会がどのような目的の社会契約によって形成されたのかについて研究したホッブズやロックの社会契約説と異なる。『社会契約論』においてルソーは、「一般意志」を民意や世論といった単純な「特殊意志(個人の意志)」の総和(全体意志)としてではなく、それぞれの「特殊意志」から相殺しあう過不足を除き「相違の総和」として残された共通の社会的利益として考えていた。この社会的利益は要するに[[公共の福祉]]になるのだと説明している<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)35,46-48">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.35, pp.46-48</ref>。ルソーは、ロック的な選挙を伴う議会政治([[間接民主制]]、代表制、代議制)とその多数決を否定し<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)133">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.133</ref>、あくまでも一般意志による全体の一致を目指しているが、その理由は、ルソーが、政治社会(国家)はすべての人間の自由と平等をこそ保障する仕組みでなければならないと考えていたためである<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)137-138">{{Harvnb|ルソー|1954}} pp.137-138</ref>。そのため、政治の一般意志への絶対服従によって、党派政治や一部の政治家による利権政治を排した真に民主的な「共和国」の樹立を求めた。ただし、ルソーが言う「共和国」とは一般的な意味での共和国ではなく、君主政体でも[[法治主義]]が徹底されていれば「共和国」ということになる<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)59-60">{{Harvnb|ルソー|1954}} pp.59-60</ref>。ルソーの議論が導く理想は政治が一般意志に服従した人民主権([[国民主権]])の体制であった<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)84,140,149">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.84, p.140, p.149</ref>。ただし、ルソーは一般意志による政治について、[[民主政]]の他に[[君主政]]や[[貴族政]]を排除せず、政体はあくまでも時代や国家の規模によって適するものも異なるとし<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)95,111">{{Harvnb|ルソー|1954}} p.95, p.111</ref>、社会契約による国家が君主政であるにせよ、あるいは貴族政であるにせよ、民主政であったとしても民意による支持があればそれで良く、政体は国情によって決まられるべきと考えていた。ルソーは、君主制とか共和制といった政体よりも国家を担う統治者が国民の一般意志に服従しているかどうかを重要視していたと考えられる<ref name="ルソー 『社会契約論』 (1954)90-91">{{Harvnb|ルソー|1954}} pp.90-91</ref>。
=== 言語論 ===
『言語起源論』は、『人間不平等起源論』とともに構想されたルソーの著作であり、言語の起源を[[音声]]([[音声言語]])に求める。そして[[エクリチュール (哲学)|エクリチュール]](書かれたもの)については、情念から自然に発声される詩や歌を文字で表そうとする試みが、あくまでもその根源であるとする。そして歴史的な過程の中で言語からは情念が失われ(「堕落」)、理性的で合理的な説得の技術が重要となり、そしてそれは政治的な権力に代わったと、ルソーは考える。
[[20世紀]]、[[ジャック・デリダ]]は、[[存在論]]に関する主著『[[グラマトロジーについて]]』の中で、ルソーの『言語起源論』を何度も引用しながら、言語におけるエクリチュールに対する[[パロール]](話し言葉)の優越を語ってきた思想史を批判し、エクリチュールとパロールの二項対立と差異について論じている(デリダ哲学における[[脱構築]]も参照)。
=== 文明論 ===
文明を主題にしたルソーの著作は、『学問芸術論』、『言語起源論』、『人間不平等起源論』など多い。その一貫した主張として、悪徳の起源を、奢侈、[[学問]]、芸術など、文明にこそ求めている点は非常に特徴的である<ref>『学問芸術論』、『言語起源論』、『人間不平等起源論』などを参照。</ref>。それらは、文明による「堕落」という言葉を以て示される。その文明に関する考え方は、まず『人間不平等起源論』に示される。前提として仮定される自然状態における自然人は、理性を持たず、他者を認識せず、孤独、自由、平和に存在している。それが、理性を持つことにより他者と道徳的(理性的)関係を結び、理性的文明的諸集団に所属することで、不平等が生まれたとされる。[[東浩紀]]は、ルソーの一般意志に関する研究書の中で、「社会の誕生を悪の起源とみなす。人間と人間の触れあいを否定的に評価する。これは社会思想家としては稀有な立場である。ルソーは多くの哲学者と異なり、人間の社交性に重要な価値を認めなかった<ref>{{Cite book|和書|author=東浩紀 |year=2011 |title=[[一般意志2.0]] |publisher=講談社 |page=60}}</ref>」と特筆し、思想史上、極めて特異なルソーの文明観に着目している。ルソーが、「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)。しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略)奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」<ref>ルソー 『ルソー全集』第四巻「人間不平等起源論」第二部、白水社、240頁。</ref>と述べている部分に、その主張を端的に読み取ることができる。
[[リスボン地震 (1755年)|1755年リスボン地震]]に関して、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]][[ヴォルテール]]が発表した『リスボンの災禍に関する詩』に対するルソーの批判にも、その文明観を見ることができる。ヴォルテールは、理性主義([[合理主義]])と[[理神論]]、理性的な文明を志向する思想の下、精力的に宗教批判や[[教会 (キリスト教)|教会]]批判を行ってきた。そのためヴォルテールは、罪なき多くの人間が犠牲となったリスボンの災禍を教会批判に用い、非合理的な宗教を誤謬の象徴として捉え、教会が守ろうとしてきた社会に対して、その最善の世界で何故このような災禍が起こるのかと問いを提起した(教会信者の[[楽天主義]]に対する批判)。これはヴォルテールの啓蒙活動のなかでも重要なものとなり、ヴォルテールは理性による社会改革を訴える。そうした一連の主張に対して、ルソーは強く批判を行った。ルソーの考えによれば、[[自然災害]]にあたって甚大な被害が起こるとき、それは、理性的、文明的、社会的な要因により発展した、人々が密集する[[都市]]、高度な技術を用いた文明が存在することによって、自然状態よりも被害が大きくなっているということなのである。ルソーは『ヴォルテール氏への手紙』において、次のように述べている。「思い違いをしないでいただきたい。あなたの目論見とはまったく反対のことが起こるのです。あなたは楽天主義を非常に残酷なものとお考えですが、しかしこの楽天主義は、あなたが耐えがたいものとして描いて見せてくださるまさにその苦しみのゆえに、私には慰めとなっています」<ref>ルソー 『ルソー全集』第五巻、白水社、12頁。</ref>、そして「私たちめいめいが苦しんでいるか、そうではないかを知ることが問題なのではなくて、宇宙が存在したのはよいことなのかどうか、また私たちの不幸は宇宙の構成上不可避であったのかどうかを知ることが問題なのです」<ref>ルソー 『ルソー全集』第五巻、白水社、22頁。</ref>。
=== 教育論 ===
上述のようにルソーは、理性とそれによる文明や社会を悲観的に捉えている。それゆえルソーは、主に教育論に関して論じた『[[エミール (ルソー)|エミール]]』において、「自然の最初の衝動はつねに正しい」という前提を立てた上で、子の自発性を重視し、子の内発性を社会から守ることに主眼を置いた教育論を展開している。初期の教育について、「徳や真理を教えること」ではなく、「心を悪徳から、精神を誤謬から保護すること」を目的とする<ref>ルソー 『エミール』(『ルソー全集』第六巻、白水社)を参照。</ref>。
=== 音楽 ===
作曲家としてのルソーは、オペラ『村の占師』({{lang|fr|''Le Devin du village''}} 1752年、[[パリ国立オペラ|パリ・オペラ座]]で初演)などの作品で知られる。なお、このオペラの挿入曲が、後に日本では『[[むすんでひらいて]]』のタイトルでよく知られるようになった童謡である。この作品は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]のオペラ『[[バスティアンとバスティエンヌ]]』の元になったことでも知られ、また、オペラの中のコランのアリア「いやいや、コレットは偽らない」(Non, non, Colette n'est point trompeuse)は[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]によって編曲されている(WoO. 158c)。
[[音楽理論|音楽理論家]]としては、音楽理論を整理し、音をより数学的に表現するため、「数字[[記譜法]]」を発案し、『音楽のための新記号案』を[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]において発表した。その後、自身の音楽研究を『近代音楽論究』としてまとめている。また作曲の他に、晩年には『音楽事典』も出版している。
起源を音声に求めるルソーの言語論は、その音楽論と表裏一体の議論である。
1750年代の[[ブフォン論争]]においては、イタリアの[[オペラ・ブッファ]]の擁護者の代表として、フランス音楽を痛烈に批判した。
=== 植物学 ===
[[博物学]]的な観察によって、植物を分類し、[[植物学]]に関する体系的な著作を残している。『孤独な散歩者の夢想』においてルソーが自認しているとおり、ルソーは、他者との社交よりも、自然と孤独を好んだ。そして思想的進歩性から迫害されることもあったルソーは、特にスイス亡命中に植物の観察を多く行っている。ルソーは、長い時間をかけて植物の形態と表象的な記号を詳細に記録し、分類した。『植物学』は、[[ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ]]が博物画を担当し、ルソーの死後に刊行されている。また、ルソーは独自に編纂した『植物用語辞典』の出版を計画しており、遺稿として残されている。
{{botanist|Rousseau}}
== 人物 ==
ディドロやダランベールなど、いわゆる百科全書派と深い交流を持ち、自身も百科全書のいくつかの項目を執筆したが、後に互いの主義主張の違いや、ルソー本人の被害妄想の悪化などが原因で決裂することとなる。
*私生活においては、[[マゾヒズム]]や[[露出狂|露出癖]]、晩年においては重度の[[被害妄想]]があった。こうした精神の変調の萌芽は若い頃からあり、街の娘たちの前で下半身露出をして女性の連れの男性に捕まった<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 3 |publisher=講談社 }}</ref>。更に自身の5人の子供を、経済的困窮と内縁の妻テレーズの縁者からの集りに耐えかねて[[孤児院]]に送った。自身の著書『[[告白 (ルソー)|告白]]』などでそれらの行状について具体的に記されている。
*生涯、ルソーが経済的に裕福だったことは一度もない。当時はまだ著作権が整備されておらず、たとえ本がどれほど売れようと原稿は基本的に買い取り制であった。また本人が年金制度を晩年まで嫌悪していたため、常に他人の世話になって生活することが多く、定職と言えるものは、若い頃からやっていた楽譜の浄写で、これが貴重な収入源であった。しかし最後には年金への主張を改め、それを受け取るために各方面に働きかけた。
*生涯において、公的な学習機関を修了したことは一度もない。一度だけ、ヴァランス夫人の勧めで[[神学校]]に通ったことがあるが、1年と持たなかった。
== 評価・影響 ==
ルソーから影響を受けた人物としては、哲学者の[[イマヌエル・カント]]が有名である。 ある日、いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々は何かあったのかと大きな騒ぎになった。実はその日、カントはルソーの著作『エミール』をつい読み耽ってしまい、すっかりいつもの散歩を忘れてしまっていたのであった。カントはルソーについて、『美と崇高の感情に関する観察』への覚書にて次のように書き残している。
:わたしの誤りをルソーが訂正してくれた。目をくらます優越感は消え失せ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ。
ルソーの思想はカントの他、[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]などにも影響を与え、[[ドイツ観念論]]の主軸の流れに強い影響を及ぼした<ref>高田純「ルソー・カント・フィヒテの国家論(上)」、文化と言語 : 札幌大学外国語学部紀要 77, 179-197, 2012-11-00/高田純「ルソー・カント・フィヒテの国家論(中)」、文化と言語 : 札幌大学外国語学部紀要 78, 187-205, 2013-03-00/ヘーゲル『法の哲学』及び『小論理学』なども参照。</ref>。
ルソーと同じくカントに影響を与えた哲学者の一人として知られるイギリスの[[デイヴィッド・ヒューム]]は、ルソーと交友関係があった。しかし、ヒュームとルソーは後に絶交する<ref>[http://www2.chuo-u.ac.jp/library/hume/about/life.htm 池田貞夫「ヒュームの生涯と著作活動」]を参照。ヒュームは同時代人と多様な交友関係を持ち、ルソーを含めたさまざまな思想家と互いに影響し合った。ドゥニ・ディドロ、ジャン・ル・ロン・ダランベール、[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]等との交友関係が知られている。</ref>。
ルソーの影響は、20世紀以降の[[フランス現代思想]]にも見られる。[[クロード・レヴィ=ストロース]]は、[[人類学]]の一つの起源としてルソーを再評価している<ref>[[クロード・レヴィ=ストロース]]著、山口昌男編纂、『現代人の思想セレクション3』、平凡社、2000年、所収内容から「人類学の創始者ルソー」を参照。</ref>。ポスト構造主義の現象学系哲学者[[ジャック・デリダ]]は、『グラマトロジーについて』(特にルソー論となっているその後半部分)において、脱構築的読解(散種)によって、『言語起源論』をはじめとするルソーの諸著作を再読している<ref>ジャック・デリダ、『グラマトロジーについて』上・下、足立和浩訳、1972年。</ref>。
また、詩人[[フリードリヒ・ヘルダーリン]]もルソーの影響を深く受けた。ヘルダーリンの詩編を詳細に分析した[[マルティン・ハイデッガー]]がなぜかルソーに言及しないことに注目した[[フィリップ・ラクー=ラバルト]]は、ハイデッガーにおけるルソー的な問題設定の逆説的な反映を『歴史の詩学』(日本語版 藤原書店, 2007)において論じた。
帝政ロシアの作家[[レフ・トルストイ]]は青年期にルソーを愛読し、生涯その影響を受けた。地主でもあったトルストイの生活と作品には「自然に帰れ!」の思想が反映している。
なお、ルソーの思想を語る際に「自然に帰れ!」というフレーズがよく引き合いに出されるが、ルソーの著作には「自然に帰れ!」という具体的な文句は一度も登場しない。ルソーの著作のひとつの解釈として、ルソーはそのように言っているようなものであるという譬えであり、このような評はルソーの在世中にもあったが、誤解であると言われる<ref>中山元訳『人間不平等起源論』の原註9(他版では注i)の中に、他の版にはない「自然に帰れ!」という小見出しが加えられているが、訳者の解説にもあるように、これはルソーの主張したことではない。その箇所では、ルソー自身が野生に還ることなどできないことを認め、その前提の下に人倫の世界で美徳や社会の絆を重んじる立場を表明している(ルソー 『人間不平等起源論』 中山元訳、光文社〈光文社古典新訳文庫〉、2008年、pp.223-226, pp.335-336 参照)。</ref>。
哲学者としては啓蒙思想家([[フィロゾーフ|フィロゾフ]])に位置づけられるルソーであるが、作家としても大きな成功を収めており、その「私」を強烈に押し出した作風は、後の[[ロマン主義]]の先駆けとなったといわれ、その長大かつ詳細な自伝である『告白』は『懺悔録』の名で日本語訳され、[[太宰治]]などのエッセイにもその言及がみられる。また、本人が「空想のままにペンを走らせた」という『新エロイーズ』は18世紀フランスにおける最大級のベストセラーとなり、ヴォルテールの『[[カンディード]]』と並び称された。
ルソーを含む[[近世哲学|近代哲学者]]の思想的影響を受けたとされ<ref>『詳説世界史』(山川書店 2008年)第10-11章が参考文献になるが、世界史に関する著書の多くに明記されているためその箇所を参照されたい。</ref>、ルソーの死後に始まった[[フランス革命]]<ref group="注釈">ジャン=ジャック・ルソーは1778年に死去している。フランス革命の動乱が本格的に開始されるバスティーユ牢獄への襲撃は1789年である。「[[フランス革命]]」の項も参照されたい。</ref>においては、「反革命派」と名指しされた者に対して迫害、虐殺、裁判を経ない処刑が行われるなど、[[恐怖政治]]が行われた<ref>{{Cite book|和書|year=2008 |title=詳説世界史 |publisher=山川書店 |pages=348-350}}「[[恐怖政治]]」も参照。</ref>。[[マクシミリアン・ロベスピエール]]や[[ナポレオン・ボナパルト]]といった指導者たちが「一般意志」などルソーの概念を援用し、人民の代表者、憲法制定権力を有する者と自称して、[[独裁]]政治を行ったということは、歴史的事実である<ref group="注釈">この経緯については、西川長夫『国民国家論の射程 - あるいは「国民」という怪物について』(柏書房 1998年)が参考文献であるが、そこに詳細な検証が行われているため参照されたい。</ref>。しかし、ルソーの存在しない時代において行われたそれらがルソーの理想するところであったかどうかについては、留意すべき点である<ref group="注釈">例えば、東浩紀『一般意志2.0』(講談社 2011年)においては、その前半において、ルソー思想の解釈史への問題提起が主題となっている。</ref>。後述のように、そもそもルソー自身は、その思想において、代表制の政治に非常に懐疑的である<ref>『社会契約論』(参考文献は、桑原武夫・前川貞次郎訳、岩波文庫、1954年)において、代表制、部分的結社を完全に否定し(第二編)、政府については「代表」ではなく一般意志(憲法)に服従するものだとしている(第三編)。</ref>。
また、「ダランベール氏への手紙:演劇について」においては、演劇の持つ[[カタルシス]]の機能を批判した<ref>{{Cite book|和書|author=フィリップ・ラクー=ラバルト |others=藤本一勇 |year=2007 |title=歴史の詩学 | publisher=藤原書店 |page=92}}</ref>。
=== 日本への影響 ===
[[中江兆民]]、[[生田長江]]、[[大杉栄]]らはルソーの翻訳をし、また作家の[[島崎藤村]]は明治42年(1909年)3月に「ルウソオの『懺悔』中に見出したる自己」を発表し、ルソーの『懺悔録』(『告白』)に深い影響を受けたと述べている<ref>山路昭,「[https://hdl.handle.net/10291/12125 島崎藤村とフランス -ルソーをめぐって-]」『明治大学教養論集』 56巻 p.1-24, 1970年, 明治大学教養論集刊行会, {{ISSN|03896005}}, {{naid|40003632284}}。</ref>。
明治10年(1877年)12月に日本で初めてのルソーの日本語訳である「民約論」([[服部徳]]訳・[[田中弘義]]閲 [[有村壮一]])が発表され、明治15年(1882年)には中江兆民訳で「民約訳解」が発表されて以降、現在に至るまで多数の訳書が日本では刊行されている。
[[デリダ派]]哲学者として知られる[[東浩紀]]は、新しい政治構想として、解釈が難しく全体主義の一つの起源とまでされた一般意志を、[[ジークムント・フロイト]]の[[無意識]]論における[[集合的無意識]]と結びつけるという思想史的に見て非常に特異な解釈を示し、それをさらに[[情報化社会]]においてデータとして蓄積される[[集団的知性|集合知]]と結びつけることによって、現代の政治に一般意志を用いる構想を行っている(『[[一般意志2.0]]』)。
== その他 ==
一般にフランス王妃[[マリー・アントワネット]]が言ったものとして流布している「[[ケーキを食べればいいじゃない|パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない]]」という言葉(「お菓子」の代わりにケーキやクロワッサンなどとも。原文は {{lang|fr|''S'ils n'ont pas de pain, qu'ils mangent de la brioche''}}、直訳すれば「パンがないのであればブリオッシュを食べてはどうか」)の出所は、『告白』第6巻に書かれた記事(小咄)<ref>{{Cite book |last=Rousseau |first=Jean-Jacques |coauthor=Angela Scholar (trans.) |year=2000 |title=Confessions |location=New York |publisher=Oxford University Press |page=262}}</ref>である。原典では「たいへんに身分の高い女性」の言葉とされており、発言者がマリー・アントワネット(『告白』第6巻が執筆された1765年当時は9歳のオーストリア大公女だった)と結び付けられるのは後世である(考証は「[[ケーキを食べればいいじゃない]]」参照)。
;{{ill2|自然に帰れ|fr|Retour à l'état de nature}}
:ルソーの思想を表した言葉である。まれに、ルソー自身の言葉とされることがあるが、著書において一度も該当する言葉はない<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000019248 |title=J.J・ルソーの「自然にかえれ」という言葉の載っている著作をさがしてほしい。 |access-date=2023-04-02 |last=国立国会図書館 |website=レファレンス協同データベース |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://book.jiji.com/seminar/limited/column/column-2992/ |title=目からウロコの教育史 第4回・ルソー「自然に還れ」 |access-date=2023-04-02 |date=2018-11-22 |website=時事通信出版局 |language=ja}}</ref>。
== 単著 ==
*1742 : 『音楽のための新記号案』 ({{lang|fr|''Projet concernant de nouveaux signes pour la musique''}})
*1743 : 『近代音楽論究』 ({{lang|fr|''Dissertation sur la musique moderne''}})
*1750 : 『科学と技芸についてのディスクール』日本語訳『[[学問芸術論]]』<ref>岩波文庫 1968年 他。</ref> ({{lang|fr|''Discours sur les sciences et les arts''}})
*1751 : 『英雄の徳とはなにか』 ({{lang|fr|''Discours sur la vertu du héros''}})
*1752 : 『幕間劇、村の占い師』 ({{lang|fr|''Le Devin du village'' — Opéra représenté à Fontainebleau devant le roi le 18 octobre 1752. C'est un succès. Première représentation à l'Opéra le 1er mars 1753, c'est un désastre.}})
*1752 : 『ナルシス まえがき・ナルシス、またの名、おのれに恋する男』 ({{lang|fr|''Narcisse ou l’Amant de lui-même'', comédie représentée par les comédiens ordinaires du roi, le 18 décembre 1752}}).
*1755 : 『[[人間不平等起源論]]』<ref>『人間不平等起源論』[[岩波文庫]] 1972年、[[光文社古典新訳文庫]] 2008年。『不平等論 - その起源と根拠』 [[国書刊行会]] 2001年。</ref> ({{lang|fr|''Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes''}})
*1755 : 『[[政治経済論]]』 ({{lang|fr|''Economie Politique''}}) (『百科全書』の中の一項)
*1756 : 『ラモー氏が『「百科全書」の音楽に関する誤謬』と題された小冊子で主張する二つの原理を吟味する』 ({{lang|fr|''Examen de deux principes avancés par M. Rameau''}})
*1755 : 『フィロポリス氏への手紙・サン=ピエール師の永久平和論』 ({{lang|fr|''Jugement du Projet de paix perpétuelle de Monsieur l'Abbé de Saint-Pierre''}})
*1758 : 『法律に関する書簡』 ({{lang|fr|''Lettres morales'', écrites entre 1757 et 1758, publication posthume en 1888}})
*1758 : 『真理に関する書簡』 ({{lang|fr|''Lettre sur la providence''}})
*1758 : 『付録 - ダランベールによる「ジュネーヴ」の項目』 ({{lang|fr|''J.-J. Rousseau, Citoyen de Genève, à M. d'Alembert sur les spectacles''}})
*1761 : 『ジュリ または新エロイーズ』<ref>岩波文庫 全4巻。</ref> ({{lang|fr|''Julie ou la Nouvelle Héloïse''}})
*1762 : 『[[エミール (ルソー)|エミール または教育について]]』<ref name="名前なし-1">岩波文庫 全3巻。</ref> ({{lang|fr|''Émile, ou De l'éducation'', dans lequel est inclus La profession de foi du vicaire savoyard au livre IV.}})
*1762 : 『[[社会契約論]]』<ref>『社会契約論』 岩波文庫 1954年、[[白水社]] 2010年。『人間不平等起原論・社会契約論』 [[中央公論新社]] [[2005年]]。『社会契約論/ジュネーヴ草稿』 [[光文社古典新訳文庫]] 2008年。</ref> ({{lang|fr|''Du contrat social''}})
*1762 : 『マルゼルブ租税法院院長への四通の手紙』 ({{lang|fr|''Quatre lettres à Monsieur le président de Malesherbes''}})
*1764 : 『山からの手紙』 ({{lang|fr|''Lettres écrites de la montagne''}})
*1764 : 『コルシカの法律に関する書簡』 ({{lang|fr|''Lettres sur la législation de la Corse''}})
*1771 : 『ポーランド統治論』 ({{lang|fr|''Considérations sur le gouvernement de Pologne''}})
*1771 : 『ピグマリオン』 ({{lang|fr|''Pygmalion''}})
*1781 : 『[[言語起源論]]』<ref>岩波文庫、2016年など。</ref> ({{lang|fr|''Essai sur l'origine des langues'' (posthume)}})
*1765 : 『コルシカ国制案』または『コルシカ憲法草案』(遺作) ({{lang|fr|''Projet de constitution pour la Corse'' (posthume)}})
*1767 : 『音楽辞典』 ({{lang|fr|''Dictionnaire de musique'' (écrit à partir 1755 il paraît à Paris en 1767)}})
*1770 : 『[[告白 (ルソー)|告白]]』<ref name="名前なし-1"/> ({{lang|fr|''Les Confessions'' (écrites de 1765 à 1770, publication posthume)}})
*1777 : 『ルソー、ジャン=ジャックを裁く - 対話』 ({{lang|fr|''Rousseau juge de Jean-Jacques'' (posthume)}})
*1778 : 『孤独な散歩者の夢想』<ref>岩波文庫 1960年、大学書林語学文庫 2000年、ワイド版岩波文庫 2001年、[[新潮文庫]] 2006年、光文社古典新訳文庫 2012年。</ref> ({{lang|fr|''Les Rêveries du promeneur solitaire'' (posthume)}})
*1781 : 『エミールとソフィ または孤独に生きる人たち』 ({{lang|fr|''Émile et Sophie, ou les Solitaires'' (publication posthume en 1781, la suite inachevée de l'Émile)}})
== 共著 ==
*『[[百科全書]]』 ''l'Encyclopédie'' : 共同執筆。代表編集者はディドロとジャン・ル・ロン・ダランベール。
== 音楽作品 ==
* [[数字譜]]([[記譜法]])
* [[優美な詩の女神たち]](オペラバレエ)
* ピグマリオン
* [[三つの音によるエール]]
* [[村の占い師]]([[オペラ]])
* クラリネット二重奏曲]
* 軍隊行進曲
* [[万軍の主よ、あなたのすまいは]]([[宗教音楽]])
* ダフニスとクロエ(オペラ、未完)
* [[むすんでひらいて]] - ルソーの作品であるオペラ「村の占者」の一節に「ルソーの新しいロマンス」というタイトルで歌詞が付けられ、その旋律がヨーロッパ各国へ広まったもの。日本では[[童謡]]として有名。他に、「わがおほみかみよ・かみよめぐみを・見わたせば・美しい眺め・静かにおやすみ・ロディーおばさんにいっといで・年老いた灰色のガチョウは死んだ・尚武之精神・植松・ああきみのきみなるエホバの神よ」などの異題でも知られる<ref>{{Cite book|和書|author=西川久子 |year=2004 |title=「むすんでひらいて」とジャン・ジャック・ルソー |publisher=かもがわ出版 |pages=108-136}}</ref>。
== 日本語訳 ==
明治時代から平成に至る日本語訳書の一覧は、ルソー翻訳作品年表[http://homepage3.nifty.com/nada/rousseau.html]を参照<ref>榊原貴教「ルソー翻訳作品年表」。初出は『翻訳と歴史』36号フィリップ特集 付ジャン・ジャック・ルソー、2008年1月。</ref>。
;全集・選集ほか
* [[小林善彦]]・[[作田啓一]]ほか訳『ルソー全集』(全14巻・別巻2冊、[[白水社]]、1979-84年)
**以下は「全集」の収録著作一覧。別冊は伝記、文献目録、総索引につき省略。
**第1巻
***「告白 第一部・第二部」 Les confessions
**第2巻
***「告白 第二部」 Les confessions、小林善彦訳
***「孤独な散歩者の夢想」佐々木康之訳
***「夢想のための下書」佐々木康之訳
***「マルゼルブ租税院長官への四通の手紙 - 私の性格のほんとうの姿と私のあらゆる行動のほんとうの動機がわかる」佐々木康之訳
***「嘲笑家」宮ケ谷徳三訳
**第3巻
***「ルソー、ジャン=ジャックを裁く - 対話」小西嘉幸訳
***「伝記的断章・わが肖像・楽しみの技術および他の断章・さまざまなエクリ」宮ケ谷徳三訳
**第4巻
***「学問芸術論」山路昭訳
***「レナル師への手紙」山路昭訳
***「スタニスラス王への回答」山路昭訳
***「グリム氏への手紙」山路昭訳
***「ボルド氏への最後の回答」山路昭訳
***「ディジョンのアカデミー会員「ルーアンの外科医、ルカ」の学問芸術論についての新しい反論に対する手紙」山路昭訳
***「ボルド氏への第二の手紙の序文」山路昭訳
***「英雄の徳とはなにか」[[浜名優美]]訳
***「人間不平等起源論」[[原好男]]訳
***「フィロポリス氏への手紙・サン=ピエール師の永久平和論抜粋」宮治弘之訳
***「永久平和論批判」宮治弘之訳
***「戦争状態は社会状態から生まれるということ」宮治弘之訳
***「戦争についての断片」宮治弘之訳
***「戦争についてのほかの断片」宮治弘之訳
***「サン=ピエール師のポリシノディ論抜粋」宮治弘之訳
***「ポリシノディ論批判」宮治弘之訳
***「ポリシノディについての断片」宮治弘之訳
***「サン=ピエール師についてのある作品への序論案」宮治弘之訳
***「サン=ピエール師についての断片と覚書き」宮治弘之訳
**第5巻
***「ヴォルテール氏への手紙」浜名優美訳
***「富に関する論」清水康子訳
***「政治経済論」[[阪上孝]]訳
***「社会契約論-または政治的権利の諸原理・社会契約論または共和国の形態についての試論(初稿)」[[作田啓一]]訳
***「コルシカ憲法草案」[[遅塚忠躬]]訳
***「ポーランド統治論」永見文雄訳
**第6巻
***「エミール(上)」
**第7巻
***「エミール(下)」[[樋口謹一]]訳
***「ご子息の教育に関するド・マブリ氏への覚え書」松田清訳
***「サント=マリ氏のための教育案」松田清訳
***「ジュネーヴ市民ジャン=ジャック・ルソーからパリ大司教クリストフ・ド・ボーモンへの手紙」[[西川長夫]]訳
***「付録:ジュネーヴ市民ジャン=ジャック・ルソー著『エミール、あるいは教育について』と題する書物の論難を内容とするパリ大司教猊下の教書」西川長夫訳
**第8巻
***「演劇に関するダランベール氏への手紙」西川長夫訳
***「付録 -ダランベールによる「ジュネーヴ」の項目」西川長夫訳
***「山からの手紙」川合清隆訳
***「エミールとソフィ または孤独に生きる人たち」戸部松実訳
***「ド・フランキエール氏への手紙」永見文雄訳
**第9巻
***「新エロイーズ (上)」
**第10巻
***「新エロイーズ (下)」松本勤訳
***「エドワード・ボムストン卿の恋物語」戸部松実訳
***「道徳書簡」戸部松実
**第11巻
***「ヴァランス男爵夫人の果樹園・ポルド氏への書簡詩・パリゾ氏への書簡詩」松田清訳
***「シルヴィの小道」海老沢敏訳
***「ナルシス まえがき・ナルシス、またの名、おのれに恋する男」佐々木康之訳
***「気まぐれ女王・エフライムのレヴィ人」松田清訳
***「ピグマリオン」松本勤訳
***「先見者こと山のピエールの黙示」戸部松実訳
***「啓示に関する虚構あるいは寓意的作品」松田清訳
***「サラへの手紙」戸部松実訳
***「優美な詩の女神たち・ラミールの饗宴・村の占い師」[[海老沢敏]]訳
***「言語起源論・発音について」竹内成明訳
***「わが生涯の悲惨の慰め」海老沢敏訳
**第12巻
***「植物学についての手紙」高橋達明訳
***「植物用語辞典のための断片」高橋達明訳
***「植物学断片」高橋達明訳
***「植物学の記号」海老沢敏訳
***「音楽のための新記号案」海老沢敏訳
***「近代音楽論究」海老沢敏訳
***「グリム氏に宛ててフランスとイタリアの音楽劇を論ず」海老沢敏訳
***「ブランヴィル氏考案の新旋法についてレナル師に寄す」海老沢敏訳
***「『「オンファルに関する書簡」考』についてグリム氏に寄せる手紙」海老沢敏訳
***「同僚たちに寄せるアペラ座管弦楽団員の手紙」海老沢敏訳
***「フランス音楽に関する手紙」海老沢敏訳
***「ラモー氏が『「百科全書」の音楽に関する誤謬』と題された小冊子で主張する二つの原理を吟味する」海老沢敏訳
***「バーニー氏に宛てて音楽を論ず - グルック氏のイタリア語版『アルチェステ』に関する考察の断章を付す」海老沢敏訳
***「グルック氏の『オルフェーオ』のさる楽曲を論じる小ペテン師の名義人宛返書抄」海老沢敏訳
***「軍楽論・鐘の曲・音楽辞典(主要項目抜粋)」海老沢敏訳
**第13巻
***「新世界発見 - 悲劇」宮治弘之訳
***「戦争捕虜 - 喜劇」戸部松実訳
***「向こう見ずな約束 - 喜劇」宮治弘之訳
***「不覚にも恋に落ちたアルルカン」戸部松実訳
***「書簡集 (上)」原好男訳
**第14巻
***「書簡集 (下) 1762年-1778年」
*新版選集 『ルソー・コレクション』([[白水社]]、2012年)。改訳版で新しい解説を収録し以下を刊行
**『ルソー・コレクション 起源』(『人間不平等起源論』『言語起源論』)
**『ルソー・コレクション 文明』(『学問芸術論』『政治経済論』)-他に以下
***『サン=ピエール師の永久平和論抜粋』『永久平和論批判』『戦争状態は社会状態から生まれるということ』『戦争についての断片』『戦争についてのほかの断片』『サン=ピエール師のポリシノディ論抜粋』『ポリシノディ論批判』『ポリシノディ論についての断片』『ヴォルテール氏への手紙』『─ 一七五五年のリスボン大震災をめぐる摂理論争』)
**『ルソー・コレクション 政治』(『コルシカ国制案』『ポーランド統治論』)
**『ルソー・コレクション 孤独』(『孤独な散歩者の夢想』『マルゼルブ租税法院院長への四通の手紙』)
**なお著作中、政治哲学系でもっとも著名な『社会契約論』は、選集版には未収録、以下で刊行
***『社会契約論』(作田啓一訳、白水Uブックス、2010年)、新書判・解説[[川出良枝]]。旧版は『社会契約論/人間不平等起源論』(白水社イデー選書、1991年)。
***なお他に、主な著作を収録した『ルソー選集』(選書版・全10巻、1986年)や、主な著作の抜粋訳『自然と社会』([[平岡昇]]編訳、新装版1999年)が刊行。
;その他の日本語訳
*以下一覧は、[[岩波文庫]]での刊行
**桑原武夫・前川貞次郎訳『[[社会契約論]]』
**[[本田喜代治]]・[[平岡昇]]訳『[[人間不平等起源論]]』
**[[前川貞次郎]]訳『学問芸術論』
**[[今野一雄]]訳『[[エミール]]』(全3冊)、ワイド版刊
**[[桑原武夫]]・[[多田道太郎]]・[[樋口謹一]]訳『[[告白 (ルソー)|告白]]』(全3冊)
**[[安士正夫]]訳『新エロイーズ』(全4冊)
**今野一雄訳『孤独な散歩者の夢想』、ワイド版刊
**今野一雄訳『演劇について ダランベールへの手紙』
**[[河野健二]]訳『政治経済論』小冊子
* 2005年に、『人間不平等起原論・社会契約論』(小林善彦・[[井上幸治 (西洋史学者)|井上幸治]]訳)が、[[中公クラシックス]](新書版)で新版刊行。旧版は[[中公文庫]](2分冊)。
** 元版は『[[世界の名著]]30 ルソー』(平岡昇責任編集、中央公論社、のち「中公バックス36 ルソー」)
***[[平岡昇]]訳『学問・芸術論』、小林訳『人間不平等起原論』、井上訳『社会契約論』、[[戸部松実]]抄訳『エミール』を収録。
* 2007年に、小林善彦訳 『言語起源論 - 旋律および音楽的模倣を論ず』が、現代思潮新社「古典文庫」で改訂刊行。初刊版は1970年。
* 2008年に、[[中山元]]訳 『人間不平等起原論』、『社会契約論』の2冊が、[[光文社古典新訳文庫]]で刊行。
* 2011年に、淵田仁・飯田賢穂訳で、未訳作品『化学教程』が[[月曜社]]公式サイトにて連載訳出。
* 2012年に、[[永田千奈]]訳 『孤独な散歩者の夢想』が、光文社古典新訳文庫で刊行。
* 2016年に、坂倉裕治訳 『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』が、[[講談社学術文庫]]で刊行。
* 2016年に、増田真訳『言語起源論――旋律と音楽的模倣について』が、岩波文庫で刊行。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=ルソー |year=1968 |translator=[[前川貞次郎]] |title=学問芸術論 |publisher=岩波文庫 |ref={{harvid|ルソー|1968}}}}
*{{Cite book|和書|author=ルソー |date=1933年、改版1972年 |translator=[[本田喜代治]]、[[平岡昇]] |title=人間不平等起源論 |publisher=岩波文庫 |ref={{harvid|ルソー|1933}}}}
*{{Cite book|和書|author=ルソー |year=1954 |translator=[[桑原武夫]]、[[前川貞次郎]] |title=社会契約論 |publisher=岩波文庫 |ref={{harvid|ルソー|1954}}}}
*{{Cite book|和書|author=ルソー |year=1963 |translator=[[今野一雄]] |title=エミール |publisher=岩波文庫(上中下)|ref={{harvid|ルソー|1963}}}}
*{{Cite book|和書|author1=押村襄|authorlink1=押村襄|author2=中村三郎|authorlink2=中村三郎 (翻訳家)|author3=押村高|authorlink3=押村高|author4=林幹夫|authorlink4=林幹夫 |year=1987|title=ルソーとその時代 (教育の発見双書) |publisher=玉川大学出版部 |ref={{harvid|押村等|1987}}}}
*{{Cite book|和書|author=桑瀬章二郎編 |year=2010 |title=ルソーを学ぶ人のために |publisher=世界思想社 |ref={{harvid|桑瀬編|2010}}}}
*{{Cite book|和書|editor=桑原武夫|editor-link=桑原武夫 |year=1962 |title=ルソー |publisher=[[岩波新書]] |ref={{harvid|桑原|1962}}}}
*{{Cite book|和書|author=小林善彦|authorlink=小林善彦 |year=2001 |title=誇り高き市民―ルソーになったジャン=ジャック |publisher=岩波書店 |ref={{harvid|小林|2001 }}}}
*{{Cite book|和書|author1=関川悦雄|authorlink1=関川悦雄|author2=北野秋男|authorlink2=北野秋男|year=2003 |title=教育思想のルーツを求めて―近代教育論の展開と課題|publisher=啓明出版|ref={{harvid|関川、北野|2003}}}}
*{{Cite book|和書|author=中里良二|authorlink=中里良二|date=1969|title=ルソー (センチュリーブックス 人と思想 14)|publisher=[[清水書院]]|ref=中里(1969)}}新装版2015年
*{{Cite book|和書|author=仲正昌樹|authorlink=仲正昌樹 |year=2010 |title=今こそルソーを読み直す |publisher=NHK出版・生活人新書 |ref={{harvid|仲正|2010}}}}
*{{Cite book|和書|author=永見文雄|authorlink=永見文雄 |year=2012 |title=ジャン=ジャック・ルソー: 自己充足の哲学 |publisher=勁草書房 |ref={{harvid|永見|2012}}}}
*{{Cite book|和書|author=福田歓一|authorlink=福田歓一 |year=2012 |title=ルソー|publisher=[[岩波現代文庫]] |ref={{harvid|福田|2012}}}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Jean-Jacques Rousseau|Jean-Jacques Rousseau}}
{{wikiquote|ジャン=ジャック・ルソー}}
{{wikisourcelang|fr|Auteur:Jean-Jacques_Rousseau|ジャン=ジャック・ルソーの原著}}
* [[百科全書]]
== 外部リンク ==
* [https://kakugen.aikotoba.jp/Rousseau.htm ルソー名言集] ([https://kakugen.aikotoba.jp/ 世界傑作格言集])
* {{PDFlink|[https://www.ibiblio.org/ml/libri/r/RousseauJJ_ContratSocial_p.pdf Du contrat social ou Principes du droit]}} {{fr icon}} 「[[社会契約論]]」原文
* {{SEP|rousseau|Jean Jacques Rousseau}}
* {{Kotobank|ルソー(Jean-Jacques Rousseau)}}
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{{社会哲学と政治哲学}}
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[[Category:ジャン=ジャック・ルソー|*]]
[[Category:18世紀フランスの哲学者]]
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[[Category:18世紀フランスの博物学者]]
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[[Category:百科全書派の人物 (1751–72)]]
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12,179 |
1754年
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1754年(1754 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1754年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲戌]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[宝暦]]4年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2414年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]19年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]30年
** [[檀君紀元|檀紀]]4087年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]15年
* [[仏滅紀元]] : 2296年 - 2297年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1167年 - 1168年
* [[ユダヤ暦]] : 5514年 - 5515年
* [[ユリウス暦]] : 1753年12月21日 - 1754年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1754}}
== できごと ==
* [[3月6日]] - イギリス首相[[ヘンリー・ペラム]]が在職中に死去。
* [[3月16日]] - ニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズがイギリスの第4代首相に就任。イギリスで初代[[ニューカッスル公爵]][[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]内閣が成立。
* [[4月18日]]-[[5月20日]] - イギリスで[[1754年イギリス総選挙|総選挙]]。与党のホイッグ党政権派の大勝。
* [[6月19日]] - [[オールバニ会議]]がはじまり、同年[[7月11日]]まで[[13植民地]]と[[インディアン]]の代表者が会議を行う。
* [[10月31日]] - [[コロンビア大学]]創立。
* [[12月13日]] - [[オスマン帝国]]、[[オスマン3世]]が第25代[[スルタン]]となる(-[[1757年]])
== 誕生 ==
{{see also|Category:1754年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月8日]](宝暦4年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) - [[松前道広]]、[[蝦夷国]][[松前藩]]第8代藩主(+ [[1832年]])
* [[2月13日]] - [[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|シャルル=モーリス・ド・タレーラン]]、フランスの政治家、外交官(+ [[1838年]])
* [[8月23日]] - [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]、[[フランス王国|フランス]]王(+ [[1793年]])
* [[10月1日]] ([[ユリウス暦]]9月20日)- [[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]、[[ロシア皇帝]](+ [[1801年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1754年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月6日]] - [[ヘンリー・ペラム]]、イギリスの政治家。
* [[4月28日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ]]、[[画家]](* [[1682年]])
* [[10月8日]] - [[ヘンリー・フィールディング]]、[[劇作家]]・[[小説家]](+ [[1707年]])
* [[呉敬梓]]、[[清]]朝中国の[[文人]]、「[[儒林外史]]」の著者(* [[1701年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1660年代
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1660年代(せんろっぴゃくろくじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1660年から1669年までの10年間を指す十年紀。
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1660年代(せんろっぴゃくろくじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1660年から1669年までの10年間を指す十年紀。
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'''1660年代'''(せんろっぴゃくろくじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])[[1660年]]から[[1669年]]までの10年間を指す[[十年紀]]。
== できごと ==
* この頃僧侶[[鉄牛道機]]により、下総の[[椿海]]干拓、陸地を広げる。
* [[カリブ海]]での[[海賊]]行為、最高潮に達する。
* この時期より[[ジャン=バティスト・リュリ]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の寵臣として権勢を振るう。
=== 1660年 ===
{{main|1660年}}
* [[伊達綱宗]]隠居事件。[[伊達騒動]]の始まり。
* [[イングランド]]で[[イングランド王政復古|王政復古]]。
* [[サミュエル・ピープス]]、[[日記]]を書き始める(1669年まで)。
* [[ロバート・フック]]、[[フックの法則]]を発見。
* [[チベット]]政府「[[ガンデンポタン]]」が本拠を[[ポタラ宮]]に移動( - [[1959年]])。
=== 1661年 ===
{{main|1661年}}
* [[清]]:[[康熙帝]](聖祖)即位。
* [[フランス]]:[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]親政。
* [[徳川光圀]]、[[水戸藩]]第2代藩主となる。
* [[カディス条約]]締結、[[北方戦争]]の終結。
=== 1662年 ===
{{main|1662年}}
* [[鄭成功]]が[[台湾]]の[[オランダ東インド会社]]を駆逐。[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]が発足( - [[1683年]])。
=== 1663年 ===
{{main|1663年}}
* [[武家諸法度]]改正(寛文令)により、[[キリスト教]]禁教が明文化される。
* [[レーゲンスブルク]]が[[神聖ローマ帝国]]の「永続的[[帝国議会]]」開催地となる( - [[1806年]])。
* [[アントウェルペン王立芸術学院]]設立。
=== 1664年 ===
{{main|1664年}}
* [[フランス東インド会社]]、[[フランス西インド会社]]設立(東インド会社: - [[1769年]]、西インド会社:-[[1674年]])。
=== 1665年 ===
{{main|1665年}}
* 第二次[[英蘭戦争]]( - 1667年)。
* [[イングランド]]、[[ペスト]]大流行。
* [[アイザック・ニュートン]]が[[万有引力]]を発見。
* ロバート・フックが『[[顕微鏡図譜]]』を刊行。初めて「[[細胞]]」(Cell)という言葉が使用される。
* [[江戸幕府]]が[[諸宗寺院法度]]([[寺院]]・[[僧侶]]統制)・[[諸社禰宜神主法度]]([[神社]]・[[神職]]統制)を発布。
=== 1666年 ===
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* [[ロンドン大火]]。[[ロンドン]]市街地の大部分が焼失するが、この時にペスト大流行の原因とされる[[ネズミ]]が大量に焼死したため、ペストの流行は収まる。
* [[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]設立。
=== 1667年 ===
{{main|1667年}}
* [[ブレダの和約]]締結、第二次英蘭戦争終結。
* [[アンドルソヴォの和約]]締結、[[大洪水時代]]の終結。
* [[フランス王国|フランス]]:[[ネーデルラント継承戦争|フランドル戦争]](-1668年)。
=== 1668年 ===
{{main|1668年}}
* [[アーヘンの和約 (1668年)|アーヘンの和約]]、フランドル戦争終結。
* [[イエズス会]]、布教のために[[グアム|グアム島]]や[[北マリアナ諸島]]の島々に上陸。
* [[北アメリカ]]に[[コーヒー]]が持ち込まれる。
=== 1669年 ===
{{main|1669年}}
* アイヌ民族、[[シャクシャインの戦い]]を開始。
* サミュエル・ピープス、[[失明]]のため日記の執筆を終了。
* [[錬金術師]][[ヘニッヒ・ブラント]]、[[リン|燐]]を発見。
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
* [[十年紀の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline}}
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12,182 |
MPEG-7
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MPEG-7(エムペグセブン)は、ISO/IEC JTC 1のMoving Picture Experts Group(MPEG)によってつくられたマルチメディア用メタデータ表記方法の国際標準化規格。MPEG-1,2,4などとは異なり、動画データのエンコードが目的ではなく、XMLをベースとしたメタデータ記述によるマルチメディアデータの高速な内容検索を目的としている。
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MPEG-7(エムペグセブン)は、ISO/IEC JTC 1のMoving Picture Experts Group(MPEG)によってつくられたマルチメディア用メタデータ表記方法の国際標準化規格。MPEG-1,2,4などとは異なり、動画データのエンコードが目的ではなく、XMLをベースとしたメタデータ記述によるマルチメディアデータの高速な内容検索を目的としている。
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== 関連項目 ==
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西武新宿駅
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西武新宿駅(せいぶしんじゅくえき)は、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にある西武鉄道新宿線の駅である。同線の起点で、駅番号はSS01。
西武新宿駅は、東日本旅客鉄道(JR東日本)や他の大手私鉄や地下鉄の新宿駅から見て北東の歌舞伎町にあり、徒歩圏内ではあるが数百m離れている。そのため、他路線との乗り換えが容易な隣の高田馬場駅の方が利用者数が多い。西武鉄道の駅の中では、池袋駅(西武池袋線)・高田馬場駅に次ぐ利用がある。
西武新宿駅は、高田馬場 - 本川越駅間を結んでいた旧西武鉄道村山線(現・西武鉄道新宿線)が国鉄新宿駅まで延伸する過程で仮駅として誕生し、新宿線の新宿駅乗り入れの中止とともに恒久的ターミナル駅となった歴史を持つ。
京成電鉄本線の京成上野駅、京浜急行電鉄本線の泉岳寺駅とともに、山手線より内側にある数少ない私鉄(東京メトロを除く)の駅となっている。
旧西武鉄道の終点だった高田馬場駅は山手線以外に接続路線がなかったため、さらに都心部へと延長する計画は第二次世界大戦前からあった。戦前は早稲田まで延長して市電と接続させようとし、この区間の免許も受けていたが実現せずに終わった。戦後は国鉄新宿駅への延伸を目指すこととなった。
山手線と並行する高田馬場 - 新宿間に免許が下りたことは当時としては異例であり、次のような逸話が残っている。戦後、千葉県内に敷設されていた陸軍鉄道連隊施設(現在の新京成電鉄路線)の払い下げにおいて、いったんは西武鉄道が引き受けることに決まった。ところが「千葉県内は京成」という行政側の判断で、一転して京成電鉄に譲られることになった。その代替として西武鉄道にとって悲願である高田馬場 - 新宿間に対し免許が与えられたという。
別説として、鉄道アナリストの広岡友紀によると、民鉄路線を山手線内側へ入れないという政策がある中で西武鉄道に高田馬場 - 新宿間の免許が交付されたのは、終戦直後に運輸省が西武に資材の一部を放出させた見返りだという。西武は戦中戦後に払い下げ品によって車両増備をしていたが、戦後の混乱期には多くの鉄道事業者が資材不足に悩んでいた。
1948年に高田馬場 - 新宿間の免許を取得した西武鉄道は、村山線を高田馬場駅から新宿駅まで延伸することとなった。西武鉄道が運輸大臣に対して1965年(昭和40年)2月17日付で提出した「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」では「西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。」としている。西武新宿仮駅の開業に伴い、当時「西武線」もしくは「村山線」と呼ばれていた路線は「新宿線」と改称された。西武新宿駅は仮駅のまま営業を続け、新宿駅東口の民衆駅(現在のルミネエスト新宿)の具体化を待っていた。
元々、当駅の周辺は角筈と呼ばれた地域だった。当駅の場所には都営バスの新宿車庫があった。西武新宿駅(角筈) - 新宿駅間は元々、同社が1951年まで所有していた新宿軌道線(西武軌道線、新宿 - 荻窪間、後の都電杉並線)の休止区間を東京都に譲渡せずそのまま免許線として保有し、また軌道も長年放置されていた。この軌道跡の所有権を根拠に、ゆくゆくは新宿駅まで延伸する計画だった。
新宿東口駅舎を取り壊して民衆駅を建設する計画は、1950年の日本停車場株式会社の出願以降、1952年の髙島屋の出願等が相次いだ。髙島屋に対抗するため新宿三丁目を拠点とする伊勢丹等も出願し、西武も伊勢丹等の計画に参加し、数社による競願となった。新宿歴史博物館の「ステイション新宿」に掲載された新宿駅ビル設計図を、西武線新宿駅乗り入れの構想図として取り上げる鉄道趣味誌等があるが、これは「百貨名店街ビル株式会社」という民衆駅の競合会社の一つが作成した構想の図面であり、実際に建設されたものとは異なる。
国鉄の諮問機関であった民衆駅等運営委員会は、1956年8月に競願者は話し合えとの中間答申を出し、一本化の動きとなった。1958年には、一本化が成り、株式会社新宿交通文化センターが設立され、髙島屋、伊勢丹、西武、地元資本等が均等に出資することとなった。また、駅ビルの基本方針として「地下鉄、西武鉄道の乗り入れも、本計画の一環として包含」することとなり、「西武鉄道に対しては、その専用部分は、西武鉄道の負担を受け、旅客公衆部分については、当社と半額ずつ分担する」こととされた。新宿交通文化センターは、1959年に社名を「株式会社新宿ステーションビルディング」に改称している。
1961年3月15日付の『社内報西武』には、西武新宿線の新宿駅乗り入れ決定と、具体的な駅ビルの計画が報じられていた。これによると、1階に駅ホールと西武新宿駅出改札室と駅務室、2階に西武駅務室と建物外にホーム一面、3階に西武駅長室その他が設置される。また「駅ホームはビル外にできるので、伊勢丹の方から見ると当社の電車が真正面から見えるようになる」とされている。
1961年8月1日に国鉄と株式会社新宿ステーションビルディングは「新宿東口民衆駅の建設に関する協定書」を締結した。この中で、西武鉄道の乗り入れに伴う駅本屋建物等に係る工事概算額として56,250千円を西武鉄道が負担することが決められた。
東建工 2号「特集:新宿東口民衆駅」及び「建築界」1964年8月号「新宿東口民衆駅・新宿駅東口地下駐車場」に掲載されたビル竣工時の図面によると、3階に西武駅務室、2階に改札、ホーム事務室、出札室、1階に改札、出札室が設置されることとされている。
「実はこのときの計画の痕跡が今も残っている。ルミネエストの建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」。と、駅ビルの1階から2階にかけての吹き抜けを西武線ホームの「名残」とする説があるが、前述の1961年3月15日付『社内報西武』には「駅ホームはビル外にできる」とされている他、『建築界』1964年8月号「新宿東口民衆駅・新宿駅東口地下駐車場」に掲載されたビル竣工時の図面にもビル外のホームとビル吹き抜けはそれぞれ独立して設置されており、吹き抜けは「西武線乗り入れ計画の名残」ではないことを確認することができる。 また、東京都公文書館は、所有する「株式会社新宿ステーションビル事業案内」の一部図面等をフェイスブックで公開しているが、それを見ても西武線ホームがビルの外にあり、ホームと関係なく吹き抜けが設置されていることが分かる。
1964年、国鉄新宿駅東口に「新宿ステーションビル」が完成した。ビル2階は西武線乗り入れを考慮した構造となっていて、西武鉄道の長谷部和夫常務取締役運輸計画部長(当時)は「電車はステーション・ビルの北西の角までいく予定だったのですが,ビルには旅客用の入口の穴があいていまして,中に改札のラッチまで入れてありました。高架橋の基礎もいくつかつくったはずです。」と語っている。
西武鉄道の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」では、乗り入れ中止の理由として「当時西武新宿線の旅客輸送は他の近郊電車と同様将来とても六輛編成で足るとされたものでありますが、その後輸送量 特に高田馬場以西に於ける増加は急上昇を来たし、近い将来八輛編成の運行は必至の事態となつたのであります。そのため新宿乗入ホームも八輛編成に応じて延伸する様企画を変更し、その先端付近を拡巾するため国鉄山手貨物線側の用地使用の増大及び反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大等について長時日に亘り再三再四交渉を重ねて参つたのであります。これ等については関係各当局に於ても出来る限りの便宜を与えられる様努力せられたのでありますが、諸種の事情によりホーム巾を充分拡大することが出来ない儘八輛用のホームとして工事施工認可を申請したのであります。」「当社申請の新宿東口駅はそのホームは1本で而も先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より八輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたのであります。一方新宿線の輸送量は前記の通り八輛編成を絶対必要とし、又混雑時の運行間隔から見るとき高田馬場或は歌舞伎町駅(現西武新宿仮駅)での車輛分割は到底出来ませんので、以上のような経緯もあり、これまでの 先行投資も少なくありませんが遺憾ながら東口への乗入を断念せざるを得ない状態となったのであります。」としている。なお、1965年3月16日付の朝日新聞でも「運輸省が建設計画に難色を示したのが断念の理由」と報じている。国鉄本社停車場課の菅原操・今泉清一は「西武鉄道は、現在の西武新宿駅から国鉄線に平行して延伸し、青梅街道を架道橋で渡り、道路及び東口駅前広場の歩道上は高架構造とする。この上にホームを1面(8両編成)新設して民衆駅の2階のレベルとし、客扱はホームの終端部分にある民衆駅構内で扱う予定である。」と記しており、ステーションビル開業後も西武の8両編成のホーム計画が国鉄の関係部署に共有されていたことを示している。
西武新宿線が新宿駅乗り入れを断念した本当の理由には異説もある。現在の西武鉄道の創始者である堤康次郎の側近だった中嶋忠三郎によると、戦時中に東京西南部の私鉄を次々に東京急行電鉄(大東急)に組み入れた五島慶太は、旧西武鉄道(現在の西武新宿線など)も狙っていた。1944年(昭和19年)に堤康次郎は旧西武鉄道、武蔵野鉄道、食糧増産の3社を合併する申請を出したが、五島と手を結んだ鉄道総局長官の堀木鎌三は許可を出さず、さらに西武系を分割するように圧力をかけてきた。堤はこの交通統制に懲りて西武鉄道の都心乗り入れを一切止めたという。中嶋は新宿東口までの延伸を主張したが、堤の意向で歌舞伎町の所で切られた。
西武新宿線が新宿駅まで乗り入れていないのは、新宿駅東口の駅ビル建設に西武グループが反対していたからだという説もある。当時、まだ小規模であった西武百貨店池袋本店のある池袋に、当時百貨店として強力な力をみせていた三越・伊勢丹が池袋進出を検討していた。このうち新宿に本店を擁していた伊勢丹では東口駅ビルへの髙島屋の新宿進出が取りざたされていて絶対阻止の構えであった。そこで伊勢丹が池袋出店計画をやめる代わりに西武が高島屋の新宿出店を反対するという取引が交わされ、駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れなくなったとする。ただし、前述の国鉄発行の「東建工」2号や、西武鉄道の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」にもあるように、実際には西武鉄道は新宿駅民衆駅ビル建設にあたり乗り入れのための費用負担までしている。また、当時の雑誌記事によると「西武と伊勢丹の関係は意外に深い。一つの見方には相互の不可侵条約を云々するのもいる。伊勢丹が池袋に敷地を持っているがこれは建てない。そのかわり西武は新宿に手を出さないという平和条約である。その意味からか、西武は新宿に電車を乗り入れても建物そのものには手を出さない、という条件が附されている。」としており、広岡の説とは異なっている。
1965年3月25日に西武鉄道乗り入れ中止が決定されたのち、1967年3月24日に新宿ステーションビルが西武鉄道乗り入れ予定地を買い取り、同年9月25日に乗り入れ跡地改造工事が竣工した。
1977年3月3日、現在の位置にプリンスホテルとショッピングモールを取り込んだ地上25階・地下4階の駅ビルが完成。西武新宿駅はホーム2本、10両編成用発着線3本を有する恒久的ターミナルとなり、西武の新宿駅東口への乗り入れは完全に消えた。1980年10月には北口が開設された。
1980年代になって、西武新宿線の混雑を緩和する目的で、西武新宿 - 上石神井間に地下急行線を建設する計画が立てられた(西武新宿線#複々線計画を参照)。計画では地下線の西武新宿駅は現在の駅 (-1.97 km) よりJR新宿駅寄り(-2.23 km、乗降場中心)になる、新宿プリンスホテルと丸ノ内線メトロプロムナードまでの間に設けられ、新宿駅各路線との乗り換えが便利になる計画であった。地下駅は有効長210 mの島式ホームで、駅舎は地下2階に設け、道路直下の地下1階はメトロプロムナードと靖国通り下の新宿サブナードを結ぶ連絡通路となる予定だった。工事費の増大や輸送量の減少により、中止された。
時はバブル時代の1980年代末、新宿駅南口の貨物駅跡地(現:タカシマヤタイムズスクエア)に百貨店の建設構想が浮上した。同地域への出店を目指して西武百貨店は1989年に、西武新宿駅から大深度地下線を建設して南口まで延伸させる計画とともに競争入札に挑んだが、歌舞伎町商店街の反対などもあり、さらなる好条件を示した髙島屋に敗れた。これによって西武鉄道の新宿駅方面への延伸は完全に立ち消えた。
日本最大級の歓楽街・歌舞伎町の西端に立地する当駅は、新宿駅(JR・京王・小田急)から見て靖国通りを挟んだ北北東に位置し、直線距離でおよそ 350 - 700 m 離れている。並行するJR山手線の新宿駅 - 新大久保駅間の中間付近、中央本線が西方に分岐していく地点に存在しており、実態として「新宿駅とは別の駅」 である一方、比較的近い東京メトロ丸ノ内線(新宿駅)と都営地下鉄大江戸線(新宿西口駅)とは相互に連絡駅となっている(連絡運輸)。ただし定期券については各線新宿駅との間でも連絡運輸を行っている(ただし、都営地下鉄としては新宿西口駅と連絡運輸を取り扱っているため、都営新宿線新宿駅および大江戸線新宿駅とは取り扱っていない。都営新宿線と共用駅扱いではあるが京王新線の新線新宿駅とは取り扱っている)。新宿駅・新宿西口駅・新宿三丁目駅との間には巨大な地下通路・地下街網が張り巡らされている。このうち、東京メトロ副都心線新宿三丁目駅については、2013年3月16日から発売される「西武横浜ベイサイドきっぷ」などのフリーきっぷに限って、接続駅として扱われる。ちなみに、新宿サブナード・メトロプロムナードから丸ノ内線・副都心線新宿三丁目駅経由で都営新宿線新宿三丁目駅、甲州街道ガード下・バスタ新宿・JR新宿ミライナタワー・タカシマヤタイムズスクエアまで屋根が続いており、雨や雪に濡れることなく移動できる。都営新宿線と直接乗り換える場合は新線新宿駅を利用するよりも新宿三丁目駅を利用する方が近い。
前述したが、新宿線を高田馬場駅から新宿駅へ乗り入れさせる計画があり、当駅は仮駅として開業した。その後計画が頓挫し、1977年(昭和52年)3月3日に仮駅を本駅とした。
改札は正面口と北口の2か所。正面口には駅事務室のほか、定期券うりば、特急券うりばなどがある。開設時間は初電から終電までである。2005年度にバリアフリー化工事を実施したことで、エレベーターとスロープが整備されている。また、改札口有人通路は「ご案内カウンター」としている。2008年度より、ホーム屋根およびホーム床や北口旅客トイレ改修などのリニューアル工事が行われている。続いて正面口改札側のトイレのバリアフリー化改築を行い、段差を解消した。
これに対し、北口改札はエレベーター、エスカレーターともに設置されていない。また、駅員も常駐していないため、インターホンで対応している。開設時間は7:00 - 終電までである。
トイレは南口、北口各改札内にある。このうち多機能トイレは南口改札内に設置されている。
JR線高田馬場 - 新宿間と西武線高田馬場 - 西武新宿間の両方が利用可能な特殊連絡定期券「Oneだぶる♪」(PASMO定期券)が2009年3月14日から発売されている。
小田急発売の「小江戸・川越フリークーポン」・西武発売の「箱根フリーパス」などは、当駅と小田急の新宿駅が接続駅となっている。ただし乗り換えには10分以上を要する。
このため、西武新宿線の乗客のうち目的地が新宿あるいは京王や小田急の沿線である場合も乗換距離が短い高田馬場駅でJR山手線(この間運賃現金140円・IC136円)に乗り換えるケースが多い。
新宿区は#新宿線複々線化計画の都市計画廃止に伴い、その地下1階に計画されていた連絡通路のみを整備し、新宿サブナード北側に整備済みの東京都市計画道路 特殊街路 新宿歩行者専用道第4号線の区間を取り込んで東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線とする都市計画変更手続きを進めている。 これを受け、西武鉄道は2021年4月26日に「西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅をつなぐ地下通路」の事業予定者として、整備に向けた検討・協議を進めることを明らかにした。この通路の新設により、西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅の乗り換え時間が11分→5分と半分以下に短縮される。
駅ビルには専門店ビル西武新宿PePe(地下2階 - 8階)・新宿プリンスホテル(それより上および1階・地下1階)、飲食店中心の「Brick St.」(ブリックストリート、1階駅ビル外側) が入居する。西武新宿PePeおよびBrick St.の出店店舗の詳細は公式サイト「西武新宿PePe」を参照。
地下で接続する「新宿サブナード」は、駅ビル完成以前の1973年に既に開業しており、2013年に40周年を迎えた。
頭端式ホーム2面3線を有する高架駅である。1番ホームは単式、2・3番ホームは島式になっており、いずれも有効長は10両分である。平日17:30 - 21:00に発車する急行・準急については整列乗車を実施しており、到着した列車の乗客を全員降ろした上で一旦閉扉し、改めて開扉して利用者を乗せるようにしている。ただし、ダイヤ乱れの場合はこの扱いを中止することもある。
ホームドアが2020年3月から順次設置され、特急レッドアローや52席の至福などの発着に対応するため、異なる乗降ドアの位置に対応した長尺多段式の大開口ホームドアを設置した。
2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は135,139人である。西武鉄道全92駅の中では池袋駅、高田馬場駅に次ぐ第3位。当駅は新宿駅と距離があることから、JR山手線・東京メトロ東西線との乗り換えが可能な高田馬場駅の乗降人員が多い。
各年度の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表の通りである。
当駅は日本最大の歓楽街である歌舞伎町の最西端に位置している。JR新宿駅とは400mほど離れているため、乗り換えには靖国通りを渡って徒歩で10〜15分ほどを要する。
新宿靖国通りに面した大ガード傍で繁華街が広がっている。
正面口靖国通り沿いの「歌舞伎町」と東急歌舞伎町タワー内バスターミナルの「東急歌舞伎町タワー」の二つのバス停留所がある。
北口から正面口までの間の歩道には、アメリカ合衆国各地および西武グループの施設があるリゾート地の方角を示したタイルが埋め込まれている。その歩道に面して商業施設「アメリカン・ブルバード」が存在した(1980年開業。2016年に「Brick.st」としてリニューアル)。
当駅の敷地は狭く、本来は2線しか入らないはずだったが、現在の構造にする時に3線としたため、東側ホームの一部は直下の歩道上に張り出ている。
新宿駅を発着する他社線では丸ノ内線以外に当駅への乗り換え案内は行われていない。また新宿西口駅を発着する都営大江戸線も案内が行われる。
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"text": "1964年、国鉄新宿駅東口に「新宿ステーションビル」が完成した。ビル2階は西武線乗り入れを考慮した構造となっていて、西武鉄道の長谷部和夫常務取締役運輸計画部長(当時)は「電車はステーション・ビルの北西の角までいく予定だったのですが,ビルには旅客用の入口の穴があいていまして,中に改札のラッチまで入れてありました。高架橋の基礎もいくつかつくったはずです。」と語っている。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "西武鉄道の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」では、乗り入れ中止の理由として「当時西武新宿線の旅客輸送は他の近郊電車と同様将来とても六輛編成で足るとされたものでありますが、その後輸送量 特に高田馬場以西に於ける増加は急上昇を来たし、近い将来八輛編成の運行は必至の事態となつたのであります。そのため新宿乗入ホームも八輛編成に応じて延伸する様企画を変更し、その先端付近を拡巾するため国鉄山手貨物線側の用地使用の増大及び反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大等について長時日に亘り再三再四交渉を重ねて参つたのであります。これ等については関係各当局に於ても出来る限りの便宜を与えられる様努力せられたのでありますが、諸種の事情によりホーム巾を充分拡大することが出来ない儘八輛用のホームとして工事施工認可を申請したのであります。」「当社申請の新宿東口駅はそのホームは1本で而も先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より八輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたのであります。一方新宿線の輸送量は前記の通り八輛編成を絶対必要とし、又混雑時の運行間隔から見るとき高田馬場或は歌舞伎町駅(現西武新宿仮駅)での車輛分割は到底出来ませんので、以上のような経緯もあり、これまでの 先行投資も少なくありませんが遺憾ながら東口への乗入を断念せざるを得ない状態となったのであります。」としている。なお、1965年3月16日付の朝日新聞でも「運輸省が建設計画に難色を示したのが断念の理由」と報じている。国鉄本社停車場課の菅原操・今泉清一は「西武鉄道は、現在の西武新宿駅から国鉄線に平行して延伸し、青梅街道を架道橋で渡り、道路及び東口駅前広場の歩道上は高架構造とする。この上にホームを1面(8両編成)新設して民衆駅の2階のレベルとし、客扱はホームの終端部分にある民衆駅構内で扱う予定である。」と記しており、ステーションビル開業後も西武の8両編成のホーム計画が国鉄の関係部署に共有されていたことを示している。",
"title": "概要"
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"tag": "p",
"text": "西武新宿線が新宿駅乗り入れを断念した本当の理由には異説もある。現在の西武鉄道の創始者である堤康次郎の側近だった中嶋忠三郎によると、戦時中に東京西南部の私鉄を次々に東京急行電鉄(大東急)に組み入れた五島慶太は、旧西武鉄道(現在の西武新宿線など)も狙っていた。1944年(昭和19年)に堤康次郎は旧西武鉄道、武蔵野鉄道、食糧増産の3社を合併する申請を出したが、五島と手を結んだ鉄道総局長官の堀木鎌三は許可を出さず、さらに西武系を分割するように圧力をかけてきた。堤はこの交通統制に懲りて西武鉄道の都心乗り入れを一切止めたという。中嶋は新宿東口までの延伸を主張したが、堤の意向で歌舞伎町の所で切られた。",
"title": "概要"
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"text": "西武新宿線が新宿駅まで乗り入れていないのは、新宿駅東口の駅ビル建設に西武グループが反対していたからだという説もある。当時、まだ小規模であった西武百貨店池袋本店のある池袋に、当時百貨店として強力な力をみせていた三越・伊勢丹が池袋進出を検討していた。このうち新宿に本店を擁していた伊勢丹では東口駅ビルへの髙島屋の新宿進出が取りざたされていて絶対阻止の構えであった。そこで伊勢丹が池袋出店計画をやめる代わりに西武が高島屋の新宿出店を反対するという取引が交わされ、駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れなくなったとする。ただし、前述の国鉄発行の「東建工」2号や、西武鉄道の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」にもあるように、実際には西武鉄道は新宿駅民衆駅ビル建設にあたり乗り入れのための費用負担までしている。また、当時の雑誌記事によると「西武と伊勢丹の関係は意外に深い。一つの見方には相互の不可侵条約を云々するのもいる。伊勢丹が池袋に敷地を持っているがこれは建てない。そのかわり西武は新宿に手を出さないという平和条約である。その意味からか、西武は新宿に電車を乗り入れても建物そのものには手を出さない、という条件が附されている。」としており、広岡の説とは異なっている。",
"title": "概要"
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"text": "1965年3月25日に西武鉄道乗り入れ中止が決定されたのち、1967年3月24日に新宿ステーションビルが西武鉄道乗り入れ予定地を買い取り、同年9月25日に乗り入れ跡地改造工事が竣工した。",
"title": "概要"
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"text": "",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1977年3月3日、現在の位置にプリンスホテルとショッピングモールを取り込んだ地上25階・地下4階の駅ビルが完成。西武新宿駅はホーム2本、10両編成用発着線3本を有する恒久的ターミナルとなり、西武の新宿駅東口への乗り入れは完全に消えた。1980年10月には北口が開設された。",
"title": "概要"
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"text": "1980年代になって、西武新宿線の混雑を緩和する目的で、西武新宿 - 上石神井間に地下急行線を建設する計画が立てられた(西武新宿線#複々線計画を参照)。計画では地下線の西武新宿駅は現在の駅 (-1.97 km) よりJR新宿駅寄り(-2.23 km、乗降場中心)になる、新宿プリンスホテルと丸ノ内線メトロプロムナードまでの間に設けられ、新宿駅各路線との乗り換えが便利になる計画であった。地下駅は有効長210 mの島式ホームで、駅舎は地下2階に設け、道路直下の地下1階はメトロプロムナードと靖国通り下の新宿サブナードを結ぶ連絡通路となる予定だった。工事費の増大や輸送量の減少により、中止された。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "時はバブル時代の1980年代末、新宿駅南口の貨物駅跡地(現:タカシマヤタイムズスクエア)に百貨店の建設構想が浮上した。同地域への出店を目指して西武百貨店は1989年に、西武新宿駅から大深度地下線を建設して南口まで延伸させる計画とともに競争入札に挑んだが、歌舞伎町商店街の反対などもあり、さらなる好条件を示した髙島屋に敗れた。これによって西武鉄道の新宿駅方面への延伸は完全に立ち消えた。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "日本最大級の歓楽街・歌舞伎町の西端に立地する当駅は、新宿駅(JR・京王・小田急)から見て靖国通りを挟んだ北北東に位置し、直線距離でおよそ 350 - 700 m 離れている。並行するJR山手線の新宿駅 - 新大久保駅間の中間付近、中央本線が西方に分岐していく地点に存在しており、実態として「新宿駅とは別の駅」 である一方、比較的近い東京メトロ丸ノ内線(新宿駅)と都営地下鉄大江戸線(新宿西口駅)とは相互に連絡駅となっている(連絡運輸)。ただし定期券については各線新宿駅との間でも連絡運輸を行っている(ただし、都営地下鉄としては新宿西口駅と連絡運輸を取り扱っているため、都営新宿線新宿駅および大江戸線新宿駅とは取り扱っていない。都営新宿線と共用駅扱いではあるが京王新線の新線新宿駅とは取り扱っている)。新宿駅・新宿西口駅・新宿三丁目駅との間には巨大な地下通路・地下街網が張り巡らされている。このうち、東京メトロ副都心線新宿三丁目駅については、2013年3月16日から発売される「西武横浜ベイサイドきっぷ」などのフリーきっぷに限って、接続駅として扱われる。ちなみに、新宿サブナード・メトロプロムナードから丸ノ内線・副都心線新宿三丁目駅経由で都営新宿線新宿三丁目駅、甲州街道ガード下・バスタ新宿・JR新宿ミライナタワー・タカシマヤタイムズスクエアまで屋根が続いており、雨や雪に濡れることなく移動できる。都営新宿線と直接乗り換える場合は新線新宿駅を利用するよりも新宿三丁目駅を利用する方が近い。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "前述したが、新宿線を高田馬場駅から新宿駅へ乗り入れさせる計画があり、当駅は仮駅として開業した。その後計画が頓挫し、1977年(昭和52年)3月3日に仮駅を本駅とした。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "改札は正面口と北口の2か所。正面口には駅事務室のほか、定期券うりば、特急券うりばなどがある。開設時間は初電から終電までである。2005年度にバリアフリー化工事を実施したことで、エレベーターとスロープが整備されている。また、改札口有人通路は「ご案内カウンター」としている。2008年度より、ホーム屋根およびホーム床や北口旅客トイレ改修などのリニューアル工事が行われている。続いて正面口改札側のトイレのバリアフリー化改築を行い、段差を解消した。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "これに対し、北口改札はエレベーター、エスカレーターともに設置されていない。また、駅員も常駐していないため、インターホンで対応している。開設時間は7:00 - 終電までである。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "トイレは南口、北口各改札内にある。このうち多機能トイレは南口改札内に設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "JR線高田馬場 - 新宿間と西武線高田馬場 - 西武新宿間の両方が利用可能な特殊連絡定期券「Oneだぶる♪」(PASMO定期券)が2009年3月14日から発売されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "小田急発売の「小江戸・川越フリークーポン」・西武発売の「箱根フリーパス」などは、当駅と小田急の新宿駅が接続駅となっている。ただし乗り換えには10分以上を要する。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "このため、西武新宿線の乗客のうち目的地が新宿あるいは京王や小田急の沿線である場合も乗換距離が短い高田馬場駅でJR山手線(この間運賃現金140円・IC136円)に乗り換えるケースが多い。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "新宿区は#新宿線複々線化計画の都市計画廃止に伴い、その地下1階に計画されていた連絡通路のみを整備し、新宿サブナード北側に整備済みの東京都市計画道路 特殊街路 新宿歩行者専用道第4号線の区間を取り込んで東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線とする都市計画変更手続きを進めている。 これを受け、西武鉄道は2021年4月26日に「西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅をつなぐ地下通路」の事業予定者として、整備に向けた検討・協議を進めることを明らかにした。この通路の新設により、西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅の乗り換え時間が11分→5分と半分以下に短縮される。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "駅ビルには専門店ビル西武新宿PePe(地下2階 - 8階)・新宿プリンスホテル(それより上および1階・地下1階)、飲食店中心の「Brick St.」(ブリックストリート、1階駅ビル外側) が入居する。西武新宿PePeおよびBrick St.の出店店舗の詳細は公式サイト「西武新宿PePe」を参照。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "地下で接続する「新宿サブナード」は、駅ビル完成以前の1973年に既に開業しており、2013年に40周年を迎えた。",
"title": "駅構造"
},
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "頭端式ホーム2面3線を有する高架駅である。1番ホームは単式、2・3番ホームは島式になっており、いずれも有効長は10両分である。平日17:30 - 21:00に発車する急行・準急については整列乗車を実施しており、到着した列車の乗客を全員降ろした上で一旦閉扉し、改めて開扉して利用者を乗せるようにしている。ただし、ダイヤ乱れの場合はこの扱いを中止することもある。",
"title": "駅構造"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ホームドアが2020年3月から順次設置され、特急レッドアローや52席の至福などの発着に対応するため、異なる乗降ドアの位置に対応した長尺多段式の大開口ホームドアを設置した。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は135,139人である。西武鉄道全92駅の中では池袋駅、高田馬場駅に次ぐ第3位。当駅は新宿駅と距離があることから、JR山手線・東京メトロ東西線との乗り換えが可能な高田馬場駅の乗降人員が多い。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "各年度の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "当駅は日本最大の歓楽街である歌舞伎町の最西端に位置している。JR新宿駅とは400mほど離れているため、乗り換えには靖国通りを渡って徒歩で10〜15分ほどを要する。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "新宿靖国通りに面した大ガード傍で繁華街が広がっている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "正面口靖国通り沿いの「歌舞伎町」と東急歌舞伎町タワー内バスターミナルの「東急歌舞伎町タワー」の二つのバス停留所がある。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "北口から正面口までの間の歩道には、アメリカ合衆国各地および西武グループの施設があるリゾート地の方角を示したタイルが埋め込まれている。その歩道に面して商業施設「アメリカン・ブルバード」が存在した(1980年開業。2016年に「Brick.st」としてリニューアル)。",
"title": "付記"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "当駅の敷地は狭く、本来は2線しか入らないはずだったが、現在の構造にする時に3線としたため、東側ホームの一部は直下の歩道上に張り出ている。",
"title": "付記"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "新宿駅を発着する他社線では丸ノ内線以外に当駅への乗り換え案内は行われていない。また新宿西口駅を発着する都営大江戸線も案内が行われる。",
"title": "付記"
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西武新宿駅(せいぶしんじゅくえき)は、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にある西武鉄道新宿線の駅である。同線の起点で、駅番号はSS01。
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{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
{{駅情報
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|駅名 = 西武新宿駅
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|乗換 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)<br /> [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]<br /> [[新宿駅#東京メトロ|新宿駅]] {{駅番号r|M|08|#f62e36|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年05月26日閲覧)</ref><br />[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])<br /> [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]<br /> [[新宿西口駅]] {{駅番号r|E|01|#ce045f|4}}<ref name="tokyosubway"/><br />※ [[連絡運輸]]実施路線のみ記載
|備考 =
|備考全幅 = * 0kmの[[距離標]]があるのは次駅の高田馬場。当駅は高田馬場から-2kmとなっている。}}
[[File:Seibu-Shinjuku Station sep 30 2020 - various 17 28 20 985000.jpeg|thumb|240px|駅ビル(2020年9月)]]
[[File:Seibu-Shinjuku Station sep 30 2020 - various 17 29 16 176000.jpeg|thumb|240px|改札(2020年9月)]]
[[File:Seibu-Shinjuku_Station_Dec_29_2021_various_17_08_20_425000.jpeg|thumb|240px|ホーム(2021年12月)]]
[[File:Seibu-Shinjuku-Sta-Platform.JPG|thumb|240px|ホーム(2012年7月)]]
[[File:Seibu Seibu-shinjukuStation.jpg|thumb|240px|リニューアル工事前のホーム(2005年6月)]]
{{maplink2|frame=yes|zoom=14|frame-width=240
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'''西武新宿駅'''(せいぶしんじゅくえき)は、[[東京都]][[新宿区]][[歌舞伎町]]一丁目にある[[西武鉄道]][[西武新宿線|新宿線]]の[[鉄道駅|駅]]である。同線の起点で、駅番号は'''SS01'''。
== 概要 ==
西武新宿駅は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)や他の[[大手私鉄]]や[[地下鉄]]の[[新宿駅]]から見て北東の[[歌舞伎町]]にあり、徒歩圏内ではあるが数百m離れている<ref>「[https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000 東京ふしぎ探検隊/西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画]」[[日本経済新聞]]『NIKKEI STYLE』(2012年11月23日)2018年11月28日閲覧。</ref>。そのため、他路線との乗り換えが容易な隣の[[高田馬場駅]]の方が利用者数が多い。西武鉄道の駅の中では、[[池袋駅]]([[西武池袋線]])・高田馬場駅に次ぐ利用がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf |title=駅別乗降人員(2020年度1日平均) |access-date=2023/03/04 |publisher=西武鉄道}}</ref>。
西武新宿駅は、[[高田馬場駅|高田馬場]] - [[本川越駅]]間を結んでいた旧西武鉄道村山線(現・西武鉄道新宿線)が[[日本国有鉄道|国鉄]]新宿駅まで延伸する過程で仮駅として誕生し、新宿線の新宿駅乗り入れの中止とともに恒久的[[ターミナル駅]]となった歴史を持つ。
[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]の[[京成上野駅]]<ref group="注釈">かつて京成本線に存在した[[博物館動物園駅]]と[[寛永寺坂駅]]も山手線の内側に存在した。</ref>、[[京浜急行電鉄]][[京急本線|本線]]の[[泉岳寺駅]]とともに、山手線より内側にある数少ない私鉄(東京メトロを除く)の駅となっている。
=== 新宿乗り入れ計画 ===
旧西武鉄道の終点だった[[高田馬場駅]]は[[山手線]]以外に接続路線がなかったため、さらに都心部へと延長する計画は[[第二次世界大戦]]前からあった。[[戦前]]は[[早稲田停留場|早稲田]]まで延長して[[東京都電車|市電]]と接続させようとし、この区間の免許も受けていたが実現せずに終わった。[[戦後]]は国鉄新宿駅への延伸を目指すこととなった。
山手線と並行する高田馬場 - 新宿間に免許が下りたことは当時としては異例であり、次のような逸話が残っている。戦後、[[千葉県]]内に敷設されていた[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[鉄道連隊]]施設(現在の[[新京成電鉄]]路線)の払い下げにおいて、いったんは西武鉄道が引き受けることに決まった。ところが「千葉県内は京成」という行政側の判断で、一転して[[京成電鉄]]に譲られることになった。その代替として西武鉄道にとって悲願である高田馬場 - 新宿間に対し免許が与えられたという<ref>{{Cite journal |author = [[高嶋修一]] |year = 2002 |title = 西武鉄道のあゆみ―路線の役割と経営の歴史過程― |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 52 |issue = 4 |pages = 97-112(2002年4月臨時増刊号「西武鉄道」) |publisher = 電気車研究会}}</ref>。
別説として、鉄道アナリストの[[広岡友紀]]によると、[[私鉄|民鉄]]路線を山手線内側へ入れないという政策がある中で西武鉄道に高田馬場 - 新宿間の免許が交付されたのは、終戦直後に[[運輸省]]が西武に資材の一部を放出させた見返りだという。西武は戦中戦後に払い下げ品によって車両増備をしていたが、戦後の混乱期には多くの鉄道事業者が資材不足に悩んでいた<ref name = "Hirooka">{{ Cite book |和書 |author = 広岡友紀 |year = 2009 |title = 日本の私鉄 西武鉄道 |publisher = 毎日新聞社 |page = 198 |isbn = 978-4-620-31938-4}}</ref>。
=== 仮駅としての開業 ===
[[1948年]]に高田馬場 - 新宿間の免許を取得した西武鉄道は、村山線を高田馬場駅から新宿駅まで延伸することとなった。西武鉄道が運輸大臣に対して[[1965年]](昭和40年)2月17日付で提出した「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」では「西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。」としている。西武新宿仮駅の開業に伴い、当時「西武線」もしくは「村山線」と呼ばれていた路線は「新宿線」と改称された。西武新宿駅は仮駅のまま営業を続け、新宿駅東口の[[民衆駅]](現在の[[ルミネエスト新宿]])の具体化を待っていた。
元々、当駅の周辺は[[西新宿|角筈]]と呼ばれた地域だった。当駅の場所には[[都営バス]]の新宿車庫があった。西武新宿駅(角筈) - 新宿駅間は元々、同社が[[1951年]]まで所有していた新宿軌道線(西武軌道線、新宿 - [[荻窪駅|荻窪]]間、後の[[都電杉並線]])の休止区間を東京都に譲渡せずそのまま免許線として保有し、また軌道も長年放置されていた。この軌道跡の所有権を根拠に、ゆくゆくは新宿駅まで延伸する計画だった。
新宿東口駅舎を取り壊して[[民衆駅]]を建設する計画は、[[1950年]]の日本停車場株式会社の出願以降、[[1952年]]の[[髙島屋]]の出願等が相次いだ<ref name = "tokenko">{{Cite |和書 | author = 「東建工」編集委員会 | title = 東建工 2号「特集:新宿東口民衆駅」| date = 1965 | publisher = 日本国有鉄道東京建築工事局 }}</ref>。髙島屋に対抗するため新宿三丁目を拠点とする[[伊勢丹]]等も出願し、[[西武百貨店|西武]]も伊勢丹等の計画に参加し、数社による競願となった。[[新宿歴史博物館]]の「ステイション新宿」に掲載された新宿駅ビル設計図<ref name = "Hakubutsukan">{{Cite book |和書 |editor=新宿歴史博物館|editor-link=新宿歴史博物館|year = 1993 |title = ステイション新宿 |publisher = 新宿歴史博物館 |page = 116}}</ref>を、西武線新宿駅乗り入れの構想図として取り上げる鉄道趣味誌等があるが、これは「百貨名店街ビル株式会社」という民衆駅の競合会社の一つが作成した構想の図面であり、実際に建設されたものとは異なる。
国鉄の諮問機関であった民衆駅等運営委員会は、[[1956年]]8月に競願者は話し合えとの中間答申を出し、一本化の動きとなった<ref name = "station">{{Cite |和書 | author = 新宿ステーションビルディング社史編纂委員会 | title = 新宿ステーションビルディング30年の歩み| date = 1991 | publisher = 新宿ステーションビルディング }}</ref>。[[1958年]]には、一本化が成り、株式会社新宿交通文化センターが設立され、髙島屋、伊勢丹、西武、地元資本等が均等に出資することとなった。また、駅ビルの基本方針として「地下鉄、西武鉄道の乗り入れも、本計画の一環として包含」することとなり、「西武鉄道に対しては、その専用部分は、西武鉄道の負担を受け、旅客公衆部分については、当社と半額ずつ分担する」こととされた<ref name = "station"/>。新宿交通文化センターは、[[1959年]]に社名を「株式会社新宿ステーションビルディング」に改称している<ref name = "station"/>。
[[1961年]]3月15日付の『[[社内報]]西武』には、西武新宿線の新宿駅乗り入れ決定と、具体的な駅ビルの計画が報じられていた<ref>{{Cite web|和書|author = H.FUKU. |title = 新宿乗り入れ・年表 |work = 西武グループの歴史 |url = https://web.archive.org/web/20080804121553/http://www.k2.dion.ne.jp/~hkg/page313.html |accessdate = 2009-08-26}}</ref>。これによると、1階に駅ホールと西武新宿駅出改札室と駅務室、2階に西武駅務室と建物外にホーム一面、3階に西武駅長室その他が設置される。また「駅ホームはビル外にできるので、[[伊勢丹]]の方から見ると当社の電車が真正面から見えるようになる」とされている。<ref>1961年(昭和36年)3月15日付『社内報西武』</ref>
[[1961年]]8月1日に国鉄と株式会社新宿ステーションビルディングは「新宿東口民衆駅の建設に関する協定書」を締結した。この中で、西武鉄道の乗り入れに伴う駅本屋建物等に係る工事概算額として56,250千円を西武鉄道が負担することが決められた<ref name = "tokenko" />。
東建工 2号「特集:新宿東口民衆駅」及び「建築界」1964年8月号「新宿東口民衆駅・新宿駅東口地下駐車場」に掲載されたビル竣工時の図面によると、3階に西武駅務室、2階に[[改札]]、ホーム事務室、出札室、1階に[[改札]]、出札室が設置されることとされている。
「実はこのときの計画の痕跡が今も残っている。[[ルミネエスト新宿|ルミネエスト]]の建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」<ref>{{Cite web|和書|author = 河尻定 ||title = 西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画 |work = 東京ふしぎ探検隊 |url = https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000?channel=DF280120166608&page=2 |accessdate = 2018-11-07}}</ref>。と、駅ビルの1階から2階にかけての吹き抜けを西武線ホームの「名残」とする説があるが、前述の[[1961年]]3月15日付『社内報西武』には「駅ホームはビル外にできる」とされている他、『建築界』1964年8月号「新宿東口民衆駅・新宿駅東口地下駐車場」に掲載されたビル竣工時の図面にもビル外のホームとビル吹き抜けはそれぞれ独立して設置されており、吹き抜けは「西武線乗り入れ計画の名残」ではないことを確認することができる。
また、東京都公文書館は、所有する「株式会社新宿ステーションビル事業案内」の一部図面等をフェイスブックで公開しているが、それを見ても西武線ホームがビルの外にあり、ホームと関係なく吹き抜けが設置されていることが分かる<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.facebook.com/photo/?fbid=2321517434549776 | title = 【新宿駅にはあの電車も】 | publisher = 東京都公文書館 | accessdate = 2022-09-12 }}</ref>。
=== 新宿駅乗り入れ中止 ===
[[1964年]]、国鉄新宿駅東口に「[[ルミネエスト新宿|新宿ステーションビル]]」が完成した。ビル2階は西武線乗り入れを考慮した構造となっていて、西武鉄道の長谷部和夫常務取締役運輸計画部長(当時)は「電車はステーション・ビルの北西の角までいく予定だったのですが,ビルには旅客用の入口の穴があいていまして,中に改札のラッチまで入れてありました。高架橋の基礎もいくつかつくったはずです。」と語っている<ref>{{Cite journal |和書 |year = 1992 |title = 変貌する西武鉄道の輸送を語る |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 42 |issue = 5 |pages = 18頁(1992年5月臨時増刊号「西武鉄道」) |publisher = 電気車研究会}}</ref>。
西武鉄道の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」では、乗り入れ中止の理由として「当時西武新宿線の旅客輸送は他の近郊電車と同様将来とても六輛編成で足るとされたものでありますが、その後輸送量 特に高田馬場以西に於ける増加は急上昇を来たし、近い将来八輛編成の運行は必至の事態となつたのであります。そのため新宿乗入ホームも八輛編成に応じて延伸する様企画を変更し、その先端付近を拡巾するため国鉄山手貨物線側の用地使用の増大及び反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大等について長時日に亘り再三再四交渉を重ねて参つたのであります。これ等については関係各当局に於ても出来る限りの便宜を与えられる様努力せられたのでありますが、諸種の事情によりホーム巾を充分拡大することが出来ない儘八輛用のホームとして工事施工認可を申請したのであります。」「当社申請の新宿東口駅はそのホームは1本で而も先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より八輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたのであります。一方新宿線の輸送量は前記の通り八輛編成を絶対必要とし、又混雑時の運行間隔から見るとき高田馬場或は歌舞伎町駅(現西武新宿仮駅)での車輛分割は到底出来ませんので、以上のような経緯もあり、これまでの 先行投資も少なくありませんが遺憾ながら東口への乗入を断念せざるを得ない状態となったのであります。」としている。なお、[[1965年]]3月16日付の[[朝日新聞]]でも「運輸省が建設計画に難色を示したのが断念の理由」と報じている。国鉄本社停車場課の菅原操・今泉清一は「西武鉄道は、現在の西武新宿駅から国鉄線に平行して延伸し、青梅街道を架道橋で渡り、道路及び東口駅前広場の歩道上は高架構造とする。この上にホームを1面(8両編成)新設して民衆駅の2階のレベルとし、客扱はホームの終端部分にある民衆駅構内で扱う予定である。<ref>{{Cite journal |和書 |author = 菅原操・今泉清一 |year = 1964 |title = 変貌する新宿駅 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 14 |issue = 1 |pages = 22 |publisher = 電気車研究会}}</ref>」と記しており、ステーションビル開業後も西武の8両編成のホーム計画が国鉄の関係部署に共有されていたことを示している。
西武新宿線が新宿駅乗り入れを断念した本当の理由には異説もある。現在の西武鉄道の創始者である[[堤康次郎]]の側近だった[[中嶋忠三郎]]によると、戦時中に東京西南部の私鉄を次々に[[東京急行電鉄]]([[大東急]])に組み入れた[[五島慶太]]は、旧西武鉄道(現在の西武新宿線など)も狙っていた。[[1944年]](昭和19年)に堤康次郎は旧西武鉄道、[[西武鉄道#武蔵野鉄道|武蔵野鉄道]]、食糧増産の3社を合併する申請を出したが、五島と手を結んだ鉄道総局長官の[[堀木鎌三]]は許可を出さず、さらに西武系を分割するように圧力をかけてきた。堤はこの交通統制に懲りて西武鉄道の都心乗り入れを一切止めたという。中嶋は新宿東口までの延伸を主張したが、堤の意向で歌舞伎町の所で切られた<ref>{{Cite book |和書 |author = 中嶋忠三郎 |year = 2004 |title = 西武王国―その炎と影 ―狂気と野望の実録―
|publisher = サンデー社 |page = 287 |isbn = 4-88203-041-1 }}</ref>。
西武新宿線が新宿駅まで乗り入れていないのは、新宿駅東口の駅ビル建設に西武グループが反対していたからだという説もある。当時、まだ小規模であった[[西武百貨店]]池袋本店のある[[池袋]]に、当時百貨店として強力な力をみせていた[[三越]]・伊勢丹が池袋進出を検討していた。このうち新宿に本店を擁していた伊勢丹では東口駅ビルへの[[髙島屋]]の新宿進出が取りざたされていて絶対阻止の構えであった。そこで伊勢丹が池袋出店計画をやめる代わりに西武が高島屋の新宿出店を反対するという取引が交わされ、駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れなくなったとする<ref name = "Hirooka"/>。ただし、前述の国鉄発行の「東建工」2号や、西武鉄道の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」にもあるように、実際には西武鉄道は新宿駅民衆駅ビル建設にあたり乗り入れのための費用負担までしている。また、当時の雑誌記事によると「西武と伊勢丹の関係は意外に深い。一つの見方には相互の不可侵条約を云々するのもいる。伊勢丹が池袋に敷地を持っているがこれは建てない。そのかわり西武は新宿に手を出さないという平和条約である。その意味からか、西武は新宿に電車を乗り入れても建物そのものには手を出さない、という条件が附されている。」<ref>{{Cite journal |和書 |author = 針木康雄 |year = 1959 |title = 怪談・新宿民衆駅 |journal = 財界 |volume = 7 |issue = 17 |pages = 41 |publisher = 財界研究所}}</ref>としており、広岡の説とは異なっている。
=== 乗り入れ中止後の処理 ===
[[1965年]]3月25日に西武鉄道乗り入れ中止が決定されたのち、[[1967年]]3月24日に新宿ステーションビルが西武鉄道乗り入れ予定地を買い取り、同年9月25日に乗り入れ跡地改造工事が竣工した<ref name = "station" />。
=== ターミナルとなってから ===
[[1977年]][[3月3日]]、現在の位置に[[プリンスホテル]]と[[ショッピングセンター|ショッピングモール]]を取り込んだ地上25階・地下4階の駅ビルが完成。西武新宿駅はホーム2本、10両編成用発着線3本を有する恒久的ターミナルとなり、西武の新宿駅'''東口'''への乗り入れは完全に消えた<ref name = "Hakubutsukan" />。[[1980年]]10月には北口が開設された。
=== 新宿線複々線化計画 ===
[[1980年代]]になって、西武新宿線の混雑を緩和する目的で、西武新宿 - [[上石神井駅|上石神井]]間に地下急行線を建設する計画が立てられた([[西武新宿線#複々線計画]]を参照)。計画では地下線の西武新宿駅は現在の駅 (-1.97 [[キロメートル|km]]) よりJR新宿駅寄り(-2.23 km、乗降場中心)になる、新宿プリンスホテルと丸ノ内線[[メトロプロムナード]]までの間に設けられ、新宿駅各路線との乗り換えが便利になる計画であった。地下駅は有効長210 mの島式ホームで、駅舎は地下2階に設け、道路直下の地下1階はメトロプロムナードと靖国通り下の新宿サブナードを結ぶ連絡通路となる予定だった<ref>{{Cite journal |和書 |author = 黛雅昭 |year = 1992 |title = 複々線計画の概要 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 42 |issue = 5 |pages = 68-72頁(1992年5月臨時増刊号「西武鉄道」) |publisher = 電気車研究会}}</ref>。工事費の増大や輸送量の減少により、中止された。
=== バブル時代の再度の新宿南口延伸計画 ===
時は[[バブル景気|バブル時代]]の1980年代末、新宿駅南口の貨物駅<!--操車場ではありません-->跡地(現:[[タカシマヤタイムズスクエア]])に百貨店の建設構想が浮上した。同地域への出店を目指して西武百貨店は1989年に、西武新宿駅から[[大深度地下]]線を建設して南口まで延伸させる計画とともに[[競争入札]]に挑んだが、歌舞伎町商店街の反対などもあり、さらなる好条件を示した[[髙島屋]]に敗れた。これによって西武鉄道の新宿駅方面への延伸は完全に立ち消えた。
== 歴史 ==
=== 1980年 - 現在 ===
{{節スタブ}}
<!--1980年代以降の分かっている出来事を述べる。-->
* [[1980年]](昭和55年)
** [[3月17日]] - 列車種別が増えるダイヤ改正に伴い、旅客サービスの一環としてホーム・東口中央改札口正面の改札内の2か所に幕式による発車ごあんない表示機を設置。
** [[10月11日]] - 北口を開設。
* [[1982年]](昭和57年)[[4月1日]] - [[自動進路制御装置|PRC]]導入。
* 1980年代初期(時期不明) - [[乗車券#硬券|硬券]]による乗車券類発売終了。[[自動券売機]]発売の裏が白いきっぷ(軟券)に更新。
* [[1988年]](昭和63年)4月1日 - きっぷ売り場の券売機を東口中央改札側・北口どちらも[[レオカード]]対応に全て更新。[[自動改札機]]非対応の裏が白い乗車券類は自動改札対応の裏が茶色の磁気化券に統一。レオカード発売機導入。
* [[1991年]]([[平成]]3年) - [[自動改札機]]導入。
* [[1993年]](平成5年)
** [[2月10日]] - マップ型[[回数乗車券|回数券]]発売対応自動券売機導入。乗車券類では唯一、磁気化券ではなかった[[回数乗車券|回数券]]も裏が黒色の磁気化券に更新([[西武多摩川線|多摩川線]]のみ、2002年まで非磁気回数券で残った)。
** 幕式による発車ごあんない表示機を[[発光ダイオード|LED]]式に更新。
* [[1996年]](平成8年) - 改札内特急券売り場窓口の半分を窓口から特急券券売機2台に改修。
* [[1998年]](平成10年)[[9月1日]] - 終電後、東口中央改札側きっぷ売り場を全面改修。マップ型回数券発売対応自動券売機以外の従来の自動券売機を全て更新。同時に北口もきっぷ売り場は未改修のまま、マップ型回数券対応自動券売機以外の自動券売機を全て更新。全て裏が茶色のものから裏が黒色の磁気化券に更新。定期券券売機導入。
* [[1999年]](平成11年) - [[パスネット]]導入に先駆けて、自動改札機を更新。
* [[2003年]](平成15年) - SFレオカード発売機更新。
* [[2004年]](平成16年) - マップ型回数券発売対応券売機を[[タッチパネル]]式券売機に更新。
* [[2006年]](平成18年) - LED式発車ごあんない表示機を新しいものに更新。
* [[2007年]](平成19年)
** [[2月1日]] - [[自動体外式除細動器|AED]]導入。
** [[PASMO]]導入に伴い、SFレオカード販売機撤去。
** 東口中央改札側一部自動改札機がPASMO専用に更新。
* [[2008年]](平成20年)
** 3月15日 - 新宿駅発着のJR東日本・[[京王電鉄|京王]]・[[小田急電鉄|小田急]]の各路線と定期券のみ連絡運輸を開始。
** 北口きっぷ売り場全面改修。
** 定期券券売機更新。
* [[2009年]](平成21年)
** 3月14日 - 高田馬場 - 西武新宿(JR新宿)間の特殊連絡定期券「Oneだぶる♪」発売開始。
** 9月1日 - 東口中央改札側きっぷ売り場と北口の従来の券売機をタッチパネル式券売機にすべて更新。
** LED式発車ごあんない表示機の種別表示部分を[[フルカラー]]LEDに更新。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]] - 同日から発売される「西武横浜ベイサイドきっぷ」など、[[東京メトロ副都心線]]経由[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]ほか[[東京急行電鉄|東急電鉄]]方面へのフリーきっぷに限り、副都心線[[新宿三丁目駅]]との接続駅となる。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月11日]] - 2番線の[[ホームドア]]の使用を開始<ref name="seibu20200304">{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2019/20200304_seibushinjuku_homedoor.pdf |title=駅ホームにおける安全性向上 西武新宿駅 2 番ホームにおいてホームドアの使用を開始します |format=PDF |publisher=西武鉄道 |date=2020-3-4 |accessdate=2020-3-5 }}</ref>。
== 駅構造 ==
日本最大級の[[歓楽街]]・[[歌舞伎町]]の西端に立地する当駅は、[[新宿駅]]([[東日本旅客鉄道|JR]]・[[京王線|京王]]・[[小田急小田原線|小田急]])から見て[[東京都道302号新宿両国線|靖国通り]]を挟んだ北北東に位置し、直線距離でおよそ 350 - 700 [[メートル|m]] 離れている。並行するJR山手線の新宿駅 - [[新大久保駅]]間の中間付近、[[中央本線]]が西方に分岐していく地点に存在しており、実態として「新宿駅とは別の駅」<ref group="注釈">2018年10月31日より、「西武線アプリ」が「東京メトロアプリ」「JR東日本アプリ」「京王アプリ」「小田急アプリ」(および「東急線アプリ」)との連携を開始したが、各アプリでは西武新宿駅と各社新宿駅を同一駅として扱っている(「西武線アプリ」は新宿駅接続他各社の路線が案内され、他アプリは西武新宿線が乗り換え路線の1つとして表示されている)。</ref> である一方、比較的近い[[東京メトロ丸ノ内線]](新宿駅)と[[都営地下鉄大江戸線]]([[新宿西口駅]])とは相互に連絡駅となっている([[連絡運輸]])。ただし[[定期乗車券|定期券]]については各線新宿駅との間でも連絡運輸を行っている(ただし、都営地下鉄としては新宿西口駅と連絡運輸を取り扱っているため、[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]新宿駅および大江戸線新宿駅とは取り扱っていない。都営新宿線と共用駅扱いではあるが[[京王新線]]の[[新線新宿駅]]とは取り扱っている)。新宿駅・新宿西口駅・[[新宿三丁目駅]]との間には巨大な[[地下道|地下通路]]・[[地下街]]網が張り巡らされている。このうち、[[東京メトロ副都心線]]新宿三丁目駅については、2013年3月16日から発売される「西武横浜ベイサイドきっぷ」などのフリーきっぷに限って、接続駅として扱われる。ちなみに、[[新宿サブナード]]・[[メトロプロムナード]]から丸ノ内線・副都心線新宿三丁目駅経由で都営新宿線新宿三丁目駅、甲州街道ガード下・[[バスタ新宿]]・[[JR新宿ミライナタワー]]・[[タカシマヤタイムズスクエア]]まで屋根が続いており、雨や雪に濡れることなく移動できる。都営新宿線と直接乗り換える場合は新線新宿駅を利用するよりも新宿三丁目駅を利用する方が近い。
前述したが、新宿線を[[高田馬場駅]]から新宿駅へ乗り入れさせる計画があり、当駅は仮駅として開業した。その後計画が頓挫し、[[1977年]]([[昭和]]52年)[[3月3日]]に仮駅を本駅とした。
[[改札]]は正面口と北口の2か所。正面口には駅事務室のほか、[[定期乗車券|定期券]]うりば、[[特別急行券|特急券]]うりばなどがある。開設時間は[[始発列車|初電]]から[[終電]]までである。2005年度に[[バリアフリー]]化工事を実施したことで、[[エレベーター]]と[[斜路|スロープ]]が整備されている。また、改札口有人通路は「ご案内カウンター」としている。2008年度より、ホーム屋根およびホーム床や北口旅客トイレ改修などのリニューアル工事が行われている。続いて正面口改札側の[[便所|トイレ]]のバリアフリー化改築を行い、段差を解消した。
これに対し、北口改札はエレベーター、[[エスカレーター]]ともに設置されていない。また、駅員も常駐していないため、インターホンで対応している。開設時間は7:00 - 終電までである。
トイレは南口、北口各改札内にある。このうち多機能トイレは南口改札内に設置されている。
JR線高田馬場 - 新宿間と西武線高田馬場 - 西武新宿間の両方が利用可能な特殊連絡定期券「Oneだぶる♪」([[PASMO]]定期券)が2009年3月14日から発売されている<ref>[http://www.seibu-group.co.jp/railways/railway/ticket-info/commutation-ticket/tokusyu/index.html 特殊連絡定期券] - 西武鉄道</ref>。
小田急発売の「[[小江戸]]・川越フリークーポン<ref>[http://www.odakyu.jp/train/couponpass/discount/#section-4 各種おトクなパス 小江戸・川越フリークーポン] - 小田急電鉄</ref>」・西武発売の「[[箱根フリーパス]]<ref>[https://www.seiburailway.jp/ticket/otoku/hakone-freepass/index.html おトクなきっぷのご案内 箱根フリーパス] - 西武鉄道</ref>」などは、当駅と小田急の新宿駅が接続駅となっている。ただし乗り換えには10分以上を要する。
このため、西武新宿線の乗客のうち目的地が新宿あるいは京王や小田急の沿線である場合も乗換距離が短い[[高田馬場駅]]でJR山手線(この間運賃現金140円・IC136円)に乗り換えるケースが多い。
=== 新たな地下通路の計画 ===
新宿区は[[#新宿線複々線化計画]]の[[都市計画]]廃止に伴い、その地下1階に計画されていた連絡通路のみを整備し、新宿サブナード北側に整備済みの東京都市計画道路 特殊街路 新宿歩行者専用道第4号線の区間を取り込んで東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線とする都市計画変更手続きを進めている<ref>{{Cite web|和書|title=都市計画変更素案について|url=https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309932.pdf|format=PDF|publisher=新宿区|date=2021-4|accessdate=2021-5-14}}</ref>。
これを受け、[[西武鉄道]]は2021年4月26日に「西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅をつなぐ地下通路」の事業予定者として、整備に向けた検討・協議を進めることを明らかにした。この通路の新設により、西武新宿駅と[[東京メトロ丸ノ内線]]新宿駅の乗り換え時間が11分→5分と半分以下に短縮される<ref name="press20210426">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210504143136/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西武新宿駅の乗換利便性向上による新宿線のさらなる沿線価値向上のため、「西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅をつなぐ地下通路」の整備に向けた検討・協議を進めます。|publisher=西武鉄道|date=2021-04-26|accessdate=2021-05-22|archivedate=2021-05-04}}</ref>。
=== 駅ビル ===
駅ビルには専門店ビル[[ペペ (商業施設)|西武新宿PePe]](地下2階 - 8階)・新宿[[プリンスホテル]](それより上および1階・地下1階)、飲食店中心の「Brick St.」(ブリックストリート、1階駅ビル外側)<ref name="brick">{{Cite web|和書|url=http://www.seibupros.jp/news/20160318.pdf |title=西武鉄道 西武新宿駅高架下の「アメリカン・ブルバード」が飲食店を集積した新施設「Brick St.」(ブリックストリート)に生まれ変わります |format=PDF |publisher=[[西武プロパティーズ]] |date=2016-3-18 |accessdate=2018-6-11 }}</ref> が入居する。西武新宿PePeおよびBrick St.の出店店舗の詳細は公式サイト「[http://www.seibu-shop.jp/shinjuku/ 西武新宿PePe]」を参照。
地下で接続する「[[新宿サブナード]]」は、駅ビル完成以前の[[1973年]]に既に開業しており、2013年に40周年を迎えた。
=== のりば ===
[[頭端式ホーム]]2面3線を有する[[高架駅]]である。1番ホームは[[単式ホーム|単式]]、2・3番ホームは[[島式ホーム|島式]]になっており、いずれも[[有効長]]は10両分である。平日17:30 - 21:00に発車する急行・準急については整列乗車を実施しており、到着した列車の乗客を全員降ろした上で一旦閉扉し、改めて開扉して利用者を乗せるようにしている<ref>{{cite news|url=https://trafficnews.jp/post/72972/4|title=ズルい? 悪いと思ってない人も? どう防ぐ「不正折り返し乗車」 苦悩の鉄道事業者|author=杉山淳一|newspaper=乗りものニュース|publisher=メディア・ヴァーグ|date=2017-06-12|accessdate=2019-05-24}}</ref>。ただし、ダイヤ乱れの場合はこの扱いを中止することもある。
ホームドアが2020年3月から順次設置され、[[西武10000系電車|特急レッドアロー]]や[[西武4000系電車#西武 旅するレストラン 52席の至福|52席の至福]]などの発着に対応するため、異なる乗降ドアの位置に対応した長尺多段式の大開口ホームドアを設置した。<ref name="seibu20200304"/>
{|class="wikitable"
|+[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線 所沢・本川越・拝島方面<!-- この行先は2012年9月時点での駅構内の案内表記に則したもの -->
!ホーム!!主な種別!!備考
|-
!1
|{{Color|#999|■}}各駅停車
|早朝・日中通勤時間帯外・深夜は2・3番ホームも使用
|-
!2
|{{Color|#f33|■}}特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」・{{Color|#9c0|■}}[[拝島ライナー]]・ {{Color|#c69|■}}快速急行
|特急・拝島ライナー・快速急行はこのホームで固定
|-
!3
|{{color|#f60|■}}急行・{{Color|#0c9|■}}準急
|早朝・平日朝は1・2番ホームも使用
|}
* 発着列車は原則で、平日の朝や早朝・深夜などに変わる場合がある。
* 1993年までは特急は1番ホームに発着していた(他種別と併用)。
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''135,139人'''である<ref group="西武" name="seibu2022" />。西武鉄道全92駅の中では[[池袋駅]]、[[高田馬場駅]]に次ぐ第3位。当駅は新宿駅と距離があることから、[[山手線|JR山手線]]・[[東京メトロ東西線]]との乗り換えが可能な高田馬場駅の乗降人員が多い。
各年度の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref><ref>[http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/tokei/tokeisho/ 練馬区統計書] - 練馬区</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|120,871
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
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|1991年(平成{{0}}3年)
|
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|1992年(平成{{0}}4年)
|
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|1993年(平成{{0}}5年)
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|1994年(平成{{0}}6年)
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|1995年(平成{{0}}7年)
|
|111,189
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|
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|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="西武" name="seibu2020">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/railway/eigyo/transfer/2020joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2020年度1日平均)|date=20210923000614}}、2022年8月20日閲覧</ref>121,462
|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="西武" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月20日閲覧</ref>122,945
|
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="西武" name="seibu2022">{{Cite web|和書|title=駅別乗降人員(2022年度1日平均)|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/passengerdata/file/2022joukou.pdf|page=|accessdate=2023-07-30|publisher=西武鉄道|format=pdf|language=日本語|archiveurl=|archivedate=}}</ref>135,139
|
|
|}
== 駅周辺 ==
{{See also|歌舞伎町|新宿|西新宿|百人町}}当駅は日本最大の[[歓楽街]]である[[歌舞伎町]]の最西端に位置している<ref>{{Cite web|和書|title=西武新宿駅 |url=https://www.seiburailway.jp/railway/station/seibu-shinjuku |website=西武鉄道Webサイト |access-date=2023-03-04 |language=ja}}</ref>。JR[[新宿駅]]とは400mほど離れているため、乗り換えには[[東京都道302号新宿両国線|靖国通り]]を渡って徒歩で10〜15分ほどを要する<ref>{{Cite web|和書|title=新宿駅から西武新宿駅まで7路線から徒歩何分何秒?行き方は? |url=https://1rankup.jp/shinjuku/to-seibu.html |website=1rankup.jp |access-date=2023-03-05 |language=ja}}</ref>。
=== 正面口 ===
新宿靖国通りに面した[[新宿大ガード|大ガード]]傍で[[繁華街]]が広がっている。
* 歌舞伎町
** [[新宿区役所]]
*** 新宿区役所内郵便局
** [[新宿東宝ビル]]
*** [[ワシントンホテル (藤田観光)|ホテルグレイスリー新宿]]
*** [[TOHOシネマズ]]新宿
** [[東急歌舞伎町タワー]]
*** [[109シネマズ]]プレミアム新宿
** [[新宿ゴールデン街]]
* 靖国通り([[東京都道302号新宿両国線|東京都道302号]])
** [[新宿サブナード]] - 西武新宿駅(地下2階)と[[新宿通り]]地下連絡通路とを結ぶ地下ショッピングモール。
** 新宿伊勢丹メンズ館
** [[丸井]] (MEN)
** [[花園神社]]
* 新宿通り([[東京都道430号新宿停車場前線|東京都道430号]])
** [[新宿駅]]東口 - 徒歩5 - 6分・新宿通り経由
*** [[ルミネエスト新宿]](旧称・新宿ステーションビル・新宿マイシティ)
** [[新宿アルタ]]
*** [[スタジオアルタ]]
** [[ヨドバシカメラ]] マルチメディア新宿東口
** [[ビックカメラ]] 新宿東口店
** [[新宿高野]]
** [[紀伊國屋書店]] 本店
** [[ビックロ]](元・新宿[[三越]]、現・[[ビックカメラ]]新宿東口店)
** 丸井(YOUNG・CITY・IN THE ROOM・FIELD)
** [[伊勢丹#国内百貨店|伊勢丹新宿本店]] 本館
* [[新宿大ガード]]
** 新宿駅西口(徒歩7・8分、新宿大ガード経由)
** [[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]][[新宿西口駅]](徒歩2・3分、新宿大ガード経由)
** [[青梅街道]]([[東京都道・埼玉県道4号東京所沢線|東京都道4号]]・[[東京都道5号新宿青梅線|東京都道5号]]、新宿大ガード経由)
=== 北口 ===
[[File:Seibu Shinjuku Station 1.jpg|thumb|right|西武新宿駅 北口(2007年5月)]]
* 歌舞伎町
** 東京都健康プラザ ハイジア(徒歩2 - 3分)
*** [[東京都立大久保病院]]
*** [[東急スポーツオアシス]] 新宿店
* 職安通り([[東京都道302号新宿両国線|都道302号支線]])
** 通り沿いは[[コリアタウン]](朝鮮・韓国人街)となっている。
** 都営大江戸線[[東新宿駅]](徒歩12 - 13分・職安通り経由)
** 新宿[[公共職業安定所]](ハローワーク新宿) 歌舞伎町庁舎<ref group="注釈">失業給付手続及び求人情報の閲覧、外国人・障がい者以外の職業相談は西新宿庁舎([[新宿エルタワー]])で扱う。</ref>
** 新宿歌舞伎町郵便局
* 東京都新宿都税事務所
* 新宿税務署
* 西新宿七郵便局
* 山手線[[新大久保駅]](線路沿いを徒歩7 - 8分)
=== バス路線 ===
正面口靖国通り沿いの「'''歌舞伎町'''」と東急歌舞伎町タワー内バスターミナルの「'''東急歌舞伎町タワー'''」の二つのバス停留所がある。
==== 歌舞伎町バス停 ====
* [[都営バス]]
**[[都営バス新宿支所#宿74・宿75系統|宿74]]:[[国立国際医療研究センター|国立国際医療センター]]前経由[[東京女子医科大学病院|東京女子医大]]行、[[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]行
**[[都営バス新宿支所#宿74・宿75系統|宿75]]:[[厳嶋神社 (新宿区)|抜弁天]]経由東京女子医大行・[[三宅坂]]行、新宿駅西口行
** [[都営バス練馬支所#白61系統|白61]]:[[都営バス練馬支所|練馬車庫]]・[[練馬駅]]行、新宿駅西口行
** [[都営バス早稲田営業所#早77系統|早77]]:新宿駅西口行
** 早77:[[都営バス早稲田営業所|早稲田]]行
**[[都営バス杉並支所#品97系統|品97]]:新宿駅西口行、[[品川駅]]高輪口行
* [[京王バス]]
**[[京王バス東・中野営業所#新宿WEバス|新宿WEバス G歌舞伎町ルート]]:新宿駅西口、ホテルグレイスリー新宿方面
==== 東急歌舞伎町タワーバス停 ====
*[[東京国際空港|羽田空港]]行([[東急トランセ]]、[[東京空港交通]])
*[[成田国際空港|成田空港]]行(東急トランセ、東京空港交通)
*[[立山]]([[室堂駅|室堂]])行(東急トランセ、[[西武観光バス]]、[[東急トランセ]])※夏季期間運行<ref>[https://www.tokyubus.co.jp/news/002975.html 首都圏(東京・渋谷・新宿・池袋)から立山黒部アルペンルート最高地点「室堂」への直通バス! 2023年7月14日 夏季期間限定で運行開始]</ref>
== 付記 ==
北口から正面口までの間の歩道には、[[アメリカ合衆国]]各地および[[西武グループ]]の施設があるリゾート地の方角を示したタイルが埋め込まれている。その歩道に面して商業施設「アメリカン・ブルバード」が存在した(1980年開業。2016年に「Brick.st」としてリニューアル)<ref name="brick"/>。
当駅の敷地は狭く、本来は2線しか入らないはずだったが、現在の構造にする時に3線としたため、東側ホームの一部は直下の歩道上に張り出ている。
[[新宿駅]]を発着する他社線では[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]以外に当駅への乗り換え案内は行われていない。また[[新宿西口駅]]を発着する[[都営大江戸線]]も案内が行われる。
== 隣の駅 ==
; 西武鉄道
: [[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線
:* {{Color|#f33|■}}特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」発着駅<!--有料特急の隣駅は記載しない(拝島ライナーは無料区間があるため記載)-->
:: {{Color|#9c0|■}}拝島ライナー・{{Color|#c69|■}}快速急行(土休日下りのみ運転)・{{Color|#fc0|■}}通勤急行(到着列車のみ)・{{Color|#f60|■}}急行・{{Color|#0c9|■}}準急・{{Color|#999|■}}各駅停車
::: '''西武新宿駅 (SS01)''' - [[高田馬場駅]] (SS02)
: ※拝島ライナーについては、当駅 - 高田馬場駅間のみの利用は不可。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
;西武鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="西武"|3}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[新宿駅]]
* [[西武グループ]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Seibu-Shinjuku Station}}
* {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=seibu-shinjuku}}
* [https://www.princehotels.co.jp/shinjuku/ 新宿プリンスホテル]
* [https://www.seibu-shop.jp/shinjuku/ 西武新宿PePe]
{{西武新宿線}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=新宿プリンスホテル|歌舞伎町|プリンスホテル|新宿区のホテル}}
{{DEFAULTSORT:せいふしんしゆくえき}}
[[Category:新宿駅]]
[[Category:新宿区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 せ|いふしんしゆく]]
[[Category:西武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:歌舞伎町]]
[[Category:1952年開業の鉄道駅]]
|
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東京メトロ南北線
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南北線(なんぼくせん)は、東京都品川区の目黒駅から北区の赤羽岩淵駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は7号線南北線。
路線名の由来は東京を南北に貫くことから。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「エメラルド」(#00ac9b)、路線記号はN。
1962年(昭和37年)6月の都市交通審議会答申第6号において、東京7号線は「目黒方面より飯倉片町、永田町、市ケ谷、駒込及び王子の各方面を経て赤羽方面に至る路線」として示された。8月29日の建設省告示第2187号により、都市計画第7号線(東京都市高速鉄道第7号線)として、目黒駅 - 岩淵町間(20.5 km)の都市計画が決定した。
帝都高速度交通営団(東京メトロの前身。以下、営団と略す)はこれに基づいて同年10月16日、第7号線 上大崎(目黒) - 赤羽町(桐ケ丘)間(22.5 km)の地方鉄道敷設免許を申請した。都市計画路線上は岩淵町(現・赤羽岩淵)が終点であるが、車両基地への引き込み線を旅客営業するため、桐ケ丘(旧地名の赤羽町5丁目)まで申請を行ったものである。しかし、1964年(昭和39年)6月4日、東京都も第7号線 目黒 - 赤羽間(21.0 km)の地方鉄道敷設免許を申請したため、競願状態となった。
1972年(昭和47年)の答申第15号では、将来の検討対象とされていた埼玉方面への延伸区間が川口市中央部 - 浦和市東部間と改められた。その後1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号では、目黒 - 清正公前(現:白金高輪駅)間を6号線(都営三田線)と共用するものとされ、また埼玉県内は鳩ヶ谷市中央経由で東川口から浦和市東部へと変更された。このうち、目黒 - 赤羽岩淵間が南北線として順次開業しており、また赤羽岩淵 - 浦和美園間は埼玉高速鉄道線として開業している。
計画そのものは1960年代になされていたものの、東京都北区西が丘(後に赤羽西)に予定していた車両基地問題から、計画は一時中断した(後述の「#西が丘車両基地計画と反対運動」を参照)。1984年(昭和59年)4月20日、免許申請以来、22年の歳月を経てようやく全線の路線免許取得に至った。着工は1986年(昭和61年)となり、1991年(平成3年)に部分開業、2000年(平成12年)に全線開業した。後発路線のため、全体的に地中深い駅が多いのが特徴である。
当初の建設計画では第1期工事区間を駒込 - 赤羽岩淵間、第2期工事区間を目黒 - 駒込間としていたが、第2期工事区間を溜池山王 - 駒込間(その1)、目黒-溜池山王間(その2)に分割したため、実際は3区間に分けて建設された。第1期区間は順調に建設がされたが、第2期区間は埋蔵文化財の発掘(溜池山王駅 - 飯田橋駅間の江戸遺跡)や住民の反対運動(白金台駅付近)で建設は遅れ、当初の全線開業予定の1995年(平成7年)9月から2000年(平成12年)9月へと大きく延期されることとなった。
また、第2期開業にあたっては駒込駅 - 溜池山王駅までを一気に開業させる予定であったが、銀座線の新駅設置工事や丸ノ内線・千代田線の既設路線交差部において難工事となり、工期に時間を要することとなったことから、駒込駅 - 四ツ谷駅間を先行開業させ、溜池山王駅までの開業は四ツ谷駅までの開業から1年半ずれ込んだ。
本路線の建設費用は総額5,963億8,900万円である(最終的な金額)。その内訳は用地費が383億6,700万円、土木費が3,320億2,400万円、車両費が329億8,400万円、その他が1,930億1,400万円となっている。費用には建設利息を含む、また消費税は除く。
本路線の路線名称は営団職員より社内公募を行ったもので、応募は3,830通(341線名)があった。選考の結果、「南北線」が1,741通と約半数を占め、また本路線が地理上から、ほぼ南北に貫通していること、東西線に対比して南北方向の路線として最もふさわしい路線名称であることから「南北線」という路線名称が選ばれた。
永田町駅 - 飯田橋駅間では有楽町線と並行しているが、有楽町線が麹町経由であるのに対して南北線は四ツ谷経由であることが異なっている。また四ツ谷駅 - 飯田橋駅間はJR中央・総武緩行線と並行している。
南北線は東京メトロの路線としては半蔵門線とともに地上区間が存在しない路線である。
本路線の建設にあたっては社会環境の大きな変化から、地下鉄の建設は経済性や採算性だけでは時代に合わなくなってきており、「21世紀を指向する便利で快適な魅力ある地下鉄」を目指して、「7号ビジョン」と呼ばれる新しいコンセプトを基に建設した。
7号ビジョンとしては「利便性の向上・快適性の向上」・「ワンマン運転の実施」・「ホームドアの設置」・「建設費・運営費の削減」を目指したものとした。また、これに基づいて各駅のステーションカラー、改札口周辺、きっぷ売り場、メディアウォール、シンボル柱、可動ベンチ、ふれあいコーナー、出入口上屋など、地下鉄の駅設備に新たなデザインを採用した。これに関連して、営団では1991年にサインシステムの規定を一部改定し、南北線の単独駅および他路線との接続駅であっても南北線開業以後に新設された出入口では、従来は出入口屋根上に設置していたSマークを廃止するなどの変化があった。
利便性の向上として、全駅へのエスカレーターの設置と交通弱者への配慮からエレベーター(設置できない場合は車椅子対応エスカレーター)、さらに車椅子対応トイレを全駅に設置した。改札口付近と駅ホームにはLED式発車案内表示器を設置した。
目黒駅を除いた各駅には6色のステーションカラーを3駅ずつ配置し、それをホームドアの扉部、エスカレーターの手すり(ベルト)、メディアウォール、可動ベンチ(南北線の駅空間にマッチするよう、未使用時には跳ね上がるベンチ)などに配色している。配置駅は、
である。一部の駅においては、駅ホームの向かい壁をギャラリー空間に見立て、企業の協賛によりグラフィックデザイン(アートウォール)を整備した。
改札口は逆アールの天井とし、乗客の動線に対応したスリット照明、床面にも動線に対応したデザインを施した。ウィンドラッチ(駅窓口)は、オープンカウンターとし、駅員1人で自動券売機と自動改札の案内ができる構造とした。一部の駅では、改札周りの柱に特徴的なデザインを施した「シンボル柱」を設置した。各駅の改札口付近のポスター掲出スペースには、地域のイメージを凹凸を付けた壁面に表現した「メディアウオール」を設置した(各駅ごとにモチーフが異なる)。一部の出入口は「7号タイプ出入口」と呼ばれる、ガラスを多用した特徴的なデザインを採用した。
さらに赤羽岩淵・志茂・王子・駒込の各駅コンコースには「ふれあいコーナー」を設け、休憩用の椅子やテーブル、給茶機(のちに撤去)を設置していた。その後の路線延伸で、本駒込・東大前・溜池山王・麻布十番の各駅においても同様のスペースが設けられたが、後の改装等により現在は本駒込・東大前・溜池山王の3駅に残るのみである。
南北線の最初の区間である駒込 - 赤羽岩淵間の開業時、他の営団地下鉄路線とまったく連絡のない独立路線だったため、前述の都内の地下鉄では初めてのワンマン運転・ホームドア設置に加え、各種の実験的な試みがなされている。後のパスネットの基となるプリペイド式乗車カード「NSメトロカード」(1996年に「SFメトロカード」へ移行)を当初から導入した。
前述のコンセプトに基づき、全線でATOによる自動運転とワンマン運転を実施しており、全駅にホームドアシステムを装備する。2015年現在東京地下鉄では唯一の天井までほぼ完全にホームを被う川崎重工業製半密閉式フルスクリーンタイプ(ホームドアの戸閉機械はナブテスコ製)を採用した路線である。ただし東急管理の目黒駅のみ東急目黒線や東京メトロ他線と同様に可動式ホーム柵(京三製作所製)を採用している。
ホームドアの開口幅は、ATO装置の定位置停止精度を± 350 mmとしていることから、最大の誤差を考慮した車両のドア幅である1,300 mmより700 mm広い2,000 mmとしている。当初計画では、耐用年数15年以上、500万回のドア開閉に耐えられる強度としている。
ホームドアの開閉は左右扉がおのおのスライドする。ただし、先頭および最後尾車両の乗務員室寄りのドア片側は乗務員用扉との干渉を防ぐため2段スライドし開扉時の収納幅が約半分となる。
各駅のプラットホームは、8両化に対応できるよう延長170 mが確保されている。ただし、白金台・白金高輪・溜池山王・永田町・四ツ谷の各駅は当初より8両分のホームを供用済みなのに対し、これ以外の駅は一部を除き6両分しか供用せず、ホーム延伸工事の実施までは封鎖する形となった。
本路線の変電所は(赤羽岩淵)・王子・駒込・新後楽園・新四ツ谷・東六本木・白金の7か所(赤羽岩淵変電所は8両化時に設置予定とされていた。ただし、2023年時点でも変電所は未開設)であり、8両編成による2分30秒運転にも対応できる。白金変電所以外は、駅構内に設置している。このうち王子・新四ツ谷・白金変電所には営団初の電力回生用インバータを設置している。
各駅区間は泥水加圧式シールド工法で建設されており、ほとんどの区間が複線シールド構造を採用しているが、一部区間では単線シールド構造を採用している。また、駅部は基本的に開削工法によって建設されているが、白金台駅および永田町駅は駅シールド工法によって建設された。永田町駅はメガネ形駅かんざし桁工法と呼ばれる単線シールドトンネル間にホームを建設し、「かんざし桁」を用いて両ホームを接続する工法を用いている。
本路線の建設にあたっては、計22台のシールドマシンが使用された。建設費用を削減するため、志茂 - 赤羽岩淵間の建設では有楽町線辰巳三工区(辰巳 - 新木場間)で使用したシールドマシンを再利用したほか、南北線溜池山王 - 永田町間で使用した複線シールドマシンを白金高輪駅の2本の引き上げ線部の掘削に再利用した。
特に白金台駅および麻布十番駅付近の建設ではシールドトンネル掘削において「世界初」、「世界最大」となる技術を採用した。
白金台駅の建設では世界初となる「着脱式泥水三連型駅シールド工法」を採用した。これは白金高輪駅 - 白金台駅にある白金換気所の立坑から複線シールドトンネルを掘削し、白金台駅部手前で両端に駅シールドマシンを装着し、三連形駅シールド機に改造して白金台駅部を掘削、駅終端部で複線シールド機に復元し、また複線シールド機として次の目黒駅まで掘削するものである。
また、白金高輪駅 - 麻布十番駅の掘削では複線の本線と留置線(麻布十番駅付近にある留置線・3線区間 363.8 m)を3線同時に掘削する大断面シールド工事に世界最大(当時)の「抱き込み式親子泥水シールド工法」を採用した。これは3線シールド機(親機・外径:14.18 m)に複線シールド機(子機・外径:9.70 m)を内蔵したもので、麻布十番駅付近の留置線を3線シールド機で掘削し、その後は子機を使用した複線シールド機により白金高輪駅まで掘削を行うものである。
この2つの技術を採用したことで、経済性に優れ、また環境保全対策に優れたものとして社団法人土木学会より平成10年度技術賞を受賞し、高く評価された。
1959年(昭和34年)時点で、国鉄(当時)赤羽駅の1日あたりの乗降客数は10万人を超えており、さらに旧軍用地跡には公営団地の建設が進められており、さらなる乗降客数の増加が見込まれていた。混雑解消のため、北区は赤羽駅に地下鉄の誘致を始めた。
都市交通審議会答申第1号に基づいて、1957年(昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号により、都市計画第5号線(→東西線)が「中野駅 - 高田馬場駅 - 戸塚町 - 飯田橋駅 - 大手町 -日本橋 - 茅場町 - 門前仲町 - 東陽町に至る本線」と「大手町 - 神保町 - 水道橋駅 - 春日町 - 白山 - 巣鴨駅 - 西巣鴨 - 板橋駅 - 下板橋に至る分岐線」に改訂された。
北区は、後者の5号線分岐線を下板橋から赤羽駅まで延長させ、さらに第5号線の車両基地施設は当時未定であった。第5号線の建設を予定していた営団地下鉄は、北区が旧TOD第一地区を車両基地用地として払い下げることに協力するならば、第5号線の赤羽駅への延長が可能であると返答した。さらに隣接する板橋区も地下鉄誘致運動に加わり、大蔵省、関東財務局、営団地下鉄に地下鉄の誘致と旧TOD第1地区の車両基地用地への払い下げを強く要望した。
しかし、1960年(昭和35年)末に東京都議会が第5号線の分岐線は東京都が建設するべきとして、これに営団地下鉄が反発したことから、地下鉄誘致計画は中断することとなった。この間も、北区は大蔵省、関東財務局に対して車両基地用地の払い下げを要望したが、建設をめぐって営団地下鉄と東京都が対立していることから、判断は保留とされた。
その後、1962年(昭和37年)6月8日の都市交通審議会答申第6号において、第5号線の分岐線 大手町 - 下板橋間は都営地下鉄(東京都交通局)6号線(→三田線)の一部として切り離され、新たに7号線が「目黒方面より飯倉片町、永田町、市ケ谷、駒込及び王子の各方面を経て赤羽方面に至る路線」と制定されたことで、北区の地下鉄誘致運動は第7号線へと変わった。しかし、都市交通審議会答申第6号では第7号線は1970年(昭和45年)着工、1975年(昭和50年)完成とされており、目黒から岩淵町間に加えて営団地下鉄や地元は桐ケ丘まで延伸し、旧TOD第1地区を転用した西が丘車両基地を設けることを考えていた(後述)。
さらに1975年(昭和50年)完成予定では遅すぎるということで、北区は早期着工の要望を行い、第7号線は1964年(昭和39年)には着工されるのではないかとの報道もあった。しかし、北区の期待とは裏腹に、第7号線においても建設をめぐって営団地下鉄と東京都が対立し、また地下鉄の車両基地を予定していた旧TOD第1地区の払い下げは難航した。
1962年(昭和37年)に免許申請を行った地下鉄7号線(南北線)が、建設工事の着手まで20年以上を要したのは、当初北区西が丘に建設を予定していた西が丘車両基地が原因である。車両基地問題が起きた当時は「南北線」の路線名称は決定しておらず、本節では当時呼ばれていた「地下鉄7号線」の路線名称を用いる。
地下鉄7号線最初の計画では、岩淵町(現在の赤羽岩淵駅)から南西方向に向かい、東京陸軍兵器補給廠専用線跡(現在の赤羽緑道公園など)を引き込み線(延長2.2 km)として経由して、北区西が丘3丁目にある国立西が丘サッカー場横の敷地(旧TOD第一地区)に車両基地を建設する計画であった。引き込み線の途中、桐ケ丘(北区赤羽台・法善寺墓苑付近)には駅を設ける予定であった。そこから西が丘地区までは車両基地への完全な引き込み線である(非営業線)。地下鉄7号線の計画当初から、営団は一帯の敷地約60,000 mは車両基地用地として計画していたが、前述した東京都との路線免許競願の10年間にサッカー場などの諸施設が建設され、残る用地は約26,000 mとなっていた。
1973年(昭和48年)2月12日、この地区の住民へ事前に何ら告知もなく営団は車両基地建設のため、引き込み線(岩淵町駅 - 桐ケ丘間)を含めた周辺の測量説明会を実施すると発表した。建設にあたっての立入測量許可自体は、土地収用法第12条に基づき1972年(昭和47年)11月6日から1974年(昭和49年)11月5日までの2年間で、東京都知事から許可が下りていた。1972年(昭和47年)10月31日、営団は北区長に対し、立入測量を行うことを通告していた。しかし、測量説明会直前まで車両基地計画は住民には伏せられていた。
元々、この地区は30 cmも掘れば水が出てくるような非常に軟弱な地盤地帯で、地盤沈下が激しく、台風が来ればがけ崩れが多発するような場所であった。このような場所に大規模な掘削作業を行う車両基地を建設すれば、周辺の住環境に大きな影響(地下水位の変動による地盤沈下・がけ崩れなど)を及ぼすことや、車両基地予定地は災害時の広域避難場所に指定されており、万が一の際には避難場所を失うとの理由で、周辺住民から大きな反対運動が起こった。
反対運動が発生したことから、北区と営団は話し合いを行い、同年5月に車両基地は完全地下構造とすること、車両基地の地上部の施設は100坪(330.579 m・換気口と資材搬入口)に縮小し、代わりに引き込み線上に車両基地の事務所などを建築する案を提案したが、住民の納得を得られるものではなかった。
同年6月になると計画場所は移転して、陸上自衛隊十条支処武器補給処赤羽地区跡地(旧TOD第二地区)約33,000 mに、地下2層構造・230両収容の大規模な車両基地(整備工場を含む)を建設する方針となった(現在は赤羽自然観察公園となっている場所)。車両基地用地約33,000 mのうち、約10,000 mは車両搬入口、油庫、換気口などが占め、残り23,000 mは覆土して住民への公園・避難場所とすることが計画されていた 。引き込み線上に予定していた事務所棟の施設も、旧陸上自衛隊敷地内に収容される計画となった。特に理由を開示せず、計画を二転三転するようなことも、住民のさらなる不信を招いた。 ただし、この案は直接車庫への入出庫はできず、都営浅草線馬込車両検修場のように、引き上げ線で西が丘地区までいったん折り返してから入出庫する構造となる。
1974年(昭和49年)7月29日に、北区議会交通対策特別委員会が地下鉄7号線現在計画(西が丘車両基地計画)を採択したことから、同年10月に免許が下りる寸前まで至った。8月28日、地下鉄7号線は運輸大臣から運輸審議会に諮問され、8月28日 - 9月11日の期間で告示された。この14日の告示期間内に反対意見があった場合、利害関係者は公聴会を開くことを要求できると定められている。しかし、反対住民はこのことを知らず、告示期間を過ぎた10月23日、運輸審議会に公聴会の開催要求と開催要求の署名1,171名分を提出した。公聴会の開催要求があったことから、運輸省が営団へ地下鉄7号線の免許交付を止めることに成功した。
営団は前2年間の立入測量許可が切れることから、同年秋に測量許可の再申請を行っており、期間は1974年(昭和49年)11月6日から1977年(昭和52年)11月5日までの3年間となった。
しかし、1975年(昭和50年)2月5日、建設反対派の住民(原告 1,077名・のちに72名)が東京都知事(当時は美濃部亮吉)が許可した営団の立入測量許可の取り消しを求めて、東京地裁に訴訟を起こした。1977年(昭和52年)7月5日、東京地裁は「立入測量は工事の準備のためで、具体的な地下鉄工事を許可したものではない」との理由で住民側の訴えを棄却した。住民側は判決を不服として控訴した。
その間、1977年(昭和52年)11月5日に営団が申請した3年間の立入測量の許可が切れる。営団は立入測量許可の再々申請を見送ったことから、西が丘車両基地計画は断念、事実上の住民側勝利となった。東京高裁での控訴審判決は1978年(昭和53年)3月29日、既に営団が測量を断念していることから、争う理由がないとの理由で控訴棄却となった。なお、この訴訟は裁判に勝つことよりも、住民の反対運動の強さを運輸省に働きかけることで免許交付を止める、さらに営団および北区に対して車両基地計画を断念させることが目的であったとされる。
北区は1975年(昭和50年)から1976年(昭和51年)にかけて、運輸省や営団に地下鉄7号線の状況聴取を行っているが、「オイルショックによる国の政策転換、営団地下鉄の計画不備、住民の反対訴訟があり、路線免許を下ろせない」と回答している。また、営団は資金繰りの関係から同時に2路線の建設を行っているが、地下鉄8号線(有楽町線)は1980年(昭和55年)、地下鉄11号線(半蔵門線)は1979年(昭和54年)に開業予定のため、地下鉄7号線は1979年(昭和54年)まで計画休止とされた。
営団の立入測量許可の再々申請を見送ったことで、車両基地計画自体が撤回されたわけではなかった。
その後、住民が法務局で車両基地及び引込線用地を調べたところ、引込線建設予定地には公園用地として整備されなければならない官地があることを突き止めた。さらに引込線用地は国鉄の所有であるが、北区は住民への公園用地を国鉄関連会社の潤生興業(→旭工業社と合併し、旭潤生工業→現在は交通建設)に資材置き場として無償使用させていた。
1981年(昭和56年)9月9日に住民ら140人は、北区と東京都に対して「引込線沿線の公園用地を国鉄関連会社に無断で使用させている件について」住民監査請求を申し立てる。申し立ては翌10月5日に受理されたが、北区は住民が監査請求した翌々日(9月11日)に潤生興業へ資材を片付けさせており、監査はその後に行ったことから「問題はない」、「北区は財産上の損害を被っていない」として、住民の申し立てを却下した。
ただし、住民(地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会)はこうなることを予想しており、1981年(1981年)12月15日に資材置き場として使用していた証拠を取り揃えて東京地方裁判所に訴訟を起こした。そして1983年(昭和58年)6月22日、元北区長の小林正千代より東京地裁を通して「区長が変わった」、「監査請求により公園は木が植えられ、公園としての形が整った」として和解を勧告してきた。和解の条件として「北区は公園の管理が悪かったことを認める」、「使用していた会社から使用料(30万円)を出させる」など、北区の非を認める内容であった。
同年7月27日、住民(地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会)が「裁判所が住民の勝利を認めている」、「区も手落ちがあったことを表明している」として、和解提案を受け入れた。北区、営団は裁判結果を受け入れざるを得ず、引込線及び車両基地計画は撤回された。住民(地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会)は9月18日に勝利報告大集会を開催、その7か月後にようやく地下鉄7号線の路線免許が営団に交付された。
その間、1980年(昭和55年)9月11日に地下鉄7号線建設促進を要望する北区住民が14万人の署名を以って、運輸大臣に陳情を行った。1982年(昭和57年)3月29日、営団は一時中断していた地下鉄7号線について、従来の計画を見直したうえで建設を行うと回答。同年6月1日、「地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会」は建設反対署名1,704人分を運輸省へ提出した。同年9月8日、北区長及び北区議会が北区神谷堀公園地下に小規模な車両基地を建設することを承諾した。
西が丘車両基地計画が撤回されたことから、代替に北区神谷堀公園地下に小規模な車両基地(現在の王子検車区)を建設することで、ようやく地下鉄7号線建設計画が進むこととなった。住民の反対運動により、公共事業を計画撤回に追い込んだ事例は極めて珍しい。
営団は地下鉄7号線建設のため、1973年度(昭和48年度)から1976年度(昭和51年度)にかけて建設予算を組んでいる。
目黒 - 白金高輪間は東京都交通局が第二種鉄道事業者となり、都営三田線と共用で営業している。このため、運賃計算方法も同区間については東京地下鉄・東京都交通局間の協議により以下のように定められている。
目黒駅から東急目黒線・東急新横浜線を経由し相鉄新横浜線の西谷駅より相鉄本線の海老名駅及び相鉄いずみ野線の湘南台駅まで、赤羽岩淵駅から埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)の浦和美園駅までそれぞれ相互直通運転を実施している。また、先述の通り白金高輪駅 - 目黒駅間は都営三田線との共用区間のため、三田線の列車も走行する。そのため、白金高輪駅発着の列車は同駅で都営三田線の東急目黒線直通列車と接続するようになっており、また逆の列車もある。
2006年9月25日より東急目黒線直通列車の一部が東急線内にて急行列車としての運行を開始したが、その後も南北線(および相互直通運転をしている埼玉高速鉄道線)内は全列車が各駅停車となっている。なお、南北線内での種別表示については目黒方面行きの急行列車のみ行われ、当初は各駅停車においては行先のみ表示されていたが、2018年頃より一部列車で「各停」「各駅停車」と種別も表示するようになった。2019年9月時点ではすべての列車で「各停」「各駅停車」と表示されている。
2009年6月6日より埼玉高速鉄道線の日中ダイヤがパターン化されたことに伴い、日中は鳩ヶ谷駅・浦和美園駅発着の列車が交互に運転されるようになった。また、これに伴い、日中に鳩ヶ谷駅発着の急行列車が運転されるようになった。
2017年3月25日より夜間の列車を中心に埼玉高速鉄道線に直通せずに赤羽岩淵駅で目黒方面に折り返す運用が数往復設定され、その後2018年3月30日より日中時間帯の一部列車にも赤羽岩淵駅で目黒方面へ折り返す運用が増え、2019年3月16日より日中の半数が赤羽岩淵駅で目黒方面に折り返すようになった。
目黒駅に到達する列車は、すべて東急目黒線に乗り入れていたが、2021年3月13日より最終電車に限り、目黒駅を終着とする列車が設定されている。
四ツ谷駅延伸開業を控えた1996年2月3日(休日ダイヤ運転日)より4両編成から6両編成での運転を開始した。
当時の駒込駅 - 赤羽岩淵駅間のダイヤでは休日ダイヤでの運用本数が最も少なく、終日4本運用であった。そこで、2月3日から新規開業用に6両編成で新製した第09 - 13編成と4両から6両編成化した予備車両を用いて営業線用の車両を6両編成に置き換え、4両編成の車両は6両編成化の組み換え後に、順次営業運転に復帰させるという形がとられた。
なお、当初の予定では目黒駅への延伸開業時に8両編成化をする計画であった。しかし、当初の利用者数の見込みが53万人であったのに対し、全線開業時の利用者数が半分以下の26万人程度と想定を大きく下回ったため、8両化に難色を示し、需要動向や運転計画の見直しを行い、当面は6両編成で運用することとなった。2023年3月18日の相鉄線への直通運転を開始に向けて、2022年4月1日から8両編成化が開始され、当初は東急所属の1編成が8両となり、2023年までに東急車は全面的に8両編成となった。2023年に新たに直通運転を開始した相鉄車は全列車が8両編成となっている。
2023年12月13日、東京メトロより自社車両である9000系の最初の8両編成が12月16日に営業運行を開始することが発表された。なお同時に、当初は8両化の対象(第09編成以降の15編成)とされていた5次車(第22・23編成)が今回で構想外となることが明らかになった。
主に行楽日となる休日を中心に臨時列車「みなとみらい号」が横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅と埼玉高速鉄道線浦和美園駅の間に運転されていた。これには東急車が運用に就き、メトロ車両は運用されていない(2007年春の運転分までは埼玉高速車が充当された)。
2006年8月運転分までの停車駅は、当線と埼玉高速鉄道線・東急目黒線内が各駅停車、東横線とみなとみらい線が急行運転だったが、東急目黒線が急行運転を開始した後の同年12月運転分からは当線と埼玉高速鉄道線内が各駅停車、東急目黒線・東横線とみなとみらい線内が急行運転になった。
なお、白金高輪駅で都営三田線高島平駅からの「みなとみらい号」と接続する、白金高輪行きの臨時列車「みなとみらいリレー号」として運転されたこともあった。この運用には東京地下鉄の9000系が使用された。
また、2006年まで東京湾大華火祭の開催日にも有楽町線の新木場駅へ直通する臨時列車「レインボー号」が運転されていたが、こちらは9000系の転落防止器具取り付け車が運用にあたっていた。
埼玉スタジアム2002でサッカーの試合開催時は、通常は赤羽岩淵や鳩ヶ谷駅発着の列車を浦和美園駅発着への変更、浦和美園駅発の市ケ谷駅や麻布十番駅で折り返す臨時列車の増発が行われ、こちらは埼玉高速鉄道の公式ホームページに臨時列車の運転日と時刻が掲載される。
どの列車がどの車両で運転されるかは列車番号で判別できるようになっており、列車番号末尾アルファベットの「S」が東京メトロ車両(30S - 78Sの偶数番号)、「M」が埼玉高速車両(80M以降の偶数番号)、「K」が東急車両(01K - 48K)、「G」が相鉄車両(31G - 43G)となっている(「T」は都交通局車両で31T以降の奇数)。
列車番号が6桁の数字で組み立てられる東急目黒線内では、上3桁が運用番号を表し、300番台は東京メトロ車両、500番台は埼玉高速車両、200番台は東急車両、600番台は相鉄車両となっており(400番台は都交通局車両)、例えば「30S」は東急線内は「330」となる。一般の利用者は列車番号を『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄で確認することができる。
なお、東急車および相鉄車の運用は、三田線運用と南北線運用とで別々に組まれ、奇数番号(東急線内基準)が三田線運用、偶数番号(同)が南北線・埼玉高速線運用となっている。そのため、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:01Kと02K)を同一車両で運転されていることから一部の運用番号が欠番となっている。また各者間の走行距離調整の関係上、埼玉高速車両と東急車両は東急目黒線に乗り入れない列車(白金高輪駅折り返しなど)にも使用されている。
2023年3月13日改正ダイヤでは、東京メトロ車が東急の元住吉検車区に1本、奥沢駅に1本、浦和美園車両基地で6本がそれぞれ夜間留置となる。逆に東急車が市ケ谷駅と麻布十番駅に1本ずつ夜間留置される。
2022年(令和4年)度の最混雑区間(B線、駒込 → 本駒込間)の混雑率は140%である。
2000年度より目黒駅から東急目黒線に、赤羽岩淵駅から埼玉高速鉄道線にそれぞれ直通運転を行っている。輸送人員は増加傾向にあるが、東京メトロ全線で最も少ない。東急目黒線は東横線のバイパス路線として整備された経緯があり、混雑率は2017年度から170%を上回っている。埼玉高速鉄道線は第三セクター鉄道であり、京浜東北線と競合している。
単独駅で最も乗降人員が多い駅は六本木一丁目駅であり、同駅の1日平均乗降人員は8万人を越えている。同駅は泉ガーデンタワーと住友不動産六本木グランドタワーが直結し、周辺は再開発によりオフィス街が立ち並ぶ。最も乗降人員が少ない駅は西ケ原駅であり、同駅の1日平均乗降人員は1万人を下回り、都営地下鉄を含めた東京の地下鉄全駅中最少となっている。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
本路線最初の区間(駒込駅 - 赤羽岩淵駅)の開業時には、他路線との接続がないことから、9000系車両は最初に綾瀬検車区に搬入し、受取検査・整備等を実施、その後千代田線で性能確認のための試運転を実施した。
そして、綾瀬検車区よりトレーラーで王子検車区まで道路輸送をし、同検車区でクレーンを用いて地下の南北線へと搬入された(4両編成で搬入された第01 - 08編成が該当する)。営団地下鉄で、道路輸送・クレーンによる地下への車両搬入は1964年(昭和39年)に東西線の最初の開業区間である高田馬場 - 九段下間開業時以来、27年ぶりである。なお、1995年以降に増備された2次車以降は次に述べる連絡線を経由して搬入された。
市ケ谷駅の四ツ谷寄りに有楽町線との連絡線が存在する。南北線や埼玉高速鉄道の車両が点検整備のために新木場CRや、さらに有楽町線桜田門駅から千代田線霞ケ関駅へ向かう連絡線を経て綾瀬工場へ向かう場合に使われる。また、東京湾大華火祭での新木場行臨時列車や半蔵門線の8000系車両の新木場CRへの回送にも利用される。東急東横線と副都心線の直通運転開始前の関連各社の試運転用車両の回送も、この連絡線を介して行われた。
開業時から全駅でサウンドプロセスデザイン制作(吉村弘作曲)の、王子駅付近を流れる音無川(石神井川)の流れをイメージした発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月10日から13日にかけて、各駅ごとにその駅周辺の地域をイメージした異なるメロディに変更された(東急が管理する目黒駅を除く)。制作はスイッチが担当し、塩塚博、福嶋尚哉、山崎泰之の3名が作曲・編曲を手掛けた。「ホームのどこにいても明瞭に聴き取れる音色」、「高齢者にも聴き取り易い音域」、「長時間聴き続けても疲れない音色・楽器構成」が制作上のポイントとなっている。なお、吉村作曲の発車メロディは引き続き南北線を走る車両(東急・埼玉高速鉄道および都営三田線の車両含む)の車載メロディや、都営三田線・埼玉高速鉄道線の駅の発車メロディとして使用されていたが、2023年3月までに置き換えられている。
なお、開業当初は発車サイン音のほかに接近サイン音も使用されていたが、2000年の全線開通時に廃止されている。
各駅の曲名は以下の通り。
各駅のメロディのイメージコンセプトは以下の通り。
東京メトロでは2019年3月に、南北線を2022年度までに8両編成対応とすることを発表しており、同年9月には自社車両の一部編成を8両化することが報道された。その対応工事の内容は、先頭車および編成全体が1次車(および試作車)の編成で既に大規模改修工事を実施した第1編成より第8編成までは対象外となり、また対象外編成は従来通り6両編成のままで残して新横浜駅までの運用に留めるものの、編成全車が2次車以降となっている第9編成以降最終編成までは8両編成化を実施する予定で、中間車を15編成30両分を新たに製造し、2次車以降のB修工事の際に相鉄線直通対応工事も同時に施工する予定である。
2016年の交通政策審議会答申第198号において品川駅 - 白金高輪駅間(2.5 km)が「都心部・品川地下鉄構想」として取り上げられ、2022年に東京メトロは南北線延伸としてこの区間の鉄道事業許可を申請し、3月28日付で国土交通大臣より第一種鉄道事業許可を受けている。
六本木・赤坂など都心部とリニア中央新幹線のターミナルとなる品川駅及び都市集積が進む同駅付近とを結ぶ路線として、東京都が計画した。
2019年3月に開かれた国土交通省による「東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会」(以下「検討会」)第2回検討会で公表された案は以下の通り。
この条件で品川駅の位置を国道15号に並行とする場合(Aルート)と直交する場合(Bルート)の2パターンで検討を行った結果、輸送人員はAルートが13.4 - 14.3万人/日、Bルートが7.8万人/日となり、優位なAルートが選定されることとなった。費用便益比は2.57 - 3.14、累積資金収支は16 - 19年目で黒字に転換するとしている。東京メトロの既存線区間を含めても24 - 28年目で累積資金収支が黒字となる。
検討会では事業の効果・影響を次のように見積もっている。
なお、上記検討会で営業主体として想定されている東京メトロは、都による計画が発表された2015年7月には東京新聞の取材に対して、「近隣にある南北線の他の駅はトンネル構造上、分岐が難しい。白金高輪止まりとなっている電車を品川へ流すことができるので、運行面も合理的な場所だ」とコメントしている。一方で、答申発表後の日本経済新聞の取材には「新線の整備に関して、大きなリスクを負う整備主体にはなりえない」ともコメントしている。2017年に就任した第3代社長の山村明義は「2008年に開業した副都心線を最後に新線建設は行わない方針だ」と従来の方針を堅持する一方、「(国や都から)もし協力を求められたら、経営に悪影響を及ぼさない範囲で行う」という方針であると語っている。
延伸先となる品川駅では、駅設置予定の国道15号の直上に大規模な広場を作る計画があるが、地下鉄建設により手戻りとなる恐れがあり、国土交通省東京国道事務所による「国道15号・品川駅西口駅前広場整備事業計画検討会」の岸井隆幸座長(「東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会」座長も兼任)は、「地下鉄の建設主体も運営主体もまだはっきりしていないので、国交省には早く決めてもらいたい」と発言している。
事業費は2019年時点の試算で800億円であるが、建築資材や人件費の高騰で膨らむ見込みとなり、事業費の4分の3を国や都が支援し、東京メトロの借入金には財政投融資を充てる方針としている。
2014年7月、都が公表した「品川駅・田町駅周辺まちづくりガイドライン2014」では、品川駅を東西に貫く鉄道新線を検討することが盛り込まれた。
2015年7月10日、都は「広域交通ネットワーク計画について ≪交通政策審議会答申に向けた検討のまとめ≫」を発表。その中の「整備について検討すべき路線」のひとつとして盛り込まれた。当時の東京都知事の舛添要一は、「都市集積の進む品川と都心部との間はあまり便利が良くないので、それを結ぶ路線を今後検討すべき路線として抽出した」と説明している。
2016年4月に出された交通政策審議会答申第198号では、「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」として取り上げられた。
2018年5月15日、国土交通省による「東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会」の第1回検討会が行われ、東京8号線(有楽町線)豊洲駅 - 住吉駅間延伸(「東京直結鉄道」参照)とともに検討会による調査対象路線に選ばれた。東京メトロは完全民営化方針を理由に事業主体となることに消極的な姿勢を示していたが、2021年7月8日行われた第5回小委員会と、同年7月15日に示された同検討会の答申において、東京メトロが主体となって整備を進めるのが適切だとする素案を示すとともに、国や東京都が建設費を補助する方向性を示した。国土交通省は2022年(平成4年)度当初予算案に都市鉄道整備事業費補助(地下高速鉄道)において「都心部・品川地下鉄整備」として事業予算を計上、環境基準評価に着手する見通しとなった。東京メトロは2022年(令和4年)1月28日に品川 - 白金高輪間約2.5 kmの鉄道事業許可を国土交通大臣に申請し、同年3月28日に第一種鉄道事業の許可を受けた。開業時期は2030年代半ばで、事業費は1,310億円を予定している。
2022年6月初旬に、東京都と東京地下鉄は品川 - 白金高輪間の延伸に関する都市計画素案の説明会の開催を発表し、そのなかで詳細ルートが明らかになった。品川駅(仮称)を出た路線は大きく西へカーブし、2032年度の完成予定で工事が行われる環状4号線の下を走り都営地下鉄浅草線高輪台駅の北側をかすめた後、南北線(都営三田線)の白金台駅の南側で北東へ向きを変え、目黒通りの下を経て、白金高輪駅に至るルートである。駅間は複線シールド工法、品川駅や折り返し設備は開削工法が採用される予定。また、品川駅は1面2線として建設される予定。
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"text": "南北線(なんぼくせん)は、東京都品川区の目黒駅から北区の赤羽岩淵駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は7号線南北線。",
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"text": "路線名の由来は東京を南北に貫くことから。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「エメラルド」(#00ac9b)、路線記号はN。",
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"text": "1962年(昭和37年)6月の都市交通審議会答申第6号において、東京7号線は「目黒方面より飯倉片町、永田町、市ケ谷、駒込及び王子の各方面を経て赤羽方面に至る路線」として示された。8月29日の建設省告示第2187号により、都市計画第7号線(東京都市高速鉄道第7号線)として、目黒駅 - 岩淵町間(20.5 km)の都市計画が決定した。",
"title": "概要"
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"text": "帝都高速度交通営団(東京メトロの前身。以下、営団と略す)はこれに基づいて同年10月16日、第7号線 上大崎(目黒) - 赤羽町(桐ケ丘)間(22.5 km)の地方鉄道敷設免許を申請した。都市計画路線上は岩淵町(現・赤羽岩淵)が終点であるが、車両基地への引き込み線を旅客営業するため、桐ケ丘(旧地名の赤羽町5丁目)まで申請を行ったものである。しかし、1964年(昭和39年)6月4日、東京都も第7号線 目黒 - 赤羽間(21.0 km)の地方鉄道敷設免許を申請したため、競願状態となった。",
"title": "概要"
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"text": "1972年(昭和47年)の答申第15号では、将来の検討対象とされていた埼玉方面への延伸区間が川口市中央部 - 浦和市東部間と改められた。その後1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号では、目黒 - 清正公前(現:白金高輪駅)間を6号線(都営三田線)と共用するものとされ、また埼玉県内は鳩ヶ谷市中央経由で東川口から浦和市東部へと変更された。このうち、目黒 - 赤羽岩淵間が南北線として順次開業しており、また赤羽岩淵 - 浦和美園間は埼玉高速鉄道線として開業している。",
"title": "概要"
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"text": "計画そのものは1960年代になされていたものの、東京都北区西が丘(後に赤羽西)に予定していた車両基地問題から、計画は一時中断した(後述の「#西が丘車両基地計画と反対運動」を参照)。1984年(昭和59年)4月20日、免許申請以来、22年の歳月を経てようやく全線の路線免許取得に至った。着工は1986年(昭和61年)となり、1991年(平成3年)に部分開業、2000年(平成12年)に全線開業した。後発路線のため、全体的に地中深い駅が多いのが特徴である。",
"title": "概要"
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"text": "当初の建設計画では第1期工事区間を駒込 - 赤羽岩淵間、第2期工事区間を目黒 - 駒込間としていたが、第2期工事区間を溜池山王 - 駒込間(その1)、目黒-溜池山王間(その2)に分割したため、実際は3区間に分けて建設された。第1期区間は順調に建設がされたが、第2期区間は埋蔵文化財の発掘(溜池山王駅 - 飯田橋駅間の江戸遺跡)や住民の反対運動(白金台駅付近)で建設は遅れ、当初の全線開業予定の1995年(平成7年)9月から2000年(平成12年)9月へと大きく延期されることとなった。",
"title": "概要"
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"text": "また、第2期開業にあたっては駒込駅 - 溜池山王駅までを一気に開業させる予定であったが、銀座線の新駅設置工事や丸ノ内線・千代田線の既設路線交差部において難工事となり、工期に時間を要することとなったことから、駒込駅 - 四ツ谷駅間を先行開業させ、溜池山王駅までの開業は四ツ谷駅までの開業から1年半ずれ込んだ。",
"title": "概要"
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"text": "本路線の建設費用は総額5,963億8,900万円である(最終的な金額)。その内訳は用地費が383億6,700万円、土木費が3,320億2,400万円、車両費が329億8,400万円、その他が1,930億1,400万円となっている。費用には建設利息を含む、また消費税は除く。",
"title": "概要"
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"text": "本路線の路線名称は営団職員より社内公募を行ったもので、応募は3,830通(341線名)があった。選考の結果、「南北線」が1,741通と約半数を占め、また本路線が地理上から、ほぼ南北に貫通していること、東西線に対比して南北方向の路線として最もふさわしい路線名称であることから「南北線」という路線名称が選ばれた。",
"title": "概要"
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"text": "永田町駅 - 飯田橋駅間では有楽町線と並行しているが、有楽町線が麹町経由であるのに対して南北線は四ツ谷経由であることが異なっている。また四ツ谷駅 - 飯田橋駅間はJR中央・総武緩行線と並行している。",
"title": "概要"
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"text": "南北線は東京メトロの路線としては半蔵門線とともに地上区間が存在しない路線である。",
"title": "概要"
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"text": "本路線の建設にあたっては社会環境の大きな変化から、地下鉄の建設は経済性や採算性だけでは時代に合わなくなってきており、「21世紀を指向する便利で快適な魅力ある地下鉄」を目指して、「7号ビジョン」と呼ばれる新しいコンセプトを基に建設した。",
"title": "概要"
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"text": "7号ビジョンとしては「利便性の向上・快適性の向上」・「ワンマン運転の実施」・「ホームドアの設置」・「建設費・運営費の削減」を目指したものとした。また、これに基づいて各駅のステーションカラー、改札口周辺、きっぷ売り場、メディアウォール、シンボル柱、可動ベンチ、ふれあいコーナー、出入口上屋など、地下鉄の駅設備に新たなデザインを採用した。これに関連して、営団では1991年にサインシステムの規定を一部改定し、南北線の単独駅および他路線との接続駅であっても南北線開業以後に新設された出入口では、従来は出入口屋根上に設置していたSマークを廃止するなどの変化があった。",
"title": "概要"
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"text": "利便性の向上として、全駅へのエスカレーターの設置と交通弱者への配慮からエレベーター(設置できない場合は車椅子対応エスカレーター)、さらに車椅子対応トイレを全駅に設置した。改札口付近と駅ホームにはLED式発車案内表示器を設置した。",
"title": "概要"
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"text": "目黒駅を除いた各駅には6色のステーションカラーを3駅ずつ配置し、それをホームドアの扉部、エスカレーターの手すり(ベルト)、メディアウォール、可動ベンチ(南北線の駅空間にマッチするよう、未使用時には跳ね上がるベンチ)などに配色している。配置駅は、",
"title": "概要"
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"text": "である。一部の駅においては、駅ホームの向かい壁をギャラリー空間に見立て、企業の協賛によりグラフィックデザイン(アートウォール)を整備した。",
"title": "概要"
},
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"text": "改札口は逆アールの天井とし、乗客の動線に対応したスリット照明、床面にも動線に対応したデザインを施した。ウィンドラッチ(駅窓口)は、オープンカウンターとし、駅員1人で自動券売機と自動改札の案内ができる構造とした。一部の駅では、改札周りの柱に特徴的なデザインを施した「シンボル柱」を設置した。各駅の改札口付近のポスター掲出スペースには、地域のイメージを凹凸を付けた壁面に表現した「メディアウオール」を設置した(各駅ごとにモチーフが異なる)。一部の出入口は「7号タイプ出入口」と呼ばれる、ガラスを多用した特徴的なデザインを採用した。",
"title": "概要"
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"text": "さらに赤羽岩淵・志茂・王子・駒込の各駅コンコースには「ふれあいコーナー」を設け、休憩用の椅子やテーブル、給茶機(のちに撤去)を設置していた。その後の路線延伸で、本駒込・東大前・溜池山王・麻布十番の各駅においても同様のスペースが設けられたが、後の改装等により現在は本駒込・東大前・溜池山王の3駅に残るのみである。",
"title": "概要"
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"text": "南北線の最初の区間である駒込 - 赤羽岩淵間の開業時、他の営団地下鉄路線とまったく連絡のない独立路線だったため、前述の都内の地下鉄では初めてのワンマン運転・ホームドア設置に加え、各種の実験的な試みがなされている。後のパスネットの基となるプリペイド式乗車カード「NSメトロカード」(1996年に「SFメトロカード」へ移行)を当初から導入した。",
"title": "概要"
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"text": "前述のコンセプトに基づき、全線でATOによる自動運転とワンマン運転を実施しており、全駅にホームドアシステムを装備する。2015年現在東京地下鉄では唯一の天井までほぼ完全にホームを被う川崎重工業製半密閉式フルスクリーンタイプ(ホームドアの戸閉機械はナブテスコ製)を採用した路線である。ただし東急管理の目黒駅のみ東急目黒線や東京メトロ他線と同様に可動式ホーム柵(京三製作所製)を採用している。",
"title": "概要"
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"text": "ホームドアの開口幅は、ATO装置の定位置停止精度を± 350 mmとしていることから、最大の誤差を考慮した車両のドア幅である1,300 mmより700 mm広い2,000 mmとしている。当初計画では、耐用年数15年以上、500万回のドア開閉に耐えられる強度としている。",
"title": "概要"
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"text": "ホームドアの開閉は左右扉がおのおのスライドする。ただし、先頭および最後尾車両の乗務員室寄りのドア片側は乗務員用扉との干渉を防ぐため2段スライドし開扉時の収納幅が約半分となる。",
"title": "概要"
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"text": "各駅のプラットホームは、8両化に対応できるよう延長170 mが確保されている。ただし、白金台・白金高輪・溜池山王・永田町・四ツ谷の各駅は当初より8両分のホームを供用済みなのに対し、これ以外の駅は一部を除き6両分しか供用せず、ホーム延伸工事の実施までは封鎖する形となった。",
"title": "概要"
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"text": "本路線の変電所は(赤羽岩淵)・王子・駒込・新後楽園・新四ツ谷・東六本木・白金の7か所(赤羽岩淵変電所は8両化時に設置予定とされていた。ただし、2023年時点でも変電所は未開設)であり、8両編成による2分30秒運転にも対応できる。白金変電所以外は、駅構内に設置している。このうち王子・新四ツ谷・白金変電所には営団初の電力回生用インバータを設置している。",
"title": "概要"
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"text": "各駅区間は泥水加圧式シールド工法で建設されており、ほとんどの区間が複線シールド構造を採用しているが、一部区間では単線シールド構造を採用している。また、駅部は基本的に開削工法によって建設されているが、白金台駅および永田町駅は駅シールド工法によって建設された。永田町駅はメガネ形駅かんざし桁工法と呼ばれる単線シールドトンネル間にホームを建設し、「かんざし桁」を用いて両ホームを接続する工法を用いている。",
"title": "概要"
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"text": "本路線の建設にあたっては、計22台のシールドマシンが使用された。建設費用を削減するため、志茂 - 赤羽岩淵間の建設では有楽町線辰巳三工区(辰巳 - 新木場間)で使用したシールドマシンを再利用したほか、南北線溜池山王 - 永田町間で使用した複線シールドマシンを白金高輪駅の2本の引き上げ線部の掘削に再利用した。",
"title": "概要"
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"text": "特に白金台駅および麻布十番駅付近の建設ではシールドトンネル掘削において「世界初」、「世界最大」となる技術を採用した。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "白金台駅の建設では世界初となる「着脱式泥水三連型駅シールド工法」を採用した。これは白金高輪駅 - 白金台駅にある白金換気所の立坑から複線シールドトンネルを掘削し、白金台駅部手前で両端に駅シールドマシンを装着し、三連形駅シールド機に改造して白金台駅部を掘削、駅終端部で複線シールド機に復元し、また複線シールド機として次の目黒駅まで掘削するものである。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "また、白金高輪駅 - 麻布十番駅の掘削では複線の本線と留置線(麻布十番駅付近にある留置線・3線区間 363.8 m)を3線同時に掘削する大断面シールド工事に世界最大(当時)の「抱き込み式親子泥水シールド工法」を採用した。これは3線シールド機(親機・外径:14.18 m)に複線シールド機(子機・外径:9.70 m)を内蔵したもので、麻布十番駅付近の留置線を3線シールド機で掘削し、その後は子機を使用した複線シールド機により白金高輪駅まで掘削を行うものである。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "この2つの技術を採用したことで、経済性に優れ、また環境保全対策に優れたものとして社団法人土木学会より平成10年度技術賞を受賞し、高く評価された。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1959年(昭和34年)時点で、国鉄(当時)赤羽駅の1日あたりの乗降客数は10万人を超えており、さらに旧軍用地跡には公営団地の建設が進められており、さらなる乗降客数の増加が見込まれていた。混雑解消のため、北区は赤羽駅に地下鉄の誘致を始めた。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "都市交通審議会答申第1号に基づいて、1957年(昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号により、都市計画第5号線(→東西線)が「中野駅 - 高田馬場駅 - 戸塚町 - 飯田橋駅 - 大手町 -日本橋 - 茅場町 - 門前仲町 - 東陽町に至る本線」と「大手町 - 神保町 - 水道橋駅 - 春日町 - 白山 - 巣鴨駅 - 西巣鴨 - 板橋駅 - 下板橋に至る分岐線」に改訂された。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "北区は、後者の5号線分岐線を下板橋から赤羽駅まで延長させ、さらに第5号線の車両基地施設は当時未定であった。第5号線の建設を予定していた営団地下鉄は、北区が旧TOD第一地区を車両基地用地として払い下げることに協力するならば、第5号線の赤羽駅への延長が可能であると返答した。さらに隣接する板橋区も地下鉄誘致運動に加わり、大蔵省、関東財務局、営団地下鉄に地下鉄の誘致と旧TOD第1地区の車両基地用地への払い下げを強く要望した。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "しかし、1960年(昭和35年)末に東京都議会が第5号線の分岐線は東京都が建設するべきとして、これに営団地下鉄が反発したことから、地下鉄誘致計画は中断することとなった。この間も、北区は大蔵省、関東財務局に対して車両基地用地の払い下げを要望したが、建設をめぐって営団地下鉄と東京都が対立していることから、判断は保留とされた。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "その後、1962年(昭和37年)6月8日の都市交通審議会答申第6号において、第5号線の分岐線 大手町 - 下板橋間は都営地下鉄(東京都交通局)6号線(→三田線)の一部として切り離され、新たに7号線が「目黒方面より飯倉片町、永田町、市ケ谷、駒込及び王子の各方面を経て赤羽方面に至る路線」と制定されたことで、北区の地下鉄誘致運動は第7号線へと変わった。しかし、都市交通審議会答申第6号では第7号線は1970年(昭和45年)着工、1975年(昭和50年)完成とされており、目黒から岩淵町間に加えて営団地下鉄や地元は桐ケ丘まで延伸し、旧TOD第1地区を転用した西が丘車両基地を設けることを考えていた(後述)。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "さらに1975年(昭和50年)完成予定では遅すぎるということで、北区は早期着工の要望を行い、第7号線は1964年(昭和39年)には着工されるのではないかとの報道もあった。しかし、北区の期待とは裏腹に、第7号線においても建設をめぐって営団地下鉄と東京都が対立し、また地下鉄の車両基地を予定していた旧TOD第1地区の払い下げは難航した。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1962年(昭和37年)に免許申請を行った地下鉄7号線(南北線)が、建設工事の着手まで20年以上を要したのは、当初北区西が丘に建設を予定していた西が丘車両基地が原因である。車両基地問題が起きた当時は「南北線」の路線名称は決定しておらず、本節では当時呼ばれていた「地下鉄7号線」の路線名称を用いる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "地下鉄7号線最初の計画では、岩淵町(現在の赤羽岩淵駅)から南西方向に向かい、東京陸軍兵器補給廠専用線跡(現在の赤羽緑道公園など)を引き込み線(延長2.2 km)として経由して、北区西が丘3丁目にある国立西が丘サッカー場横の敷地(旧TOD第一地区)に車両基地を建設する計画であった。引き込み線の途中、桐ケ丘(北区赤羽台・法善寺墓苑付近)には駅を設ける予定であった。そこから西が丘地区までは車両基地への完全な引き込み線である(非営業線)。地下鉄7号線の計画当初から、営団は一帯の敷地約60,000 mは車両基地用地として計画していたが、前述した東京都との路線免許競願の10年間にサッカー場などの諸施設が建設され、残る用地は約26,000 mとなっていた。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "1973年(昭和48年)2月12日、この地区の住民へ事前に何ら告知もなく営団は車両基地建設のため、引き込み線(岩淵町駅 - 桐ケ丘間)を含めた周辺の測量説明会を実施すると発表した。建設にあたっての立入測量許可自体は、土地収用法第12条に基づき1972年(昭和47年)11月6日から1974年(昭和49年)11月5日までの2年間で、東京都知事から許可が下りていた。1972年(昭和47年)10月31日、営団は北区長に対し、立入測量を行うことを通告していた。しかし、測量説明会直前まで車両基地計画は住民には伏せられていた。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "元々、この地区は30 cmも掘れば水が出てくるような非常に軟弱な地盤地帯で、地盤沈下が激しく、台風が来ればがけ崩れが多発するような場所であった。このような場所に大規模な掘削作業を行う車両基地を建設すれば、周辺の住環境に大きな影響(地下水位の変動による地盤沈下・がけ崩れなど)を及ぼすことや、車両基地予定地は災害時の広域避難場所に指定されており、万が一の際には避難場所を失うとの理由で、周辺住民から大きな反対運動が起こった。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "反対運動が発生したことから、北区と営団は話し合いを行い、同年5月に車両基地は完全地下構造とすること、車両基地の地上部の施設は100坪(330.579 m・換気口と資材搬入口)に縮小し、代わりに引き込み線上に車両基地の事務所などを建築する案を提案したが、住民の納得を得られるものではなかった。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "同年6月になると計画場所は移転して、陸上自衛隊十条支処武器補給処赤羽地区跡地(旧TOD第二地区)約33,000 mに、地下2層構造・230両収容の大規模な車両基地(整備工場を含む)を建設する方針となった(現在は赤羽自然観察公園となっている場所)。車両基地用地約33,000 mのうち、約10,000 mは車両搬入口、油庫、換気口などが占め、残り23,000 mは覆土して住民への公園・避難場所とすることが計画されていた 。引き込み線上に予定していた事務所棟の施設も、旧陸上自衛隊敷地内に収容される計画となった。特に理由を開示せず、計画を二転三転するようなことも、住民のさらなる不信を招いた。 ただし、この案は直接車庫への入出庫はできず、都営浅草線馬込車両検修場のように、引き上げ線で西が丘地区までいったん折り返してから入出庫する構造となる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1974年(昭和49年)7月29日に、北区議会交通対策特別委員会が地下鉄7号線現在計画(西が丘車両基地計画)を採択したことから、同年10月に免許が下りる寸前まで至った。8月28日、地下鉄7号線は運輸大臣から運輸審議会に諮問され、8月28日 - 9月11日の期間で告示された。この14日の告示期間内に反対意見があった場合、利害関係者は公聴会を開くことを要求できると定められている。しかし、反対住民はこのことを知らず、告示期間を過ぎた10月23日、運輸審議会に公聴会の開催要求と開催要求の署名1,171名分を提出した。公聴会の開催要求があったことから、運輸省が営団へ地下鉄7号線の免許交付を止めることに成功した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "営団は前2年間の立入測量許可が切れることから、同年秋に測量許可の再申請を行っており、期間は1974年(昭和49年)11月6日から1977年(昭和52年)11月5日までの3年間となった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "しかし、1975年(昭和50年)2月5日、建設反対派の住民(原告 1,077名・のちに72名)が東京都知事(当時は美濃部亮吉)が許可した営団の立入測量許可の取り消しを求めて、東京地裁に訴訟を起こした。1977年(昭和52年)7月5日、東京地裁は「立入測量は工事の準備のためで、具体的な地下鉄工事を許可したものではない」との理由で住民側の訴えを棄却した。住民側は判決を不服として控訴した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "その間、1977年(昭和52年)11月5日に営団が申請した3年間の立入測量の許可が切れる。営団は立入測量許可の再々申請を見送ったことから、西が丘車両基地計画は断念、事実上の住民側勝利となった。東京高裁での控訴審判決は1978年(昭和53年)3月29日、既に営団が測量を断念していることから、争う理由がないとの理由で控訴棄却となった。なお、この訴訟は裁判に勝つことよりも、住民の反対運動の強さを運輸省に働きかけることで免許交付を止める、さらに営団および北区に対して車両基地計画を断念させることが目的であったとされる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "北区は1975年(昭和50年)から1976年(昭和51年)にかけて、運輸省や営団に地下鉄7号線の状況聴取を行っているが、「オイルショックによる国の政策転換、営団地下鉄の計画不備、住民の反対訴訟があり、路線免許を下ろせない」と回答している。また、営団は資金繰りの関係から同時に2路線の建設を行っているが、地下鉄8号線(有楽町線)は1980年(昭和55年)、地下鉄11号線(半蔵門線)は1979年(昭和54年)に開業予定のため、地下鉄7号線は1979年(昭和54年)まで計画休止とされた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "営団の立入測量許可の再々申請を見送ったことで、車両基地計画自体が撤回されたわけではなかった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "その後、住民が法務局で車両基地及び引込線用地を調べたところ、引込線建設予定地には公園用地として整備されなければならない官地があることを突き止めた。さらに引込線用地は国鉄の所有であるが、北区は住民への公園用地を国鉄関連会社の潤生興業(→旭工業社と合併し、旭潤生工業→現在は交通建設)に資材置き場として無償使用させていた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1981年(昭和56年)9月9日に住民ら140人は、北区と東京都に対して「引込線沿線の公園用地を国鉄関連会社に無断で使用させている件について」住民監査請求を申し立てる。申し立ては翌10月5日に受理されたが、北区は住民が監査請求した翌々日(9月11日)に潤生興業へ資材を片付けさせており、監査はその後に行ったことから「問題はない」、「北区は財産上の損害を被っていない」として、住民の申し立てを却下した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ただし、住民(地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会)はこうなることを予想しており、1981年(1981年)12月15日に資材置き場として使用していた証拠を取り揃えて東京地方裁判所に訴訟を起こした。そして1983年(昭和58年)6月22日、元北区長の小林正千代より東京地裁を通して「区長が変わった」、「監査請求により公園は木が植えられ、公園としての形が整った」として和解を勧告してきた。和解の条件として「北区は公園の管理が悪かったことを認める」、「使用していた会社から使用料(30万円)を出させる」など、北区の非を認める内容であった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "同年7月27日、住民(地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会)が「裁判所が住民の勝利を認めている」、「区も手落ちがあったことを表明している」として、和解提案を受け入れた。北区、営団は裁判結果を受け入れざるを得ず、引込線及び車両基地計画は撤回された。住民(地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会)は9月18日に勝利報告大集会を開催、その7か月後にようやく地下鉄7号線の路線免許が営団に交付された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "その間、1980年(昭和55年)9月11日に地下鉄7号線建設促進を要望する北区住民が14万人の署名を以って、運輸大臣に陳情を行った。1982年(昭和57年)3月29日、営団は一時中断していた地下鉄7号線について、従来の計画を見直したうえで建設を行うと回答。同年6月1日、「地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会」は建設反対署名1,704人分を運輸省へ提出した。同年9月8日、北区長及び北区議会が北区神谷堀公園地下に小規模な車両基地を建設することを承諾した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "西が丘車両基地計画が撤回されたことから、代替に北区神谷堀公園地下に小規模な車両基地(現在の王子検車区)を建設することで、ようやく地下鉄7号線建設計画が進むこととなった。住民の反対運動により、公共事業を計画撤回に追い込んだ事例は極めて珍しい。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "営団は地下鉄7号線建設のため、1973年度(昭和48年度)から1976年度(昭和51年度)にかけて建設予算を組んでいる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "目黒 - 白金高輪間は東京都交通局が第二種鉄道事業者となり、都営三田線と共用で営業している。このため、運賃計算方法も同区間については東京地下鉄・東京都交通局間の協議により以下のように定められている。",
"title": "運賃計算の特例"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "目黒駅から東急目黒線・東急新横浜線を経由し相鉄新横浜線の西谷駅より相鉄本線の海老名駅及び相鉄いずみ野線の湘南台駅まで、赤羽岩淵駅から埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)の浦和美園駅までそれぞれ相互直通運転を実施している。また、先述の通り白金高輪駅 - 目黒駅間は都営三田線との共用区間のため、三田線の列車も走行する。そのため、白金高輪駅発着の列車は同駅で都営三田線の東急目黒線直通列車と接続するようになっており、また逆の列車もある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2006年9月25日より東急目黒線直通列車の一部が東急線内にて急行列車としての運行を開始したが、その後も南北線(および相互直通運転をしている埼玉高速鉄道線)内は全列車が各駅停車となっている。なお、南北線内での種別表示については目黒方面行きの急行列車のみ行われ、当初は各駅停車においては行先のみ表示されていたが、2018年頃より一部列車で「各停」「各駅停車」と種別も表示するようになった。2019年9月時点ではすべての列車で「各停」「各駅停車」と表示されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2009年6月6日より埼玉高速鉄道線の日中ダイヤがパターン化されたことに伴い、日中は鳩ヶ谷駅・浦和美園駅発着の列車が交互に運転されるようになった。また、これに伴い、日中に鳩ヶ谷駅発着の急行列車が運転されるようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2017年3月25日より夜間の列車を中心に埼玉高速鉄道線に直通せずに赤羽岩淵駅で目黒方面に折り返す運用が数往復設定され、その後2018年3月30日より日中時間帯の一部列車にも赤羽岩淵駅で目黒方面へ折り返す運用が増え、2019年3月16日より日中の半数が赤羽岩淵駅で目黒方面に折り返すようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "目黒駅に到達する列車は、すべて東急目黒線に乗り入れていたが、2021年3月13日より最終電車に限り、目黒駅を終着とする列車が設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "四ツ谷駅延伸開業を控えた1996年2月3日(休日ダイヤ運転日)より4両編成から6両編成での運転を開始した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "当時の駒込駅 - 赤羽岩淵駅間のダイヤでは休日ダイヤでの運用本数が最も少なく、終日4本運用であった。そこで、2月3日から新規開業用に6両編成で新製した第09 - 13編成と4両から6両編成化した予備車両を用いて営業線用の車両を6両編成に置き換え、4両編成の車両は6両編成化の組み換え後に、順次営業運転に復帰させるという形がとられた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "なお、当初の予定では目黒駅への延伸開業時に8両編成化をする計画であった。しかし、当初の利用者数の見込みが53万人であったのに対し、全線開業時の利用者数が半分以下の26万人程度と想定を大きく下回ったため、8両化に難色を示し、需要動向や運転計画の見直しを行い、当面は6両編成で運用することとなった。2023年3月18日の相鉄線への直通運転を開始に向けて、2022年4月1日から8両編成化が開始され、当初は東急所属の1編成が8両となり、2023年までに東急車は全面的に8両編成となった。2023年に新たに直通運転を開始した相鉄車は全列車が8両編成となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2023年12月13日、東京メトロより自社車両である9000系の最初の8両編成が12月16日に営業運行を開始することが発表された。なお同時に、当初は8両化の対象(第09編成以降の15編成)とされていた5次車(第22・23編成)が今回で構想外となることが明らかになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "主に行楽日となる休日を中心に臨時列車「みなとみらい号」が横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅と埼玉高速鉄道線浦和美園駅の間に運転されていた。これには東急車が運用に就き、メトロ車両は運用されていない(2007年春の運転分までは埼玉高速車が充当された)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2006年8月運転分までの停車駅は、当線と埼玉高速鉄道線・東急目黒線内が各駅停車、東横線とみなとみらい線が急行運転だったが、東急目黒線が急行運転を開始した後の同年12月運転分からは当線と埼玉高速鉄道線内が各駅停車、東急目黒線・東横線とみなとみらい線内が急行運転になった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "なお、白金高輪駅で都営三田線高島平駅からの「みなとみらい号」と接続する、白金高輪行きの臨時列車「みなとみらいリレー号」として運転されたこともあった。この運用には東京地下鉄の9000系が使用された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "また、2006年まで東京湾大華火祭の開催日にも有楽町線の新木場駅へ直通する臨時列車「レインボー号」が運転されていたが、こちらは9000系の転落防止器具取り付け車が運用にあたっていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "埼玉スタジアム2002でサッカーの試合開催時は、通常は赤羽岩淵や鳩ヶ谷駅発着の列車を浦和美園駅発着への変更、浦和美園駅発の市ケ谷駅や麻布十番駅で折り返す臨時列車の増発が行われ、こちらは埼玉高速鉄道の公式ホームページに臨時列車の運転日と時刻が掲載される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "どの列車がどの車両で運転されるかは列車番号で判別できるようになっており、列車番号末尾アルファベットの「S」が東京メトロ車両(30S - 78Sの偶数番号)、「M」が埼玉高速車両(80M以降の偶数番号)、「K」が東急車両(01K - 48K)、「G」が相鉄車両(31G - 43G)となっている(「T」は都交通局車両で31T以降の奇数)。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "列車番号が6桁の数字で組み立てられる東急目黒線内では、上3桁が運用番号を表し、300番台は東京メトロ車両、500番台は埼玉高速車両、200番台は東急車両、600番台は相鉄車両となっており(400番台は都交通局車両)、例えば「30S」は東急線内は「330」となる。一般の利用者は列車番号を『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄で確認することができる。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "なお、東急車および相鉄車の運用は、三田線運用と南北線運用とで別々に組まれ、奇数番号(東急線内基準)が三田線運用、偶数番号(同)が南北線・埼玉高速線運用となっている。そのため、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:01Kと02K)を同一車両で運転されていることから一部の運用番号が欠番となっている。また各者間の走行距離調整の関係上、埼玉高速車両と東急車両は東急目黒線に乗り入れない列車(白金高輪駅折り返しなど)にも使用されている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2023年3月13日改正ダイヤでは、東京メトロ車が東急の元住吉検車区に1本、奥沢駅に1本、浦和美園車両基地で6本がそれぞれ夜間留置となる。逆に東急車が市ケ谷駅と麻布十番駅に1本ずつ夜間留置される。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)度の最混雑区間(B線、駒込 → 本駒込間)の混雑率は140%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2000年度より目黒駅から東急目黒線に、赤羽岩淵駅から埼玉高速鉄道線にそれぞれ直通運転を行っている。輸送人員は増加傾向にあるが、東京メトロ全線で最も少ない。東急目黒線は東横線のバイパス路線として整備された経緯があり、混雑率は2017年度から170%を上回っている。埼玉高速鉄道線は第三セクター鉄道であり、京浜東北線と競合している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "単独駅で最も乗降人員が多い駅は六本木一丁目駅であり、同駅の1日平均乗降人員は8万人を越えている。同駅は泉ガーデンタワーと住友不動産六本木グランドタワーが直結し、周辺は再開発によりオフィス街が立ち並ぶ。最も乗降人員が少ない駅は西ケ原駅であり、同駅の1日平均乗降人員は1万人を下回り、都営地下鉄を含めた東京の地下鉄全駅中最少となっている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "本路線最初の区間(駒込駅 - 赤羽岩淵駅)の開業時には、他路線との接続がないことから、9000系車両は最初に綾瀬検車区に搬入し、受取検査・整備等を実施、その後千代田線で性能確認のための試運転を実施した。",
"title": "車両搬入と連絡線"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "そして、綾瀬検車区よりトレーラーで王子検車区まで道路輸送をし、同検車区でクレーンを用いて地下の南北線へと搬入された(4両編成で搬入された第01 - 08編成が該当する)。営団地下鉄で、道路輸送・クレーンによる地下への車両搬入は1964年(昭和39年)に東西線の最初の開業区間である高田馬場 - 九段下間開業時以来、27年ぶりである。なお、1995年以降に増備された2次車以降は次に述べる連絡線を経由して搬入された。",
"title": "車両搬入と連絡線"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "市ケ谷駅の四ツ谷寄りに有楽町線との連絡線が存在する。南北線や埼玉高速鉄道の車両が点検整備のために新木場CRや、さらに有楽町線桜田門駅から千代田線霞ケ関駅へ向かう連絡線を経て綾瀬工場へ向かう場合に使われる。また、東京湾大華火祭での新木場行臨時列車や半蔵門線の8000系車両の新木場CRへの回送にも利用される。東急東横線と副都心線の直通運転開始前の関連各社の試運転用車両の回送も、この連絡線を介して行われた。",
"title": "車両搬入と連絡線"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "開業時から全駅でサウンドプロセスデザイン制作(吉村弘作曲)の、王子駅付近を流れる音無川(石神井川)の流れをイメージした発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月10日から13日にかけて、各駅ごとにその駅周辺の地域をイメージした異なるメロディに変更された(東急が管理する目黒駅を除く)。制作はスイッチが担当し、塩塚博、福嶋尚哉、山崎泰之の3名が作曲・編曲を手掛けた。「ホームのどこにいても明瞭に聴き取れる音色」、「高齢者にも聴き取り易い音域」、「長時間聴き続けても疲れない音色・楽器構成」が制作上のポイントとなっている。なお、吉村作曲の発車メロディは引き続き南北線を走る車両(東急・埼玉高速鉄道および都営三田線の車両含む)の車載メロディや、都営三田線・埼玉高速鉄道線の駅の発車メロディとして使用されていたが、2023年3月までに置き換えられている。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "なお、開業当初は発車サイン音のほかに接近サイン音も使用されていたが、2000年の全線開通時に廃止されている。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "各駅の曲名は以下の通り。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "各駅のメロディのイメージコンセプトは以下の通り。",
"title": "発車メロディ"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "東京メトロでは2019年3月に、南北線を2022年度までに8両編成対応とすることを発表しており、同年9月には自社車両の一部編成を8両化することが報道された。その対応工事の内容は、先頭車および編成全体が1次車(および試作車)の編成で既に大規模改修工事を実施した第1編成より第8編成までは対象外となり、また対象外編成は従来通り6両編成のままで残して新横浜駅までの運用に留めるものの、編成全車が2次車以降となっている第9編成以降最終編成までは8両編成化を実施する予定で、中間車を15編成30両分を新たに製造し、2次車以降のB修工事の際に相鉄線直通対応工事も同時に施工する予定である。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "2016年の交通政策審議会答申第198号において品川駅 - 白金高輪駅間(2.5 km)が「都心部・品川地下鉄構想」として取り上げられ、2022年に東京メトロは南北線延伸としてこの区間の鉄道事業許可を申請し、3月28日付で国土交通大臣より第一種鉄道事業許可を受けている。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "六本木・赤坂など都心部とリニア中央新幹線のターミナルとなる品川駅及び都市集積が進む同駅付近とを結ぶ路線として、東京都が計画した。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "2019年3月に開かれた国土交通省による「東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会」(以下「検討会」)第2回検討会で公表された案は以下の通り。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "この条件で品川駅の位置を国道15号に並行とする場合(Aルート)と直交する場合(Bルート)の2パターンで検討を行った結果、輸送人員はAルートが13.4 - 14.3万人/日、Bルートが7.8万人/日となり、優位なAルートが選定されることとなった。費用便益比は2.57 - 3.14、累積資金収支は16 - 19年目で黒字に転換するとしている。東京メトロの既存線区間を含めても24 - 28年目で累積資金収支が黒字となる。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "検討会では事業の効果・影響を次のように見積もっている。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "なお、上記検討会で営業主体として想定されている東京メトロは、都による計画が発表された2015年7月には東京新聞の取材に対して、「近隣にある南北線の他の駅はトンネル構造上、分岐が難しい。白金高輪止まりとなっている電車を品川へ流すことができるので、運行面も合理的な場所だ」とコメントしている。一方で、答申発表後の日本経済新聞の取材には「新線の整備に関して、大きなリスクを負う整備主体にはなりえない」ともコメントしている。2017年に就任した第3代社長の山村明義は「2008年に開業した副都心線を最後に新線建設は行わない方針だ」と従来の方針を堅持する一方、「(国や都から)もし協力を求められたら、経営に悪影響を及ぼさない範囲で行う」という方針であると語っている。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "延伸先となる品川駅では、駅設置予定の国道15号の直上に大規模な広場を作る計画があるが、地下鉄建設により手戻りとなる恐れがあり、国土交通省東京国道事務所による「国道15号・品川駅西口駅前広場整備事業計画検討会」の岸井隆幸座長(「東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会」座長も兼任)は、「地下鉄の建設主体も運営主体もまだはっきりしていないので、国交省には早く決めてもらいたい」と発言している。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "事業費は2019年時点の試算で800億円であるが、建築資材や人件費の高騰で膨らむ見込みとなり、事業費の4分の3を国や都が支援し、東京メトロの借入金には財政投融資を充てる方針としている。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2014年7月、都が公表した「品川駅・田町駅周辺まちづくりガイドライン2014」では、品川駅を東西に貫く鉄道新線を検討することが盛り込まれた。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "2015年7月10日、都は「広域交通ネットワーク計画について ≪交通政策審議会答申に向けた検討のまとめ≫」を発表。その中の「整備について検討すべき路線」のひとつとして盛り込まれた。当時の東京都知事の舛添要一は、「都市集積の進む品川と都心部との間はあまり便利が良くないので、それを結ぶ路線を今後検討すべき路線として抽出した」と説明している。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2016年4月に出された交通政策審議会答申第198号では、「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」として取り上げられた。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2018年5月15日、国土交通省による「東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会」の第1回検討会が行われ、東京8号線(有楽町線)豊洲駅 - 住吉駅間延伸(「東京直結鉄道」参照)とともに検討会による調査対象路線に選ばれた。東京メトロは完全民営化方針を理由に事業主体となることに消極的な姿勢を示していたが、2021年7月8日行われた第5回小委員会と、同年7月15日に示された同検討会の答申において、東京メトロが主体となって整備を進めるのが適切だとする素案を示すとともに、国や東京都が建設費を補助する方向性を示した。国土交通省は2022年(平成4年)度当初予算案に都市鉄道整備事業費補助(地下高速鉄道)において「都心部・品川地下鉄整備」として事業予算を計上、環境基準評価に着手する見通しとなった。東京メトロは2022年(令和4年)1月28日に品川 - 白金高輪間約2.5 kmの鉄道事業許可を国土交通大臣に申請し、同年3月28日に第一種鉄道事業の許可を受けた。開業時期は2030年代半ばで、事業費は1,310億円を予定している。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2022年6月初旬に、東京都と東京地下鉄は品川 - 白金高輪間の延伸に関する都市計画素案の説明会の開催を発表し、そのなかで詳細ルートが明らかになった。品川駅(仮称)を出た路線は大きく西へカーブし、2032年度の完成予定で工事が行われる環状4号線の下を走り都営地下鉄浅草線高輪台駅の北側をかすめた後、南北線(都営三田線)の白金台駅の南側で北東へ向きを変え、目黒通りの下を経て、白金高輪駅に至るルートである。駅間は複線シールド工法、品川駅や折り返し設備は開削工法が採用される予定。また、品川駅は1面2線として建設される予定。",
"title": "延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)"
}
] |
南北線(なんぼくせん)は、東京都品川区の目黒駅から北区の赤羽岩淵駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は7号線南北線。 路線名の由来は東京を南北に貫くことから。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「エメラルド」(#00ac9b)、路線記号はN。
|
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Tokyo Metro logo.svg|20px|東京地下鉄|link=東京地下鉄]] 南北線
|路線色=#00ac9b
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|画像=Tokyo-Metro-Series9000_Saitama-Series2000.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=南北線で運用される[[営団9000系電車|9000系]](右)<br>同線に乗り入れる[[埼玉高速鉄道]][[埼玉高速鉄道2000系電車|2000系]](左)<br>{{Nowrap|([[東急目黒線]] [[新丸子駅]] - [[武蔵小杉駅]] 2018年8月)}}
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]
|種類=[[地下鉄]]
|路線網=[[東京地下鉄|東京メトロ]]
|起点=[[目黒駅]]
|終点=[[赤羽岩淵駅]]
|駅数=19駅<ref name="metro2" />
|輸送実績=1,320,747千[[輸送量の単位|人キロ]]{{smaller|(2019年度)<ref name="passenger numbers">{{Cite web|和書|url=https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19qa041401.xls|title=東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)/運輸|format=XLS|publisher=[[東京都]]|accessdate =2021-07-31}}</ref>}}
|1日利用者数=
|路線記号=N
|路線番号=7号線
|路線色3={{Legend2|#00ac9b|エメラルドグリーン}}
|開業=[[1991年]][[11月29日]]
|最終延伸=[[2000年]][[9月26日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東京地下鉄]](全線 第1種)
|運営者=東京地下鉄(全線 第1種)<br />東京都交通局(目黒 - 白金高輪間 第2種)
|車両基地=[[王子検車区]]<br>[[浦和美園車両基地]](埼玉高速車)<br>[[元住吉検車区]](東急車)<br>[[かしわ台車両センター]](相鉄車)
|使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照
|路線距離=21.3 [[キロメートル|km]]<ref name="metro2" />
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])<ref name="metro2" />
|線路数=[[複線]]
|複線区間=全区間
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]])<ref name="metro2">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211017105609/http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|title=令和3年度 地下鉄事業の現況|work=7.営業線の概要|date=2021-10|archivedate=2021-10-17|accessdate=2021-10-17|publisher=[[日本地下鉄協会|一般社団法人日本地下鉄協会]]|format=PDF|language=日本語|pages=3 - 4|deadlinkdate=}}</ref>
|最大勾配=35 [[パーミル|‰]]<ref name="Namboku-Const822">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.822。</ref>
|最小曲線半径=160.351 m<ref name="Namboku-Const822"/><br>(白金台 - 白金高輪間<ref name="Namboku-Const822"/>)
|閉塞方式=速度制御式
|保安装置=[[自動列車制御装置|新CS-ATC]]<br>[[自動列車運転装置|ATO]](全線)
|最高速度=80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2" />
|路線図=File:Tokyo metro map namboku.png
}}
'''南北線'''(なんぼくせん)は、[[東京都]][[品川区]]の[[目黒駅]]から[[北区 (東京都)|北区]]の[[赤羽岩淵駅]]までを結ぶ、[[東京地下鉄]](東京メトロ)が運営する[[鉄道路線]]である。『[[鉄道要覧]]』における名称は'''7号線南北線'''。
路線名の由来は東京を南北に貫くことから。車体および路線図や乗り換え案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「エメラルド」(#00ac9b)<ref name="color">{{Cite web|和書|url=https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210604113943/https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|title=東京メトロ オープンデータ 開発者サイト|archivedate=2021-06-04|accessdate=2021-06-04|publisher=東京地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、路線記号は'''N'''。
== 概要 ==
[[1962年]]([[昭和]]37年)6月の[[都市交通審議会答申第6号]]において、'''東京7号線'''は「'''[[目黒駅|目黒]]方面より[[麻布|飯倉片町]]、[[永田町]]、[[市ケ谷]]、[[駒込 (東京都)|駒込]]及び[[王子 (東京都北区)|王子]]の各方面を経て[[赤羽]]方面に至る路線'''」として示された<ref name="Namboku-Const3-4">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.3 - 4。</ref>。[[8月29日]]の建設省告示第2187号により、'''都市計画第7号線'''(東京都市高速鉄道第7号線)として、目黒駅 - 岩淵町間(20.5 km)の[[都市計画]]が決定した<ref name="Namboku-Const3-4"/>。
[[帝都高速度交通営団]](東京メトロの前身。以下、営団と略す)はこれに基づいて同年[[10月16日]]、第7号線 上大崎(目黒) - 赤羽町([[桐ケ丘 (東京都北区)|桐ケ丘]])間(22.5 km)の地方鉄道敷設免許を申請した<ref name="Namboku-Const3-4"/>。都市計画路線上は岩淵町(現・赤羽岩淵)が終点であるが、[[車両基地]]への引き込み線を旅客営業するため、桐ケ丘(旧地名の赤羽町5丁目)まで申請を行ったものである<ref name="Namboku-Const3-4"/>。しかし、[[1964年]](昭和39年)[[6月4日]]、[[東京都]]も第7号線 目黒 - 赤羽間(21.0 km)の地方鉄道敷設免許を申請したため、競願状態となった<ref name="Namboku-Const3-4"/><ref group="注">東京都の路線免許申請では桐ケ丘地区への延長はなく、岩淵町が終点である。</ref>。
[[1972年]](昭和47年)の[[都市交通審議会答申第15号|答申第15号]]では、将来の検討対象とされていた[[埼玉県|埼玉方面]]への延伸区間が'''[[川口市]]中央部''' - '''[[浦和市]]東部'''間と改められた<ref name="Namboku-Const6-7">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.6 - 7。</ref>。その後[[1985年]](昭和60年)の[[運輸政策審議会答申第7号]]では、目黒 - 清正公前(現:[[白金高輪駅]])間を6号線([[都営地下鉄三田線|都営三田線]])と共用するものとされ、また埼玉県内は[[鳩ヶ谷駅|鳩ヶ谷市中央]]経由で[[東川口駅|東川口]]から浦和市東部へと変更された<ref name="Namboku-Const11">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.11。</ref>。このうち、目黒 - 赤羽岩淵間が南北線として順次開業しており、また赤羽岩淵 - [[浦和美園駅|浦和美園]]間は[[埼玉高速鉄道線]]として開業している。
計画そのものは[[1960年代]]になされていたものの、東京都[[北区 (東京都)|北区]][[西が丘]](後に[[赤羽西]])に予定していた[[車両基地]]問題から、計画は一時中断した(後述の「[[#西が丘車両基地計画と反対運動]]」を参照)。[[1984年]](昭和59年)[[4月20日]]、免許申請以来、22年の歳月を経てようやく全線の路線免許取得に至った<ref name="Namboku-Const9">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.9 - 11。</ref>。着工は[[1986年]](昭和61年)となり、[[1991年]]([[平成]]3年)に部分開業、[[2000年]](平成12年)に全線開業した。後発路線のため、全体的に地中深い駅が多いのが特徴である。
当初の建設計画では第1期工事区間を[[駒込駅|駒込]] - 赤羽岩淵間、第2期工事区間を目黒 - 駒込間としていたが、第2期工事区間を[[溜池山王駅|溜池山王]] - 駒込間(その1)、目黒-溜池山王間(その2)に分割したため、実際は3区間に分けて建設された<ref name="Namboku-Const19" />。第1期区間は順調に建設がされたが、第2期区間は[[埋蔵文化財]]の発掘(溜池山王駅 - 飯田橋駅間の江戸遺跡<ref name="Namboku-Const646-651">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.646 - 651。</ref>)や[[住民]]の反対運動(白金台駅付近<ref name="Namboku-Const653-655">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.653 - 655。</ref>)で建設は遅れ、当初の全線開業予定の[[1995年]](平成7年)9月から2000年(平成12年)9月へと大きく延期されることとなった<ref name="Namboku-Const19">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.19。</ref>。
また、第2期開業にあたっては駒込駅 - 溜池山王駅までを一気に開業させる予定であったが、[[東京メトロ銀座線|銀座線]]の新駅設置工事や[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]・[[東京メトロ千代田線|千代田線]]の既設路線交差部において難工事となり、工期に時間を要することとなったことから、駒込駅 - 四ツ谷駅間を先行開業させ、溜池山王駅までの開業は四ツ谷駅までの開業から1年半ずれ込んだ<ref name="Namboku-Const21">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.21。</ref>。
本路線の建設費用は総額5,963億8,900万円である(最終的な金額)<ref name="eidan521">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.521。</ref>。その内訳は用地費が383億6,700万円、土木費が3,320億2,400万円、車両費が329億8,400万円、その他が1,930億1,400万円となっている<ref name="eidan521"/><ref group="注">帝都高速度交通営団『東京地下鉄道南北線建設史』p.42では、一部予定を含む2001年3月末時点における建設費用の総額は5,604億円とされている。</ref>。費用には建設利息を含む、また消費税は除く<ref name="eidan521"/>。
本路線の路線名称は営団職員より社内公募を行ったもので、応募は3,830通(341線名)があった<ref name="Namboku-Const59" />。選考の結果、「南北線」が1,741通と約半数を占め、また本路線が地理上から、ほぼ南北に貫通していること、[[東京メトロ東西線|東西線]]に対比して南北方向の路線として最もふさわしい路線名称であることから「南北線」という路線名称が選ばれた<ref name="Namboku-Const59">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.59。</ref>。
永田町駅 - 飯田橋駅間では[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]と並行しているが、有楽町線が麹町経由であるのに対して南北線は四ツ谷経由であることが異なっている。また四ツ谷駅 - 飯田橋駅間はJR[[中央・総武緩行線]]と並行している。
南北線は東京メトロの路線としては[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]とともに地上区間が存在しない路線である<ref group="注" name="tika">[[東京メトロ副都心線|副都心線]]唯一の地上駅である[[和光市駅]]は有楽町線との共用駅であり、副都心線も単独区間に限れば、地上区間が存在しないことになる。</ref>。
=== 路線データ ===
{{東京メトロ南北線路線図}}
* 路線距離([[営業キロ]]):
** 東京地下鉄([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):
*** 目黒 - 赤羽岩淵間 21.3 [[キロメートル|km]]
** [[東京都交通局]]([[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]):
*** 目黒 - 白金高輪間 (2.3 km)
* [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]<ref name="metro2" />
* 駅数:19駅(起終点駅含む)<ref name="metro2" />
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線(直流1500 V、[[架空電車線方式]])<ref name="metro2" />
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:速度制御式([[自動列車制御装置|新CS-ATC]])・[[自動列車運転装置|ATO]](全線)
* [[列車無線]]方式:空間波無線 (SR) 方式
** [[漏洩同軸ケーブル]] (LCX) を使用した空間波方式で、銀座線にデジタル空間波無線(D-SR)が導入されるまでは、東京メトロでは唯一のSR方式であった。
* 最高速度:80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2" />
* [[表定速度]]:32.6 km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 平均速度:40.6 km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 全線所要時分:39分15秒(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* [[車両基地]]:[[王子検車区]]
* 工場:[[綾瀬車両基地#綾瀬工場|綾瀬工場]]([[東京メトロ千代田線|千代田線]]内)
=== 7号ビジョン ===
{{Left|{{色|節}}}}{{Clearleft}}
本路線の建設にあたっては社会環境の大きな変化から、地下鉄の建設は経済性や採算性だけでは時代に合わなくなってきており、「[[21世紀]]を指向する便利で快適な魅力ある地下鉄」を目指して、「7号ビジョン」と呼ばれる新しい[[概念|コンセプト]]を基に建設した<ref name="Namboku-Const31">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.31 - 36 。</ref><ref name="Namboku-Const713-717"/>。
7号ビジョンとしては「利便性の向上・快適性の向上」・「[[ワンマン運転]]の実施」・「[[ホームドア]]の設置」・「建設費・運営費の削減」を目指したものとした<ref name="Namboku-Const31" />。また、これに基づいて各駅のステーションカラー、改札口周辺、きっぷ売り場、メディアウォール、シンボル柱、可動ベンチ、ふれあいコーナー、出入口上屋など、地下鉄の駅設備に新たなデザインを採用した<ref name="Namboku-Const713-717">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.713 - 717。</ref>。これに関連して、営団では1991年にサインシステムの規定を一部改定し、南北線の単独駅および他路線との接続駅であっても南北線開業以後に新設された出入口では、従来は出入口屋根上に設置していたSマークを廃止するなどの変化があった。
利便性の向上として、全駅への[[エスカレーター]]の設置と[[交通弱者]]への配慮から[[エレベーター]](設置できない場合は車椅子対応エスカレーター)、さらに[[多目的室|車椅子対応トイレ]]を全駅に設置した<ref name="Namboku-Const31" />。改札口付近と駅ホームにはLED式[[発車標|発車案内表示器]]を設置した<ref name="Namboku-Const31"/>。
[[File:TokyoMetro-N17-Oji-kamiya-station-entrance-1-20200330-124315.jpg|thumb|right|200px|「7号タイプ出入口」の例。屋根上のSマークやその後身のハートMマークの設置自体が開設当初よりされていないもの(王子神谷駅1番出入口)]]
[[File:東京メトロ南北線 東大前駅 ふれあいコーナー.JPG|thumb|right|200px|東大前駅構内にある「ふれあいコーナー」]]
目黒駅を除いた各駅には6色のステーションカラーを3駅ずつ配置し、それをホームドアの扉部、[[エスカレーター]]の手すり(ベルト)、メディアウォール、可動[[ベンチ]](南北線の駅空間にマッチするよう、未使用時には跳ね上がるベンチ)などに配色している<ref name="Namboku-Const713-717"/>。配置駅は、
* {{Color box2|#ffd200}} [[黄色]] - 白金台駅・四ツ谷駅・駒込駅
* {{Color box2|#ff870f}} [[橙色]] - 白金高輪駅・市ケ谷駅・西ケ原駅
* {{Color box2|#d30000}} [[赤|赤色]] - 麻布十番駅・飯田橋駅・王子駅
* {{Color box2|#990099}} [[紫|紫色]] - 六本木一丁目駅・後楽園駅・王子神谷駅
* {{Color box2|#0067C0}} [[青|青色]] - 溜池山王駅・東大前駅・志茂駅
* {{Color box2|#009b00}} [[緑|緑色]] - 永田町駅・本駒込駅・赤羽岩淵駅
である<ref name="Namboku-Const713-717"/><ref group="注">これらのステーションカラーの配色は原色・中間色・原色・中間色・原色の順となる。(例:白金台(黄色)白金高輪(橙色)麻布十番(赤色)六本木一丁目(紫色)溜池山王(青色)…)。</ref>。一部の駅においては、駅ホームの向かい壁を[[ギャラリー (美術)|ギャラリー空間]]に見立て、企業の協賛により[[グラフィックデザイン]](アートウォール)を整備した<ref name="Namboku-Const31"/>。
改札口は逆アールの天井とし、乗客の動線に対応した[[スリット]]照明、床面にも動線に対応したデザインを施した<ref name="Namboku-Const713-717"/>。ウィンドラッチ(駅窓口)は、オープンカウンターとし、駅員1人で自動券売機と自動改札の案内ができる構造とした<ref name="Namboku-Const719"/>。一部の駅では、改札周りの柱に特徴的なデザインを施した「シンボル柱」を設置した<ref name="Namboku-Const713-717"/>。各駅の改札口付近のポスター掲出スペースには、地域のイメージを凹凸を付けた壁面に表現した「メディアウオール」を設置した<ref name="Namboku-Const31"/><ref name="Namboku-Const713-717"/>(各駅ごとにモチーフが異なる)。一部の出入口は「7号タイプ出入口」と呼ばれる、ガラスを多用した特徴的なデザインを採用した<ref name="Namboku-Const31"/><ref name="Namboku-Const719">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.718 - 719。</ref>。
さらに赤羽岩淵・志茂・王子・駒込の各駅コンコースには「ふれあいコーナー」を設け、休憩用の椅子やテーブル、給茶機(のちに撤去)を設置していた<ref name="Namboku-Const31"/><ref name="Namboku-Const713-717"/>。その後の路線延伸で、本駒込・東大前・溜池山王・麻布十番<!--市ケ谷は「江戸歴史散歩コーナー」-->の各駅においても同様のスペースが設けられたが<ref name="Namboku-Const713" />、後の改装等により現在は本駒込・東大前・溜池山王の3駅に残るのみである。
南北線の最初の区間である駒込 - 赤羽岩淵間の開業時、他の営団地下鉄路線とまったく連絡のない独立路線だったため、前述の都内の地下鉄では初めてのワンマン運転・ホームドア設置に加え、各種の実験的な試みがなされている<ref name="Namboku-Const133">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.133。</ref>。後のパスネットの基となる[[プリペイドカード|プリペイド]]式[[乗車カード]]「[[メトロカード (東京)#NSメトロカード|NSメトロカード]]」(1996年に「[[メトロカード (東京)#SFメトロカード|SFメトロカード]]」へ移行)を当初から導入した<ref name="Namboku-Const133">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.133。</ref><ref name="RJ414_144"/>。
=== 新しい技術の導入 ===
[[ファイル:Roppongi 1chome-Station-2005-10-24 1.jpg|thumb|right|200px|六本木一丁目駅のホームドア]]
前述のコンセプトに基づき、全線で[[自動列車運転装置|ATO]]による自動運転と[[ワンマン運転]]を実施しており、全駅にホームドアシステムを装備する<ref name="Namboku-Const31" />。2015年現在東京地下鉄では唯一の天井までほぼ完全にホームを被う[[川崎重工業]]製<ref name="Kawasaki90th-358P">川崎重工業『車両とともに明日を拓く 兵庫工場90年史(正史)』、p.358。</ref>半密閉式フルスクリーンタイプ(ホームドアの戸閉機械は[[ナブテスコ]]製<ref>{{Cite web|和書|url=http://nabco.nabtesco.com/psd/results01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160916113311/http://nabco.nabtesco.com/psd/results01.html|title=プラットホームドア 納入実績|archivedate=2016-09-16|accessdate=2021-04-11|publisher=ナブテスコ|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>)を採用した路線である<ref group="注">他社の地下鉄路線での採用例は1997年に開業した[[京都市営地下鉄東西線]]のみである。</ref>。ただし東急管理の目黒駅のみ東急目黒線や東京メトロ他線と同様に可動式ホーム柵([[京三製作所]]製<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyosan.co.jp/ir/html/pdf/irks20080527.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120311090217/http://www.kyosan.co.jp/ir/html/pdf/irks20080527.pdf|title=株式会社 京三製作所 2008年3月期決算説明会|archivedate=2012-03-11|accessdate=2021-01-30|publisher=京三製作所|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2021年1月}}</ref>)を採用している。
ホームドアの開口幅は、ATO装置の定位置停止精度を± 350 [[ミリメートル|mm]]としていることから、最大の誤差を考慮した車両のドア幅である1,300 mmより700 mm広い2,000 mmとしている<ref name="Namboku-Const713" />。当初計画では、耐用年数15年以上、500万回のドア開閉に耐えられる強度としている<ref name="Namboku-Const713" />。
[[ファイル:東京メトロ南北線1000260.JPG|thumb|right|200px|乗務員用扉付近のホームドア]]
ホームドアの開閉は左右扉がおのおのスライドする。ただし、先頭および最後尾車両の乗務員室寄りのドア片側は乗務員用扉との干渉を防ぐため2段スライドし開扉時の収納幅が約半分となる。
各駅のプラットホームは、8両化に対応できるよう延長170 [[メートル|m]]が確保されている<ref name="Namboku-Const713">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.713。</ref>。ただし、[[白金台駅|白金台]]・白金高輪・溜池山王・永田町・四ツ谷の各駅は当初より8両分のホームを供用済みなのに対し、これ以外の駅は一部を除き6両分しか供用せず、ホーム延伸工事の実施までは封鎖する形となった<ref name="Namboku-Const713" />。
本路線の[[変電所]]は(赤羽岩淵)・王子<ref group="注">王子駅ではなく王子神谷駅にある。</ref>・駒込・新後楽園<ref group="注">後楽園駅。「新」が付くのは丸ノ内線に後楽園変電所があるため。</ref>・新四ツ谷<ref group="注">四ツ谷駅。「新」が付くのは丸ノ内線に四ツ谷変電所(所在地は[[四谷三丁目駅]])があるため。</ref>・東六本木<ref group="注">六本木一丁目駅。東六本木は同駅の仮称段階での命名。</ref>・白金<ref group="注">白金高輪 - 白金台間の白金換気室。</ref>の7か所(赤羽岩淵変電所は8両化時に設置予定とされていた。ただし、2023年時点でも変電所は未開設<ref>東京地下鉄「東京メトロハンドブック2023」pp.140 - 141。</ref>)であり、8両編成による2分30秒運転にも対応できる<ref name="Namboku-Const749">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.749 - 754。</ref>。白金変電所以外は、駅構内に設置している<ref name="Namboku-Const749"/>。このうち王子・新四ツ谷・白金変電所には営団初の電力回生用インバータを設置している<ref name="Namboku-Const749" />。
=== 路線建設 ===
各駅区間は[[シールドトンネル|泥水加圧式シールド工法]]で建設されており、ほとんどの区間が複線シールド構造を採用しているが、一部区間では単線シールド構造を採用している<ref name="Namboku-Const399">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.399。</ref><ref group="注">白金高輪付近・麻布十番 - 六本木一丁目間・永田町 - 四ツ谷間・西ケ原 - 王子間。</ref>。また、駅部は基本的に[[開削工法]]によって建設されているが、白金台駅および永田町駅は駅シールド工法によって建設された<ref name="Namboku-Const399" />。永田町駅はメガネ形駅かんざし桁工法と呼ばれる単線シールドトンネル間にホームを建設し、「かんざし桁」を用いて両ホームを接続する工法を用いている<ref name="Namboku-Const532-533">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.532 - 533。</ref>。
本路線の建設にあたっては、計22台のシールドマシンが使用された<ref name="Namboku-Const407">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.407・454 - 462・627 - 634。</ref><ref group="注">内訳は単線シールド機8台、複線シールド機12台、抱き込み式親子シールド機1台、着脱式三連型駅シールド機1台。</ref>。建設費用を削減するため、志茂 - 赤羽岩淵間の建設では[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]辰巳三工区([[辰巳駅|辰巳]] - [[新木場駅|新木場]]間)で使用したシールドマシンを再利用した<ref name="Yurakucho705">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.705 - 708。</ref><ref name="Namboku-Const407"/>ほか、南北線溜池山王 - 永田町間で使用した複線シールドマシンを白金高輪駅の2本の引き上げ線部の掘削に再利用した<ref name="Namboku-Const407"/>。
特に白金台駅および麻布十番駅付近の建設ではシールドトンネル掘削において「世界初」、「世界最大」となる技術を採用した<ref name="Namboku-Const401-402">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.401 - 402。</ref>。
白金台駅の建設では世界初となる「'''着脱式泥水三連型駅シールド工法'''」を採用した<ref name="Namboku-Const401-402" />。これは白金高輪駅 - 白金台駅にある白金換気所の立坑から複線シールドトンネルを掘削し、白金台駅部手前で両端に駅シールドマシンを装着し、三連形駅シールド機に改造して白金台駅部を掘削、駅終端部で複線シールド機に復元し、また複線シールド機として次の目黒駅まで掘削するものである<ref name="Namboku-Const401-402" /><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/97-21.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980630203225/http://www.tokyometro.go.jp/news/97-21.html|language=日本語|title=より便利な地下鉄を目指して 「着脱式泥水三連型駅シールド機」が発進いたします。|publisher=営団地下鉄|date=1997-09-26|accessdate=2021-07-18|archivedate=1998-06-30}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/98-13.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980630200257/http://www.tokyometro.go.jp/news/98-13.html|language=日本語|title=より便利な地下鉄を目指して 「着脱式泥水三連型駅シールド機」が到達し、「複線断面シールド機」に復元され目黒駅(仮称)に向けて発進いたします。-地下鉄7号線(南北線)目黒工区-|publisher=営団地下鉄|date=1998-05-27|accessdate=2021-07-18|archivedate=1998-06-30}}</ref>。
また、白金高輪駅 - 麻布十番駅の掘削では複線の本線と留置線(麻布十番駅付近にある留置線・3線区間 363.8 m)を3線同時に掘削する大断面シールド工事に世界最大(当時)の「'''抱き込み式親子泥水シールド工法'''」を採用した<ref name="Namboku-Const401-402" /><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/97-14.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980630203146/http://www.tokyometro.go.jp/news/97-14.html|language=日本語|title=より便利な地下鉄を目指して 「抱き込み式親子泥水シールド機」が発進いたしました。─地下鉄7号線(南北線)南麻布工区─|publisher=営団地下鉄|date=1997-07-02|accessdate=2021-07-18|archivedate=1998-06-30}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/98-12.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980630200251/http://www.tokyometro.go.jp/news/98-12.html|language=日本語|title=より便利な地下鉄を目指して「抱き込み式親子泥水シールド機」の親機が到達し、「子機(複線断面シールド機 )」が発進いたします。-地下鉄7号線(南北線)古川橋工区-|publisher=営団地下鉄|date=1998-05-22|accessdate=2021-07-18|archivedate=1998-06-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.satokogyo.co.jp/works/detail.php?id=280&parent_id=3&category_id=23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210410005555/https://www.satokogyo.co.jp/works/detail.php?id=280&parent_id=3&category_id=23|title=工事実績 > 東京メトロ南北線麻布十番駅留置線トンネル|archivedate=2021-04-10|accessdate=2021-04-11|publisher=[[佐藤工業]]|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.satokogyo.co.jp/technology/detail.php?id=14&parent_id=2&category_id=23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210410005554/https://www.satokogyo.co.jp/technology/detail.php?id=14&parent_id=2&category_id=23|title=抱き込み式親子シールド|archivedate=2021-04-10|accessdate=2021-04-11|publisher=佐藤工業|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。これは3線シールド機(親機・外径:14.18 m)に複線シールド機(子機・外径:9.70 m)を内蔵したもので、麻布十番駅付近の留置線を3線シールド機で掘削し、その後は子機を使用した複線シールド機により白金高輪駅まで掘削を行うものである<ref name="Namboku-Const401-402" />。
この2つの技術を採用したことで、経済性に優れ、また環境保全対策に優れたものとして[[社団法人]][[土木学会]]より平成10年度技術賞を受賞し、高く評価された<ref name="Namboku-Const0">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、巻頭。</ref>。
== 沿革 ==
<!-- 1991年の最初の区間の開業時から「南北線」です。 『メトロニュース』1991/11 No.179 帝都高速度交通営団 -->
* [[1962年]]([[昭和]]37年)
** [[6月8日]]:都市交通審議会答申第6号において'''第7号線'''が答申され、[[8月29日]]の建設省告示により'''都市計画第7号線'''として、正式に決定する<ref name="Namboku-Const3-4"/>。
** [[10月16日]]:第7号線、目黒 - 赤羽町(桐ケ丘)間約22.5 kmの地方鉄道敷設免許を申請<ref name="Namboku-Const3-4"/><ref name="Namboku-Const24">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.24。</ref>。[[都市計画]]路線上は岩淵町(現・赤羽岩淵)が終点であるが、車両基地への引込線を旅客営業するため、[[桐ケ丘 (東京都北区)|桐ケ丘]](赤羽町5丁目)まで申請を行ったものである<ref name="Namboku-Const3-4"/>。
* [[1964年]](昭和39年)[[6月4日]]:東京都も第7号線、目黒 - 赤羽間約21.0 kmの地方鉄道敷設免許を申請したため<ref name="Namboku-Const3-4"/><ref group="注">東京都の路線免許申請では桐ケ丘への延長はなく、岩淵町が終点である。</ref>、競願状態となる。
* [[1972年]](昭和47年)
** [[10月23日]]:東京都が第7号線、目黒 - 赤羽間約21.0 kmの地方鉄道敷設免許の申請を取り下げ。
** [[10月24日]]:[[都市交通審議会答申第15号|答申第15号]]を受けて第7号線は埼玉県方面への延伸が確定したため<ref name="Namboku-Const6-7"/>、1962年(昭和37年)に申請した区間とは実情がそぐわないことから、免許申請経由地を一部変更する追伸を行う<ref name="Namboku-Const6-7"/>。これは[[永田町駅|永田町]] - [[麹町駅|麹町]] - [[市ケ谷駅|市ケ谷]]間は有楽町線と並行する計画であったが<ref name="Namboku-Const227">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.227 - 228。</ref>、[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]の混雑緩和を図るため、通過区間を永田町 - [[四ツ谷駅|四ツ谷]] - 市ケ谷間に変更するものである<ref name="Namboku-Const227"/>(この後の動きは後述の「[[#西が丘車両基地計画と反対運動]]」を参照)。
* [[1983年]](昭和58年)[[3月31日]]:車両基地の建設を予定していた桐ケ丘地区における建設反対運動の影響から<ref name="Namboku-Const9"/>、既申請区間を目黒 - 岩淵町間21.0 kmに変更して免許申請の追伸をする<ref name="Namboku-Const9"/>。車両基地を当初予定の西が丘(後に赤羽西)から神谷堀(現在の[[王子検車区]])に変更したことにより、終点を岩淵町に変更した<ref name="Namboku-Const227"/>。
* [[1984年]](昭和59年)[[4月20日]]:第7号線、目黒 - 岩淵町間の地方鉄道免許が交付される<ref name="RJ414_144">[[#RJ414|『鉄道ジャーナル』通巻414号、p.144]]</ref><ref name="Namboku-Const9"/>。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[1月21日]]:駒込 - 岩淵町間の建設工事が認可<ref name="Namboku-Const19" /><ref name="RJ414_144"/>。
** [[2月1日]]:駒込 - 岩淵町間の建設工事に着手<ref name="Namboku-Const19" /><ref name="RJ414_144"/>。
* [[1988年]](昭和63年)[[8月5日]]:溜池 - 駒込間の建設工事が認可<ref name="Namboku-Const19" /><ref name="RJ414_144"/>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[4月5日]]:溜池 - 駒込間の建設工事に着手<ref name="Namboku-Const19" /><ref name="RJ414_144"/>。
* [[1991年]](平成3年)
** [[4月5日]]:目黒 - 溜池間の建設工事が認可<ref name="Namboku-Const20">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.20。</ref><ref name="RJ414_144"/>。
** [[6月27日]]:第7号線を「南北線」という路線名称にすることを発表<ref name="RJ414_144"/>(正式決定は[[7月1日]]<ref name="Namboku-Const59" />)。
** [[11月22日]]:目黒 - 溜池間の建設工事に着手<ref name="Namboku-Const20" />。
** [[11月29日]]:駒込 - 赤羽岩淵間 (6.3 km) 開業<ref name="RP555_50">{{Cite journal|和書|author=荒井正明(帝都高速度交通営団運輸本部計画部施設課)|title=営団南北線の開業|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1992-02-01|volume=42|issue=第2号(通巻第555号)|pages=50 - 54|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref name="RJ414_144"/>。9000系4両編成での運転<ref name="RP555_50" /><ref name="RJ414_144"/>。
* [[1993年]](平成5年)[[8月27日]]:[[平成5年台風第11号|台風11号]]による集中豪雨により建設中の市ヶ谷駅構内が冠水する<ref>[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.292。</ref>。
* [[1995年]](平成7年)[[3月20日]]:[[地下鉄サリン事件]]の影響で午前の運転を休止、午後から再開。
* [[1996年]](平成8年)
** [[2月3日]]:6両編成の運転を開始<ref name="RP622_102">{{Cite journal|和書|author=福田孝義(帝都高速度交通営団運輸本部運輸部運転課)|title=1996.3.26 営団南北線四ツ谷延伸開業|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1996-06-01|volume=46|issue=第6号(通巻第622号)|pages=102 - 103|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref name="RF521_50">[[#RF521|『鉄道ファン』通巻521号、p.50]]</ref>。
** [[3月26日]]:四ツ谷 - 駒込間 (7.1 km) 開業<ref group="新聞">{{Cite news|title=南北線駒込 - 四ツ谷 きょう延伸開業 営団後楽園駅で記念式典|newspaper=交通新聞|date=1996-03-26|publisher=交通新聞社|page=3}}</ref><ref name="RP622_102" /><ref name="RJ414_145">[[#RJ414|『鉄道ジャーナル』通巻414号、p.145]]</ref>。
* [[1997年]](平成9年)[[9月30日]]:溜池山王 - 四ツ谷間 (2.2 km) 開業<ref group="報道" name="pr19970901">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/97-17.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980630203213/http://www.tokyometro.go.jp/news/97-17.html|language=日本語|title=人にやさしい、より便利な地下鉄を目指して 平成9年9月30日(火)南北線四ツ谷・溜池山王間 銀座線溜池山王駅が開業いたします。|publisher=営団地下鉄|date=1997-09-01|accessdate=2020-11-16|archivedate=1998-06-30}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤公一(帝都高速度交通営団運輸本部運輸部運転課)|date=1997-12-01|title=平成9年9月30日、都心ネットワークがさらに充実! 営団地下鉄南北線 四ツ谷-溜池山王間延伸開業|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=37|issue=第12号(通巻440号)|pages=69 - 71|publisher=[[交友社]]}}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[9月26日]]:目黒 - 溜池山王間 (5.7 km) 開業(全線開通)<ref group="報道" name="subway20000207">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s02.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205175209/http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s02.html|language=日本語|title=平成12年9月26日 営団南北線 溜池山王・目黒間、都営三田線 三田・目黒間開業 東急目黒線との相互直通運転開始 開業区間の運賃及び相互直通運転に伴う運行形態を決定|publisher=帝都高速度交通営団/東京急行電鉄/東京都交通局|date=2000-08-30|accessdate=2020-11-16|archivedate=2004-02-05}}</ref><ref group="報道" name="pr20000207"/><ref group="新聞" name="交通20000927">{{Cite news |title=営団南北線・都営三田線 目黒延伸、全線が開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-09-27 |page=1 }}</ref>。[[東急目黒線]]と相互直通運転開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20001117052900/http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s01.html|language=日本語|title=平成12年9月26日(火)開業 営団南北線 溜池山王・目黒間 都営三田線 三田・目黒間 東急目黒線 武蔵小杉まで相互直通運転を開始|publisher=営団地下鉄/東京急行電鉄/東京都交通局|date=2000-08-08|accessdate=2022-04-23|archivedate=2000-11-17}}</ref><ref group="報道" name="pr20000207">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/000207.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180218090413/http://www.tokyu.co.jp/file/000207.pdf|format=PDF|language=日本語|title=営団地下鉄南北線・都営三田線と相互直通運転を開始 平成12年9月26日(火)から|publisher=東京急行電鉄|date=2000-02-07|accessdate=2020-11-16|archivedate=2018-02-18}}</ref><ref group="新聞" name="交通20000927"/>。
** これに伴うダイヤ改正は9月22日に実施され、9月25日までは「予行運転」として新規開業区間は回送列車として運転。そのため9月22日より9000系が東急目黒線の営業列車に、東急3000系が南北線の営業列車にそれぞれ使用開始。
* [[2001年]](平成13年)[[3月28日]]:[[埼玉高速鉄道線]]と相互直通運転開始<ref group="報道" name="pr20010220">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2001-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205175954/http://www.tokyometro.go.jp/news/2001-01.html|language=日本語|title=首都圏のあらたな動脈が完成! 3月28日(水)南北線と埼玉高速鉄道線との相互直通運転開始|publisher=営団地下鉄|date=2001-02-20|accessdate=2020-05-02|archivedate=2004-02-05}}</ref><ref group="報道" name="tokyu20010221">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/010221.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201217053522/https://www.tokyu.co.jp/file/010221.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月28日(水)、目黒線が埼玉高速鉄道線と相互直通運転を開始 相互直通運転に先立ち、3月23日(金)、目黒線のダイヤ改正を実施|publisher=東京急行電鉄|date=2001-02-21|accessdate=2021-01-30|archivedate=2020-12-17}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:帝都高速度交通営団の民営化により東京地下鉄(東京メトロ)に承継<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-05-14|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[6月22日]]:東急目黒線[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]] - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]間延伸開業に伴って、相互直通運転を日吉まで延長<ref group="報道" name="metro20080418">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-21.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210220213658/https://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-21.html|language=日本語|title=平成20年6月22日(日)東京メトロ日比谷線・南北線のダイヤ改正 増発による混雑緩和と、お客さまの利便性向上を図ります|publisher=東京地下鉄|date=2008-04-18|accessdate=2021-02-20|archivedate=2021-02-20}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/080418-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201116090223/https://www.tokyu.co.jp/file/080418-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=6月22日(日)、東急目黒線を日吉駅へ延伸、鉄道ネットワークを拡充します 目黒線・東横線のダイヤ改正を実施し、利便性を向上させます|publisher=東京急行電鉄|date=2008-04-18|accessdate=2020-11-16|archivedate=2020-11-16}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)
** [[3月30日]]:本駒込駅 - 赤羽岩淵駅間で[[携帯電話]]の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metronews20120328_02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170104/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metronews20120328_02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成24年3月30日(金)開始! 東京メトロのトンネル内で携帯電話が利用可能に! 南北線 本駒込駅〜赤羽岩淵駅間からスタート|publisher=東京地下鉄/[[NTTドコモ]]/[[KDDI]]/[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]/[[ワイモバイル|イー・アクセス]]|date=2012-03-28|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。
** [[8月30日]]:後楽園駅 - 本駒込駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121029Metronews_keitaiarea.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170245/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/20121029Metronews_keitaiarea.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリアが大幅に拡大しさらに便利になります! 丸ノ内線 茗荷谷駅〜淡路町駅間 日比谷線 日比谷駅〜中目黒駅間 千代田線 綾瀬駅〜湯島駅間 南北線 後楽園駅〜本駒込駅間 東京メトロホームページで利用可能区間のご案内を始めます|publisher=東京地下鉄|date=2012-08-27|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。
** [[9月13日]]:市ケ谷駅 - 後楽園駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2012/20120906_01/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210131091725/https://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2012/20120906_01/|language=日本語|title=東京メトロ一部路線における携帯電話のサービスエリア拡大について ~9月13日(木)より銀座線、南北線の一部区間でもサービス開始~|publisher=NTTドコモ/KDDI/ソフトバンクモバイル/イー・アクセス|date=2012-09-06|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-31}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[3月21日]]:目黒駅 - 市ケ谷駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201106181153/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNes20130318_mobile.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年3月21日(木)正午より、東京メトロの全線で携帯電話が利用可能に!|publisher=東京地下鉄/NTTドコモ/KDDI/ソフトバンクモバイル/イー・アクセス|date=2013-03-18|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-11-06}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[3月10日]] - [[3月13日]]:全駅統一で使用されていた発車サイン音を、白金台 - 赤羽岩淵間各駅でそれぞれ異なるものへ変更<ref group="報道" name="melody">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150302_21.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510120512/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150302_21.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南北線の発車メロディをリニューアル! 各駅に新しい発車メロディを導入します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-02|accessdate=2020-11-16|archivedate=2019-05-10}}</ref>。
* [[2022年]]([[令和]]4年)
** [[1月28日]]:[[品川駅|品川]] - 白金高輪間約2.5 kmの鉄道事業許可を[[国土交通大臣]]に申請<ref group="報道" name="metro20220128">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220128_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220128073901/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220128_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜より便利で持続可能な社会を目指して〜 有楽町線延伸(豊洲・住吉間)及び南北線延伸(品川・白金高輪間)の鉄道事業許可を申請しました。|publisher=東京地下鉄|date=2022-01-28|accessdate=2022-01-28|archivedate=2022-01-28}}</ref>。
** [[3月28日]]:国土交通大臣が品川 - 白金高輪間約2.5 kmの第一種鉄道事業を許可<ref group="報道" name="milt20220328">{{Cite press release|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001472839.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220328101602/https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001472839.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京地下鉄株式会社「有楽町・南北線の延伸」に係る鉄道事業許可について 〜有楽町線・南北線の延伸により、国際競争力の強化の拠点である臨海副都心やリニア中央新幹線の始発駅となる品川駅とのアクセス利便性が向上します〜|publisher=国土交通省鉄道局都市鉄道政策課|date=2022-03-28|accessdate=2022-03-28|archivedate=2022-03-28}}</ref><ref group="報道" name="metro20220328">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220328_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220328101242/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220328_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜より便利で持続可能な社会を目指して〜 有楽町線延伸(豊洲・住吉間)及び南北線延伸(品川・白金高輪間)の鉄道事業許可を受けました〈所要時間短縮により、交通利便性・速達性が向上〉|publisher=東京地下鉄|date=2022-03-28|accessdate=2022-03-28|archivedate=2022-03-28}}</ref>。
** [[4月1日]]:8両編成の運転を開始<ref group="報道" name="metroNews220127_05">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220127_05.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127091534/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220127_05.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南北線で8両編成列車の運行を開始します! 〜新たに15駅でホームを延伸、5駅でエスカレーター・階段を増設しました〜|publisher=東京地下鉄|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref><ref name="railf20220409">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2022/04/09/201000.html|title=東急目黒線・東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線で8両編成の運転開始|website=[https://railf.jp/news/ 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース]|publisher=交友社|date=2022-04-09|archivedate=2022-04-09|accessdate=2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220409123619/https://railf.jp/news/2022/04/09/201000.html|deadlinkdate=}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** [[3月18日]]:[[東急新横浜線]]・[[相模鉄道#現有路線|相鉄線]]と直通運転開始<ref group="報道" name="metroNews220127_g01_1">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220127_g01_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127092346/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220127_g01_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月(予定)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業!鉄道がもっと便利になります 〜神奈川県央地域及び横浜市西部から東京・埼玉に至る広域的な鉄道ネットワークの形成〜|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref><ref group="報道" name="metroNews221216_g35">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221216_g35.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216172728/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221216_g35.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月18日(土)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業に伴い形成される 広域鉄道ネットワークの直通運転形態および主な所要時間について|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref><ref group="報道" name="press20221216">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221216_85.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216073926/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews221216_85.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月ダイヤ改正のお知らせ 東西線、千代田線、有楽町線、半蔵門線、南北線、副都心線でダイヤ改正を行います|publisher=東京地下鉄|page=5|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref>。
** [[12月16日]]:9000系の8両編成の運転を開始<ref group="報道" name="press20231213">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews231213_78.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231223110645/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews231213_78.pdf|title=南北線9000系の8両編成列車運行開始!2023年12月16日(土)より運行開始します!|date=2023-12-13|accessdate=2023-12-14|archivedate=2023-12-14|publisher=東京メトロ}}</ref>。
=== 北区の地下鉄誘致運動 ===
[[1959年]](昭和34年)時点で、[[日本国有鉄道|国鉄]](当時)[[赤羽駅]]の1日あたりの乗降客数は10万人を超えており、さらに旧軍用地跡には公営団地<ref group="注">東京陸軍兵器支廠赤羽火薬庫跡に建設された桐ケ丘都営住宅と[[陸軍被服本廠]]跡に建設された[[日本住宅公団]][[赤羽台団地]]。</ref>の建設が進められており、さらなる乗降客数の増加が見込まれていた<ref name="Kitaku-202">{{Cite book|和書|title=北区史 現代行政編|publisher=北区史編纂調査会|date=1994-03|pages=202 - 209}}</ref>。混雑解消のため、北区は赤羽駅に地下鉄の誘致を始めた<ref name="Kitaku-202"/>。
[[都市交通審議会答申第1号]]に基づいて、[[1957年]](昭和32年)[[6月17日]]に告示された建設省告示第835号により、都市計画第5号線(→[[東京メトロ東西線|東西線]])が「'''[[中野駅 (東京都)|中野駅]] - [[高田馬場駅]] - [[戸塚 (新宿区)|戸塚町]] - [[飯田橋駅]] - [[大手町 (千代田区)|大手町]] -[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]] - [[日本橋茅場町|茅場町]] - [[門前仲町]] - [[東陽 (江東区)|東陽町]]に至る本線'''」と「'''大手町 - [[神田神保町|神保町]] - [[水道橋駅]] - [[春日駅 (東京都)|春日町]] - [[白山 (文京区)|白山]] - [[巣鴨駅]] - [[西巣鴨]] - [[板橋駅]] - [[下板橋駅|下板橋]]に至る分岐線'''」に改訂された<ref name="Kitaku-202"/>。
北区は、後者の5号線分岐線を下板橋から赤羽駅まで延長させ、さらに第5号線の車両基地施設は当時未定であった。第5号線の建設を予定していた営団地下鉄は、北区が旧[[東京兵器補給廠|TOD]]第一地区<ref group="注">現在の北区西が丘3丁目[[国立西が丘サッカー場]]、[[国立スポーツ科学センター]]、[[ナショナルトレーニングセンター]]が集まる一帯の地区。</ref>を車両基地用地として払い下げることに協力するならば、第5号線の赤羽駅への延長が可能であると返答した<ref name="Kitaku-202"/>。さらに隣接する[[板橋区]]も地下鉄誘致運動に加わり、[[大蔵省]]、[[関東財務局]]、営団地下鉄に地下鉄の誘致と旧TOD第1地区の車両基地用地への払い下げを強く要望した<ref name="Kitaku-202"/>。
しかし、[[1960年]](昭和35年)末に[[東京都議会]]が第5号線の分岐線は東京都が建設するべきとして、これに営団地下鉄が反発したことから、地下鉄誘致計画は中断することとなった<ref name="Kitaku-202"/>。この間も、北区は大蔵省、関東財務局に対して車両基地用地の払い下げを要望したが、建設をめぐって営団地下鉄と東京都が対立していることから、判断は保留とされた<ref name="Kitaku-202"/>。
その後、[[1962年]](昭和37年)[[6月8日]]の[[都市交通審議会答申第6号]]において、'''第5号線の分岐線 大手町 - 下板橋間は[[都営地下鉄]]([[東京都交通局]])[[都営地下鉄三田線|6号線(→三田線)]]の一部'''として切り離され、新たに7号線が「目黒方面より飯倉片町、永田町、市ケ谷、駒込及び王子の各方面を経て赤羽方面に至る路線」と制定されたことで、北区の地下鉄誘致運動は第7号線へと変わった<ref name="Kitaku-202"/>。しかし、都市交通審議会答申第6号では第7号線は[[1970年]](昭和45年)着工、[[1975年]](昭和50年)完成とされており、目黒から岩淵町間に加えて営団地下鉄や地元は[[桐ケ丘 (東京都北区)|桐ケ丘]]まで延伸し、旧TOD第1地区を転用した西が丘車両基地を設けることを考えていた<ref name="Kitaku-202"/>(後述)。
さらに1975年(昭和50年)完成予定では遅すぎるということで、北区は早期着工の要望を行い、第7号線は1964年(昭和39年)には着工されるのではないかとの報道もあった<ref name="Kitaku-202"/>。しかし、北区の期待とは裏腹に、第7号線においても建設をめぐって営団地下鉄と東京都が対立し、また地下鉄の車両基地を予定していた旧TOD第1地区の払い下げは難航した<ref name="Kitaku-202"/>。
=== 西が丘車両基地計画と反対運動 ===
[[1962年]](昭和37年)に免許申請を行った地下鉄7号線(南北線)が、建設工事の着手まで20年以上を要したのは、当初[[北区 (東京都)|北区]][[西が丘]]に建設を予定していた西が丘車両基地が原因である<ref group="注">帝都高速度交通営団『東京地下鉄道南北線建設史』pp.9・227 - 228では桐ケ丘地区が車両基地の予定地とあるが、正しくは[[西が丘]]地区および[[赤羽西]]地区である。</ref>。車両基地問題が起きた当時は「南北線」の路線名称は決定しておらず、本節では当時呼ばれていた「地下鉄7号線」の路線名称を用いる。
地下鉄7号線最初の計画では、岩淵町(現在の赤羽岩淵駅)から南西方向に向かい、[[陸軍兵器廠|東京陸軍兵器補給廠]]専用線跡(現在の赤羽緑道公園など)を引き込み線(延長2.2 km)として経由して、北区西が丘3丁目にある[[国立西が丘サッカー場]]横の敷地(旧[[東京兵器補給廠|TOD]]第一地区)に車両基地を建設する計画であった<ref group="注">現在の北区西が丘3丁目[[国立西が丘サッカー場]]、[[国立スポーツ科学センター]]、[[ナショナルトレーニングセンター]]が集まる一帯の地区が予定地であった。</ref><ref name="Namboku-Hantai-2">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.2 - 6。</ref><ref name="Namboku-Hantai-14">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.14 - 15。</ref>。引き込み線の途中、[[桐ケ丘 (東京都北区)|桐ケ丘]](北区[[赤羽台]]・法善寺墓苑付近<ref name="Namboku-Hantai-IV">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、p.IV。</ref>)には駅を設ける予定であった<ref name="Namboku-Hantai-IV"/>。そこから西が丘地区までは車両基地への完全な引き込み線である(非営業線)。地下鉄7号線の計画当初から、営団は一帯の敷地約60,000 m<sup>2</sup>は車両基地用地として計画していたが<ref name="Namboku-Hantai-16">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.16 - 22。</ref>、前述した東京都との路線免許競願の10年間にサッカー場などの諸施設が建設され、残る用地は約26,000 m<sup>2</sup>となっていた<ref name="Namboku-Hantai-16"/>。
[[1973年]](昭和48年)[[2月12日]]、この地区の住民へ事前に何ら告知もなく<ref name="Namboku-Hantai-2"/>営団は車両基地建設のため、引き込み線(岩淵町駅 - 桐ケ丘間)を含めた周辺の[[測量]]説明会を実施すると発表した<ref name="Namboku-Hantai-2"/>。建設にあたっての立入測量許可自体は、[[土地収用法]]第12条に基づき[[1972年]](昭和47年)11月6日から[[1974年]](昭和49年)11月5日までの2年間で、東京都知事から許可が下りていた<ref name="Namboku-Hantai-71"/>。1972年(昭和47年)[[10月31日]]<ref name="Namboku-Hantai-14"/>、営団は北区長に対し、立入測量を行うことを通告していた<ref name="Namboku-Hantai-14"/>。しかし、測量説明会直前まで車両基地計画は住民には伏せられていた<ref name="Namboku-Hantai-2"/>。
元々、この地区は30 cmも掘れば水が出てくるような非常に[[軟弱地盤|軟弱な地盤]]地帯で、[[地盤沈下]]が激しく、[[台風]]が来れば[[がけ崩れ]]が多発するような場所であった<ref name="Namboku-Hantai-2"/>。このような場所に大規模な掘削作業を行う車両基地を建設すれば、周辺の住環境に大きな影響([[地下水位]]の変動による地盤沈下・がけ崩れなど)を及ぼすことや<ref name="Namboku-Hantai-2"/>、車両基地予定地は災害時の[[広域避難場所]]に指定されており、万が一の際には避難場所を失うとの理由で、周辺住民から大きな[[反対運動]]が起こった<ref name="Namboku-Hantai-2"/>。
反対運動が発生したことから、北区と営団は話し合いを行い<ref name="Namboku-Hantai-16"/>、同年5月に車両基地は完全地下構造とすること、車両基地の地上部の施設は100坪(330.579 m<sup>2</sup>・換気口と資材搬入口<ref name="Namboku-Hantai-16"/>)に縮小し<ref name="Namboku-Hantai-16"/>、代わりに引き込み線上に車両基地の事務所などを建築する案を提案したが、住民の納得を得られるものではなかった<ref name="Namboku-Hantai-16"/>。
同年6月になると計画場所は移転して、[[陸上自衛隊]][[十条駐屯地|十条支処]]武器補給処赤羽地区跡地(旧TOD第二地区)約33,000 m<sup>2</sup>に、地下2層構造・230両収容の大規模な車両基地(整備工場を含む)を建設する方針となった(現在は[[赤羽自然観察公園]]となっている場所)<ref group="注">帝都高速度交通営団『東京地下鉄道南北線建設史』p.936にある「車両基地概要」記事の「陸上自衛隊十条支処武器補給処赤羽地区跡」とは当地区のことである。『東京地下鉄道南北線建設史』では、最初の西が丘サッカー場付近の計画は、記載されていない。</ref><ref group="注">[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]][[大島車両検修場]]が同様な車両基地構造である(収容車両数220両・上下2層の半地下構造・地上部は地区の防災拠点)。</ref><ref name="Namboku-Hantai-26">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.26 - 27。</ref><ref name="Namboku-Hantai-61">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.61・62。</ref>。車両基地用地約33,000 m<sup>2</sup>のうち、約10,000 m<sup>2</sup>は車両搬入口、油庫、換気口などが占め、残り23,000 m<sup>2</sup>は覆土して住民への公園・避難場所とすることが計画されていた<ref name="Namboku-Hantai-126">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.126 - 135。</ref>
。引き込み線上に予定していた事務所棟の施設も、旧陸上自衛隊敷地内に収容される計画となった<ref name="Namboku-Hantai-26"/>。特に理由を開示せず、計画を二転三転するようなことも、住民のさらなる不信を招いた。 ただし、この案は直接車庫への入出庫はできず、[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]][[馬込車両検修場]]のように、引き上げ線で西が丘地区までいったん折り返してから入出庫する構造となる<ref name="Namboku-Hantai-26"/>。
[[1974年]](昭和49年)[[7月29日]]に、[[北区議会]]交通対策特別委員会が地下鉄7号線現在計画(西が丘車両基地計画)を採択したことから、同年10月に免許が下りる寸前まで至った<ref name="Namboku-Hantai-96">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.70・74・85・96。</ref><ref name="Namboku-Hantai-148">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、p.148。</ref>。[[8月28日]]、地下鉄7号線は[[運輸大臣]]から運輸審議会に諮問され、8月28日 - [[9月11日]]の期間で[[告示]]された<ref name="Namboku-Hantai-66">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.66 - 70。</ref>。この14日の告示期間内に反対意見があった場合、[[ステークホルダー|利害関係者]]は[[公聴会]]を開くことを要求できると定められている<ref name="Namboku-Hantai-66"/>。しかし、反対住民はこのことを知らず、告示期間を過ぎた[[10月23日]]<ref name="Namboku-Hantai-66"/>、運輸審議会に公聴会の開催要求と開催要求の署名1,171名分を提出した<ref name="Namboku-Hantai-66"/>。公聴会の開催要求があったことから、[[運輸省]]が営団へ地下鉄7号線の免許交付を止めることに成功した<ref name="Namboku-Hantai-96">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.70・74・85・96。</ref>。
営団は前2年間の立入測量許可が切れることから、同年秋に測量許可の再申請を行っており<ref name="Namboku-Hantai-71">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.71 - 73。</ref>、期間は1974年(昭和49年)11月6日から1977年(昭和52年)11月5日までの3年間となった<ref name="Namboku-Hantai-71"/><ref group="注">帝都高速度交通営団『東京地下鉄道南北線建設史』p.227では「営団は、測量のため土地立入許可を1977年(昭和52年)11月に取得したが」とあるが、正しくは1974年(昭和49年)11月 - 1977年(昭和52年)11月までの期間で土地立入許可を取得している。</ref>。
しかし、[[1975年]](昭和50年)[[2月5日]]、建設反対派の住民(原告 1,077名・のちに72名)が[[東京都知事]](当時は[[美濃部亮吉]])が許可した営団の立入測量許可の取り消しを求めて<ref name="Namboku-Hantai-79">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.78 - 79・82 - 83。</ref>、[[東京地方裁判所|東京地裁]]に[[訴訟]]を起こした<ref name="Namboku-Hantai-79"/><ref name="Namboku-Const227"/>。[[1977年]](昭和52年)[[7月5日]]、東京地裁は「立入測量は工事の準備のためで、具体的な地下鉄工事を許可したものではない」との理由で住民側の訴えを[[棄却]]した<ref name="Namboku-Hantai-100">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.100 - 102。</ref><ref name="Namboku-Const227"/><ref>[https://daihanrei.minorusan.net/l/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%20%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%95%EF%BC%90%E5%B9%B4%EF%BC%88%E8%A1%8C%E3%82%A6%EF%BC%89%EF%BC%91%EF%BC%91%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA 東京地方裁判所 昭和50年(行ウ)11号 判決](大判例)。</ref>。住民側は判決を不服として[[控訴]]した<ref name="Namboku-Hantai-100"/><ref name="Namboku-Const227"/>。
その間、1977年(昭和52年)11月5日に営団が申請した3年間の立入測量の許可が切れる<ref name="Namboku-Hantai-100"/><ref name="Namboku-Const227"/>。営団は立入測量許可の再々申請を見送ったことから、西が丘車両基地計画は断念、事実上の住民側勝利となった<ref name="Namboku-Hantai-100"/>。[[東京高等裁判所|東京高裁]]での控訴審判決は1978年(昭和53年)3月29日、既に営団が測量を断念していることから、争う理由がないとの理由で控訴棄却となった<ref name="Namboku-Hantai-100"/>。なお、この訴訟は裁判に勝つことよりも<ref name="Namboku-Hantai-110">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.110 - 112。</ref>、住民の反対運動の強さを運輸省に働きかけることで免許交付を止める<ref name="Namboku-Hantai-110"/>、さらに営団および北区に対して車両基地計画を断念させることが目的であったとされる<ref name="Namboku-Hantai-110"/>。
北区は1975年(昭和50年)から1976年(昭和51年)にかけて、運輸省や営団に地下鉄7号線の状況聴取を行っているが、「[[オイルショック]]による国の政策転換、営団地下鉄の計画不備、住民の反対訴訟があり、路線免許を下ろせない」と回答している<ref name="Kitaku-398">{{Cite book|和書|title=北区史 現代行政編|publisher=北区史編纂調査会|date=1994-03|pages=398 - 408}}</ref>。また、営団は資金繰りの関係から同時に2路線の建設を行っているが、地下鉄8号線([[東京メトロ有楽町線|有楽町線]])は1980年(昭和55年)、地下鉄11号線([[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]])は1979年(昭和54年)に開業予定<ref group="注">実際には、両線とも用地買収や住民の反対運動により、これよりも大幅に開業が遅れている。</ref>のため、地下鉄7号線は1979年(昭和54年)まで計画休止とされた<ref name="Kitaku-398"/>。
==== 車両基地計画の撤回へ ====
営団の立入測量許可の再々申請を見送ったことで、車両基地計画自体が撤回されたわけではなかった<ref name="Namboku-Hantai-104">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.102 - 113。</ref>。
その後、住民が[[法務局]]で車両基地及び引込線用地を調べたところ、引込線建設予定地には公園用地として整備されなければならない官地があることを突き止めた<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。さらに引込線用地は国鉄の所有であるが、北区は住民への公園用地を国鉄関連会社の潤生興業(→旭工業社と合併し、旭潤生工業→現在は交通建設<ref>[https://www.kotsukensetsu.jp/company/about.php 会社概要・沿革] - 交通建設。</ref>)に資材置き場として無償使用させていた<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。
1981年(昭和56年)9月9日に住民ら140人は、北区と東京都に対して「引込線沿線の公園用地を国鉄関連会社に無断で使用させている件について」[[住民監査請求]]を申し立てる<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。申し立ては翌10月5日に受理されたが、北区は住民が監査請求した翌々日(9月11日)に潤生興業へ資材を片付けさせており、監査はその後に行ったことから「問題はない」、「北区は財産上の損害を被っていない」として、住民の申し立てを却下した<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。
ただし、住民(地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会)はこうなることを予想しており、1981年(1981年)12月15日に資材置き場として使用していた証拠を取り揃えて東京地方裁判所に訴訟を起こした<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。そして1983年(昭和58年)6月22日、元北区長の小林正千代より東京地裁を通して「区長が変わった」、「監査請求により公園は木が植えられ、公園としての形が整った」として[[和解]]を勧告してきた<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。和解の条件として「北区は公園の管理が悪かったことを認める」、「使用していた会社から使用料(30万円)を出させる」など、北区の非を認める内容であった<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。
同年7月27日、住民(地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会)が「裁判所が住民の勝利を認めている」、「区も手落ちがあったことを表明している」として、和解提案を受け入れた<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。北区、営団は裁判結果を受け入れざるを得ず、引込線及び車両基地計画は撤回された<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。住民(地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会)は9月18日に勝利報告大集会を開催、その7か月後にようやく地下鉄7号線の路線免許が営団に交付された<ref name="Namboku-Hantai-104"/>。
その間、[[1980年]](昭和55年)[[9月11日]]に地下鉄7号線建設促進を要望する北区住民が14万人の署名を以って、運輸大臣に陳情を行った<ref name="Namboku-Const227"/><ref name="Namboku-Hantai-102">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、pp.102 - 107。</ref>。[[1982年]](昭和57年)[[3月29日]]、営団は一時中断していた地下鉄7号線について、従来の計画を見直したうえで建設を行うと回答<ref name="Kitaku-398"/>。同年[[6月1日]]、「地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会」は建設反対署名1,704人分を運輸省へ提出した<ref name="Namboku-Const227"/><ref name="Namboku-Hantai-102"/>。同年[[9月8日]]、北区長及び北区議会が北区神谷堀公園地下に小規模な車両基地を建設することを承諾した<ref name="Namboku-Const227"/><ref name="Namboku-Hantai-102"/>。
西が丘車両基地計画が撤回されたことから、代替に北区神谷堀公園地下に小規模な車両基地(現在の[[王子検車区]])を建設することで<ref name="Namboku-Const227"/><ref name="Namboku-Hantai-102"/>、ようやく地下鉄7号線建設計画が進むこととなった<ref name="Namboku-Const227"/><ref name="Kitaku-398"/>。住民の反対運動により、[[公共事業]]を計画撤回に追い込んだ事例は極めて珍しい<ref name="Namboku-Hantai-168">[[#train-shed|幻の地下鉄車庫・引込線]]、p.168。</ref>。
=== 営団地下鉄の計画 ===
営団は地下鉄7号線建設のため、[[1973年]]度(昭和48年度)から[[1976年]]度(昭和51年度)にかけて建設予算を組んでいる。
; 1973年度(昭和48年度)
: 目黒 - 桐ケ丘間の建設は[[1974年]](昭和49年)9月に着工、1979年(昭和54年)3月開業予定で<ref name="Chiyoda-Con225">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.225 - 226。</ref>、本年度から車両基地用地の取得をするとしていた<ref name="Chiyoda-Con225"/>。建設費用として、17億7,705万円の予算を計画した<ref name="Chiyoda-Con225"/>が、建設の実績はない<ref name="Chiyoda-Con225"/>。
; 1974年度(昭和49年度)
: 建設費用として52億7,622万9,000円を計画<ref name="Chiyoda-Con236">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.236 - 240。</ref>し、31億6,900万円が認められる<ref name="Chiyoda-Con236"/>。
: 目黒 - 桐ケ丘間の建設は[[1976年]](昭和51年)9月に着工、1981年(昭和56年)3月開業予定で<ref name="Chiyoda-Con236"/>、本年度は建設工事のための調査・設計などの準備および車両基地用地の取得と一部土木工事に着手する計画であった<ref name="Chiyoda-Con236"/>。後に用地取得と土木工事の着手は見送ったことから<ref name="Chiyoda-Con236"/>、最終的な建設費用は5,000万円に縮小している<ref name="Chiyoda-Con236"/>。ただし、建設の実績はない<ref name="Chiyoda-Con236"/>。
; 1975年度(昭和50年度)
: 建設費用として86億8,958万8,000円を計画<ref name="Chiyoda-Con253">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.253 - 260。</ref>し、車両基地用地の取得費用として26億円が認められる<ref name="Chiyoda-Con253"/>。
: 目黒 - 桐ケ丘間の建設は[[1977年]](昭和52年)4月の着工予定で、車両基地用地の一部を取得する<ref name="Chiyoda-Con253"/>としていたが、建設の実績はない<ref name="Chiyoda-Con253"/>。
; 1976年度(昭和51年度)
: 建設費用として70億8,841万1,000円を計画する<ref name="Chiyoda-Con272">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、p272。</ref>が、地下鉄7号線は路線免許取得の見通しがたたないことから、予算は認められなかった<ref name="Chiyoda-Con272"/>。
: 同年度以降、建設予算がつかないことから、地下鉄7号線の建設計画は事実上の計画凍結となった。次に地下鉄7号線の建設予算が認められるのは、路線免許取得後の1985年度(昭和60年度)である<ref name="Namboku-Const75">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.75 - 78。</ref>。
== 運賃計算の特例 ==
目黒 - 白金高輪間は東京都交通局が第二種鉄道事業者となり、都営三田線と共用で営業している。このため、運賃計算方法も同区間については東京地下鉄・東京都交通局間の協議により以下のように定められている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=運賃・乗車券・定期券|publisher=東京都交通局|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/fare/|date=2020-05-28|accessdate=2020-05-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200528052246/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/fare/ |archivedate=2020-05-28}}</ref>。
# 目黒駅 - 白金高輪駅 - 麻布十番駅以遠
#* 東京メトロの運賃が適用される。
# 目黒駅 - 白金高輪駅 - [[三田駅 (東京都)|三田駅]]以遠
#* [[都営地下鉄]]の運賃が適用される。
# 目黒駅 - 白金高輪駅相互間の場合
#* 東京メトロ・都営地下鉄のうち利用者に有利な扱いをする特定区間となっている。現行では普通運賃は東京メトロ・都営地下鉄とも同額(IC178円、切符180円)<ref group="注">東京メトロの運賃には2023年3月18日より、[[鉄道駅バリアフリー料金制度]]による料金10円が加算されることとなり、都営地下鉄と同額になった。</ref>であるが、[[定期乗車券|定期券]]に関しては両社局で割引率が異なるため、区間や種類によりいずれか低廉となる側の定期運賃が適用される<ref group="注">例として通勤定期券の場合、目黒 - 白金台間・目黒 - 白金高輪間は東京メトロの定期運賃、白金台 - 白金高輪間は都営地下鉄の定期運賃が適用される。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=特定区間の運賃変更について|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2022/sub_i_2022122210735_h.html|website=東京都交通局|date=2022-12-22|accessdate=2023-03-19|language=ja}}</ref>。また、この区間は都営三田線の一部として、「[[東京都シルバーパス]]」「都営まるごときっぷ」などの都営地下鉄で有効な乗車券での利用が可能である(他の東京メトロ線には不適用)<ref>{{Cite web|和書|title=東京都シルバーパスで乗車できるバス路線等 - 東京都シルバーパスのご案内|url=https://www.tokyobus.or.jp/silver/silverpass_08.html|website=東京バス案内WEB|publisher=[[東京バス協会]]|date=2020-05-28|accessdate=2020-05-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200528052516/https://www.tokyobus.or.jp/silver/silverpass_08.html |archivedate=2020-05-28}}</ref>。
== 運行形態 ==
{|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; float:right;"
|+ 日中の運行パターン<br /><small>(目黒 - 白金高輪の線路共用区間を走る三田線の列車を含む)</small>
|-
!colspan="2"|路線\駅名
!colspan="2"|東急線<br />直通
!style="width:1em;"|目黒
!…
!style="width:1em;"|白金高輪
!…
!style="width:1em;"|赤羽岩淵
!埼玉高速鉄道線<br />直通
|-
!rowspan="8"|運行<br />本数
|rowspan="6" style="width:1em; background:#00ac9b;"|南北線
|rowspan="2" style="background:pink;"|<small>東急線内</small><br />急行
|rowspan="2" style="text-align:right;"|←新横浜
|colspan="5" style="background:pink;"|1本
|style="text-align:left;"|浦和美園→
|-
|colspan="5" style="background:pink;"|1本
|style="text-align:left;"|<small>(赤羽岩淵折り返し)</small>
|-
|rowspan="2" style="background:lightblue;"|<small>東急線内</small><br />各停
|rowspan="2" style="text-align:right;"|←日吉
|colspan="5" style="background:lightblue;"|2本
|style="text-align:left;"|浦和美園→
|-
|colspan="5" style="background:lightblue;"|2本
|style="text-align:left;"|<small>(赤羽岩淵折り返し)</small>
|-
|rowspan="2" colspan="4" style="text-align:right;"|<small>(白金高輪折り返し)</small>
|colspan="3" style="background:#00ac9b;"|2本
|style="text-align:left;"|浦和美園→
|-
|colspan="3" style="background:#00ac9b;"|2本
|style="text-align:left;"|<small>(赤羽岩淵折り返し)</small>
|-
|rowspan="3" style="width:1em; background:#006ab8; color:#fff;"|三田線
|style="background:pink;"|<small>東急線内</small><br />急行
|style="text-align:right;"|←海老名
|colspan="3" style="background:#006ab8; color:#fff;"|2本
|rowspan="2" colspan="3" style="text-align:left;"|西高島平→
|-
|style="background:lightblue;"|<small>東急線内</small><br />各停
|style="text-align:right;"|←日吉
|colspan="3" style="background:#006ab8; color:#fff;"|4本
|}
目黒駅から[[東急目黒線]]・[[東急新横浜線]]を経由し[[相鉄新横浜線]]の[[西谷駅]]より[[相鉄本線]]の[[海老名駅]]及び[[相鉄いずみ野線]]の[[湘南台駅]]まで、赤羽岩淵駅から[[埼玉高速鉄道線]](埼玉スタジアム線)の[[浦和美園駅]]までそれぞれ[[直通運転|相互直通運転]]を実施している。また、先述の通り白金高輪駅 - 目黒駅間は都営三田線との共用区間のため、三田線の列車も走行する。そのため、白金高輪駅発着の列車は同駅で都営三田線の東急目黒線直通列車と接続するようになっており、また逆の列車もある。
[[2006年]][[9月25日]]より東急目黒線直通列車の一部が東急線内にて[[急行列車]]としての運行を開始したが、その後も南北線(および相互直通運転をしている埼玉高速鉄道線)内は全列車が各駅停車となっている。なお、南北線内での[[列車種別|種別]]表示については目黒方面行きの急行列車のみ行われ、当初は各駅停車においては行先のみ表示されていたが、2018年頃より一部列車で「各停」「各駅停車」と種別も表示するようになった。[[2019年]]9月時点ではすべての列車で「各停」「各駅停車」と表示されている。<!--なお、都営三田線は現在も種別は「急行」のみとなっている。-->
[[2009年]][[6月6日]]より埼玉高速鉄道線の日中ダイヤがパターン化されたことに伴い、日中は鳩ヶ谷駅・浦和美園駅発着の列車が交互に運転されるようになった。また、これに伴い、日中に鳩ヶ谷駅発着の急行列車が運転されるようになった。
[[2017年]][[3月25日]]より夜間の列車を中心に埼玉高速鉄道線に直通せずに赤羽岩淵駅で目黒方面に折り返す運用が数往復設定され、その後[[2018年]][[3月30日]]より日中時間帯の一部列車にも赤羽岩淵駅で目黒方面へ折り返す運用が増え<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180215_14.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201116092123/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180215_14.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3/30(金)半蔵門線・南北線のダイヤを改正します 朝ラッシュを中心に列車を増発|publisher=東京地下鉄|date=2018-02-15|accessdate=2020-11-16|archivedate=2020-11-16}}</ref>、2019年[[3月16日]]より日中の半数が赤羽岩淵駅で目黒方面に折り返すようになった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190129_09.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190129181442/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190129_09.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年3月16日(土)日比谷線、半蔵門線、有楽町線・副都心線、南北線のダイヤを改正します|publisher=東京地下鉄|date=2019-01-29|accessdate=2020-11-16|archivedate=2019-01-29}}</ref>。
目黒駅に到達する列車は、すべて東急目黒線に乗り入れていたが、[[2021年]][[3月13日]]より最終電車に限り、目黒駅を終着とする列車が設定されている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210126_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210129095545/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210126_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年3月13日(土)東京メトロ全線でダイヤ改正 全線で終電時刻を繰上げます|publisher=東京地下鉄|date=2021-01-26|accessdate=2021-02-04|archivedate=2021-01-29}}</ref>。
=== 6両編成化・8両編成化 ===
四ツ谷駅延伸開業を控えた1996年2月3日(休日ダイヤ運転日)より4両編成から6両編成での運転を開始した<ref name="RP622_102" /><ref name="RF521_50" />。
当時の駒込駅 - 赤羽岩淵駅間の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]では休日ダイヤでの運用本数が最も少なく、終日4本運用であった。そこで、2月3日から新規開業用に6両編成で新製した第09 - 13編成と4両から6両編成化した予備車両を用いて営業線用の車両を6両編成に置き換え、4両編成の車両は6両編成化の組み換え後に、順次営業運転に復帰させるという形がとられた。
なお、当初の予定では目黒駅への延伸開業時に8両編成化をする計画であった<ref group="新聞" name="朝日19990605">{{Cite news|title=6両か、8両か 都と営団が対立 地下鉄2線の目蒲線乗り入れ |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |page=15(夕刊)|date=1999-06-05}}</ref>。しかし、当初の利用者数の見込みが53万人であったのに対し、全線開業時の利用者数が半分以下の26万人程度と想定を大きく下回ったため<ref group="新聞" name="朝日19990605"/>、8両化に難色を示し、需要動向や運転計画の見直しを行い、当面は6両編成で運用することとなった<ref group="注">東急側と東京都交通局側は8両編成化をこの時主張したが、営団側は輸送人員の伸び悩みを、埼玉高速鉄道側はそれに加えて財政的事情から8両編成化に難色を示し、議論の結果、当面は6両編成で東急目黒線に乗り入れることとなった。</ref>。[[2023年]][[3月18日]]の相鉄線への直通運転を開始に向けて<ref group="報道" name="metroNews220127_g01_1" /><ref group="報道" name="metroNews221216_g35" />、[[2022年]][[4月1日]]から8両編成化が開始され、当初は東急所属の1編成が8両となり、2023年までに東急車は全面的に8両編成となった。2023年に新たに直通運転を開始した相鉄車は全列車が8両編成となっている<ref group="報道" name="metroNews220127_05" /><ref name="railf20220409" />。
2023年12月13日、東京メトロより自社車両である9000系の最初の8両編成が12月16日に営業運行を開始することが発表された<ref group="報道" name="press20231213" />。なお同時に、当初は8両化の対象(第09編成以降の15編成)とされていた5次車(第22・23編成)がこの発表で構想外となることが明らかになった<ref>{{Cite web|和書|title=南北線に「異端の新車」登場!8両化の“増結用” 車内が既存車両と全然違う! |url=https://trafficnews.jp/post/129891 |website=乗りものニュース |date=2023-12-13 |access-date=2023-12-14 |language=ja}}</ref>。
東京メトロでは2019年3月に、南北線を2022年度までに8両編成対応とすることを発表しており<ref name="metroplan2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190327090906/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf|title=東京メトロプラン2021 東京メトログループ中期経営計画|page=19|archivedate=2019-03-27|accessdate=2021-01-30|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>、同年9月には自社車両の一部編成を8両化することが報道された<ref name="東洋経済20190905">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/301101|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200222110441/https://toyokeizai.net/articles/-/301101|title=東急目黒線、「8両化」に備えた新型車両の全貌 水色ラインの「3020系」、今年11月にデビュー|date=2019-09-05|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2020-11-16|archivedate=2020-02-22}}</ref>。この時の対応工事の内容では、先頭車および編成全体が1次車(および試作車)の編成で既に大規模改修工事を実施した第01編成より第08編成までは対象外となり、また対象外編成は従来通り6両編成のままで残して新横浜駅までの運用に留めるものの、編成全車が2次車以降となっている第09編成以降最終編成までは8両編成化を実施する予定で、中間車を15編成30両分を新たに製造し、2次車以降のB修工事の際に相鉄線直通対応工事も同時に施工する予定としていた<ref group="注">イカロス出版『東急電鉄 1989-2019』 東急線乗り入れ車両オールカタログ記事内の東京メトロ9000系のページに中間車15編成30両分の新造計画が一部記されている。</ref>。
=== 臨時列車など ===
{{出典の明記|date=2018年12月|section=1}}
主に行楽日となる休日を中心に[[臨時列車]]「[[みなとみらい号]]」が[[横浜高速鉄道みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]と埼玉高速鉄道線浦和美園駅の間に運転されていた<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/041118_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201116090353/https://www.tokyu.co.jp/file/041118_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「みなとみらい号」を運転いたします!! はじめて高島平、浦和美園から乗り換えなしで元町・中華街へ 秋に引き続き日比谷線からも運転|publisher=東京地下鉄/東京都交通局/東京急行電鉄/横浜高速鉄道/埼玉高速鉄道|date=2004-11-18|accessdate=2020-11-16|archivedate=2020-11-16}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20111117_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181224024133/https://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20111117_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=12月24日(土)臨時直通列車「みなとみらい号」を運転します。〜埼玉、都心から横浜へ直通!「みなとみらい号」で行く横濱クリスマス夜景〜「タッチdeゲット Xmasイルミネーションラリー」も開催!|publisher=|date=2011-11-17|accessdate=2020-11-16|archivedate=2018-12-24}}</ref>。これには東急車が運用に就き、メトロ車両は運用されていない(2007年春の運転分までは埼玉高速車が充当された)。
2006年8月運転分までの停車駅は、当線と埼玉高速鉄道線・東急目黒線内が各駅停車、[[東急東横線|東横線]]とみなとみらい線が急行運転だったが<ref>{{Cite web|和書|date=2006-06-19 |url=http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-m12_3.html |title=夏休み期間中に『みなとみらい号』を運転します!! (別紙3)|publisher=東京地下鉄|accessdate=2018-12-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060925024952/http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-m12_3.html|archivedate=2006-09-25}}</ref>、東急目黒線が急行運転を開始した後の同年12月運転分からは当線と埼玉高速鉄道線内が各駅停車、東急目黒線・東横線とみなとみらい線内が急行運転になった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-m33.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120515232409/http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-m33.html|language=日本語|title=クリスマスシーズンに『みなとみらい号』を運転します!! ~みなとみらい号に乗車してクリスマスプレゼントをGetしよう~|publisher=横浜高速鉄道/東京急行電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道|date=2006-11-16|accessdate=2020-11-16|archivedate=2012-05-15}}</ref>。
なお、白金高輪駅で都営三田線[[高島平駅]]からの「みなとみらい号」と接続する、白金高輪行きの臨時列車「[[みなとみらい号|みなとみらいリレー号]]」として運転されたこともあった<ref>{{Cite web|和書|url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2009/07/post_197.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150320180027/http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2009/07/post_197.html|title=【埼玉高速+東京メトロ+東京都+東急+横浜高速】〈みなとみらい号〉〈みなとみらいリレー号〉運転|date=2009-07-27|archivedate=2015-03-20|accessdate=2022-04-09|website=[https://rail.hobidas.com/ 鉄道ホビダス]|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。この運用には東京地下鉄の9000系が使用された。
また、2006年まで[[東京湾大華火祭]]の開催日にも[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]の[[新木場駅]]へ直通する臨時列車「[[東京メトロ有楽町線#東京湾大華火祭|レインボー号]]」が運転されていたが、こちらは9000系の転落防止器具取り付け車が運用にあたっていた。
[[埼玉スタジアム2002]]でサッカーの試合開催時は、通常は赤羽岩淵や鳩ヶ谷駅発着の列車を浦和美園駅発着への変更、浦和美園駅発の[[市ケ谷駅]]や麻布十番駅で折り返す臨時列車の増発が行われ、こちらは埼玉高速鉄道の公式ホームページに臨時列車の運転日と時刻が掲載される。
== 車両 ==
=== 自社車両 ===
* [[営団9000系電車|9000系]](6・8両編成)
** 独自の[[乗車促進音|車載メロディ]](詳細[[東京メトロ南北線#発車メロディ|後述]])と2段表示式[[発光ダイオード|LED]]による[[車内案内表示装置]]が設置されている。なお、5次車(9122F・9123F)とB修工事施工車(9101F - 9108F)の車内案内表示装置は、[[液晶ディスプレイ]]に変更された。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Tokyo Metro 9122 Tamagawa 20170710.jpg|9000系(5次車)
Tokyo-Metro-Series9000R-Lot-1.jpg|9000系(1 - 4次車 B修工事施工車)
Tokyo-Metro-Series9000-Lot-2.jpg|9000系(1 - 4次車)
</gallery>
=== 乗り入れ車両 ===
; 東急電鉄
:* [[東急2020系電車#3020系|3020系]](8両編成)
:* [[東急5000系電車_(2代)#5080系|5080系]](8両編成)
:* [[東急3000系電車 (2代)|3000系]](8両編成)
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Tokyu-Series3020-3821.jpg|3020系
Tokyu-Series5080-5187F 8cars.jpg|5080系
Tokyu-Series3000-3813.jpg|3000系
</gallery>
; 埼玉高速鉄道
:* [[埼玉高速鉄道2000系電車|2000系]](6両編成)
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Saitama-Series2000 2107.jpg|2000系
</gallery>
; 相模鉄道
:* [[相鉄20000系電車#21000系|21000系]](8両編成)
<gallery widths="200">
相鉄20000系 21106F.jpg|21000系
</gallery>
=== 共用区間走行車両 ===
; 東京都交通局(都営地下鉄)
:* [[東京都交通局6500形電車 (鉄道)|6500形]](8両編成)
:* [[東京都交通局6300形電車|6300形]](6両編成)
<gallery perrow="4" widths="180" style="font-size:90%;">
Toei_Series6500-6502.jpg|6500形
Toei-Type6300-6332.jpg|6300形
</gallery>
=== 列車番号と車両運用 ===
どの列車がどの車両で運転されるかは[[列車番号]]で判別できるようになっており、列車番号末尾アルファベットの「'''S'''」が東京メトロ車両(30S - 78Sの偶数番号)、「'''M'''」が埼玉高速車両(80M以降の偶数番号)、「'''K'''」が東急車両(01K - 48K)、「'''G'''」が相鉄車両(31G - 43G)<ref>{{Cite web|和書|title=相鉄と東急が3月18日改正後のダイヤを発表 東急車の相鉄横浜駅入線も |url=https://www.tetsudo.com/column/438/ |publisher=鉄道コム |date=2023-02-19 |accessdate=2023-06-07}}</ref>となっている(「'''T'''」は都交通局車両で31T以降の奇数)。
列車番号が6桁の数字で組み立てられる東急目黒線内では、上3桁が運用番号を表し、300番台は東京メトロ車両、500番台は埼玉高速車両、200番台は東急車両、600番台は相鉄車両となっており(400番台は都交通局車両)、例えば「30S」は東急線内は「330」となる。一般の利用者は列車番号を『MY LINE 東京[[時刻表]]』([[交通新聞社]])の列車番号欄で確認することができる。
なお、東急車および相鉄車の運用は、三田線運用と南北線運用とで別々に組まれ、奇数番号(東急線内基準)が三田線運用、偶数番号(同)が南北線・埼玉高速線運用となっている。そのため、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:01Kと02K)を同一車両で運転されていることから一部の運用番号が欠番となっている。また各者間の走行距離調整の関係上、埼玉高速車両と東急車両は東急目黒線に乗り入れない列車(白金高輪駅折り返しなど)にも使用されている。
2023年3月13日改正ダイヤでは、東京メトロ車が東急の[[元住吉検車区]]に1本、[[奥沢駅]]に1本、[[浦和美園車両基地]]で6本がそれぞれ[[夜間滞泊|夜間留置]]となる。逆に東急車が[[市ケ谷駅]]と[[麻布十番駅]]に1本ずつ夜間留置される。
== 利用状況 ==
2022年(令和4年)度の最混雑区間(B線、駒込 → 本駒込間)の[[定員#混雑率・乗車率|混雑率]]は'''140%'''である<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=3|format=PDF}}</ref>。
2000年度より目黒駅から東急目黒線に、赤羽岩淵駅から埼玉高速鉄道線にそれぞれ直通運転を行っている。輸送人員は増加傾向にあるが、東京メトロ全線で最も少ない。東急目黒線は東横線のバイパス路線として整備された経緯があり、混雑率は2017年度から170%を上回っている。埼玉高速鉄道線は第三セクター鉄道であり、京浜東北線と競合している。
単独駅で最も乗降人員が多い駅は六本木一丁目駅であり、同駅の1日平均乗降人員は8万人を越えている。同駅は[[泉ガーデンタワー]]と[[住友不動産六本木グランドタワー]]が直結し、周辺は再開発により[[オフィス街]]が立ち並ぶ。最も乗降人員が少ない駅は西ケ原駅であり、同駅の1日平均乗降人員は1万人を下回り、都営地下鉄を含めた[[東京の地下鉄]]全駅中最少となっている。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{|class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|最混雑区間(駒込 → 本駒込間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| 12 || 6,720 || style="background-color: #ccffcc;"|1,488 || style="background-color: #ccffcc;"|'''22'''
|style="text-align:left;"|最混雑区間は王子神谷 → 王子間
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| 12 || 6,720 || 2,114 || '''31'''
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| 12 || 6,720 || 2,205 || '''33'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 12 || 6,720 || 2,280 || '''34'''
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 12 || 6,720 || 2,198 || '''33'''
|style="text-align:left;"|1996年3月26日、駒込 - 四ツ谷間開業
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 12 || 10,632 || 8,255 || '''78'''
|style="text-align:left;"|最混雑区間を駒込 → 本駒込間に変更
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 12 || 10,632 || 10,491 || '''99'''
|style="text-align:left;"|1997年9月30日、四ツ谷 - 溜池山王間開業
|-
|1998年(平成10年)
| 12 || 10,632 || 11,169 || '''105'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 12 || 10,632 || 12,472 || '''117'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 15 || 13,290 || 12,808 || '''96'''
|style="text-align:left;"|2000年9月26日、溜池山王 - 目黒間開業、東急目黒線との直通運転開始<br />2001年3月28日、埼玉高速鉄道線開業
|-
|2001年(平成13年)
| 15 || 13,290 || || ''' '''
|
|-
|2002年(平成14年)
| 15 || 13,290 || 18,543 || '''140'''
|
|-
|2003年(平成15年)
| 15 || 13,290 || 18,707 || '''141'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 15 || 13,290 || || '''143'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 15 || 13,290 || || '''146'''
|
|-
|2006年(平成18年)
| 15 || 13,290 || 19,560 || '''147'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 15 || 13,290 || 19,913 || '''150'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| 15 || 13,290 || || '''153'''
|
|-
|2009年(平成21年)
| 16 || 14,176 || 20,667 || '''146'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 16 || 14,176 || 20,873 || '''147'''
|
|-
|2011年(平成23年)
| 16 || 14,176 || 21,141 || '''149'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 16 || 14,176 || 21,354 || '''151'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 17 || 15,062 || 22,646 || '''150'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 17 || 15,062 || 22,684 || '''151'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 17 || 15,062 || 23,038 || '''153'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 17 || 15,062 || 22,970 || '''153'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 18 || 15,948 || 24,907 || '''156'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 18 || 15,948 || 25,317 || '''159'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 18 || 15,948 || style="background-color: #ffcccc;"|25,422 || style="background-color: #ffcccc;"|'''159'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 19 || 16,834 || style="background-color: #ccffff;"|19,279 || style="background-color: #ccffff;"|'''115'''
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 19 || 16,834 || 20,332 || '''121'''
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| 19 || 16,834 || 23,568 || '''140'''
|
|}
== 駅一覧 ==
{{色|節}}
* 駅番号はA線方向(目黒から赤羽岩淵の方向)に増加。
* 色は「[[#7号ビジョン|7号ビジョン]]」に対応したステーションカラーを示す<ref name="Namboku-Const713-717" />。このステーションカラーはホームドアの扉部分、エスカレーターのベルト部やホーム上のベンチ(現在は交換済)、改札付近のメディアウォール、柱や壁の一部に適用されている([[#7号ビジョン|前述]])<ref name="Namboku-Const713-717" />。目黒駅は東急電鉄の管理駅のためステーションカラーの対象外<ref name="Namboku-Const713-717" />。
* 全駅[[東京都]]内に所在。
* 目黒駅 - 白金高輪駅間は、都営三田線と線路及び駅施設を共用している(ただし同区間の線路を保有しているのは[[第一種鉄道事業者]]の東京地下鉄で、東京都交通局はその線路で旅客運送を行う[[第二種鉄道事業者]])。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
|-
!rowspan="2" style="width:3.5em; border-bottom:3px solid #00ac9b;"|駅番号
!rowspan="2" style="width:8em; border-bottom:3px solid #00ac9b;"|駅名
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #00ac9b;"|色
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|営業キロ
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|運賃計算キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00ac9b;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00ac9b;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00ac9b;"|駅間
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00ac9b;"|累計
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00ac9b;"|駅間
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00ac9b;"|累計
|-
!colspan="7"|直通運転区間
|colspan="2"|[[File:Tokyu MG line symbol.svg|18px|MG]] [[東急目黒線]]・[[ファイル:Tokyu SH line symbol.svg|18px|SH]] [[東急新横浜線]]・[[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄新横浜線]]経由 [[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線]][[海老名駅]]、 [[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄いずみ野線]][[湘南台駅]]まで
|-
!N-01
|[[目黒駅]]<ref group="*">目黒駅は他社接続の共同使用駅で、東急電鉄の管轄駅である。</ref>
|style="background-color:#FFFFFF"|
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu MG line symbol.svg|18px|MG]] '''目黒線 (MG01)(直通運転:上記参照)'''<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|18px|三田線]] [[都営地下鉄三田線|三田線]] (I-01)(共用)<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 22)
|[[品川区]]
|-
!N-02
|[[白金台駅]]<ref group="*" name="metro_own">白金台駅・白金高輪駅・赤羽岩淵駅は他社接続の共同使用駅で、東京地下鉄の管轄駅である。</ref>
|style="background-color:#ffd200;"|
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|1.3
|都営地下鉄:[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|18px|三田線]] 三田線 (I-02)(共用)
|rowspan="4"|[[港区 (東京都)|港区]]
|-
!N-03
|[[白金高輪駅]]<ref group="*" name="metro_own" />
|style="background-color:#ff870f;"|
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|2.3
|都営地下鉄:[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|18px|三田線]] 三田線 (I-03)(共用・改札内連絡)
|-
!N-04
|[[麻布十番駅]]
|style="background-color:#d30000;"|
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|3.6
|都営地下鉄:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|大江戸線]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-22)
|-
!N-05
|[[六本木一丁目駅]]
|style="background-color:#990099;"|
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|4.8
|
|-
!N-06
|[[溜池山王駅]]
|style="background-color:#0067C0;"|
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|5.7
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|5.7
|[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-06)、<br />[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]([[国会議事堂前駅]]:M-14)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|千代田線]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]](国会議事堂前駅:C-07)
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[千代田区]]
|-
!N-07
|[[永田町駅]]
|style="background-color:#009b00;"|
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|6.4
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|6.6
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] (Y-16) ・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|半蔵門線]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] (Z-04)、<br />[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] 銀座線([[赤坂見附駅]]:G-05)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] 丸ノ内線(赤坂見附駅:M-13)
|-
!N-08
|[[四ツ谷駅]]
|style="background-color:#ffd200;"|
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|7.9
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|7.9
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] 丸ノ内線 (M-12)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線(快速)]](JC 04)・ [[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]](JB 14)
|rowspan="3"|[[新宿区]]
|-
!N-09
|[[市ケ谷駅]]
|style="background-color:#ff870f;"|
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|8.9
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|8.9
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線 (Y-14)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|新宿線]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]] (S-04)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)(JB 15)
|-
!N-10
|[[飯田橋駅]]
|style="background-color:#d30000;"|
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|10.0
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|10.0
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|18px|東西線]] [[東京メトロ東西線|東西線]] (T-06)(改札外連絡) ・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|有楽町線]] 有楽町線 (Y-13)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|大江戸線]] 大江戸線 (E-06)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)(JB 16)
|-
!N-11
|[[後楽園駅]]
|style="background-color:#990099;"|
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|11.4
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|11.4
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|丸ノ内線]] 丸ノ内線 (M-22)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|18px|三田線]] 三田線([[春日駅 (東京都)|春日駅]]:I-12)・[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|大江戸線]] 大江戸線(春日駅:E-07)
|rowspan="3"|[[文京区]]
|-
!N-12
|[[東大前駅]]
|style="background-color:#0067C0;"|
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|12.7
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|12.7
|
|-
!N-13
|[[本駒込駅]]
|style="background-color:#009b00;"|
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|13.6
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|13.6
|
|-
!N-14
|[[駒込駅]]
|style="background-color:#ffd200;"|
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|15.0
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|15.0
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 10)
|[[豊島区]]
|-
!N-15
|[[西ケ原駅]]
|style="background-color:#ff870f;"|
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|16.4
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|16.4
|
|rowspan="5"|[[北区 (東京都)|北区]]
|-
!N-16
|[[王子駅]]
|style="background-color:#d30000;"|
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|17.4
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|17.4
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 36)<br />[[東京都交通局]]:[[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|18px|SA]] [[都電荒川線|都電荒川線(東京さくらトラム)]]([[王子駅|王子駅前停留場]]:SA 16)
|-
!N-17
|[[王子神谷駅]]
|style="background-color:#990099;"|
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|18.6
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|18.6
|車両基地所在駅
|-
!N-18
|[[志茂駅]]
|style="background-color:#0067C0;"|
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|20.2
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|20.2
|
|-
!N-19
|[[赤羽岩淵駅]]<ref group="*" name="metro_own" />
|style="background-color:#009b00;"|
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|21.3
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|21.3
|[[埼玉高速鉄道]]:[[File:Saitama Stadium Line symbol.svg|18px|SR]] '''埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)(直通運転:下記参照)'''
|-style="border-top:2px solid #345caa;"
!colspan="7"|直通運転区間
|colspan="2"|[[File:Saitama Stadium Line symbol.svg|18px|SR]] [[埼玉高速鉄道線]][[浦和美園駅]]まで
|-
|}
{{Reflist|group="*"}}
== 車両搬入と連絡線 ==
本路線最初の区間(駒込駅 - 赤羽岩淵駅)の開業時には、他路線との接続がないことから、9000系車両は最初に[[綾瀬車両基地|綾瀬検車区]]に搬入し、受取検査・整備等を実施、その後千代田線で性能確認のための[[試運転]]を実施した<ref name="Namboku-Const933-935">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.933 - 935。</ref>。
そして、綾瀬検車区より[[けん引自動車|トレーラー]]で[[王子検車区]]まで道路輸送をし、同検車区で[[クレーン]]を用いて地下の南北線へと搬入された(4両編成で搬入された第01 - 08編成が該当する)<ref name="Namboku-Const933-935" />。営団地下鉄で、道路輸送・クレーンによる地下への車両搬入は[[1964年]](昭和39年)に東西線の最初の開業区間である[[高田馬場駅|高田馬場]] - [[九段下駅|九段下]]間開業時以来、27年ぶりである<ref name="Namboku-Const933-935" />。なお、1995年以降に増備された2次車以降は次に述べる[[連絡線]]を経由して搬入された<ref name="Namboku-Const933-935" />。
市ケ谷駅の四ツ谷寄りに[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]との連絡線が存在する<ref name="Namboku-Const933-935" />。南北線や埼玉高速鉄道の車両が点検整備のために[[新木場車両基地|新木場CR]]や、さらに有楽町線[[桜田門駅]]から千代田線[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]へ向かう連絡線を経て綾瀬工場へ向かう場合に使われる。また、[[東京湾大華火祭]]での[[新木場駅|新木場]]行臨時列車や[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]の[[営団8000系電車|8000系]]車両の新木場CRへの[[回送]]にも利用される。[[東急東横線]]と[[東京メトロ副都心線|副都心線]]の直通運転開始前の関連各社の試運転用車両の回送も、この連絡線を介して行われた<ref>{{Cite journal|和書|author=前野良輔(東京急行電鉄鉄道事業本部運転車両部車両課)|url=https://www.tetsushako.or.jp/page_file/20130723114820_7TfbxmXiKG.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130174521/https://www.tetsushako.or.jp/page_file/20130723114820_7TfbxmXiKG.pdf|title=(寄稿)東急東横線・東京メトロ副都心線相互直通運転に向けた車両改修ならびに各種確認試験について|date=2013-07|journal=鉄道車両工業|publisher=[[日本鉄道車輌工業会]]|accessdate=2021-02-08|format=PDF|language=日本語|archivedate=2021-01-30}}</ref>。
== 発車メロディ ==
開業時から全駅でサウンドプロセスデザイン制作([[吉村弘]]作曲)の、王子駅付近を流れる音無川([[石神井川]])の流れをイメージした[[発車メロディ]](発車サイン音)を使用していたが、2015年3月10日から13日にかけて、各駅ごとにその駅周辺の地域をイメージした異なるメロディに変更された(東急が管理する目黒駅を除く)<ref group="報道" name="melody" />。制作は[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]が担当し、[[塩塚博]]、[[福嶋尚哉]]、[[山崎泰之]]の3名が作曲・編曲を手掛けた<ref name="switch20150302">{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|title=「南北線」曲目リスト|format=PDF|work=[http://www.switching.co.jp/news/155 東京メトロ「南北線」が新駅メロディ採用 制作:株式会社スイッチ]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190711050827/http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|archivedate=2019-07-11|publisher=スイッチ|date=2015-03-02|accessdate=2021-03-28}}</ref>。「ホームのどこにいても明瞭に聴き取れる音色」、「高齢者にも聴き取り易い音域」、「長時間聴き続けても疲れない音色・楽器構成」が制作上のポイントとなっている<ref name="switch20150302" />。なお、吉村作曲の発車メロディは引き続き南北線を走る車両(東急・埼玉高速鉄道および都営三田線の車両含む)の[[乗車促進音|車載メロディ]]や、都営三田線・埼玉高速鉄道線の駅の発車メロディとして使用されていたが、2023年3月までに置き換えられている。
なお、開業当初は発車サイン音のほかに[[発車メロディ#接近メロディ|接近サイン音]]も使用されていたが<ref name="Namboku-Const34">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.34。</ref>、2000年の全線開通時に廃止されている。
各駅の曲名は以下の通り<ref name="switch20150302" />。
{| class="wikitable"
! rowspan="2" |駅名
! colspan="2" |曲名
|-
!A線(赤羽岩淵・埼玉高速鉄道線方面)
!B線(目黒・東急線方面)
|- style="border-top:3px solid #00ac9b;"
!目黒
|2:(なし)
|1:(ベル)
|-
!白金台
|1:銀のしずく【福嶋】
|2:テラコッタ【福嶋】
|-
!白金高輪
|1:つかの間の【福嶋】<br />2:躍動する都会【山崎】
|3:エメラルド・グリーン【福嶋】<br />4:素敵なお店【山崎】
|-
!麻布十番
|1:ミントベル【福嶋】
|2:カリンの実【福嶋】
|-
!六本木一丁目
|1:さざ波【福嶋】
|2:陽だまり【福嶋】
|-
!溜池山王
|3:poco a poco【福嶋】
|4:天然水【福嶋】
|-
!永田町
|5:明日への階段【塩塚】
|6:希望の夜明け【塩塚】
|-
!四ツ谷
|3:午後のひととき【塩塚】
|4:ソフィアの鐘の音【塩塚】
|-
!市ケ谷
|3:明るい水辺【塩塚】
|4:オアシス【山崎】
|-
!飯田橋
|5:坂のある街【塩塚】
|6:水の戯れ【山崎】
|-
!後楽園
|3:[[私を野球に連れてって|Take Me Out to the Ball Game]] verA【福嶋】
|4:Take Me Out to the Ball Game verB【福嶋】
|-
!東大前
|1:花咲く学び舎【塩塚】
|2:銀杏の並木道【塩塚】
|-
!本駒込
|1:Next Step【塩塚】
|2:屋敷のある街【塩塚】
|-
!駒込
|1:ビスマス【福嶋】
|2:ツツジ、咲く【塩塚】
|-
!西ケ原
|1:桜並木を望んで【山崎】
|2:風のゆくえ【福嶋】
|-
!王子
|1:地図を広げて【福嶋】
|2:ノッカー【福嶋】
|-
!王子神谷
|1:小さなオルゴール【山崎】
|2:いつもの駅で【福嶋】
|-
!志茂
|1:時のしらべ【山崎】
|2:月は南に【福嶋】
|-
!赤羽岩淵
|1:ティー・スプーン【福嶋】
|2:リズムガーデン【山崎】
|-
!(車載メロディ)
|(オリジナル曲)【向谷】<ref group="*" name="shasai">2023年3月まで吉村作曲の音無川の流れのイメージを使用。</ref>
|(オリジナル曲)【向谷】<ref group="*" name="shasai" />
|}
* 上表の数字は各駅の番線、【】内は作曲者(後楽園駅は編曲者)を表す。
{{Reflist|group="*"}}
各駅のメロディのイメージコンセプトは以下の通り。
* 白金台駅 - 永田町駅:[[大使館]]が多く国際的な雰囲気があり、都会的なスタイリッシュさをイメージ<ref group="報道" name="melody" /><ref name="switch20150302" />。
* 四ツ谷駅 - 東大前駅(後楽園駅を除く):[[大学]]、[[高等学校|高校]]、[[神社]]などが多く、緑豊かな[[都心]]をイメージ<ref group="報道" name="melody" /><ref name="switch20150302" />。
* 後楽園駅:[[東京ドーム]]の最寄駅であることから、[[野球]]にちなんだ楽曲を採用<ref group="報道" name="melody" /><ref name="switch20150302" />。
* 本駒込駅 - 赤羽岩淵駅:[[サクラ|桜]]、[[バラ]]、[[宿場|宿場町]]、[[川]]、[[江戸時代|江戸]]から[[近代]]への[[歴史]]をイメージ<ref group="報道" name="melody" /><ref name="switch20150302" />。
== 延伸計画(都心部・品川地下鉄構想) ==
{{File clip| KoutsuSeisakuShigikai198 Tokyo.png | width= 300 | 50 | 49 | 41 | 43 | w= 3937 | h= 3325 |<8>の品川駅-白金高輪駅間が、[[交通政策審議会答申第198号]]で示された延伸部の路線図 }}2016年の[[交通政策審議会答申第198号]]において[[品川駅]] - 白金高輪駅間(2.5 km)が「都心部・品川地下鉄構想」として取り上げられ、2022年に東京メトロは南北線延伸としてこの区間の鉄道事業許可を申請し<ref group="報道" name="metro20220128" />、3月28日付で国土交通大臣より第一種鉄道事業許可を受けている<ref group="報道" name="milt20220328" /><ref group="報道" name="metro20220328" />。
=== 概要 ===
[[六本木]]・[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]など都心部と[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]のターミナルとなる品川駅及び都市集積が進む同駅付近とを結ぶ路線として、[[東京都]]が計画した。
2019年3月に開かれた[[国土交通省]]による「東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk4_000015.html|title=東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会|work=国土交通省|accessdate=2018-10-31}}</ref>(以下「検討会」)第2回検討会で公表された案<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001287257.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210120122112/https://www.mlit.go.jp/common/001287257.pdf|title=東京圏における国際競争力強化に資する 鉄道ネットワークに関する調査 調査結果|date=2019-03|archivedate=2021-01-20|accessdate=2021-02-08|publisher=国土交通省鉄道局|format=PDF|language=日本語}}</ref>は以下の通り。
* 建設距離:2.5 km
* 駅数:2駅(起終点含む。途中駅は設けない)
* 所要時間:約4分
* 列車本数:12本/時
** うち南北線・三田線に半数ずつ(日中は南北線8本:三田線4本)直通
* 運賃水準:東京メトロと同等(東京メトロ既存線とは通算運賃)※都営地下鉄については言及なし{{Refnest|group="注"|出席した委員からは南北線と三田線の共用区間となっている[[目黒駅]] - 白金高輪駅間のように都営地下鉄との運賃通算も考慮すべきとの意見があった<ref name="kentokai">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001287258.pdf|title=東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会(第2回)議事概要|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208080303/https://www.mlit.go.jp/common/001287258.pdf|archivedate=2021-02-08|accessdate=2021-02-08}}</ref>}}
* 整備主体:第三セクター(地下高速鉄道整備事業費補助を適用)
* 事業費:800億円(建設費763億円、車両費37億円)
* 建設期間:10年間
この条件で品川駅の位置を[[国道15号]]に並行とする場合(Aルート)と直交する場合(Bルート)の2パターンで検討を行った結果、輸送人員はAルートが13.4 - 14.3万人/日、Bルートが7.8万人/日となり、優位なAルートが選定されることとなった。費用便益比は2.57 - 3.14、累積資金収支は16 - 19年目で黒字に転換するとしている。東京メトロの既存線区間を含めても24 - 28年目で累積資金収支が黒字となる。
=== 効果・影響 ===
検討会では事業の効果・影響を次のように見積もっている<ref name="kentokai" />。
* 都心業務地区間の結節強化による特区地域の業務集積ポテンシャル向上
** 品川駅 - 溜池山王駅間の所要時間が[[東海道本線]]・銀座線経由で14分から9分に5分短縮、運賃も低減
* 銀座線の列車内および[[新橋駅]]構内の乗換混雑の緩和
** 新橋駅の乗り換え乗降客が2万人/日減少、銀座線の混雑率が6 - 7%減少
* 赤坂等の都心業務地区と高速交通ターミナルの品川駅へのリダンダンシーの確保
* 訪日外国人等の周遊行動への寄与
** 品川地区と六本木・赤坂地区を直線的に結ぶ効果により、約96万人/年の利用が見込めるとする
* 乗換利便性が高い動線の確保に向けた技術検討の実施への期待
** 品川駅構内での乗り換え客が8 - 9万人/日増加する。ただし、駅が混雑しているのは港南口方面であり、駅が設置されるのは高輪口のため大きな懸念事項にはならないとしている。
なお、上記検討会で営業主体として想定されている東京メトロは、都による計画が発表された2015年7月には[[東京新聞]]の取材に対して、「近隣にある南北線の他の駅はトンネル構造上、分岐が難しい。白金高輪止まりとなっている電車を品川へ流すことができるので、運行面も合理的な場所だ」<ref group="新聞">『東京新聞』2015年7月11日付朝刊1面</ref>とコメントしている。一方で、答申発表後の[[日本経済新聞]]の取材には「新線の整備に関して、大きなリスクを負う整備主体にはなりえない」ともコメントしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO02229140S6A510C1L83000?channel=DF220420167266|title=品川に初の地下鉄 六本木と結びにぎわい創出 首都圏鉄路、交通審答申から(4)|date=2016-05-26|publisher=日経BP社|work=NIKKEI STYLE|accessdate=2021-02-08|archivedate=2021-02-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208074823/https://style.nikkei.com/article/DGXMZO02229140S6A510C1L83000?channel=DF220420167266}}</ref>。2017年に就任した第3代社長の[[山村明義 (鉄道技術者)|山村明義]]は「2008年に開業した副都心線を最後に新線建設は行わない方針だ」と従来の方針を堅持する一方、「(国や都から)もし協力を求められたら、経営に悪影響を及ぼさない範囲で行う」という方針であると語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/186859?page=2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201025051459/https://toyokeizai.net/articles/-/186859?page=2|title=東京メトロ社長「私も地下通路で道に迷う」 巨大私鉄は上場や都営との統合にどう臨む|date=2017-09-04|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|page=2|accessdate=2021-04-11|archivedate=2020-10-25}}</ref>。
延伸先となる品川駅では、駅設置予定の国道15号の直上に大規模な広場を作る計画があるが、地下鉄建設により手戻りとなる恐れがあり、国土交通省東京国道事務所による「国道15号・品川駅西口駅前広場整備事業計画検討会」の[[岸井隆幸]]座長(「東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会」座長も兼任)は、「地下鉄の建設主体も運営主体もまだはっきりしていないので、国交省には早く決めてもらいたい」と発言している<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37360940V01C18A1000000/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181113125513/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37360940V01C18A1000000/|title=品川駅前に巨大広場、地下鉄延伸がネックになる恐れ|newspaper=日本経済新聞|date=2018-11-13|accessdate=2020-11-16|archivedate=2018-11-13}}</ref>。
事業費は2019年時点の試算で800億円であるが、建築資材や人件費の高騰で膨らむ見込みとなり、事業費の4分の3を国や都が支援し、東京メトロの借入金には[[財政投融資]]を充てる方針としている<ref group="新聞" name="tokyo20211225">{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/150926|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211226094432/https://www.tokyo-np.co.jp/article/150926|title= 東京メトロ延伸へ出発進行 有楽町線・南北線で2030年代開業目指す 政府が調査費|newspaper=東京新聞|date=2021-12-25|accessdate=2021-12-26|archivedate=2021-12-26}}</ref>。
=== 沿革 ===
2014年7月、都が公表した「品川駅・[[田町駅]]周辺まちづくりガイドライン2014」では、品川駅を東西に貫く鉄道新線を検討することが盛り込まれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/knp/news/20140825/674575/?P=2|title=東京大改造「新東京」名乗るのは品川か新駅か|page=2|date=2014-08-27|publisher=日経BP社|work=日経コンストラクション|accessdate=2021-02-08|archivedate=2021-02-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208075327/https://xtech.nikkei.com/kn/article/knp/news/20140825/674575/?P=2}}</ref>。
2015年7月10日、都は「広域交通ネットワーク計画について ≪交通政策審議会答申に向けた検討のまとめ≫」<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.metro.tokyo.jp/INET/KONDAN/2015/07/DATA/40p7a100.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160426205802/http://www.metro.tokyo.jp/INET/KONDAN/2015/07/DATA/40p7a100.pdf|title=広域交通ネットワーク計画について ≪交通政策審議会答申に向けた検討のまとめ≫|publisher=東京都|date=2015-07|archivedate=2016-04-26|accessdate=2021-02-08}}</ref>を発表。その中の「整備について検討すべき路線」のひとつとして盛り込まれた<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASH7B5F07H7BUTIL02T.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150711010056/http://www.asahi.com/articles/ASH7B5F07H7BUTIL02T.html|title=都が新しい地下鉄構想 臨海部発と品川発の2路線|newspaper=朝日新聞|date=2015-07-11|accessdate=2020-11-16|archivedate=2015-07-11}}</ref>。当時の[[東京都知事]]の[[舛添要一]]は、「都市集積の進む品川と都心部との間はあまり便利が良くないので、それを結ぶ路線を今後検討すべき路線として抽出した」と説明している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2015/150710.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150717011736/http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2015/150710.htm|title=知事の部屋 > 舛添知事定例記者会見(平成27年7月10日)|archivedate=2015-07-17|accessdate=2022-04-09|publisher=東京都|language=日本語|deadlinkdate=2022年4月}}</ref>。
2016年4月に出された[[交通政策審議会答申第198号]]<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.mlit.go.jp/common/001128513.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208080833/https://www.mlit.go.jp/common/001128513.pdf|title=東京圏における今後の都市鉄道のあり方について(案)|work=東京圏における今後の都市鉄道のあり方に関する小委員会|publisher=国土交通省|date=2016-04-20|archivedate=2021-02-08|accessdate=2021-02-08}}</ref>では、「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」として取り上げられた。
2018年5月15日、国土交通省による「東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会」の第1回検討会が行われ、東京8号線(有楽町線)[[豊洲駅]] - [[住吉駅 (東京都)|住吉駅]]間延伸(「[[東京直結鉄道]]」参照)とともに検討会による調査対象路線に選ばれた<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.mlit.go.jp/common/001244653.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208081128/https://www.mlit.go.jp/common/001244653.pdf|archivedate=2021-02-08|title=<東京圏における国際競争力強化に資する鉄道ネットワークに関する検討会> 調査対象路線(案)について|page=13|work=国土交通省|accessdate=2021-02-08}}</ref>。東京メトロは完全民営化方針を理由に事業主体となることに消極的な姿勢を示していたが、2021年7月8日行われた第5回小委員会と、同年7月15日に示された同検討会の答申において、東京メトロが主体となって整備を進めるのが適切だとする素案を示すとともに、国や東京都が建設費を補助する方向性を示した<ref group="報道" name="milt20210715">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001414998.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210715022958/https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001414998.pdf|title=東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等について(答申)|date=2021-07-15|archivedate=2021-07-15|accessdate=2021-07-25|publisher=国土交通省交通政策審議会|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA082EH0Y1A700C2000000/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210710104639/https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA082EH0Y1A700C2000000/|title=東京メトロの延伸・新線、国と都が建設費支援へ|newspaper=日本経済新聞|date=2021-07-08|accessdate=2021-07-10|archivedate=2021-07-10}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.kensetsunews.com/archives/591972|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210801014445/https://www.kensetsunews.com/archives/591972|title=有楽町線延伸と都心部・品川地下鉄構想/早期事業化を答申/事業主体 東京メトロが適切/交政審|newspaper=建設通信新聞|date=2021-07-16|accessdate=2021-08-01|archivedate=2021-08-01}}</ref><ref name="NHK20210715">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210715/k10013141171000.html|title=地下鉄有楽町線など延伸 “東京メトロ主体で” 審議会答申|date=2021-07-15|website=NHK NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|accessdate=2021-08-01|archivedate=2021年8月1日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210801014741/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210715/k10013141171000.html}}</ref>。国土交通省は2022年(平成4年)度当初予算案に都市鉄道整備事業費補助(地下高速鉄道)において「都心部・品川地下鉄整備」として事業予算を計上、[[環境基本法|環境基準評価]]に着手する見通しとなった<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/page/content/001447038.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220109224340/https://www.mlit.go.jp/page/content/001447038.pdf|title=令和4年度 鉄道局関係予算決定概要|date=2021-12|archivedate=2022-01-09|pages=6 - 7|accessdate=2022-01-18|publisher=国土交通省鉄道局|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220108/k10013420831000.html|title=東京メトロ 有楽町線と南北線 延伸へ 2030年代半ば開業を想定|date=2022-01-08|website=NHK NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|accessdate=2022-01-09|archivedate=2022年1月9日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220109160346/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220108/k10013420831000.html}}</ref>。東京メトロは[[2022年]](令和4年)[[1月28日]]に品川 - 白金高輪間約2.5 kmの鉄道事業許可を[[国土交通大臣]]に申請し<ref group="報道" name="metro20220128" />、同年[[3月28日]]に第一種鉄道事業の許可を受けた<ref group="報道" name="milt20220328" /><ref group="報道" name="metro20220328" />。開業時期は[[2030年]]代半ばで、事業費は1,310億円を予定している<ref group="報道" name="metro20220128" />。
2022年6月初旬に、東京都と東京地下鉄は品川 - 白金高輪間の延伸に関する都市計画素案の説明会の開催を発表し、そのなかで詳細ルートが明らかになった<ref name="aramasi">{{Cite web|和書|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/setsumeikai_07gou01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220603191800/https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/setsumeikai_07gou01.pdf|title=都市計画素案説明会のお知らせ 東京都市計画 都市高速鉄道第7号線 東京メトロ南北線の分岐線(品川〜白金高輪間)計画のあらまし|archivedate=2022-06-03|accessdate=2022-06-10|publisher=東京都/東京地下鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref group="新聞" name="kensetsunews20220610">{{Cite news|url=https://www.kensetsunews.com/archives/702696|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220610121845/https://www.kensetsunews.com/archives/702696|title=環4など直下に新線/東京メトロ南北線(品川〜白金高輪)|newspaper=建設通信新聞|date=2022-06-06|accessdate=2022-06-10|archivedate=2022-06-10}}</ref>。品川駅(仮称)を出た路線は大きく西へカーブし、2032年度の完成予定で工事が行われる[[東京都市計画道路幹線街路環状第4号線|環状4号線]]の下を走り[[都営地下鉄浅草線]][[高輪台駅]]の北側をかすめた後、南北線(都営三田線)の白金台駅の南側で北東へ向きを変え、[[東京都道312号白金台町等々力線|目黒通り]]の下を経て、白金高輪駅に至るルートである<ref group="新聞" name="kensetsunews20220610" />。駅間は[[シールドトンネル|複線シールド工法]]、品川駅や折り返し設備は[[トンネル#開鑿(開削)工法|開削工法]]が採用される予定<ref name="keikaku_ pamphlet" />。また、品川駅は1面2線として建設される予定<ref name="keikaku_ pamphlet">{{Cite web|和書|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/keikaku_07gou03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220620102813/https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/keikaku_07gou03.pdf|title=東京都市計画 都市高速鉄道第7号線 東京メトロ南北線の分岐線(品川〜白金高輪間)計画のあらまし|archivedate=2022-06-20|accessdate=2022-06-20|publisher=東京都/東京地下鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
== その他 ==
{{出典の明記|section=1|date=2018年10月14日 (日) 08:33 (UTC)}}
* 半蔵門線と同じく線内に地上区間が存在せず、すべての駅が地下にある。この2路線以外の東京メトロの路線はどの路線にも地上駅が最低1つはある<ref group="注" name="tika"></ref>。
* 1994年の開業3周年記念イベントでは、南北線専用の一日乗車券として「南北線3周年フリーきっぷ」という[[特別企画乗車券]]が発売された。
* 麻布十番 - 六本木一丁目間で[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]と交差するが、交差する地点([[飯倉 (東京都港区)|飯倉片町]]交差点直下)に南北線・日比谷線とも駅はなく乗り換えはできない。なお、[[森ビル]]が建設を進め、2023年秋に完成する[[麻布台ヒルズ]]の街区内に、六本木一丁目駅と日比谷線の[[神谷町駅]]を結ぶ地下通路が整備される予定であるが<ref name="project">{{Cite web|和書|url=https://www.mori.co.jp/projects/toranomon_azabudai/ |title=麻布台ヒルズ| accessdate=2023-06-21|publisher=森ビル株式会社}}</ref>、両駅が乗り換え駅として指定されるかは不明である。
* 東京メトロの路線では、銀座線・丸ノ内線とともに[[女性専用車両]]の設定がない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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=== 報道発表資料 ===
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=== 新聞記事 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_nanboku.html/|date=2002-03-31|title=東京地下鉄道南北線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=namboku}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_chiyoda.html/|date=1983-06-30|title=東京地下鉄道千代田線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Chiyoda-Con}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_yurakucho.html/|date=1996-07-31|title=東京地下鉄道有楽町線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Yurakucho-Const}}
* {{Cite book|和書|date=1996-12|title=幻の地下鉄車庫・引込線 住民運動勝利への道程|publisher=地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会|ref=train-shed}}
* 『MY LINE 東京時刻表』各号(交通新聞社)
* 交通新聞社『鉄道ダイヤ情報』2001年2月号 - 特集「東京急行電鉄2001』
* {{Cite journal|和書|author=増田泰博、佐藤公一、楠居利彦|date=2004-09-01|title=特集:東京メトロ|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=44|issue=第9号(通巻521号)|pages=pp.9 - 68|oclc=61102288|publisher=[[交友社]]|ref=RF521}}
* {{Cite journal ja-jp |author=[[佐藤信之 (評論家)|佐藤信之]] |year=2001 |month=4 |title=◎鉄道・軌道整備に対する助成制度の概要◎事例紹介28 東京を貫く11番目の地下鉄路線 帝都高速度交通営団南北線について |journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻414号 |pages= 144-146 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] |ref = RJ414 }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tokyo Metro Namboku Line}}
* [https://www.tokyometro.jp/station/line_namboku/ 南北線/N | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
* [https://web.archive.org/web/20211105161734/https://www.chikahaku.jp/contents/event/special/ex2021/0119_line_namboku_20th/spex_page01.html 地下鉄博物館特別展「南北線全通20周年記念展」](インターネットアーカイブ・2021年時点の版)
{{東京の地下鉄路線}}
{{デフォルトソート:とうきようめとろなんほくせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|なんほく]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道路線|なんほく]]
[[Category:東京都の交通]]
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利益団体
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利益団体(りえきだんたい、英: interest group)とは、政党以外に共通の目標や利益を持ち、その目標の実現や利益の確保のために社会や政治に影響を与えようとする団体である。圧力団体(あつりょくだんたい)、利益集団(りえきしゅうだん)、プレッシャー・グループともいう。会員同士の親睦や互助を行なったり、会員の団結による社会的提言や社会貢献、研究も行う。しばしば議会への影響力拡大のために組織内議員を擁し、それが一政党の過半数を占めることもある。
利益団体の具体的な活動形態として政治家や政党への献金(政治献金)、請願、票集め、パブリック・コメントにおける政策提言や情報提供、各種メディアを通じた広告キャンペーンの展開、街頭行動、専門的な研究、会員同士の交流や互助活動などがある。
ロビー活動と呼ばれる政治の院外活動に関して、日本では、利益団体が議員を通して行政・官僚へ働きかけることが多い。利益団体などの社会的共同体の動きを重視する思想をコーポラティズムという。
利害関係者として、立法府の公聴会、中央政府や地方政府の懇談会・審議会などに公述人や専門委員を輩出するなどの役目もある。
国際機関においても利益団体が諮問機関に加わって活動している。例えば国際連合の国際連合経済社会理事会や欧州連合の経済社会評議会 (EU)のケースがある。
日本の例としては厚生労働省内に設置された労働政策審議会では、労働者代表として日本労働組合総連合会(連合)系の労組の役員が、使用者代表として日本経済団体連合会(経団連)が参加している。
利益団体は時に対立しあう。一例を挙げる。
アメリカで発達し、利益団体が政治に与える影響の強さを示すエピソードとしてしばしば挙げられるものに、銃の所持の問題がある。銃による犯罪や事故が相次ぐアメリカでは、犯罪銃規制を強化しようとする動きがあるが、全米ライフル協会は政治献金や広告キャンペーンを通じてこれに反対し、一般人による銃の所持を規制しないように働きかけている。
政党は有権者全ての利益を集約する機能(利益集約機能)が主なため、利益を表出する機能がほとんど失われているとされる。そこで、利益団体によって、その団体に属する者の利益を表出する(利益表出機能)ことにより政党の機能を補完しているという特徴がある。
反例として、比例代表制で選ばれる政党がある。比例代表制に於いては、一定以上の割合の有権者から支持を受ければ、他の大多数の有権者から非難を受けても議席を獲得することが出来る。このため、利益集約機能を一部の有権者に特化させ、集約機能が有権者全てに汎用化されている政党から議席を奪う戦略が有効となる。
よって、比例代表制を勝ち抜いた政党の多くは、有権者全体の利益を集約する機能を失っており、代わりに、特化先に選んだ有権者層の利益集約機能を得る。結果として、比例代表制に於ける政党と利益団体との違いは、利益を表出される有権者の、団体への加入タイミングのみである。前者では、団体側が表出利益を先に提示し、個々の有権者は自分の利益を正しく表出した団体への投票という形で加入する。後者では、有権者が先に特定の団体に加入し、団体は加入者の利益を集約する。
職能団体・業界団体・労働団体・各種の当事者団体等の利益団体が直接的に議会に団体の代表を送り出す方式もある。これを職能代表制や職能議会という。
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利益団体とは、政党以外に共通の目標や利益を持ち、その目標の実現や利益の確保のために社会や政治に影響を与えようとする団体である。圧力団体(あつりょくだんたい)、利益集団(りえきしゅうだん)、プレッシャー・グループともいう。会員同士の親睦や互助を行なったり、会員の団結による社会的提言や社会貢献、研究も行う。しばしば議会への影響力拡大のために組織内議員を擁し、それが一政党の過半数を占めることもある。
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{{出典の明記|date=2020年2月}}'''利益団体'''(りえきだんたい、{{lang-en-short|interest group}})とは、[[政党]]以外に共通の目標や利益を持ち、その目標の実現や利益の確保のために[[社会]]や[[政治]]に影響を与えようとする[[団体]]である。'''圧力団体'''(あつりょくだんたい)、'''利益集団'''(りえきしゅうだん)、'''プレッシャー・グループ'''ともいう。会員同士の[[親睦]]や[[相互扶助|互助]]を行なったり、会員の[[連帯|団結]]による[[アドボカシー|社会的提言]]や[[社会貢献]]、[[研究]]も行う。しばしば[[議会]]への影響力拡大のために[[組織内議員]]を擁し、それが一政党の過半数を占めることもある<ref name=":0" />。
==概要==
利益団体の具体的な活動形態として[[政治家]]や政党への献金([[政治献金]])、[[請願]]、票集め、[[パブリックコメント|パブリック・コメント]]における政策提言や情報提供、各種メディアを通じた[[広告]][[キャンペーン]]の展開、街頭行動、専門的な研究、会員同士の交流や互助活動などがある。
[[ロビー活動]]と呼ばれる政治の院外活動に関して、[[日本]]では、利益団体が議員を通して行政・[[官僚]]へ働きかけることが多い。利益団体などの[[社会的共同体]]の動きを重視する思想を[[コーポラティズム]]という。
[[ステークホルダー|利害関係者]]として、立法府の[[公聴会]]、中央政府や地方政府の[[懇談会]]・[[審議会]]などに公述人や専門委員を輩出するなどの役目もある。
国際機関においても利益団体が諮問機関に加わって活動している。例えば[[国際連合]]の[[国際連合経済社会理事会]]や[[欧州連合]]の[[経済社会評議会 (EU)]]のケースがある。
[[日本]]の例としては[[厚生労働省]]内に設置された[[労働政策審議会]]では、労働者代表として[[日本労働組合総連合会]](連合)系の労組の役員が、使用者代表として[[日本経済団体連合会]](経団連)が参加している。
利益団体は時に対立しあう。一例を挙げる。
* 労働者側の団体([[労働組合]])と使用者側の団体(経済団体または{{仮リンク|雇用者団体|en|Employers' organization|preserve=1}})の対立。
* 労働組合同士の路線の違い[[紅色組合]]と[[御用組合]]の対立など。)。
* [[職能団体]]や[[事業者団体]]の間での縄張り争い、利権争い。
* [[環境保護団体]]と経済団体の対立。
* [[ポリティカル・コレクトネス]]の遵守を求める[[人権団体|人権派]]と自らの信仰を優先する[[宗教右派]]の対立。
* [[プロライフ]]団体と[[プロチョイス]]団体の対立。
アメリカで発達し、利益団体が政治に与える影響の強さを示すエピソードとしてしばしば挙げられるものに、[[銃]]の所持の問題がある。銃による犯罪や事故が相次ぐアメリカでは、犯罪銃規制を強化しようとする動きがあるが、[[全米ライフル協会]]は政治献金や広告キャンペーンを通じてこれに反対し、一般人による銃の所持を規制しないように働きかけている。
== 選挙との関係 ==
[[政党]]は有権者全ての利益を集約する機能(利益集約機能)が主なため、利益を表出する機能がほとんど失われているとされる。そこで、利益団体によって、その団体に属する者の利益を表出する(利益表出機能)ことにより政党の機能を補完しているという特徴がある。
反例として、[[比例代表制]]で選ばれる政党がある。比例代表制に於いては、一定以上の割合の有権者から支持を受ければ、他の大多数の有権者から非難を受けても議席を獲得することが出来る。このため、利益集約機能を一部の有権者に特化させ、集約機能が有権者全てに汎用化されている政党から議席を奪う戦略が有効となる。
よって、比例代表制を勝ち抜いた政党の多くは、有権者全体の利益を集約する機能を失っており、代わりに、特化先に選んだ有権者層の利益集約機能を得る。結果として、比例代表制に於ける政党と利益団体との違いは、利益を表出される有権者の、団体への加入タイミングのみである。前者では、団体側が表出利益を先に提示し、個々の有権者は自分の利益を正しく表出した団体への投票という形で加入する。後者では、有権者が先に特定の団体に加入し、団体は加入者の利益を集約する。
[[職能団体]]・[[業界団体]]・[[労働団体]]・各種の[[当事者団体]]等の利益団体が直接的に議会に団体の代表を送り出す方式もある。これを[[職能代表制]]や職能議会という。
== 主な利益団体の種類 ==
* [[ギルド]]
* [[労働組合]]
* [[職能団体]]
* [[経済団体]]
**[[業界団体]]
**[[全国生活衛生同業組合中央会|同業組合]]
**[[事業者団体]]
**[[協業組合]]
**[[商工組合]]
* [[協同組合]]
**[[生活協同組合]]
**[[労働者協同組合]]
**[[農業協同組合]]
**[[漁業協同組合]]
**[[森林組合]]
* [[宗教団体]]
* [[市民団体]]
** [[人権団体]]
** [[中間支援組織]]
** [[非政府組織|NGO]]・[[NPO]]
* [[文化団体]]
**[[学術団体]]
**[[教化団体]]
* [[医療]]・[[福祉]]の団体
**[[全日本病院協会|病院協会]]
**[[社会福祉協議会]]
* [[地方自治]]に関する団体
**[[地方六団体]]
* [[学生団体]]
* [[消費者団体]]
**[[借家人運動|借家人組合]]
* [[納税者団体]]
* [[自然保護団体]]
** [[環境保護団体]]
** [[動物保護団体]]
* [[農民組合]]
* [[ギルド]]・[[株仲間]]
* [[当事者団体]]
** 各種の[[自治会]]
** その国における[[先住民族]]や[[少数民族]]による団体
** その国における外国人の団体
** [[被差別民]]の団体
** [[障害者団体]]
** [[患者支援団体]]
** [[社交界]]・[[家柄|門地]]や[[氏族]]に関する団体
** その国における外国人の団体
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** [[ゲイ・コミュニティ|LGBTコミュニティ]]
** [[男性団体]]
** 世代に関する団体
***[[児童会]]
***[[青年団]]
***[[高齢者団体]]など。
** [[戦争]]や[[紛争]]や[[事件]]、[[災害]]や[[公害]]における[[被災者]]・[[避難|避難者]]・[[難民]]らが結成した団体
***[[難民団体]]・[[被災者団体]]・[[被爆者]]の団体、[[拉致被害者]]の団体、[[被害者]]の会
== 参考文献 ==
*{{kotobank|プレッシャー・グループ}}[[日本大百科全書]](ニッポニカ)「プレッシャー・グループ」の解説。
== 関連図書 ==
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==関連項目==
*[[世界の利益団体一覧]]
*[[日本の利益団体一覧]]
*[[ステークホルダー|ステークホルダー(利害関係者)]]・[[知識人|有識者]]
* [[国際機関]]の[[諮問機関]]
** [[国際連合経済社会理事会]] - [[経済的、社会的及び文化的権利委員会]]
** [[経済社会評議会 (EU)]]
* [[日本の行政機関]]の諮問機関
** [[審議会]]・[[懇談会]]
*[[コーポラティズム]]
* [[日本型社会主義]]
*[[ノイジー・マイノリティ|ノイジーマイノリティ]]
*[[アドボカシー]]
*[[シンクタンク]]
*[[ロビー活動]]
*{{仮リンク|雇用者団体|en|Employers' organization|preserve=1}}
*{{仮リンク|雇用者団体の一覧|en|List of employer associations|preserve=1}}
*[[ギルド]]・[[株仲間]]
*[[組織 (社会科学)]]・[[社会集団]]・[[群れ]]
*[[組合]]・[[組]]・[[結社]]
*[[総評]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=総評とは|url=https://kotobank.jp/word/%E7%B7%8F%E8%A9%95-89644|website=コトバンク|accessdate=2021-10-20|language=ja|first=デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典 第2版,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),旺文社日本史事典|last=三訂版,世界大百科事典内言及|quote=さらに進んで圧力団体がその幹部を議員候補者として政党に提供することも,まれではない。この点で際だっているのが日本の総評で,社会党の衆参両院議員の過半数は,現在総評出身者によって占められている。圧力団体活動の第2の側面は,議会に対する〈圧力活動〉である。}}</ref>
*[[中間団体]](ちゅうかんだんたい) - 類似する概念。ヨーロッパの[[中世|中世社会]]で誕生した言葉であり、「国家と個人の中間にある団体」を指す。現代において例えるならば、[[商工会議所]]や[[労働組合]]、[[宗教団体]]や[[職能団体|職業団体]]、[[町内会|地縁組織]]、[[非政府組織|NGO]]や[[NPO]]などが挙げられる<ref>「個人化が進む今だからこそ、中間集団の持つ可能性に期待」新雅史著。月刊誌『[[第三文明社|第三文明]]』2013年10月号</ref>。
== 脚注 ==
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マッチ棒パズル
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マッチ棒パズル(マッチぼうパズル)は、マッチ棒を使ったパズルである。解くには水平思考が求められる。マッチ棒は1本の直線の代用品としてのみ考えられ、爪楊枝や(未使用の)鉛筆など固い材質でできた均等な長さの棒状であるという点でマッチと共通するもの、さらにはマッチ棒をかたどった模型や絵をマッチ棒の代用として使っても大半の問題は成立する。しかしマッチ棒の特性を利用した問題もまれに見られる。必要となるのはマッチ棒(あるいはその代用品)のみであるため、パズルとしては手軽かつ古典的なものである。
マッチ棒パズルの問題は通常、最初の形を表す図と、制約条件および最終的な目的を示した文章で構成される。「マッチ棒○本で□□を作れ」など制約条件と目的のみが示される場合もある。
制約条件として記されるのは触れることのできるマッチの本数と、それをどう動かすか(「移動する」、「取り除く」、「加える」の3種類)のみであることが多いが、特に指示が無い限り、原則として、以下のような暗黙の制約条件がある。
以上の「暗黙の制約条件」は解答が出題者の意図から逸脱するのを防いでいる。特に「折る」についてはマッチの本数が増えることで解答が容易になることがあるため、明示される場合も多い。ただし必ずしも絶対的なものではなく、問題によっては「マッチであること」を利用した解答や三次元的な解答、それ以外にも多分にとんちの利いた解答を求めるなど、「マッチパズルならでは」の状況もしばしば見られる。
出題される問題にはいくつかのパターンがある。
その他図形や数字の問題ほど多くはないが並べ替えて言葉を作る問題や、動物や建物などを変形する問題も出題される。
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マッチ棒パズル(マッチぼうパズル)は、マッチ棒を使ったパズルである。解くには水平思考が求められる。マッチ棒は1本の直線の代用品としてのみ考えられ、爪楊枝や(未使用の)鉛筆など固い材質でできた均等な長さの棒状であるという点でマッチと共通するもの、さらにはマッチ棒をかたどった模型や絵をマッチ棒の代用として使っても大半の問題は成立する。しかしマッチ棒の特性を利用した問題もまれに見られる。必要となるのはマッチ棒(あるいはその代用品)のみであるため、パズルとしては手軽かつ古典的なものである。
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{{出典の明記|date=2010年11月}}
[[File:Gyufarejtveny_1.JPG|thumb|マッチ棒パズルの例<br />図からマッチを5本取り除いて、正方形を3個にする。(→[[:File:Gyufarejtveny_2.JPG|解答例]]{{Efn|取り方を上下逆にしても可。}})]]
'''マッチ棒パズル'''(マッチぼうパズル)は、[[マッチ|マッチ棒]]を使った[[パズル]]である。解くには[[水平思考]]が求められる。マッチ棒は1本の直線の代用品としてのみ考えられ、[[爪楊枝]]や(未使用の)[[鉛筆]]など固い材質でできた均等な長さの棒状であるという点でマッチと共通するもの、さらにはマッチ棒をかたどった模型や絵をマッチ棒の代用として使っても大半の問題は成立する。しかしマッチ棒の特性を利用した問題もまれに見られる。必要となるのはマッチ棒(あるいはその代用品)のみであるため、パズルとしては手軽かつ古典的なものである。
== 概要 ==
マッチ棒パズルの問題は通常、最初の形を表す図と、制約条件および最終的な目的を示した文章で構成される。「マッチ棒○本で□□を作れ」など制約条件と目的のみが示される場合もある。
制約条件として記されるのは触れることのできるマッチの本数と、それをどう動かすか(「移動する」、「取り除く」、「加える」の3種類)のみであることが多いが、特に指示が無い限り、原則として、以下のような暗黙の制約条件がある。
* マッチ以外の物を使用してはならない。
* 制約条件に示された以外のマッチの動かし方をしてはならない。
* 触れるマッチの数が過剰であってはいけないし、不足があるのも認められない。
* 「マッチであること」を利用した解答は認められない。具体的には、マッチの軸を折る、縦に分割する、火を付けるなどの行為、その他火薬部分が丸みを帯びていることや軸が直方体であることを利用した解答をしてはならない。
* マッチの軸の長さはすべて同じとする。(問題に示された場合を除き)あらかじめマッチの軸の長さを調節しておいて、それを利用した解答は認められない。
* 最終的な形で使うよう指示されたマッチをすべて使うものとし、わずかな過不足も許されない。「わずかな過不足も」と書いたのは、1本余る、もしくは足りないのは当然として、図形とは関係の無いわずかなはみ出しや不足も認められていないという意味である。
* マッチを2本以上重ねたり密着させたりすることでまとめて1本であると見なすようにすることはできない(交差させることができないという意味ではない)。
* 一方で規定の操作を行った後、逆側から見る、右もしくは左90°回転させて見るなど「視点の変更」は制限されない。これを利用した解答も多く見られる。
以上の「暗黙の制約条件」は解答が出題者の意図から逸脱するのを防いでいる。特に「折る」についてはマッチの本数が増えることで解答が容易になることがあるため、明示される場合も多い。ただし必ずしも絶対的なものではなく、問題によっては「マッチであること」を利用した解答や三次元的な解答、それ以外にも多分にとんちの利いた解答を求めるなど、「'''マッチ'''パズルならでは」の状況もしばしば見られる。
== 問題形式 ==
出題される問題にはいくつかのパターンがある。
; 図形に関する問題
: マッチ棒で作られた図形を変形するタイプの問題で、さらにいくつかの種類に分けられる。
:# 指定された図形を規定個数作る。
:# 提示された図形を分割する。
:# 図形を変形して指定された面積にする。
: 1.で指定される図形には[[正方形]]や[[三角形|正三角形]]といった単純な形が使われることが多い。3.のように面積が絡む問題では、三辺が 3:4:5 になる直角三角形もよく用いられる。
:; 作図問題
:: マッチ棒を利用して(理論上)正確な作図をする問題がある。一例として、「角が90度の四角形(=正方形)」の作図方法を下に挙げる。
; 数字に関する問題
: (右辺と左辺で計算結果が違うなど)正しくない式が与えられ、規定された操作により式を正しくする。数字は[[ローマ数字]]か[[デジタル数字]]が用いられるのが一般的である。「=」を含む式の場合、「=」の上に他の任意の1本を交差させ「≠」とすれば形式上は成立することとなるが、暗黙のうちに(あるいは明示的に)禁止となっている。
その他図形や数字の問題ほど多くはないが並べ替えて言葉を作る問題や、動物や建物などを変形する問題も出題される。
<gallery>
File:Carre-allumettes.png|マッチ棒による正方形の作図。
File:Matchstickarithmetic.jpg|ローマ数字を利用した問題。<br />上下共に1本動かして正しい式にする。
File:Move 1 match2.svg|デジタル数字を利用した問題。<br />1本動かして正しい式にする。
File:My engagement on Instagram is dropping.jpg|マッチ棒で文字を作った例。
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== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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埼玉高速鉄道線
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埼玉高速鉄道線(さいたまこうそくてつどうせん)は、東京都北区の赤羽岩淵駅から埼玉県川口市を通りさいたま市緑区の浦和美園駅までを結ぶ埼玉高速鉄道の鉄道路線。埼玉スタジアム線(さいたまスタジアムせん、英語: Saitama Stadium Line)という愛称が付けられている。
駅ナンバリングで使われる路線記号はSRで、直通運転を行っている東京地下鉄(東京メトロ)南北線と番号部分に限り連番(目黒駅を01とみなす)となっている。
東京メトロ南北線の終点駅である赤羽岩淵駅から埼玉県に延長する形で浦和美園駅に至る路線である。起点の赤羽岩淵駅および終点の浦和美園駅以外は、全ての駅が川口市に所在している。路線の大半は地下を通り、浦和美園駅及び隣接する車両基地のみ地上にある。
JR東北本線(京浜東北線・宇都宮線)と東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)・日暮里・舎人ライナーに挟まれた、国道122号(岩槻街道)や日光御成街道沿線の川口市東部・北部及びさいたま市東部と都心を結ぶ路線としての役割を担っている。特に本路線の開業まで鉄道が通っていなかった旧鳩ヶ谷市は、バスのみだった交通状況が大きく改善された。また、浦和美園駅は「埼玉スタジアム2002」への主要な交通手段として利用されると共に、駅周辺は「みそのウィングシティ」と名付けられた大規模な区画整理が行われた。
2001年の開業以来6両編成での運転となっていたが、全駅のホームが8両分確保されており、2022年4月より一部列車で8両編成の運転が開始された。
東京地下鉄管理の赤羽岩淵駅をのぞき、各駅にレインボーカラーを使用したステーションカラーを採用し、それをホームドアなどに配色している。また、ベンチにも工夫を凝らしている。発車メロディは赤羽岩淵駅を除く全ての駅で南北線の旧発車メロディ(A線、B線)を使用している。
本路線は荒川を横断する鉄道で唯一地下を抜けている(赤羽岩淵 - 川口元郷間の国道122号新荒川大橋すぐ西側)。線路トンネルの下部には、環境用水の導水管が川口元郷駅付近から12 kmにわたって併設されており、水質の悪い綾瀬川や芝川など4つの河川に荒川の水を引き込み、水質改善の試みが行われている。
浦和美園駅から岩槻駅を経て蓮田駅に至る路線延伸が検討されている(「今後の予定」の節参照)。
直通先の南北線や東急線からの連絡乗車券などは、路線名ではなく事業者(略称で「埼玉高速」)の路線を指す「埼玉高速線」と案内および表示されている。なお、東京メトロ東西線の直通先である「東葉高速線」はそれ自体が正式名称(事業者「東葉高速鉄道」の路線「東葉高速線」)であるのに対して、本路線は「埼玉高速鉄道線」が正式名称(事業者「埼玉高速鉄道」の路線「埼玉高速鉄道線」)である。
2002年3月には路線愛称の公募が行われ、「彩の国スタジアム線」という路線愛称が付けられた。しかし、車内や駅構内の案内放送ではまったく呼称されていない上に利用客にも定着せず、埼玉高速鉄道側からも「埼玉高速鉄道線」での案内となっていた。
2015年4月、「彩の国スタジアム線」に代わる新たな路線愛称を公募して、社内選考により「埼玉南北線」「埼玉スタジアム線(埼スタ線)」「埼スタメトロライン」の3案に絞り込み、一般から最終投票を実施した。その結果、「埼玉スタジアム線(埼スタ線)」が選ばれ、11月に使用を開始した。以降、案内放送を含む大半の旅客向け案内では「埼玉スタジアム線」、加えて一部の広報物では略称の「埼スタ線」を用いる形態がとられている。
本路線は、1972年(昭和47年)の都市交通審議会答申第15号において、東京7号線の埼玉方面への延伸区間として「川口市中央部...浦和市東部間」が定められたのが始まりである。その後1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号では、埼玉県内は「鳩ヶ谷市中央経由で東川口から浦和市東部」へと変更された。1992年(平成4年)に埼玉県、沿線3市および帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄〈東京メトロ〉)等により第三セクター「埼玉高速鉄道株式会社」が設立され、1995年(平成7年)に着工、2001年(平成13年)3月28日に赤羽岩淵 - 浦和美園間が開業した。
全体の建設費用は2591億円、1キロメートルあたり170億円である。赤羽岩淵駅から鳩ヶ谷駅終端の6.2 km間は地下高速鉄道整備事業費補助金対象工事の対象となり、事業主体である埼玉高速鉄道株式会社が自ら建設主体となって帝都高速度交通営団に施工を委託した。鳩ヶ谷駅終端から浦和美園駅間の8.4 km間はP線対象工事となり、鳩ヶ谷駅終端から浦和美園駅始端の8.1 km間は建設主体である日本鉄道建設公団が施工した。浦和美園駅から車両基地の0.3 kmは日本鉄道建設公団が埼玉高速鉄道株式会社に施工を委託した。
定期列車はすべての列車が東京メトロ南北線と相互直通運転を行い、東急目黒線・東急新横浜線とも直通運転を行っている。日中を除く時間帯にはこれに加えて相鉄線への直通列車が設定されている。
日中は浦和美園発着の列車が毎時5本(内訳は2本が白金高輪発着、2本が日吉発着、1本が新横浜発着・東急線内急行運転)、12分間隔で運転される。朝時間帯には鳩ヶ谷発着の列車も運行されている。
東急線では急行列車の運転が行われており、赤羽岩淵方面行きの一部の列車が急行の種別を表示した上で運転されているが、当路線内および東京メトロ南北線内は各駅に停車する。当初は各駅停車においては行先のみ表示されていたが、2018年頃より一部列車で「各停」「各駅停車」と表示するようになった。
全線でATOによる自動運転およびワンマン運転を実施している。車内放送は東京メトロと同じく森谷真弓が担当している。
「埼玉スタジアム2002」でのサッカー試合開催日には臨時ダイヤが組まれ、列車が増発される。また試合終了後、浦和美園方面からは折り返し設備がある鳩ヶ谷行や市ケ谷行など、通常ダイヤでは運行されない行先の臨時列車も運行される。
過去には、臨時列車「みなとみらい号」が日吉駅から先の東急東横線を介して横浜高速鉄道みなとみらい線の元町・中華街駅まで直通運転を行っていた。
当路線の開業により、東急の車両が営業運転として初めて埼玉県内に乗り入れるようになった。
なお、東京都交通局6300形電車は通常時のほか事故や車両トラブル、ダイヤ乱れがあっても東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線の麻布十番駅 - 浦和美園駅間には乗り入れないが、試験のために浦和美園駅まで非営業列車であるものの走行入線記録があり、これらと並んでいる車両のパスネットも発売されていた。
東急新横浜線の開業により、相模鉄道(相鉄)の車両が営業運転として初めて埼玉県内に乗り入れるようになった。
各列車の車両の所属は列車番号で判別でき、列車番号末尾アルファベットの「S」が東京メトロ車両(30S - 78Sの偶数番号)、「M」が埼玉高速車両(80M - 98Mの偶数番号)、「K」が東急車両(01K - 48K)、「G」が相鉄車両(31G - 43G)となっている(「T」は都交通局車両で21T - 89Tの奇数番号)。
列車番号が6桁の数字で組み立てられる東急目黒線内では、上3桁が運用番号を表し、300番台は東京メトロ車両、500番台は埼玉高速車両、200番台は東急車両、600番台は相鉄車両となっており(400番台は都交通局車両)、一般の利用者は列車番号を『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄で確認することができる。
東急・相鉄両者の車両による運用は、三田線運用と南北線・埼玉高速線運用とで別々に組まれ、奇数番号(東急線内基準)が三田線運用、偶数番号(同)が南北線・埼玉高速線運用となっている。そのため、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:01Kと02K)を同一車両で運転されていることから一部の運用番号が欠番となっている。
各事業者間の走行距離調整の関係上、東急車・相鉄車は目黒線に乗り入れない列車(白金高輪折り返しなど)にも使用されている。
埼玉高速鉄道株式会社が設立された1992年時点の需要予測では、2000年度の1日平均輸送人員は231,000人と算出していた。この予測値は開業直前に下方修正し、開業翌年度にあたる2001年度の1日平均輸送人員を105,000人と予想していた。2004年度に146,000人まで増加し、以後は毎年2,000人ずつ増加すると予想していた。しかし、実際には2001年度の1日平均輸送人員は47,000人に留まり、開業直前に予想していた1日平均輸送人員の半分未満に留まった。
赤字路線ではあったものの、沿線人口の増加や駅機能の強化等を背景として、2008年(平成20年)度までは輸送人員が着実に増加した。その後のリーマンショックや東日本大震災の影響で2011年(平成23年)度まで定期外輸送人員が減少傾向にあったが、2012年(平成24年)度からは再度増加傾向に転じ、2015年度に1日平均輸送人員が開業以来初めて10万人を越えた。
開業以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
一日平均輸送人員の予測値と実績値を下表に示す。
埼玉高速鉄道では、PASMO導入前に独自のICカードが定期券のみで導入されていた。
2000年(平成12年)の運輸政策審議会答申第18号において、「2015年までの開業が適当な路線」として浦和美園 - 県営サッカースタジアム - 岩槻 - 蓮田の延伸(約13km)が挙げられている。なお、蓮田駅から先をさらに白岡市、久喜市、加須市を経由して羽生市まで延伸する構想もある。
2005年(平成17年)9月には、「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」が岩槻駅で東武野田線への直通運転も検討することとなり、大宮ルートと春日部ルートの2方向の案が検討されたが、東武野田線の設備等の構造により直接の乗り入れは不可能であり、東武野田線岩槻駅地下部に駅舎を建設する方向でまとまった。その後の延伸事業などについては資金の目処がついてからという最終答申が出ている。
その他、利用者の利便性向上などの理由で、埼玉高速鉄道線内で優等列車の運転を実施するかどうかを「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」などにおいて検討を行ってきたが、2012年(平成24年)3月13日に「地下鉄7号線延伸検討委員会」は延伸の可否自体について「一般的な目安に到達していない」とし、現時点では時期尚早との判断を下した。ただし、検討委員会は同時に「沿線地域の活性化・開発を進めることで、プロジェクトの評価を高めることは可能」とし、最終的な判断は埼玉県とさいたま市に委ねられることになった。これを受けてさいたま市は同年4月23日、市役所に「地下鉄7号線延伸実現方策検討会」を設置し、延伸実現に向けた課題の整理を開始した。10月1日、清水勇人さいたま市長は2012年度内としていた岩槻駅までの延伸事業着手の延期を表明、沿線のまちづくりを進めて5年後の着手を目指すこととなった。
なお、延伸計画区間のうち、浦和美園駅 - 埼玉スタジアム2002間に関しては、埼玉スタジアム2002が2020年に開催される予定の東京オリンピックにおいて、サッカー競技の会場となることから、2013年の開催決定段階ではオリンピックまでに早期延伸を要望する声もあった。
2016年の交通政策審議会による「交通政策審議会答申第198号」では、「地域の成長に応じた鉄道ネットワークの充実に資するプロジェクト」として位置付けられ、「課題」として「事業性に課題があるため、関係地方公共団体等において、事業性の確保に必要な需要の創出に繋がる沿線開発や交流人口の増加に向けた取組等を着実に進めた上で、事業計画について十分な検討が行われることを期待」との意見が付けられた。
2021年4月30日、埼玉県とさいたま市で岩槻延伸に向け連携、協力して取り組むことで合意したと発表した。
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"text": "JR東北本線(京浜東北線・宇都宮線)と東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)・日暮里・舎人ライナーに挟まれた、国道122号(岩槻街道)や日光御成街道沿線の川口市東部・北部及びさいたま市東部と都心を結ぶ路線としての役割を担っている。特に本路線の開業まで鉄道が通っていなかった旧鳩ヶ谷市は、バスのみだった交通状況が大きく改善された。また、浦和美園駅は「埼玉スタジアム2002」への主要な交通手段として利用されると共に、駅周辺は「みそのウィングシティ」と名付けられた大規模な区画整理が行われた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "2001年の開業以来6両編成での運転となっていたが、全駅のホームが8両分確保されており、2022年4月より一部列車で8両編成の運転が開始された。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "東京地下鉄管理の赤羽岩淵駅をのぞき、各駅にレインボーカラーを使用したステーションカラーを採用し、それをホームドアなどに配色している。また、ベンチにも工夫を凝らしている。発車メロディは赤羽岩淵駅を除く全ての駅で南北線の旧発車メロディ(A線、B線)を使用している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "本路線は荒川を横断する鉄道で唯一地下を抜けている(赤羽岩淵 - 川口元郷間の国道122号新荒川大橋すぐ西側)。線路トンネルの下部には、環境用水の導水管が川口元郷駅付近から12 kmにわたって併設されており、水質の悪い綾瀬川や芝川など4つの河川に荒川の水を引き込み、水質改善の試みが行われている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "浦和美園駅から岩槻駅を経て蓮田駅に至る路線延伸が検討されている(「今後の予定」の節参照)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "直通先の南北線や東急線からの連絡乗車券などは、路線名ではなく事業者(略称で「埼玉高速」)の路線を指す「埼玉高速線」と案内および表示されている。なお、東京メトロ東西線の直通先である「東葉高速線」はそれ自体が正式名称(事業者「東葉高速鉄道」の路線「東葉高速線」)であるのに対して、本路線は「埼玉高速鉄道線」が正式名称(事業者「埼玉高速鉄道」の路線「埼玉高速鉄道線」)である。",
"title": "名称・愛称"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2002年3月には路線愛称の公募が行われ、「彩の国スタジアム線」という路線愛称が付けられた。しかし、車内や駅構内の案内放送ではまったく呼称されていない上に利用客にも定着せず、埼玉高速鉄道側からも「埼玉高速鉄道線」での案内となっていた。",
"title": "名称・愛称"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "2015年4月、「彩の国スタジアム線」に代わる新たな路線愛称を公募して、社内選考により「埼玉南北線」「埼玉スタジアム線(埼スタ線)」「埼スタメトロライン」の3案に絞り込み、一般から最終投票を実施した。その結果、「埼玉スタジアム線(埼スタ線)」が選ばれ、11月に使用を開始した。以降、案内放送を含む大半の旅客向け案内では「埼玉スタジアム線」、加えて一部の広報物では略称の「埼スタ線」を用いる形態がとられている。",
"title": "名称・愛称"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "本路線は、1972年(昭和47年)の都市交通審議会答申第15号において、東京7号線の埼玉方面への延伸区間として「川口市中央部...浦和市東部間」が定められたのが始まりである。その後1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号では、埼玉県内は「鳩ヶ谷市中央経由で東川口から浦和市東部」へと変更された。1992年(平成4年)に埼玉県、沿線3市および帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄〈東京メトロ〉)等により第三セクター「埼玉高速鉄道株式会社」が設立され、1995年(平成7年)に着工、2001年(平成13年)3月28日に赤羽岩淵 - 浦和美園間が開業した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "全体の建設費用は2591億円、1キロメートルあたり170億円である。赤羽岩淵駅から鳩ヶ谷駅終端の6.2 km間は地下高速鉄道整備事業費補助金対象工事の対象となり、事業主体である埼玉高速鉄道株式会社が自ら建設主体となって帝都高速度交通営団に施工を委託した。鳩ヶ谷駅終端から浦和美園駅間の8.4 km間はP線対象工事となり、鳩ヶ谷駅終端から浦和美園駅始端の8.1 km間は建設主体である日本鉄道建設公団が施工した。浦和美園駅から車両基地の0.3 kmは日本鉄道建設公団が埼玉高速鉄道株式会社に施工を委託した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "定期列車はすべての列車が東京メトロ南北線と相互直通運転を行い、東急目黒線・東急新横浜線とも直通運転を行っている。日中を除く時間帯にはこれに加えて相鉄線への直通列車が設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "日中は浦和美園発着の列車が毎時5本(内訳は2本が白金高輪発着、2本が日吉発着、1本が新横浜発着・東急線内急行運転)、12分間隔で運転される。朝時間帯には鳩ヶ谷発着の列車も運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "東急線では急行列車の運転が行われており、赤羽岩淵方面行きの一部の列車が急行の種別を表示した上で運転されているが、当路線内および東京メトロ南北線内は各駅に停車する。当初は各駅停車においては行先のみ表示されていたが、2018年頃より一部列車で「各停」「各駅停車」と表示するようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "全線でATOによる自動運転およびワンマン運転を実施している。車内放送は東京メトロと同じく森谷真弓が担当している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "「埼玉スタジアム2002」でのサッカー試合開催日には臨時ダイヤが組まれ、列車が増発される。また試合終了後、浦和美園方面からは折り返し設備がある鳩ヶ谷行や市ケ谷行など、通常ダイヤでは運行されない行先の臨時列車も運行される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "過去には、臨時列車「みなとみらい号」が日吉駅から先の東急東横線を介して横浜高速鉄道みなとみらい線の元町・中華街駅まで直通運転を行っていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "当路線の開業により、東急の車両が営業運転として初めて埼玉県内に乗り入れるようになった。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "なお、東京都交通局6300形電車は通常時のほか事故や車両トラブル、ダイヤ乱れがあっても東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線の麻布十番駅 - 浦和美園駅間には乗り入れないが、試験のために浦和美園駅まで非営業列車であるものの走行入線記録があり、これらと並んでいる車両のパスネットも発売されていた。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "東急新横浜線の開業により、相模鉄道(相鉄)の車両が営業運転として初めて埼玉県内に乗り入れるようになった。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "各列車の車両の所属は列車番号で判別でき、列車番号末尾アルファベットの「S」が東京メトロ車両(30S - 78Sの偶数番号)、「M」が埼玉高速車両(80M - 98Mの偶数番号)、「K」が東急車両(01K - 48K)、「G」が相鉄車両(31G - 43G)となっている(「T」は都交通局車両で21T - 89Tの奇数番号)。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "列車番号が6桁の数字で組み立てられる東急目黒線内では、上3桁が運用番号を表し、300番台は東京メトロ車両、500番台は埼玉高速車両、200番台は東急車両、600番台は相鉄車両となっており(400番台は都交通局車両)、一般の利用者は列車番号を『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)の列車番号欄で確認することができる。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "東急・相鉄両者の車両による運用は、三田線運用と南北線・埼玉高速線運用とで別々に組まれ、奇数番号(東急線内基準)が三田線運用、偶数番号(同)が南北線・埼玉高速線運用となっている。そのため、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:01Kと02K)を同一車両で運転されていることから一部の運用番号が欠番となっている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "各事業者間の走行距離調整の関係上、東急車・相鉄車は目黒線に乗り入れない列車(白金高輪折り返しなど)にも使用されている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "埼玉高速鉄道株式会社が設立された1992年時点の需要予測では、2000年度の1日平均輸送人員は231,000人と算出していた。この予測値は開業直前に下方修正し、開業翌年度にあたる2001年度の1日平均輸送人員を105,000人と予想していた。2004年度に146,000人まで増加し、以後は毎年2,000人ずつ増加すると予想していた。しかし、実際には2001年度の1日平均輸送人員は47,000人に留まり、開業直前に予想していた1日平均輸送人員の半分未満に留まった。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "赤字路線ではあったものの、沿線人口の増加や駅機能の強化等を背景として、2008年(平成20年)度までは輸送人員が着実に増加した。その後のリーマンショックや東日本大震災の影響で2011年(平成23年)度まで定期外輸送人員が減少傾向にあったが、2012年(平成24年)度からは再度増加傾向に転じ、2015年度に1日平均輸送人員が開業以来初めて10万人を越えた。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "開業以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "一日平均輸送人員の予測値と実績値を下表に示す。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "埼玉高速鉄道では、PASMO導入前に独自のICカードが定期券のみで導入されていた。",
"title": "ICカードについて"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)の運輸政策審議会答申第18号において、「2015年までの開業が適当な路線」として浦和美園 - 県営サッカースタジアム - 岩槻 - 蓮田の延伸(約13km)が挙げられている。なお、蓮田駅から先をさらに白岡市、久喜市、加須市を経由して羽生市まで延伸する構想もある。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2005年(平成17年)9月には、「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」が岩槻駅で東武野田線への直通運転も検討することとなり、大宮ルートと春日部ルートの2方向の案が検討されたが、東武野田線の設備等の構造により直接の乗り入れは不可能であり、東武野田線岩槻駅地下部に駅舎を建設する方向でまとまった。その後の延伸事業などについては資金の目処がついてからという最終答申が出ている。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その他、利用者の利便性向上などの理由で、埼玉高速鉄道線内で優等列車の運転を実施するかどうかを「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」などにおいて検討を行ってきたが、2012年(平成24年)3月13日に「地下鉄7号線延伸検討委員会」は延伸の可否自体について「一般的な目安に到達していない」とし、現時点では時期尚早との判断を下した。ただし、検討委員会は同時に「沿線地域の活性化・開発を進めることで、プロジェクトの評価を高めることは可能」とし、最終的な判断は埼玉県とさいたま市に委ねられることになった。これを受けてさいたま市は同年4月23日、市役所に「地下鉄7号線延伸実現方策検討会」を設置し、延伸実現に向けた課題の整理を開始した。10月1日、清水勇人さいたま市長は2012年度内としていた岩槻駅までの延伸事業着手の延期を表明、沿線のまちづくりを進めて5年後の着手を目指すこととなった。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、延伸計画区間のうち、浦和美園駅 - 埼玉スタジアム2002間に関しては、埼玉スタジアム2002が2020年に開催される予定の東京オリンピックにおいて、サッカー競技の会場となることから、2013年の開催決定段階ではオリンピックまでに早期延伸を要望する声もあった。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2016年の交通政策審議会による「交通政策審議会答申第198号」では、「地域の成長に応じた鉄道ネットワークの充実に資するプロジェクト」として位置付けられ、「課題」として「事業性に課題があるため、関係地方公共団体等において、事業性の確保に必要な需要の創出に繋がる沿線開発や交流人口の増加に向けた取組等を着実に進めた上で、事業計画について十分な検討が行われることを期待」との意見が付けられた。",
"title": "今後の予定"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2021年4月30日、埼玉県とさいたま市で岩槻延伸に向け連携、協力して取り組むことで合意したと発表した。",
"title": "今後の予定"
}
] |
埼玉高速鉄道線(さいたまこうそくてつどうせん)は、東京都北区の赤羽岩淵駅から埼玉県川口市を通りさいたま市緑区の浦和美園駅までを結ぶ埼玉高速鉄道の鉄道路線。埼玉スタジアム線という愛称が付けられている。 駅ナンバリングで使われる路線記号はSRで、直通運転を行っている東京地下鉄(東京メトロ)南北線と番号部分に限り連番(目黒駅を01とみなす)となっている。
|
{{pp-vd|small=y}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Saitama Railway Logo.svg|30px|埼玉高速鉄道|link=埼玉高速鉄道]] 埼玉高速鉄道線
|路線色 = #345caa
|ロゴ = File:Saitama Stadium Line symbol.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = File:Saitama-Railway Urawa-Misono Station.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = [[浦和美園駅]]を発車する[[埼玉高速鉄道2000系電車|2000系電車]]<br>(2006年11月15日)
|通称 = 埼玉スタジアム線(埼スタ線)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[東京都]][[北区_(東京都)|北区]]、[[埼玉県]][[川口市]]、[[さいたま市]][[緑区_(さいたま市)|緑区]]
|起点 = [[赤羽岩淵駅]]
|終点 = [[浦和美園駅]]
|駅数 = 8駅
|輸送実績 =
|1日利用者数 =
|路線記号 = SR
|開業 = {{start date and age|2001|3|28}}
|所有者 = [[埼玉高速鉄道]]
|運営者 = 埼玉高速鉄道
|車両基地 = [[浦和美園車両基地]]
|使用車両 = [[#車両|車両]]を参照
|路線距離 = 14.6 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]],<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配 = 35 [[パーミル|‰]]<ref name="JOURNAL200106">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2001年6月号「都心直結の地下鉄新線埼玉高速鉄道」pp.62 - 65。</ref>
|最小曲線半径 = 248 m<ref name="JOURNAL200106"/>
|閉塞方式 = 車内信号式<ref name="JOURNAL200106"/>
|保安装置 = [[自動列車制御装置|CS-ATC]]
|最高速度 = 80 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 = File:Saitama Railway Linemap.svg
}}
'''埼玉高速鉄道線'''(さいたまこうそくてつどうせん)は、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]の[[赤羽岩淵駅]]から[[埼玉県]][[川口市]]を通り[[さいたま市]][[緑区 (さいたま市)|緑区]]の[[浦和美園駅]]までを結ぶ[[埼玉高速鉄道]]の[[鉄道路線]]。'''埼玉スタジアム線'''(さいたまスタジアムせん、{{Lang-en|Saitama Stadium Line}})という愛称が付けられている<ref name="SaitamaKosoku201511" />。
[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SR'''<ref name="s-rail20161128">{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20161128-sta-numbering.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210909054028/https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20161128-sta-numbering.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ご利用の皆さまによりわかりやすく 「駅ナンバリング」を導入します ~駅案内サインの多言語表記も拡充へ~|publisher=埼玉高速鉄道|date=2016-11-28|accessdate=2022-05-07|archivedate=2021-09-09}}</ref>で、[[直通運転]]を行っている[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ南北線|南北線]]と番号部分に限り連番([[目黒駅]]を01とみなす)となっている<ref group="注釈">関東地方では[[芝山鉄道線]]も同じ「SR」の路線記号を使用するが、埼玉高速鉄道線は芝山鉄道線とは駅ナンバリングの付番方法が異なっており(埼玉高速鉄道線は19から、芝山鉄道線は01から付番)、被ることはない。なお、東京メトロおよび[[都営地下鉄]]の路線図([https://www.tokyometro.jp/station/ 東京メトロ] {{Wayback|url=https://www.tokyometro.jp/station/ |date=20200229120430 }}、{{PDFlink|[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/line.pdf 都営地下鉄]}})においては、埼玉高速鉄道線の路線記号が記載されている一方で、芝山鉄道線の路線記号は記載されていない。</ref>。
== 概要 ==
東京メトロ南北線の終点駅である赤羽岩淵駅から[[埼玉県]]に延長する形で浦和美園駅に至る路線である。起点の赤羽岩淵駅および終点の浦和美園駅以外は、全ての駅が川口市に所在している。路線の大半は[[地下]]を通り、浦和美園駅及び隣接する車両基地のみ地上にある。
[[東日本旅客鉄道|JR]][[東北本線]]([[京浜東北線]]・[[宇都宮線]])と[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)・[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]に挟まれた、[[国道122号]](岩槻街道)や[[日光御成街道]]沿線の[[川口市]]東部・北部及び[[さいたま市]]東部と都心を結ぶ路線としての役割を担っている。特に本路線の開業まで鉄道が通っていなかった旧[[鳩ヶ谷市]]は、[[バス (交通機関)|バス]]のみだった交通状況が大きく改善された。また、浦和美園駅は「[[埼玉スタジアム2002]]」への主要な交通手段として利用されると共に、駅周辺は「[[みそのウィングシティ]]」と名付けられた大規模な[[土地区画整理事業|区画整理]]が行われた。
[[2001年]]の開業以来6両編成での運転となっていたが、全駅のホームが8両分確保されており<ref name="JOURNAL200106"/>、2022年4月より一部列車で8両編成の運転が開始された<ref name="press20220127"/><ref name="railf20220409"/>。
東京地下鉄管理の赤羽岩淵駅をのぞき、各駅にレインボーカラーを使用したステーションカラーを採用し、それを[[ホームドア]]などに配色している。また、[[ベンチ]]にも工夫を凝らしている。[[発車メロディ]]は赤羽岩淵駅を除く全ての駅で南北線の旧発車メロディ(A線、B線)を使用している。
本路線は[[荒川 (関東)|荒川]]を横断する[[鉄道]]で唯一地下を抜けている(赤羽岩淵 - [[川口元郷駅|川口元郷]]間の[[国道122号]][[新荒川大橋]]すぐ西側)。線路[[トンネル]]の下部には、環境用水の導水管が川口元郷駅付近から12 kmにわたって併設されており、水質の悪い[[綾瀬川]]や[[芝川 (埼玉県)|芝川]]など4つの河川に荒川の水を引き込み、水質改善の試みが行われている<ref>{{Cite news |title=わが国初 地下鉄内に浄化用導水管を敷設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-01-28 |page=1 }}</ref>。
浦和美園駅から[[岩槻駅]]を経て[[蓮田駅]]に至る路線延伸が検討されている(「[[#今後の予定|今後の予定]]」の節参照)。
<gallery>
Saitama-Railway-Minami-hatogaya-station-platform.jpg|各駅にはホームドアが設置されている(南鳩ヶ谷駅)。
浦和美園駅西口2015.JPG|浦和美園駅の2002 FIFAワールドカップ開催を記念とした壁画。
Saitama-Railway Urawa-Misono Station 2.jpg|埼玉高速鉄道線に乗り入れる東京地下鉄9000系電車。
Saitama-Railway Urawa-Misono Station.jpg|浦和美園駅と埼玉高速鉄道2000系電車。
</gallery>
== 名称・愛称 ==
{{Routemap
|width =
|title = 停車場・施設・接続路線
|title-bg = #345caa
|title-color = white
|collapse = no
|map =
KHSTa\KHSTa\~~ ~~ ~~[[湘南台駅]] / [[海老名駅]]
LSTR!~POINTERf@gq\LSTR\~~ ~~ ~~[[相模鉄道|相鉄]]:[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]]
KRWl\KRWg+r\
HST~~ ~~ ~~[[二俣川駅]]
LSTR~~ ~~ ~~相鉄:[[相鉄本線|本線]]
HST+GRZq~~ ~~ ~~[[西谷駅]]
KRW+l\KRWgr\
CONTf\tSTRa\~~ ~~ ~~相鉄:本線([[横浜駅|横浜]]方面)
tLSTR~~ ~~ ~~相鉄:[[相鉄新横浜線]]
tHST+GRZq~~ ~~ ~~[[新横浜駅]]
tLSTR~~ ~~ ~~[[東急電鉄|東急]]:[[東急新横浜線]]
CONTg\tSTRe\~~ ~~ ~~東急:[[東急東横線|東横線]](横浜、[[元町・中華街駅|元町・中華街]]方面)
KRWl\KRWg+r\
HST+GRZq~~ ~~ ~~[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]
LSTR
tSTRa~~ ~~ ~~東急:[[東急目黒線|目黒線]]
tHST+GRZq~~ ~~ ~~[[目黒駅]]
tLSTR~~ ~~ ~~↑[[東京地下鉄]]:[[東京メトロ南北線|南北線]]
tBHF+GRZq~~0.0~~N-19 / SR19 [[赤羽岩淵駅]]
tSTR~~↓'''埼玉高速鉄道線'''
tKRZW~~ ~~ ~~[[荒川 (関東)|荒川]]
tBHF~~2.4~~SR20 [[川口元郷駅]]
tBHF~~4.3~~SR21 [[南鳩ヶ谷駅]]
tBHF~~5.9~~SR22 [[鳩ヶ谷駅]]
tBHF~~7.5~~SR23 [[新井宿駅]]
tBHF~~10.0~~SR24 [[戸塚安行駅]]
\tKRZh\hBHFq!~HUBa~~ ~~ ~~[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[武蔵野線]]
\tBHF!~HUBaq\HUBr~~12.2~~SR25 [[東川口駅]]
tSTRe
BHF~~14.6~~SR26 [[浦和美園駅]]
KDSTe~~[[浦和美園車両基地]]
}}
直通先の南北線や東急線からの[[連絡運輸#連絡乗車券|連絡乗車券]]などは、路線名ではなく事業者(略称で「埼玉高速」)の路線を指す「'''埼玉高速線'''」と案内および表示されている。なお、[[東京メトロ東西線]]の直通先である「[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]」はそれ自体が正式名称(事業者「[[東葉高速鉄道]]」の路線「東葉高速線」)であるのに対して、本路線は「'''埼玉高速鉄道線'''」が正式名称(事業者「埼玉高速鉄道」の路線「埼玉高速鉄道線」)である。
2002年3月には路線愛称の公募が行われ<ref name="SaitamaKosoku200110">{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/aisyou011022.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011109113835/http://www.s-rail.co.jp/aisyou011022.htm|language=日本語|title=埼玉高速鉄道線の愛称を募集!! ~埼玉高速鉄道線と沿線地域のイメージアップにむけて より愛され親しみのもてる愛称を募集します。~|publisher=埼玉高速鉄道|date=2001-10-22|accessdate=2022-05-07|archivedate=2011-11-09}}</ref>、「'''彩の国スタジアム線'''」という路線愛称が付けられた<ref name="s-rail-20020330">{{Cite web|和書|date=2002-03-30 |url=http://www.s-rail.co.jp/020330.html |title=愛称決定!!「彩の国スタジアム線」 〜埼玉高速鉄道線の愛称が決定しました〜 |publisher=埼玉高速鉄道 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020608155455/http://www.s-rail.co.jp/020330.html |archivedate=2002年6月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。しかし、車内や駅構内の案内放送ではまったく呼称されていない上に利用客にも定着せず、埼玉高速鉄道側からも「埼玉高速鉄道線」での案内となっていた。
2015年4月、「彩の国スタジアム線」に代わる新たな路線愛称を公募して<ref name="SaitamaKosoku201504">{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20150422-rosen-aisho-boshu.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220507121852/http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20150422-rosen-aisho-boshu.pdf|format=PDF|language=日本語|title=これからも、ずっと・もっと愛される路線に! 便利!快適!埼玉高速鉄道線『路線愛称』を募集|publisher=埼玉高速鉄道|date=2015-04-22|accessdate=2022-05-07|archivedate=2022-05-07}}</ref>、社内選考により「埼玉南北線」「埼玉スタジアム線(埼スタ線)」「埼スタメトロライン」の3案に絞り込み、一般から最終投票を実施した<ref name="SaitamaKosoku201509">{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20150917-aisho-poll.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220427125158/http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20150917-aisho-poll.pdf|format=PDF|language=日本語|title=みんなで選ぶ!埼玉高速鉄道線『路線愛称』 総選挙 実施します!!|publisher=埼玉高速鉄道|date=2015-09-17|accessdate=2022-05-07|archivedate=2022-04-27}}</ref>。その結果、「'''埼玉スタジアム線'''(埼スタ線)」が選ばれ、11月に使用を開始した<ref name="SaitamaKosoku201511">{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20151127-rosen-aisho-kettei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220507122121/http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20151127-rosen-aisho-kettei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=路線愛称『埼玉スタジアム線(埼スタ線)』に決定!!|publisher=埼玉高速鉄道|date=2015-11-27|accessdate=2022-05-07|archivedate=2022-05-07}}</ref>。以降、案内放送を含む大半の旅客向け案内では「埼玉スタジアム線」、加えて一部の広報物では略称の「埼スタ線」を用いる形態がとられている。
== 歴史 ==
本路線は、[[1972年]]([[昭和]]47年)の都市交通審議会答申第15号において、'''東京7号線'''の埼玉方面への延伸区間として「'''川口市中央部…浦和市東部間'''」が定められたのが始まりである。その後[[1985年]](昭和60年)の[[運輸政策審議会答申第7号]]では、埼玉県内は「'''鳩ヶ谷市中央経由で[[東川口駅|東川口]]から浦和市東部'''」へと変更された。[[1992年]]([[平成]]4年)に埼玉県、沿線3市および[[帝都高速度交通営団]](現在の[[東京地下鉄]]〈東京メトロ〉)等により[[第三セクター]]「埼玉高速鉄道株式会社」が設立され、[[1995年]](平成7年)に着工<ref name="交通950717">{{Cite news |title=営団南北線の埼玉側延伸区間 埼玉高速鉄道が起工式 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-07-17 |page=1 }}</ref>、[[2001年]](平成13年)[[3月28日]]に赤羽岩淵 - 浦和美園間が開業した。
全体の建設費用は2591億円、1キロメートルあたり170億円である。赤羽岩淵駅から鳩ヶ谷駅終端の6.2 km間は地下高速鉄道整備事業費補助金対象工事の対象となり、事業主体である埼玉高速鉄道株式会社が自ら建設主体となって帝都高速度交通営団に施工を委託した<ref name="JOURNAL200106"/>。鳩ヶ谷駅終端から浦和美園駅間の8.4 km間はP線対象工事となり、鳩ヶ谷駅終端から浦和美園駅始端の8.1 km間は建設主体である[[日本鉄道建設公団]]が施工した<ref name="JOURNAL200106"/>。浦和美園駅から車両基地の0.3 kmは日本鉄道建設公団が埼玉高速鉄道株式会社に施工を委託した<ref name="JOURNAL200106"/>。
=== 年表 ===
* [[1992年]]([[平成]]4年)
** [[3月25日]]:埼玉高速鉄道株式会社設立<ref name="youran" />。
** [[11月11日]]:免許申請。
** [[12月17日]]:第一種鉄道事業免許取得<ref name="youran" />。
* [[1993年]](平成5年)[[10月1日]]:運輸省より工事認可(土木施設)。
* [[1994年]](平成6年)
** 4月:埼玉県内の都市計画決定。
** 8月:東京都内の都市計画決定。
** 9月:運輸省より工事認可(電気施設)。
* [[1995年]](平成7年)
** 5月:建設省より工事施工認可。
** [[7月13日]]:起工式{{R|交通950717}}。
* [[1999年]](平成11年)
** 9月:駅名決定。それまで仮称だった鳩ヶ谷中央駅を鳩ヶ谷駅に、川口戸塚駅を戸塚安行駅に、浦和大門駅を浦和美園駅とする。
** [[11月19日]]:シールドトンネル貫通式。
* [[2000年]](平成12年)
** [[8月24日]]:レール締結式<ref name="RP693_117">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=8月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2000-11-01|volume=50|issue=第11号(通巻第693号)|page=117|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
** [[11月15日]]:試運転列車入線。
* [[2001年]](平成13年)
** [[2月12日]]:トンネルウォーク開催。
** [[3月28日]]:赤羽岩淵駅 - 浦和美園駅間開業<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成18年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.96</ref>。営団(現:[[東京地下鉄]])[[東京メトロ南北線|南北線]]、[[東急目黒線]][[武蔵小杉駅]]までの直通運転開始<ref name="pr20010220">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2001-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205175954/http://www.tokyometro.go.jp/news/2001-01.html|language=日本語|title=首都圏のあらたな動脈が完成! 3月28日(水)南北線と埼玉高速鉄道線との相互直通運転開始|publisher=営団地下鉄|date=2001-02-20|accessdate=2021-08-14|archivedate=2004-02-05}}</ref><ref name="tokyu20010221">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/010221.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201217053522/https://www.tokyu.co.jp/file/010221.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月28日(水)、目黒線が埼玉高速鉄道線と相互直通運転を開始 相互直通運転に先立ち、3月23日(金)、目黒線のダイヤ改正を実施|publisher=東京急行電鉄|date=2001-02-21|accessdate=2021-08-14|archivedate=2020-12-17}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)
** [[3月30日]]:路線愛称が「彩の国スタジアム線」に決定と発表<ref name="s-rail-20020330" />。
** [[11月29日]]:深夜帯に運転されていた東川口行きの下り列車4本をすべて浦和美園行きに延長<ref name="s-rail-20021112">{{Cite web|和書|date=2002-11-12 |url=http://s-rail.co.jp/021129.htm |title=浦和美園駅がもっと便利に!最終電車の延長運転を実施します! |publisher=埼玉高速鉄道 |accessdate=2015-11-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021122164018/http://s-rail.co.jp/021129.htm |archivedate=2002年11月22日 |deadlinkdate=2017年9月 }} {{Wayback|url=http://s-rail.co.jp/021129.htm |date=20021122164018 }}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[9月25日]]:ダイヤ改正<ref name="SaitamaKosoku200609">{{Cite web|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/cgi-bin/detail2.cgi?detail=5|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061008181737/http://www.s-rail.co.jp/cgi-bin/detail2.cgi?detail=5|title=埼玉高速鉄道線のダイヤ改正を実施します。|date=2006-08-23|archivedate=2006-10-08|accessdate=2022-05-14|publisher=埼玉高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=2022年5月}} {{Wayback|url=http://www.s-rail.co.jp/cgi-bin/detail2.cgi?detail=5 |date=20061008181737 }}</ref>。東急目黒線の急行運転開始に伴い、赤羽岩淵方面行きの列車に急行列車が誕生<ref name="SaitamaKosoku200609"/>。
* [[2008年]](平成20年)[[6月22日]]:直通運転区間を[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]まで延伸<ref name="SaitamaKosoku200806">{{Cite web|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/topics/0058.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080624024935/http://www.s-rail.co.jp/topics/0058.html|title=埼玉高速鉄道線のダイヤ改正を実施します。|date=2008-06-06|archivedate=2008-06-24|accessdate=2022-05-14|publisher=埼玉高速鉄道|language=日本語|deadlinkdate=2022年5月}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[6月6日]]:ダイヤ改正<ref name="SaitamaKosoku200906">{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/up_pdf/20090410151448_f.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111105052659/http://www.s-rail.co.jp/up_pdf/20090410151448_f.pdf|format=PDF|language=日本語|title=埼玉高速鉄道におけるダイヤ改正について|publisher=埼玉高速鉄道|date=2009-04-10|accessdate=2022-05-14|archivedate=2011-11-05}}</ref>。日中の鳩ヶ谷駅 - 浦和美園駅間が毎時6本から5本に減便し、12分間隔となる<ref name="SaitamaKosoku200906"/>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]]:[[東日本大震災]]が発生し、全区間で一時運休。午後9時20分頃に運転を再開し、終夜運転を実施。埼玉県東部の鉄道路線において、東日本大震災当日に運転を再開したのは当路線のみであった。
** [[7月1日]]:土休日ダイヤが通常ダイヤに戻る。
** [[9月12日]]:[[電気使用制限等規則|電気使用制限]]が[[9月9日]]をもって解除されたことに伴い、平日ダイヤが通常ダイヤに戻る。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]]:ダイヤ改正<ref name="SaitamaKosoku201203">{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/up_pdf/20120216131514_f.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120415152933/http://www.s-rail.co.jp/up_pdf/20120216131514_f.pdf|format=PDF|language=日本語|title=もっと便利に、快適に〜平日夕夜間帯に列車を増発 埼玉高速鉄道線ダイヤ改正のお知らせ|publisher=埼玉高速鉄道|date=2012-02-16|accessdate=2022-05-14|archivedate=2012-04-15}}</ref>。平日の夕夜間帯に増発。下り終電を2分繰り下げ、赤羽岩淵駅0:15発とする<ref name="SaitamaKosoku201203"/>。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月1日]]:各駅の[[自動精算機]]を休止。
** [[3月16日]]:ダイヤ改正<ref name="SaitamaKosoku201603">{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/up_pdf/20130214140611_f.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160327114230/http://www.s-rail.co.jp/up_pdf/20130214140611_f.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年3月16日(土)ダイヤ改正を実施します|publisher=埼玉高速鉄道|date=2013-02-14|accessdate=2022-05-14|archivedate=2016-03-27}}</ref>。平日の朝・夕夜間帯、および土休日の朝に増発<ref name="SaitamaKosoku201603"/>。
** [[10月31日]]:各駅の自動精算機を廃止。
* [[2014年]](平成26年)[[3月15日]]:ダイヤ改正。平日ダイヤにおいて鳩ヶ谷行きの下り終電を新設し、赤羽岩淵駅0:30発とする<ref name="SaitamaKosoku201603"/>。併せて浦和美園行きの下り終電を4分繰り下げ、赤羽岩淵0:19発とする。平日ダイヤの上り終電を11分繰り下げ、浦和美園駅0:06発とする<ref name="SaitamaKosoku201603"/>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[2月13日]]:午前10時より、全線のトンネル内で携帯電話サービスの提供を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/news/2015/pr20150209-sr-tunnel-tsushin.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160329055600/http://www.s-rail.co.jp/news/2015/pr20150209-sr-tunnel-tsushin.html|language=日本語|title=埼玉高速鉄道線「赤羽岩淵駅〜浦和美園駅」区間のトンネル内で新たに携帯電話サービスを提供開始|publisher=埼玉高速鉄道/NTTドコモ/KDDI/ソフトバンクモバイル|date=2015-02-09|accessdate=2022-05-07|archivedate=2016-03-29}}</ref>。
** [[3月14日]]:ダイヤ改正<ref name="press20150213">{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/news/2015/pr20150213-dia-kaisei.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150219024752/http://www.s-rail.co.jp/news/2015/pr20150213-dia-kaisei.html|language=日本語|title=埼玉高速鉄道線 ダイヤ改正について|publisher=埼玉高速鉄道|date=2015-02-13|accessdate=2022-05-07|archivedate=2015-02-19}}</ref>。鳩ヶ谷駅発着の一部列車を浦和美園駅発着に延長し、鳩ヶ谷駅 - 浦和美園駅間で増発<ref name="press20150213" />。
** [[7月24日]]:赤羽岩淵駅を除く7駅の副駅名を募集開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20150724-fukuekimei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220320043744/http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20150724-fukuekimei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=大募集! 初めての取組みです! 地元の施設・企業さまを対象に各駅の 副駅名称を募集します! ご活用ください!|publisher=埼玉高速鉄道|date=2015-07-24|accessdate=2022-05-07|archivedate=2022-03-20}}</ref>。
** [[11月27日]]:新しい路線愛称が「埼玉スタジアム線」に決定と発表<ref name="SaitamaKosoku201511"/>。以後、旅客案内で順次使用を開始。
* [[2016年]](平成28年)[[3月22日]]:マスコットキャラクターとして「たまさぶろう」が登場する<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20160322-tamasaburo.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220320043739/http://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20160322-tamasaburo.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 埼玉スタジアム線に「たまさぶろう」誕生! 新しい仲間とともに皆さまをお迎えします!|publisher=埼玉高速鉄道|date=2016-03-22|accessdate=2022-05-07|archivedate=2022-03-20}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[3月25日]]:ダイヤ改正。土休日ダイヤにおいて鳩ヶ谷行きの下り終電を新設し、赤羽岩淵駅0:22発とする<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_img/pr-20170227-daiyakaisei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220507125138/https://www.s-rail.co.jp/news/up_img/pr-20170227-daiyakaisei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=埼玉高速鉄道 埼玉スタジアム線ダイヤ改正について|publisher=埼玉高速鉄道|date=2017-02-27|accessdate=2022-05-07|archivedate=2022-05-07}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[3月30日]]:ダイヤ改正。鳩ヶ谷行き下り終電の浦和美園延伸など平日朝夕に増発<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/e9eed0ce14de42bda136c2375d7ac13fe4006e1f.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220507125453/https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/e9eed0ce14de42bda136c2375d7ac13fe4006e1f.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成30年3月30日(金)にダイヤ改正を実施します。|publisher=埼玉高速鉄道|date=2018-02-15|accessdate=2022-05-07|archivedate=2022-05-07}}</ref>。日中の赤羽岩淵駅 - 鳩ヶ谷駅間が毎時10本から7 - 8本に減便し、6 - 12分間隔となる。
* [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
** 3月16日:ダイヤ改正<ref name="press20190129" />。平日ダイヤの下り終電を12分繰り下げ、赤羽岩淵駅0:42発とする<ref name="press20190129">{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/fa477d9dd932a9f84c6645213f23c696db1ae9d6.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210802154824/https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/fa477d9dd932a9f84c6645213f23c696db1ae9d6.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成31年3月16日(土)に ダイヤ改正を実施します。|publisher=埼玉高速鉄道|date=2019-01-29|accessdate=2022-05-07|archivedate=2022-05-07}}</ref>。日中の赤羽岩淵駅 - 鳩ヶ谷駅間が毎時5本に減便し、日中の鳩ヶ谷発着を廃止。
** 4月上期:8両編成列車運行に向けた工事を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/af386bdc202cc4a62d5ee1e9e9ba3497eb4a3db9.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220203045649/https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/af386bdc202cc4a62d5ee1e9e9ba3497eb4a3db9.pdf|format=PDF|language=日本語|title=埼玉高速鉄道 埼玉スタジアム線8両編成列車を運行します! 2022年度上期の運行に向けて工事を開始いたします! 〜ご利用のお客さまのために、地域のために、輸送力増強〜|publisher=埼玉高速鉄道|date=2019-03-26|accessdate=2022-05-07|archivedate=2022-02-03}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[3月13日]]:ダイヤ改正<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20210205-2021diagram.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217025132/https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20210205-2021diagram.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 緊急事態宣言に伴う終電時刻の繰り上げ及び一部列車の行先変更は 令和3年3月12日(金)まで実施いたします。また、令和3年3月13日(土)にダイヤ改正を実施いたします。|publisher=埼玉高速鉄道|date=2021-02-05|accessdate=2022-05-07|archivedate=2021-12-17}}</ref>。平日ダイヤの下り終電を3分繰り上げ、赤羽岩淵駅0:39発とする。
* [[2022年]](令和4年)[[4月1日]]:8両編成の運行を開始<ref name="press20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/2c184d12aceabe138db209c6dc52b6941e7c726f.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127102820/https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/2c184d12aceabe138db209c6dc52b6941e7c726f.pdf|format=PDF|language=日本語|title=埼玉高速鉄道 埼玉スタジアム線に8両編成列車が運行されます! 令和4年4月上旬から運行開始予定! 〜ご利用のお客さまのために、地域のために、もっと便利に〜|publisher=埼玉高速鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref><ref name="railf20220409">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2022/04/09/201000.html|title=東急目黒線・東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線で8両編成の運転開始|website=[https://railf.jp/news/ 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース]|publisher=交友社|date=2022-04-09|archivedate=2022-04-09|accessdate=2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220409123619/https://railf.jp/news/2022/04/09/201000.html|deadlinkdate=}} </ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[3月18日]]:ダイヤ改正<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20221216-diakaisei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216085823/https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20221216-diakaisei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=埼⽟スタジアム線 令和5年3⽉ダイヤ改正のお知らせ|publisher=埼玉高速鉄道|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref>。[[東急新横浜線]]・[[相模鉄道#現有路線|相鉄線]]と直通運転を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/39dfdba52ca43b6b2878e5f73c0b1e83c0ed6403.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220208005416/https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/39dfdba52ca43b6b2878e5f73c0b1e83c0ed6403.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月(予定)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業!鉄道がもっと便利になります ~神奈川県央地域及び横浜市西部から東京・埼玉に至る広域的な鉄道ネットワークの形成~|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20221216-kouiki-tetsudo-network.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221220132109/https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/pr20221216-kouiki-tetsudo-network.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月18日(土)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業に伴い形成される 広域鉄道ネットワークの直通運転形態および主な所要時間について|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref>。
== 運行形態 ==
{|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; float:right;"
|+ 日中の運行パターン
|-
!colspan="2"|系統\駅名
!直通先
!style="width:1em;"|赤羽岩淵
!…
!style="width:1em;"|浦和美園
|-
!rowspan="3"|運行<br />本数
|style="background:pink;"|南北線経由<br /><small>(東急線内急行)</small>
|style="text-align:right;"|←新横浜
|colspan="3" style="background:pink;"|1本
|-
|style="background:lightblue;"|南北線経由<br /><small>(東急線内各停)</small>
|style="text-align:right;"|←日吉
|colspan="3" style="background:lightblue;"|2本
|-
|style="background:#00ac9b;"|南北線直通
|style="text-align:right;"|←白金高輪
|colspan="3" style="background:#00ac9b;"|2本
|}
定期列車はすべての列車が東京メトロ南北線と[[直通運転|相互直通運転]]を行い、東急目黒線・東急新横浜線とも直通運転を行っている。日中を除く時間帯にはこれに加えて相鉄線への直通列車が設定されている。
日中は浦和美園発着の列車が毎時5本(内訳は2本が白金高輪発着、2本が日吉発着、1本が新横浜発着・東急線内急行運転)、12分間隔で運転される。朝時間帯には鳩ヶ谷発着の列車も運行されている。
* 開業当初 - 浦和美園発着毎時6本、鳩ヶ谷発着毎時4本
* 2009年6月ダイヤ改正以降 - 浦和美園発着毎時5本、鳩ヶ谷発着毎時5本<ref name="SaitamaKosoku200906"/>
* 2018年3月ダイヤ改正以降 - 浦和美園発着毎時5本、鳩ヶ谷発着毎時2 - 3本
* 2019年3月ダイヤ改正以降 - 浦和美園発着毎時5本
東急線では急行列車の運転が行われており、赤羽岩淵方面行きの一部の列車が急行の種別を表示した上で運転されているが、当路線内および東京メトロ南北線内は各駅に停車する<ref name="SaitamaKosoku200609"/>。当初は各駅停車においては行先のみ表示されていたが、2018年頃より一部列車で「各停」「各駅停車」と表示するようになった。
全線で[[自動列車運転装置|ATO]]による自動運転および[[ワンマン運転]]を実施している<ref name="JOURNAL200106"/>。車内放送は東京メトロと同じく[[森谷真弓]]が担当している<ref>[https://news.mynavi.jp/article/trivia-105/ 鉄道トリビア (105) 車内放送に意外な有名人が関わっている] {{Wayback|url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-105/ |date=20190707075726 }} - マイナビニュース 2011年7月2日</ref>。
「埼玉スタジアム2002」でのサッカー試合開催日には臨時ダイヤが組まれ、列車が増発される。また試合終了後、浦和美園方面からは折り返し設備がある鳩ヶ谷行や[[市ケ谷駅|市ケ谷]]行など、通常ダイヤでは運行されない行先の[[臨時列車]]も運行される<ref>[http://www.s-rail.co.jp/news/2017/rinji-20170831.php 8月31日(木)日本代表 vs オーストラリア代表戦 臨時ダイヤのご案内] {{Wayback|url=http://www.s-rail.co.jp/news/2017/rinji-20170831.php |date=20170831174057 }} - 埼玉高速鉄道 2017年8月25日 [[2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選#グループB|2018 FIFAワールドカップ・アジア最終予選]]開催に伴うもの</ref>。
過去には、臨時列車「[[みなとみらい号]]」が[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]から先の[[東急東横線]]を介して[[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]の[[元町・中華街駅]]まで直通運転を行っていた。
<!-- 発車メロディの件は概要節の駅の施設の記述にまとめました。 -->
== 車両 ==
=== 自社車両 ===
* [[埼玉高速鉄道2000系電車|2000系]](6両編成)
<gallery widths="200">
Saitama-Series2000 2107.jpg|2000系
</gallery>
=== 乗り入れ車両 ===
* [[東京地下鉄]]
** [[営団9000系電車|9000系]](6・8両編成)
<gallery widths="200">
Tokyo-Metro-Series9000-Lot-2.jpg|9000系(1-4次車)
Tokyo-Metro-Series9000R-Lot-1.jpg|9000系(1-4次車、B修工事施工車)
Tokyo Metro 9122 Tamagawa 20170710.jpg|9000系(5次車)
</gallery>
* [[東急電鉄]]
** [[東急2020系電車#3020系|3020系]](8両編成)
** [[東急5000系電車 (2代)#5080系|5080系]](8両編成)
** [[東急3000系電車 (2代)|3000系]](8両編成)
<gallery widths="200">
Tokyu-Series3020 3122F.jpg|3020系
Tokyu-Series5080-5187F 8cars.jpg|5080系
Tokyu-Series3000-3813.jpg|3000系
</gallery>
当路線の開業により、東急の車両が営業運転として初めて埼玉県内に乗り入れるようになった。
なお、[[東京都交通局6300形電車]]は通常時のほか事故や車両トラブル、ダイヤ乱れがあっても[[東京メトロ南北線]]・埼玉高速鉄道線の[[麻布十番駅]] - 浦和美園駅間には乗り入れないが、試験のために浦和美園駅まで非営業列車であるものの走行入線記録があり、これらと並んでいる車両の[[パスネット]]も発売されていた。
* [[相模鉄道]]
** [[相鉄20000系電車#21000系|21000系]](8両編成)
<gallery widths="200">
相鉄20000系 21106F.jpg|21000系
</gallery>
[[東急新横浜線]]の開業により、相模鉄道(相鉄)の車両が営業運転として初めて埼玉県内に乗り入れるようになった。
=== 列車番号と車両運用 ===
各列車の車両の所属は[[列車番号]]で判別でき、列車番号末尾アルファベットの「'''S'''」が東京メトロ車両(30S - 78Sの偶数番号)、「'''M'''」が埼玉高速車両(80M - 98Mの偶数番号)、「'''K'''」が東急車両(01K - 48K)、「'''G'''」が相鉄車両(31G - 43G)<ref>{{Cite web|和書|title=相鉄と東急が3月18日改正後のダイヤを発表 東急車の相鉄横浜駅入線も |url=https://www.tetsudo.com/column/438/ |publisher=鉄道コム |date=2023-02-19 |accessdate=2023-06-07}}</ref>となっている(「'''T'''」は都交通局車両で21T - 89Tの奇数番号)。
列車番号が6桁の数字で組み立てられる東急目黒線内では、上3桁が運用番号を表し、300番台は東京メトロ車両、500番台は埼玉高速車両、200番台は東急車両、600番台は相鉄車両となっており(400番台は都交通局車両)、一般の利用者は列車番号を『MY LINE 東京[[時刻表]]』([[交通新聞社]])の列車番号欄で確認することができる。
東急・相鉄両者の車両による運用は、三田線運用と南北線・埼玉高速線運用とで別々に組まれ、奇数番号(東急線内基準)が三田線運用、偶数番号(同)が南北線・埼玉高速線運用となっている。そのため、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:01Kと02K)を同一車両で運転されていることから一部の運用番号が欠番となっている。
各事業者間の走行距離調整の関係上、東急車・相鉄車は目黒線に乗り入れない列車([[白金高輪駅|白金高輪]]折り返しなど)にも使用されている。
== 利用状況 ==
埼玉高速鉄道株式会社が設立された1992年時点の需要予測では、2000年度の1日平均輸送人員は231,000人と算出していた。この予測値は開業直前に下方修正し、開業翌年度にあたる2001年度の1日平均輸送人員を105,000人と予想していた<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0104/daigaku/documents/517490.pdf 埼玉県における交通体系整備と経済活動について]}} - 埼玉県</ref>。2004年度に146,000人まで増加し、以後は毎年2,000人ずつ増加すると予想していた。しかし、実際には2001年度の1日平均輸送人員は47,000人に留まり、開業直前に予想していた1日平均輸送人員の半分未満に留まった。
赤字路線ではあったものの、沿線人口の増加や駅機能の強化等を背景として、2008年(平成20年)度までは輸送人員が着実に増加した。その後の[[リーマンショック]]や[[東日本大震災]]の影響で2011年(平成23年)度まで定期外輸送人員が減少傾向にあったが、2012年(平成24年)度からは再度増加傾向に転じ、2015年度に1日平均輸送人員が開業以来初めて10万人を越えた。
開業以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="3"|輸送実績(乗車人員):人/日<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/index.html 埼玉県統計年鑑] {{Wayback|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0206/a310/index.html |date=20170729222729 }}</ref>
!colspan="4"|最混雑区間(川口元郷 → 赤羽岩淵間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/data.html 公共交通関係データ集] {{Wayback|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/data.html |date=20150206122529 }} - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/documents/f.pdf 民鉄線のラッシュ1時間当り旅客輸送状況]}} - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/sr-committee/documents/458470.pdf 路線整備の意義・必要性等の整理]}} - 埼玉県</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
!定期!!定期外!!合計
!運転本数:本!!輸送力:人!!輸送量:人!!混雑率:%
|-
|2000年(平成12年)
| || ||
| || || ||
|style="text-align:left;"|2001年3月28日、赤羽岩淵駅 - 浦和美園駅間開業
|-
|2001年(平成13年)
| style="background-color: #ccffcc;"|30,074 || style="background-color: #ccffcc;"|16,865 || style="background-color: #ccffcc;"|'''46,939'''
| 15 || 13,230 || style="background-color: #ccffcc;"|5,971 || style="background-color: #ccffcc;"|'''45'''
|
|-
|2002年(平成14年)
| 35,236 || 18,917 || '''54,153'''
| 15 || 13,230 || 11,801 || '''89'''
|style="text-align:left;"|[[2002 FIFAワールドカップ]]開催
|-
|2003年(平成15年)
| 38,866 || 20,276 || '''59,142'''
| 15 || 13,230 || 10,453 || '''79'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 43,194 || 21,688 || '''64,882'''
| 15 || 13,230 || 12,315 || '''93'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 46,321 || 22,269 || '''68,590'''
| 15 || 13,230 || 12,438 || '''94'''
|
|-
|2006年(平成18年)
| 49,718 || 25,437 || '''75,155'''
| 12 || 10,584 || 12,482 || '''118'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 53,879 || 26,501 || '''80,380'''
| 14 || 12,348 || 14,416 || '''117'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| 57,275 || 26,527 || '''83,802'''
| 14 || 12,348 || 14,941 ||'''121'''
|
|-
|2009年(平成21年)
| 58,545 || 25,193 || '''83,738'''
| 12 || 10,584 || 13,286 || '''126'''
|style="text-align:left;"|最混雑時間帯を変更
|-
|2010年(平成22年)
| 59,659 || 25,413 || '''85,072'''
| 12 || 10,584 || 12,523 || '''118'''
|style="text-align:left;"|東日本大震災発生年度
|-
|2011年(平成23年)
| 59,714 || 24,940 || '''84,654'''
| 12 || 10,584 || 10,891 || '''103'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 61,816 || 26,112 || '''87,928'''
| 12 || 10,584 || 12,476 || '''118'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 65,714 || 26,764 || '''92,478'''
| 15 || 13,230 || 14,682 || '''111'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 67,946 || 27,371 || '''95,317'''
| 15 || 13,230 || 14,592 || '''110'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 71,251 || 29,427 || '''100,678'''
| 15 || 13,230 || 15,965 || '''121'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 74,505 || 30,529 || '''105,034'''
| 14 || 12,348 || 15,212 || '''123'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 79,194 || 31,729 || '''110,923'''
| 15 || 13,230 || 16,319 || '''123'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 85,216 || 32,525 || '''117,741'''
| 16 || 14,112 || style="background-color: #ffcccc;"|18,019 || '''128'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| || || style="background-color: #ffcccc;"|'''121,828'''
| 15 || 13,230 || 17,350 || style="background-color: #ffcccc;"|'''131'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| || ||
| 16 || 14,112 || 13,601 || style="background-color: #ccffff;"|'''96'''
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| || ||
| 16 || 14,112 || 15,488 || '''110'''
|
|}
一日平均輸送人員の予測値と実績値を下表に示す。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|予測値
!rowspan="2"|実績値
|-
!計画時!!開業時!!経営健全化支援計画!!経営改革プラン
|-
|2000年(平成12年)
| 231,000 || 85,000 || ||
|
|-
|2001年(平成13年)
| || 105,000 || ||
| '''46,939'''
|-
|2002年(平成14年)
| || 126,000 || ||
| '''54,153'''
|-
|2003年(平成15年)
| || 139,000 || ||
| '''59,142'''
|-
|2004年(平成16年)
| || 146,000 || 63,000 ||
| '''64,882'''
|-
|2005年(平成17年)
| || 148,000 || 67,000 ||
| '''68,590'''
|-
|2006年(平成18年)
| || 150,000 || 71,000 ||
| '''75,155'''
|-
|2007年(平成19年)
| || 152,000 || 77,000 ||
| '''80,380'''
|-
|2008年(平成20年)
| || 154,000 || 84,000 ||
| '''83,802'''
|-
|2009年(平成21年)
| || 156,000 || 91,000 ||
| '''83,738'''
|-
|2010年(平成22年)
| 274,000 || 158,000 || 100,000 || 86,700
| '''85,072'''
|-
|2011年(平成23年)
| || 160,000 || 110,000 || 90,200
| '''84,654'''
|-
|2012年(平成24年)
| || 162,000 || 120,000 || 95,300
| '''87,928'''
|-
|2013年(平成25年)
| || 164,000 || 130,000 || 101,000
| '''92,478'''
|-
|2014年(平成26年)
| || || || 107,200
| '''95,317'''
|-
|2015年(平成27年)
| || || || 113,000
| '''100,678'''
|-
|2016年(平成28年)
| || || || 119,000
| '''105,034'''
|-
|2017年(平成29年)
| || || || 123,000
| '''110,923'''
|-
|2018年(平成30年)
| || || 161,000 || 127,000
| '''117,741'''
|-
|2019年(令和元年)
| || || || 131,000
| '''121,828'''
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| || || ||
| ''' '''
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| || || ||
| ''' '''
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| || || ||
| ''' '''
|-
|2023年(令和{{0}}5年)
| || || 165,000 || 143,000
| ''' '''
|-
|}
== データ ==
=== 路線データ ===
* 管轄(事業種別):埼玉高速鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):14.6 [[キロメートル|km]](地上区間:0.4 km)<ref name="metro2">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211017105609/http://www.jametro.or.jp/upload/data/UklSNCUrzToN.pdf|title=令和3年度 地下鉄事業の現況|work=7.営業線の概要|date=2021-10|archivedate=2021-10-17|accessdate=2022-05-07|publisher=[[日本地下鉄協会|一般社団法人日本地下鉄協会]]|format=PDF|language=日本語|pages=83 - 84|deadlinkdate=}}</ref>
* [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]<ref name="metro2" />
* 駅数(起終点を含む):8駅<ref name="metro2" />
* 最高速度:80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2" />
* [[表定速度]]:45.5 km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 平均速度:54.2 km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 全線所要時分:19分15秒(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" />
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]・[[架空電車線方式]])
* 最急勾配:35 [[パーミル|‰]]<ref name="JOURNAL200106"/>(赤羽岩淵 - 川口元郷間・南鳩ヶ谷 - 鳩ヶ谷<ref name="JOURNAL200106"/>間)
* 最小曲線半径:248 [[メートル|m]]<ref name="JOURNAL200106"/>
* 保安装置:[[自動列車制御装置|CS-ATC]]<ref name="metro2" />
* [[列車無線]]方式:空間波無線 (SR) 方式<ref name="metro2" />
* [[車両基地]]:[[浦和美園車両基地]]([[浦和美園駅]]北側)
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])
=== 駅一覧 ===
{{色|節}}
* 駅ナンバリングは2016年度中より順次導入<ref name="s-rail20161128" />。番号は東京メトロ南北線からの連番。
* 色は各駅のステーションカラーを示す。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em;border-bottom:3px solid #345caa;"|駅番号
!style="width:9em;border-bottom:3px solid #345caa;"|駅名
!style="width:1em;border-bottom:3px solid #345caa;"|色
!style="width:2.5em;border-bottom:3px solid #345caa;"|駅間キロ
!style="width:2.5em;border-bottom:3px solid #345caa;"|営業キロ
!style="border-bottom:3px solid #345caa;"|接続路線・備考
!colspan="2" style="border-bottom:3px solid #345caa;"|所在地
|-
!colspan="5"|直通運転区間
|colspan="3"|[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] [[東京メトロ南北線]]・[[File:Tokyu MG line symbol.svg|18px|MG]] [[東急目黒線]]・[[ファイル:Tokyu SH line symbol.svg|18px|SH]] [[東急新横浜線]]・[[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄新横浜線]]経由 [[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線]][[海老名駅]]、[[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄いずみ野線]][[湘南台駅]]まで
|-
!SR19
|[[赤羽岩淵駅]]<ref group="*">他社接続の共同使用駅で、東京地下鉄の管轄駅である。</ref>
|style="background-color:#009b00;"|
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="white-space:nowrap;"|[[東京地下鉄]]:'''[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 (N-19)(直通運転:上記参照)'''
| colspan="2" | [[東京都]]<br>[[北区 (東京都)|北区]]
|-
!SR20
|[[川口元郷駅]]
|style="background-color:#BC6FAE;"|
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|2.4
|
|rowspan="7" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[埼玉県]]|height=4em}}
|rowspan="6"|[[川口市]]
|-
!SR21
|[[南鳩ヶ谷駅]]
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|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|4.3
|
|-
!SR22
|[[鳩ヶ谷駅]]
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|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|5.9
|
|-
!SR23
|[[新井宿駅]]
|style="background-color:#B2D33E;"|
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|7.5
|
|-
!SR24
|[[戸塚安行駅]]
|style="background-color:#FFDB00;"|
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|10.0
|
|-
!SR25
|[[東川口駅]]
|style="background-color:#F79428;"|
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|12.2
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] [[武蔵野線]] (JM 23) <!--ノート参照 -->
|-
!SR26
|[[浦和美園駅]]
|style="background-color:#ED1C2A;"|
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|14.6
|車両基地所在駅
|style="white-space:nowrap;"|[[さいたま市]]<br>[[緑区 (さいたま市)|緑区]]
|}
{{Reflist|group="*"}}
== ICカードについて ==
{{See|埼玉高速鉄道#IC定期券}}
埼玉高速鉄道では、PASMO導入前に独自のICカードが定期券のみで導入されていた。
== 今後の予定 ==
=== 岩槻方面延伸 ===
{{File clip| KoutsuSeisakuShigikai198 Tokyo.png | width= 300 | 14 | 48 | 69 | 38 | w= 3937 | h= 3325 |<10>が[[交通政策審議会答申第198号]]で示された埼玉高速鉄道線の延伸の路線図 }}
[[2000年]]([[平成]]12年)の[[運輸政策審議会答申第18号]]において、「2015年までの開業が適当な路線」として[[浦和美園駅|浦和美園]] - [[埼玉スタジアム2002|県営サッカースタジアム]]<!--答申における地図表記ママ--> - [[岩槻駅|岩槻]] - [[蓮田駅|蓮田]]の延伸(約13km)が挙げられている。なお、蓮田駅から先をさらに[[白岡市]]、[[久喜市]]、[[加須市]]を経由して[[羽生市]]まで延伸する構想もある<ref>白岡町 議会だより 第170号 14ページ</ref>。
[[2005年]](平成17年)9月には、「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」が岩槻駅で[[東武野田線]]への直通運転も検討することとなり、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]ルートと[[春日部駅|春日部]]ルートの2方向の案が検討されたが、東武野田線の設備等の構造により直接の乗り入れは不可能であり、東武野田線[[岩槻駅]]地下部に駅舎を建設する方向でまとまった。その後の延伸事業などについては資金の目処がついてからという最終答申が出ている。
その他、利用者の利便性向上などの理由で、埼玉高速鉄道線内で優等列車の運転を実施するかどうかを「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」などにおいて検討を行ってきた<ref name="SREkento">[http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sr-committee/sr-enshinkento-result.html 埼玉高速鉄道延伸検討委員会] {{Wayback|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sr-committee/sr-enshinkento-result.html |date=20100819041421 }}
* {{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/378804.pdf 平成18年度第1回検討会 資料2 追越し施設の効果等の検証]}}</ref>が、2012年(平成24年)3月13日に「地下鉄7号線延伸検討委員会」は延伸の可否自体について「一般的な目安に到達していない」とし、現時点では時期尚早との判断を下した<ref name="enshin-houkoku">[http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sr-committee/chika7-enshinkento.html 地下鉄7号線延伸検討委員会] {{Wayback|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sr-committee/chika7-enshinkento.html |date=20130221020046 }}
*{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/488097.pdf 地下鉄7号線延伸に関する報告書(要旨)]}}
*{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/488098.pdf 地下鉄7号線延伸に関する報告書(詳細)]}}</ref>。ただし、検討委員会は同時に「沿線地域の活性化・開発を進めることで、プロジェクトの評価を高めることは可能」とし<ref name="enshin-houkoku" />、最終的な判断は埼玉県とさいたま市に委ねられることになった。これを受けてさいたま市は同年4月23日、市役所に「地下鉄7号線延伸実現方策検討会」を設置し、延伸実現に向けた課題の整理を開始した。10月1日、清水勇人さいたま市長は2012年度内としていた岩槻駅までの延伸事業着手の延期を表明、沿線のまちづくりを進めて5年後の着手を目指すこととなった<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNZO46769140R01C12A0L72000/ 地下鉄7号線延伸、事業着手5年後に延期 さいたま市発表] {{Wayback|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNZO46769140R01C12A0L72000/ |date=20121113203341 }} - 2012年10月2日 日本経済新聞</ref>。
なお、延伸計画区間のうち、浦和美園駅 - [[埼玉スタジアム2002]]間に関しては、埼玉スタジアム2002が[[2020年]]に開催される予定の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]において、サッカー競技の会場となることから、[[2013年]]の開催決定段階ではオリンピックまでに早期延伸を要望する声もあった<ref>[http://www.saitama-np.co.jp/news/2013/10/04/03.html 埼スタまで埼玉高速鉄道延伸を サッカー県議連、知事に要望] {{Wayback|url=http://www.saitama-np.co.jp/news/2013/10/04/03.html |date=20131023061047 }} - 埼玉新聞、2013年10月4日、2013年10月22日閲覧。</ref>。
2016年の[[交通政策審議会]]による「[[交通政策審議会答申第198号]]」では、「地域の成長に応じた鉄道ネットワークの充実に資するプロジェクト」として位置付けられ、「課題」として「事業性に課題があるため、関係地方公共団体等において、事業性の確保に必要な需要の創出に繋がる沿線開発や交流人口の増加に向けた取組等を着実に進めた上で、事業計画について十分な検討が行われることを期待」との意見が付けられた<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/001138591.pdf|title=東京圏における今後の都市鉄道のあり方について(答申)|page=35|work=交通政策審議会|date=2016-04-20|accessdate=2019-09-24}} {{Wayback|url=https://www.mlit.go.jp/common/001138591.pdf |date=20220710194127 }}</ref>。
2021年4月30日、埼玉県とさいたま市で岩槻延伸に向け連携、協力して取り組むことで合意したと発表した<ref>[https://www.saitama-np.co.jp/news/2021/05/01/12_.html 地下鉄7号線の延伸、実現へ加速 埼玉県とさいたま市、部局長会議を新たに設置 連携し取り組み] {{Wayback|url=https://www.saitama-np.co.jp/news/2021/05/01/12_.html |date=20210503190906 }} - 埼玉新聞、2021年5月1日</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
=== 工事誌 ===
*{{Cite book |和書 |editor=[[日本鉄道建設公団]] |title=埼玉高速鉄道線工事誌 |publisher=[[日本鉄道建設公団]] |year=2001 |month=12 |ref=工事誌}}
=== 書籍 ===
* 鉄道ジャーナル社『[[鉄道ジャーナル]]』2001年6月号「都心直結の地下鉄新線埼玉高速鉄道」(埼玉高速鉄道(株)施設部車両課車両課長 清水邦人)
*「鉄道ファン」2004年9月号 特集:東京メトロ([[交友社]])
*「MY LINE 東京時刻表」各号([[交通新聞社]])
*「[[鉄道ダイヤ情報]]」各号(交通新聞社)
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[武州鉄道]]
* [[国道122号]] - 当路線と並行する、または当路線の上を(川口元郷駅南方から鳩ヶ谷駅北方にかけて)通る[[一般国道]]。
* [[埼玉県道105号さいたま鳩ヶ谷線]] - 上記の国道の旧道。
* [[日光御成道]] - [[江戸時代]]の[[脇街道]]の一つで、上記の国道や県道が道筋を踏襲している。川口元郷駅南方から鳩ヶ谷駅南方にかけて当路線と道筋が重なる。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Saitama Railway}}
* [https://s-rail.co.jp/ 埼玉高速鉄道 埼玉スタジアム線]
{{日本の地下鉄}}
{{DEFAULTSORT:さいたまこうそくてつとうせん}}
[[Category:日本の地下鉄路線]]
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:埼玉県の交通]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:埼玉高速鉄道|路さいたまこうそくてつとうせん]]
|
2003-07-25T04:20:34Z
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12,188 |
痴漢
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痴漢(ちかん、英:groper、groping)とは、ラッシュアワーなど混雑時で自分の犯行だと知られにくい状況を悪用し、主に公共交通機関など公共の場で他の男女に対する加害的な性的接触行為、またはその行為者の総称。痴漢行為ともいう。
電車内やエレベーターなど公共交通機関内だけでなく、夜道などで相手の体に触れたり抱きつく、また自身の下半身を露出させて相手の反応をみて楽しむ露出狂などの行為を含む性犯罪である。基本的に非殺傷系の性的暴行、性暴力、その行為者を意味する。『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM-5)及びWHOの「国際疾病分類」(ICD-11)では、窃触障害として性依存症に分類される。
男を意味する「漢」という字が使われており、実際に女性の方が被害に遭いやすい行為である。そのため女性への痴漢行為が先行して取り締まられてきたが、男性から男性、女性から男性というように男性被害者もいる。現在の法において、加害者や被害者が、男か女かで区別はない。
「痴漢は日本特有の犯罪」であり、そのために英語化(Chikan)されていると主張されることもあるが、フランス語で「frotteur」として、百年以上前から存在している。1910年のフランス共和国では導入されなかったものの対策案として「女性専用車両」が提案されたことがある。中国、韓国、欧米、中南米など多くの国で痴漢が発生しており、特に公共交通機関での性的嫌がらせや性暴力などを理由に女性専用車両の検討や導入がなされたり、車両内監視カメラ設置が要望されている。日本特有と誤解されがちなのには、満員電車に乗る頻度の高さが群を抜いて高いこと、他国が性犯罪者の中で殺傷系性犯罪(強姦殺人など)の比率が高い中で、日本は痴漢や盗撮など非殺傷系性犯罪の比率が多いことにある。満員電車の多い日本に遠征犯罪しにくる外国人犯罪集団も判明している。
日本国内における痴漢の検挙件数は全国の中で東京都が大多数を占める現状がある。そのため、小池百合子東京都知事は、痴漢対策として都営大江戸線に女性専用車両を導入することについて答弁を求められた。これに対し、性犯罪、性暴力は重大な人権侵害であり、痴漢等の対策を鉄道事業者や警視庁などと連携すること、痴漢をはじめとした性犯罪、そして性暴力のない社会の実現に向け取り組んでいくことを表明した。フランスでは首都パリや第4の都市トゥールーズの公共交通機関、イギリスでも首都ロンドン、特にロンドン地下鉄で問題になっている。女性専用車両は戦後の日本では2000年12月に最初に導入されたが、フランスやイギリス、オーストラリアなど主要な西欧先進諸国では男女双方から反対意見が多く、一切導入されていない。逆に、イラン・インド・エジプト等では導入されている路線がある。2017年のイギリスでは女性専用車両を提案した議員が現れた際には、フェミニスト等の女性を含み、「女性・男性双方への侮辱」と批判の嵐が起きた。ドイツでも導入例が無かった。しかし、ケルン大晦日集団性暴行事件の翌2016年4月に地方鉄道会社の一つが「車掌室の隣」に初導入した。
警察は電車内で痴漢に遭った場合、しゃがみこみ被害を防ぎ、声を出し注目を集めることと、110番通報を推奨している。2023年3月、政府の「痴漢撲滅に向けた政策パッケージ」が公表され、痴漢事犯の検挙件数等についてより詳細な調査・分析や性犯罪再犯防止指導等の実施、性犯罪被害相談電話につながる全国共通番号「#8103」等について周知徹底すること、痴漢被害を理由とした遅刻や欠席への対応がはかられることとなった。概要では「痴漢は、重大な犯罪である。個人の尊厳を踏みにじる行為であり、断じて許すことはできない」との文言が掲げられている。2023年7月より同意のない体への接触は、不同意わいせつ罪として刑法犯罪となり検挙されるようになり電車内から110番通報による逮捕者も出た。
BBCによると、日本のポルノ産業で「痴漢モノ」は特に人気のジャンルのひとつで他のアジア諸国にも広っている。BBCは、「Unmasking the men who sell subway train groping videos」と言う記事にて、広州・ソウル・東京など日本、韓国、台湾、香港、中国大陸など東アジアを中心に活動する中国人の痴漢盗撮集団の存在を発見した。彼らによって、日本の池袋駅などで行われた痴漢行為を撮影した動画はサイトに掲載され、中国人を中心に広く販売されていることも報道された。
主に地方公共団体ごとの迷惑防止条例や、刑法第176条の強制わいせつ罪が適用される。実務上は迷惑防止条例の「正当な理由なく、人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為として、公共の場所又は公共の乗物において、衣服その他の身に着ける物の上から又は直接に人の身体に触れること」に対する刑事罰が適用される場合が多い。
迷惑防止条例は施行当初は痴漢等の保護対象が女性のみに限定されていたが、1999年に鹿児島県が性別を限定しない迷惑防止条例を施行。2001年には男性が被害にあった場合にも取り締まりができるように東京都が「女性」にあたる部分を「人」に改正・施行。以降、各都道府県で改正迷惑防止条例が施行され、2014年4月1日に岡山県が改正迷惑防止条例を施行したのを最後に、全都道府県の迷惑防止条例が保護対象となる性別を限定しなくなった。
2017年7月から施行の刑法改正により、従来、親告罪とされていた強姦罪(改正後は「強制性交等罪」と改定)、強制わいせつ罪等の性犯罪は、親告罪ではなくなり、告訴がなくても裁判により犯人を処罰することが可能となった。また、改正法が施行される前に被害にあった事件についても、原則として、告訴がなくても裁判により犯人を処罰することができるようになっている。なお迷惑防止条例違反については元来親告罪ではなく被害者が被害届を取り下げても事件自体は終わらない。さらに、近年は警察や検察が被害者のプライバシー保護を理由に被疑者の弁護士にも被害者情報を開示しなくなり、弁護士を通じて示談を進める方法が事実上困難になったとライターは語っている。
その他にも行為の種類や程度によって、軽犯罪法第1条第5号、わいせつ物頒布罪、公然わいせつ罪、暴行罪、鉄道事業者への威力業務妨害などにより処罰される。
2023年7月、改正刑法により、大阪市役所職員の男(23)が電車内で女性の足を触ったことで不同意わいせつの疑いで逮捕された。不同意わいせつ罪の法定刑は6カ月以上10年以下の懲役と規定されている。
飲酒等により正常な判断が出来ない状況において痴漢行為を犯した場合でも、今日の司法では酒に酔っていたことが免責の理由と認められることはない。
同一被害者が同一犯人に連続して狙われるような事案以外、痴漢は現行犯でなければ犯人を特定しづらく、更に、被疑者の現行犯逮捕には、周囲に居合わせた目撃者などの協力が必要となる場合もある。ただし、被疑者が高速バスなどで被害者の隣の席に座っていた場合や、遺留品を残して逃げた場合などは、通常逮捕が可能な場合もある。
電車内の痴漢については、 警視庁鉄道警察隊痴漢被害相談所で相談を受けており、痴漢被害者からの相談に基づいて事前に打ち合わせをし、関係する警察署、鉄道警察隊等が、被害者の方の協力を得ながら犯人を逮捕している。また警視庁鉄道警察隊私服隊員はスリや痴漢の巡回視察で摘発を行っている。
被害申告者の供述のみで被告人が有罪となったり、無実を指摘する目撃者がいても被疑者を数日間拘留したりする事例もある。これまでに恋人男性に教唆された女性による示談金目的の冤罪、携帯電話使用を注意されたことによる逆恨みからの痴漢冤罪事件がニュースとして取り沙汰されたことがある。また、被害者の誤認などにもよって起こる痴漢冤罪が着目され、問題になることもある。
性暴力加害者の依存治療にあたる斉藤章佳は、加害者の多数が男性であることを踏まえ、痴漢について語るときに男性は皆性犯罪予備軍なのかとの声が上がる事に対し、「ノット・オール・メン」と呼ばれる「すべての男性がそうではない」「痴漢はえん罪が多い」「男も被害にあう」などの主張が起こると述べている。これについて、痴漢被害とえん罪被害は全く別の話で論点ずらしであり、そのような反応が起こると性被害を矮小化し、被害者の口を塞ぐ効果が起こると指摘している。また、加害者の根底には女性蔑視があり加害者は被害者を「的」「人形」「モノ」と見ており、人格を持つ人間と認識していないと語られている。
痴漢を指摘され列車の線路に降りて逃亡を図るケースもあるが、線路に立ち入って列車の運行を妨害した場合、刑法125条1項の「往来危険罪」に問われ、基本的には2年以上の懲役刑となり、鉄道会社から民事訴訟を起こされる場合もあるうえ逃亡中の死亡事例も発生している。
2022年9月、女性弁護士が埼京線内でスカートをまくり上げられ下着に手を入れられるなどの痴漢被害に遭い、加害者の男性会社員と下車したが転倒させられけがを負った事件で東京地裁で加害者に有罪判決が言い渡された。被害者はPTSDを発症し仕事に支障を来し、死にたいと思うほど悩み精神の均衡を失い、被害時には意志を持つ人間として扱われていないと感じたと語った。民事上では示談金は520万円となり、加害男性は家族に常時移動状況をスマートホンアプリで監視されるようになった。
学生で毎日痴漢被害に遭うことで耐えられなくなり、電車に乗れず不登校になった事例もある。2021年6月埼玉県では中学生時代から電車内でスカートや下着に手を入れられるなど同じ男(40代)に痴漢をされた女性が、27歳で初めてつきまといや痴漢の告発をして相手が有罪となった事件もある。女性は学生時代は家族に相談しても信じてもらえず女子校だった学校にも生徒達の被害が日常茶飯事のため相談をためらった経歴があり、スカートがはけなくなり、男性嫌悪のため恋人もつくったことがなく人生に影響があったことを裁判で訴えた。高校生が金髪にしたら痴漢に遭遇しなくなりおとなしい女性を選んでいるとの見解もある。高校生で下半身を触られ下着に手を入れられ、性器に指を入れられることもあったり胸を触られたり精液をスカートにかけられる被害も起こっている。高校を卒業した後には痴漢に遭遇しなくなり、生足にスカートだから手を入れやすいし子供だから騒がないのではないか、おとなしいかの基準で選んでいる。痴漢は個を奪われて性の対象にされて侵害される行為だとジャーナリストは語っている。
2017年10月、フランス在住の女性が日本での中学生時代に遭った痴漢をテーマに現地で本を出版した。通学時の性被害によって精神的苦痛を受け自傷行為や自殺祈念があったと語っている。
10代で電車内で性器に指を挿入される痴漢行為に遭遇したケースもあるが、2023年の改正刑法により、今後は当該行為は「不同意性交等罪」にあたる。2023年7月、大阪市建設局職員の男(23)は京阪電鉄車内で女子大生の太ももなどを触り不同意わいせつ容疑で逮捕された。また2023年10月、バングラデシュ国籍の自称会社員の男(34)が埼京線内における女子大生への不同意性交等の疑いで逮捕された。
大学の試験日にJR埼京線に乗り服をめくられて精液をかけられた女子大生は、試験日であることで通報をためらったが大学に相談し、試験の配慮を受けたとインタビューに答えている。DNA鑑定の結果、同じ犯行を行った会社員の男が2年後に判明している。被害者には男性に背後に立たれることに恐怖を感じる後遺症が残った。
2023年8月、韓国の人気女性DJであるDJ SODAは、日本の音楽フェスティバル「MUSIC CIRCUS'23」で痴漢被害に遭ったことをXで告白し、「日本は痴漢大国」と報道された。観客の男女から胸を触られる被害を受け、特に女性から笑いながら最も強く揉まれたと語り、これらのセクハラ行為に恐怖を感じたと訴えた。これに対し、服装を問題視する投稿があり、国連は被害投稿同日、「性的暴力のサバイバーが襲われた時、何を着ていたかは関係ありません」とコメントした。イベントの運営会社は男女3人を不同意わいせつ容疑などで刑事告発したことで、20歳の男性二人が出頭し、21歳の女性も捜査で判明し任意聴取でキスしたり胸に触ったことを認めている。森田宏幸はこの事件の被害者を「公開型のつつもたせ」「彼女の芸」と批判し、後に謝罪した。本件に対し田村淳は自身も中年女性からロケ中に股間をまさぐられる痴漢被害を受けたことを告白し、犯人に速やかな自首を勧めた。
2023年10月、ウズベキスタン国籍の男(28)が、、都営バスの空いている車内で女子高校生の下半身を触り続けた容疑で逮捕された。前日にも足に触り待ち伏せをしていた。本人は嫌がっていないので同意したと思ったと語っている。
ジェンダー・開発政策専門家の大崎麻子は、世界的には女子教育の障壁といわれている電車内の痴漢が日本では日常のこととして矮小化されていることを問題として指摘している。
京都大学非常勤講師の牧野雅子は、多くの女性が痴漢被害に遭う一方で、メディアが冤罪被害ばかりを取り上げる状況に苦言を呈している。牧野は、日本の男性メディアは1990年代までは痴漢という性暴力を娯楽として特集を組み楽しんでいたが、冤罪被害者という男性に配慮・強調し、これまでの加害をなかったことにしていると指摘している。また、被害に遭った女性の態度や服装が犯罪を誘発しているかのように言われるなど、現在でも痴漢をはじめとした性暴力が軽視されたり自己責任論になることを問題視している。
加害者は男性、被害者は女性である場合が多い。例えば2013年に埼玉県警察が検挙した痴漢事件では、被害者は10代・20代の女性が8割を占め、特に電車通学を始めたばかりの高校1年生が標的にされていた。被疑者は30代・40代の男性会社員が多かった。平成27年(2015年)の「犯罪白書」によると、痴漢を行う男性で最も多いのは4大卒のサラリーマンでこのうち既婚男性は34.7%と分析されている。平成23年の警視庁の「電車内の痴漢防止に係る研究会の報告書について」でも被害者が高校生が36.1%と最多数を占めているが、被害者の多くが被害に遭っても声を上げることができず、「相談する場所が分からない」「啓蒙活動が足りない」などの声が寄せられた。
小中高生を標的にする小児性愛者は制服がトリガーとなり、目にしただけで抑止力を失い犯罪が成立しそうな機会をうかがっている。また男尊女卑の価値観を内在化し、ストレス発散手段として痴漢を選び、自分はそれを許されると思い込み、捕まらないよう熟練・習慣化して学習化された行動だと依存治療者に指摘されている。このクリニックで2000人以上治療を受けたうち99%が男性、6割が4大卒のサラリーマンとなっている。電車内痴漢新聞報道の分析では、被害者は中学生や高校生が多く(中学・高校生が47.40%)、加害者は40代の警察官などの公務員や国家公務員(警察等が21.18%,地方公務員が12.32%,国家公務員が11.82%)が多かった。
痴漢は再犯率が高く、例えば2015年の法務総合研究所の調査によると、前科のある者が91.1%、性犯罪の前科のある者が85.0%であった。加害者が反復する性的逸脱行動の結果、性依存症に陥っているとされる。
警察白書によると、痴漢の検挙件数や電車内での強制わいせつの認知件数は現在までに減少傾向にある。
痴漢も他の性犯罪と同様に暗数が多い。例えば痴漢抑止活動センターの調査によると痴漢被害者が通報した割合は3%だった。また、警察庁が実施したデータによると、過去1年間に痴漢被害にあった人の89.1%が警察に通報・相談をしていない。
2015年に東京都で発生した痴漢の件数は約1900件であり、そのうち電車内は54%で駅は18.2%であるので、鉄道関連での痴漢は約1370件ほど発生している。2013年から2015年までの3年間に警視庁が東京都の迷惑防止条例で検挙した痴漢行為の内、約82%にあたる3079件が列車内と駅構内で発生していることが情報開示請求によって明らかになった。2013年と2014年のデータから痴漢方法は、「さわり・撫で」の1719件が最多で、次点が「陰部押しつけ」の179件である。事業者の区別では、3年間の合計でJRが1566件、私鉄が1301件、都営が395件だった。3年間の痴漢の発生場所は黒塗りにされていたが、東京都と警視庁が鉄道事業者に女性専用車両の導入拡大を要請していた2005年2月の時点では、JR埼京線、中央線が突出しており、総武線、京王線、山手線が続いた。
法務総合研究所が2019年に発表した調査では、全国の男女3,500人のうち、過去5年間に性的な被害に遭ったことがあると回答した者は女性回答者の1.7%、男性回答者の0.3%であり、被害の内容として痴漢された人は全体の0.3%であった。
WeToo Japanが2019年に発表した調査では、関東圏で暮らす男女約1万2千人のうち、電車やバス・道路などで「自分の体を触られた」のは女性で47.9%、男性で8.6%、「体を押し付けられた」のは女性で41.9%、男性で11.9%であった。この調査によると、過去1年間で痴漢被害に遭った割合が最も高かったのは10代女性で、22.9%であったという。ただし、30代、40代であっても1割弱が被害を受けており、兵庫教育大大学院の永田講師は「決して低くない」と指摘している。
2022年3月、私立岩倉高校が行った痴漢被害の調査では、女子生徒の4人に1人が被害に遭い「誰にも相談しなかった」という生徒が40%に上った。
週刊プレイボーイ1975年4月29日号「春本番”チカンですよ~”首都圏<通勤電車>各線別チカンカラー!」特集や男の本音誌「月刊ドリブ」1972年7月1日号では「ここまでならつかまらないスレスレ痴漢特集法」が組まれていた。
秋元康は1986年に女子高生アイドルグループであったおニャン子クラブにおっとCHIKAN!という楽曲の歌詞を提供した。女子高生の悪だくみとしてストレス解消のために痴漢えん罪を生み出している歌詞となっている。
2016年の埼玉県の簡易調査では、60歳未満女性の回答者の67.1パーセントが被害経験があると答えた。
青少年の性行動全国調査報告では、女子中学生、女子高生、女子大生の痴漢被害の経験率について報告されている。それによると、女子の痴漢被害の経験率の推移は以下の表のようになっており、いずれの段階の女子でも痴漢の経験率は低下している。
3度被害に遭っている者や、男性や女性から被害を受けた者もいる。|
ボクサーの寺地拳四朗は2022年5月に中年男性から痴漢被害を受けた。寺地は世界ボクシング評議会のライトフライ級王者であるが、それでも恐怖と羞恥心で声を上げたり抵抗することが困難だったという。その経験を踏まえ、ツイッターで「被害に遭った人に『なぜ抵抗しなかったのか』『どうして声をあげなかったのか』などと聞いたり、ちゃかしたりすることは、被害者をさらに追い詰めるので絶対にやめてほしい。自分が被害に遭ってみて初めてよく分かった」と強調した。さらに、「男性で痴漢被害に受けてる人がこんないるのにびっくりしたのと同時に、やっぱり逃げるしかできない人も多い」「女性の被害者はほんと僕が思ったよりめっちゃ怖い思いをしてると思う」とも語った。
NPO法人「日本弱者男性センター」代表は女性からの加害行為に遭遇したと語り、国際男性デーに合わせ、都電荒川線で男性専用車両を運行するためのクラウドファンディングを行い、男性支援も訴えている。
2023年5月、団体職員(56)、アルバイト(44)の男性2人は2月の夜、JR埼京線を走行中の車内で共謀して新宿駅から数分間にわたって男子高校生(16)を挟み込み胸を触ったり、下着の中に手を入れるなどにわいせつな行為を行い、防犯カメラ画像の分析により逮捕された。被害者はショックで沿線利用が出来なくなったと報道されている。加害者は常習的に痴漢を行っていた。
2023年9月、現役保育士として活躍するてぃ先生は10代後半時に電車内で男性から下半身をなで回されたり体を押しつけられる痴漢被害にあい、注意できなかった自分の弱さを責める考えに陥ったが、親にも被害を打ち明けられなかったが当時の教員に話しを聞いて貰うことで救われたと語っている。
内閣府男女共同参画局では、男性のためのフリーダイヤル性暴力被害ホットラインを設置し、相談を受け付けている。
痴漢は、電車内、職場、公園、人気のない道など第三者の目が行き届かない環境ならばどこでも行なわれる可能性がある。
痴漢の多くが車内で発生している。2010年に警視庁が検挙した痴漢の65.9%は電車内で発生している。特に座席横の角の部分が最も多かった。また、50から60%は通勤・通学路線で通学・通学時間帯に犯行に及んでいた。
2010年に警視庁管内で検挙された痴漢(件数は前述)の11.9%は駅構内で発生しており、電車内に次いで多かった。
ゴールデンウィーク、夏休みなどの長期休暇中に夜行バス車内で頻発している。夜行バスは車内が暗く、多くの乗客が寝ている上、席の移動もできないため、痴漢が発生しやすい上、発生すると犯行が長時間に及ぶケースが多い。このため、多くのバス会社は普段は男女が隣同士にならないよう配慮しているが、長期休暇中は満席となるため配慮が難しくなるため痴漢が頻発する。
衣服越しに胸や尻、性器等に触れたり、スカートやズボンの中に手を入れて下着、性器等に触れたり、相手に自分の性器を触れさせたりすることが基本的な手口である。
一方で、衣服や肉体への物理的接触を伴わず、公衆の前で性器を露出したり、スマートフォンの画像共有アプリを利用するなどして猥褻な画像を無理に見せたりする行為も、痴漢事件として報道されることがある。2019年8月20日には福岡県警が県迷惑防止条例違反(卑わいな行為の禁止)の疑いで、男性会社員を書類送検した他、兵庫県や千葉県などで逮捕者を出している。
第三者の男性が女性に成り済まして電子掲示板に「痴漢してくれる人はいませんか」などと書き込み、女性が掲示板を閲覧した男性から被害を受ける事件も起きている。書き込んだ男性は迷惑防止条例違反容疑で逮捕されている。
個人で痴漢行為を行なう者のほかに、組織的に痴漢行為に及ぶ集団の存在が確認されており、集団痴漢と呼ばれている。実行犯が痴漢行為を行なっている間、その仲間が周囲から見えないよう壁になったり、被害者に騒がれた場合に第三者を装って冤罪を主張する虚偽の発言で擁護したりする。
集団痴漢の事例では、集まった男たちは互いに面識がないことも多い。痴漢情報を交換するインターネット上の匿名掲示板で「痴漢仲間募集」や「一緒に痴漢しませんか?」などと書き込みがなされることもあり、そういった情報をもとに集まっているとされる。
毎年1月の大学入学共通テストの時期になると、「明日はJK(女子高校生)を痴漢しまくっても通報されない日です」などと受験生を標的とする痴漢予告が多発しており、実際の被害も確認されている。これは、試験に遅刻できないため通報されないと見込んでのものであり、2020年には悪辣な書き込みが1,000件以上確認されている。なお、大学入試センターは「もしも被害に遭って遅刻してしまっても、救済措置があるので、受験票に書かれた問い合わせ番号にまず電話して欲しい」としている。
加害者については性欲の発散ではなく、むしろ痴漢することで達成感や優越感を味わい、支配欲を満たし、ゲーム感覚やレジャー感覚、男性性の確認と刺激を求める「弱い者いじめ」が動機であり被害に遭っても訴え出なさそうなターゲットを狙っているとの精神保健福祉士・社会福祉士による分析がある。
ある精神保健福祉士・社会福祉士が200名を超える加害者に聞き取り調査を行ったところ、過半数が「痴漢の行為中に勃起していない」と回答した。ある依存症専門医は痴漢行為について「『痴漢をする人は性欲が強い』と考えている人は多いのですが、それは違います。なぜなら、もし性欲の強い人が女子高生のお尻を触ろうものなら、そこで止めるなんてことはできないわけですから。つまり、痴漢とは性欲を満たすための行為ではなく、スリルを満たすための行為なのです」と述べている、男尊女卑的価値観に基づく支配欲を満たすために行う者もいる。
30年以上痴漢をしていた男性は性的欲求というよりは、女性とのコミュニケーションのつもりだったと語り、触って嫌がらなければ許されていると考え、恐怖でフリーズしているのだと治療を受けて思い至った。地味な女性だと注目されないため、好んで標的にしていた。電車を痴漢するために往復で乗車し何度も逮捕されているが自身でコントロールできると認識し、最終的には電車に乗らない状況にしないとやめられない状況に陥っていたことをインタビューで述べた。
加害男性(43)は達成感と支配欲のために犯罪を繰り返し、痴漢をする相手のことを心をもった1人の人間だと認識できず、被害者の傷付きに全く思い至らない。女性に対し軽く考え、女性軽視、見下しているというのは常にあったと語った。また被害者の治療クリニックでは相手が自分に気がある、短いスカートをはいているのは性加害されてもいいとの認知のゆがみを理解させている。
また、2022年1月15、16日には大学入学共通テストの朝に受験生をターゲットとした「共通テスト痴漢祭り」を行うとする予告投稿が相次いでいると報道された。
「痴漢をされたら周りに助けを求めればいい」という見解もあるが、公共の場で胸や尻が露出している姿を他人の目に晒すのは屈辱的なことであり、それによって目立つことを恐れて声を上げられないケースも多い。
まず痴漢を寄せ付けないことが大切である。簡単にできる対策としては、露出度の高い服装を避ける、ターゲットにされないよう通勤・通学などの行動パターンを変えてみる、いざという時に駆け込める場所(交番・コンビニなど)を把握しておく、電車では女性専用車両を利用する、防犯ブザーを鞄につけるなどして所持する、いざという時は携帯電話やスマートフォンを鳴らして周囲の注目を引く、毅然とした隙のない女性を演出する、などがある
痴漢は目立つことを嫌うため、大人しく、抵抗されにくいイメージのある比較的普通の服装を纏う地味な人物を狙うともされている。
制服を着ていると、私服の場合よりも痴漢に遭いやすい。「制服通学」をしている生徒が私服の時より痴漢の被害を多く受けることが有志団体のアンケート調査で判明しており、国際NGOの調査でも英国内の女子生徒のうち、3人に1人は学校の制服を着ている時に性的な嫌がらせを受けた経験を持つことが明らかになっている。卒業し制服を着なくなると痴漢に遭わなくなったとの女性の声も多い。痴漢の性的倒錯の治療に当たっている斉藤章佳は、痴漢加害者について、発覚リスクが低い相手をターゲットにする傾向があり、その指標になるのが女子中高生の「制服」であり、それは従順であることの象徴と認識されていることを語っている。
被害に遭った場合、黙っていると犯行がエスカレートする(中には被害者が同意したと思い込む者もいる)おそれがある。「嫌だ」という意思表示をする必要があるが、痴漢かどうかの確信を持てない時は、車両や乗車場所を変える。被害に遭っていると確信した場合は、犯人を現行犯逮捕する、防犯ブザーを使用するなどの方法がある。
犯人を現行犯逮捕する時は
電車内では
女性専用車両によって、防犯カメラと女性以外が入らないスペースを設ける。
日本若者協議会という任意団体はオンラインで署名を集め、2021年9月に都議会公明党に、「本気の痴漢対策を求めます」として要望書を提出した。3月の東京都議会の予算特別委員会での交通機関での痴漢被害などの安全対策についての審議を経て、東京都は痴漢被害多い大江戸線への女性専用車両を導入する方針としている。
埼玉県警察鉄道警察隊は、犯人への警告及び犯行の証拠残しを目的とした「チカン抑止シール」を無料配布している。ネット上では「悪用されたら怖い」「冤罪が増えるのでは」などの声もあるが、県警鉄警隊は「シールの印はあくまでも補強証拠で、捜査は従来通り被害者や目撃者の証言、防犯カメラの映像などを精査して行う」としている。大宮駅で配布を始めたところ、女子高生や学校からの問い合わせが相次いだ。
実際に被害に遭ったことのある女子高生は、「私たちは泣き寝入りしません」などと書かれたバッジを作成して身に付けたところ、被害に遭わなくなったという。
夜道を歩くときは光量の大きい懐中電灯を所持していると、痴漢の目をライトの光でくらませて、ひるんだところで鼻先を殴って逃げて110番に通報するといった対策ができる。
シヤチハタでは、「迷惑行為防止スタンプ」としてブラックライトで照らされると浮かび上がる印を押せる印鑑を2019年8月に試作販売した。
逮捕段階では犯罪が確定していないため、解雇等の処分を行うことは違法なる可能性がある。一方で、痴漢事件で有罪が確定した場合において、鉄道会社に勤務していた痴漢の前科がある職員に対して、懲戒解雇もやむを得ないとされた裁判例が存在する。もっとも、この場合においても、退職金の全額不支給は相当ではなく、3割の支払いが命じられた。
有名な痴漢冤罪事件として、防衛医大教授痴漢冤罪事件がある。同事件においては、被告人に痴漢を行うような性的傾向が存在しないことに加え、被害者が述べる痴漢の犯行態様は執拗なものであるにもかかわらず回避行動をとっておらず、一旦下車しながら再び被告人のそばに乗車していることの不自然性などから、被害者の証言が信用できないため、合理的疑いが残るとして最高裁判所において無罪判決が宣告された。判例においては、痴漢事件における冤罪防止の準則として、「本件のような満員電車内の痴漢事件においては,被害事実や犯人の特定について物的証拠等の客観的証拠が得られにくく,被害者の供述が唯一の証拠である場合も多い上,被害者の思い込みその他に より被害申告がされて犯人と特定された場合,その者が有効な防御を行うことが容易ではないという特質が認められることから,これらの点を考慮した上で特に慎重な判断をすることが求められる。」と判示した。那須弘平裁判官は、補足意見として、「普通の能力を有する者(例えば十代後半の女性等)がその気になれば,その内容が真実である場合と,虚偽,錯覚ないし誇張等を含む場合であるとにかかわらず,法廷において「具体的で詳細」な体裁を具えた供述をすることはさほど困難でもない。その反面,弁護人が反対尋問で供述の矛盾を突き虚偽を暴き出すことも,裁判官が 「詳細かつ具体的」,「迫真的」あるいは「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な指標を用いて供述の中から虚偽,錯覚ないし誇張の存否を嗅ぎ 分けることも,けっして容易なことではない。本件のような類型の痴漢犯罪被害者の公判における供述には,元々,事実誤認を生じさせる要素が少なからず潜んでいる」と述べた。
他方、痴漢冤罪を主張したものの、無罪主張が排斥され、有罪判決が宣告された事例も存在する。
痴漢は特に日本にだけ限られた行為ではないが、イギリスやカナダでは日本に観光する自国民に「通勤電車内の女性乗客への不適切な接触やchikanの報告は、かなり一般的である」(英国政府公式サイト)、「混雑した地下鉄や鉄道で、不適切な身体接触が起きる可能性がある」(カナダ政府公式サイト)と注意喚起がされる状況にあり、日本での性犯罪の取り締まりが強化されたことにより小児性愛者等の多くが、逮捕リスクの少ない「電車内のわいせつ行為」に集中したとの意見も見られる。「CHIKAN(痴漢)」が、「KAROSHI(過労死)」などに続き国際語化する可能性と、カントリーリスクだと報道されている。
「Chikan」という単語は、もはや日本だけでなく東アジア各地に広まり、中国では日本語を中国語読みして、「chihan」と呼ぶと報道されている。
韓国では「痴漢」を朝鮮語読みした「치한」という呼称が使われている。京畿開発研究院の研究委員が2011年8月に、首都圏で大衆交通を利用する女性職員300人に行った調査では、24.8%が被害に遭ったことがあると答えた。また、このうち30.1%が過去1年間に2回以上被害に遭ったと答えた。被害場所は地下鉄が67.1%、市内バスが15.1%、高速バス・座席バスが6.8%だった。被害に遭った女性の対処方法は日本人女性と同じく消極的で、回答者の半分以上は「乗り換えたり車両を移動したりする」と答えた。また、女性専用車両がある。
地下鉄での性犯罪自体は目新しいものではなく、1953年当時のニューヨーク市の刑事は、混雑した地下鉄を「性犯罪者にとって素晴らしい場所」と表現していた。
ニューヨーク市の地下鉄を利用する者を対象にした調査では、63%の人が性的な嫌がらせを受けた経験があると答え、10%が性的暴行を受けたことがあると答えた。実際に、ニューヨーク市の地下鉄において性犯罪の件数は4年連続増加しており、ニューヨーク警察に届け出があった公共交通機関における性犯罪は2017年に1024件に達した。これはかつてニューヨークでは、痴漢は捜査機関の犯罪調査でも調査対象とされておらず、被害女性が無力感を感じ報告しなかった状況から変化したことが一因であるとされる。
2012年度に実施された調査では、18~34歳のロンドン在住女性の内、43%が前年に地下鉄やバスなどで痴漢にあったことがあるという。さらに、2013年7月から2014年4月にかけて、公共交通機関での痴漢の発生件数は27%増加した。また、イギリスでは電車内で起きた痴漢などの性犯罪の報告件数が、2012・2013年度の650件から2016・2017年度の1448件に増加している。英ロビー団体「女性への暴力を終わらせる連合」は、英交通警察や鉄道会社が被害者に当局に報告するよう呼びかける運動を実施したことを賞賛し、件数の上昇は被害に遭うリスクが上昇したという意味ではないと語っている。。これらの女性への性暴力の犯罪の大半がラッシュアワーに起きている。
ロンドンでは、かつて女性専用の車室が存在していたものの、1977年に完全廃止が決定された。後に女性専用車両の導入のアイディアが2015年に労働党のリーダーシップキャンペーンで提案されたものの即座に却下された。その後、労働党の同僚からは批判され、労働党前交通大臣からは「女性にとって極めて侮辱的」とされた。さらにフェミニスト団体からも一様に反対されており、また交通労組の会議書記長は、女性はどこでも座りたいところに座る権利があり、「性別のアパルトヘイトをイギリスの鉄道に望まない」としている。
ロンドンでは地下鉄の痴漢における10倍とも言われる暗数撲滅のため、61016番へメールで通報する革命的な通報システムのキャンペーンを実施した。しかし、18ヶ月で505件の通報があったものの、そのうちわずか14人程度しか逮捕できておらず、未だ痴漢は蔓延している。
フランス語では痴漢をする人は「frotteur(こする人)」と呼ばれる。彼らは被害者に対して、女性に体を擦りつけてきて、たいてい公共交通機関など人がすし詰め状態になった場で猛威を振るう。フランスでは1910年から痴漢の存在が社会問題化しており、公共交通機関での痴漢行為は長年の課題であった。また、公共交通機関で男女がともにいることの是非が繰り返し議論され、1910年頃の当時は支持されなかったものの女性専用車両の導入が提案されていた。2018年の1月の時点では、女性専用車両は導入がなされていない。
現代では、犯罪および刑罰対応国家観測所が発表した調査において、女性女性の半数が交通機関に乗っているときに身の危険を感じると回答し、2014年から15年のあいだに少なくとも22万6950人の女性が公共交通機関内で性的被害に遭ったという。
さらにフランスの全国運輸利用者連盟による6000人を超える大規模調査では、回答者の90%近くが公共交通機関で何らかの形で嫌がらせを受けた経験があると回答し、女性の2人に1人がセクハラの被害者にならないためにスカートをやめてズボンを選ぶと回答した。2018年にはパリの地下鉄で自慰行為をしている男が撮影され、その動画がツイッター経由で共有され100万回以上再生される出来事が起きた。動画を投稿した女性によると、このような出来事は珍しいことではなく週に1回はあるという。
2015年、フランスの男女平等高等評議会(フランス語版)が、パリの女性600人を対象に調査したところ、全員が18歳以下の時に、公共交通機関で性的な嫌がらせに遭遇していたと報告されている。
メキシコでは女性の65%が、公共交通機関を利用した際に何らかの性的被害に遭ったと答えている。メキシコシティでは、10人中9人の女性がすでに公共交通機関内での性被害を経験している。メキシコで生中継中に痴漢を行った男性へ叱責したインタビュー女性へ称賛が寄せられた。中南米ではこのような暴力・痴漢・セクハラや、SNS上での脅迫が深刻な問題になっている。またメキシコには女性専用車両がある。
2017年のトムソン・ロイター財団の世論調査では、エジプトの都市であるカイロが女性にとって最も危険な大都市であることが判明し、2013年の国連の調査では、エジプト人女性の70%が公共交通機関での通勤を安全だと感じていないという結果が出ている。またその国連の調査では、女性の99%がエジプトで性的ハラスメントを経験したことがあるという結果が示されている。
ボランティアが看板や乗客のアナウンス、プロモーションビデオなどの取り組みを行っているものの、痴漢の撲滅に大きな進展をもたらしていないため、厳格な法執行が必要であるという声が上がっている。
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"text": "痴漢(ちかん、英:groper、groping)とは、ラッシュアワーなど混雑時で自分の犯行だと知られにくい状況を悪用し、主に公共交通機関など公共の場で他の男女に対する加害的な性的接触行為、またはその行為者の総称。痴漢行為ともいう。",
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"text": "電車内やエレベーターなど公共交通機関内だけでなく、夜道などで相手の体に触れたり抱きつく、また自身の下半身を露出させて相手の反応をみて楽しむ露出狂などの行為を含む性犯罪である。基本的に非殺傷系の性的暴行、性暴力、その行為者を意味する。『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM-5)及びWHOの「国際疾病分類」(ICD-11)では、窃触障害として性依存症に分類される。",
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"text": "男を意味する「漢」という字が使われており、実際に女性の方が被害に遭いやすい行為である。そのため女性への痴漢行為が先行して取り締まられてきたが、男性から男性、女性から男性というように男性被害者もいる。現在の法において、加害者や被害者が、男か女かで区別はない。",
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"text": "「痴漢は日本特有の犯罪」であり、そのために英語化(Chikan)されていると主張されることもあるが、フランス語で「frotteur」として、百年以上前から存在している。1910年のフランス共和国では導入されなかったものの対策案として「女性専用車両」が提案されたことがある。中国、韓国、欧米、中南米など多くの国で痴漢が発生しており、特に公共交通機関での性的嫌がらせや性暴力などを理由に女性専用車両の検討や導入がなされたり、車両内監視カメラ設置が要望されている。日本特有と誤解されがちなのには、満員電車に乗る頻度の高さが群を抜いて高いこと、他国が性犯罪者の中で殺傷系性犯罪(強姦殺人など)の比率が高い中で、日本は痴漢や盗撮など非殺傷系性犯罪の比率が多いことにある。満員電車の多い日本に遠征犯罪しにくる外国人犯罪集団も判明している。",
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"text": "日本国内における痴漢の検挙件数は全国の中で東京都が大多数を占める現状がある。そのため、小池百合子東京都知事は、痴漢対策として都営大江戸線に女性専用車両を導入することについて答弁を求められた。これに対し、性犯罪、性暴力は重大な人権侵害であり、痴漢等の対策を鉄道事業者や警視庁などと連携すること、痴漢をはじめとした性犯罪、そして性暴力のない社会の実現に向け取り組んでいくことを表明した。フランスでは首都パリや第4の都市トゥールーズの公共交通機関、イギリスでも首都ロンドン、特にロンドン地下鉄で問題になっている。女性専用車両は戦後の日本では2000年12月に最初に導入されたが、フランスやイギリス、オーストラリアなど主要な西欧先進諸国では男女双方から反対意見が多く、一切導入されていない。逆に、イラン・インド・エジプト等では導入されている路線がある。2017年のイギリスでは女性専用車両を提案した議員が現れた際には、フェミニスト等の女性を含み、「女性・男性双方への侮辱」と批判の嵐が起きた。ドイツでも導入例が無かった。しかし、ケルン大晦日集団性暴行事件の翌2016年4月に地方鉄道会社の一つが「車掌室の隣」に初導入した。",
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"text": "警察は電車内で痴漢に遭った場合、しゃがみこみ被害を防ぎ、声を出し注目を集めることと、110番通報を推奨している。2023年3月、政府の「痴漢撲滅に向けた政策パッケージ」が公表され、痴漢事犯の検挙件数等についてより詳細な調査・分析や性犯罪再犯防止指導等の実施、性犯罪被害相談電話につながる全国共通番号「#8103」等について周知徹底すること、痴漢被害を理由とした遅刻や欠席への対応がはかられることとなった。概要では「痴漢は、重大な犯罪である。個人の尊厳を踏みにじる行為であり、断じて許すことはできない」との文言が掲げられている。2023年7月より同意のない体への接触は、不同意わいせつ罪として刑法犯罪となり検挙されるようになり電車内から110番通報による逮捕者も出た。",
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"text": "BBCによると、日本のポルノ産業で「痴漢モノ」は特に人気のジャンルのひとつで他のアジア諸国にも広っている。BBCは、「Unmasking the men who sell subway train groping videos」と言う記事にて、広州・ソウル・東京など日本、韓国、台湾、香港、中国大陸など東アジアを中心に活動する中国人の痴漢盗撮集団の存在を発見した。彼らによって、日本の池袋駅などで行われた痴漢行為を撮影した動画はサイトに掲載され、中国人を中心に広く販売されていることも報道された。",
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"text": "主に地方公共団体ごとの迷惑防止条例や、刑法第176条の強制わいせつ罪が適用される。実務上は迷惑防止条例の「正当な理由なく、人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為として、公共の場所又は公共の乗物において、衣服その他の身に着ける物の上から又は直接に人の身体に触れること」に対する刑事罰が適用される場合が多い。",
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"text": "迷惑防止条例は施行当初は痴漢等の保護対象が女性のみに限定されていたが、1999年に鹿児島県が性別を限定しない迷惑防止条例を施行。2001年には男性が被害にあった場合にも取り締まりができるように東京都が「女性」にあたる部分を「人」に改正・施行。以降、各都道府県で改正迷惑防止条例が施行され、2014年4月1日に岡山県が改正迷惑防止条例を施行したのを最後に、全都道府県の迷惑防止条例が保護対象となる性別を限定しなくなった。",
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"text": "2017年7月から施行の刑法改正により、従来、親告罪とされていた強姦罪(改正後は「強制性交等罪」と改定)、強制わいせつ罪等の性犯罪は、親告罪ではなくなり、告訴がなくても裁判により犯人を処罰することが可能となった。また、改正法が施行される前に被害にあった事件についても、原則として、告訴がなくても裁判により犯人を処罰することができるようになっている。なお迷惑防止条例違反については元来親告罪ではなく被害者が被害届を取り下げても事件自体は終わらない。さらに、近年は警察や検察が被害者のプライバシー保護を理由に被疑者の弁護士にも被害者情報を開示しなくなり、弁護士を通じて示談を進める方法が事実上困難になったとライターは語っている。",
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"text": "その他にも行為の種類や程度によって、軽犯罪法第1条第5号、わいせつ物頒布罪、公然わいせつ罪、暴行罪、鉄道事業者への威力業務妨害などにより処罰される。",
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"text": "2023年7月、改正刑法により、大阪市役所職員の男(23)が電車内で女性の足を触ったことで不同意わいせつの疑いで逮捕された。不同意わいせつ罪の法定刑は6カ月以上10年以下の懲役と規定されている。",
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"text": "飲酒等により正常な判断が出来ない状況において痴漢行為を犯した場合でも、今日の司法では酒に酔っていたことが免責の理由と認められることはない。",
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"text": "同一被害者が同一犯人に連続して狙われるような事案以外、痴漢は現行犯でなければ犯人を特定しづらく、更に、被疑者の現行犯逮捕には、周囲に居合わせた目撃者などの協力が必要となる場合もある。ただし、被疑者が高速バスなどで被害者の隣の席に座っていた場合や、遺留品を残して逃げた場合などは、通常逮捕が可能な場合もある。",
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"text": "電車内の痴漢については、 警視庁鉄道警察隊痴漢被害相談所で相談を受けており、痴漢被害者からの相談に基づいて事前に打ち合わせをし、関係する警察署、鉄道警察隊等が、被害者の方の協力を得ながら犯人を逮捕している。また警視庁鉄道警察隊私服隊員はスリや痴漢の巡回視察で摘発を行っている。",
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"text": "被害申告者の供述のみで被告人が有罪となったり、無実を指摘する目撃者がいても被疑者を数日間拘留したりする事例もある。これまでに恋人男性に教唆された女性による示談金目的の冤罪、携帯電話使用を注意されたことによる逆恨みからの痴漢冤罪事件がニュースとして取り沙汰されたことがある。また、被害者の誤認などにもよって起こる痴漢冤罪が着目され、問題になることもある。",
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "性暴力加害者の依存治療にあたる斉藤章佳は、加害者の多数が男性であることを踏まえ、痴漢について語るときに男性は皆性犯罪予備軍なのかとの声が上がる事に対し、「ノット・オール・メン」と呼ばれる「すべての男性がそうではない」「痴漢はえん罪が多い」「男も被害にあう」などの主張が起こると述べている。これについて、痴漢被害とえん罪被害は全く別の話で論点ずらしであり、そのような反応が起こると性被害を矮小化し、被害者の口を塞ぐ効果が起こると指摘している。また、加害者の根底には女性蔑視があり加害者は被害者を「的」「人形」「モノ」と見ており、人格を持つ人間と認識していないと語られている。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "痴漢を指摘され列車の線路に降りて逃亡を図るケースもあるが、線路に立ち入って列車の運行を妨害した場合、刑法125条1項の「往来危険罪」に問われ、基本的には2年以上の懲役刑となり、鉄道会社から民事訴訟を起こされる場合もあるうえ逃亡中の死亡事例も発生している。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2022年9月、女性弁護士が埼京線内でスカートをまくり上げられ下着に手を入れられるなどの痴漢被害に遭い、加害者の男性会社員と下車したが転倒させられけがを負った事件で東京地裁で加害者に有罪判決が言い渡された。被害者はPTSDを発症し仕事に支障を来し、死にたいと思うほど悩み精神の均衡を失い、被害時には意志を持つ人間として扱われていないと感じたと語った。民事上では示談金は520万円となり、加害男性は家族に常時移動状況をスマートホンアプリで監視されるようになった。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "学生で毎日痴漢被害に遭うことで耐えられなくなり、電車に乗れず不登校になった事例もある。2021年6月埼玉県では中学生時代から電車内でスカートや下着に手を入れられるなど同じ男(40代)に痴漢をされた女性が、27歳で初めてつきまといや痴漢の告発をして相手が有罪となった事件もある。女性は学生時代は家族に相談しても信じてもらえず女子校だった学校にも生徒達の被害が日常茶飯事のため相談をためらった経歴があり、スカートがはけなくなり、男性嫌悪のため恋人もつくったことがなく人生に影響があったことを裁判で訴えた。高校生が金髪にしたら痴漢に遭遇しなくなりおとなしい女性を選んでいるとの見解もある。高校生で下半身を触られ下着に手を入れられ、性器に指を入れられることもあったり胸を触られたり精液をスカートにかけられる被害も起こっている。高校を卒業した後には痴漢に遭遇しなくなり、生足にスカートだから手を入れやすいし子供だから騒がないのではないか、おとなしいかの基準で選んでいる。痴漢は個を奪われて性の対象にされて侵害される行為だとジャーナリストは語っている。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2017年10月、フランス在住の女性が日本での中学生時代に遭った痴漢をテーマに現地で本を出版した。通学時の性被害によって精神的苦痛を受け自傷行為や自殺祈念があったと語っている。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "10代で電車内で性器に指を挿入される痴漢行為に遭遇したケースもあるが、2023年の改正刑法により、今後は当該行為は「不同意性交等罪」にあたる。2023年7月、大阪市建設局職員の男(23)は京阪電鉄車内で女子大生の太ももなどを触り不同意わいせつ容疑で逮捕された。また2023年10月、バングラデシュ国籍の自称会社員の男(34)が埼京線内における女子大生への不同意性交等の疑いで逮捕された。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "大学の試験日にJR埼京線に乗り服をめくられて精液をかけられた女子大生は、試験日であることで通報をためらったが大学に相談し、試験の配慮を受けたとインタビューに答えている。DNA鑑定の結果、同じ犯行を行った会社員の男が2年後に判明している。被害者には男性に背後に立たれることに恐怖を感じる後遺症が残った。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2023年8月、韓国の人気女性DJであるDJ SODAは、日本の音楽フェスティバル「MUSIC CIRCUS'23」で痴漢被害に遭ったことをXで告白し、「日本は痴漢大国」と報道された。観客の男女から胸を触られる被害を受け、特に女性から笑いながら最も強く揉まれたと語り、これらのセクハラ行為に恐怖を感じたと訴えた。これに対し、服装を問題視する投稿があり、国連は被害投稿同日、「性的暴力のサバイバーが襲われた時、何を着ていたかは関係ありません」とコメントした。イベントの運営会社は男女3人を不同意わいせつ容疑などで刑事告発したことで、20歳の男性二人が出頭し、21歳の女性も捜査で判明し任意聴取でキスしたり胸に触ったことを認めている。森田宏幸はこの事件の被害者を「公開型のつつもたせ」「彼女の芸」と批判し、後に謝罪した。本件に対し田村淳は自身も中年女性からロケ中に股間をまさぐられる痴漢被害を受けたことを告白し、犯人に速やかな自首を勧めた。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2023年10月、ウズベキスタン国籍の男(28)が、、都営バスの空いている車内で女子高校生の下半身を触り続けた容疑で逮捕された。前日にも足に触り待ち伏せをしていた。本人は嫌がっていないので同意したと思ったと語っている。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ジェンダー・開発政策専門家の大崎麻子は、世界的には女子教育の障壁といわれている電車内の痴漢が日本では日常のこととして矮小化されていることを問題として指摘している。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "京都大学非常勤講師の牧野雅子は、多くの女性が痴漢被害に遭う一方で、メディアが冤罪被害ばかりを取り上げる状況に苦言を呈している。牧野は、日本の男性メディアは1990年代までは痴漢という性暴力を娯楽として特集を組み楽しんでいたが、冤罪被害者という男性に配慮・強調し、これまでの加害をなかったことにしていると指摘している。また、被害に遭った女性の態度や服装が犯罪を誘発しているかのように言われるなど、現在でも痴漢をはじめとした性暴力が軽視されたり自己責任論になることを問題視している。",
"title": "被害"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "加害者は男性、被害者は女性である場合が多い。例えば2013年に埼玉県警察が検挙した痴漢事件では、被害者は10代・20代の女性が8割を占め、特に電車通学を始めたばかりの高校1年生が標的にされていた。被疑者は30代・40代の男性会社員が多かった。平成27年(2015年)の「犯罪白書」によると、痴漢を行う男性で最も多いのは4大卒のサラリーマンでこのうち既婚男性は34.7%と分析されている。平成23年の警視庁の「電車内の痴漢防止に係る研究会の報告書について」でも被害者が高校生が36.1%と最多数を占めているが、被害者の多くが被害に遭っても声を上げることができず、「相談する場所が分からない」「啓蒙活動が足りない」などの声が寄せられた。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "小中高生を標的にする小児性愛者は制服がトリガーとなり、目にしただけで抑止力を失い犯罪が成立しそうな機会をうかがっている。また男尊女卑の価値観を内在化し、ストレス発散手段として痴漢を選び、自分はそれを許されると思い込み、捕まらないよう熟練・習慣化して学習化された行動だと依存治療者に指摘されている。このクリニックで2000人以上治療を受けたうち99%が男性、6割が4大卒のサラリーマンとなっている。電車内痴漢新聞報道の分析では、被害者は中学生や高校生が多く(中学・高校生が47.40%)、加害者は40代の警察官などの公務員や国家公務員(警察等が21.18%,地方公務員が12.32%,国家公務員が11.82%)が多かった。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "痴漢は再犯率が高く、例えば2015年の法務総合研究所の調査によると、前科のある者が91.1%、性犯罪の前科のある者が85.0%であった。加害者が反復する性的逸脱行動の結果、性依存症に陥っているとされる。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "警察白書によると、痴漢の検挙件数や電車内での強制わいせつの認知件数は現在までに減少傾向にある。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "痴漢も他の性犯罪と同様に暗数が多い。例えば痴漢抑止活動センターの調査によると痴漢被害者が通報した割合は3%だった。また、警察庁が実施したデータによると、過去1年間に痴漢被害にあった人の89.1%が警察に通報・相談をしていない。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2015年に東京都で発生した痴漢の件数は約1900件であり、そのうち電車内は54%で駅は18.2%であるので、鉄道関連での痴漢は約1370件ほど発生している。2013年から2015年までの3年間に警視庁が東京都の迷惑防止条例で検挙した痴漢行為の内、約82%にあたる3079件が列車内と駅構内で発生していることが情報開示請求によって明らかになった。2013年と2014年のデータから痴漢方法は、「さわり・撫で」の1719件が最多で、次点が「陰部押しつけ」の179件である。事業者の区別では、3年間の合計でJRが1566件、私鉄が1301件、都営が395件だった。3年間の痴漢の発生場所は黒塗りにされていたが、東京都と警視庁が鉄道事業者に女性専用車両の導入拡大を要請していた2005年2月の時点では、JR埼京線、中央線が突出しており、総武線、京王線、山手線が続いた。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "法務総合研究所が2019年に発表した調査では、全国の男女3,500人のうち、過去5年間に性的な被害に遭ったことがあると回答した者は女性回答者の1.7%、男性回答者の0.3%であり、被害の内容として痴漢された人は全体の0.3%であった。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "WeToo Japanが2019年に発表した調査では、関東圏で暮らす男女約1万2千人のうち、電車やバス・道路などで「自分の体を触られた」のは女性で47.9%、男性で8.6%、「体を押し付けられた」のは女性で41.9%、男性で11.9%であった。この調査によると、過去1年間で痴漢被害に遭った割合が最も高かったのは10代女性で、22.9%であったという。ただし、30代、40代であっても1割弱が被害を受けており、兵庫教育大大学院の永田講師は「決して低くない」と指摘している。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2022年3月、私立岩倉高校が行った痴漢被害の調査では、女子生徒の4人に1人が被害に遭い「誰にも相談しなかった」という生徒が40%に上った。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "週刊プレイボーイ1975年4月29日号「春本番”チカンですよ~”首都圏<通勤電車>各線別チカンカラー!」特集や男の本音誌「月刊ドリブ」1972年7月1日号では「ここまでならつかまらないスレスレ痴漢特集法」が組まれていた。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "秋元康は1986年に女子高生アイドルグループであったおニャン子クラブにおっとCHIKAN!という楽曲の歌詞を提供した。女子高生の悪だくみとしてストレス解消のために痴漢えん罪を生み出している歌詞となっている。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2016年の埼玉県の簡易調査では、60歳未満女性の回答者の67.1パーセントが被害経験があると答えた。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "青少年の性行動全国調査報告では、女子中学生、女子高生、女子大生の痴漢被害の経験率について報告されている。それによると、女子の痴漢被害の経験率の推移は以下の表のようになっており、いずれの段階の女子でも痴漢の経験率は低下している。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "3度被害に遭っている者や、男性や女性から被害を受けた者もいる。|",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ボクサーの寺地拳四朗は2022年5月に中年男性から痴漢被害を受けた。寺地は世界ボクシング評議会のライトフライ級王者であるが、それでも恐怖と羞恥心で声を上げたり抵抗することが困難だったという。その経験を踏まえ、ツイッターで「被害に遭った人に『なぜ抵抗しなかったのか』『どうして声をあげなかったのか』などと聞いたり、ちゃかしたりすることは、被害者をさらに追い詰めるので絶対にやめてほしい。自分が被害に遭ってみて初めてよく分かった」と強調した。さらに、「男性で痴漢被害に受けてる人がこんないるのにびっくりしたのと同時に、やっぱり逃げるしかできない人も多い」「女性の被害者はほんと僕が思ったよりめっちゃ怖い思いをしてると思う」とも語った。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "NPO法人「日本弱者男性センター」代表は女性からの加害行為に遭遇したと語り、国際男性デーに合わせ、都電荒川線で男性専用車両を運行するためのクラウドファンディングを行い、男性支援も訴えている。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2023年5月、団体職員(56)、アルバイト(44)の男性2人は2月の夜、JR埼京線を走行中の車内で共謀して新宿駅から数分間にわたって男子高校生(16)を挟み込み胸を触ったり、下着の中に手を入れるなどにわいせつな行為を行い、防犯カメラ画像の分析により逮捕された。被害者はショックで沿線利用が出来なくなったと報道されている。加害者は常習的に痴漢を行っていた。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2023年9月、現役保育士として活躍するてぃ先生は10代後半時に電車内で男性から下半身をなで回されたり体を押しつけられる痴漢被害にあい、注意できなかった自分の弱さを責める考えに陥ったが、親にも被害を打ち明けられなかったが当時の教員に話しを聞いて貰うことで救われたと語っている。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "内閣府男女共同参画局では、男性のためのフリーダイヤル性暴力被害ホットラインを設置し、相談を受け付けている。",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "痴漢は、電車内、職場、公園、人気のない道など第三者の目が行き届かない環境ならばどこでも行なわれる可能性がある。",
"title": "発生する場所"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "痴漢の多くが車内で発生している。2010年に警視庁が検挙した痴漢の65.9%は電車内で発生している。特に座席横の角の部分が最も多かった。また、50から60%は通勤・通学路線で通学・通学時間帯に犯行に及んでいた。",
"title": "発生する場所"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2010年に警視庁管内で検挙された痴漢(件数は前述)の11.9%は駅構内で発生しており、電車内に次いで多かった。",
"title": "発生する場所"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ゴールデンウィーク、夏休みなどの長期休暇中に夜行バス車内で頻発している。夜行バスは車内が暗く、多くの乗客が寝ている上、席の移動もできないため、痴漢が発生しやすい上、発生すると犯行が長時間に及ぶケースが多い。このため、多くのバス会社は普段は男女が隣同士にならないよう配慮しているが、長期休暇中は満席となるため配慮が難しくなるため痴漢が頻発する。",
"title": "発生する場所"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "衣服越しに胸や尻、性器等に触れたり、スカートやズボンの中に手を入れて下着、性器等に触れたり、相手に自分の性器を触れさせたりすることが基本的な手口である。",
"title": "犯行の手口"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "一方で、衣服や肉体への物理的接触を伴わず、公衆の前で性器を露出したり、スマートフォンの画像共有アプリを利用するなどして猥褻な画像を無理に見せたりする行為も、痴漢事件として報道されることがある。2019年8月20日には福岡県警が県迷惑防止条例違反(卑わいな行為の禁止)の疑いで、男性会社員を書類送検した他、兵庫県や千葉県などで逮捕者を出している。",
"title": "犯行の手口"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "第三者の男性が女性に成り済まして電子掲示板に「痴漢してくれる人はいませんか」などと書き込み、女性が掲示板を閲覧した男性から被害を受ける事件も起きている。書き込んだ男性は迷惑防止条例違反容疑で逮捕されている。",
"title": "犯行の手口"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "個人で痴漢行為を行なう者のほかに、組織的に痴漢行為に及ぶ集団の存在が確認されており、集団痴漢と呼ばれている。実行犯が痴漢行為を行なっている間、その仲間が周囲から見えないよう壁になったり、被害者に騒がれた場合に第三者を装って冤罪を主張する虚偽の発言で擁護したりする。",
"title": "犯行の手口"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "集団痴漢の事例では、集まった男たちは互いに面識がないことも多い。痴漢情報を交換するインターネット上の匿名掲示板で「痴漢仲間募集」や「一緒に痴漢しませんか?」などと書き込みがなされることもあり、そういった情報をもとに集まっているとされる。",
"title": "犯行の手口"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "毎年1月の大学入学共通テストの時期になると、「明日はJK(女子高校生)を痴漢しまくっても通報されない日です」などと受験生を標的とする痴漢予告が多発しており、実際の被害も確認されている。これは、試験に遅刻できないため通報されないと見込んでのものであり、2020年には悪辣な書き込みが1,000件以上確認されている。なお、大学入試センターは「もしも被害に遭って遅刻してしまっても、救済措置があるので、受験票に書かれた問い合わせ番号にまず電話して欲しい」としている。",
"title": "犯行の手口"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "加害者については性欲の発散ではなく、むしろ痴漢することで達成感や優越感を味わい、支配欲を満たし、ゲーム感覚やレジャー感覚、男性性の確認と刺激を求める「弱い者いじめ」が動機であり被害に遭っても訴え出なさそうなターゲットを狙っているとの精神保健福祉士・社会福祉士による分析がある。",
"title": "心理"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ある精神保健福祉士・社会福祉士が200名を超える加害者に聞き取り調査を行ったところ、過半数が「痴漢の行為中に勃起していない」と回答した。ある依存症専門医は痴漢行為について「『痴漢をする人は性欲が強い』と考えている人は多いのですが、それは違います。なぜなら、もし性欲の強い人が女子高生のお尻を触ろうものなら、そこで止めるなんてことはできないわけですから。つまり、痴漢とは性欲を満たすための行為ではなく、スリルを満たすための行為なのです」と述べている、男尊女卑的価値観に基づく支配欲を満たすために行う者もいる。",
"title": "心理"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "30年以上痴漢をしていた男性は性的欲求というよりは、女性とのコミュニケーションのつもりだったと語り、触って嫌がらなければ許されていると考え、恐怖でフリーズしているのだと治療を受けて思い至った。地味な女性だと注目されないため、好んで標的にしていた。電車を痴漢するために往復で乗車し何度も逮捕されているが自身でコントロールできると認識し、最終的には電車に乗らない状況にしないとやめられない状況に陥っていたことをインタビューで述べた。",
"title": "心理"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "加害男性(43)は達成感と支配欲のために犯罪を繰り返し、痴漢をする相手のことを心をもった1人の人間だと認識できず、被害者の傷付きに全く思い至らない。女性に対し軽く考え、女性軽視、見下しているというのは常にあったと語った。また被害者の治療クリニックでは相手が自分に気がある、短いスカートをはいているのは性加害されてもいいとの認知のゆがみを理解させている。",
"title": "心理"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、2022年1月15、16日には大学入学共通テストの朝に受験生をターゲットとした「共通テスト痴漢祭り」を行うとする予告投稿が相次いでいると報道された。",
"title": "心理"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "「痴漢をされたら周りに助けを求めればいい」という見解もあるが、公共の場で胸や尻が露出している姿を他人の目に晒すのは屈辱的なことであり、それによって目立つことを恐れて声を上げられないケースも多い。",
"title": "心理"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "まず痴漢を寄せ付けないことが大切である。簡単にできる対策としては、露出度の高い服装を避ける、ターゲットにされないよう通勤・通学などの行動パターンを変えてみる、いざという時に駆け込める場所(交番・コンビニなど)を把握しておく、電車では女性専用車両を利用する、防犯ブザーを鞄につけるなどして所持する、いざという時は携帯電話やスマートフォンを鳴らして周囲の注目を引く、毅然とした隙のない女性を演出する、などがある",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "痴漢は目立つことを嫌うため、大人しく、抵抗されにくいイメージのある比較的普通の服装を纏う地味な人物を狙うともされている。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "制服を着ていると、私服の場合よりも痴漢に遭いやすい。「制服通学」をしている生徒が私服の時より痴漢の被害を多く受けることが有志団体のアンケート調査で判明しており、国際NGOの調査でも英国内の女子生徒のうち、3人に1人は学校の制服を着ている時に性的な嫌がらせを受けた経験を持つことが明らかになっている。卒業し制服を着なくなると痴漢に遭わなくなったとの女性の声も多い。痴漢の性的倒錯の治療に当たっている斉藤章佳は、痴漢加害者について、発覚リスクが低い相手をターゲットにする傾向があり、その指標になるのが女子中高生の「制服」であり、それは従順であることの象徴と認識されていることを語っている。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "被害に遭った場合、黙っていると犯行がエスカレートする(中には被害者が同意したと思い込む者もいる)おそれがある。「嫌だ」という意思表示をする必要があるが、痴漢かどうかの確信を持てない時は、車両や乗車場所を変える。被害に遭っていると確信した場合は、犯人を現行犯逮捕する、防犯ブザーを使用するなどの方法がある。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "犯人を現行犯逮捕する時は",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "電車内では",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "女性専用車両によって、防犯カメラと女性以外が入らないスペースを設ける。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "日本若者協議会という任意団体はオンラインで署名を集め、2021年9月に都議会公明党に、「本気の痴漢対策を求めます」として要望書を提出した。3月の東京都議会の予算特別委員会での交通機関での痴漢被害などの安全対策についての審議を経て、東京都は痴漢被害多い大江戸線への女性専用車両を導入する方針としている。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "埼玉県警察鉄道警察隊は、犯人への警告及び犯行の証拠残しを目的とした「チカン抑止シール」を無料配布している。ネット上では「悪用されたら怖い」「冤罪が増えるのでは」などの声もあるが、県警鉄警隊は「シールの印はあくまでも補強証拠で、捜査は従来通り被害者や目撃者の証言、防犯カメラの映像などを精査して行う」としている。大宮駅で配布を始めたところ、女子高生や学校からの問い合わせが相次いだ。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "実際に被害に遭ったことのある女子高生は、「私たちは泣き寝入りしません」などと書かれたバッジを作成して身に付けたところ、被害に遭わなくなったという。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "夜道を歩くときは光量の大きい懐中電灯を所持していると、痴漢の目をライトの光でくらませて、ひるんだところで鼻先を殴って逃げて110番に通報するといった対策ができる。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "シヤチハタでは、「迷惑行為防止スタンプ」としてブラックライトで照らされると浮かび上がる印を押せる印鑑を2019年8月に試作販売した。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "逮捕段階では犯罪が確定していないため、解雇等の処分を行うことは違法なる可能性がある。一方で、痴漢事件で有罪が確定した場合において、鉄道会社に勤務していた痴漢の前科がある職員に対して、懲戒解雇もやむを得ないとされた裁判例が存在する。もっとも、この場合においても、退職金の全額不支給は相当ではなく、3割の支払いが命じられた。",
"title": "痴漢への対策"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "有名な痴漢冤罪事件として、防衛医大教授痴漢冤罪事件がある。同事件においては、被告人に痴漢を行うような性的傾向が存在しないことに加え、被害者が述べる痴漢の犯行態様は執拗なものであるにもかかわらず回避行動をとっておらず、一旦下車しながら再び被告人のそばに乗車していることの不自然性などから、被害者の証言が信用できないため、合理的疑いが残るとして最高裁判所において無罪判決が宣告された。判例においては、痴漢事件における冤罪防止の準則として、「本件のような満員電車内の痴漢事件においては,被害事実や犯人の特定について物的証拠等の客観的証拠が得られにくく,被害者の供述が唯一の証拠である場合も多い上,被害者の思い込みその他に より被害申告がされて犯人と特定された場合,その者が有効な防御を行うことが容易ではないという特質が認められることから,これらの点を考慮した上で特に慎重な判断をすることが求められる。」と判示した。那須弘平裁判官は、補足意見として、「普通の能力を有する者(例えば十代後半の女性等)がその気になれば,その内容が真実である場合と,虚偽,錯覚ないし誇張等を含む場合であるとにかかわらず,法廷において「具体的で詳細」な体裁を具えた供述をすることはさほど困難でもない。その反面,弁護人が反対尋問で供述の矛盾を突き虚偽を暴き出すことも,裁判官が 「詳細かつ具体的」,「迫真的」あるいは「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な指標を用いて供述の中から虚偽,錯覚ないし誇張の存否を嗅ぎ 分けることも,けっして容易なことではない。本件のような類型の痴漢犯罪被害者の公判における供述には,元々,事実誤認を生じさせる要素が少なからず潜んでいる」と述べた。",
"title": "痴漢冤罪事件"
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"text": "他方、痴漢冤罪を主張したものの、無罪主張が排斥され、有罪判決が宣告された事例も存在する。",
"title": "痴漢冤罪事件"
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"paragraph_id": 77,
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"text": "痴漢は特に日本にだけ限られた行為ではないが、イギリスやカナダでは日本に観光する自国民に「通勤電車内の女性乗客への不適切な接触やchikanの報告は、かなり一般的である」(英国政府公式サイト)、「混雑した地下鉄や鉄道で、不適切な身体接触が起きる可能性がある」(カナダ政府公式サイト)と注意喚起がされる状況にあり、日本での性犯罪の取り締まりが強化されたことにより小児性愛者等の多くが、逮捕リスクの少ない「電車内のわいせつ行為」に集中したとの意見も見られる。「CHIKAN(痴漢)」が、「KAROSHI(過労死)」などに続き国際語化する可能性と、カントリーリスクだと報道されている。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "「Chikan」という単語は、もはや日本だけでなく東アジア各地に広まり、中国では日本語を中国語読みして、「chihan」と呼ぶと報道されている。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"paragraph_id": 79,
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"text": "韓国では「痴漢」を朝鮮語読みした「치한」という呼称が使われている。京畿開発研究院の研究委員が2011年8月に、首都圏で大衆交通を利用する女性職員300人に行った調査では、24.8%が被害に遭ったことがあると答えた。また、このうち30.1%が過去1年間に2回以上被害に遭ったと答えた。被害場所は地下鉄が67.1%、市内バスが15.1%、高速バス・座席バスが6.8%だった。被害に遭った女性の対処方法は日本人女性と同じく消極的で、回答者の半分以上は「乗り換えたり車両を移動したりする」と答えた。また、女性専用車両がある。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "地下鉄での性犯罪自体は目新しいものではなく、1953年当時のニューヨーク市の刑事は、混雑した地下鉄を「性犯罪者にとって素晴らしい場所」と表現していた。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "ニューヨーク市の地下鉄を利用する者を対象にした調査では、63%の人が性的な嫌がらせを受けた経験があると答え、10%が性的暴行を受けたことがあると答えた。実際に、ニューヨーク市の地下鉄において性犯罪の件数は4年連続増加しており、ニューヨーク警察に届け出があった公共交通機関における性犯罪は2017年に1024件に達した。これはかつてニューヨークでは、痴漢は捜査機関の犯罪調査でも調査対象とされておらず、被害女性が無力感を感じ報告しなかった状況から変化したことが一因であるとされる。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "2012年度に実施された調査では、18~34歳のロンドン在住女性の内、43%が前年に地下鉄やバスなどで痴漢にあったことがあるという。さらに、2013年7月から2014年4月にかけて、公共交通機関での痴漢の発生件数は27%増加した。また、イギリスでは電車内で起きた痴漢などの性犯罪の報告件数が、2012・2013年度の650件から2016・2017年度の1448件に増加している。英ロビー団体「女性への暴力を終わらせる連合」は、英交通警察や鉄道会社が被害者に当局に報告するよう呼びかける運動を実施したことを賞賛し、件数の上昇は被害に遭うリスクが上昇したという意味ではないと語っている。。これらの女性への性暴力の犯罪の大半がラッシュアワーに起きている。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "ロンドンでは、かつて女性専用の車室が存在していたものの、1977年に完全廃止が決定された。後に女性専用車両の導入のアイディアが2015年に労働党のリーダーシップキャンペーンで提案されたものの即座に却下された。その後、労働党の同僚からは批判され、労働党前交通大臣からは「女性にとって極めて侮辱的」とされた。さらにフェミニスト団体からも一様に反対されており、また交通労組の会議書記長は、女性はどこでも座りたいところに座る権利があり、「性別のアパルトヘイトをイギリスの鉄道に望まない」としている。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "ロンドンでは地下鉄の痴漢における10倍とも言われる暗数撲滅のため、61016番へメールで通報する革命的な通報システムのキャンペーンを実施した。しかし、18ヶ月で505件の通報があったものの、そのうちわずか14人程度しか逮捕できておらず、未だ痴漢は蔓延している。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "フランス語では痴漢をする人は「frotteur(こする人)」と呼ばれる。彼らは被害者に対して、女性に体を擦りつけてきて、たいてい公共交通機関など人がすし詰め状態になった場で猛威を振るう。フランスでは1910年から痴漢の存在が社会問題化しており、公共交通機関での痴漢行為は長年の課題であった。また、公共交通機関で男女がともにいることの是非が繰り返し議論され、1910年頃の当時は支持されなかったものの女性専用車両の導入が提案されていた。2018年の1月の時点では、女性専用車両は導入がなされていない。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "現代では、犯罪および刑罰対応国家観測所が発表した調査において、女性女性の半数が交通機関に乗っているときに身の危険を感じると回答し、2014年から15年のあいだに少なくとも22万6950人の女性が公共交通機関内で性的被害に遭ったという。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "さらにフランスの全国運輸利用者連盟による6000人を超える大規模調査では、回答者の90%近くが公共交通機関で何らかの形で嫌がらせを受けた経験があると回答し、女性の2人に1人がセクハラの被害者にならないためにスカートをやめてズボンを選ぶと回答した。2018年にはパリの地下鉄で自慰行為をしている男が撮影され、その動画がツイッター経由で共有され100万回以上再生される出来事が起きた。動画を投稿した女性によると、このような出来事は珍しいことではなく週に1回はあるという。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "2015年、フランスの男女平等高等評議会(フランス語版)が、パリの女性600人を対象に調査したところ、全員が18歳以下の時に、公共交通機関で性的な嫌がらせに遭遇していたと報告されている。",
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"text": "メキシコでは女性の65%が、公共交通機関を利用した際に何らかの性的被害に遭ったと答えている。メキシコシティでは、10人中9人の女性がすでに公共交通機関内での性被害を経験している。メキシコで生中継中に痴漢を行った男性へ叱責したインタビュー女性へ称賛が寄せられた。中南米ではこのような暴力・痴漢・セクハラや、SNS上での脅迫が深刻な問題になっている。またメキシコには女性専用車両がある。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "2017年のトムソン・ロイター財団の世論調査では、エジプトの都市であるカイロが女性にとって最も危険な大都市であることが判明し、2013年の国連の調査では、エジプト人女性の70%が公共交通機関での通勤を安全だと感じていないという結果が出ている。またその国連の調査では、女性の99%がエジプトで性的ハラスメントを経験したことがあるという結果が示されている。",
"title": "世界各国での痴漢"
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"text": "ボランティアが看板や乗客のアナウンス、プロモーションビデオなどの取り組みを行っているものの、痴漢の撲滅に大きな進展をもたらしていないため、厳格な法執行が必要であるという声が上がっている。",
"title": "世界各国での痴漢"
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痴漢(ちかん、英:groper、groping)とは、ラッシュアワーなど混雑時で自分の犯行だと知られにくい状況を悪用し、主に公共交通機関など公共の場で他の男女に対する加害的な性的接触行為、またはその行為者の総称。痴漢行為ともいう。
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[[ファイル:Noun-sexual-harassment-4670347.svg|サムネイル|典型的な痴漢行為]]
'''痴漢'''(ちかん、英:groper<ref>{{Cite web|和書|title=groperの意味・使い方・読み方 {{!}} Weblio英和辞書 |url=https://ejje.weblio.jp/content/groper |website=ejje.weblio.jp |access-date=2023-08-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=groperの意味・使い方・読み方 |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=groper |website=eow.alc.co.jp |access-date=2023-08-14 |language=ja}}</ref>、groping<ref name=":15" /><ref name=":16">{{Cite news |title=Catching the men who sell subway groping videos |url=https://www.bbc.com/news/world-asia-65811838 |work=BBC News |date=2023-06-07 |access-date=2023-08-14 |language=en-GB}}</ref>)とは、[[ラッシュアワー]]など[[混雑]]時で自分の犯行だと知られにくい状況を悪用し、主に[[公共交通機関]]など公共の場で他の男女に対する加害的な性的接触行為、またはその行為者の[[総称]]<ref name=":19">{{Cite web|和書|title=100年前、すでにパリには痴漢がいた。 |url=https://www.huffingtonpost.jp/2018/01/30/frotteur-paris-1910_a_23348430/ |website=ハフポスト |date=2018-01-31 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref><ref name="デジタル大辞泉">{{Cite Kotobank|word=痴漢|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2022-7-30}}</ref><ref name=":14">満員電車は危険がいっぱいp23, 痴漢から女性を守る会 ,2007年</ref><ref name=":15">{{Cite web|和書|title=痴漢動画を売るサイトの裏を暴く……BBC独自調査 日本と中国で |url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-65817476 |website=BBCニュース |date=2023-06-08 |access-date=2023-08-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「男が痴漢になる理由」なぜ女性も知っておくべきなのか。満員電車でくり返される性暴力 |url=https://www.huffingtonpost.jp/2017/10/18/sexual-molester_a_23248308/ |website=ハフポスト |date=2017-10-19 |access-date=2023-08-14 |language=ja}}</ref><ref name=":18">{{Cite web|和書|title=地下鉄の全車両に監視カメラ導入訴え、ロンドンの痴漢被害者 |url=https://www.bbc.com/japanese/47729183 |website=BBCニュース |date=2019-03-28 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=独音楽フェスで性犯罪、被害女性26人 昨年末の事件に類似 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3089075 |website=www.afpbb.com |date=2016-06-01 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref><ref name=":21">{{Cite web|和書|title=「痴漢はご乗車できません」日本と同様に深刻なフランスの迷惑行為事情 |url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1494070562520/ |website=エキサイトニュース |date=2017-05-13 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=W杯祝勝中に痴漢被害、ネットで多数報告 仏当局が通報呼び掛け |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3182946 |website=www.afpbb.com |date=2018-07-19 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |title=痴漢で逮捕の男 「トランプ大統領がOKと言ったからやった」 |url=https://www.bbc.com/japanese/45961988 |work=BBCニュース |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=米旅客機内で客室乗務員に痴漢行為、男に禁錮6カ月 |url=https://www.cnn.co.jp/usa/35182814.html |website=CNN.co.jp |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref>。'''痴漢行為'''ともいう。
== 解説 ==
電車内やエレベーターなど公共交通機関内だけでなく、夜道などで相手の体に触れたり抱きつく、また自身の下半身を露出させて相手の反応をみて楽しむ[[露出狂]]などの行為を含む[[性犯罪]]である<ref>上田基編著『命のたいせつさを学ぶ性教育』ミネルヴァ書房、2008年、p.86</ref>。基本的に非殺傷系の[[性的暴行]]、[[性暴力]]、その行為者を意味する<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20150416-00044878 痴漢は性暴力に入りますか?(小川たまか) - 個人 - Yahoo!ニュース](2021年7月5日閲覧)</ref><ref name=":14" />。『[[精神障害の診断と統計マニュアル]]』(DSM-5)及び[[世界保健機関|WHO]]の「国際疾病分類」(ICD-11)では、[[窃触症|窃触障害]]として[[性依存症]]に分類される<ref>{{Cite book|title=『痴漢外来』|publisher=筑摩書房|date=2019.10|isbn=9784480072566|last=[[原田隆之]]|year=|page=48.49.67}}</ref>。
男を意味する「漢」という字が使われており<ref name="デジタル大辞泉"/>、実際に女性の方が被害に遭いやすい行為である<ref>{{Cite journal|和書|title=男女大学生における電車内痴漢被害の実態調査|author=大髙実奈|journal=東洋大学大学院紀要|volume=54|pages=65-76|publisher=東洋大学大学院|date=2017|id={{NII ID|1060/00009727}}}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.police.pref.fukuoka.jp/tiiki/tekkei/tikanzittaiannke-to.html|title=痴漢被害の実態等に関するアンケート結果|publisher=福岡県警察|accessdate=2022-7-30}}</ref>。そのため女性への痴漢行為が先行して取り締まられてきたが、男性から男性、女性から男性というように男性被害者もいる<ref>{{Cite web|和書|title=駅トイレで21歳青年が性被害に、声を上げられない男性たちの深刻実態 |url=https://diamond.jp/articles/-/278729?page=4 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2021-08-13 |access-date=2023-08-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=男性の性被害 痴漢加害者は女性だった…男性被害者の思い【vol.66】 - 性暴力を考える - NHK みんなでプラス |url=https://www.nhk.or.jp/minplus/0011/topic035.html |website=NHK みんなでプラス - みんなの声で社会をプラスに変える |date=2020-03-19 |access-date=2023-08-14 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=痴漢が斎藤工の服をビリビリに、パリで被害に遭うも意外な展開へ。 (2015年3月20日) |url=https://www.excite.co.jp/news/article/Narinari_20150320_30645/ |website=エキサイトニュース |date=2015-03-20 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref>。現在の法において、加害者や被害者が、男か女かで区別はない<ref name="デジタル大辞泉"/><ref name="Spork"/>。
「痴漢は日本特有の犯罪」であり、そのために英語化(Chikan)されていると主張されることもあるが<ref name=":11">{{Cite book|title=『入門 犯罪心理学』|url=https://www.worldcat.org/oclc/905574641|publisher=筑摩書房|date=2015.3|location=東京|isbn=9784480068248|oclc=905574641|last=[[原田隆之]]|year=|page=72}}</ref>、フランス語で「frotteur」として、百年以上前から存在している。1910年の[[フランス共和国]]では導入されなかったものの対策案として「女性専用車両」が提案されたことがある<ref name=":19" />。[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]、欧米、中南米など多くの国で痴漢が発生しており<ref name="asahi20180307">{{Cite news|title=痴漢が生きやすい社会、なぜ SNSで「し放題」投稿も|url=https://www.asahi.com/articles/ASL3162KXL31UPQJ00J.html|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2018-03-07|accessdate=2018-04-29}}</ref><ref name=":18" /><ref name=":19" />、特に公共交通機関での性的嫌がらせや性暴力などを理由に女性専用車両の検討や導入がなされたり<ref name=":12">{{Cite web|和書|title=痴漢の悩みは万国共通? 世界の「女性専用車両」をのぞいてみたら|url=https://courrier.jp/news/archives/4217/|website=クーリエ・ジャポン|date=2015-10-01|accessdate=2019-08-09|language=ja}}</ref>、車両内[[監視カメラ]]設置が要望されている<ref name=":18" />。日本特有と誤解されがちなのには、[[満員電車]]に乗る頻度の高さが群を抜いて高いこと、他国が性犯罪者の中で殺傷系性犯罪([[強姦殺人]]など)の比率が高い中で、日本は痴漢や盗撮など非殺傷系性犯罪の比率が多いことにある<ref name=":14" />。満員電車の多い日本に遠征犯罪しにくる外国人犯罪集団も判明している<ref name=":15" /><ref name=":17" />。
日本国内における痴漢の検挙件数は全国の中で[[東京都]]が大多数を占める現状がある。そのため、[[小池百合子]]東京都知事は、痴漢対策として都営大江戸線に女性専用車両を導入することについて答弁を求められた。これに対し、性犯罪、性暴力は重大な人権侵害であり、痴漢等の対策を鉄道事業者や警視庁などと連携すること、痴漢をはじめとした性犯罪、そして性暴力のない社会の実現に向け取り組んでいくことを表明した<ref>{{Cite web|和書|title=令和四年東京都議会会議録第十八号〔速報版〕 阿部祐美子|url=https://www.gikai.metro.tokyo.lg.jp/record/proceedings/2022-4/03.html#12|website=東京都議会|date=2022-12-8|accessdate=2023-2-1|language=ja}}</ref>。フランスでは首都パリや第4の都市[[トゥールーズ]]の公共交通機関<ref name=":21" />、イギリスでも首都ロンドン、特に[[ロンドン地下鉄]]で問題になっている<ref>{{Cite news |title=Tube sexual assault victim calls for CCTV on trains |url=https://www.bbc.com/news/uk-england-london-47722878 |work=BBC News |date=2019-03-28 |access-date=2023-08-16 |language=en-GB}}</ref><ref name=":18" /><ref>{{Cite web|和書|title=暴行・性犯罪発生で「容疑者画像」公開 電車内犯罪が相次ぐロンドンで注目すべき対策とは {{!}} Merkmal(メルクマール) |url=https://merkmal-biz.jp/post/6430 |website=Merkmal(メルクマール) {{!}} 交通・運輸・モビリティ産業の最新ビジネスニュース |date=2022-02-24 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「男性と同じ気持ちで電車に乗りたい」 ロンドン交通網で痴漢被害が大幅増 |url=https://www.bbc.com/japanese/video-59160048 |website=BBCニュース |date=2021-11-05 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref>。女性専用車両は戦後の日本では2000年12月に最初に導入されたが、フランスやイギリス、オーストラリアなど主要な西欧先進諸国では男女双方から反対意見が多く、一切導入されていない<ref name=":19" />。逆に、イラン・インド・エジプト等では導入されている路線がある<ref name=":20">{{Cite web|和書|title=女性専用車両、豪で導入めぐり議論「被害者側がなぜ閉じ込められるのか」 |url=https://www.mag2.com/p/news/179321 |website=まぐまぐニュース! |date=2016-04-21 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref>。2017年のイギリスでは女性専用車両を提案した議員が現れた際には、フェミニスト等の女性を含み、「女性・男性双方への侮辱」と批判の嵐が起きた<ref name=":19" /><ref>{{Cite web|和書|title=「馬鹿げている」 イギリスで女性専用車両に批判の嵐 |url=https://news.livedoor.com/article/detail/13554948/ |website=ライブドアニュース |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「女性専用車両はひどいアイデア」 英国で批判の嵐 その理由とは? |url=https://newsphere.jp/national/20170901-3/ |website=NewSphere |date=2017-09-01 |access-date=2023-08-16 |language=ja-jp}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=女性専用車両導入は敗北?英国で国民的議論に 日本で乗車経験のある記者は賛成 |url=https://newsphere.jp/world-report/20150831-2/ |website=NewSphere |date=2015-08-31 |access-date=2023-08-16 |language=ja-jp}}</ref>。ドイツでも導入例が無かった。しかし、[[ケルン大晦日集団性暴行事件]]の翌2016年4月に地方鉄道会社の一つが「車掌室の隣」に初導入した<ref name=":20" />。
警察は電車内で痴漢に遭った場合、しゃがみこみ被害を防ぎ、声を出し注目を集めることと、110番通報を推奨している<ref>{{Cite web|和書|title=痴漢被害に遭ってしまったら・・・|url=https://www.police.pref.saitama.lg.jp/d0040/1110.html|website=埼玉県警|date=2020年11月17日|accessdate=2023-2-1|language=ja}}</ref>。2023年3月、政府の「痴漢撲滅に向けた政策パッケージ」が公表され、痴漢事犯の検挙件数等についてより詳細な調査・分析や性犯罪再犯防止指導等の実施、性犯罪被害相談電話につながる全国共通番号「#8103」等について周知徹底すること、痴漢被害を理由とした遅刻や欠席への対応がはかられることとなった。概要では「痴漢は、重大な犯罪である。個人の尊厳を踏みにじる行為であり、断じて許すことはできない」との文言が掲げられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/murohashiyuki/20230410-00344716|title=100年続く痴漢問題、撲滅なるか?政府が「痴漢撲滅に向けた政策パッケージ」を公表|author=室橋祐貴|web=yahoo news|date=2023-4-10|accessdate=2023-5-7}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gender.go.jp/kaigi/sonota/pdf/kyouka/04/03.pdf|title=痴漢撲滅に向けた政策パッケージ(概要)|web=男女共同参画局|accessdate=2023-5-7}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/jakunengekkan/pdf/chikan_bokumetsu_seisaku.pdf|title=痴漢撲滅に向けた政策パッケージ|web=男女共同参画局|accessdate=2023-5-28}}</ref>。2023年7月より同意のない体への接触は、[[不同意わいせつ罪]]として刑法犯罪となり検挙されるようになり電車内から110番通報による逮捕者も出た<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/772213|title=初の不同意わいせつ容疑適用 走行中列車で女性の体触ったか 下野署、自称配送業の男逮捕|web=下野新聞|date=2023-8-3|accessdate=2023-8-29}}</ref>。
BBCによると、日本のポルノ産業で「痴漢モノ」は特に人気のジャンルのひとつで他のアジア諸国にも広っている<ref name=":13">{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-65817476 |title=痴漢動画を売るサイトの裏を暴く……BBC独自調査 日本と中国で |news=BBC NEWS JAPAN |date=2023-6-8 |accessdate=2023-6-8}}</ref>。BBCは、「Unmasking the men who sell subway train groping videos<ref name=":16" />」と言う記事にて、[[広州市|広州]]・[[ソウル特別市|ソウル]]・[[東京]]など日本、韓国、台湾、香港、中国大陸など東アジアを中心に活動する[[中国人]]の痴漢盗撮集団の存在を発見した。彼らによって、日本の池袋駅などで行われた痴漢行為を撮影した動画はサイトに掲載され、中国人を中心に広く販売されていることも報道された<ref name=":17">{{Cite web|和書|title=地下鉄で女性に擦り付け、スカートや頭髪に…BBCが報じた「痴漢サイト」運営、日本在住“中国人3人組”の正体 |url=https://bunshun.jp/articles/-/63810 |website=文春オンライン |access-date=2023-06-26 |last=「週刊文春」編集部}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=地下鉄で女性に擦り付け、スカートや頭髪に…BBCが報じた「痴漢サイト」運営、日本在住“中国人3人組”の正体 |url=https://bunshun.jp/articles/-/63810 |website=文春オンライン |access-date=2023-08-14 |last=「週刊文春」編集部}}</ref>。
== 法律・条例 ==
主に[[地方公共団体]]ごとの[[迷惑防止条例]]や、[[刑法 (日本)|刑法]]第176条の[[強制わいせつ罪]]が適用される。実務上は[[迷惑防止条例]]の「正当な理由なく、人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為として、公共の場所又は公共の乗物において、衣服その他の身に着ける物の上から又は直接に人の身体に触れること」に対する刑事罰が適用される場合が多い。
迷惑防止条例は施行当初は痴漢等の保護対象が[[女性]]のみに限定されていたが、1999年に[[鹿児島県]]が性別を限定しない迷惑防止条例を施行。2001年には[[男性]]が被害にあった場合にも取り締まりができるように[[東京都]]が「女性」にあたる部分を「人」に改正・施行。以降、各都道府県で改正迷惑防止条例が施行され、2014年4月1日に[[岡山県]]が改正迷惑防止条例を施行したのを最後に、全都道府県の迷惑防止条例が保護対象となる性別を限定しなくなった<ref name="Spork">{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/spork/post_7249_b_5068288.html|title=男性も痴漢から保護対象に この春、全都道府県で改正条例施行|work=Spork!|publisher=早稲田大学ジャーナリズム大学院|date=2014-4-6|accessdate=2022-7-30}}</ref>。
2017年7月から施行の刑法改正により、従来、親告罪とされていた強姦罪(改正後は「強制性交等罪」と改定)、強制わいせつ罪等の性犯罪は、親告罪ではなくなり、告訴がなくても裁判により犯人を処罰することが可能となった。また、改正法が施行される前に被害にあった事件についても、原則として、告訴がなくても裁判により犯人を処罰することができるようになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/keiji1/keiji_keiji11-3.html#:~:text=%E5%BC%B7%E5%88%B6%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%9B%E3%81%A4%E7%BD%AA%E7%AD%89%E3%81%AE,%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82|title=3. 捜査段階での被害者支援 1 被害届の提出、 告訴、 告発|web=法務省|accessdate=2023-1-11}}</ref>。なお迷惑防止条例違反については元来親告罪ではなく被害者が被害届を取り下げても事件自体は終わらない。さらに、近年は警察や検察が被害者のプライバシー保護を理由に被疑者の弁護士にも被害者情報を開示しなくなり、弁護士を通じて示談を進める方法が事実上困難になったとライターは語っている<ref>痴漢に間違われたらこうなります! 2014年3月発行 著者Satoki 発行者 伊藤滋 株式会社 自由国民社 p.170-172</ref>。
その他にも行為の種類や程度によって、[[軽犯罪法]]第1条第5号、[[わいせつ物頒布罪]]、[[公然わいせつ罪]]、[[暴行罪]]、鉄道事業者への[[信用毀損罪・業務妨害罪|威力業務妨害]]などにより処罰される。
2023年7月、改正刑法により、大阪市役所職員の男(23)が電車内で女性の足を触ったことで不同意わいせつの疑いで逮捕された。不同意わいせつ罪の法定刑は6カ月以上10年以下の懲役と規定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASR7G736TR7GPTIL00N.html|title=電車内の痴漢、不同意わいせつ罪を適用 容疑で大阪市職員を逮捕|web=朝日新聞|date=2023-7-14|accessdate=2023-7-15}}</ref>。
== 被害 ==
飲酒等により正常な判断が出来ない状況において痴漢行為を犯した場合でも、今日の[[司法]]では酒に酔っていたことが免責の理由と認められることはない。
同一被害者が同一犯人に連続して狙われるような事案以外、痴漢は[[現行犯]]でなければ犯人を特定しづらく、更に、[[被疑者]]の[[逮捕 (日本法)#現行犯逮捕|現行犯逮捕]]には、周囲に居合わせた目撃者などの協力が必要となる場合もある。ただし、被疑者が[[高速バス]]などで被害者の隣の席に座っていた場合<ref>{{Cite news|title=GWの帰省中に災難…女子大生が高速バス内でわいせつ被害 容疑で国立大留学生のベトナム人を逮捕 京都府警|url=http://www.sankei.com/west/news/160505/wst1605050033-n1.html|publisher=[[産経新聞]]|date=2016-05-05|accessdate=2017-07-01}}{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>や、遺留品を残して逃げた場合<ref>{{Cite news|title=JR板橋駅 線路を逃走、痴漢の疑いで41歳男を逮捕|url=http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3038830.html|publisher=[[TBSテレビ]]|date=2017-04-26|accessdate=2017-07-01|archiveurl=https://archive.is/K7j7F|archivedate=2017-04-27}}</ref>などは、[[逮捕 (日本法)#通常逮捕|通常逮捕]]が可能な場合もある。
電車内の痴漢については、 警視庁[[鉄道警察隊]]痴漢被害相談所で相談を受けており、痴漢被害者からの相談に基づいて事前に打ち合わせをし、関係する警察署、鉄道警察隊等が、被害者の方の協力を得ながら犯人を逮捕している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/sodan/madoguchi/chikan.html|title=痴漢被害相談|web=警視庁|accessdate=2023-1-16}}</ref><ref>{{cite web|url=http://lifelink-db.org/common/session/index/1874|title=行政 痴漢被害相談所 警視庁 鉄道警察隊|web=いのちと暮らしの相談ナビ|accessdate=2023-1-16}}</ref>。また警視庁鉄道警察隊私服隊員はスリや痴漢の巡回視察で摘発を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220112-DK52FALHXBKHTJEKWX5NQLOA3Q/|title=密着警視庁(1)痴漢、盗撮、暴漢も 目が泳ぐ「不審者」捜せ 鉄道警察隊|web=産経新聞|author=吉沢 智美|date=2022-1-12|accessdate=2023-1-16}}</ref>。
被害申告者の供述のみで被告人が有罪となったり、無実を指摘する目撃者がいても被疑者を数日間拘留したりする事例もある。これまでに恋人男性に教唆された女性による示談金目的の冤罪、携帯電話使用を注意されたことによる[[逆恨み]]<ref name="fuji">[http://www.zakzak.co.jp/tsui-sat/tsuiseki/contents/2002_04-09/020914_03.html 夕刊フジ特捜班 痴漢冤罪の恐怖] </ref>からの痴漢冤罪事件がニュースとして取り沙汰されたことがある。また、被害者の誤認などにもよって起こる[[痴漢冤罪]]が着目され、問題になることもある。
性暴力加害者の依存治療にあたる斉藤章佳は、加害者の多数が男性であることを踏まえ、痴漢について語るときに男性は皆性犯罪予備軍なのかとの声が上がる事に対し、「ノット・オール・メン」と呼ばれる「すべての男性がそうではない」「痴漢はえん罪が多い」「男も被害にあう」などの主張が起こると述べている。これについて、痴漢被害とえん罪被害は全く別の話で論点ずらしであり、そのような反応が起こると性被害を矮小化し、被害者の口を塞ぐ効果が起こると指摘している。また、加害者の根底には女性蔑視があり加害者は被害者を「的」「人形」「モノ」と見ており、人格を持つ人間と認識していないと語られている<ref>50歳からの性教育 斉藤章佳著作部分 河出書房新社 2023年4月発行</ref>。
痴漢を指摘され列車の線路に降りて逃亡を図るケースもあるが、線路に立ち入って列車の運行を妨害した場合、刑法125条1項の「往来危険罪」に問われ、基本的には2年以上の懲役刑となり、鉄道会社から民事訴訟を起こされる場合もあるうえ逃亡中の死亡事例も発生している<ref>{{Cite news|title=続発する痴漢疑いからの線路内逃走 侵入の代償は数百万円の賠償、2年以上の懲役刑も|url=https://www.sankei.com/affairs/amp/170526/afr1705260019-a.html|publisher=産経新聞|date=2017-05-26|accessdate=2022-1-16}}</ref>。
=== 事例 ===
2022年9月、女性弁護士が埼京線内でスカートをまくり上げられ下着に手を入れられるなどの痴漢被害に遭い、加害者の男性会社員と下車したが転倒させられけがを負った事件で東京地裁で加害者に有罪判決が言い渡された。被害者はPTSDを発症し仕事に支障を来し、死にたいと思うほど悩み精神の均衡を失い、被害時には意志を持つ人間として扱われていないと感じたと語った。民事上では示談金は520万円となり、加害男性は家族に常時移動状況をスマートホンアプリで監視されるようになった<ref>{{Cite news|title=電車で痴漢に…実名取材に応じた女性弁護士の思い|url=https://www.sankei.com/article/20220901-5DKCCLQULNOVBOYVT2RDCVVLTY/|author=松崎翼|publisher=産経新聞|date=2022-9-1|accessdate=2022-1-16}}</ref><ref>{{Cite news|title=性犯罪被害者になった弁護士 実名公表に込めた思い|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0026/topic075.html|publisher=NHK|date=2022-9-9|accessdate=2022-1-16}}</ref><ref>{{Cite news|title=状況再現、下着の提出…性被害に遭った弁護士が実感した心的負担|url=https://mainichi.jp/articles/20220912/k00/00m/040/176000c|author=志村一也|publisher=毎日新聞|date=2022-9-14|accessdate=2022-1-16}}</ref><ref>{{Cite news|title=埼京線で痴漢被害にあった女性弁護士「屈辱感、今も払拭できない」 男性に執行猶予付き判決|url=https://www.bengo4.com/c_18/n_14945/|publisher=弁護士ドットコムニュース|date=2022-9-1|accessdate=2023-12-27}}</ref>。
学生で毎日痴漢被害に遭うことで耐えられなくなり、電車に乗れず不登校になった事例もある<ref>{{Cite news|title=「はたらく細胞LADY」で女子中高生と「性教育の自習」をしてわかったこと|url=https://gendai.media/articles/-/102457|publisher=現代ビジネス|date=2022-11-22|accessdate=2023-12-27}}</ref>。2021年6月埼玉県では中学生時代から電車内でスカートや下着に手を入れられるなど同じ男(40代)に痴漢をされた女性が、27歳で初めてつきまといや痴漢の告発をして相手が有罪となった事件もある。女性は学生時代は家族に相談しても信じてもらえず女子校だった学校にも生徒達の被害が日常茶飯事のため相談をためらった経歴があり、スカートがはけなくなり、男性嫌悪のため恋人もつくったことがなく人生に影響があったことを裁判で訴えた<ref>{{Cite news|title=同じ男から長年の痴漢被害、相談できなかった 女性は裁判で証言した|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ676W7JQ44UTNB014.html#:~:text=%E5%B8%82%E6%B5%A6%E5%92%8C%E5%8C%BA-,%E5%90%8C%E3%81%98%E7%94%B7%E3%81%8B%E3%82%89%E9%95%B7%E5%B9%B4%E3%81%AE%E7%97%B4%E6%BC%A2%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E3%80%81%E7%9B%B8%E8%AB%87%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3,%E3%81%AF%E8%A3%81%E5%88%A4%E3%81%A7%E8%A8%BC%E8%A8%80%E3%81%97%E3%81%9F&text=%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%86%85%E3%81%AE%E9%A7%85,%E6%9C%89%E7%BD%AA%E5%88%A4%E6%B1%BA%E3%82%92%E8%A8%80%E3%81%84%E6%B8%A1%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82|publisher=朝日新聞|author=仙道洸|date=2022-6-8|accessdate=2023-1-8}}</ref>。高校生が金髪にしたら痴漢に遭遇しなくなりおとなしい女性を選んでいるとの見解もある<ref>{{Cite news|title=「金髪にしたら痴漢が激減」 女性たちが髪の毛を染めて実感した“思わぬ効果”|url=https://www.moneypost.jp/965376|publisher=マネーポストweb|date=2022年11月15日|accessdate=2022-11-24}}</ref>。高校生で下半身を触られ下着に手を入れられ、性器に指を入れられることもあったり胸を触られたり精液をスカートにかけられる被害も起こっている。高校を卒業した後には痴漢に遭遇しなくなり、生足にスカートだから手を入れやすいし子供だから騒がないのではないか、おとなしいかの基準で選んでいる。痴漢は個を奪われて性の対象にされて侵害される行為だとジャーナリストは語っている<ref>[告発と呼ばれるものの周辺で 小川たまか 亜紀書房 P103-107</ref>。
2017年10月、フランス在住の女性が日本での中学生時代に遭った痴漢をテーマに現地で本を出版した。通学時の性被害によって精神的苦痛を受け自傷行為や自殺祈念があったと語っている<ref>{{Cite news|title=「真面目に通学していただけで、なぜあんな目に」 日本人女性がパリで「痴漢」本を出版|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20171116-00078187|author=小川たまか|publisher=ヤフーニュース|date=2017-11-16|accessdate=2022-9-20}}</ref>。
10代で電車内で性器に指を挿入される痴漢行為に遭遇したケースもあるが、2023年の改正刑法により、今後は当該行為は「不同意性交等罪」にあたる<ref>{{Cite news|title=注目度低くても重要 「わいせつな挿入行為の取り扱いの見直し」の意義|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20230628-00355587|author=小川たまか|publisher=ヤフーニュース|date=2023-6-28|accessdate=2023-7-15}}</ref>。2023年7月、大阪市建設局職員の男(23)は京阪電鉄車内で女子大生の太ももなどを触り不同意わいせつ容疑で逮捕された<ref>{{Cite news|title=不同意わいせつ容疑で逮捕 大阪市職員、電車で女性触る―府警|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023071401190&g=soc|publisher=JIJI.com|date=2023-7-14|accessdate=2023-10-9}}</ref>。また2023年10月、バングラデシュ国籍の自称会社員の男(34)が埼京線内における女子大生への不同意性交等の疑いで逮捕された<ref>{{Cite news|title=埼京線内で…不同意性交等の容疑で外国籍の34歳男を逮捕 女子大生、降車した男追いかけ警察官に被害申告|url=https://www.saitama-np.co.jp/articles/49258|publisher=埼玉新聞|date=2023-10-8|accessdate=2023-10-9}}</ref>。
大学の試験日にJR[[埼京線]]に乗り服をめくられて精液をかけられた女子大生は、試験日であることで通報をためらったが大学に相談し、試験の配慮を受けたとインタビューに答えている。DNA鑑定の結果、同じ犯行を行った会社員の男が2年後に判明している。被害者には男性に背後に立たれることに恐怖を感じる後遺症が残った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0011/topic015.html|title=試験の朝、痴漢に・・・ 通報した勇気【vol.49】|web=NHK|date=2020年1月21日|accessdate=2023-1-11}}</ref>。
2023年8月、韓国の人気女性DJであるDJ SODAは、日本の音楽フェスティバル「MUSIC CIRCUS'23」で痴漢被害に遭ったことをXで告白し、「日本は痴漢大国」と報道された<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/114942|title=DJ SODAさんの性被害を生んだ「痴漢大国」日本。「chikan」「hentai」が国際語になっていた|web=現代ビジネス|date=2023-8-17|accessdate=2023-12-27}}</ref>。観客の男女から胸を触られる被害を受け、特に女性から笑いながら最も強く揉まれたと語り、これらのセクハラ行為に恐怖を感じたと訴えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2290823/full/|title=韓国女性DJが日本音楽フェスでセクハラ被害 証拠写真公開で「怖い」「女も笑いながら私の胸を掴みました」|web=ORICON NEWS|date=2023-8-14|accessdate=2023-12-27}}</ref>。これに対し、服装を問題視する投稿があり、国連は被害投稿同日、「性的暴力のサバイバーが襲われた時、何を着ていたかは関係ありません」とコメントした<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20230821/k00/00m/040/206000c|title=DJ SODAさんに「露出する方が悪い」批判 専門家「2次加害」|web=毎日新聞|date=2023-8-21|accessdate=2023-12-27}}</ref>。イベントの運営会社は男女3人を不同意わいせつ容疑などで刑事告発したことで、20歳の男性二人が出頭し、21歳の女性も捜査で判明し任意聴取でキスしたり胸に触ったことを認めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mbs.jp/news/kansainews/20230824/GE00051936.shtml|title=【速報】DJ SODAさん不同意わいせつ 告発された女性特定「抱きついて肩にキスした」|web=MR NEWS|date=2023-8-24|accessdate=2023-8-28}}</ref>。[[森田宏幸]]はこの事件の被害者を「公開型のつつもたせ」「彼女の芸」と批判し、後に謝罪した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/327882|title=DJ SODAさんへの性被害がジブリ作品に波及…著名アニメーター森田宏幸氏の痛すぎる舌禍|web=日刊ゲンダイ|date=2023-8-22|accessdate=2023-12-27}}</ref>。本件に対し[[田村淳]]は自身も中年女性からロケ中に股間をまさぐられる痴漢被害を受けたことを告白し、犯人に速やかな自首を勧めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2023/08/16467079.html|title=田村淳、DJ SODAへの性加害者に「さっさと自首しろ」 「僕もロケ中におばちゃんの集団に囲まれて...」自身も過去に被害|web=MJ-CAST ニュース|date=2023-8-16|accessdate=2023-12-27}}</ref>。
2023年10月、ウズベキスタン国籍の男(28)が、、都営バスの空いている車内で女子高校生の下半身を触り続けた容疑で逮捕された。前日にも足に触り待ち伏せをしていた。本人は嫌がっていないので同意したと思ったと語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/articles/-/603591|title=バス内で女子高校生の下半身を30分以上触り続けたか…前日に路線確認し待ち伏せも ウズベキスタン人の男逮捕 東京|web=FINプライムオンライン|date=2023-10-20|accessdate=2023-10-21}}</ref>。
=== 見解 ===
ジェンダー・開発政策専門家の[[大崎麻子]]は、世界的には女子教育の障壁といわれている電車内の痴漢が日本では日常のこととして矮小化されていることを問題として指摘している<ref>{{Cite news|title=可能性、女性が自ら育めるように 朝日教育会議|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15166486.html|publisher=朝日新聞|date=2022-1-10|accessdate=2023-1-8}}</ref>。
[[京都大学]]非常勤講師の牧野雅子は、多くの女性が痴漢被害に遭う一方で、メディアが冤罪被害ばかりを取り上げる状況に苦言を呈している。牧野は、日本の男性メディアは1990年代までは痴漢という性暴力を娯楽として特集を組み楽しんでいたが、冤罪被害者という男性に配慮・強調し、これまでの加害をなかったことにしていると指摘している<ref name="makino"/>。また、被害に遭った女性の態度や服装が犯罪を誘発しているかのように言われるなど、現在でも痴漢をはじめとした性暴力が軽視されたり自己責任論になることを問題視している<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/40038 |title=「気をつけろ」「スカートを短くするな」ではなく…痴漢に遭った中学生の私に、大人がかけるべきだった言葉 |publisher=文春オンライン |date=2020-9-14 |accessdate=2023-1-11}}</ref>。
== 統計 ==
=== 概説 ===
加害者は男性、被害者は女性である場合が多い。例えば2013年に[[埼玉県警察]]が検挙した痴漢事件では、被害者は10代・20代の女性が8割を占め、特に電車通学を始めたばかりの高校1年生が標的にされていた。[[被疑者]]は30代・40代の男性会社員が多かった<ref name="sankei20150120">{{Cite news|title=痴漢被害、泣き寝入りしないで 埼玉県警、対策周知へ女性会議初の一般公開|url=https://www.sankei.com/article/20150120-BTRCXRQYMVN6JNZBQ5YHW6PEN4/|newspaper=産経ニュース|publisher=産業経済新聞社|date=2015-01-20|accessdate=2017-08-26}}</ref>。平成27年(2015年)の「犯罪白書」によると、痴漢を行う男性で最も多いのは4大卒のサラリーマンでこのうち既婚男性は34.7%と分析されている。平成23年の警視庁の「電車内の痴漢防止に係る研究会の報告書について」でも被害者が高校生が36.1%と最多数を占めているが、被害者の多くが被害に遭っても声を上げることができず、「相談する場所が分からない」「啓蒙活動が足りない」などの声が寄せられた<ref>{{Cite news|title=電車内の痴漢防止に係る研究会の報告書について|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3525234_po_h22_chikankenkyukai.pdf?contentNo=1&alternativeNo=|web=国立国会図書館|publisher=警視庁|date=2011-3-10|accessdate=2022-12-6}}</ref>。
小中高生を標的にする小児性愛者は制服がトリガーとなり、目にしただけで抑止力を失い犯罪が成立しそうな機会をうかがっている。また男尊女卑の価値観を内在化し、ストレス発散手段として痴漢を選び、自分はそれを許されると思い込み、捕まらないよう熟練・習慣化して学習化された行動だと依存治療者に指摘されている<ref>「小児性愛」という病-それは愛ではない 斉藤章佳著 ブックマン社 2019年11月 P83 P150</ref>。このクリニックで2000人以上治療を受けたうち99%が男性、6割が4大卒のサラリーマンとなっている<ref>{{Cite web|和書|title=“痴漢レーダー”でわかった、悪質すぎる手口と被害が多い駅・増えるタイミング|url=https://www.jprime.jp/articles/-/18278?page=2 |publisher=週刊女性PRIME|date=2020-7-2|accessdate=2022-12-6}}</ref>。電車内痴漢新聞報道の分析では、被害者は中学生や高校生が多く(中学・高校生が47.40%)、加害者は40代の警察官などの公務員や国家公務員(警察等が21.18%,地方公務員が12.32%,国家公務員が11.82%)が多かった<ref>{{cite journal|和書|author=大髙実奈 |date=2021-03 |url=http://id.nii.ac.jp/1060/00012609/ |title=電車内痴漢の分類とその特徴 -新聞報道を用いた探索的分析- |journal=東洋大学大学院紀要 |ISSN=0289-0445 |publisher=東洋大学大学院 |volume=57 |pages=65-85 |doi=10.34428/00012609 |id={{CRID|1390853650634563328}} |accessdate=2023-08-10}}</ref>。
痴漢は[[累犯#再犯|再犯]]率が高く、例えば2015年の[[法務総合研究所]]の調査によると、前科のある者が91.1%、性犯罪の前科のある者が85.0%であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/content/001162857.pdf |title=平成27年版 犯罪白書 |publisher=法務省 |accessdate=2022-06-24}}</ref>。加害者が反復する性的逸脱行動の結果、性依存症に陥っているとされる<ref>{{cite news|url=https://diamond.jp/articles/-/143957?page=2|title=痴漢の典型的加害者の「意外な人物像」とは|publisher=diamond online|date=2017-9-29|accessdate=2021-6-20}}</ref>。
=== 調査報告 ===
{{Side box |metadata=No<!--This makes the box display on the mobile site-->
| above = '''痴漢の検挙件数および電車内での強制わいせつの認知件数'''<ref name="名前なし-20230316130400">[https://www.npa.go.jp/hakusyo/r01/data.html 令和元年警察白書 統計資料]</ref><ref>[https://www.npa.go.jp/publications/whitepaper/r04/statistics/statisticsindex.html 令和4年警察白書 統計資料]</ref>
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| below = {{Font color|#1f77b4|■}}痴漢の検挙件数(電車内以外も含む)<br/>{{Font color|#ff7f0e|■}}電車内での強制わいせつの認知件数
}}
[[警察白書]]によると、痴漢の検挙件数や電車内での強制わいせつの認知件数は現在までに減少傾向にある<ref name="名前なし-20230316130400"/><ref>[https://web.archive.org/web/20221231142620/https://www.npa.go.jp/publications/whitepaper/r04/statistics/statisticsindex.html 令和4年警察白書 統計資料]</ref>。
痴漢も他の性犯罪と同様に[[暗数]]が多い。例えば痴漢抑止活動センターの調査によると痴漢被害者が通報した割合は3%だった<ref>{{Cite web|和書|title=【漫画】「許さん!」「突き出してやる!」しつこい痴漢に闘いを挑む空手女子部員!痴漢に天罰を下す行動に意外な結末とは? |url=https://www.walkerplus.com/article/1080197/ |ウォーカープラス |accessdate=2022-10-19}}</ref>。また、警察庁が実施したデータによると、過去1年間に痴漢被害にあった人の89.1%が警察に通報・相談をしていない<ref name="makino">{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/40038|title=「気をつけろ」「スカートを短くするな」ではなく…痴漢に遭った中学生の私に、大人がかけるべきだった言葉|publisher=文春オンライン|date=2020-9-14|accessdate=2023-1-11}}</ref>。
2015年に[[東京都]]で発生した痴漢の件数は約1900件であり、そのうち電車内は54%で駅は18.2%であるので、鉄道関連での痴漢は約1370件ほど発生している<ref>{{Cite web|和書|title=都内「痴漢被害」7割が電車や駅で起きている {{!}} 通勤電車|url=https://toyokeizai.net/articles/-/125279|website=東洋経済オンライン|date=2016-07-02|accessdate=2019-08-09|language=ja}}</ref>。2013年から2015年までの3年間に警視庁が東京都の迷惑防止条例で検挙した痴漢行為の内、約82%にあたる3079件が列車内と駅構内で発生していることが情報開示請求によって明らかになった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=独自調査、痴漢検挙の82%が鉄道内だった! {{!}} 通勤電車|url=https://toyokeizai.net/articles/-/148460|website=東洋経済オンライン|date=2016-12-08|accessdate=2019-08-09|language=ja}}</ref>。2013年と2014年のデータから痴漢方法は、「さわり・撫で」の1719件が最多で、次点が「陰部押しつけ」の179件である<ref name=":0" />。事業者の区別では、3年間の合計でJRが1566件、私鉄が1301件、都営が395件だった<ref name=":0" />。3年間の痴漢の発生場所は黒塗りにされていたが、東京都と警視庁が鉄道事業者に女性専用車両の導入拡大を要請していた2005年2月の時点では、JR埼京線、中央線が突出しており、総武線、京王線、山手線が続いた<ref name=":0" />。
法務総合研究所が2019年に発表した調査では、全国の男女3,500人のうち、過去5年間に性的な被害に遭ったことがあると回答した者は女性回答者の1.7%、男性回答者の0.3%であり、被害の内容として痴漢された人は全体の0.3%であった<ref>{{Cite web|和書|title=第5回犯罪被害実態(暗数)調査のうち「性的な被害」に係る調査結果(概要)|url=https://web.archive.org/web/20191126012840/http://www.moj.go.jp/content/001309452.pdf|website=web.archive.org|date=2019-11-26|accessdate=2019-11-26|publisher=法務総合研究所研究部}}</ref>。
WeToo Japanが2019年に発表した調査では、関東圏で暮らす男女約1万2千人のうち、電車やバス・道路などで「自分の体を触られた」のは女性で47.9%、男性で8.6%、「体を押し付けられた」のは女性で41.9%、男性で11.9%であった<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/wetoo-zerohara-chosa |title = 女性の7割が電車や道路でハラスメントを経験。「実態調査」でわかったこと |work = BuzzFeed |author = 伊吹早織 |date = 2019-01-21 |accessdate = 2019-05-26}}</ref>。この調査によると、過去1年間で痴漢被害に遭った割合が最も高かったのは10代女性で、22.9%であったという。ただし、30代、40代であっても1割弱が被害を受けており、兵庫教育大大学院の永田講師は「決して低くない」と指摘している。
2022年3月、私立[[岩倉高校]]が行った痴漢被害の調査では、女子生徒の4人に1人が被害に遭い「誰にも相談しなかった」という生徒が40%に上った<ref>{{Cite news|title=水原希子さん「痴漢は日本独特の文化」発言はそれほどデタラメではない|url=https://diamond.jp/articles/-/312289?page=4|publisher=ダイヤモンドオンライン|author=窪田順生|date=2022-11-3|accessdate=2022-11-24}}</ref>。
=== 報道・芸能 ===
週刊プレイボーイ1975年4月29日号「春本番”チカンですよ~”首都圏<通勤電車>各線別チカンカラー!」特集や男の本音誌「月刊ドリブ」1972年7月1日号では「ここまでならつかまらないスレスレ痴漢特集法」が組まれていた<ref>{{Cite web|和書|title=【2021年更新版】「スレスレ痴漢法」が特集された雑誌『月刊ドリブ』を読んでみた。|url=https://ogatama.theletter.jp/posts/a8549380-5800-11eb-8ff1-33fa97c98029|publisher=たまたま通信|author=小川たまか|date=2021-1-17|accessdate=2022-11-24}}</ref><ref>[告発と呼ばれるものの周辺で 小川たまか 亜紀書房 P214-225</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「触り方」特集も 痴漢を娯楽として消費してきたメディアの過去を暴く『痴漢とはなにか』|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20191129-00152470|publisher=yahoo news|author=小川たまか|date=2019-11-29|accessdate=2022-11-24}}</ref>。
[[秋元康]]は1986年に女子高生アイドルグループであった[[おニャン子クラブ]]に[[おっとCHIKAN!]]という楽曲の歌詞を提供した。女子高生の悪だくみとしてストレス解消のために痴漢えん罪を生み出している歌詞となっている。
=== 女性の被害 ===
2016年の[[埼玉県]]の簡易調査では、60歳未満女性の回答者の67.1パーセントが被害経験があると答えた<ref name="saitama2016">{{Cite web|和書|date=2016-02-29 |url =https://www.pref.saitama.lg.jp/a0301/supporter/kani86.html |title =第86回簡易アンケート「痴漢犯罪の抑止について」の結果を公表しました。 |work= |publisher =埼玉県 |accessdate = 2017-08-26 }}{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>。
青少年の性行動全国調査報告では、女子中学生、女子高生、女子大生の痴漢被害の経験率について報告されている<ref name=":7">日本児童教育振興財団内日本性教育協会. 『「若者の性」白書-第7回 青少年の性行動全国調査報告』. p.143, 小学館, 2013, {{ISBN2| 978-4-09-840147-5}}.</ref><ref name=":10">日本性教育協会. 『「若者の性」白書: 第8回 青少年の性行動全国調査報告』p.150, 東京, 小学館, 2019, {{ISBN2| 978-4-09-840200-7}}.</ref>。それによると、女子の痴漢被害の経験率の推移は以下の表のようになっており、いずれの段階の女子でも痴漢の経験率は低下している。{{Image frame|caption=女子の痴漢被害の経験率の推移<ref>日本児童教育振興財団内日本性教育協会. 『「若者の性」白書-第7回 青少年の性行動全国調査報告』. p.143, 小学館, 2013, {{ISBN2| 978-4-09-840147-5}}.</ref><ref>日本性教育協会. 『「若者の性」白書: 第8回 青少年の性行動全国調査報告』p.150, 東京, 小学館, 2019, {{ISBN2| 978-4-09-840200-7}}.</ref><br/>{{Font color|#1f77b4|●}}中学生、{{Font color|#ff7f0e|■}}高校生、{{Font color|#2ca02c|▲}}大学生|align=right|content={{Graph:Chart
| width = 300
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| yAxisTitle = 痴漢被害の経験率
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}}}}
{| class="wikitable"
|+女子の痴漢被害の経験率の推移
!
