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日本精神史研究 | 意味の連関の弱い、点描的な情調詩は、ちょうどこの要求にあてはまる。かくして詩と音楽と踊りとの渾融した芸術ができあがってくる。こう見れば、長唄だけを離して唄うのは、この芸術の美点をそぐものである。 が、我々はこの渾融した芸術が音楽と踊りとの二方面に純化して行くことをもまた望まなくてはならない。ただその場合には、単なる分離でなくして進化が必要である。長唄はリイドとして、より純粋になることを要する。すなわち音調の美と狭斜の情調とを中心にする歌から、――踊りのための歌から、――より深い感情を現わした歌に移り、そうしてそれにふさわしい旋律の深化と解放とを要する。また踊りは、言葉との密接な関係を離れて――すなわち言葉を身ぶりに翻訳する在来の方法から離れて、純音楽を伴奏とするより象徴的なものに進まなくてはならない。自分はこの進化が可能であることを信ずる。また在来の様式が驚嘆すべき新芸術の素地となり得ることをも信ずる。 |
日本精神史研究 | ただ欠けているのは革命の天才である。注二 ロシア舞踊の問題に関連せるものとしてアンナ・パヴローヴァの舞踊の印象記を左に付加する。(三七二ページ参照) アンナ・パヴローヴァの踊りを日本で見ることができるとは、不思議なまわりあわせである。七、八年前にはそんなことは思いも寄らなかった。パヴローヴァは遠いあこがれの一つであった。何が起こるかわからぬという気がしみじみとする。ところでこのパヴローヴァの踊りを見て、また思いがけぬ気持ちに出逢った。自分はあの踊りに、予期していたほどの驚異の情を感ずることができなかったのである。 この前来たスミルノーヴァは確かにパヴローヴァよりも拙かった。座員も今度のよりは悪かった。しかしパヴローヴァを見た後にもスミルノーヴァの印象は依然として薄らがない。というのは、最初の時自分は舞踊のあの様式に驚異したのであって、そのためにはスミルノーヴァほどの巧さでも十分だったのである。 |
日本精神史研究 | 従ってスミルノーヴァの印象にはあの種の舞踊に対する最初の驚異の情が混じている。しかるに今度は、スミルノーヴァよりもはるかに優れた、別種の芸術を見るつもりでパヴローヴァに対し、そうして案外にも同種の芸術を見いだしたのであった。両者の相違は技術の相違であって様式の相違ではない。それに気づかずに予期すべからざるものを予期したのは、自分の見当違いであった。 我々はパヴローヴァ個人の芸と、彼女の踊る舞踊の様式とを、別々に考えなくてはならない。パヴローヴァは巧妙である。その踊りは、というよりもその姿は、美しい。しかしあの「舞踊劇」なるものは、全体として、美しいと思えない。自分の見た『アマリラ』が特にそうなのかも知れぬが、あの劇的な動作は舞踊の純粋性をそこなう。舞踊はあのように劇的動作の代用物であってはならない。それは独立にその特殊の表現法をもって、すなわち運動のリズムをもって、直ちに魂の言葉を語らなくてはならない。 |
日本精神史研究 | ショパンの曲を舞踊に移した『ショピニアナ』は、右の要求を充たすものとして予期していた。しかしその予期もはずれた。そこには一つの作曲としての統一ある感じがない。群集の各個の踊りがまだ交響楽にまで仕上げられていない。手と足が単調である。 舞踊小品と呼ばれる短い踊りになると、自分は初めて心の充たされるのを感じた。素朴にして快活な『オーベルタス』、奔放に動く『ピエㇽロー』、静かに美しき『春の声』、群集の踊りとして巧みな統一のある、そうしてギリシアの彫刻と絵の姿を巧みにとり入れたギリシア舞踊。パヴローヴァの『白鳥』は直線的な下半身と柔軟に曲がる上半身との不思議に美しい舞踊であった。荒々しい『バッカナール』においてパヴローヴァは、我々東洋人の渇望する自然力の全解放を踊った。自分としてはこの最後の踊りに最も深い恍惚を感じた、パヴローヴァとしては特に得意とするところではないであろうが。 もしパヴローヴァが、あの休止せる美しい型から次の美しい型へと飛ぶような踊りを得意とするならば、自分は彼女のために取らない。 |
日本精神史研究 | あの素早い曲線の動きには、ほとんど細やかな濃淡が見られない。乾燥である、神経的である。ああいう踊りを見ると、日本の古い(徳川時代の)踊りが、たといあの『バッカナール』のごとき方面の美しさを全然欠いているにもせよ、なお曲線の動きの複雑な、濃淡の細やかな美しさにおいて、かなり高く評価されていいものであることがわかる。 パヴローヴァの芸は見るたびごとに味の深まって行くのを感じさせたが、しかし結局最初の印象の通りに、舞踊小品と呼ばれるものがこの芸術の本質を示したものであることを知った。ここにその二、三の踊りについて、やや詳しい印象を記してみたいと思う。 自分は最初パヴローヴァの『バッカナール』を見て、深い恍惚を感じた。しかしその形式を特性づけてみろと言われれば、ただディオニュソス的であるというほかに答えを知らなかった。そこで自分は、どうにかしてこのディオニュソス的なものの、流動し奔湧する形を捕捉したいと思った。 |
日本精神史研究 | 二度目に見た時には前よりもさらに強い印象をうけて、日常の生活の静かな心の落ちつきが全然覆されるのを感じた。心があえぎながら、あの、留まることなく流れ行く形を追った。その夜は遅くまで眠れなかった。が、依然としてその形は自分にとって漠然たるものであった。三度目に四階の壁側から見おろした時、ややその形を捕えた気持ちになれた。しかしそれはまだ有機的な全体として、自分のうけた感動を隅々まで充たすことはできない。 半裸の男と女とが、並んで、肩をそろえて、手をうしろで組み合わせて、前かがみになって、そろえた足を高く踏み上げつつ、急速に躍進して来る。そうして舞台を斜めに、巴形の進路をとりつつ、渦巻のように中心まで一瞬間に迫って行く。これは非常な力を印象する動きであるが、しかしその荒々しい動きのうちに偶然的な気ままな影は全然なく、奔放そのものでありながら同時にそのままに必然である。自分は数えてはみなかったけれども、ここに踏む足の数は厳密に確定しているのであろう。 |