!中学生
!高校生
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|-
|1999年
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|-
|2005年
|9.1
|16.3
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|-
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|6.3
|24.1
|38.3
|-
|2017年
| -
|10.6
|24.0
|}
=== 男性の被害 ===
3度被害に遭っている者や、男性や女性から被害を受けた者もいる<ref>{{Cite news|title=男性がターゲット 表面化しにくい痴漢被害の実態|url=https://www.huffingtonpost.jp/spork/post_7185_b_5050357.html|newspaper=[[ハフポスト]]|date=2014-04-01|accessdate=2018-04-24}}</ref>。|
ボクサーの[[寺地拳四朗]]は2022年5月に中年男性から痴漢被害を受けた<ref>{{Cite news|title=世界王者でも…声を出せなかった痴漢の恐怖 拳四朗さん「被害に遭って初めて分かった」|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/803388|newspaper=京都新聞|date=2022-5-31|accessdate=2022-9-19}}</ref>。寺地は[[世界ボクシング評議会]]のライトフライ級王者であるが、それでも恐怖と羞恥心で声を上げたり抵抗することが困難だったという。その経験を踏まえ、ツイッターで「被害に遭った人に『なぜ抵抗しなかったのか』『どうして声をあげなかったのか』などと聞いたり、ちゃかしたりすることは、被害者をさらに追い詰めるので絶対にやめてほしい。自分が被害に遭ってみて初めてよく分かった」と強調した。さらに、「男性で痴漢被害に受けてる人がこんないるのにびっくりしたのと同時に、やっぱり逃げるしかできない人も多い」「女性の被害者はほんと僕が思ったよりめっちゃ怖い思いをしてると思う」とも語った。
NPO法人「日本弱者男性センター」代表は女性からの加害行為に遭遇したと語り、[[国際男性デー]]に合わせ、[[都電荒川線]]で[[男性専用車両]]を運行するための[[クラウドファンディング]]を行い、男性支援も訴えている<ref>{{Cite news|title=男性専用車両が限定運行 企画者に意図を聞いた 「本当の男女平等を実現するためのもの」|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/6c9f7c2a2f30a5eec27b005695c2c5b3eca32d05|newspaper=encount|date=2022-11-8|accessdate=2022-11-24}}</ref>。
2023年5月、団体職員(56)、アルバイト(44)の男性2人は2月の夜、JR埼京線を走行中の車内で共謀して新宿駅から数分間にわたって男子高校生(16)を挟み込み胸を触ったり、下着の中に手を入れるなどにわいせつな行為を行い、防犯カメラ画像の分析により逮捕された。被害者はショックで沿線利用が出来なくなったと報道されている。加害者は常習的に痴漢を行っていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jprime.jp/articles/-/28023?display=b|title=埼京線・男子高校生を“サンドイッチお触り”した痴漢コンビ「ストレスあった」父親が答えた容疑者の“別の顔”|web=週刊女性PRIME|date=2023-5-57|accessdate=2023-5-28}}</ref>。
2023年9月、現役保育士として活躍する[[てぃ先生]]は10代後半時に電車内で男性から下半身をなで回されたり体を押しつけられる痴漢被害にあい、注意できなかった自分の弱さを責める考えに陥ったが、親にも被害を打ち明けられなかったが当時の教員に話しを聞いて貰うことで救われたと語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/765585|title=てぃ先生、自身の性被害告白し「悩む誰かがいるなら『あなたが悪いんじゃない』と伝えたかった」|web=中日新聞|date=2023-9-8|accessdate=2023-9-20}}</ref>。
内閣府男女共同参画局では、男性のためのフリーダイヤル性暴力被害ホットラインを設置し、相談を受け付けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/malehotline/index.html|title=男性のための性暴力被害ホットライン|web=内閣府男女共同参画局|accessdate=2023-10-9}}</ref>。
== 発生する場所 ==
痴漢は、電車内、職場、公園、人気のない道など第三者の目が行き届かない環境ならばどこでも行なわれる可能性がある。
=== 電車内 ===
痴漢の多くが車内で発生している。2010年に警視庁が検挙した痴漢の65.9%は電車内で発生している<ref name="alsok19" />。特に座席横の角の部分が最も多かった。また、50から60%は通勤・通学路線で通学・通学時間帯に犯行に及んでいた<ref name="nikkei2010" />。
=== 駅構内 ===
2010年に警視庁管内で検挙された痴漢(件数は[[#統計|前述]])の11.9%は駅構内で発生しており、電車内に次いで多かった<ref name="alsok19" />。
=== バス車内 ===
[[ゴールデンウィーク]]、[[夏休み]]などの長期休暇中に[[高速バス|夜行バス]]車内で頻発している。夜行バスは車内が暗く、多くの乗客が寝ている上、席の移動もできないため、痴漢が発生しやすい上、発生すると犯行が長時間に及ぶケースが多い。このため、多くのバス会社は普段は男女が隣同士にならないよう配慮しているが、長期休暇中は満席となるため配慮が難しくなるため痴漢が頻発する<ref name="tospo2014">{{Cite news|title="動く密室"夜行バス痴漢が頻発|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/263657/|newspaper=[[東京スポーツ]]|publisher=東京スポーツ新聞社|date=2014-05-08|accessdate=2018-04-17}}</ref>。
== 犯行の手口 ==
[[ファイル:Noun Pervert 855542.svg|サムネイル|スマートフォンを利用した[[盗撮]]行為]]
[[ファイル:Ban Dainagon Ekotoba - Visage of People.jpg|サムネイル|[[平安時代]]の絵巻物『[[伴大納言絵詞]]』の一場面。火事騒ぎの中、女性の背後で男性が不審な姿勢をしている]]
衣服越しに胸や尻、性器等に触れたり、スカートやズボンの中に手を入れて下着、性器等に触れたり、相手に自分の性器を触れさせたりすることが基本的な手口である。
一方で、衣服や肉体への物理的接触を伴わず、公衆の前で性器を露出したり、[[スマートフォン]]の[[AirDrop|画像共有アプリ]]を利用するなどして猥褻な画像を無理に見せたりする行為も、痴漢事件として報道されることがある<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201810/CK2018102502000262.html 電車内 突然わいせつ画像送付/スマホで「痴漢」相次ぐ 摘発の40代「恥ずかしがる姿見たくて」]『東京新聞』夕刊2018年10月25日(社会面){{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>。2019年8月20日には福岡県警が県迷惑防止条例違反(卑わいな行為の禁止)の疑いで、男性会社員を書類送検した<ref>{{Cite web|和書|title=エアドロップ痴漢初摘発 スマホ悪用 容疑の男書類送検 福岡県警|【西日本新聞ニュース】|url=https://web.archive.org/web/20190821035530/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/536576/|website=web.archive.org|date=2019-08-21|accessdate=2019-08-21}}</ref>他、兵庫県や千葉県などで逮捕者を出している。
{{See also|AirDrop#AirDrop痴漢}}
第三者の男性が女性に成り済まして[[電子掲示板]]に「痴漢してくれる人はいませんか」などと書き込み、女性が掲示板を閲覧した男性から被害を受ける事件も起きている。書き込んだ男性は迷惑防止条例違反容疑で逮捕されている<ref>{{Cite news|title=女性装い痴漢させた容疑 大阪国税職員を逮捕|url=https://www.nikkei.com/article/DGKDASDG09013_Z00C13A7CC0000/|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|date=2013-07-09|accessdate=2018-04-17}}</ref>。
=== 集団痴漢 ===
個人で痴漢行為を行なう者のほかに、組織的に痴漢行為に及ぶ集団の存在が確認されており、'''集団痴漢'''と呼ばれている<ref name="izumi-keiji">{{Cite web|和書|url=https://izumi-keiji.jp/column/chikan/shudan-tandoku |title=集団痴漢で逮捕された場合と単独痴漢で逮捕された場合に違いはある? |date=2018-04-19 |publisher=泉総合法律事務所 |accessdate=2022-09-25}}</ref><ref name="sankei20171217">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20171217-CO3C4BKPTJKHZENJO6KCOIOO4Y/ |title=集団痴漢の合言葉は「1902」…埼京線の先頭車両に集まった卑劣な男たち |date=2017-12-17 |publisher=産経新聞 |accessdate=2022-09-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000269401.html |title=埼京線で"集団痴漢" 逮捕の男ら"面識なし"…「防犯アプリ」で被害訴え |date=2022-09-23 |publisher=テレビ朝日 |accessdate=2022-09-25}}</ref>。実行犯が痴漢行為を行なっている間、その仲間が周囲から見えないよう壁になったり、被害者に騒がれた場合に第三者を装って[[痴漢冤罪|冤罪]]を主張する虚偽の発言で擁護したりする<ref>{{Cite web|和書|url=https://yourbengo.jp/keiji/957/ |title=痴漢とはどんな罪? 痴漢の罰則と実態・警視庁の対策・痴漢の問題点 |date=2018-03-27 |website=あなたの弁護士 |accessdate=2022-09-25}}</ref>。
集団痴漢の事例では、集まった男たちは互いに面識がないことも多い<ref name="izumi-keiji"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/160226 |title=「痴漢が多い最後尾の車両に…」埼京線の"集団痴漢"に便乗か "わいせつ行為"で逮捕 |date=2022-09-22 |publisher=TBS |accessdate=2022-09-25}}</ref>。痴漢情報を交換するインターネット上の匿名掲示板で「痴漢仲間募集」や「一緒に痴漢しませんか?」などと書き込みがなされることもあり、そういった情報をもとに集まっているとされる<ref name="izumi-keiji"/><ref name="sankei20171217"/>。
=== 入学試験への便乗 ===
{{Main|共通テスト痴漢祭り}}
毎年1月の[[大学入学共通テスト]]の時期になると、「明日は[[女子高生|JK(女子高校生)]]を痴漢しまくっても通報されない日です」などと受験生を標的とする痴漢予告が多発しており、実際の被害も確認されている。これは、試験に遅刻できないため通報されないと見込んでのものであり、2020年には悪辣な書き込みが1,000件以上確認されている。なお、大学入試センターは「もしも被害に遭って遅刻してしまっても、救済措置があるので、受験票に書かれた問い合わせ番号にまず電話して欲しい」としている。
== 心理 ==
=== 加害者の心理 ===
加害者については性欲の発散ではなく、むしろ痴漢することで達成感や優越感を味わい、支配欲を満たし、ゲーム感覚やレジャー感覚、男性性の確認と刺激を求める「弱い者いじめ」が動機であり被害に遭っても訴え出なさそうなターゲットを狙っているとの精神保健福祉士・社会福祉士による分析がある<ref>{{cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/e7fb43c90d426962c22128ed68edbbc8b5a21cb8?page=3|title=スマホを使った最新手口も登場、「痴漢被害者」たちの終わらない “苦しみ”|publisher=週刊女性PRIME|date=2020年4月24日|accessdate=2021-5-30}}{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref>。
ある精神保健福祉士・社会福祉士が200名を超える加害者に聞き取り調査を行ったところ、過半数が「痴漢の行為中に勃起していない」と回答した<ref name="huffpost">{{Cite news|title=「男が痴漢になる理由」なぜ女性も知っておくべきなのか。満員電車でくり返される性暴力|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/sexual-molester_jp_5c59661fe4b09bd6f91df031|newspaper=[[ハフポスト]]|date=2017-10-19|accessdate=2018-03-20}}</ref>。ある依存症専門医は痴漢行為について「『痴漢をする人は性欲が強い』と考えている人は多いのですが、それは違います。なぜなら、もし性欲の強い人が[[お尻|女子高生のお尻]]を触ろうものなら、そこで止めるなんてことはできないわけですから。つまり、痴漢とは性欲を満たすための行為ではなく、スリルを満たすための行為なのです」と述べている<ref>{{Cite news|title=依存症専門医が指摘 痴漢常習犯の"驚"思考|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/695789/|newspaper=[[東京スポーツ]]|publisher=東京スポーツ新聞社|date=2017-06-10|accessdate=2018-03-20}}</ref>、[[女性差別|男尊女卑]]的価値観に基づく支配欲を満たすために行う者もいる<ref name="huffpost" />。
30年以上痴漢をしていた男性は性的欲求というよりは、女性とのコミュニケーションのつもりだったと語り、触って嫌がらなければ許されていると考え、恐怖でフリーズしているのだと治療を受けて思い至った。地味な女性だと注目されないため、好んで標的にしていた。電車を痴漢するために往復で乗車し何度も逮捕されているが自身でコントロールできると認識し、最終的には電車に乗らない状況にしないとやめられない状況に陥っていたことをインタビューで述べた<ref>{{Cite news|title=元痴漢常習者が衝撃の30年間を告白 同じ女性に毎朝していたことも|url=https://news.livedoor.com/article/detail/14863334/|news= ライブドアニュース 東洋経済オンライン|date=2018年6月14日|accessdate=2023-2-1}}</ref>。
加害男性(43)は達成感と支配欲のために犯罪を繰り返し、痴漢をする相手のことを心をもった1人の人間だと認識できず、被害者の傷付きに全く思い至らない。女性に対し軽く考え、女性軽視、見下しているというのは常にあったと語った。また被害者の治療クリニックでは相手が自分に気がある、短いスカートをはいているのは性加害されてもいいとの認知のゆがみを理解させている<ref>{{Cite news|url=https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20220428a.html|title=痴漢加害者が語る“達成感と支配欲” 再犯防ぐ認知行動療法とは #本気で痴漢なくすプロジェクトNO.6|news= NHK|date=2022年4月28日|accessdate=2023-2-1}}</ref>。
また、2022年1月15、16日には大学入学共通テストの朝に受験生をターゲットとした「共通テスト痴漢祭り」を行うとする予告投稿が相次いでいると報道された<ref>{{Cite news|title=「痴漢祭り」 大学入学共通テスト前、ネットで予告相次ぐ|url=https://mainichi.jp/articles/20220114/k00/00m/040/243000c|publisher=毎日新聞|date=2022-1-14|accessdate=2022-1-16}}</ref>。
=== 被害者の心理 ===
{{節スタブ}}
「痴漢をされたら周りに助けを求めればいい」という見解もあるが、公共の場で胸や尻が露出している姿を他人の目に晒すのは屈辱的なことであり、それによって目立つことを恐れて声を上げられないケースも多い。
== 痴漢への対策 ==
[[ファイル:JR East E232-7001 surveillance camera.jpg|サムネイル|[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]・[[埼京線]]・[[川越線]]1号車の[[監視カメラ|防犯カメラ]]]]
まず痴漢を寄せ付けないことが大切である。簡単にできる対策としては、露出度の高い服装を避ける、ターゲットにされないよう通勤・通学などの行動パターンを変えてみる、いざという時に駆け込める場所(交番・コンビニなど)を把握しておく、電車では[[女性専用車両]]を利用する{{#tag:ref|多くの鉄道事業者が、女性以外に一部の男性も乗車対象としている。例えば[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)は、小学生以下の男児、[[身体障害者]]の男性、及び身体障害者を介助する男性も乗車対象としている<ref>{{Cite web|和書|title=女性専用車のご利用について|url=http://www.jreast.co.jp/woman/|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2018-05-17}}</ref>。|group=注釈}}、[[防犯ブザー]]を鞄につけるなどして所持する、いざという時は[[携帯電話]]や[[スマートフォン]]を鳴らして周囲の注目を引く、毅然とした隙のない女性を演出する、などがある<ref name="secom">[https://www.secom.co.jp/anshinnavi/bouhanfile/taisaku01.html <最新>痴漢対策|女性の防犯・防災対策|あんしんライフnavi|防災対策・セキュリティのセコム](2021年7月11日閲覧)</ref>
痴漢は目立つことを嫌うため、大人しく、抵抗されにくいイメージのある比較的普通の服装を纏う地味な人物を狙うともされている<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Kamimado_000760/ 痴漢に狙われないための服装、髪型対策 (2014年9月28日) - エキサイトニュース](2021年7月11日閲覧)</ref>。
[[制服]]を着ていると、私服の場合よりも痴漢に遭いやすい。「制服通学」をしている生徒が私服の時より痴漢の被害を多く受けることが有志団体のアンケート調査で判明しており<ref>{{Cite news|title=「制服通学」私服より痴漢被害多く ハラスメント調査で明らかに|url=https://www.bengo4.com/c_23/n_9137/|publisher=弁護士ドットコムニュース|date=2019年01月21日|accessdate=2022-1-16}}</ref>、国際NGOの調査でも英国内の女子生徒のうち、3人に1人は学校の制服を着ている時に性的な嫌がらせを受けた経験を持つことが明らかになっている<ref>{{Cite news|title=「制服着用時に性的嫌がらせ」、女子生徒の3人に1人 英|url=https://www.cnn.co.jp/world/35126782.html|publisher=CNN|date=2018-10-10|accessdate=2022-1-16}}</ref>。卒業し制服を着なくなると痴漢に遭わなくなったとの女性の声も多い<ref>{{Cite news|title=女子高生が電車に乗ると必ず痴漢される国・ニッポン?|url=https://courrier.jp/news/archives/85256/|publisher=クーリエ・ジャポン|date=2017-5-13|accessdate=2022-1-16}}</ref>。痴漢の性的倒錯の治療に当たっている斉藤章佳は、痴漢加害者について、発覚リスクが低い相手をターゲットにする傾向があり、その指標になるのが女子中高生の「制服」であり、それは従順であることの象徴と認識されていることを語っている<ref>{{Cite news|title=痴漢がひるむ「痴漢抑止バッジ」、身に着けるだけで効果がある理由|url=https://diamond.jp/articles/-/214513|author=真島加代|publisher=daiamond |date=2019-9-12|accessdate=2023-1-11}}</ref>。
=== 対応 ===
被害に遭った場合、黙っていると犯行がエスカレートする(中には被害者が同意したと思い込む者もいる<ref name="sankei20150120" />)おそれがある。「嫌だ」という意思表示をする必要があるが、痴漢かどうかの確信を持てない時は、車両や乗車場所を変える。被害に遭っていると確信した場合は、犯人を[[逮捕 (日本法)#現行犯逮捕|現行犯逮捕]]する<ref name="keishicho">{{Cite web|和書|title=許すな痴漢!|url=http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/smph/kurashi/higai/koramu2/koramu5.html|publisher=警視庁|accessdate=2018-04-13}}{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>、[[防犯ブザー]]を使用するなどの方法がある<ref name="alsok19" />。
犯人を現行犯逮捕する時は
* 触っている手を確実に掴み、袖口、腕時計、指輪など特徴を確認する<ref name="keishicho" />。この時、掴んだ手を手前に引き<ref name="alsok19" />、できればしゃがみ込むと良い<ref name="fujitv">{{Cite news|title=痴漢にあった時の対処法は?そして冤罪の場合の正しい対処法とは?|url=http://blog.fujitv.co.jp/goody/E20170516001.html|newspaper=『[[直撃LIVE グッディ!]]』|publisher=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]|date=2017-05-16|accessdate=2018-04-13}}{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>{{信頼性要検証|date=2019年7月}}。
* 周囲の乗客に[[スマートフォン]]などで犯人を撮影してもらう<ref name="fujitv" />{{信頼性要検証|date=2019年7月}}。
* 4 - 5人以上の乗客に協力してもらい、犯人を電車内から連れ出してもらう<ref name="fujitv" />{{信頼性要検証|date=2019年7月}}。
電車内では
*ドア付近(犯人にとって犯行後逃げやすい)や、階段や改札の近くに止まる車両(混雑しやすい)を避ける<ref name="alsok19" />。
* 鞄を胸の辺りまで抱える<ref name="teleasa2018">{{Cite news|title=丸の内の新OLに痴漢対策と護身術の講習会 警視庁|url=http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000127443.html|publisher=[[テレビ朝日]]|date=2018-05-17|accessdate=2018-05-17|archiveurl=https://archive.is/K7XpI|archivedate=2018-05-17}}</ref>。
===行政・社会の対応===
[[女性専用車両]]によって、防犯カメラと女性以外が入らないスペースを設ける。
日本若者協議会という任意団体はオンラインで署名を集め、2021年9月に都議会公明党に、「本気の痴漢対策を求めます」として要望書を提出した。3月の東京都議会の予算特別委員会での交通機関での痴漢被害などの安全対策についての審議を経て、東京都は痴漢被害多い大江戸線への女性専用車両を導入する方針としている<ref>{{cite news|title=痴漢被害多い大江戸線に女性専用車両を導入へ。若者の声が社会を動かす|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/murohashiyuki/20220402-00288249|author=室橋祐貴|publisher=yahoo news|date=2022-4-2|accessdate=2023-1-4}}</ref><ref>{{cite news|title痴漢被害多い大江戸線、女性専用車両を導入へ…都は混雑への影響小さいと判断|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220324-OYT1T50139|publisher=読売新聞|date=2022-3-4|accessdate=2023-1-4}}</ref>。
=== 痴漢防止グッズ ===
[[埼玉県警察]]鉄道警察隊は、犯人への警告及び犯行の証拠残しを目的とした「チカン抑止シール」を無料配布している<ref>{{Cite news|title=痴漢やめて「×」シール、相手に印も 埼玉県警が考案|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2015年4月17日7時5分|url=http://www.asahi.com/articles/ASH3P5FT4H3PUTNB00B.html|accessdate=2016-01-25}}{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref><!--(使い方は[http://www.asahi.com/articles/photo/AS20150415002247.html こちら]を参照)-->。ネット上では「悪用されたら怖い」「冤罪が増えるのでは」などの声もあるが、県警鉄警隊は「シールの印はあくまでも補強証拠で、捜査は従来通り被害者や目撃者の証言、防犯カメラの映像などを精査して行う」としている<ref>{{Cite news|title=「痴漢路線」にブレーキ シール、特殊インク…埼玉県警が対策(2/2)|newspaper=[[産経新聞|産経ニュース]]|publiehr=[[産業経済新聞社]]|date=2015年8月31日9時47分|url=http://www.sankei.com/affairs/news/150831/afr1508310007-n2.html|accessdate=2016-01-25}}{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>。[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]で配布を始めたところ、[[女子高生]]や学校からの問い合わせが相次いだ<ref>{{Cite news|title=痴漢にインク付けるシール、埼玉県警が配布 注文相次ぐ |newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2015年5月8日11時31分|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG07HC4_Y5A500C1CN0000/|accessdate=2016-01-26}}</ref>。
実際に被害に遭ったことのある女子高生は、「私たちは泣き寝入りしません」などと書かれたバッジを作成して身に付けたところ、被害に遭わなくなったという<ref>{{Cite news|title=痴漢防止へ新バッジ|newspaper=[[テレビ東京]]|date=2016-01-26|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/newsanswer/news/post_105018|accessdate=2016-01-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160213091925/www.tv-tokyo.co.jp/mv/newsanswer/news/post_105018|archivedate=2016-02-13}}</ref>。
夜道を歩くときは光量の大きい[[懐中電灯]]を所持していると、痴漢の目をライトの光でくらませて、ひるんだところで鼻先を殴って逃げて110番に通報するといった対策ができる<ref>『自衛隊防災BOOK』マガジンハウス、2018年、p.108 ISBN 978-4-8387-3010-0</ref>。
[[シヤチハタ]]では、「迷惑行為防止スタンプ」としてブラックライトで照らされると浮かび上がる印を押せる印鑑を2019年8月に試作販売した<ref>{{Cite news|title=【性暴力を考えるvol.23】“痴漢をさせない”ために…何が必要だと思いますか? |newsweb=[[日本放送協会|NHK]]|date=2019年10月25日|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/kiji/175/index.html|accessdate=2022-12-6}}</ref>。
=== 痴漢対策アプリ ===
*Digi Police - 警視庁の提供している防犯アプリ。犯罪発生状況の確認ができたり、防犯ブザー機能がある<ref>[https://koneta.nifty.com/koneta_detail/190701000914_1.htm 「痴漢撃退」機能が有能すぎると話題の警視庁防犯アプリ「Digi Police」が便利&快適に!]、@niftyIT小ネタ帳、2019年8月20日(2021年7月11日閲覧)</ref>。
*Radar-z - 旧称「痴漢レーダー」。痴漢を匿名で通報できるアプリ<ref>{{cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/361711 |title=「痴漢レーダー」でわかった"危ない曜日"の特徴 |publisher=東京経済online |date=2020-7-12 |accessdate=2021-7-11}}</ref>。
=== 痴漢に対する注意喚起 ===
<gallery>
ファイル:Chikan akan.jpg|大阪府の[[吊り広告]]
ファイル:Chikan sign in Okinawa City Monorail station.jpg|[[沖縄市]]のモノレールでの注意張り紙
ファイル:Chikan Sign 1.JPG|大阪府[[吹田市]]の注意看板
ファイル:Chikan Sign.jpg|[[千葉西警察署]]管内の注意看板
ファイル:Chikan Sign 3.jpg|大阪府[[吹田市]]の注意看板
ファイル:WomensCar KeioLine.jpg|[[京王電鉄]][[京王線]]の[[日本の女性専用車両|女性専用車]]([[新宿駅]]にて撮影)
</gallery>
===加害者の会社としての対応===
逮捕段階では犯罪が確定していないため、解雇等の処分を行うことは違法なる可能性がある。一方で、痴漢事件で有罪が確定した場合において、鉄道会社に勤務していた痴漢の前科がある職員に対して、懲戒解雇もやむを得ないとされた裁判例が存在する<ref name=":23">{{Cite web|和書|title=痴漢の有名裁判例|刑事事件弁護士アトム |url=https://atombengo.com/lawdb/chikan/hanrei |date=2023-02-27 |access-date=2023-08-24 |language=ja}}</ref>。もっとも、この場合においても、退職金の全額不支給は相当ではなく、3割の支払いが命じられた<ref name=":23" />。
==痴漢冤罪事件==
有名な痴漢冤罪事件として、防衛医大教授痴漢冤罪事件がある。同事件においては、被告人に痴漢を行うような性的傾向が存在しないことに加え、被害者が述べる痴漢の犯行態様は執拗なものであるにもかかわらず回避行動をとっておらず、一旦下車しながら再び被告人のそばに乗車していることの不自然性などから、被害者の証言が信用できないため、合理的疑いが残るとして最高裁判所において無罪判決が宣告された<ref name=":22">{{Cite web|和書|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/531/037531_hanrei.pdf |title=最判平成21年4月14日 |access-date=2023年8月24日}}</ref>。判例においては、痴漢事件における冤罪防止の準則として、「本件のような満員電車内の痴漢事件においては,被害事実や犯人の特定について物的証拠等の客観的証拠が得られにくく,被害者の供述が唯一の証拠である場合も多い上,被害者の思い込みその他に より被害申告がされて犯人と特定された場合,その者が有効な防御を行うことが容易ではないという特質が認められることから,これらの点を考慮した上で特に慎重な判断をすることが求められる。」と判示した<ref name=":22" />。那須弘平裁判官は、補足意見として、「普通の能力を有する者(例えば十代後半の女性等)がその気になれば,その内容が真実である場合と,虚偽,錯覚ないし誇張等を含む場合であるとにかかわらず,法廷において「具体的で詳細」な体裁を具えた供述をすることはさほど困難でもない。その反面,弁護人が反対尋問で供述の矛盾を突き虚偽を暴き出すことも,裁判官が 「詳細かつ具体的」,「迫真的」あるいは「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な指標を用いて供述の中から虚偽,錯覚ないし誇張の存否を嗅ぎ 分けることも,けっして容易なことではない。本件のような類型の痴漢犯罪被害者の公判における供述には,元々,事実誤認を生じさせる要素が少なからず潜んでいる」と述べた<ref name=":22" />。
他方、痴漢冤罪を主張したものの、無罪主張が排斥され、有罪判決が宣告された事例も存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bengo4.com/c_1009/n_15462/ |title=「やってねえよ」痴漢冤罪を訴えて線路を逃走、裁判では罪を認めた息子 父は「この前も間違いを起こして…」 |accessdate=2023-01-07 |date=2022-12-18 |website=弁護士ドットコム}}</ref>。
* 1997年10月、[[西武池袋線]]内において大学1年の女子大生がスカートをたくし上げられ下着の上から陰部を触られる痴漢被害を受け、[[池袋駅]]で印刷会社員男性(40)の背広をつかみ駅員に痴漢として突き出した。女性は池袋駅で金銭的解決を男性から提案されたと証言している。
** 男性は無罪を主張して106名の弁護団を結成した。この弁護士らは事件の検証本を発行し2審後も被害女性を「自称被害者」と呼称のうえ、実家も裕福で挫折経験もない、客観的に相手の立場を考えることができない、などと女性の人格否定を行った。またイギリスの格言を持ち出し無実の1人が苦しむより有罪の10人が逃れた方がよい、1人の被害者の供述で有罪になるのは魔女狩り裁判に匹敵するなどと主張した<ref>GENJINブックレット22なぜ痴漢えん罪は起こるのか 検証・長崎事件 2001年12月発行 編著 長崎事件弁護団 発行人 成澤壽信 株式会社現代人文社</ref>。
** 本件は[[最高裁判所|最高裁]]まで争ったが、東京都[[迷惑防止条例]]の5万円の罰金刑が2002年9月確定した。男性は2002年「痴漢えん罪被害者ネットワーク」を結成して代表として活動し<ref>【追跡】痴漢えん罪ネット発足 体験もとに「被害者」支援 産経新聞 2002年7月22日</ref>、2003年7月に痴漢事件えん罪を訴えるビラ街頭配布の帰りに[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]車内で向かい側の寝ていた女性のスカートの中を携帯電話で盗み撮りし撮影に気づいた乗客に取り押さえられ現行犯逮捕された。同人は乗客に注意された際に画像を消去し携帯電話を壊したが、犯行を酒に酔い覚えていないと主張した<ref>痴漢えん罪ネット代表 車内で盗撮 現行犯逮捕 産経新聞 2003年7月16日</ref><ref>「痴漢えん罪ネット」代表が盗撮 毎日新聞 2003年7月16日</ref>。[[東京地方裁判所|東京地裁]]にて2004年2月、懲役6月執行猶予4年の有罪判決が出た<ref>盗撮の痴漢えん罪ネット元代表有罪 毎日新聞 2004年2月4日</ref>。
* 2004年(平成16年)[[4月8日]]、[[早稲田大学]]大学院教授の職にあった[[植草一秀]]は、[[品川駅]]のエスカレーターで女子高生のスカートの中を[[手鏡]]で覗こうとしたとして[[鉄道警察]]隊員に東京都迷惑防止条例違反(粗暴行為の禁止)の現行犯で逮捕された<ref>「植草一秀教授、のぞきの疑い JR品川駅で現行犯逮捕」(2004年4月12日、朝日新聞夕刊20面)</ref>。裁判では無罪を主張したが2004年罰金50万円、手鏡1枚没収の判決となり刑が確定した<ref>{{cite web|url=http://www.japantimes.co.jp/news/2005/04/08/national/peeping-tom-to-pay-fine-lose-mirror/|title=Peeping Tom to pay fine, lose mirror|work=The Japan Times|date=2005-04-08|accessdate=2023-1-4}}</ref>。[[2006年]](平成18年)に電車内で高校生の女子生徒に痴漢行為をしたとして、東京都迷惑防止条例違反の[[現行犯]]で[[警視庁]]により逮捕された<ref>{{cite web|url=http://www.japantimes.co.jp/news/2006/09/15/national/peeping-economist-nabbed-in-groping/|title=Peeping economist nabbed in groping|work=The Japan Times|date=2006-09-15|accessdate=2014-02-26}}</ref>。[[2009年]]に最高裁で上告を棄却された<ref>{{cite web|url=http://www.japantimes.co.jp/news/2009/06/28/national/uekusa-prison-term-upheld-by-top-court/|title=Uekusa prison term upheld by top court|work=The Japan Times|date=2009-06-28|accessdate=2014-02-26}}</ref>。懲役4ヶ月の実刑判決が確定し<ref>「植草被告の実刑確定へ 痴漢事件、上告棄却」(2009年6月27日、朝日新聞夕刊14面)</ref>、[[8月3日]]に収容され、東京拘置所で当所執行を受け同年[[10月4日]]に、満期釈放した。
== 世界各国での痴漢 ==
痴漢は特に日本にだけ限られた行為ではないが、イギリスやカナダでは日本に観光する自国民に「通勤電車内の女性乗客への不適切な接触やchikanの報告は、かなり一般的である」(英国政府公式サイト)、「混雑した地下鉄や鉄道で、不適切な身体接触が起きる可能性がある」(カナダ政府公式サイト)と注意喚起がされる状況にあり<ref name="bbc230608"/>、日本での性犯罪の取り締まりが強化されたことにより小児性愛者等の多くが、逮捕リスクの少ない「電車内のわいせつ行為」に集中したとの意見も見られる<ref>{{Cite news |title=水原希子さん「痴漢は日本独特の文化」発言はそれほどデタラメではない |url=https://diamond.jp/articles/-/312289?page=4 |publisher=ダイヤモンドオンライン |author=窪田順生 |date=2022-11-3 |accessdate=2022-11-24}}</ref>。「CHIKAN(痴漢)」が、「KAROSHI(過労死)」などに続き国際語化する可能性と<ref>{{Cite news |title=「CHIKAN」国際語に!? 満員電車が犯罪温床 訪日客に注意喚起も |url=https://mainichi.jp/articles/20180330/ddm/041/100/107000c |publisher=毎日新聞 |date=2018-3-30 |accessdate=2023-1-8}}</ref>、カントリーリスクだと報道されている<ref>{{Cite news |title=「CHIKAN」国際語に!? 満員電車が犯罪温床 訪日客に注意喚起も |url=https://globe.asahi.com/article/11739129 |publisher=朝日新聞GLOBE+ |date=2018-8-15 |accessdate=2023-1-8}}</ref>。
「Chikan」という単語は、もはや日本だけでなく東アジア各地に広まり、中国では日本語を中国語読みして、「chihan」と呼ぶと報道されている<ref name="bbc230608">{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-65817476|title=痴漢動画を売るサイトの裏を暴く……BBC独自調査 日本と中国で|news=BBC NEWS JAPAN|date=2023-6-8|accessdate=2023-6-8}}</ref>。
=== 韓国 ===
韓国では「痴漢」を{{ISO639言語名|ko}}読みした「치한」という呼称が使われている。京畿開発研究院の研究委員が2011年8月に、[[首都圏 (韓国)|首都圏]]で大衆交通を利用する女性職員300人に行った調査では、24.8%が被害に遭ったことがあると答えた。また、このうち30.1%が過去1年間に2回以上被害に遭ったと答えた。被害場所は地下鉄が67.1%、市内バスが15.1%、高速バス・座席バスが6.8%だった。被害に遭った女性の対処方法は日本人女性と同じく消極的で、回答者の半分以上は「乗り換えたり車両を移動したりする」と答えた<ref>{{Cite news|title=韓国女性4人に1人「痴漢を経験」|url=http://japanese.joins.com/article/456/143456.html|newspaper=[[中央日報]]|date=2011-09-02|accessdate=2018-04-26}}</ref>。また、女性専用車両がある<ref>{{ko icon}}[http://www.humetro.busan.kr/homepage/default/board/view.do?board_no=31885&conf_no=108&menu_no=1001060501 도시철도 1호선 여성배려칸 본격 운영] - 釜山交通公社の報道資料 2016年9月20日 </ref>。
=== アメリカ ===
地下鉄での性犯罪自体は目新しいものではなく、1953年当時のニューヨーク市の刑事は、混雑した地下鉄を「性犯罪者にとって素晴らしい場所」と表現していた<ref name=":2">{{Cite web|title=Why Are Reports of Subway Sex Crimes on the Rise?|url=https://citylimits.org/2018/08/22/why-are-reports-of-subway-sex-crimes-on-the-rise/|website=City Limits|date=2018-08-22|accessdate=2019-08-09|language=en-US|first=Yasmine|last=Chokrane}}</ref>。
ニューヨーク市の地下鉄を利用する者を対象にした調査では、63%の人が性的な嫌がらせを受けた経験があると答え、10%が性的暴行を受けたことがあると答えた<ref>Scott M. Stringer,『[http://www.nytimes.com/packages/pdf/nyregion/city_room/20070726_hiddeninplainsight.pdf Hidden in Plain Sight: Sexual Harassment and Assault in the New York CIty Subway System]』. 2007. Office of the Manhattan Borough President.</ref>。実際に、ニューヨーク市の地下鉄において性犯罪の件数は4年連続増加しており、ニューヨーク警察に届け出があった公共交通機関における性犯罪は2017年に1024件に達した<ref name=":2" />。これはかつてニューヨークでは、痴漢は捜査機関の犯罪調査でも調査対象とされておらず、被害女性が無力感を感じ報告しなかった状況から変化したことが一因であるとされる<ref>{{Cite web|title=Sex Offenses Are Common On The NYC Subway|url=https://www.care2.com/causes/sex-offenses-new-york-subway.html|website=Care2 Causes|accessdate=2019-08-09|language=en-US}}{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref><ref>{{Cite web|title=Outing the gropers|url=https://nypost.com/2011/10/23/outing-the-gropers/|website=New York Post|date=2011-10-23|accessdate=2019-08-09|language=en|first=Post Staff|last=Report}}</ref>。
=== イギリス ===
2012年度に実施された調査では、18~34歳のロンドン在住女性の内、43%が前年に地下鉄やバスなどで痴漢にあったことがあるという<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=日本人女性も要注意! ロンドンで痴漢が急増中 - 英国ニュース、求人、イベント、コラム、レストラン、イギリス生活情報誌 - 英国ニュースダイジェスト|url=http://www.news-digest.co.uk/news/news/tabloid/12106-2014-05-08.html|website=www.news-digest.co.uk|accessdate=2019-08-09}}</ref>。さらに、2013年7月から2014年4月にかけて、公共交通機関での痴漢の発生件数は27%増加した<ref name=":1" />。また、イギリスでは電車内で起きた痴漢などの性犯罪の報告件数が、2012・2013年度の650件から2016・2017年度の1448件に増加している。英ロビー団体「女性への暴力を終わらせる連合」は、英交通警察や鉄道会社が被害者に当局に報告するよう呼びかける運動を実施したことを賞賛し、件数の上昇は被害に遭うリスクが上昇したという意味ではないと語っている。<ref>{{Cite news|title=電車内の性犯罪、報告件数が過去5年間で倍に 英国|url=https://www.bbc.com/japanese/40667288|date=2017-07-20|accessdate=2019-08-09}}</ref><ref>{{Cite web|title=Labour frontbencher suggests women only train carriages may be needed in UK|url=http://www.independent.co.uk/news/uk/politics/women-only-train-carriages-labour-mp-reduce-sexual-offences-chris-williamson-railway-anger-men-a7908006.html|website=The Independent|date=2017-08-23|accessdate=2019-08-09|language=en}}</ref>。これらの女性への性暴力の犯罪の大半がラッシュアワーに起きている。
ロンドンでは、かつて女性専用の車室が存在していたものの<ref>{{Cite news|title=The era of 'ladies only' train compartments|url=https://www.bbc.com/news/magazine-34061094|date=2015-08-26|accessdate=2019-08-09|language=en-GB|first=Jon|last=Kelly}}</ref>、1977年に完全廃止が決定された<ref name=":3">{{Cite news|title=Women-only train carriages a 'crazy idea'|url=https://www.bbc.com/news/uk-politics-41028234|date=2017-08-23|accessdate=2019-08-09|language=en-GB}}</ref>。後に女性専用車両の導入のアイディアが2015年に[[労働党 (イギリス)|労働党]]のリーダーシップキャンペーンで提案されたものの即座に却下された<ref>{{Cite web|和書|title=「女性専用車両はひどいアイデア」 英国で批判の嵐 その理由とは?|url=https://newsphere.jp/national/20170901-3/|website=NewSphere|accessdate=2019-08-09|language=ja-jp}}</ref>。その後、労働党の同僚からは批判され、労働党前交通大臣からは「女性にとって極めて侮辱的」とされた<ref name=":3" />。さらに[[フェミニズム|フェミニスト]]団体からも一様に反対されており、また交通労組の会議書記長は、女性はどこでも座りたいところに座る権利があり、「性別の[[アパルトヘイト]]をイギリスの鉄道に望まない」としている<ref>{{Cite news|title=Shadow minister faces backlash over women-only train carriage idea|url=https://www.theguardian.com/world/2017/aug/23/shadow-minister-faces-backlash-over-women-only-train-carriage-idea|work=The Guardian|date=2017-08-23|accessdate=2019-08-09|issn=0261-3077|language=en-GB|first=Jessica Elgot Political|last=reporter}}</ref>。
ロンドンでは地下鉄の痴漢における10倍とも言われる暗数撲滅のため、61016番へメールで通報する革命的な通報システムのキャンペーンを実施した<ref name=":4">{{Cite web|title=Revealed: The Tube lines with most sex assaults reported via text service 61016|url=https://www.standard.co.uk/news/crime/revealed-the-tube-lines-with-most-sex-assaults-reported-via-text-service-a3811226.html|website=Evening Standard|date=2018-04-11|accessdate=2019-08-09|language=en}}</ref>。しかし、18ヶ月で505件の通報があったものの、そのうちわずか14人程度しか逮捕できておらず、未だ痴漢は蔓延している<ref name=":4" />。
=== フランス ===
[[フランス語]]では痴漢をする人は「frotteur(こする人)」と呼ばれる。彼らは被害者に対して、女性に体を擦りつけてきて、たいてい公共交通機関など人がすし詰め状態になった場で猛威を振るう。[[フランス]]では1910年から痴漢の存在が社会問題化しており、公共交通機関での痴漢行為は長年の課題であった<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=痴漢は100年前のパリにもいて、女性専用車両まで提言されていた|url=https://diamond.jp/articles/-/158138|website=ダイヤモンド・オンライン|accessdate=2019-08-09}}</ref>。また、公共交通機関で男女がともにいることの是非が繰り返し議論され、1910年頃の当時は支持されなかったものの[[女性専用車両]]の導入が提案されていた<ref name=":5" />。2018年の1月の時点では、女性専用車両は導入がなされていない<ref name=":5" />。
現代では、犯罪および刑罰対応国家観測所が発表した調査において、女性女性の半数が交通機関に乗っているときに身の危険を感じると回答し<ref>{{Cite web|title=Observatoire national de la délinquance et des réponses pénales (刑罰対応国家観測所) - data.gouv.fr|url=https://www.data.gouv.fr/fr/organizations/observatoire-national-de-la-delinquance-et-des-reponses-penales-刑罰対応国家観測所/|website=www.data.gouv.fr|accessdate=2019-08-09|language=fr}}{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>、2014年から15年のあいだに少なくとも22万6950人の女性が公共交通機関内で性的被害に遭ったという<ref>{{Cite web|title=Plus de 250.000 personnes victimes d'atteintes sexuelles dans les transports en commun|url=https://www.huffingtonpost.fr/2017/12/20/plus-de-250-000-personnes-victimes-datteintes-sexuelles-dans-les-transports-en-commun_a_23312638/|website=Le Huffington Post|date=2017-12-20|accessdate=2019-08-09|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title='Hundreds of thousands of women' in France molested on public transport|url=https://www.thelocal.fr/20171220/hundreds-of-thousands-of-french-women-abused-on-public-transport|website=www.thelocal.fr|date=2017-12-20|accessdate=2019-08-09|language=en-GB}}</ref>。
さらにフランスの全国運輸利用者連盟による6000人を超える大規模調査では、回答者の90%近くが公共交通機関で何らかの形で嫌がらせを受けた経験があると回答し、女性の2人に1人がセクハラの被害者にならないためにスカートをやめてズボンを選ぶと回答した<ref>{{Cite web|title='Half of French women' alter clothes to avoid harassment|url=https://www.thelocal.fr/20160615/half-of-french-woman-alter-clothes-to-avoid-harassment|website=www.thelocal.fr|date=2016-06-15|accessdate=2019-08-09|language=en-GB}}</ref>。2018年にはパリの地下鉄で自慰行為をしている男が撮影され、その動画がツイッター経由で共有され100万回以上再生される出来事が起きた<ref name=":6">{{Cite web|title='This is my daily life on public transport': Video of man masturbating on Paris Metro stirs anger|url=https://www.thelocal.fr/20181219/this-is-my-daily-life-on-public-transport-video-of-man-masturbating-n-paris-metro-stirs-anger|website=www.thelocal.fr|date=2018-12-19|accessdate=2019-08-09|language=en-GB}}</ref>。動画を投稿した女性によると、このような出来事は珍しいことではなく週に1回はあるという<ref name=":6" />。
2015年、フランスの{{仮リンク|男女平等高等評議会|fr|Haut Conseil à l'égalité entre les femmes et les hommes}}が、パリの女性600人を対象に調査したところ、全員が18歳以下の時に、公共交通機関で性的な嫌がらせに遭遇していたと報告されている<ref>{{cite news |title=Every woman in Paris polled in survey has experienced sexual harassment on trains |newspaper=[[インデペンデント]] |date=2015-04-17 |url=https://www.independent.co.uk/news/world/europe/every-woman-in-paris-polled-in-survey-has-experienced-sexual-harassment-on-trains-10184658.html |accessdate=2023-01-11|language=en }}</ref><ref>{{cite news |title=Sexual harassment rife on Paris trains
|newspaper={{仮リンク|The Local|en|The Local}} |date=2015-04-16 |url=https://www.thelocal.fr/20150416/france-urged-to-act-on-sexual-harassment/ |accessdate=2023-01-11|language=fr}}</ref>。
=== メキシコ ===
メキシコでは女性の65%が、公共交通機関を利用した際に何らかの性的被害に遭ったと答えている<ref>{{Cite web|和書|title=この座席の形状はまさに!?メキシコで大胆な痴漢防止キャンペーンが実施される。 (2017年4月4日) - エキサイトニュース(2/2)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52236762/|website=エキサイトニュース|accessdate=2019-12-08|language=ja}}</ref>。メキシコシティでは、10人中9人の女性がすでに公共交通機関内での性被害を経験している<ref name=":8">{{Cite web|和書|title=100年前、すでにパリには痴漢がいた。|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/frotteur-paris-1910_jp_5c5968a6e4b09bd6f91e13f1|website=ハフポスト|date=2018-01-31|accessdate=2019-12-08|language=ja}}</ref>。メキシコで生中継中に痴漢を行った男性へ叱責したインタビュー女性へ称賛が寄せられた。中南米ではこのような暴力・痴漢・セクハラや、SNS上での脅迫が深刻な問題になっている<ref>{{Cite web|和書|title=女性リポーターが中継中にお尻を触ってきた男にブチギレ! 動画が拡散され、女性は「自分がやったことは後悔していない」と宣言 → 称賛が寄せられる|url=https://rocketnews24.com/2018/05/08/1059718/|website=ロケットニュース24|date=2018-05-08|accessdate=2019-12-08|language=ja}}</ref>。またメキシコには女性専用車両がある<ref>{{Cite web|和書|title=メキシコの治安が悪いという噂はホント?地域別最新の治安情報と対策まとめ {{!}} Compathy Magazine(コンパシーマガジン)|url=https://www.compathy.net/magazine/2016/12/15/mexico_security/|website=Compathy Magazine (コンパシーマガジン)|date=2016-12-15|accessdate=2019-12-08|language=ja}}</ref>。
=== エジプト ===
2017年の[[トムソン・ロイター|トムソン・ロイター財団]]の[[世論調査]]では、[[エジプト]]の都市である[[カイロ]]が女性にとって最も危険な大都市であることが判明し、2013年の国連の調査では、エジプト人女性の70%が公共交通機関での通勤を安全だと感じていないという結果が出ている<ref name=":9">{{Cite news|title=Egypt fights sexual harassment on the train with commuter campaign|url=https://jp.reuters.com/article/egypt-women-idUKL8N2IT04P|work=Reuters|date=2020-12-14|accessdate=2021-02-14|language=ja|first=Menna A.|last=Farouk}}</ref>。またその国連の調査では、女性の99%がエジプトで性的ハラスメントを経験したことがあるという結果が示されている<ref name=":9" />。
[[ボランティア]]が看板や乗客のアナウンス、プロモーションビデオなどの取り組みを行っているものの、痴漢の撲滅に大きな進展をもたらしていないため、厳格な法執行が必要であるという声が上がっている<ref name=":9" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="alsok19">{{Cite web|和書|title=痴漢対策│【ALSOK】|url=http://www.alsok.co.jp/security_info/security_enq/19.html|publisher=[[綜合警備保障]]|accessdate=2021-07-06}}</ref>
<ref name="nikkei2010">{{Cite news|title=電車で通勤・通学する大都市圏の女性の13.7%が過去1年間に車内で痴漢被害に遭っていた|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1305O_U0A011C1CR0000/|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2010-10-14|accessdate=2018-04-17}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*岡部千鶴「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004029441 女性専用車両に関する一考察]」[[久留米信愛女学院短期大学]]研究紀要第27号、2004年
== 関連項目 ==
*[[セクシャルハラスメント]]
*[[窃触症]]
*[[露出狂]]
*[[窃視症]]
*[[通り魔]]
*[[ぶつかり男]]
*[[おっとCHIKAN!]]
*[[女性護身術]]
*[[女性専用車両]]
*[[共通テスト痴漢祭り]]
*{{ill2|パンチング (迷惑行為)|en|Pantsing|label=パンチング}} - ズボンを下す、スカートをめくるなどの嫌がらせ行為。
== 外部リンク ==
*[https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/higai/koramu2/koramu8.html 痴漢等の性犯罪被害防止対策 警視庁]
*{{youtube|2Qul5DpngVo|title=ちかんから身を守るために今日からできる3つの対策 - 愛知県警察交通警察隊}}
* [https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/higai/koramu2/index.html 警視庁 : 安全な暮らし 性犯罪から身を守る]
* {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/3870/meiwaku_jyourei/meiwaku_jyurei_menu.html |title=都道府県の迷惑防止条例 |date=20040710111518}}
* {{Cite journal|和書|author=岩井茂樹 |date=2014-03 |url=https://doi.org/10.15055/00000430 |title=「痴漢」の文化史 : 「痴漢」から「チカン」へ |journal=日本研究 |ISSN=0915-0900 |publisher=国際日本文化研究センター |volume=49 |pages=147-181 |doi=10.15055/00000430 |hdl=11094/28148 |CRID=1390009224770612224}}
{{DEFAULTSORT:ちかん}}
[[Category:性犯罪]]
[[Category:性行為]]
[[Category:女性に対する暴力]]
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走査型電子顕微鏡
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走査型電子顕微鏡(そうさがたでんしけんびきょう、英語: scanning electron microscope、SEM)は電子顕微鏡の一種である。電子線を絞って電子ビームとして対象に照射し、対象物から放出される二次電子、反射電子(後方散乱電子、BSE)、透過電子、X線、カソードルミネッセンス(蛍光)、内部起電力等を検出する事で対象を観察する。通常は二次電子像が利用される。透過電子を利用したものはSTEM(走査型透過電子顕微鏡)と呼ばれる。
TEMでは主にサンプルの内部、SEMでは主にサンプル表面の構造を微細に観察する。
透過型のように試料全体に電子線を当てるのではなく、走査型では細い電子線で試料を走査(scan)し、電子線を当てた座標の情報から像を構築して表示する。観察試料は高真空中(10Pa以上)に置かれ、この表面を電界や磁界で絞った電子線(焦点直径1-100nm程度)で走査する。走査は直線的だが、走査軸を順次ずらしていくことで試料表面全体の情報を得る。
光学顕微鏡の光源にあたるSEMの電子線源(電子銃)には幾つか方式がある。以前はタングステンヘアピンや六ホウ化ランタン(LaB6)の熱電子銃を備えたものが多かったが、現在は電界放射型(field emission、FE)のものも普及してきている。これは陰極(冷陰極)に高電圧を印加し、直下の第一陽極によって電子線を加速、続く第二陽極以降で電子線束を制御するものである。FEは熱電子銃と比較して解像度が高く高倍率での観察が可能であり、フィラメント(プローブ)の寿命が長いという利点がある。一方、低倍率観察においては、大電流が得られる熱電子銃の像質がFEを上回ることもある。FEを用いたSEMはFE-SEMなどと呼ばれる。
加速された電子線(0.1-30kV)は、集束レンズ(コンデンサレンズ)及び対物レンズで絞られる(レンズといっても光線が可視光ではないのでガラスレンズは用いられず、電子線に干渉できる電場や磁場を利用した電子レンズが使用される)。電子線束を制御するためのレンズには磁界型と電界型があるが、結像制御には磁界型レンズ(電磁レンズ)が用いられる。一方、収差の大きい電界型レンズ(静電レンズ)は電子線の加減速に利用される。レンズで絞られた電子線は走査コイルによって制御され、試料表面を走査していく。
電子線が試料に当たると、二次電子の放出など様々な現象が起こる。試料から発せられるこれらの信号は検出器で検出され、光電子増倍管による増幅を経てCRTに送られる。CRTでは信号量の違いによりその輝度を変調する。TEMの場合は電子線を蛍光板に当てて蛍光を直接観察するが、SEMでは輝度変調信号の処理結果が像としてディスプレイに表示され、これを観察することになる。SEMの像表示は内部処理を経ているぶんだけ時間差があり、観察点の移動や倍率変更がタイムラグを伴うという欠点がある。逆に信号処理を調節することで、加速電圧などの観察条件を変更せずに観察像の輝度やコントラストを変えられるというメリットがある。
二次電子は等方的に発するので電界をかけて収集し、電荷量を輝度とする。画像の見え方は、入射ビームに対して垂直な面ほど輝度が低くなり、また、とがった部分ほど輝度が高くなる(エッジ効果)。
SEMは光学顕微鏡と比較して焦点深度が2桁以上深く、広範囲に焦点の合った立体的な像を得ることができる。観察物の外形を把握しやすい一方、対象の内部に関する情報はほとんど得られないので、これはTEMなど他の手段に頼ることになる。ただし、観察物をフリーズフラクチャ(凍結破断)法などで処理すれば、ある程度の内部観察も可能である。
回路や半導体部品などの品質チェックの他、適切な前処理を踏むことで生体試料の観察も可能である。細胞のような導電性の低いものを高真空二次電子法で高加速電圧をかける場合、試料はあらかじめ導電性の物質(白金パラジウム、金、炭素など)でコートしておく必要がある。これは二次電子を効率良く放出させるため、試料帯電(チャージアップ)による露出オーバーと像の歪みを防ぐために電子線の余剰エネルギーを逃がし、試料表面の破損を最小限度に留めるためである。低真空反射電子法(N-SEM/WET-SEMなど)では絶縁体の観察においてもコートは必要ない。特性X線を利用した元素分析など、分析用途で用いるSEM(EPMA)でも表面コートの必要のない低真空反射電子法は好まれる。
表面の構造というのは、実のところ光学顕微鏡の苦手とするところである。普通は双眼実体顕微鏡が使われるが、倍率をあまり上げられず、解像度も低い。細かい部分は普通の光学顕微鏡で、ピントをずらしながら観察するほかなく、もし試料が不透明であれば打つ手なしである。たとえばアリの体表の毛などは、なかなか調べることが難しかった部分である。走査型電子顕微鏡を使えば、このような部分の観察が簡単であり、分野によっては分類研究等には欠かせないとまで言われるようになった。
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"title": "利用"
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走査型電子顕微鏡は電子顕微鏡の一種である。電子線を絞って電子ビームとして対象に照射し、対象物から放出される二次電子、反射電子(後方散乱電子、BSE)、透過電子、X線、カソードルミネッセンス(蛍光)、内部起電力等を検出する事で対象を観察する。通常は二次電子像が利用される。透過電子を利用したものはSTEM(走査型透過電子顕微鏡)と呼ばれる。 TEMでは主にサンプルの内部、SEMでは主にサンプル表面の構造を微細に観察する。
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{{出典の明記| date = 2021年7月}}
[[Image:Scanning_electron_microscope_hg.jpg|thumb|250px|right|SEM(Cambridge S150)の操作風景。Geological Institute, University Kiel, 1980]]
[[Image:SEM chamber1.JPG|thumb|250px|right|SEMの試料室。この中に試料をセットして観察する。この写真では試料室全体がオープンになっているが、高真空を維持する為に試料交換室を設け、試料の出し入れ時にも試料室の真空が保たれる構造になっているSEMもある。]]
[[Image:Misc pollen.jpg|thumb|250px|right|走査型電子顕微鏡で撮影された様々な植物の[[花粉]]。原図の倍率は約500倍。観察方向(ビームの入射方向)に対して垂直な面は暗く、平行な面ほど明るく見える。陰影の付き方(右上方向が明るい)は検出器の位置による。]]
'''走査型電子顕微鏡'''(そうさがたでんしけんびきょう、{{lang-en|scanning electron microscope}}、'''SEM''')は[[電子顕微鏡]]の一種である。[[電子線]]を絞って電子ビームとして対象に照射し、対象物から放出される[[二次電子]]、[[反射電子]]([[後方散乱電子]]、BSE)、[[透過電子]]、[[X線]]、[[カソードルミネッセンス]]([[蛍光]])、内部起電力等を検出する事で対象を観察する。通常は二次電子像が利用される。透過電子を利用したものは'''STEM'''([[走査型透過電子顕微鏡]])と呼ばれる。
[[TEM]]では主にサンプルの内部、SEMでは主にサンプル表面の構造を微細に観察する。
== 原理 ==
[[File:Schema MEB (en).svg|thumb|250px|right|SEMの構成。上から[[電子銃]]、[[電子ビーム]]、一次[[集束レンズ]]、スプレー[[アパーチャー]]、二次集束レンズ、[[偏向コイル]]、[[対物レンズ]]、対物レンズ[[アパーチャー]]、[[後方散乱]]電子検出器、[[X線検出器]]、サンプル、[[二次電子]]検出器、[[真空ポンプ]]。]]
透過型のように試料全体に電子線を当てるのではなく、走査型では細い電子線で試料を[[走査]](scan)し、電子線を当てた座標の情報から像を構築して表示する。観察試料は高真空中(10<sup>-3</sup>Pa以上)に置かれ、この表面を[[電界]]や[[磁界]]で絞った電子線(焦点直径1-100nm程度)で走査する。走査は直線的だが、走査軸を順次ずらしていくことで試料表面全体の情報を得る。
=== 線源 ===
[[光学顕微鏡]]の光源にあたるSEMの電子線源([[電子銃]])には幾つか方式がある。以前はタングステンヘアピンや六ホウ化ランタン(LaB<sub>6</sub>)の熱電子銃を備えたものが多かったが、現在は<!-- 主に (なわけはない、価格が三倍以上違う)-->[[電界放射型]](field emission、FE)のものも普及してきている。これは陰極(冷陰極)に高電圧を印加し、直下の第一陽極によって電子線を加速、続く第二陽極以降で電子線束を制御するものである。FEは熱電子銃と比較して[[分解能|解像度]]が高く高倍率での観察が可能であり、フィラメント(プローブ)の寿命が長いという利点がある。一方、低倍率観察においては、大電流が得られる熱電子銃の像質がFEを上回ることもある。FEを用いたSEMは'''FE-SEM'''などと呼ばれる。
=== レンズ ===
加速された電子線(0.1-30kV)は、[[集束レンズ]](コンデンサレンズ)及び対物レンズで絞られる(レンズといっても光線が可視光ではないのでガラスレンズは用いられず、電子線に干渉できる電場や磁場を利用した[[電子レンズ]]が使用される)。電子線束を制御するためのレンズには磁界型と電界型があるが、結像制御には磁界型レンズ(電磁レンズ)が用いられる。一方、[[収差]]の大きい電界型レンズ(静電レンズ)は電子線の加減速に利用される。レンズで絞られた電子線は走査コイルによって制御され、試料表面を走査していく。
=== 情報の検出と画像処理 ===
電子線が試料に当たると、二次電子の放出など様々な現象が起こる。試料から発せられるこれらの信号は検出器で検出され、[[光電子増倍管]]による増幅を経て[[CRT]]に送られる。CRTでは信号量の違いによりその輝度を変調する。TEMの場合は電子線を蛍光板に当てて蛍光を直接観察するが、SEMでは[[輝度変調]]信号の処理結果が像としてディスプレイに表示され、これを観察することになる。SEMの像表示は内部処理を経ているぶんだけ時間差があり、観察点の移動や倍率変更がタイムラグを伴うという欠点がある。逆に信号処理を調節することで、加速電圧などの観察条件を変更せずに観察像の輝度やコントラストを変えられるというメリットがある。
二次電子は等方的に発するので電界をかけて収集し、電荷量を輝度とする。画像の見え方は、入射ビームに対して垂直な面ほど輝度が低くなり、また、とがった部分ほど輝度が高くなる(エッジ効果)。
== 特徴 ==
SEMは光学顕微鏡と比較して焦点深度が2桁以上深く、広範囲に焦点の合った立体的な像を得ることができる。観察物の外形を把握しやすい一方、対象の内部に関する情報はほとんど得られないので、これはTEMなど他の手段に頼ることになる。ただし、観察物をフリーズフラクチャ(凍結破断)法などで処理すれば、ある程度の内部観察も可能である。
== 利用 ==
回路や半導体部品などの品質チェックの他、適切な前処理を踏むことで生体試料の観察も可能である。[[細胞]]のような導電性の低いものを高真空二次電子法で高加速電圧をかける場合、試料はあらかじめ導電性の物質([[白金]][[パラジウム]]、[[金]]、[[炭素]]など)でコートしておく必要がある。これは二次電子を効率良く放出させるため、試料帯電([[チャージアップ]])による露出オーバーと像の歪みを防ぐために電子線の余剰エネルギーを逃がし、試料表面の破損を最小限度に留めるためである。低真空反射電子法(N-SEM/WET-SEMなど)では絶縁体の観察においてもコートは必要ない。[[特性X線]]を利用した[[元素分析]]など、分析用途で用いるSEM(EPMA)でも表面コートの必要のない低真空反射電子法は好まれる。
表面の構造というのは、実のところ[[光学顕微鏡]]の苦手とするところである。普通は双眼[[実体顕微鏡]]が使われるが、倍率をあまり上げられず、解像度も低い。細かい部分は普通の光学顕微鏡で、ピントをずらしながら観察するほかなく、もし試料が不透明であれば打つ手なしである。たとえば[[アリ]]の体表の[[毛 (動物)|毛]]などは、なかなか調べることが難しかった部分である。走査型電子顕微鏡を使えば、このような部分の観察が簡単であり、分野によっては分類研究等には欠かせないとまで言われるようになった。
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=分析機器の手引き|edition=第14版|publisher=[[社団法人]]日本分析機器工業会}}
== 関連項目 ==
* [[電子顕微鏡]]
** [[透過型電子顕微鏡]](TEM)
** [[走査型透過電子顕微鏡]](STEM)
* [[エネルギー分散型X線分析]](WDS)
** [[電子線マイクロアナライザ]](EPMA)
* [[エネルギー分散型X線分析]](EDX、EDS)
* [[電子線描画装置]]
* [[マンフレート・フォン・アルデンヌ]](走査型電子顕微鏡の開発者)
* [[原子間力顕微鏡]](AFM)
== 脚注 ==
<references/>
== 外部リンク ==
* [http://www.jeol.co.jp/words/semterms/ 走査電子顕微鏡 基本用語集(JEOL)]
* [http://www.microscopy.or.jp/ 日本顕微鏡学会]
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:そうさかたてんしけんひきよう}}
[[Category:電子顕微鏡]]
[[Category:ナチス時代のドイツの発明]]
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|
12,197 |
LaTeX
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LaTeX(ラテック、ラテフ、など。詳細は後述)とは、レスリー・ランポートによって開発されたテキストベースの組版処理システムである。電子組版ソフトウェアTeXにマクロパッケージを組み込むことによって構築されており、単体のTeXに比べて、より手軽に組版を行うことができるようになっている。LaTeXと表記できない場合は「LaTeX」と表記する。
TeX の各派生エンジンに対しても LaTeX と同等なフォーマットが提供されていることがほとんどであり、多くの場合において LaTeX という名称はそれらも含めた総称として用いられている。
専門分野にもよるが、学術機関においては標準的な論文執筆ツールとして扱われている。
LaTeXの生みの親レスリー・ランポートは、“LaTeX”の発音について自著の中で、
と述べている。日本語では「ラテック」あるいは「ラテフ」と呼ばれる。
LaTeX以前に、“TeX”という名の数式の処理に優れる組版ソフトウェアがあり、そのTeXを使ってもっと簡単に論文やレポートを作成したいという要望があった。LaTeXはその要望に応えて開発されたものであり、レスリー・ランポートがTeXの上にマクロパッケージを組み込むことで構築したものである。さらにLaTeXでは、TeXの煩雑な部分の修正も行っている(たとえば、累乗根や分数の設定方法など)。またTeXやそれを基にしたLaTeXは主に米国での表記法を基に作られたもので、日本の初等教育・中等教育での数式の書き方とは一部異なる。例を挙げれば、日本の初等教育・中等教育では等号附き不等号として、「≦」と「≧」が、近似記号として「≒」が、相似記号として「∽」が用いられる。一方でTeXやLaTeXの標準では、等号附き不等号として「 ≤ {\displaystyle \leq } 」(\leqまたは\le)と「 ≥ {\displaystyle \geq } 」(\geqまたは\ge)が、近似記号として「 ≈ {\displaystyle \approx } 」(\approx) や「 ∼ {\displaystyle \sim } 」(\sim)が、相似記号として「 ∼ {\displaystyle \sim } 」(\sim) が用いられる。日本で使われる記号を使う必要がある場合は、amssymbパッケージを用いることで「 ≦ {\displaystyle \leqq } 」(\leqq)、「 ≧ {\displaystyle \geqq } 」(\geqq)、「 ≒ {\displaystyle \fallingdotseq } 」(\fallingdotseq) が使用できる。
LaTeXソフトウェアは、LaTeX Project Public License(英語版) (LPPL)に規定されたライセンスで提供されたフリーソフトウェアである。現在、macOSやSolarisなどのUNIX、Linux OSやBSD系OSやOpenSolarisなどのUNIX 互換OS、そしてMicrosoft Windowsなど、多くのオペレーティングシステム上で利用できる。
現在のバージョンは1993年にリリースされた LaTeX2ε(ラテック・トゥー・イー) である。組版処理による表記ができないプレーンテキストや電子メールなどの場合には“LaTeX2e”と表記する。
現在、ドナルド・クヌースによるオリジナルの TeX 処理系が使われることはほとんどなく、pTeX や LuaTeX のような派生処理系が多く用いられるが、ほとんどの派生処理系には、それぞれ対応して pLaTeX や LuaLaTeX のように LaTeX と同等のフォーマットが提供されており、LaTeX という名称は大抵それらの総称として用いられる。
LaTeX での文書作成と一般的なワープロソフトでの文書作成を比べると以下のような特徴が見られる。
数式組版性能が非常に高いという特徴から、自然科学・応用科学系の中でも数学を多用する分野では学会提出の資料の標準形式として広く用いられている。雑誌に掲載するための体裁を整えたテンプレートの配布を行っている学会もある。一方で化学式を多用する分野ではWord形式を奨励し、LaTeXの使用は一般的でないことがある。
以下はLaTeX用の入力の例。
上記のソースコードをLaTeXで処理することで、以下のような出力が得られる。
|
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"text": "LaTeX以前に、“TeX”という名の数式の処理に優れる組版ソフトウェアがあり、そのTeXを使ってもっと簡単に論文やレポートを作成したいという要望があった。LaTeXはその要望に応えて開発されたものであり、レスリー・ランポートがTeXの上にマクロパッケージを組み込むことで構築したものである。さらにLaTeXでは、TeXの煩雑な部分の修正も行っている(たとえば、累乗根や分数の設定方法など)。またTeXやそれを基にしたLaTeXは主に米国での表記法を基に作られたもので、日本の初等教育・中等教育での数式の書き方とは一部異なる。例を挙げれば、日本の初等教育・中等教育では等号附き不等号として、「≦」と「≧」が、近似記号として「≒」が、相似記号として「∽」が用いられる。一方でTeXやLaTeXの標準では、等号附き不等号として「 ≤ {\\displaystyle \\leq } 」(\\leqまたは\\le)と「 ≥ {\\displaystyle \\geq } 」(\\geqまたは\\ge)が、近似記号として「 ≈ {\\displaystyle \\approx } 」(\\approx) や「 ∼ {\\displaystyle \\sim } 」(\\sim)が、相似記号として「 ∼ {\\displaystyle \\sim } 」(\\sim) が用いられる。日本で使われる記号を使う必要がある場合は、amssymbパッケージを用いることで「 ≦ {\\displaystyle \\leqq } 」(\\leqq)、「 ≧ {\\displaystyle \\geqq } 」(\\geqq)、「 ≒ {\\displaystyle \\fallingdotseq } 」(\\fallingdotseq) が使用できる。",
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"text": "LaTeXソフトウェアは、LaTeX Project Public License(英語版) (LPPL)に規定されたライセンスで提供されたフリーソフトウェアである。現在、macOSやSolarisなどのUNIX、Linux OSやBSD系OSやOpenSolarisなどのUNIX 互換OS、そしてMicrosoft Windowsなど、多くのオペレーティングシステム上で利用できる。",
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"title": "動作環境と各種バージョン"
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"text": "LaTeX での文書作成と一般的なワープロソフトでの文書作成を比べると以下のような特徴が見られる。",
"title": "特徴"
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"title": "入力と出力の具体例"
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"title": "入力と出力の具体例"
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LaTeX(ラテック、ラテフ、など。詳細は後述)とは、レスリー・ランポートによって開発されたテキストベースの組版処理システムである。電子組版ソフトウェアTeXにマクロパッケージを組み込むことによって構築されており、単体のTeXに比べて、より手軽に組版を行うことができるようになっている。LaTeXと表記できない場合は「LaTeX」と表記する。 TeX の各派生エンジンに対しても LaTeX と同等なフォーマットが提供されていることがほとんどであり、多くの場合において LaTeX という名称はそれらも含めた総称として用いられている。 専門分野にもよるが、学術機関においては標準的な論文執筆ツールとして扱われている。
|
{{DISPLAYTITLE:{{LaTeX}}}}
{{WikipediaPage|ウィキメディアプロジェクトにおける{{LaTeX}}を利用した組版については、「[[m:Help:Displaying a formula/ja|ヘルプ:数式の書き方]]」の項目をご覧ください。}}
{{Infobox Software
|名称 = {{LaTeX}}
|ロゴ = [[File:LaTeX project logo bird.svg|The LaTeX Project logo]]
|スクリーンショット =
|説明文 =
|開発者 = [[レスリー・ランポート]] (2.09 まで)
|開発元 = The {{LaTeX}} Project (2<span style="font-style: italic; vertical-align: -0.35ex; line-height: 0">ε</span> から)
|初版 = {{Start date and age|1984}}
|最新版 = {{LaTeX2e}}<!-- (November 2022 release) LaTeX2e Issue 36 -->
<!-- |最新版発表日 = {{Start date and age|2022|11|1}}<ref>{{Cite web|author=The {{LaTeX}} Project|url=https://www.latex-project.org/news/2022/11/03/issue36-of-latex2e-released/|title=The Spring 2021 LaTeX release is available|accessdate=2022-11-19|date=2022-11-03}}</ref> -->
|最新評価版 = {{LaTeX}}3
<!-- |最新評価版発表日 = {{Start date and age|2022|11|02}}<ref>{{Cite web|author=The {{LaTeX}} Project|url=https://texdoc.org/serve/interface3/0|title=The {{LaTeX}}3 Interfaces|accessdate=2022-11-19|date=2021-11-02|format=PDF}}</ref> -->
|プログラミング言語 = [[TeX|{{TeX}}]]プリミティブ、expl3
|対応OS = [[クロスプラットフォーム]]
|エンジン =
|対応プラットフォーム =
|サイズ =
|対応言語 = <!-- [[英語]]他 -->
|サポート状況 = 開発中
|種別 = [[組版]]処理、[[TeX|{{TeX}}]] マクロパッケージ
|ライセンス = {{仮リンク|LaTeX Project Public License|en|LaTeX Project Public License|label=LPPL}}
|公式サイト = {{Url|http://www.latex-project.org}}
}}
'''{{LaTeX|a}}'''(ラテック、ラテフ、など。詳細は[[#読み方|後述]])とは、[[レスリー・ランポート]]によって開発されたテキストベースの[[組版]]処理システムである。電子組版ソフトウェア[[TeX|{{TeX}}]]にマクロパッケージを組み込むことによって構築されており、単体の{{TeX}}に比べて、より手軽に組版を行うことができるようになっている。<!--画像で表すのは冗長かと思いますので、テンプレートに変更しました。
念のため元の文字列を残しておきます。
[[画像:LaTeX logo.svg|middle|x16px|\LaTeX]]-->{{LaTeX}}と表記できない場合は「'''LaTeX'''」と表記する。
{{TeX}} の各派生エンジンに対しても {{LaTeX}} と同等なフォーマットが提供されていることがほとんどであり、多くの場合において {{LaTeX}} という名称はそれらも含めた総称として用いられている。
専門分野にもよるが、学術機関においては標準的な論文執筆ツールとして扱われている。
[[File:LaTeX_diagram.svg|thumb|right|400px|変換の様式。日本においてはdvipdfmではなくその拡張版のdvipdfmxを用いる場合が多い。]]
== 読み方 ==
{{LaTeX}}の生みの親[[レスリー・ランポート]]は、“LaTeX”の発音について自著の中で、
{{Cquote|通常、TeXが「テック」と発音されているので、論理的に考えれば「ラーテック」や「ラテック」、「レイテック」などが妥当なところかもしれない。しかし、言葉というものはつねに論理的とはかぎらないので、「レイテックス」でもかまわない。|22px|.|Leslie Lamport|『文書処理システム {{LaTeX}}』{{Sfn|Lamport|1990|p=5}}}}
と述べている。日本語では「ラテック」あるいは「ラテフ」と呼ばれる{{sfn|奥村|黒木|2013|loc=1.3 {{LaTeX}}って何?|p={{google books quote|id=sXcWAgAAQBAJ|page=2|2}}}}。
== 成立の背景と開発者 ==
{{LaTeX}}以前に、“[[TeX|{{TeX}}]]”という名の数式の処理に優れる組版ソフトウェアがあり、その{{TeX}}を使ってもっと簡単に論文やレポートを作成したいという要望があった。{{LaTeX}}はその要望に応えて開発されたものであり、レスリー・ランポートが{{TeX}}の上にマクロパッケージを組み込むことで構築したものである。さらに{{LaTeX}}では、{{TeX}}の煩雑な部分の修正も行っている(たとえば、[[累乗根]]や[[分数]]の設定方法など)。また{{TeX}}やそれを基にした{{LaTeX}}は主に[[アメリカ合衆国|米国]]での表記法を基に作られたもので、日本の[[初等教育]]・[[中等教育]]での数式の書き方とは一部異なる{{Efn2|日本の初等教育・中等教育での数式表記は [[JIS Z 8201]] を基準にしている。[[2006年]][[1月20日]]に確認が行われている JIS Z 8201-1981 (JIS Z 8201:1981) と国際標準である [[ISO 31-11]]:1992 とでは、表記が一部異なっている。}}{{Efn2|日本の初等教育・中等教育での数式用に記号の形を調整するマクロとして、初等数学プリント作成マクロ [[emath]] がある。}}。例を挙げれば、日本の初等教育・中等教育では[[不等号|等号附き不等号]]として、「≦」と「≧」が、近似記号として「≒」が、[[相似記号]]として「{{Lang|ja|∽}}」が用いられる。一方で{{TeX}}や{{LaTeX}}の標準では、等号附き不等号として「<math>\le</math>」(<code>\leq</code>または<code>\le</code>)と「<math>\ge</math>」(<code>\geq</code>または<code>\ge</code>)が、近似記号として「<math>\approx</math>」(<code>\approx</code>) や「<math>\sim</math>」(<code>\sim</code>)が、相似記号として「<math>\sim</math>」(<code>\sim</code>) が用いられる。日本で使われる記号を使う必要がある場合は、amssymbパッケージを用いることで「<math>\leqq</math>」(<code>\leqq</code>)、「<math>\geqq</math>」(<code>\geqq</code>)、「<math>\fallingdotseq</math>」(<code>\fallingdotseq</code>) が使用できる。
== 動作環境と各種バージョン ==
{{LaTeX}}ソフトウェアは、{{仮リンク|LaTeX Project Public License|en|LaTeX Project Public License}} (LPPL)<ref>{{Cite web |url=http://www.latex-project.org/lppl/ |title={{Lang|en|{{LaTeX}} project: The {{LaTeX}} project public license}} |accessdate=2020-06-11}}</ref>に規定された[[ライセンス]]で提供された[[フリーソフトウェア]]である。現在、[[macOS]]や[[Solaris]]などの[[UNIX]]、[[Linux|Linux OS]]や[[BSDの子孫|BSD系OS]]や[[OpenSolaris]]などの[[Unix系|UNIX 互換]]OS、そして[[Microsoft Windows]]など、多くの[[オペレーティングシステム]]上で利用できる。
現在のバージョンは[[1993年]]にリリースされた {{LaTeX2e}}(ラテック・トゥー・イー) である{{sfn|奥村|黒木|2013|p={{google books quote|id=sXcWAgAAQBAJ|page=2|2}}}}。組版処理による表記ができない[[プレーンテキスト]]や[[電子メール]]などの場合には“LaTeX2e”と表記する{{sfn|奥村|黒木|2013|p={{google books quote|id=sXcWAgAAQBAJ|page=4|4}}}}。
現在、[[ドナルド・クヌース]]によるオリジナルの {{TeX}} 処理系が使われることはほとんどなく、[[pTeX|{{pTeX}}]] や [[LuaTeX|{{LuaTeX}}]] のような派生処理系が多く用いられる{{Efn2|他に、日本語の組版のために開発されたものとして [[TeX#TeX_の日本語化|NTT {{jTeX}}]] があり、これにも対応する NTT {{jLaTeX}} があるが、いずれも現在は更新等されていない。}}が、ほとんどの派生処理系には、それぞれ対応して {{pLaTeX}} や Lua{{LaTeX}} のように {{LaTeX}} と同等のフォーマットが提供されており、{{LaTeX}} という名称は大抵それらの総称として用いられる{{Efn2|{{pLaTeX}} がリリースされた当初はまだ {{LaTeX2e}} は世に出ていなかったが、[[1995年]]に p{{LaTeX2e}} がリリースされた。なお、「p{{LaTeX2e}}」は[[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]の[[登録商標]]であり、「ピーラテックツーイー」と読むのが正しいとされている。なお、Lua{{LaTeX}} は最初から {{LaTeX2e}} に同等なものとして開発されている。}}。
== 特徴 ==
{{LaTeX}} での文書作成と一般的な[[ワープロソフト]]での文書作成を比べると以下のような特徴が見られる。
* ファイル作成時に記述するファイル形式と閲覧ファイル形式が異なる。
**[[ソースコード]]を作成して[[コンパイル]]{{Efn2|ソースコードを DVI などの文書ファイル形式に変換すること。}}を行うことで、初めて[[DVI (ファイルフォーマット)|DVI]]{{Efn2|[[Microsoft Word]] でしか開くことができなかった旧型式の[[DOC (ファイルフォーマット)|docファイル]]などとは異なり、処理系に依存しないとされるファイル形式。なお、新形式の[[Office Open XML|docx (Office Open XML Document)]] は処理系に依存せず開くことができる。}}や[[Portable Document Format|PDF]]{{Efn2|処理系に依存しない標準規格。}}のような閲覧用のファイルを得ることができる。
** 一度コンパイルを行わないとどういった出力が得られるかがわかりにくい。
** ソースコードをインクルード{{Efn2|他のソースコードの記述を自動的に読み込む仕組み。}}することで、過去の文章を簡単に再利用できる。また、大規模な文書の場合に作業を分割して並行作業することが容易である。
** 一般的な[[プログラミング言語]]における[[ライブラリ]]に当たる、スタイルファイルを用いることで文書の表現力を拡張しやすい。
** [[Perl]]や[[Lua]]などのプログラミング言語と連携させることがワープロソフトで作成されたファイルと比べて容易である。
* 組版性能が高い。[[DTP]]システムとして使用される場合もある。
** 一般向けの[[出版]]物の作成にも充分に耐えられるものであり、実際の出版例もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://texwiki.texjp.org/?TeXで作られた本 |title={{TeX}} で作られた本 — {{Lang|en|{{TeX}} Wiki}} |accessdate=2020-06-11}}</ref>。
** 数式の入力のためのコマンドが豊富に組み込まれており行いやすい。更に数式組版の性能は特に高い。
* [[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]ベースのワープロソフトと比べると、CUIの操作やソースコード作成に関する知識が必要となる点で、コンピュータ初心者はハードルが高いと感じることが多い。
* 図やイラストなどは{{仮リンク|tgif|en|Tgif_(program)}}を使って作成し、[[Encapsulated PostScript]]形式で保存することで、dvi2psコマンド実行時に単一の[[PostScript]]形式ファイルに変換することが出来る。
* しかし、文書のページ数が増えてくると、画面出力の全てを自動化した[[ソースコード]]作成による組版と比較して、[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]経由で文書のページを1枚毎に手作業で調整する組版は飛躍的に非効率になる。[[ソースコード]]作成方式では、文書のページ数が幾ら膨大であっても、事前に文書スタイルさえ定義されていれば、[[キャラクタユーザインタフェース|CUI]]上のコマンド入力で一括して全てを組版することが可能である。従って、コンピュータ上の作業自動化のメリットを知っている[[学者|研究者]]・[[技術者]]からの受けは良い。
数式組版性能が非常に高いという特徴から、自然科学・応用科学系の中でも数学を多用する分野では学会提出の資料の標準形式として広く用いられている。雑誌に掲載するための体裁を整えた[[テンプレート]]の配布を行っている学会もある{{Efn2|例えば[https://www.mathsoc.jp/activity/meeting/texstyle/ 日本数学会]や[https://www.ieice.org/ftp/ 電子情報通信学会]。}}。一方で化学式を多用する分野では[[Microsoft Word|Word]]形式を奨励し、{{LaTeX}}の使用は一般的でないことがある{{Efn2|[[XyMTeX|{{XyMTeX}}]] や [[mhchem]] のように化学式の入力を支援するパッケージも存在する。}}。
== 入力と出力の具体例 ==
以下は{{LaTeX}}用の入力の例<ref>{{Cite web |url=http://sciencesoft.at/latex/index?lang=en |title=ScienceSoft — LaTeX |accessdate=2020-06-11}}</ref>。
<syntaxhighlight lang="latex">
\documentclass[12pt]{article}
\title{\LaTeX}
\date{}
\begin{document}
\maketitle \LaTeX{} is a document preparation system for the \TeX{}
typesetting program. It offers programmable desktop publishing
features and extensive facilities for automating most aspects of
typesetting and desktop publishing, including numbering and
cross-referencing, tables and figures, page layout, bibliographies,
and much more. \LaTeX{} was originally written in 1984 by Leslie
Lamport and has become the dominant method for using \TeX; few
people write in plain \TeX{} anymore. The current version is
\LaTeXe.
\newline
% This is a comment, it is not shown in the final output.
% The following shows a little of the typesetting power of LaTeX
\begin{eqnarray}
E &=& mc^2 \\
m &=& \frac{m_0}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}
\end{eqnarray}
\end{document}
</syntaxhighlight>
上記の[[ソースコード]]を{{LaTeX}}で処理することで、以下のような出力が得られる。
[[File:LaTeX_Output.svg|500px|LaTeX出力例]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|last1 = 奥村|first1 = 晴彦|authorlink1 = 奥村晴彦|last2 = 黒木|first2 = 裕介|year = 2013|title = {{LaTeX2e}} 美文書作成入門|edition = 改訂第6版|url = {{Google books|sXcWAgAAQBAJ|plainurl=yes}}|publisher = [[技術評論社]]|isbn = 978-4-7741-6045-0|ref = harv}}
* {{Cite book|和書|last1 = Lamport|first1 = Leslie|authorlink1 = レスリー・ランポート|others = {{Lang|en|Edgar Cooke}}・倉沢良一 監訳、大野俊治・小暮博道・藤浦はる美 訳|year = 1990|title = 文書処理システム {{LaTeX}}|publisher = [[アスキー (企業)|アスキー]]|isbn = 978-4-7561-0784-8|ref = harv}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|TeX/LaTeX入門|{{LaTeX}}}}
{{Commons&cat|LaTeX}}
* [[数式エディタ]]
* [[MathJax]]
== 外部リンク ==
{{外部リンクの方針参照/追跡}}<!--
宣伝目的のサイトや、私的な考えを書いたに過ぎないようなサイトは除去されます。また、ウィキペディアはリンク集ではありません。ウィキペディアにおける適切な外部リンクの選び方は、[[Wikipedia:外部リンク]]を参照して下さい。このメッセージは、2023年2月に貼り付けられました。<nowiki>{{subst:外部リンクの方針参照}}</nowiki>を使って貼り付けることができます。-->
* [https://www.tug.org TeX Users Group (TUG)] {{en icon}}
* [http://www.ctan.org/ CTAN: Comprehensive {{TeX}} Archive Network] {{en icon}}
* [https://texwiki.texjp.org/ {{TeX}} Wiki] {{ja icon}} {{TeX}}・{{LaTeX}} に関するWiki
{{TeX関連|state=uncollapsed}}
{{マークアップ言語一覧}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:LaTeX}}
[[Category:TeX]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:1984年のソフトウェア]]
[[Category:オープンソースソフトウェア]]
|
2003-07-25T06:58:51Z
|
2023-09-28T01:51:22Z
| false | false | false |
[
"Template:TeX関連",
"Template:Lang",
"Template:LaTeX2e",
"Template:PLaTeX",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Ja icon",
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"Template:Cite book",
"Template:Commons&cat",
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"Template:Sfn",
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"Template:Reflist",
"Template:LaTeX",
"Template:Cite web",
"Template:Wikibooks",
"Template:外部リンクの方針参照/追跡",
"Template:Normdaten"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/LaTeX
|
12,199 |
補償
|
補償(ほしょう)とは、償い(つぐない)を補う(おぎなう)という意味である。基本の意味は償い(つぐない)であり、それを金銭的な面でも行うことで償いという行為をおぎなう、というようなニュアンスの用語である。
次のような特定分野では、それぞれ次のような固有な意味をもつ。
補償とは、相手に与えた損失・損害を償う上で、金銭も支払うことで償いという行為を填補する(足りない部分を補う)という意味の表現である。
私人(個人や私企業)の間で行われる補償というと、通常は損害賠償のことを意味しており、財産上の損失を金銭で填補することである。
次のふたつに大別される
不法行為が原因で相手に何らかの損失・損害を生じさせてしまった場合、それを償う(つぐなう)ためにはさまざまなことをしなければならない。 そのひとつとして行われるのが損害賠償である。
国家が適法な運営をしていても、国家の運営が原因で国民に損失・損害が生じてしまうことがあるが、その損失・損害を償うために行うことを国家補償という。
なお、このような国家補償は各国で行われている。
日本においては、国家が行う損失の補償としては、損失補償、刑事補償、国家賠償がある。
日本国憲法第29条第3項は、私有財産の公的利用には補償を要することを定めるが、同条は通常の受忍の範囲を超え、かつ特別の犠牲を課す場合にのみ適用されると一般に解されている。
例えば、道路工事に伴う土地の収用に対する損失補償がある。
日本国憲法第40条は、「何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。」と定めている。すなわち、無罪となった刑事被告人への刑事補償である。(刑事補償法も参照。)
なお、国家補償は国家賠償と似ている表現ではあるが、法律用語としてはしっかり区別されており、国家補償のほうは国が適法な運営をしていても国民が被った損失・損害を償う、という意味であり、国家賠償のほうは国家公務員などが公権力を行使するにあたり故意であれ過失であれ違法な行為を行なったことや、道路・河川等の設置又は管理に瑕疵があったために他人に損害を生じた場合に国民が被った損失・損害を償う、という意味である。それぞれ根拠法が異なっており、損失補償のほうは憲法第29条3項が根拠規定で、国家賠償のほうは憲法第17条が根拠規定であり、国家賠償法に定められている。
防衛機制の一つで、ある事柄に対し劣等感を持っている際、他の事柄で優位に立ってその劣等感を補おうとすることを補償と呼ぶ。
電子回路や、機械などの機構や制御において、誤差、変動や特性バラツキなどを技術的に補正すること。
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"text": "補償とは、相手に与えた損失・損害を償う上で、金銭も支払うことで償いという行為を填補する(足りない部分を補う)という意味の表現である。",
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"text": "不法行為が原因で相手に何らかの損失・損害を生じさせてしまった場合、それを償う(つぐなう)ためにはさまざまなことをしなければならない。 そのひとつとして行われるのが損害賠償である。",
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"text": "国家が適法な運営をしていても、国家の運営が原因で国民に損失・損害が生じてしまうことがあるが、その損失・損害を償うために行うことを国家補償という。",
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"text": "なお、このような国家補償は各国で行われている。",
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"text": "日本においては、国家が行う損失の補償としては、損失補償、刑事補償、国家賠償がある。",
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"text": "日本国憲法第29条第3項は、私有財産の公的利用には補償を要することを定めるが、同条は通常の受忍の範囲を超え、かつ特別の犠牲を課す場合にのみ適用されると一般に解されている。",
"title": "法律上の補償"
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"text": "例えば、道路工事に伴う土地の収用に対する損失補償がある。",
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"text": "日本国憲法第40条は、「何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。」と定めている。すなわち、無罪となった刑事被告人への刑事補償である。(刑事補償法も参照。)",
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"title": "法律上の補償"
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"text": "なお、国家補償は国家賠償と似ている表現ではあるが、法律用語としてはしっかり区別されており、国家補償のほうは国が適法な運営をしていても国民が被った損失・損害を償う、という意味であり、国家賠償のほうは国家公務員などが公権力を行使するにあたり故意であれ過失であれ違法な行為を行なったことや、道路・河川等の設置又は管理に瑕疵があったために他人に損害を生じた場合に国民が被った損失・損害を償う、という意味である。それぞれ根拠法が異なっており、損失補償のほうは憲法第29条3項が根拠規定で、国家賠償のほうは憲法第17条が根拠規定であり、国家賠償法に定められている。",
"title": "法律上の補償"
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"text": "防衛機制の一つで、ある事柄に対し劣等感を持っている際、他の事柄で優位に立ってその劣等感を補おうとすることを補償と呼ぶ。",
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"text": "電子回路や、機械などの機構や制御において、誤差、変動や特性バラツキなどを技術的に補正すること。",
"title": "工業技術の補償"
}
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補償(ほしょう)とは、償い(つぐない)を補う(おぎなう)という意味である。基本の意味は償い(つぐない)であり、それを金銭的な面でも行うことで償いという行為をおぎなう、というようなニュアンスの用語である。 次のような特定分野では、それぞれ次のような固有な意味をもつ。
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{{混同|保証}}
'''補償'''(ほしょう)とは、[[償い]](つぐない)を補う(おぎなう)という意味である。基本の意味は[[償い]](つぐない)であり、それを金銭的な面でも行うことで償いという行為をおぎなう、というようなニュアンスの用語である。
次のような特定分野では、それぞれ次のような固有な意味をもつ。
== 法律上の補償 ==
{{see|en:Indemnity}}
補償とは、相手に与えた[[損失]]・[[損害]]を償う上で、金銭も支払うことで償いという行為を填補する(足りない部分を補う)という意味の表現である。
=== 私人の間の補償 ===
私人(個人や私企業)の間で行われる補償というと、通常は[[損害賠償]]のことを意味しており、財産上の損失を金銭で填補することである<ref>『精選版 日本国語大辞典』【補償】</ref>。
次のふたつに大別される
*債務不履行に基づく損害賠償
*不法行為に基づく損害賠償
不法行為が原因で相手に何らかの損失・損害を生じさせてしまった場合、それを償う(つぐなう)ためにはさまざまなことをしなければならない。{{Efn|たとえば、まずしっかりと[[謝罪]]する(自分の非・[[罪]]をしっかり認めてそれを言葉で表現し、相手にしっかりと誠実な態度で謝る)必要があるし、たとえば誹謗中傷をして相手の名誉を毀損してしまったら名誉回復のための行為をしなければいけないし、たとえば相手の土地を荒らしてしまった場合(それが回復可能な場合は)元の状態を回復する、などということがあるが、通常、名誉も完全には回復できず、物質的なことも元の状態をうまく回復できなかったり、(そもそも不始末をしたような人が)ふたたび関わると逆にさらに状況を悪化させてしまうことも多いので、与えた損失は(あくまで、しっかり謝罪した上での話だが)金銭を支払うことで、せめて償いという行為を補う、ということが行われる。}}
そのひとつとして行われるのが損害賠償である。
{{Efn|金銭では本当は相手が失ってしまったモノやコトは回復できないが、だからといって何もしないのでは全然 償いになっていないので、せめて金銭を払うことで償いという行為の一部にする、ということが行われる。一部に「金銭を払えば償ったことになる」と勘違いする人がいて謝罪もせずふんぞり返って相手に対して傲慢な態度をとる、という誤った判断をする人がいるが、そういう意味ではない。あくまで償いという行為を成立させるためには、まずしっかり謝罪をすることが絶対に必要で、その上で償いとしてできることを全て行う中で、金銭も支払う、ということを行う。}}
{{Main|損害賠償}}
=== 国家による補償 ===
[[国家]]が適法な運営をしていても、国家の運営が原因で国民に損失・損害が生じてしまうことがあるが、その損失・損害を償うために行うことを[[国家補償]]という。
なお、このような国家補償は各国で行われている。
日本においては、国家が行う損失の補償としては、[[損失補償]]、[[刑事補償]]、[[国家賠償]]がある<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%A3%9C%E5%84%9F-502412 大辞林第三版]</ref>。
{{Main|国家補償}}
====損失補償====
[[日本国憲法]][[日本国憲法第29条|第29条]]第3項は、[[私有財産]]の公的利用には補償を要することを定めるが、同条は通常の[[受忍]]の範囲を超え、かつ特別の犠牲を課す場合にのみ適用されると一般に解されている。
例えば、道路工事に伴う土地の[[収用]]に対する[[損失補償]]がある。
====刑事補償====
[[日本国憲法第40条]]は、「何人も、抑留又は拘禁された後、[[無罪]]の[[裁判]]を受けたときは、法律の定めるところにより、[[国]]にその補償を求めることができる。」と定めている。すなわち、無罪となった[[刑事被告人]]への[[刑事補償]]である。([[刑事補償法]]も参照。)
==== 国家賠償との類似と相違 ====
なお、国家補償は[[国家賠償]]と似ている表現ではあるが、法律用語としてはしっかり区別されており、国家補償のほうは国が'''適法'''な運営をしていても国民が被った損失・損害を償う、という意味であり、国家賠償のほうは国家公務員などが公権力を行使するにあたり故意であれ過失であれ'''違法'''な行為を行なったことや、道路・河川等の設置又は管理に[[瑕疵]]があったために他人に損害を生じた場合に国民が被った損失・損害を償う、という意味である。それぞれ根拠法が異なっており、損失補償のほうは[[日本国憲法第29条|憲法第29条]]3項が根拠規定で、国家賠償のほうは[[日本国憲法第17条|憲法第17条]]が根拠規定であり<ref>[https://www.foresight.jp/gyosei/column/loss-compensation/]</ref>、[[国家賠償法]]に定められている。
{{Seealso|国家賠償}}
==精神分析の補償==
{{main|{{ill2|補償 (心理学)|en|Compensation (psychology)}}}}
[[防衛機制]]の一つで、ある事柄に対し劣等感を持っている際、他の事柄で優位に立ってその劣等感を補おうとすることを'''補償'''と呼ぶ<ref>{{cite kotobank|補償(心理学)}}</ref>。
==工業技術の補償==
[[電子回路]]や、[[機械]]などの[[機構]]や[[制御]]において、[[誤差]]、[[変動]]や[[特性]]バラツキなどを技術的に[[補正]]すること。
== 脚注 ==
<references group="注釈"/>
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[[category:技術|ほしよう]]
[[category:法|ほしよう]]
[[category:心理学|ほしよう]]
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12,200 |
信義誠実の原則
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信義誠実の原則(しんぎせいじつのげんそく)とは、当該具体的事情のもとで、相互に相手方の信頼を裏切らないよう行動すべきであるという法原則をいう。信義則(しんぎそく)と略されることが多い。
信義誠実の原則は、私法の領域、特に契約法の契約当事者間について発達した法原則であるが、社会的接触のある者の間の私法関係に、さらには、公法の分野においても、その適用は認められている。
これに先行して存在した概念に「契約締結上の過失」がある。これはドイツ帝国の法学者イェーリングが民法のドグマの中で、「契約以前に発生する賠償責任」(Culpa in contrahendo)として発見したものとして知られている。
フランス民法1134条3項
フランス民法1135条
ドイツ民法 157条
ドイツ民法 242条
ドイツ民法 311条2(参照条文 280条1、241条2)
スイス民法2条1項
日本では、信義誠実の原則は、明文上は、民法1条2項に規定されている(昭和22年法律第222号により追加された)。民事訴訟法においても、平成8年成立の現行法において、第2条に訴訟上の信義則についても規定されるようになった。信義誠実の原則は権利の行使や義務の履行のみならず契約解釈の基準にもなる(最判昭和32年7月5日民集11巻7号1193頁)。また、具体的な条文がない場合に規範を補充する機能を有する。
民法第1条2項
民事訴訟法2条(裁判所及び当事者の責務)
家事手続法2条(裁判所及び当事者の責務)
この原則から派生する代表的な原則として次の4つの原則が挙げられる
建設工事請負契約等日本の請負契約の現場においては、信義則について、以下のような解釈がなされている。
また、日本の請負契約の現場においては、契約に定めのない事項及び契約の規定に疑義が生じた場合について「信義誠実の原則に従い甲乙協議の上定める」として契約書の簡略化を図るケースが多い。
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"title": "日本の請負契約の現場における信義則"
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信義誠実の原則(しんぎせいじつのげんそく)とは、当該具体的事情のもとで、相互に相手方の信頼を裏切らないよう行動すべきであるという法原則をいう。信義則(しんぎそく)と略されることが多い。
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'''信義誠実の原則'''(しんぎせいじつのげんそく)とは、当該具体的事情のもとで、相互に相手方の信頼を裏切らないよう行動すべきであるという[[法 (法学)|法]]原則をいう。'''信義則'''(しんぎそく)と略されることが多い。
== 概説==
信義誠実の原則は、[[私法]]の領域、特に[[契約法]]の契約当事者間について発達した法原則であるが、社会的接触のある者の間の私法関係に、さらには、公法の分野においても、その適用は認められている。
これに先行して存在した概念に「[[契約締結上の過失]]」がある。これは[[ドイツ帝国]]の法学者[[イェーリング]]が民法のドグマの中で、「契約以前に発生する賠償責任」([[:en:Culpa in contrahendo|Culpa in contrahendo]])として発見したものとして知られている。
=== フランス法 ===
フランス民法1134条3項
: 合意は誠実に履行せらるべきものとす{{Sfn|田中周友|1942|p=65}}。
フランス民法1135条
: 合意は単に之に表示せられたるもののみならず、尚公平、慣習又は法が其の性質に従ひて義務を与へたる総ての結果に対しても亦、之を義務付けるものとす{{Sfn|田中周友|1942|p=67}}。
=== ドイツ法 ===
ドイツ民法 157条
: 契約は、取引の慣習を顧慮し信義誠実の要求に従ひて、之を解釈することを要す<ref>柚木馨『獨逸民法[1]民法総則』(有斐閣、1938年)235頁</ref>。
ドイツ民法 242条
: 債務者は、取引の慣習を顧慮し信義誠実の要求に従ひて、給付を為す義務を負う<ref>柚木馨『獨逸民法[2]債務法』(有斐閣、1940年)21頁</ref>。
ドイツ民法 311条2(参照条文 280条1、241条2)<ref>[https://www.gesetze-im-internet.de/bgb/BJNR001950896.html#BJNR001950896BJNG023501377 ドイツ民法(原文)]。</ref>
: 280条1 債務者が契約上の債務を履行しないときは、債権者はそれにより生じた損害につき賠償を求めることができる。ただし債務者が免責されている場合は除く。
: 241条2 契約上の各当事者の債務は契約内容によっては、その外の当事者の権利、法的利益及び利益を考慮することを義務付けることができる。
: 311条2 241条2のいう契約による債務は、次のものを含む。
::1. 契約交渉の開始
::2. 一方の当事者が他方の当事者に、権利、法的利益、または将来生じうる法的取引に基づく利益を付与または委任するための契約の締結
::3. 同様の業務上の接触
=== スイス法 ===
スイス民法2条1項
: 自己の権利を行使し及び自己の義務を履行するに当りては誠実及び[[注意義務|善意]]を以て行為せざるべからず<ref>辰巳重範訳、[[穂積重遠]]校閲『瑞西民法』(法学新報社、1911年)1頁</ref>。
=== 日本法 ===
日本では、信義誠実の原則は、明文上は、[[民法 (日本)|民法]]1条2項に規定されている(昭和22年法律第222号により追加された)。[[民事訴訟法]]においても、平成8年成立の現行法において、第2条に訴訟上の信義則についても規定されるようになった。信義誠実の原則は権利の行使や義務の履行のみならず契約解釈の基準にもなる(最判昭和32年7月5日民集11巻7号1193頁)。また、具体的な条文がない場合に規範を補充する機能を有する。
[[b:民法第1条|民法第1条]]2項
: 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
[[b:民事訴訟法第2条|民事訴訟法2条]](裁判所及び当事者の責務)
: 裁判所は、民事訴訟が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない。
[[b:家事手続法第2条|家事手続法2条]](裁判所及び当事者の責務)
: 裁判所は、家事事件の手続が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者は、信義に従い誠実に家事事件の手続を追行しなければならない。
== 派生原則 ==
この原則から派生する代表的な原則として次の4つの原則が挙げられる
* [[禁反言の法理|禁反言の法則]](エストッペルの原則)
*: 自己の行為に矛盾した態度をとることは許されない。例えば、(1)自ら所有する建物に[[抵当権]]を設定しておきながら、建物の立つ土地の[[賃借権]]を登記しても、抵当権者に対抗することはできない、(2)債務者が、債務について[[消滅時効]]が完成した後に[[債務の承認]]をした場合は、その後に時効消滅を主張することはできない、というものである。日本[[b:民法第398条|民法398条]](抵当権の目的である[[地上権]]等の放棄)参照。
* [[クリーンハンズの原則]]
*: 自ら法を尊重するものだけが、法の救済を受けるという原則で、自ら不法に関与した者には[[裁判所]]の救済を与えないという意味である。具体的条文への表れとしては、日本[[b:民法第130条|民法130条]](条件成就の妨害)、日本[[b:民法第295条|民法295条]]第2項(他人の物の占有が不法行為によって始まった場合の留置権の不成立)、日本[[b:民法第708条|民法708条]]([[不法原因給付]])がある。
* [[事情変更の原則]](法則)
*: 契約時の社会的事情や契約の基礎のなった事情に、その後、著しい変化があり、契約の内容を維持し強制することが不当となった場合は、それに応じて変更されなければならない。具体的条文への表れとしては、[[借地借家法]]11条(地代等増減請求権)、借地借家法32条(借賃増減請求権)がある。
* [[権利失効の原則]]
*: 権利者が信義に反して権利を長い間行使しないでいると、権利の行使が阻止されるという原則。
*: この原則により、[[消滅時効]]、[[除斥期間]]よりも前に権利が行使できなくなる場合がある。
== 訴訟上の信義則 ==
* 訴訟状態の不当形成の排除
*: 訴訟法上の要件を具備するように故意に事実状態を作出したり、逆に具備しないように故意に事実状態を妨害したりすることは許されない。
* 訴訟法上の禁反言(先行行為に矛盾する挙動の禁止)
*: 当事者が取ってきた態度を、相手方が信頼して訴訟上の地位を築いた後に、従前とは矛盾する態度をとり、相手方の地位を不当に揺るがすことは許されない。
* 訴訟上の権能の失効
*: 当事者が訴訟上の権能を長期に行使せず、相手方が行使しないとの正当な期待を有し、それを前提とした行為をとるようになった場合に、訴訟上の権能を行使することはできない。
* 訴訟上の権能の濫用の禁止
*: 訴えを提起する権利や訴訟手続き中の取効的訴訟行為を、濫用することは許されない。
== 日本の請負契約の現場における信義則 ==
建設工事請負契約等日本の請負契約の現場においては、信義則について、以下のような解釈がなされている<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.2208/jscej.2001.688_89|title=建設請負契約の構造と社会的効率性|author=小林潔司、大本俊彦、横松宗太、若公崇敏|publisher=土木学会|journal=土木学会論文集 |volume=688 |pages=89-100 |date=2001-10 |accessdate=2022-08-08}}</ref>。
* 請負者は、発注者が機会主義的な戦略行動を採用せず、社会的厚生最大化行動を採用することを確信している
* 発注者は、請負者に「発注者が機会主義的な戦略行動を採用しないことの確信」が存在することを確信している
* 請負者は、事後的に明らかになる取引環境に関する情報を偽らず発注者に報告する
** [[プリンシパル=エージェント理論#経済学におけるプリンシパル=エージェント理論|エージェンシー・スラック]]は存在しない
** 請負者による[[モラル・ハザード#プリンシパル=エージェント問題|モラル・ハザード]]は存在しない
また、日本の請負契約の現場においては、契約に定めのない事項及び契約の規定に疑義が生じた場合について「信義誠実の原則に従い甲乙協議の上定める」として契約書の簡略化を図るケースが多い。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==参考文献==
* {{Cite book|和書|author=田中周友 |title=佛蘭西民法〔III〕 |publisher=有斐閣 |year=1942 |series=現代外國法典叢書 |id={{全国書誌番号|85090570}} |doi=10.11501/1907072 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[法学]]
* [[私法]]
* [[法解釈]]
* [[鳩山秀夫]]
* [[牧野英一]]
* [[作為義務]]・[[不作為]]
* [[公序良俗]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank|信義則}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しんきせいしつのけんそく}}
[[Category:日本の私法]]
[[Category:法理]]
|
2003-07-25T08:29:23Z
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2023-12-27T07:15:20Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E7%BE%A9%E8%AA%A0%E5%AE%9F%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%89%87
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色空間
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色空間(いろくうかん、英: color space)は、立方的に記述される色の空間である。カラースペースともいう。色を秩序立てて配列する形式であり、色を座標で指示できる。色の構成方法は多様であり、色の見え方には観察者同士の差異もあることから、色を定量的に表すには、幾つかの規約を設けることが要請される。また、色空間が表現できる色の範囲を色域という。色空間は3種類か4種類の数値を組み合わせることが多い。色空間が数値による場合、その変数はチャンネルと呼ばれる。
色空間の形状はその種類に応じ、円柱や円錐、多角錐、球などの幾何形体として説明され、多様である。
表色系は、心理的概念あるいは心理物理的概念に従い、色を定量的に表す体系である。通常は3つの方向性を具える空間で表現され、色空間を構成する。
混色系 (英: color mixing system) とは、色を心理物理量と捉え色刺激の特性によって現すものである。数値として伝達する場合に適している。後述のXYZ表色系が代表的な例である。
顕色系 (英: color appearance system) は、色を色の3つの特徴に従って配列して、その間隔を調整し整合性を高め、尺度と共に差し出すものである。後述のマンセル表色系やPCCS、NCSが代表的な例である。
色の具現化のガイドが厳格な色体系は、色を直接作り出す場面で用いられることが多く、そうでない色空間は、色を情報として伝達する場面で用いられることが多い。
数学的には3つの変数があれば、すべての色を表現できると言える。しかし、すべての色を表示できる必要がない状況や、そのほか実用の便宜のために、2変数以下、あるいは4変数以上を用いる色空間もある。また変数の取り方もさまざまなものがあり、目的に応じて多種多様な規格が存在する。
計算によってある色空間から別の色空間への変換は行えるが、変換後の色空間で表現できない色の情報は失われてしまう。また、その計算はふつう不完全である。色を扱うにあたっては、なるべく色空間を統一して作業することが求められる。なお、色空間にはカラープロファイルとして記録可能な色空間 (RGB, RGBA, YCbCr, CMYK, Lab color) と記録できない色空間がある。
Uniform Color Spaceのこと。色空間上での距離・間隔が、知覚的な色の距離・間隔に類似するよう設計されている空間。色の物理的な差異よりも、人間の知覚上での差異に主眼を置いた色空間。工業的には、工業製品の色彩の管理に要請される。
1923年にヴィルヘルム・オストワルトが考案した表色系。色彩調和を目的としておりデザイン分野などで利用され、PCCSのトーンによる調和の考え方にも通じ、DIN表色系にも影響を与えている。
CIE(国際照明委員会)が定める表色系。
1905年に画家のアルバート・マンセルが基礎となった概念を発表し、その後1943年にアメリカ光学会が修正して完成させた表色系。色を整理して色の三属性を尺度化して、数字と記号を用いて正確に表示することを目的としている。
1966年に日本色彩研究所が発表した、色彩調和を目的とした表色系。明度と彩度を複合した要素「トーン」の概念が特徴で、トーンを用いることで実際の色のイメージがしやすく、カラーデザインに向いている。
1981年にスウェーデンで生まれた、色の知覚的表現を目的とした表色系。6つの基本色の配合で全ての色を表現できると考え、明度・彩度の概念が存在しない点が特徴。比較的新しい表色系だが、スウェーデン・ノルウェー・スペインなどの工業規格として採用されており、ヨーロッパを中心に普及している。
DIN表色系はM.リヒターたちの色差に関する研究を踏まえ均等色空間の実現を目指した表色系である。1955年にDINに採用され、色票集も刊行されている。色は色相、明度、飽和度で表現される。ヘリングの反対色説に則るが、合衆国のマンセル表色系と異なり、色相は黄から始まる。これはゲーテの思想との縁故が指摘 されている。
RGBは一般に、加法混合を表現するのに使われる。RGBは、それぞれ赤 (red) 緑 (green) 青 (blue) の頭文字である。光の三原色であり、数値を増すごとに白くなる。反対に、数値を減らすごとに黒くなる。コンピュータのモニタで用いられるのも、このRGBである。
視覚上では、色は光の三原色に近い、3波長に対応した網膜の錐体細胞が受け取って知覚される。これには若干の個人差があり、また実際問題として純粋な3波長を用意することが難しい場合が多いため、混色系の色空間にはさまざまな種類のものがある。さまざまな表色系が存在するが、それぞれの表色系ごとに、赤・緑・青の基準が定められている。
コンピュータで表示可能な色数は各ピクセルに何ビットの情報を割り振るかにより決定される。ほとんどの人間の目で識別可能な限界に必要な情報はRGB各8ビット(計24ビット)の1677万7216色とされフルカラーやトゥルーカラーと呼ばれる。1990年代前半頃までビデオメモリが高価なこともあり表示色は2色やRGB各5ビット(計15ビット)の32768色などに限られていた。画像編集において編集の過程での劣化を考慮してRGB各16ビット(計48ビット)などより多ビットで扱うことがある。
「RGBでは人間が知覚できる色をすべて表現できる」と説明されることがあるが、これは若干の誤解を含む。これについてはXYZで詳述。
CMYは印刷の過程で利用する減法混合の表現法である。絵具の三原色。基本色は白で、それに色の度合いを加えて、黒色にしていく。すなわち、始めは白いキャンバスから始め、インクを加えて暗くしていく(反射光を減らす、すなわち減法)ということである。CMYには、シアン(cyan)、マゼンタ (magenta)、イエロー (yellow) インクの数値が含まれている。
HSVはコンピュータ上で絵を描く場合や、色見本として使われる。これは、色を色相(色味)と彩度という観点から考える場合、加法混合や減法混合よりも自然で直感的だからである。HSVには色相 (hue)、彩度 (saturation)、明度 (value) が含まれている。HSB (hue, saturation, brightness) とも呼ばれる。
HLSは、HSL、HSIなどとも呼ばれる。色相 (hue)、彩度 (saturation)、輝度 (luminance) よりなる、HSVに近い表現法である。明度と輝度との違いは値の算出方法である。HSVでは純色と白が同じ明度で表される六角錐モデルだったのに対し、HLSでは純色の輝度を50%とする双六角錐モデルで表現する。
YIQは、NTSCの内部処理で使用されるコンポーネント方式である。通常は外部には出力されず、機器内部で使用されるが、過去には松下電器が開発したMビジョンVTRが、テープにYIQ信号をコンポーネント記録していたという例もある。現在使用されている色差コンポーネント信号のクロマ成分(Cb,Cr)に対して33°回転した色相となり、I軸とQ軸は直交する。
人間の目がI軸(オレンジ-ライトブルー間)の変化には比較的敏感であるのに対して、Q軸(青紫-黄緑間)の変化には鈍感である性質を利用して、少しでも狭い帯域で、少しでも視覚的に良好な結果を得ようとした、設計上の選択によるものである。Y、I、Qに対する人間の目の分解能比は4:1.5:0.5と評価されており、RGB4:4:4信号をYIQ4:1.5:0.5に変換することで、人間の目には劣化が感じられないものの、伝送に必要な情報量を減らした信号を得ることができる。NTSCは、このYIQ信号を直角二相変調する。
欧州を中心に(米日及び米の影響が強い範囲以外で)使用されているPALは、クロマにIQ成分の代わりにUV成分を使う。これは現在使用されているCb,Cr(あるいはPb,Pr)成分に近いものであり、IQ方式とは色相が異なる。
青色(Blue)でなく菫色(Violet)を用いた加法混合。RGB法に至る以前の初期の研究で用いられたのみ。
赤 (Red) と緑 (Green) の強度で色を指定する方法。赤と緑の合成は、RGB色空間と同様に、加算により行なわれる。青 (Blue) がないので、青成分を含む色が正しく表現できない。初期のテクニカラーフィルムで使われていた。RGK色空間はRG色空間にキー(Key, インクの黒、CMYK色空間でも使われる)を追加した色空間である。
RGB単色光の光源を使用した場合、白色光を光源とした場合に比べ再現域が広がる。CRTの場合、蛍光体の特性により純度の高い単色光を得られるかでディスプレイの色の再現性が決まる。冷陰極管をバックライトとして使用する液晶ディスプレイやハロゲンランプや放電ランプを光源とするDLP、液晶プロジェクタでは白色光をフィルタや誘電体薄膜でRGBに分離しているため単色光を光源とする場合に比べ再現性は劣る。レーザープロジェクタでは単色光を光源としている為、色の再現域が広い。
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"text": "青色(Blue)でなく菫色(Violet)を用いた加法混合。RGB法に至る以前の初期の研究で用いられたのみ。",
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"text": "赤 (Red) と緑 (Green) の強度で色を指定する方法。赤と緑の合成は、RGB色空間と同様に、加算により行なわれる。青 (Blue) がないので、青成分を含む色が正しく表現できない。初期のテクニカラーフィルムで使われていた。RGK色空間はRG色空間にキー(Key, インクの黒、CMYK色空間でも使われる)を追加した色空間である。",
"title": "過去に用いられていた色空間"
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"text": "RGB単色光の光源を使用した場合、白色光を光源とした場合に比べ再現域が広がる。CRTの場合、蛍光体の特性により純度の高い単色光を得られるかでディスプレイの色の再現性が決まる。冷陰極管をバックライトとして使用する液晶ディスプレイやハロゲンランプや放電ランプを光源とするDLP、液晶プロジェクタでは白色光をフィルタや誘電体薄膜でRGBに分離しているため単色光を光源とする場合に比べ再現性は劣る。レーザープロジェクタでは単色光を光源としている為、色の再現域が広い。",
"title": "光源"
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色空間は、立方的に記述される色の空間である。カラースペースともいう。色を秩序立てて配列する形式であり、色を座標で指示できる。色の構成方法は多様であり、色の見え方には観察者同士の差異もあることから、色を定量的に表すには、幾つかの規約を設けることが要請される。また、色空間が表現できる色の範囲を色域という。色空間は3種類か4種類の数値を組み合わせることが多い。色空間が数値による場合、その変数はチャンネルと呼ばれる。 色空間の形状はその種類に応じ、円柱や円錐、多角錐、球などの幾何形体として説明され、多様である。
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{{出典の明記|date=2008年10月}}
{{色}}
[[ファイル:AdditiveColorMixing.svg|thumb|200px|right|加法混合]]
[[ファイル:Spectrum4websiteEval.png| thumb|right|200px|[[スペクトル]] ]]
[[ファイル:Synthese-.svg|thumb|200px|right|減法混合]]
'''色空間'''(いろくうかん、{{Lang-en-short|color space}})は、立方的に記述される[[色]]の[[空間]]である。'''カラースペース'''ともいう。色を秩序立てて配列する形式であり、色を[[座標]]で指示できる。色の構成方法は多様であり、色の見え方には観察者同士の差異もあることから、色を[[定量的]]に表すには、幾つかの[[規約]]を設けることが要請される。また、色空間が表現できる色の範囲を[[色域]]という。色空間は3種類か4種類の[[数値]]を組み合わせることが多い。色空間が数値による場合、その変数はチャンネルと呼ばれる。
色空間の形状はその種類に応じ、円柱や円錐、多角錐、球などの幾何形体として説明され、多様である。
== 基礎知識 ==
=== 表色系 ===
'''表色系'''は、心理的[[概念]]あるいは心理物理的概念に従い、色を定量的に表す体系である。通常は3つの方向性を具える空間で表現され、色空間を構成する。
'''混色系''' ({{Lang-en-short|color mixing system}}) とは、色を心理物理量と捉え色刺激の特性によって現すものである。数値として伝達する場合に適している。後述のXYZ表色系が代表的な例である。
'''顕色系''' ({{Lang-en-short|color appearance system}}) は、色を色の3つの特徴に従って配列して、その間隔を調整し整合性を高め、尺度と共に差し出すものである。後述の[[マンセル・カラー・システム|マンセル表色系]]や[[PCCS]]、[[ナチュラル・カラー・システム|NCS]]が代表的な例である<ref name="槙">[[槙究]]著『カラーデザインのための色彩学』(2006年、[[オーム社]])</ref>。
色の具現化のガイドが厳格な色体系は、色を直接作り出す場面で用いられることが多く、そうでない色空間は、色を情報として伝達する場面で用いられることが多い。
数学的には3つの[[変数 (数学)|変数]]があれば、すべての色を表現できると言える。しかし、すべての色を表示できる必要がない状況や、そのほか実用の便宜のために、2変数以下、あるいは4変数以上を用いる色空間もある。また変数の取り方もさまざまなものがあり、目的に応じて多種多様な規格が存在する。
計算によってある色空間から別の色空間への変換は行えるが、変換後の色空間で表現できない色の情報は失われてしまう。また、その計算はふつう不完全である。色を扱うにあたっては、なるべく色空間を統一して作業することが求められる。なお、色空間には[[カラープロファイル]]として記録可能な色空間 ([[#RGB|RGB]], [[#RGBA|RGBA]], [[#YUV / YCbCr / YPbPr|YCbCr]], [[#CMYK|CMYK]], [[#L*a*b*表色系|Lab color]]) と記録できない色空間がある。
=== 均等色空間 ===
Uniform Color Spaceのこと。色空間上での[[距離]]・間隔が、知覚的な色の距離・間隔に類似するよう設計されている空間。色の物理的な差異よりも、人間の知覚上での差異に主眼を置いた色空間。工業的には、工業製品の色彩の管理に要請される。
== 表色系 ==
=== 混色系 ===
==== オストワルト表色系 ====
{{main|オストワルト表色系}}
1923年に[[ヴィルヘルム・オストヴァルト|ヴィルヘルム・オストワルト]]が考案した表色系<ref name=dic>{{Cite web|和書|url=https://www.dic-color.com/knowledge/ostwald.html |title=オストワルト表色系とは |website=DIC color & comfort |accessdate=2021-07-12}}</ref>。色彩調和を目的としておりデザイン分野などで利用され、[[#PCCS|PCCS]]のトーンによる調和の考え方にも通じ、[[#DIN表色系|DIN表色系]]にも影響を与えている<ref name=dic />。
==== CIE表色系 ====
CIE([[国際照明委員会]])が定める表色系。
[[ファイル:CIExy1931.png|thumb|200px|right|CIExy色度図]]
; RGB表色系
: 原色をR([[赤]]、700nm)、G([[緑]]、546.1nm)、B([[青]]、435.8nm)とする表色系を、CIEのRGB表色系という。{{いつ範囲|現在|date=2017年1月}}のパソコンにおいては最も多く用いられる。ディスプレイデバイスなどへの出力指示などに用いられる。
; [[XYZ表色系]]
: RGB表色系は色知覚のよい近似であるが、知覚できる色を完全に合成できるわけではない。たとえばレーザー光などにみられる単一波長の色はRGB色空間の外側であって、加色によって再現することができない。この問題は、RGBの係数に[[正の数と負の数|負]]の値を許可することによって色空間を拡張すれば表現することができるが、取り扱いに不便である。したがってRGB表色系を単純な一次変換で負の値が現れないように定めたXYZ表色系を、CIEは1931年にRGB表色系と同時に定めた。XYZ表色系は他のCIE表色系の基礎となる。RGB表色系と異なりXYZ表色系では、それぞれの数値と色彩との関連がわかりにくい。Yは物理的な輝度(一般的には直感的なわかりやすさを優先して「反射(透過)率」という用語が使用されることが多いが、厳密には反射(透過)面をある方向から観察した時の輝度率として表現すべきものである。物体色(表面色)における視感反射(透過)率 Y は、ヒトの眼の感度である標準分光視感効率V ( λ ) で反射率(厳密には輝度率)を評価したもので、完全拡散反射(透過)面での観察方向の輝度に対する試料面から観察方向への輝度の比である。物体色の場合には、この視感反射率 Y を以て刺激値 Y と定義する。)を表し、Zはおおむね青みの度合いを表すと考えてよい。Xは、それら以外の要素を含むと解釈できる。
; xyY表色系
: XYZ表色系では数値と色の関連がわかりにくい。そこでXYZ表色系から絶対的な色合いを表現するためのxyY表色系が考案された。
{{Indent2|<math>x = \frac{X}{X+Y+Z}\,</math><br />
<math>y = \frac{Y}{X+Y+Z}\,</math>}}
: YはXYZのYをそのまま使う。このxとyを色度座標と呼び、すべての色はxとyによる2次元平面、および明度を示すYで表現できる。当然ながら、xyYからXYZに変換することもできる。
{{Indent2|<math>X = \frac{Y}{y}x</math><br />
<math>Z = \frac{Y}{y}(1-x-y)</math>}}
; [[L*u*v*表色系]]
: CIEが1976年に定めた均等色空間のひとつ。CIELUV(エルスター、ユースター、ブイスターと読むのが一般的)は光の波長を基礎に考案されたもので、XYZ表色系のxy色度図の波長間隔の均等性を改善したものである。日本では[https://www.jisc.go.jp/app/jis/general/GnrDisuseJISStandardList?show&jisStdNo=Z8518 JIS Z8518](廃止規格)に規定されていた。
; [[L*a*b*表色系]]
: CIE L*a*b*(エルスター、エースター、ビースター、慣用的にはシーラブと読む)はXYZから、知覚と装置の違いによる[[色差]]を測定するために派生した。L*はLuminosity(明度)を意味する。1976年に勧告され、日本では[https://www.jisc.go.jp/app/jis/general/GnrDisuseJISStandardList?show&jisStdNo=Z8729 JIS Z 8729](廃止規格)に規定されていた。均等色空間である。ある色と他の色の色差を知るには、2色の座標の[[ユークリッド距離]]:
{{Indent2|<math>\sqrt{ {\Delta L^*}^2 + {\Delta a^*}^2 + {\Delta b^*}^2 }</math>}}
: を求めればよい。CIE 1976 L*a*b*はCIE XYZを直接の基礎として、色差の知覚の線形化を試みている。L*、a*、b*の非直線関係は、目の対数的な感応性の模倣を目的としている。色情報は、色区間の白色点nの色を参照する。Adobeシステムズ社の[[Adobe Photoshop]]など、高価なグラフィック編集ソフトはL*a*b*をサポートしているが、L*a*b*の色空間はAdobe RGBよりも広いため既製ディスプレイでは対応していない。レタッチ用途としてはもっぱら輝度チャンネル(L*)を使って内部処理に使用することが多い。a*b*のカラーチャンネルには手を入れないため画像の劣化が防げる。(L*u*vやL*a*b*から派生して、計算の便宜を図った妥協的(実用的)な均等色空間がいくつか存在する)
=== 顕色系 ===
==== マンセル表色系 ====
{{main|マンセル表色系}}
1905年に画家の[[アルバート・マンセル]]が基礎となった概念を発表し、その後1943年に[[アメリカ光学会]]が修正して完成させた表色系<ref name=サミュエル>色彩活用研究所サミュエル監修『色の事典 色彩の基礎・配色・使い方』(2012年、[[西東社]])</ref><ref name=TOYO>{{Cite web|和書|url=https://www.toyoink1050plus.com/color/chromatics/basic/003.php |title=仕事で使える色彩学 #03 マンセルカラーシステム |website=TOYO INK |author=[[東洋インキSCホールディングス]] |date=2015-01-29 |accessdate=2021-07-07}}</ref>。色を整理して[[色の三属性]]を尺度化して、数字と記号を用いて正確に表示することを目的としている<ref name=サミュエル /><ref name=TOYO />。
==== PCCS ====
{{main|PCCS}}
1966年に[[日本色彩研究所]]が発表した、色彩調和を目的とした表色系<ref name=槙 /><ref name=サミュエル />。明度と彩度を複合した要素「トーン」の概念が特徴で、トーンを用いることで実際の色のイメージがしやすく、カラーデザインに向いている<ref name=サミュエル />。
==== NCS ====
{{main|NCS (表色系)}}
1981年に[[スウェーデン]]で生まれた、色の知覚的表現を目的とした表色系<ref name=槙 />。6つの基本色の配合で全ての色を表現できると考え、明度・彩度の概念が存在しない点が特徴<ref name=槙 />。比較的新しい表色系だが、スウェーデン・[[ノルウェー]]・[[スペイン]]などの工業規格として採用されており、[[ヨーロッパ]]を中心に普及している<ref name=東洋>{{Cite web|和書|url=https://www.toyoink1050plus.com/color/chromatics/basic/002.php |title=仕事でつかえる色彩学 |website=東洋インキ |date=2014-11-26 |accessdate=2021-07-08}}</ref>。
==== DIN表色系 ====
DIN表色系はM.リヒターたちの色差に関する研究を踏まえ均等色空間の実現を目指した表色系である。1955年に[[ドイツ工業規格|DIN]]に採用され、色票集も刊行されている。色は色相、明度、飽和度で表現される。ヘリングの反対色説に則るが、合衆国のマンセル表色系と異なり、色相は[[黄色|黄]]から始まる。これは[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の思想との縁故が指摘<ref>{{Cite book|和書
|author = 千々岩英彰
|title = 色彩学概説
|origyear = <!-- 1983 -->
|edition = <!-- 改訂 -->
|year = 2001
|publisher = [[東京大学出版会]]
|isbn = 4-13-082085-0
|page =
}}</ref> されている。
== 一般的な色空間 ==
=== RGB ===
{{Main|RGB}}
RGBは一般に、[[加法混合]]を表現するのに使われる。RGBは、それぞれ赤 (red) 緑 (green) 青 (blue) の頭文字である。光の三原色であり、数値を増すごとに白くなる。反対に、数値を減らすごとに黒くなる。コンピュータのモニタで用いられるのも、このRGBである。
視覚上では、色は[[光の三原色]]に近い、3波長に対応した[[網膜]]の[[錐体細胞]]が受け取って知覚される。これには若干の個人差があり、また実際問題として純粋な3波長を用意することが難しい場合が多いため、混色系の色空間にはさまざまな種類のものがある。さまざまな表色系が存在するが、それぞれの表色系ごとに、赤・緑・青の基準が定められている。
コンピュータで表示可能な色数は各[[ピクセル]]に何[[ビット]]の情報を割り振るかにより決定される。ほとんどの人間の目で識別可能な限界に必要な情報はRGB各8ビット(計24ビット)の1677万7216色とされ[[フルカラー]]やトゥルーカラーと呼ばれる。1990年代前半頃までビデオメモリが高価なこともあり表示色は2色やRGB各5ビット(計15ビット)の32768色などに限られていた。画像編集において編集の過程での劣化を考慮してRGB各16ビット(計48ビット)などより多ビットで扱うことがある。
「RGBでは人間が知覚できる色をすべて表現できる」と説明されることがあるが、これは若干の誤解を含む。これについては[[色空間#CIE表色系|XYZ]]で詳述。
[[ファイル:CIE1931xy sRGB.svg|サムネイル|233x233ピクセル|CIExy色度図における[[#sRGB / AdobeRGB|sRGB]](三角形の内側)の範囲。]]
; sRGB
: [[国際電気標準会議]] (IEC) が定めた国際標準規格。一般的な[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニタ]]、[[プリンター|プリンタ]]、[[デジタルカメラ]]などではこの規格に準拠しており、互いの機器をsRGBに則った色調整を行なう事で、入力時と出力時の色の差異を少なくする事が可能になる。
; Adobe RGB
: '''Adobe RGB'''は[[アドビ]]によって提唱された色空間の定義で、sRGBよりも広い(特に緑が広い)RGB色再現領域を持ち、印刷や色校正などでの適合性が高く、[[DTP]]などの分野では標準的に使用されている。
; [[DCI-P3]]
: [[デジタルシネマ]]向けの広い色域(特に赤が広い)を持つ色空間。[[:en:Digital Cinema Initiatives|Digital Cinema Initiatives]]が提唱。
; [[Rec. 2020|ITU-R BT.2020]]
: BT.2020はBT.2100の下位規格であり、要求仕様はほぼ同等であるが、フルHDとHDRには未対応である。フルHDの映像で用いられるBT.709を拡張して策定されている。2012年に制定され、2015年に更新された。
; [[Rec. 2100|ITU-R BT.2100]]
: Broadcasting service (television) 2100の省略名である。国際電気通信連合無線通信部門(ITU-R)が2016年7月に制定した、フルHD(2K)・4K・8Kの解像度を扱うデバイスが満たすべき仕様についての国際規格である。デジタルシネマの色空間を包含し、実在する物体色の色空間のうち、99.9パーセントを再現する。また、HDRにも対応し、現実世界の光のコントラストをより良く再現する。現状では最も広い色空間である。BT.2020を拡張して策定されている。
==== RGBA ====
: RGBA(もしくはARGB)はRGBの色空間に加えて、[[アルファチャンネル]]も色決定に考慮させる。これは、透過(透明度)を表現するものである(厳密には色空間ではない)。
=== CMY ===
{{en|CMY}}は印刷の過程で利用する[[減法混合]]の表現法である。絵具の三原色。基本色は白で、それに色の度合いを加えて、黒色にしていく。すなわち、始めは白いキャンバスから始め、インクを加えて暗くしていく(反射光を減らす、すなわち減法)ということである。CMYには、[[シアン (色)|シアン]]({{en|cyan}})、[[マゼンタ]] ({{en|magenta}})、[[黄色|イエロー]] ({{en|yellow}}) インクの数値が含まれている。
; [[CMYK]]
: 理論上、{{en|CMY}}をすべて均等に混ぜると黒色になるが、インクや紙の特性上、{{en|CMY}}のインクを混ぜて綺麗な黒色を作るのは技術的に困難であり、通常はすべてを混ぜても濁った茶色にしかならない。そこで、黒({{en|'''K'''ey plate}})の発色を良くするために、別途黒インクを用いるようになったのが{{en|CMYK}}である。キー・プレート ({{en|key plate}}) とは画像の輪郭など細部を示すために用いられた印刷板のことであり、通常黒インクのみが用いられた。なお、'''K'''は"blac'''K'''"の略とされることが多いが、これは俗説で本来誤りであり、ブラックは'''Bk'''と書く。<!-- en.wikipdiaの内容を反映、key color -> key plate -->日本の印刷業界では黒インクを「スミ([[墨]])」と呼ぶことがある。印刷物では、黒は文字などで多用される事から、インクの節約にもなるため現在ではもっとも使われている。
; CMK
: {{en|CMK}}は印刷の過程で利用する減法混合の表現法で、絵具の三原色からイエロー ({{en|yellow}}) を除いた表現である。CMKには、シアン ({{en|cyan}})、マゼンタ ({{en|magenta}})、そして黒 ({{en|black}}) のインクの数値が含まれている。一般的にイエローの使用頻度が少なく、{{en|CMK}}だけで十分表現可能であり、印刷コストも下がることからチラシなど低価格印刷物に利用されている。
=== HSV ===
[[HSV色空間|HSV]]はコンピュータ上で絵を描く場合や、色見本として使われる。これは、色を[[色相]](色味)と[[彩度]]という観点から考える場合、加法混合や減法混合よりも自然で直感的だからである。HSVには[[色相]] (hue)、[[彩度]] (saturation)、[[明度]] (value) が含まれている。HSB (hue, saturation, brightness) とも呼ばれる。
=== HLS ===
[[HLS色空間|HLS]]は、HSL、HSIなどとも呼ばれる。[[色相]] (hue)、[[彩度]] (saturation)、[[輝度]] (luminance) よりなる、HSVに近い表現法である。明度と輝度との違いは値の算出方法である。HSVでは純色と白が同じ明度で表される六角錐モデルだったのに対し、HLSでは純色の輝度を50%とする双六角錐モデルで表現する。
== 放送用 ==
=== YIQ ===
YIQは、[[NTSC]]の内部処理で使用されるコンポーネント方式である。通常は外部には出力されず、機器内部で使用されるが、過去には[[松下電器]]が開発したMビジョン[[VTR]]が、テープにYIQ信号をコンポーネント記録していたという例もある。現在使用されている色差コンポーネント信号のクロマ成分(Cb,Cr)に対して33°回転した色相となり、I軸とQ軸は直交する。
人間の目がI軸(オレンジ-ライトブルー間)の変化には比較的敏感であるのに対して、Q軸(青紫-黄緑間)の変化には鈍感である性質を利用して、少しでも狭い帯域で、少しでも視覚的に良好な結果を得ようとした、設計上の選択によるものである。Y、I、Qに対する人間の目の分解能比は4:1.5:0.5と評価されており、RGB4:4:4信号をYIQ4:1.5:0.5に変換することで、人間の目には劣化が感じられないものの、伝送に必要な情報量を減らした信号を得ることができる。NTSCは、このYIQ信号を直角二相変調する。
欧州を中心に(米日及び米の影響が強い範囲以外で)使用されている[[PAL]]は、クロマにIQ成分の代わりにUV成分を使う。これは現在使用されているCb,Cr(あるいはPb,Pr)成分に近いものであり、IQ方式とは色相が異なる。
=== YUV / YCbCr / YPbPr ===
{{See|YUV}}
== 過去に用いられていた色空間 ==
=== RGV ===
青色(Blue)でなく菫色(Violet)を用いた加法混合。RGB法に至る以前の初期の研究で用いられたのみ。
=== RG, RGK ===
{{See|en:RG color space}}
赤 (Red) と緑 (Green) の強度で色を指定する方法。赤と緑の合成は、RGB色空間と同様に、加算により行なわれる。青 (Blue) がないので、青成分を含む色が正しく表現できない。初期の[[テクニカラー]]フィルムで使われていた。RGK色空間はRG色空間にキー(Key, インクの黒、CMYK色空間でも使われる)を追加した色空間である。
== 光源 ==
RGB単色光の光源を使用した場合、白色光を光源とした場合に比べ再現域が広がる。CRTの場合、蛍光体の特性により純度の高い単色光を得られるかでディスプレイの色の再現性が決まる。冷陰極管をバックライトとして使用する液晶ディスプレイやハロゲンランプや放電ランプを光源とするDLP、液晶プロジェクタでは白色光をフィルタや誘電体薄膜でRGBに分離しているため単色光を光源とする場合に比べ再現性は劣る。{{要出典範囲|レーザープロジェクタでは単色光を光源としている為、色の再現域が広い|date=2021年1月}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Color spaces}}
* [[カラーチャート]]
* [[ICCプロファイル]]
* [[色域]]
* [[WYSIWYG]]
== 外部リンク ==
* [http://konicaminolta.jp/instruments/colorknowledge/index.html 色色雑学]
* [http://www.on.rim.or.jp/~tunnel/dtp/index.html DTPエキスパート]
{{color topics}}{{データ圧縮}}
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障害競走
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障害競走(しょうがいきょうそう)は競馬の競走の一種であり、コースに設置された障害物を飛越しながらゴールに到達する早さを競うものである。
障害競走は途中の定められた障害の飛越を行う点で平地競走と異なるが、馬術の障害飛越競技とも異なり飛越そのものは評価の対象とならず、他の競馬の競走と同様に決勝線に到達した順に順位が決定される。また、障害飛越の際に飛越失敗による転倒や騎手の落馬が起こることがあるため、スピードを抑え安全な飛越を行わせるために競走は全て長距離で行われ、負担重量も平地より重くなるように設定されている。
イギリスやアメリカ合衆国などでは障害競走専用の競馬場が存在するが、多くは平地競走または速歩競走にも使用されている。これらと混合して開催するか、障害競走単独の開催を行うかは、その地域によって異なる。なお、発走の際に平地競走と同様にスターティングゲートを使用することは少なく、日本、オーストラリア、ニュージーランドなど一部の国に限られる。その他の地域ではスターターが旗を振って合図するもの、またはスタート地点に紐を張り、その手前に馬を整列あるいは後方に待機させ、紐を跳ね上げることによって合図とするバリアー式と呼ばれる発走方法を使用する。
走路は芝を使用し、平地競走においてダート、またはオールウェザーで競走を行っている場合でも基本的にそれらの馬場を使用することはない。ただし、一時的に横切ることはあり、日本では最後の直線走路に障害を設置せず、ダートを使用するものもある。芝コースについては障害競走専用の走路を使用する場合が多いが、平地競走を施行する競馬場では平地競走と同一のものを使用、または一部で使用することもある。
障害競走には使用する障害の種類によってハードル (置障害競走)、そしてスティープルチェイス(固定障害競走) の2つの区分を持つ国が存在し、イギリスでは2つをまとめてナショナルハントと呼称している。ハードルは小さく取り外しのできる障害であり、比較的平地競走に近い障害競走であるのに対して、スティープルチェイスは障害物が大きく生垣、空濠、水濠などの多種多様な固定障害が設置され、正確な飛越が求められる障害競走である。ただし、イギリスとアイルランドを除き国際的な規格はなく、スティープルチェイスでも障害が小規模であり、また移動可能なものもあるため厳密な区分ではない。なお、スティープルチェイスの名称は障害競走一般を指す言葉でもあるため、イギリスやアイルランドでは固定障害競走について特にチェイスと呼んでいる。また、日本で行われる障害競走は日本中央競馬会が発行する英文の刊行物においてはsteeple-chaseと表記される。
その他に障害馬専用の平地競走やノービスと呼ばれる競走経験の少ない馬限定の競走を行う国もあるが、2、3歳でほとんどの馬がデビューする平地と異なり、高齢になってから初出走を迎えることも一般的に行われているため、ダービーのような特定の馬齢に限定した競走は行われていないか、小規模となっている。
障害競走の起源には狩猟の文化が強く影響しており、初期の競走には馬に乗って猟犬を追いかけるものもあった。最初の障害競走は1752年にアイルランドにおいてコーネリアス・オーカラガンとエドマンド・ブレークとの間で行われた、バターバント教会からセントレジャー教会の尖塔(Steeple)を目指しての約4.5マイルマッチレースであるとされる。初期の障害競走は競馬場で行われるものではなく、クロスカントリーの形式で行われ、障害もレースのために用意されたものでなく、牧場の囲いや小川、天然の生垣などを飛越していた。発馬地点や走路に明確な規定はなく、通過すべき障害の地点に係員が立ち、旗を振って誘導を行った。
農村での囲い込み運動によって仕切りや開墾地の整備が進んだ結果、障害レースが容易に実行できるようになった。1788年にはウィンチェスターで2頭立ての4マイル余りのレースが、1792年にはレスタシャで記録上最初の多頭数による8マイルのスティープルチェイスが行われた。
当時の障害競走は未整備の原野で行われたため騎手、馬ともに大変危険を伴ったため、良馬を潰してしまうという批判が根強かったが、イギリス及びアイルランドで民衆の熱狂的な支持を集めた。しかし、平地競走におけるジョッキークラブのような統括組織が存在しなかったため、施行規則が整備されず不正も横行した。
しかし19世紀に入ると競馬場や人工の固定障害などが用意されはじめ、1821年には初のハードル競走がイギリスのブリストル近郊のダータムダウンで開催、1830年からは障害レースの父と称される人物、トマス・コールマンがセント・オルバンズで野原を利用したスティープルチェイスを開催、1830年代よりチェルトナム競馬場、そしてエイントリー競馬場が障害競走の中心地として認められるようになり、1836年にはエイントリー競馬場でグランドナショナルが創設される。1863年にイギリスの障害競走の全国統一機関であるNational Hunt Committeeが誕生し、1870年ごろまでに施行規則を整備した(1969年にジョッキークラブの傘下として統合される)。
日本では居留地競馬の時代に障害競走が行われていた。中でも1860年9月1日に横浜外国人居留地にて開催されたレースの中に障害競走が含まれていたことが、アメリカ人商人であるフランシス・ホールの手記に記されており、これが日本の障害競走に関する最古の記録である。また、祭典競馬としても行われており、1887年5月6日に靖国神社で施行されたという記録がある。距離は500間(909m)の馬場を1周というものだった。
公認競馬の開始後は、1908年に北海道競馬会が新設した子取川競馬場(現:札幌競馬場)において障害競走を創始した。同年春季に行われた最初の競走は距離1マイルで争われ、友成玉之助所有のキンツルが122秒で優勝した。これは平地競走の走路に小規模な置障害を設置して行われるものであり、競走距離は1マイル、1マイル1/8の2種類、つまり1600m - 1800mで行われ、800m - 1800mで行われた当時の平地競走とほぼ同条件であった。その後1915年の目黒競馬場において日本で初めて障害競走専用の走路が設置された。なお専用走路の設置にあたっては、馬政局から東京競馬倶楽部に対して補助金が与えられた。
1923年に競馬法が実施された後に、それまで障害競走を実施していなかった競馬倶楽部でも次第に障害競走を行うようになった。当時は施行数が少なく競走距離は2000m前後で行われ、また障害飛越数が3回以下の競走もあるという低レベルな状況であったため、陸軍は良質な軍馬生産のため競走数の増加、競走距離の延長、また高さ120cmの固定障害や置障害を使用するなどの障害競走の高度化を指示した。
1924年に東京競馬場で障害の高さ、幅を変更した際に、騎手の拒否により春季開催での障害競走がすべて不成立になるといった混乱も見られたが、競走数は大幅に増加を辿り、同年には全国で平地競走552回に対し僅か34回であったものが、6年後の1930年には平地競走1049に対して276の競走が施行された。そして1934年には中山に坂路と大規模な障害を備えた馬場が完成し、現在まで続く中山大障害の創設がなされた。
※「障碍」は1945年の当用漢字告示まで使用されていた表記である。当用漢字に「碍」が採用されず、1956年には国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」で「障害」への書き換えが指示された。中央競馬の競走では1970年より「碍」が「害」に、「盃」が「杯」(大阪杯など)に切り替わった。
中央競馬は1946年秋から再開したが、戦中に接収された影響で東京競馬場は本馬場も含めて全て畑、京都競馬場も固定障害が全て撤去されているなど、障害馬場の復旧には時間を要した。この年はすべて4歳馬の競走となり障害競走は行われていない。1947年春より中山競馬場で数レース行われ、秋には京都競馬場、1948年春には東京競馬場の障害馬場が完成し、その後全ての開催場で障害競走が復活した。なお、函館、札幌競馬場では1950年代半ば以降障害競走は再び休止されている。
戦後は勝利に恵まれない平地競走馬を移行させるという目的で行われていたが、戦後の混乱による馬資源の不足もあり、量の不足と質の低下を招いた。1940年前後は5歳、6歳となった競走馬はアラブ系では大半、サラ系でもその多くが障害入りしたが、戦後は賞金水準の高い南関東を筆頭に多くの古馬が地方競馬に流出し、障害入りする馬が著しく減少した。京都大障害をはじめとする障害重賞の創設や出走条件の緩和などの振興策によって改善されたものの、平地競走の出走数の急激な増加の前に水をあけられ、慢性的な頭数不足は近年になるまで完全には解消されなかった。
アラブ系障害競走も復活したが、中央競馬のアラブ系競走馬は、昭和20年代半ばより抽選馬のみ出走可能と改められた事もあって在厩頭数自体が少なく、障害競走に出走する馬はさらに少なかった。また、アラブ系障害には戦後しばらくの間は重賞競走が存在しなかったが、1956年にアラブ系障害競走の振興のため阪神競馬場でアラブ大障害が創設された。同年はサラブレッド系障害169競走に対して、アラブ系は153競走が行われ、最も施行された1958年には175競走となり、176競走行われたサラ系とほぼ同数の競走が施行された。同じ競馬場で1日に3競走(アラブ・サラ系)の障害競走が行われる事もあったが、通常は1日2競走程度の実施となっていた。
アラブ系障害競走には、1960年に中山アラブ障害特別及び東京アラブ障害特別が創設されたが、前述の理由により、出走頭数がサラ系障害競走と比べて揃わず、メンバーも固定化されていった事から、ファンの興味も低下していった。1965年にはアラブ系障害競走はわずか66競走が施行されるにとどまり、同年をもってアラブ大障害、中山アラブ障害特別、東京アラブ障害特別はいずれも廃止。翌1966年は8競走を施行し、これを最後にアラブ系障害競走は全廃された。
障害競走の施行距離、障害の難易度は、戦後に短縮、易化された。1950年代以前は中山大障害などの一部の重賞競走を除いて距離、障害数共に少なく、1956年時点では障害競走の平均施行距離は2400mだった。その後も芝コースの幅員増やダートコース新設の影響で障害コースが狭まり、スピード化に対する安全策から障害も小型化された。また騎手の負担重量の見直しも行われた。
1960年代後半になると、サラ系障害競走についても強い馬が出なくなり、人気が低下していった。競走馬生産頭数の増加に伴い平地競走の増加を求める声が上がり、関西では、不人気の繋駕速歩競走が廃止されると共に、障害競走についても競走数の削減が行われ始めた。平地競走の充実化が進むのに引き換え、障害競走に対しては賞金面での優遇にもかかわらず、出走頭数の増加が止まっていた。競走数の削減に合わせて障害専門の騎手も減り、障害競走に騎乗する騎手も大半が見習い騎手となり、技術の未熟化も進んだ。
1970年代に入ると障害を大きく、負担重量を増やしてスピードを抑える安全策に転換されたことから、一般競走の距離延長、東京の襷コースの大障害コースとするなどの障害の高度化が行われた。競走距離については1978年には平均距離が3000mを越えた。
しかし、以後も障害競走の競走数は減少の一途を辿り、サラ系障害競走は1966年にアラ系障害競走の廃止に伴い最多の250競走施行されたが、1980年には175競走、そして1997年には129競走まで落ち込んだ。重賞競走については、1984年に平地競走はグレード制導入に伴い全国発売競走となったが、障害競走については見送られ、平地競走との差が生じることになった。
そこで1999年より日本中央競馬会は以下のような番組改革を行った。
他にも障害専用ファンファーレ(三枝成彰作曲)の導入や特別イベントとしてレース終了後に騎手が実際にコースを案内するミニツアーも行い、2000年より中山グランドジャンプが障害競走としては世界初となる国際招待競走となった(中山大障害も2011年から国際競走となっている)。
この改革により、障害にも飛越の安全性向上のため、踏切板を設置し、障害の側面に馬が足をぶつけても怪我をしないようにラバー加工が施された。
その後2000年の中山大障害では創設以来初となる16頭フルゲートで行われるなど競走頭数が大幅に増加し、改革後は大半の競走がフルゲートで施行されている。しかしながら、後述するように障害に騎乗可能な騎手が不足気味であり、騎手の確保問題に起因する出走取消も発生している。この問題に鑑み、2014年からは第三場(2020年までの冬季小倉競馬および夏季北海道開催は除く)での開催が基本とされることになった。
なお、地方競馬の障害競走については、各地で置き障害や襷コースを使用した障害競走が施行されていたが、1974年に廃止された春木競馬場を最後に現在は行われていない(競馬法施行令第17条の4により施行することはできる)。船橋競馬場や、旧名古屋競馬場など一部の地方競馬場には、障害コースの名残が見られる。
2020年現在、年間125競走施行される。
馬のクラスは未勝利とオープンの2つのみである(かつては、未勝利、400万円以下条件、オープンと3つのクラスがあり、さらに以前には、条件戦のクラスがさらに数クラスに分類されていた)。他国で見られるハードル・ノービスの競走は行われない。賞金は競走格に応じて完全に固定されている。
競走は通常1日につき1回で、普通競走の場合は通常昼休み前に割り当てられている。(11時20分から12時頃。基本的に第4競走。以前は第5競走に割り当てられることが多かった)2014年以降、障害競走が第三場中心で行われるようになり、障害競走が2競走の場合でも同一場で障害競走が組まれるようになったため、主に土曜日の開催日で1日に障害競走が2回行われる場合がある。
東京競馬場、中山競馬場、京都競馬場、阪神競馬場、中京競馬場、小倉競馬場、新潟競馬場、福島競馬場の8つの競馬場で障害競走が施行されている。このうち、東京・中山・京都・阪神・小倉の5つの競馬場は芝コース及びダートコースの内側に固定障害の用意された専用コースがあり、これを使用して競走を行う。また、福島競馬場では次に述べる襷コースのみに固定障害が存在し、それ以外は芝コースに置障害を設置して競走を行う。また、中京・新潟では障害専用のコースがなく、全て芝コースで行われる。全ての競馬場において障害コースには決勝線がないため芝コースまたはダートコースのものを使用する。函館競馬場や札幌競馬場では障害競走は行われない。
中山・阪神・小倉・福島の4つの競馬場には、周回コースのほかに、芝コースからダートコースを横断するかたちで設けられた走路もあり、「襷コース」とよばれる。襷コースを通ると周回の向きが逆になるため、スタート時の向きがゴール時の向きと逆になっている場合があるほか、両向きで飛越される障害についてはそれに対応した形をしている。競馬場#襷も参照。
2013年までは中京・小倉・新潟・福島の裏開催(第三場としての開催時)にも行われなかったが、前述の通り2014年からは第三場としての開催が主となる。但し関東馬の輸送面を考慮し第三場開催中でも2020年までは冬の小倉開催時については障害競走は行われず、東西主場で障害競走が組まれていた。2021年から冬の小倉開催時も障害競走が行われる。
レースの発走にはスターティングゲートを使用し、出走可能頭数は中山グランドジャンプ、中山大障害が16頭、小倉競馬場の2860mの競走では12頭、その他はいずれも14頭となっている。
未勝利競走は全て3000m以下で行われ、内柵の移動によるものを除き同一の競馬場で複数の距離設定はない。特別競走ではないオープン競走は、同一の競馬場の未勝利と同距離かそれより長く、これに対する特別、重賞競走もまた同様である。オープン競走は一部の平場のオープン競走を除けば大半のレースは3000m以上となっている。
斤量は60kg前後であることが多く、最低負担重量は3歳で56kg、4歳以上は57kgである。これは70kg前後で行われる他国の競走と比べ軽量となっている。
障害コースの中では最も設置数が多い障害である。障害は土台とその上部の生垣で構成され、生垣については掻き分けて飛越することが可能である。飛越側には競走馬がスムーズな飛越を行うためにその目安となる踏切板が置かれ、また土台に傾斜を設けている。両面飛越が可能な障害ではこれらが両側に設置されている。障害の高さは土台と生垣を合わせて1.4mでほぼ統一されているが、幅(進路方向の厚み)は1.6mから2.4mまで様々である。なお、東京、中山、京都競馬場で障害重賞のみに使用する生垣は大生垣と呼ばれ、高さ1.5mから1.6m、幅は2.0mから2.9mと通常より規模の大きい障害となっている。中山競馬場の大生垣は特に有名で、レンガをモチーフにした土台が使われており(以前は東京競馬場でも使われていた)、『赤レンガ』の愛称で知られる。現在生垣障害として使われているのはマサキ(柾)である。
なお以前は、地面から生垣が直接生えている障害のみ生垣障害と呼び、土の土台の上部に生垣が植えられた障害は、土塁障害と呼ばれていた。阪神や小倉のように途中から進行方向が変わるコースの場合、片面からのみ飛越するものは片面土塁(阪神の1.3号障害など)。両面から飛越するものは両面土塁(阪神の4・7号障害など)という呼び方もされた。しかし1999年の番組改革により、土塁型、生垣型ともに生垣障害という呼び名に統一。片面、両面という呼び方も廃止される。
生垣と共に設置数の多い障害である。障害は土台とその上部のブラシ状に逆立てた竹柵で構成され、生垣と比較して掻き分けにくく、飛越の高さが求められる。土台には飛越側に傾斜を設けられ、また竹柵は着地側になびかせている。障害の高さは1.2mから1.4m、幅は1.45mから1.8mであり、中山・阪神・小倉の各競馬場にはクラスによって障害の高さを調節できるものが設置されている。また、東京・中山競馬場で障害重賞のみに使用する竹柵は大竹柵と呼ばれ、高さはそれぞれ1.5m、1.6m、幅は1.65m、2.05mとなっている。
周回の障害コースをもつ競馬場ではそれぞれ1つ設置されている。障害は飛越側の生垣とその後方の水濠で構成され、飛越の高さより幅を求められる障害である。飛越が足りず、水濠に後肢を踏み入れるとバランスを崩すことになり、大きなロスにつながる。障害の生垣部分の高さは1.2m以下、幅は生垣と水濠を合わせて3.7mから4mとなっている。番組改編以前は、生垣の大きさが80cm以下と小さく、東京競馬場の場合は高さ50cmの小さな柵が使われていた。現在のような形の水濠障害は京都競馬場の旧大障害コースに存在した大水濠以外には見られなかった。なお、水濠障害に入れられる水は、出走馬の本馬場入場から競走終了の間のみ入れられる。またかつては、京都競馬場と小倉競馬場に水のない「空堀障害」も存在した。
緑色の人工素材で作られた障害である。東京、阪神、福島競馬場にそれぞれ1つ設置されている。形状、大きさは竹柵とほぼ同じだが、より掻き分けにくくなっている。
京都競馬場で障害重賞のみ使用される。飛び上がり飛び降り台とも呼ばれ、一時期はビッグスワンと言う愛称が付けられていた。飛越して障害の上部に乗り、その後一定距離走った後に飛び降りる必要がある。高さは0.8m、幅は15.9mである。昭和20年代までは、東京競馬場と小倉競馬場にも同様の障害があった。
平地競走の芝コースに設置される竹柵障害であり、分解または牽引車によって移動可能となっている。片面飛越のものは竹柵とほぼ同じだが、両面飛越できるものは竹柵が垂直に伸びている。
急勾配の坂であり、登って降りる山型と、降りてから登る谷型がある。前者は福島、小倉競馬場、後者は中山競馬場に設置されており、中山競馬場は、元からの自然の地形を利用した、三つの谷型坂路が設置されており、他の競馬場はそれぞれ一つとなっている。山型は高低差が3m弱で長さが約80m。谷型は中山競馬場は1号坂路は高低差3.57m、長さ78m、3号坂路は高低差4.74m、長さ92mの他、障害GIのみに使用する2号坂路は高低差が5.3m、長さが113mとなっている。なお、飛越を伴わないこうした山型、谷型坂路のことも便宜上「バンケット」と呼ばれることがある。
なお、東京競馬場が開設された直後は、3・4コーナーの中間に山型の坂路が存在したが、短期間で通常の障害に変更された。
負担重量はJ・GIレースは定量戦、J・GIIとJ・GIIIレースは別定重量戦になっている。京都ジャンプステークス、小倉サマージャンプ、新潟ジャンプステークス、東京ジャンプステークス(2008年当時は東京オータムジャンプ)については2008年まではハンデキャップ競走として施行されていたが、有力馬の出走機会を拡大する観点から別定重量戦へとなった。
いずれも年間に春と秋の2回施行されていた。
イギリス及びアイルランドの障害競走はナショナルハント競走と呼ばれ、10月から4月までが障害競走のシーズンとなっており、大半が障害競走単独の開催である、また5月から9月までの間も一部の競馬場で競走が行われる。この2ヶ国は人馬の交流が盛んであり、競走形態もほとんど差異はない。この2国ではポイント・トゥ・ポインティングと呼ばれるアマチュア騎手の間で行われる障害競走もまた行われ、障害競走に対する認知度が高いこともあって、障害競走の人気は平地競走を上回るものであり、イギリスのレーシングポストで企画された20世紀の人気競走馬100選では1位アークル、2位デザートオーキッド、3位レッドラム、4位イスタブラクと上位4頭が障害馬で占められた(平地の競走馬は5位のブリガディアジェラードが最高位)。また、馬券の売り上げも障害競走が平地競走を圧倒しており、アイルランドの主要ブックメーカーのひとつであるパディーパワーが発表した2014年の英愛競馬売上上位20位では、平地競走ではダービーステークスが7位にランクインしたのみであり、残り19競走はすべて障害競走となった。売上の1位はグランドナショナル、17位はアイリッシュグランドナショナルであり、残り17競走はチェルトナムフェスティバルのレースで占められた。
イギリスでは平地競走が約5300施行されるのに対し障害競走は3300競走が行われ、アイルランドでは平地競走900に対して障害競走は1300と障害競走の方が多くなっている。障害競走はグレード制が導入されているが、平地と異なり、レースレベルのみで格付けされているわけではない。そのため、賞金額においてもG1>G2>G3が必ずしも成立しない。実際、英愛それぞれの賞金総額のトップの競走であるグランドナショナル、アイリッシュグランドナショナルは共にG1ではない。
競馬場は自然の地形を利用しており、起伏の激しいコースが多い。ハードル、チェイス、そしてナショナルハントフラットレース(障害馬用平地競走)はすべて競走距離の最低が2マイル(約3218m)となっている。ハードル、チェイスとも2マイル前後の短距離路線、2マイル半前後の中距離路線、3マイル以上の長距離路線に分かれて競走体系が組まれている。ただし、イギリスの全天候馬場併用競馬場(サゾルやリングフィールドなど)で同馬場(ファイバーサンドやポリトラック)を用いて行われるものや、あるいは芝においても3歳馬限定条件のナショナルハントフラットレースでは2マイルよりも短い距離での競走が施行されている。発走にはバリアー式発馬機などを使用する。
障害はハードルは3フィート1/2(約107cm)以上、チェイスは4フィート1/2(約137cm)以上(水濠を除く)と定められており、1レースでハードルは2マイルの競走で最低8回、以後1/4マイル毎に1回以上、チェイスは2マイルの競走で最低12回、以後1マイル毎に6回以上と定められている。チェイスの障害は日本の竹柵と似ているが、より幅が広く木の枝を束ねた固い障害であり掻き分けて飛越することは困難である。これの手前に空堀を設けたものをオープンディッチ、後方に水濠を設けたものをウォータージャンプと呼ぶ。オープンディッチは1マイル毎に1つ、ウォータージャンプはコース上に1つ以上と定められているが、ウォータージャンプについては近年設置していない競馬場も多い。英愛の競馬場ではほぼ全ての障害が基本的に同じ形をしているが、エイントリー競馬場のグランドナショナルなどに使用されるナショナルフェンスと呼ばれる障害はトウヒの枝を積み上げた独特のものであり、またクロスカントリーコースやバンクコースなどと呼ばれるコースでは丸太や土塁、バンケットなどの障害が設置され、伝統的なクロスカントリー競走が行われている。
2007/08シーズンはG1が30競走、G2が63競走、G3が25競走施行された。障害競走が最も盛り上がりを見せるのは3月にチェルトナム競馬場で開催されるチェルトナムフェスティバル、そして4月にエイントリー競馬場で開催されるグランドナショナルミーティングである。
チェルトナムフェスティバルでは4日間の開催で20万人以上の観客が押し寄せる。12ものG1競走が施行され、中でもチャンピオンハードル(Champion Hurdle)、チェルトナムゴールドカップ(Cheltenham Gold Cup)というハードル、チェイスの最高峰のレースが行われる。
また、グランドナショナルミーティングのメイン競走であるグランドナショナル(Grand National)は創設以来170年に及ぶ伝統のハンデキャップ競走であり、4マイル1/2(約7.2km)という非常に長い距離と、ハンデ戦ゆえの40頭という多頭数による迫力のある過酷なレースが行われることから、エプソムダービーよりも遥かに高い視聴率と売上を誇る。
5月から9月までの夏障害では、およそ800競走が行われるが、ほとんどが下級条件戦であり、リステッド競走がわずかに行われる程度である。逆に冬の期間は以前は障害競走のみで平地競走は行われなかったが、現在はオールウェザーが普及したため平地競走も数多く施行されている。
G1競走はハードルとチェイス、距離、そしてノービスのためのG1とカテゴリにより細分化され、それぞれにほぼ平等に割り振られている。格付けは英国競馬統括機構(BHA)の障害競走小委員会(Jump Racing Sub Committee)によって決定される。格付けには基準となるレーティングが定められており、過去3年の上位4頭の平均がG1なら155、G2は145、G3は140、ノービスはそれぞれ135、125、120、NHフラットは130、120の各レートを満たす必要がある。ただし、G1競走については馬齢、セックスアローワンス以外は定量で行わなければならず、G2は馬齢重量かハンデ幅を抑えたリミテッドハンデキャップ、そしてG3はハンデキャップ競走でなければならない。例を挙げるとグランドナショナルは2006年から2008年のレーティングが155.71でありG1の基準を満たしているが、同競走はハンデキャップ競走であるのでG3に格付けされる。
その他、競走レベルによってクラス1からクラス6まで分かれており、グレード競走、リステッド競走は全てクラス1に位置している。ハンデキャップは最大で12ストーン7ポンド(79.4kg)、最低で9ストーン7ポンド(60.3kg)であるが、大半の競走においては12ストーン(76.2kg)から10ストーン(63.5kg)までに設定される。
2007/08シーズンはG1が28競走施行された。イギリスとは異なり、アイルランドではハンデキャップ競走は別枠としてグレードA、B、Cという格付けを行っている。障害競走が最も盛り上がりを見せるのは4月にパンチェスタウン競馬場で行われるアイリッシュナショナルハントフェスティバル、そして復活祭の時期に合わせて概ね4月にフェアリーハウス競馬場で行われるイースターフェスティバルである。前者はパンチェスタウンギネスゴールドカップなど数多くのG1競走が行われ、後者は伝統の大レースであるアイリッシュグランドナショナルが行われる。夏障害でも多くの競走が施行され、一部でグレード競走も行われている。
全国的に障害競走が行われ、競走数は平地競走4500に対して障害競走は2200ほど行われる。障害競走は年間を通して行われ、平地競走との混合開催と単独開催両方がある。ハードル、チェイスともに一般競走は多くが3000mから4000mの間で施行されるが、重賞競走は最低距離は3500mであり6割以上が4000mを超えるものとなっている。またクロスカントリー競走も行われており、これは全ての競走が4000m以上である。コースは基本的に平坦であるものが多く、人工的な坂路や多様な障害を設置している。発走には発馬機を使用しない。障害馬は英愛のノービスのような障害経験でなく、3歳戦、4歳戦といった馬齢による区分がなされている。
グループ制が導入されており、G1が9競走、G2が11競走、G3が28競走行われ、格付けと賞金はほぼ連動している。パリの障害競走専門の競馬場であるオートゥイユ競馬場が中心となっており、パリ大障害やラエ・ジュスラン賞などの全てのG1競走はここで行われる。
全国的に障害競走が行われ、競走数は平地370に対して障害競走は160ほど行われる。障害競走は3月から10月までとなっており、最大の競走はパルドゥビツェ競馬場で行われるヴェルカパルドゥビツカである。
中山グランドジャンプを3連覇したカラジやセントスティーヴンなどハイレベルな障害馬を持ち、ニュージーランドからの遠征馬も多かったが、近年障害競走における死亡事故が動物の権利の観点から問題視され、障害の難易度を低下させるなどの対策をとったものの、事故率の低下にはつながらず、競走数の削減や、州単位での廃止が相次いでいる。その為、現在障害競走が行われるのはビクトリア州と南オーストラリア州のみである。かつてはクイーンズランド州、ニューサウスウェールズ州でも行われていたが、いずれもかなり以前に廃止しており、さらに2007年4月にタスマニア州が障害競走を中止、2010年シーズンをもってビクトリア州も障害レースを一旦廃止したが、その後、安全対策としてOne Fit Hurdleという新素材のハードルを導入して障害競走を復活させることになった。
かつての障害競走のシーズンは2月から7月までで、すべてが平地競走との混合開催となっていた。発走にはスターティングゲートを使用する。コースは平坦であり、チェイスでも距離も4000m以下のものがほとんどで、ハードルの最低距離は2800mとなっていた。7割弱がハードル競走であり、使用するハードルは40cmほどの飛越でクリアが可能であった。またチェイスの障害も低く、掻き分けやすい人工素材が使用されており難易度は低い。競走の格付けはなされていないが、15競走が重賞として施行されており、主要な競走にはフレミントン競馬場のグランドナショナルスティープルチェイス、ムーニーヴァレー競馬場のヒスケンススティープルチェイスなどがあったが、いずれも現在では実施されていない。
全国的に障害競走が行われ、2008年はアマチュア騎手の7競走を含め、年間123競走が施行される。障害競走のシーズンは4月後半から9月末までであり、すべてが平地競走との混合開催となっている。ハードルは競走距離が短く、重賞競走以外は2400mから3200mまでで行われるのに対し、チェイスは大半が4000m以上の競走となっている。発走にはスターティングゲートを使用するが、一部のチェイスでは発馬機を使用しない。ハードル競走は基本的に平地競走のコースに小規模な置障害を設置して行われる。チェイスでは専用のコースを使用するが、専用のコースがない競馬場ではチェイスを施行しないか、平地競走のコースにチェイス用の置障害を設置する。チェイスの障害は生垣障害が多く、連続障害や丘を利用したコースあり、全体的に難易度はオーストラリアよりかなり高めである。
障害重賞はプレステージジャンプレース(PJR)と呼ばれ、グレード制が導入されている。6競走がG1に格付けされており最大の競走はエラズリー競馬場のグレートノーザンスティープルチェイスである。
アメリカで初めての障害競走は1834年にワシントンD.C.で行われた。
現在障害競走が行われているのはペンシルベニア州、メリーランド州、バージニア州などの東部の複数の州であり、競走数は200程度である。障害競走のシーズンは3月から5月の春シーズン、そして9月から11月の秋シーズンに分かれており、夏場にもいくつかの競走が行われている。基本的に障害競走専用の競馬場での単独開催となるが、夏場を中心にサラトガ競馬場などで平地との混合開催も行われている。
ハードルとチェイスの区別はないが、障害はナショナルフェンスとティンバーフェンスの2種類があり、ナショナルフェンスが主に使用され高さは4フィート4インチ(約132cm)以上となっている。これは日本の竹柵に近いが幅が狭く、掻き分けやすい障害である。また、ティンバーフェンスは木製の柵となっており、太い横木を数段並べている。高さは競馬場によって差があり、また衝撃を受けると落下するものもある。またトレーニングフラットと呼ばれる障害馬用の平地競走も行われているが、これには基本的に主催者側から賞金は支給されない。
競走距離はトレーニングフラットを除きすべて2マイル以上となっており、ティンバーフェンスを使用する競走は3マイル以上で行われる。発走にはスターティングゲートを使用しない。斤量は競走により差があり、130ポンド(59.0kg)から180ポンド(81.6kg)まで様々である。グレード制が導入されており、9競走がG1に格付けされている。なお、ティンバーフェンスのグレード競走はない。主要な競走にはグランドナショナルハードルがあり、またカロライナカップ、テンプルグワスメイ、ナショナルハントカップの3競走でノービス三冠を形成している。
現在はサラブレッドであることがほとんどであり、日本やアメリカではサラブレッドに限定されているが、フランスなどでは非サラブレッドの競走馬(例えばAutre que Pur-sang)も出走している。最初から障害競走用として生産される馬と、平地競走から転向する馬と二通りがあるが、ヨーロッパ以外の地域では平地競走からの転向が大半である。また、オセアニアを中心に障害競走に出走するようになってもシーズンオフなどに平地競走にも出走する馬も多い。英愛では特にバンパーでレースの経験を積み、その後ハードルへと駒を進め、飛越が上達すればチェイスへと進むという手順を踏むことが一般的である。それとは別に、アマチュア障害競馬のPoint-to-Pointで経験を積んだ馬が転向してくるケースも珍しくない。身体能力以外に飛越技術も問われるため、平地に比べて経験の豊富な高齢馬が活躍しやすい。
障害競走でデビューする前に、気性を抑えて扱いやすくしたり、怪我を防止するためほぼ全ての牡馬は去勢し騸馬となる。そのため障害馬の種牡馬は基本的に平地競走馬であり、平地競走よりスタミナが豊富な種牡馬が好まれる。しかし、日本では騸馬が極端に少なく、多くの馬が去勢されることのないままレースに出走している。
日本では競馬学校設立以前は障害競走のみの騎乗免許も取得可能であったが、現在中央競馬の騎手は競馬学校を卒業した若手騎手は平地と障害両方の免許を取得する。それ以外の騎手に関して、海外・地方競馬から移籍した騎手は全員平地のみの取得であり、唯一、馬術競技から転身した小牧加矢太は障害のみの取得となっている。
以前のケースでは、年齢を経るごとに体重が重くなった騎手が、平地免許を返上して障害専門騎手になるケースが多かった。現在では、平地との斤量差が小さいこと、そして障害競走の競走数の問題もあり、障害競走専門の騎手は減少し、多くの騎手が平地競走への騎乗も行っている。
かつては岡部幸雄、南井克巳、的場均、柴田善臣、横山典弘などといった平地でもトップクラスの騎手も、デビューから数年間は障害競走にも騎乗した経験があり、いずれも勝利を挙げるなど、障害戦の騎乗は一般的に行われていた。1984年のグレード制導入以降、熊沢重文や岡冨俊一、柴田大知(後に平地競走に専念)などのように障害戦との騎乗を両立させながら平地・障害双方の重賞を制した騎手も複数存在する。ただし、障害競走は落馬の発生が平地競走よりも多く、平地競走よりもリスクが高いと考えられており、賞金に対する騎手の取り分が7%と平地における5%より多くなっており、また騎乗手当も平地を上回っている。
こうしたリスクもあり、若手騎手のうちは両方の免許を持っていても、平地である程度活躍するなどして、一度も障害競走に騎乗することなく障害の免許を返上するケースがある。また、小島貞博や根本康広のように障害戦で重賞を勝利した騎手が、年齢を経て平地での騎乗が多くなるようになり、障害免許の返上に至る事もある。逆にあまり活躍できず、減量特典が失われた段階で、騎乗数確保を求めて障害競走に騎乗するケースが多い。近年ではデビュー間もない騎手の障害戦騎乗は前出の小牧加矢太(初免許時から障害限定免許)のような例を除いて、非常に少なくなっている。
2013年までは、第三場で障害競走は行われなかったが、第三場では若手騎手限定競走が行われることが多く、多くの若手騎手は遠征する。これらの結果、障害競走に通年で騎乗する騎手が少ない状況にある(逆に、障害競走に騎乗するため、若手騎手限定競走に騎乗可能な騎手も不足気味で、こちらも若手ではない騎手が騎乗する問題が発生している)。その結果、2013年1月20日には、前日1月19日に2名の障害騎手が落馬負傷し、20日に障害競走に普段から騎乗している騎手が他にいなかったために、騎乗予定だった2頭いずれも出走取消になる事態が発生している。2014年以降は、重賞や一部のオープン特別を除き、第三場での開催が基本となるように改善されたため、障害を主戦に転向した若手騎手が若手騎手限定競走に参加しやすくなるなど改善された。また、同一日に同一施行場で障害競走が複数回組まれる場合は、原則として出走頭数が多い競走が先に行われる。
欧米では女性の障害騎手も多く活躍しているが、JRAでは女性騎手が増加傾向ではあるものの障害競走への挑戦例は極めて少なく、2023年の時点まで板倉真由子と西原玲奈の2名しかおらず、いずれも数戦(西原に至っては障害初戦で落馬し重傷を負っている)で挑戦を断念している。ただし、短期騎手免許で来日したロシェル・ロケット(ニュージーランド)がギルデッドエージで2002年の中山大障害を制しており、JRAでは唯一の女性のGI(級)優勝騎手となっている。
欧米ではアマチュア騎手との交流が盛んで、1990年にミスターフリスクでグランドナショナルに優勝したマーカス・アーミテージなど多くのアマチュア騎手が大レースを制している。また、英愛では競走数が多いこともあり、トニー・マッコイが2001/02シーズンに記録した289勝は平地競走のそれを上回っている。
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"text": "障害競走(しょうがいきょうそう)は競馬の競走の一種であり、コースに設置された障害物を飛越しながらゴールに到達する早さを競うものである。",
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"text": "障害競走は途中の定められた障害の飛越を行う点で平地競走と異なるが、馬術の障害飛越競技とも異なり飛越そのものは評価の対象とならず、他の競馬の競走と同様に決勝線に到達した順に順位が決定される。また、障害飛越の際に飛越失敗による転倒や騎手の落馬が起こることがあるため、スピードを抑え安全な飛越を行わせるために競走は全て長距離で行われ、負担重量も平地より重くなるように設定されている。",
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"text": "イギリスやアメリカ合衆国などでは障害競走専用の競馬場が存在するが、多くは平地競走または速歩競走にも使用されている。これらと混合して開催するか、障害競走単独の開催を行うかは、その地域によって異なる。なお、発走の際に平地競走と同様にスターティングゲートを使用することは少なく、日本、オーストラリア、ニュージーランドなど一部の国に限られる。その他の地域ではスターターが旗を振って合図するもの、またはスタート地点に紐を張り、その手前に馬を整列あるいは後方に待機させ、紐を跳ね上げることによって合図とするバリアー式と呼ばれる発走方法を使用する。",
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"text": "走路は芝を使用し、平地競走においてダート、またはオールウェザーで競走を行っている場合でも基本的にそれらの馬場を使用することはない。ただし、一時的に横切ることはあり、日本では最後の直線走路に障害を設置せず、ダートを使用するものもある。芝コースについては障害競走専用の走路を使用する場合が多いが、平地競走を施行する競馬場では平地競走と同一のものを使用、または一部で使用することもある。",
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"text": "障害競走には使用する障害の種類によってハードル (置障害競走)、そしてスティープルチェイス(固定障害競走) の2つの区分を持つ国が存在し、イギリスでは2つをまとめてナショナルハントと呼称している。ハードルは小さく取り外しのできる障害であり、比較的平地競走に近い障害競走であるのに対して、スティープルチェイスは障害物が大きく生垣、空濠、水濠などの多種多様な固定障害が設置され、正確な飛越が求められる障害競走である。ただし、イギリスとアイルランドを除き国際的な規格はなく、スティープルチェイスでも障害が小規模であり、また移動可能なものもあるため厳密な区分ではない。なお、スティープルチェイスの名称は障害競走一般を指す言葉でもあるため、イギリスやアイルランドでは固定障害競走について特にチェイスと呼んでいる。また、日本で行われる障害競走は日本中央競馬会が発行する英文の刊行物においてはsteeple-chaseと表記される。",
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"text": "その他に障害馬専用の平地競走やノービスと呼ばれる競走経験の少ない馬限定の競走を行う国もあるが、2、3歳でほとんどの馬がデビューする平地と異なり、高齢になってから初出走を迎えることも一般的に行われているため、ダービーのような特定の馬齢に限定した競走は行われていないか、小規模となっている。",
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"text": "障害競走の起源には狩猟の文化が強く影響しており、初期の競走には馬に乗って猟犬を追いかけるものもあった。最初の障害競走は1752年にアイルランドにおいてコーネリアス・オーカラガンとエドマンド・ブレークとの間で行われた、バターバント教会からセントレジャー教会の尖塔(Steeple)を目指しての約4.5マイルマッチレースであるとされる。初期の障害競走は競馬場で行われるものではなく、クロスカントリーの形式で行われ、障害もレースのために用意されたものでなく、牧場の囲いや小川、天然の生垣などを飛越していた。発馬地点や走路に明確な規定はなく、通過すべき障害の地点に係員が立ち、旗を振って誘導を行った。",
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"text": "農村での囲い込み運動によって仕切りや開墾地の整備が進んだ結果、障害レースが容易に実行できるようになった。1788年にはウィンチェスターで2頭立ての4マイル余りのレースが、1792年にはレスタシャで記録上最初の多頭数による8マイルのスティープルチェイスが行われた。",
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"text": "当時の障害競走は未整備の原野で行われたため騎手、馬ともに大変危険を伴ったため、良馬を潰してしまうという批判が根強かったが、イギリス及びアイルランドで民衆の熱狂的な支持を集めた。しかし、平地競走におけるジョッキークラブのような統括組織が存在しなかったため、施行規則が整備されず不正も横行した。",
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"text": "しかし19世紀に入ると競馬場や人工の固定障害などが用意されはじめ、1821年には初のハードル競走がイギリスのブリストル近郊のダータムダウンで開催、1830年からは障害レースの父と称される人物、トマス・コールマンがセント・オルバンズで野原を利用したスティープルチェイスを開催、1830年代よりチェルトナム競馬場、そしてエイントリー競馬場が障害競走の中心地として認められるようになり、1836年にはエイントリー競馬場でグランドナショナルが創設される。1863年にイギリスの障害競走の全国統一機関であるNational Hunt Committeeが誕生し、1870年ごろまでに施行規則を整備した(1969年にジョッキークラブの傘下として統合される)。",
"title": "障害競走の起源"
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"text": "日本では居留地競馬の時代に障害競走が行われていた。中でも1860年9月1日に横浜外国人居留地にて開催されたレースの中に障害競走が含まれていたことが、アメリカ人商人であるフランシス・ホールの手記に記されており、これが日本の障害競走に関する最古の記録である。また、祭典競馬としても行われており、1887年5月6日に靖国神社で施行されたという記録がある。距離は500間(909m)の馬場を1周というものだった。",
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"text": "公認競馬の開始後は、1908年に北海道競馬会が新設した子取川競馬場(現:札幌競馬場)において障害競走を創始した。同年春季に行われた最初の競走は距離1マイルで争われ、友成玉之助所有のキンツルが122秒で優勝した。これは平地競走の走路に小規模な置障害を設置して行われるものであり、競走距離は1マイル、1マイル1/8の2種類、つまり1600m - 1800mで行われ、800m - 1800mで行われた当時の平地競走とほぼ同条件であった。その後1915年の目黒競馬場において日本で初めて障害競走専用の走路が設置された。なお専用走路の設置にあたっては、馬政局から東京競馬倶楽部に対して補助金が与えられた。",
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"text": "1923年に競馬法が実施された後に、それまで障害競走を実施していなかった競馬倶楽部でも次第に障害競走を行うようになった。当時は施行数が少なく競走距離は2000m前後で行われ、また障害飛越数が3回以下の競走もあるという低レベルな状況であったため、陸軍は良質な軍馬生産のため競走数の増加、競走距離の延長、また高さ120cmの固定障害や置障害を使用するなどの障害競走の高度化を指示した。",
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1924年に東京競馬場で障害の高さ、幅を変更した際に、騎手の拒否により春季開催での障害競走がすべて不成立になるといった混乱も見られたが、競走数は大幅に増加を辿り、同年には全国で平地競走552回に対し僅か34回であったものが、6年後の1930年には平地競走1049に対して276の競走が施行された。そして1934年には中山に坂路と大規模な障害を備えた馬場が完成し、現在まで続く中山大障害の創設がなされた。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "※「障碍」は1945年の当用漢字告示まで使用されていた表記である。当用漢字に「碍」が採用されず、1956年には国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」で「障害」への書き換えが指示された。中央競馬の競走では1970年より「碍」が「害」に、「盃」が「杯」(大阪杯など)に切り替わった。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "中央競馬は1946年秋から再開したが、戦中に接収された影響で東京競馬場は本馬場も含めて全て畑、京都競馬場も固定障害が全て撤去されているなど、障害馬場の復旧には時間を要した。この年はすべて4歳馬の競走となり障害競走は行われていない。1947年春より中山競馬場で数レース行われ、秋には京都競馬場、1948年春には東京競馬場の障害馬場が完成し、その後全ての開催場で障害競走が復活した。なお、函館、札幌競馬場では1950年代半ば以降障害競走は再び休止されている。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "戦後は勝利に恵まれない平地競走馬を移行させるという目的で行われていたが、戦後の混乱による馬資源の不足もあり、量の不足と質の低下を招いた。1940年前後は5歳、6歳となった競走馬はアラブ系では大半、サラ系でもその多くが障害入りしたが、戦後は賞金水準の高い南関東を筆頭に多くの古馬が地方競馬に流出し、障害入りする馬が著しく減少した。京都大障害をはじめとする障害重賞の創設や出走条件の緩和などの振興策によって改善されたものの、平地競走の出走数の急激な増加の前に水をあけられ、慢性的な頭数不足は近年になるまで完全には解消されなかった。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "アラブ系障害競走も復活したが、中央競馬のアラブ系競走馬は、昭和20年代半ばより抽選馬のみ出走可能と改められた事もあって在厩頭数自体が少なく、障害競走に出走する馬はさらに少なかった。また、アラブ系障害には戦後しばらくの間は重賞競走が存在しなかったが、1956年にアラブ系障害競走の振興のため阪神競馬場でアラブ大障害が創設された。同年はサラブレッド系障害169競走に対して、アラブ系は153競走が行われ、最も施行された1958年には175競走となり、176競走行われたサラ系とほぼ同数の競走が施行された。同じ競馬場で1日に3競走(アラブ・サラ系)の障害競走が行われる事もあったが、通常は1日2競走程度の実施となっていた。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "アラブ系障害競走には、1960年に中山アラブ障害特別及び東京アラブ障害特別が創設されたが、前述の理由により、出走頭数がサラ系障害競走と比べて揃わず、メンバーも固定化されていった事から、ファンの興味も低下していった。1965年にはアラブ系障害競走はわずか66競走が施行されるにとどまり、同年をもってアラブ大障害、中山アラブ障害特別、東京アラブ障害特別はいずれも廃止。翌1966年は8競走を施行し、これを最後にアラブ系障害競走は全廃された。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "障害競走の施行距離、障害の難易度は、戦後に短縮、易化された。1950年代以前は中山大障害などの一部の重賞競走を除いて距離、障害数共に少なく、1956年時点では障害競走の平均施行距離は2400mだった。その後も芝コースの幅員増やダートコース新設の影響で障害コースが狭まり、スピード化に対する安全策から障害も小型化された。また騎手の負担重量の見直しも行われた。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1960年代後半になると、サラ系障害競走についても強い馬が出なくなり、人気が低下していった。競走馬生産頭数の増加に伴い平地競走の増加を求める声が上がり、関西では、不人気の繋駕速歩競走が廃止されると共に、障害競走についても競走数の削減が行われ始めた。平地競走の充実化が進むのに引き換え、障害競走に対しては賞金面での優遇にもかかわらず、出走頭数の増加が止まっていた。競走数の削減に合わせて障害専門の騎手も減り、障害競走に騎乗する騎手も大半が見習い騎手となり、技術の未熟化も進んだ。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1970年代に入ると障害を大きく、負担重量を増やしてスピードを抑える安全策に転換されたことから、一般競走の距離延長、東京の襷コースの大障害コースとするなどの障害の高度化が行われた。競走距離については1978年には平均距離が3000mを越えた。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "しかし、以後も障害競走の競走数は減少の一途を辿り、サラ系障害競走は1966年にアラ系障害競走の廃止に伴い最多の250競走施行されたが、1980年には175競走、そして1997年には129競走まで落ち込んだ。重賞競走については、1984年に平地競走はグレード制導入に伴い全国発売競走となったが、障害競走については見送られ、平地競走との差が生じることになった。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "そこで1999年より日本中央競馬会は以下のような番組改革を行った。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "他にも障害専用ファンファーレ(三枝成彰作曲)の導入や特別イベントとしてレース終了後に騎手が実際にコースを案内するミニツアーも行い、2000年より中山グランドジャンプが障害競走としては世界初となる国際招待競走となった(中山大障害も2011年から国際競走となっている)。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "この改革により、障害にも飛越の安全性向上のため、踏切板を設置し、障害の側面に馬が足をぶつけても怪我をしないようにラバー加工が施された。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "その後2000年の中山大障害では創設以来初となる16頭フルゲートで行われるなど競走頭数が大幅に増加し、改革後は大半の競走がフルゲートで施行されている。しかしながら、後述するように障害に騎乗可能な騎手が不足気味であり、騎手の確保問題に起因する出走取消も発生している。この問題に鑑み、2014年からは第三場(2020年までの冬季小倉競馬および夏季北海道開催は除く)での開催が基本とされることになった。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "なお、地方競馬の障害競走については、各地で置き障害や襷コースを使用した障害競走が施行されていたが、1974年に廃止された春木競馬場を最後に現在は行われていない(競馬法施行令第17条の4により施行することはできる)。船橋競馬場や、旧名古屋競馬場など一部の地方競馬場には、障害コースの名残が見られる。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2020年現在、年間125競走施行される。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "馬のクラスは未勝利とオープンの2つのみである(かつては、未勝利、400万円以下条件、オープンと3つのクラスがあり、さらに以前には、条件戦のクラスがさらに数クラスに分類されていた)。他国で見られるハードル・ノービスの競走は行われない。賞金は競走格に応じて完全に固定されている。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "競走は通常1日につき1回で、普通競走の場合は通常昼休み前に割り当てられている。(11時20分から12時頃。基本的に第4競走。以前は第5競走に割り当てられることが多かった)2014年以降、障害競走が第三場中心で行われるようになり、障害競走が2競走の場合でも同一場で障害競走が組まれるようになったため、主に土曜日の開催日で1日に障害競走が2回行われる場合がある。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "東京競馬場、中山競馬場、京都競馬場、阪神競馬場、中京競馬場、小倉競馬場、新潟競馬場、福島競馬場の8つの競馬場で障害競走が施行されている。このうち、東京・中山・京都・阪神・小倉の5つの競馬場は芝コース及びダートコースの内側に固定障害の用意された専用コースがあり、これを使用して競走を行う。また、福島競馬場では次に述べる襷コースのみに固定障害が存在し、それ以外は芝コースに置障害を設置して競走を行う。また、中京・新潟では障害専用のコースがなく、全て芝コースで行われる。全ての競馬場において障害コースには決勝線がないため芝コースまたはダートコースのものを使用する。函館競馬場や札幌競馬場では障害競走は行われない。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "中山・阪神・小倉・福島の4つの競馬場には、周回コースのほかに、芝コースからダートコースを横断するかたちで設けられた走路もあり、「襷コース」とよばれる。襷コースを通ると周回の向きが逆になるため、スタート時の向きがゴール時の向きと逆になっている場合があるほか、両向きで飛越される障害についてはそれに対応した形をしている。競馬場#襷も参照。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2013年までは中京・小倉・新潟・福島の裏開催(第三場としての開催時)にも行われなかったが、前述の通り2014年からは第三場としての開催が主となる。但し関東馬の輸送面を考慮し第三場開催中でも2020年までは冬の小倉開催時については障害競走は行われず、東西主場で障害競走が組まれていた。2021年から冬の小倉開催時も障害競走が行われる。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "レースの発走にはスターティングゲートを使用し、出走可能頭数は中山グランドジャンプ、中山大障害が16頭、小倉競馬場の2860mの競走では12頭、その他はいずれも14頭となっている。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "未勝利競走は全て3000m以下で行われ、内柵の移動によるものを除き同一の競馬場で複数の距離設定はない。特別競走ではないオープン競走は、同一の競馬場の未勝利と同距離かそれより長く、これに対する特別、重賞競走もまた同様である。オープン競走は一部の平場のオープン競走を除けば大半のレースは3000m以上となっている。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "斤量は60kg前後であることが多く、最低負担重量は3歳で56kg、4歳以上は57kgである。これは70kg前後で行われる他国の競走と比べ軽量となっている。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "障害コースの中では最も設置数が多い障害である。障害は土台とその上部の生垣で構成され、生垣については掻き分けて飛越することが可能である。飛越側には競走馬がスムーズな飛越を行うためにその目安となる踏切板が置かれ、また土台に傾斜を設けている。両面飛越が可能な障害ではこれらが両側に設置されている。障害の高さは土台と生垣を合わせて1.4mでほぼ統一されているが、幅(進路方向の厚み)は1.6mから2.4mまで様々である。なお、東京、中山、京都競馬場で障害重賞のみに使用する生垣は大生垣と呼ばれ、高さ1.5mから1.6m、幅は2.0mから2.9mと通常より規模の大きい障害となっている。中山競馬場の大生垣は特に有名で、レンガをモチーフにした土台が使われており(以前は東京競馬場でも使われていた)、『赤レンガ』の愛称で知られる。現在生垣障害として使われているのはマサキ(柾)である。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお以前は、地面から生垣が直接生えている障害のみ生垣障害と呼び、土の土台の上部に生垣が植えられた障害は、土塁障害と呼ばれていた。阪神や小倉のように途中から進行方向が変わるコースの場合、片面からのみ飛越するものは片面土塁(阪神の1.3号障害など)。両面から飛越するものは両面土塁(阪神の4・7号障害など)という呼び方もされた。しかし1999年の番組改革により、土塁型、生垣型ともに生垣障害という呼び名に統一。片面、両面という呼び方も廃止される。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "生垣と共に設置数の多い障害である。障害は土台とその上部のブラシ状に逆立てた竹柵で構成され、生垣と比較して掻き分けにくく、飛越の高さが求められる。土台には飛越側に傾斜を設けられ、また竹柵は着地側になびかせている。障害の高さは1.2mから1.4m、幅は1.45mから1.8mであり、中山・阪神・小倉の各競馬場にはクラスによって障害の高さを調節できるものが設置されている。また、東京・中山競馬場で障害重賞のみに使用する竹柵は大竹柵と呼ばれ、高さはそれぞれ1.5m、1.6m、幅は1.65m、2.05mとなっている。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "周回の障害コースをもつ競馬場ではそれぞれ1つ設置されている。障害は飛越側の生垣とその後方の水濠で構成され、飛越の高さより幅を求められる障害である。飛越が足りず、水濠に後肢を踏み入れるとバランスを崩すことになり、大きなロスにつながる。障害の生垣部分の高さは1.2m以下、幅は生垣と水濠を合わせて3.7mから4mとなっている。番組改編以前は、生垣の大きさが80cm以下と小さく、東京競馬場の場合は高さ50cmの小さな柵が使われていた。現在のような形の水濠障害は京都競馬場の旧大障害コースに存在した大水濠以外には見られなかった。なお、水濠障害に入れられる水は、出走馬の本馬場入場から競走終了の間のみ入れられる。またかつては、京都競馬場と小倉競馬場に水のない「空堀障害」も存在した。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "緑色の人工素材で作られた障害である。東京、阪神、福島競馬場にそれぞれ1つ設置されている。形状、大きさは竹柵とほぼ同じだが、より掻き分けにくくなっている。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "京都競馬場で障害重賞のみ使用される。飛び上がり飛び降り台とも呼ばれ、一時期はビッグスワンと言う愛称が付けられていた。飛越して障害の上部に乗り、その後一定距離走った後に飛び降りる必要がある。高さは0.8m、幅は15.9mである。昭和20年代までは、東京競馬場と小倉競馬場にも同様の障害があった。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "平地競走の芝コースに設置される竹柵障害であり、分解または牽引車によって移動可能となっている。片面飛越のものは竹柵とほぼ同じだが、両面飛越できるものは竹柵が垂直に伸びている。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "急勾配の坂であり、登って降りる山型と、降りてから登る谷型がある。前者は福島、小倉競馬場、後者は中山競馬場に設置されており、中山競馬場は、元からの自然の地形を利用した、三つの谷型坂路が設置されており、他の競馬場はそれぞれ一つとなっている。山型は高低差が3m弱で長さが約80m。谷型は中山競馬場は1号坂路は高低差3.57m、長さ78m、3号坂路は高低差4.74m、長さ92mの他、障害GIのみに使用する2号坂路は高低差が5.3m、長さが113mとなっている。なお、飛越を伴わないこうした山型、谷型坂路のことも便宜上「バンケット」と呼ばれることがある。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "なお、東京競馬場が開設された直後は、3・4コーナーの中間に山型の坂路が存在したが、短期間で通常の障害に変更された。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "負担重量はJ・GIレースは定量戦、J・GIIとJ・GIIIレースは別定重量戦になっている。京都ジャンプステークス、小倉サマージャンプ、新潟ジャンプステークス、東京ジャンプステークス(2008年当時は東京オータムジャンプ)については2008年まではハンデキャップ競走として施行されていたが、有力馬の出走機会を拡大する観点から別定重量戦へとなった。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "いずれも年間に春と秋の2回施行されていた。",
"title": "日本の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "イギリス及びアイルランドの障害競走はナショナルハント競走と呼ばれ、10月から4月までが障害競走のシーズンとなっており、大半が障害競走単独の開催である、また5月から9月までの間も一部の競馬場で競走が行われる。この2ヶ国は人馬の交流が盛んであり、競走形態もほとんど差異はない。この2国ではポイント・トゥ・ポインティングと呼ばれるアマチュア騎手の間で行われる障害競走もまた行われ、障害競走に対する認知度が高いこともあって、障害競走の人気は平地競走を上回るものであり、イギリスのレーシングポストで企画された20世紀の人気競走馬100選では1位アークル、2位デザートオーキッド、3位レッドラム、4位イスタブラクと上位4頭が障害馬で占められた(平地の競走馬は5位のブリガディアジェラードが最高位)。また、馬券の売り上げも障害競走が平地競走を圧倒しており、アイルランドの主要ブックメーカーのひとつであるパディーパワーが発表した2014年の英愛競馬売上上位20位では、平地競走ではダービーステークスが7位にランクインしたのみであり、残り19競走はすべて障害競走となった。売上の1位はグランドナショナル、17位はアイリッシュグランドナショナルであり、残り17競走はチェルトナムフェスティバルのレースで占められた。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "イギリスでは平地競走が約5300施行されるのに対し障害競走は3300競走が行われ、アイルランドでは平地競走900に対して障害競走は1300と障害競走の方が多くなっている。障害競走はグレード制が導入されているが、平地と異なり、レースレベルのみで格付けされているわけではない。そのため、賞金額においてもG1>G2>G3が必ずしも成立しない。実際、英愛それぞれの賞金総額のトップの競走であるグランドナショナル、アイリッシュグランドナショナルは共にG1ではない。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "競馬場は自然の地形を利用しており、起伏の激しいコースが多い。ハードル、チェイス、そしてナショナルハントフラットレース(障害馬用平地競走)はすべて競走距離の最低が2マイル(約3218m)となっている。ハードル、チェイスとも2マイル前後の短距離路線、2マイル半前後の中距離路線、3マイル以上の長距離路線に分かれて競走体系が組まれている。ただし、イギリスの全天候馬場併用競馬場(サゾルやリングフィールドなど)で同馬場(ファイバーサンドやポリトラック)を用いて行われるものや、あるいは芝においても3歳馬限定条件のナショナルハントフラットレースでは2マイルよりも短い距離での競走が施行されている。発走にはバリアー式発馬機などを使用する。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "障害はハードルは3フィート1/2(約107cm)以上、チェイスは4フィート1/2(約137cm)以上(水濠を除く)と定められており、1レースでハードルは2マイルの競走で最低8回、以後1/4マイル毎に1回以上、チェイスは2マイルの競走で最低12回、以後1マイル毎に6回以上と定められている。チェイスの障害は日本の竹柵と似ているが、より幅が広く木の枝を束ねた固い障害であり掻き分けて飛越することは困難である。これの手前に空堀を設けたものをオープンディッチ、後方に水濠を設けたものをウォータージャンプと呼ぶ。オープンディッチは1マイル毎に1つ、ウォータージャンプはコース上に1つ以上と定められているが、ウォータージャンプについては近年設置していない競馬場も多い。英愛の競馬場ではほぼ全ての障害が基本的に同じ形をしているが、エイントリー競馬場のグランドナショナルなどに使用されるナショナルフェンスと呼ばれる障害はトウヒの枝を積み上げた独特のものであり、またクロスカントリーコースやバンクコースなどと呼ばれるコースでは丸太や土塁、バンケットなどの障害が設置され、伝統的なクロスカントリー競走が行われている。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2007/08シーズンはG1が30競走、G2が63競走、G3が25競走施行された。障害競走が最も盛り上がりを見せるのは3月にチェルトナム競馬場で開催されるチェルトナムフェスティバル、そして4月にエイントリー競馬場で開催されるグランドナショナルミーティングである。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "チェルトナムフェスティバルでは4日間の開催で20万人以上の観客が押し寄せる。12ものG1競走が施行され、中でもチャンピオンハードル(Champion Hurdle)、チェルトナムゴールドカップ(Cheltenham Gold Cup)というハードル、チェイスの最高峰のレースが行われる。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、グランドナショナルミーティングのメイン競走であるグランドナショナル(Grand National)は創設以来170年に及ぶ伝統のハンデキャップ競走であり、4マイル1/2(約7.2km)という非常に長い距離と、ハンデ戦ゆえの40頭という多頭数による迫力のある過酷なレースが行われることから、エプソムダービーよりも遥かに高い視聴率と売上を誇る。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "5月から9月までの夏障害では、およそ800競走が行われるが、ほとんどが下級条件戦であり、リステッド競走がわずかに行われる程度である。逆に冬の期間は以前は障害競走のみで平地競走は行われなかったが、現在はオールウェザーが普及したため平地競走も数多く施行されている。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "G1競走はハードルとチェイス、距離、そしてノービスのためのG1とカテゴリにより細分化され、それぞれにほぼ平等に割り振られている。格付けは英国競馬統括機構(BHA)の障害競走小委員会(Jump Racing Sub Committee)によって決定される。格付けには基準となるレーティングが定められており、過去3年の上位4頭の平均がG1なら155、G2は145、G3は140、ノービスはそれぞれ135、125、120、NHフラットは130、120の各レートを満たす必要がある。ただし、G1競走については馬齢、セックスアローワンス以外は定量で行わなければならず、G2は馬齢重量かハンデ幅を抑えたリミテッドハンデキャップ、そしてG3はハンデキャップ競走でなければならない。例を挙げるとグランドナショナルは2006年から2008年のレーティングが155.71でありG1の基準を満たしているが、同競走はハンデキャップ競走であるのでG3に格付けされる。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "その他、競走レベルによってクラス1からクラス6まで分かれており、グレード競走、リステッド競走は全てクラス1に位置している。ハンデキャップは最大で12ストーン7ポンド(79.4kg)、最低で9ストーン7ポンド(60.3kg)であるが、大半の競走においては12ストーン(76.2kg)から10ストーン(63.5kg)までに設定される。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2007/08シーズンはG1が28競走施行された。イギリスとは異なり、アイルランドではハンデキャップ競走は別枠としてグレードA、B、Cという格付けを行っている。障害競走が最も盛り上がりを見せるのは4月にパンチェスタウン競馬場で行われるアイリッシュナショナルハントフェスティバル、そして復活祭の時期に合わせて概ね4月にフェアリーハウス競馬場で行われるイースターフェスティバルである。前者はパンチェスタウンギネスゴールドカップなど数多くのG1競走が行われ、後者は伝統の大レースであるアイリッシュグランドナショナルが行われる。夏障害でも多くの競走が施行され、一部でグレード競走も行われている。",
"title": "イギリス・アイルランドの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "全国的に障害競走が行われ、競走数は平地競走4500に対して障害競走は2200ほど行われる。障害競走は年間を通して行われ、平地競走との混合開催と単独開催両方がある。ハードル、チェイスともに一般競走は多くが3000mから4000mの間で施行されるが、重賞競走は最低距離は3500mであり6割以上が4000mを超えるものとなっている。またクロスカントリー競走も行われており、これは全ての競走が4000m以上である。コースは基本的に平坦であるものが多く、人工的な坂路や多様な障害を設置している。発走には発馬機を使用しない。障害馬は英愛のノービスのような障害経験でなく、3歳戦、4歳戦といった馬齢による区分がなされている。",
"title": "フランスの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "グループ制が導入されており、G1が9競走、G2が11競走、G3が28競走行われ、格付けと賞金はほぼ連動している。パリの障害競走専門の競馬場であるオートゥイユ競馬場が中心となっており、パリ大障害やラエ・ジュスラン賞などの全てのG1競走はここで行われる。",
"title": "フランスの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "全国的に障害競走が行われ、競走数は平地370に対して障害競走は160ほど行われる。障害競走は3月から10月までとなっており、最大の競走はパルドゥビツェ競馬場で行われるヴェルカパルドゥビツカである。",
"title": "チェコの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "中山グランドジャンプを3連覇したカラジやセントスティーヴンなどハイレベルな障害馬を持ち、ニュージーランドからの遠征馬も多かったが、近年障害競走における死亡事故が動物の権利の観点から問題視され、障害の難易度を低下させるなどの対策をとったものの、事故率の低下にはつながらず、競走数の削減や、州単位での廃止が相次いでいる。その為、現在障害競走が行われるのはビクトリア州と南オーストラリア州のみである。かつてはクイーンズランド州、ニューサウスウェールズ州でも行われていたが、いずれもかなり以前に廃止しており、さらに2007年4月にタスマニア州が障害競走を中止、2010年シーズンをもってビクトリア州も障害レースを一旦廃止したが、その後、安全対策としてOne Fit Hurdleという新素材のハードルを導入して障害競走を復活させることになった。",
"title": "オーストラリアの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "かつての障害競走のシーズンは2月から7月までで、すべてが平地競走との混合開催となっていた。発走にはスターティングゲートを使用する。コースは平坦であり、チェイスでも距離も4000m以下のものがほとんどで、ハードルの最低距離は2800mとなっていた。7割弱がハードル競走であり、使用するハードルは40cmほどの飛越でクリアが可能であった。またチェイスの障害も低く、掻き分けやすい人工素材が使用されており難易度は低い。競走の格付けはなされていないが、15競走が重賞として施行されており、主要な競走にはフレミントン競馬場のグランドナショナルスティープルチェイス、ムーニーヴァレー競馬場のヒスケンススティープルチェイスなどがあったが、いずれも現在では実施されていない。",
"title": "オーストラリアの障害競走"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "全国的に障害競走が行われ、2008年はアマチュア騎手の7競走を含め、年間123競走が施行される。障害競走のシーズンは4月後半から9月末までであり、すべてが平地競走との混合開催となっている。ハードルは競走距離が短く、重賞競走以外は2400mから3200mまでで行われるのに対し、チェイスは大半が4000m以上の競走となっている。発走にはスターティングゲートを使用するが、一部のチェイスでは発馬機を使用しない。ハードル競走は基本的に平地競走のコースに小規模な置障害を設置して行われる。チェイスでは専用のコースを使用するが、専用のコースがない競馬場ではチェイスを施行しないか、平地競走のコースにチェイス用の置障害を設置する。チェイスの障害は生垣障害が多く、連続障害や丘を利用したコースあり、全体的に難易度はオーストラリアよりかなり高めである。",
"title": "ニュージーランドの障害競走"
},
{
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"text": "障害重賞はプレステージジャンプレース(PJR)と呼ばれ、グレード制が導入されている。6競走がG1に格付けされており最大の競走はエラズリー競馬場のグレートノーザンスティープルチェイスである。",
"title": "ニュージーランドの障害競走"
},
{
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"tag": "p",
"text": "アメリカで初めての障害競走は1834年にワシントンD.C.で行われた。",
"title": "アメリカ合衆国の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "現在障害競走が行われているのはペンシルベニア州、メリーランド州、バージニア州などの東部の複数の州であり、競走数は200程度である。障害競走のシーズンは3月から5月の春シーズン、そして9月から11月の秋シーズンに分かれており、夏場にもいくつかの競走が行われている。基本的に障害競走専用の競馬場での単独開催となるが、夏場を中心にサラトガ競馬場などで平地との混合開催も行われている。",
"title": "アメリカ合衆国の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ハードルとチェイスの区別はないが、障害はナショナルフェンスとティンバーフェンスの2種類があり、ナショナルフェンスが主に使用され高さは4フィート4インチ(約132cm)以上となっている。これは日本の竹柵に近いが幅が狭く、掻き分けやすい障害である。また、ティンバーフェンスは木製の柵となっており、太い横木を数段並べている。高さは競馬場によって差があり、また衝撃を受けると落下するものもある。またトレーニングフラットと呼ばれる障害馬用の平地競走も行われているが、これには基本的に主催者側から賞金は支給されない。",
"title": "アメリカ合衆国の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "競走距離はトレーニングフラットを除きすべて2マイル以上となっており、ティンバーフェンスを使用する競走は3マイル以上で行われる。発走にはスターティングゲートを使用しない。斤量は競走により差があり、130ポンド(59.0kg)から180ポンド(81.6kg)まで様々である。グレード制が導入されており、9競走がG1に格付けされている。なお、ティンバーフェンスのグレード競走はない。主要な競走にはグランドナショナルハードルがあり、またカロライナカップ、テンプルグワスメイ、ナショナルハントカップの3競走でノービス三冠を形成している。",
"title": "アメリカ合衆国の障害競走"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "現在はサラブレッドであることがほとんどであり、日本やアメリカではサラブレッドに限定されているが、フランスなどでは非サラブレッドの競走馬(例えばAutre que Pur-sang)も出走している。最初から障害競走用として生産される馬と、平地競走から転向する馬と二通りがあるが、ヨーロッパ以外の地域では平地競走からの転向が大半である。また、オセアニアを中心に障害競走に出走するようになってもシーズンオフなどに平地競走にも出走する馬も多い。英愛では特にバンパーでレースの経験を積み、その後ハードルへと駒を進め、飛越が上達すればチェイスへと進むという手順を踏むことが一般的である。それとは別に、アマチュア障害競馬のPoint-to-Pointで経験を積んだ馬が転向してくるケースも珍しくない。身体能力以外に飛越技術も問われるため、平地に比べて経験の豊富な高齢馬が活躍しやすい。",
"title": "障害競走の競走馬"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "障害競走でデビューする前に、気性を抑えて扱いやすくしたり、怪我を防止するためほぼ全ての牡馬は去勢し騸馬となる。そのため障害馬の種牡馬は基本的に平地競走馬であり、平地競走よりスタミナが豊富な種牡馬が好まれる。しかし、日本では騸馬が極端に少なく、多くの馬が去勢されることのないままレースに出走している。",
"title": "障害競走の競走馬"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "日本では競馬学校設立以前は障害競走のみの騎乗免許も取得可能であったが、現在中央競馬の騎手は競馬学校を卒業した若手騎手は平地と障害両方の免許を取得する。それ以外の騎手に関して、海外・地方競馬から移籍した騎手は全員平地のみの取得であり、唯一、馬術競技から転身した小牧加矢太は障害のみの取得となっている。",
"title": "障害競走の騎手"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "以前のケースでは、年齢を経るごとに体重が重くなった騎手が、平地免許を返上して障害専門騎手になるケースが多かった。現在では、平地との斤量差が小さいこと、そして障害競走の競走数の問題もあり、障害競走専門の騎手は減少し、多くの騎手が平地競走への騎乗も行っている。",
"title": "障害競走の騎手"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "かつては岡部幸雄、南井克巳、的場均、柴田善臣、横山典弘などといった平地でもトップクラスの騎手も、デビューから数年間は障害競走にも騎乗した経験があり、いずれも勝利を挙げるなど、障害戦の騎乗は一般的に行われていた。1984年のグレード制導入以降、熊沢重文や岡冨俊一、柴田大知(後に平地競走に専念)などのように障害戦との騎乗を両立させながら平地・障害双方の重賞を制した騎手も複数存在する。ただし、障害競走は落馬の発生が平地競走よりも多く、平地競走よりもリスクが高いと考えられており、賞金に対する騎手の取り分が7%と平地における5%より多くなっており、また騎乗手当も平地を上回っている。",
"title": "障害競走の騎手"
},
{
"paragraph_id": 76,
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"text": "こうしたリスクもあり、若手騎手のうちは両方の免許を持っていても、平地である程度活躍するなどして、一度も障害競走に騎乗することなく障害の免許を返上するケースがある。また、小島貞博や根本康広のように障害戦で重賞を勝利した騎手が、年齢を経て平地での騎乗が多くなるようになり、障害免許の返上に至る事もある。逆にあまり活躍できず、減量特典が失われた段階で、騎乗数確保を求めて障害競走に騎乗するケースが多い。近年ではデビュー間もない騎手の障害戦騎乗は前出の小牧加矢太(初免許時から障害限定免許)のような例を除いて、非常に少なくなっている。",
"title": "障害競走の騎手"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2013年までは、第三場で障害競走は行われなかったが、第三場では若手騎手限定競走が行われることが多く、多くの若手騎手は遠征する。これらの結果、障害競走に通年で騎乗する騎手が少ない状況にある(逆に、障害競走に騎乗するため、若手騎手限定競走に騎乗可能な騎手も不足気味で、こちらも若手ではない騎手が騎乗する問題が発生している)。その結果、2013年1月20日には、前日1月19日に2名の障害騎手が落馬負傷し、20日に障害競走に普段から騎乗している騎手が他にいなかったために、騎乗予定だった2頭いずれも出走取消になる事態が発生している。2014年以降は、重賞や一部のオープン特別を除き、第三場での開催が基本となるように改善されたため、障害を主戦に転向した若手騎手が若手騎手限定競走に参加しやすくなるなど改善された。また、同一日に同一施行場で障害競走が複数回組まれる場合は、原則として出走頭数が多い競走が先に行われる。",
"title": "障害競走の騎手"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "欧米では女性の障害騎手も多く活躍しているが、JRAでは女性騎手が増加傾向ではあるものの障害競走への挑戦例は極めて少なく、2023年の時点まで板倉真由子と西原玲奈の2名しかおらず、いずれも数戦(西原に至っては障害初戦で落馬し重傷を負っている)で挑戦を断念している。ただし、短期騎手免許で来日したロシェル・ロケット(ニュージーランド)がギルデッドエージで2002年の中山大障害を制しており、JRAでは唯一の女性のGI(級)優勝騎手となっている。",
"title": "障害競走の騎手"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "欧米ではアマチュア騎手との交流が盛んで、1990年にミスターフリスクでグランドナショナルに優勝したマーカス・アーミテージなど多くのアマチュア騎手が大レースを制している。また、英愛では競走数が多いこともあり、トニー・マッコイが2001/02シーズンに記録した289勝は平地競走のそれを上回っている。",
"title": "障害競走の騎手"
}
] |
障害競走(しょうがいきょうそう)は競馬の競走の一種であり、コースに設置された障害物を飛越しながらゴールに到達する早さを競うものである。
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{{Otheruseslist|競馬のジャンプレース|陸上競技のハードル競技|ハードル競走|陸上競技の障害物競走|障害物競走 (陸上競技)|運動会の種目|障害物競走}}
{{出典の明記|date=2015年6月}}
[[ファイル:Steeplechase 0909.JPG|thumb|300px|障害を飛越するパリスフォンテン(桃帽)とドンアドヴァイタ(黒帽)<br/>2009年9月、[[中山競馬場]]]]
'''障害競走'''(しょうがいきょうそう)は[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]の一種であり、コースに設置された障害物を飛越しながらゴールに到達する早さを競うものである。
== 概説 ==
障害競走は途中の定められた障害の飛越を行う点で[[平地競走]]と異なるが、[[馬術]]の[[障害飛越競技]]とも異なり飛越そのものは評価の対象とならず、他の競馬の競走と同様に決勝線に到達した順に順位が決定される。また、障害飛越の際に飛越失敗による転倒や騎手の[[落馬]]が起こることがあるため、スピードを抑え安全な飛越を行わせるために競走は全て長距離で行われ、[[負担重量]]も平地より重くなるように設定されている。
[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]などでは障害競走専用の[[競馬場]]が存在するが、多くは平地競走または速歩競走にも使用されている。これらと混合して開催するか、障害競走単独の開催を行うかは、その地域によって異なる。なお、発走の際に平地競走と同様に[[発馬機#ゲート式|スターティングゲート]]を使用することは少なく、[[日本]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]など一部の国に限られる。その他の地域ではスターターが旗を振って合図するもの、またはスタート地点に紐を張り、その手前に馬を整列あるいは後方に待機させ、紐を跳ね上げることによって合図とする[[発馬機#バリヤー式|バリアー式]]と呼ばれる発走方法を使用する。
走路は[[芝]]を使用し、平地競走においてダート、または[[オールウェザー (競馬)|オールウェザー]]で競走を行っている場合でも基本的にそれらの馬場を使用することはない{{efn|[[イギリス]]においては、一部の競馬場でオールウェザーでハードル競走が行われていたが、安全性を理由に現在ではNHF以外は施行されていない。また、[[スイス]]の[[サンモリッツ]]では2月に氷結したサンモリッツ湖の上([[サンモリッツ競馬場]])で平地、速歩競走と共に障害競走も行われていたが、現在は廃止されている。}}。ただし、一時的に横切ることはあり、日本では最後の直線走路に障害を設置せず、ダートを使用するものもある。芝コースについては障害競走専用の走路を使用する場合が多いが、平地競走を施行する競馬場では平地競走と同一のものを使用、または一部で使用することもある。
障害競走には使用する障害の種類によってハードル (置障害競走)、そしてスティープルチェイス(固定障害競走) の2つの区分を持つ国が存在し、イギリスでは2つをまとめて[[ナショナルハント]]と呼称している。<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=イギリス文化と近代競馬 |date=2013年10月25日 |publisher=彩流社 |pages=45-47}}</ref>ハードルは小さく取り外しのできる障害であり、比較的平地競走に近い障害競走であるのに対して、スティープルチェイスは障害物が大きく生垣、空濠、水濠などの多種多様な固定障害が設置され、正確な飛越が求められる障害競走である。ただし、イギリスと[[アイルランド]]を除き国際的な規格はなく、スティープルチェイスでも障害が小規模であり、また移動可能なものもあるため厳密な区分ではない。なお、スティープルチェイスの名称は障害競走一般を指す言葉でもあるため、イギリスやアイルランドでは固定障害競走について特にチェイスと呼んでいる。また、日本で行われる障害競走は[[日本中央競馬会]]が発行する英文の刊行物においてはsteeple-chaseと表記される。
その他に障害馬専用の平地競走やノービスと呼ばれる競走経験の少ない馬限定の競走を行う国もあるが、2、3歳でほとんどの馬がデビューする平地と異なり、高齢になってから初出走を迎えることも一般的に行われているため、[[ダービーステークス|ダービー]]のような特定の馬齢に限定した競走は行われていないか、小規模となっている。
== 障害競走の起源 ==
[[ファイル:steeplechase_20040501_141405_2.jpg|thumb|300px]]
障害競走の起源には狩猟の文化が強く影響しており、初期の競走には馬に乗って猟犬を追いかけるものもあった。最初の障害競走は[[1752年]]に[[アイルランド]]においてコーネリアス・オーカラガンとエドマンド・ブレークとの間で行われた、バターバント教会からセントレジャー教会の尖塔(Steeple)を目指しての約4.5マイル[[マッチレース]]であるとされる。初期の障害競走は[[競馬場]]で行われるものではなく、[[クロスカントリー]]の形式で行われ、障害もレースのために用意されたものでなく、牧場の囲いや小川、天然の生垣などを飛越していた。発馬地点や走路に明確な規定はなく、通過すべき障害の地点に係員が立ち、旗を振って誘導を行った。
農村での[[囲い込み]]運動によって仕切りや開墾地の整備が進んだ結果、障害レースが容易に実行できるようになった。<ref name=":0" />[[1788年]]には[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]]で2頭立ての4マイル余りのレースが、[[1792年]]には[[レスターシャー|レスタシャ]]で記録上最初の多頭数による8マイルのスティープルチェイスが行われた。<ref name=":0" />
当時の障害競走は未整備の原野で行われたため騎手、馬ともに大変危険を伴ったため、良馬を潰してしまうという批判が根強かったが、イギリス及びアイルランドで民衆の熱狂的な支持を集めた。しかし、平地競走における[[ジョッキークラブ]]のような統括組織が存在しなかったため、施行規則が整備されず不正も横行した。
しかし[[19世紀]]に入ると競馬場や人工の固定障害などが用意されはじめ、[[1821年]]には初のハードル競走がイギリスのブリストル近郊のダータムダウンで開催、[[1830年]]からは障害レースの父と称される人物、[[トマス・コールマン]]が[[セント・オールバンズ|セント・オルバンズ]]で野原を利用したスティープルチェイスを開催、[[1830年代]]より[[チェルトナム競馬場]]、そして[[エイントリー競馬場]]が障害競走の中心地として認められるようになり、[[1836年]]にはエイントリー競馬場で[[グランドナショナル]]が創設される。[[1863年]]にイギリスの障害競走の全国統一機関であるNational Hunt Committeeが誕生し、[[1870年]]ごろまでに施行規則を整備した([[1969年]]にジョッキークラブの傘下として統合される)。
== 日本の障害競走 ==
=== 歴史 ===
==== 創設〜戦前 ====
日本では[[居留地競馬]]の時代に障害競走が行われていた。中でも1860年9月1日に横浜外国人居留地にて開催されたレースの中に障害競走が含まれていたことが、アメリカ人商人であるフランシス・ホールの手記に記されており、これが日本の障害競走に関する最古の記録である<ref>{{Cite journal|和書|author=澤護 |title=横浜居留地のフランス社会(1) : 幕末・明治初年を中心として |journal=敬愛大学研究論集 |year=1993 |month=sep |issue=44 |pages=131-170 |naid=120006016094 |url=http://id.nii.ac.jp/1341/00001941/ |accessdate=2021-06-01}}</ref>。また、[[祭典競馬]]としても行われており、[[1887年]][[5月6日]]に[[靖国神社]]で施行されたという記録がある。距離は500[[間]](909m)の馬場を1周というものだった。
公認競馬の開始後は、[[1908年]]に[[札幌競馬倶楽部|北海道競馬会]]が新設した子取川競馬場(現:[[札幌競馬場]])において障害競走を創始した<ref name="keibasi4 p.1002">[[#keibasi4|『日本競馬史 第四巻』 p.1002]]</ref>。同年春季に行われた最初の競走は距離1[[マイル]]で争われ、友成玉之助所有のキンツルが122秒で優勝した。これは平地競走の走路に小規模な置障害を設置して行われるものであり、競走距離は1マイル、1マイル1/8の2種類、つまり1600m - 1800mで行われ、800m - 1800mで行われた当時の平地競走とほぼ同条件であった。その後[[1915年]]の[[目黒競馬場]]において日本で初めて障害競走専用の走路が設置された<ref name="keibasi4 p.1002" />。なお専用走路の設置にあたっては、[[馬政局]]から[[東京競馬倶楽部]]に対して補助金が与えられた<ref name="keibasi4 p.1002" />。
[[1923年]]に[[競馬法]]が実施された後に、それまで障害競走を実施していなかった[[競馬倶楽部]]でも次第に障害競走を行うようになった。当時は施行数が少なく競走距離は2000m前後で行われ、また障害飛越数が3回以下の競走もあるという低レベルな状況であったため、陸軍は良質な[[軍馬]]生産のため競走数の増加、競走距離の延長、また高さ120cmの固定障害や置障害を使用するなどの障害競走の高度化を指示した。
[[1924年]]に東京競馬場で障害の高さ、幅を変更した際に、騎手の拒否により春季開催での障害競走がすべて不成立になるといった混乱も見られたが、競走数は大幅に増加を辿り、同年には全国で平地競走552回に対し僅か34回であったものが、6年後の[[1930年]]には平地競走1049に対して276の競走が施行された。そして[[1934年]]には中山に坂路と大規模な障害を備えた馬場が完成し、現在まで続く[[中山大障害]]の創設がなされた。
===== 主要競走(1940年、呼馬) =====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!開催場!!競走名!!距離!!1着賞金
|-
|中山||[[中山大障害|中山農林省賞典障碍(春)]]||芝4100m||10000円
|-
|京都||rowspan="2"|古呼馬障碍特別(春)||芝4030m||rowspan="4"|6000円
|-
|東京||芝4050m
|-
|京都||rowspan="2"|古呼馬障碍特別(秋)||芝4030m
|-
|東京||芝4050m
|-
|小倉||小倉農林省賞典障碍||芝4040m||7000円
|-
|中山||中山農林省賞典障碍(秋)||芝4100m||10000円
|}
*参考 [[帝室御賞典]]15000円、[[東京優駿]]10000円、[[目黒記念]]6500円、[[桜花賞|中山四歳牝馬特別]]5000円
※「障碍」は[[1945年]]の[[当用漢字]]告示まで使用されていた表記である。当用漢字に「碍」が採用されず、[[1956年]]には[[国語審議会]]報告「[[同音の漢字による書きかえ]]」で「[[障害]]」への書き換えが指示された。中央競馬の競走では[[1970年]]より「碍」が「害」に、「盃」が「杯」([[大阪杯]]など)に切り替わった。
===== 施行状況 =====
{| class="wikitable" style="text-align:right"
!年度!!競走数!!2300mまで!!2400m - 2980m!!3000mから!!平地競走数
|-
|[[1926年]]||28||28%||57%||15%||697
|-
|[[1929年]]||146||37%||51%||12%||1000
|-
|[[1932年]]||357||41%||54%||5%||1125
|-
|[[1935年]]||403||4%||87%||9%||1075
|-
|[[1937年]]||478||rowspan="3"|0%||89%||11%||1000
|-
|[[1939年]]||536||69%||31%||953
|-
|[[1941年]]||598||64%||36%||954
|}
==== 戦後 ====
中央競馬は[[1946年]]秋から再開したが、戦中に接収された影響で東京競馬場は本馬場も含めて全て畑、京都競馬場も固定障害が全て撤去されているなど、障害馬場の復旧には時間を要した。この年はすべて4歳馬の競走となり障害競走は行われていない。[[1947年]]春より中山競馬場で数レース行われ、秋には京都競馬場、[[1948年]]春には東京競馬場の障害馬場が完成し、その後全ての開催場で障害競走が復活した。なお、函館、札幌競馬場では[[1950年代]]半ば以降障害競走は再び休止されている。
戦後は勝利に恵まれない平地競走馬を移行させるという目的で行われていたが、戦後の混乱による馬資源の不足もあり、量の不足と質の低下を招いた。[[1940年]]前後は5歳、6歳となった競走馬はアラブ系では大半、サラ系でもその多くが障害入りしたが、戦後は賞金水準の高い南関東を筆頭に多くの古馬が地方競馬に流出し、障害入りする馬が著しく減少した。[[京都大障害]]をはじめとする障害重賞の創設や出走条件の緩和などの振興策によって改善されたものの、平地競走の出走数の急激な増加の前に水をあけられ、慢性的な頭数不足は近年になるまで完全には解消されなかった。
アラブ系障害競走も復活したが、中央競馬のアラブ系競走馬は、[[昭和]]20年代半ばより抽選馬のみ出走可能と改められた事もあって在厩頭数自体が少なく、障害競走に出走する馬はさらに少なかった。また、アラブ系障害には戦後しばらくの間は重賞競走が存在しなかったが{{efn|平地における[[福島記念]]、[[函館記念]]などと同様にアラブ系障害の3重賞も現在は重賞としてカウントしていないほぼ同等の競走が障害競走再開後すぐに始まっている。}}、[[1956年]]にアラブ系障害競走の振興のため[[阪神競馬場]]で[[アラブ大障害]]が創設された。同年はサラブレッド系障害169競走に対して、アラブ系は153競走が行われ、最も施行された[[1958年]]には175競走となり、176競走行われたサラ系とほぼ同数の競走が施行された。同じ競馬場で1日に3競走(アラブ・サラ系)の障害競走が行われる事もあったが、通常は1日2競走程度の実施となっていた。
アラブ系障害競走には、[[1960年]]に[[中山アラブ障害特別]]及び[[東京アラブ障害特別]]が創設されたが、前述の理由により、出走頭数がサラ系障害競走と比べて揃わず、メンバーも固定化されていった事から、ファンの興味も低下していった。[[1965年]]にはアラブ系障害競走はわずか66競走が施行されるにとどまり、同年をもってアラブ大障害、中山アラブ障害特別、東京アラブ障害特別はいずれも廃止。翌[[1966年]]は8競走を施行し、これを最後にアラブ系障害競走は全廃された。
障害競走の施行距離、障害の難易度は、戦後に短縮、易化された。1950年代以前は中山大障害などの一部の重賞競走を除いて距離、障害数共に少なく、1956年時点では障害競走の平均施行距離は2400mだった{{efn|最も短かったのは[[中京競馬場]]の2000mで、[[小倉競馬場]]を除き、2200mに満たない距離設定があった。}}。その後も芝コースの幅員増やダートコース新設の影響で障害コースが狭まり、スピード化に対する安全策から障害も小型化された。また騎手の負担重量の見直しも行われた{{efn|見習騎手が51kgや52kgで騎乗する事もあった。}}。
[[1960年代]]後半になると、サラ系障害競走についても強い馬が出なくなり、人気が低下していった。競走馬生産頭数の増加に伴い平地競走の増加を求める声が上がり、関西では、不人気の[[繋駕速歩競走]]が廃止されると共に、障害競走についても競走数の削減が行われ始めた。平地競走の充実化が進むのに引き換え、障害競走に対しては賞金面での優遇にもかかわらず、出走頭数の増加が止まっていた。競走数の削減に合わせて障害専門の騎手も減り、障害競走に騎乗する騎手も大半が見習い騎手となり、技術の未熟化も進んだ。
[[1970年代]]に入ると障害を大きく、負担重量を増やしてスピードを抑える安全策に転換されたことから、一般競走の距離延長、東京の襷コースの大障害コースとするなどの障害の高度化が行われた。競走距離については[[1978年]]には平均距離が3000mを越えた。
しかし、以後も障害競走の競走数は減少の一途を辿り、サラ系障害競走は[[1966年]]にアラ系障害競走の廃止に伴い最多の250競走施行されたが、[[1980年]]には175競走、そして[[1997年]]には129競走まで落ち込んだ。重賞競走については、[[1984年]]に平地競走は[[グレード制]]導入に伴い[[全国発売競走]]となったが、障害競走については見送られ、平地競走との差が生じることになった。
そこで[[1999年]]より[[日本中央競馬会]]は以下のような番組改革を行った。
* 障害競走の[[競馬の競走格付け|グレード制]]導入
* [[新潟障害ステークス]]及び[[小倉障害ステークス]]の重賞格上げ([[新潟ジャンプステークス]]・[[小倉サマージャンプ]])
* [[イルミネーションジャンプステークス]]などの特別競走の増加
* 400万以下の廃止([[日本の競馬の競走体系#中央競馬]]も参照)
* 重賞、特別競走に「ジャンプ」の名称を使用(中山大障害を除く)
他にも障害専用ファンファーレ([[三枝成彰]]作曲)の導入や特別イベントとしてレース終了後に騎手が実際にコースを案内するミニツアーも行い、[[2000年]]より[[中山グランドジャンプ]]が障害競走としては世界初となる国際招待競走となった(中山大障害も2011年から国際競走となっている)。
この改革により、障害にも飛越の安全性向上のため、踏切板を設置し、障害の側面に馬が足をぶつけても怪我をしないようにラバー加工が施された。
その後2000年の中山大障害では創設以来初となる16頭フルゲートで行われるなど競走頭数が大幅に増加し、改革後は大半の競走がフルゲートで施行されている。しかしながら、後述するように障害に騎乗可能な騎手が不足気味であり、騎手の確保問題に起因する出走取消も発生している。この問題に鑑み、2014年からは第三場(2020年までの冬季小倉競馬および夏季北海道開催は除く)での開催が基本とされることになった。
なお、[[地方競馬]]の障害競走については、各地で置き障害や襷コースを使用した障害競走が施行されていたが、[[1974年]]に廃止された[[春木競馬場]]を最後に現在は行われていない([[競馬法|競馬法施行令]]第17条の4により施行することはできる)。[[船橋競馬場]]や、旧[[名古屋競馬場]]など一部の地方競馬場には、障害コースの名残が見られる。
=== 施行状況 ===
2020年現在、年間125競走施行される<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2020/pdf/gai01.pdf#page=3|title=令和2年度春季競馬番組の概要について |page=3|publisher=日本中央競馬会|date=2019年11月24日|accessdate=2020年10月27日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2020/pdf/gai02.pdf#page=4|title=令和2年度夏季競馬番組の概要について |page=4|publisher=日本中央競馬会|date=2020年4月19日|accessdate=2020年10月27日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2020/pdf/gai03.pdf#page=3|title=令和2年度秋季競馬番組の概要について |page=4|publisher=日本中央競馬会|date=2020年8月2日|accessdate=2020年10月27日}}</ref>。
馬のクラスは未勝利とオープンの2つのみである(かつては、未勝利、400万円以下条件、オープンと3つのクラスがあり、さらに以前には、条件戦のクラスがさらに数クラスに分類されていた)。他国で見られるハードル・ノービスの競走は行われない。賞金は競走格に応じて完全に固定されている。
競走はかつては東西主場で1日について1レースづつ(東西主場で競走が行われてる場合は第三場では競走を行わなかった)で、普通競走の場合は昼休み前に割り当てられていた(第4レースないしは第5レース)が、2014年以降、障害競走が第三場中心で行われるようになり、障害競走が2レースの場合でも同一場で障害競走が組まれるようになったため、主に土曜日の開催日で1日に障害競走が2レース行われる場合がある。
*1980年代の終わりまでは、稀に1日2レースの障害競走が行われる日があり、その時は、平地競走を1レース挟んだ形で、第3競走と第5競走または第4競走と第6競走というように行われていた。
*2014年以降、1日に2レースの障害競走が行われる場合は、昼休みを挟んで第4競走と第5競走の連続で行われるパターン(1月 - 4月、11月 - 12月の期間)もしくは、第1競走に行った後に平地競走を2レース挟んで昼休み前に第4競走で組まれるパターン(5月 - 10月{{efn|例外として前日からの移動を伴う場合はこの期間であっても、第1競走に設定されず第4・5競走に設定され、騎乗予定騎手の移動の負担を軽減するための編成が取られるようになっている(例:京都ハイジャンプの翌日に新潟で未勝利戦2競走が組まれているが、第4・5競走の設定となっている)。}})のどちらかで行われている。
*2019年以降、暑熱対策で、夏季競馬の全期間と、秋季競馬のうち4回阪神・4回中山の期間中は、原則として、1日2鞍施行時と、重賞・特別等を除き、障害競走は原則として、第1競走に設定される。
*特別競走や重賞競走の場合は大半が第8競走に割り当てられている。ただしJ・G1として施行される中山グランドジャンプは第11競走、中山大障害は第10競走に組まれているほか、2023年の夏季競馬より、暑熱対策などとして[[新潟ジャンプステークス]]、[[小倉サマージャンプ]]については、重賞競走ではあるが第4競走に編成されることとなった{{efn|2022年までは両レースとも第8競走(14時頃発走)に編成されていたが、2022年の新潟ジャンプステークス(7月30日)ではレース後に顕著な熱中症を発症する馬が続出し、中でもテイエムコンドルが遅れて13着でゴール入線後に倒れ、その後死亡している<ref>[https://keiba.nikkan-gendai.com/articles/281958 【勝羽の土曜競馬コラム・栁都S】] - 日刊ゲンダイ競馬 2022年8月5日</ref>。また、同年の小倉サマージャンプ(8月28日)の翌日に新潟の第1競走に障害競走が設定されており、一部の騎乗予定騎手が小倉から新潟に移動するために便数の少ない新潟行きの飛行機に乗り遅れてしまい(同レースを制した[[石神深一]]の障害全場重賞制覇の記念セレモニーなども重なった)、羽田を経由して新幹線で新潟入りしたことで前日の調整ルーム入りが遅れ、対象となった石神、[[草野太郎]]、[[小牧加矢太]]、[[森一馬]]、[[伴啓太]]の5名が調整ルーム入室注意義務違反となり、過怠金30,000円の制裁を受けている<ref>[https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=202209030000188&year=2022&month=09&day=03 【障害競走】夏の新潟を締めくくる1Rと4R!今週から復帰する五十嵐騎手の手綱さばきも注目] - 極ウマ・プレミアム(日刊スポーツ)2022年9月3日</ref>。これらの事例が発生した事により人馬の負担軽減を図ったものとされている<ref>[https://tospo-keiba.jp/breaking_news/30148 夏の障害2重賞が第8競走から第4競走に変更 人馬への負担を軽減するため] - 東スポ競馬 2023年4月0日</ref>。}}。
[[東京競馬場]]、[[中山競馬場]]、[[京都競馬場]]、[[阪神競馬場]]、[[中京競馬場]]、[[小倉競馬場]]、[[新潟競馬場]]、[[福島競馬場]]の8つの競馬場で障害競走が施行されている。このうち、東京・中山・京都・阪神・小倉の5つの競馬場は芝コース及びダートコースの内側に固定障害の用意された専用コースがあり、これを使用して競走を行う。また、福島競馬場では次に述べる襷コースのみに固定障害が存在し、それ以外は芝コースに置障害を設置して競走を行う。また、中京・新潟では障害専用のコースがなく、全て芝コースで行われる{{efn|かつては、襷コースがあったが、新潟は2000年の、中京は2010 - 2011年のコース改修工事に伴い廃止された。}}。全ての競馬場において障害コースには決勝線がないため芝コースまたはダートコースのものを使用する。[[函館競馬場]]や[[札幌競馬場]]では障害競走は行われない{{efn|戦前から戦後しばらくの間は行われており、函館競馬場には専用コースも存在した。}}。
中山・阪神・小倉・福島の4つの競馬場には、周回コースのほかに、芝コースからダートコースを横断するかたちで設けられた走路もあり、「襷コース」とよばれる。襷コースを通ると周回の向きが逆になるため、スタート時の向きがゴール時の向きと逆になっている場合があるほか、両向きで飛越される障害についてはそれに対応した形をしている。[[競馬場#襷]]も参照。
2013年までは中京・小倉・新潟・福島の裏開催(第三場としての開催時)にも行われなかったが、前述の通り2014年からは第三場としての開催が主となる。但し関東馬の輸送面を考慮し第三場開催中でも2020年までは冬の小倉開催時については障害競走は行われず、東西主場で障害競走が組まれていた。2021年から冬の小倉開催時も障害競走が行われる。
レースの発走にはスターティングゲートを使用し、出走可能頭数は中山グランドジャンプ、中山大障害が16頭、小倉競馬場の2860mの競走では12頭、その他はいずれも14頭となっている。
未勝利競走は全て3000m以下で行われ、内柵の移動によるものを除き同一の競馬場で複数の距離設定はない。特別競走ではないオープン競走は、同一の競馬場の未勝利と同距離かそれより長く、これに対する特別、重賞競走もまた同様である。オープン競走は一部の平場のオープン競走を除けば大半のレースは3000m以上となっている。
斤量は60kg前後であることが多く、最低負担重量は3歳で56kg、4歳以上は57kgである。これは70kg前後で行われる他国の競走と比べ軽量となっている{{efn|1998年以前は55kg以下でも出走できた。さらに昭和40年代初めまでは、障害競走ながら見習騎手限定競走が存在した。}}。
=== 障害の種類 ===
==== 生垣 ====
障害コースの中では最も設置数が多い障害である。障害は土台とその上部の生垣で構成され、生垣については掻き分けて飛越することが可能である。飛越側には競走馬がスムーズな飛越を行うためにその目安となる踏切板が置かれ、また土台に傾斜を設けている。両面飛越が可能な障害ではこれらが両側に設置されている。障害の高さは土台と生垣を合わせて1.4mでほぼ統一されているが、幅(進路方向の厚み)は1.6mから2.4mまで様々である。なお、東京、中山、京都競馬場で障害重賞のみに使用する生垣は大生垣と呼ばれ、高さ1.5mから1.6m、幅は2.0mから2.9mと通常より規模の大きい障害となっている。中山競馬場の大生垣は特に有名で、レンガをモチーフにした土台が使われており(以前は東京競馬場でも使われていた)、『赤レンガ』の愛称で知られる。現在生垣障害として使われているのは[[マサキ]](柾)である。
なお以前は、地面から生垣が直接生えている障害のみ生垣障害と呼び、土の土台の上部に生垣が植えられた障害は、土塁障害と呼ばれていた。阪神や小倉のように途中から進行方向が変わるコースの場合、片面からのみ飛越するものは片面土塁(阪神の1.3号障害など)。両面から飛越するものは両面土塁(阪神の4・7号障害など)という呼び方もされた。しかし1999年の番組改革により、土塁型、生垣型ともに生垣障害という呼び名に統一。片面、両面という呼び方も廃止される。
[[ファイル:Hedge09.JPG|thumb|left]]
{{-}}
==== 竹柵 ====
生垣と共に設置数の多い障害である。障害は土台とその上部のブラシ状に逆立てた竹柵で構成され、生垣と比較して掻き分けにくく、飛越の高さが求められる。土台には飛越側に傾斜を設けられ、また竹柵は着地側になびかせている。障害の高さは1.2mから1.4m、幅は1.45mから1.8mであり、中山・阪神・小倉の各競馬場にはクラスによって障害の高さを調節できるものが設置されている。また、東京・中山競馬場で障害重賞のみに使用する竹柵は大竹柵と呼ばれ、高さはそれぞれ1.5m、1.6m、幅は1.65m、2.05mとなっている。
[[ファイル:Brush006.JPG|thumb|left]]
{{-}}
==== 水濠 ====
周回の障害コースをもつ競馬場ではそれぞれ1つ設置されている。障害は飛越側の生垣とその後方の水濠で構成され、飛越の高さより幅を求められる障害である。飛越が足りず、水濠に後肢を踏み入れるとバランスを崩すことになり、大きなロスにつながる。障害の生垣部分の高さは1.2m以下、幅は生垣と水濠を合わせて3.7mから4mとなっている。番組改編以前は、生垣の大きさが80cm以下と小さく、東京競馬場の場合は高さ50cmの小さな柵が使われていた。現在のような形の水濠障害は京都競馬場の旧大障害コースに存在した大水濠以外には見られなかった。なお、水濠障害に入れられる水は、出走馬の本馬場入場から競走終了の間のみ入れられる。またかつては、京都競馬場と小倉競馬場に水のない「空堀障害」も存在した。
[[ファイル:Waterjump.JPG|thumb|left]]
{{-}}
==== グリーンウォール ====
緑色の人工素材で作られた障害である。東京、阪神、福島競馬場にそれぞれ1つ設置されている。形状、大きさは竹柵とほぼ同じだが、より掻き分けにくくなっている。
[[ファイル:GreenWall001.JPG|thumb|left]]
{{-}}
==== バンケット ====
京都競馬場で障害重賞のみ使用される。飛び上がり飛び降り台とも呼ばれ、一時期はビッグスワンと言う愛称が付けられていた。飛越して障害の上部に乗り、その後一定距離走った後に飛び降りる必要がある。高さは0.8m、幅は15.9mである。昭和20年代までは、東京競馬場と小倉競馬場にも同様の障害があった。
[[ファイル:Banquette004.JPG|thumb|left]]
{{-}}
==== 置障害 ====
平地競走の芝コースに設置される竹柵障害であり、分解または牽引車によって移動可能となっている。片面飛越のものは竹柵とほぼ同じだが、両面飛越できるものは竹柵が垂直に伸びている。
[[ファイル:Hurdle009.JPG|thumb|left]]
{{-}}
==== 坂路 ====
急勾配の坂であり、登って降りる山型と、降りてから登る谷型がある。前者は福島、小倉競馬場、後者は中山競馬場に設置されており、中山競馬場は、元からの自然の地形を利用した、三つの谷型坂路が設置されており、他の競馬場はそれぞれ一つとなっている。山型は高低差が3m弱で長さが約80m。谷型は中山競馬場は1号坂路は高低差3.57m、長さ78m、3号坂路は高低差4.74m、長さ92mの他、障害GIのみに使用する2号坂路は高低差が5.3m、長さが113mとなっている。なお、飛越を伴わないこうした山型、谷型坂路のことも便宜上「バンケット」と呼ばれることがある。
なお、東京競馬場が開設された直後は、3・4コーナーの中間に山型の坂路が存在したが、短期間で通常の障害に変更された。
{{Vertical_images_list
|寄せ=左
|幅= 200px
|枠幅=220px
| 1=Nakayama-Racecourse07.jpg
| 2=中山競馬場の坂路
| 3=Chukyo Racetrack 06.jpg
| 4=中京競馬場の坂路(現在は廃止)
}}
{{-}}
=== 重賞一覧(2023年) ===
<ref>[http://jra.jp/datafile/seiseki/replay/2023/jyusyo.html 2023年重賞レース一覧]日本中央競馬会 2023年1月2日閲覧</ref>
{| class="wikitable"
!施行日!!競走名!!競走格!!距離
|-
|[[3月11日]]||[[阪神スプリングジャンプ]]||J・GII||芝3900m
|-
|[[4月15日]]||[[中山グランドジャンプ]]||J・GI||芝4250m
|-
|[[5月13日]]||[[京都ハイジャンプ]]||J・GII||芝3930m
|-
|[[6月24日]]||[[東京ジャンプステークス]]||rowspan="4"|J・GIII||芝3110m
|-
|[[7月29日]]||[[新潟ジャンプステークス]]||芝3250m
|-
|[[8月26日]]||[[小倉サマージャンプ]]||芝3390m
|-
|[[9月16日]]||[[阪神ジャンプステークス]]||芝3140m
|-
|[[10月15日]]||[[東京ハイジャンプ]]||J・GII||芝3110m
|-
|[[11月11日]]||[[京都ジャンプステークス]]||J・GIII||芝3170m
|-
|[[12月23日]]||[[中山大障害]]||J・GI||芝4100m
|}
[[負担重量]]はJ・GIレースは定量戦、J・GIIとJ・GIIIレースは別定重量戦になっている。京都ジャンプステークス、小倉サマージャンプ、新潟ジャンプステークス、東京ジャンプステークス(2008年当時は東京オータムジャンプ)については2008年までは[[ハンデキャップ競走]]として施行されていたが、有力馬の出走機会を拡大する観点から別定重量戦へとなった。
=== 戦後に施行されていた重賞競走 ===
==== サラブレッド系 ====
いずれも年間に春と秋の2回施行されていた。
* [[京都大障害]]…[[京都ハイジャンプ]](J・GII)と[[京都ジャンプステークス]](J・GIII)へ移行。
* [[東京障害特別]]…[[東京ハイジャンプ]](J・GII)と[[東京ジャンプステークス|東京オータムジャンプ(現・東京ジャンプステークス)]](J・GIII)へ移行。
* [[阪神障害ステークス]]…[[阪神スプリングジャンプ]](J・GII)と[[阪神ジャンプステークス]](J・GIII)へ移行。
==== アラブ系 ====
* [[アラブ大障害]]
* [[中山アラブ障害特別]]
* [[東京アラブ障害特別]]
== イギリス・アイルランドの障害競走 ==
=== 共通 ===
[[ファイル:Tony mccoy.jpg|thumb|200px|ハードル]]
[[ファイル:Pointtopointhurdle.jpg|thumb|200px|チェイス]]
イギリス及びアイルランドの障害競走はナショナルハント競走と呼ばれ、10月から4月までが障害競走のシーズンとなっており、大半が障害競走単独の開催である、また5月から9月までの間も一部の競馬場で競走が行われる。この2ヶ国は人馬の交流が盛んであり、競走形態もほとんど差異はない。この2国ではポイント・トゥ・ポインティングと呼ばれるアマチュア騎手の間で行われる障害競走もまた行われ、障害競走に対する認知度が高いこともあって、障害競走の人気は平地競走を上回るものであり、イギリスの[[レーシングポスト]]で企画された20世紀の人気競走馬100選では1位[[アークル]]、2位[[デザートオーキッド]]、3位[[レッドラム]]、4位[[イスタブラク]]と上位4頭が障害馬で占められた(平地の競走馬は5位の[[ブリガディアジェラード]]が最高位)。また、馬券の売り上げも障害競走が平地競走を圧倒しており、アイルランドの主要[[ブックメーカー]]のひとつであるパディーパワーが発表した2014年の英愛競馬売上上位20位では、平地競走では[[ダービーステークス]]が7位にランクインしたのみであり、残り19競走はすべて障害競走となった。売上の1位は[[グランドナショナル]]、17位は[[アイリッシュグランドナショナル]]であり、残り17競走は[[チェルトナムフェスティバル]]のレースで占められた<ref>[http://www.jairs.jp/sp/contents/newsprot/2015/8/1.html ブックメーカーの人気上位20レースのほとんどが障害競走] ジャパンスタッドブックインターナショナル 海外競馬ニュース 2015年02月26日 2018年10月29日閲覧</ref>。
イギリスでは平地競走が約5300施行されるのに対し障害競走は3300競走が行われ、アイルランドでは平地競走900に対して障害競走は1300と障害競走の方が多くなっている。障害競走はグレード制が導入されているが、平地と異なり、レースレベルのみで格付けされているわけではない。そのため、賞金額においてもG1>G2>G3が必ずしも成立しない。実際、英愛それぞれの賞金総額のトップの競走である[[グランドナショナル]]、[[アイリッシュグランドナショナル]]は共にG1ではない。
競馬場は自然の地形を利用しており、起伏の激しいコースが多い。ハードル、チェイス、そしてナショナルハントフラットレース(障害馬用平地競走)はすべて競走距離の最低が2マイル(約3218m)となっている。ハードル、チェイスとも2マイル前後の短距離路線、2マイル半前後の中距離路線、3マイル以上の長距離路線に分かれて競走体系が組まれている。ただし、イギリスの[[オールウェザー (競馬)|全天候馬場]]併用競馬場(サゾルやリングフィールドなど)で同馬場(ファイバーサンドやポリトラック)を用いて行われるものや、あるいは芝においても3歳馬限定条件のナショナルハントフラットレースでは2マイルよりも短い距離での競走が施行されている。発走にはバリアー式発馬機などを使用する。
障害はハードルは3フィート1/2(約107cm)以上、チェイスは4フィート1/2(約137cm)以上(水濠を除く)と定められており、1レースでハードルは2マイルの競走で最低8回、以後1/4マイル毎に1回以上、チェイスは2マイルの競走で最低12回、以後1マイル毎に6回以上と定められている。チェイスの障害は日本の竹柵と似ているが、より幅が広く木の枝を束ねた固い障害であり掻き分けて飛越することは困難である。これの手前に空堀を設けたものをオープンディッチ、後方に水濠を設けたものをウォータージャンプと呼ぶ。オープンディッチは1マイル毎に1つ、ウォータージャンプはコース上に1つ以上と定められているが、ウォータージャンプについては近年設置していない競馬場も多い。英愛の競馬場ではほぼ全ての障害が基本的に同じ形をしているが、エイントリー競馬場の[[グランドナショナル]]などに使用されるナショナルフェンスと呼ばれる障害は[[トウヒ]]の枝を積み上げた独特のものであり、またクロスカントリーコースやバンクコースなどと呼ばれるコースでは丸太や土塁、バンケットなどの障害が設置され、伝統的なクロスカントリー競走が行われている。
=== イギリス ===
2007/08シーズンはG1が30競走、G2が63競走、G3が25競走施行された。障害競走が最も盛り上がりを見せるのは3月にチェルトナム競馬場で開催される[[チェルトナムフェスティバル]]、そして4月にエイントリー競馬場で開催される[[グランドナショナルミーティング]]である。
チェルトナムフェスティバルでは4日間の開催で20万人以上の観客が押し寄せる。12ものG1競走が施行され、中でも[[チャンピオンハードル]](Champion Hurdle)、[[チェルトナムゴールドカップ]](Cheltenham Gold Cup)というハードル、チェイスの最高峰のレースが行われる。
また、グランドナショナルミーティングのメイン競走であるグランドナショナル(Grand National)は創設以来170年に及ぶ伝統のハンデキャップ競走であり、4マイル1/2(約7.2km)という非常に長い距離と、ハンデ戦ゆえの40頭という多頭数による迫力のある過酷なレースが行われることから、[[ダービーステークス|エプソムダービー]]よりも遥かに高い[[視聴率]]と売上を誇る。
5月から9月までの夏障害では、およそ800競走が行われるが、ほとんどが下級条件戦であり、リステッド競走がわずかに行われる程度である。逆に冬の期間は以前は障害競走のみで平地競走は行われなかったが、現在はオールウェザーが普及したため平地競走も数多く施行されている。
G1競走はハードルとチェイス、距離、そしてノービスのためのG1とカテゴリにより細分化され、それぞれにほぼ平等に割り振られている。格付けは英国競馬統括機構(BHA)の障害競走小委員会(Jump Racing Sub Committee)によって決定される。格付けには基準となるレーティングが定められており、過去3年の上位4頭の平均がG1なら155、G2は145、G3は140、ノービスはそれぞれ135、125、120、NHフラットは130、120{{efn|NHフラットのG3は存在しない。}}の各レートを満たす必要がある。ただし、G1競走については馬齢、セックスアローワンス以外は定量で行わなければならず、G2は馬齢重量かハンデ幅を抑えたリミテッドハンデキャップ、そしてG3はハンデキャップ競走でなければならない。例を挙げるとグランドナショナルは2006年から2008年のレーティングが155.71でありG1の基準を満たしているが、同競走はハンデキャップ競走であるのでG3に格付けされる。
その他、競走レベルによってクラス1からクラス6まで分かれており、グレード競走、リステッド競走は全てクラス1に位置している。ハンデキャップは最大で12[[ストーン (単位)|ストーン]]7[[ポンド (質量)|ポンド]](79.4kg)、最低で9ストーン7ポンド(60.3kg)であるが、大半の競走においては12ストーン(76.2kg)から10ストーン(63.5kg)までに設定される。
=== アイルランド ===
2007/08シーズンはG1が28競走施行された。イギリスとは異なり、アイルランドではハンデキャップ競走は別枠としてグレードA、B、Cという格付けを行っている。障害競走が最も盛り上がりを見せるのは4月にパンチェスタウン競馬場で行われるアイリッシュナショナルハントフェスティバル、そして[[復活祭]]の時期に合わせて概ね4月にフェアリーハウス競馬場で行われるイースターフェスティバルである。前者はパンチェスタウンギネスゴールドカップなど数多くのG1競走が行われ、後者は伝統の大レースである[[アイリッシュグランドナショナル]]が行われる。夏障害でも多くの競走が施行され、一部でグレード競走も行われている。
== フランスの障害競走 ==
[[ファイル:Deauville-Clairefontaine obstacle 3.jpg|thumb|200px]]
全国的に障害競走が行われ、競走数は平地競走4500に対して障害競走は2200ほど行われる。障害競走は年間を通して行われ、平地競走との混合開催と単独開催両方がある。ハードル、チェイスともに一般競走は多くが3000mから4000mの間で施行されるが、重賞競走は最低距離は3500mであり6割以上が4000mを超えるものとなっている。またクロスカントリー競走も行われており、これは全ての競走が4000m以上である。コースは基本的に平坦であるものが多く、人工的な坂路や多様な障害を設置している。発走には発馬機を使用しない。障害馬は英愛のノービスのような障害経験でなく、3歳戦、4歳戦といった馬齢による区分がなされている。
グループ制が導入されており、G1が9競走、G2が11競走、G3が28競走行われ、格付けと賞金はほぼ連動している。パリの障害競走専門の競馬場である[[オートゥイユ競馬場]]が中心となっており、[[パリ大障害]]や[[ラエ・ジュスラン賞]]などの全てのG1競走はここで行われる。
== チェコの障害競走 ==
全国的に障害競走が行われ、競走数は平地370に対して障害競走は160ほど行われる。障害競走は3月から10月までとなっており、最大の競走はパルドゥビツェ競馬場で行われる[[ヴェルカパルドゥビツカ]]である。
== オーストラリアの障害競走 ==
中山グランドジャンプを3連覇した[[カラジ]]や[[セントスティーヴン]]などハイレベルな障害馬を持ち、ニュージーランドからの遠征馬も多かったが、近年障害競走における死亡事故が[[動物の権利]]の観点から問題視され、障害の難易度を低下させるなどの対策をとったものの、事故率の低下にはつながらず、競走数の削減や、州単位での廃止が相次いでいる。その為、現在障害競走が行われるのは[[ビクトリア州]]と[[南オーストラリア州]]のみである。かつては[[クイーンズランド州]]、[[ニューサウスウェールズ州]]でも行われていたが、いずれもかなり以前に廃止しており、さらに[[2007年]]4月に[[タスマニア州]]が障害競走を中止、[[2010年]]シーズンをもってビクトリア州も障害レースを一旦廃止したが、その後、安全対策としてOne Fit Hurdleという新素材のハードルを導入して障害競走を復活させることになった。
かつての障害競走のシーズンは2月から7月までで、すべてが平地競走との混合開催となっていた。発走にはスターティングゲートを使用する。コースは平坦であり、チェイスでも距離も4000m以下のものがほとんどで、ハードルの最低距離は2800mとなっていた。7割弱がハードル競走であり、使用するハードルは40cmほどの飛越でクリアが可能であった。またチェイスの障害も低く、掻き分けやすい人工素材が使用されており難易度は低い。競走の格付けはなされていないが、15競走が重賞として施行されており、主要な競走には[[フレミントン競馬場]]のグランドナショナルスティープルチェイス、[[ムーニーヴァレー競馬場]]の[[ヒスケンススティープルチェイス]]などがあったが、いずれも現在では実施されていない。
== ニュージーランドの障害競走 ==
全国的に障害競走が行われ、2008年はアマチュア騎手の7競走を含め、年間123競走が施行される。障害競走のシーズンは4月後半から9月末までであり、すべてが平地競走との混合開催となっている。ハードルは競走距離が短く、重賞競走以外は2400mから3200mまでで行われるのに対し、チェイスは大半が4000m以上の競走となっている。発走にはスターティングゲートを使用するが、一部のチェイスでは発馬機を使用しない。ハードル競走は基本的に平地競走のコースに小規模な置障害を設置して行われる。チェイスでは専用のコースを使用するが、専用のコースがない競馬場ではチェイスを施行しないか、平地競走のコースにチェイス用の置障害を設置する。チェイスの障害は生垣障害が多く、連続障害や丘を利用したコースあり、全体的に難易度はオーストラリアよりかなり高めである。
障害重賞はプレステージジャンプレース(PJR)と呼ばれ、グレード制が導入されている。6競走がG1に格付けされており最大の競走は[[エラズリー競馬場]]の[[グレートノーザンスティープルチェイス]]である。
=== 重賞一覧 ===
; G1
* グレートノーザンハードル
* [[グレートノーザンスティープルチェイス]]
* ウェリントンハードル
* ウェリントンスティープルチェイス
* グランドナショナルハードル
* グランドナショナルスティープルチェイス
; G2
* ワイカトハードル
* ワイカトスティープルチェイス
* ホークスベイハードル
* ホークスベイスティープルチェイス
; G3
* グレートウェスタンハードル
* グレートウェスタンスティープルチェイス
* ケンブラウンメモリアルハードル
* マクグレゴーグラントスティープルチェイス
* アワプニハードル
* マナワツスティープルチェイス
* ランバーコープハードル
* パクランジャハントスティープルチェイス
== アメリカ合衆国の障害競走 ==
[[ファイル:Steeplechase (2018245).jpg|thumb|ナショナルフェンス]]
[[ファイル:Steeplechasewinterthur.jpg|thumb|ティンバーフェンス]]
アメリカで初めての障害競走は[[1834年]]に[[ワシントンD.C.]]で行われた。
現在障害競走が行われているのは[[ペンシルベニア州]]、[[メリーランド州]]、[[バージニア州]]などの東部の複数の州であり、競走数は200程度である。障害競走のシーズンは3月から5月の春シーズン、そして9月から11月の秋シーズンに分かれており、夏場にもいくつかの競走が行われている。基本的に障害競走専用の競馬場での単独開催となるが、夏場を中心に[[サラトガ競馬場]]などで平地との混合開催も行われている。
ハードルとチェイスの区別はないが、障害はナショナルフェンスとティンバーフェンスの2種類があり、ナショナルフェンスが主に使用され高さは4フィート4インチ(約132cm)以上となっている。これは日本の竹柵に近いが幅が狭く、掻き分けやすい障害である。また、ティンバーフェンスは木製の柵となっており、太い横木を数段並べている。高さは競馬場によって差があり、また衝撃を受けると落下するものもある。またトレーニングフラットと呼ばれる障害馬用の平地競走も行われているが、これには基本的に主催者側から賞金は支給されない。
競走距離はトレーニングフラットを除きすべて2マイル以上となっており、ティンバーフェンスを使用する競走は3マイル以上で行われる。発走にはスターティングゲートを使用しない。斤量は競走により差があり、130ポンド(59.0kg)から180ポンド(81.6kg)まで様々である。グレード制が導入されており、9競走がG1に格付けされている。なお、ティンバーフェンスのグレード競走はない。主要な競走には[[グランドナショナルハードル (アメリカ)|グランドナショナルハードル]]があり、またカロライナカップ、テンプルグワスメイ、ナショナルハントカップの3競走でノービス三冠を形成している。
=== 重賞一覧 ===
; G1
* ジョージアカップ
* ロイヤルチェイス
* イロコイハードル
* ニューヨークターフライターズカップ
* ロンサムグローリースティープルチェイス
* フォックスブックシュプリームハードル(ノービス)
* グランドナショナルハードル
* チャンピオンシップシュプリームハードル(ノービス)
* コロニアルカップ
; G2
* カロライナカップ(ノービス)1戦目
* テンプルグワスメイ(ノービス)2戦目
* ナショナルハントカップ(ノービス)3戦目
* A.P.スミスウィックメモリアル
* モンマスカウンティハント(ノービス)
; G3
* マルケルスフロスト
* デイビッド L."ゼク" ファーガソンメモリアル
* アップルトン
; ティンバーフェンス
* バージニアゴールドカップ
* メイソンホックランドメモリアル
== 障害競走の競走馬 ==
現在は[[サラブレッド]]であることがほとんどであり、日本やアメリカではサラブレッドに限定されているが、フランスなどでは非サラブレッドの競走馬(例えば[[:fr:Autre que Pur-sang|Autre que Pur-sang]])も出走している。最初から障害競走用として生産される馬と、平地競走から転向する馬と二通りがあるが、[[ヨーロッパ]]以外の地域では平地競走からの転向が大半である。また、[[オセアニア]]を中心に障害競走に出走するようになってもシーズンオフなどに[[平地競走]]にも出走する馬も多い。英愛では特にバンパーでレースの経験を積み、その後ハードルへと駒を進め、飛越が上達すればチェイスへと進むという手順を踏むことが一般的である。それとは別に、アマチュア障害競馬のPoint-to-Pointで経験を積んだ馬が転向してくるケースも珍しくない。身体能力以外に飛越技術も問われるため、平地に比べて経験の豊富な高齢馬が活躍しやすい。
障害競走でデビューする前に、気性を抑えて扱いやすくしたり、怪我を防止するためほぼ全ての牡馬は[[去勢]]し[[騸馬]]となる。そのため障害馬の[[種牡馬]]は基本的に平地競走馬であり、平地競走よりスタミナが豊富な種牡馬が好まれる。しかし、日本では騸馬が極端に少なく、多くの馬が去勢されることのないままレースに出走している。
== 障害競走の騎手 ==
日本では競馬学校設立以前は障害競走のみの騎乗免許も取得可能{{efn|例として[[寺井千万基]]、[[大森勇一]]などがいる。}}であったが、現在中央競馬の騎手は[[競馬学校]]を卒業した[[見習騎手|若手騎手]]は平地と障害両方の免許を取得する。それ以外の騎手に関して、海外・地方競馬から移籍した騎手は全員平地のみの取得であり、唯一、[[馬術|馬術競技]]から転身した[[小牧加矢太]]は障害のみの取得となっている。
以前のケースでは、年齢を経るごとに体重が重くなった騎手が、平地免許を返上して障害専門騎手になるケースが多かった{{efn|2023年3月1日時点で障害免許のみ保有の騎手は[[金子光希]]、小牧加矢太、[[北沢伸也]]、[[鈴木慶太_(競馬)|鈴木慶太]]、[[西谷誠]]、[[平沢健治]]の6名で、初取得時から障害限定免許の小牧以外は平地免許を後に返上している。}}。現在では、平地との斤量差が小さいこと、そして障害競走の競走数の問題もあり、障害競走専門の騎手は減少し、多くの騎手が平地競走への騎乗も行っている。
かつては[[岡部幸雄]]、[[南井克巳]]、[[的場均]]、[[柴田善臣]]、[[横山典弘]]などといった平地でもトップクラスの騎手も、デビューから数年間は障害競走にも騎乗した経験があり、いずれも勝利を挙げるなど、障害戦の騎乗は一般的に行われていた。1984年のグレード制導入以降、[[熊沢重文]]や[[岡冨俊一]]、[[柴田大知]](後に平地競走に専念)などのように障害戦との騎乗を両立させながら平地・障害双方の重賞を制した騎手も複数存在する。ただし、障害競走は落馬の発生が平地競走よりも多く、平地競走よりもリスクが高いと考えられており、賞金に対する騎手の取り分が7%と平地における5%より多くなっており、また騎乗手当も平地を上回っている。
こうしたリスクもあり、若手騎手のうちは両方の免許を持っていても、平地である程度活躍するなどして、一度も障害競走に騎乗することなく障害の免許を返上するケースがある。また、[[小島貞博]]や[[根本康広]]のように障害戦で重賞を勝利した騎手が、年齢を経て平地での騎乗が多くなるようになり、障害免許の返上に至る事もある。逆にあまり活躍できず、減量特典が失われた段階で、騎乗数確保を求めて障害競走に騎乗するケースが多い{{efn|若手騎手以外でも騎乗数確保のため、障害戦に騎乗を開始した例として、1990年に菊花賞を制した[[内田浩一]]が、デビュー19年目となる2006年より障害競走に騎乗を開始した例などがある。}}。近年ではデビュー間もない騎手の障害戦騎乗は前出の小牧加矢太(初免許時から障害限定免許)のような例を除いて、非常に少なくなっている{{efn|2004年以降、デビュー年に障害戦にも騎乗した例は、障害限定免許の小牧加矢太を除いて実例がない(障害免許を取得していても、殆どの騎手は最低でも1年は平地に専念している)。}}<ref>[https://tospo-keiba.jp/breaking_news/29334 2年目の水沼元輝が〝二刀流〟デビューへ 4月から障害レース騎乗を決断「挑戦をマイナスには考えていません」] - 東スポ競馬 2023年3月22日</ref>。
2013年までは、第三場で障害競走は行われなかったが、第三場では[[若手騎手限定競走]]が行われることが多く、多くの若手騎手は遠征する。これらの結果、障害競走に通年で騎乗する騎手が少ない状況にある(逆に、障害競走に騎乗するため、若手騎手限定競走に騎乗可能な騎手も不足気味で、こちらも若手ではない騎手が騎乗する問題が発生している)。その結果、[[2013年]][[1月20日]]には、前日[[1月19日]]に2名の障害騎手が落馬負傷し、20日に障害競走に普段から騎乗している騎手が他にいなかったために、騎乗予定だった2頭いずれも出走取消になる事態が発生している<ref>{{Cite news |title=騎手不足で2頭出走取消の珍事発生|newspaper=[[デイリースポーツ]]|date=2013年1月20日|url=https://www.daily.co.jp/horse/2013/01/20/0005681818.shtml|accessdate=2013-02-11}}</ref>。2014年以降は、重賞や一部のオープン特別を除き、第三場での開催が基本となるように改善された{{efn|2014年から数年は設備のない北海道と春季(主に1・2月)の小倉以外の第三場で多くの障害競走が組まれた。さらに2021年からは春季の小倉でも障害競走が組まれるようになり、前年まで京都で実施されていた牛若丸ジャンプステークス、中山(2018年まで東京)で実施されていた春麗ジャンプステークスも小倉で実施されるようになった。}}ため、障害を主戦に転向した若手騎手が若手騎手限定競走に参加しやすくなるなど改善された。また、同一日に同一施行場で障害競走が複数回組まれる場合は、原則として出走頭数が多い競走が先に行われる{{efn|[[競馬ブック]](栗東)の[[トラックマン]]・山田理子によれば「落馬負傷などで騎手足りなくなるのを防ぐため(原文ママ)」とのことである。[https://twitter.com/rikobook/status/903185643269898240 山田理子ツイート] - Twitter 2017年8月31日}}。
欧米では女性の障害騎手も多く活躍しているが、JRAでは[[女性騎手]]が増加傾向ではあるものの障害競走への挑戦例は極めて少なく、2023年の時点まで[[板倉真由子]]と[[西原玲奈]]の2名しかおらず、いずれも数戦(西原に至っては障害初戦で落馬し重傷を負っている)で挑戦を断念している。ただし、短期騎手免許で来日したロシェル・ロケット(ニュージーランド)が[[ギルデッドエージ]]で2002年の中山大障害を制しており、JRAでは唯一の女性のGI(級)優勝騎手となっている。
欧米ではアマチュア騎手との交流が盛んで、1990年にミスターフリスクでグランドナショナルに優勝したマーカス・アーミテージなど多くのアマチュア騎手が大レースを制している。また、英愛では競走数が多いこともあり、トニー・マッコイが2001/02シーズンに記録した289勝は平地競走のそれを上回っている。
== 脚注 ==
{{Notelist}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『日本中央競馬会10年史』 日本中央競馬会 1965年
* 『日本競馬史 第2巻』 日本中央競馬会 1967年
* 『日本競馬史 第3巻』 日本中央競馬会 1968年
* {{Cite book|和書 |title=日本競馬史 第四巻 |publisher=[[日本中央競馬会|日本中央競馬会総務部調査課]] |date=1969-12 |ref=keibasi4}}
* ジョン・ウェルカム 『アイルランド競馬史』 草野純訳 日本中央競馬会 1988年
== 関連項目 ==
* [[ばんえい競走]] - 競走の性質はまったく異なるが、コース上に設けられた2つの山を「障害」と呼んでいる
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Steeplechase in Japan|日本の障害競走}}
* [http://www.nationalsteeplechase.com/ National Steeplechase Association]
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[[Category:障害競走|*]]
[[Category:競馬の競走|*しようがいきようそう]]
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12,210 |
平地競走
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平地競走(へいちきょうそう)とは競馬の競走形態のひとつである。ひらちきょうそうとも読む。
襲歩(ギャロップ)によって純粋にスピードを競うもっともスタンダードな競馬で、ダービーなどで知られるように近代競馬は平地競走からはじまった。平地競走が行われるコースには芝、ダート、サンド、オールウェザーなどがある。平地競走以外には、コースの途中に障害物などを置く障害競走や繋駕車(一人乗りの2輪馬車)に乗って競走する繋駕速歩競走などがあるが、日本ではばんえい競走をのぞく地方競馬のすべてと、中央競馬のほとんどの競走が平地競走である。
ヨーロッパには障害競走や繋駕速歩競走のほうが人気、競走数で上回る国も多いが、平地競走は中東、アフリカ、南アメリカ、アジアなどを含めもっとも多くの国で施行されている。平地競走の一部の大レースの賞金は障害競走や繋駕速歩競走のそれに比べ高い水準にある。また、平地競走で結果を残した馬が種牡馬となる際に発生する金額も莫大な額に膨れ上がるため、3歳、ときには2歳という早い段階で引退して種牡馬入りを選択することもある。
一部ヨーロッパでは、上流階級者に愛好者の多い地域があり、イギリスやフランスでは競馬場は社交場として大きな役割を担っている。
同じ距離で行う平地競走でも、傾斜やカーブなどのコースそのものの形状や馬場状態などによって、走破時計に大きな違いが生じる。
平地競走は距離区分によって以下の5つに分類され、ワールド・ベスト・レースホース・ランキングで格付けを決定するために使用されている。各カテゴリーの英語の頭文字を並べるとSMILE(スマイル)となる。
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平地競走(へいちきょうそう)とは競馬の競走形態のひとつである。ひらちきょうそうとも読む。
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[[File:2010 Kokura Kinen.jpg|thumb|250px|平地競走の様子(第46回[[小倉記念]])]]
'''平地競走'''(へいちきょうそう)とは[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]形態のひとつである。'''ひらちきょうそう'''とも読む。
== 概要 ==
[[歩法 (馬術)#襲歩|襲歩]](ギャロップ)によって純粋にスピードを競うもっともスタンダードな競馬で、[[ダービーステークス|ダービー]]などで知られるように近代競馬は平地競走からはじまった。平地競走が行われるコースには[[芝]]、[[ダート]]、サンド、[[オールウェザー (競馬)|オールウェザー]]などがある。平地競走以外には、コースの途中に障害物などを置く[[障害競走]]や繋駕車(一人乗りの2輪馬車)に乗って競走する[[繋駕速歩競走]]などがあるが、[[日本]]では[[ばんえい競走]]をのぞく[[地方競馬]]のすべてと、[[中央競馬]]のほとんどの競走が平地競走である。
[[ヨーロッパ]]には障害競走や繋駕速歩競走のほうが人気、競走数で上回る国も多いが、平地競走は[[中東]]、[[アフリカ]]、[[南アメリカ]]、[[アジア]]などを含めもっとも多くの国で施行されている。平地競走の一部の大レースの賞金は障害競走や繋駕速歩競走のそれに比べ高い水準にある。また、平地競走で結果を残した馬が[[種牡馬]]となる際に発生する金額も莫大な額に膨れ上がるため、3歳、ときには2歳という早い段階で引退して種牡馬入りを選択することもある。
一部ヨーロッパでは、[[上流階級|上流階級者]]に愛好者の多い地域があり、[[イギリス]]や[[フランス]]では競馬場は社交場として大きな役割を担っている。
== 距離 ==
同じ距離で行う平地競走でも、傾斜やカーブなどのコースそのものの形状や[[馬場状態]]などによって、[[時計 (競馬)|走破時計]]に大きな違いが生じる。
平地競走は[[距離 (競馬)|距離区分]]によって以下の5つに分類され、[[ワールド・ベスト・レースホース・ランキング]]で格付けを決定するために使用されている。各カテゴリーの英語の頭文字を並べると'''SMILE'''(スマイル)となる。
* 1000 - 1300[[メートル|m]] Sprint(短距離)
* 1301 - 1899m Mile(マイル)
* 1900 - 2100m Intermediate(中距離)
* 2101 - 2700m Long(長距離)
* 2701m以上 Extended(超長距離)
== 関連項目 ==
* [[騎乗速歩競走]]
* [[繋駕速歩競走]]
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12,211 |
ばんえい競走
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ばんえい競走(ばんえいきょうそう)とは、競走馬がそりをひきながら力や速さなどを争う競馬の競走である。「曳き馬」と呼ばれる事もある。
現在、日本国内の公営競技(地方競馬)としては北海道帯広市が主催する「ばんえい競馬(ばんえい十勝)」のみが行われており、世界的にみても唯一となる形態の競馬である。本項目では、主に地方競馬としての「ばんえい競馬」について記述する。
「ばんえい」の漢字表記は「輓曳」であるが、現行競技における公式の表記は平仮名とされるため、ここでも平仮名を主として用いる。
ばんえい競走では一般的な平地競走で使用されているサラブレッド系種などの「軽種馬」や北海道和種の「どさんこ」は使われず、古くから主に農耕馬などとして利用されてきた体重約800-1200kg前後の「ばんえい馬(重種馬。「ばん馬」ともいう)」が、騎手と重量物を積載した鉄製のそりを曳き、2箇所の障害(台形状の小さな山)が設置された直線200メートルのセパレートコースで力と速さ、および持久力や騎手のテクニックを競う。
このレースは農民たちが北海道開拓で活躍した農耕馬に乗り競い合うお祭りとして楽しんでいたものがシステム化され現在の形に発展したものであり、すでに30年以上の歴史をもつ。
帯広市が主催する地方競馬としての「ばんえい競馬」のほか、一部地域では「草ばんば」(後述)も行われるなど北海道が生み出した独自の馬文化として定着しており、それらを含めた「北海道の馬文化」が北海道遺産に選定されたほか、映画「雪に願うこと」やテレビドラマ「大地のファンファーレ」(NHK札幌放送局・帯広放送局制作)など、映画やドラマの題材にも幾度か取り上げられている。2006年までばんえい競馬を開催していた岩見沢市では、岩見沢駅(3・4番ホーム)にそりを曳く「ばんばの像」が設置されている。
ばんえい競馬も地方競馬の一つであるが、使用する競走馬の品種や競走の性質が全く異なるため、平地競走と障害競走にみられるような中央競馬や他の地方競馬、また外国競馬との人馬交流競走は行われていない。また、地方競馬全国協会(NAR)による競走馬の表彰などについても、NARグランプリにおいて各部門賞のひとつとして『ばんえい最優秀馬』の部門が設けられている。年度代表馬は各部門賞受賞馬から選出 するため、他地区所属の平地競走馬と同様に選出される可能性があるほか、調教師や騎手などの表彰も平地と区別なく選定される。なお、NARにおける騎手や調教師の全国リーディング集計も、騎手・調教師の成績を他の地方競馬(平地)と区別せず、同列で集計している。
競走での人馬交流はないものの、ばんえい競馬の所属騎手がばんえい競馬のPR活動を行う為、業務として平地競走の競馬場に赴き、現役のばんえい競走馬と競走で使用されるそりを運び込み、平地のダートコースなどを使用してデモンストレーションを目的とした模擬競走を行う場合がある。このような模擬競走は1973年に大井競馬場 で初開催され、その後も1978年に宇都宮競馬場(現在は廃止) で、1983年には水沢競馬場 で開催。近年では1991年に船橋競馬場 で開催されたほか、2001年にはフランス で、2008年には川崎競馬場で実施された。また、2007年から日本中央競馬会(JRA)所属騎手との交流イベントとして「JRAジョッキーDay」を開催している。JRAの現役騎手が帯広競馬場に来場しトークショーなどのイベントを行うほか、ばんえい所属騎手とペアを組んでのエキシビションレースも行っている(詳細は当該記事を参照)。
2006年度までは帯広競馬場のほか旭川競馬場・岩見沢競馬場・北見競馬場を含めた4か所を巡回しながら開催してきた(後述)が、2007年度より「馬の一発逆転ライブショー・ばんえい十勝」をキャッチフレーズとして、全日程を帯広競馬場で開催している。あわせて、夏季としては初めての本格的なナイター競走「ばんえい十勝ナイトレース」も開始した。ナイトレース期間中は最終競走の発走時刻を昼間開催時よりも2時間半程度繰り下げ、日没前後からは走路沿いに新設したイルミネーションも点灯させてナイター気分を盛り上げている。なお、ナイター期間以外の一部開催日は昼間開催時よりも1時間半程度繰り下げた薄暮開催とする場合もある。
1994年秋より比較的積雪量が少ない帯広競馬場で馬場にヒーティング設備を敷設し、冬季でも馬場が凍結することなく競走が行えるようになった。これにより、従来は11月で終了していた開催期間を延長することが可能になった。2005年度からは長期の休催期間を設けない事実上の通年開催となり(現在は3月下旬に閉幕後、次年度の開幕まで3週間程度休催)、北海道で唯一冬季も開催を行う公営競技となっている。
通常、ばんえい競馬は昼間・薄暮・ナイター開催ともに土曜から月曜、ホッカイドウ競馬は全日程ナイター開催で火曜から木曜に開催するローテーションが組まれており、一部を除いて両者の開催日程が重なることがないため、道内では多くの場外発売所で両者の相互場外発売が行われている。詳細は「場外発売所」の節を参照。
2006年度までは帯広競馬場のほか、北見競馬場・岩見沢競馬場・旭川競馬場の4箇所を巡回して開催していた。1997年までは北見を除く3場で平地競走(ホッカイドウ競馬)が併催されていたが、1998年以降は旭川のみがばんえい・平地の併催となっていた。
2006年度は史上初めて帯広で開幕し、上記4場で順次開催されたが、売上の減少による累積赤字の増大から旭川市・北見市・岩見沢市が2006年度限りでの撤退を表明、残る帯広市も負担が大きすぎるとして単独での開催継続に難色を示したことから、ばんえい競馬の廃止が濃厚と見られていたが、ファンらの嘆願や寄付の申し出に加え、2006年12月13日にはソフトバンク子会社のソフトバンク・プレイヤーズ(現・SBプレイヤーズ)が帯広市の単独開催に対する支援を申し出たことから、2007年度より帯広市が単独で開催を継続することが決定した。これについて農林水産大臣・松岡利勝(当時)は「喜ばしいことだ。正式に要請があれば、スムーズに処理できるようにするし、できる限り支援したい」と述べていた。
これに伴い、ばんえい競馬の運営実務を担ってきた一部事務組合「北海道市営競馬組合」は解散し、2007年2月1日に一部業務を受託する運営会社「オッズパーク・ばんえい・マネジメント株式会社(OPBM)」が設立された。また、帯広市はファンなど個人・法人からの寄付もあわせて受け付け、「ばんえい競馬振興基金」を開設、個人・法人からの寄付も毎年のように寄せられている。特に楽天は、子会社の楽天競馬が地方競馬のインターネット発売を請け負っていることもあり、寄付金のほか売上額から一定割合を積み立て、ばん馬の飼料用としてニンジンや牧草ロールを寄贈している。
2007年度は黒字を計上したが、2008年度の総売上は約115.5億円で前年より約10%余り減少し、当初予算比も97.2%となったほか、入場者数も前年より約6万人減少した。運営安定化の基金も使い果たし、存続は正念場を迎えていく。
2009年度の総売上は約107.2億円で前年比約7%減となった。総入場者も約20万人で、引き続き前年割れとなった。
2010年度の開催にあたり、OPBMは年度途中の撤退もありえるとしていたが、結局2011年度の開催についても12月15日に帯広市と大筋で合意し、今後5年間程度の中間戦略についても両者が協議することで一致した。2011年1月28日には開催日程を発表している。2010年度の売上は約105.6億円 で、売上の下げ止まり傾向は見えてきた。
2011年度の総売上は103億6400万円余りで対前年比約2%減、総入場者数も24万5000人余りで前年比約0.7%減となった。
2012年度の開催業務の委託契約についてはOPBMと帯広市で協議してきたが、委託料の固定化や競争入札方式の導入を求めたOPBMと折り合わず、2012年度はOPBMと委託契約を更新しないことを決定した。運営は帯広市が主体となり、業務の一部は旭川北彩都場外発売所(レラ・スポット北彩都)を運営しているコンピューター・ビジネス(旭川市)に委託することで内定した。ただし、帯広市は「OPBMとは今後も良好な関係を維持していきたい」としている。
また2012年度以降の収支見通しについて、市民検討委員会の提言を基に策定した「ばんえい競馬運営ビジョン」を2012年2月18日に発表。2012年度は収支均衡、2013年度は100万円の黒字、2014年度は1600万円の黒字を見込んでいる。観光振興や外国人客の誘致に注力するほか、主な増収策として以下の施策をあげている。
2012年度の売得金総額は約104億9458万円(前年度比:1.26%増)、入場者数も25万4081人(前年度比:3.38%増)で、帯広市による単独開催となってから初めて前年度を上回った。
2014年2月には2015年度以降の収支見通しを発表。売得金は最大108億円(2015年度)を見込み、収支も2015年度は1100万円、2016年度は200万円の黒字とし、向こう3年間は収支均衡以上が確保できるとしている。同年4月には2013年度の開催成績が発表され、売得金総額は116億5383万3700円(前年度比:11.2%増)、総入場人員は26万8693人(前年度比:5.8%増)でともに前年度を上回った。さらに帯広市が同年6月に公表した2013年度の決算でも、帯広単独開催となってから最大となる約9900万円の黒字を計上した。
上記のほか、既に導入済の5重勝単勝式・7重勝単勝式・三連勝単式・三連勝複式馬券、道外での場外発売の拡充、競馬場内の商業施設「とかちむら」の集客や中央競馬の場外発売により入場者数は上向いており、存続に向けた努力が続いている。しかしインターネット投票が好調な反面、帯広競馬場での発売額が伸び悩んでおり、情勢は引き続き予断を許さない。
賞金は、苦しい経営状況を反映して減額され続けていたが、売上の好転にともない少しずつ増額されるようになった。しかし、今なお全国でも最低の水準が続いており、2019年12月現在、一般競走の1着最低賞金は13万円、1着-3着までの賞金総額は17万7000円となっている。
2020年度は新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う外出自粛の影響もあり、インターネット投票が好調で、発売額は史上最高の483億5278万円(前年比55.5%増)となった。それまでの最高額は1991年度の322億9248万円であり、大幅な記録更新となった。
帯広市ばんえい競馬会計の2020年度決算では、初めて剰余金の一部(2452万円)を一般会計に繰り出したほか、2021年度決算でも1552万円を繰り出すなど、帯広市の財政にも貢献するまでになった。一方で、コロナ禍の外出自粛や制限が撤廃された後の需要予測が見通せないことから、帯広市ではさまざまなイベントを催すなど、話題作りに注力している。
北海道や東北地方の一部地域では、主に地域の祭典などで「輓馬競技(ばんばきょうぎ)」が開催されている(「輓馬大会」「馬力大会」「草ばんば」とも呼ばれる)。これらは「輓曳(ばんえい)」「輓馬(ばんば)」と略されることも多い。重量物を積載したそりを曳く競走形態は、公営競技とほぼ同様である。現存する「草ばんば」としては音更町で1908年(明治41年)より開催されているものが道内最古とされている(当初は平地競走。ばんえい競走になったのは終戦後)。
輓馬(ひきうま、ばんば)と呼ばれる競走馬の操縦方式には、そりに乗った騎手1人で操る方式(公営競技と同じ)と、そりに乗った騎手と競走馬の口を引く伴走者(助手)の2人で操る方式がある。公営競技では騎手がそりの上に立って操縦する(後述)が、輓馬競技では騎手がそりに座って操縦することもある。
また、複数の人間がチームを組んで自らそりを曳く「人間ばん馬」も存在し、置戸町で毎年6月ごろに行われている「人間ばん馬大会」 のほか、帯広競馬場でもばんえい本走路を使用して行う「ワールド人間ばん馬チャンピオンシップ」が10月ごろに行われている。
公営競技としては使用しない品種でも、ポニーなどによるイベントレースとしてのばん馬競走が行われることもある。
いずれも、現在は廃止されている。
ばんえい競馬の起源は木材を運び出していた馬の力比べとされており、北海道開拓期より各地で余興や催事として行われていた。当初は2頭の馬に丸太を結びつけ、互いに引っ張りあっていたという。
明治時代末期頃から荷物を載せたそりを曳かせる現行の競走方式が登場したとされ、確認できる最古の競走は1915年(大正4年)9月16日に函館区外で十郡畜産共進会の余興として行われた「挽馬実力競争」である。競馬場内の広場に長さ40間(約73m)の平坦コースを設け、雪ゾリに一俵16貫(60kg)の土俵(つちだわら)を3-14俵集め、これを重しとして競走を行っていた。その後も大正時代末期に亀田八幡宮(渡島国亀田郡亀田村)の境内や五稜郭公園の敷地内で行われたのをはじめ、全道各地で同様の競走が行われていた。
太平洋戦争後の1946年、地方競馬法施行規則第9条により、競走の種類は駈歩(平地競走)、速歩(速歩競走)、障害(障害競走)、輓曳(ばんえい競走)の4種類と定められたこと を受け、ばんえい競走が公式競技となった。ばんえい競走が採用された背景には、戦時中に軍馬として徴用された農用馬が戻ってこなかったため、農村部で農用馬が不足していたことに加え当時の食料不足も重なり、馬の増産が急務であったことが挙げられる。
翌1947年10月16日には北海道馬匹組合連合会(馬連)によるばんえい競走が旭川競馬場において実施され、公式競技として初のばんえい競走が行われた。
1948年に施行された(新)競馬法により、地方競馬の主催は都道府県もしくは競馬場が存在する市区町村に限られることとなったものの、この年は前年の興行不振などを理由に休催。1949年から「道営競馬(現・ホッカイドウ競馬)」により、ばんえい競走が旭川と帯広で再開された。道営は当初、ばんえい競走の他に平地競走・速歩競走も行っていたが、道営でのばんえい競走は1966年に廃止された。
1953年には、市内に競馬場が所在する旭川市・岩見沢市・帯広市・北見市の4市による「市営競馬」が発足。市営も当初は平地とばんえいを行っていたが、1962年にばんえい競走へ一本化した。こうして1970年以降は道営競馬が平地競走のみ、市営競馬がばんえい競走のみを開催する運営形態となり、現在に至っている。
市営競馬は当初、4市が所在する各競馬場において個別に開催していたが、1968年に「北海道市営競馬協議会」が発足、1989年には一部事務組合として改組された「北海道市営競馬組合」が開催を引き継いだが、2006年度限りで帯広を除く3市が撤退(前述)したため組合は解散し、現在は帯広市による単独開催となっている。
道外でも、青森競馬場で法に基いたばんえい競走を行っていた が、青森競馬場が1951年に廃止されたため、道外での公営競技によるばんえい競走は短命に終わった。
かつてのばんえい走路はU字型(馬蹄型)のオープンコースで、最大出走可能頭数(フルゲート)も現在に比べ多かった。1963年に旭川が現在の直線セパレートコースを導入 すると、5年後に岩見沢・帯広・北見も追従している。また障害もかつては3つあったが、1974年より現行の2つになった。なお、草ばんばではレース後のそりの移動を容易にするため、現在でもU字形のコース形態が残っているところもある。
当初は軍馬として取引され馬産の中心であった中間種のアングロノルマン(アノ)や、産業馬としての需要が強かった重種馬のペルシュロン(ペル)が多く用いられた。戦前に輸入された種牡馬のうち、1910年に導入されたイレネーの子孫が大いに繁栄し、「ばん馬の父」とも称されている。戦後は馬産復興期にフランスからブルトン(ブル)が導入され、その中でも種牡馬グウラントンとペルシュロン繁殖牝馬の産駒が非常に優秀であったことから、戦後のアングロノルマンの衰退とともに、ペルシュロンとブルトンの混血が進んだ。
戦後、復興から高度成長期にかけてモータリゼーションの進展とともに産業馬としての需要がなくなり、生産頭数は激減した。1974年には、ばん馬の改良用としてベルジャン(ベルジアンとも)種の馬が輸入される。橋本善吉 がアメリカ合衆国から日本に輸入したマルゼンストロングホースや、他にジアンデュマレイといったベルジャン種牡馬の産駒が、従来のペルシュロン種・ブルトン種よりもはるかに大型でかつ軽快な脚捌きをみせ、さらに産駒の仕上がりが早く大活躍したことからさらに混血が進む。
現在は「半血」「日本輓系種(日輓)」と称される前記3種の異種混血馬やそれらと在来種の混血馬が大半を占めており、純血種の馬はごくわずかになっている。なお混血種は、従来はすべて「半血種」と称していたものの、2003年度以降の生産馬については、純系種同士の配合によって生まれた雑種を一代に限り「半血種」とし、このほかは「日本輓系種」と呼称している。また、便宜上ばんえい競走に使用する馬を総称して「ばんえい種」と呼称することがある。
道内でも主産地が胆振・日高管内に集中している軽種馬とは異なり、ばんえい馬の産地は道内各地に広く分布している。ばんえい競馬ではこれを生かし、産地別選抜競走「ばんえい甲子園」も行っている。
このほか、かつては「.........系」(「.........」には純血種の品種名が入る。当該純血種の血量が75%以上の場合)という表記も存在したものの、これも2003年4月以降の登録においては日本輓系種と扱われる。
農用(輓系)馬の生産は1955年以後、トラックや耕耘機などの普及に伴い飼育頭数が激減。その後、馬肉(いわゆる桜肉)の需要が堅調に推移したことにより、生産頭数は1983年(7399頭)・1994年(8097頭)に改めてピークを迎えるものの、その後再び生産頭数が大幅に減少し、2004年は3163頭まで落ち込んでいる。
地域別の分布をみると、2005年度の生産頭数2655頭のうち、十勝管内で761頭(28%)、釧路管内で652頭(25%)、根室管内で300頭(11%)と、酪農の盛んな道東の太平洋側で6割半ばが生産されている。次いで網走管内184頭、上川管内139頭、檜山管内111頭などの順になっている。北海道以外では岩手県の81頭、熊本県の70頭などが多く、桜肉の飼養・生産が盛んな九州での生産頭数は、すべてを合わせても104頭にとどまる。
生産農家の形態は、おおまかに分類すると以下の3通りに分けられる。
公益社団法人日本馬事協会の資料によると、2004年の生産馬3163頭のうち、戦前の日本三大市場(釧路大楽毛・根室厚床・十勝帯広)の流れをくむ十勝・釧路・根室管内で、当歳市場662頭、1歳市場990頭の取引が成立した。2006年に馬名登録された2歳馬は430頭である。なお、この統計上に現れない馬の多くは、十勝・釧路・根室管内以外の生産馬か、あるいは自家生産した牝馬をそのまま繁殖牝馬として飼養しているケースのいずれかと考えられる。
農用(輓系)馬生産農家のお祭りとして行われる「草ばんば」には、繁殖に入った自家飼養馬のほか、現役の競走馬や、競走馬を目指す1歳馬も多数集まる。1歳馬が草ばんばに大挙出走するのは競走能力を見極めるシステムが少ないためで、軽種馬ではみられない特徴でもある。
草ばんばでの負担重量はおおむね330-350キロ。各地の草ばんばで優秀な成績を収めた1歳馬は、毎年10月中旬にばんえい競馬の競馬場(現在は帯広競馬場のみ)で行われる「祭典ばんば1歳馬決勝大会」に出走し、ここでの成績が大きな参考資料となることから、競走馬としてデビューする前に大がかりに能力を判定できるシステムとして機能している。
ばんえい競馬の競走馬は2歳からデビューする。「2歳新馬戦」は行われるが「2歳未勝利戦」はなく、代わりに「2歳未受賞」競走(収得賞金がない馬が対象)が行われる。2歳のシーズン途中からは収得賞金に応じて格付けされる(後述)。
日常の調教は、夜明け前後から本走路の裏側にある練習用走路を使用して行われている。調教の様子は、事前予約による有料の「朝調教見学ツアー」で見学することも可能。
デビュー前の2歳新馬や、デビュー後も成績が不振な馬には「能力検査」(能検、専門紙では「能力試験(能試)」とも呼ばれる)が義務付けられ、これに合格しなければレースに出走できない。とくに2歳新馬の能検は2003年まで定員制をとっていたため、約1/3-1/6しか合格できない狭き門で、見守る生産者や馬主、調教師など関係者の声援も熱気に満ちていた。2004年以降は農用馬の生産頭数の激減にともない基準タイム制に移行し、合格基準も大幅に緩和され8割程度の馬が合格できるようになった。なお、不合格馬は一部が各地で観光馬車を曳いたり農耕馬として転出する場合もあるが、多くは能力検査後ただちに競りが行われ、食肉用に転用される。
出走間隔は平地の競走馬に比べ短く、概ね1か月あたり2戦-4戦することが多い。重い荷物を曳く性質上高重量戦の経験や能力が重視され、一般的には6歳以降が充実期とされる。
現役の競走馬であっても、馬券の発売を伴わないイベントレースなどで出走する場合がある。前述の「JRAジョッキーDAY」におけるエキシビションレースのほか、一般のファンやちびっこをそりに乗せたレースも行われ、現役の競走馬が出走する。いずれの場合も現役のばんえい騎手が「補助役」として一緒に騎乗し、馬の操縦を行っている。
1978年から2006年までは10歳定年制 が設けられており、10歳になった馬はその年度末(明け11歳)までに引退しなければならなかったが、2007年度からは定年制が撤廃された。牝馬は繁殖に備えるため、10歳を待たずに引退することが多い。
全体の賞金水準が低いこともあり、生涯獲得賞金額が1億円を超えた馬はごくわずかしかおらず、達成馬は「1億円馬」として称えられる。ただ、近年は最高峰とされるばんえい記念だけは1着賞金が1000万円に戻されたが、それ以外は度重なる賞金の減額(売上の回復にともない徐々に増額はされているが、帯広の単独開催になる以前の状態には戻っていない)もあり、1億円達成は困難になっている。
競走成績が優秀だった牡馬には、引退後も種牡馬(「種雄馬」とも呼ぶ)への道が開かれる。
記録は2013年度全日程終了時のもの。
出典:競走馬名鑑(1億円達成馬) - 一般社団法人ばんえい競馬馬主協会、2015年1月12日閲覧
ばんえい馬の馬名には、現役の平地競走馬や過去に平地で登録されていた馬名と同名の馬が時折みられる(具体例はスーパーペガサスを参照)。これは平地と全く競走形態が異なるため一緒に走ることがないうえ、互いの血統も異なるため混乱を招きにくいことから認められている。
ばんえい競馬は、途中に2つの障害(台形状の山)を設けた直線200mのセパレートコースを使用し、最多のフルゲートでは10頭で争われる。各馬が最初に越える低い山を「第1障害(または1障害)」、次に越える高い山を「第2障害(または2障害)」と呼んでいる。
平地競走などにみられるハロン棒に相当するものとして、ゴール前30m地点から10m地点まで10m間隔で標識を設置している。
距離の変動がないため、スターティングゲートやスターター台はすべて固定式となっている。スターティングゲートは掲示板側から順に1コース・2コース...と割り当てられ、スタンド側が10コースとなる。幅はそりに合わせて広くとられており、開閉扉は馬の顔にあたる部分だけが開閉するため平地競走用のゲートに比べ小さめになっているほか、ゲート内には馬体幅に合わせた出っ張りも設けられている。
セパレートコースで争われるため、他馬への進路妨害などで審議となるケースはオープンコースで行う平地・障害競走に比べ少ないが、レースに不慣れな2歳馬の競走で審議となることが時折みられるほか、古馬の競走でもまれに審議となる場合がある。なお、走行妨害が認められた場合は平地と同様に降着や失格となる場合もある。
2013年6月8日より砂の磨耗を均一化することを目的として、9頭以下の競走でゲート入りの基準が変更された。
その後、2014年10月25日より以下の通り改められた。
ばんえい競馬では、開門前から最終競走の概ね1時間前の間に数回馬場水分を計測し、測定時刻と馬場水分値を0.1%単位で場内や各場外、CS放送やインターネット配信などにおいて発表している。水分値は通常0.1%から9.9%までの範囲で発表されるが、積雪した場合などには10%を超える数値が発表される場合もある。日本国内ではばんえい競馬のみで行われている独自の方式である が、これは馬場の水分状態がレース展開を決定する重要な要素となるためである。
ばんえい競走は平地競走と異なり、晴天で馬場が乾いているとそりの滑りが悪くなり摩擦が増すため、タイムは遅くなる(重馬場 - おもばば)。逆に湿度との関係や、雨や雪が降って馬場が水分を含むとそりの滑りが良くなり、タイムは速くなる(軽馬場 - かるばば)。平均タイムは概ね2分前後(競走により4分-5分以上かかる場合もある)であるが、積雪などの要因で馬場が極端に軽くなると、1分を切るタイムが出ることもある。専門紙では各馬の「水分別成績」を掲載するものもある。一般的に軽馬場では逃げ馬が、重馬場では差し馬が有利とされる。
また、夏季・小雨等で馬場があまりに乾燥した場合は、馬とそりの動きにより、砂塵が舞い上がって人馬・審判・観客の視界を遮りレース運営に支障をきたす恐れがあるため、コースに散水を行う場合がある。散水する場所はスタートから第1障害前、第1障害後から20メートル、その後20メートルから第2障害前、ゴール手前から20メートルの4箇所をスタート地点からそれぞれA・B・C・Dと称し、いずれかが必要に応じて選択される(複数選択される場合もあり、スタートから第2障害まで3箇所すべて散水されるとABC散水と表現される)。ただし散水となっても、障害を形成する山自体には散水されない。なお、砂はレースで繰り返し使用することで摩耗し、特に軽馬場となったときに極端にスピードが出やすくなるうえ、粒子が細かくなることで砂塵も舞い上がりやすくなるため、原則として1年に一度の休催期間中に入れ替えを行うほか、散水を行った場合は公式ホームページ・場内・各場外・CS放送・インターネット配信などで1レース開始前に告知される。
馬柱を掲載している出馬表や専門紙などには、過去の戦績欄に馬場水分が表示されている。また、結果を伝える翌日の新聞等では「(計測した馬場水分の)最高値-最低値」で掲載しているほか、代表値のみを掲載する新聞もある。公式の競走成績などでは、発走時刻より前で最も近い測定時刻の馬場水分値を各競走ごとに掲載している。
ゴールインはそりの最後端が決勝線を通過した時点で認められる。スタートラインもスターティングゲートの先頭ではなく、そりの最後端位置を基準に設定される。そのため、発走前のゲート後方では係員により、そりの最後端位置が一直線になっているか確認する作業を行っている。これはばんえい競馬が元来「荷物を運びきる荷役作業」に由来していること と、決勝線上で馬が止まってしまうことがあり、鼻先では決勝判定が難しい場合があるためとされている。
上記のとおり、鼻先(先端)で勝敗を決める平地競走や障害競走、及び他種公営競技(競輪・競艇・オートレース)とは異なり審判の決勝判定も難しく、かつては肉眼のみで決勝判定を行っていたことから審判に関するトラブルが絶えなかったが、1963年に導入された写真判定、1969年に導入されたVTR判定によって、判定の正確さは飛躍的に向上。このため、国内外の競馬関係者からも見学に訪れることがあるという。決勝判定写真は平地競走などと同様にスリットカメラ方式を採用している。そのため決勝線上で馬が立ち止まったりすると、馬の胴が異様に長く伸びて写る場合がある。また、スタンド側からの写真のみではそりの後端が他の馬ないしそりによって隠れることがあるため、対面にも塔を建てて撮影している。
成績は1着から最下位まですべて走破タイムが発表され、着差は平地競走のような馬身・クビ・ハナ等ではなく、秒数で発表される。また単一コースのため、レコードタイム制度も設けられていない。
以下の条件に該当する馬は基準タイム超過(タイムオーバー)となり、当該レースは失格となる。
ばんえい競馬の一番の見せ場はレース中盤から後半にかかる第2障害であり、第2障害をいかに越えるかで勝敗の大勢が決まることも多く、レース戦略上最も重要となっている。
各馬ともスタート直後はそりを曳いたまま、概ね第1障害は難なく通過する。第1障害-第2障害間は馬のスタミナ特性や馬場状態などを鑑みた騎手間の作戦や駆け引きが繰り広げられ、手綱による指示により時折脚を止めながら、徐々に第2障害へ近づく(実況では「刻む」と表現する)。第2障害の手前まで到達後、騎手が手綱によって馬を止めてスタミナ回復を図り、息を整える(実況では「ためる」と表現する)。その後、騎手の合図により、第2障害を越えようとするが、馬の障害に対する特性や騎手の作戦、降雨・積雪などで馬場が軽くなっている場合は、第2障害前であえて馬を止めずに一気に越えていく場合もある(実況では「直行」と表現する)。また、人馬の呼吸を合わせるのと同時に、仕掛けるタイミングを巡って騎手間でも駆け引きが繰り広げられる事から、騎手にとっては最大の腕の見せ所になる。また馬によっては騎手の手綱による制止を無視して障害を登り始めてしまう(実況では「もっていかれる」と表現する)こともあり、この場合は騎手の立てた作戦が崩れることもあり、予断を許さない。
馬にとっても第2障害は一番の正念場で、障害を登り切れずに膝をつく馬や、力尽きて倒れこむ馬もいる。競走中止の事象の多くはこの第2障害で発生する(実況では「膝を折る」と表現する)。ただし、平地競馬の軽種馬と違い重種馬である故、足の骨は頑丈であるため、骨折等の予後不良につながる怪我は滅多に発生しない。
第2障害を越えた後も、ゴールまでの直線で止まってしまう馬もいる。また第2障害通過後は騎手が意図的に馬を止めることは規則上認められていないが、ゴール直前まであえて手綱で追わず、最後に残ったスタミナによる一瞬の瞬発力を活かした馬追いをした結果の逆転劇も多く、勝負の行方は最後まで予断を許さない。
その特殊な競走形態から人間が歩いても追いつく程度の速度で展開するため、ファンも馬と一緒に並走しながら観戦できるのが特徴である。これは高速で展開する平地競走や他種公営競技には見られない、ばんえい競馬の性質ならではといえる。
レースに出走する馬には、「よびだし」や「背ずり」などと呼ばれる独特の装具が各馬に合わせて作られ、出走時に装着される。これらの重量は70kg以上にも及ぶ。また厩舎・厩務員の意向によっては、たてがみも丁寧に編みこまれたり、花飾り等装飾品が付くこともある。スタート時には各馬とそりや装具をつなぐ鎖が鈴のように一斉に鳴り響く。
競走に使用するそりは鉄製で、そりの自重は450kgと定められている。積載する重量物は平型で、5 kg・10 kg・30 kg・50kgの4種類 があり、これらを組み合わせて積載することでばんえい重量を調整している。
コースとの接地面には「ズリ金」(「裏金」ともいう)と呼ばれる鉄板が取り付けられている。ズリ金は競走で繰り返し使用することで摩耗するため、1年に1回程度の頻度で交換され、交換を行った際は告知される。交換によって地面に接触する感触が変わり、走行タイムが若干長くなる傾向もみられるとされる。
そりの塗装はかつて青1色から、本体が緑色、重量物の積載スペースが黄色となり、2022年度開催からは本体が赤色、重量物の積載スペースは黄色に更新されている。
運びきったそりはレース後、コース脇のトロッコ列車に載せられてスタート位置まで戻される。トロッコはナローゲージで、小さなディーゼル機関車により牽引される。レース終了後にそりをスタート位置まで運び、その後は再びゴール位置で待機する。軌道は本走路と着順掲示板の間に設置されており、レース間の中継映像でも時折画面に運搬中のトロッコ列車が映りこむ場合がある。通常、関係者以外は乗車できないが、ファンサービスとして一般のファンを乗車させる場合もある。
競走中止などの要因でそりを馬がゴールまで運べず、コース上にそりが残ってしまった場合はトラクターでスタート位置へ戻す場合がある。
ばんえい競馬の競走馬のクラスは後述する通り、馬齢(大別すると「2歳」「3・4歳」「3歳以上」)と賞金額によって分けられる。
他の地方競馬(平地競走)においては通常、馬齢によるクラス分けは「2歳」「3歳」「3歳以上」となっており、ばんえい競馬では「3歳」に代わって「3・4歳」というクラスを設けていることが異なっている。これは3歳馬や4歳馬が5歳以上の馬に比べ高重量戦の経験が浅いことから、能力的に劣るとされているため。
デビューからの通算収得賞金は別途集計されているが、競馬番組編成やクラス分けに用いる賞金額は、以下のように取り扱っている。
以下は2019年度の番組編成要領 に沿って記述する。
当該年度の収得賞金順に4段階(A・B・C・D)で格付け。
ばんえいではかねてから着順トライアル制を採用している。
また、普通競走で出走希望頭数が制限頭数(10頭)を超え、抽選の結果出走できなかった馬は次に当該馬が出走できる最初の競走に限り、出走投票した馬に優先出走が認められている。
馬が曳くそりの重量は「ばんえい重量」と呼ばれ、競走別に設定されている。これは平地競走などでの負担重量に相当するもので、公式の出走表や専門紙・スポーツ新聞などでも、このばんえい重量が「重量」欄に掲載されている。ただし、一部ではスペースの都合から一桁省略して「重量(×10 kg)」と表示される場合がある。かつてはそりに積載する重量物の重量をもって表記していたものの、のちにそり本体を含めた重量をもって表記するよう改められている。
最低重量は480kg(牝馬は460kg)、最高重量は重賞競走「ばんえい記念」での1000kg(牝馬は980kg)である。
実際にそりを曳く際は、そりの上に乗る騎手の重量も加算される。ただし騎手重量は一律に設定されている(後述)ため発表されない。
一部の競走を除き、重量設定においては各馬の成績も加味される(別定戦と呼ばれる。詳細な設定は後述)。
2010年より 競走のバリエーションを増やす観点から、通常よりも大幅に低いばんえい重量を設定する競走を一部に設定している。
以下に示す重量は、2019年度の番組編成要領 に基づく。
普通競走では各クラス別に以下の基礎重量を基準とし、これに収得賞金などの別定条件を加味して加減される。
特別競走や重賞競走では各競走ごとに基礎重量が定められ、これに別定条件を加味して加減される。
普通競走・特別競走における重量の加減は、以下の通り定められている。
主に特別競走や重賞競走で重量を加減する別定条件は以下の通り。
※「重量格」は、470万円以上(オープン)・470万円未満・360万円未満・240万円未満(150万未満も含む)・150万円未満(80万未満も含む)・120万円未満(3・4歳)と定められている。
騎手重量は男女の区別なく一律に規定され、2019年度は77kgと定められている(2012年度までは冬季に限り防寒服分を加算し、夏季75kg・冬季77kgに設定されていた)。騎手の元々の体重が規定重量に足りない分は、計量時に鉄製の箱(「弁当箱」とも呼ばれる)に鉛のおもりをいれて、その箱をソリの前部専用スペースに騎手がいれることで調整する。ばんえい競馬は大型馬を操ることから、騎手重量は平地競走や障害競走よりも重めに設定している。
見習騎手や女性騎手などで減量が生じる場合は、ばんえい重量が減量される。減量騎手の取扱は以下のとおり。出走表や専門紙には、括弧内の記号で表示される。
2023年7月28日現在、ばんえい競馬では21名(うち女性2名)の騎手が在籍している。
騎手重量は服などを合わせた総重量が77kgを上限としており(2022年度現在。前述)、平地競走などよりも重く設定されている。平地競走などに比べ重い馬を御すことが重要となるため、騎手の体重は重い方が有利とされる。ただし、騎手の重量は前述の通り「弁当箱」で調整されているため、個別に体重が発表されることはない。また、平地競走とは異なり騎手の身長にも制限がないため、身長が高いことなどの理由から平地競走の騎手を断念した者がばんえい競馬の騎手を目指す例も見られる。2009年にばんえい競馬の騎手免許を取得した林義直(2011年引退)は身長が192cmと当時の日本人騎手としては最も高く、ギネスへの申請も検討された。
騎手の1日あたり最大騎乗数は8回までと定められているほか、騎乗を変更した場合は翌日の騎乗が認められていない(いずれも委員長が特に認めた場合は除く)。
ばんえい競走では、平地競走よりも騎手の技量が勝敗を左右する割合が高いとされる。レース中も騎手同士でさまざまな駆け引きが繰り広げられるほか、第2障害通過後の追い方も多種多様である。 一般的に第2障害までの流れで余計なスタミナを消費させない刻みをする。障害に挑戦させるタイミングが適切である。かつゴール地点で、馬のスタミナが尽きる(全力を出し切る)。この3つの状態を創り出す騎手が技量の高い騎手とされる。余裕の勝利時以外で、スタミナを余らせてしまうときは、解説から「足を余す」騎乗と揶揄されることもある。
レースで使用するそりには手綱以外につかまるものがないため体全体でバランスをとる必要があるうえ、レース中は手綱を引くと馬が止まってしまうため、高度な技術が必要となる。騎手はそりの上に立って騎乗し、長手綱を使って馬を操縦するほか、手綱をしならせることで馬に対する合図の役割も果たしている。また、騎手が担当馬にまたがって騎乗するのはパドックから本馬場入場(ただし、パドックで騎手が騎乗せず、本馬場入場まで厩務員が馬を誘導することも多い。その場合は騎手はスタート地点まで専用バスで移動する)までで、レース中は馬上でまたがることがないため、出走馬には鞍や鐙が装備されていない。騎手はパドックから本馬場へ入場する際に、馬番ゼッケンのみをのせた鞍も鐙もない馬上にまたがり騎乗するが、平地の騎手のように厩務員の補助を受けず、大半の騎手が自力で飛び乗る。この際の騎乗姿勢をみることで、騎手の乗馬技術を測る参考になるとされている。実際にこの馬への「飛び乗り」は、ばんえい騎手免許の実技試験の項目である。
ばんえい競馬では年に1度、1年以上の厩務員経験がある者を対象に筆記・実技・面接による騎手免許試験を行っており、これに合格した者に地方競馬全国協会(NAR)より騎手免許が交付される。ばんえい競馬では他の地方競馬や中央競馬(および他種公営競技)と異なり騎手(選手)を養成する専門機関が存在せず、ばんえい競馬の騎手になることを希望する者は、まず厩舎に厩務員として所属し、ここで馬の扱い方や乗り方なども習得することになる。また騎手免許試験はばんえい競馬独自の内容で、試験の難易度も高く一発合格は稀で、多くの場合二度三度と受験してやっと合格できる非常に狭き門となっている。このため新人騎手が誕生しない年もあるほか、デビュー時の年齢も20歳を超えている場合が多くみられ、平地の騎手よりもデビューまでに時間がかかる。2010年12月現在、在籍していた28人の騎手における合格時の平均年齢は22.9歳であった。
現役・引退ともデビューが早い順に記載。
引退騎手でデビュー年が同じ場合は、引退年の早かった順に記載する。
記録は公式に残っている1963年以降のもの。
現役騎手の記録は、2022年度全日程終了時のもの。
現役
引退
2022年度全日程終了時の記録。
公式記録が確認できる1963年以降のもので、3回以上受賞者のみ記載。
名前が太字のものは現役騎手を表す。
2003年度より競走格付け表記を導入しており、各重賞競走を「BG1」「BG2」「BG3」(BGは「ばんえいグレード」の略)で格付けしている。
2020年度の重賞競走は以下の27レース。【 】は年明け(2021年1月-3月)の馬齢および競走を示す。
重賞としての廃止年が早かった順に記載。格付けは廃止直前のものによる。一部の競走は、特別競走として存続しているものもある。なお旭王冠賞は 2007年から(現)旭川記念になっているが2007年以降の回次は旭王冠賞のものをそのまま引き継いで通算しているため廃止という扱いにはなってはいない。
ばんえい競馬は「古馬」を3歳以上としているが、その中でもクラス編成はさらに細分化され、3・4歳馬によるクラス分けや重賞路線が別途整備されている(前述)。とくに4歳馬限定の重賞路線が別途設けられているのが、大きな特徴となっている。
2歳馬による産地限定の競走。以下の各トライアル競走の優勝馬と2着馬に重賞競走「ヤングチャンピオンシップ」への優先出走権が与えられる。2008年からは下記のトライアル競走を総称して「ばんえい甲子園」と呼んでいる。
ばんえい競馬では、企業(団体)や個人から協賛金を受けた一般競走や一部の特別競走を冠レースとして実施している。協賛金のうち7割が馬主・調教師・騎手などへの副賞、3割が運営振興費として充てられる。
出走表などにレース名を掲載し、当日は特別観覧席への招待(申込者を含め5名まで)や表彰式にプレゼンターとして参加可能なほか、優勝馬の記念撮影にも参加できる。
1982年より行われている特別競走。競走条件は「3歳以上、重馬体重馬選抜」で、3歳以上の馬から前回出走時の馬体重が重かった順に選抜する。「もっともばんえい競馬らしいレース」とされる名物レース。
1980年から1988年までは重賞競走として施行していた が、その後は特別競走(11歳馬・12歳セン馬限定)として施行。
ばんえい競馬は2006年度まで定年制を採用(明け11歳。セン馬は12歳)していたため、定年引退馬の花道を飾る最後の競走として選ばれることが多かった。
2007年度から定年制や減量特典の年齢制限が撤廃されたことにより、「蛍の光賞」は開催年度を締め括る特別競走として、最終開催日の最終競走で施行している。
2006年度までは年度末頃に「たちばな賞」(8歳牝馬限定・2006年度をもって廃止)が行われていた。
2006年度までは(明け)8歳3月までの牝馬に対してばんえい重量を一律20kg減量していた が、8歳4月以降(新年度開幕後)の牝馬はこの特典がなくなり牡馬と同重量とされたため、一部を除き多くの牝馬が8歳3月までに引退して後の繁殖に備えることが多かったことから、「たちばな賞」は引退する牝馬の花道を飾る最後の競走として選ばれることが多かった。
2010年度より行われ、現在は8月の稲妻賞、10月の疾風賞、12月の地吹雪賞をトライアルレースとして2月に開催される特別競走。本戦およびトライアル戦がばんえい重量500kgとなっている特殊な競走で、その負担の軽さからその名の通りレースタイム50秒前後で駆け抜ける普段とは違った迫力のあるレースが繰り広げられる。
2001年に馬複・馬単を導入した。
2011年8月6日の競走より3連複・3連単の発売を開始し、同時に枠番連複(枠複)を廃止した。枠複の廃止理由としては、馬の頭数減で10頭立てのレースが難しくなり、馬複との違いが希薄化していたためとされている。なお3連勝式(3連複・3連単)投票券の導入は日本国内の公営競技では最後であった。
2010年1月8日より、重勝式馬券「OddsPark LOTO」をインターネット投票(オッズパーク)限定で2種類発売している。当初は5重勝単勝式(5レースの1着馬を当てる)のみが設定されており、発売はランダム方式(馬番号は自動的に選択される)であった。その後同年12月25日のレースよりセレクト方式(購入者が馬番号を選択する)に変更され、2012年12月15日のレースより7重勝単勝式(7レースの1着馬を当てる)が新設された。なお、「OddsPark LOTO」はばんえい競馬が初の導入である。
2015年4月18日より、枠複とワイド(拡大馬番号二連勝複式)の発売が開始された(枠複は復活)。
○...発売 ▲...他主催者発売時のみ ☆...インターネット投票のみ
ばんえい競馬が運営する発売所(帯広競馬場・各場外発売所)では、ホッカイドウ競馬の場外発売(一部発売所では取り扱いなし)や南関東公営競馬・岩手競馬を中心とした広域場外発売も取り扱う。以前はばんえい競馬運営の発売所における他場の場外発売時はばんえい競馬に存在しない賭式(当時は枠単・ワイド・3連複・3連単が該当)の投票券を発売しなかったが、2011年8月5日の南関東公営競馬場外発売より発売主体の主催者に準じてすべての賭式を発売するようになった。
ばんえい競馬がナイター開催日に南関東や岩手が昼間(薄暮含む)開催している場合は、リレー発売する。
2013年6月8日より、一部の発売所において地方競馬共同トータリゼータシステムを利用した日本中央競馬会(JRA)の場外発売を開始しており、JRA場外発売においては「J-PLACE」の呼称を用いる。当初は帯広競馬場と北彩都(旭川)・北見・釧路・琴似の各場外発売所で開始され、2015年4月11日より名寄と深川の各場外発売所で、2017年4月15日より網走の場外発売所でも取り扱う。帯広・岩見沢では全レース、北彩都(旭川)・北見・釧路・名寄・深川・網走ではJRA開催各競馬場につき1日5レースずつ、琴似では1日4レースずつを取り扱う。
以下の在宅投票が利用可能。
日本中央競馬会(JRA)が運営する「地方競馬IPAT」では購入できない。
1984年に場外発売が本格開始となり、この時点では当時ばんえい競馬を施行していた4競馬場(「公営競技を開催する競馬場」節を参照)と日本中央競馬会(JRA)の釧路サービスセンター(現:ウインズ釧路)の5箇所の間で場外発売を実施していた(釧路は中央競馬の休催日のみ)。1993年に発売システムをオンライン化し、場外発売所の発売締切を本場と同時にすることが可能になった。
いずれも北海道に所在。
廃止・撤退した発売所
以下のホッカイドウ競馬が運営する場外発売所では、ばんえい競馬の場外発売も行っている。ただし、一部では場外発売を行わない日もあるほか、日によっては下記発売所のうち一部のみでばんえい競馬の発売を行うことがある。
ホッカイドウ競馬の場外発売所におけるばんえい競馬の発売は、2003年よりAiba小樽・滝川で、2004年よりAiba札幌駅前 で、2005年よりAiba千歳・函館・江別で、2009年よりAiba石狩・札幌中央・登別室蘭・札幌琴似 で開始された。
●の場外発売所は、土曜・日曜についてはばんえい競馬の取り扱いを行わない(2018年11月・12月現在)。
以下の発売所で定期的にばんえい競馬の場外発売を行っている。ただし、一部発売されない場合もある。
上記のほか、一部の競走は上記以外の競馬場・場外発売所でも広域場外発売を実施する場合がある。
帯広競馬場や各場外発売所での払戻業務は、原則として開催日のみ行っている。
各発売所の売店などで、以下の専門紙が販売されている。
上記の他、2013年1月11日より「レース展望サイト(協力:全国公営競馬専門紙協会)」を開設した。レース展開や記者の見解などを、全レース無料で閲覧可能。
現在、場内での場立ち予想はイベントなどの特例を除き認められていないが、以前は手書きの出走表に予想印と予想組番のみを印刷したシンプルなガリ版刷りの専門紙が数種類発売されていた。専門紙の発行元を兼ねた予想業者がパドックや専門紙販売ブースなどに常駐し、購入した新聞を見せる事で最新の情報を入手できたり、朝一番の取材で良く見えた馬に赤鉛筆で印をつけて新聞を販売するなど独特な予想屋文化が存在していた。しかし売上不振や発行者の高齢化のため、これらの新聞は次々に姿を消していった。
など
スポーツ新聞での扱いはホッカイドウ競馬よりも小さいことが多く、道内で発行しているものであっても、簡易出走表の掲載のみにとどまっていることが多い。
定期的に馬柱を掲載している新聞は以下の通り。
上記のほか、広域場外発売を行う競走ではその他のスポーツ新聞にも掲載される場合がある。
スカパー!での放送体制はたびたび変更されている。
2014年度はスカパー!プレミアムサービスにて、以下の通り放送。
|
[
{
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"text": "ばんえい競走(ばんえいきょうそう)とは、競走馬がそりをひきながら力や速さなどを争う競馬の競走である。「曳き馬」と呼ばれる事もある。",
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},
{
"paragraph_id": 1,
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"text": "現在、日本国内の公営競技(地方競馬)としては北海道帯広市が主催する「ばんえい競馬(ばんえい十勝)」のみが行われており、世界的にみても唯一となる形態の競馬である。本項目では、主に地方競馬としての「ばんえい競馬」について記述する。",
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},
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"paragraph_id": 2,
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"text": "「ばんえい」の漢字表記は「輓曳」であるが、現行競技における公式の表記は平仮名とされるため、ここでも平仮名を主として用いる。",
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},
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"paragraph_id": 3,
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"text": "ばんえい競走では一般的な平地競走で使用されているサラブレッド系種などの「軽種馬」や北海道和種の「どさんこ」は使われず、古くから主に農耕馬などとして利用されてきた体重約800-1200kg前後の「ばんえい馬(重種馬。「ばん馬」ともいう)」が、騎手と重量物を積載した鉄製のそりを曳き、2箇所の障害(台形状の小さな山)が設置された直線200メートルのセパレートコースで力と速さ、および持久力や騎手のテクニックを競う。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 4,
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"text": "このレースは農民たちが北海道開拓で活躍した農耕馬に乗り競い合うお祭りとして楽しんでいたものがシステム化され現在の形に発展したものであり、すでに30年以上の歴史をもつ。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "帯広市が主催する地方競馬としての「ばんえい競馬」のほか、一部地域では「草ばんば」(後述)も行われるなど北海道が生み出した独自の馬文化として定着しており、それらを含めた「北海道の馬文化」が北海道遺産に選定されたほか、映画「雪に願うこと」やテレビドラマ「大地のファンファーレ」(NHK札幌放送局・帯広放送局制作)など、映画やドラマの題材にも幾度か取り上げられている。2006年までばんえい競馬を開催していた岩見沢市では、岩見沢駅(3・4番ホーム)にそりを曳く「ばんばの像」が設置されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
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"text": "ばんえい競馬も地方競馬の一つであるが、使用する競走馬の品種や競走の性質が全く異なるため、平地競走と障害競走にみられるような中央競馬や他の地方競馬、また外国競馬との人馬交流競走は行われていない。また、地方競馬全国協会(NAR)による競走馬の表彰などについても、NARグランプリにおいて各部門賞のひとつとして『ばんえい最優秀馬』の部門が設けられている。年度代表馬は各部門賞受賞馬から選出 するため、他地区所属の平地競走馬と同様に選出される可能性があるほか、調教師や騎手などの表彰も平地と区別なく選定される。なお、NARにおける騎手や調教師の全国リーディング集計も、騎手・調教師の成績を他の地方競馬(平地)と区別せず、同列で集計している。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "競走での人馬交流はないものの、ばんえい競馬の所属騎手がばんえい競馬のPR活動を行う為、業務として平地競走の競馬場に赴き、現役のばんえい競走馬と競走で使用されるそりを運び込み、平地のダートコースなどを使用してデモンストレーションを目的とした模擬競走を行う場合がある。このような模擬競走は1973年に大井競馬場 で初開催され、その後も1978年に宇都宮競馬場(現在は廃止) で、1983年には水沢競馬場 で開催。近年では1991年に船橋競馬場 で開催されたほか、2001年にはフランス で、2008年には川崎競馬場で実施された。また、2007年から日本中央競馬会(JRA)所属騎手との交流イベントとして「JRAジョッキーDay」を開催している。JRAの現役騎手が帯広競馬場に来場しトークショーなどのイベントを行うほか、ばんえい所属騎手とペアを組んでのエキシビションレースも行っている(詳細は当該記事を参照)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "2006年度までは帯広競馬場のほか旭川競馬場・岩見沢競馬場・北見競馬場を含めた4か所を巡回しながら開催してきた(後述)が、2007年度より「馬の一発逆転ライブショー・ばんえい十勝」をキャッチフレーズとして、全日程を帯広競馬場で開催している。あわせて、夏季としては初めての本格的なナイター競走「ばんえい十勝ナイトレース」も開始した。ナイトレース期間中は最終競走の発走時刻を昼間開催時よりも2時間半程度繰り下げ、日没前後からは走路沿いに新設したイルミネーションも点灯させてナイター気分を盛り上げている。なお、ナイター期間以外の一部開催日は昼間開催時よりも1時間半程度繰り下げた薄暮開催とする場合もある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1994年秋より比較的積雪量が少ない帯広競馬場で馬場にヒーティング設備を敷設し、冬季でも馬場が凍結することなく競走が行えるようになった。これにより、従来は11月で終了していた開催期間を延長することが可能になった。2005年度からは長期の休催期間を設けない事実上の通年開催となり(現在は3月下旬に閉幕後、次年度の開幕まで3週間程度休催)、北海道で唯一冬季も開催を行う公営競技となっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "通常、ばんえい競馬は昼間・薄暮・ナイター開催ともに土曜から月曜、ホッカイドウ競馬は全日程ナイター開催で火曜から木曜に開催するローテーションが組まれており、一部を除いて両者の開催日程が重なることがないため、道内では多くの場外発売所で両者の相互場外発売が行われている。詳細は「場外発売所」の節を参照。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "2006年度までは帯広競馬場のほか、北見競馬場・岩見沢競馬場・旭川競馬場の4箇所を巡回して開催していた。1997年までは北見を除く3場で平地競走(ホッカイドウ競馬)が併催されていたが、1998年以降は旭川のみがばんえい・平地の併催となっていた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2006年度は史上初めて帯広で開幕し、上記4場で順次開催されたが、売上の減少による累積赤字の増大から旭川市・北見市・岩見沢市が2006年度限りでの撤退を表明、残る帯広市も負担が大きすぎるとして単独での開催継続に難色を示したことから、ばんえい競馬の廃止が濃厚と見られていたが、ファンらの嘆願や寄付の申し出に加え、2006年12月13日にはソフトバンク子会社のソフトバンク・プレイヤーズ(現・SBプレイヤーズ)が帯広市の単独開催に対する支援を申し出たことから、2007年度より帯広市が単独で開催を継続することが決定した。これについて農林水産大臣・松岡利勝(当時)は「喜ばしいことだ。正式に要請があれば、スムーズに処理できるようにするし、できる限り支援したい」と述べていた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "これに伴い、ばんえい競馬の運営実務を担ってきた一部事務組合「北海道市営競馬組合」は解散し、2007年2月1日に一部業務を受託する運営会社「オッズパーク・ばんえい・マネジメント株式会社(OPBM)」が設立された。また、帯広市はファンなど個人・法人からの寄付もあわせて受け付け、「ばんえい競馬振興基金」を開設、個人・法人からの寄付も毎年のように寄せられている。特に楽天は、子会社の楽天競馬が地方競馬のインターネット発売を請け負っていることもあり、寄付金のほか売上額から一定割合を積み立て、ばん馬の飼料用としてニンジンや牧草ロールを寄贈している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2007年度は黒字を計上したが、2008年度の総売上は約115.5億円で前年より約10%余り減少し、当初予算比も97.2%となったほか、入場者数も前年より約6万人減少した。運営安定化の基金も使い果たし、存続は正念場を迎えていく。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2009年度の総売上は約107.2億円で前年比約7%減となった。総入場者も約20万人で、引き続き前年割れとなった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2010年度の開催にあたり、OPBMは年度途中の撤退もありえるとしていたが、結局2011年度の開催についても12月15日に帯広市と大筋で合意し、今後5年間程度の中間戦略についても両者が協議することで一致した。2011年1月28日には開催日程を発表している。2010年度の売上は約105.6億円 で、売上の下げ止まり傾向は見えてきた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2011年度の総売上は103億6400万円余りで対前年比約2%減、総入場者数も24万5000人余りで前年比約0.7%減となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2012年度の開催業務の委託契約についてはOPBMと帯広市で協議してきたが、委託料の固定化や競争入札方式の導入を求めたOPBMと折り合わず、2012年度はOPBMと委託契約を更新しないことを決定した。運営は帯広市が主体となり、業務の一部は旭川北彩都場外発売所(レラ・スポット北彩都)を運営しているコンピューター・ビジネス(旭川市)に委託することで内定した。ただし、帯広市は「OPBMとは今後も良好な関係を維持していきたい」としている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また2012年度以降の収支見通しについて、市民検討委員会の提言を基に策定した「ばんえい競馬運営ビジョン」を2012年2月18日に発表。2012年度は収支均衡、2013年度は100万円の黒字、2014年度は1600万円の黒字を見込んでいる。観光振興や外国人客の誘致に注力するほか、主な増収策として以下の施策をあげている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2012年度の売得金総額は約104億9458万円(前年度比:1.26%増)、入場者数も25万4081人(前年度比:3.38%増)で、帯広市による単独開催となってから初めて前年度を上回った。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2014年2月には2015年度以降の収支見通しを発表。売得金は最大108億円(2015年度)を見込み、収支も2015年度は1100万円、2016年度は200万円の黒字とし、向こう3年間は収支均衡以上が確保できるとしている。同年4月には2013年度の開催成績が発表され、売得金総額は116億5383万3700円(前年度比:11.2%増)、総入場人員は26万8693人(前年度比:5.8%増)でともに前年度を上回った。さらに帯広市が同年6月に公表した2013年度の決算でも、帯広単独開催となってから最大となる約9900万円の黒字を計上した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "上記のほか、既に導入済の5重勝単勝式・7重勝単勝式・三連勝単式・三連勝複式馬券、道外での場外発売の拡充、競馬場内の商業施設「とかちむら」の集客や中央競馬の場外発売により入場者数は上向いており、存続に向けた努力が続いている。しかしインターネット投票が好調な反面、帯広競馬場での発売額が伸び悩んでおり、情勢は引き続き予断を許さない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "賞金は、苦しい経営状況を反映して減額され続けていたが、売上の好転にともない少しずつ増額されるようになった。しかし、今なお全国でも最低の水準が続いており、2019年12月現在、一般競走の1着最低賞金は13万円、1着-3着までの賞金総額は17万7000円となっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2020年度は新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う外出自粛の影響もあり、インターネット投票が好調で、発売額は史上最高の483億5278万円(前年比55.5%増)となった。それまでの最高額は1991年度の322億9248万円であり、大幅な記録更新となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "帯広市ばんえい競馬会計の2020年度決算では、初めて剰余金の一部(2452万円)を一般会計に繰り出したほか、2021年度決算でも1552万円を繰り出すなど、帯広市の財政にも貢献するまでになった。一方で、コロナ禍の外出自粛や制限が撤廃された後の需要予測が見通せないことから、帯広市ではさまざまなイベントを催すなど、話題作りに注力している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "北海道や東北地方の一部地域では、主に地域の祭典などで「輓馬競技(ばんばきょうぎ)」が開催されている(「輓馬大会」「馬力大会」「草ばんば」とも呼ばれる)。これらは「輓曳(ばんえい)」「輓馬(ばんば)」と略されることも多い。重量物を積載したそりを曳く競走形態は、公営競技とほぼ同様である。現存する「草ばんば」としては音更町で1908年(明治41年)より開催されているものが道内最古とされている(当初は平地競走。ばんえい競走になったのは終戦後)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "輓馬(ひきうま、ばんば)と呼ばれる競走馬の操縦方式には、そりに乗った騎手1人で操る方式(公営競技と同じ)と、そりに乗った騎手と競走馬の口を引く伴走者(助手)の2人で操る方式がある。公営競技では騎手がそりの上に立って操縦する(後述)が、輓馬競技では騎手がそりに座って操縦することもある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また、複数の人間がチームを組んで自らそりを曳く「人間ばん馬」も存在し、置戸町で毎年6月ごろに行われている「人間ばん馬大会」 のほか、帯広競馬場でもばんえい本走路を使用して行う「ワールド人間ばん馬チャンピオンシップ」が10月ごろに行われている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "公営競技としては使用しない品種でも、ポニーなどによるイベントレースとしてのばん馬競走が行われることもある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "いずれも、現在は廃止されている。",
"title": "公営競技を開催する競馬場"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬の起源は木材を運び出していた馬の力比べとされており、北海道開拓期より各地で余興や催事として行われていた。当初は2頭の馬に丸太を結びつけ、互いに引っ張りあっていたという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "明治時代末期頃から荷物を載せたそりを曳かせる現行の競走方式が登場したとされ、確認できる最古の競走は1915年(大正4年)9月16日に函館区外で十郡畜産共進会の余興として行われた「挽馬実力競争」である。競馬場内の広場に長さ40間(約73m)の平坦コースを設け、雪ゾリに一俵16貫(60kg)の土俵(つちだわら)を3-14俵集め、これを重しとして競走を行っていた。その後も大正時代末期に亀田八幡宮(渡島国亀田郡亀田村)の境内や五稜郭公園の敷地内で行われたのをはじめ、全道各地で同様の競走が行われていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "太平洋戦争後の1946年、地方競馬法施行規則第9条により、競走の種類は駈歩(平地競走)、速歩(速歩競走)、障害(障害競走)、輓曳(ばんえい競走)の4種類と定められたこと を受け、ばんえい競走が公式競技となった。ばんえい競走が採用された背景には、戦時中に軍馬として徴用された農用馬が戻ってこなかったため、農村部で農用馬が不足していたことに加え当時の食料不足も重なり、馬の増産が急務であったことが挙げられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "翌1947年10月16日には北海道馬匹組合連合会(馬連)によるばんえい競走が旭川競馬場において実施され、公式競技として初のばんえい競走が行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1948年に施行された(新)競馬法により、地方競馬の主催は都道府県もしくは競馬場が存在する市区町村に限られることとなったものの、この年は前年の興行不振などを理由に休催。1949年から「道営競馬(現・ホッカイドウ競馬)」により、ばんえい競走が旭川と帯広で再開された。道営は当初、ばんえい競走の他に平地競走・速歩競走も行っていたが、道営でのばんえい競走は1966年に廃止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1953年には、市内に競馬場が所在する旭川市・岩見沢市・帯広市・北見市の4市による「市営競馬」が発足。市営も当初は平地とばんえいを行っていたが、1962年にばんえい競走へ一本化した。こうして1970年以降は道営競馬が平地競走のみ、市営競馬がばんえい競走のみを開催する運営形態となり、現在に至っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "市営競馬は当初、4市が所在する各競馬場において個別に開催していたが、1968年に「北海道市営競馬協議会」が発足、1989年には一部事務組合として改組された「北海道市営競馬組合」が開催を引き継いだが、2006年度限りで帯広を除く3市が撤退(前述)したため組合は解散し、現在は帯広市による単独開催となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "道外でも、青森競馬場で法に基いたばんえい競走を行っていた が、青森競馬場が1951年に廃止されたため、道外での公営競技によるばんえい競走は短命に終わった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "かつてのばんえい走路はU字型(馬蹄型)のオープンコースで、最大出走可能頭数(フルゲート)も現在に比べ多かった。1963年に旭川が現在の直線セパレートコースを導入 すると、5年後に岩見沢・帯広・北見も追従している。また障害もかつては3つあったが、1974年より現行の2つになった。なお、草ばんばではレース後のそりの移動を容易にするため、現在でもU字形のコース形態が残っているところもある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "当初は軍馬として取引され馬産の中心であった中間種のアングロノルマン(アノ)や、産業馬としての需要が強かった重種馬のペルシュロン(ペル)が多く用いられた。戦前に輸入された種牡馬のうち、1910年に導入されたイレネーの子孫が大いに繁栄し、「ばん馬の父」とも称されている。戦後は馬産復興期にフランスからブルトン(ブル)が導入され、その中でも種牡馬グウラントンとペルシュロン繁殖牝馬の産駒が非常に優秀であったことから、戦後のアングロノルマンの衰退とともに、ペルシュロンとブルトンの混血が進んだ。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "戦後、復興から高度成長期にかけてモータリゼーションの進展とともに産業馬としての需要がなくなり、生産頭数は激減した。1974年には、ばん馬の改良用としてベルジャン(ベルジアンとも)種の馬が輸入される。橋本善吉 がアメリカ合衆国から日本に輸入したマルゼンストロングホースや、他にジアンデュマレイといったベルジャン種牡馬の産駒が、従来のペルシュロン種・ブルトン種よりもはるかに大型でかつ軽快な脚捌きをみせ、さらに産駒の仕上がりが早く大活躍したことからさらに混血が進む。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "現在は「半血」「日本輓系種(日輓)」と称される前記3種の異種混血馬やそれらと在来種の混血馬が大半を占めており、純血種の馬はごくわずかになっている。なお混血種は、従来はすべて「半血種」と称していたものの、2003年度以降の生産馬については、純系種同士の配合によって生まれた雑種を一代に限り「半血種」とし、このほかは「日本輓系種」と呼称している。また、便宜上ばんえい競走に使用する馬を総称して「ばんえい種」と呼称することがある。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "道内でも主産地が胆振・日高管内に集中している軽種馬とは異なり、ばんえい馬の産地は道内各地に広く分布している。ばんえい競馬ではこれを生かし、産地別選抜競走「ばんえい甲子園」も行っている。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "このほか、かつては「.........系」(「.........」には純血種の品種名が入る。当該純血種の血量が75%以上の場合)という表記も存在したものの、これも2003年4月以降の登録においては日本輓系種と扱われる。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "農用(輓系)馬の生産は1955年以後、トラックや耕耘機などの普及に伴い飼育頭数が激減。その後、馬肉(いわゆる桜肉)の需要が堅調に推移したことにより、生産頭数は1983年(7399頭)・1994年(8097頭)に改めてピークを迎えるものの、その後再び生産頭数が大幅に減少し、2004年は3163頭まで落ち込んでいる。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "地域別の分布をみると、2005年度の生産頭数2655頭のうち、十勝管内で761頭(28%)、釧路管内で652頭(25%)、根室管内で300頭(11%)と、酪農の盛んな道東の太平洋側で6割半ばが生産されている。次いで網走管内184頭、上川管内139頭、檜山管内111頭などの順になっている。北海道以外では岩手県の81頭、熊本県の70頭などが多く、桜肉の飼養・生産が盛んな九州での生産頭数は、すべてを合わせても104頭にとどまる。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "生産農家の形態は、おおまかに分類すると以下の3通りに分けられる。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "公益社団法人日本馬事協会の資料によると、2004年の生産馬3163頭のうち、戦前の日本三大市場(釧路大楽毛・根室厚床・十勝帯広)の流れをくむ十勝・釧路・根室管内で、当歳市場662頭、1歳市場990頭の取引が成立した。2006年に馬名登録された2歳馬は430頭である。なお、この統計上に現れない馬の多くは、十勝・釧路・根室管内以外の生産馬か、あるいは自家生産した牝馬をそのまま繁殖牝馬として飼養しているケースのいずれかと考えられる。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "農用(輓系)馬生産農家のお祭りとして行われる「草ばんば」には、繁殖に入った自家飼養馬のほか、現役の競走馬や、競走馬を目指す1歳馬も多数集まる。1歳馬が草ばんばに大挙出走するのは競走能力を見極めるシステムが少ないためで、軽種馬ではみられない特徴でもある。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "草ばんばでの負担重量はおおむね330-350キロ。各地の草ばんばで優秀な成績を収めた1歳馬は、毎年10月中旬にばんえい競馬の競馬場(現在は帯広競馬場のみ)で行われる「祭典ばんば1歳馬決勝大会」に出走し、ここでの成績が大きな参考資料となることから、競走馬としてデビューする前に大がかりに能力を判定できるシステムとして機能している。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬の競走馬は2歳からデビューする。「2歳新馬戦」は行われるが「2歳未勝利戦」はなく、代わりに「2歳未受賞」競走(収得賞金がない馬が対象)が行われる。2歳のシーズン途中からは収得賞金に応じて格付けされる(後述)。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "日常の調教は、夜明け前後から本走路の裏側にある練習用走路を使用して行われている。調教の様子は、事前予約による有料の「朝調教見学ツアー」で見学することも可能。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "デビュー前の2歳新馬や、デビュー後も成績が不振な馬には「能力検査」(能検、専門紙では「能力試験(能試)」とも呼ばれる)が義務付けられ、これに合格しなければレースに出走できない。とくに2歳新馬の能検は2003年まで定員制をとっていたため、約1/3-1/6しか合格できない狭き門で、見守る生産者や馬主、調教師など関係者の声援も熱気に満ちていた。2004年以降は農用馬の生産頭数の激減にともない基準タイム制に移行し、合格基準も大幅に緩和され8割程度の馬が合格できるようになった。なお、不合格馬は一部が各地で観光馬車を曳いたり農耕馬として転出する場合もあるが、多くは能力検査後ただちに競りが行われ、食肉用に転用される。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "出走間隔は平地の競走馬に比べ短く、概ね1か月あたり2戦-4戦することが多い。重い荷物を曳く性質上高重量戦の経験や能力が重視され、一般的には6歳以降が充実期とされる。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "現役の競走馬であっても、馬券の発売を伴わないイベントレースなどで出走する場合がある。前述の「JRAジョッキーDAY」におけるエキシビションレースのほか、一般のファンやちびっこをそりに乗せたレースも行われ、現役の競走馬が出走する。いずれの場合も現役のばんえい騎手が「補助役」として一緒に騎乗し、馬の操縦を行っている。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1978年から2006年までは10歳定年制 が設けられており、10歳になった馬はその年度末(明け11歳)までに引退しなければならなかったが、2007年度からは定年制が撤廃された。牝馬は繁殖に備えるため、10歳を待たずに引退することが多い。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "全体の賞金水準が低いこともあり、生涯獲得賞金額が1億円を超えた馬はごくわずかしかおらず、達成馬は「1億円馬」として称えられる。ただ、近年は最高峰とされるばんえい記念だけは1着賞金が1000万円に戻されたが、それ以外は度重なる賞金の減額(売上の回復にともない徐々に増額はされているが、帯広の単独開催になる以前の状態には戻っていない)もあり、1億円達成は困難になっている。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "競走成績が優秀だった牡馬には、引退後も種牡馬(「種雄馬」とも呼ぶ)への道が開かれる。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "記録は2013年度全日程終了時のもの。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "出典:競走馬名鑑(1億円達成馬) - 一般社団法人ばんえい競馬馬主協会、2015年1月12日閲覧",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ばんえい馬の馬名には、現役の平地競走馬や過去に平地で登録されていた馬名と同名の馬が時折みられる(具体例はスーパーペガサスを参照)。これは平地と全く競走形態が異なるため一緒に走ることがないうえ、互いの血統も異なるため混乱を招きにくいことから認められている。",
"title": "ばんえい競走馬"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬は、途中に2つの障害(台形状の山)を設けた直線200mのセパレートコースを使用し、最多のフルゲートでは10頭で争われる。各馬が最初に越える低い山を「第1障害(または1障害)」、次に越える高い山を「第2障害(または2障害)」と呼んでいる。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "平地競走などにみられるハロン棒に相当するものとして、ゴール前30m地点から10m地点まで10m間隔で標識を設置している。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "距離の変動がないため、スターティングゲートやスターター台はすべて固定式となっている。スターティングゲートは掲示板側から順に1コース・2コース...と割り当てられ、スタンド側が10コースとなる。幅はそりに合わせて広くとられており、開閉扉は馬の顔にあたる部分だけが開閉するため平地競走用のゲートに比べ小さめになっているほか、ゲート内には馬体幅に合わせた出っ張りも設けられている。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "セパレートコースで争われるため、他馬への進路妨害などで審議となるケースはオープンコースで行う平地・障害競走に比べ少ないが、レースに不慣れな2歳馬の競走で審議となることが時折みられるほか、古馬の競走でもまれに審議となる場合がある。なお、走行妨害が認められた場合は平地と同様に降着や失格となる場合もある。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2013年6月8日より砂の磨耗を均一化することを目的として、9頭以下の競走でゲート入りの基準が変更された。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "その後、2014年10月25日より以下の通り改められた。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬では、開門前から最終競走の概ね1時間前の間に数回馬場水分を計測し、測定時刻と馬場水分値を0.1%単位で場内や各場外、CS放送やインターネット配信などにおいて発表している。水分値は通常0.1%から9.9%までの範囲で発表されるが、積雪した場合などには10%を超える数値が発表される場合もある。日本国内ではばんえい競馬のみで行われている独自の方式である が、これは馬場の水分状態がレース展開を決定する重要な要素となるためである。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競走は平地競走と異なり、晴天で馬場が乾いているとそりの滑りが悪くなり摩擦が増すため、タイムは遅くなる(重馬場 - おもばば)。逆に湿度との関係や、雨や雪が降って馬場が水分を含むとそりの滑りが良くなり、タイムは速くなる(軽馬場 - かるばば)。平均タイムは概ね2分前後(競走により4分-5分以上かかる場合もある)であるが、積雪などの要因で馬場が極端に軽くなると、1分を切るタイムが出ることもある。専門紙では各馬の「水分別成績」を掲載するものもある。一般的に軽馬場では逃げ馬が、重馬場では差し馬が有利とされる。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "また、夏季・小雨等で馬場があまりに乾燥した場合は、馬とそりの動きにより、砂塵が舞い上がって人馬・審判・観客の視界を遮りレース運営に支障をきたす恐れがあるため、コースに散水を行う場合がある。散水する場所はスタートから第1障害前、第1障害後から20メートル、その後20メートルから第2障害前、ゴール手前から20メートルの4箇所をスタート地点からそれぞれA・B・C・Dと称し、いずれかが必要に応じて選択される(複数選択される場合もあり、スタートから第2障害まで3箇所すべて散水されるとABC散水と表現される)。ただし散水となっても、障害を形成する山自体には散水されない。なお、砂はレースで繰り返し使用することで摩耗し、特に軽馬場となったときに極端にスピードが出やすくなるうえ、粒子が細かくなることで砂塵も舞い上がりやすくなるため、原則として1年に一度の休催期間中に入れ替えを行うほか、散水を行った場合は公式ホームページ・場内・各場外・CS放送・インターネット配信などで1レース開始前に告知される。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "馬柱を掲載している出馬表や専門紙などには、過去の戦績欄に馬場水分が表示されている。また、結果を伝える翌日の新聞等では「(計測した馬場水分の)最高値-最低値」で掲載しているほか、代表値のみを掲載する新聞もある。公式の競走成績などでは、発走時刻より前で最も近い測定時刻の馬場水分値を各競走ごとに掲載している。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ゴールインはそりの最後端が決勝線を通過した時点で認められる。スタートラインもスターティングゲートの先頭ではなく、そりの最後端位置を基準に設定される。そのため、発走前のゲート後方では係員により、そりの最後端位置が一直線になっているか確認する作業を行っている。これはばんえい競馬が元来「荷物を運びきる荷役作業」に由来していること と、決勝線上で馬が止まってしまうことがあり、鼻先では決勝判定が難しい場合があるためとされている。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "上記のとおり、鼻先(先端)で勝敗を決める平地競走や障害競走、及び他種公営競技(競輪・競艇・オートレース)とは異なり審判の決勝判定も難しく、かつては肉眼のみで決勝判定を行っていたことから審判に関するトラブルが絶えなかったが、1963年に導入された写真判定、1969年に導入されたVTR判定によって、判定の正確さは飛躍的に向上。このため、国内外の競馬関係者からも見学に訪れることがあるという。決勝判定写真は平地競走などと同様にスリットカメラ方式を採用している。そのため決勝線上で馬が立ち止まったりすると、馬の胴が異様に長く伸びて写る場合がある。また、スタンド側からの写真のみではそりの後端が他の馬ないしそりによって隠れることがあるため、対面にも塔を建てて撮影している。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "成績は1着から最下位まですべて走破タイムが発表され、着差は平地競走のような馬身・クビ・ハナ等ではなく、秒数で発表される。また単一コースのため、レコードタイム制度も設けられていない。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "以下の条件に該当する馬は基準タイム超過(タイムオーバー)となり、当該レースは失格となる。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬の一番の見せ場はレース中盤から後半にかかる第2障害であり、第2障害をいかに越えるかで勝敗の大勢が決まることも多く、レース戦略上最も重要となっている。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "各馬ともスタート直後はそりを曳いたまま、概ね第1障害は難なく通過する。第1障害-第2障害間は馬のスタミナ特性や馬場状態などを鑑みた騎手間の作戦や駆け引きが繰り広げられ、手綱による指示により時折脚を止めながら、徐々に第2障害へ近づく(実況では「刻む」と表現する)。第2障害の手前まで到達後、騎手が手綱によって馬を止めてスタミナ回復を図り、息を整える(実況では「ためる」と表現する)。その後、騎手の合図により、第2障害を越えようとするが、馬の障害に対する特性や騎手の作戦、降雨・積雪などで馬場が軽くなっている場合は、第2障害前であえて馬を止めずに一気に越えていく場合もある(実況では「直行」と表現する)。また、人馬の呼吸を合わせるのと同時に、仕掛けるタイミングを巡って騎手間でも駆け引きが繰り広げられる事から、騎手にとっては最大の腕の見せ所になる。また馬によっては騎手の手綱による制止を無視して障害を登り始めてしまう(実況では「もっていかれる」と表現する)こともあり、この場合は騎手の立てた作戦が崩れることもあり、予断を許さない。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "馬にとっても第2障害は一番の正念場で、障害を登り切れずに膝をつく馬や、力尽きて倒れこむ馬もいる。競走中止の事象の多くはこの第2障害で発生する(実況では「膝を折る」と表現する)。ただし、平地競馬の軽種馬と違い重種馬である故、足の骨は頑丈であるため、骨折等の予後不良につながる怪我は滅多に発生しない。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "第2障害を越えた後も、ゴールまでの直線で止まってしまう馬もいる。また第2障害通過後は騎手が意図的に馬を止めることは規則上認められていないが、ゴール直前まであえて手綱で追わず、最後に残ったスタミナによる一瞬の瞬発力を活かした馬追いをした結果の逆転劇も多く、勝負の行方は最後まで予断を許さない。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "その特殊な競走形態から人間が歩いても追いつく程度の速度で展開するため、ファンも馬と一緒に並走しながら観戦できるのが特徴である。これは高速で展開する平地競走や他種公営競技には見られない、ばんえい競馬の性質ならではといえる。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "レースに出走する馬には、「よびだし」や「背ずり」などと呼ばれる独特の装具が各馬に合わせて作られ、出走時に装着される。これらの重量は70kg以上にも及ぶ。また厩舎・厩務員の意向によっては、たてがみも丁寧に編みこまれたり、花飾り等装飾品が付くこともある。スタート時には各馬とそりや装具をつなぐ鎖が鈴のように一斉に鳴り響く。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "競走に使用するそりは鉄製で、そりの自重は450kgと定められている。積載する重量物は平型で、5 kg・10 kg・30 kg・50kgの4種類 があり、これらを組み合わせて積載することでばんえい重量を調整している。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "コースとの接地面には「ズリ金」(「裏金」ともいう)と呼ばれる鉄板が取り付けられている。ズリ金は競走で繰り返し使用することで摩耗するため、1年に1回程度の頻度で交換され、交換を行った際は告知される。交換によって地面に接触する感触が変わり、走行タイムが若干長くなる傾向もみられるとされる。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "そりの塗装はかつて青1色から、本体が緑色、重量物の積載スペースが黄色となり、2022年度開催からは本体が赤色、重量物の積載スペースは黄色に更新されている。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "運びきったそりはレース後、コース脇のトロッコ列車に載せられてスタート位置まで戻される。トロッコはナローゲージで、小さなディーゼル機関車により牽引される。レース終了後にそりをスタート位置まで運び、その後は再びゴール位置で待機する。軌道は本走路と着順掲示板の間に設置されており、レース間の中継映像でも時折画面に運搬中のトロッコ列車が映りこむ場合がある。通常、関係者以外は乗車できないが、ファンサービスとして一般のファンを乗車させる場合もある。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "競走中止などの要因でそりを馬がゴールまで運べず、コース上にそりが残ってしまった場合はトラクターでスタート位置へ戻す場合がある。",
"title": "公営競技のレースと勝敗"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬の競走馬のクラスは後述する通り、馬齢(大別すると「2歳」「3・4歳」「3歳以上」)と賞金額によって分けられる。",
"title": "公営競技のクラス編成"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "他の地方競馬(平地競走)においては通常、馬齢によるクラス分けは「2歳」「3歳」「3歳以上」となっており、ばんえい競馬では「3歳」に代わって「3・4歳」というクラスを設けていることが異なっている。これは3歳馬や4歳馬が5歳以上の馬に比べ高重量戦の経験が浅いことから、能力的に劣るとされているため。",
"title": "公営競技のクラス編成"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "デビューからの通算収得賞金は別途集計されているが、競馬番組編成やクラス分けに用いる賞金額は、以下のように取り扱っている。",
"title": "公営競技のクラス編成"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "以下は2019年度の番組編成要領 に沿って記述する。",
"title": "公営競技のクラス編成"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "当該年度の収得賞金順に4段階(A・B・C・D)で格付け。",
"title": "公営競技のクラス編成"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "ばんえいではかねてから着順トライアル制を採用している。",
"title": "公営競技のクラス編成"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "また、普通競走で出走希望頭数が制限頭数(10頭)を超え、抽選の結果出走できなかった馬は次に当該馬が出走できる最初の競走に限り、出走投票した馬に優先出走が認められている。",
"title": "公営競技のクラス編成"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "馬が曳くそりの重量は「ばんえい重量」と呼ばれ、競走別に設定されている。これは平地競走などでの負担重量に相当するもので、公式の出走表や専門紙・スポーツ新聞などでも、このばんえい重量が「重量」欄に掲載されている。ただし、一部ではスペースの都合から一桁省略して「重量(×10 kg)」と表示される場合がある。かつてはそりに積載する重量物の重量をもって表記していたものの、のちにそり本体を含めた重量をもって表記するよう改められている。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "最低重量は480kg(牝馬は460kg)、最高重量は重賞競走「ばんえい記念」での1000kg(牝馬は980kg)である。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "実際にそりを曳く際は、そりの上に乗る騎手の重量も加算される。ただし騎手重量は一律に設定されている(後述)ため発表されない。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "一部の競走を除き、重量設定においては各馬の成績も加味される(別定戦と呼ばれる。詳細な設定は後述)。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2010年より 競走のバリエーションを増やす観点から、通常よりも大幅に低いばんえい重量を設定する競走を一部に設定している。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "以下に示す重量は、2019年度の番組編成要領 に基づく。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "普通競走では各クラス別に以下の基礎重量を基準とし、これに収得賞金などの別定条件を加味して加減される。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "特別競走や重賞競走では各競走ごとに基礎重量が定められ、これに別定条件を加味して加減される。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "普通競走・特別競走における重量の加減は、以下の通り定められている。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "主に特別競走や重賞競走で重量を加減する別定条件は以下の通り。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "※「重量格」は、470万円以上(オープン)・470万円未満・360万円未満・240万円未満(150万未満も含む)・150万円未満(80万未満も含む)・120万円未満(3・4歳)と定められている。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "騎手重量は男女の区別なく一律に規定され、2019年度は77kgと定められている(2012年度までは冬季に限り防寒服分を加算し、夏季75kg・冬季77kgに設定されていた)。騎手の元々の体重が規定重量に足りない分は、計量時に鉄製の箱(「弁当箱」とも呼ばれる)に鉛のおもりをいれて、その箱をソリの前部専用スペースに騎手がいれることで調整する。ばんえい競馬は大型馬を操ることから、騎手重量は平地競走や障害競走よりも重めに設定している。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "見習騎手や女性騎手などで減量が生じる場合は、ばんえい重量が減量される。減量騎手の取扱は以下のとおり。出走表や専門紙には、括弧内の記号で表示される。",
"title": "重量"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "2023年7月28日現在、ばんえい競馬では21名(うち女性2名)の騎手が在籍している。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "騎手重量は服などを合わせた総重量が77kgを上限としており(2022年度現在。前述)、平地競走などよりも重く設定されている。平地競走などに比べ重い馬を御すことが重要となるため、騎手の体重は重い方が有利とされる。ただし、騎手の重量は前述の通り「弁当箱」で調整されているため、個別に体重が発表されることはない。また、平地競走とは異なり騎手の身長にも制限がないため、身長が高いことなどの理由から平地競走の騎手を断念した者がばんえい競馬の騎手を目指す例も見られる。2009年にばんえい競馬の騎手免許を取得した林義直(2011年引退)は身長が192cmと当時の日本人騎手としては最も高く、ギネスへの申請も検討された。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "騎手の1日あたり最大騎乗数は8回までと定められているほか、騎乗を変更した場合は翌日の騎乗が認められていない(いずれも委員長が特に認めた場合は除く)。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競走では、平地競走よりも騎手の技量が勝敗を左右する割合が高いとされる。レース中も騎手同士でさまざまな駆け引きが繰り広げられるほか、第2障害通過後の追い方も多種多様である。 一般的に第2障害までの流れで余計なスタミナを消費させない刻みをする。障害に挑戦させるタイミングが適切である。かつゴール地点で、馬のスタミナが尽きる(全力を出し切る)。この3つの状態を創り出す騎手が技量の高い騎手とされる。余裕の勝利時以外で、スタミナを余らせてしまうときは、解説から「足を余す」騎乗と揶揄されることもある。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "レースで使用するそりには手綱以外につかまるものがないため体全体でバランスをとる必要があるうえ、レース中は手綱を引くと馬が止まってしまうため、高度な技術が必要となる。騎手はそりの上に立って騎乗し、長手綱を使って馬を操縦するほか、手綱をしならせることで馬に対する合図の役割も果たしている。また、騎手が担当馬にまたがって騎乗するのはパドックから本馬場入場(ただし、パドックで騎手が騎乗せず、本馬場入場まで厩務員が馬を誘導することも多い。その場合は騎手はスタート地点まで専用バスで移動する)までで、レース中は馬上でまたがることがないため、出走馬には鞍や鐙が装備されていない。騎手はパドックから本馬場へ入場する際に、馬番ゼッケンのみをのせた鞍も鐙もない馬上にまたがり騎乗するが、平地の騎手のように厩務員の補助を受けず、大半の騎手が自力で飛び乗る。この際の騎乗姿勢をみることで、騎手の乗馬技術を測る参考になるとされている。実際にこの馬への「飛び乗り」は、ばんえい騎手免許の実技試験の項目である。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬では年に1度、1年以上の厩務員経験がある者を対象に筆記・実技・面接による騎手免許試験を行っており、これに合格した者に地方競馬全国協会(NAR)より騎手免許が交付される。ばんえい競馬では他の地方競馬や中央競馬(および他種公営競技)と異なり騎手(選手)を養成する専門機関が存在せず、ばんえい競馬の騎手になることを希望する者は、まず厩舎に厩務員として所属し、ここで馬の扱い方や乗り方なども習得することになる。また騎手免許試験はばんえい競馬独自の内容で、試験の難易度も高く一発合格は稀で、多くの場合二度三度と受験してやっと合格できる非常に狭き門となっている。このため新人騎手が誕生しない年もあるほか、デビュー時の年齢も20歳を超えている場合が多くみられ、平地の騎手よりもデビューまでに時間がかかる。2010年12月現在、在籍していた28人の騎手における合格時の平均年齢は22.9歳であった。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "現役・引退ともデビューが早い順に記載。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "引退騎手でデビュー年が同じ場合は、引退年の早かった順に記載する。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "記録は公式に残っている1963年以降のもの。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "現役騎手の記録は、2022年度全日程終了時のもの。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "現役",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "引退",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "2022年度全日程終了時の記録。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "公式記録が確認できる1963年以降のもので、3回以上受賞者のみ記載。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "名前が太字のものは現役騎手を表す。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "2003年度より競走格付け表記を導入しており、各重賞競走を「BG1」「BG2」「BG3」(BGは「ばんえいグレード」の略)で格付けしている。",
"title": "重賞競走"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "2020年度の重賞競走は以下の27レース。【 】は年明け(2021年1月-3月)の馬齢および競走を示す。",
"title": "重賞競走"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "重賞としての廃止年が早かった順に記載。格付けは廃止直前のものによる。一部の競走は、特別競走として存続しているものもある。なお旭王冠賞は 2007年から(現)旭川記念になっているが2007年以降の回次は旭王冠賞のものをそのまま引き継いで通算しているため廃止という扱いにはなってはいない。",
"title": "重賞競走"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬は「古馬」を3歳以上としているが、その中でもクラス編成はさらに細分化され、3・4歳馬によるクラス分けや重賞路線が別途整備されている(前述)。とくに4歳馬限定の重賞路線が別途設けられているのが、大きな特徴となっている。",
"title": "重賞競走"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "2歳馬による産地限定の競走。以下の各トライアル競走の優勝馬と2着馬に重賞競走「ヤングチャンピオンシップ」への優先出走権が与えられる。2008年からは下記のトライアル競走を総称して「ばんえい甲子園」と呼んでいる。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬では、企業(団体)や個人から協賛金を受けた一般競走や一部の特別競走を冠レースとして実施している。協賛金のうち7割が馬主・調教師・騎手などへの副賞、3割が運営振興費として充てられる。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "出走表などにレース名を掲載し、当日は特別観覧席への招待(申込者を含め5名まで)や表彰式にプレゼンターとして参加可能なほか、優勝馬の記念撮影にも参加できる。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "1982年より行われている特別競走。競走条件は「3歳以上、重馬体重馬選抜」で、3歳以上の馬から前回出走時の馬体重が重かった順に選抜する。「もっともばんえい競馬らしいレース」とされる名物レース。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "1980年から1988年までは重賞競走として施行していた が、その後は特別競走(11歳馬・12歳セン馬限定)として施行。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬は2006年度まで定年制を採用(明け11歳。セン馬は12歳)していたため、定年引退馬の花道を飾る最後の競走として選ばれることが多かった。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "2007年度から定年制や減量特典の年齢制限が撤廃されたことにより、「蛍の光賞」は開催年度を締め括る特別競走として、最終開催日の最終競走で施行している。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "2006年度までは年度末頃に「たちばな賞」(8歳牝馬限定・2006年度をもって廃止)が行われていた。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "2006年度までは(明け)8歳3月までの牝馬に対してばんえい重量を一律20kg減量していた が、8歳4月以降(新年度開幕後)の牝馬はこの特典がなくなり牡馬と同重量とされたため、一部を除き多くの牝馬が8歳3月までに引退して後の繁殖に備えることが多かったことから、「たちばな賞」は引退する牝馬の花道を飾る最後の競走として選ばれることが多かった。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "2010年度より行われ、現在は8月の稲妻賞、10月の疾風賞、12月の地吹雪賞をトライアルレースとして2月に開催される特別競走。本戦およびトライアル戦がばんえい重量500kgとなっている特殊な競走で、その負担の軽さからその名の通りレースタイム50秒前後で駆け抜ける普段とは違った迫力のあるレースが繰り広げられる。",
"title": "その他の競走"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "2001年に馬複・馬単を導入した。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "2011年8月6日の競走より3連複・3連単の発売を開始し、同時に枠番連複(枠複)を廃止した。枠複の廃止理由としては、馬の頭数減で10頭立てのレースが難しくなり、馬複との違いが希薄化していたためとされている。なお3連勝式(3連複・3連単)投票券の導入は日本国内の公営競技では最後であった。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "2010年1月8日より、重勝式馬券「OddsPark LOTO」をインターネット投票(オッズパーク)限定で2種類発売している。当初は5重勝単勝式(5レースの1着馬を当てる)のみが設定されており、発売はランダム方式(馬番号は自動的に選択される)であった。その後同年12月25日のレースよりセレクト方式(購入者が馬番号を選択する)に変更され、2012年12月15日のレースより7重勝単勝式(7レースの1着馬を当てる)が新設された。なお、「OddsPark LOTO」はばんえい競馬が初の導入である。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "2015年4月18日より、枠複とワイド(拡大馬番号二連勝複式)の発売が開始された(枠複は復活)。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "○...発売 ▲...他主催者発売時のみ ☆...インターネット投票のみ",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬が運営する発売所(帯広競馬場・各場外発売所)では、ホッカイドウ競馬の場外発売(一部発売所では取り扱いなし)や南関東公営競馬・岩手競馬を中心とした広域場外発売も取り扱う。以前はばんえい競馬運営の発売所における他場の場外発売時はばんえい競馬に存在しない賭式(当時は枠単・ワイド・3連複・3連単が該当)の投票券を発売しなかったが、2011年8月5日の南関東公営競馬場外発売より発売主体の主催者に準じてすべての賭式を発売するようになった。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "ばんえい競馬がナイター開催日に南関東や岩手が昼間(薄暮含む)開催している場合は、リレー発売する。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "2013年6月8日より、一部の発売所において地方競馬共同トータリゼータシステムを利用した日本中央競馬会(JRA)の場外発売を開始しており、JRA場外発売においては「J-PLACE」の呼称を用いる。当初は帯広競馬場と北彩都(旭川)・北見・釧路・琴似の各場外発売所で開始され、2015年4月11日より名寄と深川の各場外発売所で、2017年4月15日より網走の場外発売所でも取り扱う。帯広・岩見沢では全レース、北彩都(旭川)・北見・釧路・名寄・深川・網走ではJRA開催各競馬場につき1日5レースずつ、琴似では1日4レースずつを取り扱う。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "以下の在宅投票が利用可能。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "日本中央競馬会(JRA)が運営する「地方競馬IPAT」では購入できない。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "1984年に場外発売が本格開始となり、この時点では当時ばんえい競馬を施行していた4競馬場(「公営競技を開催する競馬場」節を参照)と日本中央競馬会(JRA)の釧路サービスセンター(現:ウインズ釧路)の5箇所の間で場外発売を実施していた(釧路は中央競馬の休催日のみ)。1993年に発売システムをオンライン化し、場外発売所の発売締切を本場と同時にすることが可能になった。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "いずれも北海道に所在。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "廃止・撤退した発売所",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "以下のホッカイドウ競馬が運営する場外発売所では、ばんえい競馬の場外発売も行っている。ただし、一部では場外発売を行わない日もあるほか、日によっては下記発売所のうち一部のみでばんえい競馬の発売を行うことがある。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "ホッカイドウ競馬の場外発売所におけるばんえい競馬の発売は、2003年よりAiba小樽・滝川で、2004年よりAiba札幌駅前 で、2005年よりAiba千歳・函館・江別で、2009年よりAiba石狩・札幌中央・登別室蘭・札幌琴似 で開始された。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "●の場外発売所は、土曜・日曜についてはばんえい競馬の取り扱いを行わない(2018年11月・12月現在)。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "以下の発売所で定期的にばんえい競馬の場外発売を行っている。ただし、一部発売されない場合もある。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "上記のほか、一部の競走は上記以外の競馬場・場外発売所でも広域場外発売を実施する場合がある。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "帯広競馬場や各場外発売所での払戻業務は、原則として開催日のみ行っている。",
"title": "勝馬投票券"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "各発売所の売店などで、以下の専門紙が販売されている。",
"title": "予想専門紙"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "上記の他、2013年1月11日より「レース展望サイト(協力:全国公営競馬専門紙協会)」を開設した。レース展開や記者の見解などを、全レース無料で閲覧可能。",
"title": "予想専門紙"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "現在、場内での場立ち予想はイベントなどの特例を除き認められていないが、以前は手書きの出走表に予想印と予想組番のみを印刷したシンプルなガリ版刷りの専門紙が数種類発売されていた。専門紙の発行元を兼ねた予想業者がパドックや専門紙販売ブースなどに常駐し、購入した新聞を見せる事で最新の情報を入手できたり、朝一番の取材で良く見えた馬に赤鉛筆で印をつけて新聞を販売するなど独特な予想屋文化が存在していた。しかし売上不振や発行者の高齢化のため、これらの新聞は次々に姿を消していった。",
"title": "予想専門紙"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "など",
"title": "予想専門紙"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "スポーツ新聞での扱いはホッカイドウ競馬よりも小さいことが多く、道内で発行しているものであっても、簡易出走表の掲載のみにとどまっていることが多い。",
"title": "予想専門紙"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "定期的に馬柱を掲載している新聞は以下の通り。",
"title": "予想専門紙"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "上記のほか、広域場外発売を行う競走ではその他のスポーツ新聞にも掲載される場合がある。",
"title": "予想専門紙"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "スカパー!での放送体制はたびたび変更されている。",
"title": "レース実況放送"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "2014年度はスカパー!プレミアムサービスにて、以下の通り放送。",
"title": "レース実況放送"
}
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ばんえい競走(ばんえいきょうそう)とは、競走馬がそりをひきながら力や速さなどを争う競馬の競走である。「曳き馬」と呼ばれる事もある。 現在、日本国内の公営競技(地方競馬)としては北海道帯広市が主催する「ばんえい競馬(ばんえい十勝)」のみが行われており、世界的にみても唯一となる形態の競馬である。本項目では、主に地方競馬としての「ばんえい競馬」について記述する。 「ばんえい」の漢字表記は「輓曳」であるが、現行競技における公式の表記は平仮名とされるため、ここでも平仮名を主として用いる。
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[[ファイル:Kanesa-black 2013obihirokinen.jpg|thumb|300px|[[帯広記念]]・第2障害を越えるカネサブラック(2013年)]]
[[ファイル:2010 obihiro daijin.jpg|thumb|300px|[[ばんえい記念]]・ゴール前での競り合い(2010年)]]
[[ファイル:Obihiro Racecourse 006.jpg|thumb|300px|ばんえい十勝ナイトレースの様子]]
[[ファイル:Ban_ei_-_obihiro_-_Oct_17_2020.webm|thumb|300px|ばんえい競走(2020年)]]
'''ばんえい競走'''(ばんえいきょうそう)とは、[[競走馬]]が[[そり]]をひきながら力や速さなどを争う[[競馬の競走]]である。「'''曳き馬'''」と呼ばれる事もある。
現在、日本国内の[[公営競技]]([[地方競馬]])としては[[北海道]][[帯広市]]が主催する「'''ばんえい競馬'''(ばんえい十勝)」のみが行われており、世界的にみても唯一となる形態の競馬である<ref name="about">[http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats.html 【ばんえい競馬って何?】] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160304123737/http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats.html |date=2016年3月4日 }} - ばんえい競馬、2014年8月10日閲覧</ref>。本項目では、主に地方競馬としての「ばんえい競馬」について記述する。
「ばんえい」の漢字表記は「輓曳」であるが、現行競技における公式の表記は平仮名とされるため、ここでも平仮名を主として用いる。
== 概要 ==
ばんえい競走では一般的な平地競走で使用されている[[サラブレッド系種]]などの「[[ウマ#軽種|軽種馬]]」や北海道和種の「[[どさんこ]]」は使われず、古くから主に農耕馬などとして利用されてきた体重約800-1200[[キログラム|kg]]前後の「ばんえい馬([[ウマ#重種|重種馬]]。「ばん馬」ともいう)」が、[[騎手]]と重量物を積載した鉄製の[[そり]]を曳き、2箇所の障害(台形状の小さな山)が設置された直線200[[メートル]]のセパレートコースで力と速さ、および持久力や騎手のテクニックを競う{{R|about}}。
このレースは農民たちが北海道開拓で活躍した農耕馬に乗り競い合うお祭りとして楽しんでいたものがシステム化され現在の形に発展したものであり、すでに30年以上の歴史をもつ{{R|about}}。
帯広市が主催する[[地方競馬]]としての「ばんえい競馬」のほか、一部地域では「草ばんば」(後述)も行われるなど北海道が生み出した独自の馬文化として定着しており、それらを含めた「北海道の馬文化」が[[北海道遺産]]に選定されたほか、映画「[[雪に願うこと]]」やテレビドラマ「[[大地のファンファーレ]]」([[NHK札幌放送局]]・[[NHK帯広放送局|帯広放送局]]制作)など、映画やドラマの題材にも幾度か取り上げられている。2006年までばんえい競馬を開催していた[[岩見沢市]]では、[[岩見沢駅]](3・4番ホーム)にそりを曳く「ばんばの像」が設置されている。
=== 公営競技としてのばんえい競走 ===
ばんえい競馬も地方競馬の一つであるが、使用する競走馬の品種や競走の性質が全く異なるため、[[平地競走]]と[[障害競走]]にみられるような[[中央競馬]]や他の地方競馬、また外国競馬との人馬交流競走は行われていない。また、[[地方競馬全国協会]](NAR)による[[競走馬]]の表彰などについても、[[NARグランプリ]]において各部門賞のひとつとして『[[NARグランプリばんえい最優秀馬|ばんえい最優秀馬]]』の部門が設けられている。年度代表馬は各部門賞受賞馬から選出<ref>[https://www.keiba.go.jp/about/grandprix.html 地方競馬情報サイト(NARグランプリ)]</ref> するため、他地区所属の平地競走馬と同様に選出される可能性があるほか、調教師や騎手などの表彰も平地と区別なく選定される。なお、NARにおける騎手や調教師の全国リーディング集計も、騎手・調教師の成績を他の地方競馬(平地)と区別せず、同列で集計している<ref group="注">ばんえい競馬では騎手・調教師リーディングを開催年度(4月-翌年3月)単位で集計しているため、暦年(1月-12月)単位で集計しているNARのものとは一致しない場合もある。</ref>。
競走での人馬交流はないものの、ばんえい競馬の所属騎手がばんえい競馬のPR活動を行う為、業務として平地競走の[[競馬場]]に赴き、現役のばんえい競走馬と競走で使用されるそりを運び込み、平地の[[ダート]]コースなどを使用してデモンストレーションを目的とした模擬競走を行う場合がある。このような模擬競走は[[1973年]]に[[大井競馬場]]<ref name="enkaku" /> で初開催され、その後も[[1978年]]に[[宇都宮競馬場]](現在は廃止)<ref name="enkaku" /> で、[[1983年]]には[[水沢競馬場]]<ref name="enkaku" /> で開催。近年では[[1991年]]に[[船橋競馬場]]<ref name="enkaku" /> で開催されたほか、[[2001年]]には[[フランス]]<ref name="enkaku" /> で、[[2008年]]には[[川崎競馬場]]で実施された。また、[[2007年]]から[[日本中央競馬会]](JRA)所属騎手との交流イベントとして「[[JRAジョッキーDay]]」を開催している。JRAの現役騎手が帯広競馬場に来場しトークショーなどのイベントを行うほか、ばんえい所属騎手とペアを組んでのエキシビションレースも行っている(詳細は当該記事を参照)。
2006年度までは[[帯広競馬場]]のほか[[旭川競馬場]]・[[岩見沢競馬場]]・[[北見競馬場]]を含めた4か所を巡回しながら開催してきた(後述)が、[[2007年]]度より「'''馬の一発逆転ライブショー・ばんえい十勝'''」をキャッチフレーズとして、全日程を帯広競馬場で開催している。あわせて、夏季としては初めての本格的な[[ナイター競走]]「ばんえい十勝ナイトレース」も開始した<ref name="banei-nighter">[http://www.oddspark.com/static/event/banei/nighter/ 【ばんえい十勝 ナイトレース特集】 - オッズパーク 2012年11月13日閲覧]</ref>。ナイトレース期間中は最終競走の発走時刻を昼間開催時よりも2時間半程度繰り下げ<ref group="注">第1競走の発走時刻は概ね14時頃、最終競走は概ね20時30分前後。発走時刻は1日の競走数により異なる場合がある。</ref>、日没前後からは走路沿いに新設したイルミネーションも点灯させてナイター気分を盛り上げている。なお、ナイター期間以外の一部開催日は昼間開催時よりも1時間半程度繰り下げた[[薄暮競走|薄暮開催]]とする場合もある<ref group="注">通常、昼間開催時におけるばんえい競馬の最終競走発走時刻は18時前後、薄暮開催時は19時30分前後に設定されているが、日没が早まる冬季は16時を過ぎると照明が必要になるため、以前より後半の2-3競走が事実上「ナイトレース状態」であった。2007年度からはこの場合でもイルミネーションを点灯させている。</ref>。
1994年秋より比較的積雪量が少ない帯広競馬場で馬場に[[ロードヒーティング|ヒーティング設備]]を敷設し、冬季でも馬場が凍結することなく競走が行えるようになった。これにより、従来は11月で終了していた開催期間を延長することが可能になった<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071221.html|title=【ばんえいダービー展望】|work=ビバ!BANBA|publisher=[[北海道新聞]]帯広支社|date=2007-12-21|accessdate=2014-03-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130403160153/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071221.html|archivedate=2013年4月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。[[2005年]]度からは長期の休催期間を設けない事実上の通年開催となり<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20150614011712/http://www.47news.jp/CN/200504/CN2005041601002868.html|title=北海道のばんえい競馬開幕 大型馬が鉄ソリ引き力走|work=[[47NEWS]]|publisher=[[共同通信社|共同通信]]|date=2005-04-16|accessdate=2014-02-25}}</ref>(現在は3月下旬に閉幕後、次年度の開幕まで3週間程度休催)、北海道で唯一冬季も開催を行う公営競技となっている。
通常、ばんえい競馬は昼間・薄暮・ナイター開催ともに土曜から月曜、[[ホッカイドウ競馬]]は全日程ナイター開催で火曜から木曜に開催するローテーションが組まれており、一部を除いて両者の開催日程が重なることがないため、道内では多くの[[場外勝馬投票券発売所|場外発売所]]で両者の相互場外発売が行われている。詳細は「[[#場外発売所|場外発売所]]」の節を参照。
==== 新馬券の導入 ====
{{main2|詳細は[[#賭式|賭式]]の節を}}
*2010年1月8日:[[投票券 (公営競技)#重勝式|5重勝単勝式投票券]]「OddsPark LOTO」を発売開始。
*2011年8月5日:[[投票券 (公営競技)#三連勝単式|3連単]]・[[投票券 (公営競技)#三連勝複式|3連複]]を発売開始(他地区場外発売。ばんえい帯広競馬での発売は8月6日より)<ref>[http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-98.html ばんえい競馬公式サイト(2011年8月3日)]</ref>。
*2012年12月15日:7重勝単勝式投票券「OddsPark LOTO」を発売開始<ref>[http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-174.html ばんえい競馬公式サイト(2012年12月7日)]</ref>。
==== 存廃についての動き ====
[[2006年]]度までは帯広競馬場のほか、[[北見競馬場]]・[[岩見沢競馬場]]・[[旭川競馬場]]の4箇所を巡回して開催していた。[[1997年]]までは北見を除く3場で平地競走([[ホッカイドウ競馬]])が併催されていたが、[[1998年]]以降は旭川のみがばんえい・平地の併催となっていた。
2006年度は史上初めて帯広で開幕し、上記4場で順次開催されたが、売上の減少による累積赤字の増大から旭川市・北見市・岩見沢市が2006年度限りでの撤退を表明、残る帯広市も負担が大きすぎるとして単独での開催継続に難色を示したことから、ばんえい競馬の廃止が濃厚と見られていたが、ファンらの嘆願や寄付の申し出に加え、2006年[[12月13日]]には[[ソフトバンク]]子会社のソフトバンク・プレイヤーズ(現・[[SBプレイヤーズ]])が帯広市の単独開催に対する支援を申し出たことから、2007年度より帯広市が単独で開催を継続することが決定した。これについて[[農林水産大臣]]・[[松岡利勝]](当時)は「喜ばしいことだ。正式に要請があれば、スムーズに処理できるようにするし、できる限り支援したい」と述べていた。
これに伴い、ばんえい競馬の運営実務を担ってきた一部事務組合「北海道市営競馬組合」は解散し、2007年[[2月1日]]に一部業務を受託する運営会社「[[オッズパーク]]・ばんえい・マネジメント株式会社(OPBM)」が設立された。また、帯広市はファンなど個人・法人からの寄付もあわせて受け付け、「ばんえい競馬振興基金」を開設、個人・法人からの寄付も毎年のように寄せられている。特に[[楽天グループ|楽天]]は、子会社の楽天競馬が地方競馬のインターネット発売を請け負っていることもあり、寄付金のほか売上額から一定割合を積み立て、ばん馬の飼料用として[[ニンジン]]や牧草ロールを寄贈している。
2007年度は黒字を計上したが、2008年度の総売上は約115.5億円で前年より約10%余り減少し、当初予算比も97.2%となったほか、入場者数も前年より約6万人減少した<ref>{{PDFLink|[https://www.keiba.go.jp/nar/pdf-result/year0804-0903.pdf 地方競馬開催成績(平成20年4月 - 平成21年3月度)]}} - 地方競馬全国協会、2014年8月10日閲覧</ref>。運営安定化の基金も使い果たし、存続は正念場を迎えていく。
2009年度の総売上は約107.2億円で前年比約7%減となった。総入場者も約20万人で、引き続き前年割れとなった<ref>{{PDFLink|[https://www.keiba.go.jp/nar/pdf-result/year0904-1003.pdf 地方競馬開催成績(平成21年4月 - 平成22年3月度)]}} - 地方競馬全国協会、2014年8月10日閲覧</ref>。
2010年度の開催にあたり、OPBMは年度途中の撤退もありえるとしていたが、結局2011年度の開催についても[[12月15日]]に帯広市と大筋で合意し、今後5年間程度の中間戦略についても両者が協議することで一致した<ref>[http://www.tokachi.co.jp/banei/2010/12/entry_847.php 帯広市とOPBMがばんえい競馬の来年度開催で大筋合意] - 十勝毎日新聞電子版「ばんえい十勝劇場」 2010年12月18日閲覧</ref>。2011年1月28日には開催日程を発表している<ref>[http://www.tokachi.co.jp/banei/2011/1/entry_899.php ばんえい競馬 来年度は4月16日開幕] - 十勝毎日新聞電子版「ばんえい十勝劇場」 2011年2月7日閲覧</ref>。2010年度の売上は約105.6億円<ref>{{PDFLink|[https://www.keiba.go.jp/nar/pdf-result/year1004-1103.pdf 地方競馬開催成績(平成22年4月 - 平成23年3月度)]}} - 地方競馬全国協会、2014年8月10日閲覧</ref> で、売上の下げ止まり傾向は見えてきた。
2011年度の総売上は103億6400万円余りで対前年比約2%減、総入場者数も24万5000人余りで前年比約0.7%減となった<ref>[http://www.jbis.or.jp/topics/news/20120330T051100.html 馬産地ニュース(2012年3月30日)]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。
[[2012年]]度の開催業務の委託契約についてはOPBMと帯広市で協議してきたが、委託料の固定化や競争入札方式の導入を求めたOPBMと折り合わず、2012年度はOPBMと委託契約を更新しないことを決定した<ref>[http://www.tokachi.co.jp/banei/2012/2/entry_1098.php ばんえい十勝劇場(2012年2月14日)]</ref>。運営は帯広市が主体となり、業務の一部は旭川北彩都場外発売所([[レラ・スポット北彩都]])を運営しているコンピューター・ビジネス([[旭川市]])に委託することで内定した。ただし、帯広市は「OPBMとは今後も良好な関係を維持していきたい」としている。
また2012年度以降の収支見通しについて、市民検討委員会の提言を基に策定した「ばんえい競馬運営ビジョン」を2012年[[2月18日]]に発表。2012年度は収支均衡、2013年度は100万円の黒字、2014年度は1600万円の黒字を見込んでいる<ref>[http://www.tokachi.co.jp/banei/2012/2/entry_1099.php ばんえい十勝劇場(2012年2月18日)]</ref>。観光振興や外国人客の誘致に注力するほか、主な増収策として以下の施策をあげている。
*帯広競馬場に、新たな有料席を設置
*7重勝式馬券の導入(実施済)
*[[日本中央競馬会]](JRA)の在宅投票システムを利用したばんえい競馬の[[勝馬投票券]](馬券)発売(実施のめど立たず)
*場外発売所の新設([[琴似駅前場外発売所|琴似駅前]]・深川)
*[[南関東公営競馬]]の場外発売日数を増加
*ばんえい競馬におけるJRA馬券の場外発売(2013年6月8日より開始)
2012年度の売得金総額は約104億9458万円(前年度比:1.26%増)、入場者数も25万4081人(前年度比:3.38%増)で、帯広市による単独開催となってから初めて前年度を上回った<ref>[http://www.tokachi.co.jp/banei/2013/3/entry_1275.php ばんえい十勝劇場(2013年3月26日)]</ref>。
2014年2月には2015年度以降の収支見通しを発表。売得金は最大108億円(2015年度)を見込み、収支も2015年度は1100万円、2016年度は200万円の黒字とし、向こう3年間は収支均衡以上が確保できるとしている<ref>[http://www.tokachi.co.jp/banei/2014/2/entry_1447.php ばんえい十勝劇場(2014年2月15日)]</ref>。同年4月には2013年度の開催成績が発表され、売得金総額は116億5383万3700円(前年度比:11.2%増)、総入場人員は26万8693人(前年度比:5.8%増)でともに前年度を上回った<ref>{{PDFLink|[https://www.keiba.go.jp/nar/pdf-result/year1304-1403.pdf 地方競馬開催成績(平成25年4月 - 平成26年3月度)]}} - 地方競馬全国協会</ref>。さらに帯広市が同年6月に公表した2013年度の決算でも、帯広単独開催となってから最大となる約9900万円の黒字を計上した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20140601-OYT1T50042.html 人気漫画も影響、ばんえい競馬大きく黒字に] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140601130115/http://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20140601-OYT1T50042.html |date=2014年6月1日 }} - 読売新聞、2014年6月1日閲覧</ref>。
上記のほか、既に導入済の5重勝単勝式・7重勝単勝式・三連勝単式・三連勝複式馬券、道外での場外発売の拡充、競馬場内の商業施設「とかちむら」の集客や中央競馬の場外発売により入場者数は上向いており、存続に向けた努力が続いている。しかしインターネット投票が好調な反面、帯広競馬場での発売額が伸び悩んでおり、情勢は引き続き予断を許さない。
賞金は、苦しい経営状況を反映して減額され続けていたが、売上の好転にともない少しずつ増額されるようになった。しかし、今なお全国でも最低の水準が続いており、2019年12月現在、一般競走の1着最低賞金は13万円、1着-3着までの賞金総額は17万7000円となっている。
2020年度は[[新型コロナウイルス感染症]]の拡大に伴う外出自粛の影響もあり、インターネット投票が好調で、発売額は史上最高の483億5278万円(前年比55.5%増)となった<ref>{{Cite web|和書|title=帯広ばんえい競馬の発売額、史上最高483億円 ネット販売好調|url=https://mainichi.jp/articles/20210322/k00/00m/050/317000c|website=毎日新聞|accessdate=2021-03-29|language=ja}}</ref>。それまでの最高額は1991年度の322億9248万円であり、大幅な記録更新となった。
帯広市ばんえい競馬会計の2020年度決算では、初めて剰余金の一部(2452万円)を一般会計に繰り出したほか、2021年度決算でも1552万円を繰り出すなど、帯広市の財政にも貢献するまでになった。一方で、コロナ禍の外出自粛や制限が撤廃された後の需要予測が見通せないことから、帯広市ではさまざまなイベントを催すなど、話題作りに注力している<ref>[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/850021/ ばんえい競馬右肩上がり 馬券販売10年で5倍554億円 「ウマ娘」「きんに君」で客層拡大<デジタル発>] - 北海道新聞、2023年5月24日、2023年5月27日閲覧</ref>。
=== 草競馬・祭典競馬としてのばんえい競走、人間ばん馬 ===
北海道や[[東北地方]]の一部地域では、主に地域の祭典などで「'''輓馬競技'''(ばんばきょうぎ)」が開催されている(「輓馬大会」「馬力大会」「草ばんば」とも呼ばれる)。これらは「'''輓曳'''(ばんえい)<ref group="注">公営競技としての「ばんえい競馬」でも、一部の専門紙でこの表記が使われている。</ref>」「'''輓馬'''(ばんば)」と略されることも多い。重量物を積載したそりを曳く競走形態は、公営競技とほぼ同様である。現存する「草ばんば」としては[[音更町]]で1908年(明治41年)より開催されているものが道内最古とされている(当初は平地競走。ばんえい競走になったのは終戦後)<ref name="BANBA_20070803">[http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070803.html ビバ!BANBA(2007年8月3日)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130403182605/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070803.html |date=2013年4月3日 }}</ref>。
輓馬(ひきうま、ばんば)と呼ばれる競走馬の操縦方式には、そりに乗った騎手1人で操る方式(公営競技と同じ)と、そりに乗った騎手と競走馬の口を引く伴走者(助手)の2人で操る方式がある。公営競技では騎手がそりの上に立って操縦する(後述)が、輓馬競技では騎手がそりに座って操縦することもある。
また、複数の人間がチームを組んで自らそりを曳く「[[人間ばん馬]]」も存在し、[[置戸町]]で毎年6月ごろに行われている「人間ばん馬大会」<ref>[http://www.ittoco.com/archives/7688 いっとこ(2012年5月30日)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130301065350/http://www.ittoco.com/archives/7688 |date=2013年3月1日 }}</ref> のほか、帯広競馬場でもばんえい本走路を使用して行う「ワールド人間ばん馬チャンピオンシップ」が10月ごろに行われている<ref>[http://www.banei-keiba.or.jp/topics/2012-2.html ばんえい競馬公式サイト(2012年10月14日)]</ref>。
公営競技としては使用しない品種でも、ポニーなどによるイベントレースとしてのばん馬競走が行われることもある。
== 公営競技を開催する競馬場 ==
[[ファイル:Obihiro Racecourse.jpg|thumb|250px|帯広競馬場]]
*[[帯広競馬場]]:1949年より開催している。1997年まではホッカイドウ競馬を併催していた。2007年6月より[[ナイター競走]]を開始<ref name="banei-nighter" />。
=== 過去に公営競技を開催していた競馬場 ===
いずれも、現在は廃止されている。
*[[岩見沢競馬場]]:[[1947年]]-[[2006年]]まで開催。2006年休止。
*[[旭川競馬場]]:1947年-2006年まで開催。[[2008年]]休止。
*[[北見競馬場]]:[[1953年]]-2006年まで開催。2006年開催休止、[[2009年]]6月で場外発売も終了。
== 歴史 ==
ばんえい競馬の起源は木材を運び出していた馬の力比べとされており、北海道開拓期より各地で余興や催事として行われていた。当初は2頭の馬に丸太を結びつけ、互いに引っ張りあっていたという。
[[明治時代]]末期頃から荷物を載せたそりを曳かせる現行の競走方式が登場したとされ、確認できる最古の競走は[[1915年]]([[大正]]4年)[[9月16日]]に[[函館市|函館区]]外で十郡畜産共進会の余興として行われた「挽馬実力競争」<!--競争は誤字ではないです-->である。[[競馬場]]内の広場に長さ40間(約73[[メートル|m]])の平坦コースを設け、雪ゾリに一俵16貫(60[[キログラム|kg]])の[[土嚢|土俵]](つちだわら)を3-14俵集め、これを重しとして競走を行っていた<ref name="Mate">『ホースメイト』 2007年7月号 日本馬事協会</ref>。その後も[[大正時代]]末期に[[亀田八幡宮]]([[渡島国]][[亀田郡]]亀田村)の境内や[[五稜郭]]公園の敷地内で行われたのをはじめ、全道各地で同様の競走が行われていた。
=== 公営競技としての歴史 ===
{{See also|競馬の歴史 (北海道)}}
[[太平洋戦争]]後の[[1946年]]、[[地方競馬法]]施行規則第9条により、競走の種類は駈歩([[平地競走]])、速歩([[繋駕速歩競走|速歩競走]])、障害([[障害競走]])、輓曳(ばんえい競走)の4種類と定められたこと<ref name="enkaku">[http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_enkaku.html ばんえい競馬の沿革] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160529231150/http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_enkaku.html |date=2016年5月29日 }} - ばんえい競馬、2014年8月10日閲覧</ref><ref>『地方競馬史』第二巻 地方競馬全国協会 1974年</ref> を受け、ばんえい競走が公式競技となった。ばんえい競走が採用された背景には、戦時中に[[軍馬]]として徴用された農用馬が戻ってこなかったため、農村部で農用馬が不足していたことに加え当時の食料不足も重なり、馬の増産が急務であったことが挙げられる<ref name="Mate"/>。
翌[[1947年]][[10月16日]]には北海道馬匹組合連合会(馬連)によるばんえい競走が旭川競馬場において実施され、公式競技として初のばんえい競走が行われた<ref name="Mate"/>。
[[1948年]]に施行された(新)[[競馬法]]により、[[地方競馬]]の主催は[[都道府県]]もしくは競馬場が存在する[[市町村|市区町村]]に限られることとなったものの、この年は前年の興行不振などを理由に休催。[[1949年]]から「道営競馬(現・ホッカイドウ競馬)」により、ばんえい競走が旭川と帯広で再開された。道営は当初、ばんえい競走の他に平地競走・速歩競走も行っていたが、道営でのばんえい競走は[[1966年]]に廃止された。
[[1953年]]には、市内に競馬場が所在する[[旭川市]]・[[岩見沢市]]・[[帯広市]]・[[北見市]]の4市による「市営競馬」が発足<ref name="enkaku" />。市営も当初は平地とばんえいを行っていたが、[[1962年]]にばんえい競走へ一本化した。こうして1970年以降は道営競馬が平地競走のみ<ref group="注">道営競馬がばんえい競走を廃止した1966年当時は平地競走のほかに速歩競走も施行していたが、速歩競走は1970年に廃止された。</ref>、市営競馬がばんえい競走のみを開催する運営形態となり、現在に至っている。
市営競馬は当初、4市が所在する各競馬場において個別に開催していたが、[[1968年]]に「北海道市営競馬協議会」が発足、[[1989年]]には一部事務組合として改組された「北海道市営競馬組合」が開催を引き継いだが、2006年度限りで帯広を除く3市が撤退(前述)したため組合は解散し、現在は帯広市による単独開催となっている<ref name="enkaku" />。
道外でも、[[競馬の歴史 (東北地方)#青森競馬場|青森競馬場]]で法に基いたばんえい競走を行っていた<ref name="history">[http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_hist.html ばんえい競馬の歴史]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }} - ばんえい競馬、2014年8月10日閲覧</ref> が、青森競馬場が1951年に廃止されたため、道外での公営競技によるばんえい競走は短命に終わった。
かつてのばんえい走路はU字型(馬蹄型)のオープンコースで、最大出走可能頭数(フルゲート)も現在に比べ多かった。[[1963年]]に旭川が現在の直線セパレートコースを導入<ref name="enkaku" /> すると、5年後に岩見沢・帯広・北見も追従している<ref name="enkaku" />。また障害もかつては3つあったが、[[1974年]]より現行の2つになった。なお、草ばんばではレース後のそりの移動を容易にするため、現在でもU字形のコース形態が残っているところもある<ref name="BANBA_20070803" />。
=== 年表 ===
*1947年(昭和22年) - 北海道馬匹組合連合会(馬連)によるばんえい競走を旭川競馬場で開催、公式競技としてのばんえい競走が誕生。
*1949年(昭和24年) - 道営旭川・帯広競馬でばんえい競走を開始。
*1953年(昭和28年) - 旭川・帯広・北見・岩見沢の4市による市営競馬が発足、平地とばんえいを開催<ref name="記念誌">{{PDFLink|[http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no19-opt.pdf 北海道市営競馬組合設立記念誌 ばんえい No.19(P14-17)]}} - 北海道市営競馬協議会、2014年12月23日閲覧</ref>。
*1957年(昭和32年) - 8月の市営北見(平地)競馬で、馬不足によりばんえい競走を1日2レース編成する混成競走を実施<ref name="記念誌" />。
*1963年(昭和38年)
**前年に設立された地方競馬全国協会(地全協)による、初の騎手免許試験を実施。373名が受験し、346名が合格<ref name="記念誌" />。
**旭川のばんえいコースを直線に変更<ref name="記念誌" />。
*1964年(昭和39年) - 体型別だった格付区分を体重別に変更<ref name="記念誌" />。
*1966年(昭和41年) - 道営のばんえい競走が終了<ref name="記念誌" />。
*1968年(昭和43年)
**北海道市営競馬協議会設立(初代会長は[[五十嵐広三]])<ref name="記念誌" />。
**帯広・北見・岩見沢が直線コースに変更<ref name="記念誌" />。
*1969年(昭和44年)
**帯広・北見・岩見沢で対面着順写真判定を採用<ref name="記念誌" />。
**VTRパトロールを採用。
**馬齢による出走制限(13歳まで)を導入<ref name="記念誌" />。
*1970年(昭和45年) - 格付区分を「甲・乙・丙・丁・A丁・B」から「A・B・C・D」に改正<ref name="記念誌" />。
*1971年(昭和46年)
**鉄製そり・引木・グラスファイバー製かじ棒を採用<ref name="記念誌" />。
**スターティングゲートを設置<ref name="記念誌" />。
*1973年(昭和48年)
**大井競馬場にて「ばんえいアトラクション」を開催<ref name="記念誌" />。
**体重制格付区分を収得賞金制に改める<ref name="記念誌" />。
*1974年(昭和49年) - 帯広・北見・岩見沢で第2障害を廃止<ref name="記念誌" />。以後、障害数は現行の2つとなる。
*1978年(昭和53年) - 調騎分離を実施、調教騎手と騎乗騎手の兼業を禁止<ref name="記念誌" />。
*1982年(昭和57年) - 第4回・第5回北見競馬を帯広競馬場で場外発売(初の場間場外発売)<ref name="記念誌" />。
*1989年(平成元年) - 北海道市営競馬協議会を改組、一部事務組合「北海道市営競馬組合」が発足<ref name="記念誌" />。
*1994年(平成6年) - 帯広競馬場にヒーティング設備を設置<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071221.html|title=ばんえいダービー展望|work=ビバ!BANBA|publisher=[[北海道新聞]]帯広支社|date=2007-12-21|accessdate=2014-12-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130403160153/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071221.html|archivedate=2013年4月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
*2006年(平成18年) - 旭川・北見・岩見沢でのばんえい競馬開催を終了。
*2007年(平成19年) - 北海道市営競馬組合が解散、帯広市による単独開催となる。
== ばんえい競走馬 ==
=== 歴史 ===
[[ファイル:Statue of Percheron Irene.jpg|thumb|250px|帯広競馬場に建立しているイレネー像(作:[[加藤顕清]])]]
当初は軍馬として取引され馬産の中心であった中間種のアングロノルマン(アノ)や、産業馬としての需要が強かった重種馬のペルシュロン(ペル)が多く用いられた。戦前に輸入された種牡馬のうち、1910年に導入された[[イレネー記念#イレネーについて|イレネー]]の子孫が大いに繁栄し、「ばん馬の父」とも称されている。戦後は馬産復興期にフランスからブルトン(ブル)が導入され、その中でも種牡馬グウラントンとペルシュロン繁殖牝馬の産駒が非常に優秀であったことから、戦後のアングロノルマンの衰退とともに、ペルシュロンとブルトンの[[混血]]が進んだ。
戦後、復興から高度成長期にかけてモータリゼーションの進展とともに産業馬としての需要がなくなり、生産頭数は激減した。[[1974年]]には、ばん馬の改良用としてベルジャン(ベルジアンとも)種の馬が輸入される<ref name="hokkaido-np-20070706">{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070706.html|title=スーパーペガサス その伝説を追って|publisher=北海道新聞帯広支社|date=2007-07-06|accessdate=2014-08-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150523195837/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070706.html|archivedate=2015年5月23日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。橋本善吉<ref group="注">[[橋本聖子]]の父、[[マルゼンスキー]](サラ)の生産者・馬主。</ref> が[[アメリカ合衆国]]から[[日本]]に輸入したマルゼンストロングホースや<ref>{{Cite web|和書|url=http://blog.oddspark.com/baneiinfo/2005/07/5_1.html|title=馬券おやじは今日も行く(第5回) 古林英一|work=ばんえい競馬情報局|publisher=[[オッズパーク]]競馬|date=2005-07-29|accessdate=2014-08-24}}</ref>、他にジアンデュマレイといったベルジャン種牡馬の産駒が、従来のペルシュロン種・ブルトン種よりもはるかに大型でかつ軽快な脚捌きをみせ、さらに産駒の仕上がりが早く大活躍したことからさらに混血が進む。
現在は「半血」「日本輓系種(日輓)」と称される前記3種の異種混血馬やそれらと在来種の混血馬が大半を占めており、純血種の馬はごくわずかになっている。なお混血種は、従来はすべて「半血種」と称していたものの、[[2003年]]度以降の生産馬については、純系種同士の配合によって生まれた雑種を一代に限り「半血種」とし、このほかは「日本輓系種」と呼称している。また、便宜上ばんえい競走に使用する馬を総称して「ばんえい種」と呼称することがある。
道内でも主産地が胆振・日高管内に集中している軽種馬とは異なり、ばんえい馬の産地は道内各地に広く分布している。ばんえい競馬ではこれを生かし、産地別選抜競走「[[#産地限定競走(ばんえい甲子園)|ばんえい甲子園]]」も行っている。
=== ばんえい種 ===
*純血種
**[[ペルシュロン]]<ref name="blood">[http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_brood.html ばん馬の血統] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140812203315/http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_brood.html |date=2014年8月12日 }} - ばんえい競馬、2014年8月10日閲覧</ref> - ペルシュロンはフランス北西部のノルマンディー、ペルシュ地方が原産の品種で、名前の由来は原産地であるペルシュから付けられた。起源は8世紀、フランス原産の重種にアラブ種など東洋原産の馬が交配され成立したと言われている。性格は大人しくて毛色は芦毛や青毛などが多く、体型は脚が短く胴が太い。ペルシュロンはその大きな体格を生かし、昔は軍馬や馬車用、農用、重砲兵用などに使われた。
**{{仮リンク|ブルトン種|label=ブルトン|en|Breton horse}}<ref name="blood" /> - ブルトンはフランスのブルターニュ地方原産。ブルターニュ地方の在来馬に[[ペルシュロン]]、ブーロンネ、アルデンネなどを交配した品種。特徴は強力な筋肉と、短い頸と太くてたくましい胴である。以前は4タイプのブルトン種が存在したが、現在では2つのタイプ('''ポスティエ・ブルトン(Postier Breton)'''と'''トレ・ブルトン(Trait Breton)''')が公認されている。日本には明治以降に多く輸入され、産業馬の品種改良に使われた。
**{{仮リンク|ベルジャン|en|Belgian horse}}<ref name="blood" />(「ベルジアン」とも<ref name="hokkaido-np-20070706" /><ref name="bajikyokai-p2">[[#日本馬事協会登録規程細則|日本馬事協会登録規程細則]]、2頁。</ref>) - ベルジャンはベルギーのブラバンド地方が原産の品種で、古くから原産地であるベルギーで飼育されており、他の品種との混血が少ないため、個体差としての体格の差はそれほどない。ただ、改良などのために混血が進んだ馬に関しては体高が他と比べて大きくなる場合もある。特徴は頭部は短く、太い頸を持ち、背中は短めである。また、前後躯はガッチリとした作りになっていて、毛色は栗毛や糟毛が多く見られる。
**[[日本馬事協会]]の「種馬登録規程事務細則」では、「輓系馬」という分類における純血種として、上記3種を含む8種が指定されている<ref name="bajikyokai-p2" />。
*半血種 - 純血種(上記3品種など)同士の混血<ref name="bajikyokai-p38-39">[[#日本馬事協会登録規程細則|日本馬事協会登録規程細則]]、38-39頁。</ref>
*日本輓系種 - 半血(またはそれ以外のばんえい種等)との混血<ref name="bajikyokai-p38-39" />。かつては「半血」と表記していたが、2003年4月以降の登録において呼称が変更された<ref name="bajikyokai-p3">[[#日本馬事協会登録規程細則|日本馬事協会登録規程細則]]、3頁。</ref>。「日輓」と略される場合もある
このほか、かつては「………系」(「………」には純血種の品種名が入る。当該純血種の血量が75%以上の場合<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070622.html|title=厩舎探検(上)騎手ら300人暮らす村|work=ビバ!BANBA|publisher=[[北海道新聞]]帯広支社|date=2007-06-22|accessdate=2014-08-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150523185509/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070622.html|archivedate=2015年5月23日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>)という表記も存在したものの、これも2003年4月以降の登録においては日本輓系種と扱われる<ref name="bajikyokai-p3" />。
=== 農用(輓系)馬の生産 ===
農用(輓系)馬の生産は[[1955年]]以後、トラックや耕耘機などの普及に伴い飼育頭数が激減。その後、[[馬肉]](いわゆる桜肉)の需要が堅調に推移したことにより、生産頭数は[[1983年]](7399頭)・[[1994年]](8097頭)に改めてピークを迎えるものの、その後再び生産頭数が大幅に減少し、[[2004年]]は3163頭まで落ち込んでいる。
地域別の分布をみると、2005年度の生産頭数2655頭のうち、十勝管内で761頭(28%)、釧路管内で652頭(25%)、根室管内で300頭(11%)と、酪農の盛んな道東の太平洋側で6割半ばが生産されている。次いで網走管内184頭、上川管内139頭、檜山管内111頭などの順になっている。北海道以外では岩手県の81頭、熊本県の70頭などが多く、桜肉の飼養・生産が盛んな九州での生産頭数は、すべてを合わせても104頭にとどまる。
生産農家の形態は、おおまかに分類すると以下の3通りに分けられる。
;1頭飼養農家
:酪農専業農家が1頭だけ農用馬を飼養する形態である。機械化以前はどの農家でも運搬と農耕の手段として馬を飼養していたため、その名残から1頭飼養する農家は非常に多い。これは、乳牛に比べて農用馬に掛かる手間が非常に少なく、かつ乳牛に与えるに耐えない品質となって収穫できない繊維質の多い2番草を与えても問題ないことから牧草地を有効に活用でき、さらに乳牛に比べて取引価格が非常に高く現金化の道が早い、などの利点があるためである。これらの馬はばんえい競馬の競走馬を目指して生産されることはなく、1歳市場での売却を目的に生産されており、馬産農家からよほどの評価を受けない限り、当歳秋市場または1歳市場に出される。
;第2種兼業的飼養農家
:酪農を中心としながら数頭の繁殖牝馬を飼養し、ばんえい競馬の競走馬生産を目論みながら生産しているが、競走馬生産のための大きなリスクを取ることはほとんどない。
;専業または第1種兼業的飼養農家
:ばんえい競馬の競走馬生産を主目的に農用馬を生産しており、手間の掛かる酪農を兼業する農家はほとんどない。
公益社団法人日本馬事協会の資料によると、2004年の生産馬3163頭のうち、戦前の日本三大市場(釧路大楽毛・根室厚床・十勝帯広)の流れをくむ十勝・釧路・根室管内で、当歳市場662頭、1歳市場990頭の取引が成立した。2006年に馬名登録された2歳馬は430頭である。なお、この統計上に現れない馬の多くは、十勝・釧路・根室管内以外の生産馬か、あるいは自家生産した牝馬をそのまま繁殖牝馬として飼養しているケースのいずれかと考えられる。
農用(輓系)馬生産農家のお祭りとして行われる「草ばんば」には、繁殖に入った自家飼養馬のほか、現役の競走馬や、競走馬を目指す1歳馬も多数集まる。1歳馬が草ばんばに大挙出走するのは競走能力を見極めるシステムが少ないためで、軽種馬ではみられない特徴でもある。
草ばんばでの負担重量はおおむね330-350キロ。各地の草ばんばで優秀な成績を収めた1歳馬は、毎年10月中旬にばんえい競馬の競馬場(現在は帯広競馬場のみ)で行われる「祭典ばんば1歳馬決勝大会」に出走し、ここでの成績が大きな参考資料となることから、競走馬としてデビューする前に大がかりに能力を判定できるシステムとして機能している。
=== デビューから引退まで ===
[[ファイル:Early Morning Training.jpg|thumb|300px|早朝に行われる調教の様子]]
ばんえい競馬の[[競走馬]]は2歳からデビューする。「[[新馬|2歳新馬戦]]」は行われるが「2歳未勝利戦」はなく、代わりに「2歳未受賞」競走(収得賞金がない馬が対象<ref group="注">ばんえい競馬における収得賞金は、3着以上/4着以上/5着以上のいずれか(レースによる)を対象に加算される。</ref>)が行われる。2歳のシーズン途中からは収得賞金に応じて格付けされる([[#公営競技のクラス編成|後述]])。
日常の調教は、夜明け前後から本走路の裏側にある練習用走路を使用して行われている。調教の様子は、事前予約による有料の「朝調教見学ツアー」で見学することも可能<ref>[http://www.banei-keiba.or.jp/thumbnail/post-169.html ばんえい競馬公式サイト(ツアー案内)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130116041755/http://www.banei-keiba.or.jp/thumbnail/post-169.html |date=2013年1月16日 }}</ref>。
デビュー前の2歳新馬や、デビュー後も成績が不振な馬には「[[能力試験|能力検査]]」(能検、専門紙では「能力試験(能試)」とも呼ばれる)が義務付けられ、これに合格しなければレースに出走できない。とくに2歳新馬の能検は2003年まで定員制をとっていたため、約1/3-1/6しか合格できない狭き門で、見守る生産者や馬主、調教師など関係者の声援も熱気に満ちていた。[[2004年]]以降は農用馬の生産頭数の激減にともない基準タイム制に移行し、合格基準も大幅に緩和され8割程度の馬が合格できるようになった。なお、不合格馬は一部が各地で観光馬車を曳いたり農耕馬として転出する場合もあるが、多くは能力検査後ただちに競りが行われ、食肉用に転用される。
出走間隔は平地の競走馬に比べ短く、概ね1か月あたり2戦-4戦することが多い。重い荷物を曳く性質上高重量戦の経験や能力が重視され、一般的には6歳以降が充実期とされる。
現役の競走馬であっても、馬券の発売を伴わないイベントレースなどで出走する場合がある。前述の「JRAジョッキーDAY」におけるエキシビションレースのほか、一般のファンやちびっこをそりに乗せたレースも行われ、現役の競走馬が出走する。いずれの場合も現役のばんえい騎手が「補助役」として一緒に騎乗し、馬の操縦を行っている。
1978年から2006年までは10歳定年制<ref name="enkaku" /> が設けられており、10歳になった馬はその年度末(明け11歳)までに引退しなければならなかったが、2007年度からは定年制が撤廃された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/kaisai/18kaisai/18bangumi-youryou.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060619182551/http://www.banei-keiba.or.jp/kaisai/18kaisai/18bangumi-youryou.html|archivedate=2006年6月19日|title=H18番組編成要領|work=ばんえい競馬公式サイト|accessdate=2014-03-25|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/kaisai/19kaisai/19bangumi-youryou.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070820153948/http://www.banei-keiba.or.jp/kaisai/19kaisai/19bangumi-youryou.htm|archivedate=2007年8月20日|title=H19番組編成要領|work=ばんえい競馬公式サイト|accessdate=2014-03-25|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。牝馬は繁殖に備えるため、10歳を待たずに引退することが多い。
全体の賞金水準が低いこともあり、生涯獲得賞金額が1億円を超えた馬はごくわずかしかおらず、達成馬は「'''1億円馬'''」として称えられる。ただ、近年は最高峰とされる[[ばんえい記念]]だけは1着賞金が1000万円に戻されたが、それ以外は度重なる賞金の減額(売上の回復にともない徐々に増額はされているが、帯広の単独開催になる以前の状態には戻っていない)もあり、1億円達成は困難になっている。
競走成績が優秀だった牡馬には、引退後も[[種牡馬]](「種雄馬」とも呼ぶ)への道が開かれる。
=== 生涯獲得賞金が1億円を超えた馬 ===
記録は2013年度全日程終了時のもの。
出典:[https://web.archive.org/web/20150112070810/http://www.banei-owners.jp/%E7%AB%B6%E8%B5%B0%E9%A6%AC%E5%90%8D%E9%91%91/ 競走馬名鑑(1億円達成馬)] - 一般社団法人ばんえい競馬馬主協会、2015年1月12日閲覧
{| class="wikitable"
!馬名!!|性別!!現役期間!!獲得賞金額
|-
|style="text-align: center;"|[[キンタロー]]<ref name="enkaku" />||style="text-align: center;"|牡||1979年-1986年||1億1672万5000円
|-
|style="text-align: center;"|[[タカラフジ]]<ref name="enkaku" />||style="text-align: center;"|牡||1983年-1990年||1億349万円
|-
|style="text-align: center;"|[[ヒカルテンリユウ]]<ref name="enkaku" />||style="text-align: center;"|牡||1985年-1992年||1億461万1000円
|-
|style="text-align: center;"|[[アサギリ]]<ref name="enkaku" />||style="text-align: center;"|牡||1987年-1994年||1億251万2000円
|-
|style="text-align: center;"|[[マルゼンバージ]]<ref name="enkaku" />||style="text-align: center;"|牡||1988年-1996年||1億751万7000円
|-
|style="text-align: center;"|フクイチ<ref name="enkaku" />||style="text-align: center;"|牡||1991年-1999年||1億1148万1000円
|-
|style="text-align: center;"|[[スーパーペガサス]]<ref name="enkaku" />||style="text-align: center;"|牡||1998年-2006年||1億73万9000円
|}
=== その他、競走馬の主な記録 ===
{| class="wikitable"
!項目!!馬名!!記録!!備考
|-
|最多出走数<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.co.jp/news/201306/20130613-0015852.php |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140420124734/https://www.tokachi.co.jp/news/201306/20130613-0015852.php |title=ばん馬コトブキライアン 史上最多出走 |publisher=[[十勝毎日新聞]] |date=2013-6-13 |archivedate=2014-4-20 |accessdate=2021-4-16}}</ref><ref group="注">1969年以降の記録。</ref>||コトブキライアン||488戦<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/RaceHorseInfo?k_lineageLoginCode=21185401276 |title=コトブキライアン 馬登録情報|website=地方競馬データ情報 |publisher=[[地方競馬全国協会]] |accessdate=2021-4-16}}</ref>||2002年6月1日 - 2016年3月20日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/HorseMarkInfo?k_lineageLoginCode=21185401276&k_activeCode=2 |title=コトブキライアン 出走履歴|website=地方競馬データ情報 |publisher=地方競馬全国協会 |accessdate=2021-4-16}}</ref>
|-
|通算勝利数<ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2008/0421_3.html エスケープハッチ(高知)が51勝目を挙げる]</ref>||トーオクオー||104勝||1964年 - 1974年
|-
|最多連勝数<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASN3P6TPSN3PIIPE009.html ホクショウマサル31連勝で終了 競馬、記録更新ならず] - 朝日新聞 2020年3月22日</ref>||[[ホクショウマサル]]||31連勝||2018年7月28日 - 2020年2月23日
|-
|重賞最多勝利数||[[オレノココロ]]||25勝||2012年 - 2021年
|-
|rowspan="2"|同一重賞連覇||アサギリ<ref name="競走馬名鑑">[http://www.banei-owners.jp/競走馬名鑑/ 競走馬名鑑 - 一般社団法人 ばんえい競馬馬主協会] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150112070810/http://www.banei-owners.jp/%E7%AB%B6%E8%B5%B0%E9%A6%AC%E5%90%8D%E9%91%91/ |date=2015年1月12日 }}</ref>||rowspan="2"|4連覇||1991年 - 1994年 [[ばんえいグランプリ]]
|-
|[[スーパーペガサス]]<ref name="競走馬名鑑" />||2000年 - 2003年 [[ばんえい記念]]
|-
|通算獲得賞金額||[[キンタロー]]<ref name="競走馬名鑑" />||1億1672万5000円||
|}
=== 公営競技の馬名登録 ===
ばんえい馬の馬名には、現役の平地競走馬や過去に平地で登録されていた馬名と同名の馬が時折みられる(具体例は[[スーパーペガサス#ばんえい馬以外のスーパーペガサス|スーパーペガサス]]を参照)。これは平地と全く競走形態が異なるため一緒に走ることがないうえ、互いの血統も異なるため混乱を招きにくいことから認められている<ref>[http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070720.html ビバ!BANBA - うまナビ:名前(中)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130403183202/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070720.html |date=2013年4月3日 }}北海道新聞帯広支社</ref>。
== 公営競技のレースと勝敗 ==
=== コース ===
[[ファイル:Ban'eicourse.JPG|thumb|300px|帯広競馬場のゴール側正面よりばんえい走路を望む。中央部で盛り上がっている個所が第2障害。各馬の走路を区切るロープが敷設されている]]
ばんえい競馬は、途中に2つの障害(台形状の山)を設けた直線200mのセパレートコースを使用し、最多のフルゲートでは10頭で争われる。各馬が最初に越える低い山を「'''第1障害'''(または1障害)」、次に越える高い山を「'''第2障害'''(または2障害)」と呼んでいる。{{Main2|障害の大きさなどについての詳細は[[帯広競馬場]]を}}
平地競走などにみられる[[ハロン棒]]に相当するものとして、ゴール前30m地点から10m地点まで10m間隔で標識を設置している。
距離の変動がないため、スターティングゲートやスターター台はすべて固定式となっている。スターティングゲートは掲示板側から順に1コース・2コース…と割り当てられ、スタンド側が10コースとなる。幅はそりに合わせて広くとられており、開閉扉は馬の顔にあたる部分だけが開閉するため平地競走用のゲートに比べ小さめになっているほか、ゲート内には馬体幅に合わせた出っ張りも設けられている。
セパレートコースで争われるため、他馬への進路妨害などで審議となるケースはオープンコースで行う平地・障害競走に比べ少ないが、レースに不慣れな2歳馬の競走で審議となることが時折みられるほか、古馬の競走でもまれに審議となる場合がある。なお、走行妨害が認められた場合は平地と同様に[[降着制度|降着]]や[[失格]]となる場合もある。
==== 枠入りの基準 ====
2013年6月8日より砂の磨耗を均一化することを目的として、9頭以下の競走でゲート入りの基準が変更された<ref>[http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-219.html ばんえい競馬公式サイト(2013年6月14日)]</ref>。
*開催前半3日間:従来どおり、1コースから順に枠入り('''内詰め''')
*開催後半3日間:最外枠の馬が10コースに入るように枠入り('''外詰め''')
その後、2014年10月25日より以下の通り改められた<ref>[http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-21.html 【お知らせ】帯広競馬場 コース使用方法変更について] - ばんえい競馬、2014年10月19日閲覧</ref>。
*開催日が奇数日(1日目・3日目・5日目):奇数レース(第1・3・5・7・9・11競走)は内詰め、偶数レース(第2・4・6・8・10・12競走)は外詰め
*開催日が偶数日(2日目・4日目・6日目):奇数レースは外詰め、偶数レースは内詰め
==== 馬場 ====
{{See also|馬場状態#ばんえい競馬}}
ばんえい競馬では、開門前から最終競走の概ね1時間前の間に数回馬場水分を計測し、測定時刻と馬場水分値を0.1%単位で場内や各場外、CS放送やインターネット配信などにおいて発表している<ref group="注">1日12競走行う場合、開門45分前と第1競走発走時刻の45分前に計測。以後は第2・第4・第6・第8・第10競走の各発走時刻から5分後に計測している。</ref>。水分値は通常0.1%から9.9%までの範囲で発表されるが、積雪した場合などには10%を超える数値が発表される場合もある<ref group="注">2004年12月5日の重賞「[[銀河賞]]」では、13.1%の馬場水分が記録されている。</ref>。日本国内ではばんえい競馬のみで行われている独自の方式である<ref group="注">日本以外の国では馬場状態を馬場水分値で発表している競馬場がある。</ref> が、これは馬場の水分状態がレース展開を決定する重要な要素となるためである。
ばんえい競走は平地競走と異なり、晴天で馬場が乾いているとそりの滑りが悪くなり摩擦が増すため、タイムは遅くなる('''重馬場''' - おもばば)<ref name="hikaku">[http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_hikaku.html 平地競馬とばんえい競馬の違い] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140812210211/http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_hikaku.html |date=2014年8月12日 }} - ばんえい競馬、2014年8月10日閲覧</ref>。逆に湿度との関係や、雨や雪が降って馬場が水分を含むとそりの滑りが良くなり、タイムは速くなる('''軽馬場''' - かるばば)<ref name="hikaku" />。平均タイムは概ね2分前後(競走により4分-5分以上かかる場合もある)であるが、積雪などの要因で馬場が極端に軽くなると、1分を切るタイムが出ることもある。専門紙では各馬の「水分別成績」を掲載するものもある<ref>{{PDFlink|[http://www.keibabook.co.jp/netpaper/sample/banei_book_sample.pdf 競馬ブックばんえい版(サンプル)]}}</ref>。一般的に軽馬場では逃げ馬が、重馬場では差し馬が有利とされる。
また、夏季・小雨等で馬場があまりに乾燥した場合は、馬とそりの動きにより、砂塵が舞い上がって人馬・審判・観客の視界を遮りレース運営に支障をきたす恐れがあるため、コースに散水を行う場合がある。散水する場所はスタートから第1障害前、第1障害後から20メートル、その後20メートルから第2障害前、ゴール手前から20メートルの4箇所をスタート地点からそれぞれA・B・C・Dと称し、いずれかが必要に応じて選択される(複数選択される場合もあり、スタートから第2障害まで3箇所すべて散水されるとABC散水と表現される)。ただし散水となっても、障害を形成する山自体には散水されない。なお、砂はレースで繰り返し使用することで摩耗し、特に軽馬場となったときに極端にスピードが出やすくなるうえ、粒子が細かくなることで砂塵も舞い上がりやすくなるため、原則として1年に一度の休催期間中に入れ替えを行うほか、散水を行った場合は公式ホームページ・場内・各場外・CS放送・インターネット配信などで1レース開始前に告知される。
馬柱を掲載している出馬表や専門紙などには、過去の戦績欄に馬場水分が表示されている。また、結果を伝える翌日の新聞等では「(計測した馬場水分の)最高値-最低値」で掲載しているほか、代表値のみを掲載する新聞もある。公式の競走成績などでは、発走時刻より前で最も近い測定時刻の馬場水分値を各競走ごとに掲載している。
=== 決勝判定 ===
ゴールインは'''そりの最後端が決勝線を通過'''した時点で認められる<ref name="hikaku" /><ref name="hokkaido-np-tokachi-20071012">{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071012.html|title=ミサイルテンリュウ重賞2戦制しトップ|work=ビバ!BANBA|publisher=[[北海道新聞]]帯広支社|date=2007-10-12|accessdate=2014-03-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130403180035/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071012.html|archivedate=2013年4月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。スタートラインもスターティングゲートの先頭ではなく、そりの最後端位置を基準に設定される<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070928.html|title=門育成牧場〈下〉|work=ビバ!BANBA|publisher=[[北海道新聞]]帯広支社|date=2007-09-28|accessdate=2014-03-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130403152926/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070928.html|archivedate=2013年4月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。そのため、発走前のゲート後方では係員により、そりの最後端位置が一直線になっているか確認する作業を行っている。これはばんえい競馬が元来「荷物を運びきる荷役作業」に由来していること<ref name="hokkaido-np-tokachi-20071012" /> と、決勝線上で馬が止まってしまうことがあり、鼻先では決勝判定が難しい場合があるためとされている。
上記のとおり、鼻先(先端)で勝敗を決める平地競走や障害競走、及び他種[[公営競技]]([[競輪]]・[[競艇]]・[[オートレース]])とは異なり審判の決勝判定も難しく、かつては肉眼のみで決勝判定を行っていたことから審判に関するトラブルが絶えなかったが、1963年に導入された写真判定、1969年に導入されたVTR判定によって、判定の正確さは飛躍的に向上。このため、国内外の競馬関係者からも見学に訪れることがあるという<ref name="history" />。決勝判定写真は平地競走などと同様に[[スリットカメラ]]方式を採用している<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20101126.html|title=【オークス(重賞BG1)展望】牝馬戦、強いダイリン|work=ビバ!BANBA|publisher=[[北海道新聞]]帯広支社|date=2010-11-26|accessdate=2014-03-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130403174047/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20101126.html|archivedate=2013年4月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。そのため決勝線上で馬が立ち止まったりすると、馬の胴が異様に長く伸びて写る場合がある。また、スタンド側からの写真のみではそりの後端が他の馬ないしそりによって隠れることがあるため、対面にも塔を建てて撮影している<ref name="banei-cities-union-1987-p5" />。
成績は1着から最下位まですべて走破タイムが発表され、着差は平地競走のような馬身・クビ・ハナ等ではなく、秒数で発表される。また単一コースのため、レコードタイム制度も設けられていない。
==== タイムオーバー ====
以下の条件に該当する馬は基準タイム超過([[タイムオーバー (競馬)|タイムオーバー]])となり、当該レースは失格となる。
;重賞・特別競走
:スタートから10分(3位入線馬が7分以内に入線した場合は3位入線から3分)を超えて入線した場合
;一般競走
:スタートから8分(3位入線馬が6分以内に入線した場合は3位入線から2分)を超えて入線した場合
=== 見どころ ===
[[ファイル:Baneikeiba obihiro.jpg|thumb|200px|第1障害を越えてゆく競走馬(帯広競馬場)]]
[[ファイル:Ban-ei obihiro070716 08r.jpg|thumb|200px|第2障害に挑む競走馬(帯広競馬場)]]
ばんえい競馬の一番の見せ場はレース中盤から後半にかかる'''第2障害'''であり、第2障害をいかに越えるかで勝敗の大勢が決まることも多く、レース戦略上最も重要となっている。
各馬ともスタート直後はそりを曳いたまま、概ね第1障害は難なく通過する。第1障害-第2障害間は馬のスタミナ特性や馬場状態などを鑑みた騎手間の作戦や駆け引きが繰り広げられ、手綱による指示により時折脚を止めながら、徐々に第2障害へ近づく(実況では「刻む」と表現する)。第2障害の手前まで到達後、騎手が手綱によって馬を止めてスタミナ回復を図り、息を整える(実況では「ためる」と表現する)。その後、騎手の合図により、第2障害を越えようとするが、馬の障害に対する特性や騎手の作戦、降雨・積雪などで馬場が軽くなっている場合は、第2障害前であえて馬を止めずに一気に越えていく場合もある(実況では「直行」と表現する)。また、人馬の呼吸を合わせるのと同時に、仕掛けるタイミングを巡って騎手間でも駆け引きが繰り広げられる事から、騎手にとっては最大の腕の見せ所になる。また馬によっては騎手の手綱による制止を無視して障害を登り始めてしまう(実況では「もっていかれる」と表現する)こともあり、この場合は騎手の立てた作戦が崩れることもあり、予断を許さない。
馬にとっても第2障害は一番の正念場で、障害を登り切れずに膝をつく馬や、力尽きて倒れこむ馬もいる。競走中止の事象の多くはこの第2障害で発生する(実況では「膝を折る」と表現する)。ただし、平地競馬の軽種馬と違い重種馬である故、足の骨は頑丈であるため、骨折等の予後不良につながる怪我は滅多に発生しない。
第2障害を越えた後も、ゴールまでの直線で止まってしまう馬もいる。また第2障害通過後は騎手が意図的に馬を止めることは規則上認められていないが、ゴール直前まであえて手綱で追わず、最後に残ったスタミナによる一瞬の瞬発力を活かした馬追いをした結果の逆転劇も多く、勝負の行方は最後まで予断を許さない。
その特殊な競走形態から人間が歩いても追いつく程度の速度で展開するため、ファンも馬と一緒に並走しながら観戦できるのが特徴である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.co.jp/news/201404/20140412-0018121.php|title=ばんえい十勝 4月13日開幕 白熱レース153日間|publisher=[[十勝毎日新聞|十勝毎日新聞社]]|date=2014-04-12|accessdate=2014-06-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/about/guidebook.html|title=もっと!地方競馬|地方競馬総合ガイドブック|publisher=[[地方競馬全国協会]]|accessdate=2020-01-26}}</ref>。これは高速で展開する平地競走や他種公営競技には見られない、ばんえい競馬の性質ならではといえる。
=== 馬装具 ===
[[ファイル:Banei-dressed-up-drafthorse.jpg|thumb|200px|装飾を施したばん馬(誘導馬)]]
レースに出走する馬には、「よびだし」や「背ずり」などと呼ばれる独特の装具が各馬に合わせて作られ、出走時に装着される<ref name="banei-column" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071214.html|title=飼料代高騰に禁止薬物検出が追い打ち。揺れる厩舎経営|publisher=[[北海道新聞]]帯広支社|date=2007-12-14|accessdate=2014-06-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150523194548/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071214.html|archivedate=2015年5月23日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。これらの重量は70kg以上にも及ぶ<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071207.html|title=オークス展望|publisher=[[北海道新聞]]帯広支社|date=2007-12-07|accessdate=2014-06-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150523184714/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20071207.html|archivedate=2015年5月23日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。また厩舎・厩務員の意向によっては、たてがみも丁寧に編みこまれたり、花飾り等装飾品が付くこともある。スタート時には各馬とそりや装具をつなぐ鎖が鈴のように一斉に鳴り響く。
=== そり ===
{{Main2|そりの重量設定については「[[#重量|重量]]」節を}}
競走に使用するそりは鉄製で、そりの自重は450kgと定められている。積載する重量物は平型で、5 kg・10 kg・30 kg・50kgの4種類<ref>[http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070601.html ビバ!BANBA - うまナビ:ばんえい重量(上)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130403160056/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20070601.html |date=2013年4月3日 }}北海道新聞帯広支社</ref> があり、これらを組み合わせて積載することでばんえい重量を調整している<ref name="banei-column">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_column.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120405202729/http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_column.html|archivedate=2012年4月5日|title=ばんえい競馬コラム|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|accessdate=2014-03-08|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
コースとの接地面には「ズリ金」(「裏金」ともいう)と呼ばれる鉄板が取り付けられている<ref name="bottom-of-sledge-2012">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-6.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121018155438/http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-6.html|archivedate=2012年10月18日|title=【お知らせ】ソリのズリ金交換について|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2012-04-12|accessdate=2014-03-08}}</ref>。ズリ金は競走で繰り返し使用することで摩耗するため、1年に1回程度の頻度で交換され<ref name="bottom-of-sledge-webtokachi">{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.co.jp/banei/2010/9/entry_788.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101015204632/http://www.tokachi.co.jp/banei/2010/9/entry_788.php|archivedate=2010年10月15日|title=レース用そりの「裏金」交換|work=ばんえい十勝劇場|publisher=[[十勝毎日新聞|十勝毎日新聞社]]|accessdate=2012-10-18}}</ref>、交換を行った際は告知される<ref name="bottom-of-sledge-2012" />。交換によって地面に接触する感触が変わり、走行タイムが若干長くなる傾向もみられるとされる<ref name="bottom-of-sledge-webtokachi" />。
そりの塗装はかつて青1色から、本体が緑色、重量物の積載スペースが黄色となり、2022年度開催からは本体が赤色、重量物の積載スペースは黄色に更新されている。
運びきったそりはレース後、コース脇の[[トロッコ]]列車に載せられてスタート位置まで戻される<ref name="banei-column" /><ref name="banei-cart">{{cite video |date = 2012-09-25|title = ばん馬の裏方体感 ソリ運搬トロッコ試乗会|url = http://www.youtube.com/watch?v=g5fum0X1hWo|work=DoshinWeb|publisher=[[北海道新聞|北海道新聞社]]|accessdate = 2013-11-24}}</ref>。トロッコはナローゲージで、小さなディーゼル機関車により牽引される<ref name="banei-cart" />。レース終了後にそりをスタート位置まで運び、その後は再びゴール位置で待機する。軌道は本走路と着順掲示板の間に設置されており、レース間の中継映像でも時折画面に運搬中のトロッコ列車が映りこむ場合がある。通常、関係者以外は乗車できないが、ファンサービスとして一般のファンを乗車させる場合もある。
競走中止などの要因でそりを馬がゴールまで運べず、コース上にそりが残ってしまった場合はトラクターでスタート位置へ戻す場合がある。
== 公営競技のクラス編成 ==
ばんえい競馬の競走馬のクラスは後述する通り、[[馬齢]](大別すると「2歳」「3・4歳」「3歳以上」)と賞金額によって分けられる。
他の[[地方競馬]]([[平地競走]])においては通常、馬齢によるクラス分けは「2歳」「3歳」「3歳以上」となっており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/qa.html#6|title=FAQ 地方競馬における競走馬の格付け(クラス分け)について教えて!|work=地方競馬情報サイト|publisher=[[地方競馬全国協会]]|accessdate=2020-01-26}}</ref>、ばんえい競馬では「3歳」に代わって「3・4歳」というクラスを設けていることが異なっている。{{要出典|これは3歳馬や4歳馬が5歳以上の馬に比べ高重量戦の経験が浅いことから、能力的に劣るとされているため。|date=2016年2月}}
=== 収得賞金の算定方法 ===
デビューからの通算収得賞金は別途集計されているが、[[競馬番組]]編成やクラス分けに用いる賞金額は、以下のように取り扱っている。
以下は2019年度の番組編成要領<ref name="regulation-2014">{{PDFLink|[https://banei-keiba.or.jp/data/fd/000000/00/0000000006/bangumi_yoko.pdf 平成31年度 帯広市ばんえい競馬番組編成要領]}} - 帯広市、2015年4月22日閲覧</ref> に沿って記述する。
* '''収得賞金'''(公式サイトなどでは「本年賞金」と表記) - 競馬番組で示した賞金額から1000円未満を切り捨て。
* '''通算収得賞金'''(公式サイトなどでは「番組賞金」と表記) - 平成28年度以降の収得賞金を合計。
==== 2歳 ====
当該年度の収得賞金順に4段階(A・B・C・D)で格付け。
==== 3歳以上 ====
{|
|- style="vertical-align:top"
|
* 5歳以上、および3・4歳で通算収得賞金が120万円以上の馬
{| class="wikitable"
|-
!オープン
|470万円以上
|-
!A1
|470万円未満
|-
!A2
|360万円未満
|-
!B1
|300万円未満
|-
!B2
|240万円未満
|-
!B3
|190万円未満
|-
!B4
|150万円未満
|}
|
* 3・4歳馬で通算収得賞金が120万円未満の馬
{| class="wikitable"
|-
!C1
|120万円未満
|-
!C2
|60万円未満
|}
|}
=== 着順トライアル制と優先出走 ===
ばんえいではかねてから着順トライアル制を採用している。
;勝入競走
:2008年度まで行われていた競走。いわゆる「2走目」なのだが、1走目の上位馬から順番に編成し、出走可能頭数から漏れた馬は出走できず、抽休となる。特別レースで行われることもあった。
;決勝競走
:2009年度以降に行われている競走。勝入競走から名称が変わっただけで趣旨は勝入競走と同じである。
;選抜競走
:2009年度以降に行われている競走。かつての勝入競走は出走可能頭数から漏れた馬は出走できず、抽休となっていたが、漏れた馬が出走できるようになったのが選抜競走である。2012年度をもって廃止され、それ以降は決勝競走から漏れた馬は1走目の馬と一緒に走ることが認められるようになった。
また、普通競走で出走希望頭数が制限頭数(10頭)を超え、抽選の結果出走できなかった馬は次に当該馬が出走できる最初の競走に限り、出走投票した馬に優先出走が認められている<ref name="regulation-2014" />。
== 重量 ==
馬が曳くそりの重量は「ばんえい重量」と呼ばれ<ref name="regulation-2014" />、競走別に設定されている。これは平地競走などでの[[負担重量]]に相当するもので、公式の出走表や専門紙・スポーツ新聞などでも、このばんえい重量が「重量」欄に掲載されている。ただし、一部ではスペースの都合から一桁省略して「重量(×10 kg)」と表示される場合がある。かつてはそりに積載する重量物の重量をもって表記していたものの、のちにそり本体を含めた重量をもって表記するよう改められている<ref name="banei-cities-union-1987-p5">{{Cite web|和書|url=http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no17-opt.pdf|title=ばんえい DRAFT RACE No.17|publisher=北海道市営競馬協議会|date=1987年3月|accessdate=2014-04-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140413143735/http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no17-opt.pdf|archivedate=2014年4月13日|deadlinkdate=2018年3月}}(5ページを参照)</ref>{{refnest|1976年度(昭和51年度)の番組編成要領では「負担重量」の表記が用いられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no7-opt.pdf|title=ばんえい DRAFT RACE No.6|publisher=北海道市営競馬協議会|date=1976年4月|accessdate=2014-04-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140413150028/http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no7-opt.pdf|archivedate=2014年4月13日|deadlinkdate=2018年3月}}(46 - 47ページを参照)</ref> のに対し、1977年度(昭和52年度)の番組編成要領では「ばんえい重量」の表記が現れ、記載された重量も前年度に比べて大幅に上昇している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no7-opt.pdf|title=ばんえい DRAFT RACE No.7|publisher=北海道市営競馬協議会|date=1977年4月|accessdate=2014-04-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140413150028/http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no7-opt.pdf|archivedate=2014年4月13日|deadlinkdate=2018年3月}}(72 - 73ページを参照)</ref> ことから、この年度が表記の変更時とみられる。|group=注}}。
最低重量は480kg(牝馬は460kg)、最高重量は重賞競走「[[ばんえい記念]]」での1000kg(牝馬は980kg)である。
実際にそりを曳く際は、そりの上に乗る騎手の重量も加算される。ただし騎手重量は一律に設定されている(後述)ため発表されない。
一部の競走を除き、重量設定においては各馬の成績も加味される([[負担重量#別定戦|別定戦]]と呼ばれる。詳細な設定は後述)。
2010年より<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/old_topics/2010/0813.html|title=ばんえい スピードスター賞&マスターズC|date=2010-08-13|accessdate=2016-03-12}}</ref> 競走のバリエーションを増やす観点から<ref>{{Cite web|和書|url=http://banei-owners.jp/system/wp-content/uploads/2015/04/d23f4ac0eb592459ed45ec07d911e54e.pdf|title=平成25年度 帯広市ばんえい競馬開催に関する陳情書|publisher=ばんえい競馬馬主協会|accessdate=2016-03-12}}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>、通常よりも大幅に低いばんえい重量を設定する競走を一部に設定している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-111.html|title=ばんえい十勝より新年のご挨拶|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2012-01-01|accessdate=2016-03-12}}</ref>。
以下に示す重量は、2019年度の番組編成要領<ref name="regulation-2014" /> に基づく。
=== ばんえい重量(基礎重量) ===
普通競走では各クラス別に以下の基礎重量を基準とし、これに収得賞金などの別定条件を加味して加減される。
特別競走や重賞競走では各競走ごとに基礎重量が定められ、これに別定条件を加味して加減される。
==== 3歳以上 ====
; 5歳以上および3・4歳で通算収得賞金が120万円以上
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!開催!!|オープン<br/>(470万以上)!!A1<br/>(470万未満)!!A2<br/>(360万未満)!!B1<br/>(300万未満)!!B2<br/>(240万未満)!!B3<br/>(190万未満)!!B4<br/>(150万未満)
|-
|第1回-第3回||660 kg||650 kg||640 kg||630 kg||620 kg||610 kg||600 kg
|-
|第4回-第6回||670 kg||660 kg||650 kg||640 kg||630 kg||620 kg||610 kg
|-
|第7回-第9回||680 kg||670 kg||660 kg||650 kg||640 kg||630 kg||620 kg
|-
|第10回-第12回||690 kg||680 kg||670 kg||660 kg||650 kg||640 kg||630 kg
|-
|第13回-第15回||700 kg||690 kg||680 kg||670 kg||660 kg||650 kg||640 kg
|-
|第16回-第18回||710 kg||700 kg||690 kg||680 kg||670 kg||660 kg||650 kg
|-
|第19回-第21回||720 kg||710 kg||700 kg||690 kg||680 kg||670 kg||660 kg
|-
|第22回-第24回||730 kg||720 kg||710 kg||700 kg||690 kg||680 kg||670 kg
|-
|第25回・第26回||740 kg||730 kg||720 kg||710 kg||700 kg||690 kg||680 kg
|}
; 3・4歳で通算収得賞金が120万円未満
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!開催!!C1<br/>(120万未満)!!C2<br/>(60万未満)
|-
|第1回-第3回||590 kg||580 kg
|-
|第4回-第6回||600 kg||590 kg
|-
|第7回-第9回||610 kg||600 kg
|-
|第10回-第12回||620 kg||610 kg
|-
|第13回-第15回||630 kg||620 kg
|-
|第16回-第18回||640 kg||630 kg
|-
|第19回-第21回||650 kg||640 kg
|-
|第22回-第24回||660 kg||650 kg
|-
|第25回・第26回||670 kg||660 kg
|}
==== 2歳 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!格付\開催!!第1回-<br/>第3回!!第4回-<br/>第5回!!第6回-<br/>第7回!!第8回-<br/>第10回!!第11回-<br/>第12回!!第13回-<br/>第14回!!第15回-<br/>第17回!!第18回-<br/>第19回!!第20回-<br/>第21回!!第22回-<br/>第23回!!第24回-<br/>第25回!!第26回
|-
|A||480 kg||490 kg||500 kg||510 kg||520 kg||530 kg||540 kg||550 kg||560 kg||570 kg||580 kg||590 kg
|-
|B||480 kg||490 kg||500 kg||500 kg||510 kg||520 kg||530 kg||540 kg||550 kg||560 kg||570 kg||580 kg
|-
|C||480 kg||480 kg||490 kg||490 kg||500 kg||510 kg||520 kg||530 kg||540 kg||550 kg||560 kg||570 kg
|-
|D||480 kg||480 kg||480 kg||490 kg||490 kg||500 kg||510 kg||520 kg||530 kg||540 kg||550 kg||560 kg
|}
=== 重量の加減について ===
普通競走・特別競走における重量の加減は、以下の通り定められている。
==== 普通競走 ====
#牝馬は20kg減量。
#2歳・3歳のセン馬は10kg減量。
#2歳馬は当該年度の収得賞金25万円につき5kg加増する。
#「3歳以上・80万未満」以上のクラスに格付けされた馬は、当該年度の収得賞金40万円につき5kg加増する。
#「3歳以上・80万未満」以上のクラスに格付けされた3・4歳馬は、以下のとおり減量する。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!馬齢!!第1回-<br/>第19回!!第20回-<br/>第26回
|-
|3歳||10 kg||10 kg
|-
|4歳||10 kg||減量なし
|}
==== 特別競走 ====
# 性別による重量の加減は、普通競走に準じる。
# 「3歳以上・80万未満」以上のクラスに格付けされた馬は、当該年度の収得賞金30万円につき5kg加増する。
# 「3歳以上・80万未満」以上のクラスに格付けされた3・4歳馬は、以下のとおり減量する。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!馬齢!!第1回-<br/>第19回!!第20回-<br/>第26回
|-
|3歳||20 kg||10 kg
|-
|4歳||10 kg||10 kg
|}
==== 別定条件 ====
主に特別競走や重賞競走で重量を加減する別定条件は以下の通り。
{| class="wikitable" style="center: 1em;"
!区分!!条件
|-
|定量||同一重量
|-
|別定1-a||本年度収得賞金40万円につき10kg加増
|-
|別定1-b||本年度収得賞金60万円につき10kg加増
|-
|別定2-a||1重量格につき10kg加減<br />オープン馬は本年度収得賞金50万円につき10kg加増
|-
|別定2-b||1重量格につき10kg加減<br />オープン馬は本年度収得賞金80万円につき10kg加増
|-
|別定3-a||1重量格につき10kg加減
|-
|別定3-b||1重量区分につき10kg加減
|-
|別定4||番組編成会議において決定する
|}
※「重量格」は、470万円以上(オープン)・470万円未満・360万円未満・240万円未満(150万未満も含む)・150万円未満(80万未満も含む)・120万円未満(3・4歳)と定められている。
=== 騎手重量 ===
騎手重量は男女の区別なく一律に規定され、2019年度は77kgと定められている<ref name="regulation-2014" />(2012年度までは冬季に限り防寒服分を加算し、夏季75kg・冬季77kgに設定されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/racemenu/pdf/21bangumi-youryou.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121014133433/http://www.banei-keiba.or.jp/racemenu/pdf/21bangumi-youryou.pdf|archivedate=2012年10月14日|title=平成24年度 帯広市ばんえい競馬番組編成要領|work=ばんえい十勝公式サイト|accessdate=2014-02-14|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref name="hokkaido-np-20100611">{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20100611.html|title=【船山騎手 100勝達成】重賞制覇へ「本当の勝負」|publisher=[[北海道新聞]]|date=2010-06-11|accessdate=2014-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130403192441/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20100611.html|archivedate=2013年4月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>)。騎手の元々の体重が規定重量に足りない分は、計量時に鉄製の箱(「弁当箱」とも呼ばれる)に鉛のおもりをいれて、その箱をソリの前部専用スペースに騎手がいれることで調整する<ref name="hokkaido-np-20100611" />。ばんえい競馬は大型馬を操ることから、騎手重量は平地競走や障害競走よりも重めに設定している。
[[見習騎手]]や[[女性騎手]]などで減量が生じる場合は、ばんえい重量が減量される。減量騎手の取扱は以下のとおり。出走表や専門紙には、括弧内の記号で表示される。
*減量される重量は[[出馬投票|出走投票]]の時点の成績で決定される(以下の勝利度数を超えていても、それ以前に出走投票が行われている場合は減量騎手の取扱が取り消されることはない)。
*減量は一般競走のみに適用され、特別競走・重賞競走には適用されない。(但し2019年度と2020年度はこの規定は一時的に削除され、全レースに適用されていた)<ref>{{Cite web|和書|url=https://banei-keiba.or.jp/tp_detail.php?id=4301|title=林康文騎手 お披露目イベント|work=ばんえい十勝|date=2019-12-01|accessdate=2021-01-03}}</ref>。
==== 男性騎手 ====
#通算勝利度数(年度初日を基準)が50勝未満の騎手は10kg減量(☆)。
#免許取得5年以下(5年に達する月を含む年度末まで)で通算勝利度数が50勝以上100勝未満の騎手は、当該年度10勝するまで10kg減量(☆)。
==== 女性騎手 ====
#通算勝利度数(年度初日を基準)が50勝未満の騎手は20kg減量(△)。
#免許取得5年以下(5年に達する月を含む年度末まで)で通算勝利度数が50勝以上100勝未満の騎手は、当該年度10勝するまで20kg減量(△)。
#上記以外の騎手については、10kg減量(☆)。
== 騎手 ==
[[ファイル:Ban'ei Horse.jpg|thumb|300px|パドックでばん馬に騎乗する騎手]]
2023年7月28日現在、ばんえい競馬では21名(うち女性2名)の[[騎手]]が在籍している。
騎手重量は服などを合わせた総重量が77kgを上限としており(2022年度現在。[[#騎手重量|前述]])、平地競走などよりも重く設定されている。平地競走などに比べ重い馬を御すことが重要となるため、騎手の体重は重い方が有利とされる。ただし、騎手の重量は[[#騎手重量|前述]]の通り「弁当箱<ref name="banei-column" />」で調整されているため、個別に体重が発表されることはない。また、平地競走とは異なり騎手の身長にも制限がないため、身長が高いことなどの理由から平地競走の騎手を断念した者がばんえい競馬の騎手を目指す例も見られる。2009年にばんえい競馬の騎手免許を取得した林義直(2011年引退)は身長が192cmと当時の日本人騎手としては最も高く、[[ギネス世界記録|ギネス]]への申請も検討された<ref>{{Cite web|和書|url=http://blog.oddspark.com/baneiinfo/2009/05/28_2.html|title=ばんえいジョッキーファイル(28) 林義直|work=[[オッズパーク]]競馬|date=2009-05-28|accessdate=2014-03-31}}</ref>。
騎手の1日あたり最大騎乗数は8回までと定められているほか、騎乗を変更した場合は翌日の騎乗が認められていない(いずれも委員長が特に認めた場合は除く)。
ばんえい競走では、平地競走よりも騎手の技量が勝敗を左右する割合が高いとされる<ref name="hikaku" />。レース中も騎手同士でさまざまな駆け引きが繰り広げられるほか、第2障害通過後の追い方も多種多様である。
一般的に第2障害までの流れで余計なスタミナを消費させない刻みをする。障害に挑戦させるタイミングが適切である。かつゴール地点で、馬のスタミナが尽きる(全力を出し切る)。この3つの状態を創り出す騎手が技量の高い騎手とされる。余裕の勝利時以外で、スタミナを余らせてしまうときは、解説から「足を余す」騎乗と揶揄されることもある。
レースで使用するそりには手綱以外につかまるものがないため体全体でバランスをとる必要があるうえ、レース中は手綱を引くと馬が止まってしまうため、高度な技術が必要となる。騎手はそりの上に立って騎乗し、長手綱を使って馬を操縦するほか、手綱をしならせることで馬に対する合図の役割も果たしている。また、騎手が担当馬にまたがって騎乗するのはパドックから本馬場入場(ただし、パドックで騎手が騎乗せず、本馬場入場まで厩務員が馬を誘導することも多い。その場合は騎手はスタート地点まで専用バスで移動する)までで、レース中は馬上でまたがることがないため、出走馬には鞍や鐙が装備されていない<ref name="banei-column" />。騎手はパドックから本馬場へ入場する際に、馬番ゼッケンのみをのせた鞍も鐙もない馬上にまたがり騎乗するが、平地の騎手のように厩務員の補助を受けず、大半の騎手が自力で飛び乗る。この際の騎乗姿勢をみることで、騎手の乗馬技術を測る参考になるとされている。実際にこの馬への「飛び乗り」は、ばんえい騎手免許の実技試験の項目である<ref>[http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_enjoy.html ばんえい競馬を楽しんでみよう!] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140812204111/http://www.banei-keiba.or.jp/baneiguide/whats_enjoy.html |date=2014年8月12日 }} - ばんえい競馬、2014年8月10日閲覧</ref>。
ばんえい競馬では年に1度、1年以上の厩務員経験がある者を対象に筆記・実技・面接による騎手免許試験を行っており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/video/?c=special&v=714047645001|title=ばんえい騎手目指し真剣 帯広で実技試験|work=[[北海道新聞]]動画News|date=2010-12-17|accessdate=2014-03-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140303154615/http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/video/?c=special&v=714047645001|archivedate=2014年3月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>、これに合格した者に[[地方競馬全国協会]](NAR)より騎手免許が交付される。ばんえい競馬では他の地方競馬や中央競馬(および他種公営競技)と異なり騎手(選手)を養成する専門機関が存在せず<ref group="注">地方競馬の騎手養成機関として[[地方競馬教養センター]]があるが、ここでは平地競走の騎手養成のみ行っている。</ref>、ばんえい競馬の騎手になることを希望する者は、まず厩舎に[[厩務員]]として所属し、ここで馬の扱い方や乗り方なども習得することになる。また騎手免許試験はばんえい競馬独自の内容で、試験の難易度も高く一発合格は稀で、多くの場合二度三度と受験してやっと合格できる非常に狭き門となっている。このため新人騎手が誕生しない年もあるほか、デビュー時の年齢も20歳を超えている場合が多くみられ、平地の騎手よりもデビューまでに時間がかかる。2010年12月現在、在籍していた28人の騎手における合格時の平均年齢は22.9歳であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20101224.html|title=【ばんえいダービー展望】テンマデトドケが軸|work=ビバ!BANBA|publisher=北海道新聞帯広支社|date=2010-12-24|accessdate=2014-03-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130403151239/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20101224.html|archivedate=2013年4月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
=== 通算2000勝以上を記録した騎手 ===
現役・引退ともデビューが早い順に記載。
引退騎手でデビュー年が同じ場合は、引退年の早かった順に記載する。
記録は公式に残っている[[1963年]]以降のもの。
現役騎手の記録は、2022年度全日程終了時のもの。
'''現役'''
*[[藤本匠]]([[1983年]]-、通算35460戦4660勝)
*藤野俊一([[1986年]]-、通算27734戦3611勝)
*鈴木恵介([[1998年]]-、通算19537戦3247勝)
'''引退'''
*[[金山明彦]]([[1969年]]-[[1999年]]、通算19712戦3299勝)「'''ミスターばんえい'''」
*久田守([[1972年]]-[[1996年]]、通算13964戦2103勝)
*[[坂本東一]]([[1975年]]-[[2007年]]、通算21188戦2678勝)
*岩本利春([[1979年]]-[[2005年]]、通算19263戦2085勝)
*[[千葉均]]([[1979年]]-[[2007年]]、通算20431戦2106勝)
*西弘美([[1980年]]-[[2009年]]、通算22939戦2479勝)
*鈴木勝堤([[1981年]]-[[2010年]]、通算17850戦2313勝)
*大河原和雄([[1985年]]-[[2017年]]、通算27542戦3373勝)
=== 年度リーディングジョッキー受賞回数 ===
2022年度全日程終了時の記録。
公式記録が確認できる1963年以降のもので、3回以上受賞者のみ記載。
名前が'''太字'''のものは現役騎手を表す。
*13回 金山明彦
*13回 '''鈴木恵介'''
*8回 中西関松
*5回 坂本東一
*4回 山田勇作、久田守、鈴木勝堤
*3回 工藤正男
== 重賞競走 ==
2003年度より[[競馬の競走格付け|競走格付け]]表記を導入しており、各重賞競走を「BG1」「BG2」「BG3」(BGは「ばんえいグレード」の略)で格付けしている<ref name="jusho-2003">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/kaisai/15jyuusyou.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030411213342/http://www.banei-keiba.or.jp/kaisai/15jyuusyou.htm|archivedate=2003年4月11日|title=H15重賞競走|work=ばんえい競馬公式サイト|accessdate=2015-01-20|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
2020年度の重賞競走は以下の27レース<ref>{{Cite web|和書|title=ばんえい十勝 令和2年度重賞日程について|url=https://www.banei-keiba.or.jp/tp_detail.php?id=4565|work=ばんえい競馬公式サイト|date=2020-03-08|accessdate=2020-03-17}}</ref>。【 】は年明け(2021年1月-3月)の馬齢および競走を示す<ref group="注">[[馬齢]]については当該記事を参照。以下の表では出典における表記に従い、重賞競走の馬齢による分類は年度単位で行う(例えば、2歳4月から3歳3月までを一つの分類とする)。</ref>。
{| class="wikitable"
|-
!馬齢\格付け
!BG1||BG2||colspan="2"|BG3
|-
!2歳【3歳】
|【[[イレネー記念]]】
|[[ヤングチャンピオンシップ]](産駒特別選抜)<br />【[[翔雲賞]]】(牡馬限定、2020年度新設)<br />【[[黒ユリ賞]]】(牝馬限定)
|colspan="2"|[[ナナカマド賞]]
|-
!3歳【4歳】
|[[ばんえいダービー]]<br />[[ばんえいオークス]](牝馬限定)
|[[ばんえい菊花賞]]
|[[ばんえい大賞典]]
|rowspan="2"|[[はまなす賞 (ばんえい競馬)|はまなす賞]]<br />【[[ポプラ賞]]】
|-
!4歳【5歳】
|【[[天馬賞]]】
|[[銀河賞]]
|[[柏林賞]]<br />[[クインカップ]](牝馬限定)
|-
!3歳【4歳】以上
|【[[帯広記念]]】<br />【[[ヒロインズカップ]]】(牝馬限定)<br />【[[ばんえい記念]]】
|[[旭川記念]]<br />[[ばんえいグランプリ]](ファン投票選出馬など)<br />[[岩見沢記念]]<br />[[北見記念]]<br />【[[チャンピオンカップ]]】(重賞競走優勝馬など)
|colspan="2"|[[北斗賞]]<br />[[カーネーションカップ (ばんえい競馬)|カーネーションカップ]](牝馬限定)
|-
!4歳以上
|
|[[ばんえい十勝オッズパーク杯]]
|colspan="2"|[[ドリームエイジカップ]](馬齢選抜)
|}
=== 廃止された重賞競走 ===
重賞としての廃止年が早かった順に記載。格付けは廃止直前のものによる。一部の競走は、特別競走として存続しているものもある。なお旭王冠賞は 2007年から(現)旭川記念になっているが2007年以降の回次は旭王冠賞のものをそのまま引き継いで通算しているため廃止という扱いにはなってはいない。
*オナシス記念 - 1985年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2159&k_babaCode=3 オナシス記念 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*帯広大賞典 - 1987年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2158&k_babaCode=3 帯広大賞典 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*青雲賞 - 1988年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2106&k_babaCode=3 青雲賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*つつじ賞 - 1988年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2107&k_babaCode=3 つつじ賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*ばんえい文月賞 - 1988年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2125&k_babaCode=3 ばんえい文月賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*大雪賞 - 1988年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2127&k_babaCode=3 大雪賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*層雲賞 - 1988年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2128&k_babaCode=3 層雲賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*旭シルバーカップ - 1988年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2157&k_babaCode=3 旭シルバーカップ 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*蛍の光賞 - 1988年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2160&k_babaCode=3 蛍の光賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>(特別競走に格下げ)
*[[北斗賞#概要|地方競馬全国協会会長賞]] - 1992年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2155&k_babaCode=3 地方競馬全国協会会長賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>。1993年から北斗賞に名称変更して新設
*[[銀河賞#概要|全公営会長賞]] - 1992年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2156&k_babaCode=3 全公営会長賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>。1993年から銀河賞に名称変更して新設
*白菊賞 - 2002年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2101&k_babaCode=3 白菊賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>(特別競走に格下げ<ref name="jusho-2003" />)
*[[ドリームエイジカップ#馬齢別選抜方式の競走|オールスターカップ]]〔BG2<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/kaisai/16kaisai/16jyuusyou-keitou.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040702113204/http://www.banei-keiba.or.jp/kaisai/16kaisai/16jyuusyou-keitou.htm|archivedate=2004年7月2日|title=H16重賞・特別競走系統図|work=ばんえい競馬オフィシャルホームページ|accessdate=2016-03-18|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>〕 - 2004年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2161&k_babaCode=3 オールスターカップ 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*(旧)[[旭川記念]]- 2006年で廃止。
*ホクレン賞〔BG3〕 - 2007年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2103&k_babaCode=3 ホクレン賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
*[[ばんえいプリンセス賞]]〔BG3〕 - 2009年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2126&k_babaCode=3 ばんえいプリンセス賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>(特別競走に格下げ)
*[[バレンタインカップ]]〔BG2〕 - 2010年で廃止<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2169&k_babaCode=3 バレンタインカップ 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年11月17日閲覧</ref>
=== 各世代ごとの主な重賞路線 ===
{{独自研究|section=1|date=2015年10月}}
ばんえい競馬は「古馬」を3歳以上としているが、その中でもクラス編成はさらに細分化され、3・4歳馬によるクラス分けや重賞路線が別途整備されている(前述)。とくに4歳馬限定の重賞路線が別途設けられているのが、大きな特徴となっている。
;2歳(明け3歳も含む)
:1年間の最大目標はイレネー記念とされ、ナナカマド賞・ヤングチャンピオンシップとあわせて2歳三冠競走を構成。
:開幕-夏季にかけては重賞が組まれず、秋季に行われるナナカマド賞から重賞戦線がスタート。生産地別の特別競走「[[#産地限定競走(ばんえい甲子園)|ばんえい甲子園]]」を勝ち抜いた馬によるヤングチャンピオンシップ、牝馬についてはその後黒ユリ賞があり、開催年度の終盤に行われるイレネー記念へ向かう。
;3歳
:三冠競走はばんえい大賞典・ばんえい菊花賞・ばんえいダービーとされており、一般的に牡馬はばんえいダービー、牝馬はばんえいオークスを目標としている。ただし、牝馬でもばんえいダービーに出走する馬が一部みられる。かつては牝馬三冠も整備されていたが、現在の牝馬限定重賞はばんえいオークスのみ。また、3・4歳(明け4・5歳)馬による重賞(はまなす賞・ポプラ賞)もあり、開催年度の終盤に行われるポプラ賞は両世代をあわせたチャンピオン決定戦となる。
:{{Main2|牝馬三冠の経緯は[[ばんえいオークス#3歳牝馬三冠競走]]を}}
;4歳(明け5歳も含む)
:2006年度までは4歳世代限定のBG1競走がなく、チャンピオン決定戦が明確化されていなかったが、2007年度より(旧)旭川記念を廃止し、代わりにBG1の天馬賞を新設、チャンピオン決定戦に位置づけられた。
:重賞戦線は春季の柏林賞から始まり、はまなす賞(3・4歳)や銀河賞(牝馬はクインカップも含む)を経て、正月の天馬賞を目標とする。その後、明け4歳世代を合わせたチャンピオン決定戦のポプラ賞(前述)へ向かう。ポプラ賞以降は世代限定競走がなくなり、原則として5歳以上の馬と同条件となる(下級条件などに一部例外あり)。
;5歳以上
:ばんえい競馬の古馬重賞は出走条件が「3歳以上」(年明けの場合は「4歳以上」。一部例外あり)となっており、3・4歳馬も出走は可能であるが、3・4歳馬は5歳以上の馬に比べ800kgを超える高重量戦の経験も浅く能力的に劣るとされているため、前述の世代限定重賞を目指す馬が多い。
:古馬のローテーションは馬により多少異なるが、多くの馬が毎週のようにレースを行うこともあり特別競走や一般競走などを経て重賞へ向かう例が多い。
:開幕直後のばんえい十勝オッズパーク杯から重賞戦線がスタートし、前半戦のチャンピオン決定戦となるばんえいグランプリがまず目標となる。秋季は岩見沢記念や北見記念などを経て正月の帯広記念が次の目標となり、チャンピオンカップ(牝馬はヒロインズカップも含む)を経て開催年度末に行われるばんえい記念が最大の目標となる。
== その他の競走 ==
=== 産地限定競走(ばんえい甲子園) ===
2歳馬による産地限定の競走。以下の各トライアル競走の優勝馬と2着馬に重賞競走「[[ヤングチャンピオンシップ]]」への優先出走権が与えられる。2008年からは下記のトライアル競走を総称して「ばんえい甲子園」と呼んでいる。
;産地別トライアル競走
:*南北海道産駒特別 : [[石狩振興局|石狩]]・[[後志総合振興局|後志]]・[[渡島総合振興局|渡島]]・[[檜山振興局|檜山]]・[[胆振総合振興局|胆振]]・[[日高振興局|日高]]管内産馬および道外産馬限定
:*北央産駒特別 : [[空知総合振興局|空知]]・[[上川総合振興局|上川]]・[[留萌振興局|留萌]]・[[宗谷総合振興局|宗谷]]管内産馬限定
:*北見産駒特別 : [[オホーツク総合振興局|網走]]管内産馬限定
:*釧路産駒特別 : [[釧路総合振興局|釧路]]・[[根室振興局|根室]]管内産馬限定
:*十勝産駒特別 : [[十勝総合振興局|十勝]]管内産馬限定
=== 企業(団体)・個人協賛競走 ===
ばんえい競馬では、企業(団体)や個人から協賛金を受けた一般競走や一部の特別競走を冠レースとして実施している。協賛金のうち7割が馬主・調教師・騎手などへの副賞<ref>配分比率は協賛者が決めることができる</ref>、3割が運営振興費として充てられる。
出走表などにレース名を掲載し、当日は特別観覧席への招待(申込者を含め5名まで)や表彰式にプレゼンターとして参加可能なほか、優勝馬の記念撮影にも参加できる。
*企業・団体の場合
**1口10,000円、3口以上で受付。
**場内でのポスター掲示・PR活動や、場内テレビなどでCMを放映。
*個人の場合
**1口10,000円、1口以上で受付。
**当日来場できなかった場合は、後日競走名入り出走表と記念撮影写真を郵送。
**2005年12月に初めて実施された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.co.jp/WEBNEWS/070128.html|title=参加型で人気個人協賛競走|work=かちまいWEB版|publisher=[[十勝毎日新聞|十勝毎日新聞社]]|date=2007-01-28|accessdate=2014-08-19}}</ref>。
**インターネット投票のサービス、楽天競馬において、ばんえい競馬の勝馬投票券を購入することで貯まる「ばんえい応援企画 ばんえいコイン」(30000枚)を交換して、個人協賛競走を行うことができる。
=== ビッグウエイトカップ ===
1982年より行われている特別競走。競走条件は「3歳以上、重馬体重馬選抜」で、3歳以上の馬から前回出走時の馬体重が重かった順に選抜する。「もっともばんえい競馬らしいレース」とされる名物レース<ref>[https://www.oddspark.com/keiba/yosou/focus/2012/07/c-65.html キタノタイショウら北斗賞組優勢「ビッグウエイトC」] - オッズパーク、2014年7月19日閲覧</ref>。
=== 蛍の光賞 ===
1980年から1988年までは重賞競走として施行していた<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2160&k_babaCode=2 蛍の光賞 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2014年7月19日閲覧</ref> が、その後は特別競走(11歳馬・12歳セン馬限定)として施行。
ばんえい競馬は2006年度まで定年制を採用(明け11歳。セン馬は12歳)していたため、定年引退馬の花道を飾る最後の競走として選ばれることが多かった。
2007年度から定年制や減量特典の年齢制限が撤廃されたことにより、「蛍の光賞」は開催年度を締め括る特別競走として、最終開催日の最終競走で施行している。
=== たちばな賞 ===
2006年度までは年度末頃に「'''たちばな賞'''」(8歳牝馬限定・2006年度をもって廃止)が行われていた。
2006年度までは(明け)8歳3月までの牝馬に対してばんえい重量を一律20kg減量していた<ref group="注">2007年度からは減量特典の年齢制限がなくなり、牝馬限定戦など一部を除いて一律に20kg減量される。</ref> が、8歳4月以降(新年度開幕後)の牝馬はこの特典がなくなり牡馬と同重量とされたため、一部を除き多くの牝馬が8歳3月までに引退して後の繁殖に備えることが多かったことから、「たちばな賞」は引退する牝馬の花道を飾る最後の競走として選ばれることが多かった。
=== スピードスター賞 ===
2010年度より行われ、現在は8月の稲妻賞、10月の疾風賞、12月の地吹雪賞をトライアルレースとして2月に開催される特別競走。本戦およびトライアル戦がばんえい重量500kgとなっている特殊な競走で、その負担の軽さからその名の通りレースタイム50秒前後で駆け抜ける普段とは違った迫力のあるレースが繰り広げられる。
== 勝馬投票券 ==
=== 賭式 ===
2001年に馬複・馬単を導入した<ref name="banei-owners" />。
2011年8月6日の競走より3連複・3連単の発売を開始し、同時に枠番連複(枠複)を廃止した<ref name="banei-20110803">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-98.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121021012832/http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-98.html|archivedate=2012年10月21日|title=【お知らせ】三連単・三連複発売開始!|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2011-08-03|accessdate=2014-02-19}}</ref>。枠複の廃止理由としては、馬の頭数減で10頭立てのレースが難しくなり、馬複との違いが希薄化していたためとされている<ref name="tokachi-mainichi-20110105" />。なお3連勝式(3連複・3連単)[[投票券 (公営競技)|投票券]]の導入は日本国内の[[公営競技]]では最後であった{{refnest|<ref name="tokachi-mainichi-20110105">{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.co.jp/news/201101/20110105-0007651.php|title=ばんえい「3連単」「3連複」導入へ|publisher=[[十勝毎日新聞]]|date=2011-01-05|accessdate=2014-02-19}}</ref> によると、当時の16の[[地方競馬]]のうちばんえい競馬が唯一3連複・3連単を導入していなかった。|group=注}}。
2010年1月8日より、重勝式馬券「OddsPark LOTO」をインターネット投票([[オッズパーク]])限定で2種類発売している。当初は5重勝単勝式(5レースの1着馬を当てる)のみが設定されており、発売はランダム方式(馬番号は自動的に選択される)であった<ref name="oddspark-20100108">{{Cite web|和書|url=http://www.oddspark.com/keiba/info/2010/01/post-23.html|title=「OddsPark LOTO」開始について|publisher=[[オッズパーク]]|date=2010-01-08|accessdate=2014-02-19}}</ref>。その後同年12月25日のレースよりセレクト方式(購入者が馬番号を選択する)に変更され<ref>{{Cite web|和書|url=http://blog.oddspark.com/baneiinfo/2010/12/12251227.html|title=今週の見どころ(12/25~12/27)|publisher=[[オッズパーク]]|work=ばんえい競馬情報局|date=2010-12-24|accessdate=2014-02-19}}</ref>、2012年12月15日のレースより7重勝単勝式(7レースの1着馬を当てる)が新設された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFC0700O_X01C12A2L41000/|title=ばんえい競馬に新型馬券 特区で認定、高額配当も|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2012-12-08|accessdate=2014-02-19}}</ref>。なお、「OddsPark LOTO」はばんえい競馬が初の導入である<ref name="oddspark-20100108" />。
2015年4月18日より、枠複とワイド(拡大馬番号二連勝複式)の発売が開始された(枠複は復活)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/27-3.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304201806/http://www.banei-keiba.or.jp/topics/27-3.html|archivedate=2016-03-04|title=【お知らせ】平成27年度より枠複・ワイド馬券 導入について|publisher=ばんえい競馬|date=2015-04-18|accessdate=2018-06-29}}</ref>。
○…発売 ▲…他主催者発売時のみ ☆…インターネット投票のみ
{| class="wikitable"
!style="width: 1.5em;"|単勝
!style="width: 1.5em;"|複勝
!style="width: 1.5em;"|枠番連複
!style="width: 1.5em;"|枠番連単
!style="width: 1.5em;"|馬番連複
!style="width: 1.5em;"|馬番連単
!style="width: 1.5em;"|ワイド
!style="width: 1.5em;"|3連複
!style="width: 1.5em;"|3連単
!style="width: 1.5em;"|5重勝単勝
!style="width: 1.5em;"|7重勝単勝
|- style="text-align: center"
|○||○||○||▲||○||○||○||○||○||☆||☆
|}
=== ばんえい競馬による他主催者の勝馬投票券発売 ===
ばんえい競馬が運営する発売所(帯広競馬場・各場外発売所)では、[[ホッカイドウ競馬]]の場外発売(一部発売所では取り扱いなし)や[[南関東公営競馬]]・[[岩手県競馬組合|岩手競馬]]を中心とした広域場外発売も取り扱う。以前はばんえい競馬運営の発売所における他場の場外発売時はばんえい競馬に存在しない賭式(当時は枠単・ワイド・3連複・3連単が該当)の投票券を発売しなかったが、2011年8月5日の[[南関東公営競馬]]場外発売より発売主体の主催者に準じてすべての賭式を発売するようになった<ref name="banei-20110803" />。
ばんえい競馬がナイター開催日に南関東や岩手が昼間(薄暮含む)開催している場合は、リレー発売する。
2013年6月8日より、一部の発売所において地方競馬共同トータリゼータシステムを利用した[[日本中央競馬会]](JRA)の場外発売を開始しており、JRA場外発売においては「J-PLACE」の呼称を用いる<ref name="banei-jplace-20130527">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/jra-1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130814172623/http://www.banei-keiba.or.jp/topics/jra-1.html|archivedate=2013年8月14日|title=JRA日本中央競馬会勝馬投票券の発売開始について|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2013-05-27|accessdate=2014-07-15}}</ref>。当初は帯広競馬場と北彩都(旭川)・北見・釧路・琴似の各場外発売所で開始され<ref name="banei-jplace-20130527" />、2015年4月11日より名寄と深川の各場外発売所で<ref name="NAR-jplace-20150316">{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/j-place/150316.html|title=J-PLACEからのお知らせ(帯広市、石川県、金沢市)|work=地方競馬情報サイト|publisher=[[地方競馬全国協会]]|date=2015-03-16|accessdate=2015-03-19}}</ref>、2017年4月15日より網走の場外発売所でも取り扱う<ref name="banei-20170321-abashiri">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/jra-7.html|title=【お知らせ】JRA勝馬投票券の発売について|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2017-03-21|accessdate=2017-03-23}}</ref>。帯広{{refnest|2013年6月8日のJ-PLACE開始当初はJRAの各競馬場につき1日3レースずつの発売であった<ref name="banei-jplace-20130527" />ものの、2013年9月7日より5レースずつに拡大<ref name="J-PLACE20130901">{{Cite web|和書|url=https://www.tokachi.co.jp/banei/2013/9/entry_1345.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170706212549/https://www.tokachi.co.jp/banei/2013/9/entry_1345.php |archivedate=2017年7月6日|title=7日からJRA発売 1日最大5レース増 ばんえい十勝|work=ばんえい十勝劇場|publisher=[[十勝毎日新聞|十勝毎日新聞社]]| |date=2013年9月1日|accessdate=2014年7月15日|deadlinkdate=2023年4月}}</ref>、2023年4月1日より各場全レースに拡大した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.banei-keiba.or.jp/tp_detail.php?id=8068|title=J-PLACE帯広 JRAの勝馬投票券の発売レース変更について|publisher=ばんえい十勝|date=2023-03-31|accessdate=2023-04-01}}</ref>。|group=注}}・岩見沢では全レース、北彩都(旭川)・北見・釧路・名寄・深川・網走ではJRA開催各競馬場につき1日5レースずつ{{refnest|北彩都(旭川)・北見・釧路では、2013年6月8日のJ-PLACE開始当初はJRAの各競馬場につき1日3レースずつの発売であった<ref name="banei-jplace-20130527" /> ものの、2013年9月7日より5レースずつに拡大した<ref name="J-PLACE20130901" />。また名寄・深川では、2015年4月11日のJ-PLACE開始当初はJRAの各競馬場につき1日1レースずつの発売であった<ref name="NAR-jplace-20150316" /> ものの、2015年9月12日より5レースずつに拡大した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/-jra.html|title=【お知らせ】ハロンズ名寄・イルムふかがわ JRA発売レース拡大|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2015-09-13|accessdate=2016-02-27}}</ref>。また網走では、2017年4月15日のJ-PLACE開始当初はJRAの各競馬場につき1日3レースずつの発売であった<ref name="banei-20170321-abashiri" /> ものの、2017年10月7日より5レースずつに拡大した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.banei-keiba.or.jp/race_topics_detail.php?id=1904|title=J-PLACE網走 JRAの勝馬投票券の発売レース拡大|publisher=ばんえい十勝|date=2017-09-25|accessdate=2018-05-23}}</ref>。|group=注}}、琴似では1日4レースずつ{{refnest|2013年6月8日のJ-PLACE開始当初はJRAの各競馬場につき1日1レースずつの発売であった<ref name="banei-jplace-20130527" /> ものの、2020年12月12日より4レースずつに拡大した<ref>{{Cite web|和書|url=https://banei-keiba.or.jp/tp_detail.php?id=5510|title=琴似駅前場外発売所 JRA(J-PLACE)後半を4R発売|publisher=ばんえい十勝|date=2020-12-10|accessdate=2023-04-01}}</ref>。|group=注}}を取り扱う。
{{Main2|JRA場外発売の詳細は[[場外勝馬投票券発売所#J-PLACEでの発売について]]を}}
=== 在宅投票 ===
以下の在宅投票が利用可能。
*[[オッズパーク]]
*[[電話投票#楽天競馬|楽天競馬]]
*[[電話投票#SPAT4|SPAT4]](一部レースのみ発売)
日本中央競馬会(JRA)が運営する「[[電話投票#IPAT|地方競馬IPAT]]」では購入できない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keiba.go.jp/ipat/qanda.html#q06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150318232811/http://www.keiba.go.jp/ipat/qanda.html#q06|archivedate=2015年3月18日|title=Q and A|work=地方競馬IPAT特設サイト|publisher=[[地方競馬全国協会]]|accessdate=2015-11-02}}</ref>。
=== 場外発売所 ===
==== ばんえい競馬が運営する場外発売所 ====
1984年に場外発売が本格開始となり、この時点では当時ばんえい競馬を施行していた4競馬場(「[[#公営競技を開催する競馬場|公営競技を開催する競馬場]]」節を参照)と[[日本中央競馬会]](JRA)の釧路サービスセンター(現:[[ウインズ釧路]])の5箇所の間で場外発売を実施していた(釧路は中央競馬の休催日のみ)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no15-opt.pdf|title=ばんえい DRAFT RACE No.15|publisher=北海道市営競馬協議会|date=1985年3月|accessdate=2014-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150715234200/http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no15-opt.pdf|archivedate=2015年7月15日|deadlinkdate=2018年3月}}(12ページを参照)</ref>。1993年に発売システムをオンライン化し、場外発売所の発売締切を本場と同時にすることが可能になった<ref name="banei-owners" />。
いずれも[[北海道]]に所在。
*「道営」はホッカイドウ競馬
*「JRA」内の「◎」は、JRA開催各競馬場につき各日5レースずつを発売。「○」は、JRA開催各競馬場につき各日4レースずつを発売。「●」は、JRA開催各競馬場の全レースを発売(この場合の馬券売り場会場名は「J-PLACE〇〇」)。
*いずれも、取り扱い状況は2023年4月1日<!--帯広でのJRA発売拡大、岩見沢でのJRA発売開始時-->現在
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!発売所名!!所在地!![[ホッカイドウ競馬|道営]]!![[日本中央競馬会|JRA]]!!備考
|-
|[[帯広競馬場]]||[[帯広市]]西13条南9丁目1||○||●||style="font-size:smaller;text-align:left"|ばんえい競馬発売時は本場<br />場外発売時は「帯広場外発売所」
|-
|[[琴似駅前場外発売所]]||[[札幌市]][[西区 (札幌市)|西区]]琴似2条1丁目3-16<br />三光ビル2F・3F・4F||||○||style="font-size:smaller;text-align:left"|2012年11月29日開設<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/1129.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131018030536/http://www.banei-keiba.or.jp/topics/1129.html|archivedate=2013年10月18日|title=【お知らせ】ばんえい十勝札幌琴似駅前場外 11/29スタート|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2012-11-24|accessdate=2015-12-11}}</ref><br>旧:Aiba琴似(ホッカイドウ競馬場外発売所)
|-
|[[ハロンズ岩見沢]]||[[岩見沢市]]6条西2丁目||○||●||style="font-size:smaller;text-align:left"|2023年4月より、ばんえい競馬でホッカイドウ競馬・JRAの馬券を取り扱い開始<br>(ホッカイドウ競馬が同所での場外発売から撤退したため)
|-
|深川場外発売所<br />(イルムふかがわ)||[[深川市]]3条22番26号||||◎||style="font-size:smaller;text-align:left"|2013年8月31日開設<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/831.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150428121730/http://www.banei-keiba.or.jp/topics/831.html|archivedate=2015年4月28日|title=【お知らせ】ばんえい十勝深川場外 8/31スタート|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2013-08-24|accessdate=2015-12-11}}</ref>
|-
|[[レラ・スポット北彩都]]||[[旭川市]]南6条通20丁目1978-17||||◎||style="font-size:smaller;text-align:left"|2009年4月25日開設<ref name="jougai-asahikawa">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/event/post-188.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090428014327/http://www.banei-keiba.or.jp/event/post-188.html|archivedate=2009年4月28日|title=旭川新場外発売所(レラ・スポット北彩都)の新規開設について|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2009-04-23|accessdate=2015-12-11|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>
|-
|ハロンズ名寄||[[名寄市]]西1条南8丁目||○||◎||
|-
|ミントスポット北見||[[北見市]]小泉408-1||○||◎||style="font-size:smaller;text-align:left"|2009年7月4日開設<ref name="jougai-kitami">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/event/post-212.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110613143104/http://www.banei-keiba.or.jp/event/post-212.html|archivedate=2011年6月13日|title=北見場外発売所(ミントスポット北見)オープニングイベント|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2009-06-30|accessdate=2015-12-11|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>
|-
|アプスポット網走<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-54.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121018141559/http://www.banei-keiba.or.jp/topics/post-54.html|archivedate=2012年10月18日|title=【お知らせ】網走場外発売所の愛称は『アプスポット網走』|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2010-11-14|accessdate=2015-12-11}}</ref>||[[網走市]]南4条東1丁目1-3<br />APTマツブンビル1階||○||◎||style="font-size:smaller;text-align:left"|2010年9月25日開設<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/abashiriopen.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121018193833/http://www.banei-keiba.or.jp/topics/abashiriopen.html|archivedate=2012年10月18日|title=【お知らせ】網走場外発売所の新設について|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2010-09-26|accessdate=2015-12-11}}</ref>
|-
|[[ハロンズ釧路]]||[[釧路市]]若松町2番13号||||◎||
|}
<gallery>
ファイル:Ban'ei_Kotoni_Off-track_betting_stand.JPG|琴似駅前場外発売所
ファイル:ハロンズ岩見沢外観.JPG|ハロンズ岩見沢
ファイル:イルムふかがわ.jpg|イルムふかがわ
ファイル:Rera-spot_kitasaito_1.jpg|レラ・スポット北彩都
ファイル:ハロンズ釧路外観.JPG|ハロンズ釧路
</gallery>
'''廃止・撤退した発売所'''
*[[旭川レーシングセンター]] - 2009年撤退(レラ・スポット北彩都の開設に伴う)<ref name="jougai-asahikawa" />
**同所ではホッカイドウ競馬は引き続き場外発売を行っていたものの、2018年3月18日限りで閉鎖し[[Aiba旭川]]へ移転した。
*[[北見競馬場]] - 2009年6月29日をもって閉鎖(場外発売所としての営業を終了)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/old_topics/2009/0623_1.html|title=さよなら北見競馬場イベント(6/28.29)|work=地方競馬情報サイト|publisher=[[地方競馬全国協会]]|date=2009-06-23|accessdate=2015-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/event/62829.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110613143453/http://www.banei-keiba.or.jp/event/62829.html|archivedate=2011年6月13日|title=さよなら北見競馬場イベント 6月28(日)・29日(月)|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2009-06-22|accessdate=2015-12-11|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>
**[[#過去に公営競技を開催していた競馬場|上述]]の通り、競馬の開催は2006年度をもって終了している。2009年7月4日よりミントスポット北見が営業を開始した。
*[[Aiba苫小牧|ハロンズ苫小牧]] - 2012年3月26日をもって撤退<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/event/326.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140305110405/http://www.banei-keiba.or.jp/event/326.html|archivedate=2014年3月5日|title=【お知らせ】ハロンズ苫小牧イベント 3/26(月)|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2012-03-20|accessdate=2015-12-11|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tomamin.co.jp/2012s/s12032402.html|title=【日高】ホッカイドウ競馬 今季は4月25日開幕|publisher=[[苫小牧民報|苫小牧民報社]]|date=2012-03-24|accessdate=2015-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151208232738/http://www.tomamin.co.jp/2012s/s12032402.html|archivedate=2015年12月8日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>
**ばんえい競馬・ホッカイドウ競馬が共同運営していた。ばんえい競馬の撤退以後はホッカイドウ競馬が単独で運営する(ばんえい競馬の馬券もホッカイドウ競馬が取り扱う)。
==== 他主催者による場外発売所 ====
===== ホッカイドウ競馬 =====
以下のホッカイドウ競馬が運営する場外発売所では、ばんえい競馬の場外発売も行っている。ただし、一部では場外発売を行わない日もあるほか、日によっては下記発売所のうち一部のみでばんえい競馬の発売を行うことがある。
ホッカイドウ競馬の場外発売所におけるばんえい競馬の発売は、2003年よりAiba小樽・滝川で、2004年より[[Aiba札幌駅前]]<ref group="注">[[Aiba札幌駅前]]は2015年3月31日をもって営業終了したものの、2018年9月26日より移転のうえ再開業した。</ref> で、2005年よりAiba千歳・函館・江別で、2009年よりAiba石狩・札幌中央・登別室蘭・札幌琴似<ref group="注">Aiba琴似は現・[[琴似駅前場外発売所]](ばんえい競馬運営)。「[[#ばんえい競馬が運営する場外発売所|ばんえい競馬が運営する場外発売所]]」節も参照。</ref> で開始された<ref name="banei-owners">{{Cite web|和書|url=http://banei-owners.jp/archives/30.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150811062147/http://banei-owners.jp/archives/30.html|archivedate=2015年8月11日|title=馬主協会の変遷|publisher=一般社団法人ばんえい競馬馬主協会|accessdate=2015-12-08|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。
*[[Aiba札幌駅前]] - 札幌市中央区北4条西2丁目1 キタコートレードビルB1F-B3F
*[[Aiba札幌中央]] - 札幌市中央区南6条西1丁目1-1 サテライト札幌2F
*[[サテライト石狩|Aiba石狩]] - 石狩市新港南2丁目729-3 サテライト石狩1F
*Aiba小樽 - [[小樽市]]築港11-1 [[ウイングベイ小樽]](旧マイカル小樽)1階
*Aiba江別 - [[江別市]]野幌町68番地
*Aiba千歳 - [[千歳市]]東郊1丁目7-1
*[[Aiba苫小牧]] - [[苫小牧市]]木場町1丁目6-1 [[ドン・キホーテ (企業)|MEGAドン・キホーテ]]苫小牧店3階
**2011年度まで、ばんえい競馬運営での場外発売も実施([[#ばんえい競馬が運営する場外発売所|上述]])
*[[Aiba滝川]] - [[滝川市]]西町5丁目1番1号
*[[Aiba中標津]] - [[標津郡]][[中標津町]]東31条南1丁目5番地
*[[Aiba函館港町]] - [[函館市]]港町3丁目17
*Aiba登別室蘭 - 登別市若草町4丁目23
*●[[門別競馬場]] - 沙流郡日高町富川駒丘76-1
*●[[Aiba静内]] - 日高郡新ひだか町静内木場町2丁目1番30号
*●[[Aiba浦河]] - 浦河郡浦河町大通3丁目 ショッピングセンターMio2階
*●[[Aiba旭川]] - [[旭川市]]豊岡3条2丁目2-19 アモールショッピングセンター2階
*●Aibaくしろ - [[釧路郡]][[釧路町]]桂木3丁目1
●の場外発売所は、土曜・日曜についてはばんえい競馬の取り扱いを行わない(2018年11月・12月現在)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokkaidokeiba.net/hatubai_dl.php|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181122151008if_/http://www.hokkaidokeiba.net/hatubai_dl.php|archivedate=2018-11-22|title=ホッカイドウ競馬場外発売日程表|work=ホッカイドウ競馬|date=2018-11-14|accessdate=2018-11-22}}</ref>。
===== 北海道外 =====
以下の発売所で定期的にばんえい競馬の場外発売を行っている。ただし、一部発売されない場合もある。
*[[大井競馬場]]内「ふるさとコーナー<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/race/furusato/2014_10-12/ ふるさとコーナー発売日程(2014年10月 - 12月)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141129084657/http://www.tokyocitykeiba.com/race/furusato/2014_10-12/ |date=2014年11月29日 }} - 東京シティ競馬、2014年11月19日閲覧</ref>」
**発売は大井競馬開催日([[南関東公営競馬|南関東]]他場の場外発売日も含む。以下同じ)のみ。
**大井競馬発売開始時刻(ナイター開催日は12時)の20分後以降に発走する競走から、最終競走まで発売。ただし、大井競馬最終競走の発走時に発売中の競走がある場合は、大井競馬最終競走の発売締切時にすべての発売を終了するため、以降に発走するばんえい競馬の競走は前売発売のみ取り扱う。
**払戻は開場時刻から大井競馬の最終競走発売締切時刻まで、ふるさとコーナーで取り扱う。
*BAOO高崎(旧[[高崎競馬場]])
*BAOO鳥取岩美
*BAOO三刀屋
*BAOO東広島
*[[BAOO宇部]]
*BAOO天文館
上記のほか、一部の競走は上記以外の競馬場・場外発売所でも広域場外発売を実施する場合がある。
=== 払戻について ===
帯広競馬場や各場外発売所での払戻業務は、原則として開催日のみ行っている。
== 予想専門紙 ==
各発売所の売店などで、以下の専門紙が販売されている。
*[[ケイバブック|競馬ブック]](ばんえい版)
**2014年6月24日より、[[ローソン]]に設置されているマルチコピー機でのプリントアウトでも購入可能になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/keiba_book/status/481234602510397441|title=「コンビニ競馬新聞」地方競馬の競馬ブックがローソンのマルチコピー機でお買い求めいただけます。南関4場、ホッカイドウ競馬、ばんえい競馬。今日からスタート!|work=競馬ブック([[Twitter]])|date=2014-06-24|accessdate=2017-04-06}}</ref>(その後に[[ファミリーマート]]・[[サークルKサンクス|サークルK・サンクス]]も対応<ref>[http://www.keibabook.co.jp/a3/ 競馬ブック印刷工房] - 競馬ブック、2017年4月6日閲覧</ref>)。会員登録も必要無く、全国で利用可能。
*ねっとばんばキンタロー
** コンビニエンスストアに設置されているマルチコピー機でも購入が可能。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-shinbun.net/netbanbakintaro/?idgt=3|title=ネットばんばキンタローネット新聞 | 競馬専門紙・競馬予想紙・競馬新聞 ネット新聞(電子新聞)|accessdate=2020-08-30}}</ref>
上記の他、2013年1月11日より「[http://ganbare-chihoukeiba.info/obihiro/ レース展望サイト(協力:全国公営競馬専門紙協会)]」を開設した。レース展開や記者の見解などを、全レース無料で閲覧可能。
=== 過去に存在した専門紙 ===
現在、場内での場立ち予想はイベントなどの特例を除き認められていないが、以前は手書きの出走表に予想印と予想組番のみを印刷したシンプルなガリ版刷りの専門紙が数種類発売されていた。専門紙の発行元を兼ねた予想業者がパドックや専門紙販売ブースなどに常駐し、購入した新聞を見せる事で最新の情報を入手できたり、朝一番の取材で良く見えた馬に赤鉛筆で印をつけて新聞を販売するなど独特な予想屋文化が存在していた。しかし売上不振や発行者の高齢化のため、これらの新聞は次々に姿を消していった。<!--この他に新聞の名称をご存知の方は加筆願います-->
*[[ホースニュース・馬]](ばんえい版)
*ばん馬(手書きガリ版予想紙)
*勝馬ニュース(手書きガリ版予想紙)<ref group="注">現存している競馬専門紙「[[勝馬]]」とは無関係。</ref>
*日の出(手書きガリ版予想紙)
*旭ニュース(手書きガリ版予想紙)
など
=== スポーツ新聞などでの出走表掲載 ===
[[スポーツ新聞]]での扱いはホッカイドウ競馬よりも小さいことが多く、道内で発行しているものであっても、簡易出走表の掲載のみにとどまっていることが多い。
定期的に馬柱を掲載している新聞は以下の通り。
*[[日刊スポーツ]](北海道版でメインレースを含む2レース程度)
*[[東京スポーツ]]<ref group="注">東京スポーツは道内でも発売しているが、翌朝の朝刊扱いとなるため、掲載しているレースが既に終了している場合もある。</ref>・[[大阪スポーツ]](土曜日のみ)
上記のほか、広域場外発売を行う競走ではその他のスポーツ新聞にも掲載される場合がある。
== レース実況放送 ==
=== スカパー! ===
スカパー!での放送体制はたびたび変更されている<ref group="注">以前は241ch「[[ハッピー241]]」で放送していた。2008年12月6日より2009年3月まで709ch「[[エキサイティング・グランプリ]]」(ばんえい競馬を含む公営競技中継のみ無料)と「[[ミュージック・グラフィティTV]]」の併用、2009年度から2013年度までは「ミュージック・グラフィティTV」にて放送(一部有料)。</ref>。
2014年度は[[スカパー!プレミアムサービス]]にて、以下の通り放送。
*[[地方競馬ナイン]](701ch・702ch)※一部の時間帯は有料
**スマートフォンやタブレット端末では、無料アプリ「ivy」をダウンロードすることにより無料で「地方競馬ナイン」を視聴可能<ref>[http://keiba9.com/view 地方競馬ナイン公式サイト(視聴方法)]</ref>
*[[ミュージック・グラフィティTV]](標準画質795ch)※移行措置として2014年5月まで放送を継続
=== ケーブルテレビ ===
*[[旭川ケーブルテレビ]](デジタル016ch)
*[[帯広シティーケーブル]](地上デジタル10ch<ref>[http://www.octv.jp/2011/10/10.php 帯広シティーケーブル公式サイト(2011年10月1日)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130716233254/http://www.octv.jp/2011/10/10.php |date=2013年7月16日 }}</ref>)
=== その他 ===
*地方競馬全国協会「インターネットライブ中継」
*[[ニコニコ生放送]]<ref>[https://blog.nicovideo.jp/niconews/19093.html 「ばんえい競馬」全レース生中継を4/21〜開始] ニコニコインフォ・2017年4月12日・2018年2月17日閲覧</ref>
** 2017年度には、毎開催一日につき1レース、運営会社の[[ドワンゴ]]から協賛レース「ばんばニコニコプレミアム杯」が提供されていた<ref>[https://blog.nicovideo.jp/niconews/37031.html 【競馬】「ばんばニコニコプレミアム杯」を開催] ニコニコインフォ・2017年8月10日・2018年2月17日閲覧</ref>。
*[[YouTube#ライブストリーミング|YouTube Live]]
=== 内容(共通) ===
*2016年度より『'''ばんスタ'''』として、レース実況・オッズ放映のほか、2022年度からのスタジオ進行は、ばんスタMC2名体制で行い、競馬ブックのトラックマンを解説に招いて、パドック解説や展開予想、買い目を紹介している。重賞開催日や年末年始・年度初・年度末などには、ゲストを加えた4名でスタジオ進行することもある。
*レギュラーの司会と実況、および解説者は原則として交代制で、1日の前半と後半で担当を分担している。
*帯広本場や各場外でも同時放映している。
;実況
*太田裕士
*大滝翔
:本馬場入場時のアナウンスも担当するが、グレードレースなどの表彰式に実況担当が司会として出向く場合などは、ばんスタMCが次のレースの本馬場入場アナウンスを担当することもある。{{efn2|都合により、別のアナウンサーが担当する場合もある。}}
;解説
*木本利元([[ケイバブック|競馬ブック]]){{efn2|元[[ホースニュース・馬]]}}
*定政紀宏(競馬ブック)
;ばんスタMC
*宮部真利子
*蛯名彩
*徳田新之介
*藤原幸奈
*近藤菜々穂
*飯田依未
*貞野真生
:原則上記の内2名が担当、実況を担当しないときのもう一方の実況者がMCを担当する場合もある{{efn2|都合により、1日を通して担当する場合もある。}}
===ラジオ===
2021-2023年にかけて、年末年始のばんえい競馬の重賞、ばんえいダービー、帯広記念、天馬賞を[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]で生放送された。ただし、進行・実況は東京虎ノ門本社からのモニター観戦による[[オフチューブ]]だった。
== ばんえい競馬を扱った作品 ==
=== テレビドラマ ===
*[[日曜劇場]]「ばんえい」([[北海道放送]]制作・TBS系全国放送、1973年9月放送)
*[[大地のファンファーレ]]<ref>[http://www.banei-keiba.or.jp/topics/nhk-fanfare.html 【お知らせ】NHKドラマ『大地のファンファーレ』制作決定!] - ばんえい十勝オフィシャルサイト 2011年9月6日閲覧</ref>([[NHK札幌放送局]]・[[NHK帯広放送局|帯広放送局]]共同制作。道内向けは[[2012年]]2月、全国向けは同年3月放送)
=== その他のテレビ番組 ===
*NHK「[[NHK特集]] ばん馬 力走-オホーツク・男たちの大地-」(1987年1月)
*[[北海道テレビ放送|北海道テレビ放送(HTB)]]「ばんドルBAN2!」(放送終了)
*[https://web.archive.org/web/20090904061334/http://www.gyao.jp/ Gyao(スポーツチャンネル)]「[[BANBA王]]」・無料(放送終了)
*[[TBSテレビ|TBS]]「[[オールスター感謝祭]]」(2007年3月、2012年3月)
*TBS「[[どうぶつ奇想天外!]]春の2時間スペシャル」(2007年4月放送)
*[[日本放送協会|NHK]]「にっぽん紀行『もう一度歩き出せ〜帯広・ばんえい競馬〜』」(2007年3月放送、4月再放送)
*NHK「[https://www.nhk.jp/p/mouichido/ts/778L356WWM/episode/te/VKPY7XM217/ もういちど、日本『帯広 ばんえい競馬』]」(2019年3月14日放送)
=== 文学 ===
* 天菊 - 山田栄一・著 1999 文芸社・刊 - ばんえい競走馬の馬主が所有馬テンギクの生涯について著したもの。
=== その他 ===
*[[銀の匙 Silver Spoon]] - 作者が十勝地方の農家の出身。ヒロインの家が酪農家で、生産馬がばんえい競馬に出走する(第5話)。2013年7月のアニメ放送開始に先立ち、2013年6月29日にコラボイベントを開催した [https://web.archive.org/web/20140121044707/http://www.banei-keiba.or.jp/event/629tv-silver-spoon.html][http://www.ginsaji-anime.com/special/banei.html]。
*[[雪に願うこと]] - ばんえい競馬が舞台の映画。[[第18回東京国際映画祭]]でグランプリを含む4部門を受賞
*[[挽馬 GO BANG!]] - [[三好鉄生|三貴哲成]]の楽曲。ばんえい競馬をテーマにした曲で、[[2017年]]1月-3月期まで[[ラジオ深夜便]]の「深夜便のうた」だった
*[[ばんばればんば]] - [[My's]](十勝地方を拠点に活動する[[フォークデュオ]])制作の楽曲。[[2016年]]よりばんえい十勝CMソングに起用された。
== 関連項目 ==
* [[ホッカイドウ競馬]]
* [[北海道十勝スカイアース]](旧とかちフェアスカイ・ジェネシス、[[帯広市]]) と[[リオグージョ旭川]](旧ACSC、[[旭川市]]) - 北海道の社会人アマチュア[[サッカー]]のチームで[[2006年]]にこの2チームの[[スポンサー]]として支援を発表した。両チームのジャンパーにばんえい競馬のロゴを入れている。
* [[リッキー (ばんえい馬)|リッキー]] - もとはばんえい競馬の競走馬だったが、現役時代からばんえい競馬のPR活動として保育園の訪問や各種イベントに参加。現役引退後の現在も引き続き活動している。2007年には帯広市から「特別嘱託職員」辞令と[[特別住民票]]が交付されている。
* [[THE IDOLM@STER|アイドルマスター]] - 登場人物である双海亜美・真美の「とかちつくちて」という歌い方から、個人協賛レースでアイドルマスター関連のレースが行われていたが、TVアニメ化に際し行われた企画の一環で、2011年のBG1ばんえいオークス(11月20日開催)とのコラボで「'''ばんえいアイドルマスター記念'''」[http://www.banei-keiba.or.jp/bgsite/imas2011/] として公式のコラボレーションレースになった。その日のレースはほとんどがアイドルマスター関係の個人協賛レースになり、パドック映像はTVアニメ、案内映像のナレーションは[[下田麻美]](亜美真美役の声優)が担当した。
* [[井馬博]] - 1980年から2012年3月まで実況を担当した。
* [[矢野吉彦]] - かねてよりばんえい競馬のファンを公言しており、[[特定非営利活動法人]][http://umabunka.com/ とかち馬文化を支える会] の会員(理事)でもある。ゲストとして帯広競馬場に招かれることもある。
* [[輓獣]]
* [[トラクター]] - [[更別村]]で2003年から2017年まで、ばんえい競走の輓馬を農業用トラクターに置き換えた{{仮リンク|トラクター・プリング|en|Tractor pulling}}競技である「国際トラクターBANBA」が開催されていた<ref>[https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/ns/nou_sin/ud49g7000000aza4.html 国際トラクターBAMBA実行委員会] - [[北海道開発局]]</ref>。[[ジャガイモシロシストセンチュウ]]の蔓延に伴い2018年は開催を中止、翌2019年に実行委員会が解散し[[モータースポーツ]]のカテゴリーとしては消滅した<ref>[http://www.hokkaido-nl.jp/article/10115 トラクターBAMBA実行委が解散【更別】] - [[十勝毎日新聞]] 2019年2月7日。北海道ニュースリンク</ref>。
* [[邪神ちゃんドロップキック]] - 帯広市との[[ふるさと納税]]タイアップで、2020年11月28日に[[原奈津子]](橘めい役)と[[小見川千明]](ミノス役)が番組から出資して貰い、関連の名前の付いた三レースで実際に勝馬投票券を購入して勝負するイベントレースを行うが、その第四レース、原、小見川双方が的中させたにも関わらず、スタッフのミスで無効となるアクシデントに見舞われる。ふるさと納税によるアニメ制作決定に伴い2021年7月25日には『祝・邪神ちゃん帯広編決定杯』開催。ばんえい競馬も登場するアニメの放送後の2022年9月3日には小見川、小坂井祐莉(ぺこら役)、飯田里穂(ペルセポネ2世)によるトークショーなどのイベントも開催された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
[https://manning-sandbox.com/banei-horseracing-poor/ ばんえい競馬かわいそう], ウマトピ
== 参考文献 ==
*寺島敏治『馬産王国・釧路』-釧路馬の時代-〈釧路新書〉釧路市史編纂事務局編、釧路市、1991年、167-172頁
*内田靖夫 『ばんえいまんがどくほん』 北海道市営競馬協議会 1983年
*{{Anchors|日本馬事協会登録規程細則}}[http://www.bajikyo.or.jp/pdf/2014kitei.pdf 種馬登録規程事務細則(第12版)](日本馬事協会)、2014年8月19日閲覧
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Ban'ei}}
{{Wikinewscat|ばんえい競馬}}
*[https://www.banei-keiba.or.jp/ ばんえい十勝 公式サイト]
*[http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/nouseibu/baneishinkoushitsu/banei.jsp 帯広市公式サイト - 世界で唯一のばんえい競馬]
*{{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/banei_kintaro/ |title=ばんえい金太郎|date=20130427114151}}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}
*[http://blog.oddspark.com/baneiinfo/ ばんえい競馬情報局]
*[https://web.archive.org/web/20150508185707/http://www.banei-owners.jp/index.html 一般社団法人ばんえい競馬馬主協会]
*[https://web.archive.org/web/20130102160031/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/banei/index.html 北海道新聞帯広支社]
*[http://www.tokachi.co.jp/banei/ 十勝毎日新聞:ばんえい十勝劇場]
*[https://web.archive.org/web/20121012150417/http://happy.ap.teacup.com/t_dhc/ “世界でひとつ”ばんえい競馬の診療所]
*[http://umabunka.com/ 特定非営利活動法人とかち馬文化を支える会]
*[http://banei-support.com/ ばんえい十勝サポート推進会議]
*[http://www.bajikyo.or.jp/ 公益社団法人日本馬事協会]
*[https://banei-tyoukyoushi.jimdofree.com/ ばんえい十勝調教師会]
{{Keiba-stub}}
{{DEFAULTSORT:はんえいきようそう}}
[[Category:地方競馬]]
[[Category:ばんえい競走|*]]
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12,212 |
細胞周期
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細胞周期(さいぼうしゅうき; cell cycle)は、一つの細胞が二つの娘細胞を生み出す過程で起こる一連の事象、およびその周期のことをいう。細胞周期の代表的な事象として、ゲノムDNAの複製と分配、それに引き続く細胞質分裂(dh)がある。
細胞周期は、光学顕微鏡での観察に基づき、間期(interphase)とM期(M phase)とに分けられる。間期はさらにG1期、S期、G2期に分けられる。M期は有糸分裂と細胞質分裂によって構成される。有糸分裂では姉妹染色分体が細胞の両極に分かれ、引き続く細胞質分裂では細胞質が割れて2つの細胞が生み出される。一時的にもしくは可逆的に分裂を停止した細胞は、G0期と呼ばれる静止期に入ったとされる。
細胞が分裂し、生じた娘細胞が再び有糸分裂を開始するまでの間、つまりM期と次のM期の間を間期(interphase)と呼ぶ。細胞の成長、物質の吸収、生合成、遺伝情報と全ての細胞小器官の複製、また代謝など、細胞としての機能はこの時期に行われる。真核細胞の多くは大半の時間を間期に費やし、次の細胞分裂(M期)に備える。間期では、クロマチンは核膜に囲まれた細胞核の中に分散しており、個々の染色体を識別することはできない。核小体は核内構造のひとつとして確認できる。紡錘糸はまだ観察されないが、中心体は核周辺に観察される。
放射性同位体(RI, radio isotope)を用いて同調細胞のDNA合成を経時的に追跡することで、間期は、G1期、S期、G2期の3段階に分けられることが明らかになった。各期は細胞周期チェックポイントで完了が確認されてから次の期間へと進行する。各期間と間期全体にかかる時間は細胞の種類や生物の種類によって様々である。一般に哺乳類の成体の細胞で、間期は20時間ほどであり、細胞分裂全体のほぼ90%の時間を占める。
M期が終わり、DNA合成が始まるまでの期間は、間期における最初の期間であり、G1期(Gはgapを意味する)と呼ばれる。G1期は別名(Gをgrowthと読んで)成長期とも言われる。この期間中、M期では顕著に低かった細胞の生合成活性が再び高まる。G1期では、次のS期で必要とされる種々の(主にDNA複製に用いられる)酵素が合成される。また細胞小器官の合成も盛んで、関連する構造タンパクと酵素が多量に消費されるため細胞内の代謝が活発な期間でもある。G1期はさらに4つの小期に分けられる。
これらの小期は成長因子、栄養供給、温度、その他の阻害因子により影響を受けうる。S期に入る前にG1期を中断し休眠状態のG0期に入る細胞もある。G1期の長さは様々で、同種の生物でも細胞によって異なるが、24時間毎に分裂を繰り返しているような活発なヒトの細胞では、G1期に約9時間かかる。G1期の終わりには細胞周期チェックポイントがある。これはDNAに欠陥がなく、細胞の機能が正常なことを確認する一連の安全機構である。機能的にはサイクリン依存性キナーゼ(Cyclin Dependent Kinase; CDK)がこの役目を果たしている。G1期CDKタンパクは様々な遺伝子に対して転写因子を活性化する。これらの遺伝子の中にはDNA合成タンパク質やS期CDKタンパク質に対応するものも含まれている。
G1期に続くS期(Synthesis phaseの略)は、染色体DNAが複製される時期である。S期では、DNAヘリカーゼが2重鎖DNAを開裂して1本鎖を作り、続いてDNAポリメラーゼが相補的塩基対を結合させることで2本の2重鎖DNAが生成される。DNA合成が完了し、全ての染色体が複製されたところでS期は終了する。S期の間に細胞内のDNA量は実質2倍になる。S期ではRNA転写とタンパク質合成の速度は非常に低い。しかし、ヒストンは例外的で、ほとんどのヒストンがS期に作られる。中心体もS期に複製される。DNAの複製と中心体の複製は独立に行われるが、その進行には多くの共通の因子が関係している。結果的に細胞分裂に必要な細胞内の遺伝物質の複製はS期で完了する。
S期ではDNAの損傷が頻繁に起こるが、複製の完了と共にDNA修復が始まる。修復が不完全な場合は細胞周期チェックポイント機構で検知され、細胞周期が停止される。この段階を通過するとほとんどの細胞は細胞周期を途中で停止しない。
DNA複製が完了してから、M期に入るまでの期間をG2期と呼ぶ。G2期では再び盛んなタンパク質合成が行われ、主に有糸分裂に必要な微小管が作られる。一般に間期の中ではG2期が最も短く、例えばヒトの細胞では多くの場合4~5時間で終了する。G2期にはG2/Mチェックポイントがあり、細胞がM期に進めるかどうか判断している。
M期(Mitotic phaseの略)には、有糸分裂(mitosis)と細胞質分裂(cytokinesis)が行われる。有糸分裂は、ほとんどの細胞において約1時間程度で終了する。有糸分裂は、染色体の動態の光学顕微鏡での観察に基づいて、前期・前中期・中期・後期・終期に分けられる。前期では、染色体の凝縮(染色体凝縮)が起こり、この時期に染色体が顕微鏡下で観察されるようになる。中期にはいると、核膜が消失し、染色体が赤道面上に並ぶ。紡錘体もこの時期に完成する。後期では、セントロメア付近で結合していた姉妹染色分体が、紡錘体に引っ張られるような形で、分離し、極方向に移動を開始する。終期では分離を終えた染色分体が脱凝縮し、その周囲に核膜が再形成される。また、この時期から細胞質分裂が始まり、細胞分裂が終了する。
有糸分裂は、生物種によって異なる様式をとる。例えば、上記のように動物細胞では核膜が一時消失する「開いた」有糸分裂(open mitosis)を行う。一方、出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae)ような菌類では、M期を通じて核膜は崩壊せず、細胞核の中で染色体が分かれる「閉じた」有糸分裂(closed mitosis)を行う。
一般に有糸分裂と細胞質分裂は連続的に起こる。しかし、1つの細胞に複数の核が存在する状態を経る生物も多く知られている。真菌、変形菌が代表的な例であるが、その他の生物にも見られる現象である。動物においても例えばキイロショウジョウバエのある胚発生段階では有糸分裂と細胞質分裂が連続して起こらないことが知られている。
G0期は、細胞分裂も分裂の準備も行われていないG1期が延長している状態ととも、細胞周期から分かれた活動停止状態とも捉えられている。また、神経細胞や心筋細胞などは、細胞分化の果てに有糸分裂の後分裂を止め、成熟し、残りの寿命期間を本来の機能を発揮し続ける。これらの細胞にとってG0期は細胞周期外の非分裂状態にあることからG0期は「有糸分裂後」とも言われることもある。細胞質分裂をしない多核筋細胞もG0期にあると表現される。「有糸分裂後」という用語は、時折G0期と細胞の老化の両方を示す際に使われる。多細胞真核生物における非増殖性細胞は一般的にG1期からG0期に入り、長期に、時には(神経細胞の場合などは特に)無制限にG0期にとどまることがある。完全に細胞分化した細胞のほとんどはG0期に入る。細胞の老化は、子孫細胞が成長できなくなるようなDNAの損傷や劣化に反応してなる状態である。細胞の老化とは、損傷を受けた細胞を自己破壊するアポトーシスの生化学的代替手段ともいえる。
細胞周期の進行は、Cdk(cyclin-dependent kinase, サイクリン依存性キナーゼ)とサイクリン(cyclin)の複合体によって制御されている。Cdk/サイクリン複合体は、細胞周期を前に進めることから、細胞周期エンジン(cell cycle engine)と呼ばれる。動物細胞では、複数のCdk/サイクリン複合体が細胞周期の進行に関わっている。G1期からS期へ進むにはCdk2/サイクリンE複合体、S期からG2期への進行にはCdk2/サイクリンA複合体、G2期からM期への移行にはCdk1/サイクリンB複合体の活性が必要である(Cdk1はCdc2とも呼ばれる)。必要なときに必要な複合体のみ活性化するために、細胞内では、各サイクリンの転写の制御やユビキチン依存的な分解、Cdkはリン酸化・脱リン酸化などの修飾による活性の制御が行われている。
正常な細胞分裂を保障するために、G1/S期など重要なところで細胞周期の進行を正常に行えるか監視するポイントがあり、これを細胞周期チェックポイント機構という。 細胞周期チェックポイントは、DNA未複製チェックポイント、紡錘体集合チェックポイント、染色体分離チェックポイント、DNA損傷チェックポイントからなる。
|
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"text": "細胞が分裂し、生じた娘細胞が再び有糸分裂を開始するまでの間、つまりM期と次のM期の間を間期(interphase)と呼ぶ。細胞の成長、物質の吸収、生合成、遺伝情報と全ての細胞小器官の複製、また代謝など、細胞としての機能はこの時期に行われる。真核細胞の多くは大半の時間を間期に費やし、次の細胞分裂(M期)に備える。間期では、クロマチンは核膜に囲まれた細胞核の中に分散しており、個々の染色体を識別することはできない。核小体は核内構造のひとつとして確認できる。紡錘糸はまだ観察されないが、中心体は核周辺に観察される。",
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"text": "M期が終わり、DNA合成が始まるまでの期間は、間期における最初の期間であり、G1期(Gはgapを意味する)と呼ばれる。G1期は別名(Gをgrowthと読んで)成長期とも言われる。この期間中、M期では顕著に低かった細胞の生合成活性が再び高まる。G1期では、次のS期で必要とされる種々の(主にDNA複製に用いられる)酵素が合成される。また細胞小器官の合成も盛んで、関連する構造タンパクと酵素が多量に消費されるため細胞内の代謝が活発な期間でもある。G1期はさらに4つの小期に分けられる。",
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"text": "これらの小期は成長因子、栄養供給、温度、その他の阻害因子により影響を受けうる。S期に入る前にG1期を中断し休眠状態のG0期に入る細胞もある。G1期の長さは様々で、同種の生物でも細胞によって異なるが、24時間毎に分裂を繰り返しているような活発なヒトの細胞では、G1期に約9時間かかる。G1期の終わりには細胞周期チェックポイントがある。これはDNAに欠陥がなく、細胞の機能が正常なことを確認する一連の安全機構である。機能的にはサイクリン依存性キナーゼ(Cyclin Dependent Kinase; CDK)がこの役目を果たしている。G1期CDKタンパクは様々な遺伝子に対して転写因子を活性化する。これらの遺伝子の中にはDNA合成タンパク質やS期CDKタンパク質に対応するものも含まれている。",
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"text": "G1期に続くS期(Synthesis phaseの略)は、染色体DNAが複製される時期である。S期では、DNAヘリカーゼが2重鎖DNAを開裂して1本鎖を作り、続いてDNAポリメラーゼが相補的塩基対を結合させることで2本の2重鎖DNAが生成される。DNA合成が完了し、全ての染色体が複製されたところでS期は終了する。S期の間に細胞内のDNA量は実質2倍になる。S期ではRNA転写とタンパク質合成の速度は非常に低い。しかし、ヒストンは例外的で、ほとんどのヒストンがS期に作られる。中心体もS期に複製される。DNAの複製と中心体の複製は独立に行われるが、その進行には多くの共通の因子が関係している。結果的に細胞分裂に必要な細胞内の遺伝物質の複製はS期で完了する。",
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"text": "S期ではDNAの損傷が頻繁に起こるが、複製の完了と共にDNA修復が始まる。修復が不完全な場合は細胞周期チェックポイント機構で検知され、細胞周期が停止される。この段階を通過するとほとんどの細胞は細胞周期を途中で停止しない。",
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"text": "DNA複製が完了してから、M期に入るまでの期間をG2期と呼ぶ。G2期では再び盛んなタンパク質合成が行われ、主に有糸分裂に必要な微小管が作られる。一般に間期の中ではG2期が最も短く、例えばヒトの細胞では多くの場合4~5時間で終了する。G2期にはG2/Mチェックポイントがあり、細胞がM期に進めるかどうか判断している。",
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"text": "M期(Mitotic phaseの略)には、有糸分裂(mitosis)と細胞質分裂(cytokinesis)が行われる。有糸分裂は、ほとんどの細胞において約1時間程度で終了する。有糸分裂は、染色体の動態の光学顕微鏡での観察に基づいて、前期・前中期・中期・後期・終期に分けられる。前期では、染色体の凝縮(染色体凝縮)が起こり、この時期に染色体が顕微鏡下で観察されるようになる。中期にはいると、核膜が消失し、染色体が赤道面上に並ぶ。紡錘体もこの時期に完成する。後期では、セントロメア付近で結合していた姉妹染色分体が、紡錘体に引っ張られるような形で、分離し、極方向に移動を開始する。終期では分離を終えた染色分体が脱凝縮し、その周囲に核膜が再形成される。また、この時期から細胞質分裂が始まり、細胞分裂が終了する。",
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"text": "有糸分裂は、生物種によって異なる様式をとる。例えば、上記のように動物細胞では核膜が一時消失する「開いた」有糸分裂(open mitosis)を行う。一方、出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae)ような菌類では、M期を通じて核膜は崩壊せず、細胞核の中で染色体が分かれる「閉じた」有糸分裂(closed mitosis)を行う。",
"title": "M期"
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"text": "一般に有糸分裂と細胞質分裂は連続的に起こる。しかし、1つの細胞に複数の核が存在する状態を経る生物も多く知られている。真菌、変形菌が代表的な例であるが、その他の生物にも見られる現象である。動物においても例えばキイロショウジョウバエのある胚発生段階では有糸分裂と細胞質分裂が連続して起こらないことが知られている。",
"title": "M期"
},
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"text": "G0期は、細胞分裂も分裂の準備も行われていないG1期が延長している状態ととも、細胞周期から分かれた活動停止状態とも捉えられている。また、神経細胞や心筋細胞などは、細胞分化の果てに有糸分裂の後分裂を止め、成熟し、残りの寿命期間を本来の機能を発揮し続ける。これらの細胞にとってG0期は細胞周期外の非分裂状態にあることからG0期は「有糸分裂後」とも言われることもある。細胞質分裂をしない多核筋細胞もG0期にあると表現される。「有糸分裂後」という用語は、時折G0期と細胞の老化の両方を示す際に使われる。多細胞真核生物における非増殖性細胞は一般的にG1期からG0期に入り、長期に、時には(神経細胞の場合などは特に)無制限にG0期にとどまることがある。完全に細胞分化した細胞のほとんどはG0期に入る。細胞の老化は、子孫細胞が成長できなくなるようなDNAの損傷や劣化に反応してなる状態である。細胞の老化とは、損傷を受けた細胞を自己破壊するアポトーシスの生化学的代替手段ともいえる。",
"title": "静止期(G0期)"
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"text": "細胞周期の進行は、Cdk(cyclin-dependent kinase, サイクリン依存性キナーゼ)とサイクリン(cyclin)の複合体によって制御されている。Cdk/サイクリン複合体は、細胞周期を前に進めることから、細胞周期エンジン(cell cycle engine)と呼ばれる。動物細胞では、複数のCdk/サイクリン複合体が細胞周期の進行に関わっている。G1期からS期へ進むにはCdk2/サイクリンE複合体、S期からG2期への進行にはCdk2/サイクリンA複合体、G2期からM期への移行にはCdk1/サイクリンB複合体の活性が必要である(Cdk1はCdc2とも呼ばれる)。必要なときに必要な複合体のみ活性化するために、細胞内では、各サイクリンの転写の制御やユビキチン依存的な分解、Cdkはリン酸化・脱リン酸化などの修飾による活性の制御が行われている。",
"title": "細胞周期の制御"
},
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"text": "正常な細胞分裂を保障するために、G1/S期など重要なところで細胞周期の進行を正常に行えるか監視するポイントがあり、これを細胞周期チェックポイント機構という。 細胞周期チェックポイントは、DNA未複製チェックポイント、紡錘体集合チェックポイント、染色体分離チェックポイント、DNA損傷チェックポイントからなる。",
"title": "細胞周期の制御"
}
] |
細胞周期は、一つの細胞が二つの娘細胞を生み出す過程で起こる一連の事象、およびその周期のことをいう。細胞周期の代表的な事象として、ゲノムDNAの複製と分配、それに引き続く細胞質分裂(dh)がある。
|
[[Image:Major events in mitosis.svg|right|thumb|350px|細胞周期ごとに[[染色体]]の複製と分離が行われる。]]
'''細胞周期'''(さいぼうしゅうき; '''cell cycle''')は、一つの[[細胞]]が二つの[[娘細胞]]を生み出す過程で起こる一連の事象、およびその周期のことをいう。細胞周期の代表的な事象として、ゲノムDNAの[[複製]]と分配、それに引き続く[[細胞質分裂]](dh)がある。
== 概要 ==
[[ファイル:Cellcycle.png|thumb|300px|細胞周期]]
細胞周期は、光学顕微鏡での観察に基づき、'''[[間期 (細胞分裂)|間期]]'''(interphase)と'''M期'''(M phase)とに分けられる。間期はさらに[[G1期]]、[[S期]]、[[G2期]]に分けられる。M期は[[有糸分裂]]と[[細胞質分裂]]によって構成される。[[有糸分裂]]では[[姉妹染色分体]]が細胞の両極に分かれ、引き続く[[細胞質分裂]]では[[細胞質]]が割れて2つの細胞が生み出される。一時的にもしくは可逆的に分裂を停止した細胞は、[[G0期]]と呼ばれる静止期に入ったとされる。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align: center"
|-
! 状態
! 期間
! 略記
! 説明
|-
| 静止/<br/>老化
| style="height:50px" | Gap 0
| '''G0'''
| align="left" width="500pt" | 細胞が周期から去った、または分裂を止めている休止期。
|-
| rowspan="3" | 間期
| style="height:50px" | Gap 1
| '''G1'''
| align="left" width="500pt" | Gap 1では細胞は大きくなる。[[G1期からS期への移行|G1/Sチェックポイント]]で次の[[DNA]]合成への準備ができているかが確認される。
|-
| style="height:50px" | 合成(Synthesis)
| '''S'''
| align="left" width="500pt" | この期間に[[DNA複製|DNAの複製]]が行われる。
|-
| style="height:50px" | Gap 2
| '''G2'''
| align="left" width="500pt" | DNA合成から有糸分裂が起こるまでの間、細胞は成長し続ける。[[G2/Mチェックポイント]]で次のM期(有糸分裂と細胞質分裂)への準備ができているかが確認される。
|-
| [[細胞分裂]]
| style="height:50px" | 分裂(Mitosis and cytokinesis)
| '''M'''
| align="left" width="500pt" | この段階で細胞の成長は停止し、活動エネルギーは分裂に集中される。有糸分裂の途中[[紡錘体チェックポイント|M期チェックポイント]]で完全な分裂への準備ができているかが確認される。
|}
== 間期 ==
{{出典の明記|section=1|date=2010年5月}}
細胞が分裂し、生じた娘細胞が再び[[有糸分裂]]を開始するまでの間、つまりM期と次のM期の間を間期(interphase)と呼ぶ。細胞の成長、物質の吸収、生合成、遺伝情報と全ての細胞小器官の複製、また代謝など、細胞としての機能はこの時期に行われる。[[真核細胞]]の多くは大半の時間を間期に費やし、次の細胞分裂(M期)に備える。間期では、[[クロマチン]]は[[核膜]]に囲まれた[[細胞核]]の中に分散しており、個々の[[染色体]]を識別することはできない。[[核小体]]は核内構造のひとつとして確認できる。[[紡錘糸]]はまだ観察されないが、[[中心体]]は[[細胞核|核]]周辺に観察される。
放射性同位体(RI, radio isotope)を用いて同調細胞のDNA合成を経時的に追跡することで、間期は、G1期、S期、G2期の3段階に分けられることが明らかになった。各期は[[細胞周期チェックポイント]]で完了が確認されてから次の期間へと進行する。各期間と間期全体にかかる時間は細胞の種類や生物の種類によって様々である。一般に[[哺乳類]]の成体の細胞で、間期は20時間ほどであり、細胞分裂全体のほぼ90%の時間を占める{{要出典|date=2010年5月}}。
=== G1期 ===
M期が終わり、DNA合成が始まるまでの期間は、間期における最初の期間であり、G1期(Gはgapを意味する)と呼ばれる。G1期は別名(Gをgrowthと読んで)成長期とも言われる。この期間中、M期では顕著に低かった細胞の生合成活性が再び高まる。G1期では、次のS期で必要とされる種々の(主にDNA複製に用いられる)[[酵素]]が合成される。また[[細胞小器官]]の合成も盛んで、関連する構造タンパクと酵素が多量に消費されるため細胞内の[[代謝]]が活発な期間でもある。G1期はさらに4つの小期に分けられる。
# [[コンピテントセル|コンピテンス]](g1a)
# エントリー(g1b)
# プログレッション(g1c)
# アセンブリ(g1d)
これらの小期は[[成長因子]]、栄養供給、温度、その他の阻害因子により影響を受けうる。S期に入る前にG1期を中断し休眠状態のG0期に入る細胞もある。G1期の長さは様々で、同種の生物でも細胞によって異なるが<ref name="pmid4515625">{{cite journal
| author = Smith JA, Martin L
| title = Do cells cycle?
| journal = Proc. Natl. Acad. Sci. U. S. A.
| volume = 70
| issue = 4
| pages = 1263–7
| year = 1973
| month = April
| pmid = 4515625
| pmc = 433472 }}</ref>、24時間毎に分裂を繰り返しているような活発なヒトの細胞では、G1期に約9時間かかる<ref name=Lodish>{{cite book
| author= Harvey Lodish; Paul Matsudaira; Monty Krieger; Arnold Berk; Chris A. Kaiser
| others= 石浦章一; 須藤和夫; 丸山工作; 石川統; 野田春彦
| title=分子細胞生物学
| publisher= [[東京化学同人]]
| edition=5th
| year=2005
| ISBN=978-4807906154}} </ref>。G1期の終わりには[[細胞周期チェックポイント]]がある。これはDNAに欠陥がなく、細胞の機能が正常なことを確認する一連の安全機構である。機能的には[[サイクリン依存性キナーゼ]]([[:en:cyclin-dependent kinase|Cyclin Dependent Kinase]]; CDK)がこの役目を果たしている。G1期CDKタンパクは様々な遺伝子に対して[[転写因子]]を活性化する。これらの遺伝子の中にはDNA合成タンパク質やS期CDKタンパク質に対応するものも含まれている<ref name=Lodish/>。
===S期===
G1期に続くS期(Synthesis phaseの略)は、染色体DNAが複製される時期である。S期では、[[ヘリカーゼ|DNAヘリカーゼ]]が2重鎖DNAを開裂して1本鎖を作り、続いて[[DNAポリメラーゼ]]が相補的塩基対を結合させることで2本の2重鎖DNAが生成される。DNA合成が完了し、全ての[[染色体]]が複製されたところでS期は終了する。S期の間に細胞内のDNA量は実質2倍になる。S期では[[RNA]][[転写]]とタンパク質合成の速度は非常に低い。しかし、[[ヒストン]]は例外的で、ほとんどのヒストンがS期に作られる<ref name="pmid12370293">{{cite journal
| author = Nelson DM, Ye X, Hall C, Santos H, Ma T, Kao GD, Yen TJ, Harper JW, Adams PD
| title = Coupling of DNA synthesis and histone synthesis in S phase independent of cyclin/cdk2 activity
| journal = Mol. Cell. Biol.
| volume = 22
| issue = 21
| pages = 7459–72
| year = 2002
| month = November
| pmid = 12370293
| pmc = 135676}}</ref><ref name="pmid7199388">{{cite journal
| author = Wu RS, Bonner WM
| title = Separation of basal histone synthesis from S-phase histone synthesis in dividing cells
| journal = Cell
| volume = 27
| issue = 2 Pt 1
| pages = 321–30
| year = 1981
| month = December
| pmid = 7199388
| doi = 10.1016/0092-8674(81)90415-3 }}</ref><ref name="pmid14018040">{{cite journal
| author = Cameron IL, Greulich RC
| title = Evidence for an essentially constant duration of DNA synthesis in renewing epithelia of the adult mouse
| journal = J. Cell Biol.
| volume = 18
| issue =
| pages = 31–40
| year = 1963
| month = July
| pmid = 14018040
| pmc = 2106275 }}</ref>。中心体もS期に複製される。DNAの複製と中心体の複製は独立に行われるが、その進行には多くの共通の因子が関係している。結果的に細胞分裂に必要な細胞内の遺伝物質の複製はS期で完了する<ref>{{Cite journal
| author = Huang, J. H.; Park, I.; Ellingson, E.; Littlepage, L. E.; Pellman, D,
| title = Activity of the APC Cdh1 form of the anaphase-promoting complex persists until S phase and prevents the premature expression of Cdc20p
| journal = Journal of Cell Biology
| volume = 154
| pages = 85–94
| month = July
| year = 2001
| url = http://biosupport.licor.com./docs/odyssey/pubs/TexasChildrensPaper.pdf
| doi = 10.1083/jcb.200102007
| pmid = 11448992
| pmc = 2196868 }}</ref>。
S期ではDNAの損傷が頻繁に起こるが、複製の完了と共に[[DNA修復]]が始まる。修復が不完全な場合は[[細胞周期チェックポイント]]機構で検知され、細胞周期が停止される。この段階を通過するとほとんどの細胞は細胞周期を途中で停止しない。
=== G2期 ===
DNA複製が完了してから、M期に入るまでの期間をG2期と呼ぶ。G2期では再び盛んなタンパク質合成が行われ、主に有糸分裂に必要な[[微小管]]が作られる。一般に間期の中ではG2期が最も短く、例えばヒトの細胞では多くの場合4~5時間で終了する。G2期にはG2/Mチェックポイントがあり、細胞がM期に進めるかどうか判断している。
== M期 ==
[[ファイル:Mitosis-fluorescent.jpg|thumb|分裂中期の細胞。ほとんどの染色体 (青) が赤道面に配列した状態。緑が紡錘体。]]
M期(Mitotic phaseの略<ref>名称はMitosis([[有糸分裂]])に由来するが、M期は[[有糸分裂]]と続く[[細胞質分裂]]を含めた1個の[[母細胞]]が2個の[[娘細胞]]に分かれる分裂過程全体を示す。</ref>)には、'''[[有糸分裂]]'''(mitosis)と'''[[細胞質分裂]]'''(cytokinesis)が行われる。[[有糸分裂]]は、ほとんどの細胞において約1時間程度で終了する。[[有糸分裂]]は、[[染色体]]の動態の光学顕微鏡での観察に基づいて、[[前期 (細胞分裂)|前期]]・[[前中期 (細胞分裂)|前中期]]・[[中期 (細胞分裂)|中期]]・[[後期 (細胞分裂)|後期]]・[[終期 (細胞分裂)|終期]]に分けられる。前期では、[[染色体]]の凝縮([[染色体凝縮]])が起こり、この時期に[[染色体]]が顕微鏡下で観察されるようになる。中期にはいると、[[核膜]]が消失し、[[染色体]]が赤道面上に並ぶ。[[紡錘体]]もこの時期に完成する。後期では、[[セントロメア]]付近で結合していた[[姉妹染色分体]]が、紡錘体に引っ張られるような形で、分離し、極方向に移動を開始する。終期では分離を終えた染色分体が脱凝縮し、その周囲に[[核膜]]が再形成される。また、この時期から[[細胞質分裂]]が始まり、細胞分裂が終了する。
[[有糸分裂]]は、生物種によって異なる様式をとる。例えば、上記のように[[動物]]細胞では[[核膜]]が一時消失する「開いた」[[有糸分裂]](open mitosis)を行う。一方、[[出芽酵母]](''Saccharomyces cerevisiae'')ような[[菌類]]では、M期を通じて[[核膜]]は崩壊せず、[[細胞核]]の中で染色体が分かれる「閉じた」[[有糸分裂]](closed mitosis)を行う<ref>{{cite journal
| author=De Souza CP, Osmani SA
| title=Mitosis, not just open or closed
| journal=Eukaryotic Cell
| volume=6
| issue=9
| pages=1521–7
| year=2007
| pmid=17660363
| doi=10.1128/EC.00178-07}}</ref>。
一般に[[有糸分裂]]と[[細胞質分裂]]は連続的に起こる。しかし、1つの細胞に複数の核が存在する状態を経る生物も多く知られている。[[菌類|真菌]]、[[変形菌]]が代表的な例であるが、その他の生物にも見られる現象である。動物においても例えば[[キイロショウジョウバエ]]のある胚発生段階では[[有糸分裂]]と[[細胞質分裂]]が連続して起こらないことが知られている<ref name=Lilly>{{cite journal
| author = Lilly M, Duronio R
| title = New insights into cell cycle control from the Drosophila endocycle
| journal = Oncogene
| volume = 24
| issue = 17
| pages = 2765–75
| year = 2005
| pmid = 15838513
| doi = 10.1038/sj.onc.1208610}}</ref>。
== 静止期(G0期) ==
{{出典の明記|section=1|date=2010年5月}}
G0期は、細胞分裂も分裂の準備も行われていないG1期が延長している状態ととも、細胞周期から分かれた活動停止状態とも捉えられている{{要出典|date=2010年5月}}。また、神経細胞や心筋細胞などは、細胞分化の果てに有糸分裂の後分裂を止め、成熟し、残りの寿命期間を本来の機能を発揮し続ける。これらの細胞にとってG0期は細胞周期外の非分裂状態にあることからG0期は「有糸分裂後」とも言われることもある。細胞質分裂をしない多核筋細胞もG0期にあると表現される。「有糸分裂後」という用語は、時折G0期と細胞の[[老化]]の両方を示す際に使われる。多細胞[[真核生物]]における非増殖性細胞は一般的にG1期からG0期に入り、長期に、時には([[神経細胞]]の場合などは特に)無制限にG0期にとどまることがある。完全に[[細胞分化]]した細胞のほとんどはG0期に入る。細胞の老化は、子孫細胞が成長できなくなるようなDNAの損傷や劣化に反応してなる状態である。細胞の老化とは、損傷を受けた細胞を自己破壊する[[アポトーシス]]の生化学的代替手段ともいえる。
== 細胞周期の制御 ==
=== 細胞周期エンジン(Cdk/サイクリン複合体)===
細胞周期の進行は、'''[[サイクリン依存性キナーゼ|Cdk]]'''(cyclin-dependent kinase, サイクリン依存性キナーゼ)と'''[[サイクリン]]'''(cyclin)の複合体によって制御されている。Cdk/サイクリン複合体は、細胞周期を前に進めることから、'''細胞周期エンジン'''(cell cycle engine)と呼ばれる。動物細胞では、複数のCdk/サイクリン複合体が細胞周期の進行に関わっている。G1期からS期へ進むには[[Cdk2]]/[[サイクリンE]]複合体、S期からG2期への進行にはCdk2/[[サイクリンA]]複合体、G2期からM期への移行には[[Cdk1]]/[[サイクリンB]]複合体の活性が必要である(Cdk1はCdc2とも呼ばれる)。必要なときに必要な複合体のみ活性化するために、細胞内では、各サイクリンの転写の制御や[[ユビキチン]]依存的な分解、Cdkは[[リン酸化]]・[[脱リン酸化]]などの修飾による活性の制御が行われている。
=== 細胞周期チェックポイント ===
{{main|細胞周期チェックポイント}}
正常な細胞分裂を保障するために、G1/S期など重要なところで細胞周期の進行を正常に行えるか監視するポイントがあり、これを'''[[細胞周期チェックポイント]]機構'''という。
細胞周期チェックポイントは、'''DNA未複製チェックポイント'''、'''紡錘体集合チェックポイント'''、'''染色体分離チェックポイント'''、'''DNA損傷チェックポイント'''からなる。
* '''DNA未複製チェックポイン ト'''
*: DNA未複製チェックポイントは、DNAの複製が完了して分裂期へと進む準備が整っているかを監視している。DNAの複製が未完了であると、'''[[ATR (タンパク質)|ATR]]-[[CHEK1|Chk1]]'''依存的にM期への移行に必要なCdk/サイクリン複合体の活性化を阻害し、細胞 周期を停止させる。
* '''[[紡錘体チェックポイント|紡錘体集合チェックポイント]]'''
*: 紡錘体集合チェックポイントは、M期後期で、紡錘体の形成が正常で分裂期の後期に移行できる状況かをチェックしている。紡錘体の形成に失敗していると、'''[[Mad2]]'''が微小管と結合していない動原体依存的に活性化され、分裂後期開始に必要な'''[[Cdc20]]'''の活性を阻害し、染色体の分裂を停止する。
* '''染色体分離チェックポイント'''
*: 染色体分離チェックポイントは、M期終期に、正常な染色体分配がなされたかをチェックしている。染色体分配に失敗していると、Cdc2/Cyclin B複合体が活性を失わず、細胞質分裂に移れない。
* '''DNA損傷チェックポイント'''
*: DNA損傷チェックポイントは、G1期、G1/S期、S期、G2/M期で働き、DNAに損傷も変異もない正常なDNA合成を保障している。この機構は、'''[[ATM (タンパク質)|ATM]]/ATR'''がそれ自身によってか、あるいはその他の因子によって、DNA損傷を認識することによって活性化され、これが下流の'''Chk1/2'''や'''p53'''、'''[[BAX (タンパク質)|Bax]]'''などを活性化することによって、[[DNA修復]]や[[アポトーシス]]、[[老化]]などによって、望まれない遺伝情報の喪失や細胞のがん化を防いでいる。
== 関連項目 ==
* [[細胞]]
* [[有糸分裂]]・[[体細胞分裂]]・[[減数分裂]]・[[細胞質分裂]]
* [[細胞周期チェックポイント]]
* [[染色体]]・[[微小管]]・[[中心体]]・[[中心小体]]
== 脚注 ==
{{reflist | 2}}
== 参考図書 ==
{{refbegin | 2}}
* {{Cite book|和書
| author=田村隆明, 山本雅・編集
| year=2003
| title= 改定第2版 分子生物学イラストレイテッド
| publisher=羊土社
| isbn=978-4-89706-353-9
}}
* {{Cite book| 和書
| author=G. KARP・著, 山本正幸, 渡辺雄一郎, 児玉有希・訳
| year=2006
| title= カープ 分子細胞生物学 第4版
| publisher=東京化学同人
| isbn=4-8079-0641-0
}}
* {{cite journal
| author = Michelle D. Garrett
| year = 2001
| title = Cell cycle control and cancer
| journal = CURRENT SCIENCE
| volume = 81
| pages = 515-522}}
* {{cite book|和書 | author = Alberts B, Johnson A, Lewis J, Raff M, Roberts K, Walter P | authorlink = | editor = | others = 中村桂子, 中塚公子, 宮下 悦子, 松原謙一, 羽田裕子, 青山聖子, 滋賀陽子, 滝田郁子| title = 細胞の分子生物学 | edition = 第5版 | language = | publisher = ニュートンプレス | location = | year = 2010 | origyear = 2008| chapter = | pages = | quote = | isbn = 978-4315518672 | oclc = | doi = | url = | accessdate = }}
* {{cite book|和書 | author = Krieger M, Scott MP; Matsudaira PT, Lodish HF, Darnell JE, Zipursky L, Kaiser C; Berk A| authorlink = | editor = | others = 石浦章一, 須藤和夫, 丸山工作, 石川統, 野田春彦| title = 分子細胞生物学 | language = | publisher = 東京化学同人| location = New York | year = 2005 | origyear = 2004| edition = 第5版 | quote = | isbn = 978-4807906154 | oclc = | doi = | url = | accessdate = }}
* {{cite book|和書 | author = Watson JD, Baker TA, Bell SP, Gann A, Levine M, Losick R | authorlink = | editor = | others = 中村桂子, 滝田郁子, 宮下悦子, 滋賀陽子, 中塚公子| title = ワトソン 遺伝子の分子生物学| edition = 第5版 | language = | publisher = 東京電機大学出版局 | location = San Francisco | year = 2006 | origyear = 2004| chapter = | pages = | quote = | isbn = 978-4501621209| oclc = | doi = | url = | accessdate = }}
{{refend}}
== 外部リンク ==
* [http://www.tmd.ac.jp/artsci/biol/textbook/celldiv.htm 細胞分裂と細胞周期]東京医科歯科大学
* [http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/checkpnt.htm 細胞周期とチェックポイント]福岡大学理学部化学科機能生物化学研究室
* [http://kusuri-jouhou.com/creature1/period.html 細胞周期、細胞分裂]役に立つ薬の情報~専門薬学
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[[Category:細胞周期|*]]
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受容体
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生化学および薬理学において、受容体(じゅようたい、英: receptor、レセプター、リセプター)は、生命システムに組み込まれる可能性のあるシグナル(信号)を受信し伝達する、タンパク質からなる化学構造体である。これらのシグナルは通常は化学伝達物質であり、受容体に結合して、何らかの形の細胞/組織応答(例: 細胞の電気的活性の変化など)を引き起こす。受容体の働きは、シグナルの中継、増幅、統合の3つに大きく分類される。シグナルを先方に中継し増幅することで、一つのリガンドの効果を増大させ統合することにより、シグナルを別の生化学的経路に組み込み、その経路もまた高度に専門化することを可能とする。
受容体タンパク質は、その位置によって分類することができる。膜貫通型受容体(transmembrane receptors)には、リガンド依存性イオンチャネル受容体(イオンチャネル型受容体)、Gタンパク質共役ホルモン受容体(代謝型受容体)、酵素結合型ホルモン受容体(英語版)などがある。細胞内受容体(intracellular receptor)とは、細胞内に存在する受容体のことで、細胞質受容体と核内受容体に分けられる。受容体に結合する分子はリガンド(ligand)と呼ばれ、たとえばタンパク質やペプチド(短いタンパク質)、または神経伝達物質、ホルモン、医薬品、毒素、カルシウムイオン、ウイルスや微生物の外部の一部などの別の小分子である。特定の受容体に結合する内因性の産生物質を内因性リガンドと呼ぶ。たとえば、ニコチン性アセチルコリン受容体の内因性リガンドはアセチルコリンであり、この受容体はニコチンによって活性化され、クラーレ(毒物の一種)によって阻害されることもある。それぞれの種類の受容体は、シグナルに対応する固有の細胞生化学的経路(英語版)に接続している。ほとんどの細胞では多数の受容体が見られるが、それぞれの受容体は特定の構造をもつリガンドとしか結合しない。これは、錠前が特定の形状の鍵のみしか受け入れないことに例えられる。リガンドが対応する受容体に結合すると、受容体に関連する生化学的経路を活性化あるいは阻害する。
受容体の構造は非常に多様であり、とりわけ次の主要な分類がある。
膜受容体は、溶媒、界面活性剤、および(または)親和性精製(英語版)を用いる複雑な抽出手順により、細胞膜から単離されることがある。
受容体の構造や作用の研究は、X線結晶構造解析、NMR、円偏光二色性、二面偏波式干渉法などの生物物理学的手法で行うことができる。受容体の作用機序を理解するために、受容体の動的挙動のコンピュータシミュレーションも行われている。
リガンド結合は平衡過程である。リガンドLと受容体Rについて、リガンドは受容体に結合し、質量作用の法則に従って次式のように解離する。化学種を囲む括弧は、その濃度を表す。
分子が受容体にどれだけよく適合するかを示す一つの指標は結合親和性で、これは解離定数 Kd に反比例の関係がある。良好な適合性は、高い親和性と低い Kd に対応する。最終的な生物学的反応(例: セカンドメッセンジャーカスケード、あるいは筋収縮)は、相当数の受容体が活性化された後にのみ達成される。
親和性(affinity)とは、リガンドがその受容体に結合する傾向の尺度である。効力(efficacy)とは、結合したリガンドがその受容体を活性化するかどうかの尺度である。
受容体に結合するすべてのリガンドが、その受容体を活性化するわけではない。次のようなリガンドのクラスが存在する。
受容体のアゴニズムとアンタゴニズムという概念は、あくまでも受容体とリガンドの間の相互作用に言及するものであり、それらの生物学的効果を言及するものではない。
リガンドと結合が存在しなくても生物学的反応を起こすことができる受容体は、「構成的活性」(constitutive activity)を示すと言われている。受容体の構成的活性は、逆アゴニストによって阻害されることがある。抗肥満薬のリモナバントとタラナバント(英語版)は、カンナビノイドCB1受容体(英語版)の逆アゴニストであり、有意な体重減少をもたらしたにもかかわらず、カンナビノイド受容体の構成的活性の阻害に関連すると考えられるうつ病や不安症が好発するために、両方とも中止された。
GABAA受容体は構成的活性を持ち、アゴニストの非存在下で、ある程度の基底電流を伝導する。このため、β-カルボリンは逆アゴニストとして作用し、電流を基底レベル以下に減らすことができる。
思春期早発症(黄体形成ホルモン受容体の変異による)や甲状腺機能亢進症(甲状腺刺激ホルモン受容体の変異による)など、遺伝性疾患の背景には、構成的活性の増加をもたらす受容体の変異がある。
薬理学における受容体理論(英語版)の初期形成では、薬物の効果は占拠された受容体の数に正比例するとされていた。そのうえ、薬物の効果は薬物-受容体複合体が解離すると消失するというものであった。
Ariëns (英語版) と Stephenson は、受容体に結合したリガンドの作用を説明するために、「親和性」と「効力」という用語を導入した。
一般に受け入れられた占拠理論(occupation theory)とは対照的に、速度理論(rate theory)では、受容体の活性化は単位時間あたりにおける薬物と受容体との遭遇の総数に正比例すると提案する。薬理活性は、占拠された受容体の数ではなく、解離と会合の速度に正比例する。
薬物が受容体に近づくと、受容体はその結合部位のコンホメーションを変化させて、薬物-受容体複合体を形成する。
ある種の受容体系(たとえば、平滑筋の神経筋接合部におけるアセチルコリン)では、アゴニストは、非常に低いレベルの受容体占拠率(1%未満)で最大の反応を引き出すことができる。このように、その系には予備の受容体、または受容体予備軍が存在する。このような配置により、神経伝達物質の生産と放出の経済性が生み出される。
細胞は、異なる分子に対する感受性を変化させるために、特定のホルモンや神経伝達物質に対する受容体の数を増やす(アップレギュレーション)または減らす(ダウンレギュレーション)ことができる。これは局所的に作用するフィードバック機構である。
受容体のリガンドは、その受容体と同様に多様である。Gタンパク質共役受容体(GPCR、7TM)は特に広大なファミリーであり、少なくとも810個のメンバーが存在する。また、少なくとも10数種類の内因性リガンドに対するリガンド依存性イオンチャネル(LGIC)も存在し、さまざまなサブユニットによってさらに多くの受容体も構成可能である。リガンドと受容体の一般的な例としては、次のものが挙げられる。
イオンチャネル内蔵型(LGIC)および代謝型(具体的にはGPCR)の受容体の例を以下の表に示す。主な神経伝達物質はグルタミン酸およびGABAであり、その他の神経伝達物質は神経調節性(英語版)である。このリストは決して網羅的なものではない。
酵素結合型受容体には、受容体型チロシンキナーゼ(RTK)、骨形成タンパク質のようなセリン/スレオニン特異的タンパク質キナーゼ、心房性ナトリウム利尿因子受容体のようなグアニル酸シクラーゼがある。RTKのうち、20のクラスが特定されており、58種類のRTKがメンバーとなっている。次にいくつかの例を示す。
受容体は、その機構や細胞内の位置に基づいて分類することができる。細胞内LGICの4つの例を以下に示す。
多くの遺伝性疾患では、受容体遺伝子の遺伝的欠陥が関与している。受容体が機能していないのか、ホルモンの産生が低下しているのか、判断するのが困難なことが多い。そのため、ホルモンのレベルが低下しているように見えるが、実際に受容体がホルモンに十分に反応していない内分泌疾患の「偽性-低下症」群を引き起こす。
免疫系における主な受容体は、パターン認識受容体(PRR)、トール様受容体(TLR)、キラー活性化(英語版)およびキラー阻害受容体(KARおよびKIR)、補体受容体(英語版)、Fc受容体、B細胞受容体およびT細胞受容体である。
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"title": "薬物-受容体相互作用の理論"
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"text": "細胞は、異なる分子に対する感受性を変化させるために、特定のホルモンや神経伝達物質に対する受容体の数を増やす(アップレギュレーション)または減らす(ダウンレギュレーション)ことができる。これは局所的に作用するフィードバック機構である。",
"title": "受容体調節"
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"text": "受容体のリガンドは、その受容体と同様に多様である。Gタンパク質共役受容体(GPCR、7TM)は特に広大なファミリーであり、少なくとも810個のメンバーが存在する。また、少なくとも10数種類の内因性リガンドに対するリガンド依存性イオンチャネル(LGIC)も存在し、さまざまなサブユニットによってさらに多くの受容体も構成可能である。リガンドと受容体の一般的な例としては、次のものが挙げられる。",
"title": "事例とリガンド"
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"text": "イオンチャネル内蔵型(LGIC)および代謝型(具体的にはGPCR)の受容体の例を以下の表に示す。主な神経伝達物質はグルタミン酸およびGABAであり、その他の神経伝達物質は神経調節性(英語版)である。このリストは決して網羅的なものではない。",
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"text": "酵素結合型受容体には、受容体型チロシンキナーゼ(RTK)、骨形成タンパク質のようなセリン/スレオニン特異的タンパク質キナーゼ、心房性ナトリウム利尿因子受容体のようなグアニル酸シクラーゼがある。RTKのうち、20のクラスが特定されており、58種類のRTKがメンバーとなっている。次にいくつかの例を示す。",
"title": "事例とリガンド"
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"text": "受容体は、その機構や細胞内の位置に基づいて分類することができる。細胞内LGICの4つの例を以下に示す。",
"title": "事例とリガンド"
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"text": "多くの遺伝性疾患では、受容体遺伝子の遺伝的欠陥が関与している。受容体が機能していないのか、ホルモンの産生が低下しているのか、判断するのが困難なことが多い。そのため、ホルモンのレベルが低下しているように見えるが、実際に受容体がホルモンに十分に反応していない内分泌疾患の「偽性-低下症」群を引き起こす。",
"title": "遺伝性疾患における役割"
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"text": "免疫系における主な受容体は、パターン認識受容体(PRR)、トール様受容体(TLR)、キラー活性化(英語版)およびキラー阻害受容体(KARおよびKIR)、補体受容体(英語版)、Fc受容体、B細胞受容体およびT細胞受容体である。",
"title": "遺伝性疾患における役割"
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生化学および薬理学において、受容体は、生命システムに組み込まれる可能性のあるシグナル(信号)を受信し伝達する、タンパク質からなる化学構造体である。これらのシグナルは通常は化学伝達物質であり、受容体に結合して、何らかの形の細胞/組織応答を引き起こす。受容体の働きは、シグナルの中継、増幅、統合の3つに大きく分類される。シグナルを先方に中継し増幅することで、一つのリガンドの効果を増大させ統合することにより、シグナルを別の生化学的経路に組み込み、その経路もまた高度に専門化することを可能とする。 受容体タンパク質は、その位置によって分類することができる。膜貫通型受容体には、リガンド依存性イオンチャネル受容体(イオンチャネル型受容体)、Gタンパク質共役ホルモン受容体(代謝型受容体)、酵素結合型ホルモン受容体などがある。細胞内受容体とは、細胞内に存在する受容体のことで、細胞質受容体と核内受容体に分けられる。受容体に結合する分子はリガンド(ligand)と呼ばれ、たとえばタンパク質やペプチド(短いタンパク質)、または神経伝達物質、ホルモン、医薬品、毒素、カルシウムイオン、ウイルスや微生物の外部の一部などの別の小分子である。特定の受容体に結合する内因性の産生物質を内因性リガンドと呼ぶ。たとえば、ニコチン性アセチルコリン受容体の内因性リガンドはアセチルコリンであり、この受容体はニコチンによって活性化され、クラーレ(毒物の一種)によって阻害されることもある。それぞれの種類の受容体は、シグナルに対応する固有の細胞生化学的経路に接続している。ほとんどの細胞では多数の受容体が見られるが、それぞれの受容体は特定の構造をもつリガンドとしか結合しない。これは、錠前が特定の形状の鍵のみしか受け入れないことに例えられる。リガンドが対応する受容体に結合すると、受容体に関連する生化学的経路を活性化あるいは阻害する。
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{{Other uses|生物学におけるタンパク質からなる化学構造体|その他の用法|受容体 (曖昧さ回避)}}
[[File:Receptor (Biochemistry).svg|thumb|膜'''受容体'''の一例。 {{ordered list | <!--Ligands, located outside the cell-->細胞外に位置するリガンド| リガンドは、タンパク質の活性部位の形状に基づいて特定の受容体タンパク質に結合する。| リガンドが受容体に結合すると、受容体はメッセンジャーを放出する。}}
]]
[[生化学]]および[[薬理学]]において、'''受容体'''(じゅようたい、{{Lang-en-short|receptor}}、'''レセプター'''、'''リセプター''')は、生命システムに組み込まれる可能性のある[[シグナル伝達|シグナル(信号)]]を受信し伝達する、[[タンパク質]]からなる化学構造体である<ref name="hall">{{cite book |author1=Hall, JE |year=2016 |title= Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology |location= Philadelphia, PA |publisher= Elsevier Saunders |pages=930–937 |isbn=978-1-4557-7005-2}}</ref>。これらのシグナルは通常は化学伝達物質であり{{refn|group=nb|受容体[[ロドプシン]]の場合、入力は化学物質ではなく[[光子]]となる。}}、受容体に結合して、何らかの形の細胞/組織応答(例: 細胞の電気的活性の変化など)を引き起こす。受容体の働きは、シグナルの中継、増幅、統合の3つに大きく分類される<ref name="alberts">{{cite book|last1=Alberts|first1=Bruce|last2=Bray|first2=Dennis|last3=Hopkin|first3=Karen|last4=Johnson|first4=Alexander|last5=Lewis|first5=Julian|last6=Raff|first6=Martin|last7=Roberts|first7=Keith|last8=Walter|first8=Peter | name-list-style = vanc |title=Essential Cell Biology|date=2014|publisher=Garland Science|location=New York, NY, USA|isbn=978-0-8153-4454-4|page=534|edition=Fourth}}</ref>。シグナルを先方に中継し増幅することで、一つの[[リガンド]]の効果を増大させ統合することにより、シグナルを別の生化学的経路に組み込み、その経路もまた高度に専門化することを可能とする<ref name="alberts" />。
受容体タンパク質は、その位置によって分類することができる。膜貫通型受容体(''transmembrane receptors'')には、[[リガンド依存性イオンチャネル|リガンド依存性イオンチャネル受容体]]([[イオンチャネル]]型受容体)、[[Gタンパク質共役受容体|Gタンパク質共役ホルモン受容体]](代謝型受容体)、酵素結合型{{仮リンク|ホルモン受容体|en|Hormone receptor|label=}}などがある<ref name="hall" />。細胞内受容体(''intracellular receptor'')とは、細胞内に存在する受容体のことで、細胞質受容体<!-- cytoplasmic receptors -->と[[核内受容体]]に分けられる<ref name="hall" />。受容体に結合する分子は[[リガンド]](''ligand'')と呼ばれ、たとえばタンパク質や[[ペプチド]](短いタンパク質)、または[[神経伝達物質]]、[[ホルモン]]、[[医薬品]]、[[毒素]]、[[カルシウムイオン]]、[[ウイルス]]や[[微生物]]の外部の一部などの別の[[小分子]]である。特定の受容体に結合する[[内因性 (生物学)|内因性]]の産生物質<!-- endogenously produced substance -->を内因性リガンド<!-- endogenous ligand -->と呼ぶ。たとえば、[[ニコチン性アセチルコリン受容体]]の内因性リガンドはアセチルコリンであり、この受容体は[[ニコチン]]によって活性化され<ref>{{cite journal |last1=Gotti |first1=Cecilia |last2=Marks |first2=Michael. J. |last3= Millar |first3=Neil S. |last4=Wonnacott |first4=Susan |title=Nicotinic acetylcholine receptors (version 2019.4) |journal= IUPHAR/BPS Guide to Pharmacology CITE |date=16 September 2019 |volume=2019 |issue=4 |doi= 10.2218/gtopdb/F76/2019.4 |url=https://www.guidetopharmacology.org/GRAC/FamilyIntroductionForward?familyId=76 |access-date=17 November 2020| doi-access=free }}</ref><ref name="MalenkaNicotine">{{cite book|vauthors=Malenka RC, Nestler EJ, Hyman SE|veditors=Sydor A, Brown RY|title=Molecular Neuropharmacology: A Foundation for Clinical Neuroscience|year=2009|publisher=McGraw-Hill Medical|location=New York|isbn=9780071481274|page=234|edition=2nd|chapter=Chapter 9: Autonomic Nervous System|quote=Nicotine ... is a natural alkaloid of the tobacco plant. Lobeline is a natural alkaloid of Indian tobacco. Both drugs are agonists of nicotinic cholinergic receptors ...}}</ref>、[[クラーレ]](毒物の一種)によって阻害されることもある<ref>{{cite web |title=Curare Drug Information, Professional |url=https://www.drugs.com/mmx/curare.html |website= Drugs.com |access-date=8 December 2020 |language=en}}</ref>。それぞれの種類の受容体は、シグナルに対応する固有の細胞{{Ill2|生化学的経路|en|Biological pathway}}<!-- cellular biochemical pathways -->に接続している。ほとんどの細胞では多数の受容体が見られるが、それぞれの受容体は特定の構造をもつリガンドとしか結合しない。これは、[[酵素#鍵と鍵穴説|錠前が特定の形状の鍵のみしか受け入れない]]ことに例えられる。リガンドが対応する受容体に結合すると、受容体に関連する生化学的経路を活性化あるいは阻害する。
== 構造==
[[File:Transmembrane receptor.svg|thumb|right|膜貫通型受容体: E=細胞外空間、P=細胞膜、I=細胞内空間]]
受容体の構造は非常に多様であり、とりわけ次の主要な分類がある。
; タイプ1 イオンチャネル型受容体 ([[リガンド依存性イオンチャネル]]): これらの受容体は通常、アセチルコリン(ニコチン様)や[[Γ-アミノ酪酸|GABA]]などの高速神経伝達物質の標的であり、これらの受容体の活性化により、膜を横切るイオンの動きに変化が生じる。これらの受容体は、各サブユニットが、細胞外リガンド結合ドメインと4つの膜貫通[[αヘリックス]]を含む膜貫通ドメインからなる、ヘテロマー構造<!-- heteromeric structure -->を持つ。リガンド結合空洞<!-- ligand-binding cavities -->はサブユニット間の界面に位置している。
; タイプ2 [[Gタンパク質共役受容体]] : これは受容体の中で最大のファミリーで、いろいろのホルモンや、ドーパミン、代謝型グルタミン酸などの緩徐性伝達物質<!-- slow transmitters -->の受容体を含んでいる。これらの受容体は、7つの膜貫通αヘリックスから構成されている。αヘリックスをつなぐループは、細胞外ドメインと細胞内ドメインを形成している。大きなペプチドリガンドの結合部位は、通常、細胞外ドメインに位置し、小さな非ペプチドリガンドの結合部位は、7つのαヘリックスと1つの細胞外ループの間に位置することが多い<ref name="pmid19912230">{{cite journal | vauthors = Congreve M, Marshall F | title = The impact of GPCR structures on pharmacology and structure-based drug design | journal = British Journal of Pharmacology | volume = 159 | issue = 5 | pages = 986–96 | date = March 2010 | pmid = 19912230 | pmc = 2839258 | doi = 10.1111/j.1476-5381.2009.00476.x }}</ref>。前述の受容体は、[[Gタンパク質|Gタンパク質]]を介して異なる細胞内効果器系<!-- intracellular effector systems -->と結合される<ref name="pmid=21873996">{{cite journal | vauthors = Qin K, Dong C, Wu G, Lambert NA | title = Inactive-state preassembly of G(q)-coupled receptors and G(q) heterotrimers | journal = Nature Chemical Biology | volume = 7 | issue = 10 | pages = 740–7 | date = August 2011 | pmid = 21873996 | pmc = 3177959 | doi = 10.1038/nchembio.642}}</ref>。Gタンパク質は、α(アルファ)、β(ベータ)、γ(ガンマ)の3つのサブユニットからなるヘテロ三量体である。不活性状態では、3つのサブユニットが会合し、αサブユニットが[[グアノシン二リン酸]](GDP)に結合する<ref>{{Cite book| last=Zubay|first=Geoffrey|title=Biochemistry 4th Ed.|publisher=William C Brown Pub|year=1998|isbn=0697219003|location=Dubuque, IA|pages=684}}</ref>。Gタンパク質が活性化されると構造変化が起こり、GDPを[[グアノシン三リン酸]](GTP)に交換する。αサブユニットにGTPが結合すると、βサブユニットとγサブユニットが解離する<ref>{{Cite book|last1=Garrett|first1=Reginald|title=Biochemistry|last2=Grisham|first2=Charles|publisher=Cengage Learning|year=2012|isbn= 9781473733602|pages=1130}}</ref>。さらに、α、β、γの3つのサブユニットには、一次配列に基づく4つの主要なクラスがある。これらにはG<sub>s</sub>, G<sub>i</sub>, G<sub>q,</sub> G<sub>12</sub>が含まれる<ref>{{Cite journal| last1=Hamm|first1=Heidi E.|last2=Oldham|first2=William M.|date=2008|title=Heterotrimeric G Protein Activation by G-Protein-Coupled Receptors|url=|journal=Nature Reviews Molecular Cell Biology|publisher=Nature Publishing Group|volume=9|issue=1|pages=60–71|doi=10.1038/nrm2299|pmid=18043707|s2cid=24267759}}</ref>。
; タイプ3 キナーゼ結合型受容体および関連受容体(「[[受容体型チロシンキナーゼ]]」および「{{仮リンク|酵素結合型受容体|en|Enzyme-linked receptor}}」も参照): これらはリガンド結合部位を含む細胞外ドメインと、酵素機能を持つ細胞内ドメインが、1つの膜貫通αヘリックスで連結して構成されることが多い。その一例は[[インスリン受容体]]である。
; タイプ4 [[核内受容体]] : 核内受容体と呼ばれているが、実際には[[細胞質]]に存在し、リガンドと結合した後に[[細胞核|核内]]に移動する。それらは[[C末端]]のリガンド結合領域、コア[[DNA結合ドメイン]](DBD)、および''AF1(activation function 1)''領域を含む[[N末端]]ドメインで構成されている。コア領域には2本のジンクフィンガーを有し、この受容体に特異的なDNA配列を認識する役割を担う。N末端は、リガンドに依存しない方法で他の細胞内転写因子と相互作用し、これらの相互作用に応じて、受容体の結合/活性を変化させることができる。そのような受容体の例としてステロイド受容体や甲状腺ホルモン受容体がある<ref name="Rang HP, Dale MM, Ritter JM, Flower RJ, Henderson G 2012">{{cite book |vauthors=Rang HP, Dale MM, Ritter JM, Flower RJ, Henderson G | year=2012 | edition= 7th | title= Rang & Dale's Pharmacology |publisher= Elsevier Churchill Livingstone |isbn= 978-0-7020-3471-8}}</ref>。
膜受容体は、[[溶媒]]、[[界面活性剤]]、および(または){{仮リンク|親和性精製|en|Affinity purification|label=}}を用いる複雑な抽出手順により、細胞膜から単離されることがある。
受容体の構造や作用の研究は、[[X線結晶構造解析]]、[[NMR]]、[[円偏光二色性]]、[[二面偏波式干渉法]]などの生物物理学的手法で行うことができる。受容体の[[作用機序]]を理解するために、受容体の動的挙動の[[コンピュータシミュレーション]]も行われている。
== 結合と活性化 ==
リガンド結合は[[平衡|平衡過程]]である。リガンドLと受容体Rについて、リガンドは受容体に結合し、[[質量作用の法則]]に従って次式のように解離する。化学種を囲む括弧は、その濃度を表す。
:<math chem="">
{[\ce{L}] + [\ce{R}] \ce{<=>[{K_d}]} [\text{LR}]}
</math>
分子が受容体にどれだけよく適合するかを示す一つの指標は結合親和性で、これは[[解離定数]] ''K''<sub>''d''</sub> に反比例の関係がある。良好な適合性は、高い親和性と低い ''K''<sub>''d''</sub> に対応する。最終的な生物学的反応(例: [[セカンドメッセンジャー]]カスケード、あるいは[[筋収縮]])は、相当数の受容体が活性化された後にのみ達成される。
親和性(''affinity'')とは、リガンドがその受容体に結合する傾向の尺度である。効力(''efficacy'')とは、結合したリガンドがその受容体を活性化するかどうかの尺度である。
=== アゴニスト対アンタゴニスト ===
[[File:Efficacy spectrum.png|right|thumb|320px|受容体リガンドの効力スペクトル。]]
受容体に結合するすべてのリガンドが、その受容体を活性化するわけではない。次のようなリガンドのクラスが存在する。
* '''(完全)[[アゴニスト]]'''<!-- (Full) agonists -->(作用薬または作動薬)は、受容体を活性化し、強い生物学的反応をもたらすことができる。ある受容体に対して最大の{{Ill2|固有活性|en|Intrinsic activity|label=効力}}を持つ天然の[[内因性 (生物学)]]リガンドは、定義上、完全アゴニスト(100%の効力)である。
* '''部分アゴニスト'''{{Enlink|Partial agonist|英語版}}は、最大限に結合しても最大の効力で受容体を活性化しないので、完全アゴニストと比べて部分反応を起こす(効力は0~100%の間)。
* '''[[アンタゴニスト]]'''(拮抗薬)は、受容体に結合するが、それを活性化しない。その結果、受容体が遮断され、アゴニストや逆アゴニスト(次項)の結合が阻害される。受容体アンタゴニストには、アゴニストと受容体を奪い合う競合型(可逆型)と、受容体と[[共有結合]](または極めて高い親和性の非共有結合)を形成して完全に遮断する不可逆型がある。プロトンポンプ阻害薬[[オメプラゾール]]は、不可逆型アンタゴニストの一例である。不可逆型アンタゴニストの効力は、新しい受容体の合成によってのみ回復できる。
* '''[[逆アゴニスト]]'''(逆作動薬)は、受容体の構成的活性(後述)を阻害することにより、受容体の活性を低下させる(負の効力)。
* [[アロステリック効果|'''アロステリックモジュレーター''']](アロステリック調節因子): これらは、受容体のアゴニスト結合部位に結合するのではなく、特定のアロステリック結合部位に結合し、それを通じてアゴニストの作用を変化させる。たとえば、[[ベンゾジアゼピン]](BZD)は[[GABAA受容体|GABA<sub>A</sub>受容体]]のBZD部位に結合し、内因性GABAの作用を増強する。
受容体のアゴニズムとアンタゴニズムという概念は、あくまでも受容体とリガンドの間の相互作用に言及するものであり、それらの生物学的効果を言及するものではない。
=== 構成的活性 ===
リガンドと結合が存在しなくても生物学的反応を起こすことができる受容体は、「構成的活性」(''constitutive activity'')を示すと言われている<ref name="Milligan_2003">{{cite journal | vauthors = Milligan G | title = Constitutive activity and inverse agonists of G protein-coupled receptors: a current perspective | journal = Molecular Pharmacology | volume = 64 | issue = 6 | pages = 1271–6 | date = December 2003 | pmid = 14645655 | doi = 10.1124/mol.64.6.1271 | s2cid = 2454589 | url = https://semanticscholar.org/paper/f9b1c96352bd52d0985d81fb2914b46f6c0ac359 }}</ref>。受容体の構成的活性は、[[逆アゴニスト]]によって阻害されることがある。抗肥満薬の[[リモナバント]]と{{仮リンク|タラナバント|en|Taranabant|label=}}は、{{仮リンク|カンナビノイド受容体1型|en|Cannabinoid receptor type 1|label=カンナビノイドCB1受容体}}の[[逆アゴニスト]]であり、有意な体重減少をもたらしたにもかかわらず、カンナビノイド受容体の構成的活性の阻害に関連すると考えられるうつ病や不安症が好発するために、両方とも中止された。
[[GABAA受容体|GABA<sub>A</sub>受容体]]は構成的活性を持ち、アゴニストの非存在下で、ある程度の基底電流<!-- basal current -->を伝導する。このため、[[β-カルボリン]]は逆アゴニストとして作用し、電流を基底レベル以下に減らすことができる。
[[思春期早発症]](黄体形成ホルモン受容体の変異による)や[[甲状腺機能亢進症]](甲状腺刺激ホルモン受容体の変異による)など、[[遺伝性疾患]]の背景には、構成的活性の増加をもたらす受容体の[[遺伝的変異|変異]]がある。
== 薬物-受容体相互作用の理論 ==
=== 占拠 ===
薬理学における{{Ill2|受容体理論|en|Receptor theory}}の初期形成では、薬物の効果は占拠された受容体の数に正比例するとされていた<ref>{{cite journal |last1=Rang |first1=HP |title=The receptor concept: pharmacology's big idea |journal=British Journal of Pharmacology |date=January 2006 |volume=147 Suppl 1 |pages=S9-16 |doi=10.1038/sj.bjp.0706457 |pmid=16402126 |pmc=1760743}}</ref>。そのうえ、薬物の効果は薬物-受容体複合体が解離すると消失するというものであった。
Ariëns{{Enlink|Everhardus Jacobus Ariëns|英語版}} と Stephenson は、受容体に結合したリガンドの作用を説明するために、「親和性」と「効力」という用語を導入した<ref name="pmid13229418">{{cite journal | vauthors = Ariens EJ | title = Affinity and intrinsic activity in the theory of competitive inhibition. I. Problems and theory | journal = Archives Internationales de Pharmacodynamie et de Therapie | volume = 99 | issue = 1 | pages = 32–49 | date = September 1954 | pmid = 13229418 }}</ref><ref name="pmid13383117">{{cite journal | vauthors = Stephenson RP | title = A modification of receptor theory | journal = British Journal of Pharmacology and Chemotherapy | volume = 11 | issue = 4 | pages = 379–93 | date = December 1956 | pmid = 13383117 | pmc = 1510558 | doi = 10.1111/j.1476-5381.1956.tb00006.x }}</ref>。
* [[解離定数|親和性]](''affinity''): 薬物が受容体と結合して薬物-受容体複合体を形成する能力。
* 効力{{Enlink|Intrinsic activity|英語版}}(''efficacy''): 薬物-受容体複合体が反応を開始する能力。固有活性(''intrinsic activity'')とも。
=== 速度===
一般に受け入れられた占拠理論(''occupation theory'')とは対照的に、速度理論(''rate theory'')では、受容体の活性化は単位時間あたりにおける薬物と受容体との遭遇の総数に正比例すると提案する。薬理活性は、占拠された受容体の数'''ではなく'''、解離と会合の速度に正比例する<ref name="isbn0-12-643732-7">{{cite book | author = Silverman RB | title = The Organic Chemistry of Drug Design and Drug Action | edition = 2nd | publisher = Elsevier Academic Press | location = Amsterdam | year = 2004 | isbn = 0-12-643732-7 | chapter = 3.2.C Theories for Drug—Receptor Interactions | chapter-url = https://archive.org/details/organicchemistry00silv_0 | url-access = registration | url = https://archive.org/details/organicchemistry00silv_0 }}</ref>。
* アゴニスト: 速い結合と速い解離を持つ薬物。
* 部分アゴニスト: 中間的会合と中間的解離を持つ薬物。
* アンタゴニスト: 結合が速く解離が遅い薬物。
=== 誘導適合 ===
{{Main|誘導適合}}
薬物が受容体に近づくと、受容体はその結合部位の[[コンホメーション変化|コンホメーションを変化]]させて、薬物-受容体複合体を形成する。
=== スペア受容体 ===
ある種の受容体系(たとえば、平滑筋の神経筋接合部におけるアセチルコリン)では、アゴニストは、非常に低いレベルの受容体占拠率(1%未満)で最大の反応を引き出すことができる。このように、その系には予備の受容体、または受容体予備軍が存在する。このような配置により、神経伝達物質の生産と放出の経済性が生み出される<ref name="Rang HP, Dale MM, Ritter JM, Flower RJ, Henderson G 2012" />。
== 受容体調節 ==
細胞は、異なる分子に対する感受性を変化させるために、特定の[[ホルモン]]や[[神経伝達物質]]に対する受容体の数を増やす([[アップレギュレーション]])または減らす([[ダウンレギュレーション]])ことができる。これは局所的に作用する[[フィードバック]]機構である。
* アゴニストの結合が、受容体を活性化しないような、受容体のコンホメーション変化。これはイオンチャネル受容体で見られる。
* 受容体[[エフェクター分子]]の[[四次構造|解放]]は、Gタンパク質共役受容体で見られる。
* 受容体の[[エンドサイトーシス|隔離]](内在化)<ref>{{cite journal |vauthors=Boulay G, Chrétien L, Richard DE, Guillemette G |date= November 1994 |title= Short-term desensitization of the angiotensin II receptor of bovinde adrenal glomerulosa cells corresponds to a shift from a high to low affinity state |journal= Endocrinology |volume=135 |issue=5 |pages= 2130–6|doi=10.1210/en.135.5.2130|pmid= 7956936 }}</ref>。たとえば、ホルモン受容体の場合。
== 事例とリガンド ==
受容体のリガンドは、その受容体と同様に多様である。[[Gタンパク質共役受容体]](GPCR、7TM)は特に広大なファミリーであり、少なくとも810個のメンバーが存在する。また、少なくとも10数種類の内因性リガンドに対する[[リガンド依存性イオンチャネル]](LGIC)も存在し、さまざまなサブユニットによってさらに多くの受容体も構成可能である。リガンドと受容体の一般的な例としては、次のものが挙げられる<ref name="boron">{{cite book | vauthors = Boulpaep EL, Boron WF |year=2005 |title= Medical Physiology: A Cellular and Molecular Approach |location= St. Louis, Mo |publisher= Elsevier Saunders |page=90 |isbn=1-4160-2328-3}}</ref>。
=== イオンチャネルおよびGタンパク質共役受容体 ===
{{Main|リガンド依存性イオンチャネル<!--Ligand-gated ion channel-->|Gタンパク質共役受容体<!--G protein-coupled receptor-->}}
イオンチャネル内蔵型(LGIC)および代謝型(具体的にはGPCR)の受容体の例を以下の表に示す。主な神経伝達物質はグルタミン酸およびGABAであり、その他の神経伝達物質は{{仮リンク|神経調節|en|Neuromodulation|label=神経調節性}}である。このリストは決して網羅的なものではない。
{| class="wikitable"
|-
! rowspan="2"|内因性リガンド
!colspan="3"|[[リガンド依存性イオンチャネル|リガンド依存性イオンチャネル (LGIC)]]
!colspan="3"|[[Gタンパク質共役受容体|Gタンパク質共役受容体 (GPCR)]]
|-
!受容体
!{{仮リンク|イオン電流|en|Electric current|label=}}{{refn|group=nb|異なるLGICは、異なる[[イオン]]の電流を伝導する。これは、[[カリウムチャネル#選択フィルター|K+チャネルの選択フィルター]]と同様に、選択フィルターを用いて実現される。}}
!外因性リガンド
!受容体
![[Gタンパク質]]
!外因性リガンド
|-
|[[グルタミン酸]]
|{{仮リンク|イオンチャネル型グルタミン酸受容体|en|Ionotropic glutamate receptor|label=}} (iGluR): [[NMDA型グルタミン酸受容体|NMDA]], [[AMPA型グルタミン酸受容体|AMPA]], [[カイニン酸受容体]]
|Na<sup>+</sup>, K<sup>+</sup>, Ca<sup>2+</sup> <ref name="boron" />
|[[ケタミン]]
|[[グルタミン酸受容体]]: [[代謝型グルタミン酸受容体|mGluRs]]
|Gq or Gi/o
| -
|-
|[[Γ-アミノ酪酸|GABA]]
|[[GABAA受容体|GABA<sub>A</sub>受容体]]
({{仮リンク|GABAA-rho受容体|en|GABAA-rho|label=GABA<sub>A</sub>-rho}}を含む)
|Cl<sup>−</sup> > HCO<sup>−</sup><sub>3</sub> <ref name="boron" />
|[[ベンゾジアゼピン]]
|{{仮リンク|GABAB受容体|en|GABAB receptor|label=GABA<sub>B</sub>受容体}}
|Gi/o
|[[バクロフェン]]
|-
|[[アセチルコリン]]
|[[ニコチン性アセチルコリン受容体]] (nAChR)
|Na<sup>+</sup>, K<sup>+</sup>, Ca<sup>2+</sup><ref name="boron" />
|[[ニコチン]]
|[[ムスカリン性アセチルコリン受容体]] (mAChR)
|[[Gqタンパク質αサブユニット|Gq]] or Gi
|[[ムスカリン]]
|-
|[[グリシン]]
|{{仮リンク|グリシン受容体|en|Glycine receptor|label=}}(GlyR)
|Cl<sup>−</sup> > HCO<sup>−</sup><sub>3</sub> <ref name="boron" />
|[[ストリキニーネ]]
| -
| -
| -
|-
|[[セロトニン]]
|[[セロトニン受容体|5-HT<sub>3</sub>受容体]]
|Na<sup>+</sup>, K<sup>+</sup> <ref name="boron" />
|[[セレウリド]]
|[[セロトニン受容体|5-HT1-2 or 4-7]]
|Gs, Gi/o or Gq
| -
|-
|[[アデノシン三リン酸|ATP]]
|[[P2X受容体]]
|Ca<sup>2+</sup>, Na<sup>+</sup>, Mg<sup>2+</sup> <ref name="boron" />
|BzATP{{citation needed|date=April 2019}}
|[[P2Y受容体]]
|Gs, Gi/o or Gq
| -
|-
|[[ドーパミン]]
|No ion channels{{Citation needed|date=April 2019}}
| -
| -
|[[ドーパミン受容体]]
| Gs or Gi/o
| -
|}
=== 酵素結合型受容体 ===
{{Main|{{ill2|酵素結合型受容体|en|Enzyme-linked receptor}}}}
酵素結合型受容体<!-- enzyme linked receptor -->には、[[受容体型チロシンキナーゼ]](RTK)、骨形成タンパク質のようなセリン/スレオニン特異的タンパク質キナーゼ、心房性ナトリウム利尿因子受容体のようなグアニル酸シクラーゼがある。RTKのうち、20のクラスが特定されており、58種類のRTKがメンバーとなっている。次にいくつかの例を示す。
{| class="wikitable"
|-
!RTKクラス/
受容体ファミリー
!メンバー
!内因性リガンド
!外因性リガンド
|-
| I ||[[上皮成長因子受容体]] (EGFR)
|[[上皮成長因子]] (EGF)
|[[ゲフィチニブ]]
|-
| II ||[[インスリン受容体]]
|[[インスリン]]
|{{仮リンク|ケトクロミン|en|Chaetochromin|label=}}
|-
| IV ||[[血管内皮細胞増殖因子受容体]] ([[:en:VEGF receptor|VEGFR]])
|[[血管内皮細胞増殖因子]] (VEGF)
|[[レンバチニブ]]
|}
=== 細胞質受容体 ===
{{Main|{{ill2|細胞質受容体|en|Intracellular receptor}}}}
受容体は、その機構や細胞内の位置に基づいて分類することができる。細胞内LGICの4つの例を以下に示す。
{| class="wikitable"
|-
! 受容体
! リガンド
! イオン電流<!-- ion current -->
|-
| {{仮リンク|環状ヌクレオチド感受性チャネル|en|Cyclic nucleotide-gated ion channel|label=}}
| [[:en:Cyclic guanosine monophosphate|cGMP]] ([[:en:Visual system|vision]]), [[:en:Cyclic adenosine monophosphate|cAMP]] and [[:en:Cyclic guanosine triphosphate|cGTP]] ([[:en:Olfaction#Main olfactory system|olfaction]])
[[環状グアノシン一リン酸]](cGMP) ([[視覚|視覚系]]), [[環状アデノシン一リン酸]](aAMP), [[グアノシン三リン酸]](cGTP) ([[嗅覚|嗅覚系]])
| Na<sup>+</sup>, K<sup>+</sup> <ref name=boron/>
|-
| [[イノシトールトリスリン酸受容体]] (IP<sub>3</sub> 受容体)
| [[イノシトールトリスリン酸]] (IP<sub>3</sub>)
| Ca<sup>2+</sup> <ref name=boron/>
|-
| 細胞内[[アデノシン三リン酸|ATP]]受容体
| [[アデノシン三リン酸|ATP]] (閉チャネル<!-- closes channel -->)<ref name="boron" />
| K<sup>+</sup> <ref name=boron/>
|-
| [[リアノジン受容体]]
| Ca<sup>2+</sup> || Ca<sup>2+</sup> <ref name=boron/>
|}
== 遺伝性疾患における役割 ==
=== 遺伝性疾患において ===
多くの[[遺伝子疾患|遺伝性疾患]]では、受容体遺伝子の遺伝的欠陥が関与している。受容体が機能していないのか、ホルモンの産生が低下しているのか、判断するのが困難なことが多い。そのため、[[ホルモン]]のレベルが低下しているように見えるが、実際に受容体がホルモンに十分に反応していない[[内分泌疾患]]の「偽性-低下症」群<!-- "pseudo-hypo-" group -->を引き起こす。
=== 免疫系内において ===
{{Main article|{{ill2|免疫受容体|en|Immune receptor}}}}
[[免疫系]]における主な受容体は、[[パターン認識受容体]](PRR)、[[トール様受容体]](TLR)、{{仮リンク|キラー活性化受容体|en|Killer activation receptor|label=キラー活性化}}および[[ナチュラルキラー細胞#抑制性受容体|キラー阻害受容体]](KARおよびKIR)、{{仮リンク|補体受容体|en|Complement receptor|label=}}、[[Fc受容体]]、[[B細胞受容体]]および[[T細胞受容体]]である<ref name="isbn0-7817-9543-5">{{cite book |vauthors=Waltenbaugh C, Doan T, Melvold R, Viselli S | title = Immunology |url=https://archive.org/details/lippincottsillus00doan |url-access=limited | publisher = Wolters Kluwer Health/Lippincott Williams & Wilkins | location = Philadelphia | year = 2008 | page = [https://archive.org/details/lippincottsillus00doan/page/n354 20] | isbn = 978-0-7817-9543-2 }}</ref>。
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|group=nb}}
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* {{仮リンク|結合親和性データベース|en|Ki Database|label=}}
* [[リガンド依存性イオンチャネル]]
* {{仮リンク|神経精神薬理学|en|Neuropsychopharmacology|label=}}
* リガンド受容体阻害のための[[シルト回帰]]
* [[シグナル伝達]]
* {{仮リンク|幹細胞マーカー|en|Stem cell marker|label=}}
* {{Ill2|MeSHコードの一覧 (D12.776)|en|List of MeSH codes (D12.776)}}
* {{仮リンク|受容体説|en|Receptor theory|label=}}
== 外部リンク ==
* {{脳科学辞典|核内受容体}}
* {{脳科学辞典|グリシン受容体|nolink=yes}}
* {{脳科学辞典|GABA受容体|nolink=yes}}
* [http://www.guidetopharmacology.org/ IUPHAR GPCRデータベースとイオンチャネル概要] {{En icon}}
* {{MeshName|Cell+surface+receptors}}
<!--
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{{Transcription factors|g2}}
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{{DEFAULTSORT:しゆようたい}}
[[Category:受容体|*]]
[[Category:分子生物学]]
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[[Category:生化学]]
[[Category:生理学]]
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四日市市
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四日市市(よっかいちし)は、三重県北部(北勢)に位置する市。
人口は県庁所在地の津市を凌いで三重県内最多で、国から施行時特例市と保健所政令市の指定を受けている。また、都市雇用圏の人口は、東海地方では名古屋市、浜松市、静岡市、岐阜市、豊橋市に次いで第6位である。また、三重県という県名は、かつて四日市市(当時は四日市町)が属していた郡名が由来となっている。
臨海部の四日市港に四日市コンビナートが立地する工業都市で、昭和戦後期の四日市ぜんそく公害病事件を克服した環境問題推進都市である。豊田市や名古屋市などとともに中京工業地帯を構成する日本有数の臨海工業都市であるが、近年は内陸部に電子機器などのハイテク産業の集積が進みキオクシア(旧東芝メモリ)の半導体工場はNAND型フラッシュメモリの製造拠点として世界最大級の規模を誇る。
四日市市は、中京工業地帯の代表的な工業都市である。市内を走る近鉄名古屋線・湯の山線、JR関西本線、伊勢鉄道、四日市あすなろう鉄道の鉄道網を利用する市内外からの通勤・通学者も多く、独自の四日市都市雇用圏を形成している。
中心市街地は近鉄四日市駅周辺である。幅70mの中央通りは四日市を代表する大通りで、戦後の復興計画で建設された。郊外の団地は昭和の大合併で編入された地域で、三重団地(三重地区)、桜台(桜地区)、三滝台(川島地区)、あかつき台(八郷地区)など、市内西部に位置する地域が多い。南部の笹川団地(四郷地区)には日系ブラジル人の居住者が多い。
三重県北勢地域の中心都市である為、三重郡の各町や桑名市、鈴鹿市、亀山市などから当市へ通勤・通学する者も多く、昼夜間人口比率は100%を超えている。
2000年11月1日の制度運用開始とともに特例市に指定された。2005年2月7日に隣接する三重郡楠町を平成の大合併による市町村合併で編入したことで人口が30万人を超えたため中核市移行を目指しているが、大矢知地区の産業廃棄物問題が解決しないため移行の目途が立っていない。中核市移行の準備段階として、2008年4月1日に保健所政令市に指定された。
古くは、東海道の宿駅(→四日市宿)で、伊勢神宮への分岐点が日永地区に追分という地名として残っている。市名は四のつく日に市がたったことに由来し、現在も各地で市が開かれている。四日市中心部は江戸時代天領になっており、伊勢国北部の北勢地域では行政の中心地であった。
1960年代から1970年代にかけて工場の排煙による大気汚染により日本四大公害病の一つである四日市ぜんそくの発生地として悪名を轟かせていたが、現在は法整備や汚染防止技術向上などの対策が格段に進み、工業地帯周辺の大気状態も良好になっている。 郊外には田園や茶畑が広がる豊かな自然が望める。また、江戸時代から蜃気楼が見られたことでも知られている。
三重県北部に位置し、市域は伊勢湾から鈴鹿山系にまで及ぶ。市制施行までは、県名の由来である三重郡に所属。
四日市市合併・編入前の町村の範囲を区域として「xx地区」(xx:旧町村名)と呼ぶ。各地区ごとに「地区市民センター」の設置がある。旧町村の範囲を基本とするが、大規模団地造成等のため地区割を変更するケースもある。
人口移動に関しては、沿岸部諸地区の人口が減少する半面、内陸部の地区の人口が上昇傾向にあり、各所でドーナツ化現象がみられる。 四日市市内は中心部・南部・北部・西部の地区に区分される。中心市街地のある橋北地区・中部地区の中心部と南部の塩浜地区ではドーナツ化現象と公害の影響で人口が減少している。四日市ぜんそくの影響が続き、人口の流出があった。北部地域の富田地区・富洲原地区でも人口が減少した。伊勢湾台風などの水害被害からの内陸部への避難や平田紡績や東洋紡績富田工場などの繊維企業が撤退したり富田駅前商店街・富田中央通り商店街・富田中町商店街・東洋町商店街・西元町商店街・住吉町風俗街などの商店街が衰退したことが原因である。一方、中心市街地の周辺地域や旧三重郡の四日市市西部で団地が多数新設された不動産開発地域と大矢知地区などでは人口が増加している。四日市市コンビナート企業に勤務する労働者や名古屋圏からの住民が流入して宅地開発が進んだことが原因である。
2018年12月末、三重県内最多の外国人住民を抱え、9602人、割合は3,08%。
2021年2月28日・10,537人。ブラジル人が一番多い(22%)(広報よっかいち・2021年4月)
古くはヤマトタケルノミコトが東征の帰途に通過したという伝説が残る。古墳時代から栄え、市内には土器窯や土器片出土地が分布する。また、飛鳥時代には壬申の乱で大海人皇子が兵を集めたと言われる。
現在の四日市市街にあたる地域は、平安時代後期まではごく小規模な集落が存在するのみであった。しかし鎌倉時代から室町時代にかけて建立された寺が多いことから、その頃に発展を始めたものと考えられる。平安時代になり平安京が都となると、千草峠や八風街道から鈴鹿山脈を越えて近江・京都方面との往来が盛んとなり、伊勢商人や近江商人が峠越えをして活発に商いを行った。
安土桃山時代:天然の良港によって回船業が発達し、市場が出来る。戦国時代の領主の赤堀氏の支配下で『四』の付く日に市場が開かれたため、これが『四日市』の由来になったとされる。本能寺の変では逃亡する徳川家康を四日市の回船問屋が手助けし、その恩として幕府の直轄領(天領)になったとされている。実際は家康自身が陸海の要地であると認めたためと考えられる。
江戸時代:天領である四日市に、四日市陣屋(代官所)や高札場ができ、北勢の行政・商業の中心地となる。東海道(東海道五十三次)の主要宿場(四日市宿)として本陣や宿駅も設置される。日永追分も現在の四日市市内にある。江戸末期、安政の大地震によって港が壊滅し、回船業が衰退していく。また四日市は尾張の宮宿(熱田)と十里の渡しで繋がり、東海道や伊勢参りの旅人に多く利用された。
四日市の別称・美称として、孔子ゆかりの地名(山東省泗水県)にあやかった「泗水(しすい)」がある。当地の陣屋に勤務していた郡山藩士城戸賢が、1803年(享和3年)に刊行した詩集『東帰稿刪』に「泗水行」とする一編を載せたのが、確認できる最初とされる。一説には、江戸時代に四日市町(四日市宿)にあった4つの井戸を指して「泗水(の井戸)」と呼んだという。なお、三重郡と四日市市の範囲を指して「三泗(地区)」と呼ぶ表現がある。
現在の港の基礎は、幕末から明治初期に回船問屋の稲葉三右衛門(1837年(天保8年)-1914年(大正3年))が私財を投じて整備した。周辺住民の反対など様々な困難があったが、現在の四日市港の礎を造った偉人として、JR四日市駅前に銅像が建てられている。
四日市中消防署(中部地区・橋北地区・海蔵地区・常磐地区)
四日市北消防署(富田地区・富洲原地区・羽津地区・大矢知地区・八郷地区・下野地区・保々地区)
四日市南消防署(塩浜地区・日永地区・河原田地区・内部地区・楠地区)
その他の市内の郵便局は 日本郵政地域図検索(四日市市) を参照。
四日市港は伊勢湾北西部に位置する。四日市コンビナートが隣接するなど工業港としての性格が強い。近年の工場夜景ブームにおいては川崎港や水島コンビナートと並びその景観に人気のある臨海工業エリアであり、観光資源にもなりつつある。
明治以降、日本の近代化の歩みとともに四日市港を中心に商工業都市に進展。特に高度経済成長期に石油化学系企業が多数立地して、三重県下最大の工業都市、商業都市に発展している。又、伊藤伝七が操業した三重紡績を前身とする東洋紡績や四日市岡田家の家業から発展したイオングループなどの発祥の地でもある。
自然環境に恵まれ農業も盛ん、地区別の代表的生産分布は以下のとおり
四日市市漁協
本市はイオン発祥の地であり、市内にはイオンタウンやイオンモールなどのイオン系SCが多く出店している。またスーパーサンシ、一号舘などの小売業は市内に本社を置く。
広報よっかいち
ちゃんねるよっかいち
よっかいちわいわい人探訪!、ALO!YOKKAICHI!(アロー-)、人権を確かめあう日特集(毎月22日に放送)
JTBの時刻表では四日市駅が中心駅と記載されているが、実質的には近鉄四日市駅が中心駅である。
2020年(令和2年)5月11日より、車検証の住所(使用者)が本市にある自動車には四日市ナンバー(ご当地ナンバー)が交付されるようになった。それ以前は三重ナンバーが交付されていた。
市が俳優の京本政樹に制作・主演を依頼、時代劇風ストーリー仕立てで、四日市市の観光名所や名産品の紹介をするプロモーション動画が、Youtubeで公開されている。
市内各地に午前中を中心として市場が立つ。近隣農家が市価より安く作物を販売している。農作物以外にも個人商店が鮮魚、衣料、生花、菓子などを並べている。
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"text": "四日市中消防署(中部地区・橋北地区・海蔵地区・常磐地区)",
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"text": "明治以降、日本の近代化の歩みとともに四日市港を中心に商工業都市に進展。特に高度経済成長期に石油化学系企業が多数立地して、三重県下最大の工業都市、商業都市に発展している。又、伊藤伝七が操業した三重紡績を前身とする東洋紡績や四日市岡田家の家業から発展したイオングループなどの発祥の地でもある。",
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"text": "自然環境に恵まれ農業も盛ん、地区別の代表的生産分布は以下のとおり",
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"text": "四日市市漁協",
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"text": "本市はイオン発祥の地であり、市内にはイオンタウンやイオンモールなどのイオン系SCが多く出店している。またスーパーサンシ、一号舘などの小売業は市内に本社を置く。",
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"text": "市内各地に午前中を中心として市場が立つ。近隣農家が市価より安く作物を販売している。農作物以外にも個人商店が鮮魚、衣料、生花、菓子などを並べている。",
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] |
四日市市(よっかいちし)は、三重県北部(北勢)に位置する市。 人口は県庁所在地の津市を凌いで三重県内最多で、国から施行時特例市と保健所政令市の指定を受けている。また、都市雇用圏の人口は、東海地方では名古屋市、浜松市、静岡市、岐阜市、豊橋市に次いで第6位である。また、三重県という県名は、かつて四日市市(当時は四日市町)が属していた郡名が由来となっている。 臨海部の四日市港に四日市コンビナートが立地する工業都市で、昭和戦後期の四日市ぜんそく公害病事件を克服した環境問題推進都市である。豊田市や名古屋市などとともに中京工業地帯を構成する日本有数の臨海工業都市であるが、近年は内陸部に電子機器などのハイテク産業の集積が進みキオクシア(旧東芝メモリ)の半導体工場はNAND型フラッシュメモリの製造拠点として世界最大級の規模を誇る。
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{{日本の市
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| 画像の説明 ={{Crlf2}}
{{(!}}style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse"
{{!}}style="width:100%" colspan="2"{{!}}[[四日市港ポートビル]]と[[四日市港]]
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| 市旗 = [[ファイル:Flag of Yokkaichi, Mie.svg|100px|border|四日市市旗]]
| 市旗の説明 = 四日市[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Yokkaichi, Mie.svg|75px|四日市市章]]
| 市章の説明 = 四日市[[市町村章|市章]]<br />[[1897年]][[8月1日]]制定
| 自治体名 = 四日市市
| 都道府県 = 三重県
| コード = 24202-1
| 隣接自治体 = [[桑名市]]、[[鈴鹿市]]、[[いなべ市]]、[[三重郡]][[朝日町 (三重県)|朝日町]]、[[川越町]]、[[菰野町]]、[[員弁郡]][[東員町]]<br />[[滋賀県]][[甲賀市]]
| 木 = [[クスノキ]]
| 花 = [[サルビア]]
| シンボル名 = 市の鳥
| 鳥など = [[ユリカモメ]]
| 郵便番号 = 510-8601
| 所在地 = 四日市市諏訪町1番5号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-24|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Yokkaichi City Office.jpg|250px|四日市市役所]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|24|202|image=Yokkaichi in Mie Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
| 特記事項 =
}}
'''四日市市'''(よっかいちし)は、[[三重県]]北部([[北勢]])に位置する[[市]]。
人口は[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]の[[津市]]を凌いで三重県内最多で<ref>{{Cite web|和書|title=県庁所在地だけど県内一の人口・規模じゃない都市たち|url=https://news.livedoor.com/article/detail/10465500/|website=ライブドアニュース|accessdate=2021-11-23|language=ja}}</ref>、国から[[特例市|施行時特例市]]と[[保健所政令市]]の指定を受けている。また、[[都市雇用圏]]の人口は、[[東海地方]]では[[名古屋市]]、[[浜松市]]、[[静岡市]]、[[岐阜市]]、[[豊橋市]]に次いで第6位である。また、[[三重県]]という県名は、かつて四日市市(当時は四日市町)が属していた[[三重郡|郡]]名が由来となっている。
臨海部の[[四日市港]]に[[四日市コンビナート]]が立地する工業都市で、昭和戦後期の[[四日市ぜんそく]][[公害病]]事件を克服した[[環境問題]]推進都市である。[[豊田市]]や[[名古屋市]]などとともに[[中京工業地帯]]を構成する日本有数の臨海[[工業地域|工業都市]]であるが、近年は内陸部に電子機器などのハイテク産業の集積が進み[[キオクシア]](旧[[東芝メモリ]])の半導体工場は[[NAND型フラッシュメモリ]]の製造拠点として世界最大級の規模を誇る。
== 概要 ==
[[ファイル:四日市ふれあいモール.jpg|thumb|220px|近鉄四日市駅前ふれあいモール]]
四日市市は、[[中京工業地帯]]の代表的な工業都市である。市内を走る[[近鉄名古屋線]]・[[近鉄湯の山線|湯の山線]]、[[関西線 (名古屋地区)|JR関西本線]]、[[伊勢鉄道]]、[[四日市あすなろう鉄道]]の鉄道網を利用する市内外からの通勤・通学者も多く、独自の四日市[[都市雇用圏]]を形成している。
中心市街地は[[近鉄四日市駅]]周辺である。幅70mの[[中央通り (四日市市)|中央通り]]は四日市を代表する大通りで、戦後の復興計画で建設された。郊外の団地は[[昭和の大合併]]で編入された地域で、三重団地(三重地区)、桜台(桜地区)、三滝台(川島地区)、あかつき台(八郷地区)など、市内西部に位置する地域が多い。南部の笹川団地(四郷地区)には[[日系ブラジル人]]の居住者が多い。
三重県[[北勢|北勢地域]]の中心都市である為、[[三重郡]]の各町や[[桑名市]]、[[鈴鹿市]]、[[亀山市]]などから当市へ通勤・通学する者も多く、昼夜間人口比率は100%を超えている。
[[2000年]][[11月1日]]の制度運用開始とともに[[特例市]]に指定された。[[2005年]][[2月7日]]に隣接する[[三重郡]][[楠町 (三重県)|楠町]]を[[平成の大合併]]による[[市町村合併]]で編入したことで[[人口]]が30万人を超えたため[[中核市]]移行を目指しているが、大矢知地区の産業廃棄物問題が解決しないため移行の目途が立っていない。中核市移行の準備段階として、[[2008年]][[4月1日]]に[[保健所政令市]]に指定された。
古くは、[[東海道]]の[[宿駅]](→[[四日市宿]])で、[[伊勢神宮]]への分岐点が日永地区に[[日永の追分|追分]]という[[地名]]として残っている。市名は四のつく日に市がたったことに由来し、現在も各地で市が開かれている。四日市中心部は江戸時代[[天領]]になっており、[[伊勢国]]北部の[[北勢]]地域では行政の中心地であった。
1960年代から1970年代にかけて工場の排煙による大気汚染により日本四大公害病の一つである[[四日市ぜんそく]]の発生地として悪名を轟かせていたが、現在は法整備や汚染防止技術向上などの対策が格段に進み、工業地帯周辺の大気状態も良好になっている。
郊外には田園や茶畑が広がる豊かな自然が望める。また、[[江戸時代]]から[[蜃気楼]]が見られたことでも知られている。
{{Wide image|四日市港ポートビルよりパノラマ眺望.jpg|1920px|[[四日市港ポートビル]]から眺めた四日市市の風景 (2011年7月)}}
== 地理 ==
[[ファイル:Yokkaichi city center area Aerial photograph.1987.jpg|thumb|200px|四日市市中心部周辺の空中写真。1987年撮影の24枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
三重県北部に位置し、市域は[[伊勢湾]]から鈴鹿山系にまで及ぶ。市制施行までは、県名の由来である[[三重郡]]に所属。
=== 地形 ===
==== 河川 ====
;主な川
{{Columns-list|colwidth=12em|content=
*[[朝明川]]
*名前川
*朝明新川
*大鐘谷川
*平津川
*半谷川
*山城谷川
*[[海蔵川]]
*部田川
*江田川
*竹谷川
*矢の根川
*堀川
*源の堀川
*[[三滝川]]
*野田川
*三滝新川
*東谷川
*西谷川
*横川
*矢合(ヤゴウ)川
*蟹川
*大谷川
*金渓(カンタニ)川
*南河原川
*[[天白川 (三重県)|天白川]]
*高花川
*稲田川
*落合川
*[[鹿化川]]
*[[内部川]]
*鎌谷川
*足見川
*水沢谷川
*雨池川
*鉄砲川
*[[鈴鹿川]]
*鈴鹿派川
*十四川
*大川
*米洗(ヨナイ)川
*沢の川
*阿瀬知川
*江川
*蒲の川
*古城川
*宮下川
*彦左川
*広永川
*小池川
*大溝川
*河原田谷川
*猿法師川など
}}
==== 公園 ====
;主な公園
*[[鈴鹿国定公園]]
*[[南部丘陵公園]]
*四日市中央緑地
*[[霞ヶ浦緑地公園]]
*鵜の森公園
*[[智積養水]]記念公園
=== 気候 ===
<div style="font-size:smaller">
{{climate chart|'''四日市市'''
|-0.1|9.0|55.5
|0.0|10.0|67.2
|2.9|13.3|117.8
|7.9|18.7|153.7
|13.0|23.2|189.3
|17.8|26.1|249.0
|22.2|29.9|208.0
|23.2|31.4|158.8
|19.4|27.7|286.9
|13.0|22.4|182.9
|7.1|17.0|79.7
|2.0|11.5|58.5
|float=right
|source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=53&block_no=47684&year=&month=&day=&view= 気象庁]
}}
</div>
* 気温 - 最高38.8℃([[1994年]](平成6年)[[8月5日]])、最低-8.9℃([[2023年]](令和5年)[[1月26日]])
* 最大日降水量 - 295ミリ([[2000年]](平成12年)[[9月11日]])→[[東海豪雨]]による最大[[降水量]]
* 最小湿度 - 8%([[2004年]](平成16日)[[2月13日]]、[[2006年]](平成18年)[[3月25日]])
* 最大瞬間風速 - 49.4メートル([[1998年]](平成10年)[[9月22日]])
* 最深積雪 - 53センチ([[1995年]](平成7年)[[12月26日]])
* 夏日最多日数 - 140日([[2013年]](平成25年))
* 真夏日最多日数 - 72日(1994年(平成6年))
* 猛暑日最多日数 - 13日(1995年(平成7年)、2013年(平成25年))
* 熱帯夜最多日数 - 25日(1994年(平成6年))
{{Weather box
|location = 四日市特別地域気象観測所(四日市市日永、標高55m)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan record high C = 19.9
|Feb record high C = 22.2
|Mar record high C = 24.5
|Apr record high C = 29.5
|May record high C = 33.1
|Jun record high C = 36.8
|Jul record high C = 37.9
|Aug record high C = 38.8
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|Oct record high C = 31.5
|Nov record high C = 24.8
|Dec record high C = 21.9
|year record high C = 38.8
|Jan high C = 9.0
|Feb high C = 10.0
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|Nov high C = 17.0
|Dec high C = 11.5
|year high C = 20.0
|Jan mean C = 4.3
|Feb mean C = 4.9
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|Jan low C = -0.1
|Feb low C = 0.0
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|Dec low C = 2.0
|year low C = 10.7
|Jan record low C = -8.9
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|Mar record low C = -4.6
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|May record low C = 3.8
|Jun record low C = 9.8
|Jul record low C = 13.7
|Aug record low C = 15.8
|Sep record low C = 9.7
|Oct record low C = 2.2
|Nov record low C = -1.0
|Dec record low C = -5.6
|year record low C = -8.9
|Jan precipitation mm = 55.5
|Feb precipitation mm = 67.2
|Mar precipitation mm = 117.8
|Apr precipitation mm = 153.7
|May precipitation mm = 189.3
|Jun precipitation mm = 249.0
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|year precipitation mm = 1807.3
|Jan humidity = 68
|Feb humidity = 67
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|year humidity = 73
|unit precipitation days = 0.5 mm
|Jan precipitation days = 7.3
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|Jan sun = 152.2
|Feb sun = 149.5
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|year sun = 1988.0
|source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1966年-現在)<ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=53&block_no=47684&year=&month=&day=&view=
| title = 平年値ダウンロード
| accessdate = 2023-04
| publisher = 気象庁}}
</ref><ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=53&block_no=47684&year=&month=&day=&view=
| title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)
| accessdate = 2023-04
| publisher = 気象庁}}
</ref>
}}
=== 地域 ===
{{See also|Category:四日市市の町・字}}
四日市市合併・編入前の町村の範囲を区域として「xx地区」(xx:旧町村名)と呼ぶ。各地区ごとに「地区市民センター」の設置がある。旧町村の範囲を基本とするが、大規模団地造成等のため地区割を変更するケースもある。
=== 人口 ===
{{人口統計|code=24202|name=四日市市|image=Population distribution of Yokkaichi, Mie, Japan.svg}}
;ドーナツ化現象の発生
人口移動に関しては、沿岸部諸地区の人口が減少する半面、内陸部の地区の人口が上昇傾向にあり、各所で[[ドーナツ化現象]]がみられる<ref group="注">四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の74ページ地区別の人口と世帯数の推移。昭和30年から平成7年</ref>。
四日市市内は中心部・南部・北部・西部の地区に区分される。中心市街地のある[[橋北地区]]・中部地区の中心部と南部の塩浜地区ではドーナツ化現象と[[公害]]の影響で人口が減少している。四日市ぜんそくの影響が続き、人口の流出があった。北部地域の富田地区・[[富洲原地区]]でも人口が減少した。[[伊勢湾台風]]などの[[水害]]被害からの内陸部への避難や[[平田紡績]]や[[東洋紡績富田工場]]などの繊維企業が撤退したり富田駅前商店街・富田中央通り商店街・富田中町商店街・東洋町商店街・西元町商店街・住吉町風俗街などの商店街が衰退したことが原因である。一方、中心市街地の周辺地域や旧三重郡の四日市市西部で団地が多数新設された不動産開発地域と[[大矢知地区]]などでは人口が増加している。四日市市コンビナート企業に勤務する労働者や[[名古屋圏]]からの住民が流入して宅地開発が進んだことが原因である。
;外国人人口の割合
;[[2018年]](平成30年)の三重県の公式ホームページの人口調査では以下となっている。
*四日市市の総人口に占める[[外国人]]の割合は県内第8位で[[津市]]に次いで多く四日市市民の3,08%の9602人が外国人である。主な構成は[[日系ブラジル人]]・[[在日中国人]]・[[在日韓国人]]であり、合計54カ国の外国人が居住する<ref>http://www.pref.mie.lg.jp/common/content/000819878.pdfH30外国人住民数調査結果詳細資料</ref>。
[[2018年]]12月末、三重県内最多の外国人住民を抱え、9602人、割合は3,08%。
<ref>http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/m0011500177.htm外国人住民国籍・地域別人口調査(平成30年12月31日現在)の結果</ref>
2021年2月28日・10,537人。ブラジル人が一番多い(22%)(広報よっかいち・2021年4月)
;人口構造
*繊維産業が盛んだった昭和20年代までは若い女性人口が多かった。戦後は[[四日市ぜんそく]]の発生などの四日市公害の影響で昭和40年代には全国平均より平均寿命が短く、[[乳児死亡率]]も全国平均が1000人に対して18.1人であるのに対し、四日市市全体で25.6人、塩浜地区は36.1人、と高く、また、自殺率が高かった。その後環境改善がなされ、昭和51年度には大気汚染物質である二酸化硫黄の濃度が市内全域で環境基準を達成し、現在は良好な状況で継続している。
=== 隣接している自治体 ===
;{{Flagicon|三重県}}[[三重県]]
*[[桑名市]]
*[[鈴鹿市]]
*[[いなべ市]]
*[[三重郡]][[菰野町]]
*三重郡[[朝日町 (三重県)|朝日町]]
*三重郡[[川越町]]
*[[員弁郡]][[東員町]]
;{{Flagicon|滋賀県}}[[滋賀県]]
*[[甲賀市]]
== 歴史 ==
古くは[[ヤマトタケル|ヤマトタケルノミコト]]が東征の帰途に通過したという伝説が残る。[[古墳時代]]から栄え、市内には土器窯や土器片出土地が分布する。また、[[飛鳥時代]]には[[壬申の乱]]で[[天武天皇|大海人皇子]]が兵を集めたと言われる。
現在の四日市市街にあたる地域は、[[平安時代]]後期まではごく小規模な集落が存在するのみであった。しかし[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]にかけて建立された寺が多いことから、その頃に発展を始めたものと考えられる。[[平安時代]]になり[[平安京]]が都となると、[[千草峠]]や[[八風街道]]から[[鈴鹿山脈]]を越えて[[近江国|近江]]・京都方面との往来が盛んとなり、[[伊勢商人]]や[[近江商人]]が峠越えをして活発に商いを行った。
[[安土桃山時代]]:天然の良港によって回船業が発達し、市場が出来る。戦国時代の領主の[[赤堀氏]]の支配下で『四』の付く日に市場が開かれたため、これが『四日市』の由来になったとされる。[[本能寺の変]]では逃亡する[[徳川家康]]を四日市の回船問屋が手助けし、その恩として幕府の直轄領([[天領]])になったとされている。実際は家康自身が陸海の要地であると認めたためと考えられる。
[[江戸時代]]:天領である四日市に、[[四日市陣屋]](代官所)や高札場ができ、北勢の行政・商業の中心地となる。[[東海道]]([[東海道五十三次]])の主要宿場([[四日市宿]])として[[本陣]]や[[宿駅]]も設置される。[[日永追分]]も現在の四日市市内にある。江戸末期、[[安政の大地震]]によって港が壊滅し、回船業が衰退していく。また四日市は尾張の[[宮宿]](熱田)と[[十里の渡し]]で繋がり、東海道や伊勢参りの旅人に多く利用された。
四日市の別称・美称として、孔子ゆかりの地名([[山東省]][[泗水県]])にあやかった「泗水(しすい)」がある。当地の陣屋に勤務していた[[郡山藩]]士[[城戸賢]]が、1803年(享和3年)に刊行した詩集『東帰稿刪』に「泗水行」とする一編を載せたのが、確認できる最初とされる。一説には、江戸時代に四日市町(四日市宿)にあった4つの井戸を指して「泗水(の井戸)」と呼んだという<ref group="注">北町の建福寺にある井戸のみが現存する。</ref>。なお、三重郡と四日市市の範囲を指して「三泗(地区)」と呼ぶ表現がある{{Refnest|group="注"|この表現は明治以降に生じたと考えられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokkaichi.mie.jp/koho/200309/1st/city_listen.htm |title=広聴のコーナー 「三泗」の語源と意味は|work=広報よっかいち|date=2003-9|accessdate=2020-9-1}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokkaichi.lg.jp/www/contents/1001000002708/index.html |title=泗水の井戸|accessdate=2020-9-1}}</ref>。}}。
現在の港の基礎は、幕末から明治初期に[[回船問屋]]の[[稲葉三右衛門]]([[1837年]]([[天保]]8年)-[[1914年]]([[大正]]3年))が私財を投じて整備した。周辺住民の反対など様々な困難があったが、現在の[[四日市港]]の礎を造った[[偉人]]として、[[四日市駅|JR四日市駅]]前に[[銅像]]が建てられている。
=== 近代以降の沿革 ===
{{Wikisource|四日市町ニ市制施行}}
* [[1872年]]([[明治]]5年) - [[安濃津県]]の庁舎が津より移転して県庁所在地となる。郡名の三重にちなんだ三重県に県名を変更。
* [[1873年]](明治6年) - 三重県庁が津に戻る。県名は変更なし。
* [[1884年]](明治17年) - 四日市が築港されて[[四日市港]](稲葉町・高砂町の旧港)が完成。[[1889年]](明治22年)に特別輸出港に指定。
* [[1888年]](明治21年) - 四日市に[[関西鉄道]]が設立。[[木曽三川]]の橋の建設が開始。
* [[1894年]](明治27年)7月5日 - 関西鉄道の四日市⇔桑名仮停車場間が開通。[[東海道本線]]の[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]までが繋がる。
* [[1895年]](明治28年)5月24日 - 関西鉄道の桑名仮停車場⇔桑名間が延伸。名古屋⇔前ヶ須(弥富)間が開通。
* [[1895年]](明治28年)11月7日 - 関西鉄道の桑名⇔前ケ須(弥富)間が開通。初めて愛知県へ陸上移動することが可能となった。
* [[1897年]](明治30年)[[8月1日]] - 現在の市章となる町章を制定<ref>図典 日本の市町村章 p143</ref>。
* [[1929年]](昭和4年)1月30日 - [[伊勢電気鉄道]](現在の[[近畿日本鉄道]])により四日市⇔桑名間が開通。
* [[1933年]](昭和8年)11月8日 - 現在の桑名市長島町⇔愛知県[[弥富市]]との間の[[木曽川]]に[[尾張大橋]]が開通し供用を開始。
* [[1934年]](昭和9年) - 現在の桑名市長島町⇔桑名市中心部との間の[[長良川]]と[[揖斐川]]に[[伊勢大橋]]が開通し供用を開始。これにより徒歩や自動車によって愛知県へ陸上移動することが可能となった。
* [[1936年]]([[昭和]]11年) - 新[[四日市港]](末広町・尾上町・千歳町など)の完成を祝い、[[国産振興四日市大博覧会]]が開催。
* [[1938年]](昭和13年)6月26日 - [[関西急行電鉄]](現在の近鉄)により桑名⇔名古屋間が開通。
* [[1939年]](昭和14年) - 第二海軍燃料廠が塩浜地区に着工。[[1941年]](昭和16年)に操業を開始。
* [[1942年]](昭和17年)[[4月18日]] - [[空母]]発進の米陸軍機16機が[[ドーリットル空襲]]で初[[空襲]]。
* [[1945年]](昭和20年)[[6月18日]] - [[四日市空襲]]で、[[アメリカ軍]]の[[B-29 (航空機)|B-29]]による空襲を受け、市街地の大半は廃墟と化す。死者は808名。
* 1945年(昭和20年)[[8月8日]] - 千歳町の千歳橋付近と塩浜町の海軍燃料廠付近に模擬原爆の[[パンプキン爆弾]]が投下<ref>商工春秋長期連載の集録四日市歴史浪漫紀行時代を生きた群像の軌跡 72,73頁</ref>。
* [[1951年]](昭和26年)[[1月23日]] - [[在日朝鮮人]]による[[四日市事件]]が発生。
* 1951年(昭和26年)11月 - [[昭和天皇]]が伊勢行幸で市内の四日市奉迎場(東洋紡績四日市工場跡地の北条グランド)・山本重工・[[平田紡績]]・[[東洋紡|東洋紡績]]富田工場・山庄製陶・熊沢製油・[[日本板硝子]]・[[伊藤伝七]]邸・三重郡奉迎場(楠町立楠中学校)・[[四日市港]]を視察。
* [[1960年]](昭和35年) - 海軍燃料廠跡地に日本初の石油化学[[コンビナート]]が稼働。同年より[[1972年]](昭和47年)にかけて公害運動が広がる。石油系企業と化学系企業の[[四日市コンビナート]]より排出された煤煙により、[[公害病#四大公害病|四大公害病]]の一つ、[[四日市ぜんそく]]の被害が広がる。その後平成期の[[2015年]]に[[四日市公害と環境未来館]]が創設された。
* [[1972年]](昭和47年) - 公害訴訟で住民側が勝訴。
* [[1982年]](昭和57年)4月 - 市民憲章が制定。
* [[2000年]]([[平成]]12年)[[11月1日]] - [[特例市]]に移行。
* [[2008年]](平成20年)[[4月1日]] - [[保健所政令市]]に指定。
*[[2020年]]([[令和]]2年)- 四日市ナンバーの自動車番号が交付される。
*[[2022年]]- 令和4年4月4日を『四日市の日』に制定。
*2023年(令和5年)- [[近鉄四日市駅]]再開発事業の諏訪栄町周辺の東側の中央通り工事開始。新四日市市立図書館設計計画とJR四日市駅前地区に大学誘致計画を立案。
=== 行政区画の変遷 ===
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[三重郡]]四日市町(四日市比丘尼町・四日市西町・四日市久六町・四日市川原町・四日市南町・四日市北町・四日市堅町・四日市中町・四日市八幡町・四日市境町・四日市浜町・四日市北条町・四日市蔵町・四日市北納屋町・四日市中納屋町・四日市桶之町・四日市袋町・四日市南納屋町・四日市新町・四日市下新町・四日市四ツ谷新町・四日市中新町・四日市南新町・四日市上新町・四日市稲葉町・四日市高砂町)・浜田村・浜一色村および末永村の一部(鳥居町)・赤堀村の一部(字新正)の区域をもって'''四日市町'''が発足。
* [[1897年]](明治30年)[[8月1日]] - 三重郡四日市町が市制施行して'''四日市市'''となる(全国で45番目)。
* [[1930年]]([[昭和]]5年)[[1月1日]] - 三重郡[[海蔵村]]・[[塩浜村]]を編入。
* [[1941年]](昭和16年)[[2月11日]] - 三重郡[[日永村]]・[[常磐村 (三重県)|常磐村]]・[[羽津村]]・[[富田 (四日市市)|富田町]]・[[富洲原町]]を編入<ref group="注">「[[朝明市]]」構想から大四日市構想への変更による。</ref>。
* [[1943年]](昭和18年)[[9月15日]] - 三重郡[[四郷村 (三重県三重郡)|四郷村]]・[[内部村]]を編入。
* [[1954年]](昭和29年)[[3月31日]] - 三重郡[[小山田村 (三重県)|小山田村]]を編入。
* 1954年(昭和29年)[[7月1日]] - 三重郡[[川島村 (三重県)|川島村]]・[[神前村 (三重県)|神前村]]・[[桜村 (三重県)|桜村]]・[[三重村 (三重県)|三重村]]・[[県村 (三重県)|県村]]・[[八郷村 (三重県)|八郷村]]・[[下野村 (三重県)|下野村]]・[[大矢知村]]・[[河原田村 (三重県)|河原田村]]を編入。
* [[1957年]](昭和32年)[[4月15日]] - 三重郡[[水沢町 (四日市市)|水沢村]]・[[保々村]]および[[鈴鹿郡]][[三鈴村]]の一部(大字南小松・鹿間・和無田・野田)を編入。
* [[2005年]]([[平成]]17年)[[2月7日]] - 三重郡[[楠町 (三重県)|楠町]]を編入<ref name="mainichi-np-2015-2-8">佐野裕(2015年2月8日). “四日市市・楠町:合併10周年祝う 市民ら1100人出席”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>。
== 行政 ==
;市長
*市長:[[森智広]]([[2016年]][[12月24日]] - [[2024年]][[12月23日]](予定))
;歴代市長
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+ 歴代市長<ref>『四日市市市政概要(平成23年度版)』</ref>
! 代 !! 氏名 !! 就任日 !! 退任日 !! 備考
|-
! colspan="5" | 官選四日市市長
|-
|1||[[酒井礼一]]|| 1897年(明治30年)11月16日 || 1898年(明治31年)12月11日 ||
|-
|2||[[井島茂作]]|| 1898年(明治31年)12月22日|| 1899年(明治32年)10月6日||
|-
|3||[[福井銑吉]]|| 1899年(明治32年)11月21日|| 1914年(大正3年)6月11日||
|-
|4||[[飯田盛敏]]|| 1914年(大正3年)8月17日 || 1918年(大正7年)8月16日 ||
|-
|5||[[稲見貞蔵]]|| 1918年(大正7年)11月6日|| 1922年(大正11年)11月5日||
|-
|6||[[川上親俊]]|| 1923年(大正12年)5月9日|| 1925年(大正14年)8月7日||
|-
|7||[[戸野周二郎]]|| 1925年(大正14年)11月13日 || 1933年(昭和8年)11月12日 ||
|-
|8||[[吉田勝太郎]]|| 1934年(昭和9年)6月9日|| 1946年(昭和21年)11月13日||
|-
! colspan="5" | 公選四日市市長
|-
|9|| [[吉田千九郎]]|| 1947年(昭和22年)4月5日|| 1955年(昭和30年)4月10日||名誉市民<ref name="meiyoshimin">{{Cite web|和書|title=先人たち(名誉市民)|website=四日市市|url=https://www.city.yokkaichi.lg.jp/www/contents/1001000000145/index.html |accessdate=2022-08-15}}</ref>
|-
|10||吉田勝太郎|| 1955年(昭和30年)5月2日 || 1959年(昭和34年)4月30日||再任<br />名誉市民<ref name="meiyoshimin"/>
|-
|11||[[平田佐矩]]|| 1959年(昭和34年)5月1日|| 1965年(昭和40年)12月6日||
|-
|12||[[九鬼喜久男]]|| 1966年(昭和41年)1月22日|| 1972年(昭和47年)11月18日||
|-
|13||[[岩野見斉]]|| 1972年(昭和47年)12月24日|| 1976年(昭和51年)12月23日||
|-
|14||[[加藤寛嗣]]|| 1976年(昭和51年)12月24日|| 1996年(平成8年)12月23日||
|-
|15||[[井上哲夫]]|| 1996年(平成8年)12月24日|| 2008年(平成20年)12月23日||
|-
|16||[[田中俊行]]|| 2008年(平成20年)12月24日|| 2016年(平成28年)12月23日||
|-
|17||[[森智広]]|| 2016年(平成28年)12月24日 || ||
|}
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|四日市市議会}}
=== 県議会 ===
{{main|三重県議会}}
* 選挙区:四日市市選挙区
* 定数:7名
* 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日
{| class="wikitable"
|-
!議員名!!会派名!!備考
|-
| 稲垣昭義 || [[新政みえ]] ||
|-
| 津田健児 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]県議団 ||
|-
| 田中智也 || 新政みえ ||
|-
| 山内道明 || [[公明党]] ||
|-
| 石田成生 || 自由民主党県議団 ||
|-
| 山本里香 || [[日本共産党]] ||
|-
| 山崎博 || 自由民主党県議団 ||
|}
=== 衆議院 ===
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
{| class="wikitable"
|-
!選挙区!!議員名!!党派名!!当選回数!!備考
|-
| rowspan="2" | [[三重県第2区]](四日市市南部等)|| [[川崎秀人]] || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 1 || 選挙区
|-
| [[中川正春]] || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 9 || 比例復活
|-
| rowspan="2" | [[三重県第3区]](四日市市北部等)|| [[岡田克也]] || 立憲民主党 || align="center" | 11 || 選挙区
|-
| [[石原正敬]] || 自由民主党 || align="center" | 1 || 比例復活
|}
== 施設 ==
[[ファイル:Yokkaichi-Minami Police Station 20100314.jpg|thumb|220px|四日市南警察署]]
[[ファイル:Yokkaichi City Central Fire Station 20100314.jpg|thumb|220px|四日市中消防署]]
[[ファイル:Mie prefectural General medicical center.JPG|thumb|220px|[[三重県立総合医療センター]]]]
{{Double image aside|none|Yokkaichi postoffice.jpg|200|Yokkaichi-Nishi Post Office 20100103.jpg|200|四日市郵便局|四日市西郵便局}}
[[ファイル:Yokkaichi City Culture Hall 2013.jpg|thumb|220px|[[四日市市文化会館]]]]
=== 警察 ===
* [[三重県警察]][[四日市北警察署]]
*:四日市市北部([[富洲原地区]]・富田地区・[[大矢知地区]]・[[八郷地区]]・[[下野地区]]・[[羽津地区]]・[[海蔵地区]]・[[三重地区]])、[[川越町]]、[[朝日町 (三重県)|朝日町]]
* 三重県警察[[四日市南警察署]]
*:四日市市中部・南部(中部地区・[[橋北地区]]・常磐地区・[[塩浜地区]]・[[日永地区]]・[[内部地区]]・[[河原田地区]]・[[四郷地区]]・[[神前地区]]・[[川島地区]]・[[小山田地区]]・楠地区(旧[[三重郡]][[楠町 (三重県)|楠町]]))
* 三重県警察[[四日市西警察署]]
*:四日市市西部([[水沢地区]]・[[桜地区]]・[[県地区]]・[[保々地区]])、[[菰野町]]
=== 消防 ===
* [[四日市市消防本部]]が担当する。
四日市中消防署(中部地区・橋北地区・海蔵地区・[[常磐地区]])
* 中央分署(神前地区・川島地区・三重地区・県地区)
* 西分署(桜地区)
* 港分署
四日市北消防署(富田地区・富洲原地区・羽津地区・大矢知地区・八郷地区・下野地区・保々地区)
* 朝日川越分署(三重郡朝日町・三重郡川越町)
* 北西出張所
四日市南消防署(塩浜地区・日永地区・河原田地区・内部地区・楠地区)
* 南部分署(四郷地区・小山田地区・水沢地区)
* 西南出張所
=== 医療 ===
;主な病院
*[[市立四日市病院]](三重県災害拠点病院)
*[[三重県立総合医療センター]] (基幹災害医療センター・三重県災害拠点病院)
*[[地域医療機能推進機構四日市羽津医療センター]]
*みたき総合病院
=== 郵便局 ===
;主な郵便局
*[[四日市郵便局 (三重県)|四日市郵便局]]
*[[四日市西郵便局]]
*[[四日市松原郵便局]]
その他の市内の郵便局は [https://map.japanpost.jp/p/search/nmap.htm?lat=34.961869444&lon=136.627327778&cond200=1&&his=ar 日本郵政地域図検索(四日市市)] を参照。
=== 文化施設 ===
*[[四日市市文化会館]]
*[[あさけプラザ]]
*[https://mihama-culture.com/ 三浜文化会館]
*泗翠庵
=== 人権施設 ===
*人権センター(中部地区)
*人権プラザ赤堀(常磐地区)
*人権プラザ天白(日永地区)
*人権プラザ神前(神前地区)
*人権プラザ小牧(保々地区)
== 国家機関 ==
[[ファイル:Tsu District Court Yokkaichi Branch 20101013.jpg|thumb|200px|[[四日市簡易裁判所]]]]
=== 厚生労働省 ===
;[[三重労働局]]
*四日市[[労働基準監督署]]
*四日市[[公共職業安定所]]
;日本年金機構
*四日市[[年金事務所]]
=== 国土交通省 ===
;[[中部地方整備局]]
*北勢国道事務所
*四日市港湾事務所
;中部運輸局
*[[三重運輸支局]] 四日市庁舎・自動車検査場
=== 財務省 ===
;国税庁
*[[名古屋国税局]] 四日市税務署
;税関
*[[名古屋税関]] [[名古屋税関|四日市税関支署]]
=== 防衛省 ===
;自衛隊
*[[自衛隊三重地方協力本部]] 四日市地域事務所
;海上保安庁
*[[第四管区海上保安本部]] 四日市海上保安部
=== 法務省 ===
* [[名古屋法務局]] 四日市支局
* 津保護観察所四日市駐在官事務所
; [[検察庁]]
* [[津地方検察庁]] 四日市支部
* [[四日市区検察庁]]
* [[桑名区検察庁]]
; [[出入国在留管理庁]]
* [[名古屋出入国在留管理局]]四日市港出張所
=== 裁判所 ===
*[[津地方裁判所]] 四日市支部
*[[津家庭裁判所]] 四日市支部
*[[四日市簡易裁判所]]
== 対外関係 ==
=== 姉妹都市・提携都市 ===
==== 海外 ====
;姉妹都市
* {{Flagicon|USA}} [[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ市]]([[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]])
**[[1963年]][[10月7日]] [[姉妹都市]]提携
;友好都市
* {{Flagicon|CHN}} [[天津市]]([[中華人民共和国]][[直轄市]])
**[[1980年]][[10月28日]] 友好都市提携
==== 国内 ====
;提携都市
*{{Flagicon|長野県}}[[飯田市]]([[中部地方]] [[長野県]])
**[[2012年]]([[平成]]24年)[[3月28日]] [[災害時相互応援協定]]締結
;その他
*{{Flagicon|JPN}}[[外国人集住都市会議]]
*:[[静岡県]][[浜松市]]が中心に呼びかけ、日本国内の[[外国人]]が多く住む街の[[地方公共団体|自治体]]や[[国際交流協会]]などが集まり、外国人住民が多数居住する都市の行政と地域の国際交流のために設立された組織。
=== 姉妹港・提携港 ===
;姉妹港
四日市港は[[伊勢湾]]北西部に位置する。四日市コンビナートが隣接するなど工業港としての性格が強い。近年の工場夜景ブームにおいては[[川崎港]]や[[水島コンビナート]]と並びその景観に人気のある臨海工業エリアであり、観光資源にもなりつつある。
* {{Flagicon|AUS}} [[シドニー]]港([[オーストラリア連邦]][[ニューサウスウェールズ州]])
** [[1968年]][[10月24日]] 姉妹港提携締結 - 当時四日市港が世界最大の羊毛輸入港であった一方、シドニー港が世界最大の羊毛輸出港であった縁による。
== 経済 ==
[[File:RZ Yokkaichi Suwanishi Shopping Street B.jpg|thumb|200px|諏訪西商店街]]
明治以降、日本の近代化の歩みとともに[[四日市港]]を中心に商工業都市に進展。特に[[高度経済成長]]期に[[石油化学]]系企業が多数立地して、三重県下最大の工業都市、商業都市に発展している。又、伊藤伝七が操業した三重紡績を前身とする[[東洋紡|東洋紡績]]や[[四日市岡田家]]の家業から発展した[[イオングループ]]などの発祥の地でもある。
=== 第一次産業 ===
;農業
自然環境に恵まれ農業も盛ん、地区別の代表的生産分布は以下のとおり
*[[伊勢茶]](水沢地区・小山田地区・川島地区)
*[[ナシ|梨]](県地区・下野地区)
*([[ハクサイ]]・[[キャベツ]]・[[トマト]]など)の[[野菜]](県地区・内部地区・神前地区・四郷地区)
*[[メロン]](県地区)
*[[豆類]](大豆など)(県地区・内部地区・保々地区)
*[[イチゴ]]([[小山田地区]]・内部地区・神前地区)
*[[ウンシュウミカン|みかん]](河原田地区・神前地区)
*[[園芸]](県地区・[[水沢地区]]・川島地区・神前地区・保々地区・羽津地区・楠地区)
*[[畜産]](県地区・水沢地区・桜地区・保々地区・神前地区)
*[[稲作]](中部地区以外のほとんどの地区に水田がある。特に富田地区(茂福地域)・羽津地区・保々地区・県地区・神前地区・楠地区には、広大な[[田んぼ]]があり[[米作り]]が盛んである。富洲原地区・常磐地区・日永地区・橋北地区・塩浜地区では農地は限られる)
;[[三重北農業協同組合]]
*「四日市浜田地区」本店
;漁業
*[[四日市コンビナート]]の誘致後に、[[コンビナート]]から排出された[[工場排水]]によって伊勢湾の海水汚染が進行し、[[伊勢湾]]で盛んな漁業に影響し、四日市市内の伊勢湾沿岸の富洲原地区・富田地区・塩浜地区・楠地区の漁業が衰退した。企業や地方自治体との間で漁業補償問題が発生した。現在でも富洲原港・富田港・塩浜地区の磯津漁港・楠漁港で小規模ながら漁業が行われる。
'''四日市市漁協'''
*四日市市漁協 漁業協同組合
*四日市市漁協 四日市支所 漁業協同組合
*富洲原漁協 共同販売所 漁業協同組合
*四日市市漁協 富洲原支所 漁業協同組合
*四日市市漁協 富田支所 漁業協同組合
*楠町漁協 漁業協同組合
=== 第二次産業 ===
;市内に工場のある主要企業
: ''市内に本社を置く企業は除く。''
* [[BASFジャパン]]
* [[味の素]]
* [[石原産業]]
* [[コスモ石油]]
* [[JSR]]
* [[DIC (企業)|DIC]]
* [[宝ホールディングス|宝酒造]]
* [[キオクシア]](旧[[東芝]]。2017年に分社化され東芝メモリ。2019年に現社名に変更)
* [[JNC]]
* [[東洋紡]]
* [[御幸毛織]]
* [[三幸毛糸紡績]](富田精工株式会社を吸収合併して三幸毛糸紡績富田工場。その後[[21世紀]]の西富田地区の[[都市開発]]計画で不動産開発された)
* [[日本板硝子]]
* [[三菱ケミカル]]
* [[KHネオケム]]
* [[三菱ガス化学]]
* [[三菱マテリアル]]
* [[東ソー]]
* [[ENEOSマテリアル]]
* [[トーア紡コーポレーション|トーア紡マテリアル]]四日市工場 - (旧[[東亜紡織楠工場]])
* [[丸善石油化学]]
* [[上野製薬]]
* [[富士電機]](三重工場)
* [[ライオン・スペシャリティ・ケミカルズ]]
=== 第三次産業 ===
本市はイオン発祥の地であり、市内にはイオンタウンやイオンモールなどのイオン系SCが多く出店している。また[[スーパーサンシ]]、[[一号舘]]などの小売業は市内に本社を置く。
==== 繁華街 ====
;中心部
[[File:近鉄四日市駅西口.jpg|thumb|center|800px|近鉄四日市駅西口方面]]
[[File:近鉄四日市駅東口方面.jpg|thumb|center|800px|近鉄四日市駅東口方面]]
* 中心商業地区の規模を表す年間商品販売額で四日市市の中心である[[近鉄四日市駅]]周辺は、東海地方において[[名古屋市]]の中心[[栄駅 (愛知県)|栄駅]]と[[名古屋駅]]、[[静岡市]]の中心[[静岡駅]]、[[浜松市]]の中心[[浜松駅]]に次いで多く、東海地方の政令指定都市以外ではトップである<ref>「駅周辺型商業集積地区」年間商品販売額 経済産業省 2007年 https://www.meti.go.jp/</ref>。
* [[四日市港]]周辺の納屋地区は戦前までは四日市市の中心部であった。[[東海旅客鉄道|JR]][[四日市駅]]の高架化計画を中心に、駅付近の納屋地区周辺と四日市港の再開発計画がある。
* 東西に幅が広い中央大通りがあり、[[2022年]]([[令和]]4年)に四日市市[[都市計画]]の都市改造[[社会実験]]があった。[[近鉄四日市駅]]から[[川原町駅]]は鉄道高架化工事がされており、[[松坂屋]]跡地に[[アピタ]]([[トナリエ四日市]])などの商業施設や[[近鉄百貨店]]などの百貨店の他、高層建築物が多い。諏訪地区には大規模な[[アーケード (建築物)|アーケード]]の[[諏訪栄町]][[商店街]]の「一番街」がある。[[四日市岡田家]]によって[[創業]]された[[イオングループ]]の前身の「岡田屋」の発祥の地である。[[2002年]](平成14年)までは[[ジャスコ四日市店]]が存在した。[[歓楽街]]も近鉄四日市駅周辺に立地しており、二番街や西新地はその代表である。
;富田地区
* [[富田 (四日市市)|富田地区]]の中心駅である[[近鉄富田駅]]は単体の駅としては三重県で近鉄四日市駅、近鉄[[津駅]]に次ぎ第3位の規模を持ち、四日市市の副都心計画の一つになっている。
* [[東洋紡|東洋紡績]]富田工場などの紡績工場や[[百五銀行]]などの銀行は、富田地区以外の富洲原地区や大矢知地区に立地していても「富田店」や「富田工場」と命名されていた。[[東洋紡績富田工場]]付近に東洋町商店街や西元町商店街が形成された。東洋紡績富田工場跡地に[[イオンモール四日市北]]が立地している。
* [[川越町]]に[[富洲原駅]]が立地した事から、川越町と富洲原地区との間に川越町南部で使用されている「富洲原店」や「富洲原駅」の名称問題が発生した。
* [[近鉄富田駅]]付近に近鉄富田駅前商店街と接続する中央通り商店街と[[富田駅 (三重県)|JR富田駅]]に接続する通路の通りとして富田中町商店街が形成された。駅の西側の茂福地区や西冨田町の[[三幸毛糸紡績]]富田工場の社宅跡地に、商業施設の[[スーパーマーケット]]である[[ヤマナカ|四日市富田フランテ館]]や100円ショップのフレスポ四日市富田やマンションのライオンズマンションの四日市富田マークレジデンスが建設されて、西富田地区の商業化と宅地化が進んだ。大矢知地区から富田地区に富田栄町が編入された。富田西町連合自治会を中心とする富田高地区では宅地化が進み、富田地区の再開発計画によって高層マンションが建設された。
;日永地区
* 幹線道路の[[国道1号]]や笹川通りに面する一帯が市街地となっている。鉄道網では[[四日市あすなろう鉄道]][[四日市あすなろう鉄道内部線|内部]]・[[四日市あすなろう鉄道八王子線|八王子線]]が四日市市内を結び、市電に類する都市交通機能を果たしている。旧[[東海道]]沿いには古い町並みが残っている。
* 大型ショッピングセンターである[[日永カヨー]]と[[イオンタウン四日市泊]]が立地している。
* 四日市市中心部から日永地区までの[[国道1号]]沿線は、家電量販店[[ヤマダデンキ]]、[[エディオン]]、[[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]]の激戦区である。また、レンタルショップやリサイクルショップも立地している。
;三重地区(生桑)
* [[国道365号]]と[[三重県道622号小牧小杉線]]が交差する生桑の交差点付近から南や南東の方向へ四日市中心部に向かう道路沿いに商店が集結している。三重地区を中心に面する生桑地区一帯は四日市市内の中央部分であり、三重地区は田園地帯であった。しかしながら市内西部には、1970年代に建設された三重団地・昭和43年に建設された坂部団地・1970年代に建設された大谷台団地など複数の住宅団地が建設された。昭和40年代から[[平成時代]]初期にかけて人口は3倍に倍増して、商店数は4倍近くになり、飲食店は2軒から70軒に急増して四日市市西部からの買い物客が多い。南側は[[近鉄湯の山線]]沿いの常盤地区・川島地区・神前地区・桜地区と接続しており、西側は県地区と接続していて、北側は旧[[朝明郡]]地域の大矢知地区・八郷地区・下野地区・保々地区と接続しており、東側は海蔵地区と接続しており、四日市市内の各地域からの道路網がある交通の拠点となっている<ref>四日市市第5巻史料編民俗 661 - 662ページ</ref>。
* [[マックスバリュ]]・[[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]]・[[スーパーサンシ]]・[[三洋堂書店]]などの大型商業施設や自動車客向けの店が多数立ち並んでいて飲食店街や坂部温泉やユラックスなどの温泉施設もある。[[三重県道8号四日市鈴鹿環状線|県道8号]]を南へ進むと[[イオン四日市尾平ショッピングセンター]]が立地している。
* 周辺は鉄道網が無く、[[三重交通]]などの[[バス (交通機関)|バス]][[交通網]]がある。
==== 市内の大型商業施設 ====
[[ファイル:ララスクエア四日市、四日市都ホテル.jpg|thumb|220px|市民公園(奥がトナリエ四日市、都ホテル)]]
* [[トナリエ四日市]]
* [[近鉄百貨店四日市店]]
* [[四日市スターアイランド]]
* [[イオンモール四日市北]]
* [[イオン四日市尾平ショッピングセンター]]
* [[日永カヨー]]
* [[イオンタウン四日市泊]]
* ふれあいモール
* フレスポ四日市富田
=== 本社を置く主要企業 ===
[[ファイル:三重銀行本店ビル.jpg|thumb|220px|三重銀行(現・三十三銀行)本店ビル(西新地)]]
* [[九鬼産業]](四日市[[九鬼氏]]が経営者である)
*[[アミカン]](旧社名は[[網勘製網]]で[[伊藤勘作]]家が代々経営者である)
* [[三十三銀行]] - 四日市市の[[指定金融機関]]
* [[北伊勢上野信用金庫]]
* [[日本トランスシティ]] - 中部地区最大の総合物流企業で日本総合物流企業業界4位
* [[住友電装]] - [[住友グループ]]の[[ワイヤーハーネス]](車載用組電線、車の電装品やエンジンを結ぶ回路)のメーカー
* [[太陽化学]]
* [[昭和四日市石油]] - [[出光興産]]グループの[[石油精製]]会社
* [[川崎金属工業]]
* [[四日市合成]] - [[第一工業製薬]]子会社の化学メーカー
* [[フローラ (企業)|フローラ]] - 植物活力剤「HB-101」で知られている化学薬品メーカー
* [[宮崎本店]] - 三重県産の伊賀米などを使用した[[日本酒]]、[[焼酎]]など[[酒類]]の製造・販売を行っている会社。世界酒類コンクールで17年連続で金賞を受賞している。商標名は「宮の雪」(日本酒)と「亀甲宮」(甲類焼酎。愛称『キンミヤ焼酎』)。
* [[竹屋 (三重県)|竹屋]] - シュークリーム製造工場の生産能力が日本一。三重県内の[[ケンタッキーフライドチキン]]、[[ミスタードーナツ]]などの[[フランチャイズ]]事業も行う。
* [[中部近鉄百貨店]] - 近鉄四日市駅ビルに立地。[[2009年]](平成21年)3月1日付けで[[近鉄百貨店]]に吸収合併された。
* [[スーパーサンシ]]
* [[一号舘]]
* [[グリーンズ]]
* [[アップルインターナショナル]] - 日本で最大手の中古車輸出業(2005年度)
* [[アップルオートネットワーク]]
* [[三岐鉄道]]
* [[中日臨海バス]]
* [[四日市つばめ交通]]
* 名鉄四日市タクシー
* [[シー・ティー・ワイ]]
* [[エフエムよっかいち]]
* [[マイクロキャビン]] - コンピュータゲーム開発会社。代表作は[[うる星やつら|うる星やつら(PC版)]]など
* [[アサヒグローバル]]
* [http://www.utk.jp/ 内田鍛工]
* [http://www.rhombic.co.jp/ ロンビック]
* [[東名 (企業)]]
* [[ホンダオートボディー]]
===拠点を置く主要企業===
* [[日本通運]] [[三重]]支店
=== 市内発祥の主要企業 ===
* 東洋紡の三重紡績([[東洋紡]]は四日市発祥の企業である)四日市の実業家が創業した三重紡績が大阪紡績と合併して東洋紡績となった昭和の[[大企業]]で名門の繊維企業。東洋紡テクノウール株式会社の管轄となった東洋紡績三重工場([[御幸毛織]]四日市工場)と[[東洋紡績楠工場]]が立地している。かつては東洋紡績富田工場(跡地がイオンモール四日市北となった)が富洲原地区に立地していて、東洋紡績塩浜工場(跡地が東洋紡グループの関連企業であるコスモ電子株式会社となった)が塩浜地区に立地していて、東洋紡績四日市工場(跡地が北条町の四日市市営グランドとなった)が中部地区に立地していた。
* イオングループ岡田屋([[イオングループ]]は[[天領]]の[[四日市宿]]だった三重郡四日市町が発祥地である)岡田屋から[[ジャスコ]]となりさらにイオングループと発展した流通企業である。四日市岡田家が創業家であり、岡田卓也が[[創業者]]である。
* 富洲原の平田製網([[Oakキャピタル]]は[[平田佐次郎 (初代)|初代平田佐次郎]]が創業者である)富洲原地区が発祥地であり、旧企業名が[[平田紡績]]株式会社である。
== 情報通信・生活基盤 ==
=== マスメディア ===
==== 新聞社 ====
* [[伊勢新聞]]北勢総局 - 地元紙。
* [[中日新聞]]四日市支局 - [[名古屋市]]に本社を置く[[ブロック紙]]。市内でも購読者が多い。
* [[朝日新聞]]四日市支局
* [[毎日新聞]]四日市支局
* [[読売新聞]]四日市支局
==== 放送局 ====
* 主に四日市市を拠点とするマスコミは、[[シー・ティー・ワイ]]、[[エフエムよっかいち]]がある。
** 大手マスコミは県庁所在地の[[津市]]に支社・支局を置くことが多いが、新聞社、[[東海テレビ放送]]、[[NHK津放送局|NHK津]]は支局を置いている。なお東海テレビは、四日市市政記者クラブに三重支社として加盟しているため、{{要出典範囲|date=2013年12月|おそらく}}営業拠点として置いている。
==== 広報媒体 ====
広報よっかいち
* 日本語版と[[ポルトガル語]]版がある。なお日本語版に関しては、上旬号と下旬号の月2回発行している。
ちゃんねるよっかいち
* [[ケーブルテレビ]][[シー・ティー・ワイ|CTY]]のコミュニティチャンネルで放送されている。案内役は定期募集で採用された『市民レポーター』と呼ばれる人達<ref group="注">担当は1回ごとに1人ずつ登場する。</ref>。
よっかいちわいわい人探訪!、ALO!YOKKAICHI!(アロー-)、人権を確かめあう日特集(毎月22日に放送)
* いずれも[[エフエムよっかいち]]で放送されている。
=== 市外局番 ===
* [[西日本電信電話|NTT]][[日本の市外局番|市外局番]]は'''059'''(四日市[[単位料金区域|MA]]、市内局番は300番台)が用いられる。
** 同じMAに属する鈴鹿市ならびに三重郡の自治体と市内料金での通話が可能である。
== 教育 ==
[[ファイル:Yokkaichi Univ. 01.jpg|thumb|200px|[[四日市大学]]]]
[[ファイル:Yokkaichi Nursing and Medical Care University in Sep. 2013.jpg|thumb|200px|[[四日市看護医療大学]]]]
=== 大学 ===
;私立
*[[四日市大学]](四日市市が開設し学校法人暁学園が運営する公設民営型大学)
*[[四日市看護医療大学]] (2007年開学)
=== 短期大学 ===
;私立
* [[四日市大学短期大学部|暁学園短期大学]]:[[2002年]]廃止。
* [[ユマニテク短期大学]]
=== 専修学校 ===
;私立
*[[学校法人古川学園 (三重県)|学校法人古川学園 中部ライテクビジネス専門学校]]
=== 高等学校 ===
;県立
*[[三重県立四日市高等学校|四日市高校]]([[1955年]]の[[全国高等学校野球選手権大会]]で優勝)
*[[三重県立四日市南高等学校|四日市南高校]]
*[[三重県立四日市工業高等学校|四日市工業高校]]
*[[三重県立四日市中央工業高等学校|四日市中央工業高校]]([[1991年]]の[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権]]で優勝)
*[[三重県立四日市商業高等学校|四日市商業高校]]
*[[三重県立四日市西高等学校|四日市西高校]]
*[[三重県立四日市四郷高等学校|四日市四郷高校]]
*[[三重県立北星高等学校|四日市北星高校]]
*[[三重県立四日市農芸高等学校|四日市農芸高校]]
*[[三重県立朝明高等学校|朝明高校]]
;私立
*[[暁中学校・高等学校|暁高校]]([[1994年]]の第49回[[国民体育大会]]ソフトテニス少年女子の部で優勝)
*[[海星中学校・高等学校 (三重県)|エスコラピオス学園海星高校]]
*[[四日市メリノール学院中学校・高等学校|四日市メリノール学院高校]]
*[[大橋学園高等学校|大橋学園高校]]
*[[学校法人古川学園 (三重県)|向陽台高校古川学園キャンパス]]
=== 中学校 ===
;市立
* 朝明中学校
* [[四日市市立内部中学校|内部中学校]]
* [[四日市市立大池中学校|大池中学校]]
* 橋北中学校
* 桜中学校
* 笹川中学校
* 塩浜中学校
* 西陵中学校
* [[四日市市立中部中学校|中部中学校]]
* [[四日市市立常磐中学校|常磐中学校]]
* [[四日市市立富洲原中学校|富洲原中学校]]
* 富田中学校
* [[四日市市立西朝明中学校|西朝明中学校]]
* 西笹川中学校
* [[四日市市立羽津中学校|羽津中学校]]
* 保々中学校
* [[四日市市立三重平中学校|三重平中学校]]
* 三滝中学校
* 山手中学校
* [[四日市市立港中学校|港中学校]]
* 南中学校
* [[四日市市立楠中学校|楠中学校]]
;私立
* [[暁中学校・高等学校|暁中学校]]
* [[海星中学校・高等学校 (三重県)|エスコラピオス学園海星中学校]]
* [[四日市メリノール学院中学校・高等学校|四日市メリノール学院中学校]]
=== 小学校 ===
;市立
* [[四日市市立内部小学校|内部小学校]]
* 県小学校
* [[四日市市立内部東小学校|内部東小学校]]
* 大谷台小学校
* [[四日市市立大矢知興譲小学校|大矢知興譲小学校]]
* 小山田小学校
* 海蔵小学校
* 川島小学校
* 河原田小学校
* [[四日市市立神前小学校|神前小学校]]
* [[四日市市立桜小学校|桜小学校]]
* [[四日市市立桜台小学校|桜台小学校]]
* [[四日市市立笹川小学校|笹川小学校]]
* 塩浜小学校
* [[四日市市立下野小学校|下野小学校]]
* 水沢小学校
* [[四日市市立高花平小学校|高花平小学校]]
* [[四日市市立中央小学校|中央小学校]]
* [[四日市市立中部西小学校|中部西小学校]]
* 常磐小学校
* [[四日市市立常磐西小学校|常磐西小学校]]
* 泊山小学校
* [[四日市市立富洲原小学校|富洲原小学校]]
* 富田小学校
* 橋北小学校
* 羽津北小学校
* 羽津小学校
* 浜田小学校
* 日永小学校
* 保々小学校
* 三重北小学校
* [[四日市市立三重小学校|三重小学校]]
* [[四日市市立三重西小学校|三重西小学校]]
* 八郷小学校
* 八郷西小学校
* 四郷小学校
* [[四日市市立楠小学校|楠小学校]]
;私立
*[[暁小学校]]
=== 特別支援学校 ===
;県立
*[[三重県立特別支援学校西日野にじ学園]]
*[[三重県立特別支援学校北勢きらら学園]]
;市立
*市立あけぼの学園
;私立
*[[特別支援学校聖母の家学園]]
=== インターナショナルスクール ===
;ブラジル学校
*[[ニッケン学園]]
;朝鮮学校
*[[四日市朝鮮初中級学校]]
=== 学校教育以外の施設 ===
;職業能力開発校
*[[職業能力開発促進センター#北陸・中部地方|三重職業能力開発促進センター]]
== 交通 ==
[[ファイル:近鉄四日市駅ビル.jpg|thumb|220px|right|近鉄四日市駅]]
=== 鉄道 ===
; [[東海旅客鉄道]](JR東海)
* [[関西本線]]
** [[富田駅 (三重県)|富田駅]] - [[富田浜駅]] - [[四日市駅]] - [[南四日市駅]] - [[河原田駅]]
; [[近畿日本鉄道]](近鉄)
* [[近鉄名古屋線|名古屋線]]
** [[楠駅]] - [[北楠駅]] - [[塩浜駅]] - [[海山道駅]] - [[新正駅]] - [[近鉄四日市駅]] - [[川原町駅]] - [[阿倉川駅]] - [[霞ヶ浦駅]] - [[近鉄富田駅]]
* [[近鉄湯の山線|湯の山線]]
** 近鉄四日市駅 - [[中川原駅]] - [[伊勢松本駅]] - [[伊勢川島駅]] - [[高角駅]] - [[桜駅 (三重県)|桜駅]]
; [[三岐鉄道]]
* [[三岐鉄道三岐線|三岐線]]
** 富田駅(近鉄富田駅)- [[大矢知駅]] - [[平津駅]] - [[暁学園前駅]] - [[山城駅]] - [[保々駅]] - [[北勢中央公園口駅]]
; [[伊勢鉄道]]
* [[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]]
** [[河原田駅]]
; [[四日市あすなろう鉄道]]
* [[四日市あすなろう鉄道内部線|内部線]] (全線市内)
** [[近鉄四日市駅#あすなろう四日市駅|あすなろう四日市駅]] - [[赤堀駅]] - [[日永駅]] - [[南日永駅]] - [[泊駅 (三重県)|泊駅]] - [[追分駅 (三重県)|追分駅]] - [[小古曽駅]] - [[内部駅]]
* [[四日市あすなろう鉄道八王子線|八王子線]] (全線市内)
** 日永駅 - [[西日野駅]]
[[JTB]]の時刻表では[[四日市駅]]が中心駅と記載されているが、実質的には[[近鉄四日市駅]]が中心駅である。
=== バス ===
; 高速バス
* [[大宮・東京 - 鳥羽・南紀線|東京高速バス]]: [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[池袋駅]]・[[新宿駅]]・[[立川駅]]・[[横浜駅]] - [[近鉄四日市駅|近鉄四日市]]・伊勢市駅前・鳥羽BC ([[三重交通]]、[[三交伊勢志摩交通]]、[[西武観光バス]]) ※夜行
* [[いが号]]: [[品川バスターミナル|品川BT]]・[[横浜駅]] - 近鉄四日市・上野産業会館・名張市役所 (三重交通) ※夜行
* [[京都 - 四日市・津・伊勢線|京都高速バス]]: 新正車庫・近鉄四日市・生桑車庫 - [[土山サービスエリア|土山BT]]・[[京都駅]] (三重交通、[[京阪バス]])
* [[三重交通四日市営業所#四日市ライナー大阪号|四日市ライナー大阪号]]: 近鉄四日市・生桑車庫 - 土山BT・[[大阪駅]]・[[新大阪駅]] (三重交通・[[西日本ジェイアールバス]]<ref>西日本ジェイアールバス担当便は、[[三宮駅バスのりば|三宮バスターミナル]] - [[大阪駅周辺バスのりば#大阪駅JR高速バスターミナル(西日本JRバス)|大阪駅JR高速バスターミナル]] - 近鉄四日市駅 - [[長島温泉]]の「ナガシマリゾートライナー」。</ref>)
* [[三重交通四日市営業所#四日市中部国際空港高速線|四日市中部国際空港高速バス]]: 新正車庫・近鉄四日市 - [[中部国際空港]] (三重交通)
* [[三重交通四日市営業所#名古屋桜台高速線|名古屋桜台高速線]]: 名古屋(名鉄バスセンター) - [[四日市インターチェンジ (三重県)|四日市インター]]・桜花台・桜台 (三重交通)
* [[三重交通四日市営業所#名古屋湯の山高速線|名古屋湯の山温泉高速線]]: 名古屋(名鉄バスセンター) - 四日市インター・[[湯の山温泉 (三重県)|湯の山温泉]] (三重交通)
* WILLER EXPRESS
** [[川崎駅]]・新宿駅 - 近鉄四日市・[[白子駅]]・[[津駅]] ([[ベイラインエクスプレス]]) ※夜行
** [[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]・WBT梅田 - 近鉄四日市・[[名古屋駅]]※夜行
* JAMJAMライナー: [[東京ディズニーランド]]・新宿駅・横浜駅 - [[豊橋駅]]・名古屋駅南・近鉄四日市駅・白子駅 ([[ジャムジャムエクスプレス]]) ※夜行
* コトバスエクスプレス: 名古屋駅・近鉄四日市 - [[徳島駅]]、[[高松駅 (香川県)|高松駅]]・コトバスステーション琴平 ([[琴平バス]]) ※夜行、[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]行・[[高知駅]]行に連絡
* あおぞらライナー: [[東京駅のバス乗り場|東京駅鍛冶橋駐車場]]・[[横浜駅]] - 名古屋[[ミッドランドスクエア]]前・四日市ユーユーカイカン・松阪駅・宇治山田駅・青木バス車庫 ([[青木バス]]) ※夜行
* あおぞらライナー: [[仙台駅]] - 名古屋ミッドランドスクエア前・四日市ユーユーカイカン・松阪駅・宇治山田駅・青木バス車庫 (青木バス) ※夜行
* あおぞらライナー: [[金沢駅]] - 名古屋ミッドランドスクエア前・四日市ユーユーカイカン・松阪駅・宇治山田駅・青木バス車庫 (青木バス) ※夜行
;一般路線バス
[[ファイル:近鉄四日市駅西バスのりば.jpg|thumb|220px|近鉄四日市駅西バスのりば]]
* [[三重交通]]
* [[三岐鉄道]]
* [[八風バス]] ※1区間のみ
* [[四日市市自主運行バス]]
* [[生活バスよっかいち]]
=== 道路 ===
* [[道路元標]]:諏訪交差点
; 高速道路
* [[東名阪自動車道]] : (桑名市) - (29-1)[[四日市ジャンクション|四日市JCT]] - (30)[[四日市東インターチェンジ|四日市東IC]] - [[御在所サービスエリア|御在所SA]] - (31)[[四日市インターチェンジ (三重県)|四日市IC]] - (鈴鹿市)
* [[伊勢湾岸自動車道]] : (朝日町) - (16)[[みえ朝日インターチェンジ|みえ朝日IC]] - (29-1)四日市JCT
* [[新名神高速道路]] : (29-1)四日市JCT - (1)[[新四日市ジャンクション|新四日市JCT]] - (三重郡菰野町) - 四日市市内 - (鈴鹿市)
* [[東海環状自動車道]] : (員弁郡東員町) - 新四日市JCT
; 一般国道
* [[国道1号]]→現在[[北勢バイパス]]建設中。
* [[国道23号]]
* [[国道25号]] - 大部分は国道1号の重複区間
* [[国道164号]]
* [[国道306号]]→鈴鹿方面へ。現在バイパス延伸中。
* [[国道365号]]→いなべ方面へ。2008年3月末バイパス完成。
* [[国道477号]]→市内を東西に。[[菰野町]]へ。現在バイパス工事中。
; 市内の道路通称名
{{Div col}}
* 三滝通り
* [[中央通り (四日市市)|中央通り]]
* 諏訪通り
* 中川原通り
* 西浦通り
* 松本街道
* 笹川通り
* 柳通り
* 塩浜街道
* 橋北通り
* かえで通り
* あさけ通り
* 山手通り
* 臨港通り
* 菰野道
* 浜田通り
* 四日市・いなばポートライン
{{Div col end}}
=== ナンバープレート ===
[[2020年]](令和2年)[[5月11日]]より、[[自動車検査証#権利部|車検証の住所(使用者)]]が本市にある自動車には'''四日市ナンバー'''([[ご当地ナンバー]])が交付されるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/chubu/press/pdf/gian2020031001.pdf|format=pdf|title=新たな地域名表示(ご当地ナンバー)による 地方版図柄入りナンバープレートの交付開始日決定! 管内では伊勢志摩・四日市ナンバーが誕生!|work=国土交通省中部運輸局自動車技術安全部|accessdate=2020-05-11}}</ref>。それ以前は[[三重運輸支局#陸運部門|三重ナンバー]]が交付されていた。
=== 航路 ===
; 過去路線
* [[四日市浜園旅客ターミナル]] ⇔ [[中部国際空港]]([[愛知県]][[常滑市]])
** [[2008年]](平成20年)[[10月5日]]に廃止された。
== 文化 ==
=== 武道 ===
; 合気道
* [[神岩会]]
=== 名産・名物 ===
; 名産品
* [[萬古焼]](海蔵地区、橋北地区、羽津地区)
* [[伊勢茶]](水沢地区、小山田地区)
* 日永[[うちわ]](日永地区)
* [[大矢知素麺]](大矢知地区)
* [[酒造]]
#朝明川流域の富洲原地区の天ヶ須賀地域に3酒造がある。
#三滝川流域の桜地区に4酒造と川島地区に2酒造と室山地区に3酒造がある。
#鈴鹿川流域の楠地区に「キンミヤ焼酎」で知られる[[宮崎本店]]と酒造大手・[[宝ホールディングス|宝酒造]](楠工場)の2酒造がある。
; 名物
* [[四日市とんてき]] - [[B級グルメ]]である。豚のステーキの一種。
* [[なが餅]] - [[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年)以前から[[東海道]]沿いの日永の下りの立て場で売られていた[[和菓子]]。桑名の[[安永餅]]・[[鈴鹿]]の[[立石餅]]などは[[江戸時代]]以降に出来た後発品。
* [[卯十郎金時]] - [[金時豆]]の一種。
=== スポーツ ===
[[ファイル:Yokkaichi Dome.jpg|thumb|200px|[[四日市ドーム]]]]
[[ファイル:Yokkaichi-Stadium.jpg|thumb|200px|[[四日市市営霞ヶ浦第一野球場]]]]
{| class="sortable wikitable" style="text-align:center;font-size:85%;"
|-
! 名称
! 競技種目
! 所属リーグ
! 本拠地
! 運営会社・団体
! 設立
|-
! style="background-color:blue" | [[TSV1973四日市|<span style="color:skyblue">TSV1973四日市</span>]]
| [[サッカー]]
| [[三重県サッカーリーグ]]
| [[三重県営鈴鹿スポーツガーデン]]<br />[[四日市中央緑地陸上競技場]]
| [[一般社団法人スポーツクラブ四日市]]
| [[1994年]]
|-
! style="background-color:black" | [[永和商事ウイング硬式野球部|<span style="color:red;">永和商事ウイング</span>]]
| [[野球]]
| [[日本野球連盟|JABA]]<br />([[社会人野球]])
| [[四日市市営霞ヶ浦第一野球場]]
| [[永和商事]]
| [[2011年]]
|-
! style="background-color:orange" | [[ヴィアティン三重|<span style="color:black">ヴィアティン三重</span>]]
| [[サッカー]]
| [[日本フットボールリーグ|JFL]]
| [[四日市中央緑地陸上競技場]]<br />
| [[株式会社ヴィアティン三重ファミリークラブ]]
| [[2012年]]
|-
! style="background-color:orange" | [[ヴィアティン三重バスケットボール|<span style="color:black">ヴィアティン三重バスケットボール</span>]]
| [[バスケットボール]]
| [[ジャパン・バスケットボールリーグ|B3リーグ]]
|
| [[株式会社ヴィアティン三重ファミリークラブ]]
| [[2020年]]
|-
![[三重パールズ]]
|ラグビー
|
|四日市メリノール学院ラグビー場
四日市市中央フットボール場
|
|[[2016年]]
|}
=== スポーツ施設 ===
; 主な運動施設
* [https://www.y-sports.jp/new/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e6%a1%88%e5%86%85/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e4%b8%80%e8%a6%a7/tyuouryokuti/so-tai/ 四日市市総合体育館]
* [[四日市中央緑地陸上競技場]]
* [https://www.y-sports.jp/new/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e6%a1%88%e5%86%85/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e4%b8%80%e8%a6%a7/tyuouryokuti/football/ 中央フットボール場]
* [https://www.y-sports.jp/new/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e6%a1%88%e5%86%85/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e4%b8%80%e8%a6%a7/kasumigauraryokuti/yokkaititennis/ 四日市テニスセンター]
* [[四日市ドーム]]
* [[四日市競輪場]]
* [https://www.y-sports.jp/new/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e6%a1%88%e5%86%85/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e4%b8%80%e8%a6%a7/kasumigauraryokuti/dai1baseball/ 四日市市霞ケ浦第一野球場]
* [https://www.y-sports.jp/new/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e6%a1%88%e5%86%85/%e7%ae%a1%e7%90%86%e6%96%bd%e8%a8%ad%e4%b8%80%e8%a6%a7/kasumigauraryokuti/%e5%9b%9b%e6%97%a5%e5%b8%82%e5%b8%82%e9%9c%9e%e3%82%b1%e6%b5%a6%e7%ac%ac%ef%bc%93%e9%87%8e%e7%90%83%e5%a0%b4/ 四日市市霞ケ浦第三野球場]
== 観光 ==
=== 名所・旧跡 ===
[[ファイル:日永追分.jpg|right|220px|thumb|日永追分 <small>左が伊勢街道、右が東海道京・大坂方面、手前が東海道江戸方面</small>]]
;主な城郭
*[[萱生城]]
*[[富田城 (伊勢国)|富田城]]
*[[浜田城 (伊勢国)|浜田城]]:四日市市指定史跡
*[[茂福城]]:四日市市指定史跡
*羽津城:四日市市指定史跡
;主な寺院
*[[密蔵院 (四日市市)|密蔵院]]
*[[観音寺 (四日市市垂坂町)|観音寺]]
*[[光明寺 (四日市市泊山崎町)|光明寺]]
*[[千福寺 (四日市市)|千福寺]]
*[[大師寺 (四日市市)|大師寺]]
*[[大師之寺 (四日市市)|大師之寺]]
*[[大聖院 (四日市市)|大聖院]]
*[[田村寺]]
*[[法龍寺 (四日市市)|法龍寺]]
;主な神社
*[[富田六郷]]の氏神[[鳥出神社]]([[桑名藩]]領富田六郷の神社の[[富田一色飛鳥神社]]や[[天ヶ須賀住吉神社]]などがある)
*[[志氐神社]]([[羽津地区]]の[[古墳]]跡地の神社)
*[[鵜森神社]]
*[[海山道神社]]
**[[海山道稲荷神社]] - [[節分]]祭「[[狐の嫁入り]]」で有名。
**[[洲崎濱宮神明神社]]
*[[諏訪神社 (四日市市)|諏訪神社]] - 旧四日市地区の[[氏神]]。祭礼「[[四日市祭]]」(現在は市民祭と区別して「秋の四日市祭」ともいう)は10月第一日曜とその前日(古くは9月25から27日)。[[氏子]]町から[[練り物 (祭り)|邌物]](ねりもの)と呼ばれる[[山車]]や[[時代行列|行列]]などの[[奉納]]演技が行なわれる。
*[[聖武天皇社]] - [[聖武天皇]]を祭る神社
;街道
*[[東海道]]
**[[四日市宿]]
**[[四日市陣屋]]
**[[杖衝坂]] - [[日本武尊]][[伝説]]が残る[[東海道]]の難所。
*[[伊勢参宮街道|伊勢街道]]
**[[日永追分]] - [[伊勢神宮]]へ至る[[伊勢参宮街道|伊勢街道]]の分岐点、伊勢神宮遙拝用の[[鳥居]]が建つ。
*[[千種街道]]
*[[八風街道]]
;自然
*[[智積養水]]([[名水百選]])
*[[富田の一本松]] - 東富田町にある富田浜付近の[[シンボル]]であった老松。
*十四川堤の桜並木
*[[御池沼沢植物群落]]
;建築
*[[思案橋 (四日市市)|思案橋跡]] - 1987年に再建されたもの。
*[[末広橋梁]] - 国内で現役唯一の跳開式可動鉄道橋梁。
*[[臨港橋]] - 国内で現役3つしかない、跳開式可動道路橋梁。
{{-}}
=== 観光スポット ===
* 伊坂ダムサイクルパーク
* 四日市スポーツランド アスレチックや全長150mのスーパースライダーがある。
* ふれあい牧場
* [[四日市市立博物館]]→最寄り駅は近鉄四日市駅。徒歩五分圏内。
* [[澄懐堂美術館]] - 中国書画専門の[[美術館]]。
* [[四日市港ポートビル]] - [[四日市港]]の開港100周年を記念して[[1999年]](平成11年)に完成した、高さ100mの[[超高層ビル]]である。
* [[オーストラリア記念館]]([[日本万国博覧会|大阪万博]]オーストラリア館)([[2014年]](平成25年)8月解体された)
* [[四日市競輪場]]
* [[四日市ドーム]] - 四日市市の市制施行100周年記念事業の一環で建設された[[ドーム]]施設である。
* [[四日市中央緑地公園]]
** [[四日市中央緑地陸上競技場|陸上競技場]]
* 楠歴史民俗資料館(旧庄屋岡田邸)
<gallery>
四日市市立博物館.jpg|四日市市立博物館
四日市港ポートビル.jpg|四日市港ポートビル
四日市ドーム.JPG|四日市ドーム
Yokkaichi-keirin-1.jpg|四日市競輪場
Yokkaichi-Stadium.jpg|霞ヶ浦第一野球場
</gallery>
=== プロモーション動画 ===
市が[[俳優]]の[[京本政樹]]に制作・主演を依頼、[[時代劇]]風ストーリー仕立てで、四日市市の観光名所や名産品の紹介をするプロモーション動画が、Youtubeで公開されている。
* 『{{YouTube|HMc5gz-VMUo|必見四日市}}』(2018):京本政樹、[[風谷南友]]、[[ゆるキャラ]]の[[こにゅうどうくん]]が出演。
* 『{{YouTube|hXBfH-6F8As|続・必見四日市}}』(2020):前作の出演者に加え、[[泉谷しげる]]、[[山中敦史]](四日市市出身)が新たに出演。
== 祭事・催事 ==
=== 主な祭事 ===
* [[四日市祭]](10月の第一日曜とその前日)
*:旧四日市地区の氏神[[諏訪神社 (四日市市)|諏訪神社]]の祭礼。市民祭である「大四日市まつり」と区別して「秋の四日市祭」とも呼ばれる。[[練り物 (祭り)|邌物]](ねりもの)と呼ばれる日本一大きい[[からくり人形]]を載せた[[山車]]「[[大入道山車]]」(県指定有形民俗文化財)をはじめ、「[[捕鯨文化#鯨と祭礼|鯨船]](捕鯨のサマを表す豪華な船山車・県指定有形民俗文化財)」「[[大名行列]](宿場町の名残を残す行列・市指定無形民俗文化財)」「[[富士の巻狩り]](ハリボテの大猪を煌びやかな衣装をつけた子ども武者が射止める仮装行列・市指定無形民俗文化財)」「[[菅原道真|菅公]](文字書きのからくり人形山車)」「[[天岩戸|岩戸山]]([[アメノウズメ|アメノウズメノミコト]]に化けていた狸が正体を現すからくり人形山車)」「[[司馬光#神童伝説|甕破り]](司馬温公の故事にちなんだからくり人形山車)」などの奉納演技が行なわれる。
* [[大四日市まつり]](8月第一土日)
*:市中心部。昭和39年から始まった市民祭。市民参加の踊りフェスタなどを開催。市内に残る伝統的な祭礼行事もゲスト出演する。
* 東富田[[左義長|どんど祭り]](1月14日)
*:国道23号線沿いに、高い山を15基建てて盛大に燃やす。
* [[海山道稲荷神社]]・狐の嫁入り(2月3日)
*:市内[[海山道神社]]
* 万古祭り(5月第二土日)
*:市内川原町駅周辺。萬古焼を売る露店が数多く出店する。
* [[松原の石取祭]](7月第三土日前後)
*:松原公園向かいの[[聖武天皇社]]に奉納する祭。
* 松寺の[[石取|石取祭]](7月後半)
* [[天ヶ須賀の石取祭]](8月中旬)
*[[富田の石取祭]](8月中旬)
* [[鳥出神社]]の[[富田の鯨船行事]](8月14・15日)
*:富田地区の氏神鳥出神社の祭礼。[[捕鯨]]をモチーフにした祭。[[重要無形民俗文化財]]。
* [[富田一色けんか祭]](8月14・15日)
*:富田一色地区
=== 主な催事 ===
;朝市・市場
市内各地に午前中を中心として市場が立つ。近隣農家が市価より安く作物を販売している。農作物以外にも個人商店が鮮魚、衣料、生花、菓子などを並べている。
* 慈善橋即売場: 2,7,5,0のつく日。
* 阿倉川四・九の市: 4,9のつく日。
* 塩浜市場: 1,3,6,8のつく日。
* 笹川市場: 1,6のつく日。午後開催。
* [[富洲原四九の市]](しくのいち): 4,9のつく日 午前中。
== 出身人物 ==
=== 政治家・官僚 ===
* [[岡田克也]] - [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](元[[民主党代表]]、元[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、元[[民主党幹事長]]、元[[副総理]]・元[[内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)|行政改革担当大臣]]、元民進党代表(初代))
* [[金森正]] - [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]([[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[比例区]]単独候補)
* [[森智広]] - 四日市市長
* [[田中俊行]] - 元四日市市長
* [[鈴木礼治]] - 元愛知県知事<ref>大橋洋一郎、中崎裕「中部空港15周年 鈴木元知事に聞く」 『中日新聞』2020年2月17日付朝刊、県内版、12面。</ref>
* [[平田耕一]] - 元衆議院議員、[[自由民主党 (日本)|自民党]]
* [[太田述正]] - 元[[防衛省大臣官房|防衛庁長官官房]][[審議官#大臣(長官)官房審議官|審議官]]
* [[渡邉信一郎]] - 元三重県[[副知事 (日本)|副知事]]、元津市副市長、[[伊勢鉄道]]社長
* [[廣田恵子]] - 三重県[[副知事 (日本)|副知事]]、元[[三重県教育委員会]][[教育長]]
* [[杉原千畝]] - [[外交官]](幼少期の一時期、四日市で過ごした)
=== 財界人 ===
* [[伊藤傳三]] - [[伊藤ハム]]創業者。
* [[岡田卓也 (経営者)|岡田卓也]] - [[イオングループ]]名誉会長、ジャスコ創業者。岡田克也の父。
* [[九鬼紋十郎]] - [[九鬼産業]]グループ総帥。
* [[九鬼紋七]] - 九鬼産業の[[起業家|創業者]]。
* [[熊澤一衛]] - [[伊勢電鉄]][[社長]]。[[実業家]]。旧[[四日市市立図書館]]の建設者。
* 高津伊兵衛 - [[にんべん]]創業者<ref>[https://www.ninben.co.jp/company/history/ 株式会社にんべん 沿革]</ref>。
* [[種橋潤治]] - [[三重銀行]]頭取、三重県商議所連合会会長。
* [[樋口章憲]] - [[三洋化成工業]]社長。
* [[藤田健治 (実業家)|藤田健治]] - [[ビープラッツ]]創業者・社長。
* [[松下雋]] - [[日本碍子]]社長、[[中部経済連合会]]副会長。
* [[渡辺捷昭]] - [[トヨタ自動車]]社長。同市生まれ、[[愛知県]][[豊田市]]育ち。
=== 文化人 ===
==== 学者 ====
* [[伊藤亘行]] - [[声楽家]]、[[音楽教育者]]、[[作曲家]]、[[東京藝術大学]][[名誉教授]]、四日市市歌の作曲者、市内小中学校校歌作曲多数
*[[上田隆穂]] - [[経営学者]]、[[学習院大学]]教授
*[[坂崎利一]] - [[細菌学者]]
* [[丹羽文雄]] - 作家、同市出身、名誉市民<ref name="meiyoshimin" />、[[文化勲章]]受章
*[[林良嗣]] - [[工学者]]、[[名古屋大学]]名誉教授、元[[:w:World Conference on Transport Research Society|世界交通学会]]会長
* [[藤本幸太郎]] - [[商学|商学者]]、[[一橋大学]]名誉教授、元[[日本統計学会]]会長、日本初[[博士(商学)|商学博士]]
*[[樋口清司]] - [[技官]]、元[[宇宙航空研究開発機構]]副理事長、元[[国際宇宙航行連盟]]会長
* [[熊沢誠]] - [[経済学者]]、[[甲南大学]]名誉教授
==== 芸術・イラストレーター ====
* [[藤田敏八]] - 映画監督、俳優([[平壌直轄市|平壌]]生まれ)
* [[堤幸彦]] - 映画監督(プロフィールでは名古屋出身としている)
* [[瀬木直貴]] - 映画監督
* [[矢田恵梨子]] -漫画家
* [[石垣ゆうき]] - [[漫画家]]
* [[小島剛夕]] - 漫画家
* [[松井勝法]] - 漫画家
* [[現代洋子]] - 漫画家
* [[鈴木けい一]] - 漫画家
* [[前川さなえ]] - [[イラストレーター]]
* [[たかぎなおこ]] - イラストレーター
==== アナウンサー ====
* [[天野良春]] - 元[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]アナウンサー
* [[糸井羊司]] - NHKアナウンサー
* [[加藤亜希子]] - [[フリーアナウンサー]](元[[中京テレビ放送|中京テレビ]])
* [[千賀絢子]] - フリーアナウンサー、元[[日本放送協会|NHK]]契約キャスター
* [[松崎杏香]]-[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]
==== 作家 ====
* [[近藤啓太郎]] - 作家 ※ [[芥川龍之介賞|芥川賞]] 受賞
* [[笙野頼子]] - 作家 ※ 芥川賞 受賞
* [[赤瀬川隼]] - 作家 ※ [[直木三十五賞|直木賞]] 受賞
* [[伊藤桂一]] - 作家 ※ 直木賞 受賞
* [[後藤リウ]] - 作家<ref>後藤リウ『聖者が殺しにやってくる』角川書店 2013年6月 著者略歴より</ref>
* [[桑原滝弥]] - 詩人<ref>{{Cite web|和書|url=http://imaike.gr.jp/2014/10/|title=2014 10月|publisher=今池商店街|date=2014-10-30|accessdate=2014-11-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141102115812/http://imaike.gr.jp/2014/10/|archivedate=2014-11-02}}</ref>
* [[黒田洋介]] - 作家<ref name="animeland">{{Cite web|和書|date=|url=http://www.nhk.or.jp/animeland/20110604.html|title=渋谷アニメランド|publisher=|accessdate=2012-02-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120125014658/http://www.nhk.or.jp/animeland/20110604.html|archivedate=2012年1月25日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
* [[田村泰次郎]] - 作家
=== 芸能人 ===
==== 音楽 ====
* [[浦嶋りんこ]] - 歌手 ([[FUNK THE PEANUTS]])
* [[川口千里 (ドラマー)|川口千里]] - ドラマー (高校までは四日市在住、生まれは愛知県)
* [[KUNI-KEN]] - 津軽三味線ユニット
* [[高見奈央]] - 元[[ベイビーレイズJAPAN]]
* [[田端義夫]] - 演歌歌手(一時期、富洲原に居住)
* [[マック中原]] - 歌手([[MACK STYLE]])、ものまね、四日市市観光大使
* [[Ms.OOJA]] - ミュージシャン
* [[村田恵里]] - 歌手 (引退、旧芸名:ERINA 他)
* 夢人 - ミュージシャン([[AYABIE]] ボーカル)
==== 俳優 ====
* [[安達心平]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5.city.yokkaichi.mie.jp/menu87401.html|title=「四日市STYLE〜ナローゲージの聖地へようこそ〜」の開催報告及びプロモーション映像の公開|date=2015-02|publisher=[[四日市市役所]]政策推進部東京事務所|accessdate=2016-07-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160716043043/http://www5.city.yokkaichi.mie.jp/menu87401.html|archivedate=2016年7月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.you-yokkaichi.com/article/2015/105/16.html|title=【第105号(2015年3月14日発行) 16面】三重県四日市市のタウン紙『タウン情報YOU四日市』|date=2015-03-14|publisher=YOU四日市|accessdate=2016-07-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160716043909/http://www.you-yokkaichi.com/article/2015/105/16.html|archivedate=2016年7月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> - 俳優、MC
* [[倉田雅世]] - 声優
* [[高川裕也]] - 俳優
* [[水野美紀]] - 女優(学生時代を四日市で過ごした)
* [[松永渚]] - 女優<ref name="ah1311">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/NGY201311210008.html |title=「訴える」芝居、故郷で 三重出身の女優・松永渚さん|author=畑宗太郎|date=2013-11-21|publisher=[[朝日新聞]]|accessdate=2014-08-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131217215055/http://www.asahi.com/articles/NGY201311210008.html|archivedate=2013-12-17}}</ref>
==== 落語・お笑い芸人 ====
* [[桂福團治]] - 落語家
* [[林家菊丸]] - 落語家
* [[トニーヒロタ]] - ものまね芸人
* [[桂二乗]] - 落語家
* [[加藤歩 (お笑い芸人)|加藤歩]] - お笑い([[ザブングル (お笑いコンビ)|ザブングル]])
* [[やついいちろう]] - お笑い([[エレキコミック]])
* 近藤くみこ - お笑い([[ニッチェ (お笑いコンビ)|ニッチェ]])<ref>{{Twitter status|kumiko___kondo|432516363521773569}}</ref>
* [[門脇のりや]] - お笑い(サツキ)
==== アイドル・タレント ====
* [[加藤ゆり]] - タレント
* [[松本さゆき]] - グラビアアイドル
=== スポーツ選手 ===
==== 相撲 ====
* [[勢イ力八]] - 元[[力士|大相撲力士]]。最高位は西[[前頭]]9枚目。
* [[伊勢錦貫二郎]] - 元[[力士|大相撲力士]]。最高位は西[[十両]]16枚目。
* [[巨砲丈士]] - 元大相撲力士。最高位は東[[関脇]]。元・[[楯山 (相撲)|楯山]]親方。
==== 野球 ====
* [[市川卓]] - 元プロ野球選手([[北海道日本ハムファイターズ]])
* [[井手元健一朗]] - 元[[プロ野球選手]]([[中日ドラゴンズ]]、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]])
* [[谷口雄也]] - プロ野球選手(北海道日本ハムファイターズ)
* [[東克樹]] - プロ野球選手([[横浜DeNAベイスターズ]])
* [[伊藤裕季也]] - プロ野球選手(横浜DeNAベイスターズ)
* [[一尾星吏夏]] - 元女子プロ野球選手
==== サッカー ====
* [[北村知隆]] - [[サッカー選手]]([[ヴィアティン三重]])
* [[野垣内俊]] - [[サッカー選手]]([[ヴィアティン三重]])
* [[村上和弘]] - 元サッカー選手([[ベガルタ仙台]])
* [[内田健太]] - サッカー選手([[ヴァンフォーレ甲府]])
* [[阪倉裕二]] - 元サッカー選手
==== モータースポーツ ====
* [[服部尚貴]] - レーサー
* [[藤波貴久]] - オートバイ・トライアルライダー
==== バレーボール ====
* [[位田愛]] - バレーボール選手([[JTマーヴェラス]])
* [[服部安佑香]] - バレーボール選手([[埼玉上尾メディックス|上尾メディックス]])
* [[服部晃佳]] - バレーボール選手([[パイオニアレッドウィングス]])<ref>パイオニアレッドウィングス"[http://pioneer.jp/topec/sports/v_members/05.html No.5 服部 晃佳 - パイオニア] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140214124533/http://pioneer.jp/topec/sports/v_members/05.html |date=2014年2月14日 }}"(2014年2月27日閲覧。)</ref>、安佑香の姉
==== レスリング ====
* [[伊藤彩香]] - レスリング選手
* [[向田真優]] - レスリング選手<ref>遠田寛生「ホームシック こつこつ克服 いま子どもたちは No.693 夢は東京五輪 7」朝日新聞2014年4月4日付朝刊、教育面28ページ</ref>
==== その他 ====
* [[青山敏彦]] - [[ラジオ体操]]指導者
* [[小林実希]] - 空手家<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5.city.yokkaichi.mie.jp/menu3750.html|title=平成22年12月21日記者発表資料「第16回世界空手道選手権大会において優勝」、「第16回アジア競技大会(空手道)において準優勝」、「第38回全日本空手道選手権大会において優勝」された選手の市長・議長表敬訪問について|publisher=四日市市教育委員会事務局 スポーツ課|date=2010-12-21|accessdate=2014-09-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140915140817/http://www5.city.yokkaichi.mie.jp/menu3750.html|archivedate=2014-09-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.joc.or.jp/int_games/asia/2010/pdf/member/28_karatedo.pdf|title=空手道|publisher=[[日本オリンピック委員会]]|date=2010|accessdate=2014-09-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140915140020/http://www.joc.or.jp/int_games/asia/2010/pdf/member/28_karatedo.pdf|archivedate=2014-09-15}}</ref>
* [[中村匠吾]] - 陸上競技選手<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/sports/feature/hakone/data/2015/member/komazawa/02_nakamura.html|title=中村 匠吾(主将):駒大:箱根駅伝選手名鑑|publisher=[[スポーツ報知]]|date=2015|accessdate=2015-06-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150629110306/http://www.hochi.co.jp/sports/feature/hakone/data/2015/member/komazawa/02_nakamura.html|archivedate=2015-06-29}}</ref>
=== 地域史功績人 ===
* [[伊藤平治郎]] - 富洲原地区に平治郎橋を築いた経済功労者。
* [[稲葉三右衛門]] - 廻船問屋で四日市旧港を築港。
* [[山本卯太郎]] - [[重要文化財]]の[[末広橋梁]]([[可動橋]]として初の指定)を設計。
* [[井上敏夫 (海軍軍人)|井上敏夫]] - 海軍少将、四日市より衆議院議員2期、四日市築港に寄与。
* [[平田佐次郎 (初代)|初代平田佐次郎]] - [[平田紡績]]の創始者。
* [[生川平三郎]] - 富田地区と富洲原地区の実業家で水産功労者。
* [[伊藤小左衛門 (5代目)]] - [[殖産興業]]によって紡績産業を育成した。
* [[山中忠左衛門]] - [[沼波弄山]]が始めた[[萬古焼]]を産業として広めた。
* [[伊藤伝七 (10代目)|十代目伊藤伝七]] - [[東洋紡|三重紡績]]を設立して繊維産業を育成した。
* [[伊藤伝七 (11代目)|十一代目伊藤伝七]] - [[三岐鉄道]]社長。名誉市民<ref name="meiyoshimin"/>。
* [[伊藤勘作]] - [[網勘製網]]の[[創業者]]で三重郡富田町議会議員。
* [[大賀賢励]] - [[儒学者]]。
* [[田代随意]] - [[桑名藩]]領の四日市市天ヶ須賀の鉄砲医者で名医。
* [[岡田武兵衛]] - [[楠町 (三重県)|楠町]]長として楠地区の工業立村に取り組んだ経済功労者。
* [[前川辰男]] - 塩浜地区出身で公害裁判を推進して、[[四日市ぜんそく]]を解決した[[環境運動]]家。
===教育者===
* [[井島茂作]] - 四日市商業学校(現在の[[三重県立四日市商業高等学校]])の設立者。
* [[津田勉]] - [[学校法人津田学園]]創設者。三重県議会議員(四日市市選出)。
* [[宗村佐信]] - 暁学園創設者。[[平田紡績]]社長。
* [[野村良意]] - 天ヶ須賀の教育者。[[寺子屋]]を開校していた。
===その他===
* [[森田必勝]] - [[三島由紀夫]]と共に[[楯の会]]に参加。
* [[沢井余志郎]] - [[四日市ぜんそく]]の映画『青空どろぼう』出演の公害記録家。[[市民活動|市民運動]]家。
* [[桂文治 (初代)]] - [[江戸時代]]の[[上方落語]]家。[[1815年]](文化12年)[[天領]][[四日市宿]]にて客死した。今も四日市市内に墓碑が残る。
* [[玉井兄弟]] - [[大正時代]]の[[飛行家]]。
* [[しぐれうい]] - [[イラストレーター]]・[[漫画家]]兼[[バーチャルYouTuber]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* 四日市市史(第18巻・通史編・近代)。
* 四日市市史(第19巻・通史編・現代)。
* 四日市市史功績人の項目。四日市市制111周年記念出版本「四日市の礎111人のドラマとその横顔」。
* [[四日市ぜんそく]]の項目。『「四日市公害」市民運動記録集 1971-1982 全4巻』日本図書センター、2007年。ISBN 978-4-284-40051-0
* 四日市市史(第14巻)史料編現代Ⅰ。
* 四日市市史(第15巻)史料編現代Ⅱ。
* (人口統計・各地区の項目・歴代市長・四日市市の歴史の出典)四日市市公式ホームページ。
== 関連文献 ==
*{{Google books|HFjIFeJPA6IC|四日市市史(四日市市教育会、1930年)|page=|plainurl=}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{Wikivoyage|en:Yokkaichi|四日市市{{en icon}}}}
{{See also|Category:四日市市}}
* [[東海道五十三次]]
* [[伊勢国]]
* [[四日市の女]] - [[青山こうじ]]による[[1975年]]のシングル曲
* [[四日市ぜんそく]] - [[四日市公害と環境未来館]]
== 外部リンク ==
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; 行政
* {{Official website|name=四日市市}}
* {{Twitter|yokkaichikouhou }}
* {{Instagram|yokkaichi_style}}
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* {{LINE公式アカウント|yokkaichicity}}
; 立法
* [https://www.city.yokkaichi.lg.jp/www/genre/1000100000113/index.html 四日市市議会]
; 観光
* [https://kanko-yokkaichi.com/ 四日市観光協会]
* [https://yokkaichi-fc.jp/ よっかいちフィルムコミッション]
* {{ウィキトラベル インライン|四日市市|四日市市}}
* {{Googlemap|四日市市}}
{{Geographic Location
|Centre = 四日市市
|North = [[いなべ市]]<br />[[東員町]]
|Northeast = [[桑名市]]
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[[Category:日本の第三種鉄道事業者]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E5%B8%82
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南部町 (和歌山県)
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南部町(みなべちょう)は、かつて和歌山県日高郡に存在した町。2004年10月1日に南部川村と合併し、みなべ町となった。
「南部」は、古くは三鍋と表記されていたとされ、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む。
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南部町(みなべちょう)は、かつて和歌山県日高郡に存在した町。2004年10月1日に南部川村と合併し、みなべ町となった。 「南部」は、古くは三鍋と表記されていたとされ、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む。
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{{日本の町村 (廃止)
|廃止日=2004年10月1日
|廃止理由=新設合併
|廃止詳細='''南部町'''、[[南部川村]] → [[みなべ町]]
|現在の自治体=[[みなべ町]]
|よみがな=みなべちょう
|自治体名=南部町
|画像=Senri-Bairin_Minabe_Wakayama05n1980.jpg
|画像の説明=[[千里梅林]]
|区分=町
|都道府県=和歌山県
|郡=[[日高郡 (和歌山県)|日高郡]]
|コード=30389-5
|面積=26.08
|境界未定=なし
|人口=8117
|人口の出典=
|人口の時点=2003年
|隣接自治体=[[田辺市]]・[[日高郡 (和歌山県)|日高郡]][[南部川村]]、[[印南町]]
|木=[[モッコク]]
|花=[[ウメ|梅の花]]
|シンボル名=他のシンボル
|鳥など=
|郵便番号=645-0002
|所在地=日高郡南部町芝742番地
|外部リンク=[https://web.archive.org/web/*/http://www.town.minabe.wakayama.jp/ 南部町]([[Internet Archive]])
|座標 = {{Coord|format=dms|type:city(8117)_region:JP-30|display=inline,title|name=南部町}}
|位置画像=
|特記事項=
}}
'''南部町'''(みなべちょう)は、かつて[[和歌山県]][[日高郡 (和歌山県)|日高郡]]に存在した[[町]]。2004年10月1日に[[南部川村]]と合併し、[[みなべ町]]となった。
「南部」は、古くは三鍋と表記されていたとされ、「なんぶ」ではなく「みなべ」と読む。
== 地理 ==
[[和歌山県]]の中程、海岸沿いに位置している。
* 河川:[[南部川 (和歌山県)|南部川]]
== 歴史 ==
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、南道村・北道村・芝村・東吉田村・埴田村・堺村・気佐藤村・山内村の区域をもって'''南部村'''が発足。
* [[1897年]](明治30年)[[9月11日]] - 南部村が町制施行して'''南部町'''となる。
* [[1954年]]([[昭和]]29年)4月1日 - [[岩代村]]を編入。
* [[2004年]]([[平成]]16年)[[10月1日]] - [[南部川村]]と合併して'''[[みなべ町]]'''が発足。同日南部町廃止。
== 行政 ==
=== 歴代町長 ===
* 南部町として最後の町長は山崎繁雄。
{{節スタブ}}
== 産業 ==
* 旧[[南部川村]](現みなべ町)とともに日本一の[[梅干し]]の産地。
* [[紀州備長炭]]の主要な産地の一つで、全国1位(2004年当時)。
== 教育 ==
* 保育園
** 南部町立南部保育所
* 幼稚園
** 南部町立南部幼稚園
* 小学校
** 南部町立南部小学校
** 南部町立岩代小学校
* 中学校
** 南部町立南部中学校
* 高等学校
** [[和歌山県立南部高等学校]]
== 交通 ==
=== 鉄道路線 ===
* 中心となる駅:'''[[南部駅]]'''
* [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]
** [[紀勢本線]](きのくに線):([[田辺市]]) - '''[[南部駅]]''' - [[岩代駅]] - ([[印南町]])
=== 道路 ===
* 高速道路
** [[阪和自動車道]]([[近畿自動車道]]紀勢線) [[みなべインターチェンジ|みなべIC]]
* 一般国道
** [[国道42号]]
** [[国道424号]]
* 県道
** [[和歌山県道35号上富田南部線]]
** [[和歌山県道200号中芳養南部線]]
** [[和歌山県道201号南部停車場線]]
== 観光 ==
* 本州有数の[[アカウミガメ]]産卵地。
* [[千里梅林]]・[[岩代大梅林]]で有名な景勝の地。
* [[千里の浜]]
* [[鹿島 (和歌山県)|鹿島]]
== 宿泊 ==
* 紀州南部ロイヤルホテル
* 朝日楼
== 出身人物 ==
* [[石橋八九郎 (1862年生の実業家)|石橋八九郎]](綿[[フランネル|ネル]]商、石橋合名会社代表社員、四十三銀行取締役、旧姓・中村)
== 関連項目 ==
* [[和歌山県の廃止市町村一覧]]
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[[Category:みなべ町域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
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ダライ・ラマ
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ダライ・ラマ(Dalai Lama, ཏཱ་ལའི་བླ་མ་, taa-la’i bla-ma, 達頼喇嘛)は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡。チベットとチベット人民の象徴たる地位にある。
その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである。
ダライ・ラマは17世紀(1642年)に発足したチベット政府(ガンデンポタン)の長として、チベットの元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時期において、チベットの全域(1732年以降は「西藏」を中心とする地域)をラサから統治するチベット政府を指揮することがあった。現ダライ・ラマ14世は、チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。
チベット仏教では、チベットの国土と衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベットの人々は観音菩薩をチベットの守護尊であると考えるようになった。ダライ・ラマはその観音菩薩の化身とされる転生系譜である。ラサのポタラ宮は、第五世以降の歴代ダライ・ラマの居城であり、チベット仏教における聖地となっている。チベット仏教の信者らはその居城へ一生に一度は巡礼することを目標としており(最も聖なる巡礼方法は五体投地とされる)、信者らからはイーシン・ノルブ(如意宝珠の意)と尊称される存在である。日本ではチベット仏教の法王とも呼ばれるが、チベット仏教で法王と呼べる存在は、かつて明朝より大宝法王の称号を贈られたカルマ派のカルマパや、北ドゥク派のギャルワン・ドゥクパなど複数存在する。
多くの場合、ダライ・ラマはゲルク派の指導者であると考えられているが、ゲルク派の首座はガンデン・ティパ(ゲルク派の総本山ガンデン寺の座主)であり、ダライ・ラマもゲルク派の中ではガンデン・ティパの属下にある。ただし、ガンデン・ティパという地位はダライ・ラマによって任命される任期制の役職であり、実際に多大な影響力を有しているのはダライ・ラマの方である。
ダライ・ラマはゲルク派の有力な宗教指導者から始まった転生ラマ制度であったが、ダライ・ラマ5世の代に至ってチベットを支配する政治的権威をも身にまとうようになった。第六世以降のダライ・ラマはモンゴルや清朝という外部勢力によって改廃させられたり、未成年時には摂政が政務を代行したため、ダライ・ラマ本人がつねに実権を掌握していたわけではなかった。とはいえ、観音菩薩の化身たるダライ・ラマに具わるある種の理念的な権力はつねに機能しており、清朝などの介入者や実権を握った摂政らも、その権威を否定することはできず、少なくとも形式上はダライ・ラマの教導に従う態度を示していた。
「ダライ・ラマ」は、16世紀のモンゴル諸部族の間で最有力指導者であったアルタン・ハーンより贈られたモンゴル語の称号に由来し、アジア、欧米などで広く用いられる通称。チベット語でも、ཏཱ་ལའི་བླ་མ་ (taa-la’i bla-ma) と表記されるが、チベットでは対外的文書などに用いられるにすぎず、チベット人の間では敬称として「ギャルワ(またはギャワ、ラサ方言ではゲェワ)・リンポチェ」(猊下に当たる敬称、貴い勝者の意)や「クンドゥン」(御前)などと呼ばれる。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所では、日本語名称は「ダライ・ラマ法王」、敬称は「猊下」(His Holiness)としている。仏教史『ヴァイセル』では「タムチェキェンバ (thams cad mkyen pa)」、同『パクサムジョンサン』では「ギャルワン (rgyal dbang)」の称号で呼ばれている。
ラテン文字慣用表記:Dalai Lama, チベット語:ཏཱ་ལའི་བླ་མ་; ワイリー方式:taa-la’i bla-ma, 中国語簡体字:达赖喇嘛; 繁体字:達賴喇嘛; 漢語ピンイン:Dálài Lǎmāなど。
ダライ・ラマが没すると、その遺言や遺体の状況、神降ろしによる託宣、ラサから約145キロの地点のチョコル・ギャルにあり、ダライ・ラマの護法尊パルデン・ハモ(吉祥天母)の魂が宿るとされる聖なる湖であるラモイ・ラツォ湖の観察、夢占い、何らかの奇跡などを元に僧たちによって次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。その場所に行って子どもを探し、誕生時の特徴や幼少時の癖などを元にして、その予言に合致する子どもを候補者に選ぶ。その上でその候補者が本当の化身かどうかを前世の記憶を試して調査する。例えば、先代ゆかりの品物とそうでない品物を同時に見せて、ダライ・ラマの持ち物に愛着を示した時、あるいはその持ち物で先代が行っていたことと同様の癖を行ったりした場合に、その子どもがダライ・ラマの生まれ変わりと認定される。
認定された転生者は幼児期にして直ちに法王継承の儀式を受けるが、この時点ではあくまで宗教的権威に留まる。成人に達すると(通例は18歳)「チベット王」として改めて即位を執り行い、初めて政治的地位を持つこととなる。先代の遷化(死亡)から新法王の即位までの間は、摂政が国家元首の地位と政務を代行する。
ダライ・ラマ1世ゲンドゥン・ドゥプパ(1391年 - 1474年)は、チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパの直弟子であった。一世から四世(1589年 - 1617年)までのダライ・ラマは、チベットと周辺地域で広く尊敬を集めた学僧であったが、「偉大なる五世」と呼ばれるダライ・ラマ5世ガワン・ロサン・ギャツォ(1617年 - 1682年)は、優れた学僧であっただけでなく、モンゴルの豪族グーシ・ハーンの後ろ盾を得て、1642年にチベットの政治的支配者となったとされる。以来、歴代ダライ・ラマは、チベットのみならずモンゴル人や満州人にも影響力をもつ宗教的権威者の立場と、チベットを統べる政治的権威を有する君主の立場とを兼ね備えた僧侶君主となり、チベット第一の都市であるラサを基盤とする政体(ガンデンポタン)の最高権威者として君臨した。しかしその後の歴史の中では、ダライ・ラマ本人がつねに名実ともにその権力を掌握していたわけではなく、とりわけ九世から十二世までのダライ・ラマはいずれも夭折したため、実権を行使して親政を行うことがほとんどなかった。
ダライ・ラマという称号はモンゴル人の支配者アルタン・ハーンが当時のデプン寺の座主であったスーナム・ギャツォを師と仰ぎ、贈った称号。この時の正式な称号は「ダライ・ラマ・バジュラダーラ」 Dalai-bla-ma bazra dhari といった。最初にダライ・ラマの称号を用いたのはスーナム・ギャツォであったが、かれを一世とはせず三世とし、遡ってゲルク派の宗祖ツォンカパ大師の弟子ゲンドゥン・ドゥプパを一世とした。「ダライ」とは、モンゴル語で「大海」を意味する。「ラマ」はチベット語で「師(教師・指導者)」を意味する。第二世ゲンドゥン・ギャツォ以来、歴代の法名に襲名されている「ギャツォ」とはチベット語で「海」を意味し、モンゴル語の「ダライ」と対応する。
ダライ・ラマの名跡は、ゲルク派の宗祖ツォンカパの高弟ゲンドゥンドゥプを初代とし、代替わりが進むにつれ、ラサ三大寺のセラ・デプン両寺の座主職を兼任するようになるなど、ゲルク派内の地位を高めていった。また、同派のモンゴル布教の最前線に立ち、1578年第三世スーナム・ギャツォが当時のモンゴルの最高実力者アルタン・ハーンとチョ・ユン関係(施主・福田)を築くなど、モンゴルに対する大きな影響力をも持つようになった。
1636年、後金の王ホンタイジが、ボルジギン氏(チンギス・ハーンの子孫)ではないにもかかわらずハーンの地位に即位(即位と同時に国号を大清と変更)するという事態が起きたとき、ハルハとオイラトの諸部は友好使節団を派遣して愛新覚羅氏による「ハーン」位継承を追認したが、この使節団は名目上、「清朝によるダライラマへの使者派遣に、自分たちの使者も同行させてほしい」ことを申し入れることを目的としていた。
ホシュート部の指導者グーシ・ハーンは、清朝に使節団を派遣した1637年よりチベットの征服に着手、オイラト軍を率いて1642年までに中央チベット・アムド・カムなどチベットの大部分を制圧した。グーシ・ハーンはアムドをホシュート部の直轄地とし、中央チベット全域をダライ・ラマに寄進して広大なダライ・ラマ領とした。これをもってダライ・ラマを頂点とする政権が中央チベットに樹立されることになった。その後グーシ・ハーンも初代摂政スーナム・チュンペルも相次いで亡くなったため、ダライ・ラマ5世は着々と自らの権力を固めることができ、かれをチベットの最高権威として擁立せしめたモンゴル人たちの宗主権は有名無実と化した。また、当初ダライ・ラマ政権は中央チベットのみに支配を及ぼしていたが、後にその支配地域を拡大していくことになる。こうして名実ともにダライ・ラマ5世がチベットの支配者となったとされる。
ダライ・ラマの信者であるグーシ・ハーンによるチベットの制圧は、チベットの宗教界と世俗の権力構造に大きな変動をもたらした。ダライ・ラマの名跡は、それまでの「ゲルク派の有力名跡」という宗教的権威のみならず、チベットで最も肥沃で人口稠密なダライ・ラマ領を掌握するのに加え、グーシ・ハーン一族や、グーシ・ハーン一族に従属する諸侯たちの領主権の認定、各地のゲルク派寺院の人事権の認定に携わるなど、宗教的・世俗的な権威と権限をチベットにおける支配地域で行使するという、聖俗両権を一身にまとう地位となった。
ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォによる比丘戒の不受と沙弥戒の返上、その後の放蕩は、1642年以来ダライ・ラマ擁立の後ろ盾となってきたグーシ・ハーン一族の分裂をもたらし、ツァンヤン・ギャツォに替えて別の六世エシェ・ギャツォを擁立する「ラサン派」と、中国へ流刑される途上1705年に死去したツァンヤン・ギャツォの「生まれ変わり」として擁立されたケルサン・ギャツォを擁する「反ラサン派」が対立することとなった。
対立は、オイラト本国(当時ジュンガル部が支配)や清朝などの外部勢力を巻き込んだ戦乱の果て、1720年、ケルサン・ギャツォがダライ・ラマとして正式に即位する形でとりあえず決着した。ただしチベット人やモンゴル人たちがケルサン・ギャツォを「ツァンヤン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ7世」として認定したのに対し、清朝は当初「ロサン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ6世」として扱った。清朝がケルサン・ギャツォのダライラマとしての代数を、チベット人・モンゴル人が認定している通り七世として認めるのは、18世紀末、康熙帝の曾孫嘉慶帝の代まで下る。
ダライ・ラマ8世の代に起こったグルカ戦争を機に、清朝の乾隆帝は化身ラマの選定方法に介入し、「セルブム(黄金の瓶)」をチベットに贈り、ダライ・ラマとパンチェン・ラマなど化身ラマの大名跡の認定にこの瓶を活用するよう求めた(→金瓶掣籤。ダライ・ラマについては、10世から12世までの選定に用いられた)。
19世紀初頭にダライ・ラマ8世が遷化して以来、ダライ・ラマの転生者の捜索はチベット貴族の勢力争いの場となり、恣意的な人選が行われた。この時期の四代のダライ・ラマはいずれも早世しており、十世から十二世までのダライ・ラマは政治的実権を握る成人前後に急逝している。このような状況下で有力僧侶や貴族が摂政となって実権を握り、貴族や大寺院の権力争いや陰謀が横行する混迷の時期が続いた。ダライ・ラマ7世遷化の後、ラサの四大院の名跡の中のひとりがガンデンポタンの首班ギャルツァプ(rgyal tshab)職に就く体制が成立した。 1642年〜1705年に存在したデシー(sde srid)職が、「ダライ・ラマの下で世俗の権限を行使する「首相職」」とでもいうべき地位であったのに対し、ギャルツァプ職はダライ・ラマの代理としてその権限を行使する「名代」、「摂政」というべき地位であり、絶大な職権があった。
ダライ・ラマは現在、「ゲルク派の最高指導者」ではなく「チベット仏教の最高指導者」であると言われている(実際にダライ・ラマがチベット仏教を統括しているかどうかは別として)。このことの歴史的背景には、クビライとパクパが築いた「施主と帰依処」の関係を端緒とする「領天下釈教」、すなわちチベット仏教(の領袖)が天下の仏教の上に立つという思想がある、と田中公明は指摘している。この発想は、チベット仏教が対中国的に自らの権威を強調するのに利用された。パクパの後にチベット仏教の権威者として「領天下釈教」の称号を得たのは、明の永楽帝より「大宝法王」の号を授与されたカルマパ5世テシンシェクパであり、その後、清の順治帝の招聘を受けたダライ・ラマ5世がこのタイトルを得た。したがって中国の王朝との関係において、名目上カルマパが得た地位をダライ・ラマが引き継いだ形になる。ただし、清朝がチベット仏教の最高権威としてダライ・ラマに贈った「所領天下釈教」の肩書は、元代にパクパが得た地位とは異なり、漢人の仏教までも領掌するものではなかった。その後、7世の代にダライ・ラマ政権が清朝の保護下に入ると、ダライ・ラマは宗主たる清朝皇帝のために祈願する義務を負った。
中華人民共和国の一白書では、ダライ・ラマの称号とチベットの政教一致体制の確立は1653年に清朝皇帝がダライ・ラマ5世に尊称を贈ったことに始まるかのように記述している。チベット亡命政権はこれに対し、ダライ・ラマの称号はそれよりずっと前のダライ・ラマ3世とモンゴルのアルタン・ハーンとの関係から始まるものであること、また、ダライ・ラマ5世の政治的権威は清朝成立とは無関係にグーシ・ハーンとの関係において確立したものであるという事実を挙げて反論している。また、ダライ・ラマと清朝皇帝との「帰依処・檀越」の関係は個人的なものであったと主張し、清帝国の一部ではあっても支配層ではなかった漢人が清朝皇帝とダライ・ラマの関係に介在したことはないため、中国がチベットに対して主権を主張することに歴史的正当性はないとしている。
ダライ・ラマはゲルク派において最重要の化身ラマであるが、ダライ・ラマに次いで重要な化身ラマであるパンチェン・ラマと併せて、ゲルク派の二大ラマとか二人の最高指導者とみなす場合もある。この二人の化身ラマの密接な関係を、チベットの人々は太陽と月になぞらえた。パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身とされ、ダライ・ラマに比肩しうる智慧をもつ高僧と考えられていた。カルマ派ではシャマルパという化身ラマがあり、法王たるカルマパの死後、その転生者に選ばれた次の法王が成人するまでの空白を補う副法王の役割をもっているが、ダライ・ラマとパンチェン・ラマもこれと似た正副法王に当たり、相互に師弟関係にあった。ただし、パンチェン・ラマはシガツェに常駐していることが多く、ダライ・ラマ未成年時に摂政として政務を代行したのは、多くの場合ラサにいる別のラマであった。
パンチェン・ラマはダライ・ラマとは異なり、原則的に世俗的な政治権力は有していなかった。ダライ・ラマはガンデンポタンの長としてウー地方のラサを基盤としていたのに対し、パンチェン・ラマはタシルンポ寺の座主としてツァン地方のシガツェ周辺を所領としていた。1727年、清朝はゲルク派内の勢力均衡を図るため、パンチェン・ラマの政治権力を強化させようとして、ツァンと西チベットをパンチェン・ラマの領地と定めた。この措置の政治的効果はさほど大きくなかったものの、その後の時代においてダライ・ラマとパンチェン・ラマの間で(あるいはラサとシガツェの間で)幾度か軋轢が生じる遠因となった。
なお、チベット亡命政府は、パンチェン・ラマの地位に関する中華人民共和国の主張に対する反論の中で、シガツェやタシルンポ寺の行政もダライ・ラマ政庁の任命した行政官が担っていたことを強調している。
ダライ・ラマはゲルク派の最も有名な僧侶であり、事実上、ゲルク派の総帥とか宗主のように扱われることがあるが、ゲルク派の管長ではない。本来は総本山ガンデン寺の座主(ガンデン・ティパ)がゲルク派の最高指導者である。ガンデン・ティパはゲルク派の学僧の頂点に立つ役職であり、宗祖ツォンカパの後継者としてゲルク派の教法を管掌する法主の立場にある。その上座にはダライ・ラマとパンチェン・ラマ以外座ることを許されなかった。ガンデン寺における席がダライ・ラマのそれより高いことから、ゲルク派内での宗教上の格式はダライ・ラマよりも上位にあると解釈することができる。
16世紀、ゲルク派の教勢拡大に伴って他派との摩擦が生じた際、政敵であったカルマ派のカルマパなどと比べると、ゲルク派の教主であるガンデン・ティパは交代制で任期が短かったため、求心力やカリスマ性を獲得し難い面があった。ダライ・ラマは、そのような時代にデプン寺とセラ寺の座主を兼任して事実上のゲルク派の最高指導者となった学僧ゲンドゥン・ギャツォ(ダライ・ラマ2世)、そしてその転生者とされたスーナム・ギャツォ(ダライ・ラマ3世)に始まる転生系譜であり、ゲルク派の統合の象徴であった。
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"text": "1636年、後金の王ホンタイジが、ボルジギン氏(チンギス・ハーンの子孫)ではないにもかかわらずハーンの地位に即位(即位と同時に国号を大清と変更)するという事態が起きたとき、ハルハとオイラトの諸部は友好使節団を派遣して愛新覚羅氏による「ハーン」位継承を追認したが、この使節団は名目上、「清朝によるダライラマへの使者派遣に、自分たちの使者も同行させてほしい」ことを申し入れることを目的としていた。",
"title": "歴史"
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"text": "ホシュート部の指導者グーシ・ハーンは、清朝に使節団を派遣した1637年よりチベットの征服に着手、オイラト軍を率いて1642年までに中央チベット・アムド・カムなどチベットの大部分を制圧した。グーシ・ハーンはアムドをホシュート部の直轄地とし、中央チベット全域をダライ・ラマに寄進して広大なダライ・ラマ領とした。これをもってダライ・ラマを頂点とする政権が中央チベットに樹立されることになった。その後グーシ・ハーンも初代摂政スーナム・チュンペルも相次いで亡くなったため、ダライ・ラマ5世は着々と自らの権力を固めることができ、かれをチベットの最高権威として擁立せしめたモンゴル人たちの宗主権は有名無実と化した。また、当初ダライ・ラマ政権は中央チベットのみに支配を及ぼしていたが、後にその支配地域を拡大していくことになる。こうして名実ともにダライ・ラマ5世がチベットの支配者となったとされる。",
"title": "歴史"
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"text": "ダライ・ラマの信者であるグーシ・ハーンによるチベットの制圧は、チベットの宗教界と世俗の権力構造に大きな変動をもたらした。ダライ・ラマの名跡は、それまでの「ゲルク派の有力名跡」という宗教的権威のみならず、チベットで最も肥沃で人口稠密なダライ・ラマ領を掌握するのに加え、グーシ・ハーン一族や、グーシ・ハーン一族に従属する諸侯たちの領主権の認定、各地のゲルク派寺院の人事権の認定に携わるなど、宗教的・世俗的な権威と権限をチベットにおける支配地域で行使するという、聖俗両権を一身にまとう地位となった。",
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"text": "ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォによる比丘戒の不受と沙弥戒の返上、その後の放蕩は、1642年以来ダライ・ラマ擁立の後ろ盾となってきたグーシ・ハーン一族の分裂をもたらし、ツァンヤン・ギャツォに替えて別の六世エシェ・ギャツォを擁立する「ラサン派」と、中国へ流刑される途上1705年に死去したツァンヤン・ギャツォの「生まれ変わり」として擁立されたケルサン・ギャツォを擁する「反ラサン派」が対立することとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "対立は、オイラト本国(当時ジュンガル部が支配)や清朝などの外部勢力を巻き込んだ戦乱の果て、1720年、ケルサン・ギャツォがダライ・ラマとして正式に即位する形でとりあえず決着した。ただしチベット人やモンゴル人たちがケルサン・ギャツォを「ツァンヤン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ7世」として認定したのに対し、清朝は当初「ロサン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ6世」として扱った。清朝がケルサン・ギャツォのダライラマとしての代数を、チベット人・モンゴル人が認定している通り七世として認めるのは、18世紀末、康熙帝の曾孫嘉慶帝の代まで下る。",
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"text": "ダライ・ラマ8世の代に起こったグルカ戦争を機に、清朝の乾隆帝は化身ラマの選定方法に介入し、「セルブム(黄金の瓶)」をチベットに贈り、ダライ・ラマとパンチェン・ラマなど化身ラマの大名跡の認定にこの瓶を活用するよう求めた(→金瓶掣籤。ダライ・ラマについては、10世から12世までの選定に用いられた)。",
"title": "歴史"
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"text": "19世紀初頭にダライ・ラマ8世が遷化して以来、ダライ・ラマの転生者の捜索はチベット貴族の勢力争いの場となり、恣意的な人選が行われた。この時期の四代のダライ・ラマはいずれも早世しており、十世から十二世までのダライ・ラマは政治的実権を握る成人前後に急逝している。このような状況下で有力僧侶や貴族が摂政となって実権を握り、貴族や大寺院の権力争いや陰謀が横行する混迷の時期が続いた。ダライ・ラマ7世遷化の後、ラサの四大院の名跡の中のひとりがガンデンポタンの首班ギャルツァプ(rgyal tshab)職に就く体制が成立した。 1642年〜1705年に存在したデシー(sde srid)職が、「ダライ・ラマの下で世俗の権限を行使する「首相職」」とでもいうべき地位であったのに対し、ギャルツァプ職はダライ・ラマの代理としてその権限を行使する「名代」、「摂政」というべき地位であり、絶大な職権があった。",
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"text": "ダライ・ラマは現在、「ゲルク派の最高指導者」ではなく「チベット仏教の最高指導者」であると言われている(実際にダライ・ラマがチベット仏教を統括しているかどうかは別として)。このことの歴史的背景には、クビライとパクパが築いた「施主と帰依処」の関係を端緒とする「領天下釈教」、すなわちチベット仏教(の領袖)が天下の仏教の上に立つという思想がある、と田中公明は指摘している。この発想は、チベット仏教が対中国的に自らの権威を強調するのに利用された。パクパの後にチベット仏教の権威者として「領天下釈教」の称号を得たのは、明の永楽帝より「大宝法王」の号を授与されたカルマパ5世テシンシェクパであり、その後、清の順治帝の招聘を受けたダライ・ラマ5世がこのタイトルを得た。したがって中国の王朝との関係において、名目上カルマパが得た地位をダライ・ラマが引き継いだ形になる。ただし、清朝がチベット仏教の最高権威としてダライ・ラマに贈った「所領天下釈教」の肩書は、元代にパクパが得た地位とは異なり、漢人の仏教までも領掌するものではなかった。その後、7世の代にダライ・ラマ政権が清朝の保護下に入ると、ダライ・ラマは宗主たる清朝皇帝のために祈願する義務を負った。",
"title": "位置づけ"
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"text": "中華人民共和国の一白書では、ダライ・ラマの称号とチベットの政教一致体制の確立は1653年に清朝皇帝がダライ・ラマ5世に尊称を贈ったことに始まるかのように記述している。チベット亡命政権はこれに対し、ダライ・ラマの称号はそれよりずっと前のダライ・ラマ3世とモンゴルのアルタン・ハーンとの関係から始まるものであること、また、ダライ・ラマ5世の政治的権威は清朝成立とは無関係にグーシ・ハーンとの関係において確立したものであるという事実を挙げて反論している。また、ダライ・ラマと清朝皇帝との「帰依処・檀越」の関係は個人的なものであったと主張し、清帝国の一部ではあっても支配層ではなかった漢人が清朝皇帝とダライ・ラマの関係に介在したことはないため、中国がチベットに対して主権を主張することに歴史的正当性はないとしている。",
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"text": "ダライ・ラマはゲルク派において最重要の化身ラマであるが、ダライ・ラマに次いで重要な化身ラマであるパンチェン・ラマと併せて、ゲルク派の二大ラマとか二人の最高指導者とみなす場合もある。この二人の化身ラマの密接な関係を、チベットの人々は太陽と月になぞらえた。パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身とされ、ダライ・ラマに比肩しうる智慧をもつ高僧と考えられていた。カルマ派ではシャマルパという化身ラマがあり、法王たるカルマパの死後、その転生者に選ばれた次の法王が成人するまでの空白を補う副法王の役割をもっているが、ダライ・ラマとパンチェン・ラマもこれと似た正副法王に当たり、相互に師弟関係にあった。ただし、パンチェン・ラマはシガツェに常駐していることが多く、ダライ・ラマ未成年時に摂政として政務を代行したのは、多くの場合ラサにいる別のラマであった。",
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"text": "パンチェン・ラマはダライ・ラマとは異なり、原則的に世俗的な政治権力は有していなかった。ダライ・ラマはガンデンポタンの長としてウー地方のラサを基盤としていたのに対し、パンチェン・ラマはタシルンポ寺の座主としてツァン地方のシガツェ周辺を所領としていた。1727年、清朝はゲルク派内の勢力均衡を図るため、パンチェン・ラマの政治権力を強化させようとして、ツァンと西チベットをパンチェン・ラマの領地と定めた。この措置の政治的効果はさほど大きくなかったものの、その後の時代においてダライ・ラマとパンチェン・ラマの間で(あるいはラサとシガツェの間で)幾度か軋轢が生じる遠因となった。",
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"text": "なお、チベット亡命政府は、パンチェン・ラマの地位に関する中華人民共和国の主張に対する反論の中で、シガツェやタシルンポ寺の行政もダライ・ラマ政庁の任命した行政官が担っていたことを強調している。",
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"text": "ダライ・ラマはゲルク派の最も有名な僧侶であり、事実上、ゲルク派の総帥とか宗主のように扱われることがあるが、ゲルク派の管長ではない。本来は総本山ガンデン寺の座主(ガンデン・ティパ)がゲルク派の最高指導者である。ガンデン・ティパはゲルク派の学僧の頂点に立つ役職であり、宗祖ツォンカパの後継者としてゲルク派の教法を管掌する法主の立場にある。その上座にはダライ・ラマとパンチェン・ラマ以外座ることを許されなかった。ガンデン寺における席がダライ・ラマのそれより高いことから、ゲルク派内での宗教上の格式はダライ・ラマよりも上位にあると解釈することができる。",
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},
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"text": "16世紀、ゲルク派の教勢拡大に伴って他派との摩擦が生じた際、政敵であったカルマ派のカルマパなどと比べると、ゲルク派の教主であるガンデン・ティパは交代制で任期が短かったため、求心力やカリスマ性を獲得し難い面があった。ダライ・ラマは、そのような時代にデプン寺とセラ寺の座主を兼任して事実上のゲルク派の最高指導者となった学僧ゲンドゥン・ギャツォ(ダライ・ラマ2世)、そしてその転生者とされたスーナム・ギャツォ(ダライ・ラマ3世)に始まる転生系譜であり、ゲルク派の統合の象徴であった。",
"title": "位置づけ"
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] |
ダライ・ラマは、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡。チベットとチベット人民の象徴たる地位にある。 その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである。 ダライ・ラマは17世紀(1642年)に発足したチベット政府(ガンデンポタン)の長として、チベットの元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時期において、チベットの全域(1732年以降は「西藏」を中心とする地域)をラサから統治するチベット政府を指揮することがあった。現ダライ・ラマ14世は、チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。
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{{Otheruses|高僧全般|在位中のダライ・ラマ|ダライ・ラマ14世}}
{{Infobox Monarchy
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|royal_title = ダライ・ラマ法王
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{{Infobox Royal styles
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}}
'''ダライ・ラマ'''(Dalai Lama, ཏཱ་ལའི་བླ་མ་, taa-la’i bla-ma, 達頼喇嘛)は、[[チベット仏教]][[ゲルク派]]の高位の[[ラマ (チベット)|ラマ]]であり、チベット仏教で最上位クラスに位置する[[化身ラマ]]の[[名跡]]。チベットとチベット人民の[[象徴]]たる地位にある。
その名は、大海を意味する[[モンゴル語]]の「ダライ」と、[[グル|師]]を意味する[[チベット語]]の「ラマ」とを合わせたものである{{Sfn|デエ|2005|p=127}}。
ダライ・ラマは[[17世紀]]([[1642年]])に発足したチベット政府([[ガンデンポタン]])の長として、[[チベット]]の[[元首]]の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時期において、チベットの全域(1732年以降は「[[西藏]]」を中心とする地域)を[[ラサ]]から統治するチベット政府を指揮することがあった。現[[ダライ・ラマ14世]]は、[[チベット動乱]]の結果として[[1959年]]に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。
[[File:Potala.jpg|thumb|right|250px|ダライ・ラマの居城[[ポタラ宮]]]]
[[File:Norbulingka.jpg|thumb|right|250px|夏の離宮[[ノルブリンカ]]]]
==概説==
チベット仏教では、チベットの国土と[[衆生]]は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベットの人々は[[観音菩薩]]をチベットの守護尊であると考えるようになった。ダライ・ラマはその観音菩薩の[[化身]]とされる転生系譜である。ラサの[[ポタラ宮]]は、[[ダライ・ラマ5世|第五世]]以降の歴代ダライ・ラマの居城であり、チベット仏教における聖地となっている。チベット仏教の信者らはその居城へ一生に一度は巡礼することを目標としており(最も聖なる巡礼方法は[[五体投地]]とされる)、信者らからはイーシン・ノルブ([[如意宝珠]]の意)と尊称される存在である。日本ではチベット仏教の[[法王]]とも呼ばれる<ref>ペマ・ギャルポ p.87</ref>が、チベット仏教で法王と呼べる存在は、かつて[[明|明朝]]より大宝法王の称号を贈られたカルマ派の[[カルマパ]]や、北ドゥク派のギャルワン・ドゥクパなど複数存在する<ref group="注釈">現在、中国語圏では、リンポチェと呼ばれる化身ラマが法王号をもって尊称されることがある。例えば、20世紀亡命[[ニンマ派]]の長を務めたドゥンジョム・リンポチェは中国語圏では敦珠法王と呼ばれる。なお、法王と訳されるチベット語のチューキギェルポないしチューギェルは、仏法を保護した世俗の君主などに対して使われる([[吐蕃]]の[[ソンツェン・ガンポ]]と[[ティソン・デツェン]]とレルパチェンの祖父孫三王、[[シッキム州#シッキム王国|シッキム王国]]の[[ラージャ|藩王]]、[[デルゲ王国|デルゲ]]法王など)。[[アルタン・ハーン]]も[[ダライ・ラマ3世]]よりチューキギェルポ・レーツァンパ(法王梵天)の称号を贈られた([[転輪聖王]]も参照)。</ref>。
多くの場合、ダライ・ラマはゲルク派の指導者であると考えられているが、ゲルク派の首座は[[ガンデン・ティパ]](ゲルク派の総本山ガンデン寺の座主)であり、ダライ・ラマもゲルク派の中ではガンデン・ティパの属下にある。ただし、ガンデン・ティパという地位はダライ・ラマによって任命される任期制の役職であり、実際に多大な影響力を有しているのはダライ・ラマの方である。
ダライ・ラマはゲルク派の有力な宗教指導者から始まった転生ラマ制度であったが、[[ダライ・ラマ5世]]の代に至ってチベットを支配する政治的権威をも身にまとうようになった。[[ダライ・ラマ6世|第六世]]以降のダライ・ラマは[[モンゴル]]や[[清朝]]という外部勢力によって改廃させられたり、未成年時には[[摂政#チベット|摂政]]が政務を代行したため、ダライ・ラマ本人がつねに実権を掌握していたわけではなかった。とはいえ、観音菩薩の化身たるダライ・ラマに具わるある種の理念的な権力はつねに機能しており、清朝などの介入者や実権を握った摂政らも、その権威を否定することはできず、少なくとも形式上はダライ・ラマの教導に従う態度を示していた<ref>石濱裕美子 『図説 チベット歴史紀行』 河出書房新社、1999年、p.84</ref>。
=== 呼称 ===
「ダライ・ラマ」は、[[16世紀]]の[[モンゴル]]諸部族の間で最有力指導者であった[[アルタン・ハーン]]より贈られた[[モンゴル語]]の称号に由来し、アジア、欧米などで広く用いられる通称。チベット語でも、ཏཱ་ལའི་བླ་མ་ (taa-la’i bla-ma)<ref group="注釈">標準チベット語([[ウ・ツァンチベット語|ラサ方言]])ではターレーラーマと発音。</ref> と表記されるが、チベットでは対外的文書などに用いられるにすぎず、チベット人の間では敬称として「ギャルワ(またはギャワ、ラサ方言ではゲェワ)・[[リンポチェ]]」(猊下に当たる敬称、貴い勝者の意)や「[[クンドゥン]]」(御前)などと呼ばれる。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所では、日本語名称は「ダライ・ラマ法王」、敬称は「猊下」(His Holiness)としている。仏教史『ヴァイセル』では「タムチェキェンバ (thams cad mkyen pa)」、同『パクサムジョンサン』では「ギャルワン (rgyal dbang)」の称号で呼ばれている。
[[ラテン文字|ラテン文字慣用表記]]:'''Dalai Lama''', [[チベット語]]:'''ཏཱ་ལའི་བླ་མ་'''; [[ワイリー方式]]:'''taa-la’i bla-ma''', [[中国語]][[簡体字]]:'''{{lang|zh|达赖喇嘛}}'''; [[繁体字]]:'''達賴喇嘛'''; [[漢語ピンイン]]:'''{{unicode|Dálài Lǎmā}}'''など。
=== 継承 ===
ダライ・ラマが没すると、その遺言や遺体の状況、[[神降ろし]]による[[託宣]]、ラサから約145キロの地点のチョコル・ギャルにあり、ダライ・ラマの護法尊[[:en: Palden Lhamo|パルデン・ハモ]]([[吉祥天|吉祥天母]])の魂が宿るとされる聖なる湖である[[:en: Lhamo La-tso|ラモイ・ラツォ湖]]の観察、[[夢占い]]、何らかの[[奇跡]]などを元に僧たちによって次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。その場所に行って子どもを探し、誕生時の特徴や幼少時の癖などを元にして、その予言に合致する子どもを候補者に選ぶ。その上でその候補者が本当の化身かどうかを前世の記憶を試して調査する。例えば、先代ゆかりの品物とそうでない品物を同時に見せて、ダライ・ラマの持ち物に愛着を示した時、あるいはその持ち物で先代が行っていたことと同様の癖を行ったりした場合に、その子どもがダライ・ラマの生まれ変わりと認定される。
認定された転生者は幼児期にして直ちに法王継承の儀式を受けるが、この時点ではあくまで宗教的権威に留まる。成人に達すると(通例は18歳)「チベット王」として改めて即位を執り行い、初めて政治的地位を持つこととなる。先代の遷化(死亡)から新法王の即位までの間は、摂政が国家元首の地位と政務を代行する。
== 歴史 ==
=== ゲルク派の「化身ラマ」制度導入 ===
[[ダライ・ラマ1世]]ゲンドゥン・ドゥプパ([[1391年]] - [[1474年]])は、チベット仏教[[ゲルク派]]の開祖[[ツォンカパ]]の直弟子であった。一世から四世([[1589年]] - [[1617年]])までのダライ・ラマは、チベットと周辺地域で広く尊敬を集めた学僧であったが、「偉大なる五世」と呼ばれるダライ・ラマ5世ガワン・ロサン・ギャツォ([[1617年]] - [[1682年]])は、優れた学僧であっただけでなく、モンゴルの豪族[[グーシ・ハーン]]の後ろ盾を得て、[[1642年]]にチベットの政治的支配者となったとされる{{Sfn|デエ|2005|p=135}}{{Sfn|van Schaik|p=123}}。以来、歴代ダライ・ラマは、チベットのみならずモンゴル人や満州人にも影響力をもつ宗教的権威者の立場と、チベットを統べる政治的権威を有する君主の立場とを兼ね備えた僧侶君主となり、チベット第一の都市であるラサを基盤とする政体('''[[ガンデンポタン]]''')の最高権威者として君臨した。しかしその後の歴史の中では、ダライ・ラマ本人がつねに名実ともにその権力を掌握していたわけではなく、とりわけ九世から十二世までのダライ・ラマはいずれも夭折したため、実権を行使して親政を行うことがほとんどなかった{{Sfn|van Schaik|p=145}}。
=== アルタン・ハーンより授かったモンゴル語の称号 ===
[[File:Drepung monastery.jpg|right|thumb|250px|[[デプン寺]]。ポタラ宮に居を移す前のダライ・ラマの拠点であった。]]
ダライ・ラマという称号は[[モンゴル民族|モンゴル人]]の支配者[[アルタン・ハーン]]が当時の[[デプン寺]]の座主であった[[ダライ・ラマ3世|スーナム・ギャツォ]]を師と仰ぎ、贈った称号。この時の正式な称号は「ダライ・ラマ・バジュラダーラ」 Dalai-bla-ma bazra dhari といった。最初にダライ・ラマの称号を用いたのはスーナム・ギャツォであったが、かれを一世とはせず三世とし、遡ってゲルク派の宗祖[[ツォンカパ]]大師の弟子ゲンドゥン・ドゥプパを一世とした。「ダライ」とは、[[モンゴル語]]で「大海」を意味する。「[[ラマ (チベット)|ラマ]]」は[[チベット語]]で「師(教師・指導者)」を意味する。第二世ゲンドゥン・ギャツォ以来、歴代の法名に襲名されている「ギャツォ」<ref group="注釈">ギャムツォ、ギャンツォとも表記される。</ref>とはチベット語で「海」を意味し、モンゴル語の「ダライ」と対応する。
=== 権威の成長 ===
'''ダライ・ラマ'''の名跡は、[[ゲルク派]]の宗祖[[ツォンカパ]]の高弟[[ダライ・ラマ1世|ゲンドゥンドゥプ]]を初代とし、代替わりが進むにつれ、[[ラサ三大寺]]の[[セラ寺|セラ]]・[[デプン寺|デプン]]両寺の座主職を兼任するようになるなど、ゲルク派内の地位を高めていった。また、同派の[[モンゴル]]布教の最前線に立ち、[[1578年]]第三世[[ダライ・ラマ3世|スーナム・ギャツォ]]が当時のモンゴルの最高実力者[[アルタン・ハーン]]と[[チョ・ユン関係]](施主・福田)を築くなど、モンゴルに対する大きな影響力をも持つようになった。
[[1636年]]、[[後金]]の王[[ホンタイジ]]が、ボルジギン氏([[チンギス・ハーン]]の子孫)ではないにもかかわらず[[ハーン]]の地位に即位(即位と同時に国号を[[清|大清]]と変更)するという事態が起きたとき、[[ハルハ]]と[[オイラト]]の諸部は友好使節団を派遣して[[愛新覚羅]]氏による「ハーン」位継承を追認したが、この使節団は名目上、「清朝によるダライラマへの使者派遣に、自分たちの使者も同行させてほしい」ことを申し入れることを目的としていた。
[[ホシュート]]部の指導者[[グーシ・ハーン]]は、清朝に使節団を派遣した[[1637年]]よりチベットの征服に着手、[[オイラト]]軍を率いて[[1642年]]までに[[ウー・ツァン|中央チベット]]・[[アムド]]・[[カム (チベット)|カム]]などチベットの大部分を制圧した。グーシ・ハーンはアムドをホシュート部の直轄地とし、中央チベット全域をダライ・ラマに寄進して広大な[[ダライ・ラマ領]]とした。これをもってダライ・ラマを頂点とする政権が中央チベットに樹立されることになった。その後グーシ・ハーンも初代摂政スーナム・チュンペルも相次いで亡くなったため、ダライ・ラマ5世は着々と自らの権力を固めることができ、かれをチベットの最高権威として擁立せしめたモンゴル人たちの宗主権は有名無実と化した{{Sfn|スネルグローヴ|リチャードソン|1998|p=263}}。また、当初ダライ・ラマ政権は中央チベットのみに支配を及ぼしていたが、後にその支配地域を拡大していくことになる{{sfn|正木|2008|p=176}}。こうして名実ともにダライ・ラマ5世がチベットの支配者となったとされる。
ダライ・ラマの信者であるグーシ・ハーンによるチベットの制圧は、チベットの宗教界と世俗の権力構造に大きな変動をもたらした。ダライ・ラマの名跡は、それまでの「ゲルク派の有力名跡」という宗教的権威のみならず、チベットで最も肥沃で人口稠密な[[ダライ・ラマ領]]を掌握するのに加え、グーシ・ハーン一族や、グーシ・ハーン一族に従属する諸侯たちの領主権の認定、各地のゲルク派寺院の人事権の認定に携わるなど、宗教的・世俗的な権威と権限をチベットにおける支配地域で行使するという、聖俗両権を一身にまとう地位となった。
=== 認定をめぐる外部勢力の介入 ===
[[ダライ・ラマ6世]]ツァンヤン・ギャツォによる[[比丘戒]]の不受と[[沙弥戒]]の返上、その後の放蕩は、1642年以来ダライ・ラマ擁立の後ろ盾となってきた[[グシ・ハン王朝|グーシ・ハーン一族]]の分裂をもたらし、ツァンヤン・ギャツォに替えて別の六世エシェ・ギャツォを擁立する「ラサン派」<ref group="注釈">ラサンはグーシ・ハーンの嫡曾孫で、1703年から1717年までチベット・ハンに在位。</ref>と、中国へ流刑される途上1705年に死去したツァンヤン・ギャツォの「生まれ変わり」として擁立された[[ダライ・ラマ7世|ケルサン・ギャツォ]]を擁する「反ラサン派」が対立することとなった。
対立は、オイラト本国(当時[[ジュンガル部]]が支配)や[[清朝]]などの外部勢力を巻き込んだ戦乱の果て、1720年、ケルサン・ギャツォがダライ・ラマとして正式に即位する形でとりあえず決着した。ただしチベット人やモンゴル人たちがケルサン・ギャツォを「ツァンヤン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ7世」として認定したのに対し、清朝は当初「ロサン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ6世」として扱った。清朝がケルサン・ギャツォのダライラマとしての代数を、チベット人・モンゴル人が認定している通り七世として認めるのは、18世紀末、[[康熙帝]]の曾孫[[嘉慶帝]]の代まで下る。
ダライ・ラマ8世の代に起こった[[グルカ戦争]]を機に、清朝の[[乾隆帝]]は化身ラマの選定方法に介入し、「セルブム(黄金の瓶)」をチベットに贈り、ダライ・ラマと[[パンチェン・ラマ]]など[[化身ラマ]]の大名跡の認定にこの瓶を活用するよう求めた(→[[金瓶掣籤]]。ダライ・ラマについては、10世から12世までの選定に用いられた)。
=== ギャルツァプ職の出現===
[[19世紀]]初頭にダライ・ラマ8世が遷化して以来、ダライ・ラマの転生者の捜索はチベット貴族の勢力争いの場となり、恣意的な人選が行われた。この時期の四代のダライ・ラマはいずれも早世しており、十世から十二世までのダライ・ラマは政治的実権を握る成人前後に急逝している<ref group="注釈">[[木村肥佐生]]は、その著書『チベット潜行10年1958年版』で毒殺と推定。同書の『1982年版』では婉曲な表現で有力貴族間の権力争いの犠牲になった可能性が強いと記している。</ref><ref group="注釈">[[波多野養作]]『新疆視察復命書』(1907年)に拠れば、ダライは十七、八歳を迎えると南方の霊地へ赴いて業を修めるが、これを「朝南」と称する。この時をもって初めて人民に接するダライは思想上において大いに啓発されるところあり、業を了し宮殿に帰るとそれまで自己の無為に乗じて下僧たちからなされた欺瞞暴悪を悟り、往々大改革を計るに至る。これを自己に不都合とする下僧たちが共謀してダライを殺害することはほとんど動かし難い事実である、という。</ref>。このような状況下で有力僧侶や貴族が摂政となって実権を握り、貴族や大寺院の権力争いや陰謀が横行する混迷の時期が続いた。ダライ・ラマ7世遷化の後、ラサの四大院の名跡の中のひとりが[[ガンデンポタン]]の首班ギャルツァプ(rgyal tshab)職に就く体制が成立した。
1642年〜1705年に存在したデシー(sde srid)職が、「ダライ・ラマの下で世俗の権限を行使する「首相職」」とでもいうべき地位であったのに対し、ギャルツァプ職はダライ・ラマの代理としてその権限を行使する「名代」、「摂政」というべき地位であり、絶大な職権があった。
==位置づけ==
===中国の王朝との関係===
ダライ・ラマは現在、「ゲルク派の最高指導者」ではなく「チベット仏教の最高指導者」であると言われている{{sfn|田中|2000|p=68}}(実際にダライ・ラマがチベット仏教を統括しているかどうかは別として{{efn|前近代のチベットの宗教と社会を研究している社会人類学者ジェフリー・サミュエルは、実情としてはダライ・ラマの属するゲルク派とカルマパの属するカルマ・カギュ派の間にはいまだにある種の緊張関係があることを指摘している<ref>{{Cite web |url=http://www.buddyzm.edu.pl/download/geoffreysamuel.pdf |format=PDF|title=IN THE HIGH COURT OF NEW ZEALAND AUCKLAND REGISTRY |accessdate=2019-04-13}}</ref>。また、[[シュクデン]]問題はゲルク派さえもダライ・ラマを中心にまとまった一枚岩の教団でないことを露呈させ、シュクデンを祀る強硬派はゲルク派から分離してダライ・ラマの反対勢力となった。}})。このことの歴史的背景には、[[クビライ]]と[[パクパ]]が築いた「施主と帰依処」の関係を端緒とする「領天下釈教」、すなわちチベット仏教(の領袖)が天下の仏教の上に立つという思想がある、と[[田中公明]]は指摘している{{sfn|田中|2000|p=68}}。この発想は、チベット仏教が対中国的に自らの権威を強調するのに利用された。パクパの後にチベット仏教の権威者として「領天下釈教」の称号を得たのは、明の[[永楽帝]]より「大宝法王」の号を授与された[[カルマパ]]5世テシンシェクパであり、その後、清の[[順治帝]]の招聘を受けたダライ・ラマ5世がこのタイトルを得た。したがって中国の王朝との関係において、名目上カルマパが得た地位をダライ・ラマが引き継いだ形になる。ただし、清朝がチベット仏教の最高権威としてダライ・ラマに贈った「所領天下釈教」の肩書は、元代にパクパが得た地位とは異なり、漢人の仏教までも領掌するものではなかった{{Sfn|田中|2000|p=114}}。その後、7世の代にダライ・ラマ政権が清朝の保護下に入ると、ダライ・ラマは宗主たる清朝皇帝のために祈願する義務を負った。
[[中華人民共和国]]の一白書では、ダライ・ラマの称号とチベットの政教一致体制の確立は1653年に清朝皇帝がダライ・ラマ5世に尊称を贈ったことに始まるかのように記述している。チベット亡命政権はこれに対し、ダライ・ラマの称号はそれよりずっと前の[[ダライ・ラマ3世]]とモンゴルの[[アルタン・ハーン]]との関係から始まるものであること、また、ダライ・ラマ5世の政治的権威は清朝成立とは無関係に[[グーシ・ハーン]]との関係において確立したものであるという事実を挙げて反論している。また、ダライ・ラマと清朝皇帝との「帰依処・檀越」の関係は個人的なものであったと主張し、清帝国の一部ではあっても支配層ではなかった漢人が清朝皇帝とダライ・ラマの関係に介在したことはないため、中国がチベットに対して[[主権]]を主張することに歴史的正当性はないとしている<ref name="チベット入門">チベット亡命政府情報国際関係省『チベット入門』 鳥影社、1999年。{{要ページ番号|date=2019-04-13}}</ref>。
===パンチェン・ラマとの関係===
ダライ・ラマはゲルク派において最重要の化身ラマであるが、ダライ・ラマに次いで重要な化身ラマである[[パンチェン・ラマ]]と併せて、ゲルク派の二大ラマとか二人の最高指導者とみなす場合もある{{Sfn|ルヴァンソン|2009|pp=24-25}}。この二人の化身ラマの密接な関係を、チベットの人々は太陽と月になぞらえた{{Sfn|ルヴァンソン|2009|p=41}}。パンチェン・ラマは[[阿弥陀如来]]の化身とされ、ダライ・ラマに比肩しうる智慧をもつ高僧と考えられていた。カルマ派では[[シャマルパ]]という化身ラマがあり、法王たるカルマパの死後、その転生者に選ばれた次の法王が成人するまでの空白を補う副法王の役割をもっているが、ダライ・ラマとパンチェン・ラマもこれと似た正副法王に当たり{{Sfn|田中|2000|p=110, 127}}、相互に師弟関係にあった。ただし、パンチェン・ラマは[[サムドゥプツェ区|シガツェ]]に常駐していることが多く、ダライ・ラマ未成年時に摂政として政務を代行したのは、多くの場合ラサにいる別のラマであった{{Sfn|田中|2000|p=127}}。
パンチェン・ラマはダライ・ラマとは異なり、原則的に世俗的な政治権力は有していなかった。ダライ・ラマは[[ガンデンポタン]]の長として[[ウー (チベット)|ウー]]地方のラサを基盤としていたのに対し、パンチェン・ラマは[[タシルンポ寺]]の座主として[[ツァン]]地方のシガツェ周辺を所領としていた。1727年、清朝はゲルク派内の勢力均衡を図るため、パンチェン・ラマの政治権力を強化させようとして、ツァンと西チベットをパンチェン・ラマの領地と定めた{{Sfn|スネルグローヴ|リチャードソン|1998|p=293}}。この措置の政治的効果はさほど大きくなかったものの、その後の時代においてダライ・ラマとパンチェン・ラマの間で(あるいはラサとシガツェの間で{{Sfn|ルヴァンソン|2009|p=41}})幾度か軋轢が生じる遠因となった{{Sfn|スネルグローヴ|リチャードソン|1998|p=293}}。
なお、チベット亡命政府は、パンチェン・ラマの地位に関する中華人民共和国の主張に対する反論の中で、シガツェやタシルンポ寺の行政もダライ・ラマ政庁の任命した行政官が担っていたことを強調している<ref name="チベット入門"/>。
===ガンデン・ティパとの関係===
ダライ・ラマはゲルク派の最も有名な僧侶であり、事実上、ゲルク派の総帥とか宗主のように扱われることがあるが、ゲルク派の管長ではない{{Sfn|デエ|2005|p=135}}。本来は総本山[[ガンデン寺]]の座主([[ガンデン・ティパ]])がゲルク派の最高指導者である{{Sfn|田中|2000|p=97}}。ガンデン・ティパはゲルク派の学僧の頂点に立つ役職であり、宗祖[[ツォンカパ]]の後継者としてゲルク派の教法を管掌する法主の立場にある。その上座にはダライ・ラマとパンチェン・ラマ以外座ることを許されなかった{{Sfn|田中|2000|p=118}}。ガンデン寺における席がダライ・ラマのそれより高いことから、ゲルク派内での宗教上の格式はダライ・ラマよりも上位にあると解釈することができる{{Sfn|ツルティム・ケサン|正木|2008|pp=110-111}}。
16世紀、ゲルク派の教勢拡大に伴って他派との摩擦が生じた際、政敵であったカルマ派のカルマパなどと比べると、ゲルク派の教主であるガンデン・ティパは交代制で任期が短かったため、求心力やカリスマ性を獲得し難い面があった{{Sfn|田中|2000|p=97}}。ダライ・ラマは、そのような時代に[[デプン寺]]と[[セラ寺]]の座主を兼任して事実上のゲルク派の最高指導者となった学僧ゲンドゥン・ギャツォ([[ダライ・ラマ2世]]){{Sfn|田中|2000|p=98}}、そしてその転生者とされたスーナム・ギャツォ([[ダライ・ラマ3世]])に始まる転生系譜であり、ゲルク派の統合の象徴であった<ref>田中公明 『図説 チベット密教』 春秋社、2012年、p.55</ref>。
== 歴代の一覧 ==
{| class="wikitable"
!代数
!名前
!生没年
!チベット語表記([[ワイリー方式]])
!備考
|-
| 1世 ||[[ダライ・ラマ1世|ゲンドゥン・ドゥプパ]]||[[1391年]] - [[1474年]] ||dge-'dun grub-pa དགེ་འདུན་གྲུབ་པ་||追贈
|-----
| 2世 ||[[ダライ・ラマ2世|ゲンドゥン・ギャツォ]]||[[1475年]] - [[1542年]] ||dge-'dun rgya-mtsho དགེ་འདུན་རྒྱ་མཚོ་||追贈
|-----
| 3世||[[ダライ・ラマ3世|スーナム・ギャツォ]]||[[1543年]] - [[1588年]] ||bsod-nams rgya-mtsho བསོད་ནམས་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 4世 ||[[ダライ・ラマ4世|ユンテン・ギャツォ]]||[[1589年]] - [[1616年]] ||yon-tan rgya-mtsho ཡོན་ཏན་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 5世 ||[[ダライ・ラマ5世|ロサン・ギャツォ]]||[[1617年]] - [[1682年]] ||blo-bzang rgya-mtsho བློ་བཟང་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 6世 ||[[ダライ・ラマ6世|ツァンヤン・ギャツォ]]||[[1683年]] - [[1706年]]|| tshangs-dbyangs rgya-mtsho ཚངས་དབྱངས་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| [[化身ラマ#対立化身ラマ|対立]]6世 ||[[ダライ・ラマ6世#ダライ・ラマ6世の死後|イェシェー・ギャツォ]]||[[1686年]] - [[1725年]]||ye-shes rgya-mtsho||欄外参照
|-----
| 7世 ||[[ダライ・ラマ7世|ケルサン・ギャツォ]]||[[1708年]] - [[1757年]] ||bskal-bzang rgya-mtsho བསྐལ་བཟང་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 8世 ||[[ダライ・ラマ8世|ジャムペル・ギャツォ]]||[[1758年]] - [[1804年]] ||'jam-dpal rgya-mtsho འཇམ་དཔལ་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 9世 ||[[ダライ・ラマ9世|ルントク・ギャツォ]]||[[1806年]] - [[1815年]] ||lung-rtogs rgya-mtsho ལུང་རྟོགས་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 10世 ||[[ダライ・ラマ10世|ツルティム・ギャツォ]]||[[1816年]] - [[1837年]]|| tshul-khrims rgya-mtsho ཚུལ་ཁྲིམས་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 11世 ||[[ダライ・ラマ11世|ケードゥプ・ギャツォ]]||[[1838年]] - [[1856年]] ||mkhas-grub rgya-mtsho མཁས་གྲུབ་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 12世 ||[[ダライ・ラマ12世|ティンレー・ギャツォ]]||[[1856年]] - [[1875年]] ||'phrin-las rgya-mtsho འཕྲིན་ལས་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 13世 ||[[ダライ・ラマ13世|トゥプテン・ギャツォ]]||[[1876年]] - [[1933年]] ||thub-bstan rgya-mtsho ཐུབ་བསྟན་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
| 14世 ||[[ダライ・ラマ14世|テンジン・ギャツォ]]||[[1935年]] - 現在 ||bstan-'dzin rgya-mtsho བསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་||
|-----
|}
*対立6世イェシェー・ギャツォは、ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォの廃位の後、[[ホシュート]]部の首長{{仮リンク|ラサン・ハン|en|Lha-bzang Khan|zh|拉藏汗}}によって擁立された対立ダライ・ラマ。しかし、ラサン・ハンの傀儡と見なされたためにチベット人社会の支持を得られなかった上に、ホシュート部を破った[[ジュンガル]]部の首長ツェワン・ラプテンによって廃位された。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2019年4月13日 (土) 08:30 (UTC)|section=1}}
<!-- 本記事の出典として使用されていない文献は、「関連文献」節に載せて下さい。 -->
* [[青木文教]] 『西蔵問題―青木文教外交調書』 [[慧文社]]、2009年、(第1篇付録2「ダライとパンチェンについて」)
* {{Cite book |和書 |author=グレン・H・ムリン|title=14人のダライ・ラマ その生涯と思想 |volume=上|translator=田崎国彦, 渡邉郁子, クンチョック・シタル |publisher=[[春秋社]] |date=2006 |isbn=4-393-13725-6}}
* {{Cite book |和書 |author=グレン・H・ムリン|title=14人のダライ・ラマ その生涯と思想 |volume=下|translator=田崎国彦, 渡邉郁子, クンチョック・シタル |publisher=[[春秋社]] |date=2006 |isbn=4-393-13726-4}}
* {{Cite book |和書 |author=クロード・B・ルヴァンソン |title=チベット |translator=井川浩 |publisher=白水社 |series=文庫クセジュ |date=2009 |isbn=978-4-560-50938-8 |ref={{SfnRef|ルヴァンソン|2009}} }}
* {{Cite book |和書 |author=田中公明|authorlink=田中公明 |title=活仏たちのチベット |publisher=春秋社 |date=2000 |isbn=4-393-13278-5 |ref={{SfnRef|田中|2000}} }}
* {{Cite book |和書 |author1=ツルティム・ケサン |author2=正木晃|authorlink2=正木晃|title=チベット密教|edition=増補版 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま学芸文庫 |date=2008 |isbn=978-4-480-09143-7 |ref={{SfnRef|ツルティム・ケサン|正木|2008}} }}
* {{Cite book |和書 |author1=デイヴィッド・スネルグローヴ |author2=ヒュー・リチャードソン|title=チベット文化史|translator= 奥山直司 |publisher=春秋社 |date=1998 |isbn=978-4-393-11309-7 |ref={{SfnRef|スネルグローヴ|リチャードソン|1998}} }}
* {{Cite book|和書|author=ペマ・ギャルポ|authorlink=ペマ・ギャルポ |title=チベット入門 |publisher=日中出版 |year=1998 |origyear=1987 |edition=改訂新版 |isbn=4-8175-1234-2}} {{疑問点|date=2019年4月13日 (土) 08:30 (UTC)|title=刊行年が2つ書いてありますが、「参考文献」節は出典として使った文献名を示すための節ですので、実際に出典として使用したほうの刊行年のみご記入下さい。}}
* {{Cite book|和書|author=正木晃 |title=裸形のチベット |publisher=サンガ |series=サンガ新書 |year=2008 |isbn=978-4-901679-82-4 |ref={{SfnRef|正木|2008}}}}
* {{Cite book |和書 |author=ロラン・デエ |title=チベット史 |translator=[[今枝由郎]] |publisher=春秋社 |date=2005 |isbn=4-393-11803-0 |ref={{SfnRef|デエ|2005}} }}
* {{Cite book|first= Sam |last=van Schaik |year=2011 |title=Tibet: A History |publisher=Yale University Press |isbn=978-0-300-15404-7 |ref={{SfnRef|van Schaik|}} }}
*sde srid sangs rgyas rgya mthso. dga' ldan chos 'byung beedu'urya ser po/, kurung go'i bod kyi shes rig dpe skrun khang, 1989
: (第司桑結嘉措『格魯派教法史:黄瑠璃宝鑑』北京・中国藏学出版社、ISBN 7-80057-014-2)『[[ヴァイセル]]』
*sum pa ye shes dpal 'byor, ''chos 'byung dpag msam ljon bzang'', ken su'u mi rig dpe skurn khang, 1992
: (松巴堪欽『松巴佛教史』甘民族出版社、ISBN 7-5421-0085-8)『[[パクサムジョンサン]]』
== 関連文献 ==
;ダライ・ラマ著作の訳書
*『チベットわが祖国 ダライ・ラマ自叙伝』 [[木村肥佐生]]訳 中公文庫 1989/09、改版2015 原著1962
*『愛と非暴力 ダライ・ラマ仏教講演集』ダライ・ラマ14世、[[三浦順子]]訳 春秋社 1990/04
*『ダライ・ラマ自伝』ダライ・ラマ14世、山際素男訳 文藝春秋 1992/01/文春文庫 2001/06
*『ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議』 ダライ・ラマ14世 クレスト社 1994/07、のち徳間文庫、角川ソフィア文庫
*『ダライ・ラマの密教入門 秘密の時輪タントラ灌頂を公開する』ダライ・ラマ14世 石浜裕美子訳 光文社 1995、のち光文社文庫
::原書 Kalachakra Tantra Rite of Initiation For the Stage of Generation 1985 1989
*『ダライ・ラマの仏教入門 心は死を超えて存続する』ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャムツォ 石濱裕美子訳 光文社 1995、のち光人社文庫
::原著 The Meaning of Life:Buddhist Perspective on cause and effect 1992
*『宇宙のダルマ』ダライ・ラマ十四世 永沢哲・訳 角川書店 1996/11
::原著 THE WORLD OF TIBET BUDDHISM 1995
*『瞑想と悟り』 チベット仏教の教え ダライ・ラマ14世、柴田裕之訳 NHK出版 1997/07
::原著 THE WAY TO FREEDOM Core Teaching of Tibetan Buddhism 1995
*『ダライ・ラマ 怒りを癒す』ダライ・ラマ十四世、三浦順子・訳 講談社 2003/03 原書 1997 HEALING ANGER
*『ダライ・ラマ、生命と経済を語る』ダライ・ラマ(14世)、聞き手ファビアン・ウァキ 中沢新一/鷲尾翠・訳 角川書店 2003/03
*『ダライ・ラマ ゾクチェン入門』ダライ・ラマ、[[宮坂宥洪]]訳 春秋社 2008/08
*『思いやりのある生活』ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャムツォ共著 沼尻由起子訳 光文社文庫 2006/03。原書 The Compassionate Life 2003
*『ダライ・ラマ 実践の書』ダライ・ラマ14世、聞き手ジェフリー・ホプキンス 宮坂宥洪・訳 春秋社 2010/01
*『ダライ・ラマの「中論」講義---第18・24・26章』ダライラマ14世テンジンギャツォ、マリア リンチェン訳 大蔵出版 2010/05
*『ダライ・ラマ法王、フクシマで語る 苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力』ダライ・ラマ14世、聞き手下村満子 大和出版 2012/03
*『傷ついた日本人へ』ダライ・ラマ14世講話、新潮新書 2012/04
*『ダライ・ラマ宗教を越えて 世界倫理への新たなヴィジョン』三浦順子訳 サンガ 2012
*『ダライ・ラマ声明 1961-2011』小池美和訳 集広舎 2017
;上記以外
*『雪の国からの亡命 チベットとダライ・ラマ 半世紀の証言』ジョン・F・アドベン 三浦順子他・訳 地湧社 1991/01 原書1984
*『チベットの七年 ダライ・ラマの宮廷に仕えて』[[ハインリヒ・ハラー]] 福田宏年訳 白水社 新装復刊1997年 原著1966
*『バイオグラフィー 20世紀の指導者~ダライ・ラマ14世』アミューズ・ビデオ 2000年7月 DVD 45分
*『高僧の生まれ変わり「チベットの少年」』イザベル・ヒルトン、三浦順子・訳 世界文化社 2001/09 原書1999
*『ダライ・ラマ その知られざる真実』ジル・ヴァン・グラスドルフ/鈴木敏弘 河出書房新社 2004/06 。原書 LE DALAI LAMA 2003
*『ダライ・ラマと[[パンチェン・ラマ]]』イザベル・ヒルトン/三浦順子訳 ランダムハウス講談社文庫 2006
*『目覚めよ仏教! ダライ・ラマとの対話』 聞き手[[上田紀行]] 日本放送出版協会・NHKブックス 2007/06/講談社文庫 2010
*『ダライ・ラマ般若心経を語る』大谷幸三取材・構成 角川ソフィア文庫 2013
*『ダライ・ラマとチベット―1500年の関係史』[[大島信三]]、芙蓉書房出版 2017
== 関連項目 ==
{{Portal 仏教}}
* [[ゴールデン・チャイルド]] - ダライ・ラマを模した神秘の子「ゴールデン・チャイルド」が登場する映画。
== 外部リンク ==
* {{公式ウェブサイト|https://www.dalailama.com/|His Holiness the 14th Dalai Lama}}
*[http://www.tibethouse.jp/ ダライ・ラマ法王日本代表部事務所]
*{{Twitter|DalaiLama|Dalai Lama}}
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[[Category:ダライ・ラマ|*]]
[[Category:チベット仏教]]
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導出原理
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導出原理(どうしゅつげんり、英: resolution principle)とは、ジョン・アラン・ロビンソン(英語版)により1965年に提案された原理または手法を言う。
導出原理を元とする導出の手法は、その後の定理自動証明に大きな影響を与え、またPrologなどの論理プログラミング言語の基礎となった。
述語論理式 P が恒真であるかを証明する一般的な手続きは存在しないが、1930年に発表されたエルブランの定理はエルブラン領域の要素を論理式に代入して命題論理のレベルに落としその充足不能性を調べることで、¬P が充足不能(恒偽)であれば有限のステップで証明できることを保証している。また、エルブランの論文には単一化アルゴリズムなど他の様々なものが含まれていた。
1950年代以降、計算機上での定理証明の研究が活発になり、ギルモアのアルゴリズム(1960)やデービス・パトナムのアルゴリズム(1958,1960) が考案された。デービス・パトナムのアルゴリズムには連言標準形の使用や導出規則の考え方が含まれていた。しかし、これらはエルブランの定理の証明を直接計算機上で実現したような方法で、エルブラン領域の要素を順次生成して変数を含まない論理式(基礎例)を作成し命題論理のレベルで充足不能性を調べるものだったため、不要な論理式が多数生成され、非常に効率が悪かった。
プラウィツ(Dag Prawitz)は、論理式を生成してからチェックするのではなく、選言標準形に変換した論理式への適当な代入(単一化)によって充足不能性を調べる方法を1960年に提案した。 この方法は必要な基礎例のみを生成するため、不要な論理式の生成が抑えられ効率的だったが、選言標準形は全ての連言項を調べなければならないため全体の効率はいいとは言えなかった。
ロビンソンはデービス・パトナムの枠組みにプラウィツのアイデアを組み合わせ、ただ1つの導出規則と単一化による代入操作とで充足不能性を調べる導出原理を1965年に発表した。単純な規則で関係する論理式のみを段階的に具体化していく方法は、従来の方法よりはるかに効率がよく、また理論的なエレガントさを持っていたため、その後の定理自動証明に大きな影響を与えた。
導出とは二つの節より新しい節を導き出す操作で、一方の節に含まれるリテラル l {\displaystyle l} と、他方の節に含まれる否定リテラル ¬ l {\displaystyle \neg l} をのぞき、その他のリテラルの論理和をとることで、新しい節を得ることをいう。
命題論理での導出規則を式で表せば、 l ∨ P , ¬ l ∨ Q P ∨ Q {\displaystyle {\frac {l\vee P,\quad \neg l\vee Q}{P\vee Q}}} と書ける。ここで上式は前提となる親節、下式はそれらから導かれる導出節(resolvent)を表す。
あるいは、別の表記法を用いて次のようにも表現できる。前提となる節を C 1 {\displaystyle C_{1}} と C 2 {\displaystyle C_{2}} とし, もしリテラル L ∈ C 1 {\displaystyle L\in C_{1}} と否定リテラル L ̄ ∈ C 2 {\displaystyle {\overline {L}}\in C_{2}} が存在するならば、導出節 C R {\displaystyle C_{R}} は以下のようになる。
導出規則は三段論法や前件肯定を一般化した規則となっている。 導出は完全な証明系であることが知られている。
p → q {\displaystyle p\to q} を節形式にすると ¬ p ∨ q {\displaystyle \lnot p\lor q} となる。 C R {\displaystyle C_{R}} を C 1 , C 2 {\displaystyle C_{1},C_{2}} の導出節とすると、前件肯定は以下の導出と同じである。
同様に、 p → q {\displaystyle p\to q} 、 q → r {\displaystyle q\to r} の節形式 ¬ p ∨ q {\displaystyle \lnot p\lor q} 、 ¬ q ∨ r {\displaystyle \lnot q\lor r} による三段論法は以下のようになる。
述語論理のリテラルには個体変数が含まれるため、リテラルと否定リテラルとを単純に比較するだけでは削除できるかどうか分からない。一階述語論理ではリテラルと否定リテラルそれぞれの原子論理式が単一化できる場合に導出を行う。
また、導出の対象となる節は、冠頭標準形にして存在記号を削除したスコーレム連言標準形の論理式である。
例えば、一方の節がリテラル p ( x , y ) {\displaystyle p(x,y)} 、もう一方の節がリテラル ¬ p ( z , f ( b ) ) {\displaystyle \lnot p(z,f(b))} を含む場合、適切な代入 σ = { z / x , y / f ( b ) } {\displaystyle \sigma =\left\{z/x,y/f(b)\right\}} により各リテラルは p ( x , f ( b ) ) {\displaystyle p(x,f(b))} 、 ¬ p ( x , f ( b ) ) {\displaystyle \lnot p(x,f(b))} と書き換えられ、同じにすることができる。ここで代入 { z / x , y / f ( b ) } {\displaystyle \left\{z/x,y/f(b)\right\}} は z → x {\displaystyle z\to x} 、 y → f ( b ) {\displaystyle y\to f(b)} に書き換えることを表す。
一般に論理式 F 1 , F 2 {\displaystyle F_{1},F_{2}} を等しくする代入を F 1 , F 2 {\displaystyle F_{1},F_{2}} の単一化子(unifier)といい、そのうち最も一般的な単一化子(最汎単一化子)を F 1 , F 2 {\displaystyle F_{1},F_{2}} のmgu(most general unifier)という。上記の例の場合、両方の論理式を等しくする代入は { z / a , y / f ( b ) , x / a } {\displaystyle \left\{z/a,y/f(b),x/a\right\}} 、 { z / x , y / c , f ( b ) / c } {\displaystyle \left\{z/x,y/c,f(b)/c\right\}} など無数に存在する。これらは本来の代入 { z / x , y / f ( b ) } {\displaystyle \left\{z/x,y/f(b)\right\}} に { x / a } {\displaystyle \left\{x/a\right\}} などの代入を合成したものなので、最汎単一化子 mgu は { z / x , y / f ( b ) } {\displaystyle \left\{z/x,y/f(b)\right\}} である。
一階述語論理での導出は mgu を用いて次のように表現できる。
もしリテラル L 1 ∈ C 1 {\displaystyle L_{1}\in C_{1}} と否定リテラル L 2 ̄ ∈ C 2 {\displaystyle {\overline {L_{2}}}\in C_{2}} が存在し、 L 1 {\displaystyle L_{1}} と L 2 {\displaystyle L_{2}} が mgu σ {\displaystyle \sigma } を持つ場合、以下の C R {\displaystyle C_{R}} が2項導出節(binary resolvent)である。ここで、 C 1 σ , C 2 σ {\displaystyle C_{1}\sigma ,C_{2}\sigma } などは、それぞれの節やリテラルに代入 σ {\displaystyle \sigma } を行ったものを表す。
同様のやり方での2以上の複数の節から同時に導出することも可能であり、超導出(hyper-resolution)と呼ばれる。
以下の節からの導出を考える。
Q を単一化する代入 { y / a } {\displaystyle \left\{y/a\right\}} により C 1 {\displaystyle C_{1}} と C 2 {\displaystyle C_{2}} の導出を行うと、
続いて、P を単一化する代入 { x / b } {\displaystyle \left\{x/b\right\}} により C R {\displaystyle C_{R}} と C 3 {\displaystyle C_{3}} の導出を行うと、
を得ることができる。
反駁(はんばく、英: refutation)とは、節の集合からの導出により空節 □ を導くことである。 反駁については以下の定理が成り立つ。
節の集合 S が充足不能である必要十分条件は、節の集合 S からの導出により空節 □ が導けることである。
これはエルブランの定理を導出に応用したものになっている。
論理式 P が恒真であれば ¬ P {\displaystyle \lnot P} は充足不能(恒偽)であるため、節の集合に ¬ P {\displaystyle \lnot P} を追加し導出を繰り返すことで空節 □ になれば、論理式 P が恒真であることが証明できる。
反駁により P {\displaystyle P} が P 1 , ... , P n {\displaystyle P_{1},\dots ,P_{n}} の論理的帰結か調べるアルゴリズムは以下のように表現できる。
以下の公式が成り立つ時、 P ( a ) {\displaystyle P\left(a\right)} が成り立つかどうかを証明する場合を考える。反駁の対象となる論理式は以下の論理式に ¬ P ( a ) {\displaystyle \lnot P(a)} を追加したものである。
最初の論理式は ( ∀ x ( S ( x ) → P ( x ) ) ∧ ( ∀ x ( T ( x ) → P ( x ) ) {\displaystyle (\forall x\ (S(x)\to P(x))\land (\forall x\ (T(x)\to P(x))} と等価なため、次の2つの節で表現できる。
2番目の論理式は以下の節になる。
さらに3番目は以下の節になる。
証明したい論理式の否定は以下の節である。
これらの節 C 1 , C 2 , C 3 , C 4 , C 5 {\displaystyle {C_{1},C_{2},C_{3},C_{4},C_{5}}} が反駁の対象となる節集合である。
C 3 {\displaystyle C_{3}} と C 4 {\displaystyle C_{4}} の R {\displaystyle R} についての導出を考えると、 { x / a } {\displaystyle \left\{x/a\right\}} の代入により以下が導かれる。
C 1 {\displaystyle C_{1}} と C 6 {\displaystyle C_{6}} の S {\displaystyle S} についての導出を考えると、
最後に C 5 {\displaystyle C_{5}} と C 7 {\displaystyle C_{7}} の導出により空節 □ が導かれ、 P ( a ) {\displaystyle P\left(a\right)} が成り立つことを証明できる。
導出は2つの節を前提として導出節を導くものであるので、どの節に導出規則を適用するかについては様々な選択肢があり、そのやり方により効率が大幅に異なる。代表的な証明戦略として以下のものがある。
|
[
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"text": "導出原理(どうしゅつげんり、英: resolution principle)とは、ジョン・アラン・ロビンソン(英語版)により1965年に提案された原理または手法を言う。",
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"text": "導出原理を元とする導出の手法は、その後の定理自動証明に大きな影響を与え、またPrologなどの論理プログラミング言語の基礎となった。",
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"text": "述語論理式 P が恒真であるかを証明する一般的な手続きは存在しないが、1930年に発表されたエルブランの定理はエルブラン領域の要素を論理式に代入して命題論理のレベルに落としその充足不能性を調べることで、¬P が充足不能(恒偽)であれば有限のステップで証明できることを保証している。また、エルブランの論文には単一化アルゴリズムなど他の様々なものが含まれていた。",
"title": "背景"
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"text": "1950年代以降、計算機上での定理証明の研究が活発になり、ギルモアのアルゴリズム(1960)やデービス・パトナムのアルゴリズム(1958,1960) が考案された。デービス・パトナムのアルゴリズムには連言標準形の使用や導出規則の考え方が含まれていた。しかし、これらはエルブランの定理の証明を直接計算機上で実現したような方法で、エルブラン領域の要素を順次生成して変数を含まない論理式(基礎例)を作成し命題論理のレベルで充足不能性を調べるものだったため、不要な論理式が多数生成され、非常に効率が悪かった。",
"title": "背景"
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{
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"text": "プラウィツ(Dag Prawitz)は、論理式を生成してからチェックするのではなく、選言標準形に変換した論理式への適当な代入(単一化)によって充足不能性を調べる方法を1960年に提案した。 この方法は必要な基礎例のみを生成するため、不要な論理式の生成が抑えられ効率的だったが、選言標準形は全ての連言項を調べなければならないため全体の効率はいいとは言えなかった。",
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{
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"text": "ロビンソンはデービス・パトナムの枠組みにプラウィツのアイデアを組み合わせ、ただ1つの導出規則と単一化による代入操作とで充足不能性を調べる導出原理を1965年に発表した。単純な規則で関係する論理式のみを段階的に具体化していく方法は、従来の方法よりはるかに効率がよく、また理論的なエレガントさを持っていたため、その後の定理自動証明に大きな影響を与えた。",
"title": "背景"
},
{
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"text": "導出とは二つの節より新しい節を導き出す操作で、一方の節に含まれるリテラル l {\\displaystyle l} と、他方の節に含まれる否定リテラル ¬ l {\\displaystyle \\neg l} をのぞき、その他のリテラルの論理和をとることで、新しい節を得ることをいう。",
"title": "定義"
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"text": "命題論理での導出規則を式で表せば、 l ∨ P , ¬ l ∨ Q P ∨ Q {\\displaystyle {\\frac {l\\vee P,\\quad \\neg l\\vee Q}{P\\vee Q}}} と書ける。ここで上式は前提となる親節、下式はそれらから導かれる導出節(resolvent)を表す。",
"title": "定義"
},
{
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"text": "あるいは、別の表記法を用いて次のようにも表現できる。前提となる節を C 1 {\\displaystyle C_{1}} と C 2 {\\displaystyle C_{2}} とし, もしリテラル L ∈ C 1 {\\displaystyle L\\in C_{1}} と否定リテラル L ̄ ∈ C 2 {\\displaystyle {\\overline {L}}\\in C_{2}} が存在するならば、導出節 C R {\\displaystyle C_{R}} は以下のようになる。",
"title": "定義"
},
{
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"text": "導出規則は三段論法や前件肯定を一般化した規則となっている。 導出は完全な証明系であることが知られている。",
"title": "定義"
},
{
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"text": "p → q {\\displaystyle p\\to q} を節形式にすると ¬ p ∨ q {\\displaystyle \\lnot p\\lor q} となる。 C R {\\displaystyle C_{R}} を C 1 , C 2 {\\displaystyle C_{1},C_{2}} の導出節とすると、前件肯定は以下の導出と同じである。",
"title": "定義"
},
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"text": "同様に、 p → q {\\displaystyle p\\to q} 、 q → r {\\displaystyle q\\to r} の節形式 ¬ p ∨ q {\\displaystyle \\lnot p\\lor q} 、 ¬ q ∨ r {\\displaystyle \\lnot q\\lor r} による三段論法は以下のようになる。",
"title": "定義"
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{
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"text": "述語論理のリテラルには個体変数が含まれるため、リテラルと否定リテラルとを単純に比較するだけでは削除できるかどうか分からない。一階述語論理ではリテラルと否定リテラルそれぞれの原子論理式が単一化できる場合に導出を行う。",
"title": "一階述語論理での導出"
},
{
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"text": "また、導出の対象となる節は、冠頭標準形にして存在記号を削除したスコーレム連言標準形の論理式である。",
"title": "一階述語論理での導出"
},
{
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"text": "例えば、一方の節がリテラル p ( x , y ) {\\displaystyle p(x,y)} 、もう一方の節がリテラル ¬ p ( z , f ( b ) ) {\\displaystyle \\lnot p(z,f(b))} を含む場合、適切な代入 σ = { z / x , y / f ( b ) } {\\displaystyle \\sigma =\\left\\{z/x,y/f(b)\\right\\}} により各リテラルは p ( x , f ( b ) ) {\\displaystyle p(x,f(b))} 、 ¬ p ( x , f ( b ) ) {\\displaystyle \\lnot p(x,f(b))} と書き換えられ、同じにすることができる。ここで代入 { z / x , y / f ( b ) } {\\displaystyle \\left\\{z/x,y/f(b)\\right\\}} は z → x {\\displaystyle z\\to x} 、 y → f ( b ) {\\displaystyle y\\to f(b)} に書き換えることを表す。",
"title": "一階述語論理での導出"
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{
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"text": "一般に論理式 F 1 , F 2 {\\displaystyle F_{1},F_{2}} を等しくする代入を F 1 , F 2 {\\displaystyle F_{1},F_{2}} の単一化子(unifier)といい、そのうち最も一般的な単一化子(最汎単一化子)を F 1 , F 2 {\\displaystyle F_{1},F_{2}} のmgu(most general unifier)という。上記の例の場合、両方の論理式を等しくする代入は { z / a , y / f ( b ) , x / a } {\\displaystyle \\left\\{z/a,y/f(b),x/a\\right\\}} 、 { z / x , y / c , f ( b ) / c } {\\displaystyle \\left\\{z/x,y/c,f(b)/c\\right\\}} など無数に存在する。これらは本来の代入 { z / x , y / f ( b ) } {\\displaystyle \\left\\{z/x,y/f(b)\\right\\}} に { x / a } {\\displaystyle \\left\\{x/a\\right\\}} などの代入を合成したものなので、最汎単一化子 mgu は { z / x , y / f ( b ) } {\\displaystyle \\left\\{z/x,y/f(b)\\right\\}} である。",
"title": "一階述語論理での導出"
},
{
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"text": "一階述語論理での導出は mgu を用いて次のように表現できる。",
"title": "一階述語論理での導出"
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"text": "もしリテラル L 1 ∈ C 1 {\\displaystyle L_{1}\\in C_{1}} と否定リテラル L 2 ̄ ∈ C 2 {\\displaystyle {\\overline {L_{2}}}\\in C_{2}} が存在し、 L 1 {\\displaystyle L_{1}} と L 2 {\\displaystyle L_{2}} が mgu σ {\\displaystyle \\sigma } を持つ場合、以下の C R {\\displaystyle C_{R}} が2項導出節(binary resolvent)である。ここで、 C 1 σ , C 2 σ {\\displaystyle C_{1}\\sigma ,C_{2}\\sigma } などは、それぞれの節やリテラルに代入 σ {\\displaystyle \\sigma } を行ったものを表す。",
"title": "一階述語論理での導出"
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"text": "同様のやり方での2以上の複数の節から同時に導出することも可能であり、超導出(hyper-resolution)と呼ばれる。",
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"text": "反駁(はんばく、英: refutation)とは、節の集合からの導出により空節 □ を導くことである。 反駁については以下の定理が成り立つ。",
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"text": "節の集合 S が充足不能である必要十分条件は、節の集合 S からの導出により空節 □ が導けることである。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "これはエルブランの定理を導出に応用したものになっている。",
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{
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"text": "論理式 P が恒真であれば ¬ P {\\displaystyle \\lnot P} は充足不能(恒偽)であるため、節の集合に ¬ P {\\displaystyle \\lnot P} を追加し導出を繰り返すことで空節 □ になれば、論理式 P が恒真であることが証明できる。",
"title": "反駁による証明"
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{
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"text": "反駁により P {\\displaystyle P} が P 1 , ... , P n {\\displaystyle P_{1},\\dots ,P_{n}} の論理的帰結か調べるアルゴリズムは以下のように表現できる。",
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},
{
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"text": "以下の公式が成り立つ時、 P ( a ) {\\displaystyle P\\left(a\\right)} が成り立つかどうかを証明する場合を考える。反駁の対象となる論理式は以下の論理式に ¬ P ( a ) {\\displaystyle \\lnot P(a)} を追加したものである。",
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},
{
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"text": "最初の論理式は ( ∀ x ( S ( x ) → P ( x ) ) ∧ ( ∀ x ( T ( x ) → P ( x ) ) {\\displaystyle (\\forall x\\ (S(x)\\to P(x))\\land (\\forall x\\ (T(x)\\to P(x))} と等価なため、次の2つの節で表現できる。",
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"text": "2番目の論理式は以下の節になる。",
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"text": "さらに3番目は以下の節になる。",
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"text": "証明したい論理式の否定は以下の節である。",
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"text": "最後に C 5 {\\displaystyle C_{5}} と C 7 {\\displaystyle C_{7}} の導出により空節 □ が導かれ、 P ( a ) {\\displaystyle P\\left(a\\right)} が成り立つことを証明できる。",
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"tag": "p",
"text": "導出は2つの節を前提として導出節を導くものであるので、どの節に導出規則を適用するかについては様々な選択肢があり、そのやり方により効率が大幅に異なる。代表的な証明戦略として以下のものがある。",
"title": "証明戦略"
}
] |
導出原理とは、ジョン・アラン・ロビンソンにより1965年に提案された原理または手法を言う。 導出原理を元とする導出の手法は、その後の定理自動証明に大きな影響を与え、またPrologなどの論理プログラミング言語の基礎となった。
|
'''導出原理'''(どうしゅつげんり、{{lang-en-short|''resolution principle''}})とは、{{仮リンク|ジョン・アラン・ロビンソン|en|John Alan Robinson}}により1965年に提案された<ref name=Robinson1965>J. Alan Robinson, ''A Machine-Oriented Logic Based on the Resolution Principle''. JACM, Volume 12, Issue 1, pp. 23–41. 1965.</ref>原理または手法を言う。
導出原理を元とする導出の手法は、その後の[[定理自動証明]]に大きな影響を与え、また[[Prolog]]などの[[論理プログラミング]]言語の基礎となった。
== 背景 ==
述語論理式 ''P'' が[[恒真式|恒真]]であるかを証明する一般的な手続きは存在しないが、1930年に発表された[[エルブランの定理]]は[[エルブランの定理#エルブラン領域|エルブラン領域]]の要素を論理式に代入して命題論理のレベルに落としその充足不能性を調べることで、''¬P'' が充足不能(恒偽)であれば有限のステップで証明できることを保証している。また、エルブランの論文には[[単一化]]アルゴリズムなど他の様々なものが含まれていた<ref name=Buss1995>Buss, Samuel R., "On Herbrand's Theorem", in Maurice, Daniel; Leivant, Raphaël, Logic and Computational Complexity, Lecture Notes in Computer Science, Springer-Verlag, pp. 195–209. 1995.</ref>。
1950年代以降、計算機上での定理証明の研究が活発になり、[[ギルモアのアルゴリズム]](1960)や[[デービス・パトナムのアルゴリズム]](1958,1960) が考案された。デービス・パトナムのアルゴリズムには[[連言標準形]]の使用や導出規則の考え方が含まれていた。しかし、これらはエルブランの定理の証明を直接計算機上で実現したような方法で、[[エルブランの定理#エルブラン領域|エルブラン領域]]の要素を順次生成して変数を含まない論理式(''基礎例'')を作成し命題論理のレベルで充足不能性を調べるものだったため、不要な論理式が多数生成され、非常に効率が悪かった<ref name=Davis2001>Martin Davis. ''The Early History of Automated Deduction''. in ''Handbook of Automated Reasoning'', Volume I, Alan J.A. Robinson and Andrei Voronkov(ed), 2001. ISBN 9780444829498</ref>。
プラウィツ(Dag Prawitz)は、論理式を生成してからチェックするのではなく、選言標準形に変換した論理式への適当な代入([[単一化]])によって充足不能性を調べる方法を1960年に提案した<ref name=Bibel2007>Wolfgang Bibel. ''Early History and Perspectives of Automated Deduction''. in ''Advances in Artificial Intelligence'', Lecture Notes in Computer Science, Springer-Verlag Berlin, 2007. ISBN 9783540745648</ref>。
この方法は必要な基礎例のみを生成するため、不要な論理式の生成が抑えられ効率的だったが、選言標準形は全ての連言項を調べなければならないため全体の効率はいいとは言えなかった。
ロビンソンはデービス・パトナムの枠組みにプラウィツのアイデアを組み合わせ、ただ1つの導出規則と[[単一化]]による代入操作とで充足不能性を調べる導出原理を1965年に発表した。単純な規則で関係する論理式のみを段階的に具体化していく方法は、従来の方法よりはるかに効率がよく、また理論的なエレガントさを持っていたため、その後の[[定理自動証明]]に大きな影響を与えた<ref name=Davis2001></ref>。
== 定義 ==
''導出''とは二つの[[ホーン節|節]]より新しい節を導き出す操作で、一方の節に含まれるリテラル <math>l</math> と、他方の節に含まれる否定リテラル <math>\neg l</math> をのぞき、その他のリテラルの[[論理和]]をとることで、新しい節を得ることをいう。
[[命題論理]]での導出規則を式で表せば、
<math>\frac{
l \vee P,
\quad \neg l \vee Q}
{P \vee Q}</math>
と書ける。ここで上式は前提となる''親節''、下式はそれらから導かれる''導出節''({{lang|en|''resolvent''}})を表す。
あるいは、別の表記法を用いて次のようにも表現できる。前提となる節を <math>C_1</math> と <math>C_2</math> とし, もしリテラル <math>L \in C_1</math> と否定リテラル <math>\overline{L}\in C_2</math> が存在するならば、導出節 <math>C_R</math> は以下のようになる。
:<math>
C_R = (C_1 \setminus\{L\}) \cup (C_2 \setminus \{\overline{L}\})
</math>
導出規則は[[三段論法]]や[[モーダスポネンス|前件肯定]]を一般化した規則となっている。
導出は[[完全性|完全]]な証明系であることが知られている。
=== 例 ===
<math> p \to q </math> を節形式にすると <math> \lnot p \lor q </math> となる。<math> C_R </math> を<math> C_1, C_2 </math> の導出節とすると、[[モーダスポネンス|前件肯定]]は以下の導出と同じである。
:<math> \begin{array}{ll}
C_1 = \lnot p \lor q & \left( p \to q \right) \\
C_2 = p \\
C_R = q & \left( \mathrm{resolvent} \right)
\end{array} </math>
同様に、<math> p \to q </math>、<math> q \to r </math> の節形式 <math> \lnot p \lor q </math>、 <math> \lnot q \lor r </math> による[[三段論法]]は以下のようになる。
:<math> \begin{array}{ll}
C_1 = \lnot p \lor q & \left( p \to q \right) \\
C_2 = \lnot q \lor r & \left( q \to r \right) \\
C_R = \lnot p \lor r & \left( \mathrm{resolvent,\ }p \to r \right)
\end{array} </math>
== 一階述語論理での導出 ==
[[述語論理]]のリテラルには個体変数が含まれるため、リテラルと否定リテラルとを単純に比較するだけでは削除できるかどうか分からない。一階述語論理ではリテラルと否定リテラルそれぞれの[[原子論理式]]が[[ユニフィケーション|単一化]]できる場合に導出を行う。
また、導出の対象となる節は、[[冠頭標準形]]にして[[存在記号]]を削除した[[スコーレム標準形|スコーレム連言標準形]]の論理式である。
例えば、一方の節がリテラル <math>p(x, y)</math>、もう一方の節がリテラル <math>\lnot p(z, f(b))</math> を含む場合、適切な代入 <math>\sigma =\left\{ z/x, y/f(b) \right\}</math> により各リテラルは <math>p(x, f(b))</math>、 <math>\lnot p(x, f(b))</math> と書き換えられ、同じにすることができる。ここで代入 <math>\left\{ z/x, y/f(b) \right\}</math> は <math>z \to x</math>、<math>y \to f(b)</math> に書き換えることを表す。
一般に論理式 <math>F_1, F_2</math> を等しくする代入を <math>F_1, F_2</math> の''単一化子''({{lang|en|''unifier''}})といい、そのうち最も一般的な単一化子(''最汎単一化子'')を <math>F_1, F_2</math> の''mgu''({{lang|en|''most general unifier''}})という。上記の例の場合、両方の論理式を等しくする代入は <math>\left\{ z/a, y/f(b), x/a \right\}</math>、<math>\left\{ z/x, y/c, f(b)/c \right\}</math> など無数に存在する。これらは本来の代入 <math>\left\{ z/x, y/f(b) \right\}</math> に <math>\left\{ x/a \right\}</math> などの代入を合成したものなので、最汎単一化子 mgu は <math>\left\{ z/x, y/f(b) \right\}</math> である。
一階述語論理での導出は mgu を用いて次のように表現できる。
もしリテラル <math>L_1 \in C_1</math> と否定リテラル <math>\overline{L_2}\in C_2</math> が存在し、 <math>L_1</math> と <math>L_2</math> が mgu <math>\sigma</math> を持つ場合、以下の <math>C_R</math> が''2項導出節''({{lang|en|''binary resolvent''}})である。ここで、<math>C_1\sigma, C_2\sigma</math> などは、それぞれの節やリテラルに代入 <math>\sigma</math> を行ったものを表す。
:<math>
C_R = (C_1\sigma \setminus\{L_1\sigma\}) \cup (C_2\sigma \setminus \{\overline{L_2\sigma}\})
</math>
同様のやり方での2以上の複数の節から同時に導出することも可能であり、''超導出''({{lang|en|''hyper-resolution''}})と呼ばれる。
=== 例 ===
以下の節からの導出を考える。
:<math> C_1 = \lnot P (x) \lor \lnot Q (y) \lor R (x, y) </math>
:<math> C_2 = Q \left(a \right) </math>
:<math> C_3 = P \left(b \right) </math>
''Q'' を単一化する代入 <math>\left\{y/a\right\}</math> により <math> C_1 </math> と <math> C_2 </math>の導出を行うと、
:<math> C_R = \lnot P (x) \lor R (x, a) </math>
続いて、''P'' を単一化する代入 <math>\left\{ x/b \right\}</math> により <math> C_R </math> と <math> C_3 </math>の導出を行うと、
:<math> C_S = R \left(b, a \right) </math>
を得ることができる。
== 反駁による証明 ==
'''反駁'''(はんばく、{{lang-en-short|''refutation''}})とは、節の集合からの導出により空節 □ を導くことである。
反駁については以下の定理が成り立つ。
<blockquote class="toccolours" style="text-align:justify; width:50%; float:center; padding: 10px; display:table; margin-left:80px;">
節の集合 ''S'' が充足不能である必要十分条件は、節の集合 ''S'' からの導出により空節 □ が導けることである。
</blockquote>
これは[[エルブランの定理]]を導出に応用したものになっている。
論理式 ''P'' が[[恒真式|恒真]]であれば <math>\lnot P</math> は充足不能(恒偽)であるため、節の集合に <math>\lnot P</math> を追加し導出を繰り返すことで空節 □ になれば、論理式 ''P'' が[[恒真式|恒真]]であることが証明できる。
反駁により <math>P</math> が <math>P_1, \dots ,P_n</math> の論理的帰結か調べるアルゴリズムは以下のように表現できる。
# <math>P_1, \dots ,P_n</math> を[[スコーレム標準形|スコーレム連言標準形]] <math>C_1, \dots ,C_n</math> に変換する。
# <math>\lnot P</math> を[[スコーレム標準形|スコーレム連言標準形]] <math>C</math> に変換する。
# もし <math>C, C_1, \dots ,C_n</math> の反駁が存在すれば、 <math>P</math> は <math>P_1, \dots ,P_n</math> の論理的帰結である。
::あるいは、別の表現をすれば、
::* <math>C, C_1, \dots ,C_n</math> が充足不能
::* <math>\lnot P, P_1, \dots ,P_n</math> が充足不能
::* <math>P_1, \dots ,P_n</math> の解釈が <math>\mathit{T}</math> ならば <math>\lnot P</math> の解釈は <math>\mathit{F}</math>
::* <math>P_1, \dots ,P_n</math> の解釈が <math>\mathit{T}</math> ならば <math>P</math> の解釈は <math>\mathit{T}</math>
=== 例 ===
以下の公式が成り立つ時、<math>P\left(a\right)</math> が成り立つかどうかを証明する場合を考える。反駁の対象となる論理式は以下の論理式に <math>\lnot P(a)</math> を追加したものである。
# <math>\forall x \ ((S(x) \lor T(x)) \to P(x))</math>,
# <math>\forall x \ (S(x) \lor R(x))</math>,
# <math>\lnot R(a)</math>
最初の論理式は <math>(\forall x \ (S(x) \to P(x)) \land (\forall x \ (T(x) \to P(x))</math> と等価なため、次の2つの節で表現できる。
:<math>C_1 = \lnot S(x) \lor P(x)</math>
:<math>C_2 = \lnot T(x) \lor P(x)</math>
2番目の論理式は以下の節になる。
:<math>C_3 = S(x) \lor R(x)</math>
さらに3番目は以下の節になる。
:<math>C_4 = \lnot R(a)</math>
証明したい論理式の否定は以下の節である。
:<math>C_5 = \lnot P(a)</math>
これらの節 <math>{C_1, C_2, C_3, C_4, C_5}</math> が反駁の対象となる節集合である。
<math>C_3</math> と <math>C_4</math> の <math>R</math> についての導出を考えると、<math>\left\{ x/a \right\}</math> の代入により以下が導かれる。
:<math>C_6 = S \left(a \right)</math>
<math>C_1</math> と <math>C_6</math> の <math>S</math> についての導出を考えると、
:<math>C_7 = P\left(a\right)</math>
最後に <math>C_5</math> と <math>C_7</math> の導出により空節 □ が導かれ、<math>P\left(a\right)</math> が成り立つことを証明できる。
== 証明戦略 ==
導出は2つの節を前提として導出節を導くものであるので、どの節に導出規則を適用するかについては様々な選択肢があり、そのやり方により効率が大幅に異なる。代表的な証明戦略として以下のものがある。
* 線形導出({{lang|en|''linear resolution''}})
:前提となる節の一方を、頂上節({{lang|en|''top clause''}})として指定した節と、頂上節から導出された節に限定する方法。導出木を書くと導出の流れが線状に一列に並ぶため、線形導出と呼ばれる。[[論理プログラミング]]言語の代表である[[Prolog]]で用いられる''SLD導出''({{lang|en|''Selective Linear resolution for Definite clause''}})は線形導出の一種である。
* 入力導出({{lang|en|''input resolution''}})
:前提となる節の一方を最初に与えられた節集合の要素(導出された節以外の節)に限定する方法。
* 支持集合戦略({{lang|en|''set-of-support strategy''}})
:あらかじめ支持集合という節の集合を指定しておき、前提となる節の一方を支持集合の節とそこから導出された節に限定する方法。節集合''S''、''T'' があり''S-T'' が充足可能であるとき''T'' は''S'' の支持集合と言う。目標に関係ないところを探索しないよう導出の対象を制限することで、より効率的な導出を行うための手法で、1965年に Lawrence Wos らが提案した<ref>
Lawrence Wos, G.A. Robinson, D.F. Carson. ''Efficiency and Completeness of the Set of Support Strategy in Theorem Proving''. Journal of the ACM, Volume12, Issue 4, pp.536-541. 1965.</ref>。
* 意味導出({{lang|en|''semantic resolution''}})
:論理式のモデルあるいは解釈を利用して導出の対象を制限し、探索の空間を狭めることで効率的な導出を行う手法。特定のモデルにおいて真となる可能性がある節と偽となる可能性のある節とを親節に選ぶ Slagle の Semantic Clash resolution<ref>
James Slagle. ''Automatic Theorem Proving With Renamable and Semantic Resolution''. Journal of the ACM, Volume14, Issue 4, pp.687-697. 1967.</ref> など様々な方法がある。
== 脚注 ==
<div class="references-small">
<references/>
</div>
== 関連項目 ==
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* [[数理論理学]]
** [[命題論理]]
** [[述語論理]]
{{col-break}}
* [[自動定理証明]]
* [[論理プログラミング]]
* [[エルブランの定理]]
** [[ギルモアのアルゴリズム]]
** [[デービス・パトナムのアルゴリズム]]
** [[DPLLアルゴリズム]]
{{col-break}}
{{col-end}}
== 参考文献 ==
* {{cite book | 和書 | title=論理と意味 | author=長尾 真、淵 一博 | series=岩波講座 情報科学 | volume=7 | publisher=岩波書店 | year=1983 | ref=長尾(1983) }}
* {{cite book | 和書 | title=計算論理に基づく推論ソフトウェア論 | author=山崎 進 | year=2000 | publisher=コロナ社 | ref=山崎(2000) }}
* {{cite book | 和書 | author=D.ヒルベルト、W.アッケルマン | editor=伊藤誠(訳) | title=記号論理学の基礎 | year=1954 | publisher=大阪教育図書社 | ref=HA(1954) }}
* {{citation | author=Robert Kowalski | title=Predicate Logic as Programming Language | year=1974 | url=http://www.doc.ic.ac.uk/~rak/papers/IFIP%2074.pdf | ref=Kowalski(1974) }}
* {{citation | author=Wolfgang Bibel | chapter=Early History and Perspectives of Automated Deduction | title=Advances in Artificial Intelligence | series=Lecture Notes in Computer Science | publisher=Springer-Verlag Berlin | year=2007| url=http://www.intellektik.de/resources/OsnabrueckBuchfassung.pdf | ISBN=9783540745648 | ref=Bibel(2007) }}
*J. Alan Robinson. "A Machine-Oriented Logic Based on the Resolution Principle." J. Assoc. Comput. Mach. 12, pp.23-41, 1965.