日本精神史研究 | そうしてこの厳密な形式に服しつつ何らの拘束をも感じさせない自由な動きが、すなわち規矩に完全に合致して透明となったところから生ずる自由が、この動きにあの溌剌とした美しさを与えるのであろう。 この最初の動きが渦巻の中心に至って烈しく旋回した後に、踊りは次の運動へ移ったように思う。男女はパッと離れた。それが胸を打つほど印象の強い新生面であった。そのあとに離れては合い、旋回しては離れる、飛躍的な、狂おしい踊りがつづいた。向き合って、両手をつないで、二人とも外へ上身をそらせて、くるくるとまわる渦巻があった。互いに向きを反対にして片腕を組み、※(「卍」を左右反転したもの)字形に旋回する運動もあった。これらの手は、(順序をよく覚えていないが、)とにかく最初の巴形の行進に引きつづいて、次の瞬間に猛烈に踊られたものである。ここにも一見渾沌のごとく思われる動きのうちに、厳密な必然のあることが感ぜられる。あの力の流れかたは、ただ一点において格を離れても、直ちに運動全体の有機的関係を解体するようなものであった。 |
日本精神史研究 | そうしてそれは、最初の比較的単純な、うねりの大きい線に対して、その必然の開展として現われてくる。 この緊張した、黄金点をのみ通って行くような動きのあとに、息を吐く間もなく、バッカントがバッカンティンを追うような動きが始まる。二人の離合によって造られていた力の渦巻が、今やまた一つの方向へ流れる。狂おしく踊りながらバッカンティンは逃げる。が、そこへ時々小さな休止がはいり始める。女は舞台の左の角に立ち留まって、上体をうしろにそらせ、頸をできる限りうしろにのばして、一瞬間、形を凝固させる。ついでまた烈しく逃げながら、赤い花をまき散らす。が、また左右に離れて、二つの力の平衡を感じさせながら、「ちぎり捨てる」という言葉にふさわしいような、あるいは「身心を放擲する」とでも形容すべきような、心ゆくばかり美しい、烈しい動きがある。そうして女はついに花の撒かれた地上に倒れる。やや大きい休止がはいる。 この三段の開展によって最初の一節が終わったように自分は感じた。 |
日本精神史研究 | (運動の旋律の記憶が自分には確かでないから、自信をもって確言することはできぬが。)そこで第二節が同じテーマを、旋律の上ではやや高次的に、動きの上では前よりも小仕掛けでまた集中されて、新しく展開される。初めの出と同じ行進が、前よりも小さい巴形の進路の上を、前よりも短く踏まれた。※(「卍」を左右反転したもの)字形の猛烈な旋回もあった。バッカンティンの逃げる形もあった。やがて捕まったかと思うと、舞台の中央で、くるくると回るうちに、バッカンティンはバッカントの腕の中でパタと倒れた。胴の中ほどを背部でささえられて。女の体は能うかぎり、弓なりに伸張する。斜め下へそらせた肩から、両腕が、同じ彎曲線に添うて、地に届かんばかりに垂れる。反対の側では腿から足への彎曲がこれに対応する。それで体はほとんど半円を描く。こうして凝固した形は、第一節の終わりの休止よりもはるかに大きい休止として、力強い効果を持った。あの激烈な律動の間にはいる休止が、突如として、この結晶せるごとき美しい姿態として現われることは、その律動の美しさと休止せる形の美しさとを、ともどもに高めるのである。 |
日本精神史研究 | この休止から第三節へのうつり方もきわめて効果の多いものである。徐々に、静かに、婉曲に、凝固せる形が動き出す。女の裸形の腕が男の頸へまきつく。また静かに女の上身がもたげられて、弓形の線はことごとく解体する。と、突然に、弾かれたように、二人はパッと離れる。このあとにまた同じテーマが、もっと急調にもっと集中されて展開する。二人が肩をそろえて手をうしろで組み合わせたあの烈しい行進。旋回。追い追われる運動。そうしてその動きが舞台の中央で渦巻いたかと思うと、バッカントは手をふる、バッカンティンはその手に投げつけられたかのように、パタと倒れる。実にパタッと。ここでも烈しい律動の切り上げ方は、前の休止の際と同工ではあるが、しかしさらに一層力強い。第一次の休止よりも第二次の休止が、第二次の休止よりもこの終末が、それぞれ明らかに強められきわ立たされている。それがちょうど三つの節における、漸次高まって行く展開に相応ずるのである。 |
日本精神史研究 | ああいう緊張した、一ぶの隙もない踊りが、あれほど渾然と踊れるということは、パヴローヴァの技がいかに驚嘆すべきものであるかの明白な証拠だと思う。肉体の隅々までも精神に充たされているようなあのパヴローヴァの肉体をもってでなければ、ああいう芸術は造れない。あれはディオニュソス的なる芸術の一つの極致である。我々は彼女によって一つのことを力強く反省させられた。ディオニュソス的なるものもまた規矩に完全に合致せる所の自由によって実現されるのであるという事を。放恣と奔放もまた、規矩を捨離した境地においてではなく、規矩を拘束として感じないほどに規矩を己れのうちに生かせた境地において、初めて美しく生かされるのであるということを。『瀕死の白鳥』も三度見た。これは静かな、直線と曲線とのからみついた、美しい踊りである。パヴローヴァの姿態の特徴を十分活用させた意味で、やはり最も優れたものの一つに数えてよかろうと思う。 |
日本精神史研究 | この踊りもやはり三段に分かれている。まず初めに舞台の左奥の隅から、軽く、きわめて軽く、ふうわりと浮き出てくる。爪先で立った下肢が、直線的に上体をささえつつ爪先の力とは思えぬほどに優雅に滑って行く。しかし爪先で立っているということが、この下肢の直線にきわめて動的な、デリケートな、他に類例のない感じを賦与しているのである。(この点から見れば爪先で立つような踊り方を直ちに不自然として斥けることはできぬ。しかしまた爪先の利用はこの踊りにおいて極点に達する。これ以上に出る余地はない。)この直線にささえられた上身が、最初は左右へ伸べ開いた両腕の繊美なうねりと頸のかすかな傾け方とで曲線を描いている。やがて静かに上体が婉曲して、倒れそうな形になる。胸は反り、頸は斜めうしろへ曲げられて、片頬が上面になる。(これを白鳥の苦痛の表情として見れば、踊りとしては不純なものになるが、我々はただこれを曲線的な運動において現わされる旋律とのみ見ることができる。)倒れそうな形はまたもとへ帰るが、再びまた曲がり方が高まって行って、倒れそうになる。 |