*Davis Martin. ''The Early History of Automated Deduction''. in ''Handbook of Automated Reasoning'', ''Volume I'', Alan Robinson and Andrei Voronkov(ed), 2001. ISBN 9780444829498.
* Robert Kowalski. ''Logic for Problem Solving''. North Holland, Elsevier, 1979. ISBN 978-0444003683
* {{cite book
| last = Gallier
| first = Jean H.
| title = Logic for Computer Science: Foundations of Automatic Theorem Proving
| publisher = Harper & Row Publishers
| year = 1986
| url = http://www.cis.upenn.edu/~jean/gbooks/logic.html
}}
*佐藤 泰介. ''[https://ci.nii.ac.jp/naid/110002761456 導出原理による定理証明]''. 情報処理 22(11), pp.1024-1036, 1981.
== 外部リンク ==
* {{MathWorld | urlname=ResolutionPrinciple | title=Resolution Principle | author=Alex Sakharov}}
* {{MathWorld | urlname=Resolution | title=Resolution | author=Alex Sakharov}}
* [http://www.cs.uu.nl/docs/vakken/pv/resources/computational_prop_of_fol.pdf Notes on computability and resolution] (pdf)
* [http://www.score.cs.tsukuba.ac.jp/~minamide/notes/note.pdf 述語論理とその意味論] (pdf) 筑波大学講義資料
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12,221 |
回向
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回向(廻向、えこう、梵: Pariṇāmanā, パリナーマナー)とは「転回する」「変化する」「進む」などの意、その漢訳である「回向」は、「回」は回転(えてん)、「向」は趣向(しゅこう)の意であり、自分自身の積み重ねた善根・功徳を相手にふりむけて与えること。
自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいう。寺院や僧侶に読経をたのむときに、「廻向料」などと表書きするのは、この理由による。
上座部仏教においては、十福業事のひとつである。
善行の報いは本来自分に還るはずだが、大乗仏教においては一切皆空であるから、報いを他に転回することが可能となる。善行の結果を人々のためになるよう期待し、それを果すのを「衆生回向」といい、善行の結果を仏果の完成に期待するならば、それを果すことは仏道への回向である。
回向の心をもって修行する段階を十に分け「十回向位」とし、悟りへの重要な修行過程とする。自己の善根を仏果に向け、自我への執着を除去しようとする。「善根」は常に自ら以外の方向に振り向けられて「功徳」となり、我執が除去される。ここに回向の必然性がある。善根が積み重ねられて仏となるのではなく、すべての善根は回向されることに意味がある。
回向には、一般に(1)菩提回向 (2)衆生回向 (3)実際回向の三種を説く。それぞれ菩提を趣向し、衆生に功徳を回施し、無為涅槃の趣求にふりむけるとする。
世親(天親)は、「礼拝、讃歎、観察、作願、回向」と五念門を説き、往生浄土のための行の中、自ら修めた諸功徳をすべての衆生に回向して、ともに浄土に往生して仏となることを重要な項目としてあげている。
曇鸞は、『浄土論註』巻下において、「往相(おうそう)」、「還相(げんそう)」の二種の回向があると説いた。
浄土真宗においては、親鸞の「末法の衆生は、回向すべき善行を完遂(かんすい)しえない。」という自己反省によって、法を仰ぎ、法の力を受け取ろうとする。
浄土への往生(往相)も、阿弥陀仏の本願力によるのであって、阿弥陀仏がたてて完成した万徳具備の名号のはたらきによるとして、名号を回向されるという。
よって往相・還相ともに阿弥陀仏の本願力として、仏の側から衆生に功徳が回向されるものとする。これを「他力回向」という。
具体的には、江戸時代讃岐の庄松という妙好人が「私が捨てた念仏を喜んで拾う者がいる」と言うように、称名の声を聞いた時に、浄土からこの我々に働きかけているすがたと感じて、それに応えて称名をする姿を言う。
「回向文」は、「回向偈」ともいい、勤行・法要などの終わりに称える偈文をいう。仏事を行った功徳を己だけのものにすることなく、広く有縁の人々あるいは一切有情に回向するために読誦される。この意味で、寺や各家々で行われる仏事は、その故人のためだけではなく、縁ある者すべて、あるいは一切有情に向けて回向する。この回向は、「普廻向」(ふえこう)と称する場合もある。
偈文は宗旨によって異なる。
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回向とは「転回する」「変化する」「進む」などの意、その漢訳である「回向」は、「回」は回転(えてん)、「向」は趣向(しゅこう)の意であり、自分自身の積み重ねた善根・功徳を相手にふりむけて与えること。 自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいう。寺院や僧侶に読経をたのむときに、「廻向料」などと表書きするのは、この理由による。 上座部仏教においては、十福業事のひとつである。
|
{{出典の明記|date=2014年10月2日 (木) 23:31 (UTC)}}
{{Infobox Buddhist term
| title= パリナーマナー
| en=Transfer of merit
| sa= pariṇāmanā
| pi= pattidāna
| zh= 迴向
| zh-Latn= huí xiàng
| ja= 回向 or 廻向
| ja-Latn= Ekō
| th= อุุุทิศบุญกุศล
| bo= bsngo ba
}}
'''回向'''(廻向、えこう、{{lang-sa-short|Pariṇāmanā}}, '''パリナーマナー''')とは「転回する」「変化する」「進む」などの意、その漢訳である「回向」は、「回」は回転(えてん)、「向」は趣向(しゅこう)の意であり、自分自身の積み重ねた[[善根]]・[[功徳]]を相手にふりむけて与えること。
自分の修めた[[善行]]の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいう。寺院や僧侶に読経をたのむときに、「廻向料」などと表書きするのは、この理由による。
[[上座部仏教]]においては、[[十福業事]]のひとつである。
== 大乗仏教において ==
善行の報いは本来自分に還るはずだが、大乗仏教においては'''一切皆空'''であるから、報いを他に転回することが可能となる。善行の結果を人々のためになるよう期待し、それを果すのを「[[衆生]]回向」といい、善行の結果を仏果の完成に期待するならば、それを果すことは'''仏道への回向'''である。
回向の心をもって修行する段階を十に分け「十回向位」とし、悟りへの重要な修行過程とする。自己の善根を仏果に向け、自我への執着を除去しようとする。「善根」は常に自ら以外の方向に振り向けられて「功徳」となり、[[我執]]が除去される。ここに回向の必然性がある。'''善根が積み重ねられて仏となるのではなく'''、'''すべての善根は回向される'''ことに意味がある。
回向には、一般に(1)[[菩提]]回向 (2)衆生回向 (3)実際回向の三種を説く。それぞれ菩提を趣向し、衆生に功徳を回施し、無為[[涅槃]]の趣求にふりむけるとする。
[[世親|世親(天親)]]は、「礼拝、讃歎、観察、作願、'''回向'''」と五念門を説き、[[往生]][[浄土]]のための行の中、自ら修めた諸功徳をすべての衆生に回向して、ともに浄土に往生して[[仏]]となることを重要な項目としてあげている。
=== 往還回向 ===
[[曇鸞]]は、『[[無量寿経優婆提舎願生偈註|浄土論註]]』巻下において、「'''[[往相回向|往相(おうそう)]]'''」、「'''[[還相回向|還相(げんそう)]]'''」の二種の回向があると説いた。
* 「往相回向」とは、「'''往'''生浄土の'''相'''状」の略で、自分の善行功徳を他のものにめぐらして、他のものの功徳として、ともに浄土に[[往生]]しようとの願いをもととして説かれる。
* 「還相回向」とは「'''還'''来穢国の'''相'''状」の略で、浄土へ往生したものを、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いを言う。この利他のはたらきも、阿弥陀仏の本願力の回向による。
[[浄土真宗]]においては、[[親鸞]]の「[[末法]]の衆生は、回向すべき善行を完遂(かんすい)しえない。」という自己反省によって、法を仰ぎ、法の力を受け取ろうとする。
浄土への往生(往相)も、[[阿弥陀仏]]の[[本願]]力によるのであって、'''阿弥陀仏'''がたてて完成した万徳具備の[[南無阿弥陀仏|名号]]のはたらきによるとして、'''名号を回向される'''という。
よって往相・還相ともに阿弥陀仏の本願力として、仏の側から衆生に功徳が回向されるものとする。これを「他力回向」という。
具体的には、江戸時代[[讃岐国|讃岐]]の[[庄松]]という[[妙好人]]が「私が捨てた念仏を喜んで拾う者がいる」と言うように、称名の声を聞いた時に、浄土からこの我々に働きかけているすがたと感じて、それに応えて称名をする姿を言う。
=== 回向文 (普廻向)===
{{Wikisource|回向文}}
「'''回向文'''」は、「回向偈」ともいい、勤行・法要などの終わりに称える偈文をいう。仏事を行った功徳を己だけのものにすることなく、広く有縁の人々あるいは[[一切有情]]に'''回向'''するために読誦される。この意味で、寺や各家々で行われる仏事は、その故人のためだけではなく、縁ある者すべて、あるいは[[一切有情]]に向けて'''回向'''する。この回向は、「普廻向」(ふえこう)と称する場合もある。
偈文は宗旨によって異なる。
* 「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」 - 『[[法華経|妙法蓮華経]]』巻第三「化城喩品第七」 [[鳩摩羅什]]訳(『[[大正新脩大蔵経]]』第9巻 P24。)
* 「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」 - 『[[観無量寿経疏]]』「観経玄義分 巻第一」 [[善導]]撰述(『大正新脩大蔵経』第37巻 P246。)
** [[浄土教]]系諸宗においては、[[浄土三部経]]を正依の経典としているため、後者が用いられる。また浄土真宗では、「此功徳」を阿弥陀仏の功徳とする。
== 関連項目 ==
*[[勤行 (浄土宗)]]
*[[勤行 (真宗大谷派)]]
{{Buddhism-stub}}
{{buddhism2}}
{{DEFAULTSORT:えこう}}
[[Category:仏教用語]]
[[category:仏教行事]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%90%91
|
12,222 |
ガリー
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ガリー(མངའ་རིས་、mnga' ris)はチベット高原西部地域を漠然と指す歴史的地域名。ンガリ、ガリとも。 その領域は、時期や文献によって相違するが、西はインドのラダック地方、パキスタンのスカルドゥ地区から、東はトゥー(トェ)地方(西チベット)までを含む。中国の現行の行政区分では、新疆ウイグル自治区に配分されているアクサイチン地区(現在、インドとの帰属問題を抱える)を含む。
平均海抜4,500m。古くは、シャンシュン王国、グゲ王国があり、西部チベットの中心であった。 チベット自治区の最西部を占めるガリ地区という呼称は、この名称を採用したものである。
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ガリーはチベット高原西部地域を漠然と指す歴史的地域名。ンガリ、ガリとも。
その領域は、時期や文献によって相違するが、西はインドのラダック地方、パキスタンのスカルドゥ地区から、東はトゥー(トェ)地方(西チベット)までを含む。中国の現行の行政区分では、新疆ウイグル自治区に配分されているアクサイチン地区(現在、インドとの帰属問題を抱える)を含む。 平均海抜4,500m。古くは、シャンシュン王国、グゲ王国があり、西部チベットの中心であった。
チベット自治区の最西部を占めるガリ地区という呼称は、この名称を採用したものである。
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[[Image:Map_of_Tibet_Ü-Tsang_Amdo_and_Kham.jpg|thumb|350px|ガリーの位置]]
'''ガリー'''('''མངའ་རིས་'''、''mnga' ris'')は[[チベット高原]]西部地域を漠然と指す歴史的地域名。'''ンガリ'''、'''ガリ'''とも。
その領域は、時期や文献{{Full citation needed|date=2019年10月}}によって相違するが、西は[[インド]]の[[ラダック]]地方、[[パキスタン]]の[[スカルドゥ]]地区から、東はトゥー(トェ)地方(西チベット)までを含む。[[中国]]の現行の行政区分では、[[新疆ウイグル自治区]]に配分されている[[アクサイチン]]地区(現在、[[インド]]との帰属問題を抱える)を含む。
平均海抜4,500m。古くは、[[シャンシュン王国]]、[[グゲ王国]]があり、西部[[チベット]]の中心であった。
[[チベット自治区]]の最西部を占める[[ガリ地区]]という呼称は、この名称を採用したものである。
== 都市 ==
* 獅泉河(「阿里」とも)
* 普蘭
* 札達
== 名所・旧跡 ==
* [[カイラス山]]
* [[マーナサローワル湖]]
* グゲ遺跡
== 関連項目 ==
* [[ガリ地区]]
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行政裁量
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行政裁量(ぎょうせいさいりょう)とは、行政行為をするに当たり、根拠法令の解釈適用につき行政庁に許された判断の余地。
伝統的解釈では、自由裁量(便宜裁量)と法規裁量(覊束裁量) に分けられ、後者については司法審査が及ぶと考えられてきた。しかし、近時においては、区別は次第に重視されなくなり、行政事件訴訟法第30条は、裁量行為であっても裁量の逸脱や濫用があれば、取り消すことができるとする。
便宜裁量、自由裁量処分ともいわれる。
目的または公益に適するかの裁量である。要件該当性についての要件裁量と、いかなる行為をするかについての効果裁量に分けられる。以下の行為がある。
要件裁量(判断裁量)とは、行政裁量のうち、要件判断について認めるもの。
法令が多義的・概括的・不確定な概念を用いている場合は、要件裁量が認められるとされる。
たとえば、非行があった場合に処分が行われるとされている場合、何が非行かについての裁量。
効果裁量(行為裁量・選択裁量)とは、一般に、行政裁量のうち、行為判断について認めるもの。時の裁量、手続の裁量をこれに含める場合もある。
たとえば、処分をすることが出来るとされ、数種の処分が定められている場合、処分を行うかどうか、どのような処分を行うかの裁量。
覊束裁量(きそくさいりょう)ともいわれる。法規の解釈適用に関する裁量である。一般に、以下の行為が挙げられる。
覊束概念とは、行政庁に判断の余地が与えられていないことをいう。つまり、一見すると、行政庁に判断余地・裁量の余地が与えられているように見えるが、客観的な経験法則により確定することができる場合である。
覊束行為とは、一定の要件に該当する場合に、行政庁が一定の行為をしなければならないことをいう。
裁量の逸脱や濫用があるかの判断は、その行政行為を根拠づける規定の目的にしたがって行われたかによりする。不合理な差別を禁じる平等原則や、目的達成手段を必要最小限のものに限定する比例原則など、一般原則も考慮する。
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行政裁量(ぎょうせいさいりょう)とは、行政行為をするに当たり、根拠法令の解釈適用につき行政庁に許された判断の余地。 伝統的解釈では、自由裁量(便宜裁量)と法規裁量(覊束裁量) に分けられ、後者については司法審査が及ぶと考えられてきた。しかし、近時においては、区別は次第に重視されなくなり、行政事件訴訟法第30条は、裁量行為であっても裁量の逸脱や濫用があれば、取り消すことができるとする。
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{{出典の明記|date=2021年2月}}
'''行政裁量'''(ぎょうせいさいりょう)とは、[[行政行為]]をするに当たり、根拠法令の解釈適用につき[[行政庁]]に許された判断の余地。
伝統的解釈では、'''[[自由裁量処分|自由裁量]]'''(便宜裁量)と'''法規裁量'''(覊束裁量) に分けられ、後者については司法審査が及ぶと考えられてきた。しかし、近時においては、区別は次第に重視されなくなり、[[b:行政事件訴訟法第30条|行政事件訴訟法第30条]]は、裁量行為であっても裁量の逸脱や濫用があれば、取り消すことができるとする。
== 概要 ==
=== 自由裁量 ===
便宜裁量、[[自由裁量処分]]ともいわれる。
目的または公益に適するかの裁量である。要件該当性についての要件裁量と、いかなる行為をするかについての効果裁量に分けられる。以下の行為がある。
* [[厚生大臣]]による保護基準の決定([[朝日訴訟]])
* 国家公務員に対する懲戒処分([[神戸税関事件]])
* [[法務大臣]]による外国人の在留期間の更新([[マクリーン事件]])
* [[文部大臣]]の教科書検定([[家永教科書裁判]])
* [[公益法人]]の設立許可
==== 要件裁量 ====
'''要件裁量'''(判断裁量)とは、行政裁量のうち、要件判断について認めるもの。
# 行政庁の政治的・政策的事項に属する不確定概念を法令が用いている場合
# 行政庁の専門的・技術的判断を基礎とする不確定概念を法令が使用する場合
法令が多義的・概括的・不確定な概念を用いている場合は、要件裁量が認められるとされる。
たとえば、非行があった場合に処分が行われるとされている場合、何が非行かについての裁量。
==== 効果裁量 ====
'''効果裁量'''(行為裁量・選択裁量)とは、一般に、行政裁量のうち、行為判断について認めるもの。時の裁量、手続の裁量をこれに含める場合もある。
たとえば、処分をすることが出来るとされ、数種の処分が定められている場合、処分を行うかどうか、どのような処分を行うかの裁量。
=== 法規裁量 ===
覊束裁量(きそくさいりょう)ともいわれる。法規の解釈適用に関する裁量である。一般に、以下の行為が挙げられる。
* 収用委員会による補償額の決定
* 公安委員会による自動車運転免許の取消
* 農業委員会の農地借地権の設定移転の承認
* 行政機関による課税・非課税の判断、税率の適用
覊束概念とは、行政庁に判断の余地が与えられていないことをいう。つまり、一見すると、行政庁に判断余地・裁量の余地が与えられているように見えるが、客観的な経験法則により確定することができる場合である。
覊束行為とは、一定の要件に該当する場合に、行政庁が一定の行為をしなければならないことをいう。
== 行政裁量の統制方法 ==
* 立法的統制
** 行政権限の発動要件や効果を詳細に規定
** 審査基準の制定・公表:[[行政手続法]][[s:行政手続法#5|第5条]]
** 理由付記義務の法定:[[s:行政手続法#8|行政手続法第8条]]・[[s:行政手続法#14|14条]]
** 処分基準の制定・公表:[[s:行政手続法#12|行政手続法第12条]]
** 聴聞等の国民・住民の行政参加手続の法定
** 情報公開制度の充実:[[情報公開法]]・[[情報公開条例]]
* 行政内部的統制
** 上級庁による監督
** 補助金による国の[[地方公共団体|地方自治体]]に対する監督
** 会計検査
** 行政監察
* 司法的統制
** 裁量処分の取消:[[行政事件訴訟法]][[s:行政事件訴訟法#30|第30条]]
**:裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつた場合に限り、裁判所は、その処分を取り消すことができる。
** 司法審査方法
*** 裁量濫用型審査
*** 実体的判断代置方式審査
***:裁判所が行政庁の立場に立って全面的に審査をやり直し、その結果と行政庁の判断が一致しない場合には、裁判所の判断が優先されて行政行為が取り消されるとする方式をいう。
*** 実体的判断過程統制審査
***:裁判所が、第三者的立場から、行政庁の判断過程の合理性を審査する方式をいう。
== 判例 ==
裁量の逸脱や濫用があるかの判断は、その行政行為を根拠づける規定の目的にしたがって行われたかによりする。不合理な差別を禁じる平等原則や、目的達成手段を必要最小限のものに限定する比例原則など、一般原則も考慮する。
*[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51907 群馬中央バス事件] -最判昭和50年05月29日
*損害賠償 - 最判昭和53年5月26日
*:児童福祉施設をソープランド出店予定地の近くに設置することを許可し、条例違反によってその出店を阻止しようとしたことが裁量の濫用にあたるとした。この場合、許可という行政行為をするかしないかは行政の裁量に委ねられた事項であった。
*[[マクリーン事件]] - 最判昭和53年10月4日
*[[伊方原発訴訟|伊方原発事件]] - 最判平成4年10月29日
*[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52521 収用補償金増額] -最判平成9年01月28日
== 外部リンク ==
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* {{Kotobank|裁量行為}}
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七尾市
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七尾市(ななおし)は、石川県の能登半島中央部にある市。富山湾、七尾湾に面し、能登島を含む。能登地方の中心自治体である。2004年(平成16年)10月1日、市町村合併により新市制の七尾市が発足した。「七尾」の名称の由来は、七尾城のあった山(通称・城山)の7つの尾根(菊尾、亀尾、松尾、虎尾、竹尾、梅尾、龍尾)からと言われる。
合併によって、七尾湾中央部に位置する能登島町、七尾西湾の中島町、田鶴浜町の区域を市域に含み、七尾南湾を取り囲む形となった。東部は富山湾に面しており、湾に沿って北東へ伸びる崎山半島は、先端の観音崎で能登島と向き合っている。和倉温泉、赤浦温泉、赤崎温泉など温泉が多い。
※石動山の方が標高は高いが、最高地点(山頂)は隣の中能登町に属する。
古代の能登国能登郡の地で、能登国府や国分寺が所在する能登国の中心部であった。さらに遡れば、能登国造が治めた土地である。全長52mの矢田高木森古墳(前方後円墳)や42メートルの矢田丸山古墳(円墳)を盟主とする矢田古墳群は能登臣一族に関わるとされる。対岸の能登島には延喜式内社伊夜比咩神社や全国でも珍しい高句麗式の石室をもつ須曽蝦夷穴古墳がある。
中世には鹿島郡となった。戦国時代には能登畠山氏が七尾城を拠点とし、7代目当主畠山義総の代には、七尾城下に壮麗な「畠山文化」が栄え全盛期を迎える。
1577年(天正5年)、上杉謙信の侵攻により畠山氏は滅ぼされ、その後織田信長に仕える前田利家が能登全域を領有した。江戸時代には一部の天領を除き前田氏の加賀藩の一部となった。
2009年、市発注の土木工事などに絡み、業者から現金100万円を受け取ったとして、副市長が収賄容疑で逮捕された。
市内の川原町交差点は、国道159号( - 終点・金沢市)、国道160号( - 終点・高岡市)、国道249号( - 輪島市 - 終点・金沢市)が集まる3国道の起点となっている。
(平成27年国勢調査)
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"text": "市内の川原町交差点は、国道159号( - 終点・金沢市)、国道160号( - 終点・高岡市)、国道249号( - 輪島市 - 終点・金沢市)が集まる3国道の起点となっている。",
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"text": "(平成27年国勢調査)",
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七尾市(ななおし)は、石川県の能登半島中央部にある市。富山湾、七尾湾に面し、能登島を含む。能登地方の中心自治体である。2004年(平成16年)10月1日、市町村合併により新市制の七尾市が発足した。「七尾」の名称の由来は、七尾城のあった山(通称・城山)の7つの尾根(菊尾、亀尾、松尾、虎尾、竹尾、梅尾、龍尾)からと言われる。
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{{日本の市
| 画像 = Wakura_Onsen_01.jpg
| 画像の説明 = [[和倉温泉]]<br />{{Infobox mapframe|zoom=10}}
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Nanao, Ishikawa.svg|100px|七尾市旗]]
| 市旗の説明 = 七尾[[市町村旗|市旗]]<br />[[2004年]][[10月1日]]制定
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Nanao, Ishikawa.svg|75px|七尾市章]]
| 市章の説明 = 七尾[[市町村章|市章]]<br />[[2004年]][[10月1日]]制定
| 自治体名 = 七尾市
| 都道府県 = 石川県
| コード = 17202-2
| 隣接自治体 = [[鹿島郡]][[中能登町]]、[[羽咋郡]][[志賀町]]、[[鳳珠郡]][[穴水町]]、<br />[[富山県]][[氷見市]]
| 木 = 松
| 花 = 菜の花
| シンボル名 = 市の鳥
| 鳥など = カモメ
| 郵便番号 = 926-8611
| 所在地 = 七尾市袖ケ江町イ部25番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-17|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Nanao city office.JPG|center|250px]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|17|202|image=Nanao in Ishikawa Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
| 特記事項 =
}}
'''七尾市'''(ななおし)は、[[石川県]]の[[能登半島]]中央部にある[[市]]。[[富山湾]]、[[七尾湾]]に面し、[[能登島]]を含む。能登地方の中心自治体である。[[2004年]]([[平成]]16年)[[10月1日]]、[[日本の市町村の廃置分合|市町村合併]]により新市制の'''七尾市'''が発足した。「七尾」の名称の由来は、[[七尾城]]のあった山(通称・城山)の[[7つの尾根]](菊尾、亀尾、松尾、虎尾、竹尾、梅尾、龍尾)からと言われる<ref>{{Cite web|和書|title=石川県能登半島観光情報 七尾市の紹介 特産品、観光名所、祭り、日帰り温泉、イベント情報 |url=http://nanao.notonokaori.com/ |website=nanao.notonokaori.com |access-date=2022-12-19}}</ref>。
[[ファイル:Nanao Station 4.jpg|250px|thumb|七尾駅前]]
== 地理 ==
[[ファイル:Nanao-panorama.JPG|250px|thumb|七尾市遠景(城山展望台より)]]
[[ファイル:Notokannonzakitoudai.JPG|250px|thumb|能登観音埼灯台]]
[[ファイル:Nanao city center area Aerial photograph.1975.jpg|thumb|400px|七尾市中心部周辺の空中写真。[[1975年]]撮影の4枚を合成作成。<br/>{{国土航空写真}}。]]
合併によって、七尾湾中央部に位置する[[能登島町]]、七尾西湾の[[中島町 (石川県)|中島町]]、[[田鶴浜町]]の区域を市域に含み、七尾南湾を取り囲む形となった。東部は富山湾に面しており、湾に沿って北東へ伸びる崎山半島は、先端の[[観音崎 (石川県)|観音崎]]で能登島と向き合っている。[[和倉温泉]]、赤浦温泉、[[赤崎温泉]]など温泉が多い。
=== 地形 ===
;最高地点
*蔵王山(赤坂山)(507.5m)
※[[石動山]]の方が標高は高いが、最高地点(山頂)は隣の[[中能登町]]に属する。
; 半島
* 崎山半島
; 山
* 赤蔵山(179m)、伊掛山(252m)、石動山(564m)、蔵王山(赤坂山)(507.5m)、鞍馬山(60m)、国造山(63m)、後藤山(84m)、城山(300m)、天行寺山、風吹岳(354m)、別所岳(358m)、遍照岳、虫ヶ峰(296m)、四村塚山(196.8m)
; 川
* 大谷川、大津川、笠師川、川尻川、河内川、熊木川、熊渕川、小坂川、小牧川、崎山川、桜川、鷹合川、高田川、鳥越川、西谷内川、日用川、二宮川、舟尾川、御祓川、八幡川、若林川
; 湾
* 七尾湾、富山湾
; 湖沼
* 赤浦潟、上堤、漆谷池、甲羅溜池、下堤
; 島
* 青島、鴎島、大島、雄島、カラス島、観音島、黒島、小島、コシキ島、コベ島、猿島、重蛇島、寺島、立ヶ島、種ヶ島、鱈島、机島、中島、能登島、仏島、松島、水越島、メス島、螺蠑島、嫁島
; 岬(鼻)
* 一本木鼻、植木鼻、浮石鼻、爼崎、榎木鼻、扇鼻、大杉崎、大立崎、大泊鼻、笠栗鼻、勝尾崎、釜崎、釜鼻、観音崎、行者鼻、小谷鼻、小泉崎、白崎、城ヶ鼻、新崎、銭鼻、ソワジ鼻、多浦鼻、竹鼻、立ヶ鼻、長者ヶ鼻、堂ノ下、通り鼻、トガ鼻、鳥ヶ鼻、ナガ崎、長島、屏風崎、屏風岬、藤吉鼻、ボロボロ鼻、牧鼻、松ヶ鼻、松鼻、マン崎、水垂鼻、宮崎、矢田新出崎、よこさ鼻、吉ヶ浦鼻、ヨノ木鼻、湾崎
=== 気候 ===
{{Weather box|location=七尾(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=16.8|Feb record high C=21.9|Mar record high C=25.1|Apr record high C=30.1|May record high C=32.1|Jun record high C=34.3|Jul record high C=37.4|Aug record high C=38.1|Sep record high C=37.1|Oct record high C=31.9|Nov record high C=25.6|Dec record high C=21.4|year record high C=38.1|Jan high C=6.0|Feb high C=6.8|Mar high C=10.6|Apr high C=16.3|May high C=21.6|Jun high C=24.9|Jul high C=28.8|Aug high C=30.6|Sep high C=26.3|Oct high C=20.7|Nov high C=14.8|Dec high C=9.0|year high C=18.0|Jan mean C=2.7|Feb mean C=3.0|Mar mean C=5.9|Apr mean C=11.1|May mean C=16.3|Jun mean C=20.4|Jul mean C=24.5|Aug mean C=26.0|Sep mean C=22.0|Oct mean C=16.2|Nov mean C=10.5|Dec mean C=5.4|year mean C=13.7|Jan low C=-0.3|Feb low C=-0.6|Mar low C=1.5|Apr low C=6.2|May low C=11.6|Jun low C=16.7|Jul low C=21.3|Aug low C=22.5|Sep low C=18.4|Oct low C=12.2|Nov low C=6.5|Dec low C=2.0|year low C=9.8|Jan record low C=-8.7|Feb record low C=-7.1|Mar record low C=-4.9|Apr record low C=-2.4|May record low C=2.1|Jun record low C=9.4|Jul record low C=14.2|Aug record low C=14.4|Sep record low C=8.2|Oct record low C=2.0|Nov record low C=-1.0|Dec record low C=-5.6|year record low C=-8.7|Jan precipitation mm=207.4|Feb precipitation mm=126.3|Mar precipitation mm=139.1|Apr precipitation mm=126.0|May precipitation mm=120.0|Jun precipitation mm=168.5|Jul precipitation mm=222.7|Aug precipitation mm=183.0|Sep precipitation mm=206.5|Oct precipitation mm=156.7|Nov precipitation mm=205.7|Dec precipitation mm=255.1|year precipitation mm=2117.0|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=23.0|Feb precipitation days=18.1|Mar precipitation days=16.3|Apr precipitation days=12.3|May precipitation days=10.4|Jun precipitation days=10.7|Jul precipitation days=12.5|Aug precipitation days=10.0|Sep precipitation days=12.2|Oct precipitation days=13.3|Nov precipitation days=17.2|Dec precipitation days=22.9|year precipitation days=179.0|Jan sun=61.8|Feb sun=90.5|Mar sun=148.8|Apr sun=196.4|May sun=216.6|Jun sun=160.9|Jul sun=162.4|Aug sun=213.8|Sep sun=153.8|Oct sun=148.4|Nov sun=103.8|Dec sun=63.1|year sun=1720.2|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=56&block_no=0565&year=&month=&day=&view= |title=七尾 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-09-29 |publisher=気象庁}}</ref>|Dec snow cm=26|Nov snow cm=0|Oct snow cm=0|Sep snow cm=0|Aug snow cm=0|Jul snow cm=0|Jun snow cm=0|May snow cm=0|Apr snow cm=0|Mar snow cm=11|Feb snow cm=54|Jan snow cm=73|year snow cm=163}}
=== 隣接自治体 ===
; 石川県
* [[鹿島郡]][[中能登町]]
* [[羽咋郡]][[志賀町]]
* [[鳳珠郡]][[穴水町]]
; [[富山県]]
* [[氷見市]]
=== 行政区 ===
{{columns-list|colwidth=7em|
* [[袖ヶ江]]
* [[御祓町|御祓]]
* 徳田
* 矢田郷
* 東湊
* 西湊
* 石崎
* [[和倉]]
* 南大呑
* 北大呑
* 崎山
* [[高階 (石川県)|高階]]
* 端
* [[田鶴浜 (七尾市)|田鶴浜]]
* 赤蔵
* 相馬
* 金ヶ崎
* 西岸
* 釶打
* 熊木
* 中島
* 豊川
* 笠師保
* 野崎
* 鰀目
* 向田
* 西部
}}
== 歴史 ==
=== 概要 ===
古代の[[能登国]][[能登郡]]の地で、能登[[国府]]や[[国分寺]]が所在する能登国の中心部であった。さらに遡れば、能登国造が治めた土地である。全長52[[メートル|m]]の[[矢田高木森古墳]]([[前方後円墳]])や42メートルの[[矢田丸山古墳]](円墳)を盟主とする矢田古墳群は能登臣一族に関わるとされる。対岸の能登島には[[延喜式内社]]伊夜比咩神社や全国でも珍しい[[高句麗]]式の石室をもつ[[須曽蝦夷穴古墳]]がある。
中世には鹿島郡となった。戦国時代には能登[[畠山氏]]が[[七尾城]]を拠点とし、7代目当主[[畠山義総]]の代には、七尾城下に壮麗な「畠山文化」が栄え全盛期を迎える。
[[1577年]]([[天正]]5年)、[[上杉謙信]]の侵攻により畠山氏は滅ぼされ、その後[[織田信長]]に仕える[[前田利家]]が能登全域を領有した。江戸時代には一部の[[天領]]を除き[[前田氏]]の[[加賀藩]]の一部となった。
=== 沿革 ===
{{日本の市 (廃止)
| 廃止日 = 2004年(平成16年)10月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = '''七尾市'''、鹿島郡田鶴浜町、中島町、能登島町→七尾市
| 現在の自治体 = 七尾市
| よみがな = ななおし
| 自治体名 = 七尾市
| 区分 =
| 都道府県 = 石川県
| 支庁 =
| コード = 17202-2
| 面積 = 143.97
| 境界未定 =
| 人口 = 46743
| 人口の出典 =
| 人口の時点 = 2003年(平成15年)
| 隣接自治体 = 鹿島郡[[鹿島町 (石川県)|鹿島町]]、田鶴浜町、[[鳥屋町]]、<br />能登島町、[[鹿西町]]、富山県氷見市
| 市章 = [[File:Former Emblem of Nanao, Ishikawa.svg]]
| 市章の説明 = 旧・七尾[[市町村章|市章]]
| 木 = [[ツツジ]]
| 花 = [[タブノキ]]
| シンボル名 = 市の鳥<br />市の魚
| 鳥など = [[カモメ]]<br />[[鯛|タイ]]
| 郵便番号 = 926-8611
| 所在地 = 七尾市袖ケ江町イ部25番地<br />[[ファイル:Nanao city office.JPG|center|280px]]
| 外部リンク = [http://www.nsknet.or.jp/nanao/index.htm#歓迎 わくわく七尾コミュニケーション]
| 座標 = {{Coord|37|2|35.1|N|136|58|2.7|E|type:city(46743)_region:JP-17|display=inline}}
| 位置画像 = [[ファイル:NanaoShiKennai.png|200px]]
}}
*[[弥生時代]]の後期から[[古墳時代]]の前期を中心とする遺構・遺物の万行遺跡の時代(国の[[史跡]])
*[[7世紀]]中期(古墳時代終末期)[[須曽蝦夷穴古墳]]の時代(国の史跡)
* [[718年]]([[養老]]2年)[[5月2日]] - [[能登国]]成立、[[国府]]を[[能登郡]](現在の七尾市古府町または府中町)に置く。
* [[843年]]([[承和 (日本)|承和]]10年)- 能登郡(現在の七尾市国分町)に[[能登国分寺|国分寺]]が建立される。
* [[1420年代]]後半([[正長]]年間)- 能登国[[守護]]の[[畠山満慶]]が[[七尾城]]を建築する。
* [[1577年]]([[天正]]5年)- [[上杉謙信]]の侵攻により七尾城が陥落し、[[畠山氏|能登畠山氏]]が滅亡する。
* [[1581年]](天正9年)- [[前田利家]]が[[織田信長]]から能登国を拝領し、七尾城主となる。
* [[1582年]](天正10年)- 七尾城を廃城し、所口村(現在の七尾市馬出町、所口町)に[[小丸山城]]を築城する。
* [[1599年]]([[慶長]]4年)- 前田利家の次男である[[前田利政]]が能登国を拝領([[七尾藩]]の成立)する。
* [[1600年]](慶長5年)- [[関ヶ原の戦い]]の責めを負い七尾藩は改易され、[[前田氏#加賀前田家|前田本家]]([[加賀藩]])の領地となる。
* [[1689年]]([[元禄]]2年)- [[天領]]地(現在の七尾市田鶴浜町)に[[鳥居忠英]]を藩主とする[[能登下村藩]]が発足する。
* [[1695年]](元禄8年)5月 - 鳥居忠英が[[近江国]][[水口藩]]に移封され能登下村藩は再び天領となる。
* [[1698年]](元禄11年)- 天領地に[[水野勝長]]を藩主とする[[西谷藩]]が発足する。
* [[1700年]](元禄13年)[[10月28日]] - 水野勝長が[[下総国]][[結城藩]]に移封され西谷藩は再び天領となる。
* [[1871年]]([[明治]]4年)
** [[7月14日]] - [[廃藩置県]]により[[金沢県]]に編入。
** [[11月20日]] - 金沢県から分離し[[七尾県]]発足。県庁所在地は所口村に置く。
* [[1872年]](明治5年)[[9月25日]] - 七尾県が廃止され、石川県に編入される。
* [[1875年]](明治8年)[[3月2日]] - 所口村から七尾町に呼称を統一する。
* [[1939年]](昭和14年)[[7月20日]] - 七尾市発足。
* [[1954年]](昭和29年)[[3月31日]] - [[北大呑村]]、[[崎山村 (石川県)|崎山村]]、[[南大呑村]]、[[高階村 (石川県)|高階村]]を編入<ref>{{Cite book|title=新修 七尾市史 6 近現代編|date=平成22年3月30日|year=|publisher=七尾市役所}}</ref>
* [[1980年]]([[昭和]]55年)3月29日 - 能登半島縦貫有料道路(現・のと里山海道)開通。
* [[1982年]](昭和57年)4月3日 - [[能登島大橋]]供用開始。能登島~七尾港フェリー廃止。
* [[1982年]](昭和57年)7月3日 - [[のとじま臨海公園水族館]]開館。
* [[1991年]]([[平成]]3年)- [[石川県能登島ガラス美術館]]開館。
* [[1995年]](平成7年)4月28日- [[石川県七尾美術館]]開館。
* [[1999年]](平成11年)3月29日 - [[中能登農道橋]]供用開始。
* [[2007年]](平成19年)3月25日 - [[能登半島地震]]発生・震度6強
* [[2013年]](平成25年)3月24日 - [[能越道]]七尾大泊IC - 七尾城山IC開通。
* [[2013年]](平成25年)3月31日 - [[能越道]]田鶴浜IC - 穴水IC間及び[[のと里山海道]]無料化。
* [[2015年]](平成27年)2月28日 - [[能越自動車道]][[灘浦インターチェンジ|灘浦IC]] - [[七尾大泊インターチェンジ|七尾大泊IC]]間、[[七尾城山インターチェンジ|七尾城山IC]] - [[七尾インターチェンジ|七尾IC]]間開通。
=== 行政地区の変遷 ===
{{Wikisource|七尾市設置|七尾市設置|内務省告示文}}
* 1939年(昭和14年)7月20日 - [[七尾町]]、[[東湊村]]、[[矢田郷村]]、[[徳田村 (石川県)|徳田村]]、[[西湊村 (石川県)|西湊村]]、[[石崎村 (石川県)|石崎村]]及び[[田鶴浜町|和倉町]]の一部の区域が合併し、'''七尾市'''が発足する。
* [[1954年]](昭和29年)3月31日 - [[北大呑村]]、[[南大呑村]]、[[崎山村 (石川県)|崎山村]]、[[高階村 (石川県)|高階村]]を編入する。
* [[2004年]](平成16年)[[10月1日]] - 七尾市、[[田鶴浜町]]、[[中島町 (石川県)|中島町]]及び[[能登島町]]が合併し、改めて'''七尾市'''が発足する。
; 明治以降の七尾市域の流れ
{| class="wikitable"
|-
!1889以前
!colspan="2"|1889年4月1日
!colspan="3"|1889 - 1945
!colspan="3"|1945 - 1954
!colspan="3"|1954 - 2004
!2004 -
|-
|rowspan="33"|町村制未施行
|rowspan="15" style="width: 1.5em; background-color: #9cf;"|[[鹿島郡]]
|style="background-color: #6ff;"|[[七尾町]]
|rowspan="15" style="width: 1.5em; background-color: #9cf;"|鹿島郡
|style="background-color: #6ff;"|七尾町
|rowspan="6" style="background-color: #6ff;"|七尾市
|rowspan="6" colspan="3" style="background-color: #6ff;"|七尾市
|rowspan="10" colspan="3" style="background-color: #6ff;"|七尾市
|rowspan="24" style="background-color: #6ff;"|'''七尾市'''
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[東湊村]]
|style="background-color: #9cf;"|東湊村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[矢田郷村]]
|style="background-color: #9cf;"|矢田郷村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[徳田村 (石川県)|徳田村]]
|style="background-color: #9cf;"|徳田村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[西湊村 (石川県)|西湊村]]
|style="background-color: #9cf;"|西湊村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[石崎村 (石川県)|石崎村]]
|style="background-color: #9cf;"|石崎村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[北大呑村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|北大呑村
|rowspan="18" style="width: 1.5em; background-color: #9cf;"|鹿島郡
|style="background-color: #9cf;"|北大呑村
|rowspan="4" style="background-color: #6ff;"|七尾市
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[南大呑村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|南大呑村
|style="background-color: #9cf;"|南大呑村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[崎山村 (石川県)|崎山村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|崎山村
|style="background-color: #9cf;"|崎山村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[高階村 (石川県)|高階村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|高階村
|style="background-color: #9cf;"|高階村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[中島村 (石川県鹿島郡)|中島村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|中島村
|style="background-color: #9cf;"|中島村
|rowspan="6" style="background-color: #9cf;"|中島町
|rowspan="14" style="width: 1.5em; background-color: #9cf;"|鹿島郡
|rowspan="6" colspan="2" style="background-color: #9cf;"|中島町
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[笠師保村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|笠師保村
|style="background-color: #9cf;"|笠師保村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[豊川村 (石川県)|豊川村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|豊川村
|style="background-color: #9cf;"|豊川村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[熊木村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|熊木村
|style="background-color: #9cf;"|熊木村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[西岸村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|西岸村
|style="background-color: #9cf;"|西岸村
|-
|style="width: 1.5em;"|[[羽咋郡]]
|[[釶打村]]
|style="width: 1.5em;"|羽咋郡
|colspan="2"|釶打村
|style="background-color: #9cf;"|釶打村
|-
|rowspan="9" style="width: 1.5em; background-color: #9cf;"|鹿島郡
|style="background-color: #9cf;"|[[東島村 (石川県)|東島村]]
| width="18" style="background-color: #9cf;" rowspan="9" |鹿島郡
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|東島村
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|東島村
|style="background-color: #9cf;"|東島村
|rowspan="3" style="background-color: #9cf;"|能登島町
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[中乃島村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|中乃島村
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|中乃島村
|style="background-color: #9cf;"|中乃島村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[西島村 (石川県)|西島村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|西島村
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|西島村
|style="background-color: #9cf;"|西島村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[田鶴浜村]]
|rowspan="3" style="background-color: #9cf;"|和倉町
|rowspan="3" style="background-color: #9cf;"|[[田鶴浜町]]
|rowspan="3" style="background-color: #9cf;"|田鶴浜町
|rowspan="5" style="background-color: #9cf;"|田鶴浜町
|rowspan="5" colspan="2" style="background-color: #9cf;"|田鶴浜町
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[端村]]
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[赤蔵村]]
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[金ヶ崎村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|金ヶ崎村
|style="background-color: #9cf;"|金ヶ崎村
|-
|style="background-color: #9cf;"|[[相馬村 (石川県)|相馬村]]
|colspan="2" style="background-color: #9cf;"|相馬村
|style="background-color: #9cf;"|相馬村
|}
<gallery>
Susoezoanakofun corner.jpg|須曽蝦夷穴古墳
Nanaojoshi.JPG|七尾城址(城山公園)
Komaruyama castle.JPG|小丸山城址(小丸山公園)
Jinbe Zame a.jpg|ジンベイザメ館([[のとじま臨海公園水族館]])
</gallery>
== 人口 ==
; 人口
* 51,113人([[2021年]](令和3年)[[1月31日]]現在)
* 男 - 24,297人 女 - 26,816人<ref name="七尾市の人口">{{Cite web|和書|title=人口・世帯数のうごき |url=https://www.city.nanao.lg.jp/shimin/aramashi/profile/jinko/index.html |website=七尾市 |access-date=2022-12-19 |language=ja |last=七尾市}}</ref>
; 世帯数
* 21,944世帯(2021年(令和3年)1月31日現在)<ref name="七尾市の人口"/>
{{人口統計|code=17202|name=七尾市|image=Population distribution of Nanao, Ishikawa, Japan.svg}}
== 行政 ==
=== 市長 ===
*市長:[[茶谷義隆]]
{| class="wikitable" style="font-size:95%:"
! colspan="6" | 旧七尾市歴代市長
|-
!代!!人!!氏名!!就任!!退任!!備考
|-
|||||岡軌丸||1939年(昭和14年)7月20日||1939年(昭和14年)9月18日||職務管掌
|-
|1||1||清水豊吉||1939年(昭和14年)9月16日||1943年(昭和18年)9月15日||
|-
|2||2||松川長康||1943年(昭和18年)9月16日||1946年(昭和21年)10月30日||
|-
|3||rowspan="2"|3||rowspan="2"|神野亮二||1947年(昭和22年)4月5日||1951年(昭和26年)4月4日||
|-
|4||1951年(昭和26年)5月8日||1955年(昭和30年)4月9日||
|-
|5||4||上坂鵬太郎||1955年(昭和30年)4月30日||1959年(昭和34年)4月29日||
|-
|6||5||邦友外三||1959年(昭和34年)4月30日||1963年(昭和38年)4月29日||
|-
|7||6||守成一||1963年(昭和38年)4月30日||1967年(昭和42年)4月29日||
|-
|8||rowspan="2"|7||rowspan="2"|青木重治||1967年(昭和42年)4月30日||1971年(昭和46年)4月29日||
|-
|9||1971年(昭和46年)4月30日||1975年(昭和50年)4月29日||
|-
|10||rowspan="3"|8||rowspan="3"|守友友範||1975年(昭和50年)4月30日||1979年(昭和54年)4月29日||
|-
|11||1979年(昭和54年)4月30日||1983年(昭和58年)4月29日||
|-
|12||1983年(昭和58年)4月30日||1985年(昭和60年)10月5日||在職中死去
|-
|13||rowspan="4"|9||rowspan="4"|[[石垣宏]]||1985年(昭和60年)11月23日||1989年(平成元年)11月22日||
|-
|14||1989年(平成元年)11月23日||1993年(平成5年)11月22日||
|-
|15||1993年(平成5年)11月23日||1997年(平成9年)11月22日||
|-
|16||1997年(平成9年)11月23日||2001年(平成13年)11月22日||
|-
|17||10||[[武元文平]]||2001年(平成13年)11月23日||2004年(平成16年)9月30日||
|-
! colspan="6" | 歴代市長
|-
!代!!人!!氏名!!就任!!退任!!備考
|-
|||||辻口昇||2004年(平成16年)10月1日||2004年(平成16年)11月6日||市長職務執行者、旧中島町長
|-
|1||rowspan="2"|1||rowspan="2"|武元文平||2004年(平成16年)11月7日||2008年(平成20年)11月6日||
|-
|2||2008年(平成20年)11月7日||2012年(平成24年)11月6日||
|-
|3||rowspan="2"|2||rowspan="2"|[[不嶋豊和]]||2012年(平成24年)11月7日||2016年(平成28年)11月6日||
|-
|4||2016年(平成28年)11月7日|| 2020年(令和2年)11月6日||
|-
|5||3||[[茶谷義隆]]||2020年(令和2年)11月7日||現職 ||
|}
=== 市役所 ===
{{Main|七尾市役所}}
* [[七尾市役所]]
** 七尾市袖ヶ江町イ部25番地
=== 市長選挙 ===
; 歴代市長選結果
{| class="wikitable"
!回!!選挙執行日!!投票率<br />(%)!!候補者!!得票数
|-
!rowspan="3"|1
|rowspan="3" align="left"|[[1947年]](昭和22年)[[4月5日]]||rowspan="3"| ||align="left"|'''神野亮二'''||align="right"|'''6,848'''
|-
|align="left"|三井耕作||align="right"|4,744
|-
|align="left"|邦友外三||align="right"|3,448
|-
!rowspan="3"|2
|rowspan="3" align="left"|[[1951年]](昭和26年)[[4月23日]]||rowspan="3" align="right"|94.6||align="left"|神野亮二||align="right"|7,129
|-
|align="left"|邦友外三||align="right"|6,596
|-
|align="left"|三井耕作||align="right"|6,315
|-
!rowspan="2"|再選挙<ref>七尾市議会史 160頁</ref>
|rowspan="2" align="left"|[[1951年]](昭和26年)[[5月8日]]||rowspan="2" align="right"| ||align="left"|'''神野亮二'''||align="right"|'''8,841'''
|-
|align="left"|邦友外三||align="right"|8,789
|-
!rowspan="3"|3
|rowspan="3" align="left"|[[1955年]](昭和30年)[[4月30日]]||rowspan="3" align="right"|92.0||align="left"|'''上坂鵬太郎'''||align="right"|'''12,920'''
|-
|align="left"|神野正隣||align="right"|12,228
|-
|align="left"|多村繁雄||align="right"|269
|-
!rowspan="2"|4
|rowspan="2" align="left"|[[1959年]](昭和34年)[[4月30日]]||rowspan="2" align="right"|91.63||align="left"|'''邦友外三'''||align="right"|'''15,224'''
|-
|align="left"|上坂鵬太郎||align="right"|11,080
|-
!rowspan="3"|5
|rowspan="3" align="left"|[[1963年]](昭和38年)[[4月27日]]||rowspan="3" align="right"|86.23||align="left"|'''守成一'''||align="right"|'''13,056'''
|-
|align="left"|春木秀夫||align="right"|12,923
|-
|align="left"|八十島敏雄||align="right"|1,585
|-
!rowspan="2"|6
|rowspan="2" align="left"|[[1967年]](昭和42年)[[4月30日]]||rowspan="2" align="right"|88.37||align="left"|'''青木重治'''||align="right"|'''14,357'''
|-
|align="left"|守成一||align="right"|12,464
|-
!rowspan="2"|7
|rowspan="2" align="left"|[[1971年]](昭和46年)[[4月25日]]||rowspan="2" align="right"|94.64||align="left"|'''青木重治'''||align="right"|'''15,328'''
|-
|align="left"|春木秀夫||align="right"|15,064
|-
!rowspan="2"|8
|rowspan="2" align="left"|[[1975年]](昭和50年)[[4月27日]]||rowspan="2" align="right"|94.10||align="left"|'''守友友範'''||align="right"|'''17,094'''
|-
|align="left"|青木重治||align="right"|14,530
|-
!9
| align="left"|[[1979年]](昭和54年)[[4月13日]]|| align="center"|/||align="left"|'''守友友範'''||align="right"|'''無投票'''
|-
!rowspan="2"|10
|rowspan="2" align="left"|[[1983年]](昭和58年)[[4月24日]]||rowspan="2" align="right"|93.81||align="left"|'''守友友範'''||align="right"|'''19,050'''
|-
|align="left"|上坂英雄||align="right"|13,941
|-
!rowspan="3"|11
|rowspan="3" align="left"|[[1985年]](昭和60年)[[11月23日]]||rowspan="3" align="right"|89.64||align="left"|'''石垣宏'''||align="right"|'''15,579'''
|-
|align="left"|大根音松||align="right"|10,140
|-
|align="left"|笠師昇||align="right"|6,158
|-
!12
| align="left"|[[1989年]](平成元年)[[10月20日]]|| align="center"|/||align="left"|'''石垣宏'''||align="right"|'''無投票'''
|-
!13
| align="left"|[[1993年]](平成5年)[[10月18日]]|| align="center"|/||align="left"|'''石垣宏'''||align="right"|'''無投票'''
|-
!rowspan="3"|14
|rowspan="3" align="left"|[[1997年]](平成9年)[[10月26日]]||rowspan="3" align="right"|63.17||align="left"|'''石垣宏'''||align="right"|'''15,537'''
|-
|align="left"|山崎憲三||align="right"|5,047
|-
|align="left"|黒崎清則||align="right"|2,897
|-
!rowspan="2"|15
|rowspan="2" align="left"|[[2001年]](平成13年)[[10月28日]]||rowspan="2" align="right"|78.92||align="left"|'''武元文平'''||align="right"|'''18,338'''
|-
|align="left"|石垣宏||align="right"|11,285
|-
!rowspan="2"|16(1)
|rowspan="2" align="left"|[[2004年]](平成16年)[[11月7日]]||rowspan="2" align="right"|78.12||align="left"|'''武元文平'''||align="right"|'''24,750'''
|-
|align="left"|中村康夫||align="right"|15,399
|-
!rowspan="2"|17(2)
|rowspan="2" align="left"|[[2008年]](平成20年)[[10月26日]]||rowspan="2" align="right"|71.30||align="left"|'''武元文平'''||align="right"|'''20,667'''
|-
|align="left"|政浦幸太郎||align="right"|14,289
|-
!rowspan="3"|18(3)
|rowspan="3" align="left"|[[2012年]](平成24年)[[10月28日]]||rowspan="3" align="right"|61.63||align="left"|'''不嶋豊和'''||align="right"|'''16,763'''
|-
|align="left"|西川栄紀||align="right"|6,201
|-
|align="left"|坂井助光||align="right"|6,098
|-
!19(4)
|align="left"|[[2016年]](平成28年)[[10月16日]]|| align="center"|/||align="left"|'''不嶋豊和'''||align="right"|'''無投票'''
|-
!rowspan="3"|20(5)
|rowspan="3" align="left"|[[2012年|2020年]]([[令和]]2年)[[10月25日]]||rowspan="3" align="right"|63.44||align="left"|'''茶谷義隆'''||align="right"|'''11,574'''
|-
|align="left"|不嶋豊和||align="right"|10,762
|-
|align="left"|森山外志夫||align="right"|5,301
|}
=== 不祥事 ===
2009年、市発注の土木工事などに絡み、業者から現金100万円を受け取ったとして、副市長が収賄容疑で逮捕された<ref>{{Cite news |title=石川・七尾市の前副市長を収賄容疑で逮捕 土木工事入札で便宜? |url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090529/crm0905290010000-n1.htm |date=2015-03-09 |newspaper=産経ニュース |publisher=産業経済新聞社 |accessdate=2015-08-20}}</ref>。
== 議会 ==
=== 七尾市議会 ===
{{Main|七尾市議会}}
=== 石川県議会 ===
{{Main|2019年石川県議会議員選挙}}
* 選挙区:七尾市選挙区
* 定数:2人
* 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日
* 投票日:2019年4月7日
* 当日有権者数:45,005人
* 投票率:58.80%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 清水真一路 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 41 || [[無所属]] || style="text-align:center" | 新 || 9,704票
|-
| 和田内幸三 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 71 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 9,561票
|-
| 高橋正浩 || style="text-align:center;" | 落 || style="text-align:center" | 44 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 6,953票
|}
===衆議院===
* 選挙区:[[石川県第3区|石川3区]] (七尾市、[[輪島市]]、[[珠洲市]]、[[羽咋市]]、[[かほく市]]、[[津幡町]]、[[内灘町]]、[[志賀町]]、[[宝達志水町]]、[[中能登町]]、[[穴水町]]、[[能登町]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:243,618人
* 投票率:66.09%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[西田昭二]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 52 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 80,692票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○
|-
| style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || style="background-color:#ffdddd;" | [[近藤和也]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 47 || style="background-color:#ffdddd;" | [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffdddd; text-align:right;" | 76,747票 || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | ○
|-
| || 倉知昭一 || style="text-align:center;" | 85 || [[無所属]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 1,588票 ||
|}
== 公共機関 ==
=== 警察 ===
* [[石川県警察]][[七尾警察署]]
; 交番(3)
* 七尾駅前交番
* 三島交番
* 和倉交番
; 駐在所(12)
{{columns-list|colwidth=10em|
* 徳田駐在所
* 三室駐在所
* 庵駐在所
* 花園駐在所
* 石崎駐在所
* 相馬駐在所
* 田鶴浜駐在所
* 西岸駐在所
* 藤瀬駐在所
* 中島駐在所
* 塩津駐在所
* 能登島駐在所
}}
=== 消防 ===
* [[七尾鹿島消防本部]]
; 消防署(2)
* 七尾消防署
* 和倉消防署
; 分署・分遣所(3)
* 中島分遣所
* 能登島分遣所
* 灘浦分遣所
=== 医療 ===
; 独立行政法人
* [[国立病院機構七尾病院]]
; 公立
* [[公立能登総合病院]]
; 医療法人
* [[恵寿総合病院]]
=== 上水道 ===
; 公共上水道
* 七尾市上下水道課
=== 下水道 ===
; 公共下水道(特定環境保全公共下水道)
* 七尾処理区
* 和倉処理区
* 長浦処理区
* 中島処理区
* 田鶴浜処理区
* 能登島処理区
=== 廃棄物処理 ===
* 七尾市環境課
=== 郵便 ===
[[ファイル:Nanao post-office.jpg|250px|thumb|七尾郵便局]]
; 郵便番号
* 926-00・01・02・03・08(旧七尾市・能登島町域)
* 929-21・22(旧田鶴浜町・中島町域)
; 郵便局(35)
{{columns-list|colwidth=13em|
* 石崎郵便局
* 庵簡易郵便局
* 伊久留簡易郵便局
* 後畠簡易郵便局
* えの目郵便局
* 笠師保郵便局
* 金ヶ崎簡易郵便局
* 北大呑簡易郵便局
* 崎山郵便局
* 佐々波郵便局
* 田鶴浜郵便局
* 徳田郵便局
* 徳田駅前簡易郵便局
* 豊川郵便局
* 中島郵便局
* [[七尾郵便局]]
* 七尾大田郵便局
* 七尾津向簡易郵便局
* 七尾藤橋町郵便局
* 七尾府中郵便局
* 七尾松本郵便局
* 七尾満仁郵便局
* 七尾矢田郵便局
* 七尾矢田新郵便局
* 西岸郵便局
* 西島郵便局
* 釶打郵便局
* 能登島郵便局
* 東島簡易郵便局
* 万行簡易郵便局
* 南大呑郵便局
* 南ヶ丘簡易郵便局
* 三室簡易郵便局
* 八幡簡易郵便局
* 和倉温泉郵便局
}}
; 出張所
* 金沢支店[[パトリア (七尾市)|パトリア]]内出張所
=== 国の行政機関 ===
* '''[[法務省]]'''
** [[名古屋矯正管区]]
*** [[金沢刑務所]]
**** 七尾拘置支所(馬出町)
** 金沢[[地方法務局]]
*** 七尾支局(七尾西湊合同庁舎)
** 金沢[[保護観察所]]
*** 七尾駐在官事務所(七尾法務総合庁舎)
** [[金沢地方検察庁]]
*** 七尾支部(七尾法務総合庁舎)
** 七尾[[区検察庁]](七尾法務総合庁舎)
* '''[[財務省]]'''
** [[大阪税関]]
*** 金沢税関支署
**** 七尾出張所(七尾港湾合同庁舎)
* '''[[国税庁]]'''
** [[金沢国税局]]
*** 七尾[[税務署]](七尾西湊合同庁舎)
* '''[[厚生労働省]]'''
** [[石川労働局]]
*** 七尾[[労働基準監督署]](七尾地方合同庁舎)
*** 七尾[[公共職業安定所]](七尾地方合同庁舎)
* '''[[国土交通省]]'''
** [[北陸地方整備局]]
*** 金沢河川国道事務所
**** 能登国道維持出張所(千野町)
*** 金沢港湾・空港整備事務所
**** 七尾港出張所(七尾港湾合同庁舎)
** [[北陸信越運輸局]]
*** [[石川運輸支局]]
**** 七尾庁舎(七尾港湾合同庁舎)
* '''[[海上保安庁]]'''
** [[第九管区海上保安本部]]
*** 七尾海上保安部(七尾港湾合同庁舎)
* '''[[防衛省]]'''
** [[自衛隊石川地方協力本部]]
*** 七尾出張所(七尾地方合同庁舎)
=== 司法機関 ===
* '''[[日本の裁判所|裁判所]]'''
** [[金沢地方裁判所]]
*** 七尾支部(馬出町)
** [[金沢家庭裁判所]]
*** 七尾支部(馬出町)
** 七尾[[簡易裁判所]](馬出町)
* '''[[検察審査会]]'''
** 七尾検察審査会(馬出町)
== 教育 ==
=== 高等学校 ===
[[ファイル:Nanaoshinonome highschool.jpg|250px|thumb|七尾東雲高等学校]]
; 石川県立(5)
* [[石川県立田鶴浜高等学校|田鶴浜高等学校]]
* [[石川県立七尾高等学校|七尾高等学校]]
* [[石川県立七尾城北高等学校|七尾城北高等学校]]
* [[石川県立七尾東雲高等学校|七尾東雲高等学校]](旧・[[石川県立七尾工業高等学校|七尾工業高等学校]]、[[石川県立七尾商業高等学校|七尾商業高等学校]]、[[石川県立七尾農業高等学校|七尾農業高等学校]]、[[石川県立中島高等学校|中島高等学校]])
; 私立(1)
* [[鵬学園高等学校]]
=== 中学校 ===
; 七尾市立(4)
{{注|※ 括弧内は学区内の小学校。}}
* [[七尾市立七尾中学校|七尾中学校]]
*: (小丸山、朝日、田鶴浜)
* [[七尾市立七尾東部中学校|七尾東部中学校]]
*: (山王、天神山、東湊)
* [[七尾市立能登香島中学校|能登香島中学校]]
*: (石崎、和倉、能登島)
* [[七尾市立中島中学校|中島中学校]]
*: (中島)
=== 小学校 ===
; 七尾市立(10)
{{注|※ 括弧内は学区内の行政区。}}
{{Col|
* 小丸山小学校
*: (御祓、西湊)
* [[七尾市立山王小学校|山王小学校]]
*: (袖ヶ江、矢田郷の一部)
* 天神山小学校
*: (矢田郷)
* 東湊小学校
*: (東湊、北大呑、崎山、南大呑)
|
* 石崎小学校
*: (石崎)
* 和倉小学校
*: (和倉)
* 朝日小学校
*: (徳田、高階)
|
* 田鶴浜小学校
*: (端、田鶴浜、赤蔵、相馬、金ヶ崎)
* 中島小学校
*: (西岸、釶打、熊木、中島、豊川、笠師保)
* 能登島小学校
*: (野崎、鰀目、向田、西部)
}}{{clear|left}}
=== 特別支援学校 ===
; 石川県立(1)
* 七尾特別支援学校
=== 専修学校 ===
; 私立(3)
* [[国際医療福祉専門学校]]七尾校
* [[七尾看護専門学校]]
* [[七尾服飾専門学校]]
=== 短期大学 ===
* [[七尾短期大学]]([[2004年]](平成16年)[[3月]]廃止)
=== 学校教育以外の施設 ===
==== スポーツ施設 ====
{{columns-list|colwidth=25em|
* NGFオクイゴルフスクール
* スポーツ・ギャザー770
* [[七尾コロサスキー場]]
* [[恵寿総合病院|七尾市健康増進センターアスロン]]
* 七尾市城山陸上競技場
* 七尾市城山水泳プール
* 七尾市城山体育館
* 七尾市小丸山テニスコート
* 七尾市小丸山ゲートボール場
* 七尾市愛宕山相撲場
* 七尾市二枚田運動場
* 七尾市武道館
* 七尾市みなとふれあいスポーツセンター
* 七尾市田鶴浜体育館
* 七尾市田鶴浜テニスコート
* 七尾市田鶴浜室内ゲートボール場
* 七尾市田鶴浜多目的グラウンド
* 七尾市田鶴浜武道館
* 七尾市中島体育館
* 七尾市中島武道場
* 七尾市中島野球場
* 七尾市中島相撲場
* 七尾市中島集いの広場
* 七尾市能登島武道館立野
* 七尾市B&G海洋センター
* [[七尾城山運動公園]]
* [[七尾城山野球場]]
* 七尾総合市民体育館
* [[能登島ゴルフアンドカントリークラブ]]
* BIG-Sななお
* [[ミナ.クル|ミナクル70]]
* [[和倉ゴルフ倶楽部]]
}}
==== 生涯学習施設 ====
* [[サンビーム日和ヶ丘]]
* [[七尾サンライフプラザ]]
* 七尾市[[能登島生涯学習総合センター]]
* [[パトリア (七尾市)#フォーラム七尾|フォーラム七尾]]
* [[能登演劇堂|七尾市中島文化センター]]
==== 職業訓練 ====
; 石川県立(1)
* [[石川県立七尾産業技術専門校]]([[職業能力開発促進法]]に基づく[[職業能力開発校]])
==== 自動車教習所 ====
; 指定自動車教習所(2)
* [[七尾自動車学校]]
* [[能登中央自動車学校]]
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
* [[西日本旅客鉄道]] (JR西日本)[[七尾線]]
*: [[徳田駅 (石川県)|徳田駅]] - [[七尾駅]] - [[和倉温泉駅]]
* [[のと鉄道]][[のと鉄道七尾線|七尾線]]
*: 七尾駅 - 和倉温泉駅 - [[田鶴浜駅]] - [[笠師保駅]] - [[能登中島駅]] - [[西岸駅]]
*中心となる駅:七尾駅
<gallery>
Tokuda, nanao.JPG|徳田駅
Nanao_Station_2.jpg|七尾駅
Wakuraonsen-eki.JPG|和倉温泉駅
Taturuhamaeki.jpg|田鶴浜駅
Kasashihoeki.jpg|笠師保駅
Noto-Nakajima.jpg|能登中島駅
Nisigisi4.jpg|西岸駅
</gallery>
=== 道路 ===
[[ファイル:R160 ishikawa.JPG|300px|thumb|国道160号線(富山県境)]]
==== 自動車専用道路 ====
* [[能越自動車道]]
** [[田鶴浜インターチェンジ|田鶴浜IC]] - [[徳田大津ジャンクション|徳田大津JCT]]
** [[七尾インターチェンジ|七尾IC]] - [[七尾城山インターチェンジ|七尾城山IC]] - [[七尾大泊インターチェンジ|七尾大泊IC]]
* [[のと里山海道]]
** 徳田大津JCT - [[徳田大津インターチェンジ|徳田大津IC]] - [[横田インターチェンジ|横田IC]]
==== 一般国道 ====
市内の川原町交差点は、国道159号( - 終点・[[金沢市]])、国道160号( - 終点・[[高岡市]])、国道249号( - [[輪島市]] - 終点・金沢市)が集まる3国道の起点となっている<ref>{{Cite book|和書|author=佐藤健太郎|authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター)|year=2014|title=ふしぎな国道|publisher=[[講談社]]|series=講談社現代新書|page=43|chapter=国道の名所を行く/国道の始まる場所|isbn=978-4-06-288282-8}}</ref>。
* [[国道159号]]
* [[国道160号]]
* [[国道249号]]
** [[藤橋バイパス]]、[[七尾田鶴浜バイパス]]
==== 主要地方道 ====
* [[石川県道1号七尾輪島線]]
* [[石川県道2号七尾羽咋線]]
* [[石川県道3号田鶴浜堀松線]]
* [[富山県道・石川県道18号氷見田鶴浜線]]
* [[石川県道23号富来中島線]]
* [[石川県道46号志賀田鶴浜線]]
* [[石川県道47号七尾能登島公園線]]
* [[石川県道48号福浦港中島線]]
* [[石川県道60号金沢田鶴浜線]]
==== 一般県道 ====
{{Col|
* [[石川県道116号末吉七尾線]]
* [[石川県道131号徳田停車場線]]
* [[石川県道132号七尾港線]]
* [[石川県道133号石崎港線]]
* [[石川県道177号城山線]]
* [[石川県道192号河内藤瀬線]]
* [[石川県道244号七尾鹿島羽咋線]]
* [[石川県道245号花園藤野線]]
* [[石川県道246号庵鵜浦大田新線]]
* [[石川県道248号和倉和倉停車場線]]
|
* [[石川県道249号池崎徳田線]]
* [[石川県道253号豊田笠師保停車場線]]
* [[石川県道254号土川浜田線]]
* [[石川県道255号長浦中島線]]
* [[石川県道256号長浦小牧線]]
* [[石川県道257号田尻祖母浦半浦線]]
* [[石川県道258号野崎向田線]]
* [[石川県道289号百海七尾線]]
* [[石川県道298号七尾鳥屋線]]
}}{{clear|left}}
==== 道の駅 ====
* [[道の駅いおり|いおり]]
* [[道の駅なかじまロマン峠|なかじまロマン峠]]
* [[道の駅のとじま|のとじま]]
* [[道の駅能登食祭市場|能登食祭市場]]
==== バス ====
[[ファイル:HokutetsuNotoBus 10-565 Maringo.JPG|250px|thumb|コミュニティバス(まりん号)]]
; バス会社
* [[田鶴浜交通]]
* [[能登島交通]]
* [[北鉄能登バス]]
* [[丸一観光]]
; コミュニティバス
{{see|七尾市コミュニティバス}}
* まりん号
* やまびこ号
* ぐるっと7
* 中島げんきバス
* 田鶴浜コミュニティバス
* 能登島コミュニティバス
; バスターミナル
* [[七尾駅#バス路線|七尾駅前バスターミナル]]
* [[和倉温泉バスターミナル]]
==== タクシー ====
* [[石川交通]]
* [[石和タクシー]]
* [[田鶴浜交通]]
* [[中島タクシー]]
* [[マリン交通]]([[丸一タクシー]])
* [[港観光タクシー]]
=== 港湾 ===
[[ファイル:Nanao port.JPG|thumb|250px|七尾港]]
==== 重要港湾 ====
* [[七尾港]]
==== 地方港湾 ====
* 和倉港
* 半ノ浦港
==== 漁港 ====
* 庵漁港(いおり、1種)
* 石崎漁港(いしざき、2種)
* 鵜浦漁港(うのうら、1種)
* 江泊漁港(えのとまり、1種)
* 黒崎漁港(くろさき、1種)
* 佐々波漁港(さざなみ)
** 上佐々波漁港(かみさざなみ、1種)
** 下佐々波漁港(しもさざなみ、2種)
* 東浜漁港(とうのはま、1種)
* 百海漁港(どうみ、1種)
* 三室漁港(みむろ、1種)
== 産業 ==
* 産業人口
** 一次産業 6.0%
** 二次産業 25.3%
** 三次産業 68.7%
(平成27年国勢調査)
[[ファイル:Nanao patria.JPG|thumb|200px|パトリア]]
[[ファイル:Image-Minacle.jpg|thumb|200px|ミナ.クル]]
[[ファイル:Nanao fisher mans worf.JPG|thumb|200px|能登食祭市場]]
=== 農林水産業 ===
;[[水産加工業]]
* [[スギヨ]]
;[[農業]]
*株式会社バイテックファーム七尾
=== 工業 ===
; [[製造業]]
* [[村田製作所|ワクラ村田製作所]]
* [[イソライト工業]]七尾工場
* [[ピーエス三菱]]七尾工場
* [[ダンボールワン]]
; エネルギー
* [[液化石油ガス|LPG]]: 国家備蓄七尾基地
* [[火力発電所]]: [[七尾大田火力発電所]]
** 明治・大正時代には町内に電力会社があった(七尾電気、後の[[能登電気]])
=== 商業・その他 ===
* [[加賀屋]](旅館業)
* [[のと楽]](旅館業)
* [[多田屋_(旅館)]](旅館業)
* [[みそまんじゅう本舗・竹内]](食品業)※味噌饅頭
* [[どんたく (スーパーマーケット)|どんたく]](小売業)※[[スーパーマーケット]]チェーン
; 商業施設
* [[アスティ (七尾市)|アスティ]]
* [[ナッピィモール]]
* [[七尾市公設地方卸売市場]]
* [[能登食祭市場]]
* [[パトリア (七尾市)|パトリア]]
* [[ベイモール]]
* [[ミナ.クル]]
=== 金融 ===
* [[のと共栄信用金庫]]
== マスコミ ==
; 新聞
* [[北國新聞]]七尾支社
* [[北陸中日新聞]]七尾支局
; テレビ
* [[ケーブルテレビななお]]
; ラジオ
* [[ラジオななお]](コミュニティーFM)
== 観光 ==
[[ファイル:Seihakusai Matsuri Dekayama from Nanao City.jpg|250px|thumb|right|青柏祭のでか山(2006年5月5日撮影)]]
[[ファイル:Noto Yosakoi Wakura 01.jpg|200px|thumb|right|石崎奉燈祭]]
=== 祭り・イベント ===
* 1月中旬 - 和倉温泉冬花火
* 3月下旬 - 平国祭(おいで祭り)
* 4月10日に近い日曜日 - 三引獅子舞(みびきししまい)
* 4月第2土日ー[[ちょんこ山祭り]]
* 4月第4土曜日 - 住吉大祭(すみよしたいさい)
* 5月3日~5日 - [[青柏祭]](せいはくさい)
* 7月下旬 - [[モントレー・ジャズフェスティバル・イン・能登]]
* 7月下旬 - なごしの祭り
* 7月第1土曜日 - 互市祭
* 7月第2土曜日 - [[七尾祇園祭]](ななおぎおんまつり)
* 7月第4土曜日 - 塩津かがり火恋祭(塩津納涼祭)(しおつかがりびこいまつり)
* 7月19日・20日 - [[七尾港まつり]]([http://www.wakura.jp/yosakoi/ 能登よさこい祭り] が開催される)
* 7月30日 - 向田の火祭(こうだのひまつり)
* 8月初旬 - 和倉温泉夏花火
* 8月第1土曜日 - [[石崎奉燈祭]](いっさきほうとうさい)
* 8月14日 - 新宮納涼祭(しんぐうのうりょうさい)
* 8月27日 - 日室の鎌祭り(ひむろのかままつり)
* 9月初旬 - [[YOSAKOIソーラン祭り|YOSAKOIソーラン]]日本海のと会場
* 9月第3日曜日 - 七尾城まつり
* 9月20日 - [[お熊甲祭]](おくまかぶとまつり)
* 11月初旬 - 七尾秋の大市(おとき市)
* 12月中旬 - 鵜祭り(うまつり)
=== 温泉 ===
[[ファイル:Kagaya 200410.jpg|300px|thumb|加賀屋(和倉温泉)]]
* 赤浦温泉
* [[赤崎温泉]]
* [[湯川温泉 (石川県)|湯川温泉]]
* [[和倉温泉]]
=== 文化 ===
* [[石川県能登島ガラス美術館]]
* [[石川県七尾美術館]]
* [[須曽蝦夷穴古墳]](七尾市蝦夷穴歴史センター)
* [[上町マンダラ古墳群]]
* [[矢田古墳群]]
* 懐古館
* [[小丸山城|小丸山城址]]
* [[中島お祭り資料館・お祭り伝承館]]
* 七尾市文化財資料展示館
* [[七尾市立図書館]](中央、本府中、田鶴浜、中島)
* [[七尾城|七尾城址]](国[[史跡]]、七尾城史資料館)
* [[能登演劇堂]]
* [[能登国分寺|能登国分寺公園]](能登国分寺展示館)
* 能登島伝承の館
* [[三室まどがけ古墳群]]
* 明治の館(室木家住宅)
* [[山の寺寺院群]]
* 七尾軍艦所跡
=== 娯楽 ===
[[ファイル:Bottlenose Dolphin -Notojima Aquarium -Ishikawa -Japan-8a.jpg|thumb|250px|のとじま臨海公園水族館]]
* [[道の駅いおり|いいPARK七尾多目的広場]]
* 庵海水浴場
* 鵜浦海水浴場
* 家族旅行村Weランド
* 勝尾崎野営キャンプ場
* 塩津海水浴場
* そわじ浦海水浴場
* [[七尾コロサスキー場]]
* [[七尾マリンパーク]]
* [[のとじま臨海公園水族館]]
* [[のと蘭ノ国]]
* 八ヶ崎海水浴場
* 松島オートキャンプ場
* マリンパーク海族公園
* [[和倉温泉シーサイドパーク]]
* 和倉温泉多目的グラウンド
* [[和倉昭和博物館とおもちゃ館]]
=== 名産品 ===
* 大豆飴([[前田利常]]に献上したと伝えられる。[[水飴]]と大豆の粉を練り合わせ、焼きくるみを加えたもの)
* 七尾[[和蝋燭|和ろうそく]](かつては[[北前船]]に乗って[[九州]]や[[東北地方|東北]]の各地にまで販売されていた)
* [[七尾仏壇]]
* 海産物([[このわた]]、[[コンブ|昆布]]、[[モズク|もずく]]等)
* 中島菜
* [[みそまんじゅう本舗・竹内|竹内]]の[[味噌まんじゅう]]
* 田鶴浜建具
== 七尾市を舞台とした作品 ==
=== 文学 ===
* 山海評判記([[泉鏡花]])
* 流雲の賦([[村上元三]])
* [[恋文の技術]]([[森見登美彦]])
===漫画===
* [[君は放課後インソムニア]]([[オジロマコト]])
=== アニメ・ライトノベル ===
* [[花咲くいろは]]([[のと鉄道]][[西岸駅]]が「湯乃鷺駅」として登場)
* [[りゅうおうのおしごと!]]([[加賀屋]]がヒロイン・雛鶴あいの実家「ひな鶴」として登場)
* [[君は放課後インソムニア#テレビアニメ|君は放課後インソムニア]] - 上記漫画作品のアニメ化作品。2023年、[[池田ユウキ]]監督、[[ライデンフィルム]]制作、[[テレビ東京系列]]放送。
=== 実写映画 ===
* [[君は放課後インソムニア#実写映画|君は放課後インソムニア]] - 上記漫画作品の実写映画化作品。2023年、[[池田千尋]]監督、[[UNITED PRODUCTIONS]]企画、[[ポニーキャニオン]]配給。
== 文献 ==
* 『七尾市勢と商工案内』(七尾市、1952年3月)
* 『七尾市史』(七尾市史編纂専門委員会編、1968年 - 1974年)
* 『七尾市・鹿島郡明細区分図』(日本地政協会、1981年5月)
* 『国宝・松林図屏風 : 開館10周年・新七尾市誕生記念』(七尾美術館、2005年)
* 『能登七尾城・加賀金沢城 : 中世の城・まち・むら』(千田嘉博、矢田俊文編、新人物往来社、2006年3月、ISBN 4404032803)
== 著名な出身者 ==
;明治以前
* [[畠山義総]](能登国主)
* [[長連龍]](武将)
* [[長谷川等伯]](水墨絵師)
* [[岩城清五郎]]([[商人]])
;政治・官僚・軍人
* [[大森玉木]]([[衆議院議員]])
* [[瓦力]](衆議院議員)
* [[神野良]](衆議院議員)
* [[桑原豊]](衆議院議員)
* [[津田嘉一郎]](衆議院議員)
* [[戸部良祐]](衆議院議員)
* [[清水良策]](官僚・実業家)
* [[西田昭二]](衆議院議員)
* [[三井清一郎]](陸軍軍人)
* [[竹中博康]](石川県[[副知事 (日本)|副知事]])
;実業家
* [[天井次夫]]([[実業家]])
* [[小西史彦]](実業家)
* [[杉森務]](実業家、[[ENEOSホールディングス]]会長、[[日本経団連]]副会長)
;文化
* [[彩花みん]]([[漫画家]])
* [[宮下英樹]](漫画家)
* [[乃木坂太郎]](漫画家)
* [[近藤由紀子]](芸術プロデューサー)
* [[杉森久英]]([[小説家]]・[[評論家]])
* [[藤澤清造]](小説家・評論家)
* [[平木国夫]](小説家・評論家)
* [[戸部新十郎]](小説家)
* [[髙橋龍也]](シナリオライター)
* [[横川巴人]](作家)
* 茶谷霞畝(歌人)
* [[高田博厚]]([[彫刻家]])
* [[田治六郎]](造園家)
* [[金森俊朗]](教育者)
* [[北村義男]](医学者)
* [[湯元求真]](漢方医学者)
* [[坂本与市]](昆虫学者)
* [[深井人詩]]([[書詩学者]])
* [[甲斐智美]]([[女流棋士 (将棋)|女流棋士]])
;芸能
* [[鳥木千鶴]]([[朝日放送テレビ]]元アナウンサー)
* [[久保亜希子]]([[北陸朝日放送]]アナウンサー、元[[金沢ケーブル|金沢ケーブルテレビネット]]アナウンサー)
* [[平見夕紀]](フリーアナウンサー)
* [[平山貴人]](フリーアナウンサー)
* [[大河睦]](宝塚女優)
* [[五辻真吾]](俳優)
* [[藤敏也]](俳優)
* [[金沢景子]](演歌歌手)
* [[大根夕佳]](歌手)
* [[原田徳子]](タレント)
* [[らぶ平|落語家らぶ平]]([[落語家]])
* [[せとたけお|勢登健雄]]([[お笑いタレント|お笑い芸人]]、元[[ツィンテル]])
* [[ヒューマン中村]](お笑い芸人)
;スポーツ
* [[輪島大士]](横綱・タレント)
* 常盤山靖仁([[大相撲]][[力士]]・[[舛田山靖仁]])
* [[時葉山敏夫]](大相撲力士)
* [[栃乃洋泰一]](大相撲力士)
* [[七尾潟直右エ門]](大相撲力士)
* [[鰤の里強志]](大相撲力士)
* [[輝大士]](大相撲力士)
* [[角中勝也]]([[プロ野球選手]]・[[千葉ロッテマリーンズ]])
* [[藤井優志]](プロ野球選手)
* [[森大輔 (野球)|森大輔]](プロ野球選手)
* [[山下英]](プロ野球選手・[[石川ミリオンスターズ]])
* [[山本省吾]](プロ野球選手・[[横浜DeNAベイスターズ]])
* [[浜井識安]]([[空手道|空手家]]・[[経営コンサルタント]])
* [[森善十朗]](元空手道選手・[[極真会館松井派|極真会館]])
* [[松平健太]](卓球選手)
* [[松平賢二]](卓球選手)
* [[前田和樹]](バレーボール選手)
* [[大森結城]](バレリーナ)
* [[大森重宜]]([[宮司]]・[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロス五輪]]日本代表)
*[[赤穂さくら]](バスケットボール選手)
*[[赤穂ひまわり]](バスケットボール選手)
*[[赤穂雷太]](バスケットボール選手)
*[[坂本美樹]](バスケットボール選手)
;その他
* [[辻口博啓]]([[パティシエ]])
*北陸ロッキーズ(6人組 YouTuber)
== 都市交流 ==
=== 姉妹都市 ===
* {{Flag|KOR}} [[金泉市]]([[慶尚北道]])
* {{Flag|CHN}} [[大連市]][[金州区]]([[遼寧省]])
* {{Flag|RUS}} [[ブラーツク]]市([[イルクーツク州]])
* {{Flag|USA}} [[モントレー]]市([[カリフォルニア州]])
* {{Flag|USA}} {{仮リンク|モーガンタウン (ケンタッキー州)|label=モーガンタウン|en|Morgantown, Kentucky}}市([[ケンタッキー州]])
=== 親善都市 ===
* [[ファイル:Flag of Marugame, Kagawa.svg|25px|丸亀市旗]] [[丸亀市]]([[香川県]])
=== 観光交流都市 ===
* [[ファイル:Flag of Iiyama, Nagano.svg|25px|飯山市旗]] [[飯山市]] ([[長野県]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<!-- 文献、参照ページ -->
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== 参考文献 == -->
<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
== 関連項目 ==
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* {{prefixindex}}
* [[日本の地方公共団体一覧]]
* [[田鶴浜町]]
* [[中島町 (石川県)|中島町]]
* [[能登島町]]
* [[菜々緒]](モデル)七尾市観光大使。生まれは[[埼玉県]][[大宮市]](現[[さいたま市]][[大宮区]])だが、名前の読みが同じなのが主な理由で任命された。
== 外部リンク ==
* {{Official website}}
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[[Category:七尾市|*]]
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[[Category:1939年設置の日本の市町村]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%BE%E5%B8%82
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12,228 |
シャカタク
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シャカタク (Shakatak) は、イギリス出身のフュージョンバンドである。
アメリカのジャズを起源とするフュージョンとは異なり、アドリブ偏重ではなくメロディと編曲を重視した親しみやすいサウンドが特徴で、1980年代においてレベル42と人気を分かち合い、ブリティッシュ・ジャズ・ファンク(英語版)・シーンを盛り上げた。
グループ名のShakatakとは、デビュー前の彼らのレコードを通信販売で売ってくれたレコード店「RECORD SHACK」に対する感謝の気持ちを込めて、「SHACK」+「ATTACK」から名づけられたものである。
※ キース・ウィンター脱退直後はメゾフォルテのギタリストであるフレドリック・カールソン(Fridrik Karlsson) が、現在はアラン・ウォーマルド(Alan Wormald)がギターを担当している。いずれも準メンバー格だが、クレジット上はゲストミュージシャン扱いである。
※ ジル・セイワードとジャッキー・ロウ(Jackie Rawe)の2人は、グループ結成直後からコーラス担当としてグループに関わっており、1stアルバム『Drivin' Hard』にも参加している(「Toot The Shoot」)。両名によるコーラスは2ndアルバム『Night Birds』で大きくフィーチャーされたが、同アルバムのクレジット上は、ヴォーカル曲「Light On My Life」を歌ったローナ・バノン(Lorna Bannon)共々ゲスト扱いであり、裏ジャケットのメンバー紹介画像にも載っていない。逆に、同じく両名のコーラスが大きくフィーチャーされた3rdアルバム『Invitations』では、ヴォーカル曲「Lonely Afternoon」を歌ったトレイシー・アッカーマン(英語版)(Tracie Ackerman)を加えた3人が、メンバーとしてクレジットされている。
※ 4thアルバム『Out Of This World』の発表前後にジャッキー・ロウがグループから脱退、同アルバムではジル・セイワードとノーマ・ルイス(Norma Lewis)がメンバーとしてクレジットされている(「Nights Like Tonight」でリードヴォーカルを務めたトレイシー・アッカーマンはゲスト扱いである)。その後、ノーマ・ルイスも脱退。以降、ジル・セイワード以外のヴォーカル/コーラスは、全てゲスト扱いである。
※ 近年のライブやレコーディングでは、コーラス兼サックス・フルート担当としてジャッキー・ヒックス(Jacqui Hicks)が参加することが多く、ギターのアラン・ウォーマルドと共に、(準)レギュラーメンバーとして扱われている場合もある。
1980年に結成。同年、ポリドールよりシングル「Steppin'」でデビュー。翌1981年に1stアルバム『Drivin' Hard』をリリース。なお、同年、ベガーズ・バンケット・レコードからリリースされ、日本でも輸入盤として一部で注目されたコンピレーションアルバム『Slipstream - The Best of British Jazz Funk』(LP2枚組)に「Feels Like The Right Time」が収録されており、これが日本でシャカタクが一般に認知される最初の機会となった模様である。
1982年、ビル・シャープのピアノと女性コーラス(ジル・セイワードとジャッキー・ロウ)と キース・ウィンターのジャージーで洗練されたカッティング奏法を前面にフィーチャーしたシングル「Night Birds」で世界的にブレイク、2ndアルバム『Night Birds』、3rdアルバム『Invitations』が大ヒット作となる。
1984年頃よりジル・セイワードのヴォーカルを前面に出したダンスポップ路線へと移行していったが、特に日本のファンが初期の女性コーラスをフィーチャーしたインストゥルメンタル路線を圧倒的に支持していたため、一時期、日本のファンの嗜好に合わせた日本国内限定発売盤のリリース(ナイツオーヴァートキオ)などで応えていた。近年では比較的ポップ色の強いスムーズジャズ路線が定着、安定した活動を継続している。
アジアでも強い人気を誇り、特に日本には現在でも根強いファンが多い。その楽曲はテレビドラマ『男女7人夏物語』『男女7人秋物語』のBGMにも使用され、1987年度・1988年度・1989年度と3年連続で、日本ゴールドディスク大賞のインストゥルメンタル部門アルバム賞にも輝いた(受賞はそれぞれ翌年)。来日機会も多い。
1997年にビクターエンタテインメント(JVC)にレーベルを移籍。
2008年6月、移籍前の旧作(海外仕様)のリイシュー盤を日本でリリース(K2HDマスタリング/紙ジャケット仕様)。これらには、「Invitations」を除き、レアトラック、リミックスなどがボーナス曲として追加されている。
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シャカタク (Shakatak) は、イギリス出身のフュージョンバンドである。 アメリカのジャズを起源とするフュージョンとは異なり、アドリブ偏重ではなくメロディと編曲を重視した親しみやすいサウンドが特徴で、1980年代においてレベル42と人気を分かち合い、ブリティッシュ・ジャズ・ファンク・シーンを盛り上げた。 グループ名のShakatakとは、デビュー前の彼らのレコードを通信販売で売ってくれたレコード店「RECORD SHACK」に対する感謝の気持ちを込めて、「SHACK」+「ATTACK」から名づけられたものである。
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{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = シャカタク<br />SHAKATAK
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[[File:2014-09-19 Shakatak 042.jpg|thumb|Shakatak performing at Wuppertal, Germany, 2014]]
'''シャカタク''' (''Shakatak'') は、[[イギリス]]出身の[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]バンドである。
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジャズ]]を起源とするフュージョンとは異なり、アドリブ偏重ではなくメロディと編曲を重視した親しみやすいサウンドが特徴で、[[1980年代]]において[[レベル42]]と人気を分かち合い、{{仮リンク|ブリティッシュ・ジャズ・ファンク|en|Jazz-funk#Focus_on_the_UK}}・シーンを盛り上げた。
グループ名の'''Shakatak'''とは、デビュー前の彼らのレコードを通信販売で売ってくれたレコード店「RECORD SHACK」に対する感謝の気持ちを込めて、「SHACK」+「ATTACK」から名づけられたものである。
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2014-09-19 Shakatak 013.jpg|Bill Sharpe
2014-09-19 Shakatak 040.jpg|Jill Saward
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2014-09-19 Shakatak 009.jpg|Alan Wormald (Tour)
2014-09-19 Shakatak 060.jpg|Debby Bracknell (Tour)
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== メンバー ==
===主要メンバー===
* ''' ビル・シャープ'''(Bill Sharpe) - [[ピアノ]]・[[キーボード (楽器)|キーボード]]。[[バーミンガム大学]]卒。結成時からのメンバーであり、事実上のリーダーとして扱われることもある。ソロアルバムや共作アルバムを数枚リリースしており、[[1984年]]発表の『Famous People』(邦題『ブルーシャープ』)からのシングルカット「Change Your Mind」(ヴォーカルに[[ゲイリー・ニューマン]]をフィーチャー)は全英TOP20ヒットとなった。
* '''ジル・セイワード'''(Jill Saward) - [[ヴォーカル]]。ライブでは[[パーカッション]]も担当。[[フルート]]も多少演奏する。女性[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]の一員としてグループの最初期より参加。後にグループは彼女のヴォーカルをメイン・フィーチャーする方向へと変化した。[[1999年]]にソロアルバム『Just For You』をリリース。
* '''ロジャー・オデル'''(Roger Odell) - [[ドラムス]]。結成時からのメンバー。初期のヒット曲の多くが彼とビル・シャープの共作であり、そのセンスで「シャカタク・サウンド」を支え続けるキーパーソン。[[2000年]]に「BEATIFIK」名義でソロアルバム『The Blue Window』をリリース。
* '''ジョージ・アンダーソン'''(George Anderson Jr.) - [[ベースギター|ベース]]。グループの2代目ベーシストとして『Night Birds』より参加。トロンボーン奏者を目指していたが独学でベースギターを習得しプロ入りしたという経歴を持つ。[[2009年]]にソロアルバム『Positivity』をリリース。
===元メンバー===
*'''スティーヴ・アンダーウッド'''(Steve Underwood) - 初代ベーシスト。1stアルバム『Drivin' Hard』レコーディング後に、音楽性の違いを理由にグループを脱退した。
*'''{{仮リンク|ナイジェル・ライト|en|Nigel_Wright_(record_producer)}}'''(Nigel Wright) - 結成時から、キーボード奏者兼プロデューサーとして参加していたが、プロデューサー業に専念するため、3rdアルバム『Invitations』を最後に脱退。以降、シャカタクは勿論、[[ユーロビート]]系ダンスミュージックのプロデュース、リミックスを数多く手掛けている。(なお、近時のシャカタクのアルバムはグループのセルフ・プロデュース作である。)
*'''キース・ウィンター'''(Keith Winter) - 結成時から[[ギター]]奏者として参加していた。長年にわたりグループを支えたが、1980年代末に[[神経]]を痛めてギターが弾けなくなってしまい、脱退した。その後、回復し、ギタリストとしての活動を再開している<ref>http://www.martynboothguitars.co.uk/endorsees/keith_Winter.asp 「Martyn Booth Guitars - Friends - Keith Winter」 2011年5月19日閲覧</ref>。
===その他===
※ キース・ウィンター脱退直後は[[メゾフォルテ (バンド)|メゾフォルテ]]のギタリストである'''フレドリック・カールソン'''(Fridrik Karlsson) が、現在は'''アラン・ウォーマルド'''(Alan Wormald)がギターを担当している。いずれも準メンバー格だが、クレジット上はゲストミュージシャン扱いである。
※ ジル・セイワードと'''ジャッキー・ロウ'''(Jackie Rawe)の2人は、グループ結成直後からコーラス担当としてグループに関わっており、1stアルバム『Drivin' Hard』にも参加している(「Toot The Shoot」)<ref>「The UK Sluts」とクレジットされている。</ref>。両名によるコーラスは2ndアルバム『Night Birds』で大きくフィーチャーされたが、同アルバムのクレジット上は、ヴォーカル曲「Light On My Life」を歌った'''ローナ・バノン'''(Lorna Bannon)共々ゲスト扱いであり、裏ジャケットのメンバー紹介画像にも載っていない。逆に、同じく両名のコーラスが大きくフィーチャーされた3rdアルバム『Invitations』では、ヴォーカル曲「Lonely Afternoon」を歌った'''{{仮リンク|トレイシー・アッカーマン|en|Tracey_Ackerman}}'''(Tracie Ackerman)を加えた3人が、メンバーとしてクレジットされている。
※ 4thアルバム『Out Of This World』の発表前後にジャッキー・ロウがグループから脱退、同アルバムではジル・セイワードと'''ノーマ・ルイス'''(Norma Lewis)がメンバーとしてクレジットされている(「Nights Like Tonight」でリードヴォーカルを務めたトレイシー・アッカーマンはゲスト扱いである)。その後、ノーマ・ルイスも脱退。以降、ジル・セイワード以外のヴォーカル/コーラスは、全てゲスト扱いである。
※ 近年のライブやレコーディングでは、コーラス兼[[サクソフォーン|サックス]]・フルート担当として'''ジャッキー・ヒックス'''(Jacqui Hicks)が参加することが多く、ギターのアラン・ウォーマルドと共に、(準)レギュラーメンバーとして扱われている場合もある。
== 来歴 ==
[[1980年]]に結成。同年、[[ポリドール]]よりシングル「Steppin'」でデビュー。翌[[1981年]]に1stアルバム『Drivin' Hard』をリリース。なお、同年、[[ベガーズ・バンケット・レコード]]からリリースされ、日本でも輸入盤として一部で注目されたコンピレーションアルバム『Slipstream - The Best of British Jazz Funk』(LP2枚組)<ref>[[1985年]]に、キャニオン・レコード(現[[ポニーキャニオン]])のコーダ・レーベルより、CD1枚にリビルドされた上で、「スリップストリーム~おしゃれサウンド革命」として発売された。</ref>に「Feels Like The Right Time」が収録されており、これが日本でシャカタクが一般に認知される最初の機会となった模様である。
[[1982年]]、ビル・シャープのピアノと女性コーラス(ジル・セイワードとジャッキー・ロウ)と
キース・ウィンターのジャージーで洗練されたカッティング奏法を前面にフィーチャーしたシングル「Night Birds」で世界的にブレイク、2ndアルバム『Night Birds』、3rdアルバム『Invitations』が大ヒット作となる。
[[1984年]]頃よりジル・セイワードのヴォーカルを前面に出したダンスポップ路線へと移行していったが、特に日本のファンが初期の女性コーラスをフィーチャーした[[器楽曲|インストゥルメンタル]]路線を圧倒的に支持していたため、一時期、日本のファンの嗜好に合わせた日本国内限定発売盤のリリース(ナイツオーヴァートキオ)などで応えていた。近年では比較的ポップ色の強い[[スムーズジャズ]]路線が定着、安定した活動を継続している。
アジアでも強い人気を誇り、特に日本には現在でも根強いファンが多い。その楽曲は[[テレビドラマ]]『[[男女7人夏物語]]』『[[男女7人秋物語]]』の[[BGM]]にも使用され、[[1987年]]度・[[1988年]]度・[[1989年]]度と3年連続で、[[日本ゴールドディスク大賞]]のインストゥルメンタル部門アルバム賞にも輝いた(受賞はそれぞれ翌年)。来日機会も多い。
[[1997年]]に[[ビクターエンタテインメント]](JVC)にレーベルを移籍。
[[2008年]]6月、移籍前の旧作(海外仕様)のリイシュー盤を日本でリリース(K2HDマスタリング/紙ジャケット仕様)。これらには、「Invitations」を除き、レアトラック、リミックスなどがボーナス曲として追加されている。
== おもなアルバムタイトルとリリース年月 ==
* '''Drivin' Hard''' (1981.5) ※邦題「トワイライト・ドライヴィン」。日本では「Night Birds」の大ヒットを受けた後に発売。LPとCDで収録される「Steppin'」のバージョンが異なる。リイシュー盤あり
* '''Night Birds''' (1982.8) ※日本での1stアルバム(本国では2ndアルバム)。リイシュー盤あり
* '''Invitations''' (1982.12) ※リイシュー盤あり
* '''Out Of This World''' (1983.10) ※邦題「今夜はセンチメンタル」。リイシュー盤あり
* '''Down On The Street''' (1984.8) ※1993年リリースの同名ベスト盤とは別内容。CDには「Breakin' Away」「Rising Sun」未収録<ref>曲順も大幅に変更されており、オリジナルCD自体が事実上のリビルド盤であった。</ref>。リイシュー盤あり
* '''Live In Japan''' (1984.4) ※日本のみ発表。LP2枚組のライヴ盤。
* '''Live!''' (1985.2) ※日本未発表。「Live In Japan」のリビルド盤(CD1枚)。リイシュー盤あり
* '''City Rhythm''' (1985.11) ※海外盤には「Day By Day」のタイトルバージョンがある。リイシュー盤あり<ref>リイシュー盤収録のボーナス曲中、「The Seventh Ring」は、LPより遅れて発売となったカセットテープ及びCDの5曲目に、同じく「Round And Round」はCDの11曲目に、それぞれ各メディアのボーナス曲として追加収録されていた楽曲である。</ref>
* '''Into The Blue''' (1986.6) ※日本のみ発表。テレビドラマ『[[男女7人夏物語]]』のBGMに使われた。
* '''Golden Wings''' (1987.6) ※日本のみ発表。テレビドラマ『[[男女7人秋物語]]』のBGMに使われた。[[日本ゴールドディスク大賞]]インストゥルメンタル部門アルバム賞受賞。
* '''Never Stop Your Love''' (1987.12) ※日本のみ発表。「Manic & Cool」の数曲を差し替え先行発売された日本向けバージョン。
* '''Manic & Cool''' (1988.4) ※日本未発表。リイシュー盤あり
* '''Da Makani''' (1988.5) ※日本のみ発表。副題「潮風のストーリー」。国際外洋ヨットレース「ケンウッド・カップ」([[ハワイ]])の[[1988年]]大会イメージアルバム。日本ゴールドディスク大賞インストゥルメンタル部門アルバム賞受賞。
* Coolest Cuts (1988) ※日本未発表。英{{仮リンク|K-tel|en|K-tel}}レーベル発売の19曲入りベストCD。このタイトルにのみ「SHAKATAK MEGAMIX」が収録されている。
* The Very Best Of Shakatak (1988.12) ※日本のみ発表。ベスト盤。
* '''Niteflite''' (1989.6) ※日本のみ発表。日本ゴールドディスク大賞インストゥルメンタル部門アルバム賞受賞。
* '''Turn The Music Up''' (1989) ※日本未発表。リイシュー盤あり
* '''Fiesta''' (1990.6) ※日本のみ発表
* Greatest Grooves (1990) ※日本未発表。ベスト盤。
* Perfect Smile (1990) ※日本未発表。日本でのみ発表された「Into the Blue」「Golden Wings」「Da Makani」「Niteflite」「Fiesta」からのコンピレーションアルバム。
* Night Moves (1990) ※日本未発表。ベスト盤。
* '''Christmas Eve''' (1990.11) ※日本のみ発表。[[山下達郎]]の『[[クリスマス・イブ (山下達郎の曲)|クリスマス・イヴ]]』の[[カバー]]収録。
* '''Bitter Sweet''' (1991) ※日本未発表
* '''Utopia''' (1991.6) ※日本のみ発表
* Open Your Eyes (1991) ※日本未発表。主に「Turn the Music Up」「Bitter Sweet」「Utopia」からのコンピレーションアルバムだが、1曲だけ未発表曲がある(「Hungry」)。
* The Remix Best Album (1991) ※日本未発表。ベスト盤。
* '''Christmas Dreams''' (1991.11) ※邦題「Silent Eve」。「Christmas Eve」に[[辛島美登里]]の『[[サイレント・イヴ]]』のカバーを含む計5曲の未発表曲を追加した準オリジナル盤。
* '''Street Level''' (1992.4)
* '''Merry Christmas in Summer''' (1992.11) ※日本のみ発表。[[KUWATA BAND]]の『[[MERRY X'MAS IN SUMMER]]』のカバー収録。
* Down On The Street (1993) ※日本未発表。ベスト盤。1984年リリースの同名オリジナルアルバム(及びそのリイシュー盤)とは別内容。
* '''Under The Sun''' (1993.10)
* The Christmas Album (1993) ※日本未発表。「Merry Christmas in Summer」の表題曲を除く全曲に「Christmas Dreams」の一部曲を加えたコンピレーションアルバム。
* '''Full Circle''' (1994.10) ※リイシュー盤あり
* Jazz Connections (1996) ※日本未発表。ベスト盤(Vol.1~Vol.6)。
* '''Let The Piano Play''' (1997.8)
* '''Live At Ronnie Scott's Club''' (1998.4) ※ライブ盤。日本での発売は翌1999年1月。
* Shinin On (1998) ※日本未発表。ベスト盤。
* '''View From The City''' (1998.9)
* The Collection Volume 1 (1998) ※日本未発表。ベスト盤。
* Magic (1999) ※日本未発表。ベスト盤。
* '''Jazz In The Night''' (2000.4) ※「Shakatak & Friends」名義。
* The Magic Of Shakatak (2000) ※日本未発表。2枚組ベスト盤。
* '''Under Your Spell''' (2001.6)
* Best Of Jazz Connections (2001) ※日本未発表。ベスト盤(Vol.1・Vol.2)。
* Dinner Jazz (2002) ※日本未発表。ベスト盤。
* Smooth Solos (2002) ※日本未発表。メンバーのソロ作品コンピレーション。
* '''Blue Savannah''' (2003.7)
* The Ultimate Collection (2004.6) ※日本未発表。3枚組ベスト盤。
* The Collection Volume 2 (2004) ※日本未発表、ベスト盤。
* Sunset Jazz (2005) ※日本未発表。ベスト盤(1/3)。
* After Dark (2005) ※日本未発表。ベスト盤(2/3)。
* Drive Time (2005) ※日本未発表。ベスト盤(3/3)。
* '''Beautiful Day''' (2005.2)
* '''Easier Said Than Done''' (2005) ※日本未発表。2枚組ライブ盤。
* '''Emotionally Blue''' (2007.3)
* The Ultimate Collection (2008.6) ※日本のみ発表。2枚組ベスト盤。
* '''Afterglow''' (2009.2)
* Essence (2009.4) ※日本のみ発表。ベスト盤。
* '''Across The World''' (2011.4)
* ONCE UPON A TIME -THE ACOUSTIC SESSIONS- (2013.2) アコースティック・アレンジによるセルフ・カバー
* '''On The Corner''' (2014.5.21)
*'''Times and Places''' (2016.7.20)
*'''In The Blue Zone''' (2019.5.22)
*'''All Around the World (40th Anniversary Edition) ''' (2020.9.6) ※[3CD+DVD]のベスト盤
:※ リリース年月は、一部を除き日本盤のものとした(日本未発表のものは年のみ)。
:※ オリジナルアルバムは太字とした。
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.shakatak.com ... SHAKATAK - The Official Website ...]
* {{MySpace|shakatak}}
* [https://www.jvcmusic.co.jp/-/Artist/A011074.html ビクターエンタテインメントによる公式ページ]{{Ja icon}}
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ウォルター・レッグ
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ウォルター・レッグ(Walter Legge, 1906年6月1日 - 1979年3月22日)は、イギリスはロンドン生まれのレコーディング・プロデューサー。
20歳でEMI傘下のHMV(His Master's Voice)に入社。しかし会社の方針に余りに遠慮せずものを言ったため3ヶ月で解雇されてしまう。しかしその後1年足らずのうちに資料部長として再雇用された。レッグは新譜のために解説や宣伝文を書き、PR誌「ヴォイス」の編集を行った。
1931年、彼は会社に斬新なアイディアを提供する。まだレコード化されておらず、需要もよくわからない音楽の録音を行うための予約販売である。「~協会」の名の元に一定数の予約者が集まって利益が出る場合にのみレコードを作るもので、会社側はリスクを避けられるメリットがあった。
最初に企画されたのは彼の長年の望みであったヴォルフ歌曲集であった。フーゴ・ヴォルフ協会は成立に最低必要な500名の予約者を集めることに成功し、1932年4月にエレナ・ゲルハルトによる6枚組(SPレコード)のアルバムが発売された。予約者のうち111人は日本からのものであり、1932年(昭和7年)という時期を考えると、当時の日本の愛好家の歌手およびまだ接したことのないヴォルフの歌曲への期待の大きさが伺える。
この成功によりレッグは多数の協会方式によるレコード製作を行い、それらのうち重要な録音はLPレコード時代は「GR盤」として有名であり、6、70年を経た今日でもなおCD化されて発売されている。
第2次大戦中はヨーロッパ大陸での録音は中断したが、戦後彼は大成した音楽家だけでなく、新人音楽家を積極的に発掘し、専属契約を結ぶことに力を入れた。カラヤン、エリーザベト・シュヴァルツコップ(1953年にレッグと結婚する)、マリア・カラスなどとはこの時期に仕事を始めている。
レッグは戦後ナチ党員であったとして演奏を禁じられていたカラヤンのために、彼が1945年に創立したフィルハーモニア管弦楽団を提供し、レコード録音で大きな成功を収めた。しかし、1954年のフルトヴェングラーの死とともにカラヤンがベルリン・フィルハーモニーの指揮者になると、カラヤンの活動の中心はベルリンになる。また当時の専属契約で彼はベルリンでの録音はDG(ドイツ・グラモフォン)でしかできなくなった。レッグはカラヤンに代わり当時実力に見合ったポストに恵まれなかったオットー・クレンペラーに白羽の矢を立て、この巨匠による最良の演奏記録を残すことを1954年から開始した。
その後、EMIはクラシック音楽の事業予算を削減し始めたため、また彼の完全主義が社内での対立を生んでいたこともあり、レッグは1963年にEMIを去ることを決意した。
1964年3月、彼は手塩に掛けたフィルハーモニア管弦楽団を突如解散した。このことは楽団員およびクレンペラーとの間に緊張関係をもたらした。このあと楽団は同年10月、クレンペラーを首席指揮者としてニュー・フィルハーモニア管弦楽団の名前で再出発した。
フリーになったレッグを再雇用するレコード会社はなく、その後の彼はシュヴァルツコップのレコーディングだけを行ったに過ぎないが、そのレコードはすべて、彼女にとっても、後世の音楽愛好家にとっても重要な演奏記録となった。
1967年、歌曲伴奏ピアニストの名手ジェラルド・ムーアの演奏会からの引退コンサートを企画して腕を振っていた最中に心臓発作に見舞われた。1969年には、モントルー国際レコード賞の特別賞を受賞した。 その後、彼はシュヴァルツコップとともに後進の育成のためのマスタークラスをジュリアード音楽院をはじめ世界各地でひらいた。
レッグは1979年3月17日に心臓発作を起こし、医師の忠告を聞かずにチューリヒで行われたシュヴァルツコップの引退コンサートを聴きに行き、5日後の3月22日に没した。
レッグは演奏記録を完全なものに近づけるため、新人だろうと巨匠だろうと自らの音楽的信念に基づき、忌憚無く意見を述べ、助言し、鼓舞して演奏家の最高の資質を引き出そうとした。トスカニーニに彼の録音のいくつかについて意見を求められたとき、レッグが率直な批評をしたため、この大指揮者はレッグを評価するようになり、後にロンドンでレッグが率いるフィルハーモニア管弦楽団との演奏会も実現したのである。
レッグは、完全主義者であったが、それを支える優れた音楽の理解力と批評能力を持っていた。彼は自分が演奏家になれるとは思わなかったが、優れたレコードやコンサートを聴いて自分の耳を鍛え、アーネスト・ニューマンから批評のあり方とフーゴ・ヴォルフへの関心を学んだ。ヴォルフの作品はレコードでも演奏会でも聞くことができず、そのため状況を改善するためにレコード会社に入ることを考え始めた。レッグはまず「マンチェスター・ガーディアン」誌に音楽批評を書く仕事につき、歯に衣着せぬ批評で知られるようになった。
「オペラ」誌の追悼記事は「音楽の上で私が彼に捧げることのできる最大の賛辞は、3つの別々な機会に、フルトヴェングラー、カラヤン、リパッティがかつて、レッグこそ私が最も多くのことを学び取った人だ、と語ったことを記録すること」であると述べていた。
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ウォルター・レッグは、イギリスはロンドン生まれのレコーディング・プロデューサー。
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'''ウォルター・レッグ'''('''Walter Legge''', [[1906年]][[6月1日]] - [[1979年]][[3月22日]])は、[[イギリス]]は[[ロンドン]]生まれのレコーディング・プロデューサー。
==経歴==
20歳で[[EMI]]傘下のHMV(His Master's Voice)に入社。しかし会社の方針に余りに遠慮せずものを言ったため3ヶ月で解雇されてしまう。しかしその後1年足らずのうちに資料部長として再雇用された。レッグは新譜のために解説や宣伝文を書き、PR誌「[[ヴォイス]]{{要曖昧さ回避|date=2020年8月}}」の編集を行った。
[[1931年]]、彼は会社に斬新なアイディアを提供する。まだ[[レコード]]化されておらず、需要もよくわからない音楽の録音を行うための予約販売である。「~協会」の名の元に一定数の予約者が集まって利益が出る場合にのみレコードを作るもので、会社側はリスクを避けられるメリットがあった。
最初に企画されたのは彼の長年の望みであった[[フーゴ・ヴォルフ|ヴォルフ]]歌曲集であった。フーゴ・ヴォルフ協会は成立に最低必要な500名の予約者を集めることに成功し、[[1932年]][[4月]]に[[エレナ・ゲルハルト]]による6枚組([[SPレコード]])のアルバムが発売された。予約者のうち111人は日本からのものであり、1932年(昭和7年)という時期を考えると、当時の日本の愛好家の歌手およびまだ接したことのないヴォルフの歌曲への期待の大きさが伺える。
この成功によりレッグは多数の協会方式によるレコード製作を行い、それらのうち重要な録音はLPレコード時代は「GR盤」として有名であり、6、70年を経た今日でもなおCD化されて発売されている。
第2次大戦中はヨーロッパ大陸での録音は中断したが、戦後彼は大成した音楽家だけでなく、新人音楽家を積極的に発掘し、専属契約を結ぶことに力を入れた。[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]、[[エリーザベト・シュヴァルツコップ]](1953年にレッグと結婚する)、[[マリア・カラス]]などとはこの時期に仕事を始めている。
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[[1964年]]3月、彼は手塩に掛けたフィルハーモニア管弦楽団を突如解散した。このことは楽団員およびクレンペラーとの間に緊張関係をもたらした。このあと楽団は同年10月、クレンペラーを首席指揮者としてニュー・フィルハーモニア管弦楽団の名前で再出発した。
フリーになったレッグを再雇用するレコード会社はなく、その後の彼はシュヴァルツコップのレコーディングだけを行ったに過ぎないが、そのレコードはすべて、彼女にとっても、後世の音楽愛好家にとっても重要な演奏記録となった。
[[1967年]]、歌曲伴奏ピアニストの名手[[ジェラルド・ムーア]]の演奏会からの引退コンサートを企画して腕を振っていた最中に心臓発作に見舞われた。[[1969年]]には、[[モントルー国際レコード賞]]の特別賞を受賞した。
その後、彼はシュヴァルツコップとともに後進の育成のためのマスタークラスを[[ジュリアード音楽院]]をはじめ世界各地でひらいた。
レッグは[[1979年]][[3月17日]]に心臓発作を起こし、医師の忠告を聞かずに[[チューリヒ]]で行われたシュヴァルツコップの引退コンサートを聴きに行き、5日後の3月22日に没した。
==録音について==
レッグは演奏記録を完全なものに近づけるため、新人だろうと巨匠だろうと自らの音楽的信念に基づき、忌憚無く意見を述べ、助言し、鼓舞して演奏家の最高の資質を引き出そうとした。[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]に彼の録音のいくつかについて意見を求められたとき、レッグが率直な批評をしたため、この大指揮者はレッグを評価するようになり、後にロンドンでレッグが率いる[[フィルハーモニア管弦楽団]]との演奏会も実現したのである。
レッグは、完全主義者であったが、それを支える優れた音楽の理解力と批評能力を持っていた。彼は自分が演奏家になれるとは思わなかったが、優れたレコードやコンサートを聴いて自分の耳を鍛え、アーネスト・ニューマンから批評のあり方と[[フーゴ・ヴォルフ]]への関心を学んだ。ヴォルフの作品はレコードでも演奏会でも聞くことができず、そのため状況を改善するためにレコード会社に入ることを考え始めた。レッグはまず「[[ガーディアン|マンチェスター・ガーディアン]]」誌に音楽批評を書く仕事につき、歯に衣着せぬ批評で知られるようになった。
「オペラ」誌の追悼記事は「音楽の上で私が彼に捧げることのできる最大の賛辞は、3つの別々な機会に、フルトヴェングラー、カラヤン、[[ディヌ・リパッティ|リパッティ]]がかつて、レッグこそ私が最も多くのことを学び取った人だ、と語ったことを記録すること」であると述べていた。
==参考文献==
*『レッグ&シュヴァルツコップ回想録 レコードうら・おもて』(原題:'''On and Off the Records''' )シュヴァルツコップ著、[[河村錠一郎]]訳、1986年 音楽の友社 ISB4-276-20352-X C1073 \2800E 他
== 脚注 ==
<references />
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[[Category:イギリスの音楽プロデューサー]]
[[Category:EMI]]
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十字軍
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十字軍(じゅうじぐん、ラテン語: cruciata、フランス語: croisade、英語: crusade)とは、中世に西欧カトリック諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。
一般には、上記のキリスト教勢力による対イスラム遠征軍を指すが、キリスト教異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)や北欧や東欧の非キリスト教圏に対する征服戦争(北方十字軍)などにも「十字軍」の名称は使われている。
実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回十字軍は北アフリカのチュニスを標的としている。
なお、本項では十字軍の回数を8回とする。解釈によってその回数には差異がある。第1回から第4回までは多くの歴史記述で共通であるが、たとえば第5回(1218年-)を数えない説があったり、第6回(1228年-)は破門された神聖ローマ皇帝による私的な十字軍(フリードリヒ十字軍)として数えない例もあった。1270年の聖王ルイの出征まで8回(または7回)とすることが多いが、異論もある。回数で名付けられている主要な十字軍の他、個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、巡礼で聖地に到着した騎士や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも、聖地にそのまま住みついた騎士らや聖地で生まれ育った遠征軍の末裔らが作る十字軍国家が継続的にイスラム諸国と戦うのも、十字軍である。その他、第1回十字軍時の庶民十字軍、少年十字軍、羊飼い十字軍などの大小の民衆十字軍が起こっているものの、大部分は聖地にたどり着けていない。
「十字軍」という言葉が使われ始めたのは、いわゆる第1回十字軍から約1世紀後で、当初は、旅(ラテン語:iter)、巡礼(ラテン語:peregrinatio)等と呼ばれており、12世紀のキリスト教の巡礼につかわれる用語と区別がつかないものであった。中東の人々からは、Franks(フランク人達) や イフランキ(アラビア語: الإفر)、ルーム(アラビア語: الروم、ローマ人達) などと呼ばれていた。
トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国(ビザンツ帝国)皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。
ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議(クレルモン公会議とも)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。
クレルモン公会議の決定を受けてヨーロッパ各地の諸侯や騎士は遠征の準備を始めたが、十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、1096年、彼らの出発する数ヶ月前に、フランスで説教師であるアミアンの隠者ピエールに率いられた民衆や下級騎士の軍勢4万人がエルサレムを目指して出発した。これが民衆十字軍と呼ばれるものである。民衆十字軍は東上の途中でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国やビザンツ帝国内で衝突を繰り返しながら小アジアに上陸したものの、統制の取れていない上に軍事力も弱い民衆十字軍はルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世によって蹴散らされ、多くのものは殺されるか奴隷となり、何ら軍事的成果を上げることもなく崩壊した。しかしピエールらごく一部は生き延び、第1回十字軍へと再び参加した。
セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけに応えた騎士たちは1096年にエルサレム遠征の軍を起こした。同年12月には各地から出発した諸侯はコンスタンティノープルに集結したものの、民衆十字軍の醜態を見ていた東ローマ皇帝は彼らに信を置かず、十字軍に臣下の誓いと旧帝国領の返還、聖地周辺の征服時には新国家を東ローマの宗主権下に置くことを求めた。これを飲んだ十字軍はニカイア攻囲戦やドリュラエウムの戦いなどでイスラム軍を撃破し、アナトリアからシリアへと進軍していった。
途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略しつつエルサレムを目指した。この過程で十字軍による掠奪、虐殺、強姦があったとされる。イスラム教徒の諸領主は十字軍に対し無為無策であり、連合して応戦することもできず潰滅した。一方、十字軍側も分派や内部対立が目立ち始めた。
1098年にはブルゴーニュ伯ボードゥアンが東方のユーフラテス川上流部にあるエデッサに分派して進軍し、エデッサ伯国を立てた。本隊は1097年から1098年にかけてシリア北部の大都市アンティオキアでのアンティオキア攻囲戦に勝利したが、主要な将軍の一人であるボエモンがここに留まって領主となる姿勢を見せ、ボエモン1世 (アンティオキア公)となった。残る本隊はレーモン・サン・ジルとゴドフロワ・ド・ブイヨンらに率いられてなおも南下し、1099年、軍勢はついにエルサレムの征服に成功した。その後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムの王となり、レーモンは海岸部のトリポリの伯となった。こうしてシリアからパレスチナにかけての地中海東岸にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国という4つの十字軍国家がつくられた。
この成功に刺激され、1101年にも大規模な聖地遠征が行われた。この集団は各国から集まった庶民、第一回に従軍した領主や兵士が含まれていた。数団体に分かれてコンスタンティノープルを経由して陸路から小アジアに侵入したが、イスラム国家の連合軍の攻撃により壊滅して逃走。多くが死亡するか奴隷とされ、カイロを迂回するなどして聖地にたどり着けたのは少数だった。
1107年の秋から1110年にかけて、ノルウェー王シグル1世は直々に60隻の船とおおよそ5000人の兵を率いて聖地に向かった。シグル1世は聖地に十字軍として向かった最初の欧州の王である。各地の統治者の助力を得ながら、英国からジブラルタル、地中海そして聖地へと航海をし各地でイスラム勢力と交戦・略奪を繰り返しつつ、1110年に聖地に達した。このノルウェー十字軍は以前のヴァイキングの行動に類似しているが、キリスト教的目的もある程度達成している。その後一行はコンスタンティノープルから陸路で欧州を縦断し、行路のブルガリア、神聖ローマ帝国、デンマークなどの助力を得つつ、1113年にノルウェーに帰還した。
しばらくの間、中東において十字軍国家などキリスト教徒と、群小の都市からなるイスラム教徒が共存する状態が続いていたが、イスラム教徒が盛り返した。1144年にザンギーがエデッサ伯国を占領したことでヨーロッパで危機感が募り、教皇エウゲニウス3世が呼びかけて結成された。当時の名説教家クレルヴォーのベルナルドゥスが教皇の頼みで各地で勧誘を行い、フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世の2人を指導者に、多くの従軍者が集まったが全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。辛くもパレスチナに到着した軍勢も、当時十字軍国家と友好関係にあったダマスカスを攻撃したが失敗し、フランス王らは撤退した。
1187年にアイユーブ朝はジハード(聖戦)を宣言。アイユーブ朝の始祖でありイスラムの英雄であるサラーフッディーン(サラディン)は同年7月のヒッティーンの戦いで現地十字軍国家の主力部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムがイスラム側に占領、奪還された。その後もサラディンの軍は快進撃を続け、同年中にはアンティオキア、トリポリ、トルトザ、ティルスの4市とクラック・デ・シュヴァリエなど若干の要塞を除く十字軍国家の全てがアイユーブ朝の手に落ちた。
この状況を受け、教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。フリードリヒ1世は1190年にキリキアで川を渡ろうとしたところ落馬し、鎧のために溺死した。跡を継いだイングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世がサラーフッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった(アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)。しかしエルサレム陥落とヒッティーンの戦いの後遺症は大きく、以後十字軍国家は守勢に回ることとなった。
ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負ったヴェネツィアの意向を受けて輸送料の不足分支払のためハンガリーのザラ(現在のクロアチアのザダル)を攻略、同じキリスト教(カトリック)国を攻撃したことで教皇から破門される。ついで東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、この際十字軍側によるコンスタンティノポリス市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯ボードゥアンが皇帝になりラテン帝国を建国。やむなく教皇は追認し、さらにエルサレムを目指し遠征するよう要請するが実施されなかった。東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した(東ローマ帝国は57年後の1261年に復活)。なお、このコンスタンティノポリスの攻防を巡ってはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン (十字軍側)とニケタス・コニアテス(東ローマ側)という2人の優れた歴史家が記録を遺していることでも知られている。
教皇ホノリウス3世の呼びかけに応じたハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世らがエルサレム王国の国王ジャン・ド・ブリエンヌらとアッコンで合流し、アンドラーシュ2世は帰国したものの、レオポルトやジャンらはイスラムの本拠であるエジプトの攻略を目指した。1218年にエジプトの海港ダミエッタを包囲し、1219年に攻略。ここでアイユーブ朝側は旧エルサレム王国領の返還を申し出たのだが、あくまでも戦闘を続けエジプトの首都カイロを落とそうとする枢機卿ペラギウスとレオポルトやジャンが対立し、レオポルトやジャンは帰国。1221年には神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世からの援軍を受け攻勢に出たが、エジプト軍を打ち破ることができず大敗し、ペラギウスら残る全軍が捕虜となって十字軍は失敗に終わった。
グレゴリウス9世は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征を開始。故に「破門十字軍」「フリードリヒ十字軍」とも呼ばれる。当時エジプト・アイユーブ朝のスルタンアル=カーミルは内乱に悩まされており、フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなく1229年2月11日に平和条約(ヤッファ条約)を締結。フリードリヒは、聖墳墓教会はキリスト教徒に返されるがウマルのモスクとアル・アクサ寺院はイスラムが保持するとの条件でエルサレムの統治権を手に入れた。教皇グレゴリウス9世は、カトリック教会を破門されたままであった皇帝フリードリヒ2世がエルサレムの王となったことを口実に、フリードリヒに対する十字軍を実施したが皇帝軍に撃退され、1230年にフリードリヒの破門を解いた。
1239年から1241年にかけて、フランス・イングランド諸侯を中心とした男爵十字軍(英語版)という聖地遠征が行われた。この十字軍遠征は領域的観点から見ると、第1回十字軍以来最も成功した十字軍遠征であった。この十字軍は2つの軍団に分かれており、先発隊がナバラ王国の国王テオバルド1世によって、後発隊がコーンウォール伯(英語版)リチャードによって率いられていた。この男爵十字軍は最後のラテン皇帝ボードゥアン2世が目指していたコンスタンティノープル奪還のための遠征と並行して議論されることが多い。
1229年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は第6回十字軍の折、アイユーブ朝スルタンアル=カーミルと10年間の平和条約を締結した。しかし、この平和条約を締結時より非難していた当時の教皇グレゴリウス9世は、1234年に教皇勅書を発布し、条約の期限が切れると同時に十字軍遠征を行うよう広く諸侯に求めた。数多くのイングランド貴族やフランス貴族は十字架を取り参加を取り決めたが、十字軍の出陣は遅延した。なぜなら、自身が締結した条約が期限切れで破棄されるまで、フリードリヒ2世が他の十字軍諸侯の自領内通過を拒んだためであった。フリードリヒ2世は1239年に再び破門され、十字軍諸侯たちは彼の領地を避けて聖地に向かった。
十字軍に参加した諸侯のうち、フランス人諸侯の軍勢はナバラ国王テオバルド1世・ブルゴーニュ公ユーグ4世が率いており、それにアモーリ・ド・モンフォール(英語版)やブルターニュ公ピエール1世らが参加した。1239年9月、テオバルド1世はアッコに到着した。
この頃アイユーブ朝では内部対立が激化しており、テオバルド1世はその内戦に巻き込まれることとなった。1238年、第6回十字軍の際にフリードリヒ2世と平和条約を締結したアイユーブのスルタンアル=カーミルが崩御したのち、カーミルの2人の息子たちアル=サーリフとアル=アーディル2世がアイユーブ・カリフの座を巡って争っていた 。またカーミルの兄弟でサーリフの叔父であるアル=サーリフ=イスマイール(英語版)がサーリフからダマスカスを奪い取り、アル=アーディル2世を正統なスルタンと見做してサーリフに対抗するなどしており、アイユーブ朝は混乱していた。
そんな混乱した状況の中聖地に着陣したテオバルド1世は、アシュケロンを要塞化しエルサレム王国南部の国境の防御を固め、ダマスカスに進軍することを取り決めた。 その後十字軍はアッコからヤッファに進軍したが、同時にアイユーブ朝のエジプト軍も国境防衛のために進軍した。そして両者はガザの戦い(英語版)で激突した。
この戦いにおいて、一部の離反した十字軍は総大将テオバルド1世の指示や騎士団の助言に従わなかった。彼らはさらなる遅延をよしとせず敵に向かって進軍を続けたが、周到な準備をしなかったためにムスリム軍に敗れた。騎士団の軍事指揮官はテオバルド1世に対して、これ以上のエジプト軍の追撃を避け、フランク人捕虜の奪還も避けた上で撤退するよう進言し、十字軍はアッコまで撤退した。詳細はガザの戦い(英語版)を確認されたし。
ガザの戦いから1ヶ月後、カラクのエミールであったen: An-Nasir Dawudによって、事実上無防備のまま放置されていたエルサレムが掌握された。しかしアイユーブ朝では内部対立が続いていたため、このような状況に置かれたテオバルド1世はまだエルサレム返還を求めたアイユーブ朝との交渉を続けることができた。1240年9月、テオバルドはヨーロッパに向けて帰陣した。アッコにはブルゴーニュ公ユーグ4世が残り、アシュカロンの要塞化を支援した。
1240年8月、コーンウォール伯リチャード率いるイングランド人諸侯からなる第二遠征軍が到着した 。十字軍はヤッファに進軍し、その地でアイユーブ朝との講和条約を締結した。この条約はほんの数ヶ月前にテオバルドによって提唱されたものだった。リチャードは講和に同意し、1241年2月8日までにアイユーブ側もこれに同意した。そして4月13日、両者が有していた捕虜を解放した。アシュカロンの要塞化はこの間にもリチャードの軍勢の支援のもとで続けられ、1241年半ばごろに完成した。リチャードはこの新しい砦を帝国の代理人に任せ、1241年5月3日、イングランドに向けて帰っていった。
男爵十字軍が行われた頃と同時期に別の十字軍遠征も並行して行われていた。ラテン帝国の若き皇位継承者ボードゥアン2世によるニケーア帝国に対する遠征である。1239年7月、ボードゥアンは小規模の軍隊と共にコンスタンティノープルへ向けて旅立ち、1239年冬に無事コンスタンティノープルに到着した。そして1240年のイースター祭の前後に彼はラテン皇帝の帝冠を授かった。ラテン皇帝となったボードゥアンは、十字軍遠征を開始し、コンスタンティノープルから西方に75マイルの距離にあるニケーア帝国の要塞チョルル(英語版)を攻め落とした。
男爵十字軍の遠征により、エルサレム王国の版図は1187年以降最大となったものの、王国に対する支援は十字軍遠征後たった数年で急激に減少した。1244年7月15日、エルサレムは再びムスリムにより攻め落とされて廃墟と化した。エルサレムのキリスト教徒たちは、ホラズム朝の軍隊(英語版)によって虐殺された。そして数ヶ月後に発生したアイユーブ朝と十字軍の戦いであるラ・フォルビーの戦いで十字軍は壊滅し、聖地における十字軍の軍事力はほぼ壊滅した。エルサレムの陥落とそれに付随するキリスト教徒虐殺事件の知らせを受けたフランス王ルイ9世は、聖地を奪還せんと試み、新たな十字軍遠征を企図した。これにより更なる十字軍遠征、「第7回十字軍」が幕を開けるのである。
アル=カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落した。これを受け、1248年にフランス王ルイ9世(聖王ルイ)が十字軍を起こす。ルイも第5回や第6回と同じくイスラム教国中最大の国家であるエジプトへと遠征して海港ダミエッタを占領するが、さらに南の首都カイロを目指す途中の1250年2月にマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝のトゥーラーン・シャーに敗北して捕虜になった。交渉途中にトゥーラーン・シャー政権は軍人集団のマムルークのクーデターによって打倒され、新たに成立したマムルーク朝にルイは莫大な賠償金を払って釈放された。
フランス王ルイ9世が再度出兵。当時ハフス朝の支配下にあった北アフリカのチュニスを目指すが、途上で死去。
第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合がある。マムルーク朝の第5代スルタンとなったバイバルスの下でイスラム側は攻勢を強め、1268年にはアンティオキアを陥落させてアンティオキア公国を完全に滅亡させた。このときバイバルスがアンティオキア住民の全てを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏を刺激し、1271年にイングランド王太子エドワード(エドワード1世)とルイ9世の弟シャルル・ダンジューがアッコンに向かったが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。
以後、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡し、1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここにパレスチナにおける十字軍国家は全滅した(アッコの陥落)。
ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。
一般的に十字軍といえば上記のエルサレムやイスラム諸国を目指した十字軍を指すが、十字軍とは教皇が呼びかけ、参加者に贖宥を与える軍事行動に与えられる名称であるため、上記の他にも様々な十字軍が行われた。これらの十字軍を大別すると、
の4つに分けられる。上記のエルサレム十字軍やレコンキスタなどはキリスト教圏の回復、アルビジョア十字軍は異端討伐、北方十字軍は異教徒への布教征服に該当する。
イベリア半島においては、キリスト教国だった西ゴート王国が711年にウマイヤ朝に敗れて滅亡した後、北部のキリスト教勢力と中南部のイスラム勢力とが抗争を繰り返していた。1031年に後ウマイヤ朝が滅亡するとキリスト教勢力が南進し、この中で1064年に教皇アレクサンデル2世によって初めて異教徒との戦いに贖宥が与えられ、以後の十字軍にも取り入れられた。
パレスチナ十字軍の開始後も歴代教皇は度々イベリア半島に十字軍を宣し、中でも教皇インノケンティウス3世が1212年にイベリア半島の諸キリスト教国家の戦闘停止とムワッヒド朝に対する一致団結を求めた十字軍は、同年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いに勝利を収め、以後キリスト教勢力は急速に勢力を拡大して1251年までにグラナダのナスル朝を除く全てのイベリア半島を手中に収めた。
バルト海沿岸には古来ヴェンド人や古プロイセン人、エストニア人、リトアニア人といった非キリスト教徒が居住していた。第2回十字軍が提唱された時、ドイツ北部の諸侯はエルサレムではなく隣接するこの地域への出兵を望んでいたため、1147年にこれらの北方異教徒への十字軍が認められ、ヴェンド十字軍が行われた。その約50年後、1193年に教皇クレメンス3世が再びバルト海沿岸の非キリスト教徒に十字軍を宣し、北方十字軍が開始された。当初はリヴォニア帯剣騎士団、やがてパレスチナよりイスラム教徒によって追放され北へと転進したドイツ騎士団によって毎年十字軍が行われ、この地方にドイツ人の東方植民が進んだ。
1209年、南フランスで盛んだった異端カタリ派を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。レスター伯シモン・ド・モンフォールに率いられた十字軍は各地で殺戮を行い、これに反発した南フランス諸侯の反撃はあったものの、フランス国王ルイ8世の主導の下十字軍は南フランスを制圧し、1229年に終戦した。
十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈している。のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告されている。
そして、イスラム教徒やユダヤ教徒など、異教の者へは虐殺をためらわず、マアッラ攻囲戦では双方の記録で、十字軍による食人が記録されている。またギリシャ正教など、他の宗派に属する者も冷遇した。
元々はエルサレムの回復を目的としていた十字軍であるが、後には、キリスト教徒から見た異教徒やローマ教皇庁から異端とされた教会や地方の討伐軍をも十字軍と呼ばれるようになった。このような例としてはアルビジョア十字軍などが知られており、ヨーロッパにおいても非難されることになる。
ローマ教皇庁は1270年から十字軍についての意見調査を行っている。調査結果にはルイ9世の死は神の意思であるとするものや、不信心者は殺すのではなく改心させるべきとするものなど十字軍に否定的な意見が多数含まれていた。また、犯罪者が刑罰から逃れるために従軍していることから、一般人から十字軍参加者そのものが罪人とみなされていること、名誉を重んじる者が参加したがらないということも明らかにされた。十字軍が同じキリスト教徒に対しても行われたことは悪夢とみなされていた。これらの調査結果を受けてグレゴリウス10世は聖地奪回のための新たな十字軍を計画しなかった。
平時において十字軍の成果を維持し続けていたのが十字軍国家である。現地において建国された4つの十字軍国家(エルサレム王国、トリポリ伯国、アンティオキア公国、エデッサ伯国)においては、彼らの軍事的根源地である西欧から遠く離れ、イスラム教徒に囲まれた最前線にあることから、強力な軍事力が常に求められた。これらの十字軍国家においては、当初は西欧と同じ封建制による貴族や騎士による軍事制度がしかれたが、第1回十字軍に参加した騎士の多くが帰国するなど当初から軍事力は不十分なものであった。これを補うために西欧からの移民が求められたが、1101年に出発したこの武装移民団は陸路移動の途中でイスラム勢力によって粉砕され、以後も大規模な移民団が来ることはほとんどなく、西欧人、ひいては軍事力の不足状態は続いた。もっとも、巡礼としてやってきた人々が移民としてそのまま居住するようになることは多く、西欧系の住民の補充は続いていた。1120年代からは入植者の増加が始まり、1180年代には十字軍国家におけるヨーロッパ人の人口は10万人から12万人にまで膨れ上がり、ヨーロッパ系の入植新村も建設されるようになった。しかし、それでもヨーロッパ系は全人口の20%程度にとどまり、イスラム教徒と対抗する軍事力の基盤とするには不足であったことに違いはない。
これを補うために作り出されたのが騎士修道会(騎士団)であり、1119年に創設されたテンプル騎士団と1113年に認可された聖ヨハネ騎士団、そしてそれにやや遅れて1197年に公認されたドイツ騎士団の三大騎士団がエルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家の防衛に当たった。
この地方に土着した貴族たちはイスラムの文化を少しずつ受け入れ、次第にイスラムに融和的な姿勢をとるようになっていった。これに対し、西方から新たに十字軍としてやってきた将兵はイスラムに敵対的な態度をとり、第2回十字軍の時に十字軍国家と同盟関係にあったダマスカスを攻撃するなど現地の事情を理解せずに軍事行動を起こすことも多く、両者は十字軍内でもしばしば対立を起こしている。
「十字軍」はキリスト教側の呼称であり、イスラム教徒側は「フランク」の侵攻と認識していた。
イスラム教徒の支配する中東は、中小の豪族が群雄割拠しており、互いに利害は一致しなかった。このことが、緒戦で数に劣る十字軍への敗退が相次いだ原因だった。イスラム教徒の反撃の端緒とされるザンギーやヌールッディーンは大義名分として、イスラム教勢力の統一とキリスト教徒撃退を挙げるようになるが、主要な敵はなお他のイスラム地方政権だった。イスラムの聖戦との認識が広まってきたのは、サラーフッディーンがイスラム勢力をほぼ統一し、エルサレムを陥落させる前後からで、第3回十字軍との戦いを通して確立されていったが、その後も、第6回十字軍の時のように、状況によってはキリスト教徒と妥協や共存することに抵抗を持っていなかった。
2017年現在でも十字軍はイスラーム過激派からは目の敵とされているという意見はある。
1291年に全てのパレスチナがイスラム勢力下に入った後も小規模な遠征の事例があり、十字軍の名が冠されているものの(1308年のロドス十字軍、1343年~1351年のスミルナ十字軍、1344年のキプロス十字軍、1365年のサヴォイ伯十字軍、1440年ヴァルナ十字軍など)、本来の十字軍とは区別されている。その後、1453年にオスマン帝国の台頭によって東ローマ帝国が滅ぼされると、ローマ教皇ピウス2世は熱心に十字軍を提唱し(1459年・1463年)、応じる国は少なかったが、1464年には教皇自ら十字軍の出発地とされたアンコーナに赴いている。この地で教皇が逝去したため、直ちに遠征は中止された。
1683年の第二次ウィーン包囲失敗によるオスマン帝国の敗走によってローマ教皇インノケンティウス11世はオーストリア、ポーランド、ロシア、ヴェネツィアに神聖同盟を持ちかけている(後に大トルコ戦争に発展)。これは十字軍の名で語られていないが、意図するものがあった可能性がある。
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"text": "十字軍(じゅうじぐん、ラテン語: cruciata、フランス語: croisade、英語: crusade)とは、中世に西欧カトリック諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。",
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"text": "一般には、上記のキリスト教勢力による対イスラム遠征軍を指すが、キリスト教異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)や北欧や東欧の非キリスト教圏に対する征服戦争(北方十字軍)などにも「十字軍」の名称は使われている。",
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"text": "実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回十字軍は北アフリカのチュニスを標的としている。",
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"text": "なお、本項では十字軍の回数を8回とする。解釈によってその回数には差異がある。第1回から第4回までは多くの歴史記述で共通であるが、たとえば第5回(1218年-)を数えない説があったり、第6回(1228年-)は破門された神聖ローマ皇帝による私的な十字軍(フリードリヒ十字軍)として数えない例もあった。1270年の聖王ルイの出征まで8回(または7回)とすることが多いが、異論もある。回数で名付けられている主要な十字軍の他、個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、巡礼で聖地に到着した騎士や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも、聖地にそのまま住みついた騎士らや聖地で生まれ育った遠征軍の末裔らが作る十字軍国家が継続的にイスラム諸国と戦うのも、十字軍である。その他、第1回十字軍時の庶民十字軍、少年十字軍、羊飼い十字軍などの大小の民衆十字軍が起こっているものの、大部分は聖地にたどり着けていない。",
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"text": "「十字軍」という言葉が使われ始めたのは、いわゆる第1回十字軍から約1世紀後で、当初は、旅(ラテン語:iter)、巡礼(ラテン語:peregrinatio)等と呼ばれており、12世紀のキリスト教の巡礼につかわれる用語と区別がつかないものであった。中東の人々からは、Franks(フランク人達) や イフランキ(アラビア語: الإفر)、ルーム(アラビア語: الروم、ローマ人達) などと呼ばれていた。",
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"text": "トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国(ビザンツ帝国)皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。",
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"text": "ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議(クレルモン公会議とも)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。",
"title": "概略"
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"text": "クレルモン公会議の決定を受けてヨーロッパ各地の諸侯や騎士は遠征の準備を始めたが、十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、1096年、彼らの出発する数ヶ月前に、フランスで説教師であるアミアンの隠者ピエールに率いられた民衆や下級騎士の軍勢4万人がエルサレムを目指して出発した。これが民衆十字軍と呼ばれるものである。民衆十字軍は東上の途中でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国やビザンツ帝国内で衝突を繰り返しながら小アジアに上陸したものの、統制の取れていない上に軍事力も弱い民衆十字軍はルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世によって蹴散らされ、多くのものは殺されるか奴隷となり、何ら軍事的成果を上げることもなく崩壊した。しかしピエールらごく一部は生き延び、第1回十字軍へと再び参加した。",
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"text": "セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけに応えた騎士たちは1096年にエルサレム遠征の軍を起こした。同年12月には各地から出発した諸侯はコンスタンティノープルに集結したものの、民衆十字軍の醜態を見ていた東ローマ皇帝は彼らに信を置かず、十字軍に臣下の誓いと旧帝国領の返還、聖地周辺の征服時には新国家を東ローマの宗主権下に置くことを求めた。これを飲んだ十字軍はニカイア攻囲戦やドリュラエウムの戦いなどでイスラム軍を撃破し、アナトリアからシリアへと進軍していった。",
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"text": "途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略しつつエルサレムを目指した。この過程で十字軍による掠奪、虐殺、強姦があったとされる。イスラム教徒の諸領主は十字軍に対し無為無策であり、連合して応戦することもできず潰滅した。一方、十字軍側も分派や内部対立が目立ち始めた。",
"title": "概略"
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"text": "1098年にはブルゴーニュ伯ボードゥアンが東方のユーフラテス川上流部にあるエデッサに分派して進軍し、エデッサ伯国を立てた。本隊は1097年から1098年にかけてシリア北部の大都市アンティオキアでのアンティオキア攻囲戦に勝利したが、主要な将軍の一人であるボエモンがここに留まって領主となる姿勢を見せ、ボエモン1世 (アンティオキア公)となった。残る本隊はレーモン・サン・ジルとゴドフロワ・ド・ブイヨンらに率いられてなおも南下し、1099年、軍勢はついにエルサレムの征服に成功した。その後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムの王となり、レーモンは海岸部のトリポリの伯となった。こうしてシリアからパレスチナにかけての地中海東岸にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国という4つの十字軍国家がつくられた。",
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"text": "この成功に刺激され、1101年にも大規模な聖地遠征が行われた。この集団は各国から集まった庶民、第一回に従軍した領主や兵士が含まれていた。数団体に分かれてコンスタンティノープルを経由して陸路から小アジアに侵入したが、イスラム国家の連合軍の攻撃により壊滅して逃走。多くが死亡するか奴隷とされ、カイロを迂回するなどして聖地にたどり着けたのは少数だった。",
"title": "概略"
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"text": "1107年の秋から1110年にかけて、ノルウェー王シグル1世は直々に60隻の船とおおよそ5000人の兵を率いて聖地に向かった。シグル1世は聖地に十字軍として向かった最初の欧州の王である。各地の統治者の助力を得ながら、英国からジブラルタル、地中海そして聖地へと航海をし各地でイスラム勢力と交戦・略奪を繰り返しつつ、1110年に聖地に達した。このノルウェー十字軍は以前のヴァイキングの行動に類似しているが、キリスト教的目的もある程度達成している。その後一行はコンスタンティノープルから陸路で欧州を縦断し、行路のブルガリア、神聖ローマ帝国、デンマークなどの助力を得つつ、1113年にノルウェーに帰還した。",
"title": "概略"
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"text": "しばらくの間、中東において十字軍国家などキリスト教徒と、群小の都市からなるイスラム教徒が共存する状態が続いていたが、イスラム教徒が盛り返した。1144年にザンギーがエデッサ伯国を占領したことでヨーロッパで危機感が募り、教皇エウゲニウス3世が呼びかけて結成された。当時の名説教家クレルヴォーのベルナルドゥスが教皇の頼みで各地で勧誘を行い、フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世の2人を指導者に、多くの従軍者が集まったが全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。辛くもパレスチナに到着した軍勢も、当時十字軍国家と友好関係にあったダマスカスを攻撃したが失敗し、フランス王らは撤退した。",
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"text": "1187年にアイユーブ朝はジハード(聖戦)を宣言。アイユーブ朝の始祖でありイスラムの英雄であるサラーフッディーン(サラディン)は同年7月のヒッティーンの戦いで現地十字軍国家の主力部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムがイスラム側に占領、奪還された。その後もサラディンの軍は快進撃を続け、同年中にはアンティオキア、トリポリ、トルトザ、ティルスの4市とクラック・デ・シュヴァリエなど若干の要塞を除く十字軍国家の全てがアイユーブ朝の手に落ちた。",
"title": "概略"
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"text": "この状況を受け、教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。フリードリヒ1世は1190年にキリキアで川を渡ろうとしたところ落馬し、鎧のために溺死した。跡を継いだイングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世がサラーフッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった(アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)。しかしエルサレム陥落とヒッティーンの戦いの後遺症は大きく、以後十字軍国家は守勢に回ることとなった。",
"title": "概略"
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"text": "ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負ったヴェネツィアの意向を受けて輸送料の不足分支払のためハンガリーのザラ(現在のクロアチアのザダル)を攻略、同じキリスト教(カトリック)国を攻撃したことで教皇から破門される。ついで東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、この際十字軍側によるコンスタンティノポリス市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯ボードゥアンが皇帝になりラテン帝国を建国。やむなく教皇は追認し、さらにエルサレムを目指し遠征するよう要請するが実施されなかった。東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した(東ローマ帝国は57年後の1261年に復活)。なお、このコンスタンティノポリスの攻防を巡ってはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン (十字軍側)とニケタス・コニアテス(東ローマ側)という2人の優れた歴史家が記録を遺していることでも知られている。",
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"text": "教皇ホノリウス3世の呼びかけに応じたハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世らがエルサレム王国の国王ジャン・ド・ブリエンヌらとアッコンで合流し、アンドラーシュ2世は帰国したものの、レオポルトやジャンらはイスラムの本拠であるエジプトの攻略を目指した。1218年にエジプトの海港ダミエッタを包囲し、1219年に攻略。ここでアイユーブ朝側は旧エルサレム王国領の返還を申し出たのだが、あくまでも戦闘を続けエジプトの首都カイロを落とそうとする枢機卿ペラギウスとレオポルトやジャンが対立し、レオポルトやジャンは帰国。1221年には神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世からの援軍を受け攻勢に出たが、エジプト軍を打ち破ることができず大敗し、ペラギウスら残る全軍が捕虜となって十字軍は失敗に終わった。",
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"text": "グレゴリウス9世は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征を開始。故に「破門十字軍」「フリードリヒ十字軍」とも呼ばれる。当時エジプト・アイユーブ朝のスルタンアル=カーミルは内乱に悩まされており、フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなく1229年2月11日に平和条約(ヤッファ条約)を締結。フリードリヒは、聖墳墓教会はキリスト教徒に返されるがウマルのモスクとアル・アクサ寺院はイスラムが保持するとの条件でエルサレムの統治権を手に入れた。教皇グレゴリウス9世は、カトリック教会を破門されたままであった皇帝フリードリヒ2世がエルサレムの王となったことを口実に、フリードリヒに対する十字軍を実施したが皇帝軍に撃退され、1230年にフリードリヒの破門を解いた。",
"title": "概略"
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"text": "1239年から1241年にかけて、フランス・イングランド諸侯を中心とした男爵十字軍(英語版)という聖地遠征が行われた。この十字軍遠征は領域的観点から見ると、第1回十字軍以来最も成功した十字軍遠征であった。この十字軍は2つの軍団に分かれており、先発隊がナバラ王国の国王テオバルド1世によって、後発隊がコーンウォール伯(英語版)リチャードによって率いられていた。この男爵十字軍は最後のラテン皇帝ボードゥアン2世が目指していたコンスタンティノープル奪還のための遠征と並行して議論されることが多い。",
"title": "概略"
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"text": "1229年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は第6回十字軍の折、アイユーブ朝スルタンアル=カーミルと10年間の平和条約を締結した。しかし、この平和条約を締結時より非難していた当時の教皇グレゴリウス9世は、1234年に教皇勅書を発布し、条約の期限が切れると同時に十字軍遠征を行うよう広く諸侯に求めた。数多くのイングランド貴族やフランス貴族は十字架を取り参加を取り決めたが、十字軍の出陣は遅延した。なぜなら、自身が締結した条約が期限切れで破棄されるまで、フリードリヒ2世が他の十字軍諸侯の自領内通過を拒んだためであった。フリードリヒ2世は1239年に再び破門され、十字軍諸侯たちは彼の領地を避けて聖地に向かった。",
"title": "概略"
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"text": "十字軍に参加した諸侯のうち、フランス人諸侯の軍勢はナバラ国王テオバルド1世・ブルゴーニュ公ユーグ4世が率いており、それにアモーリ・ド・モンフォール(英語版)やブルターニュ公ピエール1世らが参加した。1239年9月、テオバルド1世はアッコに到着した。",
"title": "概略"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "この頃アイユーブ朝では内部対立が激化しており、テオバルド1世はその内戦に巻き込まれることとなった。1238年、第6回十字軍の際にフリードリヒ2世と平和条約を締結したアイユーブのスルタンアル=カーミルが崩御したのち、カーミルの2人の息子たちアル=サーリフとアル=アーディル2世がアイユーブ・カリフの座を巡って争っていた 。またカーミルの兄弟でサーリフの叔父であるアル=サーリフ=イスマイール(英語版)がサーリフからダマスカスを奪い取り、アル=アーディル2世を正統なスルタンと見做してサーリフに対抗するなどしており、アイユーブ朝は混乱していた。",
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"text": "そんな混乱した状況の中聖地に着陣したテオバルド1世は、アシュケロンを要塞化しエルサレム王国南部の国境の防御を固め、ダマスカスに進軍することを取り決めた。 その後十字軍はアッコからヤッファに進軍したが、同時にアイユーブ朝のエジプト軍も国境防衛のために進軍した。そして両者はガザの戦い(英語版)で激突した。",
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"text": "この戦いにおいて、一部の離反した十字軍は総大将テオバルド1世の指示や騎士団の助言に従わなかった。彼らはさらなる遅延をよしとせず敵に向かって進軍を続けたが、周到な準備をしなかったためにムスリム軍に敗れた。騎士団の軍事指揮官はテオバルド1世に対して、これ以上のエジプト軍の追撃を避け、フランク人捕虜の奪還も避けた上で撤退するよう進言し、十字軍はアッコまで撤退した。詳細はガザの戦い(英語版)を確認されたし。",
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"text": "ガザの戦いから1ヶ月後、カラクのエミールであったen: An-Nasir Dawudによって、事実上無防備のまま放置されていたエルサレムが掌握された。しかしアイユーブ朝では内部対立が続いていたため、このような状況に置かれたテオバルド1世はまだエルサレム返還を求めたアイユーブ朝との交渉を続けることができた。1240年9月、テオバルドはヨーロッパに向けて帰陣した。アッコにはブルゴーニュ公ユーグ4世が残り、アシュカロンの要塞化を支援した。",
"title": "概略"
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"text": "1240年8月、コーンウォール伯リチャード率いるイングランド人諸侯からなる第二遠征軍が到着した 。十字軍はヤッファに進軍し、その地でアイユーブ朝との講和条約を締結した。この条約はほんの数ヶ月前にテオバルドによって提唱されたものだった。リチャードは講和に同意し、1241年2月8日までにアイユーブ側もこれに同意した。そして4月13日、両者が有していた捕虜を解放した。アシュカロンの要塞化はこの間にもリチャードの軍勢の支援のもとで続けられ、1241年半ばごろに完成した。リチャードはこの新しい砦を帝国の代理人に任せ、1241年5月3日、イングランドに向けて帰っていった。",
"title": "概略"
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"text": "男爵十字軍が行われた頃と同時期に別の十字軍遠征も並行して行われていた。ラテン帝国の若き皇位継承者ボードゥアン2世によるニケーア帝国に対する遠征である。1239年7月、ボードゥアンは小規模の軍隊と共にコンスタンティノープルへ向けて旅立ち、1239年冬に無事コンスタンティノープルに到着した。そして1240年のイースター祭の前後に彼はラテン皇帝の帝冠を授かった。ラテン皇帝となったボードゥアンは、十字軍遠征を開始し、コンスタンティノープルから西方に75マイルの距離にあるニケーア帝国の要塞チョルル(英語版)を攻め落とした。",
"title": "概略"
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"text": "男爵十字軍の遠征により、エルサレム王国の版図は1187年以降最大となったものの、王国に対する支援は十字軍遠征後たった数年で急激に減少した。1244年7月15日、エルサレムは再びムスリムにより攻め落とされて廃墟と化した。エルサレムのキリスト教徒たちは、ホラズム朝の軍隊(英語版)によって虐殺された。そして数ヶ月後に発生したアイユーブ朝と十字軍の戦いであるラ・フォルビーの戦いで十字軍は壊滅し、聖地における十字軍の軍事力はほぼ壊滅した。エルサレムの陥落とそれに付随するキリスト教徒虐殺事件の知らせを受けたフランス王ルイ9世は、聖地を奪還せんと試み、新たな十字軍遠征を企図した。これにより更なる十字軍遠征、「第7回十字軍」が幕を開けるのである。",
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"text": "アル=カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落した。これを受け、1248年にフランス王ルイ9世(聖王ルイ)が十字軍を起こす。ルイも第5回や第6回と同じくイスラム教国中最大の国家であるエジプトへと遠征して海港ダミエッタを占領するが、さらに南の首都カイロを目指す途中の1250年2月にマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝のトゥーラーン・シャーに敗北して捕虜になった。交渉途中にトゥーラーン・シャー政権は軍人集団のマムルークのクーデターによって打倒され、新たに成立したマムルーク朝にルイは莫大な賠償金を払って釈放された。",
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"text": "フランス王ルイ9世が再度出兵。当時ハフス朝の支配下にあった北アフリカのチュニスを目指すが、途上で死去。",
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"text": "第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合がある。マムルーク朝の第5代スルタンとなったバイバルスの下でイスラム側は攻勢を強め、1268年にはアンティオキアを陥落させてアンティオキア公国を完全に滅亡させた。このときバイバルスがアンティオキア住民の全てを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏を刺激し、1271年にイングランド王太子エドワード(エドワード1世)とルイ9世の弟シャルル・ダンジューがアッコンに向かったが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。",
"title": "概略"
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"text": "以後、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡し、1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここにパレスチナにおける十字軍国家は全滅した(アッコの陥落)。",
"title": "概略"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。",
"title": "概略"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "一般的に十字軍といえば上記のエルサレムやイスラム諸国を目指した十字軍を指すが、十字軍とは教皇が呼びかけ、参加者に贖宥を与える軍事行動に与えられる名称であるため、上記の他にも様々な十字軍が行われた。これらの十字軍を大別すると、",
"title": "その他の十字軍"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "の4つに分けられる。上記のエルサレム十字軍やレコンキスタなどはキリスト教圏の回復、アルビジョア十字軍は異端討伐、北方十字軍は異教徒への布教征服に該当する。",
"title": "その他の十字軍"
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"text": "イベリア半島においては、キリスト教国だった西ゴート王国が711年にウマイヤ朝に敗れて滅亡した後、北部のキリスト教勢力と中南部のイスラム勢力とが抗争を繰り返していた。1031年に後ウマイヤ朝が滅亡するとキリスト教勢力が南進し、この中で1064年に教皇アレクサンデル2世によって初めて異教徒との戦いに贖宥が与えられ、以後の十字軍にも取り入れられた。",
"title": "その他の十字軍"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "パレスチナ十字軍の開始後も歴代教皇は度々イベリア半島に十字軍を宣し、中でも教皇インノケンティウス3世が1212年にイベリア半島の諸キリスト教国家の戦闘停止とムワッヒド朝に対する一致団結を求めた十字軍は、同年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いに勝利を収め、以後キリスト教勢力は急速に勢力を拡大して1251年までにグラナダのナスル朝を除く全てのイベリア半島を手中に収めた。",
"title": "その他の十字軍"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "バルト海沿岸には古来ヴェンド人や古プロイセン人、エストニア人、リトアニア人といった非キリスト教徒が居住していた。第2回十字軍が提唱された時、ドイツ北部の諸侯はエルサレムではなく隣接するこの地域への出兵を望んでいたため、1147年にこれらの北方異教徒への十字軍が認められ、ヴェンド十字軍が行われた。その約50年後、1193年に教皇クレメンス3世が再びバルト海沿岸の非キリスト教徒に十字軍を宣し、北方十字軍が開始された。当初はリヴォニア帯剣騎士団、やがてパレスチナよりイスラム教徒によって追放され北へと転進したドイツ騎士団によって毎年十字軍が行われ、この地方にドイツ人の東方植民が進んだ。",
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1209年、南フランスで盛んだった異端カタリ派を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。レスター伯シモン・ド・モンフォールに率いられた十字軍は各地で殺戮を行い、これに反発した南フランス諸侯の反撃はあったものの、フランス国王ルイ8世の主導の下十字軍は南フランスを制圧し、1229年に終戦した。",
"title": "その他の十字軍"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈している。のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告されている。",
"title": "十字軍の実態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "そして、イスラム教徒やユダヤ教徒など、異教の者へは虐殺をためらわず、マアッラ攻囲戦では双方の記録で、十字軍による食人が記録されている。またギリシャ正教など、他の宗派に属する者も冷遇した。",
"title": "十字軍の実態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "元々はエルサレムの回復を目的としていた十字軍であるが、後には、キリスト教徒から見た異教徒やローマ教皇庁から異端とされた教会や地方の討伐軍をも十字軍と呼ばれるようになった。このような例としてはアルビジョア十字軍などが知られており、ヨーロッパにおいても非難されることになる。",
"title": "十字軍の実態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ローマ教皇庁は1270年から十字軍についての意見調査を行っている。調査結果にはルイ9世の死は神の意思であるとするものや、不信心者は殺すのではなく改心させるべきとするものなど十字軍に否定的な意見が多数含まれていた。また、犯罪者が刑罰から逃れるために従軍していることから、一般人から十字軍参加者そのものが罪人とみなされていること、名誉を重んじる者が参加したがらないということも明らかにされた。十字軍が同じキリスト教徒に対しても行われたことは悪夢とみなされていた。これらの調査結果を受けてグレゴリウス10世は聖地奪回のための新たな十字軍を計画しなかった。",
"title": "十字軍の実態"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "平時において十字軍の成果を維持し続けていたのが十字軍国家である。現地において建国された4つの十字軍国家(エルサレム王国、トリポリ伯国、アンティオキア公国、エデッサ伯国)においては、彼らの軍事的根源地である西欧から遠く離れ、イスラム教徒に囲まれた最前線にあることから、強力な軍事力が常に求められた。これらの十字軍国家においては、当初は西欧と同じ封建制による貴族や騎士による軍事制度がしかれたが、第1回十字軍に参加した騎士の多くが帰国するなど当初から軍事力は不十分なものであった。これを補うために西欧からの移民が求められたが、1101年に出発したこの武装移民団は陸路移動の途中でイスラム勢力によって粉砕され、以後も大規模な移民団が来ることはほとんどなく、西欧人、ひいては軍事力の不足状態は続いた。もっとも、巡礼としてやってきた人々が移民としてそのまま居住するようになることは多く、西欧系の住民の補充は続いていた。1120年代からは入植者の増加が始まり、1180年代には十字軍国家におけるヨーロッパ人の人口は10万人から12万人にまで膨れ上がり、ヨーロッパ系の入植新村も建設されるようになった。しかし、それでもヨーロッパ系は全人口の20%程度にとどまり、イスラム教徒と対抗する軍事力の基盤とするには不足であったことに違いはない。",
"title": "軍制と文化"
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"text": "これを補うために作り出されたのが騎士修道会(騎士団)であり、1119年に創設されたテンプル騎士団と1113年に認可された聖ヨハネ騎士団、そしてそれにやや遅れて1197年に公認されたドイツ騎士団の三大騎士団がエルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家の防衛に当たった。",
"title": "軍制と文化"
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"text": "この地方に土着した貴族たちはイスラムの文化を少しずつ受け入れ、次第にイスラムに融和的な姿勢をとるようになっていった。これに対し、西方から新たに十字軍としてやってきた将兵はイスラムに敵対的な態度をとり、第2回十字軍の時に十字軍国家と同盟関係にあったダマスカスを攻撃するなど現地の事情を理解せずに軍事行動を起こすことも多く、両者は十字軍内でもしばしば対立を起こしている。",
"title": "軍制と文化"
},
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"text": "「十字軍」はキリスト教側の呼称であり、イスラム教徒側は「フランク」の侵攻と認識していた。",
"title": "イスラム側の認識"
},
{
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"text": "イスラム教徒の支配する中東は、中小の豪族が群雄割拠しており、互いに利害は一致しなかった。このことが、緒戦で数に劣る十字軍への敗退が相次いだ原因だった。イスラム教徒の反撃の端緒とされるザンギーやヌールッディーンは大義名分として、イスラム教勢力の統一とキリスト教徒撃退を挙げるようになるが、主要な敵はなお他のイスラム地方政権だった。イスラムの聖戦との認識が広まってきたのは、サラーフッディーンがイスラム勢力をほぼ統一し、エルサレムを陥落させる前後からで、第3回十字軍との戦いを通して確立されていったが、その後も、第6回十字軍の時のように、状況によってはキリスト教徒と妥協や共存することに抵抗を持っていなかった。",
"title": "イスラム側の認識"
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{
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"text": "2017年現在でも十字軍はイスラーム過激派からは目の敵とされているという意見はある。",
"title": "イスラム側の認識"
},
{
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"text": "1291年に全てのパレスチナがイスラム勢力下に入った後も小規模な遠征の事例があり、十字軍の名が冠されているものの(1308年のロドス十字軍、1343年~1351年のスミルナ十字軍、1344年のキプロス十字軍、1365年のサヴォイ伯十字軍、1440年ヴァルナ十字軍など)、本来の十字軍とは区別されている。その後、1453年にオスマン帝国の台頭によって東ローマ帝国が滅ぼされると、ローマ教皇ピウス2世は熱心に十字軍を提唱し(1459年・1463年)、応じる国は少なかったが、1464年には教皇自ら十字軍の出発地とされたアンコーナに赴いている。この地で教皇が逝去したため、直ちに遠征は中止された。",
"title": "その後"
},
{
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"text": "1683年の第二次ウィーン包囲失敗によるオスマン帝国の敗走によってローマ教皇インノケンティウス11世はオーストリア、ポーランド、ロシア、ヴェネツィアに神聖同盟を持ちかけている(後に大トルコ戦争に発展)。これは十字軍の名で語られていないが、意図するものがあった可能性がある。",
"title": "その後"
}
] |
十字軍とは、中世に西欧カトリック諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教勢力による対イスラム遠征軍を指すが、キリスト教異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)や北欧や東欧の非キリスト教圏に対する征服戦争(北方十字軍)などにも「十字軍」の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回十字軍は北アフリカのチュニスを標的としている。 なお、本項では十字軍の回数を8回とする。解釈によってその回数には差異がある。第1回から第4回までは多くの歴史記述で共通であるが、たとえば第5回(1218年-)を数えない説があったり、第6回(1228年-)は破門された神聖ローマ皇帝による私的な十字軍(フリードリヒ十字軍)として数えない例もあった。1270年の聖王ルイの出征まで8回(または7回)とすることが多いが、異論もある。回数で名付けられている主要な十字軍の他、個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、巡礼で聖地に到着した騎士や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも、聖地にそのまま住みついた騎士らや聖地で生まれ育った遠征軍の末裔らが作る十字軍国家が継続的にイスラム諸国と戦うのも、十字軍である。その他、第1回十字軍時の庶民十字軍、少年十字軍、羊飼い十字軍などの大小の民衆十字軍が起こっているものの、大部分は聖地にたどり着けていない。 「十字軍」という言葉が使われ始めたのは、いわゆる第1回十字軍から約1世紀後で、当初は、旅、巡礼等と呼ばれており、12世紀のキリスト教の巡礼につかわれる用語と区別がつかないものであった。中東の人々からは、Franks(フランク人達) や イフランキ、ルーム などと呼ばれていた。
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{{複数の問題
|独自研究=2013年1月
|出典の明記=2015年4月
|参照方法=2013年1月
}}{{Otheruses||映画|十字軍 (1935年の映画)}}
[[ファイル:SiegeofAntioch.jpeg|thumb|right|第1回十字軍による[[アンティオキア攻囲戦]]]]
{{Campaignbox 十字軍}}
{{Campaignbox 十字軍の戦闘}}
'''十字軍'''(じゅうじぐん、{{lang-la|cruciata}}、{{lang-fr|croisade}}、{{lang-en|crusade}})とは、[[中世ヨーロッパ|中世]]に[[西ヨーロッパ|西欧]][[カトリック教会|カトリック]]諸国が[[聖地]][[エルサレム]]を[[イスラム教]]諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。
一般には、上記の[[キリスト教]]勢力による対イスラム遠征軍を指すが、キリスト教[[異端]]に対する遠征軍([[アルビジョア十字軍]])や[[北ヨーロッパ|北欧]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]の非キリスト教圏に対する征服戦争([[北方十字軍]])などにも「十字軍」の名称は使われている。
実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、[[中東]]に既にあった諸教会([[正教会]]・[[東方諸教会]])の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、[[第4回十字軍]]や[[北方十字軍]]などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力である[[エジプト]]を目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある[[第8回十字軍]]は[[北アフリカ]]の[[チュニス]]を標的としている。
なお、本項では十字軍の回数を8回とする。解釈によってその回数には差異がある。第1回から[[第4回十字軍|第4回]]までは多くの歴史記述で共通であるが、たとえば[[第5回十字軍|第5回]](1218年-)を数えない説があったり、[[第6回十字軍|第6回]](1228年-)は[[破門#キリスト教|破門]]された[[神聖ローマ皇帝]]による私的な十字軍([[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ]]十字軍)として数えない例もあった。1270年の[[ルイ9世 (フランス王)|聖王ルイ]]の出征まで8回(または7回)とすることが多いが、異論もある。回数で名付けられている主要な十字軍の他、個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、[[巡礼]]で聖地に到着した[[騎士]]や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも、聖地にそのまま住みついた騎士らや聖地で生まれ育った遠征軍の末裔らが作る[[十字軍国家]]が継続的にイスラム諸国と戦うのも、十字軍である。その他、第1回十字軍時の[[民衆十字軍|庶民十字軍]]、[[少年十字軍]]、[[羊飼い十字軍]]などの大小の民衆十字軍が起こっているものの、大部分は聖地にたどり着けていない。
「十字軍」という言葉が使われ始めたのは、いわゆる[[第1回十字軍]]から約1世紀後で、当初は、旅(ラテン語:iter)、巡礼(ラテン語:peregrinatio)等と呼ばれており、12世紀のキリスト教の巡礼につかわれる用語と区別がつかないものであった<ref>八塚春児『十字軍という聖戦』([[NHKブックス]]1105、2008年)p.29。八塚はp.14-18で、「十字軍」という訳語は[[西周]]による[[造語]]ではないかと推定している。</ref>。中東の人々からは、Franks([[フランク人]]達) や イフランキ({{lang-ar|الإفر}})、ルーム({{lang-ar|الروم}}、ローマ人達) などと呼ばれていた。
== 概略 ==
=== 十字軍遠征までの経緯 ===
[[ファイル:Carte des croisades avec participation des Français.png|thumb|right|'''十字軍の遠征路''' 8回のうち、第3回、第4回、第7回、第8回は主な遠征路が海路となっている。なお、第5回と第6回は図上に示されていない。]]
[[トルコ人]]の[[イスラム王朝]]である[[セルジューク朝]]に[[アナトリア半島]]を占領された[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)[[皇帝]][[アレクシオス1世コムネノス]](在位[[1081年]]-[[1118年]])が、[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]に救援を依頼したことが発端([[1095年]])。このとき、大義名分として異教徒[[イスラム教国]]からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。皇帝アレクシオスが要請したのは[[東ローマ帝国]]への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。
ウルバヌス2世は[[1095年]]11月にクレルモンで行われた教会会議([[クレルモン公会議]]とも)の終わりに、集まった[[フランス]]の騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地[[カナン]]」という[[聖書]]由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた<ref>[[#山内 1997|山内 1997]], pp. 64-65.</ref>。
=== 民衆十字軍 ===
{{Main|民衆十字軍}}
* [[1096年]]
[[ファイル:Peter the Hermit.jpg|thumb|隠者ピエールに率いられた民衆十字軍]]
クレルモン公会議の決定を受けてヨーロッパ各地の諸侯や騎士は遠征の準備を始めたが、十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、[[1096年]]、彼らの出発する数ヶ月前に、フランスで[[説教師 (キリスト教)|説教師]]である[[アミアン]]の[[隠者ピエール]]に率いられた民衆や下級騎士の軍勢4万人がエルサレムを目指して出発した。これが[[民衆十字軍]]と呼ばれるものである。民衆十字軍は東上の途中で[[ユダヤ人]]を各地で虐殺し、[[ハンガリー王国]]やビザンツ帝国内で衝突を繰り返しながら[[小アジア]]に上陸したものの、統制の取れていない上に軍事力も弱い民衆十字軍は[[ルーム・セルジューク朝]]の[[クルチ・アルスラーン1世]]によって蹴散らされ、多くのものは殺されるか[[奴隷]]となり、何ら軍事的成果を上げることもなく崩壊した。しかしピエールらごく一部は生き延び、第1回十字軍へと再び参加した。
=== 第1回十字軍 ===
[[ファイル:1099 Siege of Jerusalem.jpg|thumb|200px|left|エルサレム攻囲戦]]
{{Main|第1回十字軍}}
* [[1096年]] - [[1099年]]
[[セルジューク朝]]の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]]の依頼により、[[1095年]]に[[ローマ教皇]][[ウルバヌス2世]]がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には[[免償]](罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけに応えた騎士たちは1096年にエルサレム遠征の軍を起こした。同年12月には各地から出発した諸侯はコンスタンティノープルに集結したものの、民衆十字軍の醜態を見ていた東ローマ皇帝は彼らに信を置かず、十字軍に臣下の誓いと旧帝国領の返還、聖地周辺の征服時には新国家を東ローマの宗主権下に置くことを求めた。これを飲んだ十字軍は[[ニカイア攻囲戦]]や[[ドリュラエウムの戦い]]などでイスラム軍を撃破し、[[アナトリア]]から[[シリア]]へと進軍していった。
途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略しつつエルサレムを目指した。この過程で十字軍による掠奪、虐殺、強姦があったとされる。イスラム教徒の諸領主は十字軍に対し無為無策であり、連合して応戦することもできず潰滅した。一方、十字軍側も分派や内部対立が目立ち始めた。
1098年には[[ボードゥアン1世 (エルサレム王)|ブルゴーニュ伯ボードゥアン]]が東方の[[ユーフラテス川]]上流部にある[[シャンルウルファ|エデッサ]]に分派して進軍し、[[エデッサ伯国]]を立てた。本隊は1097年から1098年にかけてシリア北部の大都市[[アンティオキア]]での[[アンティオキア攻囲戦]]に勝利したが、主要な将軍の一人であるボエモンがここに留まって領主となる姿勢を見せ、[[ボエモン1世 (アンティオキア公)]]となった。残る本隊は[[レーモン4世 (トゥールーズ伯)|レーモン・サン・ジル]]と[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]らに率いられてなおも南下し、[[1099年]]、軍勢はついに[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレムの征服]]に成功した。その後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムの王となり、レーモンは海岸部の[[トリポリ伯国|トリポリの伯]]となった。こうしてシリアから[[パレスチナ]]にかけての[[地中海]]東岸に[[エルサレム王国]]、エデッサ伯国、[[トリポリ伯国]]、[[アンティオキア公国]]という4つの[[十字軍国家]]がつくられた<ref>「図説 十字軍」p24-28 河出書房新社 櫻井康人 2019年2月28日初版発行</ref>。
==== 1101年の十字軍 ====
{{Main|1101年の十字軍}}
この成功に刺激され、[[1101年]]にも大規模な聖地遠征が行われた。この集団は各国から集まった庶民、第一回に従軍した領主や兵士が含まれていた。数団体に分かれて[[コンスタンティノープル]]を経由して陸路から小アジアに侵入したが、イスラム国家の連合軍の攻撃により壊滅して逃走。多くが死亡するか奴隷とされ、[[カイロ]]を迂回するなどして聖地にたどり着けたのは少数だった。
==== ノルウェー十字軍 ====
{{Main|ノルウェー十字軍}}
1107年の秋から1110年にかけて、[[シュル家|ノルウェー王シグル1世]]は直々に60隻の船とおおよそ5000人の兵を率いて聖地に向かった。シグル1世は聖地に十字軍として向かった最初の欧州の王である。各地の統治者の助力を得ながら、英国から[[ジブラルタル]]、地中海そして聖地へと航海をし各地でイスラム勢力と交戦・略奪を繰り返しつつ、1110年に聖地に達した。このノルウェー十字軍は以前の[[ヴァイキング]]の行動に類似しているが、キリスト教的目的もある程度達成している。その後一行はコンスタンティノープルから陸路で欧州を縦断し、行路の[[ブルガリア]]、[[神聖ローマ帝国]]、[[デンマーク]]などの助力を得つつ、1113年にノルウェーに帰還した。
=== 第2回十字軍 ===
{{Main|第2回十字軍}}
[[ファイル:Europe 1142.jpg|thumb|right|1142年のヨーロッパの状勢]]
*[[1147年]] - [[1148年]]
しばらくの間、中東において十字軍国家などキリスト教徒と、群小の都市からなるイスラム教徒が共存する状態が続いていたが、イスラム教徒が盛り返した。[[1144年]]に[[ザンギー]]が[[エデッサ伯国]]を占領したことでヨーロッパで危機感が募り、教皇[[エウゲニウス3世_(ローマ教皇)|エウゲニウス3世]]が呼びかけて結成された。当時の名説教家[[クレルヴォーのベルナルドゥス]]が教皇の頼みで各地で勧誘を行い<ref>[[#山内 1997|山内 1997]], pp. 69-71.</ref>、フランス王[[ルイ7世_(フランス王)|ルイ7世]]と神聖ローマ皇帝[[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]の2人を指導者に、多くの従軍者が集まったが全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。辛くもパレスチナに到着した軍勢も、当時十字軍国家と友好関係にあった[[ダマスカス]]を攻撃したが失敗し、フランス王らは撤退した。
=== 第3回十字軍 ===
{{Main|第3回十字軍}}
[[ファイル:Saladin the Victorious.jpg|thumb|right|イスラム諸国の英雄サラディン]]
* [[1189年]] - [[1192年]]
[[1187年]]に[[アイユーブ朝]]は[[ジハード]](聖戦)を宣言。アイユーブ朝の始祖でありイスラムの英雄である[[サラーフッディーン]](サラディン)は同年7月の[[ヒッティーンの戦い]]で現地十字軍国家の主力部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムがイスラム側に占領、奪還された。その後もサラディンの軍は快進撃を続け、同年中には[[アンティオキア]]、[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]、[[トゥルトーザ|トルトザ]]、[[ティルス]]の4市と[[クラック・デ・シュヴァリエ]]など若干の要塞を除く十字軍国家の全てがアイユーブ朝の手に落ちた。
この状況を受け、教皇[[グレゴリウス8世_(ローマ教皇)|グレゴリウス8世]]は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、[[イングランド]]の獅子心王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]、[[フィリップ2世 (フランス王)|フランス王フィリップ2世]]、[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]が参加した。フリードリヒ1世は[[1190年]]に[[キリキア]]で川を渡ろうとしたところ落馬し、[[鎧]]のために溺死した。跡を継いだイングランドと[[フランス]]の十字軍が[[1191年]]に[[アッコ|アッコン]]を奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世がサラーフッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった(アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)。しかしエルサレム陥落とヒッティーンの戦いの後遺症は大きく、以後十字軍国家は守勢に回ることとなった。
=== 第4回十字軍 ===
{{Main|第4回十字軍}}
[[ファイル:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 012.jpg|right|thumb|十字軍の[[コンスタンティノープル]]への入城([[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[1840年]]作)]]
* [[1202年]] - [[1204年]]
'''ローマ教皇'''[[インノケンティウス3世_(ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地[[エジプト]]攻略を目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負った[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の意向を受けて輸送料の不足分支払のため[[ハンガリー王国|ハンガリー]]のザラ(現在の[[クロアチア]]の[[ザダル]])を攻略、同じキリスト教(カトリック)国を攻撃したことで教皇から破門される。ついで東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]]を征服、この際十字軍側による[[コンスタンティノポリス]]市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯[[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン]]が皇帝になり[[ラテン帝国]]を建国。やむなく教皇は追認し、さらにエルサレムを目指し遠征するよう要請するが実施されなかった。東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した<ref>[[#井上 2008|井上 2008]], p. 229.</ref>(東ローマ帝国は57年後の1261年に[[コンスタンティノープルの回復 (1261年)|復活]])。なお、このコンスタンティノポリスの攻防を巡っては[[ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン ]](十字軍側)と[[ニケタス・コニアテス]](東ローマ側)という2人の優れた[[歴史家]]が記録を遺していることでも知られている。
=== 第5回十字軍 ===
{{Main|第5回十字軍}}
* [[1218年]] - [[1221年]]
[[ファイル:Andrew II on Holy Land.jpg|thumb|200px|right|第5回十字軍のアンドラーシュ2世]]
[[ファイル:João I de Brienne 1.jpg|thumb|200px|left|エルサレム国王[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]]]
教皇[[ホノリウス3世]]の呼びかけに応じたハンガリー王[[アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ2世]]、[[オーストリア公]][[レオポルト6世 (オーストリア公)|レオポルト6世]]らがエルサレム王国の国王[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]らとアッコンで合流し、アンドラーシュ2世は帰国したものの、レオポルトやジャンらは[[イスラム]]の本拠であるエジプトの攻略を目指した。1218年にエジプトの海港[[ダミエッタ包囲戦 (1218年–1219年)|ダミエッタを包囲]]し、1219年に攻略。ここでアイユーブ朝側は旧エルサレム王国領の返還を申し出たのだが、あくまでも戦闘を続けエジプトの首都[[カイロ]]を落とそうとする枢機卿ペラギウスとレオポルトやジャンが対立し、レオポルトやジャンは帰国。[[1221年]]には神聖ローマ皇帝の[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]からの援軍を受け攻勢に出たが、エジプト軍を打ち破ることができず大敗し、ペラギウスら残る全軍が捕虜となって十字軍は失敗に終わった<ref>[[#堀越 2006|堀越 2006]], pp. 344-345.</ref>。
=== 第6回十字軍 ===
{{Main|第6回十字軍}}
* [[1228年]] - [[1229年]]
[[ファイル:Fridrich2 Al-Kamil.jpg|thumb|200px|フリードリヒ2世とアル=カーミルの交渉<br />フリードリヒ2世:左から2番目の人物<br />アル=カーミル:中央の人物]]
[[グレゴリウス9世_(ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征を開始。故に「'''破門十字軍'''」「'''フリードリヒ十字軍'''」とも呼ばれる。当時エジプト・[[アイユーブ朝]]のスルタン[[アル=カーミル]]は内乱に悩まされており、フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなく1229年2月11日に平和条約(ヤッファ条約)を締結。フリードリヒは、[[聖墳墓教会]]はキリスト教徒に返されるがウマルの[[モスク]]とアル・アクサ寺院はイスラムが保持するとの条件でエルサレムの統治権を手に入れた。教皇グレゴリウス9世は、カトリック教会を破門されたままであった皇帝フリードリヒ2世がエルサレムの王となったことを口実に、'''フリードリヒに対する十字軍'''を実施したが皇帝軍に撃退され、1230年にフリードリヒの破門を解いた。
===1239年から1241年における十字軍===
{{main|en:Barons' Crusade}}
* [[1239年]] - [[1241年]]
1239年から1241年にかけて、フランス・イングランド諸侯を中心とした'''{{仮リンク|男爵十字軍|en| Barons' Crusade}}'''という聖地遠征が行われた。この十字軍遠征は領域的観点から見ると、[[第1回十字軍]]以来最も成功した十字軍遠征であった<ref>Burgturf, Jochen. "Crusade of 1239–1241". ''The Crusades: An Encyclopedia''. pp. 309-311.</ref>。この十字軍は2つの軍団に分かれており、先発隊が[[ナバラ王国]]の国王[[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]によって、後発隊が{{仮リンク|コーンウォール伯|en| Earl of Cornwall}}[[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]によって率いられていた<ref>[[Sidney Painter|Painter, Sidney]] (1977). "[http://images.library.wisc.edu/History/EFacs/HistCrus/0001/0002/reference/history.crustwo.i0027.pdf The Crusade of Theobald of Champagne and Richard of Cornwall, 1239-1241].". In Setton, K., ''A History of the Crusades: Volume II''. pp. 463-486.</ref>。この'''男爵十字軍'''は最後の[[ラテン帝国|ラテン皇帝]][[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]が目指していた[[コンスタンティノープル]]奪還のための遠征と並行して議論されることが多い<ref>Hendrickx, Benjamin. "Baldwin II of Constantinople". ''The Crusades: An Encyclopedia''. pp. 133–135.</ref>。
[[File:Beit_hanun_1239.jpg|thumb|{{仮リンク|マシュー・パリス|en|Matthew Paris}}の著作[[:en: Chronica majora]](13世紀)に描かれている「ガザの戦い」の挿絵。ムスリムに敗れた十字軍が描かれている。]]
1229年、[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]は[[第6回十字軍]]の折、[[アイユーブ朝]][[スルタン]][[アル=カーミル]]と10年間の平和条約を締結した。しかし、この平和条約を締結時より非難していた当時の教皇[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]は、1234年に[[教皇勅書]]を発布し、条約の期限が切れると同時に十字軍遠征を行うよう広く諸侯に求めた。数多くのイングランド貴族やフランス貴族は十字架を取り参加を取り決めたが、十字軍の出陣は遅延した。なぜなら、自身が締結した条約が期限切れで破棄されるまで、フリードリヒ2世が他の十字軍諸侯の自領内通過を拒んだためであった。フリードリヒ2世は1239年に再び破門され、十字軍諸侯たちは彼の領地を避けて[[聖地 (アブラハムの宗教)|聖地]]に向かった{{sfn|Runciman|1954|pp=205–220|loc=Legalized Anarchy}}。
十字軍に参加した諸侯のうち、フランス人諸侯の軍勢は[[ナバラ王国|ナバラ国王]][[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]・[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ公]][[ユーグ4世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ4世]]が率いており、それに{{仮リンク|アモーリ・ド・モンフォール (1241年没)|label=アモーリ・ド・モンフォール|en| Amaury de Montfort (died 1241)}}や[[ブルターニュ公国|ブルターニュ公]][[ピエール1世 (ブルターニュ公)|ピエール1世]]らが参加した<ref name=":252">[[Peter Jackson (historian)|Jackson, Peter]]. "The Crusades of 1239–1241 and Their Aftermath". ''Bulletin of the School of Oriental and African Studies'', Vol. 50, No. 1 (1987). pp. 32–60. {{jstor|61689}}.</ref>。1239年9月、テオバルド1世はアッコに到着した。
この頃アイユーブ朝では内部対立が激化しており、テオバルド1世はその内戦に巻き込まれることとなった。1238年、[[第6回十字軍]]の際にフリードリヒ2世と平和条約を締結したアイユーブのスルタン[[アル=カーミル]]が崩御したのち、カーミルの2人の息子たち[[サーリフ|アル=サーリフ]]と[[アル=アーディル2世]]がアイユーブ・カリフの座を巡って争っていた{{sfn|Gibb|1969|pp=703–709|loc=The Ayyubids from 1229–1244}} 。またカーミルの兄弟でサーリフの叔父である{{仮リンク|アル=サーリフ=イスマイール|en| Al-Salih Ismail, Emir of Damascus}}がサーリフから[[ダマスカス]]を奪い取り、アル=アーディル2世を正統なスルタンと見做してサーリフに対抗するなどしており、アイユーブ朝は混乱していた。
そんな混乱した状況の中聖地に着陣したテオバルド1世は、[[アシュケロン]]を要塞化し[[エルサレム王国]]南部の国境の防御を固め、ダマスカスに進軍することを取り決めた。
その後十字軍はアッコから[[ヤッファ]]に進軍したが、同時にアイユーブ朝のエジプト軍も国境防衛のために進軍した。そして両者は{{仮リンク|ガザの戦い (1239年)|label=ガザの戦い|en|Battle of Gaza (1239)}}で激突した<ref name=":233">Burgturf, Jochen. "Gaza, Battle of (1239)". ''The Crusades: An Encyclopedia''. pp. 498–499.</ref>。
この戦いにおいて、一部の離反した十字軍は総大将テオバルド1世の指示や騎士団の助言に従わなかった。彼らはさらなる遅延をよしとせず敵に向かって進軍を続けたが、周到な準備をしなかったためにムスリム軍に敗れた。騎士団の軍事指揮官はテオバルド1世に対して、これ以上のエジプト軍の追撃を避け、フランク人捕虜の奪還も避けた上で撤退するよう進言し、十字軍はアッコまで撤退した。詳細は{{仮リンク|ガザの戦い (1239年)|label=ガザの戦い|en|Battle of Gaza (1239)}}を確認されたし。
ガザの戦いから1ヶ月後、[[カラク (ヨルダン)|カラク]]のエミールであった[[:en: An-Nasir Dawud]]によって、事実上無防備のまま放置されていた[[エルサレム]]が掌握された。しかしアイユーブ朝では内部対立が続いていたため、このような状況に置かれたテオバルド1世はまだエルサレム返還を求めたアイユーブ朝との交渉を続けることができた。1240年9月、テオバルドはヨーロッパに向けて帰陣した。アッコにはブルゴーニュ公ユーグ4世が残り、アシュカロンの要塞化を支援した{{sfn|Tyerman|2006|pp=755–780|loc=The Crusades of 1239–1241}}。
1240年8月、[[コーンウォール伯]][[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]率いるイングランド人諸侯からなる第二遠征軍が到着した{{sfn|Tyerman|1996|pp=101–107|loc=The Crusade of Richard of Cornwall}} 。十字軍はヤッファに進軍し、その地でアイユーブ朝との講和条約を締結した。この条約はほんの数ヶ月前にテオバルドによって提唱されたものだった。リチャードは講和に同意し、1241年2月8日までにアイユーブ側もこれに同意した。そして4月13日、両者が有していた捕虜を解放した。アシュカロンの要塞化はこの間にもリチャードの軍勢の支援のもとで続けられ、1241年半ばごろに完成した。リチャードはこの新しい砦を帝国の代理人に任せ、1241年5月3日、イングランドに向けて帰っていった{{sfn|Richard|1999|pp=319–324|loc=The Barons' Crusade}}。
男爵十字軍が行われた頃と同時期に別の十字軍遠征も並行して行われていた。[[ラテン帝国]]の若き皇位継承者[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]による[[ニケーア帝国]]に対する遠征である。1239年7月、ボードゥアンは小規模の軍隊と共にコンスタンティノープルへ向けて旅立ち、1239年冬に無事コンスタンティノープルに到着した。そして1240年のイースター祭の前後に彼は[[ラテン皇帝]]の帝冠を授かった。ラテン皇帝となったボードゥアンは、十字軍遠征を開始し、コンスタンティノープルから西方に75マイルの距離にあるニケーア帝国の要塞{{仮リンク|チョルル|en| Tzurulum}}を攻め落とした<ref>[[J. B. Bury]] (1911). "[[wikisource:1911 Encyclopædia Britannica/Bury, John Bagnell|Baldwin II (emperor of Romania)]]" . In Chisholm, Hugh (ed.). ''Encyclopædia Britannica''. '''3.''' (11th ed.). Cambridge University Press. p. 867.</ref>。
男爵十字軍の遠征により、エルサレム王国の版図は1187年以降最大となったものの、王国に対する支援は十字軍遠征後たった数年で急激に減少した。1244年7月15日、[[エルサレム攻囲戦 (1244年)|エルサレムは再びムスリムにより攻め落とされ]]て廃墟と化した。エルサレムのキリスト教徒たちは、{{仮リンク|1231年から1246年におけるホラズム朝軍|label=ホラズム朝の軍隊| en|Khwarazmian army between 1231 and 1246}}によって虐殺された。そして数ヶ月後に発生したアイユーブ朝と十字軍の戦いである[[ラ・フォルビーの戦い]]で十字軍は壊滅し、聖地における十字軍の軍事力はほぼ壊滅した。エルサレムの陥落とそれに付随するキリスト教徒虐殺事件の知らせを受けた[[フランス王国|フランス王]][[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]は、聖地を奪還せんと試み、新たな十字軍遠征を企図した。これにより更なる十字軍遠征、'''「第7回十字軍」'''が幕を開けるのである{{sfn|Asbridge|2012|pp=574–576|loc=The Bane of Palestine}}。
=== 第7回十字軍 ===
{{Main|第7回十字軍}}
* [[1248年]] - [[1249年]]
アル=カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落した。これを受け、1248年にフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]](聖王ルイ)が十字軍を起こす。ルイも第5回や第6回と同じくイスラム教国中最大の国家であるエジプトへと遠征して海港[[ダミエッタ]]を占領するが、さらに南の首都[[カイロ]]を目指す途中の1250年2月に[[マンスーラの戦い (1250年)|マンスーラの戦い]]において[[アイユーブ朝]]の[[トゥーラーン・シャー]]に敗北して捕虜になった。交渉途中にトゥーラーン・シャー政権は軍人集団の[[マムルーク]]の[[クーデター]]によって打倒され、新たに成立した[[マムルーク朝]]にルイは莫大な賠償金を払って釈放された<ref>「図説 十字軍」p79-80 河出書房新社 櫻井康人 2019年2月28日初版発行</ref>。
=== 第8回十字軍 ===
{{Main|第8回十字軍}}
* [[1270年]]
フランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]が再度出兵。当時[[ハフス朝]]の支配下にあった北アフリカの[[チュニス]]を目指すが、途上で死去<ref>「図説 十字軍」p84 河出書房新社 櫻井康人 2019年2月28日初版発行</ref>。
=== 第9回十字軍 ===
[[ファイル:SiegeOfAcre1291.jpg|200px|thumb|[[アッコの陥落|1291年のアッコン包囲戦]]を描いた油絵。城壁上でメイスを振り上げる赤い外衣が[[聖ヨハネ騎士団|聖ヨハネ騎士団員]]。その横で[[槍]]を振るう白い外衣が[[テンプル騎士団|テンプル騎士団員]]である。1845年、ドミニク・ルイ・パプティ作。<ref>{{Cite book |和書 |title=名画で読み解く「世界史」 |others=祝田秀全(監修) |year=2013 |publisher=[[世界文化社]] |isbn=978-4-418-13225-6 |page=52}}</ref> ]]
{{Main|第9回十字軍}}
* [[1271年]] - [[1272年]]
第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合がある。マムルーク朝の第5代スルタンとなったバイバルスの下でイスラム側は攻勢を強め、[[1268年]]にはアンティオキアを陥落させて[[アンティオキア公国]]を完全に滅亡させた。このときバイバルスがアンティオキア住民の全てを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏を刺激し、1271年にイングランド王太子エドワード([[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]])とルイ9世の弟[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]がアッコンに向かったが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。
以後、[[レバント]]における十字軍国家は縮小の一途をたどり、[[1289年]]には[[トリポリ伯国]]が滅亡し、[[1291年]]にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここにパレスチナにおける十字軍国家は全滅した([[アッコの陥落]])<ref>「図説 十字軍」p87-88 河出書房新社 櫻井康人 2019年2月28日初版発行</ref>。
ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。
== その他の十字軍 ==
一般的に十字軍といえば上記のエルサレムやイスラム諸国を目指した十字軍を指すが、十字軍とは教皇が呼びかけ、参加者に贖宥を与える軍事行動に与えられる名称であるため、上記の他にも様々な十字軍が行われた。これらの十字軍を大別すると、
* 旧キリスト教圏の回復・奪回
* 異端への討伐軍
* 教皇に敵対する勢力への軍事行動
* 異教徒への布教・征服
の4つに分けられる。上記のエルサレム十字軍や[[レコンキスタ]]などはキリスト教圏の回復、アルビジョア十字軍は異端討伐、北方十字軍は異教徒への布教征服に該当する。
=== レコンキスタ ===
{{Main|レコンキスタ}}
[[イベリア半島]]においては、キリスト教国だった[[西ゴート王国]]が[[711年]]に[[ウマイヤ朝]]に敗れて滅亡した後、北部のキリスト教勢力と中南部のイスラム勢力とが抗争を繰り返していた。[[1031年]]に[[後ウマイヤ朝]]が滅亡するとキリスト教勢力が南進し、この中で[[1064年]]に教皇[[アレクサンデル2世 (ローマ教皇)|アレクサンデル2世]]によって初めて異教徒との戦いに贖宥が与えられ<ref>[[#堀越 2006|堀越 2006]], p. 240.</ref>、以後の十字軍にも取り入れられた。
パレスチナ十字軍の開始後も歴代教皇は度々イベリア半島に十字軍を宣し、中でも教皇インノケンティウス3世が[[1212年]]にイベリア半島の諸キリスト教国家の戦闘停止と[[ムワッヒド朝]]に対する一致団結を求めた十字軍は、同年の[[ナバス・デ・トロサの戦い|ラス・ナバス・デ・トロサの戦い]]に勝利を収め、以後キリスト教勢力は急速に勢力を拡大して[[1251年]]までに[[グラナダ]]の[[ナスル朝]]を除く全てのイベリア半島を手中に収めた。
=== 北方十字軍 ===
{{Main|北方十字軍}}
[[ファイル:Nevsky2.jpg|thumb|right|[[バルト海]]方面でも、異教徒や[[正教徒]]に対する[[北方十字軍]]が行われた。画像は1938年製の映画『[[アレクサンドル・ネフスキー (映画)|アレクサンドル・ネフスキー]]』において、[[プスコフ]]での[[チュートン騎士団]] (1240年)が再現されているもの。]]
[[バルト海]]沿岸には古来[[ヴェンド人]]や[[プルーセン|古プロイセン]]人、[[エストニア]]人、[[リトアニア]]人といった非キリスト教徒が居住していた。第2回十字軍が提唱された時、ドイツ北部の諸侯はエルサレムではなく隣接するこの地域への出兵を望んでいたため、[[1147年]]にこれらの北方異教徒への十字軍が認められ<ref>[[#山内 1997|山内 1997]], pp. 78-79.</ref>、[[ヴェンド十字軍]]が行われた。その約50年後、[[1193年]]に教皇[[クレメンス3世 (ローマ教皇)|クレメンス3世]]が再びバルト海沿岸の非キリスト教徒に十字軍を宣し、北方十字軍が開始された。当初は[[リヴォニア帯剣騎士団]]、やがてパレスチナよりイスラム教徒によって追放され北へと転進した[[ドイツ騎士団]]によって毎年十字軍が行われ、この地方にドイツ人の[[東方植民]]が進んだ。
=== アルビジョア十字軍 ===
{{Main|アルビジョア十字軍}}
* [[1209年]]-[[1229年]]
[[1209年]]、[[南フランス]]で盛んだった異端[[カタリ派]]を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。[[レスター伯]][[シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯爵)|シモン・ド・モンフォール]]に率いられた十字軍は各地で殺戮を行い、これに反発した南フランス諸侯の反撃はあったものの、フランス国王[[ルイ8世 (フランス王)|ルイ8世]]の主導の下十字軍は南フランスを制圧し、[[1229年]]に終戦した。
=== 羊飼い十字軍 ===
* [[1251年]]と[[1320年]]-[[1321年]]との二度ある。1321年には3万人がスペインの[[トゥデラ]]を襲い、現地のユダヤ人を殺戮した。
== 十字軍の影響 ==
[[ファイル:Richard I of England - Palace of Westminster - 24042004.jpg|thumb|right|250px|[[ロンドン]]の[[ウェストミンスター宮殿]]にあるリチャード1世の像]]
* 十字軍は、東方の文物が西ヨーロッパに到来するきっかけともなり、これ以降盛んになる東西の流通は、後の[[ルネサンス]]の時代を準備することにもなった。また近東地方の優れた城郭を実地に見た諸侯たちは各地でそれに倣って改良した城郭を建てた<ref>[[#パーシー 2001|パーシー 2001]], p. 78.</ref>。
* 11世紀以降盛んとなっていた地中海交易は、十字軍の輸送や補給、さらに西欧勢力がシリア・パレスチナといった地中海東岸の一角を抑えたことでより一層発展し、主な担い手である[[ヴェネツィア共和国]]と[[ジェノヴァ共和国]]はこの時期に隆盛を迎えた。特にヴェネツィアは第4回十字軍を利用してザラやコンスタンティノープルを抑え、最盛期を迎えている<ref>[[#石坂ら 1980|石坂ら 1980]], p. 23.</ref>
* 東ローマ帝国は、1261年に復活したものの第4回十字軍によって受けた打撃から立ち直れずに衰退し、[[1453年]]の滅亡に至った([[コンスタンティノープルの陥落]])。
* 西欧においては、十字軍は西欧が初めて団結して共通の神聖な目標に取り組んだ「聖戦」であり、その輝かしいイメージの影響力は後日まで使われた。後の北方や東方の異民族・異教徒に対する戦争ほか、植民地戦争などキリスト教圏を拡大する戦いは十字軍になぞらえられた。また異国への遠征や大きな戦争の際には、それが苦難に満ちていても、意義ある戦いとして「十字軍」になぞらえられた。
* 西洋では17世紀以降、戦争を伴わない宗教的な運動をも「十字軍」と呼ぶようになり、以来さらに使われる範囲が拡大し、英米では{{要出典範囲|「正義の味方」と言う意味|date=2019年6月}}の単語としてcrusadeと言う語を用いる。
** 現在では大きな目標を掲げた単なるキャンペーンのようなものも、「ゴミに対する十字軍」「文盲に対する十字軍」などのように「十字軍」に例えられている。「[[草刈り十字軍]]」は有名。{{要出典範囲|date=2013年10月|もっとも、十字軍の歴史の見直しやイスラム教徒に対する配慮などから近年では社会運動の名称などに使用されることは少なくなっている。}}
** [[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件|アメリカ大規模テロ事件]]では、[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が「this crusade, this war on terrorism(これは十字軍だ、これは[[テロリズム]]との戦争だ)」と発言し、イスラム教の反発を受け撤回した。しかし、ブッシュ政権による[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン侵攻]]、[[イラク戦争|イラク侵攻]]を「[[第十次十字軍]]」と{{誰範囲|date=2013年10月|呼ぶ者}}もあった。
* 北欧においては、[[近代]]に[[スウェーデン]]が[[フランス革命]]や、[[ロシア帝国]]による[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]に対する[[弾圧]]に対して欧州諸国に十字軍を呼びかけている。フランス革命においては、「[[反革命十字軍]]」と言われている。しかし[[19世紀]]に入ると最早、{{独自研究範囲|date=2013年10月|十字軍の名の使用は時代遅れとなっていた。}}
* [[ロシア帝国]]皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]も、[[オスマン帝国]]に対する十字軍を構想している。
* ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は十字軍や[[異端審問]]などについて公式に「異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。」として謝罪した。さらに、[[2001年]]には十字軍による虐殺があったことを正式に謝罪した。これはカトリック教会にとって、十字軍の評価に対する大きな転換であった。
== 十字軍の実態 ==
十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国や[[アンティオキア公国]]などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]](現[[イスタンブール]])を攻め落として[[ラテン帝国]]を築くなど、動機の不純さを露呈している。のみならず、同じカトリックの国である[[ハンガリー]]まで攻撃し、教皇に破門宣告されている。
そして、イスラム教徒やユダヤ教徒など、異教の者へは[[虐殺]]をためらわず、[[マアッラ攻囲戦]]では双方の記録で、十字軍による[[カニバリズム|食人]]が記録されている。また[[ギリシャ正教]]など、他の宗派に属する者も冷遇した。
元々はエルサレムの回復を目的としていた十字軍であるが、後には、キリスト教徒から見た異教徒や[[ローマ教皇庁]]から異端とされた教会や地方の討伐軍をも十字軍と呼ばれるようになった。このような例としては[[アルビジョア十字軍]]などが知られており、ヨーロッパにおいても非難されることになる。
ローマ教皇庁は[[1270年]]から十字軍についての意見調査を行っている。調査結果にはルイ9世の死は神の意思であるとするものや、不信心者は殺すのではなく改心させるべきとするものなど十字軍に否定的な意見が多数含まれていた。また、犯罪者が刑罰から逃れるために従軍していることから、一般人から十字軍参加者そのものが罪人とみなされていること、名誉を重んじる者が参加したがらないということも明らかにされた。十字軍が同じキリスト教徒に対しても行われたことは悪夢とみなされていた。これらの調査結果を受けて[[グレゴリウス10世_(ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]は聖地奪回のための新たな十字軍を計画しなかった<ref>[[#バッシュビッツ 1970|バッシュビッツ 1970]], pp. 71-72.<br /> 調査結果は Palmer A. Throop. 'Criticism of the Crusade'(『十字軍批判』), Amsterdam O. J.による。</ref>。
== 軍制と文化 ==
{{seealso|十字軍国家}}
[[ファイル:Krak des Chevaliers 01.jpg|thumb|right|[[クラック・デ・シュヴァリエ]]。聖ヨハネ騎士団によって建設され、当時の十字軍国家最大最強の要塞であった。]]
平時において十字軍の成果を維持し続けていたのが十字軍国家である。現地において建国された4つの十字軍国家([[エルサレム王国]]、[[トリポリ伯国]]、[[アンティオキア公国]]、[[エデッサ伯国]])においては、彼らの軍事的根源地である西欧から遠く離れ、イスラム教徒に囲まれた最前線にあることから、強力な軍事力が常に求められた。これらの十字軍国家においては、当初は西欧と同じ[[封建制]]による貴族や騎士による軍事制度がしかれたが、第1回十字軍に参加した騎士の多くが帰国するなど当初から軍事力は不十分なものであった。これを補うために西欧からの移民が求められたが、1101年に出発したこの武装移民団は陸路移動の途中でイスラム勢力によって粉砕され、以後も大規模な移民団が来ることはほとんどなく、西欧人、ひいては軍事力の不足状態は続いた。もっとも、巡礼としてやってきた人々が移民としてそのまま居住するようになることは多く、西欧系の住民の補充は続いていた。1120年代からは入植者の増加が始まり、1180年代には十字軍国家におけるヨーロッパ人の人口は10万人から12万人にまで膨れ上がり、ヨーロッパ系の入植新村も建設されるようになった。しかし、それでもヨーロッパ系は全人口の20%程度にとどまり、イスラム教徒と対抗する軍事力の基盤とするには不足であったことに違いはない<ref>[[#新人物往来社編 2011|新人物往来社編 2011]], pp. 42-45.</ref>。
これを補うために作り出されたのが[[騎士修道会]](騎士団)であり、[[1119年]]に創設された[[テンプル騎士団]]と[[1113年]]に認可された[[聖ヨハネ騎士団]]、そしてそれにやや遅れて1197年に公認された[[ドイツ騎士団]]の三大騎士団がエルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家の防衛に当たった<ref>「図説 十字軍」p36-37 河出書房新社 櫻井康人 2019年2月28日初版発行</ref>。
この地方に土着した貴族たちはイスラムの文化を少しずつ受け入れ、次第にイスラムに融和的な姿勢をとるようになっていった。これに対し、西方から新たに十字軍としてやってきた将兵はイスラムに敵対的な態度をとり、第2回十字軍の時に十字軍国家と同盟関係にあった[[ダマスカス]]を攻撃するなど現地の事情を理解せずに軍事行動を起こすことも多く<ref>[[#笈川 2010|笈川 2010]], p. 145.</ref>、両者は十字軍内でもしばしば対立を起こしている。
== イスラム側の認識 ==
「十字軍」はキリスト教側の呼称であり、イスラム教徒側は「[[フランク人|フランク]]」の侵攻と認識していた。
イスラム教徒の支配する中東は、中小の豪族が群雄割拠しており、互いに利害は一致しなかった。このことが、緒戦で数に劣る十字軍への敗退が相次いだ原因だった。イスラム教徒の反撃の端緒とされる[[ザンギー]]や[[ヌールッディーン]]は大義名分として、イスラム教勢力の統一とキリスト教徒撃退を挙げるようになるが、主要な敵はなお他のイスラム地方政権だった。イスラムの[[聖戦]]との認識が広まってきたのは、[[サラーフッディーン]]がイスラム勢力をほぼ統一し、エルサレムを陥落させる前後からで、[[第3回十字軍]]との戦いを通して確立されていったが、その後も、[[第6回十字軍]]の時のように、状況によってはキリスト教徒と妥協や共存することに抵抗を持っていなかった。
2017年現在でも十字軍は[[イスラーム過激派]]からは目の敵とされているという意見はある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/08/isis-144.php |title=ISISがバチカンを襲うのは時間の問題だ |publisher=[[ニューズウィーク]]日本語版 |date=2017-8-28 |accessdate=2017-9-20}}</ref>。
== その後 ==
[[1291年]]に全ての[[パレスチナ]]がイスラム勢力下に入った後も小規模な遠征の事例があり、十字軍の名が冠されているものの([[1308年]]の[[ロドス島#中世|ロドス十字軍]]、[[1343年]]~[[1351年]]の[[スミルナ十字軍]]、[[1344年]]の[[キプロス]]十字軍、[[1365年]]の[[サヴォイア十字軍|サヴォイ伯十字軍]]、[[1440年]][[ヴァルナの戦い|ヴァルナ十字軍]]など)、本来の十字軍とは区別されている。その後、[[1453年]]に[[オスマン帝国]]の台頭によって東ローマ帝国が滅ぼされると、ローマ教皇[[ピウス2世_(ローマ教皇)|ピウス2世]]は熱心に十字軍を提唱し([[1459年]]・[[1463年]])、応じる国は少なかったが、[[1464年]]には教皇自ら十字軍の出発地とされた[[アンコーナ]]に赴いている。この地で教皇が逝去したため、直ちに遠征は中止された。
[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲]]失敗によるオスマン帝国の敗走によってローマ教皇[[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]]はオーストリア、[[ポーランド王国|ポーランド]]、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]に[[神聖同盟 (1684年)|神聖同盟]]を持ちかけている(後に[[大トルコ戦争]]に発展)。これは十字軍の名で語られていないが、意図するものがあった可能性がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=石坂昭雄 |author2=壽永欣三郎 |author3=諸田實 |author4=山下幸夫 |title=商業史 |publisher=[[有斐閣]] |series=有斐閣双書 入門・基礎知識編 |date=1980-11-20 |isbn=978-4-641-05617-6 |ref=石坂ら 1980 }}
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* {{Cite book|和書|author=堀越孝一|authorlink=堀越孝一 |title=中世ヨーロッパの歴史 |publisher=講談社 |series=講談社学術文庫 1763 |date=2006-05 |isbn=978-4-06-159763-1 |ref=堀越 2006 }}
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=== 関連書籍 ===
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* {{Cite book|和書|last=リシャール |first=ジャン |authorlink=:en:Jean Richard (historian) |others=[[宮松浩憲]]訳 |title=十字軍の精神 |publisher=法政大学出版局 |series=りぶらりあ選書 |date=2004-06 |isbn=978-4-588-02221-0 }}
== 関連項目 ==
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* [[騎士]]
* [[テンペスト]]
*[[騎士団]]
** [[ドイツ騎士団]]
** [[リヴォニア帯剣騎士団]]
** [[マルタ騎士団]]
** [[騎士修道会]]
* [[十字軍国家]]
* [[ウトラメール]]
* [[少年十字軍]]
* [[アルビジョア十字軍]]
* [[北方十字軍]]
* [[ノルウェー十字軍]]
* [[フス戦争]]
* [[フランクとモンゴルの同盟]]
* [[貞操帯]]
* [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]
* [[第十次十字軍]]
* [[貧者十字軍]]
* [[反イスラーム主義]]
* [[メディーバル2:トータルウォー]]
* [[キングダム・オブ・ヘブン|キングダム・オブ・ヘブン(映画)]]
* [[フランコクラティア]] - 第4次十字軍以降に旧ビザンツ帝国領に形成されたフランス系・イタリア系の十字軍国家の総称
*[[マーディア十字軍]]
*[[ニコポリスの戦い]]
== 外部リンク ==
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ベトナム戦争
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ベトナム戦争(べとなむせんそう、ベトナム語:Chiến tranh Việt Nam / 戰爭越南、英語: Vietnam War)は、当時南北に分断されていたベトナムで社会主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)と資本主義のベトナム共和国(南ベトナム)の間で勃発した戦争であり、冷戦中に起こった資本主義と社会主義の代理戦争であるとされる。経済力・物量の差から「象と蟻」の戦いと揶揄された。
ベトナムの南北両国では以前から対立が続いており、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された反政府組織である南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)が活動して南ベトナムの警察や軍などと争いが起こっていた。南ベトナムの同盟国であるアメリカ合衆国(アメリカ)は以前から軍事顧問を送り込むなどして南ベトナムを援助していたが、1964年8月のトンキン湾事件を契機として全面的な軍事介入を開始した。南北ベトナムと解放戦線、そしてアメリカは一気に全面戦争に突入したが、アメリカ軍は北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦し、最終的に和平協定を結んで撤退した。戦争はその後、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させるまで続いた。
また、この戦争に参戦したのは南北ベトナムや解放戦線、アメリカだけでない。それはそれぞれに味方し支援する同盟国であり、それらの国々は戦争初期から同盟国軍として参戦している。具体的には北ベトナムに味方したのは同じ東側諸国に属する社会主義国であり、軍事顧問を派遣したソビエト連邦(ソ連)や防空作戦部隊や工兵部隊を派遣した中華人民共和国(中国)、空軍のパイロットを派遣した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などである。また、南ベトナムに味方したのは同じく西側諸国に属する資本主義国であり、28,000人から4,5000人の国軍部隊や50,000の役務要員を派遣した大韓民国(韓国)や3,000人の部隊を派遣したオーストラリア、それぞれ2,000人の部隊を派遣したタイ王国やフィリピン、戦車部隊や医師など200人を派遣したニュージーランドなどであり、間接的な協力では心理戦や農業部門で関与した中華民国(台湾)や医療関係で協力した日本なども挙げられる。そして両陣営の兵士や戦士、民間人ゲリラなどが泥沼の戦いを行ったため多くの人々が犠牲となる大変悲惨な結果となった。その後1973年にパリ和平協定が締結されアメリカ軍などは撤退。その後も戦闘は続き、結果的に北ベトナム側の勝利に終わり南ベトナムはサイゴン陥落によって無条件降伏し政権は崩壊した。なお、この戦争ではベトナムだけでなく、周辺諸国であるラオスやカンボジアにも戦火は拡大しており、それぞれラオスではラオス王国とパテート・ラーオが戦い、カンボジアではクメール共和国とカンボジア王国・クメール・ルージュの連合軍が戦い、こちらでも社会主義国側の勝利に終わっているが、やはり多くの人々が被害を受けている。これらはそれぞれラオス内戦、カンボジア内戦と呼ばれており、結局インドシナ半島の3カ国は全て社会主義の国となった。
この紛争は、第二次世界大戦後にフランスと共産党率いるベトミンとの間で起きた第一次インドシナ戦争に端を発する。1954年にフランスがディエンビエンフーの戦いで大敗し、ジュネーブ協定によって最終的にインドシナ半島から撤退した後、アメリカは南ベトナム国家への財政的・軍事的支援を開始した。北ベトナムの指示を受けた南ベトナムの共同戦線であるヴィエト・ゾン(Front national de libération du Sud-Viêt Nam、NLF (the National Liberation Front)、南ベトナム解放民族戦線。ベトナム共産党に因みベトコンとも呼ばれる)は、南部でゲリラ戦を開始した。北ベトナムは1950年代半ば、反乱軍を支援するためにラオスにも侵攻し、ホーチミン・ルートを確立してベトコンを補給・強化していた。アメリカの関与はジョン・F・ケネディ大統領の下でMAAGプログラムを通じてエスカレートし、1959年には1000人弱だった軍事顧問が1964年には2万3000人に達した。1963年までに、北ベトナムは4万人の兵士を南ベトナムに派遣していた。
1964年8月初旬のトンキン湾事件では、アメリカの駆逐艦が北ベトナムの高速攻撃艇から魚雷攻撃を受けたとされた。これを受けて、アメリカ議会はトンキン湾決議を可決し、リンドン・B・ジョンソン大統領にベトナムにおけるアメリカ軍のプレゼンスを高める広範な権限を与えた。ジョンソンは、初めて戦闘部隊の派遣を命じ、兵力を18万4,000人に増強した。ベトナム人民軍(PAVN、北ベトナム軍(NVA)とも呼ばれる)は、米軍および南ベトナム軍との間で通常の戦争を行った。進展は無かったが、米国は大幅な軍備増強を続けた。戦争の立役者の一人であるロバート・マクナマラ国防長官は、1966年末には勝利を疑うようになっていた。米軍と南ベトナム軍は、航空優勢と圧倒的な火力を頼りに、地上部隊、砲兵隊、空爆を伴う索敵・破壊作戦を展開した。また、アメリカは北ベトナムやラオスに対して大規模な戦略爆撃を行った。北ベトナムは、ソ連と中華人民共和国の支援を受けていた。1967年にはタムクアンの戦いが南ベトナムで起こっている。
1968年のテト攻勢でベトコンと北ベトナム軍が大規模な攻勢をかけたことで、アメリカ国内の戦争に対する支持が薄れ始めた。テトの後、放置されていたベトナム共和国陸軍(ARVN)は、アメリカのドクトリンを手本に拡大していった。テト攻勢とそれに続く1968年のアメリカ軍・ベトナム共和国陸軍の作戦で、ベトコンは5万人以上の兵士を失うという大損害を被った。 CIAのフェニックス作戦は、ベトコンの人員と能力を更に低下させた。この年の終わりまでに、ベトコンの反乱軍は南ベトナムに殆ど支配地域を持たなくなり、1969年には徴兵が80%以上も減少し、それはゲリラ活動が激減したことを意味し、北からの北ベトナム軍正規兵の動員を増やす必要があった。1969年、北ベトナムは南ベトナムに暫定革命政府を宣言し、減少したベトコンに国際的な地位を与えようとしたが、北ベトナム軍がより通常の複合武器戦を開始したため、それ以降、南部ゲリラは脇に追いやられるようになった。1970年には、南部の共産党軍の70%以上が北部人となり、南部人を主体としたベトコン部隊は存在しなくなった。活動は国境を越えて行われた。北ベトナムは早くからラオスを補給路として利用していたが、1967年からはカンボジアも利用していた。カンボジアを経由するルートは1969年からアメリカの爆撃を受け始めたが、ラオスのルートは1964年から激しい爆撃を受けていた。カンボジア国民議会が君主ノロドム・シハヌークを退陣させたことにより、クメール・ルージュの要請を受けた北ベトナム軍の侵攻を受け、カンボジア内戦が激化し、米軍・ベトナム共和国陸軍の反攻(カンボジア作戦)を受けることになった。
1969年、リチャード・ニクソン大統領の当選を受けて、「ベトナミゼーション」政策が開始された。この政策により、紛争は拡大したベトナム共和国陸軍によって戦われることになり、米軍は国内の反発や徴兵の減少により、ますます士気が低下していったのである。米軍の地上部隊は1972年初めまでにほぼ撤退し、支援は航空支援、砲兵支援、顧問、物資輸送に限られていた。ベトナム共和国陸軍は、米国の支援に支えられ、1972年のイースター攻防戦で、最初で最大の機械化された北ベトナム軍の攻勢を阻止した。この攻勢は双方に大きな犠牲をもたらし、北ベトナム軍は南ベトナムを制圧することが出来なかったが、ベトナム共和国陸軍自身も全ての領土を奪還することが出来ず、その軍事的状況は厳しいものであった。1973年1月のパリ協定により、米軍は全て撤退し、8月15日に米議会で可決されたケース・チャーチ修正条項により、米軍の直接的な関与は正式に終了した。和平協定はすぐに破棄され、戦闘は更に2年間続いた。1975年4月17日、プノンペンがクメール・ルージュにより陥落し、4月30日には1975年春の攻勢で北ベトナム軍がサイゴンを占領し、最後のアメリカ兵がヘリコプターでサイゴンを脱出し、戦争は終結した。その時、ホーチミン死後6年を経過していた。北ベトナム及び民族解放戦線は、膨大な犠牲者と荒廃した国土を引き換えに、勝利者として国際社会から認定され、翌年には南北ベトナムが統一された。
戦争の規模は膨大であり、被害は甚大である。1970年までに、ベトナム共和国陸軍は世界で4番目に大きな軍隊となり、北ベトナム軍も約100万人の正規兵を擁していた。また、民間人含むベトナム側は300万人以上、米軍兵士5万8,220人、カンボジア人27万5,000~31万人、ラオス人2万~6万人が死亡し、さらに1,626人が行方不明となっている。ベトナムは米国が太平洋戦争で使用した弾薬の2.4倍を国土に投下され、 7200万リットルの枯葉剤を南部 70万ha に投下され、3世、4世にまで被害が出続けている。
ベトナム戦争の小康状態を経て、中ソ対立が再燃した。北ベトナムとその同盟国であるカンボジアのカンプチア王国政府、および新たに結成された民主カンプチアとの間の紛争は、クメール・ルージュによる一連の国境侵犯でほぼ開始され、最終的にはカンボジア・ベトナム戦争へと発展していった。中国軍がベトナムに直接侵攻した中越戦争では、その後1991年まで国境紛争が続いた。統一されたベトナムは、3つの国で反乱軍と戦った。この戦争が終わり、第3次インドシナ戦争が再開されると、ベトナムのボートピープルや、より大きなインドシナ難民危機が引き起こされることになる。数百万人の難民がインドシナ(主にベトナム南部)を離れ、そのうち25万人が海で死んだと推定されている。アメリカ国内では、この戦争をきっかけに、アメリカの海外での軍事活動に嫌悪感を抱く「ベトナム・シンドローム」と呼ばれる現象が発生 し、ウォーターゲート事件と相まって、1970年代のアメリカを支配した信頼の危機を引き起こした。
19世紀にベトナム(阮朝)はフランス帝国の植民地となる。7月王政時代のフランス帝国(フランス植民地帝国)国王ルイ=フィリップ1世は、1834年にアルジェリアを併合し、1838年にはメキシコで菓子戦争を起こして介入、1844年にはアヘン戦争で敗れた清と黄埔条約を締結した。そして、1847年4月、ベトナムの植民地化を図り、フランス軍艦によるダナン砲撃によるインドシナ侵略を始める。
フランス第二帝政のナポレオン3世も東方へのフランス勢力拡大に熱心で、フランス海軍司令官に大幅な自由裁量権を与え、アジア太平洋地域では強硬な帝国主義政策が遂行された。太平洋では、ニュージーランドを併合したイギリスへの対抗、またオーストラリアとの貿易の拠点および犯罪者の流刑地にする目論見で1853年にニューカレドニアを併合した。
1856年10月にイギリスがアロー号事件を口実に清へ出兵すると、フランスも清の江西省でフランス人宣教師のオーギュスト・シャプドレーヌが殺害された事件を口実として清への出兵を開始し、英仏は協力してアロー戦争を遂行する(第二次アヘン戦争)。フランスは清侵略と並行して清周辺地域への侵略も開始し、同1856年、阮朝(ベトナム)に対して不平等条約締結に応じるよう要求したが、阮朝が拒否したため、スペイン人宣教師死刑を口実として1857年よりベトナム侵攻を開始し、1858年9月にはフランス・スペイン連合艦隊によって再度ダナンに侵攻する。同1858年、英仏軍による北京陥落を恐れた清政府は天津条約の締結に応じ、一時終戦した。しかし、英仏軍が撤収するや清政府は条約批准を拒否して発砲、1860年に英仏軍が攻撃を再開、北京は陥落する。清はさらに不利な北京条約を締結させられた。フランスは日本とも1858年徳川幕府との間に不平等条約日仏修好通商条約を締結したが、ここでは英仏の協調は崩れ、フランスは徳川幕府、イギリスは薩長を支持して対立、幕府は明治維新で倒れ、また明治政府は対等外交を志向したため、幕府を通じて日本に影響力を行使しようとした目論見は潰えた。
フランスはその後1862年6月に阮朝に不平等条約であるサイゴン条約を結ばせ、南部3省を割譲させた。阮朝の宗主権下にあったカンボジア王国では、カンボジア人の反ベトナム感情を利用して1863年にフランス保護国に組み込むことに成功した。1866年には李氏朝鮮に対してフランス人宣教師死刑を口実に戦争を仕掛けたが(丙寅洋擾)持久戦に持ち込まれ、撤退した。1867年6月にはベトナム南部のコーチシナへ侵攻し、併合に成功。シャム(タイ)にも英米に続いて不平等条約を締結させたが、フランスとの対立激化を恐れたイギリスが同地を緩衝地帯にすることを望み、フランスのタイ分割案を牽制したこともあって、タイは植民地化をまぬがれた。
フランス第三共和政時代の1874年3月、第2次サイゴン条約を締結、フランスは紅河通商権を割譲させる。1882年4月にはハノイを占領する。1883年8月には第1次フエ条約(アルマン条約、癸未条約)を締結しベトナムがフランスの保護国になる。翌1884年6月には清への服属関係を断つ第2次フエ条約(パトノートル条約、甲申条約)締結に成功する。その2か月後にベトナムへの宗主権を主張する清との間で清仏戦争がはじまる。1885年6月9日に締結された講和条約である天津条約(李・パトノートル条約)では清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権を認めた。1887年10月、フランス領インドシナ連邦が成立する。こうしてベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。1889年4月にはラオス保護国を併合した。
1900年代になると、ベトナム知識人の主導で民族主義運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日露戦争でアジアの一国である日本がヨーロッパの帝国の一つであるロシア帝国に勝利したことに感銘を受けて大日本帝国に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが植民地解放を支援し、ベトナムの民族運動も、コミンテルンとの連携のもとで展開していく。こうしたなか、1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たし、ベトナム民族が独立することは1945年のベトナム独立宣言でも謳われ、のちの第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)でも、理念であり続け、戦争を持続させた原動力であった。
日中戦争当時、英米は援蔣ルートを通じて中華民国の蔣介石率いる国民党軍拠点の重慶に支援物資を輸送していた。援蔣ルートのうち、フランス領インドシナのハイフォン港から昆明、南寧までの鉄道輸送を行う仏印ルートが重要なものであった。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年にはフランスがドイツに敗北し全土をドイツ軍の占領下に置かれ、その後親独政権であるヴィシー政権が成立した。これを受けてフランスの植民地政権がヴィシー政権側につくことを選択したことで、1940年7月27日にドイツとの間で日独伊三国同盟を結んでいた日本政府(第2次近衛内閣)は「時局処理要綱」において仏印進駐を決定。8月30日に松岡・アンリ協定が結ばれ、ヴィシー政権およびフランス植民地政府が日本の経済的優先権および軍事的便宜を認める見返りとして、日本がインドシナにおけるフランスの主権とインドシナの領土保全を約束することで合意した。
このため仏印進出は平和進駐となることが通達されていたが、9月22日には大日本帝国陸軍が越境し、これを受けてフランス軍と第5師団(中村明人中将)が衝突し、日本軍がランソンを軍事制圧する。9月26日に日本軍は北部インドシナに進駐し、仏印援蔣ルートは遮断された。国境監視団は澄田睞四郎少将(澄田機関)が行った。ベトナム人は日本軍を、過酷な植民地支配を続けるフランス人を追い出した「救国の神兵」として歓迎し、さらに駐留日本軍はベトナム国民党などの独立運動を支援しようとする。しかし、松岡・アンリ協定によってフランスのインドシナ領有を尊重する約束が交わされており、東京の大本営は独立支援を許可しなかった。
その2か月後にフランス軍が再度ランソンに進軍。このとき、澄田機関から独立運動を応援するといわれていたチャン・チョン・ラップらが決起するが、フランス軍に制圧され、青年独立義兵が多数処刑されるランソン事件が起こる。逃れた義兵は中華民国でベトミンに合流するが、この事件は日本軍がベトナムの愛国者を見殺しにした事件としても記憶される。
(1945年ベトナム飢饉も参照)
ヴィシー政権統治下および日本軍進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大飢饉が発生し、20万人以上、ホーチミンの主張では200万人が餓死する事態が発生する。コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した。また、フランス政庁も反日感情をあおるために保有米を廃棄するなどした。この飢饉がベトミンの勢力拡大の決定的な機会となった。
日本は1943年5月の御前会議で「大東亜政略指導大綱」を決定し、イギリスの植民地であったビルマと、アメリカの植民地であったフィリピンの独立を承認、戦局が悪化しつつあった1944年9月には、小磯国昭首相がオランダの植民地であったインドネシアの独立承認を言明する。フランス領インドシナについては、1944年8月に連合国軍と自由フランスによるフランス全土の開放によってヴィシー政権が崩壊すると、仏印処理によって即時独立付与が実施される。
イギリスやアメリカ、中華民国などの連合軍と、今や本国が友邦ドイツの敵国の自由フランスの手に落ちたフランス植民地軍との挟撃の可能性を断つために、1945年2月28日に大本営は南方軍総司令官に対してフランス領インドシナの武力処理・明号作戦を通達する。現地フランス軍は9万人、日本軍は4万人であったため、奇襲攻撃を3月9日午後10時にインドシナ全域で開始、翌日午前中までにはフランス植民地軍とフランスインドシナ植民地政府を制圧する。バオ・ダイ皇帝は涙を流しながら「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と語り、3月11日にはベトナム帝国樹立を宣言する。
当時ベトナムでは「日本は笑い、フランスは泣き、中国は心配し、独立したベトナムでは餓死者が道に溢れる」とうたわれ、ハノイの雑誌「タインギ」編集長のヴー・ディン・ホエは日本による独立付与を「天から降ってきた独立」と表現した。他方、ベトミン中央委員会は3月12日、闘争指令を発し、日本軍に対する攻撃を各地で活発化させる。大飢饉の問題については日本軍が引き続き食料供出を要求していたこともあり、このような「独立付与」の枠内では飢饉を解決することはできず、ベトミンによる「日本の倉庫を襲撃せよ」という運動は北部農村で浸透していった。
1945年8月10日午後8時に日本政府がポツダム宣言受諾を連合軍に通知したとの短波放送を行い、8月12日午前0時頃、サンフランシスコ放送は連合国の回答を放送した。ラジオで情報を得たホーチミンは日本軍降伏を革命のチャンスとみなし、フランス軍の再進駐より前に実権を奪うことを計画する。8月13日からのアンザン省タンチャウ総司令部での会議では、中華民国やイギリス、アメリカとの紛争を避けて、「味方を多く、敵を少なく、すべての侵略に反対する」という方針が決定された。
なお、結果的に日本が降伏した8月15日以降、アメリカ軍は9月4日、中華民国軍は9月9日、イギリス軍は9月13日、フランス軍は10月5日に至るまでベトナムに上陸しなかったため(マスタードム作戦)、日本軍は武装を解かれず、駐屯フランス軍部隊は明号作戦から拘束されたままという状態が生じ、この政治的空白も独立派に有利に働くことになった。
1945年8月17日に、ベトナム帝国首相のチャン・チョン・キムがハノイ市民劇場前広場で「独立を与えた日本は敗れたが、ベトナムは心を一つにして我々の政権を築こう」とフランスの復帰を警戒する内容の演説を行った。このとき、ベトミンが金星紅旗をあげるなかマイクを奪い、「独立万歳」、「打倒ファシスト」、「日本は独立をやってくれたがこれからはみんなで働こう」といった声があがった。8月19日にはベトミンの大会が開かれ、20万人のデモ隊は市庁舎や日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関を次々と占拠し、ハノイ・クーデターが成功する。8月20日にはフエの王宮にいたベトナム帝国皇帝のバオ・ダイに対して、ベトミン革命軍事委員会が退位を要求、24日、バオ・ダイ帝は退位する。こうして143年続いた阮朝(グエン王朝)は滅亡した。23日から25日にかけて駅、中央郵便局、発電所などが占拠され、26日にはベトミン軍がハノイに入城、28日にベトナム民主共和国臨時政府が樹立された。
9月2日にホー・チ・ミン(胡志明)は「ベトナム独立宣言」を発表、すべての民族は平等であり、1847年のフランス軍艦によるダナン攻撃事件以来、80年にわたるフランスの植民地支配を人道と正義に反するものとして糾弾した。こうしてベトナム八月革命は成功し、ハノイを首都とするベトナム民主共和国(北ベトナム)が樹立し、共産主義国家建設を目指した。ホーはアメリカのハリー・S・トルーマン大統領に国家としての承認を繰り返し書簡で求めた が、同盟国であるフランスに対する気遣いとともに、共産主義者による統治を警戒するアメリカ政府はとりあげなかった。また、新設された国際連合にもフランス植民地支配についての公正な解決を訴えたが、徒労に終わった。
第二次世界大戦末期の戦後統治計画を練るなか、自由フランスのシャルル・ド・ゴールを嫌っていたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は「フランスはインドシナを植民地にしてから何か発展させたことがあったか。あの国は百年前よりひどくなっている」とフランスのインドシナ植民地を批判し、インドシナ信託統治を構想していた。しかし、イギリスは信託統治をしたらイギリス帝国がなくなってしまうとして反対し、新たにフランスの事実上の指導者となったド・ゴールは1945年3月24日にインドシナ連邦を構築し、フランス総督が統轄し、フランス連合に組み入れると声明を発表し、植民地時代の復帰を求めた。
ルーズベルトが1945年4月12日に死去してからアメリカ国務省はインドシナ問題を検討し、4月20日に国務省欧州担当官はルーズベルトのあとを継いだトルーマンに対して「アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対すべきでない」と、反共主義の立場から進言し、同極東担当官も翌日同内容の進言を行った。6月22日にアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認する」との統一見解を決定する。
1945年7月26日に連合国によって開かれたポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は騒乱を理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめる。9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。
これらの連合国軍は、日本軍の収容所に入れられていたフランス軍将兵を解放し、9月23日午前5時、英領インド軍の援助で武装した1000名のフランス軍がサイゴン侵攻を開始、主要な公共機関を占拠し、フランス国旗を掲げ、サイゴン全域を制圧した。英領インド軍のグレイシー将軍は戒厳令を敷いた。こうした英軍の行動について読売新聞編集員の小倉貞男は「英国はアジアにも植民地をもっており、インドシナの独立によって、植民地支配を崩そうとする連鎖反応が起こることを極度に警戒していた」と指摘している。10月5日にはフランス軍増援部隊が到着、サイゴンなど南部の革命勢力は制圧され、さらにメコン・デルタも制圧し、北上を開始する。
進駐した連合軍のうち、中華民国の中国国民党軍はフランス植民地政府の復活を支援する意図はなかったが、敵対する中国共産党と同じイデオロギーであるインドシナ共産党に対して好感をもっていなかった。そのため、ホー・チ・ミンは中国国民党軍との対立を避けるために、 1945年11月、インドシナ共産党を偽装解散させる。インドシナ共産党は党員を「民族の前衛戦士」となづけ、さらに民族の利益を党の利益よりも優先させることを特徴としていた。
1946年2月28日、フランスは「中国・フランス協定」を結び、中華民国が要求していたハイフォン港自由化などを中国軍の撤退を条件に受け入れる。また、フランス政府はホー・チ・ミンらベトナム民主共和国を「フランス連合」の一員としての独立を認めると通告するが、ベトミンは完全独立を要求し、交渉が持続されていた。そうしたなか、同年3月5日、連合軍東南アジア軍司令部は、南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したことを発表、フランス軍は北緯16度線以南はフランス当局が接収すると声明を発表する。自由フランス軍のフィリップ・ルクレール将軍指揮下の第2機甲師団がサイゴンに入りインドシナ南部のコーチシナを制圧、3月6日にフランス軍はハイフォン港に上陸し、3月18日にはハノイに入城した。フランス軍は1946年5月までにラオスにも進駐し、インドシナ一帯を占領する。1946年3月には制圧したコーチシナでフランスは傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させ、グエン・バン・ティンを首班に置いた。こうしたフランス軍の軍事行動に対してホー・チ・ミンらは強く抗議、フランスはインドシナ連邦を置くことであからさまな植民地経営をやめ、事態の解決を図ろうとするが、これでは植民地時代と同じものであり、許容出来ないとして、1946年9月、ベトナム民主共和国側との交渉は決裂した。
ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しかったが、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は日本軍に追われて以来ベトミンに合流していたフランスインドシナ軍の下級将校であった。もう一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で校長は中国共産党のグエン・ソンだが、教官は元日本軍の士官や下士官であった。このような残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の井川省少佐はベトナム名レ・チ・ゴといい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。また、井川参謀の部下の青年将校中原光信はベトナム名をヴェト・ミン・ゴックといい、第二大隊教官としてベトミンに協力した。ほかにも石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた。 日本敗戦後、ベトミンに協力したインドシナ残留日本兵は766人にのぼる。また、武器は中国共産党から提供されたが、多くは日本軍から鹵獲したもので、38式小銃などが多かった。
1946年11月20日、ハイフォン港での銃撃事件を口実にフランスとベトミンとの間で全面交戦状態が始まり、インドシナ戦争(第一次インドシナ戦争)が勃発した。フランス軍は12月19日にハノイのベトナム民主共和国政府へ武力攻撃を開始し、12月20日、ホーチミンは全国抗戦声明を発表した。
フランスは、国民の人気が高かったバオ・ダイ帝を担ぎ出し、1948年6月5日にサイゴンに「ベトナム臨時中央政府」を発足させる。大統領はグエン・ヴァン・スアン。翌1949年3月にはサイゴン市(現ホーチミン市)を首都とするベトナム国を樹立する。フランスはバオ・ダイ政権を唯一の正当な政府と宣言し、ベトミンを徹底的に弾圧すると表明した。
第二次世界大戦後はアジア・アフリカの植民地で、支配国である連合国に対して独立運動が激化していた。1945年にはインドネシア、ベトナム、10月にラオスが、1946年にはフィリピン、1947年にはインドがパキスタンと分離独立、1948年には2月にセイロン(スリランカ)が、同年にはビルマや、また大韓民国が8月13日に独立した。1949年には国共内戦で中華民国軍に勝利した中国共産党によって中華人民共和国が樹立した。
1947年3月にはインドのネルーによってアジア関係会議が開催され、29カ国が集まり、非植民地化の推進やアジアの連帯が協議された。1948年末にオランダ軍が第二次治安行動を開始し、インドネシア共和国のスカルノを逮捕したことに抗議してビルマのウ・ヌー首相はインドのネルー首相によびかけ、1949年1月にニューデリーでアジア独立諸国会議が開催された。
植民地の維持を目論むイギリスやオランダ、フランスなどの旧宗主国と、長年の過酷な植民地支配を受け続けた上に、一旦は日本軍によって放逐された宗主国の姿を目の当たりにして解放を欲する植民地国民の間でしばしば紛争が頻発した。アジアでは、戦勝国であるソ連政府とアメリカ政府のいずれかによって指導・支援されている例が多かった。スターリン政権のソビエト連邦は、トルーマン政権のアメリカに対抗するために、世界中を共産化するため、共産主義の革命勢力を支援した。米ソ共に核兵器を保有し、直接の全面戦争を避けて、衛星国同士で戦闘を行う「冷戦」構造が成立した。この冷戦は、ベルリン封鎖、朝鮮戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争、キューバ危機に見られるように、「代理戦争」という形で表面化した。ただし、冷戦構造は大国中心であったが、小国からの要請で大国が動くという、「下からの突き上げ・弱者の脅迫」が作用し得る構造でもあり、ベトナム戦争も単なる「代理戦争」ではなかったという見解もある。
資本主義・自由主義の盟主を自認するアメリカ政府は、中華人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義政権の成立を「ドミノ倒し」に例え、一国の共産化が周辺国にまで波及するという「ドミノ理論」を唱え、アジアや中南米諸国の反共主義勢力を支援して、各地の紛争に深く介入していく。とりわけ国共内戦で国民党軍に勝利した中国共産党が1949年10月に中華人民共和国を建国したことは、反共主義を唱えるアメリカにとって衝撃であり、共産主義封じ込め戦略の観点から、インドシナ戦争においてはフランスを支援することを決定した。
1950年1月14日、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の国家承認を求める声明を発表。1月18日、成立直後で自らも国家国際承認を受けてすらいない毛沢東による中華人民共和国は、ベトナム民主共和国を正統政権と認めた。中共による承認を受けてホーは北京に入ったあと、スターリンのソ連による承認をとりつけるためにモスクワに向かった。しかし、スターリンは毛沢東に対しても警戒していたほどであったから、ホーに対しても直接的な支援には消極的だったが、結局、毛沢東の仲介でスターリンとホー・チ・ミンの会談が実現する。1月31日、ソ連もホーの要請を受けてベトナム民主共和国を正式に承認した が、ホー・チ・ミンへの直接的支援は断り、ベトナムの支援は中国の課題であると答えた。その後、ホーと毛沢東は北京で会談、毛は武器援助・資金援助を約束し、1950年4月にはホーチミンは中国から借款と兵士二万人分の装備提供を受けた。
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、中華人民共和国はアメリカが、朝鮮・台湾海峡・インドシナの三方面から攻撃してくる可能性に危機感をつのらせ、ベトナムへの軍事顧問団の派遣を実施する。のちにソ連、チェコからは対戦車ロケット弾やトラックが提供された。こうした提供に対してベトミンはタングステンや錫、米、ケシなどで支払った。中華人民共和国などから援助を受けたベトミンは1950年末には、精強師団を結成する。
他方、フランスは1950年2月16日のアンリ・ボネ駐米大使とアチソン国務長官との対談で米国による支援を要請する。1950年5月25日、ハリー・S・トルーマン政権下の米国はフランス軍支援を決定する。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争を受けて、トルーマン大統領は国際共産主義運動をファシズムと同じ脅威と規定し、朝鮮戦争において共産主義勢力が従来の政治宣伝を中心とした間接侵略から、武力行使による直接侵略に移行したとみなし、国連の緊急安全保障理事会でも北朝鮮の行動を「平和に対する侵犯」とみなし、北朝鮮への非難決議案を提起、ソ連は国共内戦に勝利した中国共産党が中国本土に中華人民共和国を樹立したにもかかわらず、台湾島に逃げた中華民国が常任理事国議席にあることに抗議して欠席していたため、決議案は可決した。トルーマンは米軍を朝鮮半島だけでなく、台湾海峡にも第7艦隊を派遣し、またフィリピンやインドシナ半島への軍事的関与の強化を発表、朝鮮戦争が開戦してから4日後の6月29日には輸送機C47機がサイゴンに到着する。国連での非難決議を無視して北朝鮮はソウルを陥落させるなど進撃を続けたため、6月30日に米政府は地上軍を朝鮮に派遣することを決定、7月には国連軍派遣が決定する。しかし国連軍は11月には総崩れとなり、トルーマンは原爆の使用を示唆する。急遽、イギリスのクレメント・アトリー首相がワシントンに行き、トルーマンの説得を行った。こうして共産主義圏と自由主義圏との冷戦構造が明白なものとなる。
以降、アメリカからの援助は1952年度までに年額約3億ドルに及び、ドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任した1953年には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、アメリカ軍事顧問団は約400人程度が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊の教育訓練を開始し、フランス軍の兵力不足を補うべく活動した。アメリカからの軍事支援を受けたフランス軍は、ソ連や中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスティアン・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6200人の兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けた。
1950年夏にはベトミンは全土総攻撃作戦の第四〇作戦の展開を決定、9月16日にはドンケ攻撃を開始、フランス軍200名は全滅した。
1950年12月にはサイゴンにてフランスのジャン・ルトルノー海外担当大臣とアメリカのヒース公使、ベトナム国のチャン・バン・フー首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれ、アメリカはフランス軍とインドシナ三国に軍事援助を開始した。
戦争中の1951年2月の党大会でホーは偽装解散していたインドシナ共産党を改組し、ベトナム労働党とした。この大会でホーはスターリンを「世界革命の総司令官」、毛沢東を「アジア革命の総司令官」と呼び、さらに中国共産党の劉少奇が1949年11月に発表していた民族統一戦線、共産党による指導、武装闘争と根拠地などに関するテーゼを採用し、中国共産党による「革命」をモデルとした。しかしこうした急進的かつイデオロギーに固執した「中国モデル」の採用は1953年から本格的に開始された農地改革において、ベトナム伝来の農村社会に大きな混乱をもたらした。ベトナムの農地改革は中華人民共和国から派遣された顧問の指導のもとで実施されたが、「農村人口の5%は地主」とする規定を機械的に導入し、そのため、地主や富農ではない民衆が人民裁判にかけられて処刑されたりした。
フランス軍の現地兵とモロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人達の士気は低く、戦闘していたのは外人部隊と志願兵からなる落下傘隊員であった。ヴォー・グエン・ザップ将軍指揮下のベトミンによる組織的な反撃を受け、1953年に入るとフランス軍は空母を派遣するなど立て直しを図るものの、点を確保するのみで劣勢に立たされていた。1953年4月時点で米国もインドシナ情勢におけるフランス軍は危機的な状況にあるとみていた。米陸軍は大統領安全保障会議への報告において、
といった提言を行っている。
1953年11月20日にはフランス軍はカストール作戦を実施、ベトミンが展開するラオス国境に近いディエンビエンフー盆地を12000の兵力で占領し、橋頭堡としての要塞をつくることで、ベトミンの動きを封じようとした。フランス側はベトミンが重火器を持っていないまたは持っていたとしても使いこなせないと予想していた。しかしベトミンは現地の少数民族の支援もあって中国から供給された重火器をディエンビエンフー盆地を囲む山上まで運んでいた。1954年3月、ベトミンは戦闘を開始、攻撃開始日からベトミン軍は猛烈な砲撃を加え、人海戦術により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になり、4月には3個空挺大隊と近接航空支援を増強したが、雨季の天候は空軍の活動を制限した。対し、ベトミン軍の夜襲は次々とフランス軍陣地を攻略し、末期には周囲2kmの範囲のみを保持するのみで、5月7日にフランス軍は降伏、残った約1万人のフランス兵は捕虜となった。このディエンビエンフーの戦いでフランス軍は敗北し、事実上壊滅状態に陥る。ディエンビエンフーの戦いにおけるフランス軍降伏について、東京大学教授古田元夫は「ヨーロッパの万を超える精鋭部隊が、植民地現地の軍事勢力に降伏した世界史的出来事で、植民地体制の崩壊を象徴する事件」と指摘している。
フランス軍降伏の報せを聞いたアメリカのリチャード・ニクソン副大統領は、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する小型原子爆弾の使用をドワイト・D・アイゼンハワー大統領に進言したが却下された。また、アメリカの統合参謀本部はフィリピンに展開しているボーイングB-29爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれも却下した。
ディエンビエンフー陥落後も、ベトミンはトンキンデルタに展開するフランス軍にゲリラ攻撃を仕掛け、各地の攻撃を実施した。同年6月にフランス軍はフーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ-ハイフォン回廊に撤退し、ここに至りフランス軍の敗北は決定的となる。
フランス軍の危機的な状況が国際社会に認知されていくなか、1954年4月26日にはスイスのジュネーヴに関係国の代表が集まり、和平交渉としてインドシナ和平会談(ジュネーヴ会談)が開始された。参加国は当事国のフランスとベトナム国、ベトナム民主共和国、さらに、アンソニー・イーデン外務大臣を議長として送り込んだイギリスとアメリカ、カンボジア、ラオス、ソ連、中華人民共和国であった。会議は3カ月続き、フランス軍が壊滅した1954年7月、インドシナ和平会談において関係国の間で和平協定であるジュネーヴ協定(インドシナ休戦協定)が成立した。
これにより第一次インドシナ戦争の終結とフランス軍のインドシナ一帯からの完全撤退、並びにベトナム民主共和国の独立が承認された。北緯17度を南北の暫定的軍事境界線とし、南北を分割、また南北統一のための自由総選挙を1956年7月までに実施するという内容だった。ただし、アメリカと南ベトナムは調印に参加しなかった。ベトナム民主共和国がこの内容に妥協したのはアメリカの参戦を警戒したためで、ソ連と中華人民共和国もベトナムに譲歩するよう強く求めた。
1954年4月28日から5月2日まで、セイロンのコテラワラ首相が提唱しコロンボ会議が開催され、インド、パキスタン、セイロン、ビルマ、インドネシアの首脳が集まり、インドシナ戦争の停止などを訴え、ジュネーブ会議にも影響を与えたほか、とくにイギリス連邦の中心であるイギリスはジュネーブ会議においてアメリカの戦争拡大方針に同調しなかった。
このころ、休戦交渉と並行して、ジュネーブ協定が締結される直前の1954年7月7日、バオ・ダイ時代に内相をつとめ、反共主義でカトリック教徒のゴ・ディン・ジエム(呉廷琰)による政権が、アメリカの根回しで樹立されていた。さらに1954年9月27日 - 29日のワシントンでの米仏会談で、インドシナ駐留フランス軍への援助は打ち切られ、アメリカは1955年1月からインドシナ諸国に対して直接の援助を行うことを決定した。1950年10月にサイゴンで組織されていたインドシナ米軍事援助顧問団(MAAG)は、1955年11月に南ベトナム米軍事援助顧問団へと改組され、南ベトナム政府軍の軍事教練が開始した。団長はサミュエル・ウィリアムズ将軍。
アメリカは、ジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジアでの台頭(ドミノ理論)を恐れ、フランスの傀儡政権だったベトナム国を17度線の南に存続させ、ベトナムは朝鮮半島やドイツと同様、分断国家となった。
南北の境界線が確定された際、ベトナム国民が双方の好む体制側に移動することがジュネーブ協定によって認証され、60日間の猶予で行なわれたが、北ベトナムの総人口1300万のうち、100万人が南ベトナムへ移動、逆に南から北へ移動した国民は9万人であったという。また、宗教の存在を否定する共産主義者による統治を嫌う北ベトナムに住むカトリック教徒の多くは、ベトナム民主共和国の独立に伴いベトナム国へ難民として逃れた。
ジュネーブ協定と並行して1954年7月に樹立された反共主義者ゴ・ディン・ジエムによる政権は、翌1955年4月に国民の意思と称してバオ・ダイ帝に退位を迫り、6月14日にジエムは自ら国家元首に就任した。10月24日には共和制か王制かを問う国民投票を実施、10月26日にはベトナム共和国(通称「南ベトナム」)樹立宣言を行い、ジエムは初代大統領に就任した。こうして、植民地時代にフランスや日本の傀儡政権となりながらも持続してきたベトナム王朝は消滅し、バオ・ダイはフランスへ亡命した。ジエムの政権樹立にはCIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールによる支援があった。自由主義者や民主主義者、民族主義者や反共主義者、カトリック教徒らがジエム政権の支持母体となり、アメリカ合衆国の傀儡国家かつ東南アジアにおける反共防波堤という性格を持つベトナム共和国が建国された。
ジエム大統領はジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否した。これは、もし選挙を実施すればフランスを打ち破ったベトナム民主共和国が勝つのは明白だったからである。
直近の、中国における国共内戦や、朝鮮半島における朝鮮戦争などのため、南ベトナムのジエム政権は東南アジア情勢が選挙どころではなく共産勢力と一触即発の状態であると認識しており、そのため南北統一選挙を拒否したのであるが、北ベトナムのホー・チ・ミン政権はこの南北統一選挙に勝てると勝算を持っていたため、このことでますます南北間の対立が悪化することになった。アイゼンハワー政権下のアメリカは、それまでのフランスに代わりジエム政権を軍事、経済両面で支え続け、ジエムからの依頼を受けて南ベトナム軍への重火器や航空機の供給をはじめとする軍事支援を開始した。しかし、ジエム大統領一族による独裁化と圧政のため、ジエム政府に対する南ベトナム国民の反発はかえって強まっていった。
戦後の日本で農地改革計画をつくったウォルフ・ラデジンスキーが米国援助使節団としてジエム政府に提言し、ジエム政府は1956年11月21日、法令57号を発布、農地改革を行い、その後も「カイサン計画」などを実行するが、日本の場合と異なり、いずれも失敗した。
また、ジエムは弟のゴ・ディン・ヌーを大統領顧問に任命し、秘密警察やカンラオ(勤労)党組織を用いて反政府勢力を弾圧した。1958年12月1日には1000人の政治犯が食後に死亡するというフーロイ収容所虐殺事件を引き起こした。1959年5月6日には国家治安維持法の第十号法令を発布、これにより特別軍事法廷は反政府勢力を思うがままに投獄することが可能となった。1959年7月から1960年7月までのジエム政府軍による反政府勢力掃討作戦は82回で、暴行、焼き打ち、虐殺を繰り返し、さらし首や、人間の生きた肝臓は精力がつくとして反政府勢力と目されるベトナム民衆の肝臓を取り出して食べたりした。1960年までに80万人が投獄され、そのうち9万人が処刑され、19万人が拷問により身体障害者となったとされている。「政治訓練センター」には常時8千 - 1万人が収容され、さらに農民の収容所としてアグロビル計画が実施され、これにより農民が代々住んできた家屋が破壊され、農民たちは強制的に収容されていった。アグロビル計画の対象地域は400箇所にものぼった。
1955年、1956年頃より私兵団を持つカオダイ教団やホアハオ教らの新宗教組織が、ジエム政権による弾圧に対抗して戦闘を開始しており、その他にもビン・スエン派などのギャング私兵団もジエム政権に反発していたため、反ジエム連合戦線のカオ・ティエン・ホア・ビン連合が結成された。1957年から58年にかけて反ジエム連合戦線の勢力は強まったが、逆に政府軍によって鎮圧された。
ジュネーブ協定に基づく南北統一選挙が行なわれなかったことに強い憤りを覚えたホーチミンは、1959年1月13日、ハノイで第15回ベトナム労働党中央委員会拡大総会を開催し、南部の政権を転覆するための武力解放戦争を決議した「新しい段階に入った南部ベトナムの政策について」と題する第十五号決議が提出された。第十五号決議では「米国はもっとも好戦的な帝国主義者である。(中略)われわれ中央も、敵も、たがいに長期にわたる戦いになることは確実である。しかし最後の勝利はかならずやわれわれに帰するだろう」と記された。1959年5月には南部武力解放指令が出され、ボ・トゥ・レン・ナム・ナム・チン(コマンド559)という突撃・偵察隊が結成、山岳少数民族の協力要請も含めて、のちにホーチミン・ルートとよばれる補給路の建設が開始された。戦争終結までにこのホーチミン・ルートは16000kmにも及び、南に輸送された物資は4500万キロトン、パイプラインは3082km、往来した人数は延べ200万人にのぼった。
第十五号決議は1960年9月の第三回党大会で正式に承認された。
1959年11月、南ベトナムの秘密基地Đ(「東」を意味するベトナム語Đôngの頭文字)に第十五号決議が届く。武器のなかったĐ基地は政府軍の武器を強奪することを計画、1960年1月17日午前6時、ベンチェのベトミンゲリラ軍が、ディントゥイ政府軍宿舎を襲撃、また市場でも朝食を食べていた政府軍兵士が農民たちによって取り押さえられた。ディントゥイ政府軍からはライフル30丁を得て、さらにフォッグヒエップ村、ビンカイン村の政府軍も制圧、計100丁のライフルと2丁の重機関銃を得た。その後、政府軍はゲリラ軍鎮圧を開始するが、ゲリラ軍はフォッグヒエップ村の女性5000人に喪章をつけて政府軍の残虐な行動に抗議するよう県庁に抗議行動を連日行わせ、1960年3月15日、県庁は要求を受け入れる。米国軍事顧問団とジエム政府はこれらの女性たちを「ロング・ヘアー・アーミー」と名付けて対応に苦慮した。
1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front、略称はNLF)が結成された。翌年2月に解放戦線はハノイ放送を通じて宣言と綱領を発表、「1954年のジュネーブ協定でベトナムの主権が承認されたにもかかわらず、米国がフランスにとってかわり、南部にジエム政権をつくり、形をかえた植民地支配をすすめている」と主張した。南ベトナム解放民族戦線は、「ジュネーブ協定を無視したジエム政権とその庇護者であるアメリカの打倒」との名目を掲げて、南ベトナム政府軍とサイゴン政府に対するゲリラ活動・テロ活動を活発化させて宣戦布告し、政府軍との内戦状態に陥った。NLF結成の報告を聞いたジエムは即座に共産主義者の蜂起と断定し、「ベトコン」(「ベトナムの共産主義者」の意)と呼んだとされており、米・南ベトナム政府ではNLFへの蔑称で使われた。
NLFの構成員には南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や学生、自由主義者などの、共産主義とは無関係の一般国民も多数参加していた。しかし、戦闘の激化によって次第に北ベトナムの工作機関と化しホーチミン・ルートを経由して中華人民共和国や北朝鮮、ソビエト連邦などの共産主義国から多くの武器や資金、技術援助を受けることになる。
NLFはわずか2年の間で4000名規模にまで拡大した。NLFは、当初は、ジェム一族の政権私物化と腐敗、その後ろ盾であったアメリカに対する抗議・抵抗運動が起点であった。若い学生がNLFの中核として、ベトナム統一戦争に参加した。
1961年1月20日、アメリカ民主党のジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任する。ケネディ政権が2年10か月の政権期間に行った外交政策の中で、最も大きな議論を呼んだのが、派兵拡大を押し進めた対ベトナム政策であるとされる。
ケネディ政権は、アイゼンハワー政権を引き継いだ就任直後に東南アジアにおけるドミノ理論の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置し、統合参謀本部に対してベトナム情勢についての提言を求めた。特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。
ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件やキューバ危機、ベルリン危機(英語版)など世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激するとして行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務次官とW・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を却下し、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、1961年5月にアメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という名目の、実際はゲリラに対する掃討作戦を行う、アメリカ正規軍からなる特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始した。
さらに併せてケネディは、フルブライト上院外交委員会委員長に「南ベトナムとラオスを支援するためにアメリカ軍を南ベトナムとタイに送る」と通告、ジョンソン副大統領とロバート・マクナマラ国防長官をベトナムに派遣した。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」と迅速な支援を訴え、同じくマクナマラも、その後南ベトナムの大統領となるグエン・カーンへの支持を表明し「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し、ケネディの決定を支持した。
1962年2月、ケネディ政権は、ゲリラではない農民と南ベトナム解放民族戦線のゲリラを識別するために、戦略村と称する農耕集落を建設し、南ベトナム解放民族戦線のゲリラではない農民を戦略村に移住させ、戦略村に移住しない農民は南ベトナム解放民族戦線のゲリラと見なして攻撃する作戦を開始した。ケネディ政権の目論見に反して、アメリカ合衆国の戦争の都合のために、先祖代々の農地を離れて戦略村への入居を要求されても拒絶する農民が続出し、戦略村に対する南ベトナム解放民族戦線の攻撃も頻発し、アメリカ合衆国軍は戦略村を維持できなくなり、戦略村作戦は破棄された。
アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナム駐留米軍事顧問団は、1961年末には3,164人に、1963年11月には16,263人に増加した。1962年2月には南ベトナム軍事援助司令部 (MACV) を設置、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、「軍事顧問団」という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げする形とした。
さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模のアメリカ海兵隊を送ることを決定した。ケネディ政権はこのような軍事介入拡大政策を通じてベトナム情勢の好転を図ろうとしたものの、ケネディ政権の思惑に反して、アプバクの戦いで南ベトナム軍とアメリカ軍事顧問団が南ベトナム解放民族戦線に敗北するなど、事態は好転しなかった。そのような中で、ゴ・ディン・ジェム南ベトナム大統領も、軍事介入の拡大とともに内政干渉を行うケネディ政権を次第に敵対視するようになった。ケネディは「『アメリカは(南ベトナムから)撤退すべきだ』という人たちには同意できない。それは大きな過ちになるだろう」と述べ 南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収を主張する国内の一部の世論に対して反論した。
さらにケネディはアメリカ政府によるコントロールが利かなくなっていたジエム政権への揺さぶりをかけることを目的に、あえてこれまでのような軍事顧問団の増強方針から一転して、1963年10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団から1,000人を引き上げる」と発表。1963年11月にはマクナマラ国防長官が「軍事顧問団を段階的に撤収させ、1965年12月31日までには完全撤退させる計画がある」と発表し、アメリカに対し敵対的な態度を取り続けるジェム政権に揺さぶりをかけた。なお、後に泥沼化したベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤収を決めた「パリ協定」調印に向けた交渉を行ったヘンリー・キッシンジャーは、ケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の存在を否定しており、このケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の発表は単なるジエム政権に対するブラフであり、これ以降も軍事介入拡大政策を取り続ける意向であったことが明らかになっている。
1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年5月にユエで行われた反政府デモでは警察がデモ隊に発砲し死者が出るなどその規模はエスカレートし、同年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上で、サイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をした僧ティック・クアン・ドックの姿がテレビを通じて全世界に流され、衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも影響を与えた。
これに対してジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ。しかもアメリカから輸入したガソリンを使うとは矛盾している」とテレビのインタビュー番組で語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。敬虔な仏教徒で知られた国際連合事務総長ウ・タントも、ベトナム戦争に苦言を呈して、アメリカ合衆国は国際連合との関係も悪化した。
この様な混沌とした状況下において、南ベトナム軍内の反ジェム勢力と、アメリカ軍の「軍事顧問団」と近い南ベトナム軍内の親米勢力(この2つの勢力は事実上同一であった)によって反ジェムクーデターが計画され、その状況は南ベトナム軍事援助司令部を経由してケネディ政権にも逐次報告されるようになっていた。
1960年に発生したクーデターは失敗に終わるが、1963年11月2日に発生したクーデターは成功した。クーデターを引き起こした反乱軍によって、ジェム大統領とヌー秘密警察長官は政権の座から下ろされ、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で殺害された。これを受けてヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーをはじめとするジェム政権の上層部も国外へ逃亡し、ジェム大統領とその一族が南ベトナムから姿を消したその当日には、南ベトナム軍の軍事顧問で将軍でもあり、アメリカ軍と深い関係にあったズオン・バン・ミンを首班とした軍事政権が成立する。
ケネディ大統領がどこまで反ジェムクーデターに関与、支持していたのかについては議論が分かれている が、後にマクナマラ国防長官はこの反ジェムクーデターに対して「ケネディ大統領はジェム大統領に対するクーデターの計画があることを知りながら、あえて止めなかった」と、ケネディ大統領が事実上反ジェムクーデターを黙認したことを証言している 上に、ケネディ大統領から上記のような訓令を受けたロッジ大使もマクナマラ国防長官と同様の証言を行っている。
いずれにしてもクーデターの発生とジェム大統領殺害の報告を受けたケネディ大統領は、「このクーデターにアメリカは関係していない」との正式声明を出すように指示した。
南ベトナムでゴ・ディン・ジェム大統領が倒されたクーデター事件のわずか3週間後に、アメリカでケネディ大統領暗殺事件が起こり、ケネディが死亡したため、副大統領のリンドン・ジョンソンがアメリカ合衆国大統領に昇格した。ジョンソンは、前任者のケネディが増強した「軍事顧問団」の規模を維持するだけにとどめた。またアメリカ政府は、クーデターにより南ベトナム情勢が安定することを期待していたが、その目論見は裏目に出る。クーデターは、反乱に参加した将校達の権力闘争を容認する結果となり、その後も南ベトナム政府内では13回ものクーデターが発生する。
親米的なミン大統領の軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、南ベトナム解放民族戦線との戦闘に注力しなかったことから南ベトナム軍内部の離反を招くこととなり、1964年1月30日にグエン・カーン将軍を中心とした勢力がクーデターを起こし、ミン大統領は隣国のタイ王国へと追放された。しかしミン元大統領は、追放された直後にカーン将軍の指示を受けて南ベトナムへ戻り2月8日に大統領の座に復帰する。
アメリカはその後もカーン将軍やミン大統領らの一派を全面的に支援したものの(en:Operation Quyet Thang 202、1964年4月27日 - 5月27日)、その後大統領に就任したカーン将軍は、南ベトナム解放戦線との和解の可能性を模索し始めたために南ベトナム軍の支持を失いまもなく大統領の座から去った末に、1965年2月25日にグエン・バン・チューら南ベトナム軍部強硬派によるクーデターにより失脚させられフランスへの亡命を余儀なくされる。その後同じく親米的な軍人であるグエン・カオ・キが首相に、チューが国家元首に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)する。
カーン将軍の失脚を機に再度亡命したミン元大統領は1968年に帰国するが、強硬派のチュー政権を支持せず、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。なお、ミン元大統領はその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたチューに代わり再び大統領に就任するものの、大統領就任翌日の4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった上に、南ベトナム最後の大統領となりその後北ベトナムに抑留されることとなった。
この様に、南ベトナムの軍や政府の高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる権力獲得闘争に力を注ぎ、またアメリカから援助を受けた最新の兵器を装備した自軍の精鋭部隊の多くを、クーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その場合、多くが次のクーデターの際に反乱側の実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士官から兵士に至るまで士気も上がらない状態になっており、この様な体たらくはベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続き、結果的に南ベトナム解放戦線と北ベトナムを利する結果となった。
ジョンソンは、前任者のケネディが増強した「軍事顧問団」の規模を維持するだけにとどめた。しかし就任から9か月後の1964年8月2日と8月4日に、ベトナム沖のトンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃(トンキン湾事件)が発生し、ジョンソンはこの報復として翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動(ピアス・アロー作戦)を行った。
さらにこの軍事行動と合わせて、議会に北ベトナムからの武力攻撃に対する「あらゆる措置を取る」権限を大統領に与えるように求め、8月7日に上下両院でこの「トンキン湾決議(英語版)」が民主党と共和党の議員の圧倒的な支持で承認されて、ジョンソン大統領は実質の戦時大権を得た。
その後1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、8月4日の2回目の攻撃については、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカ軍と政府が仕組んだ捏造した事件であったことを暴露している。しかし捏造は8月4日の事件であり、8月2日に行われた最初の攻撃は、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることを、北ベトナム側も認めている。
ベトナムにおけるアメリカによる軍事行動が次第に拡大していく可能性を有しながら、ほとんどが楽観的に見ていた状況で、1964年11月3日にアメリカ大統領選挙の一般選挙が行われた。トンキン湾事件の直後であったが、この時点においては南ベトナムに送られたアメリカ軍事顧問団の死傷者数もそれほど大きくなく被害も少なかったこともあり、ベトナム政策が選挙の大きな争点となることはなかった。そしてジョンソン大統領は圧勝し、議会でも与党民主党が大勝して与党が多数派となって自信を得て、選挙で選ばれた大統領として1965年1月から新しい任期に入った。
ジョンソン政権の新しい任期においても、マクナマラ国防長官やディーン・ラスク国務長官、ジョージ・ボール国務次官、マクジョージ・バンディ国家安全保障担当補佐官など、ケネディ政権においてベトナムへの軍事介入拡大を推し進めた閣僚や側近は留任し、ベトナム戦争の泥沼にアメリカを引き摺り込むこととなった。
北ベトナムのベトナム労働党は第15回党大会を行った際、「南部における革命の基本的な方向は暴力を使用した革命であり、特殊事情、および現下の革命要請によれば、暴力使用路線は、軍事力と連動した形で帝国主義者の支配を転覆し、人民による革命的統治を築くため大衆の力を利用し、大衆の政治力に依存することを意味する」と結んでいたが、その5年後、本格的に南部に対する攻勢を高めていく。
アメリカによるベトナムにおける軍事活動が拡大を続ける中、1964年にソ連は北ベトナムへの全面的な軍事援助の開始を表明し、ソ連は軍事顧問団を派遣、1965年2月にはアレクセイ・コスイギン首相がハノイ入りした。これまで北ベトナム軍への軍事援助を行っていた中華人民共和国からは軽火器の供給は豊富にあったが、1970年代になるまで重火器の供給はほとんどなかったため、ゲリラ的な攻撃しか行うことができなかった。これ以降ソビエト連邦から最新式の戦闘機や戦車、対戦車砲などの重火器の供給を受けることが可能になり、軍事力の継続的な増強が実現する。
やがてソ連と対立(中ソ対立)していた中華人民共和国も、ソ連による北ベトナム軍への軍事援助の増大に対抗し、1965年5月には、秘密裏に中国人民解放軍の軍事顧問団の派遣を行った。これ以降北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線の標的は、南ベトナム軍だけでなく、南ベトナムに派遣されているアメリカ「軍事顧問団」へも向いていく。
この時期に、アメリカ軍事顧問団は解放戦線の兵力についての分析を行っていた。1965年当時アメリカ軍の推定では、解放戦線の主力軍兵力は1961年1万7,000人、1962年2万3,000人、1963年2万5,000人、1964年3万4,000人でほぼ3年間に倍増し、この他の自衛民兵や地方の小部隊組織の総人数は1960年7,000人と見積もっていたのが1964年には10万6,000人に達すると推定されて、1964年時点での兵力は合計14万人と見ていた。この背景には、1959年から1964年までの5年間で北から南へ4万4,000人ほどが送られたと見られている。そしてその大半がもともとの南出身者で、当時ベトナム労働党は戦後に北へ来た人材から南に戻して、やがて彼らが解放戦線の主軸になっていった。
一方、解放戦線の拠点となった農村においては、1964年3月にマクナマラ国防長官がジョンソン大統領に提出した報告書では農村の40%が解放戦線の支配下にあると見なしていたが、翌1965年4月にはサイゴン政権自身が南の農地の75%が解放戦線側に入ったと見なしていた。
1964年11月にはビエンホアの空軍基地が襲撃され5人の軍事顧問が死亡し、同クリスマスイブにはサイゴン市内のホテルで爆弾が仕掛けられて民間のアメリカ人2人が殺される。その後、ソ連のコスイギン首相が北ベトナムを訪問していた1965年2月7日に、プレイクのアメリカ軍事顧問団基地(キャンプ・ハロウェイ)が解放戦線によって攻撃され、駐留アメリカ軍将兵のうち7名が死亡し109名が負傷した。この襲撃は、マクジョージ・バンディ大統領補佐官とホワイトハウス・アジア問題担当局長のチェスター・クーパーがアメリカの調査団としてサイゴンに到着した翌朝の出来事であったため、バンディはこれを北ベトナム政府からの挑発であると受け取り、この時に既に南ベトナムに派遣されていたウエストモーランド将軍と協議して軍事行動の強硬論に傾き、これがリンドン・ジョンソン米大統領が北爆(北ベトナムに対する爆撃)を決断するきっかけとなった。しかし、当時のベトナム側は前線部隊と司令部が綿密に連携するための通信能力をもっておらず、この攻撃は第五軍管区の一指揮官が独自判断で行った、わずか30名での遊撃的作戦に過ぎなかったことが後に判明している。
ジョンソン大統領は即日、既にベトナム近海に派遣していたアメリカ海軍の攻撃空母「コーラル・シー」や「レンジャー」、「ハンコック」などを中心としたアメリカ海軍第7艦隊の艦載機を中心とした航空機で、首都のハノイやハイフォン、ドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「フレイミング・ダート作戦」を命令した。3月26日には、初の大規模な組織的爆撃(北爆)である「ローリング・サンダー作戦」を発令し、北ベトナム沿岸部の島々とヴィン・ソンなどにある北ベトナム軍の基地を、空軍のF-100やF-105などの戦闘爆撃機などで爆撃させた。
このような状況を受けて、北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。さらにはアメリカ軍による北ベトナム国内の空軍基地や飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に「聖域」を与えた。北ベトナム空軍に対してソ連から貸与された、MiG設計局MiG-17やMiG-19、MiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。なお、これらのソ連からの貸与機の一部は、北ベトナム軍操縦士に操縦訓練を施すために派遣されたソ連人操縦士が操縦していたことが確認されている。
これに対して、アメリカ海軍航空隊の最新鋭機であるマクドネルF-4やF-105戦闘爆撃機の被撃墜が続出したことから(4月29日には、中華人民共和国の領空を侵犯したアメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが、中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜されている)、精密誘導兵器をほとんど運用していなかった海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重な操縦士を大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、アメリカ合衆国国防総省も乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さと操縦士の損失の多さを認め、1967年4月末には殆どの制限が撤廃された。
これは直ちに効果をあげ、その後北ベトナム軍は空軍基地や飛行場がアメリカ軍による大規模な爆撃を受けたために、迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭のF-111戦闘爆撃機の他、北ベトナムから「死の鳥」と言われたボーイングB-52戦略爆撃機(「ビッグベリー」改造を受けたD型が主力)を投入、ハノイやハイフォンなどの大都市のみならず、北ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、ソビエト連邦や東欧諸国、中華人民共和国の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。
なお、グアム島やアメリカ合衆国による沖縄統治下であった沖縄本島のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや沖縄沖で「漁業操業」していたソ連や中華人民共和国のレーダー電波探信儀を満載した偽装漁船から、逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。
その影響もあり、北ベトナム軍のミコヤンMiG-19やミコヤンMiG-21などの戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な電波妨害装置と100発を超える爆弾搭載能力を持つアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイやハイフォンを始めとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラは大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。
また、これらのアメリカ軍による北ベトナムへの本格的な空爆作戦に対して、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム指導部は「アメリカ軍による虐殺行為だ」と訴え続け、後に西側諸国における国民の大規模な反戦運動が活発化していく。
ジョンソン大統領はトンキン湾決議に基づき、1965年3月8日に海兵隊3,500人を南ベトナムのダナンに上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。アメリカはケネディ政権時代より南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させており、その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、その後1964年末には計23,300名となったが、ジョンソンはさらに1965年7月28日に陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」計184,300名に膨れ上がった。こうして地上軍の投入により戦線が拡大していく。
1961年11月、クーデターにより政権を掌握した朴正煕国家再建最高会議議長はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開すること、また共産主義の拡大が自国の存亡に繋がるという強い危機感を持っていたためにベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた。ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた。
1965年7月12日、韓国政府はベトナム派兵案を韓国国会に提出し、韓国国会は8月13日に派兵案を批准した。1965年9月から10月にかけて大韓民国陸軍陸軍首都師団(通称:フィアース・タイガー、猛虎師団)の1万数千兵、および大韓民国海兵隊第2海兵旅団(通称:ブルー・ドラゴン、青竜師団)もベトナムに上陸した。1966年9月3日には同陸軍第9師団(通称:白馬部隊)もベトナムに上陸する。
タイ王国やフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどの反共軍事同盟東南アジア条約機構 (SEATO) の加盟国も、アメリカの要請によりベトナムへ各国の軍隊を派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては最大の兵力を投入した。厭戦気分が蔓延したアメリカ軍とは対照的に、韓国軍はパリ協定まで、高い士気を維持した。韓国軍は南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム正規軍に対して、それぞれ1:10、1:5という損害比で両勢力を圧倒し、民間人の虐殺も行われた(ベトナム戦争#韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺)。アメリカ陸軍特殊部隊群の一員としてベトナム戦争に従軍した三島瑞穂は、韓国軍について軍規の徹底、軍上層部の統率力という点で、アメリカ軍とは比較にできないほど優秀だったと言い、韓国軍は大任を果たして、満足感を堪能しながら故国に凱旋しただろうと述べている。
その目的はアメリカを軍事支援することによって『ベトナム特需』と『派兵の見返り』として援助などを獲得する経済的な理由によるものであった。これにより、韓国は1966年3月に李東元外務部長官とブラウン駐韓米大使との間で、米国から韓国への軍事援助と経済援助を約束するブラウン覚書が締結され、1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンにベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した。韓国の外国為替獲得高の4割は戦争収益が占め、GDPは3倍にまで成長した。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)により韓国は漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした。
5カ国の中で韓国軍に次ぐ戦死率のオーストラリア軍も激戦を繰り広げ、ベトナムに派遣した54両のセンチュリオン戦車全てが損害を受けるなどした。オーストラリアは、共産主義の拡大を警戒し、ベトナムでの戦争がオーストラリア本土に波及しないように、未然に防ぐことを目的として、積極的にベトナム戦争に参加していた(前進防衛政策) が、オーストラリアの場合はベトナム反戦運動が盛んに行われたため、パリ協定を待たずに軍の撤退が始められた。
韓国軍はアメリカ政府より支給を受けていた。韓国軍兵士は米軍兵士の約半額の60ドルを月々に支給されていた。韓国軍兵士は戦地ベトナムで月に平均10ドルを消費し、残額を母国へ送金していた。そうした母国への送金は家族だけでなく韓国政府の国庫を潤していると韓国政府が発言したことも当時報道されている。
一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、「ホーチミン・ルート」を使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム解放戦線とともに、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。北ベトナム軍は10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフト製UH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開(ヘリボーン)を可能にしたことで、この戦争の事実上の主力兵器として大量生産されることになる。
1965年11月14日に、アメリカ軍はカンボジア国境から東11kmの地点にあるイア・ドラン渓谷を中心とした数カ所に、初めてベルエアクラフトUH-1を使って陸戦部隊を展開させた(イア・ドラン渓谷の戦い)。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが初めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。
アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入し、ヘリボーン作戦や森林戦を展開する。村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅するサーチ・アンド・デストロイ作戦(英語版)(索敵殺害作戦)は、ヘリコプターや航空機から放たれたナパーム弾などによる農村部への無差別攻撃や、韓国軍兵士による村民への暴行、殺戮、強姦、略奪を引き起こすこととなった。アメリカ軍はゲリラ戦術のエキスパートである蔡命新に率いられた韓国軍による対ゲリラ戦術に対して批判的であったが、後に韓国軍の戦術を採用するようになった。
一連の韓国軍のベトナムにおける活動について韓国政府は1967年5月、アメリカが与えてくれた援助に対する「お返し」の意味と、またこのような韓国軍の活躍は、韓国民に対して韓国がアジア平定に寄与するという誇りの感情を与えるもので、またアメリカとの交渉においても韓国の立場を向上させるものである、と記者会見で答えている。アメリカ陸軍特殊部隊群の一員としてベトナム戦争に従軍した三島瑞穂は、ソンミ事件などの不祥事については、目に見えないゲリラが相手なので少々のラフプレイは仕方ないことだったと述べている。2015年10月の朴大統領訪米に際して、韓国軍の被害にあったベトナム人女性らが韓国政府の謝罪と賠償を求めて『ウォール・ストリート・ジャーナル』に意見広告を掲載した。
その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスやカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。
アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士や南ベトナム解放戦線のゲリラをあぶり出すために枯れ葉剤を撒布した。ラオスではこのとき投下されたクラスター爆弾の不発弾が大量に埋まっており、戦争終了後も住民に被害を与え続けている。
戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。
なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。
以後、強烈な反共主義者であるチュー大統領の下、南北ベトナムの対立は激しさを増してゆく。なお、チューは1971年に再選され、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。
1960年代の後半になると、戦争の激化とともに戦地から遠く離れているアメリカ本国にもテレビ報道やニュース映画フィルムにより、多くの国民が戦闘の場面を、その日のうちに視聴することで、事実を目の当たりにする時代に入っていた。
「戦争当事国」のアメリカ合衆国では、次第に反戦運動が高揚していた。1963年に奴隷解放100周年を迎え、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を中心にした、黒人(アフリカ系アメリカ人)による人種差別撤廃闘争も、この時期に活発化して、「長く暑い夏」に都市での暴動が頻発するようになったが、当初はベトナム戦争に対する反対運動は抑えていた。
しかし1966年に、アメリカ合衆国上院の外交委員会(フルブライト委員長)でベトナム公聴会が開かれて、ジョンソンのベトナム政策は過剰介入だとするジョージ・ケナンの批判が出て、1967年に入るとベトナム戦争への戦費拡大につれ、福祉予算が圧縮されることに不満を抱いたキング牧師らの公民権運動の指導者は、公然と反戦の声を出し始めた。
これらの運動に、さらに大学生の学生運動が結びつき、1967年4月に全米で広汎な人々が反戦集会を組織して、やがて反戦運動が全米を覆い、ニューヨークでは大規模な反戦デモ行進が行われて、同年秋の10月21日に首都ワシントンD.C.で最大規模の反戦集会(ペンタゴン大行進)が開催された。さらに翌1968年1月の「テト攻勢」(後述)によって、反戦運動は大きく盛り上がった。
ジョンソン政権は、戦場におけるアメリカ兵の士気の低下、国内外の組織的、非組織的な反戦運動と、テレビや新聞、雑誌の各種メディアによる、戦争反対の報道に苦しむことになった。除隊したベトナム帰還兵による反戦運動も盛り上がりを見せた。1967年にはベトナム反戦帰還兵の会(英語版)(VVAW)が結成された。VVAWは最盛期には30,000人以上を組織化し、ロン・コーヴィック(『7月4日に生まれて』の著者)やジョン・ケリー(2004年民主党大統領候補者)のような負傷兵が中心となって運動が広がった。
そして、ベトナム戦争の最盛期だった1968年初頭には最大で54万9千人のアメリカ合衆国軍人が南ベトナム領土内に駐留し、ベトナム周辺の海上に展開する海軍や、フィリピン、大韓民国、日本、グアム、ハワイ、米本土西海岸などの後方基地からも含めて大軍が投入されたが、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線と対峙するアメリカ軍・南ベトナム軍・連合軍にとって戦況の好転はみられなかった。
1967年11月に、それまで北爆を推進してきた、ベトナム戦争の最高責任者であったロバート・マクナマラ国防長官が辞意を表明した。彼はその前年に北爆を縮小するよう大統領に進言し、1967年5月には解放民族戦線を含めた連立政権を受け入れるべきと主張する までになり、この時点で既にアメリカ合衆国政府内でも、ベトナム戦争の続行に疑問の声が出るようになった。しかしジョンソン大統領は依然として軍事強化の路線を変えなかった。
兵士の間にも厭戦機運が芽生え始め、1967年10月26日には西ベルリンの米軍司令部内からベトナム兵役から逃れ、カナダや北欧へ亡命するよう呼びかけるビラが出回っていたことが判明した。また、この頃にはベトナムに派遣された兵士の中から逃亡する者も増え始め、常時40-50人の逃亡兵が発生していた。
北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月(テト)休戦を南ベトナム軍とアメリカ軍に打診したが、体勢を立て直す時間を与えるだけだとして拒否されたため、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵はわずか20人で「要塞」とも称された、サイゴン市のアメリカ合衆国大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土に生中継された。また、南ベトナムの首都サイゴンにあるアメリカ軍の放送局も占拠され爆破された。
サイゴン市内やダナン市内などの基地に急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、一時的に混乱状態に陥ったものの、すぐに体勢を立て直し反撃を開始して、物量で圧倒的に劣る南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢は失敗したと声明した。しかし解放民族戦線側は6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、そして米軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。後にこのテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍3,895人、南ベトナム軍兵4,900人、解放民族戦線5万8,373人であったとアメリカ軍は明らかにしている。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人であり、その30%余りをこのテト攻勢のわずかな期間に失ったこの事実はしばらくは明らかにされなかったが、このテト攻勢でジョンソン政権が受けたダメージは大きく、アメリカ国内でのベトナム戦争に対する見方が変わり、その後の行方に影響を与えた。
また、テト攻勢の最中に南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン 警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校のグエン・ヴァン・レムを路上で射殺する瞬間の映像がテレビで全世界に流された。まだ裁判すら受けていない彼を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして射殺する様子は、世界中に大きな衝撃を与えた。この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。
テト攻勢におけるこれらの実際の戦況とアメリカ政府の発表との間のギャップや、現実の戦闘を目の当たりにして、ベトナム戦争(と南ベトナム政府)に対するアメリカの世論が大きく変化し始めた。またテト攻勢で南ベトナム解放民族戦線の損失も大きく、北ベトナムも援助を強化して、その後のベトナム戦争は、南ベトナム政府軍・アメリカ軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。
テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれたフエ(なお、当時の新聞表記は「ユエ」である)では、1月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な政府関係者や市民への虐殺事件「フエ事件(英語版)」が発生した。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと伝えられている。犠牲者は、南ベトナム政府の役人や軍人・警察官だけでなく、学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般人にまで及び、アメリカ軍による発表によれば犠牲者全体の総数は2000人以上であるとされている。
テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と南ベトナム解放民族戦線の攻防戦が続けられていた。
すでに、アメリカ軍が介入してから3年が過ぎて、一定の戦果もなく、ずっと兵力を暫時投入してエスカレーションさせて戦闘が拡大するばかりだが、まだアメリカが優勢であるという一般的な見方が崩れて懐疑的となり、それまで苦しくてもベトナム戦争を支持していた層もジョンソン大統領の対応のまずさを批判するようになった。
テト攻勢後、1968年2月にアメリカのジャーナリストで「アメリカの良心」ともいわれて人気のあったウォルター・クロンカイトが「民主主義を擁護すべき立場にある名誉あるアメリカ軍には、これ以上の攻勢ではなく、むしろ交渉を求めるものであります」と厳しい口調で発言して戦争の継続に反対を表明、アメリカの世論に大きな衝撃を与えた。ジョンソン大統領は、「クロンカイト(の支持)を失うということは、アメリカの中産階級(の支持基盤)を失うということだ」と嘆いたという。その後保守派の多くもベトナム戦争の継続に懐疑的になっていった。
1968年は大統領選挙の年で、ジョンソンは2回目の大統領選への出馬を目指していた。テト攻勢後の3月にニューハンプシャー州の民主党予備選ではユージーン・マッカーシーに対して勝利したが、得票率で50%を割り、この結果を見てケネディ大統領の弟ロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明して、世論調査で自身への支持率が最低を記録し、政治的に苦しい立場に立たされた。またケネディ政権においてベトナムへの軍事介入を自らの「分析」を元に積極的に推し進め、ジョンソン政権でもアメリカ軍の増派を推し進めたものの、1966年頃から北爆の中止を求めてジョンソン大統領と意見が対立し前年11月に辞意を表明したマクナマラ国防長官が2月29日に辞任した。そして後任のクラーク・クリフォード国防長官は就任早々、ウエストモーランド司令官からの20万人増派の要求を受けて省内でベトナム戦争についての意見をまとめて、今後のベトナム政策の全面見直しをジョンソンに提言して、もはや兵力を増派して軍事面を強化することができない局面に至った。
3月31日にジョンソン大統領は、テレビによる演説で北爆の部分的停止と、北ベトナムに対して無条件での交渉を呼びかけて、民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由として、ベトナム戦争に対するアメリカ国内の世論が分裂して、国論の統一に残りの任期を費やすことを挙げた。
反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、4月4日に白人のジェームズ・アール・レイに遊説先のテネシー州メンフィス市内のホテルで暗殺される。さらに、公民権運動団体などを中心とした支持を受けて、民主党の大統領予備選に出馬し優位に選挙戦を進めていたロバート・ケネディが、カリフォルニア州ロサンゼルス市内のホテルで遊説中の6月5日に、パレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺された。
相次ぐ暗殺事件に続いて、8月26日から29日にかけて、民主党の大統領候補を指名するための党大会がシカゴ市内のホテルで行われた。シカゴ市内では学生を中心に大規模かつ暴力的な反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、リチャード・J・デイリー市長の指示により、市警官隊がデモ隊に対して暴力的な弾圧を行い多数が逮捕された。ジョンソン大統領は自らの党大会であるにもかかわらず、会場内外における混乱を避けるため出席することはかなわなかった。このように国内情勢が混乱する中、ジョンソン大統領は1968年10月に北爆を全面停止した。この間、ベトナムは中国やソビエト連邦の支援の元で兵站や装備の調達やインフラの整備を行ったがアメリカ以外の空軍により度々猛攻を受けた。
大統領選本戦では、民主党はユージーン・マッカーシーやジョージ・マクガヴァンを破り大統領候補に選出されたヒューバート・ホレイショ・ハンフリーを候補に立てて戦ったものの、ベトナムからのアメリカ軍の「名誉ある撤退」と、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対し「法と秩序の回復」を強く訴えた共和党選出のリチャード・ニクソンに敗北し、1969年1月20日にニクソンが大統領に就任した。
ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。
なお、就任以前から段階的撤退を訴え、大統領選挙時には「名誉ある撤退を実現する"秘密の方策"がある」と主張していたニクソン大統領は、就任直後からヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との交渉(パリ和平会談)を開始させた。
民主党大会の際のシカゴ市内における混乱が象徴するように、反戦運動が過激化していたことに対して、「法と秩序の回復」を訴え当選したリチャード・ニクソンは、「沈黙した多数派層(サイレント・マジョリティ)」に対して行動を呼びかけた。ニクソンの支持母体は、アメリカにおけるマジョリティ(多数派)である、保守的な思想を持つブルーカラーを中心とした白人保守派層が中心であり、軍に徴兵されベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らそのものや彼らの子供であった。彼らの多くは、徴兵猶予などでベトナムへの派兵を免れることのできる比較的裕福な大学生や、徴兵されることのない都市部のホワイトカラーのリベラル層やインテリ層、既存の概念を否定しつつ自らは巧みに徴兵を逃れようとする反体制的なヒッピー、そしてこれらを中心に過激化する反戦運動に反感を持っていた。彼らはニクソンの訴えに応じて、こうした白人保守派層の巻き返しがあり、それらがニクソン大統領の当選につながった。しかしニクソン政権の時代に入っても、カンボジアやラオスへの侵攻、ジョンソン時代を上回る北爆の強化で、ニクソンはアメリカ軍の撤退を進めながら逆に戦線が拡大することもあり、1973年のベトナム撤退まで反戦運動が収まることはなかった。
この年の7月にはアポロ11号が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから宇宙へと移り、10月には再び反戦デモが発生したが、それはローソクに火を灯しながら行進を行う、静かなものに変わりつつあった。
ベトナム戦争においては双方ともに北ベトナムを支援していたものの、ソビエト連邦と中華人民共和国の間では関係が悪化していた。中ソ対立により両国間の政治路線の違いや領土論争をめぐって緊張が高まり、中華人民共和国内で文化大革命が先鋭化した1960年代末には、4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中国人民解放軍部隊が対峙する事態になった。
1969年3月2日に、ウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士による衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起こった。さらに7月8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し、8月にはウイグルでも衝突が起きるなど、極東および中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。
このような状況を受けて、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソ連は、急激に対立の度を増していた中華人民共和国を牽制する意味もあり、アメリカとの間の緊張緩和を目論み、直接交渉に入ることとなる。また、就任以来東西陣営の融和進展を模索していたニクソン大統領もこれを積極的に受け入れ、11月からは戦略兵器制限交渉の予備会談が行われ、1970年4月からは本会談に入るなど、米ソ間の関係は緊張緩和(デタント)の時代に入る。
フランスの植民地時代から、ベトナムの独立と南北ベトナム統一の指導者として活発に活動していた北ベトナムの最高指導者であるホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席への就任後は、第一次インドシナ戦争の指導や日常的な党務、政務は総書記(第一書記)および政府首脳陣、軍部指導者などに任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中し、東ドイツや中華人民共和国などの友好国を訪問するなど、事実上北ベトナムの精神的指導者となっていた。
戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの、ベトナム戦争の勃発後も、ソ連や中華人民共和国などの共産圏を中心とした友好国からの軍事的支援や、西側諸国の左派勢力や左派メディアを通じて反戦・反米運動への支援を得るために、北ベトナムを訪れたイタリア共産党のエンリコ・ベルリンゲル党首や、中華人民共和国の周恩来首相と会談するなど、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、1969年9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の突然の死は、戦時下の北ベトナム国民をより強く団結させる結果を生んだ。
ホー・チ・ミンは中ソ対立による国際共産主義運動の分裂を深刻に憂慮していた。中ソ対立の影響により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した。以後北ベトナムは、テト攻勢を境とした自軍の戦闘スタイルの変化やアメリカ軍による北爆の強化へ対応するため、ソ連への依存を強めていった。
南北ベトナムの隣国のカンボジアでは、1970年3月に、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあり「容共的元首」であるとしてアメリカが嫌っていたノロドム・シハヌーク国王の外遊中に、シハヌークの従兄弟のシソワット・シリク・マタク(副首相)とロン・ノル国防大臣の率いる反乱軍がクーデターを決行し成功させた。反乱軍はその後ただちにシハヌーク国王一派を国外追放し、シハヌークの国家元首からの解任と王制廃止、共和制施行を議決、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「クメール共和国」への改名を宣言した。反乱にはアメリカの援助を受けたという説がある。
このような状況の中、1970年3月29日、北ベトナムはカンボジアに対する攻撃を開始した。この侵攻の理由であるが、公開されたソ連邦時代の記録文書から明らかになったところによると、この攻撃はクメール・ルージュのヌオン・チアからの明確な要求によって行われたとされている。北ベトナム軍はカンボジア東部を瞬く間に蹂躙し、プノンペンの24km以内に迫った。カンボジア軍を破った後、北ベトナム軍は獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡していった。一方、クメール・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部に「解放区」を打ち立てた。クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の首都である北京に留まり、そこで中国共産党政府の庇護の下、亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したクメール・ルージュを嫌っていたが、中華人民共和国の毛沢東や周恩来と北朝鮮の金日成らの説得によりクメール・ルージュとその指導者ポル・ポトらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。この後、ロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けたクメール・ルージュの間でカンボジア内戦(1970年 - 1975年)が始まった。
なお、ロン・ノル政権は、北ベトナムへの対応措置として、カンボジア在住のベトナム人への収容・虐殺を行い、多くのベトナム人が殺されたり南ベトナムに避難し、ロン・ノル政権は、南北ベトナム双方から強く批判された。
北ベトナムのカンボジア侵攻に対して、4月26日には、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シハヌーク・ルート」の遮断を目的として、ロン・ノルの黙認の元、カンボジア東部領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くことが目的とされている。
1975年4月30日午後7時、南ベトナムとアメリカの連合軍は、カンボジアへの侵攻を開始。地上軍の展開のほか、B-52による空爆も加えた。圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早々と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。
カンボジア東部の侵攻から10ヵ月後の1971年1月末、ラオス南東にある「ホーチミン・ルート」の遮断とその兵站基地を破壊を目的として、アメリカ軍と南ベトナム軍はラオス領内に侵攻した。ラムソン719と名付けられたこの侵攻作戦はカンボジア侵攻と同じく、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することを目的としており、1970年から始まっていたアメリカ軍が撤退した後の兵力を、アメリカ製の兵器で武装して、約100万人の兵力を保有していた南ベトナム軍 とする「ベトナム化」政策により、地上戦闘は南ベトナム軍が主力として担当し、輸送・航空支援はアメリカ軍が担当した。そのため、南ベトナム軍が北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線に対抗できるかを試される戦いでもあった。
侵攻後にアメリカ軍は、ヘリボーン輸送によりラオスに3つの拠点を置いたものの、ラオス領内に潜んでいた北ベトナム軍により多数の対空陣地の火器と戦車の攻撃を受けて、南ベトナム軍は大きな損害を受けてしまい、それを支援するアメリカ軍のヘリコプターも、この攻撃により数を減らしていき、作戦はうまく進展しなかった。その後、アメリカ軍と南ベトナム軍は1万人の兵力を増強して態勢の立て直しを図り、ようやくラオスの小都市であるチュポンを占領して周辺の補給基地・物資集積所を破壊したものの、数日後に北ベトナム軍がアメリカ軍の爆撃による損害を覚悟の上で大兵力による強力な反撃を行い、この反撃を受けたアメリカ軍と南ベトナム軍はチュポンを放棄して撤退せざるをえなくなり、3月末にはラオス領内から完全に撤退して作戦は失敗に終わった。
この戦いにより「ホーチミン・ルート」の遮断は永続的に不可能になったばかりでなく、南ベトナム軍の戦力の限界を示すことになり、この戦争に勝利することが不可能となった。
就任以前から泥沼化していたベトナム戦争から、段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年1月の大統領就任直後より、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との和平交渉を開始させたが、幾度も暗礁に乗り上げて交渉は難航した。
この頃の北ベトナムの有力な支援国は中国であり、表向きこそ否定していたが1964年から1971年まで間にのべ30万人の正規軍を派遣、さらに軍事援助も行うなど戦争の支援を行っていた。
1971年7月にニクソン大統領は中華人民共和国を訪問する意向を発表し(ニクソン・ショック)、翌1972年2月21日にニクソン大統領の中国訪問は行われ、毛沢東主席および周恩来首相と直接対話を始めた。この前年の7月に、ニクソン大統領はキッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官を中国に派遣して、周恩来首相と極秘に会談を行わせていた。両国はこの時から関係強化を目指して幾度となく交渉を重ねていた。ニクソン大統領が中国を訪問したことは、当時ソ連と中ソ対立していた中国に近づくことで対ソ連外交での中国カードという外交手段を持つのみならず、北ベトナムを孤立させ、同じく深い関係を持つカンボジアに影響力を持っていることで、米中接近がベトナム戦争でニクソン政権が望む「名誉ある撤退」と、今後の東南アジアへの米国の影響力を確保することを目指していたと考えられる。
中華人民共和国としても、ニクソン政権下でソ連と友好的な関係を保っていた米国と接近することは、文化大革命が最も激しい時期であった、1969年に勃発したダマンスキー島事件以降、関係が極度に悪化していたソ連を牽制すると同時に、文化大革命以後停滞していた、中国外交の主導権を取り戻すという意味があった。ただ極秘裏で行われたキッシンジャーの訪問後に、中国国内で文革推進の旗頭であった林彪の失脚・亡命・墜落死という事態を生じ、毛沢東の高齢化、中国共産党内での周恩来の実権掌握が明らかになり、やがて鄧小平の復活と近代化路線が前面に現れてくることで、この米中接近は中国にとっても大きなターニングポイントとなった。
さらにアメリカ軍は講和条件を有利にするため、カンボジア・ラオス領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、同年3月末には、北ベトナム軍が戦車多数を含めた大兵力で非武装地帯を横切って南ベトナムに侵攻する大攻勢を始めたため、講和を急いだニクソン大統領は5月8日に北爆再開を決定した(ラインバッカー作戦)。
ラインバッカーI作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。アメリカ空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。この作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えられ、15000機の航空機が参加して60,000トンの爆弾を投下するとともに、ハイフォン港などの北ベトナムの港湾を機雷で封鎖した。
特に12月18日に開始された「ラインバッカーII作戦」では、爆撃の効果を上げるため、首都ハノイとハイフォン港の2つを目標とし、2週間で20,000トンの爆弾が投下され、その内容としては、ボーイングB-52戦略爆撃機150機による700回出撃に及ぶ夜間絨毯爆撃で15,000トン、アメリカ海・空軍の攻撃機での爆撃で5,000トンに及んだ、そのため、ハノイやハイフォン港の区域は完全に焼け野原になり、軍事施設だけでなく電力や水などの生活インフラストラクチャーにも大きな被害を与えた。さらに新たに前線に投入された音速爆撃機のジェネラル・ダイナミクスF-111や、開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペイブウェイ、TV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイなどのハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。
海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国、北朝鮮をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助のほとんどがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、そのほとんどは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、撃沈、阻止されていった。
アメリカ軍による対日戦並の本格的な戦略爆撃や、南ベトナム海軍とアメリカ海軍が共同で行った機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収めた。北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被り、北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底、継戦不能な事態に陥った。
この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。
アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せて只でさえ貧弱な北ベトナムのインフラストラクチャーにも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。
北ベトナム軍にとって幸いなことに、クリスマス休暇中による再度の北爆は、国際社会の轟々たる批難と反発を受け、短期間で中止されたが、アメリカ合衆国連邦政府の目論見通り、この空爆の成功は、北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追い込む事に成功した。
北ベトナム政府は、中国が同時期に北ベトナムへの大規模な軍事作戦も始めたニクソン政権と接近していることを「自国に対する中国の裏切り行為」と受け止めた。ニクソンの訪中から3か月後に行われた米軍による北爆再開と海上封鎖も中国の了解を得たとされ、ベトナム共産党書記局員で党機関紙編集長も務めたホアン・トゥンは「中国は『中国を攻撃さえしなければよい』と米国に言った」と証言している。
以後北ベトナム政府は、中ソ対立で中華人民共和国と対立するソビエト社会主義共和国連邦との関係を強化し、北ベトナムと中国との関係悪化は決定的になった。
アジア各国を取り巻く状況が目まぐるしく推移する中、1972年秋頃に、パリで秘密交渉が持たれて合意に向けた動きが加速し、和平交渉開始から4年8か月経った、1973年1月23日に、フランスのパリに滞在する、北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印にこぎつけた。そして4日後の1月27日に、南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が交わされた。
なお、この「和平協定」調印へ向けて、様々な調整を行った功績を称え、レ特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問は「ベトナム戦争が終結していないこと」「ベトナム統一が実現していないこと」「ベトナムにまだ平和が訪れていないこと」を理由に、ノーベル賞受賞を辞退した。
パリ和平協定の調印により、北ベトナムとアメリカの間に、「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」、「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し、1973年1月29日にニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した。
その後、パリ和平協定に基づき、協定締結時点で南ベトナムに残っていた24,000人のアメリカ軍は撤退を開始し、併せてハノイの有名な戦争捕虜収容所「ハノイ・ヒルトン(正式名称:ホアロー捕虜収容所)」などの北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜の解放が次々に行われた。
ベトナム戦争の最盛期だった1968年には、アメリカ軍は南ベトナムに540,000人が派遣されていたが、1969年以後は撤退計画に基づいて派遣軍の撤退と削減が続けられ、1973年1月の協定締結時にはベトナムへの派遣軍は24,000人まで削減されていたので、「終結宣言」から2か月後の3月29日には撤退が完了した。
しかし、ケネディ政権時代から南ベトナムに派遣されていた、アメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し、南ベトナムに残留していた上、航空機や戦車、重火器などの軍事物資の供給も行われていた(なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)。
パリ協定の締結までにアメリカ軍による北爆が停止されると、北ベトナム軍はすぐさま補給路を回復し南ベトナム侵攻のための体勢を立て直した。アメリカは南ベトナム軍への軍事支援の削減を補うために、アメリカが中華民国や韓国、イラン(パフラヴィー朝)などに貸与していたノースロップF-5戦闘機などをはじめとする兵器を南ベトナムへ送るようにこれらの国に呼び掛けたものの、その数はかつてのアメリカからの直接支援とは程遠いものであった。
パリ協定において「停戦」が謳われたため、これを反故にした結果のアメリカ軍の再介入を恐れ、北ベトナム軍は当初、南ベトナム軍側に対して大規模な攻勢は行わなかったが、まもなくパリ協定における停戦協定を無視した北ベトナム軍による南ベトナム軍に対する攻撃のペースは増加し、武器の供給も減り兵士の士気も落ちた南ベトナム軍の死傷者数も増大して行った。9月以降はソビエト連邦や中華人民共和国からの追加軍事援助を受けた北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後も南下を続けた。
アメリカ軍撤退後の1974年1月、中華人民共和国の中国人民解放軍は南北ベトナム間の戦線から遠く離れた西沙諸島に駐留する南ベトナム軍を宣戦布告なしの奇襲攻撃(西沙諸島の戦い)によって独立以来の南ベトナム領である西沙諸島一帯を占領し、南シナ海への進出に成功した。
その後の南北ベトナムの統一、中越戦争を経た現在に至るまで、中国人民解放軍による占拠(実効支配)状態が続いており、ともに領有権を主張する中越間の紛争案件となっている。
同月、アメリカ軍のベトナム全面撤退の立役者であるニクソン大統領はウォーターゲート事件で議会が弾劾訴追を準備し、罷免されることが確実と悟ったので、罷免される前に辞任した。後を継いだジェラルド・R・フォード大統領は、内政の立て直しと中間選挙に集中するためもあり、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソビエト連邦とはデタントを推し進めたニクソン政権同様、積極的な宥和政策を継続し続けた。その上に、ニクソン政権が残したウォーターゲート事件の後始末や、ケネディ政権が推し進めたアポロ計画による月面探査による膨大な出費、オイルショック後の景気停滞や不況からの回復などの国内問題に国民の関心が移り、アメリカは、もはやベトナム情勢に対する興味を失いつつあった。
フォード政権に移行して以降のアメリカ政府は、パリ協定で実施が約束されたはずの南北ベトナム統一総選挙実施への南北ベトナム政府への働き掛けどころか、パリ協定違反である「停戦」後の南ベトナムに対する北ベトナム軍の攻撃を止めるための働き掛けすら行わなくなった。さらに、同年8月には南ベトナム政府からの再三の働き掛けを受けて、議会が最後の南ベトナム政府への資金援助を決定したものの、その金額は以前と比べ物にならないほど少なかった。
上記の状況を受けて、北ベトナム政府は「アメリカの再介入はない」と判断し、南ベトナムを完全に制圧し、南北ベトナムを統一すべく1975年3月10日に南ベトナム軍に対する全面攻撃を開始した(ホー・チ・ミン作戦)。
この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港であるダナンが、南ベトナム軍同士の同士討ちや、港や空港に避難民が押し寄せるなどの混乱のもと陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める。1975年4月10日には中部高原の主要都市であるバンメトートが陥落。グエン・バン・チュー大統領はアメリカに軍事支援を要請するが、アメリカ議会は軍事援助を拒否した。
1975年4月中旬には南ベトナム政府軍が「首都であるサイゴンの防御に集中するため」として、これまで持ちこたえていた戦線も含め主な戦線から撤退を開始。南ベトナム政府軍は、アメリカからの軍事援助も途絶え装備も疲弊していたうえに士気も落ちており、進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えられず総崩れになり、北ベトナム軍はサイゴンに迫った。
このような状況を受けて、ホワイトハウスは南ベトナムの戦災孤児をアメリカやオーストラリアに運び、養子縁組を受けさせる「オペレーション・ベビーリフト」を1975年4月4日に開始した。しかしその第1便となるアメリカ空軍のロッキードC-5「ギャラクシー」貨物機が、マニラに向けてタンソンニャット国際空港を離陸した後に墜落し、乗客乗員328人中155人(多数の戦災孤児を含む)が死亡し、北ベトナム政府はこれを「人さらいのうえでの虐殺である」と非難した。しかしこの作戦はサイゴン陥落直前の4月26日まで続けられ、3,300人の戦災孤児が混乱する南ベトナムを離れた。
隣国のカンボジアでは、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるクメール共和国政府軍と、中華人民共和国などの支援を受けたクメール・ルージュの内戦の末、4月17日に首都のプノンペンが陥落し、直前にアメリカのジョン・ガンザー・ディーン特命全権大使などが、隣国のタイ王国へ逃亡したほか、ロン・ノルもインドネシア経由でハワイ州へ逃れた。
1975年4月21日、グエン・バン・チュー大統領がテレビとラジオを通じて会見を行い、これらの事態の責任を取り辞任を発表した。後任には、南ベトナム政府の長老の1人で、1960年代に大統領や首相を務めた経験を持つチャン・バン・フォン副大統領が就任した。穏健派として知られるフォン大統領による土壇場での停戦交渉が期待されたものの、パリ協定発効以降、協定内容に則りタンソンニャット空軍基地に駐留していた北ベトナム政府代表団は、穏健派であるもののチュー元大統領の影響が強いとみられたフォン大統領との和平交渉を4月23日に正式に拒否し、存在意義を失ったフォン大統領は4月29日に、就任後わずか8日で辞任した。後任として同日に同じく穏健派のズオン・バン・ミン将軍が就任したが、ミン新大統領による和平交渉は北ベトナム政府代表団によって同じく拒絶された。
南ベトナムの首都であるサイゴン陥落による混乱を恐れた、南ベトナム政府上層部の家族や富裕層は、4月中旬以降次々と民間航空便で南ベトナム国外への脱出を図っていたが、この時期になると、サイゴン北部のタンソンニャット空軍基地も包囲され攻撃が及んできたために、同空港を発着するエア・ベトナム、パンアメリカン航空、シンガポール航空などの民間航空機の運航や、「オペレーション・ベビーリフト」も、北ベトナムのホー・チ・ミン作戦における最終段階『サイゴン総攻撃』により、4月26日をもって全面停止に追い込まれた。
また一般市民も、南ベトナム政権の崩壊が避けられないと悟り、南ベトナムの通貨であるピアストルを、金・ダイヤモンド・アメリカ合衆国ドルに交換したため、ピアストルの通貨価値が暴落した。
この時すでに南ベトナム軍の前線は各方面で完全に崩壊し、それとともに北ベトナム軍によるサイゴン市内の軍施設などの重要拠点への砲撃や、北ベトナム空軍機による爆撃などが続いたために、サイゴン市内の一部は混乱状態に陥った。
その後間もなく、四方からサイゴン市内へ向けて進軍した北ベトナム軍の地上部隊により、南ベトナム軍のタンソンニャット空軍基地も完全に包囲され、攻撃を受けて滑走路や各種設備が破損したために、南ベトナム軍輸送機の発着は完全に途絶し、北ベトナム軍と交戦中の南ベトナム地上軍への援護も不可能になった。
サイゴン陥落は避けられない状況となり、アメリカ政府および軍は4月28日に国家安全保障会議を開き、アメリカ軍や大使館職員・連邦政府の関係者と在留アメリカ民間人、アメリカと関係の深かった南ベトナム政府上層部のサイゴンからの撤退方法についての緊急討議を行い、サイゴンからの撤退作戦である「フリークエント・ウィンド作戦」を発令した。
作戦開始後、市内のアメリカ政府やアメリカ軍、南ベトナム軍の関連施設からアメリカ軍や政府の関係者と、グエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元首相をはじめとする南ベトナム政府上層部やその家族、在留アメリカ人らが、サイゴンの沖合いに待機する数隻のアメリカ海軍の空母や大型艦艇に向けて南ベトナム軍や米軍のヘリコプターや軍用機、小船などで必死の脱出を続けた。空母の甲板では、立て続けに飛来するヘリコプターを着艦するたびに海中投棄し、後続のヘリコプターや軍用機の着艦場所を確保した。
フリークエント・ウィンド作戦に関するアメリカ軍の公式記録では、述べ682回にわたるアメリカ軍のヘリコプターによるサイゴン市内と空母との往復が記録され、1300人以上のアメリカ人が脱出に成功、その数倍から十数倍の南ベトナム人も脱出した。なお、作戦中に海中投棄されたアメリカ軍や南ベトナム軍のヘリコプターは45機に達した。
しかし在留日本人は、派遣元の企業などから4月中旬には国外脱出が命令されていたが、フリークエント・ウィンド作戦がアメリカ人や南ベトナム人の撤退を行うことだけで、アメリカ軍が手一杯なことや日本が直接参戦していないことなどから、たとえ日本人が南ベトナムに残っても、北ベトナム政府や市民などから迫害を受ける可能性が低い事などを理由に、南ベトナム軍やアメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された。
さらに、自衛隊の海外派遣が禁じられていたために、欧米諸国のように政府専用機や軍用機による自国民の救出活動が全く行われず、また、日本共産党指揮下の組合の反対により、日本国政府による日本航空の救援機も運航されなかったため、数百人の在留日本人がサイゴン市内に取り残された。なお、多くの民間人や駐南ベトナム特命全権大使以下大使館員については、家族は安全の確保のためサイゴンを去ったが、上記の理由からサイゴンに残留することを選択した。
また、かつてはアメリカ軍とともにベトナム戦争に参戦していた韓国人は、「アメリカ人や南ベトナム人の退去活動で手一杯であること」を理由に、日本人と同じくアメリカ軍機による撤退への同行が拒否され、駐南ベトナム特命全権大使はアメリカ大使館の目の前にたどり着いたものの、大使館の敷地に入ることをも拒否された、その結果、特命全権大使以下の在留韓国人のほとんどが、反韓感情が根強く残るサイゴンに取り残された。残留韓国人は、国際赤十字指定地域とされた、サイゴン市内の病院に避難し、迫害を受けることはなかった ものの、その後しばらく韓国に帰国することができなかった。
4月30日の早朝には、最後までサイゴンに残ったグエン・バン・チュー元大統領ら、南ベトナム政府の要人や軍の上層部とその家族、アメリカ合衆国のグレアム・アンダーソン・マーチン 駐南ベトナム特命全権大使や大使館員、アメリカ人報道関係者など、南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くが、サイゴン市内の各所からアメリカ陸軍や海兵隊のヘリコプターで、南シナ海上に待機するアメリカ海軍の空母に向けて脱出する『フリークエント・ウィンド作戦』を発動した。
撤退計画がサイゴン市内の混乱を受けて遅延したこともあり、北ベトナム軍はアメリカ合衆国連邦政府や赤十字国際委員会の要請を受け、サイゴン市に在留するアメリカ軍人および民間人が完全に撤退するまで、サイゴン市内に突入しなかった。なお、アメリカ合衆国軍およびアメリカ合衆国大使館は、撤退後に北ベトナム政府に渡らぬよう、計360万アメリカ合衆国ドルを撤退前に焼却処分した。
同日午前には、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が、大統領官邸から南ベトナム国営テレビとラジオで、戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。その後残留南ベトナム軍と北ベトナム軍の間に小規模な衝突があったものの、午前11時30分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し、ミン大統領らサイゴンに残った南ベトナム政府の閣僚は全員北ベトナム軍に拘束された(サイゴン陥落)。南ベトナムは崩壊し、アメリカ合衆国の敗北が決定した。少数の南ベトナム軍の将校はサイゴン陥落後に自決した。
サイゴン陥落とそれに伴う南ベトナム政府の崩壊後、南ベトナム解放民族戦線と民族民主平和勢力連合、人民革命党によって1969年に結成されていた南ベトナム共和国臨時革命政府が南ベトナム全土を掌握した。
統一後はピアストルとドンの通貨の統合や行政、官僚組織の再編成、民間企業の国営企業化が進められた。また、その後旧サイゴン市に周辺地域を統合して北ベトナムの指導者「ホー・チ・ミン」の名前を取った「ホーチミン市」が新たに制定された。
サイゴン陥落の約2週間後、クメール・ルージュが政権を掌握して民主カンプチアを樹立した隣国のカンボジアで「マヤグエース号事件」が勃発し、人質の解放に向かったアメリカ軍とクメール・ルージュの間で起きた戦闘により、多数のアメリカ軍兵士が死亡していた。これはベトナム戦争における最後の戦闘であると見なされている。
1975年5月、カンボジアはベトナムに対する戦争を開始し、まずベトナムのフーコック島を攻撃した。両国の間で戦闘が行われたにもかかわらず、再統一したベトナムとカンボジアは、1976年を通じて表向きは両国の強力な関係を強調する外交を展開した。しかしその裏で、クメール・ルージュ政府はなおもベトナムの拡張主義と認識していたものを恐れていた。そのような中で1977年4月30日、カンボジアはベトナムに対する別の大規模な軍事攻撃を開始した。カンボジアの攻撃に衝撃を受けて、ベトナムはカンボジア政府を交渉のテーブルにつかせることを目的に、1977年末に報復攻撃を開始した。
1978年1月、ベトナム軍はその政治目的に達しなかったため、撤退した。中華人民共和国が両国の平和交渉の仲介に当たろうとする中で、1978年を通じて両国間に小競り合いが続いた。1979年にはベトナム領内でもバチュク村の虐殺など大量殺戮を始めたカンボジアの独裁者ポル・ポトの打倒を掲げてベトナムはカンボジアに侵攻してカンボジア内戦(カンボジア・ベトナム戦争)が勃発し、これに対して中華人民共和国がベトナムに「懲罰」と称し侵攻して中越戦争が起きた。カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争を合わせて第三次インドシナ戦争とも呼ばれた。
・第7空母航空団/空母インディペンデンス/AG/第84戦闘飛行隊・第41戦闘飛行隊F-4Bファントム/第86攻撃飛行隊・第72攻撃飛行隊A-4Eスカイホーク/第4重攻撃飛行隊A-3Bスカイウォーリア/第1重偵察攻撃飛行隊RA-5Cビィジランティー/第75攻撃飛行隊A-6Aイントルーダー/第12早期警戒隊E-1Bトレーサー/第13早期警戒隊EA-1Fスカイレーダー/UH-1ガンシップ/UH-2A搭載
1960年よりベトナム人同士の統一戦争として開始され、その後アメリカ合衆国が軍事介入し、15年間続いた戦争によって、南北ベトナム両国は500万の死者と数百万以上の負傷者を出した。このことは、掲げる政治理念や経済体制にかかわらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊と、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線による南ベトナムに対する軍事活動やテロにより国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。
また、ベトナム戦争では北ベトナムやベトコンは国の統一を目指してアメリカに立ち向かったのに対し、対する南ベトナムはアメリカの傀儡国家で、政治は腐敗して独裁を行ったため南ベトナムの軍民には国を守る意思が低かったため敗戦した。または腐敗政治に苦しんでいた南ベトナム人たちはサイゴン解放を喜んだ。
ベトナム戦争が終わると、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアでは中華人民共和国に支援されたクメール・ルージュが相次いで政権に就いたことで、インドシナ半島はタイ王国、ビルマ式社会主義体制を敷いていたミャンマー(ビルマ)を除いて共産化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実になった。さらにアメリカ軍のインドシナ介入がカンボジア内戦などの諸問題を複雑にしたという声もある。
アメリカはこの戦争で、延べ250万人以上の兵士を動員して5万8,718人の戦死者と約2,000人の行方不明者にこれに負傷者を加えるとおよそ30万人を超える人的損失を出した。またアメリカは、旧南ベトナム政府や軍の首脳陣、そして南ベトナムから流出した華人、および政治的亡命者などのボートピープルや難民を受け入れた。
テレビ放送が普及したのちでは、最初に勃発した大規模戦争だったため、それ以前の戦争と異なり、戦争の被害が、その日のうちにテレビ番組で報道され、戦場の悲惨な実態を全世界に伝えた。アメリカ国内では、史上例を見ないほど草の根の反戦運動が盛り上がり、「遠いインドシナ半島の地で、何のためにアメリカ軍兵士が戦っているのか」という批判がアメリカ合衆国連邦政府に集中した。青年層を中心に『ベトナム反戦運動』が広がり、ヒッピーやフラワーピープルなど、カウンターカルチャーが興隆した。
ベトナム戦争は1964年にリンドン・ジョンソン政権下で制定された公民権法の施行を受けて、アメリカ合衆国の歴史上初めて「黒人部隊」が組織されず、黒人と白人が同じ戦場・同等の立場で、敵と戦う戦争であった。これにより、戦場で共に戦った黒人と白人の若者が、アメリカにおいて様々な場所で、完全に分離されていた、人種間融和の促進剤になっていると指摘された。この点について、アフリカ系アメリカ人公民権運動を起こしたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、生前「皮肉な結果である」と述べている。
作家・評論家などの文化人、俳優・女優・歌手などの芸能人による『ベトナム反戦運動』も盛んに行われた。ボクサーのモハメド・アリは、1967年にベトナム戦争に反対して、徴兵制度拒否(良心的兵役拒否)を行った。イギリス人歌手のジョン・レノンも、ビートルズの解散後に活動拠点を置いていたアメリカを中心に反戦活動を行った。この際に行われた「ベッド・イン」などのパフォーマンスは、マスコミも大きく取り上げ、若者への影響力が強かった。
女優のジェーン・フォンダは、1972年に反戦活動家のトム・ヘイドンと共に「アメリカ兵のための反戦運動」と称して、ベトナム民主共和国を訪れた際に、アメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットを被り、照準器を覗き込む写真を発表した。
フォンダは1978年に、ベトナム帰還兵の問題をテーマにした主演映画『帰郷』(Coming Home) で、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。
早急に兵士を補充するため徴兵基準を緩和したことでそれまで受け入れなかった素行不良者や適格に欠く者も受け入れることになり、前線部隊では大麻や性犯罪など軍規の乱れが常態化した。このような疲弊した軍隊の様子はフルメタル・ジャケットなどの作品で取り上げられた。またアンフェタミンの提供も引き続き行われており、ベトナム帰還兵の心身に影響を与えたとされる。規定数を確保するため、就労が禁止されている観光ビザで入国した外国人を収入や市民権などを餌に釣るという勧誘も行われていた。
第二次世界大戦や朝鮮戦争の戦争中や終結後の時期と異なり、ベトナム帰還兵の心理的障害が広く認識されて社会問題となり、精神医学や軍事心理学において心的外傷後ストレス障害(post traumatic stress disorder, PTSD)の研究が展開した。
膨大な戦費が投入された結果、アメリカ合衆国ドルと金の交換に疑問を持ったヨーロッパは、イギリスとフランスが、ドル紙幣を金に交換するよう要求し、これがニクソン・ショックへと繋がり、1944年に制定されたブレトンウッズ体制は終焉を迎えた。
アメリカ合衆国連邦政府が、ベトナム社会主義共和国の国家の承認と国交樹立を果たしたのは、ベトナム戦争終結後から20年後の1995年になってからであった。
1954年のジュネーヴ協定以前まで、「フランス領インドシナ」として、ベトナムを侵略・植民地支配していたフランスでも、シャルル・ド・ゴールフランス共和国大統領は「ベトナム戦争は、民族自決の大義と尊厳を、世界に問うたものである」と述べている。
ただしド・ゴールは『ディエンビエンフーの戦い』に敗戦し、1954年にフランスがインドシナ半島から撤退したことについては「不本意だった」と述べている。
中東戦争でアメリカ合衆国が支援しているイスラエルと戦っているさなかの中東アラブ諸国にも影響を与えた。北ベトナムがアメリカ合衆国を相手に有利に戦争を進めて最終的に勝利したのは「社会主義を標榜していたから」と解釈され、アラブ世界も北ベトナムのように社会主義化して東側の援助を受ければ親米国家イスラエルを打倒できるのではないかと考えられるようになった。
このような考えはアラブ世界が団結して戦った第3次中東戦争以降支持されるようになり、アラブ世界では、イラクやシリアのようなバアス党による社会主義化が行われた国も現れたし、リビアのような独自の社会主義路線をとる国も現れた。
ベトナム戦争は、高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えたかに見えた。しかし学生運動こそ盛り上がりを見せたが、1965年の国会では、野党が沖縄から北爆へ向かうB-52爆撃機の離着陸問題を取り上げたものの 大勢に影響はなく、1970年には安保条約を自動延長させた。
当時新左翼を含めて、ベトナム戦争反対派は「70年安保闘争」と並ぶ運動の中核と見なし、ベトナム反戦運動のみならず、関係のない新東京国際空港反対運動を結び付け、インフラストラクチャー破壊活動や警官の殺害を伴う過激な学生運動(三里塚闘争)も行ったが当時は市民から一定の支持を受けていた。
なお、南ベトナム解放民族戦線を支持する「第四インターナショナル」や「ベトナムに平和を!市民連合」等と、反スターリン主義の立場から北ベトナム政権不支持を主張し、ベトナム戦争反対を掲げた「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」や「革命的共産主義者同盟全国委員会」等とでは温度差があり、同床異夢の感があった。
また、ベトナム戦争終結後、1989年の冷戦終結までの間に、サイゴンの傀儡政権に協力していた経歴から石を投げられる事を恐れて漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の華僑の計画的な追放も発生し、後の中越戦争のきっかけの一つになった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民が居なくなった2016年現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお、「ボート・ピープル」は、大部分が華僑であったことが、使用言語などから分かっている。
ベトナム戦争終結後の歴代のアメリカ政府や議会は、アメリカ合衆国がベトナム全土の共産主義体制化と、ベトナムを基点として東南アジア全域が「ドミノ理論」による共産主義化されることを抑止するために、ベトナム戦争に軍事介入したこと、枯れ葉剤・クラスター爆弾・対人地雷など、不発弾による環境破壊や人的被害に対して、いかなる謝罪も金銭賠償をもしていない。2009年のオバマ大統領の就任演説においても、アメリカ合衆国の利益や正義を追求した先人たちの行為や努力や犠牲の事例として、アメリカ独立戦争・南北戦争・第二次世界大戦とともに、ベトナム戦争を戦ったことを『英雄』として賞賛している。
また、南ベトナム解放民族戦線および北ベトナム軍がベトナム戦争中に自国民に対して行なった数々のテロリズムに関し批判もされるが、ベトナム政府もアメリカ政府と同様に謝罪するコメントを出していない。
アメリカ軍は南ベトナム解放民族戦線の浸透作戦を防ぐ目的で枯葉剤を大規模に利用した。戦後になりベトナム市民やアメリカ軍のベトナム帰還兵の間で枯葉剤への接触を原因とする健康被害や出産異常が発生した。環境への影響を防ぐことができない枯葉剤を利用することの国際法上の問題と合わせて批判が存在する。結合双生児のベトちゃんドクちゃんは枯葉剤を原因とするといわれ、日本でも広く知られた。
広範囲を焼き付くすナパーム弾についても人道的な観点から批判が多かった。焼夷兵器については戦後の1980年に特定通常兵器使用禁止制限条約において市民に被害が出る可能性がある際の使用が禁止された。
また、これらの兵器による被害は、当然ながら対人だけでなく、絶滅危惧種や自然環境そのものにも大きな被害を与えた。後世、エコロジー(環境)に対するジェノサイド(虐殺)、つまり「エコサイド」として語られる被害も多かった。
1968年3月16日、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍・第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落を襲撃し、無抵抗の村民504人を無差別射撃などで虐殺。集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ、2022年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。さらにC中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、第3歩兵連隊第4大隊が増派され、近隣の村落で虐殺を行った。
アメリカ軍は解放戦線の非公然戦闘員(ゲリラ)を無力化するため、サーチ・アンド・デストロイ(索敵・殲滅)作戦で、南ベトナム解放民族戦線ゲリラおよびシンパ「容疑者」への虐殺を繰り返した。その過程で多くの民間人に対する残虐行為を行っていた。
※経緯や各事件については前節の「サーチアンドデストロイ作戦」も参照。
『ロサンゼルス・タイムズ』によると、韓国政府はいかなる大量虐殺の事実も認めておらず、韓国軍退役軍人枯葉剤被害者の会事務総長のKim Sung-wookは「我々の兵役はベトナムの治安を維持する目的でした」「それ以外だという指摘は我々の名誉への侮辱に当たります」と韓国軍の正当性を述べている。
2017年7月10日の『ニューヨーク・タイムズ』社説は、「ベトナム政府は過去を振り返るよりも未来に目を向けたいと考えており、韓国政府は第二次世界大戦の日本との未解決の問題(慰安婦問題)を重視している。しかし、一つだけはっきりしていることがある。それは、ハミの人々にとって、その悲惨な過去は、決して過去のものではないということだ」と指摘している。
アメリカ人や韓国人とベトナム人との間に多数の混血児が生まれ、アメリカ人とのハーフは「アメラジアン」、韓国人とのハーフは「ライダイハン」と呼ばれる。ライダイハンはハンギョレ21や歴史家の韓洪九らによって、韓国やベトナムで「ベトナム戦争の混血児問題」として、1999年に社会問題となったが、韓国政府は退役軍人組織が背景にいるため、公式に認めていない。
2013年9月の朴槿恵大統領のベトナム訪問では、ホー・チ・ミン廟の参拝や献花の時を含めてベトナム戦争についてまったく触れず、ベトナム戦争時に韓国軍兵士に性的暴行されたベトナム人女性や虐殺されたベトナム人遺族に対して謝罪をしなかったが、『ハンギョレ』は、韓国が日本に対してしきりに「歴史直視」を要求していることと矛盾していると批判している。ベトナム戦争の際の謝罪をベトナム側から求められなかったことに関して、韓国政府高官は「過去に対する韓国とベトナムの成熟した立場と誤った歴史認識に閉じ込められている日本と自然に比較されないか」として、「日本への圧迫」になると主張している。
2017年6月6日に韓国の文在寅大統領は、顕忠日の追悼式で「ベトナム戦争参戦勇士の献身と犠牲を土台に祖国の経済が復活した」「今日の韓国経済があるのはベトナムで戦った元軍人たちの献身と犠牲があってのことです」と述べた。この韓国軍兵士によるベトナム民間人虐殺への賛辞とも受け取れる発言に対して、ベトナム外務省(英語版)は在ベトナム韓国大使館(朝鮮語版)を通じて韓国政府に抗議した。また、ベトナム外務省(英語版)はHPで「韓国政府がベトナム国民の感情を傷つけ、両国の友好と協力関係に否定的な影響を与えかねない言動をしないよう要請する」と表明した。さらに『朝鮮日報』によると、ベトナムメディアは韓国軍が9000人余りのベトナム民間人を虐殺したにもかかわらず、韓国政府はこれを認めていないと批判している。
2020年3月27日にBBCが、「1968-何百人もの女性を苦しめた年」という記事で、ベトナム戦争における韓国軍兵士によるベトナム人女性への性的暴行を特集し、「韓国人に何が起きたのかを認めてもらう必要がある」とのベトナム人被害女性の訴えを紹介し、ジャック・ストロー元英外相と「ライダイハンのための正義」が、国連人権理事会による調査や韓国の謝罪を求めていることを伝え、「韓国は、第二次世界大戦中に、何十万人もの韓国人女性が性奴隷として働かされたことをめぐり、謝罪をするよう何十年も日本に働きかけてきた」と指摘し、日本に謝罪を求めながら、自らの問題には頬かむりする韓国のダブルスタンダードを批判した。
ベトナム、カンボジア、ラオスは、南北ベトナム統一から冷戦終結までの間(1976年 - 1989年)に、東南アジア諸国連合に加盟した。
1986年のドイモイ政策によってベトナムは、市場経済を導入し、外国の資本投資を受け入れ、1995年にはアメリカとの国交回復を果たし、経済成長を続けている。
2007年にベトナムはWTOに加盟し、アメリカ一極体制が破綻した2008年金融危機以後は「VISTA」と呼ばれる新興経済国家の仲間入りを果たした。東南アジア諸国が市場経済体制と国際貿易体制に組み込まれ、経済的な状況に限れば、戦争だけでは実現できなかった状況が実現されることになった。
ベトナムにはベトナム戦争についての資料を収集した戦争証跡博物館がある。
1991年末日のソビエト連邦の崩壊は、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国の接近を引き起こした。ソビエト連邦が崩壊すると、ベトナム戦争の終結から20年後に当たる1995年8月5日に、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国が和解し、国交を回復した。2000年には、両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、ユナイテッド航空やゼネラルモーターズ、コカ・コーラやハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業がベトナム市場に続々と進出した。その後も多くのアメリカ企業がベトナムに工場を建設し、教育水準が高く、かつASEANの関税軽減措置が適用されるベトナムを、東南アジアにおける生産基地の1つとしたことや、1990年代以降のベトナム経済の成長に合わせてアメリカからの投資や両国間の貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。
ベトナムにとって、アメリカ合衆国は、隣国の中華人民共和国に次いで、第二の貿易相手国となっている。また、現在は両国の航空会社が相互に乗り入れた事や、2000年代以降はベトナム政府がアメリカなどに亡命したベトナム人の帰国を、外貨獲得の観点からほぼ無条件に許したことから人的交流も盛んになっている。
アメリカ合衆国連邦政府やアメリカ合衆国議会は、枯葉剤やその他の戦争被害に対して謝罪も賠償もしていないが、フォード財団やその他の民間団体は、枯葉剤被害者に対し様々な援助を試みようとしている。
2000年代後半に入ると、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国は軍事面で接近し、「昨日の敵が、今日の友」に変わる勢いを見せている。この背景には、
がある。
2010年7月にハノイで開催されたASEAN地域フォーラムでは、アメリカのヒラリー・クリントン国務長官は南シナ海の西沙諸島や南沙諸島の領土問題に関与することを宣言し、その直後の8月11日には、ベトナム軍とアメリカ軍が南シナ海で合同軍事演習を行うに至った。
ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争に引き続き、報道関係者に開かれた戦場であった。北ベトナムと南ベトナム(とアメリカ)の双方がカメラマンや新聞記者の従軍を許可し、南北ベトナムやアメリカなどの当事国以外にも日本やフランス、イギリスやソビエト連邦など多数の国の記者が取材した。彼らは直に目にした戦場の様子をメディアを通じて伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた、反戦運動や反米運動の拡大を招いた。アメリカでもペンタゴン・ペーパーズ漏洩事件は強い衝撃を与え国論を二分する騒ぎとなった。
フリーランスカメラマンとして、石川文洋が1965年から取材を行った。毎日新聞外信部長の大森実らは『泥と炎のインドシナ』を連載し、1965年の日本新聞協会賞を受賞した。朝日新聞の本多勝一は戦闘だけでなく解放区で暮らす人々の暮らしをあわせて詳細に記録し、第11回JCJ賞、第22回毎日出版文化賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞した。その報道はルポルタージュの白眉と言われ、陸井三郎によれば、米軍が前線に出てきてから終戦までの間、解放区における生活と戦闘を報じた外国人記者は(短期滞在を除けば)本多以外に現れなかったという。作家の開高健も『ベトナム戦記』(朝日新聞社、1965年)などのルポルタージュを残した。同じく作家の石原慎太郎も読売新聞社の依頼でベトナム戦争を取材しているが、本多勝一から、南ベトナム側から大砲の引き金を実際に引こうとしたことについて卑劣で鈍感であると非難されている。
特に沢田教一が撮影した、戦火を逃れるために川を渡る親子の写真(「安全への逃避」ピューリッツァー賞受賞)、AP通信のカメラマンフィン・コン・ウトが撮影した、ナパーム空爆に遭遇し全裸で逃げ回る少女ファン・ティー・キムフックの写真(「戦争の恐怖」)などはその後も反戦の象徴として用いられている。ほかにエディ・アダムズがサイゴン市内で撮影した、私刑で頭を撃たれる瞬間の戦争捕虜を収めた写真(「サイゴンでの処刑」)、一ノ瀬泰造の撮影した、砲撃を飛んで躱す兵士の写真(「安全へのダイブ」)等もある。
またベトナム戦争は、史上初のテレビでの生中継が行われた戦争であった。特に「当事国」のアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、その残虐さや影響の大きさからテレビ局や新聞社が自主的に規制する風潮が高まったが、北ベトナムの場合も、取材とその報道内容については大幅な制限がかかった。
これらの映像による報道の影響の大きさを受けたアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、湾岸戦争を始めとしてメディアコントロール(従軍記者を使ったエンベディド・レポーティング)に力を注いでいくこととなる。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。
開戦当時からアメリカを中心にベトナム戦争を扱った映画が多数製作された。戦争中はドキュメンタリーや『グリーン・ベレー』(ジョン・ウェイン製作・主演)のような米軍の側に立ったプロパガンダ的な映画も制作された。戦後はアメリカ軍の軍規弛緩とそれのもたらした戦争犯罪、ベトナム帰還兵の苦悩を描くものが多く制作された。
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"text": "ベトナム戦争(べとなむせんそう、ベトナム語:Chiến tranh Việt Nam / 戰爭越南、英語: Vietnam War)は、当時南北に分断されていたベトナムで社会主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)と資本主義のベトナム共和国(南ベトナム)の間で勃発した戦争であり、冷戦中に起こった資本主義と社会主義の代理戦争であるとされる。経済力・物量の差から「象と蟻」の戦いと揶揄された。",
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"text": "ベトナムの南北両国では以前から対立が続いており、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された反政府組織である南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)が活動して南ベトナムの警察や軍などと争いが起こっていた。南ベトナムの同盟国であるアメリカ合衆国(アメリカ)は以前から軍事顧問を送り込むなどして南ベトナムを援助していたが、1964年8月のトンキン湾事件を契機として全面的な軍事介入を開始した。南北ベトナムと解放戦線、そしてアメリカは一気に全面戦争に突入したが、アメリカ軍は北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦し、最終的に和平協定を結んで撤退した。戦争はその後、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させるまで続いた。",
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"text": "また、この戦争に参戦したのは南北ベトナムや解放戦線、アメリカだけでない。それはそれぞれに味方し支援する同盟国であり、それらの国々は戦争初期から同盟国軍として参戦している。具体的には北ベトナムに味方したのは同じ東側諸国に属する社会主義国であり、軍事顧問を派遣したソビエト連邦(ソ連)や防空作戦部隊や工兵部隊を派遣した中華人民共和国(中国)、空軍のパイロットを派遣した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などである。また、南ベトナムに味方したのは同じく西側諸国に属する資本主義国であり、28,000人から4,5000人の国軍部隊や50,000の役務要員を派遣した大韓民国(韓国)や3,000人の部隊を派遣したオーストラリア、それぞれ2,000人の部隊を派遣したタイ王国やフィリピン、戦車部隊や医師など200人を派遣したニュージーランドなどであり、間接的な協力では心理戦や農業部門で関与した中華民国(台湾)や医療関係で協力した日本なども挙げられる。そして両陣営の兵士や戦士、民間人ゲリラなどが泥沼の戦いを行ったため多くの人々が犠牲となる大変悲惨な結果となった。その後1973年にパリ和平協定が締結されアメリカ軍などは撤退。その後も戦闘は続き、結果的に北ベトナム側の勝利に終わり南ベトナムはサイゴン陥落によって無条件降伏し政権は崩壊した。なお、この戦争ではベトナムだけでなく、周辺諸国であるラオスやカンボジアにも戦火は拡大しており、それぞれラオスではラオス王国とパテート・ラーオが戦い、カンボジアではクメール共和国とカンボジア王国・クメール・ルージュの連合軍が戦い、こちらでも社会主義国側の勝利に終わっているが、やはり多くの人々が被害を受けている。これらはそれぞれラオス内戦、カンボジア内戦と呼ばれており、結局インドシナ半島の3カ国は全て社会主義の国となった。",
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"text": "この紛争は、第二次世界大戦後にフランスと共産党率いるベトミンとの間で起きた第一次インドシナ戦争に端を発する。1954年にフランスがディエンビエンフーの戦いで大敗し、ジュネーブ協定によって最終的にインドシナ半島から撤退した後、アメリカは南ベトナム国家への財政的・軍事的支援を開始した。北ベトナムの指示を受けた南ベトナムの共同戦線であるヴィエト・ゾン(Front national de libération du Sud-Viêt Nam、NLF (the National Liberation Front)、南ベトナム解放民族戦線。ベトナム共産党に因みベトコンとも呼ばれる)は、南部でゲリラ戦を開始した。北ベトナムは1950年代半ば、反乱軍を支援するためにラオスにも侵攻し、ホーチミン・ルートを確立してベトコンを補給・強化していた。アメリカの関与はジョン・F・ケネディ大統領の下でMAAGプログラムを通じてエスカレートし、1959年には1000人弱だった軍事顧問が1964年には2万3000人に達した。1963年までに、北ベトナムは4万人の兵士を南ベトナムに派遣していた。",
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"text": "1964年8月初旬のトンキン湾事件では、アメリカの駆逐艦が北ベトナムの高速攻撃艇から魚雷攻撃を受けたとされた。これを受けて、アメリカ議会はトンキン湾決議を可決し、リンドン・B・ジョンソン大統領にベトナムにおけるアメリカ軍のプレゼンスを高める広範な権限を与えた。ジョンソンは、初めて戦闘部隊の派遣を命じ、兵力を18万4,000人に増強した。ベトナム人民軍(PAVN、北ベトナム軍(NVA)とも呼ばれる)は、米軍および南ベトナム軍との間で通常の戦争を行った。進展は無かったが、米国は大幅な軍備増強を続けた。戦争の立役者の一人であるロバート・マクナマラ国防長官は、1966年末には勝利を疑うようになっていた。米軍と南ベトナム軍は、航空優勢と圧倒的な火力を頼りに、地上部隊、砲兵隊、空爆を伴う索敵・破壊作戦を展開した。また、アメリカは北ベトナムやラオスに対して大規模な戦略爆撃を行った。北ベトナムは、ソ連と中華人民共和国の支援を受けていた。1967年にはタムクアンの戦いが南ベトナムで起こっている。",
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"text": "1968年のテト攻勢でベトコンと北ベトナム軍が大規模な攻勢をかけたことで、アメリカ国内の戦争に対する支持が薄れ始めた。テトの後、放置されていたベトナム共和国陸軍(ARVN)は、アメリカのドクトリンを手本に拡大していった。テト攻勢とそれに続く1968年のアメリカ軍・ベトナム共和国陸軍の作戦で、ベトコンは5万人以上の兵士を失うという大損害を被った。 CIAのフェニックス作戦は、ベトコンの人員と能力を更に低下させた。この年の終わりまでに、ベトコンの反乱軍は南ベトナムに殆ど支配地域を持たなくなり、1969年には徴兵が80%以上も減少し、それはゲリラ活動が激減したことを意味し、北からの北ベトナム軍正規兵の動員を増やす必要があった。1969年、北ベトナムは南ベトナムに暫定革命政府を宣言し、減少したベトコンに国際的な地位を与えようとしたが、北ベトナム軍がより通常の複合武器戦を開始したため、それ以降、南部ゲリラは脇に追いやられるようになった。1970年には、南部の共産党軍の70%以上が北部人となり、南部人を主体としたベトコン部隊は存在しなくなった。活動は国境を越えて行われた。北ベトナムは早くからラオスを補給路として利用していたが、1967年からはカンボジアも利用していた。カンボジアを経由するルートは1969年からアメリカの爆撃を受け始めたが、ラオスのルートは1964年から激しい爆撃を受けていた。カンボジア国民議会が君主ノロドム・シハヌークを退陣させたことにより、クメール・ルージュの要請を受けた北ベトナム軍の侵攻を受け、カンボジア内戦が激化し、米軍・ベトナム共和国陸軍の反攻(カンボジア作戦)を受けることになった。",
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"text": "1969年、リチャード・ニクソン大統領の当選を受けて、「ベトナミゼーション」政策が開始された。この政策により、紛争は拡大したベトナム共和国陸軍によって戦われることになり、米軍は国内の反発や徴兵の減少により、ますます士気が低下していったのである。米軍の地上部隊は1972年初めまでにほぼ撤退し、支援は航空支援、砲兵支援、顧問、物資輸送に限られていた。ベトナム共和国陸軍は、米国の支援に支えられ、1972年のイースター攻防戦で、最初で最大の機械化された北ベトナム軍の攻勢を阻止した。この攻勢は双方に大きな犠牲をもたらし、北ベトナム軍は南ベトナムを制圧することが出来なかったが、ベトナム共和国陸軍自身も全ての領土を奪還することが出来ず、その軍事的状況は厳しいものであった。1973年1月のパリ協定により、米軍は全て撤退し、8月15日に米議会で可決されたケース・チャーチ修正条項により、米軍の直接的な関与は正式に終了した。和平協定はすぐに破棄され、戦闘は更に2年間続いた。1975年4月17日、プノンペンがクメール・ルージュにより陥落し、4月30日には1975年春の攻勢で北ベトナム軍がサイゴンを占領し、最後のアメリカ兵がヘリコプターでサイゴンを脱出し、戦争は終結した。その時、ホーチミン死後6年を経過していた。北ベトナム及び民族解放戦線は、膨大な犠牲者と荒廃した国土を引き換えに、勝利者として国際社会から認定され、翌年には南北ベトナムが統一された。",
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"text": "戦争の規模は膨大であり、被害は甚大である。1970年までに、ベトナム共和国陸軍は世界で4番目に大きな軍隊となり、北ベトナム軍も約100万人の正規兵を擁していた。また、民間人含むベトナム側は300万人以上、米軍兵士5万8,220人、カンボジア人27万5,000~31万人、ラオス人2万~6万人が死亡し、さらに1,626人が行方不明となっている。ベトナムは米国が太平洋戦争で使用した弾薬の2.4倍を国土に投下され、 7200万リットルの枯葉剤を南部 70万ha に投下され、3世、4世にまで被害が出続けている。",
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"text": "ベトナム戦争の小康状態を経て、中ソ対立が再燃した。北ベトナムとその同盟国であるカンボジアのカンプチア王国政府、および新たに結成された民主カンプチアとの間の紛争は、クメール・ルージュによる一連の国境侵犯でほぼ開始され、最終的にはカンボジア・ベトナム戦争へと発展していった。中国軍がベトナムに直接侵攻した中越戦争では、その後1991年まで国境紛争が続いた。統一されたベトナムは、3つの国で反乱軍と戦った。この戦争が終わり、第3次インドシナ戦争が再開されると、ベトナムのボートピープルや、より大きなインドシナ難民危機が引き起こされることになる。数百万人の難民がインドシナ(主にベトナム南部)を離れ、そのうち25万人が海で死んだと推定されている。アメリカ国内では、この戦争をきっかけに、アメリカの海外での軍事活動に嫌悪感を抱く「ベトナム・シンドローム」と呼ばれる現象が発生 し、ウォーターゲート事件と相まって、1970年代のアメリカを支配した信頼の危機を引き起こした。",
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"text": "19世紀にベトナム(阮朝)はフランス帝国の植民地となる。7月王政時代のフランス帝国(フランス植民地帝国)国王ルイ=フィリップ1世は、1834年にアルジェリアを併合し、1838年にはメキシコで菓子戦争を起こして介入、1844年にはアヘン戦争で敗れた清と黄埔条約を締結した。そして、1847年4月、ベトナムの植民地化を図り、フランス軍艦によるダナン砲撃によるインドシナ侵略を始める。",
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"text": "フランス第二帝政のナポレオン3世も東方へのフランス勢力拡大に熱心で、フランス海軍司令官に大幅な自由裁量権を与え、アジア太平洋地域では強硬な帝国主義政策が遂行された。太平洋では、ニュージーランドを併合したイギリスへの対抗、またオーストラリアとの貿易の拠点および犯罪者の流刑地にする目論見で1853年にニューカレドニアを併合した。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
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"text": "1856年10月にイギリスがアロー号事件を口実に清へ出兵すると、フランスも清の江西省でフランス人宣教師のオーギュスト・シャプドレーヌが殺害された事件を口実として清への出兵を開始し、英仏は協力してアロー戦争を遂行する(第二次アヘン戦争)。フランスは清侵略と並行して清周辺地域への侵略も開始し、同1856年、阮朝(ベトナム)に対して不平等条約締結に応じるよう要求したが、阮朝が拒否したため、スペイン人宣教師死刑を口実として1857年よりベトナム侵攻を開始し、1858年9月にはフランス・スペイン連合艦隊によって再度ダナンに侵攻する。同1858年、英仏軍による北京陥落を恐れた清政府は天津条約の締結に応じ、一時終戦した。しかし、英仏軍が撤収するや清政府は条約批准を拒否して発砲、1860年に英仏軍が攻撃を再開、北京は陥落する。清はさらに不利な北京条約を締結させられた。フランスは日本とも1858年徳川幕府との間に不平等条約日仏修好通商条約を締結したが、ここでは英仏の協調は崩れ、フランスは徳川幕府、イギリスは薩長を支持して対立、幕府は明治維新で倒れ、また明治政府は対等外交を志向したため、幕府を通じて日本に影響力を行使しようとした目論見は潰えた。",
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"text": "フランスはその後1862年6月に阮朝に不平等条約であるサイゴン条約を結ばせ、南部3省を割譲させた。阮朝の宗主権下にあったカンボジア王国では、カンボジア人の反ベトナム感情を利用して1863年にフランス保護国に組み込むことに成功した。1866年には李氏朝鮮に対してフランス人宣教師死刑を口実に戦争を仕掛けたが(丙寅洋擾)持久戦に持ち込まれ、撤退した。1867年6月にはベトナム南部のコーチシナへ侵攻し、併合に成功。シャム(タイ)にも英米に続いて不平等条約を締結させたが、フランスとの対立激化を恐れたイギリスが同地を緩衝地帯にすることを望み、フランスのタイ分割案を牽制したこともあって、タイは植民地化をまぬがれた。",
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"text": "フランス第三共和政時代の1874年3月、第2次サイゴン条約を締結、フランスは紅河通商権を割譲させる。1882年4月にはハノイを占領する。1883年8月には第1次フエ条約(アルマン条約、癸未条約)を締結しベトナムがフランスの保護国になる。翌1884年6月には清への服属関係を断つ第2次フエ条約(パトノートル条約、甲申条約)締結に成功する。その2か月後にベトナムへの宗主権を主張する清との間で清仏戦争がはじまる。1885年6月9日に締結された講和条約である天津条約(李・パトノートル条約)では清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権を認めた。1887年10月、フランス領インドシナ連邦が成立する。こうしてベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。1889年4月にはラオス保護国を併合した。",
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"text": "1900年代になると、ベトナム知識人の主導で民族主義運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日露戦争でアジアの一国である日本がヨーロッパの帝国の一つであるロシア帝国に勝利したことに感銘を受けて大日本帝国に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが植民地解放を支援し、ベトナムの民族運動も、コミンテルンとの連携のもとで展開していく。こうしたなか、1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たし、ベトナム民族が独立することは1945年のベトナム独立宣言でも謳われ、のちの第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)でも、理念であり続け、戦争を持続させた原動力であった。",
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"text": "日中戦争当時、英米は援蔣ルートを通じて中華民国の蔣介石率いる国民党軍拠点の重慶に支援物資を輸送していた。援蔣ルートのうち、フランス領インドシナのハイフォン港から昆明、南寧までの鉄道輸送を行う仏印ルートが重要なものであった。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年にはフランスがドイツに敗北し全土をドイツ軍の占領下に置かれ、その後親独政権であるヴィシー政権が成立した。これを受けてフランスの植民地政権がヴィシー政権側につくことを選択したことで、1940年7月27日にドイツとの間で日独伊三国同盟を結んでいた日本政府(第2次近衛内閣)は「時局処理要綱」において仏印進駐を決定。8月30日に松岡・アンリ協定が結ばれ、ヴィシー政権およびフランス植民地政府が日本の経済的優先権および軍事的便宜を認める見返りとして、日本がインドシナにおけるフランスの主権とインドシナの領土保全を約束することで合意した。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
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"text": "このため仏印進出は平和進駐となることが通達されていたが、9月22日には大日本帝国陸軍が越境し、これを受けてフランス軍と第5師団(中村明人中将)が衝突し、日本軍がランソンを軍事制圧する。9月26日に日本軍は北部インドシナに進駐し、仏印援蔣ルートは遮断された。国境監視団は澄田睞四郎少将(澄田機関)が行った。ベトナム人は日本軍を、過酷な植民地支配を続けるフランス人を追い出した「救国の神兵」として歓迎し、さらに駐留日本軍はベトナム国民党などの独立運動を支援しようとする。しかし、松岡・アンリ協定によってフランスのインドシナ領有を尊重する約束が交わされており、東京の大本営は独立支援を許可しなかった。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "その2か月後にフランス軍が再度ランソンに進軍。このとき、澄田機関から独立運動を応援するといわれていたチャン・チョン・ラップらが決起するが、フランス軍に制圧され、青年独立義兵が多数処刑されるランソン事件が起こる。逃れた義兵は中華民国でベトミンに合流するが、この事件は日本軍がベトナムの愛国者を見殺しにした事件としても記憶される。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
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"text": "(1945年ベトナム飢饉も参照)",
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"text": "ヴィシー政権統治下および日本軍進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大飢饉が発生し、20万人以上、ホーチミンの主張では200万人が餓死する事態が発生する。コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した。また、フランス政庁も反日感情をあおるために保有米を廃棄するなどした。この飢饉がベトミンの勢力拡大の決定的な機会となった。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
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"text": "日本は1943年5月の御前会議で「大東亜政略指導大綱」を決定し、イギリスの植民地であったビルマと、アメリカの植民地であったフィリピンの独立を承認、戦局が悪化しつつあった1944年9月には、小磯国昭首相がオランダの植民地であったインドネシアの独立承認を言明する。フランス領インドシナについては、1944年8月に連合国軍と自由フランスによるフランス全土の開放によってヴィシー政権が崩壊すると、仏印処理によって即時独立付与が実施される。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
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"text": "イギリスやアメリカ、中華民国などの連合軍と、今や本国が友邦ドイツの敵国の自由フランスの手に落ちたフランス植民地軍との挟撃の可能性を断つために、1945年2月28日に大本営は南方軍総司令官に対してフランス領インドシナの武力処理・明号作戦を通達する。現地フランス軍は9万人、日本軍は4万人であったため、奇襲攻撃を3月9日午後10時にインドシナ全域で開始、翌日午前中までにはフランス植民地軍とフランスインドシナ植民地政府を制圧する。バオ・ダイ皇帝は涙を流しながら「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と語り、3月11日にはベトナム帝国樹立を宣言する。",
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"text": "当時ベトナムでは「日本は笑い、フランスは泣き、中国は心配し、独立したベトナムでは餓死者が道に溢れる」とうたわれ、ハノイの雑誌「タインギ」編集長のヴー・ディン・ホエは日本による独立付与を「天から降ってきた独立」と表現した。他方、ベトミン中央委員会は3月12日、闘争指令を発し、日本軍に対する攻撃を各地で活発化させる。大飢饉の問題については日本軍が引き続き食料供出を要求していたこともあり、このような「独立付与」の枠内では飢饉を解決することはできず、ベトミンによる「日本の倉庫を襲撃せよ」という運動は北部農村で浸透していった。",
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"paragraph_id": 24,
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"text": "1945年8月10日午後8時に日本政府がポツダム宣言受諾を連合軍に通知したとの短波放送を行い、8月12日午前0時頃、サンフランシスコ放送は連合国の回答を放送した。ラジオで情報を得たホーチミンは日本軍降伏を革命のチャンスとみなし、フランス軍の再進駐より前に実権を奪うことを計画する。8月13日からのアンザン省タンチャウ総司令部での会議では、中華民国やイギリス、アメリカとの紛争を避けて、「味方を多く、敵を少なく、すべての侵略に反対する」という方針が決定された。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
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"text": "なお、結果的に日本が降伏した8月15日以降、アメリカ軍は9月4日、中華民国軍は9月9日、イギリス軍は9月13日、フランス軍は10月5日に至るまでベトナムに上陸しなかったため(マスタードム作戦)、日本軍は武装を解かれず、駐屯フランス軍部隊は明号作戦から拘束されたままという状態が生じ、この政治的空白も独立派に有利に働くことになった。",
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"paragraph_id": 26,
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"text": "1945年8月17日に、ベトナム帝国首相のチャン・チョン・キムがハノイ市民劇場前広場で「独立を与えた日本は敗れたが、ベトナムは心を一つにして我々の政権を築こう」とフランスの復帰を警戒する内容の演説を行った。このとき、ベトミンが金星紅旗をあげるなかマイクを奪い、「独立万歳」、「打倒ファシスト」、「日本は独立をやってくれたがこれからはみんなで働こう」といった声があがった。8月19日にはベトミンの大会が開かれ、20万人のデモ隊は市庁舎や日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関を次々と占拠し、ハノイ・クーデターが成功する。8月20日にはフエの王宮にいたベトナム帝国皇帝のバオ・ダイに対して、ベトミン革命軍事委員会が退位を要求、24日、バオ・ダイ帝は退位する。こうして143年続いた阮朝(グエン王朝)は滅亡した。23日から25日にかけて駅、中央郵便局、発電所などが占拠され、26日にはベトミン軍がハノイに入城、28日にベトナム民主共和国臨時政府が樹立された。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "9月2日にホー・チ・ミン(胡志明)は「ベトナム独立宣言」を発表、すべての民族は平等であり、1847年のフランス軍艦によるダナン攻撃事件以来、80年にわたるフランスの植民地支配を人道と正義に反するものとして糾弾した。こうしてベトナム八月革命は成功し、ハノイを首都とするベトナム民主共和国(北ベトナム)が樹立し、共産主義国家建設を目指した。ホーはアメリカのハリー・S・トルーマン大統領に国家としての承認を繰り返し書簡で求めた が、同盟国であるフランスに対する気遣いとともに、共産主義者による統治を警戒するアメリカ政府はとりあげなかった。また、新設された国際連合にもフランス植民地支配についての公正な解決を訴えたが、徒労に終わった。",
"title": "フランス植民地時代とベトナム独立運動"
},
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦末期の戦後統治計画を練るなか、自由フランスのシャルル・ド・ゴールを嫌っていたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は「フランスはインドシナを植民地にしてから何か発展させたことがあったか。あの国は百年前よりひどくなっている」とフランスのインドシナ植民地を批判し、インドシナ信託統治を構想していた。しかし、イギリスは信託統治をしたらイギリス帝国がなくなってしまうとして反対し、新たにフランスの事実上の指導者となったド・ゴールは1945年3月24日にインドシナ連邦を構築し、フランス総督が統轄し、フランス連合に組み入れると声明を発表し、植民地時代の復帰を求めた。",
"title": "インドシナ戦争"
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"text": "ルーズベルトが1945年4月12日に死去してからアメリカ国務省はインドシナ問題を検討し、4月20日に国務省欧州担当官はルーズベルトのあとを継いだトルーマンに対して「アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対すべきでない」と、反共主義の立場から進言し、同極東担当官も翌日同内容の進言を行った。6月22日にアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認する」との統一見解を決定する。",
"title": "インドシナ戦争"
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"tag": "p",
"text": "1945年7月26日に連合国によって開かれたポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は騒乱を理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめる。9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。",
"title": "インドシナ戦争"
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"text": "これらの連合国軍は、日本軍の収容所に入れられていたフランス軍将兵を解放し、9月23日午前5時、英領インド軍の援助で武装した1000名のフランス軍がサイゴン侵攻を開始、主要な公共機関を占拠し、フランス国旗を掲げ、サイゴン全域を制圧した。英領インド軍のグレイシー将軍は戒厳令を敷いた。こうした英軍の行動について読売新聞編集員の小倉貞男は「英国はアジアにも植民地をもっており、インドシナの独立によって、植民地支配を崩そうとする連鎖反応が起こることを極度に警戒していた」と指摘している。10月5日にはフランス軍増援部隊が到着、サイゴンなど南部の革命勢力は制圧され、さらにメコン・デルタも制圧し、北上を開始する。",
"title": "インドシナ戦争"
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"tag": "p",
"text": "進駐した連合軍のうち、中華民国の中国国民党軍はフランス植民地政府の復活を支援する意図はなかったが、敵対する中国共産党と同じイデオロギーであるインドシナ共産党に対して好感をもっていなかった。そのため、ホー・チ・ミンは中国国民党軍との対立を避けるために、 1945年11月、インドシナ共産党を偽装解散させる。インドシナ共産党は党員を「民族の前衛戦士」となづけ、さらに民族の利益を党の利益よりも優先させることを特徴としていた。",
"title": "インドシナ戦争"
},
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1946年2月28日、フランスは「中国・フランス協定」を結び、中華民国が要求していたハイフォン港自由化などを中国軍の撤退を条件に受け入れる。また、フランス政府はホー・チ・ミンらベトナム民主共和国を「フランス連合」の一員としての独立を認めると通告するが、ベトミンは完全独立を要求し、交渉が持続されていた。そうしたなか、同年3月5日、連合軍東南アジア軍司令部は、南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したことを発表、フランス軍は北緯16度線以南はフランス当局が接収すると声明を発表する。自由フランス軍のフィリップ・ルクレール将軍指揮下の第2機甲師団がサイゴンに入りインドシナ南部のコーチシナを制圧、3月6日にフランス軍はハイフォン港に上陸し、3月18日にはハノイに入城した。フランス軍は1946年5月までにラオスにも進駐し、インドシナ一帯を占領する。1946年3月には制圧したコーチシナでフランスは傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させ、グエン・バン・ティンを首班に置いた。こうしたフランス軍の軍事行動に対してホー・チ・ミンらは強く抗議、フランスはインドシナ連邦を置くことであからさまな植民地経営をやめ、事態の解決を図ろうとするが、これでは植民地時代と同じものであり、許容出来ないとして、1946年9月、ベトナム民主共和国側との交渉は決裂した。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しかったが、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は日本軍に追われて以来ベトミンに合流していたフランスインドシナ軍の下級将校であった。もう一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で校長は中国共産党のグエン・ソンだが、教官は元日本軍の士官や下士官であった。このような残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の井川省少佐はベトナム名レ・チ・ゴといい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。また、井川参謀の部下の青年将校中原光信はベトナム名をヴェト・ミン・ゴックといい、第二大隊教官としてベトミンに協力した。ほかにも石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた。 日本敗戦後、ベトミンに協力したインドシナ残留日本兵は766人にのぼる。また、武器は中国共産党から提供されたが、多くは日本軍から鹵獲したもので、38式小銃などが多かった。",
"title": "インドシナ戦争"
},
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"paragraph_id": 35,
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"text": "1946年11月20日、ハイフォン港での銃撃事件を口実にフランスとベトミンとの間で全面交戦状態が始まり、インドシナ戦争(第一次インドシナ戦争)が勃発した。フランス軍は12月19日にハノイのベトナム民主共和国政府へ武力攻撃を開始し、12月20日、ホーチミンは全国抗戦声明を発表した。",
"title": "インドシナ戦争"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "フランスは、国民の人気が高かったバオ・ダイ帝を担ぎ出し、1948年6月5日にサイゴンに「ベトナム臨時中央政府」を発足させる。大統領はグエン・ヴァン・スアン。翌1949年3月にはサイゴン市(現ホーチミン市)を首都とするベトナム国を樹立する。フランスはバオ・ダイ政権を唯一の正当な政府と宣言し、ベトミンを徹底的に弾圧すると表明した。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "第二次世界大戦後はアジア・アフリカの植民地で、支配国である連合国に対して独立運動が激化していた。1945年にはインドネシア、ベトナム、10月にラオスが、1946年にはフィリピン、1947年にはインドがパキスタンと分離独立、1948年には2月にセイロン(スリランカ)が、同年にはビルマや、また大韓民国が8月13日に独立した。1949年には国共内戦で中華民国軍に勝利した中国共産党によって中華人民共和国が樹立した。",
"title": "インドシナ戦争"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "1947年3月にはインドのネルーによってアジア関係会議が開催され、29カ国が集まり、非植民地化の推進やアジアの連帯が協議された。1948年末にオランダ軍が第二次治安行動を開始し、インドネシア共和国のスカルノを逮捕したことに抗議してビルマのウ・ヌー首相はインドのネルー首相によびかけ、1949年1月にニューデリーでアジア独立諸国会議が開催された。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "植民地の維持を目論むイギリスやオランダ、フランスなどの旧宗主国と、長年の過酷な植民地支配を受け続けた上に、一旦は日本軍によって放逐された宗主国の姿を目の当たりにして解放を欲する植民地国民の間でしばしば紛争が頻発した。アジアでは、戦勝国であるソ連政府とアメリカ政府のいずれかによって指導・支援されている例が多かった。スターリン政権のソビエト連邦は、トルーマン政権のアメリカに対抗するために、世界中を共産化するため、共産主義の革命勢力を支援した。米ソ共に核兵器を保有し、直接の全面戦争を避けて、衛星国同士で戦闘を行う「冷戦」構造が成立した。この冷戦は、ベルリン封鎖、朝鮮戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争、キューバ危機に見られるように、「代理戦争」という形で表面化した。ただし、冷戦構造は大国中心であったが、小国からの要請で大国が動くという、「下からの突き上げ・弱者の脅迫」が作用し得る構造でもあり、ベトナム戦争も単なる「代理戦争」ではなかったという見解もある。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "資本主義・自由主義の盟主を自認するアメリカ政府は、中華人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義政権の成立を「ドミノ倒し」に例え、一国の共産化が周辺国にまで波及するという「ドミノ理論」を唱え、アジアや中南米諸国の反共主義勢力を支援して、各地の紛争に深く介入していく。とりわけ国共内戦で国民党軍に勝利した中国共産党が1949年10月に中華人民共和国を建国したことは、反共主義を唱えるアメリカにとって衝撃であり、共産主義封じ込め戦略の観点から、インドシナ戦争においてはフランスを支援することを決定した。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "1950年1月14日、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の国家承認を求める声明を発表。1月18日、成立直後で自らも国家国際承認を受けてすらいない毛沢東による中華人民共和国は、ベトナム民主共和国を正統政権と認めた。中共による承認を受けてホーは北京に入ったあと、スターリンのソ連による承認をとりつけるためにモスクワに向かった。しかし、スターリンは毛沢東に対しても警戒していたほどであったから、ホーに対しても直接的な支援には消極的だったが、結局、毛沢東の仲介でスターリンとホー・チ・ミンの会談が実現する。1月31日、ソ連もホーの要請を受けてベトナム民主共和国を正式に承認した が、ホー・チ・ミンへの直接的支援は断り、ベトナムの支援は中国の課題であると答えた。その後、ホーと毛沢東は北京で会談、毛は武器援助・資金援助を約束し、1950年4月にはホーチミンは中国から借款と兵士二万人分の装備提供を受けた。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、中華人民共和国はアメリカが、朝鮮・台湾海峡・インドシナの三方面から攻撃してくる可能性に危機感をつのらせ、ベトナムへの軍事顧問団の派遣を実施する。のちにソ連、チェコからは対戦車ロケット弾やトラックが提供された。こうした提供に対してベトミンはタングステンや錫、米、ケシなどで支払った。中華人民共和国などから援助を受けたベトミンは1950年末には、精強師団を結成する。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "他方、フランスは1950年2月16日のアンリ・ボネ駐米大使とアチソン国務長官との対談で米国による支援を要請する。1950年5月25日、ハリー・S・トルーマン政権下の米国はフランス軍支援を決定する。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争を受けて、トルーマン大統領は国際共産主義運動をファシズムと同じ脅威と規定し、朝鮮戦争において共産主義勢力が従来の政治宣伝を中心とした間接侵略から、武力行使による直接侵略に移行したとみなし、国連の緊急安全保障理事会でも北朝鮮の行動を「平和に対する侵犯」とみなし、北朝鮮への非難決議案を提起、ソ連は国共内戦に勝利した中国共産党が中国本土に中華人民共和国を樹立したにもかかわらず、台湾島に逃げた中華民国が常任理事国議席にあることに抗議して欠席していたため、決議案は可決した。トルーマンは米軍を朝鮮半島だけでなく、台湾海峡にも第7艦隊を派遣し、またフィリピンやインドシナ半島への軍事的関与の強化を発表、朝鮮戦争が開戦してから4日後の6月29日には輸送機C47機がサイゴンに到着する。国連での非難決議を無視して北朝鮮はソウルを陥落させるなど進撃を続けたため、6月30日に米政府は地上軍を朝鮮に派遣することを決定、7月には国連軍派遣が決定する。しかし国連軍は11月には総崩れとなり、トルーマンは原爆の使用を示唆する。急遽、イギリスのクレメント・アトリー首相がワシントンに行き、トルーマンの説得を行った。こうして共産主義圏と自由主義圏との冷戦構造が明白なものとなる。",
"title": "インドシナ戦争"
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"text": "以降、アメリカからの援助は1952年度までに年額約3億ドルに及び、ドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任した1953年には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、アメリカ軍事顧問団は約400人程度が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊の教育訓練を開始し、フランス軍の兵力不足を補うべく活動した。アメリカからの軍事支援を受けたフランス軍は、ソ連や中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスティアン・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6200人の兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けた。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "1950年夏にはベトミンは全土総攻撃作戦の第四〇作戦の展開を決定、9月16日にはドンケ攻撃を開始、フランス軍200名は全滅した。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "1950年12月にはサイゴンにてフランスのジャン・ルトルノー海外担当大臣とアメリカのヒース公使、ベトナム国のチャン・バン・フー首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれ、アメリカはフランス軍とインドシナ三国に軍事援助を開始した。",
"title": "インドシナ戦争"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "戦争中の1951年2月の党大会でホーは偽装解散していたインドシナ共産党を改組し、ベトナム労働党とした。この大会でホーはスターリンを「世界革命の総司令官」、毛沢東を「アジア革命の総司令官」と呼び、さらに中国共産党の劉少奇が1949年11月に発表していた民族統一戦線、共産党による指導、武装闘争と根拠地などに関するテーゼを採用し、中国共産党による「革命」をモデルとした。しかしこうした急進的かつイデオロギーに固執した「中国モデル」の採用は1953年から本格的に開始された農地改革において、ベトナム伝来の農村社会に大きな混乱をもたらした。ベトナムの農地改革は中華人民共和国から派遣された顧問の指導のもとで実施されたが、「農村人口の5%は地主」とする規定を機械的に導入し、そのため、地主や富農ではない民衆が人民裁判にかけられて処刑されたりした。",
"title": "インドシナ戦争"
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{
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"text": "フランス軍の現地兵とモロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人達の士気は低く、戦闘していたのは外人部隊と志願兵からなる落下傘隊員であった。ヴォー・グエン・ザップ将軍指揮下のベトミンによる組織的な反撃を受け、1953年に入るとフランス軍は空母を派遣するなど立て直しを図るものの、点を確保するのみで劣勢に立たされていた。1953年4月時点で米国もインドシナ情勢におけるフランス軍は危機的な状況にあるとみていた。米陸軍は大統領安全保障会議への報告において、",
"title": "インドシナ戦争"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "といった提言を行っている。",
"title": "インドシナ戦争"
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{
"paragraph_id": 50,
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"text": "1953年11月20日にはフランス軍はカストール作戦を実施、ベトミンが展開するラオス国境に近いディエンビエンフー盆地を12000の兵力で占領し、橋頭堡としての要塞をつくることで、ベトミンの動きを封じようとした。フランス側はベトミンが重火器を持っていないまたは持っていたとしても使いこなせないと予想していた。しかしベトミンは現地の少数民族の支援もあって中国から供給された重火器をディエンビエンフー盆地を囲む山上まで運んでいた。1954年3月、ベトミンは戦闘を開始、攻撃開始日からベトミン軍は猛烈な砲撃を加え、人海戦術により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になり、4月には3個空挺大隊と近接航空支援を増強したが、雨季の天候は空軍の活動を制限した。対し、ベトミン軍の夜襲は次々とフランス軍陣地を攻略し、末期には周囲2kmの範囲のみを保持するのみで、5月7日にフランス軍は降伏、残った約1万人のフランス兵は捕虜となった。このディエンビエンフーの戦いでフランス軍は敗北し、事実上壊滅状態に陥る。ディエンビエンフーの戦いにおけるフランス軍降伏について、東京大学教授古田元夫は「ヨーロッパの万を超える精鋭部隊が、植民地現地の軍事勢力に降伏した世界史的出来事で、植民地体制の崩壊を象徴する事件」と指摘している。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "フランス軍降伏の報せを聞いたアメリカのリチャード・ニクソン副大統領は、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する小型原子爆弾の使用をドワイト・D・アイゼンハワー大統領に進言したが却下された。また、アメリカの統合参謀本部はフィリピンに展開しているボーイングB-29爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれも却下した。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "ディエンビエンフー陥落後も、ベトミンはトンキンデルタに展開するフランス軍にゲリラ攻撃を仕掛け、各地の攻撃を実施した。同年6月にフランス軍はフーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ-ハイフォン回廊に撤退し、ここに至りフランス軍の敗北は決定的となる。",
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"paragraph_id": 53,
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"text": "フランス軍の危機的な状況が国際社会に認知されていくなか、1954年4月26日にはスイスのジュネーヴに関係国の代表が集まり、和平交渉としてインドシナ和平会談(ジュネーヴ会談)が開始された。参加国は当事国のフランスとベトナム国、ベトナム民主共和国、さらに、アンソニー・イーデン外務大臣を議長として送り込んだイギリスとアメリカ、カンボジア、ラオス、ソ連、中華人民共和国であった。会議は3カ月続き、フランス軍が壊滅した1954年7月、インドシナ和平会談において関係国の間で和平協定であるジュネーヴ協定(インドシナ休戦協定)が成立した。",
"title": "インドシナ戦争"
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"text": "これにより第一次インドシナ戦争の終結とフランス軍のインドシナ一帯からの完全撤退、並びにベトナム民主共和国の独立が承認された。北緯17度を南北の暫定的軍事境界線とし、南北を分割、また南北統一のための自由総選挙を1956年7月までに実施するという内容だった。ただし、アメリカと南ベトナムは調印に参加しなかった。ベトナム民主共和国がこの内容に妥協したのはアメリカの参戦を警戒したためで、ソ連と中華人民共和国もベトナムに譲歩するよう強く求めた。",
"title": "インドシナ戦争"
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"text": "1954年4月28日から5月2日まで、セイロンのコテラワラ首相が提唱しコロンボ会議が開催され、インド、パキスタン、セイロン、ビルマ、インドネシアの首脳が集まり、インドシナ戦争の停止などを訴え、ジュネーブ会議にも影響を与えたほか、とくにイギリス連邦の中心であるイギリスはジュネーブ会議においてアメリカの戦争拡大方針に同調しなかった。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "このころ、休戦交渉と並行して、ジュネーブ協定が締結される直前の1954年7月7日、バオ・ダイ時代に内相をつとめ、反共主義でカトリック教徒のゴ・ディン・ジエム(呉廷琰)による政権が、アメリカの根回しで樹立されていた。さらに1954年9月27日 - 29日のワシントンでの米仏会談で、インドシナ駐留フランス軍への援助は打ち切られ、アメリカは1955年1月からインドシナ諸国に対して直接の援助を行うことを決定した。1950年10月にサイゴンで組織されていたインドシナ米軍事援助顧問団(MAAG)は、1955年11月に南ベトナム米軍事援助顧問団へと改組され、南ベトナム政府軍の軍事教練が開始した。団長はサミュエル・ウィリアムズ将軍。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "アメリカは、ジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジアでの台頭(ドミノ理論)を恐れ、フランスの傀儡政権だったベトナム国を17度線の南に存続させ、ベトナムは朝鮮半島やドイツと同様、分断国家となった。",
"title": "インドシナ戦争"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "南北の境界線が確定された際、ベトナム国民が双方の好む体制側に移動することがジュネーブ協定によって認証され、60日間の猶予で行なわれたが、北ベトナムの総人口1300万のうち、100万人が南ベトナムへ移動、逆に南から北へ移動した国民は9万人であったという。また、宗教の存在を否定する共産主義者による統治を嫌う北ベトナムに住むカトリック教徒の多くは、ベトナム民主共和国の独立に伴いベトナム国へ難民として逃れた。",