日本精神史研究 | 三度目にはついに倒れる。右の足を前に出し、上身と両腕とをその上に伏せて。その場所は、舞台の左奥の隅から右前の隅へ引いた対角線の、出口から見てちょうど三分の一ぐらいのところである。ここで第一段が終わる。 起き上がってまた初めのように両腕を繊美にうねらせながら泳ぐ。動いて行く輪が前よりも広い。上身も初めよりは多く曲がりくねる。また幾度か倒れそうになる。ついに倒れる。一度目よりはやや長く。その場所は右の対角線の三分の二ぐらいのところである。ここで第二段が終わる。 再び起き上がって泳ぎ始める。今度は動き方もさらにひろくさらに急調である。上身のくねらせ方もさらに烈しい。ついに二度目と同じ場所で倒れる。右足をできるだけ前へのばし、左足をつき、上身を前へ折りまげ、両腕をさらにその先へのばす。ここまでは前に倒れたときとほぼ同様であるが、さらに体を左へ捩って、顔を右斜め向こうに頭を地につけ、初め前へ出していた右手をうしろへのばして、初めは宙宇にやがてパタと腰の上に、やがてぐなりと体に添うて下へ落ちる。 |
日本精神史研究 | ――これも白鳥の死の表現として見るよりは、あの柔らかな曲線のうねりの旋律にどういう結末を与えるかの方面より見るべきである。からみついていた直線と曲線とは、最後までからみついたまま、否一層強くからみつきつつ、あたかも墨色をかすめて静かにはねた線のように、なだらかに終わるのである。 我々はこの踊りにおいて、肩や頸や二の腕や手首などの、何とも言えず美しい形と、その美しい動きとを見る。ここにはアポローン的な要素がよほどはいっている。が、特に目立つのは肩、なかんずく背中、及び肩から腕への移行部などによって現わされた、胴体の美しい、くねり方である。すなわちこれらの「動く形」である。 が、『蜻蛉』及び『カリフォルニアの罌粟』もまたそれに劣らず美しいものであった。題目が踊りの振りや踊り手の心持ちとどう関係するかは知らない。しかしとにかくそれぞれの運動の旋律が、それぞれの物象の美しさと何らかの関係を持つことは、認めてよいであろう。 |
日本精神史研究 | たとえば白鳥が頸をうねらせつつ静かに水上を動くあの運動の美しさは、『白鳥』の踊りの旋律の基調となってはいないだろうか。罌粟の花の薄い花びらが微風に吹かれてひらひらと動くあの繊細な美しさが、『罌粟』の踊りの情調を基礎づけてはいないだろうか。蜻蛉が蒼空のもとにつういつういと飛んで行くあの運動の自由さが『蜻蛉』の踊りのあの快活な清爽さを産み出したのではなかろうか。そうしてそれがそうであるにしても、踊りとしての独立が害せられるとは言えないと思う。白鳥や罌粟や蜻蛉を現わすことは、踊りの目的でない。しかし踊りは、白鳥や罌粟や蜻蛉から、ある美しい運動の旋律をかりて来ることができる。それを動機として踊り自身の世界において特殊な開展を試みることは、踊りを自然の物象に服従せしめるということにはならない。 自分は『蜻蛉』の踊りにおいて、あの空色の着つけと白い肌との清楚な調和を忘れることができない。右足の爪先で立って、左足を高くうしろにあげ、両手をのびのびと空の方へ伸ばした、あの大気のうちに浮いているような、美しい自由な姿をも忘れることができぬ。 |
日本精神史研究 | また体をかがめて蜻蛉の羽を両手にかいこむ愛らしいしぐさや、その羽を左右に伸ばした両腕で押えつつ、流るるように踊って行くあの姿も忘れ難い。『罌粟』の踊りでは、花片のつぼんで行く最後のあの可憐な姿が、ことに強く目に残っている。これらのさまざまな踊りを詳しく観察すれば、それらのすべてに共通な構造と、その上に築かれた一々の踊りの個性とが、十分に捕捉されるかとも思うが、それを試み得るほど詳しくは覚えていない。 以上は舞踊について全然素人である自分の印象である。いろいろ間違った個所もあるかと思うが、とにかく印象の薄らがない内に書きつけておく。これらの舞踊に比して日本の舞踊は決して価値の劣るものとは言えないであろうが、しかしそのことのゆえにこれほど種類の異なった美しさを軽視するのは間違いである。種類の異なる美に対しては我々は一々別種の標準をもって臨まなくてはならぬ。 |
能面の様式 | 野上豊一郎君の『能面』がいよいよ出版されることになった。昨年『面とペルソナ』を書いた時にはすぐにも刊行されそうな話だったので、「近刊」として付記しておいたが、それからもう一年以上になる。網目版の校正にそれほど念を入れていたのである。それだけに出来ばえはすばらしくよいように思われる。ここに集められた能面は実物を自由に見ることのできないものであるが、写真版として我々の前に置かれて見ると、我々はともどもにその美しさや様式について語り合うことができるであろう。この機会に自分も一つの感想を述べたい。 今からもう十八年の昔になるが、自分は『古寺巡礼』のなかで伎楽面の印象を語るに際して、「能の面は伎楽面に比べれば比較にならぬほど浅ましい」と書いた。能面に対してこれほど盲目であったことはまことに慚愧に堪えない次第であるが、しかしそういう感じ方にも意味はあるのである。自分はあの時、伎楽面の美しさがはっきり見えるように眼鏡の度を合わせておいて、そのままの眼鏡で能面を見たのであった。 |
能面の様式 | 従って自分は能面のうちに伎楽面的なものを求めていた。そうして単にそれが無いというのみでなく、さらに反伎楽面的なものを見いだして落胆したのであった。その時「浅ましい」という言葉で言い現わしたのは、病的、変態的、頽廃的な印象である。伎楽面的な美を標準にして見れば、能面はまさにこのような印象を与えるのである。この点については自分は今でも異存がない。 しかし能面は伎楽面と様式を異にする。能面の美を明白に見得るためには、ちょうど能面に適したように眼鏡の度を合わせ変えなくてはならぬ。それによって前に病的、変態的、頽廃的と見えたものは、能面特有の深い美しさとして己れを現わして来る。それは伎楽面よりも精練された美しさであるとも言えるであろうし、また伎楽面に比してひねくれた美しさであるとも言えるであろう。だからこの美しさに味到した人は、しばしば逆に伎楽面を浅ましいと呼ぶこともある。能面に度を合わせた眼鏡をもって伎楽面を見るからである。 |
能面の様式 | もし初めからこの両者のいずれをも正しく味わい得る人があるとすれば、その人の眼は生来自由に度を変更し得る天才的な活眼である。誰でもがそういう活眼を持つというわけには行かない。通例は何らかの仕方で度の合わせ方を先人から習う。それを自覚的にしたのが様式の理解なのである。 では能面の様式はどこにその特徴を持っているであろうか。自分はそれを自然性の否定に認める。数多くの能面をこの一語の下に特徴づけるのはいささか冒険的にも思えるが、しかし自分は能面を見る度の重なるに従ってますますこの感を深くする。能面の現わすのは自然的な生の動きを外に押し出したものとしての表情ではない。逆にかかる表情を殺すのが能面特有の鋭い技巧である。死相をそのまま現わしたような翁や姥の面はいうまでもなく、若い女の面にさえも急死した人の顔面に見るような肉づけが認められる。能面が一般に一味の気味悪さを湛えているのはかかる否定性にもとづくのである。 |
能面の様式 | 一見してふくよかに見える面でも、その開いた眼を隠してながめると、その肉づけは著しく死相に接近する。 といって、自分は顔面の筋肉の生動した能面がないというのではない。ないどころか、能面としてはその方が多いのである。しかし自分はかかる筋肉の生動が、自然的な顔面の表情を類型化して作られたものとは見ることができない。むしろそれは作者の生の動きの直接的な表現である。生の外現としての表情を媒介とすることなく、直接に作者の生が現われるのである。そのためには表情が殺されなくてはならない。ちょうど水墨画の溌剌とした筆触が描かれる形象の要求する線ではなくして、むしろ形象の自然性を否定するところに生じて来るごとく、能面の生動もまた自然的な生の表情を否定するところに生じてくるのである。 そこで我々は能面のこの作り方が、色彩と形似とを捨て去った水墨画や、自然的な肉体の動きを消し去った能の所作と同一の様式に属することを見いだすのである。 |
能面の様式 | 能についてほとんど知るところのない自分が能の様式に言及するのははなはだ恐縮であるが、素人にもはっきりと見えるあの歩き方だけを取って考えても右のことは明らかである。能の役者は足を水平にしたまま擦って前に出し、踏みしめる場所まで動かしてから急に爪先をあげてパタッと伏せる。この動作は人の自然な歩き方を二つの運動に分解してその一々をきわ立てたものである。従って有機的な動き方を機械的な動き方に変質せしめたものと見ることができる。この表現の仕方は明白に自然的な生の否定の上に立っている。そうしてそれが一切の動作の最も基礎的なものなのである。が、このように自然的な動きを殺すことが、かえって人間の自然を鋭く表現するゆえんであることは、能の演技がきわめて明白に実証しているところである。それは色彩と形似を殺した水墨画がかえって深く大自然の生を表現するのと等しい。芸術におけるこのような表現の仕方が最もよく理解せられていた時代に、ちょうど能面の傑作もまた創り出されたのであった。 |
能面の様式 | その間に密接な連関の存することは察するに難くないであろう。 のみならず顔面のこのような作り方は無自覚的になされ得るものではない。顔面は人の表情の焦点であり、自然的な顔面の把捉は必ずこの表情に即しているのである。ことに能面の時代に先立つ鎌倉時代は、彫刻においても絵画においても、個性の表現の著しく発達した時代であった。その伝統を前にながめつつ、ちょうどその点を殺してかかるということは、何らかの自覚なくしては起こり得ぬことであろう。もちろん能面は能の演技に使用されるものであり、謡と動作とによる表情を自らの内に吸収しなくてはならなかった。この条件が能面の制作家に種々の洞察を与えたでもあろう。しかしいかなる条件に恵まれていたにもせよ、人面を彫刻的に表現するに際して、自然的な表情の否定によって仕事をすることに思い至ったのは、驚くべき天才のしわざであると言わねばならぬ。能面の様式はかかる天才のしわざに始まってそれがその時代の芸術的意識となったものにほかならない。 |
麦積山塑像の示唆するもの | 麦積山の調査が行なわれたのは四年ほど前で、その報告も、すぐその翌年に出たのだそうであるが、わたくしはついに気づかずにいた。だから名取洋之助君が撮影して来た写真の一部を見せられた時には、突然のことで、どうもひどく驚かされたのであった。それは麦積山そのものが思いがけぬすばらしさを持っていたせいでもあるが、またそのすばらしさを突然われわれの目の前に持って来てくれた名取君の手腕、というのは、あまり前触れもなしにたった一人で出かけて行って、たった三日の間にあの巨大な岩山の遺蹟を、これほどまでにはっきりと、捕えてくることのできた名取君の手腕のせいであると思う。 それについて思い起こされるのは、この麦積山の遺蹟と好い対照をなしている雲岡石窟の写真を初めて見た時のことである。それは東京大学の工学部の赤煉瓦の建物があったころで、もう四十年ぐらい前になるかと思うが、木下杢太郎君にさそわれて、佐野利器博士を研究室に訪ね、伊藤忠太博士が撮影して来られた雲岡石窟の写真を見せてもらったのである。 |
麦積山塑像の示唆するもの | 当時佐野博士はまだ若々しい颯爽とした新進建築学者であったし、木下杢太郎君はもっと若い青年であった。また伊東博士の雲岡の報告も、フランスのシャヴァンヌのそれとともに、雲岡についての知識の権威であった。ところで、その時に見せてもらった雲岡の写真は、朦朧とした出来の悪いもので、あそこの石仏の価値を推測する手づるにはまるでならなかったのである。 木下杢太郎君が自ら雲岡を訪ねて行ったのは、その後まもなくのことであったように思う。同君と木村荘八君との共著『大同石仏寺』が出たのは関東震災よりも前である。これでよほどはっきりして来たが、しかしまだ雲岡の全貌を伝えるには足りなかった。その後二十年くらいたって、奈良の飛鳥園が撮影しに行き、『雲岡石窟大観』という写真集を出した。水野精一君たちの精密な実地踏査が始まったのもそのころで、その成果『雲岡石窟』十五巻の刊行が終わったのは、つい数年前のことである。これで雲岡遣蹟の紹介の仕事は完成したといってよいが、しかしそれは伊東博士が撮影して来られてから、半世紀たってのことである。 |
麦積山塑像の示唆するもの | 麦積山はその雲岡に劣らない価値を持った遺蹟だと思われるが、それをわれわれに紹介する仕事は、名取君によって一挙にしてなされたように思う。もとよりその詳細な測定や記述の仕事は、今後に残されているでもあろうが、しかしわれわれのような素人が、推古仏の源流を求めていろいろと考えてみるというような場合には、これで十分である。寸法が精確に測定されていながら、写像がぼんやりしているよりも、像の印象が精確に捕えられていて、寸法のぼんやりしている方が、われわれにはずっとありがたい。 さてそのような観点から麦積山の写真をながめていて、まず痛切に感ずるところは、ここにある魏の時代の仏像がいかにも推古仏の源流らしい印象を与えること、そうしてそれが塑像であることと何らか密接な関連を持っているらしく見えることである。 雲岡の数多い石仏は、その手法の上から推古仏の源流であること疑いがないといえるであろうが、しかしその与える印象においては推古仏とだいぶ違うものである。 |