"title": "インドシナ戦争"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ジュネーブ協定と並行して1954年7月に樹立された反共主義者ゴ・ディン・ジエムによる政権は、翌1955年4月に国民の意思と称してバオ・ダイ帝に退位を迫り、6月14日にジエムは自ら国家元首に就任した。10月24日には共和制か王制かを問う国民投票を実施、10月26日にはベトナム共和国(通称「南ベトナム」)樹立宣言を行い、ジエムは初代大統領に就任した。こうして、植民地時代にフランスや日本の傀儡政権となりながらも持続してきたベトナム王朝は消滅し、バオ・ダイはフランスへ亡命した。ジエムの政権樹立にはCIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールによる支援があった。自由主義者や民主主義者、民族主義者や反共主義者、カトリック教徒らがジエム政権の支持母体となり、アメリカ合衆国の傀儡国家かつ東南アジアにおける反共防波堤という性格を持つベトナム共和国が建国された。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ジエム大統領はジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否した。これは、もし選挙を実施すればフランスを打ち破ったベトナム民主共和国が勝つのは明白だったからである。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "直近の、中国における国共内戦や、朝鮮半島における朝鮮戦争などのため、南ベトナムのジエム政権は東南アジア情勢が選挙どころではなく共産勢力と一触即発の状態であると認識しており、そのため南北統一選挙を拒否したのであるが、北ベトナムのホー・チ・ミン政権はこの南北統一選挙に勝てると勝算を持っていたため、このことでますます南北間の対立が悪化することになった。アイゼンハワー政権下のアメリカは、それまでのフランスに代わりジエム政権を軍事、経済両面で支え続け、ジエムからの依頼を受けて南ベトナム軍への重火器や航空機の供給をはじめとする軍事支援を開始した。しかし、ジエム大統領一族による独裁化と圧政のため、ジエム政府に対する南ベトナム国民の反発はかえって強まっていった。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "戦後の日本で農地改革計画をつくったウォルフ・ラデジンスキーが米国援助使節団としてジエム政府に提言し、ジエム政府は1956年11月21日、法令57号を発布、農地改革を行い、その後も「カイサン計画」などを実行するが、日本の場合と異なり、いずれも失敗した。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "また、ジエムは弟のゴ・ディン・ヌーを大統領顧問に任命し、秘密警察やカンラオ(勤労)党組織を用いて反政府勢力を弾圧した。1958年12月1日には1000人の政治犯が食後に死亡するというフーロイ収容所虐殺事件を引き起こした。1959年5月6日には国家治安維持法の第十号法令を発布、これにより特別軍事法廷は反政府勢力を思うがままに投獄することが可能となった。1959年7月から1960年7月までのジエム政府軍による反政府勢力掃討作戦は82回で、暴行、焼き打ち、虐殺を繰り返し、さらし首や、人間の生きた肝臓は精力がつくとして反政府勢力と目されるベトナム民衆の肝臓を取り出して食べたりした。1960年までに80万人が投獄され、そのうち9万人が処刑され、19万人が拷問により身体障害者となったとされている。「政治訓練センター」には常時8千 - 1万人が収容され、さらに農民の収容所としてアグロビル計画が実施され、これにより農民が代々住んできた家屋が破壊され、農民たちは強制的に収容されていった。アグロビル計画の対象地域は400箇所にものぼった。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1955年、1956年頃より私兵団を持つカオダイ教団やホアハオ教らの新宗教組織が、ジエム政権による弾圧に対抗して戦闘を開始しており、その他にもビン・スエン派などのギャング私兵団もジエム政権に反発していたため、反ジエム連合戦線のカオ・ティエン・ホア・ビン連合が結成された。1957年から58年にかけて反ジエム連合戦線の勢力は強まったが、逆に政府軍によって鎮圧された。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ジュネーブ協定に基づく南北統一選挙が行なわれなかったことに強い憤りを覚えたホーチミンは、1959年1月13日、ハノイで第15回ベトナム労働党中央委員会拡大総会を開催し、南部の政権を転覆するための武力解放戦争を決議した「新しい段階に入った南部ベトナムの政策について」と題する第十五号決議が提出された。第十五号決議では「米国はもっとも好戦的な帝国主義者である。(中略)われわれ中央も、敵も、たがいに長期にわたる戦いになることは確実である。しかし最後の勝利はかならずやわれわれに帰するだろう」と記された。1959年5月には南部武力解放指令が出され、ボ・トゥ・レン・ナム・ナム・チン(コマンド559)という突撃・偵察隊が結成、山岳少数民族の協力要請も含めて、のちにホーチミン・ルートとよばれる補給路の建設が開始された。戦争終結までにこのホーチミン・ルートは16000kmにも及び、南に輸送された物資は4500万キロトン、パイプラインは3082km、往来した人数は延べ200万人にのぼった。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "第十五号決議は1960年9月の第三回党大会で正式に承認された。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1959年11月、南ベトナムの秘密基地Đ(「東」を意味するベトナム語Đôngの頭文字)に第十五号決議が届く。武器のなかったĐ基地は政府軍の武器を強奪することを計画、1960年1月17日午前6時、ベンチェのベトミンゲリラ軍が、ディントゥイ政府軍宿舎を襲撃、また市場でも朝食を食べていた政府軍兵士が農民たちによって取り押さえられた。ディントゥイ政府軍からはライフル30丁を得て、さらにフォッグヒエップ村、ビンカイン村の政府軍も制圧、計100丁のライフルと2丁の重機関銃を得た。その後、政府軍はゲリラ軍鎮圧を開始するが、ゲリラ軍はフォッグヒエップ村の女性5000人に喪章をつけて政府軍の残虐な行動に抗議するよう県庁に抗議行動を連日行わせ、1960年3月15日、県庁は要求を受け入れる。米国軍事顧問団とジエム政府はこれらの女性たちを「ロング・ヘアー・アーミー」と名付けて対応に苦慮した。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front、略称はNLF)が結成された。翌年2月に解放戦線はハノイ放送を通じて宣言と綱領を発表、「1954年のジュネーブ協定でベトナムの主権が承認されたにもかかわらず、米国がフランスにとってかわり、南部にジエム政権をつくり、形をかえた植民地支配をすすめている」と主張した。南ベトナム解放民族戦線は、「ジュネーブ協定を無視したジエム政権とその庇護者であるアメリカの打倒」との名目を掲げて、南ベトナム政府軍とサイゴン政府に対するゲリラ活動・テロ活動を活発化させて宣戦布告し、政府軍との内戦状態に陥った。NLF結成の報告を聞いたジエムは即座に共産主義者の蜂起と断定し、「ベトコン」(「ベトナムの共産主義者」の意)と呼んだとされており、米・南ベトナム政府ではNLFへの蔑称で使われた。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "NLFの構成員には南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や学生、自由主義者などの、共産主義とは無関係の一般国民も多数参加していた。しかし、戦闘の激化によって次第に北ベトナムの工作機関と化しホーチミン・ルートを経由して中華人民共和国や北朝鮮、ソビエト連邦などの共産主義国から多くの武器や資金、技術援助を受けることになる。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "NLFはわずか2年の間で4000名規模にまで拡大した。NLFは、当初は、ジェム一族の政権私物化と腐敗、その後ろ盾であったアメリカに対する抗議・抵抗運動が起点であった。若い学生がNLFの中核として、ベトナム統一戦争に参加した。",
"title": "南北対立と米国の本格的介入"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1961年1月20日、アメリカ民主党のジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任する。ケネディ政権が2年10か月の政権期間に行った外交政策の中で、最も大きな議論を呼んだのが、派兵拡大を押し進めた対ベトナム政策であるとされる。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ケネディ政権は、アイゼンハワー政権を引き継いだ就任直後に東南アジアにおけるドミノ理論の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置し、統合参謀本部に対してベトナム情勢についての提言を求めた。特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件やキューバ危機、ベルリン危機(英語版)など世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激するとして行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務次官とW・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を却下し、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、1961年5月にアメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という名目の、実際はゲリラに対する掃討作戦を行う、アメリカ正規軍からなる特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始した。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "さらに併せてケネディは、フルブライト上院外交委員会委員長に「南ベトナムとラオスを支援するためにアメリカ軍を南ベトナムとタイに送る」と通告、ジョンソン副大統領とロバート・マクナマラ国防長官をベトナムに派遣した。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」と迅速な支援を訴え、同じくマクナマラも、その後南ベトナムの大統領となるグエン・カーンへの支持を表明し「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し、ケネディの決定を支持した。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1962年2月、ケネディ政権は、ゲリラではない農民と南ベトナム解放民族戦線のゲリラを識別するために、戦略村と称する農耕集落を建設し、南ベトナム解放民族戦線のゲリラではない農民を戦略村に移住させ、戦略村に移住しない農民は南ベトナム解放民族戦線のゲリラと見なして攻撃する作戦を開始した。ケネディ政権の目論見に反して、アメリカ合衆国の戦争の都合のために、先祖代々の農地を離れて戦略村への入居を要求されても拒絶する農民が続出し、戦略村に対する南ベトナム解放民族戦線の攻撃も頻発し、アメリカ合衆国軍は戦略村を維持できなくなり、戦略村作戦は破棄された。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナム駐留米軍事顧問団は、1961年末には3,164人に、1963年11月には16,263人に増加した。1962年2月には南ベトナム軍事援助司令部 (MACV) を設置、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、「軍事顧問団」という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げする形とした。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模のアメリカ海兵隊を送ることを決定した。ケネディ政権はこのような軍事介入拡大政策を通じてベトナム情勢の好転を図ろうとしたものの、ケネディ政権の思惑に反して、アプバクの戦いで南ベトナム軍とアメリカ軍事顧問団が南ベトナム解放民族戦線に敗北するなど、事態は好転しなかった。そのような中で、ゴ・ディン・ジェム南ベトナム大統領も、軍事介入の拡大とともに内政干渉を行うケネディ政権を次第に敵対視するようになった。ケネディは「『アメリカは(南ベトナムから)撤退すべきだ』という人たちには同意できない。それは大きな過ちになるだろう」と述べ 南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収を主張する国内の一部の世論に対して反論した。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "さらにケネディはアメリカ政府によるコントロールが利かなくなっていたジエム政権への揺さぶりをかけることを目的に、あえてこれまでのような軍事顧問団の増強方針から一転して、1963年10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団から1,000人を引き上げる」と発表。1963年11月にはマクナマラ国防長官が「軍事顧問団を段階的に撤収させ、1965年12月31日までには完全撤退させる計画がある」と発表し、アメリカに対し敵対的な態度を取り続けるジェム政権に揺さぶりをかけた。なお、後に泥沼化したベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤収を決めた「パリ協定」調印に向けた交渉を行ったヘンリー・キッシンジャーは、ケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の存在を否定しており、このケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の発表は単なるジエム政権に対するブラフであり、これ以降も軍事介入拡大政策を取り続ける意向であったことが明らかになっている。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年5月にユエで行われた反政府デモでは警察がデモ隊に発砲し死者が出るなどその規模はエスカレートし、同年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上で、サイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をした僧ティック・クアン・ドックの姿がテレビを通じて全世界に流され、衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも影響を与えた。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "これに対してジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ。しかもアメリカから輸入したガソリンを使うとは矛盾している」とテレビのインタビュー番組で語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。敬虔な仏教徒で知られた国際連合事務総長ウ・タントも、ベトナム戦争に苦言を呈して、アメリカ合衆国は国際連合との関係も悪化した。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "この様な混沌とした状況下において、南ベトナム軍内の反ジェム勢力と、アメリカ軍の「軍事顧問団」と近い南ベトナム軍内の親米勢力(この2つの勢力は事実上同一であった)によって反ジェムクーデターが計画され、その状況は南ベトナム軍事援助司令部を経由してケネディ政権にも逐次報告されるようになっていた。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1960年に発生したクーデターは失敗に終わるが、1963年11月2日に発生したクーデターは成功した。クーデターを引き起こした反乱軍によって、ジェム大統領とヌー秘密警察長官は政権の座から下ろされ、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で殺害された。これを受けてヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーをはじめとするジェム政権の上層部も国外へ逃亡し、ジェム大統領とその一族が南ベトナムから姿を消したその当日には、南ベトナム軍の軍事顧問で将軍でもあり、アメリカ軍と深い関係にあったズオン・バン・ミンを首班とした軍事政権が成立する。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "ケネディ大統領がどこまで反ジェムクーデターに関与、支持していたのかについては議論が分かれている が、後にマクナマラ国防長官はこの反ジェムクーデターに対して「ケネディ大統領はジェム大統領に対するクーデターの計画があることを知りながら、あえて止めなかった」と、ケネディ大統領が事実上反ジェムクーデターを黙認したことを証言している 上に、ケネディ大統領から上記のような訓令を受けたロッジ大使もマクナマラ国防長官と同様の証言を行っている。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "いずれにしてもクーデターの発生とジェム大統領殺害の報告を受けたケネディ大統領は、「このクーデターにアメリカは関係していない」との正式声明を出すように指示した。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "南ベトナムでゴ・ディン・ジェム大統領が倒されたクーデター事件のわずか3週間後に、アメリカでケネディ大統領暗殺事件が起こり、ケネディが死亡したため、副大統領のリンドン・ジョンソンがアメリカ合衆国大統領に昇格した。ジョンソンは、前任者のケネディが増強した「軍事顧問団」の規模を維持するだけにとどめた。またアメリカ政府は、クーデターにより南ベトナム情勢が安定することを期待していたが、その目論見は裏目に出る。クーデターは、反乱に参加した将校達の権力闘争を容認する結果となり、その後も南ベトナム政府内では13回ものクーデターが発生する。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "親米的なミン大統領の軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、南ベトナム解放民族戦線との戦闘に注力しなかったことから南ベトナム軍内部の離反を招くこととなり、1964年1月30日にグエン・カーン将軍を中心とした勢力がクーデターを起こし、ミン大統領は隣国のタイ王国へと追放された。しかしミン元大統領は、追放された直後にカーン将軍の指示を受けて南ベトナムへ戻り2月8日に大統領の座に復帰する。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "アメリカはその後もカーン将軍やミン大統領らの一派を全面的に支援したものの(en:Operation Quyet Thang 202、1964年4月27日 - 5月27日)、その後大統領に就任したカーン将軍は、南ベトナム解放戦線との和解の可能性を模索し始めたために南ベトナム軍の支持を失いまもなく大統領の座から去った末に、1965年2月25日にグエン・バン・チューら南ベトナム軍部強硬派によるクーデターにより失脚させられフランスへの亡命を余儀なくされる。その後同じく親米的な軍人であるグエン・カオ・キが首相に、チューが国家元首に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)する。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "カーン将軍の失脚を機に再度亡命したミン元大統領は1968年に帰国するが、強硬派のチュー政権を支持せず、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。なお、ミン元大統領はその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたチューに代わり再び大統領に就任するものの、大統領就任翌日の4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった上に、南ベトナム最後の大統領となりその後北ベトナムに抑留されることとなった。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "この様に、南ベトナムの軍や政府の高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる権力獲得闘争に力を注ぎ、またアメリカから援助を受けた最新の兵器を装備した自軍の精鋭部隊の多くを、クーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その場合、多くが次のクーデターの際に反乱側の実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士官から兵士に至るまで士気も上がらない状態になっており、この様な体たらくはベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続き、結果的に南ベトナム解放戦線と北ベトナムを利する結果となった。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ジョンソンは、前任者のケネディが増強した「軍事顧問団」の規模を維持するだけにとどめた。しかし就任から9か月後の1964年8月2日と8月4日に、ベトナム沖のトンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃(トンキン湾事件)が発生し、ジョンソンはこの報復として翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動(ピアス・アロー作戦)を行った。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "さらにこの軍事行動と合わせて、議会に北ベトナムからの武力攻撃に対する「あらゆる措置を取る」権限を大統領に与えるように求め、8月7日に上下両院でこの「トンキン湾決議(英語版)」が民主党と共和党の議員の圧倒的な支持で承認されて、ジョンソン大統領は実質の戦時大権を得た。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "その後1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、8月4日の2回目の攻撃については、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカ軍と政府が仕組んだ捏造した事件であったことを暴露している。しかし捏造は8月4日の事件であり、8月2日に行われた最初の攻撃は、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることを、北ベトナム側も認めている。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "ベトナムにおけるアメリカによる軍事行動が次第に拡大していく可能性を有しながら、ほとんどが楽観的に見ていた状況で、1964年11月3日にアメリカ大統領選挙の一般選挙が行われた。トンキン湾事件の直後であったが、この時点においては南ベトナムに送られたアメリカ軍事顧問団の死傷者数もそれほど大きくなく被害も少なかったこともあり、ベトナム政策が選挙の大きな争点となることはなかった。そしてジョンソン大統領は圧勝し、議会でも与党民主党が大勝して与党が多数派となって自信を得て、選挙で選ばれた大統領として1965年1月から新しい任期に入った。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "ジョンソン政権の新しい任期においても、マクナマラ国防長官やディーン・ラスク国務長官、ジョージ・ボール国務次官、マクジョージ・バンディ国家安全保障担当補佐官など、ケネディ政権においてベトナムへの軍事介入拡大を推し進めた閣僚や側近は留任し、ベトナム戦争の泥沼にアメリカを引き摺り込むこととなった。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "北ベトナムのベトナム労働党は第15回党大会を行った際、「南部における革命の基本的な方向は暴力を使用した革命であり、特殊事情、および現下の革命要請によれば、暴力使用路線は、軍事力と連動した形で帝国主義者の支配を転覆し、人民による革命的統治を築くため大衆の力を利用し、大衆の政治力に依存することを意味する」と結んでいたが、その5年後、本格的に南部に対する攻勢を高めていく。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "アメリカによるベトナムにおける軍事活動が拡大を続ける中、1964年にソ連は北ベトナムへの全面的な軍事援助の開始を表明し、ソ連は軍事顧問団を派遣、1965年2月にはアレクセイ・コスイギン首相がハノイ入りした。これまで北ベトナム軍への軍事援助を行っていた中華人民共和国からは軽火器の供給は豊富にあったが、1970年代になるまで重火器の供給はほとんどなかったため、ゲリラ的な攻撃しか行うことができなかった。これ以降ソビエト連邦から最新式の戦闘機や戦車、対戦車砲などの重火器の供給を受けることが可能になり、軍事力の継続的な増強が実現する。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "やがてソ連と対立(中ソ対立)していた中華人民共和国も、ソ連による北ベトナム軍への軍事援助の増大に対抗し、1965年5月には、秘密裏に中国人民解放軍の軍事顧問団の派遣を行った。これ以降北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線の標的は、南ベトナム軍だけでなく、南ベトナムに派遣されているアメリカ「軍事顧問団」へも向いていく。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "この時期に、アメリカ軍事顧問団は解放戦線の兵力についての分析を行っていた。1965年当時アメリカ軍の推定では、解放戦線の主力軍兵力は1961年1万7,000人、1962年2万3,000人、1963年2万5,000人、1964年3万4,000人でほぼ3年間に倍増し、この他の自衛民兵や地方の小部隊組織の総人数は1960年7,000人と見積もっていたのが1964年には10万6,000人に達すると推定されて、1964年時点での兵力は合計14万人と見ていた。この背景には、1959年から1964年までの5年間で北から南へ4万4,000人ほどが送られたと見られている。そしてその大半がもともとの南出身者で、当時ベトナム労働党は戦後に北へ来た人材から南に戻して、やがて彼らが解放戦線の主軸になっていった。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "一方、解放戦線の拠点となった農村においては、1964年3月にマクナマラ国防長官がジョンソン大統領に提出した報告書では農村の40%が解放戦線の支配下にあると見なしていたが、翌1965年4月にはサイゴン政権自身が南の農地の75%が解放戦線側に入ったと見なしていた。",
"title": "アメリカ軍事介入の開始"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "1964年11月にはビエンホアの空軍基地が襲撃され5人の軍事顧問が死亡し、同クリスマスイブにはサイゴン市内のホテルで爆弾が仕掛けられて民間のアメリカ人2人が殺される。その後、ソ連のコスイギン首相が北ベトナムを訪問していた1965年2月7日に、プレイクのアメリカ軍事顧問団基地(キャンプ・ハロウェイ)が解放戦線によって攻撃され、駐留アメリカ軍将兵のうち7名が死亡し109名が負傷した。この襲撃は、マクジョージ・バンディ大統領補佐官とホワイトハウス・アジア問題担当局長のチェスター・クーパーがアメリカの調査団としてサイゴンに到着した翌朝の出来事であったため、バンディはこれを北ベトナム政府からの挑発であると受け取り、この時に既に南ベトナムに派遣されていたウエストモーランド将軍と協議して軍事行動の強硬論に傾き、これがリンドン・ジョンソン米大統領が北爆(北ベトナムに対する爆撃)を決断するきっかけとなった。しかし、当時のベトナム側は前線部隊と司令部が綿密に連携するための通信能力をもっておらず、この攻撃は第五軍管区の一指揮官が独自判断で行った、わずか30名での遊撃的作戦に過ぎなかったことが後に判明している。",
"title": "北爆"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "ジョンソン大統領は即日、既にベトナム近海に派遣していたアメリカ海軍の攻撃空母「コーラル・シー」や「レンジャー」、「ハンコック」などを中心としたアメリカ海軍第7艦隊の艦載機を中心とした航空機で、首都のハノイやハイフォン、ドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「フレイミング・ダート作戦」を命令した。3月26日には、初の大規模な組織的爆撃(北爆)である「ローリング・サンダー作戦」を発令し、北ベトナム沿岸部の島々とヴィン・ソンなどにある北ベトナム軍の基地を、空軍のF-100やF-105などの戦闘爆撃機などで爆撃させた。",
"title": "北爆"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "このような状況を受けて、北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。さらにはアメリカ軍による北ベトナム国内の空軍基地や飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に「聖域」を与えた。北ベトナム空軍に対してソ連から貸与された、MiG設計局MiG-17やMiG-19、MiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。なお、これらのソ連からの貸与機の一部は、北ベトナム軍操縦士に操縦訓練を施すために派遣されたソ連人操縦士が操縦していたことが確認されている。",
"title": "北爆"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "これに対して、アメリカ海軍航空隊の最新鋭機であるマクドネルF-4やF-105戦闘爆撃機の被撃墜が続出したことから(4月29日には、中華人民共和国の領空を侵犯したアメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが、中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜されている)、精密誘導兵器をほとんど運用していなかった海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重な操縦士を大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、アメリカ合衆国国防総省も乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さと操縦士の損失の多さを認め、1967年4月末には殆どの制限が撤廃された。",
"title": "北爆"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "これは直ちに効果をあげ、その後北ベトナム軍は空軍基地や飛行場がアメリカ軍による大規模な爆撃を受けたために、迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭のF-111戦闘爆撃機の他、北ベトナムから「死の鳥」と言われたボーイングB-52戦略爆撃機(「ビッグベリー」改造を受けたD型が主力)を投入、ハノイやハイフォンなどの大都市のみならず、北ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、ソビエト連邦や東欧諸国、中華人民共和国の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。",
"title": "北爆"
},
{
"paragraph_id": 105,
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"text": "なお、グアム島やアメリカ合衆国による沖縄統治下であった沖縄本島のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや沖縄沖で「漁業操業」していたソ連や中華人民共和国のレーダー電波探信儀を満載した偽装漁船から、逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。",
"title": "北爆"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "その影響もあり、北ベトナム軍のミコヤンMiG-19やミコヤンMiG-21などの戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な電波妨害装置と100発を超える爆弾搭載能力を持つアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイやハイフォンを始めとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラは大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。",
"title": "北爆"
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{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "また、これらのアメリカ軍による北ベトナムへの本格的な空爆作戦に対して、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム指導部は「アメリカ軍による虐殺行為だ」と訴え続け、後に西側諸国における国民の大規模な反戦運動が活発化していく。",
"title": "北爆"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "ジョンソン大統領はトンキン湾決議に基づき、1965年3月8日に海兵隊3,500人を南ベトナムのダナンに上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。アメリカはケネディ政権時代より南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させており、その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、その後1964年末には計23,300名となったが、ジョンソンはさらに1965年7月28日に陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」計184,300名に膨れ上がった。こうして地上軍の投入により戦線が拡大していく。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "1961年11月、クーデターにより政権を掌握した朴正煕国家再建最高会議議長はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開すること、また共産主義の拡大が自国の存亡に繋がるという強い危機感を持っていたためにベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた。ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 110,
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"text": "1965年7月12日、韓国政府はベトナム派兵案を韓国国会に提出し、韓国国会は8月13日に派兵案を批准した。1965年9月から10月にかけて大韓民国陸軍陸軍首都師団(通称:フィアース・タイガー、猛虎師団)の1万数千兵、および大韓民国海兵隊第2海兵旅団(通称:ブルー・ドラゴン、青竜師団)もベトナムに上陸した。1966年9月3日には同陸軍第9師団(通称:白馬部隊)もベトナムに上陸する。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "タイ王国やフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどの反共軍事同盟東南アジア条約機構 (SEATO) の加盟国も、アメリカの要請によりベトナムへ各国の軍隊を派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては最大の兵力を投入した。厭戦気分が蔓延したアメリカ軍とは対照的に、韓国軍はパリ協定まで、高い士気を維持した。韓国軍は南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム正規軍に対して、それぞれ1:10、1:5という損害比で両勢力を圧倒し、民間人の虐殺も行われた(ベトナム戦争#韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺)。アメリカ陸軍特殊部隊群の一員としてベトナム戦争に従軍した三島瑞穂は、韓国軍について軍規の徹底、軍上層部の統率力という点で、アメリカ軍とは比較にできないほど優秀だったと言い、韓国軍は大任を果たして、満足感を堪能しながら故国に凱旋しただろうと述べている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "その目的はアメリカを軍事支援することによって『ベトナム特需』と『派兵の見返り』として援助などを獲得する経済的な理由によるものであった。これにより、韓国は1966年3月に李東元外務部長官とブラウン駐韓米大使との間で、米国から韓国への軍事援助と経済援助を約束するブラウン覚書が締結され、1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンにベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した。韓国の外国為替獲得高の4割は戦争収益が占め、GDPは3倍にまで成長した。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)により韓国は漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "5カ国の中で韓国軍に次ぐ戦死率のオーストラリア軍も激戦を繰り広げ、ベトナムに派遣した54両のセンチュリオン戦車全てが損害を受けるなどした。オーストラリアは、共産主義の拡大を警戒し、ベトナムでの戦争がオーストラリア本土に波及しないように、未然に防ぐことを目的として、積極的にベトナム戦争に参加していた(前進防衛政策) が、オーストラリアの場合はベトナム反戦運動が盛んに行われたため、パリ協定を待たずに軍の撤退が始められた。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "韓国軍はアメリカ政府より支給を受けていた。韓国軍兵士は米軍兵士の約半額の60ドルを月々に支給されていた。韓国軍兵士は戦地ベトナムで月に平均10ドルを消費し、残額を母国へ送金していた。そうした母国への送金は家族だけでなく韓国政府の国庫を潤していると韓国政府が発言したことも当時報道されている。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 115,
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"text": "一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、「ホーチミン・ルート」を使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム解放戦線とともに、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。北ベトナム軍は10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフト製UH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開(ヘリボーン)を可能にしたことで、この戦争の事実上の主力兵器として大量生産されることになる。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 116,
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"text": "1965年11月14日に、アメリカ軍はカンボジア国境から東11kmの地点にあるイア・ドラン渓谷を中心とした数カ所に、初めてベルエアクラフトUH-1を使って陸戦部隊を展開させた(イア・ドラン渓谷の戦い)。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが初めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入し、ヘリボーン作戦や森林戦を展開する。村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅するサーチ・アンド・デストロイ作戦(英語版)(索敵殺害作戦)は、ヘリコプターや航空機から放たれたナパーム弾などによる農村部への無差別攻撃や、韓国軍兵士による村民への暴行、殺戮、強姦、略奪を引き起こすこととなった。アメリカ軍はゲリラ戦術のエキスパートである蔡命新に率いられた韓国軍による対ゲリラ戦術に対して批判的であったが、後に韓国軍の戦術を採用するようになった。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "一連の韓国軍のベトナムにおける活動について韓国政府は1967年5月、アメリカが与えてくれた援助に対する「お返し」の意味と、またこのような韓国軍の活躍は、韓国民に対して韓国がアジア平定に寄与するという誇りの感情を与えるもので、またアメリカとの交渉においても韓国の立場を向上させるものである、と記者会見で答えている。アメリカ陸軍特殊部隊群の一員としてベトナム戦争に従軍した三島瑞穂は、ソンミ事件などの不祥事については、目に見えないゲリラが相手なので少々のラフプレイは仕方ないことだったと述べている。2015年10月の朴大統領訪米に際して、韓国軍の被害にあったベトナム人女性らが韓国政府の謝罪と賠償を求めて『ウォール・ストリート・ジャーナル』に意見広告を掲載した。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスやカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士や南ベトナム解放戦線のゲリラをあぶり出すために枯れ葉剤を撒布した。ラオスではこのとき投下されたクラスター爆弾の不発弾が大量に埋まっており、戦争終了後も住民に被害を与え続けている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "以後、強烈な反共主義者であるチュー大統領の下、南北ベトナムの対立は激しさを増してゆく。なお、チューは1971年に再選され、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 124,
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"text": "1960年代の後半になると、戦争の激化とともに戦地から遠く離れているアメリカ本国にもテレビ報道やニュース映画フィルムにより、多くの国民が戦闘の場面を、その日のうちに視聴することで、事実を目の当たりにする時代に入っていた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 125,
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"text": "「戦争当事国」のアメリカ合衆国では、次第に反戦運動が高揚していた。1963年に奴隷解放100周年を迎え、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を中心にした、黒人(アフリカ系アメリカ人)による人種差別撤廃闘争も、この時期に活発化して、「長く暑い夏」に都市での暴動が頻発するようになったが、当初はベトナム戦争に対する反対運動は抑えていた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 126,
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"text": "しかし1966年に、アメリカ合衆国上院の外交委員会(フルブライト委員長)でベトナム公聴会が開かれて、ジョンソンのベトナム政策は過剰介入だとするジョージ・ケナンの批判が出て、1967年に入るとベトナム戦争への戦費拡大につれ、福祉予算が圧縮されることに不満を抱いたキング牧師らの公民権運動の指導者は、公然と反戦の声を出し始めた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 127,
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"text": "これらの運動に、さらに大学生の学生運動が結びつき、1967年4月に全米で広汎な人々が反戦集会を組織して、やがて反戦運動が全米を覆い、ニューヨークでは大規模な反戦デモ行進が行われて、同年秋の10月21日に首都ワシントンD.C.で最大規模の反戦集会(ペンタゴン大行進)が開催された。さらに翌1968年1月の「テト攻勢」(後述)によって、反戦運動は大きく盛り上がった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 128,
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"text": "ジョンソン政権は、戦場におけるアメリカ兵の士気の低下、国内外の組織的、非組織的な反戦運動と、テレビや新聞、雑誌の各種メディアによる、戦争反対の報道に苦しむことになった。除隊したベトナム帰還兵による反戦運動も盛り上がりを見せた。1967年にはベトナム反戦帰還兵の会(英語版)(VVAW)が結成された。VVAWは最盛期には30,000人以上を組織化し、ロン・コーヴィック(『7月4日に生まれて』の著者)やジョン・ケリー(2004年民主党大統領候補者)のような負傷兵が中心となって運動が広がった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 129,
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"text": "そして、ベトナム戦争の最盛期だった1968年初頭には最大で54万9千人のアメリカ合衆国軍人が南ベトナム領土内に駐留し、ベトナム周辺の海上に展開する海軍や、フィリピン、大韓民国、日本、グアム、ハワイ、米本土西海岸などの後方基地からも含めて大軍が投入されたが、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線と対峙するアメリカ軍・南ベトナム軍・連合軍にとって戦況の好転はみられなかった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 130,
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"text": "1967年11月に、それまで北爆を推進してきた、ベトナム戦争の最高責任者であったロバート・マクナマラ国防長官が辞意を表明した。彼はその前年に北爆を縮小するよう大統領に進言し、1967年5月には解放民族戦線を含めた連立政権を受け入れるべきと主張する までになり、この時点で既にアメリカ合衆国政府内でも、ベトナム戦争の続行に疑問の声が出るようになった。しかしジョンソン大統領は依然として軍事強化の路線を変えなかった。",
"title": "経過"
},
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"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "兵士の間にも厭戦機運が芽生え始め、1967年10月26日には西ベルリンの米軍司令部内からベトナム兵役から逃れ、カナダや北欧へ亡命するよう呼びかけるビラが出回っていたことが判明した。また、この頃にはベトナムに派遣された兵士の中から逃亡する者も増え始め、常時40-50人の逃亡兵が発生していた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 132,
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"text": "北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月(テト)休戦を南ベトナム軍とアメリカ軍に打診したが、体勢を立て直す時間を与えるだけだとして拒否されたため、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵はわずか20人で「要塞」とも称された、サイゴン市のアメリカ合衆国大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土に生中継された。また、南ベトナムの首都サイゴンにあるアメリカ軍の放送局も占拠され爆破された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "サイゴン市内やダナン市内などの基地に急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、一時的に混乱状態に陥ったものの、すぐに体勢を立て直し反撃を開始して、物量で圧倒的に劣る南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢は失敗したと声明した。しかし解放民族戦線側は6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、そして米軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。後にこのテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍3,895人、南ベトナム軍兵4,900人、解放民族戦線5万8,373人であったとアメリカ軍は明らかにしている。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人であり、その30%余りをこのテト攻勢のわずかな期間に失ったこの事実はしばらくは明らかにされなかったが、このテト攻勢でジョンソン政権が受けたダメージは大きく、アメリカ国内でのベトナム戦争に対する見方が変わり、その後の行方に影響を与えた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "また、テト攻勢の最中に南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン 警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校のグエン・ヴァン・レムを路上で射殺する瞬間の映像がテレビで全世界に流された。まだ裁判すら受けていない彼を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして射殺する様子は、世界中に大きな衝撃を与えた。この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "テト攻勢におけるこれらの実際の戦況とアメリカ政府の発表との間のギャップや、現実の戦闘を目の当たりにして、ベトナム戦争(と南ベトナム政府)に対するアメリカの世論が大きく変化し始めた。またテト攻勢で南ベトナム解放民族戦線の損失も大きく、北ベトナムも援助を強化して、その後のベトナム戦争は、南ベトナム政府軍・アメリカ軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれたフエ(なお、当時の新聞表記は「ユエ」である)では、1月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な政府関係者や市民への虐殺事件「フエ事件(英語版)」が発生した。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと伝えられている。犠牲者は、南ベトナム政府の役人や軍人・警察官だけでなく、学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般人にまで及び、アメリカ軍による発表によれば犠牲者全体の総数は2000人以上であるとされている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と南ベトナム解放民族戦線の攻防戦が続けられていた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "すでに、アメリカ軍が介入してから3年が過ぎて、一定の戦果もなく、ずっと兵力を暫時投入してエスカレーションさせて戦闘が拡大するばかりだが、まだアメリカが優勢であるという一般的な見方が崩れて懐疑的となり、それまで苦しくてもベトナム戦争を支持していた層もジョンソン大統領の対応のまずさを批判するようになった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "テト攻勢後、1968年2月にアメリカのジャーナリストで「アメリカの良心」ともいわれて人気のあったウォルター・クロンカイトが「民主主義を擁護すべき立場にある名誉あるアメリカ軍には、これ以上の攻勢ではなく、むしろ交渉を求めるものであります」と厳しい口調で発言して戦争の継続に反対を表明、アメリカの世論に大きな衝撃を与えた。ジョンソン大統領は、「クロンカイト(の支持)を失うということは、アメリカの中産階級(の支持基盤)を失うということだ」と嘆いたという。その後保守派の多くもベトナム戦争の継続に懐疑的になっていった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "1968年は大統領選挙の年で、ジョンソンは2回目の大統領選への出馬を目指していた。テト攻勢後の3月にニューハンプシャー州の民主党予備選ではユージーン・マッカーシーに対して勝利したが、得票率で50%を割り、この結果を見てケネディ大統領の弟ロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明して、世論調査で自身への支持率が最低を記録し、政治的に苦しい立場に立たされた。またケネディ政権においてベトナムへの軍事介入を自らの「分析」を元に積極的に推し進め、ジョンソン政権でもアメリカ軍の増派を推し進めたものの、1966年頃から北爆の中止を求めてジョンソン大統領と意見が対立し前年11月に辞意を表明したマクナマラ国防長官が2月29日に辞任した。そして後任のクラーク・クリフォード国防長官は就任早々、ウエストモーランド司令官からの20万人増派の要求を受けて省内でベトナム戦争についての意見をまとめて、今後のベトナム政策の全面見直しをジョンソンに提言して、もはや兵力を増派して軍事面を強化することができない局面に至った。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "3月31日にジョンソン大統領は、テレビによる演説で北爆の部分的停止と、北ベトナムに対して無条件での交渉を呼びかけて、民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由として、ベトナム戦争に対するアメリカ国内の世論が分裂して、国論の統一に残りの任期を費やすことを挙げた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、4月4日に白人のジェームズ・アール・レイに遊説先のテネシー州メンフィス市内のホテルで暗殺される。さらに、公民権運動団体などを中心とした支持を受けて、民主党の大統領予備選に出馬し優位に選挙戦を進めていたロバート・ケネディが、カリフォルニア州ロサンゼルス市内のホテルで遊説中の6月5日に、パレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "相次ぐ暗殺事件に続いて、8月26日から29日にかけて、民主党の大統領候補を指名するための党大会がシカゴ市内のホテルで行われた。シカゴ市内では学生を中心に大規模かつ暴力的な反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、リチャード・J・デイリー市長の指示により、市警官隊がデモ隊に対して暴力的な弾圧を行い多数が逮捕された。ジョンソン大統領は自らの党大会であるにもかかわらず、会場内外における混乱を避けるため出席することはかなわなかった。このように国内情勢が混乱する中、ジョンソン大統領は1968年10月に北爆を全面停止した。この間、ベトナムは中国やソビエト連邦の支援の元で兵站や装備の調達やインフラの整備を行ったがアメリカ以外の空軍により度々猛攻を受けた。",
"title": "経過"
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"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "大統領選本戦では、民主党はユージーン・マッカーシーやジョージ・マクガヴァンを破り大統領候補に選出されたヒューバート・ホレイショ・ハンフリーを候補に立てて戦ったものの、ベトナムからのアメリカ軍の「名誉ある撤退」と、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対し「法と秩序の回復」を強く訴えた共和党選出のリチャード・ニクソンに敗北し、1969年1月20日にニクソンが大統領に就任した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "なお、就任以前から段階的撤退を訴え、大統領選挙時には「名誉ある撤退を実現する\"秘密の方策\"がある」と主張していたニクソン大統領は、就任直後からヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との交渉(パリ和平会談)を開始させた。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "民主党大会の際のシカゴ市内における混乱が象徴するように、反戦運動が過激化していたことに対して、「法と秩序の回復」を訴え当選したリチャード・ニクソンは、「沈黙した多数派層(サイレント・マジョリティ)」に対して行動を呼びかけた。ニクソンの支持母体は、アメリカにおけるマジョリティ(多数派)である、保守的な思想を持つブルーカラーを中心とした白人保守派層が中心であり、軍に徴兵されベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らそのものや彼らの子供であった。彼らの多くは、徴兵猶予などでベトナムへの派兵を免れることのできる比較的裕福な大学生や、徴兵されることのない都市部のホワイトカラーのリベラル層やインテリ層、既存の概念を否定しつつ自らは巧みに徴兵を逃れようとする反体制的なヒッピー、そしてこれらを中心に過激化する反戦運動に反感を持っていた。彼らはニクソンの訴えに応じて、こうした白人保守派層の巻き返しがあり、それらがニクソン大統領の当選につながった。しかしニクソン政権の時代に入っても、カンボジアやラオスへの侵攻、ジョンソン時代を上回る北爆の強化で、ニクソンはアメリカ軍の撤退を進めながら逆に戦線が拡大することもあり、1973年のベトナム撤退まで反戦運動が収まることはなかった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "この年の7月にはアポロ11号が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから宇宙へと移り、10月には再び反戦デモが発生したが、それはローソクに火を灯しながら行進を行う、静かなものに変わりつつあった。",
"title": "経過"
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{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "ベトナム戦争においては双方ともに北ベトナムを支援していたものの、ソビエト連邦と中華人民共和国の間では関係が悪化していた。中ソ対立により両国間の政治路線の違いや領土論争をめぐって緊張が高まり、中華人民共和国内で文化大革命が先鋭化した1960年代末には、4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中国人民解放軍部隊が対峙する事態になった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "1969年3月2日に、ウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士による衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起こった。さらに7月8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し、8月にはウイグルでも衝突が起きるなど、極東および中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "このような状況を受けて、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソ連は、急激に対立の度を増していた中華人民共和国を牽制する意味もあり、アメリカとの間の緊張緩和を目論み、直接交渉に入ることとなる。また、就任以来東西陣営の融和進展を模索していたニクソン大統領もこれを積極的に受け入れ、11月からは戦略兵器制限交渉の予備会談が行われ、1970年4月からは本会談に入るなど、米ソ間の関係は緊張緩和(デタント)の時代に入る。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "フランスの植民地時代から、ベトナムの独立と南北ベトナム統一の指導者として活発に活動していた北ベトナムの最高指導者であるホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席への就任後は、第一次インドシナ戦争の指導や日常的な党務、政務は総書記(第一書記)および政府首脳陣、軍部指導者などに任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中し、東ドイツや中華人民共和国などの友好国を訪問するなど、事実上北ベトナムの精神的指導者となっていた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの、ベトナム戦争の勃発後も、ソ連や中華人民共和国などの共産圏を中心とした友好国からの軍事的支援や、西側諸国の左派勢力や左派メディアを通じて反戦・反米運動への支援を得るために、北ベトナムを訪れたイタリア共産党のエンリコ・ベルリンゲル党首や、中華人民共和国の周恩来首相と会談するなど、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、1969年9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の突然の死は、戦時下の北ベトナム国民をより強く団結させる結果を生んだ。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "ホー・チ・ミンは中ソ対立による国際共産主義運動の分裂を深刻に憂慮していた。中ソ対立の影響により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した。以後北ベトナムは、テト攻勢を境とした自軍の戦闘スタイルの変化やアメリカ軍による北爆の強化へ対応するため、ソ連への依存を強めていった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "南北ベトナムの隣国のカンボジアでは、1970年3月に、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあり「容共的元首」であるとしてアメリカが嫌っていたノロドム・シハヌーク国王の外遊中に、シハヌークの従兄弟のシソワット・シリク・マタク(副首相)とロン・ノル国防大臣の率いる反乱軍がクーデターを決行し成功させた。反乱軍はその後ただちにシハヌーク国王一派を国外追放し、シハヌークの国家元首からの解任と王制廃止、共和制施行を議決、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「クメール共和国」への改名を宣言した。反乱にはアメリカの援助を受けたという説がある。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "このような状況の中、1970年3月29日、北ベトナムはカンボジアに対する攻撃を開始した。この侵攻の理由であるが、公開されたソ連邦時代の記録文書から明らかになったところによると、この攻撃はクメール・ルージュのヌオン・チアからの明確な要求によって行われたとされている。北ベトナム軍はカンボジア東部を瞬く間に蹂躙し、プノンペンの24km以内に迫った。カンボジア軍を破った後、北ベトナム軍は獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡していった。一方、クメール・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部に「解放区」を打ち立てた。クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の首都である北京に留まり、そこで中国共産党政府の庇護の下、亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したクメール・ルージュを嫌っていたが、中華人民共和国の毛沢東や周恩来と北朝鮮の金日成らの説得によりクメール・ルージュとその指導者ポル・ポトらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。この後、ロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けたクメール・ルージュの間でカンボジア内戦(1970年 - 1975年)が始まった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "なお、ロン・ノル政権は、北ベトナムへの対応措置として、カンボジア在住のベトナム人への収容・虐殺を行い、多くのベトナム人が殺されたり南ベトナムに避難し、ロン・ノル政権は、南北ベトナム双方から強く批判された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "北ベトナムのカンボジア侵攻に対して、4月26日には、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シハヌーク・ルート」の遮断を目的として、ロン・ノルの黙認の元、カンボジア東部領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くことが目的とされている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "1975年4月30日午後7時、南ベトナムとアメリカの連合軍は、カンボジアへの侵攻を開始。地上軍の展開のほか、B-52による空爆も加えた。圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早々と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "カンボジア東部の侵攻から10ヵ月後の1971年1月末、ラオス南東にある「ホーチミン・ルート」の遮断とその兵站基地を破壊を目的として、アメリカ軍と南ベトナム軍はラオス領内に侵攻した。ラムソン719と名付けられたこの侵攻作戦はカンボジア侵攻と同じく、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することを目的としており、1970年から始まっていたアメリカ軍が撤退した後の兵力を、アメリカ製の兵器で武装して、約100万人の兵力を保有していた南ベトナム軍 とする「ベトナム化」政策により、地上戦闘は南ベトナム軍が主力として担当し、輸送・航空支援はアメリカ軍が担当した。そのため、南ベトナム軍が北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線に対抗できるかを試される戦いでもあった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "侵攻後にアメリカ軍は、ヘリボーン輸送によりラオスに3つの拠点を置いたものの、ラオス領内に潜んでいた北ベトナム軍により多数の対空陣地の火器と戦車の攻撃を受けて、南ベトナム軍は大きな損害を受けてしまい、それを支援するアメリカ軍のヘリコプターも、この攻撃により数を減らしていき、作戦はうまく進展しなかった。その後、アメリカ軍と南ベトナム軍は1万人の兵力を増強して態勢の立て直しを図り、ようやくラオスの小都市であるチュポンを占領して周辺の補給基地・物資集積所を破壊したものの、数日後に北ベトナム軍がアメリカ軍の爆撃による損害を覚悟の上で大兵力による強力な反撃を行い、この反撃を受けたアメリカ軍と南ベトナム軍はチュポンを放棄して撤退せざるをえなくなり、3月末にはラオス領内から完全に撤退して作戦は失敗に終わった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "この戦いにより「ホーチミン・ルート」の遮断は永続的に不可能になったばかりでなく、南ベトナム軍の戦力の限界を示すことになり、この戦争に勝利することが不可能となった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "就任以前から泥沼化していたベトナム戦争から、段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年1月の大統領就任直後より、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との和平交渉を開始させたが、幾度も暗礁に乗り上げて交渉は難航した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "この頃の北ベトナムの有力な支援国は中国であり、表向きこそ否定していたが1964年から1971年まで間にのべ30万人の正規軍を派遣、さらに軍事援助も行うなど戦争の支援を行っていた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "1971年7月にニクソン大統領は中華人民共和国を訪問する意向を発表し(ニクソン・ショック)、翌1972年2月21日にニクソン大統領の中国訪問は行われ、毛沢東主席および周恩来首相と直接対話を始めた。この前年の7月に、ニクソン大統領はキッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官を中国に派遣して、周恩来首相と極秘に会談を行わせていた。両国はこの時から関係強化を目指して幾度となく交渉を重ねていた。ニクソン大統領が中国を訪問したことは、当時ソ連と中ソ対立していた中国に近づくことで対ソ連外交での中国カードという外交手段を持つのみならず、北ベトナムを孤立させ、同じく深い関係を持つカンボジアに影響力を持っていることで、米中接近がベトナム戦争でニクソン政権が望む「名誉ある撤退」と、今後の東南アジアへの米国の影響力を確保することを目指していたと考えられる。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "中華人民共和国としても、ニクソン政権下でソ連と友好的な関係を保っていた米国と接近することは、文化大革命が最も激しい時期であった、1969年に勃発したダマンスキー島事件以降、関係が極度に悪化していたソ連を牽制すると同時に、文化大革命以後停滞していた、中国外交の主導権を取り戻すという意味があった。ただ極秘裏で行われたキッシンジャーの訪問後に、中国国内で文革推進の旗頭であった林彪の失脚・亡命・墜落死という事態を生じ、毛沢東の高齢化、中国共産党内での周恩来の実権掌握が明らかになり、やがて鄧小平の復活と近代化路線が前面に現れてくることで、この米中接近は中国にとっても大きなターニングポイントとなった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "さらにアメリカ軍は講和条件を有利にするため、カンボジア・ラオス領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、同年3月末には、北ベトナム軍が戦車多数を含めた大兵力で非武装地帯を横切って南ベトナムに侵攻する大攻勢を始めたため、講和を急いだニクソン大統領は5月8日に北爆再開を決定した(ラインバッカー作戦)。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "ラインバッカーI作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。アメリカ空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。この作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えられ、15000機の航空機が参加して60,000トンの爆弾を投下するとともに、ハイフォン港などの北ベトナムの港湾を機雷で封鎖した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "特に12月18日に開始された「ラインバッカーII作戦」では、爆撃の効果を上げるため、首都ハノイとハイフォン港の2つを目標とし、2週間で20,000トンの爆弾が投下され、その内容としては、ボーイングB-52戦略爆撃機150機による700回出撃に及ぶ夜間絨毯爆撃で15,000トン、アメリカ海・空軍の攻撃機での爆撃で5,000トンに及んだ、そのため、ハノイやハイフォン港の区域は完全に焼け野原になり、軍事施設だけでなく電力や水などの生活インフラストラクチャーにも大きな被害を与えた。さらに新たに前線に投入された音速爆撃機のジェネラル・ダイナミクスF-111や、開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペイブウェイ、TV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイなどのハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国、北朝鮮をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助のほとんどがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、そのほとんどは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、撃沈、阻止されていった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍による対日戦並の本格的な戦略爆撃や、南ベトナム海軍とアメリカ海軍が共同で行った機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収めた。北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被り、北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底、継戦不能な事態に陥った。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せて只でさえ貧弱な北ベトナムのインフラストラクチャーにも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "北ベトナム軍にとって幸いなことに、クリスマス休暇中による再度の北爆は、国際社会の轟々たる批難と反発を受け、短期間で中止されたが、アメリカ合衆国連邦政府の目論見通り、この空爆の成功は、北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追い込む事に成功した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "北ベトナム政府は、中国が同時期に北ベトナムへの大規模な軍事作戦も始めたニクソン政権と接近していることを「自国に対する中国の裏切り行為」と受け止めた。ニクソンの訪中から3か月後に行われた米軍による北爆再開と海上封鎖も中国の了解を得たとされ、ベトナム共産党書記局員で党機関紙編集長も務めたホアン・トゥンは「中国は『中国を攻撃さえしなければよい』と米国に言った」と証言している。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "以後北ベトナム政府は、中ソ対立で中華人民共和国と対立するソビエト社会主義共和国連邦との関係を強化し、北ベトナムと中国との関係悪化は決定的になった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "アジア各国を取り巻く状況が目まぐるしく推移する中、1972年秋頃に、パリで秘密交渉が持たれて合意に向けた動きが加速し、和平交渉開始から4年8か月経った、1973年1月23日に、フランスのパリに滞在する、北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印にこぎつけた。そして4日後の1月27日に、南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が交わされた。",
"title": "パリ和平協定調印"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "なお、この「和平協定」調印へ向けて、様々な調整を行った功績を称え、レ特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問は「ベトナム戦争が終結していないこと」「ベトナム統一が実現していないこと」「ベトナムにまだ平和が訪れていないこと」を理由に、ノーベル賞受賞を辞退した。",
"title": "パリ和平協定調印"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "パリ和平協定の調印により、北ベトナムとアメリカの間に、「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」、「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し、1973年1月29日にニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した。",
"title": "パリ和平協定調印"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "その後、パリ和平協定に基づき、協定締結時点で南ベトナムに残っていた24,000人のアメリカ軍は撤退を開始し、併せてハノイの有名な戦争捕虜収容所「ハノイ・ヒルトン(正式名称:ホアロー捕虜収容所)」などの北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜の解放が次々に行われた。",
"title": "パリ和平協定調印"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "ベトナム戦争の最盛期だった1968年には、アメリカ軍は南ベトナムに540,000人が派遣されていたが、1969年以後は撤退計画に基づいて派遣軍の撤退と削減が続けられ、1973年1月の協定締結時にはベトナムへの派遣軍は24,000人まで削減されていたので、「終結宣言」から2か月後の3月29日には撤退が完了した。",
"title": "パリ和平協定調印"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "しかし、ケネディ政権時代から南ベトナムに派遣されていた、アメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し、南ベトナムに残留していた上、航空機や戦車、重火器などの軍事物資の供給も行われていた(なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)。",
"title": "パリ和平協定調印"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "パリ協定の締結までにアメリカ軍による北爆が停止されると、北ベトナム軍はすぐさま補給路を回復し南ベトナム侵攻のための体勢を立て直した。アメリカは南ベトナム軍への軍事支援の削減を補うために、アメリカが中華民国や韓国、イラン(パフラヴィー朝)などに貸与していたノースロップF-5戦闘機などをはじめとする兵器を南ベトナムへ送るようにこれらの国に呼び掛けたものの、その数はかつてのアメリカからの直接支援とは程遠いものであった。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "パリ協定において「停戦」が謳われたため、これを反故にした結果のアメリカ軍の再介入を恐れ、北ベトナム軍は当初、南ベトナム軍側に対して大規模な攻勢は行わなかったが、まもなくパリ協定における停戦協定を無視した北ベトナム軍による南ベトナム軍に対する攻撃のペースは増加し、武器の供給も減り兵士の士気も落ちた南ベトナム軍の死傷者数も増大して行った。9月以降はソビエト連邦や中華人民共和国からの追加軍事援助を受けた北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後も南下を続けた。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍撤退後の1974年1月、中華人民共和国の中国人民解放軍は南北ベトナム間の戦線から遠く離れた西沙諸島に駐留する南ベトナム軍を宣戦布告なしの奇襲攻撃(西沙諸島の戦い)によって独立以来の南ベトナム領である西沙諸島一帯を占領し、南シナ海への進出に成功した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "その後の南北ベトナムの統一、中越戦争を経た現在に至るまで、中国人民解放軍による占拠(実効支配)状態が続いており、ともに領有権を主張する中越間の紛争案件となっている。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "同月、アメリカ軍のベトナム全面撤退の立役者であるニクソン大統領はウォーターゲート事件で議会が弾劾訴追を準備し、罷免されることが確実と悟ったので、罷免される前に辞任した。後を継いだジェラルド・R・フォード大統領は、内政の立て直しと中間選挙に集中するためもあり、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソビエト連邦とはデタントを推し進めたニクソン政権同様、積極的な宥和政策を継続し続けた。その上に、ニクソン政権が残したウォーターゲート事件の後始末や、ケネディ政権が推し進めたアポロ計画による月面探査による膨大な出費、オイルショック後の景気停滞や不況からの回復などの国内問題に国民の関心が移り、アメリカは、もはやベトナム情勢に対する興味を失いつつあった。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "フォード政権に移行して以降のアメリカ政府は、パリ協定で実施が約束されたはずの南北ベトナム統一総選挙実施への南北ベトナム政府への働き掛けどころか、パリ協定違反である「停戦」後の南ベトナムに対する北ベトナム軍の攻撃を止めるための働き掛けすら行わなくなった。さらに、同年8月には南ベトナム政府からの再三の働き掛けを受けて、議会が最後の南ベトナム政府への資金援助を決定したものの、その金額は以前と比べ物にならないほど少なかった。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "上記の状況を受けて、北ベトナム政府は「アメリカの再介入はない」と判断し、南ベトナムを完全に制圧し、南北ベトナムを統一すべく1975年3月10日に南ベトナム軍に対する全面攻撃を開始した(ホー・チ・ミン作戦)。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港であるダナンが、南ベトナム軍同士の同士討ちや、港や空港に避難民が押し寄せるなどの混乱のもと陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める。1975年4月10日には中部高原の主要都市であるバンメトートが陥落。グエン・バン・チュー大統領はアメリカに軍事支援を要請するが、アメリカ議会は軍事援助を拒否した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "1975年4月中旬には南ベトナム政府軍が「首都であるサイゴンの防御に集中するため」として、これまで持ちこたえていた戦線も含め主な戦線から撤退を開始。南ベトナム政府軍は、アメリカからの軍事援助も途絶え装備も疲弊していたうえに士気も落ちており、進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えられず総崩れになり、北ベトナム軍はサイゴンに迫った。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "このような状況を受けて、ホワイトハウスは南ベトナムの戦災孤児をアメリカやオーストラリアに運び、養子縁組を受けさせる「オペレーション・ベビーリフト」を1975年4月4日に開始した。しかしその第1便となるアメリカ空軍のロッキードC-5「ギャラクシー」貨物機が、マニラに向けてタンソンニャット国際空港を離陸した後に墜落し、乗客乗員328人中155人(多数の戦災孤児を含む)が死亡し、北ベトナム政府はこれを「人さらいのうえでの虐殺である」と非難した。しかしこの作戦はサイゴン陥落直前の4月26日まで続けられ、3,300人の戦災孤児が混乱する南ベトナムを離れた。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "隣国のカンボジアでは、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるクメール共和国政府軍と、中華人民共和国などの支援を受けたクメール・ルージュの内戦の末、4月17日に首都のプノンペンが陥落し、直前にアメリカのジョン・ガンザー・ディーン特命全権大使などが、隣国のタイ王国へ逃亡したほか、ロン・ノルもインドネシア経由でハワイ州へ逃れた。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "1975年4月21日、グエン・バン・チュー大統領がテレビとラジオを通じて会見を行い、これらの事態の責任を取り辞任を発表した。後任には、南ベトナム政府の長老の1人で、1960年代に大統領や首相を務めた経験を持つチャン・バン・フォン副大統領が就任した。穏健派として知られるフォン大統領による土壇場での停戦交渉が期待されたものの、パリ協定発効以降、協定内容に則りタンソンニャット空軍基地に駐留していた北ベトナム政府代表団は、穏健派であるもののチュー元大統領の影響が強いとみられたフォン大統領との和平交渉を4月23日に正式に拒否し、存在意義を失ったフォン大統領は4月29日に、就任後わずか8日で辞任した。後任として同日に同じく穏健派のズオン・バン・ミン将軍が就任したが、ミン新大統領による和平交渉は北ベトナム政府代表団によって同じく拒絶された。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "南ベトナムの首都であるサイゴン陥落による混乱を恐れた、南ベトナム政府上層部の家族や富裕層は、4月中旬以降次々と民間航空便で南ベトナム国外への脱出を図っていたが、この時期になると、サイゴン北部のタンソンニャット空軍基地も包囲され攻撃が及んできたために、同空港を発着するエア・ベトナム、パンアメリカン航空、シンガポール航空などの民間航空機の運航や、「オペレーション・ベビーリフト」も、北ベトナムのホー・チ・ミン作戦における最終段階『サイゴン総攻撃』により、4月26日をもって全面停止に追い込まれた。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "また一般市民も、南ベトナム政権の崩壊が避けられないと悟り、南ベトナムの通貨であるピアストルを、金・ダイヤモンド・アメリカ合衆国ドルに交換したため、ピアストルの通貨価値が暴落した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "この時すでに南ベトナム軍の前線は各方面で完全に崩壊し、それとともに北ベトナム軍によるサイゴン市内の軍施設などの重要拠点への砲撃や、北ベトナム空軍機による爆撃などが続いたために、サイゴン市内の一部は混乱状態に陥った。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "その後間もなく、四方からサイゴン市内へ向けて進軍した北ベトナム軍の地上部隊により、南ベトナム軍のタンソンニャット空軍基地も完全に包囲され、攻撃を受けて滑走路や各種設備が破損したために、南ベトナム軍輸送機の発着は完全に途絶し、北ベトナム軍と交戦中の南ベトナム地上軍への援護も不可能になった。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "サイゴン陥落は避けられない状況となり、アメリカ政府および軍は4月28日に国家安全保障会議を開き、アメリカ軍や大使館職員・連邦政府の関係者と在留アメリカ民間人、アメリカと関係の深かった南ベトナム政府上層部のサイゴンからの撤退方法についての緊急討議を行い、サイゴンからの撤退作戦である「フリークエント・ウィンド作戦」を発令した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "作戦開始後、市内のアメリカ政府やアメリカ軍、南ベトナム軍の関連施設からアメリカ軍や政府の関係者と、グエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元首相をはじめとする南ベトナム政府上層部やその家族、在留アメリカ人らが、サイゴンの沖合いに待機する数隻のアメリカ海軍の空母や大型艦艇に向けて南ベトナム軍や米軍のヘリコプターや軍用機、小船などで必死の脱出を続けた。空母の甲板では、立て続けに飛来するヘリコプターを着艦するたびに海中投棄し、後続のヘリコプターや軍用機の着艦場所を確保した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "フリークエント・ウィンド作戦に関するアメリカ軍の公式記録では、述べ682回にわたるアメリカ軍のヘリコプターによるサイゴン市内と空母との往復が記録され、1300人以上のアメリカ人が脱出に成功、その数倍から十数倍の南ベトナム人も脱出した。なお、作戦中に海中投棄されたアメリカ軍や南ベトナム軍のヘリコプターは45機に達した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "しかし在留日本人は、派遣元の企業などから4月中旬には国外脱出が命令されていたが、フリークエント・ウィンド作戦がアメリカ人や南ベトナム人の撤退を行うことだけで、アメリカ軍が手一杯なことや日本が直接参戦していないことなどから、たとえ日本人が南ベトナムに残っても、北ベトナム政府や市民などから迫害を受ける可能性が低い事などを理由に、南ベトナム軍やアメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "さらに、自衛隊の海外派遣が禁じられていたために、欧米諸国のように政府専用機や軍用機による自国民の救出活動が全く行われず、また、日本共産党指揮下の組合の反対により、日本国政府による日本航空の救援機も運航されなかったため、数百人の在留日本人がサイゴン市内に取り残された。なお、多くの民間人や駐南ベトナム特命全権大使以下大使館員については、家族は安全の確保のためサイゴンを去ったが、上記の理由からサイゴンに残留することを選択した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "また、かつてはアメリカ軍とともにベトナム戦争に参戦していた韓国人は、「アメリカ人や南ベトナム人の退去活動で手一杯であること」を理由に、日本人と同じくアメリカ軍機による撤退への同行が拒否され、駐南ベトナム特命全権大使はアメリカ大使館の目の前にたどり着いたものの、大使館の敷地に入ることをも拒否された、その結果、特命全権大使以下の在留韓国人のほとんどが、反韓感情が根強く残るサイゴンに取り残された。残留韓国人は、国際赤十字指定地域とされた、サイゴン市内の病院に避難し、迫害を受けることはなかった ものの、その後しばらく韓国に帰国することができなかった。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "4月30日の早朝には、最後までサイゴンに残ったグエン・バン・チュー元大統領ら、南ベトナム政府の要人や軍の上層部とその家族、アメリカ合衆国のグレアム・アンダーソン・マーチン 駐南ベトナム特命全権大使や大使館員、アメリカ人報道関係者など、南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くが、サイゴン市内の各所からアメリカ陸軍や海兵隊のヘリコプターで、南シナ海上に待機するアメリカ海軍の空母に向けて脱出する『フリークエント・ウィンド作戦』を発動した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "撤退計画がサイゴン市内の混乱を受けて遅延したこともあり、北ベトナム軍はアメリカ合衆国連邦政府や赤十字国際委員会の要請を受け、サイゴン市に在留するアメリカ軍人および民間人が完全に撤退するまで、サイゴン市内に突入しなかった。なお、アメリカ合衆国軍およびアメリカ合衆国大使館は、撤退後に北ベトナム政府に渡らぬよう、計360万アメリカ合衆国ドルを撤退前に焼却処分した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "同日午前には、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が、大統領官邸から南ベトナム国営テレビとラジオで、戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。その後残留南ベトナム軍と北ベトナム軍の間に小規模な衝突があったものの、午前11時30分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し、ミン大統領らサイゴンに残った南ベトナム政府の閣僚は全員北ベトナム軍に拘束された(サイゴン陥落)。南ベトナムは崩壊し、アメリカ合衆国の敗北が決定した。少数の南ベトナム軍の将校はサイゴン陥落後に自決した。",
"title": "アメリカ軍撤退後の戦況"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "サイゴン陥落とそれに伴う南ベトナム政府の崩壊後、南ベトナム解放民族戦線と民族民主平和勢力連合、人民革命党によって1969年に結成されていた南ベトナム共和国臨時革命政府が南ベトナム全土を掌握した。",
"title": "南北ベトナム統一"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "統一後はピアストルとドンの通貨の統合や行政、官僚組織の再編成、民間企業の国営企業化が進められた。また、その後旧サイゴン市に周辺地域を統合して北ベトナムの指導者「ホー・チ・ミン」の名前を取った「ホーチミン市」が新たに制定された。",
"title": "南北ベトナム統一"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "サイゴン陥落の約2週間後、クメール・ルージュが政権を掌握して民主カンプチアを樹立した隣国のカンボジアで「マヤグエース号事件」が勃発し、人質の解放に向かったアメリカ軍とクメール・ルージュの間で起きた戦闘により、多数のアメリカ軍兵士が死亡していた。これはベトナム戦争における最後の戦闘であると見なされている。",
"title": "第三次インドシナ戦争"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "1975年5月、カンボジアはベトナムに対する戦争を開始し、まずベトナムのフーコック島を攻撃した。両国の間で戦闘が行われたにもかかわらず、再統一したベトナムとカンボジアは、1976年を通じて表向きは両国の強力な関係を強調する外交を展開した。しかしその裏で、クメール・ルージュ政府はなおもベトナムの拡張主義と認識していたものを恐れていた。そのような中で1977年4月30日、カンボジアはベトナムに対する別の大規模な軍事攻撃を開始した。カンボジアの攻撃に衝撃を受けて、ベトナムはカンボジア政府を交渉のテーブルにつかせることを目的に、1977年末に報復攻撃を開始した。",
"title": "第三次インドシナ戦争"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "1978年1月、ベトナム軍はその政治目的に達しなかったため、撤退した。中華人民共和国が両国の平和交渉の仲介に当たろうとする中で、1978年を通じて両国間に小競り合いが続いた。1979年にはベトナム領内でもバチュク村の虐殺など大量殺戮を始めたカンボジアの独裁者ポル・ポトの打倒を掲げてベトナムはカンボジアに侵攻してカンボジア内戦(カンボジア・ベトナム戦争)が勃発し、これに対して中華人民共和国がベトナムに「懲罰」と称し侵攻して中越戦争が起きた。カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争を合わせて第三次インドシナ戦争とも呼ばれた。",
"title": "第三次インドシナ戦争"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "・第7空母航空団/空母インディペンデンス/AG/第84戦闘飛行隊・第41戦闘飛行隊F-4Bファントム/第86攻撃飛行隊・第72攻撃飛行隊A-4Eスカイホーク/第4重攻撃飛行隊A-3Bスカイウォーリア/第1重偵察攻撃飛行隊RA-5Cビィジランティー/第75攻撃飛行隊A-6Aイントルーダー/第12早期警戒隊E-1Bトレーサー/第13早期警戒隊EA-1Fスカイレーダー/UH-1ガンシップ/UH-2A搭載",
"title": "主に参加した航空団・部隊一覧"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "1960年よりベトナム人同士の統一戦争として開始され、その後アメリカ合衆国が軍事介入し、15年間続いた戦争によって、南北ベトナム両国は500万の死者と数百万以上の負傷者を出した。このことは、掲げる政治理念や経済体制にかかわらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊と、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線による南ベトナムに対する軍事活動やテロにより国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "また、ベトナム戦争では北ベトナムやベトコンは国の統一を目指してアメリカに立ち向かったのに対し、対する南ベトナムはアメリカの傀儡国家で、政治は腐敗して独裁を行ったため南ベトナムの軍民には国を守る意思が低かったため敗戦した。または腐敗政治に苦しんでいた南ベトナム人たちはサイゴン解放を喜んだ。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "ベトナム戦争が終わると、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアでは中華人民共和国に支援されたクメール・ルージュが相次いで政権に就いたことで、インドシナ半島はタイ王国、ビルマ式社会主義体制を敷いていたミャンマー(ビルマ)を除いて共産化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実になった。さらにアメリカ軍のインドシナ介入がカンボジア内戦などの諸問題を複雑にしたという声もある。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "アメリカはこの戦争で、延べ250万人以上の兵士を動員して5万8,718人の戦死者と約2,000人の行方不明者にこれに負傷者を加えるとおよそ30万人を超える人的損失を出した。またアメリカは、旧南ベトナム政府や軍の首脳陣、そして南ベトナムから流出した華人、および政治的亡命者などのボートピープルや難民を受け入れた。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "テレビ放送が普及したのちでは、最初に勃発した大規模戦争だったため、それ以前の戦争と異なり、戦争の被害が、その日のうちにテレビ番組で報道され、戦場の悲惨な実態を全世界に伝えた。アメリカ国内では、史上例を見ないほど草の根の反戦運動が盛り上がり、「遠いインドシナ半島の地で、何のためにアメリカ軍兵士が戦っているのか」という批判がアメリカ合衆国連邦政府に集中した。青年層を中心に『ベトナム反戦運動』が広がり、ヒッピーやフラワーピープルなど、カウンターカルチャーが興隆した。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "ベトナム戦争は1964年にリンドン・ジョンソン政権下で制定された公民権法の施行を受けて、アメリカ合衆国の歴史上初めて「黒人部隊」が組織されず、黒人と白人が同じ戦場・同等の立場で、敵と戦う戦争であった。これにより、戦場で共に戦った黒人と白人の若者が、アメリカにおいて様々な場所で、完全に分離されていた、人種間融和の促進剤になっていると指摘された。この点について、アフリカ系アメリカ人公民権運動を起こしたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、生前「皮肉な結果である」と述べている。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "作家・評論家などの文化人、俳優・女優・歌手などの芸能人による『ベトナム反戦運動』も盛んに行われた。ボクサーのモハメド・アリは、1967年にベトナム戦争に反対して、徴兵制度拒否(良心的兵役拒否)を行った。イギリス人歌手のジョン・レノンも、ビートルズの解散後に活動拠点を置いていたアメリカを中心に反戦活動を行った。この際に行われた「ベッド・イン」などのパフォーマンスは、マスコミも大きく取り上げ、若者への影響力が強かった。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "女優のジェーン・フォンダは、1972年に反戦活動家のトム・ヘイドンと共に「アメリカ兵のための反戦運動」と称して、ベトナム民主共和国を訪れた際に、アメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットを被り、照準器を覗き込む写真を発表した。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "フォンダは1978年に、ベトナム帰還兵の問題をテーマにした主演映画『帰郷』(Coming Home) で、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 223,
"tag": "p",
"text": "早急に兵士を補充するため徴兵基準を緩和したことでそれまで受け入れなかった素行不良者や適格に欠く者も受け入れることになり、前線部隊では大麻や性犯罪など軍規の乱れが常態化した。このような疲弊した軍隊の様子はフルメタル・ジャケットなどの作品で取り上げられた。またアンフェタミンの提供も引き続き行われており、ベトナム帰還兵の心身に影響を与えたとされる。規定数を確保するため、就労が禁止されている観光ビザで入国した外国人を収入や市民権などを餌に釣るという勧誘も行われていた。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦や朝鮮戦争の戦争中や終結後の時期と異なり、ベトナム帰還兵の心理的障害が広く認識されて社会問題となり、精神医学や軍事心理学において心的外傷後ストレス障害(post traumatic stress disorder, PTSD)の研究が展開した。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "膨大な戦費が投入された結果、アメリカ合衆国ドルと金の交換に疑問を持ったヨーロッパは、イギリスとフランスが、ドル紙幣を金に交換するよう要求し、これがニクソン・ショックへと繋がり、1944年に制定されたブレトンウッズ体制は終焉を迎えた。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 226,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国連邦政府が、ベトナム社会主義共和国の国家の承認と国交樹立を果たしたのは、ベトナム戦争終結後から20年後の1995年になってからであった。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 227,
"tag": "p",
"text": "1954年のジュネーヴ協定以前まで、「フランス領インドシナ」として、ベトナムを侵略・植民地支配していたフランスでも、シャルル・ド・ゴールフランス共和国大統領は「ベトナム戦争は、民族自決の大義と尊厳を、世界に問うたものである」と述べている。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 228,
"tag": "p",
"text": "ただしド・ゴールは『ディエンビエンフーの戦い』に敗戦し、1954年にフランスがインドシナ半島から撤退したことについては「不本意だった」と述べている。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 229,
"tag": "p",
"text": "中東戦争でアメリカ合衆国が支援しているイスラエルと戦っているさなかの中東アラブ諸国にも影響を与えた。北ベトナムがアメリカ合衆国を相手に有利に戦争を進めて最終的に勝利したのは「社会主義を標榜していたから」と解釈され、アラブ世界も北ベトナムのように社会主義化して東側の援助を受ければ親米国家イスラエルを打倒できるのではないかと考えられるようになった。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "このような考えはアラブ世界が団結して戦った第3次中東戦争以降支持されるようになり、アラブ世界では、イラクやシリアのようなバアス党による社会主義化が行われた国も現れたし、リビアのような独自の社会主義路線をとる国も現れた。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 231,
"tag": "p",
"text": "ベトナム戦争は、高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えたかに見えた。しかし学生運動こそ盛り上がりを見せたが、1965年の国会では、野党が沖縄から北爆へ向かうB-52爆撃機の離着陸問題を取り上げたものの 大勢に影響はなく、1970年には安保条約を自動延長させた。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 232,
"tag": "p",
"text": "当時新左翼を含めて、ベトナム戦争反対派は「70年安保闘争」と並ぶ運動の中核と見なし、ベトナム反戦運動のみならず、関係のない新東京国際空港反対運動を結び付け、インフラストラクチャー破壊活動や警官の殺害を伴う過激な学生運動(三里塚闘争)も行ったが当時は市民から一定の支持を受けていた。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 233,
"tag": "p",
"text": "なお、南ベトナム解放民族戦線を支持する「第四インターナショナル」や「ベトナムに平和を!市民連合」等と、反スターリン主義の立場から北ベトナム政権不支持を主張し、ベトナム戦争反対を掲げた「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」や「革命的共産主義者同盟全国委員会」等とでは温度差があり、同床異夢の感があった。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 234,
"tag": "p",
"text": "また、ベトナム戦争終結後、1989年の冷戦終結までの間に、サイゴンの傀儡政権に協力していた経歴から石を投げられる事を恐れて漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の華僑の計画的な追放も発生し、後の中越戦争のきっかけの一つになった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民が居なくなった2016年現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお、「ボート・ピープル」は、大部分が華僑であったことが、使用言語などから分かっている。",
"title": "戦争の影響"
},
{
"paragraph_id": 235,
"tag": "p",
"text": "ベトナム戦争終結後の歴代のアメリカ政府や議会は、アメリカ合衆国がベトナム全土の共産主義体制化と、ベトナムを基点として東南アジア全域が「ドミノ理論」による共産主義化されることを抑止するために、ベトナム戦争に軍事介入したこと、枯れ葉剤・クラスター爆弾・対人地雷など、不発弾による環境破壊や人的被害に対して、いかなる謝罪も金銭賠償をもしていない。2009年のオバマ大統領の就任演説においても、アメリカ合衆国の利益や正義を追求した先人たちの行為や努力や犠牲の事例として、アメリカ独立戦争・南北戦争・第二次世界大戦とともに、ベトナム戦争を戦ったことを『英雄』として賞賛している。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 236,
"tag": "p",
"text": "また、南ベトナム解放民族戦線および北ベトナム軍がベトナム戦争中に自国民に対して行なった数々のテロリズムに関し批判もされるが、ベトナム政府もアメリカ政府と同様に謝罪するコメントを出していない。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 237,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍は南ベトナム解放民族戦線の浸透作戦を防ぐ目的で枯葉剤を大規模に利用した。戦後になりベトナム市民やアメリカ軍のベトナム帰還兵の間で枯葉剤への接触を原因とする健康被害や出産異常が発生した。環境への影響を防ぐことができない枯葉剤を利用することの国際法上の問題と合わせて批判が存在する。結合双生児のベトちゃんドクちゃんは枯葉剤を原因とするといわれ、日本でも広く知られた。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 238,
"tag": "p",
"text": "広範囲を焼き付くすナパーム弾についても人道的な観点から批判が多かった。焼夷兵器については戦後の1980年に特定通常兵器使用禁止制限条約において市民に被害が出る可能性がある際の使用が禁止された。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 239,
"tag": "p",
"text": "また、これらの兵器による被害は、当然ながら対人だけでなく、絶滅危惧種や自然環境そのものにも大きな被害を与えた。後世、エコロジー(環境)に対するジェノサイド(虐殺)、つまり「エコサイド」として語られる被害も多かった。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 240,
"tag": "p",
"text": "1968年3月16日、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍・第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落を襲撃し、無抵抗の村民504人を無差別射撃などで虐殺。集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ、2022年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。さらにC中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、第3歩兵連隊第4大隊が増派され、近隣の村落で虐殺を行った。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 241,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍は解放戦線の非公然戦闘員(ゲリラ)を無力化するため、サーチ・アンド・デストロイ(索敵・殲滅)作戦で、南ベトナム解放民族戦線ゲリラおよびシンパ「容疑者」への虐殺を繰り返した。その過程で多くの民間人に対する残虐行為を行っていた。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 242,
"tag": "p",
"text": "※経緯や各事件については前節の「サーチアンドデストロイ作戦」も参照。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 243,
"tag": "p",
"text": "『ロサンゼルス・タイムズ』によると、韓国政府はいかなる大量虐殺の事実も認めておらず、韓国軍退役軍人枯葉剤被害者の会事務総長のKim Sung-wookは「我々の兵役はベトナムの治安を維持する目的でした」「それ以外だという指摘は我々の名誉への侮辱に当たります」と韓国軍の正当性を述べている。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 244,
"tag": "p",
"text": "2017年7月10日の『ニューヨーク・タイムズ』社説は、「ベトナム政府は過去を振り返るよりも未来に目を向けたいと考えており、韓国政府は第二次世界大戦の日本との未解決の問題(慰安婦問題)を重視している。しかし、一つだけはっきりしていることがある。それは、ハミの人々にとって、その悲惨な過去は、決して過去のものではないということだ」と指摘している。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "アメリカ人や韓国人とベトナム人との間に多数の混血児が生まれ、アメリカ人とのハーフは「アメラジアン」、韓国人とのハーフは「ライダイハン」と呼ばれる。ライダイハンはハンギョレ21や歴史家の韓洪九らによって、韓国やベトナムで「ベトナム戦争の混血児問題」として、1999年に社会問題となったが、韓国政府は退役軍人組織が背景にいるため、公式に認めていない。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "2013年9月の朴槿恵大統領のベトナム訪問では、ホー・チ・ミン廟の参拝や献花の時を含めてベトナム戦争についてまったく触れず、ベトナム戦争時に韓国軍兵士に性的暴行されたベトナム人女性や虐殺されたベトナム人遺族に対して謝罪をしなかったが、『ハンギョレ』は、韓国が日本に対してしきりに「歴史直視」を要求していることと矛盾していると批判している。ベトナム戦争の際の謝罪をベトナム側から求められなかったことに関して、韓国政府高官は「過去に対する韓国とベトナムの成熟した立場と誤った歴史認識に閉じ込められている日本と自然に比較されないか」として、「日本への圧迫」になると主張している。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "2017年6月6日に韓国の文在寅大統領は、顕忠日の追悼式で「ベトナム戦争参戦勇士の献身と犠牲を土台に祖国の経済が復活した」「今日の韓国経済があるのはベトナムで戦った元軍人たちの献身と犠牲があってのことです」と述べた。この韓国軍兵士によるベトナム民間人虐殺への賛辞とも受け取れる発言に対して、ベトナム外務省(英語版)は在ベトナム韓国大使館(朝鮮語版)を通じて韓国政府に抗議した。また、ベトナム外務省(英語版)はHPで「韓国政府がベトナム国民の感情を傷つけ、両国の友好と協力関係に否定的な影響を与えかねない言動をしないよう要請する」と表明した。さらに『朝鮮日報』によると、ベトナムメディアは韓国軍が9000人余りのベトナム民間人を虐殺したにもかかわらず、韓国政府はこれを認めていないと批判している。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "2020年3月27日にBBCが、「1968-何百人もの女性を苦しめた年」という記事で、ベトナム戦争における韓国軍兵士によるベトナム人女性への性的暴行を特集し、「韓国人に何が起きたのかを認めてもらう必要がある」とのベトナム人被害女性の訴えを紹介し、ジャック・ストロー元英外相と「ライダイハンのための正義」が、国連人権理事会による調査や韓国の謝罪を求めていることを伝え、「韓国は、第二次世界大戦中に、何十万人もの韓国人女性が性奴隷として働かされたことをめぐり、謝罪をするよう何十年も日本に働きかけてきた」と指摘し、日本に謝罪を求めながら、自らの問題には頬かむりする韓国のダブルスタンダードを批判した。",
"title": "戦争犯罪"
},
{
"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "ベトナム、カンボジア、ラオスは、南北ベトナム統一から冷戦終結までの間(1976年 - 1989年)に、東南アジア諸国連合に加盟した。",
"title": "現在"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "1986年のドイモイ政策によってベトナムは、市場経済を導入し、外国の資本投資を受け入れ、1995年にはアメリカとの国交回復を果たし、経済成長を続けている。",
"title": "現在"
},
{
"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "2007年にベトナムはWTOに加盟し、アメリカ一極体制が破綻した2008年金融危機以後は「VISTA」と呼ばれる新興経済国家の仲間入りを果たした。東南アジア諸国が市場経済体制と国際貿易体制に組み込まれ、経済的な状況に限れば、戦争だけでは実現できなかった状況が実現されることになった。",
"title": "現在"
},
{
"paragraph_id": 252,
"tag": "p",
"text": "ベトナムにはベトナム戦争についての資料を収集した戦争証跡博物館がある。",
"title": "現在"
},
{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "1991年末日のソビエト連邦の崩壊は、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国の接近を引き起こした。ソビエト連邦が崩壊すると、ベトナム戦争の終結から20年後に当たる1995年8月5日に、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国が和解し、国交を回復した。2000年には、両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、ユナイテッド航空やゼネラルモーターズ、コカ・コーラやハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業がベトナム市場に続々と進出した。その後も多くのアメリカ企業がベトナムに工場を建設し、教育水準が高く、かつASEANの関税軽減措置が適用されるベトナムを、東南アジアにおける生産基地の1つとしたことや、1990年代以降のベトナム経済の成長に合わせてアメリカからの投資や両国間の貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。",
"title": "現在"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "ベトナムにとって、アメリカ合衆国は、隣国の中華人民共和国に次いで、第二の貿易相手国となっている。また、現在は両国の航空会社が相互に乗り入れた事や、2000年代以降はベトナム政府がアメリカなどに亡命したベトナム人の帰国を、外貨獲得の観点からほぼ無条件に許したことから人的交流も盛んになっている。",
"title": "現在"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国連邦政府やアメリカ合衆国議会は、枯葉剤やその他の戦争被害に対して謝罪も賠償もしていないが、フォード財団やその他の民間団体は、枯葉剤被害者に対し様々な援助を試みようとしている。",
"title": "現在"
},
{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "2000年代後半に入ると、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国は軍事面で接近し、「昨日の敵が、今日の友」に変わる勢いを見せている。この背景には、",
"title": "現在"
},
{
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"text": "がある。",
"title": "現在"
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"text": "2010年7月にハノイで開催されたASEAN地域フォーラムでは、アメリカのヒラリー・クリントン国務長官は南シナ海の西沙諸島や南沙諸島の領土問題に関与することを宣言し、その直後の8月11日には、ベトナム軍とアメリカ軍が南シナ海で合同軍事演習を行うに至った。",
"title": "現在"
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"text": "ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争に引き続き、報道関係者に開かれた戦場であった。北ベトナムと南ベトナム(とアメリカ)の双方がカメラマンや新聞記者の従軍を許可し、南北ベトナムやアメリカなどの当事国以外にも日本やフランス、イギリスやソビエト連邦など多数の国の記者が取材した。彼らは直に目にした戦場の様子をメディアを通じて伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた、反戦運動や反米運動の拡大を招いた。アメリカでもペンタゴン・ペーパーズ漏洩事件は強い衝撃を与え国論を二分する騒ぎとなった。",
"title": "報道"
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"text": "フリーランスカメラマンとして、石川文洋が1965年から取材を行った。毎日新聞外信部長の大森実らは『泥と炎のインドシナ』を連載し、1965年の日本新聞協会賞を受賞した。朝日新聞の本多勝一は戦闘だけでなく解放区で暮らす人々の暮らしをあわせて詳細に記録し、第11回JCJ賞、第22回毎日出版文化賞、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞した。その報道はルポルタージュの白眉と言われ、陸井三郎によれば、米軍が前線に出てきてから終戦までの間、解放区における生活と戦闘を報じた外国人記者は(短期滞在を除けば)本多以外に現れなかったという。作家の開高健も『ベトナム戦記』(朝日新聞社、1965年)などのルポルタージュを残した。同じく作家の石原慎太郎も読売新聞社の依頼でベトナム戦争を取材しているが、本多勝一から、南ベトナム側から大砲の引き金を実際に引こうとしたことについて卑劣で鈍感であると非難されている。",
"title": "報道"
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"text": "特に沢田教一が撮影した、戦火を逃れるために川を渡る親子の写真(「安全への逃避」ピューリッツァー賞受賞)、AP通信のカメラマンフィン・コン・ウトが撮影した、ナパーム空爆に遭遇し全裸で逃げ回る少女ファン・ティー・キムフックの写真(「戦争の恐怖」)などはその後も反戦の象徴として用いられている。ほかにエディ・アダムズがサイゴン市内で撮影した、私刑で頭を撃たれる瞬間の戦争捕虜を収めた写真(「サイゴンでの処刑」)、一ノ瀬泰造の撮影した、砲撃を飛んで躱す兵士の写真(「安全へのダイブ」)等もある。",
"title": "報道"
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"text": "またベトナム戦争は、史上初のテレビでの生中継が行われた戦争であった。特に「当事国」のアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、その残虐さや影響の大きさからテレビ局や新聞社が自主的に規制する風潮が高まったが、北ベトナムの場合も、取材とその報道内容については大幅な制限がかかった。",
"title": "報道"
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"text": "これらの映像による報道の影響の大きさを受けたアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、湾岸戦争を始めとしてメディアコントロール(従軍記者を使ったエンベディド・レポーティング)に力を注いでいくこととなる。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。",
"title": "報道"
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"text": "開戦当時からアメリカを中心にベトナム戦争を扱った映画が多数製作された。戦争中はドキュメンタリーや『グリーン・ベレー』(ジョン・ウェイン製作・主演)のような米軍の側に立ったプロパガンダ的な映画も制作された。戦後はアメリカ軍の軍規弛緩とそれのもたらした戦争犯罪、ベトナム帰還兵の苦悩を描くものが多く制作された。",
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"title": "関連作品"
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ベトナム戦争は、当時南北に分断されていたベトナムで社会主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)と資本主義のベトナム共和国(南ベトナム)の間で勃発した戦争であり、冷戦中に起こった資本主義と社会主義の代理戦争であるとされる。経済力・物量の差から「象と蟻」の戦いと揶揄された。 ベトナムの南北両国では以前から対立が続いており、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された反政府組織である南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)が活動して南ベトナムの警察や軍などと争いが起こっていた。南ベトナムの同盟国であるアメリカ合衆国(アメリカ)は以前から軍事顧問を送り込むなどして南ベトナムを援助していたが、1964年8月のトンキン湾事件を契機として全面的な軍事介入を開始した。南北ベトナムと解放戦線、そしてアメリカは一気に全面戦争に突入したが、アメリカ軍は北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦し、最終的に和平協定を結んで撤退した。戦争はその後、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させるまで続いた。 また、この戦争に参戦したのは南北ベトナムや解放戦線、アメリカだけでない。それはそれぞれに味方し支援する同盟国であり、それらの国々は戦争初期から同盟国軍として参戦している。具体的には北ベトナムに味方したのは同じ東側諸国に属する社会主義国であり、軍事顧問を派遣したソビエト連邦(ソ連)や防空作戦部隊や工兵部隊を派遣した中華人民共和国(中国)、空軍のパイロットを派遣した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などである。また、南ベトナムに味方したのは同じく西側諸国に属する資本主義国であり、28,000人から4,5000人の国軍部隊や50,000の役務要員を派遣した大韓民国(韓国)や3,000人の部隊を派遣したオーストラリア、それぞれ2,000人の部隊を派遣したタイ王国やフィリピン、戦車部隊や医師など200人を派遣したニュージーランドなどであり、間接的な協力では心理戦や農業部門で関与した中華民国(台湾)や医療関係で協力した日本なども挙げられる。そして両陣営の兵士や戦士、民間人ゲリラなどが泥沼の戦いを行ったため多くの人々が犠牲となる大変悲惨な結果となった。その後1973年にパリ和平協定が締結されアメリカ軍などは撤退。その後も戦闘は続き、結果的に北ベトナム側の勝利に終わり南ベトナムはサイゴン陥落によって無条件降伏し政権は崩壊した。なお、この戦争ではベトナムだけでなく、周辺諸国であるラオスやカンボジアにも戦火は拡大しており、それぞれラオスではラオス王国とパテート・ラーオが戦い、カンボジアではクメール共和国とカンボジア王国・クメール・ルージュの連合軍が戦い、こちらでも社会主義国側の勝利に終わっているが、やはり多くの人々が被害を受けている。これらはそれぞれラオス内戦、カンボジア内戦と呼ばれており、結局インドシナ半島の3カ国は全て社会主義の国となった。
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{{複数の問題
|出典の明記=2022年8月
|観点=2022年8月}}
{{Battlebox
| battle_name = ベトナム戦争
| campaign = ベトナム戦争
|colour_scheme = background:#ffccaa
| image = [[File:VietnamMural-v2.jpg|300px]]
| caption = 左上から時計回りに[[テト攻勢]]での[[ベトナム共和国陸軍]]と[[アメリカ海兵隊]]、[[1966年]]頃の[[ベトナム人民軍]]兵士、掃討作戦で民家を焼き払うアメリカ軍兵士、[[ソンミ村虐殺事件]]の被害者。
| conflict = ベトナム戦争<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89-129743 |title=ベトナム戦争 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-09-23}}</ref>
| date = 諸説有り - [[1975年]][[4月30日]]{{R|"kotobank"}}
| place = 現在の[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]等、[[インドシナ半島]]地域{{R|"kotobank"}}。
| result = 北ベトナム側の勝利。[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ和平協定]]により[[アメリカ軍]]等が撤退、その後の戦闘で南ベトナムは[[無条件降伏]]し政権崩壊{{R|"kotobank"}}。
| combatant1 = {{VNM1955}}<br/>{{FNL}}<br/>{{PL}}<br/>{{KHM1954}}<br/>{{KR}}<br/>{{SSR1955}}<br/>{{PRC}}<br/>{{DPRK1948}}
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| commander1 = {{Flagicon|VNM1955}} [[ホー・チ・ミン]]<br/>{{Flagicon|VNM1955}} [[レ・ズアン]]<br/>{{Flagicon|FNL}} [[グエン・フー・ト]]<br/>{{Flagicon|LAO}} [[スパーヌウォン]]<br/>{{Flagicon|KHM}} [[ノロドム・シハヌーク]]<br/>{{Flagicon|KHM1975}} [[ポル・ポト]]<br/>{{Flagicon|SSR1955}} [[レオニード・ブレジネフ]]<br/>{{Flagicon|PRC}} [[毛沢東]]<br/>{{Flagicon|PRK1948}} [[金日成]]
| commander2 = {{Flagicon|VSO}} [[ゴ・ディン・ジエム]]<br/>{{Flagicon|VSO}} [[グエン・カーン]]<br/>{{Flagicon|VSO}} [[グエン・カオ・キ]]<br/>{{Flagicon|VSO}} [[グエン・バン・チュー]]<br/>{{Flagicon|VSO}} [[チャン・バン・フォン]]<br/>{{Flagicon|VSO}} [[ズオン・バン・ミン]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ドワイト・D・アイゼンハワー]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ジョン・F・ケネディ]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[リンドン・ジョンソン]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[リチャード・ニクソン]]<br/>{{Flagicon|KOR1949}} [[朴正煕]]<br/>{{Flagicon|AUS}} [[ハロルド・ホルト]]<br/>{{Flagicon|THA}} [[タノーム・キッティカチョーン]]<br/>{{Flagicon|PHL1936}} [[フェルディナンド・マルコス]]<br/>{{Flagicon|NZL}} [[:en:Keith Holyoake|キース・ホリオーク]]<br/>{{Flagicon|LAO1952}} [[スワンナ・プーマ]]<br/>{{Flagicon|KHM1970}} [[ロン・ノル]]
| strength1 = 最高時310,000人<br/>他1,570,000人{{R|"kotobank"}}
| strength2 = 南越最高時1,180,000人<br/>米軍延べ2,600,000人<br/>米軍最高時549,000人<br/>他最高時60,000人{{R|"kotobank"}}
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{{ベトナム}}
'''ベトナム戦争'''(べとなむせんそう、{{Vie|qn=Chiến tranh Việt Nam|hn=戰爭越南}}、{{lang-en|Vietnam War}})は、当時南北に[[分断国家|分断]]されていた[[ベトナム]]で[[社会主義]]の[[ベトナム民主共和国]](北ベトナム)と[[資本主義]]の[[ベトナム共和国]](南ベトナム)の間で勃発した[[戦争]]であり、[[冷戦]]中に起こった資本主義と社会主義の[[代理戦争]]であるとされる。経済力・物量の差から「象と蟻」の戦いと揶揄された。
ベトナムの南北両国では以前から対立が続いており、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された反政府組織である[[南ベトナム解放民族戦線]](解放戦線)が活動して南ベトナムの警察や軍などと争いが起こっていた。南ベトナムの同盟国である[[アメリカ合衆国]](アメリカ)は以前から軍事顧問を送り込むなどして南ベトナムを援助していたが、[[1964年]]8月の[[トンキン湾事件]]を契機として全面的な軍事介入を開始した。南北ベトナムと解放戦線、そしてアメリカは一気に全面戦争に突入したが、アメリカ軍は北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦し、最終的に和平協定を結んで撤退した。戦争はその後、[[1975年]][[4月30日]]に北ベトナム軍が南ベトナムの首都[[ホーチミン市|サイゴン]](現在のホーチミン市)を[[サイゴン陥落|陥落]]させるまで続いた。
また、この戦争に参戦したのは南北ベトナムや解放戦線、アメリカだけでない。それはそれぞれに味方し支援する同盟国であり、それらの国々は戦争初期から同盟国軍として参戦している。具体的には北ベトナムに味方したのは同じ[[東側諸国]]に属する[[社会主義国]]であり、[[軍事顧問]]を派遣した[[ソビエト連邦]](ソ連)や[[防空]]作戦部隊や[[工兵]]部隊を派遣した[[中華人民共和国]](中国)、[[空軍]]の[[パイロット]]を派遣した[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)などである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/international/history/chapter08/02.html |title=韓国 軍も企業もベトナム参戦 |publisher=[[朝日新聞]] |date=2008-01-28 |accessdate=2023-08-15}}</ref>。また、南ベトナムに味方したのは同じく[[西側諸国]]に属する資本主義国であり、28,000人から4,5000人の[[大韓民国国軍|国軍]]部隊や50,000の役務要員を派遣した[[大韓民国]](韓国)や3,000人の部隊を派遣した[[オーストラリア]]、それぞれ2,000人の部隊を派遣した[[タイ王国]]や[[フィリピン]]、[[戦車]]部隊や[[医師]]など200人を派遣した[[ニュージーランド]]などであり、間接的な協力では[[心理戦]]や[[農業]]部門で関与した[[中華民国]](台湾)や医療関係で協力した[[日本]]なども挙げられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200209/topics04/topic04_02.html |title=ベトナム戦争の用語 |publisher=[[自由国民社]] |date=2002-09 |accessdate=2023-08-15}}</ref>。そして両陣営の兵士や戦士、民間人[[ゲリラ]]などが泥沼の戦いを行ったため多くの人々が犠牲となる大変悲惨な結果となった。その後[[1973年]]に[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ和平協定]]が締結されアメリカ軍などは撤退。その後も戦闘は続き、結果的に北ベトナム側の勝利に終わり南ベトナムは[[サイゴン陥落]]によって[[無条件降伏]]し政権は崩壊した。なお、この戦争ではベトナムだけでなく、周辺諸国である[[ラオス]]や[[カンボジア]]にも戦火は拡大しており、それぞれラオスでは[[ラオス王国]]と[[パテート・ラーオ]]が戦い、カンボジアでは[[クメール共和国]]と[[カンボジア王国 (1954年-1970年)|カンボジア王国]]・[[クメール・ルージュ]]の連合軍が戦い、こちらでも社会主義国側の勝利に終わっているが、やはり多くの人々が被害を受けている。これらはそれぞれ[[ラオス内戦]]、[[カンボジア内戦]]と呼ばれており、結局インドシナ半島の3カ国は全て社会主義の国となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://imidas.jp/genre/detail/D-113-0063.html |title=ベトナム戦争 |publisher=[[イミダス]] |date=2014-03 |accessdate=2023-09-23}}</ref>。
== 概要 ==
この紛争は、[[第二次世界大戦]]後に[[フランス]]と共産党率いる[[ベトミン]]との間で起きた[[第一次インドシナ戦争]]に端を発する<ref>{{Cite book|last=Eckhardt|first=George|title=Vietnam Studies Command and Control 1950–1969|publisher=Department of the Army|year=1991|url=http://www.history.army.mil/books/Vietnam/Comm-Control/index.htm|page=6}}</ref><ref name="advisors" group="注">[[1950年]][[9月]]、フランスとその同盟国による米軍装備品の使用と配布を監督することを目的として、インドシナ軍事支援諮問グループ(定員128名)が設立された。</ref>。[[1954年]]にフランスが[[ディエンビエンフーの戦い]]で大敗し、[[ジュネーヴ協定|ジュネーブ協定]]によって最終的に[[インドシナ半島]]から撤退した後、アメリカは南ベトナム国家への財政的・軍事的支援を開始した。[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]の指示を受けた[[南ベトナム]]の共同戦線であるヴィエト・ゾン(Front national de libération du Sud-Viêt Nam、''NLF'' (the National Liberation Front)、[[南ベトナム解放民族戦線]]。ベトナム共産党に因みベトコンとも呼ばれる)は、南部で[[ゲリラ|ゲリラ戦]]を開始した。北ベトナムは1950年代半ば、反乱軍を支援するためにラオスにも侵攻し、[[ホーチミン・ルート]]を確立してベトコンを補給・強化していた<ref name="Ang2">{{Cite book|last=Ang|first=Cheng Guan|title=The Vietnam War from the Other Side|publisher=RoutledgeCurzon|year=2002|isbn=978-0-7007-1615-9}}</ref>。アメリカの関与は[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の下でMAAGプログラムを通じてエスカレートし、[[1959年]]には1000人弱だった[[軍事顧問]]が[[1964年]]には2万3000人に達した<ref name="AWL">{{Cite web|url=http://www.americanwarlibrary.com/vietnam/vwatl.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160802134052/http://www.americanwarlibrary.com/vietnam/vwatl.htm|archivedate=2 August 2016|title=Vietnam War Allied Troop Levels 1960–73|accessdate=1 June 2018}}</ref>。[[1963年]]までに、北ベトナムは4万人の兵士を南ベトナムに派遣していた<ref name="Ang2"/>。
1964年8月初旬の[[トンキン湾事件]]では、アメリカの[[駆逐艦]]が北ベトナムの高速攻撃艇から魚雷攻撃を受けたとされた。これを受けて、アメリカ議会はトンキン湾決議を可決し、[[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]大統領にベトナムにおける[[アメリカ軍]]のプレゼンスを高める広範な権限を与えた。ジョンソンは、初めて戦闘部隊の派遣を命じ、兵力を18万4,000人に増強した<ref name="AWL2">{{Cite web|url=http://www.americanwarlibrary.com/vietnam/vwatl.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160802134052/http://www.americanwarlibrary.com/vietnam/vwatl.htm|archivedate=2 August 2016|title=Vietnam War Allied Troop Levels 1960–73|accessdate=1 June 2018}}</ref>。[[ベトナム人民軍]](PAVN、北ベトナム軍(NVA)とも呼ばれる)は、米軍および南ベトナム軍との間で通常の戦争を行った。進展は無かったが、米国は大幅な軍備増強を続けた。戦争の立役者の一人である[[ロバート・マクナマラ]]国防長官は、[[1966年]]末には勝利を疑うようになっていた。米軍と[[ベトナム共和国軍|南ベトナム軍]]は、航空優勢と圧倒的な火力を頼りに、地上部隊、砲兵隊、空爆を伴う索敵・破壊作戦を展開した。また、アメリカは北ベトナムやラオスに対して大規模な[[戦略爆撃]]を行った。北ベトナムは、[[ソビエト連邦|ソ連]]と[[中華人民共和国]]の支援を受けていた<ref>{{Cite book|last=Li|first=Xiaobing|title=Voices from the Vietnam War: Stories from American, Asian, and Russian Veterans|url=https://books.google.com/books?id=XyopkZOVIx8C|year=2010|publisher=University Press of Kentucky|isbn=978-0-8131-7386-3|page=85}}</ref>。1967年には[[タムクアンの戦い]]が南ベトナムで起こっている。
[[1968]]年の[[テト攻勢]]でベトコンと北ベトナム軍が大規模な攻勢をかけたことで、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]国内の戦争に対する支持が薄れ始めた。テトの後、放置されていた[[ベトナム共和国陸軍]](ARVN)は、アメリカのドクトリンを手本に拡大していった。テト攻勢とそれに続く[[1968年]]のアメリカ軍・ベトナム共和国陸軍の作戦で、ベトコンは5万人以上の兵士を失うという大損害を被った。 CIAの[[フェニックス作戦]]は、ベトコンの人員と能力を更に低下させた。この年の終わりまでに、ベトコンの反乱軍は南ベトナムに殆ど支配地域を持たなくなり、1969年には徴兵が80%以上も減少し、それはゲリラ活動が激減したことを意味し、北からの北ベトナム軍正規兵の動員を増やす必要があった{{Sfn|Military History Institute of Vietnam|2002|pp=247–249}}。1969年、北ベトナムは南ベトナムに[[南ベトナム共和国|暫定革命政府]]を宣言し、減少したベトコンに国際的な地位を与えようとしたが、北ベトナム軍がより通常の[[諸兵科連合|複合武器戦]]を開始したため、それ以降、南部ゲリラは脇に追いやられるようになった。1970年には、南部の共産党軍の70%以上が北部人となり、南部人を主体としたベトコン部隊は存在しなくなった<ref>Kiernan, Ben.</ref>。活動は国境を越えて行われた。北ベトナムは早くからラオスを補給路として利用していたが、1967年からはカンボジアも利用していた。カンボジアを経由するルートは1969年からアメリカの爆撃を受け始めたが、ラオスのルートは1964年から激しい爆撃を受けていた。カンボジア国民議会が君主[[ノロドム・シハヌーク]]を退陣させたことにより、[[クメール・ルージュ]]の要請を受けた北ベトナム軍の侵攻を受け、カンボジア内戦が激化し、米軍・ベトナム共和国陸軍の反攻([[カンボジア作戦]])を受けることになった。
1969年、[[リチャード・ニクソン]]大統領の当選を受けて、「[[ベトナミゼーション]]」政策が開始された。この政策により、紛争は拡大したベトナム共和国陸軍によって戦われることになり、米軍は国内の反発や徴兵の減少により、ますます士気が低下していったのである。米軍の地上部隊は1972年初めまでにほぼ撤退し、支援は航空支援、砲兵支援、顧問、物資輸送に限られていた。ベトナム共和国陸軍は、米国の支援に支えられ、1972年のイースター攻防戦で、最初で最大の機械化された北ベトナム軍の攻勢を阻止した。この攻勢は双方に大きな犠牲をもたらし、北ベトナム軍は南ベトナムを制圧することが出来なかったが、ベトナム共和国陸軍自身も全ての領土を奪還することが出来ず、その軍事的状況は厳しいものであった。1973年1月の[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]]により、米軍は全て撤退し、8月15日に[[アメリカ合衆国議会|米議会]]で可決されたケース・チャーチ修正条項により、米軍の直接的な関与は正式に終了した<ref name="Kolko">{{Cite book|last=Kolko|first=Gabriel|title=Anatomy of a War: Vietnam, the United States, and the Modern Historical Experience|url=https://archive.org/details/anatomyofwarviet00kolk|publisher=Pantheon Books|year=1985|isbn=978-0-394-74761-3}}</ref>。和平協定はすぐに破棄され、戦闘は更に2年間続いた。1975年4月17日、[[プノンペン]]がクメール・ルージュにより陥落し、4月30日には1975年春の攻勢で北ベトナム軍が[[ホーチミン市|サイゴン]]を占領し、最後のアメリカ兵がヘリコプターでサイゴンを脱出し、戦争は終結した。その時、ホーチミン死後6年を経過していた。北ベトナム及び民族解放戦線は、膨大な犠牲者と荒廃した国土を引き換えに、勝利者として国際社会から認定され、翌年には南北ベトナムが統一された。
戦争の規模は膨大であり、被害は甚大である。1970年までに、ベトナム共和国陸軍は世界で4番目に大きな軍隊となり、北ベトナム軍も約100万人の正規兵を擁していた<ref>{{Cite book|last=Pilger|first=John|title=Heroes|publisher=South End Press|year=2001|url=https://books.google.com/books?id=dcL6w-VmjWwC&pg=PA238|isbn=978-0-89608-666-1|page=238}}</ref>。また、民間人含むベトナム側は300万人以上、米軍兵士5万8,220人、[[クメール人|カンボジア人]]27万5,000~31万人、[[ラーオ族|ラオス人]]2万~6万人が死亡し、さらに1,626人が[[作戦行動中行方不明|行方不明]]となっている。ベトナムは米国が太平洋戦争で使用した弾薬の2.4倍を国土に投下され、 7200万リットルの枯葉剤を南部 70万ha に投下され、3世、4世にまで被害が出続けている。
ベトナム戦争の小康状態を経て、[[中ソ対立]]が再燃した。北ベトナムとその同盟国であるカンボジアの[[カンプチア王国民族連合政府|カンプチア王国政府]]、および新たに結成された[[民主カンプチア]]との間の紛争は、クメール・ルージュによる一連の国境侵犯でほぼ開始され、最終的には[[カンボジア・ベトナム戦争]]へと発展していった。中国軍がベトナムに直接侵攻した[[中越戦争]]では、その後1991年まで国境紛争が続いた。統一されたベトナムは、3つの国で反乱軍と戦った。この戦争が終わり、第3次インドシナ戦争が再開されると、ベトナムのボートピープルや、より大きなインドシナ難民危機が引き起こされることになる。数百万人の難民がインドシナ(主にベトナム南部)を離れ、そのうち25万人が海で死んだと推定されている。アメリカ国内では、この戦争をきっかけに、アメリカの海外での軍事活動に嫌悪感を抱く「ベトナム・シンドローム」と呼ばれる現象が発生<ref>{{Cite web|author=Kalb|first=Marvin|url=http://www.brookings.edu/blogs/up-front/posts/2013/01/22-obama-foreign-policy-kalb|title=It's Called the Vietnam Syndrome, and It's Back|publisher=Brookings Institution|date=22 January 2013|accessdate=12 June 2015}}</ref> し、[[ウォーターゲート事件]]と相まって、1970年代のアメリカを支配した信頼の危機を引き起こした<ref>{{Cite book|last=Horne|first=Alistair|title=Kissinger's Year: 1973|publisher=Phoenix Press|year=2010|isbn=978-0-7538-2700-0|pages=370–1}}</ref>。
== フランス植民地時代とベトナム独立運動 ==
=== フランス帝国によるベトナム侵略 ===
{{See also|フランス領インドシナ|ベトナムの歴史|ベトナム#フランスとの関係}}
[[19世紀]]に[[ベトナム]]([[阮朝]])は[[フランス帝国]]の植民地となる。[[7月王政]]時代のフランス帝国([[フランス植民地帝国]])[[国王]][[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ=フィリップ1世]]は、1834年に[[アルジェリア侵略|アルジェリアを併合]]し、[[1838年]]には[[メキシコ]]で[[菓子戦争]]を起こして介入、1844年には[[アヘン戦争]]で敗れた[[清]]と[[黄埔条約]]を締結した。そして、[[1847年]]4月、ベトナムの植民地化を図り、フランス軍艦による[[ダナン]]砲撃によるインドシナ侵略を始める。
[[ファイル:Napoleon III by Mayer & Pierson c1860.png|サムネイル|左|[[1860年]]の[[ナポレオン3世]]]]
==== ナポレオン3世のアジア太平洋進出 ====
[[フランス第二帝政]]の[[ナポレオン3世]]も東方へのフランス勢力拡大に熱心で、フランス海軍司令官に大幅な自由裁量権を与え、[[アジア太平洋]]地域では強硬な[[帝国主義]]政策が遂行された<ref>[[鹿島茂]]『怪帝ナポレオンIII世 第二帝政全史』 講談社、2004年 p.409</ref>。太平洋では、[[ニュージーランド]]を併合したイギリスへの対抗、また[[オーストラリア]]との貿易の拠点および犯罪者の流刑地にする目論見で1853年に[[ニューカレドニア]]を併合した<ref>ヤコノ 『フランス植民地帝国の歴史』 白水社〈文庫クセジュ798〉1998年,p.64</ref><ref>[[世界大百科事典]]平凡社「ニューカレドニア」</ref>。
1856年10月にイギリスが[[アロー号事件]]を口実に清へ出兵すると、フランスも清の[[江西省]]で[[フランス人]]宣教師の[[オーギュスト・シャプドレーヌ]]が殺害された事件を口実として清への出兵を開始し、英仏は協力して[[アロー戦争]]を遂行する(第二次アヘン戦争)<ref>[[世界大百科事典]]:[[平凡社]]、「第二次アヘン戦争」</ref>。フランスは清侵略と並行して清周辺地域への侵略も開始し、同1856年、[[阮朝]](ベトナム)に対して不平等条約締結に応じるよう要求したが、阮朝が拒否したため、[[スペイン人]]宣教師死刑を口実として1857年よりベトナム侵攻を開始し、1858年9月にはフランス・[[スペイン]]連合艦隊によって再度[[ダナン]]に侵攻する。同1858年、英仏軍による[[北京市|北京]]陥落を恐れた清政府は[[天津条約]]の締結に応じ、一時終戦した。しかし、英仏軍が撤収するや清政府は条約批准を拒否して発砲、1860年に英仏軍が攻撃を再開、北京は陥落する。清はさらに不利な[[北京条約]]を締結させられた<ref>高村忠成 『ナポレオン3世とフランス第二帝政』 北樹出版、2004年 p.137-138</ref>。フランスは日本とも1858年[[江戸幕府|徳川幕府]]との間に不平等条約[[日仏修好通商条約]]を締結したが、ここでは英仏の協調は崩れ、フランスは徳川幕府、イギリスは[[薩長]]を支持して対立、幕府は[[明治維新]]で倒れ、また明治政府は対等外交を志向したため、幕府を通じて日本に影響力を行使しようとした目論見は潰えた<ref>[[世界大百科事典]]平凡社「フランス」</ref>。
フランスはその後1862年6月に阮朝に[[不平等条約]]である[[サイゴン条約]]を結ばせ、南部3省を割譲させた<ref>石井米雄、桜井由躬雄 『東南アジア史〈1〉大陸部』山川出版社、1999年,p229</ref><ref>高村忠成 『ナポレオン3世とフランス第二帝政』p.140</ref>。阮朝の宗主権下にあった[[カンボジア王国]]では、カンボジア人の反ベトナム感情を利用して1863年にフランス保護国に組み込むことに成功した<ref>グザヴィエ・ヤコノ 『フランス植民地帝国の歴史』 平野千果子訳、白水社〈文庫クセジュ798〉1998年,p65</ref>。1866年には[[李氏朝鮮]]に対してフランス人宣教師死刑を口実に戦争を仕掛けたが([[丙寅洋擾]])持久戦に持ち込まれ、撤退した<ref name="世界大百科事典洋擾">[[#世界大百科事典|世界大百科事典]]「洋擾」の項目</ref>。1867年6月にはベトナム南部の[[コーチシナ]]へ侵攻し、併合に成功<ref>『東南アジア史〈1〉大陸部』山川出版社1999,p230</ref>。[[タイ王国|シャム]]([[タイ王国|タイ]])にも英米に続いて不平等条約を締結させたが、フランスとの対立激化を恐れたイギリスが同地を緩衝地帯にすることを望み、フランスのタイ分割案を牽制したこともあって、タイは植民地化をまぬがれた。
==== 清仏戦争とベトナムの保護国化 ====
;フランス第三共和政と清仏戦争
[[フランス第三共和政]]時代の1874年3月、第2次サイゴン条約を締結、フランスは紅河通商権を割譲させる。1882年4月にはハノイを占領する。1883年8月には第1次[[フエ]]条約([[アルマン条約]]、癸未条約)を締結しベトナムがフランスの保護国になる。翌1884年6月には清への服属関係を断つ第2次フエ条約(パトノートル条約、甲申条約)締結に成功する。その2か月後にベトナムへの宗主権を主張する清との間で[[清仏戦争]]がはじまる。[[1885年]]6月9日に締結された講和条約である[[天津条約 (1885年6月)|天津条約(李・パトノートル条約)]]では清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権を認めた。1887年10月、[[フランス領インドシナ|フランス領インドシナ連邦]]が成立する。こうしてベトナムは[[カンボジア]]とともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。[[1889年]]4月にはラオス保護国を併合した。
[[1900年代]]になると、ベトナム[[知識人]]の主導で[[民族主義]]運動が高まった。[[ファン・ボイ・チャウ]]は、[[日露戦争]]で[[アジア]]の一国である日本が[[ヨーロッパ]]の帝国の一つである[[ロシア帝国]]に勝利したことに感銘を受けて[[大日本帝国]]に留学生を送り出す[[東遊運動]](ドンズー運動)を展開。[[1917年]]に[[十月革命|ロシア革命]]によって[[ソビエト連邦]]が成立すると、[[コミンテルン]]が植民地解放を支援し、ベトナムの民族運動も、コミンテルンとの連携のもとで展開していく。こうしたなか、[[1930年]]には[[インドシナ共産党]]が結成され、第二次世界大戦中のベトミン([[ベトナム独立同盟]])でも[[ホー・チ・ミン]]のもとで共産党が主導的な役割を果たし、ベトナム民族が独立することは1945年の[[ベトナム独立宣言]]でも謳われ、のちの[[第一次インドシナ戦争]]、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)でも、理念であり続け、戦争を持続させた原動力であった。
=== 日本軍進駐とベトナム独立 ===
[[日中戦争]]当時、英米は[[援蔣ルート]]を通じて[[中華民国]]の[[蔣介石]]率いる[[中国国民党|国民党]]軍拠点の[[重慶市|重慶]]に支援物資を輸送していた。[[援蔣ルート]]のうち、[[フランス領インドシナ]]の[[ハイフォン]]港から[[昆明市|昆明]]、南寧までの鉄道輸送を行う仏印ルートが重要なものであった<ref name="ogura"/>{{sfn|小倉|1992|p=17}}。
[[1939年]]9月に[[第二次世界大戦]]が勃発し、[[1940年]]にはフランスが[[ドイツ]]に敗北し全土を[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の占領下に置かれ、その後親独政権である[[ヴィシー政権]]が成立した。これを受けてフランスの植民地政権がヴィシー政権側につくことを選択したことで、1940年7月27日にドイツとの間で[[日独伊三国同盟]]を結んでいた日本政府([[第2次近衛内閣]])は「時局処理要綱」において[[仏印進駐]]を決定。8月30日に松岡・アンリ協定が結ばれ、ヴィシー政権およびフランス植民地政府が日本の経済的優先権および軍事的便宜を認める見返りとして、日本がインドシナにおけるフランスの主権とインドシナの領土保全を約束することで合意した。
このため仏印進出は平和進駐となることが通達されていたが、9月22日には[[大日本帝国陸軍]]が越境し、これを受けてフランス軍と[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]([[中村明人]]中将)が衝突し、日本軍が[[ランソン]]を軍事制圧する。9月26日に日本軍は北部インドシナに進駐し、仏印[[援蔣ルート]]は遮断された。国境監視団は[[澄田らい四郎|澄田睞四郎]]少将([[澄田機関]])が行った{{sfn|小倉|1992|p=18}}。ベトナム人は日本軍を、過酷な植民地支配を続けるフランス人を追い出した「救国の神兵」として歓迎し、さらに駐留日本軍はベトナム国民党などの独立運動を支援しようとする{{sfn|小倉|1992|p=18}}。しかし、松岡・アンリ協定によってフランスのインドシナ領有を尊重する約束が交わされており、東京の[[大本営]]は独立支援を許可しなかった{{sfn|小倉|1992|p=18}}。
その2か月後に[[フランス軍]]が再度ランソンに進軍{{sfn|小倉|1992|pp=18-19}}。このとき、澄田機関から独立運動を応援するといわれていた[[チャン・チョン・ラップ]]らが決起するが、フランス軍に制圧され、青年独立義兵が多数処刑される[[ランソン事件]]が起こる{{sfn|小倉|1992|pp=18-19}}。逃れた義兵は[[中華民国]]でベトミンに合流するが、この事件は日本軍がベトナムの愛国者を見殺しにした事件としても記憶される{{sfn|小倉|1992|pp=18-19}}。
;ベトナム大飢饉とベトミン
([[1945年ベトナム飢饉]]も参照)
[[ヴィシー政権]]統治下および[[日本軍]]進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大[[飢饉]]が発生し、20万人{{sfn|小倉|1992|p=22}}以上、ホーチミンの主張では200万人{{sfn|小倉|1992|pp=20-23}}が[[餓死]]する事態が発生する。[[コミンテルン]]の構成員であった[[ホー・チ・ミン]]を指導者とする[[ベトミン]]([[ベトナム独立同盟]])武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の[[反日感情]]が爆発した{{sfn|小倉|1992|pp=20-23}}。また、フランス政庁も[[反日]]感情をあおるために保有米を廃棄するなどした{{sfn|小倉|1992|p=23}}。この飢饉がベトミンの勢力拡大の決定的な機会となった{{sfn|小倉|1992|p=24}}。
;フランス植民政府の制圧とベトナムへの「独立付与」
日本は1943年5月の[[御前会議]]で「[[s:大東亜政略指導大綱|大東亜政略指導大綱]]」を決定し、[[イギリス]]の植民地であった[[ビルマ]]と、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の植民地であった[[フィリピン]]の独立を承認{{sfn|油井|古田|1998|p=159}}、戦局が悪化しつつあった1944年9月には、[[小磯国昭]][[内閣総理大臣|首相]]が[[オランダ]]の植民地であった[[インドネシア]]の独立承認を言明する。フランス領インドシナについては、1944年8月に連合国軍と[[自由フランス]]によるフランス全土の開放によってヴィシー政権が崩壊すると、[[仏印処理]]によって即時独立付与が実施される。
イギリスやアメリカ、中華民国などの連合軍と、今や本国が友邦ドイツの敵国の自由フランスの手に落ちたフランス植民地軍との挟撃の可能性を断つために、1945年2月28日に大本営は南方軍総司令官に対してフランス領インドシナの武力処理・[[明号作戦]]を通達する<ref name="hishi">[http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0823.php 玉居子精宏「ベトナム秘史に生きる日本人:第2回:植民地政府を解体した一夜の奇襲作戦」] web草思2007年8月23日]</ref>。現地フランス軍は9万人、日本軍は4万人であったため、[[奇襲]]攻撃を3月9日午後10時にインドシナ全域で開始、翌日午前中までにはフランス植民地軍とフランスインドシナ植民地政府を制圧する<ref name="hishi"/>。[[バオ・ダイ]]皇帝は涙を流しながら「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と語り<ref name="hishi"/>、3月11日には[[ベトナム帝国]]樹立を宣言する。
当時ベトナムでは「日本は笑い、フランスは泣き、中国は心配し、独立したベトナムでは餓死者が道に溢れる」とうたわれ{{sfn|油井|古田|1998|p=162}}、ハノイの雑誌「タインギ」編集長のヴー・ディン・ホエは日本による独立付与を「天から降ってきた独立」と表現した{{sfn|油井|古田|1998|p=169}}。他方、ベトミン中央委員会は3月12日、闘争指令を発し、日本軍に対する攻撃を各地で活発化させる{{sfn|小倉|1992|pp=24-25}}。大飢饉の問題については日本軍が引き続き食料供出を要求していたこともあり、このような「独立付与」の枠内では飢饉を解決することはできず、ベトミンによる「日本の倉庫を襲撃せよ」という運動は北部農村で浸透していった{{sfn|油井|古田|1998|p=170}}。
=== ベトナム八月革命 ===
<!--コミンテルンの指示であることの出典を記せ---インドシナ共産党、[[コミンテルン]]の指示による総蜂起---->
;日本敗戦とベトナム八月革命
[[1945年]][[8月10日]]午後8時に日本政府が[[ポツダム宣言]]受諾を連合軍に通知したとの[[短波放送]]を行い、[[8月12日]]午前0時頃、[[国際放送|サンフランシスコ放送]]は連合国の回答を放送した{{sfn|小倉|1992|p=25}}。ラジオで情報を得たホーチミンは日本軍降伏を革命のチャンスとみなし、フランス軍の再進駐より前に実権を奪うことを計画する{{sfn|小倉|1992|p=25}}。[[8月13日]]からの[[Tuyen Quang省|アンザン省]]タンチャウ総司令部での会議では、中華民国やイギリス、アメリカとの紛争を避けて、「味方を多く、敵を少なく、すべての侵略に反対する」という方針が決定された{{sfn|小倉|1992|pp=25-26}}。
なお、結果的に日本が降伏した8月15日以降、アメリカ軍は9月4日、中華民国軍は9月9日、イギリス軍は9月13日、フランス軍は10月5日に至るまでベトナムに上陸しなかったため([[マスタードム作戦]])、日本軍は武装を解かれず、駐屯フランス軍部隊は[[明号作戦]]から拘束されたままという状態が生じ、この政治的空白も独立派に有利に働くことになった。
;ハノイ・クーデター
[[1945年]][[8月17日]]に、[[ベトナム帝国]]首相の[[チャン・チョン・キム]]がハノイ市民劇場前広場で「独立を与えた日本は敗れたが、ベトナムは心を一つにして我々の政権を築こう」とフランスの復帰を警戒する内容の演説を行った<ref name="ogura">小倉貞男『ドキュメント ヴェトナム戦争全史』岩波書店1992</ref>{{sfn|小倉|1992|pp=2-3}}。このとき、[[ベトミン]]が金星紅旗をあげるなかマイクを奪い、「独立万歳」、「打倒[[ファシズム|ファシスト]]」、「日本は独立をやってくれたがこれからはみんなで働こう」といった声があがった<ref name="ogura"/>{{sfn|小倉|1992|pp=3-4}}。8月19日にはベトミンの大会が開かれ、20万人のデモ隊は市庁舎や日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関を次々と占拠し、[[ハノイ・クーデター]]が成功する<ref name="ogura"/>{{sfn|小倉|1992|pp=4-5}}。8月20日にはフエの王宮にいた[[ベトナム帝国]][[皇帝]]の[[バオ・ダイ]]に対して、ベトミン革命軍事委員会が退位を要求、24日、バオ・ダイ帝は退位する<ref name="ogura"/>。こうして143年続いた[[阮朝]](グエン王朝)は滅亡した。23日から25日にかけて駅、中央郵便局、発電所などが占拠され、26日にはベトミン軍がハノイに入城、28日にベトナム民主共和国臨時政府が樹立された<ref name="ogura"/>。
;ベトナム独立宣言
[[9月2日]]に[[ホー・チ・ミン]](胡志明)は「[[ベトナム独立宣言]]」を発表、すべての民族は平等であり、1847年のフランス軍艦によるダナン攻撃事件以来、80年にわたるフランスの植民地支配を人道と正義に反するものとして糾弾した<ref name="ogura"/>{{sfn|小倉|1992|p=6}}。こうして[[ベトナム八月革命]]は成功し、[[ハノイ]]を首都とする[[ベトナム民主共和国]](北ベトナム)が樹立し、<!--出典なし---国民からの支持が高かったバオ・ダイ帝を「最高顧問」に迎えつつ、--->[[共産主義]]国家建設を目指した。ホーはアメリカの[[ハリー・S・トルーマン]]大統領に国家としての承認を繰り返し書簡で求めた<ref name="松岡2001,p9">松岡2001,p9</ref> が、同盟国であるフランスに対する気遣いとともに、共産主義者による統治を警戒する[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]はとりあげなかった{{sfn|油井|古田|1998|p=234}}。また、新設された[[国際連合]]にもフランス植民地支配についての公正な解決を訴えたが、徒労に終わった<ref name="松岡2001,p9"/>。
== インドシナ戦争 ==
=== 連合軍・自由フランス軍の再進駐 ===
[[第二次世界大戦]]末期の戦後統治計画を練るなか、自由フランスの[[シャルル・ド・ゴール]]を嫌っていたアメリカの[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領は「フランスはインドシナを植民地にしてから何か発展させたことがあったか。あの国は百年前よりひどくなっている」とフランスのインドシナ植民地を批判し、インドシナ信託統治を構想していた{{sfn|小倉|1992|p=32}}。しかし、イギリスは信託統治をしたら[[イギリス帝国]]がなくなってしまうとして反対し、新たにフランスの事実上の指導者となったド・ゴールは1945年3月24日にインドシナ連邦を構築し、フランス総督が統轄し、[[フランス連合]]に組み入れると声明を発表し{{sfn|小倉|1992|p=32}}、植民地時代の復帰を求めた。
ルーズベルトが1945年4月12日に死去してから[[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]はインドシナ問題を検討し、4月20日に国務省欧州担当官はルーズベルトのあとを継いだトルーマンに対して「アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対すべきでない」と、[[反共主義]]の立場から進言し、同極東担当官も翌日同内容の進言を行った{{sfn|小倉|1992|p=33}}。6月22日にアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認する」との統一見解を決定する{{sfn|小倉|1992|p=33}}。
1945年[[7月26日]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって開かれた[[ポツダム会談|ポツダム会議]]で、「[[インドシナ]]は、北緯16度線を境に、北は[[中華民国軍]]、南は[[イギリス軍]]が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言を受けて、南部に進駐していた駐[[イギリス領インド帝国|英領インド]]軍のダグラス・グレイシー将軍は騒乱を理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめる{{sfn|小倉|1992|p=29}}。[[9月6日]]には駐英領インド軍の部隊が[[サイゴン]]に入り、[[9月9日]]には[[盧漢]]将軍率いる[[中華民国]]軍がハノイに入った。
これらの連合国軍は、日本軍の収容所に入れられていたフランス軍将兵を解放し、<!--出典なし。日付は間違いではないか?---[[9月21日]]には[[イギリス海軍]]艦艇に乗った最初のフランス軍部隊がサイゴンに上陸した。-->[[9月23日]]午前5時、英領インド軍の援助で武装した1000名のフランス軍がサイゴン侵攻を開始、主要な公共機関を占拠し、フランス国旗を掲げ、サイゴン全域を制圧した{{sfn|小倉|1992|p=30}}。英領インド軍のグレイシー将軍は[[戒厳令]]を敷いた{{sfn|小倉|1992|p=30}}。こうした英軍の行動について[[読売新聞]]編集員の小倉貞男は「英国はアジアにも植民地をもっており、インドシナの独立によって、植民地支配を崩そうとする連鎖反応が起こることを極度に警戒していた」と指摘している{{sfn|小倉|1992|p=30}}。[[10月5日]]にはフランス軍増援部隊が到着、サイゴンなど南部の革命勢力は制圧され、さらにメコン・デルタも制圧し、北上を開始する{{sfn|小倉|1992|p=30}}。
;インドシナ共産党の偽装解散
進駐した連合軍のうち、中華民国の中国国民党軍はフランス植民地政府の復活を支援する意図はなかったが、敵対する[[中国共産党]]と同じ[[イデオロギー]]である[[インドシナ共産党]]に対して好感をもっていなかった{{sfn|油井|古田|1998|p=231}}。そのため、ホー・チ・ミンは中国国民党軍との対立を避けるために、
1945年11月、インドシナ共産党を偽装解散させる{{sfn|油井|古田|1998|pp=231-232}}。インドシナ共産党は党員を「民族の前衛戦士」となづけ、さらに民族の利益を党の利益よりも優先させることを特徴としていた{{sfn|油井|古田|1998|p=232}}。
[[ファイル:JACQUESLECLERC.JPG|thumb|[[フィリップ・ルクレール]]将軍]]
1946年2月28日、フランスは「中国・フランス協定」を結び、中華民国が要求していたハイフォン港自由化などを中国軍の撤退を条件に受け入れる{{sfn|小倉|1992|p=31}}。また、フランス政府はホー・チ・ミンらベトナム民主共和国を「[[フランス連合]]」の一員としての独立を認めると通告するが、ベトミンは完全独立を要求し、交渉が持続されていた{{sfn|小倉|1992|p=31}}。そうしたなか、同年3月5日、連合軍[[東南アジア]]軍司令部は、南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したことを発表、フランス軍は北緯16度線以南はフランス当局が接収すると声明を発表する{{sfn|小倉|1992|p=31}}。[[自由フランス軍]]の[[フィリップ・ルクレール]]将軍指揮下の[[第2機甲旅団 (フランス陸軍)|第2機甲師団]]がサイゴンに入りインドシナ南部の[[コーチシナ]]を制圧、3月6日にフランス軍は[[ハイフォン]]港に上陸し、3月18日にはハノイに入城した{{sfn|小倉|1992|p=31}}。フランス軍は1946年5月までに[[ラオス]]にも進駐し、インドシナ一帯を占領する。1946年3月には制圧したコーチシナでフランスは[[傀儡政権|傀儡国家]]である[[コーチシナ共和国]]を成立させ、[[グエン・バン・ティン]]を首班に置いた。こうしたフランス軍の軍事行動に対してホー・チ・ミンらは強く抗議、フランスは[[インドシナ連邦]]を置くことであからさまな植民地経営をやめ、事態の解決を図ろうとするが、これでは植民地時代と同じものであり、許容出来ないとして、[[1946年]]9月、ベトナム民主共和国側との交渉は決裂した。
=== 士官学校とインドシナ残留日本兵 ===
ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しかったが、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は日本軍に追われて以来ベトミンに合流していたフランスインドシナ軍の下級将校であった{{sfn|小倉|1992|p=36}}。もう一校は中部沿岸の[[クァンガイ陸軍中学|クァンガイ陸軍士官学校]]で校長は中国共産党の[[グエン・ソン]]だが、教官は元日本軍の士官や下士官であった{{sfn|小倉|1992|p=36}}<ref>[http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0906.php 玉居子精宏「ベトナム秘史に生きる日本人:第三回:ホー・チ・ミンの軍隊で戦った日本人」] web草思2007年9月6日。</ref>。このような[[残留日本兵]]は「新ベトナム人」とよばれた{{sfn|油井|古田|1998|p=173}}<ref>[[林英一]]「残留日本兵」中公新書2012年</ref>。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の[[井川省]]少佐はベトナム名[[レ・チ・ゴ]]といい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。また、井川参謀の部下の青年将校[[中原光信]]はベトナム名を[[ヴェト・ミン・ゴック]]といい、第二大隊教官としてベトミンに協力した{{sfn|小倉|1992|p=36}}。ほかにも[[石井卓雄]]、[[谷本喜久男]](第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた<ref name="東京財団研究報告書">[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/01036/pdf/0001.pdf ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のありかたに関する研究] 井川一久 [[東京財団]]研究報告書 2005年10月</ref><ref>[http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200203/06.pdf 立川京一「インドシナ残留日本兵の研究」戦史研究年報 第5号(2002年3月)][http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/200203.html 防衛省防衛研究所]</ref>。
日本敗戦後、ベトミンに協力したインドシナ[[残留日本兵]]は766人にのぼる{{sfn|小倉|1992|p=37}}。また、武器は中国共産党から提供されたが、多くは日本軍から鹵獲したもので、38式小銃などが多かった{{sfn|小倉|1992|p=39}}。{{Efn2|中国軍の武器は自動小銃だった}}
=== 勃発 ===
{{Main|第一次インドシナ戦争}}
[[1946年]][[11月20日]]、ハイフォン港での銃撃事件を口実にフランスとベトミンとの間で全面交戦状態が始まり、[[インドシナ戦争]]([[第一次インドシナ戦争]])が勃発した。フランス軍は[[12月19日]]にハノイのベトナム民主共和国政府へ武力攻撃を開始し、12月20日、ホーチミンは全国抗戦声明を発表した{{sfn|小倉|1992|p=35}}。
{{Quotation|われわれは平和を切望し妥協を重ねてきたが、妥協を重ねれば重ねるほどフランスはわが国を征服しようとしている。われわれは犠牲を辞さない。われわれは奴隷とはならない。すべての老若男女に訴える。主義主張、政治性向、民族を問わず、立ち上がり、フランス植民地主義と戦い、国を救おう---ホー・チミン抗戦声明{{sfn|小倉|1992|p=35}}}}
フランスは、国民の人気が高かった[[バオ・ダイ]]帝を担ぎ出し、[[1948年]]6月5日にサイゴンに「ベトナム臨時中央政府」を発足させる{{sfn|小倉|1992|p=35}}。大統領はグエン・ヴァン・スアン{{sfn|小倉|1992|p=35}}。翌[[1949年]]3月にはサイゴン市(現[[ホーチミン市]])を首都とする[[ベトナム国]]を樹立する{{sfn|油井|古田|1998|p=234}}。フランスはバオ・ダイ政権を唯一の正当な政府と宣言し、ベトミンを徹底的に弾圧すると表明した{{sfn|小倉|1992|p=35}}。
=== 冷戦(ソ連、アメリカ、中華人民共和国の介入) ===
第二次世界大戦後は[[アジア]]・[[アフリカ]]の[[植民地]]で、[[宗主国|支配国]]である連合国に対して独立運動が激化していた。1945年には[[インドネシア]]、[[ベトナム]]、10月に[[ラオス]]が、1946年には[[フィリピン]]、1947年には[[インド]]が[[パキスタン]]と分離独立、1948年には2月に[[イギリス領セイロン|セイロン]]([[スリランカ]])が、同年には[[ビルマ]]や、また[[大韓民国]]が[[8月13日]]に独立した。1949年には[[国共内戦]]で[[中華民国軍]]に勝利した中国共産党によって[[中華人民共和国]]が樹立した。
1947年3月にはインドのネルーによって[[アジア関係会議]]が開催され、29カ国が集まり、非植民地化の推進やアジアの連帯が協議された{{sfn|油井|古田|1998|p=259}}。1948年末に[[オランダ軍]]が第二次治安行動を開始し、インドネシア共和国の[[スカルノ]]を逮捕したことに抗議してビルマの[[ウ・ヌー]]首相はインドのネルー首相によびかけ、1949年1月にニューデリーで[[アジア独立諸国会議]]が開催された{{sfn|油井|古田|1998|p=259}}。
植民地の維持を目論むイギリスやオランダ、フランスなどの旧宗主国と、長年の過酷な植民地支配を受け続けた上に、一旦は日本軍によって放逐された宗主国の姿を目の当たりにして解放を欲する植民地国民の間でしばしば紛争が頻発した。アジアでは、戦勝国である[[クレムリン|ソ連政府]]と[[ホワイトハウス|アメリカ政府]]のいずれかによって指導・支援されている例が多かった。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]政権の[[ソビエト連邦]]は、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]政権の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に対抗するために、世界中を[[共産化]]するため、[[共産主義]]の革命勢力を支援した。米ソ共に[[核兵器]]を保有し、直接の全面戦争を避けて、[[衛星国]]同士で戦闘を行う「[[冷戦]]」構造が成立した。この冷戦は、[[ベルリン封鎖]]、[[朝鮮戦争]]、インドシナ戦争、ベトナム戦争、[[キューバ危機]]に見られるように、「[[代理戦争]]」という形で表面化した。ただし、冷戦構造は大国中心であったが、小国からの要請で大国が動くという、「下からの突き上げ・弱者の脅迫」が作用し得る構造でもあり、ベトナム戦争も単なる「代理戦争」ではなかったという見解もある{{sfn|油井|古田|1998|p=242}}。
[[資本主義]]・[[自由主義]]の盟主を自認するアメリカ政府は、中華人民共和国や[[東ヨーロッパ]]での共産主義政権の成立を「ドミノ倒し」に例え、一国の共産化が周辺国にまで波及するという「[[ドミノ理論]]」を唱え、アジアや[[ラテンアメリカ|中南米]]諸国の[[反共主義]]勢力を支援して、各地の紛争に深く介入していく。とりわけ[[国共内戦]]で国民党軍に勝利した中国共産党が1949年10月に中華人民共和国を建国したことは、反共主義を唱えるアメリカにとって衝撃であり、共産主義封じ込め戦略の観点から、インドシナ戦争においてはフランスを支援することを決定した{{sfn|油井|古田|1998|p=235}}。
;ホー・スターリン・毛沢東三者会談
[[1950年]]1月14日、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の国家承認を求める声明を発表{{sfn|油井|古田|1998|p=235}}。1月18日、成立直後で自らも国家国際承認を受けてすらいない[[毛沢東]]による[[中華人民共和国]]は、[[ベトナム民主共和国]]を[[国家の承認|正統政権]]と認めた{{sfn|油井|古田|1998|p=235}}。中共による承認を受けてホーは北京に入ったあと、[[スターリン]]の[[ソ連]]による承認をとりつけるために[[モスクワ]]に向かった{{sfn|油井|古田|1998|p=235}}。しかし、スターリンは毛沢東に対しても警戒していたほどであったから、ホーに対しても直接的な支援には消極的だったが、結局、毛沢東の仲介でスターリンとホー・チ・ミンの会談が実現する{{sfn|油井|古田|1998|p=236}}。1月31日、ソ連もホーの要請を受けてベトナム民主共和国を正式に承認した<ref>松岡2001,p12</ref> が、ホー・チ・ミンへの直接的支援は断り、ベトナムの支援は中国の課題であると答えた{{sfn|油井|古田|1998|p=236}}。その後、ホーと毛沢東は北京で会談、毛は武器援助・資金援助を約束し、1950年4月にはホーチミンは中国から借款と兵士二万人分の装備提供を受けた{{sfn|小倉|1992|p=39}}。
==== 朝鮮戦争 ====
[[1950年]][[6月25日]]に[[朝鮮戦争]]が勃発し、中華人民共和国はアメリカが、朝鮮・台湾海峡・インドシナの三方面から攻撃してくる可能性に危機感をつのらせ、ベトナムへの軍事顧問団の派遣を実施する{{sfn|油井|古田|1998|p=237}}。のちにソ連、チェコからは[[対戦車ロケット弾]]やトラックが提供された{{sfn|小倉|1992|p=39}}。こうした提供に対してベトミンはタングステンや錫、米、ケシなどで支払った{{sfn|小倉|1992|p=39}}。中華人民共和国などから援助を受けたベトミンは1950年末には、精強師団を結成する{{sfn|小倉|1992|p=39}}。
[[ファイル:2eBEP en Indo.jpg|thumb|ベトナムに展開するフランス軍兵士。後方にアメリカから貸与された[[ノースロップ・グラマン|グラマン]][[F8F (航空機)|F8F]]戦闘機が写っている]]
他方、フランスは1950年2月16日のアンリ・ボネ駐米大使とアチソン国務長官との対談で米国による支援を要請する{{sfn|小倉|1992|p=40}}。1950年5月25日、[[ハリー・S・トルーマン]]政権下の米国はフランス軍支援を決定する{{sfn|小倉|1992|p=40}}。1950年6月25日に勃発した[[朝鮮戦争]]を受けて、トルーマン大統領は[[国際共産主義運動]]を[[ファシズム]]と同じ脅威と規定し、朝鮮戦争において共産主義勢力が従来の政治宣伝を中心とした間接侵略から、武力行使による直接侵略に移行したとみなし、国連の緊急安全保障理事会でも北朝鮮の行動を「平和に対する侵犯」とみなし、北朝鮮への非難決議案を提起、ソ連は国共内戦に勝利した中国共産党が中国本土に中華人民共和国を樹立したにもかかわらず、[[台湾島]]に逃げた中華民国が常任理事国議席にあることに抗議して欠席していたため、決議案は可決した{{sfn|油井|古田|1998|p=275}}。トルーマンは米軍を朝鮮半島だけでなく、台湾海峡にも[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]を派遣し、またフィリピンやインドシナ半島への軍事的関与の強化を発表{{sfn|油井|古田|1998|p=275}}、朝鮮戦争が開戦してから4日後の6月29日には輸送機C47機がサイゴンに到着する{{sfn|小倉|1992|p=40}}。国連での非難決議を無視して北朝鮮は[[ソウル特別市|ソウル]]を陥落させるなど進撃を続けたため、6月30日に米政府は地上軍を朝鮮に派遣することを決定、7月には国連軍派遣が決定する。しかし国連軍は11月には総崩れとなり、トルーマンは原爆の使用を示唆する{{sfn|油井|古田|1998|p=276}}。急遽、イギリスの[[クレメント・アトリー]][[イギリスの首相|首相]]が[[ワシントンD.C.|ワシントン]]に行き、トルーマンの説得を行った{{sfn|油井|古田|1998|p=277}}。こうして共産主義圏と自由主義圏との[[冷戦]]構造が明白なものとなる。
以降、アメリカからの援助は1952年度までに年額約3億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]に及び、[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]が大統領に就任した[[1953年]]には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、アメリカ軍事顧問団は約400人程度が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊の教育訓練を開始し、フランス軍の兵力不足を補うべく活動した。アメリカからの軍事支援を受けたフランス軍は、ソ連や中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、[[:en:Henri Navarre|アンリ・ナヴァール]][[将軍]]指揮下の精鋭[[フランス外人部隊|外人部隊]]など、[[クリスティアン・ド・カストリ]][[大佐]]を司令官とする1万6200人{{sfn|小倉|1992|p=44}}の兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けた。
;ドンケ攻撃
1950年夏にはベトミンは全土総攻撃作戦の[[第四〇作戦]]の展開を決定、9月16日にはドンケ攻撃を開始、フランス軍200名は全滅した{{sfn|小倉|1992|pp=41-42}}。
[[1950年]]12月にはサイゴンにてフランスのジャン・ルトルノー海外担当大臣とアメリカのヒース[[公使]]、ベトナム国の[[チャン・バン・フー]]首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれ、アメリカは[[フランス軍]]とインドシナ三国に軍事援助を開始した。
;ベトナム労働党と「中国モデル」の導入
戦争中の1951年2月の党大会でホーは偽装解散していたインドシナ共産党を改組し、[[ベトナム労働党]]とした{{sfn|油井|古田|1998|p=237}}。この大会でホーはスターリンを「世界革命の総司令官」、毛沢東を「アジア革命の総司令官」と呼び、さらに中国共産党の[[劉少奇]]が1949年11月に発表していた民族統一戦線、共産党による指導、[[武装闘争]]と[[根拠地]]などに関するテーゼを採用し、中国共産党による「革命」をモデルとした{{sfn|油井|古田|1998|p=237}}。しかしこうした急進的かつイデオロギーに固執した「中国モデル」の採用は1953年から本格的に開始された農地改革において、ベトナム伝来の農村社会に大きな混乱をもたらした{{sfn|油井|古田|1998|p=241}}。ベトナムの農地改革は中華人民共和国から派遣された顧問の指導のもとで実施されたが、「農村人口の5%は地主」とする規定を機械的に導入し、そのため、地主や富農ではない民衆が[[人民裁判]]にかけられて処刑されたりした{{sfn|油井|古田|1998|p=241}}。
=== ディエンビエンフーの戦いとフランス軍の敗退 ===
[[ファイル:French indochina 1953 12 1.png|thumb|ディエンビエンフーで戦うフランス兵]]
フランス軍の現地兵と[[モロッコ]]や[[アルジェリア]]および[[セネガル]]等の他の植民地人達の士気は低く、戦闘していたのは外人部隊と志願兵からなる落下傘隊員であった。[[ヴォー・グエン・ザップ]]将軍指揮下のベトミンによる組織的な反撃を受け、1953年に入るとフランス軍は空母を派遣するなど立て直しを図るものの、点を確保するのみで{{sfn|小倉|1992|p=45}}劣勢に立たされていた。1953年4月時点で米国もインドシナ情勢におけるフランス軍は危機的な状況にあるとみていた{{sfn|小倉|1992|p=45}}。米陸軍は大統領安全保障会議への報告において、
#米国が介入しても、空軍・海軍のみでは勝利は難しい
#[[原子爆弾]]を使用しても、敵軍の兵力削減は難しい
#米国勝利のためには七個師団が必要
といった提言を行っている{{sfn|小倉|1992|p=45}}。
==== ディエンビエンフーの戦い ====
{{main|ディエンビエンフーの戦い}}
[[1953年]][[11月20日]]にはフランス軍はカストール作戦を実施、ベトミンが展開する[[ラオス]]国境に近い[[ディエンビエンフー]]盆地を12000の兵力で占領し、[[橋頭堡]]としての[[要塞]]をつくることで、ベトミンの動きを封じようとした。フランス側はベトミンが重火器を持っていないまたは持っていたとしても使いこなせないと予想していた。しかしベトミンは現地の少数民族の支援もあって中国から供給された重火器をディエンビエンフー盆地を囲む山上まで運んでいた{{sfn|油井|古田|1998|p=239}}。[[1954年]]3月、ベトミンは戦闘を開始、攻撃開始日からベトミン軍は猛烈な砲撃を加え、[[人海戦術]]により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になり、4月には3個空挺大隊と近接航空支援を増強したが、雨季の天候は空軍の活動を制限した。対し、ベトミン軍の夜襲は次々とフランス軍陣地を攻略し、末期には周囲2kmの範囲のみを保持するのみで、5月7日にフランス軍は降伏、残った約1万人のフランス兵は[[捕虜]]となった。このディエンビエンフーの戦いでフランス軍は敗北し、事実上壊滅状態に陥る。ディエンビエンフーの戦いにおけるフランス軍降伏について、[[東京大学]]教授[[古田元夫]]は「[[ヨーロッパ]]の万を超える精鋭部隊が、植民地現地の軍事勢力に降伏した世界史的出来事で、植民地体制の崩壊を象徴する事件」と指摘している{{sfn|油井|古田|1998|p=239}}。
フランス軍降伏の報せを聞いたアメリカの[[リチャード・ニクソン]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]は、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する小型[[原子爆弾]]の使用を[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領に進言したが却下された<ref>リチャード・ニクソン著『ノー・モア・ヴェトナム』[[宮崎成人]]・[[宮崎緑]]共訳(講談社 1986年 ISBN 4062024462)。</ref>。また、アメリカの統合参謀本部は[[フィリピン]]に展開している[[ボーイング]][[B-29]]爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれも却下した。
ディエンビエンフー陥落後も、ベトミンはトンキンデルタに展開するフランス軍にゲリラ攻撃を仕掛け、各地の攻撃を実施した。同年6月にフランス軍はフーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ-ハイフォン回廊に撤退し、ここに至りフランス軍の敗北は決定的となる。
=== ジュネーブ協定と南北分断 ===
フランス軍の危機的な状況が国際社会に認知されていくなか、[[1954年]][[4月26日]]には[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]に関係国の代表が集まり、和平交渉として[[インドシナ和平会談]]([[ジュネーヴ会談]])が開始された。参加国は当事国のフランスとベトナム国、ベトナム民主共和国、さらに、[[アンソニー・イーデン]]外務大臣を議長として送り込んだ[[イギリス]]とアメリカ、[[カンボジア]]、ラオス、ソ連、中華人民共和国であった。会議は3カ月続き、フランス軍が壊滅した1954年7月、インドシナ和平会談において関係国の間で和平協定である[[ジュネーヴ協定]](インドシナ休戦協定)が成立した。
これにより第一次インドシナ戦争の終結とフランス軍のインドシナ一帯からの完全撤退、並びにベトナム民主共和国の独立が承認された。北緯17度を南北の暫定的軍事境界線とし、南北を分割、また南北統一のための自由総選挙を1956年7月までに実施するという内容だった。ただし、アメリカと南ベトナムは調印に参加しなかった{{sfn|小倉|1992|p=48}}。ベトナム民主共和国がこの内容に妥協したのはアメリカの参戦を警戒したためで、ソ連と中華人民共和国もベトナムに譲歩するよう強く求めた{{sfn|油井|古田|1998|p=240}}。
[[1954年]][[4月28日]]から5月2日まで、セイロンのコテラワラ首相が提唱し[[コロンボ会議]]が開催され、インド、パキスタン、セイロン、ビルマ、インドネシアの首脳が集まり、インドシナ戦争の停止などを訴え、ジュネーブ会議にも影響を与えたほか、とくに[[イギリス連邦]]の中心である[[イギリス]]はジュネーブ会議においてアメリカの戦争拡大方針に同調しなかった{{sfn|油井|古田|1998|p=261}}。
==== アメリカのインドシナ半島への介入開始 ====
[[ファイル:HD-SN-99-02044.JPEG|thumb|南部ベトナムへ逃れる難民]]
このころ、休戦交渉と並行して、ジュネーブ協定が締結される直前の1954年7月7日、バオ・ダイ時代に内相をつとめ、反共主義で[[カトリック教会|カトリック教徒]]の[[ゴ・ディン・ジエム]](呉廷琰)による政権が、アメリカの根回しで樹立されていた{{sfn|小倉|1992|pp=63-64}}。さらに1954年9月27日 - 29日のワシントンでの米仏会談で、インドシナ駐留フランス軍への援助は打ち切られ、アメリカは1955年1月からインドシナ諸国に対して直接の援助を行うことを決定した{{sfn|小倉|1992|p=64}}。1950年10月にサイゴンで組織されていたインドシナ米軍事援助顧問団(MAAG)は、1955年11月に[[南ベトナム軍事援助司令部|南ベトナム米軍事援助顧問団]]へと改組され、南ベトナム政府軍の軍事教練が開始した。団長はサミュエル・ウィリアムズ将軍。
アメリカは、[[ジョージ・ケナン]]らが提唱する、冷戦下における共産主義の[[東南アジア]]での台頭([[ドミノ理論]])を恐れ、フランスの[[傀儡政権]]だったベトナム国を17度線の南に存続させ、ベトナムは[[朝鮮半島]]やドイツと同様、[[分断国家]]となった。
南北の境界線が確定された際、ベトナム国民が双方の好む体制側に移動することが[[ジュネーブ協定]]によって認証され、60日間の猶予で行なわれたが、北ベトナムの総人口1300万のうち、100万人が南ベトナムへ移動、逆に南から北へ移動した国民は9万人であったという。また、[[宗教]]の存在を否定する共産主義者による統治を嫌う北ベトナムに住むカトリック教徒の多くは、ベトナム民主共和国の独立に伴いベトナム国へ[[難民]]として逃れた。
== 南北対立と米国の本格的介入 ==
=== ジエム政府(南ベトナム) ===
[[ファイル:Ngo Dinh Diem at Washington - ARC 542189.jpg|thumb|[[ワシントンD.C.]]を訪れた[[ゴ・ディン・ジエム]]大統領を迎える[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領]]
ジュネーブ協定と並行して1954年7月に樹立された反共主義者[[ゴ・ディン・ジエム]]による政権は、翌[[1955年]]4月に国民の意思と称してバオ・ダイ帝に退位を迫り、6月14日にジエムは自ら国家元首に就任した{{sfn|小倉|1992|p=64}}。10月24日には共和制か王制かを問う[[国民投票]]を実施、10月26日には[[ベトナム共和国]](通称「'''南ベトナム'''」)樹立宣言を行い、ジエムは初代大統領に就任した{{sfn|小倉|1992|p=64}}。こうして、植民地時代にフランスや日本の[[傀儡政権]]となりながらも持続してきたベトナム王朝は消滅し、[[バオ・ダイ]]はフランスへ[[亡命]]した。ジエムの政権樹立には[[中央情報局|CIA]]工作員で[[アメリカ空軍]][[准将]]の[[エドワード・ランズデール]]による支援があった。[[自由主義|自由主義者]]や[[民主主義|民主主義者]]、民族主義者や反共主義者、カトリック教徒らがジエム政権の支持母体となり、アメリカ合衆国の[[傀儡国家]]かつ東南アジアにおける[[反共防波堤]]{{sfn|小倉|1992|p=64}}という性格を持つ[[ベトナム共和国]]が建国された。
ジエム大統領はジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否した。これは、もし選挙を実施すればフランスを打ち破った[[ベトナム民主共和国]]が勝つのは明白だったからである。
直近の、中国における[[国共内戦]]や、朝鮮半島における[[朝鮮戦争]]などのため、南ベトナムのジエム政権は東南アジア情勢が選挙どころではなく共産勢力と一触即発の状態であると認識しており、そのため南北統一選挙を拒否したのであるが、北ベトナムの[[ホー・チ・ミン]]政権はこの南北統一選挙に勝てると勝算を持っていたため、このことでますます南北間の対立が悪化することになった。アイゼンハワー政権下のアメリカは、それまでのフランスに代わりジエム政権を軍事、経済両面で支え続け、ジエムからの依頼を受けて[[ベトナム共和国軍|南ベトナム軍]]への重火器や航空機の供給をはじめとする軍事支援を開始した。しかし、ジエム大統領一族による独裁化と圧政のため、ジエム政府に対する南ベトナム国民の反発はかえって強まっていった。
戦後の日本で農地改革計画をつくった[[ウォルフ・ラデジンスキー]]が米国援助使節団としてジエム政府に提言し、ジエム政府は[[1956年]][[11月21日]]、法令57号を発布、農地改革を行い{{sfn|小倉|1992|p=65}}、その後も「カイサン計画」などを実行するが、日本の場合と異なり、いずれも失敗した{{sfn|小倉|1992|p=66}}。
==== 反政府勢力の掃討作戦 ====
また、ジエムは弟の[[ゴ・ディン・ヌー]]を大統領顧問に任命し、秘密警察やカンラオ(勤労)党組織を用いて反政府勢力を弾圧した。1958年12月1日には1000人の政治犯が食後に死亡するという[[フーロイ収容所虐殺事件]]を引き起こした{{sfn|小倉|1992|p=83}}。1959年5月6日には国家治安維持法の第十号法令を発布、これにより特別軍事法廷は反政府勢力を思うがままに投獄することが可能となった{{sfn|小倉|1992|p=83}}。1959年7月から1960年7月までのジエム政府軍による反政府勢力掃討作戦は82回で、暴行、焼き打ち、虐殺を繰り返し、[[獄門|さらし首]]や、人間の生きた[[肝臓]]は精力がつくとして反政府勢力と目されるベトナム民衆の肝臓を取り出して食べたりした{{sfn|小倉|1992|p=83}}。1960年までに80万人が投獄され、そのうち9万人が処刑され、19万人が[[拷問]]により身体障害者となったとされている{{sfn|小倉|1992|pp=64-65}}。「政治訓練センター」には常時8千 - 1万人が収容され、さらに農民の収容所としてアグロビル計画が実施され、これにより農民が代々住んできた家屋が破壊され、農民たちは強制的に収容されていった{{sfn|小倉|1992|p=84}}。アグロビル計画の対象地域は400箇所にものぼった。
==== 反ジエム連合戦線 ====
1955年、1956年頃より[[私兵]]団を持つ[[カオダイ教]]団や[[ホアハオ教]]らの新宗教組織が、ジエム政権による弾圧に対抗して戦闘を開始しており、その他にも[[ビン・スエン派]]などの[[ギャング]]私兵団もジエム政権に反発していたため、反ジエム連合戦線のカオ・ティエン・ホア・ビン連合が結成された{{sfn|小倉|1992|p=85}}。1957年から58年にかけて反ジエム連合戦線の勢力は強まった{{sfn|小倉|1992|p=87}}が、逆に政府軍によって鎮圧された。
=== 南ベトナム解放民族戦線 ===
==== 第十五号決議 ====
ジュネーブ協定に基づく南北統一選挙が行なわれなかったことに強い憤りを覚えたホーチミンは、[[1959年]]1月13日、ハノイで第15回[[ベトナム労働党]]中央委員会拡大総会を開催し、南部の政権を転覆するための武力解放戦争を決議した「新しい段階に入った南部ベトナムの政策について」と題する第十五号決議が提出された{{sfn|小倉|1992|pp=67-68}}。第十五号決議では「米国はもっとも好戦的な帝国主義者である。(中略)われわれ中央も、敵も、たがいに長期にわたる戦いになることは確実である。しかし最後の勝利はかならずやわれわれに帰するだろう」と記された{{sfn|小倉|1992|p=68}}。1959年5月には南部武力解放指令が出され、ボ・トゥ・レン・ナム・ナム・チン(コマンド559)という突撃・偵察隊が結成、山岳少数民族の協力要請も含めて、のちに[[ホーチミン・ルート]]とよばれる補給路の建設が開始された{{sfn|小倉|1992|p=70}}。戦争終結までにこのホーチミン・ルートは16000kmにも及び、南に輸送された物資は4500万キロトン、パイプラインは3082km、往来した人数は延べ200万人にのぼった{{sfn|小倉|1992|p=70}}。
第十五号決議は1960年9月の第三回党大会で正式に承認された{{sfn|小倉|1992|p=69}}。
==== Đ基地とベンチェ動乱 ====
1959年11月、南ベトナムの秘密基地[[Đ]](「東」を意味する[[ベトナム語]]Đôngの頭文字)に第十五号決議が届く{{sfn|小倉|1992|p=72}}。武器のなかったĐ基地は政府軍の武器を強奪することを計画、1960年1月17日午前6時、ベンチェのベトミンゲリラ軍が、ディントゥイ政府軍宿舎を襲撃、また市場でも朝食を食べていた政府軍兵士が農民たちによって取り押さえられた<ref name="op75"/>。ディントゥイ政府軍からはライフル30丁を得て、さらにフォッグヒエップ村、ビンカイン村の政府軍も制圧、計100丁のライフルと2丁の重機関銃を得た<ref name="op75">{{Harvnb|小倉|1992|p=75}}</ref>。その後、政府軍はゲリラ軍鎮圧を開始するが、ゲリラ軍はフォッグヒエップ村の女性5000人に喪章をつけて政府軍の残虐な行動に抗議するよう県庁に抗議行動を連日行わせ、1960年3月15日、県庁は要求を受け入れる<ref name="op77"/>。米国軍事顧問団とジエム政府はこれらの女性たちを「ロング・ヘアー・アーミー」と名付けて対応に苦慮した<ref name="op77">{{Harvnb|小倉|1992|p=77}}</ref>。
==== NLF結成 ====
[[1960年]]12月20日、[[南ベトナム解放民族戦線]](National Liberation Front、略称はNLF)が結成された。翌年2月に解放戦線はハノイ放送を通じて宣言と綱領を発表、「1954年のジュネーブ協定でベトナムの主権が承認されたにもかかわらず、米国がフランスにとってかわり、南部にジエム政権をつくり、形をかえた植民地支配をすすめている」と主張した<ref>{{Harvnb|小倉|1992|p=93}}</ref>。南ベトナム解放民族戦線は、「ジュネーブ協定を無視したジエム政権とその庇護者であるアメリカの打倒」との名目を掲げて、南ベトナム政府軍とサイゴン政府に対する[[ゲリラ|ゲリラ活動]]・テロ活動を活発化させて宣戦布告し、政府軍との内戦状態に陥った。NLF結成の報告を聞いたジエムは即座に共産主義者の蜂起と断定し、「ベトコン」(「ベトナムの共産主義者」の意)と呼んだとされており、米・南ベトナム政府ではNLFへの蔑称で使われた。
NLFの構成員には南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や学生、自由主義者などの、共産主義とは無関係の一般国民も多数参加していた。しかし、戦闘の激化によって次第に北ベトナムの工作機関と化し[[ホーチミン・ルート]]を経由して中華人民共和国や北朝鮮、ソビエト連邦などの共産主義国から多くの武器や資金、技術援助を受けることになる。
NLFはわずか2年の間で4000名規模にまで拡大した。NLFは、当初は、ジェム一族の政権私物化と腐敗、その後ろ盾であったアメリカに対する抗議・抵抗運動が起点であった。若い学生がNLFの中核として、ベトナム統一戦争に参加した。
== アメリカ軍事介入の開始 ==
=== ケネディ政権 ===
;アメリカ軍事顧問団の増強
1961年1月20日、[[民主党 (アメリカ)|アメリカ民主党]]の[[ジョン・F・ケネディ]]が第35代アメリカ合衆国大統領に就任する。ケネディ政権が2年10か月の政権期間に行った外交政策の中で、最も大きな議論を呼んだのが、派兵拡大を押し進めた対ベトナム政策であるとされる<ref>デイビッド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』浅野 輔訳、朝日文庫(上・中・下)、1999年</ref>。
ケネディ政権は、アイゼンハワー政権を引き継いだ就任直後に[[東南アジア]]における[[ドミノ理論]]の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置し、[[統合参謀本部]]に対してベトナム情勢についての提言を求めた。特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する[[北ベトナム]]による軍事的脅威を受け続けていた[[ベトナム共和国]](南ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。
ケネディは、正規軍の派兵は、[[ピッグス湾事件]]や[[キューバ危機]]、{{仮リンク|ベルリン危機 (1961年)|en|Berlin Crisis of 1961|label=ベルリン危機}}など世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や[[中華人民共和国]]との対立を刺激するとして行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」との[[チェスター・ボウルズ]]国務次官と[[W・アヴェレル・ハリマン]]国務次官補の助言を却下し<ref>ヘンリー・キッシンジャー『外交』岡崎久彦訳、日本経済新聞社、1996年, {{要追加記述範囲|1=p292|title=上下巻のどちらか不明|date=2016年11月}}</ref>、「南ベトナムにおける[[共産主義]]の浸透を止めるため」との名目で、1961年5月にアメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という名目の、実際はゲリラに対する掃討作戦を行う、アメリカ正規軍からなる特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的で[[クラスター爆弾]]、[[ナパーム弾]]、[[枯葉剤]]を使用する攻撃を開始した。
[[ファイル:President meets with Secretary of Defense. President Kennedy, Secretary McNamara. White House, Cabinet Room - NARA - 194244.jpg|thumb|ケネディとマクナマラ]]
さらに併せてケネディは、フルブライト上院外交委員会委員長に「南ベトナムと[[ラオス]]を支援するためにアメリカ軍を南ベトナムと[[タイ王国|タイ]]に送る」と通告、ジョンソン副大統領と[[ロバート・マクナマラ]]国防長官をベトナムに派遣した。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」と迅速な支援を訴え、同じくマクナマラも、その後南ベトナムの大統領となる[[グエン・カーン]]への支持を表明し「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し<ref>アレックス・アベラ『ランド〜世界を支配した研究所』牧野洋訳、文藝春秋、2008年</ref>、ケネディの決定を支持した。
1962年2月、ケネディ政権は、ゲリラではない農民と南ベトナム解放民族戦線のゲリラを識別するために、戦略村と称する農耕集落を建設し、南ベトナム解放民族戦線のゲリラではない農民を戦略村に移住させ、戦略村に移住しない農民は南ベトナム解放民族戦線のゲリラと見なして攻撃する作戦を開始した。ケネディ政権の目論見に反して、アメリカ合衆国の戦争の都合のために、先祖代々の農地を離れて戦略村への入居を要求されても拒絶する農民が続出し、戦略村に対する南ベトナム解放民族戦線の攻撃も頻発し、アメリカ合衆国軍は戦略村を維持できなくなり、戦略村作戦は破棄された。
アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナム駐留米軍事顧問団は、[[1961年]]末には3,164人に、[[1963年]]11月には16,263人に増加した。[[1962年]]2月には[[南ベトナム軍事援助司令部]] (MACV) を設置、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、「軍事顧問団」という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げする形とした。
さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模の[[アメリカ海兵隊]]を送ることを決定した。ケネディ政権はこのような軍事介入拡大政策を通じてベトナム情勢の好転を図ろうとしたものの、ケネディ政権の思惑に反して、[[アプバクの戦い]]で南ベトナム軍とアメリカ軍事顧問団が[[南ベトナム解放民族戦線]]に敗北するなど、事態は好転しなかった。そのような中で、[[ゴ・ディン・ジェム]]南ベトナム大統領も、軍事介入の拡大とともに内政干渉を行うケネディ政権を次第に敵対視するようになった。ケネディは「『アメリカは(南ベトナムから)撤退すべきだ』という人たちには同意できない。それは大きな過ちになるだろう」と述べ<ref>ロバート・マクナマラ『マクナマラ回顧録 ベトナムの悲劇と教訓』仲晃訳、共同通信社、1997年、p97</ref> 南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収を主張する国内の一部の世論に対して反論した。
さらにケネディはアメリカ政府によるコントロールが利かなくなっていたジエム政権への揺さぶりをかけることを目的に、あえてこれまでのような軍事顧問団の増強方針から一転して、[[1963年]]10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団から1,000人を引き上げる」と発表。[[1963年]]11月にはマクナマラ国防長官が「軍事顧問団を段階的に撤収させ、[[1965年]][[12月31日]]までには完全撤退させる計画がある」と発表し、アメリカに対し敵対的な態度を取り続けるジェム政権に揺さぶりをかけた。なお、後に泥沼化したベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤収を決めた「[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]]」調印に向けた交渉を行った[[ヘンリー・キッシンジャー]]は、ケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の存在を否定しており、このケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の発表は単なるジエム政権に対するブラフであり、これ以降も軍事介入拡大政策を取り続ける意向であったことが明らかになっている。
=== 仏教徒による抗議・焼身自殺 ===
[[ファイル:Tribute to Thích Quảng Đức.jpg|thumb|left|サイゴン(現・[[ホーチミン市]])のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって[[焼身自殺]]する[[ティック・クアン・ドック]]の写真。]]
[[File:Thích Quảng Đức self-immolation.jpg|right|thumb|同上。]]
[[ファイル:Madame Ngô Đình Nhu and Lyndon Baines Johnson.jpg|thumb|マダム・ヌーとジョンソン副大統領]]
{{See also|仏教徒危機}}
[[1960年代]]に入ると、自らが熱心な[[カトリック教会|カトリック]]教徒であり、それ以外の[[宗教]]に対して抑圧的な政策を推し進めたジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める[[仏教]]徒による抗議行動が活発化した。1963年5月に[[ユエ]]で行われた反政府デモでは警察がデモ隊に発砲し死者が出るなどその規模はエスカレートし、同年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上で、サイゴン市内のアメリカ[[大使館]]前で[[焼身自殺]]をした僧[[ティック・クアン・ドック]]の姿が[[テレビ]]を通じて全世界に流され、衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも影響を与えた。
これに対してジェム大統領の実弟の[[ゴ・ディン・ヌー]][[秘密警察]]長官の妻である[[マダム・ヌー]]が、「あんなものは単なる人間[[バーベキュー]]だ。しかもアメリカから輸入したガソリンを使うとは矛盾している」とテレビのインタビュー番組で語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。敬虔な[[仏教徒]]で知られた[[国際連合事務総長]][[ウ・タント]]も、ベトナム戦争に苦言を呈して、アメリカ合衆国は[[国際連合]]との関係も悪化した<ref>Dennen, Leon (August 12, 1968). U Thant Speaks No Evil on Czech Crisis. Daily News.</ref>。
=== ケネディ大統領黙認下でのジェム大統領暗殺 ===
[[ファイル:Corpse of Ngô Đình Diệm in the 1963 coup.jpg|thumb|right|クーデターで殺害されたジェム大統領]]
{{see also|1960年ベトナム共和国の軍事クーデター未遂|1963年ベトナム共和国の軍事クーデター}}
この様な混沌とした状況下において、南ベトナム軍内の反ジェム勢力と、アメリカ軍の「軍事顧問団」と近い南ベトナム軍内の親米勢力(この2つの勢力は事実上同一であった)によって反ジェム[[クーデター]]が計画され、その状況は南ベトナム軍事援助司令部を経由してケネディ政権にも逐次報告されるようになっていた{{efn2|クーデター派から信頼されていたCIAサイゴン支局のルシアン・コネイン大佐からも詳しい報告があった。そのため後にCIAによる暗殺ではないかとの疑惑がつきまとう。}}。
[[1960年ベトナム共和国の軍事クーデター未遂|1960年に発生したクーデター]]は失敗に終わるが、[[1963年ベトナム共和国の軍事クーデター|1963年11月2日に発生したクーデター]]は成功した。クーデターを引き起こした反乱軍によって、ジェム大統領とヌー秘密警察長官は政権の座から下ろされ、逃げ込んだサイゴン市内の[[チョロン地区]]にある[[カトリック教会]]の前に止めた反乱部隊の[[装甲兵員輸送車]]の中で殺害された。これを受けてヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーをはじめとするジェム政権の上層部も国外へ逃亡し、ジェム大統領とその一族が南ベトナムから姿を消したその当日には、南ベトナム軍の軍事顧問で将軍でもあり、アメリカ軍と深い関係にあった[[ズオン・バン・ミン]]を首班とした軍事政権が成立する。
ケネディ大統領がどこまで反ジェムクーデターに関与、支持していたのかについては議論が分かれている<ref>『CIA秘録 上巻』</ref> が、後にマクナマラ国防長官はこの反ジェムクーデターに対して「ケネディ大統領はジェム大統領に対するクーデターの計画があることを知りながら、あえて止めなかった」と、ケネディ大統領が事実上反ジェムクーデターを黙認したことを証言している<ref name="『ベトナム戦争への道―大統領の選択』NHK 1999年』"/> 上に、ケネディ大統領から上記のような訓令を受けたロッジ大使もマクナマラ国防長官と同様の証言を行っている。
いずれにしてもクーデターの発生とジェム大統領殺害の報告を受けたケネディ大統領は、「このクーデターにアメリカは関係していない」との正式声明を出すように指示した。
=== ジョンソン政権とミン政権・チュー政権 ===
[[ファイル:Thi and thieu.jpg|thumb|打ち合わせ中の[[グエン・カオ・キ]](左)と[[グエン・バン・チュー]](中央)]]
[[ファイル:VietnamkriegPersonen1966.jpg|thumb|右から南ベトナムのグエン・カオ・キ首相とグエン・バン・チュー国家元首、アメリカの[[ウィリアム・ウェストモーランド]]将軍と[[リンドン・ジョンソン]]大統領(1966年10月)]]
南ベトナムで[[ゴ・ディン・ジェム]]大統領が倒されたクーデター事件のわずか3週間後に、アメリカで[[ケネディ大統領暗殺事件]]が起こり、ケネディが死亡したため、[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]の[[リンドン・ジョンソン]]が[[アメリカ合衆国大統領]]に昇格した。ジョンソンは、前任者のケネディが増強した「軍事顧問団」の規模を維持するだけにとどめた。またアメリカ政府は、クーデターにより南ベトナム情勢が安定することを期待していたが、その目論見は裏目に出る。クーデターは、反乱に参加した将校達の権力闘争を容認する結果となり、その後も南ベトナム政府内では13回ものクーデターが発生する。
親米的なミン大統領の軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、[[南ベトナム解放民族戦線]]との戦闘に注力しなかったことから南ベトナム軍内部の離反を招くこととなり、[[1964年]][[1月30日]]に[[グエン・カーン]]将軍を中心とした勢力がクーデターを起こし、ミン大統領は隣国の[[タイ王国]]へと追放された。しかしミン元大統領は、追放された直後にカーン将軍の指示を受けて南ベトナムへ戻り[[2月8日]]に大統領の座に復帰する。
アメリカはその後もカーン将軍やミン大統領らの一派を全面的に支援したものの([[:en:Operation Quyet Thang 202]]、[[1964年]][[4月27日]] - [[5月27日]])、その後大統領に就任したカーン将軍は、南ベトナム解放戦線との和解の可能性を模索し始めたために南ベトナム軍の支持を失いまもなく大統領の座から去った末に、[[1965年]][[2月25日]]に[[グエン・バン・チュー]]ら南ベトナム軍部強硬派によるクーデターにより失脚させられフランスへの亡命を余儀なくされる。その後同じく親米的な軍人である[[グエン・カオ・キ]]が首相に、チューが[[国家元首]]に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)する。
カーン将軍の失脚を機に再度亡命したミン元大統領は[[1968年]]に帰国するが、強硬派のチュー政権を支持せず、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。なお、ミン元大統領はその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたチューに代わり再び大統領に就任するものの、大統領就任翌日の4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった上に、南ベトナム最後の大統領となりその後北ベトナムに抑留されることとなった<ref name="kondoh">「サイゴンのいちばん長い日」[[近藤紘一]]著 サンケイ新聞 1975年</ref>。
この様に、南ベトナムの軍や政府の高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる権力獲得闘争に力を注ぎ、またアメリカから援助を受けた最新の兵器を装備した自軍の精鋭部隊の多くを、クーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その場合、多くが次のクーデターの際に反乱側の実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また[[士官]]から[[兵士]]に至るまで士気も上がらない状態になっており、この様な体たらくはベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続き、結果的に南ベトナム解放戦線と北ベトナムを利する結果となった。
=== トンキン湾事件 ===
{{Main|トンキン湾事件}}
[[ファイル:Tonkingunboats.jpg|thumb|アメリカ海軍のUSS マドックスが1964年8月2日に[[トンキン湾]]で撮影した北ベトナム海軍の[[魚雷艇]]]]
ジョンソンは、前任者のケネディが増強した「軍事顧問団」の規模を維持するだけにとどめた。しかし就任から9か月後の[[1964年]][[8月2日]]と[[8月4日]]に、ベトナム沖の[[トンキン湾]]で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇による[[アメリカ海軍]]の[[駆逐艦]]「[[マドックス (DD-731)|マドックス]]」への[[魚雷]]攻撃([[トンキン湾事件]])が発生し、ジョンソンはこの報復として翌[[8月5日]]より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動([[ピアス・アロー作戦]])を行った。
さらにこの軍事行動と合わせて、議会に北ベトナムからの武力攻撃に対する「あらゆる措置を取る」権限を大統領に与えるように求め、[[8月7日]]に[[アメリカ合衆国議会|上下両院]]でこの「{{仮リンク|トンキン湾決議|en|Gulf of Tonkin Resolution}}」が民主党と共和党の議員の圧倒的な支持で承認されて、ジョンソン大統領は実質の戦時大権を得た。
その後[[1971年]]6月に[[ニューヨーク・タイムズ]]の記者が、[[ペンタゴン・ペーパーズ]]と呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、8月4日の2回目の攻撃については、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカ軍と政府が仕組んだ捏造した事件であったことを暴露している。しかし捏造は8月4日の事件であり、8月2日に行われた最初の攻撃は、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることを、北ベトナム側も認めている。
[[ファイル:Robert S. McNamara and General Westmoreland in Vietnam 1965.png|thumb|right|南ベトナムを訪問するマクナマラ国防長官と[[南ベトナム軍事援助司令部]]の[[ウィリアム・ウェストモーランド|ウィリアム・C・ウェストモーランド]]司令官(右)]]
ベトナムにおけるアメリカによる軍事行動が次第に拡大していく可能性を有しながら、ほとんどが楽観的に見ていた状況で、[[1964年]]11月3日に[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]の一般選挙が行われた。トンキン湾事件の直後であったが、この時点においては南ベトナムに送られたアメリカ軍事顧問団の死傷者数もそれほど大きくなく被害も少なかったこともあり、ベトナム政策が選挙の大きな争点となることはなかった。そしてジョンソン大統領は圧勝し、議会でも与党民主党が大勝して与党が多数派となって自信を得て、選挙で選ばれた大統領として1965年1月から新しい任期に入った。
ジョンソン政権の新しい任期においても、マクナマラ国防長官や[[ディーン・ラスク]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]、[[ジョージ・ボール]]国務次官、[[マクジョージ・バンディ]]国家安全保障担当補佐官など、ケネディ政権においてベトナムへの軍事介入拡大を推し進めた閣僚や側近は留任し、ベトナム戦争の泥沼にアメリカを引き摺り込むこととなった。
=== 北ベトナム・中ソからの軍事援助 ===
北ベトナムの[[ベトナム労働党]]は第15回党大会を行った際、「南部における革命の基本的な方向は暴力を使用した革命であり、特殊事情、および現下の革命要請によれば、暴力使用路線は、軍事力と連動した形で帝国主義者の支配を転覆し、人民による革命的統治を築くため大衆の力を利用し、大衆の政治力に依存することを意味する」と結んでいたが、その5年後、本格的に南部に対する攻勢を高めていく。
アメリカによるベトナムにおける軍事活動が拡大を続ける中、1964年にソ連は北ベトナムへの全面的な軍事援助の開始を表明し、[[ソ連]]は軍事顧問団を派遣、1965年2月には[[アレクセイ・コスイギン]]首相がハノイ入りした。これまで北ベトナム軍への軍事援助を行っていた中華人民共和国からは軽火器の供給は豊富にあったが、[[1970年代]]になるまで重火器の供給はほとんどなかったため<ref>{{Cite web |url=http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php |title=Arms Transfers Database |date= |website=[[ストックホルム国際平和研究所]] |accessdate=2019-08-05}}</ref>、ゲリラ的な攻撃しか行うことができなかった。これ以降ソビエト連邦から最新式の戦闘機や戦車、対戦車砲などの重火器の供給を受けることが可能になり、軍事力の継続的な増強が実現する。
やがてソ連と対立([[中ソ対立]])していた中華人民共和国も、ソ連による北ベトナム軍への軍事援助の増大に対抗し、1965年5月には、秘密裏に[[中国人民解放軍]]の軍事顧問団の派遣を行った。これ以降北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線の標的は、南ベトナム軍だけでなく、南ベトナムに派遣されているアメリカ「軍事顧問団」へも向いていく。
=== 解放戦線の勢力 ===
この時期に、アメリカ軍事顧問団は解放戦線の兵力についての分析を行っていた。1965年当時アメリカ軍の推定では、解放戦線の主力軍兵力は1961年1万7,000人、1962年2万3,000人、1963年2万5,000人、1964年3万4,000人でほぼ3年間に倍増し、この他の自衛民兵や地方の小部隊組織の総人数は1960年7,000人と見積もっていたのが1964年には10万6,000人に達すると推定されて、1964年時点での兵力は合計14万人と見ていた{{efn2|同じ時期のベトナム労働党の評価は17万人であった。}}。この背景には、1959年から1964年までの5年間で北から南へ4万4,000人ほどが送られたと見られている。そしてその大半がもともとの南出身者で、当時ベトナム労働党は戦後に北へ来た人材から南に戻して、やがて彼らが解放戦線の主軸になっていった{{sfn|ベトナム戦争の記録編集委員会|1988|p=146}}。
一方、解放戦線の拠点となった農村においては、1964年3月にマクナマラ国防長官がジョンソン大統領に提出した報告書では農村の40%が解放戦線の支配下にあると見なしていたが、翌1965年4月にはサイゴン政権自身が南の農地の75%が解放戦線側に入ったと見なしていた{{sfn|ベトナム戦争の記録編集委員会|1988|p=161}}。
== 北爆 ==
[[ファイル:View of the flight deck of USS Ranger (CVA-61) in the South China Sea, 24 March 1965 (USN 1110187-C).jpg|thumb|空母「レンジャー」の艦上に駐機する[[ノースアメリカン]][[A-5 (航空機)|RA-5]]偵察機やマクドネル F-4戦闘機]]
[[ファイル:Mikoyan-Gurevich MiG-21PF USAF.jpg|thumb|ソ連から北ベトナム軍に貸与されたミコヤンMiG-21初期型]]
[[ファイル:Boeing B-52F-70-BW (SN 57-0162) in flight dropping bombs 061128-F-1234S-004.jpg|thumb|爆弾を投下するアメリカ空軍の[[ボーイング]][[B-52 (航空機)|B-52]][[戦略爆撃機]]]]
[[ファイル:F-4B VF-51 CVA-43.jpg|thumb|ベトナムへ向け出撃しようとしているF-4B戦闘機]]
[[ファイル:F-4B Phantoms of VF-161 and A-7C Corsairs of VA-86 drop bombs on Vietnam in March 1973.jpg|thumb|爆撃を行うF-4とA-7]]
1964年11月には[[ビエンホア]]の空軍基地が襲撃され5人の軍事顧問が死亡し、同クリスマスイブにはサイゴン市内のホテルで爆弾が仕掛けられて民間のアメリカ人2人が殺される。その後、ソ連のコスイギン首相が北ベトナムを訪問していた1965年2月7日に、[[プレイク]]のアメリカ軍事顧問団基地([[キャンプ・ハロウェイ]])が解放戦線によって攻撃され、駐留アメリカ軍将兵のうち7名が死亡し109名が負傷した<ref>「アメリカ20世紀史」229P 秋元英一・菅英輝 著 東京大学出版 2003年10月発行</ref>。この襲撃は、[[マクジョージ・バンディ]]大統領補佐官とホワイトハウス・アジア問題担当局長のチェスター・クーパーがアメリカの調査団としてサイゴンに到着した翌朝の出来事であったため、バンディはこれを北ベトナム政府からの挑発であると受け取り、この時に既に南ベトナムに派遣されていたウエストモーランド将軍と協議して軍事行動の強硬論に傾き<ref>[[有賀貞]]編著 『世界歴史大系〜アメリカ史2〜』 [[山川出版社]]、1993年7月、p. 410。</ref>、これが[[リンドン・ジョンソン]]米大統領が'''北爆'''(北ベトナムに対する爆撃)を決断するきっかけとなった。しかし、当時のベトナム側は前線部隊と司令部が綿密に連携するための通信能力をもっておらず、この攻撃は第五軍管区の一指揮官が独自判断で行った、わずか30名での遊撃的作戦に過ぎなかったことが後に判明している<ref name="missedoppotunities">{{cite book|title=我々はなぜ戦争をしたのか 米国・ベトナム 敵との対話(Missed Opportunities)|author=東大作|publisher=平凡社ライブラリー|pages=138-148|ISBN=978-4-582-76704-9}}</ref>。
=== ローリング・サンダー作戦 ===
{{main|ローリング・サンダー作戦}}
ジョンソン大統領は即日、既にベトナム近海に派遣していたアメリカ海軍の攻撃空母「[[コーラル・シー (空母)|コーラル・シー]]」や「[[レンジャー (CV-61)|レンジャー]]」、「[[ハンコック (空母)|ハンコック]]」などを中心としたアメリカ海軍[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]の艦載機を中心とした航空機で、首都の[[ハノイ]]や[[ハイフォン]]、[[ドンホイ]]にある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「[[フレイミング・ダート作戦]]」を命令した。[[3月26日]]には、初の大規模な組織的爆撃(北爆)である「ローリング・サンダー作戦」を発令し、北ベトナム沿岸部の島々とヴィン・ソンなどにある北ベトナム軍の基地を、空軍の[[F-100 (戦闘機)|F-100]]や[[F-105 (戦闘機)|F-105]]などの戦闘爆撃機などで爆撃させた。
このような状況を受けて、北ベトナムは[[ハイフォン]]、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。さらにはアメリカ軍による北ベトナム国内の空軍基地や飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に「聖域」を与えた。北ベトナム空軍に対してソ連から貸与された、[[MiG]][[設計局]][[MiG-17 (航空機)|MiG-17]]や[[MiG-19 (航空機)|MiG-19]]、[[MiG-21 (航空機)|MiG-21]]といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。なお、これらのソ連からの貸与機の一部は、北ベトナム軍[[パイロット (航空)|操縦士]]に操縦訓練を施すために派遣されたソ連人操縦士が操縦していたことが確認されている。
これに対して、アメリカ海軍航空隊の最新鋭機であるマクドネル[[F-4 (戦闘機)|F-4]]や[[F-105 (戦闘機)|F-105]]戦闘爆撃機の被撃墜が続出したことから([[4月29日]]には、中華人民共和国の[[領空侵犯|領空を侵犯]]したアメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが、[[中国人民解放軍空軍]]の戦闘機に撃墜されている)、[[誘導爆弾|精密誘導兵器]]をほとんど運用していなかった海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重な操縦士を大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、[[アメリカ合衆国国防総省]]も乏しい戦果の割に被害続出という[[コストパフォーマンス]]の悪さと操縦士の損失の多さを認め、1967年4月末には殆どの制限が撤廃された。
これは直ちに効果をあげ、その後北ベトナム軍は空軍基地や飛行場がアメリカ軍による大規模な爆撃を受けたために、迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭の[[F-111 (航空機)|F-111]][[戦闘爆撃機]]の他、北ベトナムから「死の鳥」と言われた[[ボーイング]][[B-52 (航空機)|B-52]][[戦略爆撃機]](「ビッグベリー」改造を受けたD型が主力)を投入、ハノイやハイフォンなどの大都市のみならず、北ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、[[ソビエト連邦]]や東欧諸国、[[中華人民共和国]]の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。
なお、[[グアム]]島や[[アメリカ合衆国による沖縄統治]]下であった[[沖縄本島]]のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや[[沖縄諸島|沖縄]]沖で「[[漁業]]操業」していたソ連や中華人民共和国のレーダー電波探信儀を満載した[[トロール船|偽装漁船]]から、逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。
その影響もあり、北ベトナム軍のミコヤンMiG-19やミコヤンMiG-21などの戦闘機や対空砲火、[[地対空ミサイル]]によるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な[[ジャミング|電波妨害]]装置と100発を超える爆弾搭載能力を持つアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイやハイフォンを始めとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などの[[インフラストラクチャー|インフラ]]は大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。
また、これらのアメリカ軍による北ベトナムへの本格的な空爆作戦に対して、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム指導部は「アメリカ軍による[[虐殺]]行為だ」と訴え続け、後に西側諸国における国民の大規模な[[反戦運動]]が活発化していく。
== 経過 ==
[[ファイル:DaNangMarch61965.jpg|thumb|ダナンに上陸するアメリカ海兵隊]]
[[ファイル:Napalm.jpg|thumb|南ベトナム解放戦線の拠点へ投下された[[ナパーム弾]]]]
[[ファイル:Members of 5 Platoon 7 RAR waiting for US Army helicopters in August 1967.JPG|サムネイル|ロイヤル・オーストラリア連隊第7大隊の隊員(1967年)]]
=== 米軍上陸 ===
ジョンソン大統領はトンキン湾決議に基づき、[[1965年]][[3月8日]]に[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]3,500人を南ベトナムの[[ダナン]]に上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。アメリカはケネディ政権時代より南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させており、その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、その後[[1964年]]末には計23,300名となったが、ジョンソンはさらに1965年[[7月28日]]に[[アメリカ陸軍|陸軍]]の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに「[[第3海兵師団 (アメリカ軍)|第3海兵師団]]」「第175空挺師団」「[[第1騎兵師団 (アメリカ軍)|第1騎兵師団]]」「[[第1歩兵師団 (アメリカ軍)|第1歩兵師団]]」計184,300名に膨れ上がった。こうして地上軍の投入により戦線が拡大していく{{efn2|地上部隊を派遣したのは南ベトナム国内だけで、北ベトナム領内には中華人民共和国の全面介入をおそれて派遣しなかった。}}。
=== 韓国軍・SEATO連合軍の参戦 ===
[[1961年]][[11月]]、[[5・16軍事クーデター|クーデター]]により政権を掌握した[[朴正煕]][[国家再建最高会議|国家再建最高会議議長]]はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開すること、また共産主義の拡大が自国の存亡に繋がるという強い危機感を持っていたためにベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた<ref name="asahi20080128">{{Cite web|和書| date = 2008-01-28 | url = http://www.asahi.com/international/history/chapter08/02.html | title = 韓国 軍も企業もベトナム参戦 | publisher = [[朝日新聞]] | accessdate = 2008-04-29 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20080429073438/http://www.asahi.com/international/history/chapter08/02.html | archivedate = 2008年4月29日 }}</ref>。ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると[[1964年]]から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた<ref name="asahi20080128"/>。
1965年7月12日、韓国政府はベトナム派兵案を[[国会 (大韓民国)|韓国国会]]に提出し、韓国国会は8月13日に派兵案を批准した<ref>朝鮮民主主義共和国のベトナム派兵 宮本悟(現代韓国朝鮮学会
2003/02)</ref>。1965年9月から10月にかけて[[大韓民国陸軍]]陸軍首都師団<ref>[[首都機械化歩兵師団 (韓国陸軍)]]</ref>(通称:フィアース・タイガー、猛虎師団<ref name="ddw">[[D.W.W.コンデ]]『朝鮮-新しい危機の内幕-』新時代社、1969年</ref>)の1万数千兵、および[[大韓民国海兵隊]][[第2海兵旅団 (韓国)|第2海兵旅団]](通称:ブルー・ドラゴン、青竜師団)もベトナムに上陸した<ref name="ddw"/>。1966年9月3日には同陸軍第9師団(通称:白馬部隊){{efn2|name="haku"|白馬部隊(白馬師団)第29連隊長として[[全斗煥]](後の大統領)が参戦している{{sfn|池東旭『韓国大統領列伝』中公新書、2002年154頁}}。}}もベトナムに上陸する<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2009/08/12/0800000000AJP20090812003600882.HTML 今日の歴史(9月5日)] 聯合ニュース 2009/09/05</ref>。
[[タイ王国]]や[[フィリピン]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]などの反共軍事同盟[[東南アジア条約機構]] (SEATO) の加盟国も、アメリカの要請によりベトナムへ各国の軍隊を派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては最大の兵力を投入した。厭戦気分が蔓延したアメリカ軍とは対照的に、韓国軍は[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]]まで、高い士気を維持した。韓国軍は[[南ベトナム解放民族戦線]]と北ベトナム正規軍に対して、それぞれ1:10、1:5という損害比で両勢力を圧倒し、民間人の虐殺も行われた([[ベトナム戦争#韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺]])。[[アメリカ陸軍特殊部隊群]]の一員としてベトナム戦争に従軍した[[三島瑞穂]]は、韓国軍について軍規の徹底、軍上層部の統率力という点で、アメリカ軍とは比較にできないほど優秀だったと言い、韓国軍は大任を果たして、満足感を堪能しながら故国に凱旋しただろうと述べている<ref name="mishima">三島2003、P203-205</ref>。
その目的はアメリカを軍事支援することによって『ベトナム特需』と『派兵の見返り』として援助などを獲得する経済的な理由によるものであった。これにより、韓国は1966年3月に[[李東元]]外務部長官とブラウン駐韓米大使との間で、米国から韓国への軍事援助と経済援助を約束するブラウン覚書が締結され<ref>[http://www.musashi.jp/~togo/articles/ベトナム戦争と東アジアの経済成長%20working%20paper.pdf<nowiki>] p10</nowiki> ベトナム戦争と東アジアの経済成長 2013 年 7 月 武蔵大学 東郷 賢]</ref><ref>{{Cite journal|author=伊藤正子|year=2010|title=韓国軍のベトナム派兵をめぐる記憶の比較研究 ― ベトナムの非公定記憶を記憶する韓国 NGO|url=https://doi.org/10.20495/tak.48.3_294|journal=|volume=|page=296}}</ref>、[[1965年]]から[[1972年]]にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンにベトナム特需に群がり[[サムスングループ|三星]]、[[ヒュンダイ|現代]]、[[韓進グループ|韓進]]、[[大宇財閥|大宇]]などの財閥が誕生した<ref name="asahi20080128" />。韓国の外国為替獲得高の4割は戦争収益が占め、GDPは3倍にまで成長した<ref>ウイルソン・センター 「Why Did South Korea Get Involved in Vietnam?」[https://digitalarchive.wilsoncenter.org/resource/modern-korean-history-portal/the-two-koreas-and-the-vietnam-war/why-did-south-korea-get-involved-in-vietnam]<br /></ref>。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、[[日本]]からは11億ドル、[[西ドイツ]]などの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった[[韓国軍|韓国軍人]]、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助([[1960年代]]後半の5年間で17億ドル)により韓国は[[漢江の奇跡]]と呼ばれる高度成長を果たした<ref>文京洙『韓国現代史』岩波書店</ref>。
5カ国の中で韓国軍に次ぐ戦死率のオーストラリア軍も激戦を繰り広げ、ベトナムに派遣した54両の[[センチュリオン (戦車)|センチュリオン]]戦車全てが損害を受けるなどした。オーストラリアは、共産主義の拡大を警戒し、ベトナムでの戦争がオーストラリア本土に波及しないように、未然に防ぐことを目的として、積極的にベトナム戦争に参加していた(前進防衛政策)<ref>藤川隆男(大阪大学大学院文学研究科教授) 「オーストリア小史」</ref> が、オーストラリアの場合は[[ベトナム反戦運動]]が盛んに行われたため、パリ協定を待たずに軍の撤退が始められた<ref>[http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/01212_VietnamWar.html オーストラリア辞典 ベトナム戦争]</ref>。<br />
{| class="wikitable"
|+ 参戦した韓国軍・SEATO連合軍兵士数の推移<ref name="yuihuruta">{{Harvnb|油井|古田|1998|p=333}}</ref>
! !! 1964年 !! 1965年 !! 1966年 !! 1967年 !! 1968年 !! 1969年 !! 1970年 !! 1971年 !! 1972年
|-
! 韓国軍
| 2000 || 20620 || 25570 || 47830 || 50000 || 48870 || 48540 || 45700 || 36790
|-
! オーストラリア軍
| 200 || 1560 || 4530 || 6820 ||7660 || 7670 || 6800 || 2000 || 130
|-
!タイ軍
| || 20 || 240 || 2200 || 6000 || 11570 || 11570 ||6000 || 40
|-
!フィリピン軍
| 20 || 70 || 2060 || 2020 || 1580 || 190 || 70 || 50 || 50
|-
!ニュージランド軍
| 30 || 120 || 160 || 530 || 520 || 550 || 440 || 100 || 50
|}
;アメリカ政府による韓国軍への給料支給
[[ファイル:CongressBuilding SEATO.jpg|thumb|1966年に[[フィリピン]]の[[マニラ]]で行われたSEATO会議に出席した南ベトナムのキ首相、オーストラリアの[[ハロルド・ホルト|ホルト]]首相、韓国の朴大統領、フィリピンの[[フェルディナンド・マルコス|マルコス]]大統領、ニュージーランドのホロヨーク首相、南ベトナムのチュー大将、タイ王国のキティカチョーン首相、アメリカのジョンソン大統領(左から)]]
韓国軍はアメリカ政府より支給を受けていた。韓国軍兵士は米軍兵士の約半額の60ドルを月々に支給されていた<ref name="ddw"/>。韓国軍兵士は戦地ベトナムで月に平均10ドルを消費し、残額を母国へ送金していた<ref name="ddw"/>。そうした母国への送金は家族だけでなく韓国政府の国庫を潤していると韓国政府が発言したことも当時報道されている<ref name="ddw"/>。
=== 北ベトナム軍陣地 ===
一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、「[[ホーチミン・ルート]]」を使って[[カンボジア]]国境から侵入、南ベトナム解放戦線とともに、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。北ベトナム軍は[[10月19日]]にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのが[[ベルエアクラフト]]製[[UH-1 (航空機)|UH-1]][[ヘリコプター]]だった。これは上空からの部隊展開([[ヘリボーン]])を可能にしたことで、この戦争の事実上の主力兵器として大量生産されることになる。
;イア・ドラン渓谷の戦い
[[1965年]][[11月14日]]に、アメリカ軍はカンボジア国境から東11kmの地点にあるイア・ドラン渓谷を中心とした数カ所に、初めてベルエアクラフト[[UH-1 (航空機)|UH-1]]を使って陸戦部隊を展開させた([[イア・ドラン渓谷の戦い]])。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが初めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。
=== サーチ・アンド・デストロイ(索敵殺害)作戦 ===
{{Seealso|ウィリアム・ウェストモーランド|en:William Westmoreland#Vietnam}}
アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入し、[[ヘリボーン]]作戦や[[森林戦]]を展開する。村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、[[殲滅]]する{{仮リンク|サーチ・アンド・デストロイ作戦|en|Search and destroy}}('''索敵殺害'''作戦<ref name="ddw"/>)は、[[ヘリコプター]]や航空機から放たれた[[ナパーム弾]]などによる農村部への無差別攻撃や、韓国軍兵士による村民への[[暴行]]、[[殺戮]]、[[強姦]]、[[略奪]]を引き起こすこととなった。アメリカ軍はゲリラ戦術のエキスパートである[[蔡命新]]に率いられた韓国軍による対ゲリラ戦術に対して批判的であったが、後に韓国軍の戦術を採用するようになった<ref>{{cite web |url=http://www.newsweek.com/2000/04/09/the-cold-warrior.html |title=The Cold Warrior |publisher=Newsweek |date=2000-04-09 |accessdate=2013-03-16}}</ref>。
* [[1966年]]、[[:en:Operation Attleboro]]([[ビンズオン省]][[:en:Dầu Tiếng District|Dau Tieng]]、[[9月14日]] - [[11月24日]])。
* [[1967年]]、[[:en:Operation Junction City]]([[タイニン省]]、[[2月22日]] - [[5月14日]])。
* [[1967年]]、[[:en:Operations Malheur I and Malheur II]]([[クアンガイ省]]、[[5月11日]] - [[8月2日]])。
==== 韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺 ====
*1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍は同年12月から翌1966年1月までに[[ビンディン省]]プレアン村、キンタイ村などを掃討、九つの村には[[化学兵器]]を使用し、また同時期に[[プウエン省]]のタオ村で女性市民42人全員を殺害した<ref name="ddw"/><ref>ハノイの日刊紙ニャンザン(人民)、解放民族戦線の報道による。コンデ同書。</ref>。
*1966年1月1日から4日にかけてブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方では市民の財産を略奪したり、[[カオダイ教]]寺院を焼き払い、仏教寺院から数トンの貨幣を横領した<ref name="ddw"/>。ナムフュン郡では老人と女性7人を防空壕のなかでナパームとガスで殺害し、[[アンヤン省]]の三つの村では110人、ポカン村では32人以上の市民を虐殺した<ref name="ddw"/>。
*さらに韓国軍は[[1966年]][[1月11日]]から19日にかけて、[[ジェファーソン作戦]]の展開されたビンディン省で400人以上のベトナム人市民<ref name="ddw"/> を、[[1月23日]]から[[2月26日]]にかけては同ビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した([[タイヴィン虐殺]])。
*[[1966年]]2月にはベトナム[[ビンディン省]]タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を虐殺([[タイビン村虐殺事件]]<ref name="asahi20080128"/>)、さらに2月26日には同[[ビンディン省]]で住民380人を虐殺した[[ゴダイの虐殺]]が発生する。韓国軍は女性137人、老人40人、子供76人を防空壕のなかへ押し込め殺害したり、目を潰したといわれる<ref name="ddw"/>。
*1966年3月26日から28日にかけて韓国軍はビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若とわず女性を集団強姦した<ref name="ddw"/>。同年8月までに韓国陸軍はビンディン省における焦土作戦を完了した<ref name="ddw"/>。
*1966年9月3日には韓国陸軍第9師団(通称:白馬部隊){{efn2|name="haku"}}もベトナムに上陸する。
*同1966年10月には共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が、ベトナム市民の結婚の行列を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦し、宝石を奪い、3人の女性を川の中へ投げ込む暴行事件が発生<ref name="ddw"/>。その後、[[メコン川]]流域で19人の少女の遺骸が発見される<ref name="ddw"/>。
一連の韓国軍のベトナムにおける活動について韓国政府は[[1967年]]5月、アメリカが与えてくれた援助に対する「お返し」の意味と、またこのような韓国軍の活躍は、韓国民に対して韓国が[[アジア]]平定に寄与するという誇りの感情を与えるもので、またアメリカとの交渉においても韓国の立場を向上させるものである、と記者会見で答えている<ref name="ddw"/>。[[アメリカ陸軍特殊部隊群]]の一員としてベトナム戦争に従軍した[[三島瑞穂]]は、ソンミ事件などの不祥事については、目に見えないゲリラが相手なので少々のラフプレイは仕方ないことだったと述べている<ref name="mishima"/>。2015年10月の朴大統領訪米に際して、韓国軍の被害にあったベトナム人女性らが韓国政府の謝罪と賠償を求めて『[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]』に[[意見広告]]を掲載した<ref name="NHK">{{Cite news|author=|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151016/k10010271961000.html|title=韓国軍の性的暴力訴え大統領に謝罪要求|newspaper=[[日本放送協会|NHK]]|publisher=|date=2015-10-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151015235157/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151016/k10010271961000.html|archivedate=2015-10-15|website=|deadurldate=}}</ref><ref name="東京新聞">{{Cite news|author=|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201510/CK2015101702000262.html|title=「韓国兵から性的暴行」 ベトナム女性ら謝罪要求 朴大統領に|newspaper=[[東京新聞]]|publisher=|date=2015-10-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151020004612/https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201510/CK2015101702000262.html|archivedate=2015-10-20|website=|deadurldate=}}</ref>。
;韓国海兵隊による「索敵殺害」
*その後、韓国海兵隊(青龍師団)が[[1968年]][[2月12日]]に[[クアンナム省]]フォンニィ・フォンニャット村の村民79人を殺害([[フォンニィ・フォンニャットの虐殺]])、同2月25日には同省ハミ村で村民135人を虐殺する([[ハミの虐殺]])。
=== ソンミ村虐殺事件と反戦運動 ===
*1968年3月16日には[[アメリカ陸軍]][[第23歩兵師団 (アメリカ軍)|第23歩兵師団]]第11軽歩兵旅団の[[ウィリアム・カリー (軍人)|ウィリアム・カリー]]中尉率いる第1小隊が[[クアンガイ省]]ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落において無抵抗の村民504人を無差別射撃などで虐殺する[[ソンミ村虐殺事件]]が発生し、この事件が報道されるとアメリカ国内で反戦運動が激化する。
その後アメリカは、北から南への補給路([[ホーチミン・ルート]])を断つため隣国[[ラオス]]や[[カンボジア]]にも攻撃を加え、ラオスの[[パテート・ラーオ]]やカンボジアの[[クメール・ルージュ]]といった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。
アメリカ空軍はこれらの地域を数千回[[空爆]]した他、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士や南ベトナム解放戦線のゲリラをあぶり出すために[[枯れ葉剤]]を撒布した。ラオスではこのとき投下された[[クラスター爆弾]]の[[不発弾]]が大量に埋まっており、戦争終了後も住民に被害を与え続けている。
=== チュー大統領就任 ===
[[ファイル:Nguyen Van Thieu with map (cropped).jpg|thumb|グエン・バン・チュー大統領]]
戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、[[1967年]][[9月3日]]に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年[[6月19日]]に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。
なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。
以後、強烈な反共主義者であるチュー大統領の下、南北ベトナムの対立は激しさを増してゆく。なお、チューは1971年に再選され、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。
=== 反戦運動 ===
{{see also|en:Opposition to United States involvement in the Vietnam War}}
[[ファイル:South Vietnamese cadets at Dalat.jpg|thumb|[[ダラット]]の基地内を行進する南ベトナム軍の士官候補生]]
[[ファイル:Lyndon Johnson meeting with civil rights leaders.jpg|thumb|[[ホワイトハウス]]でキング牧師(左)などの公民権運動の指導者と会談するジョンソン大統領]]
[[ファイル:Vietnamprotestors.jpg|thumb|反戦デモを行うアメリカの大学生]]
[[ファイル:Jlbedin3.JPG|right|thumbnail|「反戦パフォーマンス」である「ベッド・イン」を行う[[ジョン・レノン]](左奥)]]
{{出典の明記|section=1|date=2011年7月}}
1960年代の後半になると、戦争の激化とともに戦地から遠く離れているアメリカ本国にもテレビ報道やニュース映画フィルムにより、多くの国民が戦闘の場面を、その日のうちに視聴することで、事実を目の当たりにする時代に入っていた。
「戦争当事国」のアメリカ合衆国では、次第に反戦運動が高揚していた。[[1963年]]に[[奴隷]]解放100周年を迎え、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]][[牧師]]を中心にした、[[ネグロイド|黒人]]([[アフリカ系アメリカ人]])による[[人種差別]]撤廃闘争も、この時期に活発化して、「長く暑い夏」に都市での暴動が頻発するようになったが、当初はベトナム戦争に対する反対運動は抑えていた。
しかし1966年に、[[アメリカ合衆国上院]]の外交委員会(フルブライト委員長)でベトナム公聴会が開かれて、ジョンソンのベトナム政策は過剰介入だとする[[ジョージ・ケナン]]の批判が出て、1967年に入るとベトナム戦争への戦費拡大につれ、福祉予算が圧縮されることに不満を抱いたキング牧師らの[[公民権運動]]の指導者は、公然と反戦の声を出し始めた。
これらの運動に、さらに大学生の[[学生運動]]が結びつき、1967年4月に全米で広汎な人々が反戦集会を組織して、やがて反戦運動が全米を覆い、[[ニューヨーク]]では大規模な反戦[[デモ活動|デモ行進]]が行われて、同年秋の[[10月21日]]に首都[[ワシントンD.C.]]で最大規模の反戦集会([[ペンタゴン大行進]])が開催された。さらに翌1968年1月の「[[テト攻勢]]」(後述)によって、反戦運動は大きく盛り上がった。
ジョンソン政権は、戦場におけるアメリカ兵の[[士気]]の低下、国内外の組織的、非組織的な反戦運動と、テレビや[[新聞]]、[[雑誌]]の各種[[メディア (媒体)|メディア]]による、戦争反対の報道に苦しむことになった。除隊した[[ベトナム帰還兵]]による反戦運動も盛り上がりを見せた。1967年には{{仮リンク|ベトナム反戦帰還兵の会|en|Vietnam Veterans Against the War}}(VVAW)が結成された。VVAWは最盛期には30,000人以上を組織化し、[[ロン・コーヴィック]](『[[7月4日に生まれて]]』の著者)や[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]](2004年民主党大統領候補者)のような負傷兵が中心となって運動が広がった。
そして、ベトナム戦争の最盛期だった[[1968年]]初頭には最大で54万9千人のアメリカ合衆国軍人が南ベトナム領土内に駐留し、ベトナム周辺の海上に展開する海軍や、フィリピン、大韓民国、日本、グアム、ハワイ、米本土西海岸などの後方基地からも含めて大軍が投入されたが、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線と対峙するアメリカ軍・南ベトナム軍・連合軍にとって戦況の好転はみられなかった。
1967年11月に、それまで北爆を推進してきた、ベトナム戦争の最高責任者であった[[ロバート・マクナマラ]][[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]が辞意を表明した。彼はその前年に北爆を縮小するよう大統領に進言し、1967年5月には解放民族戦線を含めた連立政権を受け入れるべきと主張する<ref>「現代アメリカ政治〜60-80年代への変動過程〜」113P</ref> までになり、この時点で既に[[アメリカ合衆国政府]]内でも、ベトナム戦争の続行に疑問の声が出るようになった。しかしジョンソン大統領は依然として軍事強化の路線を変えなかった。
兵士の間にも厭戦機運が芽生え始め、1967年10月26日には[[西ベルリン]]の米軍司令部内からベトナム兵役から逃れ、[[カナダ]]や[[北欧]]へ[[亡命]]するよう呼びかける[[チラシ|ビラ]]が出回っていたことが判明した<ref>「亡命呼びかけのビラを発見」『朝日新聞』昭和42年10月28日朝刊、12版、14面</ref>。また、この頃にはベトナムに派遣された兵士の中から逃亡する者も増え始め、常時40-50人の[[敵前逃亡|逃亡兵]]が発生していた<ref>「米軍逃亡兵が麻薬売買 サイゴン ヤミ市へ横流しも」『朝日新聞』昭和42年10月28日朝刊、12版、14面</ref>。{{-}}
=== テト攻勢 ===
[[ファイル:F-4Bs VMFA-115 323 DaNang Jan1966.jpg|thumb|米軍の前線基地]]
[[ファイル:US Embassy, Saigon, January 1968 (Colorized).jpg|代替文=|サムネイル|南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵に占拠されたサイゴンのアメリカ合衆国大使館]]
[[ファイル:Saigon Execution.jpg|thumb|南ベトナム政府の[[グエン・ゴク・ロアン]]警察庁長官により射殺される解放民族戦線将校の[[グエン・ヴァン・レム]]。[[エディ・アダムズ (写真家)|エディ・アダムズ]]の撮影]]
[[ファイル:BeheadedVCVietnamGIMay1968.jpg|thumb|アメリカ軍特殊部隊による、南ベトナム解放戦線兵士の首狩り記念写真]]
{{Main|テト攻勢}}
北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、[[旧正月]](テト)休戦を南ベトナム軍とアメリカ軍に打診したが、体勢を立て直す時間を与えるだけだとして拒否されたため、旧正月下の[[1968年]][[1月29日]]の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃([[テト攻勢]])を開始した。南ベトナム解放民族戦線の[[ゲリラ]]兵はわずか20人で「要塞」とも称された、サイゴン市のアメリカ合衆国[[大使館]]を一時占拠し{{efn2|1月31日にサイゴンのアメリカ大使館に決死隊20名が突入占拠し約6時間の交戦の後に19名が死亡し、1名が捕虜となった。この時の戦闘でアメリカ兵4名も死亡している{{sfn|ベトナム戦争の記録編集委員会|1988|p=30}}。}}、その一部始終がアメリカ全土に生中継された。また、南ベトナムの首都[[サイゴン]]にあるアメリカ軍の放送局も占拠され爆破された。
サイゴン市内やダナン市内などの基地に急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、一時的に混乱状態に陥ったものの、すぐに体勢を立て直し反撃を開始して、物量で圧倒的に劣る南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、[[2月1日]]にジョンソン大統領はテト攻勢は失敗したと声明した。しかし解放民族戦線側は6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、そして米軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。後にこのテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍3,895人、南ベトナム軍兵4,900人、解放民族戦線5万8,373人であったとアメリカ軍は明らかにしている{{sfn|ベトナム戦争の記録編集委員会|1988|p=30}}。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人であり、その30%余りをこのテト攻勢のわずかな期間に失ったこの事実はしばらくは明らかにされなかったが、このテト攻勢でジョンソン政権が受けたダメージは大きく、アメリカ国内でのベトナム戦争に対する見方が変わり、その後の行方に影響を与えた。
また、テト攻勢の最中に南ベトナムの[[グエン・カオ・キ]]副大統領の側近である[[グエン・ゴク・ロアン]]{{efn2|その後、アメリカに亡命して1988年時点ではアメリカのバージニア州に在住している。}} 警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校の[[グエン・ヴァン・レム]]を路上で射殺する瞬間の映像がテレビで全世界に流された([[グエン・ヴァン・レムの処刑]])。まだ裁判すら受けていない彼を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣の[[カメラ]]を前にして射殺する様子は、世界中に大きな衝撃を与えた。この瞬間を撮影したアメリカ人報道[[カメラマン]]の[[エディ・アダムズ (写真家)|エディー・アダムス]]は、その後[[ピュリッツァー賞]]の報道写真部門賞を受賞した。
テト攻勢におけるこれらの実際の戦況とアメリカ政府の発表との間のギャップや、現実の戦闘を目の当たりにして、ベトナム戦争(と南ベトナム政府)に対するアメリカの世論が大きく変化し始めた。またテト攻勢で南ベトナム解放民族戦線の損失も大きく、北ベトナムも援助を強化して、その後のベトナム戦争は、南ベトナム政府軍・アメリカ軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。
=== フエ事件 ===
{{main|{{仮リンク|フエの戦い|en|Battle of Hue}}|{{仮リンク|フエ虐殺|en|Massacre at Hue|label=フエ事件}}}}
テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれた[[フエ]](なお、当時の新聞表記は「ユエ」である)では、[[1月30日]]から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な政府関係者や市民への虐殺事件「{{仮リンク|フエ虐殺|en|Massacre at Hue|label=フエ事件}}」が発生した。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと伝えられている。犠牲者は、南ベトナム政府の役人や軍人・[[警察]]官だけでなく、[[学生]]や[[キリスト教]]の[[神父]]、外国人[[医師]]などの一般人にまで及び、アメリカ軍による発表によれば犠牲者全体の総数は2000人以上であるとされている。
テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と南ベトナム解放民族戦線の攻防戦が続けられていた。
=== アメリカの国内の混乱と北爆停止 ===
[[ファイル:Dean Rusk, Lyndon B. Johnson and Robert McNamara in Cabinet Room meeting February 1968.jpg|thumb|[[ディーン・ラスク]]国務長官(左)と[[ロバート・マクナマラ]]国防長官(右)とともに[[閣議]]に臨むジョンソン大統領]]
すでに、アメリカ軍が介入してから3年が過ぎて、一定の戦果もなく、ずっと兵力を暫時投入してエスカレーションさせて戦闘が拡大するばかりだが、まだアメリカが優勢であるという一般的な見方が崩れて懐疑的となり、それまで苦しくてもベトナム戦争を支持していた層もジョンソン大統領の対応のまずさを批判するようになった。
テト攻勢後、1968年2月にアメリカのジャーナリストで「アメリカの良心」ともいわれて人気のあった[[ウォルター・クロンカイト]]が「民主主義を擁護すべき立場にある名誉あるアメリカ軍には、これ以上の攻勢ではなく、むしろ交渉を求めるものであります」と厳しい口調で発言して戦争の継続に反対を表明、アメリカの世論に大きな衝撃を与えた。ジョンソン大統領は、「クロンカイト(の支持)を失うということは、アメリカの中産階級(の支持基盤)を失うということだ」と嘆いたという。その後保守派の多くもベトナム戦争の継続に懐疑的になっていった。
1968年は大統領選挙の年で、ジョンソンは2回目の大統領選への出馬を目指していた。テト攻勢後の3月に[[ニューハンプシャー州]]の民主党予備選では[[ユージーン・マッカーシー]]に対して勝利したが、得票率で50%を割り、この結果を見てケネディ大統領の弟[[ロバート・ケネディ]]が大統領選への出馬を表明して、世論調査で自身への支持率が最低を記録し、政治的に苦しい立場に立たされた。またケネディ政権においてベトナムへの軍事介入を自らの「分析」を元に積極的に推し進め、ジョンソン政権でもアメリカ軍の増派を推し進めたものの、1966年頃から北爆の中止を求めてジョンソン大統領と意見が対立し前年11月に辞意を表明したマクナマラ国防長官が[[2月29日]]に辞任した。そして後任の[[クラーク・クリフォード]]国防長官は就任早々、ウエストモーランド司令官からの20万人増派の要求を受けて省内でベトナム戦争についての意見をまとめて、今後のベトナム政策の全面見直しをジョンソンに提言して、もはや兵力を増派して軍事面を強化することができない局面に至った。
[[3月31日]]にジョンソン大統領は、テレビによる演説で北爆の部分的停止と、北ベトナムに対して無条件での交渉を呼びかけて、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由として、ベトナム戦争に対するアメリカ国内の世論が分裂して、国論の統一に残りの任期を費やすことを挙げた。
反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者の[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]][[牧師]]は、[[4月4日]]に[[コーカソイド|白人]]の[[ジェームズ・アール・レイ]]に遊説先の[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]市内のホテルで暗殺される。さらに、公民権運動団体などを中心とした支持を受けて、民主党の大統領予備選に出馬し優位に選挙戦を進めていたロバート・ケネディが、[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]市内の[[ホテル]]で遊説中の[[6月5日]]に、[[パレスチナ]]系アメリカ人の[[サーハン・ベシャラ・サーハン]]に暗殺された。
相次ぐ暗殺事件に続いて、[[8月26日]]から29日にかけて、民主党の大統領候補を指名するための党大会が[[シカゴ]]市内のホテルで行われた。シカゴ市内では学生を中心に大規模かつ暴力的な反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、リチャード・J・デイリー市長の指示により、市警官隊がデモ隊に対して暴力的な弾圧を行い多数が逮捕された。ジョンソン大統領は自らの党大会であるにもかかわらず、会場内外における混乱を避けるため出席することはかなわなかった。このように国内情勢が混乱する中、ジョンソン大統領は[[1968年]]10月に北爆を全面停止した。この間、ベトナムは中国やソビエト連邦の支援の元で兵站や装備の調達やインフラの整備を行ったがアメリカ以外の空軍により度々猛攻を受けた。
=== ニクソン政権 ===
[[ファイル:Richard Nixon campaign rally 1968.png|thumb|選挙戦を戦うリチャード・ニクソン]]
[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選本戦]]では、民主党はユージーン・マッカーシーや[[ジョージ・マクガヴァン]]を破り大統領候補に選出された[[ヒューバート・ホレイショ・ハンフリー]]を候補に立てて戦ったものの、ベトナムからのアメリカ軍の「名誉ある撤退」と、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対し「法と秩序の回復」を強く訴えた[[共和党 (アメリカ)|共和党]]選出の[[リチャード・ニクソン]]に敗北し、[[1969年]][[1月20日]]にニクソンが大統領に就任した。
ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。
なお、就任以前から段階的撤退を訴え、大統領選挙時には「名誉ある撤退を実現する"秘密の方策"がある」と主張していたニクソン大統領は、就任直後から[[ヘンリー・キッシンジャー]][[国家安全保障担当大統領補佐官]]に、北ベトナム政府との交渉([[パリ和平会談]])を開始させた。
;サイレント・マジョリティ
[[ファイル:Woodstock redmond hair.JPG|thumb|[[ウッドストック・フェスティバル]]に半裸で集うヒッピー]]
民主党大会の際のシカゴ市内における混乱が象徴するように、[[反戦運動]]が過激化していたことに対して、「法と秩序の回復」を訴え当選した[[リチャード・ニクソン]]は、「沈黙した多数派層([[サイレント・マジョリティ]])」に対して行動を呼びかけた。ニクソンの支持母体は、アメリカにおける[[マジョリティ]](多数派)である、保守的な思想を持つ[[ブルーカラー]]を中心とした白人保守派層が中心であり、軍に徴兵されベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らそのものや彼らの子供であった。彼らの多くは、徴兵猶予などでベトナムへの派兵を免れることのできる比較的裕福な大学生や、徴兵されることのない都市部の[[ホワイトカラー]]のリベラル層やインテリ層、既存の概念を否定しつつ自らは巧みに徴兵を逃れようとする反体制的な[[ヒッピー]]、そしてこれらを中心に過激化する反戦運動に反感を持っていた{{efn2|反戦運動は必ずしも大学生や裕福な層だけのものではない。ベトナム戦争から戻ってきた兵士も反戦運動に加わることもあった。また反戦運動には加わらなくても、保守派内でもベトナム戦争を早く終わらせる考えが強く、明確に戦争を支持する人々は68年以降は少なく、たんに反感ではなく当時のアメリカ国内で国論を分裂させたベトナムからの撤退を願う人々が多かった。その意味ではサイレントマジョリティーも反戦であった。}}。彼らはニクソンの訴えに応じて、こうした白人保守派層の巻き返しがあり、それらがニクソン大統領の当選につながった。しかしニクソン政権の時代に入っても、カンボジアやラオスへの侵攻、ジョンソン時代を上回る北爆の強化で、ニクソンはアメリカ軍の撤退を進めながら逆に戦線が拡大することもあり、1973年のベトナム撤退まで反戦運動が収まることはなかった。
この年の7月には[[アポロ11号]]が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから[[宇宙]]へと移り、10月には再び反戦デモが発生したが、それはローソクに火を灯しながら行進を行う、静かなものに変わりつつあった。
=== 中ソ対立の激化とデタント ===
[[ファイル:Richard M. Nixon and Leonid Brezhnev-1973.jpg|thumb|ニクソン大統領(左)とソ連の[[レオニード・ブレジネフ]]書記長]]
ベトナム戦争においては双方ともに北ベトナムを支援していたものの、ソビエト連邦と中華人民共和国の間では関係が悪化していた。[[中ソ対立]]により両国間の政治路線の違いや[[領域 (国家)|領土]]論争をめぐって緊張が高まり、中華人民共和国内で[[文化大革命]]が先鋭化した[[1960年代]]末には、4,380kmの長さの[[国境|国境線]]の両側に、658,000人の[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]部隊と814,000人の中国人民解放軍部隊が対峙する事態になった。
[[1969年]][[3月2日]]に、[[ウスリー川]]の[[中州]]・[[珍宝島|ダマンスキー島]](珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士による衝突、いわゆる「[[中ソ国境紛争|ダマンスキー島事件]]」が起こった。さらに[[7月8日]]には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し、8月には[[ウイグル]]でも衝突が起きるなど、極東および[[中央アジア]]での更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え[[核兵器]]使用の準備を開始した。
このような状況を受けて、[[レオニード・ブレジネフ]]書記長率いるソ連は、急激に対立の度を増していた中華人民共和国を牽制する意味もあり、アメリカとの間の緊張緩和を目論み、直接交渉に入ることとなる。また、就任以来東西陣営の融和進展を模索していたニクソン大統領もこれを積極的に受け入れ、11月からは[[戦略兵器制限交渉]]の予備会談が行われ、[[1970年]]4月からは本会談に入るなど、米ソ間の関係は緊張緩和([[デタント]])の時代に入る。
=== ホー・チ・ミン死去 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-48579-0009, Stralsund, Ho Chi Minh mit Matrosen der NVA.jpg|thumb|東ドイツを訪問したホー・チ・ミン(中央)]]
フランスの植民地時代から、ベトナムの独立と南北ベトナム統一の指導者として活発に活動していた北ベトナムの最高指導者であるホー・チ・ミンは、[[1951年]]のベトナム労働党主席への就任後は、第一次インドシナ戦争の指導や日常的な党務、政務は総書記(第一書記)および政府首脳陣、軍部指導者などに任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中し、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]や[[中華人民共和国]]などの友好国を訪問するなど、事実上北ベトナムの精神的指導者となっていた。
戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの、ベトナム戦争の勃発後も、ソ連や中華人民共和国などの共産圏を中心とした友好国からの軍事的支援や、西側諸国の左派勢力や左派メディアを通じて反戦・反米運動への支援を得るために、北ベトナムを訪れた[[イタリア共産党]]の[[エンリコ・ベルリンゲル]]党首や、中華人民共和国の[[周恩来]]首相と会談するなど、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、1969年9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の突然の死は、戦時下の北ベトナム国民をより強く団結させる結果を生んだ。
[[ホー・チ・ミン]]は[[中ソ対立]]による国際共産主義運動の分裂を深刻に憂慮していた。中ソ対立の影響により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した。以後北ベトナムは、テト攻勢を境とした自軍の戦闘スタイルの変化やアメリカ軍による北爆の強化へ対応するため、ソ連への依存を強めていった。
=== カンボジア侵攻 ===
{{Main|カンボジア作戦}}
[[ファイル:11ACRCambodia1970.jpg|thumb|カンボジア戦線に展開するアメリカ軍の[[戦車]]]]
[[ファイル:NixononCambodia.jpg|thumb|カンボジア戦線の説明を行うニクソン大統領]]
南北ベトナムの隣国の[[カンボジア]]では、[[1970年]]3月に、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあり「容共的元首」であるとしてアメリカが嫌っていた[[ノロドム・シハヌーク]]国王の外遊中に、シハヌークの従兄弟の[[シソワット・シリク・マタク]](副首相)と[[ロン・ノル]]国防大臣の率いる反乱軍が[[1970年カンボジアクーデター|クーデター]]を決行し成功させた。反乱軍はその後ただちにシハヌーク国王一派を国外追放し、シハヌークの国家元首からの解任と王制廃止、[[共和制]]施行を議決、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「[[クメール共和国]]」への改名を宣言した。反乱にはアメリカの援助を受けたという説がある。
このような状況の中、[[1970年]][[3月29日]]、北ベトナムはカンボジアに対する攻撃を開始した。この侵攻の理由であるが、公開された[[ソビエト連邦|ソ連邦]]時代の記録文書から明らかになったところによると、この攻撃は[[クメール・ルージュ]]の[[ヌオン・チア]]からの明確な要求によって行われたとされている{{refnest|name="Mosyakov"|Dmitry Mosyakov, “The Khmer Rouge and the Vietnamese Communists: A History of Their Relations as Told in the Soviet Archives,” in Susan E. Cook, ed., Genocide in Cambodia and Rwanda (Yale Genocide Studies Program Monograph Series No. 1, 2004), p54ff. (
[https://web.archive.org/web/20130309074636/http://www.yale.edu/gsp/publications/Mosyakov.doc オンライン版]){{efn2|『1970年4月から5月にかけて、ポル・ポトではなく腹心のヌオン・チアによる要請を受け、多くの北ベトナム軍部隊がカンボジアに侵入した。Nguyen Co Thachは「ヌオン・チアからの要請を受け、我々は10日でカンボジアの5州を解放した」と回想している』<br>"In April–May 1970, many North Vietnamese forces entered Cambodia in response to the call for help addressed to Vietnam not by Pol Pot, but by his deputy Nuon Chea. Nguyen Co Thach recalls: "Nuon Chea has asked for help and we have liberated five provinces of Cambodia in ten days.""}}}}。北ベトナム軍はカンボジア東部を瞬く間に蹂躙し、[[プノンペン]]の24km以内に迫った。カンボジア軍を破った後、北ベトナム軍は獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡していった。一方、クメール・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部に「解放区」を打ち立てた。クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の[[首都]]である[[北京市|北京]]に留まり、そこで[[中国共産党]]政府の庇護の下、亡命政権の「[[カンプチア王国民族連合政府|カンボジア王国民族連合政府]]」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したクメール・ルージュを嫌っていたが、中華人民共和国の[[毛沢東]]や[[周恩来]]と[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[金日成]]らの説得によりクメール・ルージュとその指導者[[ポル・ポト]]らと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。この後、ロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けたクメール・ルージュの間で[[カンボジア内戦]]([[1970年]] - [[1975年]])が始まった。
なお、ロン・ノル政権は、北ベトナムへの対応措置として、カンボジア在住のベトナム人への収容・虐殺を行い、多くのベトナム人が殺されたり南ベトナムに避難し、ロン・ノル政権は、南北ベトナム双方から強く批判された。
北ベトナムのカンボジア侵攻に対して、[[4月26日]]には、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シハヌーク・ルート」の遮断を目的として、ロン・ノルの黙認の元、カンボジア東部領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くことが目的とされている。
[[1975年]][[4月30日]]午後7時、南ベトナムとアメリカの連合軍は、カンボジアへの侵攻を開始。地上軍の展開のほか、B-52による空爆も加えた<ref>「米地上軍が出撃 米大統領が発表 カンボジア領内」『朝日新聞』昭和45年(1975年)5月1日夕刊、3版、1面</ref>。圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早々と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。
=== ラオス侵攻 ===
カンボジア東部の侵攻から10ヵ月後の1971年1月末、ラオス南東にある「ホーチミン・ルート」の遮断とその兵站基地を破壊を目的として、アメリカ軍と南ベトナム軍はラオス領内に侵攻した。'''ラムソン719'''と名付けられたこの侵攻作戦はカンボジア侵攻と同じく、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することを目的としており、1970年から始まっていたアメリカ軍が撤退した後の兵力を、アメリカ製の兵器で武装して、約100万人の兵力を保有していた南ベトナム軍{{efn2|南ベトナム軍は、正規軍・地方軍・民兵で構成されており、1971年においては、正規軍51万6000人、地方軍と民兵53万2000人の計104万8000人の兵力であった。だが、約半数を占めていた地方軍と民兵は、装備が劣っていた北ベトナム軍・南ベトナム解放民族戦線には太刀打ちができず、1972年以降においては、年を追うごとに人数を減らされていった。}} とする「ベトナム化」政策により、地上戦闘は南ベトナム軍が主力として担当し、輸送・航空支援はアメリカ軍が担当した。そのため、南ベトナム軍が北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線に対抗できるかを試される戦いでもあった。
侵攻後にアメリカ軍は、ヘリボーン輸送によりラオスに3つの拠点を置いたものの、ラオス領内に潜んでいた北ベトナム軍により多数の対空陣地の火器と戦車の攻撃を受けて、南ベトナム軍は大きな損害を受けてしまい、それを支援するアメリカ軍のヘリコプターも、この攻撃により数を減らしていき、作戦はうまく進展しなかった。その後、アメリカ軍と南ベトナム軍は1万人の兵力を増強して態勢の立て直しを図り、ようやくラオスの小都市であるチュポンを占領して周辺の補給基地・物資集積所を破壊したものの、数日後に北ベトナム軍がアメリカ軍の爆撃による損害を覚悟の上で大兵力による強力な反撃を行い、この反撃を受けたアメリカ軍と南ベトナム軍はチュポンを放棄して撤退せざるをえなくなり、3月末にはラオス領内から完全に撤退して作戦は失敗に終わった。
この戦いにより「ホーチミン・ルート」の遮断は永続的に不可能になったばかりでなく、南ベトナム軍の戦力の限界を示すことになり、この戦争に勝利することが不可能となった。
{{main|{{仮リンク|バンドンの戦い|en|Battle of Ban Dong}}|{{仮リンク|723高地の戦い|en|Battle of Hill 723}}|ラムソン719作戦}}
=== 米中接近と北爆再開 ===
[[ファイル:Boeing B-52 dropping bombs.jpg|thumb|爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52]]
就任以前から泥沼化していたベトナム戦争から、段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、[[1969年]]1月の大統領就任直後より、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との和平交渉を開始させたが、幾度も暗礁に乗り上げて交渉は難航した。
この頃の北ベトナムの有力な支援国は中国であり、表向きこそ否定していたが1964年から1971年まで間にのべ30万人の正規軍を派遣、さらに軍事援助も行うなど戦争の支援を行っていた<ref>30万人派遣していた 中国軍、ベトナム戦争中に 数字めぐり中越が応酬『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月31日朝刊 13版 7面</ref>。
1971年7月にニクソン大統領は[[中華人民共和国]]を訪問する意向を発表し([[ニクソン・ショック]])、翌[[1972年]][[2月21日]]に[[ニクソン大統領の中国訪問]]は行われ、[[毛沢東]]主席および[[周恩来]]首相と直接対話を始めた。この前年の7月に、ニクソン大統領はキッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官を中国に派遣して、周恩来首相と極秘に会談を行わせていた。両国はこの時から関係強化を目指して幾度となく交渉を重ねていた。ニクソン大統領が中国を訪問したことは、当時ソ連と[[中ソ対立]]していた中国に近づくことで対ソ連外交での中国カードという外交手段を持つのみならず、北ベトナムを孤立させ、同じく深い関係を持つカンボジアに影響力を持っていることで、米中接近がベトナム戦争でニクソン政権が望む「名誉ある撤退」と、今後の[[東南アジア]]への米国の影響力を確保することを目指していたと考えられる。
中華人民共和国としても、ニクソン政権下でソ連と友好的な関係を保っていた米国と接近することは、[[文化大革命]]が最も激しい時期であった、1969年に勃発した[[ダマンスキー島事件]]以降、関係が極度に悪化していたソ連を牽制すると同時に、文化大革命以後停滞していた、中国外交の主導権を取り戻すという意味があった。ただ極秘裏で行われたキッシンジャーの訪問後に、中国国内で文革推進の旗頭であった[[林彪]]の失脚・亡命・墜落死という事態を生じ、毛沢東の高齢化、中国共産党内での周恩来の実権掌握が明らかになり、やがて[[鄧小平]]の復活と近代化路線が前面に現れてくることで、この米中接近は中国にとっても大きなターニングポイントとなった。
さらにアメリカ軍は講和条件を有利にするため、カンボジア・ラオス領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、同年3月末には、北ベトナム軍が戦車多数を含めた大兵力で非武装地帯を横切って南ベトナムに侵攻する大攻勢を始めたため{{efn2|この大攻勢は、復活際(イースター)攻勢(Easter Offensive)と呼ばれている。}}、講和を急いだニクソン大統領は[[5月8日]]に北爆再開を決定した([[ラインバッカー作戦]])。
ラインバッカーI作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「[[ホーチミン・ルート]]」を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。アメリカ空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な[[戦略爆撃]]を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。この作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えられ、15000機の航空機が参加して60,000トンの爆弾を投下するとともに、ハイフォン港などの北ベトナムの港湾を機雷で封鎖した{{efn2|その中で、航空機からの敷設機雷は5000個に及んだ。}}。
特に[[12月18日]]に開始された「ラインバッカーII作戦」では、爆撃の効果を上げるため、首都ハノイとハイフォン港の2つを目標とし、2週間で20,000トンの爆弾が投下され、その内容としては、ボーイングB-52戦略爆撃機150機による700回出撃に及ぶ夜間[[絨毯爆撃]]で15,000トン、アメリカ海・空軍の攻撃機での爆撃で5,000トンに及んだ、そのため、ハノイやハイフォン港の区域は完全に焼け野原になり、軍事施設だけでなく電力や水などの生活[[インフラストラクチャー]]にも大きな被害を与えた。さらに新たに前線に投入された音速爆撃機の[[ジェネラル・ダイナミクス]][[F-111 (航空機)|F-111]]や、開発に成功したばかりのレーザー[[誘導爆弾]][[ペイブウェイ]]、TV誘導爆弾[[AGM-62 (ミサイル)|AGM-62 ウォールアイ]]などのハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋や[[ハムロン橋|タンホア鉄橋]]といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。
海上でも[[ハイフォン]]港等の重要港湾施設に対する大規模な[[機雷]][[海上封鎖|封鎖]]作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国、北朝鮮をはじめとする[[東側諸国]]から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた[[中立国]]船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助のほとんどがストップした。中には勇敢にも[[封鎖突破船|強行突破]]を図った北ベトナム艦船もいたが、そのほとんどは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や[[ベトナム共和国海軍|南ベトナム海軍]]船艇の攻撃を受け、撃沈、阻止されていった。
[[ファイル:Vietnam1973.JPEG|thumb|戦時下のハノイ]]
アメリカ軍による対日戦並の本格的な戦略爆撃や、南ベトナム海軍とアメリカ海軍が共同で行った機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収めた。北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被り、北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底、継戦不能な事態に陥った。
この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。
アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せて只でさえ貧弱な北ベトナムの[[インフラストラクチャー]]にも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。
北ベトナム軍にとって幸いなことに、[[クリスマス]]休暇中による再度の北爆は、国際社会の轟々たる批難と反発を受け、短期間で中止されたが、[[アメリカ合衆国連邦政府]]の目論見通り、この空爆の成功は、北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追い込む事に成功した。
北ベトナム政府は、中国が同時期に北ベトナムへの大規模な軍事作戦も始めたニクソン政権と接近していることを「自国に対する中国の裏切り行為」と受け止めた。ニクソンの訪中から3か月後に行われた米軍による北爆再開と海上封鎖も中国の了解を得たとされ、ベトナム共産党書記局員で党機関紙編集長も務めたホアン・トゥンは「中国は『中国を攻撃さえしなければよい』と米国に言った」と証言している<ref>[[稲垣武]]『「悪魔祓(あくまばら)い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』 第21章 PHP研究所、2015年2月、ISBN 978-4-569-82384-3</ref>。
以後北ベトナム政府は、[[中ソ対立]]で中華人民共和国と対立するソビエト社会主義共和国連邦との関係を強化し、北ベトナムと中国との関係悪化は決定的になった。
== パリ和平協定調印 ==
[[ファイル:Vietnam peace agreement signing.jpg|thumb|パリ和平協定への調印を行うアメリカのロジャーズ国務長官]]
アジア各国を取り巻く状況が目まぐるしく推移する中、1972年秋頃に、パリで秘密交渉が持たれて合意に向けた動きが加速し、和平交渉開始から4年8か月経った、[[1973年]][[1月23日]]に、[[フランス]]の[[パリ]]に滞在する、北ベトナムの[[レ・ドゥク・ト]]特別顧問と[[ヘンリー・キッシンジャー]]大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印にこぎつけた。そして4日後の[[1月27日]]に、南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間で[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]]が交わされた。
なお、この「和平協定」調印へ向けて、様々な調整を行った功績を称え、レ特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官には[[ノーベル平和賞]]が贈られたが、レ特別顧問は「ベトナム戦争が終結していないこと」「ベトナム統一が実現していないこと」「ベトナムにまだ平和が訪れていないこと」を理由に、[[ノーベル賞]]受賞を辞退した。
=== アメリカ軍の全面撤退 ===
[[ファイル:Hanoi-taxi-march1973.jpg|thumb|「ハノイ・タクシー」と呼ばれた[[ロッキード]][[C-141]]輸送機で、北ベトナムから帰国の途に就くアメリカ軍人捕虜]]
パリ和平協定の調印により、北ベトナムとアメリカの間に、「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍[[捕虜]]の解放」、「[[北緯17度線]]は南北間の[[国境]]ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し、1973年1月29日にニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した。
その後、パリ和平協定に基づき、協定締結時点で南ベトナムに残っていた24,000人のアメリカ軍は撤退を開始し、併せてハノイの有名な戦争捕虜収容所「ハノイ・ヒルトン(正式名称:[[ホアロー捕虜収容所]])」などの北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜の解放が次々に行われた。
ベトナム戦争の最盛期だった1968年には、アメリカ軍は南ベトナムに540,000人が派遣されていたが、1969年以後は撤退計画に基づいて派遣軍の撤退と削減が続けられ、1973年1月の協定締結時にはベトナムへの派遣軍は24,000人まで削減されていたので、「終結宣言」から2か月後の[[3月29日]]には撤退が完了した。
しかし、ケネディ政権時代から南ベトナムに派遣されていた、アメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し、南ベトナムに残留していた上、航空機や戦車、重火器などの軍事物資の供給も行われていた(なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)。
== アメリカ軍撤退後の戦況 ==
[[ファイル:F-5As VNAF from Iran 1973.jpg|thumb|南ベトナム空軍に貸与された[[イラン空軍]]の[[ノースロップ]][[F-5]]戦闘機]]
パリ協定の締結までにアメリカ軍による北爆が停止されると、北ベトナム軍はすぐさま補給路を回復し南ベトナム侵攻のための体勢を立て直した。アメリカは南ベトナム軍への軍事支援の削減を補うために、アメリカが中華民国や韓国、[[イラン]]([[パフラヴィー朝]])などに貸与していたノースロップF-5戦闘機などをはじめとする兵器を南ベトナムへ送るようにこれらの国に呼び掛けたものの、その数はかつてのアメリカからの直接支援とは程遠いものであった。
パリ協定において「停戦」が謳われたため、これを反故にした結果のアメリカ軍の再介入を恐れ、北ベトナム軍は当初、南ベトナム軍側に対して大規模な攻勢は行わなかったが、まもなくパリ協定における停戦協定を無視した北ベトナム軍による南ベトナム軍に対する攻撃のペースは増加し、武器の供給も減り兵士の士気も落ちた南ベトナム軍の死傷者数も増大して行った。9月以降はソビエト連邦や中華人民共和国からの追加軍事援助を受けた北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後も南下を続けた。
=== 西沙諸島の戦い ===
アメリカ軍撤退後の1974年1月、中華人民共和国の[[中国人民解放軍]]は南北ベトナム間の戦線から遠く離れた[[西沙諸島]]に駐留する南ベトナム軍を[[宣戦布告]]なしの奇襲攻撃([[西沙諸島の戦い]])によって独立以来の南ベトナム領である西沙諸島一帯を占領し、[[南シナ海]]への進出に成功した。
その後の南北ベトナムの統一、中越戦争を経た現在に至るまで、中国人民解放軍による占拠([[実効支配]])状態が続いており、ともに領有権を主張する中越間の紛争案件となっている。
=== ニクソン退陣 ===
[[ファイル:Ford signing accord with Brehznev, November 24, 1974.jpg|thumb|[[ジェラルド・R・フォード]]大統領(左)とソ連の[[レオニード・ブレジネフ]]書記長]]
同月、アメリカ軍のベトナム全面撤退の立役者であるニクソン大統領は[[ウォーターゲート事件]]で議会が弾劾訴追を準備し、罷免されることが確実と悟ったので、罷免される前に辞任した。後を継いだ[[ジェラルド・R・フォード]]大統領は、内政の立て直しと[[中間選挙]]に集中するためもあり、[[レオニード・ブレジネフ]]書記長率いるソビエト連邦とはデタントを推し進めたニクソン政権同様、積極的な宥和政策を継続し続けた。その上に、ニクソン政権が残したウォーターゲート事件の後始末や、ケネディ政権が推し進めた[[アポロ計画]]による月面探査による膨大な出費、[[オイルショック]]後の景気停滞や不況からの回復などの国内問題に国民の関心が移り、アメリカは、もはやベトナム情勢に対する興味を失いつつあった。
フォード政権に移行して以降のアメリカ政府は、パリ協定で実施が約束されたはずの南北ベトナム統一総選挙実施への南北ベトナム政府への働き掛けどころか、パリ協定違反である「停戦」後の南ベトナムに対する北ベトナム軍の攻撃を止めるための働き掛けすら行わなくなった。さらに、同年8月には南ベトナム政府からの再三の働き掛けを受けて、議会が最後の南ベトナム政府への資金援助を決定したものの、その金額は以前と比べ物にならないほど少なかった。
=== 北ベトナム軍の全面攻撃 ===
[[ファイル:South Vietnam - The final days 1975.jpg|thumb|1975年3月以降、サイゴン陥落までの北ベトナム軍の攻撃の経緯を表した地図]]
[[ファイル:Ambassador Dean arrives in Thailand.jpg|thumb|プノンペンからタイに脱出したアメリカのディーン大使]]
上記の状況を受けて、北ベトナム政府は「アメリカの再介入はない」と判断し、南ベトナムを完全に制圧し、南北ベトナムを統一すべく[[1975年]][[3月10日]]に南ベトナム軍に対する全面攻撃を開始した([[ホー・チ・ミン作戦]])。
この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港であるダナンが、南ベトナム軍同士の[[同士討ち]]や、港や空港に避難民が押し寄せるなどの混乱のもと陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める<ref name="kondoh"/>。1975年[[4月10日]]には[[中部高原]]の主要都市である[[バンメトート]]が陥落。[[グエン・バン・チュー]]大統領はアメリカに軍事支援を要請するが、アメリカ議会は軍事援助を拒否した。
1975年4月中旬には南ベトナム政府軍が「首都であるサイゴンの防御に集中するため」として、これまで持ちこたえていた戦線も含め主な戦線から撤退を開始。南ベトナム政府軍は、アメリカからの軍事援助も途絶え装備も疲弊していたうえに士気も落ちており、進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えられず総崩れになり、北ベトナム軍はサイゴンに迫った{{efn2|ホーチミンのあとを継いだ北ベトナムのレ・ズアン指導部は、当初「南ベトナム政権との戦いは1980年頃まで続くだろう」と考え、長期戦に備えて大量の兵站物資を南ベトナムの拠点に備蓄していた。しかし南ベトナム政権軍の崩壊は予想外に早く、大量の余剰軍需物資と元南ベトナム解放民族戦線・旧南ベトナム政権軍兵士の処遇に困る結果となった。この事態が後の[[カンボジア内戦#ベトナム軍介入と中越戦争|カンボジア侵攻]]でベトナム政府が勝負に出る原因のひとつとなった。}}。
このような状況を受けて、ホワイトハウスは南ベトナムの[[戦災孤児]]をアメリカやオーストラリアに運び、[[養子縁組]]を受けさせる「[[オペレーション・ベビーリフト]]」を1975年4月4日に開始した。しかしその第1便となるアメリカ空軍のロッキード[[C-5 (航空機)|C-5]]「ギャラクシー」貨物機が、[[マニラ]]に向けて[[タンソンニャット国際空港]]を離陸した後に墜落し、乗客乗員328人中155人(多数の戦災孤児を含む)が死亡し、北ベトナム政府はこれを「人さらいのうえでの虐殺である」と非難した。しかしこの作戦はサイゴン陥落直前の[[4月26日]]まで続けられ、3,300人の戦災孤児が混乱する南ベトナムを離れた。
隣国のカンボジアでは、アメリカの支援を受けた[[ロン・ノル]]率いるクメール共和国政府軍と、中華人民共和国などの支援を受けた[[クメール・ルージュ]]の内戦の末、[[4月17日]]に首都の[[プノンペン]]が陥落し、直前にアメリカのジョン・ガンザー・ディーン[[特命全権大使]]などが、隣国のタイ王国へ逃亡したほか、ロン・ノルも[[インドネシア]]経由で[[ハワイ州]]へ逃れた。
1975年[[4月21日]]、グエン・バン・チュー大統領がテレビとラジオを通じて会見を行い、これらの事態の責任を取り辞任を発表した。後任には、南ベトナム政府の長老の1人で、[[1960年代]]に大統領や首相を務めた経験を持つ[[チャン・バン・フォン]]副大統領が就任した。穏健派として知られるフォン大統領による土壇場での停戦交渉が期待されたものの、パリ協定発効以降、協定内容に則りタンソンニャット空軍基地に駐留していた北ベトナム政府代表団は、穏健派であるもののチュー元大統領の影響が強いとみられたフォン大統領との和平交渉を[[4月23日]]に正式に拒否し、存在意義を失ったフォン大統領は[[4月29日]]に、就任後わずか8日で辞任した。後任として同日に同じく穏健派の[[ズオン・バン・ミン]]将軍が就任したが、ミン新大統領による和平交渉は北ベトナム政府代表団によって同じく拒絶された。
南ベトナムの首都である[[サイゴン陥落]]による混乱を恐れた、南ベトナム政府上層部の家族や[[富裕層]]は、4月中旬以降次々と民間航空便で南ベトナム国外への脱出を図っていたが、この時期になると、サイゴン北部の[[タンソンニャット国際空港|タンソンニャット空軍基地]]も包囲され攻撃が及んできたために、同空港を発着する[[エア・ベトナム]]、[[パンアメリカン航空]]、[[シンガポール航空]]などの民間航空機の運航や、「オペレーション・ベビーリフト」も、北ベトナムの[[ホー・チ・ミン作戦]]における最終段階『サイゴン総攻撃』により、[[4月26日]]をもって全面停止に追い込まれた。
また一般市民も、南ベトナム政権の崩壊が避けられないと悟り、南ベトナムの通貨である[[ピアストル]]を、[[金]]・[[ダイヤモンド]]・[[アメリカ合衆国ドル]]に交換したため、ピアストルの通貨価値が暴落した<ref name="kondoh"/>。
=== サイゴン撤退作戦 ===
[[ファイル:Nelson A. Rockefeller and Gen. George S. Brown.jpg|thumb|[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]でサイゴン撤退について討議するアメリカ軍のジョージ・S・ブラウン[[アメリカ統合参謀本部|統合参謀本部]]議長と[[ネルソン・ロックフェラー]]副大統領(左)]]
[[ファイル:Vietnamese UH-1 pushed over board, Operation Frequent Wind.jpg|thumb|海中へ投棄される南ベトナム軍のベル[[UH-1 (航空機)|UH-1]]ヘリコプター]]
[[ファイル:Vietnamese refugees on US carrier, Operation Frequent Wind.jpg|thumb|ヘリコプターでアメリカ軍の[[航空母艦]]に脱出した南ベトナム人]]
[[ファイル:HCMC Reunification Palace.jpg|thumb|「統一会堂」と改名された元南ベトナム大統領官邸]]
この時すでに南ベトナム軍の前線は各方面で完全に崩壊し、それとともに北ベトナム軍によるサイゴン市内の軍施設などの重要拠点への砲撃や、北ベトナム空軍機による爆撃などが続いたために、サイゴン市内の一部は混乱状態に陥った。
その後間もなく、四方からサイゴン市内へ向けて進軍した北ベトナム軍の地上部隊により、南ベトナム軍のタンソンニャット空軍基地も完全に包囲され、攻撃を受けて滑走路や各種設備が破損したために、南ベトナム軍輸送機の発着は完全に途絶し<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=RLNGlYpRwrQ "Option Four"] American Experience | PBS</ref>、北ベトナム軍と交戦中の南ベトナム地上軍への援護も不可能になった。
サイゴン陥落は避けられない状況となり、アメリカ政府および軍は[[4月28日]]に[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]を開き、アメリカ軍や大使館職員・連邦政府の関係者と在留アメリカ民間人、アメリカと関係の深かった南ベトナム政府上層部のサイゴンからの撤退方法についての緊急討議を行い、サイゴンからの撤退作戦である「[[フリークエント・ウィンド作戦]]」を発令した。
作戦開始後、市内のアメリカ政府やアメリカ軍、南ベトナム軍の関連施設からアメリカ軍や政府の関係者と、グエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元首相をはじめとする南ベトナム政府上層部やその家族、在留アメリカ人らが、サイゴンの沖合いに待機する数隻の[[アメリカ海軍]]の[[航空母艦|空母]]や大型艦艇に向けて南ベトナム軍や米軍のヘリコプターや軍用機、小船などで必死の脱出を続けた。空母の甲板では、立て続けに飛来するヘリコプターを着艦するたびに海中投棄し、後続のヘリコプターや軍用機の着艦場所を確保した。
フリークエント・ウィンド作戦に関するアメリカ軍の公式記録では、述べ682回にわたるアメリカ軍のヘリコプターによるサイゴン市内と空母との往復が記録され、1300人以上のアメリカ人が脱出に成功、その数倍から十数倍の南ベトナム人も脱出した。なお、作戦中に海中投棄されたアメリカ軍や南ベトナム軍のヘリコプターは45機に達した。
しかし在留[[日本人]]は、派遣元の企業などから4月中旬には国外脱出が命令されていたが、フリークエント・ウィンド作戦がアメリカ人や南ベトナム人の撤退を行うことだけで、アメリカ軍が手一杯なことや日本が直接参戦していないことなどから、たとえ[[日本人]]が南ベトナムに残っても、北ベトナム政府や市民などから迫害を受ける可能性が低い事などを理由に、南ベトナム軍やアメリカ軍の[[ヘリコプター]]に乗ることを拒否された。
さらに、[[自衛隊]]の海外派遣が禁じられていたために、欧米諸国のように[[政府専用機]]や軍用機による自国民の救出活動が全く行われず、また、[[日本共産党]]指揮下の[[組合]]の反対により、[[日本国政府]]による[[日本航空]]の救援機も運航されなかったため、数百人の在留日本人がサイゴン市内に取り残された<ref name="kondoh"/>。なお、多くの民間人や駐南ベトナム[[特命全権大使]]以下大使館員については、家族は安全の確保のためサイゴンを去ったが、上記の理由からサイゴンに残留することを選択した。
また、かつてはアメリカ軍とともにベトナム戦争に参戦していた[[大韓民国#国民|韓国人]]は、「アメリカ人や南ベトナム人の退去活動で手一杯であること」を理由に、日本人と同じくアメリカ軍機による撤退への同行が拒否され、駐南ベトナム[[特命全権大使]]はアメリカ大使館の目の前にたどり着いたものの、大使館の敷地に入ることをも拒否された、その結果、特命全権大使以下の在留韓国人のほとんどが、[[反韓]]感情が根強く残るサイゴンに取り残された。残留韓国人は、[[国際赤十字]]指定地域とされた、サイゴン市内の[[病院]]に避難し、迫害を受けることはなかった<ref name="kondoh"/> ものの、その後しばらく韓国に帰国することができなかった。
=== サイゴン陥落と南ベトナム崩壊 ===
[[4月30日]]の早朝には、最後までサイゴンに残ったグエン・バン・チュー元大統領ら、南ベトナム政府の要人や軍の上層部とその家族、アメリカ合衆国の[[グレアム・アンダーソン・マーチン]]<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=og6bi3cgf5g&t=82s The fall of Saigon]</ref> 駐南ベトナム[[特命全権大使]]や大使館員、アメリカ人報道関係者など、南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くが、サイゴン市内の各所から[[アメリカ陸軍]]や[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]のヘリコプターで、[[南シナ海]]上に待機する[[アメリカ海軍]]の空母に向けて脱出する『[[フリークエント・ウィンド作戦]]』を発動した。
撤退計画がサイゴン市内の混乱を受けて遅延したこともあり、北ベトナム軍は[[アメリカ合衆国連邦政府]]や[[赤十字国際委員会]]の要請を受け、サイゴン市に在留するアメリカ軍人および民間人が完全に撤退するまで、サイゴン市内に突入しなかった。なお、[[アメリカ合衆国軍]]およびアメリカ合衆国大使館は、撤退後に北ベトナム政府に渡らぬよう、計360万[[アメリカ合衆国ドル]]を撤退前に焼却処分した。
同日午前には、前日に就任したばかりの[[ズオン・バン・ミン]]大統領が、大統領官邸から南ベトナム国営テレビと[[ラジオ]]で、戦闘の終結と[[無条件降伏]]を宣言した。その後残留南ベトナム軍と北ベトナム軍の間に小規模な衝突があったものの、午前11時30分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=DoaeB-NCMXU&t=50s The End: Vietnam Fall of Saigon]</ref>、ミン大統領らサイゴンに残った南ベトナム政府の[[閣僚]]は全員北ベトナム軍に拘束された([[サイゴン陥落]])。南ベトナムは崩壊し、[[アメリカ合衆国]]の敗北が決定した。少数の南ベトナム軍の将校はサイゴン陥落後に自決した<ref name="kondoh"/>。
== 南北ベトナム統一 ==
[[ファイル:Ho Chi Minh City Hall 1.jpg|thumb|サイゴン市内にあるホー・チ・ミンの銅像]]
サイゴン陥落とそれに伴う南ベトナム政府の崩壊後、[[南ベトナム解放民族戦線]]と民族民主平和勢力連合、人民革命党によって[[1969年]]に結成されていた[[南ベトナム共和国]]臨時革命政府が南ベトナム全土を掌握した。
統一後はピアストルと[[ドン (通貨)|ドン]]の通貨の統合や[[行政]]、[[官僚]]組織の再編成、民間企業の[[国営企業]]化が進められた。また、その後旧サイゴン市に周辺地域を統合して北ベトナムの指導者「[[ホー・チ・ミン]]」の名前を取った「[[ホーチミン市]]」が新たに制定された。
== 第三次インドシナ戦争 ==
{{Main|第三次インドシナ戦争}}
=== カンボジア内戦と中越戦争 ===
サイゴン陥落の約2週間後、クメール・ルージュが政権を掌握して[[民主カンプチア]]を樹立した隣国のカンボジアで「[[マヤグエース号事件]]」が勃発し、人質の解放に向かったアメリカ軍とクメール・ルージュの間で起きた戦闘により、多数のアメリカ軍兵士が死亡していた。これはベトナム戦争における最後の戦闘であると見なされている<ref>{{cite web|url=http://www.kohtang.com/presidents-page/presidents-page.html|title=Mayaguez Recovery Presidents Page|date=2 March 2017|publisher=|deadurl=bot: unknown|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170302104319/http://www.kohtang.com/presidents-page/presidents-page.html|archivedate=2 March 2017|df=|accessdate=2019-10-14}}</ref>。
1975年5月、カンボジアはベトナムに対する戦争を開始し、まずベトナムの[[フーコック島]]を攻撃した。両国の間で戦闘が行われたにもかかわらず、再統一したベトナムとカンボジアは、1976年を通じて表向きは両国の強力な関係を強調する外交を展開した。しかしその裏で、クメール・ルージュ政府はなおもベトナムの拡張主義と認識していたものを恐れていた。そのような中で[[1977年]]4月30日、カンボジアはベトナムに対する別の大規模な軍事攻撃を開始した。カンボジアの攻撃に衝撃を受けて、ベトナムはカンボジア政府を交渉のテーブルにつかせることを目的に、1977年末に報復攻撃を開始した。
[[1978年]]1月、ベトナム軍はその政治目的に達しなかったため、撤退した。中華人民共和国が両国の平和交渉の仲介に当たろうとする中で、1978年を通じて両国間に小競り合いが続いた。[[1979年]]にはベトナム領内でも[[バチュク村の虐殺]]など大量殺戮を始めたカンボジアの[[独裁者]]ポル・ポトの打倒を掲げてベトナムはカンボジアに侵攻して[[カンボジア内戦]]([[カンボジア・ベトナム戦争]])が勃発し、これに対して中華人民共和国がベトナムに「懲罰」と称し侵攻して[[中越戦争]]が起きた。カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争を合わせて[[第三次インドシナ戦争]]とも呼ばれた<ref>世界大百科事典 第2版,平凡社。[[株式会社]][[日立ソリューションズ]]</ref><ref>William S. Turley, Jeffrey Race (1980). "The Third Indochina War". Foreign Policy (38): 92–116. JSTOR 1148297.</ref><ref>Bernard K. Gordon (September 1986). "The Third Indochina Conflict". Foreign Affairs (Fall 1986).</ref>。
== 主に参加した航空団・部隊一覧 ==
===アメリカ合衆国===
・第7空母航空団/空母インディペンデンス/AG/第84戦闘飛行隊・第41戦闘飛行隊F-4Bファントム/第86攻撃飛行隊・第72攻撃飛行隊A-4Eスカイホーク/第4重攻撃飛行隊A-3Bスカイウォーリア/第1重偵察攻撃飛行隊RA-5Cビィジランティー/第75攻撃飛行隊A-6Aイントルーダー/第12早期警戒隊E-1Bトレーサー/第13早期警戒隊EA-1Fスカイレーダー/UH-1ガンシップ/UH-2A搭載
*[[第77任務部隊]] - 第3/5/8/9/11/15/21空母航空団で構成
*[[第1空母航空団 (アメリカ海軍)|第1空母航空団]]/空母フランクリン・D・ルーズベルト搭載
*[[第3空母航空団]]/空母サラトガに搭載。F-4、A-6、A-7装備
*[[第5空母航空団 (アメリカ海軍)|第5空母航空団]]
*[[第8空母航空団]]/空母アメリカに搭載。F-4、A-6、A-7装備
*[[第9空母航空団]]/コンステレーションに搭載。F-4、A-6、A-7装備
*[[第11空母航空団]]/空母キティーホークに搭載。F-4、A-6、A-7装備
*[[第14空母航空団]]/空母コンステレーシ
*
*[[第15空母航空団]]/空母コーラル・シーに搭載。F-4、a-7装備
*[[第16空母航空団]]/空母オリスカニーに搭載
*[[第19空母航空団]]/空母ボノム・リシャールに搭載
*[[第21空母航空団]]/空母ハンコックに搭載。F-8とA-4装備
*[[第63空母航空団]]/空母ミッドウェイに搭載。
*[[第5偵察重攻撃飛行隊]]/RA-5C装備
*[[第6大型攻撃偵察飛行隊]]「フルール」/RA-5C装備
*[[第46攻撃飛行隊]]「クランスメン」空母フォレスタルに搭載/A-4E装備
*[[第76攻撃飛行隊]]「スピリッツ」空母ボノム・リシャール搭載
*[[第86攻撃飛行隊]]/空母コーラル・シーに搭載
*[[第93攻撃飛行隊]]/空母レンジャーに搭載。A-4E/F、A-7A/B装備
*[[第95攻撃飛行隊]]/空母レンジャーに搭載。A-4B/C装備
*[[第154攻撃飛行隊]]/空母コーラル・シーに搭載。F-4J装備
*[[第155攻撃飛行隊]]/A-4E/F、A-7BコルセアII装備
*[[第176攻撃飛行隊]]/A-1H装備
*[[第196攻撃飛行隊]]/空母レンジャーに搭載。
*[[第212攻撃飛行隊]]/A-4E装備
*[[第215攻撃飛行隊]]/空母ハンコックに搭載。A-1H装備
*[[第216攻撃飛行隊]]/A-4C装備
*[[第31戦闘飛行隊]]「トムキャッターズ」/F-4J装備
*[[第51戦闘飛行隊]]/F-8E/H/J装備
*[[第53戦闘飛行隊]]/F-8E/J装備
*[[第24戦闘飛行隊]]/F-8C/H/J装備
*[[第111戦闘飛行隊]]/F-8C/E/H装備・第11分遣隊も派遣
*[[第154戦闘飛行隊]]/F-8D装備
*[[第162戦闘飛行隊]]/F-8E/J装備
*[[第191戦闘飛行隊]]/F-8E/J装備
*[[第194戦闘飛行隊]]/F-8C/E/J装備
*[[第211戦闘飛行隊]]/F-8E/J装備
*[[第55戦闘攻撃飛行隊]](空母タイコンデロガ、ミッドウェイに搭載)
*[[第56戦闘攻撃飛行隊]](空母タイコンデロガ、ミッドウェイに搭載)
*[[第103戦闘攻撃飛行隊 (アメリカ海軍)|第103戦闘攻撃飛行隊]]
*[[第144戦闘攻撃飛行隊]]/空母コンステレーションに搭載。
*[[第146戦闘攻撃飛行隊]]/空母コンステレーションに搭載。
*[[第122海兵戦闘攻撃飛行隊]]/F-4B装備
*[[第211海兵攻撃飛行隊]]「ウェークアイランド・アベンジャーズ」/A-4E装備
*[[第542海兵攻撃飛行隊]]
*[[第11海兵航空輸送隊]]
*[[第3ヘリコプター軽攻撃飛行隊]]「シーウルヴズ」/UH-1C装備
*[[第132電子攻撃飛行隊]]/A-3B/KA-3Bスカイウォーリアー、EA-6Bプラウラー装備
*[[第390電子戦闘飛行隊]]
*[[第602D特殊作戦飛行隊]]/A-1H装備
*[[第40ヘリコプター飛行隊]]
*[[第63写真偵察飛行隊]]/RF-8A/G装備
*[[第111早期警戒飛行隊]]/E-1B装備(APS-82レーダー装備)
*[[第11機甲騎兵連隊]]:M113 ACAV装備
*[[第101空挺師団]]・第二旅団
*[[第600写真撮影隊]]・第9支隊
*[[第7空軍]]
*[[第8戦闘航空団]]/F-4を装備
*[[第49戦闘航空団]]/F-4を装備
*[[第366戦闘航空団]]/F-4を装備
*[[第388戦闘航空団]]/F-4, F-105Gを装備
*[[第43戦略航空団]]/B-52を装備
*[[第72戦略航空団]](仮設の部隊)/B-52を装備
*[[第307戦略航空団]]/B-52を装備
*[[第56特殊作戦航空団]]/A-1, HH-53を装備
*[[第432戦術偵察航空団]]/RF-4を装備
*[[第405戦闘航空団]]/第509戦闘迎撃飛行隊/F-102A装備
*[[第31戦術戦闘航空団]]/第309戦術戦闘飛行隊「ダスティ・ダッグス」/F-100D装備
*[[第35戦術戦闘航空団]]・第3爆撃航空団/1~3個飛行隊、内所属飛行隊・第8爆撃飛行隊、第13爆撃飛行隊総計47機(マーチンB-57B装備)、フィリピン・クラーク基地、ビエンホア基地、ファンラン基地に展開
*[[第150戦術戦闘航空群]]/第188戦術戦闘飛行隊/F-100C装備
*[[第355戦術戦闘航空団]]/F-105D装備
*[[第2海兵観測飛行隊]]/OV-10A/C装備
*[[第6特殊戦飛行隊]]/A-1H装備
*[[第25戦術戦闘飛行隊]]/F-4装備
*[[第435戦闘訓練飛行隊]]/F-104、F-4装備
*第314爆撃団/第19爆撃群、第29爆撃群、第39爆撃群、第330爆撃群/SC-47装備
*第336戦術戦闘飛行隊・第2航空課/O-1F装備
*第6250戦闘支援群(CSG)第1分隊(Det.1)
*第1特殊作戦飛行隊/A-1Eスカイレイダー、FC-47ガンシップ、A-26インベイダー、T-28トロージャン装備
*第5特殊部隊
*第6特殊作戦飛行隊/T-28、A-1、A-37装備
*第7特殊作戦部隊
*第19戦術航空支援隊/O-2スカイマスター、OV-10ブロンコ装備
*第21兵装・電子整備隊/RB-26L装備
*第163海兵中型ティルトローター戦隊/H-34、C-130、A-1、AC-47装備
*第145航空大隊/O-1F装備
*第1海兵戦術電子戦訓練飛行隊/RF-8Aクルセイダー、EA-6Aエレクトリック・イントルーダー、RF-4BファントムII装備
*第3偵察大隊/UH-34D装備
*第227航空連隊・第4大隊
*第3海兵師団
*空軍兵站軍団(AFLC)
*オーストラリア空軍・第2飛行隊・キャンベラMk.20
*南ベトナム軍事援助司令部
*ARVNレンジャー
===南ベトナム===
*[[第514戦闘飛行隊]]「ルテナント・アメリカ」/A-1H装備
===北ベトナム===
*第921連隊「サオ・ダオ」/MiG-21MF装備
== 年表 ==
* [[1960年]]:[[南ベトナム解放民族戦線]]が結成され南ベトナム政府軍に対する[[武力攻撃]]を開始(12月)
* [[1961年]]:[[ジョン・F・ケネディ]]が[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に就任(1月)
* [[1962年]]:「[[南ベトナム軍事援助司令部]](MACV)」を設置(2月)、南ベトナムと[[ラオス]]が国交断絶(11月)
* [[1963年]]:[[アプバクの戦い]](1月)、南ベトナムでクーデター、[[ゴ・ディン・ジエム]][[大統領]][[暗殺]]、[[ズオン・バン・ミン]]将軍が実権掌握(11月)、[[ジョン・F・ケネディ]]暗殺、[[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]が大統領に就任(11月)
* [[1964年]]:南ベトナムで[[グエン・カーン]]将軍による[[クーデター]](1月)、[[トンキン湾事件]]([[8月2日]])
* [[1965年]]:アメリカ軍による北爆開始([[2月7日]])、[[グエン・カーン]]失脚、[[グエン・カオ・キ]]が実権掌握(2月)、[[アメリカ海兵隊]]が[[ダナン]]に上陸(3月)、[[韓国軍]]派遣(10月)
* [[1966年]]:[[タイビン村虐殺事件]](2月)、北ベトナムに対する[[B-52 (航空機)|B-52]]による初空襲(4月)、[[ビンホア虐殺]]([[:en:Binh Hoa massacre|en]])(12月)、初の[[クリスマス]]休戦(12月)
* [[1967年]]:南ベトナム解放民族戦線が[[ダナン]]基地を攻撃(7月)、[[グエン・バン・チュー]]が南ベトナム大統領に就任(9月)
* [[1968年]]:[[テト攻勢]]開始(1月)、[[フォンニィ・フォンニャットの虐殺]](2月)、[[ソンミ村虐殺事件]](3月)、ジョンソン大統領ベトナム政策を転換し北ベトナムに無条件で交渉呼びかけ(3月31日)、[[パリ]]和平交渉開始(5月)
* [[1969年]]:[[リチャード・ニクソン]]が大統領就任(1月)、南ベトナム臨時革命政府が樹立(6月)、[[ホー・チ・ミン]]死去(9月)
* [[1970年]]:[[カンボジア]]で[[クーデター]]、[[シハヌーク]]失脚、[[ロン・ノル]]将軍が実権掌握(3月)、アメリカ軍が[[カンボジア]]に侵攻(4月)、[[マサチューセッツ州]]で「州民は[[宣戦布告]]をしていない戦争に参加しなくても良い」とする州法が可決(4月)、アメリカ連邦裁がマサチューセッツの州法を否決(11月)<ref>米最高裁が却下 マサチューセッツの反戦訴訟『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月10日朝刊 12版 23面</ref>
* [[1971年]]:アメリカ軍が[[ラオス]]に侵攻(2月)、[[ニューヨーク・タイムズ]]紙が「国防総省秘密報告[[ペンタゴン・ペーパーズ]]」連載開始(6月)、南ベトナム大統領選挙(10月)
* [[1972年]]:ニクソンが中国訪問(2月)、北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃(4月)、アメリカ軍無制限北爆再開・停止(12月)
* [[1973年]]:ベトナム和平協定([[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]])締結(1月27日)、アメリカ軍がベトナムから撤兵完了(3月)
* [[1974年]]:北ベトナム軍が[[プノンペン]]を包囲(2月)、[[ジェラルド・R・フォード]]が大統領就任(8月)
* [[1975年]]:北ベトナム軍が「[[ホーチミン作戦]]」を発動し、南ベトナム全面攻撃開始(3月)、[[サイゴン陥落]]、南ベトナムが崩壊してベトナム戦争終結([[4月30日]])、サイゴンが[[ホーチミン市]]へ改名(5月)
== 戦争の影響 ==
[[ファイル:Defoliation agent spraying.jpg|thumb|ジャングルに[[枯葉剤]]を散布するアメリカ軍のヘリコプター(1969年)]]
[[ファイル:VC carrying POW in litter DD-ST-99-04295.JPG|thumb|南ベトナム解放戦線の兵士に捕虜にされたアメリカ空軍兵士(1973年)]]
=== ベトナム ===
[[ファイル:Saigon center.jpg|thumb|現在のホー・チ・ミン (サイゴン) 市内]]
[[1960年]]よりベトナム人同士の統一戦争として開始され、その後アメリカ合衆国が軍事介入し、15年間続いた戦争によって、南北ベトナム両国は500万の死者と数百万以上の負傷者を出した。このことは、掲げる政治理念や経済体制にかかわらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊と、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線による南ベトナムに対する軍事活動やテロにより国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。
また、ベトナム戦争では北ベトナムやベトコンは国の統一を目指してアメリカに立ち向かったのに対し、対する南ベトナムはアメリカの[[傀儡政権|傀儡国家]]で、政治は腐敗して[[独裁政治|独裁]]を行ったため南ベトナムの軍民には国を守る意思が低かったため敗戦した。または腐敗政治に苦しんでいた南ベトナム人たちはサイゴン解放を喜んだ。
=== ラオス・カンボジア ===
ベトナム戦争が終わると、[[ラオス]]では[[パテト・ラオ]]が、[[カンボジア]]では[[中華人民共和国]]に支援された[[クメール・ルージュ]]が相次いで政権に就いたことで、[[インドシナ半島]]は[[タイ王国]]、[[ビルマ式社会主義]]体制{{efn2|社会主義体制であるものの、旧ソ連・中国とは距離を置き、一種の鎖国を行なっていた。とくに中国は反政府勢力の[[ビルマ共産党]]を軍事支援した事から、1960年代後半から1980年代末まで極めて険悪な関係にあった。}}を敷いていた[[ミャンマー]](ビルマ)を除いて[[共産主義|共産化]]され、アメリカの恐れた[[ドミノ理論]]は現実になった。さらにアメリカ軍のインドシナ介入が[[カンボジア内戦]]などの諸問題を複雑にしたという声もある。
=== アメリカ ===
アメリカはこの戦争で、延べ250万人以上の兵士を動員して5万8,718人の戦死者{{sfn|ベトナム戦争の記録編集委員会|1988|p=119}}と約2,000人の行方不明者にこれに負傷者を加えるとおよそ30万人を超える人的損失を出した。またアメリカは、旧南ベトナム政府や軍の首脳陣、そして南ベトナムから流出した華人、および政治的亡命者などの[[ボートピープル]]や[[難民]]を受け入れた。
テレビ放送が普及したのちでは、最初に勃発した大規模戦争だったため、それ以前の戦争と異なり、戦争の被害が、その日のうちに[[テレビ番組]]で報道され、戦場の悲惨な実態を全世界に伝えた。アメリカ国内では、史上例を見ないほど[[草の根]]の[[反戦運動]]が盛り上がり、「遠い[[インドシナ半島]]の地で、何のためにアメリカ軍兵士が戦っているのか」という批判がアメリカ合衆国連邦政府に集中した。青年層を中心に『ベトナム[[反戦運動]]』が広がり、[[ヒッピー]]やフラワーピープルなど、[[カウンターカルチャー]]が興隆した。
ベトナム戦争は[[1964年]]に[[リンドン・ジョンソン]]政権下で制定された[[1964年公民権法|公民権法]]の施行を受けて、[[アメリカ合衆国の歴史]]上初めて「黒人部隊」が組織されず<ref>第二次世界大戦中には[[タスキーギー・エアーメン]]のような黒人だけの部隊が存在した。</ref>、黒人と白人が同じ戦場・同等の立場で、敵と戦う戦争であった。これにより、戦場で共に戦った黒人と白人の若者が、アメリカにおいて様々な場所で、完全に分離されていた、[[人種]]間融和の促進剤になっていると指摘された。この点について、[[アフリカ系アメリカ人公民権運動]]を起こした[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]牧師は、生前「皮肉な結果である」と述べている。
[[作家]]・[[評論家]]などの[[文化人]]、[[俳優]]・女優・[[歌手]]などの[[芸能人]]による『ベトナム反戦運動』も盛んに行われた。ボクサーの[[モハメド・アリ]]は、[[1967年]]にベトナム戦争に反対して、[[徴兵制度]]拒否([[良心的兵役拒否]])を行った。[[イギリス人]]歌手の[[ジョン・レノン]]も、[[ビートルズ]]の解散後に活動拠点を置いていたアメリカを中心に反戦活動を行った。この際に行われた「[[ベッド・イン]]」などのパフォーマンスは、マスコミも大きく取り上げ、若者への影響力が強かった{{efn2|レノンの行う「反戦活動」に対して共感するファンも多く、当時レノンがイギリスで[[大麻]]所持により逮捕されたために、アメリカへの再入国が許可されなかったことを、「レノンの『反戦活動』による若者への影響を嫌うニクソン政権による嫌がらせ」との解釈もあった(アメリカでは通常、近年内に麻薬での逮捕歴がある人間の入国は拒否される)。}}。
女優の[[ジェーン・フォンダ]]は、[[1972年]]に反戦活動家のトム・ヘイドンと共に「アメリカ兵のための反戦運動」と称して、[[ベトナム民主共和国]]を訪れた際に、アメリカ軍機を撃墜するために設けられた[[高射砲]]に座り、北ベトナム軍の[[ヘルメット]]を被り、[[照準器]]を覗き込む写真を発表した。
フォンダは[[1978年]]に、ベトナム帰還兵の問題をテーマにした主演映画『[[帰郷 (1978年の映画)|帰郷]]』({{en|Coming Home}}) で、2度目の[[アカデミー主演女優賞]]を受賞している。
早急に兵士を補充するため徴兵基準を緩和したことでそれまで受け入れなかった素行不良者や適格に欠く者も受け入れることになり、前線部隊では[[大麻]]や性犯罪など軍規の乱れが常態化した。このような疲弊した軍隊の様子は[[フルメタル・ジャケット]]などの作品で取り上げられた。また[[アンフェタミン]]の提供も引き続き行われており、[[ベトナム帰還兵]]の心身に影響を与えたとされる。規定数を確保するため、就労が禁止されている観光ビザで入国した外国人を収入や市民権などを餌に釣るという勧誘も行われていた<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160101/ddm/041/040/067000c 憲法のある風景:公布70年の今/1 9条に迷い救われ 被爆、渡米、ベトナム戦、脱走 日米の間に生きた] - [[毎日新聞]]</ref>。
[[第二次世界大戦]]や[[朝鮮戦争]]の戦争中や終結後の時期と異なり、[[ベトナム帰還兵]]の心理的障害が広く認識されて[[社会問題]]となり、[[精神医学]]や[[軍事心理学]]において[[心的外傷後ストレス障害]]({{en|post traumatic stress disorder, PTSD}})の研究が展開した。
膨大な戦費が投入された結果、[[アメリカ合衆国ドル]]と[[金]]の交換に疑問を持った[[ヨーロッパ]]は、[[イギリス]]と[[フランス]]が、ドル紙幣を金に交換するよう要求し、これが[[ニクソン・ショック]]へと繋がり、[[1944年]]に制定された[[ブレトンウッズ体制]]は終焉を迎えた。
[[アメリカ合衆国連邦政府]]が、[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]の[[国家の承認]]と国交樹立を果たしたのは、ベトナム戦争終結後から20年後の[[1995年]]になってからであった。
=== フランス ===
[[ファイル:President Nixon and staff members with President Charles DeGaulle of France - NARA - 194610.jpg|thumb|アメリカのニクソン大統領と歓談するフランスのド・ゴール大統領(1969年)]]
[[1954年]]の[[ジュネーヴ協定]]以前まで、「[[フランス領インドシナ]]」として、ベトナムを侵略・[[植民地]]支配していた[[フランス]]でも、[[シャルル・ド・ゴール]][[フランス共和国大統領]]は「ベトナム戦争は、[[民族自決]]の大義と尊厳を、世界に問うたものである」と述べている。
ただしド・ゴールは『[[ディエンビエンフーの戦い]]』に敗戦し、[[1954年]]にフランスが[[インドシナ半島]]から撤退したことについては「不本意だった」と述べている。
===中東 ===
[[中東戦争]]でアメリカ合衆国が支援している[[イスラエル]]と戦っているさなかの中東アラブ諸国にも影響を与えた。北ベトナムがアメリカ合衆国を相手に有利に戦争を進めて最終的に勝利したのは「社会主義を標榜していたから」と解釈され、[[アラブ世界]]も北ベトナムのように社会主義化して[[東側諸国|東側]]の援助を受ければ[[親米]]国家イスラエルを打倒できるのではないかと考えられるようになった。
このような考えはアラブ世界が団結して戦った[[第3次中東戦争]]以降支持されるようになり、アラブ世界では、[[イラク]]や[[シリア]]のような[[バアス党]]による社会主義化が行われた国も現れたし、[[リビア]]のような独自の社会主義路線をとる国も現れた<ref>[[池内恵]]『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書、2002年)</ref>。
=== 日本への影響 ===
<!--ノート参照-->
ベトナム戦争は、[[高度成長期]]にあった日本にも大きな影響を与えたかに見えた。しかし[[学生運動]]こそ盛り上がりを見せたが、1965年の国会では、野党が沖縄から北爆へ向かうB-52爆撃機の離着陸問題を取り上げたものの<ref>「きょうから本格論戦 「不況」などを中心に B52沖縄発進問題も」『日本経済新聞』昭和40年8月2日1面</ref> 大勢に影響はなく、[[1970年]]には安保条約を自動延長させた。
当時新左翼を含めて、ベトナム戦争反対派は「70年[[安保闘争]]」と並ぶ運動の中核と見なし、ベトナム反戦運動のみならず、関係のない[[成田国際空港|新東京国際空港]]反対運動を結び付け、[[インフラストラクチャー]]破壊活動や警官の殺害を伴う過激な学生運動([[三里塚闘争]])も行ったが当時は市民から一定の支持を受けていた。
なお、[[南ベトナム解放民族戦線]]を支持する「[[第四インターナショナル]]」や「[[ベトナムに平和を!市民連合]]」等と、[[反スターリン主義]]の立場から[[北ベトナム]]政権不支持を主張し、ベトナム戦争反対を掲げた「[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派]]」や「[[革命的共産主義者同盟全国委員会]]」等とでは温度差があり、同床異夢の感があった。
また、ベトナム戦争終結後、[[1989年]]の[[冷戦]]終結までの間に、サイゴンの傀儡政権に協力していた経歴から石を投げられる事を恐れて漁船などを用いて国外逃亡を図った[[難民]]([[ボート・ピープル]])が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の[[華僑]]{{要出典|date=2016-07|title=華人と華僑を混同して記述していませんか?}}の計画的な追放も発生し、後の[[中越戦争]]のきっかけの一つになった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民が居なくなった2016年現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお、「ボート・ピープル」は、大部分が華僑{{要出典|date=2016年7月|title=華人と華僑を混同して記述していませんか?}}であったことが、使用言語などから分かっている。
== 戦争犯罪 ==
[[ファイル:BeheadedVCVietnamGIMay1968.jpg|thumb|アメリカ軍特殊部隊による、南ベトナム解放戦線兵士の首狩り記念写真]]
ベトナム戦争終結後の歴代のアメリカ政府や議会は、アメリカ合衆国がベトナム全土の共産主義体制化と、ベトナムを基点として東南アジア全域が「[[ドミノ理論]]」による共産主義化されることを抑止するために、ベトナム戦争に軍事介入したこと、[[枯れ葉剤]]・[[クラスター爆弾]]・[[対人地雷]]など、[[不発弾]]による環境破壊や人的被害に対して、いかなる謝罪も金銭賠償をもしていない。2009年の[[バラク・オバマ|オバマ]]大統領の就任演説においても、アメリカ合衆国の利益や正義を追求した先人たちの行為や努力や犠牲の事例として、[[アメリカ独立戦争]]・[[南北戦争]]・[[第二次世界大戦]]とともに、ベトナム戦争を戦ったことを『[[英雄]]』として賞賛している<ref>2009年1月20日、大統領就任式におけるバラク・オバマ大統領の就任演説 {{Cite news|url=http://www.whitehouse.gov/blog/inaugural-address/|title=President Barack Obama's Inaugural Address|date=2009-01-21|accessdate=2011-02-04}}</ref>。
また、[[南ベトナム解放民族戦線]]および北ベトナム軍がベトナム戦争中に自国民に対して行なった数々の[[テロリズム]]に関し批判もされるが、ベトナム政府もアメリカ政府と同様に<!--何ら-->謝罪するコメントを出していない。
=== 枯葉剤・ナパーム弾 ===
アメリカ軍は南ベトナム解放民族戦線の浸透作戦を防ぐ目的で[[枯葉剤]]を大規模に利用した。戦後になりベトナム市民やアメリカ軍のベトナム帰還兵の間で枯葉剤への接触を原因とする健康被害や出産異常が発生した。環境への影響を防ぐことができない枯葉剤を利用することの国際法上の問題と合わせて批判が存在する。[[結合双生児]]の[[ベトちゃんドクちゃん]]は枯葉剤を原因とするといわれ、日本でも広く知られた。{{main|ベトちゃんドクちゃん#枯葉剤の影響|枯葉剤#ベトナム戦争における枯葉剤}}
広範囲を焼き付くす[[ナパーム弾]]についても人道的な観点から批判が多かった。焼夷兵器については戦後の1980年に[[特定通常兵器使用禁止制限条約]]において市民に被害が出る可能性がある際の使用が禁止された。{{main|ナパーム弾#種類|焼夷弾#焼夷剤の種類}}
また、これらの兵器による被害は、当然ながら対人だけでなく、絶滅危惧種や自然環境そのものにも大きな被害を与えた。後世、エコロジー(環境)に対するジェノサイド(虐殺)、つまり「[[エコサイド]]」として語られる被害も多かった。
=== 虐殺事件 ===
==== ソンミ村虐殺事件 ====
1968年3月16日、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍・第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落を襲撃し、無抵抗の村民504人を無差別射撃などで虐殺。集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ、2022年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。さらにC中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、第3歩兵連隊第4大隊が増派され、近隣の村落で虐殺を行った。{{main|ソンミ村虐殺事件}}
アメリカ軍は解放戦線の非公然戦闘員(ゲリラ)を無力化するため、サーチ・アンド・デストロイ(索敵・殲滅)作戦で、南ベトナム解放民族戦線ゲリラおよびシンパ「容疑者」への虐殺を繰り返した。その過程で多くの民間人に対する残虐行為を行っていた<ref>[http://www.loc.gov/rr/frd/Military_Law/pdf/RDAR-Vol-IIIBook6.pdf]</ref>。
==== 韓国軍による虐殺事件 ====
※経緯や各事件については前節の「サーチアンドデストロイ作戦」も参照。
[[ファイル:Phong Nhi massacre 8.jpg|thumb|[[大韓民国海兵隊]][[第2海兵師団 (韓国)|第2海兵師団]]([[:en:2nd Marine Brigade (Republic of Korea)|en]])(青龍部隊)に虐殺された[[フォンニィ・フォンニャットの虐殺|フォンニ村住民の遺体を収容するアメリカ兵]]]]
{{main|タイビン村虐殺事件|タイヴィン虐殺|大韓民国国軍のベトナム参戦#韓国国軍による戦争犯罪}}
『[[ロサンゼルス・タイムズ]]』によると、[[大韓民国|韓国政府]]はいかなる[[大量虐殺]]の事実も認めておらず、[[大韓民国国軍|韓国軍]]退役軍人枯葉剤被害者の会事務総長のKim Sung-wookは「我々の兵役はベトナムの[[治安]]を維持する目的でした」「それ以外だという指摘は我々の[[名誉]]への[[侮蔑|侮辱]]に当たります」と韓国軍の正当性を述べている<ref>{{Cite news |author=STEVEN BOROWIEC |url=http://www.latimes.com/world/asia/la-fg-korea-vietnam-20150516-story.html |title=Allegations of S. Korean atrocities arising 40 years after Vietnam War |newspaper=[[ロサンゼルス・タイムズ]] |publisher= |date=2015-05-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150518031311/http://www.latimes.com/world/asia/la-fg-korea-vietnam-20150516-story.html |archivedate=2015-05-18 |deadlinkdate=}}</ref>。
[[2017年]][[7月10日]]の『[[ニューヨーク・タイムズ]]』社説は、「[[ベトナム政府]]は過去を振り返るよりも未来に目を向けたいと考えており、[[大韓民国|韓国政府]]は[[第二次世界大戦]]の日本との未解決の問題([[日本の慰安婦問題|慰安婦問題]])を重視している。しかし、一つだけはっきりしていることがある。それは、[[ハミの虐殺|ハミの人々]]にとって、その悲惨な過去は、決して過去のものではないということだ」と指摘している<ref>{{Cite news |author=HEONIK KWON |url=https://www.nytimes.com/2017/07/10/opinion/vietnam-war-south-korea.html |title=Vietnam’s South Korean Ghosts |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ]] |publisher= |date=2017-07-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170710232752/https://www.nytimes.com/2017/07/10/opinion/vietnam-war-south-korea.html |archivedate=2017-07-10 |deadlinkdate=}}</ref>。
=== 性暴力 ===
{{詳細記事|大韓民国国軍のベトナム参戦#韓国国軍による戦争犯罪|アメラジアン}}
[[アメリカ人]]や[[朝鮮民族|韓国人]]と[[ベトナム人]]との間に多数の混血児が生まれ、[[アメリカ人]]とのハーフは「[[アメラジアン]]」、韓国人とのハーフは「[[ライダイハン]]」と呼ばれる。ライダイハンは[[ハンギョレ]]21や歴史家の[[韓洪九]]らによって、韓国やベトナムで「ベトナム戦争の混血児問題」として、[[1999年]]に社会問題となったが、[[大韓民国|韓国政府]]は退役軍人組織が背景にいるため、公式に認めていない。
[[2013年]]9月の[[朴槿恵]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]のベトナム訪問では、[[ホー・チ・ミン廟]]の参拝や献花の時を含めてベトナム戦争についてまったく触れず、ベトナム戦争時に[[大韓民国国軍|韓国軍]]兵士に性的暴行されたベトナム人女性や虐殺されたベトナム人遺族に対して謝罪をしなかったが、『[[ハンギョレ]]』は、韓国が日本に対してしきりに「歴史直視」を要求していることと矛盾していると批判している<ref name="黒田勝弘1">{{Cite news |author=[[黒田勝弘]] |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130910/asi13091021240000-n1.htm |title=ベトナム訪問の朴大統領 過去の戦争の歴史で謝罪せず |newspaper=[[産経新聞]] |publisher=|date=2013-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130910143319/http://sankei.jp.msn.com/world/news/130910/asi13091021240000-n1.htm |archivedate=2013-09-10 |deadlinkdate=}}</ref>。ベトナム戦争の際の謝罪をベトナム側から求められなかったことに関して、[[大韓民国|韓国政府]]高官は「過去に対する韓国とベトナムの成熟した立場と誤った歴史認識に閉じ込められている日本と自然に比較されないか」として、「日本への圧迫」になると主張している<ref name="中央日報0910">{{Cite news |author= |url=https://japanese.joins.com/JArticle/175961 |title=朴槿恵大統領、ベトナムで父の時代の歴史の結び目をほどく |newspaper=[[中央日報]] |publisher=|date=2013-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210713001137/https://japanese.joins.com/JArticle/175961 |archivedate=2021-07-13 |deadlinkdate=}}</ref>。
[[2017年]][[6月6日]]に[[大韓民国|韓国]]の[[文在寅]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]は、[[顕忠日]]の追悼式で「ベトナム戦争参戦勇士の[[献身]]と[[生贄|犠牲]]を土台に祖国の経済が復活した」「今日の[[大韓民国の経済|韓国経済]]があるのはベトナムで戦った元軍人たちの献身と犠牲があってのことです」と述べた<ref name="ハフポスト" /><ref name="聯合ニュース" />。この韓国軍兵士によるベトナム民間人虐殺への賛辞とも受け取れる発言に対して、{{仮リンク|ベトナム外務省|en|Ministry of Foreign Affairs (Vietnam)}}は{{仮リンク|在ベトナム韓国大使館|ko|주베트남 대한민국 대사관}}を通じて[[大韓民国|韓国政府]]に抗議した<ref name="聯合ニュース">{{Cite news |author= |url=http://www.yonhapnews.co.kr/international/2017/06/13/0601060000AKR20170613064800084.HTML |title=베트남 정부, 文대통령 '베트남전 참전용사 경의'에 반발 |newspaper=[[聯合ニュース]] |publisher= |date=2017-06-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170616023834/http://www.yonhapnews.co.kr/international/2017/06/13/0601060000AKR20170613064800084.HTML |archivedate=2017-06-16 |deadlinkdate=}}</ref>。また、{{仮リンク|ベトナム外務省|en|Ministry of Foreign Affairs (Vietnam)}}は[[ホームページ|HP]]で「[[大韓民国|韓国政府]]が[[ベトナム人|ベトナム国民]]の感情を傷つけ、両国の友好と協力関係に否定的な影響を与えかねない言動をしないよう要請する<ref>{{Cite news |author= |url=https://www.mofa.gov.vn/vi/tt_baochi/pbnfn/ns170612174443/view |title=Phát biểu của Người Phát ngôn Bộ Ngoại giao Lê Thị Thu Hằng về quan điểm của Việt Nam trước việc ngày 6/6/2017, Tổng thống Hàn Quốc Mun Che In (Moon Jae-in) đã phát biểu vinh danh những “người có công” Hàn Quốc tham chiến tại nước ngoài trong đó có chiến tranh Việt Nam |newspaper= |publisher={{仮リンク|ベトナム外務省|en|Ministry of Foreign Affairs (Vietnam)}} |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210729105220/https://www.mofa.gov.vn/vi/tt_baochi/pbnfn/ns170612174443/view |archivedate=2021-07-29 }}</ref>」と表明した<ref name="ハフポスト" />。さらに『[[朝鮮日報]]』によると、[[ベトナム]][[マスメディア|メディア]]は韓国軍が9000人余りのベトナム民間人を虐殺したにもかかわらず、[[大韓民国|韓国政府]]はこれを認めていないと批判している<ref name="ハフポスト">{{Cite news |author= |url=https://www.huffingtonpost.jp/2017/06/15/korea-memorialday_n_17139954.html |title=ベトナム戦争に従軍した韓国兵への弔辞に抗議。ベトナム政府「国民感情を傷つけかねない」 |newspaper=[[ハフポスト]] |publisher= |date=2017-06-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170616113541/https://www.huffingtonpost.jp/2017/06/15/korea-memorialday_n_17139954.html |archivedate=2017-06-16 |deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite news |author= |url=https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2017/06/13/2017061301857.html |title=베트남, 문 대통령의 '베트남 참전용사 경의' 추념사 내용에 항의 |newspaper=[[朝鮮日報]] |publisher= |date=2017-06-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210710032027/https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2017/06/13/2017061301857.html |archivedate=2021-07-10 |page=}}</ref>。
[[2020年]][[3月27日]]に[[英国放送協会|BBC]]が、「1968-何百人もの女性を苦しめた年」という記事で、ベトナム戦争における韓国軍兵士によるベトナム人女性への性的暴行を特集し、「[[朝鮮民族|韓国人]]に何が起きたのかを認めてもらう必要がある」とのベトナム人被害女性の訴えを紹介し、[[ジャック・ストロー]][[外務・英連邦大臣|元英外相]]と「[[ライダイハン#ライダイハンのための正義|ライダイハンのための正義]]」が、[[国際連合人権理事会|国連人権理事会]]による調査や韓国の謝罪を求めていることを伝え、「韓国は、[[第二次世界大戦]]中に、[[日本の慰安婦問題|何十万人もの韓国人女性が性奴隷として働かされた]]ことをめぐり、謝罪をするよう何十年も日本に働きかけてきた」と指摘し、日本に謝罪を求めながら、自らの問題には頬かむりする韓国の[[二重規範|ダブルスタンダード]]を批判した<ref name="産経新聞">{{Cite news |author=原川貴郎 |url=https://www.sankei.com/article/20200404-4CQU7UOD2ZM4TOW4X2J2YVXPAA/ |title=ライダイハン ベトナム戦争時の韓国軍の所業を英BBCが報道 |newspaper=[[産経新聞]] |publisher= |date=2020-04-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210528221738/https://www.sankei.com/article/20200404-4CQU7UOD2ZM4TOW4X2J2YVXPAA/ |archivedate=2021-05-28 |deadlinkdate=}}</ref>。
== 現在 ==
ベトナム、カンボジア、ラオスは、南北ベトナム統一から冷戦終結までの間(1976年 - [[1989年]])に、[[ASEAN|東南アジア諸国連合]]に加盟した。
1986年の[[ドイモイ]]政策によってベトナムは、[[市場経済]]を導入し、外国の資本投資を受け入れ、1995年にはアメリカとの国交回復を果たし、経済成長を続けている。
2007年にベトナムは[[世界貿易機関|WTO]]に加盟し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/world/asia/vn/trade_01/|title=WTO・他協定加盟状況 - ベトナム - アジア - ジェトロ|publisher=[[日本貿易振興機構]]|date=2011-02-17|accessdate=2011-04-04}}</ref>、アメリカ[[一極体制]]が破綻した[[世界金融危機 (2007年-)|2008年金融危機]]以後は「[[VISTA]]」と呼ばれる新興経済国家の仲間入りを果たした。東南アジア諸国が市場経済体制と国際貿易体制に組み込まれ、経済的な状況に限れば、戦争だけでは実現できなかった状況が実現されることになった。
ベトナムにはベトナム戦争についての資料を収集した[[戦争証跡博物館]]がある。
=== アメリカとの和解 ===
[[ファイル:NguyenMinhTriet & GeorgeWBush 2006-Nov-17.jpg|thumb|[[グエン・ミン・チェット]][[ベトナム社会主義共和国主席|国家主席]]とアメリカの[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領(2006年11月17日、ハノイ)]]
{{main|ベトナム#アメリカ合衆国との関係}}
[[1991年]][[12月31日|末日]]の[[ソビエト連邦の崩壊]]は、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国の接近を引き起こした。[[ソビエト連邦]]が崩壊すると、ベトナム戦争の終結から20年後に当たる[[1995年]][[8月5日]]に、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国が和解し、国交を回復した。[[2000年]]には、両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、[[ユナイテッド航空]]や[[ゼネラルモーターズ]]、[[コカ・コーラ]]や[[ハイアットホテルアンドリゾーツ]]といったアメリカの大企業がベトナム市場に続々と進出した。その後も多くのアメリカ企業がベトナムに工場を建設し、教育水準が高く、かつ[[ASEAN]]の関税軽減措置が適用されるベトナムを、東南アジアにおける生産基地の1つとしたことや、[[1990年代]]以降のベトナム経済の成長に合わせてアメリカからの投資や両国間の貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。
ベトナムにとって、アメリカ合衆国は、隣国の[[中華人民共和国]]に次いで、第二の貿易相手国となっている。また、現在は両国の[[航空会社]]が相互に乗り入れた事や、[[2000年代]]以降はベトナム政府がアメリカなどに亡命したベトナム人の帰国を、外貨獲得の観点からほぼ無条件に許したことから人的交流も盛んになっている。
[[アメリカ合衆国連邦政府]]や[[アメリカ合衆国議会]]は、枯葉剤やその他の戦争被害に対して謝罪も賠償もしていないが、[[フォード財団]]やその他の民間団体は、枯葉剤被害者に対し様々な援助を試みようとしている。
[[2000年代]]後半に入ると、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国は軍事面で接近し、「昨日の敵が、今日の友」に変わる勢いを見せている。この背景には、
# 友好国だったソビエト連邦が崩壊して、[[中ソ対立]]を引き摺った[[冷戦]]体制が崩壊したこと
# 中華人民共和国([[中国人民解放軍]])による軍事介入や領土紛争を仕掛けられたことに対する反感(→[[:Category:ベトナムの領有権問題]])
がある。
[[2010年]]7月にハノイで開催されたASEAN地域フォーラムでは、アメリカの[[ヒラリー・クリントン]]国務長官は[[南シナ海]]の[[西沙諸島]]や[[南沙諸島]]の領土問題に関与することを宣言し、その直後の[[8月11日]]には、[[ベトナム軍]]と[[アメリカ軍]]が南シナ海で合同軍事演習を行うに至った。
== 報道 ==
[[ファイル:Nikon F of Bunyo Ishikawa WAR REMNANTS MUSEUM Bao Tang Chung Tich Chien Tranh 戦争証跡博物館(ホーチミン) DSCF9947.JPG|thumb|現在も[[ホーチミン市戦争証跡博物館]]にて展示される[[石川文洋]]がベトナム戦争で使用した[[Nikon F]]]]
ベトナム戦争は[[第一次インドシナ戦争]]に引き続き、[[報道]]関係者に開かれた戦場であった。北ベトナムと南ベトナム(とアメリカ)の双方が[[カメラマン]]や[[新聞]]記者の従軍を許可し、南北ベトナムやアメリカなどの当事国以外にも日本やフランス、イギリスやソビエト連邦など多数の国の記者が取材した。彼らは直に目にした戦場の様子を[[メディア (媒体)|メディア]]を通じて伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた、反戦運動や反米運動の拡大を招いた。アメリカでも[[ペンタゴン・ペーパーズ]]漏洩事件は強い衝撃を与え国論を二分する騒ぎとなった。
フリーランスカメラマンとして、[[石川文洋]]が[[1965年]]から取材を行った<ref name="okimu">{{Cite web|和書|url=https://okimu.jp/art_museum/artists/1513648744/|title=沖縄県立博物館・美術館 作家紹介 石川文洋|accessdate=2020-8-31}}</ref>。[[毎日新聞]]外信部長の[[大森実]]らは『泥と炎のインドシナ』を連載し、1965年の[[日本新聞協会賞]]を受賞した。[[朝日新聞]]の[[本多勝一]]は戦闘だけでなく解放区で暮らす人々の暮らしをあわせて詳細に記録し{{R|rikui_vietnam_1975}}、第11回[[日本ジャーナリスト会議|JCJ賞]]、第22回[[毎日出版文化賞]]、[[ボーン・上田記念国際記者賞]]を受賞した。その報道はルポルタージュの白眉と言われ{{R|chamoto_198303}}、[[陸井三郎]]によれば、米軍が前線に出てきてから終戦までの間、解放区における生活と戦闘を報じた外国人記者は(短期滞在を除けば)本多以外に現れなかったという{{R|rikui_vietnam_1975}}。作家の[[開高健]]も『ベトナム戦記』(朝日新聞社、1965年)などの[[ルポルタージュ]]を残した。同じく作家の[[石原慎太郎]]も読売新聞社の依頼でベトナム戦争を取材しているが、本多勝一から、南ベトナム側から大砲の引き金を実際に引こうとしたことについて卑劣で鈍感であると非難されている。
=== 報道写真 ===
特に[[沢田教一]]が撮影した、戦火を逃れるために川を渡る親子の写真(「安全への逃避」[[ピューリッツァー賞]]受賞)、AP通信のカメラマン[[フィン・コン・ウト]]が撮影した、ナパーム空爆に遭遇し全裸で逃げ回る少女[[ファン・ティー・キムフック]]の写真(「戦争の恐怖」)などはその後も反戦の象徴として用いられている。ほかに[[エディ・アダムズ (写真家)|エディ・アダムズ]]がサイゴン市内で撮影した、[[私刑]]で頭を撃たれる瞬間の戦争捕虜を収めた写真(「サイゴンでの処刑」)、[[一ノ瀬泰造]]の撮影した、砲撃を飛んで躱す兵士の写真(「安全へのダイブ」)等もある。
=== テレビ中継 ===
またベトナム戦争は、史上初の[[テレビ]]での[[生中継]]が行われた戦争であった。特に「当事国」のアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、その残虐さや影響の大きさから[[テレビ局]]や[[新聞社]]が自主的に規制する風潮が高まったが、北ベトナムの場合も、取材とその報道内容については大幅な制限がかかった。
これらの映像による報道の影響の大きさを受けたアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、[[湾岸戦争]]を始めとしてメディアコントロール(従軍記者を使ったエンベディド・レポーティング)に力を注いでいくこととなる。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。
== 関連作品 ==
{{See also|:Category:ベトナム戦争を題材とした作品}}
; ノンフィクション
* 『泥と炎のインドシナ 毎日新聞特派員団の現地報告』(1965年[[大森実]]監修)<ref>{{Cite web|和書|author=岩垂弘 |url=http://www.econfn.com/iwadare/page202.html |title=もの書きを目指す人びとへ、わが体験的マスコミ論|publisher=イーコン |accessdate=2009-08-13}}</ref>
* [[ノーマン・メイラー]]:Why Are We in Vietnam? (1967) (日本語訳『なぜぼくらはヴェトナムへ行くのか?』ノーマン・メイラー選集、邦高忠二訳、早川書房、1970年)
* [[本多勝一]]『戦場の村 ベトナムー戦争と民衆』朝日新聞社 1968年
* 本多勝一『北爆の下 ベトナムー破壊対建設』朝日新聞社 1969年
* [[シーモア・ハーシュ]]My Lai 4 (1970)(日本語訳『ソンミ―ミライ第四地区における虐殺とその波紋』[[小田実]]訳、[[草思社]]、1970年)
* 本多勝一『北ベトナム』朝日新聞社 1973年
* 本多勝一『ベンハイ川を越えて』写真[[石川文洋]] 朝日新聞社 1974年
* [[オリアーナ・ファラーチ]]『愛と死の戦場 ベトナムに生の意味を求めて』河島英昭訳、朝日新聞社 1974年
* [[早乙女勝元]]『ベトナムのダーちゃん』童心社 1974年
* 本多勝一『再訪・戦場の村』朝日新聞社 1975年
* {{Cite book|和書
|author=マイケル・ハー|authorlink=マイケル・ハー|translator = 増子光
|title = ディスパッチズ―ヴェトナム特電
|date = 1990年12月
|page =
|publisher =[[筑摩書房]]
|isbn = 978-4480831125
}}
* 早乙女勝元『枯れ葉剤とガーちゃん (写真絵本 物語ベトナムに生きて) 』草の根出版会 2006年
; 小説
* ルシアン・ネイハム『シャドー81』
* [[ディヴィッド・マレル]]『[[一人だけの軍隊]]』
* [[スティーヴン・ハンター]]『狩りのとき』
* [[ヴォー・ティ・ハーオ]]『この世との絆』<ref>『ベトナム現代短編集 1』 加藤栄訳、大同生命国際文化基金〈アジアの現代文芸〉、1995年</ref>。
* [[バオ・ニン]]『戦争の悲しみ』
* [[グスタフ・ハスフォード]]『[[フルメタル・ジャケット]]』<ref>高見浩訳角川書店〈角川文庫〉、1986年3月。</ref>
* [[ロン・コーヴィック]]/[[日高義樹]]訳『[[7月4日に生まれて]]』集英社〈集英社文庫〉、1990年1月。
* [[ティム・オブライエン]]/[[村上春樹]]訳『本当の戦争の話をしよう』文藝春秋〈文春文庫〉、1998年2月。
* [[開高健]]『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇』〈闇三部作〉
* デニス・ジョンソン『煙の樹』
*[[佐藤大輔]]『[[征途]]』:日本が南北に分断された世界において、資本主義陣営の日本国は陸海空[[自衛隊]]を「日本ヴェトナム援助部隊」として南ベトナム側に、社会主義陣営の日本民主主義人民共和国が北ベトナムに「義勇飛行隊」として人民空軍の部隊を派遣しており、それぞれの戦いが描かれている。
; 映画
{{See|ベトナム戦争を扱った映画}}
開戦当時からアメリカを中心に[[ベトナム戦争を扱った映画]]が多数製作された。戦争中は[[ドキュメンタリー]]や『[[グリーン・ベレー (映画)|グリーン・ベレー]]』([[ジョン・ウェイン]]製作・主演)のような米軍の側に立った[[プロパガンダ]]的な映画も制作された。戦後はアメリカ軍の軍規弛緩とそれのもたらした[[戦争犯罪]]、[[ベトナム帰還兵]]の苦悩を描くものが多く制作された。
; テレビ
* 『サイゴンから来た母と娘』([[テレビドラマ|ドラマ]])
* 『グッドラック・サイゴン』(ドラマ)
* 『[[特攻野郎Aチーム]]』(アクション)
* 『THE WAR ベトナム戦争』シリーズ([[ドキュメンタリー]])
* 『ベトナム戦争 〜兵士が見た泥沼化の真実〜』シリーズ(ドキュメンタリー)
* 『特別番組 ベトナム戦争とアメリカ』(ドキュメンタリー)<ref>{{NHK放送史|D0009043955_00000|特別番組 ベトナム戦争とアメリカ}}</ref>
* 『特集ドキュメンタリー ホー・ティ・キュー 〜ベトナム戦争と少女〜』(ドキュメンタリー)<ref>{{NHK放送史|D0009043946_00000|特集ドキュメンタリー ホー・ティ・キュー ~ベトナム戦争と少女~}}</ref>
* 『戦争を記録した男たち ファインダーの中のベトナム戦争』<ref>{{NHK放送史|D0009040272_00000|NHKスペシャル 戦争を記録した男たち ~ファインダーの中のベトナム戦争~}}</ref>(ドキュメンタリー)
* 『[[映像の世紀]]』シリーズ(ドキュメンタリー)第9集『ベトナムの衝撃』
* 『[[社会主義の20世紀]]』シリーズ(ドキュメンタリー)第7回『ベトナム戦争 15年目の真実』
* 『[[市民の20世紀]]』シリーズ(ドキュメンタリー)第18回『ゲリラ戦の勝利 ~WAR OF THE FLEA~』
* 『[[ドッグファイト 〜華麗なる空中戦〜]]』シリーズ(ドキュメンタリー)第8回『地獄のハノイ』第15回『ベトナムの銃撃戦』第19回『ベトナム空中戦の最悪の日』
; 漫画
* 『へんですねぇ へんですねぇ』ベトナムの子供たちを救う会、画・[[長新太]] - 漫画を用いた宣伝パンフレット。
* 『[[Cat Shit One]]』([[小林源文]]・著)
* 『ヴェトナムウォー』
* 『ザ・ベトナム』
* 『[[ディエンビエンフー (漫画)|ディエンビエンフー]]』([[西島大介]]・著)
* 『[[平和への弾痕]]』([[秋本治]]・著)
* 『[[花も嵐も]]』([[梶原一騎]]&[[川崎のぼる]]・著)
* 『[[鬼太郎のベトナム戦記]]』([[水木しげる]]・著)
* 『[[BANANA FISH]]』([[吉田秋生]]・著)
; 音楽
* 「[[フォーチュネイト・サン]]」 [[クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル]]
* 「[[かなわぬ想い]]」 ティミー・トーマス
* 「[[ホワッツ・ゴーイン・オン (曲)|ホワッツ・ゴーイン・オン]]」 [[マーヴィン・ゲイ]]
* 「[[サンシャイン (ジョナサン・エドワーズの曲)|サンシャイン]]」 ジョナサン・エドワーズ
* 「[[サム・ストーン]]」 ジョン・プライン
* 「[[チャイルド・イン・タイム]]」 [[ディープ・パープル]]
* 「[[グッドナイト・サイゴン〜英雄達の鎮魂歌]]」 [[ビリー・ジョエル]]
* 「[[ボーン・イン・ザ・U.S.A. (曲)|ボーン・イン・ザ・U.S.A.]]」 [[ブルース・スプリングスティーン]]
* 『VIETNAM』 [[SOFT BALLET]]
* 「[[19 (ポール・ハードキャッスルの曲)|19]]」 [[ポール・ハードキャッスル]]
* 『合唱組曲“[[IN TERRA PAX]]”』
* 「[[雨を見たかい]]」{{efn2|「[[雨を見たかい]]」はナパーム弾を雨と捉えた、ベトナム戦争を皮肉った歌であるといわれている。しかし、作者の[[ジョン・フォガティ]]はそのことを否定している。}} クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル
; ゲーム
{{See|ベトナム戦争を扱ったゲーム}}
; 演劇
* 『[[ヘアー (ミュージカル)|ヘアー]]』([[ミュージカル]])
* 『[[ミス・サイゴン]]』(ミュージカル)
* 『ロープ』([[野田秀樹]]の[[戯曲]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|3|refs=
<ref name="『ベトナム戦争への道―大統領の選択』NHK 1999年』">『ベトナム戦争への道―大統領の選択』NHK 1999年』</ref>
<ref name="chamoto_198303">{{cite journal|和書
|title=ベトナム報道への弾圧
|journal=[[現代の眼]]|volume=24|issue=3|pages=238-247|year=1983|month=3
|author=[[茶本繁正]]|publisher=[[現代評論社]]
|url=}}</ref>
<ref name=rikui_vietnam_1975>{{cite book|和書
|title=続ベトナム戦争 (本多勝一著作集 ; 9)
|journal=|volume=|issue=|pages=358-360|date=1975-09-15
|editoin=第1刷
|author=本多勝一|publisher=[[すずさわ書店]]
|url=
|ISBN=}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
; 資料
<!--年代順に整理。原著刊行年記載必要--->
*『資料ベトナム解放史』[[岡倉古志郎]]・[[鈴木正四]]監修・AA研究所編,1970-1971年、[[労働旬報社]]。(旬報社デジタルライブラリーで閲覧可。<small>2012年11月11日閲覧</small>):ベトナム共産党の公式文書をはじめ、米国、アジア各国の資料を集成。
** [http://www.junposha.com/library/?_page=book_contents&sys_id=15 資料ベトナム解放史1]
** [http://www.junposha.com/library/?_page=book_contents&sys_id=16 資料ベトナム解放史2]
** [http://www.junposha.com/library/?_page=book_contents&sys_id=17 資料ベトナム解放史3]
; 証言
* [[ロバート・マクナマラ]]『マクナマラ回顧録 ベトナムの悲劇と教訓』[[共同通信社]]、1997年
* ロバート・マクナマラ『果てしなき論争 ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないために』共同通信社、2003年
; 報道・研究
*『ベトナム黒書』日本AA連帯委員会編、労働旬報社、1966年。「[http://www.junposha.com/library/?_page=book_contents&sys_id=35 ベトナム黒書]」(旬報社HPで閲覧可能)
* [[デイヴィッド・ハルバースタム]]『[[ベスト・アンド・ブライテスト|ベスト&ブライテスト]]』(各全3巻、[[朝日新聞社]]〈[[朝日文庫]]〉、1999年/二玄社、2009年)。原著初版は1972年。
* [[テ・ナム]]『知られざるベトナム戦争-CIA謀略作戦』世界政治資料編修部訳、新日本新書228、1977年
* [[古森義久]] 『ベトナム報道1300日―ある社会の終焉』([[講談社]]、1978年/[[講談社文庫]]、1985年)
* [[本多勝一]]『戦場の村』朝日文庫、1981年
* [[近藤紘一]]『サイゴンのいちばん長い日』[[文藝春秋]]〈文春文庫〉、1985年
* [[バーバラ・タックマン]]、The March of Folly: From Troy to Vietnam (1984)
* ジョージ・C・ヘリング『アメリカの最も長い戦争』(上下)、秋谷昌平訳、[[講談社]]〈もんじゅ選書〉、1985年
*『愚行の世界史――トロイからヴェトナムまで』 大社淑子訳、[[朝日新聞]]社 1987年/[[中公文庫]]、2009年
*{{Citation |和書| last =|first=|editor=ベトナム戦争の記録編集委員会| year =1988|title =ベトナム戦争の記録|publisher =大月書店|page=|isbn=4272620088}}
* 『NAM-狂気の戦争の真実』 同明舎出版、1990年。ISBN 4-8104-0826-4
*{{Citation |和書| last =小倉|first=貞男|author-link=小倉貞男| year =1992|title =ドキュメント ヴェトナム戦争全史|publisher =岩波書店|page=|isbn=400000171X}}
* アルバート・マリン『ヴェトナム戦争―象VS虎』駐文館、1993年。ISBN 4795256683
* [[坪井善明]]『ヴェトナム』[[岩波新書]]、1994年
* [[石川文洋]]『写真記録ベトナム戦争』[[金曜日]]、1996年
*{{Citation |和書|last1=油井|first1=大三郎|author1-link=油井大三郎|last2=古田|first2=元夫|author2-link=古田元夫|editor1=樺山紘一|editor2=礪波護||editor3=山内昌之|year=1998|title =世界の歴史 第28巻|publisher =中央公論社|isbn=4124034288|chapter=第二次世界大戦から米ソ対立へ|}}
* [[三野正洋]]『わかりやすいベトナム戦争』[[光人社]]、1999年(ISBN 4-7698-0853-4)
* [[松岡完]]『1961 ケネディの戦争―冷戦・ベトナム・東南アジア』朝日新聞社、1999年
* 松岡完『ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場』[[中公新書]]、2001年
* 松岡完『ベトナム症候群―超大国を苛む「勝利」への強迫観念』[[中公新書]]、2003年
* [[遠藤聡]]『ベトナム戦争を考える』[[明石書店]]、2005年
; 韓国軍
* [[ニューズウィーク日本版]]2000年4月12日号 P.24『[https://megalodon.jp/2010-0817-1927-00/kankoku-020115.tripod.com/vietnam_war/miscellany/watasinomura.html 私の村は地獄になった]』
* [[韓洪九]]『韓洪九の韓国現代史』2巻、高崎 宗司訳、平凡社。
* [[池東旭]]『韓国大統領列伝』中公新書、2002年。
* [[三島瑞穂]]『地上最強のアメリカ陸軍特殊部隊』[[講談社+α文庫]]、2003年。
== 関連項目 ==
{{columns-list|2|
* [[ドミノ理論]]
* [[アメリカ帝国]]
*[[国共内戦]](資本主義政権側は別地域に脱出し対立中)
* [[インドシナ戦争]]
* [[カンボジア内戦]]
* [[ラオス内戦]]
* [[カンボジア・ベトナム戦争]]
* [[ミャンマー内戦]] - ベトナム戦争と異なり、外国勢力が(少なくとも公式には)直接参加していない。2023年現在も継続中。
* [[マラヤ危機]](マラヤ動乱、マラヤ紛争とも) - 早期解決した事などからベトナム戦争との比較対象になる事が多い東南アジアの紛争。
* [[中越戦争]]
* [[赤瓜礁海戦]]
* [[中越国境紛争]]
* [[アメリカ陸軍特殊部隊群]](グリーンベレー)
* [[ベトナム帰還兵]]
* [[自由ベトナム臨時政府]]
* [[キャセイ・パシフィック航空700Z便爆破事件]]
* [[アメラジアン]]
* [[ライダイハン]]
* [[QU-22 (航空機)]]
* [[パンアメリカン航空]] - 戦中、米軍用特別便を運航
* [[キニーネ]] - 戦中、底をついた薬品
* [[血液製剤]] - ベトナム戦争終結後に米国の備蓄分が余剰品として世界に放出された。
* [[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)]] - ソ連のベトナム戦争とも呼ばれた。
* [[F-4 (戦闘機)]]
* [[MiG-21 (航空機)]]
*{{仮リンク|ベトナム戦争における地雷|en|Land mines in the Vietnam War}}
*{{仮リンク|ベトナム戦争における航空機の損失リスト|en|List of aircraft losses of the Vietnam War}}}}
; 関連人物
{{columns-list|2|
* [[:Category:ベトナム戦争の人物]]も参照。
* [[ノロドム・シハヌーク]]
* [[ロン・ノル]]
* [[松本俊一]]
* [[ウィリアム・ウェストモーランド]]
* [[全斗煥]]
* {{仮リンク|ジョン・リアダン|en|John Riordan (banker)}}-ベトナムのシンドラーと呼ばれる
}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Vietnam War}}
* {{Wayback |url=http://www.wpafb.af.mil/museum/history/vietnam/index.htm |title=アメリカ空軍博物館「Vietnam War History Gallery」 |date=20060720074751}} {{en icon}}
* [http://gold.natsu.gs/WG/ST/239/index.html Vietnam 1965 :「これは我々の戦争だ」]
* {{Kotobank}}
{{ベトナム戦争期の政治家の系図}}
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{{中華人民共和国の紛争}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:へとなむせんそう}}
[[Category:ベトナム戦争|*]]
[[Category:ベトナムの戦争]]
[[Category:アメリカ合衆国の戦争]]
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12,234 |
カイラス山
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カイラス山(カイラスさん、Kailash / Kailas)、または カン・リンポチェ(チベット語: གངས་རིན་པོ་ཆེ་、中国語: 岡仁波齐峰)はチベット高原西部(ンガリ)に位置する独立峰。
サンスクリット名はカイラーサ(कैलास Kailāsa)。カイラーサの語源は不明だが、サンスクリットで水晶を意味するケーラーサ(केलास)と関係があるかもしれない。この名称が英語等へ伝わった Kailash / Kailas が、日本語における名称「カイラス」の直接の由来である。
標高6656mの未踏峰。信仰の山であるため、登頂許可は下りない。ただし聖者ミラレパ(1040年 - 1123年 / 1052年 - 1135年)が山頂に達したという伝説が有る。
仏教(特にチベット仏教)、ボン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教で聖地とされる。聖地とする理由は様々であるが、例えば、ヒンドゥー教ではカイラス山をリンガ(男根)として崇拝し、ボン教では開祖のシェーンラップ・ミヨが降臨した地としている。カイラス山の周囲の巡礼路を、チベット仏教徒は右回りに、ボン教徒は左回りにコルラと呼ばれる巡礼行為を行う。ジャイナ教と安息教の信徒たちは反時計回りに山を回りながら歩く。一周約52kmある巡礼路は、ゲルワ・グーツァンパが開いたといわれている。
この巡礼路沿いにタルチョ、いくつかのチベット僧院(ゴンパ)、鳥葬場や仏足跡を見ることができる。巡礼路最高点ドルマ・ラは、標高5630m。日本人チベット巡礼僧の河口慧海は、「三途の逃れ坂」と呼んだ。通常の巡礼路の内側に、ナンコルと呼ばれる巡礼路もある。山麓南側にタルチェン村がある。
巡礼者の多くはコルラを13回行う。特にチベット暦の午年には、1回のコルラで12回分の功徳が得られるとされ、多くの巡礼者を集める。巡礼へと向かう行為自体が功徳であるが、信仰心の厚いチベット仏教徒ではさらに五体投地(キャンヂャー)による礼拝でコルラを行う者も少なくない。
チベット仏教で須弥山と同一視される。ジャイナ教ではまた、最初のティールタンカラであるリシャバが没したアシュターバダと同一視される。
また、チベット仏教徒に限らず、近年では、同地を訪れる団体旅行客やバックパッカーも多い。宗教的な威厳もさることながら、公共交通手段がほとんどなく、入境許可証の入手も困難であることから、バックパッカーにとっても聖地としての色彩を帯びている。一方で、1998年には、ラサ方面からヒッチハイクでカイラス山を目指した日本人3名が行方不明になる事件も発生している。
現在、カイラス山を通る自動車専用道路の建設が中国政府によって計画されており、中止を求める運動が国際的に展開されている。
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"text": "標高6656mの未踏峰。信仰の山であるため、登頂許可は下りない。ただし聖者ミラレパ(1040年 - 1123年 / 1052年 - 1135年)が山頂に達したという伝説が有る。",
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"text": "仏教(特にチベット仏教)、ボン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教で聖地とされる。聖地とする理由は様々であるが、例えば、ヒンドゥー教ではカイラス山をリンガ(男根)として崇拝し、ボン教では開祖のシェーンラップ・ミヨが降臨した地としている。カイラス山の周囲の巡礼路を、チベット仏教徒は右回りに、ボン教徒は左回りにコルラと呼ばれる巡礼行為を行う。ジャイナ教と安息教の信徒たちは反時計回りに山を回りながら歩く。一周約52kmある巡礼路は、ゲルワ・グーツァンパが開いたといわれている。",
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"text": "この巡礼路沿いにタルチョ、いくつかのチベット僧院(ゴンパ)、鳥葬場や仏足跡を見ることができる。巡礼路最高点ドルマ・ラは、標高5630m。日本人チベット巡礼僧の河口慧海は、「三途の逃れ坂」と呼んだ。通常の巡礼路の内側に、ナンコルと呼ばれる巡礼路もある。山麓南側にタルチェン村がある。",
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"text": "巡礼者の多くはコルラを13回行う。特にチベット暦の午年には、1回のコルラで12回分の功徳が得られるとされ、多くの巡礼者を集める。巡礼へと向かう行為自体が功徳であるが、信仰心の厚いチベット仏教徒ではさらに五体投地(キャンヂャー)による礼拝でコルラを行う者も少なくない。",
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カイラス山、または カン・リンポチェはチベット高原西部(ンガリ)に位置する独立峰。 サンスクリット名はカイラーサ。カイラーサの語源は不明だが、サンスクリットで水晶を意味するケーラーサ(केलास)と関係があるかもしれない。この名称が英語等へ伝わった Kailash / Kailas が、日本語における名称「カイラス」の直接の由来である。 標高6656mの未踏峰。信仰の山であるため、登頂許可は下りない。ただし聖者ミラレパが山頂に達したという伝説が有る。
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{{Infobox 山
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'''カイラス山'''(カイラスさん、{{lang|en|Kailash / Kailas}})、または '''カン・リンポチェ'''({{lang-bo|གངས་རིན་པོ་ཆེ་}}、{{lang-zh|岡仁波齐峰}})は[[チベット高原]]西部([[ンガリ]])に位置する[[独立峰]]。
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標高6656mの[[未踏峰]]。信仰の山であるため、[[登頂]]許可は下りない。ただし聖者[[ミラレパ]]([[1040年]] - [[1123年]] / [[1052年]] - [[1135年]])が山頂に達したという伝説が有る<ref>ツァンニョン・ヘールカ1484年編[http://tbrc.org/#!rid=W21762 『ミラレパ道歌』]384頁; Garma C. C. Chang 英訳: Hundred Thousand Songs of Milarepa, 1962, 221頁</ref>。
== 信仰 ==
[[Image:2005 Chortens and Kailash High reso.jpg|right|280px|thumb|カイラス山北壁と[[ストゥーパ]]]]
[[仏教]](特に[[チベット仏教]])、[[ボン教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[ジャイナ教]]で[[聖地]]とされる。聖地とする理由は様々であるが、例えば、ヒンドゥー教ではカイラス山を[[リンガ]](男根)として崇拝し、ボン教では開祖の[[トンパ・シェンラプ|シェーンラップ・ミヨ]]が降臨した地としている。カイラス山の周囲の[[巡礼]]路を、チベット仏教徒は右回りに、ボン教徒は左回りに[[コルラ (巡礼)|コルラ]]と呼ばれる巡礼行為を行う。ジャイナ教と安息教の信徒たちは反時計回りに山を回りながら歩く。一周約52kmある巡礼路は、[[ゲルワ・グーツァンパ]]が開いたといわれている。
この巡礼路沿いに[[タルチョー|タルチョ]]、いくつかのチベット僧院(ゴンパ)、[[鳥葬]]場や[[仏足跡]]を見ることができる。巡礼路最高点'''ドルマ・ラ'''は、標高5630m。日本人チベット巡礼僧の[[河口慧海]]は、「三途の逃れ坂」と呼んだ。通常の巡礼路の内側に、ナンコルと呼ばれる巡礼路もある。山麓南側にタルチェン村がある。
巡礼者の多くはコルラを13回行う。特にチベット暦の[[午年]]には、1回のコルラで12回分の功徳が得られるとされ、多くの巡礼者を集める。巡礼へと向かう行為自体が功徳であるが、信仰心の厚いチベット仏教徒ではさらに[[五体投地]](キャンヂャー)による礼拝でコルラを行う者も少なくない。
=== 同一視 ===
チベット仏教で[[須弥山]]と同一視される。ジャイナ教ではまた、最初の[[ティールタンカラ]]である[[リシャバ]]が没した[[アシュターバダ]]と同一視される。
== 到達困難峰として ==
また、チベット仏教徒に限らず、近年では、同地を訪れる団体旅行客や[[バックパッカー]]も多い。宗教的な威厳もさることながら、公共交通手段がほとんどなく、入境許可証の入手も困難であることから、バックパッカーにとっても聖地としての色彩を帯びている。一方で、[[1998年]]には、[[ラサ]]方面からヒッチハイクでカイラス山を目指した日本人3名が行方不明になる事件も発生している。
== 開発 ==
現在、カイラス山を通る自動車専用道路の建設が中国政府によって計画されており、中止を求める運動が国際的に展開されている。
== 脚注 ==
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== ゴンパ ==
{{commons|Mount Kailash}}
*チュク・ゴンパ
*ディラプク・ゴンパ
*ズゥトゥプク・ゴンパ
== 関連項目 ==
* [[マーナサローワル湖]]
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[[Category:山岳名目録]]
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ウミガメ
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ウミガメ(海亀)は、カメ目ウミガメ上科(ウミガメじょうか、Chelonioidea)に分類される構成種の総称。
現生種はウミガメ科とオサガメ科の2科・6属・7種が知られる。
寒帯を除く全世界の海洋に分布する。アカウミガメは温帯から亜熱帯、アオウミガメやタイマイは熱帯から亜熱帯、ヒメウミガメは熱帯の海域に見られる。また、オサガメは寒帯を除く外洋域、ケンプヒメウミガメは西部太平洋、ヒラタウミガメはオーストラリア北部海域に見られる。
白亜紀においては一部を除いて外洋を回遊することはなく、各地で多種多様なウミガメが繁栄していた。
四肢は上下に平たく、特に前脚は長大である。泳ぐときは前脚を櫂のように使って水を掻き、後脚で舵をとる。海中を羽ばたくように泳ぐ姿は優雅にも見えるが、敵から逃げる際などはかなりの速度で泳ぐ。甲は上下に平たく、後方に向かってすぼむ水滴形、もしくはハート形をしている。甲の表面は大多数のカメと同様堅固な甲板に覆われるが、ウミガメ科とは別グループのオサガメ(オサガメ科)のみ硬い甲板はなく皮膚で覆われている(背甲に7本の隆起がある)。
カメとしては大型。最小種のヒメウミガメでも成体になれば甲長60〜70cmとなる。最大種はオサガメで甲長130〜160cm。化石種では中生代白亜紀の地層に生息したアーケロン Archelon spp.、新生代始新世のエオスファルギスなど、甲長2mを超すものが多数生息していた。
食道内側の上皮組織には棘状の角質突起が胃の方に向かって密に並び、これにより潜水・浮上して胃の内外に急な気圧差が生じても食物を逆流させず胃へ運び、食物の余分な水分を排出する働きがあると考えられている
基本的に生涯を海中で過ごしメスの産卵以外は陸上に上がらない。肺呼吸をする爬虫類なので、たまに海面に上がって息継ぎをする。採餌は海中で行い、海草、海綿動物、クラゲ、魚類、甲殻類などを食べる。食性は種類によって異なる。
産卵の際、メスは砂浜に上陸し、潮が満ちてこないほどの高台に穴を掘ってピンポン玉ほどの大きさの卵を一度に100個ほど産み落とす。産卵後、メスは後脚で砂をかけて卵を埋め、海へ戻る。砂の中に残された卵は2か月ほどで孵化し、子ガメは海へ旅立つ。小さい子ガメはほとんどが魚類や海鳥などに捕食され、成長できるのはわずかである。また砂浜から海に向かう最中も海鳥やカニ、フナムシなどに襲われる。これらの捕食動物は沿岸部に多く棲息しており、子ガメはその先にある外洋を目指す。そのための生理現象として、巣穴から脱出直後の子ガメにはフレンジーとよばれる特殊な興奮期があり、子ガメはおよそ丸1日寝ずに泳ぎ続けることができる。これは危険な沿岸部を素早く抜けるためのN.O.Sのようなものであり、生きて外洋に辿りつくだけで生存率は大きく上がると言われている。
子ガメは外敵の多い沿岸部を避けて外洋で分散して生活する。外洋である程度成長してから沿岸に帰ってくると言われているが外洋での生態には謎が多い。なお、オーストラリアに分布するヒラタウミガメは外洋に出ず沿岸部で生活する。また、アカウミガメやアオウミガメの中には成熟した後も外洋で生活するものがいるという研究もある。
世界的なウミガメの産卵地は、米国東部、オマーン、日本である。このうち日本は北太平洋で唯一の産卵地である。
日本近海でこれまで記録があるウミガメは5種(ケンプヒメウミガメとヒラタウミガメを除く)で産卵の記録は3種のみである。
ウミガメは産卵の際、「涙を流す」といわれるが、これは涙腺から体内に溜まった塩分を体排出しているだけであり、正確には産卵中でなくとも常に彼らは「泣いて」いる。眼球の背後には、眼球自体に匹敵する大きさまで肥大化した涙腺が存在し、これにより体内に取り込んだ余分な塩分を濾過し、常に体外に放出することで体内の塩分濃度を調節している。頭骨は、この肥大化した涙腺を収めるために眼窩同士を隔てる骨の壁が退化し、失われている。
ウミガメ類はウミガメ科(6種)とオサガメ科(1種)の総称である。
1980年に形態からウミガメ科をアカウミガメ属とヒメウミガメ属でアカウミガメ亜科、アオウミガメとタイマイ・ヒラタウミガメでアオウミガメ亜科に分割する説もあった。1996年に発表されたミトコンドリアDNAの分子解析ではアオウミガメが最も初期に分岐したと推定され、亜科は否定されている。
なお、東太平洋中南米沖に通常のアオウミガメとは形態が少し異なるクロウミガメ(black turtle)と呼ばれるグループがいるが、科学的研究は進んでおらずアオウミガメとは別種とする説もある。
ウミガメとの関わりは古くからみられ、日本の童話中にも浦島太郎の説話があるように馴染み深い生き物である。人気怪獣のモデル(ガメラ)として映画などに利用されている。
奈良時代に中国から伝わった亀卜は、アカウミガメなどの甲羅を熱して生じる亀裂から判断する占いであり、平安時代にかけて宮中行事の時期や方角を決定する上で密接な関係を有していた。
日本における食用としてのウミガメの利用は、小笠原諸島におけるアオウミガメが最も有名である。1876年より日本領土となった小笠原諸島では、産業振興のためにアオウミガメ漁業が当時の農商務省により奨励された。アオウミガメ漁業は現在も行われているが、漁獲量は当時に比べて種の保全を考えて上限がきめられている(養殖も試みられている)。このほか九州から紀伊半島の太平洋側の地域や伊豆諸島ではアカウミガメが食用にされてきた。また沖縄県でも伝統的にウミガメは食用にされてきた。八重山地方を中心に一定の漁獲割り当てがあり、料理店で刺身や汁物、から揚げなどで提供されている。
食用以外では、タイマイの甲の鱗板を加工した鼈甲は正倉院宝物などにもみられ宝飾用や工芸品の素材として珍重されている。しかし、タイマイは現在著しく個体数が減少しており、学術研究など特別な場合を除いて、本種を輸出入することは禁止されている。
ウミガメは捕獲や生息環境の悪化などのために生息数が減少している。IUCN(国際自然保護連合)が作成した2006年度版レッドリストでは以下のように分類されている。括弧内は分類された年を表す。
ヒラタウミガメを除く全てのウミガメは、IUCNのレッドリストにおいて絶滅危惧種に指定されている。特に、オサガメ、タイマイ、ケンプヒメウミガメの3種は「絶滅寸前」 とされもっとも絶滅の危険が高くなっている(2006年現在)。また、ワシントン条約により、その多くについて国際取引が規制されている。
1970年代、アメリカの東海岸やメキシコ湾岸ではアカウミガメやケンプヒメウミガメの死体が大量に打ちあがったが、その大きな原因はエビトロール漁の構造にあるとされた。アメリカ政府はウミガメが網から自力で脱出できる装置を開発し、エビトロール網への装着を義務づけ、ケンプヒメウミガメの数は急速に回復してきている。
日本は北太平洋唯一のアカウミガメの産卵地であり、50年以上も前から市民活動によって産卵数のカウントが行われてきた。近年では、NPO法人日本ウミガメ協議会が提唱する統一標識を装着する活動が全国規模で行われている。海岸への自動車(特に大型4WD車)の乗り入れ禁止など、各地でウミガメの産卵地の保護が計られている。
産卵に適した場所は砂浜と海浜植物が生えている境目付近で砂の深さが30〜60cmの場所に限られている。河川からの砂の供給量の減少、海底からの土砂採取、沿岸構造物による漂砂の流れの変化に伴う侵食などで産卵に適した砂浜の減少が問題になっている。
ウミガメにおける放流には2つの手法が存在する。問題になっているのは主に一つ目の孵化幼体の放流である。これは、自然下の砂浜に産み落とされた卵を移植・人工孵化させ、地域住民や観光客の手によって子ガメを海に放すというもの。子ガメの脱出に関しては海鳥に捕食される映像がドキュメンタリーなどで有名だが、放流会によって人が見守ることによってそれを阻止しようというものである。しかし、実際にこの手法によって放流された孵化幼体はほとんど外洋に辿り着くことはないと言われている。理由として、
これらの理由により、国内においては日本ウミガメ協議会等が「やめよう!子ガメの放流会」などと注意喚起を行っているが、未だ夏を中心に日本全国で孵化幼体の放流会が盛んに行われている。
もう一つの放流の形式がヘッドスタートと呼ばれるもので、1年以上飼育し身体が大きくなり天敵に襲われにくくなった段階で放流するものである。しかしこれも、ウミガメが生まれた砂浜の磁気情報をどこで得ているのか確かなことは分かっておらず、効果が実証されているわけではない。
1977年から1988年にかけてメキシコ湾にて大規模なヘッドスタートが行われ、11年間で22507個の卵から15857個の孵化幼体が誕生し、そのうち14484個体が標識をつけて放流された。そして、2002年までに14個体による25回の産卵が確認されている。一応、ヘッドスタート後にも産卵までこぎつけることは分かり、実際はもっと多くの個体が産卵に加わったという意見もあるが、効果が実証されたとはまだ言えない。
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"text": "食道内側の上皮組織には棘状の角質突起が胃の方に向かって密に並び、これにより潜水・浮上して胃の内外に急な気圧差が生じても食物を逆流させず胃へ運び、食物の余分な水分を排出する働きがあると考えられている",
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"text": "基本的に生涯を海中で過ごしメスの産卵以外は陸上に上がらない。肺呼吸をする爬虫類なので、たまに海面に上がって息継ぎをする。採餌は海中で行い、海草、海綿動物、クラゲ、魚類、甲殻類などを食べる。食性は種類によって異なる。",
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"text": "産卵の際、メスは砂浜に上陸し、潮が満ちてこないほどの高台に穴を掘ってピンポン玉ほどの大きさの卵を一度に100個ほど産み落とす。産卵後、メスは後脚で砂をかけて卵を埋め、海へ戻る。砂の中に残された卵は2か月ほどで孵化し、子ガメは海へ旅立つ。小さい子ガメはほとんどが魚類や海鳥などに捕食され、成長できるのはわずかである。また砂浜から海に向かう最中も海鳥やカニ、フナムシなどに襲われる。これらの捕食動物は沿岸部に多く棲息しており、子ガメはその先にある外洋を目指す。そのための生理現象として、巣穴から脱出直後の子ガメにはフレンジーとよばれる特殊な興奮期があり、子ガメはおよそ丸1日寝ずに泳ぎ続けることができる。これは危険な沿岸部を素早く抜けるためのN.O.Sのようなものであり、生きて外洋に辿りつくだけで生存率は大きく上がると言われている。",
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] |
ウミガメ(海亀)は、カメ目ウミガメ上科(ウミガメじょうか、Chelonioidea)に分類される構成種の総称。 現生種はウミガメ科とオサガメ科の2科・6属・7種が知られる。 寒帯を除く全世界の海洋に分布する。アカウミガメは温帯から亜熱帯、アオウミガメやタイマイは熱帯から亜熱帯、ヒメウミガメは熱帯の海域に見られる。また、オサガメは寒帯を除く外洋域、ケンプヒメウミガメは西部太平洋、ヒラタウミガメはオーストラリア北部海域に見られる。 白亜紀においては一部を除いて外洋を回遊することはなく、各地で多種多様なウミガメが繁栄していた。
|
{{脚注の不足|date=2022-08-02}}
{{生物分類表
|省略 = 爬虫綱
|名称 = ウミガメ上科
|画像 = [[File:Hawaii turtle 2.JPG|250px|アオウミガメ]][[File:Green-sea-turtle.jpg|250px|アオウミガメ]]
|画像キャプション = '''アオウミガメ''' ''Chelonia mydas''
|地質時代 = [[白亜紀]]
|地質時代2 = 現代
|目 = [[カメ目]] [[w:Turtle|Testudines]]
|亜目 = [[潜頸亜目]] [[w:Cryptodira|Cryptodira]]
|上科 = '''ウミガメ上科''' Chelonioidea
|学名 = Chelonioidea Bauer, [[1893年|1893]]
|和名 = ウミガメ上科
}}
[[File:ウミガメ2277.jpg|thumb|250px|right|ウミガメ上陸跡]]
[[File:ウミガメ1297.jpg|thumb|250px|right|ウミガメ]]
'''ウミガメ'''(海亀)は、[[カメ目]]'''ウミガメ上科'''(ウミガメじょうか、Chelonioidea)に分類される構成種の総称。
現生種は[[ウミガメ科]]と[[オサガメ科]]の2科・6属・7種が知られる<ref name="guideline">{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/nature/kisho/guideline/SeaTurtle_Handbook.pdf |title=ウミガメ保護ハンドブック|publisher=環境省自然環境局、日本ウミガメ協議会|accessdate=2019-11-16}}</ref>。
寒帯を除く全世界の海洋に分布する。[[アカウミガメ]]は[[温帯]]から[[亜熱帯]]、[[アオウミガメ]]や[[タイマイ]]は[[熱帯]]から亜熱帯、[[ヒメウミガメ]]は熱帯の海域に見られる<ref name="guideline" />。また、[[オサガメ]]は寒帯を除く外洋域、[[ケンプヒメウミガメ]]は西部太平洋、[[ヒラタウミガメ]]はオーストラリア北部海域に見られる<ref name="guideline" />。
[[白亜紀]]においては一部を除いて外洋を回遊することはなく、各地で多種多様なウミガメが繁栄していた。
== 形態 ==
四肢は上下に平たく、特に前脚は長大である。泳ぐときは前脚を櫂のように使って水を掻き、後脚で舵をとる。海中を羽ばたくように泳ぐ姿は優雅にも見えるが、敵から逃げる際などはかなりの速度で泳ぐ。甲は上下に平たく、後方に向かってすぼむ水滴形、もしくはハート形をしている。甲の表面は大多数のカメと同様堅固な甲板に覆われるが、ウミガメ科とは別グループのオサガメ(オサガメ科)のみ硬い甲板はなく皮膚で覆われている(背甲に7本の隆起がある)<ref name="guideline" />。
カメとしては大型。最小種のヒメウミガメでも成体になれば甲長60〜70cmとなる<ref name="guideline" />。最大種はオサガメで甲長130〜160cm<ref name="guideline" />。[[化石種]]では[[中生代]][[白亜紀]]の[[地層]]に生息した[[アーケロン]] ''Archelon'' spp.、[[新生代]][[始新世]]の[[エオスファルギス]]など、甲長2mを超すものが多数生息していた。
食道内側の上皮組織には棘状の角質突起が胃の方に向かって密に並び、これにより潜水・浮上して胃の内外に急な気圧差が生じても食物を逆流させず胃へ運び、食物の余分な水分を排出する働きがあると考えられている<ref name="kamezaki2012b">[[亀崎直樹]]「第2章 形態 機能と構造」『ウミガメの自然史』、講談社、2012年、35-55頁。</ref>
== 生態 ==
基本的に生涯を海中で過ごしメスの産卵以外は陸上に上がらない。肺呼吸をする爬虫類なので、たまに海面に上がって息継ぎをする。採餌は海中で行い、[[海草]]、[[海綿動物]]、[[クラゲ]]、[[魚類]]、[[甲殻類]]などを食べる。食性は種類によって異なる。
産卵の際、メスは[[砂浜]]に上陸し、潮が満ちてこないほどの高台に穴を掘って[[卓球|ピンポン玉]]ほどの大きさの卵を一度に100個ほど産み落とす。産卵後、メスは後脚で砂をかけて卵を埋め、海へ戻る。砂の中に残された卵は2か月ほどで孵化し、子ガメは海へ旅立つ。小さい子ガメはほとんどが[[魚類]]や[[海鳥]]などに捕食され、成長できるのはわずかである。また砂浜から海に向かう最中も海鳥やカニ、フナムシなどに襲われる。これらの捕食動物は沿岸部に多く棲息しており、子ガメはその先にある外洋を目指す。そのための生理現象として、巣穴から脱出直後の子ガメにはフレンジー<ref name=yogo>[http://www.umigame.org/J1/kyokasyo_umigameyogo.html 日本ウミガメ協議会 ウミガメ用語集] 2018年8月22日閲覧。</ref>とよばれる特殊な興奮期があり、子ガメはおよそ丸1日寝ずに泳ぎ続けることができる。これは危険な沿岸部を素早く抜けるための[[ナイトラス・オキサイド・システム|N.O.S]]のようなものであり、生きて外洋に辿りつくだけで生存率は大きく上がると言われている。
子ガメは外敵の多い沿岸部を避けて外洋で分散して生活する<ref name="guideline" />。外洋である程度成長してから沿岸に帰ってくると言われているが外洋での生態には謎が多い<ref name="guideline" />。なお、オーストラリアに分布するヒラタウミガメは外洋に出ず沿岸部で生活する<ref name="guideline" />。また、アカウミガメやアオウミガメの中には成熟した後も外洋で生活するものがいるという研究もある<ref name="guideline" />。
世界的なウミガメの産卵地は、米国東部、オマーン、日本である<ref name="guideline" />。このうち日本は北太平洋で唯一の産卵地である<ref name="guideline" />。
日本近海でこれまで記録があるウミガメは5種(ケンプヒメウミガメとヒラタウミガメを除く)で産卵の記録は3種のみである。
* アカウミガメ - [[福島県]]・[[石川県]]以南の[[本州]]・[[四国]]・[[九州]]・[[南西諸島]]。太平洋沿岸各地の砂浜で毎年産卵が確認される。日本海側は太平洋側に比べて少ない。
* アオウミガメ - 南西諸島、[[小笠原諸島]]
* タイマイ - 南西諸島各地で産卵の記録がある。
ウミガメは産卵の際、「涙を流す」といわれるが、これは涙腺から体内に溜まった塩分を体排出しているだけであり、正確には産卵中でなくとも常に彼らは「泣いて」いる。眼球の背後には、眼球自体に匹敵する大きさまで肥大化した[[涙腺]]が存在し、これにより体内に取り込んだ余分な塩分を濾過し、常に体外に放出することで体内の[[塩分濃度]]を調節している。頭骨は、この肥大化した涙腺を収めるために眼窩同士を隔てる骨の壁が退化し、失われている。
== 分類 ==
ウミガメ類はウミガメ科(6種)とオサガメ科(1種)の総称である<ref name="guideline" />。
1980年に形態からウミガメ科をアカウミガメ属とヒメウミガメ属でアカウミガメ亜科、アオウミガメとタイマイ・ヒラタウミガメでアオウミガメ亜科に分割する説もあった<ref name="kamezaki2012a">亀崎直樹 「第1章 進化 分類と系統」『ウミガメの自然史』、[[講談社]]、[[2012年]]、11-34頁。</ref>。1996年に発表されたミトコンドリアDNAの分子解析ではアオウミガメが最も初期に分岐したと推定され、亜科は否定されている<ref name="kamezaki2012a"/>。
なお、東太平洋中南米沖に通常のアオウミガメとは形態が少し異なるクロウミガメ(black turtle)と呼ばれるグループがいるが、科学的研究は進んでおらずアオウミガメとは別種とする説もある<ref name="guideline" />。
* [[ウミガメ科]] [[w:Cheloniidae|Cheloniidae]]
** アカウミガメ属 ''Caretta''
*** ''Caretta caretta'' [[アカウミガメ]] [[w:Loggerhead_sea_turtle|Loggerhead turtle]]
** アオウミガメ属 ''Chelonia''
*** ''Chelonia mydas'' [[アオウミガメ]] [[w:Green_sea_turtle|Green turtle]]
** タイマイ属 ''Eretmochelys''
*** ''Eretmochelys imbricata'' [[タイマイ]] [[w:Hawksbill_turtle|Hawksbill turtle]]
** ヒメウミガメ属 [[w:Ridley_sea_turtle|''Lepidochelys'']]
*** ''Lepidochelys kempi'' [[ケンプヒメウミガメ]] [[w:Kemp's_ridley|Kemp's ridley turtle]]
*** ''Lepidochelys olivacea'' [[ヒメウミガメ]] [[w:Olive_ridley|Olive ridley turtle]]
** ヒラタウミガメ属 ''Natator''
*** ''Natator depressus'' [[ヒラタウミガメ]] [[w:Flatback_turtle|Flatback turtle]]
* [[オサガメ科]] [[w:Dermochelyidae|Dermochelyidae]]
** [[絶滅|†]][[メソダーモケリス]]属 ''[[w:Mesodernochelys|Mesodernochelys]]''
**†[[エオスファルギス]]属 {{Snamei||Eosphargis}}
** オサガメ属 ''Dermochelys''
*** ''Dermochelys coriacea'' [[オサガメ]] [[w:Leatherback_sea_turtle|Leatherback turtle]]
* †[[プロトステガ科]] [[w:Protostegidae|Protostegidae]]
** †[[サンタナケリス]] ''[[w:Santanachelys|Santanachelys]]''
** †[[プロトステガ]] ''[[w:Protostega|Protostega]]''
** †[[アーケロン]] ''[[w:Archelon|Archelon]]''
** †[[デスマトケリス]] ''[[w:Desmatochelys|Desmatochelys]]''
* †[[トクソケリス科]] Toxochelyidae
* †Thalassemyidae
{{Wikispecies|Chelonioidea}}
== 人間との関係 ==
[[File:Turtle stew in japan Bonin Islands.jpg|thumb|200px|ウミガメの煮物(小笠原諸島の郷土料理)]]
[[File:Sea turtle sashimi.jpg|200px|thumb|ウミガメの刺身(同)]]
ウミガメとの関わりは古くからみられ、日本の童話中にも[[浦島太郎]]の説話があるように馴染み深い生き物である<ref name="guideline" />。人気怪獣のモデル([[ガメラ]])として映画などに利用されている。
[[奈良時代]]に中国から伝わった[[亀卜]]は、[[アカウミガメ]]などの[[甲羅]]を熱して生じる亀裂から判断する[[占い]]であり、[[平安時代]]にかけて宮中行事の時期や方角を決定する上で密接な関係を有していた<ref>{{Cite web|和書|date=2005-09-25 |url= http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=169|title=シンポジウム「亀卜 -未来を語る〈技〉-」 |publisher=國學院大學研究開発推進機構 |accessdate=2019-01-11}}</ref>。
日本における食用としてのウミガメの利用は、[[小笠原諸島]]におけるアオウミガメが最も有名である<ref name="guideline" />。[[1876年]]より日本領土となった小笠原諸島では、産業振興のためにアオウミガメ漁業が当時の農商務省により奨励された<ref>菅沼弘行「[https://www.spf.org/_opri_media/projects/information/forum/backnumber/pdf/83_01.pdf 世界遺産小笠原 海洋生物の観点からの歴史]」平成23年9月20日</ref>。アオウミガメ漁業は現在も行われているが、漁獲量は当時に比べて種の保全を考えて上限がきめられている([[養殖]]も試みられている)<ref>{{Cite web|和書|title=【結果が出るのは30年後】小笠原諸島・父島で行うウミガメ保全活動(伊藤忠商事) @gendai_biz|url=https://gendai.media/articles/-/66513?page=3|website=現代ビジネス|accessdate=2020-04-08|publisher=}}</ref>。このほか九州から紀伊半島の太平洋側の地域や伊豆諸島ではアカウミガメが食用にされてきた<ref name="guideline" />。また[[沖縄県]]でも伝統的にウミガメは食用にされてきた<ref name="guideline" />。[[八重山列島|八重山地方]]を中心に一定の漁獲割り当てがあり<ref>沖縄海区漁業調整委員会、「[https://www.pref.okinawa.jp/site/norin/suisan/kaiku/siji/kame/documents/h29shijikame.pdf 沖縄海区漁業調整委員会指示29第3号]」平成29年6月30日</ref>、料理店で刺身や汁物、から揚げなどで提供されている。
食用以外では、[[タイマイ]]の甲の鱗板を加工した[[鼈甲]]は正倉院宝物などにもみられ宝飾用や[[工芸品]]の素材として珍重されている<ref name="guideline" />。しかし、タイマイは現在著しく個体数が減少しており、学術研究など特別な場合を除いて、本種を輸出入することは禁止されている。
{{-}}
== 保護・繁殖 ==
ウミガメは捕獲や生息環境の悪化などのために生息数が減少している。[[IUCN]](国際自然保護連合)が作成した2006年度版[[レッドリスト]]では以下のように分類されている。括弧内は分類された年を表す。
* 絶滅寸前 (CR : Critically Endangered) 3種
** [[タイマイ]] ''Eretmochelys imbricata'' (1996年)
** [[ヒメウミガメ|ケンプヒメウミガメ]] ''Lepidochelys kempi'' (1996年)
** [[オサガメ]] ''Dermochelys coriacea'' (2000年)
* 絶滅危機 (EN : Endangered) 3種
** [[アカウミガメ]] ''Caretta caretta'' (1996年)
** [[ヒメウミガメ]](タイヘイヨウヒメウミガメ) ''Lepidochelys olivacea'' (1996年)
** [[アオウミガメ]] ''Chelonia mydas'' (2004年)
* 情報不足 (DD : Data Deficient) 1種
** [[ヒラタウミガメ]] ''Natator depressus'' (1996年)
ヒラタウミガメを除く全てのウミガメは、[[IUCN]]の[[レッドリスト]]において絶滅危惧種に指定されている。特に、オサガメ、タイマイ、ケンプヒメウミガメの3種は「絶滅寸前」 とされもっとも絶滅の危険が高くなっている(2006年現在)。また、[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]により、その多く<!--全部かも知れない-->について国際取引が規制されている。
=== 偶発的捕獲の予防 ===
1970年代、アメリカの東海岸やメキシコ湾岸ではアカウミガメやケンプヒメウミガメの死体が大量に打ちあがったが、その大きな原因はエビトロール漁の構造にあるとされた<ref name="guideline" />。アメリカ政府はウミガメが網から自力で脱出できる装置を開発し、エビトロール網への装着を義務づけ、ケンプヒメウミガメの数は急速に回復してきている<ref name="guideline" />。
=== 産卵地の保護 ===
日本は北太平洋唯一のアカウミガメの産卵地であり、50年以上も前から市民活動によって産卵数のカウントが行われてきた。近年では、NPO法人日本ウミガメ協議会が提唱する統一標識を装着する活動が全国規模で行われている。海岸への[[自動車]](特に大型[[四輪駆動|4WD]]車)の乗り入れ禁止など、各地でウミガメの産卵地の保護が計られている。
==== 産卵に適した砂浜 ====
産卵に適した場所は砂浜と海浜植物が生えている境目付近で砂の深さが30〜60cmの場所に限られている<ref name="guideline" />。河川からの砂の供給量の減少、海底からの土砂採取、沿岸構造物による漂砂の流れの変化に伴う侵食などで産卵に適した砂浜の減少が問題になっている<ref name="guideline" />。
==== 放流会の問題 ====
ウミガメにおける放流には2つの手法が存在する。問題になっているのは主に一つ目の[[孵化幼体の放流]]である。これは、自然下の砂浜に産み落とされた卵を移植・人工孵化させ、地域住民や観光客の手によって子ガメを海に放すというもの。子ガメの脱出に関しては海鳥に捕食される映像がドキュメンタリーなどで有名だが、放流会によって人が見守ることによってそれを阻止しようというものである。しかし、実際にこの手法によって放流された孵化幼体はほとんど外洋に辿り着くことはないと言われている。理由として、
# 人工孵化が自然孵化よりも孵化率が著しく下がること。
# 放流会というあらかじめ日程が決まった行事に合わせるため、孵化後、上述のフレンジーの効果がなくなってしまったスタミナ切れの子ガメを放流するため、寄せる波に逆らえず外洋にたどり着けなくなること。
# 自然下における脱出時間である夜間ではなく、天敵に見つかりやすい日中に行うこと。
# 磁気情報を発生から脱出までのどの段階で得ているかわかっていないため、元の砂浜にたどり着けなくなる可能性があること等が挙げられている。
これらの理由により、国内においては日本ウミガメ協議会等が「やめよう!子ガメの放流会」などと注意喚起を行っているが、未だ夏を中心に日本全国で孵化幼体の放流会が盛んに行われている<ref>[http://www.umigame.org/J1/umigame_hogo_houryuukai.html 日本ウミガメ協議会 やめよう!子ガメの放流会]</ref>。
もう一つの放流の形式がヘッドスタート<ref name=yogo>[http://www.umigame.org/J1/kyokasyo_umigameyogo.html 日本ウミガメ協議会 ウミガメ用語集] 2018年8月22日閲覧。</ref>と呼ばれるもので、1年以上飼育し身体が大きくなり天敵に襲われにくくなった段階で放流するものである。しかしこれも、ウミガメが生まれた砂浜の磁気情報をどこで得ているのか確かなことは分かっておらず、効果が実証されているわけではない。
1977年から1988年にかけてメキシコ湾にて大規模なヘッドスタートが行われ、11年間で22507個の卵から15857個の孵化幼体が誕生し、そのうち14484個体が標識をつけて放流された。そして、2002年までに14個体による25回の産卵が確認されている。一応、ヘッドスタート後にも産卵までこぎつけることは分かり、実際はもっと多くの個体が産卵に加わったという意見もあるが、効果が実証されたとはまだ言えない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 「ウミガメの自然誌 産卵と回遊の生物学」東京大学出版会 ISBN 978-4-13-066161-4
* 「決定版 日本の両生爬虫類」平凡社 ISBN 4-582-54232-8
* 「長崎県の両生・爬虫類」松尾公則 長崎新聞社 ISBN 4-931493-59-9
* [[平山廉]] 『カメのきた道 : 甲羅に秘められた2億年の生命進化』 [[NHKブックス]]、ISBN 978-4-14-091095-5。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Chelonioidea|ウミガメ上科}}
{{Wikispecies|Chelonioidea|ウミガメ上科}}
* [[カメ目]]
** [[潜頸亜目]]
* {{仮リンク|ケロニトキシズム|en|Chelonitoxism}}
== 外部リンク ==
* [http://www.umigame.org/ NPO法人日本ウミガメ協議会]
* [https://www.env.go.jp/nature/kisho/guideline/umigame.html ウミガメ保護ハンドブック] - 環境省
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:うみかめ}}
[[Category:カメ]]
[[Category:ウミガメ|*]]
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旧暦
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旧暦(きゅうれき)とは、改暦があった場合のそれ以前に使われていた暦法のことである。改暦後の暦法は新暦。多くの国ではグレゴリオ暦が現行暦のため、グレゴリオ暦の前の暦法を指す.
東アジアの多くの国では、グレゴリオ暦に改暦する前は中国暦またはそれをもとにした暦が使われていた。これらの暦は太陰太陽暦に分類されるため、旧暦を単に太陰太陽暦と言ったり、正しい語法ではないが太陰暦・陰暦と言ったりする。なおその場合、新暦は太陽暦・陽暦とも言う。
グレゴリオ暦への改暦以前に多数の改暦があったがグレゴリオ暦への改暦に比べれば小さな変更にすぎないため、暦法の細部を問題にしないときはグレゴリオ暦以前の暦法をまとめて旧暦と呼ぶことも多い。
各国の旧暦は基本はほとんど同じだが、標準時が異なる。そのため時差により朔や節気の日付がずれ、同じ日の日付が1日または1月ずれることがある。たとえば2007年2月18日未明(日本標準時)の朔は日本や中国では日付が変わって2月18日だったが、ベトナムではまだ2月17日だった。そのため旧正月(旧暦1月1日)が日本や中国では2月18日、ベトナムでは2月17日になった。この種のずれは数年に一度起こるがほとんどの場合翌月1日(旧暦で)には解消されるので、旧正月のずれを引き起こす1月以外では大きな混乱を引き起こすことはない。なお、旧暦に使われている標準時はその国の標準時と異なることがある。
日本の暦は、この1500年程は、 元嘉暦 → 儀鳳暦 → 大衍暦 → 宣明暦 → 貞享暦 → 宝暦暦 → 寛政暦 → 天保暦 → グレゴリオ暦(現行の暦)と遷移してきたので、現行暦の直前の暦を旧暦とすると、天保暦ということになる。天保暦はわずか29年間しか行用されなかった(日本で行用された暦としては最も短い。)が、今なお占いや伝統行事などで需要があり、旧暦もしくは陰暦の俗称で用いられている。ただし後述するとおり、現在旧暦として使われている暦は、改暦前の天保暦とわずかに異なる。
天保暦は天保15年1月1日(1844年2月18日)に寛政暦から改暦され明治5年12月2日(1872年12月31日)まで約29年間使われていた。その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦された。改暦は明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告し、翌月に実施された。この年の急な実施は明治維新後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれる(改暦にともなう混乱の詳細は、明治改暦」の節を参照)。
もっとも、グレゴリオ暦への移行は改暦とともに社会全般に徹底されたわけではなかった。官暦(政府発行の暦)でも、明治6年版では改暦の混乱を避けるためとして旧暦が併記されたが、翌年以後も旧暦併記が続けられた。伝統行事・生活慣習などでの使用状況を考慮したものであったが、官暦での旧暦併記がグレゴリオ暦普及を阻害するとの批判もあるなど議論が繰り返された。官暦での旧暦併記廃止の過渡期に、日付に代わる月の満ち欠けの記載が始まっている。1908年(明治41年)には帝国議会衆議院で「陽暦励行に関する建議」が可決され、1910年(明治43年)の官暦から旧暦併記が行われなくなる。1910年の旧暦併記廃止は同時代の人々に「旧暦廃止」と認識され、旧暦に基づいた行事が新暦や月遅れに移行する画期のひとつとなった。
旧暦の計算は、江戸時代までは京都における真太陽時により暦の計算に必要な中気・朔の日時を経験的に知られていた定数や周期に基づいて求めていた。そのため閏月の付加や毎年変化する大小月(30日の大月、29日の小月)も毎年計算していた。
現在の「旧暦」で使っている時間帯は日本標準時(UTC+9)で、これは東経135度の平均太陽時とほぼ等しい。これに対し京都の経度は東経135度46分で、UTC+9:03に当たる。さらに均時差により最大±15分の時差が生まれる。また、天体の位置も天体力学(位置天文学)に基づく式で計算している。このため、江戸時代の天保暦によって計算した日付と現在の旧暦とでは日が1日前後したり月名が変わったりする場合がある。
なお明治改暦以降、正式な暦ではなくなったため国立天文台では改暦以前の新暦旧暦の対照には回答するものの改暦後の対照には応じない立場である。一方、同じ国の機関であっても海上保安庁海洋情報部では非公式ながら2010年までの新暦旧暦の対照表を公表している(2010年以降の公表予定はない)。
ただし国立天文台は、毎年2月のはじめの「官報」に「暦要項」を告示、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」(朔=ついたち、望=15日など)などを提示している(すなわち、「30日の大月、29日の小月」の計算と提示は「公的」に行われている)。2015年(平成27年)の場合、2月2日 (月) に発行された第6463号の25ページ〜26ページに「平成28年 (2016) 暦要項」が「告示」(掲載)されている。
清(現在の中華人民共和国・台湾・モンゴル)と朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)では、1644年に清が制定した時憲暦が使われていた。朝鮮半島では1896年に、中国では1912年の中華民国成立時にグレゴリオ暦に改暦された。
これらの地域の旧暦は完全に同一である。標準時がUTC+9の韓国や世界各国の華人社会を含め、現地の標準時と関わりなくUTC+8の中国標準時で計算される。
旧暦は中国では農暦と呼ぶことが多く、この場合新暦は公暦と呼ぶ。他に旧暦・陰暦・夏暦とも呼ぶ。韓国では陰暦と呼ぶことが多い(旧暦とも)。英語では “Chinese calendar”と言う。
これらの国では日本とは異なり、改暦以前からある祝祭日や年中行事は旧暦で祝うのが普通である。特に旧正月はグレゴリオ暦の正月より盛大に祝われる。中国では春節、韓国ではソルラルと呼ばれ、中国・台湾・韓国のみならず、華人の多いシンガポール・マレーシア・インドネシア・フィリピンで、国の休日となっている。中国では春節の他に端午節、中秋節が旧暦での国の休日となっている。韓国ではチュソク(旧暦8月15日)、釋迦誕辰日(旧暦4月8日)がある。
韓国と中国では誕生日を旧暦で表す習慣がある。ただし新暦を使う人も混在していて、単に日付を聞いただけではどちらかわからないことがある。
モンゴルでは本来の意味での旧暦は時憲暦だが、現在はほとんど使われない。その代わりインドに起源を持つ時輪暦を修正した暦が改暦以前から民間や宗教行事で広く使われており、他国の旧暦に似た位置づけにある。時輪暦は過去に公の暦だったことはないが、旧暦として紹介されることがある。
ベトナムの旧暦は中国暦とほぼ同じである。ただしベトナム標準時(UTC+7)を使うため、日付は異なることがある。旧暦の扱いは中国などに似ていて、旧正月(テト)はやはり盛大に祝われる。国外ではベトナム暦とも呼ばれる。
西洋では、旧暦 (old calendar / old style) とはグレゴリオ暦に改暦する前のユリウス暦のことである。なお新大陸のいくつかの国ではユリウス暦が使われたことはないが、同様である。グレゴリオ暦への改暦は1582年(フランス、イタリア諸国(例外あり)、スペインおよびその支配下にあったポルトガル・ポーランド)から1924年(ギリシャ)にかけて各国ばらばらに行われた。
英語では日付の脇に Old Style または O.S. と書いた場合、ユリウス暦での日付を示す。
ドイツでは改暦の時期が領邦によりまちまちだったため、スラッシュ(/)で新旧の日付を併記したり日付に都市名を添えたりする習慣が続いた。
なお、古代ローマにおいてはユリウス暦以前の太陰(太陽)暦であるローマ暦が存在した。
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"text": "旧暦(きゅうれき)とは、改暦があった場合のそれ以前に使われていた暦法のことである。改暦後の暦法は新暦。多くの国ではグレゴリオ暦が現行暦のため、グレゴリオ暦の前の暦法を指す.",
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"text": "東アジアの多くの国では、グレゴリオ暦に改暦する前は中国暦またはそれをもとにした暦が使われていた。これらの暦は太陰太陽暦に分類されるため、旧暦を単に太陰太陽暦と言ったり、正しい語法ではないが太陰暦・陰暦と言ったりする。なおその場合、新暦は太陽暦・陽暦とも言う。",
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"text": "グレゴリオ暦への改暦以前に多数の改暦があったがグレゴリオ暦への改暦に比べれば小さな変更にすぎないため、暦法の細部を問題にしないときはグレゴリオ暦以前の暦法をまとめて旧暦と呼ぶことも多い。",
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"text": "各国の旧暦は基本はほとんど同じだが、標準時が異なる。そのため時差により朔や節気の日付がずれ、同じ日の日付が1日または1月ずれることがある。たとえば2007年2月18日未明(日本標準時)の朔は日本や中国では日付が変わって2月18日だったが、ベトナムではまだ2月17日だった。そのため旧正月(旧暦1月1日)が日本や中国では2月18日、ベトナムでは2月17日になった。この種のずれは数年に一度起こるがほとんどの場合翌月1日(旧暦で)には解消されるので、旧正月のずれを引き起こす1月以外では大きな混乱を引き起こすことはない。なお、旧暦に使われている標準時はその国の標準時と異なることがある。",
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"text": "日本の暦は、この1500年程は、 元嘉暦 → 儀鳳暦 → 大衍暦 → 宣明暦 → 貞享暦 → 宝暦暦 → 寛政暦 → 天保暦 → グレゴリオ暦(現行の暦)と遷移してきたので、現行暦の直前の暦を旧暦とすると、天保暦ということになる。天保暦はわずか29年間しか行用されなかった(日本で行用された暦としては最も短い。)が、今なお占いや伝統行事などで需要があり、旧暦もしくは陰暦の俗称で用いられている。ただし後述するとおり、現在旧暦として使われている暦は、改暦前の天保暦とわずかに異なる。",
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"text": "もっとも、グレゴリオ暦への移行は改暦とともに社会全般に徹底されたわけではなかった。官暦(政府発行の暦)でも、明治6年版では改暦の混乱を避けるためとして旧暦が併記されたが、翌年以後も旧暦併記が続けられた。伝統行事・生活慣習などでの使用状況を考慮したものであったが、官暦での旧暦併記がグレゴリオ暦普及を阻害するとの批判もあるなど議論が繰り返された。官暦での旧暦併記廃止の過渡期に、日付に代わる月の満ち欠けの記載が始まっている。1908年(明治41年)には帝国議会衆議院で「陽暦励行に関する建議」が可決され、1910年(明治43年)の官暦から旧暦併記が行われなくなる。1910年の旧暦併記廃止は同時代の人々に「旧暦廃止」と認識され、旧暦に基づいた行事が新暦や月遅れに移行する画期のひとつとなった。",
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"text": "旧暦の計算は、江戸時代までは京都における真太陽時により暦の計算に必要な中気・朔の日時を経験的に知られていた定数や周期に基づいて求めていた。そのため閏月の付加や毎年変化する大小月(30日の大月、29日の小月)も毎年計算していた。",
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"text": "現在の「旧暦」で使っている時間帯は日本標準時(UTC+9)で、これは東経135度の平均太陽時とほぼ等しい。これに対し京都の経度は東経135度46分で、UTC+9:03に当たる。さらに均時差により最大±15分の時差が生まれる。また、天体の位置も天体力学(位置天文学)に基づく式で計算している。このため、江戸時代の天保暦によって計算した日付と現在の旧暦とでは日が1日前後したり月名が変わったりする場合がある。",
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"text": "なお明治改暦以降、正式な暦ではなくなったため国立天文台では改暦以前の新暦旧暦の対照には回答するものの改暦後の対照には応じない立場である。一方、同じ国の機関であっても海上保安庁海洋情報部では非公式ながら2010年までの新暦旧暦の対照表を公表している(2010年以降の公表予定はない)。",
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"text": "ただし国立天文台は、毎年2月のはじめの「官報」に「暦要項」を告示、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」(朔=ついたち、望=15日など)などを提示している(すなわち、「30日の大月、29日の小月」の計算と提示は「公的」に行われている)。2015年(平成27年)の場合、2月2日 (月) に発行された第6463号の25ページ〜26ページに「平成28年 (2016) 暦要項」が「告示」(掲載)されている。",
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"text": "清(現在の中華人民共和国・台湾・モンゴル)と朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)では、1644年に清が制定した時憲暦が使われていた。朝鮮半島では1896年に、中国では1912年の中華民国成立時にグレゴリオ暦に改暦された。",
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"text": "これらの地域の旧暦は完全に同一である。標準時がUTC+9の韓国や世界各国の華人社会を含め、現地の標準時と関わりなくUTC+8の中国標準時で計算される。",
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"text": "旧暦は中国では農暦と呼ぶことが多く、この場合新暦は公暦と呼ぶ。他に旧暦・陰暦・夏暦とも呼ぶ。韓国では陰暦と呼ぶことが多い(旧暦とも)。英語では “Chinese calendar”と言う。",
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"text": "これらの国では日本とは異なり、改暦以前からある祝祭日や年中行事は旧暦で祝うのが普通である。特に旧正月はグレゴリオ暦の正月より盛大に祝われる。中国では春節、韓国ではソルラルと呼ばれ、中国・台湾・韓国のみならず、華人の多いシンガポール・マレーシア・インドネシア・フィリピンで、国の休日となっている。中国では春節の他に端午節、中秋節が旧暦での国の休日となっている。韓国ではチュソク(旧暦8月15日)、釋迦誕辰日(旧暦4月8日)がある。",
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},
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"text": "韓国と中国では誕生日を旧暦で表す習慣がある。ただし新暦を使う人も混在していて、単に日付を聞いただけではどちらかわからないことがある。",
"title": "東アジア"
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"text": "モンゴルでは本来の意味での旧暦は時憲暦だが、現在はほとんど使われない。その代わりインドに起源を持つ時輪暦を修正した暦が改暦以前から民間や宗教行事で広く使われており、他国の旧暦に似た位置づけにある。時輪暦は過去に公の暦だったことはないが、旧暦として紹介されることがある。",
"title": "東アジア"
},
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"text": "ベトナムの旧暦は中国暦とほぼ同じである。ただしベトナム標準時(UTC+7)を使うため、日付は異なることがある。旧暦の扱いは中国などに似ていて、旧正月(テト)はやはり盛大に祝われる。国外ではベトナム暦とも呼ばれる。",
"title": "東アジア"
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"text": "西洋では、旧暦 (old calendar / old style) とはグレゴリオ暦に改暦する前のユリウス暦のことである。なお新大陸のいくつかの国ではユリウス暦が使われたことはないが、同様である。グレゴリオ暦への改暦は1582年(フランス、イタリア諸国(例外あり)、スペインおよびその支配下にあったポルトガル・ポーランド)から1924年(ギリシャ)にかけて各国ばらばらに行われた。",
"title": "西洋"
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"text": "英語では日付の脇に Old Style または O.S. と書いた場合、ユリウス暦での日付を示す。",
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"text": "ドイツでは改暦の時期が領邦によりまちまちだったため、スラッシュ(/)で新旧の日付を併記したり日付に都市名を添えたりする習慣が続いた。",
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"text": "なお、古代ローマにおいてはユリウス暦以前の太陰(太陽)暦であるローマ暦が存在した。",
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旧暦(きゅうれき)とは、改暦があった場合のそれ以前に使われていた暦法のことである。改暦後の暦法は新暦。多くの国ではグレゴリオ暦が現行暦のため、グレゴリオ暦の前の暦法を指す.
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{{Today/旧暦/CE/AH}}
'''旧暦'''(きゅうれき)とは、[[改暦]]があった場合のそれ以前に使われていた[[暦法]]のことである。改暦後の暦法は[[新暦]]。多くの国では[[グレゴリオ暦]]が現行暦のため、'''グレゴリオ暦の前の暦法'''を指す.