麦積山塑像の示唆するもの | その豊満な肢体や、西方人を連想させる面相や、それらを取り扱う場合の感覚的な興味などは、推古仏にはほとんどないものと言ってよい。推古仏の特徴は肢体がほっそりした印象を与えること、顔も細面であること、それらを取り扱う場合に意味ある形を作り出すことが主要なねらいであって、感覚的な興味は二の次であることなどであるが、そういう特徴を持つものが雲岡の石仏の中に全然ないとは言いきれないにしても、例外的にしかないとは言えるであろう。だからわたくしには推古仏の源流は謎であった。で、わたくしは、雲岡の石像が示しているような、西方から来た様式と、漢代の画像石などの示しているような、流麗な線、細い肢体を主にするあの様式とが、相混じて一つの特殊な様式を作り、それが推古仏の源流となったのではなかろうかと空想したりなどしていたのである。 しかるに麦積山の塑像のうちの最も古い時代のものは、実によく推古仏に似ている。写真ページ七からページ三五まで、ページ五四からページ六一までは皆そうであるが、中でもページ七、九、一六のごとき、あるいはページ五五、五六、六一のごとき、実に感じがよく似かよっている。 |
麦積山塑像の示唆するもの | そのほかになおページ七一、七四、七六、七九、八〇、ページ八二からページ八五などについても同様にいうことができるであろう。これらの塑像における面相や肢体の取り扱い方は、雲岡の石像の場合とはまるで違う。ここでは意味ある形を作ることが主要関心事であって、感覚的な興味は二の次である。従って面相に現われた表情がまるで違っているように、肢体の姿、衣文の強調の仕方などもまるで違う。この塑像の様式がどういう道筋を通って推古仏の様式として現われて来たかについては、わたくしは何をいう権利も持たないのであるが、しかし証拠はなくとも、ここに推古仏の源流を認めてよいのではなかろうか。 ところで、そうなると、どうしてこういう様式が麦積山に現われて来たかということが、新しく問題になってくる。それについてわたくしは、麦積山の仏像が塑像であることに今さらながら気づいたのである。漢代の様式感が西方の仏像の様式に結びつくとしても、石像においてよりは塑像においての方が容易であろう。 |
麦積山塑像の示唆するもの | ここにこそ推古仏の源流が出現して来たことの秘密が隠されているのではなかろうか。一体この塑像のやり方はどこで始まったか。またその塑像の製作はどこで栄えたのであるか。 元来仏像はギリシア彫刻の影響の下にガンダーラで始まったのであるが、初期には主として石彫であって、漆喰や粘土を使う塑像は少なかった。がこの初期のガンダーラの美術は、三世紀の中ごろクシャーナ王朝の滅亡とともにいったん中絶し、一世紀余を経て、四世紀の末葉にキダーラの率いるクシャーナ族がガンダーラ地方に勢力を得るに及んで、今度は塑像を主とする美術として再興し、初期よりずっと優れた作品を作り出したといわれている。しかもこの製作上の発展は、漆喰や粘土のような扱いやすい材料を使ったことに帰せられているようである。この時期にはガンダーラ地方からアフガニスタンにかけての全域に塑像が栄えたので、特にアフガニスタンのハッダなどからすばらしい遺品を出している。 |
麦積山塑像の示唆するもの | シナへのガンダーラ美術の影響を考えるとすれば、芸術的にあまり優れていると言えない初期の石像彫刻によってよりも、むしろ芸術的に優れたこの期の塑像によってであることは、ほぼ間違いのないところであろう。 四世紀の末葉から五世紀の初めへかけての時期といえば、雲岡や麦積山の石窟ができるころよりも、半世紀ないし一世紀前である。そのころは中インドの方でもグプタ朝の最盛期で、カリダーサなどが出ており、シナから法顕を引き寄せたほどであった。だからそのインド文化を背景に持つインド・アフガニスタンの塑像美術が、カラコルムを超えてカシュガル(疏勒)ヤルカンド(莎車)ホタン(和闐)あたりへ盛んに入り込んでいたことは、察するに難くない。敦煌までの間にそういう都市は、ずいぶん多く栄えていたであろう。そうしてそういう都市は、仏教を受け入れ、それをその独自の立場で発展させることをさえも企てていたのである。仏教美術がそこで作られたことももちろんであるが、木材や石材に乏しいこの地方において、漆喰と泥土とを使う塑像のやり方が特に歓迎せられたであろうことも、察するに難くない。 |
麦積山塑像の示唆するもの | とすれば、タリム盆地は、アフガニスタンに次いで塑像を発達させた場所であったかもしれない。 麦積山は敦煌からはだいぶ遠い。ホタンから敦煌まで来れば、大体タリム盆地を西から東へ突っ切ったことになるが、その距離と敦煌から麦積山までの距離とは、あまり違わないであろう。それを思うと、麦積山が、タリム盆地の文化圏に非常に近かったとも言えないのであるが、しかしタリム盆地で発達した芸術や宗教がシナの本部の方へ入り込んで来る際に、敦煌から蘭州を経て長安や洛陽の古い文化圏に来たことは確かであろうし、蘭州と長安との中ほどにある麦積山がこの文化流入の通路にあって、いち早くその感化を受けたであろうことも、疑う余地がない。そう考えると、麦積山の塑像の示しているところは、渭水流域の彫塑の技術とか、住民の体格面相とかであるよりも、むしろはるか西方、タリム川流域に栄えていた諸都市における彫塑の技術、住民の体格面相などであるであろう。 |
麦積山塑像の示唆するもの | 四十何年か前に、スタインの『古代ホタン』を見て、中央アジアの砂漠のほとりに残っている古い都市の残骸から、いろいろな場面を空想したことがある。砂の中に埋もれてわずかに下半身だけを残していた塑像なども、それの好い材料であった。今名取君の撮影して来た写真を見ていると、あの時の空想がすっかり実現されて来たような気持ちになる。麦積山の創始の時代、すなわち五世紀から六世紀へかけての時代には、中央アジアはまだあまり荒廃せず、盛んな文化創造をやっていたはずである。従ってあの地方の諸都市に、ちょうどそのころガンダーラからアフガニスタンへかけて栄えていた塑像の技術が伝わっていたろうことも、疑う余地がない。ところでこのインド・ギリシア的な彫刻の様式が、初期のガンダーラ仏像のように、主として石彫として伝わってくるのと、この場合のように塑像として伝わってくるのとでは、これらの諸都市における反応はよほど違ったであろう。 |
麦積山塑像の示唆するもの | タクラマカンの砂漠のあたりには、よい石材などはありそうに見えない。石彫の技術を木彫に移そうにも、よい木材などは一層ありそうにない。ただ漆喰と泥土とだけは、お手のものである。そうなると、塑像の技術が伝わって来たということは、ちょうどこの地方に栄え得る技術が伝わって来たことを意味する。それはまた塑像の技術が自由な創造の働きと結びつくことをも意味するであろう。かくしてこれらの諸都市に、ガンダーラ・アフガニスタンの塑像とは著しく異なった、中央アジア独特の塑像の様式が出現したとしても、少しも不思議なことはないのである。 麦積山の塑像は、この中央アジアの塑像の様式を反映しているらしい。それは、ここで主として問題としたような、推古仏の源流を思わせるあの仏像の様式について言えるのみならず、また戒壇院の四天王などのような天部像についても言えるであろう。表情を恐ろしく誇張して現わしながら、しかも嘘に陥らず現実性を失わない面相や肢体の独特な作り方は、やはり中央アジアの創始したものではないかと思われる。わたくしはこういう点が専門家の着実な研究によって明らかにされる日を待ち望んでいる。もしこの問題が、連鎖反応式に中央アジアのいくつかの遺蹟の発掘をひき起こしたとしたら、やがて千四百年前の中央アジアの偉観がわれわれの前に展開してくるであろう。 |
初めて西田幾多郎の名を聞いたころ | わたくしが初めて西田幾多郎という名を聞いたのは、明治四十二年の九月ごろのことであった。ちょうどその八月に西田先生は、学習院に転任して東京へ引っ越して来られたのであるが、わたくしが西田先生のことを聞いたのはその方面からではない。第四高等学校を卒業してその九月から東京の大学へ来た中学時代の同窓の友人からである。 その友人は岡本保三と言って、後に内務省の役人になり、樺太庁の長官のすぐ下の役などをやった。明治三十九年の三月に中学を卒業して、初めて東京に出てくる時にも一緒の汽車であった。中央大学の予備科に一、二か月席を置いたのも一緒であった。それが九月からは四高と一高とに分かれて三年を送り、久しぶりにまた逢うようになったときに、最初に話して聞かせたのが、四高の名物西田幾多郎先生のことであった。日本には今西田先生ほど深い思想を持った哲学者はいない。先生はすでに独特な体系を築き上げている。形而上学でも倫理学でも宗教学でもすべて先生の独特な原理で一貫している。 |
初めて西田幾多郎の名を聞いたころ | 僕たちはその講義を聞いて来たのだ。よく解ったとはいえないけれども、よほど素晴らしいもののように思う。しかし自分たちが敬服したのは、その哲学よりも一層その人物に対してである。哲学者などといえばとかく人生のことに迂遠な、小難かしい理屈ばかり言っている人のように思われるが、先生は決してそんな干からびた学者ではない。それは先生が藤岡東圃の子供をなくしたのに同情して、自分が子供をなくした経験を書いていられる文章を見ても解る。哲学者で宇宙の真理を考えているのだから、子供をなくした悲しみぐらいはなんでもなく超越できるというのではないのだ。実に人間的に率直に悲しんでいられる。亡きわが児が可愛いのは何の理由もない、ただわけもなく可愛い。甘いものは甘い、辛いものは辛いというと同じように可愛い。ここまで育てて置いて亡くしたのは惜しかろうと言って同情してくれる人もあるが、そんな意味で惜しいなどという気持ちではない。 |
初めて西田幾多郎の名を聞いたころ | また女の子でよかったとか、ほかに子供もあるからとかと言って慰めてくれる人もあるが、そんなことで慰まるような気持ちでもない。ただ亡くしたその子が惜しく、ほかの何を持って来ても償うことのできない悲しみなのだ。亡き子の面影が浮かんでくると、無限になつかしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思う。死は人生の常で、わが子ばかりが死ぬのではないが、しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい。悲しんだとて還っては来ないのだから、あきらめよ、忘れよといわれるが、しかし忘れ去るような不人情なことはしたくないというのが親の真情である。悲しみは苦痛であるに相違ないが、しかし親はこの苦痛を去ることを欲しない。折にふれて思い出しては悲しむのが、せめてもの慰めであり、死者への心づくしである。そういう点からいえば、親の愛はまことに愚痴にほかならないが、しかし自分は子を亡くして見て、人間の愚痴というもののなかに、人情の味のあることを悟った。 |
初めて西田幾多郎の名を聞いたころ | 人格は目的そのものである。人には絶対的価値があるということが、子を亡くした場合に最も痛切に感じられた。人間の仕事は人情ということを離れてほかに目的があるのではない。学問も事業も究竟の目的は人情のためにするのだ。そういう意味のことが実に達意の文章で書いてある。あれを読んでわれわれは実に打たれた。ああいうふうに人生のことのよく解っている人ならば、あの哲学もよほど深いところのあるものに相違ない。そういう意味のことを岡本保三がわたくしに説いて聞かせたのである。 それは明治四十二年の九月ごろであった。その時までに西田先生の論文は二度ぐらい哲学雑誌に出たかと思うが、一高の生徒であったわたくしたちの眼には触れなかった。だからわたくしは非常に驚いて岡本の話を聞いたのである。しかし四高では、すでに前々から先生の存在が大きく生徒たちの眼に映っていたようであるし、岡本が入学した三十九年ごろには先生の講義案も印刷になったといわれているから、岡本の話したことは岡本個人の意見ではなく、四高で一般に行なわれていた意見ではないかと思われる。 |
初めて西田幾多郎の名を聞いたころ | 一高の方ではちょうどそれに当たるような教授として岩元禎先生がいられたが、しかしそのころの岩元先生はただドイツ語を教えるだけで、講義はされなかった。論理学、心理学、倫理学など、哲学関係の講義は、速水滉さんの受持であった。従って岩元先生の哲学には全然ふれる機会がなかったのであるが、それでも先生は哲学者として評判であった。それくらいであるから、後に『善の研究』としてまとめられたような思想を、いろいろ苦心して育てていられた時代の西田先生は、その講義によって相当に深い感銘を生徒に与えられたことと思われる。それを考えると、右にあげたような意見が四高の生徒の間に行なわれていたとしても、少しも不思議はないのである。 そういうふうにして初めて名を知った西田幾多郎は、わたくしにとっては初めから偉い哲学者であった。四高で行なわれていた意見はそのままわたくしにも移って来たのである。そういう事情は明治の末期の一つの特徴であるかも知れない。 |