== 東アジア ==
[[東アジア]]の多くの国では、グレゴリオ暦に改暦する前は[[中国暦]]またはそれをもとにした暦が使われていた。これらの暦は'''[[太陰太陽暦]]'''に分類されるため、旧暦を単に太陰太陽暦と言ったり、正しい語法ではないが[[太陰暦]]・'''陰暦'''と言ったりする。なおその場合、新暦は[[太陽暦]]・陽暦とも言う。
グレゴリオ暦への改暦以前に多数の改暦があったがグレゴリオ暦への改暦に比べれば小さな変更にすぎないため、暦法の細部を問題にしないときはグレゴリオ暦以前の暦法をまとめて旧暦と呼ぶことも多い。
各国の旧暦は基本はほとんど同じだが、[[標準時]]が異なる。そのため時差により[[朔]]や[[節気]]の日付がずれ、同じ日の日付が1日または1月ずれることがある。たとえば[[2007年]][[2月18日]]未明([[日本標準時]])の朔は[[日本]]や[[中国]]では日付が変わって2月18日だったが、[[ベトナム]]ではまだ[[2月17日]]だった。そのため[[旧正月]]([[1月1日 (旧暦)|旧暦1月1日]])が日本や中国では2月18日、ベトナムでは2月17日になった。この種のずれは数年に一度起こるがほとんどの場合翌月1日(旧暦で)には解消されるので、旧正月のずれを引き起こす1月以外では大きな混乱を引き起こすことはない。なお、旧暦に使われている標準時はその国の標準時と異なることがある。
=== 日本 ===
日本の暦は、この1500年程は、 [[元嘉暦]] → [[儀鳳暦]] → [[大衍暦]] → [[宣明暦]] → [[貞享暦]] → [[宝暦暦]] → [[寛政暦]] → [[天保暦]] → [[グレゴリオ暦]](現行の暦)と遷移してきたので、現行暦の直前の暦を旧暦とすると、'''[[天保暦]]'''ということになる。天保暦はわずか29年間しか行用されなかった(日本で行用された暦としては最も短い。)が、今なお[[占い]]や[[年中行事|伝統行事]]などで需要があり、旧暦もしくは陰暦の俗称で用いられている。ただし後述するとおり、現在旧暦として使われている暦は、改暦前の天保暦とわずかに異なる。
天保暦は[[天保]]15年1月1日(1844年2月18日)に[[寛政暦]]から改暦され[[明治5年]][[12月2日 (旧暦)|12月2日]]([[1872年]][[12月31日]])まで約29年間使われていた。その翌日の[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]をもって明治6年([[1873年]])[[1月1日]]に改められ、[[グレゴリオ暦]](太陽暦)に[[明治の改暦|改暦]]された。改暦は明治5年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]](1872年[[12月9日]])に布告し、翌月に実施された。この年の急な実施は[[明治維新]]後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれる<ref>岡田義朗『暦に見る日本人の知恵』(NHK出版 生活人新書)</ref>(改暦にともなう混乱の詳細は、[[明治改暦]]」の節を参照)。
もっとも、グレゴリオ暦への移行は改暦とともに社会全般に徹底されたわけではなかった<ref name="koyomiwiki-heiki">{{Cite web|和書|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FB5ECCEF1CABBB5ADA4F2A4E1A4B0A4EBB5C4CFC0.html|title=旧暦併記をめぐる議論|work=暦Wiki|publisher=[[国立天文台]]天文情報センター暦計算室|accessdate=2014-05-30}}</ref><ref name="hirayama-1888189">平山昇『鉄道が変えた社寺参詣』(交通新聞社、2012年)pp.188-189</ref>。[[官暦]](政府発行の暦)でも、明治6年版では改暦の混乱を避けるためとして旧暦が併記されたが、翌年以後も旧暦併記が続けられた<ref name="koyomiwiki-heiki" />。伝統行事・生活慣習などでの使用状況を考慮したものであったが、官暦での旧暦併記がグレゴリオ暦普及を阻害するとの批判もあるなど議論が繰り返された<ref name="koyomiwiki-heiki" />。官暦での旧暦併記廃止の過渡期に、日付に代わる[[月齢|月の満ち欠け]]の記載が始まっている<ref name="koyomiwiki-getsurei">{{Cite web|和書|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B7EEA4CECBFEA4C1B7E7A4B12FB7EECEF0A4ACC0B8A4DEA4ECA4EBA4DEA4C7.html|title=月齢が生まれるまで|work=暦Wiki|publisher=[[国立天文台]]天文情報センター暦計算室|accessdate=2014-05-30}}</ref>。1908年(明治41年)には[[帝国議会]][[衆議院]]で「陽暦励行に関する建議」が可決され<ref name="koyomiwiki-heiki" />、1910年(明治43年)の官暦から旧暦併記が行われなくなる<ref name="koyomiwiki-heiki" />。1910年の旧暦併記廃止は同時代の人々に「旧暦廃止」と認識され<ref name="hirayama-1888189" />、旧暦に基づいた行事が新暦や[[月遅れ]]に移行する画期のひとつとなった<ref name="hirayama-1888189" />。
==== 「旧暦」の計算 ====
旧暦の計算は、[[江戸時代]]までは[[京都]]における真太陽時により暦の計算に必要な[[二十四節気|中気]]・[[朔]]の日時を経験的に知られていた定数や周期に基づいて求めていた。そのため閏月の付加や毎年変化する[[月の大小|大小月]](30日の大月、29日の小月)も毎年計算していた。
現在の「旧暦」で使っている時間帯は[[日本標準時]]([[UTC+9]])で、これは東経135度の[[平均太陽時]]とほぼ等しい。これに対し京都の[[経度]]は東経135度46分で、UTC+9:03に当たる。さらに[[均時差]]により最大±15分の時差が生まれる。また、天体の位置も[[天体力学]]([[位置天文学]])に基づく式で計算している。このため、江戸時代の天保暦によって計算した日付と現在の旧暦とでは日が1日前後したり月名が変わったりする場合がある。
なお明治改暦以降、正式な暦ではなくなったため[[国立天文台]]では改暦以前の新暦旧暦の対照には回答するものの改暦後の対照には応じない立場である<ref>[https://www.nao.ac.jp/faq/a0304.html 「旧暦」ってなに?]</ref>。一方、同じ国の機関であっても[[海上保安庁]][[海洋情報部]]では非公式ながら[[2010年]]までの新暦旧暦の対照表を公表している(2010年以降の公表予定はない)<ref>[http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/reki/kyuu9700.htm 1997-2010年の新暦と旧暦の対照表]</ref>。
ただし国立天文台は、毎年2月のはじめの「[[官報]]」に「暦要項」を[[告示]]、翌年の「[[二十四節気]]および[[雑節]]」、「朔弦望」([[朔]]=ついたち、[[望]]=15日など)などを提示している(すなわち、「30日の大月、29日の小月」の計算と提示は「公的」に行われている)。2015年(平成27年)の場合、2月2日 (月) に発行された第6463号の25ページ〜26ページに「平成28年 (2016) 暦要項」が「告示」(掲載)されている。
=== 中国など ===
[[清]](現在の[[中華人民共和国]]・[[台湾]]・[[モンゴル国|モンゴル]])と[[李氏朝鮮|朝鮮]](現在の[[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]])では、[[1644年]]に清が制定した'''[[時憲暦]]'''が使われていた。朝鮮半島では[[1896年]]に、中国では[[1912年]]の[[中華民国]]成立時にグレゴリオ暦に改暦された。
{{Fact|これらの地域の旧暦は完全に同一である。標準時がUTC+9の韓国や世界各国の[[華人]]社会を含め、現地の標準時と関わりなく[[UTC+8]]の[[中国標準時]]で計算される。|date=2016年9月}}
旧暦は中国では'''[[中国暦|農暦]]'''と呼ぶことが多く、この場合新暦は公暦と呼ぶ。他に旧暦・陰暦・'''[[古六暦|夏暦]]'''とも呼ぶ。韓国では陰暦と呼ぶことが多い(旧暦とも)。英語では “'''Chinese calendar'''”と言う。
これらの国では日本とは異なり、改暦以前からある祝祭日や年中行事は旧暦で祝うのが普通である。特に旧正月はグレゴリオ暦の正月より盛大に祝われる。中国では[[春節]]、韓国では[[ソルラル]]と呼ばれ、中国・台湾・韓国のみならず、華人の多い[[シンガポール]]・[[マレーシア]]・[[インドネシア]]・[[フィリピン]]で、国の休日となっている。中国では[[春節]]の他に[[端午|端午節]]、[[中秋節]]が旧暦での国の休日となっている。韓国では[[秋夕|チュソク]]([[8月15日 (旧暦)|旧暦8月15日]])、[[灌仏会|釋迦誕辰日]]([[4月8日 (旧暦)|旧暦4月8日]])がある。
韓国と中国では[[誕生日]]を旧暦で表す習慣がある。ただし新暦を使う人も混在していて、単に日付を聞いただけではどちらかわからないことがある。
{{Fact|モンゴルでは本来の意味での旧暦は時憲暦だが、現在はほとんど使われない。|date=2016年9月}}その代わり[[インド]]に起源を持つ[[時輪暦]]を修正した暦が改暦以前から民間や宗教行事で広く使われており、他国の旧暦に似た位置づけにある。時輪暦は過去に公の暦だったことはないが、旧暦として紹介されることがある。
=== ベトナム ===
ベトナムの旧暦は中国暦とほぼ同じである。ただし[[ベトナム標準時]]([[UTC+7]])を使うため、日付は異なることがある。旧暦の扱いは中国などに似ていて、旧正月([[テト]])はやはり盛大に祝われる。国外では'''ベトナム暦'''とも呼ばれる。
== 西洋 ==
{{Main|en:Old Style and New Style dates|新暦と旧暦の日付}}
[[西洋]]では、旧暦 (old calendar / old style) とはグレゴリオ暦に改暦する前の'''[[ユリウス暦]]'''のことである。なお[[新大陸]]のいくつかの国ではユリウス暦が使われたことはないが、同様である。グレゴリオ暦への改暦は[[1582年]]([[フランス]]、[[イタリア]]諸国(例外あり)、[[スペイン]]およびその支配下にあった[[ポルトガル]]・[[ポーランド]])から[[1924年]]([[ギリシャ]])にかけて各国ばらばらに行われた。
英語では日付の脇に '''Old Style''' または '''O.S.''' と書いた場合、ユリウス暦での日付を示す。
[[ドイツ]]では改暦の時期が[[領邦]]によりまちまちだったため、スラッシュ(/)で新旧の日付を併記したり日付に[[都市]]名を添えたりする習慣が続いた。
なお、[[古代ローマ]]においてはユリウス暦以前の太陰(太陽)暦である[[ローマ暦]]が存在した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[旧暦360日]]
* [[旧暦2033年問題]]
* [[旧正月]]
* [[太古暦]]
* [[和暦]]
* [[新暦]]([[太陽暦]])
* [[グレゴリオ暦]]
* [[神武天皇即位紀元]]
== 外部リンク ==
* [http://hosi.org When.exe Ruby版] - 古今東西あらゆる文化および言語で用いられた暦日・暦法・時法・暦年代・暦注などにユニークな名前付けを行い、統一的に扱うことを目的としたフレームワーク。新暦旧暦みならず、古代暦の相互換算にも対応。
* [https://reki.gozaaru.com/ 西暦和暦変換] - 和暦と西暦の相互変換ができる。日付まで対応している。
* [http://koyomi.vis.ne.jp/index.html こよみのページ] - 旧暦のカレンダーや、新暦と旧暦相互の変換([[1000年|1000]]~[[2069年]]の間)ができる。
* [https://www.paphio.jp/webcal/qreki.html 旧暦計算ライブラリ] - 新暦から旧暦を計算するスクリプト。
* [https://sinocal.sinica.edu.tw/ 新旧暦(中国元号)変換カレンダー] - 新暦の日付と中国の旧暦(農暦)の日付を相互変換できるサイト。
{{暦}}
{{Time topics}}
{{Chronology}}
{{Time measurement and standards}}
{{DEFAULTSORT:きゆうれき}}
[[Category:暦法]]
[[Category:日本の旧暦|*]]
[[Category:明治時代の文化]]
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2003-07-26T07:44:06Z
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2023-11-23T11:15:57Z
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[
"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Today/旧暦/CE/AH",
"Template:Fact",
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"Template:Main",
"Template:暦"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%9A%A6
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12,242 |
国民の祝日
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国民の祝日(こくみんのしゅくじつ)は、日本の法律(日本法)「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律第178号。以下「祝日法」または「法」。1948年(昭和23年)7月20日施行)第2条で定められた祝日である。2021年(令和3年)時点で合計16日ある。
かつての休日法である「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」から継承される祭日由来のものがあるが、現行の休日法である祝日法では全て祝日としており、法律上の祭日は存在しない。
「国民の祝日」は祝日法以前の祝祭日に代えて定められたもので、しばしば「祝日」と略して称される。祝日法第3条第1項によって、休日になる旨が定められている。
祝日法第1条では「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」と、法の趣旨を説明している。
祝日に国旗を掲出・掲揚する個人宅、企業、公共の施設・交通機関もある。このため法律用語ではないが、長きにわたって慣習に馴染みのある国民は、祝日を旧称の「旗日」(はたび)と称す場合がある。
また「国民の祝日」ではない月曜日から土曜日の平日が休日になることがある。例として法第3条第2項・第3項に規定された、いわゆる「振替休日」「国民の休日」がある。
2019年以降、祝日だった日が平日になる例(祝日を別の日に変更)が3年連続で計7回発生した。平成時代の天皇を務めた明仁の誕生日の12月23日は、退位により2019年からは平日になった。2020年は2020年東京オリンピックのため、海の日を7月23日、スポーツの日(旧体育の日)を翌24日、山の日を8月10日にそれぞれ変更した。この年は新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)を受け中止になったが、祝日はそのままとなった。オリンピックは翌2021年に延期され、前年と同様に海の日は7月22日、スポーツの日は翌23日、山の日は8月8日と変更された。
廃止時における旧法の祝祭日は11日あったが、新法の祝日は2日少ない9日となり、この状況は1965年(昭和40年)まで続いた。なお、1948年(昭和23年)の祝祭日(祝日)の数は旧法で6日、新法で3日の計9日となり、国民の祝日に関する法律での初の祝日は、同年9月23日の秋分の日であった。
祝日は1966年(昭和41年)に11日、1967年(昭和42年)に12日、1989年(昭和64年・平成元年)に13日、1996年(平成8年)に14日、2007年(平成19年)に15日、2016年(平成28年)に16日に増えた。偶発的な国民の休日もあり、日本の祝日の数は主要先進国(G7)中で最多、イギリスのイングランド及びウェールズの8日に比べ2倍となっている。年末年始休暇も含めると日本の休日ははるかに長くなる。一部の祝日の日付を固定せずに月曜日として、週末に続けて連休を取りやすくする月曜固定祝日制度(ハッピーマンデー制度)も同様の趣旨に基づき2000年から順次導入された。しかし、月曜固定祝日制度については月曜日を強制休日にする反動によりサービス業では前週の金曜日および翌日の火曜日・学校関係は学期末に負担が増大する、有給休暇の取得をより困難にしているなど月曜固定祝日制度を廃止するべきとの声も大きい。また「月曜固定祝日は祝日として認めていないので平日扱いとする」という考え方の人もいる。さらに、カレンダーの並びによっては月日指定の祝日・振替休日が月曜日に集中することにより、月曜固定祝日を含む週末は前週の土曜日を代替出勤日(平日扱い)にして月曜固定祝日による弊害を是正しなければならない。
ただし飲食・小売業といった休日が書き入れ時となるサービス業、24時間体制の工場、交替制勤務の職種など祝日が休日とならない職種、企業も多数存在する。週に2日の休日という考え方から、祝日のある週は土曜日を出勤日に設定している一般企業もある。月曜日から金曜日のいずれかを休業日としている業種・企業では、本来の休業日が祝日に当たった場合は営業し、休業日を他の平日に振り替える場合もある。
ほとんどの祝日が「月日固定」か「特定週の月曜日固定」であるが、春分の日と秋分の日は年によって異なる。
制定以来、8月に国民の祝日が設定されたことはなかったが(旧法では大正天皇の天長節・8月31日があった)、2016年(平成28年)からは8月11日が「山の日」として祝日に制定された。これにより6月が、1993年(平成5年)の皇室慶弔行事に伴う休日以外では、日本で唯一制定がない月となっていたが、2019年(令和元年)5月1日の今上天皇即位に伴い、上皇明仁の天皇誕生日であった12月23日が平日に戻されたため、同年以降は、6月に加え、12月も祝日がない月となった。加えて2020年(令和2年)は、体育の日から改められたスポーツの日が、当初の東京オリンピック開会式当日の7月24日に設定され、延期して開会式が行われた2021年(令和3年)も7月23日に設定されたため、6月、12月に加え、10月も祝日がない月となった(但し12月は28日が仕事納めであり、官庁でも現業部門以外は翌日から1月3日まで年末年始休暇に入る)。
皇室関係の慶弔行事が行われる場合は、その年に限りそれが実施される日を特別に休日として定める、当年限りの法律が作られる。その際には、その日を「国民の祝日に関する法律」に定める休日と同等なものとして扱うよう附則で定めるのが通例である。具体的には『国民の祝日に関する法律(中略)に規定する日とする』『休日を定める他の法令の規定の適用については、当該法令に定める休日とみなす』などのように規定される(特例法によるみなし休日)。
休日を定める法令で現在有効な法令などとしては、国民の祝日に関する法律、国会に置かれる機関の休日に関する法律、裁判所の休日に関する法律、行政機関の休日に関する法律、検察審査会法などがある(詳細は「休日#政府機関における休日」参照)。「国民の祝日に関する法律に規定する日」とは同法に定める休日の事である。また通常、それ以外の法令における休日となる。
国・地方自治体ではこれに沿った取扱い(閉庁や時間外手当の増額等)がなされる。民間では一般企業は休日扱いとして休業するケースが多かったが、特に大喪の礼にあっては不時の事であるから、鉄道などでは列車運行など切替えが難しく、平日運転のままとした会社があったりと、対応はまちまちである。
休日は多数の人出が見込めるため、百貨店・スーパーマーケットなどの小売業は、積極的に営業するのが通例である。しかし「昭和天皇の大喪の礼」2月24日に限っては、弔意を優先させて臨時休業した店舗も多かった。このような販売側の休業を受けて、製造日が厳しく問われる乳製品などの食品メーカーでは、前日や前夜の生産量が記録的に少なかったところが多い。
2019年(平成31年/令和元年)については天皇の即位の日を祝日扱いの休日としたため、同年のゴールデンウィークは土曜日を含めると10連休となることになった。
2009年(平成21年)11月12日(木曜日)の明仁天皇在位二十周年の日を特別に休日とする事で早くから調整されていたが、自民党・公明党の自公連立政権から、民主党中心の民社国連立政権への移行といった当時の政局の混乱から、天皇陛下御在位二十年を記念する日を休日とする法律案が成立しなかったため、休日実現には至らなかった。
「交差した旗」は、「旗日」を意味する絵文字で、Unicodeの規格書ではJapanese national holiday(日本の祝日)と説明されている。
|
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"text": "国民の祝日(こくみんのしゅくじつ)は、日本の法律(日本法)「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律第178号。以下「祝日法」または「法」。1948年(昭和23年)7月20日施行)第2条で定められた祝日である。2021年(令和3年)時点で合計16日ある。",
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"text": "かつての休日法である「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」から継承される祭日由来のものがあるが、現行の休日法である祝日法では全て祝日としており、法律上の祭日は存在しない。",
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"text": "「国民の祝日」は祝日法以前の祝祭日に代えて定められたもので、しばしば「祝日」と略して称される。祝日法第3条第1項によって、休日になる旨が定められている。",
"title": "概説"
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"text": "祝日法第1条では「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」と、法の趣旨を説明している。",
"title": "概説"
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"text": "祝日に国旗を掲出・掲揚する個人宅、企業、公共の施設・交通機関もある。このため法律用語ではないが、長きにわたって慣習に馴染みのある国民は、祝日を旧称の「旗日」(はたび)と称す場合がある。",
"title": "概説"
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"text": "また「国民の祝日」ではない月曜日から土曜日の平日が休日になることがある。例として法第3条第2項・第3項に規定された、いわゆる「振替休日」「国民の休日」がある。",
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"text": "2019年以降、祝日だった日が平日になる例(祝日を別の日に変更)が3年連続で計7回発生した。平成時代の天皇を務めた明仁の誕生日の12月23日は、退位により2019年からは平日になった。2020年は2020年東京オリンピックのため、海の日を7月23日、スポーツの日(旧体育の日)を翌24日、山の日を8月10日にそれぞれ変更した。この年は新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)を受け中止になったが、祝日はそのままとなった。オリンピックは翌2021年に延期され、前年と同様に海の日は7月22日、スポーツの日は翌23日、山の日は8月8日と変更された。",
"title": "概説"
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"text": "廃止時における旧法の祝祭日は11日あったが、新法の祝日は2日少ない9日となり、この状況は1965年(昭和40年)まで続いた。なお、1948年(昭和23年)の祝祭日(祝日)の数は旧法で6日、新法で3日の計9日となり、国民の祝日に関する法律での初の祝日は、同年9月23日の秋分の日であった。",
"title": "祝日などの一覧"
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"text": "祝日は1966年(昭和41年)に11日、1967年(昭和42年)に12日、1989年(昭和64年・平成元年)に13日、1996年(平成8年)に14日、2007年(平成19年)に15日、2016年(平成28年)に16日に増えた。偶発的な国民の休日もあり、日本の祝日の数は主要先進国(G7)中で最多、イギリスのイングランド及びウェールズの8日に比べ2倍となっている。年末年始休暇も含めると日本の休日ははるかに長くなる。一部の祝日の日付を固定せずに月曜日として、週末に続けて連休を取りやすくする月曜固定祝日制度(ハッピーマンデー制度)も同様の趣旨に基づき2000年から順次導入された。しかし、月曜固定祝日制度については月曜日を強制休日にする反動によりサービス業では前週の金曜日および翌日の火曜日・学校関係は学期末に負担が増大する、有給休暇の取得をより困難にしているなど月曜固定祝日制度を廃止するべきとの声も大きい。また「月曜固定祝日は祝日として認めていないので平日扱いとする」という考え方の人もいる。さらに、カレンダーの並びによっては月日指定の祝日・振替休日が月曜日に集中することにより、月曜固定祝日を含む週末は前週の土曜日を代替出勤日(平日扱い)にして月曜固定祝日による弊害を是正しなければならない。",
"title": "祝日などの一覧"
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"text": "ただし飲食・小売業といった休日が書き入れ時となるサービス業、24時間体制の工場、交替制勤務の職種など祝日が休日とならない職種、企業も多数存在する。週に2日の休日という考え方から、祝日のある週は土曜日を出勤日に設定している一般企業もある。月曜日から金曜日のいずれかを休業日としている業種・企業では、本来の休業日が祝日に当たった場合は営業し、休業日を他の平日に振り替える場合もある。",
"title": "祝日などの一覧"
},
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"text": "ほとんどの祝日が「月日固定」か「特定週の月曜日固定」であるが、春分の日と秋分の日は年によって異なる。",
"title": "祝日などの一覧"
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"text": "制定以来、8月に国民の祝日が設定されたことはなかったが(旧法では大正天皇の天長節・8月31日があった)、2016年(平成28年)からは8月11日が「山の日」として祝日に制定された。これにより6月が、1993年(平成5年)の皇室慶弔行事に伴う休日以外では、日本で唯一制定がない月となっていたが、2019年(令和元年)5月1日の今上天皇即位に伴い、上皇明仁の天皇誕生日であった12月23日が平日に戻されたため、同年以降は、6月に加え、12月も祝日がない月となった。加えて2020年(令和2年)は、体育の日から改められたスポーツの日が、当初の東京オリンピック開会式当日の7月24日に設定され、延期して開会式が行われた2021年(令和3年)も7月23日に設定されたため、6月、12月に加え、10月も祝日がない月となった(但し12月は28日が仕事納めであり、官庁でも現業部門以外は翌日から1月3日まで年末年始休暇に入る)。",
"title": "祝日などの一覧"
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"title": "祝日などの一覧"
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"text": "皇室関係の慶弔行事が行われる場合は、その年に限りそれが実施される日を特別に休日として定める、当年限りの法律が作られる。その際には、その日を「国民の祝日に関する法律」に定める休日と同等なものとして扱うよう附則で定めるのが通例である。具体的には『国民の祝日に関する法律(中略)に規定する日とする』『休日を定める他の法令の規定の適用については、当該法令に定める休日とみなす』などのように規定される(特例法によるみなし休日)。",
"title": "皇室慶弔行事に伴う休日"
},
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"paragraph_id": 14,
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"text": "休日を定める法令で現在有効な法令などとしては、国民の祝日に関する法律、国会に置かれる機関の休日に関する法律、裁判所の休日に関する法律、行政機関の休日に関する法律、検察審査会法などがある(詳細は「休日#政府機関における休日」参照)。「国民の祝日に関する法律に規定する日」とは同法に定める休日の事である。また通常、それ以外の法令における休日となる。",
"title": "皇室慶弔行事に伴う休日"
},
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"text": "国・地方自治体ではこれに沿った取扱い(閉庁や時間外手当の増額等)がなされる。民間では一般企業は休日扱いとして休業するケースが多かったが、特に大喪の礼にあっては不時の事であるから、鉄道などでは列車運行など切替えが難しく、平日運転のままとした会社があったりと、対応はまちまちである。",
"title": "皇室慶弔行事に伴う休日"
},
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"text": "休日は多数の人出が見込めるため、百貨店・スーパーマーケットなどの小売業は、積極的に営業するのが通例である。しかし「昭和天皇の大喪の礼」2月24日に限っては、弔意を優先させて臨時休業した店舗も多かった。このような販売側の休業を受けて、製造日が厳しく問われる乳製品などの食品メーカーでは、前日や前夜の生産量が記録的に少なかったところが多い。",
"title": "皇室慶弔行事に伴う休日"
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"text": "2019年(平成31年/令和元年)については天皇の即位の日を祝日扱いの休日としたため、同年のゴールデンウィークは土曜日を含めると10連休となることになった。",
"title": "皇室慶弔行事に伴う休日"
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"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)11月12日(木曜日)の明仁天皇在位二十周年の日を特別に休日とする事で早くから調整されていたが、自民党・公明党の自公連立政権から、民主党中心の民社国連立政権への移行といった当時の政局の混乱から、天皇陛下御在位二十年を記念する日を休日とする法律案が成立しなかったため、休日実現には至らなかった。",
"title": "皇室慶弔行事に伴う休日"
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"text": "「交差した旗」は、「旗日」を意味する絵文字で、Unicodeの規格書ではJapanese national holiday(日本の祝日)と説明されている。",
"title": "符号位置"
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] |
国民の祝日(こくみんのしゅくじつ)は、日本の法律(日本法)「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律第178号。以下「祝日法」または「法」。1948年7月20日施行)第2条で定められた祝日である。2021年(令和3年)時点で合計16日ある。 かつての休日法である「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」から継承される祭日由来のものがあるが、現行の休日法である祝日法では全て祝日としており、法律上の祭日は存在しない。
|
{{pathnav|frame=1|([[休日]])|祝日|this=日本の祝日「国民の祝日」}}
{{Otheruseslist|[[1948年]]7月20日以降の[[日本]]における祝日|1948年7月19日以前の日本における祝日|祝祭日|その他の祝日|祝日}}
{{混同|国民の休日}}
{{出典の明記|date=2019年6月}}
{{law}}
{{国民の祝日}}
'''国民の祝日'''(こくみんのしゅくじつ)は、[[日本]]の法律([[日本法]])「'''[[国民の祝日に関する法律]]'''」([[昭和]]23年法律第178号。以下「祝日法」または「法」。[[1948年]](昭和23年)[[7月20日]]施行)第2条で定められた[[祝日]]である。2021年([[令和]]3年)時点で合計16日ある<ref name="読売20210508">【ニュースの門】日本人は祝日がお好き?『[[読売新聞]]』朝刊2021年5月8日(解説面)</ref>。
かつての休日法である「[[年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム]]」および「[[休日ニ関スル件]]」から継承される[[祭日]]由来のものがあるが、現行の休日法である祝日法では全て祝日としており、法律上の祭日は存在しない。
== 概説 ==
「国民の祝日」は祝日法以前の[[祝祭日]]に代えて定められたもので、しばしば「'''[[祝日]]'''」と略して称される。[[国民の祝日に関する法律|祝日法]]第3条第1項によって、[[休日]]になる旨が定められている。
祝日法第1条では「[[自由]]と[[平和]]を求めてやまない[[日本人|日本国民]]は、美しい風習を育てつつ、よりよき[[社会]]、より豊かな[[生活]]を築きあげるために、ここに[[国民]]こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」と、法の趣旨を説明している。
祝日に[[日本の国旗|国旗]]を掲出・掲揚する個人宅、企業、公共の施設・交通機関もある。このため法律用語ではないが、長きにわたって慣習に馴染みのある国民は、祝日を旧称の「'''旗日'''」(はたび)と称す場合がある。
また「国民の祝日」ではない[[月曜日]]から[[土曜日]]の[[平日]]が休日になることがある。例として法第3条第2項・第3項に規定された、いわゆる「[[振替休日]]」「[[国民の休日]]」がある<!--「皇室慶弔行事に伴う休日」は毎年ではないため、この節では除外。-->。
2019年以降、祝日だった日が平日になる例(祝日を別の日に変更)が3年連続で計7回発生した。平成時代の天皇を務めた[[明仁]]の誕生日の12月23日は、退位により2019年からは平日になった。2020年は[[2020年東京オリンピック]]のため、[[海の日]]を7月23日、[[スポーツの日 (日本) |スポーツの日]](旧体育の日)を翌24日、山の日を8月10日にそれぞれ変更した。この年は[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)]]を受け中止になったが、祝日はそのままとなった。オリンピックは翌2021年に延期され、前年と同様に海の日は7月22日、スポーツの日は翌23日、山の日は8月8日と変更された。
== 祝日などの一覧 ==
* 名称〜適用終了年欄の背景が灰色のものは、期日が変更されるなどして適用されなくなった祝日である。
* 適用開始年欄に「制定時」と記載のあるものは、[[1948年]]([[昭和]]23年)[[7月20日]]の法律制定当初から存在する祝日である。ただし[[元日]]、[[成人の日]]、[[春分の日]]、[[天皇誕生日]]、[[憲法記念日]]、[[こどもの日]]は[[1949年]](昭和24年)から適用された。適用終了年欄に「-」と記載のあるものは現在でもその期日に施行されていることを示す。
* 改正により追加された祝日の適用開始年欄には、実際に初めて適用された年を記載する。法令上その祝日に関する規定が発効した年とは必ずしも一致しない。
** (例)「国民の休日」に関する規定は「振替休日」の優先適用などがあったため実際に初めて適用されたのは[[1988年]](昭和63年)であるが、法律の条項としては[[1985年]](昭和60年)[[12月27日]]から存在している。
* 改正により期日が変更された祝日の適用開始年欄には期日変更前も含めた最初の適用年を記載し、変更年は備考欄に記載する。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!名称!!期日!!適用開始年!!適用終了年!!意義||備考
|-
|[[元日]]||[[1月1日]]||制定時||-||年のはじめを祝う||慣習的に休日の側面を帯びていたが、法定の休日となったのは初めて。[[四方拝]]。[[日本の戦後改革]]前の昭和前期において四大節(四方拝、[[紀元節]]、[[天長節]]、[[明治節]])と呼ばれる祝日の一つであったが、法定の休日ではなかった。
|-
|rowspan="2"|[[成人の日]]||style="background-color:#dddddd"|[[1月15日]]||style="background-color:#dddddd"|制定時||style="background-color:#dddddd; white-space:nowrap"|[[1999年]]<br>([[平成]]11年)||rowspan="2"|[[成年|おとな]]になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする[[青年]]を祝いはげます||[[小正月]]に由来。[[ハッピーマンデー制度]]により、月曜日固定に移行する形で廃止した。
|-
|[[1月]]の第2[[月曜日]]||style="white-space:nowrap"|[[2000年]]<br>(平成12年)||rowspan="4"|-||1999年(平成11年)までは1月15日。ハッピーマンデー制度により、月曜日固定に移行する形で施行。ただし、成人の日は[[1月8日]] - [[1月14日]]の間の月曜日になるため、本来の日付である1月15日が成人の日になる可能性はなくなった。
|-
|[[建国記念の日]]||[[s:建国記念の日となる日を定める政令|政令]]で定める日<br>([[2月11日]])||[[1967年]]<br>(昭和42年)||建国をしのび、[[愛国心|国を愛する心]]を養う||かつての[[紀元節]]:[[1874年]](明治7年) - 1948年(昭和23年)。<br>※「[[建国記念日]]」('''の'''抜き)は日本の祝日名としては誤り。
|-
|[[天皇誕生日]]||[[2月23日]]||[[2020年]]<br>([[令和]]2年)||[[天皇]]の[[誕生日]]を祝う||[[2019年]]([[令和]]元年)[[5月1日]]、第125代天皇・[[明仁]]から第126代天皇・[[徳仁]]への[[譲位]]に伴い、明仁の誕生日([[12月23日]])から移行する形で設定。そのため2019年は、日程上設定できず、実際の運用は2020年からとなった。日本の[[国家の日]](ナショナル・デー)<ref group="注">慣例上、[[イギリス]]や[[タイ王国|タイ]]、[[オランダ]]などの[[君主制]]国家はその在位中の[[君主]](他国における[[国王]]または[[女王]]など)の誕生日が、その国の「[[国家の日]](ナショナル・デー)」とされる。これに倣い、国際慣例上君主と見なされる天皇の誕生日は、国家の日とされる。</ref>。
|-
|[[春分の日]]||[[春分日]]<br>([[3月19日]] - [[3月22日]])<ref group="注">ただし、[[1924年]]([[大正]]13年)- [[2091年]]の間は[[春分]]日は[[3月20日]]か[[3月21日|21日]]しか現れない見込みで、次に[[3月19日]]となるのは[[2092年]]・[[2096年]]の2回のみ([[グレゴリオ暦]]の周期400年の中でこの2回)。また、直近で最後に[[3月22日]]だったのは[[1923年]](大正12年)で、次に3月22日となるのは2303年の見込み。</ref>||制定時||[[自然]]をたたえ、[[生物]]をいつくしむ||かつての[[春|春季]][[皇霊祭]]:[[1879年]](明治12年)- 1948年(昭和23年)。<br>[[国立天文台]]『暦象年表』に基づき[[閣議決定]]し、前年[[2月1日]]頃に『[[官報]]』で暦要項として公告する。
|-
|style="background-color:#dddddd"|天皇誕生日||rowspan="3"|[[4月29日]]||style="background-color:#dddddd"|制定時||style="background-color:#dddddd"|[[1988年]]<br>(昭和63年)||天皇の誕生日を祝う||[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]の[[昭和天皇]]の[[崩御]]により、明仁の誕生日([[12月23日]])に移行する形で廃止した。ただし、法律の施行日は同年2月17日だったため、法律上はこの日まで、天皇誕生日の扱いだった。<br>かつての[[天長節]]:[[1927年]](昭和2年)- [[1948年]](昭和23年)。
|-
|style="background-color:#dddddd"|みどりの日||style="background-color:#dddddd"|[[1989年]]<br>(平成元年)||style="background-color:#dddddd"|[[2006年]]<br>(平成18年)||[[自然]]に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ||昭和の日に改名する形で廃止した。名称は5月4日に新設される祝日に引き継がれた。名称は昭和天皇が自然を愛していたことに由来する。<br>※「緑の日」は誤り。
|-
|[[昭和の日]]||[[2007年]]<br>(平成19年)|| rowspan="4" |-||激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、[[日本|国]]の将来に思いをいたす||昭和天皇の誕生日に由来。<br>1989年(平成元年)- 2006年(平成18年)はみどりの日、1988年(昭和63年)以前は天皇誕生日。
|-
|[[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]]||[[5月3日]]||制定時||[[日本国憲法]]の施行を記念し、国の成長を期する||日本国憲法が[[施行]]された日。
|-
|[[みどりの日]]||[[5月4日]]||2007年<br>(平成19年)||[[自然]]に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ||2006年(平成18年)までは4月29日。4月29日が昭和の日に変更されたことにより、5月4日に新設される祝日として施行された。5月4日は1988年(昭和63年)- 2006年(平成18年)の間は、一部(日曜日or月曜日)を除き「国民の休日」。<br>※「緑の日」は誤り。
|-
|[[こどもの日]]||[[5月5日]]||制定時||[[子供|こども]]の[[人格]]を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、[[母親|母]]に感謝する||[[端午]]の節句<br>※「子供の日」は誤り。
|-
|rowspan="2"|[[海の日]]||style="background-color:#dddddd"|[[7月20日]]||style="background-color:#dddddd"|[[1996年]]<br>(平成8年)||style="background-color:#dddddd"|[[2002年]]<br>(平成14年)||rowspan="2"|[[海]]の恩恵に感謝するとともに、[[海洋国]]日本の繁栄を願う||海の記念日に由来する。ハッピーマンデー制度により、月曜日固定に移行する形で廃止した。
|-
|[[7月]]の第3月曜日||[[2003年]]<br>(平成15年)||rowspan="2"|-||2002年(平成14年)までは7月20日。ハッピーマンデー制度により、月曜日固定に移行する形で施行。<br />
[[2020年]](令和2年)は[[平成三十二年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法|東京五輪・パラリンピック特措法]]に基づき、[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[2020年東京オリンピックの開会式|開会式]]当初予定日の前日に当たる[[7月23日]]になった。<br />
[[2021年]](令和3年)は東京オリンピックの開会式の前日に当たる[[7月22日]]になった<ref name="naikakufu_2021">{{Cite web|和書|date=2020 |url=https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html |title=「国民の祝日」について |publisher=[[内閣府]][[内閣官房|大臣官房]]総務課 |accessdate=2021-08-11}}</ref><ref name="naikakukanbo_20201221">{{Cite web|和書|date=2020-12-21 |url=https://www.kantei.go.jp/jp/headline/tokyo2020/shukujitsu.html |title=2021年の祝日移動について |publisher=[[内閣官房]] 東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局 |format=PDF |accessdate=2021-08-11}}</ref><ref name="naikakukanbo_2020_PDF">{{Cite web|和書|date=2020 |url=https://www.kantei.go.jp/jp/headline/pdf/tokyo2020/2021holiday_flyer.pdf |title=東京2020オリンピック・パラリンピック開催にあわせて 2021年の祝日が移動します |publisher=内閣官房 |format=PDF |accessdate=2021-08-11}}</ref>。
|-
|[[山の日]]||[[8月11日]]||[[2016年]]<br>(平成28年)||[[山]]に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する||[[お盆]]前の祝日として制定されたが、山に関する明確な由来はない。当初は8月12日が検討されたが、[[日本航空123便墜落事故|JAL123便事故]]と同日の為、前日に変更された。<br />
[[平成三十二年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法|東京五輪・パラリンピック特措法]]に基づき、[[2020年]](令和2年)は[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[2020年東京オリンピックの閉会式|閉会式]]当初予定日の翌日に当たる[[8月10日]]になった。<br />
[[2021年]](令和3年)は延期された東京オリンピックの閉会式の当日に当たる[[8月8日]]になった<ref name="naikakufu_2021" /><ref name="naikakukanbo_20201221" /><ref name="naikakukanbo_2020_PDF" />。
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|rowspan="2"|[[敬老の日]]||style="background-color:#dddddd"|[[9月15日]]||style="background-color:#dddddd"|[[1966年]]<br>(昭和41年)||style="background-color:#dddddd"|2002年<br>(平成14年)||rowspan="2"|多年にわたり[[社会]]につくしてきた[[高齢者|老人]]を敬愛し、[[長寿]]を祝う||1965年(昭和40年)までと2003年(平成15年)以降は、老人の日。ハッピーマンデー制度により、月曜日固定に移行する形で廃止した。
|-
|[[9月]]の第3月曜日||2003年<br>(平成15年)||rowspan="2"|-||2002年(平成14年)までは9月15日。ハッピーマンデー制度により、月曜日固定に移行する形で施行した。
|-
|[[秋分の日]]||[[秋分日]]<br>([[9月22日]]<br> - [[9月24日]])<ref group="注">[[1980年]](昭和55年)- [[2102年]]の間は[[秋分]]日は[[9月22日]]か[[9月23日|23日]]しか現れない見込み。直近で最後に[[9月24日]]だったのは[[1979年]](昭和54年)で、次に[[9月24日]]となるのは2103年、その次は[[2202年]]となる見込み。</ref>||制定時||[[先祖|祖先]]を敬い、なくなった人々をしのぶ||かつての[[秋|秋季]]皇霊祭:[[1878年]](明治11年) - 1947年(昭和22年)。<br>国立天文台『暦象年表』に基づき閣議決定し、前年2月1日頃に『官報』で暦要項として公告する。
|-
| style="background-color:#dddddd" rowspan="2" |[[スポーツの日 (日本)|体育の日]]||style="background-color:#dddddd"|[[10月10日]]||style="background-color:#dddddd"|1966年<br>(昭和41年)||style="background-color:#dddddd"|1999年<br>(平成11年)|| rowspan="2"|[[スポーツ]]にしたしみ、[[健康]]な[[心]][[体|身]]をつちかう||[[1964年東京オリンピックの開会式]]:1964年(昭和39年)が行われた日。ハッピーマンデー制度により、月曜日固定に移行する形で廃止した。
|-
| rowspan="2" |[[10月]]の第2月曜日||style="background-color:#dddddd"|2000年<br>(平成12年)|| style="background-color:#dddddd" |2019年<br>(令和元年)||1999年(平成11年)までは10月10日。ハッピーマンデー制度により、月曜日固定に移行する形で施行。2020年(令和2年)にスポーツの日に改名した。
|-
|[[スポーツの日 (日本)|スポーツの日]]|||2020年<br>(令和2年)|| rowspan="3" |-||スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う||体育の日が改名する形で施行。[[平成三十二年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法|東京五輪・パラリンピック特措法]]に基づき、[[2020年]](令和2年)は東京オリンピックの開会式当初予定日の[[7月24日]]になった。[[2021年]](令和3年)は延期された東京オリンピックの開会式の当日に当たる[[7月23日]]になった。
|-
|[[文化の日]]||[[11月3日]]||rowspan="2"|制定時||[[自由]]と[[平和]]を愛し、[[文化 (代表的なトピック)|文化]]をすすめる||[[明治天皇]]の誕生日に由来。日本国憲法が[[公布]]された日。かつての天長節:[[1873年]](明治6年)- [[1911年]](明治44年)かつての[[明治節]]:[[1927年]](昭和2年)- 1947年(昭和22年)。
|-
|[[勤労感謝の日]]||[[11月23日]]||[[労働|勤労]]をたつとび、[[生産]]を祝い、国民たがいに感謝しあう||かつての[[新嘗祭]]:1873年(明治6年)- 1947年(昭和22年)。
|-
|style="background-color:#dddddd"|[[天皇誕生日]]||style="background-color:#dddddd"|[[12月23日]]||style="background-color:#dddddd"|1989年<br>(平成元年)||style="background-color:#dddddd"|2018年<br>(平成30年)||天皇の誕生日を祝う||[[2019年]](令和元年)[[5月1日]]、[[明仁]]から[[徳仁]]への[[譲位]]に伴い、徳仁の誕生日([[2月23日]])に移行する形で廃止した。そのため、2019年は設定できず、実際の適用は2018年までとなった。つまり2019年は1949年以降唯一の、「天皇誕生日」が存在しなかった年である。<br>2019年からは平日になったが、2019年のカレンダーには「平成の天皇誕生日」と記載されていた。
|-
|([[振替休日]])||rowspan="2"|(不定)||[[1973年]]<br>(昭和48年)||rowspan="2"|-||国民の祝日が日曜日にあたるとき、その後の最初の平日が該当する||初適用は1973年(昭和48年)[[4月30日]]。当初は直後の月曜日だった。[[2007年]](平成19年)の改正施行で、国民の祝日が日曜日に当たるときは、その後に迎える最初の平日が振替休日となる(祝日が2日以上連続する場合が出現したため月曜日のみとはならなくなった)。
|-
|style="white-space:nowrap"|([[国民の休日]])||1988年<br>(昭和63年)||その前日及び翌日が「国民の祝日」である平日は、休日とすると定められている||2つの祝日に挟まれた[[平日]]([[月曜日]]は[[振替休日]]のため除く)。2006年(平成18年)までの適用例は5月4日のみ。[[シルバーウィーク#9月の大型連休|2003年(平成15年)の改正施行で、以降の敬老の日と秋分の日に挟まれた平日に適用される]]ことになった。その最初の適用は[[2009年]](平成21年)[[9月22日]]。2007年(平成19年)の改正施行で、以降の5月4日に適用されなくなった。2019年(平成31年・[[令和]]元年)は5月1日が天皇の[[即位]]の日の祝日となったため、4月30日・5月2日に適用された。
|}
廃止時における旧法の祝祭日は11日あったが、新法の祝日は2日少ない9日となり、この状況は[[1965年]](昭和40年)まで続いた。なお、1948年(昭和23年)の祝祭日(祝日)の数は旧法で6日、新法で3日の計9日となり、[[国民の祝日に関する法律]]での初の祝日は、同年[[9月23日]]の秋分の日であった。
祝日は1966年(昭和41年)に11日、1967年(昭和42年)に12日、1989年(昭和64年・平成元年)に13日、1996年(平成8年)に14日、2007年(平成19年)に15日、2016年(平成28年)に16日に増えた。偶発的な国民の休日もあり、日本の祝日の数は主要[[先進国]]([[G7]])中で最多、[[イギリス]]の[[イングランド]]及び[[ウェールズ]]の8日に比べ2倍<ref name="読売20210508"/>となっている。年末年始休暇も含めると日本の休日ははるかに長くなる。一部の祝日の日付を固定せずに月曜日として、週末に続けて[[連休]]を取りやすくする月曜固定祝日制度([[ハッピーマンデー制度]])も同様の趣旨に基づき2000年から順次導入された。しかし、月曜固定祝日制度については月曜日を強制休日にする反動によりサービス業では前週の金曜日および翌日の火曜日・学校関係は学期末に負担が増大する、有給休暇の取得をより困難にしているなど月曜固定祝日制度を廃止するべきとの声も大きい。また「月曜固定祝日は祝日として認めていないので平日扱いとする」という考え方の人もいる。さらに、カレンダーの並びによっては月日指定の祝日・振替休日が月曜日に集中することにより、月曜固定祝日を含む週末は前週の土曜日を代替出勤日(平日扱い)にして月曜固定祝日による弊害を是正しなければならない。
ただし飲食・小売業といった休日が書き入れ時となる[[サービス業]]、24時間体制の[[工場]]、交替制勤務の職種など祝日が休日とならない職種、企業も多数存在する。週に2日の休日という考え方から、祝日のある週は土曜日を出勤日に設定している一般企業もある。月曜日から金曜日のいずれかを休業日としている業種・企業では、本来の休業日が祝日に当たった場合は営業し、休業日を他の平日に振り替える場合もある。
ほとんどの祝日が「月日固定」か「特定週の月曜日固定」であるが、春分の日と秋分の日は年によって異なる。
制定以来、[[8月]]に国民の祝日が設定されたことはなかったが(旧法では[[大正天皇]]の天長節・[[8月31日]]があった)、2016年(平成28年)からは[[8月11日]]が「[[山の日#概要|山の日]]」として祝日に制定された。これにより[[6月]]が、[[1993年]](平成5年)の[[#皇室慶弔行事に伴う休日|皇室慶弔行事に伴う休日]]以外では、日本で唯一制定がない月となっていたが、[[2019年]](令和元年)5月1日の今上天皇即位に伴い、上皇明仁の天皇誕生日であった[[12月23日]]が平日に戻されたため、同年以降は、6月に加え、[[12月]]も祝日がない月となった。加えて[[2020年]](令和2年)は、体育の日から改められたスポーツの日が、当初の東京オリンピック開会式当日の[[7月24日]]に設定され、延期して開会式が行われた[[2021年]](令和3年)も[[7月23日]]に設定されたため、6月、12月に加え、[[10月]]も祝日がない月となった(但し12月は28日が[[仕事納め]]であり、官庁でも現業部門以外は翌日から1月3日まで年末年始休暇に入る)。
{{Anchors|特例法によるみなし休日}}<!--多数の他記事からリンクされているのでAnchorsを変更しないでください-->
== 皇室慶弔行事に伴う休日 ==
[[皇室]]関係の慶弔行事が行われる場合は、その年に限りそれが実施される日を特別に休日として定める、当年限りの法律が作られる。その際には、その日を「国民の祝日に関する法律」に定める休日と同等なものとして扱うよう附則で定めるのが通例である。具体的には『国民の祝日に関する法律(中略)に規定する日とする』『休日を定める他の法令の規定の適用については、当該法令に定める休日とみなす』などのように規定される(特例法によるみなし休日)。
休日を定める法令で現在有効な法令などとしては、[[国民の祝日に関する法律]]、国会に置かれる機関の休日に関する法律、裁判所の休日に関する法律、行政機関の休日に関する法律、[[検察審査会法]]などがある(詳細は「[[休日#政府機関における休日]]」参照)。「国民の祝日に関する法律に規定する日」とは同法に定める休日の事である<ref group="注">正確には、即位や結婚の儀など慶事は同法の「国民の祝日」または法令の「休日」と規定されるが、大喪の礼など弔事は単に法令の「休日」と規定している。</ref>。また通常、それ以外の法令における休日となる。
国・地方自治体ではこれに沿った取扱い(閉庁や時間外手当の増額等<ref group="注">「行政機関の休日に関する法律」(第1条第1項第2号)、「地方自治法」(第4条の2第1項第2号)、「学校教育法施行規則」(第61条第1号)等、「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」(第178条第2項)、「民法」(第142条)等</ref>)がなされる。民間では一般企業は休日扱いとして休業するケースが多かったが、特に[[大喪の礼]]にあっては不時の事であるから、[[日本の鉄道|鉄道]]などでは列車運行など切替えが難しく、平日運転のままとした会社があったりと、対応はまちまちである。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!年月日!!style="white-space:nowrap"|曜日!!皇室慶弔行事!!法律
|-
|[[1959年]](昭和34年)[[4月10日]]||rowspan="2"|[[金曜日|金曜]]||style="white-space:nowrap"|[[皇太子]]・[[ミッチー・ブーム|明仁親王の結婚の儀]]||[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/03119590317016.htm 皇太子明仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律]
|-
|[[1989年]](平成元年)[[2月24日]]||昭和天皇の[[大喪の礼]]||[[s:昭和天皇の大喪の礼の行われる日を休日とする法律|昭和天皇の大喪の礼の行われる日を休日とする法律]]
|-
| style="white-space:nowrap" |[[1990年]](平成2年)[[11月12日]]||[[月曜日|月曜]]||[[即位の礼|即位礼正殿の儀]]||[[s:即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律|即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律]]
|-
|[[1993年]](平成5年)[[6月9日]]||rowspan="2"|[[水曜日|水曜]]||[[皇太子]]・[[皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀|徳仁親王の結婚の儀]]||[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/12619930430032.htm 皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律]
|-
|2019年(令和元年)[[5月1日]]<ref group="注">[[5月1日]]が祝日扱いとなることで、前日と翌日が祝日となる平日の[[4月30日]]および[[5月2日]]は附則により国民の休日となる。</ref>||[[徳仁|天皇]]の即位||rowspan="2"|[[s:天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律|天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律]]
|-
|2019年(令和元年)[[10月22日]]||[[火曜日|火曜]]||[[即位の礼|即位礼正殿の儀]]
|}
休日は多数の人出が見込めるため、[[百貨店]]・[[スーパーマーケット]]などの[[小売業]]は、積極的に営業するのが通例である。しかし「[[昭和天皇]]の大喪の礼」[[2月24日]]に限っては、弔意を優先させて臨時休業した店舗も多かった。このような販売側の休業を受けて、製造日が厳しく問われる[[乳製品]]などの食品メーカーでは、前日や前夜の生産量が記録的に少なかったところが多い。
[[2019年]](平成31年/[[令和]]元年)については天皇の即位の日を祝日扱いの休日としたため、同年の[[ゴールデンウィーク]]は土曜日を含めると10連休となることになった。
{{See also|ゴールデンウィーク#2019年の10連休}}
[[2009年]](平成21年)[[11月12日]]([[木曜日]])の明仁[[天皇]]在位二十周年の日を特別に休日とする事で早くから調整されていたが、[[自由民主党 (日本)|自民党]]・[[公明党]]の[[自公連立政権]]から、[[民主党 (日本 1998-2016)#党史|民主党]]中心の[[民社国連立政権]]への移行といった当時の政局の混乱から、[[天皇陛下御在位二十年を記念する日を休日とする法律案]]が成立しなかったため、休日実現には至らなかった。
== 廃止された日本の祝日 ==
{{See also|祝祭日}}
* 国民の祝日に関する法律の施行に伴い廃止されたもの
** [[紀元節]](明治6年太政官布告第1号及び91号) - 同様の日が[[建国記念の日]]として残っている。
** [[天長節]](明治6年太政官布告第1号) - 同様の日が[[天皇誕生日]]として残っている。
** 正月 - 慣例による。元日として正式に祝日となった。
** [[明治節]] - 同様の日が[[文化の日]]として残っている。
** [[新年宴会]]
* [[住民の祝祭日]] - [[琉球政府]]時代に制定、沖縄[[本土復帰]]と共に祝日法施行により改廃([[慰霊の日]]は地方公共団体の休日となる)。
== 符号位置 ==
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!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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{{CharCode|12951|3297|-|丸祝<br />CIRCLED IDEOGRAPH CONGRATULATION}}
{{CharCode|127884|1F38C|-|交差した旗<br />Crossed Flags}}
|}
「交差した旗」は、「旗日」を意味する絵文字で、[[Unicode]]の規格書ではJapanese national holiday(日本の祝日)と説明されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[国民の祝日に関する法律]]
* [[住民の祝祭日]] - 琉球政府時代の沖縄の祝日
* [[祝祭日]] - 1948年7月19日以前の日本の祝祭日
* [[ゴールデンウィーク]]
* [[お盆]]
* [[大晦日]]、[[年末年始]]、[[正月三が日]]
* [[シルバーウィーク]]
== 外部リンク ==
* [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html 国民の祝日について] - [[内閣府]]
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[[Category:日本の祝日|*]]
[[Category:戦後の日本]]
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12,243 |
祝日
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祝日(しゅくじつ)とは、建国や独立などのその国の歴史的な出来事に由来したり、功績のあった人物を称えて制定された記念日。宗教儀礼上の重要な祭祀を行う日である祭日とは異なる。同月日のものは固定祝日(こていしゅくじつ)という。
通常は、各国の法律において定められる。祝日と祭日を合わせ「祝祭日」とする場合もある。国家の休日として制定される場合もある。
以下は、個別記事の一覧である。2014年9月時点で世界一祝祭日の日数が多いのはコロンビアとインドの18日、日本は15日で世界3位の多さである。世界一祝祭日の日数が少ないのはメキシコの7日である。
上記にない国等は、各国等のページに祝祭日の節を設けて記述してあることが多いので、そちらを参照。また、Category:各国の祝日、en:List of holidays by countryも参照。
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{{Otheruses|国及び国民一般の恒例の祝い日として制定された[[記念日]]|その他}}
[[File:4th of July Independence Day Parade 2014 DC (14466486678).jpg|thumb|[[アメリカ独立記念日]]を祝う[[パレード]]]]
'''祝日'''(しゅくじつ)とは、[[建国記念日|建国]]や[[独立]]などのその[[国]]の歴史的な出来事に由来したり、功績のあった人物を称えて制定された記念日。[[宗教]]儀礼上の重要な[[祭]]祀を行う日である[[祭日]]とは異なる。同月日のものは'''固定祝日'''(こていしゅくじつ)という。
通常は、各国の[[法律]]において定められる。祝日と祭日を合わせ「祝祭日」とする場合もある。国家の休日として制定される場合もある。
== 各国の祝日 ==
以下は、個別記事の一覧である。2014年9月時点で世界一祝祭日の日数が多いのは[[コロンビア]]と[[インド]]の18日、日本は15日で世界3位の多さである。世界一祝祭日の日数が少ないのは[[メキシコ]]の7日である<ref>[https://web.archive.org/web/20141229023939/http://www.mercer.co.jp/newsroom/2014-global-public-holiday-entitlements.html マーサー、年間祝祭日数世界ランキングを発表] 2014年9月10日、[[マーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティング|マーサー]]</ref>。
=== アジア ===
* [[ウズベキスタンの祝日]]
* [[ジョージアの祝日]] (グルジア)
* [[タイ王国の祝日]]
* [[台湾の祝祭日]]
* [[朝鮮民主主義人民共和国の祝日]]
* [[日本]]
** [[国民の祝日]] - 1948年[[7月20日]]以降
** [[祝祭日]] - 1948年[[7月19日]]以前
** [[住民の祝祭日]] - [[琉球政府]]時代のその祝日
<!--
=== 北米 ===
=== 南米 ===
-->
=== アフリカ ===
* [[カメルーンの祝日]]
* [[ナイジェリアの祝日]]
=== オセアニア ===
* [[パラオの祝日]]
=== ヨーロッパ ===
* [[ドイツの祝日]]
=== その他 ===
* [[満洲国の祝祭日]]
上記にない[[国]]等は、各国等のページに'''祝祭日'''の節を設けて記述してあることが多いので、そちらを参照。また、[[:Category:各国の祝日|Category:各国の祝日]]、[[:en:List of holidays by country]]も参照。
== 符号位置 ==
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{{CharCode|12951|3297|-|丸付き祝<br />CIRCLED IDEOGRAPH CONGRATULATION}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
* [[国家の日]]
** [[建国記念日]]
* [[週末]]
** [[日曜日]]
** [[土曜日]]
** [[金曜日]]
* [[地方祝日]]
* [[移動祝日]]
* [[振替休日]]
* [[特定祝日]]
* [[変更日|変更祝日]]
* [[標準祝日]]
* [[ハッピーマンデー]]
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[[Category:祝日|*]]
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12,245 |
J-Chess
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J-Chess(ジェイチェス)は、基本的なルールは将棋(日本将棋)そのままに、駒から漢字を排除し、ファッション感覚を導入することにより子供や女性・日本人以外に対する間口を広げようと考案されたボードゲームである。
2001年、小説家・ネットプロデューサーである吉村達也により発案され、プロ棋士の伊藤果、島朗、森下卓、佐藤康光(棋士番号順)が協力している。
J-Chessの駒には、キング/クイーンを除いて動物をイメージする絵が使用されている。駒の呼び方と、括弧内にはイメージされる動物を記述している。
「飛車が竜王に成る」は「イーグルがスーパーイーグルに変身する」と表現される。
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J-Chess(ジェイチェス)は、基本的なルールは将棋(日本将棋)そのままに、駒から漢字を排除し、ファッション感覚を導入することにより子供や女性・日本人以外に対する間口を広げようと考案されたボードゲームである。 2001年、小説家・ネットプロデューサーである吉村達也により発案され、プロ棋士の伊藤果、島朗、森下卓、佐藤康光(棋士番号順)が協力している。
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{{出典の明記|date=2015年8月}}'''J-Chess'''(ジェイチェス)は、基本的なルールは[[将棋]](日本将棋)そのままに、駒から漢字を排除し、ファッション感覚を導入することにより子供や女性・日本人以外に対する間口を広げようと考案された[[ボードゲーム]]である。
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== 将棋の駒との対応 ==
J-Chessの駒には、キング/クイーンを除いて動物をイメージする絵が使用されている。駒の呼び方と、括弧内にはイメージされる動物を記述している。
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!将棋!!J-Chess
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|[[玉将]]/王将||キング/クイーン
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|[[飛車]]||イーグル([[ワシ]])
|- align="center"
|[[角行]]||[[チーター|チータ]]
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|[[金将]]||[[ジャイアントパンダ|パンダ]]
|- align="center"
|[[銀将]]||フォックス([[キツネ]])
|- align="center"
|[[桂馬]]||ディア([[シカ]])
|- align="center"
|[[香車]]||ビー([[ハチ]])
|- align="center"
|[[歩兵 (将棋)|歩兵]]||ワーカー([[アリ]])
|}
「'''飛車'''が'''竜王'''に'''成る'''」は「'''イーグル'''が'''スーパーイーグル'''に'''変身する'''」と表現される。
== 外部リンク ==
*[http://www.yoshimura-tatsuya.com/j-chess/ J-Chess 公式サイト](閉鎖)
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爬虫類
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爬虫類(爬蟲類、はちゅうるい、学名:Reptilia、英:Reptile)は、有羊膜類に属する動物の一群である。
爬虫類の「爬」の字は「地を這う」の意味を持つ。「虫」は本草学における「蟲」を意味し、すなわち「爬虫」とは「地を這う動物」を意味する。
広義には鳥類を含むすべての竜弓有羊膜類からなる単系統群であると定義されている。現生爬虫類は、カメ、ワニ、恐竜(鳥類を含む)、有鱗目(トカゲ、ヘビ)、ムカシトカゲ目(ムカシトカゲ)である。伝統的なリンネの分類体系では、鳥類は爬虫類と別の区分とされている。しかし、ワニは他の現生爬虫類よりも鳥類に近縁であるため、現代の分岐分類体系では鳥類を爬虫類内に含め、分岐群と再定義している。また、爬虫類という用語を完全に捨て、哺乳類よりも現代の爬虫類に近いすべての動物を指す竜弓類という分岐群を採用する定義もある。
古生代に地上で生活を全うできる生物群として3億年前に両生類から分かれて進化した爬虫類は急速に多様化した。そして爬虫類は、その前にいた両生類に代わり世界を支配し始めた。中生代には恐竜、翼竜などが、新生代からは鳥類が繁栄した。一方、古生代半ばから中生代前半にかけて繁栄した哺乳類の祖先である単弓類(哺乳類形爬虫類)は、その後の研究並びに分類方法の変更から、現在は爬虫類には含まれない。
最古の原始爬虫類は約3億1200万年前の石炭紀に誕生し、乾いた土地での生活に適応してきた高度な爬形類の四足動物から進化した。最古の真正爬虫類(eureptile)は、表面的にはトカゲに似た小型のヒロノムスである。遺伝子や化石のデータが、爬虫類の2大系統である主竜様類(ワニ、鳥類とその仲間)と鱗竜形類(トカゲとその仲間)はペルム紀の終わり頃に分岐したと主張する。 現存の爬虫類に加えて、現在絶滅した多様なグループが多く、中には大量絶滅のイベントによって絶滅したグループもある。特に白亜紀と古第三紀の間の大量絶滅では、翼竜、プレシオサウルス、すべての非鳥類恐竜が、多くのワニ型類(Crocodyliformes)や有鱗目(モササウルスなど)と共に絶滅した。現代の鳥類以外の爬虫類は、南極大陸を除くすべての大陸に生息している。
爬虫類は四肢脊椎動物で、4本の手足を持つか、ヘビのように4本の手足を持つ祖先の子孫である生物である。両生類とは異なり、幼生期に水棲することはない。ほとんどの爬虫類は卵生であるが、有鱗目のいくつかの種は胎生であり、絶滅した水生生物群もそうであった。爬虫類の卵は、保護と輸送のために膜に囲まれており、乾いた土地での繁殖に適応している。胎生の種の多くは、哺乳類に類似した様々な形態の胎盤を通して胎児に栄養を与え、中には孵化したての子の初期の世話をするものもある。現存する爬虫類の大きさは、17mmの小さなヤモリから、体長6m、体重1,000kgを超えるイリエワニまで様々である。
基本として体表は表皮の変形した鱗でおおわれ、4本の脚と尾、乾燥に強い卵(有羊膜卵)などが特徴である。また蛋白質の代謝によって発生するアンモニアは両生類や哺乳類のような尿素ではなく、水に不溶である尿酸に代謝し、糞とともに総排出腔から排泄するものが多い。これも乾燥に対する重要な適応の一つである。
ヘビや、アシナシトカゲを始めとする一部のトカゲのように脚が退化しているものやカメ類のように鱗と骨格が一体化し、甲となったものもある。繁殖形態は卵生で、革質か石灰質の殻におおわれた卵を陸上に産む。生まれた子供は親と同じ姿をしており、変態はしない。ただし直接子供を産む卵胎生の種もいる。キノボリヤモリ、オガサワラヤモリ、ブラーミニメクラヘビなど、単為生殖種が一部に存在する。
多くは外温性で、体温が外部温度に少なからず依存する。昼行性の爬虫類の多くは日光浴等で体温を高めた上で活動を始める。体温を保つのにエネルギーを費やす必要がないため、哺乳類や鳥類に比べて食事の間隔は長い。適度な水分さえあれば何も食べずに1ヶ月ほど生きることもある。現生の爬虫類の中には、ウミガメの一部の成体などのように体温の変動幅がわずかな内温動物的体温調節を行うものもいる。また翼竜や恐竜などの絶滅種には内温性であったものが存在するのではないかと考えられている。
現生種は熱帯や亜熱帯を中心に、南極大陸以外の全世界に分布する。体長2cm、体重1g以下のSphaerodactyus ariasae(ヤモリの一種)からアミメニシキヘビ、アナコンダなど体長10m、イリエワニのように体重1トンを越える種もある。多くは肉食性であるが、大型イグアナ類やリクガメ類などのように雑食や草食のものも存在する。
伝統的な爬虫類目の研究は、歴史的に現代の両生類の研究と組み合わせて、爬虫両棲類学と呼ばれている。鳥類を含むすべての爬虫類を研究する学問は、両生類を除く爬虫両棲類学と鳥類学を組み合わせたものである。
現生ではワニ、トカゲ(ヘビを含む)、カメ、ムカシトカゲが含まれる。現生種としては通常はトカゲ類(ヘビ類を含む)、カメ類、ワニ類、ムカシトカゲを含む。
現生種は4つの目に分類されている。
鳥綱を廃止し竜盤目獣脚亜目に分類する説がある。10000種近い生物がここに含まれる可能性がある。
爬虫類の取り扱いは、上の分類にしたがっている。
爬虫類の分類上の取り扱いには、難しい問題がある。これは、生物の分類を「共通の祖先を持つグループごとの単位」(単系統群)に分類していくべきであるとする考え方に対応して発生した。地球の歴史の中で爬虫類の祖先を考えたり、現生種の遺伝子を分析しそれぞれの種がどのぐらい離れているか(遺伝的距離)を推定する研究から、爬虫類の一部のグループ(恐竜)から鳥類が分かれたことが明らかになってきている。これを根拠に鳥綱とそこに含まれる全ての目を廃止し、その全てを竜盤目獣脚亜目に分類し直す説が出てきている。
下記は、爬虫類、鳥類、哺乳類を含む「有羊膜類」をその系統で整理した例(NCBI Taxonomy browser参照)で、それに上の分類を対応させたものである。この分類は一定しておらず、あくまでも一例であることに注意してほしい。特に鳥綱の扱いには論争がある。
有羊膜類
上の系統分類の考え方に、絶滅した恐竜、魚竜、翼竜などを含むと下記のようになる。ただし、初期有羊膜類の分類・分岐については化石の産出が断片的であることもあいまって両生類との境界も含め非常に流動的であり、様々な記述が見られる事に注意されたい。おおよそ確定的なのは双弓類、単弓類以降の分類である。
有羊膜類 Amniota
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爬虫類(爬蟲類、はちゅうるい、学名:Reptilia、英:Reptile)は、有羊膜類に属する動物の一群である。
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{{出典の明記| date = 2022年4月}}
{{生物分類表
| 名称 = 爬虫類 <br>Reptilia
| fossil_range = [[石炭紀]] – [[現世]], {{fossil range|320|0}}
| 地質時代 = [[石炭紀]] – [[現世]]
| 色 = 動物界
| 画像 = [[file:Sauropsida exemple.jpg|250px]]
| 画像キャプション = 多種多様な爬虫類の生物
| ドメイン = [[真核生物]] {{sname||Eukaryota}}
| 界 = [[動物|動物界]] [[w:Animal|Animalia]]
| 門 = [[脊索動物|脊索動物門]] [[w:Chordate|Chordata]]
| 亜門 = [[脊椎動物|脊椎動物亜門]] [[w:Vertebrate|Vertebrata]]
| 下門階級なし = [[四足類]] [[w:Tetrapod|Tetrapoda]]
| 上綱階級なし = [[有羊膜類]] [[w:Amniota|Amniota]]
| 綱 = '''爬虫綱''' [[w:Reptilia|Reptilia]]
| 学名 = '''Reptilia''' <br>{{AU|[[w:Josephus Nicolaus Laurenti|Laurenti]], 1768}}
| シノニム =
* [[竜弓類]] {{sname||Sauropsida}}
| 和名 = 爬虫類 「はちゅうるい」
| 下位分類名 =
| 下位分類 =
* [[側爬虫類]] {{sname||Parareptilia}}
* [[真爬虫類]] {{sname||Eureptilia}}
** [[ヒロノムス]] {{snamei||Hylonomus}}
** [[双弓類]] {{sname||Diapsida}}
}}
'''爬虫類'''(はちゅうるい、爬蟲類、[[学名]]:'''Reptilia'''、[[英語|英]]:'''Reptile''')は、[[有羊膜類]]に属する動物の一群である。
== 名称 ==
爬虫類の「[[wikt:爬|爬]]」の字は「地を這う」の意味を持つ。「虫」は[[本草学]]における「[[蟲]]」を意味し、すなわち「爬虫」とは「地を這う動物」を意味する。
== 定義 ==
広義には[[鳥類]]を含むすべての[[竜弓類|竜弓]][[有羊膜類]]からなる[[単系統群]]であると定義されている。現生爬虫類は、[[カメ]]、[[ワニ]]、[[恐竜]]([[鳥類]]を含む)、[[有鱗目 (爬虫類)|有鱗目]]([[トカゲ]]、[[ヘビ]])、[[ムカシトカゲ目]]([[ムカシトカゲ]])である。伝統的な[[リンネ式階層分類体系|リンネの分類体系]]では、鳥類は爬虫類と別の区分とされている。しかし、ワニは他の現生爬虫類よりも鳥類に近縁であるため、現代の[[分岐学|分岐]]分類体系では鳥類を爬虫類内に含め、[[分岐群]]と再定義している。また、爬虫類という用語を完全に捨て、[[哺乳類]]よりも現代の爬虫類に近いすべての動物を指す[[竜弓類]]という分岐群を採用する定義もある。
== 進化史 ==
[[古生代]]に地上で生活を全うできる生物群として3億年前に[[両生類]]から分かれて[[進化]]した爬虫類は急速に多様化した<ref>[http://www.bio.nagoya-u.ac.jp/~hori/asahihyakka02.html 分子生物学から見た進化 第2回 始祖鳥の神話と分子系統樹]</ref>。そして爬虫類は、その前にいた両生類に代わり世界を支配し始めた<ref>ネイチャー・ワークス地球科学館</ref>。[[中生代]]には[[恐竜]]、[[翼竜]]などが、[[新生代]]からは[[鳥類]]が繁栄した。一方、古生代半ばから中生代前半にかけて繁栄した[[哺乳類]]の祖先である[[単弓類]](哺乳類形爬虫類)は、その後の研究並びに分類方法の変更から、現在は爬虫類には含まれない。
最古の原始爬虫類は約3億1200万年前の[[石炭紀]]に誕生し、乾いた土地での生活に適応してきた高度な[[爬形類]]の四足動物から進化した。最古の真正爬虫類([[:en:eureptile|eureptile]])は、表面的にはトカゲに似た小型の''[[ヒロノムス]]''である。遺伝子や化石のデータが、爬虫類の2大系統である[[主竜様類]](ワニ、鳥類とその仲間)と[[鱗竜形類]](トカゲとその仲間)は[[ペルム紀]]の終わり頃に分岐したと主張する。 現存の爬虫類に加えて、現在絶滅した多様なグループが多く、中には[[大量絶滅]]のイベントによって[[絶滅]]したグループもある。特に[[白亜紀と古第三紀の間の大量絶滅]]では、[[翼竜]]、[[プレシオサウルス]]、すべての非鳥類[[恐竜]]が、多くのワニ型類([[:en:Crocodyliformes|Crocodyliformes]])や[[有鱗目 (爬虫類)|有鱗目]]([[モササウルス科|モササウルス]]など)と共に絶滅した。現代の鳥類以外の爬虫類は、[[南極大陸]]を除くすべての大陸に生息している。
== 特徴 ==
爬虫類は[[四肢動物|四肢]][[脊椎動物]]で、4本の手足を持つか、ヘビのように4本の手足を持つ祖先の子孫である生物である。[[両生類]]とは異なり、幼生期に水棲することはない。ほとんどの爬虫類は[[卵生]]であるが、有鱗目のいくつかの種は[[胎生]]であり、絶滅した水生生物群もそうであった。爬虫類の卵は、保護と輸送のために膜に囲まれており、乾いた土地での繁殖に適応している。胎生の種の多くは、哺乳類に類似した様々な形態の胎盤を通して[[胎児]]に栄養を与え、中には孵化したての子の初期の世話をするものもある。現存する爬虫類の大きさは、17mmの小さなヤモリから、体長6m、体重1,000kgを超える[[イリエワニ]]まで様々である。
基本として体表は表皮の変形した[[鱗]]でおおわれ、4本の脚と尾、乾燥に強い[[卵]](有羊膜卵)などが特徴である。また[[蛋白質]]の[[代謝]]によって発生する[[アンモニア]]は[[両生類]]や[[哺乳類]]のような尿素ではなく、水に不溶である[[尿酸]]に代謝し、[[糞]]とともに[[総排出腔]]から排泄するものが多い。これも乾燥に対する重要な適応の一つである。
[[ヘビ]]や、[[アシナシトカゲ科|アシナシトカゲ]]を始めとする一部のトカゲのように脚が[[退化]]しているものやカメ類のように鱗と骨格が一体化し、甲となったものもある。繁殖形態は卵生で、革質か石灰質の殻におおわれた[[卵]]を陸上に産む。生まれた子供は親と同じ姿をしており、変態はしない。ただし直接子供を産む[[卵胎生]]の種もいる。[[キノボリヤモリ]]、オガサワラヤモリ、[[ブラーミニメクラヘビ]]など、[[単為生殖]]種が一部に存在する。
[[ファイル:'Elaphe_climacophora_in_Yokohama.jpg|thumb|200px|[[アオダイショウ]]。蛇の仲間は一般的に足が退化している。]]
多くは[[変温動物|外温性]]で、体温が外部温度に少なからず依存する。昼行性の爬虫類の多くは[[日光浴]]等で体温を高めた上で活動を始める。体温を保つのにエネルギーを費やす必要がないため、[[哺乳類]]や[[鳥類]]に比べて食事の間隔は長い。適度な水分さえあれば何も食べずに1ヶ月ほど生きることもある。現生の爬虫類の中には、ウミガメの一部の成体などのように体温の変動幅がわずかな[[恒温動物|内温動物]]的体温調節を行うものもいる。また[[翼竜]]や[[恐竜]]などの絶滅種には内温性であったものが存在するのではないかと考えられている。
現生種は[[熱帯]]や[[亜熱帯]]を中心に、[[南極大陸]]以外の全世界に分布する。体長2cm、体重1g以下の''Sphaerodactyus ariasae''(ヤモリの一種)から[[アミメニシキヘビ]]、[[アナコンダ]]など体長10m、[[イリエワニ]]のように体重1トンを越える種もある。多くは[[肉食]]性であるが、大型[[イグアナ]]類や[[リクガメ]]類などのように[[雑食]]や[[草食]]のものも存在する。
[[ファイル:Chelus fimbriatus 2005.jpg|thumb|200px|[[マタマタ]] ''Chelus fimbriatus'']]
== 研究 ==
伝統的な爬虫類[[目 (分類学)|目]]の研究は、歴史的に現代の[[両生類]]の研究と組み合わせて、[[爬虫両棲類学]]と呼ばれている。鳥類を含むすべての爬虫類を研究する学問は、両生類を除く[[爬虫両棲類学]]と[[鳥類学]]を組み合わせたものである。
== 分類 ==
現生では[[ワニ]]、[[トカゲ]]([[ヘビ]]を含む)、[[カメ]]、[[ムカシトカゲ]]が含まれる。現生種としては通常は[[トカゲ]]類([[ヘビ]]類を含む)、[[カメ]]類、[[ワニ]]類、[[ムカシトカゲ]]を含む。
現生種は4つの[[目 (分類学)|目]]に分類されている。
* [[カメ|カメ目]] [[w:Turtle|Testudines]] - 約500種
** [[潜頸亜目]] {{sname||Cryptodira}}
** [[曲頸亜目]] {{sname||Pleurodira}}
* [[ムカシトカゲ目]] {{sname||Sphenodontia}} - ニュージーランドに分布する2種のみ
* [[有鱗目 (爬虫類)|有鱗目]] {{sname||Squamata}}
** [[トカゲ|トカゲ亜目]] {{sname||Sauria}} - 4000種以上
** [[ヘビ|ヘビ亜目]] [[w:Snake|Serpentes]] - 3000種以上
** [[ミミズトカゲ|ミミズトカゲ亜目]] {{sname||Amphisbaenia}} - 約160種
* [[ワニ|ワニ目]] {{sname||Crocodilia}} - 23種
{{要出典|範囲=[[鳥類|鳥綱]]を廃止し[[竜盤目]][[獣脚亜目]]に分類する説がある。10000種近い生物がここに含まれる可能性がある。|date=2022年5月}}
[[ファイル:Leistenkrokodil.jpg|thumb|170px|[[イリエワニ]] ''Crocodylus porosus'']]
=== 系統分類の考え ===
''爬虫類の取り扱いは、上の分類にしたがっている。''
爬虫類の分類上の取り扱いには、難しい問題がある。これは、生物の分類を「共通の祖先を持つグループごとの単位」([[単系統群]])に分類していくべきであるとする考え方に対応して発生した。地球の歴史の中で爬虫類の祖先を考えたり、現生種の遺伝子を分析しそれぞれの種がどのぐらい離れているか(遺伝的距離)を推定する研究から、爬虫類の一部のグループ([[竜盤目|恐竜]])から[[鳥類]]が分かれたことが明らかになってきている。{{要出典|範囲=これを根拠に鳥綱とそこに含まれる全ての目を廃止し、その全てを竜盤目獣脚亜目に分類し直す説が出てきている。|date=2022年5月}}
====現生動物の系統====
下記は、爬虫類、鳥類、[[哺乳類]]を含む「[[有羊膜類]]」をその系統で整理した例([http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?db=Taxonomy NCBI Taxonomy browser]参照)で、それに上の分類を対応させたものである。この分類は一定しておらず、あくまでも一例であることに注意してほしい。特に鳥綱の扱いには論争がある。
[[有羊膜類]]
* [[単弓類]]
** [[獣弓類]]
*** [[哺乳類]]
* [[竜弓類]]
** '''爬虫類'''
*** [[双弓類]]
**** [[竜類]](サウリア)
***** [[鱗竜類]]
****** [[ムカシトカゲ目|ムカシトカゲ類]]
****** [[有鱗目 (爬虫類)|有鱗類]]・・・[[トカゲ|トカゲ類]]、[[ヘビ|ヘビ類]]([[オオトカゲ科|オオトカゲ類]]と近縁説が有力)、 [[ミミズトカゲ|ミミズトカゲ類]]([[カナヘビ科|カナヘビ類]]と近縁説が有力)
***** [[主竜形類]]
****** [[カメ|カメ類]]
****** [[主竜類]]
******* [[ワニ|ワニ類]]
******* [[鳥類]]
==== 化石動物も含める====
上の系統分類の考え方に、絶滅した[[恐竜]]、[[魚竜]]、[[翼竜]]などを含むと下記のようになる。ただし、初期有羊膜類の分類・分岐については化石の産出が断片的であることもあいまって[[両生類]]との境界も含め非常に流動的であり、様々な記述が見られる事に注意されたい。おおよそ確定的なのは[[双弓類]]、[[単弓類]]以降の分類である。
<!-- 概要としてもあまりにも不正確なのでコメントアウトしました
{{clade
|label1=[[有羊膜類]]
|1={{clade
|1=[[竜弓類]]
|label2='''爬虫類'''
|2={{clade
|1=[[単弓類]](哺乳類以外は絶滅)
|2=[[無弓類]](全て絶滅)
|3=[[双弓類]]
}}
}}
}}
!-->
<!--学名ある分類群の学名表示枠での英名表記厳禁!-->
[[有羊膜類]] [[w:Amniote|Amniota]]
* [[単弓類]] [[w:Synapsid|Synapsida]] <!--(哺乳類型爬虫類)--> - 哺乳類以外絶滅
** [[盤竜類]] {{sname||Pelycosauria}}
*** [[獣弓類]] {{sname||Therapsida}}
**** [[哺乳綱]] [[w:Mammal|Mammalia]]
* [[竜弓類]] {{sname||Sauropsida}}
** 中竜類 {{sname||Mesosauria}}
** [[爬虫綱]] [[w:Reptile|Reptilia]]
*** [[無弓類]] [[w:Anapsid|Anapsida]] - 絶滅
**** ミレレッタ類 [[w:Millerettidae|Millerettidae]]<!--
**** Nyctiphruret--><!--←これは何者なんですか?-->
**** [[パレイアサウルス類]] [[w:Pareiasaur|Pareiasauridae]]
**** {{sname||Procolophonoidea}}
*** [[双弓類]] [[w:Diapsid|Diapsida]]
**** 細脚類 {{sname||Araeoscelida}} - 絶滅
**** [[魚竜]]類 {{sname||Ichthyosauria}} - 絶滅
**** 竜類 {{sname||sauria}}
***** [[鱗竜形類]] {{sname||Lepidosauromorpha}}
****** [[鰭竜類]] {{sname||Sauropterygia}} - 絶滅
******* [[板歯類]] {{sname||Placodontia}}
******* [[偽竜類]] {{sname||Nothosauria}}
******* [[首長竜]]類 {{sname||Plesiosauria}}
****** [[鱗竜類]] {{sname||Lepidosauria}}
******* [[ムカシトカゲ目|ムカシトカゲ類]] {{sname||Sphenodontia}}
******* [[有鱗目 (爬虫類)|有鱗類]] {{sname||Squamata}}
***** [[主竜形類]] {{sname||Archosauromorpha}}
****** プロラケルタ類 {{sname||Prolacertiformes}} - 絶滅
****** リンコサウルス類 {{sname||Rhynchosauria}} - 絶滅
****** トリロフォサウルス類 {{sname||Trilophosauria}}
****** コリストデラ類 {{sname||Choristodera}}
****** [[主竜類]] {{sname||Archosauria}}
******* [[クルロタルシ類]] {{sname||Crurotarsi}}
******** [[偽鰐類]] {{sname||Pseudosuchia}}
******** [[植竜類]] {{sname||Phitosauria}} - 絶滅
******** [[ワニ]]類 {{sname||Crocodilia}}
******* [[鳥頸類]] {{sname||Ornithodira}}
******** [[翼竜]]類 [[w:Pterosaur|Pterosauria]] - 絶滅
******** [[恐竜]]類 [[w:Dinosaur|Dinosauria]] - 鳥類以外絶滅
********* [[鳥盤類]] {{sname||Ornithischia}}
********* [[竜盤類]] {{sname||Saurischia}}
********** [[竜脚類]] {{sname||Sauropodomorpha}}
********** [[獣脚類]] {{sname||Theropoda}}
*********** [[鳥綱]] {{sname||Avialae}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{Wikispecies|Reptilia}}
{{Commons&cat|Reptilia|Reptilia}}
* [[恐竜]]
* [[単弓類]](哺乳類型爬虫類)
* [[双弓類]]
* [[カメ|カメ目]]
* [[ワニ|ワニ目]]
* [[ムカシトカゲ目]]
* [[有鱗目 (爬虫類)|有鱗目]]
== 外部リンク ==
* [http://www.pet-hospital.org/exo-015.htm 爬虫類の飼い方]
* [http://www.reptile-database.org/ THE REPTILE DATABASE] {{en icon}}
*{{Kotobank}}
{{Authority control}}
{{デフォルトソート:はちゆうるい}}
[[Category:爬虫類|*]]
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12,247 |
パーセント
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パーセント(英: percent, percentage, %)、百分率(ひゃくぶんりつ)は、割合を示す単位で、全体を百として示すものである。
割合を示す単位には、他に全体を千とするパーミル(千分率、‰)や、万とするパーミリアド(ベーシスポイント、万分率、‱)などがある。
ラテン語の "per centum" が語源であり、per は「毎に」、centum は「百」を意味する。また、パーセント記号そのものはイタリア語の "per cento" を縮めて書いたものがもとになっている。ドイツ語では Prozent といい、このため古い文献ではプロセントと表記されている。
例えば、ある会社のその年の売上高が、前年の100億円から120億円に増加したとき、「売上高が前年から20 %増加」などと表記する。パーセントは100を越えることもあり、「今年の売上高は前年比120 %」と表記しても良い。
しかし、「支持率が50 %から10 %増加して60 %になった」などという表現は、数学的には誤用である。50 %から10 %の増加であれば、 0.50 + (0.50 × 0.10) = 0.55 = 55 % だからである。正しくは「支持率が50 %から10パーセントポイント増加して60 %になった」となる。なお、「パーセントポイント」は単に「ポイント」と言われることも多く、日本では「パーセントポイント」と言われることは稀である。
なお、パーセントポイントの100分の1はベーシスポイント (bp) と呼ばれ、金融分野で金利スプレッドや利上げ・利下げ幅などの表示にしばしば用いられる(例えば金利が0.1 %から0.15 %に上がった場合は「5 bpの利上げ」のように表現する)。
道路の傾き(勾配)を示す場合にも用いる。水平方向に100 m進むと5 m上がる(または下がる)坂道の勾配は5 %である。ちなみに、道路ではパーセント(百分率)を用いる(日本の道路標識#警戒標識の「上り急勾配あり (212の3)」など)のに対して、鉄道ではパーミル(千分率、‰)が用いられる(5 %の代わりに50 ‰を用いる)。
ある割合をパーセント表記したときの数値は、元の割合の数値の100倍である。
割合の数値を、対象となる数値と基準となる数値とを用いて表すと、次式になる。
イギリスでは、イギリス英語: "per cent"と2語で書かれることが多い(しかし、"percentage" や "percentile" は1語である)。一方アメリカ合衆国ではアメリカ英語: "percent"と1語で書かれる。またEU諸国では一般的にイギリス英語の方が好まれる傾向にあるが、英語で書くときには "percent" と1語で表記される。なお、20世紀の初め頃までは、2語で書く場合は"per cent."のように最後にピリオドを付けていた。この表記法は今でも契約書の中などに見られることがある。
数値とパーセント記号との間にスペースを入れる流儀と入れない流儀がある("100 %" か "100%" か)。Chicago Manual of Style(シカゴ大学出版局)ではスペースなしを奨励している。一方、国際単位系やISOの規格では、角度の度分秒の記号(° ' " )以外の全ての単位記号(°C、%を含めて)の前にスペースを入れると定めている。したがって科学論文でも本来はスペースを入れるのが正式であるが、実情では国際誌においてもスペースを入れない表記が多くみられる。詳細は、パーセント記号#スペースを参照。
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"text": "数値とパーセント記号との間にスペースを入れる流儀と入れない流儀がある(\"100 %\" か \"100%\" か)。Chicago Manual of Style(シカゴ大学出版局)ではスペースなしを奨励している。一方、国際単位系やISOの規格では、角度の度分秒の記号(° ' \" )以外の全ての単位記号(°C、%を含めて)の前にスペースを入れると定めている。したがって科学論文でも本来はスペースを入れるのが正式であるが、実情では国際誌においてもスペースを入れない表記が多くみられる。詳細は、パーセント記号#スペースを参照。",
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パーセント、百分率(ひゃくぶんりつ)は、割合を示す単位で、全体を百として示すものである。 割合を示す単位には、他に全体を千とするパーミル(千分率、‰)や、万とするパーミリアド(ベーシスポイント、万分率、‱)などがある。
|
{{otheruses|百分率を表す単位|これを表すのに用いる記号(%)|パーセント記号}}
{{主要な無次元量単位}}
[[File:Antu format-number-percent.svg|thumb|200px|「%」:百分率]]
'''パーセント'''({{lang-en-short|percent, percentage}}, %)、'''百分率'''(ひゃくぶんりつ)は、[[割合]]を示す[[単位]]で、全体を[[100|百]]として示すものである。
割合を示す単位には、他に全体を[[1000|千]]とする[[パーミル]](千分率、‰)や、万とする[[パーミリアド]]([[ベーシスポイント]]、万分率、‱)などがある。
== 語源 ==
[[ラテン語]]の "{{Lang|la|''per centum''}}" が語源であり、''{{Lang|la|per}}'' は「毎に」、''{{Lang|la|centum}}'' は「百」を意味する。また、パーセント記号そのものは[[イタリア語]]の "{{Lang|it|per cento}}" を縮めて書いたものがもとになっている。[[ドイツ語]]では {{lang|de|Prozent}} といい、このため古い文献では'''プロセント'''と表記されている。
== 用例 ==
例えば、ある会社のその年の売上高が、前年の100億円から120億円に増加したとき、「売上高が前年から20 %増加」などと表記する。パーセントは100を越えることもあり、「今年の売上高は前年比120 %」と表記しても良い。
しかし、「支持率が50 %から10 %増加して60 %になった」などという表現は、数学的には誤用である。50 %から10 %の増加であれば、
0.50 + (0.50 × 0.10) = 0.55 = 55 %
だからである。正しくは「支持率が50 %から10[[パーセントポイント]]増加して60 %になった」となる。なお、「パーセントポイント」は単に「ポイント」と言われることも多く、日本では「パーセントポイント」と言われることは稀である。
なお、パーセントポイントの100分の1は[[ベーシスポイント]] (bp) と呼ばれ、金融分野で金利スプレッドや利上げ・利下げ幅などの表示にしばしば用いられる(例えば金利が0.1 %から0.15 %に上がった場合は「5 [[ベーシスポイント|bp]]の利上げ」のように表現する)。
[[道路]]の傾き([[線形 (路線)#勾配|勾配]])を示す場合にも用いる。水平方向に100 [[メートル|m]]進むと5 m上がる(または下がる)坂道の勾配は5 %である。ちなみに、道路ではパーセント(百分率)を用いる([[日本の道路標識#警戒標識]]の「上り急勾配あり (212の3)」など)のに対して、鉄道では[[パーミル]](千分率、‰)が用いられる(5 %の代わりに50 [[パーミル|‰]]を用いる)。
== 計算式 ==
ある割合をパーセント表記したときの数値は、元の割合の数値の100倍である。
: パーセント表記した割合の数値 = 割合の数値 × 100
割合の数値を、対象となる数値と基準となる数値とを用いて表すと、次式になる。
: パーセント表記した割合の数値 = (対象となる数値 ÷ 基準となる数値)× 100
== 英語表記 ==
[[イギリス]]では、{{Lang-en-gb|"per cent"}}と2語で書かれることが多い(しかし、"{{Lang|en|percentage}}" や "{{Lang|en|percentile}}" は1語である)。一方[[アメリカ合衆国]]では{{Lang-en-us|"percent"}}と1語で書かれる。また[[欧州連合|EU]]諸国では一般的にイギリス英語の方が好まれる傾向にあるが、英語で書くときには "{{Lang|en|percent}}" と1語で表記される。なお、20世紀の初め頃までは、2語で書く場合は"{{Lang|en|per cent.}}"のように最後にピリオドを付けていた。この表記法は今でも契約書の中などに見られることがある。
== スペース ==
数値とパーセント記号との間に[[スペース]]を入れる流儀と入れない流儀がある("100 %" か "100%" か)。[[Chicago Manual of Style]]([[シカゴ大学出版局]])ではスペースなしを奨励している。一方、[[国際単位系]]や[[ISO 31-0|ISOの規格]]では、角度の度分秒の記号(° ' " )以外の全ての単位記号(℃、%を含めて)の前にスペースを入れると定めている<ref>{{cite book|和書|url=http://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf|title=国際文書 国際単位系 (SI)|edition=第 8 版日本語版|year=2006|author=独立行政法人[[産業技術総合研究所]] 計量標準総合センター|page=47|ref=SI8thja}}</ref>。したがって科学論文でも本来はスペースを入れるのが正式であるが、実情では国際誌においてもスペースを入れない表記が多くみられる。詳細は、[[パーセント記号#スペース]]を参照。
== 出典 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{wiktionary|パーセント|%}}
* [[Parts-per表記]]
* [[パーセント記号]]
===単位===
* [[パーミル]](‰、千分率)
* [[ベーシスポイント]](‱、万分率)
* [[ppm]](パーツ・パー・ミリオン、百万分率)
* [[ppb]](パーツ・パー・ビリオン、十億分率)
* [[ppt]](パーツ・パー・トリリオン、一兆分率)
* [[ppq]](パーツ・パー・クアッドリリオン、千兆分率)
* {{仮リンク|パーセンテージポイント|en|Percentage point}}(パーセントで表された2つの値の差)
{{DEFAULTSORT:はあせんと}}
[[Category:割合の単位]]
[[Category:初等数学]]
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クロード・モネ
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クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になった。自然の光と明るい色彩で、主に風景をうつした作風が特徴。
1840年にパリで生まれたが、5歳のころから少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごした。絵がうまく、人物のカリカチュアを描いて売るほどであったが、18歳のころに風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられた(→ル・アーヴル(少年時代))。1859年にパリに出て絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合った(→画塾時代)。
1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったが、1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭った。私生活では、カミーユ・ドンシューとの交際を始め、長男も生まれたが、父親からは援助が断たれ、経済的に苦しい時代が始まった(→サロンへの挑戦)。1870年、普仏戦争が始まり、兵役を避けてロンドンに渡った。このとき画商デュラン=リュエルと知り合い、重要な支援者を得ることとなった(→普仏戦争、ロンドン)。パリに戻ると、その近郊アルジャントゥイユにアトリエを構え、セーヌ川の風景などを描いた。
1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』などを出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(→アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(→ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
次いで1881年にポワシーに移り住み、ノルマンディー地方への旅行に出ている(→ポワシー(1881年-1883年))。1883年、これもセーヌ川沿いのジヴェルニーに移り、生涯ここで暮らした。1880年代には、地中海沿岸やオランダなど、ヨーロッパ各地に制作旅行に出かけることが多かった。1886年にニューヨークでデュラン=リュエルが印象派の展覧会を開いたころから、経済的に安定するようになった(→各地の制作旅行(1880年代))。1890年代には、ジヴェルニーの自宅周辺の『積みわら』や『ポプラ並木』、また『ルーアン大聖堂』を描いた連作に取り組んだ。このころには、大家としての名声が確立してきた。1892年、アリスを2人目の妻とした。また、日本美術愛好者の集い「Les Amis de l'Art Japonais_」(1892 - 1942)の会員でもあった(→「積みわら」からの連作(1890年代))。
1890年代、自宅に「花の庭」と、睡蓮の池のある「水の庭」を整えていったが、1898年ごろから睡蓮の池を集中的に描くようになった。1900年までの『睡蓮』第1連作は、日本風の太鼓橋を中心とした構図であったが、その後1900年代後半までの第2連作は、睡蓮の花や葉、さらに水面への反映が中心になっていき、1909年の『睡蓮』第2連作の個展に結実した。その間、ロンドンを訪れて国会議事堂の連作を手がけたり、1908年に最後の大旅行となるヴェネツィア旅行に出たりしている(→「睡蓮」第1・第2連作(1900年代))。
最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面したが、友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭し、86歳で最期を迎えた(→「睡蓮」の部屋(最晩年))。
モネのカタログ・レゾネには、油彩画2,000点以上が収録されている(→カタログ)。モネたち印象派の画家たちは、ロマン派(ドラクロワ)の豊かな色彩、コローやドービニーらバルビゾン派の緻密な自然観察、クールベの写実主義と反逆精神、マネの近代性を受け継ぎ、伝統的なアカデミズム絵画の決めた主題、構図、デッサン、肉付法・陰影法に縛られない、自由な絵画を生み出した。モネは特に戸外制作を重視し、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」をキャンバスに再現することを追求した。絵具をパレットで混ぜずに、素早い筆さばきでキャンバスに乗せていくことで、明るく、臨場感のある画面を作り出すことに成功した。その後の連作の時代には、光の当たったモチーフよりも、光そのものが主役の位置を占めるようになり、物の明確な形態は光と色彩の中に溶融していった(→時代背景、画風)。鋭敏な観察力と感受性をもって絶え間なく変わり続ける風景を表現したモネは、印象派を代表する画家と言われる(→評価と影響)。作品は、モネ存命中の1890年代から徐々に美術市場での評価が高まっていったが、20世紀を通じてオークションで次々記録を塗り替える高額落札が生まれ、数十億円で落札されるに至っている(→市場での高騰)。
ジヴェルニーの家に造成した庭園は、それ自体がモネの芸術作品と言われる。死後は一時荒れていたが、修復工事を経て、1980年以降、一般に公開されている(→庭園)。
1840年11月14日、パリ9区のラフィット街(英語版)で、父アドルフと母ルイーズとの間の二男として生まれた。父親の職業ははっきり分かっていない。出生時のフルネームは、オスカル=クロード・モネ(Oscar-Claude Monet)であったが、のちに本人はクロード・モネと名乗っている。
1845年ごろ、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住した。ここでは、父の義兄ジャック・ルカードルが富裕な雑貨卸業を営んでいた。モネは、少年時代の大半をル・アーヴルで過ごすことになる。これ以降も、モネは生涯のほとんどをセーヌ川沿いの町で過ごすことになり、のちに自ら「セーヌ。私は生涯この川を描き続けた。あらゆる時刻に、あらゆる季節に、パリから海辺まで、アルジャントゥイユ、ポワシー、ヴェトゥイユ、ジヴェルニー、ルーアン、ル・アーヴル......」と回想している。
1851年4月1日、ル・アーヴルの公立中学校に入学した。モネは、学校を抜け出して外で遊び回るのが好きな少年であった。彼はのちに、次のように回想している。
モネは少年のころから絵画に巧みで、10代後半のころには自分の描いた人物のカリカチュア(戯画)を地元の文具店の店先に置いてもらっていた。カリカチュアの注文を頼む者も現れ、最初は10フラン、のちに20フランで引き受けた。デッサン教師ジャック=フランソワ・オシャールの授業も受けている。1857年1月28日、母親が死去した。モネは、同じころ学業を放棄したが、叔母のマリー=ジャンヌ・ルカードルが彼をアトリエに入れ、デッサンの勉強を続けさせた。
1858年ごろ、モネの描いていたカリカチュアが、ル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、2人は知り合った。ブーダンは、それまでアトリエで制作するのが当たり前だったキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家であった。ブーダンから、カリカチュアばかり描くのをやめ、油絵を勉強しようと誘われたことから、モネは油絵に取り組み始め、画家としての一歩を踏み出した。ブーダンとともにル・アーヴル北東のルエル(フランス語版)に赴いて制作し、油絵『ルエルの眺め』をル・アーヴル市展覧会に出品した。
モネは、パリで絵の勉強をしたいと考えるようになったが、父は強く反対した。しかし、モネがカリカチュアで稼いだ貯金2,000フランでパリに行きたいと伝えると、父はこれに驚いてやむを得ず許可し、1859年4月、パリに出ることとなった。当初、ブーダンの師であったコンスタン・トロワイヨンのもとを訪れ、ルーヴル美術館で模写をしてデッサンを学ぶこと、トマ・クチュールのアトリエに入ることを勧められた。しかしモネは、そうしたアカデミックな勉強を拒否し、1860年に、より自由なアカデミー・シュイスに入学した。ここでカミーユ・ピサロらと知り合った。
1861年、徴兵を受け、アフリカ方面の連隊に入隊し、秋からアルジェリアで兵役を務めたが、1862年、病気(チフス)のため6か月の休暇を得て、フランスに帰国した。モネはのちに、アルジェリアでの経験について「あの地で受けた光と色彩の印象。それはずっと後になるまで明確な形を取らなかったが、私の来るべき探求の萌芽は、すでにあそこにあったのだ」と回想している。
同年(1862年)夏、ル・アーヴルに戻った際、オランダの画家ヨハン・ヨンキントと知り合った。ヨンキント、ブーダン、モネは、温かい友情で結ばれた。モネはのちに「そのときから彼は私の真の師となった。私の眼の教育の仕上げをしてくれたのは彼なのだ」と、ヨンキントからの影響について語っている。兵役は、叔母が納付金を支払って残りの期間を免除された。叔母や父は、ブーダンやヨンキントとの交際による悪影響を懸念していた。父は、パリで有名な師匠の訓練を受けること、好き放題するようなら仕送りを打ち切ることを言い渡したうえ、モネをパリに送り出すこととした。
同年(1862年)11月、パリに着くと、後見人として指定された親戚筋の画家オーギュスト・トゥールムーシュの勧めを受けて、シャルル・グレールのアトリエに入ることとした。ここでアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワールらと知り合った。グレール自身は、理想化された様式を重んじるアカデミズムの画家であったが、当時の画家のアトリエの中では比較的自由で、グレールが週に1度やってきて生徒の絵を直すほかは、生徒はモデルを使って自由に描くことが許されていた。費用が安いこともあり、アカデミックな美術教育に飽き足らない画家の卵たちが彼のアトリエに集まっていた。もっとも、グレールの指導は、モデルをありのまま描いてしまっては醜いから、古代美術を念頭に様式化して描くことというものであり、自然をありのまま描くことというブーダンやヨンキントの教えに心服していたモネは、グレールに不信感を持った。教室には、家族を失望させない程度に定期的に顔を出す程度であった。モネは、アカデミー・シュイスの仲間とグレールのアトリエの仲間を結びつける役割を果たし、のちの印象派グループの中心メンバーを形成していくことになった。1863年にはナポレオン3世が開かせた落選展で、エドゥアール・マネの『草上の昼食』がスキャンダルを巻き起こしており、モネもこれを見たと思われる。その年の秋ごろ、グレールの病気のためアトリエの閉鎖が検討されることになり、モネ、バジール、ルノワール、シスレーはアトリエを離れた。モネは、ほかの3人を誘ってフォンテーヌブローの森の外れのシャイイ=アン=ビエールを訪れ、森の中での制作を教え、また森で出会ったバルビゾン派の巨匠たちから助言を受けた。モネは特にジャン=フランソワ・ミレーを尊敬していたが、気難しいミレーに実際に話しかけることはできなかった。
1864年、モネは、バジールとともにノルマンディー地方のルーアン、オンフルール、サン=タドレス(フランス語版)を訪れた。一足先にパリに帰ったバジールに対して、オンフルールに残ったモネは「ここは素晴らしいよ。毎日毎日、何かしら昨日よりもっと美しいものが見つかる」と、興奮した手紙を送っている。同年末にパリに戻ると、フュルスタンベール通り(フランス語版)のバジールのアトリエで一緒に制作をするようになった。バジールが描いた『フュルスタンベール通りのアトリエ(フランス語版)』の画中には、壁に『並木道 (サン=シメオン農場の道)』、『オンフルールの海辺』などモネの絵がかかっているのを見ることができる。
1865年のサロン・ド・パリに、海景画『オンフルールのセーヌ河口』と『干潮のエーヴ岬』を初出品し、2点とも入選した。新人モネの作品は、エドゥアール・マネの『オランピア』の真前に並ぶことになり、マネは、自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨したという。これを機に、モネは姓だけの署名をやめ、「クロード・モネ」というフルネームの署名をするようになった。マネの『オランピア』がスキャンダルを巻き起こしたのに対し、モネの作品は批評家から好意的な評価を得た。
モネはシャイイでマネの『草上の昼食』と同じテーマの作品の制作を始めていたが、サロンの後、シャイイに戻って、1866年のサロンに出品することを目指して制作を続行した。モネの『草上の昼食』は、縦4.6メートル、横6メートルという大作であったが、結局、サロンには出品されなかった。ギュスターヴ・クールベに批判されたからだとも言われる。代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女(フランス語版)(カミーユ)』と『シャイイの道』は2点とも入選を果たした。『緑衣の女』は、当時知り合ったばかりの恋人カミーユ・ドンシュー(英語版)をモデルにしたものであった。この頃、ザカリー・アストリュクの紹介で、マネと面識を得た。
1866年のサロンで、エミール・ゾラが『レヴェヌマン』紙にモネを賞賛する記事を書いた。これを読んだル・アーヴルの父は、息子の絵がすぐに売れるようになるものと思って、仕送りをしてくれるようになった。しかし、新聞で批評家に褒められたからといって絵が売れるわけではなく、父は同年末、カミーユと別れれば再開すると条件をつけて、仕送りをやめてしまった。このときすでにカミーユは第1子を妊娠しており、モネにはカミーユと別れることは考えられなかった。この先10年間、モネは、苦しい貧困の時代を過ごすことになる。
1866年のサロンが終わると、セーヴルやオンフルールに滞在しながら、大作『庭の中の女たち(英語版)』に取りかかった。4人の女はいずれもカミーユをモデルとしたもので、モネは、実際に庭の中でこれを制作した。画面の上部に手が届かなかったため、庭に堀を掘って、その中にキャンバスを入れて描いた。光の状態を正確に再現するため、毎日同じ時間に仕事を始め、太陽が雲で隠れると作業を中断した。クールベがモネのアトリエを訪ねた際、モネが絵筆を持ったままキャンバスの前でぼんやり立っているのを見て、なぜ描かないのかと言ったところ、モネは、あのせいだと言って雲を指したというエピソードが知られている。クールベは、「影をつけるところはともかく、背景は今でも描けるじゃないか」と言ったが、モネは従わなかったという。このような手法にこだわったため、制作には翌1867年までかかった。しかし、1867年のサロンでこの労作は落選してしまった。審査員からは、絵筆の跡が露わになっている点が、不注意と未完成の証拠であると受け止められたのであった。当時の画家にとって、サロンに入選するかどうかは絵が売れるかどうかを決める決定的な要素であった。そのため、サロンへの落選はモネにとって大きなショックで、ルノワール、バジール、シスレーも同様に落選したことから、独自の展覧会を開催しようという案が出たが、資金不足のため立ち消えとなった。『庭の中の女たち』は、バジールが2,500フランの大金で購入してくれた。
1867年、サン=タドレス(英語版)の叔母の家に滞在し、海と庭という2つのテーマを結びつけた作品『サン=タドレスのテラス』に取りかかった。同年8月8日、パリに残していたカミーユが、長男ジャン(en:Jean Monet (son of Claude Monet))を出産した。しかし、父はモネとカミーユの仲を認めなかった。モネは、ル・アーヴルにカミーユを連れて行き父を説得しようとしたが、父はカミーユに会おうとせず、金を出してもくれなかった。モネは、バジールに、「とてもいとおしく感じられる、大きくてかわいい男の子だ。でも、その母親が食べるものが何もないことを考えると、苦しくてたまらない」と書き送っている。
1868年には、ル・アーヴルに滞在しながら制作を続けた。1868年のサロンでは、海景画1点だけが、審査員であったシャルル=フランソワ・ドービニーの推薦で入選した。同年6月、フェカンからバジールに宛てた手紙で、依然として経済的苦境にあることを述べ、動転して自殺未遂に及んだことを伝えている。しかし、同年9月の手紙では、ル・アーヴルで得たパトロンの支援のおかげで、カミーユとジャンとの生活が落ち着いていることを知らせている。同年12月には、エトルタで『かささぎ』などの雪景色を描いている。
1869年のサロンには、カミーユと長男ジャンを描いた『昼食』を提出したが落選した。家族とブージヴァル近くのサン・ミッシェルに移り住んだが、お金がなく、電気や暖房がない生活であった。モネは6月、知人に「僕の精神はとてもいい状態で、仕事をする気力にあふれています。でも、あの致命的な落選によって、生活のあてがまったくありません」と、悲痛な手紙を書いている。そうした中、ルノワールがパンを運んでくれるなど支援してくれた。モネはルノワールとともに、ブージヴァル近くの水浴場「ラ・グルヌイエール」でキャンバスを並べて制作した。ラ・グルヌイエールは、パリから鉄道で30分の人気のリゾート地であり、2人はこの地で、ラフな筆致で絵具を置いていく筆触分割という印象派の手法を確立していった。その中でも、ルノワールが人物の形態を重視したのに対し、モネは人物を抽象的な色斑で描き、自然の中に埋没させている。
1869年頃、マネを中心として若手画家たちが集うバティニョール地区(英語版)のカフェ・ゲルボワに、モネも招かれるようになった。カフェ・ゲルボワでは、マネとエドガー・ドガが芸術論を戦わせており、モネやルノワールは聞き役に回っていた。そのほか、ゾラやポール・セザンヌ、写真家ナダールなども参加しており、彼ら芸術家のグループは「バティニョール派」と呼ばれた。モネはのちに「際限なく意見を戦わすこうした『雑談』ほど面白いものはなかった。そのおかげで、我々の感覚は磨かれ、何週間にもわたって熱中することができ、そうして意見をきちんとまとめることができた」と振り返っている。
1870年のサロンには、『昼食』や『ラ・グルヌイエール』を提出したが、ジャン=フランソワ・ミレーやドービニーといった審査員の支持にもかかわらず、再度落選してしまった。ドービニーはモネの落選に抗議して審査員を辞任した。モネは、以後しばらくサロンへの出品を取りやめている。
1870年6月28日、ようやくカミーユと正式に結婚した。その夏、長男ジャンを連れてノルマンディー地方のリゾート地トルヴィル=シュル=メールに新婚旅行に行った。ブーダンも妻を連れてトルヴィルに来て、モネと一緒に制作した。このときのモネの作品『トルヴィルの浜辺』には、カミーユと、ブーダンの妻が描かれている。強風の中制作したため、絵具の表面に、吹き上げられた海岸の砂や貝殻の破片が付着していることが分かっている。
1870年7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、オランダを経て、ロンドンに渡った。同じ時期、ピサロもロンドンに逃れており、2人は、イギリス風景画の第一人者ターナーやコンスタブルの作品を研究した。ターナーの描く霧の風景や、コンスタブルの描く雲の風景は、自然の移ろいゆく光を新しい感性で観察しており、印象主義の生成・発展に影響を与えたことが指摘されている。なお、この年の11月、バジールは普仏戦争に従軍して戦死している。
モネは、同じ時期に普仏戦争を避けてロンドンに滞在していたシャルル=フランソワ・ドービニーとも親交を持った。ドービニーは、以前からモネを高く評価しており、モネの面倒をよく見た。そして、同じくロンドンに滞在していた画商ポール・デュラン=リュエルをモネに引き合わせた。デュラン=リュエルは、のちに印象派にとって重要な画商となっていく
ロンドンでは、室内画のほか、テムズ川、グリーン・パーク(英語版)、ハイド・パークを描いた数点しか制作していない。1871年1月、モネの父親が亡くなった。モネは5月までロンドンに滞在し、そのころ普仏戦争に続くパリ・コミューンの混乱が終息に向かうと、数か月間オランダ・ザーンダムに滞在した。ザーンダムでは、港、堤防、風車、ボート、埠頭など、水に関わるモチーフの習作を制作している。同年秋になってパリに戻った。
モネは、1871年12月、パリ近郊のセーヌ川に面した町アルジャントゥイユにアトリエを構えた。家を世話してくれたのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネであった。アルジャントゥイユでは、1878年初めまでの6年あまりを過ごし、この間に約170点の作品を残している。その約半数がセーヌ河畔の風景である。この間、マネのほか、ルノワール、シスレーも頻繁にモネを訪ねた。ルノワールは、アルジャントゥイユの庭で制作するモネを描いている。
同時に、パリのサン=ラザール駅近くにも1874年までアトリエを持ち、ルノワールとともにポンヌフの橋を描いたり、頻繁にブーダンと会ったりしていた。
1872年ごろから1874年ごろまで、第三共和政のフランスは普仏戦争後の復興期にあたり、一時的な好景気を呈していた。デュラン=リュエルがモネの絵画を多数購入するなどして、経済的には余裕が生まれた。デュラン=リュエルと接触のあったピサロ、シスレー、ドガとともに、1872年のサロンに作品を送っていないのは、このことも理由と思われる。1873年には、デュラン=リュエルのほかに、銀行家のエクト兄弟、批評家テオドール・デュレといった買い手が現れた。
モネは、そのお金で小さなボートを購入し、アトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作した。これにより、低い視線から刻々と変化する水面を描くことができるようになった。このアトリエ舟の発想は、水辺の画家ドービニーから学んだ可能性がある。マネがアトリエ舟で制作するモネの様子を描いており、モネ自身もアトリエ舟を作品に登場させている。
1869年と1870年のサロンに続けて落選して以来、サロンから手を引いていたモネは、ピサロ、ドガ、ルノワールらとともに、サロンとは独立した展覧会を開くという構想を持つようになった。1873年4月には、ピサロに「みんな賛成してくれている。反対なのはマネだけだ」と書き送っている。デュラン=リュエルが、経済的に苦しくなってきて、以前のように絵を買えなくなったという事情も、この構想の早期実現を促す要素となった。
1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。参加者は、絵の売却収入の10分の1を基金に入れること、展示場所は1作品ごとにくじで決めることが合意された。そして、サロン開幕の2週間前である1974年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り(英語版)の写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社(株式会社とも訳せる)の第1回展を開催した。のちに「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。マネは、サロンでの成功に支障が生じるのを恐れ、参加しなかった。
モネは、この第1回展に、『印象・日の出』、『キャピュシーヌ大通り』、カミーユとジャンを描いた『昼食』などの油絵5点、パステル画7点を出品した。
第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会を訪れた人物があまりにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会」を発表した。この文章がきっかけで「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになった。もっとも、必ずしもルイ・ルロワが初めて使い始めた言葉ではなく、当時の批評家たちがこのグループ展を指す際、「印象」や「印象派」という言葉は共通したキーワードとなっていた。第1回印象派展の入場者は約3,500人であったが、サロンが同じ1か月間で約40万人を集めていたのとは比べるべくもなく、来場者の大半が絵を嘲笑しに来た客であった。売り上げも、メンバーが支払った会費60フランすら回収できないという惨状に終わった。共同出資会社は、同年12月に債務清算のため解散した。
1874年ごろから、デュラン=リュエルがモネの絵を大量に購入することが難しくなり、第1回印象派展も失敗したため、モネは経済的な苦境に陥った。モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾは、1875年3月、オテル・ドゥルオ(英語版)で多数の作品を競売にかけざるを得なくなったが、参加者に嘲笑され、無残な結果に終わった。モネは、マネに「もし苦境を脱することができなければ、僕の絵具箱はずっと閉じられたままになるでしょう」という手紙を送り、マネはこれに応じてモネを援助した。また、モネの作品を個人的に購入するバリトン歌手ジャン=バティスト・フォール、実業家エルネスト・オシュデ、税官吏ヴィクトール・ショケなどの収集家・愛好家も現れてきた。オテル・ドゥルオの競売でルノワールを知った収集家ジョルジュ・シャルパンティエ(フランス語版)は、1879年に「ラ・ヴィ・モデルヌ(近代生活)」誌を創刊して、印象派の普及に貢献した。
1876年4月、第2回印象派展がデュラン=リュエル画廊で開かれた。モネは18点を出品した。ここでは、日本の着物を着けた妻カミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品している。着物のほかにも、扇子を持ったり、うちわが壁に飾られていたりして、典型的なジャポネズリー(日本趣味)の作品である。この絵は、第2回展で好評を博し、2,000フランで売れたものの、モネの経済的困窮が解消したわけではなかった。
新聞の評価は、第1回展のときよりは好意的であった。ゾラは、「クロード・モネこそは、おそらくこのグループのリーダーだろう。彼の筆さばきは素晴らしく、際立っている」との評を寄せた。また、画家ギュスターヴ・カイユボット、医師ジョルジュ・ド・ベリオといったモネの購入者・支援者も現れた。それでも一般の人々の反感は根強く、批評家アルベール・ヴォルフ(英語版)は「フィガロ」紙で、第2回展について「これら自称芸術家たちは、自ら『革新派』または『印象派』と名乗り、キャンバスと絵具を手にすると、手当たり次第に色彩を投げつけ、そしてそれら全部に、堂々と署名するのだ......。そこには、完全な発狂状態にまで達した人間の虚栄心の恐ろしい姿が見られる」と酷評した。
1876年夏から秋にかけて、エルネスト・オシュデの邸宅であるモンジュロンのロッテンブール館に滞在し、その居間を飾るための『七面鳥』など4点を制作した。エルネストの妻アリス・オシュデは、1877年8月20日に第6子ジャン=ピエールを生むが、彼はモネの子ではないかとも言われている。モネは、相変わらず経済的困窮が続き、ゾラやシャルパンティエを含め、限られた支援者たちに度々資金援助の依頼をしている。
1877年初めには、パリのサン=ラザール駅近くのモンシー街(フランス語版)に部屋を借り、一つの駅を主題としながら、異なった視点から異なった時刻に描いた12点の連作に取り組んだ。これは、のちの『積みわら』や『ルーアン大聖堂』連作につながっていくものであった。サン=ラザール駅は、アルジャントゥイユへの列車が発着する駅で、モネは日頃からこの駅を利用していた。鉄道は、マネや印象派の画家が追求した近代性を象徴する主題であった。その年4月の第3回印象派展には、『サン=ラザール駅』8点のほか、テュイルリー庭園、モンソー公園を描いた作品を出品した。美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、第3回展参加者18名を紹介する小冊子『印象派』を刊行し、とりわけサン=ラザール駅の連作に賛辞を送った。
このころ、アルジャントゥイユでの生活に出費がかさんだこともあり、モネは借金に追われ、家具の競売を求められる状況に陥った。そのうえ、妻カミーユが病気に倒れた。モネは地主に『草上の昼食』を借金の担保に引き渡して、1878年1月17日、アルジャントゥイユを去った。そして、数か月間は、パリのエダンブール街(フランス語版)に滞在した。3月17日、カミーユとの間の二男、ミシェル(英語版)が生まれた。しかし出産後、カミーユの健康状態はさらに悪化していった。その春、テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。
モネ一家は、1878年9月、マネから引っ越し費用を借りて、セーヌ川の50キロほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移った。ちょうどこのころ、モネのパトロンであったエルネスト・オシュデは、破産して住むところを失っていた。オシュデは、妻アリス・オシュデ(英語版)と6人の子ども(マルト、ブランシュ、シュザンヌ(英語版)、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人)とともに、ヴェトゥイユのモネの家で同居生活を送ることになった。
ヴェトゥイユ時代には、印象派の仲間たちとの間は疎遠になっていった。グループ内では特に、印象派展の売れ行きが思わしくない中、サロンに応募するか否かという点は深刻な対立点となった。ドガが、サロンに応募する者はグループ展に参加させないことを強く主張していたのに対し、ルノワールは1878年にサロンに応募し、モネも、グループ展が作品の販売を妨げていると考えるようになった。1879年4月の第4回印象派展は、ドガが中心となって開催し、モネは当初出品を断ったが、ギュスターヴ・カイユボットが所蔵者からモネの作品29点を借り集めて出品した。モネは、第4回展への出品に同意した理由について、「気は進まなかったが、裏切り者と思われたくなかったから」と述べている。第4回展では、初めて利益が出て、1人439フランの配当金が与えられた。
経済的には依然として苦しく、妻カミーユと子供の病気が重なり、ヴェトゥイユの大家族は、食糧も暖房もない生活を強いられた。1879年9月5日、カミーユが32歳で亡くなった。モネはこのとき、『死の床のカミーユ』を制作している。妻を失ったモネは、ピサロに「君はほかの誰よりも僕の悲しみを分かってくれるだろう。徹底的に打ちのめされ、再び生きる気力もなく、2人の子どもを連れてどのように暮らしていけばいいのか、皆目分からない」と書いている。
その後、エルネスト・オシュデはパリに仕事に出ていったが、妻アリス・オシュデはヴェトゥイユに留まり、モネの2人の子、ジャンとミシェルの面倒も見た。モネとアリスとの関係は深まっていった。
1879年から1880年にかけての冬は異例の寒さとなり、セーヌ川が完全に結氷し、その後、激しい勢いで解氷した。モネはこの現象に強く興味を引かれ、描く時間や角度の違いによる光の変化を絵にすることに夢中になった。
1880年のサロンには、10年ぶりに出品した。長年サロン審査に反抗していたモネがサロンへの出品を決意した理由には、前年のサロンでルノワールが初めて高い評価を得たことに加え、経済的に逼迫する中、入選すれば画商ジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待もあった。モネが提出した2点のうち、比較的伝統的なスタイルで描いた『ラヴァクール』だけは入選したが、壁の上の方の不利な場所に展示された。ゾラは「10年もたたないうちに、彼は認められ、報いられるだろう」と評価したが、作品が手早く描かれすぎているとの批判も加えた。一方、モネは、第5回印象派展への出展は拒否した。モネがサロンに出品したことで、印象派グループの解体は決定的になった。ドガは、モネを裏切り者として非難した。このころルノワールは、印象主義的作品から、明確な輪郭線と形態を持つ作品に回帰し、シスレー、セザンヌとともにサロンに応募していた。印象派展に残ったピサロはジョルジュ・スーラの新印象主義に接近しており、印象派のスタイル自体が変容を迎えていた。モネは、印象派展に加わったジャン=フランソワ・ラファエリや、ポール・ゴーギャンに対して、非常に低い評価を与えていた。第5回展は、もはや印象派展とはいいがたいものとなった。
1880年6月、『ラ・ヴィ・モデルヌ』誌のギャラリーで、初めてモネの個展が開かれ、『解氷』などヴェトゥイユの風景画を中心とする17点が展示された。作品数点が売れた。新聞の評価は好意的で、ポール・シニャックら若い画家たちにとって、モネは英雄的な存在になりつつあった。
フランスの景気が回復する中、デュラン=リュエルが経済的に立ち直り、1881年初め、モネとの間で定期的に大量の絵を購入する契約を結んだ。これにより、モネの経済的基盤は安定した。同年4月の第6回印象派展やサロンには出品する必要を見なかった。
1881年12月、デュラン=リュエルから引っ越し費用の援助を得てポワシーに移った。ちょうど賃借契約が満期になったうえ、アリスとの関係がヴェトゥイユの住民から白眼視されていたことも理由であった。しかし、アリスとその子どもたちは、パリに戻るようにとのエルネスト・オシュデの求めに反してポワシーに同行することとなり、モネとアリスとの関係は、エルネストに対してますます説明が難しいものとなった。
モネはポワシーの土地を毛嫌いしており、「この土地は僕にはまったく合わない」とたびたび述べている。その代わりに、早くも1882年2月からノルマンディー地方に制作旅行に出て、ディエップの断崖や、ヴァランジュヴィル=シュル=メール近くのプールヴィル(英語版)の断崖を描いた。
1882年3月の第7回印象派展は、内紛の末、デュラン=リュエルが仲介し、ようやくモネを含む9人の参加で開催にこぎつけた。モネは当初出品を拒否していたが、ユニオン・ジェネラル銀行(フランス語版)の破綻で打撃を被ったデュラン=リュエルを支援するため、海景画、風景画、静物画など35点を出品することとした。しかしモネは、会期中、一度も会場に足を運んでいない。新聞からは依然として批判もあったが、海の風景画は好評を呼んだ。
1883年1月からは、再びポワシーを逃れてノルマンディー地方に旅行し、エトルタの断崖を描いた。この年から1886年にかけては、定期的にエトルタの海岸を訪れ、断崖や奇岩を描いている。ここでは戸外で下絵を制作し、家に持ち帰ってアトリエで仕上げるという手法をとっている。
1883年3月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、モネの作品56点の個展を開いたが、反響はなく、モネはデュラン=リュエルの準備不足を非難した。
モネは1883年4月、再びデュラン=リュエルから引っ越し費用の援助を得て、パリの西約80キロの郊外にあるジヴェルニーに移り、以後、1926年に没するまでこの地で制作を続けた。なお、1883年4月から6月にかけて、デュラン=リュエルは、ロンドン・ボンド・ストリート(英語版)のダウデスウェル画廊でモネを含む印象派の展覧会を開いたが、ロンドンの批評家の多くは無関心であり、モネは落胆した。
1880年代、モネは、エトルタのほかにも、ヨーロッパ各地を旅行して制作した。1883年12月、ルノワールとともに地中海沿岸を旅し、マルセイユからサン=ラファエル、モンテカルロを経由して、リグーリア海岸(リヴィエラ)のボルディゲーラを訪れ、帰りにエスタックでポール・セザンヌを訪ねた。いったんパリに戻ったあと、1884年1月から4月にかけて、もっとも美しい場所と感じたボルディゲーラを1人で再訪して滞在した。モネは、1人での再訪を決めた理由について、デュラン=リュエルに「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした」と述べており、以前のように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している。当時、ルノワールは印象主義を離れ、明確な輪郭線の絵に回帰していた。モネは3月、ボルディゲーラから、デュラン=リュエルに「あらゆる物が玉虫色にきらめき、パンチ酒のような赤色の炎を上げている。素晴らしい風景だ」と感嘆する手紙を送っている。ボルディゲーラとマントン滞在中に約50点を制作した。
1885年春、画商ジョルジュ・プティが開いた第4回国際絵画彫刻展に風景画10点を出品した。同年9月から12月までのエトルタ滞在では、『マンヌポルト』や『エトルタ海岸の船』を制作した。このころモネは、デュラン=リュエルと、その競争相手ジョルジュ・プティの2人と取引をするようになった。苦境の中で印象派を支えてきたデュラン=リュエルは国際絵画彫刻展への出品に猛烈に抗議したが、モネは複数の画商と関係を築くことによって大衆からの信用も得られるものと考え、ルノワールらもこれにならった。
1886年春にはオランダを訪れ、ライデンとハールレムの間のチューリップ畑に魅了された。チューリップ畑の作品2点が、同年6月15日からジョルジュ・プティ画廊で開かれた第5回国際絵画彫刻展に出品され、成功を収めた。ジョリス=カルル・ユイスマンスも、これを見て「本当に眼のご馳走だ」と称賛した。
デュラン=リュエルは1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、モネの作品40点あまりを出品した。モネは「あなたがおっしゃるようにアメリカで成功したいとは思っています。でも、僕の絵は特にこの国〔フランス〕で有名になって、売れてほしいと思っています」と述べ、アメリカでの販売に冷淡であったが、展覧会は好評であった。この展覧会は、モネをはじめとする印象派の画家たちが、アメリカでの認知を受け、経済的に安定するきっかけとなった。デュラン=リュエルとジョルジュ・プティ双方からの貸与により、同年ブリュッセルで開かれた20人展にも出品した。他方、最後の印象派展となった第8回展は、スーラ、シニャック、ピサロの新印象主義が大きな勢力を占めており、モネはこれを嫌って参加しなかった。
同年(1886年)秋には、ブルターニュ沿岸の島、ベル=イル=アン=メールを訪れ、コトン港のピラミッド岩や、ドモワ港のギベル岩といった奇岩を、さまざまな視点と天候の下で描いた。このときモネと出会った美術批評家ギュスターヴ・ジェフロワは、のちに著した伝記で、モネの様子を次のように書いている。
1887年5月の第6回国際絵画彫刻展に、ベル=イルの風景画など15点を出品した。荒削りであるとの批判と、オクターヴ・ミルボーなどの賞賛とに分かれたが、作品のほとんどが売れ、モネは満足した。
1888年初めには南仏コート・ダジュールのアンティーブに滞在し、30点ほどを制作した。同年6月、ブッソ・ヴァラドン商会(旧グーピル商会)のテオドルス・ファン・ゴッホに作品を売った。テオドルスはモンマルトル大通りの展示室で『アンティーブの海の風景』と題する10点の作品を展示し、モーパッサン、マラルメ、ギュスターヴ・ジェフロワらから高い評価を得た。一方、テオドルスとの取引は、デュラン=リュエルとの関係を一層悪化させ、モネはデュラン=リュエルとの契約を解消してしまった。
1889年には、小クルーズ川(英語版)がクルーズ川に合流するフレスリーヌ(英語版)で、20点ほどの作品を制作した。そのうち9点はほとんど同じ構図で、光の効果だけを変えてクルーズ峡谷を描いたもので、モネ自身「連作」という言葉を使っている。
このように各地に制作旅行に出かけている間も、アリス・オシュデとの関係は深まっていき、ボルディゲーラ、アンティーブ、フレスリーヌといった旅先から、アリスに愛を告白する手紙をたびたび送っている。また、ジヴェルニーに帰ったときには、アリスの娘たちをモデルに、エプト川(英語版)での舟遊びや、『パラソルを差す女』を描いた。
1889年6月、ジョルジュ・プティ画廊で、モネが以前から待望していたオーギュスト・ロダンとの2人展が実現した。モネの1864年から1889年にかけての作品145点を一堂に集めた展覧会であり、大成功を収めた。ブッソ・ヴァラドン商会との契約は解消し、デュラン=リュエルとの取引を再開したが、契約は結ばず、複数の画商に値付けをさせ、競争させるという手法をとった。
また同年5月、パリ万国博覧会に合わせて開かれたフランス美術100年展に、モネの作品3点が展示された。この展覧会にマネの『オランピア』が展示されたが、アメリカに売られることになっていることを聞き、モネは制作活動を中断し、募金で『オランピア』をマネ未亡人から購入してルーヴル美術館に寄贈しようという運動に乗り出した。元美術大臣アントナン・プルーストやゾラの反対に遭ったが、モネは、2万フランを集め、1890年11月、国のリュクサンブール美術館に収蔵させることに成功した。
1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、ひとつのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になる。同じモチーフで複数の絵を描くという手法は、中近世の月暦画やミレーの四季連作のほか、モネが愛好していた葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』といった浮世絵から発想を得た可能性があると考えられている。
モネは1890年、しばらくの間旅行を諦め、借地だったジヴェルニーの家を購入し、自宅の周りの積みわらを描くことに集中した。1880年代末にも何点かの積みわらを描いていたが、1890年後半から1891年にかけては、『積みわら』の本格的な連作25点を制作した。モネは、1890年10月、友人ジェフロワに、次のように書いている。
『積みわら』は、一般的にモネの最初の連作とされており、ブッソ・ヴァラドン商会が1891年にモネから1枚3,000フランで3点購入した。カミーユ・ピサロは、息子リュシアン・ピサロへの手紙の中で「みんなモネの作品しか欲しがらない。......みんな『日没の積みわら』を欲しがる。......彼が描いたものは全部、4,000フランから6,000フランでアメリカに売られていく」と記している。ピサロは、モネの連作を商業主義によるものと見て、批判的であった。デュラン=リュエル画廊でも、同年5月、『積みわら』15点が展示され、大きな反響を呼んだ。
『積みわら』に続き、1891年春から秋にかけて、エプト川近くのリメツ沼の岸辺で、『ポプラ並木(英語版)』の連作23点を制作した。構図は、7本のポプラと、3本のポプラのものに限定されており、連作を並べての展示を意図したものと考えられる。ブッソ・ヴァラドン商会のモーリス・ジョワイアンが1892年2月に数点を購入してモンマルトル大通り(英語版)で展示し、同年3月にはデュラン=リュエルが15点ほどを展示して、成功を収めた。
1891年、アリスの夫エルネスト・オシュデが死去すると、1892年7月16日、モネはアリスと結婚した。
1892年と1893年、ルーアン大聖堂を訪れ、西側正面の建物の中にイーゼルを置き、『ルーアン大聖堂』の連作30点を制作した。1892年4月、アリスに宛てて、次のように書いている。
1895年初頭には、ノルウェーのクリスチャニア(現・オスロ)近郊のサンドヴィケン(英語版)村で、コルサース(英語版)山などの雪の風景画を制作した。
モネは、デュラン=リュエルに『大聖堂』1点につき1万5,000フランを要求し、最終的に1万2,000フランで落ち着いた。1895年5月、デュラン=リュエル画廊の「モネ近作展」で『大聖堂』20バージョンが展示され、注目を浴びた。ここでは、ノルウェーの風景画8点も展示された。
1896年と1897年の冬は、プールヴィルとヴァランジュヴィルを再訪し、断崖の上の小さな家を描いた10点ほどの作品を制作した。1898年6月1日、ジョルジュ・プティ画廊で、これらノルマンディーの作品と、ジヴェルニーで制作した『セーヌ川の朝』連作を展示した。なお、1897年、長男のジャンと、アリスの娘ブランシュが結婚した。
モネはジヴェルニーで、夏は太陽が出るずっと前に起床し、セーヌ川支流の風景を描きにいくという日課を守っていた。早朝、物が色づき始める時間帯に、朝靄の効果をとらえた作品を続けて制作し、1898年6月、ジョルジュ・プティ画廊の個展にこれらの作品17点を出品して、成功を収めた。
当時、依然としてアカデミーからの敵視は根強く、1894年に亡くなったギュスターヴ・カイユボットが、マネ、ドガ、ピサロ、モネ、ルノワール、セザンヌなどの名品を含むコレクションをフランス政府に遺贈したが、アカデミーの反対に遭い、論争の的となった。アカデミズム絵画の泰斗ジャン=レオン・ジェロームは、「ここには、モネ氏、ピサロ氏といった人々の作品は含まれていないでしょうか? 政府がこうしたごみのようなものを受け入れたとなれば、道義上ひどい汚点を残すことになるでしょうから」と述べた。しかし、1896年にようやく、モネ作品8点を含め、コレクションの一部が国立のリュクサンブール美術館に収められ、公的な認知が進んだことを示した。
モネは、1890年にジヴェルニーの地所を購入してから、家の周りに作った「花の庭」に手を入れていたが、1893年に隣の敷地を購入すると、ここにリュ川の水を引いて睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作り始めた。水の庭は1895年からモネの作品に現れるが、1898年から、大量に描かれるようになる。1900年までの『睡蓮』第1連作では、太鼓橋を中心に、睡蓮の池と枝垂れ柳が、光の変化に従って描かれている。1900年11月の「モネ近作展」で、そのうち13点が展示された。
1899年秋、1900年2月、1901年2月 - 4月には、ロンドンを再訪した。「テムズ川の霧の効果」を描くことを試み、サヴォイ・ホテルから見た『チャリング・クロス橋』と『ウォータールー橋』、聖トーマス病院(英語版)から見た『国会議事堂』(ウェストミンスター宮殿)に集中して連作に取り組んだ。ロンドンでは100点ほどを制作し、ジヴェルニーのアトリエで仕上げた。これらの連作は、1904年春にデュラン=リュエル画廊で展示されたが、印象主義の到達点として評価する見方があった一方、セザンヌにならってフォルムを重視する若い世代からは、堅牢さを欠く時代遅れの作品との批判も受けた。
モネは1901年、睡蓮の池を拡張する工事を行った。そして、1900年代後半まで、『睡蓮』第2連作に取り組んだ。ここでは、第1連作の太鼓橋は見えず、池の水面が大きく描かれている。また、当初は睡蓮の花や葉が主なモチーフであったが、次第に水面に移る空や柳の影が主役になっていく。1900年から「モネの新連作ならびにピサロ近作展」が開かれる1902年2月までは、ヴェトゥイユでも制作をしている。
『睡蓮』第2連作は、1907年に発表が予定されていたが、モネは「人前に出せる作品があまりに少ない」として、デュラン=リュエルに延期を伝えている。モネは、制作中に憂鬱に悩まされることが常であり、キャンバスに怒りをぶつけ、切り裂くこともあった。このときも、展覧会の1か月前に30枚のキャンバスを破壊したことをデュラン=リュエルに明かしている。1908年8月には、ジェフロワに対して次のような手紙を送っている。
1909年5月、デュラン=リュエル画廊で「睡蓮、水の風景の連作」と題した個展を開き、『睡蓮』第2連作のうち48点を展示した。この展覧会は大成功を収め、ジェフロワ、ロマン・ロラン、レミ・ド・グールモン、リュシアン・デカーヴ(英語版)、ロジェ・マルクス(フランス語版)らの称賛を集めた。新聞には、48枚の絵を一体の装飾として保存すべきだという議論も掲載されたが、これをまとめて買い受ける収集家は現れず、多くがアメリカに渡った。
前後して1908年10月から12月にかけて、アリスとともに、最後の大旅行となるヴェネツィア旅行に出た。1912年5月から6月にかけて、ベルネーム=ジューヌ画廊で、大運河、サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂、その他の宮殿などからなる『ヴェネツィアの眺め』29点が展示された。シニャックはこれをモネの芸術の最高の表現だとして称賛した。
モネは、1909年の個展のとき、『睡蓮』で一室を装飾するという計画を考えついた。しかし、老化にともない視力の低下という問題に直面した。さらに1911年5月には妻アリスが亡くなり、1914年2月には長男ジャンが亡くなるという不幸に見舞われた。印象派の同志たちも次々世を去っていった。絵具の色も判別できないという絶望の中、多数の絵を引き裂いたため、1909年から1914年までの絵はほとんど残っていない。モネは、気分転換のため、ジヴェルニーの自宅に、彫刻家のロダン、サージェント、詩人のポール・ヴァレリー、画商のデュラン=リュエル、ベルネーム、劇作家サシャ・ギトリ夫妻、日本の黒木三次夫妻、政治家ジョルジュ・クレマンソーといった友人を招き、特に園芸と料理の話題を楽しんだ。アリス死後は、その娘ブランシュ(ジャンの妻でもあった)がモネを精神的に支えた。
1914年、大画面作品を描くための新しいアトリエを建て、制作を再開した。この年、モネ作品14点を含む収集家イザック・ド・カモンド伯爵の遺品コレクションがルーヴル美術館に収蔵されることになったが、これは、死後10年たたないとルーヴルに展示されないという原則からすると異例のことであった。モネは、ルーヴルに招かれ、特別室に展示される自作を目にした。第一次世界大戦中の1915年初め、友人への手紙で、大装飾画を目指していることを初めて明かしている。1917年、通産大臣エティエンヌ・クレメンテル(フランス語版)がジヴェルニーを訪れ、ドイツ軍の爆撃を受けて破壊されたランスのノートルダム大聖堂を描き、その蛮行を明らかにしてほしいとの依頼をし、モネはこれを了承したが、実際には現地は爆撃が続き、制作に着手することは難しかった。ただ、政府との関係ができたことで、物資欠乏の戦時下で、ガソリンや石炭を回してもらう便宜を受けることができた。その間、アトリエで、高さ2メートル、幅4.3メートルの巨大なキャンバスを横に4枚つなげて『睡蓮』大装飾画の制作を続けた。戦争が終わった1918年、友人で当時の首相ジョルジュ・クレマンソーに、勝利を祝って、国に一連の大装飾画を寄贈することを約束した。当初は、現在のロダン美術館(ビロン邸)の庭に円形パビリオンを設置し、幅4メートルのキャンバスが12枚取りつけられる計画であった。しかし、建物建設にかかる費用の問題などで当初の計画は修正を迫られ、モネは制作自体を断念しかけた。クレマンソーがモネを強く説得し、1921年4月、オランジュリー美術館の2つのホールに収容する計画で了承させた。
こうして、1922年4月、モネの弁護士と建築家、政府当局との間で寄贈契約が署名された。その内容は、19枚のパネル(作品8点)を2年以内にオランジュリーのモネ・ギャラリーに納入するというものであった。しかしその後、白内障のため失明の危機に直面し、クレマンソーは仕事を放棄しようとするモネを励まし続けた。1923年、ようやく右目の白内障の手術を受け、視力はある程度回復した。当初約束していた引渡し期限を延期し、残りの生涯をかけて『睡蓮』大装飾画の制作に没頭した。1924年、ジョルジュ・プティ画廊で、生存中最大の回顧展が開催された。
1926年の夏の終わり、肺硬化症で病床につき、12月5日正午に86歳で永眠した。息子のミシェルや、ブランシュ、クレマンソーが彼を看取った。『睡蓮』大装飾画は、テュイルリー公園内のオランジュリー美術館に収められ、1927年5月17日、除幕式が行われた。『睡蓮』の部屋は、モネの考えに従って、楕円形の2つの部屋からなり、それぞれ4点の大画面作品で構成されている。
モネの晩年には、フォーヴィスム、キュビスムなど、次々に新しい芸術潮流が生まれており、当時『睡蓮』を顧みる人は少なかった。クレマンソーは、1927年6月、「昨日、オランジュリー美術館を訪れたが、誰一人としていなかった」と書いている。しかし、1950年代になると、ジャクソン・ポロックなど抽象表現主義の画家・批評家がモネを引き合いに出すようになり、改めて注目を浴びるようになった。アンドレ・マッソンは、『睡蓮』大装飾画を「印象主義のシスティーナ礼拝堂」と呼び、すべての現代人に見ることを勧めた。
モネの作品については、ダニエル・ウィルデンシュタインが、1974年以降、4巻および補遺からなるカタログ・レゾネを刊行している。ここには、油彩2,000点、デッサン500点、パステル画100点を超える作品が時系列順に収録されており、ウィルデンシュタイン作品番号が付されている。
そのうち、「睡蓮」の作品群は約300点にも及ぶ。
作品を収蔵するおもな美術館には、フランスのオルセー美術館、マルモッタン・モネ美術館、オランジュリー美術館、アメリカのメトロポリタン美術館、ボストン美術館、シカゴ美術館などがある。
19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、芸術アカデミーとサロン・ド・パリを牙城とするアカデミズム絵画であった。その主流を占める新古典主義は、古代ギリシアにおいて完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた。ジャンルによる価値の優劣も厳然としてあり、歴史画や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や風景画は低俗なジャンルとされていた。
これに対して、ロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワは、豊かな色彩表現をもって、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルに対抗した。その明るい色彩は、のちの印象派に大きな影響を与えた。
その次の世代として、ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、「自分の前に見えるものをできるだけ丹念に描き出す」ことを目標に、優れた風景画や人物画を残した。ジャン=フランソワ・ミレーやシャルル=フランソワ・ドービニーといったバルビゾン派の画家たちも、公式の美術界からは軽視されたものの、ロマン派的な情熱を受け継ぎつつ、緻密な自然観察による風景画を生み出し、印象派への道を準備した。その背景には、神話的なテーマを好んだ貴族に代わり、分かりやすい風景画を好む市民階級が成長してきたことがあった。
さらに、1850年代に『オルナンの埋葬』を発表したギュスターヴ・クールベは、表現技法においては伝統的な造形を踏襲していたが、歴史画を上位とする価値観に公然と異を唱え、「眼に見えるものしか描かない」という信念の下、近代的な主題を描いた。その反逆精神は、印象派の若い画家たちを魅了した。
エドゥアール・マネは、1860年代に『草上の昼食』や『オランピア』を発表し、近代パリの頽廃した風俗を赤裸々に描いた。これらの絵は、風紀上の理由で激しく非難されたが、技法面では、伝統的な陰影による肉付法を行わず、平面的な塗り方をしている点も革新的であった。
モネに代表される印象派は、こうした反アカデミズムの流れの中で登場してきた。モネは、クールベの写実主義的態度を受け継ぎ、自然に対する観察に向かった。もっとも、クールベにとって森や川といった自然が客観的に存在するものであったのに対し、モネたち印象派の画家にとっては、自然は自己の感覚に反映されたものであり、彼らはその「印象」、つまり主観的な感覚世界をキャンバスに再現することを追求した。
モネが自然の印象を正確にとらえるためにとった制作手法が戸外制作であった。モネはこの手法を先輩ウジェーヌ・ブーダンから学んだ。モネは、画家として目覚めた日のことを次のように回想している。
こうした戸外制作を可能にしたのが、1840年代にイギリスで発明された、ネジ式の蓋を持つ金属製チューブ入り絵具であった。1820年代までは、画家がアトリエで自ら絵具を調合するか、豚の膀胱で作った袋で業者から購入しなければならず、保存性が悪かった。1820年代に注射筒状の容器が発明されたが、洗浄が大変であった。そのため油彩画はアトリエで仕上げるのが当然であった。チューブ入り絵具の発明により、戸外にイーゼルを立て油彩画を仕上げることができるようになり、バルビゾン派がいち早くこれを実践していた。しかし、当時一般的な手法とはなっておらず、クールベも、『画家のアトリエ』の中で、アトリエで風景画を制作する様子を描いている。
戸外制作は、物の描き方に革命をもたらした。古典的な絵画は、明から暗へゆっくり移行する陰影を付けて物の丸みと立体感を出す肉付法をとっていたが、それは、アトリエの窓から差し込む光が物に当たってできる、なだらかな陰を前提としたものであった。しかし、戸外の太陽の光の下では、強烈な明暗のコントラストが生じ、明から暗へのなだらかな移行は見られず、物が平板に見えるし、陰の部分も、単なる黒や灰色ではなく、周りの物から光が反射して、色彩が感じられる。このことに気付いたのは、マネと、モネたち印象派の画家たちであった。彼らは、物にはそれぞれ固有色があるという約束事から自らを解放し、目に映る色彩を自由に描くようになった。
モネは、戸外制作を本格的に始めたのは自分だという自負を持っており、1900年に次のように述べている。
もっとも、特に後期の連作では、屋外でのスケッチにアトリエで手を加えている。晩年の「睡蓮」大装飾画では、池で描いた大型の習作を基に、アトリエで想像力による再構成を行っている。
モネは、自然の中では、雲が太陽を遮ったり、風が水面を揺らしたりするたびに、物(モチーフ)の見え方が刻々と変化することに注目した。そのような中で、これぞという局面をとらえようとすれば、それまでの画家のように、絵具を混ぜて調合したり、茶色の地塗りの上に何層も重ね塗りをしたりしている余裕はなく、素早い筆さばきで絵具を直接キャンバスに置いていくことになった。細部よりも、全体の効果に気を遣うことになった。生乾きの絵具の上に絵具を塗り重ねるため(ウェット・オン・ウェット(英語版))、絵筆の先で絵具が混ざり、筆触(タッチ)が生々しく残ることになる。それが制作の過程の臨場感や新鮮さをもたらしている。すなわち、絵肌(マチエール)自体が、画家の手の動きを伝える。しかし、凝った構図、写実的なデッサン、なめらかな仕上げの細部を重視するアカデミズム絵画から見れば、稚拙で未完成なものと受け取られ、嘲笑の理由となった。
絵具をパレットで混ぜないことは、色の明度を落とさないためにも必要なことであった。ある色を作り出すために複数の絵具を混ぜると、色の明度が落ちて画面が暗くなり、戸外の光の明るさを表現することができなくなってしまう。これに対し、原色の絵具をできるだけ混ぜず、限られた色数だけで、細かな筆触(タッチ)をキャンバスに並べると、見る者の視覚の中で色が混ざり(視覚混合)、明度も落ちない。こうした手法は、モネがルノワールとともに『ラ・グルヌイエール』を描いたころから確立していったものである。筆触分割または色彩分割と呼ばれる手法であり、のちに新印象派の画家たちがこれを科学理論に基づいて体系化することになったが、印象派の画家たちは感覚に基づいてこれを用いた。その結果、印象派の画面は、バルビゾン派、クールベ、マネといった先人の画面と比べ、格段に明るく輝かしいものとなった。同時に輪郭線は思い切ってぼかす方向に進んだ。絵を間近から見るだけでは、いい加減な混乱した筆の跡しか見えないが、2、3メートル離れて見ると、突然画面が息づいて見えてくるのであり、これは印象派の画家たちが発見した新たな視覚体験であった。
当時、これを理解できなかったルイ・ルロワは、モネの『キャピュシーヌ大通り』に黒い点で描かれた群衆を見て、「画面の下の方の、まるで黒いよだれのような、あの無数の縦長のものは一体何なのだ」と嘲笑したが、エルネスト・シェノー(フランス語版)は、「埃と光の中のおびただしい数の群衆の動き、道路の上の馬車と人々の雑踏、大通りの木々の揺れ、つまりとらえがたいもの、移ろいやすいもの、すなわち運動の瞬間なるものが、その流れ去る性質のままに描き留められた」ものだとして、モネの意図を捉えた。その視覚体験の前では、威厳のある主題とか、バランスのとれた構図とか、正確なデッサンといった古い概念は、もはや何の意味も持たなかった。
モネは、自然の中の物や人物が光の作用によってさまざまな変化を見せるという発見をもとに、同じモチーフをさまざまな光の下で描くという連作に進んでいった。1865年、エトルタでモネと知り合ったギ・ド・モーパッサンは、制作中のモネの様子を、「5、6枚のキャンバスは、同じ題材について、さまざまな時間の異なった光の効果を描き留めるものである。天候が変化するのに従って、彼はそれらのキャンバスを順次取り上げるのだった」と紹介している。こうした制作手法は、後の連作につながっていったと考えられる。
ジヴェルニー時代に『積みわら』を描いたとき、30分もすれば光が微妙に変化して積みわらの色が別のものに変わっているのに気付き、それを別のキャンバスに描くことになり、多数の連作を生むことになったという。さらに、『ルーアン大聖堂』や『ロンドンの橋』の連作では、光の効果が更に支配的となっている。モネは、ルーアン大聖堂の向かいの部屋にいくつものキャンバスを並べ、朝から夕暮れまでそれぞれのキャンバスに向かったと伝えられている。その代わり、建物の質感や明確な形態は光の波の中に飲み込まれてしまっている。同時に、明確な形態把握を必要とする人物像は、モネの画面から消えていく。現実の再現というよりは、より主観的な感覚と記憶をテーマとする絵画に向かっており、世紀末芸術の時代に盛り上がってきた象徴主義やアール・ヌーヴォーといった潮流との親近性が見られる。保守派の美術史家ケネス・クラークは、石造の大聖堂が光と色彩に溶融する様子を「溶けたアイスクリーム」と批判した。もともと写実主義的な意図に発していながら、光の表現のために、現実世界に確かに存在する形態や質感を犠牲にせざるを得なかったことは皮肉であり、写実主義の破産を示すものといえる。
連作の時代には、光の当たったモチーフよりも、光そのものが主役の位置を占めるようになっていく。オクターヴ・ミルボーが、「彼の自然との交感(コレスポンダンス)は、他の人々より、もっと直接的である。もっとも賞賛される芸術家とは、自然が隠している神秘にもっとも近づいた人であり、またもっとも謙虚な人である」と評しているが、この時代のモネが体験した光とは、モチーフだけでなく画家自身をも包み、自然との交感をもたらす崇高性を帯びたものであったと解釈される。
造形においても、印象主義の時代のような強いコントラストを避け、色彩の調和を重んじるようになった。また、画面全体を均一な筆触で覆うようになった。
最晩年の『睡蓮』連作では、橋や藤の枝といったモチーフが次第に画面からなくなり、池の水面のみを描くようになった。そして、水面に映し出される光の揺らぎを追求し続けた。モネは手紙の中で、水と反射光だけが絶えず頭の中を去来すると書いている。オランジュリー美術館の「睡蓮」大装飾画では、幻想的な色と光の世界が生み出されている。訪れた人は、楕円形の部屋の中で、水の広がりに包まれ、水面下の深みへ引き入れられるような体験をすることになる。
1854年に日本が開国すると、1862年ごろ日本の美術品がパリの店頭に登場し、1867年にパリ万国博覧会が開かれるなど、パリにも日本美術が伝播してきた。1870年代から1880年代には、パリを中心に日本ブームが巻き起こった。フランスの美術や工芸は、エキゾティックな関心から、浮世絵などに表れたモティーフを作品に取り込むようになり、これをジャポネズリー(日本趣味)という。これに対し、構図や空間表現、色彩など、造形のさまざまな要素において日本美術からヒントを得て、新しい視覚表現を追求したことをジャポニスムという。1860年代に修行時代を過ごした印象派の画家たちは、日本美術に触れる機会を持ち、その影響を受けたことが指摘されている。
モネも多数の浮世絵のコレクションを保有しており、ジヴェルニーの家には浮世絵を飾っていた。モネが浮世絵のコレクションを始めた時期については諸説あり、早いものでは少年時代の1856年ごろ、別の説では1871年のオランダ旅行のときとされるが、モネが浮世絵の魅力を知ったのは、パリで浮世絵が商品として買えるようになった1862年以降というのが有力な説である。
モネの1860年代の町の風景画には、歌川広重や葛飾北斎と酷似しているものがあり、たとえば『オンフルールのバヴォール街』では、広い前景から道が急速に後退し、右に消えていくが、これは、西洋の遠近法を修正した広重の『名所江戸百景 猿わか町よるの景』における手法と似ている。ほかにも、『王女の庭』における俯瞰する構図、『サン=タドレスのテラス』や『かささぎ』に見られる画面を上下に分断する水平線・地平線などは、それまでのヨーロッパの風景画にはほとんど見られず、浮世絵にヒントを得て現実の視覚体験を表現したものであることが指摘されている。
1870年代には、妻カミーユに日本の着物を着けさせて団扇などの日本のモティーフを描き込んだ『ラ・ジャポネーズ』が典型的なジャポネズリー(日本趣味)の作品であるが、こうした着想はマネやジェームズ・マクニール・ホイッスラーにならったものであり、特に目新しいものではない。また、こうしたあからさまな日本趣味はこの1点だけである。
むしろ1880年代半ば以降に、画面のモティーフを厳選し、近景と遠景とを組み合わせるといった新しい工夫が次々現れる。1884年の南仏旅行では、起伏に富んだ景観を基に、近景のそそりたつ斜面と遠景とを組み合わせた構図、前景をふさぐ木の幹と枝越しに見える町並みを組み合わせた構図などを採用しているが、浮世絵に着想を得たものと考えられる。さらに、1885年のエトルタ、1886年のベル=イル島での海景画では、モティーフを奇岩と海だけに厳選しているが、こうした構図も、昇亭北寿の『勢州二見ヶ浦』や広重の『六十余州名所図会』(いずれもジヴェルニー、モネ・コレクション所蔵)と酷似している。1887年の『舟遊び』での視点の高さとモティーフの切り方は、ジャポニスムの成熟の表れと見られる。晩年の『睡蓮』大装飾画は、少ない自然のモティーフを使った装飾空間で観る者を包み込み、自然との一体感を演出するという点で、日本の障壁画(特に襖絵)と共通する発想であるとの指摘もされている。もっとも、自然のモティーフを使いながらも自然観察に重きを置かない日本の襖絵と異なり、モネは、装飾的であると同時に、自然観察に忠実であることを追求している。
モネは、印象派を代表する画家とされている。モネは自ら「私はいつも理論は嫌悪してきた。私がやったことといえば、直接自然を前にして、きわめて逃げ去りやすい効果に対する私の印象を正確に表現しようと努めながら描き続けたということだけだ」と述べるように、印象派グループの理論や体系を打ち立てたわけではないが、鋭敏な観察力と感受性をもって、絶え間なく変わり続ける風景に対する印象をとらえ、表現しようとした彼の作品は、印象派の美学を体現するものとなった。ベルト・モリゾは、モネの作品について「彼の絵を見れば、日傘をどちらの方に向ければよいか、すぐ分かる」と述べている。また、ポール・セザンヌは晩年、「モネはひとつの眼だ。絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽するよ」と語り、モネへの敬意を表している。
印象派の絵は、当初はアカデミズム絵画の理想に程遠いことから嘲笑・酷評されたが、ついに革命に勝利したといえる。モネは、ルノワールとともに長生きし、その成果を十分味わうことができた。印象派の絵は価格が高騰し、各国の美術館や収集家が競って欲しがる宝物となっていった。このことは、美術批評の権威を失わせ、印象派に続く画家たちにも、世に迎え入れられなくても革新的な方法を追求するための勇気を与えた。
ルネサンス美術以来の伝統的な西洋絵画が、3次元空間における主題や物語を画面上に構築しようとしてきたのに対し、マネや印象派の絵画作品では、2次元の画面における色彩や筆触といった造形的な要素それ自体が、描かれた対象を差し置いて自律的・表現的な役割を持ち始めた。この傾向はフォーマリズム(形式主義)あるいはモダニズムと呼ばれる。モネの印象主義の作品においては、無造作に置かれたように見える筆触が、光の反射や水のゆらめきを生き生きと伝えるという表現性を獲得している。
さらにモネは、連作の時代においては、前述のように形態を放棄し、光の観察の追求に向かっており、色彩の自律性・表現性は深化している。逆に言えば、写実主義の限界を露呈するものであった。このようなフォーマリズムを推し進めていった帰結として、ワシリー・カンディンスキーらの生み出した抽象絵画をとらえることができる。1895年にモスクワでモネの『積みわら』を見たカンディンスキーはこれに衝撃を受け、「描く行為は、目覚ましい力と素晴らしさを持ったものと思われるようになる一方で、無意識のうちに、絵画にとって対象が不可欠な要素であるとは信じられなくなったのだった」と語っている。ジャクソン・ポロックら抽象表現主義の画家たちもモネの晩年の作品を高く評価したが、それはフォーマリズムの立場に立ったものであった。
抽象表現主義に属するサム・フランシスは、モネの『睡蓮』に影響を受けたことを認めている。アンディ・ウォーホルは、オランジュリー美術館に感銘を受け、パリでの個展を多数の花の絵で飾った。ロイ・リキテンスタインは、『ルーアン大聖堂』などの連作を引用したシリーズを制作した。
モネと最初に親交を持った日本人は、パリの日本人画商林忠正であった。モネは林から浮世絵を入手し、林もモネの絵を購入したり、日本人による購入を仲介したりしたが、第一次世界大戦前の時期には、日本にはモネの作品はほとんどもたらされることはなかった。1880年代後半から1890年代初めにかけてパリに留学した黒田清輝や久米桂一郎は、印象派嫌いのラファエル・コランに師事したこともあり、当時印象派への関心は薄かった。1895年、森鷗外と新聞記者の吉岡芳陵との美術論争でモネの名前が言及されているが、鴎外も吉岡もモネの作品の現物を見たことがなかったと思われる。
1900年以降、フランスで印象派の評価が確立したのを受けて、黒田や久米が日本で印象派について紹介するようになり、日本でのモネの理解は徐々に浸透していった。1910年に創刊された雑誌『白樺』では、ポスト印象派のセザンヌ、ゴッホや、ロダンがおもに取り上げられており、日本の芸術家の間では、モネはむしろ過去の画家という扱い方がされた。しかし、第一次世界大戦後、日本人コレクターの間ではモネが一大ブームとなった。1918年以降フランスに滞在した黒木三次と、その妻黒木竹子は、ジヴェルニーのモネ邸を訪れるなど親交を持ち、その縁でジヴェルニーを訪れる日本人は多かった。その1人松方幸次郎も、モネの信頼を得て多くの作品を譲り受けた。
モネが経済的に苦労していた1870年代、彼の静物画が780フラン(31ポンド5シリング)で売れたという記録がある。1886年にニューヨークでの印象派展覧会が開かれてから、市場での評価は徐々に高まり、1890年代には100ポンド台に達した。1890年代末には、800ポンド台に達するものも出てきて、モネは富裕な大家としての地位を確立した。1918年、『ラ・ジャポネーズ』を画商が6,000ポンドで買い取ったのが、第二次世界大戦前の最高価格であった。ただ、ルノワールと比べるとずっと低い評価であった。
1950年代、スイスの美術館が晩年の『睡蓮』を展示したのを機に、モネの再評価(リヴァイヴァル)が始まった。モネ作品はさらに高騰し、1950年代末から、1万ポンド台に達するのが恒常的となった。1967年には、『サン=タドレスのテラス』が58万8,000ポンドで売れるなど、ルノワールと完全に並んだ。1983年には『睡蓮』が150万ポンド(5億6,052万円)で売れ、驚きをもたらしたが、1987年11月10日には別の『睡蓮』がニューヨークのクリスティーズで300万ドル(168万ポンド、4億620万円)で落札され、その翌日11月11日には、サザビーズで『花咲く庭』が530万ドル(7億1,842万円)で落札されるという高騰ぶりであった。さらに、1988年6月27日、ロンドンのクリスティーズで、『青い家、ザーンダム』の小品が350万ポンド(8億427万円)で落札され、その翌日6月28日には、サザビーズで『草原で』が1,300万ポンド(29億5,542万円)で落札され、衝撃を呼んだ。当時、ゴッホの『アイリス』『ひまわり』に次ぐ史上第3位の高価格記録となった。モネは同一構図を繰り返し描いた多作の画家であるが、投資市場の拡大によって名品が払底してきたことが、こうした急騰の原因と考えられる。
その後も1,000万ドル台が次々現れていたが、1998年6月30日、ロンドンのサザビーズで『睡蓮の池と水辺の小道』が1,800万ポンド(3,032万ドル、43億596万円)という史上最高金額を記録した。モネは、ルノワールをしのぎ、ゴッホ、ピカソに迫る市場での評価を得るに至っている。
2008年6月24日、ロンドンのクリスティーズで、晩年の『睡蓮の池』が4,100万ポンド(8,050万ドル、約87億円)を記録した。2016年11月16日には、ニューヨークのクリスティーズで、『積みわら』がさらに上回る8,140万ドルで落札され、市場での印象派の強さを見せつけた。
モネは1883年にジヴェルニーの家を借りたが、当時その敷地は果樹園と家庭菜園であった。1890年に地所を2万2,000フランで買い取ると、果樹園の樹木を伐採して、庭師の助けを借りながら「花の庭」を造成していった。ルーアン滞在中には、植物園の園長から珍しい外来種の育て方について助言を受け、1893年には、園芸を趣味とするカイユボットの助言を受けて温室を作った。ルーアンの植物園から分けてもらった植物や、国内外から取り寄せた珍しい植物を数多く植えていった。全26巻の植物図鑑を所有し、ことあるごとに参照していた。
1893年、鉄道線路を挟んで隣の土地を手に入れた。エプト川に流れ込むリュ川という小川が貫流し、小さい池のある土地であり、周りには植物が生い茂っていたが、モネはここを「水の庭」に造成していった。1893年から1901年までの造成で、日本から輸入した睡蓮を根付かせるため、池の水を温めようとして池の東西に水門を設けたが、これは周囲の住民から抗議を受けた。また、池に日本風の太鼓橋を作った。睡蓮や太鼓橋にちなんで「日本庭園」と呼ばれたが、石庭などの要素はなく、伝統的な日本庭園とは異なる。制作の旅先からも、アリスに、「家の庭や球根がどうなっているか気になる。池の氷に注意してくれているだろうか」(1895年)などと庭の様子を案じる手紙を送っている。
1901年には第2次の造園工事を行い、庭園が拡張され、リュ川の水が引かれた。池の周囲は200メートルに及び、現在公開されている水の庭の姿をほぼ整えた。太鼓橋の上には藤棚が設けられた。庭園には、睡蓮、橋、枝垂れ柳、アイリス、アガパンサス、バラの門といった要素がモネのイメージに基づいて入念に整えられ、それ自体がモネの芸術作品となった。
モネの死後は、唯一の相続人は二男ミシェル・モネであったが、ジヴェルニーには不在だったため、アリスの娘ブランシュ・オシュデ・モネ(ジャン・モネの未亡人)が屋敷と庭園の管理に努めた。1947年にブランシュが亡くなったあとは、敷地は荒れてしまった。1966年、ミシェル・モネが自動車事故で亡くなり、その遺言によりジヴェルニーの地所とコレクションは美術アカデミーに寄贈された。美術アカデミーから修復を託されたジェラルド・ファン・デル・ケンプ(フランス語版)が民間の募金を集め、3年がかりの修復工事を行った結果、1980年、クロード・モネ財団(英語版)が設立され、以後一般に公開されている。
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"text": "クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になった。自然の光と明るい色彩で、主に風景をうつした作風が特徴。",
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"text": "1840年にパリで生まれたが、5歳のころから少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごした。絵がうまく、人物のカリカチュアを描いて売るほどであったが、18歳のころに風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられた(→ル・アーヴル(少年時代))。1859年にパリに出て絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合った(→画塾時代)。",
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"text": "1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったが、1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭った。私生活では、カミーユ・ドンシューとの交際を始め、長男も生まれたが、父親からは援助が断たれ、経済的に苦しい時代が始まった(→サロンへの挑戦)。1870年、普仏戦争が始まり、兵役を避けてロンドンに渡った。このとき画商デュラン=リュエルと知り合い、重要な支援者を得ることとなった(→普仏戦争、ロンドン)。パリに戻ると、その近郊アルジャントゥイユにアトリエを構え、セーヌ川の風景などを描いた。",
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"text": "1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』などを出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(→アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(→ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。",
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"text": "次いで1881年にポワシーに移り住み、ノルマンディー地方への旅行に出ている(→ポワシー(1881年-1883年))。1883年、これもセーヌ川沿いのジヴェルニーに移り、生涯ここで暮らした。1880年代には、地中海沿岸やオランダなど、ヨーロッパ各地に制作旅行に出かけることが多かった。1886年にニューヨークでデュラン=リュエルが印象派の展覧会を開いたころから、経済的に安定するようになった(→各地の制作旅行(1880年代))。1890年代には、ジヴェルニーの自宅周辺の『積みわら』や『ポプラ並木』、また『ルーアン大聖堂』を描いた連作に取り組んだ。このころには、大家としての名声が確立してきた。1892年、アリスを2人目の妻とした。また、日本美術愛好者の集い「Les Amis de l'Art Japonais_」(1892 - 1942)の会員でもあった(→「積みわら」からの連作(1890年代))。",
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"text": "1890年代、自宅に「花の庭」と、睡蓮の池のある「水の庭」を整えていったが、1898年ごろから睡蓮の池を集中的に描くようになった。1900年までの『睡蓮』第1連作は、日本風の太鼓橋を中心とした構図であったが、その後1900年代後半までの第2連作は、睡蓮の花や葉、さらに水面への反映が中心になっていき、1909年の『睡蓮』第2連作の個展に結実した。その間、ロンドンを訪れて国会議事堂の連作を手がけたり、1908年に最後の大旅行となるヴェネツィア旅行に出たりしている(→「睡蓮」第1・第2連作(1900年代))。",
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"text": "最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面したが、友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭し、86歳で最期を迎えた(→「睡蓮」の部屋(最晩年))。",
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"text": "モネのカタログ・レゾネには、油彩画2,000点以上が収録されている(→カタログ)。モネたち印象派の画家たちは、ロマン派(ドラクロワ)の豊かな色彩、コローやドービニーらバルビゾン派の緻密な自然観察、クールベの写実主義と反逆精神、マネの近代性を受け継ぎ、伝統的なアカデミズム絵画の決めた主題、構図、デッサン、肉付法・陰影法に縛られない、自由な絵画を生み出した。モネは特に戸外制作を重視し、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」をキャンバスに再現することを追求した。絵具をパレットで混ぜずに、素早い筆さばきでキャンバスに乗せていくことで、明るく、臨場感のある画面を作り出すことに成功した。その後の連作の時代には、光の当たったモチーフよりも、光そのものが主役の位置を占めるようになり、物の明確な形態は光と色彩の中に溶融していった(→時代背景、画風)。鋭敏な観察力と感受性をもって絶え間なく変わり続ける風景を表現したモネは、印象派を代表する画家と言われる(→評価と影響)。作品は、モネ存命中の1890年代から徐々に美術市場での評価が高まっていったが、20世紀を通じてオークションで次々記録を塗り替える高額落札が生まれ、数十億円で落札されるに至っている(→市場での高騰)。",
"title": "概要"
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"text": "ジヴェルニーの家に造成した庭園は、それ自体がモネの芸術作品と言われる。死後は一時荒れていたが、修復工事を経て、1980年以降、一般に公開されている(→庭園)。",
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"text": "1840年11月14日、パリ9区のラフィット街(英語版)で、父アドルフと母ルイーズとの間の二男として生まれた。父親の職業ははっきり分かっていない。出生時のフルネームは、オスカル=クロード・モネ(Oscar-Claude Monet)であったが、のちに本人はクロード・モネと名乗っている。",
"title": "生涯"
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"text": "1845年ごろ、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住した。ここでは、父の義兄ジャック・ルカードルが富裕な雑貨卸業を営んでいた。モネは、少年時代の大半をル・アーヴルで過ごすことになる。これ以降も、モネは生涯のほとんどをセーヌ川沿いの町で過ごすことになり、のちに自ら「セーヌ。私は生涯この川を描き続けた。あらゆる時刻に、あらゆる季節に、パリから海辺まで、アルジャントゥイユ、ポワシー、ヴェトゥイユ、ジヴェルニー、ルーアン、ル・アーヴル......」と回想している。",
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"text": "1851年4月1日、ル・アーヴルの公立中学校に入学した。モネは、学校を抜け出して外で遊び回るのが好きな少年であった。彼はのちに、次のように回想している。",
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"text": "モネは少年のころから絵画に巧みで、10代後半のころには自分の描いた人物のカリカチュア(戯画)を地元の文具店の店先に置いてもらっていた。カリカチュアの注文を頼む者も現れ、最初は10フラン、のちに20フランで引き受けた。デッサン教師ジャック=フランソワ・オシャールの授業も受けている。1857年1月28日、母親が死去した。モネは、同じころ学業を放棄したが、叔母のマリー=ジャンヌ・ルカードルが彼をアトリエに入れ、デッサンの勉強を続けさせた。",
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"text": "1858年ごろ、モネの描いていたカリカチュアが、ル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、2人は知り合った。ブーダンは、それまでアトリエで制作するのが当たり前だったキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家であった。ブーダンから、カリカチュアばかり描くのをやめ、油絵を勉強しようと誘われたことから、モネは油絵に取り組み始め、画家としての一歩を踏み出した。ブーダンとともにル・アーヴル北東のルエル(フランス語版)に赴いて制作し、油絵『ルエルの眺め』をル・アーヴル市展覧会に出品した。",
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"text": "モネは、パリで絵の勉強をしたいと考えるようになったが、父は強く反対した。しかし、モネがカリカチュアで稼いだ貯金2,000フランでパリに行きたいと伝えると、父はこれに驚いてやむを得ず許可し、1859年4月、パリに出ることとなった。当初、ブーダンの師であったコンスタン・トロワイヨンのもとを訪れ、ルーヴル美術館で模写をしてデッサンを学ぶこと、トマ・クチュールのアトリエに入ることを勧められた。しかしモネは、そうしたアカデミックな勉強を拒否し、1860年に、より自由なアカデミー・シュイスに入学した。ここでカミーユ・ピサロらと知り合った。",
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"text": "1861年、徴兵を受け、アフリカ方面の連隊に入隊し、秋からアルジェリアで兵役を務めたが、1862年、病気(チフス)のため6か月の休暇を得て、フランスに帰国した。モネはのちに、アルジェリアでの経験について「あの地で受けた光と色彩の印象。それはずっと後になるまで明確な形を取らなかったが、私の来るべき探求の萌芽は、すでにあそこにあったのだ」と回想している。",
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"text": "同年(1862年)夏、ル・アーヴルに戻った際、オランダの画家ヨハン・ヨンキントと知り合った。ヨンキント、ブーダン、モネは、温かい友情で結ばれた。モネはのちに「そのときから彼は私の真の師となった。私の眼の教育の仕上げをしてくれたのは彼なのだ」と、ヨンキントからの影響について語っている。兵役は、叔母が納付金を支払って残りの期間を免除された。叔母や父は、ブーダンやヨンキントとの交際による悪影響を懸念していた。父は、パリで有名な師匠の訓練を受けること、好き放題するようなら仕送りを打ち切ることを言い渡したうえ、モネをパリに送り出すこととした。",
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"text": "同年(1862年)11月、パリに着くと、後見人として指定された親戚筋の画家オーギュスト・トゥールムーシュの勧めを受けて、シャルル・グレールのアトリエに入ることとした。ここでアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワールらと知り合った。グレール自身は、理想化された様式を重んじるアカデミズムの画家であったが、当時の画家のアトリエの中では比較的自由で、グレールが週に1度やってきて生徒の絵を直すほかは、生徒はモデルを使って自由に描くことが許されていた。費用が安いこともあり、アカデミックな美術教育に飽き足らない画家の卵たちが彼のアトリエに集まっていた。もっとも、グレールの指導は、モデルをありのまま描いてしまっては醜いから、古代美術を念頭に様式化して描くことというものであり、自然をありのまま描くことというブーダンやヨンキントの教えに心服していたモネは、グレールに不信感を持った。教室には、家族を失望させない程度に定期的に顔を出す程度であった。モネは、アカデミー・シュイスの仲間とグレールのアトリエの仲間を結びつける役割を果たし、のちの印象派グループの中心メンバーを形成していくことになった。1863年にはナポレオン3世が開かせた落選展で、エドゥアール・マネの『草上の昼食』がスキャンダルを巻き起こしており、モネもこれを見たと思われる。その年の秋ごろ、グレールの病気のためアトリエの閉鎖が検討されることになり、モネ、バジール、ルノワール、シスレーはアトリエを離れた。モネは、ほかの3人を誘ってフォンテーヌブローの森の外れのシャイイ=アン=ビエールを訪れ、森の中での制作を教え、また森で出会ったバルビゾン派の巨匠たちから助言を受けた。モネは特にジャン=フランソワ・ミレーを尊敬していたが、気難しいミレーに実際に話しかけることはできなかった。",
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"text": "1864年、モネは、バジールとともにノルマンディー地方のルーアン、オンフルール、サン=タドレス(フランス語版)を訪れた。一足先にパリに帰ったバジールに対して、オンフルールに残ったモネは「ここは素晴らしいよ。毎日毎日、何かしら昨日よりもっと美しいものが見つかる」と、興奮した手紙を送っている。同年末にパリに戻ると、フュルスタンベール通り(フランス語版)のバジールのアトリエで一緒に制作をするようになった。バジールが描いた『フュルスタンベール通りのアトリエ(フランス語版)』の画中には、壁に『並木道 (サン=シメオン農場の道)』、『オンフルールの海辺』などモネの絵がかかっているのを見ることができる。",
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"text": "1865年のサロン・ド・パリに、海景画『オンフルールのセーヌ河口』と『干潮のエーヴ岬』を初出品し、2点とも入選した。新人モネの作品は、エドゥアール・マネの『オランピア』の真前に並ぶことになり、マネは、自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨したという。これを機に、モネは姓だけの署名をやめ、「クロード・モネ」というフルネームの署名をするようになった。マネの『オランピア』がスキャンダルを巻き起こしたのに対し、モネの作品は批評家から好意的な評価を得た。",
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"text": "モネはシャイイでマネの『草上の昼食』と同じテーマの作品の制作を始めていたが、サロンの後、シャイイに戻って、1866年のサロンに出品することを目指して制作を続行した。モネの『草上の昼食』は、縦4.6メートル、横6メートルという大作であったが、結局、サロンには出品されなかった。ギュスターヴ・クールベに批判されたからだとも言われる。代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女(フランス語版)(カミーユ)』と『シャイイの道』は2点とも入選を果たした。『緑衣の女』は、当時知り合ったばかりの恋人カミーユ・ドンシュー(英語版)をモデルにしたものであった。この頃、ザカリー・アストリュクの紹介で、マネと面識を得た。",
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"text": "1866年のサロンで、エミール・ゾラが『レヴェヌマン』紙にモネを賞賛する記事を書いた。これを読んだル・アーヴルの父は、息子の絵がすぐに売れるようになるものと思って、仕送りをしてくれるようになった。しかし、新聞で批評家に褒められたからといって絵が売れるわけではなく、父は同年末、カミーユと別れれば再開すると条件をつけて、仕送りをやめてしまった。このときすでにカミーユは第1子を妊娠しており、モネにはカミーユと別れることは考えられなかった。この先10年間、モネは、苦しい貧困の時代を過ごすことになる。",
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"text": "1866年のサロンが終わると、セーヴルやオンフルールに滞在しながら、大作『庭の中の女たち(英語版)』に取りかかった。4人の女はいずれもカミーユをモデルとしたもので、モネは、実際に庭の中でこれを制作した。画面の上部に手が届かなかったため、庭に堀を掘って、その中にキャンバスを入れて描いた。光の状態を正確に再現するため、毎日同じ時間に仕事を始め、太陽が雲で隠れると作業を中断した。クールベがモネのアトリエを訪ねた際、モネが絵筆を持ったままキャンバスの前でぼんやり立っているのを見て、なぜ描かないのかと言ったところ、モネは、あのせいだと言って雲を指したというエピソードが知られている。クールベは、「影をつけるところはともかく、背景は今でも描けるじゃないか」と言ったが、モネは従わなかったという。このような手法にこだわったため、制作には翌1867年までかかった。しかし、1867年のサロンでこの労作は落選してしまった。審査員からは、絵筆の跡が露わになっている点が、不注意と未完成の証拠であると受け止められたのであった。当時の画家にとって、サロンに入選するかどうかは絵が売れるかどうかを決める決定的な要素であった。そのため、サロンへの落選はモネにとって大きなショックで、ルノワール、バジール、シスレーも同様に落選したことから、独自の展覧会を開催しようという案が出たが、資金不足のため立ち消えとなった。『庭の中の女たち』は、バジールが2,500フランの大金で購入してくれた。",
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"paragraph_id": 23,
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"text": "1867年、サン=タドレス(英語版)の叔母の家に滞在し、海と庭という2つのテーマを結びつけた作品『サン=タドレスのテラス』に取りかかった。同年8月8日、パリに残していたカミーユが、長男ジャン(en:Jean Monet (son of Claude Monet))を出産した。しかし、父はモネとカミーユの仲を認めなかった。モネは、ル・アーヴルにカミーユを連れて行き父を説得しようとしたが、父はカミーユに会おうとせず、金を出してもくれなかった。モネは、バジールに、「とてもいとおしく感じられる、大きくてかわいい男の子だ。でも、その母親が食べるものが何もないことを考えると、苦しくてたまらない」と書き送っている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1868年には、ル・アーヴルに滞在しながら制作を続けた。1868年のサロンでは、海景画1点だけが、審査員であったシャルル=フランソワ・ドービニーの推薦で入選した。同年6月、フェカンからバジールに宛てた手紙で、依然として経済的苦境にあることを述べ、動転して自殺未遂に及んだことを伝えている。しかし、同年9月の手紙では、ル・アーヴルで得たパトロンの支援のおかげで、カミーユとジャンとの生活が落ち着いていることを知らせている。同年12月には、エトルタで『かささぎ』などの雪景色を描いている。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1869年のサロンには、カミーユと長男ジャンを描いた『昼食』を提出したが落選した。家族とブージヴァル近くのサン・ミッシェルに移り住んだが、お金がなく、電気や暖房がない生活であった。モネは6月、知人に「僕の精神はとてもいい状態で、仕事をする気力にあふれています。でも、あの致命的な落選によって、生活のあてがまったくありません」と、悲痛な手紙を書いている。そうした中、ルノワールがパンを運んでくれるなど支援してくれた。モネはルノワールとともに、ブージヴァル近くの水浴場「ラ・グルヌイエール」でキャンバスを並べて制作した。ラ・グルヌイエールは、パリから鉄道で30分の人気のリゾート地であり、2人はこの地で、ラフな筆致で絵具を置いていく筆触分割という印象派の手法を確立していった。その中でも、ルノワールが人物の形態を重視したのに対し、モネは人物を抽象的な色斑で描き、自然の中に埋没させている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "1869年頃、マネを中心として若手画家たちが集うバティニョール地区(英語版)のカフェ・ゲルボワに、モネも招かれるようになった。カフェ・ゲルボワでは、マネとエドガー・ドガが芸術論を戦わせており、モネやルノワールは聞き役に回っていた。そのほか、ゾラやポール・セザンヌ、写真家ナダールなども参加しており、彼ら芸術家のグループは「バティニョール派」と呼ばれた。モネはのちに「際限なく意見を戦わすこうした『雑談』ほど面白いものはなかった。そのおかげで、我々の感覚は磨かれ、何週間にもわたって熱中することができ、そうして意見をきちんとまとめることができた」と振り返っている。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1870年のサロンには、『昼食』や『ラ・グルヌイエール』を提出したが、ジャン=フランソワ・ミレーやドービニーといった審査員の支持にもかかわらず、再度落選してしまった。ドービニーはモネの落選に抗議して審査員を辞任した。モネは、以後しばらくサロンへの出品を取りやめている。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "1870年6月28日、ようやくカミーユと正式に結婚した。その夏、長男ジャンを連れてノルマンディー地方のリゾート地トルヴィル=シュル=メールに新婚旅行に行った。ブーダンも妻を連れてトルヴィルに来て、モネと一緒に制作した。このときのモネの作品『トルヴィルの浜辺』には、カミーユと、ブーダンの妻が描かれている。強風の中制作したため、絵具の表面に、吹き上げられた海岸の砂や貝殻の破片が付着していることが分かっている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1870年7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、オランダを経て、ロンドンに渡った。同じ時期、ピサロもロンドンに逃れており、2人は、イギリス風景画の第一人者ターナーやコンスタブルの作品を研究した。ターナーの描く霧の風景や、コンスタブルの描く雲の風景は、自然の移ろいゆく光を新しい感性で観察しており、印象主義の生成・発展に影響を与えたことが指摘されている。なお、この年の11月、バジールは普仏戦争に従軍して戦死している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "モネは、同じ時期に普仏戦争を避けてロンドンに滞在していたシャルル=フランソワ・ドービニーとも親交を持った。ドービニーは、以前からモネを高く評価しており、モネの面倒をよく見た。そして、同じくロンドンに滞在していた画商ポール・デュラン=リュエルをモネに引き合わせた。デュラン=リュエルは、のちに印象派にとって重要な画商となっていく",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ロンドンでは、室内画のほか、テムズ川、グリーン・パーク(英語版)、ハイド・パークを描いた数点しか制作していない。1871年1月、モネの父親が亡くなった。モネは5月までロンドンに滞在し、そのころ普仏戦争に続くパリ・コミューンの混乱が終息に向かうと、数か月間オランダ・ザーンダムに滞在した。ザーンダムでは、港、堤防、風車、ボート、埠頭など、水に関わるモチーフの習作を制作している。同年秋になってパリに戻った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "モネは、1871年12月、パリ近郊のセーヌ川に面した町アルジャントゥイユにアトリエを構えた。家を世話してくれたのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネであった。アルジャントゥイユでは、1878年初めまでの6年あまりを過ごし、この間に約170点の作品を残している。その約半数がセーヌ河畔の風景である。この間、マネのほか、ルノワール、シスレーも頻繁にモネを訪ねた。ルノワールは、アルジャントゥイユの庭で制作するモネを描いている。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "同時に、パリのサン=ラザール駅近くにも1874年までアトリエを持ち、ルノワールとともにポンヌフの橋を描いたり、頻繁にブーダンと会ったりしていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1872年ごろから1874年ごろまで、第三共和政のフランスは普仏戦争後の復興期にあたり、一時的な好景気を呈していた。デュラン=リュエルがモネの絵画を多数購入するなどして、経済的には余裕が生まれた。デュラン=リュエルと接触のあったピサロ、シスレー、ドガとともに、1872年のサロンに作品を送っていないのは、このことも理由と思われる。1873年には、デュラン=リュエルのほかに、銀行家のエクト兄弟、批評家テオドール・デュレといった買い手が現れた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "モネは、そのお金で小さなボートを購入し、アトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作した。これにより、低い視線から刻々と変化する水面を描くことができるようになった。このアトリエ舟の発想は、水辺の画家ドービニーから学んだ可能性がある。マネがアトリエ舟で制作するモネの様子を描いており、モネ自身もアトリエ舟を作品に登場させている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1869年と1870年のサロンに続けて落選して以来、サロンから手を引いていたモネは、ピサロ、ドガ、ルノワールらとともに、サロンとは独立した展覧会を開くという構想を持つようになった。1873年4月には、ピサロに「みんな賛成してくれている。反対なのはマネだけだ」と書き送っている。デュラン=リュエルが、経済的に苦しくなってきて、以前のように絵を買えなくなったという事情も、この構想の早期実現を促す要素となった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。参加者は、絵の売却収入の10分の1を基金に入れること、展示場所は1作品ごとにくじで決めることが合意された。そして、サロン開幕の2週間前である1974年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り(英語版)の写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社(株式会社とも訳せる)の第1回展を開催した。のちに「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。マネは、サロンでの成功に支障が生じるのを恐れ、参加しなかった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "モネは、この第1回展に、『印象・日の出』、『キャピュシーヌ大通り』、カミーユとジャンを描いた『昼食』などの油絵5点、パステル画7点を出品した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会を訪れた人物があまりにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会」を発表した。この文章がきっかけで「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになった。もっとも、必ずしもルイ・ルロワが初めて使い始めた言葉ではなく、当時の批評家たちがこのグループ展を指す際、「印象」や「印象派」という言葉は共通したキーワードとなっていた。第1回印象派展の入場者は約3,500人であったが、サロンが同じ1か月間で約40万人を集めていたのとは比べるべくもなく、来場者の大半が絵を嘲笑しに来た客であった。売り上げも、メンバーが支払った会費60フランすら回収できないという惨状に終わった。共同出資会社は、同年12月に債務清算のため解散した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1874年ごろから、デュラン=リュエルがモネの絵を大量に購入することが難しくなり、第1回印象派展も失敗したため、モネは経済的な苦境に陥った。モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾは、1875年3月、オテル・ドゥルオ(英語版)で多数の作品を競売にかけざるを得なくなったが、参加者に嘲笑され、無残な結果に終わった。モネは、マネに「もし苦境を脱することができなければ、僕の絵具箱はずっと閉じられたままになるでしょう」という手紙を送り、マネはこれに応じてモネを援助した。また、モネの作品を個人的に購入するバリトン歌手ジャン=バティスト・フォール、実業家エルネスト・オシュデ、税官吏ヴィクトール・ショケなどの収集家・愛好家も現れてきた。オテル・ドゥルオの競売でルノワールを知った収集家ジョルジュ・シャルパンティエ(フランス語版)は、1879年に「ラ・ヴィ・モデルヌ(近代生活)」誌を創刊して、印象派の普及に貢献した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1876年4月、第2回印象派展がデュラン=リュエル画廊で開かれた。モネは18点を出品した。ここでは、日本の着物を着けた妻カミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品している。着物のほかにも、扇子を持ったり、うちわが壁に飾られていたりして、典型的なジャポネズリー(日本趣味)の作品である。この絵は、第2回展で好評を博し、2,000フランで売れたものの、モネの経済的困窮が解消したわけではなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "新聞の評価は、第1回展のときよりは好意的であった。ゾラは、「クロード・モネこそは、おそらくこのグループのリーダーだろう。彼の筆さばきは素晴らしく、際立っている」との評を寄せた。また、画家ギュスターヴ・カイユボット、医師ジョルジュ・ド・ベリオといったモネの購入者・支援者も現れた。それでも一般の人々の反感は根強く、批評家アルベール・ヴォルフ(英語版)は「フィガロ」紙で、第2回展について「これら自称芸術家たちは、自ら『革新派』または『印象派』と名乗り、キャンバスと絵具を手にすると、手当たり次第に色彩を投げつけ、そしてそれら全部に、堂々と署名するのだ......。そこには、完全な発狂状態にまで達した人間の虚栄心の恐ろしい姿が見られる」と酷評した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1876年夏から秋にかけて、エルネスト・オシュデの邸宅であるモンジュロンのロッテンブール館に滞在し、その居間を飾るための『七面鳥』など4点を制作した。エルネストの妻アリス・オシュデは、1877年8月20日に第6子ジャン=ピエールを生むが、彼はモネの子ではないかとも言われている。モネは、相変わらず経済的困窮が続き、ゾラやシャルパンティエを含め、限られた支援者たちに度々資金援助の依頼をしている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1877年初めには、パリのサン=ラザール駅近くのモンシー街(フランス語版)に部屋を借り、一つの駅を主題としながら、異なった視点から異なった時刻に描いた12点の連作に取り組んだ。これは、のちの『積みわら』や『ルーアン大聖堂』連作につながっていくものであった。サン=ラザール駅は、アルジャントゥイユへの列車が発着する駅で、モネは日頃からこの駅を利用していた。鉄道は、マネや印象派の画家が追求した近代性を象徴する主題であった。その年4月の第3回印象派展には、『サン=ラザール駅』8点のほか、テュイルリー庭園、モンソー公園を描いた作品を出品した。美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、第3回展参加者18名を紹介する小冊子『印象派』を刊行し、とりわけサン=ラザール駅の連作に賛辞を送った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "このころ、アルジャントゥイユでの生活に出費がかさんだこともあり、モネは借金に追われ、家具の競売を求められる状況に陥った。そのうえ、妻カミーユが病気に倒れた。モネは地主に『草上の昼食』を借金の担保に引き渡して、1878年1月17日、アルジャントゥイユを去った。そして、数か月間は、パリのエダンブール街(フランス語版)に滞在した。3月17日、カミーユとの間の二男、ミシェル(英語版)が生まれた。しかし出産後、カミーユの健康状態はさらに悪化していった。その春、テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "モネ一家は、1878年9月、マネから引っ越し費用を借りて、セーヌ川の50キロほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移った。ちょうどこのころ、モネのパトロンであったエルネスト・オシュデは、破産して住むところを失っていた。オシュデは、妻アリス・オシュデ(英語版)と6人の子ども(マルト、ブランシュ、シュザンヌ(英語版)、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人)とともに、ヴェトゥイユのモネの家で同居生活を送ることになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ヴェトゥイユ時代には、印象派の仲間たちとの間は疎遠になっていった。グループ内では特に、印象派展の売れ行きが思わしくない中、サロンに応募するか否かという点は深刻な対立点となった。ドガが、サロンに応募する者はグループ展に参加させないことを強く主張していたのに対し、ルノワールは1878年にサロンに応募し、モネも、グループ展が作品の販売を妨げていると考えるようになった。1879年4月の第4回印象派展は、ドガが中心となって開催し、モネは当初出品を断ったが、ギュスターヴ・カイユボットが所蔵者からモネの作品29点を借り集めて出品した。モネは、第4回展への出品に同意した理由について、「気は進まなかったが、裏切り者と思われたくなかったから」と述べている。第4回展では、初めて利益が出て、1人439フランの配当金が与えられた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "経済的には依然として苦しく、妻カミーユと子供の病気が重なり、ヴェトゥイユの大家族は、食糧も暖房もない生活を強いられた。1879年9月5日、カミーユが32歳で亡くなった。モネはこのとき、『死の床のカミーユ』を制作している。妻を失ったモネは、ピサロに「君はほかの誰よりも僕の悲しみを分かってくれるだろう。徹底的に打ちのめされ、再び生きる気力もなく、2人の子どもを連れてどのように暮らしていけばいいのか、皆目分からない」と書いている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "その後、エルネスト・オシュデはパリに仕事に出ていったが、妻アリス・オシュデはヴェトゥイユに留まり、モネの2人の子、ジャンとミシェルの面倒も見た。モネとアリスとの関係は深まっていった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1879年から1880年にかけての冬は異例の寒さとなり、セーヌ川が完全に結氷し、その後、激しい勢いで解氷した。モネはこの現象に強く興味を引かれ、描く時間や角度の違いによる光の変化を絵にすることに夢中になった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1880年のサロンには、10年ぶりに出品した。長年サロン審査に反抗していたモネがサロンへの出品を決意した理由には、前年のサロンでルノワールが初めて高い評価を得たことに加え、経済的に逼迫する中、入選すれば画商ジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待もあった。モネが提出した2点のうち、比較的伝統的なスタイルで描いた『ラヴァクール』だけは入選したが、壁の上の方の不利な場所に展示された。ゾラは「10年もたたないうちに、彼は認められ、報いられるだろう」と評価したが、作品が手早く描かれすぎているとの批判も加えた。一方、モネは、第5回印象派展への出展は拒否した。モネがサロンに出品したことで、印象派グループの解体は決定的になった。ドガは、モネを裏切り者として非難した。このころルノワールは、印象主義的作品から、明確な輪郭線と形態を持つ作品に回帰し、シスレー、セザンヌとともにサロンに応募していた。印象派展に残ったピサロはジョルジュ・スーラの新印象主義に接近しており、印象派のスタイル自体が変容を迎えていた。モネは、印象派展に加わったジャン=フランソワ・ラファエリや、ポール・ゴーギャンに対して、非常に低い評価を与えていた。第5回展は、もはや印象派展とはいいがたいものとなった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1880年6月、『ラ・ヴィ・モデルヌ』誌のギャラリーで、初めてモネの個展が開かれ、『解氷』などヴェトゥイユの風景画を中心とする17点が展示された。作品数点が売れた。新聞の評価は好意的で、ポール・シニャックら若い画家たちにとって、モネは英雄的な存在になりつつあった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "フランスの景気が回復する中、デュラン=リュエルが経済的に立ち直り、1881年初め、モネとの間で定期的に大量の絵を購入する契約を結んだ。これにより、モネの経済的基盤は安定した。同年4月の第6回印象派展やサロンには出品する必要を見なかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1881年12月、デュラン=リュエルから引っ越し費用の援助を得てポワシーに移った。ちょうど賃借契約が満期になったうえ、アリスとの関係がヴェトゥイユの住民から白眼視されていたことも理由であった。しかし、アリスとその子どもたちは、パリに戻るようにとのエルネスト・オシュデの求めに反してポワシーに同行することとなり、モネとアリスとの関係は、エルネストに対してますます説明が難しいものとなった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "モネはポワシーの土地を毛嫌いしており、「この土地は僕にはまったく合わない」とたびたび述べている。その代わりに、早くも1882年2月からノルマンディー地方に制作旅行に出て、ディエップの断崖や、ヴァランジュヴィル=シュル=メール近くのプールヴィル(英語版)の断崖を描いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1882年3月の第7回印象派展は、内紛の末、デュラン=リュエルが仲介し、ようやくモネを含む9人の参加で開催にこぎつけた。モネは当初出品を拒否していたが、ユニオン・ジェネラル銀行(フランス語版)の破綻で打撃を被ったデュラン=リュエルを支援するため、海景画、風景画、静物画など35点を出品することとした。しかしモネは、会期中、一度も会場に足を運んでいない。新聞からは依然として批判もあったが、海の風景画は好評を呼んだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1883年1月からは、再びポワシーを逃れてノルマンディー地方に旅行し、エトルタの断崖を描いた。この年から1886年にかけては、定期的にエトルタの海岸を訪れ、断崖や奇岩を描いている。ここでは戸外で下絵を制作し、家に持ち帰ってアトリエで仕上げるという手法をとっている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1883年3月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、モネの作品56点の個展を開いたが、反響はなく、モネはデュラン=リュエルの準備不足を非難した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "モネは1883年4月、再びデュラン=リュエルから引っ越し費用の援助を得て、パリの西約80キロの郊外にあるジヴェルニーに移り、以後、1926年に没するまでこの地で制作を続けた。なお、1883年4月から6月にかけて、デュラン=リュエルは、ロンドン・ボンド・ストリート(英語版)のダウデスウェル画廊でモネを含む印象派の展覧会を開いたが、ロンドンの批評家の多くは無関心であり、モネは落胆した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1880年代、モネは、エトルタのほかにも、ヨーロッパ各地を旅行して制作した。1883年12月、ルノワールとともに地中海沿岸を旅し、マルセイユからサン=ラファエル、モンテカルロを経由して、リグーリア海岸(リヴィエラ)のボルディゲーラを訪れ、帰りにエスタックでポール・セザンヌを訪ねた。いったんパリに戻ったあと、1884年1月から4月にかけて、もっとも美しい場所と感じたボルディゲーラを1人で再訪して滞在した。モネは、1人での再訪を決めた理由について、デュラン=リュエルに「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした」と述べており、以前のように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している。当時、ルノワールは印象主義を離れ、明確な輪郭線の絵に回帰していた。モネは3月、ボルディゲーラから、デュラン=リュエルに「あらゆる物が玉虫色にきらめき、パンチ酒のような赤色の炎を上げている。素晴らしい風景だ」と感嘆する手紙を送っている。ボルディゲーラとマントン滞在中に約50点を制作した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1885年春、画商ジョルジュ・プティが開いた第4回国際絵画彫刻展に風景画10点を出品した。同年9月から12月までのエトルタ滞在では、『マンヌポルト』や『エトルタ海岸の船』を制作した。このころモネは、デュラン=リュエルと、その競争相手ジョルジュ・プティの2人と取引をするようになった。苦境の中で印象派を支えてきたデュラン=リュエルは国際絵画彫刻展への出品に猛烈に抗議したが、モネは複数の画商と関係を築くことによって大衆からの信用も得られるものと考え、ルノワールらもこれにならった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1886年春にはオランダを訪れ、ライデンとハールレムの間のチューリップ畑に魅了された。チューリップ畑の作品2点が、同年6月15日からジョルジュ・プティ画廊で開かれた第5回国際絵画彫刻展に出品され、成功を収めた。ジョリス=カルル・ユイスマンスも、これを見て「本当に眼のご馳走だ」と称賛した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "デュラン=リュエルは1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、モネの作品40点あまりを出品した。モネは「あなたがおっしゃるようにアメリカで成功したいとは思っています。でも、僕の絵は特にこの国〔フランス〕で有名になって、売れてほしいと思っています」と述べ、アメリカでの販売に冷淡であったが、展覧会は好評であった。この展覧会は、モネをはじめとする印象派の画家たちが、アメリカでの認知を受け、経済的に安定するきっかけとなった。デュラン=リュエルとジョルジュ・プティ双方からの貸与により、同年ブリュッセルで開かれた20人展にも出品した。他方、最後の印象派展となった第8回展は、スーラ、シニャック、ピサロの新印象主義が大きな勢力を占めており、モネはこれを嫌って参加しなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "同年(1886年)秋には、ブルターニュ沿岸の島、ベル=イル=アン=メールを訪れ、コトン港のピラミッド岩や、ドモワ港のギベル岩といった奇岩を、さまざまな視点と天候の下で描いた。このときモネと出会った美術批評家ギュスターヴ・ジェフロワは、のちに著した伝記で、モネの様子を次のように書いている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1887年5月の第6回国際絵画彫刻展に、ベル=イルの風景画など15点を出品した。荒削りであるとの批判と、オクターヴ・ミルボーなどの賞賛とに分かれたが、作品のほとんどが売れ、モネは満足した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "1888年初めには南仏コート・ダジュールのアンティーブに滞在し、30点ほどを制作した。同年6月、ブッソ・ヴァラドン商会(旧グーピル商会)のテオドルス・ファン・ゴッホに作品を売った。テオドルスはモンマルトル大通りの展示室で『アンティーブの海の風景』と題する10点の作品を展示し、モーパッサン、マラルメ、ギュスターヴ・ジェフロワらから高い評価を得た。一方、テオドルスとの取引は、デュラン=リュエルとの関係を一層悪化させ、モネはデュラン=リュエルとの契約を解消してしまった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1889年には、小クルーズ川(英語版)がクルーズ川に合流するフレスリーヌ(英語版)で、20点ほどの作品を制作した。そのうち9点はほとんど同じ構図で、光の効果だけを変えてクルーズ峡谷を描いたもので、モネ自身「連作」という言葉を使っている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "このように各地に制作旅行に出かけている間も、アリス・オシュデとの関係は深まっていき、ボルディゲーラ、アンティーブ、フレスリーヌといった旅先から、アリスに愛を告白する手紙をたびたび送っている。また、ジヴェルニーに帰ったときには、アリスの娘たちをモデルに、エプト川(英語版)での舟遊びや、『パラソルを差す女』を描いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 69,
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"text": "1889年6月、ジョルジュ・プティ画廊で、モネが以前から待望していたオーギュスト・ロダンとの2人展が実現した。モネの1864年から1889年にかけての作品145点を一堂に集めた展覧会であり、大成功を収めた。ブッソ・ヴァラドン商会との契約は解消し、デュラン=リュエルとの取引を再開したが、契約は結ばず、複数の画商に値付けをさせ、競争させるという手法をとった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 70,
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"text": "また同年5月、パリ万国博覧会に合わせて開かれたフランス美術100年展に、モネの作品3点が展示された。この展覧会にマネの『オランピア』が展示されたが、アメリカに売られることになっていることを聞き、モネは制作活動を中断し、募金で『オランピア』をマネ未亡人から購入してルーヴル美術館に寄贈しようという運動に乗り出した。元美術大臣アントナン・プルーストやゾラの反対に遭ったが、モネは、2万フランを集め、1890年11月、国のリュクサンブール美術館に収蔵させることに成功した。",
"title": "生涯"
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"text": "1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、ひとつのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になる。同じモチーフで複数の絵を描くという手法は、中近世の月暦画やミレーの四季連作のほか、モネが愛好していた葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』といった浮世絵から発想を得た可能性があると考えられている。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "モネは1890年、しばらくの間旅行を諦め、借地だったジヴェルニーの家を購入し、自宅の周りの積みわらを描くことに集中した。1880年代末にも何点かの積みわらを描いていたが、1890年後半から1891年にかけては、『積みわら』の本格的な連作25点を制作した。モネは、1890年10月、友人ジェフロワに、次のように書いている。",
"title": "生涯"
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"text": "『積みわら』は、一般的にモネの最初の連作とされており、ブッソ・ヴァラドン商会が1891年にモネから1枚3,000フランで3点購入した。カミーユ・ピサロは、息子リュシアン・ピサロへの手紙の中で「みんなモネの作品しか欲しがらない。......みんな『日没の積みわら』を欲しがる。......彼が描いたものは全部、4,000フランから6,000フランでアメリカに売られていく」と記している。ピサロは、モネの連作を商業主義によるものと見て、批判的であった。デュラン=リュエル画廊でも、同年5月、『積みわら』15点が展示され、大きな反響を呼んだ。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "『積みわら』に続き、1891年春から秋にかけて、エプト川近くのリメツ沼の岸辺で、『ポプラ並木(英語版)』の連作23点を制作した。構図は、7本のポプラと、3本のポプラのものに限定されており、連作を並べての展示を意図したものと考えられる。ブッソ・ヴァラドン商会のモーリス・ジョワイアンが1892年2月に数点を購入してモンマルトル大通り(英語版)で展示し、同年3月にはデュラン=リュエルが15点ほどを展示して、成功を収めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 75,
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"text": "1891年、アリスの夫エルネスト・オシュデが死去すると、1892年7月16日、モネはアリスと結婚した。",
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"paragraph_id": 76,
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"text": "1892年と1893年、ルーアン大聖堂を訪れ、西側正面の建物の中にイーゼルを置き、『ルーアン大聖堂』の連作30点を制作した。1892年4月、アリスに宛てて、次のように書いている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 77,
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"text": "1895年初頭には、ノルウェーのクリスチャニア(現・オスロ)近郊のサンドヴィケン(英語版)村で、コルサース(英語版)山などの雪の風景画を制作した。",
"title": "生涯"
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"text": "モネは、デュラン=リュエルに『大聖堂』1点につき1万5,000フランを要求し、最終的に1万2,000フランで落ち着いた。1895年5月、デュラン=リュエル画廊の「モネ近作展」で『大聖堂』20バージョンが展示され、注目を浴びた。ここでは、ノルウェーの風景画8点も展示された。",
"title": "生涯"
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"text": "1896年と1897年の冬は、プールヴィルとヴァランジュヴィルを再訪し、断崖の上の小さな家を描いた10点ほどの作品を制作した。1898年6月1日、ジョルジュ・プティ画廊で、これらノルマンディーの作品と、ジヴェルニーで制作した『セーヌ川の朝』連作を展示した。なお、1897年、長男のジャンと、アリスの娘ブランシュが結婚した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 80,
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"text": "モネはジヴェルニーで、夏は太陽が出るずっと前に起床し、セーヌ川支流の風景を描きにいくという日課を守っていた。早朝、物が色づき始める時間帯に、朝靄の効果をとらえた作品を続けて制作し、1898年6月、ジョルジュ・プティ画廊の個展にこれらの作品17点を出品して、成功を収めた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "当時、依然としてアカデミーからの敵視は根強く、1894年に亡くなったギュスターヴ・カイユボットが、マネ、ドガ、ピサロ、モネ、ルノワール、セザンヌなどの名品を含むコレクションをフランス政府に遺贈したが、アカデミーの反対に遭い、論争の的となった。アカデミズム絵画の泰斗ジャン=レオン・ジェロームは、「ここには、モネ氏、ピサロ氏といった人々の作品は含まれていないでしょうか? 政府がこうしたごみのようなものを受け入れたとなれば、道義上ひどい汚点を残すことになるでしょうから」と述べた。しかし、1896年にようやく、モネ作品8点を含め、コレクションの一部が国立のリュクサンブール美術館に収められ、公的な認知が進んだことを示した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 82,
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"text": "モネは、1890年にジヴェルニーの地所を購入してから、家の周りに作った「花の庭」に手を入れていたが、1893年に隣の敷地を購入すると、ここにリュ川の水を引いて睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作り始めた。水の庭は1895年からモネの作品に現れるが、1898年から、大量に描かれるようになる。1900年までの『睡蓮』第1連作では、太鼓橋を中心に、睡蓮の池と枝垂れ柳が、光の変化に従って描かれている。1900年11月の「モネ近作展」で、そのうち13点が展示された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 83,
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"text": "1899年秋、1900年2月、1901年2月 - 4月には、ロンドンを再訪した。「テムズ川の霧の効果」を描くことを試み、サヴォイ・ホテルから見た『チャリング・クロス橋』と『ウォータールー橋』、聖トーマス病院(英語版)から見た『国会議事堂』(ウェストミンスター宮殿)に集中して連作に取り組んだ。ロンドンでは100点ほどを制作し、ジヴェルニーのアトリエで仕上げた。これらの連作は、1904年春にデュラン=リュエル画廊で展示されたが、印象主義の到達点として評価する見方があった一方、セザンヌにならってフォルムを重視する若い世代からは、堅牢さを欠く時代遅れの作品との批判も受けた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 84,
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"text": "モネは1901年、睡蓮の池を拡張する工事を行った。そして、1900年代後半まで、『睡蓮』第2連作に取り組んだ。ここでは、第1連作の太鼓橋は見えず、池の水面が大きく描かれている。また、当初は睡蓮の花や葉が主なモチーフであったが、次第に水面に移る空や柳の影が主役になっていく。1900年から「モネの新連作ならびにピサロ近作展」が開かれる1902年2月までは、ヴェトゥイユでも制作をしている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 85,
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"text": "『睡蓮』第2連作は、1907年に発表が予定されていたが、モネは「人前に出せる作品があまりに少ない」として、デュラン=リュエルに延期を伝えている。モネは、制作中に憂鬱に悩まされることが常であり、キャンバスに怒りをぶつけ、切り裂くこともあった。このときも、展覧会の1か月前に30枚のキャンバスを破壊したことをデュラン=リュエルに明かしている。1908年8月には、ジェフロワに対して次のような手紙を送っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 86,
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"text": "1909年5月、デュラン=リュエル画廊で「睡蓮、水の風景の連作」と題した個展を開き、『睡蓮』第2連作のうち48点を展示した。この展覧会は大成功を収め、ジェフロワ、ロマン・ロラン、レミ・ド・グールモン、リュシアン・デカーヴ(英語版)、ロジェ・マルクス(フランス語版)らの称賛を集めた。新聞には、48枚の絵を一体の装飾として保存すべきだという議論も掲載されたが、これをまとめて買い受ける収集家は現れず、多くがアメリカに渡った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "前後して1908年10月から12月にかけて、アリスとともに、最後の大旅行となるヴェネツィア旅行に出た。1912年5月から6月にかけて、ベルネーム=ジューヌ画廊で、大運河、サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂、その他の宮殿などからなる『ヴェネツィアの眺め』29点が展示された。シニャックはこれをモネの芸術の最高の表現だとして称賛した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "モネは、1909年の個展のとき、『睡蓮』で一室を装飾するという計画を考えついた。しかし、老化にともない視力の低下という問題に直面した。さらに1911年5月には妻アリスが亡くなり、1914年2月には長男ジャンが亡くなるという不幸に見舞われた。印象派の同志たちも次々世を去っていった。絵具の色も判別できないという絶望の中、多数の絵を引き裂いたため、1909年から1914年までの絵はほとんど残っていない。モネは、気分転換のため、ジヴェルニーの自宅に、彫刻家のロダン、サージェント、詩人のポール・ヴァレリー、画商のデュラン=リュエル、ベルネーム、劇作家サシャ・ギトリ夫妻、日本の黒木三次夫妻、政治家ジョルジュ・クレマンソーといった友人を招き、特に園芸と料理の話題を楽しんだ。アリス死後は、その娘ブランシュ(ジャンの妻でもあった)がモネを精神的に支えた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1914年、大画面作品を描くための新しいアトリエを建て、制作を再開した。この年、モネ作品14点を含む収集家イザック・ド・カモンド伯爵の遺品コレクションがルーヴル美術館に収蔵されることになったが、これは、死後10年たたないとルーヴルに展示されないという原則からすると異例のことであった。モネは、ルーヴルに招かれ、特別室に展示される自作を目にした。第一次世界大戦中の1915年初め、友人への手紙で、大装飾画を目指していることを初めて明かしている。1917年、通産大臣エティエンヌ・クレメンテル(フランス語版)がジヴェルニーを訪れ、ドイツ軍の爆撃を受けて破壊されたランスのノートルダム大聖堂を描き、その蛮行を明らかにしてほしいとの依頼をし、モネはこれを了承したが、実際には現地は爆撃が続き、制作に着手することは難しかった。ただ、政府との関係ができたことで、物資欠乏の戦時下で、ガソリンや石炭を回してもらう便宜を受けることができた。その間、アトリエで、高さ2メートル、幅4.3メートルの巨大なキャンバスを横に4枚つなげて『睡蓮』大装飾画の制作を続けた。戦争が終わった1918年、友人で当時の首相ジョルジュ・クレマンソーに、勝利を祝って、国に一連の大装飾画を寄贈することを約束した。当初は、現在のロダン美術館(ビロン邸)の庭に円形パビリオンを設置し、幅4メートルのキャンバスが12枚取りつけられる計画であった。しかし、建物建設にかかる費用の問題などで当初の計画は修正を迫られ、モネは制作自体を断念しかけた。クレマンソーがモネを強く説得し、1921年4月、オランジュリー美術館の2つのホールに収容する計画で了承させた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "こうして、1922年4月、モネの弁護士と建築家、政府当局との間で寄贈契約が署名された。その内容は、19枚のパネル(作品8点)を2年以内にオランジュリーのモネ・ギャラリーに納入するというものであった。しかしその後、白内障のため失明の危機に直面し、クレマンソーは仕事を放棄しようとするモネを励まし続けた。1923年、ようやく右目の白内障の手術を受け、視力はある程度回復した。当初約束していた引渡し期限を延期し、残りの生涯をかけて『睡蓮』大装飾画の制作に没頭した。1924年、ジョルジュ・プティ画廊で、生存中最大の回顧展が開催された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1926年の夏の終わり、肺硬化症で病床につき、12月5日正午に86歳で永眠した。息子のミシェルや、ブランシュ、クレマンソーが彼を看取った。『睡蓮』大装飾画は、テュイルリー公園内のオランジュリー美術館に収められ、1927年5月17日、除幕式が行われた。『睡蓮』の部屋は、モネの考えに従って、楕円形の2つの部屋からなり、それぞれ4点の大画面作品で構成されている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "モネの晩年には、フォーヴィスム、キュビスムなど、次々に新しい芸術潮流が生まれており、当時『睡蓮』を顧みる人は少なかった。クレマンソーは、1927年6月、「昨日、オランジュリー美術館を訪れたが、誰一人としていなかった」と書いている。しかし、1950年代になると、ジャクソン・ポロックなど抽象表現主義の画家・批評家がモネを引き合いに出すようになり、改めて注目を浴びるようになった。アンドレ・マッソンは、『睡蓮』大装飾画を「印象主義のシスティーナ礼拝堂」と呼び、すべての現代人に見ることを勧めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "モネの作品については、ダニエル・ウィルデンシュタインが、1974年以降、4巻および補遺からなるカタログ・レゾネを刊行している。ここには、油彩2,000点、デッサン500点、パステル画100点を超える作品が時系列順に収録されており、ウィルデンシュタイン作品番号が付されている。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "そのうち、「睡蓮」の作品群は約300点にも及ぶ。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "作品を収蔵するおもな美術館には、フランスのオルセー美術館、マルモッタン・モネ美術館、オランジュリー美術館、アメリカのメトロポリタン美術館、ボストン美術館、シカゴ美術館などがある。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、芸術アカデミーとサロン・ド・パリを牙城とするアカデミズム絵画であった。その主流を占める新古典主義は、古代ギリシアにおいて完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた。ジャンルによる価値の優劣も厳然としてあり、歴史画や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や風景画は低俗なジャンルとされていた。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "これに対して、ロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワは、豊かな色彩表現をもって、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルに対抗した。その明るい色彩は、のちの印象派に大きな影響を与えた。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "その次の世代として、ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、「自分の前に見えるものをできるだけ丹念に描き出す」ことを目標に、優れた風景画や人物画を残した。ジャン=フランソワ・ミレーやシャルル=フランソワ・ドービニーといったバルビゾン派の画家たちも、公式の美術界からは軽視されたものの、ロマン派的な情熱を受け継ぎつつ、緻密な自然観察による風景画を生み出し、印象派への道を準備した。その背景には、神話的なテーマを好んだ貴族に代わり、分かりやすい風景画を好む市民階級が成長してきたことがあった。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "さらに、1850年代に『オルナンの埋葬』を発表したギュスターヴ・クールベは、表現技法においては伝統的な造形を踏襲していたが、歴史画を上位とする価値観に公然と異を唱え、「眼に見えるものしか描かない」という信念の下、近代的な主題を描いた。その反逆精神は、印象派の若い画家たちを魅了した。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "エドゥアール・マネは、1860年代に『草上の昼食』や『オランピア』を発表し、近代パリの頽廃した風俗を赤裸々に描いた。これらの絵は、風紀上の理由で激しく非難されたが、技法面では、伝統的な陰影による肉付法を行わず、平面的な塗り方をしている点も革新的であった。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "モネに代表される印象派は、こうした反アカデミズムの流れの中で登場してきた。モネは、クールベの写実主義的態度を受け継ぎ、自然に対する観察に向かった。もっとも、クールベにとって森や川といった自然が客観的に存在するものであったのに対し、モネたち印象派の画家にとっては、自然は自己の感覚に反映されたものであり、彼らはその「印象」、つまり主観的な感覚世界をキャンバスに再現することを追求した。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "モネが自然の印象を正確にとらえるためにとった制作手法が戸外制作であった。モネはこの手法を先輩ウジェーヌ・ブーダンから学んだ。モネは、画家として目覚めた日のことを次のように回想している。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "こうした戸外制作を可能にしたのが、1840年代にイギリスで発明された、ネジ式の蓋を持つ金属製チューブ入り絵具であった。1820年代までは、画家がアトリエで自ら絵具を調合するか、豚の膀胱で作った袋で業者から購入しなければならず、保存性が悪かった。1820年代に注射筒状の容器が発明されたが、洗浄が大変であった。そのため油彩画はアトリエで仕上げるのが当然であった。チューブ入り絵具の発明により、戸外にイーゼルを立て油彩画を仕上げることができるようになり、バルビゾン派がいち早くこれを実践していた。しかし、当時一般的な手法とはなっておらず、クールベも、『画家のアトリエ』の中で、アトリエで風景画を制作する様子を描いている。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "戸外制作は、物の描き方に革命をもたらした。古典的な絵画は、明から暗へゆっくり移行する陰影を付けて物の丸みと立体感を出す肉付法をとっていたが、それは、アトリエの窓から差し込む光が物に当たってできる、なだらかな陰を前提としたものであった。しかし、戸外の太陽の光の下では、強烈な明暗のコントラストが生じ、明から暗へのなだらかな移行は見られず、物が平板に見えるし、陰の部分も、単なる黒や灰色ではなく、周りの物から光が反射して、色彩が感じられる。このことに気付いたのは、マネと、モネたち印象派の画家たちであった。彼らは、物にはそれぞれ固有色があるという約束事から自らを解放し、目に映る色彩を自由に描くようになった。",
"title": "作品"
},
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"paragraph_id": 105,
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"text": "モネは、戸外制作を本格的に始めたのは自分だという自負を持っており、1900年に次のように述べている。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "もっとも、特に後期の連作では、屋外でのスケッチにアトリエで手を加えている。晩年の「睡蓮」大装飾画では、池で描いた大型の習作を基に、アトリエで想像力による再構成を行っている。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "モネは、自然の中では、雲が太陽を遮ったり、風が水面を揺らしたりするたびに、物(モチーフ)の見え方が刻々と変化することに注目した。そのような中で、これぞという局面をとらえようとすれば、それまでの画家のように、絵具を混ぜて調合したり、茶色の地塗りの上に何層も重ね塗りをしたりしている余裕はなく、素早い筆さばきで絵具を直接キャンバスに置いていくことになった。細部よりも、全体の効果に気を遣うことになった。生乾きの絵具の上に絵具を塗り重ねるため(ウェット・オン・ウェット(英語版))、絵筆の先で絵具が混ざり、筆触(タッチ)が生々しく残ることになる。それが制作の過程の臨場感や新鮮さをもたらしている。すなわち、絵肌(マチエール)自体が、画家の手の動きを伝える。しかし、凝った構図、写実的なデッサン、なめらかな仕上げの細部を重視するアカデミズム絵画から見れば、稚拙で未完成なものと受け取られ、嘲笑の理由となった。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "絵具をパレットで混ぜないことは、色の明度を落とさないためにも必要なことであった。ある色を作り出すために複数の絵具を混ぜると、色の明度が落ちて画面が暗くなり、戸外の光の明るさを表現することができなくなってしまう。これに対し、原色の絵具をできるだけ混ぜず、限られた色数だけで、細かな筆触(タッチ)をキャンバスに並べると、見る者の視覚の中で色が混ざり(視覚混合)、明度も落ちない。こうした手法は、モネがルノワールとともに『ラ・グルヌイエール』を描いたころから確立していったものである。筆触分割または色彩分割と呼ばれる手法であり、のちに新印象派の画家たちがこれを科学理論に基づいて体系化することになったが、印象派の画家たちは感覚に基づいてこれを用いた。その結果、印象派の画面は、バルビゾン派、クールベ、マネといった先人の画面と比べ、格段に明るく輝かしいものとなった。同時に輪郭線は思い切ってぼかす方向に進んだ。絵を間近から見るだけでは、いい加減な混乱した筆の跡しか見えないが、2、3メートル離れて見ると、突然画面が息づいて見えてくるのであり、これは印象派の画家たちが発見した新たな視覚体験であった。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "当時、これを理解できなかったルイ・ルロワは、モネの『キャピュシーヌ大通り』に黒い点で描かれた群衆を見て、「画面の下の方の、まるで黒いよだれのような、あの無数の縦長のものは一体何なのだ」と嘲笑したが、エルネスト・シェノー(フランス語版)は、「埃と光の中のおびただしい数の群衆の動き、道路の上の馬車と人々の雑踏、大通りの木々の揺れ、つまりとらえがたいもの、移ろいやすいもの、すなわち運動の瞬間なるものが、その流れ去る性質のままに描き留められた」ものだとして、モネの意図を捉えた。その視覚体験の前では、威厳のある主題とか、バランスのとれた構図とか、正確なデッサンといった古い概念は、もはや何の意味も持たなかった。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "モネは、自然の中の物や人物が光の作用によってさまざまな変化を見せるという発見をもとに、同じモチーフをさまざまな光の下で描くという連作に進んでいった。1865年、エトルタでモネと知り合ったギ・ド・モーパッサンは、制作中のモネの様子を、「5、6枚のキャンバスは、同じ題材について、さまざまな時間の異なった光の効果を描き留めるものである。天候が変化するのに従って、彼はそれらのキャンバスを順次取り上げるのだった」と紹介している。こうした制作手法は、後の連作につながっていったと考えられる。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "ジヴェルニー時代に『積みわら』を描いたとき、30分もすれば光が微妙に変化して積みわらの色が別のものに変わっているのに気付き、それを別のキャンバスに描くことになり、多数の連作を生むことになったという。さらに、『ルーアン大聖堂』や『ロンドンの橋』の連作では、光の効果が更に支配的となっている。モネは、ルーアン大聖堂の向かいの部屋にいくつものキャンバスを並べ、朝から夕暮れまでそれぞれのキャンバスに向かったと伝えられている。その代わり、建物の質感や明確な形態は光の波の中に飲み込まれてしまっている。同時に、明確な形態把握を必要とする人物像は、モネの画面から消えていく。現実の再現というよりは、より主観的な感覚と記憶をテーマとする絵画に向かっており、世紀末芸術の時代に盛り上がってきた象徴主義やアール・ヌーヴォーといった潮流との親近性が見られる。保守派の美術史家ケネス・クラークは、石造の大聖堂が光と色彩に溶融する様子を「溶けたアイスクリーム」と批判した。もともと写実主義的な意図に発していながら、光の表現のために、現実世界に確かに存在する形態や質感を犠牲にせざるを得なかったことは皮肉であり、写実主義の破産を示すものといえる。",
"title": "作品"
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{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "連作の時代には、光の当たったモチーフよりも、光そのものが主役の位置を占めるようになっていく。オクターヴ・ミルボーが、「彼の自然との交感(コレスポンダンス)は、他の人々より、もっと直接的である。もっとも賞賛される芸術家とは、自然が隠している神秘にもっとも近づいた人であり、またもっとも謙虚な人である」と評しているが、この時代のモネが体験した光とは、モチーフだけでなく画家自身をも包み、自然との交感をもたらす崇高性を帯びたものであったと解釈される。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "造形においても、印象主義の時代のような強いコントラストを避け、色彩の調和を重んじるようになった。また、画面全体を均一な筆触で覆うようになった。",
"title": "作品"
},
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"paragraph_id": 114,
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"text": "最晩年の『睡蓮』連作では、橋や藤の枝といったモチーフが次第に画面からなくなり、池の水面のみを描くようになった。そして、水面に映し出される光の揺らぎを追求し続けた。モネは手紙の中で、水と反射光だけが絶えず頭の中を去来すると書いている。オランジュリー美術館の「睡蓮」大装飾画では、幻想的な色と光の世界が生み出されている。訪れた人は、楕円形の部屋の中で、水の広がりに包まれ、水面下の深みへ引き入れられるような体験をすることになる。",
"title": "作品"
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"paragraph_id": 115,
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"text": "1854年に日本が開国すると、1862年ごろ日本の美術品がパリの店頭に登場し、1867年にパリ万国博覧会が開かれるなど、パリにも日本美術が伝播してきた。1870年代から1880年代には、パリを中心に日本ブームが巻き起こった。フランスの美術や工芸は、エキゾティックな関心から、浮世絵などに表れたモティーフを作品に取り込むようになり、これをジャポネズリー(日本趣味)という。これに対し、構図や空間表現、色彩など、造形のさまざまな要素において日本美術からヒントを得て、新しい視覚表現を追求したことをジャポニスムという。1860年代に修行時代を過ごした印象派の画家たちは、日本美術に触れる機会を持ち、その影響を受けたことが指摘されている。",
"title": "作品"
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"text": "モネも多数の浮世絵のコレクションを保有しており、ジヴェルニーの家には浮世絵を飾っていた。モネが浮世絵のコレクションを始めた時期については諸説あり、早いものでは少年時代の1856年ごろ、別の説では1871年のオランダ旅行のときとされるが、モネが浮世絵の魅力を知ったのは、パリで浮世絵が商品として買えるようになった1862年以降というのが有力な説である。",
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"text": "モネの1860年代の町の風景画には、歌川広重や葛飾北斎と酷似しているものがあり、たとえば『オンフルールのバヴォール街』では、広い前景から道が急速に後退し、右に消えていくが、これは、西洋の遠近法を修正した広重の『名所江戸百景 猿わか町よるの景』における手法と似ている。ほかにも、『王女の庭』における俯瞰する構図、『サン=タドレスのテラス』や『かささぎ』に見られる画面を上下に分断する水平線・地平線などは、それまでのヨーロッパの風景画にはほとんど見られず、浮世絵にヒントを得て現実の視覚体験を表現したものであることが指摘されている。",
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"text": "1870年代には、妻カミーユに日本の着物を着けさせて団扇などの日本のモティーフを描き込んだ『ラ・ジャポネーズ』が典型的なジャポネズリー(日本趣味)の作品であるが、こうした着想はマネやジェームズ・マクニール・ホイッスラーにならったものであり、特に目新しいものではない。また、こうしたあからさまな日本趣味はこの1点だけである。",
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"text": "むしろ1880年代半ば以降に、画面のモティーフを厳選し、近景と遠景とを組み合わせるといった新しい工夫が次々現れる。1884年の南仏旅行では、起伏に富んだ景観を基に、近景のそそりたつ斜面と遠景とを組み合わせた構図、前景をふさぐ木の幹と枝越しに見える町並みを組み合わせた構図などを採用しているが、浮世絵に着想を得たものと考えられる。さらに、1885年のエトルタ、1886年のベル=イル島での海景画では、モティーフを奇岩と海だけに厳選しているが、こうした構図も、昇亭北寿の『勢州二見ヶ浦』や広重の『六十余州名所図会』(いずれもジヴェルニー、モネ・コレクション所蔵)と酷似している。1887年の『舟遊び』での視点の高さとモティーフの切り方は、ジャポニスムの成熟の表れと見られる。晩年の『睡蓮』大装飾画は、少ない自然のモティーフを使った装飾空間で観る者を包み込み、自然との一体感を演出するという点で、日本の障壁画(特に襖絵)と共通する発想であるとの指摘もされている。もっとも、自然のモティーフを使いながらも自然観察に重きを置かない日本の襖絵と異なり、モネは、装飾的であると同時に、自然観察に忠実であることを追求している。",
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"text": "モネは、印象派を代表する画家とされている。モネは自ら「私はいつも理論は嫌悪してきた。私がやったことといえば、直接自然を前にして、きわめて逃げ去りやすい効果に対する私の印象を正確に表現しようと努めながら描き続けたということだけだ」と述べるように、印象派グループの理論や体系を打ち立てたわけではないが、鋭敏な観察力と感受性をもって、絶え間なく変わり続ける風景に対する印象をとらえ、表現しようとした彼の作品は、印象派の美学を体現するものとなった。ベルト・モリゾは、モネの作品について「彼の絵を見れば、日傘をどちらの方に向ければよいか、すぐ分かる」と述べている。また、ポール・セザンヌは晩年、「モネはひとつの眼だ。絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽するよ」と語り、モネへの敬意を表している。",
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"text": "印象派の絵は、当初はアカデミズム絵画の理想に程遠いことから嘲笑・酷評されたが、ついに革命に勝利したといえる。モネは、ルノワールとともに長生きし、その成果を十分味わうことができた。印象派の絵は価格が高騰し、各国の美術館や収集家が競って欲しがる宝物となっていった。このことは、美術批評の権威を失わせ、印象派に続く画家たちにも、世に迎え入れられなくても革新的な方法を追求するための勇気を与えた。",
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"text": "ルネサンス美術以来の伝統的な西洋絵画が、3次元空間における主題や物語を画面上に構築しようとしてきたのに対し、マネや印象派の絵画作品では、2次元の画面における色彩や筆触といった造形的な要素それ自体が、描かれた対象を差し置いて自律的・表現的な役割を持ち始めた。この傾向はフォーマリズム(形式主義)あるいはモダニズムと呼ばれる。モネの印象主義の作品においては、無造作に置かれたように見える筆触が、光の反射や水のゆらめきを生き生きと伝えるという表現性を獲得している。",
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"text": "さらにモネは、連作の時代においては、前述のように形態を放棄し、光の観察の追求に向かっており、色彩の自律性・表現性は深化している。逆に言えば、写実主義の限界を露呈するものであった。このようなフォーマリズムを推し進めていった帰結として、ワシリー・カンディンスキーらの生み出した抽象絵画をとらえることができる。1895年にモスクワでモネの『積みわら』を見たカンディンスキーはこれに衝撃を受け、「描く行為は、目覚ましい力と素晴らしさを持ったものと思われるようになる一方で、無意識のうちに、絵画にとって対象が不可欠な要素であるとは信じられなくなったのだった」と語っている。ジャクソン・ポロックら抽象表現主義の画家たちもモネの晩年の作品を高く評価したが、それはフォーマリズムの立場に立ったものであった。",
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"text": "抽象表現主義に属するサム・フランシスは、モネの『睡蓮』に影響を受けたことを認めている。アンディ・ウォーホルは、オランジュリー美術館に感銘を受け、パリでの個展を多数の花の絵で飾った。ロイ・リキテンスタインは、『ルーアン大聖堂』などの連作を引用したシリーズを制作した。",
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"text": "モネと最初に親交を持った日本人は、パリの日本人画商林忠正であった。モネは林から浮世絵を入手し、林もモネの絵を購入したり、日本人による購入を仲介したりしたが、第一次世界大戦前の時期には、日本にはモネの作品はほとんどもたらされることはなかった。1880年代後半から1890年代初めにかけてパリに留学した黒田清輝や久米桂一郎は、印象派嫌いのラファエル・コランに師事したこともあり、当時印象派への関心は薄かった。1895年、森鷗外と新聞記者の吉岡芳陵との美術論争でモネの名前が言及されているが、鴎外も吉岡もモネの作品の現物を見たことがなかったと思われる。",
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"text": "1900年以降、フランスで印象派の評価が確立したのを受けて、黒田や久米が日本で印象派について紹介するようになり、日本でのモネの理解は徐々に浸透していった。1910年に創刊された雑誌『白樺』では、ポスト印象派のセザンヌ、ゴッホや、ロダンがおもに取り上げられており、日本の芸術家の間では、モネはむしろ過去の画家という扱い方がされた。しかし、第一次世界大戦後、日本人コレクターの間ではモネが一大ブームとなった。1918年以降フランスに滞在した黒木三次と、その妻黒木竹子は、ジヴェルニーのモネ邸を訪れるなど親交を持ち、その縁でジヴェルニーを訪れる日本人は多かった。その1人松方幸次郎も、モネの信頼を得て多くの作品を譲り受けた。",
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"text": "モネが経済的に苦労していた1870年代、彼の静物画が780フラン(31ポンド5シリング)で売れたという記録がある。1886年にニューヨークでの印象派展覧会が開かれてから、市場での評価は徐々に高まり、1890年代には100ポンド台に達した。1890年代末には、800ポンド台に達するものも出てきて、モネは富裕な大家としての地位を確立した。1918年、『ラ・ジャポネーズ』を画商が6,000ポンドで買い取ったのが、第二次世界大戦前の最高価格であった。ただ、ルノワールと比べるとずっと低い評価であった。",
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"text": "1950年代、スイスの美術館が晩年の『睡蓮』を展示したのを機に、モネの再評価(リヴァイヴァル)が始まった。モネ作品はさらに高騰し、1950年代末から、1万ポンド台に達するのが恒常的となった。1967年には、『サン=タドレスのテラス』が58万8,000ポンドで売れるなど、ルノワールと完全に並んだ。1983年には『睡蓮』が150万ポンド(5億6,052万円)で売れ、驚きをもたらしたが、1987年11月10日には別の『睡蓮』がニューヨークのクリスティーズで300万ドル(168万ポンド、4億620万円)で落札され、その翌日11月11日には、サザビーズで『花咲く庭』が530万ドル(7億1,842万円)で落札されるという高騰ぶりであった。さらに、1988年6月27日、ロンドンのクリスティーズで、『青い家、ザーンダム』の小品が350万ポンド(8億427万円)で落札され、その翌日6月28日には、サザビーズで『草原で』が1,300万ポンド(29億5,542万円)で落札され、衝撃を呼んだ。当時、ゴッホの『アイリス』『ひまわり』に次ぐ史上第3位の高価格記録となった。モネは同一構図を繰り返し描いた多作の画家であるが、投資市場の拡大によって名品が払底してきたことが、こうした急騰の原因と考えられる。",
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"text": "その後も1,000万ドル台が次々現れていたが、1998年6月30日、ロンドンのサザビーズで『睡蓮の池と水辺の小道』が1,800万ポンド(3,032万ドル、43億596万円)という史上最高金額を記録した。モネは、ルノワールをしのぎ、ゴッホ、ピカソに迫る市場での評価を得るに至っている。",
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"text": "2008年6月24日、ロンドンのクリスティーズで、晩年の『睡蓮の池』が4,100万ポンド(8,050万ドル、約87億円)を記録した。2016年11月16日には、ニューヨークのクリスティーズで、『積みわら』がさらに上回る8,140万ドルで落札され、市場での印象派の強さを見せつけた。",
"title": "作品"
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"text": "モネは1883年にジヴェルニーの家を借りたが、当時その敷地は果樹園と家庭菜園であった。1890年に地所を2万2,000フランで買い取ると、果樹園の樹木を伐採して、庭師の助けを借りながら「花の庭」を造成していった。ルーアン滞在中には、植物園の園長から珍しい外来種の育て方について助言を受け、1893年には、園芸を趣味とするカイユボットの助言を受けて温室を作った。ルーアンの植物園から分けてもらった植物や、国内外から取り寄せた珍しい植物を数多く植えていった。全26巻の植物図鑑を所有し、ことあるごとに参照していた。",
"title": "庭園"
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"text": "1893年、鉄道線路を挟んで隣の土地を手に入れた。エプト川に流れ込むリュ川という小川が貫流し、小さい池のある土地であり、周りには植物が生い茂っていたが、モネはここを「水の庭」に造成していった。1893年から1901年までの造成で、日本から輸入した睡蓮を根付かせるため、池の水を温めようとして池の東西に水門を設けたが、これは周囲の住民から抗議を受けた。また、池に日本風の太鼓橋を作った。睡蓮や太鼓橋にちなんで「日本庭園」と呼ばれたが、石庭などの要素はなく、伝統的な日本庭園とは異なる。制作の旅先からも、アリスに、「家の庭や球根がどうなっているか気になる。池の氷に注意してくれているだろうか」(1895年)などと庭の様子を案じる手紙を送っている。",
"title": "庭園"
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"text": "1901年には第2次の造園工事を行い、庭園が拡張され、リュ川の水が引かれた。池の周囲は200メートルに及び、現在公開されている水の庭の姿をほぼ整えた。太鼓橋の上には藤棚が設けられた。庭園には、睡蓮、橋、枝垂れ柳、アイリス、アガパンサス、バラの門といった要素がモネのイメージに基づいて入念に整えられ、それ自体がモネの芸術作品となった。",
"title": "庭園"
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"text": "モネの死後は、唯一の相続人は二男ミシェル・モネであったが、ジヴェルニーには不在だったため、アリスの娘ブランシュ・オシュデ・モネ(ジャン・モネの未亡人)が屋敷と庭園の管理に努めた。1947年にブランシュが亡くなったあとは、敷地は荒れてしまった。1966年、ミシェル・モネが自動車事故で亡くなり、その遺言によりジヴェルニーの地所とコレクションは美術アカデミーに寄贈された。美術アカデミーから修復を託されたジェラルド・ファン・デル・ケンプ(フランス語版)が民間の募金を集め、3年がかりの修復工事を行った結果、1980年、クロード・モネ財団(英語版)が設立され、以後一般に公開されている。",
"title": "庭園"
}
] |
クロード・モネは、印象派を代表するフランスの画家。代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になった。自然の光と明るい色彩で、主に風景をうつした作風が特徴。
|
{{Infobox 芸術家
| name = クロード・モネ<br />{{Lang|fr|Claude Monet}}
| image = Claude Monet 1899 Nadar.jpg
| imagesize = 210px
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| caption = [[ナダール]]撮影(1899年)
| birthname = オスカル=クロード・モネ<br />{{Lang|fr|Oscar-Claude Monet}}
| birthdate = {{birth date|1840|11|14}}
| location = {{FRA1830}}・[[パリ]]
| deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1840|11|14|1926|12|5}}
| deathplace = {{FRA1870}}・[[ジヴェルニー]]
| resting_place = {{FRA}}・[[ジヴェルニー]]教会墓地<ref>{{Cite web |url=http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=5069 |title=Claude Monet |publisher=Find a Grave |accessdate=2016-11-19}}</ref>
| resting_place_coordinates = {{Coord|49|4|39.1|N|1|31|24.7|E}}
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| training = [[アカデミー・シュイス]]、[[シャルル・グレール]]画塾
| movement = [[印象派]]
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| influenced by = [[ウジェーヌ・ブーダン|ブーダン]]、[[ヨハン・ヨンキント|ヨンキント]]、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー|コロー]]、[[シャルル=フランソワ・ドービニー|ドービニー]]、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]] 、[[エドゥアール・マネ|マネ]]
| influenced = [[印象派]]、[[ポスト印象派]]
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| elected =
| website =
}}
'''クロード・モネ'''({{Lang|fr|Claude Monet}}, [[1840年]][[11月14日]] - [[1926年]][[12月5日]])は、[[印象派]]を代表する[[フランス]]の[[画家]]。代表作『[[印象・日の出]]』([[1872年]])は[[印象派]]の名前の由来になった<ref>{{cite newspaper|url=https://www.sankei.com/article/20200731-V4LYQJ3TGVPY5OWA5M2ENBAXP4/ |title=かながわ美の手帖番外編 ポーラ美術館「モネとマティス もうひとつの楽園」展|date=2020-07-31 |publisher=[[産経新聞]]|accessdate=2022-06-01}}</ref>。
== 概要 ==
1840年にパリで生まれたが、5歳のころから少年時代の大半を[[ノルマンディー]]地方の[[ル・アーヴル]]で過ごした。絵がうまく、人物のカリカチュアを描いて売るほどであったが、18歳のころに風景画家[[ウジェーヌ・ブーダン|ブーダン]]と知り合い、戸外での油絵制作を教えられた(→''[[#ル・アーヴル(少年時代)|ル・アーヴル(少年時代)]]'')。1859年にパリに出て絵の勉強を始め、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]、[[アルフレッド・シスレー|シスレー]]、[[フレデリック・バジール|バジール]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]といった仲間と知り合った(→''[[#画塾時代|画塾時代]]'')。
1865年に[[サロン・ド・パリ]](サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったが、1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭った。私生活では、カミーユ・ドンシューとの交際を始め、長男も生まれたが、父親からは援助が断たれ、経済的に苦しい時代が始まった(→''[[#サロンへの挑戦|サロンへの挑戦]]'')。[[1870年]]、[[普仏戦争]]が始まり、兵役を避けて[[ロンドン]]に渡った。このとき画商[[ポール・デュラン=リュエル|デュラン=リュエル]]と知り合い、重要な支援者を得ることとなった(→''[[#普仏戦争、ロンドン(1870年)|普仏戦争、ロンドン]]'')。パリに戻ると、その近郊[[アルジャントゥイユ]]にアトリエを構え、セーヌ川の風景などを描いた。
[[1874年]]、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『[[印象・日の出]]』などを出展し、これはのちに[[第1回印象派展]]と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(→''[[#アルジャントゥイユ(1870年代)|アルジャントゥイユ(1870年代)]]'')。[[1878年]]、同じくセーヌ川沿いの[[ヴェトゥイユ]]に住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(→''[[#ヴェトゥイユ(1878年 - 1881年)|ヴェトゥイユ(1878年-1881年)]]'')。
次いで[[1881年]]に[[ポワシー]]に移り住み、ノルマンディー地方への旅行に出ている(→''[[#ポワシー(1881年 - 1883年)|ポワシー(1881年-1883年)]]'')。[[1883年]]、これもセーヌ川沿いの[[ジヴェルニー]]に移り、生涯ここで暮らした。1880年代には、地中海沿岸やオランダなど、ヨーロッパ各地に制作旅行に出かけることが多かった。1886年に[[ニューヨーク]]でデュラン=リュエルが印象派の展覧会を開いたころから、経済的に安定するようになった(→''[[#各地の制作旅行(1880年代)|各地の制作旅行(1880年代)]]'')。1890年代には、ジヴェルニーの自宅周辺の『[[積みわら]]』や『ポプラ並木』、また『ルーアン大聖堂』を描いた連作に取り組んだ。このころには、大家としての名声が確立してきた。[[1892年]]、アリスを2人目の妻とした。また、[[日本美術]]愛好者の集い「Les Amis de l'Art Japonais_」(1892 - 1942<ref>[http://data.bnf.fr/16714027/societe_des_amis_de_l_art_japonais/ Société des amis de l'art japonais]BNF</ref>)の会員でもあった(→''[[#『積みわら』からの連作(1890年代)|「積みわら」からの連作(1890年代)]]'')。
1890年代、自宅に「花の庭」と、睡蓮の池のある「水の庭」を整えていったが、1898年ごろから睡蓮の池を集中的に描くようになった。1900年までの『[[睡蓮 (モネ)|睡蓮]]』第1連作は、日本風の[[太鼓橋]]を中心とした構図であったが、その後1900年代後半までの第2連作は、睡蓮の花や葉、さらに水面への反映が中心になっていき、[[1909年]]の『睡蓮』第2連作の個展に結実した。その間、ロンドンを訪れて[[ウェストミンスター宮殿|国会議事堂]]の連作を手がけたり、1908年に最後の大旅行となる[[ヴェネツィア]]旅行に出たりしている(→''[[#「睡蓮」第1・第2連作(1900年代)|「睡蓮」第1・第2連作(1900年代)]]'')。
最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面したが、友人[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]の励ましを受けながら、[[白内障]]の手術を乗り越えて、[[オランジュリー美術館]]に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭し、86歳で最期を迎えた(→''[[#「睡蓮」の部屋(最晩年)|「睡蓮」の部屋(最晩年)]]'')。
モネのカタログ・レゾネには、油彩画2,000点以上が収録されている(→''[[#カタログ|カタログ]]'')。モネたち印象派の画家たちは、ロマン派([[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]])の豊かな色彩、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー|コロー]]や[[シャルル=フランソワ・ドービニー|ドービニー]]ら[[バルビゾン派]]の緻密な自然観察、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]の写実主義と反逆精神、[[エドゥアール・マネ|マネ]]の近代性を受け継ぎ、伝統的な[[アカデミズム絵画]]の決めた主題、構図、デッサン、肉付法・陰影法に縛られない、自由な絵画を生み出した。モネは特に戸外制作を重視し、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」をキャンバスに再現することを追求した。絵具をパレットで混ぜずに、素早い筆さばきで[[キャンバス]]に乗せていくことで、明るく、臨場感のある画面を作り出すことに成功した。その後の連作の時代には、光の当たったモチーフよりも、光そのものが主役の位置を占めるようになり、物の明確な形態は光と色彩の中に溶融していった(→''[[#時代背景、画風|時代背景、画風]]'')。鋭敏な観察力と感受性をもって絶え間なく変わり続ける風景を表現したモネは、印象派を代表する画家と言われる(→''[[#評価と影響|評価と影響]]'')。作品は、モネ存命中の1890年代から徐々に美術市場での評価が高まっていったが、20世紀を通じてオークションで次々記録を塗り替える高額落札が生まれ、数十億円で落札されるに至っている(→''[[#市場での高騰|市場での高騰]]'')。
ジヴェルニーの家に造成した庭園は、それ自体がモネの芸術作品と言われる。死後は一時荒れていたが、修復工事を経て、1980年以降、一般に公開されている(→''[[#庭園|庭園]]'')。
== 生涯 ==
=== ル・アーヴル(少年時代) ===
1840年11月14日、[[パリ]][[9区 (パリ)|9区]]の{{仮リンク|ラフィット街|en|Rue Laffitte}}で、父アドルフと母ルイーズとの間の二男として生まれた。父親の職業ははっきり分かっていない<ref name="名前なし-1">[[#パタン|パタン (1997: 18)]]。</ref><ref group="注釈">別の文献では、長男であるとされる。また、父親は食料品店を営んでいたともされる([[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 9)]]、[[#高階・巨匠|高階 (2008: 10)]])。ル・アーヴルに移ってからは、義兄と雑貨屋を営んでいたようである([[#リウォルド|リウォルド (2004: 55)]])。</ref>。出生時のフルネームは、オスカル=クロード・モネ({{Lang|fr|Oscar-Claude Monet}})であったが、のちに本人はクロード・モネと名乗っている。
[[1845年]]ごろ、一家で[[ノルマンディー]]地方の[[セーヌ川|セーヌ]]河口の街[[ル・アーヴル]]に移住した。ここでは、父の義兄ジャック・ルカードルが富裕な雑貨卸業を営んでいた。モネは、少年時代の大半をル・アーヴルで過ごすことになる<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 9)]]、[[#高階・巨匠|高階 (2008: 10)]]。</ref>。これ以降も、モネは生涯のほとんどをセーヌ川沿いの町で過ごすことになり、のちに自ら「セーヌ。私は生涯この川を描き続けた。あらゆる時刻に、あらゆる季節に、パリから海辺まで、[[アルジャントゥイユ]]、[[ポワシー]]、[[ヴェトゥイユ]]、[[ジヴェルニー]]、[[ルーアン]]、ル・アーヴル……」と回想している<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 9)]]。</ref>。
[[1851年]]4月1日、ル・アーヴルの公立中学校に入学した<ref name="名前なし-1"/>。モネは、学校を抜け出して外で遊び回るのが好きな少年であった。彼はのちに、次のように回想している<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 10-11)]]。</ref>。
{{Quotation|私は生まれた時からきかん坊であった。誰も、私をどのような規律にも従わせることはできなかった。私が学んだわずかなことは、みな独りで学んだのだ。……外には親しげに太陽が輝き、美しい海が広がっていて、澄んだ空気の中で海辺を走り回ったり、水の中に飛び込んだりできるというのに、4時間もじっと座っていることなど、とても私にはできなかった。}}
モネは少年のころから絵画に巧みで、10代後半のころには自分の描いた人物の[[カリカチュア]](戯画)を地元の文具店の店先に置いてもらっていた。カリカチュアの注文を頼む者も現れ、最初は10フラン、のちに20フランで引き受けた<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 11-12)]]。</ref>。デッサン教師[[ジャック=フランソワ・オシャール]]の授業も受けている<ref name="名前なし-1"/>。[[1857年]]1月28日、母親が死去した。モネは、同じころ学業を放棄したが<ref group="注釈">[[バカロレア (フランス)|バカロレア]](大学入学資格)取得前に[[コレージュ]]を去ったものと思われる([[#安井|安井 (2010: 7)]])。</ref>、叔母のマリー=ジャンヌ・ルカードルが彼をアトリエに入れ、デッサンの勉強を続けさせた<ref name="名前なし-2">[[#パタン|パタン (1997: 19)]]。</ref>。
[[1858年]]ごろ、モネの描いていたカリカチュアが、ル・アーヴルで活動していた[[風景画]]家[[ウジェーヌ・ブーダン]]の目にとまり、2人は知り合った<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 6-10)]]。</ref>。ブーダンは、それまでアトリエで制作するのが当たり前だった[[キャンバス]]を戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家であった<ref name="名前なし-3">[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上101)]]。</ref>。ブーダンから、カリカチュアばかり描くのをやめ、油絵を勉強しようと誘われたことから、モネは油絵に取り組み始め、画家としての一歩を踏み出した<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 10)]]。</ref>。ブーダンとともにル・アーヴル北東の{{仮リンク|ルエル (セーヌ=マリティーム県)|fr|Rouelles (Seine-Maritime)|label=ルエル}}に赴いて制作し、油絵『ルエルの眺め』をル・アーヴル市展覧会に出品した<ref name="名前なし-2"/>。
<gallery>
ファイル:Claude Monet - Caricature of Léon Manchon.jpg|戯画、1855 - 56年ごろ。61.2 × 45.2 cm。[[シカゴ美術館]]。
ファイル:Monet Veduta di Rouelles.jpg|『ルエルの眺め』1858年。油彩、キャンバス。46 × 65 cm。丸沼芸術の森コレクション<ref>{{Cite web |url=http://marunuma-artpark.co.jp/collection/0803.html |title=クロード・モネ《ルエルの眺め》 |publisher=丸沼芸術の森 |accessdate=2016-11-05}}</ref>。
</gallery>
=== パリ(1860年代) ===
==== 画塾時代 ====
モネは、パリで絵の勉強をしたいと考えるようになったが、父は強く反対した。しかし、モネがカリカチュアで稼いだ貯金2,000フランでパリに行きたいと伝えると、父はこれに驚いてやむを得ず許可し、[[1859年]]4月、パリに出ることとなった<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 13-14)]]。</ref>。当初、ブーダンの師であった[[コンスタン・トロワイヨン]]のもとを訪れ、[[ルーヴル美術館]]で模写をしてデッサンを学ぶこと、[[トマ・クチュール]]のアトリエに入ることを勧められた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 12-13)]]。</ref>。しかしモネは、そうしたアカデミックな勉強を拒否し、[[1860年]]に、より自由な[[アカデミー・シュイス]]に入学した。ここで[[カミーユ・ピサロ]]らと知り合った<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 13-14)]]、[[#島田・挑戦|島田 (2009: 9-11)]]。</ref>。
[[1861年]]、徴兵を受け、アフリカ方面の連隊に入隊し、秋から[[アルジェリア]]で[[兵役]]を務めたが、[[1862年]]、病気([[チフス]])のため6か月の休暇を得て、フランスに帰国した<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 113)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 15)]]。</ref>。モネはのちに、アルジェリアでの経験について「あの地で受けた光と色彩の印象。それはずっと後になるまで明確な形を取らなかったが、私の来るべき探求の萌芽は、すでにあそこにあったのだ」と回想している<ref>[[#パタン|パタン (1997: 20-21)]]。</ref>。
同年(1862年)夏、ル・アーヴルに戻った際、オランダの画家[[ヨハン・ヨンキント]]と知り合った。ヨンキント、ブーダン、モネは、温かい友情で結ばれた。モネはのちに「そのときから彼は私の真の師となった。私の眼の教育の仕上げをしてくれたのは彼なのだ」と、ヨンキントからの影響について語っている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 77)]]。</ref>。兵役は、叔母が納付金を支払って残りの期間を免除された<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 113)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 16)]]。</ref>。叔母や父は、ブーダンやヨンキントとの交際による悪影響を懸念していた。父は、パリで有名な師匠の訓練を受けること、好き放題するようなら仕送りを打ち切ることを言い渡したうえ、モネをパリに送り出すこととした<ref name="名前なし-4">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 78)]]。</ref>。
[[ファイル:Bazille Studio in the rue de Furstenberg.jpg|thumb|right|150px|[[フレデリック・バジール|バジール]]『フュルスタンベール通りのアトリエ』(1866年<ref group="注釈">油彩、キャンバス、80 × 65 cm。[[ファーブル美術館]]。[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 20)]]。</ref>)]]
[[ファイル:Édouard Manet - Le Déjeuner sur l'herbe.jpg|thumb|right|180px|[[エドゥアール・マネ]]『[[草上の昼食]]』(1862 - 63年)
[[アカデミズム絵画]]の歴史主義に反して同時代の風俗を描き、[[落選展]]で展示されると、不道徳な作品として厳しい非難を浴びた<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 62-64)]]。</ref>]]
同年(1862年)11月、パリに着くと、後見人として指定された親戚筋の画家[[オーギュスト・トゥールムーシュ]]の勧めを受けて、[[シャルル・グレール]]のアトリエに入ることとした<ref name="名前なし-4"/>。ここで[[アルフレッド・シスレー]]、[[フレデリック・バジール]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]らと知り合った<ref name="名前なし-5">[[#高階・巨匠|高階 (2008: 14)]]。</ref>。グレール自身は、理想化された様式を重んじる[[アカデミズム]]の画家であったが、当時の画家のアトリエの中では比較的自由で、グレールが週に1度やってきて生徒の絵を直すほかは、生徒はモデルを使って自由に描くことが許されていた。費用が安いこともあり、アカデミックな美術教育に飽き足らない画家の卵たちが彼のアトリエに集まっていた<ref name="名前なし-6">[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上99)]]。</ref>。もっとも、グレールの指導は、モデルをありのまま描いてしまっては醜いから、古代美術を念頭に様式化して描くことというものであり、自然をありのまま描くことというブーダンやヨンキントの教えに心服していたモネは、グレールに不信感を持った。教室には、家族を失望させない程度に定期的に顔を出す程度であった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 79-80)]]。</ref>。モネは、アカデミー・シュイスの仲間とグレールのアトリエの仲間を結びつける役割を果たし、のちの印象派グループの中心メンバーを形成していくことになった<ref name="名前なし-5"/>。[[1863年]]には[[ナポレオン3世]]が開かせた[[落選展]]で、[[エドゥアール・マネ]]の『[[草上の昼食]]』がスキャンダルを巻き起こしており、モネもこれを見たと思われる<ref name="名前なし-7">[[#パタン|パタン (1997: 22)]]。</ref>。その年の秋ごろ、グレールの病気のためアトリエの閉鎖が検討されることになり、モネ、バジール、ルノワール、シスレーはアトリエを離れた<ref name="名前なし-7"/>。モネは、ほかの3人を誘って[[フォンテーヌブロー]]の森の外れの[[シャイイ=アン=ビエール]]を訪れ、森の中での制作を教え、また森で出会った[[バルビゾン派]]の巨匠たちから助言を受けた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 99)]]。</ref>。モネは特に[[ジャン=フランソワ・ミレー]]を尊敬していたが、気難しいミレーに実際に話しかけることはできなかった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 100-01)]]。</ref>。
[[1864年]]、モネは、バジールとともに[[ノルマンディー]]地方の[[ルーアン]]、[[オンフルール]]、{{仮リンク|サン=タドレス|fr|Sainte-Adresse}}を訪れた。一足先にパリに帰ったバジールに対して、オンフルールに残ったモネは「ここは素晴らしいよ。毎日毎日、何かしら昨日よりもっと美しいものが見つかる」と、興奮した手紙を送っている<ref name="名前なし-8">[[#パタン|パタン (1997: 23)]]。</ref>。同年末にパリに戻ると、{{仮リンク|フュルスタンベール通り|fr|Rue de Furstemberg}}のバジールのアトリエで一緒に制作をするようになった<ref name="名前なし-8"/>。バジールが描いた『{{仮リンク|フュルスタンベール通りのアトリエ|fr|Atelier de la rue Furstenberg}}』の画中には、壁に『[[並木道 (サン=シメオン農場の道)]]』、『オンフルールの海辺』などモネの絵がかかっているのを見ることができる<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 20-21)]]、[[#吉川|吉川 (2010: 23-26)]]。</ref>。
==== サロンへの挑戦 ====
{| border="0" align="right" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:Haute-Normandie region location map.svg|center|260px|フランス北部旧オート=ノルマンディー地域圏の地図]]
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:100px;bottom:0px">50km</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 地域圏 -->
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:40px;top:105px">'''{{LinkColor|grey|オート=ノルマンディー地域圏|旧オート=ノルマンディー地域圏}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:60%;left:0px;top:280px">{{LinkColor|grey|バス=ノルマンディー地域圏|旧バス=ノルマンディー地域圏}}</div>
<div style="position:absolute;font-size:60%;left:200px;top:230px">{{LinkColor|grey|イル=ド=フランス地域圏}}</div>
<div style="position:absolute;font-size:60%;left:120px;bottom:10px">{{LinkColor|grey|サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏}}</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 -->
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:14px;top:132px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ル・アーヴル]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:7px;top:125px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[サン=タドレス]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:22px;top:86px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[エトルタ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:26px;top:148px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[オンフルール]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:150px;top:140px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ルーアン]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:120px;top:43px">'''[[ヴァランジュヴィル=シュル=メール|ヴァランジュヴィル]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:142px;top:40px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ディエップ (セーヌ=マリティーム県)|ディエップ]]'''</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 川・海 -->
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:160px;top:175px">''[[セーヌ川]]''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:10px;top:10px">''[[イギリス海峡]]''</div>
</div>
|}
'''[[1865年]]の[[サロン・ド・パリ]]'''に、[[海景画]]『オンフルールのセーヌ河口』と『干潮のエーヴ岬』を初出品し、2点とも入選した<ref name="名前なし-8"/>。新人モネの作品は、[[エドゥアール・マネ]]の『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』の真前に並ぶことになり、マネは、自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨したという。これを機に、モネは姓だけの署名をやめ、「クロード・モネ」というフルネームの署名をするようになった<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 14-15)]]。</ref><ref group="注釈">モネが1900年に雑誌「ル・タン(現代)」のインタビューで語ったエピソードである。モネは、インタビューで、1866年のこととして述べているが、記憶違いと思われる([[#島田・挑戦|島田 (2009: 19)]])。</ref>。マネの『オランピア』がスキャンダルを巻き起こしたのに対し、モネの作品は批評家から好意的な評価を得た<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 113-14)]]。</ref>。
[[ファイル:Jean Frédéric Bazille - L'ambulance improvisée.jpg|thumb|left|180px|バジール『病床のモネ』1865年。バジールは、シャイイにいるモネ(当時24歳)からモデルになってくれるよう頼まれて行ったが、モネは直前に足の怪我をしており、バジールが面倒を見てやった<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/lambulance-improvisee-20408.html |title=L'ambulance improvisée [The Improvised Field Hospital] |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-01-05}}</ref>。]]
モネはシャイイでマネの『草上の昼食』と同じテーマの作品の制作を始めていたが、サロンの後、シャイイに戻って、[[1866年]]のサロンに出品することを目指して制作を続行した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 114)]]。</ref>。モネの『[[草上の昼食 (モネの絵画)|草上の昼食]]』は、縦4.6メートル、横6メートルという大作であったが、結局、サロンには出品されなかった。[[ギュスターヴ・クールベ]]に批判されたからだとも言われる<ref>[[#パタン|パタン (1997: 23-24)]]。</ref><ref group="注釈">別の文献によれば、クールベは『草上の昼食』を絶賛したが、モネが5月1日のサロンに間に合わないと判断して制作を中断したという([[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 25)]])。また、クールベが土壇場で助言を与え、モネはいったんそれに従ったが、後で悔やみ、気に入らない出来になってしまったともいう([[#リウォルド|リウォルド (2004: 120)]])。</ref>。代わりに'''1866年のサロン'''に出品した『{{仮リンク|緑衣の女|fr|La Femme en robe verte}}(カミーユ)』と『[[シャイイ=アン=ビエール|シャイイ]]の道』は2点とも入選を果たした。『緑衣の女』は、当時知り合ったばかりの恋人{{仮リンク|カミーユ・ドンシュー|en|Camille Doncieux}}をモデルにしたものであった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 24)]]。</ref>。この頃、[[ザカリー・アストリュク]]の紹介で、マネと面識を得た<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 130)]]。</ref>。
1866年のサロンで、[[エミール・ゾラ]]が『レヴェヌマン』紙にモネを賞賛する記事を書いた。これを読んだル・アーヴルの父は、息子の絵がすぐに売れるようになるものと思って、仕送りをしてくれるようになった。しかし、新聞で批評家に褒められたからといって絵が売れるわけではなく、父は同年末、カミーユと別れれば再開すると条件をつけて、仕送りをやめてしまった。このときすでにカミーユは第1子を妊娠しており、モネにはカミーユと別れることは考えられなかった。この先10年間、モネは、苦しい貧困の時代を過ごすことになる<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 15-16)]]。</ref>。
1866年のサロンが終わると、[[セーヴル]]や[[オンフルール]]に滞在しながら、大作『{{仮リンク|庭の中の女たち|en|Women in the Garden}}』に取りかかった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 24-26)]]。</ref>。4人の女はいずれもカミーユをモデルとしたもので、モネは、実際に庭の中でこれを制作した。画面の上部に手が届かなかったため、庭に堀を掘って、その中にキャンバスを入れて描いた。光の状態を正確に再現するため、毎日同じ時間に仕事を始め、太陽が雲で隠れると作業を中断した。[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]がモネのアトリエを訪ねた際、モネが絵筆を持ったままキャンバスの前でぼんやり立っているのを見て、なぜ描かないのかと言ったところ、モネは、あのせいだと言って雲を指したというエピソードが知られている。クールベは、「影をつけるところはともかく、背景は今でも描けるじゃないか」と言ったが、モネは従わなかったという。このような手法にこだわったため、制作には翌1867年までかかった。しかし、'''1867年のサロン'''でこの労作は落選してしまった<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 16-18)]]。</ref>。審査員からは、絵筆の跡が露わになっている点が、不注意と未完成の証拠であると受け止められたのであった<ref name="Women-in-the-garden" />。当時の画家にとって、サロンに入選するかどうかは絵が売れるかどうかを決める決定的な要素であった<ref name="名前なし-9">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 141)]]。</ref>。そのため、サロンへの落選はモネにとって大きなショックで、ルノワール、バジール、シスレーも同様に落選したことから、独自の展覧会を開催しようという案が出たが、資金不足のため立ち消えとなった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 32)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 144)]]。</ref>。『庭の中の女たち』は、バジールが2,500フランの大金で購入してくれた<ref name="名前なし-10">[[#パタン|パタン (1997: 27)]]。</ref><ref group="注釈">ただし、月50フランの分割払いであった。バジールは、裕福な両親から仕送りを受けており、毎月のお金をやりくりして、モネを支援した([[#リウォルド|リウォルド (2004: 140)]])。</ref>。
[[1867年]]、{{仮リンク|サン=タドレス|en|Sainte-Adresse}}の叔母の家に滞在し<ref name="名前なし-9"/>、海と庭という2つのテーマを結びつけた作品『サン=タドレスのテラス』に取りかかった。同年8月8日、パリに残していたカミーユが、長男ジャン([[:en:Jean Monet (son of Claude Monet)]])を出産した<ref name="名前なし-10"/>。しかし、父はモネとカミーユの仲を認めなかった。モネは、ル・アーヴルにカミーユを連れて行き父を説得しようとしたが、父はカミーユに会おうとせず、金を出してもくれなかった<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 18)]]。</ref>。モネは、バジールに、「とてもいとおしく感じられる、大きくてかわいい男の子だ。でも、その母親が食べるものが何もないことを考えると、苦しくてたまらない」と書き送っている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 27-28)]]。</ref>。
[[1868年]]には、ル・アーヴルに滞在しながら制作を続けた。'''1868年のサロン'''では、海景画1点だけが、審査員であった[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]の推薦で入選した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 28-32)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 38)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 150)]]。</ref>。同年6月、[[フェカン]]からバジールに宛てた手紙で、依然として経済的苦境にあることを述べ、動転して自殺未遂に及んだことを伝えている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 153)]]。</ref>。しかし、同年9月の手紙では、ル・アーヴルで得たパトロンの支援のおかげで、カミーユとジャンとの生活が落ち着いていることを知らせている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 154)]]。</ref>。同年12月には、[[エトルタ]]で『かささぎ』などの雪景色を描いている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 32)]]。</ref>。
[[ファイル:Henri Fantin-Latour - A Studio at Les Batignolles - Google Art Project.jpg|thumb|right|200px|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]『バティニョールのアトリエ』1870年。絵筆を持つマネを、ルノワール、バジール、[[エミール・ゾラ|ゾラ]]らが囲んでいる。モネ(当時29歳ごろ)は右端に描かれている<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 9)]]。</ref>。]]
'''[[1869年]]のサロン'''には、カミーユと長男ジャンを描いた『昼食』を提出したが落選した。家族と[[ブージヴァル]]近くのサン・ミッシェルに移り住んだが、お金がなく、電気や暖房がない生活であった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 44)]]。</ref>。モネは6月、知人に「僕の精神はとてもいい状態で、仕事をする気力にあふれています。でも、あの致命的な落選によって、生活のあてがまったくありません」と、悲痛な手紙を書いている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 33)]]。</ref>。そうした中、ルノワールがパンを運んでくれるなど支援してくれた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 44-45)]]。</ref>。モネはルノワールとともに、ブージヴァル近くの水浴場「ラ・グルヌイエール」でキャンバスを並べて制作した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 33-34)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 45)]]。</ref>。ラ・グルヌイエールは、パリから鉄道で30分の人気のリゾート地であり、2人はこの地で、ラフな筆致で絵具を置いていく筆触分割という印象派の手法を確立していった<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 98-102, 04)]]。</ref>。その中でも、ルノワールが人物の形態を重視したのに対し、モネは人物を抽象的な色斑で描き、自然の中に埋没させている<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 46)]]。</ref>。
1869年頃、マネを中心として若手画家たちが集う{{仮リンク|バティニョール地区|en|Batignolles}}の[[カフェ・ゲルボワ]]に、モネも招かれるようになった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 33)]]。</ref>。カフェ・ゲルボワでは、マネと[[エドガー・ドガ]]が芸術論を戦わせており、モネやルノワールは聞き役に回っていた。そのほか、ゾラや[[ポール・セザンヌ]]、写真家[[ナダール]]なども参加しており、彼ら芸術家のグループは「バティニョール派」と呼ばれた<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 76-77)]]。</ref>。モネはのちに「際限なく意見を戦わすこうした『雑談』ほど面白いものはなかった。そのおかげで、我々の感覚は磨かれ、何週間にもわたって熱中することができ、そうして意見をきちんとまとめることができた」と振り返っている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 161)]]。</ref>。
'''[[1870年]]のサロン'''には、『昼食』や『[[ラ・グルヌイエール]]』を提出したが、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]やドービニーといった審査員の支持にもかかわらず、再度落選してしまった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 34)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 46)]]。</ref>。ドービニーはモネの落選に抗議して審査員を辞任した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 187)]]。</ref>。モネは、以後しばらくサロンへの出品を取りやめている。
1870年6月28日、ようやくカミーユと正式に結婚した<ref name="名前なし-11">[[#パタン|パタン (1997: 35)]]。</ref>。その夏、長男ジャンを連れてノルマンディー地方のリゾート地[[トルヴィル=シュル=メール]]に新婚旅行に行った<ref name="名前なし-12">[[#吉川|吉川 (2010: 158-60)]]。</ref><ref group="注釈">[[ナポレオン3世]]の[[プロイセン王国]]との関係が悪化する中、モネは召集を恐れてまず家族を連れてトルーヴィルに逃れたとする文献もある。[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 46)]]。</ref>。ブーダンも妻を連れてトルヴィルに来て、モネと一緒に制作した。このときのモネの作品『トルヴィルの浜辺』には、カミーユと、ブーダンの妻が描かれている。強風の中制作したため、絵具の表面に、吹き上げられた海岸の砂や貝殻の破片が付着していることが分かっている<ref name="名前なし-12"/>。
<gallery>
ファイル:'Mouth of the Seine' by Claude Monet, Norton Simon Museum.JPG|『オンフルールのセーヌ河口』1865年。油彩、キャンバス、89.5 × 150.5 cm。[[ノートン・サイモン美術館]]。同年サロン入選<ref>{{Cite web |url=http://www.nortonsimon.org/collections/browse_artist.php?name=Monet%2C+Claude&resultnum=1 |title=Mouth of the Seine at Honfleur, 1865 |publisher=Norton Simon Museum |accessdate=2016-11-19}}</ref>。
ファイル:Claude Monet - La Pointe de la Hève at Low Tide - Google Art Project.jpg|『干潮のエーヴ岬』1865年。油彩、キャンバス、90.2 × 150.5 cm。[[キンベル美術館]]([[テキサス州]][[フォートワース]])。同年サロン入選<ref>{{Cite web |url=https://www.kimbellart.org/collection-object/la-pointe-de-la-h%C3%A8ve-low-tide |title=La Pointe de la Hève at Low Tide |publisher=Kimbell Art Museum |accessdate=2016-11-19}}</ref>(W52)。
ファイル:Claude Monet - Camille.JPG|『緑衣の女』1866年。油彩、キャンバス、231 × 151 cm。[[ブレーメン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.kunsthalle-bremen.de/sammlung/sammlungshighlights/claude-monet/ |title=Claude Monet: Camille, 1866 |publisher=Kunsthalle Bremen |accessdate=2016-11-06}}</ref>。同年サロン入選(W65)。
ファイル:Claude Monet - Le dejeurner sur l'herbe (left panel).jpg|『[[草上の昼食 (モネの絵画)|草上の昼食]]』1865 - 66年(左側の断片)。油彩、キャンバス、418 × 150 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=10737&cHash=1f12f58ac9 |title=Le déjeuner sur l'herbe |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-12}}</ref>(W63a)。
ファイル:Monet dejeunersurlherbe.jpg|『[[草上の昼食 (モネの絵画)|草上の昼食]]』1865 - 66年(中央の断片)。油彩、キャンバス、248 × 217 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/le-dejeuner-sur-lherbe-18301.html |title=Claude Monet: Luncheon on the Grass |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-05}}</ref>(W63b)。
ファイル:Claude Monet 024.jpg|『{{仮リンク|庭の中の女たち|en|Women in the Garden}}』1866年ごろ。油彩、キャンバス、255 × 205 cm。オルセー美術館<ref name="Women-in-the-garden">{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/women-in-the-garden-3042.html |title=Claude Monet: Women in the Garden |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-19}}</ref>。1867年サロン落選(W67)。
ファイル:1867 Monet Saint-Germain-l'Auxerrois in Paris anagoria.JPG|『サン=ジェルマン=ロクセロワ教会』1867年。油彩、キャンバス、79 × 98 cm。[[旧国立美術館 (ベルリン)|旧国立美術館]]([[ベルリン]])(W84)。
ファイル:Claude Monet - Jardin à Sainte-Adresse.jpg|『{{仮リンク|サン=タドレスのテラス|en|Garden at Sainte-Adresse}}』1867年。油彩、キャンバス、98.1 × 129.9 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.metmuseum.org/art/collection/search/437133 |title=Garden at Sainte-Adresse |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2016-11-05}}</ref>(W95)。
ファイル:Claude Monet River Scene at Bennecourt, Seine (2).jpg|『セーヌ河岸、ベンヌクール』1868年。油彩、キャンバス、81.5 × 100.7 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/81539 |title=On the Bank of the Seine, Bennecourt, 1868 |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2016-12-10}}</ref>(W110)。
ファイル:Claude Monet - The Luncheon - Google Art Project.jpg|『昼食』1868 - 69年。油彩、キャンバス、231.5 × 151 cm。[[シュテーデル美術館]]。1870年サロン落選<ref>[[#安井|安井 (2010: 16)]]。</ref>、第1回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=http://www.staedelmuseum.de/en/collection/luncheon-le-dejeuner-186869 |title=The luncheon (Le déjeuner), 1868/69 |publisher= Städel Museum |accessdate=2016-11-05}}</ref>(W132)。
ファイル:Claude Monet - The Magpie - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|かささぎ (モネ)|en|The Magpie (Monet)|label=かささぎ}}』1868 - 69年。油彩、キャンバス、89 × 130 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/the-magpie-3110.html |title=Claude Monet: The Magpie |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-12}}</ref>。1869年サロン落選<ref>[[#安井|安井 (2010: 19)]]。</ref>(W133)。
ファイル:Claude Monet La Grenouillére.jpg|『[[ラ・グルヌイエール]]』1869年。油彩、キャンバス、74.6 × 99.7 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.metmuseum.org/art/collection/search/437135 |title=La Grenouillère |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2016-11-20}}</ref><ref group="注釈">1870年のサロンに落選したのは同名の異作([[#安井|安井 (2010: 18)]])。</ref>(W134)。
ファイル:Claude Monet 002.jpg|『トルヴィルの浜辺』1870年。油彩、キャンバス、38 × 46.5 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/claude-monet-the-beach-at-trouville |title=The Beach at Trouville |publisher=The National Gallery |accessdate=2016-11-12}}</ref>(W158)。
ファイル:Claude Monet - Train in the Countryside - Google Art Project.jpg|『郊外の列車』1870年ごろ。油彩、キャンバス、50 × 65 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/train-in-the-countryside-18879.html |title=Claude Monet: Train in the Countryside |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-20}}</ref>(W153)。
</gallery>
=== 普仏戦争、ロンドン(1870年) ===
[[ファイル: Turner - Yacht Approaching the Coast.jpg|thumb|180px|left|[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]『海岸に近付くヨット』(1840 - 45年<ref group="注釈">油彩、キャンバス、102.2 × 142.2 cm。[[テート・ギャラリー]]。{{Cite web |url=http://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-yacht-approaching-the-coast-n04662 |title=Yacht Approaching the Coast |publisher=Tate |accessdate=2016-12-10}}</ref>)]]
{{Multiple image
| align = right
| image1 = Monet by Greiner Amsterdam 1871.jpg
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| image2 = Camille Monet by Greiner, 1871.jpg
| width2 = 130
| footer = 1871年、[[アムステルダム]]で撮影されたモネ(当時30歳)とカミーユ<ref>{{Cite web |url=http://vangoghletters.org/vg/letters/let746/letter.html |title=Vincent van Gogh The Letters: Letter 746, Note 5 |publisher=Van Gogh Museum, Huygens ING |accessdate=2016-11-27}}</ref>
}}
[[1870年]]7月、[[普仏戦争]]が勃発すると、モネは兵役を避けるため、オランダを経て<ref group="注釈">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 207)]](註22)は、最初にオランダに行ったことを否定し、直接ロンドンに向かったとする。</ref>、[[ロンドン]]に渡った。同じ時期、ピサロもロンドンに逃れており、2人は、イギリス風景画の第一人者[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]や[[ジョン・コンスタブル|コンスタブル]]の作品を研究した<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上106)]]。</ref>。ターナーの描く霧の風景や、コンスタブルの描く雲の風景は、自然の移ろいゆく光を新しい感性で観察しており、印象主義の生成・発展に影響を与えたことが指摘されている<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 50-51)]]。</ref>。なお、この年の11月、バジールは普仏戦争に従軍して戦死している<ref name="名前なし-11"/>。
モネは、同じ時期に普仏戦争を避けてロンドンに滞在していた[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]とも親交を持った。ドービニーは、以前からモネを高く評価しており、モネの面倒をよく見た。そして、同じくロンドンに滞在していた画商[[ポール・デュラン=リュエル]]をモネに引き合わせた。デュラン=リュエルは、のちに印象派にとって重要な画商となっていく<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 177-79)]]。</ref>
ロンドンでは、室内画のほか、[[テムズ川]]、{{仮リンク|グリーン・パーク (ロンドン)|en|Green Park|label=グリーン・パーク}}、[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]を描いた数点しか制作していない<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 49)]]。</ref>。[[1871年]]1月、モネの父親が亡くなった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 51)]]。</ref>。モネは5月までロンドンに滞在し、そのころ普仏戦争に続く[[パリ・コミューン]]の混乱が終息に向かうと、数か月間[[オランダ]]・[[ザーンダム]]に滞在した<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 51-52)]]、[[#吉川|吉川 (2010: 167)]]、[[#パタン|パタン (1997: 37)]]。</ref>。ザーンダムでは、港、堤防、風車、ボート、埠頭など、水に関わるモチーフの習作を制作している<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 52)]]。</ref>。同年秋になってパリに戻った<ref>[[#パタン|パタン (1997: 37)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Monet The Thames at Westminster 1871 Westminster.jpg|『国会議事堂下のテムズ川』1871年ごろ。油彩、キャンバス、47 × 73 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/claude-monet-the-thames-below-westminster |title=The Thames below Westminster |publisher=The National Gallery |accessdate=2016-12-10}}</ref>(W166)。
ファイル:CLAUDE MONET 1840 - 1926 UN MOULIN À ZAANDAM.jpg|『ザーンダムの風車』1871年。50 × 75 cm。個人コレクション。
</gallery>
=== アルジャントゥイユ(1870年代) ===
==== 第1回印象派展まで ====
{| border="0" align="right" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:Ile-de-France region location map.svg|center|360px|フランス北部・イル=ド=フランス地域圏の地図]]
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:0px;top:0px">100km</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 地域圏 -->
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:100px;top:150px">'''{{LinkColor|grey|イル=ド=フランス地域圏}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:170px;top:15px">'''{{LinkColor|grey|オー=ド=フランス地域圏}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:10px;top:270px">'''{{LinkColor|grey|サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:0px;top:0px">'''{{LinkColor|grey|ノルマンディー地域圏}}'''</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 -->
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:150px;top:92px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[パリ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:135px;top:70px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[アルジャントゥイユ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:233px;top:90px">'''[[ブージヴァル]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:248px;top:75px">'''[[ポワシー]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:52px;top:43px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ヴェトゥイユ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:21px;top:36px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ジヴェルニー]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:209px;top:202px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[フォンテーヌブロー]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:158px;top:188px">'''[[シャイイ=アン=ビエール|シャイイ]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 川 -->
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:75px;top:55px">''[[セーヌ川]]''</div>
</div>
|}
[[ファイル:Monet Painting on His Studio Boat Edouard Manet 1874.jpg|thumb|left|180px|[[エドゥアール・マネ|マネ]]『アトリエ舟で描くモネ』(1874年)]]
モネは、1871年12月、パリ近郊の[[セーヌ川]]に面した町[[アルジャントゥイユ]]にアトリエを構えた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上107)]]。</ref>。家を世話してくれたのは、セーヌ川の対岸[[ジュヌヴィリエ]]に広大な土地を所有していたマネであった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 167)]]。</ref>。アルジャントゥイユでは、1878年初めまでの6年あまりを過ごし、この間に約170点の作品を残している。その約半数がセーヌ河畔の風景である<ref name="Regattas" />。この間、マネのほか、ルノワール、シスレーも頻繁にモネを訪ねた。ルノワールは、アルジャントゥイユの庭で制作するモネを描いている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 155, 167)]]。</ref>。
同時に、パリの[[サン=ラザール駅]]近くにも1874年までアトリエを持ち、ルノワールとともに[[ポンヌフ]]の橋を描いたり、頻繁にブーダンと会ったりしていた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 61)]]。</ref>。
1872年ごろから1874年ごろまで、[[フランス第三共和政|第三共和政]]のフランスは普仏戦争後の復興期にあたり、一時的な好景気を呈していた。デュラン=リュエルがモネの絵画を多数購入するなどして、経済的には余裕が生まれた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 167-68)]]、[[#パタン|パタン (1997: 41)]]。</ref>。デュラン=リュエルと接触のあったピサロ、シスレー、[[エドガー・ドガ|ドガ]]とともに、1872年のサロンに作品を送っていないのは、このことも理由と思われる<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 210)]]。</ref>。[[1873年]]には、デュラン=リュエルのほかに、銀行家のエクト兄弟、批評家[[テオドール・デュレ]]といった買い手が現れた<ref name="名前なし-13">[[#パタン|パタン (1997: 42)]]。</ref>。
モネは、そのお金で小さなボートを購入し、アトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作した。これにより、低い視線から刻々と変化する水面を描くことができるようになった。このアトリエ舟の発想は、水辺の画家ドービニーから学んだ可能性がある。マネがアトリエ舟で制作するモネの様子を描いており、モネ自身もアトリエ舟を作品に登場させている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 168-70, 179)]]。</ref>。
1869年と1870年のサロンに続けて落選して以来、サロンから手を引いていたモネは、ピサロ、ドガ、ルノワールらとともに、サロンとは独立した展覧会を開くという構想を持つようになった。1873年4月には、ピサロに「みんな賛成してくれている。反対なのはマネだけだ」と書き送っている<ref name="名前なし-13"/>。デュラン=リュエルが、経済的に苦しくなってきて、以前のように絵を買えなくなったという事情も、この構想の早期実現を促す要素となった<ref name="名前なし-14">[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 73)]]。</ref>。
[[ファイル:Atelier Nadar 35BoulevardDesCapucines 1860 Nadar.jpg|thumb|left|150px|1874年(当時33歳)、第1回印象派展が行われた[[ナダール]]写真館]]
[[1874年]][[1月17日]]、「[[第1回印象派展#「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」の設立|画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社]]」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 62)]]。</ref>。参加者は、絵の売却収入の10分の1を基金に入れること、展示場所は1作品ごとにくじで決めることが合意された<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 230)]]。</ref>。そして、サロン開幕の2週間前である1974年[[4月15日]]に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・{{仮リンク|キャピュシーヌ大通り|en|Boulevard des Capucines}}の写真家[[ナダール]]の写真館で、この共同出資会社([[株式会社]]とも訳せる)の第1回展を開催した<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 33)]]。</ref>。のちに「'''[[第1回印象派展]]'''」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上82)]]。</ref>。マネは、サロンでの成功に支障が生じるのを恐れ、参加しなかった<ref name="名前なし-14"/>。
モネは、この第1回展に、『[[印象・日の出]]』、『[[キャピュシーヌ大通り (モネ)|キャピュシーヌ大通り]]』、カミーユとジャンを描いた『昼食』などの油絵5点、パステル画7点を出品した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 43)]]。</ref>。
第1回展の開会後間もない4月25日、『{{仮リンク|ル・シャリヴァリ|en|Le Charivari}}』紙上で、評論家[[ルイ・ルロワ]]が、この展覧会を訪れた人物があまりにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会<ref group="注釈">{{Wikisource-inline|印象派の展覧会|3=日本語訳}}</ref>」を発表した。この文章がきっかけで「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上82-84)]]。</ref>。もっとも、必ずしもルイ・ルロワが初めて使い始めた言葉ではなく、当時の批評家たちがこのグループ展を指す際、「印象」や「印象派」という言葉は共通したキーワードとなっていた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 186-89)]]。</ref>。第1回印象派展の入場者は約3,500人であったが、サロンが同じ1か月間で約40万人を集めていたのとは比べるべくもなく、来場者の大半が絵を嘲笑しに来た客であった。売り上げも、メンバーが支払った会費60フランすら回収できないという惨状に終わった<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 33, 38)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 241, 246)]]。</ref>。共同出資会社は、同年12月に債務清算のため解散した<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 32)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 248)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Monet - Impression, Sunrise.jpg|『[[印象・日の出]]』1872年。油彩、キャンバス、48 × 63 cm。[[マルモッタン・モネ美術館]]。第1回印象派展出品か<ref group="注釈">第1回印象派展に出品されたのは、この作品ではなく、現在パリの個人コレクションにある別の作品だという説もある([[#高階・絵画史|高階 (1975: 上84)]])。</ref>(W77)。
ファイル:Claude Monet - Regattas at Argenteuil - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|アルジャントゥイユのレガッタ|fr|Régates à Argenteuil}}』1872年ごろ。油彩、キャンバス、48 × 75 cm。[[オルセー美術館]]<ref name="Regattas">{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/regattas-at-argenteuil-3036.html |title=Claude Monet: Regattas at Argenteuil |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-22}}</ref>(W233)。
ファイル:Claude Monet 008.jpg|『[[キャピュシーヌ大通り (モネ)|キャピュシーヌ大通り]]』1873年。油彩、キャンバス、80.3 × 60.3 cm。[[ネルソン・アトキンス美術館]]([[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]])。第1回印象派展出品か<ref group="注釈">『キャピュシーヌ大通り』には、ネルソン・アトキンス美術館所蔵のもののほかに、[[プーシキン美術館]]所蔵のものがあり、どちらが第1回印象派展に出展されたものかは争いがある。{{Cite book| last = Brodskaya| first = Nathalia| title = Claude Monet| url = https://books.google.com/books?id=j4F8cbbG5ocC&pg=PA62| year = 2011| publisher = Parkstone International| isbn = 978-1-78042-297-8| page = 62 }}</ref>(W293)。
ファイル:Claude Monet - Poppy Field - adjusted.jpg|『[[ひなげし (モネ)|ひなげし]]』1873年。油彩、キャンバス、50 × 50 cm。オルセー美術館<ref>『[[芸術新潮]]』2018年6月号、[[新潮社]]、 26頁。</ref>。第1回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/poppy-field-8951.html |title=Claude Monet: Poppy Field |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-12}}</ref>(W274)。
ファイル:Monet Le déjeuner panneau décoratif.jpg|『昼食』1873年。油彩、キャンバス、160 × 201 cm。オルセー美術館。『装飾的パネル』と題されて第2回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/the-lunch-18753.html |title=Claude Monet: The Lunch |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-22}}</ref>(W285)。
ファイル:Claude Monet The Studio Boat.jpg|『アトリエ舟』1874年。油彩、キャンバス、50 × 64 cm。[[クレラー・ミュラー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://krollermuller.nl/en/claude-monet-monet-s-studio-boat |title=Le bateau-atelier, 1874 |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2016-11-22}}</ref>(W323)。
</gallery>
==== 第2回・第3回印象派展 ====
[[ファイル:Édouard Manet --The Monet Family in Their Garden at Argenteuil.jpg|thumb|right|200px|[[エドゥアール・マネ|マネ]]『庭のモネ一家』1874年<ref group="注釈">油彩、キャンバス、61 × 99.7 cm。[[メトロポリタン美術館]]。{{Cite web |url=http://www.metmuseum.org/art/collection/search/436965 |title=The Monet Family in Their Garden at Argenteuil |publisher= The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2016-12-10}}</ref>。カミーユと息子ジャン、左側にモネが描かれている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 46)]]。</ref>。]]
1874年ごろから、デュラン=リュエルがモネの絵を大量に購入することが難しくなり、第1回印象派展も失敗したため、モネは経済的な苦境に陥った<ref>[[#パタン|パタン (1997: 47)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 87)]]。</ref>。モネ、ルノワール、シスレー、[[ベルト・モリゾ]]は、1875年3月<ref group="注釈">[[#パタン|パタン (1997: 52)]]は1874年3月とするが、誤記と思われる([[#リウォルド|リウォルド (2004: 258)]]によれば1875年3月24日)。</ref>、{{仮リンク|オテル・ドゥルオ|en|Hôtel Drouot}}で多数の作品を競売にかけざるを得なくなったが、参加者に嘲笑され、無残な結果に終わった<ref name="名前なし-15">[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 87)]]。</ref>。モネは、マネに「もし苦境を脱することができなければ、僕の絵具箱はずっと閉じられたままになるでしょう」という手紙を送り、マネはこれに応じてモネを援助した。また、モネの作品を個人的に購入するバリトン歌手[[ジャン=バティスト・フォール]]、実業家[[エルネスト・オシュデ]]、税官吏[[ヴィクトール・ショケ]]などの収集家・愛好家も現れてきた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 47-52)]]。</ref>。オテル・ドゥルオの競売でルノワールを知った収集家{{仮リンク|ジョルジュ・シャルパンティエ|fr|Georges Charpentier}}は、1879年に「ラ・ヴィ・モデルヌ(近代生活)」誌を創刊して、印象派の普及に貢献した<ref name="名前なし-15"/>。
[[1876年]]4月、'''第2回印象派展'''がデュラン=リュエル画廊で開かれた。モネは18点を出品した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 52)]]。</ref>。ここでは、日本の[[着物]]を着けた妻カミーユをモデルにした『[[ラ・ジャポネーズ]]』を出品している<ref name="Japonaise" />。着物のほかにも、[[扇子]]を持ったり、[[うちわ]]が壁に飾られていたりして、典型的な[[ジャポネズリー]](日本趣味)の作品である<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 48)]]。</ref>。この絵は、第2回展で好評を博し、2,000フランで売れたものの、モネの経済的困窮が解消したわけではなかった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 87-88)]]。</ref>。
新聞の評価は、第1回展のときよりは好意的であった。ゾラは、「クロード・モネこそは、おそらくこのグループのリーダーだろう。彼の筆さばきは素晴らしく、際立っている」との評を寄せた。また、画家[[ギュスターヴ・カイユボット]]、医師[[ジョルジュ・ド・ベリオ]]といったモネの購入者・支援者も現れた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 52-53)]]。</ref>。それでも一般の人々の反感は根強く、批評家{{仮リンク|アルベール・ヴォルフ (ジャーナリスト)|en|Albert Wolff (journalist)|label=アルベール・ヴォルフ}}は「[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]」紙で、第2回展について「これら自称芸術家たちは、自ら『革新派』または『印象派』と名乗り、キャンバスと絵具を手にすると、手当たり次第に色彩を投げつけ、そしてそれら全部に、堂々と署名するのだ……。そこには、完全な発狂状態にまで達した人間の虚栄心の恐ろしい姿が見られる」と酷評した<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上88-89)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 265)]]。</ref>。
1876年夏から秋にかけて、エルネスト・オシュデの邸宅である[[モンジュロン]]のロッテンブール館に滞在し、その居間を飾るための『七面鳥』など4点を制作した<ref name="名前なし-16">[[#パタン|パタン (1997: 54)]]。</ref>。エルネストの妻アリス・オシュデは、1877年8月20日に第6子ジャン=ピエールを生むが、彼はモネの子ではないかとも言われている<ref name="名前なし-16"/>。モネは、相変わらず経済的困窮が続き、ゾラやシャルパンティエを含め、限られた支援者たちに度々資金援助の依頼をしている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 276)]]。</ref>。
[[1877年]]初めには、パリの[[サン=ラザール駅]]近くの{{仮リンク|モンシー街|fr|Rue Moncey (Paris)}}に部屋を借り、一つの駅を主題としながら、異なった視点から異なった時刻に描いた12点の連作に取り組んだ<ref>[[#パタン|パタン (1997: 54)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 94)]]。</ref>。これは、のちの『積みわら』や『ルーアン大聖堂』連作につながっていくものであった。サン=ラザール駅は、アルジャントゥイユへの列車が発着する駅で、モネは日頃からこの駅を利用していた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 205-07)]]。</ref>。[[鉄道]]は、マネや印象派の画家が追求した近代性を象徴する主題であった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 94)]]。</ref>。その年4月の'''第3回印象派展'''には、『[[サン=ラザール駅 (モネ)|サン=ラザール駅]]』8点のほか、[[テュイルリー庭園]]、[[モンソー公園]]を描いた作品を出品した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 64-65)]]。</ref>。美術批評家[[ジョルジュ・リヴィエール]]は、第3回展参加者18名を紹介する小冊子『印象派』を刊行し、とりわけサン=ラザール駅の連作に賛辞を送った<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 97)]]。</ref>。
このころ、アルジャントゥイユでの生活に出費がかさんだこともあり、モネは借金に追われ、家具の競売を求められる状況に陥った。そのうえ、妻カミーユが病気に倒れた。モネは地主に『草上の昼食』を借金の担保に引き渡して、[[1878年]]1月17日、アルジャントゥイユを去った<ref>[[#パタン|パタン (1997: 54-55)]]。</ref><ref group="注釈">『草上の昼食』は湿った地下室に放り込まれたため、1884年にモネが請け出した時には右側が腐っていた。モネ自身が3つに切断し、中央部分をジヴェルニーのアトリエに飾っていた([[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 23)]])。</ref>。そして、数か月間は、パリの{{仮リンク|エダンブール街 (パリ)|fr|Rue d'Édimbourg (Paris)|label=エダンブール街}}に滞在した。3月17日、カミーユとの間の二男、{{仮リンク|ミシェル・モネ|en|Michel Monet|label=ミシェル}}が生まれた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 68)]]。</ref>。しかし出産後、カミーユの健康状態はさらに悪化していった<ref name="名前なし-17">[[#パタン|パタン (1997: 75)]]。</ref>。その春、テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 295)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Pont Argenteuil Monet 1.jpg|『アルジャントゥイユの橋』1874年。油彩、キャンバス、60 × 79.7 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nga.gov/content/ngaweb/Collection/art-object-page.61374.html |title=The Bridge at Argenteuil |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2016-11-06}}</ref>(W312)。
ファイル:Claude Monet 011.jpg|『[[散歩、日傘をさす女性]]』1875年。油彩、キャンバス、100 × 81 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)<ref>{{Cite web |url=http://www.nga.gov/content/ngaweb/Collection/art-object-page.61379.html |title=Woman with a Parasol - Madame Monet and Her Son |publisher=National Gallery or Art |accessdate=2016-11-06}}</ref>。第2回印象派展出品<ref>[[#安井|安井 (2010: 31)]]。</ref>(W381)。
ファイル:Claude_Monet-Madame_Monet_en_costume_japonais.jpg|『[[ラ・ジャポネーズ]]』1876年。油彩、キャンバス、231.8 × 142.3 cm。[[ボストン美術館]]<ref name="Japonaise">{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/la-japonaise-camille-monet-in-japanese-costume-33556 |title=La Japonaise (Camille Monet in Japanese Costume) |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2016-11-22}}</ref>。第2回印象派展出品<ref>[[#安井|安井 (2010: 36)]]。</ref>(W387)。
ファイル:Monet - Truthähne.jpg|『{{仮リンク|七面鳥 (モネ)|fr|Les Dindons|label=七面鳥}}』1877年。油彩、キャンバス、174 × 172.5 cm。[[オルセー美術館]]。第3回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=1 |title=Les dindons |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-22}}</ref>(W416)。
ファイル:Claude Monet 004.jpg|『[[サン=ラザール駅 (モネ)|サン=ラザール駅:列車の到着]]』1877年。油彩、キャンバス、83 × 101.3 cm。[[フォッグ美術館]](米[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]])<ref>{{Cite web |url=http://www.harvardartmuseums.org/collections/object/228649?position=3 |title=The Gare Saint-Lazare: Arrival of a Train |publisher=Harvard Art Museums |accessdate=2016-11-22}}</ref>(W439)。
ファイル:Claude Monet - The Saint-Lazare Station - Google Art Project.jpg |『[[サン=ラザール駅 (モネ)|サン=ラザール駅]]』1877年。油彩、キャンバス、75 × 104 cm。オルセー美術館。第3回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/the-saint-lazare-station-7171.html |title=Claude Monet: The Saint-Lazare Station |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-12}}</ref>(W438)。
ファイル:Claude Monet 043.jpg|『サン=ドニ街、1878年6月30日の祭日』1878年。油彩、キャンバス、76 × 52 cm。[[ルーアン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://mbarouen.fr/fr/oeuvres/rue-saint-denis-fete-du-30-juin-1878 |title=Rue Saint-Denis, fête du 30 juin 1878 |publisher=Réunion des Musées Métropolitains Rouen Normandie |accessdate=2016-11-23}}</ref>。第4回印象派展出品<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 298)]]。</ref>(W470)。
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=== ヴェトゥイユ(1878年 - 1881年) ===
[[ファイル:Monet and Hoschede families - 1880.jpg|thumb|right|200px|1880年ごろのモネとオシュデ一家。モネ(左奥)、アリス(その手前)、ミシェル・モネ(左手前)、ジャン=ピエール(アリスの右後ろ)、ブランシュ(その右)、ジャン・モネ(その右)、ジャック(その後ろ)、マルト(その手前)、ジェルメーヌ(右後ろ)、シュザンヌ(右端)<ref>[[#安井|安井 (2010: 45)]]。</ref>。]]
モネ一家は、1878年9月、マネから引っ越し費用を借りて、セーヌ川の50キロほど下流にある小さな村[[ヴェトゥイユ]]に移った<ref>[[#パタン|パタン (1997: 72-73)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 103)]]。</ref><ref group="注釈">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 294)]]によれば、マネは、1878年1月、モネの苦境を見かねて、作品の代金という名目で1000フランの支払を申し出、これによってモネはアルジャントゥイユでの急を要する借金を返済し、ヴェトゥイユの前家賃を支払うことができたが、それでも生活費や引越し代金が足りず、モネは医師[[ポール・ガシェ]]に金策を申し入れている。</ref>。ちょうどこのころ、モネのパトロンであったエルネスト・オシュデは、[[破産]]して住むところを失っていた。オシュデは、妻{{仮リンク|アリス・オシュデ|en|Alice Hoschedé}}と6人の子ども(マルト、[[ブランシュ・オシュデ・モネ|ブランシュ]]、{{仮リンク|シュザンヌ・オシュデ|en|Suzanne Hoschedé|label=シュザンヌ}}、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人)とともに、ヴェトゥイユのモネの家で同居生活を送ることになった<ref name="McAuliffe p. 81">{{Cite book |author=Mary McAuliffe|title=Dawn of the Belle Epoque: The Paris of Monet, Zola, Bernhardt, Eiffel, Debussy, Clemenceau, and Their Friends |url=https://books.google.com/books?id=QH-pq8PYJZgC&pg=PA81 |date=2011-05-16 |publisher=Rowman & Littlefield Publishers |isbn=978-1-4422-0929-9|page=81}}</ref>。
ヴェトゥイユ時代には、印象派の仲間たちとの間は疎遠になっていった<ref name="名前なし-17"/>。グループ内では特に、印象派展の売れ行きが思わしくない中、サロンに応募するか否かという点は深刻な対立点となった。ドガが、サロンに応募する者はグループ展に参加させないことを強く主張していたのに対し、ルノワールは1878年にサロンに応募し、モネも、グループ展が作品の販売を妨げていると考えるようになった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 145-47)]]。</ref>。[[1879年]]4月の'''第4回印象派展'''は、ドガが中心となって開催し、モネは当初出品を断ったが、[[ギュスターヴ・カイユボット]]が所蔵者からモネの作品29点を借り集めて出品した<ref>[[#新関|新関 (108-09)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 302-03)]]。</ref>。モネは、第4回展への出品に同意した理由について、「気は進まなかったが、裏切り者と思われたくなかったから」と述べている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 73)]]。</ref>。第4回展では、初めて利益が出て、1人439フランの配当金が与えられた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 106)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 303)]]。</ref>。
経済的には依然として苦しく、妻カミーユと子供の病気が重なり、ヴェトゥイユの大家族は、食糧も暖房もない生活を強いられた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 107)]]。</ref>。[[1879年]]9月5日、カミーユが32歳で亡くなった<ref>『[[芸術新潮]]』2018年6月号、[[新潮社]]、 86頁。</ref>。モネはこのとき、『死の床のカミーユ』を制作している。妻を失ったモネは、ピサロに「君はほかの誰よりも僕の悲しみを分かってくれるだろう。徹底的に打ちのめされ、再び生きる気力もなく、2人の子どもを連れてどのように暮らしていけばいいのか、皆目分からない」と書いている<ref name="名前なし-17"/>。
その後、エルネスト・オシュデはパリに仕事に出ていったが、妻アリス・オシュデはヴェトゥイユに留まり、モネの2人の子、ジャンとミシェルの面倒も見た。モネとアリスとの関係は深まっていった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 79)]]。</ref>。
1879年から[[1880年]]にかけての冬は異例の寒さとなり、[[セーヌ川]]が完全に結氷し、その後、激しい勢いで解氷した。モネはこの現象に強く興味を引かれ、描く時間や角度の違いによる光の変化を絵にすることに夢中になった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 76)]]。</ref>。
'''1880年のサロン'''には、10年ぶりに出品した。長年サロン審査に反抗していたモネがサロンへの出品を決意した理由には、前年のサロンでルノワールが初めて高い評価を得たことに加え、経済的に逼迫する中、入選すれば画商[[ジョルジュ・プティ]]が作品を購入してくれるかもしれないという期待もあった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 303, 309)]]、[[#島田・挑戦|島田 (2009: 181)]]。</ref>。モネが提出した2点のうち、比較的伝統的なスタイルで描いた『ラヴァクール』だけは入選したが、壁の上の方の不利な場所に展示された。ゾラは「10年もたたないうちに、彼は認められ、報いられるだろう」と評価したが、作品が手早く描かれすぎているとの批判も加えた。一方、モネは、第5回印象派展への出展は拒否した。モネがサロンに出品したことで、印象派グループの解体は決定的になった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 78)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 113-14)]]。</ref>。ドガは、モネを裏切り者として非難した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 309)]]。</ref>。このころルノワールは、印象主義的作品から、明確な輪郭線と形態を持つ作品に回帰し、シスレー、セザンヌとともにサロンに応募していた。印象派展に残ったピサロは[[ジョルジュ・スーラ]]の[[新印象主義]]に接近しており、印象派のスタイル自体が変容を迎えていた。モネは、印象派展に加わった[[ジャン=フランソワ・ラファエリ]]や、[[ポール・ゴーギャン]]に対して、非常に低い評価を与えていた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 114-16)]]。</ref>。第5回展は、もはや印象派展とはいいがたいものとなった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 315)]]。</ref>。
1880年6月、『ラ・ヴィ・モデルヌ』誌のギャラリーで、初めてモネの個展が開かれ、『解氷』などヴェトゥイユの風景画を中心とする17点が展示された。作品数点が売れた。新聞の評価は好意的で、[[ポール・シニャック]]ら若い画家たちにとって、モネは英雄的な存在になりつつあった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 114-16)]]。、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 320)]]</ref>。
フランスの景気が回復する中、デュラン=リュエルが経済的に立ち直り<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 326-27)]]。</ref>、[[1881年]]初め、モネとの間で定期的に大量の絵を購入する契約を結んだ。これにより、モネの経済的基盤は安定した。同年4月の第6回印象派展<ref group="注釈">カイユボットは、モネやルノワールを呼び戻すとともに、ドガを外す提案をピサロにしたが、結局、カイユボットもグループ展から外れ、ドガを中心とするメンバーでグループ展が開催された([[#リウォルド|リウォルド (2004: 321-23)]])。</ref>やサロンには出品する必要を見なかった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 120)]]、[[#パタン|パタン (1997: 81-82)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Claude Monet - Effet de neige à Vétheul.jpg|『ヴェトゥイユの雪の効果』1878 - 79年。油彩、キャンバス、52.5 × 71 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=&nnumid=1283 |title=Effet de neige à Vétheuil |publisher= Musée d'Orsay |accessdate=2016-12-10}}</ref>(W506)。
ファイル:Claude Monet, 1879, Camille sur son lit de mort, oil on canvas, 90 x 68 cm, Musée d'Orsay, Paris.jpg|『死の床のカミーユ』1879年。油彩、キャンバス、90 × 68 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&S=1&nnumid=1291&cHash=c196856f52 |title=Camille sur son lit de mort |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-23}}</ref>(W543)。
ファイル:Claude Monet - Les Glacons.jpg|『解氷』1880年。油彩、キャンバス、97 × 148 cm。{{仮リンク|シェルバーン美術館|en|Shelburne Museum}}(米[[バーモント州]])。
ファイル:Monet Lavacourt.jpg|『ラヴァクール』1880年。油彩、キャンバス、100 × 150 cm。[[ダラス美術館]]。同年サロン入選<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 12)]]。</ref>。(W578)。
ファイル:Claude Monet - Monet's garden at Vétheuil (1880).jpg|『ヴェトゥイユの画家の庭』1881年。油彩、キャンバス、151.5 × 121 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nga.gov/content/ngaweb/Collection/art-object-page.52189.html |title=The Artist's Garden at Vétheuil |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2016-11-23}}</ref>(W685)。
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=== ポワシー(1881年 - 1883年) ===
[[1881年]]12月、デュラン=リュエルから引っ越し費用の援助を得て[[ポワシー]]に移った<ref>[[#パタン|パタン (1997: 80-82)]]。</ref>。ちょうど賃借契約が満期になったうえ、アリスとの関係がヴェトゥイユの住民から白眼視されていたことも理由であった。しかし、アリスとその子どもたちは、パリに戻るようにとのエルネスト・オシュデの求めに反してポワシーに同行することとなり、モネとアリスとの関係は、エルネストに対してますます説明が難しいものとなった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 120)]]。</ref>。
モネはポワシーの土地を毛嫌いしており、「この土地は僕にはまったく合わない」とたびたび述べている。その代わりに、早くも[[1882年]]2月からノルマンディー地方に制作旅行に出て、[[ディエップ (セーヌ=マリティーム県)|ディエップ]]の断崖や、[[ヴァランジュヴィル=シュル=メール]]近くの{{仮リンク|オート=シュル=メール|en|Hautot-sur-Mer|label=プールヴィル}}の断崖を描いた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 82-85)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 123)]]。</ref>。
[[1882年]]3月の'''第7回印象派展'''は、内紛の末、デュラン=リュエルが仲介し、ようやくモネを含む9人の参加で開催にこぎつけた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 123-24)]]。</ref><ref group="注釈">特に人選でもめたが、ピサロとカイユボットが中心となって、モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾという古顔を呼び集め、ピサロの友人である[[アルマン・ギヨマン]]、[[ポール・ゴーギャン]]、[[ヴィクトール・ヴィニョン]]がこれに加えられた。ドガの仲間であるラファエリが排除され、ドガは参加を拒絶し、メアリー・カサットも同調して不参加を決めた。セザンヌは誘われたが、作品がないと言って参加しなかった。結果的に、第7回展はこれまでになく純粋に印象主義的なものとなった([[#リウォルド|リウォルド (2004: 332-35)]])。</ref>。モネは当初出品を拒否していたが、{{仮リンク|ユニオン・ジェネラル銀行|fr|Union générale}}の破綻で打撃を被ったデュラン=リュエルを支援するため、海景画、風景画、静物画など35点を出品することとした<ref>[[#パタン|パタン (1997: 82)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 124)]]。</ref>。しかしモネは、会期中、一度も会場に足を運んでいない<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 215)]]。</ref>。新聞からは依然として批判もあったが、海の風景画は好評を呼んだ<ref>[[#パタン|パタン (1997: 82)]]</ref>。
[[1883年]]1月からは、再びポワシーを逃れてノルマンディー地方に旅行し、[[エトルタ]]の断崖を描いた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 126)]]。</ref>。この年から[[1886年]]にかけては、定期的にエトルタの海岸を訪れ、断崖や奇岩を描いている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 89)]]。</ref>。ここでは戸外で下絵を制作し、家に持ち帰ってアトリエで仕上げるという手法をとっている<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 129)]]。</ref>。
1883年3月には、デュラン=リュエルが{{仮リンク|マドレーヌ大通り|en|Boulevard de la Madeleine}}に新しく開いた画廊で、モネの作品56点の個展を開いたが、反響はなく、モネはデュラン=リュエルの準備不足を非難した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 83)]]。</ref><ref group="注釈">デュラン=リュエルは、グループ展開催の困難を避けるために、画家ごとの個展を企画したようであり、1883年初頭から、ブーダン、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレーと1月ごとに続けて個展を開いたが、いずれも大きな注目を集めなかった([[#リウォルド|リウォルド (2004: 345)]])。</ref>。
<gallery>
ファイル:Claude Monet - Cliff Walk at Pourville - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|プールヴィルの断崖の上の散歩|en|The Cliff Walk at Pourville}}』1882年。油彩、キャンバス、66.5 × 82.3 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/14620 |title=Cliff Walk at Pourville, 1882 |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2016-11-24}}</ref>(W758)。
ファイル:Monet-Etretat-Lyon.jpg|『{{仮リンク|エトルタの嵐の海|en|Stormy Sea in Étretat}}』1883年。油彩、キャンバス、100 × 81 cm。[[リヨン美術館]](W821)。
ファイル:Claude Monet - La Manneporte (Étretat).jpg|『マンヌポルト(エトルタ)』1883年。油彩、キャンバス、65.4 × 81.3 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.metmuseum.org/art/collection/search/438823 |title=The Manneporte (Étretat) |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2016-12-11}}</ref>(W832)。
</gallery>
=== ジヴェルニー ===
==== 各地の制作旅行(1880年代) ====
{| border="0" align="right" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;"
|<div style="position: relative">[[ファイル:France map Lambert-93 with rivers and regions-blank.svg|300px|center|フランスの地図]]
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 国 -->
<div style="position:absolute;font-size:100%;left:135px;top:161px">'''{{LinkColor|grey|フランス}}'''</div>
<div style="position: absolute;font-size:80%;left:045px;top:010px">'''{{LinkColor|grey|イギリス}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:160px;top:0px">'''{{LinkColor|grey|オランダ}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:013px;top:020px">'''{{LinkColor|grey|ドイツ}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:160px;top:020px">'''{{LinkColor|grey|ベルギー}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:70%;left:230px;top:115px">'''{{LinkColor|grey|スイス}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:250px;top:160px">'''{{LinkColor|grey|イタリア}}'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:015px;top:220px">'''{{LinkColor|grey|スペイン}}'''</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 -->
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:137px;top:68px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[パリ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:125px;top:58px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ジヴェルニー]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:105px;top:40px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[エトルタ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:241px;top:197px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ボルディゲーラ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:60px;top:205px">'''[[アンティーブ]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:95px;top:214px">'''[[マルセイユ]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:128px;top:134px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[フレスリーヌ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:100px;top:0px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ロンドン]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:42px;top:98px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ベル=イル=アン=メール|ベル=イル島]]'''</div>
<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 海 -->
<div style="position:absolute;font-size:90%;left:190px;top:250px">''[[地中海]]''</div>
</div>
|}
[[ファイル:Sargent MonetPainting.jpg|thumb|left|180px|[[ジョン・シンガー・サージェント]]『森の外れで制作するモネ』1885年。[[テート・ギャラリー]]<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 157)]]。</ref>。]]
モネは[[1883年]]4月、再びデュラン=リュエルから引っ越し費用の援助を得て、パリの西約80キロの郊外にある[[ジヴェルニー]]に移り、以後、1926年に没するまでこの地で制作を続けた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 85)]]。</ref>。なお、1883年4月から6月にかけて、デュラン=リュエルは、[[ロンドン]]・{{仮リンク|ボンド・ストリート|en|Bond Street}}のダウデスウェル画廊でモネを含む印象派の展覧会を開いたが、ロンドンの批評家の多くは無関心であり、モネは落胆した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 345-48)]]。</ref>。
1880年代、モネは、エトルタのほかにも、ヨーロッパ各地を旅行して制作した。1883年12月、ルノワールとともに地中海沿岸を旅し、[[マルセイユ]]から[[サン=ラファエル (ヴァール県)|サン=ラファエル]]、[[モンテカルロ]]を経由して、[[リグーリア海岸]]([[リヴィエラ]])の[[ボルディゲーラ]]を訪れ、帰りに[[エスタック]]で[[ポール・セザンヌ]]を訪ねた。いったんパリに戻ったあと、[[1884年]]1月から4月にかけて、もっとも美しい場所と感じたボルディゲーラを1人で再訪して滞在した<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 136)]]。</ref>。モネは、1人での再訪を決めた理由について、デュラン=リュエルに「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした」と述べており、以前のように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している。当時、ルノワールは印象主義を離れ、明確な輪郭線の絵に回帰していた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 348-49)]]。</ref>。モネは3月、ボルディゲーラから、デュラン=リュエルに「あらゆる物が玉虫色にきらめき、パンチ酒のような赤色の炎を上げている。素晴らしい風景だ」と感嘆する手紙を送っている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 88-89)]]。</ref>。ボルディゲーラと[[マントン]]滞在中に約50点を制作した<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 136-37)]]。</ref>。
[[1885年]]春、画商[[ジョルジュ・プティ]]が開いた第4回国際絵画彫刻展に風景画10点を出品した<ref name="名前なし-18">[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 140)]]。</ref>。同年9月から12月までのエトルタ滞在では、『マンヌポルト』や『エトルタ海岸の船』を制作した<ref name="名前なし-18"/>。このころモネは、デュラン=リュエルと、その競争相手ジョルジュ・プティの2人と取引をするようになった。苦境の中で印象派を支えてきたデュラン=リュエルは国際絵画彫刻展への出品に猛烈に抗議したが、モネは複数の画商と関係を築くことによって大衆からの信用も得られるものと考え、ルノワールらもこれにならった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 364)]]。</ref>。
[[ファイル:Autoportret Claude Monet.jpg|thumb|right|160px|『ベレー帽の自画像』1886年(45歳ごろ)<ref group="注釈">油彩、キャンバス、56 × 46 cm。個人蔵(W1078)。[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 142-43)]]。</ref>]]
[[1886年]]春には[[オランダ]]を訪れ、[[ライデン]]と[[ハールレム]]の間の[[チューリップ]]畑に魅了された。チューリップ畑の作品2点が、同年6月15日からジョルジュ・プティ画廊で開かれた第5回国際絵画彫刻展に出品され、成功を収めた。[[ジョリス=カルル・ユイスマンス]]も、これを見て「本当に眼のご馳走だ」と称賛した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 90)]]。</ref>。
デュラン=リュエルは1886年4月、[[ニューヨーク]]で「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、モネの作品40点あまりを出品した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 232)]]。</ref>。モネは「あなたがおっしゃるようにアメリカで成功したいとは思っています。でも、僕の絵は特にこの国〔フランス〕で有名になって、売れてほしいと思っています」と述べ、アメリカでの販売に冷淡であったが、展覧会は好評であった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 91-92)]]。</ref>。この展覧会は、モネをはじめとする印象派の画家たちが、アメリカでの認知を受け、経済的に安定するきっかけとなった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 111)]]。</ref>。デュラン=リュエルとジョルジュ・プティ双方からの貸与により、同年[[ブリュッセル]]で開かれた[[20人展]]にも出品した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 91)]]。</ref>。他方、最後の印象派展となった第8回展は、スーラ、シニャック、ピサロの[[新印象主義]]が大きな勢力を占めており、モネはこれを嫌って参加しなかった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 143)]]。</ref><ref group="注釈">[[#島田・挑戦|島田 (2009: 234-35)]] によれば、モネが第8回印象派展に参加しなかったのは、画商からの独立性を保つために参加者はジョルジュ・プティの展覧会に出品してはならないとの[[アルマン・ギヨマン]]らの方針を受け入れられなかったためだとする。</ref>。
[[ファイル:Bangor aiguilles de port coton 2013b.jpg|thumb|left|180px|ベル=イル島、コトン港のピラミッド岩。モネ(当時45歳)は、[[大西洋]]の描き方は、ノルマンディー海岸で慣れた描き方とは違うので困っていると述べている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 93)]]。</ref>。]]
同年(1886年)秋には、[[ブルターニュ]]沿岸の島、[[ベル=イル=アン=メール]]を訪れ、コトン港のピラミッド岩や、ドモワ港のギベル岩といった奇岩を、さまざまな視点と天候の下で描いた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 92-93)]]。</ref>。このときモネと出会った美術批評家[[ギュスターヴ・ジェフロワ]]は、のちに著した伝記で、モネの様子を次のように書いている<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 12-16)]]。</ref>。
{{Quotation|最初は、いつも辺りで見かける水夫の一人だと思った。モネは、風や潮のしぶきに立ち向かうために、長靴をはき、帽子をかぶり、水夫と同じような服を着ていたのだ。}}
[[1887年]]5月の第6回国際絵画彫刻展に、ベル=イルの風景画など15点を出品した。荒削りであるとの批判と、[[オクターヴ・ミルボー]]などの賞賛とに分かれたが、作品のほとんどが売れ、モネは満足した<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 150)]]。</ref>。
[[1888年]]初めには南仏[[コート・ダジュール]]の[[アンティーブ]]に滞在し、30点ほどを制作した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 94)]]。</ref>。同年6月、ブッソ・ヴァラドン商会(旧[[グーピル商会]])の[[テオドルス・ファン・ゴッホ]]に作品を売った。テオドルスはモンマルトル大通りの展示室で『アンティーブの海の風景』と題する10点の作品を展示し、[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]、[[ステファヌ・マラルメ|マラルメ]]、[[ギュスターヴ・ジェフロワ]]らから高い評価を得た<ref>[[#パタン|パタン (1997: 94-95)]]。</ref>。一方、テオドルスとの取引は、デュラン=リュエルとの関係を一層悪化させ、モネはデュラン=リュエルとの契約を解消してしまった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 152)]]。</ref>。
[[1889年]]には、{{仮リンク|小クルーズ川|en|Petite Creuse}}が[[クルーズ川]]に合流する{{仮リンク|フレスリーヌ|en|Fresselines}}で、20点ほどの作品を制作した<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/valley-of-the-creuse-sunlight-effect-32184 |title=Valley of the Creuse (Sunlight Effect) |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2016-11-26}}</ref>。そのうち9点はほとんど同じ構図で、光の効果だけを変えてクルーズ峡谷を描いたもので、モネ自身「連作」という言葉を使っている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 96-97)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 157)]]。</ref>。
このように各地に制作旅行に出かけている間も、アリス・オシュデとの関係は深まっていき、ボルディゲーラ、アンティーブ、フレスリーヌといった旅先から、アリスに愛を告白する手紙をたびたび送っている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 116-17)]]。</ref>。また、ジヴェルニーに帰ったときには、アリスの娘たちをモデルに、{{仮リンク|エプト川|en|Epte}}での舟遊びや、『パラソルを差す女』を描いた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 101-02)]]。</ref>。
[[ファイル:Manet, Edouard - Olympia, 1863.jpg|thumb|right|180px|マネ『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』1863年。モネの活動で、1890年、[[リュクサンブール美術館]]に収蔵された。[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]の仲介により1907年に[[ルーヴル美術館]]に移送された<ref>[[#パタン|パタン (1997: 100-01)]]。</ref>。]]
1889年6月、ジョルジュ・プティ画廊で、モネが以前から待望していた[[オーギュスト・ロダン]]との2人展が実現した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 98)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 157)]]。</ref>。モネの1864年から1889年にかけての作品145点を一堂に集めた展覧会であり、大成功を収めた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 157)]]。</ref>。ブッソ・ヴァラドン商会との契約は解消し、デュラン=リュエルとの取引を再開したが、契約は結ばず、複数の画商に値付けをさせ、競争させるという手法をとった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 393)]]。</ref>。
また同年5月、[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]に合わせて開かれたフランス美術100年展に、モネの作品3点が展示された。この展覧会にマネの『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』が展示されたが、アメリカに売られることになっていることを聞き、モネは制作活動を中断し、募金で『オランピア』をマネ未亡人から購入して[[ルーヴル美術館]]に寄贈しようという運動に乗り出した。元美術大臣[[アントナン・プルースト]]やゾラの反対に遭ったが、モネは、2万フランを集め、[[1890年]]11月、国の[[リュクサンブール美術館]]に収蔵させることに成功した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 98-101)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 157-58)]]、[[#リウォルド|リウォルド (2004: 393)]]。</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/events/exhibitions/in-the-musee-dorsay/exhibitions-in-the-musee-dorsay/article/a-hundred-years-ago-olympia-4374.html?cHash=0445507a91 |title=A Hundred Years Ago : Olympia |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-26}}</ref>。
<gallery>
ファイル:Claude Monet - Villas at Bordighera - Google Art Project.jpg|『ボルディゲーラの別荘群』1884年。油彩、キャンバス、115 × 130 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/villas-at-bordighera-10155.html |title=Villas at Bordighera |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-26}}</ref>。
ファイル:Monet - Tulpenfelder in Sassenheim - 1886.jpg|『サッセンハイムのチューリップ畑』1886年。油彩、キャンバス、59.7 × 73 cm。{{仮リンク|クラーク美術館|en|Clark Art Institute}}<ref>{{Cite web |url=http://www.clarkart.edu/Collection/7764 |title=Tulip Fields at Sassenheim |publisher=The Clark Art Institute |accessdate=2016-11-26}}</ref>。第5回国際絵画彫刻展出品<ref>[[#パタン|パタン (1997: 90-91)]]。</ref>。
ファイル:'The Pyramids at Port-Coton' by Claude Monet, 1886, Pushkin Museum.jpg|『コトン港のピラミッド岩』1886年。油彩、キャンバス、65 × 81 cm。[[プーシキン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.arts-museum.ru/data/fonds/europe_and_america/j/2001_3000/6079_Skaly_v_Bel_Il_Piramidy_Port_Koton_Burnoe_more/index.php?lang=en&coll=9399 |title=Скалы в Бель Иль (Пирамиды Порт-Котон. Бурное море) |publisher=The Pushkin State Museum of Fine Arts |accessdate=2016-11-26}}</ref>。第6回国際絵画彫刻展出品<ref>[[#安井|安井 (2010: 40)]]。</ref>(W1084)。
ファイル:Monet.012.sonnenschirm.jpg|『{{仮リンク|パラソルを差す女|fr|Femme à l'ombrelle tournée vers la gauche}}(左向き)』1886年。油彩、キャンバス、131 × 88.7 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=001182&cHash=653ddba411 |title=Essai de figure en plein-air : Femme à l'ombrelle tournée vers la gauche |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1077)。
ファイル:Claude Monet - On the Boat - Google Art Project.jpg|『舟遊び』1887年。油彩、キャンバス、145.5 × 133.5 cm。[[国立西洋美術館]](東京)<ref>{{Cite web |url=https://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0148.html |title=舟遊び |publisher=国立西洋美術館 |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1152)。
ファイル:Morning at Antibes (Claude Monet, 1888).jpg|『アンティーブの朝』1888年。油彩、キャンバス、65.7 × 82.1 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/72108.html |title=Morning at Antibes |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2016-11-26}}</ref>。
ファイル:Claude Monet - Valley of the Creuse (Gray Day) - Google Art Project.jpg|『クルーズ峡谷(灰色の日)』1889年。油彩、キャンバス、65.5 × 81.2 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/valley-of-the-creuse-gray-day-31268 |title=Valley of the Creuse (Gray Day) |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2016-11-26}}</ref>。
ファイル:Claude Monet, Creuse, soleil couchant.jpg|『クルーズ峡谷(日没)』1889年。油彩、キャンバス、73 ×70.5 cm。{{仮リンク|ウンターリンデン美術館|en|Unterlinden Museum}}<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-unterlinden.com/en/collections/modern-art/paintings-en/la-vallee-de-la-creuse/ |title=Valley of the Creuse (Sunset) |publisher=Musée Unterlinden |accessdate=2016-11-26}}</ref>。
</gallery>
==== 『積みわら』からの連作(1890年代) ====
[[ファイル:Claude Monet house and garden in Giverny (8742610088).jpg|thumb|right|200px|ジヴェルニーのモネの家と花の庭]]
1880年代終わりから晩年にかけてのモネの作品は、ひとつのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になる。同じモチーフで複数の絵を描くという手法は、中近世の月暦画やミレーの四季連作のほか、モネが愛好していた[[葛飾北斎]]の『[[富嶽三十六景]]』や[[歌川広重]]の『[[名所江戸百景]]』といった[[浮世絵]]から発想を得た可能性があると考えられている<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 78-80)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 159)]]。</ref>。
モネは1890年、しばらくの間旅行を諦め、借地だったジヴェルニーの家を購入し、自宅の周りの積みわらを描くことに集中した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 109)]]。</ref>。1880年代末にも何点かの積みわらを描いていたが、1890年後半から1891年にかけては、'''『[[積みわら]]』'''の本格的な連作25点を制作した<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 61)]]。</ref><ref group="注釈">正確には、1890年-1891年の連作に描かれたのは、干し草を積んだ積みわらではなく、脱穀する前の刈り穂を積み上げた刈り穂積みである([[#六人部|六人部 (2001: 62)]])。フランスの豊かな国土の象徴としてこのモチーフを選んだという説もある([[#安井|安井 (2010: 46)]])。</ref>。モネは、1890年10月、友人ジェフロワに、次のように書いている<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 69)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 158)]]。</ref>。
{{Quotation|積みわらのさまざまな光の連作に夢中なのですが、近頃は日が早く沈むので、追いつくことができません。しかし描き進めるに従って、私が求めているもの――「瞬間性」、とりわけ物を取り囲む大気と、至るところに輝く均一な光――を表現するためには、もっと努力しなければいけないことが分かるのです。}}
『積みわら』は、一般的にモネの最初の連作とされており、ブッソ・ヴァラドン商会が1891年にモネから1枚3,000フランで3点購入した。[[カミーユ・ピサロ]]は、息子[[リュシアン・ピサロ]]への手紙の中で「みんなモネの作品しか欲しがらない。……みんな『日没の積みわら』を欲しがる。……彼が描いたものは全部、4,000フランから6,000フランでアメリカに売られていく」と記している<ref>[[#パタン|パタン (1997: 106-07)]]。</ref>。ピサロは、モネの連作を商業主義によるものと見て、批判的であった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 160)]]。</ref>。デュラン=リュエル画廊でも、同年5月、『積みわら』15点が展示され、大きな反響を呼んだ<ref>[[#パタン|パタン (1997: 107)]]、[[#六人部|六人部 (2001: 61)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Claude Monet - Haystacks, end of Summer - Google Art Project.jpg|『積みわら、夏の終わり』1891年。油彩、キャンバス、60.5 × 100.8 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=001178&cHash=1465d60c41 |title=Meules, fin de l'été |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1266)。
ファイル:Wheatstacks (End of Summer), 1890-91 (190 Kb); Oil on canvas, 60 x 100 cm (23 5-8 x 39 3-8 in), The Art Institute of Chicago.jpg|『積みわら、夏の終わり』1890 - 91年。油彩、キャンバス、60 × 100.5 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/64818 |title=Stacks of Wheat (End of Summer), 1890/91 |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1269)。
ファイル:Claude Monet (French, Paris 1840–1926 Giverny) - Haystacks (Effect of Snow and Sun) - Google Art Project.jpg|『積みわら、雪と日光の効果』1891年。油彩、キャンバス、65.4 × 92.1 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.metmuseum.org/art/collection/search/437122 |title=Haystacks (Effect of Snow and Sun) |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1279)。
ファイル:Claude Monet - Graystaks I.JPG|『積みわら、日没』1891年。油彩、キャンバス、73.3 × 92.7 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/grainstack-sunset-32189 |title=Grainstack (Sunset) |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1289)。
ファイル:1278 Wheatstacks (Sunset, Snow Effect), 1890-91, 65.3 x 100.4 cm, 25 11-16 x 39 1-2 in., The Art Institute of Chicago.jpg|『積みわら、日没、雪の効果』1890 - 91年。シカゴ美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/81545 |title=Stacks of Wheat (Sunset, Snow Effect), 1890/91 |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1278)。
</gallery>
『積みわら』に続き、[[1891年]]春から秋にかけて、エプト川近くのリメツ沼の岸辺で、'''『{{仮リンク|ポプラ並木 (モネ)|en|Poplars (Monet series)|label=ポプラ並木}}』'''の連作23点を制作した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 114)]]、[[#六人部|六人部 (2001: 64)]]。</ref>。構図は、7本のポプラと、3本のポプラのものに限定されており、連作を並べての展示を意図したものと考えられる<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 64-65)]]。</ref>。ブッソ・ヴァラドン商会のモーリス・ジョワイアンが[[1892年]]2月に数点を購入して{{仮リンク|モンマルトル大通り|en|Boulevard Montmartre}}で展示し、同年3月にはデュラン=リュエルが15点ほどを展示して、成功を収めた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 114-15)]]。</ref>。
1891年、アリスの夫エルネスト・オシュデが死去すると、1892年7月16日、モネはアリスと結婚した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 117)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Poplars on the Bank of the Epte River (Claude Monet, 1891).jpg|『エプト河岸のポプラ並木』1891年。油彩、キャンバス、100.3 × 65.2 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/54677.html |title=Poplars on the Bank of the Epte River |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1298)。
ファイル:Monet Poplars-at-giverny MOA W1291.jpg|『ジヴェルニーのポプラ並木:曇り空』1891年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。[[MOA美術館]]<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 21)]]。</ref>(W1291)。
ファイル:Monet Poplars in the Sun.jpg|『陽を浴びるポプラ並木』1891年。油彩、キャンバス、93 × 73.5 cm。[[国立西洋美術館]](東京)<ref>{{Cite web |url=https://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0152.html |title=陽を浴びるポプラ並木 |publisher=国立西洋美術館 |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1305)。
</gallery>
[[1892年]]と[[1893年]]、[[ルーアン大聖堂]]を訪れ、西側正面の建物の中にイーゼルを置き、'''『[[ルーアン大聖堂 (モネ)|ルーアン大聖堂]]』'''の連作30点を制作した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 117-18)]]。</ref>。1892年4月、アリスに宛てて、次のように書いている<ref name="名前なし-19">[[#パタン|パタン (1997: 118)]]。</ref>。
{{Quotation|毎日、まだ見ることができなかった何かを発見し、付け加えている。実に苦労は多いが、進んでいる。〔……〕僕は疲れ切ってしまった。もうだめだ。〔……〕ある夜、悪夢にうなされた。大聖堂が僕の上に崩れ落ちてきたんだ。青やバラ色や黄色の石が降ってくるのが見えた。}}
[[1895年]]初頭には、[[ノルウェー]]のクリスチャニア(現・[[オスロ]])近郊の{{仮リンク|サンドヴィケン|en|Sandvika}}村で、{{仮リンク|コルサース|en|Kolsås}}山などの雪の風景画を制作した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 118-19)]]。</ref>。
モネは、デュラン=リュエルに『大聖堂』1点につき1万5,000フランを要求し、最終的に1万2,000フランで落ち着いた。[[1895年]]5月、デュラン=リュエル画廊の「モネ近作展」で『大聖堂』20バージョンが展示され、注目を浴びた<ref name="名前なし-19"/>。ここでは、ノルウェーの風景画8点も展示された<ref>[[#パタン|パタン (1997: 119-20)]]。</ref>。
[[1896年]]と[[1897年]]の冬は、プールヴィルと[[ヴァランジュヴィル=シュル=メール|ヴァランジュヴィル]]を再訪し、断崖の上の小さな家を描いた10点ほどの作品を制作した<ref name="名前なし-20">[[#パタン|パタン (1997: 120)]]。</ref>。[[1898年]]6月1日、ジョルジュ・プティ画廊で、これらノルマンディーの作品と、ジヴェルニーで制作した『セーヌ川の朝』連作を展示した<ref name="名前なし-20"/>。なお、1897年、長男のジャンと、アリスの娘ブランシュが結婚した<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 177)]]。</ref>。
モネはジヴェルニーで、夏は太陽が出るずっと前に起床し、セーヌ川支流の風景を描きにいくという日課を守っていた。早朝、物が色づき始める時間帯に、朝靄の効果をとらえた作品を続けて制作し、[[1898年]]6月、ジョルジュ・プティ画廊の個展にこれらの作品17点を出品して、成功を収めた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 177-78)]]。</ref>。
当時、依然としてアカデミーからの敵視は根強く、1894年に亡くなった[[ギュスターヴ・カイユボット]]が、マネ、ドガ、ピサロ、モネ、ルノワール、セザンヌなどの名品を含むコレクションをフランス政府に[[遺贈]]したが、アカデミーの反対に遭い、論争の的となった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上90)]]。</ref>。アカデミズム絵画の泰斗[[ジャン=レオン・ジェローム]]は、「ここには、モネ氏、ピサロ氏といった人々の作品は含まれていないでしょうか? 政府がこうしたごみのようなものを受け入れたとなれば、道義上ひどい汚点を残すことになるでしょうから」と述べた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 403)]]。</ref>。しかし、1896年にようやく、モネ作品8点を含め、コレクションの一部が国立の[[リュクサンブール美術館]]に収められ、公的な認知が進んだことを示した<ref name="名前なし-21">[[#パタン|パタン (1997: 129)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Claude Monet - Rouen Cathedral, Facade (Sunset).JPG|『[[ルーアン大聖堂 (モネ)|ルーアン大聖堂]]、ファサード(日没)』1892 - 94年。油彩、キャンバス。[[マルモッタン・モネ美術館]](W1327)。
ファイル:Rouen Cathedral- Setting Sun, Symphony in Grey and Pink.jpg|『ルーアン大聖堂、日没(灰色とピンクのシンフォニー)』1892 - 94年。油彩、キャンバス、100 × 65 cm。[[カーディフ国立博物館]]<ref>{{Cite web |url=http://museum.wales/art/online/?action=show_item&item=1334 |title=Rouen Cathedral: Setting Sun |publisher=National Museum Cardiff |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1323)。
ファイル:Rouen Cathedral, West Facade, Sunlight.JPG|『ルーアン大聖堂、西ファサード、陽光』1894年。油彩、キャンバス、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nga.gov/content/ngaweb/Collection/art-object-page.46654.html |title=Rouen Cathedral, West Façade, Sunlight |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2016-11-26}}</ref>(W1324)。
ファイル:Monet-Mont-Kolsaas-Marmottan-.jpg|『コルサース山』1895年。油彩、キャンバス、65 × 100 cm。マルモッタン・モネ美術館。
ファイル:Customs House at Varengeville by Claude Monet, San Diego Museum of Art.JPG|『ヴァランジュヴィルの税官吏小屋』1897年。{{仮リンク|サンディエゴ美術館|en|San Diego Museum of Art}}。
ファイル:Monet - Seine-Arm bei Giverny.jpg|『{{仮リンク|ジヴェルニー近郊のセーヌ川支流|fr|Bras de Seine près de Giverny}}』1897年。油彩、キャンバス、73.2 × 93 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=021121&cHash=3b67833eba |title=Bras de Seine près de Giverny |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-12-13}}</ref>(W1487)。
</gallery>
==== 「睡蓮」第1・第2連作(1900年代) ====
[[ファイル:Giverny 2005.JPG|thumb|right|200px|ジヴェルニーの「水の庭」。中央に「日本の橋」。]]
モネは、1890年にジヴェルニーの地所を購入してから、家の周りに作った「花の庭」に手を入れていたが、1893年に隣の敷地を購入すると、ここにリュ川の水を引いて[[スイレン属|睡蓮]]の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作り始めた<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 22, 84-85, 110-12)]]。</ref>。水の庭は1895年からモネの作品に現れるが、[[1898年]]から、大量に描かれるようになる<ref>[[#パタン|パタン (1997: 126)]]。</ref>。[[1900年]]までの'''『睡蓮』第1連作'''では、太鼓橋を中心に、睡蓮の池と枝垂れ柳が、光の変化に従って描かれている。1900年11月の「モネ近作展」で、そのうち13点が展示された<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 85-86)]]。</ref>。
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ファイル:Claude Monet, French - The Japanese Footbridge and the Water Lily Pool, Giverny - Google Art Project.jpg|『ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池』1899年。89.2 × 93.3 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/59194.html |title=The Japanese Footbridge and the Water Lily Pool, Giverny |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2016-11-27}}</ref>。
ファイル:Le Bassin aux nymphéas, harmonie rose - Claude Monet.jpg|『睡蓮の池、バラ色の調和』1900年。油彩、キャンバス、90 × 100.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=001174&cHash=4ade88f540 |title=Le bassin aux nymphéas, harmonie rose |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-27}}</ref>。
ファイル:Monet - Monets Garten in Giverny.jpg|『{{仮リンク|ジヴェルニーのモネの庭|en|Le Jardin de l'artiste à Giverny}}』1900年。油彩、キャンバス、81.6 × 92.6 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/fr/collections/catalogue-des-oeuvres/notice.html?nnumid=1176 |title=Le jardin de l'artiste à Giverny |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-01-07}}</ref>(W1624)。
</gallery>
[[1899年]]秋、[[1900年]]2月、[[1901年]]2月 - 4月には、'''[[ロンドン]]'''を再訪した。「[[テムズ川]]の霧の効果」を描くことを試み、[[サヴォイ・ホテル]]から見た'''『[[チャリング・クロス橋 (モネ)|チャリング・クロス橋]]』'''と'''『[[ウォータールー橋 (モネ)|ウォータールー橋]]』'''、{{仮リンク|聖トーマス病院|en|St Thomas' Hospital}}から見た'''『国会議事堂』'''([[ウェストミンスター宮殿]])に集中して連作に取り組んだ。ロンドンでは100点ほどを制作し、ジヴェルニーのアトリエで仕上げた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 121-22)]]。</ref>。これらの連作は、[[1904年]]春にデュラン=リュエル画廊で展示されたが、印象主義の到達点として評価する見方があった一方、セザンヌにならってフォルムを重視する若い世代からは、堅牢さを欠く時代遅れの作品との批判も受けた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 180)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Claude Monet - Houses of Parliament, London.jpg|『{{仮リンク|国会議事堂 (モネ)|en|Houses of Parliament (Monet series)|label=国会議事堂}}』1900 - 01年。油彩、キャンバス、81.2 × 92.8 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/16584 |title=Houses of Parliament, London, 1900/01 |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2016-11-27}}</ref>(W1600)。
ファイル:London, the Houses of Parliament, Sunlight Opening in Fog, by Claude Monet.jpg|『ロンドン、国会議事堂:霧に透けて見える太陽』1904年。油彩、キャンバス、81 × 92 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=1177 |title=Londres, le Parlement. Trouée de soleil dans le brouillard |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-27}}</ref>(W1610)。
ファイル:Le Parlement de Londres Monet.jpg|『国会議事堂、嵐をはらんだ空』1904年。油彩、キャンバス、81.5 × 92 cm。[[リール宮殿美術館]]([[リール (フランス)|リール]])<ref>{{Cite web |url=http://www.pba-lille.fr/en/Collections/Highlights/16th-20th-century-Paintings/Houses-of-Parliament-London |title=Houses of Parliament, London |publisher=Palis Beaux-Arts Lille |accessdate=2016-11-27}}</ref>(W1605)。
ファイル:Monet, Claude - Waterloo Bridge. Effect of Fog.jpg|『ウォータールー橋、霧の効果』1903年。油彩、キャンバス、65.3 × 101 cm。[[エルミタージュ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.hermitage.ru/wps/portal/hermitage/digital-collection/!ut/p/a1/lZDLTsMwEEV_JV1kaWacd5ZWQEiVSiAINfYmch4NbhMnbSzg83F2bAp0VjPSzJ1zLwgoQWj5oXpp1KTlsM4iqnLGIupnuM2z8B5ZXjyHRfb0iDSAPQgQg-6BH-XaNtrM5h34SY5qqTrt4ud0OS3OdHDkxbiI9M6ZpdJG6X5x0UuCFNe7uVEt8Nqv47SVDWmilpIg9DtSyw4JTbsgPUhMvZhaJm6Z8Eox_Bfy7wrcvoivaUQ7D15XjX22q17eHgq7_SOBG5xs_0K1VtXxfBbMBjtp030ZKG9Kdh7HxB9JiUTyxA-Hnm023wCOtSw!/dl5/d5/L2dBISEvZ0FBIS9nQSEh/?lng=ja |title=Waterloo Bridge. Effect of Fog |publisher= The State Hermitage Museum |accessdate=2016-12-13}}</ref>(W1580)。
</gallery>
[[ファイル:Portrait of Claude Monet.jpg|thumb|right|160px|晩年のモネ]]
モネは[[1901年]]、睡蓮の池を拡張する工事を行った。そして、1900年代後半まで、'''『睡蓮』第2連作'''に取り組んだ。ここでは、第1連作の太鼓橋は見えず、池の水面が大きく描かれている。また、当初は睡蓮の花や葉が主なモチーフであったが、次第に水面に移る空や柳の影が主役になっていく<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 86-87)]]。</ref>。1900年から「モネの新連作ならびにピサロ近作展」が開かれる1902年2月までは、ヴェトゥイユでも制作をしている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 120-21)]]。</ref>。
『睡蓮』第2連作は、[[1907年]]に発表が予定されていたが、モネは「人前に出せる作品があまりに少ない」として、デュラン=リュエルに延期を伝えている<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 94)]]。</ref>。モネは、制作中に憂鬱に悩まされることが常であり、キャンバスに怒りをぶつけ、切り裂くこともあった。このときも、展覧会の1か月前に30枚のキャンバスを破壊したことをデュラン=リュエルに明かしている<ref>[[#キング|キング (2018: 47-51)]]。</ref>。[[1908年]]8月には、ジェフロワに対して次のような手紙を送っている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 127)]]。</ref>。
{{Quotation|この仕事に没頭しきっています。水面とそこに映る影に取り憑かれてしまいました。これは私のような老いぼれの能力を超えた仕事です。でも私は私が感じていることを表現したいのです。何枚も描きつぶし、〔……〕また描き始めています。}}
[[1909年]]5月、デュラン=リュエル画廊で「睡蓮、水の風景の連作」と題した個展を開き、『睡蓮』第2連作のうち48点を展示した<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 94)]], [[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 191)]]。</ref>。この展覧会は大成功を収め、ジェフロワ、[[ロマン・ロラン]]、[[レミ・ド・グールモン]]、{{仮リンク|リュシアン・デカーヴ|en|Lucien Descaves}}、{{仮リンク|ロジェ・マルクス|fr|Roger Marx}}らの称賛を集めた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 127-28)]]。</ref>。新聞には、48枚の絵を一体の装飾として保存すべきだという議論も掲載されたが、これをまとめて買い受ける収集家は現れず、多くがアメリカに渡った<ref>[[#キング|キング (2018: 55-57)]]。</ref>。
前後して[[1908年]]10月から12月にかけて、アリスとともに、最後の大旅行となる[[ヴェネツィア]]旅行に出た。[[1912年]]5月から6月にかけて、[[ベルネーム=ジューヌ画廊]]で、大運河、[[サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 (ヴェネツィア)|サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂]]、その他の宮殿などからなる『ヴェネツィアの眺め』29点が展示された<ref>[[#パタン|パタン (1997: 122)]]。</ref>。シニャックはこれをモネの芸術の最高の表現だとして称賛した<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 184)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Claude Monet - Nymphéas (1905).jpg|『睡蓮』1905年。油彩、キャンバス、89.5 × 100.3 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/water-lilies-32724 |title=Water Lilies |publisher=The Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2016-11-27}}</ref>(W1671)。
ファイル:Claude Monet - Waterlilies - Google Art Project (hgEnPzjBK2STHg).jpg|『睡蓮』1907年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。[[DIC川村記念美術館]]<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 90)]]。</ref>(W1706)。
ファイル:Claude Monet - Water-Lilies (Bridgestone Museum).jpg|『睡蓮の池』1907年。油彩、キャンバス、100 × 73 cm。[[アーティゾン美術館]]<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 92)]]。</ref>(W1715)。
ファイル:Claude Monet - Twilight, Venice.jpg|『黄昏、ヴェネツィア』1908年ごろ。油彩、キャンバス、アーティゾン美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_01/ |title=印象派とその周辺 |publisher=ブリヂストン美術館 |accessdate=2016-11-27}}(リンク切れ)</ref>(W1769)。
</gallery>
==== 「睡蓮」の部屋(最晩年) ====
[[ファイル:Georges Clemenceau et Claude Monet.jpg|thumb|left|140px|クレマンソーとモネ(1921年)]]
モネは、1909年の個展のとき、『睡蓮』で一室を装飾するという計画を考えついた。しかし、老化にともない視力の低下という問題に直面した<ref group="注釈">モネが視力の悪化に気付いたのは1908年頃とされており、1912年には[[白内障]]との診断を受けた([[#安井|安井 (2010: 55)]])。</ref>。さらに[[1911年]]5月には妻アリスが亡くなり、[[1914年]]2月には長男ジャンが亡くなるという不幸に見舞われた<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 99)]]、[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 184)]]。</ref>。印象派の同志たちも次々世を去っていった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 130)]]。</ref>。絵具の色も判別できないという絶望の中、多数の絵を引き裂いたため、1909年から1914年までの絵はほとんど残っていない<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 204)]]。</ref>。モネは、気分転換のため、ジヴェルニーの自宅に、彫刻家のロダン、[[ジョン・シンガー・サージェント|サージェント]]、詩人の[[ポール・ヴァレリー]]、画商のデュラン=リュエル、ベルネーム、劇作家[[サシャ・ギトリ]]夫妻、日本の[[黒木三次]]夫妻、政治家[[ジョルジュ・クレマンソー]]といった友人を招き、特に園芸と料理の話題を楽しんだ<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 184-85)]]。</ref>。アリス死後は、その娘ブランシュ(ジャンの妻でもあった)がモネを精神的に支えた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 199)]]。</ref>。
[[ファイル:Choumoff - Claude Monet devant son oeuvre Les nymphéas.jpg|thumb|right|200px|制作中の「睡蓮」の前に立つモネ(1920 - 26年)。大装飾画のために建てた高さ15メートルの巨大なアトリエであった<ref>[[#安井|安井 (2010: 61)]]。</ref>。]]
[[1914年]]、大画面作品を描くための新しいアトリエを建て、制作を再開した<ref name="名前なし-22">[[#六人部|六人部 (2001: 99)]]。</ref>。この年、モネ作品14点を含む収集家[[イザック・ド・カモンド]]伯爵の遺品コレクションがルーヴル美術館に収蔵されることになったが、これは、死後10年たたないとルーヴルに展示されないという原則からすると異例のことであった。モネは、ルーヴルに招かれ、特別室に展示される自作を目にした<ref>[[#キング|キング (2018: 69-74)]]。</ref>。[[第一次世界大戦]]中の1915年初め、友人への手紙で、大装飾画を目指していることを初めて明かしている<ref>[[#キング|キング (2018: 105-06)]]。</ref>。[[1917年]]、通産大臣{{仮リンク|エティエンヌ・クレメンテル|fr|Étienne Clémentel}}がジヴェルニーを訪れ、ドイツ軍の爆撃を受けて破壊された[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]を描き、その蛮行を明らかにしてほしいとの依頼をし、モネはこれを了承したが、実際には現地は爆撃が続き、制作に着手することは難しかった。ただ、政府との関係ができたことで、物資欠乏の戦時下で、ガソリンや石炭を回してもらう便宜を受けることができた<ref>[[#キング|キング (2018: 157-61, 174)]]。</ref>。その間、アトリエで、高さ2メートル、幅4.3メートルの巨大なキャンバスを横に4枚つなげて'''『睡蓮』大装飾画'''の制作を続けた<ref>[[#キング|キング (2018: 175-76)]]。</ref>。戦争が終わった[[1918年]]、友人で当時の首相[[ジョルジュ・クレマンソー]]に、勝利を祝って、国に一連の大装飾画を寄贈することを約束した<ref name="名前なし-21"/>。当初は、現在の[[ロダン美術館 (パリ)|ロダン美術館]](ビロン邸)の庭に円形パビリオンを設置し、幅4メートルのキャンバスが12枚取りつけられる計画であった。しかし、建物建設にかかる費用の問題などで当初の計画は修正を迫られ、モネは制作自体を断念しかけた。クレマンソーがモネを強く説得し、1921年4月、[[オランジュリー美術館]]の2つのホールに収容する計画で了承させた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 206-07)]]、[[#キング|キング (2018: 243-48, 253-54)]]。</ref>。
こうして、[[1922年]]4月、モネの弁護士と建築家、政府当局との間で寄贈契約が署名された。その内容は、19枚のパネル(作品8点)を2年以内にオランジュリーのモネ・ギャラリーに納入するというものであった<ref>[[#パタン|パタン (1997: 129)]]、[[#キング|キング (2018: 275)]]。</ref>。しかしその後、[[白内障]]のため失明の危機に直面し、クレマンソーは仕事を放棄しようとするモネを励まし続けた。[[1923年]]、ようやく右目の白内障の手術を受け、視力はある程度回復した<ref>[[#パタン|パタン (1997: 129-30)]]、[[#キング|キング (2018: 296-308)]]。</ref>。当初約束していた引渡し期限を延期し、残りの生涯をかけて『睡蓮』大装飾画の制作に没頭した<ref name="名前なし-22"/>。[[1924年]]、ジョルジュ・プティ画廊で、生存中最大の回顧展が開催された<ref name="名前なし-23">[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 207)]]。</ref>。
[[1926年]]の夏の終わり、肺硬化症<ref group="注釈">[[#キング|キング (2018: 338)]]によれば、モネには肺硬化症と告知されたが、レントゲン写真では[[肺癌]]が写っており、クレマンソーは本当の病名をモネに伝えなかったという。</ref>で病床につき、12月5日正午に86歳で永眠した<ref name="名前なし-23"/>。息子のミシェルや、ブランシュ、クレマンソーが彼を看取った<ref>[[#キング|キング (2018: 339)]]。</ref>。『睡蓮』大装飾画は、[[テュイルリー公園]]内の[[オランジュリー美術館]]に収められ、[[1927年]]5月17日、除幕式が行われた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 131)]]。</ref>。『睡蓮』の部屋は、モネの考えに従って、楕円形の2つの部屋からなり、それぞれ4点の大画面作品で構成されている<ref name="名前なし-22"/>。
モネの晩年には、[[フォーヴィスム]]、[[キュビスム]]など、次々に新しい芸術潮流が生まれており、当時『睡蓮』を顧みる人は少なかった。クレマンソーは、1927年6月、「昨日、オランジュリー美術館を訪れたが、誰一人としていなかった」と書いている。しかし、1950年代になると、[[ジャクソン・ポロック]]など[[抽象表現主義]]の画家・批評家がモネを引き合いに出すようになり、改めて注目を浴びるようになった<ref>[[#安井|安井 (2010: 76)]]。</ref>。[[アンドレ・マッソン]]は、『睡蓮』大装飾画を「印象主義の[[システィーナ礼拝堂]]」と呼び、すべての現代人に見ることを勧めた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 208)]]。</ref>。
<gallery>
ファイル:Claude Monet - Water Lilies - Google Art Project (462013).jpg|『睡蓮』1916年。油彩、キャンバス、200.5 × 201 cm。[[国立西洋美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0151.html |title=睡蓮 |publisher=国立西洋美術館 |accessdate=2017-01-07}}</ref>。大装飾画のための大型の習作<ref>[[#安井|安井 (2010: 69)]]。</ref>(W1800)。
ファイル:Monet_-_water-lily-pond-3.jpg|『睡蓮の池』1918–19年。73 × 105 cm。[[マルモッタン・モネ美術館]]。抽象表現への芸術的深化と同時に、[[白内障]]の影響も否定できない<ref>{{Cite web |url=https://impressionistarts.com/did-claude-monet-go-blind-from-cataracts/#3 |title=Monet's Art during the Cataract Years |publisher=Impressionist Arts |accessdate=2022-07-01}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4408507/ |title=The effect of cataracts and cataract surgery on Claude Monet |publisher=British Journal of General Practice |date=2015-4-27 |accessdate=2022-07-01}}</ref>。
ファイル:Musée de l'Orangerie February 28, 2009.jpg|[[オランジュリー美術館]]の「睡蓮」の部屋。
ファイル:Musée de l'Orangerie plan en.svg|オランジュリー美術館の平面図。2つの睡蓮の部屋が並んでいる。
</gallery>
{| class="wikitable" style="margin:0 auto"
| [[ファイル:Claude Monet - The Water Lilies - The Clouds - Google Art Project.jpg|425px]] ||『雲』200 × 1,275 cm。
|-
| [[ファイル:Claude Monet - The Water Lilies - Morning - Google Art Project.jpg|425px]] ||『朝』200 × 1,275 cm。
|-
| [[ファイル:Claude Monet - The Water Lilies - Clear Morning with Willows - Google Art Project.jpg|425px]] ||『柳のある明るい朝』200 × 1,275 cm。
|}
== 作品 ==
=== カタログ ===
モネの作品については、[[ダニエル・ウィルデンシュタイン]]が、[[1974年]]以降、4巻および補遺からなる[[カタログ・レゾネ]]を刊行している。ここには、油彩2,000点、デッサン500点、パステル画100点を超える作品が時系列順に収録されており、[[ウィルデンシュタイン作品番号]]が付されている<ref>{{Cite web |url=https://wpi.art/2019/01/14/claude-monet/ |title=Claude Monet: Biographie et catalogue raisonné |publisher=Wildenstein Plattner Institute |accessdate=2019-05-26}}</ref>。
そのうち、「睡蓮」の作品群は約300点にも及ぶ<ref>[[#安井|安井 (2010: 54)]]。</ref>。
作品を収蔵するおもな美術館には、フランスの[[オルセー美術館]]、[[マルモッタン・モネ美術館]]、[[オランジュリー美術館]]、アメリカの[[メトロポリタン美術館]]、[[ボストン美術館]]、[[シカゴ美術館]]などがある<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 116-17)]]。</ref>。
=== 時代背景、画風 ===
==== 印象派前史 ====
[[ファイル:Jean-Auguste-Dominique Ingres - La Baigneuse Valpinçon.jpg|thumb|right|120px|[[ドミニク・アングル|アングル]]『[[浴女]]』(1808年)]]
19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、[[芸術アカデミー]]と[[サロン・ド・パリ]]を牙城とする[[アカデミズム絵画]]であった。その主流を占める[[新古典主義]]は、[[古代ギリシア]]において完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確な[[デッサン]](輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上34-36)]]。</ref>。ジャンルによる価値の優劣も厳然としてあり、[[歴史画]]や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、[[肖像画]]や[[風景画]]は低俗なジャンルとされていた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上52)]]。</ref>。
[[ファイル:WomenofAlgiers.JPG|thumb|left|180px|[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]『[[アルジェの女たち]]』(1834年)]]
これに対して、[[ロマン主義]]を代表する[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]は、豊かな色彩表現をもって、新古典主義の巨匠[[ドミニク・アングル]]に対抗した。その明るい色彩は、のちの印象派に大きな影響を与えた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上47)]]。</ref>。
[[ファイル:Haystacks Autumn 1873 Jean-Francois Millet.jpg|thumb|right|180px|[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]『積みわら:秋』(1874年ごろ<ref group="注釈">油彩、キャンバス、85.1 × 110.2 cm。[[メトロポリタン美術館]]。{{Cite web |url=http://www.metmuseum.org/art/collection/search/437097 |title=Haystacks: Autumn |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2016-12-04}}</ref>)]]
その次の世代として、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]は、「自分の前に見えるものをできるだけ丹念に描き出す」ことを目標に、優れた風景画や人物画を残した<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上55-58)]]。</ref>。[[ジャン=フランソワ・ミレー]]や[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]といった[[バルビゾン派]]の画家たちも、公式の美術界からは軽視されたものの、ロマン派的な情熱を受け継ぎつつ、緻密な自然観察による風景画を生み出し、印象派への道を準備した<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上58-61)]]。</ref>。その背景には、神話的なテーマを好んだ貴族に代わり、分かりやすい風景画を好む市民階級が成長してきたことがあった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 19)]]。</ref>。
さらに、1850年代に『[[オルナンの埋葬]]』を発表した[[ギュスターヴ・クールベ]]は、表現技法においては伝統的な造形を踏襲していたが、歴史画を上位とする価値観に公然と異を唱え、「眼に見えるものしか描かない」という信念の下、近代的な主題を描いた。その反逆精神は、印象派の若い画家たちを魅了した<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上63-71)]]。</ref>。
[[エドゥアール・マネ]]は、1860年代に『[[草上の昼食]]』や『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』を発表し、近代パリの頽廃した風俗を赤裸々に描いた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 74-76, 85-87)]]。</ref>。これらの絵は、風紀上の理由で激しく非難されたが、技法面では、伝統的な陰影による肉付法を行わず、平面的な塗り方をしている点も革新的であった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上76-77)]]。</ref>。
==== 戸外制作 ====
[[ファイル:Renoir-Monet painting.png|thumb|left|200px|[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]『アルジャントゥイユの庭で制作するモネ』(1873年)]]
モネに代表される印象派は、こうした反アカデミズムの流れの中で登場してきた<ref name="名前なし-6"/>。モネは、クールベの写実主義的態度を受け継ぎ、自然に対する観察に向かった。もっとも、クールベにとって森や川といった自然が客観的に存在するものであったのに対し、モネたち印象派の画家にとっては、自然は自己の感覚に反映されたものであり、彼らはその「印象」、つまり主観的な感覚世界をキャンバスに再現することを追求した<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上85-87)]]。</ref>。
モネが自然の印象を正確にとらえるためにとった制作手法が[[戸外制作]]であった。モネはこの手法を先輩[[ウジェーヌ・ブーダン]]から学んだ<ref name="名前なし-3"/>。モネは、画家として目覚めた日のことを次のように回想している<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 52)]]。</ref>。
{{Quotation|ブーダンは画架を立て、制作にとりかかった。私は、それを見るともなく見ていたが、やがて注意を引きつけられた。そして突然、ヴェールが引き裂かれたのだ。私は理解した。絵画に、どれほどのことがなし得るかということを理解したのだ。確固たる独立心をもって自身の芸術に献身するこの画家の、制作風景をたった一度見ただけで、私は画家となるべく運命づけられたのである。}}
[[ファイル:Courbet LAtelier du peintre.jpg|thumb|right|200px|[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]『[[画家のアトリエ]]』(1855年)]]
こうした戸外制作を可能にしたのが、1840年代にイギリスで発明された、ネジ式の蓋を持つ金属製チューブ入り絵具であった。1820年代までは、画家がアトリエで自ら絵具を調合するか、豚の[[膀胱]]で作った袋で業者から購入しなければならず、保存性が悪かった。1820年代に注射筒状の容器が発明されたが、洗浄が大変であった。そのため油彩画はアトリエで仕上げるのが当然であった<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 47-50)]]。</ref>。チューブ入り絵具の発明により、戸外にイーゼルを立て油彩画を仕上げることができるようになり、バルビゾン派がいち早くこれを実践していた<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 48)]]。</ref>。しかし、当時一般的な手法とはなっておらず、クールベも、『画家のアトリエ』の中で、アトリエで風景画を制作する様子を描いている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 165)]]。</ref>。
戸外制作は、物の描き方に革命をもたらした。古典的な絵画は、明から暗へゆっくり移行する陰影を付けて物の丸みと立体感を出す肉付法をとっていたが、それは、アトリエの窓から差し込む光が物に当たってできる、なだらかな陰を前提としたものであった。しかし、戸外の太陽の光の下では、強烈な明暗のコントラストが生じ、明から暗へのなだらかな移行は見られず、物が平板に見えるし、陰の部分も、単なる黒や灰色ではなく、周りの物から光が反射して、色彩が感じられる。このことに気付いたのは、マネと、モネたち印象派の画家たちであった<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 390-93)]]。</ref>。彼らは、物にはそれぞれ固有色があるという約束事から自らを解放し、目に映る色彩を自由に描くようになった<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 42-43)]]、[[#高階・名画|高階 (1971: 6)]]。</ref>。
モネは、戸外制作を本格的に始めたのは自分だという自負を持っており、1900年に次のように述べている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 202)]]。</ref>。
{{Quotation|私は戸外制作を始め、没頭するようになった。当時、戸外制作を存分に試みた画家はまだ誰もいなかった。そのマネですら、試みてはいない。マネが戸外制作を行うようになったのは、後のことで、私のほうが先だった。}}
もっとも、特に後期の連作では、屋外でのスケッチにアトリエで手を加えている。晩年の「睡蓮」大装飾画では、池で描いた大型の習作を基に、アトリエで想像力による再構成を行っている<ref>[[#安井|安井 (2010: 48)]]。</ref>。
==== 筆触表現と色彩分割 ====
{{Multiple image
| align = left | direction = vertical | width = 160
| image1 = Claude Monet La Grenouillére.jpg
| image2 = La Grenouillère (Auguste Renoir) - Nationalmuseum - 19486.tif
| footer = モネの『ラ・グルヌイエール』(1869年、前掲=上)とルノワールの『ラ・グルヌイエール』(同年)<ref group="注釈">油彩、キャンバス、66.5 × 81 cm。[[スウェーデン国立美術館]]。{{Cite web |url=http://collection.nationalmuseum.se/eMuseumPlus?service=ExternalInterface&module=collection&objectId=19486&viewType=detailView |title=La Grenouillère |publisher=Nationalmuseum |accessdate=2016-12-04}}</ref>。
}}
モネは、自然の中では、雲が太陽を遮ったり、風が水面を揺らしたりするたびに、物([[話題|モチーフ]])の見え方が刻々と変化することに注目した。そのような中で、これぞという局面をとらえようとすれば、それまでの画家のように、絵具を混ぜて調合したり、茶色の地塗りの上に何層も重ね塗りをしたりしている余裕はなく、素早い筆さばきで絵具を直接キャンバスに置いていくことになった。細部よりも、全体の効果に気を遣うことになった<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 395)]]。</ref>。生乾きの絵具の上に絵具を塗り重ねるため({{仮リンク|ウェット・オン・ウェット|en|Wet-on-wet}})、絵筆の先で絵具が混ざり、'''筆触'''(タッチ)が生々しく残ることになる。それが制作の過程の臨場感や新鮮さをもたらしている<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 40, 56-57)]]。</ref>。すなわち、絵肌(マチエール)自体が、画家の手の動きを伝える<ref name="名前なし-24">[[#六人部|六人部 (2001: 44)]]。</ref>。しかし、凝った構図、写実的なデッサン、なめらかな仕上げの細部を重視するアカデミズム絵画から見れば、稚拙で未完成なものと受け取られ、嘲笑の理由となった<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 12-13)]]。</ref>。
絵具をパレットで混ぜないことは、[[色]]の明度を落とさないためにも必要なことであった。ある色を作り出すために複数の絵具を混ぜると、色の明度が落ちて画面が暗くなり、戸外の光の明るさを表現することができなくなってしまう。これに対し、原色の絵具をできるだけ混ぜず、限られた色数だけで、細かな筆触(タッチ)をキャンバスに並べると、見る者の視覚の中で色が混ざり(視覚混合)、明度も落ちない。こうした手法は、モネがルノワールとともに『[[ラ・グルヌイエール]]』を描いたころから確立していったものである<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 104, 116-19)]]、[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上94-96)]]。</ref>。'''[[筆触分割]]'''または'''色彩分割'''と呼ばれる手法であり、のちに[[新印象派]]の画家たちがこれを科学理論に基づいて体系化することになったが、印象派の画家たちは感覚に基づいてこれを用いた<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 43)]]。</ref>。その結果、印象派の画面は、バルビゾン派、クールベ、マネといった先人の画面と比べ、格段に明るく輝かしいものとなった<ref>[[#高階・名画|高階 (1971: 9-10)]]。</ref>。同時に輪郭線は思い切ってぼかす方向に進んだ。絵を間近から見るだけでは、いい加減な混乱した筆の跡しか見えないが、2、3メートル離れて見ると、突然画面が息づいて見えてくるのであり、これは印象派の画家たちが発見した新たな視覚体験であった<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 399)]]。</ref>。
当時、これを理解できなかったルイ・ルロワは、モネの『[[キャピュシーヌ大通り (モネ)|キャピュシーヌ大通り]]』に黒い点で描かれた群衆を見て、「画面の下の方の、まるで黒いよだれのような、あの無数の縦長のものは一体何なのだ」と嘲笑したが、{{仮リンク|エルネスト・シェノー|fr|Ernest Chesneau}}は、「埃と光の中のおびただしい数の群衆の動き、道路の上の馬車と人々の雑踏、大通りの木々の揺れ、つまりとらえがたいもの、移ろいやすいもの、すなわち運動の瞬間なるものが、その流れ去る性質のままに描き留められた」ものだとして、モネの意図を捉えた<ref name="名前なし-24"/>。その視覚体験の前では、威厳のある主題とか、バランスのとれた構図とか、正確なデッサンといった古い概念は、もはや何の意味も持たなかった<ref name="名前なし-25">[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 400)]]。</ref>。
==== 連作の時代 ====
モネは、自然の中の物や人物が光の作用によってさまざまな変化を見せるという発見をもとに、同じモチーフをさまざまな光の下で描くという連作に進んでいった。1865年、エトルタでモネと知り合った[[ギ・ド・モーパッサン]]は、制作中のモネの様子を、「5、6枚のキャンバスは、同じ題材について、さまざまな時間の異なった光の効果を描き留めるものである。天候が変化するのに従って、彼はそれらのキャンバスを順次取り上げるのだった」と紹介している。こうした制作手法は、後の連作につながっていったと考えられる<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 59)]]。</ref>。
ジヴェルニー時代に『[[積みわら]]』を描いたとき、30分もすれば光が微妙に変化して積みわらの色が別のものに変わっているのに気付き、それを別のキャンバスに描くことになり、多数の連作を生むことになったという<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上108-09)]]。</ref>。さらに、『ルーアン大聖堂』や『ロンドンの橋』の連作では、光の効果が更に支配的となっている。モネは、ルーアン大聖堂の向かいの部屋にいくつものキャンバスを並べ、朝から夕暮れまでそれぞれのキャンバスに向かったと伝えられている。その代わり、建物の質感や明確な形態は光の波の中に飲み込まれてしまっている<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上109)]]。</ref>。同時に、明確な形態把握を必要とする人物像は、モネの画面から消えていく<ref>[[#高階・名画|高階 (1971: 11-12)]]。</ref>。現実の再現というよりは、より主観的な感覚と記憶をテーマとする絵画に向かっており、[[世紀末芸術]]の時代に盛り上がってきた[[象徴主義]]や[[アール・ヌーヴォー]]といった潮流との親近性が見られる<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 176, 194-99)]]。</ref>。保守派の美術史家[[ケネス・クラーク]]は、石造の大聖堂が光と色彩に溶融する様子を「溶けたアイスクリーム」と批判した<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 180)]]。</ref>。もともと写実主義的な意図に発していながら、光の表現のために、現実世界に確かに存在する形態や質感を犠牲にせざるを得なかったことは皮肉であり、写実主義の破産を示すものといえる<ref name="名前なし-26">[[#高階・絵画史|高階 (1975: 下180-81)]]。</ref>。
連作の時代には、光の当たったモチーフよりも、光そのものが主役の位置を占めるようになっていく<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上108)]]。</ref>。[[オクターヴ・ミルボー]]が、「彼の自然との交感(コレスポンダンス)は、他の人々より、もっと直接的である。もっとも賞賛される芸術家とは、自然が隠している神秘にもっとも近づいた人であり、またもっとも謙虚な人である」と評しているが、この時代のモネが体験した光とは、モチーフだけでなく画家自身をも包み、自然との交感をもたらす崇高性を帯びたものであったと解釈される<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 68-77)]]。</ref>。
造形においても、印象主義の時代のような強いコントラストを避け、色彩の調和を重んじるようになった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 176)]]。</ref>。また、画面全体を均一な筆触で覆うようになった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 178)]]。</ref>。
最晩年の『睡蓮』連作では、橋や藤の枝といったモチーフが次第に画面からなくなり、池の水面のみを描くようになった。そして、水面に映し出される光の揺らぎを追求し続けた。モネは手紙の中で、水と反射光だけが絶えず頭の中を去来すると書いている<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上109)]]、[[#西岡|西岡 (2016: 181)]]。</ref>。オランジュリー美術館の「睡蓮」大装飾画では、幻想的な色と光の世界が生み出されている<ref name="名前なし-27">[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上110)]]。</ref>。訪れた人は、楕円形の部屋の中で、水の広がりに包まれ、水面下の深みへ引き入れられるような体験をすることになる<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 108)]]。</ref>。
==== ジャポニスム ====
{{Multiple image
|align = right |direction = horizontal
|image1 = Claude Monet - Rue de la Bavole, Honfleur - Google Art Project.jpg |width1 = 145
|image2 = Hiroshige, Night View of Saruwaka-machi.jpg |width2 = 90
|footer = (左)モネ『オンフルールのバヴォール街』(1864年ごろ<ref group="注釈">油彩、キャンバス、55.9 × 61.0 cm。[[ボストン美術館]]。{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/rue-de-la-bavole-honfleur-33309 |title=Rue de la Bavole, Honfleur |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2017-01-08}}</ref>)<br>
(右)[[歌川広重]]『[[名所江戸百景]] 猿わか町よるの景』(ジヴェルニー、モネ・コレクション)
}}
[[1854年]]に[[日本]]が[[開国]]すると、1862年ごろ日本の美術品がパリの店頭に登場し、1867年に[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]が開かれるなど、パリにも日本美術が伝播してきた。1870年代から1880年代には、パリを中心に日本ブームが巻き起こった<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: )]]。</ref>。フランスの美術や工芸は、エキゾティックな関心から、[[浮世絵]]などに表れたモティーフを作品に取り込むようになり、これをジャポネズリー(日本趣味)という。これに対し、構図や空間表現、色彩など、造形のさまざまな要素において日本美術からヒントを得て、新しい視覚表現を追求したことを[[ジャポニスム]]という<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: 10-11)]]。</ref>。1860年代に修行時代を過ごした印象派の画家たちは、日本美術に触れる機会を持ち、その影響を受けたことが指摘されている<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: 106)]]。</ref>。
モネも多数の浮世絵のコレクションを保有しており、ジヴェルニーの家には浮世絵を飾っていた<ref group="注釈">現在確認されているところで292点の浮世絵コレクションがあり、その一部は、現在もジヴェルニーの家の食堂、寝室、階段などに飾られている([[#安井|安井 (2010: 37)]])。</ref>。モネが浮世絵のコレクションを始めた時期については諸説あり、早いものでは少年時代の1856年ごろ、別の説では1871年のオランダ旅行のときとされるが、モネが浮世絵の魅力を知ったのは、パリで浮世絵が商品として買えるようになった1862年以降というのが有力な説である<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: 111-13)]]。</ref>。
{{Multiple image
|align = left |direction = horizontal
|image1 = Bordighera.jpg |width1 = 130
|image2 = Tokaido16 Yui.jpg |width2 = 155
|footer=(左)モネ『ボルディゲーラ』(1884年<ref group="注釈">油彩、キャンバス、65 ×80.8 cm。[[シカゴ美術館]](W854)。{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/81537 |title=Bordighera |publisher=The Art Institute of Chicago |accessdate=2017-01-08}}</ref>)<br>(右)広重『[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]] 由井』(ジヴェルニー、モネ・コレクション)
}}
モネの1860年代の町の風景画には、[[歌川広重]]や[[葛飾北斎]]と酷似しているものがあり、たとえば『[[オンフルール]]のバヴォール街』では、広い前景から道が急速に後退し、右に消えていくが、これは、西洋の[[遠近法]]を修正した広重の『[[名所江戸百景]] 猿わか町よるの景』における手法と似ている。ほかにも、『王女の庭』における俯瞰する構図、『サン=タドレスのテラス』や『かささぎ』に見られる画面を上下に分断する水平線・地平線などは、それまでのヨーロッパの風景画にはほとんど見られず、浮世絵にヒントを得て現実の視覚体験を表現したものであることが指摘されている<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: 113-18)]]。</ref>。
1870年代には、妻カミーユに日本の着物を着けさせて団扇などの日本のモティーフを描き込んだ『[[ラ・ジャポネーズ]]』が典型的なジャポネズリー(日本趣味)の作品であるが、こうした着想はマネや[[ジェームズ・マクニール・ホイッスラー]]にならったものであり、特に目新しいものではない。また、こうしたあからさまな日本趣味はこの1点だけである<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: 64-66)]]。</ref>。
{{Multiple image
|align = right |direction = horizontal
|image1 = 15 Sagami n.jpg |width1 = 100
|image2 = The Famous Scenes of the Sixty States 67 Satsuma.jpg |width2 = 100
|footer=(左)広重『[[六十余州名所図会]] 相模江之嶋 岩屋ノ口』<br>(右)同『薩摩坊ノ浦 雙剣石』(いずれもジヴェルニー、モネ・コレクション)
}}
むしろ1880年代半ば以降に、画面のモティーフを厳選し、近景と遠景とを組み合わせるといった新しい工夫が次々現れる。1884年の南仏旅行では、起伏に富んだ景観を基に、近景のそそりたつ斜面と遠景とを組み合わせた構図、前景をふさぐ木の幹と枝越しに見える町並みを組み合わせた構図などを採用しているが、浮世絵に着想を得たものと考えられる<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: 118-121)]]。</ref>。さらに、1885年のエトルタ、1886年のベル=イル島での海景画では、モティーフを奇岩と海だけに厳選しているが、こうした構図も、[[昇亭北寿]]の『勢州二見ヶ浦』や広重の『[[六十余州名所図会]]』(いずれもジヴェルニー、モネ・コレクション所蔵)と酷似している<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: 121-30)]]。</ref>。1887年の『舟遊び』での視点の高さとモティーフの切り方は、ジャポニスムの成熟の表れと見られる<ref>[[#ジャポニスム学会|ジャポニスム学会 (2000: 39)]]。</ref>。晩年の『睡蓮』大装飾画は、少ない自然のモティーフを使った装飾空間で観る者を包み込み、自然との一体感を演出するという点で、日本の障壁画(特に[[襖絵]])と共通する発想であるとの指摘もされている<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: 138-39)]]。</ref>。もっとも、自然のモティーフを使いながらも自然観察に重きを置かない日本の襖絵と異なり、モネは、装飾的であると同時に、自然観察に忠実であることを追求している<ref>[[#馬渕|馬渕 (1997: 139)]]。</ref>。
=== 評価と影響 ===
==== 印象主義の体現 ====
モネは、印象派を代表する画家とされている。モネは自ら「私はいつも理論は嫌悪してきた。私がやったことといえば、直接自然を前にして、きわめて逃げ去りやすい効果に対する私の印象を正確に表現しようと努めながら描き続けたということだけだ」と述べるように、印象派グループの理論や体系を打ち立てたわけではないが、鋭敏な観察力と感受性をもって、絶え間なく変わり続ける風景に対する印象をとらえ、表現しようとした彼の作品は、印象派の美学を体現するものとなった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上104-05)]]。</ref>。[[ベルト・モリゾ]]は、モネの作品について「彼の絵を見れば、日傘をどちらの方に向ければよいか、すぐ分かる」と述べている<ref name="名前なし-27"/>。また、[[ポール・セザンヌ]]は晩年、「モネはひとつの眼だ。絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽するよ」と語り、モネへの敬意を表している<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 244)]]。</ref>。
印象派の絵は、当初はアカデミズム絵画の理想に程遠いことから嘲笑・酷評されたが、ついに革命に勝利したといえる。モネは、ルノワールとともに長生きし、その成果を十分味わうことができた。印象派の絵は価格が高騰し、各国の美術館や収集家が競って欲しがる宝物となっていった。このことは、美術批評の権威を失わせ、印象派に続く画家たちにも、世に迎え入れられなくても革新的な方法を追求するための勇気を与えた<ref name="名前なし-25"/>。
==== フォーマリズムと抽象絵画への道 ====
[[ファイル:1920-22 Claude Monet The Japanese Footbridge MOMA NY anagoria.JPG|thumb|right|180px|『日本の橋』1920 - 22年ごろ<ref group="注釈">油彩、キャンバス、89.5 × 116.3 cm。[[ニューヨーク近代美術館]]。{{Cite web |url=http://www.moma.org/collection/works/79254 |title=The Japanese Footbridge |publisher=The Museum of Modern Art |accessdate=2017-01-07}}</ref>。モネ晩年の激しい筆触は、[[抽象表現主義]]の画家・批評家から、共通点があると受け止められた<ref name="名前なし-28">[[#安井|安井 (2010: 76-77)]]。</ref>。]]
[[ルネサンス美術]]以来の伝統的な西洋絵画が、3次元空間における主題や物語を画面上に構築しようとしてきたのに対し、マネや印象派の絵画作品では、2次元の画面における色彩や筆触といった造形的な要素それ自体が、描かれた対象を差し置いて自律的・表現的な役割を持ち始めた。この傾向はフォーマリズム(形式主義)あるいはモダニズムと呼ばれる<ref>[[#三浦|三浦 (2016: 120-21)]]。</ref>。モネの印象主義の作品においては、無造作に置かれたように見える筆触が、光の反射や水のゆらめきを生き生きと伝えるという表現性を獲得している<ref>[[#三浦|三浦 (2016: 142)]]。</ref>。
さらにモネは、連作の時代においては、前述のように形態を放棄し、光の観察の追求に向かっており、色彩の自律性・表現性は深化している。逆に言えば、[[写実主義]]の限界を露呈するものであった<ref name="名前なし-26"/>。このようなフォーマリズムを推し進めていった帰結として、[[ワシリー・カンディンスキー]]らの生み出した[[抽象絵画]]をとらえることができる<ref>[[#三浦|三浦 (2016: 160)]]。</ref>。1895年に[[モスクワ]]でモネの『積みわら』を見たカンディンスキーはこれに衝撃を受け、「描く行為は、目覚ましい力と素晴らしさを持ったものと思われるようになる一方で、無意識のうちに、絵画にとって対象が不可欠な要素であるとは信じられなくなったのだった」と語っている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 400)]]。</ref>。[[ジャクソン・ポロック]]ら[[抽象表現主義]]の画家たちもモネの晩年の作品を高く評価したが、それはフォーマリズムの立場に立ったものであった<ref>[[#島田|島田 (2011: 25)]]。</ref>。
==== 影響を与えた画家 ====
抽象表現主義に属する[[サム・フランシス]]は、モネの『睡蓮』に影響を受けたことを認めている。[[アンディ・ウォーホル]]は、オランジュリー美術館に感銘を受け、パリでの個展を多数の花の絵で飾った。[[ロイ・リキテンスタイン]]は、『ルーアン大聖堂』などの連作を引用したシリーズを制作した<ref name="名前なし-28"/>。
==== 日本での受容 ====
モネと最初に親交を持った日本人は、パリの日本人画商[[林忠正]]であった。モネは林から浮世絵を入手し、林もモネの絵を購入したり、日本人による購入を仲介したりしたが、第一次世界大戦前の時期には、日本にはモネの作品はほとんどもたらされることはなかった<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 151-56)]]。</ref>。1880年代後半から1890年代初めにかけてパリに留学した[[黒田清輝]]や[[久米桂一郎]]は、印象派嫌いの[[ラファエル・コラン]]に師事したこともあり、当時印象派への関心は薄かった<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 157-63)]]。</ref>。1895年、[[森鷗外]]と新聞記者の吉岡芳陵との美術論争でモネの名前が言及されているが、鴎外も吉岡もモネの作品の現物を見たことがなかったと思われる<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 164-69)]]。</ref>。
1900年以降、フランスで印象派の評価が確立したのを受けて、黒田や久米が日本で印象派について紹介するようになり、日本でのモネの理解は徐々に浸透していった<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 170-73)]]。</ref>。[[1910年]]に創刊された雑誌『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』では、[[ポスト印象派]]の[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]や、[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]がおもに取り上げられており、日本の芸術家の間では、モネはむしろ過去の画家という扱い方がされた<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 181-87)]]。</ref>。しかし、第一次世界大戦後、日本人コレクターの間ではモネが一大ブームとなった。[[1918年]]以降フランスに滞在した[[黒木三次]]と、その妻黒木竹子は、ジヴェルニーのモネ邸を訪れるなど親交を持ち、その縁でジヴェルニーを訪れる日本人は多かった。その1人[[松方幸次郎]]も、モネの信頼を得て多くの作品を譲り受けた<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 187-96)]]。</ref>。
=== 市場での高騰 ===
モネが経済的に苦労していた1870年代、彼の静物画が780[[フランス・フラン|フラン]](31[[スターリング・ポンド|ポンド]]5[[シリング]])で売れたという記録がある。1886年にニューヨークでの印象派展覧会が開かれてから、市場での評価は徐々に高まり、1890年代には100ポンド台に達した。1890年代末には、800ポンド台に達するものも出てきて、モネは富裕な大家としての地位を確立した。[[1918年]]、『[[ラ・ジャポネーズ]]』を画商が6,000ポンドで買い取ったのが、[[第二次世界大戦]]前の最高価格であった。ただ、ルノワールと比べるとずっと低い評価であった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 111-12)]]。</ref>。
1950年代、スイスの美術館が晩年の『睡蓮』を展示したのを機に、モネの再評価(リヴァイヴァル)が始まった<ref name="名前なし-28"/>。モネ作品はさらに高騰し、1950年代末から、1万ポンド台に達するのが恒常的となった。1967年には、『サン=タドレスのテラス』が58万8,000ポンドで売れるなど、ルノワールと完全に並んだ。[[1983年]]には『睡蓮』が150万ポンド(5億6,052万円)で売れ、驚きをもたらしたが、[[1987年]]11月10日には別の『睡蓮』がニューヨークの[[クリスティーズ]]で300万ドル(168万ポンド、4億620万円)で落札され、その翌日11月11日には、[[サザビーズ]]で『花咲く庭』が530万ドル(7億1,842万円)で落札されるという高騰ぶりであった。さらに、[[1988年]]6月27日、[[ロンドン]]のクリスティーズで、『青い家、ザーンダム』の小品が350万ポンド(8億427万円)で落札され、その翌日6月28日には、サザビーズで『草原で』が1,300万ポンド(29億5,542万円)で落札され、衝撃を呼んだ。当時、[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]の『[[アイリス (絵画)|アイリス]]』『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』に次ぐ史上第3位の高価格記録となった。モネは同一構図を繰り返し描いた多作の画家であるが、投資市場の拡大によって名品が払底してきたことが、こうした急騰の原因と考えられる<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 112-15)]]。</ref>。
その後も1,000万ドル台が次々現れていたが、[[1998年]]6月30日、ロンドンのサザビーズで『睡蓮の池と水辺の小道』が1,800万ポンド(3,032万ドル、43億596万円)という史上最高金額を記録した。モネは、ルノワールをしのぎ、ゴッホ、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]に迫る市場での評価を得るに至っている<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 115-18)]]。</ref>。
[[2008年]]6月24日、ロンドンのクリスティーズで、晩年の『睡蓮の池』が4,100万ポンド(8,050万ドル、約87億円)を記録した<ref>[[#安井|安井 (2010: 77)]]。</ref><ref>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7470832.stm |title=Record sale for Monet masterpiece |newspaper=BBC |date=2008-06-25 |accessdate=2017-02-20}}</ref>。[[2016年]]11月16日には、ニューヨークのクリスティーズで、『積みわら』がさらに上回る8,140万ドルで落札され、市場での印象派の強さを見せつけた<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/2016/11/17/arts/monets-grainstack-sets-record-with-81-4-million-at-auction.html |title=Monet’s ‘Grainstack’ Sets Record With $81.4 Million at Auction |author=Scott Reyburn; Robin Pogrebin |newspaper=New York Times |date=2016-11-16 |accessdate=2017-01-22}}</ref>。
== 庭園 ==
[[ファイル:Cpa-es-bulloz1905monetpresdubassinauxnympheas.jpg|thumb|left|160px|「水の庭」の前に立つモネ(1905年)]]
モネは1883年にジヴェルニーの家を借りたが、当時その敷地は果樹園と家庭菜園であった。1890年に地所を2万2,000フランで買い取ると、果樹園の樹木を伐採して、庭師の助けを借りながら「花の庭」を造成していった。ルーアン滞在中には、植物園の園長から珍しい外来種の育て方について助言を受け、1893年には、園芸を趣味とする[[ギュスターヴ・カイユボット|カイユボット]]の助言を受けて温室を作った。ルーアンの植物園から分けてもらった植物や、国内外から取り寄せた珍しい植物を数多く植えていった。全26巻の植物図鑑を所有し、ことあるごとに参照していた<ref>[[#安井|安井 (2010: 58, 60)]]。</ref>。
1893年、鉄道線路を挟んで隣の土地を手に入れた。エプト川に流れ込むリュ川という小川が貫流し、小さい池のある土地であり、周りには植物が生い茂っていたが、モネはここを「水の庭」に造成していった。1893年から1901年までの造成で、日本から輸入した睡蓮を根付かせるため、池の水を温めようとして池の東西に水門を設けたが、これは周囲の住民から抗議を受けた。また、池に日本風の太鼓橋を作った。睡蓮や太鼓橋にちなんで「日本庭園」と呼ばれたが、石庭などの要素はなく、伝統的な日本庭園とは異なる<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 189)]]。</ref>。制作の旅先からも、アリスに、「家の庭や球根がどうなっているか気になる。池の氷に注意してくれているだろうか」(1895年)などと庭の様子を案じる手紙を送っている<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 110)]]。</ref>。
1901年には第2次の造園工事を行い、庭園が拡張され、リュ川の水が引かれた<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 189-90)]]。</ref>。池の周囲は200メートルに及び、現在公開されている水の庭の姿をほぼ整えた<ref>[[#六人部|六人部 (2001: 86)]]。</ref>。太鼓橋の上には藤棚が設けられた。庭園には、睡蓮、橋、枝垂れ柳、[[アヤメ属|アイリス]]、[[アガパンサス属|アガパンサス]]、バラの門といった要素がモネのイメージに基づいて入念に整えられ、それ自体がモネの芸術作品となった<ref>[[#ザークナー|ザークナー=デュヒティンク (2001: 190)]]。</ref>。
[[ファイル:Claude Monet house and garden in Giverny (8741495125).jpg|thumb|right|200px|モネの家と庭園]]
モネの死後は、唯一の相続人は二男ミシェル・モネであったが、ジヴェルニーには不在だったため、アリスの娘[[ブランシュ・オシュデ・モネ]](ジャン・モネの未亡人)が屋敷と庭園の管理に努めた。1947年にブランシュが亡くなったあとは、敷地は荒れてしまった。1966年、ミシェル・モネが自動車事故で亡くなり、その遺言によりジヴェルニーの地所とコレクションは美術アカデミーに寄贈された。美術アカデミーから修復を託された{{仮リンク|ジェラルド・ファン・デル・ケンプ|fr|Gérald Van der Kemp}}が民間の募金を集め、3年がかりの修復工事を行った結果、[[1980年]]、{{仮リンク|クロード・モネ財団|en|Fondation Monet in Giverny}}が設立され、以後一般に公開されている<ref>{{Cite web |url=http://fondation-monet.com/en/the-foundation/history/ |title=The Foundation: History |publisher=The Claude Monet Foundation |accessdate=2016-12-18}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=ジョワシャン・ガスケ|authorlink=ジョワシャン・ガスケ |title=セザンヌ |others=[[與謝野文子]]訳 |publisher=[[岩波文庫]] |year=2009 |origyear=1921 |isbn=978-4-00-335731-6 |ref=ガスケ}}
* {{Cite book |和書 |author=ロス・キング |others=長井那智子訳 |title=クロード・モネ――狂気の眼と「睡蓮」の秘密 |publisher=[[亜紀書房]] |year=2018 |origyear=2016 |isbn=978-4-7505-1554-0 |ref=キング}}
* {{Cite book |和書 |author=エルンスト・ゴンブリッチ|authorlink=エルンスト・ゴンブリッチ |title=美術の物語 〈ポケット版〉 |publisher=ファイドン |year=2011 |origyear=1950 |isbn=978-4-86441-006-9 |ref=ゴンブリッチ}}(大型版2007年/新版・河出書房新社、2019年)
* {{Cite book |和書 |author=カリン・ザークナー=デュヒティンク |title=クロード・モネ |publisher=タッシェン・ジャパン |series=タッシェン・ビッグアートシリーズ |year=2001 |isbn=4-88783-043-2 |ref=ザークナー}}
* {{Cite book |和書 |author=島田紀夫|authorlink=島田紀夫 |title=印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い |publisher=[[小学館]] |year=2009 |isbn=978-4-09-682021-6 |ref=島田・挑戦}}
* {{Cite book |和書 |author=島田紀夫 |title=セーヌで生まれた印象派の名画 |publisher=[[小学館]] |series=小学館101ビジュアル新書 |year=2011 |isbn=978-4-09-823017-4 |ref=島田}}
* {{Cite book |和書 |editor=ジャポニスム学会|editor-link=ジャポニスム |title=ジャポニスム入門 |publisher=[[思文閣出版]] |year=2000 |isbn=978-4-7842-1053-4 |ref=ジャポニスム学会}}
* {{Cite book |和書 |author=瀬木慎一|authorlink=瀬木慎一 |title=西洋名画の値段 |series=[[新潮選書]] |publisher=[[新潮社]] |year=1999 |isbn=4-10-600576-X |ref=瀬木}}
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾|authorlink=高階秀爾 |title=続 名画を見る眼 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] |year=1971 |isbn=4-00-414065-X |ref=高階・名画}}
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで |publisher=中央公論社 |series=中公新書(上・下) |year=1975 |id=(上)ISBN 4-12-100385-3 (下)ISBN 4-12-100386-1 |ref=高階・絵画史}}
**新版『近代絵画史(上)――ロマン主義、印象派、ゴッホ』 [[中公新書]]カラー版、2017年
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=近代美術の巨匠たち |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波現代文庫]] |year=2008 |isbn=978-4-00-602130-6 |ref=高階・巨匠}}
* {{Cite book |和書 |author=新関公子|authorlink=新関公子 |title=セザンヌとゾラ――その芸術と友情 |publisher=ブリュッケ |year=2000 |isbn=4-7952-1679-7 |ref=新関}}
* {{Cite book |和書 |author=西岡文彦|authorlink=西岡文彦 |title=謎解き印象派――見方の極意 光と色彩の秘密 |publisher=[[河出書房新社]] |series=[[河出文庫]] |year=2016 |isbn=978-4-309-41454-6 |ref=西岡}}
* {{Cite book |和書 |author=シルヴィ・パタン |others=渡辺隆司・村上伸子訳、高階秀爾監修 |title=モネ――印象派の誕生 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=1997 |origyear=1991 |isbn=4-422-21127-7 |ref=パタン}}
* {{Cite book |和書 |author=馬渕明子|authorlink=馬渕明子 |title=ジャポニスム――幻想の日本 |publisher=ブリュッケ |year=1997 |isbn=978-4-434-21240-6 |ref=馬渕}}新版2015年
* {{Cite book |和書 |author=三浦篤|authorlink=三浦篤 |others=高階秀爾監修 |title=西洋絵画の歴史3――近代から現代へと続く問いかけ |publisher=[[小学館]] |series=小学館101ビジュアル新書 |year=2016 |isbn=978-4-09-823028-0 |ref=三浦}}
* {{Cite book |和書 |author=宮崎克己 |title=西洋絵画の到来――日本人を魅了したモネ、ルノワール、セザンヌなど |publisher=[[日本経済新聞出版社]] |year=2007 |isbn=978-4-532-12412-0 |ref=宮崎}}
* {{Cite book |和書 |author=六人部昭典<!--むとべ あきのり--> |title=モネ――《睡蓮》への歩み |publisher=[[六耀社]] |series=RIKUYOSHA ART VIEW |year=2001 |isbn=978-4-89737-389-8 |ref=六人部}}
* {{Cite book |和書 |author=安井裕雄 |others=[[高橋明也]]監修 |title=もっと知りたいモネ――生涯と作品 |publisher=[[東京美術]] |series=アート・ビギナーズ・コレクション |year=2010 |isbn=978-4-8087-0858-0 |ref=安井}}
* {{Cite book |和書 |author=吉川節子 |title=印象派の誕生――マネとモネ |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |year=2010 |isbn=978-4-12-102052-9 |ref=吉川}}
* {{Cite book |和書 |author=ジョン・リウォルド |others=[[三浦篤]]、[[坂上桂子]]訳 |title=印象派の歴史 |publisher=[[角川学芸出版]] |year=2004 |origyear=(1st ed.) 1946 |isbn=4-04-651912-6 |ref=リウォルド}}[[角川ソフィア文庫]](上・下)、2019年
== 関連作品 ==
* 『印象派 ~若き日のモネと巨匠たち~』(DVD:Happinet、2006年)、テレビドラマ 全3話
* 『クロード・モネ ~モネに夢中~ BBC アートシリーズ』(DVD:[[TCエンタテインメント]]、2006年)、ドキュメンタリー
* 『モネ NHK 巨匠たちの肖像』(DVD美術館3:小学館クリエイティブ、2010年)、ドキュメンタリー
* にしうら染『モネのキッチン 印象派のレシピ』(全2巻、秋田書店、2019年)、コミック作品
* [[原田マハ]]『ジヴェルニーの食卓』(集英社 2013年 / 集英社文庫 2015年)、小説
* 原田マハ『モネのあしあと 私の印象派鑑賞術』(幻冬舎新書 2016年)
* 安井裕雄『モネ作品集』(東京美術、2019年)
* 安井裕雄『図説 モネ「睡蓮」の世界』(創元社、2020年)
* 島田紀夫『西洋絵画の巨匠1 モネ』(小学館、2006年)
* [[吉岡正人]]『モネ 名画に隠れた謎を解く!』(中央公論新社、2007年)
* [[泥棒貴族]](1966年映画)
* [[モネ・ゲーム]](2012年上記リメイク)
== 関連項目 ==
* [[日本にあるクロード・モネ作品一覧]]
* [[北川村モネの庭マルモッタン]]
* [[土佐くろしお鉄道9640形気動車]] - 1両がモネ号となっている
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Claude Monet}}
*[http://perso.wanadoo.fr/jenl/frame.html モネの作品展示室](フランス語)
*[http://owlstand.com/exhibition/room/33d86faa-f60b-4c78-b9f3-130699f88954 En plein air クロード・モネのオンライン展覧会]
*[http://www.monetalia.com Monetalia] (英語)
* {{Kotobank|モネ(Claude Monet)}}
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[[Category:クロード・モネ|*]]
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ロシア5人組
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ロシア5人組(ロシアごにんぐみ)は、ミリイ・バラキレフを中心として19世紀後半のロシアで民族主義的な芸術音楽の創造を志向した作曲家集団のこと。次の5人からなる。
1860年代において、指導者にあたるバラキレフはピアノの名手として知られた音楽家だったが、残りの4人はアマチュアだった。
ロシア5人組は、ロシア語ではМогу́чая ку́чка(マグーチャヤ・クーチカ)という。直訳すると「強力な集団」ぐらいの意味であるが、「クーチカ」には二義的に、「集まり」「重なり」の意味もある。1867年に芸術評論家のウラディーミル・スターソフによってこのように命名され、5人の共通理念は、反西欧・反プロフェッショナリズム・反アカデミズムを標榜することと定義された。
上記の1867年のスターソフの文章の時点では、「クーチカ」はバラキレフをリーダーとする一団を指し、必ずしも5人とは限らなかった。バラキレフと関係する他の作曲家、たとえばA.グッサコフスキーやN.ロディジェンスキー(英語版)らも含まれていただろう。「5人」であることを明言したのは、バラキレフがチャイコフスキーに『ロメオとジュリエット』を讃える手紙(1870年)の中で、スターソフが「5人でなく6人になった」と言った、と書かれている。しかしチャイコフスキーは常に5人組とは距離を置いていた。
5人組の発端は1856年の、バラキレフとキュイの出会いにさかのぼる。翌1857年にムソルグスキーが参加し、1861年にリムスキー=コルサコフが、1862年にボロディンが参加した。5人組に先立って、グリンカとダルゴムイシスキーが民族的な性格をもった音楽の創造に立ち向かい、ロシア的な題材によって歌劇を作曲していたが、5人組はそのような音楽を発展させることに初めて集中した作曲家であった。
バラキレフのグループの初期の主張に影響を与えた人物にはアレクサンドル・セローフがいる。1856年にダルゴムイシスキーのオペラ『ルサルカ』が初演されると、この作品においてプーシキンのテクストと音楽が緊密な関係を保っていることを指摘し、好意的な批評をした。また、アントン・ルビンシテインがロシア音楽協会やサンクトペテルブルク音楽院を設立すると、それに対抗する無料音楽学校の設立を推進した。
セローフよりもさらに影響があったのは「クーチカ」の名付け親であるスターソフである。スターソフは当時のロシアの芸術全般が西洋にくらべてあまりにも貧しい状況を変えようと試み、ロシア人の生活を忠実に描写する写実主義を提唱した。音楽では標題音楽を重視した。また、ドイツ人が考案したものである音楽理論やアカデミーの権威を拒絶した。教会旋法がロシアの民謡に見られることに注目し、ロシアの民話を題材にすることにも興味を持った。ロシア文化はアジアに根源があると考え、オリエンタリズムにも関心を持った。スターソフは5人組の具体的な作曲の題材をもしばしば提供した。
スターソフはもとセローフの親友だったが、1850年代末にセローフと仲違いし、5人組はスターソフの側についた。5人組はスターソフをいわば芸術顧問として、またダルゴムイシスキーを精神的長老として仰いだ。
実際にはこの5人はスターソフが言うほど固い結束を持っていたことはない。バラキレフはピアノの名手で専業の音楽家だったが、自分で作曲するよりも他人に作曲させて自分は指導者になることを好んだ。ムソルグスキーがバラキレフに会った時はまだ19歳で、バラキレフに音楽理論を学んだ。きわめて独創的で、また5人組のイデオロギーにもっとも忠実だった。ボロディンがバラキレフに会った時には29歳で、アマチュアとして多くの室内楽の作曲経験があり、すでに強い個性を持つ音楽家であった。5人組に加わってからは交響曲や弦楽四重奏曲の作曲で活躍した。キュイは早くからオペラの作曲を試みたが、その音楽は叙情性にあふれるがロシア的ではなく、伝統的な語法にこだわって没個性的だった。最年少のリムスキー=コルサコフは、バラキレフの指導とシューマンなどの影響を受けた交響曲第1番をスターソフが激賞したことにより有名になり、交響詩『サトコ』や『アンタール』で優れた管弦楽法や半音階的な独自の語法を評価された。
1870年前後には、キュイの『ウィリアム・ラトクリフ』、ボロディンの交響曲第1番、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』、リムスキー=コルサコフの『プスコフの娘』が上演され、5人組の活動は最高潮に達した。
しかしその後はグループは実質的に消滅する。中心人物であるバラキレフは作曲や指揮の活動を長期にわたって止めてしまい、他のメンバーに影響を与えた交響詩『タマーラ』をはじめ、曲の多くは完成までに非常に長い時間を要した。キュイは1875年に『アンジェーロ』を発表するが、その後はオペラの作曲を止めてサロン向けの小品しか書かなくなる(ただし手を引いたのは大規模オペラであり、その後も小規模なオペラは作り続けた)。ムソルグスキーは『ホヴァーンシチナ』と『ソローチンツィの市』をいずれも未完成のまま1881年に没し、ボロディンは本職が多忙のために作曲が思うにまかせず、1887年に『イーゴリ公』を未完成のまま没する。
残るリムスキー=コルサコフは1871年にペテルブルク音楽院の教授に就任してから独自の道を進んだ。5人組に欠けていたアカデミックな訓練を自らに課し、1880年代に入るとベリャーエフの支援のもとにリャードフやグラズノフらの門人らと独自の学派を形成したが(ベリャーエフ・サークル)、その方向性はアカデミズムに反対した5人組とははっきりと異なるものになっていた。
リムスキー=コルサコフの楽派は弟子たちによってロシア革命以降のソ連の音楽にも強い影響を与えた。またリムスキー=コルサコフが、ボロディンやムソルグスキーの未完成作品の校訂・補筆にたずさわっていたことから、主要なペテルブルク系の作曲家はこの2人からも影響を受けている。
ロシア5人組の影響は国外にも及び、ドビュッシーはムソルグスキーを、ラヴェルとフローラン・シュミットはバラキレフを熱愛した。レスピーギはロシアでリムスキー=コルサコフに直接師事している。コクトーを精神的指導者とする「フランス六人組 Les Six 」は、当集団をもじって命名された。
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"text": "スターソフはもとセローフの親友だったが、1850年代末にセローフと仲違いし、5人組はスターソフの側についた。5人組はスターソフをいわば芸術顧問として、またダルゴムイシスキーを精神的長老として仰いだ。",
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"text": "ロシア5人組の影響は国外にも及び、ドビュッシーはムソルグスキーを、ラヴェルとフローラン・シュミットはバラキレフを熱愛した。レスピーギはロシアでリムスキー=コルサコフに直接師事している。コクトーを精神的指導者とする「フランス六人組 Les Six 」は、当集団をもじって命名された。",
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] |
ロシア5人組(ロシアごにんぐみ)は、ミリイ・バラキレフを中心として19世紀後半のロシアで民族主義的な芸術音楽の創造を志向した作曲家集団のこと。次の5人からなる。 ミリイ・バラキレフ
ツェーザリ・キュイ
モデスト・ムソルグスキー
アレクサンドル・ボロディン
ニコライ・リムスキー=コルサコフ 1860年代において、指導者にあたるバラキレフはピアノの名手として知られた音楽家だったが、残りの4人はアマチュアだった。 ロシア5人組は、ロシア語ではМогу́чая ку́чка(マグーチャヤ・クーチカ)という。直訳すると「強力な集団」ぐらいの意味であるが、「クーチカ」には二義的に、「集まり」「重なり」の意味もある。1867年に芸術評論家のウラディーミル・スターソフによってこのように命名され、5人の共通理念は、反西欧・反プロフェッショナリズム・反アカデミズムを標榜することと定義された。 上記の1867年のスターソフの文章の時点では、「クーチカ」はバラキレフをリーダーとする一団を指し、必ずしも5人とは限らなかった。バラキレフと関係する他の作曲家、たとえばA.グッサコフスキーやN.ロディジェンスキーらも含まれていただろう。「5人」であることを明言したのは、バラキレフがチャイコフスキーに『ロメオとジュリエット』を讃える手紙(1870年)の中で、スターソフが「5人でなく6人になった」と言った、と書かれている。しかしチャイコフスキーは常に5人組とは距離を置いていた。
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{{出典の明記|date=2012年10月12日 (金) 12:22 (UTC)}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''ロシア5人組'''(ロシアごにんぐみ)は、[[ミリイ・バラキレフ]]を中心として[[19世紀]]後半の[[ロシア]]で[[民族主義]]的な芸術音楽の創造を志向した[[作曲家]]集団のこと。次の5人からなる。
* [[ミリイ・バラキレフ]](1837年 - 1910年)
* [[ツェーザリ・キュイ]](1835年 - 1918年)
* [[モデスト・ムソルグスキー]](1839年 - 1881年)
* [[アレクサンドル・ボロディン]](1833年 - 1887年)
* [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]](1844年 - 1908年)
1860年代において、指導者にあたるバラキレフはピアノの名手として知られた音楽家だったが、残りの4人はアマチュアだった。
ロシア5人組は、[[ロシア語]]では''{{lang|ru|Могу́чая ку́чка}}''(マグーチャヤ・クーチカ)という。直訳すると「強力な集団」ぐらいの意味であるが、「クーチカ」には二義的に、「集まり」「重なり」の意味もある。[[1867年]]に芸術評論家の[[ウラディーミル・スターソフ]]によってこのように命名され、5人の共通理念は、反西欧・反プロフェッショナリズム・反アカデミズムを標榜することと定義された。
上記の1867年のスターソフの文章の時点では、「クーチカ」はバラキレフをリーダーとする一団を指し、必ずしも5人とは限らなかった。バラキレフと関係する他の作曲家、たとえばA.グッサコフスキーや{{仮リンク|ニコライ・ロディジェンスキー|en|Nikolai Lodyzhensky|label=N.ロディジェンスキー}}らも含まれていただろう。「5人」であることを明言したのは、バラキレフが[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]に『[[ロメオとジュリエット (チャイコフスキー)|ロメオとジュリエット]]』を讃える手紙(1870年)の中で、スターソフが「5人でなく6人になった」と言った、と書かれている。しかしチャイコフスキーは常に5人組とは距離を置いていた<ref name="ng">{{cite book|author=Edward Garden|chapter=Five, The|title=[[ニューグローヴ世界音楽大事典|The New Grove Dictionary of Music and Musicians]]|edition=2nd|year=2001|volume=8|page=913|isbn=0333608003}}</ref>。
== 推移 ==
5人組の発端は[[1856年]]の、バラキレフとキュイの出会いにさかのぼる。翌[[1857年]]にムソルグスキーが参加し、[[1861年]]にリムスキー=コルサコフが、[[1862年]]にボロディンが参加した。5人組に先立って、グリンカと[[アレクサンドル・ダルゴムイシスキー|ダルゴムイシスキー]]が民族的な性格をもった音楽の創造に立ち向かい、ロシア的な題材によって[[オペラ|歌劇]]を作曲していたが、5人組はそのような音楽を発展させることに初めて集中した作曲家であった。
バラキレフのグループの初期の主張に影響を与えた人物には[[アレクサンドル・セローフ]]がいる。1856年にダルゴムイシスキーのオペラ『ルサルカ』が初演されると、この作品においてプーシキンのテクストと音楽が緊密な関係を保っていることを指摘し、好意的な批評をした<ref>Walsh (2013) pp.44-45</ref>。また、[[アントン・ルビンシテイン]]が[[ロシア音楽協会]]や[[サンクトペテルブルク音楽院]]を設立すると、それに対抗する[[無料音楽学校]]の設立を推進した<ref>Walsh (2013) p.73</ref>。
セローフよりもさらに影響があったのは「クーチカ」の名付け親であるスターソフである。スターソフは当時のロシアの芸術全般が西洋にくらべてあまりにも貧しい状況を変えようと試み、ロシア人の生活を忠実に描写する写実主義を提唱した。音楽では[[標題音楽]]を重視した。また、ドイツ人が考案したものである音楽理論やアカデミーの権威を拒絶した。[[教会旋法]]がロシアの民謡に見られることに注目し、ロシアの民話を題材にすることにも興味を持った。ロシア文化はアジアに根源があると考え、[[オリエンタリズム]]にも関心を持った<ref>Walsh (2013) pp.54-63</ref>。スターソフは5人組の具体的な作曲の題材をもしばしば提供した。
スターソフはもとセローフの親友だったが、1850年代末にセローフと仲違いし、5人組はスターソフの側についた。5人組はスターソフをいわば芸術顧問として、またダルゴムイシスキーを精神的長老として仰いだ。
実際にはこの5人はスターソフが言うほど固い結束を持っていたことはない<ref name="ng"/>。バラキレフはピアノの名手で専業の音楽家だったが、自分で作曲するよりも他人に作曲させて自分は指導者になることを好んだ<ref>Walsh (2013) pp.35-36</ref>。ムソルグスキーがバラキレフに会った時はまだ19歳で、バラキレフに音楽理論を学んだ。きわめて独創的で、また5人組のイデオロギーにもっとも忠実だった。ボロディンがバラキレフに会った時には29歳で、アマチュアとして多くの室内楽の作曲経験があり、すでに強い個性を持つ音楽家であった<ref>Walsh (2013) pp.104-106</ref>。5人組に加わってからは交響曲や弦楽四重奏曲の作曲で活躍した。キュイは早くからオペラの作曲を試みたが、その音楽は叙情性にあふれるがロシア的ではなく、伝統的な語法にこだわって没個性的だった。最年少のリムスキー=コルサコフは、バラキレフの指導と[[ロベルト・シューマン|シューマン]]などの影響を受けた[[交響曲第1番 (リムスキー=コルサコフ)|交響曲第1番]]をスターソフが激賞したことにより有名になり、交響詩『[[サトコ (音画)|サトコ]]』や『[[アンタール]]』で優れた管弦楽法や半音階的な独自の語法を評価された。
1870年前後には、キュイの『[[ウィリアム・ラトクリフ]]』、ボロディンの[[交響曲第1番 (ボロディン)|交響曲第1番]]、ムソルグスキーの『[[ボリス・ゴドゥノフ (オペラ)|ボリス・ゴドゥノフ]]』、リムスキー=コルサコフの『[[プスコフの娘]]』が上演され、5人組の活動は最高潮に達した。
しかしその後はグループは実質的に消滅する。中心人物であるバラキレフは作曲や指揮の活動を長期にわたって止めてしまい、他のメンバーに影響を与えた交響詩『[[タマーラ (バラキレフ)|タマーラ]]』をはじめ、曲の多くは完成までに非常に長い時間を要した。キュイは1875年に『[[アンジェーロ]]』を発表するが、その後はオペラの作曲を止めてサロン向けの小品しか書かなくなる<ref>Walsh (2013) p.399</ref>(ただし手を引いたのは大規模オペラであり、その後も小規模なオペラは作り続けた)。ムソルグスキーは『[[ホヴァーンシチナ]]』と『[[ソローチンツィの市]]』をいずれも未完成のまま1881年に没し、ボロディンは本職が多忙のために作曲が思うにまかせず、1887年に『[[イーゴリ公]]』を未完成のまま没する。
残るリムスキー=コルサコフは1871年に[[サンクトペテルブルク音楽院|ペテルブルク音楽院]]の教授に就任してから独自の道を進んだ。5人組に欠けていたアカデミックな訓練を自らに課し、1880年代に入ると[[ミトロファン・ベリャーエフ|ベリャーエフ]]の支援のもとに[[アナトーリ・リャードフ|リャードフ]]や[[アレクサンドル・グラズノフ|グラズノフ]]らの門人らと独自の学派を形成したが([[ベリャーエフ・サークル]])、その方向性はアカデミズムに反対した5人組とははっきりと異なるものになっていた。
リムスキー=コルサコフの楽派は弟子たちによってロシア革命以降の[[ソ連]]の音楽にも強い影響を与えた。またリムスキー=コルサコフが、ボロディンやムソルグスキーの未完成作品の校訂・補筆にたずさわっていたことから、主要なペテルブルク系の作曲家はこの2人からも影響を受けている。
ロシア5人組の影響は国外にも及び、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]はムソルグスキーを、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]と[[フローラン・シュミット]]はバラキレフを熱愛した。[[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]はロシアでリムスキー=コルサコフに直接師事している。[[ジャン・コクトー|コクトー]]を精神的指導者とする「[[フランス6人組|フランス六人組]] ''{{lang|fr|Les Six}}'' 」は、当集団をもじって命名された。
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画像:Balakirev1860s_CuiIP_73_600.jpg|バラキレフ
画像:Cesar cui.jpg|キュイ
画像:Modest Músorgski, por Iliá Repin.jpg|ムソルグスキー
画像:Borodin_CuiIP_119_600.JPG|ボロディン
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{cite book|author=Walsh, Stephen|year=2013|title=Musorgsky and His Circle: A Russian Musical Adventure|location=New York|publisher=Alfred A. Knopf|isbn=9780385353854}}
== 関連項目 ==
* [[国民楽派]]
* [[チャイコフスキーとロシア5人組]]
* [[ベリャーエフ・サークル]]
* [[フランス6人組]]
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12,250 |
スパッタリング
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スパッタリング(Sputter deposition)は、
1と2について本稿で記述する。
絵具を細かな目を持つ網に塗りそれをブラシでこする、あるいは目の細かな網を絵具をつけたブラシでこすることで、小さな粒子として絵具を飛ばす手法。エアブラシよりも荒い粒が得られる。
スパッタリングはいわゆる「乾式めっき法」(真空めっき)に分類され、コーティングする対象物を液体や高温気体にさらす事なくめっき処理が出来ることが特徴である。
真空チャンバー内に薄膜としてつけたい金属をターゲットとして設置し、高電圧をかけてイオン化させた希ガス元素(普通はアルゴンを用いる)や窒素(普通は空気由来)を衝突させる。するとターゲット表面の原子がはじき飛ばされ、基板に到達して製膜することが出来る。 原理も単純であり「スパッタ装置」として各種あることから、様々な技術分野で広く使われている。 最近では、高品質の薄膜が要求される半導体、液晶、プラズマディスプレイ、光ディスク用の薄膜を製造する手法として用いられている。
また、真空チャンバー内にガスを導入し、これをはじき飛ばされた金属と反応させることによって化合物を製膜する反応性スパッタ法も新たな合金や人工格子の作製技術として注目されている。
2極、3極、4極、RF、マグネトロン、対向ターゲット、ミラートロン、ECR、PEMS、イオンビーム、デュアルイオンビームなどの方式がある。
日本板硝子が開発した結晶化シード層を使えば、ガラス基板上でも加熱無しに、酸化物の結晶層を得ることができる。
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スパッタリングは、 絵画などで使われる手法のこと。
真空蒸着に類する薄膜製造の代表的な方法の1つ。
焼き物や炒め物の調理時に発生する急激な油はねの現象。 1と2について本稿で記述する。
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{{出典の明記|date=2015年11月}}
'''スパッタリング'''([[:en:Sputter deposition|Sputter deposition]])は、
# [[絵画]]などで使われる手法のこと。
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# [[焼き物 (料理)|焼き物]]や[[炒め物]]の調理時に発生する急激な油はねの現象。
1と2について本稿で記述する。
== 絵画技術 ==
[[絵具]]を細かな目を持つ網に塗りそれをブラシでこする、あるいは目の細かな網を絵具をつけたブラシでこすることで、小さな粒子として絵具を飛ばす手法。[[エアブラシ]]よりも荒い粒が得られる。
== 金属・金属酸化物・金属窒化物成膜技術 ==
[[ファイル:Au sputtering light.JPG|right|300px|thumb|[[スパッタ]]による金の製膜]]
スパッタリングはいわゆる「乾式めっき法」([[めっき#真空めっき|真空めっき]])に分類され、コーティングする対象物を液体や高温気体にさらす事なくめっき処理が出来ることが特徴である。
[[真空チャンバー]]内に薄膜としてつけたい金属を[[ターゲット (衝突現象)|ターゲット]]として設置し、高電圧をかけて[[イオン化]]させた[[希ガス]]元素(普通は[[アルゴン]]を用いる)や[[窒素]](普通は[[空気]]由来)を衝突させる。するとターゲット表面の[[原子]]がはじき飛ばされ、基板に到達して製膜することが出来る。
原理も単純であり「スパッタ装置」として各種あることから、様々な技術分野で広く使われている。
最近では、高品質の薄膜が要求される[[半導体]]、[[液晶]]、[[プラズマディスプレイ]]、[[光ディスク]]用の薄膜を製造する手法として用いられている。
また、真空チャンバー内にガスを導入し、これをはじき飛ばされた金属と反応させることによって[[化合物]]を製膜する[[反応性スパッタ法]]も新たな[[合金]]や人工[[結晶格子|格子]]の作製技術として注目されている。
2極、3極、4極、RF、[[マグネトロン]]、対向ターゲット、ミラートロン、ECR、PEMS、イオンビーム、デュアルイオンビームなどの方式がある。
[[日本板硝子]]が開発した[[結晶]]化シード層を使えば、[[ガラス]]基板上でも加熱無しに、[[酸化物]]の[[結晶]]層を得ることができる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[スパッタ]]
* [[光触媒]]ガラス
{{薄膜}}
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[[Category:絵画技術]]
[[Category:美術の技法]]
[[Category:加工]]
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12,253 |
空気
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空気(くうき)とは、地球の大気圏の最下層を構成している気体で、人類が暮らしている中で身の回りにあるものをいう。
一般に空気は、無色透明で、複数の気体の混合物からなり、その組成は約8割が窒素、約2割が酸素でほぼ一定である。また水蒸気が含まれるがその濃度は場所により大きく異なる。工学など空気を利用・研究する分野では、水蒸気を除いた乾燥空気(かんそうくうき, dry air)と水蒸気を含めた湿潤空気(しつじゅんくうき, wet air)を使い分ける。
地球を覆う気体の層を「大気圏」といい、その気体そのものを日常会話や工業分野などでは「空気」、気象学など地球科学の分野では「大気」とも呼ぶ。普通日常会話で「空気」という場合には、人間が暮らしている中で身の回りに存在する地上の空気を指し、場合によっては飛行機が航行する高度のような上空の空気を指す。一方、地球科学においては同じものを「大気」という。なお、日本語における「空気」には、その場にいる人々の気分やその場の雰囲気という意味もある。
乾燥した空気1 Lの重さは、セ氏0度、1気圧(1 atm)のときに1.293 gである。1 Lで1 gというと一見小さいようであるが、垂直に数十kmも積み重なることで、地表付近の空気には大きな重さ(圧力)がかかる。1気圧は1.033 kgf/cmなので、地表では1 cmあたりおよそ1 kgの物体が乗っているような力が圧力として加わっている。1平方メートルあたりでは10トン、つまり土砂を積んだダンプカーが乗っているような大きな力になる。これは月と違って地球には厚い大気の層があるためであり、地表付近ではこの圧力のために空気は密集した状態になっていて、真空状態とは違った様々な影響がある。
(例)
風速、つまり空気の移動速度が大きくなるにつれ、衝突する空気の総量が増え、大きな風圧が生じることになる。帆船、ヨット、ウィンドサーフィンなどはこれを利用して大きな推力を得ているわけであるし、台風などでは巨大な破壊力となる。
また、空気は流体であり、空気の中を進む物体には揚力や抗力(空気抵抗)が生じる。鳥や飛行機の翼は大きな揚力を得ることで空気中を飛揚する。
常温、常圧の空気はほぼ理想気体として振る舞い、t [°C]における空気の密度ρ [kg/m]は、大気圧をP [atm]、水蒸気圧をe [atm]とすると、
と表せる。
また、セ氏0度、1気圧の乾燥空気における音速は331.45 m/s、セ氏15度では約340 m/sである。
1気圧における近似的な値だが、乾燥空気の熱伝導率はセ氏0度 - 25度の間で約0.024 W・m・K とほとんど変わらない。
また、1気圧の乾燥空気の電気伝導率(導電率)はエアロゾルの量により大きく変わり、2.9×10(エアロゾル濃) - 7.88×10(エアロゾル薄) Ω・m(または S/m)程度であるという研究報告がある。
地球の大気は窒素、酸素のほか多数の微量成分で構成される。1cm当たり3×10個の分子が含まれる。以下に国際標準大気(1975)における、海面付近(1気圧)の、エアロゾル等の微粒子を除いた清浄な乾燥空気の組成を解説する。
(*)を付けた成分は、呼吸や光合成などの生物の活動、車や工場の排気ガスなどの産業活動、空気中で起こる光化学反応に伴う合成・分解により、場所により大きく変動する。
実際の空気中で最も変動するのは水蒸気であり、最大で4%程度、低いときは0%近くまで低下する。全球地表平均では約0.4%となる。(下表には含まない)
(+)をつけた成分は、人為的に排出される成分であり、濃度が近年著しく変化しているものである。主に産業革命以降完全に人為的に排出されて大気中に残存した成分と、元々自然界で排出されていたが産業革命以降人為的に大量に排出されて濃度が高まった成分とがある。
数値の右の(>)は、その値が通常の空気における最大値であることを示す。「1ppm>」であれば、最大1ppm、通常はそれ以下であることを意味している。
産業用として圧縮空気は様々な場面で利用される。圧縮空気を原動力として用いる機械を空圧機械というが、圧縮機を用いたり使用者が手動で行ったりといくつかの方式がある。
また純粋な空気の利用では、ボンベ等に充填した圧縮空気、低温下で液化させた液体空気も製造される。常圧ではおよそ-190°Cで液化し、液体酸素の影響から液体の空気は淡い青味を帯びた色をしている。ボンベに充填する空気は一般的に、水蒸気や微粒子成分を取り除いた乾燥空気である。
スキューバ・ダイビングで使用するタンクには圧縮空気が充填されているが、50m程度まで潜水する場合は、窒素酔いを避けるため、窒素分をヘリウムと置換した空気を用いる。
また、窒素、酸素、二酸化炭素のほか、アルゴン、クリプトン、キセノン、ネオンなどの大気中に含まれる成分は、空気を利用して冷却・圧縮、化学吸着、膜分離等の方法で産業用に製造されるものがある。
同軸ケーブルの絶縁体には当初空気が使われており、最適な特性を探った結果、特性インピーダンスが約75Ωという値となり、ポリエチレンに変更された現在でも数値が維持されている。
古代ギリシャでは空気は4つの元素(四大元素:水、地、火、空気)の1つとされていた(四元素説)。
18世紀後半になるとイギリスで空気の化学(pneumatic chemistry)に関心が高まった。ジョゼフ・ブラックは固定空気(二酸化炭素)の研究を通して気体の特異性を識別し、空気の化学の基礎的な研究に貢献した。また、ジョゼフ・プリーストリーは脱フロギストン空気(dephlogisticated air)という気体(酸素)を研究し、一酸化窒素、酸化二窒素、塩化水素、アンモニア、二酸化硫黄、四フッ化ケイ素、酸素の研究について「様々な種類の空気に関する実験と観察」(Experiments and Observation on Different Kinds of Air)を出版した。
なお、ガス(gas)という語はヤン・ファン・ヘルモントがギリシャ語で混沌を意味するchaosから作った語である。
鉛直構造としての大気は高所に行く必要があり空気の研究に比べると遅れた。1648年、ブレーズ・パスカルはピュイ・ド・ドーム火山にガラス管と水銀を持って山に登り、高度ごとの水銀柱の高さを測定して高度により異なり、温度が同じであれば高度が低くなるほど圧力が増すことを発見した。
日本で初めて空気の存在を科学的に証明する実験を示したのは、江戸時代初期の禅宗僧の沢庵和尚(1573 - 1645)である。沢庵は『理学之捷径(りがくのしょうけい)』(1621)の中で、「気は形なけれども歴々としてあるしるしには、気が動けば風が吹くなり。人の強く走りて気が動けば、息は強くなるごとくなり」などと、空気の存在を説明した後、「桶の底におき(火がついた炭)を糊にてつけて、これを水の上に伏せて、まっすぐに水の中に押し込むに、桶の内に水いらずして、火が消えざるなり。これは桶の内にも気がいっぱい満ちてある故に、内がふさがりて水の入るべきところなく、桶の内は何もなく空なれど、気のある証拠なり」という実験を示した。
沢庵は「日本で最初の空気の存在を証明した実験」を行ったが、沢庵は戦国末期から江戸時代初期の堺や京都で活動していた多数のキリスト教宣教師からアリストテレスの自然学の講釈を知り、自分の説教に利用したと考えられる。
沢庵は『東海夜話』(1859)の中で竹鉄砲という紙玉鉄砲のおもちゃを紹介しているが、その飛ぶ理由として「先の玉と後の玉の間は空なれども、その間には気が満ちてあるゆえなり」と書いている。
沢庵は終始、「気」という言葉を用いているが、それは儒学の理気論でいう「気」一般の実在を証明したかったからである。沢庵はそれらの「気」と空気の同一性を証明したかったので「気」以外の言葉を考えることは全く無かった。
「空気」という言葉をはじめて用いたのは井原西鶴(1642 - 1693)の『好色一代男』(1682)である。西鶴は巻七の「口添へて酒軽籠」の条で「今この目からは空気のようにおもはれはべる」と書いている。しかし、これは「うつけもの」(馬鹿者、間抜け)という意味の言葉であった。江戸時代には「空気」と書いて「うつけ」と理解する人々がいたと考えられる。
明暦五(1659)年の『乾坤弁説』にも「空気」の語が出てくるが、それはヨーロッパの四元素説を論じたものであって、今日の空気を指す言葉ではなかった。
今日使う意味での「空気」の語の初出は前野良沢(1723 - 1803)の『管蠡秘言』(かんれいひげん)(1777)である。そこには「空気の地球を包む者にして、その厚さ地平より上四十五度の分に及ぶ。これを空の体と号す」とあって、今日の空気をさしている。良沢は「空間を占める気」の意味で「空気」という言葉を使った。良沢は最初の蘭学者と呼べる人で、オランダの学問を知って「空気」と儒学等の「気」を区別するために「空気」という言葉を作った。
空気を中国伝来の理気論の「気」と区別する別の語として「游気(ゆうき)」も使われた。游気は中国の游子六の書いた『天経或問』で使われた言葉で、オランダ科学書を通して、日本ではじめて近代ヨーロッパの科学を学んだ志筑忠雄(1760 - 1806)が著書の中で多用した。志築は游気を水蒸気の意味でも用いており、今日の空気と全く同じというわけではなかった。志築は中国の陰陽五行説の影響も残していた。
前野良沢や志築忠雄の著書は写本として伝わっただけであったが、1800年前後になると蘭学関係の本がかなり出版されるようになった。文政元(1818)年にオランダの空気銃を見て、それを複製した国友董兵衛(1778 - 1840)は『気砲記』を書いて、空気のことを「気」と書いている。当時の蘭学関係書では、「気」「空気」「游気」の3つの語がまちまちに使われていた。
蘭学者達は空気を表す言葉として「大気」という言葉も作った。幕府の命令でオランダ語の家庭百科事典を訳した『厚生新編』(1821,1824)には空気を意味する言葉として「大気」が出てくる。訳者は大槻玄沢と宇田川玄真となっている。彼らは「空気」という訳語を不適と見なして「大気」という訳語を作った。「大気」の語はその後多くの蘭学者達に支持されて、江戸幕府末期の科学書の中で最も一般的に使われるようになった。日本に初めてラボアジェの化学を紹介した宇田川榕庵は『舎密開宗』(1837)の中で空気を一貫して「大気」と訳している。榕庵は大気の他に「瓦斯」という言葉も区別しており、その「大気」概念は近代科学の「空気」の概念と全く同じである。
江戸時代には「大気」という言葉は「器が大きい」という意味でも用いられていたため、それを気にした人は「大気」よりも「空気」という言葉を好んで使用した。宇田川榕庵の『舎密開宗』の1年以上後(1837年以後)に出版された鶴峯戊申(つるみねぼしん)(1788 - 1858)の『三才究理頌(さんさいきゅうりしょう)』では、「空気」の語を用いている。鶴峯は蘭学の地動説と日本神話を結びつけて宇宙論を展開し、「絶気(窒素)七分、清気(酸素)三分相交わりて、空気は整いたり」などと出てくる。元治二(1865)年ボイス著・大場雪斎訳の『民間格致問答』という日本最初の本格的な科学読み物が出版され、その中では「空気」の語が最初から最後まで用いられ、明治維新後の科学啓蒙書出版ブームに大きな影響を与えた。
明治元年から7年頃まで、各種の科学啓蒙書が書かれ「窮理熱」というブームになった。福沢諭吉が書いた『(訓蒙)窮理図解』では、「空気の事」の中で「空気は人の目には見えざれども、この世界を囲擁して万物の内に充満せり」と書かれている。この本の影響で多くの啓蒙書が「空気」の語を採用したが、専門書では「大気」の語を使うことが多かった。
文部省が明治五年の学制によって教科書を出版したために、明治7年以降は民間の科学啓蒙書出版運動である窮理熱は急速にしぼんでしまった。明治五年に文部省が出した教科書では「空気」と「大気」が併用されていた。その後も明治五年から8年にかけて作られた教科書では、「大気」のみだったり、「空気」のみだったり一貫しなかった。明治10年代までの教科書以外の科学書では「空気」が「大気」よりも優勢になっていたが、統一されてはいなかった。
「空気」の「大気」に対する勝利を確定的にしたのは、東京数学物理学会の物理学訳語会であった。訳語会の明治18年の議事録には結論として「Air 空気」として異論がなかったことが記録されている。訳語会は福沢諭吉などの大衆的な科学啓蒙書が「空気」という言葉を大衆化したため、それをそのまま認めたと考えられる。明治21年に訳語会は最終結果を印刷公表し、これ以後は「空気」の語で統一された。
我々は空気に依存し、空気の中で生活しているが、日常生活の中でそれを意識することはあまりない。同様に生活に欠かせない水がその手応えや感触から、普段からはっきり意識されるのとは好対照である。
ただし空気は、それに流れがある時には意識される傾向があり、「風」と呼ばれるようになる。
また、その成分については、閉め切った部屋、(洞窟の中など)換気が不十分な場所など(現在の観念で言えば、酸素が不十分だったり、余計なガスが混じった状態)では意識されていて、古くから「腐った空気」「空気が腐る」といった表現がされてきた。また、香りや臭いが漂ったり、化学物質により刺激を感じるような場合も意識されるようになる。
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"text": "空気(くうき)とは、地球の大気圏の最下層を構成している気体で、人類が暮らしている中で身の回りにあるものをいう。",
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"text": "一般に空気は、無色透明で、複数の気体の混合物からなり、その組成は約8割が窒素、約2割が酸素でほぼ一定である。また水蒸気が含まれるがその濃度は場所により大きく異なる。工学など空気を利用・研究する分野では、水蒸気を除いた乾燥空気(かんそうくうき, dry air)と水蒸気を含めた湿潤空気(しつじゅんくうき, wet air)を使い分ける。",
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"text": "地球を覆う気体の層を「大気圏」といい、その気体そのものを日常会話や工業分野などでは「空気」、気象学など地球科学の分野では「大気」とも呼ぶ。普通日常会話で「空気」という場合には、人間が暮らしている中で身の回りに存在する地上の空気を指し、場合によっては飛行機が航行する高度のような上空の空気を指す。一方、地球科学においては同じものを「大気」という。なお、日本語における「空気」には、その場にいる人々の気分やその場の雰囲気という意味もある。",
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"text": "乾燥した空気1 Lの重さは、セ氏0度、1気圧(1 atm)のときに1.293 gである。1 Lで1 gというと一見小さいようであるが、垂直に数十kmも積み重なることで、地表付近の空気には大きな重さ(圧力)がかかる。1気圧は1.033 kgf/cmなので、地表では1 cmあたりおよそ1 kgの物体が乗っているような力が圧力として加わっている。1平方メートルあたりでは10トン、つまり土砂を積んだダンプカーが乗っているような大きな力になる。これは月と違って地球には厚い大気の層があるためであり、地表付近ではこの圧力のために空気は密集した状態になっていて、真空状態とは違った様々な影響がある。",
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"text": "風速、つまり空気の移動速度が大きくなるにつれ、衝突する空気の総量が増え、大きな風圧が生じることになる。帆船、ヨット、ウィンドサーフィンなどはこれを利用して大きな推力を得ているわけであるし、台風などでは巨大な破壊力となる。",
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"text": "また、空気は流体であり、空気の中を進む物体には揚力や抗力(空気抵抗)が生じる。鳥や飛行機の翼は大きな揚力を得ることで空気中を飛揚する。",
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"text": "常温、常圧の空気はほぼ理想気体として振る舞い、t [°C]における空気の密度ρ [kg/m]は、大気圧をP [atm]、水蒸気圧をe [atm]とすると、",
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"text": "と表せる。",
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"text": "また、セ氏0度、1気圧の乾燥空気における音速は331.45 m/s、セ氏15度では約340 m/sである。",
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"text": "1気圧における近似的な値だが、乾燥空気の熱伝導率はセ氏0度 - 25度の間で約0.024 W・m・K とほとんど変わらない。",
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"text": "また、1気圧の乾燥空気の電気伝導率(導電率)はエアロゾルの量により大きく変わり、2.9×10(エアロゾル濃) - 7.88×10(エアロゾル薄) Ω・m(または S/m)程度であるという研究報告がある。",
"title": "空気の物性"
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"text": "地球の大気は窒素、酸素のほか多数の微量成分で構成される。1cm当たり3×10個の分子が含まれる。以下に国際標準大気(1975)における、海面付近(1気圧)の、エアロゾル等の微粒子を除いた清浄な乾燥空気の組成を解説する。",
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"text": "(*)を付けた成分は、呼吸や光合成などの生物の活動、車や工場の排気ガスなどの産業活動、空気中で起こる光化学反応に伴う合成・分解により、場所により大きく変動する。",
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"text": "実際の空気中で最も変動するのは水蒸気であり、最大で4%程度、低いときは0%近くまで低下する。全球地表平均では約0.4%となる。(下表には含まない)",
"title": "大気の組成"
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"text": "(+)をつけた成分は、人為的に排出される成分であり、濃度が近年著しく変化しているものである。主に産業革命以降完全に人為的に排出されて大気中に残存した成分と、元々自然界で排出されていたが産業革命以降人為的に大量に排出されて濃度が高まった成分とがある。",
"title": "大気の組成"
},
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"text": "数値の右の(>)は、その値が通常の空気における最大値であることを示す。「1ppm>」であれば、最大1ppm、通常はそれ以下であることを意味している。",
"title": "大気の組成"
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"text": "産業用として圧縮空気は様々な場面で利用される。圧縮空気を原動力として用いる機械を空圧機械というが、圧縮機を用いたり使用者が手動で行ったりといくつかの方式がある。",
"title": "空気の利用"
},
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"text": "また純粋な空気の利用では、ボンベ等に充填した圧縮空気、低温下で液化させた液体空気も製造される。常圧ではおよそ-190°Cで液化し、液体酸素の影響から液体の空気は淡い青味を帯びた色をしている。ボンベに充填する空気は一般的に、水蒸気や微粒子成分を取り除いた乾燥空気である。",
"title": "空気の利用"
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"text": "スキューバ・ダイビングで使用するタンクには圧縮空気が充填されているが、50m程度まで潜水する場合は、窒素酔いを避けるため、窒素分をヘリウムと置換した空気を用いる。",
"title": "空気の利用"
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"text": "また、窒素、酸素、二酸化炭素のほか、アルゴン、クリプトン、キセノン、ネオンなどの大気中に含まれる成分は、空気を利用して冷却・圧縮、化学吸着、膜分離等の方法で産業用に製造されるものがある。",
"title": "空気の利用"
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"text": "同軸ケーブルの絶縁体には当初空気が使われており、最適な特性を探った結果、特性インピーダンスが約75Ωという値となり、ポリエチレンに変更された現在でも数値が維持されている。",
"title": "空気の利用"
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"text": "古代ギリシャでは空気は4つの元素(四大元素:水、地、火、空気)の1つとされていた(四元素説)。",
"title": "空気と大気の理解"
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"text": "18世紀後半になるとイギリスで空気の化学(pneumatic chemistry)に関心が高まった。ジョゼフ・ブラックは固定空気(二酸化炭素)の研究を通して気体の特異性を識別し、空気の化学の基礎的な研究に貢献した。また、ジョゼフ・プリーストリーは脱フロギストン空気(dephlogisticated air)という気体(酸素)を研究し、一酸化窒素、酸化二窒素、塩化水素、アンモニア、二酸化硫黄、四フッ化ケイ素、酸素の研究について「様々な種類の空気に関する実験と観察」(Experiments and Observation on Different Kinds of Air)を出版した。",
"title": "空気と大気の理解"
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"text": "なお、ガス(gas)という語はヤン・ファン・ヘルモントがギリシャ語で混沌を意味するchaosから作った語である。",
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"text": "鉛直構造としての大気は高所に行く必要があり空気の研究に比べると遅れた。1648年、ブレーズ・パスカルはピュイ・ド・ドーム火山にガラス管と水銀を持って山に登り、高度ごとの水銀柱の高さを測定して高度により異なり、温度が同じであれば高度が低くなるほど圧力が増すことを発見した。",
"title": "空気と大気の理解"
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"text": "日本で初めて空気の存在を科学的に証明する実験を示したのは、江戸時代初期の禅宗僧の沢庵和尚(1573 - 1645)である。沢庵は『理学之捷径(りがくのしょうけい)』(1621)の中で、「気は形なけれども歴々としてあるしるしには、気が動けば風が吹くなり。人の強く走りて気が動けば、息は強くなるごとくなり」などと、空気の存在を説明した後、「桶の底におき(火がついた炭)を糊にてつけて、これを水の上に伏せて、まっすぐに水の中に押し込むに、桶の内に水いらずして、火が消えざるなり。これは桶の内にも気がいっぱい満ちてある故に、内がふさがりて水の入るべきところなく、桶の内は何もなく空なれど、気のある証拠なり」という実験を示した。",
"title": "日本での空気認識と「空気」という言葉の歴史"
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"text": "沢庵は「日本で最初の空気の存在を証明した実験」を行ったが、沢庵は戦国末期から江戸時代初期の堺や京都で活動していた多数のキリスト教宣教師からアリストテレスの自然学の講釈を知り、自分の説教に利用したと考えられる。",
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"text": "沢庵は『東海夜話』(1859)の中で竹鉄砲という紙玉鉄砲のおもちゃを紹介しているが、その飛ぶ理由として「先の玉と後の玉の間は空なれども、その間には気が満ちてあるゆえなり」と書いている。",
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"text": "沢庵は終始、「気」という言葉を用いているが、それは儒学の理気論でいう「気」一般の実在を証明したかったからである。沢庵はそれらの「気」と空気の同一性を証明したかったので「気」以外の言葉を考えることは全く無かった。",
"title": "日本での空気認識と「空気」という言葉の歴史"
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"text": "「空気」という言葉をはじめて用いたのは井原西鶴(1642 - 1693)の『好色一代男』(1682)である。西鶴は巻七の「口添へて酒軽籠」の条で「今この目からは空気のようにおもはれはべる」と書いている。しかし、これは「うつけもの」(馬鹿者、間抜け)という意味の言葉であった。江戸時代には「空気」と書いて「うつけ」と理解する人々がいたと考えられる。",
"title": "日本での空気認識と「空気」という言葉の歴史"
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"text": "明暦五(1659)年の『乾坤弁説』にも「空気」の語が出てくるが、それはヨーロッパの四元素説を論じたものであって、今日の空気を指す言葉ではなかった。",
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"text": "今日使う意味での「空気」の語の初出は前野良沢(1723 - 1803)の『管蠡秘言』(かんれいひげん)(1777)である。そこには「空気の地球を包む者にして、その厚さ地平より上四十五度の分に及ぶ。これを空の体と号す」とあって、今日の空気をさしている。良沢は「空間を占める気」の意味で「空気」という言葉を使った。良沢は最初の蘭学者と呼べる人で、オランダの学問を知って「空気」と儒学等の「気」を区別するために「空気」という言葉を作った。",
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"text": "空気を中国伝来の理気論の「気」と区別する別の語として「游気(ゆうき)」も使われた。游気は中国の游子六の書いた『天経或問』で使われた言葉で、オランダ科学書を通して、日本ではじめて近代ヨーロッパの科学を学んだ志筑忠雄(1760 - 1806)が著書の中で多用した。志築は游気を水蒸気の意味でも用いており、今日の空気と全く同じというわけではなかった。志築は中国の陰陽五行説の影響も残していた。",
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"text": "蘭学者達は空気を表す言葉として「大気」という言葉も作った。幕府の命令でオランダ語の家庭百科事典を訳した『厚生新編』(1821,1824)には空気を意味する言葉として「大気」が出てくる。訳者は大槻玄沢と宇田川玄真となっている。彼らは「空気」という訳語を不適と見なして「大気」という訳語を作った。「大気」の語はその後多くの蘭学者達に支持されて、江戸幕府末期の科学書の中で最も一般的に使われるようになった。日本に初めてラボアジェの化学を紹介した宇田川榕庵は『舎密開宗』(1837)の中で空気を一貫して「大気」と訳している。榕庵は大気の他に「瓦斯」という言葉も区別しており、その「大気」概念は近代科学の「空気」の概念と全く同じである。",
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"text": "江戸時代には「大気」という言葉は「器が大きい」という意味でも用いられていたため、それを気にした人は「大気」よりも「空気」という言葉を好んで使用した。宇田川榕庵の『舎密開宗』の1年以上後(1837年以後)に出版された鶴峯戊申(つるみねぼしん)(1788 - 1858)の『三才究理頌(さんさいきゅうりしょう)』では、「空気」の語を用いている。鶴峯は蘭学の地動説と日本神話を結びつけて宇宙論を展開し、「絶気(窒素)七分、清気(酸素)三分相交わりて、空気は整いたり」などと出てくる。元治二(1865)年ボイス著・大場雪斎訳の『民間格致問答』という日本最初の本格的な科学読み物が出版され、その中では「空気」の語が最初から最後まで用いられ、明治維新後の科学啓蒙書出版ブームに大きな影響を与えた。",
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"text": "明治元年から7年頃まで、各種の科学啓蒙書が書かれ「窮理熱」というブームになった。福沢諭吉が書いた『(訓蒙)窮理図解』では、「空気の事」の中で「空気は人の目には見えざれども、この世界を囲擁して万物の内に充満せり」と書かれている。この本の影響で多くの啓蒙書が「空気」の語を採用したが、専門書では「大気」の語を使うことが多かった。",
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"text": "文部省が明治五年の学制によって教科書を出版したために、明治7年以降は民間の科学啓蒙書出版運動である窮理熱は急速にしぼんでしまった。明治五年に文部省が出した教科書では「空気」と「大気」が併用されていた。その後も明治五年から8年にかけて作られた教科書では、「大気」のみだったり、「空気」のみだったり一貫しなかった。明治10年代までの教科書以外の科学書では「空気」が「大気」よりも優勢になっていたが、統一されてはいなかった。",
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"text": "「空気」の「大気」に対する勝利を確定的にしたのは、東京数学物理学会の物理学訳語会であった。訳語会の明治18年の議事録には結論として「Air 空気」として異論がなかったことが記録されている。訳語会は福沢諭吉などの大衆的な科学啓蒙書が「空気」という言葉を大衆化したため、それをそのまま認めたと考えられる。明治21年に訳語会は最終結果を印刷公表し、これ以後は「空気」の語で統一された。",
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"text": "我々は空気に依存し、空気の中で生活しているが、日常生活の中でそれを意識することはあまりない。同様に生活に欠かせない水がその手応えや感触から、普段からはっきり意識されるのとは好対照である。",
"title": "空気と知覚"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ただし空気は、それに流れがある時には意識される傾向があり、「風」と呼ばれるようになる。",
"title": "空気と知覚"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、その成分については、閉め切った部屋、(洞窟の中など)換気が不十分な場所など(現在の観念で言えば、酸素が不十分だったり、余計なガスが混じった状態)では意識されていて、古くから「腐った空気」「空気が腐る」といった表現がされてきた。また、香りや臭いが漂ったり、化学物質により刺激を感じるような場合も意識されるようになる。",
"title": "空気と知覚"
}
] |
空気(くうき)とは、地球の大気圏の最下層を構成している気体で、人類が暮らしている中で身の回りにあるものをいう。 一般に空気は、無色透明で、複数の気体の混合物からなり、その組成は約8割が窒素、約2割が酸素でほぼ一定である。また水蒸気が含まれるがその濃度は場所により大きく異なる。工学など空気を利用・研究する分野では、水蒸気を除いた乾燥空気と水蒸気を含めた湿潤空気を使い分ける。
|
{{Otheruses}}
{{混同|場の空気}}
'''空気'''(くうき)とは、[[地球]]の[[地球の大気|大気圏]]の最下層を構成している[[気体]]で、[[人類]]が暮らしている中で身の回りにあるものをいう<ref name="ydickuuki"/>。
一般に空気は、[[無色]][[透明]]で、複数の気体の[[混合物]]からなり、その[[組成]]は約8割が[[窒素]]、約2割が[[酸素]]でほぼ一定である。また[[水蒸気]]が含まれるがその濃度は場所により大きく異なる。工学など空気を利用・研究する分野では、水蒸気を除いた'''乾燥空気'''(かんそうくうき, {{lang|en|dry air}})と水蒸気を含めた'''[[湿潤空気]]'''(しつじゅんくうき, {{lang|en|wet air}})を使い分ける。
== 空気と大気 ==
地球を覆う気体の層を「'''大気圏'''」といい<ref name="ydictaikiken">[[Yahoo! Japan]]辞書([[大辞泉]])[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=大気&dtype=0&dname=0na&stype=0&index=11116200 たいき‐けん【大気圏】]</ref>、その気体そのものを日常会話や工業分野などでは「空気」<ref name="ydickuuki">[[Yahoo! Japan]]辞書([[大辞泉]])[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=空気&dtype=0&dname=0na&stype=0&index=04935800 くう‐き【空気】]</ref>、[[気象学]]など[[地球科学]]の分野では「'''大気'''」<ref name="ydictaiki">[[Yahoo! Japan]]辞書([[大辞泉]])[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=大気&dtype=0&dname=0na&stype=0&index=11115700 たい‐き【大気】]</ref>とも呼ぶ。普通日常会話で「空気」という場合には、[[人類|人間]]が暮らしている中で身の回りに存在する地上の空気を指し、場合によっては[[飛行機]]が航行する高度のような上空の空気を指す。一方、地球科学においては同じものを「大気」という。なお、[[日本語]]における「空気」には、その場にいる人々の[[気分]]やその場の[[雰囲気]]という意味もある<ref>{{Cite book|和書
|author = [[新村出]]編
|title = [[広辞苑]]
|edition = 第5版
|year = 1998
|publisher = [[岩波書店]]
|isbn = 4-00-080111-2
|page = 744
|chapter = 空気
}}</ref>。
== 空気の物性 ==
[[乾燥]]した空気1 [[リットル|L]]の[[重さ]]は、[[セ氏]]0度、1気圧(1 [[標準気圧|atm]])のときに1.293 [[グラム|g]]である<ref name="ydickuuki"/>。1 Lで1 gというと一見小さいようであるが、垂直に数十kmも積み重なることで、地表付近の空気には大きな[[重さ]](圧力)がかかる。1気圧は1.033 [[重量キログラム毎平方センチメートル|kgf/cm<sup>2</sup>]]なので、地表では1 [[平方センチメートル|cm<sup>2</sup>]]あたりおよそ1 [[キログラム|kg]]の物体が乗っているような力が圧力として加わっている。1平方メートルあたりでは10トン、つまり土砂を積んだダンプカーが乗っているような大きな力になる。これは月と違って地球には厚い大気の層があるためであり、地表付近ではこの圧力のために空気は密集した状態になっていて、真空状態とは違った様々な影響がある。
(例)
[[風速]]、つまり空気の移動速度が大きくなるにつれ、衝突する空気の総量が増え、大きな[[風圧]]が生じることになる。[[帆船]]、[[ヨット]]、[[ウィンドサーフィン]]などはこれを利用して大きな推力を得ているわけであるし、[[台風]]などでは巨大な破壊力となる。
また、空気は[[流体]]であり、空気の中を進む物体には[[揚力]]や[[抗力]](空気抵抗)が生じる。[[鳥]]や[[飛行機]]の[[翼]]は大きな揚力を得ることで空気中を飛揚する。
{|class="wikitable"
|-
|密度(0 ℃ 1 atm) || 1.293 kg/m<sup>3</sup>
|-
|平均モル質量 || 28.966 g/mol
|-
|[[熱膨張率]](100 ℃ 1 atm) || 0.003671 /K <ref group="注">ほぼ[[絶対温度]]の逆数に等しい。</ref>
|}
[[常温]]、[[常圧]]の空気はほぼ[[理想気体]]として振る舞い、''t'' [℃]における空気の密度ρ [kg/m<sup>3</sup>]は、大気圧を''P'' [atm]、水蒸気圧を''e'' [atm]とすると、
:<math>\rho=\frac{1.293P}{1+t/273.15}\left(1-\frac{0.378e}{P}\right)</math>
と表せる<ref>{{cite|和書 |author=[[牛山泉]] |title=風車工学入門 |edition=2 |publisher=森北出版 |year=2013 |isbn=978-4-627-94652-1 |page=27}}</ref>。
また、セ氏0度、1気圧の乾燥空気における[[音速]]は331.45 [[メートル毎秒|m/s]]<ref name="rikanen2010">国立天文台編『[[理科年表]] 平成22年』丸善、2010年 ISBN 978-4621081914</ref>、セ氏15度では約340 m/sである。
1気圧における近似的な値だが、乾燥空気の[[熱伝導率]]はセ氏0度 - 25度の間で約0.024 W・m<sup>-1</sup>・K<sup>-1</sup> とほとんど変わらない<ref>Young, Hugh D., "[http://hyperphysics.phy-astr.gsu.edu/hbase/tables/thrcn.html HyperPhysics]", ''University Physics'', 7th Ed., Addison Wesley, 1992. Table 15-5, 2013年1月12日閲覧</ref><ref>"[http://www.engineeringtoolbox.com/air-properties-d_156.html Air Properties]" The Engineering Toolbox, 2013年1月12日閲覧</ref><ref>"[http://www.engineeringtoolbox.com/thermal-conductivity-d_429.html Thermal Conductivity of some common Materials and Gases]" The Engineering Toolbox, 2013年1月12日閲覧</ref>。
また、1気圧の乾燥空気の[[電気伝導率]](導電率)は[[大気エアロゾル粒子|エアロゾル]]の量により大きく変わり、2.9{{e-|15}}(エアロゾル濃) - 7.88{{e-|15}}(エアロゾル薄) Ω<sup>-1</sup>・m<sup>-1</sup>(または S/m)程度であるという研究報告がある。<ref>Pawar, S. D."Effect of relative humidity and sea level pressure on electrical conductivity of air over Indian Ocean", ''Journal of Geophysical Research'', vol.114, pp.D02205, 2009. {{Bibcode|2009JGRD..11402205P}}, {{DOI|10.1029/2007JD009716}}.</ref>
== 大気の組成 ==
[[ファイル:Atmosphere gas proportions.svg|thumb|200px|乾燥大気の組成を示す円グラフ。下の円は微量成分の詳細。]]
地球の大気は窒素、酸素のほか多数の微量成分で構成される。1cm<sup>3</sup>当たり3×10<sup>19</sup>個の分子が含まれる。<ref>「徹底図解 宇宙のしくみ」、[[新星出版社]]、2006年、p106</ref>以下に[[国際標準大気]](1975)<ref name="kikakurui">kikakurui.com 「[http://kikakurui.com/w/W0201-1990-01.html JIS W 0201:1990 標準大気]」</ref>における、海面付近(1気圧)の、[[大気エアロゾル粒子|エアロゾル]]等の微粒子を除いた清浄な乾燥空気の組成を解説する。
(*)を付けた成分は、[[呼吸]]や[[光合成]]などの[[生物]]の活動、車や工場の排気ガスなどの[[産業]]活動、空気中で起こる[[光反応|光化学反応]]に伴う合成・分解により、場所により大きく変動する。
実際の空気中で最も変動するのは[[水蒸気]]であり、最大で4%程度、低いときは0%近くまで低下する。全球地表平均では約0.4%となる。(下表には含まない)
(+)をつけた成分は、人為的に排出される成分であり、濃度が近年著しく変化しているものである。主に[[産業革命]]以降完全に人為的に排出されて大気中に残存した成分と、元々自然界で排出されていたが産業革命以降人為的に大量に排出されて濃度が高まった成分とがある。
数値の右の(>)は、その値が通常の空気における最大値であることを示す。「1ppm>」であれば、最大1ppm、通常はそれ以下であることを意味している。
{| class="wikitable" style="float:left"
|+ 表1: 乾燥空気の主な組成(国際標準大気、1975年)
|-
| 成分 || 化学式 || [[体積分率|体積比]] 割合(vol%) || [[ppm]] || [[ppb]] || 備考
|-
| [[窒素]] || N<sub>2</sub> || 78.084 || 780,840 || - || <ref name="kikakurui"/>
|-
| [[酸素]] || O<sub>2</sub> || 20.9476 || 209,476 || - || <ref name="kikakurui"/>
|-
| [[アルゴン]] || Ar || {{0}}0.934 || {{0|00}}9,340 || - || <ref name="kikakurui"/>
|-
| [[二酸化炭素]] || CO<sub>2</sub> || {{0}}0.041 || {{0|000,}}410 || - || +*2018年の値<ref name="jmaghg8">「{{PDFLink|[http://www.data.kishou.go.jp/obs-env/infohp/wdcgg/GHG_Bulletin-8_j.pdf WMO温室効果ガス年報 気象庁訳]}}」[[気象庁]]、2012年11月、2013年1月12日閲覧</ref><ref name="kikakurui"/><ref group="注">産業革命前の1750年比で1.4倍に増加している。国際標準大気(1975)では314 ppmとして示されている。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ds.data.jma.go.jp/ghg/kanshi/obs/co2_yearave.html|title=二酸化炭素濃度の年平均値|accessdate=2020/10/24|publisher=国土交通省 気象庁}}</ref>
|-
| [[ネオン]] || Ne || {{0}}0.001818 || {{0|000,0}}18.18 || - || <ref name="kikakurui"/>
|-
| [[ヘリウム]] || He || {{0}}0.000524 || {{0|000,00}}5.24 || - || <ref name="kikakurui"/>
|-
| [[メタン]] || CH<sub>4</sub> || {{0}}0.000181 || {{0|000,00}}1.81 || 1813±2 || +2011年の値<ref name="jmaghg8"/><ref name="kikakurui"/><ref group="注">産業革命前の1750年比で2.6倍に増加している。国際標準大気(1975)では2 ppmと丸めて示されている。</ref>
|-
| [[クリプトン]] || Kr || {{0}}0.000114 || {{0|000,00}}1.14 || - || <ref name="kikakurui"/>
|-
| [[二酸化硫黄]] || SO<sub>2</sub> || {{0}}0.0001> || {{0|000,00}}1> || - || *<ref name="kikakurui"/>
|-
| [[水素]] || H<sub>2</sub> || {{0}}0.00005 || {{0|000,00}}0.5 || - || <ref name="kikakurui"/>
|-
| [[一酸化二窒素]] || N<sub>2</sub>O || {{0}}0.000032 || {{0|000,00}}0.32 || {{0}}324.2±0.1 || +*2011年の値<ref name="jmaghg8"/><ref name="kikakurui"/><ref group="注">産業革命前の1750年比で1.2倍に増加している。国際標準大気(1975)では0.5 ppmと丸めて示されている。</ref>
|-
| [[キセノン]] || Xe || {{0}}0.0000087 || {{0|000,00}}0.087 || {{0|00}}87 || <ref name="kikakurui"/>
|-
| [[オゾン]] || O<sub>3</sub> || {{0}}0.000007> || {{0|000,00}}0.07> || {{0|00}}70> || *<ref group="注">冬は20 ppb>程度まで低下する。</ref><ref name="kikakurui"/>
|-
| [[二酸化窒素]] || NO<sub>2</sub> || {{0}}0.000002> || {{0|000,00}}0.02> || {{0|00}}20> || *<ref name="kikakurui"/>
|-
| [[ヨウ素]] || I<sub>2</sub> || {{0}}0.000001> || {{0|000,00}}0.01> || {{0|00}}10> || *<ref name="kikakurui"/>
|}
{{clear}}
{| class="wikitable"
|+ 表2: 乾燥空気の微量成分
|-
| 成分 || 化学式 || 体積比割合(vol%) || ppm || ppb || [[ppt]] || 備考
|-
| [[クロロメタン]] || CH<sub>3</sub>Cl || 約0.000000055 || - || 0.55 || 約550 || +* 2008年の値<ref name="jmar08-232">「[http://www.data.kishou.go.jp/obs-env/cdrom/report2008/html/2_3_2.html 2.3.2 世界のハロカーボン類等の濃度]」気象庁、''大気・海洋環境観測報告''、2008年、2013年1月12日閲覧</ref>
|-
| [[ジクロロジフルオロメタン]](CFC-12) || CCl<sub>2</sub>F<sub>2</sub> || - || - || - || 約540 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[トリクロロフルオロメタン]](CFC-11) || CCl<sub>3</sub>F || - || - || - || 約245 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[クロロジフルオロメタン]](HCFC-22) || CHClF<sub>2</sub> || - || - || - || 約200 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[一酸化炭素]] || CO || - || - || - || 約91 || +* 2008年の値<ref>「[http://www.data.kishou.go.jp/obs-env/cdrom/report2008/html/2_5_2.html 2.5.2 世界の一酸化炭素濃度]」気象庁、''大気・海洋環境観測報告''、2008年、2013年1月12日閲覧</ref>
|-
| [[四塩化炭素]] || CCl<sub>4</sub> || - || - || - || 約90 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[トリクロロトリフルオロエタン]](CFC-113) || C<sub>2</sub>Cl<sub>3</sub>F<sub>3</sub> || - || - || - || 約75 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[1,1,1,2-テトラフルオロエタン]](HFC-134a) || C<sub>2</sub>H<sub>2</sub>F<sub>4</sub> || - || - || - || 約50 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[1-クロロ-1,1-ジフルオロエタン]](HCFC-142b) || CClF<sub>2</sub>CH<sub>3</sub> || - || - || - || 約20 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[1,1-ジクロロ-1-フルオロエタン]](HCFC-141b) || CCl<sub>2</sub>FCH<sub>3</sub> || - || - || - || 約20 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[1,1,1-トリクロロエタン]] || CH<sub>3</sub>CCl<sub>3</sub> || - || - || - || 約10 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[1,1-ジフルオロエタン]](HFC-152a) || C<sub>2</sub>H<sub>4</sub>F<sub>2</sub> || - || - || - || 約4-9 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[六フッ化硫黄]] || SF<sub>6</sub> || - || - || - || 約6.5 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[ブロモクロロジフルオロメタン]](ハロン1211) || CClBrF<sub>2</sub> || - || - || - || 約4 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[ブロモトリフルオロメタン]](ハロン1301) || CBrF<sub>3</sub> || - || - || - || 約3 || + 2008年の値<ref name="jmar08-232"/>
|-
| [[アンモニア]] || NH<sub>3</sub> || {{要出典範囲|痕跡量*|date=2012年12月}} || - || - || - ||
|}
{{clear}}
{{Main2|地球大気がこのような成分に至った経緯|地球の大気}}
== 空気の利用 ==
産業用として[[圧縮空気]]は様々な場面で利用される。圧縮空気を原動力として用いる機械を[[空圧]]機械というが、[[圧縮機]]を用いたり使用者が手動で行ったりといくつかの方式がある。
また純粋な空気の利用では、[[ボンベ]]等に充填した圧縮空気、低温下で液化させた液体空気も製造される。常圧ではおよそ-190℃で液化し、液体[[酸素]]の影響から液体の空気は淡い青味を帯びた色をしている<ref>[[Yahoo! Japan]]百科事典([[小学館]] [[日本大百科全書]])『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B6%B2%E4%BD%93%E7%A9%BA%E6%B0%97/ 液体空気]』</ref>。ボンベに充填する空気は一般的に、水蒸気や微粒子成分を取り除いた乾燥空気である。
[[スキューバ・ダイビング]]で使用するタンクには圧縮空気が充填されているが、50m程度まで[[潜水]]する場合は、[[窒素酔い]]を避けるため、窒素分を[[ヘリウム]]と置換した空気を用いる。
また、窒素、酸素、二酸化炭素のほか、アルゴン、クリプトン、キセノン、ネオンなどの大気中に含まれる成分は、空気を利用して冷却・圧縮、化学吸着、膜分離等の方法で産業用に製造されるものがある。
[[同軸ケーブル]]の絶縁体には当初空気が使われており、最適な特性を探った結果、特性インピーダンスが約75Ωという値となり、[[ポリエチレン]]に変更された現在でも数値が維持されている。
== 空気と大気の理解 ==
=== 空気の理解 ===
[[ファイル:Four elements representation zh.svg|thumb|200px|[[四元素説]]における元素の関係図]]
[[古代ギリシャ]]では空気は4つの[[元素]]([[四大元素]]:水、地、火、空気)の1つとされていた(四元素説)<ref name="hara">{{Cite web|和書|author=原宏|url=https://www.applc.keio.ac.jp/~tanaka/lab/AcidRain/%E7%AC%AC36%E5%9B%9E/4.pdf|title=大気からの物質沈着: 大気からの物質沈着: これまでから、これからへ これまでから、これからへ|publisher=慶應義塾大学理工学部応用化学科|accessdate=2021-09-21}}</ref>。
18世紀後半になるとイギリスで空気の化学(pneumatic chemistry)に関心が高まった<ref name="hara" />。[[ジョゼフ・ブラック]]は固定空気(二酸化炭素)の研究を通して気体の特異性を識別し、空気の化学の基礎的な研究に貢献した<ref name="hara" />。また、[[ジョゼフ・プリーストリー]]は脱フロギストン空気(dephlogisticated air)という気体([[酸素]])を研究し、一酸化窒素、酸化二窒素、塩化水素、アンモニア、二酸化硫黄、四フッ化ケイ素、酸素の研究について「様々な種類の空気に関する実験と観察」(Experiments and Observation on Different Kinds of Air)を出版した<ref name="hara" />。
なお、ガス(gas)という語は[[ヤン・ファン・ヘルモント]]がギリシャ語で混沌を意味するchaosから作った語である<ref name="hara" />。
=== 大気の理解 ===
鉛直構造としての大気は高所に行く必要があり空気の研究に比べると遅れた<ref name="hara" />。1648年、[[ブレーズ・パスカル]]は[[ピュイ・ド・ドーム]]火山にガラス管と水銀を持って山に登り、高度ごとの水銀柱の高さを測定して高度により異なり、温度が同じであれば高度が低くなるほど圧力が増すことを発見した<ref name="hara" />。
== 日本での空気認識と「空気」という言葉の歴史 ==
=== 沢庵和尚の実験 ===
日本で初めて空気の存在を科学的に証明する実験を示したのは、江戸時代初期の禅宗僧の[[沢庵宗彭|沢庵和尚]](1573 - 1645)である{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=7}}。沢庵は『理学之捷径(りがくのしょうけい)』(1621){{refnest|group="注"|初めて出版されたのは沢庵が[[正保]]二(1645)年に亡くなった後の正保三(1646)年であるが、江戸時代を通して[[文政]]七(1824)年まで何度も刊行されている{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=10}}。}}の中で、「気は形なけれども歴々としてあるしるしには、気が動けば風が吹くなり。人の強く走りて気が動けば、息は強くなるごとくなり」などと、空気の存在を説明した後、「桶の底におき(火がついた炭)を糊にてつけて、これを水の上に伏せて、まっすぐに水の中に押し込むに、桶の内に水いらずして、火が消えざるなり。これは桶の内にも気がいっぱい満ちてある故に、内がふさがりて水の入るべきところなく、桶の内は何もなく空なれど、気のある証拠なり」という実験を示した{{Sfn|板倉聖宣|1999|pp=7-8}}。
沢庵は「日本で最初の空気の存在を証明した実験」を行ったが{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=8}}、沢庵は戦国末期から江戸時代初期の堺や京都で活動していた多数のキリスト教宣教師からアリストテレスの自然学の講釈を知り、自分の説教に利用したと考えられる{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=8}}。
沢庵は『東海夜話』(1859){{refnest|group="注"|[[安政]]六年に初めて刊行された{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=10}}。}}の中で竹鉄砲という紙玉鉄砲のおもちゃを紹介しているが、その飛ぶ理由として「先の玉と後の玉の間は空なれども、その間には気が満ちてあるゆえなり」と書いている{{Sfn|板倉聖宣|1999|pp=8-9}}。
沢庵は終始、「気」という言葉を用いているが、それは[[儒学]]の[[理気論]]でいう「気」一般の実在を証明したかったからである。沢庵はそれらの「気」と空気の同一性を証明したかったので「気」以外の言葉を考えることは全く無かった{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=9}}。
=== 井原西鶴の『好色一代男』 ===
「空気」という言葉をはじめて用いたのは[[井原西鶴]](1642 - 1693)の『好色一代男』(1682)である{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=11}}。西鶴は巻七の「口添へて酒軽籠」の条で「今この目からは空気のようにおもはれはべる」と書いている{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=11}}。しかし、これは「うつけもの」(馬鹿者、間抜け)という意味の言葉であった{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=11}}。江戸時代には「空気」と書いて「うつけ」と理解する人々がいたと考えられる{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=11}}。
[[明暦]]五(1659)年の『[[乾坤弁説]]』にも「空気」の語が出てくるが、それはヨーロッパの[[四元素説]]を論じたものであって、今日の空気を指す言葉ではなかった{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=13}}。
=== 空気の語の初出 ===
今日使う意味での「空気」の語の初出は[[前野良沢]](1723 - 1803)の『管蠡秘言』(かんれいひげん)(1777)である。そこには「空気の地球を包む者にして、その厚さ地平より上四十五度の分に及ぶ。これを空の体と号す」とあって、今日の空気をさしている{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=15}}。良沢は「空間を占める気」の意味で「空気」という言葉を使った{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=11}}。良沢は最初の[[蘭学者]]と呼べる人で、オランダの学問を知って「空気」と儒学等の「気」を区別するために「空気」という言葉を作った{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=16}}。
=== 游気の概念 ===
空気を中国伝来の理気論の「気」と区別する別の語として「游気(ゆうき)」も使われた。游気は中国の[[游子六]]の書いた『[[天経或問]]』で使われた言葉で、オランダ科学書を通して、日本ではじめて近代ヨーロッパの科学を学んだ[[志筑忠雄]](1760 - 1806)が著書の中で多用した{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=20}}。志築は游気を水蒸気の意味でも用いており、今日の空気と全く同じというわけではなかった。志築は中国の[[陰陽五行説]]の影響も残していた{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=21}}。
=== 1800年代初期の科学関係書 ===
前野良沢や志築忠雄の著書は写本として伝わっただけであったが、1800年前後になると蘭学関係の本がかなり出版されるようになった。[[文政]]元(1818)年にオランダの空気銃を見て、それを複製した[[国友董兵衛]](1778 - 1840)は『気砲記』を書いて、空気のことを「気」と書いている。当時の蘭学関係書では、「気」「空気」「游気」の3つの語がまちまちに使われていた{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=23}}。
=== 大気という言葉 ===
蘭学者達は空気を表す言葉として「大気」という言葉も作った。幕府の命令でオランダ語の家庭百科事典を訳した『厚生新編』(1821,1824){{refnest|group="注"|江戸時代には幕府の命令で印刷できず、1937年に初めて印刷出版された{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=26}}。}}には空気を意味する言葉として「大気」が出てくる。訳者は[[大槻玄沢]]と[[宇田川玄真]]となっている{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=24}}。彼らは「空気」という訳語を不適と見なして「大気」という訳語を作った{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=24}}。「大気」の語はその後多くの蘭学者達に支持されて、江戸幕府末期の科学書の中で最も一般的に使われるようになった{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=27}}。日本に初めて[[ラボアジェ]]の化学を紹介した[[宇田川榕庵]]は『[[舎密開宗]]』(1837)の中で空気を一貫して「大気」と訳している。榕庵は大気の他に「瓦斯」という言葉も区別しており、その「大気」概念は近代科学の「空気」の概念と全く同じである{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=27}}。
=== 幕末の「空気」という言葉の普及 ===
江戸時代には「大気」という言葉は「器が大きい」という意味でも用いられていたため、それを気にした人は「大気」よりも「空気」という言葉を好んで使用した{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=30}}。宇田川榕庵の『舎密開宗』の1年以上後(1837年以後)に出版された[[鶴峯戊申]](つるみねぼしん)(1788 - 1858)の『三才究理頌(さんさいきゅうりしょう)』では、「空気」の語を用いている。鶴峯は蘭学の地動説と日本神話を結びつけて宇宙論を展開し、「絶気(窒素)七分、清気(酸素)三分相交わりて、空気は整いたり」などと出てくる{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=31}}。[[元治]]二(1865)年ボイス著・[[大場雪斎]]訳の『[[民間格致問答]]』という日本最初の本格的な科学読み物が出版され、その中では「空気」の語が最初から最後まで用いられ、明治維新後の科学啓蒙書出版ブームに大きな影響を与えた{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=32}}。
=== 明治元(1868)年以後 ===
明治元年から7年頃まで、各種の科学啓蒙書が書かれ「[[窮理熱]]」というブームになった{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=33}}。[[福沢諭吉]]が書いた『(訓蒙)窮理図解』では、「空気の事」の中で「空気は人の目には見えざれども、この世界を囲擁して万物の内に充満せり」と書かれている{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=33}}。この本の影響で多くの啓蒙書が「空気」の語を採用したが、専門書では「大気」の語を使うことが多かった{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=34}}。
=== 文部省の学制の空気概念 ===
文部省が明治五年の[[学制]]によって教科書を出版したために、明治7年以降は民間の科学啓蒙書出版運動である窮理熱は急速にしぼんでしまった{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=39}}。明治五年に文部省が出した教科書では「空気」と「大気」が併用されていた。その後も明治五年から8年にかけて作られた教科書では、「大気」のみだったり、「空気」のみだったり一貫しなかった{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=40}}。明治10年代までの教科書以外の科学書では「空気」が「大気」よりも優勢になっていたが、統一されてはいなかった。
=== 物理学訳語会による統一 ===
「空気」の「大気」に対する勝利を確定的にしたのは、東京数学物理学会の物理学訳語会であった{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=43}}。訳語会の明治18年の議事録には結論として「Air 空気」として異論がなかったことが記録されている{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=43}}。訳語会は福沢諭吉などの大衆的な科学啓蒙書が「空気」という言葉を大衆化したため、それをそのまま認めたと考えられる{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=43}}。明治21年に訳語会は最終結果を印刷公表し、これ以後は「空気」の語で統一された{{Sfn|板倉聖宣|1999|p=44}}。
== 空気と知覚 ==
我々は空気に依存し、空気の中で生活しているが、[[日常生活]]の中でそれを意識することはあまりない。同様に生活に欠かせない[[水]]がその手応えや感触から、普段からはっきり意識されるのとは好対照である。
ただし空気は、それに流れがある時には意識される傾向があり、「[[風]]」と呼ばれるようになる<ref group="注">なお、人は空気の動きを全身の体表面の毛([[体毛]])の[[毛根]]あたりの[[感覚器]]で(体毛の動きを感じて)直接的に感じている、と指摘している研究がある。体毛を剃ってしまったりすると、感度が落ちるという。</ref>。
また、その成分については、閉め切った部屋、(洞窟の中など)[[換気]]が不十分な場所など(現在の観念で言えば、酸素が不十分だったり、余計な[[気体|ガス]]が混じった状態)では意識されていて、古くから「腐った空気」「空気が腐る」といった表現がされてきた。また、[[香り]]や[[臭い]]が漂ったり、[[化学物質]]により刺激を感じるような場合も意識されるようになる。
<!--{空気は光の透過度が高く、音の伝達速度は小さい。「{{要出典範囲|これは我々を含む陸上の動物が感覚器として[[耳]]より[[目]]を重んじる傾向の基礎である|date=2011-6}}」という{{誰|date=2011-7}}。水中では逆に耳が重要になり、[[クジラ]]類などにそれが強く表れている。-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* [[Yahoo! Japan]]百科事典([[小学館 ]] [[日本大百科全書]])『[https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A9%BA%E6%B0%97/ 空気]』
* {{Cite journal|和書|author=板倉聖宣|authorlink=板倉聖宣|title=日本人の空気認識と「空気」という言葉の歴史|publisher=仮説社 |journal=(第3期)仮説実験授業研究|volume=|issue=8|pages=5-46|year=1999|isbn=4-7735-0139-1|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1999}} }}{{全国書誌番号|20024384}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{Commonscat|Air}}
* [[地球の大気]]、[[大気圏]]
* [[気圧]](大気圧)
* [[風]]
* [[窒素]]、[[酸素]]、[[アルゴン]]、[[二酸化炭素]]
* [[気体]]、[[ガス]]、[[流体]]、[[流体力学]]
* [[呼吸]]
* [[圧縮空気]]、[[圧縮機|エアコンプレッサー]]、[[空気入れ]]
* [[真空ポンプ]]
* [[空気銃]]、[[空気砲]]
* [[エアバリコン]]
* [[場の空気]]
* [[空気神社]] - 空気をご神体とする神社
* [[液体空気]]
* [[固体空気]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{commonscat|Earth%27s atmosphere}}
{{Normdaten}}
{{pri|空気 (代表的なトピック)}}
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[[Category:大気|*]]
[[Category:気体]]
[[Category:誘電体]]
[[Category:混合物]]
[[en:Atmosphere of Earth#Composition]]
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往生
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往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。
現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。
化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。
極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。
往生の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれる事である。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往く事にあるのでなく、仏になる事にある。
何故仏国土に往生する事が、成仏の方法となるかというと、成仏には、仏の導きと仏による成仏への保証(授記)がなければならないからで、これらのない独自の修行は、阿羅漢(あらかん)や辟支仏(びゃくしぶつ)となる事は出来るが、それらになると二度と仏となる事が出来ない、と大乗仏教では考えられていた。 仏教のさとりは無我の証得である。自己の空無なる事を悟るためには、修行している事に「自らが」という立場があってはならない。自我意識が残る限り成仏は不可能とすれば、自我意識の払拭は自己自らでは不可能となる。ここに、成仏に逢仏、見仏を必要とする理由がある、というのが浄土門の立場である。
往生とは極楽往生、浄土往生といわれるように、人間が死んで仏の国に生まれるから、一般的に死後の往生の意味である。しかも、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれる事は成仏する事である。 そこから意味が派生して、往生とは仏になる事と考えられ、往生は現実には死であり、さらに仏になることなので死んだら仏という考え方が一般化したと考えられる。
中でも老衰やそれに伴う多臓器不全などの自然死による他界を大往生と呼ぶことが多い。 この往生の意味が、さらに俗化して「身のおきどころがなく、おいつめられた時」を往生するとなったと考えられる。
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往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。 現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。 化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。 胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事
卵生 鳥類のように卵から生まれる事
湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。天人など 極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。
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'''往生'''(おうじょう)とは、[[大乗仏教]]の中の[[成仏]]の[[方法論]]の一つである。
現実の仏である[[釈迦牟尼]]世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、[[成仏]]の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な[[浄土]]への往生があるが、一般的には[[阿弥陀仏]]の浄土とされている'''[[極楽]]'''への往生を言う。これは'''極楽往生'''(ごくらくおうじょう)といわれ、'''往'''とは極楽浄土にゆく事、'''生'''とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は'''蓮華化生'''という。
'''化生'''とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた'''[[四生]]'''(ししょう)の中の一つ。
# 胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事
# 卵生 鳥類のように卵から生まれる事
# 湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
# 化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。天人など
極楽浄土への往生は、そこに生まれる[[業]]の力で化生すると言う。'''蓮華化生'''とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。
==本来の意義==
'''往生'''の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれる事である。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往く事にあるのでなく、'''仏になる'''事にある。
==必然性==
何故仏国土に往生する事が、成仏の方法となるかというと、'''成仏'''には、'''仏の導き'''と'''仏による成仏への保証'''(授記)がなければならないからで、これらのない独自の修行は、[[阿羅漢]](あらかん)や[[縁覚|辟支仏]](びゃくしぶつ)となる事は出来るが、それらになると二度と'''仏'''となる事が出来ない、と大乗仏教では考えられていた。<br>
[[仏教]]の'''さとり'''は'''無我の証得'''である。自己の空無なる事を悟るためには、修行している事に「自らが」という立場があってはならない。自我意識が残る限り成仏は不可能とすれば、自我意識の払拭は自己自らでは不可能となる。ここに、成仏に'''逢仏'''、'''見仏'''を必要とする理由がある、というのが浄土門の立場である。
==一般化==
'''往生'''とは'''極楽往生'''、'''浄土往生'''といわれるように、人間が死んで'''仏の国'''に生まれるから、一般的に'''死後の往生'''の意味である。しかも、往生する世界は'''仏の世界'''であり、そこに生まれる事は'''成仏'''する事である。<br>
そこから意味が派生して、'''往生'''とは'''仏'''になる事と考えられ、'''往生'''は現実には'''死'''であり、さらに'''仏になる'''ことなので'''死んだら仏'''という考え方が一般化したと考えられる。
中でも[[老衰]]やそれに伴う多臓器不全などの[[自然死]]による他界を'''大往生'''と呼ぶことが多い<ref>{{Cite web|和書|title=大往生(だいおうじょう)とは {{!}} 葬儀用語集 |url=https://www.hana-sougi.com/dictionary/300/ |website=www.hana-sougi.com |access-date=2023-08-06}}</ref>。<br>
この往生の意味が、さらに俗化して「身のおきどころがなく、おいつめられた時」を'''往生する'''となったと考えられる。
==参考用語==
*'''立ち往生'''(たちおうじょう):[[武蔵坊弁慶|弁慶]]の~。[[渋滞]]などで進むも戻るも出来ない停滞した状態をさす。'''立往生'''。[[武蔵坊弁慶#弁慶の立往生]]を参照。
*[[往生要集]] 往生に関した文章を集めた平安時代の僧侶、[[源信 (僧侶)|源信]]の仏教論書。
== 脚注 ==
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==参考文献==
* 片茂永「韓国の蓮華化生図について」『比較民俗研究』24号,比較民俗研究会,2010年3月.
* 片茂永「蓮葉化生の国際性」『比較民俗学会報』比較民俗学会,通巻147,2011年3月.
*片茂永「京都六波羅蜜寺蛙股の三本蓮華化生」『比較民俗学会報』,通巻150,2012年3月.
*片茂永「韓国松広寺地蔵殿極楽図と浄土三部経」『比較民俗学会報』,通巻162,2015年7月.
*片茂永「釈尊の幻滅と蓮華」『比較民俗学会報』,通巻168,2016年10月.
*片茂永「今昔物語集の道喩と蓮華化生」『比較民俗学会報』,通巻172号,2017.
*片茂永「中国の何仙姑と蓮華」『比較民俗学会報』,通巻180号,2019.
==関連項目==
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*[[大木こだま・ひびき]]
*[[往生伝]]
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==外部リンク==
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尼
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尼(あま)、または尼僧(にそう)とは、20歳以上の未婚、もしくは結婚経験があっても沙弥尼(しゃみに)の期間を経て出家した女性のこと。比丘尼(びくに)とも呼ばれる。キリスト教の修道女(en:Nun)の訳語として尼が当てられることがあるが、本来は比丘尼 (サンスクリット:bhikṣuṇī) のことであり、男子の出家修行者(比丘=びく)に対して、女性の出家修行者をいう。
女性が髪を肩のあたりで切ることやその髪型を尼削ぎ(あまそぎ)というが、そのような髪形の童女を尼という場合がある。また近世以降少女または女性を卑しめて呼ぶときにも尼という語を用いた。
「あま」という日本語の読みは母や女性一般を意味するパーリ語のアンマー(ammā)から来たと言われる。
最初の比丘尼は釈迦の養母の摩訶波闍波提 (まかはじゃはだい、mahāprajāpatī)と500人の釈迦族の女性たちであった。
釈迦ははじめ女性の出家を許さなかったが、彼女たちの熱意と阿難(あなん、アーナンダ)のとりなしによって、比丘を敬い、罵謗したりしないなど8つの事項(八敬法)を守ることを条件に、女性の出家を認めたという(ただし、釈迦が女人の出家を躊躇ったとの逸話は原始仏典との矛盾が多く、後世に付加されたものである可能性が高い)。これにより釈迦の元妻である耶輸陀羅(やしょたら、ヤソーダラー)、大迦葉(だいかしょう、マハー・カッサパ)のかつての妻である妙賢(バッダー・カピラーニー)、ビンビサーラ王の妃であった差摩(さま、ケーマー)、蓮華色比丘尼(ウッパラヴァンナー)など次々と出家し尼僧集団が形成された。
日本では一般に、出家得度して剃髪し染衣を着け、尼寺にあって修行する女性を指す。尼法師、尼御前(あまごぜ)、尼前(あまぜ)などと呼ばれた。在家のままで形だけ剃髪した者を尼入道(あまにゅうどう)、尼女房(あまにょうぼう)と言った。
日本最初の尼は、584年に蘇我馬子が出家させた司馬達等の娘・善信尼ら3人である。彼女たちは百済に渡って戒法を学び、590年に帰国して、桜井寺に住した。仏教伝来の当初、尼は神まつりする巫女と同じ役割を果たしたと思われる。741年(天平13年)、聖武天皇の発願で国分寺が諸国に設けられたが、同時に国分尼寺も置かれた。しかし、鎮護国家の思想が強まるにつれて僧侶の持戒を重んじる立場から、尼を含めて女性が仏教に接することを厭う風潮が生まれた。そのため、尼に対する授戒は拒絶され、当時大勢の尼が存在しながら、仏教界においては僧侶としては否認されるという扱いが長く続く事になる。これに対して淳和天皇の皇后であった正子内親王が女性のための戒壇(尼戒壇)を作ろうとするが反対に遭って果たせず、一条天皇の中宮であった藤原彰子(藤原道長の娘)が自身の出家を機に道長が建てた法成寺に尼戒壇を設置した(万寿4年(1027年)が、同寺の荒廃とともに失われた。中世には貴族出身者は「さげ尼」と称して、髪を肩の辺りで削いで「尼」となることができた(勿論、授戒が受けられないために正式な尼にはなれない)。それ以降この風習が一般に広まり、夫と死別したり、離婚したり、老婆となった時など、姿かたちだけ「尼」となった。源頼朝妻の北条政子は落飾後に藤原頼経の後見として権勢を振い、「尼将軍」と呼ばれた。
鎌倉仏教は、従来の女性軽視の立場を反省し、女性の救済を説いたが、法然は、当時愚か者の代名詞の観すらあった尼入道に深い理解を示した。また、叡尊もかつての国分尼寺の総本山であった法華寺再興の際に同寺に尼戒壇を設置した(建長元年(1249年))。彼の真言律宗の布教の影響によって次第に女性への受戒が許容されるようになり正式な尼が現れた。鎌倉・室町時代には、京都・鎌倉に尼五山が定められた。
民間の巫女は修験の山伏と夫婦になって祈祷や託宣を行ったが、剃髪の風習が巫女にも及び、修験巫女は比丘尼とよばれた。このような比丘尼は各地を遊行し、これを背景に八百比丘尼の伝説が生まれた。 熊野信仰を各地に広めた熊野比丘尼は六道図や熊野那智参詣曼荼羅などを絵解きし、江戸時代に入ると宴席にはべる歌比丘尼となり、売春婦に転落するものもいた。
尼は日本仏教のほぼ全ての宗派に置かれたが明治維新以降は儒教的な家父長制の価値観が旧武士階層以外にも広まり、これに加えて国粋主義も台頭した昭和期には日蓮正宗のように尼を廃止した例もある。
中国では儒教・仏教・道教を「三教」と呼ぶ。仏教の尼僧は「尼姑」「比丘尼」等と呼ばれ、日本と同様に剃髪する。道教の尼(女性の道士)は「道姑」「坤道」などと呼ばれ、髪を伸ばし独特の結いかたをする。中国の演劇や映画、ドラマに登場する尼は、演出の都合上、実際の尼と化粧や衣装がかなり違うことが多いので注意を要する。史上、実在した有名な道教の尼としては、唐の女流詩人・魚玄機などがいる。
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"text": "日本最初の尼は、584年に蘇我馬子が出家させた司馬達等の娘・善信尼ら3人である。彼女たちは百済に渡って戒法を学び、590年に帰国して、桜井寺に住した。仏教伝来の当初、尼は神まつりする巫女と同じ役割を果たしたと思われる。741年(天平13年)、聖武天皇の発願で国分寺が諸国に設けられたが、同時に国分尼寺も置かれた。しかし、鎮護国家の思想が強まるにつれて僧侶の持戒を重んじる立場から、尼を含めて女性が仏教に接することを厭う風潮が生まれた。そのため、尼に対する授戒は拒絶され、当時大勢の尼が存在しながら、仏教界においては僧侶としては否認されるという扱いが長く続く事になる。これに対して淳和天皇の皇后であった正子内親王が女性のための戒壇(尼戒壇)を作ろうとするが反対に遭って果たせず、一条天皇の中宮であった藤原彰子(藤原道長の娘)が自身の出家を機に道長が建てた法成寺に尼戒壇を設置した(万寿4年(1027年)が、同寺の荒廃とともに失われた。中世には貴族出身者は「さげ尼」と称して、髪を肩の辺りで削いで「尼」となることができた(勿論、授戒が受けられないために正式な尼にはなれない)。それ以降この風習が一般に広まり、夫と死別したり、離婚したり、老婆となった時など、姿かたちだけ「尼」となった。源頼朝妻の北条政子は落飾後に藤原頼経の後見として権勢を振い、「尼将軍」と呼ばれた。",
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"text": "鎌倉仏教は、従来の女性軽視の立場を反省し、女性の救済を説いたが、法然は、当時愚か者の代名詞の観すらあった尼入道に深い理解を示した。また、叡尊もかつての国分尼寺の総本山であった法華寺再興の際に同寺に尼戒壇を設置した(建長元年(1249年))。彼の真言律宗の布教の影響によって次第に女性への受戒が許容されるようになり正式な尼が現れた。鎌倉・室町時代には、京都・鎌倉に尼五山が定められた。",
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"text": "民間の巫女は修験の山伏と夫婦になって祈祷や託宣を行ったが、剃髪の風習が巫女にも及び、修験巫女は比丘尼とよばれた。このような比丘尼は各地を遊行し、これを背景に八百比丘尼の伝説が生まれた。 熊野信仰を各地に広めた熊野比丘尼は六道図や熊野那智参詣曼荼羅などを絵解きし、江戸時代に入ると宴席にはべる歌比丘尼となり、売春婦に転落するものもいた。",
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"text": "尼は日本仏教のほぼ全ての宗派に置かれたが明治維新以降は儒教的な家父長制の価値観が旧武士階層以外にも広まり、これに加えて国粋主義も台頭した昭和期には日蓮正宗のように尼を廃止した例もある。",
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"text": "中国では儒教・仏教・道教を「三教」と呼ぶ。仏教の尼僧は「尼姑」「比丘尼」等と呼ばれ、日本と同様に剃髪する。道教の尼(女性の道士)は「道姑」「坤道」などと呼ばれ、髪を伸ばし独特の結いかたをする。中国の演劇や映画、ドラマに登場する尼は、演出の都合上、実際の尼と化粧や衣装がかなり違うことが多いので注意を要する。史上、実在した有名な道教の尼としては、唐の女流詩人・魚玄機などがいる。",
"title": "中国の尼"
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尼(あま)、または尼僧(にそう)とは、20歳以上の未婚、もしくは結婚経験があっても沙弥尼(しゃみに)の期間を経て出家した女性のこと。比丘尼(びくに)とも呼ばれる。キリスト教の修道女(en:Nun)の訳語として尼が当てられることがあるが、本来は比丘尼 のことであり、男子の出家修行者(比丘=びく)に対して、女性の出家修行者をいう。 女性が髪を肩のあたりで切ることやその髪型を尼削ぎ(あまそぎ)というが、そのような髪形の童女を尼という場合がある。また近世以降少女または女性を卑しめて呼ぶときにも尼という語を用いた。 「あま」という日本語の読みは母や女性一般を意味するパーリ語のアンマー(ammā)から来たと言われる。
|
{{otheruses||その他}}
{{Infobox Buddhist term
| title= 比丘尼, 尼
| image = [[File:Taiwanese Buddhist Nun Black Robes.jpeg|180px]]
| caption= 台湾の比丘尼
| pi= 𑀪𑀺𑀓𑁆𑀔𑀼𑀦𑀻
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| my-Latn= beiʔkʰṵnì
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'''尼'''(あま)、または'''尼僧'''(にそう)とは、20歳以上の未婚、もしくは[[結婚]]経験があっても'''沙弥尼'''(しゃみに)の期間を経て[[出家]]した[[女性]]のこと。'''[[僧|比丘尼]]'''(びくに)とも呼ばれる。[[キリスト教]]の[[修道士|修道女]]([[:en:Nun]])の訳語として尼が当てられることがあるが、本来は[[比丘尼]] (サンスクリット:bhikṣuṇī) のことであり、[[男性|男子]]の出家修行者([[比丘]]=びく)に対して、女性の出家修行者をいう。
女性が髪を肩のあたりで切ることやその髪型を[[尼削ぎ]](あまそぎ)というが、そのような髪形の[[童女]]を尼という場合がある。また[[近世]]以降[[少女]]または女性を卑しめて呼ぶときにも尼という語を用いた。
「あま」という日本語の読みは母や女性一般を意味する[[パーリ語]]のアンマー({{lang|pi|ammā}})から来たと言われる{{refnest|name="ニッポニカ_尼"}}{{refnest|name="精選版_尼"|[https://kotobank.jp/word/%E5%B0%BC-27098#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 「尼」 - 精選版 日本国語大辞典]、小学館。}}。
== 歴史 ==
最初の比丘尼は[[釈迦]]の養母の[[摩訶波闍波提]] (まかはじゃはだい、mahāprajāpatī)と500人の[[釈迦族]]の女性たちであった。
釈迦ははじめ女性の出家を許さなかったが、彼女たちの熱意と[[阿難]](あなん、アーナンダ)のとりなしによって、比丘を敬い、罵謗したりしないなど8つの事項([[八敬法]])を守ることを条件に、女性の出家を認めたという(ただし、釈迦が女人の出家を躊躇ったとの逸話は原始仏典との矛盾が多く、後世に付加されたものである可能性が高い<ref>{{cite book|和書|author= [[植木雅俊]]|title= 差別の超克――原始仏教と法華経の人間観|year= 2018|origyear= 2004|publisher= 講談社|series= 講談社学術文庫|pages= 175, 179}}</ref>)。これにより釈迦の元妻である[[耶輸陀羅]](やしょたら、ヤソーダラー)、[[大迦葉]](だいかしょう、マハー・カッサパ)のかつての妻である妙賢([[バドラー・カピラーニー|バッダー・カピラーニー]])、[[ビンビサーラ]]王の妃であった[[差摩]](さま、ケーマー)、[[蓮華色比丘尼]](ウッパラヴァンナー)など次々と出家し尼僧集団が形成された。
== 日本の尼 ==
[[日本]]では一般に、出家得度して剃髪し染衣を着け、尼寺にあって修行する女性を指す。尼法師、尼御前(あまごぜ)、尼前(あまぜ)などと呼ばれた{{refnest|name="ニッポニカ_尼"|[[松本史朗]][https://kotobank.jp/word/%E5%B0%BC-27098#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「尼」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。在家のままで形だけ剃髪した者を尼入道(あまにゅうどう)、尼女房(あまにょうぼう)と言った{{refnest|name="ニッポニカ_尼"}}。
日本最初の尼は、[[584年]]に[[蘇我馬子]]が出家させた[[司馬達等]]の娘・[[善信尼]]ら3人である。彼女たちは[[百済]]に渡って戒法を学び、[[590年]]に帰国して、[[桜井寺]]に住した。仏教伝来の当初、尼は神まつりする[[巫女]]と同じ役割を果たしたと思われる。[[741年]](天平13年)、[[聖武天皇]]の発願で[[国分寺]]が諸国に設けられたが、同時に[[国分寺|国分尼寺]]も置かれた。しかし、[[鎮護国家]]の思想が強まるにつれて僧侶の[[持戒]]を重んじる立場から、尼を含めて女性が仏教に接することを厭う風潮が生まれた。そのため、尼に対する[[授戒]]は拒絶され<ref>当時、天下の三戒壇と呼ばれた[[東大寺]]・[[薬師寺 (下野市)|薬師寺]]・[[観世音寺]]はいずれも女子の授戒を認めておらず、また平安時代に戒壇設置を認められた[[延暦寺]]も同様であった。当時の朝廷は戒壇以外での授戒は禁じていた。</ref>、当時大勢の尼が存在しながら、仏教界においては僧侶としては否認されるという扱いが長く続く事になる<ref>尼の存在自体が否認される以上、国分尼寺も存立の根拠を失い、そのほとんどが国分寺よりも早い時期に廃絶したり同寺に併合されることになった。</ref>。これに対して[[淳和天皇]]の[[皇后]]であった[[正子内親王 (嵯峨天皇皇女)|正子内親王]]が女性のための[[戒壇]](尼戒壇)を作ろうとするが反対に遭って果たせず、[[一条天皇]]の[[中宮]]であった[[藤原彰子]]([[藤原道長]]の娘)が自身の出家を機に道長が建てた[[法成寺]]に尼戒壇を設置した([[万寿]]4年([[1027年]])が、同寺の荒廃とともに失われた。[[中世]]には[[貴族]]出身者は「[[尼削ぎ|さげ尼]]」と称して、髪を肩の辺りで削いで「尼」となることができた(勿論、授戒が受けられないために正式な尼にはなれない)。それ以降この風習が一般に広まり、夫と死別したり、[[離婚]]したり、老婆となった時など、姿かたちだけ「尼」となった。[[源頼朝]]妻の[[北条政子]]は落飾後に[[藤原頼経]]の後見として権勢を振い、「尼将軍」と呼ばれた。
[[鎌倉新仏教|鎌倉仏教]]は、従来の女性軽視の立場を反省し、女性の救済を説いたが、[[法然]]は、当時愚か者の代名詞の観すらあった尼入道に深い理解を示した。また、[[叡尊]]もかつての国分尼寺の総本山であった[[法華寺]]再興の際に同寺に尼戒壇を設置した([[建長]]元年([[1249年]]<ref>同年[[2月6日_(旧暦)|2月6日]]に12名の女性への授戒を行ったという</ref>))。彼の[[真言律宗]]の布教の影響によって次第に女性への受戒が許容されるようになり正式な尼が現れた。[[鎌倉時代|鎌倉]]・[[室町時代]]には、[[京都]]・[[鎌倉]]に[[尼五山]]が定められた。
民間の巫女は修験の[[山伏]]と[[夫婦]]になって祈祷や託宣を行ったが、剃髪の風習が巫女にも及び、修験巫女は比丘尼とよばれた。このような比丘尼は各地を遊行し、これを背景に[[八百比丘尼]]の[[伝説]]が生まれた。
熊野信仰を各地に広めた[[熊野比丘尼]]は[[歓心十界図|六道図]]や[[那智参詣曼荼羅|熊野那智参詣曼荼羅]]などを絵解きし、[[江戸時代]]に入ると宴席にはべる歌比丘尼となり、[[売春|売春婦]]に転落するものもいた。
尼は日本仏教のほぼ全ての[[宗派]]に置かれたが[[明治維新]]以降は[[儒教]]的な[[家父長制]]の価値観が旧[[武士]]階層以外にも広まり、これに加えて[[国粋主義]]も台頭した[[昭和]]期には[[日蓮正宗]]のように尼を廃止した例もある。
== 中国の尼 ==
[[ファイル:Beijing Opera Qiujiang.jpg|325px|thumb|[[京劇]]「秋江」のヒロインである道教の尼僧(右)。実際の道姑より扮装は華やかである。撮影:木村武司]]
中国では儒教・仏教・[[道教]]を「三教」と呼ぶ。仏教の尼僧は「尼姑」「比丘尼」等と呼ばれ、日本と同様に剃髪する。道教の尼(女性の[[道士]])は「道姑」「坤道」などと呼ばれ、髪を伸ばし独特の結いかたをする。中国の演劇や映画、ドラマに登場する尼は、演出の都合上、実際の尼と化粧や衣装がかなり違うことが多いので注意を要する。史上、実在した有名な道教の尼としては、唐の女流詩人・[[魚玄機]]などがいる<ref>日本では[[森鷗外]]の短編小説『魚玄機』のヒロインとしても知られる。</ref>。
{{-}}
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
* [[松尾剛次]] 『勧進と破戒の中世史 <small>中世仏教の実像</small>』([[吉川弘文館]]、1995年) ISBN 4642027505
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Buddhist nuns}}
* [[西方院 (太子町)|西方院]] - 日本で最初の[[尼寺]]とされる。
* [[屁負比丘尼]](へおいびくに)
* [[ティラシン]] - [[ミャンマー]]における女性出家者
* [[八敬法]] - 仏教の女性出家者が守るべき戒律
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河口慧海
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河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。
日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
『西蔵旅行記』『在家仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。
1866年(慶応2年)、摂津国住吉郡堺山伏町(現・大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁)生まれ。父は川口善吉、母の名は常子、父の善吉は桶樽を家業とする職人であった。6歳から寺子屋清学院に通い、その後は明治時代初期に設置された泉州第二番錦西小学校へ通学した。12歳から家業を手伝いつつ、その傍らで14歳から夜学へ通学した。その後、藩儒であった土屋弘の塾へ通学して漢籍を5年間学び、米国宣教師から英語などの指導を受けた。1886年(明治19年)、京都の同志社英学校に通学を始めるが、学費困窮から退学し、同年堺市に戻り、再び土屋と米国人宣教師のもとで学んだ。
1888年(明治21年)に宿院小学校の教員となったが、更に学問を修めるべく翌年に上京、井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として苦学した。1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺(当時は東京本所にあった)で得度し、同寺の住職となる。1892年(明治25年)3月、哲学館の学科終了に伴い住職を辞す。同年4月から大阪妙徳寺に入り、禅宗を学ぶ傍ら一切蔵経を読む。その後、五百羅漢寺の住職を勤めるまでになるが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指す。数々の苦難の末、2度のチベット入りを果す。帰国した後、1921年(大正10年)に還俗する(その理由については自身の著書『在家仏教』に詳しく記されている)。
1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドのカルカッタに到着。摩訶菩提会(Maha Bodhi Society)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、シナ人と称して行動することにした。
1899年(明治32年)1月、仏陀成道の地ブッダガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパーラ居士(英語版)より釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託される。同年2月、ネパールの首府カトマンズに到着。当地にてボダナートの住職であるブッダ・バジラ・ラマ師(覚金剛)の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査する。同年3月、カトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行くが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなる。ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索する。
1900年(明治33年)3月、新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたはマルファ)へ向かう。村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。同年6月12日、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発する。同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。それまでシナ人と偽って行動していたのにこの時にはチベット人であると騙った理由は、シナ人として入学してしまうと他の中国人と同じ僧舎に入れられ、自分が中国人でないことが発覚する恐れがあったためである。一方、以前にシナ人であると騙ってしまった者など一部の人に対しては、依然としてシナ人であると偽り続ける必要があったため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなる。
たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる(本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていたのだが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間では専らセライ・アムチーという名で知られることになる)。ついには法王ダライ・ラマ13世に招喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになった。この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェであり、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことが出来た。
1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。
同年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、かつて哲学館で教えを受けた井上円了、偶然出会った探検家の藤井宣正、後に浄土真宗本願寺派の法主となる大谷光瑞の三人の反対を押し切り、その救出の為の方策としてチベットが一目置いているであろうネパールに赴く。翌年1903年(明治36年)3月、待たされはしたものの、交渉の結果、河口慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功、また国王より多くの梵語仏典を賜る。
同年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。
その後、河口慧海は1913年(大正2年)から1915年(大正4年)までにも2回目のチベット入境を果たしている。
ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されている。
1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。慧海の体験談は大評判となった一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。英訳では1909年(明治42年)に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されている。現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。
帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱した。また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されたが、現在は青山霊園の1種ロ15号5側西1地区に改葬されている。
現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。また、晩年を過ごした世田谷の自宅跡(東京都世田谷区代田2-14の「子どもの遊び場」)には終焉の地の顕彰碑が設置されている。世田谷の九品仏浄真寺の境内には慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建てたという「河口慧海師碑」が設置されている。和歌山県の高野山・奥の院には供養塔が設置されている。その他に日本国外においては、ネパールのカトマンズにはネパールと日本との友好を示す「河口慧海訪問の記念碑」が設置されている。同じくネパールのマルファ(『西蔵旅行記』では「マルバ」と表記されている)では慧海が滞在した家が「河口慧海記念館」として一般公開されている。さらに、チベットのセラ寺で慧海が学んだ部屋には記念碑が設置されている。
慧海の著作は全て戦前に出版されたものであり、既に著作権が切れているため、国立国会図書館デジタルコレクションなどで当時の著作画像が閲覧できる他、『西蔵旅行記』などは青空文庫などでも公開されている。
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"text": "1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドのカルカッタに到着。摩訶菩提会(Maha Bodhi Society)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、シナ人と称して行動することにした。",
"title": "経歴"
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"text": "1899年(明治32年)1月、仏陀成道の地ブッダガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパーラ居士(英語版)より釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託される。同年2月、ネパールの首府カトマンズに到着。当地にてボダナートの住職であるブッダ・バジラ・ラマ師(覚金剛)の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査する。同年3月、カトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行くが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなる。ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索する。",
"title": "経歴"
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"text": "1900年(明治33年)3月、新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたはマルファ)へ向かう。村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。同年6月12日、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発する。同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。それまでシナ人と偽って行動していたのにこの時にはチベット人であると騙った理由は、シナ人として入学してしまうと他の中国人と同じ僧舎に入れられ、自分が中国人でないことが発覚する恐れがあったためである。一方、以前にシナ人であると騙ってしまった者など一部の人に対しては、依然としてシナ人であると偽り続ける必要があったため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなる。",
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"text": "たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる(本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていたのだが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間では専らセライ・アムチーという名で知られることになる)。ついには法王ダライ・ラマ13世に招喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになった。この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェであり、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことが出来た。",
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"text": "1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。",
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"text": "同年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、かつて哲学館で教えを受けた井上円了、偶然出会った探検家の藤井宣正、後に浄土真宗本願寺派の法主となる大谷光瑞の三人の反対を押し切り、その救出の為の方策としてチベットが一目置いているであろうネパールに赴く。翌年1903年(明治36年)3月、待たされはしたものの、交渉の結果、河口慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功、また国王より多くの梵語仏典を賜る。",
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"text": "同年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。",
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"text": "その後、河口慧海は1913年(大正2年)から1915年(大正4年)までにも2回目のチベット入境を果たしている。",
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"text": "ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されている。",
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"text": "1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。慧海の体験談は大評判となった一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。英訳では1909年(明治42年)に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されている。現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。",
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"text": "帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱した。また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されたが、現在は青山霊園の1種ロ15号5側西1地区に改葬されている。",
"title": "経歴"
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"text": "現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。また、晩年を過ごした世田谷の自宅跡(東京都世田谷区代田2-14の「子どもの遊び場」)には終焉の地の顕彰碑が設置されている。世田谷の九品仏浄真寺の境内には慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建てたという「河口慧海師碑」が設置されている。和歌山県の高野山・奥の院には供養塔が設置されている。その他に日本国外においては、ネパールのカトマンズにはネパールと日本との友好を示す「河口慧海訪問の記念碑」が設置されている。同じくネパールのマルファ(『西蔵旅行記』では「マルバ」と表記されている)では慧海が滞在した家が「河口慧海記念館」として一般公開されている。さらに、チベットのセラ寺で慧海が学んだ部屋には記念碑が設置されている。",
"title": "経歴"
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"text": "慧海の著作は全て戦前に出版されたものであり、既に著作権が切れているため、国立国会図書館デジタルコレクションなどで当時の著作画像が閲覧できる他、『西蔵旅行記』などは青空文庫などでも公開されている。",
"title": "著書"
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] |
河口 慧海は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。 日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。 『西蔵旅行記』『在家仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。
|
{{Infobox 人物
|氏名= 河口 慧海
|ふりがな= かわぐち えかい
|画像= Ekai Kawaguchi by Zaida Ben-Yusuf.jpg
|画像サイズ= 200px
|画像説明= 1899年撮影
|出生名=
|生年月日= {{生年月日と年齢|1866|02|26|死亡}}
|生誕地= {{JPN}}<br>[[摂津国]][[住吉郡]][[堺]]山伏町<br>(現・[[大阪府]][[堺市]][[堺区]]北旅籠町西3丁1番)
|失踪年月日=
|失踪地=
|現況=
|没年月日= {{死亡年月日と没年齢|1866|02|26|1945|02|24}}
|死没地= <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 -->
|死因= [[脳溢血]]
|墓地= [[天王寺 (台東区)|護国山尊重院天王寺]](改葬前)<br>[[青山霊園]](改葬後)
|記念碑= {{JPN}}<br>大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番
|住居=
|国籍= {{JPN}}
|別名= 慧海仁広<br>セーラブ・ギャムツォ(自称)<br>セライ・アムチー(他称)
|民族= [[大和民族]]
|市民権=
|教育=
|出身校= [[清学院]]<br>[[堺市立錦西小学校|泉州第二番錦西小学校]]<br>[[同志社英学校]](中退)
|職業= 小学校教員([[1888年]] - [[1889年]])<br>[[比丘|僧]](1889年 - [[1921年]])<br>[[仏教学者]]<br>[[探検家]]
|活動期間=
|時代=
|雇用者=
|団体= 大正大学
|代理人=
|著名な実績=
|代表作= 『[[西蔵旅行記]]』
|流派=
|影響を受けたもの=
|影響を与えたもの=
|活動拠点=
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|政党=
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|敵対者=
|取締役会=
|宗教= [[仏教]]
|宗派= [[黄檗宗]]
|配偶者=
|非婚配偶者=
|子供=
|親= 川口善吉 - 父<br>常子 - 母
|親戚=
|家族=
|受賞=
|栄誉=
|公式サイト= <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など -->
|署名= <!-- 画像ファイル名 -->
|署名サイズ=
|補足=
}}
[[Image:Ekai Kawaguchi just before leaving Japan c. 1891.jpg|thumb|1897年(明治30年)、日本を離れる直前の河口(32歳)]]
[[Image:Kawaguchi as Tibetan lama, Darjeeling.jpg|thumb|1902年(明治35年)11月、[[ダージリン]]にてチベットの[[ラマ (チベット)|ラマ]]姿をした、チベット脱出後の河口(37歳)]]
[[Image:Kawaguchi in Nepal.jpg|thumb|ネパール、カトマンズの[[ボダナート]]にある河口訪問の記念碑]]
'''河口 慧海'''(かわぐち えかい、[[1866年]][[2月26日]]([[慶応]]2年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[1945年]]([[昭和]]20年)[[2月24日]])は、[[日本]]の[[黄檗宗|黄檗]][[比丘|僧]]、[[仏教学者]]、[[探検家]]。幼名は'''定治郎'''。僧名は'''慧海仁広'''(えかいじんこう)。チベット名は'''セーラブ・ギャムツォ'''。チベットでの通称は'''セライ・アムチー'''。
日本や[[中国]]の[[漢語]][[仏典]]に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、[[梵語]]原典や[[チベット語]]訳仏典の入手を決意し、日本人として初めて[[チベット]]への入国を果たした。
『[[西蔵旅行記]]』『[[在家仏教 (河口慧海)|在家仏教]]』をはじめとして数多くの著作を残し、[[慧文社]]から著作選集も出版されている。
== 経歴 ==
1866年(慶応2年)、[[摂津国]][[住吉郡]][[堺]]山伏町(現・[[大阪府]][[堺市]][[堺区]]北旅籠町西3丁)生まれ。父は[[川口善吉]]、母の名は常子、父の善吉は桶樽を家業とする[[職人]]であった。6歳から[[寺子屋]][[清学院]]に通い、その後は[[明治時代]]初期に設置された[[堺市立錦西小学校|泉州第二番錦西小学校]]へ通学した。12歳から家業を手伝いつつ、その傍らで14歳から夜学へ通学した。その後、藩儒であった土屋弘の塾へ通学して漢籍を5年間学び、米国宣教師から英語などの指導を受けた。[[1886年]]([[明治]]19年)、京都の[[同志社英学校]]に通学を始めるが、学費困窮から退学し、同年堺市に戻り、再び土屋と米国人宣教師のもとで学んだ。
[[1888年]](明治21年)に[[堺市立少林寺小学校|宿院小学校]]の教員となったが、更に学問を修めるべく翌年に上京、井上円了が[[東京市]]に創設した[[哲学館]]([[東洋大学]]の前身)で外生として苦学した。[[1890年]](明治23年)に[[黄檗宗]]の[[五百羅漢寺]](当時は[[本所 (墨田区)|東京本所]]にあった)で得度し、同寺の住職となる。[[1892年]](明治25年)3月、哲学館の学科終了に伴い住職を辞す。同年4月から大阪妙徳寺に入り、[[禅宗]]を学ぶ傍ら一切蔵経を読む。その後、五百羅漢寺の住職を勤めるまでになるが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、[[鎖国]]状態にあったチベットを目指す。数々の苦難の末、2度のチベット入りを果す。帰国した後、1921年(大正10年)に[[還俗]]する(その理由については自身の著書『[[在家仏教 (河口慧海)|在家仏教]]』に詳しく記されている)。
=== 日本人未踏のチベットへ ===
[[1897年]](明治30年)6月に[[神戸港]]から旅立ち、[[シンガポール]]経由で[[英領インド]]のカルカッタに到着。摩訶菩提会(Maha Bodhi Society)幹事[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]の紹介により[[ダージリン]]のチベット語学者でありチベット潜入経験のある[[サラット・チャンドラ・ダース]]の知遇を得る。およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。その間に、当時厳重な鎖国状態にあった[[チベット]]入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、[[漢民族|シナ人]]と称して行動することにした。
1899年(明治32年)1月、仏陀[[成道]]の地[[ブッダガヤ]]に参り、摩訶菩提会の創設者である{{仮リンク|ダンマパーラ居士|en|Anagarika Dharmapala}}より[[釈迦牟尼如来]]の[[仏舎利|舎利]]をおさめた銀製の塔とその捧呈書、[[貝多羅葉]]の経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王[[ダライ・ラマ]]に献上して欲しいと託される。同年2月、[[ネパール]]の首府[[カトマンズ]]に到着。当地にて[[ボダナート]]の住職であるブッダ・バジラ・ラマ師(覚金剛)の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査する。同年3月、カトマンズを後にし、[[ポカラ]]や[[ムクテナート]]を経て、徐々に北西に進んで行くが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなる。ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州[[ツァーラン]]村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村で[[チベット仏教]]や[[修辞学]]の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索する。
[[1900年]](明治33年)3月、新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたは[[マルファ (ネパール)|マルファ]])へ向かう。村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。同年6月12日、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発する。同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、[[マナサロヴァル湖|マナサルワ湖]](経文に言う『阿耨達池』)・聖地[[カイラス山]]などの巡礼の後、[[1901年]](明治34年)3月にチベットの首府[[ラサ]]に到達。チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇る[[セラ寺]]の大学にチベット人僧として入学を許される。それまでシナ人と偽って行動していたのにこの時にはチベット人であると騙った理由は、シナ人として入学してしまうと他の中国人と同じ僧舎に入れられ、自分が中国人でないことが発覚する恐れがあったためである。一方、以前にシナ人であると騙ってしまった者など一部の人に対しては、依然としてシナ人であると偽り続ける必要があったため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなる。
たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる(本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていたのだが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間では専らセライ・アムチーという名で知られることになる)。ついには法王[[ダライ・ラマ13世]]に招喚され、その際[[侍従]]医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになった。この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、[[ガンデン寺]]の坐主チー・リンポ・チェであり、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことが出来た。
[[1902年]](明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。
同年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、かつて[[哲学館]]で教えを受けた[[井上円了]]、偶然出会った探検家の[[藤井宣正]]、後に[[浄土真宗本願寺派]]の法主となる[[大谷光瑞]]の三人の反対を押し切り、その救出の為の方策としてチベットが一目置いているであろうネパールに赴く。翌年[[1903年]](明治36年)3月、待たされはしたものの、交渉の結果、河口慧海自身がチベット[[法王]]ダライ・ラマ宛てに認めた上書をネパール国王(総理大臣)であった[[チャンドラ・シャムセール・ジャンガ・バハドゥール・ラナ|チャンドラ・サムシャール]]を通じて法王に送って貰うことに成功、また国王より多くの[[梵語]]仏典を賜る。
同年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。
その後、河口慧海は[[1913年]]([[大正]]2年)から[[1915年]](大正4年)までにも2回目のチベット入境を果たしている。
ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは[[東北大学]]大学院文学研究科によって管理されている。
=== 帰国後 ===
[[1903年]](明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて[[1904年]](明治37年)に『[[西蔵旅行記]]』を刊行した。慧海の体験談は大評判となった一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。英訳では[[1909年]](明治42年)に“[[Three Years in Tibet]]”の題で[[ロンドン]]の出版社から刊行されている。現在は『[[西蔵旅行記]]』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『[[第二回チベット旅行記]]』で読むことができる。
帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ([[在家]])仏教を提唱した。また、[[大正大学]]教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで[[脳溢血]]を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。慧海の遺骨は[[谷中 (台東区)|谷中]]の[[天王寺 (台東区)|天王寺]]に埋葬されたが、現在は[[青山霊園]]の1種ロ15号5側西1地区に改葬されている。
=== 記念碑など ===
[[File:Kawaguchi Ekai(bronze statue).jpg|thumb|七道駅前の河口慧海顕彰立像]]
現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である[[南海本線]][[七道駅]]前に銅像が建てられている。また、晩年を過ごした世田谷の自宅跡(東京都世田谷区[[代田 (世田谷区)|代田]]2-14の「子どもの遊び場」)には終焉の地の顕彰碑が設置されている。世田谷の[[九品仏浄真寺]]の境内には慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建てたという「河口慧海師碑」が設置されている。和歌山県の[[高野山]]・奥の院には供養塔が設置されている。その他に日本国外においては、ネパールのカトマンズにはネパールと日本との友好を示す「河口慧海訪問の記念碑」が設置されている。同じくネパールの[[マルファ (ネパール)|マルファ]](『西蔵旅行記』では「マルバ」と表記されている)では慧海が滞在した家が「河口慧海記念館」として一般公開されている。さらに、チベットのセラ寺で慧海が学んだ部屋には記念碑が設置されている。
== 年譜 ==
*[[1866年]](慶応2年) - [[摂津国]]住吉郡堺山伏町に樽桶製造業、河口善吉と常(つね)の長男として生まれる。
*[[1884年]](明治17年) - 19歳の秋、[[徴兵令]]改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京。未遂に終わる。
*[[1890年]](明治23年) - 25歳で[[得度]]を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられる。
*[[1893年]](明治26年) - 4月、チベット行きを想起。以後スリランカ留学から戻ってきた[[釈興然]]の元で[[パーリ語]]を習うなどしてその準備に当たる。
*[[1897年]](明治30年) - 慧海32歳。
** 6月26日、神戸港より和泉丸に乗船し、チベット入りを目してインドへ向かう。
** 7月17日、シンガポールに到着。
** 7月19日、英国汽船ライトニングに乗り換えカルカッタに到着。
** 8月3日、汽車でサラット・チャンドラ・ダースの別荘のあるダージリンに到着。当地にてチベット語を学ぶ。
*[[1899年]](明治32年)
** 1月5日、約1年間のチベット語就学後、カルカッタへ戻る。
** 1月20日頃、[[ブッダガヤ]]を参拝し、ダンマパーラ居士より法王ダライ・ラマへの献上品を託される。
** 2月、ネパールの首府・カトマンズに到着。
** 3月初め、チベットへ密かに入れる間道があるというネパール西北のロー州を目指す。
** 5月中頃、間道の警護が厳しくなっているという噂を聞いたため、ネパール北部のツァーラン村に留まり、チベット仏教の学習などをして過ごす。
*[[1900年]](明治33年)
** 3月10日、新たな間道からチベットを目指すため、ツァーラン村を出立。
** 3月13日、マルバ村に到着。間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。
** 6月12日、マルバ村を出立。
** 7月4日、[[ダウラギリ|ドーラギリー]]の北方の雪峰を踏破し、ネパール側よりチベット国境に到達。
** 8、9月頃、[[マナサロヴァル湖|マナサルワ湖]]やカイラス山を巡礼した後、公道を通ってラサを目指す。
*[[1901年]](明治34年)
** 3月21日。チベット・ラサに到着。
** 4月18日。セラ寺の大学の入学試験を受け合格し、修学僧侶として籍を置く。以降、チベット仏教の学習や経典の蒐集などをして過ごす。
*[[1902年]](明治35年)
** 5月29日。およそ1年2ヶ月余りの滞在後、ラサを脱出。
** 6月15日。五重の関所を3日程で抜け、国境を超えて英領インドに入る。
** 7月3日。ダージリンのサラット・チャンドラ・ダースの別荘に到着。その後、大熱病にかかり、当地で3ヶ月程療養する。
** 10月頃、チベットからインドに来た商隊から、ラサ滞在時に交際していた人々に嫌疑がかけられ投獄されていると聞き、その救済の方策を思案する。
*[[1903年]](明治36年)
** 1月10日。ネパール国王に謁見するためにカルカッタを出立し、ネパールを目指す。
** 2月11日。カトマンズにて、河口慧海自身がチベット法王宛てに書き認めた上書をネパール国王を通じて送ることを許される。
** 4月24日。インド・ボンベイよりボンベイ丸に乗船し、日本を目指して出港。
** 5月20日。香港を経由し、神戸港に到着。無事6年ぶりの帰国を果たす。
*[[1904年]](明治37年) - 『[[西蔵旅行記]]』を出版後、渡印。
*[[1913年]](大正2年) - 再びチベットに入る。
*[[1915年]](大正4年) - 帰国。
*[[1921年]](大正10年) - [[還俗|僧籍返還]]。
*[[1926年]](大正15年) - 『[[在家仏教 (河口慧海)|在家仏教]]』を出版
*1945年(昭和20年) - [[脳溢血]]のため80歳で死去。
=== 死後 ===
*[[2004年]] - 『西蔵旅行記』の基になった日記が姪の自宅から見つかり、「ネパールからチベットへの越境にはクン・ラ峠を利用し、その際に[[ヤク]]に荷物を載せていた」らしいことが判明した<ref>{{Cite news|和書 |title=河口慧海の日記見つかる チベット潜入、克明に記録 |newspaper=[[47NEWS]] |date=2004-12-23 |url=http://www.47news.jp/CN/200412/CN2004122301001536.html |access-date=2012-2-23 |archive-url=https://archive.md/Q9K4/ |archive-date=2012-7-28 |agency=[[共同通信]]}}</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=河口慧海の越境ルート解明 チベット旅行の日記から |newspaper=47NEWS |date=2005-3-5 |access-date=2012-2-23 |url=http://www.47news.jp/CN/200503/CN2005030501004125.html |archive-url=https://archive.md/abMK/ |archive-date=2012-8-2 |agency=共同通信}}</ref>。
*[[2007年]] - ネパールの国立公文書館に慧海が寄贈したものと思われる和装の仏書275点が保管されていることが確認される<ref>{{Cite web|和書|url=https://doi.org/10.11501/1001556 |work=[[国立国会図書館]]月報 No.554 |page=5 |title=ネパール国立公文書館所蔵の日本関係資料について |date=2007-5 |accessdate=2019-5-2 }}{{doi|10.11501/1001556}}。{{issn|0027-9153}}。</ref>。
* 2019年 - [[根深誠]]らの調査で、白巌窟が[[リッサン山]]の洞窟であり、2005年に唱えられた説は誤りであり、越境ルートは[[クン・ラ峠]]ではなく[[マンゲン・ラ峠]]であることが分かった<ref>{{Cite news|和書 |url=https://www.toonippo.co.jp/articles/-/241178/ |title=河口慧海のチベット潜入路を確定 |newspaper=[[東奥日報]] |date=2019-8-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190921064825/https://www.toonippo.co.jp/articles/-/241178/ |archivedate=2019-9-21 |access-date=2023-3-1}}</ref>。
== 著書 ==
慧海の著作は全て戦前に出版されたものであり、既に[[著作権]]が切れているため、[[国立国会図書館デジタルコレクション]]などで当時の著作画像が閲覧できる他、『西蔵旅行記』などは[[青空文庫]]などでも公開されている。
<!--国立国会図書館DBに該当なし *『日本の元気』1889年-->
*『西蔵探険 : 大秘密国』1903年
*『生死自在』1904年
**改訂版 [[慧文社]]、2016年 ISBN 978-4-86330-158-0
*『[[西蔵旅行記]]』1904年、1941年
** 『[[西蔵旅行記|チベット旅行記]]』 [[高山龍三]]校訂、[[講談社学術文庫]](全5巻)、1978年
***再訂版『チベット旅行記』 [[講談社]]学術文庫(上下)、2015年、ISBN 406-2922789/ISBN 406-2922797
** 『チベット旅行記』[[長沢和俊]]編、「西域紀行探検全集7」[[白水社]]、1967年
***改訂版『チベット旅行記』 [[白水Uブックス]](上下)、2004年、ISBN 4560073724/ISBN 4560073732
** 『チベット旅行記 (抄)』 [[金子民雄]]監修、[[中公文庫]]、2004年 ISBN 4-12-204400-6
:その他に複数社による版。[https://www.aozora.gr.jp/cards/001404/card49966.html 青空文庫]でも閲覧可能
*"Three Years in Tibet"(『西蔵旅行記』の本人による英訳書) 1909年
** 改訂版 Orchid Pr、2005年、ISBN 9745240141
** Kessinger Publishing、2010年1月、ISBN 978-1120943002
** General Books、2010年10月、ISBN 978-0217406178
*『入菩薩行』1921年
** 改訂版 慧文社、2016年 ISBN 978-4-86330-160-3
*『仏教に現れたる長生不老法』1922年
** 改訂版『仏教の長生不老法』 [[国書刊行会]]、2004年 ISBN 4-336-04618-2
*『西蔵伝印度仏教歴史』1922年
** 改訂版 慧文社、2015年 ISBN 978-4-86330-156-6
*『梵蔵伝訳法華経』1924年
** 改訂版 慧文社、2011年 ISBN 978-4-86330-046-0
*『漢蔵対訳勝鬘経』1924年
*『印度歌劇シヤクンタラー姫』上下巻 1924年、合本版 『シャクンタラー姫』 1942年
** 改訂版 慧文社、2009年 ISBN 978-4-86330-037-8
*『菩薩道』1926年
*『[[在家仏教 (河口慧海)|在家仏教]]』1926年
** 改訂版 慧文社、2009年 ISBN 978-4-86330-029-3
*『国訳維摩経 : 漢蔵対照』1928年([[#外部リンク]]参照)
*『平易に説いた釈迦一代記』1929年、『釈迦一代記』1936年
** 改訂版 慧文社、2010年 ISBN 978-4-86330-035-4
*『ヒマーラヤ山の光 : 苦行詩聖ミラレエパ』1931年
** 改訂版 『苦行詩聖ミラレパ : ヒマーラヤ山の光』 慧文社、2010年 ISBN 978-4-86330-036-1
*『蔵文和訳大日経』1934年
*『西蔵伝唯識三十頌』1934年
*『正真仏教』1936年
** 改訂版 慧文社、2010年 ISBN 978-4-86330-042-2
*『西蔵文典』1936年
*『西蔵語読本』1937年
*『仏教和讃』1937年
*『仏教日課』1940年
*『第二回チベット旅行記』 河口慧海の会(編纂)、1966年
** 改訂版『第二回チベット旅行記』、講談社学術文庫、1981年、ISBN 4-06-158317-4
*『河口慧海日記-ヒマラヤ・チベットの旅』[[奥山直司]]編、講談社学術文庫、2007年 ISBN 978-4-06-159819-5
== 著作集 ==
*{{Cite book|和書|author=|date=1998年-2004年|title=河口慧海著作集|volume=全巻数は計24巻 【内訳は、著作集全17巻・別巻2巻・補巻5巻(補巻は第1巻が上下2冊、第2巻が上下2冊、第3巻が1冊の全部で5巻編成)】|publisher=うしお書店(USS出版)|ref=河口1998-2004}}
*#第1巻『西藏旅行記 上巻・探檢の實相を語らざりし所以・西藏旅行記改版の序』
*#第2巻『西藏旅行記 下巻』
*#第3巻『生死自在・佛教和讃・佛教日課・在家佛教・在家佛教修行道塲開設の辞』
*#第4巻『正眞佛教・正眞佛教解題』
*#第5巻『入菩薩行・菩薩道』
*#第6巻『釋迦一代記・ヒマーラヤ山の光』
*#第7巻『西藏傳印度佛教歴史 上巻・西藏傳唯識三十頌』
*#第8巻『梵藏傳譯法華經』
*#第9巻『漢藏對譯勝鬘經・藏漢對譯大日經住心品・藏和對譯無量壽經・藏和對譯阿彌陀經』
*#第10巻『漢藏對照國譯維摩經』
*#第11巻『大日經』
*#第12巻『法心經・ナルタン版西藏大藏經甘珠目録』
*#第13巻『西藏土語大文典修學日誌表・西藏文典・西藏語讀本 第1』
*#第14巻『印度歌劇シヤクンタラー姫・入藏記・雪山歌旅行』
*#第15巻 論集1『探検談 西藏探嶮談 ほか』
*#第16巻 論集2『仏教 自性の獨立 ほか』
*#第17巻『實事録・日本文書状下校・私文草稿・在家佛教修行道場開設の辞』
*#別巻1『Three years in Tibet』。河口慧海本人により英文に翻訳された『西藏(チベット)旅行記』の英語版。
*#別巻2『西藏法王宮殿之圖(ポタラ宮)・西藏旅行繪巻・河口慧海師將來西藏品圖録・美術資料(印度之部・ネパール之部・西藏之部)・パスポート・[[ダライ・ラマ]]への上書・チベット聖域への巡礼記・〔ケン〕稚の説・梵文法華經』
*#河口慧海著作集 補巻1上『英文草稿編(上)』USS出版421頁 •西蔵文法書草稿ノート •サンスクリット研究草稿ノート(英語論文の草稿)
*#河口慧海著作集 補巻1下『英文草稿編(下)』USS出版394頁 •印度歌劇シャクンタラー姫草稿ノート •英文手紙の草稿ノート •日本仏教史解説草稿ノート(英語論文の草稿)
*#河口慧海著作集 補巻2上『和文草稿編(上)』USS出版277頁 •必要原稿帖(手紙控等) •漢蔵両訳維摩経の比較研究 •唯識三十頌戒天註釈(二) •唯識三十頌戒天註釈(三) •河口慧海日記(東北方面・昭和六年)
*#河口慧海著作集 補巻2下『和文草稿編(下)』USS出版491頁 •入菩薩行 •河口慧海師 •河口慧海師略伝並年譜 •雑記帖ノート
*#河口慧海著作集 補巻3『慧海愛用編』USS出版144頁 •世界航路地図
*{{Cite book|和書|author=|date=2009年-2018年|title=河口慧海著作選集|publisher=[[慧文社]]|ref=河口2009|url=http://www.keibunsha.jp/series.html#ekai}}
*#第1巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863300293.html 在家(ウパーサカ)仏教]』。ISBN 978-4-86330-029-3
*#第2巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863300354.html 平易に説いた釈迦一代記]』。ISBN 978-4-86330-035-4
*#第3巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863300361.html 苦行詩聖ミラレパ ヒマーラヤ山の光]』。ISBN 978-4-86330-036-1
*#第4巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863300378.html シャクンタラー姫]』。ISBN 978-4-86330-037-8
*#第5巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863300422.html 正真仏教]』。ISBN 978-4-86330-042-2
*#第6巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863300460.html 梵蔵伝訳法華経]』。ISBN 978-4-86330-046-0
*#第7巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863301580.html 生死自在]』。ISBN 978-4-86330-158-0
*#第8巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863300552.html 蔵文和訳大日経]』。ISBN 978-4-86330-055-2
*#第9巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863300606.html 河口慧海著述拾遺 上]』。ISBN 978-4-86330-060-6
*#第10巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863300705.html 河口慧海著述拾遺 下]』。ISBN 978-4-86330-070-5
*#第11巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863301566.html 西蔵伝印度仏教歴史]』。ISBN 978-4-86330-156-6
*#第12巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863301603.html 入菩薩行 シャンテ・デーヴァ/著]』。ISBN 978-4-86330-160-3
*#第13巻『[http://www.keibunsha.jp/books/9784863301900.html 河口慧海著述拾遺 補遺]』、[[高山龍三]]・[[奥山直司]]編。ISBN 978-4-86330-190-0
== 評伝・研究 ==
*高山龍三『河口慧海 人と旅と業績』原書房、2004年2月。下記(大明堂)の新版
*[[高山龍三]]『河口慧海への旅 釈迦生誕地に巡礼した人びと』[[勉誠出版]]、2011年9月
*高山龍三 『河口慧海 雲と水との旅をするなり』[[ミネルヴァ書房]]<[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]>、2020年1月
*高山龍三編『展望 河口慧海論』[[法蔵館]]、2002年12月
*高山龍三編 『河口慧海 人物書誌大系44』日外アソシエーツ、2015年9月
*高本康子『近代日本におけるチベット像の形成と展開』芙蓉書房出版、2010年 -「第2章 河口慧海『西蔵旅行記』の登場」
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=青江舜二郎|authorlink=青江舜二郎|others=[[後藤禎二]]絵|year=1957|title=河口慧海|series=少年伝記文庫 9|publisher=[[国土社]]|ref=青江1957}}
**{{Cite book|和書|author=青江舜二郎|authorlink=|others=[[梶鮎太]]絵|year=1975|title=河口慧海|series=世界伝記文庫 11|publisher=[[国土社]]|ref=青江1975}}
*{{Cite book|和書|author=江本嘉伸|authorlink=江本嘉伸|year=1993|month=3|title=西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人|volume=上|publisher=[[山と渓谷社]]|isbn=4-635-28023-3|ref=江本1993}}
*{{Cite book|和書|author=江本嘉伸|authorlink=|year=1994|month=4|title=西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人|volume=下|publisher=[[山と渓谷社]]|isbn=4-635-28024-1|ref=江本1994}}
**『新編 西蔵漂泊 チベットに潜入した十人の日本人』山と溪谷社〈ヤマケイ文庫〉、2017年3月 ISBN 4635047997
*{{Cite book|和書|author=奥山直司|authorlink=奥山直司|year=2003|month=8|title=評伝 河口慧海|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-003411-9|ref=奥山2003}}
**{{Cite book|和書|author=奥山直司|authorlink=|year=2009|month=11|title=評伝 河口慧海|publisher=[[中公文庫]]|isbn=978-4-12-205233-8|ref=奥山2009}}
*{{Cite book|和書|author=河口正|authorlink=河口正|year=1961|title=河口慧海 日本最初のチベット入国者|publisher=[[春秋社]]|ref=河口1961}}
**{{Cite book|和書|author=河口正|authorlink=|year=2000|month=2|title=河口慧海 日本最初のチベット入国者|publisher=[[春秋社]]|isbn=4-393-13719-1|ref=河口2000}}
*{{Cite book|和書|author=高山龍三|authorlink=高山龍三|year=1999|month=7|title=河口慧海 人と旅と業績|publisher=[[大明堂]]|isbn=4-470-45051-0|ref=高山1999}}
*{{Cite book|和書|author=田中公明|authorlink=田中公明|year=1990|month=7|title=詳解 河口慧海コレクション チベット・ネパール仏教美術|publisher=[[佼成出版社]]|isbn=4-333-01487-5|ref=田中1990}}
*{{Cite book|和書|others=[[東北大学]]文学部東洋・日本美術史研究室監修|year=1986|month=11|title=河口慧海請来チベット資料図録 東北大学文学部所蔵|publisher=[[佼成出版社]]|isbn=4-333-01238-4|ref=東北大学1986}}
*{{Cite book|和書|editor=日本人チベット行百年記念フォーラム実行委員会編|year=2003|month=3|title=チベットと日本の百年 十人は、なぜチベットをめざしたか|publisher=新宿書房|isbn=4-88008-282-1|ref=日本人チベット行百年記念フォーラム実行委員会2003}}
*{{Cite book|和書|author=根深誠|authorlink=根深誠|year=1994|month=10|title=遥かなるチベット 河口慧海の足跡を追って|publisher=[[山と渓谷社]]|isbn=4-635-28031-4|ref=根深1994}}
**{{Cite book|和書|author=根深誠|authorlink=|year=1999|month=1|title=遥かなるチベット 河口慧海の足跡を追って|publisher=中公文庫|isbn=4-12-203331-4|ref=根深1999}}
== 関連項目 ==
*[[日本の仏教]]
*[[青木文教]]
*[[黄檗宗]]
*[[スヴェン・ヘディン]]
*[[多田等観]]
*[[寺本婉雅]]
*[[能海寛]]
*[[山田無文]]
*[[東洋大学の人物一覧]]
*[[大正の玉手箱事件]]
*[[宮田輝]] - 姪婿にあたる。
== 外部リンク ==
*{{Wayback |url=http://www.toyo.ac.jp/enryo/gallery/h11/h11_4.htm |title=冒険者 河口慧海 ヒマラヤ山脈を越えて スリー・イヤーズ・イン・チベット ―偉大な求法者河口慧海の足跡―(東洋大学、井上円了記念学術センター)|date=20080116113658 }}
*[https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/sakaitaikan/sakaitaikan_kawagutiekai.htm 堺市立図書館 河口慧海]
*[http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/tounitibi/ekai/ 河口慧海コレクション - 東北大学総合学術博物館]
* [http://124.33.215.236/Database/KawaguchiTop.html 公益財団法人東洋文庫 河口慧海将来チベット語蔵外文献]
<!-- リンク切れ*[http://www13.plala.or.jp/s-kimoto/new_page_237.htm 河口慧海研究プロジェクト] -->
*{{青空文庫著作者|1404}}
* {{近代デジタルライブラリー書誌情報|89090350|西蔵語読本 / 謄写版,〔19−−〕}}
* {{近代デジタルライブラリー書誌情報|40010487|西蔵探険(大秘密国) / 河口慧海述,林暘谷編,又間精華堂,1903年(明治36年)7月}}
* {{近代デジタルライブラリー書誌情報|60010833|西蔵旅行記(上・下) / 博文館,1904年(明治37年)3月・5月}}
* {{近代デジタルライブラリー書誌情報|86090150|生死自在 / 博文館,1904年(明治37年)6月}}
* {{オープンアクセス}}{{国立国会図書館デジタルコレクション|1907688|国訳維摩経 : 漢蔵対照|format=EXTERNAL}} 世界文庫刊行会(1928年4月)
* [https://archive.org/details/cu31924023224292 Three years in Tibet, with the original Japanese illustrations : Kawaguchi, Ekai : Free Download & Streaming : Internet Archive] - 『チベット旅行記』(河口慧海本人による英文翻訳)英語版は、現在米国[[コーネル大学]]図書館サイトから全文が公開されている。
* {{CRD|2000026698|「河口慧海」の調べ方|立正大学古書資料館}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かわくち えかい}}
[[Category:19世紀日本の教育者]]
[[Category:20世紀日本の教育者]]
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[[Category:戦前日本の学者]]
[[Category:日本のチベット研究者]]
[[Category:日本のアジア探検家]]
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[[Category:東洋大学出身の人物]]
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12,265 |
被告
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被告(ひこく、Defendant)とは、日本法上は、民事訴訟において訴訟を起こされた者をいい、第一審でのみ用いられる。 民事訴訟における訴えを起こされた側の当事者を言い、民事訴訟を起こした原告に対する言葉である。
「被告人」と混同されやすいが、刑事訴訟で裁判所に公訴を提起するのは検察官であり、 「被告人」は、検察官に訴えられた人を指す。
被告は民事訴訟の第一審でのみ用いられる。 控訴審(第2審)では控訴人・被控訴人、上告審(第3審)では上告人・被上告人を用いる。控訴人や上告人は、第一審や第二審の判決に不服で上級裁判所に再審理を要求した人のこと。判決に不服なが控訴・上告するので、第一審や第二審の原告・被告いずれが控訴審などでどちらにあたるか決まっているわけではない。この要求をすることのできる人は、民事訴訟では第一審・第二審の敗訴者、刑事訴訟では検察官または被告人両者である。ただし、例えば控訴審などにおいて、双方が控訴した場合にはどちらも控訴人兼被控訴人(もしくは文脈により被控訴人兼控訴人)などとなるので、括弧書きにより「第一審原告」「第一審被告」とつけるなど実質上「原告」「被告」という言葉が使われることがある。
反訴が提起された場合、初めに起こされた訴訟の被告を「本訴被告」または単に「被告」と呼び、反訴の相手方を「反訴被告」と呼ぶ。反訴は本訴被告が提起することから、1対1の通常の訴訟では、本訴被告=反訴原告、および本訴原告=反訴被告の関係が成り立つ。
非訟事件や調停事件においては、申立てを起こされた側の当事者を「相手方」と呼ぶ。民事執行手続、督促手続や保全手続においては、申立てを起こされた側の当事者を「債務者」と呼ぶ。
刑事訴訟において罪を犯したとして公訴を提起(起訴)された当事者を指す「被告人」について、報道では実名の後に「被告」という呼称を付けるのが一般的で、場合によっては被告人の状況にある人物のことを「被告」と呼ぶことがある。これらは民事訴訟における被告とは異なるものであり、正式な法律用語ではなく刑事訴訟では「被告」という言葉は使われない。被告という法律用語は本来、民事訴訟を起こされた側の当事者という意味しかないものの、被告人という言葉と似ているのに加え、上記のように報道では「○○被告」という呼称がされることから、民事訴訟における被告にも、犯罪の嫌疑がかけられているかのような印象を与え、被告本人が「俺は何も悪いことはしていない」などと勘違いしてしまう点が問題として指摘されている。
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被告(ひこく、Defendant)とは、日本法上は、民事訴訟において訴訟を起こされた者をいい、第一審でのみ用いられる。 民事訴訟における訴えを起こされた側の当事者を言い、民事訴訟を起こした原告に対する言葉である。 「被告人」と混同されやすいが、刑事訴訟で裁判所に公訴を提起するのは検察官であり、 「被告人」は、検察官に訴えられた人を指す。
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被告は民事訴訟の第一審でのみ用いられる<ref>{{Cite web|和書|title=被告/被告人 {{!}} よくわかる裁判員制度の基本用語 {{!}} 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス|url=https://imidas.jp/judge/detail/G-00-0036-09.html|website=情報・知識&オピニオン imidas|accessdate=2020-10-21}}</ref>。 [[控訴審]](第2審)では'''控訴人・被控訴人'''、[[上告審]](第3審)では'''上告人・被上告人'''を用いる。控訴人や上告人は、第一審や第二審の判決に不服で上級裁判所に再審理を要求した人のこと。判決に不服なが控訴・上告するので、第一審や第二審の原告・被告いずれが控訴審などでどちらにあたるか決まっているわけではない。この要求をすることのできる人は、民事訴訟では第一審・第二審の敗訴者、刑事訴訟では検察官または被告人両者である<ref>{{Cite web|和書|title=控訴人とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%8E%A7%E8%A8%B4%E4%BA%BA-1314609|website=コトバンク|accessdate=2020-10-21|language=ja|first=精選版|last=日本国語大辞典,世界大百科事典内言及}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=上告人とは|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E5%91%8A%E4%BA%BA-1339145|website=コトバンク|accessdate=2020-10-21|language=ja|first=精選版|last=日本国語大辞典,世界大百科事典内言及}}</ref>。ただし、例えば控訴審などにおいて、双方が控訴した場合にはどちらも控訴人兼被控訴人(もしくは文脈により被控訴人兼控訴人)などとなるので、括弧書きにより「第一審原告」「第一審被告」とつけるなど実質上「原告」「被告」という言葉が使われることがある。
[[反訴]]が提起された場合、初めに起こされた訴訟の被告を「本訴被告」または単に「被告」と呼び、反訴の相手方を「反訴被告」と呼ぶ。反訴は本訴被告が提起することから、1対1の通常の訴訟では、本訴被告=反訴原告、および本訴原告=反訴被告の関係が成り立つ。
[[非訟事件]]や[[調停|調停事件]]においては、申立てを起こされた側の当事者を「相手方」と呼ぶ。[[民事執行法|民事執行手続]]、[[支払督促|督促手続]]や[[民事保全法|保全手続]]においては、申立てを起こされた側の当事者を「債務者」と呼ぶ。
== マスコミ報道における用法 ==
[[刑事訴訟]]において罪を犯したとして[[公訴]]を提起([[起訴]])された当事者を指す「[[被告人]]」について、報道では実名の後に「被告」という呼称を付けるのが一般的で、場合によっては被告人の状況にある人物のことを「被告」と呼ぶことがある。これらは民事訴訟における被告とは異なるものであり、正式な法律用語ではなく刑事訴訟では「被告」という言葉は使われない<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=日高報知新聞「被告」と「被告人」 {{!}} 新聞 {{!}} 札幌弁護士会の暮らしに役立つ情報「ニュース&アーカイブズ」|url=https://www.satsuben.or.jp/news_archives/paper/2016/08/382/|accessdate=2020-10-21|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=もう笑えないマイナンバーとマイナンバーカードの混同|url=https://xtech.nikkei.com/it/atcl/watcher/14/334361/041200821/|website=日経クロステック(xTECH)|accessdate=2020-10-21|language=ja|last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>。被告という法律用語は本来、民事訴訟を起こされた側の当事者という意味しかないものの、被告人という言葉と似ているのに加え、上記のように報道では「○○被告」という呼称がされることから、民事訴訟における被告にも、犯罪の嫌疑がかけられているかのような印象を与え、被告本人が「俺は何も悪いことはしていない」などと勘違いしてしまう点が問題として指摘されている<ref>{{Cite journal|和書
| author = 山﨑健介ほか
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| title = 中小企業と診断士のための企業法務Q&A(第3回)売掛金回収(その2)
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
*[[反訴]]
*[[抗弁]]
*[[答弁書 (民事訴訟)|答弁書]]
*[[スラップ]]
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検察官
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検察官()は、検察権行使の権限主体である。
日本の検察官は、その全てが検察庁法によりその身分が定められた国家公務員である。
検察官の職責は、検察庁法第4条で、
と規定されている。
また、検察庁法第3条の規定により、検察官は、検事総長、次長検事、検事長、検事及び副検事に区分される。
検察官はそれぞれが検察権を行使する独任制官庁である。検察庁は検察官の事務を統括する官署にすぎない。検察官は刑事裁判における訴追官として審級を通じた意思統一が必要であることから、検察官は検事総長を頂点とした指揮命令系統に服する(検察官同一体の原則)。
検察官が事務の途中で交代しても、同一の検察官が行ったと同じ効果が発生する。また、検察捜査の殆どは地方検察庁の検察官が直接行うため、上級庁(最高検察庁と高等検察庁)は、地方検察庁から報告を受けて了承や指示はするものの、上級庁自身が逮捕をして直接捜査を担当することはほとんどない(例外として、1957年に東京高等検察庁が「2人の代議士を収賄容疑で召喚」と誤報した読売新聞記者を名誉毀損罪で逮捕・取調べをした事件(売春汚職事件)と、2010年に最高検察庁が特捜部長・特捜副部長・主任検事を証拠偽造罪や犯人隠避罪で逮捕・取調べ・起訴した事件(大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件)などがある)。
検察官は、例外を除き起訴権限を独占する(国家訴追主義)という極めて強大な権限を有し、刑事司法に大きな影響を及ぼしているため、政治的な圧力を不当に受けない様に、ある程度の独立性が認められている。端的なものが法務大臣による指揮権の制限である。
起訴した事件に対して裁判所が無罪判決をだすのは稀(0.1%ほど)なため、実質的に有罪無罪を決めているのは検察ではないかという識者もいる。
検察庁は、司法権、立法権、行政権の三権の内、行政権を持つ行政に帰属する官庁である。検察庁は、国民の権利保持の観点から、俗に準司法機関とも呼称されている。日本国憲法第77条では「検察官は、最高裁判所の規則に従わなければならない」と規定されている。
検察庁は行政機関であり、国家公務員法の規定に基づき、その最高の長である法務大臣は、当然に各検察官に対して指揮命令が可能だが、この指揮権については検察庁法により、「検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。」(検察庁法第14条)として、具体的事案については、検事総長を通じてのみ指揮ができるとした。前述の検察官同一体の原則から、検察官は検事総長を頂点とした指揮命令系統として、検察権は行政権に属して統一されている。
検察官の定員は、2022年(令和4年)、検事(検事総長1名、次長検事1名、検事長8名を含む)1954名、副検事800名で、検察官合計2754名である。
身分証明書は制定されていないので、必要な場合は側近の検察事務官が代理で「検察事務官証票」を示す。公務執行の際は必ず検察官徽章(秋霜烈日章)を身に付ける。
検察官の給与については、検察官の俸給等に関する法律に基づき、俸給が支給される。
検察官は訴追機関であると同時に捜査機関でもある。実際には補充的な捜査にとどまることが多いが、検察庁法第6条や刑事訴訟法第191条の規定に基づき、大型経済犯罪や政界絡みの汚職事件等、単独で犯罪の捜査を行う場合もある。
ただし、警察とは異なり、実力をもって「犯罪を予防鎮圧する(行政警察活動)機能」は与えられていない。そのため、専ら行政警察活動を適切に遂行し得るために警察官に付与されている武器の携帯使用、職務質問、立入権限、保護、交通規制等の権限は保有しない。
戦前、検察官は捜査を主宰するとされ、強い指揮権限が認められていた。もっとも、法の建前は別として、現実には通常の捜査は警察が主として行い、検察官は補充的な役割を担っていた。
警察と検察はその所属官庁を異にし(警察は内務省、検察は司法省)、検察官の指揮権を実行あらしめるための身分上の監督権を与えなかったこともあって、検察官の指揮命令の徹底を欠き、現実には捜査の二元化をきたしていたともいわれている。戦後においては、公訴機関と捜査機関を原則としてそれぞれ分離し、人権保護が図られた。
その結果、警察は第一次捜査機関としての役割を担うこととなり、検察官と対等・独立の協力関係を確立したが、公訴提起・公判維持の観点から検察官には依然、一定の指揮権限を与えられている。(検察が不起訴にしてしまえば、いくら警察が証拠を固めても、有罪にはできず、反対に検察が強引に起訴しても、警察が証拠集めを怠れば、公判維持はできない)
検察官は警察官等に対して、一般的指示権、一般的指揮権、具体的指揮権を有するほか、正当な理由がなくこれらの検察官の指揮に従わない場合、検事総長、検事長、検事正は従わない司法警察職員の懲戒の請求を公安委員会に対してすることができる。検察官自身には懲戒権限はない。
公訴は原則として検察官が行う(国家訴追主義・起訴独占主義、刑事訴訟法247条)。公訴を提起することを一般的に起訴と呼ぶ。
犯人の性格、年齢および境遇、犯罪の軽重および情状ならびに犯罪後の情況により訴追を必要としないと検察官が判断した場合には、検察官は公訴を提起しないことができる(刑事訴訟法248条)。これは起訴便宜主義と呼ばれ、訴追を必要としないと判断された事件については起訴猶予処分(不起訴処分の一種)にすることができる。
起訴独占主義の数少ない例外として準起訴手続(刑事訴訟法262条~269条)がある。
これは、刑法、破壊活動防止法(破防法)、団体規制法(オウム規制法)における公務員の職権濫用などの罪について検察官が公訴を提起しない場合に、その罪の告訴・告発者が不服なときに裁判所に付審判を請求できる制度で、付審判の決定があったときは、公訴の提起があったものとみなされる(刑事訴訟法267条)。
またこの時、裁判確定までの検察官としての職務は、裁判所が指定する弁護士(特別検察官、指定弁護士)が務めることとなり、この職務に当たる弁護士はいわゆる「みなし公務員」となる(刑事訴訟法268条)。
2009年(平成21年)5月21日から、検察官が不起訴にした事件で検察審査会が起訴議決制度において起訴相当を2回議決した場合も、公訴が提起されたものとみなされ、指定弁護士が特別検察官として公訴・公判を維持する強制起訴の制度が設けられた。
検察官は刑事裁判に訴追側当事者として参加し、訴訟行為を行う。
裁判の執行は原則として検察官が指揮する(刑事訴訟法第472条)。死刑執行の際は、刑事施設の長又はその代理者と共に執行に立ち会うこととされている(刑事訴訟法第477条)。
検察官は、裁判官や弁護士と同様にして、原則として、法科大学院課程修了または司法試験予備試験合格を経て司法試験に合格した者で最高裁判所司法研修所における修習(司法修習)を終えた者が検事として採用され、この者が「検察官」となる。
この他に検察事務官、裁判所書記官、警察官、皇宮護衛官、海上保安官、自衛隊警務官等を一定年数経験した者が、「副検事」として採用される場合や、3年以上法律学を研究する大学院が設置されている大学における法律学の教授・准教授であった者などから採用されることもある。
検察庁法第20条により、以下に該当する者は検察官になれない。
検察官には政治的中立を求められるため、手厚い身分保障が与えられている。
検察官適格審査会の職務不適格議決(認証官である検事総長や次長検事や検事長については法務大臣の罷免勧告も要する)又は職務上義務違反、国民全体の奉仕者にふさわしくない非行(日本国憲法第15条違反)による懲戒免職以外では検察官を意に反して辞めさせることはできない。
検察庁法に基づく職階制上の官名としては検事総長、次長検事、検事長、検事、副検事が、職名としては検事正、上席検察官があるが、単独の「検察官」という表記はこれらの総称であり、あるいは訴訟法上の地位であって官名・職名ではないため、辞令等での表記に「検察官」は用いられない。
ただし、検察官も「(旧)刑訴規則五六条二項にいわゆる官名と解することができる」とした判例がある。これに対し「検事」は身分を指す。
最高検察庁の検事総長(国務大臣待遇)・次長検事(大臣政務官待遇)、各高等検察庁の検事長(準副大臣・大臣政務官待遇)は認証官であり、内閣によって任免され天皇から認証される。
また、事件処理に必要な検察官が足りないとの理由の際に、法務大臣は区検察庁の検察事務官のうち一定の者にその庁の検察官の事務を取り扱わせており(検察庁法附則36条)、このような検察事務官を検察官事務取扱検察事務官という。このほか、区検察庁の検察官の職のみにこれを補することができる副検事に地方検察庁の検察官の事務を取り扱わせる場合があり、この要の副検事を"地方検察庁検察官事務取扱副検事"という。 また、法務省設置法附則4項は、「当分の間、特に必要があるときは、法務省の職員(検察庁の職員を除く)のうち、百三十三人は、検事をもってこれに充てることができる。」と定めている。この規定に基づき、法務省の要職(官房長・局長レベルを含む)は検事(裁判所から出向した裁判官出身者が検事に任命された上で行われる場合もある)が検事としての官職のまま充て職(法務事務官の官職を兼ねず、検事の官職のみを有したまま法務省の職に就く)の形で占める例が多い(課長などの役職者とならない場合は「局付(きょくづき)検事」と呼ばれる)。ただし、法務事務次官については、検事出身者が、一時的に検事の官職を解かれて就任するのが慣例である。
旧大日本帝国憲法下の官吏区分呼称であった勅任官・奏任官・判任官の名残で、検察庁の官吏には一級・二級・三級(算用数字でなく漢数字で表記)の別があり、検事長以上は一級、検事は一級または二級、副検事は二級となっている。各自に発せられる辞令に「検事一級」、「副検事二級」のように記載される。かつては、「一級に叙する」又は「二級に叙する」と叙級発令の形式であった。また、検察官以外の検察庁の官僚にも同様の区別があり、検事総長秘書官は二級、検察事務官は二級または三級、検察技官は二級または三級とすることとなっている。これらの級の区分はいずれも検察庁法に定められている。
検察庁法第22条により、検事総長は65歳、その他の検察官は63歳に達した時に退官する。検察庁法に定年延長の規程は存在しない。
2020年1月31日に安倍内閣は当時63歳であった黒川弘務東京高検検事長の定年延長を閣議決定した。これが初の検察官の定年延長であるが、検察庁人事への内閣の介入であるとして一連の政治問題となった。 閣議決定後の国会答弁によれば、従来検察官には適用されないとしていた国家公務員法(第81条の3に定年による退職の特例を定める)を、法解釈を変更した上で根拠とするとされた。
検察官は離職後、弁護士として活動する者が多い(いわゆるヤメ検)。また、定年まで勤めた者には、公証人になる者も多い。検事総長については、近年は大企業の監査役になる事が定番化している。
アメリカ合衆国 は、建国より検察官(prosecutor)制度を採用したが、米国の司法制度においては官僚よりも政府に雇用された弁護士あるいは公選された政治家としての性格が濃いとされる(刑事裁判も「x対y州事件」と呼ばれる)。日本の検事正に相当する地方検事や州検事は公選制が主である。ただ、弁護士との大きな違いは、刑事事件の原告官となるだけでなく、常に米国の検察官は民事訴訟において連邦(国)や州や郡の訴訟代理人となる点に特色があるとされる。
検察官の地位は、連邦検事(United States Attorney)の場合は合衆国の代理人であり、州検事(District Attorney)の場合は地区の代理人である。
連邦検事は連邦法に関わる刑事事件の捜査・起訴・公判の維持を任務とする。このほか政府が当事者となっている民事訴訟の訴訟代理人や政府の法律顧問としての職務もある。
連邦検事は上院の助言と承認を得て大統領が任命する(任期4年で再任も可能)。連邦検事は連邦地裁の管轄地域ごとに1名ずつ設置される。連邦検事補は連邦検事を補佐する職で司法長官が任命する。検事補は日本の副検事と語感が似ているが、部長職などの幹部も含めた幅広い検察官が含まれ、むしろ日本の「検事」に近く、これに対して検事は職権、人数的に日本の「検事正」に近い。
イギリスでは私人訴追制度が採用されており刑事事件については警察官が私人の立場で訴追を行う。検察官は公判を遂行する権限を有するほか、証拠上・公益上の観点から警察が訴追した事件の手続続行を打ち切る権限を有する。検察官は事務弁護士又は法廷弁護士資格を有するものから任用される。イギリスでは原則として犯罪の捜査と訴追の権限は警察が有している。なお、大規模または複雑な経済犯罪については国家犯罪対策庁が捜査権と公訴提起権を有する。実務上は検察官は起訴のみを行い公判における弁論は民間の法廷弁護士に委任されることが多い。
検察官は法廷弁護士(バリスタ)または事務弁護士(ソリシタ)の資格をもつ者でなければならない。検察庁長官については法廷弁護士または事務弁護士の10年以上の実務経験が必要となる。
検察官は検察庁においては検察庁長官、国家犯罪対策庁においては国家犯罪対策庁長官によって任命される。検察庁長官及び国家犯罪対策庁長官は法務総裁によって任命される。
フランスでは検察官は刑事事件における司法警察の捜査の指揮や公訴の提起を行う権限を有する。重罪事件については、予審判事が捜査や起訴を行う。公判は検察官が出席しなければ開くことができず、証人尋問や論告求刑を行うほか、判決の執行も行う。また、民事事件では公益の代表者として倒産手続なども担当する。
2022年大韓民国大統領選挙で検察総長だった尹錫悦が当選した。
原則として公訴権を検察官のみに付与し、広い裁量を認めていることから、権限濫用の危険性がある。 起訴が行われなかった場合には検察審査会が一応のチェック機能を果たすことが期待されている一方で、 起訴が行われた場合についての権限濫用の有無を判断する制度的な担保は存在していないことから、チェック機能が果たされない。
これら不当な起訴を行った場合には「公訴権の濫用」として公訴は棄却されるべきであるとの説が有力に唱えられた。
最高裁判所 (日本)は、原審が検察官の公訴権濫用を認定し公訴を棄却した事件の上告審において、 検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効とすることはありえるが、それは公訴提起自体が犯罪行為を構成するなどの限定的な場合に限られるとして極めて限定的な解釈を示した上で、検察官の上告を棄却し公訴棄却の原審判決を維持するという判示を行っている。
近年では、従来の公訴権濫用論から離れた新しい視点により、刑事手続きを打ち切ることを可能とする「手続きの打切り論」も唱えられている。
日本では戦前、検察官は公判のみならず捜査の主宰者として強大な権限を有していたが、戦後における刑事訴訟制度の改革によって、アメリカ合衆国にならい、公訴機関と捜査機関を分離し、当事者が事実を裁判で争う弾劾的な捜査観が強く打ち出された。その結果、検察官から捜査権を排除し、公訴権のみを持たせて公判に専念させ、捜査については別個に専門の捜査機関が実施すべきであるとする公判専従論が1960年代に学識者から有力に主張された。公訴権と捜査権とを分離することにより、人権保護に繋がるという考えに基づいたものである。検察の捜査護持論は、実体的真実が捜査主宰の検察の手中にあり(公判中心主義の否定)、裁判所に対して検察官の心証を引き継ぐようにもとめ、また検面調書を重視するよう求めるものであり、戦後の当事者主義刑事裁判を形骸化すると批判された。検察捜査の必要性と警察の第一次捜査権限もともに承認されたが、新刑訴法が検察官に捜査権を認めたのも、当時の警察の状況からするいわば過渡期的措置であり、現在もなお、検察官の上塗り捜査による取り調べ・検面調書中心の状態が続いていることは、深く反省すべきとする主張もなされている。検察に比べ警察の方が人員や装備、科学捜査力などに優位があり、基本的、科学的な捜査については一般に警察が扱い、検察官は必要に応じ補充的な捜査を行っているが、検察官の厚い身分保障等から政治家の汚職や会社犯罪などについて自ら基本的捜査を行うことも必要であり、日本人は自白が多いことから司法警察職員と検察官が重複して取り調べることは十分に意味があるとする意見もあり、実際、知能犯罪について行う検察官の独自捜査は一定の評価を受けている。だが、近年においては、検事による証拠捏造等、度重なる検察不祥事を背景に、公訴機関でもある検察官が直接捜査し、被疑者を逮捕した事件については、そのまま起訴されることが前提となっており、その結果、無理な捜査が行われているのではないかという批判や、検察部内で発生した不祥事案や検察官が関係する事件に対する捜査についても、検察自身で行うのは公平性に欠くとする批判も一部にある。ライブドア事件で検察と争った堀江貴文は、自身のブログで「検察の独自捜査権を奪うべきだ。その代わりFBI的な組織を警察庁に設ければいい。検察と警察がある程度パワーバランスをとってお互いに牽制しあう体制にすれば冤罪は減る」(2009-12-21)などの意見を述べている。また、検察制度に詳しい成城大学の指宿信教授は、検察へのチェック機能を働かせるために、公訴権と捜査権を分離することや検察官の倫理規定の制定、査察制度の導入などを主張している。
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "検察庁は、司法権、立法権、行政権の三権の内、行政権を持つ行政に帰属する官庁である。検察庁は、国民の権利保持の観点から、俗に準司法機関とも呼称されている。日本国憲法第77条では「検察官は、最高裁判所の規則に従わなければならない」と規定されている。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "検察庁は行政機関であり、国家公務員法の規定に基づき、その最高の長である法務大臣は、当然に各検察官に対して指揮命令が可能だが、この指揮権については検察庁法により、「検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。」(検察庁法第14条)として、具体的事案については、検事総長を通じてのみ指揮ができるとした。前述の検察官同一体の原則から、検察官は検事総長を頂点とした指揮命令系統として、検察権は行政権に属して統一されている。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "検察官の定員は、2022年(令和4年)、検事(検事総長1名、次長検事1名、検事長8名を含む)1954名、副検事800名で、検察官合計2754名である。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "身分証明書は制定されていないので、必要な場合は側近の検察事務官が代理で「検察事務官証票」を示す。公務執行の際は必ず検察官徽章(秋霜烈日章)を身に付ける。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "検察官の給与については、検察官の俸給等に関する法律に基づき、俸給が支給される。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "検察官は訴追機関であると同時に捜査機関でもある。実際には補充的な捜査にとどまることが多いが、検察庁法第6条や刑事訴訟法第191条の規定に基づき、大型経済犯罪や政界絡みの汚職事件等、単独で犯罪の捜査を行う場合もある。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ただし、警察とは異なり、実力をもって「犯罪を予防鎮圧する(行政警察活動)機能」は与えられていない。そのため、専ら行政警察活動を適切に遂行し得るために警察官に付与されている武器の携帯使用、職務質問、立入権限、保護、交通規制等の権限は保有しない。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "戦前、検察官は捜査を主宰するとされ、強い指揮権限が認められていた。もっとも、法の建前は別として、現実には通常の捜査は警察が主として行い、検察官は補充的な役割を担っていた。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "警察と検察はその所属官庁を異にし(警察は内務省、検察は司法省)、検察官の指揮権を実行あらしめるための身分上の監督権を与えなかったこともあって、検察官の指揮命令の徹底を欠き、現実には捜査の二元化をきたしていたともいわれている。戦後においては、公訴機関と捜査機関を原則としてそれぞれ分離し、人権保護が図られた。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "その結果、警察は第一次捜査機関としての役割を担うこととなり、検察官と対等・独立の協力関係を確立したが、公訴提起・公判維持の観点から検察官には依然、一定の指揮権限を与えられている。(検察が不起訴にしてしまえば、いくら警察が証拠を固めても、有罪にはできず、反対に検察が強引に起訴しても、警察が証拠集めを怠れば、公判維持はできない)",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "検察官は警察官等に対して、一般的指示権、一般的指揮権、具体的指揮権を有するほか、正当な理由がなくこれらの検察官の指揮に従わない場合、検事総長、検事長、検事正は従わない司法警察職員の懲戒の請求を公安委員会に対してすることができる。検察官自身には懲戒権限はない。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "公訴は原則として検察官が行う(国家訴追主義・起訴独占主義、刑事訴訟法247条)。公訴を提起することを一般的に起訴と呼ぶ。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "犯人の性格、年齢および境遇、犯罪の軽重および情状ならびに犯罪後の情況により訴追を必要としないと検察官が判断した場合には、検察官は公訴を提起しないことができる(刑事訴訟法248条)。これは起訴便宜主義と呼ばれ、訴追を必要としないと判断された事件については起訴猶予処分(不起訴処分の一種)にすることができる。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "起訴独占主義の数少ない例外として準起訴手続(刑事訴訟法262条~269条)がある。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "これは、刑法、破壊活動防止法(破防法)、団体規制法(オウム規制法)における公務員の職権濫用などの罪について検察官が公訴を提起しない場合に、その罪の告訴・告発者が不服なときに裁判所に付審判を請求できる制度で、付審判の決定があったときは、公訴の提起があったものとみなされる(刑事訴訟法267条)。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "またこの時、裁判確定までの検察官としての職務は、裁判所が指定する弁護士(特別検察官、指定弁護士)が務めることとなり、この職務に当たる弁護士はいわゆる「みなし公務員」となる(刑事訴訟法268条)。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)5月21日から、検察官が不起訴にした事件で検察審査会が起訴議決制度において起訴相当を2回議決した場合も、公訴が提起されたものとみなされ、指定弁護士が特別検察官として公訴・公判を維持する強制起訴の制度が設けられた。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "検察官は刑事裁判に訴追側当事者として参加し、訴訟行為を行う。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "裁判の執行は原則として検察官が指揮する(刑事訴訟法第472条)。死刑執行の際は、刑事施設の長又はその代理者と共に執行に立ち会うこととされている(刑事訴訟法第477条)。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "検察官は、裁判官や弁護士と同様にして、原則として、法科大学院課程修了または司法試験予備試験合格を経て司法試験に合格した者で最高裁判所司法研修所における修習(司法修習)を終えた者が検事として採用され、この者が「検察官」となる。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この他に検察事務官、裁判所書記官、警察官、皇宮護衛官、海上保安官、自衛隊警務官等を一定年数経験した者が、「副検事」として採用される場合や、3年以上法律学を研究する大学院が設置されている大学における法律学の教授・准教授であった者などから採用されることもある。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "検察庁法第20条により、以下に該当する者は検察官になれない。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "検察官には政治的中立を求められるため、手厚い身分保障が与えられている。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "検察官適格審査会の職務不適格議決(認証官である検事総長や次長検事や検事長については法務大臣の罷免勧告も要する)又は職務上義務違反、国民全体の奉仕者にふさわしくない非行(日本国憲法第15条違反)による懲戒免職以外では検察官を意に反して辞めさせることはできない。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "検察庁法に基づく職階制上の官名としては検事総長、次長検事、検事長、検事、副検事が、職名としては検事正、上席検察官があるが、単独の「検察官」という表記はこれらの総称であり、あるいは訴訟法上の地位であって官名・職名ではないため、辞令等での表記に「検察官」は用いられない。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ただし、検察官も「(旧)刑訴規則五六条二項にいわゆる官名と解することができる」とした判例がある。これに対し「検事」は身分を指す。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "最高検察庁の検事総長(国務大臣待遇)・次長検事(大臣政務官待遇)、各高等検察庁の検事長(準副大臣・大臣政務官待遇)は認証官であり、内閣によって任免され天皇から認証される。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また、事件処理に必要な検察官が足りないとの理由の際に、法務大臣は区検察庁の検察事務官のうち一定の者にその庁の検察官の事務を取り扱わせており(検察庁法附則36条)、このような検察事務官を検察官事務取扱検察事務官という。このほか、区検察庁の検察官の職のみにこれを補することができる副検事に地方検察庁の検察官の事務を取り扱わせる場合があり、この要の副検事を\"地方検察庁検察官事務取扱副検事\"という。 また、法務省設置法附則4項は、「当分の間、特に必要があるときは、法務省の職員(検察庁の職員を除く)のうち、百三十三人は、検事をもってこれに充てることができる。」と定めている。この規定に基づき、法務省の要職(官房長・局長レベルを含む)は検事(裁判所から出向した裁判官出身者が検事に任命された上で行われる場合もある)が検事としての官職のまま充て職(法務事務官の官職を兼ねず、検事の官職のみを有したまま法務省の職に就く)の形で占める例が多い(課長などの役職者とならない場合は「局付(きょくづき)検事」と呼ばれる)。ただし、法務事務次官については、検事出身者が、一時的に検事の官職を解かれて就任するのが慣例である。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "旧大日本帝国憲法下の官吏区分呼称であった勅任官・奏任官・判任官の名残で、検察庁の官吏には一級・二級・三級(算用数字でなく漢数字で表記)の別があり、検事長以上は一級、検事は一級または二級、副検事は二級となっている。各自に発せられる辞令に「検事一級」、「副検事二級」のように記載される。かつては、「一級に叙する」又は「二級に叙する」と叙級発令の形式であった。また、検察官以外の検察庁の官僚にも同様の区別があり、検事総長秘書官は二級、検察事務官は二級または三級、検察技官は二級または三級とすることとなっている。これらの級の区分はいずれも検察庁法に定められている。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "検察庁法第22条により、検事総長は65歳、その他の検察官は63歳に達した時に退官する。検察庁法に定年延長の規程は存在しない。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2020年1月31日に安倍内閣は当時63歳であった黒川弘務東京高検検事長の定年延長を閣議決定した。これが初の検察官の定年延長であるが、検察庁人事への内閣の介入であるとして一連の政治問題となった。 閣議決定後の国会答弁によれば、従来検察官には適用されないとしていた国家公務員法(第81条の3に定年による退職の特例を定める)を、法解釈を変更した上で根拠とするとされた。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "検察官は離職後、弁護士として活動する者が多い(いわゆるヤメ検)。また、定年まで勤めた者には、公証人になる者も多い。検事総長については、近年は大企業の監査役になる事が定番化している。",
"title": "日本の検察官"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国 は、建国より検察官(prosecutor)制度を採用したが、米国の司法制度においては官僚よりも政府に雇用された弁護士あるいは公選された政治家としての性格が濃いとされる(刑事裁判も「x対y州事件」と呼ばれる)。日本の検事正に相当する地方検事や州検事は公選制が主である。ただ、弁護士との大きな違いは、刑事事件の原告官となるだけでなく、常に米国の検察官は民事訴訟において連邦(国)や州や郡の訴訟代理人となる点に特色があるとされる。",
"title": "アメリカ合衆国の検察官"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "検察官の地位は、連邦検事(United States Attorney)の場合は合衆国の代理人であり、州検事(District Attorney)の場合は地区の代理人である。",
"title": "アメリカ合衆国の検察官"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "連邦検事は連邦法に関わる刑事事件の捜査・起訴・公判の維持を任務とする。このほか政府が当事者となっている民事訴訟の訴訟代理人や政府の法律顧問としての職務もある。",
"title": "アメリカ合衆国の検察官"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "連邦検事は上院の助言と承認を得て大統領が任命する(任期4年で再任も可能)。連邦検事は連邦地裁の管轄地域ごとに1名ずつ設置される。連邦検事補は連邦検事を補佐する職で司法長官が任命する。検事補は日本の副検事と語感が似ているが、部長職などの幹部も含めた幅広い検察官が含まれ、むしろ日本の「検事」に近く、これに対して検事は職権、人数的に日本の「検事正」に近い。",
"title": "アメリカ合衆国の検察官"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "イギリスでは私人訴追制度が採用されており刑事事件については警察官が私人の立場で訴追を行う。検察官は公判を遂行する権限を有するほか、証拠上・公益上の観点から警察が訴追した事件の手続続行を打ち切る権限を有する。検察官は事務弁護士又は法廷弁護士資格を有するものから任用される。イギリスでは原則として犯罪の捜査と訴追の権限は警察が有している。なお、大規模または複雑な経済犯罪については国家犯罪対策庁が捜査権と公訴提起権を有する。実務上は検察官は起訴のみを行い公判における弁論は民間の法廷弁護士に委任されることが多い。",
"title": "イギリスの検察官"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "検察官は法廷弁護士(バリスタ)または事務弁護士(ソリシタ)の資格をもつ者でなければならない。検察庁長官については法廷弁護士または事務弁護士の10年以上の実務経験が必要となる。",
"title": "イギリスの検察官"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "検察官は検察庁においては検察庁長官、国家犯罪対策庁においては国家犯罪対策庁長官によって任命される。検察庁長官及び国家犯罪対策庁長官は法務総裁によって任命される。",
"title": "イギリスの検察官"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "フランスでは検察官は刑事事件における司法警察の捜査の指揮や公訴の提起を行う権限を有する。重罪事件については、予審判事が捜査や起訴を行う。公判は検察官が出席しなければ開くことができず、証人尋問や論告求刑を行うほか、判決の執行も行う。また、民事事件では公益の代表者として倒産手続なども担当する。",
"title": "フランスの検察官"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2022年大韓民国大統領選挙で検察総長だった尹錫悦が当選した。",
"title": "大韓民国の検察官"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "原則として公訴権を検察官のみに付与し、広い裁量を認めていることから、権限濫用の危険性がある。 起訴が行われなかった場合には検察審査会が一応のチェック機能を果たすことが期待されている一方で、 起訴が行われた場合についての権限濫用の有無を判断する制度的な担保は存在していないことから、チェック機能が果たされない。",
"title": "公訴権濫用論"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "これら不当な起訴を行った場合には「公訴権の濫用」として公訴は棄却されるべきであるとの説が有力に唱えられた。",
"title": "公訴権濫用論"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "最高裁判所 (日本)は、原審が検察官の公訴権濫用を認定し公訴を棄却した事件の上告審において、 検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効とすることはありえるが、それは公訴提起自体が犯罪行為を構成するなどの限定的な場合に限られるとして極めて限定的な解釈を示した上で、検察官の上告を棄却し公訴棄却の原審判決を維持するという判示を行っている。",
"title": "公訴権濫用論"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "近年では、従来の公訴権濫用論から離れた新しい視点により、刑事手続きを打ち切ることを可能とする「手続きの打切り論」も唱えられている。",
"title": "公訴権濫用論"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "日本では戦前、検察官は公判のみならず捜査の主宰者として強大な権限を有していたが、戦後における刑事訴訟制度の改革によって、アメリカ合衆国にならい、公訴機関と捜査機関を分離し、当事者が事実を裁判で争う弾劾的な捜査観が強く打ち出された。その結果、検察官から捜査権を排除し、公訴権のみを持たせて公判に専念させ、捜査については別個に専門の捜査機関が実施すべきであるとする公判専従論が1960年代に学識者から有力に主張された。公訴権と捜査権とを分離することにより、人権保護に繋がるという考えに基づいたものである。検察の捜査護持論は、実体的真実が捜査主宰の検察の手中にあり(公判中心主義の否定)、裁判所に対して検察官の心証を引き継ぐようにもとめ、また検面調書を重視するよう求めるものであり、戦後の当事者主義刑事裁判を形骸化すると批判された。検察捜査の必要性と警察の第一次捜査権限もともに承認されたが、新刑訴法が検察官に捜査権を認めたのも、当時の警察の状況からするいわば過渡期的措置であり、現在もなお、検察官の上塗り捜査による取り調べ・検面調書中心の状態が続いていることは、深く反省すべきとする主張もなされている。検察に比べ警察の方が人員や装備、科学捜査力などに優位があり、基本的、科学的な捜査については一般に警察が扱い、検察官は必要に応じ補充的な捜査を行っているが、検察官の厚い身分保障等から政治家の汚職や会社犯罪などについて自ら基本的捜査を行うことも必要であり、日本人は自白が多いことから司法警察職員と検察官が重複して取り調べることは十分に意味があるとする意見もあり、実際、知能犯罪について行う検察官の独自捜査は一定の評価を受けている。だが、近年においては、検事による証拠捏造等、度重なる検察不祥事を背景に、公訴機関でもある検察官が直接捜査し、被疑者を逮捕した事件については、そのまま起訴されることが前提となっており、その結果、無理な捜査が行われているのではないかという批判や、検察部内で発生した不祥事案や検察官が関係する事件に対する捜査についても、検察自身で行うのは公平性に欠くとする批判も一部にある。ライブドア事件で検察と争った堀江貴文は、自身のブログで「検察の独自捜査権を奪うべきだ。その代わりFBI的な組織を警察庁に設ければいい。検察と警察がある程度パワーバランスをとってお互いに牽制しあう体制にすれば冤罪は減る」(2009-12-21)などの意見を述べている。また、検察制度に詳しい成城大学の指宿信教授は、検察へのチェック機能を働かせるために、公訴権と捜査権を分離することや検察官の倫理規定の制定、査察制度の導入などを主張している。",
"title": "公判専従論"
}
] |
検察官は、検察権行使の権限主体である。
|
{{Otheruses|職業|戯曲|検察官 (戯曲)}}
{{出典の明記|date=2018年3月}}
{{読み仮名|'''検察官'''|けんさつかん}}は、[[公訴権|検察権]]行使の権限主体である。
== 日本の検察官 ==
{{law|section=1}}
日本の検察官は、その全てが[[国家公務員法|検察庁法]][[国家公務員|によりその身分が定められた国家公務員]]である。
{{日本の刑事手続}}
検察官の職責は、[[検察庁法]]第4条で、
{{Quotation|刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求し、且つ、裁判の執行を監督し、又、裁判所の権限に属するその他の事項についても職務上必要と認めるときは、裁判所に、通知を求め、又は意見を述べ、又、公益の代表者として他の法令がその権限に属させた事務を行う}}
と規定されている。
また、検察庁法第3条の規定により、検察官は、[[検事総長]]、次長検事、検事長、検事及び[[副検事]]に区分される。
=== 地位 ===
検察官はそれぞれが検察権を行使する[[独任制]][[官庁]]である。[[検察庁]]は検察官の事務を統括する官署にすぎない。検察官は刑事裁判における訴追官として審級を通じた意思統一が必要であることから、検察官は検事総長を頂点とした指揮命令系統に服する('''検察官同一体の原則''')。
検察官が事務の途中で交代しても、同一の検察官が行ったと同じ効果が発生する。また、検察捜査の殆どは地方検察庁の検察官が直接行うため、上級庁(最高検察庁と高等検察庁)は、地方検察庁から報告を受けて了承や指示はするものの、上級庁自身が[[逮捕 (日本法)|逮捕]]をして直接捜査を担当することはほとんどない(例外として、[[1957年]]に[[東京高等検察庁]]が「2人の代議士を収賄容疑で召喚」と誤報した[[読売新聞]]記者を[[名誉毀損罪]]で逮捕・取調べをした事件([[売春汚職事件]])と、[[2010年]]に最高検察庁が特捜部長・特捜副部長・主任検事を[[証拠偽造罪]]や[[犯人隠避罪]]で逮捕・取調べ・[[起訴]]した事件([[大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件]])などがある)。
検察官は、例外を除き起訴権限を独占する(国家訴追主義)という極めて強大な権限を有し、刑事司法に大きな影響を及ぼしているため、政治的な圧力を不当に受けない様に、ある程度の独立性が認められている。端的なものが[[法務大臣]]による指揮権の制限である。
起訴した事件に対して[[裁判所]]が[[無罪]]判決をだすのは稀(0.1%ほど)なため、実質的に有罪無罪を決めているのは検察ではないかという識者もいる。
検察庁は、[[司法権]]、[[立法権]]、[[行政権]]の三権の内、[[行政権]]を持つ[[行政]]に帰属する官庁である。検察庁は、国民の権利保持の観点から、俗に準司法機関とも呼称されている。[[日本国憲法第77条]]では「検察官は、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の規則に従わなければならない」と規定されている。
検察庁は行政機関であり、[[国家公務員法]]の規定に基づき、その最高の長である法務大臣は、当然に各検察官に対して[[指揮権 (法務大臣)|指揮命令]]が可能だが、この指揮権については検察庁法により、「検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。」(検察庁法第14条)として、具体的事案については、検事総長を通じてのみ指揮ができるとした。前述の検察官同一体の原則から、検察官は検事総長を頂点とした指揮命令系統として、検察権は行政権に属して統一されている。
検察官の定員は、2022年(令和4年)、検事(検事総長1名、次長検事1名、検事長8名を含む)1954名、副検事800名で、検察官合計2754名である。
[[身分証明書]]は制定されていないので、必要な場合は側近の[[検察事務官]]が代理で「検察事務官証票」を示す。公務執行の際は必ず検察官徽章([[秋霜烈日]]章)を身に付ける。
==== 報酬 ====
検察官の[[給与]]については、[[検察官の俸給等に関する法律]]に基づき、[[俸給]]が支給される。
=== 職務権限 ===
==== 捜査 ====
検察官は訴追機関であると同時に捜査機関でもある。実際には補充的な捜査にとどまることが多いが、検察庁法第6条や刑事訴訟法第191条の規定に基づき、大型[[経済犯罪]]や政界絡みの[[汚職]]事件等、単独で[[犯罪]]の[[捜査]]を行う場合もある。
ただし、[[日本の警察|警察]]とは異なり、実力をもって「犯罪を予防鎮圧する([[行政警察活動]])機能」は与えられていない。そのため、専ら行政警察活動を適切に遂行し得るために[[日本の警察官|警察官]]に付与されている[[武器]]の携帯使用、[[職務質問]]、立入権限、保護、[[交通規制]]等の権限は保有しない。
=====検察官の捜査権限の歴史=====
[[戦前]]、検察官は捜査を主宰するとされ、強い指揮権限が認められていた。もっとも、法の建前は別として、現実には通常の捜査は警察が主として行い、検察官は補充的な役割を担っていた。
警察と検察はその所属官庁を異にし(警察は[[内務省 (日本)|内務省]]、検察は[[司法省 (日本)|司法省]])、検察官の指揮権を実行あらしめるための身分上の監督権を与えなかったこともあって、検察官の指揮命令の徹底を欠き、現実には捜査の二元化をきたしていたともいわれている<ref>{{Cite journal |和書|author=日本評論社(編) |title=現代の検察―日本検察の実態と理論 |date=1981-08 |publisher=日本評論社 |journal=法学セミナー増刊 総合特集シリーズ |issue=16 |id={{NCID|AN00327008}} |pages=88-95 |quote=『捜査における検察の役割―警察と検察の関係』(井戸田侃・[https://id.ndl.go.jp/bib/2369125 記事登録ID「2369125」])}}</ref>。戦後においては、公訴機関と捜査機関を原則としてそれぞれ分離し、[[人権]]保護が図られた。
その結果、警察は第一次捜査機関としての役割を担うこととなり、検察官と対等・独立の協力関係を確立したが、公訴提起・公判維持の観点から検察官には依然、一定の指揮権限を与えられている。(検察が不起訴にしてしまえば、いくら警察が証拠を固めても、有罪にはできず、反対に検察が強引に起訴しても、警察が証拠集めを怠れば、公判維持はできない)
=====検察官による捜査の指示・指揮=====
検察官は警察官等に対して、一般的指示権、一般的指揮権、具体的指揮権を有するほか、正当な理由がなくこれらの検察官の指揮に従わない場合、検事総長、検事長、検事正は従わない司法警察職員の懲戒の請求を[[公安委員会]]に対してすることができる。検察官自身には懲戒権限はない。
;一般的指示(刑事訴訟法第193条1項)
:検察官が管轄区域の司法警察職員に対し、公訴の遂行を全うするために行う一般的指示である。これは公訴提起及び維持に関わる限度での一般的準則を定めるもので、例えば、捜査書類書式例などが検事総長名で指示されている。これはあくまでも一般的準則を定めるものであり、捜査を監視・監督するわけではない<ref name="r-hirano_1958">{{Harvnb|平野|1958}}</ref>。また、一般的指示により、個々の事件捜査を直接指示することがないよう、昭和28年7月の第16回国会において付帯決議がなされている。
;一般的指揮(刑事訴訟法第193条2項)
:検察官が管轄区域の司法警察職員に対し、捜査の協力を求めるため必要な一般的指揮である。これは2つ以上の捜査機関が一つの事件を捜査する場合、その間の調整を目的としたものである<ref name="hiraki2000">{{Cite book |和書 |author=平良木登規男 |authorlink=平良木登規男 |date=2000-04 |title=捜査法 第2版 |publisher=成文堂 |id={{全国書誌番号|20074736}} |isbn=978-4792315214}}</ref>。同時並行で競合して捜査する場合に、捜査の協力を求めるために必要な範囲で行われるものである一般的な調整権限である。
;具体的指揮(刑事訴訟法第193条3項)
:検察官が自身が独自に捜査を行う場合に、検察官の責任において司法警察職員を指揮して独自捜査を補助させるものである。補助命令とも呼ばれる。
;懲戒・罷免の訴追(刑事訴訟法第194条)
:司法警察職員が上記、検察官の指示、指揮に正当な理由なく従わなかった場合、その管理者、懲戒・罷免権者にその訴追を求めることができる<ref>{{Cite book |和書 |author=藤木英雄 |authorlink=藤木英雄 |coauthors=松本時夫、[[土本武司]] |date=2000-03 |title=刑事訴訟法入門 第3版 |publisher=有斐閣 |series=有斐閣双書 |id={{全国書誌番号|20054908}} |isbn=978-4641112025 |quote=初版(1976年刊行)書誌情報→[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001205214-00 『国会図書館サーチ』より] }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=石丸俊彦 |authorlink=石丸俊彦 |coauthors=[[仙波厚]]、[[川上拓一]]、[[服部悟]] |date=2011-03 |title=刑事訴訟の実務(上) |publisher=[[新日本法規出版]] |id={{全国書誌番号|21928781}} |isbn=978-4788273887}}</ref><ref name="hiraki2009" />。ただし、検察官個人には司法警察職員を処分する権限はない<ref name="r-hirano_1958" />。
{{seealso|懲戒処分#司法警察職員に対する懲戒手続の特例}}
==== 公訴の提起 ====
公訴は原則として検察官が行う(国家訴追主義・起訴独占主義、[[刑事訴訟法]]247条)。公訴を提起することを一般的に[[起訴]]と呼ぶ。
{{seealso|起訴}}
犯人の性格、年齢および境遇、犯罪の軽重および情状ならびに犯罪後の情況により訴追を必要としないと検察官が判断した場合には、検察官は公訴を提起しないことができる(刑事訴訟法248条)。これは[[起訴便宜主義]]と呼ばれ、訴追を必要としないと判断された事件については'''[[起訴猶予処分]]'''(不起訴処分の一種)にすることができる。
=====起訴独占主義の例外=====
;準起訴手続
[[起訴独占主義]]の数少ない例外として'''[[準起訴手続]]'''(刑事訴訟法262条~269条)がある。
これは、[[刑法 (日本)|刑法]]、[[破壊活動防止法]](破防法)、[[無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律|団体規制法(オウム規制法)]]における公務員の[[職権濫用罪|職権濫用]]などの罪について検察官が公訴を提起しない場合に、その罪の[[告訴・告発]]者が不服なときに[[日本の裁判所|裁判所]]に付審判を請求できる制度で、[[付審判制度|付審判]]の決定があったときは、公訴の提起があったものとみなされる(刑事訴訟法267条)。
またこの時、裁判確定までの検察官としての職務は、裁判所が指定する[[弁護士]](特別検察官、[[指定弁護士]])が務めることとなり、この職務に当たる弁護士はいわゆる「[[みなし公務員]]」となる(刑事訴訟法268条)。
;検察審査会の議決に基づく強制起訴
[[2009年]](平成21年)[[5月21日]]から、検察官が不起訴にした事件で[[検察審査会]]が起訴議決制度において起訴相当を2回議決した場合も、公訴が提起されたものとみなされ、指定弁護士が特別検察官として公訴・公判を維持する'''[[強制起訴]]の制度'''が設けられた。
==== 訟務 ====
=====刑事訴訟=====
検察官は刑事裁判に訴追側当事者として参加し、訴訟行為を行う。
{{main|公判|公判前整理手続}}
=====刑事訴訟以外=====
*[[人事訴訟]]において訴訟担当者として[[被告]]となる場合がある。
*[[訟務検事]]として[[行政訴訟]]や[[国家賠償]]請求訴訟で国の代理人を務めることもある。
==== 裁判の執行 ====
裁判の執行は原則として検察官が指揮する(刑事訴訟法第472条)。[[日本における死刑|死刑]]執行の際は、刑事施設の長又はその代理者と共に執行に立ち会うこととされている(刑事訴訟法第477条)。
=== 資格 ===
==== 採用 ====
検察官は、[[裁判官]]や[[弁護士]]と同様にして、原則として、[[法科大学院]]課程修了または[[司法試験予備試験]]合格を経て[[司法試験]]に合格した者で[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[司法研修所]]における修習([[司法修習]])を終えた者が検事として採用され、この者が「検察官」となる。
この他に[[検察事務官]]、[[裁判所書記官]]、[[日本の警察官|警察官]]、[[皇宮護衛官]]、[[海上保安官]]、[[自衛隊]][[警務官]]等を一定年数経験した者が、「[[副検事]]」として採用される場合や、3年以上法律学を研究する大学院が設置されている大学における法律学の[[教授]]・[[准教授]]であった者などから採用されることもある。
==== 欠格 ====
検察庁法第20条により、以下に該当する者は検察官になれない。
#他の法律の定めるところにより一般の[[官吏]]に任命されることができない者
#[[禁錮]]以上の刑に処せられた者<ref group="注釈">沖縄の復帰に伴う法務省関係法令の適用の特別措置等に関する政令第2条により、沖縄の法令の規定により禁錮以上の刑に処せられた者も対象。刑法第27条により執行猶予を取り消されることなく猶予の期間を経過した時、第34条の2により、刑の執行を終えるか刑の執行の免除を得た後に罰金以上の刑に処せられないで10年を経過した時は、欠格事由の対象外となる。</ref>
#[[弾劾裁判所]]の罷免の裁判を受けた者
==== 罷免 ====
検察官には政治的中立を求められるため、手厚い身分保障が与えられている。
[[検察官適格審査会]]の職務不適格議決(認証官である[[検事総長]]や次長検事や検事長については法務大臣の罷免勧告も要する)又は職務上義務違反、国民全体の奉仕者にふさわしくない非行([[日本国憲法第15条]]違反)による懲戒[[免職]]以外では検察官を意に反して辞めさせることはできない。
=== 官職 ===
[[File:Nishimura U.JPG|thumb|150px|right|<center>'''[[西村卯]]'''<br />([[鳥取県]][[士族]]・大審院検事・横浜地方裁判所検事正)</center>]]
[[検察庁法]]に基づく職階制上の官名としては'''検事総長'''、'''次長検事'''、'''検事長'''、'''検事'''、'''副検事'''が、職名としては'''検事正'''、'''上席検察官'''があるが、単独の「検察官」という表記はこれらの総称であり、あるいは訴訟法上の地位であって官名・職名ではないため、辞令等での表記に「検察官」は用いられない。
ただし、検察官も「(旧)刑訴規則五六条二項にいわゆる官名と解することができる」とした判例がある<ref>{{Cite 判例検索システム |法廷名=最高裁判所第一小法廷 |事件番号=昭和26(あ)825 |事件名=酒税法違反 |裁判年月日=昭和27年6月5日 |判例集=集刑 第65号73頁 |判示事項=検察官なる名称は官名か |url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=68395}}</ref>。これに対し「検事」は身分を指す。
[[最高検察庁]]の'''[[検事総長]]'''([[国務大臣]]待遇<ref group="注釈">ただし、検事総長については[[国家公務員法]]2条の[[特別職]]の指定がなく、国務大臣相当の待遇であるものの一般職という事になっている。</ref>)・'''次長検事'''([[大臣政務官]]待遇)、各[[高等検察庁]]の'''検事長'''(準[[副大臣]]・大臣政務官待遇<ref group="注釈">[[東京高等検察庁]]検事長のみ大臣政務官よりも高く副大臣よりも低い待遇であり、その他の高等検察庁の検事長は大臣政務官に相当する待遇である。</ref>)は[[認証官]]であり、[[内閣 (日本)|内閣]]によって任免され[[天皇]]から認証される<ref group="注釈">本項に記した待遇は、俸給(給与の本給)の額の比較に基づく。次長検事及び検事長について「大臣政務官級」とあるが、大臣政務官は認証官でなく、給与以外の側面から見れば次長検事及び検事長は副大臣級とみなすことも間違いではない。</ref>。
また、事件処理に必要な検察官が足りないとの理由の際に、[[法務大臣]]は区検察庁の[[検察事務官]]のうち一定の者にその庁の検察官の事務を取り扱わせており(検察庁法附則36条)、このような検察事務官を'''検察官事務取扱検察事務官'''という。このほか、区検察庁の検察官の職のみにこれを補することができる副検事に地方検察庁の検察官の事務を取り扱わせる場合があり、この要の副検事を"地方検察庁検察官事務取扱副検事"という。
また、[[法務省設置法]]附則4項は、「当分の間、特に必要があるときは、[[法務省]]の職員(検察庁の職員を除く)のうち、百三十三人は、検事をもってこれに充てることができる。」と定めている。この規定に基づき、[[法務省]]の要職(官房長・局長レベルを含む)は検事(裁判所から出向した裁判官出身者が検事に任命された上で行われる場合もある)が検事としての官職のまま[[充て職]](法務事務官の官職を兼ねず、検事の官職のみを有したまま法務省の職に就く)の形で占める例が多い(課長などの役職者とならない場合は「局付(きょくづき)検事」と呼ばれる)。ただし、法務事務次官については、検事出身者が、一時的に検事の官職を解かれて就任するのが慣例である。
旧[[大日本帝国憲法]]下の[[官吏]]区分呼称であった[[勅任官]]・[[奏任官]]・[[判任官]]の名残で、[[検察庁]]の[[官吏]]には'''一級'''・'''二級'''・'''三級'''(算用数字でなく漢数字で表記)の別があり、検事長以上は一級、検事は一級または二級、副検事は二級となっている。各自に発せられる辞令に「検事一級」、「副検事二級」のように記載される。かつては、「一級に叙する」又は「二級に叙する」と叙級発令の形式であった。また、検察官以外の検察庁の官僚にも同様の区別があり、検事総長秘書官は二級、[[検察事務官]]は二級または三級、検察技官は二級または三級とすることとなっている。これらの級の区分はいずれも[[検察庁法]]に定められている。
[[File:Kimura Syoutatsu.JPG|thumb|150px|right|<center>'''[[木村尚達 (司法官)|木村尚達]]'''<br />(検事総長、司法大臣)</center>]]
==== 検察官の官名 ====
;[[検事総長]]
:検察官の職階の最高位にして[[最高検察庁]]の長であり、全ての検察庁の職員を指揮監督する(7条1項)。認証官である。
:官名であるとともに職名でもあり、[[刑事訴訟法]]において、法律の不備による管轄未定時の最高裁判所に対する管轄指定の請求([[b:刑事訴訟法第16条|刑訴法16条]])、公安侵害の危惧がある時の管轄移転の請求([[b:刑事訴訟法第18条|刑訴法18条]])及び[[非常上告]]([[b:刑事訴訟法第454条|刑訴法454条]])の権能を独占する。
;次長検事
:検察官の職階の一つ。認証官である。[[最高検察庁]]に属し、[[検事総長]]を補佐する。また、[[検事総長]]に事故のあるとき、又は欠けたときは、その職務を行う(検察庁法第7条第2項)。「次長検事」の職は、一般的に、「検事長」より上位の職であるものの、検察官俸給法における報酬額については「[[検事総長]]」、「[[東京高等検察庁]]検事長」に次いで3番目であり、東京高等検察庁の検事長以外の検事長(その他の検事長)と同額である。
:ただし、給与体系=指揮命令系統上の階級ではないことに留意する必要がある。警察庁次長(全国の警察組織の最高責任者である長官の次席)が指揮系統上はナンバーツーでありながら、その指揮下にある警視総監(東京都の警察本部長)よりも低い階級となっているのに相似している。もっとも、警察庁次長は総監を経ずに長官に昇進するケースが多いのに対し、次長検事が直接総長に昇進したケースは一例のみであり、それ以降は東京高検検事長を経由している。
;検事長
:検察官の職階の一つ。[[高等検察庁]]の長。認証官である。所属の高等検察庁、並びにその管轄区域内の地方検察庁及び区検察庁の職員を指揮監督する(8条)。なお、[[検察官の俸給等に関する法律]]における報酬額については、[[東京高等検察庁]]検事長は他の検事長とは区別されており、その俸給の額は検事総長についで2番目とされ、次長検事及び東京高等検察庁以外の検事長を上回る。
:官名であるとともに職名でもあり、[[刑事訴訟法]]において、被告人の捜査等の嘱託の受託([[b:刑事訴訟法第72条|刑訴法72条]])、死刑及び自由刑の言渡しを受けた者の現在地が分からないときの収監指示([[b:刑事訴訟法第486条|刑訴法486条]])などの職務が定められている。
;検事
:検察官の職階の一つであり、検事一級と検事二級とに分かれる。検事一級の資格は法第19条、検事二級の資格は法第18条でそれぞれ規定されている。
;副検事
:検察官の職階の一つ。詳細は[[副検事]]の記事を参照。
==== 検察官の職名 ====
;検事正
:検察官の職名の一つで、[[地方検察庁]]の長。一級の検事をもって充てられる。所属の地方検察庁、並びにその管轄区域内の区検察庁の職員を指揮監督する(検察庁法第九条)。
;次席検事
:検察庁法ではなく、'''検察庁事務章程'''2条に定められている職。高等検察庁及び地方検察庁にそれぞれ1名が置かれ、その庁に所属する検察官の中から法務大臣が任命する。所属する庁の検事長又は検事正の職務を助け、また、検事長又は検事正に事故のあるとき、又は欠けたときは、その職務を臨時に行う。多くの庁で、記者会見に出席し、発表を行うのは次席検事である。決裁官であり原則として個別の事件を担当することはない。
;三席検事
:検察庁事務章程四条三項、検察庁事務章程四条第四項に定められている職務。組織内に部が設置されない比較的規模の小さな地方の地方検察庁(非部制庁)にそれぞれ1名が置かれ、その庁に所属する検察官の中から法務大臣が任命する。所属する庁の検事正と次席検事の双方に事故のあるとき、又は欠けたときは、その職務を臨時に行うが、平時には事件を担当しており現場担当の最上席となる。三席検事も職務を行い得ない場合は「あらかじめ検事正の定めた順序により、その庁の他の検事が、臨時に検事正の職務を行う」こととされており(検察庁事務章程4条3項)、内部的にはこの順に従って四席、五席などと呼称する場合もあるが事務章程上の存在としては三席検事までである。
;部長
:検察庁事務章程6条に定められている職。最高検察庁、高等検察庁、東京地方検察庁、大阪地方検察庁等と言った首都圏内に位置する比較的規模の大きい地方検察庁、[[東京区検察庁]]には、庁ごとに検察庁事務章程別表第一において規定された部が設置される。その検察庁の部(臨時の部を除く)には、責任者として部長が置かれ、その庁に所属する検察官の中から、法務大臣により任命される。その部の所管事務を総括し、所属職員の指揮監督を行う。
:各検察庁によって設置される部は異なるが、具体的には、[[総務部]]長、[[刑事部]]長、[[特別捜査部]]長、[[特別刑事部]]長、[[検察庁#公安検察|公安部]]長、[[交通部]]長、[[公判部]]長等がある。
;支部長
:検察庁事務章程三条に規定されている職務。高等検察庁支部及び地方検察庁支部にそれぞれ一名置かれ、その支部に勤務する検察官の中から法務大臣が任命する。支部に関する庁務を掌理し、支部職員を指揮監督する。
;上席検察官
:検察官の職名の一つ。2人以上の検事又は検事及び副検事の所属する[[区検察庁]]にそれぞれ1名置かれ、検事をもって充てられる。区検察庁の長として、職員を指揮監督する。
:上席検察官の置かれない区検察庁においては、所属の検事又は副検事(副検事が2人以上属する場合は検事正の指定する副検事)が区検察庁の長として、職員を指揮監督する。
=== 定年 ===
検察庁法第22条により、検事総長は65歳、その他の検察官は63歳に達した時に退官する。検察庁法に定年延長の規程は存在しない。
2020年1月31日に[[第4次安倍内閣 (第2次改造)|安倍内閣]]は当時63歳であった[[黒川弘務]][[東京高検]]検事長の定年延長を閣議決定した。これが初の検察官の定年延長である<ref name="20200203mori">[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=120105261X00520200203 第201回国会 衆議院 予算委員会 第5号 令和2年2月3日] [[森まさこ]][[法務大臣]]の答弁</ref>が、検察庁人事への内閣の介入であるとして一連の政治問題となった。
閣議決定後の国会答弁<ref name="20200203mori" />によれば、従来検察官には適用されない<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=109404889X01019810428 昭和56年4月28日衆議院内閣委員会における斧誠之助人事院事務総局任用局長の答弁] および [https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=120105261X01120200212 第201回国会 衆議院 予算委員会 第11号 令和2年2月12日 の松尾恵美子人事院事務総局給与局長の答弁]</ref>としていた[[国家公務員法]](第81条の3に定年による退職の特例を定める)を、法解釈を変更<ref>第201回国会 衆議院 予算委員会 第11号 令和2年2月の総理大臣答弁</ref>した上で根拠とするとされた<ref>朝日新聞[https://www.asahi.com/articles/ASN2N73RQN2NUTFK018.html 「法相『法解釈は省庁で』 検事長定年延長、野党は猛反発」 ] (2020年2月21日) </ref>。
=== 離職した後の検察官 ===
検察官は離職後、弁護士として活動する者が多い(いわゆる[[ヤメ検]])。また、定年まで勤めた者には、[[公証人]]になる者も多い。検事総長については、近年は大企業の監査役になる事が定番化している。
== アメリカ合衆国の検察官 ==
{{要出典範囲|date=2019年4月27日 (土) 10:17 (UTC)|アメリカ合衆国 は、建国より検察官({{en|prosecutor}})制度を採用したが、米国の司法制度においては官僚よりも政府に雇用された弁護士あるいは公選された政治家としての性格が濃いとされる(刑事裁判も「x対y州事件」と呼ばれる)。日本の検事正に相当する地方検事や州検事は公選制が主である。ただ、弁護士との大きな違いは、刑事事件の原告官となるだけでなく、常に米国の検察官は民事訴訟において連邦(国)や州や郡の訴訟代理人となる点に特色があるとされる}}。
=== 地位 ===
検察官の地位は、連邦検事(United States Attorney)の場合は合衆国の代理人であり、州検事(District Attorney)の場合は地区の代理人である<ref name="sihouseido1" />。
=== 職務 ===
連邦検事は連邦法に関わる刑事事件の捜査・起訴・公判の維持を任務とする<ref name="sihouseido1">{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/pdfs/dai5gijiroku-1.pdf |title=諸外国の司法制度概要 1 |publisher=首相官邸|accessdate=2017-03-07|format=PDF}}</ref>。このほか政府が当事者となっている民事訴訟の訴訟代理人や政府の法律顧問としての職務もある<ref name="sihouseido1" />。
=== 選任 ===
連邦検事は上院の助言と承認を得て大統領が任命する(任期4年で再任も可能)<ref name="sihouseido1" />。連邦検事は連邦地裁の管轄地域ごとに1名ずつ設置される<ref name="sihouseido1" />。連邦検事補は連邦検事を補佐する職で司法長官が任命する<ref name="sihouseido1" />。検事補は日本の副検事と語感が似ているが、部長職などの幹部も含めた幅広い検察官が含まれ、むしろ日本の「検事」に近く、これに対して検事は職権、人数的に日本の「検事正」に近い。
== イギリスの検察官 ==
イギリスでは私人訴追制度が採用されており刑事事件については警察官が私人の立場で訴追を行う<ref name="sihouseido1" />。検察官は公判を遂行する権限を有するほか、証拠上・公益上の観点から警察が訴追した事件の手続続行を打ち切る権限を有する<ref name="sihouseido1" />。検察官は事務弁護士又は法廷弁護士資格を有するものから任用される。イギリスでは原則として犯罪の捜査と訴追の権限は警察が有している<ref name="sihouseido1" />。なお、大規模または複雑な経済犯罪については[[国家犯罪対策庁]]が捜査権と公訴提起権を有する<ref name="sihouseido1" />。実務上は検察官は起訴のみを行い公判における弁論は民間の法廷弁護士に委任されることが多い。
=== 資格 ===
検察官は法廷弁護士(バリスタ)または事務弁護士(ソリシタ)の資格をもつ者でなければならない<ref name="sihouseido1" />。検察庁長官については法廷弁護士または事務弁護士の10年以上の実務経験が必要となる<ref name="sihouseido1" />。
=== 選任 ===
検察官は検察庁においては検察庁長官、国家犯罪対策庁においては国家犯罪対策庁長官によって任命される<ref name="sihouseido1" />。検察庁長官及び国家犯罪対策庁長官は法務総裁によって任命される<ref name="sihouseido1" />。
== フランスの検察官 ==
フランスでは検察官は刑事事件における司法警察の捜査の指揮や公訴の提起を行う権限を有する<ref name="sihouseido2">{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/pdfs/dai5gijiroku-2.pdf |title=諸外国の司法制度概要 2 |publisher=首相官邸|accessdate=2018-03-07|format=PDF}}</ref>。重罪事件については、[[予審判事]]が捜査や起訴を行う。公判は検察官が出席しなければ開くことができず、証人尋問や論告求刑を行うほか、判決の執行も行う<ref name="sihouseido2" />。また、民事事件では公益の代表者として倒産手続なども担当する<ref name="sihouseido2" />。
== 大韓民国の検察官 ==
[[2022年大韓民国大統領選挙]]で{{ill2|大韓民国検察総長|ko|대한민국의 검찰총장|label=検察総長}}だった[[尹錫悦]]が当選した。
== 公訴権濫用論 ==
原則として[[公訴権]]を検察官のみに付与し、広い裁量を認めていることから、権限濫用の危険性がある。
起訴が行われなかった場合には検察審査会が一応のチェック機能を果たすことが期待されている一方で、
起訴が行われた場合についての権限濫用の有無を判断する制度的な担保は存在していないことから、チェック機能が果たされない。
これら不当な起訴を行った場合には「公訴権の濫用」として公訴は棄却されるべきであるとの説が有力に唱えられた<ref>{{Cite book |和書 |author=井戸田侃 |authorlink=井戸田侃 |date=1978-11 |title=公訴権濫用論 |publisher=[[学陽書房]] |series=法学選書 |id={{全国書誌番号|78033162}} |isbn=978-4313430167}}</ref>。
[[最高裁判所 (日本)]]は、原審が検察官の公訴権濫用を認定し公訴を棄却した事件の上告審において、
検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効とすることはありえるが、それは公訴提起自体が犯罪行為を構成するなどの限定的な場合に限られるとして極めて限定的な解釈を示した上で、検察官の上告を棄却し公訴棄却の原審判決を維持するという判示を行っている。
近年では、従来の公訴権濫用論から離れた新しい視点により、刑事手続きを打ち切ることを可能とする「手続きの打切り論」も唱えられている<ref>{{Cite book |和書 |author=指宿信 |date=2010-03 |title=刑事手続打切り論の展開―ポスト公訴権濫用論のゆくえ |publisher=[[日本評論社]] |id={{全国書誌番号|21746765}} |isbn=978-4535517493}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=寺崎嘉博 |date=1994-05 |title=訴訟条件論の再構成―公訴権濫用論の再生のために |publisher=[[成文堂]] |id={{全国書誌番号|94060741}} |isbn=978-4792313357}}</ref>。
== 公判専従論 ==
日本では戦前、検察官は公判のみならず捜査の主宰者として強大な権限を有していたが、戦後における刑事訴訟制度の改革によって、アメリカ合衆国にならい、公訴機関と捜査機関を分離し、当事者が事実を裁判で争う弾劾的な捜査観が強く打ち出された。その結果、検察官から捜査権を排除し、[[公訴権]]のみを持たせて公判に専念させ、捜査については別個に専門の捜査機関が実施すべきであるとする公判専従論が1960年代に学識者から有力に主張された。公訴権と捜査権とを分離することにより、人権保護に繋がるという考えに基づいたものである。検察の捜査護持論は、実体的真実が捜査主宰の検察の手中にあり(公判中心主義の否定)、裁判所に対して検察官の心証を引き継ぐようにもとめ、また検面調書を重視するよう求めるものであり、戦後の当事者主義刑事裁判を形骸化すると批判された<ref>{{Cite journal |和書|author=佐々木史朗 |title=刑事裁判の当面する課題―検察官よ、法廷にかえれ |date=1963-11-01 |publisher=判例タイムズ社 |journal=判例タイムズ |volume=14 |issue=13 |pages=2375-2383 |naid=40003203372 |issn=0438-5896 |id={{NCID|AN00326956}} |quote=[https://id.ndl.go.jp/bib/749523 記事登録ID「749523」]}}</ref>。検察捜査の必要性と警察の第一次捜査権限もともに承認されたが、新刑訴法が検察官に捜査権を認めたのも、当時の警察の状況からするいわば過渡期的措置であり<ref>{{Cite book |和書 |author=日本刑法学会(編) |date=1953-11 |title=改正刑事訴訟法―解説と批判―〈刑法雑誌 別冊〉 |publisher=[[有斐閣]] |page=248 |id={{NCID|BN06649424}} |isbn=4-641-62361-9 |quote=中武著の論文より}}</ref>、現在もなお、検察官の上塗り捜査による取り調べ・検面調書中心の状態が続いていることは、深く反省すべきとする主張もなされている<ref>{{Cite journal |和書|author=日本評論社(編) |title=現代の検察―日本検察の実態と理論 |date=1981-08 |publisher=日本評論社 |journal=法学セミナー増刊 総合特集シリーズ |issue=16 |id={{NCID|AN00327008}} |page=329 |quote=『日本の検察・基礎16講』([https://id.ndl.go.jp/bib/2369159 記事登録ID「2369159」])より「第16講・公判専従論(浅田和茂)」 }}</ref>。検察に比べ警察の方が人員や装備、科学捜査力などに優位があり、基本的、科学的な捜査については一般に警察が扱い、検察官は必要に応じ補充的な捜査を行っているが、検察官の厚い身分保障等から政治家の汚職や会社犯罪などについて自ら基本的捜査を行うことも必要であり、日本人は自白が多いことから司法警察職員と検察官が重複して取り調べることは十分に意味があるとする意見もあり、実際、知能犯罪について行う検察官の独自捜査は一定の評価を受けている。だが、近年においては、検事による証拠捏造等、度重なる検察不祥事を背景に、公訴機関でもある検察官が直接捜査し、被疑者を逮捕した事件については、そのまま起訴されることが前提となっており、その結果、無理な捜査が行われているのではないかという批判や、検察部内で発生した不祥事案や検察官が関係する事件に対する捜査についても、検察自身で行うのは公平性に欠くとする批判も一部にある。[[ライブドア事件]]で検察と争った堀江貴文は、自身のブログで「検察の独自捜査権を奪うべきだ。その代わり[[連邦捜査局|FBI]]的な組織を警察庁に設ければいい。検察と警察がある程度パワーバランスをとってお互いに牽制しあう体制にすれば冤罪は減る」(2009-12-21)などの意見を述べている。また、検察制度に詳しい成城大学の指宿信教授は、検察へのチェック機能を働かせるために、公訴権と捜査権を分離することや検察官の倫理規定の制定、査察制度の導入などを主張している<ref>[https://archive.is/QxdT 検察制度改革私案] - [[日本放送協会|NHK]]『[[視点・論点]]』2010年11月18日付け《2017年11月6日閲覧;現在は[[ウェブアーカイブ|ウェブアーカイブサイト]]「[[archive.is]]」内に残存》</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="hiraki2009">{{Cite book |和書 |author=平良木登規男 |date=2009-10 |title=刑事訴訟法 I |publisher=成文堂 |id={{全国書誌番号|21673230}} |isbn=978-4792318482}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author=読売新聞社会部
|authorlink=読売新聞
|title=ドキュメント検察官…揺れ動く「正義」
|origdate=2006-09-25
|accessdate=2009-07-19
|edition=初版
|publisher=[[中央公論新社]]
|series=[[中公新書]]
|isbn=9784121018656
}}
* {{Cite book |和書 |author=平野龍一 |authorlink=平野龍一 |year=1958 |title=刑事訴訟法 |publisher=[[有斐閣]] |id={{全国書誌番号|59001863}} |isbn=978-4641005433 |quote=著者名表記は「平野龍一」が正当なところ、国会図書館には「平野竜一」で著者名登録済(2017-11-07時点) |ref={{harvid|平野|1958}}}}
*『法学セミナー増刊 現代の検察』([[日本評論社]])
* [[別冊宝島]]編集部編『暴走する「検察」』([[宝島社]])
* [[産経新聞]]特集部『検察の疲労』([[角川書店]])
* [[魚住昭]]『特捜検察の闇』([[文藝春秋]])
* [[郷原信郎]]『検察の正義』([[ちくま新書]])
* [[野村二郎 (ジャーナリスト)|野村二郎]]『日本の検察』([[講談社現代新書]])
* [[秦野章]]『角を矯めて牛を殺すことなかれ』([[光文社]])
* 『コーポレート コンプライアンス季刊第18号 政治とカネと検察捜査』(講談社)
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
{{wiktionary|検察}}
* [[検事]]
* [[法務省共済組合]]
* [[公安調査庁長官]](検事)
* [[判事]]
* [[法務省]]
* [[検察庁]]
* [[検察審査会]] - 公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため、選挙権を有する国民の中からくじで選ばれた[[検察審査員]]が、検察官が被疑者を起訴しなかったことの当否を審査し、また、検察事務の改善に関する建議又は勧告を行う。
* [[検察官適格審査会]] - 個々の検察官が職務遂行に適するか否かを審査する機関である。全ての検察官を3年ごとに定時審査するほか、法務大臣の請求により、または職権で各検察官を随時審査する。
* [[国策捜査]]
* [[判事検事登用試験]]
* [[警察官]]
== 外部リンク ==
* {{Egov law|322AC0000000061|検察庁法}}
* [https://www.moj.go.jp/KEIJI/keiji13.html 検察庁事務章程]
* [https://www.kensatsu.go.jp/notice_gpki.html 最高検察庁監察指導部窓口]
* [https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E5%AF%9F%E5%AE%98%28%E5%8F%B8%E6%B3%95%29-1530879 検察官(けんさつかん)とは] - [[コトバンク]]
* [https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E5%AF%9F%E5%AE%98-60515 検察官(けんさつかん)とは] - コトバンク
* [https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E5%AF%9F%E5%AE%98%5B%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%5D-167955 検察官(アメリカ合衆国)(けんさつかん(アメリカがっしゅうこく))とは] - コトバンク
* [https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E5%AF%9F-491958 検察(ケンサツ)とは] - コトバンク
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アフリカーンス語
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アフリカーンス語(アフリカーンスご、Afrikaans)は、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派で西ゲルマン語群に属する低地ドイツ語に属し、オランダ語から派生した言語である。
純言語学的には低地ドイツ語のうち低地フランク語(低地ザクセン語と近縁関係にある)の中の一方言であるとされるが、下記に示すとおりその独特な語彙から低地ドイツ語の中でもオランダ語(オランダ大方言)とは別の方言だという説も有力である。
クワズール・ナタール州以外の南アフリカ共和国全土に広く普及しており、オランダ系白人であるアフリカーナー(かつてはボーア人と呼ばれた)が母語とするほか、カラード(白人とコイコイ人をはじめとする有色人種の混血)にも母語とする者が多い。南アフリカ共和国の公用語の一つで、ヨーロッパ系言語の中で最も新しい言語である。
オランダの植民地であった頃に正統オランダ語を基礎に、ヨーロッパ移民の話すフランス語、ドイツ語、ポルトガル語などの欧州諸語、現地の先住民が話すバントゥー諸語、コイサン諸語、更には奴隷として連れて来られた東南アジア系のマレー語が融合してできた言語であるが、イギリスの植民地になって以来今日まで英語の影響を非常に大きく受け、語彙や文法の随所に英語的用法、用語があふれかえっている。また正統オランダ語より派生してから文法が大幅に簡素になり、複雑な語尾変化や時制、冠詞の性別が消滅した。その発展過程においてマレー語の影響も強く受けたため、学者間でゲルマン語かクレオール言語に分類するかで大きな論争が起きたこともあるが、当時の白人政権下では純ゲルマン語説が強く推された。
なお、低地ドイツ語を一つの言語としてみた場合、北ドイツ方言とオランダ方言(フラマン語も含む)の差よりもアフリカーンス語(アフリカーンス方言)との差の方が大きいという説が有力である。このことは逆に、オランダ語を政治的理由で独立言語として扱うならば、アフリカーンス語も独立した言語であるとの主張の根拠にもなっている。現実的、日常的にはかつてオランダ語の方言であったが、旧白人政権のもとで正式の国語となり、オランダ語から独立した言語となったといえる。
1976年に当時の政府が黒人の子弟に全教科をアフリカーンス語で学ぶよう強制しようとして起きたソウェト蜂起により、アフリカーンス語は圧制者の言葉として世界に知られることになる。他方、獄中にあったネルソン・マンデラが看守とコミュニケーションを取って相互理解を深め、ひいては彼らの考えを変えていくために、アフリカーンス語を学んだことが知られている。
1994年の黒人政権誕生以降、それまで英語とともに享受してきた南アフリカ共和国内における共通語としての座から実質的に滑り落ちた。現在でも、南アフリカ共和国の公用語の1つではあるが、アパルトヘイトのイメージが付きまとうために、大学の教授言語から追放される等のアフリカーンス語話者に対する逆差別も起こっており、公用語としての地位は大きく低下しており、厳しい立場に置かれている。
しかしながら、メディアにおいては英語に次いで使われており、北ケープ州と西ケープ州では最も話されている言語である。隣国のナミビアでは公用語ではないものの共通語として広く用いられている。現在の使用人口は約650万人である。
南アフリカ共和国(13.5%)のほか、ナミビア(10.4%)で主に使われている。他にボツワナ、レソト、エスワティニ、ジンバブエ、ザンビアにも話者がいる。また、オーストラリアとニュージーランドでも移民したアフリカーナーによって話されている。
北ケープ州(53.8%)と西ケープ州(49.7%)では最も使われている言語である。他にフリーステイト州12.7%、ハウテン州12.4%、東ケープ州10.6%、北西州9.0%、ムプマランガ州7.2%となっている。南アフリカ西部では最も使われている言語であるが公用語としての地位は形骸化している。アフリカーナーとカラード(混血・コイコイ人・マレー人)によって話されている。一部の黒人の間ではアパルトヘイトの言語として拒否感が強く残っている。しかし、2011年国勢調査によると黒人の中でも602,166人がアフリカーンス語が母語であると回答している。
現存する唯一のアフリカーナーのみの集落である北ケープ州のオラニアでは、アフリカーンス語がほぼ唯一の使用言語となっている。
ハルダプ州(44%)、カラス州(41%)では最も使われている言語である。他にホマス州(24%)、エロンゴ州(22%)、オマヘケ州(12%)となっており、南部中心に使われている。白人の言語としてのみではなく、主に黒人の異民族間の共通語としても使用されている。
文法面では、オランダ語では動詞が人称によって変化するが、アフリカーンス語では変化しない。
発音、表記に関しては、オランダ語の"ij"に対してアフリカーンス語では"y"と表記する。F, v, w の発音の区別はむしろドイツ語式だと考えた方がよい。オランダ語の"v"は"f"に近く発音されることがあっても、一応/f/と/v/は別音素とされるのに対し、アフリカーンス語ではこれらを区別せず"f"、"v"とも[f]と発音し、"w"はオランダ語では唇歯接近音[ʋ]だが、アフリカーンス語では[f]の有声音[v]と発音する。ただし外来語(南アフリカの先住民の言語を含む)では"v"は原音が[v]の場合[v]、"w"は原音が[w]の場合[w]と発音する。
高等教育を受けたアフリカーンス語の話者は書かれたオランダ語を問題なく読めるケースが多い。しかしアフリカーンス語の話者とオランダ語の話者とがそれぞれの母語で会話する場合などは文法面の差異などよりむしろ、語彙、発音面の違いにより両者の会話が著しく困難になるケースが多く、多くの場合英語で意思疎通を図るのが通例である。
アフリカーンス語はオランダ語から派生してから 約400年弱と歴史も浅くその地域ごとにおける方言も、他の西ゲルマン語、例えばドイツ語のように場合によっては異なる地域の出身者同士の意思疎通を困難にするほどの際立った言語的相違は見られない。アフリカーンス語における方言は大まかに下記の三つの方言グループに分類される。
このうちオレンジ川・アフリカーンス語は主に北ケープ州で話され、語法的にも発音面でも標準語に比べ比較的際立った相違を示している。語法や語彙面では先住民コイサンの影響を受けている。
ケープ・アフリカーンス語は西ケープ州で話されている方言の総称であるが、主にアパルトヘイト時代に話者が帰属していた人種グループにより更に細かく定義されている。こういう意味では地域方言というよりむしろ社会方言といえる。ケープでは距離として5kmと離れていない旧白人居住区と旧カラード居住区で、違いの大きい別個の社会方言が話されており、電話などで会話してもほぼ即座に電話の向こうの人種が特定できるほどである。
また日常会話における表現でも
など用法に人種ごとに大きな違いが見られる場合が多い。
同じインド・ヨーロッパ語族のヒンディー(Hindi)と同様に、「アフリカーンス(Afrikaans)」のみで言語を表すため、本来は「語」を付する必要はない。
中国語では南非語(南アフリカ語)や南非荷蘭語(南アフリカ・オランダ語)、阿非利堪斯語(「アフリカーンス語」の音訳)などと呼ばれる。
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アフリカーンス語(アフリカーンスご、Afrikaans)は、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派で西ゲルマン語群に属する低地ドイツ語に属し、オランダ語から派生した言語である。 純言語学的には低地ドイツ語のうち低地フランク語(低地ザクセン語と近縁関係にある)の中の一方言であるとされるが、下記に示すとおりその独特な語彙から低地ドイツ語の中でもオランダ語(オランダ大方言)とは別の方言だという説も有力である。 クワズール・ナタール州以外の南アフリカ共和国全土に広く普及しており、オランダ系白人であるアフリカーナー(かつてはボーア人と呼ばれた)が母語とするほか、カラード(白人とコイコイ人をはじめとする有色人種の混血)にも母語とする者が多い。南アフリカ共和国の公用語の一つで、ヨーロッパ系言語の中で最も新しい言語である。
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{{Infobox Language
|name=アフリカーンス語
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'''アフリカーンス語'''(アフリカーンスご、Afrikaans)は、[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[ゲルマン語派]]で[[西ゲルマン語群]]に属する[[低地ドイツ語]]に属し、[[オランダ語]]から派生した[[言語]]である。
純[[言語学]]的には低地ドイツ語のうち[[低地フランク語]]([[低ザクセン語|低地ザクセン語]]と近縁関係にある)の中の一方言であるとされるが、下記に示すとおりその独特な語彙から低地ドイツ語の中でもオランダ語(オランダ大方言)とは別の方言だという説も有力である。
[[クワズール・ナタール州]]以外の[[南アフリカ共和国]]全土に広く普及しており、[[オランダ]]系[[白人]]である[[アフリカーナー]](かつてはボーア人と呼ばれた)が[[母語]]とするほか、[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]](白人と[[コイコイ人]]をはじめとする有色人種の混血)にも母語とする者が多い。南アフリカ共和国の[[公用語]]の一つで、ヨーロッパ系言語の中で最も新しい言語である。
== 概要 ==
オランダの植民地であった頃に正統[[オランダ語]]を基礎に、ヨーロッパ移民の話す[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[ポルトガル語]]などの欧州諸語、現地の先住民が話す[[バントゥー語群|バントゥー諸語]]、[[コイサン諸語]]、更には奴隷として連れて来られた[[東南アジア]]系の[[マレー語]]が融合してできた言語であるが、[[イギリス]]の植民地になって以来今日まで[[英語]]の影響を非常に大きく受け、語彙や文法の随所に英語的用法、用語があふれかえっている。また正統オランダ語より派生してから[[文法]]が大幅に簡素になり、複雑な語尾変化や[[時制]]、[[冠詞]]の性別が消滅した。その発展過程においてマレー語の影響も強く受けたため、学者間でゲルマン語か[[クレオール言語]]に分類するかで大きな論争が起きたこともあるが、当時の白人政権下では純ゲルマン語説が強く推された。
なお、低地ドイツ語を一つの言語としてみた場合、北ドイツ方言とオランダ方言(フラマン語も含む)の差よりもアフリカーンス語(アフリカーンス方言)との差の方が大きいという説が有力である。このことは逆に、オランダ語を政治的理由で独立言語として扱うならば、アフリカーンス語も独立した言語であるとの主張の根拠にもなっている。現実的、日常的にはかつてオランダ語の方言であったが、旧白人政権のもとで正式の国語となり、オランダ語から独立した言語となったといえる。
[[1976年]]に当時の政府が[[黒人]]の子弟に全教科をアフリカーンス語で学ぶよう強制しようとして起きた[[ソウェト蜂起]]により、アフリカーンス語は圧制者の言葉として世界に知られることになる。他方、獄中にあった[[ネルソン・マンデラ]]が看守とコミュニケーションを取って相互理解を深め、ひいては彼らの考えを変えていくために、アフリカーンス語を学んだことが知られている。
[[1994年]]の黒人政権誕生以降、それまで[[英語]]とともに享受してきた南アフリカ共和国内における[[共通語]]としての座から実質的に滑り落ちた。現在でも、南アフリカ共和国の[[公用語]]の1つではあるが、[[アパルトヘイト]]のイメージが付きまとうために、大学の[[教授言語]]から追放される等のアフリカーンス語話者に対する[[逆差別]]も起こっており、公用語としての地位は大きく低下しており、厳しい立場に置かれている。
しかしながら、メディアにおいては英語に次いで使われており、[[北ケープ州]]と[[西ケープ州]]では最も話されている言語である。隣国の[[ナミビア]]では公用語ではないものの[[共通語]]として広く用いられている。現在の使用人口は約650万人である。
== アフリカーンス語が使用される国々 ==
[[ファイル:South Africa Afrikaans speakers proportion map.svg|thumb|right|250px|南アフリカ共和国におけるアフリカーンス語話者の割合<br />緑:70%以上<br />灰緑:50%以上]]
[[ファイル:Distribution of Afrikaans in Namibia.png|thumb|right|250px|ナミビアにおけるアフリカーンス語話者の割合]]
[[南アフリカ共和国]](13.5%)のほか、[[ナミビア]](10.4%)で主に使われている。他に[[ボツワナ]]、[[レソト]]、[[エスワティニ]]、[[ジンバブエ]]、[[ザンビア]]にも話者がいる。また、[[オーストラリア]]と[[ニュージーランド]]でも移民したアフリカーナーによって話されている。
=== 南アフリカ ===
[[北ケープ州]](53.8%)と[[西ケープ州]](49.7%)では最も使われている言語である。他に[[フリーステイト州]]12.7%、[[ハウテン州]]12.4%、[[東ケープ州]]10.6%、[[北西州 (南アフリカ)|北西州]]9.0%、[[ムプマランガ州]]7.2%となっている。南アフリカ西部では最も使われている言語であるが公用語としての地位は形骸化している。[[アフリカーナー]]と[[カラード (南アフリカ共和国)|カラード]](混血・[[コイコイ人]]・[[ケープマレー|マレー人]])によって話されている。一部の黒人の間ではアパルトヘイトの言語として拒否感が強く残っている。しかし、2011年国勢調査によると黒人の中でも602,166人がアフリカーンス語が母語であると回答している。
現存する唯一の[[アフリカーナー]]のみの集落である北ケープ州の[[オラニア]]では、アフリカーンス語がほぼ唯一の使用言語となっている。
=== ナミビア ===
[[ハルダプ州]](44%)、[[カラス州]](41%)では最も使われている言語である。他に[[ホマス州]](24%)、[[エロンゴ州]](22%)、[[オマヘケ州]](12%)となっており、南部中心に使われている。白人の言語としてのみではなく、主に黒人の異民族間の共通語としても使用されている。
==発音==
===母音===
{{節スタブ}}
===子音===
:b [b]
:d [d]
:f [f]
:g [x]~[χ]
:gh [g](外来語で[g]音を表す際"gh"に書き換えられる)
:h [h]
:j [j]
:k [k]
:l [l]
:m [m]
:n [n]
:p [p]
:r [r]
:s [s]
:t [t]
:v [f], [v](外来語で)
:w [v], [w](子音の後や外来語で)
:z [z]
==オランダ語との差異==
文法面では、オランダ語では動詞が人称によって変化するが、アフリカーンス語では変化しない。
発音、表記に関しては、オランダ語の"ij"に対してアフリカーンス語では"y"と表記する。F, v, w の発音の区別はむしろ[[ドイツ語]]式だと考えた方がよい。オランダ語の"v"は"f"に近く発音されることがあっても、一応/f/と/v/は別音素とされるのに対し、アフリカーンス語ではこれらを区別せず"f"、"v"とも[f]と発音し、"w"はオランダ語では[[唇歯接近音]][ʋ]だが、アフリカーンス語では[f]の有声音[v]と発音する。ただし外来語(南アフリカの先住民の言語を含む)では"v"は原音が[v]の場合[v]、"w"は原音が[w]の場合[w]と発音する。
高等教育を受けたアフリカーンス語の話者は書かれたオランダ語を問題なく読めるケースが多い。しかしアフリカーンス語の話者とオランダ語の話者とがそれぞれの母語で会話する場合などは文法面の差異などよりむしろ、語彙、発音面の違いにより両者の会話が著しく困難になるケースが多く、多くの場合英語で意思疎通を図るのが通例である。
==方言==
アフリカーンス語はオランダ語から派生してから
約400年弱と歴史も浅くその地域ごとにおける方言も、他の西ゲルマン語、例えばドイツ語のように場合によっては異なる地域の出身者同士の意思疎通を困難にするほどの際立った言語的相違は見られない。アフリカーンス語における方言は大まかに下記の三つの方言グループに分類される。
*{{仮リンク|ケープ・アフリカーンス語|en|Kaapse-Afrikaans}}
*{{仮リンク|東国境・アフリカーンス語|en|Oosgrens-Afrikaans}}
*{{仮リンク|オレンジ川・アフリカーンス語|en|Oranjerivier-Afrikaans}}
このうちオレンジ川・アフリカーンス語は主に[[北ケープ州]]で話され、語法的にも発音面でも標準語に比べ比較的際立った相違を示している。語法や語彙面では先住民コイサンの影響を受けている。
ケープ・アフリカーンス語は[[西ケープ州]]で話されている方言の総称であるが、主にアパルトヘイト時代に話者が帰属していた人種グループにより更に細かく定義されている。こういう意味では地域方言というよりむしろ社会方言といえる。ケープでは距離として5kmと離れていない旧白人居住区と旧カラード居住区で、違いの大きい別個の社会方言が話されており、電話などで会話してもほぼ即座に電話の向こうの人種が特定できるほどである。
また日常会話における表現でも
{| class="wikitable"
|+
!旧白人地区で話されるいわゆる標準アフリカーンス語 !! 旧カラード地区のアフリカーンス語 !! 意味
|-
|Hoe gaan dit met jou? ||Wat maak jy? ||調子はいかがですか、お元気ですか
|-
|Hoor hierso! または Luister hierso! ||Kyk hier! ||よく聞きなさい
|}
など用法に人種ごとに大きな違いが見られる場合が多い。
== 言語名 ==
同じインド・ヨーロッパ語族の[[ヒンディー]](Hindi)と同様に、「'''アフリカーンス'''(Afrikaans)」のみで言語を表すため、本来は「語」を付する必要はない。
[[中国語]]では南非語(南アフリカ語)や南非荷蘭語(南アフリカ・オランダ語)、阿非利堪斯語(「アフリカーンス語」の音訳)などと呼ばれる。
== 日本人研究者 ==
*桜井隆([[明海大学]]外国語学部)
== 関係文献等 ==
*桜井隆『アフリカーンス語基礎1500語』([[大学書林]]、1985年)
*『アフリカーンス語・日本語基礎語辞典』([[東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所]]、2001年)
*『月刊言語』2001年7月号 74-77頁([[大修館書店]])
== 関連項目 ==
{{Wikipedia|af}}
{{wiktionarycat}}
*[[オランダ語]]
*[[フリジア語]]
*[[ドイツ語]]
**[[低ザクセン語]]
**[[オランダ低ザクセン語]]
**[[フローニン語]]
**[[リンブルフ語]]
*[[マレー語]]
*[[南アフリカ共和国]]
*[[ナミビア]]
== 外部リンク ==
* {{ethnologue|code=afr}}
{{アフリカ連合の言語}}
{{ゲルマン語派}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:アフリカーンス語|*]]
[[Category:西ゲルマン語群]]
[[Category:低地ドイツ語]]
[[Category:南アフリカ共和国の言語]]
[[Category:ナミビアの言語]]
[[Category:SOV型言語]]
[[Category:オランダ語]]
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用不用説
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用不用説(ようふようせつ、英: use and disuse theory)は、1809年にジャン=バティスト・ラマルクが提唱した、生物の進化に関する仮説(進化論)の一つである。ラマルキズム(英: Lamarckism)とも呼ばれる。
この仮説では、「生物が特定の器官を多く使えばそれは発達し、使わなければ萎縮する。この変化がオスとメスで共通な場合、両者の子供へと変化が遺伝する。」と推測した。すなわち、「獲得形質が遺伝する」と推測した仮説であるが、現代では否定されている。
なお、ラマルクによる進化論の内容は用不用説だけではなく、用不用説の前提として「 生物は単純なものから複雑なものへと連続的に進化する」という仮説も提唱していた。この説に関しても現代では支持されていない(単純から複雑へとは限らない)が、「当時としては科学的・先進的な理論だった」として評価されることがある。
ラマルクは無脊椎動物の分類研究を元に、1809年の著書『動物哲学』の中で、次のように訴えた。
この「進化」の原理として、次のような仮説を提唱した。これが用不用説である。
この用不用説の特徴は、「獲得形質が遺伝することで、生物が進化する」と考えていることである。
本説においては、よくキリンの首が引き合いに出される。本説では次のように推測する。
ラマルクによる進化論は多くの注目を引いたが、発表当時から多くの批判を受けた。これは用不用説に対する批判だけでなく、「生物は進化して姿を変えた」という理論(進化論)自体に対しての批判も激しかった。
当時の西欧社会では、キリスト教に基づく「すべての生物は神が今ある形のままに作ったもので、永遠に変化しない」とする創造論が支配的であった。ラマルクは創造論を公然と批判し、独自の進化論を提唱したために、保守的な創造論の支持者から攻撃を受けた。
フランス皇帝のナポレオン・ボナパルトや著名な博物学者のジョルジュ・キュヴィエも創造論の信奉者であり、ラマルクと対立して妨害を行った。
ラマルクは著書『動物哲学』の中で、次のようにも考えていた。
この思考自体に関しては、2018年に日本の分子古生物学者である更科功が高く評価しており、「200年以上前で、ダーウィンの自然選択説よりも以前のものとは思えないほど、現代的・先進的な考えだ。」「ナポレオンやキュビエなどの権力者に睨まれながら、進化論を主張し続けたラマルクの勇気を称えたい。」と讃えている(ダーウィンはラマルクの理論を参考としていたという)。
用不用説における「獲得形質が遺伝する」と主張した部分については、当時からさまざまな問題点が指摘された。
有名な反論は、アウグスト・ヴァイスマンがネズミを使って行った実験である。彼はネズミの尾を切り取り、それを育てて子を産ませ、その子ネズミもしっぽを切って育て、それを22世代にわたって繰り返し、ネズミの尾の長さに変化が生じなかったことを示した。
これに対して、用不用説を支持する者による擁護は、「ネズミにとっては尾は必要な器官であるから、使わなかったのとは訳が違う」という理屈である。しかし、生物が「必要な器官」をどう区別するのかについて支持者は説明していない。
また、ラマルクの実験期間が短すぎることも批判の対象となった。
ラマルクの用不用説は単純でわかりやすいものではあったが、のちにダーウィンによる自然選択説や、メンデルによる遺伝の法則の発表を経て、現代では否定されている。
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用不用説は、1809年にジャン=バティスト・ラマルクが提唱した、生物の進化に関する仮説(進化論)の一つである。ラマルキズムとも呼ばれる。 この仮説では、「生物が特定の器官を多く使えばそれは発達し、使わなければ萎縮する。この変化がオスとメスで共通な場合、両者の子供へと変化が遺伝する。」と推測した。すなわち、「獲得形質が遺伝する」と推測した仮説であるが、現代では否定されている。 なお、ラマルクによる進化論の内容は用不用説だけではなく、用不用説の前提として「 生物は単純なものから複雑なものへと連続的に進化する」という仮説も提唱していた。この説に関しても現代では支持されていない(単純から複雑へとは限らない)が、「当時としては科学的・先進的な理論だった」として評価されることがある。
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{{出典の明記|date=2013年6月23日 (日) 17:58 (UTC)|ソートキー=生物}}
'''用不用説'''(ようふようせつ、{{lang-en-short|use and disuse theory}})は、[[1809年]]に[[ジャン=バティスト・ラマルク]]が提唱した、[[生物]]の[[進化]]に関する[[仮説]]([[進化論]])の一つである<ref name=":0" />。'''ラマルキズム'''({{lang-en-short|Lamarckism}})とも呼ばれる。
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== 内容 ==
ラマルクは[[無脊椎動物]]の分類研究を元に、1809年の[[本|著書]]『動物哲学』の中で、次のように訴えた<ref name=":0">{{Cite news|title=皇帝ナポレオンにも反抗した「進化学者ラマルク」をご存知か|newspaper=[[ブルーバックス]]|date=2018-11-06|url=https://gendai.media/articles/-/58217|author=[[更科功]]|accessdate=2022-01-14|publisher=[[講談社]]}}</ref>。
* 生物は単純な構造から複雑なものへと連続的に[[進化]]してきた。それにより、高等な動物が生まれた。
この「進化」の原理として、次のような仮説を提唱した。これが用不用説である。
* 動物がその生活の中でよく使う器官は、次第に発達する。逆に、はじめから存在する器官であっても、その生活の中で使われなければ、次第に衰え、機能を失う。
*このことは、我々の体でも起きることであり、自明のことと言ってよい。
*このようにして生涯の間に身につけた形質(獲得形質)が、子孫に伝わる。
*野外では、多くの動物は一定の環境下で何千、何万年にもわたって世代を繰り返すから、世代ごとの蓄積は少しであっても、それが続くことで次第に大きな変化となる。
この用不用説の特徴は、「獲得形質が遺伝することで、生物が進化する」と考えていることである。
本説においては、よく[[キリン]]の首が引き合いに出される。本説では次のように推測する。
* キリンは[[ほ乳類]]の中にあって、他のものと比べて異様に首が長い。それを進化で説明しようとすれば、元は首が短かったと見るのが当然である。
* そこで、キリンの首が長いのは高い枝にある木の葉を食べようとして、いつも首を伸ばしていた。そのために次第に首が長くなり、大人になるまでには首が長く、強くなる。
* そのようなキリンが子供を生めば、生まれた子供にはその形質がわずかに伝わるので、親が生まれたときよりも、その子供の首は少しだけ長くなっている(はずだ)。
* キリンはそのような生活を何千年にもわたってアフリカのサバンナで繰り返していた。その結果長い年月の間に首が伸びたはずだ。
== 論評 ==
=== 進化論全体への批判 ===
ラマルクによる進化論は多くの注目を引いたが、発表当時から多くの批判を受けた。これは用不用説に対する批判だけでなく、「生物は進化して姿を変えた」という理論([[進化論]])自体に対しての批判も激しかった<ref name=":0">{{Cite news|title=皇帝ナポレオンにも反抗した「進化学者ラマルク」をご存知か|newspaper=[[ブルーバックス]]|date=2018-11-06|url=https://gendai.media/articles/-/58217|author=[[更科功]]|accessdate=2022-01-14|publisher=[[講談社]]}}</ref>。
当時の西欧社会では、[[キリスト教]]に基づく「すべての生物は[[神]]が今ある形のままに作ったもので、永遠に変化しない」とする[[創造論]]が支配的であった<ref name=":0">{{Cite news|title=皇帝ナポレオンにも反抗した「進化学者ラマルク」をご存知か|newspaper=[[ブルーバックス]]|date=2018-11-06|url=https://gendai.media/articles/-/58217|author=[[更科功]]|accessdate=2022-01-14|publisher=[[講談社]]}}</ref>。ラマルクは創造論を公然と批判し、独自の進化論を提唱したために、[[保守]]的な創造論の支持者から攻撃を受けた<ref name=":0">{{Cite news|title=皇帝ナポレオンにも反抗した「進化学者ラマルク」をご存知か|newspaper=[[ブルーバックス]]|date=2018-11-06|url=https://gendai.media/articles/-/58217|author=[[更科功]]|accessdate=2022-01-14|publisher=[[講談社]]}}</ref>。
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=== 先進性に対する評価 ===
ラマルクは著書『動物哲学』の中で、次のようにも考えていた。
* 地球の表面で変わらないものは1つもない。長い時間が経てば、山も海も形を変える。すべてのものは変化する。
* 生命は複雑ではあるが、単なる物理的な現象であり、特別なものではない。
* 生きているとは、一定の秩序にしたがって物質が運動している状態のことである。
この思考自体に関しては、[[2018年]]に[[日本]]の[[分子生物学|分子古生物学者]]である[[更科功]]が高く評価しており、「200年以上前で、[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]の[[自然選択説]]よりも以前のものとは思えないほど、現代的・先進的な考えだ。」「ナポレオンやキュビエなどの権力者に睨まれながら、進化論を主張し続けたラマルクの勇気を称えたい。」と讃えている(ダーウィンはラマルクの理論を参考としていたという)<ref name=":0">{{Cite news|title=皇帝ナポレオンにも反抗した「進化学者ラマルク」をご存知か|newspaper=[[ブルーバックス]]|date=2018-11-06|url=https://gendai.media/articles/-/58217|author=[[更科功]]|accessdate=2022-01-14|publisher=[[講談社]]}}</ref>。
=== 用不用説に対する批判 ===
用不用説における「獲得形質が[[遺伝]]する」と主張した部分については、当時からさまざまな問題点が指摘された。
有名な反論は、[[アウグスト・ヴァイスマン]]が[[ネズミ]]を使って行った実験である。彼はネズミの尾を切り取り、それを育てて子を産ませ、その子ネズミもしっぽを切って育て、それを22世代にわたって繰り返し、ネズミの尾の長さに変化が生じなかったことを示した。
これに対して、用不用説を支持する者による擁護は、「ネズミにとっては尾は必要な器官であるから、使わなかったのとは訳が違う」という理屈である。しかし、生物が「必要な器官」をどう区別するのかについて支持者は説明していない。
また、ラマルクの実験期間が短すぎることも批判の対象となった。
ラマルクの用不用説は単純でわかりやすいものではあったが、のちに[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]による[[自然選択説]]や、[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]による[[メンデルの法則|遺伝の法則]]の発表を経て、現代では否定されている。
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[ボールドウィン効果]]
*[[トロフィム・ルイセンコ]]
*[[ネオ・ラマルキズム]]
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[[Category:否定された仮説]]
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炭素12
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炭素12(たんそ12、Carbon-12、C)は、炭素全体の約98.89%と最も豊富に存在する炭素の安定同位体である。6個の陽子と6個の中性子、6個の電子から構成される。
炭素12は、全ての核種の質量の標準として用いられているという意味で特に重要である。統一原子質量単位は、炭素12の質量の1/12であり、元素の原子量は、炭素12の質量を12としたときの相対質量である。また2019年までは、モルの定義にも用いられていた。
1959年以前、国際純粋・応用物理学連合と国際純正・応用化学連合は、モルを定義するのに酸素原子を用いていた。化学界はモルを酸素原子が16g分集まる個数と定義していたが、物理学界は少し異なり、酸素16同位体のみを用いていた。両機関は1959/60年に合意し、モルの定義を次のように定めていた。
モルは、0.012kg分の炭素12と同じ数の基本粒子を含む物質の量であり、"mol"と定める。
1961年に正式に、炭素12は全ての原子核の質量の標準になるものとして酸素と置き換わった。。
この定義は、1967年に国際度量衡委員会でも採用され、1971年には第14回国際度量衡総会でも採択された。1980年に国際度量衡委員会は上記の定義を明確化し、炭素12原子は結合がなく基底状態であると定義した。
しかし、モルの定義は2019年5月20日に変更されて、アボガドロ定数(正確に6.02214076×10)から直接に定義されたので、1 molの炭素12の質量は、もはや12グラムではなくなり、11.999 999 9958(36) グラムとなった。
ホイル状態は炭素12が励起した状態で、赤色巨星で3つのヘリウムが核融合して炭素が合成される際に重要である。1950年代にフレッド・ホイルによって、宇宙に重元素が多く観測されることから予言された。この共鳴状態によってトリプルアルファ反応で炭素が形成される。ホイル状態の実在は確認されているが、正確な特徴はまだ不明である。
炭素の同位体は、カルバミン酸アミンとのカスケード反応によって、二酸化炭素ガスの形で分離される。
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炭素12(たんそ12、Carbon-12、12C)は、炭素全体の約98.89%と最も豊富に存在する炭素の安定同位体である。6個の陽子と6個の中性子、6個の電子から構成される。 炭素12は、全ての核種の質量の標準として用いられているという意味で特に重要である。統一原子質量単位は、炭素12の質量の1/12であり、元素の原子量は、炭素12の質量を12としたときの相対質量である。また2019年までは、モルの定義にも用いられていた。
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'''炭素12'''(たんそ12、Carbon-12、<sup>12</sup>C)は、[[炭素]]全体の約98.89%と最も豊富に存在する炭素の[[安定同位体]]である。6個の[[陽子]]と6個の[[中性子]]、6個の[[電子]]から構成される。
炭素12は、全ての[[核種]]の質量の標準として用いられているという意味で特に重要である。[[統一原子質量単位]]は、炭素12の質量の1/12であり、元素の[[原子量]]は、炭素12の質量を12としたときの相対質量である。また2019年までは、[[モル]]の定義にも用いられていた。
==歴史==
1959年以前、[[国際純粋・応用物理学連合]]と[[国際純正・応用化学連合]]は、[[モル]]を定義するのに[[酸素]]原子を用いていた。化学界はモルを酸素原子が16g分集まる個数と定義していたが、物理学界は少し異なり、[[酸素16]]同位体のみを用いていた。両機関は1959/60年に合意し、モルの定義を次のように定めていた。
<blockquote>モルは、0.012kg分の炭素12と同じ数の基本粒子を含む物質の量であり、"mol"と定める。</blockquote>
1961年に正式に、炭素12は全ての原子核の質量の標準になるものとして酸素と置き換わった。<ref>{{cite web|url=http://www.iupac.org/publications/ci/2004/2601/1_holden.html|title=Atomic Weights and the International Committee — A Historical Review|date=2004-01-26|accessdate=2010-09-16}}</ref>。
この定義は、1967年に[[国際度量衡委員会]]でも採用され、1971年には第14回[[国際度量衡総会]]でも採択された。1980年に国際度量衡委員会は上記の定義を明確化し、炭素12原子は結合がなく[[基底状態]]であると定義した。
しかし、モルの定義は2019年5月20日に変更されて、[[アボガドロ定数]](正確に{{val|6.02214076|e=23}})から直接に定義されたので、1 molの炭素12の質量は、もはや12グラムではなくなり、11.999 999 9958(36) グラムとなった<ref>[https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mm12c molar mass of carbon-12] The NIST Reference on Constants, Units, and Uncertainty. US National Institute of Standards and Technology. 2019-05-20. 2018 CODATA recommended values </ref>。
==ホイル状態==
[[ホイル状態]]は炭素12が励起した状態で、[[赤色巨星]]で3つの[[ヘリウム]]が[[核融合]]して炭素が合成される際に重要である。1950年代に[[フレッド・ホイル]]によって、宇宙に重元素が多く観測されることから予言された。この共鳴状態によって[[トリプルアルファ反応]]で炭素が形成される。ホイル状態の実在は確認されているが、正確な特徴はまだ不明である<ref>{{cite journal | doi = 10.1103/PhysRevLett.98.032501 | url = http://www.nscl.msu.edu/~jina/jinaastroclub/papers/Neff.pdf | title = Structure of the Hoyle State in C12 | year = 2007 | last1 = Chernykh | first1 = M. | last2 = Feldmeier | first2 = H. | last3 = Neff | first3 = T. | last4 = Von Neumann-Cosel | first4 = P. | last5 = Richter | first5 = A. | journal = Physical Review Letters | volume = 98 | pages = 032501 | pmid = 17358679 | issue = 3}}</ref>。
==同位体の分離==
炭素の同位体は、[[カルバミン酸アミン]]との[[カスケード反応]]によって、[[二酸化炭素]]ガスの形で分離される<ref>{{cite journal|author=Kenji Takeshita and Masaru Ishida|volume=31|issue=15| date=December 2006|pages=3097–3107|journal=ECOS 2004 - 17th International Conference on Efficiency, Costs, Optimization, Simulation, and Environmental Impact of Energy on Process Systems|url=http://www.sciencedirect.com/science?_ob=ArticleURL&_udi=B6V2S-4KKNN4B-1&_user=10&_rdoc=1&_fmt=&_orig=search&_sort=d&_docanchor=&view=c&_searchStrId=992584935&_rerunOrigin=google&_acct=C000050221&_version=1&_urlVersion=0&_userid=10&md5=0e06e1cde32ec309cbf21937b8171853|title=Optimum design of multi-stage isotope separation process by exergy analysis}}</ref>。
==出典==
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12,274 |
宇宙ステーション
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宇宙ステーション(うちゅうステーション、英: Space station、露: Орбитальная станция、中: 空間站)は、地球の軌道上などの宇宙空間にあり、人間がそこで生活し続けられるように設計されている人工天体のことである。
宇宙ステーションは、広義には宇宙船の形態の一種である。しかし単独で機能する有人宇宙船と違い、必ずしも宇宙飛行士を載せた状態で打ち上げられたり、推進・着陸のための設備を持つとは限らない。主として長期にわたる軌道上の生活に特化して設計されているものを指す。地球と宇宙ステーション間で人員や物資を輸送するには、そのための機能を持った有人宇宙船や補給船が別個に必要となる。
これまでに実現した宇宙ステーションは全て地球の衛星軌道上に建設されており、科学研究、特に長期の宇宙滞在における人体への影響の研究などを目的としている。また、一部は軍事ミッションを行っており、武装が施されていたものも存在した。
衛星軌道上を運行するステーション内部は無重力状態となるので、乗員の宇宙飛行士達は船内で浮いた状態で生活する。船内を歩く必要がないため、内壁は様々な機器で埋め尽くされている。
旧ソ連(後のロシア)では、宇宙ステーションを以下の3つの世代に分類していた。
20世紀中に運用された宇宙ステーションはいずれも剛体の外壁を持ったものだったが、2000年代以降は柔らかい素材で作られた膨張式の宇宙ステーション(膨張後はコンクリート並みの強度を持つ)の開発が進められている。この型式のステーションには、重量や価格に対して大きな居住スペースを確保できるという利点がある。ビゲロー・エアロスペース社が打ち上げた試験用の宇宙ステーションが膨張式の構造を採っているほか、NASAといった公的な宇宙開発機関でも検討が行われている。
宇宙ステーションは自由落下中であるため、そのままでは内部は無重量状態(実際は微重力)である。そのため、長時間生活することによって筋肉が衰えたり、骨からカルシウムが溶け出したりするなどの悪影響が出る。また、無重量状態においては、気を付けていないとものが散乱してしまうため、ものの取り扱い、特に液体や粉末状の物などの取り扱いに十分な配慮が必要である。そこで遠心力を利用して、重力が発生しているのと同じような環境を作れるような宇宙ステーションが考案されている。
実験レベルでは国際宇宙ステーションでも遠心力で重力を生み出すモジュールセントリフュージが予定されていた。これは実際に日本で開発が進んでいたが、運用するアメリカ側が2005年に中止を決定したため実用には至っていない。その後、国際宇宙ステーションでは新たに人工重力の評価実験を行うISSセントリフュージ デモンストレーションも構想されている。
SF作品にはそのような施設が数多くあり、回転軸を中心にした、車輪状の形状をした宇宙ステーションが考案されている。SF映画『2001年宇宙の旅』に出てくる宇宙ステーションがその代表的な例である。このタイプの宇宙ステーションは、スペースコロニーとも重なり、遠心力を擬似重力として利用した生活空間を内包する。
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"text": "SF作品にはそのような施設が数多くあり、回転軸を中心にした、車輪状の形状をした宇宙ステーションが考案されている。SF映画『2001年宇宙の旅』に出てくる宇宙ステーションがその代表的な例である。このタイプの宇宙ステーションは、スペースコロニーとも重なり、遠心力を擬似重力として利用した生活空間を内包する。",
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宇宙ステーションは、地球の軌道上などの宇宙空間にあり、人間がそこで生活し続けられるように設計されている人工天体のことである。
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[[ファイル:Space station size comparison.svg|thumb|300px|歴代の宇宙ステーション。2022年現在は[[国際宇宙ステーション|ISS]]と[[中国宇宙ステーション|CSS]]が運用中である]]
{{Spaceflight sidebar}}
'''宇宙ステーション'''(うちゅうステーション、{{lang-en-short|Space station}}、{{lang-ru-short|Орбитальная станция}}、{{Lang-zh-short|空間站}})は、[[地球]]の[[軌道 (力学)|軌道]]上などの[[宇宙空間]]にあり、[[人間]]がそこで生活し続けられるように設計されている[[人工天体]]のことである。
== 概要 ==
宇宙ステーションは、広義には[[宇宙船]]の形態の一種である。しかし単独で機能する有人宇宙船と違い、必ずしも宇宙飛行士を載せた状態で打ち上げられたり、推進・着陸のための設備を持つとは限らない。主として長期にわたる軌道上の生活に特化して設計されているものを指す。地球と宇宙ステーション間で人員や物資を輸送するには、そのための機能を持った有人宇宙船や[[無人宇宙補給機|補給船]]が別個に必要となる。
これまでに実現した宇宙ステーションは全て地球の[[衛星軌道]]上に建設されており、科学研究、特に長期の宇宙滞在における人体への影響の研究などを目的としている。また、一部は軍事ミッションを行っており、武装が施されていたものも存在した。
衛星軌道上を運行するステーション内部は[[無重量状態|無重力状態]]となるので、乗員の宇宙飛行士達は船内で浮いた状態で生活する。船内を歩く必要がないため、内壁は様々な機器で埋め尽くされている。
=== 世代 ===
[[ソビエト連邦|旧ソ連]](後の[[ロシア]])では、宇宙ステーションを以下の3つの世代に分類していた。
;第1世代
:搭乗者の入れ替えや補給が想定されていない滞在期間の限られた宇宙ステーション。
;第2世代
:帰還用の宇宙船をドッキングした状態で、交代要員の乗った宇宙船や物資の補給船とのドッキングを可能とし、ステーションを無人にすることなく、常時活動できる宇宙ステーション。
;第3世代
:多数のドッキングポートを有し、複数の異なる機能を持ったモジュールから構成される大型宇宙ステーション。
== 運用終了した宇宙ステーション ==
;[[サリュート]]
:[[ソビエト連邦]]の宇宙ステーション。世界で初めて打ち上げられた宇宙ステーションであり、1号から7号までが建造された。
:[[1971年]]から[[1985年]]まで運用。[[1991年]]に最後の7号が大気圏に再突入した。
:;[[アルマース (宇宙ステーション)|アルマース]]
::軍事目的で建造された2・3・5号の別称、自衛用に[[機関砲]]を装備していた。
:;[[コスモス557号]]
::本来は3番目のサリュートであったが、故障により目的軌道への投入が不可能となり、宇宙ステーションとして運用されないまま大気圏に再突入した。既に[[西側諸国]]のレーダーに捕捉されていたため、[[コスモス衛星]]と偽装している。
;[[スカイラブ計画|スカイラブ1]]
:[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の宇宙ステーション。[[1973年]]から[[1974年]]まで運用。
:4度の打ち上げが行われたが、スカイラブ1以降の2号から4号はスカイラブ1への往復に用いられる有人宇宙船である。[[1979年]]に大気圏に再突入した。
;[[ミール]]
[[ファイル:Mir on 12 June 1998edit1.jpg|thumb|[[ミール]]]]
:サリュートの後継として開発されたソビエト連邦の宇宙ステーション。[[1986年]]から[[1999年]]まで運用。複数のモジュールからなる初の宇宙ステーションで、打ち上げ以降も多数のモジュールが追加され、最終的に7つのモジュールから構成された。
:[[2000年]]に商業利用用に大規模修理を受けるが、後に廃棄が決定され、[[2001年]]に大気圏に再突入した。
;[[天宮1号]]
:[[中華人民共和国|中国]]の宇宙ステーション試験機。本格的な宇宙ステーション建造のための試験機であり、主目的はランデブー・ドッキング技術の習得であることから「目標飛行器(ターゲット機)」と位置付けられた<ref name="sorae160916">{{Cite web|和書|url=http://sorae.info/030201/2016_09_16_tiangong2.html|title=中国の宇宙ステーション計画がまた前進!「天宮二号」宇宙実験室を打ち上げ|publisher=sorae.jp|date=2016-09-16|accessdate=2016-09-18}}</ref>。このため宇宙飛行士が滞在できる期間は長くないが、小規模ながらも実験室を持っていた。
:[[2011年]]9月に打ち上げられ、[[2012年]]6月以降2度の有人運用を行った。[[2013年]]6月に帰還した神舟10号が最後の有人ミッションであり<ref>{{Cite web|和書|url=https://sorae.info/030201/4933.html|title=中国の有人宇宙船「神舟10号」、無事地球に帰還|publisher=sorae.jp|date=2013-06-26|accessdate=2015-11-19}}</ref>、以降は無人運用が続けられていたが、[[2016年]]3月に機能を喪失<ref>{{Cite web|url=http://www.newsweek.com/china-tiangong-1-out-control-space-station-crash-earth-2018-666836|title=CHINA’S OUT-OF-CONTROL TIANGONG-1 SPACE STATION TO CRASH BACK TO EARTH EARLY 2018|accessdate=2017-09-18}}</ref>、2018年4月2日に大気圏に再突入した<ref>{{Cite web|和書|url=http://sorae.info/030201/2018_04_02_ten3.html|title=中国モジュール「天宮1号」南太平洋上空で突入 大部分が燃え尽きる|publisher=sorae.jp|date=2018-04-02|accessdate=2018-04-12}}</ref>。
;[[天宮2号]]
:[[中華人民共和国|中国]]の宇宙ステーション実験機で、宇宙実験室と位置付けられている。1号の改良型(8.6トン級)で、滞在期間の延長や実験設備の改良が行われている。
:[[2016年]]9月に打ち上げられた。同年10月18日に[[神舟11号]]がドッキングし、1カ月間の有人運用を行った<ref>{{Cite news|url=http://sorae.info/030201/2016_10_19_china.html|title=中国人の有人宇宙船、宇宙実験室「天宮二号」にドッキング成功 30日の滞在ミッションへ|author=塚本直樹|publisher=sorae.jp|date=2016-10-19|accessdate=2016-10-20}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://sorae.info/030201/2016_11_19_china.html|title=中国人飛行士、宇宙実験室「天宮二号」より無事帰還 約1ヶ月の滞在ミッションに成功|date=2016-11-19|accessdate=2016-11-21|publisher=sorae.jp|author=塚本直樹}}</ref>。以降は無人運用のみとなり、[[2017年]]4月に新型の無人補給船の[[天舟1号]]による補給ミッションが行われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://sorae.info/030201/2017_04_24_china.html|title=無人補給船「天舟一号」ドッキング成功! 中国宇宙実験室「天宮二号」と|publisher=sorae.jp|date=2017-04-24|accessdate=2017-04-27}}</ref>。2019年7月19日に大気圏に再突入した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00524786|title=中国当局、宇宙実験室「天宮2号」また混乱 落下報道後に「まだ軌道上」|publisher=日刊工業新聞|date=2019-07-19|accessdate=2019-07-22}}</ref>。
;[[ジェネシスI|ジェネシス]]
:[[ビゲロー・エアロスペース]]社の宇宙ステーション試験モジュール。[[2006年]]7月に[[ジェネシスI]]、[[2007年]]6月に[[ジェネシスII]]が打ち上げられた。民間によって初めて軌道上に投入された宇宙ステーションで、軌道上で無人試験を行うのためのモジュール<ref name="Maikomi">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/news/2006/07/14/361.html |title=民間宇宙ステーション試験モジュール打ち上げに成功! 宇宙で膨張して展開 - MYCOMジャーナル |accessdate=2007年1月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060716233057/http://journal.mycom.co.jp/news/2006/07/14/361.html |archivedate=2006年7月16日 }}</ref>であった。
:[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[トランスハブ]]の設計を基にした膨張式モジュールを採用しており、その技術は後にISSの[[ビゲロー拡張式活動モジュール|BEAM]]へと活かされた。
== 運用中の宇宙ステーション ==
;[[国際宇宙ステーション]] (ISS)
[[ファイル:ISS ULF3 STS-129.jpg|right|thumb|250px|[[国際宇宙ステーション]]]]
:[[1984年]]にアメリカで構想された[[フリーダム宇宙ステーション]]計画をベースに、ロシアの[[ミール]]2(後のズヴェズダ)や新型宇宙ステーション(後のザーリャ)、[[ヨーロッパ]]各国や[[日本]]で計画されていたモジュールを統合して、再設計された複数モジュールからなる世界最大の宇宙ステーション。
:アメリカ、ロシア、[[カナダ]]、日本、ESA加盟の各国([[ベルギー]]、[[デンマーク]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[イタリア]]、[[オランダ]]、[[ノルウェー]]、[[スペイン]]、[[スウェーデン]]、[[スイス]]、[[イギリス]])の15カ国が共同で開発(他に[[ブラジル]]がNASAを介して間接的に協力)しており、主要な研究機関として[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA)、[[ロシア連邦宇宙局]] (RFSA)、[[宇宙航空研究開発機構]] (JAXA)、[[カナダ宇宙庁]] (CSA)、[[欧州宇宙機関]] (ESA) が参加している。
:[[1998年]]の打ち上げから始まった建設開始以降、現在も運用中。50以上のモジュールやパーツから構成されており、その総重量は約420トンにも及ぶ、地球軌道上最大の人工物である。一応の完成を迎えて以降も内・外装機器の更新・変更、モジュールの追加が随時行われており、当初2016年運用終了予定であったが、少なくとも2024年までの延長が検討されている。
;[[中国宇宙ステーション]] (CSS)
[[ファイル:Chinese Tiangong Space Station.jpg|thumb|[[中国宇宙ステーション]]]]
:[[中華人民共和国|中国]]の宇宙ステーション。天宮シリーズの完成型で、[[2021年]]より運用が開始されている。定員3名、最大6名の宇宙飛行士が滞在できる。
:5個のドッキングポートを持つコアモジュール「[[天和コアモジュール|天和]]」に実験モジュール「{{仮リンク|問天|en|Wentian module}}」「{{仮リンク|夢天|en|Mengtian module}}」が固定係留され、残りのポートに往還と係留用の宇宙船「[[神舟]]」2隻と無人補給船「[[天舟]]」がドッキングする。総重量100トンと旧ソ連の[[ミール]]に匹敵する規模であり、今後の拡張の余地も残されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3255655|title=中国、22年前後に定員3人の宇宙ステーション建設|accessdate=2019-11-20}}</ref>。
:[[2021年]]4月29日に最初のモジュール「天和」が[[長征5号|長征5号B]]で打ち上げられた。2021年6月には[[神舟12号]]がドッキングし、有人運用が開始された<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3366826|title=中国の有人宇宙船「神舟12号」が無事帰還|newspaper=AFP BB News|date=2021-09-17|accessdate=2021-10-17}}</ref>。[[2022年]]10月には最後のモジュールが打ち上げられ、[[2022年]]11月30日にドッキングした{{仮リンク|神舟15号|en|Shenzhou 15}}のミッションによる検証や調整をもって[[2022年]]12月に建設が完了した<ref>{{Cite web|url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35196717.html|title=中国、有人宇宙船を打ち上げ 宇宙ステーション完成へ|publisher=CNN|date=2022-11-30|accessdate=2022-12-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://sp.m.jiji.com/article/show/2858357|title=中国宇宙船が接続成功=ステーション運用本格化|publisher=時事通信|date=2022-11-30|accessdate=2022-12-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230105/k10013941871000.html|title=中国 独自の宇宙ステーション“すでに完成” 本格的運用開始へ|publisher=NHK|date=2023-01-05|accessdate=2023-01-06}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://japanese.beijingreview.com.cn/politics/202212/t20221231_800317309.html|title=習近平国家主席が2023年新年の挨拶を発表|publisher=北京週報|date=2022-12-31|accessdate=2023-01-06}}</ref>。
== 計画段階の宇宙ステーション ==
;[[月軌道プラットフォームゲートウェイ]] (LOP-G)
[[ファイル:Lunar Orbital Platform-Gateway.jpg|thumb|[[月軌道プラットフォームゲートウェイ]]]]
:[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が主導する[[月軌道|月の軌道]]又は[[月周回軌道]]への新しい宇宙ステーションの建設計画。2020年代に建造開始を予定している。
:規模としてはミニチュアサイズで、滞在可能な宇宙飛行士は4人。構成モジュールも「電力・推進力」「居住」「輸送」「エアロック」の4基とシンプルになっている。成功すれば最も地球から離れた場所に設置された宇宙ステーションとなり、さらに2030年代予定されている火星有人探査に使用される大型宇宙船[[深宇宙輸送機]] (DST)(重量41トン、4人の乗組員が火星への往復4年間生活可能。使い捨てではなく、LOP-Gで乗員の入れ替えや物資の補給を行う事で再使用可能)の建造・試験・補給拠点としての利用が計画されている。
;[[OPSEK]]
:[[ロシア]]が[[2010年代]]に計画していた宇宙ステーション。[[2024年]]のISS運用終了の前に、新たに幾つかのモジュール打ち上げ、ISSのロシアモジュールの一部として順次ドッキングする形で建造を行い、ISS運用終了時に構成要素となるモジュールをISSから切り離して、再構成することで単独の宇宙ステーションとなる。ISSに比べて小型になるが、機能的には同等の物を維持し、ミニチュア版といってもよいものを目指していた。
:後にロシアはISSに[[2028年]]まで参加延長することを発表しており、ISSからモジュールを流用せず、周回軌道もISSと全く異なる新規の宇宙ステーション建造を検討している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20230412-OG5NJ45NHZOAFKBLKTNWS3OKZM/|title=2028年までISS参加延長 ロシア宇宙企業が決定|publisher=[[産経新聞]]|date=2023-04-12|accessdate=2023-05-18}}</ref>。
;日本宇宙ステーション (JSS)
:[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]で構想している小型宇宙ステーション。
:ISS運用予定が短かった頃に構想されたもので、運用終了時に廃棄されるモジュールから設計上10年程度寿命の残っている[[きぼう]]を回収し、発展型[[宇宙ステーション補給機|HTV]]によって独自の居住モジュールやドッキングモジュール、太陽電池アレイ、推進モジュール(場合によっては打ち上げに使ったHTVの与圧キャリアや推進モジュールを流用する)を打ち上げ、組み合わせる予定であった。
:日本は人工衛星や無人探査機はいくつも成功させているが、逆に有人での往還技術や長期間稼働できる生命維持システムを未だ持っていないため、構想の域を出ない。
;{{仮リンク|インド宇宙ステーション|en|ISRO space station}}
:インドが独自に計画している20トンの小型宇宙ステーション。2019年に[[インド宇宙研究機関|ISRO]]から発表され、今後10年で建造するとしている。
:3.7トンのカプセル型有人宇宙船ガガニャーンを発展させたもので、乗組員は2〜3名。常時の有人運用は想定せず、一度の滞在期間は15〜20日間ほど(微小重力での科学実験を行うには十分としている)だが、使い捨てではなく、宇宙船からの補給で数年に渡って使用できるという。
;商業用宇宙ステーション
:いくつかの[[民間宇宙飛行|民間宇宙企業]]により、建造が計画されている。
:;{{仮リンク|オービタル・リーフ|en|Orbital Reef}}
::[[ブルーオリジン]]社や[[シエラ・ネヴァダ・コーポレーション]]社などが[[2020年代]]後半の運用開始を目指し開発中の宇宙ステーション。膨張式モジュールによりISSと同規模の広さを持つ。ISS終了後の民間移管先となることを企図している。<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20211101-2174949/|title=米民間企業ら、商業用の宇宙ステーション「オービタル・リーフ」計画を発表|publisher=マイナビニュース|author=鳥嶋真也|date=2021-11-01|accessdate=2022-11-10}}</ref>
<!-- [[ビゲロー・エアロスペース]]は2020年に活動休止、[[エクスカリバー・アルマース]]や[[ギャラクティック・スイート]]、{{仮リンク|オーロラ・ステーション|en|Aurora Space Station}}などはその後の進展が無くペーパープランの疑いが強いので注意 -->
== 未来の宇宙ステーション ==
=== 外壁 ===
20世紀中に運用された宇宙ステーションはいずれも[[剛体]]の外壁を持ったものだったが、2000年代以降は柔らかい素材で作られた膨張式の宇宙ステーション(膨張後はコンクリート並みの強度を持つ)の開発が進められている。この型式のステーションには、重量や価格に対して大きな居住スペースを確保できるという利点がある。ビゲロー・エアロスペース社が打ち上げた試験用の宇宙ステーションが膨張式の構造を採っているほか、NASAといった公的な宇宙開発機関でも検討が行われている<ref name="Maikomi" /><ref>{{cite news
| author=David Shiga | date=2010-02-23 | title=NASA sets sights on inflatable space stations | url=http://www.newscientist.com/article/dn18566-nasa-sets-sights-on-inflatable-space-stations.html | publisher=New Scientist | accessdate=2010-02-24 }}</ref>。
=== 人工重力 ===
宇宙ステーションは[[自由落下]]中であるため、そのままでは内部は[[無重量状態]](実際は微重力)である。そのため、長時間生活することによって[[筋肉]]が衰えたり、[[骨]]から[[カルシウム]]が溶け出したりするなどの悪影響が出る。また、無重量状態においては、気を付けていないとものが散乱してしまうため、ものの取り扱い、特に液体や粉末状の物などの取り扱いに十分な配慮が必要である。そこで遠心力を利用して、重力が発生しているのと同じような環境を作れるような宇宙ステーションが考案されている。
実験レベルでは国際宇宙ステーションでも遠心力で重力を生み出すモジュール[[セントリフュージ]]が予定されていた。これは実際に日本で開発が進んでいたが、運用するアメリカ側が2005年に中止を決定したため実用には至っていない。その後、国際宇宙ステーションでは新たに人工重力の評価実験を行う[[Nautilus-X#ISSセントリフュージ デモンストレーション|ISSセントリフュージ デモンストレーション]]も構想されている。
[[サイエンス・フィクション|SF]]作品にはそのような施設が数多くあり、回転軸を中心にした、車輪状の形状をした宇宙ステーションが考案されている。SF映画『[[2001年宇宙の旅]]』に出てくる宇宙ステーションがその代表的な例である。このタイプの宇宙ステーションは、[[スペースコロニー]]とも重なり、遠心力を擬似重力として利用した生活空間を内包する。
== タイムライン ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[無人宇宙補給機]]
* [[月面基地]]
* [[スペースコロニー]]
{{宇宙ステーション}}
{{宇宙旅行}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:うちゆうすてえしよん}}
[[Category:宇宙ステーション|*]]
[[Category:架空の宇宙船]]
[[Category:天文学に関する記事]]
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2003-07-27T09:38:07Z
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ワールドカップ
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ワールドカップ(英: world cup)は、スポーツにおける国際大会の名称として使われる言葉である。それらの大会の略称に使用される場合もある。日本のメディアにおいては「W杯」と表記される場合も多い。
ワールドカップには国を代表するチーム・個人が参加し、世界チャンピオンの座を争う。
最も有名なワールドカップはサッカーのワールドカップ(FIFAワールドカップ)であり、世界のほとんど全ての国において、単に「ワールドカップ」と言うとFIFAワールドカップを意味する。。かつて国際サッカー連盟 (FIFA) は「ワールドカップ」の名称を商標登録しようと試みたが、これが認められなかったため「FIFAワールドカップ」で登録した。そのため、他競技でも「ワールドカップ」の名称を使用した世界大会が数多く存在する。ワールドカップの名称を世界で最初に用いた競技もサッカーであり、サッカー以外の競技におけるワールドカップは、FIFAワールドカップの成功にあやかり命名されたものである。
ワールドカップは一般に、その競技における世界最高峰の大会と考えられている。しかし、競技によっては、オリンピックがその地位を占めている場合もある。また、飛込競技や体操競技など、世界選手権大会やオリンピックなどが最高峰の大会であり、ワールドカップは小規模でわずかなエリート競技者のみが出場するショーケースイベントとして開催される競技もある。
FIFAワールドカップやクリケット・ワールドカップのようなチーム競技の大会は、勝ち残り式トーナメントで行われるのが一般的である(予選のグループステージがある場合もある)。大会は数日間から数週間にわたって開催され、最終的に2チームに絞られ決勝戦(ワールドカップ・ファイナル)が行われる。優勝チームには世界チャンピオン(ワールドチャンピオン)の称号が与えられ、次の開催(通常翌年、2年後、4年後)までその称号を保持する。
これに対して、個人競技においては、1シーズンにおいて世界の各地で数試合から数十試合開催し、それぞれの試合での順位をポイントに換算して、総合獲得点で年間王者を決定する「ワールドツアー形式」をとっているものが多く、毎年開催されている。優勝者は、次のワールドカップ終了までチャンピオンとみなされる。
「ワールドカップ」と似た概念に「世界選手権大会」(ワールドチャンピオンシップ)があり、競技団体によっては、異なるルールでワールドカップと世界選手権大会の両方を実施している場合もある。以下に、両方を実施している競技の例を示す。
自動車競技(モータースポーツ)の場合はFIA(国際自動車連盟)のもとに、ワールドカップは世界選手権の格下と位置づけられており、両者の併存は基本的には行われない。
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ワールドカップは、スポーツにおける国際大会の名称として使われる言葉である。それらの大会の略称に使用される場合もある。日本のメディアにおいては「W杯」と表記される場合も多い。
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{{Otheruses|「ワールドカップ」という言葉全般|単に「ワールドカップ」とも呼ばれるサッカーのワールドカップ|FIFAワールドカップ}}
[[File:Kitzbuehel slalom ganslernhang 2010.jpg|thumb|200px|[[アルペンスキー・ワールドカップ]]]]
'''ワールドカップ'''({{lang-en-short|world cup}})は、[[スポーツ]]における[[国際大会]]の名称として使われる言葉である。それらの大会の略称に使用される場合もある。日本のメディアにおいては「'''W杯'''」と表記される場合も多い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211220-ZI5RF44CVNKKPLUPOA7S2K4FSU/|title=来季J1最終節は11月6日 W杯イヤーの国内シーズン|publisher=産経ニュース|date=2021-12-20|accessdate=2021-12-20}}</ref>。
== 概要 ==
ワールドカップには国を代表するチーム・個人が参加し、世界チャンピオンの座を争う。
最も有名なワールドカップは[[サッカー]]のワールドカップ([[FIFAワールドカップ]])であり、世界のほとんど全ての国において、単に「ワールドカップ」と言うとFIFAワールドカップを意味する。<ref>https://books.google.co.jp/books?id=oHQOEAAAQBAJ&pg=PA47#v=onepage&q&f=false</ref><ref>https://www.fifa.com/tournaments/mens/worldcup/2018russia/media-releases/more-than-half-the-world-watched-record-breaking-2018-world-cup</ref>。かつて[[国際サッカー連盟]] (FIFA) は「ワールドカップ」の名称を[[商標登録]]しようと試みたが、これが認められなかったため「FIFAワールドカップ」で登録した。そのため、他競技でも「ワールドカップ」の名称を使用した世界大会が数多く存在する<ref>{{Cite web|url=https://www.bartleby.com/|title=Homework Help and Textbook Solutions | bartleby|website=www.bartleby.com|accessdate=2023-03-07}}</ref>。ワールドカップの名称を世界で最初に用いた競技もサッカーであり、サッカー以外の競技におけるワールドカップは、FIFAワールドカップの成功にあやかり命名されたものである。
ワールドカップは一般に、その競技における世界最高峰の大会と考えられている。しかし、競技によっては、[[オリンピック]]がその地位を占めている場合もある。また、[[飛込競技]]や[[体操競技]]など、世界選手権大会やオリンピックなどが最高峰の大会であり、ワールドカップは小規模でわずかなエリート競技者のみが出場するショーケースイベントとして開催される競技もある。
== 開催形式 ==
[[FIFAワールドカップ]]や[[クリケット・ワールドカップ]]のようなチーム競技の大会は、[[トーナメント方式#勝ち残り式トーナメント|勝ち残り式トーナメント]]で行われるのが一般的である(予選のグループステージがある場合もある)。大会は数日間から数週間にわたって開催され、最終的に2チームに絞られ決勝戦(ワールドカップ・ファイナル)が行われる。優勝チームには世界チャンピオン(ワールドチャンピオン)の称号が与えられ、次の開催(通常翌年、2年後、4年後)までその称号を保持する。
これに対して、個人競技においては、1シーズンにおいて世界の各地で数試合から数十試合開催し、それぞれの試合での順位をポイントに換算して、総合獲得点で年間王者を決定する「ワールドツアー形式」をとっているものが多く、毎年開催されている。優勝者は、次のワールドカップ終了までチャンピオンとみなされる。
== 世界選手権大会との違い ==
「ワールドカップ」と似た概念に「[[世界選手権大会]]」(ワールドチャンピオンシップ)があり、競技団体によっては、異なるルールでワールドカップと世界選手権大会の両方を実施している場合もある。以下に、両方を実施している競技の例を示す。
{| class="wikitable"
|-
!競技 !! ワールドカップ !!世界選手権大会
|-
|[[アルペンスキー]] || [[アルペンスキー・ワールドカップ|FISアルペンスキー・ワールドカップ]] || [[アルペンスキー世界選手権|FISアルペンスキー世界選手権]]
|-
|[[アーチェリー]] || [[アーチェリー・ワールドカップ]] || [[アーチェリー世界選手権]]
|-
|[[体操競技]] || [[FIG体操ワールドカップ]] || [[世界体操競技選手権]]
|-
|[[バイアスロン]] || [[バイアスロン・ワールドカップ]] || [[バイアスロン世界選手権]]
|-
|[[陸上競技]] || {{仮リンク|陸上ワールドカップ|en|Athletics World Cup}} || [[世界陸上競技選手権大会]]
|-
|[[クロスカントリースキー]] || [[クロスカントリースキー・ワールドカップ|FISクロスカントリースキー・ワールドカップ]] || [[ノルディックスキー世界選手権|FISノルディックスキー世界選手権]]
|-
|[[カーリング]] || [[カーリング・ワールドカップ]] || [[世界カーリング選手権]]
|-
|[[自転車競技]] || [[UCIロードワールドカップ]] || [[世界選手権自転車競技大会]]
|-
|[[飛込競技]] || [[FINA飛込ワールドカップ]] || [[世界水泳選手権]]
|-
|[[フェンシング]] || [[フェンシング・ワールドカップ]] || [[フェンシング世界選手権]]
|-
|[[フリースタイルスキー]] || [[フリースタイルスキー・ワールドカップ|FISフリースタイルスキー・ワールドカップ]] || [[フリースタイルスキー世界選手権|FISフリースタイルスキー世界選手権]]
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|[[リュージュ]] || {{仮リンク|リュージュ・ワールドカップ|en|Luge World Cup}} || [[リュージュ世界選手権|FILリュージュ世界選手権]]
|-
|[[ノルディック複合]] || [[ノルディック複合・ワールドカップ|FISノルディック複合・ワールドカップ]] || [[ノルディックスキー世界選手権|FISノルディックスキー世界選手権]]
|-
|[[新体操]] || {{仮リンク|新体操ワールドカップ|en|Rhythmic Gymnastics World Cup}} || [[世界新体操選手権]]
|-
|[[スキージャンプ]] || [[スキージャンプ・ワールドカップ|FISスキージャンプ・ワールドカップ]] || [[ノルディックスキー世界選手権|FISノルディックスキー世界選手権]]
|-
|[[スピードスケート]] || [[ISUスピードスケート・ワールドカップ]] || {{仮リンク|世界スピードスケート選手権|en|World Speed Skating Championships}}
|}
[[自動車競技]](モータースポーツ)の場合は[[国際自動車連盟|FIA(国際自動車連盟)]]のもとに、ワールドカップは世界選手権の格下と位置づけられており<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/6c0c55416fd065208a0bfdbf06656654d7f18bba 【2018年モータースポーツ】WTCC消滅、WTCRとして再出発!喧嘩レースが復活か?]</ref>、両者の併存は基本的には行われない。
== 国際大会の一覧 ==
=== サッカー ===
; FIFA主催
* [[FIFAワールドカップ]]([[国際サッカー連盟|FIFA]] World Cup)
* [[FIFA U-20ワールドカップ]](FIFA Under-20 World Cup)
* [[FIFA U-17ワールドカップ]](FIFA Under-17 World Cup)
* [[FIFAクラブワールドカップ]](FIFA Club World Cup)
* [[FIFA女子ワールドカップ]](FIFA Women's World Cup)
* [[FIFA U-20女子ワールドカップ]](FIFA Under-20 Women's World Cup)
* [[FIFA U-17女子ワールドカップ]](FIFA Under-17 Women's World Cup)
* [[FIFAフットサルワールドカップ]](FIFA Futsal World Cup)
* [[FIFAビーチサッカーワールドカップ]](FIFA Beach Soccer World Cup)
* [[FIFAインタラクティブワールドカップ|FIFAeワールドカップ]](FIFAe World Cup)
; その他
* [[軍人ワールドカップ]](World Military Cup)
* [[ホームレス・ワールドカップ]](Homeless World Cup)
* [[VIVAワールドカップ]](VIVA World Cup)
=== ラグビー ===
* [[ラグビーワールドカップ]](Rugby World Cup)
* [[女子ラグビーワールドカップ]](Women's Rugby World Cup)
* [[ラグビーワールドカップセブンズ]](Rugby World Cup Sevens)
* [[ラグビーリーグ・ワールドカップ]](Rugby League World Cup)
=== クリケット ===
* [[クリケット・ワールドカップ]] (ICC Cricket World Cup)
* [[ICC T20ワールドカップ]] (ICC T20 World Cup)
* [[ICC U19クリケット・ワールドカップ]] (ICC U19 Cricket World Cup)
* [[女子クリケット・ワールドカップ]] (ICC Women's Cricket World Cup)
=== 野球 ===
* [[WBSC U-23ワールドカップ|WBSC U-23野球ワールドカップ]](WBSC U-23 Baseball World Cup) - 旧称「WBSC U-21野球ワールドカップ」
* [[WBSC U-18ワールドカップ|WBSC U-18野球ワールドカップ]](WBSC U-18 Baseball World Cup)
* [[WBSC U-15ワールドカップ|WBSC U-15野球ワールドカップ]](WBSC U-15 Baseball World Cup)
* [[WBSC U-12ワールドカップ|WBSC U-12野球ワールドカップ]](WBSC U-12 Baseball World Cup)
* [[WBSC女子野球ワールドカップ]](WBSC Women's Baseball World Cup ) - 旧称「IBAF女子野球ワールドカップ」
* [[IBAFワールドカップ|IBAF野球ワールドカップ]](IBAF Baseball World Cup) - [[ワールド・ベースボール・クラシック]](WBC)の創設により廃止
==== ベースボール5 ====
*[[WBSCベースボール5・ワールドカップ]](WBSC Baseball5 World Cup)
*[[WBSCユースベースボール5・ワールドカップ]]([[:en:Youth Baseball5 World Cup|WBSC Youth Baseball5 World Cup]])
=== ソフトボール ===
* [[WBSC男子ソフトボールワールドカップ]](WBSC Men's Softball World Cup) - 旧称「世界男子ソフトボール選手権」
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* [[WBSC女子ソフトボールワールドカップ]](WBSC Women's Softball World Cup) - 旧称「世界女子ソフトボール選手権」
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尺
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尺(しゃく)は、尺貫法における長さの単位である。東アジアでひろく使用されている。ただし、その長さは時代や地域によって異なる。
人体の前腕にある尺骨は、かつて古代ローマでその部位が身体尺として使われた(キュービット)歴史から、古代中国の身体尺である「尺」を連想した大槻玄沢が、『重訂解体新書』で意訳したものである。
また、もともとは長さの単位であった尺が、転じて物の長さのことや物差しのことも「尺」と呼ぶようになった。
漢字の「尺」は親指と人差指を広げた形からできた象形文字で身体尺であったと考えられている。
身体尺は人によって長さが異なるので、後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。これは民間で使われる単位が長くなっていったため、時の政権もそれを追認する形で公定尺を改訂したものである。尺の長さを長くすることで尺を基準にして納める税(反物など)がより多くとれるからとする説もある。
尺という単位は古代中国の殷の時代には既にあったとされている。『漢書』律暦志では音階の基本音(黄鐘)を出す音の笛に、粒が均一な秬黍(くろきび)90粒を並べ、その1粒分の長さを分(ぶ)と定義している。そして10分を1寸、10寸を1尺とする。古代の1尺の長さは正確にはわからないが、出土文物からの推測では、戦国から秦にかけての1尺は23 cm前後であった。漢代でもあまり変わらず、23–24 cm程度であった。文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20 cm)であった。
1尺の長さが長くなったのは南北朝時代の北朝においてである。隋代には、一般に使われる長い尺を大尺、旧来の短い尺を小尺として制定し、唐でもそれを継承した。大尺は小尺の1.2倍にあたる。唐の大尺は、日本の正倉院蔵の尺の長さの平均によって296 mm前後と推測されている。唐代以後は小尺は使われなくなった。
明・清には営造尺・量地尺・裁衣尺など、用途によってさまざまの種類の尺があった。康熙帝時代の1713年に営造尺の標準化が行われた。この営造尺は清朝滅亡後の1915年にメートル法との対応が1営造尺 = 32 cmと定義された。営造尺は1929年に廃止され、かわりに市制として 1尺 = 1/3 m(約333.3 mm)と定められた。これが中華人民共和国でも引き続き用いられている。したがって、現在の中国の1尺は日本の1尺1寸(ちょうど)にあたる。台湾では、日本式の尺を「台尺」と呼ぶことがある。
近代の中国ではメートルにも「尺」の字を宛てたため、市制の尺(市尺)と区別するために「公尺」という。
日本には唐制が導入され、大宝元年(701年)の大宝律令で大尺・小尺を制定している。ただし異説もあり、日本には大宝令以前に高句麗から渡来した大尺より2寸長い高麗尺が普及していたので、これが大宝令の大尺とされ、唐の大尺が小尺にされたともいう。この説では、後に現れる曲尺1尺2寸の呉服尺は高麗尺に基づくものであるとする。また、新井宏は寺院等の実測分析から高麗尺ではなく0.268 mの尺が使用されていたという古韓尺説をとなえている。なお岩田重雄は、隋代に小尺となる尺が朝鮮において5世紀中頃には26 cm代に伸張し、その後約150年変化しないとし、それを新井宏が古韓尺と呼んでいると説く。唐の大尺は現在の曲尺で9.78寸(296.3 mm)であり、それ以来ほとんど変化していないことになる。
律令制崩壊後は、全国一律の尺は維持されなくなり、各地で様々な尺が使われるようになった。竹尺として代表的なものが京都系の「享保尺」であり、鉄尺の代表的なものが大坂系の「又四郎尺」である。享保尺は又四郎尺に対して0.347 %ほど長い。享保尺と又四郎尺を平均したものが折衷尺である。
明治に入り、政府は折衷尺を公式の曲尺として採用し、メートルの33分の10の長さ(約303.030 mm)と定めた。通常、単に「尺」と言えば曲尺の尺を指す。これに対して鯨尺(くじらじゃく)は、曲尺の1.25倍であり、約378.788 mm である。
1958年制定の計量法で尺貫法は計量単位としては廃止され、1966年4月1日からは商取引など(取引又は証明)における使用が禁止された。ただし、木造建築や和裁の分野での利用の便に資するため、尺・寸に変わるものとして、1/33 m(寸相当)や 1/26.4 m(鯨尺尺相当)の目盛りを付した「尺相当目盛り付き長さ計」(尺に当たる、メートル法による目盛りが付された物差し)が認められている。詳細は、尺相当目盛り付き長さ計を参照のこと。
なお、日本で販売されるコンパネや石膏ボードなどの規格は『定尺』と呼ばれ、かつての尺を基準とした寸法に由来している。例えば、寸法が 910 mm × 1820 mm の部材は3尺(約909.1 mm)× 6尺(約1818.2 mm)に近く、また、1220 mm × 2440 mm の部材は4尺(約1212.1 mm)× 8尺(約2424.2 mm)の寸法に近い。このことから、これら部材は現在でも、職人の間ではそれぞれ「サブロク」、「シハチ」などと言い慣らわされている。
曲尺とは別に、用途別の尺も使われた。主に和裁に使われた鯨尺(くじらじゃく)・呉服尺などである。ただし北海道では呉服でも曲尺が慣習的に使われている場合もある。
鯨尺は1尺が曲尺の1.25尺にあたり、曲尺の1尺は鯨尺の8寸にあたることになる。
明治政府は、曲尺と鯨尺のみを計量単位として認め、呉服尺などその他の尺を廃止した。明治24年(1891年)の度量衡法は、鯨尺は布帛(すなわち繊維製品)を計量するときに限り用いることができると規定し、鯨尺を曲尺の1.25倍と定義している。また、鯨尺1丈(鯨尺の10倍)、鯨尺1寸(鯨尺の1/10)、鯨尺1分(鯨尺の1/100)をも定義した。
鯨尺(法令上は、「鯨尺尺」と言う。鯨尺の尺の意である。)は上記の度量衡法により、25/66メートル(約378.788 mm)と定められた。
鯨尺・呉服尺の起源については、今のところはっきりとは分からない。鯨尺は大宝律令以前から使われていた高麗尺(こまじゃく)に由来するとする説があるが、室町時代に作られたものだという説もある。高麗尺は現在の曲尺で1.1736尺であり、鯨尺よりむしろ呉服尺の起源であるとする説もある。
江戸時代初期の小噺に、奈良の大仏と土佐の鯨とが、どちらが大きいかで言い争いとなり、最後に「金(曲尺)より鯨(鯨尺)の方が二寸長い」というオチになるというものがある。なお、「鯨尺」という名称は、仕立てに使う物差しをしなやかな鯨のひげで作ったことによる。
曲尺で最も由緒正しいものであるという。しかし、この名は江戸時代のどの度量衡学者の著述にもあらわれてこない。初めて出てくるのは明治3年(1870年頃)である。その後に、この享保尺は 古尺の正統を受け継いだものということに変わった。その説明によると、紀州の熊野神社に天平の古尺があった。将軍吉宗がこれを写し取らせて曲尺の正器と定め、司天台の測影用に用いたという。この尺は紅葉山宝庫(紅葉山文庫)にあって火災で焼失したが、書籍奉行(書物奉行)の近藤重蔵(諱は守重(もりしげ)、号は正斎)が模造していて、これを内田五観が持っていたので、大蔵省はこれを根拠にしたという。しかしこれ以外にはいかなる記事も見あたらず、狩谷棭斎も言及していない。上記の享保尺のいわれは、大蔵省度量衡改正掛の顧問役であった内田五観の作り話という疑いが濃い。
大蔵省は最初これを正統の尺とし、これによって枡の原器を作り各藩に交付したが、容量が従来の枡座のものより大きいことがわかり、やむを得ず原器を廃止して結局享保尺より二厘短い折衷尺を採用して尺度・枡とも確定した。
室町時代の尺工の又四郎が作ったとされ、作り伝えられて「又四郎尺」という名を得た。大工によって土木建築の分野に使用された。
寛政年間に伊能忠敬が測量用に、享保尺と又四郎尺とを折衷して新たに作り出した、という説があるが疑問視されている。大谷亮吉は、忠敬の使った尺にそれらしきものがないことを指摘している。天野清も伊能家の資料について実際に調査し、同様の疑問を提出している。明治改元以前にはこの名(折衷尺の名)はどこにも出てこない。折衷という言葉はあまりに便宜的だから、やはり度量衡改正掛が、竹尺(享保尺)と鉄尺(又四郎尺)の差に当惑して、この二つの平均つまり折衷を、かなり早くから考えたかと思われる 。
小泉袈裟勝は「度量衡の標準を定めるとき、権力者は現実には便宜主義によりながら、その定めたことに権威の衣をきせるため、往々作為を行う。尺度を王者の身体の部分から取ったとか、黄鐘管を黄帝の定めたものとするの類いである。」とし、伊能忠敬が折衷尺を作ったとの伝説を度量衡改正掛が創作したと推察している。
商工省中央度量衡検定所の技師であった天野清が1941年に実測した結果である。
(注)
朝鮮では、目的によって黄鐘尺・周尺・造礼器尺・布帛尺・営造尺などの多様な尺が使われていた。また、朝鮮では田地の面積を測るのに実際の大きさによる「頃畝法」と収穫量を元にした「結負法」があった(なお、同様の制度は日本の古代および中世にも存在した。刈を参照)。この計算のために量田尺という尺が導入された。これは量田尺1尺四方の田の収穫量を1把とするもので、実際の量田尺は周尺で5尺ないし6尺とされた。
大韓帝国時代の1902年にメートル法との対応が導入され、それによると周尺1尺は20 cm、また1把は周尺5尺四方の面積(1 m)とされた。1909年には日本式の度量衡法が導入され、旧来の尺は使われなくなった。
大韓民国では1964年に尺貫法が廃止された。
35ミリ映画フィルムにおいて、1フィートは16コマに相当する。
サイレント映画時代の映画は、16コマを1秒として1フィートが1秒となっていた。正確にはサイレント時代は、撮影と映写も手動のクランクでフィルムを送っており、1秒は大体16コマから18コマとなっていたが、1フィートが1秒というのは(ヤード・ポンド法では)計算に便利なため、16コマが一応の目安となっていた。
映画に音声がついたトーキー時代となってから、音声が変速で一定しないのでは具合が悪いため、モーター送りによる一定速度で、1秒は24コマと定められた。トーキーでは、1秒は1 ⁄2フィートということになる。
映画の上映時間は、何フィートと表記される。日本に映画が輸入された時代は、まだ日本はメートル法ではなく尺貫法であった。フィートは304.8 mm、尺は約303.03 mmであって長さが近いために、映像の時間のことを、業界用語で「尺」と呼ぶのである。
1尺は以下の長さに等しい。
地積の単位坪(歩)は6尺四方の面積である。体積の単位升も尺を基準として定められている。
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尺(しゃく)は、尺貫法における長さの単位である。東アジアでひろく使用されている。ただし、その長さは時代や地域によって異なる。 人体の前腕にある尺骨は、かつて古代ローマでその部位が身体尺として使われた(キュービット)歴史から、古代中国の身体尺である「尺」を連想した大槻玄沢が、『重訂解体新書』で意訳したものである。 また、もともとは長さの単位であった尺が、転じて物の長さのことや物差しのことも「尺」と呼ぶようになった。
|
{{redirect|曲尺(かねじゃく)|大工仕事で使われるへの字型の物差し|指矩{{!}}指矩(さしがね)}}
{{単位
|名称=尺(曲尺・鯨尺)
|読み=しゃく(かねじゃく・くじらじゃく)
|度量衡=[[尺貫法]]
|物理量=[[長さ]]
|定義=([[曲尺]]){{sfrac|10|33}} [[メートル|m]]<ref name="名前なし-1">[[s:計量法施行法|計量法施行法]](1951年6月7日法律第208号 廃止:1993年11月1日)第4条第1項による定義</ref>、([[鯨尺]]){{sfrac|25|66}} m<ref>[[s:度量衡法|度量衡法]]、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、「第四條による定義</ref>、{{sfrac|1|3}} m(中国)
|SI= ([[曲尺]])約 303.030 mm、([[鯨尺]])約 378.788 mm、約 333.333 mm(中国)
|由来=手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さ
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'''尺'''(しゃく)は、[[尺貫法]]における[[長さ]]の[[単位]]である。[[東アジア]]でひろく使用されている。ただし、その長さは時代や地域によって異なる。
人体の[[前腕]]にある[[尺骨]]は、かつて古代ローマでその部位が[[身体尺]]として使われた([[キュービット]])歴史から、古代中国の身体尺である「尺」を連想した[[大槻玄沢]]が、『[[重訂解体新書]]』で意訳したものである<ref name="li-2014">{{Cite journal|和書|author=李強 |title=解剖学骨名「尺骨」の由来を巡って医学文化史の世界を瞥見する |journal=大阪物療大学紀要 |issn=2187-6517 |publisher=学校法人物療学園 大阪物療大学 |year=2014 |volume=2 |pages=53-61 |naid=110009771617 |doi=10.24588/bcokiyo.2.0_53 |url=https://doi.org/10.24588/bcokiyo.2.0_53}}
</ref>。
また、もともとは長さの単位であった尺が、転じて物の長さのことや[[物差し]]のことも「尺」と呼ぶようになった。
== 中国の尺 ==
漢字の「尺」は親指と人差指を広げた形からできた象形文字で身体尺であったと考えられている<ref>{{cite web |url=https://www.kanken.or.jp/kanken/trivia/category05/170506.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200424210053/https://www.kanken.or.jp/kanken/trivia/category05/170506.html |title=昔からある単位を理解しよう |publisher=公益財団法人 [[日本漢字能力検定協会]] |accessdate=2020-2-8 |archivedate=2020-4-24 }}</ref>。
身体尺は人によって長さが異なるので、後の時代に一定の長さを1尺とする'''公定尺'''を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。これは民間で使われる単位が長くなっていったため、時の政権もそれを追認する形で公定尺を改訂したものである。尺の長さを長くすることで尺を基準にして納める税(反物など)がより多くとれるからとする説もある。
尺という単位は古代[[中国]]の[[殷]]の時代には既にあったとされている。『[[漢書]]』律暦志では音階の基本音([[十二律|黄鐘]])を出す音の笛に、粒が均一な秬黍(くろきび)90粒を並べ、その1粒分の長さを分(ぶ)と定義している。そして10分を1寸、10寸を1尺とする<ref>[[s:zh:漢書/卷021|『漢書』律暦志]]「以子穀秬黍中者、一黍之広、度之九十分、黄鐘之長。一為一分、十分為寸、十寸為尺、十尺為丈、十丈為引、而五度審矣。」</ref><ref name="iwate">[http://www2.pref.iwate.jp/~hp2088/park/kikaku/44th_doryokou.html 第44回・企画展「度量衡と交易」 ~長さ・容積・重さをはかる~] 岩手県立農業博物館、2020年2月8日閲覧。</ref>。古代の1尺の長さは正確にはわからないが、出土文物からの推測では、戦国から秦にかけての1尺は23 cm前後であった。漢代でもあまり変わらず、23–24 cm程度であった。文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20 cm)であった<ref>『[[説文解字]]』夫部「夫、丈夫也。从大、一以象簪也。周制以八寸為尺、十尺為丈。人長八尺、故曰丈夫。」</ref>。
なお、[[漢書]]に記された尺の長さが当時の笛の秬黍に拠るという由来(黄鍾秬黍説または黄鍾管基準説)については、漢書の権威から後世に広く信じられるに至った。しかし、尺の長さと秬黍の長さの不整合から、黄鍾管基準説には後世に異論が出ている。[[朱載堉]]や[[呉承洛]]、[[荻生徂徠]]らは、秬黍を尺の起源としていることについて「虚構的」や「漢儒の虚談」と断じている<ref name=":1">小泉袈裟勝、「歴史の中の単位」、p.193、1974-11-10、総合科学出版</ref>小泉袈裟勝の指摘の原文箇所は正確には次の通りである。「しかしこうして復元される尺が、ほかの方法から考証されるものとも合わないということは、度量衡の考証学者を当惑させた。そこで中国の学者にも日本の学者にも、漢書律暦志の黄鍾管基準説はうそであるという人が多い。明代の考証家朱載堉も、中国度量衡史の著者呉承洛も、これを虚構的といい、荻生徂徠も漢儒の虚談ときめつけ、狩谷棭斎も実験まで試みて否定している。」<ref>二村隆夫、「丸善 単位の辞典」、p.40、黄鍾管の項、ISBN 978-4-621-04989-1、丸善(株)、2002-03-25</ref><ref group="注">二村隆夫の指摘の原文箇所は正確には次の通りである。「実験は必ずしも一致しないし、漢書においても、この制は黄帝の定めることろと記しているので、制度に権威をもたせるために伝説を持ってきたものと考えられる。」</ref>。江戸時代の学者の[[狩谷棭斎]]は実験まで試みて、同じく否定し、秬黍を元にしたということはこじつけ(牽強の説)であろうとしている<ref group="注">狩谷棭斎の指摘は正確には次の通りである。『秬黍の事は牽強の説なれども、『漢書』に是れを載せしより、後の尺度の起りを云ふ者、皆なこの説に従ひたり。』</ref>。
1尺の長さが長くなったのは南北朝時代の北朝においてである<ref>『[[隋書]]』律暦志に南北朝時代の度量衡の変遷が見える</ref>。[[隋]]代には、一般に使われる長い尺を大尺、旧来の短い尺を小尺として制定し、[[唐]]でもそれを継承した。大尺は小尺の1.2倍にあたる。唐の大尺は、日本の[[正倉院]]蔵の尺の長さの平均によって296 mm前後と推測されている。唐代以後は小尺は使われなくなった。
明・清には営造尺・量地尺・裁衣尺など、用途によってさまざまの種類の尺があった。[[康熙帝]]時代の1713年に営造尺の標準化が行われた。この営造尺は清朝滅亡後の1915年にメートル法との対応が1営造尺 = 32 cmと定義された。営造尺は1929年に廃止され、かわりに[[市制 (単位系)|市制]]として 1尺 = {{sfrac|3}} m(約333.3 mm)と定められた。これが[[中華人民共和国]]でも引き続き用いられている。したがって、現在の中国の1尺は日本の1尺1寸(ちょうど)にあたる。[[台湾]]では、日本式の尺を「台尺」と呼ぶことがある。
近代の中国では[[メートル]]にも「尺」の字を宛てたため、市制の尺(市尺)と区別するために「公尺」という。
== 日本の尺 ==
日本には唐制が導入され、[[大宝 (日本)|大宝]]元年([[701年]])の[[大宝律令]]で大尺・小尺を制定している。ただし異説もあり、日本には大宝令以前に[[高句麗]]から渡来した大尺より2寸長い高麗尺が普及していたので、これが大宝令の大尺とされ、唐の大尺が小尺にされたともいう。この説では、後に現れる曲尺1尺2寸の呉服尺は高麗尺に基づくものであるとする。また、新井宏は寺院等の実測分析から高麗尺ではなく0.268 mの尺が使用されていたという古韓尺説をとなえている。なお岩田重雄は、隋代に小尺となる尺が朝鮮において5世紀中頃には26 cm代に伸張し、その後約150年変化しないとし、それを新井宏が古韓尺と呼んでいると説く。唐の大尺は現在の曲尺で9.78寸(296.3 mm)であり、それ以来ほとんど変化していないことになる。
[[律令制]]崩壊後は、全国一律の尺は維持されなくなり、各地で様々な尺が使われるようになった。'''竹尺'''として代表的なものが京都系<ref>[[#Koizumi1977|小泉(1977), pp.214-215]] 「竹尺の主産地は京都となり、鉄尺または曲尺は難波であった。」</ref>の「享保尺」であり、'''鉄尺'''の代表的なものが大坂系の「又四郎尺」である。享保尺は又四郎尺に対して0.347 %ほど長い<ref>[[#Koizumi1977|小泉(1977), p252]]の天野清による実測値に基づく計算値 </ref>。享保尺と又四郎尺を平均したものが'''折衷尺'''である。
明治に入り、政府は折衷尺を公式の曲尺として採用し、'''[[メートル]]の33分の10の長さ(約303.030 mm)'''と定めた<ref>[[s:計量法施行法|計量法施行法]](昭和26年法律第208号)第4条第1号</ref>。通常、単に「尺」と言えば曲尺の尺を指す。これに対して[[鯨尺]](くじらじゃく)は、[[曲尺]]の1.25倍であり、約378.788 mm である。
1958年制定の[[計量法]]で[[尺貫法]]は計量単位としては廃止され、1966年4月1日からは商取引など(取引又は[[証明]])における使用が禁止された。ただし、[[木造建築]]や[[和裁]]の分野での利用の便に資するため、尺・寸に変わるものとして、{{sfrac|1|33}} m(寸相当)や {{sfrac|1|26.4}} m(鯨尺尺相当)の目盛り<ref>[https://ameblo.jp/mori-arch-econo/image-10334225418-10246039076.html] {{sfrac|15|26.4}}の数値が刻印されている。</ref>を付した「尺相当目盛り付き長さ計」(尺に当たる、[[メートル法]]による目盛りが付された[[物差し]])が認められている。詳細は、[[尺貫法#尺相当目盛り付き長さ計|尺相当目盛り付き長さ計]]を参照のこと。
なお、日本で販売される[[合板|コンパネ]]や[[石膏ボード]]などの規格は『'''定尺'''』と呼ばれ、かつての尺を基準とした寸法に由来している。例えば、寸法が 910 mm × 1820 mm の部材は3尺(約909.1 mm)× 6尺(約1818.2 mm)に近く、また、1220 mm × 2440 mm の部材は4尺(約1212.1 mm)× 8尺(約2424.2 mm)の寸法に近い。このことから、これら部材は現在でも、職人の間ではそれぞれ「'''サブロク'''」、「'''シハチ'''」などと言い慣らわされている。
=== 鯨尺 ===
曲尺とは別に、用途別の尺も使われた。主に[[和裁]]に使われた'''鯨尺'''(くじらじゃく)・呉服尺などである。ただし北海道では呉服でも曲尺が慣習的に使われている場合もある。
鯨尺は1尺が曲尺の1.25尺にあたり、曲尺の1尺は鯨尺の8寸にあたることになる。
明治政府は、曲尺と鯨尺のみを計量単位として認め、呉服尺などその他の尺を廃止した。明治24年(1891年)の[[度量衡法]]は、鯨尺は布帛(すなわち繊維製品)を計量するときに限り用いることができると規定し、鯨尺を曲尺の1.25倍と定義している。また、鯨尺1丈(鯨尺の10倍)、鯨尺1寸(鯨尺の{{sfrac|1|10}})、鯨尺1分(鯨尺の{{sfrac|1|100}})をも定義した<ref>[[s:度量衡法|度量衡法]]、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、「第四條 從來慣用ノ鯨尺ハ布帛ヲ度ルトキニ限リ之ヲ用ヰルコトヲ得
鯨尺一尺ハ一尺二寸五分トシ其ノ十倍ヲ鯨尺一丈、十分ノ一ヲ鯨尺一寸、百分ノ一ヲ鯨尺一分トス」とある。</ref>。
鯨尺(法令上は、「鯨尺尺」と言う。鯨尺の尺の意である。)は上記の度量衡法により、{{sfrac|25|66}}メートル(約378.788 mm)と定められた<ref name="名前なし-1"/>。
鯨尺・呉服尺の起源については、今のところはっきりとは分からない。鯨尺は大宝律令以前から使われていた'''高麗尺'''(こまじゃく)に由来するとする説があるが、[[室町時代]]に作られたものだという説もある。高麗尺は現在の曲尺で1.1736尺であり、鯨尺よりむしろ呉服尺の起源であるとする説もある。
江戸時代初期の小噺に、奈良の大仏と土佐の鯨とが、どちらが大きいかで言い争いとなり、最後に「金(曲尺)より鯨(鯨尺)の方が二寸長い」というオチになるというものがある。<ref>ちなみに、[[東大寺盧舎那仏像|奈良の大仏]]は像高14.98 m・台座3.05 m。一方、古式捕鯨で捕られていた[[セミクジラ]]は体長15 m – 18 mであり、実際にいい勝負である。</ref>なお、「鯨尺」という名称は、仕立てに使う[[物差し]]をしなやかな[[鯨ひげ|鯨のひげ]]で作ったことによる。
=== 折衷尺に至る経緯 ===
==== 享保尺(竹尺) ====
曲尺で最も由緒正しいものであるという。しかし、この名は江戸時代のどの度量衡学者の著述にもあらわれてこない。初めて出てくるのは明治3年(1870年頃)である。その後に、この享保尺は
古尺の正統を受け継いだものということに変わった。その説明によると、紀州の熊野神社に天平の古尺があった。将軍吉宗がこれを写し取らせて曲尺の正器と定め、司天台の測影用に用いたという<ref>[[#Koizumi1977|小泉(1977), pp.241-242]]</ref>。この尺は紅葉山宝庫([[紅葉山文庫]])にあって火災で焼失したが、書籍奉行([[書物奉行]])の[[近藤重蔵]](諱は守重(もりしげ)、号は正斎)が模造していて、これを[[内田五観]]が持っていたので、大蔵省はこれを根拠にしたという<ref>[[#Koizumi1977|小泉(1977), p.240]]</ref>。しかしこれ以外にはいかなる記事も見あたらず、[[狩谷棭斎]]も言及していない。上記の享保尺のいわれは、大蔵省度量衡改正掛の顧問役であった[[内田五観]]の作り話という疑いが濃い<ref>[[#Koizumi1977|小泉(1977), p.242]]</ref><ref>[[#小泉1989|小泉(1989), p. 47]] この経緯は明治初期度量衡を所管した大蔵省と内田の記すところ以外に根拠となる資料がなく、史実としては疑問が持たれている。</ref><ref>平凡社 大百科事典 第6巻(サ-シャ)、「尺貫法」の項、「ただし、これらの尺についてのいわれは明治初期になって現れたものであり、疑わしい点もある。」(執筆者:三宅 史)、p.1297、1985年3月25日、平凡社</ref>。
大蔵省は最初これを正統の尺とし、これによって[[枡]]の原器を作り各藩に交付したが、容量が従来の[[枡座]]のものより大きいことがわかり、やむを得ず原器を廃止して結局享保尺より二厘短い折衷尺を採用して尺度・枡とも確定した<ref>[[#小泉1989|小泉(1989), p. 47]] </ref>。
==== 又四郎尺(鉄尺) ====
室町時代の尺工の又四郎が作ったとされ、作り伝えられて「又四郎尺」という名を得た<ref>[[#Koizumi1961|小泉(1961), p.35]]</ref>。大工によって土木建築の分野に使用された。
==== 折衷尺 ====
寛政年間に[[伊能忠敬]]が測量用に、享保尺と又四郎尺とを折衷して新たに作り出した、という説があるが疑問視されている<ref>[[#Koizumi1977|小泉(1977), p.246]]</ref>。[[伊能忠敬#大谷亮吉による研究|大谷亮吉]]は、忠敬の使った尺にそれらしきものがないことを指摘している。天野清も伊能家の資料について実際に調査し、同様の疑問を提出している<ref>[[#Koizumi1977|小泉(1977), p.246]] </ref>。明治改元以前にはこの名(折衷尺の名)はどこにも出てこない。折衷という言葉はあまりに便宜的だから、やはり度量衡改正掛が、竹尺(享保尺)と鉄尺(又四郎尺)の差に当惑して、この二つの平均つまり折衷を、かなり早くから考えたかと思われる<ref>[[#小泉1989|小泉(1989), p. 149]] 折衷つまり平均の説は、大蔵省度量衡改正掛が作りあげたもので、その実は[[枡座]]の[[枡]]の容量に変更を加えないために行われたものである。</ref>
<ref name="名前なし-2">[[#Koizumi1977|小泉(1977), p.248]]</ref>。
[[小泉袈裟勝]]は「度量衡の標準を定めるとき、権力者は現実には便宜主義によりながら、その定めたことに権威の衣をきせるため、往々作為を行う。尺度を王者の身体の部分から取ったとか、黄鐘管を黄帝の定めたものとするの類いである。」とし、伊能忠敬が折衷尺を作ったとの伝説を度量衡改正掛が創作したと推察している<ref name="名前なし-2"/>。
==== 各種の尺の比較 ====
商工省中央度量衡検定所の技師であった天野清が1941年に実測した結果である<ref>[[#Koizumi1961|小泉(1961), p.51]]</ref><ref>[[#Koizumi1977|小泉(1977), p252]]</ref>。
{| class="wikitable"
!名称!!制作者!!称呼寸法!!実測値/mm
|-
|享保尺
|吉明
|標準
|303.63
|-
|折衷尺
|大野規行
|享保尺の1002/1004
|303.04
|-
|又四郎尺
|大野規行
|享保尺の1000/1004
|302.58
|-
|量地尺
|大野規周
|享保尺に同じ
|303.69
|}
(注)
* 各1寸の標準偏差は55 μm。
* 材料はすべて黄銅。
* 値は15 {{℃}}のときの長さで、目盛線の中央を測った。
== 朝鮮の尺 ==
朝鮮では、目的によって黄鐘尺・周尺・造礼器尺・布帛尺・営造尺などの多様な尺が使われていた<ref>{{cite book|和書
|author=韓国国立民俗博物館|authorlink=韓国国立民俗博物館|year=1997
|title=한극의 도량형 (韓国の度量衡)
|url=http://www.nfm.go.kr/Data/daPub_view.nfm?seq=153&select_tab=0&searchYear=&searchWord=&nowPage=68&gubun_list=year
}} {{ko icon}}</ref>。また、朝鮮では田地の面積を測るのに実際の大きさによる「頃畝法」と収穫量を元にした「結負法」があった(なお、同様の制度は日本の古代および中世にも存在した。[[刈]]を参照)。この計算のために量田尺という尺が導入された。これは量田尺1尺四方の田の収穫量を1[[把]]とするもので、実際の量田尺は周尺で5尺ないし6尺とされた。
[[大韓帝国]]時代の1902年にメートル法との対応が導入され、それによると周尺1尺は20 cm、また1把は周尺5尺四方の面積(1 m<sup>2</sup>)とされた。1909年には日本式の度量衡法が導入され、旧来の尺は使われなくなった。
[[大韓民国]]では1964年に尺貫法が廃止された。
== 映画フィルムにおける「尺」==
[[35ミリ]][[映画]][[フィルム]]において、1[[フィート]]は16コマに相当する。
[[サイレント映画]]時代の映画は、16コマを1秒として1フィートが1秒となっていた。正確にはサイレント時代は、撮影と映写も手動のクランクでフィルムを送っており、1秒は大体16コマから18コマとなっていたが<ref name="Q&A">杉原賢彦+編集部編「なぜ1秒間に24コマと決まっているのか」『ムービー・ラビリンス 映画の謎に答えるQ&A』フィルムアート社、2003年、pp.36-37</ref><ref>森卓也『映画この話したっけ』ワイズ出版、1998年、p.306</ref>、1フィートが1秒というのは([[ヤード・ポンド法]]では)計算に便利なため、16コマが一応の目安となっていた<ref>杉本五郎『映画をあつめて これが伝説の杉本五郎だ』平凡社、1990年、p.124</ref>。
映画に音声がついた[[トーキー]]時代となってから、音声が[[ワウ・フラッター|変速]]で一定しないのでは具合が悪いため、[[電動機|モーター]]送りによる一定速度で、1秒は24コマと定められた<ref name="Q&A" />。トーキーでは、1秒は{{frac|1|1|2}}フィートということになる。
映画の上映時間は、何フィートと表記される<ref>[https://www.nfaj.go.jp/wp-content/uploads/sites/5/2019/01/NFC119_p12_13.pdf 映画フィルムのデータベース化と「フィルム調査カード」の作成プロセス] 大傍正規(フィルムセンター研究員)、フィルム調査カード内の「フィート数 feet」、NFC NEWSLETTER、p.12</ref>。日本に映画が輸入された時代は、まだ日本はメートル法ではなく尺貫法であった。フィートは304.8 mm、尺は約303.03 mmであって長さが近いために、映像の時間のことを、業界用語で「尺」と呼ぶのである<ref>[https://www.nfaj.go.jp/wp-content/uploads/sites/5/2019/01/NFC119_p12_13.pdf 映画フィルムのデータベース化と「フィルム調査カード」の作成プロセス] 大傍正規(フィルムセンター研究員)、フィルム検査業務の重要性、「・・・フィルムの資産価値を査定するうえで、フィート長が欠かせない尺度となるからである。また、コマ単位で尺を測っておくことは・・・、」、NFC NEWSLETTER、p.13
</ref>。
== さまざまな尺 ==
=== 古代中国 ===
*古代中国の[[嘉量]]による尺
** [[漢]]代の尺 : 約23.09 cm
** [[隋]]代の大尺 : 約29.4 cm
** [[隋]]代の小尺 : 約24.6 cm
** [[唐]]代の大尺 : 約29.4 cm
** [[唐]]代の小尺 : 約24.6 cm
=== 日本 ===
* [[大宝律令]]の大尺 : 約356 mm
*: 高麗尺に由来。土地の計量など。
* [[大宝律令]]の小尺 : 約296 mm(小尺一尺二寸=大尺一尺)
*: [[唐尺]]に由来。[[平安時代]]以降はこれが一般的になる。
* 又四郎尺・鉄尺 : 約302.58 mm
*: [[永正]]年間に京都の指物師又四郎が定めたとされ、[[大工]]が主に用いた。
* 享保尺・竹尺 : 約303.63 mm
*: [[徳川吉宗]]が紀州熊野神社の古尺を写して天体観測に用いたとされる。
* 折衷尺 : 約303.04 mm
*: [[伊能忠敬]]が測量のために又四郎尺と享保尺を平均して作ったとされる。明治[[度量衡取締条例]]における曲尺の根拠とされた。
* '''曲尺'''(かねじゃく)(明治[[度量衡法]]) : 約303.030 mm
*: 明治度量衡法で、{{sfrac|10|33}} mと定義された。又四郎尺、享保尺、折衷尺などを勘案して明治期に定められた。通常は「尺」といえば曲尺のことをいう。
* '''鯨尺'''(くじらじゃく) : 約378.788 mm(曲尺の一尺二寸五分(1.25倍)に当たる。)
*: 明治度量衡法で、{{sfrac|25|66}} mと定義された。主に呉服について用いられる。六尺褌や三尺帯といったときは鯨尺の長さのことである。またタオルなどの織物の場合、織機に使われる[[筬]]の鯨尺1寸(約37.88 mm)当たりの本数によって密度が決められる。
* 呉服尺(ごふくじゃく)、呉服差し(ごふくざし) : 約363.636 mm(曲尺の一尺二寸(1.20倍)に当たる。)
*: 明治度量衡法では定義されていない。鯨尺より五分短く、呉服の裁断に用いる<ref>日本国語大辞典、第8巻(こく~さこん)、p.351、小学館、1976年4月15日第1版第2刷発行</ref>。
== 単位の換算 ==
=== 他の尺貫法の単位との関連 ===
1尺は以下の長さに等しい。
* 10[[寸]]
* {{sfrac|1|10}}[[丈]]
* {{sfrac|1|6}}[[間]]
地積の単位[[坪]](歩)は6尺四方の面積である。体積の単位[[升]]も尺を基準として定められている。
=== 他単位との相関表 ===
{{長さの単位 (短)}}
{{長さの単位 (長)}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=小泉袈裟勝|authorlink=小泉袈裟勝|title=ものさし・ものと人間の文化史22 |publisher= 法政大学出版局 |date=1977-10-01 |isbn=4-588-20221-9 |ref=Koizumi1977}}
* {{Cite book|和書|author=小泉袈裟勝|authorlink=小泉袈裟勝|title=度量衡の歴史 |publisher= コロナ社 |date=1961-05-30 |ref=Koizumi1961}}
* {{Cite book |和書 |author=[[小泉袈裟勝]] |date=1989-12-25 |title=図解 単位の歴史辞典 |publisher=[[柏書房]] |isbn=4-7601-0512-3 |ref=小泉1989 }}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|尺}}
* [[長さの比較]]
* [[単位の換算一覧]]
* [[咫]]
*手に由来する長さの単位
**[[ハンド (単位)]]
**[[パーム (単位)]]
**[[スパン (単位)]]
**[[フィンガー (単位)]]
**[[ディジット]]
==外部リンク==
* [https://www.tan-i-kansan.com/category/{{urlencode:尺の長さ|単位換算表}}/ 尺(長さ)単位換算表]
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[[Category:尺貫法]]
[[Category:長さの単位]]
[[Category:身体尺]]
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大阪モノレール本線
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本線(ほんせん)は、大阪府豊中市の大阪空港駅から門真市の門真市駅を結ぶ大阪モノレールの跨座式モノレール路線である。
正式な路線名は大阪モノレール線(おおさかモノレールせん)であるが、これは支線である国際文化公園都市モノレール線(彩都線)開業前に決められたものであり、彩都線開業後は、彩都線を含めた大阪モノレールの全路線を「大阪モノレール」と呼称していることから、案内上当線は「大阪モノレール線」ではなく「本線」と呼称されている。
北大阪地区のターミナルである千里中央から、大阪国際空港(伊丹空港)や万博記念公園などへのアクセス路線として利用されている。
大阪モノレール線は、営業距離が日本最長のモノレールで、2011年に中国・重慶市で重慶軌道交通3号線が開業するまでは、ギネス世界記録でも認められた世界最長の営業距離を持つモノレールであった。そのため、主要駅のコンコースにはギネスブックの認定書が設置されている。
大阪国際空港(伊丹空港) - 国道176号交点(柴原阪大前駅付近)までは大阪府道11号大阪国際空港線区域内に、国道176号交点 - 門真市駅間は大阪府道2号大阪中央環状線区域内(一部、高速自動車国道部と重用)にそれぞれ建設され、柴原阪大前駅 - 万博記念公園駅間は中国自動車道と、万博記念公園駅 - 門真市駅間は近畿自動車道と並走している。
彩都線が分岐する万博記念公園駅を除き、全ての駅が1面2線の島式ホームとなっている。
大阪モノレール線は大阪市を中心に放射状に延びる私鉄を環状に接続し、周辺都市間の移動の確保を図るために建設された。大阪市内中心部を通らないため、また蛍池駅付近の用地買収の難航で大阪国際空港までの延伸が遅れたことから、開業当初は赤字に苦しんでいた。事実、大阪国際空港へ延伸されるまではエキスポランド(現在のEXPOCITY)利用客やガンバ大阪主催試合の観客輸送に頼っていた。しかし、国内線のみとなった後も利用客の多い大阪国際空港への延伸を果たし、加えてほぼ同時期になった門真市駅への延伸後は北摂方面と京阪電鉄沿線とが結ばれることとなり、空港の利用客とパナソニックグループの各社に通勤する社員の恩恵を受けることとなった。それらのおかげで以後は少しずつ黒字基調となっている。
路線はすべて大阪府道の区域内を通過し、軌道法の適用を受けたため、建設にあたっては国から高率の補助を受けた。また、軌道及び橋脚部は道路施設の扱いとなり(大阪モノレール専用道)、駅と車庫以外は道路予算で建設されるなど運営会社である大阪モノレールとしての減価償却負担が軽くなっているため、第三セクター運営の路線としては珍しく好成績を上げている。
宇野辺駅 - 南茨木駅間で東海道本線(JR京都線)をオーバークロスするが、同線との乗り換え駅はない。建設が決まった当初は当時の国鉄に乗り換え用の新駅を建設するか、もしくは東海道本線の茨木駅を移転するよう要請したものの、当時の財政事情からそれが許されず、JRとは連絡しない形となった。宇野辺駅は開業時は茨木駅と名付けられていたが、JRの茨木駅とは大きく離れており、乗り換えできると勘違いする乗客が多かったため、大阪空港駅への延伸時に現在の宇野辺駅に改称された。
門真市駅から先、瓜生堂方面への延伸が計画されている(後述)。
朝と深夜以外は平日10 - 12分間隔、土休日12分間隔での運転で、一部の列車を除き万博記念公園駅で彩都線の列車に接続する。大阪空港駅 - 門真市駅間全線の直通運転が基本だが、早朝や深夜を中心に南茨木駅・万博記念公園駅・千里中央駅を始終着とする区間列車が運行されている。また、平日の朝と夕方以降に彩都線定期直通列車が千里中央駅 - 彩都西駅間で運行されるほかは千里中央から彩都線へ直通臨時列車が運行される。彩都線直通列車運行中は、千里中央駅 - 万博記念公園駅間では約5分おきの運転となる。行楽シーズンの土曜・休日には万博記念公園の行楽や市立吹田サッカースタジアムでのサッカーの試合に対応するために、臨時列車を千里中央駅(一部大阪空港駅) - 南茨木駅・門真市駅間に運転し(稀に千里中央駅 - 万博記念公園駅間の列車が設定されることもある)、この区間は定期列車を含めて6分間隔の運転となる。2017年6月3日のダイヤ改正で休日のみ16時台から18時台にかけて、門真市駅 - 千里中央駅間の区間列車が定期列車として設定されたが、2021年12月11日のダイヤ改正で取りやめられた。朝ラッシュ時は7 - 8分間隔の運転となる。彩都線直通列車の運転時間帯の千里中央駅 - 万博記念公園駅間は朝ラッシュ時が3 - 6分間隔、夜が4 - 6分間隔の運転となる。
ラッシュ時に列車遅延が多発していたことに対処するため、2010年3月28日のダイヤ改正で「ゆとりダイヤの拡充」が行われ、主要駅の停車時間拡大に伴い所要時間が長くなっている。
ワンマン運転を行っているため、車掌用のベルがあるが、使用されていない(彩都線も同様)。
運転士に運転速度を指示する信号は、0,25,35,50,75の5段階(速度の単位はkm/h)である(彩都線も同様)。実際の運転は、路面の速度制限の数字に従い運転する。
本線は大阪空港 - 南茨木間を第1期事業、南茨木 - 門真市間を第2期事業として整備されたが、大阪空港 - 柴原駅(現在の柴原阪大前駅)間で建設反対運動が起こったため、大阪空港までの開業を待たずに第2期事業である南茨木 - 門真市駅間を着工した。
元々は大阪国際空港と堺泉北臨海工業地帯を結ぶという壮大な構想から始まったものであり、大阪府道2号大阪中央環状線に沿って堺市方面まで延伸する計画で、1989年の運輸政策審議会答申第10号には、大阪国際空港 - 門真間が「目標年次(2005年)までに整備することが適当である区間」、門真 - 茨田 - 荒本・堺方面および大阪国際空港から伊丹付近を経て武庫之荘方面が「今後路線整備について検討すべき区間・方向」として示されたが、2004年の近畿地方交通審議会答申第8号では、「京阪神圏において、中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」に門真市から東大阪市瓜生堂(近鉄奈良線との交点で八戸ノ里駅と若江岩田駅のほぼ中間点)までが大阪モノレール線の延伸案として示されたにとどまっている。
もっとも、2012年には大阪府による交通体系見直し案により、堺までの延伸を2050年までに行う方針や、兵庫県と調整のうえで大阪空港駅から大阪国際空港をくぐり西へ延伸する案を検討することがまとめられ、延伸計画を継続する方向性が再度示された。
門真市 - 瓜生堂間については、2013年4月に大阪府知事の松井一郎が「2001年度から続く黒字経営を府民に還元するべき」として事業化に向けたルート等検討業務の開始を関係各部局に指示した。これに伴い、ルート等検討業務を第1四半期に一般競争入札で発注。検討結果を踏まえて、府庁内で協議に入り、2016年1月に開催された戦略会議で、2019年度の着工、2029年度の開通を目指すとした。その後詳細なルートの検討を行い、2018年7月11日付で国土交通大臣宛に軌道法第3条に基づく運輸事業特許(門真市 - 瓜生堂間8.9kmの延伸)を申請、国土交通省は2019年3月19日付で申請通り特許し、国土交通省近畿運輸局にて特許状を交付した。特許申請時点で総事業費約1,050億円(うちインフラ部事業費約740億円)を想定しており、インフラ部については社会資本整備総合交付金を充当し国庫補助金以外は大阪府・東大阪市・大阪市が負担、それ以外については日本政策投資銀行とその他の金融機関からの借入金でまかなう計画としている。
2020年7月に、大阪府都市整備部の職員が、延伸事業に関する入札資料の一部を業者に漏らしていたことが判明し、府は入札を一時停止。大阪府警察はこの職員を、同年9月24日に地方公務員法に於ける守秘義務違反の容疑で書類送検した。
全駅大阪府内に所在。
軌道法特許にかかる国土交通省運輸審議会の配付資料および大阪モノレール延伸事業パンフレットに基づく。門真市駅以外の駅名は全て仮称。
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"text": "路線はすべて大阪府道の区域内を通過し、軌道法の適用を受けたため、建設にあたっては国から高率の補助を受けた。また、軌道及び橋脚部は道路施設の扱いとなり(大阪モノレール専用道)、駅と車庫以外は道路予算で建設されるなど運営会社である大阪モノレールとしての減価償却負担が軽くなっているため、第三セクター運営の路線としては珍しく好成績を上げている。",
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本線(ほんせん)は、大阪府豊中市の大阪空港駅から門真市の門真市駅を結ぶ大阪モノレールの跨座式モノレール路線である。 正式な路線名は大阪モノレール線(おおさかモノレールせん)であるが、これは支線である国際文化公園都市モノレール線(彩都線)開業前に決められたものであり、彩都線開業後は、彩都線を含めた大阪モノレールの全路線を「大阪モノレール」と呼称していることから、案内上当線は「大阪モノレール線」ではなく「本線」と呼称されている。 北大阪地区のターミナルである千里中央から、大阪国際空港(伊丹空港)や万博記念公園などへのアクセス路線として利用されている。 大阪モノレール線は、営業距離が日本最長のモノレールで、2011年に中国・重慶市で重慶軌道交通3号線が開業するまでは、ギネス世界記録でも認められた世界最長の営業距離を持つモノレールであった。そのため、主要駅のコンコースにはギネスブックの認定書が設置されている。
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{{pp-vandalism|small=yes}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Osaka monorail logo.svg|25px|link=大阪モノレール]] 大阪モノレール線
|路線色 = #111986
|画像 = Osaka-monorail - panoramio.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 大日 - 門真市間を走る[[大阪高速鉄道2000系電車|2000系]]<br />(2010年1月撮影)
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|駅数 = 14駅
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|所有者 = [[大阪モノレール]]
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{{BS|hBHF|12.1|'''18''' [[宇野辺駅]]|}}
{{BS|hKRZW|||[[大正川]]|}}
{{BS|hKRZ|||←[[西日本旅客鉄道|JR西]]:[[東海道本線]]({{JR西路線記号|K|A}} [[JR京都線]])→|}}
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{{BS3||hKRZW|WASSER+r|||防領川}}
{{BS3||hKRZW|WASSERr|||防領川}}
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{{BS3||hKBHFe|O2=HUBaq|HUBrf|21.2|'''24''' [[門真市駅]]|}}
}}
'''本線'''(ほんせん)は、[[大阪府]][[豊中市]]の[[大阪空港駅]]から[[門真市]]の[[門真市駅]]を結ぶ[[大阪モノレール]]の跨座式[[モノレール]]路線である。
正式な路線名は'''大阪モノレール線'''(おおさかモノレールせん)であるが、これは支線である[[大阪モノレール彩都線|国際文化公園都市モノレール線]](彩都線)開業前に決められたものであり、彩都線開業後は、彩都線を含めた大阪モノレールの全路線を「大阪モノレール」と呼称していることから、案内上当線は「大阪モノレール線」ではなく「'''本線'''」と呼称されている<ref>[http://www.osaka-monorail.co.jp/station/ 路線図・駅情報] - 大阪モノレール。2020年6月9日閲覧</ref><ref>[http://www.osaka-monorail.co.jp/timetable/ 時刻表] - 大阪モノレール。2020年6月9日閲覧</ref><ref group="注釈">[http://www.osaka-monorail.co.jp/station/railmap_.pdf 公式サイトの路線図]でも「大阪モノレール線」の表記はない。</ref>。
[[北大阪]]地区のターミナルである[[千里中央駅|千里中央]]から、[[大阪国際空港]](伊丹空港)や[[万博記念公園]]などへのアクセス路線として利用されている。
大阪モノレール線は、営業距離が日本最長のモノレールで、[[2011年]]に[[中華人民共和国|中国]]・[[重慶市]]で[[重慶軌道交通]][[重慶軌道交通3号線|3号線]]が開業するまでは、[[ギネス世界記録]]でも認められた世界最長の営業距離を持つモノレールであった。そのため、主要駅の[[コンコース]]にはギネスブックの認定書が設置されている。
== 概要 ==
[[大阪国際空港]](伊丹空港) - [[国道176号]]交点([[柴原阪大前駅]]付近)までは[[大阪府道11号大阪国際空港線]]区域内に、国道176号交点 - 門真市駅間は[[大阪府道2号大阪中央環状線]]区域内(一部、高速自動車国道部と重用)にそれぞれ建設され、柴原阪大前駅 - [[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]間は[[中国自動車道]]と、万博記念公園駅 - 門真市駅間は[[近畿自動車道]]と並走している。
彩都線が分岐する万博記念公園駅を除き、全ての駅が1面2線の[[島式ホーム]]となっている。
大阪モノレール線は[[大阪市]]を中心に放射状に延びる私鉄を環状に接続し、周辺都市間の移動の確保を図るために建設された。大阪市内中心部を通らないため、また蛍池駅付近の用地買収の難航で大阪国際空港までの延伸が遅れたことから、開業当初は赤字に苦しんでいた。事実、大阪国際空港へ延伸されるまでは[[エキスポランド]](現在の[[EXPOCITY]])利用客や[[ガンバ大阪]]主催試合の観客輸送に頼っていた。しかし、国内線のみとなった後も利用客の多い大阪国際空港への延伸を果たし、加えてほぼ同時期になった[[門真市駅]]への延伸後は[[北摂]]方面と[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]]沿線とが結ばれることとなり、空港の利用客と[[パナソニックグループ]]の各社に通勤する社員の恩恵を受けることとなった。それらのおかげで以後は少しずつ黒字基調となっている。
路線はすべて大阪府道の区域内を通過し、[[軌道法]]の適用を受けたため、建設にあたっては国から高率の補助を受けた。また、軌道及び橋脚部は道路施設の扱いとなり(大阪モノレール専用道)、駅と車庫以外は道路予算で建設されるなど運営会社である大阪モノレールとしての[[減価償却]]負担が軽くなっているため、[[第三セクター]]運営の路線としては珍しく好成績を上げている。
[[宇野辺駅]] - [[南茨木駅]]間で[[東海道本線]]([[JR京都線]])をオーバークロスするが、同線との乗り換え駅はない。建設が決まった当初は当時の[[日本国有鉄道|国鉄]]に乗り換え用の新駅を建設するか、もしくは東海道本線の[[茨木駅]]を移転するよう要請したものの、当時の財政事情からそれが許されず、JRとは連絡しない形となった。宇野辺駅は開業時は茨木駅と名付けられていたが、JRの茨木駅とは大きく離れており、乗り換えできると勘違いする乗客が多かったため、大阪空港駅への延伸時に現在の宇野辺駅に改称された。
門真市駅から先、瓜生堂方面への延伸が計画されている([[#延伸計画|後述]])。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):21.2 km
* 方式:跨座式モノレール
* 駅数:14駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化方式:直流1500V
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:車内信号式
* 営業[[最高速度]]:75km/h<ref name="terada" />
* 最急勾配:50[[パーミル|‰]](少路 - 千里中央間・摂津 - 南摂津間)
* 最急曲線:半径100m(蛍池 - 柴原阪大前間)
* [[対面交通|走行方向]]:左側通行
* 混雑率:79%(2020年度:宇野辺駅→万博記念公園駅間)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf#page=6|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2022-03-03|publisher=国土交通省|page=6|format=PD}}</ref>
== 運行形態 ==
朝と深夜以外は平日10 - 12分間隔、土休日12分間隔での運転で、一部の列車を除き万博記念公園駅で彩都線の列車に接続する<ref group="注釈">2023年2月27日のダイヤ改正までは平日日中などで彩都線が20分間隔の運転となっており、半数の列車だけが接続していた。</ref>。大阪空港駅 - 門真市駅間全線の直通運転が基本だが、早朝や深夜を中心に南茨木駅・万博記念公園駅・千里中央駅を始終着とする区間列車が運行されている。また、平日の朝と夕方以降に彩都線定期直通列車が千里中央駅 - 彩都西駅間で運行されるほかは千里中央から彩都線へ直通[[臨時列車]]が運行される。彩都線直通列車運行中は、千里中央駅 - 万博記念公園駅間では約5分おきの運転となる。行楽シーズンの土曜・休日には万博記念公園の行楽や[[市立吹田サッカースタジアム]]での[[サッカー]]の試合に対応するために、臨時列車を千里中央駅(一部大阪空港駅) - 南茨木駅・門真市駅間に運転し(稀に千里中央駅 - 万博記念公園駅間の列車が設定されることもある)、この区間は定期列車を含めて6分間隔の運転となる。2017年6月3日のダイヤ改正で休日のみ16時台から18時台にかけて、門真市駅 - 千里中央駅間の区間列車が定期列車として設定されたが、2021年12月11日のダイヤ改正で取りやめられた。朝[[ラッシュ時]]は7 - 8分間隔の運転となる。彩都線直通列車の運転時間帯の千里中央駅 - 万博記念公園駅間は朝ラッシュ時が3 - 6分間隔、夜が4 - 6分間隔の運転となる。
ラッシュ時に列車遅延が多発していたことに対処するため、[[2010年]][[3月28日]]のダイヤ改正で「ゆとりダイヤの拡充」が行われ、主要駅の停車時間拡大に伴い所要時間が長くなっている。
[[ワンマン運転]]を行っているため、[[車掌]]用のベルがあるが、使用されていない(彩都線も同様){{要出典|date=2019年4月}}。
運転士に運転速度を指示する[[車内信号|信号]]は、0,25,35,50,75の5段階(速度の単位はkm/h)である(彩都線も同様)。実際の運転は、路面の速度制限の数字に従い運転する。
== 歴史 ==
本線は大阪空港 - 南茨木間を第1期事業、南茨木 - 門真市間を第2期事業として整備されたが、大阪空港 - 柴原駅(現在の柴原阪大前駅)間で建設反対運動が起こったため、大阪空港までの開業を待たずに第2期事業である南茨木 - 門真市駅間を着工した<ref>『鉄道ファン』2009年7月号、140・141頁</ref>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[6月1日]]:千里中央 - 南茨木間が開業<ref name="sone30"/>。
* [[1994年]](平成6年)[[9月30日]]:柴原(現在の柴原阪大前) - 千里中央間が開業<ref name="sone30"/>。
* [[1997年]](平成9年)
** [[4月1日]]:大阪空港 - 柴原間が開業<ref name="sone30"/>。茨木駅を宇野辺駅に改称<ref name="sone30"/>。
** [[8月22日]]:南茨木 - 門真市間が開業<ref name="sone30"/>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[6月18日]]:[[大阪府北部地震]]により全線で運転見合わせになる<ref name="mynavi20180619">[https://news.mynavi.jp/article/20180619-650277/ 大阪北部地震で運休の大阪モノレール、6/20始発から一部区間再開] - マイナビニュース、2018年6月19日</ref><ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001238993.pdf#page=11 大阪府北部を震源とする地震について(第3報)]}} - 国土交通省 災害情報、2018年6月18日 11:00現在</ref>。
** [[6月20日]]:大阪空港 - 万博記念公園間で運転再開<ref name="mynavi20180619" /><ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001239247.pdf#page=12 大阪府北部を震源とする地震について(第8報)]}} - 国土交通省 災害情報、2018年6月20日 7:00現在</ref><ref>
{{Twitter status|OsakaMonorail|1009174745491783681|大阪モノレール運行情報<公式> (@OsakaMonorail) 2018年6月20日 05:43 (JST) のTwitterコメント}}</ref>。
** [[6月22日]]:万博記念公園 - 南茨木間で運転再開<ref>
{{Twitter status|OsakaMonorail|1009830751334879232|大阪モノレール運行情報<公式> (@OsakaMonorail) 2018年6月22日 02:09 (JST) のTwitterコメント}}</ref><ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001239976.pdf#page=13 大阪府北部を震源とする地震について(第13報)]}} - 国土交通省 災害情報、2018年6月22日 15:00現在</ref>。
** [[6月23日]]:南茨木 - 門真市間で運転再開<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180623/k00/00e/040/295000c 大阪震度6弱:大阪モノレール再開 鉄道網すべて復旧] - 毎日新聞、2018年6月23日</ref><ref name="大阪府北部地震14報">{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001240122.pdf#page=13 大阪府北部を震源とする地震について(第14報)]}} - 国土交通省 災害情報、2018年6月25日 8:00現在</ref>。
** [[6月24日]]:部品が落下する可能性のある車両が見つかったため始発から運行を取り止めた<ref>{{Cite news|title=大阪震度6弱:大阪モノレール、再び不通に 全車両点検 - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20180624/k00/00e/040/169000c|accessdate=2018-06-24|language=ja-JP|work=毎日新聞}}</ref><ref name="大阪府北部地震14報"/>。翌日始発より運転再開<ref name="大阪府北部地震14報"/>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月1日]]:柴原駅を柴原阪大前駅に改称<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2019/06/20190621_pressrelease_1.pdf|format=PDF|title=2019年10月1日(火)から「柴原」→「柴原阪大前」に駅名を変更します|publisher=大阪高速鉄道|date=2019-06-21|accessdate=2019-10-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190621103302/https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2019/06/20190621_pressrelease_1.pdf|archivedate=2019-06-21}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)6月1日:運営会社が大阪高速鉄道株式会社から大阪モノレール株式会社に社名変更<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2020/05/pressrelease_20200511.pdfformat=PDF|title=社名変更について|publisher=大阪高速鉄道|date=2020-05-11|accessdate=2020-06-06}}</ref>。
* [[2029年]](令和11年):門真市 - (仮称)瓜生堂間が開業(予定)<ref name="osakamonopanhuretto202204" />。
== 延伸計画 ==
元々は大阪国際空港と[[堺泉北臨海工業地帯]]を結ぶという壮大な構想から始まったものであり、大阪府道2号大阪中央環状線に沿って[[堺市]]方面まで延伸する計画で、[[大阪圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について|1989年の運輸政策審議会答申第10号]]には、大阪国際空港 - 門真間が「目標年次(2005年)までに整備することが適当である区間」、門真 - 茨田 - 荒本・堺方面および大阪国際空港から伊丹付近を経て武庫之荘方面が「今後路線整備について検討すべき区間・方向」として示されたが<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/tetudo/toshitetu/pdf/03_11_01.pdf 平成元年5月31日運輸政策審議会答申第10号 大阪圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について(抄)]}} </ref>、[[2004年]]の近畿地方交通審議会答申第8号では、「京阪神圏において、中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」に門真市から[[東大阪市]]瓜生堂<!--終点の地名。答申の原文には「駅」はついていない。-->([[近鉄奈良線]]との交点で[[八戸ノ里駅]]と[[若江岩田駅]]のほぼ中間点)までが大阪モノレール線の延伸案として示されたにとどまっている<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/chousa/keikaku/index.htm 鉄道整備・地方交通計画] - 国土交通省近畿運輸局</ref><ref group="注釈">近畿地方交通審議会答申第8号では、大阪国際空港 - 伊丹間の鉄道計画については、[[JR福知山線分岐線構想|大阪国際空港広域レールアクセス]]という別の構想が取り上げられた。</ref>。
もっとも、[[2012年]]には大阪府による交通体系見直し案により、堺までの延伸を2050年までに行う方針や、兵庫県と調整のうえで大阪空港駅から大阪国際空港をくぐり西へ延伸する案を検討することがまとめられ、延伸計画を継続する方向性が再度示された<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/kansai/news/20120315ddf001010004000c.html |title=大阪府:鉄道「第2環状線」モノレールを堺へ延伸、JR桜島線は長居まで--見直し案|newspaper= 毎日新聞 |date=2012-03-15 |accessdate=2014-12-09|archiveurl=https://megalodon.jp/2012-0317-0029-56/mainichi.jp/kansai/news/20120315ddf001010004000c.html |archivedate=2012-03-17}}</ref>。
門真市 - 瓜生堂間については、[[2013年]]4月に[[大阪府知事]]の[[松井一郎]]が「2001年度から続く黒字経営を府民に還元するべき」として事業化に向けたルート等検討業務の開始を関係各部局に指示した<ref name="Kensetsu-Tsuushinn.NP.20130404" />。これに伴い、ルート等検討業務を第1四半期に一般競争入札で発注。検討結果を踏まえて、府庁内で協議に入り<ref name="Kensetsu-Tsuushinn.NP.20130404">[http://www.kensetsunews.com/?p=10358 大阪モノレール延伸/第1四半期に一般入札/大阪府8.7㌔のルート検討] - [[建設通信新聞]]、2013年4月4日配信及紙面掲載、2013年4月4日閲覧。</ref>、[[2016年]]1月に開催された戦略会議で、[[2019年]]度の着工、[[2029年]]度の開通を目指すとした<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC15H4R_V10C16A1AC8000/ 大阪モノレール延伸、29年開業 大阪府が方針] - 日本経済新聞、2016年1月16日</ref>。その後詳細なルートの検討を行い、2018年7月11日付で[[国土交通大臣]]宛に[[軌道法]]第3条に基づく運輸事業特許(門真市 - 瓜生堂間8.9kmの延伸)を申請<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20180718-666060/ |title=大阪モノレール本線、門真市駅から南へ延伸 - 2029年の開業めざす |newspaper=マイナビニュース |date=2018-07-18 |accessdate=2019-03-21}}</ref>、[[国土交通省]]は2019年3月19日付で申請通り特許し、国土交通省[[近畿運輸局]]にて特許状を交付した<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www1.mlit.go.jp/common/001280047.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190321093015/http://www1.mlit.go.jp/common/001280047.pdf|format=PDF|language=日本語|title=大阪高速鉄道株式会社申請の軌道事業の特許について|publisher=国土交通省鉄道局都市鉄道政策課|date=2019-03-18|accessdate=2021-02-05|archivedate=2019-03-21}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/west/news/190319/wst1903190017-n1.html |title=大阪モノレール延伸へ 4駅新設、国交省が許可|newspaper=産経新聞 |date=2019-03-19| accessdate=2019-03-21}}</ref>。特許申請時点で総事業費約1,050億円(うちインフラ部事業費約740億円)を想定しており、インフラ部については社会資本整備総合交付金を充当し国庫補助金以外は大阪府・東大阪市・大阪市が負担、それ以外については[[日本政策投資銀行]]とその他の金融機関からの借入金でまかなう計画としている<ref name="mlit-WG">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/001272230.pdf 大阪モノレールからの延伸に係る軌道事業の特許申請事案 配付資料]}} - 国土交通省運輸審議会 2019年1月17日</ref>。
[[2020年]][[7月]]に、大阪府都市整備部の職員が、延伸事業に関する[[入札]]資料の一部を業者に漏らしていたことが判明し、府は入札を一時停止<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200729/k00/00m/040/384000c 大阪府職員、モノレール延伸事業の入札資料を業者に渡す 府が厳正処分へ] 毎日新聞 2020年7月29日</ref>。[[大阪府警察]]はこの職員を、同年[[9月24日]]に[[地方公務員法]]に於ける[[守秘義務]]違反の容疑で[[書類送検]]した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200924/k00/00m/040/085000c 大阪府職員を書類送検 モノレール延伸事業の入札資料を業者に提供 府警] 毎日新聞 2020年9月24日</ref>。
== 駅一覧 ==
全駅[[大阪府]]内に所在。
=== 営業中の区間 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #111986;"|[[駅ナンバリング|駅番号]]
!style="width:9em; border-bottom:solid 3px #111986;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #111986;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #111986;"|営業<br />キロ
!style="border-bottom:solid 3px #111986;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #111986;"|所在地
|-
!11
|[[大阪空港駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|
|rowspan="5"|[[豊中市]]
|-
!12
|[[蛍池駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|1.4
|[[阪急電鉄]]:[[File:Number_prefix_Hankyu_Takarazuka_line.svg|18px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]] (HK-47)
|-
!13
|[[柴原阪大前駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|3.1
|
|-
!14
|[[少路駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|4.8
|
|-
!15
|[[千里中央駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|6.6
|[[北大阪急行電鉄]]:{{駅番号s|#000080|#fff|M}} [[北大阪急行電鉄南北線|南北線]] (M08)
|-
!16
|[[山田駅 (大阪府)|山田駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|8.5
|阪急電鉄:[[File:Number_prefix_Hankyu_Kyōto_line.svg|18px|HK]] [[阪急千里線|千里線]] (HK-94)
|rowspan="2"|[[吹田市]]
|-
!17
|[[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|9.9
|大阪モノレール:[[大阪モノレール彩都線|国際文化公園都市モノレール線(彩都線)]]
|-
!18
|[[宇野辺駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|12.1
|
|rowspan="3"|[[茨木市]]
|-
!19
|[[南茨木駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|13.3
|阪急電鉄:[[File:Number_prefix_Hankyu_Kyōto_line.svg|18px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]] (HK-68)
|-
!20
|[[沢良宜駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|14.5
|
|-
!21
|[[摂津駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|16.0
|
|rowspan="2"|[[摂津市]]
|-
!22
|[[南摂津駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|17.8
|
|-
!23
|[[大日駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|19.9
|[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Tanimachi_line_symbol.svg|18px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]] (T11)
|[[守口市]]
|-
!24
|[[門真市駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|21.2
|[[京阪電気鉄道]]:[[File:Number prefix Keihan lines.png|20px|KH]] [[京阪本線]] (KH13)
|[[門真市]]
|}
* 駅はないが、蛍池駅 - 柴原阪大前駅間にある半径100メートルの急カーブの途中で大阪府[[池田市]]をかすめて走る。また、大阪空港駅付近は複雑に大阪府豊中市域、池田市域と[[兵庫県]][[伊丹市]]域が入り組んでおり、モノレールの路線も各市を通過している。大阪空港駅の駅舎は豊中市と池田市にまたがっているが、駅長室の場所から駅所在地は豊中市となっている。
=== 延伸計画区間 ===
軌道法特許にかかる国土交通省運輸審議会の配付資料<ref name="mlit-WG"/>および大阪モノレール延伸事業パンフレット<ref name="osakamonopanhuretto202204">{{Cite web|和書|url=https://www.osaka-monorail.co.jp/know/stretching/pdf/om_enshinpanf-2.pdf|title=大阪モノレール延伸事業(門真市駅~(仮称)瓜生堂駅)|format=PDF|date=2022-04|accessdate=2023-04-14}}</ref>に基づく。門真市駅以外の駅名は全て仮称<!--中間3駅は既存駅と同一駅になるか不明(特に鴻池新田と荒本)のため、別駅名前提の表記にしています-->。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:10em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br />キロ
!接続路線
!所在地
|-
|[[門真市駅]]
|style="text-align:center;"| -
|京阪電気鉄道:[[File:Number prefix Keihan lines.png|20px|KH]] [[京阪本線]] (KH13)
|rowspan="3"|[[門真市]]
|-
|松生町駅<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/40981/00000000/tosikeikakuhenkou.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210805105321/https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/40981/00000000/tosikeikakuhenkou.pdf|title=東部大阪都市計画 都市高速鉄道(大阪モノレール)及び道路の都市計画変更について|archivedate=2021-08-05|accessdate=2021-09-10|publisher=大阪府|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>{{R|mainichi20210512|dainichi20210510}}
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|鴻池新田駅
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|[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|H}} [[片町線]](学研都市線)([[鴻池新田駅]]:JR-H37)
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|荒本駅
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|[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|C}} [[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]([[荒本駅]]:C24)
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|[[瓜生堂駅]]
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|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄奈良線|奈良線]]
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* 門真南駅 - 鴻池新田駅間で[[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]と[[大東市]]を通るが、いずれも駅は設置されない。
* 松生町駅は延伸決定当初は建設が計画されておらず、門真市と守口市の要望<ref>[https://www.city.kadoma.osaka.jp/soshiki/machizukuri/4/kokyokotsugroup/2/2/13950.html 大阪モノレール門真市駅・(仮称)門真南駅間新駅設置事業/門真市]</ref>により2021年に加えられた新駅で、門真市松生町付近に設置される予定である<ref name="mainichi20210512">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20210512/ddl/k27/040/320000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210524131739/https://mainichi.jp/articles/20210512/ddl/k27/040/320000c|title=大阪モノレール延伸 門真市~南駅間に新駅 松生町付近、交通不便解消へ まちの新拠点に/大阪|newspaper=毎日新聞|date=2021-05-12|accessdate=2021-05-24|archivedate=2021-05-24}}</ref><ref name="dainichi20210510">{{Cite news|url=https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/210510/20210510023.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210522051957/https://www.nnn.co.jp/dainichi/news/210510/20210510023.html|title=変わるか 門真まちづくり 大阪モノレール延伸計画|newspaper=大阪日日新聞|date=2021-05-10|accessdate=2021-05-25|archivedate=2021-05-22}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[空港連絡鉄道]]
* [[吹田八尾線|吹田八尾線(東大阪線)]] - 大阪モノレール沿線に運行していたバス路線の1つ。[[阪急バス]]・[[京阪バス]]・[[近鉄バス]]・[[国鉄バス]]が運行し、大阪市東郊の都市を結ぶことを目的としていた。国鉄は城東貨物線(現在の[[おおさか東線]])の旅客代行輸送を目的としていた。
* [[阪急バス]]- 大阪モノレール沿線にバス路線を有していた。[[大阪府道2号大阪中央環状線|府道2号大阪中央環状線]]を経由して、大阪空港 - 千里中央 - 阪大病院、千里中央 - 万博記念公園駅- 茨木(JR茨木駅・阪急茨木駅)などで運行をしていた。
== 外部リンク ==
* [http://www.osaka-monorail.co.jp/ 大阪モノレール公式サイト]
* [http://www.pref.osaka.lg.jp/toshikotsu/osakamonorail-enshin/index.html 大阪モノレール延伸事業](大阪府)
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山田風太郎
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山田 風太郎(やまだ ふうたろう、1922年1月4日 - 2001年7月28日)は、日本の小説家。本名:山田 誠也(やまだ せいや)。戦後日本を代表する娯楽小説家の一人。東京医科大学卒業、医学士号取得。
『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せる。特に奇想天外なアイデアを用いた『魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される大衆小説で知られている。2010年(平成22年)、その名を冠した「山田風太郎賞」が創設された。
筆名は、中学生時代に3人の友人らと互いに呼び合うのに用いた雷 / 雨 / 雲 / 風という符丁、そして受験雑誌への投稿時代にペンネームとして使用した「風」に由来する。当初は「かぜたろう」と読ませたかったようである(国立国会図書館のデータベースにその名残が見られる)が、最終的に「ふうたろう」で定着した。なお、戦前・戦後の映画・芸能雑誌をコレクションしていた色川武大が、その雑誌の中から、たまたま学生時代の「風太郎」名義の投稿を発見し、その頁のコピーを山田に送ったこともある。
生前に戒名を「風々院風々風々居士」と自ら定め、八王子の上川霊園にある墓石には「風ノ墓」と刻まれている。
兵庫県養父郡関宮村(現在の養父市)で「山田医院」を開業していた父母ともに代々医者の家系に生まれる。
5歳の時に父・太郎が脳卒中で急死。9歳で山陰の諸寄村に転居。11歳のときに母親が亡父の弟で医師である叔父と再婚して山田医院を再開。故郷の関宮へ戻る。
兵庫県立豊岡中学校(旧制中学=5年制、現在の兵庫県立豊岡高等学校)に入学。旧制中学時代の教師に奈良本辰也、吉田靖彦 (国際政治学者)は中学の同級生で友人。寮生活を始めた翌年1936年(昭和11年)、母・昭子が肺炎により死亡。別の女性と再婚した叔父夫婦に養われるが、互いに親子の情愛は得られなかったという。
1940年(昭和15年)旧制高等学校の合格はならず、2年間浪人。1942年(昭和17年)8月には半ば家出状態で上京。この年に受けた徴兵検査で肋膜炎のために入隊を免れる(当時、甲種と乙種合格の者のみが徴兵されていた)。沖電気の軍需工場(品川)で働きながら受験勉強を続け、1944年(昭和19年)に旧制東京医学専門学校(後の東京医科大学)に合格。入学後は読書を心の支えに虚無的な生活を送るも、1945年(昭和20年)5月に空襲で焼け出されて山形に避難し、沖電気時代の恩人である高須氏夫人の連れ子にあたる佐藤啓子(当時13歳)と出会う。後に学校ごと長野県の飯田に疎開。
敗戦前日には異常な精神状態となり、友人と徹夜で議論。「日本を救うためには不撓不屈の意思の力であと三年戦うしかない、無際限の殺戮にも耐え抜いたときのみにこそ日本人の誇りは守られる」と訴えた翌日の日記には「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とのみ記された。
1953年(昭和28年)に妻子を得、終生を伴とする。
日本の敗戦についてはその後、「最大の敗因は科学であり、さらに科学的教育の不手際であった」と日記に著している。
山田風太郎の作品に共通する、「一歩引いた視点からの人間や歴史への視点」は、幼少時の両親との死別、そして多感な青春時代に起こった太平洋戦争により型作られた。特に徴兵検査で体格不適格で丙種合格となったことが「社会から疎外された者」としての意識を形成することになったと自ら語っている。
正式なデビュー以前、旧制中学時代に何度か雑誌に小説を投稿し、入賞している。叔父からの仕送りで医学生をしていた時代、生活のために『宝石』の短編懸賞に応募した『達磨峠の事件』が入選(1947年1月号に掲載)したことで作家デビュー。1950年(昭和25年)、28歳で東京医科大学を卒業したものの、医師になることは、自ら不適と決める。
戦後の荒廃した世相を背景とした推理小説を中心に、多数の短編を発表。
また、同期の作家である高木彬光との合作小説『悪霊の群』を執筆するなど活動を続け、山田、高木と、島田一男、香山滋、大坪砂男は「探偵小説界の戦後派五人男」と呼ばれた。また、1950年(昭和25年)、高木彬光、島田一男、香山滋らと新人探偵作家の会「鬼クラブ」を結成して、同人誌『鬼』を刊行した。
長編『誰にも出来る殺人』、『棺の中の悦楽』等は、読み切り連載特有の制約を守りつつ、全体を意外な結末へ導く工夫を凝らしている。作者本人は、明治ものの一作である『明治断頭台』を自身のミステリ作品の最高傑作と述べている。
デビュー以来10年、日本ミステリ界の巨人であり、宝石の編集長を自ら務めた江戸川乱歩への恩もあってミステリ作品を中心に執筆した。ただ、時々雑誌のカテゴリーを無視して時代小説を寄稿している。「(ミステリは)自分には向いていなかった」と山田自身は語っているが、多数の傑作を残したことは事実であり、2000年(平成12年)には日本ミステリー文学大賞を受賞した。現代を舞台にしたミステリ作品は、1960年代半ばまで断続的に発表された。例外として『神曲崩壊』は1987年(昭和62年)の作品である。
鼻の位置にペニスがあるという突拍子もない設定の『陰茎人』をはじめとするユーモア・ナンセンス作品、学年誌に発表した少年向け作品や、歴史を扱った小説も多数発表。『山屋敷秘図』に代表される切支丹もののように日本を舞台にするだけでなく、原稿料のかわりに貰った中国四大奇書のひとつ『金瓶梅』をミステリとして再構成した『妖異金瓶梅』があり、忍法帖を執筆するきっかけともなった。なお、時代小説は晩年に至るまで執筆している。
『妖異金瓶梅』の後、同じく四大奇書である『水滸伝』を翻案しようと模索するが、108もの武術を考えるに至らず、かわりに忍法という奇想天外な術を用いて活躍する忍者たちの小説を構想する。
1958年(昭和33年)に発表した『甲賀忍法帖』を皮切りとする忍法帖もので流行作家となる。これは安土桃山時代から江戸時代を舞台として、想像の限りを尽くした忍法を駆使する忍者たちの死闘を描いた作品群である。1963年(昭和38年)から講談社より発売された『山田風太郎忍法全集』は全10巻の予定であったが、刊行途中で連載を終えた『柳生忍法帖』の上・中・下巻と短編集2冊を加えて全15巻となり、累計で300万部を売り上げるベストセラーとなった。
その後も掲載紙を問わずに多数の長編・短編が執筆された。その中には細部の設定を詰めずに連載を開始したものも多かった。特に柳生十兵衛三部作の第一作『柳生忍法帖』は当初は『尼寺五十万石』と題され十兵衛が登場する予定はなく、第二作『魔界転生』は、どんな忍法が登場しても大丈夫なように適当な題名『おぼろ忍法帖』をつけたものの、結局内容にそぐわなくなった。そのため『尼寺五十万石』は単行本化の際に、『おぼろ忍法帖』は角川文庫収録時に『忍法魔界転生』、後述する1981年の映画化の際に現行の題名に改題された。
同時期に白土三平が貸本劇画『忍者武芸帳 影丸伝』を発表しているが、従来の「忍術」を「忍法」に変えたことが共通する程度で、作風的には、あまり類似性はない。山田は生前、白土の漫画のことを読んだことがないと語っており、それぞれ、同時代に時代精神として並行して発生したものだと考えられる。
なお、1961年(昭和36年)から連載された横山光輝の漫画作品『伊賀の影丸』は、風太郎忍法帖の影響大の作品である。
忍法帖シリーズの執筆は1960年代の終わりまで続くが、1970年代に入ると幕末を舞台とした時代小説を中心に手掛けるようになる。忍法帖の様式に当てはまる最後の作品は、明治初期を舞台とした『開化の忍者』(1974年(昭和49年))である。
幕末を舞台とした短編は1970年代を中心にいくつか書かれているが、長編としては天狗党の乱を描いた『魔群の通過』と、明治元年に薩摩兵が惨殺されたことに対する報復による元幕臣の悲劇を描く『修羅維新牢』、国定忠治の息子が侠客修行の旅を続けるうちに維新の騒乱に身を投じる『旅人国定龍次』などがある(『修羅維新牢』は幕末の動乱が収まっていない時期であるため明治もののカテゴリーからは外れる)。
いずれも、維新のいわゆるヒーローのような人物がほとんど関わらない出来事を取り上げているのが特徴である。『旅人国定龍次』については後半、維新の志士や新撰組、坂本龍馬などが登場し物語に大きく関わりはするが、維新の部外者である侠客の目を通して、一定の距離を置いた幕末の動乱が描かれている。
幕末の作品が橋渡しをする形で、1973年(昭和48年)に、明治時代を舞台とした『警視庁草紙』の連載がオール讀物で始まる。“明治もの”と呼ばれる作品群は、明治6年から8年を舞台とした『警視庁草紙』から、基本的に作を進めるごとに時代が下ってゆく。風太郎原作・福田善之の戯曲『幻燈辻馬車』1992年初演(主人公は元会津藩士。三遊亭円朝、大山巌・捨松、田山花袋、川上音二郎・貞奴、坪内逍遥が登場)は明治15年から17年、『地の果ての獄』(主人公は愛の典獄といわれた有馬四郎助。原胤昭、幸田露伴、細谷十太夫、横川省三、鈴木音高、井上伝蔵、岩村高俊、新島襄が登場)は明治19年から20年が舞台。『明治断頭台』は例外的に遡って、1869年(明治2年)から1871年(明治4年)の最初期を舞台にしている。
日本人に馴染みの深い、あるいは名前を知っている歴史上の人物や事件を交差させる手法が特徴である。史実と史実の間を独創的なエピソードによってつなぐこの手法は、人物や事件を可能性の中から模索して結びつけることに成功している。ほとんどの作品は破綻を見せずに完成させているが、意図的に史実を無視した部分も存在する。これは他の時代を扱った作品においても同様である。
1986年(昭和61年)発表の『明治十手架』を最後に、明治物の作品執筆は終了する。
1989年(平成元年)、足利義政を主人公とした『室町少年倶楽部』を皮切りに、資料面の不足などから当時敬遠されていた室町時代を舞台にした“室町もの”と呼ばれる作品群を発表した。この中には、以下のような作品がある。
『柳生十兵衛死す』は「小説を書くとその分命を縮める」と考えていた山田が書いた最後の小説でもあるが、実際は白内障や糖尿病、パーキンソン病を次々患ったことで執筆活動そのものが困難になっていたとされる。そのためか晩年には、アイデアはあると語っていたが、小説にすることはなかった。室町時代を舞台に蓮如を狂言回しとして、八犬伝の犬士たちが活躍する室町ものの構想もそのひとつであるが、もし執筆されれば室町ものと忍法帖とのあいだの年表上の空白を補い、「忍法八犬伝」、「八犬傳」とあわせて八犬伝三部作ともいえる作品になったはずであった。なお、室町・戦国・江戸・明治・戦後初期と、それぞれ舞台とした小説の空白期間である、大正期・戦前期についての作品を書いて、風太郎サーガとして「時代の流れをすべて続ける」構想もあった。
90年代は随筆や対談、インタビュー集が出版されたが、その中でもパーキンソン病にかかった自分自身を見つめたエッセイ『あと千回の晩飯』は出色の出来である。
2001年(平成13年)7月28日、肺炎のため東京都多摩市の病院で死去。命日である7月28日は奇しくも師の江戸川乱歩の命日と同日である。
上に挙げたようなカテゴリーに当てはめられる作品群以外
上記以外の著名な著作に、
1990年代に入ってから、忍法帖シリーズはリバイバルと言える状況が2つの要因により発生した。一つはオリジナルビデオ(Vシネマ)ブームの中で、『くノ一忍法帖』をタイトルに冠したシリーズが発表されたことである。これらはいわゆるエロ・グロ・ナンセンスが強調され、くノ一が全く存在しない作品であっても登場させ、お色気シーンを加えたりするものがほとんどである。他では映像化のない忍法帖作品(『秘戯書争奪』や『自来也忍法帖』)が原作として取り上げられた点は貴重であるが、Vシネマとしての忍法帖は『山田風太郎原作の作品』というよりは『くノ一忍法帖』というブランドとして扱われている。
もう一つの要因は北上次郎が指摘しているが、脚本家から小説家に転じ、時代伝奇小説の分野に一大センセーションを巻き起こした、隆慶一郎が1989年(平成元年)に小説家活動僅か5年で急逝したことである。隆の作品から時代小説に興味を持ったものの、その死により読む物がなくなった読者層が、同傾向の過去作品を探し求めた結果として、忍法帖シリーズに辿りついた者が少なからずいたという。
山田が新作小説を発表しなくなってから、忍法帖シリーズに比べて正当に評価されていたとは言い難い作品群の再評価が始まった。
その先陣を切ったのは、『山田風太郎傑作大全』(廣済堂文庫、1996年〜)全24巻である。この中には入手困難だったミステリおよび時代小説の長・短編が数多く収められ、隠れた名作を手軽に読めるようになった。ただし、本の帯などでミステリ作品にあるまじき種明かしがされている(その後出版された光文社文庫版にはない)。現在でもこのシリーズでしか文庫化されていない作品が多く、1963年(昭和38年)の長編『太陽黒点』が広く知られるきっかけともなった。
山田が手をつけるまでは「明治時代は歴史・時代小説の鬼門」と言われた時代があったが、明治ものの成功以降、明治を舞台にした小説を書く作家が増えた。なお、明治ものの「実在の人物たちが、もしも、意外な場所で出あっていたら」という手法は、多くの作家に影響を与えた。関川夏央がやはり明治を舞台として、谷口ジローと合作した漫画『「坊っちゃん」の時代』シリーズはその典型だが、他にも類似の手法をとった作品は多い。
2001年(平成13年)に作者が死去した後も様々な形で企画が立ち、復刊、あるいは初単行本化が続いている。2003年(平成15年)には故郷兵庫県養父市に山田風太郎記念館が開設された。
『あと千回の晩飯』によると父の又従兄は男爵加藤弘之であり、加藤弘之の孫が浜尾四郎・古川ロッパ兄弟であるという。しかし、『風々院風々風々居士』によると、父・山田太郎のまたいとこは、加藤弘之の子の加藤照麿とある。
また、作家小林信彦も遠縁にあたる。
他のカテゴリに当てはまらない時代小説について、『山田風太郎妖異小説コレクション』(徳間文庫、2003年)に纏める企画が立てられたが、最初の4巻目で終了。
時代小説のうち、史実と異なる設定や結末、作者考案による架空の人物、タイムスリップ・架空戦史を含む歴史SFなどを本項で別記する。探偵小説的趣向が濃いものも含まれる。
長編の忍法帖作品は、基本的には連載終了後に単行本化された。長編は約28作品(忍法帖に入るか議論の分かれる作品あり)あるとされる。山田自身は、長編が31作と言及している。
1970年代後半より、角川文庫から佐伯俊男による官能的な表紙絵(文庫カバー)の山田風太郎作品(赤紫の背表紙で揃えている)が、忍法帖を中心に発売された。さらに1981年『魔界転生』の映画化がきっかけで再び忍法帖は脚光を浴びる。現在ではほぼ絶版だが、『忍法剣士伝』と『おんな牢秘抄』は2008年現在も販売中。(角川文庫のラインナップにないのは、「魔天忍法帖」「忍法創世記」「武蔵野水滸伝」「柳生十兵衛死す」)
その後、2003年の『魔界転生』の再映画化に伴い寺田克也による表紙で『甲賀忍法帖』などが復刊した。なお、1990年代に講談社が忍法帖の大半の作品(17長編・作者による自選短編集)をノベルスで出版。1998年から翌年にかけて、一部が天野喜孝の表紙で文庫化(全14巻)され、ノベルスは絶版となった。
忍法帖の短編集は、複数の出版社より刊行され、各巻に重複短編も多い。短編は83編以上(単行本未収録と、忍法帖に入るか議論の分かれる作品があり、最多で88編を数える)あるとされる。
『山田風太郎忍法帖短篇全集』(ちくま文庫、2004 - 05年)が全12巻で発売され、忍法帖の全短編の他、矢野徳の絵物語や、「忍者枯葉塔九郎」を水木しげるが漫画化した「大いなる幻術」などが付録に収められた。この完結と同時に、河出文庫で忍法帖の長編の出版計画が立てられたが、第一期の『信玄忍法帖』『外道忍法帖』『忍者月影抄』の3作品のみ刊行。
時代小説のうち、幻法や忍者・剣豪もので「忍法帖シリーズ」との関連が強い作品、作者自身が「忍法帖」扱いしている作品を本項で別記する(『尼寺五十万石』も本来はこの位置だが『柳生忍法帖』改題により、各社の全集・シリーズ企画では忍法帖扱いが普通)。
風太郎の明治作品は『山田風太郎明治小説全集』(全14巻、ちくま文庫、1997年)に、明治期を舞台にした忍法帖の短編『開化の忍者』以外を収録。
時代小説のうち、室町時代を扱った作品。
いくつかの作品は映画・テレビドラマ、舞台化され、根強い人気を証明している。
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"text": "正式なデビュー以前、旧制中学時代に何度か雑誌に小説を投稿し、入賞している。叔父からの仕送りで医学生をしていた時代、生活のために『宝石』の短編懸賞に応募した『達磨峠の事件』が入選(1947年1月号に掲載)したことで作家デビュー。1950年(昭和25年)、28歳で東京医科大学を卒業したものの、医師になることは、自ら不適と決める。",
"title": "来歴"
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"text": "戦後の荒廃した世相を背景とした推理小説を中心に、多数の短編を発表。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "また、同期の作家である高木彬光との合作小説『悪霊の群』を執筆するなど活動を続け、山田、高木と、島田一男、香山滋、大坪砂男は「探偵小説界の戦後派五人男」と呼ばれた。また、1950年(昭和25年)、高木彬光、島田一男、香山滋らと新人探偵作家の会「鬼クラブ」を結成して、同人誌『鬼』を刊行した。",
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"text": "長編『誰にも出来る殺人』、『棺の中の悦楽』等は、読み切り連載特有の制約を守りつつ、全体を意外な結末へ導く工夫を凝らしている。作者本人は、明治ものの一作である『明治断頭台』を自身のミステリ作品の最高傑作と述べている。",
"title": "来歴"
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"text": "デビュー以来10年、日本ミステリ界の巨人であり、宝石の編集長を自ら務めた江戸川乱歩への恩もあってミステリ作品を中心に執筆した。ただ、時々雑誌のカテゴリーを無視して時代小説を寄稿している。「(ミステリは)自分には向いていなかった」と山田自身は語っているが、多数の傑作を残したことは事実であり、2000年(平成12年)には日本ミステリー文学大賞を受賞した。現代を舞台にしたミステリ作品は、1960年代半ばまで断続的に発表された。例外として『神曲崩壊』は1987年(昭和62年)の作品である。",
"title": "来歴"
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"text": "鼻の位置にペニスがあるという突拍子もない設定の『陰茎人』をはじめとするユーモア・ナンセンス作品、学年誌に発表した少年向け作品や、歴史を扱った小説も多数発表。『山屋敷秘図』に代表される切支丹もののように日本を舞台にするだけでなく、原稿料のかわりに貰った中国四大奇書のひとつ『金瓶梅』をミステリとして再構成した『妖異金瓶梅』があり、忍法帖を執筆するきっかけともなった。なお、時代小説は晩年に至るまで執筆している。",
"title": "来歴"
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"text": "『妖異金瓶梅』の後、同じく四大奇書である『水滸伝』を翻案しようと模索するが、108もの武術を考えるに至らず、かわりに忍法という奇想天外な術を用いて活躍する忍者たちの小説を構想する。",
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"text": "1958年(昭和33年)に発表した『甲賀忍法帖』を皮切りとする忍法帖もので流行作家となる。これは安土桃山時代から江戸時代を舞台として、想像の限りを尽くした忍法を駆使する忍者たちの死闘を描いた作品群である。1963年(昭和38年)から講談社より発売された『山田風太郎忍法全集』は全10巻の予定であったが、刊行途中で連載を終えた『柳生忍法帖』の上・中・下巻と短編集2冊を加えて全15巻となり、累計で300万部を売り上げるベストセラーとなった。",
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"text": "その後も掲載紙を問わずに多数の長編・短編が執筆された。その中には細部の設定を詰めずに連載を開始したものも多かった。特に柳生十兵衛三部作の第一作『柳生忍法帖』は当初は『尼寺五十万石』と題され十兵衛が登場する予定はなく、第二作『魔界転生』は、どんな忍法が登場しても大丈夫なように適当な題名『おぼろ忍法帖』をつけたものの、結局内容にそぐわなくなった。そのため『尼寺五十万石』は単行本化の際に、『おぼろ忍法帖』は角川文庫収録時に『忍法魔界転生』、後述する1981年の映画化の際に現行の題名に改題された。",
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"text": "同時期に白土三平が貸本劇画『忍者武芸帳 影丸伝』を発表しているが、従来の「忍術」を「忍法」に変えたことが共通する程度で、作風的には、あまり類似性はない。山田は生前、白土の漫画のことを読んだことがないと語っており、それぞれ、同時代に時代精神として並行して発生したものだと考えられる。",
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"text": "なお、1961年(昭和36年)から連載された横山光輝の漫画作品『伊賀の影丸』は、風太郎忍法帖の影響大の作品である。",
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"paragraph_id": 23,
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"text": "忍法帖シリーズの執筆は1960年代の終わりまで続くが、1970年代に入ると幕末を舞台とした時代小説を中心に手掛けるようになる。忍法帖の様式に当てはまる最後の作品は、明治初期を舞台とした『開化の忍者』(1974年(昭和49年))である。",
"title": "来歴"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "幕末を舞台とした短編は1970年代を中心にいくつか書かれているが、長編としては天狗党の乱を描いた『魔群の通過』と、明治元年に薩摩兵が惨殺されたことに対する報復による元幕臣の悲劇を描く『修羅維新牢』、国定忠治の息子が侠客修行の旅を続けるうちに維新の騒乱に身を投じる『旅人国定龍次』などがある(『修羅維新牢』は幕末の動乱が収まっていない時期であるため明治もののカテゴリーからは外れる)。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "いずれも、維新のいわゆるヒーローのような人物がほとんど関わらない出来事を取り上げているのが特徴である。『旅人国定龍次』については後半、維新の志士や新撰組、坂本龍馬などが登場し物語に大きく関わりはするが、維新の部外者である侠客の目を通して、一定の距離を置いた幕末の動乱が描かれている。",
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},
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"text": "幕末の作品が橋渡しをする形で、1973年(昭和48年)に、明治時代を舞台とした『警視庁草紙』の連載がオール讀物で始まる。“明治もの”と呼ばれる作品群は、明治6年から8年を舞台とした『警視庁草紙』から、基本的に作を進めるごとに時代が下ってゆく。風太郎原作・福田善之の戯曲『幻燈辻馬車』1992年初演(主人公は元会津藩士。三遊亭円朝、大山巌・捨松、田山花袋、川上音二郎・貞奴、坪内逍遥が登場)は明治15年から17年、『地の果ての獄』(主人公は愛の典獄といわれた有馬四郎助。原胤昭、幸田露伴、細谷十太夫、横川省三、鈴木音高、井上伝蔵、岩村高俊、新島襄が登場)は明治19年から20年が舞台。『明治断頭台』は例外的に遡って、1869年(明治2年)から1871年(明治4年)の最初期を舞台にしている。",
"title": "来歴"
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"text": "日本人に馴染みの深い、あるいは名前を知っている歴史上の人物や事件を交差させる手法が特徴である。史実と史実の間を独創的なエピソードによってつなぐこの手法は、人物や事件を可能性の中から模索して結びつけることに成功している。ほとんどの作品は破綻を見せずに完成させているが、意図的に史実を無視した部分も存在する。これは他の時代を扱った作品においても同様である。",
"title": "来歴"
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"text": "1986年(昭和61年)発表の『明治十手架』を最後に、明治物の作品執筆は終了する。",
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"text": "1989年(平成元年)、足利義政を主人公とした『室町少年倶楽部』を皮切りに、資料面の不足などから当時敬遠されていた室町時代を舞台にした“室町もの”と呼ばれる作品群を発表した。この中には、以下のような作品がある。",
"title": "来歴"
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{
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"text": "『柳生十兵衛死す』は「小説を書くとその分命を縮める」と考えていた山田が書いた最後の小説でもあるが、実際は白内障や糖尿病、パーキンソン病を次々患ったことで執筆活動そのものが困難になっていたとされる。そのためか晩年には、アイデアはあると語っていたが、小説にすることはなかった。室町時代を舞台に蓮如を狂言回しとして、八犬伝の犬士たちが活躍する室町ものの構想もそのひとつであるが、もし執筆されれば室町ものと忍法帖とのあいだの年表上の空白を補い、「忍法八犬伝」、「八犬傳」とあわせて八犬伝三部作ともいえる作品になったはずであった。なお、室町・戦国・江戸・明治・戦後初期と、それぞれ舞台とした小説の空白期間である、大正期・戦前期についての作品を書いて、風太郎サーガとして「時代の流れをすべて続ける」構想もあった。",
"title": "来歴"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "90年代は随筆や対談、インタビュー集が出版されたが、その中でもパーキンソン病にかかった自分自身を見つめたエッセイ『あと千回の晩飯』は出色の出来である。",
"title": "来歴"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "2001年(平成13年)7月28日、肺炎のため東京都多摩市の病院で死去。命日である7月28日は奇しくも師の江戸川乱歩の命日と同日である。",
"title": "来歴"
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{
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"text": "上に挙げたようなカテゴリーに当てはめられる作品群以外",
"title": "歴史・死生観"
},
{
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"text": "上記以外の著名な著作に、",
"title": "歴史・死生観"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1990年代に入ってから、忍法帖シリーズはリバイバルと言える状況が2つの要因により発生した。一つはオリジナルビデオ(Vシネマ)ブームの中で、『くノ一忍法帖』をタイトルに冠したシリーズが発表されたことである。これらはいわゆるエロ・グロ・ナンセンスが強調され、くノ一が全く存在しない作品であっても登場させ、お色気シーンを加えたりするものがほとんどである。他では映像化のない忍法帖作品(『秘戯書争奪』や『自来也忍法帖』)が原作として取り上げられた点は貴重であるが、Vシネマとしての忍法帖は『山田風太郎原作の作品』というよりは『くノ一忍法帖』というブランドとして扱われている。",
"title": "再評価・影響"
},
{
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"tag": "p",
"text": "もう一つの要因は北上次郎が指摘しているが、脚本家から小説家に転じ、時代伝奇小説の分野に一大センセーションを巻き起こした、隆慶一郎が1989年(平成元年)に小説家活動僅か5年で急逝したことである。隆の作品から時代小説に興味を持ったものの、その死により読む物がなくなった読者層が、同傾向の過去作品を探し求めた結果として、忍法帖シリーズに辿りついた者が少なからずいたという。",
"title": "再評価・影響"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "山田が新作小説を発表しなくなってから、忍法帖シリーズに比べて正当に評価されていたとは言い難い作品群の再評価が始まった。",
"title": "再評価・影響"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "その先陣を切ったのは、『山田風太郎傑作大全』(廣済堂文庫、1996年〜)全24巻である。この中には入手困難だったミステリおよび時代小説の長・短編が数多く収められ、隠れた名作を手軽に読めるようになった。ただし、本の帯などでミステリ作品にあるまじき種明かしがされている(その後出版された光文社文庫版にはない)。現在でもこのシリーズでしか文庫化されていない作品が多く、1963年(昭和38年)の長編『太陽黒点』が広く知られるきっかけともなった。",
"title": "再評価・影響"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "山田が手をつけるまでは「明治時代は歴史・時代小説の鬼門」と言われた時代があったが、明治ものの成功以降、明治を舞台にした小説を書く作家が増えた。なお、明治ものの「実在の人物たちが、もしも、意外な場所で出あっていたら」という手法は、多くの作家に影響を与えた。関川夏央がやはり明治を舞台として、谷口ジローと合作した漫画『「坊っちゃん」の時代』シリーズはその典型だが、他にも類似の手法をとった作品は多い。",
"title": "再評価・影響"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2001年(平成13年)に作者が死去した後も様々な形で企画が立ち、復刊、あるいは初単行本化が続いている。2003年(平成15年)には故郷兵庫県養父市に山田風太郎記念館が開設された。",
"title": "再評価・影響"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "『あと千回の晩飯』によると父の又従兄は男爵加藤弘之であり、加藤弘之の孫が浜尾四郎・古川ロッパ兄弟であるという。しかし、『風々院風々風々居士』によると、父・山田太郎のまたいとこは、加藤弘之の子の加藤照麿とある。",
"title": "親族"
},
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、作家小林信彦も遠縁にあたる。",
"title": "親族"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "他のカテゴリに当てはまらない時代小説について、『山田風太郎妖異小説コレクション』(徳間文庫、2003年)に纏める企画が立てられたが、最初の4巻目で終了。",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "時代小説のうち、史実と異なる設定や結末、作者考案による架空の人物、タイムスリップ・架空戦史を含む歴史SFなどを本項で別記する。探偵小説的趣向が濃いものも含まれる。",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "長編の忍法帖作品は、基本的には連載終了後に単行本化された。長編は約28作品(忍法帖に入るか議論の分かれる作品あり)あるとされる。山田自身は、長編が31作と言及している。",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1970年代後半より、角川文庫から佐伯俊男による官能的な表紙絵(文庫カバー)の山田風太郎作品(赤紫の背表紙で揃えている)が、忍法帖を中心に発売された。さらに1981年『魔界転生』の映画化がきっかけで再び忍法帖は脚光を浴びる。現在ではほぼ絶版だが、『忍法剣士伝』と『おんな牢秘抄』は2008年現在も販売中。(角川文庫のラインナップにないのは、「魔天忍法帖」「忍法創世記」「武蔵野水滸伝」「柳生十兵衛死す」)",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "その後、2003年の『魔界転生』の再映画化に伴い寺田克也による表紙で『甲賀忍法帖』などが復刊した。なお、1990年代に講談社が忍法帖の大半の作品(17長編・作者による自選短編集)をノベルスで出版。1998年から翌年にかけて、一部が天野喜孝の表紙で文庫化(全14巻)され、ノベルスは絶版となった。",
"title": "作品一覧"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "忍法帖の短編集は、複数の出版社より刊行され、各巻に重複短編も多い。短編は83編以上(単行本未収録と、忍法帖に入るか議論の分かれる作品があり、最多で88編を数える)あるとされる。",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "『山田風太郎忍法帖短篇全集』(ちくま文庫、2004 - 05年)が全12巻で発売され、忍法帖の全短編の他、矢野徳の絵物語や、「忍者枯葉塔九郎」を水木しげるが漫画化した「大いなる幻術」などが付録に収められた。この完結と同時に、河出文庫で忍法帖の長編の出版計画が立てられたが、第一期の『信玄忍法帖』『外道忍法帖』『忍者月影抄』の3作品のみ刊行。",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "時代小説のうち、幻法や忍者・剣豪もので「忍法帖シリーズ」との関連が強い作品、作者自身が「忍法帖」扱いしている作品を本項で別記する(『尼寺五十万石』も本来はこの位置だが『柳生忍法帖』改題により、各社の全集・シリーズ企画では忍法帖扱いが普通)。",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "風太郎の明治作品は『山田風太郎明治小説全集』(全14巻、ちくま文庫、1997年)に、明治期を舞台にした忍法帖の短編『開化の忍者』以外を収録。",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "時代小説のうち、室町時代を扱った作品。",
"title": "作品一覧"
},
{
"paragraph_id": 53,
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"text": "いくつかの作品は映画・テレビドラマ、舞台化され、根強い人気を証明している。",
"title": "翻案・二次創作等"
}
] |
山田 風太郎は、日本の小説家。本名:山田 誠也。戦後日本を代表する娯楽小説家の一人。東京医科大学卒業、医学士号取得。 『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せる。特に奇想天外なアイデアを用いた『魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される大衆小説で知られている。2010年(平成22年)、その名を冠した「山田風太郎賞」が創設された。
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{{Infobox 作家
|name= 山田 風太郎<br />(やまだ ふうたろう)
|image=Fūtarō Yamada, circa 1952.jpg
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|caption=<small>世界社『富士』より(1952年)</small>
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|birth_name=山田 誠也
|birth_date=1922年1月4日
|birth_place=[[兵庫県]][[養父郡 (兵庫県)|養父郡]][[関宮村]]
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'''山田 風太郎'''(やまだ ふうたろう、[[1922年]][[1月4日]] - [[2001年]][[7月28日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名:'''山田 誠也'''(やまだ せいや)。戦後日本を代表する娯楽小説家の一人。[[東京医科大学]]卒業、[[医学士]]号取得。
『[[南総里見八犬伝]]』や『[[水滸伝]]』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた[[伝奇小説]]、[[推理小説]]、[[時代小説]]の3分野で名を馳せる。特に奇想天外なアイデアを用いた『[[魔界転生]]』や[[忍法帖シリーズ]]に代表される大衆小説で知られている。[[2010年]]([[平成]]22年)、その名を冠した「[[山田風太郎賞]]」が創設された<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.kadokawa.co.jp/sp/200910-07/ |title= 文学賞「山田風太郎賞」創設 |publisher= 角川書店 |accessdate= 2015-07-29 }}</ref>。
== 筆名 ==
筆名は、中学生時代に3人の友人らと互いに呼び合うのに用いた雷 / 雨 / 雲 / 風という符丁、そして受験雑誌への投稿時代にペンネームとして使用した「風」に由来する<ref>『日本ミステリー事典』(新潮社刊) p.320</ref><ref>『山田風太郎ミステリー傑作選1 眼中の悪魔』(光文社文庫) p.623</ref>。当初は「かぜたろう」と読ませたかったようである([[国立国会図書館]]のデータベースにその名残が見られる)が、最終的に「ふうたろう」で定着した。なお、戦前・戦後の映画・芸能雑誌をコレクションしていた[[色川武大]]が、その雑誌の中から、たまたま学生時代の「風太郎」名義の投稿を発見し、その頁のコピーを山田に送ったこともある。
生前に[[戒名]]を「風々院風々風々居士」と自ら定め、八王子の[[上川霊園]]にある墓石には「風ノ墓」と刻まれている。
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
[[兵庫県]][[養父郡 (兵庫県)|養父郡]][[関宮村]](現在の[[養父市]])で「山田医院」を開業していた父母ともに代々医者の家系に<ref name="shogai2">[http://futarou.ez-site.jp/shougai/index.html 山田風太郎の生涯] 山田風太郎記念館ウェブサイト、2011年4月20日閲覧</ref>生まれる。
5歳の時に父・太郎が[[脳卒中]]で急死<ref name="shogai">[http://futarou.ez-site.jp/shougai/index.html 山田風太郎の生涯] 山田風太郎記念館ウェブサイト、2011年4月20日閲覧</ref>。9歳で山陰の諸寄村に転居。11歳のときに母親が亡父の弟で医師である叔父と再婚して山田医院を再開。故郷の関宮へ戻る<ref name="shogai" />。
兵庫県立豊岡中学校(旧制中学=5年制、現在の[[兵庫県立豊岡高等学校]])に入学。旧制中学時代の教師に[[奈良本辰也]]<ref>山田風太郎『風眼抄』p.62</ref>、[[吉田靖彦 (国際政治学者)]]は中学の同級生で友人<ref>{{Cite news |url=https://book.asahi.com/clip/OSK201106050044.html |title=山田風太郎「忍術…デタラメ結構」 直筆手紙見つかる |newspaper=asahi.com |publisher=朝日新聞社 |date=2011-06-06 |accessdate=2020-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110623111104/https://book.asahi.com/clip/OSK201106050044.html |archivedate=2011-06-23}}</ref>。寮生活を始めた翌年[[1936年]](昭和11年)、母・昭子が[[肺炎]]により死亡。別の女性と再婚した<ref name="shogai" />叔父夫婦に養われるが、互いに親子の情愛は得られなかったという。
[[1940年]](昭和15年)[[旧制高等学校]]の合格はならず、2年間浪人。[[1942年]](昭和17年)8月には半ば家出状態で上京<ref name="shogai" />。この年に受けた[[徴兵検査]]で肋膜炎のために入隊を免れる(当時、甲種と乙種合格の者のみが徴兵されていた)。[[沖電気]]の軍需工場(品川)で働きながら受験勉強を続け、[[1944年]](昭和19年)に旧制[[東京医学専門学校]](後の東京医科大学)に合格。入学後は読書を心の支えに虚無的な生活を送るも、[[1945年]](昭和20年)5月に空襲で焼け出されて山形に避難し、[[沖電気]]時代の恩人である高須氏夫人の連れ子にあたる佐藤啓子(当時13歳)と出会う。後に学校ごと長野県の飯田に[[疎開]]。
敗戦前日には異常な精神状態となり、友人と徹夜で議論。「日本を救うためには不撓不屈の意思の力であと三年戦うしかない、無際限の殺戮にも耐え抜いたときのみにこそ日本人の誇りは守られる」と訴えた翌日の日記には「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とのみ記された。
[[1953年]](昭和28年)に妻子を得、終生を伴とする。
日本の敗戦についてはその後、「最大の敗因は科学であり、さらに科学的教育の不手際であった」と日記に著している<ref>「春秋」 『日本経済新聞』 2011年4月11日朝刊</ref>。
====後の著作への影響====
山田風太郎の作品に共通する、「一歩引いた視点からの人間や歴史への視点」は、幼少時の両親との死別、そして多感な青春時代に起こった[[太平洋戦争]]により型作られた。特に[[徴兵検査]]で体格不適格で丙種合格となったことが「社会から疎外された者」としての意識を形成することになったと自ら語っている。
=== 初期・ミステリと時代小説 ===
正式なデビュー以前、旧制中学時代に何度か雑誌に小説を投稿し、入賞している。叔父からの仕送りで医学生をしていた時代、生活のために『宝石』の短編懸賞に応募した『達磨峠の事件』が入選([[1947年]]1月号に掲載)したことで作家デビュー。[[1950年]](昭和25年)、28歳で[[東京医科大学]]を卒業したものの<ref name="shogai"/>、医師になることは、自ら不適と決める。
戦後の荒廃した世相を背景とした[[推理小説]]を中心に、多数の短編を発表。
また、同期の作家である[[高木彬光]]との合作小説『悪霊の群』を執筆するなど活動を続け、山田、高木と、[[島田一男]]、[[香山滋]]、[[大坪砂男]]は「探偵小説界の戦後派五人男」と呼ばれた。また、1950年(昭和25年)、[[高木彬光]]、[[島田一男]]、[[香山滋]]らと新人探偵作家の会「鬼クラブ」を結成して、同人誌『鬼』を刊行した<ref>『[[ユリイカ]]』2001年12月号・特集'''山田風太郎'''P.188[[日下三蔵]]「山田風太郎執筆年譜」</ref>。
長編『誰にも出来る殺人』、『棺の中の悦楽』等は、読み切り連載特有の制約を守りつつ、全体を意外な結末へ導く工夫を凝らしている。作者本人は、明治ものの一作である『明治断頭台』を自身のミステリ作品の最高傑作と述べている。
デビュー以来10年、日本ミステリ界の巨人であり、宝石の編集長を自ら務めた[[江戸川乱歩]]への恩もあってミステリ作品を中心に執筆した。ただ、時々雑誌のカテゴリーを無視して時代小説を寄稿している。「(ミステリは)自分には向いていなかった」と山田自身は語っているが、多数の傑作を残したことは事実であり、[[2000年]](平成12年)には[[日本ミステリー文学大賞]]を受賞した。現代を舞台にしたミステリ作品は、1960年代半ばまで断続的に発表された。例外として『神曲崩壊』は[[1987年]](昭和62年)の作品である。
鼻の位置にペニスがあるという突拍子もない設定の『陰茎人』をはじめとするユーモア・ナンセンス作品、学年誌に発表した少年向け作品や、歴史を扱った小説も多数発表。『山屋敷秘図』に代表される[[切支丹]]もののように日本を舞台にするだけでなく、原稿料のかわりに貰った[[中国]][[四大奇書]]のひとつ『[[金瓶梅]]』をミステリとして再構成した『[[妖異金瓶梅]]』があり、忍法帖を執筆するきっかけともなった。なお、時代小説は晩年に至るまで執筆している。
=== 忍法帖とブーム ===
『妖異金瓶梅』の後、同じく四大奇書である『[[水滸伝]]』を翻案しようと模索するが、108もの武術を考えるに至らず、かわりに忍法という奇想天外な術を用いて活躍する忍者たちの小説を構想する。
[[1958年]](昭和33年)に発表した『[[甲賀忍法帖]]』を皮切りとする忍法帖もので流行作家となる。これは[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]を舞台として、想像の限りを尽くした忍法を駆使する[[忍者]]たちの死闘を描いた作品群である。[[1963年]](昭和38年)から[[講談社]]より発売された『山田風太郎忍法全集』は全10巻の予定であったが、刊行途中で連載を終えた『柳生忍法帖』の上・中・下巻と短編集2冊を加えて全15巻となり、累計で300万部を売り上げるベストセラーとなった。
その後も掲載紙を問わずに多数の長編・短編が執筆された。その中には細部の設定を詰めずに連載を開始したものも多かった。特に[[柳生三厳|柳生十兵衛]]三部作の第一作『柳生忍法帖』は当初は『尼寺五十万石』と題され十兵衛が登場する予定はなく、第二作『魔界転生』は、どんな忍法が登場しても大丈夫なように適当な題名『おぼろ忍法帖』をつけたものの、結局内容にそぐわなくなった。そのため『尼寺五十万石』は単行本化の際に、『おぼろ忍法帖』は角川文庫収録時に『忍法魔界転生』、後述する1981年の映画化の際に現行の題名に改題された。
同時期に[[白土三平]]が[[貸本劇画]]『[[忍者武芸帳|忍者武芸帳 影丸伝]]』を発表しているが、従来の「忍術」を「忍法」に変えたことが共通する程度で、作風的には、あまり類似性はない。山田は生前、白土の漫画のことを読んだことがない<ref name="yasei9502">『[[小説野性時代|野性時代]]』(角川書店)1995年2月号</ref>と語っており、それぞれ、同時代に時代精神として並行して発生したものだと考えられる。
なお、[[1961年]](昭和36年)から連載された[[横山光輝]]の漫画作品『[[伊賀の影丸]]』は、風太郎忍法帖の影響大の作品である。
忍法帖シリーズの執筆は1960年代の終わりまで続くが、1970年代に入ると幕末を舞台とした時代小説を中心に手掛けるようになる。忍法帖の様式に当てはまる最後の作品は、明治初期を舞台とした『開化の忍者』([[1974年]](昭和49年))である。
=== 空白の幕末期 ===
幕末を舞台とした短編は1970年代を中心にいくつか書かれているが、長編としては[[天狗党の乱]]を描いた『魔群の通過』と、[[明治元年]]に薩摩兵が惨殺されたことに対する報復による元幕臣の悲劇を描く『修羅維新牢』、[[国定忠治]]の息子が侠客修行の旅を続けるうちに維新の騒乱に身を投じる『旅人国定龍次』などがある(『修羅維新牢』は幕末の動乱が収まっていない時期であるため明治もののカテゴリーからは外れる)。
いずれも、維新のいわゆるヒーローのような人物がほとんど関わらない出来事を取り上げているのが特徴である。『旅人国定龍次』については後半、維新の志士や[[新撰組]]、[[坂本龍馬]]などが登場し物語に大きく関わりはするが、維新の部外者である侠客の目を通して、一定の距離を置いた幕末の動乱が描かれている。
=== 明治もの・史実の交差 ===
幕末の作品が橋渡しをする形で、[[1973年]](昭和48年)に、明治時代を舞台とした『警視庁草紙』の連載が[[オール讀物]]で始まる。“明治もの”と呼ばれる作品群は、[[明治]]6年から8年を舞台とした『警視庁草紙』から、基本的に作を進めるごとに時代が下ってゆく。風太郎原作・福田善之の戯曲『[[幻燈辻馬車]]』1992年初演(主人公は元会津藩士。[[三遊亭圓朝|三遊亭円朝]]、[[大山巌]]・[[大山捨松|捨松]]、[[田山花袋]]、[[川上音二郎]]・[[川上貞奴|貞奴]]、[[坪内逍遥]]が登場)は明治15年から17年、『地の果ての獄』(主人公は愛の典獄といわれた[[有馬四郎助]]。[[原胤昭]]、[[幸田露伴]]、[[細谷直英|細谷十太夫]]、[[横川省三]]、[[鈴木音高]]、[[井上伝蔵]]、[[岩村高俊]]、[[新島襄]]が登場)は明治19年から20年が舞台。『明治断頭台』は例外的に遡って、[[1869年]](明治2年)から[[1871年]](明治4年)の最初期を舞台にしている。
日本人に馴染みの深い、あるいは名前を知っている歴史上の人物や事件を交差させる手法が特徴である。史実と史実の間を独創的なエピソードによってつなぐこの手法は、人物や事件を可能性の中から模索して結びつけることに成功している。ほとんどの作品は破綻を見せずに完成させているが、意図的に史実を無視した部分も存在する。これは他の時代を扱った作品においても同様である。
[[1986年]](昭和61年)発表の『明治十手架』を最後に、明治物の作品執筆は終了する。
=== 室町と晩年 ===
[[1989年]](平成元年)、[[足利義政]]を主人公とした『室町少年倶楽部』を皮切りに、資料面の不足などから当時敬遠されていた[[室町時代]]を舞台にした“室町もの”と呼ばれる作品群を発表した。この中には、以下のような作品がある。
*『婆沙羅』 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に、[[ばさら]]大名と呼ばれた[[佐々木道誉]]の奔放な人生。
*『室町お伽草紙』 - 少年時代の[[豊臣秀吉]]を中心に、京に集った若き日の[[織田信長]]・[[武田信玄]]・[[上杉謙信]]の物語。
*[[柳生三厳|十兵衛]] 三部作の完結編『柳生十兵衛死す』([[1991年]](平成3年)発表)
『柳生十兵衛死す』は「小説を書くとその分命を縮める」と考えていた山田が書いた最後の小説でもあるが、実際は[[白内障]]や[[糖尿病]]、[[パーキンソン病]]を次々患ったことで執筆活動そのものが困難になっていたとされる。そのためか晩年には、アイデアはあると語っていたが、小説にすることはなかった。室町時代を舞台に[[蓮如]]を狂言回しとして、八犬伝の犬士たちが活躍する室町ものの構想もそのひとつであるが、もし執筆されれば室町ものと忍法帖とのあいだの年表上の空白を補い、「忍法八犬伝」、「八犬傳」とあわせて八犬伝三部作ともいえる作品になったはずであった。なお、室町・戦国・江戸・明治・戦後初期と、それぞれ舞台とした小説の空白期間である、大正期・戦前期についての作品を書いて、風太郎サーガとして「時代の流れをすべて続ける」構想もあった。
90年代は随筆や対談、インタビュー集が出版されたが、その中でもパーキンソン病にかかった自分自身を見つめたエッセイ『あと千回の晩飯』は出色の出来である。
2001年(平成13年)[[7月28日]]、[[肺炎]]のため[[東京都]][[多摩市]]の病院で死去<ref>[[毎日新聞]] 2001年7月31日夕刊</ref>。命日である7月28日は奇しくも師の[[江戸川乱歩]]の命日と同日である。
== 歴史・死生観 ==
上に挙げたようなカテゴリーに当てはめられる作品群以外
*[[太閤記]]にはじまる英雄としての[[豊臣秀吉]]を疑問視し、徹底的なエゴイストとして描き切った『妖説太閤記』
*江戸時代の作家、[[曲亭馬琴]]の著作、[[南総里見八犬伝]]を再構成した上で、八犬伝の世界を“虚”、その作者である馬琴の世界を“実”として交互に綴るという構成の『八犬傳』 余談だが、山田は毎日の献立や出納などを全て日記に記録しており、同じことをしていた馬琴と共通するものがあったという。
上記以外の著名な著作に、
*自身の昭和20年の日記である『[[終戦日記|戦中派不戦日記]]』、[[1970年代]]の初版刊行から数十年経ても版元を変え重版されている。終戦の前日には出る杭を打ち、変わり者を追い払うという日本人は「全く独立独特の筋金の入らないドングリの大群」のようになったと嘆いていた。敗因の原因を日本人が「なぜか?」という問いを持たなかったという(「[[天声人語]]」[[朝日新聞]]2014年8月15日))。
*上記以外にも、[[太平洋戦争]]の開戦当日と終戦に至るまでの数日、日米双方で起きた出来事をピックアップして時系列順に並べた『同日同刻』もあり重版されている。
*古今東西の著名な923人の臨終の様をまとめ、死亡年齢順に並べた『人間臨終図巻』等が知られる。また学生時代の書簡集や、自身の子供の成長を書き記し、後に嫁入り道具として娘に持たせたという『山田風太郎育児日記』がある。
== 再評価・影響 ==
=== 忍法帖シリーズ ===
1990年代に入ってから、忍法帖シリーズはリバイバルと言える状況が2つの要因により発生した。一つは[[オリジナルビデオ]]([[Vシネマ]])ブームの中で、『[[くノ一忍法帖]]』をタイトルに冠したシリーズが発表されたことである。これらはいわゆるエロ・グロ・ナンセンスが強調され、くノ一が全く存在しない作品であっても登場させ、お色気シーンを加えたりするものがほとんどである。他では映像化のない忍法帖作品(『秘戯書争奪』や『自来也忍法帖』)が原作として取り上げられた点は貴重であるが、Vシネマとしての忍法帖は『山田風太郎原作の作品』というよりは『くノ一忍法帖』というブランドとして扱われている。
もう一つの要因は[[目黒考二|北上次郎]]が指摘しているが、[[脚本家]]から小説家に転じ、時代伝奇小説の分野に一大センセーションを巻き起こした、[[隆慶一郎]]が[[1989年]](平成元年)に小説家活動僅か5年で急逝したことである。隆の作品から時代小説に興味を持ったものの、その死により読む物がなくなった読者層が、同傾向の過去作品を探し求めた結果として、忍法帖シリーズに辿りついた者が少なからずいたという<ref>[[富士見書房|富士見時代小説文庫]]版『甲賀忍法帖』解説([[富士見書房]]刊)</ref>。
=== 忍法帖シリーズ以外の作品 ===
山田が新作小説を発表しなくなってから、忍法帖シリーズに比べて正当に評価されていたとは言い難い作品群の再評価が始まった。
その先陣を切ったのは、『山田風太郎傑作大全』(廣済堂文庫、1996年〜)全24巻である。この中には入手困難だったミステリおよび時代小説の長・短編が数多く収められ、隠れた名作を手軽に読めるようになった。ただし、本の帯などでミステリ作品にあるまじき種明かしがされている(その後出版された光文社文庫版にはない)。現在でもこのシリーズでしか文庫化されていない作品が多く、1963年(昭和38年)の長編『太陽黒点』が広く知られるきっかけともなった。
=== 明治ものの影響 ===
山田が手をつけるまでは「明治時代は歴史・時代小説の鬼門」と言われた時代があったが、明治ものの成功以降、明治を舞台にした小説を書く作家が増えた。なお、明治ものの「実在の人物たちが、もしも、意外な場所で出あっていたら」という手法は、多くの作家に影響を与えた。[[関川夏央]]がやはり明治を舞台として、[[谷口ジロー]]と合作した漫画『[[「坊っちゃん」の時代]]』シリーズはその典型だが、他にも類似の手法をとった作品は多い。
2001年(平成13年)に作者が死去した後も様々な形で企画が立ち、復刊、あるいは初単行本化が続いている。2003年(平成15年)には故郷[[兵庫県]][[養父市]]に[[山田風太郎記念館]]が開設された。
==親族==
『あと千回の晩飯』によると父の又従兄は[[男爵]][[加藤弘之]]であり、加藤弘之の孫が[[浜尾四郎]]・[[古川ロッパ]]兄弟であるという<ref>『あと千回の晩飯』「突然、古川ロッパの話」</ref>。しかし、『風々院風々風々居士』によると、父・山田太郎のまたいとこは、[[加藤弘之]]の子の[[加藤照麿]]とある<ref name="風々院67">『風々院風々風々居士』(ちくま文庫) P.67.</ref>。
また、作家[[小林信彦]]も遠縁にあたる<ref name="風々院67"/>。
== エピソード ==
*作品の原稿は、出版社から返却されると「焚き火が大好きで」とことごとく焼いたため、生原稿はほとんど残っていない(現在5編のみ確認されている)<ref>{{Cite news|url= https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0000733861.shtml |title= 山田風太郎 幻の直筆原稿新たに発見 記念館に寄贈 |newspaper= 神戸新聞 |date= 2007-11-09 |accessdate= 2020-11-15 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20071109175400/https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0000733861.shtml |archivedate= 2007-11-09 }}</ref>。
*毎晩ウィスキーをボトル3分の1も飲んで、「アル中ハイマー」と自称していた<ref>「[[天声人語]]」([[朝日新聞]]2014年8月15日)。</ref>。
*[[関川夏央]]による生前刊行の評伝『戦中派天才老人 山田風太郎』([[マガジンハウス]]、1995年4月/ちくま文庫、1998年12月)がある。
*追悼出版に『文藝別冊 山田風太郎 綺想の歴史ロマン作家』([[河出書房新社]]、2001年10月)がある。
*作品ガイドに『列外の奇才 山田風太郎』(角川書店、2010年11月)、『山田風太郎全仕事』([[角川文庫]]、2011年11月)がある。
== 作品一覧 ==
=== 探偵小説(シリーズ探偵) ===
==== 荊木歓喜もの ====
*[[十三角関係]] 名探偵・荊木歓喜 講談社、1956 のち廣済堂文庫、光文社文庫 - 風太郎作品の名探偵「[[荊木歓喜]]」の推理が冴えわたる長編
*帰去来殺人事件 大和書房 1983 「落日殺人事件」 桃源社 1958 - 中編「帰去来殺人事件」と短編7編を集めている。時代は戦後、復興未だならずという時期。
**帰去来殺人事件
**落日殺人事件
**チンプン館の殺人(歓喜登場)
**抱擁殺人
**西条家の通り魔
**女狩
**お女郎村
**怪盗七面相
==== 八坂刑事シリーズ ====
*[[夜よりほかに聴くものもなし]] 東都書房、1962 のち現代教養文庫、廣済堂文庫、光文社文庫 - 犯罪者の事情に理解を示しながらも、犯人を逮捕するベテラン刑事を主人公にした短編集。
**証言
**精神安定剤
**法の番人
**必要悪
**無関係
**黒幕
**一枚の木の葉
**ある組織
**敵討ち
**安楽死
==== 青春探偵団 ====
*[[山風短|青春探偵団]] 講談社、1959 のち廣済堂文庫 「殺人クラブ会員」東京文芸社、1964 - [[山風短|せがわまさき]] により漫画化。
**幽霊御入来
**書庫の無頼漢
**泥棒御入来
**屋根裏の城主
**砂の城
**特に名を秘す
==== 女探偵捕物帳 ====
*女探偵捕物帳 出版芸術社 のち角川書店 - 捕物帳とあるが舞台は終戦後の新宿など。
**三人の辻音楽師
**新宿殺人事件
**赤い蜘蛛 1952 「りべらる」1952年10月号掲載 - のちに類似トリックが、他の作品にも応用される。
**怪奇玄々教
**輪舞荘の水死人 - 建物トリックが、他作にも応用されている。
=== 本格ミステリ ===
==== 長編 ====
*誰にもできる殺人 講談社、1958 「誰にも出来る殺人」現代教養文庫、廣済堂文庫 - 「連鎖式」の連作長編。アパートの新しい住人が、前の間借り人が残した[[ノート]]を見つけ、過去の歴代間借り人の手記を読み始める。
**女をさがせ
**殺すも愉し
**まぼろしの恋妻
**人間荘怪談
**殺人保険のすすめ
**淫らな死神
==== 中編 ====
*厨子家の悪霊 「旬刊ニュース」1949年1号(初稿) 岩谷書店、 のちハルキ文庫 1997 - 雪原に倒れていた美貌の富豪夫人だが、積もった雪には、婦人の白いゴム[[長靴]]の足跡はなかった。「[[聖霊]]」とも形容される夫人の美しい娘と、夫の連れ子である狂人のように見える息子。そして、現場にいた「悪霊(あくれい)<ref group="注">悪霊の読みは「あくれい」と読み仮名がふられている。(光文社文庫など)</ref>」と呼ばれる魔犬の謎。
==== 短編 ====
*達磨峠の事件 - 新編・光文社文庫 2002
**達磨峠の事件 「宝石」1947年1月号掲載 - 山田風太郎の商業誌デビュー作の[[短編]]。途中で「犯人は誰か」と読者への問いかけが挿入される。
**旅の獅子舞
**死人館の白痴
**片目の金魚
**東京魔法街
**ふしぎな異邦人
*天使の復讐 「平凡」1948年2月号掲載 のち集英社文庫、1997
*眼中の悪魔 岩谷書店 1948 のち春陽文庫、光文社文庫 - 第2回探偵作家クラブ賞短編賞受賞。兄への手紙というスタイルで語られる、三人の複雑な人間関係による殺人事件。
*虚像淫楽 1948、のち桃源社 1965、出版芸術社 1995、旺文社文庫 - 性的倒錯の極致がミステリとして昇華された初期短編の傑作。真夜中に医院にかけこんできた少年。彼が連れてきた病人は昔その医院で働いていた看護婦。彼女は[[昇汞]]を飲んでいて、瀕死の状態であった。
*泉探偵自身の事件 1948 「新探偵小説」1948年5月号掲載 - ベントリー「トレント自身の事件」のもじり。
*笛を吹く犯罪 「オール小説」1949年3月号
*[[黄色い下宿人]] 『別冊宝石』1953年12月号 - ホームズものパロディ。[[夏目漱石]]も登場する。ドイル原典の[[語られざる事件]]「ジェイムズ・フィリモア失踪事件」を扱う。
*死者の呼び声 東方社 1955
*墓掘人
*恋罪 - 作中に作者自身が「山田風太郎」の名前で登場。
*司祭館の殺人
*二人 - 風太郎の現代物ミステリの中でも屈指のトリッキーな作品。
*天狗岬殺人事件 出版芸術社 2001、角川文庫 2010 - 単行本未収録の作品を集めたもの。
**天狗岬殺人事件 - 眠る殺人(スリーピング・マーダー)。ブランコなど揺れるものを恐れる主人公。
**この罠に罪ありや - 安下宿屋でのガス中毒死事件。「[[都市ガス]]がしばしば止まる」という当時の公共サービスの実態も語られる。
**夢幻の恋人
**二つの密室
*環 「推理ストーリー」1964年1月号 - 本作を最後に、1973年までミステリ新作はほぼ途絶える。
==== 犯罪実話 ====
*下山総裁 - 時効が成立し、未解決事件となった[[下山事件]]を描く。
*渡辺助教授毒殺事件 - クイーン「[[事件の中の女]]」のような実際に起きた事件の小説化。
=== 変格ミステリ ===
==== 長編(変格ミステリ) ====
*太陽黒点 桃源社、1963 のち廣済堂文庫 - 戦争が生んだ突飛な殺人を扱った長編ミステリ
*棺の中の悦楽 桃源社、1962 のち現代教養文庫、光文社文庫 - 人間の欲望を暴く異色長編。 監督:[[大島渚]]で映画化。
==== 短編(変格ミステリ) ====
*女が車に乗せるとき
*鬼さんこちら 「別冊週刊大衆」1961年8月26日号掲載
*目撃者
*とんずら
*飛ばない風船
*知らない顔
*不死鳥
*ノイローゼ
*動機
*あいつの眼 「傑作倶楽部」1957年6月号掲載 出版芸術社 2001 - 以下の短編は、単行本未収録作品の拾遺集として「山田風太郎コレクション」第1巻に併録。
*心中見物狂
*白い夜
*真夏の夜の夢
*殺人喜劇МW - 進歩的な文化人夫妻と若者の奇妙な殺人劇が展開するミステリ仕立ての風刺作。
==== 単行本未収録 ====
* 袈裟ぎり写真
* 黄泉だより
* 完全殺人者
* 初恋の美少女
* 武蔵野幻談 - 類似トリックが他作にも応用。
==== ミステリ概説 ====
:『山田風太郎ミステリー傑作選』(全10巻、[[光文社文庫]]、2001年)、『山田風太郎コレクション』([[出版芸術社]])の第1巻「天狗岬殺人事件」と、第3巻「[[十三の階段]]」(様々な作家による連作集)、高木彬光との共著『悪霊の群』で、山田のミステリ・少年ものはほとんど読める。正式デビュー以前の作品群も、『山田風太郎ミステリー傑作選』に収録された。ただし、刊行後に発見された原稿や掲載誌、および未発見の作品もある。
=== 奇想小説 ===
:現代もので推理小説でない作品と、伝奇小説のうち、舞台が現代、作者考案による架空の世界、時代物・歴史ものでない作品を本項で別記する。
==== 怪談もの ====
*怪談部屋 妙義出版 1956 のち光文社文庫 - 二十世紀の怪談七編を収録の中短編集。出版社により収録作品に多少の違いあり。
**手相 1947 「宝石」1947年10月号掲載 - 「達磨峠の事件」に次ぐ山田風太郎の商業誌二作目の[[短編]]。
**[[雪女]] 1948 岩谷書店
**笑う道化師 - サーカスのブランコ乗りによる道化師殺害計画。
**双頭の人 1949 「宝石」1949年1月号掲載
**黒檜姉妹 「ホープ」 1949年2月号掲載
**畸形国 「ホープ」 1950年1月号 - 昔話や落語の「一眼国」を連想させる、美醜の異なる価値観を持つ国の話。
**蝋人(ろう人間) 「小説世界」1950年2月号 - 窒息死した被害者。しかし、絞殺の痕跡も無く、殺害方法がわからない。
*二十世紀怪談 東方社 1956 - 二十世紀の怪談を収めた第二短編集。出版社によってはジュブナイル短編も含む。
**万太郎の耳 「ロック」1948年4月号掲載
**蜃気楼 「宝石」1948年6月号掲載
**永劫回帰 「宝石」1948年12月号掲載
**人間華 「モダン小説」1949年1月号掲載
**まぼろし令嬢 「ロック」1949年2月号掲載
**呪恋の女 「りべらる」1952年7月号掲載
**ドン・ファン怪談 「傑作倶楽部」1955年12月号掲載
**臨時ニュースを申上げます 「小説倶楽部」1958年9月号 文芸評論新社 1958
**美女貸し屋
**二十世紀のノア
==== SF小説 ====
*1999年 1956 光文社
*江戸にいる私(徳川家康)- 江戸初期にタイムスリップした不良カップル。主人公二人は現代に戻れずに終わる。
*江戸にいる私(平賀源内) 広済堂文庫、1973 - 上記の同名異作。江戸中期にタイムスリップした現代の物書き。
*神曲崩壊 朝日新聞社、1987 のち朝日文庫、廣済堂文庫 - 語り手は[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]に連れられて、「飢餓の地獄」「過食の地獄」「愛欲の地獄」などをめぐる。
*日本合衆国 2013 - 山田の没後に発見された未完成の作品。日本が47州の[[合衆国]]になる物語の構想。
==== 恐怖小説 ====
*女死刑囚 「りべらる」 1950年6月号 桃源社、 のち旺文社文庫 - 死刑執行を目前に控え、殺人犯の女囚が過去を回想する。
*30人の3時間 - 飛行機が墜落する前の三時間を描く。死の瞬間が近づく恐怖。
*新かぐや姫 「面白倶楽部」 1951年8月号 - 娘を失った悲しみを癒すために、放蕩三昧を続ける娼館の経営者。彼は妻の妹に密かな想いを抱いていた。
*呪恋の女 「りべらる」 1952年7月号
*祭壇 - 子宮ガンを宣告され生きる気力を失った女性。一人で死ぬのは嫌だから、誰か道連れにしようと考える。
*誰も私を愛さない 「週刊タイムス」1954年6-8号掲載 - 意識を取り戻した女性は記憶を失っていた。代わる代わる現れる彼女の「夫」だと称する男たち。
*跫音 角川ホラー文庫、1995 - ロシア文学の舞台劇のような恐怖小説。
*青銅の原人
*びっこの七面鳥
*エベレストの怪人
*とびらをあけるな
=== ユーモア・官能小説 ===
==== 素広平太シリーズ ====
*陰茎人 東京文芸社 1954 「奇想小説集」講談社文庫
*ハカリン
*男性滅亡
*満員島 春陽堂書店 1956
*自動射精機 1966 - 「[[忍法相伝64]]」シリーズの伊賀大馬との共演。
==== 風俗小説 ====
*恋の奇蹟屋 「富士」 1949年12月号
*露出狂奇譚 「別冊週刊大衆」 1960年5月号
*お玄関拝借 「週刊大衆」 1960年9月12日号
*わが愛しの妻よ 「推理ストーリー」 1961年12月号
*賭博学体系
==== エロ・グロ・ナンセンス ====
*男性週期律 桃源社、1964 のち光文社文庫 - 禁欲の男たち五人は、それぞれ数奇な運命を辿る。
*春本太平記 桃源社、1964 - 売れない作家や画家を使い大学生実業家が発行している春本が、検挙した法曹たちにも影響を与える。
*天国荘奇譚 桃源社、1964 のち光文社文庫
*ダニ図鑑
=== 戦争小説 ===
*戦艦陸奥 桃源社、1965 のち光文社文庫
**黒衣の聖母 「講談倶楽部」1951年2月号 - 復員兵が、出征中に空襲で死んだ妻そっくりの娼婦に出会う。
**戦艦陸奥 「面白倶楽部」1953年6月号 - 戦艦陸奥が爆沈した事件の、真相についての推論が語られる。
**魔島 - ガダルカナル島の戦闘で生き残った日本兵七名の悲劇。
**裸の島 - 南太平洋の小さな島に漂着した日本兵十名の運命。
**女の島 「講談倶楽部」1953年6月号 - 兵士三人、看護婦七人、そして五人の従軍慰安婦。孤島にたどり着いたとき、主従関係の逆転が始まる。
**潜艦呂号99浮上せず - 五ヶ月後に死ぬと予言された海軍中尉が、潜艦呂号99に乗り込む。
**狂風図 - 終戦直前、日本が戦争に負けるか否か、自分達はどうすべきか激論の疎開医学生たち。
**腐爛の神話 - 昔のニュース映画を観ているような感じの異色作。
**最後の晩餐 - 特高警察による、スパイ疑惑の『梟の家』と呼ばれる家を張り込みで起きた事件。
=== 普通小説・掌編 ===
==== ショート・ショート ====
*千人目の花嫁 (この世の見納め) 中部日本新聞
*鳥の死なんとするや
*無用な訪問者 1959 角川文庫
**馬鹿にならぬ殺人 - 「無用な訪問者」の原型。わずか2ページの掌編。
*幻華飯店 1962
*妖物 1963
*しゃべる男 「ショートショートランド」1982年冬号<ref name="short_index">{{Cite web|和書|url= http://www.02.246.ne.jp/~pooh/siryou/short_index.htm |title= ショートショートランド 主要掲載作品一覧 |accessdate= 2018-04-22 }}</ref>
*雲南 「ショートショートランド」1982年秋号<ref name="short_index"/>
==== 普通小説 ====
* 乳房
* 接吻反射
==== その他 ====
*泣きじゃくる悪魔 桃源社 1957
*道化の方舟 東都書房、1963
*極悪人 双葉社 1996
**極悪人
**大無法人
**わが愛しの妻よ
**この道はいつかきた道
* 一刀斎と歩く
=== 時代小説 ===
*みささぎ盗賊 1947 「ロック」1947年10月号掲載 - 山田風太郎の最初の[[時代小説]](短編)。全ジャンルでは「達磨峠の事件」「手相」に次いで三作目。
*妖僧 「富士」1949年3月号掲載 - 妖術使い無辺のいんちきを、織田信長が見破る。
*盲僧秘帖 東京文芸社 1955 - 目を潰されたり元々見えない蟇丸・蝶丸の二人の堕落した破戒僧が、陶・毛利が絡む大内家の内紛に介入する中編。
*山刄夜又 同光社出版 1957 「韋駄天百里」東京文芸社、「いだ天百里」廣済堂文庫、「[[いだてん百里]]」徳間文庫 - 岩田やすてるにより漫画化「NADESI〜いだてん百里」。
*黒百合抄 「オール讀物」1959年11月号掲載
*幽霊船棺桶丸 桃源社 1967
*幕末妖人伝 講談社 1974
**第一話 [[男谷検校|山上平蔵]] (からすがね検校)
**第二話 河上彦斎 (おれは不知火)
**第三話 高野長英 (伝馬町から今晩は)
**第四話 芹沢鴨 (新選組の道化師)
**第五話 徳川家定 (陰萎将軍伝)
**番外 [[増田甲斎|ウラジーミル・ヤマトフ]] (ヤマトフの逃亡)
*元禄おさめの方 平安書店 1975
*売色奴刑 平安書店 1975 「剣鬼と遊女」旺文社文庫、廣済堂文庫
*南無殺生三万人 東京文芸社 1975 「切腹禁止令」廣済堂文庫 - 初代火盗改・中山勘解由の人生。
*御用侠 講談社、1976 のち小学館文庫
*山屋敷秘図 旺文社文庫、1984 のち徳間文庫 - のちに「[[外道忍法帖]]」に登場する転び伴天連・フェレイラが出てくる切支丹もの。
*怪異投込寺 旺文社文庫、1985 のち集英社文庫
*踏絵の軍師 旺文社文庫、1986
*売色使徒行伝 広済堂文庫、1996
*笊ノ目万兵衛 門外へ 旺文社文庫、1984 のち大陸文庫、「おれは不知火」河出書房新社、2020 - 老中配下の鬼同心・笊ノ目万兵衛が、老中を襲撃する側に廻る。
*長脇差枯野抄 広済堂文庫、1997
*魅入る - 単行本未収録の短編。
==== 時代小説概説 ====
他のカテゴリに当てはまらない時代小説について、『山田風太郎妖異小説コレクション』([[徳間文庫]]、[[2003年]])に纏める企画が立てられたが、最初の4巻目で終了。
=== 伝奇小説 ===
時代小説のうち、史実と異なる設定や結末、作者考案による架空の人物、タイムスリップ・架空戦史を含む歴史[[サイエンス・フィクション|SF]]などを本項で別記する。探偵小説的趣向が濃いものも含まれる。
==== 異国もの ====
*蓮華盗賊 東方社 1955 - 山田作品では最も時代が古い(紀元前600年代の[[インド]])。
**万人杭 - 読みは「ワンインカン」。首を切られても再生する[[中国]]秘法。
**降倭変 - 舞台は[[朝鮮]]慶尚南道(キョンサンナムド、경상남도)の西生浦(ソセンポ、서생포)倭城。
==== 金瓶梅シリーズ ====
*[[妖異金瓶梅]] 講談社、1954 のち角川文庫、廣済堂文庫、扶桑社文庫(『秘抄金瓶梅』と合本)
*[[秘抄金瓶梅]] 講談社、1959
==== 反忠臣蔵もの ====
*妖説忠臣蔵 講談社、1957 のち集英社文庫、徳間文庫
**殺人蔵 - 目的のためには手段を選ばぬ大石内蔵助の冷酷さを描く。[[大岡忠相|語り手]]が誰かは最後に判明する。
**変化城 - 吉良は上杉の領地へ匿われることになり出立するが、何者かが執拗に付け狙う。
**名探偵・千坂兵部 - 密室ミステリ。
**生きている上野介 - 吉良が討ち入りで死ななかったという設定の「歴史IF」。
*大石大三郎の不幸な報い 1974 - 内蔵助の遺児である[[大石大三郎|大石良恭]]の末路と大石家の破滅を描く。
*大野九郎兵衛の逆運 - [[大野知房]]の零落と子孫の失敗を記した後日談。
*秘密を知る男 文藝春秋社、1974 - 山田宗徧は茶会で会った吉良の重臣二人の人品に貴種英傑の相を見る。のちに彼らの曾孫と仍孫は、富士山を描き海外からも絶賛された[[葛飾北斎|天才画家]]と、治水に長けた[[山吉盛典|開明派の統治者]]となる。
*蟲臣蔵(赤穂飛脚) 旺文社文庫、1985
**蟲臣蔵 - 48人目の赤穂浪士の無惨な結末を描く。
**赤穂飛脚(走る忠臣蔵) - お銀という女を頭にした飛脚を襲う強盗集団が、赤穂の使者のじゃまをするように頼まれる。
**行灯浮世之介
**おれも四十七士 - [[貝賀友信]]の惨めな最期。
*盗作忠臣蔵
**盗作忠臣蔵 1973 「週刊新潮」1973年1月5日号掲載 - 内匠頭刃傷事件のあおりをくらって改易となった土岐家。
**起きろ一心斎
**山田真竜軒
==== 反太閤記もの ====
*幻妖桐の葉落とし 東都書房 1958 「首(幻妖桐の葉おとし)」 桃源社 1965 のちハルキ文庫 - 大坂城の図面を預かる豊臣恩顧の大名が次々に殺される。 『[[甲賀忍法帖]]』の2年前に発表されたもの。伊賀・甲賀・真田の忍者が登場するが、武芸のみでのちの「忍法帖」のような忍法は使わない。
*[[妖説太閤記]] (上・下)、双葉社、1967 のち講談社文庫 - 「庶民の英雄」としての秀吉像を否定した長編。
*秀吉妖話帖 集英社文庫、1995
*明智太閤 東京文芸社 1967 - [[歴史改変SF]]。光秀が関白となり天下をとるパラレルワールドの日本。
==== 青砥稿花紅彩画 ====
*白浪五人帖 光文社、1958 「白波五人帖」旺文社文庫、集英社文庫、徳間文庫、春陽文庫
==== その他の伝奇小説 ====
*女人国伝奇 桃源社 1958 徳間文庫、「ありんす国伝奇」時代小説文庫 - 読みは「ありんす国」。江戸の吉原を舞台にした短編集。
**傾城将棋
**剣鬼と遊女
**ゆびきり地獄
**夜ざくら大名
*不知火軍記 桃源社 1959 のち旺文社文庫、集英社文庫
**不知火軍記 - のちに「[[外道忍法帖]]」に登場する天草扇千代が小西行長の孫娘・不知火と対決する中編。
**首 「宝石」1958年10月号掲載 - のちの忍法帖シリーズの中編「忍法小塚ッ原」と連作をなす。[[杵築藩]]の上屋敷「松平大隅守」邸前で討たれた井伊大老の首のゆくえ。
*[[魔群の通過]] 天狗党叙事詩 光文社、1978 のち角川文庫、文春文庫、廣済堂文庫
*旅人国定龍次(上・下) 「高知新聞」ほか1985年8月連載、講談社、1986 のち文庫、廣済堂文庫 - [[国定忠治]]の忘れ形見・龍次のさすらい旅。
=== 忍法帖(長編・連作) ===
*[[甲賀忍法帖]] 光文社、1959 のち角川文庫、時代小説文庫、講談社文庫 - 忍法帖シリーズの最初の長編。甲賀と伊賀、勝つのはどちらの忍法か。
*[[江戸忍法帖]] 講談社、1960 のち角川文庫、時代小説文庫、講談社文庫 - 忍法帖シリーズ第二長編。主人公対複数の忍者という構図の最初の作品。甲賀七忍と争う葵悠太郎、角兵衛獅子の姉弟。
*[[飛騨忍法帖]](飛騨幻法帖) 漫画サンデー連載時は「飛騨幻法帖」 東都書房、1960 「軍艦忍法帖」角川文庫 - 飛騨幻法が近代兵器と対決。五人の敵が使うは拳銃、鉄砲、大砲、騎馬隊、軍艦。
*[[くノ一忍法帖]] 講談社、1961 のち角川文庫、時代小説文庫、講談社文庫 - 豊臣秀頼の子胤をめぐる伊賀忍者五人衆と信濃くノ一五人の性戦。
*[[外道忍法帖]] 講談社、1962 のち角川文庫、河出文庫 - 長崎を舞台に、伊賀、甲賀、そして大友の忍者各15人×3=45人の忍法が繰り広げる三つ巴戦。
*[[忍者月影抄]] 講談社、1962 のち角川文庫、河出文庫 - 武芸者と忍者が組み、尾張と将軍家の争いに参入。「月影」は尾張柳生が使う秘剣。
*[[忍法忠臣蔵]](能登忍法帖)講談社、1962 のち角川文庫、時代小説文庫、講談社文庫 - 上杉家の能登忍者と能登組くノ一がそれぞれの忍法で、[[元禄赤穂事件]]を阻止。
*[[信玄忍法帖]](八陣忍法帖)講談社 1964 のち角川文庫、時代小説文庫、河出文庫(原題『八陣忍法帖』<ref group="注">連載前の予告では「甲斐忍法帖」。</ref>) - 信玄の生死をさぐる徳川忍者と猿飛・霧隠コンビの死闘。
*[[風来忍法帖]] 講談社(上・下)、1964 のち角川文庫、時代小説文庫、講談社文庫 - 小田原城下に集まった香具師が、本職の忍者を向こうに回して奮闘する。
*[[柳生忍法帖]] 講談社(上・中・下)、1964 のち角川文庫(上・下)、時代小説文庫、講談社文庫(原題『尼寺五十万石』) - 「柳生十兵衛三部作」の最初の長編。謎の盲目剣士が会津七本槍を一人ずつ倒す度に、加藤家の家紋「蛇の目」が一つずつ減っていく。忍法も忍者も登場しないが、十兵衛のトリックを一種の忍法として忍法帖シリーズと見做す。
*[[忍法八犬伝]] 徳間書店、1964 のち文庫、講談社文庫 - 八犬士の子孫がくノ一から里見の姫を守る。
*[[忍法相伝73]] 講談社、1965 のち角川文庫 - 「[[忍法相伝64]]」の改作と続編。忍法が現代(1964年当時)に蘇る。
*[[自来也忍法帖]] 実業之日本社、1965 のち角川文庫 - 「自ラ来タル也」と嘯く謎の忍者「自来也」登場。
*[[魔天忍法帖]] 徳間書店、1965 のち文庫 - パラレル戦国もの。「[[忍者化粧蔵]](忍者 枝垂七十郎)」の前日談。大丸屋呉服店の化粧蔵が冒頭とラストに出てくる。
*[[魔界転生|おぼろ忍法帖]](魔界転生) 講談社(上・中・下)、1967 「忍法[[魔界転生]]」のちに「魔界転生」角川文庫(上・下)、時代小説文庫、講談社文庫 - 「柳生十兵衛三部作」の第二長編。蘇った宮本武蔵、荒木又右衛門ら魔界衆七人に立ち向かう柳生十兵衛。柳生十人衆が奇策で十兵衛に助太刀。
*[[伊賀忍法帖]] 講談社、1967 のち角川文庫、時代小説文庫、講談社文庫 - [[真田広之]]主演で映画化。
*[[忍びの卍]] 講談社、1967 のち角川文庫 - 伊賀・甲賀・根来の忍者最強戦。
*[[笑い陰陽師]](忍法笑い陰陽師) 光文社カッパノベルス、1967 のち角川文庫『忍法笑い陰陽師』(原題『笑い陰陽師』) - 夫婦の忍者を主人公にした連作。
*[[忍法剣士伝]] 「[[新潟日報]] 」ほか1967年2月-9月連載(原題『忍者不死鳥』)、講談社 1968 のち角川文庫 - 北畠家に集結した剣士達12人から姫の身を守るべく、伊賀忍者と姫が逃亡の旅を続ける。
*[[銀河忍法帖]](佐渡忍法帖) 「週刊文春」1967年10月30日号 - 1968年7月22日号連載(原題『天の川を斬る』) 、文藝春秋、 1968 のち角川文庫 - 大久保長安の愛妾五人が操る携帯武器と伊賀忍者五人の忍法、いずれが有効か。
*[[秘戯書争奪]] 「週刊新潮」1968年2月23日 - 10月12日号連載(原題『秘書』)、 新潮社 1968 のち角川文庫 - 主人公と七人のくノ一、ヒロインと七人の伊賀者。恋人同士の二人が房中術の秘書「医心方房内篇」をめぐって対立する。
*[[忍法封印いま破る]] 「報知新聞」1968年10月28日 - 1969年4月30日連載(原題『忍法封印』)、報知新聞社、1969 角川文庫 - 「銀河忍法帖」の続編。主人公が忍法を封印したまま、体術や機転を武器に甲賀忍者五人と対決する。
*[[天保忍法帖]] 『漫画サンデー』1968年11月6日 - 1969年6月18日号連載(原題『われ天保の[[GPU]]』) 実業之日本社、1969 「忍者黒白草紙」角川文庫 - 天に代わり、法で裁けぬ巨悪に鉄槌を下す奉行と忍者。
*[[妖の忍法帖]](根来忍法帖) 光文社カッパノベルス、1969 「[[妖の忍法帖|忍法双頭の鷲]]」(あやかし忍法帖) 角川文庫(改版2018) - [[根来]]忍者の隠密コンビを主人公にした連作。正義サイド(主人公側)が敗北する作品。
*[[海鳴り忍法帖]] 講談社、1971 のち角川文庫、時代小説文庫(原題『市民兵ただ一人』) - 天才鍛冶職人が自ら開発した新兵器の力で、根来忍者30000人に立ち向かう。
*[[忍法創世記]] 出版芸術社、2001 のち小学館文庫 - 最後の忍法帖長編だが、時系列は最も古い。伊賀に忍法、柳生に剣術が興った由来が描かれる。
==== 長編概説 ====
長編の忍法帖作品は、基本的には連載終了後に単行本化された。長編は約28作品(忍法帖に入るか議論の分かれる作品あり)あるとされる。山田自身は、長編が31作と言及している{{Refnest|group="注"|「武蔵野水滸伝」「柳生十兵衛死す」の2作を含む28長編に、「[[柳生]]十兵衛三部作」に続く里見・上杉版三部作の構想があった『叛旗兵』『八犬伝』および度々映像化された『おんな牢秘抄』の3長編<ref>「総力特集 忍法帖完結対談」(『IN POCKET』1999年10月号)</ref>。}}。
:*[[1969年]]から翌年にかけて[[週刊文春]]で連載された『[[忍法創世記]]』のみ、『山田風太郎コレクション』(出版芸術社、2001年)第2巻で単行本化され、2005年に小学館文庫に収められた。当時出版されなかった理由は、出来が悪いと著者が判断し単行本化を拒否していたため<ref group="注">山田による忍法帖長編の採点では、「評価P」の「[[忍法相伝73]]」より下の扱い。</ref>と言われたり、または天皇と[[三種の神器]]、いわゆる皇室タブーを扱っていたためと解説する評者もいる<ref group="注">小学館文庫「忍法創世記」解説の縄田一男など。</ref>。
1970年代後半より、角川文庫から[[佐伯俊男]]による官能的な表紙絵(文庫カバー)の山田風太郎作品([[赤紫]]の背表紙で揃えている)が、忍法帖を中心に発売された<ref group="注">早期に絶版になった「忍法相伝73」および忍法帖でない「魔群の通過」には、角川文庫でも「佐伯イラスト版」がない。忍法帖ではない「[[妖異金瓶梅]]」と幕末もの「修羅維新牢」は、「佐伯イラスト版」が存在する。</ref>。さらに[[1981年]]『[[魔界転生]]』の映画化がきっかけで再び忍法帖は脚光を浴びる。現在ではほぼ絶版だが、『忍法剣士伝』と『おんな牢秘抄』は2008年現在も販売中。(角川文庫のラインナップにないのは、「魔天忍法帖」「忍法創世記」「武蔵野水滸伝」「柳生十兵衛死す」<ref group="注">「忍法八犬伝」も佐伯イラスト時代には、シリーズになかったが、21世紀に新装版で追加された。</ref>)
:*角川文庫の表紙で『くノ一忍法帖』、『[[忍法忠臣蔵]]』(「『忍法歓喜天』で美少年に換わる能登くノ一」(1976年)と「『忍法蜘蛛の糸巻』で蝶を捕獲する能登忍者」(1984年異装版)など)<ref>講談社文庫『[[忍法忠臣蔵]]』326ページ「忍法帖ギャラリー」。</ref>は佐伯イラストが複数ある。『魔界転生』と『伊賀忍法帖』は佐伯イラストと映画グラビアの二通り<ref group="注">タイトル『忍法魔界転生』が[[佐伯俊男]]イラストで、『魔界転生』が映画グラビアの表紙カバー。</ref>。また、[[1984年]]以降の『[[外道忍法帖]]』、『忍法剣士伝』、『秘戯書争奪』、『[[おんな牢秘抄]]』、『[[叛旗兵]] [[直江兼続|妖説直江兼続]]』 からは、表紙カバーが[[光沢紙]]になり、佐伯イラストの輪郭が細かい描写に代わる。
その後、2003年の『魔界転生』の再映画化に伴い[[寺田克也]]による表紙で『甲賀忍法帖』などが復刊した。なお、1990年代に[[講談社]]が忍法帖の大半の作品(17長編<ref group="注">「柳生忍法貼」と「魔界転生」は(上・下)。</ref>・作者による自選短編集)をノベルスで出版。1998年から翌年にかけて、一部が[[天野喜孝]]の表紙で文庫化(全14巻)され、ノベルスは絶版となった。
=== 忍法帖(中短編集)===
==== 中編・未完作・長編の原型 ====
*忍者 帷子乙五郎 1961 - 長編「忍法忠臣蔵」の原型。[[忍法忠臣蔵]]の第二章までに相当。紙や糸で何でも切断する特技を持つ主人公。 (「別冊アサヒ芸能」1961.9 )
*忍者化粧蔵 1961 - 町娘や旗本の姫など、美女に化けての隠密が得意な女装忍者と、彼女(彼)に恋する呉服店化粧蔵の娘に迫る忍者・枝垂七十郎の戦い。短編「[[忍者 枝垂七十郎]]」は、仏坂源内と枝垂七十郎の決闘など途中が大幅に省略されている。(「サンデー毎日」1961年11月特別号「忍者化粧蔵」)
*[[忍法相伝64]] 1964 「週刊大衆」連載 - 長編「[[忍法相伝73]]」の原型。[[コント55号]]主演で映画化。長らく単行本に未収録だったが、ちくま文庫「忍法破倭兵状」に新収録された。
*[[隠密忍法帖]](お小人忍法帖) 1965 - 長編「[[妖の忍法帖]](根来忍法帖)」の原型。沼田真田藩・加賀爪上杉藩・三日市前田藩<ref group="注">史実では、改易になったのは[[大聖寺新田藩]]前田家で、三日市および小津は[[加賀藩]]三日市奉行所の支配。</ref>らに不穏な動きあり。改易を狙う公儀はお小人(隠密)を放つが、お小人二人は探るうちに大名家に同情するようになる。大名3家までで連載休止。(「漫画サンデー」1965.1-3 )
**[[くノ一忍法帖 蛍火|傘骨連判状]] - 公儀に[[真田家]]の酷政を直訴しようとする旧領主・沼田家の末裔と百姓たち。根来お小人(隠密)二人は女に化けて潜入する。
**傾奇大名 - 婆沙羅な江戸南町奉行として名高い[[加賀爪直澄|上杉直澄]] 。江戸の町民を刮目させる資金源は何処にありやお小人二人が探索する。
**淫の寵姫 - [[上杉謙信|謙信]]を祀る小津神社に参拝する三日市藩の国御前。前田候の代参は[[カモフラージュ]]で、愛人と密会ではとお小人二人はにらむ。
*〆の忍法帖(とじこめ忍法帖) 1967 「オール読物」1967年5月号掲載 - 忍者の肉体による人工授精の試み。
*[[姦の忍法帖]]<ref group="注">「姦」の読みは、単行本や雑誌によっては「みだら」「よこしま」などの場合があるが、短編全集の「ちくま文庫」では「かん」とふりがながつけられている。</ref>(よこしま忍法帖) 「オール読物」1967年11月号、文藝春秋、1968 のち文庫、ちくま文庫 - 各藩が秘蔵の武具で最強を決める大会。「胎の忍法帖」以下の短編を併録。
**胎の忍法帖(妖胎記) - 織田信長の侵略に抵抗する輪島一族の忍法。
**牢の忍法帖(曲牢) - おんな牢に切支丹姉妹が送られて、女囚たちがキリシタンに染まってしまう。
**笊の忍法帖(忍ばずの忍者) - 精力絶倫の忍者が受ける三つの試練。
**転の忍法帖(筒を売る忍者) - 忍者が町医者となり始めた性転換手術。
*淫の忍法帖(むさぼり忍法帖) 1968 「オール読物」1968年7月号掲載 - 子宝に恵まれぬ大名家が、奥方や腰元の相手として五人の男を呼び出す。
*[[叛の忍法帖]](さからい忍法帖) 1968 角川文庫、1983 「忍法流水抄」 - 美しい女装の忍者・刈羽が、腰元として大名の奥方に接近し、天下を動かす。(1968年「オール読物」連載時は「忍びの死環」)
**倒の忍法帖(越後忍法帖) 1967 (「小説現代」1967年11月号では「忍法倒蓮華」<ref group="注">「倒」の読みは「ちょう」とされる。</ref>) - [[高田藩]]75万石・[[松平忠輝]]を女性化させようとする雪ノ外記・お貞夫婦の忍法。
*忍法関ケ原 文藝春秋 1970 のち文春文庫、講談社文庫、ちくま文庫 - 中編集。
**忍法関ケ原 - 関ケ原の直前、国友村の鉄砲鍛冶を味方につけようと、徳川・石田による「忍者」を使った代理戦争。
**忍法甲州路([[忍法無明剣]]) - 眠りの忍法対眠りの剣術。「体の一部だけ眠る」「半分眠る」など秘技を見せる忍者たちに、寝ぼけ女郎が挑む。
**忍法天草灘([[邪淫の雅歌]]) - 切支丹を改宗させるべく、長崎に婚約者同士の忍者カップルが派遣される。互いに、相手の男性器を持ち合って楽しむ[[男色]]行為、美男と醜女の性交を見て興奮する[[視姦]]行為、といった異常性癖が懺悔で語られる。
**忍法小塚ッ原 - 首切り役人が忍者だったという設定。短編「首」と連作になる。
*[[くノ一紅騎兵]](忍法万華鏡<ref group="注">単行本では「忍法万華集」とも。</ref>) 1971 講談社 のち 1979 角川文庫 - せがわまさきにより漫画化。 [[美少年]]の姿と美女のなりを使い分ける上杉の忍者。「叛旗兵」「能登忍法帖(忍法忠臣蔵)」で柳生(十兵衛)・里見(八犬伝)に次ぐ「上杉三部作」の構想。(『小説宝石』1971年1月号)
==== 短編集(忍法帖) ====
*[[かげろう忍法帖]](忍法陽炎抄) 講談社、1963 のち文庫、ちくま文庫、「忍法陽炎抄」角川文庫 - 最初の短編集。
**忍者 仁木弾正(かげろう忍法帖) 1961 - 忍法帖の[[短編]]では、最初の作品。 敵サイドの仁木弾正が倒されず生存、さらに、その背後の黒幕は「[[魔界転生|おぼろ忍法帖]]」でも悪役を務める<ref group="注">最大長編「おぼろ忍法帖」の朧と最初の短編「かげろう忍法帖」の陽炎は、シリーズ原点「[[甲賀忍法帖]]」のくノ一を連想させる趣向。</ref>。(「別冊週刊大衆」1961年1月号掲載「謀反人系図」改題)
**忍者 明智十兵衛 - 体を切断してもまた再生する忍法を使う十兵衛。発表時期も時系列(光秀が信長出仕より以前)もごく初期の作品で、複数の短編集に重録されている。
**忍者 向坂陣内 『オール読物』1963 - 江戸の町を荒らす盗賊団の陣内(鳶沢・庄司・向坂)三人と服部半蔵が戦う。
**忍者 本多佐渡守 - 岡本大八事件から大久保長安事件に至る大久保・本多の政争。初期の代表短編で複数の短編集に重録されている。
**忍者 服部半蔵 - 伊賀甲賀忍者軍団の総帥の兄と、忍法もできず遊女に惚れ込む弟の葛藤。
*[[野ざらし忍法帖]] 講談社、1964 のち文庫、ちくま文庫、「忍法行雲抄」角川文庫、1982 - 第二短編集。
**忍者 車兵五郎 - 水中および水上での忍者の決闘。
**忍者 野晒銀四郎(野ざらし忍法帖) - 死んでも蘇る「忍法生死人(いきしびと)」はいかにして敗れたか。
**忍者 九沓歓兵衛(忍者 傀儡歓兵衛) - 読者さえも幻惑されてしまう忍法「傀儡(くぐつ)廻し」。カー初期の「怪奇ミステリ」やダール「奇妙な味」にも似たトリッキーな忍法帖。
**[[忍者 枯葉塔九郎]] - 巻末に[[水木しげる]]による漫画化「大いなる幻術」を併録。[[山風短|せがわまさき]] により漫画化。
**忍者 梟無左衛門 - 主筋の娘の避妊を画策する忍者。
*[[さざなみ忍法帖]] 文藝春秋新社 1965 のち角川文庫「忍法鞘飛脚」「忍法破倭兵状」に分冊 1981、ちくま文庫「忍法破倭兵状」 - 第三短編集。
**忍法破倭兵状 - 朝鮮の忍者が出てくる忍法帖。
**忍法しだれ桜(さざなみ忍法帖) - 登場忍者36人(伊賀忍者1人、根来忍者27人、根来くノ一8人)は忍法帖の短編では最多。
**忍法鞘飛脚 - 名ばかりの忍者が最後に見せた忍法。
**甲賀南蛮寺領 - 伴天連に甲賀が与えられ、年貢徴収を妨害する甲賀忍者たちの苦闘。
**伊賀の散歩者 - 作中に、[[江戸川乱歩]]作品のタイトルが盛り込まれている。
*[[つばくろ忍法帖]](くノ一死にに行く) 講談社、1967 のちちくま文庫 - 第四短編集。タイトルに「試合」のつく短編を集めたもの。
**かまきり試合(くノ一媚笑して待つ) - 美少女くノ一の夫になるために、13人の伊賀忍者が死闘を繰り広げる。
**つばくろ試合(つばくろ忍法帖) 1966 (オール読物1966年3月号「つばくろ忍法帖」改題) - [[少林寺拳法]]と剣術使いのコンビが、根来忍者と対決。
**摸牌(モーパイ)試合 - [[結城秀康]]の男性器に彫られた刺青の秘密を、伊賀くノ一が探ろうとする。
**膜試合 - 処女を使って男を殺すユーモラスな短編。
**逆艪試合(逆艪一刀流) - 神子上と小野による一刀流の正統争い。
**捧げつつ試合(くノ一捧持して行く) - 公儀隠密と真田忍者との忍法戦。
**濡れ仏試合(くノ一香汗して追う) - 神子上・小野一刀流ものにくノ一が絡む。
**麺棒試合(忍麺) - 江戸の奇才、[[平賀源内]]が登場。
*くノ一忍法勝負 講談社 1969 のちちくま文庫
**虫の忍法帖(忍法虫)
**妻の忍法帖(妻はくノ一)(「奥様は忍者」<ref group="注">アメリカのテレビドラマ「奥様は魔女」のもじり。</ref>改題)
**呂の忍法帖
*武蔵忍法旅 文藝春秋 1970 のちちくま文庫 - 「忍法帖」の最後が「帖」以外で終わる短編を集めたもの。
**武蔵忍法旅(武蔵忍法帖)
**天下分目忍法咄(忍者 撫子甚五郎)
**おちゃちゃ忍法腹(忍法玄界灘)
**刑部忍法陣(忍譚 大谷刑部)
**近衛忍法暦(御盾ぬらりひょん)
**彦左衛門忍法盥(忍譚 大久保彦左衛門)
**ガリヴァー忍法島 1969 「小説セブン」1969年11月号掲載(「ガリヴァー忍法記」改題)
*お庭番地球を回る(世界忍法帖) 文藝春秋 1971 のちちくま文庫
**お庭番地球を回る - 日本を離れた忍者が外国人を驚かす。
**怪談厠鬼
**さまよえる忍者 1970 「小説サンデー毎日」1970年9月号掲載
**読淫術
*忍者六道銭 講談社 1971 のち角川文庫、ちくま文庫
**忍者六道銭
**忍者死籤
**天明の隠密(天明忍法帖) - [[国木田独歩]]「忘れえぬ人々」のパロディ<ref group="注">作中で、山田自身が「国木田作品のパロディ」と明言している。</ref>
*忍法聖千姫 講談社 1970 のちちくま文庫
**忍法聖千姫
**忍法とりかえばや(とりかえばや忍譚) - 身体の一部を他人のものと取り換える忍法で、優れた部位を身に着けた忍者たちの悲喜劇。
**忍法穴ひとつ
**忍法幻羅吊り
**忍法ガラシャの棺(柩の伽羅奢)
*津軽忍法帖 実業之日本社 1973 - 南部と津軽の確執と[[相馬大作]]に関連の作品集。
**怪異二挺根銃(津軽忍法帖)
**大いなる伊賀者 - 若衆(美少年)と傾城(美女)の両方の姿で津軽候を狙う、遊郭に潜む伊賀忍者。
**春夢兵
*剣鬼喇嘛仏 徳間ノベルス 1976 のち文庫、「剣鬼喇嘛仏 [[開化の忍者|最後の忍法帖]]」ちくま文庫、「伊賀の聴恋器」角川文庫
**[[剣鬼喇嘛仏]] - [[山風短|せがわまさき]] により漫画化。
**伊賀の聴恋器 - 忍法を馬鹿にしたため、服部組から半ば放逐された忍者が作る珍発明。
**妖羅の秀康(越前忍法帖) - 肉や皮膚を移植して、人体の器官を再生する[[越前藩]]の忍者。[[結城秀康]]を暗殺すべく放たれた刺客との対決。
**[[開化の忍者]](最後の忍法帖) - 忍法帖シリーズ[[最後]]の[[短編]]。単行本未収録を除くと、83番目の短編。時系列では「忍法相伝110 白馬降臨」(舞台は1965年)が最も現代に近い。
*女郎屋戦争 1981 角川文庫「忍法女郎屋戦争」(原題『女郎屋戦争』)
**女郎屋戦争(忍法女郎屋戦争)<ref group="注">「女郎屋」の読みは「じょろや」で、単行本にはカバーにもルビが付いている。</ref> 「オール読物」1971年11月号掲載
**忍法花盗人
**忍法阿呆宮 1969(問題小説1969年5月号「大奥阿呆宮」改題)
**忍法肉太鼓
*忍法落花抄 角川文庫、1983 - 単行本未収録の作品を中心にした短編集。
**忍者 石川五右衛門 「別冊週刊大衆」1970年3月11日号
**忍法死のうは一定
**忍法瞳録 (「別冊文藝春秋」1970年3月号「盲忍」改題)
**忍者 帷子万助 - 風太郎の「忍法帖シリーズ」としては珍しく、主人公側の忍者が全員生還する。
**忍者 玉虫内膳 - 足の指で剣を操る忍者が、将軍や幕閣を悩ます変死騒動の犯人探しに挑む。
==== 短編(忍法帖) ====
*筒なし呆兵衛 1971 - 『山田風太郎忍法帖短篇全集』全12巻(ちくま文庫、初版2004 - 2005年)に未収録の短編。題名は「[[耳なし芳一]]」のもじり。
==== 掌編 ====
*忍者 鶉留五郎 - わずか5ページの[[ショートショート]]で、「忍法帖シリーズ」最短の作品。「忍者化粧蔵」と「魔天忍法帖」に出てくる大丸呉服店の化粧蔵が、本作にも三たび登場。
==== 忍法帖エッセイ ====
*忍法と剣のふるさと 1963 「週刊現代」1963年3月28日号 - 伊賀・甲賀・柳生の紀行文だが、内容は辛辣で批判的なコメントが多い。
*忍法小説はなぜうけるか 1964 「サンケイ新聞」1964年2月3日 - サルトルの「何も足さない、何も引かない」をはじめ、「機械文明への反発」「天下は泰平なり」などと忍法帖の流行について分析。
*首斬り浅右衛門 1964 「アサヒグラフ」1964年2月14日号 - [[延宝]]年間に書かれた忍術書「万川(まんせん)集海」に記載のある忍者の紹介。
*「今昔物語集」の忍者 1964 「漫画サンデー」1964年2月26日号 - 「忍法帖を書き始めたきっかけが『水滸伝』だった」など、「忍法帖シリーズ」の裏話を作者が語るエッセイ。
*「甲子夜話」の忍者 1964 「オール読物」1964年3月号 - 肥前平戸の藩主、松浦静山(まつうら せいざん)が著した「甲子夜話(かつしやわ)」に登場する忍者について語る。
*TV忍法帖 1964 「女性自身」1964年9月7日号 - テレビで活躍する[[植木等]]らの魅力を、「忍法」に例えた異色エッセイ。
*忍法金メダル作戦 1971 - [[円谷幸吉]]など五輪選手を忍者とし、高速道路の早期建設も「日本国による忍法」であると言及。
==== その他の忍法帖 ====
*慶長大食漢 - 『山田風太郎忍法帖短篇全集』全12巻(ちくま文庫、初版2004 - 2005年)には「忍法帖ではない」として未収録の短編。角川書店では「忍法帖」扱い。
*嗚呼益羅男 1971「小説現代」1971年12月号掲載 - 同じく「忍者も忍法も登場せず、忍法帖ではない」として同上の全集に未収録。角川書店では「忍法帖」扱い。
*天明の判官 - 同全集に未収録。[[下ネタ]]に注意。忍者は出るが名前が無い。
*家康の幕の中(忍者シリーズ 家康の幕の中) 1964 - 西瓜を切らずに中に物を入れる根来忍者。
*叛心十六歳(ただいま十六歳 由井正雪) 1965 - 『おぼろ忍法帖』の前日談。
==== 短編概説 ====
忍法帖の短編集は、複数の出版社より刊行され、各巻に重複短編も多い。短編は83編以上(単行本未収録と、忍法帖に入るか議論の分かれる作品<ref group="注">「慶長大食漢」「嗚呼益羅男」「幻妖桐の葉落とし」「不知火軍記」「首」など。</ref>があり、最多で88編を数える)あるとされる。
『山田風太郎忍法帖短篇全集』(ちくま文庫、2004 - 05年)が全12巻で発売され、忍法帖の全短編<ref group="注">短編「筒なし呆兵衛」のみ『忍法帖短篇全集』(ちくま文庫)には収録されていない。</ref>の他、[[矢野徳]]の[[絵物語]]や、「忍者枯葉塔九郎」を[[水木しげる]]が漫画化した「大いなる幻術」などが付録に収められた。この完結と同時に、[[河出文庫]]で忍法帖の長編の出版計画が立てられたが、第一期の『信玄忍法帖』『外道忍法帖』『忍者月影抄』の3作品のみ刊行。
=== 忍法帖に準ずる長編小説 ===
時代小説のうち、幻法や忍者・剣豪もので「忍法帖シリーズ」との関連が強い作品、作者自身が「忍法帖」扱いしている作品を本項で別記する(『尼寺五十万石』も本来はこの位置だが『[[柳生忍法帖]]』改題により、各社の全集・シリーズ企画では忍法帖扱いが普通)。
==== 準忍法帖(作者の評価・採点あり) ====
*[[武蔵野水滸伝]](上・下) 講談社、1974 のち時代小説文庫、小学館文庫 - 幻術を使う魔人・任侠・剣豪が戦う長編。「忍法帖」に含めて語られる解説もある<ref group="注">小学館文庫「あとがき」などでは「おぼろ忍法帖(魔界転生)」の幕末版と称されている。</ref>。
*[[柳生十兵衛死す]](上・下) 毎日新聞社 1992 のち時代小説文庫、講談社文庫 - 「柳生十兵衛三部作」の最終作として「忍法帖」に準ずる扱いをされることもある<ref group="注">前二作は「柳生忍法帖」と「おぼろ忍法帖(魔界転生)」。</ref>。
==== 関連長編 ====
*[[おんな牢秘抄]] 東都書房、1960 のち角川文庫 - 何度も映像化され、忍法帖シリーズの一つのような位置付けを受ける場合がある。
*[[叛旗兵]] 産経ノベルス、1976 のち角川文庫、廣済堂文庫、徳間文庫(『叛旗兵 妖説直江兼続』と改題) - [[前田利益|前田慶次郎]]・[[岡定俊|岡野左内]]・[[車斯忠|車丹波]]・[[上泉泰綱|上泉主水]]ら「直江四天王」と本多正信の次男・[[本多政重|直江勝吉]]との確執を抱えつつ、直江山城守が伊達・福島・浅野ら徳川に屈した大名家をやり込めていく。忍者も登場。
*[[南総里見八犬伝|八犬傳]](八犬伝) 朝日新聞社、1983 のち文庫、角川文庫、廣済堂文庫 - 「八犬伝」と馬琴の生涯を交互に描いた作品。風太郎にはあと一遍、八犬伝ものを書き「里見三部作」(本項目の第1章第6項「室町と晩年」参照)とするアイデアがあったという。
=== 明治もの ===
*運命の俥(明治かげろう俥)1957 桃源社 1959 「明治かげろう俥」 旺文社文庫 - 明治ものを書き始める前に書いた長編作品。[[大津事件]](ロシア皇太子暗殺未遂)で栄達した人力車の車夫二人だが、女色に溺れ運命の歯車が狂っていく。
*明治忠臣蔵 河出文庫、1954 - 旧[[相馬藩]]をめぐるお家騒動。忠臣・錦織剛清がマスコミや世論を味方に英雄となるも最後に敗北する。
**[[天衣無縫]](天皇と美女と暗殺) 1955 - [[広沢真臣]]暗殺で愛妾・おかねが疑われるが無罪となり釈放される。『[[おんな牢秘抄]]』のような[[くすぐりフェティシズム|くすぐり責め]]の描写がある。
**絞首刑第一号 1956
**三剣鬼 1965
*斬奸状は馬車に乗って 講談社 1973 のち「東京南町奉行」旺文社文庫、大陸文庫、ちくま文庫 1997
**斬奸状は馬車に乗って
**東京南町奉行
**切腹禁止令
**首の座
*[[山田風太郎 からくり事件帖-警視庁草紙より-|警視庁草紙]] 文藝春秋、1975 のち文庫、河出文庫 - 「明治もの」第一長編 明治6年から10年までを描く。
*[[幻燈辻馬車]] 新潮社、1976 のち文春文庫、河出文庫 - 元会津藩士の辻馬車に、事件や問題を抱えた乗客が乗り込んでくる。
*地の果ての獄 文藝春秋、1977 のち文庫、ちくま文庫 - 北海道を舞台に多彩な人物が事件を起こす群像劇。
*明治断頭台 文藝春秋、1979 のち文庫、ちくま文庫
*明治波濤歌 新潮社、1981 のち文庫、河出文庫、ちくま文庫 - 日本を去った者、日本へやってきた者、それぞれの事情を描き出す。全て海に何らかの関係がある中編。
**それからの咸臨丸
**風の中の蝶 - [[南方熊楠]]と[[北村透谷]]の青春譜。
**からゆき草紙 - [[樋口一葉]]の目前で起きた密室殺人。
**巴里に雪のふるごとく
**築地西洋軒
**横浜オッペケペ
*エドの舞踏会 文藝春秋、1983 のち文庫、ちくま文庫 - [[鹿鳴館]]に集う女たちのドラマ。
*[[ラスプーチンが来た]] 文藝春秋、1984 のち文庫、ちくま文庫 - 若き日の[[明石元二郎]]が活躍の長編
*[[明治十手架]] 1986 「読売新聞」夕刊 1986年8月16日号-1987年11月7日号連載 読売新聞社、1988 のち角川文庫、ちくま文庫 - 明治もの最後の長編。『地の果ての獄』でも監獄教誨師として登場した実在の人物、[[原胤昭]]の若き時代の物語。
*明治バベルの塔 [[万朝報]]暗号戦 新芸術社 1989.7 のち文春文庫、ちくま文庫
**明治バベルの搭 - 黒岩涙香が目論む新聞企画。
**牢屋の坊っちゃん - 夏目漱石の文体を真似て小山六之助の獄中を綴る。
**いろは大王の火葬場 - 火葬場稼業で成功した木村荘平。
**四分割秋水伝
**明治暗黒星 - 明治政界の巨魁・[[星亨]]の生き様を「練武館」伊庭秀穎の弟・想太郎と対比させて綴る。
==== 明治ものエッセイ ====
*巡査の初任給 1980
*滑稽で懸命で怖ろしい時代 1992
*Edoは美しかったか 1993
*妖人明石元二郎
==== 明治もの概説 ====
風太郎の明治作品は『山田風太郎明治小説全集』(全14巻、ちくま文庫、[[1997年]])に、明治期を舞台にした忍法帖の短編『開化の忍者』以外を収録。
=== 室町もの ===
時代小説のうち、室町時代を扱った作品。
*婆沙羅 講談社、1990 のち文庫 - 南北朝の動乱を背景に、佐々木道誉の目を通じて語られる室町長編
*室町お伽草紙 青春!信長・謙信・信玄卍ともえ 新潮社、1991 のち文庫 - 若き日の信長・謙信・信玄が京の都に集結。
*室町少年倶楽部 文藝春秋、1995 のち文庫 - 中編2作を収録。
**室町の大予言 - くじ引きで選ばれた六代将軍・義教の数奇な運命。
**室町少年倶楽部 - 花の御所の「魔界」を描く。
=== 没後刊行の作品集 ===
*山田風太郎 幻妖のロマン [[勉誠出版]]、2003年。[[志村有弘]]編
*忍法相伝73 ミステリ珍本全集・戎光祥出版、2013年。日下三蔵編
*山田風太郎新発見作品集 出版芸術社、2013年。有本倶子編
=== ジュブナイル(少年少女向け) ===
*『山田風太郎少年小説コレクション』 全2巻 [[論創社]]、2012年。[[日下三蔵]]編
==== 荊木歓喜ものリライト ====
*軟骨人間 「科学の友」 1950年1月号
*古墳怪盗團 「科学の友」 1950年2月号
*空を飛ぶ悪魔 「科学の友」 1950年3月号
*虹の短剣 「科学の友」 1950年4月号
==== 長編(ジュブナイル) ====
*夜光珠の怪盗 「太陽少年」 1953年1月号-7月号 - 「少年小説コレクション1 夜光珠の怪盗」- 現代もの。
*地雷火童子 「少年クラブ」 1960年1月号-12月号
*冬眠人間 「少年クラブ」 1959年1月号+12月号 - 「少年クラブ」版のほか複数のヴァージョンあり。
==== 中編(ジュブナイル) ====
*神変不知火城 1951 「少年少女譚海」 1950年1-5月号 - 「少年小説コレクション2 神変不知火城」- 歴史伝奇もの。
*黄金密使 1950 「少年少女譚海」1950年9-11月号
*緑の髑髏紳士 「少年少女漫画と読物」 1953年1-3月号
*黄金明王のひみつ 1957 「中学時代一年生」1957年1-3月号
*暗黒迷宮党 「中学時代二年生」 1957年7月号-11月号
*なぞの黒かげ 「四年の学習」 1957年10月号-1958年3月号
*笑う肉仮面 東光出版社、1958 のち光文社文庫 - 山田の少年少女もの作品を代表する中編。
**肉仮面 - 中編「笑う肉仮面」の原型。連載中の出版社が倒産により未完。のちの「笑う肉仮面」よりは、おどろおどろしさが控えめ。
==== 短編(ジュブナイル) ====
*摩天楼の少年探偵
*魔の短剣 - 山田には珍しい[[少女]]向けミステリ。救いのある結末であるとともに、手がかりが文中で記述されており、読者にフェアな作品。
*魔人平家ガニ
*青雲寮の秘密 - 自身の体験を基にした「天国荘奇譚」の少年向けリライト。
*水葬館の魔術 - 屋敷の[[見取図|見取り図]]のついた本格仕立てのミステリ。
*姿なき蝋人 - 旅館で三人の男が次々に殺されるが犯人の姿がない。一般向け作品「蝋人(ろう人間)」のリライトだが、大幅に改変されている。
*秘宝の墓場
*魔船の冒険
*なぞの占い師 - 当時の[[吉田茂]] を思わせる癇癪もちの総理大臣が登場する。
==== 掌編(ジュブナイル) ====
*誰が犯人か 窓の紅文字の巻
*誰が犯人か 殺人病院
==== 高校生向け ====
*信濃の宿 「高校時代」 1954年10-12月号
=== デビュー以前の作品 ===
==== 一般読者向け ====
*橘傳来記 「橘傳来記 山田風太郎初期作品集」 出版芸術社 2008
**橘傳來記
**朝馬日記
**嵐
**火事
**勘右衛門老人の死
**國民徴用令
**蒼穹
==== 旧制・中高校生向け ====
*石の下 「受験旬報」 1940年2月上旬号 - 山田の小説[[処女作]]。父と兄の死により、医学への道を勧められる[[旧制中学]]生の苦悩と、年上の従姉の想いを綴る。
*鳶 「受験旬報」 1941年3月号
*鬼面 「受験旬報」 1940年4月号
*三年目 「受験旬報」 1940年10月号
*陀経寺の雪 「受験旬報」 1941年1月号
*白い船 「受験旬報」 1941年4月号
=== 合作・共著 ===
*[[白薔薇殺人事件]] 「モダン日本」1948年11月号 - 戦後すぐに、その頃デビューした作家6名によって書かれた連作。香山滋・島田一男・山田風太郎(第3話を担当)・楠田匡介・岩田賛が1話づづ担当し、完結編「薔薇未だ崩れず」を[[高木彬光]]で締める。(「香山滋全集・別館」三一書房 1997)
*[[十三の階段]] 1953 - 山田風太郎・[[島田一男]]・岡田鯱彦・高木彬光によるリレー作品。
*悪霊の群 東京文芸社、1955 - 高木彬光との合作。
*風さん、高木さんの痛快ヨーロッパ紀行 出版芸術社 2011 - 山田風太郎・高木彬光(著) 巨匠2人のヨーロッパ旅行記を再刊行し、未公開の旅日記を初公開。
=== その他の作品 ===
:;※昭和21年以降に書かれた日記は[[小学館]]で、様々な雑誌などに掲載されたエッセイ群は[[筑摩書房]]で没後出版。
;日記
:*戦中派不戦日記 -昭和20年 番町書房、1971/ 講談社文庫 1985、新装版 2002 / 角川文庫 ベストコレクション(以下略)2010
:*滅失への青春 戦中派虫けら日記 -昭和17年〜19年 大和書房、1973 - 出版は二作目だが、時系列では「戦中派不戦日記」より前の時代の日記。
:**戦中派虫けら日記 滅失への青春 未知谷、1994 / ちくま文庫 1998
:*戦中派焼け跡日記 -昭和21年 小学館、2002 / 小学館文庫 2011
:*戦中派闇市日記 -昭和22年-23年 小学館、2003 / 小学館文庫 2012
:*戦中派動乱日記 -昭和24年-25年 小学館、2004 / 小学館文庫 2013
:*戦中派復興日記 -昭和26年-27年 小学館、2005 / 小学館文庫 2014
:*山田風太郎育児日記 -昭和29年-42年 朝日新聞出版、2006
:
;エッセイ
:*[[風眼抄]] 六興出版、1979 のち中公文庫、角川文庫
:*半身棺桶 徳間書店、1991 のち徳間文庫、ちくま文庫
:*死言状 富士見書房、1993 のち角川文庫、小学館文庫、ちくま文庫
:*あと千回の晩飯 朝日新聞社、1997 のち朝日文庫、角川文庫
:*わが推理小説零年(山田風太郎エッセイ集成 [[日下三蔵]]編)筑摩書房、2007、ちくま文庫 2016.5
:*昭和前期の青春(同上) 筑摩書房、2007、ちくま文庫 2016.1
:*秀吉はいつ知ったか(同上) 筑摩書房、2008、ちくま文庫 2015.9 - 秀吉を異次元から来た人間とし、本能寺を予見していたという仮説史話。光秀の心理を描く半エッセイ・半小説の短編「安土城」を併録。
:*風山房風呂焚き唄(同上) 筑摩書房、2008、ちくま文庫 2016.8
:*人間万事嘘ばっかり(同上) 筑摩書房、2010、ちくま文庫 2016.7
:
;インタビュー、対談集
:*風来酔夢談 富士見書房、1995
:*コレデオシマイ。 角川春樹事務所、1996、のち講談社+α文庫
:*風太郎の死ぬ話 ランティエ叢書:角川春樹事務所、1997
:*いまわの際に言うべき一大事はなし 角川春樹事務所、1998
:*ぜんぶ余禄 角川春樹事務所、2001
:*風々院風々風々居士 山田風太郎に聞く 聴き手[[森まゆみ]]、筑摩書房、2001、ちくま文庫 2005
:*人間魔界図巻 海竜社、2002 名言集
:*人は死んだらオシマイよ。 PHP文庫、2006 名言集
:
;ノンフィクション
:*同日同刻-[[太平洋戦争]]開戦の一日と終戦の十五日 立風書房 1979、文春文庫 1986、ちくま文庫 2006
:*[[人間臨終図巻]] 徳間書店(上下) 1986-87・新装版(全3巻) 1996、徳間文庫(全3巻) 2001・同新装版(全4巻) 2011、角川文庫(全3巻) 2014
:*山田風太郎 疾風迅雷書簡集 昭和14年〜昭和20年 [[有本倶子]]編 [[神戸新聞社]]、2004
:*人間風眼帖 昭和21年〜昭和49年 有本倶子監修, 山田風太郎記念館編 [[神戸新聞]]社、2010
:*風の便り 山田風太郎書簡集 有本倶子編 講談社、2022
:
;編著・その他
:*別冊新評 山田風太郎の世界 全特集 新評社 1979
:*[[日本の名随筆]] 60 愚 作品社 1987
:*列外の奇才 山田風太郎 角川書店編集部編 2010
:*山田風太郎全仕事 角川書店編集部編・角川文庫 2011
:*我らの山田風太郎 古今無双の天才 河出書房新社・[[KAWADE夢ムック|文藝別冊]]、2021。作家・作品論も収録
== 作品集 ==
*山田風太郎忍法全集 全15巻 講談社 1963 - 64
*山田風太郎奇想小説全集 全6巻 桃源社 1964 - 65
*山田風太郎の妖異小説 全6巻 東都書房 1964
*山田風太郎推理全集 全6巻 東京文芸社 1965
*風太郎忍法帖 全10巻 講談社 1967
*山田風太郎全集 全16巻 講談社 1972
*山田風太郎奇怪小説集 全4巻 立風書房 1978
*山田風太郎の奇想小説 全6巻 桃源社 1979 - 80
*山田風太郎傑作忍法帖第1期 全13巻 [[講談社ノベルス]] 1994 - 96
*山田風太郎傑作忍法帖第2期 全8巻 講談社ノベルス 1996
*山田風太郎傑作大全 全24巻 廣済堂文庫 1996 - 98
*山田風太郎明治小説全集 全14巻 ちくま文庫 1997
*山田風太郎明治小説全集(愛蔵版 全7巻)筑摩書房 1997
*山田風太郎忍法帖 全14巻 講談社文庫 1998 - 99
*山田風太郎ミステリー傑作選 全12巻 光文社文庫 2001 - 02
*山田風太郎忍法帖短篇全集 全12巻 ちくま文庫 2004 - 05
*山田風太郎ベストコレクション 角川文庫 2010 - 刊行中
*山田風太郎幕末小説集 全4巻 ちくま文庫 2011
*山田風太郎 時代短篇選集 全3巻 小学館文庫 2013
*山田風太郎傑作選 河出文庫 2020 - 刊行中
== 翻案・二次創作等 ==
いくつかの作品は[[映画]]・[[テレビドラマ]]、[[舞台]]化され、根強い人気を証明している。
* 拳銃対拳銃 - 1956年映画化。
* 高校生と殺人犯 - 1956年映画化。
* 江戸忍法帖 - 1963年、[[東映]]で『江戸忍法帖 七つの影』として映画化。
* 忍者月影抄 - 1963年、東映で『月影忍法帖 二十一の瞳』として映画化、1996年、[[キングレコード]]で『くノ一忍法帖VI 忍者月影抄』として映画化、2011年、キングレコードで『くノ一忍法帖 影ノ月』として再映画化。
* [[くノ一忍法帖]] - 1964年、東映で『[[くノ一忍法]]』として映画化、1991年、キングレコードで[[Vシネマ]]化。
* 外道忍法帖 - 1964年、東映で『くノ一化粧』として映画化、1992年、キングレコードで『くノ一忍法帖II 聖少女の秘宝』としてVシネマ化。
* [[忍法忠臣蔵]] - 1965年、東映で『[[忍法忠臣蔵 (映画)|忍法忠臣蔵]]』として映画化、1983年、[[時代劇スペシャル]]で『くノ一忠臣蔵』としてTVドラマ化、1994年、キングレコードで『くノ一忍法帖IV 忠臣蔵秘抄』としてVシネマ化。
* 棺の中の悦楽 - 1965年、[[大島渚]]監督により『悦楽』として映画化。
* 風来忍法帖 - 1965年、[[宝塚映画]]で映画化、1968年、宝塚映画で『風来忍法帖 八方破れ』として映画化。
* 忍びの卍 - 1968年、東映で映画化。
* [[忍法相伝64]] - 1969年、[[東宝]]で『[[コント55号]] 俺は忍者の孫の孫』として映画化。
* 忍法相伝73 - 同じく『コント55号 俺は忍者の孫の孫』の原作のひとつ
* おんな牢秘抄 - 1972年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[ユニオン映画]]より『[[姫君捕物控]]』としてTVドラマ化、1983年、時代劇スペシャルでTVドラマ化、1995年、キングレコードで『美女奉行 おんな牢秘抄』『美女奉行 おんな牢秘抄II』としてVシネマ化。
* 夜よりほかに聴くものもなし「黒幕」 - 1969年、『[[恐怖劇場アンバランス]]』第7話「夜が明けたら」としてTVドラマ化(放送は1973年)。
* [[戦中派不戦日記]] - NHK総合TVにて1975年に『「青春」~戦中派不戦日記より~』([[銀河テレビ小説]])としてテレビドラマ化。[[神有介]]主演。
* [[魔界転生]] - 1981年、[[角川映画]]で映画化([[深作欣二]]監督)、1996年Vシネマ化、2003年再映画化。1981年、2006年舞台劇化。
* 伊賀忍法帖 - 1982年映画化。
* 秘戯書争奪 - 1993年、キングレコードで『くノ一忍法帖III 秘戯伝説の怪』としてVシネマ化。
* [[幻燈辻馬車]] - [[福田善之]]の脚本で劇化され、1993年[[紀伊国屋演劇賞]]を受賞。同作品は1993年にNHK-BSで放送された。
* 同日同刻 - 1994年、NHK総合にて『日本のいちばん長い年』として放送された。
* 自来也忍法帖 - 1995年、キングレコードで『くノ一忍法帖V 自来也秘抄』として映画化。
* 柳生忍法帖 - 1998年、キングレコードで『くノ一忍法帖 柳生外伝』として映画化。ソフト化の際、『柳生外伝 くノ一忍法帖 江戸花地獄編』『柳生外伝 くノ一忍法帖 会津雪地獄編』の2本に分けてリリースされた。
* 警視庁草紙 - 2001年に『[[山田風太郎 からくり事件帖-警視庁草紙より-]]』としてTVドラマ化。
* 甲賀忍法帖 - 2005年に『忍-SHINOBI』として映画化。
* エドの舞踏会 - 1986年、初舞台化。1994年、NHK教育TVの『[[劇場への招待]]』で放送された。1988年、『ドラマ特別企画 [[妻たちの鹿鳴館]]』としてTBS系列でテレビドラマ化。1993年に『エドの舞踏会 夢に舞う女たち』、2000年・2002年に『妻たちの鹿鳴館』、2007年、『エドの舞踏会』としてそれぞれ舞台化。舞台「妻たちの鹿鳴館」と2007年「エドの舞踏会」の演出がドラマ版プロデューサーの[[石井ふく子]]。舞台「妻たちの鹿鳴館」は2000年NHK-BSで放送された。1983年に[[ラジオ図書館]]、2022年には[[新日曜名作座]]でラジオドラマ化。
* 明治波濤歌 - 2004年、『風の中の蝶たち』として舞台化。
* 魔群の通過 - 2013年、『あかいくらやみ〜天狗党幻譚〜』として舞台化。
* 忍法双頭の鷲 - 2018年、『くノ一忍法帖 蛍火』としてテレビドラマ化<ref>{{Cite news|url= https://mantan-web.jp/article/20180129dog00m200028000c.html |title= ベッキー:「くノ一忍法帖」でまさかの時代劇初主演 |newspaper= まんたんウェブ |publisher= 株式会社MANTAN |date= 2018-01-30 |accessdate= 2018-04-18 }}</ref>。
=== マンガ ===
* 甲賀忍法帖 (画:[[小山春夫]])
* 魔界転生 (画:[[石川賢 (漫画家)|石川賢]])
* 魔界転生 (画:[[とみ新蔵]])
* 魔界転生 (画:[[鳥羽笙子]])
* 柳生十兵衛死す (画:石川賢)
* [[バジリスク 〜甲賀忍法帖〜]] (原作:甲賀忍法帖 / 画:[[せがわまさき]]) - 2005年にTVアニメ化。
* [[Y十M 〜柳生忍法帖〜]] (原作:柳生忍法帖 / 画:せがわまさき)
* [[山風短]] (画:せがわまさき) - 複数の短編を原作としている。
*# 原作:『[[くノ一紅騎兵]]』
*# 原作:『[[剣鬼喇嘛仏]]』
*# 原作:『[[青春探偵団]]』
*# 原作:『[[忍者 枯葉塔九郎|忍者枯葉塔九郎]]』
* [[十 〜忍法魔界転生〜]] (原作:魔界転生 / 画:せがわまさき)
* 甲賀忍法帖・改 (原作:甲賀忍法帖/画:[[浅田寅ヲ]]、『[[エース特濃]]』→『[[Comic新現実]]』)
* [[花かんざし捕物帖]] (原作:おんな牢秘抄 / 画:[[島崎譲]]、『[[MiChao!]]』)
* [[アイゼンファウスト 天保忍者伝]] (原作:忍者黒白草紙 / 画:[[長谷川哲也]]、『[[MiChao!]]』)
* NADESI〜いだてん百里(原作:いだてん百里 / 画:岩田やすてる、『リイド社SPコミックス』)
* 忍法剣士伝 (原作:忍法剣士伝 / 画:[[土山しげる]]、リイド社『[[コミック乱ツインズ]]』)
* 姦の忍法帖 (原作:姦の忍法帖 / 画:土山しげる、『漫画ボン』増刊 『妖剣2』)
* 大いなる幻術 (原作:忍者枯葉塔九郎 / 画:[[水木しげる]]、ちくま文庫 野ざらし忍法帖)(同カラー版、着彩:[[京極夏彦]]、「風太郎千年史」) - 登場人物3人の名前と結末が、山田原作と異なる。
* 伊賀忍法帖(脚本・呉屋真 / 漫画・草壁ひろあき、新潮社『コミックバンチ』)
* 鬼灯 (原作:忍者枝垂七十郎 / 画:[[松森正]] / シナリオ:鍋田吉郎、集英社『[[漫画時代劇ファン]]』)
* エイトドッグス (原作:忍法八犬伝 / 画:[[山口譲司]]、リイド社『コミック乱ツインズ』)
* 風太郎不戦日記 (原作:戦中派不戦日記 / 画:[[勝田文]]、講談社モーニングコミックス 全3巻。『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』2019年8月29日号から2021年7月8日号まで連載)<ref>{{Cite news|url= https://www.sankei.com/article/20190823-P7QLAOANAZLNRGFJ746AQTHHUQ/ |title= 山田風太郎の不戦日記、週刊コミック誌で連載開始 |newspaper= 産経ニュース |publisher= 産経デジタル |date= 2019-08-23 |accessdate= 2020-11-15 }}</ref>
* 警視庁草紙 -風太郎明治劇場- (原作:警視庁草紙 / 画:[[東直輝]]、『モーニング』2021年9月23日号から連載中)<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/444462|title=山田風太郎生誕100周年「警視庁草紙」コミカライズ版がモーニングで連載開始|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-09|accessdate=2021-09-10}}</ref>
=== 絵物語 ===
* 忍法三羽がらす (画:[[矢野徳]])立風書房 1969 - 立風書房より刊行版は「[[色|カラー]]ページ」あり(ちくま文庫では白黒)。
** 絵物語「忍者 石川五右衛門」
** 絵物語「忍者 向坂陣内」
** 絵物語「忍者 撫子甚五郎」
== メディア ==
*「山田風太郎が見た日本 〜未公開日記が語る戦後60年〜」(2005年8月1日、NHK)
*「[[あの日 昭和20年の記憶]]〜日記でたどる激動の1年」(2005年12月25日、NHK)
== 受賞歴 ==
* [[1949年]] - 『眼中の悪魔』および『虚像淫楽』により第2回探偵作家クラブ賞([[日本推理作家協会賞]]の前身)短編賞を受賞。
* [[1997年]] - 激動の時代の生の証をとどめる著作と大衆文芸に新たな面白さをもたらした功績により第45回[[菊池寛賞]]を受賞。
* [[2000年]] - 第4回[[日本ミステリー文学大賞]]を受賞。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[山田風太郎賞]]
* [[山田風太郎記念館]]
* [[魔童子論争]]
== 外部リンク ==
*{{NHK人物録|D0009072270_00000}}
*[http://www2s.biglobe.ne.jp/~s-narita/new/index.htm A LOCKED ROOM CASTAWAY]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:やまた ふうたろう}}
[[Category:山田風太郎|*]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の推理作家]]
[[Category:日本の歴史小説家]]
[[Category:日本推理作家協会賞受賞者]]
[[Category:菊池寛賞受賞者]]
[[Category:日本の辞典編纂者]]
[[Category:20世紀日本の医師]]
[[Category:医学士取得者]]
[[Category:養父市の歴史]]
[[Category:日本におけるたばこの社会的受容関連人物]]
[[Category:東京医科大学出身の人物]]
[[Category:パーキンソン病の人物]]
[[Category:兵庫県出身の人物]]
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[[Category:2001年没]]
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橋本駅
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橋本駅(はしもとえき)は日本各地にある駅名。
冠称(方角や旧国名)のつかない駅名。
冠称(方角や旧国名)の付く駅名。
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橋本駅(はしもとえき)は日本各地にある駅名。
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'''橋本駅'''(はしもとえき)は[[日本]]各地にある[[鉄道駅|駅名]]。
<!-- 基本的に北・東から南・西に順に掲載。接頭語が付くものは付かないものの後に掲載。 -->
<!-- 曖昧さ回避のページなので、詳しくする必要はありません。ここは各ページへのリンクだけにします。-->
== 橋本駅 ==
冠称(方角や旧国名)のつかない駅名。
* [[橋本駅 (神奈川県)]] - [[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]にある[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[横浜線]]・[[相模線]]、[[京王電鉄]][[京王相模原線|相模原線]]の駅。
* [[橋本駅 (京都府)]] - [[京都府]][[八幡市]]にある、[[京阪電気鉄道]][[京阪本線]]の駅。
* [[橋本駅 (和歌山県)]] - [[和歌山県]][[橋本市]]にある、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[和歌山線]]、[[南海電気鉄道]][[南海高野線|高野線]]の駅。
* [[橋本駅 (福岡県)]] - [[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]にある[[福岡市交通局]][[福岡市地下鉄七隈線|(福岡市営地下鉄)七隈線]]の駅
== その他の橋本駅 ==
冠称(方角や旧国名)の付く駅名。
* [[石狩橋本駅]] - [[北海道]][[樺戸郡]][[新十津川町]]にあった[[日本国有鉄道]](国鉄)[[札沼線]]の[[鉄道駅|駅]]。
* [[南橋本駅]] - 神奈川県相模原市[[中央区 (相模原市)|中央区]]南橋本二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)相模線の駅。
* [[和泉橋本駅]] - [[大阪府]][[貝塚市]]にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)JR西日本[[阪和線]]の駅。
==関連項目==
*[[橋本 (曖昧さ回避)]]
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多摩境駅
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多摩境駅(たまさかいえき)は、東京都町田市小山ヶ丘三丁目にある、京王電鉄相模原線の駅である。京王相模原管区所属。駅番号はKO44。
京王電鉄の駅で唯一町田市に所在する。また、2022年現在京王電鉄で最も新しい駅でもある。
当時の京王帝都電鉄は、京王多摩センター駅 - 橋本駅間の延伸に際し、由木平駅(現・南大沢駅)のみを設置することを計画していた。しかし、由木平駅 - 橋本駅間の線路経由ルートが900m程度町田市内を通過することから、1982年に町田市長が「町田市内駅」設置を要望し、1983年1月14日、京王帝都と町田市の話し合いが行われた。
この席上で京王は「延伸時、中間駅は由木平駅のみ設置する。トンネル(現・南大沢トンネル)を出たところに土工区間があるが、この区域は、多摩ニュータウンの事業認可未了区域であり、この地に駅を設置するとなると、ニュータウン鉄道の新線建設という性格から外れることから、京王側が350億円も支出しなければならない」「ニュータウンの開発事業区域となれば、駅舎建設費15億円で済むことから、小山駅(多摩境駅のことを指す)の開設の可能性はある」と表明し、場合によっては駅開設も有り得るとした。
これに対し、町田市は、1983年5月の町田市議会にて、「鉄道事業者(京王)の責任において小山駅を設置すること。相模原線開業と同時に小山駅を開設すること」という決議をするなどし、その後1985年5月30日、東京都南多摩開発計画会議にて、多摩ニュータウンの土地区画整理事業地区内の駅として開設が決定した。但し、費用負担については別に協議することが相原・小山地区開発協議会の中で整理された。
なお、町田市議会の決議では、路線開業と同時に駅開設となっていた。しかし、駅開設が南大沢駅 - 橋本駅間延伸の翌年となっている。これは、京王では相模原線をニュータウン新線として建設したことに起因する。ニュータウン鉄道等整備事業費補助制度では建設費の補助対象がニュータウン事業区域から出て1駅目までに限られており、ニュータウン外にある当駅を最初から設置した場合、多摩境駅 - 橋本駅間を補助金なしで建設するということになる。そのため、当初は当駅をあえて設置せずに、橋本駅まで一気に建設・開業させ、当駅は遅れての開設となった。当時の京王相模原線の経営採算性を加味して、地元からの請願駅として位置づけられており、京王の負担を極力抑えている。
多摩ニュータウンの境であること、東京都(多摩)と神奈川県(相模)の境であること、駅の近くに境川が流れていることから、「多摩境」となる。なお、当地は一時期「堺村」に属した。
駅開設当時の所在地名の「小山町」から「京王小山」にすべき等と、駅名決定までもめた経緯がある。こうした経緯から、計画当時に策定された西口広場に通じるアクセス道路は町田都市計画道路3・4・45号京王小山駅西口線として整備された。その後、多摩ニュータウンにおける町田市域の土地区画整理事業地区としての街開きが行われた際、当該地の地名が「小山ヶ丘」に改められた。
相対式ホーム2面2線の地上駅で、橋上駅舎を有する。南大沢寄りは掘割になっており、南大沢トンネルに通じている。橋本寄りは高架である。駅開業時から駅構内にエスカレーターは設置されていたが、駅構内エレベーターは開業から11年後の2002年に設置された。
1997年に整備された西口ロータリーの人工地盤直下はピロティになっており、吹き抜けの中央部分には星野敦作「地球断面-森のスポット-」というモニュメントが設置されているほか、地域で水害が発生した際には避難者を他地区の避難施設へバス等で輸送する際の集合場所に指定されている。
2011年9月頃より駅改札の天井部に液晶モニターが設置された。これにより従来までは改札を通りホームに降りてからしか確認できなかった、時刻表や運行情報などが、改札前から確認できるようになった。以前は改札外に売店「A LoT」が存在したが、2022年8月に閉店以降は駅構内に店舗は存在しない(ATMを除く)
改札外は構造上、地下駅のようになっており、複数の出口が存在する。
※バス・タクシーロータリーは、B1・B2出口が最寄りである。B2出口には2017年4月にエレベーターが設置された。
2022年度の1日平均乗降人員は19,389人である。開業から毎年利用客が増加しており、開設当時に比べ約10倍の利用者になっている。
周辺街づくりの開発スタンスが土地区画整理事業のみで異なっており、大規模集合住宅が少ないことから、他の多摩ニュータウン内の駅に比べると、ゆっくりとした増加傾向を示している。駅勢エリアには住宅だけではなく、米国流大規模量販店や事業所団地(まちだテクノパーク)、教育施設等を取り込んで多角的な開発が行われている。
開業以来の乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。
周辺は多摩ニュータウンの町田市域唯一の開発区域となっており、「町田グランネットタウン」の名称で東京都主導の土地区画整理事業が行われた。従来からの緑豊かな環境を保全しながら住宅のほか、商業、業務、リクリエーション、教育、文化情報等の諸施設がバランスよく立地すべく開発誘致が進んでいる。
当駅を発着する一般路線バスは神奈川中央交通が運行している。また京王バスが深夜急行バスを運行しているが、全て降車扱いのみで当駅での乗車はできない。
駅開業当初は、駅舎南側に暫定バス乗り場を設置(当時は町60系統のみ)していたが、1997年5月に現在の西口ロータリーが整備され、バス乗り場が全面移転した。
下記の路線が乗り入れているが、平日深夜のみ運行で当停留所では乗車できない。2011年5月9日から乗り入れ開始。
新型コロナウイルス感染症対策の影響で、2020年4月13日から全便運休となっている。
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"title": "利用状況"
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"text": "周辺街づくりの開発スタンスが土地区画整理事業のみで異なっており、大規模集合住宅が少ないことから、他の多摩ニュータウン内の駅に比べると、ゆっくりとした増加傾向を示している。駅勢エリアには住宅だけではなく、米国流大規模量販店や事業所団地(まちだテクノパーク)、教育施設等を取り込んで多角的な開発が行われている。",
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"text": "周辺は多摩ニュータウンの町田市域唯一の開発区域となっており、「町田グランネットタウン」の名称で東京都主導の土地区画整理事業が行われた。従来からの緑豊かな環境を保全しながら住宅のほか、商業、業務、リクリエーション、教育、文化情報等の諸施設がバランスよく立地すべく開発誘致が進んでいる。",
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"text": "当駅を発着する一般路線バスは神奈川中央交通が運行している。また京王バスが深夜急行バスを運行しているが、全て降車扱いのみで当駅での乗車はできない。",
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"text": "駅開業当初は、駅舎南側に暫定バス乗り場を設置(当時は町60系統のみ)していたが、1997年5月に現在の西口ロータリーが整備され、バス乗り場が全面移転した。",
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"text": "下記の路線が乗り入れているが、平日深夜のみ運行で当停留所では乗車できない。2011年5月9日から乗り入れ開始。",
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"text": "新型コロナウイルス感染症対策の影響で、2020年4月13日から全便運休となっている。",
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多摩境駅(たまさかいえき)は、東京都町田市小山ヶ丘三丁目にある、京王電鉄相模原線の駅である。京王相模原管区所属。駅番号はKO44。 京王電鉄の駅で唯一町田市に所在する。また、2022年現在京王電鉄で最も新しい駅でもある。
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{{出典の明記|date=2018年2月}}
{{駅情報
|社色 = #d07
|文字色 =
|駅名 = 多摩境駅
|画像 = Tamasakainew.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 多摩境駅西口 B2出口(2017年4月撮影)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = たまさかい
|ローマ字 = Tamasakai
|副駅名 =
|前の駅 = KO43 [[南大沢駅|南大沢]]
|駅間A = 1.9
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|電報略号 =
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|所属路線 = {{color|#dd0077|■}}[[京王相模原線|相模原線]]
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|廃止年月日 =
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|備考 =
}}
'''多摩境駅'''(たまさかいえき)は、[[東京都]][[町田市]][[小山ヶ丘]]三丁目にある、[[京王電鉄]][[京王相模原線|相模原線]]の[[鉄道駅|駅]]である。京王相模原管区所属。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KO44'''。
京王電鉄の駅で唯一町田市に所在する。また、[[2022年]]現在京王電鉄で最も新しい駅でもある。
== 歴史 ==
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[4月6日]] - 開業<ref name="koho19910401"/>。[[京王相模原線#通勤快速|通勤快速]]の停車駅となる。
* [[1992年]](平成4年)[[5月28日]] - [[京王相模原線#快速|快速]]の停車駅となる。
* [[1997年]](平成9年)5月 - 西口駅前広場が使用開始。
* [[2002年]](平成14年)[[3月19日]] - 駅構内[[エレベーター]]が使用開始<ref name="koho20020411">{{Cite magazine |和書 |title=京王線多摩境駅・小田急線鶴川駅にエレベーターが設置されました|date=2002-04-11 |magazine=広報まちだ |publisher=町田市 |url=https://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/koho/koho/kouhoushi/koho_machida/2002/20020411.files/p2.pdf|format=PDF|accessdate=2021-05-26}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[2月22日]] - 通勤快速が[[京王相模原線#区間急行|区間急行]]に改称される。
* [[2017年]](平成29年)[[4月28日]] - 西口駅前広場のエレベーターが運用開始<ref name="press20170428">{{Cite web|和書|url=https://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/koho/faxrelease/2017/201704.files/170428_06.pdf|title=多摩境駅駅前広場のエレベーターが完成|publisher=町田市|accessdate=2021-05-26|date=2017-04-28}}</ref>。
=== 駅開設までの経緯 ===
当時の京王帝都電鉄は、京王多摩センター駅 - 橋本駅間の延伸に際し、由木平駅(現・[[南大沢駅]])のみを設置することを計画していた。しかし、由木平駅 - 橋本駅間の線路経由ルートが900m程度[[町田市]]内を通過することから、1982年に町田市長が「町田市内駅」設置を要望し、[[1983年]]1月14日、京王帝都と町田市の話し合いが行われた<ref name="aihara-oyama2005">{{Cite book |和書 |title=多摩ニュータウン相原・小山土地区画整理事業誌|publisher=東京都多摩ニュータウン整備事務所|year=2005|page=19}}</ref>。
この席上で京王は「延伸時、中間駅は由木平駅のみ設置する。トンネル(現・南大沢トンネル)を出たところに土工区間があるが、この区域は、[[多摩ニュータウン]]の事業認可未了区域であり、この地に駅を設置するとなると、ニュータウン鉄道の新線建設という性格から外れることから、京王側が350億円も支出しなければならない」「ニュータウンの開発事業区域となれば、駅舎建設費15億円で済むことから、小山駅(多摩境駅のことを指す)の開設の可能性はある」と表明し、場合によっては駅開設も有り得るとした。
これに対し、町田市は、1983年5月の[[町田市議会]]にて、「[[鉄道事業者]](京王)の責任において小山駅を設置すること。相模原線開業と同時に小山駅を開設すること」という決議をするなどし、その後[[1985年]]5月30日、東京都南多摩開発計画会議にて、多摩ニュータウンの土地区画整理事業地区内の駅として開設が決定した。但し、費用負担については別に協議することが相原・小山地区開発協議会の中で整理された<ref name="aihara-oyama2005"/>。
なお、町田市議会の決議では、路線開業と同時に駅開設となっていた。しかし、駅開設が南大沢駅 - 橋本駅間延伸の翌年となっている。これは、京王では相模原線を[[ニュータウン鉄道|ニュータウン新線]]として建設したことに起因する。ニュータウン鉄道等整備事業費補助制度では建設費の補助対象がニュータウン事業区域から出て1駅目までに限られており、ニュータウン外にある当駅を最初から設置した場合、多摩境駅 - 橋本駅間を補助金なしで建設するということになる。そのため、当初は当駅をあえて設置せずに、橋本駅まで一気に建設・開業させ、当駅は遅れての開設となった。当時の京王相模原線の経営採算性を加味して、地元からの[[請願駅]]として位置づけられており、京王の負担を極力抑えている<ref name="aihara-oyama2005"/>。<!--
なお、過去に同じような事例が[[北大阪急行電鉄南北線|北大阪急行]][[緑地公園駅]]にもあった。-->
=== 駅名の由来 ===
多摩ニュータウンの境であること、東京都([[多摩地域|多摩]])と[[神奈川県]]([[相模国|相模]])の境であること、駅の近くに[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]が流れていることから、「'''多摩境'''」となる<ref name="keio1998">{{Cite book |和書 |editor=京王電鉄株式会社広報部|title=京王電鉄五十年史|year=1998|publisher=京王電鉄|page=143|ncid=BA39950205}}</ref>。なお、当地は一時期「[[堺村 (東京都)|堺村]]」に属した。
駅開設当時の所在地名の「小山町」から「京王小山」にすべき等と、駅名決定までもめた経緯がある。こうした経緯から、計画当時に策定された西口広場に通じるアクセス道路は町田都市計画道路3・4・45号京王小山駅西口線として整備された<ref>{{Cite book |和書 |title=多摩ニュータウン相原・小山土地区画整理事業誌|publisher=東京都多摩ニュータウン整備事務所|year=2005|page=21}}</ref><ref>{{Cite web |title=町田都市計画道路3・4・45|url=https://machida.kukanjoho.jp/webgis/?z=18&ll=35.602558%2C139.364866&t=%E5%9C%B0%E5%BD%A2%E5%9B%B3&mp=70&op=70&vlf=-1|publisher=地図情報まちだ|accessdate=2023-12-07|language=日本語}}</ref>。その後、多摩ニュータウンにおける町田市域の土地区画整理事業地区としての街開きが行われた際、当該地の地名が「小山ヶ丘」に改められた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.machida.tokyo.jp/kurashi/sumai/toshikei/t_06/juushoseiri/oyamagaoka040401.html|title=小山ヶ丘一~六丁目(2004年4月1日)|publisher=町田市|accessdate=2020-11-22|language=日本語}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線の[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有する。[[南大沢駅|南大沢]]寄りは[[切土|掘割]]になっており、南大沢[[トンネル]]に通じている。[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]寄りは高架である。駅開業時から駅構内にエスカレーターは設置されていたが<ref name="koho19910401"/>、駅構内エレベーターは開業から11年後の2002年に設置された<ref name="koho20020411"/>。
1997年に整備された西口ロータリーの[[地盤#人工地盤|人工地盤]]直下は[[ピロティ]]になっており、吹き抜けの中央部分には[[星野敦]]作「地球断面-森のスポット-」というモニュメントが設置されている<ref>[http://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/bunka_geijutsu/bunkamachi/machidane2013.files/NEW_machidane_c02.pdf まちダネ!カルチャー編] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20151119112731/http://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/bunka_geijutsu/bunkamachi/machidane2013.files/NEW_machidane_c02.pdf |date=2015年11月19日}}町田市</ref>ほか、地域で水害が発生した際には避難者を他地区の避難施設へバス等で輸送する際の集合場所に指定されている<ref>[https://www.city.machida.tokyo.jp/kurashi/bouhan/bousai/bousaitaisaku/suigaitaisaku/suigai.html 指定避難広場(避難場所)一覧(水害時)]{{リンク切れ|date=2023-06-20}}町田市</ref>。
2011年9月頃より駅改札の天井部に液晶モニターが設置された。これにより従来までは改札を通りホームに降りてからしか確認できなかった、時刻表や運行情報などが、改札前から確認できるようになった。以前は改札外に売店「[[A LoT]]」が存在したが、2022年8月に閉店以降は駅構内に店舗は存在しない(ATMを除く)
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 相模原線
|style="text-align:center"|下り
|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[多摩センター駅|京王多摩センター]]・[[調布駅|調布]]・[[明大前駅|明大前]]・[[笹塚駅|笹塚]]・[[新宿駅|新宿]]・[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|{{small|都営}}新宿線]]方面
|}
=== 駅構内設備 ===
* [[エレベーター]](各ホーム - 改札階)
* [[エスカレーター]](各ホーム→改札階)
* [[トイレ]](改札内)
* [[みずほ銀行]]ATMコーナー(改札外)
=== 駅出口 ===
改札外は構造上、地下駅のようになっており、複数の出口が存在する。
* 東口(A1、A2出口)
* 西口(B1、B2、町田街道方面、多摩ニュータウン通り方面出口)
※バス・タクシーロータリーは、B1・B2出口が最寄りである。B2出口には2017年4月にエレベーターが設置された<ref name="press20170428" />。
<gallery>
Tamasakai-STA Gate.jpg|改札口(2023年4月)
Keio tamasakai sta.JPG|ホーム(2007年5月)
TamasakaiStation-A2Exit.jpg|東口・A2出口(2015年12月)
Keio tamasakai station.jpg|エレベーター設置前の西口・B2出口(2007年9月)
TamasakaiStation-MachidakaidoExit.jpg|西口・町田街道方面出口(2015年5月)
Tamasakai-morino-plaza.jpg|西口ピロティモニュメント「地球断面-森のスポット-」(2020年2月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''19,389人'''である<ref group="京王" name="keio2022"></ref>。開業から毎年利用客が増加しており、開設当時に比べ約10倍の利用者になっている。
周辺街づくりの開発スタンスが土地区画整理事業のみで異なっており、大規模集合住宅が少ないことから、他の[[多摩ニュータウン]]内の駅に比べると、ゆっくりとした増加傾向を示している。駅勢エリアには住宅だけではなく、米国流大規模量販店や事業所団地(まちだテクノパーク)、教育施設等を取り込んで多角的な開発が行われている。
開業以来の乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑、町田市統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="統計">{{Cite web|和書|title=レポート|url=https://www.train-media.net/report.html|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2023-06-20}}</ref><ref group="統計">{{Cite web|和書|title=町田市統計書|publisher=町田市|url=http://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/toukei/sogo/toukeisyo/index.html|accessdate=2023-06-20}}</ref><ref group="統計">{{Cite web|和書|title=東京都統計年鑑|publisher=東京都|url=https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm|accessdate=2023-06-20}}</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|<ref group="備考">1991年4月6日開業。</ref>1991年(平成{{0}}3年)
|1,560
|500
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|2,365
|
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|2,947
|1,140
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|3,570
|1,441
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|3,807
|1,568
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|3,927
|1,668
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|<ref group="京王" name="keio1998">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=鉄道事業の概況|url=http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/index_j.htm |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20001027071524/http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/tetsudo.htm |archivedate=2000-10-27 |deadlink=2023-06-10 |}}</ref>4,196
|1,784
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|<ref group="京王" name="keio1999"></ref><ref group="注">京王電鉄が2000年度に発表した資料の数値。1999年度発表のものは、「4,504人」となっている。</ref>4,464
|2,000
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="京王" name="keio1999">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=鉄道事業の概況|url=http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/index_j.htm |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010717095510/http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/tetsudo.htm |archivedate=2001-07-17 |deadlink=2023-06-10 |}}</ref>4,919
|2,230
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="京王" name="keio2000">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/index_j.htm |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021001083824/http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/index_j.htm |archivedate=2002-10-01 |deadlink=2023-06-10 |}}</ref>5,991
|2,797
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="京王" name="keio2001">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/index_j.htm |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030812140030/http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/index_j.htm |archivedate=2003-08-12 |deadlink=2023-06-10 |}}</ref>7,570
|3,578
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="京王" name="keio2002">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/index_j.htm |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040803161948/http://www.keio.co.jp/company/gaiyou/index_j.htm |archivedate=2004-08-03 |deadlink=2023-06-10 |}}</ref>8,763
|4,195
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="京王" name="keio2003">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=http://www.keio.co.jp/traffic/train/joukou/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050829103353/http://www.keio.co.jp/traffic/train/joukou/index.html |archivedate=2005-08-29 |deadlink=2023-06-10 |}}</ref>10,727
|5,158
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="京王" name="keio2004">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=http://www.keio.co.jp/traffic/train/joukou/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060421152623/http://www.keio.co.jp/traffic/train/joukou/index.html |archivedate=2006-04-21 |deadlink=2023-06-10 |}}</ref>11,987
|5,795
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="京王" name="keio2005">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=http://www.keio.co.jp/traffic/train/joukou/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061202223236/http://www.keio.co.jp/traffic/train/joukou/index.html |archivedate=2006-12-02 |deadlink=2023-06-10 |}}</ref>14,602
|7,047
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="京王" name="keio2006">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080407181433/http://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2008-04-07 |deadlink= |}}</ref>15,565
|7,471
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="京王" name="keio2007">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081222224808/http://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2008-12-22 |deadlink= |}}</ref>16,264
|7,981
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="京王" name="keio2008">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091228145339/http://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2009-12-28 |deadlink= |}}</ref>16,526
|8,156
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="京王" name="keio2009">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100731032658/http://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2010-07-31 |deadlink= |}}</ref>16,678
|8,247
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="京王" name="keio2010">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110808155152/http://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2011-08-08 |deadlink= |}}</ref>17,183
|8,507
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="京王" name="keio2011">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120701052124/http://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2012-07-01 |deadlink= |}}</ref>17,184
|8,497
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="京王" name="keio2012">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130704052802/http://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2013-07-04 |deadlink= |}}</ref>17,582
|8,723
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="京王" name="keio2013">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140710184244/http://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2014-07-10 |deadlink= |}}</ref>18,471
|9,153
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="京王" name="keio2014">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150716200037/http://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2015-07-16 |deadlink= |}}</ref>18,945
|9,395
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|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="京王" name="keio2015">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160815065213/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2016-08-15 |deadlink= |}}</ref>19,730
|9,768
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="京王" name="keio2016">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170720203056/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2017-07-20 |deadlink= |}}</ref>20,226
|10,038
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|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="京王" name="keio2017">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180728223729/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2018-07-28 |deadlink= |}}</ref>20,487
|10,164
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="京王" name="keio2018">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190507124605/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2019-05-07 |deadlink= |}}</ref>20,587
|10,214
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="京王" name="keio2019">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200810085831/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2020-08-10 |deadlink= |}}</ref>20,530
|10,169
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="京王" name="keio2020">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210814005943/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2021-08-14 |deadlink= |}}</ref>16,147
|8,022
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink= |}}</ref>17,891
|8,978
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2021/tn21q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和3年)]</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>19,389
|
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
周辺は[[多摩ニュータウン]]の町田市域唯一の開発区域となっており、「町田グランネットタウン」の名称で東京都主導の土地区画整理事業が行われた。従来からの緑豊かな環境を保全しながら住宅のほか、商業、業務、リクリエーション、教育、文化情報等の諸施設がバランスよく立地すべく開発誘致が進んでいる。
; 商業施設
* 京王多摩境駅前ビル - [[2023年]]12月開業。
** [[京王ストア]]多摩境店
** [[スギ薬局]]多摩境駅前店
* [[コピオ]]多摩境 - [[2005年]]7月開業。
** [[スーパーアルプス]]多摩境店 - [[アクロス多摩境]]から移転。
** スギ薬局コピオ多摩境店
* [[MrMax]]町田多摩境ショッピングセンター - [[2007年]]7月19日開業。
** MrMax町田多摩境店 - 東京都内1号店。
** [[フードワン]]多摩境店
* [[西松屋]]町田多摩境店 - アクロス多摩境の跡地の一部。
* [[コストコ]]多摩境倉庫店
* [[カインズ]]町田多摩境店(本館・資材館PRO)
* [[トイザらス]]・[[ベビーザらス]]町田多摩境店
; 公園
* [[小山内裏公園]]
* 小山多摩境公園
* 小山白山公園
* 小山上沼公園
* 三ツ目山公園
* 小山片所谷戸緑地
; 学校
* 町田市立小山小学校
* 町田市立小山ヶ丘小学校
* 町田市立小山中央小学校
* [[町田市立小山中学校]]
* [[サレジオ工業高等専門学校]]
; 公共施設
* [[町田西郵便局]]
* 町田市子どもセンターぱお分館 WAAAO(わーお)- [[高層マンション]]「ゲートヒルズ多摩境パークフロント」3階。アクロス多摩境の跡地の一部に建設。
* 町田市小山市民センター
* 町田市子どもクラブさん
; その他
* [[石橋財団アートリサーチセンター]]
* [[田端遺跡]]
* 札次神社
== バス路線 ==
当駅を発着する一般[[路線バス]]は[[神奈川中央交通]]が運行している。また[[京王バス南大沢営業所|京王バス]]が[[日本の深夜バス|深夜急行バス]]を運行しているが、全て降車扱いのみで当駅での乗車はできない。
駅開業当初は、駅舎南側に暫定バス乗り場を設置(当時は町60系統のみ)していたが<ref>{{Cite magazine |和書 |date=1991-04-21 |magazine=広報まちだ |volume=第928号 |publisher=町田市}}</ref>、1997年5月に現在の西口ロータリーが整備され、バス乗り場が全面移転した。
; 神奈川中央交通
{{Main2|各路線の詳細は「[[神奈川中央交通多摩営業所]]」を}}
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" style="border-top:solid 3px #999;border-bottom:solid 3px #999"
|colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''1番のりば'''
|-
|橋76
|style="font-size:80%"|
|[[神奈川中央交通多摩営業所|神奈中多摩車庫]]行
|-
|rowspan="2"|町60
|style="font-size:80%"|[[町田市民病院|市民病院前]]
|[[町田バスセンター]]行 {{small|(朝のみ)}}
|-
|style="font-size:80%;"|市民病院前
|[[町田ターミナル]]行
|-
|colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''2番のりば'''
|-
|橋73<br>橋76
|style="font-size:80%"|三ツ目山公園
|[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]北口行
|-
|町60
|style="font-size:80%"|田端・堂の前
|橋本駅北口行
|}
* 橋73系統は土休日のみ運行で、当停留所始発である。
* 町60系統は1時間に1本のみ運行されるが、当停留所を経由しない町30系統の利用も可能である。最寄りの「坂本橋」バス停より当駅西口迄、徒歩8~9分程度。
* この他に神奈川中央交通が周辺企業と契約して、駅と企業間を往復する従業員専用[[無料送迎バス]]がバスロータリー内で乗降を行う。
; 京王バス
{{Main2|各路線の詳細は「[[京王バス南大沢営業所]]」を}}
下記の路線が乗り入れているが、平日深夜のみ運行で当停留所では乗車できない。[[2011年]][[5月9日]]から乗り入れ開始。
* NT01系統:[[多摩センター駅]]発 → 橋本駅行き
* 深夜急行バス:[[新宿駅]]西口発 → 橋本駅行き
[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]対策の影響で、[[2020年]][[4月13日]]から全便運休となっている。
== 隣の駅 ==
; 京王電鉄
: [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 相模原線
:: {{Color|#ff1493|■}}特急・{{Color|#20b2aa|■}}急行
:::; 通過
:: {{Color|olive|■}}区間急行・{{Color|blue|■}}快速・{{Color|gray|■}}各駅停車
::: [[南大沢駅]] (KO43) - '''多摩境駅 (KO44)''' - [[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]] (KO45)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
;私鉄の統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
;京王電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京王"|3}}
;東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|16em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[緑地公園駅]] - 当駅同様、[[日本のニュータウン|ニュータウン]]開発計画により開業が延期された[[北大阪急行電鉄]]の駅
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Tamasakai Station}}
* [https://www.keio.co.jp/train/station/ko44_tamasakai/ 京王電鉄 多摩境駅]
{{京王相模原線}}
{{DEFAULTSORT:たまさかいえき}}
[[Category:東京都の鉄道駅]]
[[Category:町田市の交通]]
[[Category:日本の鉄道駅 た|まさかい]]
[[Category:京王電鉄の鉄道駅]]
[[Category:多摩ニュータウン]]
[[Category:1991年開業の鉄道駅]]
|
2003-07-28T02:35:59Z
|
2023-12-06T23:21:39Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%A2%83%E9%A7%85
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12,288 |
元
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元(げん、もと、はじめ、がん)
|
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元(げん、もと、はじめ、がん) 元 (王朝) - 中国史において、モンゴル人が築いた王朝。
元 (姓) - 漢姓の1つ。
中国の通貨単位。
人民元 - 中華人民共和国の通貨単位。
銀元 - 清で貿易用に鋳造され、中華民国国民政府によって通貨単位となった。
台湾元 - 台湾(中華民国)の通貨単位。英称の直訳は「新台湾ドル」。
港元 - 香港の通貨単位。英称の直訳は「香港ドル」。 元 (数学) - 数学用語で、集合の要素の事。 西方町元 - 栃木県栃木市に存在する地名。 日本人の姓名、男性名の1つ。
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'''元'''(げん、もと、はじめ、がん)
{{Wiktionary}}
; げん
* [[元 (王朝)]] - 中国史において、モンゴル人が築いた王朝。
* [[元 (姓)]] - 漢姓の1つ。
* 中国の通貨単位。
** [[人民元]] - [[中華人民共和国]]の通貨単位。
** [[銀元]] - [[清]]で貿易用に鋳造され、[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]][[国民政府]]によって通貨単位となった。
** 台湾元 - [[台湾]]([[中華民国]])の通貨単位。英称の直訳は「[[新台湾ドル]](New Taiwan dollar)」。
** 港元 - [[香港]]の通貨単位。英称の直訳は「[[香港ドル]](Hong Kong dollar)」。
<!-- 「元」と略することがないのでコメント化 * [[元号]] - 元年から始まる一連の時代につけられた呼称。 -->
* [[元 (数学)]] - 数学用語で、[[集合]]の要素の事。
; もと
* [[西方町元]] - [[栃木県]][[栃木市]]に存在する地名。
; はじめ、げん
* [[日本人]]の姓名、[[男性]]名の1つ。
== 男性名 ==
* [[小川元]](はじめ、1939年(昭和14年) - ) - [[長野県]][[出身]]の[[政治家]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]])、[[衆議院議員]]
* [[加藤元]](げん、1932年(昭和7年) - ) - [[兵庫県]]出身の[[獣医師]]
* [[川北元]](げん、1976年(昭和51年) - ) - [[東京都]]出身の[[バレーボール]][[指導者]]
* [[吉川元 (政治学者)]](げん、1951年(昭和26年) - ) - [[広島県]]出身の[[政治学者]]
* [[木田元]](げん、1928年(昭和3年) - 2014年(平成26年)) - [[新潟県]]出身の[[哲学者]]
* [[木村元]](げん、1933年(昭和8年) - ) - [[中華人民共和国|中国]]出身の[[俳優]]、[[本名]]は西尾 芳巳
* [[小林元 (政治家)]](げん、1932年(昭和7年) - 2015年(平成27年)) - [[茨城県]]出身の政治家、[[参議院議員]]
* [[小林元 (グラフィッカー)]](げん、1977年(昭和52年) - )
* [[小林元 (撮影技師)]](げん)
* [[田邊元]](はじめ、1885年(明治18年) - 1962年(昭和37年)) - [[東京府]]出身の[[学者]]
* [[田村元]](はじめ、1924年(大正13年) - 2014年(平成26年)) - [[三重県]]出身の政治家([[自由民主党 (日本)|自由民主党]])、[[衆議院議員]]
* [[中谷元]](げん、1957年(昭和32年) - ) - [[高知県]]出身の政治家([[自由民主党 (日本)|自由民主党]])、[[衆議院議員]]、[[防衛大臣]]
* [[中村元 (1978年生のサッカー選手)]](げん) - 三重県出身の[[サッカー選手]]([[ゴールキーパー (サッカー)|GK]])
* [[中村元 (1981年生のサッカー選手)]](げん) - [[大阪府]]出身のサッカー選手([[フォワード (サッカー)|FW]])
* [[中村元 (哲学者)]](はじめ、1912年(大正元年) - 1999年(平成11年)) - [[島根県]]出身の学者
* [[中村元 (水族館プロデューサー)]](はじめ、1956年(昭和31年) - )
* [[西野元]](げん、1875年(明治8年) - 1950年(昭和25年)) - 茨城県出身の政治家
* [[百石元]](はじめ、1958年(昭和33年) - ) - [[作曲家]]
* [[平野元]](げん、1920年(大正9年) - 1996年(平成8年)) - 俳優
* [[船田元]](はじめ、1953年(昭和28年) - ) - [[栃木県]]出身の政治家、[[衆議院議員]]
* [[舟橋元]](げん、1931年(昭和6年) - 1974年(昭和49年)) - [[北海道]]出身の俳優、本名は舟橋 澄
* [[古沢元]](げん、1907年(明治40年) - 1946年(昭和21年)) - [[岩手県]]出身の小説家、本名は古沢 玉次郎
* [[宮沢元]](げん、1929年(昭和4年) - 2003年(平成15年)) - 兵庫県出身の俳優、本名は宮沢 元三郎
* [[中山元]](げん、1949年(昭和24年) - ) - 東京都出身の哲学者
* [[吉川元 (政治家)]](げん、1966年(昭和41年) - ) - [[香川県]]出身の政治家([[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]])、[[衆議院議員]]
* [[江田元]] (はじめ、1993年(平成5年) - ) - [[富山県]]出身のYouTuber。
== フィクション作品の登場人物 ==
* [[元 (ストリートファイター)]] - 『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』シリーズの登場人物
* [[はだしのゲンの登場人物#中岡家|中岡元]] - [[中沢啓治]]作の漫画『[[はだしのゲン]]』の主人公、通称「ゲン」
== 関連項目 ==
* [[源 (曖昧さ回避)]] (げん、はじめ)
* {{prefix}}
* {{intitle}}
{{aimai}}
{{DEFAULTSORT:けん}}
[[Category:日本語の姓|はしめ]]
[[Category:日本語の男性名]]
|
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フェルミ分布関数
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フェルミ分布関数(フェルミぶんぷかんすう、英: Fermi distribution function)とは、相互作用のないフェルミ粒子の系において、一つのエネルギー準位にある粒子の数(占有数)の分布を与える理論式である。フェルミ・ディラック分布とも呼ばれる。
理想フェルミ気体の逆温度β、化学ポテンシャルμ、連続変数としてのエネルギーεを用いて
と定義される関数をフェルミ分布関数と呼ぶ。フェルミ分布関数は 0 から 1 の間の値をとる。
絶対零度(T→0, β→∞)の極限では、フェルミ分布関数はヘヴィサイドの階段関数を用いて
lim β → ∞ f ( ε ) = θ ( μ − ε ) = { 1 ( ε < μ ) 1 / 2 ( ε = μ ) 0 ( ε > μ ) {\displaystyle \lim _{\beta \to \infty }f(\epsilon )=\theta (\mu -\epsilon )={\begin{cases}1&(\epsilon <\mu )\\1/2&(\epsilon =\mu )\\0&(\epsilon >\mu )\\\end{cases}}}
となる。このときの化学ポテンシャルをフェルミエネルギーと呼ぶ。
量子数νで指定されるエネルギー準位ενを占有しているフェルミ粒子の個数 nνの統計的期待値⟨nν⟩を考える。占有数はマクロな観測量では無いが、期待値を求めておくと量子理想気体などの解析に便利である。⟨nν⟩をグランドカノニカル分布で求めると、以下のようになる。
つまりフェルミ分布関数のεに占有数の期待値を求めたい準位のエネルギーενを入れると占有数の期待値が求まる。フェルミ分布関数が 0 から 1 までの値しかとれないことは、パウリの排他原理によりフェルミ粒子が一つの準位には一つまでしか占有できないこととも整合している。
実際にフェルミ分布関数を用いる場合には、準位が存在しないエネルギーεでのフェルミ分布関数を考えることがある。しかしそのような場合、準位が存在しないエネルギー領域でのフェルミ分布関数の値に占有数としての意味は無い。
たとえば半導体や絶縁体中の電子を考える際、フェルミエネルギーがエネルギーギャップ中に存在するため、エネルギーギャップ中まで拡張したフェルミ分布関数を考えることが多い。
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"text": "フェルミ分布関数(フェルミぶんぷかんすう、英: Fermi distribution function)とは、相互作用のないフェルミ粒子の系において、一つのエネルギー準位にある粒子の数(占有数)の分布を与える理論式である。フェルミ・ディラック分布とも呼ばれる。",
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"text": "理想フェルミ気体の逆温度β、化学ポテンシャルμ、連続変数としてのエネルギーεを用いて",
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"text": "実際にフェルミ分布関数を用いる場合には、準位が存在しないエネルギーεでのフェルミ分布関数を考えることがある。しかしそのような場合、準位が存在しないエネルギー領域でのフェルミ分布関数の値に占有数としての意味は無い。",
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"text": "たとえば半導体や絶縁体中の電子を考える際、フェルミエネルギーがエネルギーギャップ中に存在するため、エネルギーギャップ中まで拡張したフェルミ分布関数を考えることが多い。",
"title": "占有数としての意味"
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] |
フェルミ分布関数とは、相互作用のないフェルミ粒子の系において、一つのエネルギー準位にある粒子の数(占有数)の分布を与える理論式である。フェルミ・ディラック分布とも呼ばれる。
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{{統計力学}}
[[Image:FD_e_mu.svg|thumb|right|250px|温度ごとのフェルミ分布関数]]
'''フェルミ分布関数'''(フェルミぶんぷかんすう、{{Lang-en-short|Fermi distribution function}})とは、相互作用のない[[フェルミ粒子]]の系において、一つの[[エネルギー準位]]にある粒子の数([[占有数]])の分布を与える理論式である<ref name=sinka>東京大学 知の構造化センター「物性物理学入門 (進化する教科書 Wiki)」[http://utht.t.u-tokyo.ac.jp:8080/mediawiki/index.php/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E5%88%86%E5%B8%83%E3%81%A8%E7%8A%B6%E6%85%8B%E5%AF%86%E5%BA%A6]{{リンク切れ|date=2019年11月}}</ref>。'''フェルミ・ディラック分布'''とも呼ばれる。
== 定義 ==
理想フェルミ気体の[[逆温度]]{{mvar|β}}、[[化学ポテンシャル]]{{mvar|μ}}、連続変数としてのエネルギー{{mvar|ε}}を用いて
:<math>f(\epsilon) = \frac{1}{\mathrm{e}^{\beta(\epsilon-\mu)} +1}</math>
と定義される関数を'''フェルミ分布関数'''と呼ぶ。フェルミ分布関数は {{math|0}} から {{math|1}} の間の値をとる。
== 低温でのふるまい ==
[[絶対零度]]({{math|''T''→0}}, {{math|''β''→∞}})の極限では、フェルミ分布関数は[[ヘヴィサイドの階段関数]]を用いて
{{Indent|
<math>\lim_{\beta\to\infty}f(\epsilon) =\theta(\mu -\epsilon) =
\begin{cases}
1 & (\epsilon < \mu) \\
1/2 & (\epsilon = \mu) \\
0 & (\epsilon > \mu) \\
\end{cases}</math>
}}
となる。このときの化学ポテンシャルを[[フェルミエネルギー]]と呼ぶ。
== 占有数としての意味 ==
[[量子数]]{{mvar|ν}}で指定されるエネルギー準位{{mvar|ε{{sub|ν}}}}を占有しているフェルミ粒子の個数 {{mvar|n{{sub|ν}}}}の統計的期待値{{math|⟨''n''{{sub|''ν''}}⟩}}を考える。占有数はマクロな観測量では無いが、期待値を求めておくと量子理想気体などの解析に便利である<ref>{{Cite book|和書|author=田崎晴明|authorlink=田崎晴明|title=統計力学II|publisher=[[培風館]]|series=新物理学シリーズ|year=2008|isbn=4563024384}}</ref>。{{math|⟨''n''{{sub|''ν''}}⟩}}を[[大正準集団|グランドカノニカル分布]]で求めると、以下のようになる<ref>[[伏見康治]]「[http://ebsa.ism.ac.jp/ebooks/sites/default/files/ebook/204/pdf/ch09-01.pdf 確率論及統計論]{{リンク切れ|date=2019年11月}}」第IX章 量子統計力学 §75. Fermi統計法,Bose統計法 p. 430.</ref>。
:<math>\langle n_\nu \rangle =f(\epsilon_\nu)\equiv \frac{1}{\mathrm{e}^{\beta(\epsilon_\nu-\mu)} +1}</math>
つまりフェルミ分布関数の{{mvar|ε}}に占有数の期待値を求めたい準位のエネルギー{{mvar|ε{{sub|ν}}}}を入れると占有数の期待値が求まる。フェルミ分布関数が {{math|0}} から {{math|1}} までの値しかとれないことは、[[パウリの排他原理]]によりフェルミ粒子が一つの準位には一つまでしか占有できないこととも整合している。
=== 注意点 ===
実際にフェルミ分布関数を用いる場合には、準位が存在しないエネルギー{{mvar|ε}}でのフェルミ分布関数を考えることがある。しかしそのような場合、準位が存在しないエネルギー領域でのフェルミ分布関数の値に占有数としての意味は無い。
たとえば半導体や絶縁体中の電子を考える際、フェルミエネルギーがエネルギーギャップ中に存在するため、[[エネルギーギャップ]]中まで拡張したフェルミ分布関数を考えることが多い。
==脚注==
{{reflist}}
==参考文献==
* {{cite book|和書|author=高田康民|authorlink=高田康民|title=多体問題|series=[[朝倉物理学大系]]|year=1999|publisher=[[朝倉書店]]|isbn=978-4-254-13679-1}}
* {{cite book|last=Kittel|author=|first=Charles|title=キッテル固体物理学入門|edition=8|series=|date=|year=2005|publisher=[[丸善出版]]|translator=宇野良清、津屋昇、新関駒二郎、森田章、山下次郎|location=|isbn=978-4-621-07653-8}}
==関連項目==
* [[粒子統計]]
** [[ボルツマン分布|ボルツマン統計]]
** [[ボース分布関数|ボース統計]]
* [[フェルミ縮退]]
* [[状態密度]]
* [[シグモイド関数]]
{{DEFAULTSORT:ふえるみふんふかんすう}}
[[Category:統計力学]]
[[Category:量子力学]]
[[Category:特殊関数]]
[[Category:エンリコ・フェルミ]]
[[Category:ポール・ディラック]]
[[Category:物理学のエポニム]]
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丈
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丈(じょう)は、中国や日本の伝統的な長さの単位である。1丈は10尺と定義されている。
日本では明治時代の尺貫法で1尺=10/33 m (= 約0.303030 m = 303.030 mm)と定義されたので、1丈は約3.0303 m = 3030.3 mmである。尺貫法は現在は廃止されており、取引・証明に使用することはできない。
中国の市制では1尺(市尺)=1/3 mなので、1丈(市丈)は約3.333 mである。
丈は古代中国に由来する。「丈」は元々は成人男性の身長を基準とした身体尺であったと考えられる(「丈夫」は元々は身長1丈の男の意で、そこから一人前の男の意となった)。当時の尺は約18 cmであり、丈は尺と関連づけられてその10倍の長さとされた。
隋・唐以降、尺の長さが当初の倍近くになったため、丈は人の身長よりはるかに大きくなった。
日本では丈は大宝令以前から用いられてきた。
長さの単位として別に間(けん。1間=6尺 = 約1.8182 m)があるが、間が土地の測量や距離の計測に用いられたのに対し、丈は物の長さを計るのに用いられた。
丈(たけ)は、人や物の高さのこと。例:身の丈
また服飾の分野においては、衣服の各部位の長さや長さによる種別のことを指す。
上衣の場合、襟元から袖口までの長さを「着丈」(きたけ)・「身丈」(みたけ)、肩口から袖口までの長さを「袖丈」(そでたけ)、襟元の中央から袖口までの長さを「裄丈」(ゆきたけ)と呼ぶ。 袖の長さに関しては、漢数字と組み合わせて「分丈袖」(ぶたけそで)と呼ばれるが、通常は「丈」の部分は省略して「分袖」(ぶそで)と呼ばれる事が多い。例を挙げると、通常より短い長袖を九分袖(くぶそで)・八分袖(はちぶそで)などと呼び、半袖の長さを二分袖(にぶそで)・三分袖(さんぶそで)などと呼ぶ。 なお、横方向の長さに対しては、両肩の間を「肩幅」、身頃の幅を「身幅」と呼び、丈(たけ)は用いられない。
下衣の場合には、穿き口から裾口までの長さを「着丈」と呼ぶ。 股上や股下についても、股上丈・股下丈と呼ぶ場合がある。 裾の長さに関しては、漢数字と組み合わせて「分丈」(ぶたけ)と呼ばれるほか、裾の位置に相当する脚の部位で呼ばれる場合もある。 股下から数センチのものを一分丈(いちぶたけ)ないし二分丈(にぶたけ)、もも丈を三分丈(さんぶたけ)、ひざ上丈を四分丈(よんぶたけ)、ひざ丈を五分丈(ごぶたけ)、ひざ下丈を六分丈(ろくぶたけ)、すね丈を七分丈(しちぶたけ)ないし八分丈(はちぶたけ)、くるぶし丈を九分丈(くぶたけ)と呼び、くるぶしの下まで届く脚を全部覆うものについては十分丈(じゅうぶたけ)と呼ぶ。 また、特定の長さの裾をもつ衣類に由来する「クロップト丈」(クロップトパンツ:7–8分丈程度のパンツ)・「マキシ丈」(マキシスカート:10分丈前後のロングスカート)などの用法もある。
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] |
丈(じょう)は、中国や日本の伝統的な長さの単位である。1丈は10尺と定義されている。 日本では明治時代の尺貫法で1尺=10/33 m と定義されたので、1丈は約3.0303 m = 3030.3 mmである。尺貫法は現在は廃止されており、取引・証明に使用することはできない。 中国の市制では1尺(市尺)=1/3 mなので、1丈(市丈)は約3.333 mである。
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{{単位
|名称=丈(じょう)
|度量衡=[[尺貫法]]
|物理量=[[長さ]]
|定義=10尺
|SI=約 3.0303 m = 3030.3 mm(日本)<br/>約 3.333 m = 3333 mm(中国)
}}
'''丈'''(じょう)は、中国や日本の伝統的な[[長さ]]の[[単位]]である。1丈は10[[尺]]と定義されている<ref>[[s:度量衡法|度量衡法]]、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、第三條の度、「丈」の項に、「十尺」とある。</ref>。
日本では明治時代の[[尺貫法]]で1尺=10/33 [[メートル|m]] (= 約{{val|0.303030|u=m}} = 303.030 mm)と定義された<ref>[[s:度量衡法|度量衡法]]、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、第二條、「白金、「イリヂウム」合金製ノ棒(中略)ノ面ニ記シタル標線間ノ攝氏〇、一五度ニ於ケル長サ三十三分ノ十ヲ尺トシ」とある。</ref>ので、1丈は約3.0303 m = 3030.3 mmである。尺貫法は現在は廃止されており、取引・証明に使用することはできない。
中国の[[市制 (単位系)|市制]]では1尺(市尺)=1/3 mなので、1丈(市丈)は約3.333 mである。
==中国==
丈は古代[[中国]]に由来する。「丈」は元々は成人男性の身長を基準とした[[身体尺]]であったと考えられる(「丈夫」は元々は身長1丈の男の意で、そこから一人前の男の意となった)。当時の尺は約18 [[センチメートル|cm]]であり、丈は尺と関連づけられてその10倍の長さとされた。
[[隋]]・[[唐]]以降、尺の長さが当初の倍近くになったため、丈は人の身長よりはるかに大きくなった。
==日本==
日本では丈は大宝令以前から用いられてきた。
長さの単位として別に[[間]](けん。1間=6尺 = 約1.8182 m)があるが、間が土地の測量や距離の計測に用いられたのに対し、丈は物の長さを計るのに用いられた。
== 用法 ==
* 1丈四方の面積のことを[[方丈]](ほうじょう)と言い、その広さの部屋や建物の事も方丈と言った。([[維摩居士|維摩]]の丈室)
* [[法量#丈六|丈六]]の仏は、仏像の標準的な大きさとされる。
* [[白髪三千丈]] - [[李白]]の詩句。
== 丈(たけ)==
'''丈'''(たけ)は、人や物の[[高さ]]のこと。例:身の丈
=== 衣服の丈 ===
また[[服飾]]の分野においては、[[衣服]]の各部位の長さや長さによる種別のことを指す。
[[トップス (衣服)|上衣]]の場合、襟元から[[袖口]]までの長さを「着丈」(きたけ)・「身丈」(みたけ)、肩口から袖口までの長さを「袖丈」(そでたけ)、襟元の中央から袖口までの長さを「裄丈」(ゆきたけ)と呼ぶ。
袖の長さに関しては、[[漢数字]]と組み合わせて「分丈袖」(ぶたけそで)と呼ばれるが、通常は「丈」の部分は省略して「分袖」(ぶそで)と呼ばれる事が多い。例を挙げると、通常より短い[[袖#袖の長さ|長袖]]を九分袖(くぶそで)・八分袖(はちぶそで)などと呼び、[[袖#袖の長さ|半袖]]の長さを二分袖(にぶそで)・三分袖(さんぶそで)などと呼ぶ。<!--編注:裾の場合と違い、「ひじ丈袖」「手首丈袖」の用法は無いと思いますが、とりあえず言及は避けてみました。--><!--追記:なお、例示した分袖は、記事「袖」で扱われていない長さを挙げています。-->
なお、横方向の長さに対しては、両肩の間を「肩幅」、身頃の幅を「身幅」と呼び、丈(たけ)は用いられない。
[[下衣]]の場合には、穿き口から裾口までの長さを「着丈」と呼ぶ。
股上や[[股下]]についても、股上丈・股下丈と呼ぶ場合がある。
裾の長さに関しては、漢数字と組み合わせて「分丈」(ぶたけ)と呼ばれるほか、[[裾]]の位置に相当する[[脚]]の部位で呼ばれる場合もある。
股下から数センチのものを一分丈(いちぶたけ)ないし二分丈(にぶたけ)、[[腿|もも]]丈を三分丈(さんぶたけ)、[[膝|ひざ]]上丈を四分丈(よんぶたけ)、ひざ丈を五分丈(ごぶたけ)、ひざ下丈を六分丈(ろくぶたけ)、[[脛|すね]]丈を七分丈(しちぶたけ)ないし八分丈(はちぶたけ)、[[踝|くるぶし]]丈を九分丈(くぶたけ)と呼び、くるぶしの下まで届く脚を全部覆うものについては十分丈(じゅうぶたけ)と呼ぶ。
また、特定の長さの裾をもつ衣類に由来する「[[クロップトパンツ|クロップト丈]]」(クロップトパンツ:7–8分丈程度の[[ズボン|パンツ]])・「[[スカート#長さによる分類|マキシ丈]]」(マキシスカート:10分丈前後の[[ロングスカート]])などの用法もある。<!--編注:説明を簡略化するため「マキシコート」の存在は度外視しています。-->
==外部リンク==
* [https://www.tan-i-kansan.com/category/%E4%B8%88%E3%81%AE%E9%95%B7%E3%81%95%EF%BD%9C%E5%8D%98%E4%BD%8D%E6%8F%9B%E7%AE%97%E8%A1%A8/ 丈(長さ)単位換算表]
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
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[[Category:身体尺]]
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間
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間(けん)は、尺貫法で使う長さの単位である。日本では計量法により取引・証明に用いることは禁止されている。
本来、建物の柱の間隔を1間とする、長さそのものではない単位だった(現在でも俗に和室の寸法などで使われる)が、日本では農地の測量に使われるようになり、ある長さを1間とする長さの単位となった。それゆえ、中国の度量衡にはない単位である。
1891年(明治24年)の度量衡法で1間=6尺と定義され、計量法施行法(昭和26年法律第208号)第 5条第 1号においても踏襲された。同時に1尺 = 10/33 mと定められたので、1間は約1.8181818 mである。60間が町(丁)となる。また、1坪(歩)の面積の正方形の1辺が1間である。
計量法(昭和26年法律第208号)(1951年6月7日公布・1952年3月1日施行)の導入に伴い、1958年12月31日限り(土地と建物については延長された。)で公式に使用する単位としては廃止された。
間は元来、建物の柱と柱の間、すなわち柱間のことであり、長さの単位ではない。同一の建物内であっても柱間の寸法は必ずしも一定ではなく、たとえば古代の寺社などでは中央部の間が大きく、両端部では狭くなっていることも珍しくない。古来、建築時の寸法に用いる単位は尺(高麗尺、小尺)だった。
ところが、日本では次第に租税計算を目的とした土地の測量時に間が単位として用いられるようになった。その長さはときの為政者によって決められ、たとえば、織田信長は6尺5寸、豊臣秀吉は太閤検地で1間を6尺3寸とし、江戸時代には6尺1分(6.01尺)とされたが、実際に使用される値は時代や地域によって異なっていた。6尺1分という半端な値は、本来6尺と定めたのだが、「六尺一歩」を「六尺一分」と勘違いされて実施されたせいだという説がある。
明治時代になると、メートル条約への加盟を受けて1間=6尺と度量衡法で定められた。
今日でも日本家屋の設計の際に用いられる「間」には、東日本を中心として使われる江戸間(田舎間)と、西日本を中心として使われる京間(本間)などがある。
そこに敷かれる畳も約1間×0.5間の大きさとなるが、実際には柱と柱の間に配置されるので柱の幅の分だけ小さくなる。畳の大きさも、使用される「間」の大きさに応じて異なることになる。
囲碁では、石と石の距離を数える単位として「間」を使う。「一間トビ」など。
将棋では、縦の筋のことを古く「間」といった。現在でも「三間飛車(さんげんびしゃ)・四間飛車(しけんびしゃ)」などの用語に残っている。
|
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"title": "囲碁・将棋"
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] |
間(けん)は、尺貫法で使う長さの単位である。日本では計量法により取引・証明に用いることは禁止されている。 本来、建物の柱の間隔を1間とする、長さそのものではない単位だった(現在でも俗に和室の寸法などで使われる)が、日本では農地の測量に使われるようになり、ある長さを1間とする長さの単位となった。それゆえ、中国の度量衡にはない単位である。
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{{Otheruses}}
{{出典の明記|date=2016年12月}}
{{単位
|名称 = 間
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|英語 =
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|語源 =
}}
'''間'''(けん)は、[[尺貫法]]で使う[[長さの単位]]である。[[日本]]では[[計量法]]により[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に用いることは禁止されている。
本来、建物の柱の間隔を1間とする、長さそのものではない単位だった(現在でも俗に[[和室]]の寸法などで使われる)が、[[日本]]では農地の測量に使われるようになり、ある長さを1間とする長さの単位となった。それゆえ、[[中国]]の[[度量衡]]にはない単位である。
== 近代の間 ==
[[1891年]](明治24年)の[[度量衡法]]で1間=6[[尺]]と定義され、計量法施行法(昭和26年法律第208号)第 5条第 1号においても踏襲された<ref>[http://hourei.hounavi.jp/seitei/hou/S26/S26HO208.php] 計量法施行法(昭和26年法律第208号)第5条第1号</ref>。同時に1[[尺]] = 10/33 [[メートル|m]]と定められた<ref>[http://hourei.hounavi.jp/seitei/hou/S26/S26HO208.php] 計量法施行法(昭和26年法律第208号)第4条第1号</ref>ので、1間は約{{val|1.8181818|u=m}}である。60間が[[町 (単位)|町]](丁)となる。また、1[[坪]]([[歩 (尺貫法)|歩]])の面積の正方形の1辺が1間である。
[[計量法]](昭和26年法律第208号)([[1951年]]6月7日公布・[[1952年]]3月1日施行)の導入に伴い、1958年12月31日限り(土地と建物については延長された。)で公式に使用する単位としては廃止された。
== 歴史 ==
間は元来、建物の[[柱]]と柱の間、すなわち[[柱間]]のことであり、長さの単位ではない。同一の建物内であっても柱間の寸法は必ずしも一定ではなく、たとえば古代の寺社などでは中央部の間が大きく、両端部では狭くなっていることも珍しくない。古来、建築時の寸法に用いる単位は尺(高麗尺、小尺)だった。
ところが、日本では次第に[[租税]]計算を目的とした土地の測量時に間が単位として用いられるようになった。その長さはときの為政者によって決められ、たとえば、[[織田信長]]は6尺5寸、[[豊臣秀吉]]は[[太閤検地]]で1間を6尺3[[寸]]とし、[[江戸時代]]には6尺1分(6.01尺)とされたが、実際に使用される値は時代や地域によって異なっていた。6尺1分という半端な値は、本来6尺と定めたのだが、「六尺一歩」を「六尺一分」と勘違いされて実施されたせいだという説がある<ref>『[[古事類苑]]』>稱量部>度>間竿>鐵尺 [http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/syoryoubu/frame/f000025.html 第1巻25頁]〔[[朝川善庵|善庵]]隨筆 二〕</ref>。
[[明治|明治時代]]になると、[[メートル条約]]への加盟を受けて1間=6尺と度量衡法で定められた。
== 家屋設計の「間」==
今日でも日本家屋の設計の際に用いられる「間」には、東日本を中心として使われる[[江戸間]](田舎間)と、西日本を中心として使われる[[京間]](本間)などがある。
* 江戸間 - 1間=6尺。[[畳]]の大きさは5尺8寸×2尺9寸
* 京間 - 1間=6尺5寸。畳の大きさは6尺3寸×3尺1寸5[[分 (数)|分]]
そこに敷かれる畳も約1間×0.5間の大きさとなるが、実際には柱と柱の間に配置されるので柱の幅の分だけ小さくなる。畳の大きさも、使用される「間」の大きさに応じて異なることになる。
== 囲碁・将棋 ==
[[囲碁]]では、石と石の距離を数える単位として「間」を使う。「一間[[トビ (囲碁)|トビ]]」など。
[[将棋]]では、縦の筋のことを古く「間」といった。現在でも「[[三間飛車]](さんげんびしゃ)・[[四間飛車]](しけんびしゃ)」などの用語に残っている。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[間竿]]
* [[尋]]、[[ファゾム]] - 長さが近い単位
== 外部リンク ==
{{Wiktionary|間}}
* [https://www.tan-i-kansan.com/category/{{urlencode:間の長さ|単位換算表}}/ 間(長さ)単位換算表]
{{長さの単位 (長)}}
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[[Category:尺貫法]]
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クルーガーランド金貨
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クルーガーランド金貨(クルーガーランドきんか、Krugerrand)とは、南アフリカ共和国造幣局発行の地金型金貨である。
この金貨は1892年から1900年にかけて発行されていた1ポンド金貨を模した物である。
正確に1トロイオンス(約31.1g)の金を含む。質量は1.0909トロイオンス(約33.93g)。これは純度が22金であるからで、金約91.67パーセントに銅約8.33パーセントを含む。表面には南アフリカに位置したトランスヴァール共和国の元大統領ポール・クリューガーの肖像が、裏面にはアンテロープの一種スプリングボックが描かれている。製造枚数は約5000万枚。
1967年7月3日に1トロイオンスのものが創鋳され、1980年に1/2, 1/4, 1/10トロイオンスの3種が創鋳された。
地金型金貨の嚆矢であり、1980年代には日本でもブームを巻き起こしたが、その後、アパルトヘイトへの抗議として、日本を含む世界各国で輸入が自粛された。
南アフリカに黒人政権が樹立して以降は、限定品としてのみわずかに販売されている。
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クルーガーランド金貨(クルーガーランドきんか、Krugerrand)とは、南アフリカ共和国造幣局発行の地金型金貨である。
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'''クルーガーランド金貨'''(クルーガーランドきんか、''Krugerrand'')とは、[[南アフリカ共和国]]造幣局発行の[[地金型金貨]]である。
==概要==
[[File:1 oz Krugerrand 2017 Bildseite.png|right|thumb|170px|クルーガーランド金貨:表面]]
[[File:1 oz Krugerrand 2017 Wertseite.png|right|thumb|170px|クルーガーランド金貨:裏面]]
この金貨は1892年から1900年にかけて発行されていた1ポンド金貨を模した物である。
正確に1[[トロイオンス]](約31.1g)の金を含む。質量は1.0909トロイオンス(約33.93g)。これは純度が22[[カラット|金]]であるからで、[[金]]約91.67[[パーセント]]に[[銅]]約8.33パーセントを含む。表面には南アフリカに位置した[[トランスヴァール共和国]]の元大統領[[ポール・クリューガー]]の肖像が、裏面には[[レイヨウ|アンテロープ]]の一種[[スプリングボック]]が描かれている。製造枚数は約5000万枚。
[[1967年]][[7月3日]]に1トロイオンスのものが創鋳され、[[1980年]]に1/2, 1/4, 1/10トロイオンスの3種が創鋳された。
[[地金型金貨]]の嚆矢であり、[[1980年代]]には日本でもブームを巻き起こしたが、その後、[[アパルトヘイト]]への抗議として、日本を含む世界各国で輸入が自粛された。
南アフリカに黒人政権が樹立して以降は、限定品としてのみわずかに販売されている。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Krugerrand|クルーガーランド金貨}}
*[[山形テレビ]](1980年代に金貨発行の事業を行っていた)
== 外部リンク ==
* [http://www.samint.co.za/ 南アフリカ共和国造幣局]
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因果
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因果(いんが)は、原因と結果を意味する用語。仏教用語として用いられる場合は業(カルマ)論と関連せしめられて自己の境遇に関する因果関係として語られる。時代の関係を考慮し、ヴェーダ、仏教の順で解説する。 因果は 転じて原因と結果のことを指すようになった。
ある事象を惹起させる直接的なもとと、それによってもたらされた事象。一般には、事象Aが事象Bをひき起こすとき、AをBの原因といい、BをAの結果という。このとき、AとBの間には因果関係があるという。
また果報(かほう)とは、過去の行為を原因として、現在に結果として受ける報いのこと。因に対する果、業に対する報に由来する。
正統バラモン教の一派に、この世のすべての事象は、原因の中にすでに結果が包含されている、とするものがある。
仏教における因果(いんが, hetu-phala)は、因縁(梵, 巴: hetu-pratyaya)と果報 (Vipāka)による熟語。仏教では、一切の存在は本来は善悪無記であると捉え、業に基づく輪廻の世界では、苦楽が応報すると説かれている。一切は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされ、「無因論」「神による創造」などは否定される。
また、「原因に縁って結果が起きる」という法則を縁起と呼ぶ。縁起の解釈は流派によって異なり、「縁起説」とも呼ばれている。善因には善果、悪因には悪果が訪れるという業の因果の法則が説かれている。
世尊告曰 ... 假令經百劫 所作業不亡 因縁會遇時 果報還自受
世尊は言った。仮令(たとい)百千劫を経とも、所作の業は亡ぜず。因縁会遇の時には、果報還って自ら受く。
仏教において因果は次のように説かれる。
因は善あるいは不善(悪)であり、果は楽であれ苦であれ無覆無記となることについて、因から果が異なって熟することを異熟果と呼ぶ。因果を否定する見解を、釈迦は邪見だと断じている
単純に「善因楽果・悪因苦果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、因と果は、数えきれないほどの過去における生を想定する概念であるために、その機序は複雑であり、今生の因が今生で果となるとは限らない。また、「良いことをすれば思い通りのことが起きる」という独自な教えを説く団体もあるが、厳密には正確な解釈ではない。
『過去現在因果経』は、5世紀に求那跋陀羅(ぐなばつだら)によって漢訳された全4巻の仏伝経典で、釈迦の前世の善行(本生譚、ジャータカ)と現世での事跡(仏伝)を記し、過去世に植えた善因は決して滅することなく果となって現在に及ぶことを説いている。
阿毘達磨倶舎論では、以下の六因五果論が提出された。
Yādisaṃ vapate bījaṃ tādisaṃ harate phalaṃ, Kalyāṇakārī kalyāṇaṃ pāpakārī ca pāpakaṃ,
人が持ち去る作物は自分が蒔いた種によるものです。 そのように善行為をした人は善果を、悪行為をした人は悪果を得るのです。
まだ悪果が熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。 しかし悪果が熟したときは、悪人は災いに遭う。
一切が、自らの原因によって生じた結果や報いであるとする考え方を、因果応報と呼ぶ。
「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られる。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴がある。
もともとインドにおいては、沙門宗教やバラモン教などさまざまな考え方において広く、業と輪廻という考え方をしていた。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まり、現世での行為によって来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観である。
仏教においても、この「業と輪廻」という考え方は継承されており、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道(あるいはそこから修羅を除いた五道)をぐるぐると輪廻しているとする。
仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。
修行によって悟ることができない人の場合は、(現世で悟りに至らなくても)善行を積むことで天界に生まれる(=生天)のがよいとされた。
インドではもともと業と輪廻の思想が広くゆきわたっていたので、仏教の因果応報の考え方は最初から何ら違和感なく受容されていたが、それが他の地域においてもすんなりと受容されたかと言うと、必ずしもそうではない。
中国ではもともと『易経』などで、家単位で、良い行いが家族に返ってくる、といった思想はあった。だが、これは現世の話であり、家族・親族の間でそのような影響がある、という考え方である。輪廻という考え方をしていたわけではないので、個人の善悪が現世を超えて来世にも影響するという考え方には違和感を覚える人たちが多数いた。中国の伝統的な思想と仏教思想との間でせめぎあいが生じ、六朝期には仏教の因果応報と輪廻をめぐる論争(神滅・不滅論争)が起きたという。
とはいうものの、因果応報はやがて、六朝の時代や唐代に小説のテーマとして扱われるようになり、さらには中国の土着の宗教の道教の中にもその考え方が導入されるようになり、人々に広まっていった。
日本では、平安時代に『日本霊異記』で因果応報の考え方が表現されるなどし、仏教と因果応報という考え方は強く結びついたかたちで民衆に広がっていった。現在、日本の日常的なことわざとしての用法では、後半が強調され「悪行は必ず神仏に裁かれる」という意味で使われることが多い。ただ、『日本霊異記』においての因果応報という考えも輪廻との関わりよりも、現在世というただ一世での因果を強調しているという事実も見逃すことはできない。
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因果(いんが)は、原因と結果を意味する用語。仏教用語として用いられる場合は業(カルマ)論と関連せしめられて自己の境遇に関する因果関係として語られる。時代の関係を考慮し、ヴェーダ、仏教の順で解説する。
因果は 転じて原因と結果のことを指すようになった。 ある事象を惹起させる直接的なもとと、それによってもたらされた事象。一般には、事象Aが事象Bをひき起こすとき、AをBの原因といい、BをAの結果という。このとき、AとBの間には因果関係があるという。 また果報(かほう)とは、過去の行為を原因として、現在に結果として受ける報いのこと。因に対する果、業に対する報に由来する。
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{{複数の問題
|出典の明記=2016年4月21日 (木) 12:52 (UTC)
|参照方法=2017年9月14日 (木) 07:14 (UTC)
|脚注の不足=2017年9月14日 (木) 07:14 (UTC)
}}
{{Otheruses|主として仏教やインド哲学の概念|原因と結果の概念に関する総合的記事|因果性}}
[[File:Dominoeffect.png|thumb|right|220px|ドミノ倒し。仏教では「AによってBが生ずる」と[[因果性]]を説く([[縁起]]){{Sfn|丸山|2007|pages=189-192}}]]
'''因果'''(いんが)は、原因と結果を意味する用語<ref>{{Kotobank|因果|[[三枝充悳]]、日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館。}}</ref>。仏教用語として用いられる場合は[[業]](カルマ)論と関連せしめられて自己の境遇に関する因果関係として語られる<ref>{{Kotobank|因果|世界大百科事典 第2版、平凡社。}}</ref>。時代の関係を考慮し、ヴェーダ、仏教の順で解説する。
因果は 転じて[[原因]]と[[結果]]のことを指すようになった。
ある事象を惹起させる直接的なもとと、それによってもたらされた事象。一般には、事象Aが事象Bをひき起こすとき、AをBの原因といい、BをAの結果という。このとき、AとBの間には因果関係があるという。
また'''果報'''(かほう)とは、過去の行為を原因として、現在に結果として受ける報いのこと<ref name=kaho>{{Cite |和書|title=岩波 仏教辞典 |date=2002 |edition=2 |isbn=978-4000802055 |publisher=岩波書店 |at=「果報」}}</ref>。因に対する果、業に対する報に由来する<ref name=kaho />。
==ヴェーダやバラモン教における説明==
=== 因中有果(いんちゅううか) ===
正統[[バラモン教]]の一派に、この世のすべての事象は、原因の中にすでに結果が包含されている、とするものがある。
== 仏教における説明 ==
[[仏教]]における'''因果'''(いんが, hetu-phala)は、'''[[因縁]]'''([[サンスクリット|梵]], [[パーリ語|巴]]: {{Unicode|hetu-pratyaya}}<ref>[https://www.wisdomlib.org/definition/hetu Hetu: 21 definitions - WISDOM LIBRARY]</ref>)と'''果報''' ({{Unicode|Vipāka}})による熟語。仏教では、一切の存在は本来は善悪[[無記]]であると捉え、[[業]]に基づく[[輪廻]]の世界では、苦楽が応報すると説かれている。一切は、直接的要因('''[[因]]''')と間接的要因('''[[縁]]''')により生じるとされ、「無因論」「神による創造」などは否定される{{Sfn|スマナサーラ|2012|loc=No.全1930中 807 / 42%}}。
また、「原因に縁って結果が起きる」という法則を[[縁起]]と呼ぶ。縁起の解釈は流派によって異なり、「縁起説」とも呼ばれている。善因には善果、悪因には悪果が訪れるという業の因果の法則が説かれている。
{{Quote|
世尊告曰 ...<br>
假令經百劫 所作業不亡<br>
因縁會遇時 果報還自受<br>
[[世尊]]は言った。仮令(たとい)百千劫を経とも、所作の[[業]]は亡ぜず。因縁会遇の時には、果報還って自ら受く。
| [[大正新脩大蔵経]], [[根本説一切有部毘奈耶]]<ref>{{Cite |title=SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2018版 (SAT 2018) |publisher=東京大学大学院人文社会系研究科 |url= https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php |date=2018 |at=Vol.23, No.1442}}</ref> }}
仏教において因果は次のように説かれる。
* '''善因楽果'''(ぜんいんらっか)…善が楽をうむ(善因善果ともいう{{Sfn|スマナサーラ|2014|loc=No.91/359}})
* '''悪因苦果'''(あくいんくか)…悪が苦をうむ(悪因悪果ともいう{{Sfn|スマナサーラ|2014|loc=No.91/359}})
因は善あるいは不善(悪)であり、果は楽であれ苦であれ無覆無記となることについて、因から果が異なって熟することを'''異熟果'''と呼ぶ。因果を否定する見解を、釈迦は邪見だと断じている<ref>{{SLTP|中部[[大四十経]] }}</ref>
単純に「善因楽果・悪因苦果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、因と果は、数えきれないほどの過去における生を想定する概念であるために、その機序は複雑であり、今生の因が今生で果となるとは限らない。また、「良いことをすれば思い通りのことが起きる」という独自な教えを説く団体もあるが、厳密には正確な解釈ではない。
=== 過去現在因果経 ===
[[Image:E innga kyo.jpg|thumb|320px|挿絵のついた『過去現在因果経』(8世紀、日本)<!--The Illustrated Sutra of Cause and Effect''. 8th century, [[Japan]]--> ]]
『[[過去現在因果経]]』は、[[5世紀]]に[[求那跋陀羅]](ぐなばつだら)によって[[漢訳]]された全4巻の仏伝経典で、釈迦の前世の善行([[本生譚]]、ジャータカ)と現世での事跡([[仏伝]])を記し、過去世に植えた善因は決して滅することなく果となって現在に及ぶことを説いている。
=== 六因五果論 ===
[[阿毘達磨倶舎論]]では、以下の六因五果論が提出された。
* 六因 - 能作因, 倶有因, 同類因, 相応因, 遍行因, 異熟因
* 五果 - 増上果, 士用果, 等流果, 異熟果, 離繫果
{{Main|阿毘達磨倶舎論#因果関係の法則}}
=== 因果応報 ===
{{Quote|
Yādisaṃ vapate bījaṃ tādisaṃ harate phalaṃ,
Kalyāṇakārī kalyāṇaṃ pāpakārī ca pāpakaṃ,
人が持ち去る作物は自分が蒔いた種によるものです。<br />
そのように善行為をした人は善果を、悪行為をした人は悪果を得るのです{{Sfn|スマナサーラ|2014|loc=7%}}。
| {{SLTP| [[相応部]] [[帝釈相応]], 11.10}} }}
{{Quote box|
まだ悪果が熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。<br>
しかし悪果が熟したときは、悪人は災いに遭う。
| [[ダンマパダ]],120}}
一切が、自らの原因によって生じた結果や報いであるとする考え方を、因果応報と呼ぶ。
「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られる。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴がある。
もともとインドにおいては、[[沙門|沙門宗教]]{{refnest|name="森章司_遊行と僧院の建設とサンガの形成"|[http://www.sakya-muni.jp/monograph/14/16/ 【概要】遊行と僧院の建設とサンガの形成 (森 章司)] - 「中央学術研究所紀要」モノグラフ篇 No.14}}や[[バラモン教]]などさまざまな考え方において広く、[[業]]と[[輪廻]]という考え方をしていた。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まり、現世での行為によって来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観である。
仏教においても、この「業と輪廻」という考え方は継承されており、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道(あるいはそこから修羅を除いた五道)をぐるぐると輪廻しているとする。
仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。
修行によって悟ることができない人の場合は、(現世で悟りに至らなくても)善行を積むことで天界に生まれる(=生天)のがよいとされた。
====因果応報の受容====
インドではもともと業と輪廻の思想が広くゆきわたっていたので、仏教の因果応報の考え方は最初から何ら違和感なく受容されていたが、それが他の地域においてもすんなりと受容されたかと言うと、必ずしもそうではない。
中国ではもともと『[[易経]]』などで、家単位で、良い行いが家族に返ってくる、といった思想はあった。だが、これは現世の話であり、家族・親族の間でそのような影響がある、という考え方である。輪廻という考え方をしていたわけではないので、個人の善悪が現世を超えて来世にも影響するという考え方には違和感を覚える人たちが多数いた。中国の伝統的な思想と仏教思想との間でせめぎあいが生じ、[[六朝]]期には仏教の因果応報と輪廻をめぐる論争([[神滅・不滅論争]])が起きたという。
とはいうものの、因果応報はやがて、六朝の時代や[[唐]]代に小説のテーマとして扱われるようになり、さらには中国の土着の宗教の[[道教]]の中にもその考え方が導入されるようになり、人々に広まっていった。
日本では、平安時代に『[[日本霊異記]]』で因果応報の考え方が表現されるなどし、仏教と因果応報という考え方は強く結びついたかたちで民衆に広がっていった。現在、日本の日常的なことわざとしての用法では、後半が強調され「悪行は必ず神仏に裁かれる」という意味で使われることが多い。ただ、『日本霊異記』においての因果応報という考えも輪廻との関わりよりも、現在世というただ一世での因果を強調しているという事実も見逃すことはできない。
==脚注・出典==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
==関連文献==
{{Refbegin}}
*{{Cite |和書|title=ブッダの旅 |series=岩波新書 |publisher=岩波書店|date=2007-04-20 |author=丸山勇 |isbn=978-4004310723|ref={{SfnRef|丸山|2007}}}}
*{{Cite journal|和書|last=神塚 |first=淑子 |author=神塚淑子 |title=霊宝経と初期江南仏教--因果応報思想を中心に |journal=東方宗教 |number=91 |date=1998-05 |page=1-21 |publisher=日本道教学会 |naid=40002637326 |ref=harv }}
* {{Cite journal|和書|last=西本 |first=陽一 |title=上座仏教における積徳と功徳の転送:北タイ「旧暦12月満月日」の儀礼 |journal=金沢大学文学部論集. 行動科学・哲学篇 |url=https://hdl.handle.net/2297/3849 |naid=110006311674 |volume=27 |pages=81-98 |ISSN=1342-4262 |date=2007-03-25 |publisher=金沢大学文学部 |ref=harv }}
*{{Cite |和書|title=無我の見方 |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |date=2012 |publisher=サンガ |edition=kindle |isbn=978-4905425069 |ref={{SfnRef|スマナサーラ|2012}} }}
* {{Cite |和書|author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |title=Power up Your Life 力強く生きるためにブッダが説いたカルマの法則 |publisher=サンガ |date=2014 |edition=Kindle |isbn=978-4904507230 |ref={{SfnRef|スマナサーラ|2014}} }}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
* [[因縁]]
* [[縁起|因縁生起]]
* [[マタイによる福音書]]
* [[諸行無常]]
<!--
*[[相関関係と因果関係]]
*[[先後関係と因果関係]]
*[[因果律]]
*[[因果的閉鎖性]]
*[[相当因果関係]]
*[[前後即因果の誤謬]]
-->
{{Buddhism2}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いんか}}
[[Category:因果|*いんか]]
[[Category:仏教用語]]
[[Category:原始仏教]]
[[Category:福音書]]
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ギリシア火薬
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ギリシア火薬(ギリシアかやく)とは東ローマ帝国で使用された焼夷兵器である。東ローマ帝国では海戦において典型的にこの兵器が使用され、これは水上に浮いている間ずっと燃え続けて多大な効果を上げた。この兵器は技術的な優位を与え、東ローマ帝国の多くの軍事的勝利において鍵となる役割を果たした。最も特記すべきはコンスタンティノープルをアラブ軍の2度に渡る攻囲から救出したことである。これにより帝国は生き残ることができた。
ギリシア火薬は西ヨーロッパの十字軍にある印象を作り出しており、ギリシア火薬という名前はいかなる種類の焼夷兵器にも適用され、これらにはアラブ人、中国人、またモンゴル人によって用いられた焼夷兵器も含まれていた。しかしながら、これらは異なる混合法により作られており、東ローマ帝国の製法によるものではなかった。ギリシア火薬は固い機密保持で守られ、秘密は失われてしまった。ギリシア火薬の配合の問題は推測や議論のままに残されており、松脂、ナフサ、酸化カルシウム、硫黄または硝石の混合物とする意見が見られる。東ローマ帝国で用いられた焼夷用の混合物は、敵の上に液体を噴射する高圧サイフォンの使用によって区別される。「Greek fire」の言葉は英語で一般的なものであり、他言語のそれは十字軍からのもので、オリジナルの東ローマ帝国の資料では数種の名称で呼ばれた。それらは「πῦρ θαλάσσιον、sea fire(海の火)」、「πῦρ ῥωμαϊκόν、Roman fire(ローマの火)」、「πολεμικὸν πῦρ、war fire(戦いの火)」「ὑγρὸν πῦρ、liquid fire(液火)」、また「πῦρ σκευαστόν、manufactured fire(作られた火)」である。
ギリシア火薬の発明に先立ち、焼夷兵器と火炎放射兵器が数世紀のあいだ戦争に使われた。これらには硫黄、石油、瀝青をベースとした混合物が幾種類か用いられた。火矢と可燃性の物質を充填したポットは紀元前9世紀初頭に新アッシリア帝国時代のアッシリア人に使われ、またギリシャ・ローマ世界でも広く使われた。
さらに、トゥキディデスは紀元前424年のデリウム包囲戦においてチューブ状の火炎放射器に注目した。海戦では、ヨハネス・マララスが東ローマ皇帝アナスタシウス1世(在位491-518年)の艦隊について記録している。西暦515年、彼らはヴィタリアンの反乱を破るため、アテネからの哲学者Proclusの助言を受けて硫黄ベースの混合物を利用した。
ただし厳密にはギリシア火薬は672年頃に開発されたもので、年代記の著者テオファネスによりカリニコスの功績に帰せられている。彼はPhoeniceの行政管区の内にあり、イスラムの征服の際に侵略を受けたヘリオポリス (現在のシリアのバールベック) 出身の名匠だった。この資料の正確さと年代学的な正しさには疑問が付される。テオファネスは、コンスタンティノープルにカリニコスが現れたと想定される2年前に、燃焼物を携行しサイフォンを装備した艦船が東ローマ帝国により使用されたことを報じている。もしこれが、攻囲における出来事の年代的な混乱によるものでないならば、それはカリニコスが単に確立されていた兵器を改良して世に出したことを示唆する可能性がある。また歴史家であるジェイムス・パーティントンは、実際にはギリシア火薬が単に同一人物による作成物ではなく「アレクサンドリア化学学校の事績を引き継いだ、コンスタンティノープルの化学者達によって発明された」ことがありうると考察している。11世紀の年代記作者であるゲオルギオス・ケドレノスは、カリニコスがエジプトのヘリオポリス出身であると確かに記録しているが、これは大部分の学者が間違いとして拒絶している。ケドレノスもまた顛末について記録したものの、より受け入れがたいものと考えられている。これはカリニコスの子孫の一家が「Lampros(すばらしいの意)」の名で呼ばれて火薬の製法の秘密を保ち、それは彼の時代まで続いたとするものである。
カリニコスのギリシア火薬の開発は東ローマ帝国の歴史において存亡の瞬間に成された。サーサーン朝ペルシアとの長い戦争により東ローマ帝国は疲弊し、イスラムの征服とその猛攻に対して効果的な防衛を行えなくなっていた。1世代のうちに、シリア、パレスチナ、そしてエジプトはアラブの支配下に落ち、彼らは672年ごろに帝国の中心地であるコンスタンティノープルを奪取しようと試みた。ギリシア火薬はイスラムの艦隊に大きな効果を挙げ、アラブによる第一次、第二次の市街の包囲から彼らを撤退させる助けとなった。
サラセン人との海戦の後、ギリシア火薬の使用記録はより散発的なものとなる。しかし特に9世紀から10世紀初頭、東ローマ帝国拡大の時期にこの兵器はいくつかの勝利を確実なものとした。この化学物質の利用は東ローマ帝国の内戦において顕著であった。主なものは727年の軍管区が保有する艦隊の反抗であり、また821年から823年のスラヴ人トマスが率いた大規模な反乱である。両方の場合とも、反乱艦隊は、コンスタンティノープルの帝国艦隊がギリシア火薬を用いることで打破された。また、東ローマ帝国はボスポラス海峡への様々なルーシ族の攻撃に対し、壊滅的な効果のためにギリシア火薬を用いた。特に941年(英語版)および1043年(英語版)の戦争の際に投入が行われた。また970年から971年のブルガリア戦争中も同様に、燃焼物を携行した東ローマ帝国の艦船はドナウ川を封鎖した。
帝国とアラブとの抗争の時期におけるギリシア火薬の重要性から、この兵器の発見は神の干渉に帰するとされるにまで至った。コンスタンティノス7世・ポルフュロゲネトス(在位945年から959年)は彼の著作『帝国統治論』の中で、彼の息子であり相続者だったロマノス2世(在位959年から963年)に訓戒している。この兵器の配合の秘密は決して明らかにしてはならず、「天使によって秘密が明らかにされ、偉大かつ神聖な最初のキリスト教の皇帝であるコンスタンティヌス1世に示された」としている。また天使は彼に制限を加え、「キリスト教徒とただ帝国の都市のみを除き、この兵器を製造しないこと」とした。警告としてコンスタンティノス7世は、この兵器の一部を帝国の敵に渡すよう買収されたある官吏を例とし、彼が教会に踏み入ろうとしたとき、「天国からの火」によって打ち倒された、と付け加えている。後代の事件が証明するように、東ローマ帝国人は彼らの貴重な秘密兵器の鹵獲を防止できなかった。827年、アラブ側は少なくとも一隻の火船を無傷で捕獲し、812年および814年にはブルガリア人がいくつかのサイフォンとギリシア火薬自体を多量に捕獲した。しかしながらこうした鹵獲は、東ローマの敵がこれらの兵器を複製可能とするには明らかに不十分だった。アラブ側はたとえば、東ローマ帝国の兵器に似た様々な焼夷物質を使用したものの、彼らにはサイフォンを用いる東ローマ帝国の方式が全く模倣できず、その代わりにカタパルトと手榴弾を使った。
ギリシア火薬に関する記述は12世紀の間にもなされ続け、1099年のピサ人との海戦において、アンナ・コムネナは使用の克明な説明を行った。しかし第4回十字軍による1203年のコンスタンティノープル包囲戦では、即席の火船が間に合わせに投入されたことが言及されるが、実際にギリシア火薬が使用されたかについて確実な記録はない。これはおそらく略奪に先立つ20年間に帝国が広汎な軍備縮小を行ったことが原因であるか、東ローマ帝国が、主要な成分を供給する地域との交通を絶たれたことによるか、またはおそらく秘密が時間と共に失われたことによる。
コンスタンティノス7世の警告が示すように、この兵器の成分と製造工程、およびギリシア火薬の開発は軍機密として慎重に防護されていた。ギリシア火薬の配合方法が永遠に失われ、推測のままにされていることから、秘密保持は厳しいものであったと推察できる。。結果、製法の「謎」がギリシア火薬の研究を長く支配していたが、このほぼ独占的な研究の焦点にも拘らず、ギリシア火薬は多数の構成要素からなる完成された兵器システムとしてよく理解されている。これら全てを効果的に作動させるには、共同してある操作が必要とされた。これは単に混合物の製法だけではなく、戦場へギリシア火薬を運搬する為に特化して作られたデュロモイ船からも理解できる。この装置は焼夷物を加熱し、圧送する準備に用いられ、サイフォンはそれを放射し、また特別な訓練を経た「siphōnarioi」がこれを運用した。システム全体についての知識は、1区画のみの秘密を承知している技術者と操作要員により高度に区分化されることで安全化を図った。また、この兵器の全容を収集し得た敵は存在しなかった。。これは814年に第一次ブルガリア帝国がメセンブリア(現ネセバル)とデベルトス(現ブルガス近郊)を占領した際、彼らは36基のサイフォンと焼夷剤自体を多量に捕獲したものの、これらをいかようにも利用できなかった事実からも、充分に説明されるものである。
ギリシア火薬に関して利用できる情報はほぼ間接的なものであり、東ローマ帝国の軍事解説書やいくつかの二次的な歴史資料、例えばアンナ・コムネナや、西ヨーロッパの年代記作者からの引用に基づいている。これらはしばしば不正確な情報を含む。アンナ・コムネナの『アレクシアド』では、1108年、東ローマ帝国のデュッラキウム(現ドゥラス)の駐屯軍がノルマン人に対して投入した焼夷兵器の事を記述している。これは、ある部分的なギリシア火薬の「製法」であるとしばしば考えられている。
This fire is made by the following arts. From the pine and the certain such evergreen trees inflammable resin is collected. This is rubbed with sulphur and put into tubes of reed, and is blown by men using it with violent and continuous breath. Then in this manner it meets the fire on the tip and catches light and falls like a fiery whirlwind on the faces of the enemies.(この炎は以下の技術によって作り出される。松、また同様の特定の常緑樹から引火性の樹脂が集められる。これは硫黄を擦り込まれ、葦のチューブに入れられ、男性が猛烈で継続的な排気を用いてこれを吹き付ける。それから、こうした方法でこれが頂上で着火すると、光を捕らえ、敵の前面へと炎の竜巻のように落ちる。)
同時期の著名な「ignis graecus」など、西側の年代記作者達の記録は、彼らがギリシア火薬の名前をどんな種類の焼夷性化学物質であっても適用したことから広範に信頼性を欠く。
ギリシア火薬の機構を再構築しようと試みるとき、現代の資料の引用から現れる具体的な証拠は以下のような特徴を与える。
最初に提示され、そして長期にわたり最も人気のあった説では、ギリシア火薬の主要成分が硝酸カリウム(硝石)であると考え、またそれは火薬の初期の形態であったとした。この議論は「雷と煙」の説明が基となっており、加えて距離の上でも、サイフォンから放射することのできた炎とは爆発的な放出を示唆するものとした。イサーク・フォシウスの時代ごろから、有名な化学者マルセラン・ベルテロを含む数人の学者、ことに19世紀中のフランスの学派はこの見解を固守した。それからこの見解は、硝酸カリウムが13世紀以前のヨーロッパまたは中東で戦争に使用された形跡が見られないこと、また同時期より以前に、地中海世界で最も化学的だったアラブでも全く著述が見られなかったことから拒絶された。さらに、提示された混合物の性質と、東ローマ帝国の資料によって記述されたサイフォンによって放射される物体とが根本的に異なっていた。
ギリシア火薬が水で消すことができなかったという要素、むしろいくつかの資料では水をその上に注ぐことが火勢を強めたと示唆することに基づく第二の見解は、この破壊力は水と生石灰の爆発的な反応の結果であると提唱した。生石灰は確実に知られていた物質であり、また東ローマ帝国もアラブ側も戦争に投入しているが、この説は文学と経験的な証拠から論破された。生石灰をベースとした物質は着火するために水と触れなければならなかったが、甲板が常時湿っているにせよ、しばしばギリシア火薬は敵船の甲板上に直接注がれたことがレオーン6世の軍事書『タクティカ』で示されている。同様にレオーン6世は手榴弾の使用について説明している。これは、物質が着火するには、水との接触が必ずしも必要ではないという観点のさらなる補強である。さらにまた、海上での実際の水と生石灰の反応結果は取るに足りないものであると、C. Zenghelisは実験に基づいて指摘した。また別の提案では、カリニコスが実際には二リン化三カルシウムを発見していたことを示唆した。水と接触すると二リン化三カルシウムはホスフィンを放出し、これは自発的に着火する。しかし広範な実験でも、記述にあるギリシア火薬の強力さを再生することに失敗した。
混合物には生石灰および硝酸カリウムの両方の存在が全く含まれないわけではないものの、これらは主要な成分ではなかった。現代の学者達の大部分は、実際のギリシア火薬は石油を基にしたもので、未加工もしくは精製済みの両方が有り得たということに同意している。比較すれば現代のナパーム弾がこれに当たる。東ローマ帝国は、黒海周辺にある、自然にわき出るいくつもの井戸から容易に原油の供給が受けられた。例えばトムタラカン周辺の井戸がコンスタンティノス7世によって言及されている。また他の中東を通じた様々な場所でも同様であった。ギリシア火薬の別の名前は「メディアの火」であり、また6世紀の歴史家であるプロコピオスは原油について記録しているが、これはペルシア人からは نفت 「ナフサ」と呼ばれ、ギリシャ人には「メディア油」と呼ばれていた。これはギリシア火薬の主要成分としてナフサが使用されたことを補強するように見える。また現代に残る9世紀のラテン語の資料がドイツのヴォルフェンビュッテルで保管されており、これもギリシア火薬らしく思われる成分と、これを放射するために用いるサイフォンの操作について言及している。この資料にはいくつか不正確な点が含まれているが、主要成分が明らかにナフサであることを特定している。またおそらく増粘剤として様々な樹脂が混入された。『Praecepta Militaria』では、この物質について「粘つく火」と称している。これは炎の持続時間と威力を増すためであった。
サラーフッディーンのためにマーディ・ビン・アリ・アル=タースシが用意した報告書には、一種のギリシア火薬のアラブ版が記録されている。これはナフトと呼ばれ、石油をベースとしたものに硫黄と各種の樹脂を加えたものである。しかし東ローマ帝国の製法とは、どのような直接の関連もほぼ有り得ない。アッバース朝軍にはこれを含む焼夷兵器の専門部隊(naffatun)が存在するなど西アジア全域でも広く使われ、十字軍が使用した記録もある。一説にはマグリブやイベリア半島で火薬兵器の開発が盛んだったのは、原料となる石油がこの地域では産出されなかったからとされる。
ギリシア火薬の主な使用方法は以下の通りである。これは同じ物質と離れて充填され、チューブまたはサイフォンを介して放射される。投入は艦船の接舷時または包囲時である。携帯型の放射装置(cheirosiphōnes)も存在し、レオーン6世の発明とみなされている。東ローマ帝国の軍事説明書では、ギリシア火薬と鉄びしを充填した壺(「kytrai」または「tzykalia」)を同じくギリシア火薬で湿した麻屑でくるみ、これをカタパルトで投射するほか、海戦においてピボット式のクレーン(gerania)は敵艦の上からギリシア火薬を降らせるよう用いられたと記述している。「cheirosiphōnes」は特に陸上戦および包囲戦において投入された。幾人かの10世紀の軍事史家は、これらは両方とも攻城兵器または防壁上の守備兵に対するものであるとし、これら兵器の投入の模様はビザンチウムのヘロの手による『Poliorcetica』によって描写されている。通常、東ローマ帝国軍のデュロモイ船はサイフォンを船首下部に内蔵していたが、さらに追加の装置を船のどこか別の場所に設置することもしばしば可能だった。例えば941年、東ローマ帝国の人々が極めて多数のルーシ艦隊と向き合うことを迫られたとき、サイフォンは船の中央部に、そして後方にさえ配置された。
サイフォンの使用は、当時の資料から充分証明される。アンナ・コムネナは、軍艦の艦首に装備される、獣の形をとったギリシア火薬放射装置について以下のような説明を行っている。
"As he [the Emperor Alexios I] knew that the Pisans were skilled in sea warfare and dreaded a battle with them, on the prow of each ship he had a head fixed of a lion or other land-animal, made in brass or iron with the mouth open and then gilded over, so that their mere aspect was terrifying. And the fire which was to be directed against the enemy through tubes he made to pass through the mouths of the beasts, so that it seemed as if the lions and the other similar monsters were vomiting the fire."(彼(アレクシオス1世コムネノス)が知っていたように、ピサ人は海戦に通じており、またこれらと戦うのを恐れていた。どの船の船首上にもある装置は、ライオンか陸上生物の頭部を固定してあり、真鍮か鉄で作られ、口は開かれ、さらに金メッキが施されていた。そのためこれらは全く恐ろしい風貌だった。またその炎は、この装置の、獣の口を通り抜けるチューブを介して敵へと指向されるようになっており、そのためこれはライオンや他の怪物が炎を噴き出しているように見えた。)
いくつかの資料では、メカニズム全体の構成と作動上のより詳しい情報を提示する。ヴォルフェンビュッテルの原稿は特に以下のような説明を提供している。
"...having built a furnace right at the front of the ship, they set on it a copper vessel full of these things, having put fire underneath. And one of them, having made a bronze tube similar to that which the rustics call a squitiatoria, "squirt", with which boys play, they spray [it] at the enemy."(......船の真正面に炉を造っており、彼らはその上にこれらの物質で満たされた銅の容器を置き、この下部では火が焚かれていた。そしてこれらのうちの一つは、田舎者が「squitiatoria、(水鉄砲)」と呼び、子供が遊ぶようなものに似たブロンズ製のチューブになっており、これらの装置が敵へ向けて[それ]を放射した。)
また別の、そしておそらくギリシア火薬の使用について直接説明するものは、11世紀の『遠征王ユングヴァルのサガ』に見られる。そこではヴァイキングである遠征王ユングヴァルがギリシア火薬のサイフォンを装備した艦船と対面している。
"[They] began blowing with smiths’ bellows at a furnace in which there was fire and there came from it a great din. There stood there also a brass [or bronze] tube and from it flew much fire against one ship, and it burned up in a short time so that all of it became white ashes..."(「[彼らは]鍛冶屋のふいごで火の焚かれた炉を吹き始め、またそこからは巨大な騒音がやって来た。そこにはまた、真鍮や[ブロンズ製]のチューブが立っており、さらにそこから多量の炎が一隻の船へと吹き付けられ、短い時間にそれが燃え上がったために、その全てが白い灰と化した......)