初めて西田幾多郎の名を聞いたころ | というのは、そのころ有名な学者や文人には、あまり高齢の人はなく、四十歳といえばもう老大家のような印象を与えたからである。夏目漱石は西田先生の戸籍面の生年である明治元年の生まれであるが、明治四十年に朝日新聞にはいって、続き物の小説を書き始めた時には、わたくしたちは実際老大家だと思っていた。だから明治四十二年に正味の年が四十歳であった西田先生も、同じく老大家に見えたのである。先生の処女作が『善の研究』であり、その刊行がこの年よりもなお二年の後であるというようなことは、あとになって考えることであって、その当時はすでに四高における長い教歴を持った哲学者、すでにおのれの体系を築き上げた哲学者としてわたくしどもの眼に映ったのである。 これは決してわたくしの主観的な印象に過ぎないのではあるまい。当時まだ二十歳で、初めて大学生になったわたくしなどには、全然事情は解らなかったが、専門の哲学者の間では、あるいは少なくとも一部の哲学者の間では、先生の力量はすでに認められていたのであろう。 |
初めて西田幾多郎の名を聞いたころ | 哲学者の先生に対する態度にしても、少し後のことではあるが『善の研究』に対する高橋里美君の批評にしても、当時のそういう雰囲気を反映しているように思われる。先生が四高から学習院に移り、わずか一年でさらに京都大学に移られたことも、そういう雰囲気と無関係ではあるまい。東京転任に先立つ数か月、四十二年四月に上京せられた際には、井上(哲)、元良などの「先生」たちを訪ねていられるし、また井上、元良両先生の方でも、田中喜一、得能、紀平などの諸氏とともに、学士会で西田先生のために会合を催していられる。田中、得能、紀平などの諸氏は、当時東京大学の哲学の講師の候補者であったらしい。西田先生はその八月の末に東京に移られたが、九月には井上、元良、上田などの諸氏としきりに接触していられる。そうして十月十日の日記には「午前井上先生を訪う。先生の日本哲学をかける小冊子を送らる。……元良先生を訪う。小生の事は今年は望みなしとの事なり」と記されている。 |
初めて西田幾多郎の名を聞いたころ | 多分東京大学での講義のことであろう。この学期から初めて講師になって哲学の講義を受け持ったのは紀平氏であった。わたくしたちは新入生としてこれを聞いた。事によると紀平氏の講義の代わりに西田先生の講義が聞けたかも知れないというような事情が当時あったということは、この日記を読むまでわたくしは知らなかったのである。なお日記には、右のことから一か月も経たない十一月六日に、山本良吉氏からの手紙で、京都大学についての話があったと記されている。この話の内容はよくは解らないが、京都大学への転任の話が京都の教授会で確定したのは、翌年四月のことである。だからこの話が前年の十一月ごろに始まったと考えても差し支えはあるまい。いずれにしても先生は、この当時大学での講義を予期していられたのである。京都へ移る前、七月に、学士会で送別会が催された。来会者は井上、元良、中島、狩野、姉崎、常盤、中島(徳)、戸川、茨木、八田、大島(正)、宮森、得能、紀平の諸氏であったという。 |
初めて西田幾多郎の名を聞いたころ | これらの中の一番若い人でも大学生から見ると先生だったのであるから、こういう出来事はすべて別世界のことであって、わたくしたちには知る由もなく、また関心もなかった。 多分先生が日記に、「小生の事は今年は望みなしとの事なり」と書かれたころであろう。わたくしは友人の岡本の言葉に刺激されて、藤岡作太郎著『国文学史講話』の序文を読んだ。そうして非常に動かされた。しかしそのなかに「とにかく余は今度我が子のあえなき死ということによりて、多大の教訓を得た。名利を思うて煩悶絶え間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられたような心持ちがして、一種の涼味を感ずるとともに、心の奥より秋の日のような清く温かき光が照らして、すべての人の上に純潔なる愛を感ずることができた」という個所のあるのに対して、特別の注意をひかれることはなかった。名利を思うて煩悶するというようなことに特別の内容が感じられなかったのである。しかし現在のように、『善の研究』を処女作としてその後に大きい思想的展開を見せた哲学者として西田先生を考える場合、従って明治四十三年の先生がかつてその名を聞いたことのない哲学者と呼ばれている場合、右のような言葉はかえって率直に理解せられ得るかも知れない。右の文章を書いた、先生は戸籍面四十歳、実年齢三十八歳であった。その年齢の先生に、名利を思うて煩悶絶え間なき心があったとしても、少しも、不思議ではない。実際そのころの先生は、力量相応の待遇を受けてはいなかったのである。 |
非名誉教授の弁 | わたくしは東京大学の名誉教授ではない。というよりも、わたくしには東京大学の名誉教授となる資格はないのである。しかるに近ごろわたくしは時々東京大学の名誉教授と間違えられる。間違えられたところで、それによってわたくしが何か利益を得るわけでもなければ、また間違えた人がそれによって何か損をするわけでもないのであるから、そんなことはどうでもよいことなのであるが、しかし事実と相違していることはちょっと気持ちの悪いものであるし、また人によると和辻はおのれの価しない「名誉」を不当に享受していると考えないものでもない。そういう誤解を受ければ、わたくしは名誉教授と間違えられることによって「名誉」を不当に享受するどころか、逆に不当な「不名誉」をうけることになる。暑さで仕事のできないのを幸いに、名誉教授にあらざるの弁を弄するゆえんである。 まず初めに、なぜわたくしが名誉教授と間違えられるに至ったかを考えてみると、一般の世間のみでなく、大学と密接な関係を有する方面でも、大学の名誉教授がどういうものであるかをいっこう知らないように思われる。 |