この説明は潤色されているが、他の資料から知られるギリシア火薬の他の多くの特徴、例えばその放出に伴う大きな騒音と一致する。これら2つの説明文はまた、物質が放出される前に炉の上で加熱されたとはっきり記述しているただ2つの資料でもある。この情報の有効性は疑問を免れないが、現代の装置の再建ではこれらの資料を信頼した。
これらの説明と東ローマ帝国の資料に基づき、ジョン・ハルドンとモーリス・バーンは3つの主要な部分からなる装置全体を再建した。一つのブロンズ製ポンプ(σίφων、サイフォン)、これは油に圧力をかけるのに用いられた。金属製の火鉢(πρόπυρον、「propyron」、予熱器)、これは油の加熱に使われた。そしてノズル(στρεπτόν、「strepton」)は青銅で被覆され、回り継ぎ手の上に据え付けられていた。金属製の火鉢は多量のリネンや亜麻を燃やして強い加熱を作り出し、また特徴的な濃い煙を上げた。この上部には1基の気密タンクがあり、中に入った油と他の物質が加熱され、また、樹脂を溶かして液状の混合物にする過程も補助した。 物質は加熱と圧力ポンプの使用によって圧縮をかけられた。これが適切な圧力に達した後、気密タンクに回り継ぎ手で連結されたバルブが開かれると、混合物は終わりまで放出され、口の部分で炎を生み出すいくつかの点火源により着火した。炎の強い加熱により、鉄製の防楯(βουκόλια、「boukolia」)の存在が必要となったが、これは艦隊の目録によって証明されている。
上昇圧力が加熱された油を容易に吹き飛ばせたため、そうした事故の状況の記録こそ無いものの、全ての過程は危険に満ちていた。2002年にハルドンによって実施された実験はテレビ番組『マシンズ・タイムズ・フォゴット(忘れられた時代の機械)』のエピソード「Fireship(火船)」のためのものであったが、この実験では現代の溶接技術でさえ圧力下におけるブロンズ製タンクの十分な気密確保に失敗した。これにより、タンクとノズルの間に圧力ポンプを再配置するに至った。こうした論拠から建造された実物大の装置は、東ローマ帝国人が利用できた簡易な材料と技術であっても機構の設計とその効果を確立した。実験は木の樹脂を混ぜ合わせた原油を使い、摂氏1,000度以上(華氏1,830度)の炎と、最高15メートル(49フィート)の効果範囲を作り出した。
携帯型の「cheirosiphōn」、ハンドサイフォンは、現代の火炎放射器に似る最も初期のものである。これは広汎に10世紀の軍の文書で証明されており、海上と陸上の両方での使用が推奨されていた。これらが最初に出現するのはレオーン6世の『タクティカ』の文中であり、彼はこれらを発明したと主張している。後代の著者も「cheirosiphōnes」の言及を続け、それは特に攻城塔に対する使用に関するものだった。ニケフォロス2世フォカスも野戦軍でのこれらの使用について助言したが、これは敵部隊の陣形を崩すことを狙ったものだった。レオーン6世もニケフォロス2世も共に主張することは、ハンドサイフォンに使用される物質には、船上で使われる固定装置と同じ物質を用いたこと、携帯型サイフォンはより大型の類似物と明白に異なっていたことである。ハルドンとブリンは、この装置が基本的に異なるもので、「敵を後退させるため、単純なシリンジによって液火(おそらく着火せず)と有毒な液体の両方を噴出させた」という説を立てた。しかし、ヘロの『Poliorcetica』の図が示すように、手持ち式のサイフォンも着火された物質を放射した。
最初期の形態では、可燃性の布に包んだ球体に点火するという方法で、ギリシア火薬は敵軍の頭上へ投擲された。これにはおそらくフラスコが含まれており、小型のカタパルト様の投射兵器も用いられた。もっとも可能性が高いものは、海上輸送型のローマ製小型カタパルト、もしくはオナガーである。これらは軽量の投射体、6kgから9kgのものを350mから450mほど投擲できた。後世の機械加工技術の改良により、近距離において流体の燃焼流を放出するポンプ機構の考案を可能とし、海戦で木造船を焼き払った。こうした兵器は軍勢の攻囲に対して使われるとき、陸上でも非常に効果的だった。
ギリシア火薬の破壊力は明白であるとはいえ、これはある種の「驚異の兵器」と見なされるべきものではなく、この兵器は東ローマ帝国海軍を無敵のものにもしなかった。 この兵器は、海洋歴史家のジョン・プライヤーの言葉では「船殺し」、つまり衝角に匹敵するものではなく、その頃には既に使用されなくなっていた。ギリシア火薬が強力な武器であり続けた時代を、より近代的な砲列の形態と比較すると、その限界は大きなものだった。サイフォンを装備した形態ではこの兵器の射程が限られており、穏やかな海面そして良好な風向の状況下でのみ安全に使用できた。最終的にイスラムの海軍は、効果範囲から離れるか、酢に浸したフェルトや遮蔽物のような防護方法を考案し、これに対応した。
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"text": "ギリシア火薬(ギリシアかやく)とは東ローマ帝国で使用された焼夷兵器である。東ローマ帝国では海戦において典型的にこの兵器が使用され、これは水上に浮いている間ずっと燃え続けて多大な効果を上げた。この兵器は技術的な優位を与え、東ローマ帝国の多くの軍事的勝利において鍵となる役割を果たした。最も特記すべきはコンスタンティノープルをアラブ軍の2度に渡る攻囲から救出したことである。これにより帝国は生き残ることができた。",
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"text": "ギリシア火薬は西ヨーロッパの十字軍にある印象を作り出しており、ギリシア火薬という名前はいかなる種類の焼夷兵器にも適用され、これらにはアラブ人、中国人、またモンゴル人によって用いられた焼夷兵器も含まれていた。しかしながら、これらは異なる混合法により作られており、東ローマ帝国の製法によるものではなかった。ギリシア火薬は固い機密保持で守られ、秘密は失われてしまった。ギリシア火薬の配合の問題は推測や議論のままに残されており、松脂、ナフサ、酸化カルシウム、硫黄または硝石の混合物とする意見が見られる。東ローマ帝国で用いられた焼夷用の混合物は、敵の上に液体を噴射する高圧サイフォンの使用によって区別される。「Greek fire」の言葉は英語で一般的なものであり、他言語のそれは十字軍からのもので、オリジナルの東ローマ帝国の資料では数種の名称で呼ばれた。それらは「πῦρ θαλάσσιον、sea fire(海の火)」、「πῦρ ῥωμαϊκόν、Roman fire(ローマの火)」、「πολεμικὸν πῦρ、war fire(戦いの火)」「ὑγρὸν πῦρ、liquid fire(液火)」、また「πῦρ σκευαστόν、manufactured fire(作られた火)」である。",
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"text": "ギリシア火薬の発明に先立ち、焼夷兵器と火炎放射兵器が数世紀のあいだ戦争に使われた。これらには硫黄、石油、瀝青をベースとした混合物が幾種類か用いられた。火矢と可燃性の物質を充填したポットは紀元前9世紀初頭に新アッシリア帝国時代のアッシリア人に使われ、またギリシャ・ローマ世界でも広く使われた。",
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"text": "さらに、トゥキディデスは紀元前424年のデリウム包囲戦においてチューブ状の火炎放射器に注目した。海戦では、ヨハネス・マララスが東ローマ皇帝アナスタシウス1世(在位491-518年)の艦隊について記録している。西暦515年、彼らはヴィタリアンの反乱を破るため、アテネからの哲学者Proclusの助言を受けて硫黄ベースの混合物を利用した。",
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"text": "ただし厳密にはギリシア火薬は672年頃に開発されたもので、年代記の著者テオファネスによりカリニコスの功績に帰せられている。彼はPhoeniceの行政管区の内にあり、イスラムの征服の際に侵略を受けたヘリオポリス (現在のシリアのバールベック) 出身の名匠だった。この資料の正確さと年代学的な正しさには疑問が付される。テオファネスは、コンスタンティノープルにカリニコスが現れたと想定される2年前に、燃焼物を携行しサイフォンを装備した艦船が東ローマ帝国により使用されたことを報じている。もしこれが、攻囲における出来事の年代的な混乱によるものでないならば、それはカリニコスが単に確立されていた兵器を改良して世に出したことを示唆する可能性がある。また歴史家であるジェイムス・パーティントンは、実際にはギリシア火薬が単に同一人物による作成物ではなく「アレクサンドリア化学学校の事績を引き継いだ、コンスタンティノープルの化学者達によって発明された」ことがありうると考察している。11世紀の年代記作者であるゲオルギオス・ケドレノスは、カリニコスがエジプトのヘリオポリス出身であると確かに記録しているが、これは大部分の学者が間違いとして拒絶している。ケドレノスもまた顛末について記録したものの、より受け入れがたいものと考えられている。これはカリニコスの子孫の一家が「Lampros(すばらしいの意)」の名で呼ばれて火薬の製法の秘密を保ち、それは彼の時代まで続いたとするものである。",
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"text": "カリニコスのギリシア火薬の開発は東ローマ帝国の歴史において存亡の瞬間に成された。サーサーン朝ペルシアとの長い戦争により東ローマ帝国は疲弊し、イスラムの征服とその猛攻に対して効果的な防衛を行えなくなっていた。1世代のうちに、シリア、パレスチナ、そしてエジプトはアラブの支配下に落ち、彼らは672年ごろに帝国の中心地であるコンスタンティノープルを奪取しようと試みた。ギリシア火薬はイスラムの艦隊に大きな効果を挙げ、アラブによる第一次、第二次の市街の包囲から彼らを撤退させる助けとなった。",
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"text": "サラセン人との海戦の後、ギリシア火薬の使用記録はより散発的なものとなる。しかし特に9世紀から10世紀初頭、東ローマ帝国拡大の時期にこの兵器はいくつかの勝利を確実なものとした。この化学物質の利用は東ローマ帝国の内戦において顕著であった。主なものは727年の軍管区が保有する艦隊の反抗であり、また821年から823年のスラヴ人トマスが率いた大規模な反乱である。両方の場合とも、反乱艦隊は、コンスタンティノープルの帝国艦隊がギリシア火薬を用いることで打破された。また、東ローマ帝国はボスポラス海峡への様々なルーシ族の攻撃に対し、壊滅的な効果のためにギリシア火薬を用いた。特に941年(英語版)および1043年(英語版)の戦争の際に投入が行われた。また970年から971年のブルガリア戦争中も同様に、燃焼物を携行した東ローマ帝国の艦船はドナウ川を封鎖した。",
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"text": "帝国とアラブとの抗争の時期におけるギリシア火薬の重要性から、この兵器の発見は神の干渉に帰するとされるにまで至った。コンスタンティノス7世・ポルフュロゲネトス(在位945年から959年)は彼の著作『帝国統治論』の中で、彼の息子であり相続者だったロマノス2世(在位959年から963年)に訓戒している。この兵器の配合の秘密は決して明らかにしてはならず、「天使によって秘密が明らかにされ、偉大かつ神聖な最初のキリスト教の皇帝であるコンスタンティヌス1世に示された」としている。また天使は彼に制限を加え、「キリスト教徒とただ帝国の都市のみを除き、この兵器を製造しないこと」とした。警告としてコンスタンティノス7世は、この兵器の一部を帝国の敵に渡すよう買収されたある官吏を例とし、彼が教会に踏み入ろうとしたとき、「天国からの火」によって打ち倒された、と付け加えている。後代の事件が証明するように、東ローマ帝国人は彼らの貴重な秘密兵器の鹵獲を防止できなかった。827年、アラブ側は少なくとも一隻の火船を無傷で捕獲し、812年および814年にはブルガリア人がいくつかのサイフォンとギリシア火薬自体を多量に捕獲した。しかしながらこうした鹵獲は、東ローマの敵がこれらの兵器を複製可能とするには明らかに不十分だった。アラブ側はたとえば、東ローマ帝国の兵器に似た様々な焼夷物質を使用したものの、彼らにはサイフォンを用いる東ローマ帝国の方式が全く模倣できず、その代わりにカタパルトと手榴弾を使った。",
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"text": "ギリシア火薬に関する記述は12世紀の間にもなされ続け、1099年のピサ人との海戦において、アンナ・コムネナは使用の克明な説明を行った。しかし第4回十字軍による1203年のコンスタンティノープル包囲戦では、即席の火船が間に合わせに投入されたことが言及されるが、実際にギリシア火薬が使用されたかについて確実な記録はない。これはおそらく略奪に先立つ20年間に帝国が広汎な軍備縮小を行ったことが原因であるか、東ローマ帝国が、主要な成分を供給する地域との交通を絶たれたことによるか、またはおそらく秘密が時間と共に失われたことによる。",
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"text": "コンスタンティノス7世の警告が示すように、この兵器の成分と製造工程、およびギリシア火薬の開発は軍機密として慎重に防護されていた。ギリシア火薬の配合方法が永遠に失われ、推測のままにされていることから、秘密保持は厳しいものであったと推察できる。。結果、製法の「謎」がギリシア火薬の研究を長く支配していたが、このほぼ独占的な研究の焦点にも拘らず、ギリシア火薬は多数の構成要素からなる完成された兵器システムとしてよく理解されている。これら全てを効果的に作動させるには、共同してある操作が必要とされた。これは単に混合物の製法だけではなく、戦場へギリシア火薬を運搬する為に特化して作られたデュロモイ船からも理解できる。この装置は焼夷物を加熱し、圧送する準備に用いられ、サイフォンはそれを放射し、また特別な訓練を経た「siphōnarioi」がこれを運用した。システム全体についての知識は、1区画のみの秘密を承知している技術者と操作要員により高度に区分化されることで安全化を図った。また、この兵器の全容を収集し得た敵は存在しなかった。。これは814年に第一次ブルガリア帝国がメセンブリア(現ネセバル)とデベルトス(現ブルガス近郊)を占領した際、彼らは36基のサイフォンと焼夷剤自体を多量に捕獲したものの、これらをいかようにも利用できなかった事実からも、充分に説明されるものである。",
"title": "製造"
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"text": "ギリシア火薬に関して利用できる情報はほぼ間接的なものであり、東ローマ帝国の軍事解説書やいくつかの二次的な歴史資料、例えばアンナ・コムネナや、西ヨーロッパの年代記作者からの引用に基づいている。これらはしばしば不正確な情報を含む。アンナ・コムネナの『アレクシアド』では、1108年、東ローマ帝国のデュッラキウム(現ドゥラス)の駐屯軍がノルマン人に対して投入した焼夷兵器の事を記述している。これは、ある部分的なギリシア火薬の「製法」であるとしばしば考えられている。",
"title": "製造"
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"text": "This fire is made by the following arts. From the pine and the certain such evergreen trees inflammable resin is collected. This is rubbed with sulphur and put into tubes of reed, and is blown by men using it with violent and continuous breath. Then in this manner it meets the fire on the tip and catches light and falls like a fiery whirlwind on the faces of the enemies.(この炎は以下の技術によって作り出される。松、また同様の特定の常緑樹から引火性の樹脂が集められる。これは硫黄を擦り込まれ、葦のチューブに入れられ、男性が猛烈で継続的な排気を用いてこれを吹き付ける。それから、こうした方法でこれが頂上で着火すると、光を捕らえ、敵の前面へと炎の竜巻のように落ちる。)",
"title": "製造"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "同時期の著名な「ignis graecus」など、西側の年代記作者達の記録は、彼らがギリシア火薬の名前をどんな種類の焼夷性化学物質であっても適用したことから広範に信頼性を欠く。",
"title": "製造"
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"text": "ギリシア火薬の機構を再構築しようと試みるとき、現代の資料の引用から現れる具体的な証拠は以下のような特徴を与える。",
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"text": "最初に提示され、そして長期にわたり最も人気のあった説では、ギリシア火薬の主要成分が硝酸カリウム(硝石)であると考え、またそれは火薬の初期の形態であったとした。この議論は「雷と煙」の説明が基となっており、加えて距離の上でも、サイフォンから放射することのできた炎とは爆発的な放出を示唆するものとした。イサーク・フォシウスの時代ごろから、有名な化学者マルセラン・ベルテロを含む数人の学者、ことに19世紀中のフランスの学派はこの見解を固守した。それからこの見解は、硝酸カリウムが13世紀以前のヨーロッパまたは中東で戦争に使用された形跡が見られないこと、また同時期より以前に、地中海世界で最も化学的だったアラブでも全く著述が見られなかったことから拒絶された。さらに、提示された混合物の性質と、東ローマ帝国の資料によって記述されたサイフォンによって放射される物体とが根本的に異なっていた。",
"title": "製造"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "ギリシア火薬が水で消すことができなかったという要素、むしろいくつかの資料では水をその上に注ぐことが火勢を強めたと示唆することに基づく第二の見解は、この破壊力は水と生石灰の爆発的な反応の結果であると提唱した。生石灰は確実に知られていた物質であり、また東ローマ帝国もアラブ側も戦争に投入しているが、この説は文学と経験的な証拠から論破された。生石灰をベースとした物質は着火するために水と触れなければならなかったが、甲板が常時湿っているにせよ、しばしばギリシア火薬は敵船の甲板上に直接注がれたことがレオーン6世の軍事書『タクティカ』で示されている。同様にレオーン6世は手榴弾の使用について説明している。これは、物質が着火するには、水との接触が必ずしも必要ではないという観点のさらなる補強である。さらにまた、海上での実際の水と生石灰の反応結果は取るに足りないものであると、C. Zenghelisは実験に基づいて指摘した。また別の提案では、カリニコスが実際には二リン化三カルシウムを発見していたことを示唆した。水と接触すると二リン化三カルシウムはホスフィンを放出し、これは自発的に着火する。しかし広範な実験でも、記述にあるギリシア火薬の強力さを再生することに失敗した。",
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"text": "混合物には生石灰および硝酸カリウムの両方の存在が全く含まれないわけではないものの、これらは主要な成分ではなかった。現代の学者達の大部分は、実際のギリシア火薬は石油を基にしたもので、未加工もしくは精製済みの両方が有り得たということに同意している。比較すれば現代のナパーム弾がこれに当たる。東ローマ帝国は、黒海周辺にある、自然にわき出るいくつもの井戸から容易に原油の供給が受けられた。例えばトムタラカン周辺の井戸がコンスタンティノス7世によって言及されている。また他の中東を通じた様々な場所でも同様であった。ギリシア火薬の別の名前は「メディアの火」であり、また6世紀の歴史家であるプロコピオスは原油について記録しているが、これはペルシア人からは نفت 「ナフサ」と呼ばれ、ギリシャ人には「メディア油」と呼ばれていた。これはギリシア火薬の主要成分としてナフサが使用されたことを補強するように見える。また現代に残る9世紀のラテン語の資料がドイツのヴォルフェンビュッテルで保管されており、これもギリシア火薬らしく思われる成分と、これを放射するために用いるサイフォンの操作について言及している。この資料にはいくつか不正確な点が含まれているが、主要成分が明らかにナフサであることを特定している。またおそらく増粘剤として様々な樹脂が混入された。『Praecepta Militaria』では、この物質について「粘つく火」と称している。これは炎の持続時間と威力を増すためであった。",
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"paragraph_id": 17,
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"text": "サラーフッディーンのためにマーディ・ビン・アリ・アル=タースシが用意した報告書には、一種のギリシア火薬のアラブ版が記録されている。これはナフトと呼ばれ、石油をベースとしたものに硫黄と各種の樹脂を加えたものである。しかし東ローマ帝国の製法とは、どのような直接の関連もほぼ有り得ない。アッバース朝軍にはこれを含む焼夷兵器の専門部隊(naffatun)が存在するなど西アジア全域でも広く使われ、十字軍が使用した記録もある。一説にはマグリブやイベリア半島で火薬兵器の開発が盛んだったのは、原料となる石油がこの地域では産出されなかったからとされる。",
"title": "製造"
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"title": "製造"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "ギリシア火薬の主な使用方法は以下の通りである。これは同じ物質と離れて充填され、チューブまたはサイフォンを介して放射される。投入は艦船の接舷時または包囲時である。携帯型の放射装置(cheirosiphōnes)も存在し、レオーン6世の発明とみなされている。東ローマ帝国の軍事説明書では、ギリシア火薬と鉄びしを充填した壺(「kytrai」または「tzykalia」)を同じくギリシア火薬で湿した麻屑でくるみ、これをカタパルトで投射するほか、海戦においてピボット式のクレーン(gerania)は敵艦の上からギリシア火薬を降らせるよう用いられたと記述している。「cheirosiphōnes」は特に陸上戦および包囲戦において投入された。幾人かの10世紀の軍事史家は、これらは両方とも攻城兵器または防壁上の守備兵に対するものであるとし、これら兵器の投入の模様はビザンチウムのヘロの手による『Poliorcetica』によって描写されている。通常、東ローマ帝国軍のデュロモイ船はサイフォンを船首下部に内蔵していたが、さらに追加の装置を船のどこか別の場所に設置することもしばしば可能だった。例えば941年、東ローマ帝国の人々が極めて多数のルーシ艦隊と向き合うことを迫られたとき、サイフォンは船の中央部に、そして後方にさえ配置された。",
"title": "使用方法"
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"text": "サイフォンの使用は、当時の資料から充分証明される。アンナ・コムネナは、軍艦の艦首に装備される、獣の形をとったギリシア火薬放射装置について以下のような説明を行っている。",
"title": "使用方法"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "\"As he [the Emperor Alexios I] knew that the Pisans were skilled in sea warfare and dreaded a battle with them, on the prow of each ship he had a head fixed of a lion or other land-animal, made in brass or iron with the mouth open and then gilded over, so that their mere aspect was terrifying. And the fire which was to be directed against the enemy through tubes he made to pass through the mouths of the beasts, so that it seemed as if the lions and the other similar monsters were vomiting the fire.\"(彼(アレクシオス1世コムネノス)が知っていたように、ピサ人は海戦に通じており、またこれらと戦うのを恐れていた。どの船の船首上にもある装置は、ライオンか陸上生物の頭部を固定してあり、真鍮か鉄で作られ、口は開かれ、さらに金メッキが施されていた。そのためこれらは全く恐ろしい風貌だった。またその炎は、この装置の、獣の口を通り抜けるチューブを介して敵へと指向されるようになっており、そのためこれはライオンや他の怪物が炎を噴き出しているように見えた。)",
"title": "使用方法"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "いくつかの資料では、メカニズム全体の構成と作動上のより詳しい情報を提示する。ヴォルフェンビュッテルの原稿は特に以下のような説明を提供している。",
"title": "使用方法"
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"text": "\"...having built a furnace right at the front of the ship, they set on it a copper vessel full of these things, having put fire underneath. And one of them, having made a bronze tube similar to that which the rustics call a squitiatoria, \"squirt\", with which boys play, they spray [it] at the enemy.\"(......船の真正面に炉を造っており、彼らはその上にこれらの物質で満たされた銅の容器を置き、この下部では火が焚かれていた。そしてこれらのうちの一つは、田舎者が「squitiatoria、(水鉄砲)」と呼び、子供が遊ぶようなものに似たブロンズ製のチューブになっており、これらの装置が敵へ向けて[それ]を放射した。)",
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"text": "また別の、そしておそらくギリシア火薬の使用について直接説明するものは、11世紀の『遠征王ユングヴァルのサガ』に見られる。そこではヴァイキングである遠征王ユングヴァルがギリシア火薬のサイフォンを装備した艦船と対面している。",
"title": "使用方法"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "\"[They] began blowing with smiths’ bellows at a furnace in which there was fire and there came from it a great din. There stood there also a brass [or bronze] tube and from it flew much fire against one ship, and it burned up in a short time so that all of it became white ashes...\"(「[彼らは]鍛冶屋のふいごで火の焚かれた炉を吹き始め、またそこからは巨大な騒音がやって来た。そこにはまた、真鍮や[ブロンズ製]のチューブが立っており、さらにそこから多量の炎が一隻の船へと吹き付けられ、短い時間にそれが燃え上がったために、その全てが白い灰と化した......)",
"title": "使用方法"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この説明は潤色されているが、他の資料から知られるギリシア火薬の他の多くの特徴、例えばその放出に伴う大きな騒音と一致する。これら2つの説明文はまた、物質が放出される前に炉の上で加熱されたとはっきり記述しているただ2つの資料でもある。この情報の有効性は疑問を免れないが、現代の装置の再建ではこれらの資料を信頼した。",
"title": "使用方法"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "これらの説明と東ローマ帝国の資料に基づき、ジョン・ハルドンとモーリス・バーンは3つの主要な部分からなる装置全体を再建した。一つのブロンズ製ポンプ(σίφων、サイフォン)、これは油に圧力をかけるのに用いられた。金属製の火鉢(πρόπυρον、「propyron」、予熱器)、これは油の加熱に使われた。そしてノズル(στρεπτόν、「strepton」)は青銅で被覆され、回り継ぎ手の上に据え付けられていた。金属製の火鉢は多量のリネンや亜麻を燃やして強い加熱を作り出し、また特徴的な濃い煙を上げた。この上部には1基の気密タンクがあり、中に入った油と他の物質が加熱され、また、樹脂を溶かして液状の混合物にする過程も補助した。 物質は加熱と圧力ポンプの使用によって圧縮をかけられた。これが適切な圧力に達した後、気密タンクに回り継ぎ手で連結されたバルブが開かれると、混合物は終わりまで放出され、口の部分で炎を生み出すいくつかの点火源により着火した。炎の強い加熱により、鉄製の防楯(βουκόλια、「boukolia」)の存在が必要となったが、これは艦隊の目録によって証明されている。",
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "上昇圧力が加熱された油を容易に吹き飛ばせたため、そうした事故の状況の記録こそ無いものの、全ての過程は危険に満ちていた。2002年にハルドンによって実施された実験はテレビ番組『マシンズ・タイムズ・フォゴット(忘れられた時代の機械)』のエピソード「Fireship(火船)」のためのものであったが、この実験では現代の溶接技術でさえ圧力下におけるブロンズ製タンクの十分な気密確保に失敗した。これにより、タンクとノズルの間に圧力ポンプを再配置するに至った。こうした論拠から建造された実物大の装置は、東ローマ帝国人が利用できた簡易な材料と技術であっても機構の設計とその効果を確立した。実験は木の樹脂を混ぜ合わせた原油を使い、摂氏1,000度以上(華氏1,830度)の炎と、最高15メートル(49フィート)の効果範囲を作り出した。",
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{
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"text": "携帯型の「cheirosiphōn」、ハンドサイフォンは、現代の火炎放射器に似る最も初期のものである。これは広汎に10世紀の軍の文書で証明されており、海上と陸上の両方での使用が推奨されていた。これらが最初に出現するのはレオーン6世の『タクティカ』の文中であり、彼はこれらを発明したと主張している。後代の著者も「cheirosiphōnes」の言及を続け、それは特に攻城塔に対する使用に関するものだった。ニケフォロス2世フォカスも野戦軍でのこれらの使用について助言したが、これは敵部隊の陣形を崩すことを狙ったものだった。レオーン6世もニケフォロス2世も共に主張することは、ハンドサイフォンに使用される物質には、船上で使われる固定装置と同じ物質を用いたこと、携帯型サイフォンはより大型の類似物と明白に異なっていたことである。ハルドンとブリンは、この装置が基本的に異なるもので、「敵を後退させるため、単純なシリンジによって液火(おそらく着火せず)と有毒な液体の両方を噴出させた」という説を立てた。しかし、ヘロの『Poliorcetica』の図が示すように、手持ち式のサイフォンも着火された物質を放射した。",
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "最初期の形態では、可燃性の布に包んだ球体に点火するという方法で、ギリシア火薬は敵軍の頭上へ投擲された。これにはおそらくフラスコが含まれており、小型のカタパルト様の投射兵器も用いられた。もっとも可能性が高いものは、海上輸送型のローマ製小型カタパルト、もしくはオナガーである。これらは軽量の投射体、6kgから9kgのものを350mから450mほど投擲できた。後世の機械加工技術の改良により、近距離において流体の燃焼流を放出するポンプ機構の考案を可能とし、海戦で木造船を焼き払った。こうした兵器は軍勢の攻囲に対して使われるとき、陸上でも非常に効果的だった。",
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"text": "ギリシア火薬の破壊力は明白であるとはいえ、これはある種の「驚異の兵器」と見なされるべきものではなく、この兵器は東ローマ帝国海軍を無敵のものにもしなかった。 この兵器は、海洋歴史家のジョン・プライヤーの言葉では「船殺し」、つまり衝角に匹敵するものではなく、その頃には既に使用されなくなっていた。ギリシア火薬が強力な武器であり続けた時代を、より近代的な砲列の形態と比較すると、その限界は大きなものだった。サイフォンを装備した形態ではこの兵器の射程が限られており、穏やかな海面そして良好な風向の状況下でのみ安全に使用できた。最終的にイスラムの海軍は、効果範囲から離れるか、酢に浸したフェルトや遮蔽物のような防護方法を考案し、これに対応した。",
"title": "効果と対抗策"
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ギリシア火薬(ギリシアかやく)とは東ローマ帝国で使用された焼夷兵器である。東ローマ帝国では海戦において典型的にこの兵器が使用され、これは水上に浮いている間ずっと燃え続けて多大な効果を上げた。この兵器は技術的な優位を与え、東ローマ帝国の多くの軍事的勝利において鍵となる役割を果たした。最も特記すべきはコンスタンティノープルをアラブ軍の2度に渡る攻囲から救出したことである。これにより帝国は生き残ることができた。 ギリシア火薬は西ヨーロッパの十字軍にある印象を作り出しており、ギリシア火薬という名前はいかなる種類の焼夷兵器にも適用され、これらにはアラブ人、中国人、またモンゴル人によって用いられた焼夷兵器も含まれていた。しかしながら、これらは異なる混合法により作られており、東ローマ帝国の製法によるものではなかった。ギリシア火薬は固い機密保持で守られ、秘密は失われてしまった。ギリシア火薬の配合の問題は推測や議論のままに残されており、松脂、ナフサ、酸化カルシウム、硫黄または硝石の混合物とする意見が見られる。東ローマ帝国で用いられた焼夷用の混合物は、敵の上に液体を噴射する高圧サイフォンの使用によって区別される。「Greek fire」の言葉は英語で一般的なものであり、他言語のそれは十字軍からのもので、オリジナルの東ローマ帝国の資料では数種の名称で呼ばれた。それらは「πῦρ θαλάσσιον、sea fire(海の火)」、「πῦρ ῥωμαϊκόν、Roman fire(ローマの火)」、「πολεμικὸν πῦρ、war fire(戦いの火)」「ὑγρὸν πῦρ、liquid fire(液火)」、また「πῦρ σκευαστόν、manufactured fire(作られた火)」である。
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[[Image:Greekfire-madridskylitzes1.jpg|right|300px|thumb|アラブ海軍に対して使用されたギリシア火薬(『[[ヨハネス・スキュリツェス|スキュリツェス年代記]]』の挿絵より)]]
[[Image:Liquid fire granades Chania.jpg|thumb|300px|ギリシア火薬を充填する陶製の手榴弾、周囲のものは鉄びしである。10世紀から12世紀出土。[[ギリシャ]]・アテネの国立歴史博物館収蔵品。]]
'''ギリシア火薬'''(ギリシアかやく)とは[[東ローマ帝国]]で使用された[[焼夷弾|焼夷]]兵器である。東ローマ帝国では海戦において典型的にこの兵器が使用され、これは水上に浮いている間ずっと燃え続けて多大な効果を上げた。この兵器は技術的な優位を与え、東ローマ帝国の多くの軍事的勝利において鍵となる役割を果たした。最も特記すべきは[[コンスタンティノープル]]をアラブ軍の2度に渡る[[攻城戦|攻囲]]から救出したことである。これにより帝国は生き残ることができた。
ギリシア火薬は西ヨーロッパの[[十字軍]]にある印象を作り出しており、ギリシア火薬という名前はいかなる種類の焼夷兵器にも適用され{{sfn|Haldon|Byrne|1977|p=97}}、これらにはアラブ人、中国人、またモンゴル人によって用いられた焼夷兵器も含まれていた。しかしながら、これらは異なる混合法により作られており、東ローマ帝国の製法によるものではなかった。ギリシア火薬は固い機密保持で守られ、秘密は失われてしまった。ギリシア火薬の配合の問題は推測や議論のままに残されており、[[松脂]]、[[ナフサ]]、[[酸化カルシウム]]、[[硫黄]]または[[硝石]]の混合物とする意見が見られる。東ローマ帝国で用いられた焼夷用の混合物は、敵の上に液体を噴射する高圧サイフォンの使用によって区別される。「Greek fire」の言葉は英語で一般的なものであり、他言語のそれは十字軍からのもので、オリジナルの東ローマ帝国の資料では数種の名称で呼ばれた。それらは「{{lang|grc|πῦρ θαλάσσιον}}、sea fire(海の火)」、「{{lang|grc|πῦρ ῥωμαϊκόν}}、Roman fire(ローマの火)」、「{{lang|grc|πολεμικὸν πῦρ}}、war fire(戦いの火)」「{{lang|grc|ὑγρὸν πῦρ}}、liquid fire(液火)」、また「{{lang|grc|πῦρ σκευαστόν}}、manufactured fire(作られた火)」である{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=608-609}}{{sfn|Forbes|1959|p=83}}。
== 歴史 ==
{{quote box | width = 26em | quote = {{lang|el|Τότε Καλλίνικος ἀρχιτέκτων ἀπὸ Ἡλιουπόλεως Συρίας προσφυγὼν τοῖς Ῥωμαίοις πῦρ θαλάσσιον κατασκευάσας τὰ τῶν Ἀράβων σκάφη ἐνέπρησεν, καὶ σύμψυχα κατέκαυσεν. Καὶ οὕτως οὶ Ῥωμαίοι μετὰ νίκης ὑπέστρεψαν καὶ τὸ θαλάσσιον πῦρ εὖρον.}}<br/>(英訳:{{lang|en|At that time Kallinikos, an artificer from Heliopolis, fled to the Romans. He had devised a sea fire which ignited the Arab ships and burned them with all hands. Thus it was that the Romans returned with victory and discovered the sea fire.}}) <br />(日本語訳:そのとき、ヘリオポリス出身の名匠カリニコスは[[東ローマ帝国|ローマ(帝国)]]に逃れた。彼は「海の火」を考案し、これはアラブの艦船に火を着け、そして全ての方向から彼らを燃やした。このようにして[[ローマ人]]は勝利と共に戻り、また海の火を見いだした。) | source = Chronicle of Theophanes the Confessor, ''Annus Mundi'' 6165([[テオファネス (証聖者)|テオファネス]]の年代記、アノ・ムンディ([[世界創造紀元|ビザンティン暦]])6165年)|{{sfn|Theophanes|Turtledove|1982|p=53}}}}
ギリシア火薬の発明に先立ち、焼夷兵器と火炎放射兵器が数世紀のあいだ戦争に使われた。これらには硫黄、[[石油]]、[[瀝青]]をベースとした混合物が幾種類か用いられた{{sfn|Leicester|1971|p=75}}{{sfn|Crosby|2002|pp=88-89}}。火矢と可燃性の物質を充填したポットは紀元前9世紀初頭に[[:en:Neo-Assyrian Empire|新アッシリア帝国]]時代のアッシリア人に使われ、またギリシャ・ローマ世界でも広く使われた。
さらに、[[トゥキディデス]]は紀元前424年の[[:en:Battle of Delium|デリウム包囲戦]]においてチューブ状の[[火炎放射器]]に注目した{{sfn|Partington|1999|pp=1-5}}{{sfn|Forbes|1959|pp=70-74}}<ref>Thuc. 4.100.1</ref>。海戦では、ヨハネス・マララスが東ローマ皇帝[[アナスタシウス1世]](在位491-518年)の艦隊について記録している。西暦515年、彼らはヴィタリアンの反乱を破るため、アテネからの哲学者Proclusの助言を受けて硫黄ベースの混合物を利用した{{sfn|Partington|1999|p=5}}。
ただし厳密にはギリシア火薬は672年頃に開発されたもので、年代記の著者テオファネスによりカリニコスの功績に帰せられている。彼はPhoeniceの行政管区の内にあり、[[:en:Muslim conquests|イスラムの征服]]の際に侵略を受けたヘリオポリス (現在の[[シリア]]の[[バールベック]]) 出身の名匠だった{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=607-609}}。この資料の正確さと年代学的な正しさには疑問が付される。テオファネスは、コンスタンティノープルにカリニコスが現れたと想定される2年前に、燃焼物を携行しサイフォンを装備した艦船が東ローマ帝国により使用されたことを報じている{{sfn|Theophanes|Turtledove|1982|p=52}}。もしこれが、攻囲における出来事の年代的な混乱によるものでないならば、それはカリニコスが単に確立されていた兵器を改良して世に出したことを示唆する可能性がある{{sfn|Roland|1992|p=657}}{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=608}}。また歴史家であるジェイムス・パーティントンは、実際にはギリシア火薬が単に同一人物による作成物ではなく「[[アレクサンドリア]]化学学校の事績を引き継いだ、コンスタンティノープルの化学者達によって発明された」ことがありうると考察している{{sfn|Partington |1999|pp=12-13}}。11世紀の年代記作者であるゲオルギオス・ケドレノスは、カリニコスが[[エジプト]]の[[ヘリオポリス]]出身であると確かに記録しているが、これは大部分の学者が間違いとして拒絶している{{sfn|Forbes|1959|p=80}}。ケドレノスもまた顛末について記録したものの、より受け入れがたいものと考えられている。これはカリニコスの子孫の一家が「Lampros(すばらしいの意)」の名で呼ばれて火薬の製法の秘密を保ち、それは彼の時代まで続いたとするものである{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=608}}。
カリニコスのギリシア火薬の開発は東ローマ帝国の歴史において存亡の瞬間に成された。[[サーサーン朝]]ペルシアとの長い[[:en:Roman-Persian Wars|戦争]]により東ローマ帝国は疲弊し、イスラムの征服とその猛攻に対して効果的な防衛を行えなくなっていた。1世代のうちに、シリア、パレスチナ、そしてエジプトはアラブの支配下に落ち、彼らは672年ごろに帝国の中心地である[[コンスタンティノープル]]を奪取しようと試みた。ギリシア火薬はイスラムの艦隊に大きな効果を挙げ、アラブによる[[コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)|第一次]]、[[コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)|第二次]]の市街の包囲から彼らを撤退させる助けとなった{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=26-27, 31-32}}。
サラセン人との海戦の後、ギリシア火薬の使用記録はより散発的なものとなる。しかし特に9世紀から10世紀初頭、東ローマ帝国拡大の時期にこの兵器はいくつかの勝利を確実なものとした{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=61-62, 72}}。この化学物質の利用は東ローマ帝国の内戦において顕著であった。主なものは727年の[[テマ制|軍管区]]が保有する艦隊の反抗であり、また821年から823年の[[スラヴ人トマス]]が率いた大規模な反乱である。両方の場合とも、反乱艦隊は、コンスタンティノープルの帝国艦隊がギリシア火薬を用いることで打破された{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=32, 46, 73}}。また、東ローマ帝国はボスポラス海峡への様々な[[ルーシ族]]の攻撃に対し、壊滅的な効果のためにギリシア火薬を用いた。特に{{仮リンク|ルーシ・ビザンツ戦争 (941年)|label=941年|en|Rus'–Byzantine War (941)}}および{{仮リンク|ルーシ・ビザンツ戦争 (1043年)|label=1043年|en|Rus'–Byzantine War (1043)}}の戦争の際に投入が行われた。また970年から971年のブルガリア戦争中も同様に、燃焼物を携行した東ローマ帝国の艦船はドナウ川を封鎖した{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=86, 189}}。
帝国とアラブとの抗争の時期におけるギリシア火薬の重要性から、この兵器の発見は神の干渉に帰するとされるにまで至った。[[コンスタンティノス7世]]・ポルフュロゲネトス(在位945年から959年)は彼の著作『帝国統治論』の中で、彼の息子であり相続者だった[[ロマノス2世]](在位959年から963年)に訓戒している。この兵器の配合の秘密は決して明らかにしてはならず、「天使によって秘密が明らかにされ、偉大かつ神聖な最初のキリスト教の皇帝である[[コンスタンティヌス1世]]に示された」としている。また天使は彼に制限を加え、「キリスト教徒とただ帝国の都市のみを除き、この兵器を製造しないこと」とした。警告としてコンスタンティノス7世は、この兵器の一部を帝国の敵に渡すよう買収されたある官吏を例とし、彼が教会に踏み入ろうとしたとき、「天国からの火」によって打ち倒された、と付け加えている{{sfn|Moravcsik|Jenkins|1967|pp=68-71}}{{sfn|Forbes|1959|p=82}}。後代の事件が証明するように、東ローマ帝国人は彼らの貴重な秘密兵器の鹵獲を防止できなかった。827年、アラブ側は少なくとも一隻の火船を無傷で捕獲し、812年および814年にはブルガリア人がいくつかのサイフォンとギリシア火薬自体を多量に捕獲した。しかしながらこうした鹵獲は、東ローマの敵がこれらの兵器を複製可能とするには明らかに不十分だった。アラブ側はたとえば、東ローマ帝国の兵器に似た様々な焼夷物質を使用したものの、彼らにはサイフォンを用いる東ローマ帝国の方式が全く模倣できず、その代わりにカタパルトと[[手榴弾]]を使った{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=609-611}}{{sfn|Roland|1992|pages=660, 663-664}}。
ギリシア火薬に関する記述は12世紀の間にもなされ続け、1099年の[[ピサ]]人との海戦において、[[アンナ・コムネナ]]は使用の克明な説明を行った{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=110}}。しかし[[第4回十字軍]]による[[コンスタンティノープル包囲戦 (1203年)|1203年のコンスタンティノープル包囲戦]]では、即席の[[火船]]が間に合わせに投入されたことが言及されるが、実際にギリシア火薬が使用されたかについて確実な記録はない。これはおそらく略奪に先立つ20年間に帝国が広汎な軍備縮小を行ったことが原因であるか、東ローマ帝国が、主要な成分を供給する地域との交通を絶たれたことによるか、またはおそらく秘密が時間と共に失われたことによる{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=630-631}}{{sfn|Haldon|2006|p=316}}。
== 製造 ==
=== 一般的な特徴 ===
コンスタンティノス7世の警告が示すように、この兵器の成分と製造工程、およびギリシア火薬の開発は軍機密として慎重に防護されていた。ギリシア火薬の配合方法が永遠に失われ、推測のままにされていることから、秘密保持は厳しいものであったと推察できる。{{sfn|Haldon|2006|p=290}}。結果、製法の「謎」がギリシア火薬の研究を長く支配していたが、このほぼ独占的な研究の焦点にも拘らず、ギリシア火薬は多数の構成要素からなる完成された兵器システムとしてよく理解されている。これら全てを効果的に作動させるには、共同してある操作が必要とされた。これは単に混合物の製法だけではなく、戦場へギリシア火薬を運搬する為に特化して作られた[[デュロモイ]]船からも理解できる。この装置は焼夷物を加熱し、圧送する準備に用いられ、サイフォンはそれを放射し、また特別な訓練を経た「siphōnarioi」がこれを運用した{{sfn|Roland|1992|pp=660, 663}}。システム全体についての知識は、1区画のみの秘密を承知している技術者と操作要員により高度に区分化されることで安全化を図った。また、この兵器の全容を収集し得た敵は存在しなかった。{{sfn|Roland|1992|pp=663-664}}。これは814年に[[第一次ブルガリア帝国]]がメセンブリア(現[[ネセバル]])とデベルトス(現[[ブルガス]]近郊)を占領した際、彼らは36基のサイフォンと焼夷剤自体を多量に捕獲したものの{{sfn|Theophanes|Turtledove|1982|p=178}}、これらをいかようにも利用できなかった事実からも、充分に説明されるものである{{sfn|Roland|1992|p=663}}{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=609}}。
ギリシア火薬に関して利用できる情報はほぼ間接的なものであり、東ローマ帝国の軍事解説書やいくつかの二次的な歴史資料、例えば[[アンナ・コムネナ]]や、西ヨーロッパの年代記作者からの引用に基づいている。これらはしばしば不正確な情報を含む。アンナ・コムネナの『アレクシアド』では、1108年、東ローマ帝国のデュッラキウム(現[[ドゥラス]])の駐屯軍が[[ノルマン人]]に対して投入した焼夷兵器の事を記述している。これは、ある部分的なギリシア火薬の「製法」であるとしばしば考えられている{{sfn|Partington|1999|pp=19, 29}}{{sfn|Ellis Davidson|1973|p=64}}<ref>[https://archive.org/details/britisharmyitsor02scotuoft Scott, James Sibbald David, (Sir) (1868) The British army: its origin, progress, and equipment, p. 190.]</ref>。
<blockquote>This fire is made by the following arts. From the pine and the certain such evergreen trees inflammable resin is collected. This is rubbed with sulphur and put into tubes of reed, and is blown by men using it with violent and continuous breath. Then in this manner it meets the fire on the tip and catches light and falls like a fiery whirlwind on the faces of the enemies.(この炎は以下の技術によって作り出される。松、また同様の特定の常緑樹から引火性の樹脂が集められる。これは硫黄を擦り込まれ、葦のチューブに入れられ、男性が猛烈で継続的な排気を用いてこれを吹き付ける。それから、こうした方法でこれが頂上で着火すると、光を捕らえ、敵の前面へと炎の竜巻のように落ちる。)</blockquote> 同時期の著名な「ignis graecus」など、西側の年代記作者達の記録は、彼らがギリシア火薬の名前をどんな種類の焼夷性化学物質であっても適用したことから広範に信頼性を欠く{{sfn|Haldon|2006|p=290}}。
ギリシア火薬の機構を再構築しようと試みるとき、現代の資料の引用から現れる具体的な証拠は以下のような特徴を与える。
* これは水上で燃焼する。またいくつかの解釈では水によって着火する。加えて多数の著者の著述によれば、砂(酸素を奪う)、濃い酢もしくは古い尿といったいくつかの物質だけが、おそらくある種の化学反応によってこれを消火できた{{sfn|Roland|1992|pp=657-658}}{{sfn|Cheronis|1937|pp=362-363}}{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=617}}。
* これは液状の物質で、発射体ではない。これは説明とその名称「液火」から確かめられる{{sfn|Roland|1992|pp=657-658}}{{sfn|Cheronis|1937|pp=362-363}}。
* 海上において、これは常にサイフォンから放射され{{sfn|Roland|1992|pp=657-658}}{{sfn|Cheronis|1937|pp=362-363}}、地上戦でもまた、ポットもしくは擲弾にギリシア火薬や類似の物質が充填され、使用された{{sfn|Partington|1999|p=14}}。
* ギリシア火薬の放出には「雷」および「多量の煙」が伴った{{sfn|Roland|1992|pp=657-658}}{{sfn|Cheronis|1937|pp=362-363}}<ref>Leo VI, ''[[Tactica of Emperor Leo VI the Wise|Tactica]]'', XIX.59, transl. in {{harvnb|Pryor|Jeffreys|2006|p=507}}</ref>。
=== 配合に関する論議 ===
最初に提示され、そして長期にわたり最も人気のあった説では、ギリシア火薬の主要成分が[[硝酸カリウム]](硝石)であると考え、またそれは[[火薬]]の初期の形態であったとした{{sfn|Haldon|Byrne|1977|p=92}}{{sfn|Ellis Davidson|1973|pp=69-70}}。この議論は「雷と煙」の説明が基となっており、加えて距離の上でも、サイフォンから放射することのできた炎とは爆発的な放出を示唆するものとした{{sfn|Roland|1992|p=659}}。[[:en:Isaac Vossius|イサーク・フォシウス]]の時代ごろから{{sfn|Forbes|1959|p=83}}、有名な化学者マルセラン・ベルテロを含む数人の学者、ことに19世紀中のフランスの学派はこの見解を固守した{{sfn|Roland|1992|pp=658-659}}{{sfn|Ellis Davidson|1973|p=69}}。それからこの見解は、硝酸カリウムが13世紀以前のヨーロッパまたは中東で戦争に使用された形跡が見られないこと、また同時期より以前に、地中海世界で最も化学的だったアラブでも全く著述が見られなかったことから拒絶された{{sfn|Partington|1999|pp=21-22}}。さらに、提示された混合物の性質と、東ローマ帝国の資料によって記述されたサイフォンによって放射される物体とが根本的に異なっていた{{sfn|Forbes|1959|pp=83-84}}。
ギリシア火薬が水で消すことができなかったという要素、むしろいくつかの資料では水をその上に注ぐことが火勢を強めたと示唆することに基づく第二の見解は、この破壊力は水と[[酸化カルシウム|生石灰]]の爆発的な反応の結果であると提唱した。生石灰は確実に知られていた物質であり、また東ローマ帝国もアラブ側も戦争に投入しているが{{sfn|Partington|1999|pp=6-10, 14}}、この説は文学と経験的な証拠から論破された。生石灰をベースとした物質は着火するために水と触れなければならなかったが、甲板が常時湿っているにせよ、しばしばギリシア火薬は敵船の甲板上に直接注がれたことが[[レオーン6世]]の軍事書『タクティカ』で示されている<ref>Leo VI, ''[[Tactica of Emperor Leo VI the Wise|Tactica]]'', XIX.67, transl. in {{harvnb|Pryor|Jeffreys|2006|p=509}}</ref>。同様にレオーン6世は手榴弾の使用について説明している<ref>Leo VI, ''[[Tactica of Emperor Leo VI the Wise|Tactica]]'', XIX.63, transl. in {{harvnb|Pryor|Jeffreys|2006|p=509}}</ref>。これは、物質が着火するには、水との接触が必ずしも必要ではないという観点のさらなる補強である{{sfn|Roland|1992|p=660}}。さらにまた、海上での実際の水と生石灰の反応結果は取るに足りないものであると、C. Zenghelisは実験に基づいて指摘した{{sfn|Zenghelis|1932|p=270}}。また別の提案では、カリニコスが実際には[[二リン化三カルシウム]]を発見していたことを示唆した。水と接触すると二リン化三カルシウムは[[ホスフィン]]を放出し、これは自発的に着火する。しかし広範な実験でも、記述にあるギリシア火薬の強力さを再生することに失敗した{{sfn|Cheronis|1937|p=363}}{{sfn|Ellis Davidson|1973|p=70}}。
混合物には生石灰および硝酸カリウムの両方の存在が全く含まれないわけではないものの、これらは主要な成分ではなかった{{sfn|Ellis Davidson|1973|p=70}}{{sfn|Roland|1992|p=659}}。現代の学者達の大部分は、実際のギリシア火薬は[[石油]]を基にしたもので、未加工もしくは精製済みの両方が有り得たということに同意している。比較すれば現代の[[ナパーム弾]]がこれに当たる。東ローマ帝国は、[[黒海]]周辺にある、自然にわき出るいくつもの井戸から容易に原油の供給が受けられた。例えば[[トムタラカン]]周辺の井戸がコンスタンティノス7世によって言及されている。また他の中東を通じた様々な場所でも同様であった{{sfn|Haldon|Byrne|1977|p=92}}{{sfn|Partington|1999|p=4}}{{sfn|Forbes|1959|pp=82-84}}。ギリシア火薬の別の名前は「[[メディア王国|メディア]]の火」であり{{sfn|Forbes|1959|p=83}}、また6世紀の歴史家である[[プロコピオス]]は原油について記録しているが、これはペルシア人からは نفت 「[[ナフサ]]」と呼ばれ、ギリシャ人には「メディア油」と呼ばれていた<ref>Procopius, ''De bello Gothico'', IV.11.36, cited in {{harvnb|Partington|1999|p=3}}</ref>。これはギリシア火薬の主要成分としてナフサが使用されたことを補強するように見える{{sfn|Ellis Davidson|1973|p=62}}。また現代に残る9世紀のラテン語の資料がドイツの[[:en:Wolfenbüttel|ヴォルフェンビュッテル]]で保管されており、これもギリシア火薬らしく思われる成分と、これを放射するために用いるサイフォンの操作について言及している。この資料にはいくつか不正確な点が含まれているが、主要成分が明らかにナフサであることを特定している{{sfn|Forbes|1959|p=83}}{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=614-616}}。またおそらく増粘剤として様々な樹脂が混入された。『Praecepta Militaria』では、この物質について「粘つく火」と称している。これは炎の持続時間と威力を増すためであった{{sfn|Haldon|2006|p=310}}{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=618}}。
[[サラーフッディーン]]のためにマーディ・ビン・アリ・アル=タースシが用意した報告書には、一種のギリシア火薬のアラブ版が記録されている。これはナフトと呼ばれ、石油をベースとしたものに硫黄と各種の樹脂を加えたものである。しかし東ローマ帝国の製法とは、どのような直接の関連もほぼ有り得ない{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=610-611}}。[[アッバース朝]]軍にはこれを含む焼夷兵器の専門部隊(naffatun)が存在するなど西アジア全域でも広く使われ、[[十字軍]]が使用した記録もある<ref name=Venice>エリザベス=ハラム『十字軍大全』川成洋・太田直也・太田美智子訳、東洋書林、2006年、356頁</ref>。一説には[[マグリブ]]や[[イベリア半島]]で火薬兵器の開発が盛んだったのは、原料となる石油がこの地域では産出されなかったからとされる。
== 使用方法 ==
[[File:Byzantine Trebuchet Skylintzes.jpg|thumb|right|300px|11世紀の彩色。東ローマ帝国軍が城砦を包囲し、スリング式の投石機を用いている。]]
ギリシア火薬の主な使用方法は以下の通りである。これは同じ物質と離れて充填され、チューブまたはサイフォンを介して放射される。投入は艦船の接舷時または包囲時である。携帯型の放射装置(cheirosiphōnes)も存在し、レオーン6世の発明とみなされている。東ローマ帝国の軍事説明書では、ギリシア火薬と鉄びしを充填した壺(「kytrai」または「tzykalia」)を同じくギリシア火薬で湿した麻屑でくるみ、これをカタパルトで投射するほか、海戦においてピボット式のクレーン(gerania)は敵艦の上からギリシア火薬を降らせるよう用いられたと記述している{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=378-379, 609}}{{sfn|Forbes|1959|pp=86-87}}。「cheirosiphōnes」は特に陸上戦および包囲戦において投入された。幾人かの10世紀の軍事史家は、これらは両方とも攻城兵器または防壁上の守備兵に対するものであるとし、これら兵器の投入の模様はビザンチウムのヘロの手による『Poliorcetica』によって描写されている{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=617-619}}{{sfn|Haldon|2006|p=295}}。通常、東ローマ帝国軍の[[デュロモイ]]船はサイフォンを船首下部に内蔵していたが、さらに追加の装置を船のどこか別の場所に設置することもしばしば可能だった。例えば941年、東ローマ帝国の人々が極めて多数のルーシ艦隊と向き合うことを迫られたとき、サイフォンは船の中央部に、そして後方にさえ配置された{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=203, 618}}。
=== サイフォンによる放射 ===
[[サイフォン]]の使用は、当時の資料から充分証明される。アンナ・コムネナは、軍艦の艦首に装備される、獣の形をとったギリシア火薬放射装置について以下のような説明を行っている{{sfn|Dawes|1928|p=292}}。
<blockquote>"As he [the Emperor Alexios I] knew that the Pisans were skilled in sea warfare and dreaded a battle with them, on the prow of each ship he had a head fixed of a lion or other land-animal, made in brass or iron with the mouth open and then gilded over, so that their mere aspect was terrifying. And the fire which was to be directed against the enemy through tubes he made to pass through the mouths of the beasts, so that it seemed as if the lions and the other similar monsters were vomiting the fire."(彼(アレクシオス1世コムネノス)が知っていたように、[[ピサ]]人は海戦に通じており、またこれらと戦うのを恐れていた。どの船の船首上にもある装置は、ライオンか陸上生物の頭部を固定してあり、真鍮か鉄で作られ、口は開かれ、さらに金メッキが施されていた。そのためこれらは全く恐ろしい風貌だった。またその炎は、この装置の、獣の口を通り抜けるチューブを介して敵へと指向されるようになっており、そのためこれはライオンや他の怪物が炎を噴き出しているように見えた。)</blockquote>
いくつかの資料では、メカニズム全体の構成と作動上のより詳しい情報を提示する。ヴォルフェンビュッテルの原稿は特に以下のような説明を提供している{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=614-616}}。
<blockquote>"...having built a furnace right at the front of the ship, they set on it a copper vessel full of these things, having put fire underneath. And one of them, having made a bronze tube similar to that which the rustics call a ''squitiatoria'', "squirt", with which boys play, they spray [it] at the enemy."(……船の真正面に炉を造っており、彼らはその上にこれらの物質で満たされた銅の容器を置き、この下部では火が焚かれていた。そしてこれらのうちの一つは、田舎者が「squitiatoria、(水鉄砲)」と呼び、子供が遊ぶようなものに似たブロンズ製のチューブになっており、これらの装置が敵へ向けて[それ]を放射した。)</blockquote>
また別の、そしておそらくギリシア火薬の使用について直接説明するものは、11世紀の『[[:en:Yngvars saga víðförla|遠征王ユングヴァルのサガ]]』に見られる。そこではヴァイキングである[[:en:Ingvar the Far-Travelled|遠征王ユングヴァル]]がギリシア火薬のサイフォンを装備した艦船と対面している{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=616-617}}。
<blockquote>"[They] began blowing with smiths’ bellows at a furnace in which there was fire and there came from it a great din. There stood there also a brass [or bronze] tube and from it flew much fire against one ship, and it burned up in a short time so that all of it became white ashes..."(「[彼らは]鍛冶屋のふいごで火の焚かれた炉を吹き始め、またそこからは巨大な騒音がやって来た。そこにはまた、真鍮や[ブロンズ製]のチューブが立っており、さらにそこから多量の炎が一隻の船へと吹き付けられ、短い時間にそれが燃え上がったために、その全てが白い灰と化した……)</blockquote>
この説明は潤色されているが、他の資料から知られるギリシア火薬の他の多くの特徴、例えばその放出に伴う大きな騒音と一致する{{sfn|Ellis Davidson|1973|p=72}}。これら2つの説明文はまた、物質が放出される前に炉の上で加熱されたとはっきり記述しているただ2つの資料でもある。この情報の有効性は疑問を免れないが、現代の装置の再建ではこれらの資料を信頼した{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=628-629}}{{sfn|Haldon|2006|p=315}}。
[[File:Hand-siphon for Greek fire, medieval illumination.jpg|thumb|300px|「cheirosiphōn」ハンドサイフォン。携帯型火炎放射器であり、城壁に対して仮橋の頂部から使用している。ビザンチウムのヘロによる著作『Poliorcetica』からの挿画]]
これらの説明と東ローマ帝国の資料に基づき、ジョン・ハルドンとモーリス・バーンは3つの主要な部分からなる装置全体を再建した。一つのブロンズ製ポンプ({{lang|grc|σίφων}}、サイフォン)、これは油に圧力をかけるのに用いられた。金属製の火鉢({{lang|grc|πρόπυρον}}、「propyron」、予熱器)、これは油の加熱に使われた。そしてノズル({{lang|grc|στρεπτόν}}、「strepton」)は青銅で被覆され、回り継ぎ手の上に据え付けられていた{{sfn|Haldon|Byrne|1977|p=93}}。金属製の火鉢は多量のリネンや亜麻を燃やして強い加熱を作り出し、また特徴的な濃い煙を上げた。この上部には1基の気密タンクがあり、中に入った油と他の物質が加熱され{{sfn|Haldon|Byrne|1977|p=94}}、また、樹脂を溶かして液状の混合物にする過程も補助した{{sfn|Haldon|2006|p=310}}。
物質は加熱と圧力ポンプの使用によって圧縮をかけられた。これが適切な圧力に達した後、気密タンクに回り継ぎ手で連結されたバルブが開かれると、混合物は終わりまで放出され、口の部分で炎を生み出すいくつかの点火源により着火した{{sfn|Haldon|Byrne|1977|p=95}}。炎の強い加熱により、鉄製の防楯({{lang|grc|βουκόλια}}、「boukolia」)の存在が必要となったが、これは艦隊の目録によって証明されている{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=624-626}}。
上昇圧力が加熱された油を容易に吹き飛ばせたため、そうした事故の状況の記録こそ無いものの、全ての過程は危険に満ちていた{{sfn|Haldon|Byrne|1977|p=96}}{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=627-628}}。2002年にハルドンによって実施された実験はテレビ番組『マシンズ・タイムズ・フォゴット(忘れられた時代の機械)』のエピソード「Fireship(火船)」のためのものであったが、この実験では現代の溶接技術でさえ圧力下におけるブロンズ製タンクの十分な気密確保に失敗した。これにより、タンクとノズルの間に圧力ポンプを再配置するに至った。こうした論拠から建造された実物大の装置は、東ローマ帝国人が利用できた簡易な材料と技術であっても機構の設計とその効果を確立した。実験は木の樹脂を混ぜ合わせた原油を使い、摂氏1,000度以上(華氏1,830度)の炎と、最高15メートル(49フィート)の効果範囲を作り出した<ref>詳細な解説。{{harvnb|Haldon|2006|pp=297-315}}これらのテスト中には一つの興味深い特徴が示された。炎の熱による予想と反してチューブを介して放射される燃焼流は、ノズルを離れる際に燃料が完全に気化しなかったために上方へカーブせず下方へ向かった。この事実は重要で、なぜならば中世のガレー船は低いシルエットを有したからであり、また高い弧を描く炎は完全にこれらの船を外れるだろう{{harvnb|Pryor|Jeffreys|2006|p=621}}</ref>。
=== 携帯型サイフォン ===
[[File:Hand-siphon for Greek fire, medieval illumination (detail).jpg|thumb|300px|携帯型サイフォンの細部。]]
携帯型の「cheirosiphōn」、ハンドサイフォンは、現代の火炎放射器に似る最も初期のものである。これは広汎に10世紀の軍の文書で証明されており、海上と陸上の両方での使用が推奨されていた。これらが最初に出現するのはレオーン6世の『タクティカ』の文中であり、彼はこれらを発明したと主張している{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=617}}。後代の著者も「cheirosiphōnes」の言及を続け、それは特に[[攻城塔]]に対する使用に関するものだった。[[ニケフォロス2世フォカス]]も野戦軍でのこれらの使用について助言したが、これは敵部隊の陣形を崩すことを狙ったものだった{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|pp=617-619}}。レオーン6世もニケフォロス2世も共に主張することは、ハンドサイフォンに使用される物質には、船上で使われる固定装置と同じ物質を用いたこと、携帯型サイフォンはより大型の類似物と明白に異なっていたことである。ハルドンとブリンは、この装置が基本的に異なるもので、「敵を後退させるため、単純なシリンジによって液火(おそらく着火せず)と有毒な液体の両方を噴出させた」という説を立てた。しかし、ヘロの『Poliorcetica』の図が示すように、手持ち式のサイフォンも着火された物質を放射した{{sfn|Haldon|Byrne|1977|p=97}}{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=627}}。
=== 手榴弾 ===
最初期の形態では、可燃性の布に包んだ球体に点火するという方法で、ギリシア火薬は敵軍の頭上へ投擲された。これにはおそらくフラスコが含まれており、小型の[[カタパルト (投石機)|カタパルト]]様の投射兵器も用いられた。もっとも可能性が高いものは、海上輸送型のローマ製小型カタパルト、もしくは[[オナガー (投石機)|オナガー]]である。これらは軽量の投射体、6kgから9kgのものを350mから450mほど投擲できた。後世の[[機械加工]]技術の改良により、近距離において流体の燃焼流を放出するポンプ機構の考案を可能とし、海戦で木造船を焼き払った。こうした兵器は軍勢の攻囲に対して使われるとき、陸上でも非常に効果的だった。
== 効果と対抗策 ==
ギリシア火薬の破壊力は明白であるとはいえ、これはある種の「驚異の兵器」と見なされるべきものではなく、この兵器は[[:en:Byzantine navy|東ローマ帝国海軍]]を無敵のものにもしなかった。
この兵器は、海洋歴史家のジョン・プライヤーの言葉では「船殺し」、つまり[[衝角]]に匹敵するものではなく、その頃には既に使用されなくなっていた{{sfn|Pryor|2003|p=97}}。ギリシア火薬が強力な武器であり続けた時代を、より近代的な砲列の形態と比較すると、その限界は大きなものだった。サイフォンを装備した形態ではこの兵器の射程が限られており、穏やかな海面そして良好な風向の状況下でのみ安全に使用できた{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=384}}。最終的にイスラムの海軍は、効果範囲から離れるか、酢に浸したフェルトや遮蔽物のような防護方法を考案し、これに対応した{{sfn|Pryor|Jeffreys|2006|p=617}}。
== 脚注 ==
{{Reflist|20em}}
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</div>
== 関連項目 ==
{{Commons category}}
* [[ナパーム弾]]
* [[攻城兵器]]
* [[火船]]
* [[火炎放射器]]
* [[タイムライン (小説)#映画版|タイムライン]](作中にギリシア火薬が登場する)
== 外部リンク ==
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* Richard Groller {{PDFlink|"[https://web.archive.org/web/20110722182653/sill-www.army.mil/famag/1981/MAY_JUN_1981/MAY_JUN_1981_PAGES_54_57.pdf Greek Fire - The Best Kept Secret of the Ancient World]"|978 [[キビバイト|KiB]]}} - [[ウェイバックマシン]](2011年7月22日アーカイブ分)
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ライプツィヒの戦い
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ライプツィヒの戦い(ライプツィヒのたたかい、独: Schlacht von Leipzig, 仏: Bataille de Leipzig, 英: Battle of Leipzig, 1813年10月16日 - 10月19日)は、ナポレオン戦争における最大規模の戦闘。諸国民の戦い(しょこくみんのたたかい、独: Völkerschlacht, 仏: bataille des Nations, 英: Battle of the Nations)とも呼ばれる。ドイツ東部のライプツィヒ(当時のザクセン王国領)で、ナポレオン1世麾下のフランス軍19万と、プロイセン・ロシア帝国・オーストリア帝国・スウェーデンの連合軍36万の間で戦いが行われた。
3日間の激戦の末、圧倒的な兵力差の前にフランス軍は敗北した。フランス軍ではポニャトフスキが戦死、4万以上の死傷者を出した。一方、連合軍も5万以上の死傷者を出した。戦闘の結果、ナポレオンのドイツ支配が終わった。連合軍の総司令官は、元フランス軍元帥のジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(後のスウェーデン王カール14世ヨハン)だった。
ロシア遠征、半島戦争でのナポレオンの敗北を受けて、反フランスの第六次対仏大同盟が結成され、イギリス、ロシア、スペイン、ポルトガル、プロイセン、オーストリア、スウェーデンとドイツのいくつかの領邦が参加した。ライプツィヒの戦いが開始されるまでにライン川以東に配置されていたロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデンその他の連合軍の兵力は100万を超えていたと推測される。それに対して、ナポレオンの兵力は減少し数十万ほどであった。
ナポレオンはドイツを再び手中におさめようと欲しており、5月2日のリュッツェンの戦いと5月20日から翌21日のロシア・プロイセン連合と戦ったバウツェンの戦い(英語版)に勝利していた。その結果、つかの間の休戦が訪れたが、長くは続かなかった。ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル、ベルナドットそしてシュヴァルツェンベルク(ドイツ語版)指揮下の連合軍はトラッヘンベルク・プラン(ドイツ語版)を採用し、8月23日のグロースベーレンの戦い、8月26日のカッツバッハの戦い(英語版)、さらに9月6日のデネヴィッツの戦い(英語版)に相次いで勝利した。これはナポレオン本隊との正面衝突を避け、部下の部隊との会戦を志向するという戦略であった(分進合撃)。この作戦を立案したのは、ベルナドットであるとも、オーストリア軍参謀長のヨーゼフ・ラデツキーとも、プロイセン軍参謀長のアウグスト・フォン・グナイゼナウとも言われている。なお、8月26 - 27日のドレスデンの戦いではナポレオンの本隊が参加してフランス軍が勝利を収めているが、追撃に失敗、8月30日のクルムの戦い(英語版)において追撃の一翼を担ったヴァンダムの軍団が包囲され、手ひどい敗北を被ってもいる。
ウディノ率いる12万の兵力によるベルリン攻略作戦がグロスベーレンの戦いで失敗したことを契機とし、ナポレオンは北方からの攻勢に備え西方に撤退せざるをえなくなった。9月下旬にエルベ川を渡り、約50km離れたライプツィヒ周辺において、補給路の確保と連合軍との会戦を期して軍を再編した。ナポレオンはタウヒャからシュテッツリッツ(ナポレオンが陣取った場所である)を通りリンデナウ南西の彎曲した形に兵力を集中させた(地図参照)。プロイセン軍はヴァルテンブルクに進軍し、オーストリア軍とロシア軍はドレスデンから、スウェーデン軍は北方からライプツィヒへ進撃した。
当初ライプツィヒに集結したフランス軍の兵力は17万7000、連合軍は25万7000であった。戦闘は10月16日に始まった。南からバルクライ率いるロシア軍7万8000、北からブリュッヘル率いるプロイセン軍5万4000が攻撃をかけ、ナポレオンの直属部隊も南方で反撃した。連合軍による攻撃の戦果はわずかしかなく、すぐに退却を強いられた。一方でナポレオンの部隊も連合軍の戦列を突破できず行き詰まった。
17日は両軍ともに増援が来着し、これを配備していたため、小競り合いが起きただけであった。フランス軍には1万8000しか増援がなく、一方で連合軍には10万以上の増援が来着し、著しく増強された。
18日、連合軍は総攻撃を開始した。9時間以上に及ぶ戦いにおいて、両軍とも大量の死傷者を出した。フランス軍は勇敢に抵抗したが、圧倒的な戦力差の前に戦線を支えきれず、ザクセン王国軍の一部も離反した。ナポレオンは退却を決断した。
19日、フランス軍は白エルスター川を渡って退却した。退却は順調に進行したが、途中で橋が破壊されたため、殿軍として残っていたユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ(最後のポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの甥)が戦死した。彼は戦死の前日に元帥杖を受け取ったばかりであった。
フランス軍の死傷者は3万8000に及び、3万が捕虜となった。ライン同盟諸邦軍も死傷者5000を出した。連合軍の死傷者は5万4000に及んだ。戦闘の結果、フランス帝国のライン川以東での覇権は終焉した。ライン同盟は崩壊し、多くのドイツ諸邦が連合軍に加入することになる。
今日、ライプツィヒ市での戦闘のコースはモニュメントで示されている。
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ライプツィヒの戦いは、ナポレオン戦争における最大規模の戦闘。諸国民の戦いとも呼ばれる。ドイツ東部のライプツィヒ(当時のザクセン王国領)で、ナポレオン1世麾下のフランス軍19万と、プロイセン・ロシア帝国・オーストリア帝国・スウェーデンの連合軍36万の間で戦いが行われた。 3日間の激戦の末、圧倒的な兵力差の前にフランス軍は敗北した。フランス軍ではポニャトフスキが戦死、4万以上の死傷者を出した。一方、連合軍も5万以上の死傷者を出した。戦闘の結果、ナポレオンのドイツ支配が終わった。連合軍の総司令官は、元フランス軍元帥のジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(後のスウェーデン王カール14世ヨハン)だった。
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{{複数の問題
|脚注の不足=2012年2月23日 (木) 03:51
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{{Battlebox|
|battle_name= ライプツィヒの戦い
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|commander2={{flagicon|SWE}} [[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]<BR />[[ファイル:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|border|25px]] {{仮リンク|シュヴァルツェンベルク大公カール・フィリップ|de|Karl Philipp zu Schwarzenberg|label=シュヴァルツェンベルク}}<BR />[[File:Flag_of_the_Kingdom_of_Prussia_(1803-1892).svg|border|25px]] [[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]<BR />{{flagicon|RUS}} [[ミハイル・バルクライ・ド・トーリ|バルクライ]]<BR />{{flagicon|RUS}} [[レオンティイ・レオンティイエビッチ・ベニグセン|ベニグセン]]
|strength1=195,000<BR />野砲 700門
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|casualties1=死傷者 38,000<BR />捕虜 30,000<BR />ライン同盟諸邦軍の死傷者 5,000
|casualties2=死傷者 54,000
|}}
[[ファイル:Napoleon i Poniatowski Lipsk.jpg|thumb|right|250px|「ライプツィヒでのナポレオンと[[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ|ポニャトフスキ]]」[[ジャニュアリー・ズコッホドロスキ]]画]]
[[ファイル:Battle Of The Nations-Monument.jpg|thumb|right|250px|ライプツィヒの「諸国民の戦い記念碑」]]
'''ライプツィヒの戦い'''(ライプツィヒのたたかい、{{lang-de-short|Schlacht von Leipzig}}, {{lang-fr-short|Bataille de Leipzig}}, {{lang-en-short|Battle of Leipzig}}, [[1813年]][[10月16日]] - [[10月19日]])は、[[ナポレオン戦争]]における最大規模の戦闘。'''諸国民の戦い'''(しょこくみんのたたかい、{{lang-de-short|Völkerschlacht}}, {{lang-fr-short|bataille des Nations}}, {{lang-en-short|Battle of the Nations}})とも呼ばれる。[[ドイツ]]東部の[[ライプツィヒ]](当時の[[ザクセン王国]]領)で、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]麾下の[[フランス第一帝政|フランス]]軍19万と、[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[ロシア帝国]]・[[オーストリア帝国]]・[[スウェーデン]]の連合軍36万の間で戦いが行われた。
3日間の激戦の末、圧倒的な兵力差の前にフランス軍は敗北した。フランス軍では[[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ|ポニャトフスキ]]が戦死、4万以上の死傷者を出した。一方、連合軍も5万以上の死傷者を出した。戦闘の結果、ナポレオンのドイツ支配が終わった。<!-- なにが皮肉なのか説明がありません。単にフランス繋がりだけで皮肉という表現は避けましょう。皮肉にも-->連合軍の総司令官は、元フランス軍元帥の[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット]](後のスウェーデン王カール14世ヨハン)だった。
== 背景 ==
[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]、[[半島戦争]]でのナポレオンの敗北を受けて、反フランスの[[第六次対仏大同盟]]が結成され、[[イギリス帝国|イギリス]]、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[オーストリア帝国|オーストリア]]、[[スウェーデン]]と[[ドイツ]]のいくつかの領邦が参加した。ライプツィヒの戦いが開始されるまでにライン川以東に配置されていたロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデンその他の連合軍の兵力は100万を超えていたと推測される。それに対して、ナポレオンの兵力は減少し数十万ほどであった。
ナポレオンはドイツを再び手中におさめようと欲しており、5月2日の[[グロースゲルシェンの戦い|リュッツェンの戦い]]と5月20日から翌21日のロシア・プロイセン連合と戦った{{仮リンク|バウツェンの戦い|en|Battle of Bautzen}}に勝利していた。その結果、つかの間の休戦が訪れたが、長くは続かなかった。[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]、[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]そして{{仮リンク|シュヴァルツェンベルク大公カール・フィリップ|de|Karl Philipp zu Schwarzenberg|label=シュヴァルツェンベルク}}指揮下の連合軍は{{仮リンク|トラッヘンベルク・プラン|de|Trachenberg-Plan}}を採用し、8月23日の[[グロースベーレンの戦い]]、8月26日の{{仮リンク|カッツバッハの戦い|en|Battle of Katzbach}}、さらに9月6日の{{仮リンク|デネヴィッツの戦い|en|Battle of Dennewitz}}に相次いで勝利した。これはナポレオン本隊との正面衝突を避け、部下の部隊との会戦を志向するという戦略であった([[分進合撃]])。この作戦を立案したのは、ベルナドットであるとも、オーストリア軍参謀長の[[ヨーゼフ・ラデツキー]]とも、プロイセン軍参謀長の[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ]]とも言われている。なお、8月26 - 27日の[[ドレスデンの戦い]]ではナポレオンの本隊が参加してフランス軍が勝利を収めているが、追撃に失敗、8月30日の{{仮リンク|クルムの戦い|en|Battle of Kulm}}において追撃の一翼を担った[[ドミニク・ジョゼフ・レネ・ヴァンダム|ヴァンダム]]の軍団が包囲され、手ひどい敗北を被ってもいる。
[[ニコラ・ウディノ|ウディノ]]率いる12万の兵力による[[ベルリン]]攻略作戦がグロスベーレンの戦いで失敗したことを契機とし、ナポレオンは北方からの攻勢に備え西方に撤退せざるをえなくなった。9月下旬に[[エルベ川]]を渡り、約50km離れた[[ライプツィヒ]]周辺において、補給路の確保と連合軍との会戦を期して軍を再編した。ナポレオンはタウヒャからシュテッツリッツ(ナポレオンが陣取った場所である)を通りリンデナウ南西の彎曲した形に兵力を集中させた(地図参照)。プロイセン軍はヴァルテンブルクに進軍し、オーストリア軍とロシア軍は[[ドレスデン]]から、スウェーデン軍は北方からライプツィヒへ進撃した。
== 経過 ==
当初ライプツィヒに集結したフランス軍の兵力は17万7000、連合軍は25万7000であった。戦闘は10月16日に始まった。南から[[バルクライ・ド・トーリ|バルクライ]]率いるロシア軍7万8000、北からブリュッヘル率いるプロイセン軍5万4000が攻撃をかけ、ナポレオンの直属部隊も南方で反撃した。連合軍による攻撃の戦果はわずかしかなく、すぐに退却を強いられた。一方でナポレオンの部隊も連合軍の戦列を突破できず行き詰まった。
17日は両軍ともに増援が来着し、これを配備していたため、小競り合いが起きただけであった。フランス軍には1万8000しか増援がなく、一方で連合軍には10万以上の増援が来着し、著しく増強された。
18日、連合軍は総攻撃を開始した。9時間以上に及ぶ戦いにおいて、両軍とも大量の死傷者を出した。フランス軍は勇敢に抵抗したが、圧倒的な戦力差の前に戦線を支えきれず、ザクセン王国軍の一部も離反した。ナポレオンは退却を決断した。
19日、フランス軍は[[白エルスター川]]を渡って退却した。退却は順調に進行したが、途中で橋が破壊されたため、殿軍として残っていた[[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ]](最後の[[ポーランド王]][[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]の甥)が戦死した。彼は戦死の前日に[[元帥杖]]を受け取ったばかりであった。
== 影響 ==
フランス軍の死傷者は3万8000に及び、3万が捕虜となった。ライン同盟諸邦軍も死傷者5000を出した。連合軍の死傷者は5万4000に及んだ。戦闘の結果、[[フランス第一帝政|フランス帝国]]のライン川以東での覇権は終焉した。[[ライン同盟]]は崩壊し、多くのドイツ諸邦が連合軍に加入することになる。
今日、ライプツィヒ市での戦闘のコースはモニュメントで示されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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{{節スタブ|1=脚注形式での出典の明記|date=2016年3月10日 (木) 12:42 (UTC)}}
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
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== 外部リンク ==
{{Commonscat|Battle of Leipzig}}
{{AmCyc Poster|Leipsic}}
* [https://web.archive.org/web/20090810034815/http://web2.airmail.net/napoleon/Leipzig_battle.htm Leipzig 1813 - "The Battle of the Nations" was the biggest battle of Napoleonic Wars]
* [http://web2.airmail.net/napoleon/French_Order_of_Battle_LEIPZIG_1.htm French order of battle at Leipzig:II-XI Army Corps]
* [http://web2.airmail.net/napoleon/French_Order_of_Battle_LEIPZIG_2.htm French order of battle at Leipzig:Cavalry Reserve and Imperial Guard]
* [http://www.hexwar.com Wargame about the battle of nations]
{{ナポレオン戦争}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:らいふついひのたたかい}}
[[Category:市街戦]]
[[Category:ナポレオン戦争の戦闘]]
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12,299 |
佐渡郡
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佐渡郡(さどぐん)は、新潟県にあった郡。平成16年(2004年)3月1日、佐渡郡と両津市の合併による佐渡市の発足により、同日消滅。
1896年(明治29年)に発足した当時の郡域は、現在の佐渡市にあたる。
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佐渡郡(さどぐん)は、新潟県にあった郡。平成16年(2004年)3月1日、佐渡郡と両津市の合併による佐渡市の発足により、同日消滅。
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[[ファイル:Sado_District.png|thumb|405px|新潟県佐渡郡の位置]]
'''佐渡郡'''(さどぐん)は、[[新潟県]]にあった[[郡]]。[[平成]]16年([[2004年]])[[3月1日]]、佐渡郡と[[両津市]]の合併による'''[[佐渡市]]'''の発足により、同日消滅。
== 郡域 ==
[[1896年]]([[明治]]29年)に発足した当時の郡域は、現在の[[佐渡市]]にあたる。
== 歴史 ==
* [[明治]]29年([[1896年]])[[4月1日]] - [[郡制]]の施行のため、[[雑太郡]]・[[羽茂郡]]・[[加茂郡 (新潟県)|加茂郡]]の区域をもって'''佐渡郡'''が発足。郡役所を相川町に設置。全域が現・佐渡市。(7町51村)<!--第1回国勢調査の順序に準じる-->
** 旧・雑太郡(4町16村) - '''[[相川町]]'''、'''[[二見村 (新潟県)|二見村]]'''、'''[[沢根町村]]'''、'''[[五十里町]]'''、'''[[河原田町|川原田町]]'''、'''[[八幡村 (新潟県佐渡郡)|八幡村]]'''、'''[[二宮村 (新潟県)|二宮村]]'''、'''[[野田村 (新潟県佐渡郡)|野田村]]'''、'''[[金沢村 (新潟県)|金沢村]]'''、'''[[平泉村]]'''、'''[[国中村 (新潟県)|国中村]]'''、'''[[畑野町|畑野村]]'''、'''[[小倉村 (新潟県)|小倉村]]'''、'''[[栗野江村]]'''、'''[[三宮村]]'''、'''[[金丸村 (新潟県)|金丸村]]'''、'''[[新町 (新潟県佐渡郡)|新町]]'''、'''[[真野町|真野村]]'''、'''[[金泉村]]'''、'''[[北海村]]'''
** 旧・羽茂郡(1町13村) - '''[[恋ヶ浦村]]'''、'''[[小布勢村]]'''、'''[[亀ノ脊村]]'''、'''[[岬村 (新潟県)|岬村]]'''、'''[[小木町 (新潟県)|小木町]]'''、'''[[羽茂本郷村]]'''、'''[[大橋村 (新潟県)|大橋村]]'''、'''[[千手村 (新潟県)|千手村]]'''、'''[[川茂村]]'''、'''[[真浦村]]'''、'''[[赤泊村]]'''、'''[[徳和村]]'''、'''[[三川村 (新潟県佐渡郡)|三川村]]'''、'''[[松ヶ崎村 (新潟県)|松ヶ崎村]]'''
** 旧・加茂郡(2町22村) - '''[[吉井村 (新潟県佐渡郡)|吉井村]]'''、'''[[長江村 (新潟県)|長江村]]'''、'''[[秋津村 (新潟県佐渡郡)|秋津村]]'''、'''[[田野沢村]]'''、'''[[潟上村]]'''、'''[[正明寺村]]'''、'''[[長畝村 (新潟県)|長畝村]]'''、'''[[新穂村]]'''、'''[[大野村 (新潟県佐渡郡)|大野村]]'''、'''[[岩首村]]'''、'''[[水津村]]'''、'''[[富岡村 (新潟県)|富岡村]]'''、'''[[河崎村 (新潟県)|河崎村]]'''、'''[[明治村 (新潟県佐渡郡)|明治村]]'''、'''[[吾潟村]]'''、'''[[湊町 (新潟県)|湊町]]'''、'''[[夷町]]'''、'''[[加茂歌代村]]'''、'''[[梅津村 (新潟県)|梅津村]]'''、'''[[羽吉村]]'''、'''[[内浦村 (新潟県)|内浦村]]'''、'''[[内海府村]]'''、'''[[外海府村]]'''、'''[[高千村]]'''
* 明治30年([[1897年]])[[1月1日]] - 新潟県で郡制を施行。
* 明治31年([[1898年]])[[9月9日]] - 川原田町が改称して'''[[河原田町]]'''となる。
* 明治34年([[1901年]])[[11月1日]] - 下記の町村の統合が行われる。いずれも[[日本の市町村の廃置分合|新設合併]]。(5町22村)
** '''[[両津町]]''' ← 夷町・湊町・加茂歌代村[一部]
** '''[[加茂村 (新潟県)|加茂村]]''' ← 梅津村・羽吉村・内浦村・加茂歌代村[残部]
** '''河崎村''' ← 明治村・河崎村・富岡村・吾潟村
** '''吉井村''' ← 吉井村・秋津村・長江村
** '''相川町''' ← 相川町・二見村・金泉村[下相川]
** '''金泉村''' ← 金泉村[小川・姫津・北狄]・北海村[戸地・戸中]
** '''高千村''' ← 高千村・北海村[南片辺・北片辺・石花・後尾]
** '''[[沢根町]]''' ← 五十里町・沢根町村
** '''金沢村''' ← 金沢村・平泉村
** '''新穂村''' ← 新穂村・大野村・長畝村・潟上村・田野沢村・正明寺村・国中村[皆川・舟下]
** '''畑野村''' ← 畑野村・小倉村・栗野江村・三宮村・国中村[目黒町]
** '''真野村''' ← 真野村・恋ヶ浦村・金丸村・新町・川茂村[下黒山・静平]
** '''赤泊村''' ← 赤泊村・真浦村・徳和村・三川村・川茂村[上川茂・下川茂・外山]
** '''[[西三川村]]''' ← 小布勢村・亀ノ脊村
** '''小木町''' ← 小木町・岬村
** '''[[羽茂町|羽茂村]]''' ← 千手村・羽茂本郷村・大橋村
* 明治35年([[1902年]])4月1日 - 二宮村・野田村が合併し、改めて'''二宮村'''が発足。(5町21村)
* [[大正]]12年([[1923年]])[[3月31日]] - 郡会が廃止。郡役所は存続。
* 大正15年([[1926年]])[[7月1日]] - 郡役所が廃止され、[[内務省 (日本)|内務省]]告示第82号により佐渡支庁が設置される。
* [[昭和]]10年([[1935年]])時点での当郡の面積は857.24平方km、人口は109,351人(男52,828人・女56,523人)<ref>昭和10年国勢調査による。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧可能。</ref>。
* 昭和26年([[1951年]])1月1日 - 真野村が町制施行して'''[[真野町]]'''となる。(6町20村)
* 昭和29年([[1954年]])
** [[3月31日]] - 相川町・金泉村・二見村が合併し、改めて'''相川町'''が発足。(6町18村)
** [[7月20日]] - 河原田町・沢根町・二宮村・八幡村が合併して'''[[佐和田町]]'''が発足。(5町16村)
** [[11月3日]](4町9村)
*** 両津町・加茂村・河崎村・水津村・岩首村・内海府村および吉井村の一部(立野・旭・秋津・潟端・長江・上横山・下横山)が合併して'''[[両津市]]'''が発足し、郡より離脱。
*** 金沢村および吉井村の残部(吉井・吉井本郷・大和・安養寺・三瀬川・水渡田)が合併して'''[[金井町|金井村]]'''が発足。
* 昭和30年([[1955年]])3月31日(4町7村)
** 真野町および西三川村の一部(大小・大倉谷・田切須・西三川・椿尾)が合併し、改めて'''真野町'''が発足。
** 羽茂村および西三川村の残部(村山・小泊・亀脇)が合併し、改めて'''羽茂村'''が発足。
** 畑野村・松ヶ崎村が合併し、改めて'''畑野村'''が発足。
* 昭和31年([[1956年]])[[9月30日]] - 相川町・高千村・外海府村が合併し、改めて'''相川町'''が発足。(4町5村)
* 昭和32年([[1957年]])[[11月3日]] - 相川町の一部(願・北鵜島・真更川)が両津市に編入。
* 昭和35年([[1960年]])11月3日(6町3村)
** 金井村が町制施行して'''[[金井町]]'''となる。
** 畑野村が町制施行して'''[[畑野町]]'''となる。
* 昭和36年([[1961年]])4月1日 - 羽茂村が町制施行して'''[[羽茂町]]'''となる。(7町2村)
* [[平成]]16年([[2004年]])[[3月1日]] - 相川町・佐和田町・金井町・新穂村・畑野町・真野町・小木町・羽茂町・赤泊村が両津市と合併して'''[[佐渡市]]'''が発足。同日佐渡郡消滅。新潟県内では1896年の郡の再編以来、初の郡消滅となった。
{{-}}
=== 変遷表 ===
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|title = 自治体の変遷
|titlestyle = background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable" style="font-size:x-small"
|-
!明治29年<br />以前
!明治29年4月1日<br />佐渡郡が発足
!明治31年 - 昭和22年
!昭和23年 - 昭和29年
!昭和30年 - 昭和31年
!昭和32年 - 平成16年
!平成16年 - 現在
|-
| style="background-color:#2a4;" | 雑太郡
| style="background-color:#9cf;" | 沢根町村
| rowspan=2 style="background-color:#6ff;" | 明治34年11月1日<br />沢根町
| rowspan=6 style="background-color:#6ff;" | 昭和29年7月20日<br />[[佐和田町]]
| rowspan=6 style="background-color:#6ff;" | 佐和田町
| rowspan=6 style="background-color:#6ff;" | 佐和田町
| rowspan=68 | [[佐渡市]]
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#6ff;" | 五十里町
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 野田村
| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 明治35年4月1日<br />二宮村
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 二宮村
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#6ff;" | 川原田町
| style="background-color:#6ff;" | 明治31年9月9日<br />河原田町
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 八幡村
| style="background-color:#9cf;" | 八幡村
|-
| style="background-color:#f81;" | 羽茂郡
| style="background-color:#6ff;" | 小木町
| rowspan=2 style="background-color:#6ff;" | 明治34年11月1日<br />[[小木町 (新潟県)|小木町]]
| rowspan=2 style="background-color:#6ff;" | 小木町
| rowspan=2 style="background-color:#6ff;" | 小木町
| rowspan=2 style="background-color:#6ff;" | 小木町
|-
|style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 岬村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 大橋村
| rowspan=3 style="background-color:#9cf;" | 明治35年4月1日<br />羽茂村
| rowspan=4 style="background-color:#9cf;" | 昭和23年8月1日<br />羽茂村
| rowspan=5 style="background-color:#9cf;" | 昭和30年3月31日<br />羽茂村
| rowspan=5 style="background-color:#6ff;" | 昭和36年4月1日<br />町制施行<br />[[羽茂町]]
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 羽茂本郷村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 千手村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| rowspan=3 style="background-color:#9cf;" | 亀の背村
| rowspan=4 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />西三川村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| rowspan=3 style="background-color:#9cf;" | 西三川村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| rowspan=7 style="background-color:#6ff;" | 昭和30年3月31日<br />真野町
| rowspan=7 style="background-color:#6ff;" | 真野町
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 小布施村
|-
| style="background-color:#2a4;" | 雑太郡
| style="background-color:#9cf;" | 金丸村
| rowspan=5 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />真野村
| rowspan=5 style="background-color:#6ff;" | 昭和26年1月1日<br />町制施行<br />[[真野町]]
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 真野村
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#6ff;" | 新町
|-
| style="background-color:#f81;" | 羽茂郡
| style="background-color:#9cf;" | 恋ヶ浦村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 川茂村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| rowspan=5 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />[[赤泊村]]
| rowspan=5 style="background-color:#9cf;" | 赤泊村
| rowspan=5 style="background-color:#9cf;" | 赤泊村
| rowspan=5 style="background-color:#9cf;" | 赤泊村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 真浦村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
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|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 徳和村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 三川村
|-
| style="background-color:#f81;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 松ヶ崎村
| style="background-color:#9cf;" | 松ヶ崎村
| style="background-color:#9cf;" | 松ヶ崎村
| rowspan=6 style="background-color:#9cf;" | 昭和30年3月31日<br />畑野村
| rowspan=6 style="background-color:#6ff;" | 昭和35年11月3日<br />町制施行<br />[[畑野町]]
|-
| style="background-color:#2a4;" | 雑太郡
| style="background-color:#9cf;" | 小倉村
| rowspan=5 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />畑野村
| rowspan=5 style="background-color:#9cf;" | 畑野村
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 三宮村
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 栗野江村
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 畑野村
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 国中村
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| rowspan=7 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />[[新穂村]]
| rowspan=7 style="background-color:#9cf;" | 新穂村
| rowspan=7 style="background-color:#9cf;" | 新穂村
| rowspan=7 style="background-color:#9cf;" | 新穂村
|-
| style="background-color:#f77;" | 加茂郡
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|-
| style="background-color:#f77;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 新穂村
|-
| style="background-color:#f77;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 正明寺村
|-
| style="background-color:#f77;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 田野沢村
|-
| style="background-color:#f77;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 潟上村
|-
| style="background-color:#f77;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 長畝村
|-
| style="background-color:#2a4;" | 雑太郡
| style="background-color:#9cf;" | 平泉村
| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />金沢村
| rowspan=3 style="background-color:#9cf;" | 昭和29年11月3日<br />金井村
| rowspan=3 style="background-color:#9cf;" | 金井村
| rowspan=3 style="background-color:#6ff;" | 昭和35年11月3日<br />町制施行<br />[[金井町]]
|-
| style="background-color:#2a4;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 金沢村
|-
| style="background-color:#f77;" | 加茂郡
| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 吉井村
| rowspan=4 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />吉井村
|-
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| rowspan=17 | 昭和29年11月3日<br />[[両津市]]
| rowspan=17 | 両津市
| rowspan=18 | 昭和32年11月3日<br />両津市
|-
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| style="background-color:#9cf;" | 秋津村
|-
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| style="background-color:#9cf;" | 長江村
|-
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| style="background-color:#9cf;" | 岩首村
| style="background-color:#9cf;" | 岩首村
|-
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| style="background-color:#9cf;" | 水津村
| style="background-color:#9cf;" | 水津村
|-
| style="background-color:#f77;" | <!---全角スペース--->
| style="background-color:#9cf;" | 富岡村
| rowspan=4 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />河崎村
|-
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| style="background-color:#9cf;" | 河崎村
|-
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| style="background-color:#9cf;" | 明治村
|-
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| style="background-color:#9cf;" | 吾潟村
|-
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| style="background-color:#6ff;" | 湊町
| rowspan=3 style="background-color:#6ff;" | 明治34年11月1日<br />両津町
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| style="background-color:#6ff;" | 夷町
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| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 加茂歌代村
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| rowspan=4 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />加茂村
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| style="background-color:#9cf;" | 梅津村
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| style="background-color:#9cf;" | 内浦村
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| style="background-color:#9cf;" | 内海府村
|-
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| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 外海府村
| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 外海府村
| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 外海府村
| rowspan=10 style="background-color:#6ff;" | 昭和31年9月30日<br />相川町
|-
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| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />高千村
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|-
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|-
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| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 明治34年11月1日<br />金泉村
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|-
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|-
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| rowspan=3 style="background-color:#6ff;" | 明治34年11月1日<br />[[相川町]]
|-
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| style="background-color:#6ff;" | 相川町
|-
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| rowspan=2 style="background-color:#9cf;" | 二見村
|-
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| style="background-color:#9cf;" | 二見村
|-
|}
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== 行政 ==
;歴代郡長
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!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
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|1||||明治29年(1896年)4月1日||||
|-
|||||||大正15年(1926年)6月30日||郡役所廃止により、廃官
|}
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-09-01|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=15 新潟県|isbn=4040011503|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1989}}}}
== 関連項目 ==
* [[消滅した郡の一覧]]
* [[佐渡地方]]
* [[佐渡島]]
== 外部リンク ==
* [http://www.city.sado.niigata.jp/admin/profile/unit/index.shtml 佐渡市 市政概要 佐渡市の概要合併資料(平成)]
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12,300 |
菌
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菌 (きん) とは、元来、キノコを意味した。なお、漢字「菌」の訓は「きのこ」である。
近代には「菌類」、つまりキノコに似ていると考えられた生物の雑多なグループを指すようになった。この意味での「菌」は、学名の「‐mycota」「‐mycetes」など (ギリシア語で「キノコ」) の訳語であることが多い。
菌類には、互いに類縁関係の乏しい多くの系統が含まれる。その中で代表的なのはキノコ・カビ・酵母などを含む真菌で、菌・菌類という言葉で真菌を指すこともある。たとえば、「菌界」は真菌の分類群である。
さらに、後になって発見された微小な生物であるBacteria(バクテリア)にも「細菌」という単語が当てられた。一般に耳にする○○菌(結核菌や乳酸菌など)のほとんどは細菌に属する。菌という漢字が使われているが、狭義の菌類ではない。
また、1990年になってBacteriaから切り離されたArchaea(アーキア)にも「古細菌」という単語が当てられている。これも菌や細菌という漢字が使われているが、狭義の菌類でも細菌でもない。
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菌 (きん) とは、元来、キノコを意味した。なお、漢字「菌」の訓は「きのこ」である。 近代には「菌類」、つまりキノコに似ていると考えられた生物の雑多なグループを指すようになった。この意味での「菌」は、学名の「‐mycota」「‐mycetes」など (ギリシア語で「キノコ」) の訳語であることが多い。 菌類には、互いに類縁関係の乏しい多くの系統が含まれる。その中で代表的なのはキノコ・カビ・酵母などを含む真菌で、菌・菌類という言葉で真菌を指すこともある。たとえば、「菌界」は真菌の分類群である。 さらに、後になって発見された微小な生物であるBacteria(バクテリア)にも「細菌」という単語が当てられた。一般に耳にする○○菌(結核菌や乳酸菌など)のほとんどは細菌に属する。菌という漢字が使われているが、狭義の菌類ではない。 また、1990年になってBacteriaから切り離されたArchaea(アーキア)にも「古細菌」という単語が当てられている。これも菌や細菌という漢字が使われているが、狭義の菌類でも細菌でもない。
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'''菌''' (きん) とは、元来、[[キノコ]]を意味した。なお、[[漢字]]「菌」の[[訓読み|訓]]は「きのこ」である。
近代には「[[菌類|'''菌'''類]]」、つまりキノコに似ていると考えられた生物の雑多なグループを指すようになった。この意味での「菌」は、学名の「‐mycota」「‐mycetes」など ([[ギリシア語]]で「キノコ」) の訳語であることが多い。
菌類には、互いに類縁関係の乏しい多くの系統が含まれる。その中で代表的なのは[[キノコ]]・[[カビ]]・[[酵母]]などを含む[[真菌]]で、菌・菌類という言葉で真菌を指すこともある。たとえば、「菌界」は真菌の分類群である。
さらに、後になって発見された微小な生物であるBacteria(バクテリア)にも「[[細菌|細'''菌''']]」という単語が当てられた。一般に耳にする○○菌([[結核菌]]や[[乳酸菌]]など)のほとんどは細菌に属する。菌という漢字が使われているが、狭義の菌類ではない。
また、1990年になってBacteriaから切り離されたArchaea(アーキア)にも「[[古細菌|古細'''菌''']]」という単語が当てられている。これも菌や細菌という漢字が使われているが、狭義の菌類でも細菌でもない。
==「菌」と呼ばれる生物==
*[[真核生物]]
**[[オピストコンタ]]
***[[真菌]]
***[[メソミセトゾア]] (偽粘菌・中動菌)
**[[アメーボゾア]]
**[[粘菌]]
****[[変形菌]](真正粘菌)
****[[原生粘菌]](プロトステリウム類)
****[[タマホコリカビ類]] ([[細胞性粘菌]]参照)
**[[ストラメノパイル]]
***[[卵菌]]
***[[ラビリンチュラ]]類 (水生粘菌とも呼ばれた)
**[[リザリア]]
***[[ネコブカビ]]類 (寄生粘菌とも呼ばれた)
*[[細菌]]
*[[古細菌]]
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12,303 |
クラトン
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クラトン(英語: Craton、ドイツ語: Kraton)とは、大陸地殻のうち、カンブリア紀以前に安定化した部分を指す。安定陸塊(あんていりくかい)、安定地塊(あんていちかい)、剛塊(ごうかい)とも呼ばれる。楯状地、プラットフォーム(卓状地)とほぼ一致し、造山帯、付加体に対立する概念である。
代表例としては、カナダ楯状地を包含する北アメリカ・クラトン、ダルワール・クラトン、東ヨーロッパ・クラトン、東南極クラトンなどが挙げられる。これらは、最低でも過去5億年、大陸の合体や超大陸の分離(ウィルソンサイクル)の影響をほとんど受けなかった大陸地殻の古い安定な部分であり、中には30億年以上存在してきた物も存在する。このためクラトンの地表部分では侵食が進み、台地や準平原、構造平野などを形成している。
クラトンは、通常は大陸の内部で見つかる。特徴として、花崗岩など低比重の珪長質の火成岩から成る、古代に形成された結晶質の基盤岩の地殻を有する。これらは、厚い地殻と、マントル の中、200 kmの深さまで及ぶ根(下部リソスフェア)を持っている。
クラトンという用語は、安定な大陸の内陸部分を、沈み込み帯などに伴って形成される、帯状の堆積物が成す地向斜性トラフ(つまり付加体)などから区別するのに使われる。
散在する各大陸の中央クラトンは、楯状地とプラットフォームおよび結晶質基盤岩とほぼ一致する。楯状地はクラトンの一部であり、通常は先カンブリア時代の岩盤が、地表に散発的に露出している場所である。これに対して、プラットフォームは基盤岩が水平、または、ほぼ水平な堆積物の層によって覆われた場所である。
クラトンという用語は、ドイツ人の地質学者 L. Kober により、1921年に「安定な大陸の台地(陸塊)"Kratogen"」として導入された。また同時に、"orogen" が、山あるいは造山帯を指す用語として導入された。 後代の著作者達が、前者を kraton と縮め、これがさらに craton と変化した。
各クラトンは、地質学的にさらに細かい地質学的区域に分割される。各地質学的区域は、共通する地質学的な属性に基づいて空間的に仕切られた単体 (entity) である。各区域は、構造盆地や褶曲帯などの単一の支配的な構造要素のみを含む場合も、幾つかの連続した構造要素を含む場合もある。なお、仮に隣接する区域が、同様の構造を持つ場合であっても、それぞれが異なる形成履歴を持っていれば、別の地質学的区域と見なされる場合もある。
ただし、地質学的区域は、論議の文脈や背景によって、幾つかの異なる意味を持ち得る。
大陸クラトンは、マントルの中まで達する深い根(下部リソスフェア)を持っている。マントルの地震波トモグラフィーによる解析では、クラトンがリソスフェアに相当する、異常に温度の低いマントルの上に乗っており、このリソスフェアは約100 kmの厚さを有する事を示している。さらに、充分に古い海洋性リソスフェア、あるいは、非クラトン性大陸リソスフェアと比較して、少なくとも、2倍以上の厚さを持つ事も示している。したがって、幾つかのクラトンは、最深部においてアセノスフェアに錨着しているのではないかとの論議が有る。
クラトンが有するマントル中の根は、化学的にマントルと区別されなければならない。なぜなら、マントルに対して、クラトンの根は、中立か正の浮力を持つはずであり、そのためには、地熱反応による体積減少に伴う密度増加を相殺する程度に、本来の密度が低くなければならないからである。
マントル中の根の岩石サンプルは橄欖岩を含んでおり、これらは、キンバーライト・パイプと呼ばれる、火山活動性のパイプの内容物として、地表に運び上げられる。ここに含まれる岩石がキンバーライトで、しばしばダイヤモンドのような地球深部で形成された鉱物が含有される。キンバーライト・パイプの内容物は、クラトンの成分と矛盾しない密度を持ち、高温で部分融解を起こしたマントルの融け残り成分から構成されている。橄欖岩の団塊は、部分融解で変成したマントル岩石の一部分であり、深部の構成成分とクラトンの起源を知るために重要である。
斜方輝石橄欖岩(英語版)(harzburgite)は橄欖岩の1種であり、玄武岩やコマチアイトなどから、融解成分を取り除いた結晶質の残滓である。
アルプス型橄欖岩は、最上部マントルのスラブ(多くは海洋リソスフェア)を起源とし、やはり部分融解成分が抽出された残渣であるが、事後的に海洋地殻と一緒に、衝上断層に沿ってアルプス山脈まで押し上げられた岩石である。エクロジャイトと呼ばれる、橄欖岩に付随する一群の内容物は、成分で見れば海洋地殻に対応する岩石から構成されているが、深いマントル中の高温高圧環境で変成作用を受けた岩石である。含有される元素の同位体の含有比率などによる研究は、多数のエクロジャイトの内容物は、古代の海洋地殻が、数十億年前に、キンバーライトのダイヤモンド領域に当たる、150 km以上の深さに沈み込んだ物であると明らかにした。これらは、深部で発生したマグマ噴出活動によって地表に運ばれるまで、浮遊状態のプレートの中に固定されたままであった。もしも、橄欖岩とエクロジャイトから成る内容物が、同時期に形成されたのであれば、橄欖岩も、数十億年前に海底を拡張した海嶺か、あるいは、海洋地殻の沈み込みの影響を受けたマントルに起源を有する事を意味する。
地球は、その形成後の初期の年代において今よりも高温であった。このため、海底を拡張する海嶺では、現在よりも大量の融解が発生して、20 kmを超える厚さの地殻を持った海洋リソスフェアを生成した。そして、その分だけ、マントルの厚さは減殺された。よって、クラトンが有するマントル中の根は、浮力を持ったまま沈み込んだ海洋リソスフェアで構成されていると考えられる。これらの深部のマントル中の根は、クラトンの安定性、錨着力、存在の持続性を増大させ、プレート相互の衝突による、プレートの肥厚化や、堆積物の沈み込みに伴う破壊に対する、クラトンの感受性を大幅に低下させる働きを持つ。
地球の初期に存在した岩石からクラトンが形成されたプロセスは、クラトン化(英語版)(cratonization)と呼ばれている。クラトン性の陸塊は、太古代に形成された。太古代初期においては、地球内部からの熱流量は、現在の3倍近くあったと推定されている。これは、放射性同位元素の濃度が高かった上に、地球の降着形成 (accretion) 時の残熱が原因である。
その頃のプレート運動および火山性活動は、現在より相当活発であったと考えられており、マントルは現在よりも流動性が相当大きく、地殻はもっと薄かったとされる。これは、海嶺とホットスポットにおける海洋地殻の急速な形成、および沈み込み帯における海洋地殻の、急速なリサイクリングの原因となっただろう。当時の地球の表面付近は、恐らく、小さな多数のプレートに分断され、これに伴う火山島や弧状列島が大量に存在しただろうと考えられている。地殻性の岩石が、ホットスポットで融解と凝固を繰り返し、また沈み込み帯でリサイクルを繰り返すうちに、幾つかの始原大陸が形成された。こうして形成された始源大陸が、クラトンだとされる。
太古代初期においては、大きな大陸は存在しなかったと考えられている。おそらく、中太古代 (Mesoarchean) においては、高頻度の地殻変動が、より大きなユニットへの合体化を妨げたため、小さな始原大陸が普通であったであろう。
これらの珪長質の始原大陸(クラトン)は、ホットスポットで様々な材料: 珪長質岩を溶かし込んだ苦鉄質(mafic) のマグマ、部分融解した苦鉄質岩、変成作用を受けた珪長質岩の堆積物、などから形成されたであろう。
最初の幾つかの大陸が太古代に形成されたにもかかわらず、この時代の岩石は、現存する地球上のクラトンの7パーセントを構成するに過ぎない。過去の形成物の侵食や破壊を勘案しても、現在の大陸地殻のうち、太古代に形成された部分は、どんなに多くとも、40パーセント程度に過ぎないことが、各種の証拠から示唆されている (Stanley, 1999)。
太古代に、クラトン化のプロセスが、最初どのようにして始まったかについての漸進的概観の1つが、ハミルトンによって与えられた (Hamilton, 1999)。
大部分が海底にあった、非常に厚い苦鉄質の岩盤の部分、その下の超苦鉄質岩盤、火成岩の岩盤、そして最も若い、珪長質の火成岩、および堆積岩は、部分融解によって流動性となった地殻下部に駆動され上昇する、複数のドーム状の珪長質のバソリス(底盤)の間で圧縮されて、複雑な向斜を形成する。
地殻上部の花崗岩とグリーンストーンの岩体は、ドーム状褶曲を伴う成分の転化を受けながら、穏やかな空間的な収縮を経て、地殻下部から切り離されるが、この後に、すぐにクラトン化が続く。
トーナル岩性の基盤岩が、幾つかのグリーンストーンの区域の下に保存されているが、基盤岩直上の堆積岩 (supracrustal rock) は、ほとんどの場合、若い貫入岩に取って代わられていった。恐らく、当時はマントルプルームが、まだ存在せず、発達途上の大陸は、より冷えた地域に集められていった。熱い地域の上部マントルは、部分的に融解しており、大部分が超苦鉄質の大量のマグマが、地殻の最も薄い部分に一時的に集中的にできた、海底の火道や裂け目を通じて噴出した。
現在まで生き残っている太古代の地殻は、より冷えた、マントルがより非活動的な地域でできた。そこでは、より大きな安定性が、部分的に融解した密度の低い珪長質岩が、通常はあり得ないほど厚い、火山性の集積物の形成を可能にした。
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"text": "クラトン(英語: Craton、ドイツ語: Kraton)とは、大陸地殻のうち、カンブリア紀以前に安定化した部分を指す。安定陸塊(あんていりくかい)、安定地塊(あんていちかい)、剛塊(ごうかい)とも呼ばれる。楯状地、プラットフォーム(卓状地)とほぼ一致し、造山帯、付加体に対立する概念である。",
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"text": "代表例としては、カナダ楯状地を包含する北アメリカ・クラトン、ダルワール・クラトン、東ヨーロッパ・クラトン、東南極クラトンなどが挙げられる。これらは、最低でも過去5億年、大陸の合体や超大陸の分離(ウィルソンサイクル)の影響をほとんど受けなかった大陸地殻の古い安定な部分であり、中には30億年以上存在してきた物も存在する。このためクラトンの地表部分では侵食が進み、台地や準平原、構造平野などを形成している。",
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"text": "クラトンは、通常は大陸の内部で見つかる。特徴として、花崗岩など低比重の珪長質の火成岩から成る、古代に形成された結晶質の基盤岩の地殻を有する。これらは、厚い地殻と、マントル の中、200 kmの深さまで及ぶ根(下部リソスフェア)を持っている。",
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"text": "クラトンという用語は、安定な大陸の内陸部分を、沈み込み帯などに伴って形成される、帯状の堆積物が成す地向斜性トラフ(つまり付加体)などから区別するのに使われる。",
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"text": "散在する各大陸の中央クラトンは、楯状地とプラットフォームおよび結晶質基盤岩とほぼ一致する。楯状地はクラトンの一部であり、通常は先カンブリア時代の岩盤が、地表に散発的に露出している場所である。これに対して、プラットフォームは基盤岩が水平、または、ほぼ水平な堆積物の層によって覆われた場所である。",
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"text": "クラトンという用語は、ドイツ人の地質学者 L. Kober により、1921年に「安定な大陸の台地(陸塊)\"Kratogen\"」として導入された。また同時に、\"orogen\" が、山あるいは造山帯を指す用語として導入された。 後代の著作者達が、前者を kraton と縮め、これがさらに craton と変化した。",
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"text": "各クラトンは、地質学的にさらに細かい地質学的区域に分割される。各地質学的区域は、共通する地質学的な属性に基づいて空間的に仕切られた単体 (entity) である。各区域は、構造盆地や褶曲帯などの単一の支配的な構造要素のみを含む場合も、幾つかの連続した構造要素を含む場合もある。なお、仮に隣接する区域が、同様の構造を持つ場合であっても、それぞれが異なる形成履歴を持っていれば、別の地質学的区域と見なされる場合もある。",
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"text": "ただし、地質学的区域は、論議の文脈や背景によって、幾つかの異なる意味を持ち得る。",
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"text": "大陸クラトンは、マントルの中まで達する深い根(下部リソスフェア)を持っている。マントルの地震波トモグラフィーによる解析では、クラトンがリソスフェアに相当する、異常に温度の低いマントルの上に乗っており、このリソスフェアは約100 kmの厚さを有する事を示している。さらに、充分に古い海洋性リソスフェア、あるいは、非クラトン性大陸リソスフェアと比較して、少なくとも、2倍以上の厚さを持つ事も示している。したがって、幾つかのクラトンは、最深部においてアセノスフェアに錨着しているのではないかとの論議が有る。",
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"text": "クラトンが有するマントル中の根は、化学的にマントルと区別されなければならない。なぜなら、マントルに対して、クラトンの根は、中立か正の浮力を持つはずであり、そのためには、地熱反応による体積減少に伴う密度増加を相殺する程度に、本来の密度が低くなければならないからである。",
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"text": "マントル中の根の岩石サンプルは橄欖岩を含んでおり、これらは、キンバーライト・パイプと呼ばれる、火山活動性のパイプの内容物として、地表に運び上げられる。ここに含まれる岩石がキンバーライトで、しばしばダイヤモンドのような地球深部で形成された鉱物が含有される。キンバーライト・パイプの内容物は、クラトンの成分と矛盾しない密度を持ち、高温で部分融解を起こしたマントルの融け残り成分から構成されている。橄欖岩の団塊は、部分融解で変成したマントル岩石の一部分であり、深部の構成成分とクラトンの起源を知るために重要である。",
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"text": "斜方輝石橄欖岩(英語版)(harzburgite)は橄欖岩の1種であり、玄武岩やコマチアイトなどから、融解成分を取り除いた結晶質の残滓である。",
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"text": "アルプス型橄欖岩は、最上部マントルのスラブ(多くは海洋リソスフェア)を起源とし、やはり部分融解成分が抽出された残渣であるが、事後的に海洋地殻と一緒に、衝上断層に沿ってアルプス山脈まで押し上げられた岩石である。エクロジャイトと呼ばれる、橄欖岩に付随する一群の内容物は、成分で見れば海洋地殻に対応する岩石から構成されているが、深いマントル中の高温高圧環境で変成作用を受けた岩石である。含有される元素の同位体の含有比率などによる研究は、多数のエクロジャイトの内容物は、古代の海洋地殻が、数十億年前に、キンバーライトのダイヤモンド領域に当たる、150 km以上の深さに沈み込んだ物であると明らかにした。これらは、深部で発生したマグマ噴出活動によって地表に運ばれるまで、浮遊状態のプレートの中に固定されたままであった。もしも、橄欖岩とエクロジャイトから成る内容物が、同時期に形成されたのであれば、橄欖岩も、数十億年前に海底を拡張した海嶺か、あるいは、海洋地殻の沈み込みの影響を受けたマントルに起源を有する事を意味する。",
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"text": "地球は、その形成後の初期の年代において今よりも高温であった。このため、海底を拡張する海嶺では、現在よりも大量の融解が発生して、20 kmを超える厚さの地殻を持った海洋リソスフェアを生成した。そして、その分だけ、マントルの厚さは減殺された。よって、クラトンが有するマントル中の根は、浮力を持ったまま沈み込んだ海洋リソスフェアで構成されていると考えられる。これらの深部のマントル中の根は、クラトンの安定性、錨着力、存在の持続性を増大させ、プレート相互の衝突による、プレートの肥厚化や、堆積物の沈み込みに伴う破壊に対する、クラトンの感受性を大幅に低下させる働きを持つ。",
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"text": "地球の初期に存在した岩石からクラトンが形成されたプロセスは、クラトン化(英語版)(cratonization)と呼ばれている。クラトン性の陸塊は、太古代に形成された。太古代初期においては、地球内部からの熱流量は、現在の3倍近くあったと推定されている。これは、放射性同位元素の濃度が高かった上に、地球の降着形成 (accretion) 時の残熱が原因である。",
"title": "クラトンの形成"
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"text": "その頃のプレート運動および火山性活動は、現在より相当活発であったと考えられており、マントルは現在よりも流動性が相当大きく、地殻はもっと薄かったとされる。これは、海嶺とホットスポットにおける海洋地殻の急速な形成、および沈み込み帯における海洋地殻の、急速なリサイクリングの原因となっただろう。当時の地球の表面付近は、恐らく、小さな多数のプレートに分断され、これに伴う火山島や弧状列島が大量に存在しただろうと考えられている。地殻性の岩石が、ホットスポットで融解と凝固を繰り返し、また沈み込み帯でリサイクルを繰り返すうちに、幾つかの始原大陸が形成された。こうして形成された始源大陸が、クラトンだとされる。",
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"text": "太古代初期においては、大きな大陸は存在しなかったと考えられている。おそらく、中太古代 (Mesoarchean) においては、高頻度の地殻変動が、より大きなユニットへの合体化を妨げたため、小さな始原大陸が普通であったであろう。",
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"text": "これらの珪長質の始原大陸(クラトン)は、ホットスポットで様々な材料: 珪長質岩を溶かし込んだ苦鉄質(mafic) のマグマ、部分融解した苦鉄質岩、変成作用を受けた珪長質岩の堆積物、などから形成されたであろう。",
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"text": "最初の幾つかの大陸が太古代に形成されたにもかかわらず、この時代の岩石は、現存する地球上のクラトンの7パーセントを構成するに過ぎない。過去の形成物の侵食や破壊を勘案しても、現在の大陸地殻のうち、太古代に形成された部分は、どんなに多くとも、40パーセント程度に過ぎないことが、各種の証拠から示唆されている (Stanley, 1999)。",
"title": "クラトンの形成"
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"text": "太古代に、クラトン化のプロセスが、最初どのようにして始まったかについての漸進的概観の1つが、ハミルトンによって与えられた (Hamilton, 1999)。",
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"text": "大部分が海底にあった、非常に厚い苦鉄質の岩盤の部分、その下の超苦鉄質岩盤、火成岩の岩盤、そして最も若い、珪長質の火成岩、および堆積岩は、部分融解によって流動性となった地殻下部に駆動され上昇する、複数のドーム状の珪長質のバソリス(底盤)の間で圧縮されて、複雑な向斜を形成する。",
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"text": "地殻上部の花崗岩とグリーンストーンの岩体は、ドーム状褶曲を伴う成分の転化を受けながら、穏やかな空間的な収縮を経て、地殻下部から切り離されるが、この後に、すぐにクラトン化が続く。",
"title": "クラトンの形成"
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"text": "トーナル岩性の基盤岩が、幾つかのグリーンストーンの区域の下に保存されているが、基盤岩直上の堆積岩 (supracrustal rock) は、ほとんどの場合、若い貫入岩に取って代わられていった。恐らく、当時はマントルプルームが、まだ存在せず、発達途上の大陸は、より冷えた地域に集められていった。熱い地域の上部マントルは、部分的に融解しており、大部分が超苦鉄質の大量のマグマが、地殻の最も薄い部分に一時的に集中的にできた、海底の火道や裂け目を通じて噴出した。",
"title": "クラトンの形成"
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"text": "現在まで生き残っている太古代の地殻は、より冷えた、マントルがより非活動的な地域でできた。そこでは、より大きな安定性が、部分的に融解した密度の低い珪長質岩が、通常はあり得ないほど厚い、火山性の集積物の形成を可能にした。",
"title": "クラトンの形成"
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クラトンとは、大陸地殻のうち、カンブリア紀以前に安定化した部分を指す。安定陸塊(あんていりくかい)、安定地塊(あんていちかい)、剛塊(ごうかい)とも呼ばれる。楯状地、プラットフォーム(卓状地)とほぼ一致し、造山帯、付加体に対立する概念である。 代表例としては、カナダ楯状地を包含する北アメリカ・クラトン、ダルワール・クラトン、東ヨーロッパ・クラトン、東南極クラトンなどが挙げられる。これらは、最低でも過去5億年、大陸の合体や超大陸の分離(ウィルソンサイクル)の影響をほとんど受けなかった大陸地殻の古い安定な部分であり、中には30億年以上存在してきた物も存在する。このためクラトンの地表部分では侵食が進み、台地や準平原、構造平野などを形成している。
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{{脚注の不足|date=2023-03-04 08:07(UTC)}}
{{Otheruses|地質学上のクラトン|インドネシア・ジャワ島の各地にあるスルターンの王宮|{{仮リンク|クラトン (王宮)|en|Kraton (Indonesia)}}}}
[[File:World geologic provinces.jpg|250px|thumb|right|世界の地質学的区域図([[アメリカ地質調査所]])<br />
{{legend|#f96|[[楯状地]]}}
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'''[[地殻#海洋地殻|海洋地殻]]:'''
{{legend|#cde|0-20 Ma (100万年前)}}
{{legend|#abc|20-65 Ma}}
{{legend|#89a|>65 Ma}}
]]
'''クラトン'''({{Lang-en|Craton}}、{{Lang-de|Kraton}})とは、[[地殻#大陸地殻|大陸地殻]]のうち、[[カンブリア紀]]以前に安定化した部分を指す。'''安定陸塊'''(あんていりくかい)、'''安定地塊'''(あんていちかい)、'''剛塊'''(ごうかい)とも呼ばれる。[[楯状地]]、[[プラットフォーム (地質学)|プラットフォーム]](卓状地)とほぼ一致し、[[造山運動|造山帯]]、[[付加体]]に対立する概念である。
代表例としては、[[カナダ楯状地]]を包含する[[北アメリカ・クラトン]]、[[ダルワール・クラトン]]、[[東ヨーロッパ・クラトン]]、[[東南極クラトン]]などが挙げられる。これらは、最低でも過去5億年、[[大陸]]の合体や[[超大陸]]の分離([[ウィルソンサイクル]])の影響をほとんど受けなかった大陸地殻の古い安定な部分であり、中には30億年以上存在してきた物も存在する。このためクラトンの地表部分では[[侵食]]が進み、[[台地]]や[[準平原]]、[[構造平野]]などを形成している。
== 概要 ==
クラトンは、通常は大陸の内部で見つかる。特徴として、[[花崗岩]]など低比重の[[珪長質岩|珪長質]]の[[火成岩]]から成る、古代に形成された結晶質の[[基盤岩]]の[[地殻]]を有する。これらは、厚い地殻と、[[マントル]] の中、200 kmの深さまで及ぶ根(下部[[リソスフェア]])を持っている。
クラトンという用語は、安定な大陸の内陸部分を、[[沈み込み帯]]などに伴って形成される、帯状の[[堆積物]]が成す[[地向斜]]性[[トラフ (地形)|トラフ]](つまり付加体)などから区別するのに使われる。
散在する各大陸の中央クラトンは、楯状地とプラットフォームおよび結晶質基盤岩とほぼ一致する。楯状地はクラトンの一部であり、通常は[[先カンブリア時代]]の岩盤が、地表に散発的に露出している場所である。これに対して、プラットフォームは基盤岩が水平、または、ほぼ水平な堆積物の層によって覆われた場所である。
クラトンという用語は、[[ドイツ人]]の[[地質学者]] L. Kober により、1921年に「安定な大陸の台地(陸塊)''"Kratogen"''」として導入された<!-- (訳注:これは[[安定陸塊]]とほぼ同義になるのではないか? 専門家の教えを請う) -->。また同時に、''"orogen"'' が、[[山]]あるいは造山帯を指す用語として導入された。
後代の著作者達が、前者を kraton と縮め、これがさらに craton と変化した。
== 地質学的区域 ==
各クラトンは、地質学的にさらに細かい[[地質学的区域]]に分割される。各地質学的区域は、共通する地質学的な属性に基づいて空間的に仕切られた単体 (entity) である。各区域は、[[構造盆地]]や[[褶曲]]帯などの単一の支配的な構造要素のみを含む場合も、幾つかの連続した構造要素を含む場合もある。なお、仮に隣接する区域が、同様の構造を持つ場合であっても、それぞれが異なる形成履歴を持っていれば、別の地質学的区域と見なされる場合もある。
ただし、地質学的区域は、論議の文脈や背景によって、幾つかの異なる意味を持ち得る。
== 構造 ==
大陸クラトンは、マントルの中まで達する深い根(下部リソスフェア)を持っている。マントルの[[地震波トモグラフィー]]による解析では、クラトンがリソスフェアに相当する、異常に温度の低いマントルの上に乗っており、このリソスフェアは約100 kmの厚さを有する事を示している。さらに、充分に古い海洋性リソスフェア、あるいは、非クラトン性大陸リソスフェアと比較して、少なくとも、2倍以上の厚さを持つ事も示している。したがって、幾つかのクラトンは、最深部において[[アセノスフェア]]に錨着しているのではないかとの論議が有る。
クラトンが有するマントル中の根は、化学的にマントルと区別されなければならない。なぜなら、マントルに対して、クラトンの根は、中立か正の[[浮力]]を持つはずであり、そのためには、地熱反応による体積減少に伴う密度増加を相殺する程度に、本来の密度が低くなければならないからである。
マントル中の根の岩石サンプルは[[橄欖岩]]を含んでおり、これらは、[[キンバーライト・パイプ]]と呼ばれる、火山活動性のパイプの内容物として、地表に運び上げられる。ここに含まれる岩石が[[キンバーライト]]で、しばしば[[ダイヤモンド]]のような地球深部で形成された鉱物が含有される。キンバーライト・パイプの内容物は、クラトンの成分と矛盾しない密度を持ち、高温で[[部分融解]]を起こしたマントルの融け残り成分から構成されている。橄欖岩の団塊は、部分融解で変成したマントル岩石の一部分であり、深部の構成成分とクラトンの起源を知るために重要である。
{{仮リンク|斜方輝石橄欖岩|en|harzburgite}}(harzburgite)は橄欖岩の1種であり、[[玄武岩]]や[[コマチアイト]]などから、融解成分を取り除いた結晶質の残滓である。
アルプス型橄欖岩は、最上部マントルのスラブ(多くは海洋リソスフェア)を起源とし、やはり部分融解成分が抽出された残渣であるが、事後的に海洋地殻と一緒に、[[衝上断層]]に沿って[[アルプス山脈]]まで押し上げられた岩石である。[[エクロジャイト]]と呼ばれる、橄欖岩に付随する一群の内容物は、成分で見れば海洋地殻に対応する岩石から構成されているが、深いマントル中の高温高圧環境で[[変成作用]]を受けた岩石である。含有される元素の[[同位体]]の含有比率などによる研究は、多数のエクロジャイトの内容物は、古代の海洋地殻が、数十億年前に、キンバーライトのダイヤモンド領域に当たる、150 km以上の深さに沈み込んだ物であると明らかにした。これらは、深部で発生したマグマ噴出活動によって地表に運ばれるまで、浮遊状態の[[プレート]]の中に固定されたままであった。もしも、橄欖岩とエクロジャイトから成る内容物が、同時期に形成されたのであれば、橄欖岩も、数十億年前に海底を拡張した[[海嶺]]か、あるいは、海洋地殻の[[沈み込み]]の影響を受けたマントルに起源を有する事を意味する。
地球は、その形成後の初期の年代において今よりも高温であった。このため、海底を拡張する海嶺では、現在よりも大量の融解が発生して、20 kmを超える厚さの地殻を持った海洋リソスフェアを生成した。そして、その分だけ、マントルの厚さは減殺された。よって、クラトンが有するマントル中の根は、浮力を持ったまま沈み込んだ海洋リソスフェアで構成されていると考えられる。これらの深部のマントル中の根は、クラトンの安定性、錨着力、存在の持続性を増大させ、プレート相互の衝突による、プレートの肥厚化や、堆積物の沈み込みに伴う破壊に対する、クラトンの感受性を大幅に低下させる働きを持つ。
== クラトンの形成 ==
地球の初期に存在した岩石からクラトンが形成されたプロセスは、'''{{仮リンク|クラトン化|en|cratonization}}'''(cratonization)と呼ばれている。クラトン性の陸塊は、[[太古代]]に形成された。太古代初期においては、地球内部からの熱流量は、現在の3倍近くあったと推定されている。これは、[[放射性同位元素]]の濃度が高かった上に、地球の降着形成 (accretion) 時の残熱が原因である。
その頃のプレート運動および火山性活動は、現在より相当活発であったと考えられており、マントルは現在よりも流動性が相当大きく、地殻はもっと薄かったとされる。これは、海嶺と[[ホットスポット (地学)|ホットスポット]]における海洋地殻の急速な形成、および[[沈み込み帯]]における海洋地殻の、急速なリサイクリングの原因となっただろう。当時の地球の表面付近は、恐らく、小さな多数のプレートに分断され、これに伴う[[火山島]]や[[弧状列島]]が大量に存在しただろうと考えられている。地殻性の岩石が、ホットスポットで融解と凝固を繰り返し、また沈み込み帯でリサイクルを繰り返すうちに、幾つかの始原大陸が形成された。こうして形成された始源大陸が、クラトンだとされる。
太古代初期においては、大きな大陸は存在しなかったと考えられている。おそらく、[[中太古代]] (Mesoarchean) においては、高頻度の[[地殻変動]]が、より大きなユニットへの合体化を妨げたため、小さな始原大陸が普通であったであろう。
これらの珪長質の始原大陸(クラトン)は、ホットスポットで様々な材料: [[珪長質岩]]を溶かし込んだ苦鉄質(mafic) のマグマ、部分融解した[[苦鉄質岩]]、[[変成作用]]を受けた珪長質岩の[[堆積物]]、などから形成されたであろう。
最初の幾つかの大陸が太古代に形成されたにもかかわらず、この時代の岩石は、現存する地球上のクラトンの7パーセントを構成するに過ぎない。過去の形成物の侵食や破壊を勘案しても、現在の大陸地殻のうち、太古代に形成された部分は、どんなに多くとも、40パーセント程度に過ぎないことが、各種の証拠から示唆されている (Stanley, 1999)。
太古代に、クラトン化のプロセスが、最初どのようにして始まったかについての漸進的概観の1つが、ハミルトンによって与えられた (Hamilton, 1999)。
<blockquote>
大部分が海底にあった、非常に厚い苦鉄質の岩盤の部分、その下の超苦鉄質岩盤、火成岩の岩盤、そして最も若い、珪長質の火成岩、および堆積岩は、部分融解によって流動性となった地殻下部に駆動され上昇する、複数のドーム状の珪長質の[[バソリス]](底盤)の間で圧縮されて、複雑な[[向斜]]を形成する。
地殻上部の[[花崗岩]]と[[グリーンストーン]]の岩体は、ドーム状[[褶曲]]を伴う成分の転化を受けながら、穏やかな空間的な収縮を経て、地殻下部から切り離されるが、この後に、すぐにクラトン化が続く。
[[トーナル岩]]性の基盤岩が、幾つかのグリーンストーンの区域の下に保存されているが、基盤岩直上の堆積岩 (supracrustal rock) は、ほとんどの場合、若い[[貫入岩]]に取って代わられていった。恐らく、当時は[[マントルプルーム]]が、まだ存在せず、発達途上の大陸は、より冷えた地域に集められていった。熱い地域の上部マントルは、部分的に融解しており、大部分が超苦鉄質の大量のマグマが、地殻の最も薄い部分に一時的に集中的にできた、海底の[[火道]]や裂け目を通じて噴出した。
現在まで生き残っている太古代の地殻は、より冷えた、マントルがより非活動的な地域でできた。そこでは、より大きな安定性が、部分的に融解した密度の低い珪長質岩が、通常はあり得ないほど厚い、火山性の集積物の形成を可能にした。
</blockquote>
== 地域 ==
* [[ローレンシャン山地|ローレンシア]]([[カナダ楯状地]]) - [[ハドソン湾]]の地域
* {{仮リンク|バルト楯状地|en|Baltic Shield}}([[フェノスカンジア]])
* [[シベリア卓状地]](アンガラランド) - [[シベリア大陸]]
* [[ゴンドワナランド]]
** [[ブラジル楯状地]]、[[アフリカ楯状地]]、[[アラビア楯状地]]、[[オーストラリア楯状地]]、[[インド楯状地]]、[[南極大陸]](の一部分)
* [[シナ地塊]] - [[アジア大陸]]東部
== 参考文献 ==
* Dayton, Gene. (2006) "Geological Evolution of Australia." Sr. Lecturer, Geography, School of Humanities, Central Queensland University, Australia. [http://humanities.cqu.edu.au/geography/GEOG11023/week_2.htm]
* Hamilton, Warren B. (1999) "How did the Archean Earth Lose Heat?." Department of Geophysics, Colorado School of Mines, Journal of Conference Abstracts, Vol. 4, No. 1, Symposium A08, Early Evolution of the Continental Crust. [http://www.the-conference.com/JConfAbs/4/140.html]
* Stanley, Steven M. Earth System History. New York: W.H. Freeman and Company, 1999. ISBN 0-7167-2882-6 p. 297-302
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Cratons}}
* [[楯状地とクラトンの一覧]]
* [[大陸]]
* [[楯状地]]
* [[プラットフォーム (地質学)]]
* [[プレートテクトニクス]]
* [[地向斜]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くらとん}}
[[Category:プレートテクトニクス]]
[[Category:構造地質学]]
|
2003-07-29T08:34:33Z
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2023-12-19T11:35:39Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
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12,304 |
NetBSD
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NetBSD(ネットビーエスディー)は、UNIXライクなオープンソースのオペレーティングシステムである。いわゆるBSDの子孫のひとつであるが、そのなかでも、386BSDがフォークされて生まれた公式リリースの中で最初に生まれたものである。1993年5月に最初の公式リリースである0.8が公開された。さまざまなアーキテクチャへの高い移植性、コードの分かりやすさ、などに焦点が置かれて開発されている。→#特徴
互換性の乏しい商用UNIXが多数併存していた1990年代前半当時には、移植性を重視し、多くのハードウエア上で同一のUNIXが動作することを目指したNetBSDの方向性には一定の意味があると思われていた。しかしながら、実際には、商用UNIXを捨ててNetBSDにOSを載せ替える動きはほとんど見られず、NetBSDは事実上x86アーキテクチャーのPC用OSとして使われることになった。このことは、x86を優先的に考えるFreeBSDと比較した場合、移植性を重視するNetBSDはx86対応の開発が遅れがちになるという問題を抱えることとなり、FreeBSDや他のBSD系OSに、利用者数面で徐々に差をつけられることとなった。
2021年現在、NetBSDの利用者数はFreeBSDの300分の1程度とするデータがある。ある程度の利用者がいたとみられる2005年時点でも、FreeBSDの5分の1程度、さらに、NetBSDから分離してできた後発のOpenBSDに対しても2分の1以下の利用者しかいなかった。
このような状況下にもかかわらず、開発者グループ内の軋轢の結果、OpenBSDが分離し、開発リソースのさらなる減少と、類似したBSD系列間での開発内容の重複などの非効率化を招くこととなり、より一層開発が遅延する結果となった。その後も、開発者グループ内の内紛は絶えることがなく、沈滞傾向に拍車をかけることとなった。2000年以降NetBSDに関する日本語の書籍は刊行されていない。
NetBSDのソースコードは誰でも利用でき、そのライセンスはパーミッシブ・ライセンスである。なお「NETBSD」という名称のほうは、2004年4月20日をもってThe NetBSD Foundationの登録商標となっている。
NetBSDは"Of course it runs NetBSD."(「もちろんその機種でもNetBSDが動きます」といった意味)という標語を掲げて開発が行われており、幅広いアーキテクチャに対して移植され、単一のソースツリーから、58以上のアーキテクチャに対してバイナリが構築可能である。
ソースツリーは機種依存部分と機種独立部分を可能な限り分離するように構成されている。これにより、機種独立部分に追加された機能は、全てのアーキテクチャで利用可能となり、再移植が不要である。ドライバの開発も機種独立である。あるPCIカード向けに書かれたドライバは、80386、Alpha、PowerPC、SPARCなどPCI バスを備えたアーキテクチャであればどれでも使うことができる。それ以外にも、PCI ExpressやUSB等も同様にアーキテクチャに関係なく実装される。この機種独立性が、組み込みシステムでの開発に大きく寄与している。コンパイラ、アセンブラ、リンカその他の、クロスコンパイルに完全対応したツールチェーン一式を持つNetBSD 1.6以降では、特に顕著である。
NetBSDはカリフォルニア大学バークレー校のComputer Systems Research Group がリリースした4.3BSDから、Networking/2、および386BSDを介して派生したものである。NetBSDプロジェクトは、386BSDの開発者コミュニティ内の開発のペースや方向性に対する不満から始まった。四人のNetBSDプロジェクトの創始者Chris Demetriou、テオ・デ・ラート、Adam Glass、Charles Hannumは、移植性、きれいで正確なコードを軸とした開かれた開発モデルがプロジェクトに有益であると感じていた。彼らの目的は、統一された、マルチプラットフォームの、製品レベルの品質を持ったBSDベースのオペレーティングシステムを作り出すことであった。"NetBSD"の名称はインターネットなどの当時の急速に発展していたネットワークの重要性と、開発が分散した環境で共同で行われるというプロジェクトの性質からラートが提案したものである。
NetBSDのソースコードリポジトリは1993年3月21日に設立され、最初の公式リリースNetBSD 0.8は1993年4月に行われた。このときのコードは386BSD 0.1にバージョン0.2.2の非公式のパッチをあて、386BSDに不足していたいくつかのプログラムをNet/2リリースから再統合し、そのほかいくつかの改良が含まれていた。最初のマルチプラットフォームのリリースNetBSD 1.0は1994年10月に行われた。同年暮れ、創設者の一人テオ・デ・ラートがプロジェクトから追われることとなった。彼は1995年の終わりごろ、NetBSD 1.0のコードからフォークした新しいプロジェクトOpenBSDを立ち上げた。1998年、NetBSD 1.3でpkgsrcパッケージコレクションが導入された。
NetBSDは対称型マルチプロセッシング(SMP)を2004年リリースのNetBSD 2.0よりサポートしており、初期の実装はジャイアントロックを用いた方法であった。NetBSD 5のリリースに向けた開発サイクルで、SMPのサポートを改善する主要な作業が完了した。カーネルサブシステムの大半の部分がマルチプロセッサでも安全になり、細粒度のロックを用いるよう修正された。新しい同期機構が導入され、2007年2月にScheduler activationsが1:1スレッドモデルに置き換えられた。スケーラブルなM2スレッドスケジューラが実装されたが、4.4 BSDのスケジューラがデフォルトで使用されている(これもSMPでスケールするよう変更された)。同期化の性能を向上させるため、スレッド化された割り込みが実装された。仮想メモリシステム、メモリ割り当て、例外ハンドリングがマルチプロセッサでも安全になり、仮想ファイルシステムおよび主要なファイルシステムを含むファイルシステムフレームワークもマルチプロセッサ対応になった。2008年4月以降、ジャイアントロックで動作しているのはネットワークプロトコルと大半のデバイスドライバのみとなっている。
2022年8月4日現在、NetBSD の最新リリース版は9.3である。
NetBSDには、独自のサードパーティーソフトウェア集、NetBSD Packages Collection (別名pkgsrc)がある。2009年7月現在、8,000を超えるパッケージが用意されている。
GNOME、KDE、Apache HTTP ServerやPerl等をインストールするには、適切なディレクトリに移動して"make install"とタイプするだけである。こうすると、ソースの取り寄せ、展開、configure、構築や、後で削除可能な形でのパッケージのインストールを自動的に行ってくれる。このようなコンパイルを行うかわりに、あらかじめ構築されたバイナリパッケージを使うこともできる。どちらを使うにせよ、事前準備や依存するパッケージのインストールは、パッケージシステムによりすべて自動で行われ、手動での調整は必要ない。
移植性の教義に従い、NetBSD Packages Collection (pkgsrc)は、Linux、FreeBSD、OpenBSD、Solaris、Darwin/macOS、IRIX、Interix (Windows Services for UNIX) など、NetBSD以外の多くのオペレーティングシステムに移植されている。
DragonFly BSDでは標準のパッケージシステムをpkgsrcに変更した。
BSD(BSDの子孫)向けに開発された軽量デスクトップ環境で、NetBSDでも利用可能。
NetBSD のきれいな設計、高い性能とスケーラビリティ、幅広いアーキテクチャのサポートは組み込み機器やサーバー、特にネットワークや工業用途に適している。
商用のリアルタイムオペレーティングシステムQNXは、NetBSDのコードから派生したネットワークスタックを使用しており、デバイスドライバも NetBSD から多数ポートされている。
フォーステンネットワークスはNetBSDを高スケーラビリティのルーターで用いられるFTOS(Force10 Operating System)の基盤OSとして使用している。フォーステンはまた2007年、NetBSD財団の更なる発展とオープンな開発コミュニティを助けるため寄付を行っている。
Wasabi Systemsは、組み込みのサーバーやストレージ機器への応用に焦点を置いてNetBSDに商用のエンタープライズ向けの機能拡張を行ったWasabi Certified BSDを提供している。
NetBSDはNASAによる国際宇宙ステーションの微小重力を調査するプロジェクトで使用され、また人工衛星ネットワークにおけるTCPの利用に関する研究にも使用された。
2004年には、SUNETがNetBSDを用いてInternet2の地上における最高速記録を樹立している。このときNetBSDが選定された理由は「TCPコードのスケーラビリティ」である。
T-Mobile Sidekick LX 2009スマートフォンのオペレーティングシステムはNetBSDを元にしたものである。
インターネットイニシアティブ(IIJ)が自社開発するルータ「SEIL」シリーズは、2000年の「SEIL T1」以降NetBSDをベースOSに採用している。
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"text": "NetBSDはカリフォルニア大学バークレー校のComputer Systems Research Group がリリースした4.3BSDから、Networking/2、および386BSDを介して派生したものである。NetBSDプロジェクトは、386BSDの開発者コミュニティ内の開発のペースや方向性に対する不満から始まった。四人のNetBSDプロジェクトの創始者Chris Demetriou、テオ・デ・ラート、Adam Glass、Charles Hannumは、移植性、きれいで正確なコードを軸とした開かれた開発モデルがプロジェクトに有益であると感じていた。彼らの目的は、統一された、マルチプラットフォームの、製品レベルの品質を持ったBSDベースのオペレーティングシステムを作り出すことであった。\"NetBSD\"の名称はインターネットなどの当時の急速に発展していたネットワークの重要性と、開発が分散した環境で共同で行われるというプロジェクトの性質からラートが提案したものである。",
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"text": "NetBSDは対称型マルチプロセッシング(SMP)を2004年リリースのNetBSD 2.0よりサポートしており、初期の実装はジャイアントロックを用いた方法であった。NetBSD 5のリリースに向けた開発サイクルで、SMPのサポートを改善する主要な作業が完了した。カーネルサブシステムの大半の部分がマルチプロセッサでも安全になり、細粒度のロックを用いるよう修正された。新しい同期機構が導入され、2007年2月にScheduler activationsが1:1スレッドモデルに置き換えられた。スケーラブルなM2スレッドスケジューラが実装されたが、4.4 BSDのスケジューラがデフォルトで使用されている(これもSMPでスケールするよう変更された)。同期化の性能を向上させるため、スレッド化された割り込みが実装された。仮想メモリシステム、メモリ割り当て、例外ハンドリングがマルチプロセッサでも安全になり、仮想ファイルシステムおよび主要なファイルシステムを含むファイルシステムフレームワークもマルチプロセッサ対応になった。2008年4月以降、ジャイアントロックで動作しているのはネットワークプロトコルと大半のデバイスドライバのみとなっている。",
"title": "対称マルチプロセッシング"
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"text": "2022年8月4日現在、NetBSD の最新リリース版は9.3である。",
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"text": "NetBSDには、独自のサードパーティーソフトウェア集、NetBSD Packages Collection (別名pkgsrc)がある。2009年7月現在、8,000を超えるパッケージが用意されている。",
"title": "関連プロジェクト"
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"text": "GNOME、KDE、Apache HTTP ServerやPerl等をインストールするには、適切なディレクトリに移動して\"make install\"とタイプするだけである。こうすると、ソースの取り寄せ、展開、configure、構築や、後で削除可能な形でのパッケージのインストールを自動的に行ってくれる。このようなコンパイルを行うかわりに、あらかじめ構築されたバイナリパッケージを使うこともできる。どちらを使うにせよ、事前準備や依存するパッケージのインストールは、パッケージシステムによりすべて自動で行われ、手動での調整は必要ない。",
"title": "関連プロジェクト"
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{
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"text": "移植性の教義に従い、NetBSD Packages Collection (pkgsrc)は、Linux、FreeBSD、OpenBSD、Solaris、Darwin/macOS、IRIX、Interix (Windows Services for UNIX) など、NetBSD以外の多くのオペレーティングシステムに移植されている。",
"title": "関連プロジェクト"
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"text": "DragonFly BSDでは標準のパッケージシステムをpkgsrcに変更した。",
"title": "関連プロジェクト"
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"text": "BSD(BSDの子孫)向けに開発された軽量デスクトップ環境で、NetBSDでも利用可能。",
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"text": "NetBSD のきれいな設計、高い性能とスケーラビリティ、幅広いアーキテクチャのサポートは組み込み機器やサーバー、特にネットワークや工業用途に適している。",
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"text": "商用のリアルタイムオペレーティングシステムQNXは、NetBSDのコードから派生したネットワークスタックを使用しており、デバイスドライバも NetBSD から多数ポートされている。",
"title": "使用例"
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"text": "フォーステンネットワークスはNetBSDを高スケーラビリティのルーターで用いられるFTOS(Force10 Operating System)の基盤OSとして使用している。フォーステンはまた2007年、NetBSD財団の更なる発展とオープンな開発コミュニティを助けるため寄付を行っている。",
"title": "使用例"
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"text": "Wasabi Systemsは、組み込みのサーバーやストレージ機器への応用に焦点を置いてNetBSDに商用のエンタープライズ向けの機能拡張を行ったWasabi Certified BSDを提供している。",
"title": "使用例"
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"text": "NetBSDはNASAによる国際宇宙ステーションの微小重力を調査するプロジェクトで使用され、また人工衛星ネットワークにおけるTCPの利用に関する研究にも使用された。",
"title": "使用例"
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"text": "2004年には、SUNETがNetBSDを用いてInternet2の地上における最高速記録を樹立している。このときNetBSDが選定された理由は「TCPコードのスケーラビリティ」である。",
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"text": "T-Mobile Sidekick LX 2009スマートフォンのオペレーティングシステムはNetBSDを元にしたものである。",
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"text": "インターネットイニシアティブ(IIJ)が自社開発するルータ「SEIL」シリーズは、2000年の「SEIL T1」以降NetBSDをベースOSに採用している。",
"title": "使用例"
}
] |
NetBSD(ネットビーエスディー)は、UNIXライクなオープンソースのオペレーティングシステムである。いわゆるBSDの子孫のひとつであるが、そのなかでも、386BSDがフォークされて生まれた公式リリースの中で最初に生まれたものである。1993年5月に最初の公式リリースである0.8が公開された。さまざまなアーキテクチャへの高い移植性、コードの分かりやすさ、などに焦点が置かれて開発されている。→#特徴 互換性の乏しい商用UNIXが多数併存していた1990年代前半当時には、移植性を重視し、多くのハードウエア上で同一のUNIXが動作することを目指したNetBSDの方向性には一定の意味があると思われていた。しかしながら、実際には、商用UNIXを捨ててNetBSDにOSを載せ替える動きはほとんど見られず、NetBSDは事実上x86アーキテクチャーのPC用OSとして使われることになった。このことは、x86を優先的に考えるFreeBSDと比較した場合、移植性を重視するNetBSDはx86対応の開発が遅れがちになるという問題を抱えることとなり、FreeBSDや他のBSD系OSに、利用者数面で徐々に差をつけられることとなった。 2021年現在、NetBSDの利用者数はFreeBSDの300分の1程度とするデータがある。ある程度の利用者がいたとみられる2005年時点でも、FreeBSDの5分の1程度、さらに、NetBSDから分離してできた後発のOpenBSDに対しても2分の1以下の利用者しかいなかった。 このような状況下にもかかわらず、開発者グループ内の軋轢の結果、OpenBSDが分離し、開発リソースのさらなる減少と、類似したBSD系列間での開発内容の重複などの非効率化を招くこととなり、より一層開発が遅延する結果となった。その後も、開発者グループ内の内紛は絶えることがなく、沈滞傾向に拍車をかけることとなった。2000年以降NetBSDに関する日本語の書籍は刊行されていない。 NetBSDのソースコードは誰でも利用でき、そのライセンスはパーミッシブ・ライセンスである。なお「NETBSD」という名称のほうは、2004年4月20日をもってThe NetBSD Foundationの登録商標となっている。
|
{{出典の明記|date=2022-4}}
{{Infobox OS
|name = NetBSD
|screenshot = [[ファイル:NetBSD 9.2 xdm screenshot.png|300px]]
|caption = "NetBSDでの[[X Window Display Manager]]"
|developer = The NetBSD Foundation
|family = BSD
|source_model = [[オープンソース]]
|frequently_updated = yes <!-- バージョンを更新するときはこのページを編集せず、番号部分をクリックしてその先のテンプレートで番号と日付を更新して下さい -->
|kernel_type = [[モノリシックカーネル]]
|license = [[BSDライセンス]]
|working_state = 開発中
|website = [https://www.netbsd.org The NetBSD Project]<br />[http://www.jp.netbsd.org 日本NetBSDユーザーグループ]
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|release_date={{Start date and age|1993|4|19|df=yes}}
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}}
'''NetBSD'''(ネットビーエスディー)は、[[Unix系|UNIXライク]]な[[オープンソース]]の[[オペレーティングシステム]]である。いわゆる[[BSDの子孫]]のひとつであるが、そのなかでも、[[386BSD]]がフォークされて生まれた公式リリースの中で最初に生まれたものである。[[1993年]]5月に最初の公式リリースである0.8が公開された。さまざまなアーキテクチャへの高い移植性、コードの分かりやすさ、などに焦点が置かれて開発されている。→[[#特徴]]
互換性の乏しい商用UNIXが多数併存していた1990年代前半当時には、移植性を重視し、多くのハードウエア上で同一のUNIXが動作することを目指したNetBSDの方向性には一定の意味があると思われていた。しかしながら、実際には、商用UNIXを捨ててNetBSDにOSを載せ替える動きはほとんど見られず、NetBSDは事実上x86アーキテクチャーのPC用OSとして使われることになった。このことは、x86を優先的に考えるFreeBSDと比較した場合、移植性を重視するNetBSDはx86対応の開発が遅れがちになるという問題を抱えることとなり、FreeBSDや他のBSD系OSに、利用者数面で徐々に差をつけられることとなった。
2021年現在、NetBSDの利用者数はFreeBSDの300分の1程度とするデータがある<ref>{{Cite web |url= https://bsdstats.org/ |title=*BSD Usage Statistics |accessdate=2021-11-24}}</ref>。ある程度の利用者がいたとみられる2005年時点でも、FreeBSDの5分の1程度、さらに、NetBSDから分離してできた後発のOpenBSDに対しても2分の1以下の利用者しかいなかった<ref>{{Cite web |url= http://www.bsdcertification.org/downloads/pr-20051031-usage-survey-en-en.pdf |title=2005 BSD Usage Survey Report |accessdate=2021-11-24}}</ref>。
このような状況下にもかかわらず、開発者グループ内の軋轢の結果、OpenBSDが分離し、開発リソースのさらなる減少と、類似したBSD系列間での開発内容の重複などの非効率化を招くこととなり、より一層開発が遅延する結果となった。その後も、開発者グループ内の内紛は絶えることがなく<ref>{{Cite web|和書|url= https://opensource.jp/2006/09/11/06-09-11-104205/ |title=NetBSDの将来 |accessdate=2021-11-24}}</ref>、沈滞傾向に拍車をかけることとなった。2000年以降NetBSDに関する日本語の書籍は刊行されていない。
NetBSDの[[ソースコード]]は誰でも利用でき、そのライセンスは[[パーミッシブ・ライセンス]]である。なお「NETBSD」という名称のほうは、[[2004年]]4月20日をもってThe NetBSD Foundationの[[登録商標]]となっている。
== 特徴 ==
;移植性の高さ
NetBSDは"Of course it runs NetBSD."(「もちろんその機種でもNetBSDが動きます」といった意味)という標語を掲げて開発が行われており、幅広い[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]に対して移植され、単一のソースツリーから、58以上のアーキテクチャに対してバイナリが構築可能である。
;コードの分かりやすさ
ソースツリーは機種依存部分と機種独立部分を可能な限り分離するように構成されている。これにより、機種独立部分に追加された機能は、全てのアーキテクチャで利用可能となり、再移植が不要である。[[デバイスドライバ|ドライバ]]の開発も機種独立である。あるPCIカード向けに書かれたドライバは、[[Intel 80386|80386]]、[[DEC Alpha|Alpha]]、[[PowerPC]]、[[SPARC]]など[[Peripheral Component Interconnect|PCI バス]]を備えたアーキテクチャであればどれでも使うことができる。それ以外にも、[[PCI Express]]や[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]等も同様にアーキテクチャに関係なく実装される。この機種独立性が、[[組み込みシステム]]での開発に大きく寄与している。[[コンパイラ]]、[[アセンブリ言語|アセンブラ]]、[[リンケージエディタ|リンカ]]その他の、[[クロスコンパイラ|クロスコンパイル]]に完全対応した[[ツールチェーン]]一式を持つNetBSD 1.6以降では、特に顕著である。
== 歴史 ==
NetBSDは[[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[Computer Systems Research Group]] がリリースした4.3BSDから、Networking/2、および[[386BSD]]を介して派生したものである。NetBSDプロジェクトは、386BSDの開発者コミュニティ内の開発のペースや方向性に対する不満から始まった。四人のNetBSDプロジェクトの創始者Chris Demetriou、[[テオ・デ・ラート]]、Adam Glass、Charles Hannumは、移植性、きれいで正確なコードを軸とした開かれた開発モデルがプロジェクトに有益であると感じていた。彼らの目的は、統一された、マルチプラットフォームの、製品レベルの品質を持ったBSDベースのオペレーティングシステムを作り出すことであった。"NetBSD"の名称は[[インターネット]]などの当時の急速に発展していたネットワークの重要性と、開発が分散した環境で共同で行われるというプロジェクトの性質からラートが提案したものである。
NetBSDのソースコードリポジトリは1993年3月21日に設立され、最初の公式リリースNetBSD 0.8は1993年4月に行われた。このときのコードは386BSD 0.1に<ref>{{Cite book|和書
| author= GLYN MOODY 著、小山祐司監訳
| title= ソースコードの反逆
| year=2002
| date=2002-6-11
|page=103
|publisher=[[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]|isbn =4-7561-4100-5 }}</ref>バージョン0.2.2の非公式のパッチをあて、386BSDに不足していたいくつかのプログラムをNet/2リリースから再統合し、そのほかいくつかの改良が含まれていた。最初のマルチプラットフォームのリリースNetBSD 1.0は1994年10月に行われた。同年暮れ、創設者の一人テオ・デ・ラートがプロジェクトから追われることとなった。彼は1995年の終わりごろ、NetBSD 1.0のコードからフォークした新しいプロジェクト[[OpenBSD]]を立ち上げた。1998年、NetBSD 1.3で[[pkgsrc]]パッケージコレクションが導入された。
== 対称マルチプロセッシング ==
NetBSDは[[対称型マルチプロセッシング]](SMP)を2004年リリースのNetBSD 2.0よりサポートしており<ref>{{cite web|url=http://www.netbsd.org/changes/2004.html#netbsd-2.0|title=NetBSD 2.0 release notes|accessdate=2009-07-25}}</ref>、初期の実装は[[ジャイアントロック]]を用いた方法であった。NetBSD 5のリリースに向けた開発サイクルで、SMPのサポートを改善する主要な作業が完了した。カーネルサブシステムの大半の部分がマルチプロセッサでも安全になり、[[fine-grained locking|細粒度]]のロックを用いるよう修正された。新しい[[同期 (計算機科学)|同期機構]]が導入され、2007年2月に[[Scheduler activations]]が[[スレッド (コンピュータ)|1:1スレッドモデル]]に置き換えられた<ref>{{Cite web|url=http://www.netbsd.org/changes/changes-5.0.html#newlock2|title=Significant changes from NetBSD 4.0 to 5.0|accessdate=2009-07-25}}</ref>。スケーラブルなM2スレッドスケジューラが実装されたが、4.4 BSDのスケジューラがデフォルトで使用されている(これもSMPでスケールするよう変更された)。同期化の性能を向上させるため、スレッド化された[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]が実装された。[[仮想記憶|仮想メモリ]]システム、[[メモリ割り当て]]、[[例外ハンドリング]]がマルチプロセッサでも安全になり、[[仮想ファイルシステム]]および主要な[[ファイルシステム]]を含むファイルシステムフレームワークもマルチプロセッサ対応になった。2008年4月以降、ジャイアントロックで動作しているのは[[ネットワークプロトコル]]と大半の[[デバイスドライバ]]のみとなっている。
== バージョンについて ==
=== 最新のバージョン ===
2022年8月4日現在、NetBSD の最新リリース版は9.3である。
{| class="wikitable"
|+これまでのリリース
! colspan="2" |年月日
!'''バージョン'''
!
|-
| rowspan="2" |1993年
|4月20日
|0.8
|
|-
|8月23日
|0.9
|
|-
|1994年
|10月26日
|1.0
|-
|1995年
|11月26日
|1.1
|
|-
|1996年
|10月4日
|1.2
|
|-
|1997年
|5月20日
|1.2.1
|
|-
| rowspan="4" |1998年
|1月4日
|1.3
|
|-
|3月9日
|1.3.1
|
|-
|5月29日
|1.3.2
|
|-
|12月23日
|1.3.3
|
|-
| rowspan="2" |1999年
|5月12日
|1.4
|
|-
|8月26日
|1.4.1
|
|-
| rowspan="3" |2000年
|3月19日
|1.4.2
|
|-
|11月25日
|1.4.3
|
|-
|12月6日
|1.5
|
|-
| rowspan="2" |2001年
|7月11日
|1.5.1
|
|-
|9月13日
|1.5.2
|
|-
| rowspan="2" |2002年
|7月22日
|1.5.3
|
|-
|9月14日
|1.6
|
|-
|2003年
|4月21日
|1.6.1
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|3月1日
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|12月9日
|2.0
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|2.0.2
|2.0.1はサーバトラブルのためリリースされなかった
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|10月31日
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|11月2日
|2.1
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|12月23日
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|11月19日
|5.1
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|5.1.1はリリースされなかった<ref>{{cite web|url=http://mail-index.netbsd.org/netbsd-users/2012/01/28/msg009951.html|title=Re: NetBSD 5.1.1 released and no announcement?|accessdate=2012-02-11}}</ref>
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|6.0
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|
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|
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|2019年
|5月31日
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|2021年
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|2022年
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== 対応機種 ==
=== ポート ===
{{columns-list|colwidth=20em|
* acorn26
* acorn32
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* zaurus
}}
== 関連プロジェクト ==
=== pkgsrc ===
{{main|pkgsrc}}
NetBSDには、独自の[[サードパーティー]]ソフトウェア集、NetBSD Packages Collection (別名[[pkgsrc]])がある。[[2009年]]7月現在、8,000を超えるパッケージが用意されている。
[[GNOME]]、[[KDE]]、[[Apache HTTP Server]]や[[Perl]]等をインストールするには、適切なディレクトリに移動して"make install"とタイプするだけである。こうすると、ソースの取り寄せ、展開、configure、構築や、後で削除可能な形でのパッケージのインストールを自動的に行ってくれる。このようなコンパイルを行うかわりに、あらかじめ構築されたバイナリパッケージを使うこともできる。どちらを使うにせよ、事前準備や依存するパッケージのインストールは、パッケージシステムによりすべて自動で行われ、手動での調整は必要ない。
移植性の教義に従い、NetBSD Packages Collection (pkgsrc)は、[[Linux]]、FreeBSD、OpenBSD、[[Solaris]]、[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]/[[macOS]]、[[IRIX]]、[[Interix]] (Windows Services for UNIX) など、NetBSD以外の多くのオペレーティングシステムに移植されている。
[[DragonFly BSD]]では標準のパッケージシステムをpkgsrcに変更した。
=== Lumina ===
{{main|Lumina}}
[[Berkeley Software Distribution|BSD]]([[BSDの子孫]])向けに開発された軽量[[デスクトップ環境]]で、NetBSDでも利用可能。
== 使用例 ==
[[ファイル:ISS on 20 August 2001.jpg|thumb|NetBSDは[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]による[[国際宇宙ステーション]]の微小重力を調査するプロジェクトで使用され、また[[人工衛星]]ネットワークにおける[[Transmission Control Protocol|TCP]]の利用に関する研究にも使用された]]
NetBSD のきれいな設計、高い性能とスケーラビリティ、幅広いアーキテクチャのサポートは組み込み機器やサーバー、特にネットワークや工業用途に適している。
商用の[[リアルタイムオペレーティングシステム]][[QNX]]は、NetBSDのコードから派生したネットワークスタックを使用しており<ref>{{cite web|url=http://community.qnx.com/sf/docman/do/downloadDocument/projects.networking/docman.root/doc1280|title=Core Networking 6.4: Neutrino's Next Gen Networking Stack and Foundry27|accessdate=2009-07-25}}</ref>、デバイスドライバも NetBSD から多数ポートされている<ref>{{cite web|url=http://community.qnx.com/sf/wiki/do/viewPage/projects.networking/wiki/Drivers_wiki_page|title=Foundry27: Project Networking - Driver wiki page|accessdate=2009-07-25}}</ref>。
[[フォーステンネットワークス]]はNetBSDを高スケーラビリティのルーターで用いられるFTOS(Force10 Operating System)の基盤OSとして使用している<ref>{{cite press release|url=http://www.force10networks.com/news/pressreleases/2007/pr-2007-02-13.asp|title=Force10 Networks uses NetBSD to build software scalability into operating system}}</ref>。フォーステンはまた2007年、NetBSD財団の更なる発展とオープンな開発コミュニティを助けるため寄付を行っている<ref>{{cite press release|url=http://www.force10networks.com/news/pressreleases/2008/pr-2008-01-28b.asp|title=Force10 Networks introduces unified operating system across product portfolio to lower total cost of owning and operating networks}} </ref>。
[[Wasabi Systems]]は、組み込みのサーバーやストレージ機器への応用に焦点を置いてNetBSDに商用のエンタープライズ向けの機能拡張を行ったWasabi Certified BSDを提供している<ref>{{cite web|url=http://www.wasabisystems.com/docs/WasabiCertifiedBSD.pdf|title=Wasabi Certified BSD|accessdate=2009-07-25}}</ref>。
NetBSDは[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]による[[国際宇宙ステーション]]の微小重力を調査するプロジェクトで使用され、また[[人工衛星]]ネットワークにおける[[Transmission Control Protocol|TCP]]の利用に関する研究にも使用された<ref>{{cite web|url=http://roland.grc.nasa.gov/~jgriner/papers/nash98.pdf|title=HTTP Page Transfer Rates over Geo-Stationary Satellite Links|accessdate=2009-07-25}}</ref>。
2004年には、[[SUNET]]がNetBSDを用いて[[Internet2]]の地上における最高速記録を樹立している。このときNetBSDが選定された理由は「TCPコードのスケーラビリティ」である<ref>{{cite web|url=http://proj.sunet.se/LSR2/|title=SUNET Internet2 Land Speed Record: 69.073 Pbmps|accessdate=2009-07-25}} </ref>。
[[T-Mobile Sidekick]] LX 2009[[スマートフォン]]のオペレーティングシステムはNetBSDを元にしたものである<ref name="sidekick">{{cite web|url=http://www.hiptop3.com/archives/sidekick-lx-2009-blade-will-run-netbsd/|title=Sidekick LX 2009 / Blade Will Run NetBSD|date=2009-01-30|work=www.hiptop3.com|accessdate=2009-02-05}}</ref>。
[[インターネットイニシアティブ]](IIJ)が自社開発するルータ「[[SEIL]]」シリーズは、[[2000年]]の「SEIL T1」以降NetBSDをベースOSに採用している<ref>[https://www.seil.jp/history.html SEILシリーズの歩み]</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}}
{{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}}
*[[BSDの子孫]]
*[[DragonFly BSD]]
*[[FreeBSD]]
*[[OpenBSD]]
*[[macOS]]
== 外部リンク ==
* {{Official website|https://www.netbsd.org}}
* [http://www.jp.NetBSD.org/ja/JP/ 日本NetBSDユーザーグループ] (Japan NetBSD Users' Group, JNUG)
{{Unix-like}}
{{NetBSD}}
{{デフォルトソート:NetBSD}}
[[Category:NetBSD|*]]
[[Category:BSD]]
[[Category:オープンソースソフトウェア]]
[[Category:1993年のソフトウェア]]
|
2003-07-29T09:22:33Z
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2023-09-29T00:32:00Z
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国際サッカー連盟
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国際サッカー連盟(こくさいサッカーれんめい、フランス語: Fédération internationale de football association, 英語: International Association Football Federation)、FIFA(フィファ [ˈfiːfə])は、サッカーの国際競技連盟であり、スイスの法律に基づいた自立法人である。本部はスイスのチューリッヒに置かれている。
2018年時点で全211の国内競技連盟が加盟し、国際競技連盟としては世界最大である。FIFAワールドカップの主催が、もっとも大きな任務となっている。
FIFAの傘下には、以下の6つの大陸競技連盟がある。
各国のサッカー協会は、FIFAと大陸競技連盟両方ともそれぞれに直接加盟している。 したがって、FIFA加盟が認められず、大陸競技連盟だけに加盟しているサッカー協会は、FIFAの大会には参加できず(その場合は大陸連盟主催の大会のみ出場できる)、そのサッカー協会が行う試合は、国際Aマッチなどの国際試合としてはFIFAには公認されない。
UEFAに所属するイギリスの本土4協会(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの各協会)は、競技としてのサッカーの成立過程およびFIFAへの加盟に関わる歴史的背景から、特権的な地位が与えられている。たとえば、FIFA副会長(定数7)の1席がこの4協会のいずれかに保証されており、本土4協会のすべてが役員選で落ちることはあり得ない。また、サッカーのルールや重要事項に関しては、FIFAとこのイギリス本土4協会で構成する国際サッカー評議会が決定することになっている。
1904年5月21日、フランスの首都パリで、フランス、オランダ、スイス、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、スペインの7か国(実際にはスウェーデンとスペインは会議に出ることができず、デンマークとフランスが代理を務めた)が集まり、世界のサッカー統括組織設立の会議を開催した。同年5月23日までの3日間で組織名を「国際サッカー連盟(略称:FIFA)」と決定した。わずか28名のFIFA総会(FIFA Congress)は、フランスのスポーツ統括団体USFSA(Union des Sociétés Françaises de Sports Athlétiques)のフットボール委員会幹事(フランス体育連盟書記長)のロベール・ゲラン(フランス人)を初代FIFA会長に選出した。このときゲランは28歳であった。
任期はわずか2年だったが、その間に、英国本土4協会(地域協会認可の経緯の項で後述)、ドイツ、オーストリア、イタリア、ハンガリーの合わせて8つの国と地域の協会が、FIFA設立翌年の1905年に加盟した。欧州以外では第2代FIFA会長ダニエル・ウールフォール(イギリス人。イングランドサッカー協会会長も兼務)時代に、南アフリカが1909年に加盟したのが最初である。
誕生したばかりのFIFAには実行力も資金もなく、パリの中心街のビルの一室で運営していた。1921年に第3代FIFA会長に就任したフランス人のジュール・リメは、同じくフランス人の側近のアンリ・ドロネー事務総長(General secretary)とともに、就任直後からサッカー単独の世界大会実現のために尽力した。しかし当時、第一次世界大戦後の経済的混乱、大陸間の移動手段は当時は船(欧州から南米まで、船で片道だけで2週間)、そして世界大会はオリンピック(五輪)がすでに存在していることを理由に、各国はサッカー単独の世界大会開催を渋っていた。
そんな状況の中、ウルグアイが、1924年パリ五輪、1928年アムステルダム五輪とオリンピック連覇を成し遂げた。そこでリメらは、「ウルグアイの五輪連覇は、アマチュアしか出られない世界大会だからという各国、特に欧州のプライドをくすぐる作戦」に出て、「アマチュアだけの五輪(当時。プロ参加許可は1984年ロサンゼルス五輪から)には、プロフェッショナル化した各国は優れた選手を送り込めない。アマ、プロの関係なく、真の世界王者を決める大会の開催を」と各国に何度も訴え、ついに、1930年7月13日から7月30日にかけて、第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会(以下、ワールドカップはW杯の略称で記述)を開催し、サッカー単独の世界大会を実現した。最終的にウルグアイW杯は、計59万549人(実際のスタジアム入場数)の大観衆を集め、25万ドル(当時の日本円で50万6,250円。2016年では9億7,036万577円にあたる)以上の収益を得た。以降、FIFAは資金難から開放され、FIFA本部をスイスのチューリッヒに移し、フルタイムの職員を雇い、運営されるようになった。
2014年ブラジルW杯では、大会観客動員(実際のスタジアム入場数)計338万6,810人の大観衆を集め、開催年の2014年単年のFIFA収入は13億4,600万ポンド(約2,554億円)で、収入から支出を差し引いた利益は9,100万ポンド(約173億円)に上った。2014年ブラジルW杯開催年までの4年間(2011 - 2014年)の収入は7,075億円(内訳:W杯放映権料3,004億円、W杯スポンサー料1,955億円、大会開催関連収入1,397億円、金融収益など収入719億円)であった。このように、今でもワールドカップおよびその関連収入を最大の収入源として、巨額の資金を得て、FIFAは2018年時点で加盟協会211の世界最大のスポーツ組織となった。
FIFAは加盟協会を増やしていった。2016年5月13日のFIFA総会では、210番目の加盟としてコソボサッカー連盟(FFK)、211番目の加盟としてジブラルタルサッカー協会(GFA)が認可され、2018年3月13日時点で、世界で211協会が加盟している。主権を持った独立国だけでなく、地域ごとの加盟(たとえば中国の特別行政区である香港とマカオや、中華民国(台湾)、イギリス(以下、略称英)を構成するイングランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズはそれぞれ別々にFIFAに加盟している)が認められるため(地域協会認可の経緯の項で後述)、国際連合加盟国の193か国を上回る。日本サッカー協会は1929年に加盟。
FIFAワールドカップの招致活動を目的とした資金工作(2015年までW杯開催地投票は、FIFA理事会(のちのFIFA評議会)のFIFA理事24名(決選投票時FIFA会長投票1票)の投票)やFIFA会長選での金銭のやり取りが問題となり、2015年FIFA汚職事件として立件された。2015年9月には200万スイスフランの不正な支出があったとして、当時の会長ゼップ・ブラッターにまで捜査がおよんだ。
その後、2015年FIFA汚職事件を受け、2016年2月26日の2016年FIFA臨時総会で承認した2016年FIFA改革案を組み込んだFIFA Statutes(FIFA規則・FIFA定款)2016年版が、同年4月27日に施行された。FIFA会長やFIFA各役員の任期制限(最大でも3期12年まで。以前は無制限)や、FIFA会長・各役員の個人報酬の毎年の開示(以前は非公開)、そして、「政治」と管理機能の明確な分離を狙い、戦略的機能と監督機能、執行機能、運営機能、管理機能を明確に細かく分離した組織再編を行った(会長および組織の項で後述)。
2016年10月13日に、「未来へのビジョン」という新しく策定された中長期の活動指針を明らかにし、今後10年間、40億ドル以上を出して加盟している211のサッカー協会に分配を行う(FIFAフォワードプログラムの項で後述)。女子サッカーに関しては2026年までに選手の数を6,000万人に増加させるという目標を掲げた。
2020年4月24日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック(世界的流行)による危機への全加盟協会(2020年6月10日時点211協会)への支援として、2019 - 20年期に全加盟協会へ分配するはずだった2年分の運転資金を数日以内に全加盟協会へ全額分配支給すると発表した。総額で約1億5千万ドル(約161億円)に上る。また、FIFAフォワードプログラム(第2段階)からの分配金も、全額前倒しで全加盟協会にすぐに分配する(当初は分割して分配で、2回目の分配が7月の予定だった)。これにより、各協会に50万ドル(約5368万円)が支給されることになるが、その資金の運用は、FIFAフォワードプログラム(第2段階)規則に則り、監査と報告の対象となる。
FIFAは当初、1国1協会(=1代表)を原則としていたが、次のような経緯で地域の協会も認可するようになった。FIFA創設の翌年、1905年にイングランドが参加するまでは、「近代サッカーの母国(The home of Football:FIFA公式呼称)」としての優位性と、イギリス以外の国家との格段の実力差を主張したイギリス帝国は、FIFAに参加しなかった。
サッカーの母国としての優位性とは、世界に先駆けて次の活動を行っていたことである。近代サッカーは1863年のイングランドサッカー協会(FA)とロンドンの12クラブによる統一ルール作成により誕生し、英国本土に広がり、大英帝国の船員・鉄道技術者・水兵たちなどによって世界中に広がった。
さらに1882年、英本土4協会は国際大会を開くために統一ルールを作る団体、国際サッカー評議会を組織した。翌年の1883年から英本土4協会が参加するブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ(当初はホーム・インターナショナル・チャンピオンシップ(ホーム国際選手権))と呼ばれる世界初のサッカー単独の国際大会を毎年開催することになった。このように、英本土4協会はFIFA設立以前からそれぞれが独自に活動していた。イギリス以外の国家との格段の実力差とは、当時すでにプロリーグがあったイングランドのアマチュアチームが、オランダやフランスに遠征しても、相手チームに対し二桁の得点を挙げるほどの実力差のことである。
したがってイギリスには、英本土4協会以外の国と国際試合を行う必要性はないので、他国との国際試合を行うために、FIFAのような組織に参加する必要はないという主張であった。もともと、サッカー単独の世界選手権大会(のちのFIFAワールドカップ)を開催することが目的の一つだったFIFAは、サッカーの国際ルールを制定した近代サッカーの母国であり、自他ともに認める当時のサッカー最強の国イギリスをFIFAに加盟させるために、イギリス協会として包括的にではなく、英本土4協会を個別に承認した。実際に英本土4協会のFIFA加盟が決まると、すぐに翌年1906年のサッカー単独の第1回世界選手権大会開催を決めた。しかし、当時は交通機関が未発達な状況で、経費負担も含めて代表チーム編成も困難な国家が多かったため、参加国が集まらず失敗し、ロベール・ゲラン初代FIFA会長は責任を取って辞任した。
以降、FIFAは一定の自治が行われている地域の協会も認可している。イギリスは本土4協会のほかに海外領土のモントセラト・イギリス領ヴァージン諸島・ケイマン諸島・タークス・カイコス諸島・バミューダ諸島・アンギラ・ジブラルタル、デンマークは海外領土のフェロー諸島、オランダは海外領土のキュラソー島・アルバ、イスラエル国内のパレスチナ自治区、中国は香港と澳門、アメリカ合衆国は海外領土のグアム・アメリカ領サモア・プエルトリコ・アメリカ領ヴァージン諸島など、このようにFIFAから認可されている地域の協会は、イギリスだけではない。また中華民国(台湾)は、チャイニーズ・タイペイ(中華台北)サッカー協会として加盟している。
FIFA会長は組織の最高の職位であり、FIFAを代表し、FIFA総会、FIFA評議会(FIFA Council)および緊急委員会の会合、そのほかFIFA会長が議長に任命された委員会を統括する。 FIFA評議会のほかのメンバーと同様、会長には投票権があり、投票が同数だった場合などにFIFA会長が決定投票を行う。会長は、FIFAの各規則に則った権限と責任を持つ。任期は4年である。再選も可能だが、2016年2月26日の2016年FIFA臨時総会で承認された2016年FIFA改革案を組み込んだFIFA Statutes(FIFA規則・FIFA定款。2016年4月27日施行)2016年版により、最大でも3期12年までに任期が制限された。以前は無制限であった。また、FIFA Statutes2016年版によりFIFA会長、全FIFA評議会(旧FIFA理事会)メンバー、事務総長(General secretary)および独立した3つの常設司法委員会の関連議長の年1回の個人報酬の開示が義務づけられた。2015年まで報酬は非公開であった。2014年には、FIFA最高幹部13名に計2,610万ドル(約32億円)の報酬が支払われたと報じられている(2015年FIFA汚職事件で、全員FIFAを辞任している)。開示されたジャンニ・インファンティーノFIFA会長(辞任したブラッターの次のFIFA会長)の2017年度の給料は、153万スイスフラン(約1億7,000万円)である。
FIFA会長は、4年に1回、会長選挙によって選ばれる。FIFA会長立候補者(以下、立候補者)は、会長選挙を行うFIFA総会(以下、会長選挙総会)の4か月前まで(=立候補締め切り)、FIFA加盟全サッカー協会(以下、加盟全協会。2018年時点で全211協会)のうち5協会からの推薦を得たうえで、それら各協会に立候補者を推薦する旨を書面で事務局に提出してもらう必要がある。立候補締め切り前までに先述の手続きを完了した立候補者のみを審査委員会(Review Committee)が身辺調査し(立候補前過去5年中2年の選手、FIFA内部関係者、大陸連盟関係者、協会関係者などの活動の有無および活動内容等の調査)、問題がなければ立候補を受け付ける(以下、立候補受付が済んだ立候補者を会長候補者と記述)。受付後、会長選挙総会の1か月前までに、加盟全協会に会長候補者を通知する。その後、会長選挙総会で加盟全協会が投票を行う。なお、サッカーの強さや規模、影響力に関係なく、投じられるのは1協会につき1票のみである。協会所属の代表者本人のみに投票権があり、代理人および手紙による投票はできない。またFIFA理事は、任期中は協会の代表者にはなれない。会長選挙は秘密投票で行われ、投票用紙を投票もしくは電子投票で投票することができる。大多数が投票用紙での投票を支持している場合は、投票用紙で行い、加盟協会は英語のアルファベット順に呼ばれる。2015年現在、会長選挙の投票は投票用紙で行われている。初回の投票では、3分の2以上の票を得た最多得票者1名がFIFA会長となる。最多得票者が3分の2以上の票を得なかった場合、会長候補者が3人以上いれば最少得票者を除いて再投票を行う。会長候補者が2人の場合は、そのまま再投票を行う。再投票で、半数を超えた最多得票者1名がFIFA会長になる。半数を超えなかった場合、この時点で会長候補者3人以上残っていれば、最少得票者を除いて再投票を行う。会長候補者が2人の場合はそのまま再投票を行う。以後、半数超えの最多得票者1名が出るまで同様の手順を繰り返し行う。
FIFA公式HPの歴代FIFA会長のページも参照。
2015年FIFA汚職事件を受け、2016年2月26日の2016年FIFA臨時総会で承認した2016年FIFA改革案を組み込んだFIFA Statutes(FIFA規則・定款。2016年4月27日施行)2016年版により、三権分立の原則を踏まえたうえで、「政治」と管理機能の明確な分離を狙い、戦略的機能と監督機能、執行機能、運営機能、管理機能を明確に細かく分離した組織再編を行った。 FIFAの最高機関で立法機関のFIFA総会、 戦略的・監督的な機関のFIFA評議会、FIFAの執行機関、運営主体、行政機関の事務局が置かれている。また、 FIFA評議会と事務局の職務遂行を助言し、支援する9つの常任委員会、独立した任務をFIFAから完全に独立して行うが、常にFIFAの利益のために、またFIFA定款およびFIFAの各規則に従って行う4つの独立委員会がある。独立委員会のうちの不服申立委員会、懲戒委員会、倫理委員会の3つは、FIFAの司法機関であり、残り1つは監査およびコンプライアンス委員会である。
以下の記述は、FIFA Statutes2016年版に基づく。また、FIFA公式HPの記事「How FIFA Works」も参照のこと。
FIFA総会(以下、総会)は、全FIFA加盟協会(以下、全加盟協会。2018年時点で211協会)で構成されるFIFAの最高機関で、FIFA唯一の立法機関である。加盟協会は、規模やサッカーの強さに関係なく1票のみ持つ。その協会所属の代表者本人のみに投票権があり、代理人および手紙による投票はできない。また、FIFA理事は、任期中は協会の代表者にはなれない。総会の公用語は、英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語、ポルトガル語である。FIFA誕生時から、第一次世界大戦時の中断を除いて毎年開催されていたが、1932年第21回スウェーデン首都ストックホルム総会から2年に1回の開催となった。第二次世界大戦時の中断後も2年に1回開催のままだったが、多くの問題に関して決定する事項が増えたため、1998年以来、毎年臨時総会が開催されるようになった。そして、2004年のパリ総会から毎年の定期総会が導入された。FIFA総会は、FIFAの定款および各規則を実施適用される方法に関する決定を下す。必要があれば、定款および各規則の改正を行う。また、年次報告書を承認し、新加盟協会の協議の受諾を決定、FIFA会長選挙などの選挙やW杯開催国決定投票を実施する。
FIFAワールドカップ開催国決定は、初期から1974年W杯・1978年W杯・1982年W杯3大会同時開催国決定まではFIFA総会での投票で決定していたが、1986年W杯開催国決定以降、FIFA理事会(のちのFIFA評議会)のFIFA理事投票で決定する方式に変更されていた。その後、2010年12月2日の2018年及び2022年W杯開催国投票まで、FIFA理事会のわずか24名のFIFA理事の投票(会長は同数の場合のみ1票投じる)で決まる方式だったため、買収工作も容易だった(2015年FIFA汚職事件参照のこと)との反省から、2018年6月13日の2026年W杯開催投票からFIFA総会(FIFA Congress)での開催立候補国を除く全加盟協会での投票方式に再び変更された(FIFA Statutes2016年版P28の28 Ordinary Congress agendaの2.のs )。また、従来の不透明なW杯招致手順を明確化し、各段階で審査プロセス等を公式発表していくとした。2017年11月7日、2026年W杯招致手引書を発表し、開催立候補国のコンプライアンスや施設面、人権への配慮、コストや収益などを評価すること、そして評価の比重は、スタジアムが35パーセント、交通が13パーセント、チケット収入・商業収入・コストが各10パーセントなどとした。ワールドカップ招致活動の明確な禁止事項を定め、買収工作や不適切な贈答品、W杯招致に向けたサッカー振興プロジェクトおよび親善試合開催などを禁じた。2017年11月30日の2026年W杯開催立候補国締め切りまでに立候補したカナダ・メキシコ・アメリカ(3か国共同開催)とモロッコ(単独開催)が、2018年3月16日の開催提案書(Bit Book)提出締切日までに開催提案書を提出。カナダ・メキシコ・アメリカの3か国共同開催提案書とモロッコの単独開催提案書を、招致手引書の評価基準のもと評価手順にのっとり評価し、問題ないということで両候補を受け付けた。2018年4月から、FIFA評価タスクフォースが両候補を現地視察し、5月30日、両候補の事業計画のヒアリングおよび質疑応答、31日に両候補のW杯招致委員会のプレゼンを受けたあと、上記の評価基準および評価手順にのっとり2026年ワールドカップ立候補国評価レポートを作成、6月1日に公表した。レポートでは、最低条件を2点に設定して5点満点で評価。両候補ともに合格ラインを超えたものの、3か国共催側は4点、モロッコ側は2.7点であった。さらに、開催経費や入場券販売、警備などを含めた総合評価は3か国共催側が500点満点中の402.8点で、モロッコ側は274.9点であった。大会関連施設およびインフラは、3か国共催側は「すでに運営可能なレベル」で、モロッコ側は「大会関連施設のほとんどが新設で大幅なインフラ整備が必要」と記述された。また大会収益は、3か国共催側は「143億ドル(約1兆5,662億円)」で、モロッコ側は「72億ドル(約7,900億円)」が見込まれるとレポートに記述された。2026年W杯開催国投票は、2018年ロシアW杯開幕戦前日の2018年6月13日のロシア首都モスクワでの第68回FIFA総会で行われる。投票手続きにのっとって、立候補国4か国と資格停止のガーナサッカー協会(2018年6月8日、ニャンタキー同協会会長の汚職事件を受け、同日にガーナ政府が同協会に解散命令を下した。これはFIFAの禁じる「第三者の介入」にあたり、同協会は資格停止となった)を除いた残り206協会での投票となる。「3か国共催」か「モロッコ単独開催」か「該当国なしとして、両候補以外の国で招致活動やり直し」かを投票する。2018年6月13日午前9時(日本時間同日午後3時)から開始された第68回FIFAモスクワ総会は、FIFA公式YouTubeチャンネルFIFATVで生中継された。開催国投票は13番目の議題で、実際の投票は両候補のプレゼン後、午後1時50分(日本時間同日午後7時50分)から電子投票で行われ、立候補国4か国と欠席した3協会(グアム、プエルトリコ、アメリカ領ヴァージン諸島)、棄権した3協会(キューバ、スロベニア、スペイン)、先述のとおり資格停止のガーナの計11協会を除く200協会が投票し、「3か国共催」に134票(有効投票数の67パーセント)、「モロッコ単独開催」に65票(33パーセント)、「該当国なしで招致活動やり直し」に1票(イラン)で、3か国共催(カナダ・メキシコ・アメリカ)が決定した。投票の内訳も同日、FIFA公式HPで公開された。48か国出場となることも確認された。
FIFA評議会は、FIFAの戦略的かつ監督的な機関である。選手(男女のサッカー、フットサル、ビーチサッカー)のステータスおよび移籍、これらに関する問題を扱い、特にクラブでの練習奨励と代表チームの保護に関しては、随時特別規則の形で解決していく。FIFA評議会構成メンバーは、総会で選出されたFIFA会長1名、FIFA副会長8名、6つの大陸連盟(地域連盟)それぞれで選出された計28名で、全37名である。各大陸連盟は、それぞれ1人以上は女性をFIFA評議会メンバーに選出しなければならない。どのメンバーも任期は4年で、再任は可能だが、最大でも3期12年までである(任期が連続していなくても、通算して最大3期12年まで)。2015年以前の旧FIFA理事会時代は任期無制限で、W杯開催国決定も理事会のみで行っていた。
事務局は、FIFA評議会(以下、評議会)の監督下にあるFIFAの執行機関であり、運営主体および行政機関である。事務総長の下で、競技会および関連するすべての事項について評議会の決定と指示通りに行い、すべての商業契約の交渉、執行および履行を評議会の方針・手順に従って行う。また、常任委員会のための行政支援を行う。特にサッカー開発奨励金の授与(FIFAサッカー発展プロジェクトの項で後述)に関しての行政支援を行う。評議会が設定した範囲で、財務委員会(Finance Committee)が立てた予算によりFIFAの業務と日常業務の管理を行う。その他、評議会が要求し、承認したFIFAの組織に対し、効率的な運営に必要なその他の行政上の事項について行う。ただし先述したとおり、事務局は評議会の監督下にあり、必要があれば評議会が事務局の権限を取り上げることができる。
常任委員会は9つあり、FIFA評議会と事務局の職務遂行を助言し支援する。
独立委員会は4つあり、FIFA評議会と事務局の職務遂行を助言し支援する。FIFAから完全に独立した立場で任務を行うが、常にFIFAの利益のために、またFIFA定款およびFIFAの各規則に従って行う。独立委員会のうちの3つはFIFAの司法機関である懲戒委員会、不服申立委員会、倫理委員会である。
2006年に「FIFAコンフェデレーションズカップ」を除く世界大会の名称が「FIFAワールドカップ」に統一された。
A代表(年齢制限のないその国最強の代表)のランキングであるFIFAランキングを発表している。これまでに3度の制度改正を経ており、主観的要素を完全に排した国際Aマッチ(A代表同士の公式国際試合)の結果のみに基づいて編まれるランキングとしては公平なものになっている。外国人選手も所属できるクラブチームとは異なり、ナショナルチームは同じ国籍の選手のみのチームであるため、FIFAランキングはその国のサッカーの強さを示す「目安」となっている。2018 FIFAワールドカップ後の2018年8月16日発表(当初予定の7月19日は発表なしとなった)のFIFAランキングから4度目の変更(2018年方式)となり、これまでの2006年方式の過去4年間のAマッチという縛りがなくなるほか、年間平均ポイント計算がなくなり、加算方式に変更される。
FIFAワールドカップの各大陸予選においては、実力差が極めて大きい対戦を避けるため予備予選を行うことがあり、その振り分けに使われたり(たとえば、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選ではFIFAランキングのアジア上位25チームが1次予選免除)、AFCアジアカップなどの各地域連盟主催の各大陸別選手権の予選組み分けや本大会のグループリーグの組み合わせ(ランキングが高いチームがシードなど)に使われたりしている。
また、FIFAワールドカップ本大会においても、グループリーグのシード国決定に用いられる。2006年ドイツ大会までは過去から現在までのFIFAランキングと過去のワールドカップ本大会の成績を元にシード国を決めていた(ドイツ大会では過去3年間のFIFAランキングとワールドカップ本大会過去2大会の成績を元に計算)が、2010年南アフリカ大会ではグループリーグ抽選会前のFIFAランキング(2009年10月のFIFAランキング)のみでシード国を決定した。以降のワールドカップも、本大会前年12月のグループリーグ抽選会前の10月のFIFAランキングのみでシード国を決定している。
このように、年々、FIFAランキングの重要性は増してきている。
女子の場合、男子と同様にFIFA女子ランキングがあり、こちらも各国の女子のA代表チームのランキングであり、女子の国際Aマッチの結果のみで計算される。公表は年4回であり、FIFAが初めて公認した女子代表の国際試合(フランス女子代表対オランダ女子代表:1971年4月17日)以降の全試合を集計の対象とする(男子は直近4年間のみを対象)など男子と異なる点がある。
2022年4月にローインチされたFIFA+ はOTTサービス。過去のFIFAワールドカップのアーカイブやオリジナルコンテンツ。さらに年間 40,000試合の生中継。うち女子の試合が11,000 試合である。 開始当初はiOSとAndroid、PC(ブラウザ経由)のみサービスを提供していたが、2023年7月26日よりAmazon Fire TVやAndroid TV(対応テレビも含む)でもアプリの提供が開始された 。
以下の記述は、FIFA公式HPのFIFAフォワードサッカー発展プログラムの記事およびFIFAフォワードサッカー発展プログラム規則の記述に基づく。
FIFAフォワードサッカー発展プログラム(以下、FIFAフォワードプログラム)とは、2016年5月9日のメキシコ首都メキシコシティでの第66回FIFA総会で決定した、FIFA加盟全サッカー協会および全6地域連盟対象のステップアップ財政支援プログラムである。4年で1サイクルで、160万ドルから500万ドルに増額する。各サッカー協会は、年間75万ドルをピッチなどの施設の整備、女子サッカーの発展などのサッカープロジェクトに費やすことができる。また各協会は、年間50万ドルの経費を受け取る。各地域連盟へは4年間の1サイクルで、2,200万ドルから4,000万ドルに増額させる。また、女子サッカーや各年代別代表の世界大会の旅費が必要な協会には、最高100万ドルの特別手当を支給する。男女とも年代別地域大会主催協会に、年間100万ドル払い戻す。
さらに、事務総長(General secretary、JFAは専務理事)を採用する、技術委員を採用する、男女リーグ、男女のユースリーグ、女子サッカーの普及および宣伝活動、草の根サッカー推進と開発戦略、審判の推進と開発戦略等全10項目の基準を満たす協会(少なくとも2つは女子サッカーを重視すること)は、基本年間10万ドルに加え、毎年5万ドルの追加資金、最大で毎年40万ドルの追加資金を得ることができる。
これらの資金を各協会および各地域連盟が正しく運営するために、FIFAは監督機能も強化している。
先述の通り、2016年から開始されたFIFA加盟全協会(2018年時点で全211協会)に対する財政支援プログラムのため、下記はその一例である。
以下の記述は、FIFA公式HPのFIFAゴールプロジェクト説明の記事の記述に基づく。 1999年から2015年までに実施されたFIFAゴールプロジェクトは、インフラ整備、組織体制作り、教育(指導者・審判・スポーツ医学など)、ユース育成等の国際サッカー連盟(FIFA)の助成制度である。その究極の目標は、権威あるサッカー協会にすることである。ゼップ・ブラッター第8代FIFA会長が提案し、1999年7月9日にロサンゼルスで開催されたFIFA臨時総会で批准された。FIFAゴールビューローが、全サッカー協会からゴールプロジェクトの対象協会を選び、その協会に合わせた助成を行う。 FIFAゴールビューローは、FIFA技術委員会から選ばれた6名のメンバーで構成される。
各サッカー協会の優先順位に応じて、ゴールプロジェクトは次の分野で支援する。
対象協会との協力関係を強化するため、世界中に開発事務所が設置されている。開発事務所には、高度な資格を持つFIFAの専門家である開発担当役員が配置されている。 各開発事務所は、事務所近接の約15 - 20の各サッカー協会の開発を委任されている。 各開発事務所は各サッカー協会に近いため、協会のニーズをより詳細に分析でき、またプロジェクトの監督および管理が容易になる。
たとえば、インフラ整備で同プロジェクトから助成を受けるには、対象協会がその施設の土地を使用する権利を25年間持つことが条件であった。 1プロジェクトに対し、40万USドル(約4,000万円)まで助成可能で、 1プロジェクト終了後、増築などの目的、2期プロジェクトを申請し許可されれば、再度40万USドルの助成を受けられた。
2007年12月7日時点で、FIFA加盟106協会が助成を受けており、承認済み295プロジェクトのうち、121が進行中だった。この時点で計画段階が31であった。
FIFA主催大会においては、FIFAブランド並びに公式スポンサーの権利の保護を目的として、スタジアムとその周囲に商業制限区域 (Commercial Restriction Areas, CRA) を設け、FIFA及び公式スポンサー以外による大会(及びその観客・関係者)をマーケティングの対象としたアンブッシュマーケティングを排除し、商業制限区域内での商業活動を制限している。
具体的には、商業制限区域内の広告類(施設のネーミング・ライツを含む)や大会に際して開かれる臨時の販売施設等に関しては公式スポンサーのもの以外は原則として排除される(「クリーンな状態」に置かれる)ことになっており、商業制限区域内では屋外広告は原則としてマスキングされるか一時的に取り除かれる。特に命名権に関しては、しばしば「全ての大会で命名権が行使できない」或いは「全ての大会で一時的に正式名称とする」と言及されることがあるが、正しくは「全ての大会で公式スポンサー以外の企業等を想起させる名称としない」というものであり、大会の公式スポンサーであればそのまま命名権名称が存置されることがある。例えば、EAFF E-1サッカー選手権2017で男子決勝ラウンドの会場となった味の素スタジアムは、味の素が大会の公式スポンサーであったため、正式名称の「東京スタジアム」ではなく、命名権名称である「味の素スタジアム」がそのまま用いられた(一方で、同じ大会の女子決勝ラウンドの会場であったフクダ電子アリーナは、正式名称である「千葉市蘇我球技場」が用いられた)。なお、命名権名称を用いた公共施設名についてはこれら規定が適用されないこともあり、例えば味の素スタジアム前交差点は味の素スタジアムを東京スタジアムと呼称する場合でも名称が変更されることはない。
なお、FIFAのこのルールにおいては、商業制限区域内での地元企業による商業活動(バーやレストラン、コンビニエンスストアなど)は「制限されるべきではない(通常通りの営業・看板の掲出ができる)」としている。
2000年に開設された「スポーツに関する組織論、歴史・哲学、法律についての国際修士」のことで、スイスにあるスポーツ教育機関CIES(The International Centre for Sports Studies、スポーツ研究国際センター)と提携してFIFAが運営しているスポーツ学に関する大学院のコースである。10か月の間にイギリス・イタリア・スイスにある3つの大学を回って学習し、幅広くスポーツ界で活躍する人材を養成することを目的として設立された。
入学するには、最初に高校卒業証明書、大学の卒業・成績証明書、英語力証明書(TOEFL(minimum 600 PBT / 250 CBT / 100 IBT points)かCambridge Certificate of ProficiencyかIELTS(minimum level 7.5 in the « Academic Test »)のどれか1つ)、GMAT、スポーツや志望動機などの5つの質問の回答(ショートエッセイ)を英語で300字程度などの必要書類を1月22日頃までに提出する。書類審査で通過した合格者がさらに電話面接などで絞りこまれ、4月中旬に最終合格者(定員25名程度、世界各国から集まるように配慮される)が決まる。最終合格者が授業料25,000スイス・フラン(1フラン110円換算で275万円)を全額支払えば、入学手続き完了となる。毎年、9月に開講する。9 - 12月にHumanities of Sports(スポーツの人文科学)をイギリス・レスターのド・モンフォル大学で、翌年1 - 3月にManagement(経営学)をイタリア・ミラノのボッコーニ大学で、4 - 7月にSport Law(スポーツの法律)をスイスのヌーシャテルのヌーシャテル大学で学び、7月中旬に卒業という流れである。さらに、7月下旬に「ファイナルプロジェクト」というグループ(1グループ3 - 5名)で取り組む卒論発表(プレゼンテーション)があり、1グループ30分で行われ、FIFA、IOC、UEFA、ECA、大学教授などの参加者から質問を受け、その後の会議で論文の内容とプレゼンテーションの出来を踏まえて成績評価される。単なる卒論発表に留まらず、その卒論がきっかけで、さまざまな活動が実現している。FIFAにCSR部門ができたり、イスラエルとパレスチナの子どもたちのサッカーキャンプ交流が実現したりなどしている。
2011年7月21日に行われた日本人を含む5か国のグループの卒論発表がきっかけで、2012年3月22日、FIFAが国際Aマッチデーの代表選手の負傷選手、クラブ、加盟協会に対する補償金を支払う(国際Aマッチデー出場代表選手保険導入)意向を示し、同年5月25日のFIFA総会で同年9月以降の国際Aマッチデーの代表選手保険導入を決めたり、2012年3月22日にUEFAが代表選手保険システム導入(選手の国籍関係なしの欧州全クラブの所属選手の代表戦での負傷保険)を発表するなどしている。
卒業生はFIFAやUEFA、IOC、AFC、各国サッカー協会、CASなどのスポーツ機関、スポーツテレビ局、スポーツマーケティング会社、各国サッカーリーグおよびFCバルセロナなどのサッカークラブなどで活躍している。
また、卒業生の多くがスイスのローザンヌにある20の国際スポーツ連盟や団体、スポーツ関連会社10数社が集まり、世界中のスポーツのルールを決定している国際スポーツハウス(Maison du Sport International、略称MSI)で働いている。また、卒業生はFIFAマスター同窓会協会(FIFA Master Alumni Association、略称FMA)を通じて、世界中に構築されたFIFAマスターのネットワークをビジネスに活用することができる。
FMAはその名の通り、2年に1度、国際的なスポーツの大会に合わせてその国および都市でFIFAマスター同窓会を開催しており(前回はワールドカップ・南アフリカ大会で開催)、2012年はロンドンオリンピックに合わせロンドンで開催された。
2013年7月19日、2012 - 2013年第13期生修了式が行われ、宮本恒靖を含め24か国の生徒が卒業した。日本人は2013年7月19日時点で、通算9名ほどがFIFAマスターを卒業している。元プロサッカー選手の卒業生は2名で、日本人元プロサッカー選手および元日本代表としては宮本恒靖が初めてである。2017年7月14日、2016 - 2017年第17期生修了式が行われ、大滝麻未と一般日本人の女性の2名の日本人女性がFIFAマスターを卒業した。大滝は、日本の元女子サッカー選手および元日本女子代表としては初めてのFIFAマスター卒業であったが、直後の2017年8月に現役復帰した。
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"text": "国際サッカー連盟(こくさいサッカーれんめい、フランス語: Fédération internationale de football association, 英語: International Association Football Federation)、FIFA(フィファ [ˈfiːfə])は、サッカーの国際競技連盟であり、スイスの法律に基づいた自立法人である。本部はスイスのチューリッヒに置かれている。",
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"text": "2018年時点で全211の国内競技連盟が加盟し、国際競技連盟としては世界最大である。FIFAワールドカップの主催が、もっとも大きな任務となっている。",
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"text": "FIFAの傘下には、以下の6つの大陸競技連盟がある。",
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"text": "各国のサッカー協会は、FIFAと大陸競技連盟両方ともそれぞれに直接加盟している。 したがって、FIFA加盟が認められず、大陸競技連盟だけに加盟しているサッカー協会は、FIFAの大会には参加できず(その場合は大陸連盟主催の大会のみ出場できる)、そのサッカー協会が行う試合は、国際Aマッチなどの国際試合としてはFIFAには公認されない。",
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"text": "UEFAに所属するイギリスの本土4協会(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの各協会)は、競技としてのサッカーの成立過程およびFIFAへの加盟に関わる歴史的背景から、特権的な地位が与えられている。たとえば、FIFA副会長(定数7)の1席がこの4協会のいずれかに保証されており、本土4協会のすべてが役員選で落ちることはあり得ない。また、サッカーのルールや重要事項に関しては、FIFAとこのイギリス本土4協会で構成する国際サッカー評議会が決定することになっている。",
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"text": "1904年5月21日、フランスの首都パリで、フランス、オランダ、スイス、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、スペインの7か国(実際にはスウェーデンとスペインは会議に出ることができず、デンマークとフランスが代理を務めた)が集まり、世界のサッカー統括組織設立の会議を開催した。同年5月23日までの3日間で組織名を「国際サッカー連盟(略称:FIFA)」と決定した。わずか28名のFIFA総会(FIFA Congress)は、フランスのスポーツ統括団体USFSA(Union des Sociétés Françaises de Sports Athlétiques)のフットボール委員会幹事(フランス体育連盟書記長)のロベール・ゲラン(フランス人)を初代FIFA会長に選出した。このときゲランは28歳であった。",
"title": "歴史"
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"text": "任期はわずか2年だったが、その間に、英国本土4協会(地域協会認可の経緯の項で後述)、ドイツ、オーストリア、イタリア、ハンガリーの合わせて8つの国と地域の協会が、FIFA設立翌年の1905年に加盟した。欧州以外では第2代FIFA会長ダニエル・ウールフォール(イギリス人。イングランドサッカー協会会長も兼務)時代に、南アフリカが1909年に加盟したのが最初である。",
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"text": "誕生したばかりのFIFAには実行力も資金もなく、パリの中心街のビルの一室で運営していた。1921年に第3代FIFA会長に就任したフランス人のジュール・リメは、同じくフランス人の側近のアンリ・ドロネー事務総長(General secretary)とともに、就任直後からサッカー単独の世界大会実現のために尽力した。しかし当時、第一次世界大戦後の経済的混乱、大陸間の移動手段は当時は船(欧州から南米まで、船で片道だけで2週間)、そして世界大会はオリンピック(五輪)がすでに存在していることを理由に、各国はサッカー単独の世界大会開催を渋っていた。",
"title": "歴史"
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"text": "そんな状況の中、ウルグアイが、1924年パリ五輪、1928年アムステルダム五輪とオリンピック連覇を成し遂げた。そこでリメらは、「ウルグアイの五輪連覇は、アマチュアしか出られない世界大会だからという各国、特に欧州のプライドをくすぐる作戦」に出て、「アマチュアだけの五輪(当時。プロ参加許可は1984年ロサンゼルス五輪から)には、プロフェッショナル化した各国は優れた選手を送り込めない。アマ、プロの関係なく、真の世界王者を決める大会の開催を」と各国に何度も訴え、ついに、1930年7月13日から7月30日にかけて、第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会(以下、ワールドカップはW杯の略称で記述)を開催し、サッカー単独の世界大会を実現した。最終的にウルグアイW杯は、計59万549人(実際のスタジアム入場数)の大観衆を集め、25万ドル(当時の日本円で50万6,250円。2016年では9億7,036万577円にあたる)以上の収益を得た。以降、FIFAは資金難から開放され、FIFA本部をスイスのチューリッヒに移し、フルタイムの職員を雇い、運営されるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "2014年ブラジルW杯では、大会観客動員(実際のスタジアム入場数)計338万6,810人の大観衆を集め、開催年の2014年単年のFIFA収入は13億4,600万ポンド(約2,554億円)で、収入から支出を差し引いた利益は9,100万ポンド(約173億円)に上った。2014年ブラジルW杯開催年までの4年間(2011 - 2014年)の収入は7,075億円(内訳:W杯放映権料3,004億円、W杯スポンサー料1,955億円、大会開催関連収入1,397億円、金融収益など収入719億円)であった。このように、今でもワールドカップおよびその関連収入を最大の収入源として、巨額の資金を得て、FIFAは2018年時点で加盟協会211の世界最大のスポーツ組織となった。",
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"text": "FIFAは加盟協会を増やしていった。2016年5月13日のFIFA総会では、210番目の加盟としてコソボサッカー連盟(FFK)、211番目の加盟としてジブラルタルサッカー協会(GFA)が認可され、2018年3月13日時点で、世界で211協会が加盟している。主権を持った独立国だけでなく、地域ごとの加盟(たとえば中国の特別行政区である香港とマカオや、中華民国(台湾)、イギリス(以下、略称英)を構成するイングランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズはそれぞれ別々にFIFAに加盟している)が認められるため(地域協会認可の経緯の項で後述)、国際連合加盟国の193か国を上回る。日本サッカー協会は1929年に加盟。",
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"text": "FIFAワールドカップの招致活動を目的とした資金工作(2015年までW杯開催地投票は、FIFA理事会(のちのFIFA評議会)のFIFA理事24名(決選投票時FIFA会長投票1票)の投票)やFIFA会長選での金銭のやり取りが問題となり、2015年FIFA汚職事件として立件された。2015年9月には200万スイスフランの不正な支出があったとして、当時の会長ゼップ・ブラッターにまで捜査がおよんだ。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、2015年FIFA汚職事件を受け、2016年2月26日の2016年FIFA臨時総会で承認した2016年FIFA改革案を組み込んだFIFA Statutes(FIFA規則・FIFA定款)2016年版が、同年4月27日に施行された。FIFA会長やFIFA各役員の任期制限(最大でも3期12年まで。以前は無制限)や、FIFA会長・各役員の個人報酬の毎年の開示(以前は非公開)、そして、「政治」と管理機能の明確な分離を狙い、戦略的機能と監督機能、執行機能、運営機能、管理機能を明確に細かく分離した組織再編を行った(会長および組織の項で後述)。",
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"text": "2016年10月13日に、「未来へのビジョン」という新しく策定された中長期の活動指針を明らかにし、今後10年間、40億ドル以上を出して加盟している211のサッカー協会に分配を行う(FIFAフォワードプログラムの項で後述)。女子サッカーに関しては2026年までに選手の数を6,000万人に増加させるという目標を掲げた。",
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"text": "2020年4月24日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック(世界的流行)による危機への全加盟協会(2020年6月10日時点211協会)への支援として、2019 - 20年期に全加盟協会へ分配するはずだった2年分の運転資金を数日以内に全加盟協会へ全額分配支給すると発表した。総額で約1億5千万ドル(約161億円)に上る。また、FIFAフォワードプログラム(第2段階)からの分配金も、全額前倒しで全加盟協会にすぐに分配する(当初は分割して分配で、2回目の分配が7月の予定だった)。これにより、各協会に50万ドル(約5368万円)が支給されることになるが、その資金の運用は、FIFAフォワードプログラム(第2段階)規則に則り、監査と報告の対象となる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "FIFAは当初、1国1協会(=1代表)を原則としていたが、次のような経緯で地域の協会も認可するようになった。FIFA創設の翌年、1905年にイングランドが参加するまでは、「近代サッカーの母国(The home of Football:FIFA公式呼称)」としての優位性と、イギリス以外の国家との格段の実力差を主張したイギリス帝国は、FIFAに参加しなかった。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "サッカーの母国としての優位性とは、世界に先駆けて次の活動を行っていたことである。近代サッカーは1863年のイングランドサッカー協会(FA)とロンドンの12クラブによる統一ルール作成により誕生し、英国本土に広がり、大英帝国の船員・鉄道技術者・水兵たちなどによって世界中に広がった。",
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "さらに1882年、英本土4協会は国際大会を開くために統一ルールを作る団体、国際サッカー評議会を組織した。翌年の1883年から英本土4協会が参加するブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ(当初はホーム・インターナショナル・チャンピオンシップ(ホーム国際選手権))と呼ばれる世界初のサッカー単独の国際大会を毎年開催することになった。このように、英本土4協会はFIFA設立以前からそれぞれが独自に活動していた。イギリス以外の国家との格段の実力差とは、当時すでにプロリーグがあったイングランドのアマチュアチームが、オランダやフランスに遠征しても、相手チームに対し二桁の得点を挙げるほどの実力差のことである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "したがってイギリスには、英本土4協会以外の国と国際試合を行う必要性はないので、他国との国際試合を行うために、FIFAのような組織に参加する必要はないという主張であった。もともと、サッカー単独の世界選手権大会(のちのFIFAワールドカップ)を開催することが目的の一つだったFIFAは、サッカーの国際ルールを制定した近代サッカーの母国であり、自他ともに認める当時のサッカー最強の国イギリスをFIFAに加盟させるために、イギリス協会として包括的にではなく、英本土4協会を個別に承認した。実際に英本土4協会のFIFA加盟が決まると、すぐに翌年1906年のサッカー単独の第1回世界選手権大会開催を決めた。しかし、当時は交通機関が未発達な状況で、経費負担も含めて代表チーム編成も困難な国家が多かったため、参加国が集まらず失敗し、ロベール・ゲラン初代FIFA会長は責任を取って辞任した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "以降、FIFAは一定の自治が行われている地域の協会も認可している。イギリスは本土4協会のほかに海外領土のモントセラト・イギリス領ヴァージン諸島・ケイマン諸島・タークス・カイコス諸島・バミューダ諸島・アンギラ・ジブラルタル、デンマークは海外領土のフェロー諸島、オランダは海外領土のキュラソー島・アルバ、イスラエル国内のパレスチナ自治区、中国は香港と澳門、アメリカ合衆国は海外領土のグアム・アメリカ領サモア・プエルトリコ・アメリカ領ヴァージン諸島など、このようにFIFAから認可されている地域の協会は、イギリスだけではない。また中華民国(台湾)は、チャイニーズ・タイペイ(中華台北)サッカー協会として加盟している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "FIFA会長は組織の最高の職位であり、FIFAを代表し、FIFA総会、FIFA評議会(FIFA Council)および緊急委員会の会合、そのほかFIFA会長が議長に任命された委員会を統括する。 FIFA評議会のほかのメンバーと同様、会長には投票権があり、投票が同数だった場合などにFIFA会長が決定投票を行う。会長は、FIFAの各規則に則った権限と責任を持つ。任期は4年である。再選も可能だが、2016年2月26日の2016年FIFA臨時総会で承認された2016年FIFA改革案を組み込んだFIFA Statutes(FIFA規則・FIFA定款。2016年4月27日施行)2016年版により、最大でも3期12年までに任期が制限された。以前は無制限であった。また、FIFA Statutes2016年版によりFIFA会長、全FIFA評議会(旧FIFA理事会)メンバー、事務総長(General secretary)および独立した3つの常設司法委員会の関連議長の年1回の個人報酬の開示が義務づけられた。2015年まで報酬は非公開であった。2014年には、FIFA最高幹部13名に計2,610万ドル(約32億円)の報酬が支払われたと報じられている(2015年FIFA汚職事件で、全員FIFAを辞任している)。開示されたジャンニ・インファンティーノFIFA会長(辞任したブラッターの次のFIFA会長)の2017年度の給料は、153万スイスフラン(約1億7,000万円)である。",
"title": "会長"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "FIFA会長は、4年に1回、会長選挙によって選ばれる。FIFA会長立候補者(以下、立候補者)は、会長選挙を行うFIFA総会(以下、会長選挙総会)の4か月前まで(=立候補締め切り)、FIFA加盟全サッカー協会(以下、加盟全協会。2018年時点で全211協会)のうち5協会からの推薦を得たうえで、それら各協会に立候補者を推薦する旨を書面で事務局に提出してもらう必要がある。立候補締め切り前までに先述の手続きを完了した立候補者のみを審査委員会(Review Committee)が身辺調査し(立候補前過去5年中2年の選手、FIFA内部関係者、大陸連盟関係者、協会関係者などの活動の有無および活動内容等の調査)、問題がなければ立候補を受け付ける(以下、立候補受付が済んだ立候補者を会長候補者と記述)。受付後、会長選挙総会の1か月前までに、加盟全協会に会長候補者を通知する。その後、会長選挙総会で加盟全協会が投票を行う。なお、サッカーの強さや規模、影響力に関係なく、投じられるのは1協会につき1票のみである。協会所属の代表者本人のみに投票権があり、代理人および手紙による投票はできない。またFIFA理事は、任期中は協会の代表者にはなれない。会長選挙は秘密投票で行われ、投票用紙を投票もしくは電子投票で投票することができる。大多数が投票用紙での投票を支持している場合は、投票用紙で行い、加盟協会は英語のアルファベット順に呼ばれる。2015年現在、会長選挙の投票は投票用紙で行われている。初回の投票では、3分の2以上の票を得た最多得票者1名がFIFA会長となる。最多得票者が3分の2以上の票を得なかった場合、会長候補者が3人以上いれば最少得票者を除いて再投票を行う。会長候補者が2人の場合は、そのまま再投票を行う。再投票で、半数を超えた最多得票者1名がFIFA会長になる。半数を超えなかった場合、この時点で会長候補者3人以上残っていれば、最少得票者を除いて再投票を行う。会長候補者が2人の場合はそのまま再投票を行う。以後、半数超えの最多得票者1名が出るまで同様の手順を繰り返し行う。",
"title": "会長"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "FIFA公式HPの歴代FIFA会長のページも参照。",
"title": "会長"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2015年FIFA汚職事件を受け、2016年2月26日の2016年FIFA臨時総会で承認した2016年FIFA改革案を組み込んだFIFA Statutes(FIFA規則・定款。2016年4月27日施行)2016年版により、三権分立の原則を踏まえたうえで、「政治」と管理機能の明確な分離を狙い、戦略的機能と監督機能、執行機能、運営機能、管理機能を明確に細かく分離した組織再編を行った。 FIFAの最高機関で立法機関のFIFA総会、 戦略的・監督的な機関のFIFA評議会、FIFAの執行機関、運営主体、行政機関の事務局が置かれている。また、 FIFA評議会と事務局の職務遂行を助言し、支援する9つの常任委員会、独立した任務をFIFAから完全に独立して行うが、常にFIFAの利益のために、またFIFA定款およびFIFAの各規則に従って行う4つの独立委員会がある。独立委員会のうちの不服申立委員会、懲戒委員会、倫理委員会の3つは、FIFAの司法機関であり、残り1つは監査およびコンプライアンス委員会である。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "以下の記述は、FIFA Statutes2016年版に基づく。また、FIFA公式HPの記事「How FIFA Works」も参照のこと。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "FIFA総会(以下、総会)は、全FIFA加盟協会(以下、全加盟協会。2018年時点で211協会)で構成されるFIFAの最高機関で、FIFA唯一の立法機関である。加盟協会は、規模やサッカーの強さに関係なく1票のみ持つ。その協会所属の代表者本人のみに投票権があり、代理人および手紙による投票はできない。また、FIFA理事は、任期中は協会の代表者にはなれない。総会の公用語は、英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語、ポルトガル語である。FIFA誕生時から、第一次世界大戦時の中断を除いて毎年開催されていたが、1932年第21回スウェーデン首都ストックホルム総会から2年に1回の開催となった。第二次世界大戦時の中断後も2年に1回開催のままだったが、多くの問題に関して決定する事項が増えたため、1998年以来、毎年臨時総会が開催されるようになった。そして、2004年のパリ総会から毎年の定期総会が導入された。FIFA総会は、FIFAの定款および各規則を実施適用される方法に関する決定を下す。必要があれば、定款および各規則の改正を行う。また、年次報告書を承認し、新加盟協会の協議の受諾を決定、FIFA会長選挙などの選挙やW杯開催国決定投票を実施する。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "FIFAワールドカップ開催国決定は、初期から1974年W杯・1978年W杯・1982年W杯3大会同時開催国決定まではFIFA総会での投票で決定していたが、1986年W杯開催国決定以降、FIFA理事会(のちのFIFA評議会)のFIFA理事投票で決定する方式に変更されていた。その後、2010年12月2日の2018年及び2022年W杯開催国投票まで、FIFA理事会のわずか24名のFIFA理事の投票(会長は同数の場合のみ1票投じる)で決まる方式だったため、買収工作も容易だった(2015年FIFA汚職事件参照のこと)との反省から、2018年6月13日の2026年W杯開催投票からFIFA総会(FIFA Congress)での開催立候補国を除く全加盟協会での投票方式に再び変更された(FIFA Statutes2016年版P28の28 Ordinary Congress agendaの2.のs )。また、従来の不透明なW杯招致手順を明確化し、各段階で審査プロセス等を公式発表していくとした。2017年11月7日、2026年W杯招致手引書を発表し、開催立候補国のコンプライアンスや施設面、人権への配慮、コストや収益などを評価すること、そして評価の比重は、スタジアムが35パーセント、交通が13パーセント、チケット収入・商業収入・コストが各10パーセントなどとした。ワールドカップ招致活動の明確な禁止事項を定め、買収工作や不適切な贈答品、W杯招致に向けたサッカー振興プロジェクトおよび親善試合開催などを禁じた。2017年11月30日の2026年W杯開催立候補国締め切りまでに立候補したカナダ・メキシコ・アメリカ(3か国共同開催)とモロッコ(単独開催)が、2018年3月16日の開催提案書(Bit Book)提出締切日までに開催提案書を提出。カナダ・メキシコ・アメリカの3か国共同開催提案書とモロッコの単独開催提案書を、招致手引書の評価基準のもと評価手順にのっとり評価し、問題ないということで両候補を受け付けた。2018年4月から、FIFA評価タスクフォースが両候補を現地視察し、5月30日、両候補の事業計画のヒアリングおよび質疑応答、31日に両候補のW杯招致委員会のプレゼンを受けたあと、上記の評価基準および評価手順にのっとり2026年ワールドカップ立候補国評価レポートを作成、6月1日に公表した。レポートでは、最低条件を2点に設定して5点満点で評価。両候補ともに合格ラインを超えたものの、3か国共催側は4点、モロッコ側は2.7点であった。さらに、開催経費や入場券販売、警備などを含めた総合評価は3か国共催側が500点満点中の402.8点で、モロッコ側は274.9点であった。大会関連施設およびインフラは、3か国共催側は「すでに運営可能なレベル」で、モロッコ側は「大会関連施設のほとんどが新設で大幅なインフラ整備が必要」と記述された。また大会収益は、3か国共催側は「143億ドル(約1兆5,662億円)」で、モロッコ側は「72億ドル(約7,900億円)」が見込まれるとレポートに記述された。2026年W杯開催国投票は、2018年ロシアW杯開幕戦前日の2018年6月13日のロシア首都モスクワでの第68回FIFA総会で行われる。投票手続きにのっとって、立候補国4か国と資格停止のガーナサッカー協会(2018年6月8日、ニャンタキー同協会会長の汚職事件を受け、同日にガーナ政府が同協会に解散命令を下した。これはFIFAの禁じる「第三者の介入」にあたり、同協会は資格停止となった)を除いた残り206協会での投票となる。「3か国共催」か「モロッコ単独開催」か「該当国なしとして、両候補以外の国で招致活動やり直し」かを投票する。2018年6月13日午前9時(日本時間同日午後3時)から開始された第68回FIFAモスクワ総会は、FIFA公式YouTubeチャンネルFIFATVで生中継された。開催国投票は13番目の議題で、実際の投票は両候補のプレゼン後、午後1時50分(日本時間同日午後7時50分)から電子投票で行われ、立候補国4か国と欠席した3協会(グアム、プエルトリコ、アメリカ領ヴァージン諸島)、棄権した3協会(キューバ、スロベニア、スペイン)、先述のとおり資格停止のガーナの計11協会を除く200協会が投票し、「3か国共催」に134票(有効投票数の67パーセント)、「モロッコ単独開催」に65票(33パーセント)、「該当国なしで招致活動やり直し」に1票(イラン)で、3か国共催(カナダ・メキシコ・アメリカ)が決定した。投票の内訳も同日、FIFA公式HPで公開された。48か国出場となることも確認された。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "FIFA評議会は、FIFAの戦略的かつ監督的な機関である。選手(男女のサッカー、フットサル、ビーチサッカー)のステータスおよび移籍、これらに関する問題を扱い、特にクラブでの練習奨励と代表チームの保護に関しては、随時特別規則の形で解決していく。FIFA評議会構成メンバーは、総会で選出されたFIFA会長1名、FIFA副会長8名、6つの大陸連盟(地域連盟)それぞれで選出された計28名で、全37名である。各大陸連盟は、それぞれ1人以上は女性をFIFA評議会メンバーに選出しなければならない。どのメンバーも任期は4年で、再任は可能だが、最大でも3期12年までである(任期が連続していなくても、通算して最大3期12年まで)。2015年以前の旧FIFA理事会時代は任期無制限で、W杯開催国決定も理事会のみで行っていた。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "事務局は、FIFA評議会(以下、評議会)の監督下にあるFIFAの執行機関であり、運営主体および行政機関である。事務総長の下で、競技会および関連するすべての事項について評議会の決定と指示通りに行い、すべての商業契約の交渉、執行および履行を評議会の方針・手順に従って行う。また、常任委員会のための行政支援を行う。特にサッカー開発奨励金の授与(FIFAサッカー発展プロジェクトの項で後述)に関しての行政支援を行う。評議会が設定した範囲で、財務委員会(Finance Committee)が立てた予算によりFIFAの業務と日常業務の管理を行う。その他、評議会が要求し、承認したFIFAの組織に対し、効率的な運営に必要なその他の行政上の事項について行う。ただし先述したとおり、事務局は評議会の監督下にあり、必要があれば評議会が事務局の権限を取り上げることができる。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "常任委員会は9つあり、FIFA評議会と事務局の職務遂行を助言し支援する。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "独立委員会は4つあり、FIFA評議会と事務局の職務遂行を助言し支援する。FIFAから完全に独立した立場で任務を行うが、常にFIFAの利益のために、またFIFA定款およびFIFAの各規則に従って行う。独立委員会のうちの3つはFIFAの司法機関である懲戒委員会、不服申立委員会、倫理委員会である。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2006年に「FIFAコンフェデレーションズカップ」を除く世界大会の名称が「FIFAワールドカップ」に統一された。",
"title": "大会一覧"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "A代表(年齢制限のないその国最強の代表)のランキングであるFIFAランキングを発表している。これまでに3度の制度改正を経ており、主観的要素を完全に排した国際Aマッチ(A代表同士の公式国際試合)の結果のみに基づいて編まれるランキングとしては公平なものになっている。外国人選手も所属できるクラブチームとは異なり、ナショナルチームは同じ国籍の選手のみのチームであるため、FIFAランキングはその国のサッカーの強さを示す「目安」となっている。2018 FIFAワールドカップ後の2018年8月16日発表(当初予定の7月19日は発表なしとなった)のFIFAランキングから4度目の変更(2018年方式)となり、これまでの2006年方式の過去4年間のAマッチという縛りがなくなるほか、年間平均ポイント計算がなくなり、加算方式に変更される。",
"title": "FIFAランキング"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "FIFAワールドカップの各大陸予選においては、実力差が極めて大きい対戦を避けるため予備予選を行うことがあり、その振り分けに使われたり(たとえば、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選ではFIFAランキングのアジア上位25チームが1次予選免除)、AFCアジアカップなどの各地域連盟主催の各大陸別選手権の予選組み分けや本大会のグループリーグの組み合わせ(ランキングが高いチームがシードなど)に使われたりしている。",
"title": "FIFAランキング"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また、FIFAワールドカップ本大会においても、グループリーグのシード国決定に用いられる。2006年ドイツ大会までは過去から現在までのFIFAランキングと過去のワールドカップ本大会の成績を元にシード国を決めていた(ドイツ大会では過去3年間のFIFAランキングとワールドカップ本大会過去2大会の成績を元に計算)が、2010年南アフリカ大会ではグループリーグ抽選会前のFIFAランキング(2009年10月のFIFAランキング)のみでシード国を決定した。以降のワールドカップも、本大会前年12月のグループリーグ抽選会前の10月のFIFAランキングのみでシード国を決定している。",
"title": "FIFAランキング"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "このように、年々、FIFAランキングの重要性は増してきている。",
"title": "FIFAランキング"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "女子の場合、男子と同様にFIFA女子ランキングがあり、こちらも各国の女子のA代表チームのランキングであり、女子の国際Aマッチの結果のみで計算される。公表は年4回であり、FIFAが初めて公認した女子代表の国際試合(フランス女子代表対オランダ女子代表:1971年4月17日)以降の全試合を集計の対象とする(男子は直近4年間のみを対象)など男子と異なる点がある。",
"title": "FIFAランキング"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2022年4月にローインチされたFIFA+ はOTTサービス。過去のFIFAワールドカップのアーカイブやオリジナルコンテンツ。さらに年間 40,000試合の生中継。うち女子の試合が11,000 試合である。 開始当初はiOSとAndroid、PC(ブラウザ経由)のみサービスを提供していたが、2023年7月26日よりAmazon Fire TVやAndroid TV(対応テレビも含む)でもアプリの提供が開始された 。",
"title": "FIFA+"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "以下の記述は、FIFA公式HPのFIFAフォワードサッカー発展プログラムの記事およびFIFAフォワードサッカー発展プログラム規則の記述に基づく。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "FIFAフォワードサッカー発展プログラム(以下、FIFAフォワードプログラム)とは、2016年5月9日のメキシコ首都メキシコシティでの第66回FIFA総会で決定した、FIFA加盟全サッカー協会および全6地域連盟対象のステップアップ財政支援プログラムである。4年で1サイクルで、160万ドルから500万ドルに増額する。各サッカー協会は、年間75万ドルをピッチなどの施設の整備、女子サッカーの発展などのサッカープロジェクトに費やすことができる。また各協会は、年間50万ドルの経費を受け取る。各地域連盟へは4年間の1サイクルで、2,200万ドルから4,000万ドルに増額させる。また、女子サッカーや各年代別代表の世界大会の旅費が必要な協会には、最高100万ドルの特別手当を支給する。男女とも年代別地域大会主催協会に、年間100万ドル払い戻す。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "さらに、事務総長(General secretary、JFAは専務理事)を採用する、技術委員を採用する、男女リーグ、男女のユースリーグ、女子サッカーの普及および宣伝活動、草の根サッカー推進と開発戦略、審判の推進と開発戦略等全10項目の基準を満たす協会(少なくとも2つは女子サッカーを重視すること)は、基本年間10万ドルに加え、毎年5万ドルの追加資金、最大で毎年40万ドルの追加資金を得ることができる。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "これらの資金を各協会および各地域連盟が正しく運営するために、FIFAは監督機能も強化している。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "先述の通り、2016年から開始されたFIFA加盟全協会(2018年時点で全211協会)に対する財政支援プログラムのため、下記はその一例である。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "以下の記述は、FIFA公式HPのFIFAゴールプロジェクト説明の記事の記述に基づく。 1999年から2015年までに実施されたFIFAゴールプロジェクトは、インフラ整備、組織体制作り、教育(指導者・審判・スポーツ医学など)、ユース育成等の国際サッカー連盟(FIFA)の助成制度である。その究極の目標は、権威あるサッカー協会にすることである。ゼップ・ブラッター第8代FIFA会長が提案し、1999年7月9日にロサンゼルスで開催されたFIFA臨時総会で批准された。FIFAゴールビューローが、全サッカー協会からゴールプロジェクトの対象協会を選び、その協会に合わせた助成を行う。 FIFAゴールビューローは、FIFA技術委員会から選ばれた6名のメンバーで構成される。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "各サッカー協会の優先順位に応じて、ゴールプロジェクトは次の分野で支援する。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "対象協会との協力関係を強化するため、世界中に開発事務所が設置されている。開発事務所には、高度な資格を持つFIFAの専門家である開発担当役員が配置されている。 各開発事務所は、事務所近接の約15 - 20の各サッカー協会の開発を委任されている。 各開発事務所は各サッカー協会に近いため、協会のニーズをより詳細に分析でき、またプロジェクトの監督および管理が容易になる。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "たとえば、インフラ整備で同プロジェクトから助成を受けるには、対象協会がその施設の土地を使用する権利を25年間持つことが条件であった。 1プロジェクトに対し、40万USドル(約4,000万円)まで助成可能で、 1プロジェクト終了後、増築などの目的、2期プロジェクトを申請し許可されれば、再度40万USドルの助成を受けられた。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2007年12月7日時点で、FIFA加盟106協会が助成を受けており、承認済み295プロジェクトのうち、121が進行中だった。この時点で計画段階が31であった。",
"title": "FIFAサッカー発展プロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "FIFA主催大会においては、FIFAブランド並びに公式スポンサーの権利の保護を目的として、スタジアムとその周囲に商業制限区域 (Commercial Restriction Areas, CRA) を設け、FIFA及び公式スポンサー以外による大会(及びその観客・関係者)をマーケティングの対象としたアンブッシュマーケティングを排除し、商業制限区域内での商業活動を制限している。",
"title": "クリーンスタジアム"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "具体的には、商業制限区域内の広告類(施設のネーミング・ライツを含む)や大会に際して開かれる臨時の販売施設等に関しては公式スポンサーのもの以外は原則として排除される(「クリーンな状態」に置かれる)ことになっており、商業制限区域内では屋外広告は原則としてマスキングされるか一時的に取り除かれる。特に命名権に関しては、しばしば「全ての大会で命名権が行使できない」或いは「全ての大会で一時的に正式名称とする」と言及されることがあるが、正しくは「全ての大会で公式スポンサー以外の企業等を想起させる名称としない」というものであり、大会の公式スポンサーであればそのまま命名権名称が存置されることがある。例えば、EAFF E-1サッカー選手権2017で男子決勝ラウンドの会場となった味の素スタジアムは、味の素が大会の公式スポンサーであったため、正式名称の「東京スタジアム」ではなく、命名権名称である「味の素スタジアム」がそのまま用いられた(一方で、同じ大会の女子決勝ラウンドの会場であったフクダ電子アリーナは、正式名称である「千葉市蘇我球技場」が用いられた)。なお、命名権名称を用いた公共施設名についてはこれら規定が適用されないこともあり、例えば味の素スタジアム前交差点は味の素スタジアムを東京スタジアムと呼称する場合でも名称が変更されることはない。",
"title": "クリーンスタジアム"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "なお、FIFAのこのルールにおいては、商業制限区域内での地元企業による商業活動(バーやレストラン、コンビニエンスストアなど)は「制限されるべきではない(通常通りの営業・看板の掲出ができる)」としている。",
"title": "クリーンスタジアム"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2000年に開設された「スポーツに関する組織論、歴史・哲学、法律についての国際修士」のことで、スイスにあるスポーツ教育機関CIES(The International Centre for Sports Studies、スポーツ研究国際センター)と提携してFIFAが運営しているスポーツ学に関する大学院のコースである。10か月の間にイギリス・イタリア・スイスにある3つの大学を回って学習し、幅広くスポーツ界で活躍する人材を養成することを目的として設立された。",
"title": "FIFAマスター(FIFA大学院)"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "入学するには、最初に高校卒業証明書、大学の卒業・成績証明書、英語力証明書(TOEFL(minimum 600 PBT / 250 CBT / 100 IBT points)かCambridge Certificate of ProficiencyかIELTS(minimum level 7.5 in the « Academic Test »)のどれか1つ)、GMAT、スポーツや志望動機などの5つの質問の回答(ショートエッセイ)を英語で300字程度などの必要書類を1月22日頃までに提出する。書類審査で通過した合格者がさらに電話面接などで絞りこまれ、4月中旬に最終合格者(定員25名程度、世界各国から集まるように配慮される)が決まる。最終合格者が授業料25,000スイス・フラン(1フラン110円換算で275万円)を全額支払えば、入学手続き完了となる。毎年、9月に開講する。9 - 12月にHumanities of Sports(スポーツの人文科学)をイギリス・レスターのド・モンフォル大学で、翌年1 - 3月にManagement(経営学)をイタリア・ミラノのボッコーニ大学で、4 - 7月にSport Law(スポーツの法律)をスイスのヌーシャテルのヌーシャテル大学で学び、7月中旬に卒業という流れである。さらに、7月下旬に「ファイナルプロジェクト」というグループ(1グループ3 - 5名)で取り組む卒論発表(プレゼンテーション)があり、1グループ30分で行われ、FIFA、IOC、UEFA、ECA、大学教授などの参加者から質問を受け、その後の会議で論文の内容とプレゼンテーションの出来を踏まえて成績評価される。単なる卒論発表に留まらず、その卒論がきっかけで、さまざまな活動が実現している。FIFAにCSR部門ができたり、イスラエルとパレスチナの子どもたちのサッカーキャンプ交流が実現したりなどしている。",
"title": "FIFAマスター(FIFA大学院)"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2011年7月21日に行われた日本人を含む5か国のグループの卒論発表がきっかけで、2012年3月22日、FIFAが国際Aマッチデーの代表選手の負傷選手、クラブ、加盟協会に対する補償金を支払う(国際Aマッチデー出場代表選手保険導入)意向を示し、同年5月25日のFIFA総会で同年9月以降の国際Aマッチデーの代表選手保険導入を決めたり、2012年3月22日にUEFAが代表選手保険システム導入(選手の国籍関係なしの欧州全クラブの所属選手の代表戦での負傷保険)を発表するなどしている。",
"title": "FIFAマスター(FIFA大学院)"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "卒業生はFIFAやUEFA、IOC、AFC、各国サッカー協会、CASなどのスポーツ機関、スポーツテレビ局、スポーツマーケティング会社、各国サッカーリーグおよびFCバルセロナなどのサッカークラブなどで活躍している。",
"title": "FIFAマスター(FIFA大学院)"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、卒業生の多くがスイスのローザンヌにある20の国際スポーツ連盟や団体、スポーツ関連会社10数社が集まり、世界中のスポーツのルールを決定している国際スポーツハウス(Maison du Sport International、略称MSI)で働いている。また、卒業生はFIFAマスター同窓会協会(FIFA Master Alumni Association、略称FMA)を通じて、世界中に構築されたFIFAマスターのネットワークをビジネスに活用することができる。",
"title": "FIFAマスター(FIFA大学院)"
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"text": "FMAはその名の通り、2年に1度、国際的なスポーツの大会に合わせてその国および都市でFIFAマスター同窓会を開催しており(前回はワールドカップ・南アフリカ大会で開催)、2012年はロンドンオリンピックに合わせロンドンで開催された。",
"title": "FIFAマスター(FIFA大学院)"
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"text": "2013年7月19日、2012 - 2013年第13期生修了式が行われ、宮本恒靖を含め24か国の生徒が卒業した。日本人は2013年7月19日時点で、通算9名ほどがFIFAマスターを卒業している。元プロサッカー選手の卒業生は2名で、日本人元プロサッカー選手および元日本代表としては宮本恒靖が初めてである。2017年7月14日、2016 - 2017年第17期生修了式が行われ、大滝麻未と一般日本人の女性の2名の日本人女性がFIFAマスターを卒業した。大滝は、日本の元女子サッカー選手および元日本女子代表としては初めてのFIFAマスター卒業であったが、直後の2017年8月に現役復帰した。",
"title": "FIFAマスター(FIFA大学院)"
}
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国際サッカー連盟、FIFA(フィファ )は、サッカーの国際競技連盟であり、スイスの法律に基づいた自立法人である。本部はスイスのチューリッヒに置かれている。 2018年時点で全211の国内競技連盟が加盟し、国際競技連盟としては世界最大である。FIFAワールドカップの主催が、もっとも大きな任務となっている。
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{{Redirect|FIFA|[[EAスポーツ]]が発売している[[サッカーゲーム]]|FIFAシリーズ}}
{{Infobox organization|alt=<!-- alt text; see [[WP:ALT]] -->|size=|subsidiaries={{hidden begin |title=6 |titlestyle=font-weight:normal |border=none;padding:0 }}
{{plainlist}}
*[[アジアサッカー連盟]]
*[[アフリカサッカー連盟]]
*[[北中米カリブ海サッカー連盟]]
*[[南米サッカー連盟]]
*[[オセアニアサッカー連盟]]
*[[欧州サッカー連盟]]
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{{hidden end}}|affiliations=[[国際オリンピック委員会]]<br>[[国際サッカー評議会]]|budget=|remarks=|name=国際サッカー連盟|native_name='''Fédération Internationale de Football Association'''<br>'''(FIFA)'''|native_name_lang=Fra|msize=350px|leader_name4=[[ファトマ・サモウラ]]|malt=<!-- map alt text -->|mcaption=連合別のFIFA加盟国の地図|abbreviation=FIFA<ref name="Filmcircle.com">{{cite news |url=http://filmcircle.com/federation-internationale-de-football-association/ |title=Fédération Internationale de Football Association |work=Filmcircle.com |date=11 June 2014 |access-date=11 June 2014 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20141008195647/http://filmcircle.com/federation-internationale-de-football-association/ |archive-date=8 October 2014}}</ref>|region_served=世界中|membership=211カ国の協会|languages={{Plainlist|
*[[英語]]
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'''国際サッカー連盟'''(こくさいサッカーれんめい、{{lang-fr|''Fédération internationale de football association''}}, {{lang-en|''International Association Football Federation''}})、'''FIFA'''(フィファ {{IPAc-en|ˈ|f|iː|f|ə}})は、[[サッカー]]の[[国際競技連盟]]であり、[[スイス]]の法律に基づいた自立法人である。本部は[[スイス]]の[[チューリッヒ]]に置かれている。
[[2018年]]時点で全211の[[国内競技連盟]]が加盟し<ref name="associations" />、国際競技連盟としては世界最大である<ref name="eikokusaikyou">[http://www.soccertalk.jp/content/2015/05/no1024.html No.1024 FIFA 111回目の誕生日(2015年5月20日)-サッカーの話をしよう大住良之公式オフィシャルアーカイブサイト]</ref>。[[FIFAワールドカップ]]の主催が、もっとも大きな任務となっている。
== 概要 ==
[[File:World Map FIFA2.svg|thumb|400px|FIFA加盟国を色であらわしている。]]
FIFAの傘下には、以下の6つの大陸競技連盟がある。
*{{Colorbox|#ffb6c1}} [[アジアサッカー連盟]](AFC)
*{{Colorbox|#deb887}} [[アフリカサッカー連盟]](CAF)
*{{Colorbox|#4682b4}} [[欧州サッカー連盟]](UEFA)
*{{Colorbox|#ffd700}} [[オセアニアサッカー連盟]](OFC)
*{{Colorbox|#db7093}} [[北中米カリブ海サッカー連盟]](Concacaf)
*{{Colorbox|#8fbc8f}} [[南米サッカー連盟]](CONMEBOL)
各国のサッカー協会は、FIFAと大陸競技連盟両方ともそれぞれに直接加盟している。
したがって、FIFA加盟が認められず、大陸競技連盟だけに加盟しているサッカー協会は、FIFAの大会には参加できず(その場合は大陸連盟主催の大会のみ出場できる)、そのサッカー協会が行う試合は、[[国際Aマッチ]]などの国際試合としてはFIFAには公認されない。
UEFAに所属する[[イギリス]]の本土4協会([[フットボール・アソシエーション|イングランド]]、[[スコットランドサッカー協会|スコットランド]]、[[ウェールズサッカー協会|ウェールズ]]、[[アイリッシュ・フットボール・アソシエーション|北アイルランド]]の各協会)は、競技としてのサッカーの成立過程およびFIFAへの加盟に関わる歴史的背景から、特権的な地位が与えられている。たとえば、FIFA副会長(定数7)の1席がこの4協会のいずれかに保証されており、本土4協会のすべてが役員選で落ちることはあり得ない。また、サッカーのルールや重要事項に関しては、FIFAとこのイギリス本土4協会で構成する[[国際サッカー評議会]]が決定することになっている。
== 歴史 ==
=== 概要 ===
[[1904年]][[5月21日]]、[[フランス]]の首都[[パリ]]で、[[フランス]]、[[オランダ]]、[[スイス]]、[[デンマーク]]、[[ベルギー]]、[[スウェーデン]]、[[スペイン]]の7か国(実際にはスウェーデンとスペインは会議に出ることができず、デンマークとフランスが代理を務めた)が集まり、世界のサッカー統括組織設立の会議を開催した<ref name="eikokusaikyou" />。同年5月23日までの3日間で組織名を「国際サッカー連盟(略称:FIFA)」と決定した。わずか28名の[[国際サッカー連盟総会|FIFA総会(FIFA Congress)]]は、フランスのスポーツ統括団体[[フランス・スポーツ競技社団連合|USFSA(Union des Sociétés Françaises de Sports Athlétiques)]]のフットボール委員会幹事(フランス体育連盟書記長)の[[ロベール・ゲラン]](フランス人)を初代FIFA会長に選出した。このときゲランは28歳であった。
任期はわずか2年だったが、その間に、英国本土4協会(地域協会認可の経緯の項で後述)、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[イタリア]]、[[ハンガリー]]の合わせて8つの国と地域の協会が、FIFA設立翌年の1905年に加盟した<ref>[http://www.fifa.com/about-fifa/the-president/robert-guerin.html Robert Guerin-FIFA公式HP]</ref>。欧州以外では第2代FIFA会長[[ダニエル・ウールフォール]](イギリス人。[[イングランドサッカー協会]]会長も兼務)時代に、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]が[[1909年]]に加盟したのが最初である。
誕生したばかりのFIFAには実行力も資金もなく、パリの中心街のビルの一室で運営していた<ref name="eikokusaikyou" />。1921年に第3代FIFA会長に就任したフランス人の[[ジュール・リメ]]は、同じくフランス人の側近の[[アンリ・ドロネー]]事務総長(General secretary)とともに、就任直後から[[FIFAワールドカップ|サッカー単独の世界大会]]実現のために尽力した<ref name="Wseiji">松岡完『ワールドカップの国際政治学』朝日新聞・朝日選書497、1994年</ref>。しかし当時、[[第一次世界大戦]]後の経済的混乱、大陸間の移動手段は当時は船(欧州から南米まで、船で片道だけで2週間)、そして世界大会は[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック(五輪)]]がすでに存在していることを理由に、各国はサッカー単独の世界大会開催を渋っていた。
そんな状況の中、[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]が、[[1924年パリオリンピックのサッカー競技|1924年パリ五輪]]、[[1928年アムステルダムオリンピックのサッカー競技|1928年アムステルダム五輪]]と[[近代オリンピック|オリンピック]]連覇を成し遂げた。そこでリメらは、「ウルグアイの五輪連覇は、[[アマチュア]]しか出られない世界大会だからという各国、特に欧州のプライドをくすぐる作戦」に出て、「アマチュアだけの[[オリンピックのサッカー競技|五輪]](当時。プロ参加許可は1984年[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス五輪]]から)には、[[プロフェッショナル]]化した各国は優れた選手を送り込めない。アマ、プロの関係なく、[[FIFAワールドカップ|真の世界王者を決める大会]]の開催を」と各国に何度も訴え<ref name="Wseiji" />、ついに、1930年7月13日から7月30日にかけて、第1回[[1930 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・ウルグアイ大会]](以下、ワールドカップはW杯の略称で記述)を開催し、[[FIFAワールドカップ|サッカー単独の世界大会]]を実現した。最終的にウルグアイW杯は、計59万549人(実際のスタジアム入場数)の大観衆を集め<ref>[http://www.fifa.com/worldcup/archive/uruguay1930/index.html 1930 FIFA World Cup Uruguay>Statistics>Attendance-FIFA公式HP]</ref>、25万ドル(当時の日本円で50万6,250円。2016年では9億7,036万577円にあたる)以上の収益を得た<ref name="Wseiji" />。以降、FIFAは資金難から開放され、FIFA本部を[[スイス]]の[[チューリッヒ]]に移し、フルタイムの職員を雇い、運営されるようになった<ref name="eikokusaikyou" />。
[[2014 FIFAワールドカップ|2014年ブラジルW杯]]では、大会観客動員(実際のスタジアム入場数)計338万6,810人の大観衆を集め<ref>[http://www.fifa.com/worldcup/archive/brazil2014/index.html 2014 FIFA World Cup Brazil>Statistics>Attendance-FIFA公式HP]</ref>、開催年の2014年単年のFIFA収入は13億4,600万ポンド(約2,554億円)で、収入から支出を差し引いた利益は9,100万ポンド(約173億円)<ref name="kanbu">[https://www.huffingtonpost.jp/2015/06/01/fifa-profits-high-non-profit-organisation_n_7482402.html FIFAの巨額収入 2554億円の売り上げで、32億円は最高幹部の報酬に-ハフィントンポスト日本版2015年6月1日]</ref>に上った。2014年ブラジルW杯開催年までの4年間(2011 - 2014年)の収入は7,075億円(内訳:W杯放映権料3,004億円、W杯スポンサー料1,955億円、大会開催関連収入1,397億円、金融収益など収入719億円)<ref name="museigen">[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDH28H64_Y5A520C1EA2000/ FIFA W杯が最大の収入源-日本経済新聞 2015年5月28日]</ref>であった。このように、今でもワールドカップおよびその関連収入を最大の収入源として、巨額の資金を得て、FIFAは2018年時点で加盟協会211の世界最大のスポーツ組織となった<ref name="eikokusaikyou" />。
FIFAは加盟協会を増やしていった。2016年5月13日のFIFA総会では、210番目の加盟として[[コソボサッカー連盟|コソボサッカー連盟(FFK)]]、211番目の加盟として[[ジブラルタルサッカー協会|ジブラルタルサッカー協会(GFA)]]が認可され<ref>[http://www.fifa.com/about-fifa/news/y=2017/m=3/news=66th-fifa-congress-zurich-2016-2878197.html 66th FIFA Congress, Mexico City 2016-FIFA公式HP2016年5月13日]</ref>、2018年3月13日時点で、世界で211協会が加盟している<ref name="associations" />。主権を持った独立国だけでなく、地域ごとの加盟(たとえば[[中華人民共和国|中国]]の[[特別行政区]]である[[香港]]と[[マカオ]]や、[[中華民国]]([[台湾]])、[[イギリス]](以下、略称英)を構成する[[イングランド]]、[[北アイルランド]]、[[スコットランド]]、[[ウェールズ]]はそれぞれ別々にFIFAに加盟している)が認められるため(地域協会認可の経緯の項で後述)、[[国際連合加盟国]]の193か国<ref name="quick facts">{{Cite web|url=http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=39034&Cr=South+Sudan&Cr1=|title=UN welcomes South Sudan as 193rd Member State|language=英語|publisher=the United Nations|accessdate=2011-07-15}}</ref>を上回る。[[日本サッカー協会]]は[[1929年]]に加盟。
FIFAワールドカップの招致活動を目的とした資金工作(2015年までW杯開催地投票は、FIFA理事会(のちのFIFA評議会)のFIFA理事24名(決選投票時FIFA会長投票1票)の投票<ref name="museigen"/>)やFIFA会長選での金銭のやり取りが問題となり、[[2015年FIFA汚職事件]]として立件された。2015年9月には200万スイスフランの不正な支出があったとして、当時の会長[[ゼップ・ブラッター]]にまで捜査がおよんだ<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150926/k10010248481000.html FIFA会長の捜査開始 背任などの疑い] NHKニュース2015年9月26日{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref>。
その後、[[2015年FIFA汚職事件]]を受け、2016年2月26日の[[2016年FIFA臨時総会]]で承認した2016年FIFA改革案を組み込んだFIFA Statutes(FIFA規則・FIFA定款)2016年版が、同年4月27日に施行された。FIFA会長やFIFA各役員の任期制限(最大でも3期12年まで。以前は無制限<ref name="museigen"/>)や、FIFA会長・各役員の個人報酬の毎年の開示(以前は非公開<ref name="kanbu"/>)、そして、「政治」と管理機能の明確な分離を狙い、戦略的機能と監督機能、執行機能、運営機能、管理機能を明確に細かく分離した組織再編を行った(会長および組織の項で後述)<ref name="Statutes2016">[http://resources.fifa.com/mm/document/affederation/generic/02/78/29/07/fifastatutsweben_neutral.pdf The FIFA Statutes (in force as of 27 April 2016)-FIFA公式HP]</ref>。
2016年10月13日に、「未来へのビジョン」という新しく策定された中長期の活動指針を明らかにし、今後10年間、40億ドル以上を出して<ref name="jiji_20161014">{{Cite news |title= 競技普及に4000億円=FIFA|newspaper= 時事通信|date= 2016-10-14|author= チューリヒ(スイス)時事|url= http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101400122&g=spo|accessdate=2016-10-14}}</ref>加盟している211のサッカー協会に分配を行う<ref name="sankei_20161014">{{Cite news |title= 【サッカー】10年間で加盟211協会に40億ドルを分配 FIFAが中長期活動指針|newspaper= 産経ニュース|date= 2016-10-14|author= 共同通信社|url= http://www.sankei.com/sports/news/161014/spo1610140006-n1.html|accessdate=2016-10-14}}</ref>(FIFAフォワードプログラムの項で後述)。女子サッカーに関しては[[2026年]]までに選手の数を6,000万人に増加させるという目標を掲げた<ref name="jiji_20161014"/><ref name="sankei_20161014"/>。
2020年4月24日、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の[[パンデミック|パンデミック(世界的流行)]]による危機への全加盟協会(2020年6月10日時点211協会)への支援として、2019 - 20年期に全加盟協会へ分配するはずだった2年分の運転資金を数日以内に全加盟協会へ全額分配支給すると発表した。総額で約1億5千万ドル(約161億円)に上る。また、FIFAフォワードプログラム(第2段階)からの分配金も、全額前倒しで全加盟協会にすぐに分配する(当初は分割して分配で、2回目の分配が7月の予定だった)。これにより、各協会に50万ドル(約5368万円)が支給されることになるが、その資金の運用は、FIFAフォワードプログラム(第2段階)規則に則り、監査と報告の対象となる<ref>[https://www.fifa.com/who-we-are/news/fifa-starts-immediate-financial-support-to-member-associations-in-response-to-co FIFA starts immediate financial support to member associations in response to COVID-19 impact] FIFA公式HP2020年4月24日</ref>。
=== 地域協会認可の経緯 ===
FIFAは当初、1国1協会(=1代表)を原則としていたが、次のような経緯で地域の協会も認可するようになった。FIFA創設の翌年、1905年に[[イングランド]]が参加するまでは、「近代サッカーの母国(The home of Football:FIFA公式呼称<ref>[http://www.fifa.com/about-fifa/who-we-are/the-game/britain-home-of-football.html History of Football - Britain, the home of Football-FIFA公式HP]</ref>)」としての優位性と、イギリス以外の国家との格段の実力差を主張した[[イギリス帝国]]は、FIFAに参加しなかった<ref name="eikokusaikyou" /><ref name="chiikidaihyou">大住良之『新・サッカーへの招待』 岩波書店、1998年、4頁・80頁</ref>。
サッカーの母国としての優位性とは、世界に先駆けて次の活動を行っていたことである。近代サッカーは1863年の[[フットボール・アソシエーション|イングランドサッカー協会]](FA)と[[ロンドン]]の12クラブによる統一ルール作成により誕生し、英国本土に広がり、[[イギリス帝国|大英帝国]]の[[船員]]・鉄道技術者・[[兵士|水兵]]たちなどによって世界中に広がった<ref name="chiikidaihyou" />。
さらに1882年、英本土4協会は国際大会を開くために統一ルールを作る団体、[[国際サッカー評議会]]を組織した。翌年の1883年から英本土4協会が参加する[[ブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ]](当初はホーム・インターナショナル・チャンピオンシップ(ホーム国際選手権))と呼ばれる世界初のサッカー単独の国際大会を毎年開催することになった。このように、英本土4協会はFIFA設立以前からそれぞれが独自に活動していた。イギリス以外の国家との格段の実力差とは、当時すでにプロリーグがあったイングランドのアマチュアチームが、オランダやフランスに遠征しても、相手チームに対し二桁の得点を挙げるほどの実力差のことである<ref name="eikokusaikyou" />。
したがってイギリスには、英本土4協会以外の国と国際試合を行う必要性はないので、他国との国際試合を行うために、FIFAのような組織に参加する必要はないという主張であった<ref name="eikokusaikyou" />。もともと、サッカー単独の[[世界選手権大会]](のちの[[FIFAワールドカップ]])を開催することが目的の一つだったFIFAは、サッカーの国際ルールを制定した近代サッカーの母国であり、自他ともに認める当時のサッカー最強の国イギリス<ref name="eikokusaikyou" />をFIFAに加盟させるために、イギリス協会として包括的にではなく、英本土4協会を個別に承認した。実際に英本土4協会のFIFA加盟が決まると、すぐに翌年1906年のサッカー単独の第1回[[世界選手権大会]]開催を決めた。しかし、当時は交通機関が未発達な状況で、経費負担も含めて代表チーム編成も困難な国家が多かったため、参加国が集まらず失敗し、[[ロベール・ゲラン]]初代FIFA会長は責任を取って辞任した<ref name="Wseiji" />。
以降、FIFAは一定の自治が行われている地域の協会も認可している。イギリスは本土4協会のほかに海外領土の[[サッカーモントセラト代表|モントセラト]]・[[サッカーイギリス領ヴァージン諸島代表|イギリス領ヴァージン諸島]]・[[サッカーケイマン諸島代表|ケイマン諸島]]・[[サッカータークス・カイコス諸島代表|タークス・カイコス諸島]]・[[サッカーバミューダ諸島代表|バミューダ諸島]]・[[サッカーアンギラ代表|アンギラ]]・[[ジブラルタルサッカー協会|ジブラルタル]]、[[デンマークサッカー協会|デンマーク]]は海外領土の[[フェロー諸島サッカー協会|フェロー諸島]]、[[オランダサッカー協会|オランダ]]は海外領土の[[サッカーキュラソー島代表|キュラソー島]]・[[サッカーアルバ代表|アルバ]]、[[イスラエルサッカー協会|イスラエル]]国内の[[パレスチナサッカー協会|パレスチナ自治区]]、[[中国サッカー協会|中国]]は[[香港サッカー協会|香港]]と[[マカオサッカー協会|澳門]]、[[アメリカ合衆国サッカー連盟|アメリカ合衆国]]は海外領土の[[グアムサッカー協会|グアム]]・[[サッカーアメリカ領サモア代表|アメリカ領サモア]]・[[サッカープエルトリコ代表|プエルトリコ]]・[[アメリカ領ヴァージン諸島サッカー連盟|アメリカ領ヴァージン諸島]]など、このようにFIFAから認可されている地域の協会は、イギリスだけではない。また[[中華民国]]([[台湾]])は、[[中華民国サッカー協会|チャイニーズ・タイペイ(中華台北)サッカー協会]]として加盟している。
== 会長 ==
FIFA会長は組織の最高の職位であり、FIFAを代表し、[[国際サッカー連盟総会|FIFA総会]]、FIFA評議会(FIFA Council)および緊急委員会の会合、そのほかFIFA会長が議長に任命された委員会を統括する。 FIFA評議会のほかのメンバーと同様、会長には投票権があり、投票が同数だった場合などにFIFA会長が決定投票を行う。会長は、FIFAの各規則に則った権限と責任を持つ。任期は4年である。再選も可能<ref name="How FIFA Works">[http://www.fifa.com/governance/how-fifa-works/index.html Governance>How FIFA Works-FIFA公式HP]</ref>だが、2016年2月26日の[[2016年FIFA臨時総会]]で承認された2016年FIFA改革案を組み込んだFIFA Statutes(FIFA規則・FIFA定款。2016年4月27日施行)2016年版により、最大でも3期12年までに任期が制限された<ref name="Statutes2016" />。以前は無制限であった<ref name="museigen"/>。また、FIFA Statutes2016年版によりFIFA会長、全FIFA評議会(旧FIFA理事会)メンバー、事務総長(General secretary)および独立した3つの常設司法委員会の関連議長の年1回の個人報酬の開示が義務づけられた<ref name="Statutes2016" />。2015年まで報酬は非公開であった。2014年には、FIFA最高幹部13名に計2,610万ドル(約32億円)の報酬が支払われたと報じられている([[2015年FIFA汚職事件]]で、全員FIFAを辞任している)<ref name="kanbu"/>。開示された[[ジャンニ・インファンティーノ]]FIFA会長(辞任したブラッターの次のFIFA会長)の2017年度の給料は、153万スイスフラン(約1億7,000万円)である<ref>[https://qoly.jp/2018/03/18/uefa-president-ceferin-salary-iks-1 サッカー界のトップ!FIFAとUEFA会長の「給料」が判明する-Qoly2018年03月18日]</ref>。
FIFA会長は、4年に1回、会長選挙によって選ばれる。FIFA会長立候補者(以下、立候補者)は、会長選挙を行う[[国際サッカー連盟総会|FIFA総会]](以下、会長選挙総会)の4か月前まで(=立候補締め切り)、FIFA加盟全サッカー協会(以下、加盟全協会。2018年時点で全211協会)のうち5協会からの推薦を得たうえで、それら各協会に立候補者を推薦する旨を書面で事務局に提出してもらう必要がある<ref name="Statutes2016" /><ref>[https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20151024/362895.html?cx_tag=page1 元FIFA副事務総長のシャンパーニュ氏が会長選出馬へ「信頼を取り戻す」-サッカーキング2015年10月24日]</ref>。立候補締め切り前までに先述の手続きを完了した立候補者のみを審査委員会(Review Committee)が身辺調査し(立候補前過去5年中2年の選手、FIFA内部関係者、大陸連盟関係者、協会関係者などの活動の有無および活動内容等の調査)、問題がなければ立候補を受け付ける(以下、立候補受付が済んだ立候補者を会長候補者と記述)<ref name="Statutes2016" /><ref>[https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20151113/369565.html?cx_tag=page1 FIFAが会長選の候補者5名を発表…活動停止のプラティニ会長は保留に-サッカーキング2015年11月13日]</ref>。受付後、会長選挙総会の1か月前までに、加盟全協会に会長候補者を通知する。その後、会長選挙総会で加盟全協会が投票を行う。なお、サッカーの強さや規模、影響力に関係なく、投じられるのは1協会につき1票のみである。協会所属の代表者本人のみに投票権があり、代理人および手紙による投票はできない。またFIFA理事は、任期中は協会の代表者にはなれない。会長選挙は[[秘密投票]]で行われ、投票用紙を投票もしくは[[電子投票]]で投票することができる。大多数が投票用紙での投票を支持している場合は、投票用紙で行い、加盟協会は英語のアルファベット順に呼ばれる<ref name="Statutes2016" />。2015年現在、会長選挙の投票は投票用紙で行われている<ref>[http://jp.wsj.com/articles/SB11729237550577364065404581016491313048996 FIFAの会長選挙、超ローテクで超民主的-THE WALL STREET JOURNAL日本語版2015年5月31日]</ref>。初回の投票では、3分の2以上の票を得た最多得票者1名がFIFA会長となる。最多得票者が3分の2以上の票を得なかった場合、会長候補者が3人以上いれば最少得票者を除いて再投票を行う。会長候補者が2人の場合は、そのまま再投票を行う<ref name="Statutes2016" /><ref>[https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20150530/317377.html?cx_tag=page1 FIFAのブラッター会長、再選が決定…最後には対立候補も辞退し5期目-サッカーキング2015年5月30日]</ref>。再投票で、半数を超えた最多得票者1名がFIFA会長になる。半数を超えなかった場合、この時点で会長候補者3人以上残っていれば、最少得票者を除いて再投票を行う。会長候補者が2人の場合はそのまま再投票を行う。以後、半数超えの最多得票者1名が出るまで同様の手順を繰り返し行う<ref name="Statutes2016" />。
=== 歴代会長 ===
{{main|歴代FIFA会長の一覧}}
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:left;"
|+ style="padding-top:1em;" |歴代FIFA会長
! # !! 氏名 !! 国籍 !! 就任 !! 辞任 !! 備考
|-
|align=center|1|| [[ロベール・ゲラン]] || {{flagu|France|1794}} || 1904年5月23日 || 1906年6月4日 ||
|-
|align=center|2|| [[ダニエル・ウールフォール]] || {{flagu|United Kingdom}} || 1906年6月4日 || 1918年10月24日 || 在任中に死去
<!--
|-
|align=center|—|| [[Cornelis August Wilhelm Hirschman]] || {{flagu|Netherlands}} || 1918年10月24日 || 1920年 || acting
-->
|-
|align=center|3|| [[ジュール・リメ]] || {{flagu|France|1794}} || 1921年3月1日 || 1954年6月21日 ||
|-
|align=center|4|| [[ルドルフ・ジルドライヤー]] || {{flagu|Belgium}} || 1954年6月21日 || 1955年10月7日 || 在任中に死去
|-
|align=center|5|| [[アーサー・ドルリー]] || {{flagu|United Kingdom}} || 1956年6月9日 || 1961年3月25日 || 在任中に死去
<!--
|-
|align=center|—|| [[Ernst Thommen]] || {{flagu|Switzerland}} || 1961年3月25日 || 1961年9月28日 || acting
-->
|-
|align=center|6|| [[スタンリー・ラウス]] || {{flagu|United Kingdom}} || 1961年9月28日 || 1974年5月8日 ||
|-
|align=center|7|| [[ジョアン・アヴェランジェ]] || {{flagu|Brazil}} || 1974年5月8日 || 1998年6月8日 ||
|-
|align=center|8|| [[ゼップ・ブラッター]] || {{flagu|Switzerland}} || 1998年6月8日 || 2015年10月8日 || 罷免
<!--
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|align=center|—|| '''[[Issa Hayatou]]''' || {{flagu|Cameroon}} || 8日 October 2015年 || 26日 February 2016年 || acting
-->
|-
|align=center|9|| '''[[ジャンニ・インファンティーノ]]''' || {{flagu|Italy}} <br /> {{flagu|Switzerland}} || 2016年2月26日 || ''現職'' ||
|}
FIFA公式HPの歴代FIFA会長のページ<ref>[http://www.fifa.com/about-fifa/the-president/joseph-s-blatter.html 歴代FIFA会長-国際サッカー連盟公式HP]</ref><ref>[http://www.fifa.com/about-fifa/the-president/gianni-infantino.html Gianni InfantinoFIFA会長-国際サッカー連盟公式HP]</ref>も参照。
== 組織 ==
[[2015年FIFA汚職事件]]を受け、2016年2月26日の[[2016年FIFA臨時総会]]で承認した2016年FIFA改革案を組み込んだFIFA Statutes(FIFA規則・定款。2016年4月27日施行)2016年版<ref name="Statutes2016" />により、[[権力分立|三権分立]]の原則を踏まえたうえで、「政治」と管理機能の明確な分離を狙い、戦略的機能と監督機能、執行機能、運営機能、管理機能を明確に細かく分離した組織再編を行った。 FIFAの最高機関で立法機関の'''[[国際サッカー連盟総会|FIFA総会]]'''、 戦略的・監督的な機関の'''FIFA評議会'''<ref group="注">{{lang-en-short|FIFA Council}}、旧FIFA理事会</ref>、FIFAの執行機関、運営主体、行政機関の'''事務局'''<ref group="注">{{lang-en-short|General Secretariat}}</ref>が置かれている。また、 FIFA評議会と事務局の職務遂行を助言し、支援する9つの'''常任委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|The standing committees}}</ref>、独立した任務をFIFAから完全に独立して行うが、常にFIFAの利益のために、またFIFA定款およびFIFAの各規則に従って行う4つの'''独立委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|The independent committees}}</ref>がある。独立委員会のうちの'''不服申立委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Appeal Committee}}</ref>、'''懲戒委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Disciplinary Committee}}</ref>、'''倫理委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Ethics Committee}}</ref>の3つは、FIFAの司法機関であり、残り1つは'''監査およびコンプライアンス委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Audit and Compliance Committee}}</ref>である<ref name="Statutes2016" />。
以下の記述は、FIFA Statutes2016年版<ref name="Statutes2016" />に基づく。また、FIFA公式HPの記事「How FIFA Works」<ref name="How FIFA Works" />も参照のこと。
FIFA総会<ref group="注">{{lang-en-short|FIFA Congress}}</ref>(以下、総会)は、全FIFA加盟協会(以下、全加盟協会。2018年時点で211協会)で構成されるFIFAの最高機関で、FIFA唯一の立法機関である。加盟協会は、規模やサッカーの強さに関係なく1票のみ持つ。その協会所属の代表者本人のみに投票権があり、代理人および手紙による投票はできない。また、FIFA理事は、任期中は協会の代表者にはなれない。総会の公用語は、英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語、ポルトガル語である。FIFA誕生時から、[[第一次世界大戦]]時の中断を除いて毎年開催されていたが、1932年第21回[[スウェーデン]]首都[[ストックホルム]]総会から2年に1回の開催となった。[[第二次世界大戦]]時の中断後も2年に1回開催のままだったが、多くの問題に関して決定する事項が増えたため、1998年以来、毎年臨時総会が開催されるようになった。そして、2004年のパリ総会から毎年の定期総会が導入された。FIFA総会は、FIFAの定款および各規則を実施適用される方法に関する決定を下す。必要があれば、定款および各規則の改正を行う。また、年次報告書を承認し、新加盟協会の協議の受諾を決定、FIFA会長選挙などの選挙やW杯開催国決定投票を実施する<ref>[http://www.fifa.com/about-fifa/fifa-congress/all-you-need-to-know/index.html FIFA Congress-FIFA公式HP]</ref>。
[[FIFAワールドカップ]]開催国決定は、初期から[[1974 FIFAワールドカップ|1974年W杯]]・[[1978 FIFAワールドカップ|1978年W杯]]・[[1982 FIFAワールドカップ|1982年W杯]]3大会同時開催国決定までは[[国際サッカー連盟総会|FIFA総会]]での投票で決定していたが、[[1986 FIFAワールドカップ|1986年W杯]]開催国決定以降、FIFA理事会(のちのFIFA評議会)のFIFA理事投票で決定する方式に変更されていた<ref>松岡完「ワールドカップの国際政治学」朝日新聞社、P228</ref>。その後、2010年12月2日の[[2018/2022 FIFAワールドカップ開催地決定投票|2018年及び2022年W杯開催国投票]]まで、FIFA理事会のわずか24名のFIFA理事の投票(会長は同数の場合のみ1票投じる)で決まる方式だったため<ref name="museigen" />、買収工作も容易だった([[2015年FIFA汚職事件]]参照のこと)との反省から、2018年6月13日の[[2026 FIFAワールドカップ|2026年W杯開催投票]]から[[国際サッカー連盟総会|FIFA総会(FIFA Congress)]]での開催立候補国を除く全加盟協会での投票方式に再び変更された(FIFA Statutes2016年版P28の28 Ordinary Congress agendaの2.のs <ref name="Statutes2016" />)。また、従来の不透明なW杯招致手順を明確化し、各段階で審査プロセス等を公式発表していくとした<ref>[http://www.fifa.com/worldcup/news/y=2018/m=3/news=2026-fifa-world-cup-bid-books-now-available.html 2026 FIFA World Cup bid books now available-FIFA公式HP、2018年3月26日]</ref>。2017年11月7日、2026年W杯招致手引書<ref name="2026syoutitejun">[https://resources.fifa.com/mm/document/affederation/administration/02/91/60/99/biddingregulationsandregistration_neutral.pdf FIFA REGULATIONS for the selection of the venue for the final competition of the 2026 FIFA World Cup™-FIFA公式HP、2017年11月7日]</ref>を発表し、開催立候補国の[[コンプライアンス]]や施設面、人権への配慮、コストや収益などを評価すること、そして評価の比重は、スタジアムが35パーセント、交通が13パーセント、チケット収入・商業収入・コストが各10パーセントなどとした<ref name="2026syoutitejun" />。ワールドカップ招致活動の明確な禁止事項を定め、買収工作や不適切な贈答品、W杯招致に向けたサッカー振興プロジェクトおよび親善試合開催などを禁じた<ref name="2026syoutitejun" /><ref name="Statutes2016" />。2017年11月30日の2026年W杯開催立候補国締め切りまでに立候補した[[カナダ]]・[[メキシコ]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]](3か国共同開催)と[[モロッコ]](単独開催)が、2018年3月16日の開催提案書(Bit Book)提出締切日までに開催提案書を提出。[[カナダ]]・[[メキシコ]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の3か国共同開催提案書<ref>[http://resources.fifa.com/image/upload/united-2026-bid-book.pdf?cloudid=w3yjeu7dadt5erw26wmu カナダ・メキシコ・アメリカ3カ国共同開催提案書-FIFA公式HP]</ref>と[[モロッコ]]の単独開催提案書<ref>[http://resources.fifa.com/image/upload/morocco-2026-bid-book.pdf?cloudid=weegrtyecqg3hjw8hmmr モロッコ単独開催提案書-FIFA公式HP]</ref>を、招致手引書の評価基準<ref name="2026syoutitejun" />のもと評価手順<ref>[http://resources.fifa.com/image/upload/overview-of-scoring-system-for-the-technical-evaluation-of-2026-fifa-world-cup-b.pdf?cloudid=eg1fnzj6q9ik5gmggkwi 2026年W杯評価手順概要-FIFA公式HP]</ref>にのっとり評価し、問題ないということで両候補を受け付けた。2018年4月から、FIFA評価タスクフォースが両候補を現地視察し、5月30日、両候補の事業計画のヒアリングおよび質疑応答、31日に両候補のW杯招致委員会のプレゼンを受けたあと、上記の評価基準および評価手順にのっとり2026年ワールドカップ立候補国評価レポートを作成、6月1日に公表した<ref name="report">[http://resources.fifa.com/image/upload/2026-fifa-world-cup-bid-evaluation-report.pdf?cloudid=yx76lnat3oingsmnlvzf 2026 FIFA World Cup Bid Evaluation Report]FIFA公式HP、2018年6月1日、同年6月3日閲覧</ref>。レポートでは、最低条件を2点に設定して5点満点で評価。両候補ともに合格ラインを超えたものの、3か国共催側は4点、モロッコ側は2.7点であった<ref name="report" />。さらに、開催経費や入場券販売、警備などを含めた総合評価は3か国共催側が500点満点中の402.8点で、モロッコ側は274.9点であった<ref name="report" />。大会関連施設およびインフラは、3か国共催側は「すでに運営可能なレベル」で、モロッコ側は「大会関連施設のほとんどが新設で大幅なインフラ整備が必要」と記述された<ref name="report" />。また大会収益は、3か国共催側は「143億ドル(約1兆5,662億円)」で、モロッコ側は「72億ドル(約7,900億円)」が見込まれるとレポートに記述された<ref name="report" />。[[2026 FIFAワールドカップ|2026年W杯開催国投票]]は、[[2018 FIFAワールドカップ|2018年ロシアW杯]]開幕戦前日の2018年6月13日の[[ロシア]]首都[[モスクワ]]での第68回FIFA総会で行われる。投票手続き<ref name="touhyou">[http://resources.fifa.com/image/upload/voting-procedure-for-the-2026-fifa-world-cup.pdf?cloudid=z4kk97u5ofuzrujilsu4 2026 FIFA World Cup 投票手続き-FIFA公式HP]</ref>にのっとって、立候補国4か国と資格停止の[[ガーナ]]サッカー協会(2018年6月8日、ニャンタキー同協会会長の汚職事件を受け、同日にガーナ政府が同協会に解散命令を下した。これはFIFAの禁じる「第三者の介入」にあたり、同協会は資格停止となった<ref>[https://qoly.jp/2018/06/11/ghana-football-boss-resigns-kgn-1 転げ落ちたニャンタキー会長…汚職で辞任-Qoly公式HP2018年6月11日]</ref>)を除いた残り206協会での投票となる。「3か国共催」か「モロッコ単独開催」か「該当国なしとして、両候補以外の国で招致活動やり直し」かを投票する。[[2018年]][[6月13日]]午前9時(日本時間同日午後3時)から開始された第68回FIFAモスクワ総会は、FIFA公式YouTubeチャンネルFIFATVで生中継された<ref>[https://www.fifa.com/about-fifa/news/y=2018/m=6/news=watch-the-68th-fifa-congress-live-on-fifa-com.html Watch the 68th FIFA Congress live on FIFA.com-国際サッカー連盟公式HP2018年6月12日]</ref>。開催国投票は13番目の議題<ref>[https://resources.fifa.com/image/upload/fifa-congress-2018-agenda.pdf?cloudid=gcjo2yyptnvioujysfhu Agenda of the 68th FIFA Congress at the Expocentre-国際サッカー連盟公式HP2018年6月12日]</ref>で、実際の投票は両候補のプレゼン後、午後1時50分(日本時間同日午後7時50分)から電子投票で行われ、立候補国4か国と欠席した3協会([[グアムサッカー協会|グアム]]、[[プエルトリコ]]、[[アメリカ領ヴァージン諸島サッカー連盟|アメリカ領ヴァージン諸島]])、棄権した3協会([[キューバ]]、[[スロベニアサッカー協会|スロベニア]]、[[スペインサッカー連盟|スペイン]])、先述のとおり資格停止の[[ガーナ]]の計11協会を除く200協会が投票し<ref name="touhyou2">[https://resources.fifa.com/image/upload/voting-results-for-the-2026-fifa-world-cup.pdf?cloudid=vpnl19m2xr8zk50mnor3 Voting results(2026 FIFAワールドカップ開催国投票結果)-国際サッカー連盟公式HP2018年6月13日]</ref>、「3か国共催」に134票(有効投票数の67パーセント)、「モロッコ単独開催」に65票(33パーセント)、「該当国なしで招致活動やり直し」に1票([[イラン・イスラム共和国サッカー連盟|イラン]])で、3か国共催(カナダ・メキシコ・アメリカ)が決定した<ref name="United">[https://www.fifa.com/about-fifa/news/y=2018/m=6/news=canada-mexico-and-usa-selected-as-hosts-of-the-2026-fifa-world-cuptm.html Canada, Mexico and USA selected as hosts of the 2026 FIFA World Cup™-国際サッカー連盟公式HP2018年6月13日]</ref>。投票の内訳も同日、FIFA公式HPで公開された<ref name="touhyou2" />。48か国出場となることも確認された<ref name="United" />。
FIFA評議会は、FIFAの戦略的かつ監督的な機関である。選手(男女のサッカー、フットサル、ビーチサッカー)の[[ステータス]]および移籍、これらに関する問題を扱い、特にクラブでの練習奨励と代表チームの保護に関しては、随時特別規則の形で解決していく。FIFA評議会構成メンバーは、総会で選出されたFIFA会長1名、FIFA副会長8名、6つの大陸連盟(地域連盟)それぞれで選出された計28名で、全37名である。各大陸連盟は、それぞれ1人以上は女性をFIFA評議会メンバーに選出しなければならない。どのメンバーも任期は4年で、再任は可能だが、最大でも3期12年までである(任期が連続していなくても、通算して最大3期12年まで)<ref>[http://www.fifa.com/about-fifa/fifa-council/members/index.html FIFA Council Members-FIFA公式HP]</ref>。2015年以前の旧FIFA理事会時代は任期無制限で、W杯開催国決定も理事会のみで行っていた<ref name="museigen"/>。
事務局は、FIFA評議会(以下、評議会)の監督下にあるFIFAの執行機関であり、運営主体および行政機関である。'''事務総長'''<ref group="注">{{lang-en-short|General secretary}}</ref>の下で、競技会および関連するすべての事項について評議会の決定と指示通りに行い、すべての商業契約の交渉、執行および履行を評議会の方針・手順に従って行う。また、常任委員会のための行政支援を行う。特にサッカー開発奨励金の授与(FIFAサッカー発展プロジェクトの項で後述)に関しての行政支援を行う。評議会が設定した範囲で、財務委員会(Finance Committee)が立てた予算によりFIFAの業務と日常業務の管理を行う。その他、評議会が要求し、承認したFIFAの組織に対し、効率的な運営に必要なその他の行政上の事項について行う。ただし先述したとおり、事務局は評議会の監督下にあり、必要があれば評議会が事務局の権限を取り上げることができる。
=== 常任委員会 ===
常任委員会は9つあり、FIFA評議会と事務局の職務遂行を助言し支援する。
#'''開発委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Development Committee}}</ref> — FIFAサッカー発展プロジェクト(後述)を取り扱い、各協会および大陸連盟に対し適切な支援戦略を決定し、定期的に支援戦略や実施状況をチェックする。
#'''FIFA大会組織委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Organising Committee for FIFA Competitions}}</ref> — FIFA大会のすべての事項について評議会に助言し支援する以外に、FIFA大会主催国の大会組織委員会を監督する。
#'''財務委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Finance Committee}}</ref>
#'''サッカーステークホルダー委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Football Stakeholders Committee}}</ref>
#'''ガバナンス委員会'''
#'''審査委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Governance Committee and Review Committee}}</ref>
#'''医療委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Medical Committee}}</ref>
#'''加盟協会委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Member Associations Committee}}</ref>
#'''選手ステータス委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Players' Status Committee}}</ref>
#'''審判委員会'''<ref group="注">{{lang-en-short|Referees Committee}}</ref>
=== 独立委員会 ===
独立委員会は4つあり、FIFA評議会と事務局の職務遂行を助言し支援する。FIFAから完全に独立した立場で任務を行うが、常にFIFAの利益のために、またFIFA定款およびFIFAの各規則に従って行う。独立委員会のうちの3つはFIFAの司法機関である懲戒委員会、不服申立委員会、倫理委員会である。
#'''懲戒委員会''' — 委員長、副委員長、必要な数の委員で構成され、このうち委員長と副委員長は法律訓練を受ける必要がある。FIFA懲戒規定<ref group="注">{{lang-en-short|FIFA Disciplinary Code}}</ref>に従い、加盟協会・クラブ・FIFA役員・選手・試合の代理業者・選手の代理人に対して制裁を科すことができる。決定は3人以上のメンバーで行うが、特別な場合は委員長単独で決定することができる。総会と評議会は、懲戒委員会のメンバーの停職および免職の懲戒権を保持する。
#'''不服申立委員会''' — 委員長、副委員長、必要な数の委員で構成され、このうち委員長と副委員長は法律訓練を受ける必要がある。FIFA懲戒規定に従い、懲戒委員会の決定に対する控訴の処理を行う。決定は3人以上のメンバーで行うが、特別な場合は委員長単独で決定が可能である。不服申立委員会の決定は、FIFAとしては最終決定であり、関連するすべての当事者に拘束力を有する。しかしその後も、[[スポーツ仲裁裁判所]](CAS)に上訴すること自体は可能である。
#'''倫理委員会''' — おもにFIFA倫理綱領<ref group="注">{{lang-en-short|FIFA Code of Ethics}}</ref>の侵害を調査する。 2012年以降、'''調査室'''<ref group="注">{{lang-en-short|investigatory chamber}}</ref>と'''審査室'''<ref group="注">{{lang-en-short|adjudicatory chamber}}</ref>の2つで構成されている。
#'''監査およびコンプライアンス委員会''' — 財務会計の完全性および信頼性を確保し、FIFA評議会の要請により外部監査人の報告を審査する。財務、その規制および法律上の問題について、知識や経験が豊富な3 - 7人のメンバーで構成されている。全メンバーはほかのFIFA機関に属してはならない。また、FIFAの運営に影響を与える決定に関与してはならない。任期は4年で、再選可能だが、最大3期12年までである。 委員長、副委員長、監査および委員は、FIFAガバナンス規則が定める独立基準を満たさなければならない。この委員会の中にある「報酬小委員会」は、FIFA会長、副会長および評議会メンバー、そして事務総長の個々の年間報酬を定義する責務がある。ほか、独立委員会の詳細は、FIFA Statutes(FIFA定款・規則)2016年版<ref name="Statutes2016" /> 36条、37条、50条参照のこと。
== 表彰 ==
*[[FIFA最優秀選手賞|ザ・ベスト・FIFAフットボールアウォーズ]](最優秀選手・監督・ゴールキーパー)
*[[国際プロサッカー選手会|FIFA/FIFProワールドXI]]
*[[FIFAプスカシュ賞]]
*[[FIFA会長賞]]
*[[FIFAフェアプレー賞]]
*[[FIFA功労賞]] - FIFAの総会において、サッカーの発展に貢献した個人や団体に贈られる。
*[[FIFA 100]](2004年の創立100周年を記念した特別賞)
*[[FIFA 20世紀のクラブ]]
== 大会一覧 ==
2006年に「[[FIFAコンフェデレーションズカップ]]」を除く世界大会の名称が「FIFAワールドカップ」に統一された。
=== ナショナルチーム ===
==== 男子 ====
*[[FIFAワールドカップ]]
*[[オリンピックのサッカー競技|オリンピックサッカー競技(男子)]]
*[[FIFA U-20ワールドカップ]]
*[[FIFA U-17ワールドカップ]]
*[[ユースオリンピックのサッカー競技|ユースオリンピックサッカー競技(男子)]]
*[[FIFAアラブカップ]]
==== 女子 ====
*[[FIFA女子ワールドカップ]]
*[[オリンピックのサッカー競技|オリンピックサッカー競技(女子)]]
*[[FIFA U-20女子ワールドカップ]]
*[[FIFA U-17女子ワールドカップ]]
*[[ユースオリンピックのサッカー競技|ユースオリンピックサッカー競技(女子)]]
=== クラブチーム ===
*[[FIFAクラブワールドカップ]]
*[[FIFAインターコンチネンタルカップ]]
*{{仮リンク|ブルースターズ/FIFAユースカップ|en|Blue Stars/FIFA Youth Cup}}
=== その他 ===
*[[FIFAフットサルワールドカップ]]
*[[FIFAビーチサッカーワールドカップ]]
*[[FIFAインタラクティブワールドカップ|FIFAeワールドカップ]]
=== 廃止された大会 ===
==== ナショナルチーム ====
*[[FIFAコンフェデレーションズカップ]](1992-2017)
==== クラブチーム ====
*[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]] → [[トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカカップ]](1960-2004)
=== 大会結果 ===
{{See also|2023年のスポーツ|2023年のサッカー|FIFAインターナショナルマッチカレンダー}}
{| class="wikitable"
|-
! 大会
! シーズン
! 優勝
! 詳細
! 準優勝
! シーズン
|-
! colspan="8"|ナショナルチーム
|-
| [[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]] <small>([[FIFAワールドカップ・予選|予選]])</small>
| [[2022 FIFAワールドカップ|2022]] <br><small>([[2022 FIFAワールドカップ・予選|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{fb-rt|ARG}}
| style="text-align:center"|[[2022 FIFAワールドカップ・決勝|決勝]]
| {{fb|FRA}}
| [[2026 FIFAワールドカップ|2026]] <br><small>([[2026 FIFAワールドカップ・予選|予選]])</small>
|-
| [[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]<br><small>(U-23)</small>
| [[2020年東京オリンピックのサッカー競技・男子|2020]] <br><small>([[2020年東京オリンピックのサッカー競技・男子#出場国|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{fbu-rt|23|BRA}}
| style="text-align:center"|[[2020年東京オリンピックのサッカー競技・男子#決勝|決勝]]
| {{fbu|23|ESP}}
| [[2024年パリオリンピックのサッカー競技|2024]] <br><small>([[2024年パリオリンピックのサッカー競技#男子|予選]])</small>
|-
| [[FIFA U-20ワールドカップ|U-20ワールドカップ]]
| [[2023 FIFA U-20ワールドカップ|2023]] <br><small>([[2023 FIFA U-20ワールドカップ#出場国|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{fbu-rt|20|URU}}
| style="text-align:center"|[[2023 FIFA U-20ワールドカップ・決勝|決勝]]
| {{fbu|20|ITA}}
| [[2025 FIFA U-20ワールドカップ|2025]]
|-
| [[FIFA U-17ワールドカップ|U-17ワールドカップ]]
| [[2019 FIFA U-17ワールドカップ|2019]] <br><small>([[2019 FIFA U-20ワールドカップ#出場国|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{fbu-rt|17|BRA}}
| style="text-align:center"|[[2019 FIFA U-17ワールドカップ・決勝|決勝]]
| {{fbu|20|MEX}}
| [[2023 FIFA U-17ワールドカップ|2023]]
|-
| [[ユースオリンピックのサッカー競技|ユースオリンピック]]
| [[2014年南京ユースオリンピックのサッカー競技#男子|2014]]
| style="text-align:right"|{{fbu-rt|20|PER}}
| style="text-align:center"|[[2014年南京ユースオリンピックのサッカー競技#決勝トーナメント|決勝]]
| {{fbu|20|KOR}}
| [[ユースオリンピックのサッカー競技|未定]]
|-
| [[FIFAアラブカップ|アラブカップ]]
| [[2021 FIFAアラブカップ|2021]] <br><small>([[2021 FIFAアラブカップ#概要|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{fb-rt|ALG}}
| style="text-align:center"|[[2021 FIFAアラブカップ#決勝|決勝]]
| {{fb|TUN}}
| [[FIFAアラブカップ|未定]]
|-
| [[FIFAフットサルワールドカップ|フットサルワールドカップ]]
| [[2021 FIFAフットサルワールドカップ|2021]] <br><small>([[2021 FIFAフットサルワールドカップ#出場国|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{futsal-rt|POR}}
| style="text-align:center" |決勝
| {{futsal|ARG}}
| {{仮リンク|2024 FIFAフットサルワールドカップ|en|2024 FIFA Futsal World Cup|label=2024}}
|-
| ユースオリンピック<br><small>(フットサル)</small>
| [[2018年ブエノスアイレスユースオリンピックのフットサル競技・男子|2018]]
| style="text-align:right"|[[U-20フットサルブラジル代表|ブラジル]]
| style="text-align:center"|[[2018年ブエノスアイレスユースオリンピックのフットサル競技・男子#決勝|決勝]]
| [[U-20フットサルロシア代表|ロシア]]
| [[2026年ユースオリンピックのフットサル競技・男子|2026]]
|-
| [[FIFAビーチサッカーワールドカップ|ビーチサッカーワールドカップ]]
| {{仮リンク|2021 FIFAビーチサッカーワールドカップ|en|2021 FIFA Beach Soccer World Cup|label=2021}}
| style="text-align:right"|[[ビーチサッカーロシア代表|RFU]]
| style="text-align:center"|決勝
| [[ビーチサッカー日本代表|日本]]
| {{仮リンク|2023 FIFAビーチサッカーワールドカップ|en|2023 FIFA Beach Soccer World Cup|label=2023}}
|-
! colspan="8"|女子ナショナルチーム
|-
| [[FIFA女子ワールドカップ|ワールドカップ]] <small>({{仮リンク|FIFA女子ワールドカップ・予選|en|FIFA Women's World Cup qualification|label=予選}})</small>
| [[2023 FIFA女子ワールドカップ|2023]] <br><small>([[2022 AFC女子アジアカップ|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{fbw-rt|ESP}}
| style="text-align:center"|[[2023 FIFA女子ワールドカップ・決勝|決勝]]
| {{fbw|ENG}}
| [[2027 FIFA女子ワールドカップ|2027]]
|-
| [[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]
| [[2020年東京オリンピックのサッカー競技・女子|2020]] <br><small>([[2020年東京オリンピックのサッカー競技・女子#出場国|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{fbw-rt|CAN}}
| style="text-align:center"|[[2020年東京オリンピックのサッカー競技・女子#決勝|決勝]]
| {{fbw|SWE}}
| [[2024年パリオリンピックのサッカー競技|2024]] <br><small>([[2024年パリオリンピックのサッカー競技#女子|予選]])</small>
|-
| [[FIFA U-20女子ワールドカップ|U-20ワールドカップ]]
| [[2022 FIFA U-20女子ワールドカップ|2022]] <br><small>([[2022 FIFA U-20女子ワールドカップ#出場国|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{fbwu-rt|20|ESP}}
| style="text-align:center"|[[2022 FIFA U-20女子ワールドカップ#決勝|決勝]]
| {{fbwu|20|JPN}}
| [[2024 FIFA U-20女子ワールドカップ|2024]] <br><small>([[2024 FIFA U-20女子ワールドカップ#出場国|予選]])</small>
|-
| [[FIFA U-17女子ワールドカップ|U-17ワールドカップ]]
| [[2022 FIFA U-17女子ワールドカップ|2022]] <br><small>([[2022 FIFA U-17女子ワールドカップ#出場国|予選]])</small>
| style="text-align:right"|{{fbwu-rt|17|ESP}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbwu|17|COL}}
| [[2024 FIFA U-17女子ワールドカップ|2024]] <br><small>([[2024 FIFA U-17女子ワールドカップ#出場国|予選]])</small>
|-
| [[ユースオリンピックのサッカー競技|ユースオリンピック]]
| [[2014年南京ユースオリンピックのサッカー競技#女子|2014]]
| style="text-align:right"|{{fbwu-rt|20|CHN}}
| style="text-align:center"|[[2014年南京ユースオリンピックのサッカー競技#決勝トーナメント 2|決勝]]
| {{fbwu|20|VEN}}
| [[ユースオリンピックのサッカー競技|未定]]
|-
| ユースオリンピック<br><small>(フットサル)</small>
| [[2018年ブエノスアイレスユースオリンピックのフットサル競技・女子|2018]]
| style="text-align:right"|[[U-20女子フットサルポルトガル代表|ポルトガル]]
| style="text-align:center"|[[2018年ブエノスアイレスユースオリンピックのフットサル競技・女子#決勝|決勝]]
| [[U-20女子フットサル日本代表|日本]]
| [[2026年ユースオリンピックのフットサル競技・女子|2026]]
|-
! colspan="8"|クラブチーム
|-
| [[FIFAクラブワールドカップ|クラブワールドカップ]]
| [[FIFAクラブワールドカップ2022|2022]] <br><small>([[FIFAクラブワールドカップ2022#出場クラブ|予選]])</small>
| style="text-align:right"|[[レアル・マドリード]] {{Flagdeco|ESP}}
| style="text-align:center"|[[FIFAクラブワールドカップ2022#決勝|決勝]]
| {{Flagdeco|KSA}} [[アル・ヒラル]]
| [[FIFAクラブワールドカップ2023|2023]] <br><small>([[FIFAクラブワールドカップ2023#出場クラブ|予選]])</small>
|-
| {{仮リンク|ブルースターズ/FIFAユースカップ|en|Blue Stars/FIFA Youth Cup|label=ユースカップ}}
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| style="text-align:center"|決勝
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| 未定
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{| class="wikitable"
|-
! 大会
! シーズン
! 優勝
! 詳細
! 準優勝
! シーズン
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! colspan="8"|[[eスポーツ]]
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| {{仮リンク|FIFAeネーションズカップ|en|FIFAe Nations Series}}
| 2022
| style="text-align:right"|
| style="text-align:center"|決勝
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| 2023
|-
| [[FIFAインタラクティブワールドカップ|FIFAeワールドカップ]]
| 2022
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| style="text-align:center"|決勝
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| 2023
|-
| [[FIFAeクラブワールドカップ]]
| 2022
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| style="text-align:center"|決勝
|
| 2023
|-
| [[FIFAeコンチネンタルカップ]]
| 2022
| style="text-align:right"|
| style="text-align:center"|決勝
|
| 2023
|}
== FIFAランキング ==
A[[ナショナルチーム|代表]](年齢制限のないその国最強の代表)のランキングである[[FIFAランキング]]を発表している。これまでに3度の制度改正を経ており、主観的要素を完全に排した[[国際Aマッチ]](A代表'''同士'''の公式国際試合)の結果のみに基づいて編まれるランキングとしては公平なものになっている。外国人選手も所属できる[[クラブチーム]]とは異なり、ナショナルチームは同じ国籍の選手のみのチームであるため、FIFAランキングはその国のサッカーの強さを示す「目安」となっている。[[2018 FIFAワールドカップ]]後の2018年8月16日発表(当初予定の7月19日は発表なしとなった)<ref>[https://www.fifa.com/fifa-world-ranking/news/y=2018/m=6/news=poland-and-uruguay-climb-ahead-of-russia-2018.html Poland and Uruguay climb ahead of Russia 2018]FIFA公式HP、2018年6月7日</ref>のFIFAランキングから4度目の変更(2018年方式)となり<ref>[https://www.fifa.com/about-fifa/news/y=2018/m=6/news=2026-fifa-world-cuptm-fifa-council-designates-bids-for-final-voting-by-the-fifa-.html 2026 FIFA World Cup™: FIFA Council designates bids for final voting by the FIFA Congress-FIFA公式HP、2018年6月10日]</ref>、これまでの2006年方式の過去4年間のAマッチという縛りがなくなるほか、年間平均ポイント計算がなくなり、加算方式に変更される<ref>[https://resources.fifa.com/image/upload/revision-of-the-fifa-coca-cola-world-ranking.pdf?cloudid=jgxjkdrj1jfwyunjbkha Revision of the FIFA/Coca-Cola World Ranking(2018年方式FIFAランク計算説明) -FIFA公式HP、2018年6月10日]</ref>。
FIFAワールドカップの各大陸予選においては、実力差が極めて大きい対戦を避けるため予備予選を行うことがあり、その振り分けに使われたり(たとえば、[[2006 FIFAワールドカップ・アジア予選]]ではFIFAランキングのアジア上位25チームが1次予選免除)、[[AFCアジアカップ]]などの各地域連盟主催の各大陸別選手権の予選組み分けや本大会のグループリーグの組み合わせ(ランキングが高いチームがシードなど)に使われたりしている。
また、[[FIFAワールドカップ]]本大会においても、グループリーグのシード国決定に用いられる。[[2006 FIFAワールドカップ|2006年ドイツ大会]]までは過去から現在までのFIFAランキングと過去のワールドカップ本大会の成績を元にシード国を決めていた(ドイツ大会では過去3年間のFIFAランキングとワールドカップ本大会過去2大会の成績を元に計算<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20060619115910/http://www.fifa.com/documents/fifa/events/FinalDraw_Pot1.pdf FIFAワールドカップドイツ2006ポット1最終結果]}}</ref>)が、[[2010 FIFAワールドカップ|2010年南アフリカ大会]]ではグループリーグ抽選会前のFIFAランキング(2009年10月のFIFAランキング)のみでシード国を決定した。以降のワールドカップも、本大会前年12月のグループリーグ抽選会前の10月のFIFAランキングのみでシード国を決定している。
このように、年々、FIFAランキングの重要性は増してきている。
女子の場合、男子と同様に[[FIFA女子ランキング]]があり、こちらも各国の女子のA代表チームのランキングであり、女子の[[国際Aマッチ]]の結果のみで計算される。公表は年4回であり、FIFAが初めて公認した女子代表の国際試合(フランス女子代表対オランダ女子代表:1971年4月17日)以降の全試合を集計の対象とする(男子は直近4年間のみを対象)など男子と異なる点がある。
== FIFAパートナー ==
*[[アディダス]]
*[[コカ・コーラ]]
*[[大連万達グループ]]
*[[現代自動車グループ]]
*[[カタール航空]]
*[[Visa]]
=== FIFA女子サッカーパートナー ===
*[[:en:Xero (company)|Xero]]
== FIFA+ ==
2022年4月にローインチされたFIFA+<ref>{{cite web |title=FIFA launches FIFA+ to bring free football entertainment to fans everywhere |url=https://www.fifa.com/about-fifa/organisation/media-releases/fifa-launches-fifa-to-bring-free-football-entertainment-to-fans-everywhere |work=FIFA |access-date=14 April 2022 |archive-date=13 April 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220413200025/https://www.fifa.com/about-fifa/organisation/media-releases/fifa-launches-fifa-to-bring-free-football-entertainment-to-fans-everywhere |url-status=live }}</ref> はOTTサービス。過去のFIFAワールドカップのアーカイブやオリジナルコンテンツ。さらに年間 40,000試合の生中継。うち女子の試合が11,000 試合である<ref>{{cite web |title=FIFA Plus launches with over 40,000 free soccer matches to watch live |date=13 April 2022 |url=https://www.theverge.com/2022/4/13/23023300/fifa-plus-free-40000-live-matches-original-content |publisher=The Verge |access-date=14 April 2022 |archive-date=13 April 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220413141818/https://www.theverge.com/2022/4/13/23023300/fifa-plus-free-40000-live-matches-original-content |url-status=live }}</ref>。
開始当初は[[iOS]]と[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]、PC(ブラウザ経由)のみサービスを提供していたが、2023年7月26日より[[Amazon Fire TV]]や[[Android TV]](対応テレビも含む)でもアプリの提供が開始された<ref>“[https://www.fifa.com/about-fifa/commercial/media-releases/fifa-announces-landmark-expansion-across-connected-tv-and-fast-channel FIFA+ announces landmark expansion across connected TV and FAST channel platforms]”. FIFA. 2023年7月26日</ref> 。
== FIFAサッカー発展プロジェクト ==
=== FIFAフォワードプログラム ===
以下の記述は、FIFA公式HPのFIFAフォワードサッカー発展プログラムの記事<ref>[http://www.fifa.com/development/fifa-forward-programme/index.html FIFA Forward Football Development Programme]-FIFA公式HP</ref>およびFIFAフォワードサッカー発展プログラム規則<ref>[http://resources.fifa.com/mm/document/footballdevelopment/generic/02/79/08/69/fifaforwarddevelopmentprogrammeregulations_neutral.pdf FIFA “Forward” Development Programme Regulations]-FIFA公式HP、2016年5月9日</ref>の記述に基づく。
FIFAフォワードサッカー発展プログラム(以下、FIFAフォワードプログラム)とは、2016年5月9日の[[メキシコ]]首都[[メキシコシティ]]での第66回[[国際サッカー連盟総会|FIFA総会]]で決定した、FIFA加盟全サッカー協会および全6地域連盟対象のステップアップ財政支援プログラムである。4年で1サイクルで、160万ドルから500万ドルに増額する。各サッカー協会は、年間75万ドルをピッチなどの施設の整備、女子サッカーの発展などのサッカープロジェクトに費やすことができる。また各協会は、年間50万ドルの経費を受け取る。各地域連盟へは4年間の1サイクルで、2,200万ドルから4,000万ドルに増額させる。また、女子サッカーや各年代別代表の世界大会の旅費が必要な協会には、最高100万ドルの特別手当を支給する。男女とも年代別地域大会主催協会に、年間100万ドル払い戻す。
さらに、事務総長(General secretary、JFAは専務理事)を採用する、技術委員を採用する、男女リーグ、男女のユースリーグ、女子サッカーの普及および宣伝活動、草の根サッカー推進と開発戦略、審判の推進と開発戦略等全10項目の基準を満たす協会(少なくとも2つは女子サッカーを重視すること)は、基本年間10万ドルに加え、毎年5万ドルの追加資金、最大で毎年40万ドルの追加資金を得ることができる。
これらの資金を各協会および各地域連盟が正しく運営するために、FIFAは監督機能も強化している。
*2年から4年にわたる開発委員会承認の開発戦略を設定し、協会ごとに1つの目標の契約を行うこと。
*すべてのオーダーメイドの各プロジェクトは契約とリンクし、 開発委員会の承認を得るために30万ドル以上のプロジェクトを行うこと。
*FIFAの管理者は、プロジェクトの進捗状況を監視する。
*各協会のフォワードプログラム資金運営で、各協会から独立した財務監査を行うこと。
*より強力な監督権限と厳しい遵守措置を含む強化された開発規制。
*独立したFIFA開発委員会の少なくとも50パーセントは、フォワードプログラムを監督する
*フォワードプログラム会員協会の年次財務に関する独立監査の公表。
==== 主な実施例 ====
先述の通り、2016年から開始されたFIFA加盟全協会(2018年時点で全211協会)に対する財政支援プログラムのため、下記はその一例である。
*[[ペルーサッカー連盟|ペルーサッカー協会]] — 2016年3月に開始されたペルー全土の選手育成計画「マイナーズプラン(Minors Plan)」をFIFAが財政支援。同年、20の地域に開発センターが創設され(開発センターのコーチは総計165人)、2017年にはその中の5つの地域にはさらにU-14とU-16のコーチと管理者を設置。 各地域の選手を選抜し(2016年で約1万5,000人の選手の中から)、最優秀選手が開発センターに選出され(2016年で1000人)、最終的にU-14およびU-16全国地域チーム選手権に参加した(2016年で700人以上)。また、240人以上のスカウトがペルー全土に分散し、優秀な選手を発掘している。2017年時点では、開発センター出身の170人の選手が15のプロクラブでプレーしている。大会の試合は毎週土曜日に無料チャンネルで放送される<ref>[https://www.fifa.com/development/news/y=2017/m=7/news=peru-planning-unprecedented-growth-2901681.html Peru planning unprecedented growth]FIFA公式HP、2017年7月21日</ref>。
*[[アイスランドサッカー協会]] — 2016年、U-18[[サッカーアイスランド代表|アイスランド代表]]に20万2,000ドル(約2197万6,166円)、[[サッカーアイスランド女子代表|アイスランド女子B代表]]に15万8,000ドル(約1,718万9,278円)、2017年10月には[[サッカーアイスランド女子代表|アイスランド女子代表]]に30万ドル(約3,388万7,010円)をFIFAが支援した。その後も、アイスランド女子代表に総額90万ドル(約1億138万500円)以上FIFAが支援したおかげで、同代表は2016年末に中国で行われた女子代表の大会出場や2018年1月合宿など以前はできなかった強化日程を消化することができ、[[2019 FIFA女子ワールドカップ]]初出場を果たした<ref>[https://www.fifa.com/womens-football/news/y=2018/m=1/news=investment-sparking-fresh-icelandic-dreams-2926327.html Investment sparking fresh Icelandic dreams]FIFA公式HP、2018年1月7日</ref>。
*[[日本サッカー協会|日本サッカー協会(JFA)]] — [[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ]]の参加チームの旅費を、FIFAが支援<ref>[https://www.fifa.com/news/y=2018/m=3/news=new-youth-project-takes-roots-in-japan.html New youth project takes roots in Japan]FIFA公式HP、2018年3月6日</ref>。
=== FIFAゴールプロジェクト ===
以下の記述は、FIFA公式HPのFIFAゴールプロジェクト説明の記事<ref>[https://www.fifa.com/who-we-are/news/goal-project-introduction-81676 Goal Project - An introduction]-FIFA公式HP、2002年3月26日配信</ref>の記述に基づく。
1999年から2015年までに実施されたFIFAゴールプロジェクトは、インフラ整備、組織体制作り、教育(指導者・審判・スポーツ医学など)、ユース育成等の国際サッカー連盟(FIFA)の助成制度である。その究極の目標は、権威あるサッカー協会にすることである。[[ゼップ・ブラッター]]第8代FIFA会長が提案し、1999年7月9日に[[ロサンゼルス]]で開催された[[国際サッカー連盟総会|FIFA臨時総会]]で批准された。FIFAゴールビューローが、全サッカー協会からゴールプロジェクトの対象協会を選び、その協会に合わせた助成を行う。 FIFAゴールビューローは、FIFA技術委員会から選ばれた6名のメンバーで構成される。
各サッカー協会の優先順位に応じて、ゴールプロジェクトは次の分野で支援する。
*[[インフラストラクチャー|インフラ]] — サッカー場の建設および改修、練習及び授業を行うセンター設立、サッカー協会のオフィスビル建設など。
*管理 — 国および地域団体、職員などの組織体制整備。
*教育 — 管理の方法、コーチング、スポーツ医学、審判など。
*ユースサッカー — 若年選手の指導者養成、優秀な選手育成、サッカースクールなど。
*ゴールプロジェクト対象協会のニーズに基づくその他の分野
対象協会との協力関係を強化するため、世界中に開発事務所が設置されている。開発事務所には、高度な資格を持つFIFAの専門家である開発担当役員が配置されている。 各開発事務所は、事務所近接の約15 - 20の各サッカー協会の開発を委任されている。 各開発事務所は各サッカー協会に近いため、協会のニーズをより詳細に分析でき、またプロジェクトの監督および管理が容易になる。
たとえば、インフラ整備で同プロジェクトから助成を受けるには、対象協会がその施設の土地を使用する権利を25年間持つことが条件であった。 1プロジェクトに対し、40万USドル(約4,000万円)まで助成可能で、 1プロジェクト終了後、増築などの目的、2期プロジェクトを申請し許可されれば、再度40万USドルの助成を受けられた。
==== おもな実施例 ====
;[[朝鮮民主主義人民共和国サッカー協会|北朝鮮サッカー協会]](2001年 - 2013年)6回合計200万USドル(約2億1,390万円)受領
:[[金日成競技場]]人工芝の張り替え、同協会の建物と北朝鮮代表選手の合宿所補修、[[朝鮮民主主義人民共和国サッカー協会#育成と強化|平壌国際サッカー学校]]の建設および補修費<ref>[https://web.archive.org/web/20180408050026/http://japanese.yonhapnews.co.kr/northkorea/2013/10/31/0300000000AJP20131031001300882.HTML FIFA 北朝鮮の国際サッカー学校建設費を支援]、ソウル聯合ニュース、2013年10月31日配信</ref>
;[[日本サッカー協会|日本サッカー協会(JFA)]](2009年)40万USドル(約4,000万円)受領
:[[Jヴィレッジ]]内のJFAメディカルセンター設置(残りの整備費約3億7,000万円と運営費および維持費は、JFA負担)<ref>[https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/k20071207_6.pdf (協議)資料№6]、日本サッカー協会公式HP、2007年12月7日配信</ref><ref>[http://www.jfa.jp/football_family/medical/jmc.html JFAメディカルセンター]、日本サッカー協会公式HP</ref>
;[[フィリピンサッカー連盟|フィリピンサッカー連盟(PFF)]](2014年 - 2016年)50万USドル(約5,348万円)受領
:[[サンラサロ競馬場]]のある公園内に設けられた[[:en:PFF National Training Centre|PFFナショナルトレーニングセンター]]の人工芝のピッチ<ref>{{cite news|last1=Leyba|first1=Olmin|title=PFF to build Azkals training facility|url=http://www.philstar.com/sports/2014/06/19/1336545/pff-build-azkals-training-facility|accessdate=1 December 2014|work=The Philippine Star|date=19 June 2014}}</ref><ref>[http://www.actglobal.com/blog/act-global-completes-fifa-goal-project-at-san-lazaro-leisure-park-cavite-city-philippines/ Act Global Completes FIFA Goal Project at San Lazaro Leisure Park, Cavite City, Philippines]、アメリカの会社Act global</ref>
2007年12月7日時点で、FIFA加盟106協会が助成を受けており、承認済み295プロジェクトのうち、121が進行中だった。この時点で計画段階が31であった。
== クリーンスタジアム ==
FIFA主催大会においては、FIFAブランド並びに公式スポンサーの権利の保護を目的として、スタジアムとその周囲に商業制限区域 (Commercial Restriction Areas, CRA) を設け、FIFA及び公式スポンサー以外による大会(及びその観客・関係者)をマーケティングの対象とした[[アンブッシュマーケティング]]を排除し<ref>{{Cite web|url=https://www.fifa.com/about-fifa/marketing/brand-protection/prohibited-marketing-activities.html|title=FIFA’s Brand Protection - Prohibited marketing activities (ambush marketing)|website=FIFA.com|language=en|accessdate=2019-10-05}}</ref>、商業制限区域内での商業活動を制限している<ref>{{Cite web|url=https://www.fifa.com/about-fifa/marketing/brand-protection/surveillance.html|title=FIFA’s Brand Protection - Surveillance|website=FIFA.com|language=en|accessdate=2019-10-05}}</ref>。
具体的には、商業制限区域内の広告類(施設の[[命名権|ネーミング・ライツ]]を含む)や大会に際して開かれる臨時の販売施設等に関しては公式スポンサーのもの以外は原則として排除される(「クリーンな状態」に置かれる)ことになっており、商業制限区域内では屋外広告は原則としてマスキングされるか一時的に取り除かれる。特に命名権に関しては、しばしば「全ての大会で命名権が行使できない」或いは「全ての大会で一時的に正式名称とする」と言及されることがあるが、正しくは「全ての大会で公式スポンサー以外の企業等を想起させる名称としない」というものであり、大会の公式スポンサーであればそのまま命名権名称が存置されることがある。例えば、[[EAFF E-1サッカー選手権2017]]で男子決勝ラウンドの会場となった[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]は、[[味の素]]が大会の公式スポンサーであったため、正式名称の「東京スタジアム」ではなく、命名権名称である「味の素スタジアム」がそのまま用いられた(一方で、同じ大会の女子決勝ラウンドの会場であった[[フクダ電子アリーナ]]は、正式名称である「千葉市蘇我球技場」が用いられた)。なお、命名権名称を用いた公共施設名についてはこれら規定が適用されないこともあり、例えば味の素スタジアム前交差点は味の素スタジアムを東京スタジアムと呼称する場合でも名称が変更されることはない。
なお、FIFAのこのルールにおいては、商業制限区域内での地元企業による商業活動(バーやレストラン、コンビニエンスストアなど)は「制限されるべきではない(通常通りの営業・看板の掲出ができる)」としている。
== FIFAマスター(FIFA大学院)==
2000年に開設された「[[スポーツ]]に関する組織論、歴史・哲学、法律についての国際[[修士]]」のことで、[[スイス]]にあるスポーツ教育機関CIES(The International Centre for Sports Studies、スポーツ研究国際センター)と提携してFIFAが運営しているスポーツ学に関する[[大学院]]のコースである。10か月の間に[[イギリス]]・[[イタリア]]・スイスにある3つの大学を回って学習し、幅広くスポーツ界で活躍する人材を養成することを目的として設立された<ref>[http://www.goal.com/jp/news/3476/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2/2011/12/19/2809150/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E3%81%8C%E5%BC%95%E9%80%80%E4%BC%9A%E8%A6%8B%E4%BB%8A%E5%BE%8C%E3%81%AF%EF%BD%86%EF%BD%89%EF%BD%86%EF%BD%81%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%8F%97%E8%AC%9B 宮本が引退会見、今後は「FIFAマスター」受講](Goal.com日本語版 2011年12月19日)</ref>。
入学するには、最初に高校卒業証明書、大学の卒業・成績証明書、英語力証明書([[TOEFL]](minimum 600 PBT / 250 CBT / 100 IBT points)かCambridge Certificate of Proficiencyか[[IELTS]](minimum level 7.5 in the « Academic Test »)のどれか1つ)、[[Graduate Management Admission Test|GMAT]]、スポーツや志望動機などの5つの質問の回答(ショートエッセイ)を英語で300字程度などの必要書類を1月22日頃までに提出する。書類審査で通過した合格者がさらに電話面接などで絞りこまれ、4月中旬に最終合格者(定員25名程度、世界各国から集まるように配慮される)が決まる。最終合格者が授業料25,000[[スイス・フラン]](1フラン110円換算で275万円)を全額支払えば、入学手続き完了となる。毎年、9月に開講する。9 - 12月にHumanities of Sports(スポーツの[[人文科学]])をイギリス・[[レスター]]の[[:en:De Montfort University|ド・モンフォル大学]]で、翌年1 - 3月にManagement(経営学)をイタリア・[[ミラノ]]の[[:en:Bocconi University|ボッコーニ大学]]で、4 - 7月にSport Law(スポーツの法律)をスイスの[[ヌーシャテル]]の[[:en:University of Neuchâtel|ヌーシャテル大学]]で学び、7月中旬に卒業という流れである。さらに、7月下旬に「ファイナルプロジェクト」というグループ(1グループ3 - 5名)で取り組む卒論発表([[プレゼンテーション]])があり、1グループ30分で行われ、FIFA、[[国際オリンピック委員会|IOC]]、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]、[[欧州クラブ協会|ECA]]、大学教授などの参加者から質問を受け、その後の会議で論文の内容とプレゼンテーションの出来を踏まえて成績評価される<ref name="fifaマスター卒論">[http://fifama.blog132.fc2.com/blog-date-201107.html 卒論発表会 - Final Project Presentation -FIFA Masterへの道~Road to FIFA Master ~](2011年7月21日)</ref>。単なる卒論発表に留まらず、その卒論がきっかけで、さまざまな活動が実現している。FIFAに[[企業の社会的責任|CSR]]部門ができたり、[[イスラエル]]と[[パレスチナ]]の子どもたちのサッカーキャンプ交流が実現したりなどしている。
2011年7月21日に行われた日本人を含む5か国のグループの卒論発表がきっかけで<ref name="fifaマスター卒論"/>、2012年3月22日、FIFAが[[国際Aマッチ|国際Aマッチデー]]の代表選手の負傷選手、クラブ、加盟協会に対する補償金を支払う(国際Aマッチデー出場代表選手保険導入)意向を示し<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20120322-921540.html FIFAが代表活動に補償金](日刊スポーツ 2012年3月22日)</ref>、同年5月25日のFIFA総会で同年9月以降の国際Aマッチデーの代表選手保険導入を決めたり<ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/05/25/kiji/K20120525003326690.html FIFA総会 代表選手保険など支出含む予算案を承認]([[スポーツニッポン]] 2012年5月25日)</ref>、2012年3月22日にUEFAが代表選手保険システム導入(選手の国籍関係なしの欧州全クラブの所属選手の代表戦での負傷保険)を発表するなどしている<ref>[https://megalodon.jp/2012-0324-1408-47/sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/euro/12/headlines/20120323-00000000-spnavi-socc.html UEFA、代表選手保険システム導入へ]</ref>。
卒業生はFIFAやUEFA、IOC、[[アジアサッカー連盟|AFC]]、各国サッカー協会、[[スポーツ仲裁裁判所|CAS]]などのスポーツ機関、スポーツテレビ局、[[スポーツマーケティング]]会社、各国サッカーリーグおよび[[FCバルセロナ]]などのサッカークラブなどで活躍している<ref>[http://fifama.blog132.fc2.com/blog-date-20120115.html 卒業後 -FIFA Masterへの道~Road to FIFA Master ~2012年1月15日]</ref>。
また、卒業生の多くがスイスの[[ローザンヌ]]にある20の国際スポーツ連盟や団体、スポーツ関連会社10数社が集まり、世界中のスポーツのルールを決定している国際スポーツハウス(Maison du Sport International、略称MSI)<ref>[http://www.ifsports-guide.ch/english/navigation/maison_du_sport_en.html The House of International Sport(MSI)公式HP]</ref>で働いている<ref>[http://fifama.blog132.fc2.com/blog-entry-105.html 国際オリンピック委員会が設立した大学院? AISTS -FIFA Masterへの道~Road to FIFA Master ~2012年2月20日]</ref>。また、卒業生はFIFAマスター同窓会協会(FIFA Master Alumni Association、略称FMA)を通じて、世界中に構築されたFIFAマスターのネットワークをビジネスに活用することができる<ref>[https://www.fifama.org/ FIFAマスター同窓会協会(FIFA Master Alumni Association)公式サイト]</ref>。
FMAはその名の通り、2年に1度、国際的なスポーツの大会に合わせてその国および都市でFIFAマスター同窓会を開催しており(前回は[[2010 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・南アフリカ大会]]で開催)、2012年は[[2012年ロンドンオリンピックのサッカー競技|ロンドンオリンピック]]に合わせロンドンで開催された<ref>[http://www.fifa.com/aboutfifa/footballdevelopment/education/cies/masteralumniassociation.html FMA - FIFA Master Alumni Association-FIFA公式HP]</ref><ref>[http://fifama.blog132.fc2.com/blog-entry-109.html 同窓会@ロンドン -FIFA Masterへの道~Road to FIFA Master ~2012年4月21日]</ref>。
2013年7月19日、2012 - 2013年第13期生修了式が行われ、[[宮本恒靖]]を含め24か国の生徒が卒業した<ref>[http://www.fifa.com/aboutfifa/footballdevelopment/education/news/newsid=2137906/index.html Jones: FIFA Master graduates fundamental for success-FIFA公式HP2013年7月19日]</ref>。日本人は2013年7月19日時点で、通算9名ほどがFIFAマスターを卒業している。元プロサッカー選手の卒業生は2名で、日本人元プロサッカー選手および元[[サッカー日本代表|日本代表]]としては宮本恒靖が初めてである<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO45803230W2A900C1000000/?df=2 価値観、覆されるか サッカーを外から学ぶ-from FIFAマスター(宮本恒靖コラム)-日経新聞2012年9月10日]</ref>。2017年7月14日、2016 - 2017年第17期生修了式が行われ、[[大滝麻未]]と一般日本人の女性の2名の日本人女性がFIFAマスターを卒業した<ref>[http://www.fifa.com/development/news/y=2017/m=7/news=students-graduate-from-the-17th-edition-of-the-fifa-master-2901566.html Students graduate from the 17th edition of the FIFA Master-FIFA公式HP2017年7月19日]</ref>。大滝は、日本の元女子サッカー選手および元[[サッカー日本女子代表|日本女子代表]]としては初めてのFIFAマスター卒業であったが、直後の2017年8月に現役復帰した<ref>[https://www.footballchannel.jp/2017/08/06/post225164/ 元なでしこ大滝麻未が現役復帰。フランスのクラブと契約]FOOTBALL CHANNEL (2017.8.6付)、2018年1月25日閲覧。</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<ref name="associations">[http://www.fifa.com/associations/index.html Associations-FIFA公式HP]</ref>
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== 関連項目 ==
* [[欧州サッカー連盟]]<small>(UEFA)</small>
* [[南米サッカー連盟]]<small>(CONMEBOL)</small>
* [[オセアニアサッカー連盟]]<small>(OFC)</small>
* [[アジアサッカー連盟]]<small>(AFC)</small>
** [[ASEANサッカー連盟]]
** [[南アジアサッカー連盟]]
** [[西アジアサッカー連盟]]
** [[東アジアサッカー連盟]]
** [[中央アジアサッカー協会]]
* [[アフリカサッカー連盟]]<small>(CAF)</small>
** [[北アフリカサッカー連合]]
** [[西アフリカサッカー連合]]
** [[中部アフリカサッカー連盟連合]]
** [[南部アフリカサッカー協会評議会]]
** [[東部・中部アフリカサッカー協会評議会]]
* [[北中米カリブ海サッカー連盟]]<small>(CONCACAF)</small>
** [[中米サッカー連合]]
** [[カリブ海サッカー連合]]
** [[北アメリカサッカー連合]]
== 外部リンク ==
* [https://www.fifa.com/ 国際サッカー連盟(FIFA)公式ウェブサイト] <small>{{in lang|en|fr|de|es|pt|it|id|ja|ko|ar}}</small>
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[[Category:国際競技連盟|さつかあ]]
[[Category:1904年設立の組織]]
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12,309 |
アリー・ハサン・エル=サムニー
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アリー・ハサン・エル=サムニー(علي حسن السمني)は、エジプト出身のアラビア語教育者。博士。生年月日不詳。
来日して1963年から1978年まで、東京外国語大学アラビア語科の客員教授や外務省研修所非常勤講師、イスラミックセンター・ジャパン(ICJ)の理事などを務め、数百人のアラビア語学習者を育成した。日本におけるアラブ・イスラーム文化への貢献が評価され、昭和天皇から勲章を授与された。東京モスクを介して、日本のイスラム教社会にも寄与した。
日本人女性と結婚し、二人の娘(いずれも、カイロ大学政治経済学部卒)をもうけた。
現在、二人の娘が日本とエジプト・アラブとの橋渡しとして活躍中である。
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アリー・ハサン・エル=サムニー(علي حسن السمني)は、エジプト出身のアラビア語教育者。博士。生年月日不詳。 来日して1963年から1978年まで、東京外国語大学アラビア語科の客員教授や外務省研修所非常勤講師、イスラミックセンター・ジャパン(ICJ)の理事などを務め、数百人のアラビア語学習者を育成した。日本におけるアラブ・イスラーム文化への貢献が評価され、昭和天皇から勲章を授与された。東京モスクを介して、日本のイスラム教社会にも寄与した。 日本人女性と結婚し、二人の娘(いずれも、カイロ大学政治経済学部卒)をもうけた。 師岡カリーマ・エルサムニー(獨協大学講師、NHK教育テレビ「アラビア語会話」の講師、NHKワールドのアラビア語アナウンサー)
師岡イマーン(NHKラジオアラビア語講座出演など) 現在、二人の娘が日本とエジプト・アラブとの橋渡しとして活躍中である。
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'''アリー・ハサン・エル=サムニー'''('''علي حسن السمني''')は、[[エジプト]]出身の[[アラビア語]]教育者。博士。生年月日不詳。
来日して[[1963年]]から[[1978年]]まで、[[東京外国語大学]]アラビア語科の客員教授や[[外務省研修所]]非常勤講師、[[イスラミックセンター・ジャパン]](ICJ)の理事などを務め、数百人のアラビア語学習者を育成した。日本におけるアラブ・イスラーム文化への貢献が評価され、[[昭和天皇]]から勲章を授与された。[[東京モスク]]を介して、日本の[[イスラム教]]社会にも寄与した。
日本人女性と結婚し、二人の娘(いずれも、[[カイロ大学]]政治経済学部卒)をもうけた。
*[[師岡カリーマ・エルサムニー]]([[獨協大学]]講師、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]「[[アラビア語会話]]」の講師、[[NHKワールド]]のアラビア語アナウンサー)
*[[師岡イマーン]]([[NHKラジオ第2放送|NHKラジオ]]アラビア語講座出演など)
現在、二人の娘が日本とエジプト・アラブとの橋渡しとして活躍中である。
== 参考資料 ==
*[http://www.islamcenter.or.jp/ イスラミックセンター・ジャパン]
*http://islamcenter.or.jp/newarab/islam%20in%20japan.doc (アラビア語)
*http://islamcenter.or.jp/newarab/Dawa%20in%20Japan.doc (アラビア語)
[[Category:中東イスラーム研究者|ありはさんえるさむに]]
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商法総則
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商法総則(しょうほうそうそく)とは、形式的には商法(明治32年法律第48号)第一編「総則」を指し、同編に関する解釈を扱う商法学の分野の名でもある。
総則とは、ある法律においてその全体に通じる規定をいい、商法のほかにも民法や刑法などにも存在するが、商法総則に関しては、商法典における総則としての役割を果たしている条文は僅かである。
以下、条数のみ記載する場合には、日本の商法典の条文番号を意味する。
商法総則には、以下の規定がおかれている。
第1章「通則」は、商法の適用に関する規定をまとめたものである。日本法は私法的法律関係に関する法として民法と商法とを区別する法体系を採用しており、商法の適用範囲や適用順序を規定する必要があるため、本章に規定が置かれている。また、公法人が商行為を行う場合に関する規定も存在する。
第2章から第7章までは、商人、その人的施設・物的施設及びそれに関連する事項に関する規定である。ただし、後述のとおり、商人に関しこれらの規定のみで自足性を有するものではない。
商法の適用対象となる商人の定義は商法総則に置かれているが、商行為概念をその要素としているため、商行為に関する規定(商法501条、502条)を参照しなければ商人概念が確定できないようになっている。つまり、日本の商法は、基本的に、商行為(絶対的商行為と営業的商行為)の概念を用いて、商人を定義している(商法4条1項)。このようにして定義される商人は、日本の商法典上、本来の意味での商人であるから、講学上、固有の商人と言われる。そして、固有の商人の概念を導く基本となっている絶対的商行為と営業的商行為とを併せて、講学上、基本的商行為という。このように、「固有の商人」概念は、基本的商行為(絶対的商行為と営業的商行為)の概念によって定義されている(商行為主義)。
他方、擬制商人は、商行為概念を用いることなく、定義されている(商法4条2項)。
上記に対し、附属的商行為(基本的商行為に対する対概念としては、補助的商行為)は、商人(固有の商人のみならず、擬制商人を含む)がその営業のためにする行為とされている(商法503条1項)。ここでは、「固有の商人」の場合とは逆に、「商人」の概念をもって、附属的商行為が定義されていることになる。
会社法制定に伴い改正される前の第2章から第7章までは、性質上会社には適用されない規定を除き、個人商人であると会社であると問わず適用される商人の組織やそれに密接に関連する規定をまとめたものであった。しかし、会社法の制定に伴い、会社に適用されるものは会社法で規律されることになった。特に、第4章から第7章までは会社たる商人には適用されないことは明文があり(商法11条1項)、会社には会社法第1編「総則」(登記については第7編第4章「登記」)が適用される。
また、非営利法人が商人の地位を有する場合には、商法総則の適用可能性がないわけではないが、法人設立の根拠法令等により適用が除外される場合がある(例:一般社団法人及び一般財団法人に関する法律9条など)。
これらの事情から、会社も適用対象になる規定もあるものの(4条1項)、ほとんどの規定が個人商人が適用対象であることが想定されている。
第8章「雑則」は、署名に代わる記名押印の扱いに関する規定(もともと商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律で規律されていたもの)である。 平成30年の改正で削除された。
会社法制定前の議論として、商取引に関する総則的な規定は、第3編(現行の第2編)「商行為」第1章「総則」に存在していたため、商法総則の総則性は、企業組織に関する総則以上のものではないとの指摘がされていた。
また、会社法制定により、商人の一種である会社の人的施設及び物的施設については会社法が規律するようになった。そのため、組織に関する規定としても総則性が希薄化された。
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"title": "商法総則の総則性"
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商法総則(しょうほうそうそく)とは、形式的には商法(明治32年法律第48号)第一編「総則」を指し、同編に関する解釈を扱う商法学の分野の名でもある。 総則とは、ある法律においてその全体に通じる規定をいい、商法のほかにも民法や刑法などにも存在するが、商法総則に関しては、商法典における総則としての役割を果たしている条文は僅かである。 以下、条数のみ記載する場合には、日本の商法典の条文番号を意味する。
|
'''商法総則'''(しょうほうそうそく)とは、形式的には[[商法]](明治32年法律第48号)第一編「総則」を指し、同編に関する解釈を扱う[[商法学]]の分野の名でもある。
[[総則]]とは、ある法律においてその全体に通じる規定をいい、商法のほかにも[[民法 (日本)|民法]]や[[刑法 (日本)|刑法]]などにも存在するが、商法総則に関しては、商法典における総則としての役割を果たしている条文は僅かである。
以下、条数のみ記載する場合には、日本の商法典の条文番号を意味する。
== 構成・内容 ==
[[b:第1編 総則 (コンメンタール商法)|商法総則]]には、以下の規定がおかれている。
* 第1章「通則」([[b:商法第1条|1条]]〜[[b:商法第3条|3条]])
* 第2章「[[商人 (商法)|商人]]」([[b:商法第4条|4条]]〜[[b:商法第7条|7条]])
* 第3章「[[商業登記]]」([[b:商法第8条|8条]]〜[[b:商法第10条|10条]])
* 第4章「[[商号]]」([[b:商法第11条|11条]]〜[[b:商法第18条|18条]])
* 第5章「[[商業帳簿]]」([[b:商法第19条|19条]])
* 第6章「[[商業使用人]]」([[b:商法第20条|20条]]〜[[b:商法第26条|26条]])
* 第7章「[[代理商]]」([[b:商法第27条|27条]]〜[[b:商法第31条|31条]]、形式的には500条までであるが、32条は平成30年の改正により、33条から500条までは会社法制定に伴う改正により削除された条文である。)
=== 通則 ===
第1章「通則」は、商法の適用に関する規定をまとめたものである。日本法は[[私法]]的法律関係に関する法として民法と商法とを区別する法体系を採用しており、商法の適用範囲や適用順序を規定する必要があるため、本章に規定が置かれている。また、[[公法]]人が商行為を行う場合に関する規定も存在する。
=== 商人及び施設等 ===
第2章から第7章までは、[[商人 (商法)|商人]]、その人的施設・物的施設及びそれに関連する事項に関する規定である。ただし、後述のとおり、商人に関しこれらの規定のみで自足性を有するものではない。
==== 商法総則と商行為法 ====
[[画像:Syoukoui.svg|thumb|400px|日本商法典における商行為規定の構造]]
{{See also|商行為}}
{{See also|商人_(商法)}}
商法の適用対象となる商人の定義は商法総則に置かれているが、'''[[商行為]]'''概念をその要素としているため、[[商行為]]に関する規定(商法501条、502条)を参照しなければ商人概念が確定できないようになっている。つまり、日本の商法は、基本的に、商行為(絶対的商行為と営業的商行為)の概念を用いて、商人を定義している(商法4条1項)。このようにして定義される商人は、日本の商法典上、本来の意味での商人であるから、講学上、'''固有の商人'''と言われる。そして、固有の商人の概念を導く基本となっている絶対的商行為と営業的商行為とを併せて、講学上、'''基本的商行為'''という。このように、「固有の商人」概念は、基本的商行為(絶対的商行為と営業的商行為)の概念によって定義されている(商行為主義)。
他方、擬制商人は、商行為概念を用いることなく、定義されている(商法4条2項)。
上記に対し、附属的商行為(基本的商行為に対する対概念としては、補助的商行為)は、商人(固有の商人のみならず、擬制商人を含む)がその営業のためにする行為とされている(商法503条1項)。ここでは、「固有の商人」の場合とは逆に、「商人」の概念をもって、附属的商行為が定義されていることになる。
<!--
そして、平成17年改正によって削除された旧商法532条においては、民事会社が営業としてする行為についても商法を適用すべく、これを商行為とみなす旨規定されていたが(このようにして商行為とみなされた行為を、'''準商行為'''という)、この規定は、民事会社以外の擬制商人一般に類推適用されると解釈されていたため、擬制商人の概念によって準商行為が定義されていた。
=== 商行為についての特則 ===
商行為一般について適用される特則は以下のとおりであるが、別途各論で各種の商行為ごとの特則も定められている。
* 商事時効 ([[b:商法第522条|522条]])
* 法定利率 ([[b:商法第514条|514条]])
* 代理の方式 ([[b:商法第504条|504条]])
* 商行為の委任 ([[b:商法第505条|505条]])
* 多数債務者の連帯 ([[b:商法第511条|511条]]1項)
* 保証人の連帯 ([[b:商法第511条|511条]]2項)
* 流質契約の自由 ([[b:商法第515条|515条]])
* 対話者・隔地者間における契約の申込の失効 ([[b:商法第597条|507条]]、[[b:商法第508条|508条]])
* 債務履行の場所・時 ([[b:商法第516条|516条]]、[[b:商法第520条|520条]])
なお、当事者の一方にとって商行為であれば、商行為法は双方に適用される。([[b:商法第3条|3条]]1項)
--><!-- 商法総則の項目に記載すべき事項か疑義があるので、コメントアウト -->
==== 会社法との関係など ====
会社法制定に伴い改正される前の第2章から第7章までは、性質上会社には適用されない規定を除き、個人商人であると会社であると問わず適用される商人の組織やそれに密接に関連する規定をまとめたものであった。しかし、[[会社法]]の制定に伴い、会社に適用されるものは会社法で規律されることになった。特に、第4章から第7章までは[[会社]]たる商人には適用されないことは明文があり(商法11条1項)、会社には会社法第1編「総則」(登記については第7編第4章「登記」)が適用される。
また、非営利法人が商人の地位を有する場合には、商法総則の適用可能性がないわけではないが、法人設立の根拠法令等により適用が除外される場合がある(例:[[一般社団法人及び一般財団法人に関する法律]]9条など)。
これらの事情から、会社も適用対象になる規定もあるものの(4条1項)、ほとんどの規定が個人商人が適用対象であることが想定されている。
=== 署名に代わる記名押印 ===
第8章「雑則」は、署名に代わる記名押印の扱いに関する規定(もともと[[商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律]]で規律されていたもの)である。
平成30年の改正で削除された。
== 商法総則の総則性 ==
会社法制定前の議論として、商取引に関する総則的な規定は、第3編(現行の第2編)「[[商行為]]」第1章「総則」に存在していたため、商法総則の総則性は、企業組織に関する総則以上のものではないとの指摘がされていた<ref>[[鴻常夫]]『商法総則 新訂第五版』119頁(弘文堂)</ref>。
また、会社法制定により、商人の一種である[[会社]]の人的施設及び物的施設については[[会社法]]が規律するようになった。そのため、組織に関する規定としても総則性が希薄化された。
<!--
===不正競争防止の観点===
他の商人と誤認させる名称等の使用の禁止について規定した[[b:商法第12条|12条]]の規定は、不正競争防止の観点が折り込まれている。つまり、商法の総則として位置づけが希薄であり、むしろ[[不正競争防止法]]に取り込まれるべきものである。--><!-- 会社法制定により大幅に規律が変わったので再検討の余地あり -->
== 出典 ==
<references/>
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{{DEFAULTSORT:しようほうそうそく}}
[[Category:日本の商法|*]]
[[Category:商法]]
|
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12,311 |
イオン芯
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イオン芯(イオンしん)とは、原子のうち原子核および閉殻となっている内殻電子のこと。つまり通常、イオン芯+価電子=原子となる。内殻電子と価電子の切り分けは場合により通常のものと異なることがある。
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イオン芯(イオンしん)とは、原子のうち原子核および閉殻となっている内殻電子のこと。つまり通常、イオン芯+価電子=原子となる。内殻電子と価電子の切り分けは場合により通常のものと異なることがある。
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{{出典の明記|date=2023年1月12日 (木) 03:37 (UTC)}}
'''イオン芯'''(イオンしん)とは、[[原子]]のうち[[原子核]]および閉殻となっている[[内殻電子]]のこと。つまり通常、イオン芯+価電子=原子となる。内殻電子と[[価電子]]の切り分けは場合により通常のものと異なることがある。
<!-- == 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
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12,312 |
情報学
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情報学(じょうほうがく)という語が指す学術分野は、基本的には情報に関する分野であるが、歴史的な事情により、特に英語と日本語の対応があいまいである。もともとは図書館学の一部である、書誌情報の管理・検索を由来とする情報や知識を扱う分野がコンピュータの発展などで大きくなったため、図書館情報学(Library and Information Science)と呼ぶようになった分野があり、その場合の「情報学」は「Information Science」である(Library and Information Scienceという成語に気付かず、「図書館と情報科学」と訳されている場合がある)。一方、社会情報学(social informatics)やバイオインフォマティクス(生命情報学)等といった「~informatics」=「~情報学」と呼ばれている分野もあるが、その場合の「情報学」は「Informatics」である(インフォマティクスも参照)。
教科「情報」については、その英訳としての英文表記に関し Informatics を使うように、2017年4月18日に情報処理学会から提言が出されている。
ここでは、日本学術会議による「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準 情報学分野」を参考に、情報学の分野およびその背景、概要について述べる。中等教育に関しては、情報 (教科) の記事を参照。
2016年現在、日本学術会議には、大きな分野別として「人文・社会科学」「生命科学」「理学・工学」の3部の部会がある。また、それとは直接の対応関係にはない30の分野別委員会が設けられており、そのうちのひとつが情報学委員会である。この組織構成は第20期(2005年 - 2008年)以降のものである。第19期までは、7部構成の下に180の研究連絡委員会があるという組織構成で、第4部(理学)に情報学研究連絡委員会、第5部(工学)に情報工学研究連絡委員会、電子・通信工学研究連絡委員会、基盤情報通信研究連絡委員会、が設けられていた。このことや、情報処理学会の学会誌『情報処理』の、創刊以来の総目次を見ても、1980年頃より、コンピュータ科学に近いが、コンピュータを重要な要素として含むものの、情報そのものにより重点がある分野として「情報学」という分野が捉えられていることがわかる。
(2016年現在)日本学術会議には、前述の分野別委員会の他に、機能別委員会と課題別委員会という委員会群がある。課題別委員会のひとつに、大学教育の分野別質保証委員会があり、大学教育の分野別質保証に資するため、各分野の教育課程編成上の「参照基準」というものを、各分野別委員会に作成させ、とりまとめている。
情報学委員会では、既存の情報科学技術教育分科会が中心となり、この策定にあたった。経緯は、分科会委員長である萩谷昌己の筆により学会誌上に報告されている。
分類の背景となる事柄について述べる。参照基準では、情報学を、情報によって世界に意味と秩序をもたらすとともに社会的価値を創造することを目的とし、情報の生成・探索・表現・蓄積・管理・認識・分析・変換・伝達に関わる原理と技術を探求する学問である、と定義している。また、この種々累々にわたる情報の取扱いについて「情報を扱う」と総称する。
また、情報学を構成する諸分野は、単に情報を扱うというだけではなく、情報と対象、情報と情報の関連を調べることにより、情報がもたらす意味や秩序を探求しており、さらに、情報によって価値、特に社会的価値を創造することを目指している、としている。
以上の概念からは、当然のように応用分野も広く考えることができるが、参照基準の目的は専門家教育の質の保証であることから、専門家には「最も基本的な中核部分を体系的に学ぶことがきわめて重要」であるため、中核部分に焦点を絞っている。そのため、以下で述べる分野についても、情報学の中核部分に特に絞ったものとなる。
参照基準では、次の5つの項目によって、情報学の中核部分を体系化している。
以下では各項目について、付録ア~付録オに示されている表を参考に、それぞれの分野を示す(詳細は出典の文献を参照のこと。例示であって、網羅するものではない。ウィキペディアの記事名や構成の都合により調整してある箇所もある)。また、参考として示されている、国際学会ACMの Curricula Recommendations における5分類(CS: Computer Science, CE: Computer Engineering, IS: Information Systems, SE: Software Engineering(日本でよく言われる、SE = システムエンジニア とは全く異なるので注意), IT: Information Technology)との対応についても示す。
まず総論的な解説であるが、1は記号論やサイバネティックスに由来する概念を含み、情報・情報学の中核部分全体を分類・体系化する指針を与える。2は計算理論や情報理論を含み、コンピュータ科学としてはその基礎分野で、Curricula Recommendationsでは「CS」の基礎的な内容にあたる(ここでいう「基礎」とは、「初歩」といったような意味ではない)。3はコンピュータ科学においてコンピュータシステムを設計し実現する技術で、Curricula Recommendationsでは「CE」と、「CS」の一部にあたる。4はメディア論やコミュニケーション論を含み、社会情報学等と呼ばれる諸分野である。5は情報システムなどと呼ばれている分野で、Curricula Recommendationsでは「IS」と「SE」と「IT」に対応する。さらに、情報学の学修を通して、Computational Thinking(「計算論的思考」、en:Computational thinking)などのジェネリックスキルの修得が期待されている。
記号論・サイバネティックス
計算理論・情報理論
計算機械・計算機工学
メディア論・コミュニケーション論
情報システムなど
(ジェネリックスキル等)
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情報学(じょうほうがく)という語が指す学術分野は、基本的には情報に関する分野であるが、歴史的な事情により、特に英語と日本語の対応があいまいである。もともとは図書館学の一部である、書誌情報の管理・検索を由来とする情報や知識を扱う分野がコンピュータの発展などで大きくなったため、図書館情報学と呼ぶようになった分野があり、その場合の「情報学」は「Information Science」である。一方、社会情報学やバイオインフォマティクス(生命情報学)等といった「~informatics」=「~情報学」と呼ばれている分野もあるが、その場合の「情報学」は「Informatics」である(インフォマティクスも参照)。 教科「情報」については、その英訳としての英文表記に関し Informatics を使うように、2017年4月18日に情報処理学会から提言が出されている。
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'''情報学'''(じょうほうがく)という語が指す学術分野は、基本的には[[情報]]に関する分野であるが、歴史的な事情により、特に英語と日本語の対応があいまいである。もともとは[[図書館学]]の一部である、書誌情報の管理・検索を由来とする情報や知識を扱う分野がコンピュータの発展などで大きくなったため、[[図書館情報学]](Library and Information Science)と呼ぶようになった分野があり、その場合の「情報学」は「Information Science」である(Library and Information Scienceという成語に気付かず、「図書館と[[情報科学]]」と訳されている場合がある)。一方、社会情報学([[w:social informatics|social informatics]])や[[バイオインフォマティクス]](生命情報学)等といった「~informatics」=「~情報学」と呼ばれている分野もあるが、その場合の「情報学」は「Informatics」である([[インフォマティクス]]も参照)。
[[情報 (教科)|教科「情報」]]については、その英訳としての英文表記に関し '''Informatics''' を使うように、2017年4月18日に情報処理学会から提言が出されている<ref>[http://www.ipsj.or.jp/release/teigen20170418.html 高等学校教科「情報」の英文表記について-情報処理学会]</ref>。
== 教育 ==
=== 日本 ===
* 後期中等教育
** [[情報 (教科)]]
* 学部等
** [[情報学部]] [[情報学科]]
** [[情報学群]] [[情報学環]]
* 大学院
** [[情報学研究科]]
== 情報学の分野 ==
ここでは、[[日本学術会議]]による「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準 情報学分野」<ref>「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準 情報学分野」 https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-h160323-2.pdf</ref>を参考に、情報学の分野およびその背景、概要について述べる。中等教育に関しては、[[情報 (教科)]] の記事を参照。
=== 日本学術会議と情報学 ===
2016年現在、日本学術会議には、大きな分野別として「人文・社会科学」「生命科学」「理学・工学」の3部の部会がある。また、それとは直接の対応関係にはない30の分野別委員会が設けられており、そのうちのひとつが'''情報学委員会'''である。この組織構成は第20期(2005年 - 2008年)以降のものである。第19期までは、7部構成の下に180の研究連絡委員会があるという組織構成で、第4部(理学)に'''情報学研究連絡委員会'''、第5部(工学)に情報工学研究連絡委員会、電子・通信工学研究連絡委員会、基盤情報通信研究連絡委員会、が設けられていた<ref>日本学術会議と「情報学」の新展開, {{naid|110004749775}}</ref>。このことや、[[情報処理学会]]の学会誌『情報処理』の、創刊以来の総目次<ref>http://www.ipsj.or.jp/magazine/contents_m_01-30.html http://www.ipsj.or.jp/magazine/contents_m.html</ref>を見ても、1980年頃より、[[コンピュータ科学]]に近いが、コンピュータを重要な要素として含むものの、情報そのものにより重点がある分野として「情報学」という分野が捉えられていることがわかる。
=== 「参照基準」とは ===
(2016年現在)日本学術会議には、前述の分野別委員会の他に、機能別委員会と課題別委員会という委員会群がある。課題別委員会のひとつに、大学教育の分野別質保証委員会があり、大学教育の分野別質保証に資するため、各分野の教育課程編成上の「参照基準」というものを、各分野別委員会に作成させ、とりまとめている<ref>https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigakuhosyo/daigakuhosyo.html</ref>。
情報学委員会では、既存の情報科学技術教育分科会が中心となり、この策定にあたった。経緯は、分科会委員長である[[萩谷昌己]]の筆により学会誌上に報告されている。<ref>情報学を定義する -情報学分野の参照基準, {{naid|110009795427}}( https://www.ipsj.or.jp/magazine/9faeag000000hkfv-att/5507-kai.pdf )</ref><ref>ぺた語義:情報学分野参照基準その後, {{naid|110009866525}}( https://www.ipsj.or.jp/magazine/9faeag0000005al5-att/peta5602.pdf )</ref>
=== 背景 ===
分類の背景となる事柄について述べる。参照基準では、'''情報学'''を、情報によって世界に意味と秩序をもたらすとともに社会的価値を創造することを目的とし、情報の生成・探索・表現・蓄積・管理・認識・分析・変換・伝達に関わる原理と技術を探求する学問である、と定義している。また、この種々累々にわたる情報の取扱いについて「情報を扱う」と総称する。
また、情報学を構成する諸分野は、単に情報を扱うというだけではなく、情報と対象、情報と情報の関連を調べることにより、情報がもたらす意味や秩序を探求しており、さらに、情報によって価値、特に社会的価値を創造することを目指している、としている。
以上の概念からは、当然のように応用分野も広く考えることができるが、参照基準の目的は専門家教育の質の保証であることから、専門家には「最も基本的な中核部分を体系的に学ぶことがきわめて重要」であるため、中核部分に焦点を絞っている。そのため、以下で述べる分野についても、情報学の'''中核部分に特に絞ったもの'''となる。
=== 分野 ===
参照基準では、次の5つの項目によって、情報学の中核部分を体系化している。
# [[情報]]一般の原理
# [[コンピュータ]]で処理される情報の原理
# 情報を扱う機械および機構を[[設計]]し実現するための技術
# 情報を扱う人間社会に関する理解
# 社会において情報を扱う[[システム]]を構築し活用するための技術・制度・組織
以下では各項目について、付録ア~付録オに示されている表を参考に、それぞれの分野を示す(詳細は出典の文献を参照のこと。例示であって、'''網羅するものではない'''。ウィキペディアの記事名や構成の都合により調整してある箇所もある)。また、参考として示されている、国際学会ACMの ''Curricula Recommendations''<ref>http://www.acm.org/education/curricula-recommendations</ref> における5分類(CS: Computer Science, CE: Computer Engineering, IS: Information Systems, SE: Software Engineering(日本でよく言われる、SE = [[システムエンジニア]] とは全く異なるので注意), IT: Information Technology)との対応についても示す。
まず総論的な解説であるが、1は[[記号論]]や[[サイバネティックス]]に由来する概念を含み、情報・情報学の中核部分全体を分類・体系化する指針を与える。2は[[計算理論]]や[[情報理論]]を含み、[[コンピュータ科学]]としてはその基礎分野で、Curricula Recommendationsでは「CS」の基礎的な内容にあたる(ここでいう「基礎」とは、「初歩」といったような意味ではない)。3はコンピュータ科学において[[コンピュータシステム]]を設計し実現する技術で、Curricula Recommendationsでは「CE」と、「CS」の一部にあたる。4は[[メディア論]]や[[コミュニケーション論]]を含み、社会情報学等と呼ばれる諸分野である。5は[[情報システム]]などと呼ばれている分野で、Curricula Recommendationsでは「IS」と「SE」と「IT」に対応する。さらに、情報学の学修を通して、Computational Thinking(「計算論的思考」、[[:en:Computational thinking]])<ref>[https://www.cs.cmu.edu/afs/cs/usr/wing/www/ct-japanese.pdf 『計算論的思考』(Jeannette M. Wing ''Computational Thinking'', 中島秀之訳) (PDF)]</ref>などのジェネリックスキルの修得が期待されている。
==== 情報一般の原理 ====
[[記号論]]・[[サイバネティックス]]
* [[情報]]と[[意味]]
** [[生命]]にとっての[[意味]]と[[価値]]
** 情報と[[秩序]]
* 情報の種類
** 機械情報 ⊂ [[社会]]情報 ⊂ 生命情報
* 情報と[[記号]]
** 類似記号([[アナログ信号]])
** 指標記号([[ピクトグラム]]など)
** 象徴記号([[ディジタル]]信号、[[言語]]における文字類)
* 記号の意味解釈
** 生物(人間)個体の意味解釈
** 社会的な意味解釈
** コンピュータなど機械的・形式的な意味処理
* [[コミュニケーション]]
** 生物個体(閉鎖系)/ 社会(半自律系)/ 機械(他律的な開放系)
* 社会的価値の創造
==== コンピュータで処理される情報の原理 ====
'''[[計算理論]]・[[情報理論]]'''
* 情報の変換と伝達、[[データ通信]]
** [[情報量]](情報のエントロピー)
** [[標本化]]([[標本化定理|染谷・ナイキストの定理]])・[[量子化]]
** [[符号理論]]([[データ圧縮]]・[[誤り検出訂正]])
** [[暗号理論]]
* [[システム]]の理論([[システム工学]]・[[システム科学]])
* 情報の表現・蓄積・管理
** 概論([[文字コード]]・[[コンピュータの数値表現|数値表現]]、など)
** [[データ構造]]・[[再帰データ型]]
** [[型システム]]
** [[データベース]]・[[データモデル]]・[[スキーマ (データベース)|スキーマ]]
** [[構造化データ]](参考: [[非構造化データ]])・[[機械判読可能なデータ|機械可読データ]]・[[ハイパーテキスト]]
* 情報の認識と分析
** [[信号処理]]
** [[パターン認識]]
** [[機械学習]]
** [[データマイニング]]
* [[計算]]
** [[計算モデル]]
*** [[オートマトン]]と[[形式言語]]、[[形式言語の階層]]([[チョムスキー階層]])、[[チャーチ=チューリングのテーゼ|チューリング=チャーチのテーゼ]])
*** [[確率]]的計算、[[並列計算]]、[[分散コンピューティング|分散計算]]
*** [[量子計算]]
** [[アルゴリズム]]
*** 従来の(決定的etc)アルゴリズム
*** 新しいアルゴリズム(確率的アルゴリズム(参考: [[乱択アルゴリズム]])、[[並列アルゴリズム]]、[[分散アルゴリズム]]、etc)
** 計算の限界([[計算可能性理論|計算可能性の理論]])
** 計算の効率([[計算複雑性理論|計算複雑性の理論]])
** 計算の表現
*** [[プログラミング言語|コンピュータプログラミング言語]]・[[プログラム意味論]](形式意味論)
** 計算の正しさ
*** [[ホーア論理|プログラム論理]]、[[プログラム検証]]
* 各種の計算・アルゴリズム
** [[探索]]、整列([[ソート]])、[[文字列探索|文字列照合]]
** 木([[木構造 (データ構造)|木構造]])・ネットワーク([[グラフ (データ構造)|グラフ構造]])のアルゴリズム
*** 木に関係するアルゴリズム([[平衡二分探索木]]や、[[ゲーム木]]に対する[[アルファ・ベータ法]]など)
*** ネットワーク(グラフ)に関係するアルゴリズム(最短経路([[ダイクストラ法]])、[[最大フロー問題|最大流路]]、など)
*** [[複雑ネットワーク]]の扱い
** 数値計算
*** '''[[誤差]]解析'''
*** '''[[数値解析]]'''、なお[[計算科学]]や[[高性能計算]]の記事も参考のこと。
*** 行列の計算、特に[[行列#行列の分解|行列の分解]]<ref group="注釈">連立方程式を解くのに、逆行列を直接求めるのは無駄であり、LU分解等の利用が常識である。</ref>や[[行列の乗法]]のアルゴリズム
*** [[数値積分]]や[[差分法]]など、積分や微分方程式のアルゴリズム
** [[シミュレーション]]
*** [[数理モデル]]
*** 連続シミュレーションと離散シミュレーション
*** [[可視化]]・[[グラフィック]]・[[コンピュータグラフィックス]]・[[インフォグラフィック]]
** 最適化
*** [[最適化問題]]に関する数々の手法([[線型計画法]]、[[動的計画法]]、etc)
*** [[メタヒューリスティクス]]
** [[計算幾何学|計算幾何]]
** [[自動推論]]([[導出原理]]、[[モデル検査]])
** [[自然言語処理]]([[計算言語学]]も参照)
==== 情報を扱う機械および機構を設計し実現するための技術 ====
'''計算機械'''・[[計算機工学]]
* コンピュータの[[ハードウェア]]
** 素子([[半導体素子]]・論理ゲート・[[集積回路]]・[[CMOS]])
** [[ディジタル回路]]
*** [[論理回路]]
*** [[演算装置]]・[[制御装置]]・[[主記憶装置]]・[[キャッシュメモリ]]
** [[コンピュータ・アーキテクチャ]]
*** [[マイクロアーキテクチャ]]・制御方式(ランダム論理制御=[[ワイヤードロジック]]、[[マイクロプログラム方式|マイクロプログラム制御]])
*** [[命令セット]]アーキテクチャ
*** 並列([[命令レベルの並列性]]・[[マルチコア]]/[[マルチプロセッシング|マルチプロセッサ]]・Warehouse-Scale Computing)
* [[入出力]]装置
** [[インタフェース (情報技術)]]([[シリアル通信|シリアルインタフェース]]・[[パラレル通信|パラレルインタフェース]]・[[ネットワークインタフェース]])
** 出力機器([[プリンター]]・[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]・[[アクチュエータ]])
** [[入力機器]]([[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]・[[ポインティングデバイス]]・[[タッチパネル]]・[[センサ]])
** [[二次記憶装置]]([[磁気記録]]・光記録・[[半導体メモリ]]・[[ハードディスクドライブ|HDD]]・[[ソリッドステートドライブ|SSD]])
* 基本[[ソフトウェア]]<ref group="注釈">この「基本ソフトウェア」は、文字通り基本的なソフトウェアという意味であり、「[[オペレーティングシステム]]のよくわからない言い換え語」のそれではない。</ref>([[システムソフトウェア]])
** [[オペレーティングシステム]]
*** (「[[計算資源|コンピュータ資源]]」の抽象化・[[仮想化]])
*** [[カーネル]]・[[ハイパーバイザ]]・[[仮想機械]]
*** [[メモリ管理]]・[[プロセス管理]]・[[プロセス間通信]]・デバイス管理(機器管理、[[デバイスドライバ]]管理)・[[アクセス制御]]・[[ファイルシステム]]・論理的ボリューム管理([[:en:Logical volume management]])・[[単一レベル記憶]]
*** [[コンピュータネットワーク]]([[プロトコルスタック]]、[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]、[[遠隔手続き呼出し]] (RPC)、[[ウェブアプリケーション]])
** [[ミドルウェア]]([[ライブラリ]]、[[ソフトウェアフレームワーク|フレームワーク]]、[[デーモン (ソフトウェア)]] )
** [[データベース]]([[トランザクション]]、[[データベース設計]]・[[データベース管理システム]])
** コンピュータプログラミング言語とその処理系
*** [[プログラミング言語]]([[高水準言語]]、[[低水準言語]]、文法(プログラミング言語の構文論)、意味([[プログラム意味論|プログラミング言語の意味論]])、プログラミング言語のパラダイム(参考: [[プログラミングパラダイム]]))
*** 言語処理系([[プリプロセッサ]]、[[字句解析]]、[[構文解析]]、[[抽象構文木]]、意味解析、[[コード生成]]、[[コンパイラ最適化|最適化]])
*** 実行方式([[ランタイムライブラリ]]、[[トランスパイラ]]、[[中間表現]]、[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]、等の話題)
* [[コンピュータセキュリティ]]
==== 情報を扱う人間社会に関する理解 ====
[[メディア論]]・[[コミュニケーション論]]
* 社会において情報が創造・伝達される過程と仕組み
** [[コミュニケーション]](非文字的情報・言語情報、[[非言語コミュニケーション]]を参照。なお[[手話]]は[[言語]]であるので注意)
** [[メディア (媒体)|メディア]]~技術的・文化的特性
*** 機械的な情報技術([[印刷]])——文字情報の機械的処理、[[識字]]・[[リテラシー]]、[[検閲]]、[[ジャーナリズム]]の成立
*** 光学的、電気的な情報技術([[オーディオ・ビジュアル]])——[[文化産業]]、イメージ生産とその操作、[[Computer-Mediated Communication]](参考文献 ''Cybersociety 2.0: Revisiting Computer-Mediated Community and Technology''<ref>''Cybersociety 2.0: Revisiting Computer-Mediated Community and Technology'' https://www.sagepub.in/textbooks/Book7919</ref>( ISBN 0761914617 )参照)、速度と権力(『情報メディア学入門』<ref>『情報メディア学入門』 http://shop.ohmsha.co.jp/shopdetail/000000002937/</ref>( ISBN 4-274-94711-4 )第2章§4)
*** 電子的な情報技術([[インターネット|the Internet]])——機械的な検索([[情報検索]]や[[検索エンジン]])などの言語処理(たとえば[[全文検索]]にはそれに適した、汎用の文字列照合アルゴリズムとは違う手法がある)、記録、保存(アーカイブ、データベース(参考: [[デジタルアーカイブ]]、ただしこの記事は公共財としての観点に偏っている))、ディジタル通信、情報ガバナンスと管理社会
* 情報を扱う人間の特性と社会システム
** 討議、参加、ディジタルディバイド
*** 誤解と誤読、参加と排除、[[情報格差]]
** 観測、シミュレーション(参考: [[オペレーションズ・リサーチ]])、制御と社会的意思決定
*** 観測の限界([[ホーソン効果]]のような話題)、計算の限界
*** 科学的データと[[意思決定]]([[科学的方法]]も参照)
*** 科学技術コミュニケーション(参考: [[サイエンスコミュニケーション]]、及びJSTによる支援のページ<ref>科学技術コミュニケーション推進事業 https://www.jst.go.jp/csc/support/</ref>)
*** [[集合知]]
** 情報倫理と社会組織のルール
*** 表現の自由、と責任
*** [[知的財産]]
*** [[情報公開]]、[[インフォームド・コンセント]]
*** [[プライバシー]]
*** [[内部告発]]
*** [[アカウンタビリティ]]
* 経済システムの存立と情報
** 経済システムと情報
*** モノの生産と制御([[プロセス制御]]や[[ファクトリーオートメーション]])
*** [[ロジスティクス]]を支える[[情報システム]](参考: ロジスティクスの原義は[[兵站]]である)
*** [[マーケティング]]
*** 資源と廃棄
** 組織マネジメント
*** 内部情報/外部情報
*** 情報マネジメント(参考資料<ref>https://www.engineer.or.jp/c_topics/000/000807.html の「添付資料」</ref>を参照)
*** パブリック・コミュニケーションズ
*** [[ガバナンス]]とガバメント(『ガバナンスとは何か』<ref>『ガバナンスとは何か』 http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100002279</ref>( ISBN 978-4-7571-4317-3 )第1章§1)
* [[情報技術]]を基盤にした文化
** アーカイブ(映像(音声等その他各種を含む)・文書(ドキュメント)・図書館)
** ディジタル文化と資本
*** SNSの文化
*** [[電子書籍]](電子教科書)、電子新聞
*** 映像
*** 検索と知
*** ディジタルテレビ
*** 資本、公共、コモン
* [[近代社会]]からポスト近代社会へ
** 近代社会の価値と人間
*** 近代社会と情報技術・[[近代人]]と情報技術
** ポスト近代社会への移行
*** 新たに求められる人間の能力
*** より民主的な社会の実現と情報技術
==== 社会において情報を扱うシステムを構築し活用するための技術・制度・組織 ====
[[情報システム]]など
* 情報システムを開発する技術
** 要求工学
*** 現場の観察法([[フィールドワーク]]、エスノグラフィ(「民族誌」と訳されるそれと同じものを指す語だが、ウィキペディアの[[民族誌]]の記事はこの場合の参考にほとんどならない)、アクションリサーチ)
*** 要求定義、要求獲得技術、[[要求管理]]([[要求仕様]]、[[要求分析]]なども参照)
** [[システム工学]]
*** [[システムズシンキング|システム思考]]、システム設計技法、システム設計技術、システムライフサイクル(参考: [[システム開発ライフサイクル]])、[[システムアーキテクチャ]]、[[デザイン思考]]
** 情報システムを記述する技術
*** 各種モデル化技法(構造化分析、[[データモデリング]]、業務フロー、状態モデル、'''[[形式手法]]''')と各種図法([[データフロー図]]、[[統一モデリング言語|UML]]、[[ビジネスプロセスモデリング表記法|BPMN]]、[[Systems Modeling Language|SysML]])
** [[ソフトウェア工学]]
*** [[ソフトウェア設計]]技法([[オブジェクト指向モデリング|オブジェクト指向モデル]]、ドメイン主導開発([[ドメイン駆動設計]]))、ソフトウェアライフサイクル(参考: [[システム開発ライフサイクル]]・[[アプリケーション・ライフサイクル・マネジメント]])
** プログラミング技術
*** [[オブジェクト指向プログラミング]]
*** テスト主導開発([[テスト駆動開発]])
*** プログラミング支援環境(参考: [[プログラミングツール]])
** 情報システムの[[品質保証|品質を保証]]する技術
*** '''検証技術([[形式的検証]])'''
*** [[ソフトウェアテスト|テスト]]技法
*** ISO/IEC SQuaREシリーズ(ISO/IEC 25000)、[[ISO/IEC 9126]]を参照
** [[プロジェクトマネジメント|プロジェクト管理]]
*** 計画、チーム編成、プロジェクト管理、[[PMBOK]]、[[ソフトウェア開発工程|ソフトウェアプロセス]]、[[能力成熟度モデル統合|プロセス成熟度モデル]]
* 情報システムの効果を得るための技術
** 情報システムを企画・構想する技術
*** 組織の改革・改善プロセス、業務モデリング、IT投資マネジメント([[ITガバナンス]])
*** 組織の情報システムに関するガイドライン([[エンタープライズアーキテクチャ]])
** 情報システムの利用(利用計画、利用推進、効果測定、トレーニング、改善提案)
** 情報システムの運用・保守・管理([[ITサービスマネジメント]])
*** '''[[システム運用]]'''
*** [[ソフトウェア保守]]
*** [[情報管理]]・[[構成管理]]・[[システム管理]]
** 企業・組織
*** [[企業の社会的責任]]
*** [[ビジネスモデル]](事業の定義、業務プロセス)、[[内部統制]](組織と権限)
** グローバルな組織と情報システム
** 安全・安心なシステム
*** [[事業継続計画]]、環境に対する配慮
*** '''[[情報セキュリティ]]'''(情報セキュリティは、暗号の学理や工学的[[コンピュータセキュリティ]]などの総合)
*** [[リスクマネジメント]]、[[ダメージコントロール]]
* 情報に関わる社会的なシステム
** 社会制度
*** 社会におけるさまざまな情報システム、情報システムを前提とした社会制度
*** '''技術者倫理'''(参考: [[社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会]])
*** システム監査、評価・認証
*** 異文化理解(参考: [[異文化コミュニケーション]])
** 法制度
*** [[サイバー犯罪]]の防止
*** [[不正アクセス行為の禁止等に関する法律]]、[[不正指令電磁的記録に関する罪]]
*** [[マルウェア]]各種([[コンピュータウイルス]]他)について
*** [[情報漏洩]]・持ち出し
*** [[個人情報]]の保護'''([[個人情報保護法関連五法]]の定義する「個人情報」ではないからと主張されても、そういう問題ではないことも多い)'''
*** [[知的財産権|知的財産'''権''']]'''の'''保護(知的'''財産の「適切<ref group="注釈">たとえば、作者の死後50年まで継続して保護する、というルールの遵守など。</ref>」な'''活用)
* 情報システムと人間のインタフェースに関する原理や設計手法
** 人間の認知特性
*** [[認知科学]]
*** [[モデルヒューマンプロセッサ]]、人間の認知構造、[[フィッツの法則]]
*** 直接操作
*** [[ヒューマンエラー]]
*** 学習のべき乗則
** [[ユーザインタフェース設計]]
*** [[ヒューマンマシンインタフェース]]
*** ユーザインタフェース指針([[:en:Human interface guidelines]])、[[ユーザビリティ]]、[[アクセシビリティ]]、[[ユーザーエクスペリエンス]](参考: [[ユーザーエクスペリエンスデザイン]])、[[ユニバーサルデザイン]]、評価手法(参考: [[ユーザビリティテスト]])
** 対話手法((インタラクティブな、インタラクティブの)手法)
*** GUI部品([[ウィジェット (GUI)]] )、タッチインタフェース、音声インタフェース、ジェスチャインタフェース、その他先進的インタフェース([[タンジブルユーザインタフェース]]など)
*** 対話の可視化、ヒューマンエラーへの対応
** [[可視化]]
*** [[情報デザイン]]([[情報アーキテクチャ]])、科学的ビジュアライゼーション([[:en:Scientific visualization]])・[[データ視覚化]]、(参考: [[インフォグラフィック]])
==== その他 ====
(ジェネリックスキル等)
* Computational Thinking(計算論的思考)
<!--
[[西垣通]]『基礎情報学-生命から社会へ』によれば、情報学の4つの分野として、次のようにある(ただし、同書に分類の明確な定義が書かれているわけではない)。まず、情報の意味をどのようにとらえるかによって、大きく3つの分野に分類できる。主に情報の意味を問題にせず、純粋に[[情報量]]の概念が適用できる情報を扱う情報工学に対し、情報工学的な情報を扱いながらも、それが実際の場面で持つ何らかの意味を問題にする[[応用情報学]]、さらに、基本的に情報の意味そのものを問題にする[[社会情報学]]がある。ただし、これはあくまで大まかな分類であり、実際にはこの中間に位置する分野もある。また、これらとは別に、情報と意味の関係を基礎づける[[基礎情報学]]と呼ばれる学問領域もある。
=== 情報工学 ===
* [[情報工学]]
* [[情報科学]]
* [[計算機科学]]
* [[計算機工学]]
* [[情報システム学]]
* [[計算科学]]
* [[数学]]
* [[数理科学]]
* [[数理工学]]
* [[制御理論]]
=== 応用情報学 ===
* [[知能情報学]]
* [[法情報学]]
* [[経営情報学]]
* [[教育情報学]]
* [[図書館情報学]]
* [[博物館情報学]]
* [[環境情報学]]
* [[森林情報学]]
* [[医療情報学]]
=== 社会情報学 ===
* [[社会情報学]]
** [[メディア論]]
** [[コミュニケーション論]]
* [[マスコミュニケーション学]]
* [[新聞学]]
* [[広報学]]
* [[文化情報学]]
* [[情報社会学]]
* [[情報経済学]]
* [[人間情報学]]
* [[情報人類学]]
=== 基礎情報学 ===
* [[基礎情報学]]
=== 関連分野 ===
* [[情報倫理学]]
* [[情報哲学]]
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author=西垣通|authorlink=西垣通
|title = 基礎情報学 : 生命から社会へ
|year = 2004
|publisher = [[NTT出版]]
|isbn = 4-7571-0120-1
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}}
* {{Cite book|和書
|author=レジス・ドブレ|authorlink=レジス・ドブレ
|translator = 嶋崎正樹
|others = 西垣通監修
|title = 一般メディオロジー講義
|origyear =
|year = 2001
|publisher = NTT出版
|series = レジス・ドブレ著作選
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|isbn = 4-7571-0046-9
|oclc =
|page =
}}
* 長尾真ほか編『岩波講座マルチメディア情報学』岩波書店、1999-2001年。
* {{Cite book|和書
|editor=北川高嗣ほか|editor-link=北川高嗣
|title = 情報学事典
|year = 2002
|publisher = [[弘文堂]]
|id =
|isbn = 4-335-55081-2
|oclc =
|page =
}}
* 土屋礼子編『日本メディア史年表』吉川弘文館、2018年。
<!--
== 関連項目 ==
* [[集合知]]
* [[巨大知]]
* [[インフォマティクス]]
* [[情報]]
* [[情報文化学会]]
* [[総合科学]]
* [[基礎科学]] - [[応用科学]]
* [[情報学部]]
* [[文系と理系]]
-->
== 外部リンク ==
{{commonscat}}
{{wikiversity|School:情報学|情報学}}
* {{Kotobank}}
<!--{{公衆衛生}}--><!--公衆衛生?!-->
{{Academia-stub}}
{{authority control}}
<!--{{Socsci-stub}}--><!--社会科学なの?-->
{{DEFAULTSORT:しようほうかく}}
[[Category:情報学|*]]
<!-- [[sk:Informatika]]<[[d:Q4027615]]≠[[d:Q16387]] -->
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2023-09-04T09:38:11Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%AD%A6
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12,314 |
Quartz
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Quartz(クオーツ)は、Appleのオペレーティングシステム macOS の描画コアエンジン。前身であるNeXTのDPSに代わり、PDFベースの描画モデルを採用したもの。三次ベジェ曲線を描画プリミティブとするベクトル型システムで、QuickDrawとの互換性はない。なお、QuickDrawはCarbonアプリケーションの互換性のためmacOSにも残されている。
細かく言うと、アプリケーションで個々のバッファに描画を行うプリミティブはQuartz 2Dと呼び、それらを最終的にGPUのフレームバッファに合成する部分はQuartz Compositor(クオーツ・コンポジター)という。単にQuartzという場合は、大抵Quartz 2Dのことである。現在のQuartzの構造では、Quartz 2D、QuickDraw、OpenGL、QuickTimeの各出力が最終的にQuartz Compositorによって画面に描画される形になっている。
Quartzの機能は、Objective-CからはCocoa APIを通して、またC/C++言語からはCarbon APIを通して利用できる。またAppleはQuartzのスクリプト言語バインディングのひとつとしてPythonのバインディングを公式に用意している。
Mac OS X v10.2 (Jaguar) 以降では、環境に応じてGPUのジオメトリ演算ユニットを使って、 CPUの負荷を軽減するQuartz Extremeが実装された。これはQuartz Compositorのバッファ合成をGPU内部で行うシステムであり、これによりOpenGLとの混在描画も可能となった。
Mac OS X v10.4 (Tiger) ではGPUのプログラマブルシェーダを使って、描画演算をほぼ全てビデオチップ内で実行できるQuartz 2D Extreme(Mac OS X v10.5(Leopard)でQuartzGLに名称変更)が隠し機能として搭載されている(多くの不具合を抱えたまま実装されオフにされており、正式にはサポートされていない)。
DPSからQuartzへと実装が変更された理由は、一説にはAdobeのライセンス料が高額だったためといわれていた。しかし、実際にはDPSでは機能が足りず、現代的な描画システムとしてふさわしいリッチなものが必要であったことが主な理由である。
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Quartz(クオーツ)は、Appleのオペレーティングシステム macOS の描画コアエンジン。前身であるNeXTのDPSに代わり、PDFベースの描画モデルを採用したもの。三次ベジェ曲線を描画プリミティブとするベクトル型システムで、QuickDrawとの互換性はない。なお、QuickDrawはCarbonアプリケーションの互換性のためmacOSにも残されている。 細かく言うと、アプリケーションで個々のバッファに描画を行うプリミティブはQuartz 2Dと呼び、それらを最終的にGPUのフレームバッファに合成する部分はQuartz Compositor(クオーツ・コンポジター)という。単にQuartzという場合は、大抵Quartz 2Dのことである。現在のQuartzの構造では、Quartz 2D、QuickDraw、OpenGL、QuickTimeの各出力が最終的にQuartz Compositorによって画面に描画される形になっている。 Quartzの機能は、Objective-CからはCocoa APIを通して、またC/C++言語からはCarbon APIを通して利用できる。またAppleはQuartzのスクリプト言語バインディングのひとつとしてPythonのバインディングを公式に用意している。 解像度非依存のベクトルベース・システム
浮動小数点による数学座標系
常時アンチエイリアシング
アルファチャンネルのサポート
オブジェクト指向のAPI
Unicodeに対応した多国語文字描画ルーチン Mac OS X v10.2 (Jaguar) 以降では、環境に応じてGPUのジオメトリ演算ユニットを使って、 CPUの負荷を軽減するQuartz Extremeが実装された。これはQuartz Compositorのバッファ合成をGPU内部で行うシステムであり、これによりOpenGLとの混在描画も可能となった。 Mac OS X v10.4 (Tiger) ではGPUのプログラマブルシェーダを使って、描画演算をほぼ全てビデオチップ内で実行できるQuartz 2D Extremeが隠し機能として搭載されている(多くの不具合を抱えたまま実装されオフにされており、正式にはサポートされていない)。 DPSからQuartzへと実装が変更された理由は、一説にはAdobeのライセンス料が高額だったためといわれていた。しかし、実際にはDPSでは機能が足りず、現代的な描画システムとしてふさわしいリッチなものが必要であったことが主な理由である。
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{{Otheruses||その他|クオーツ}}{{更新|date=2021年4月}}{{出典の明記|date=2008年2月}}
'''Quartz'''(クオーツ)は、[[Apple]]の[[オペレーティングシステム]] [[macOS]] の描画コアエンジン。前身である[[NeXT]]の[[Display PostScript|DPS]]に代わり、[[Portable Document Format|PDF]]ベースの描画モデルを採用したもの。三次[[ベジェ曲線]]を描画プリミティブとするベクトル型システムで、[[QuickDraw]]との互換性はない。なお、QuickDrawは[[Carbon (API)|Carbon]]アプリケーションの互換性のため[[macOS]]にも残されている。
細かく言うと、アプリケーションで個々のバッファに描画を行うプリミティブは[[Quartz 2D]]と呼び、それらを最終的に[[Graphics Processing Unit|GPU]]のフレームバッファに合成する部分は[[Quartz Compositor]](クオーツ・コンポジター)という。単にQuartzという場合は、大抵[[Quartz 2D]]のことである。現在のQuartzの構造では、Quartz 2D、[[QuickDraw]]、[[OpenGL]]、[[QuickTime]]の各出力が最終的にQuartz Compositorによって画面に描画される形になっている。
Quartzの機能は、[[Objective-C]]からは[[Cocoa (API)|Cocoa]] APIを通して、またC/C++言語からは[[Carbon (API)|Carbon]] APIを通して利用できる。またAppleはQuartzの[[スクリプト言語]][[言語バインディング|バインディング]]のひとつとして[[Python]]のバインディングを公式に用意している。
*[[解像度]]非依存の[[ベクトル画像|ベクトル]]ベース・システム
*[[浮動小数点]]による[[数学]][[座標]]系
*常時[[アンチエイリアス|アンチエイリアシング]]
*[[アルファチャンネル]]のサポート
*[[オブジェクト指向]]の[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]
*[[Unicode]]に対応した多国語文字描画ルーチン ([[Apple Type Services for Unicode Imaging]])
[[Mac OS X v10.2]] (Jaguar) 以降では、環境に応じてGPUのジオメトリ演算ユニットを使って、 [[CPU]]の負荷を軽減する'''Quartz Extreme'''が実装された。これはQuartz Compositorのバッファ合成をGPU内部で行うシステムであり、これによりOpenGLとの[[混在描画]]も可能となった。
[[Mac OS X v10.4]] (Tiger) ではGPUの[[プログラマブルシェーダ]]を使って、描画演算をほぼ全てビデオチップ内で実行できるQuartz 2D Extreme([[Mac OS X v10.5]](Leopard)で[[QuartzGL]]に名称変更<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=OS X ハッキング!(298) 名前が変わった「QuartzGL」でSafariが速くなる?|url=https://news.mynavi.jp/article/osx-298/|website=マイナビニュース|date=2008-11-04|accessdate=2019-11-06|language=ja}}</ref>)が隠し機能として搭載されている(多くの不具合を抱えたまま実装されオフにされており、正式にはサポートされていない<ref name=":0" />)。
{{要出典範囲|DPSからQuartzへと実装が変更された理由は、一説には[[Adobe]]のライセンス料が高額だったためといわれていた。しかし、実際にはDPSでは機能が足りず、現代的な描画システムとしてふさわしいリッチなものが必要であったことが主な理由である。|date=2015年12月}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[Quartz Composer]]
*{{lang|en|[[PostScript]]}}
*{{lang|en|[[Portable Document Format]]}}(PDF)
*[[ベジェ曲線]]
*[[アフィン変換]]
*{{lang|en|[[OsiriX]]}}
{{MacOS}}
{{DEFAULTSORT:Quartz}}
[[Category:グラフィックライブラリ]]
[[Category:MacOS]]
|
2003-07-29T12:11:37Z
|
2023-09-29T09:28:03Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Quartz
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Subsets and Splits
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