非名誉教授の弁 | わたくしが最初名誉教授と間違えられたのは、昭和二十四年の三月に東京大学を定年で退職してから二月目か三月目のころである。そのころ吉田首相が文教審議会というものを発案し、それにわたくしも引き出されることになって、初めての会合に出席した。席上配られた謄写版刷りの名簿を見ると、わたくしの名に東京大学名誉教授という肩書きがついている。たといわたくしに名誉教授として推薦される資格があったとしても、その手続きには教授会とか評議会とかの審議がいるのであって、通例は退職してから半年以上も後に発令されるのである。退職してから二三か月で名誉教授になっているなどということは、通例はないことである。いわんやわたくしはその資格のないことを知りぬいているのであるから、この名簿が間違いであることは一目してわかった。しかしこの名簿を作成したのは、内閣審議室か文部省か、どちらかである。文部省なら大学のことをよく知っているはずであるから、こんな間違いはしないであろう。 |
非名誉教授の弁 | しかし内閣の方は、名誉教授の任命などを司どっている場所であるから、そういう辞令が出たかどうかを一層よく知っているはずである。どうもおかしい。この名簿はたぶんあまり名誉教授のことなどを知らない下僚が作ったのであろう。それにしても、内閣で作った文書にこういう間違いがあるのは困る。そう思っている時にちょうど隣の席へ、当時の増田官房長官がすわった。これは具合がいい。官房長官はこういう文書の責任者に相違ないから、早速訂正を申し込んでおこう。そう思いついてわたくしは、名簿のわたくしの名のところを官房長官の前で指さして、これは間違っています、わたくしは名誉教授ではないのです、と言った。ところがちょうどその時、官房長官は何かに気をとられて会議の席を見まわしていた。そのせいかわたくしの誤謬の指摘がいっこうに心に響かない様子であった。事は小であっても、誤謬を指摘されて緊張しないのは、政治家として頼もしくない、とわたくしは思った。 |
非名誉教授の弁 | もっともわたくし自身も、その場限りでこの問題を忘れてしまって、会議のあとで事務の人に同じ訂正を申し込むことをしなかった。 そういう類のことはこの後にも起こった。平和問題懇談会が結成されたのは同じ年の暮れであったと思うが、その時の名簿にもわたくしの名に東京大学名誉教授という肩書きがついていたのである。わたくしはこの会の世話をしていた吉野源三郎君にこれは間違いだということを申し入れた。その席には他の人もいたように思う。だからこの名簿はたしか訂正されたはずである。しかし吉野君が重役をしている岩波書店の編集部の人々にはこのことは徹底しなかったと見えて、昨年の初めに改版を出した『人間の学としての倫理学』の表紙の包み紙の裏側に印刷されたわたくしの略伝には、東大名誉教授と記されている。実はわたくしは本ができたときにはそういう個所に注意せず、それに気づいたのはごく最近のことなのである。たとい包み紙であるにしても、とにかくわたくしの著書のなかにそういうことが印刷されているとなると、それを見た人がわたくしを東大名誉教授と思い込んでも、これは無理のない次第である。 |
非名誉教授の弁 | わたくし自身にそういう意図が全然ないにかかわらず、間違って思い込んでいる人がわたくしにそういう肩書きをつけ、それが印刷されて多くの人の眼にふれるとなると、この間違いはますます拡まるばかりである。 以上の例によって見ると、誤解のもとは案外に少数の人々の勘違いであるかも知れない。しかしそれが内閣とか文部省とか、あるいはわたくしの著書を少なからず出版している岩波書店とかにあるとすれば、名誉教授が何であるかを当然知っていそうな場所で、案外それが知られていないということになる。実際に事務を取っている若い人々は、教授が定年で退職すれば当然名誉教授になるとでも思っているのかも知れない。しかしそうではないのである。 名誉教授というものは、学術上の功績があったとか、当該大学において功績があったとか、とにかく功績を表彰する意味を含んだものである。ところでその功績を何によって量るかという段になると、なかなか容易なことではない。 |
非名誉教授の弁 | 大学は学問の府であるから、学術上の功績などは精確に量れるであろうと思う人があるかも知れないが、しかし教授たちも人間であって、さまざまの感情に支配されている。客観的に公平な批判をする人もあれば、主観的な傾向の強い人もある。そういう人々が集まって功績を評価することになると、機械でものを量るようなわけには行かない。今はもうないかも知れないが、昔親分子分の関係が濃厚であった学部などでは、勢力のある教授に対する阿付の傾向もなくはなかった。そういう関係が功績の評価のなかに入り込んでくると、公正な評価は到底望めない。そこで、そういう弊害を阻止しようと考えた先輩たちが、機械でものを量るような客観的標準を立てた。それが当該大学における勤続年数によって名誉教授の資格をきめるというやり方である。東京大学などではそれが二十年以上ということにきまっている。助教授の時代の年数は半分に数える。講師や助手の年数も何分の一かに加算されるはずである。 |
非名誉教授の弁 | このやり方はほかの古い大学でも採用していると思う。 このやり方だと、一部の教授の我執や感情が入り込む余地はない。その代わり、研究をそっちのけにして内職ばかりやっている教授でも、勤続年数が二十年以上でさえあれば、名誉教授に推薦され得る。これは学術上の功績や大学に対する功績を本来の理由としている名誉教授の制度からいうと、少し困ることになるかも知れないが、それでも前に言ったような弊害に比べれば、害がはるかに少ないのだそうである。こういう事情をわたくしに説明してくれたのは、なくなった今井登志喜君であるが、同君はその意味で固く年数制を支持していた。名誉を表彰するものであったはずの位階勲等が官吏の勤続年数によって自動的に与えられていた時代にあっては、これは当然のことであったかも知れない。 大学教授の大部分は、このことをちゃんと承知していたのである。位階勲等が勤続年数の表示であるように、名誉教授もまたそうであった。 |
非名誉教授の弁 | もちろん人によっては、このことを承知しながらも位階勲等の高いことを喜び、それと同じように名誉教授となることを熱望したでもあろう。しかしわたくしの知っている範囲では、そういう人は少数であった。そうしてまたそういう点がその少数の人々の性格的特徴であるように思われていた。 わたくしは三十歳を超えたころから、東京の私立大学で五年、京都大学で九年、東京大学で十五年、講義生活を送った。このうち国立大学に勤務したのは、教授として十八年、助教授として六年であるから、勤続年数二十年以上という条件にはちょっと合うように見えるが、しかし名誉教授はそれぞれの大学に即したものであって、勤続年数もまたそれぞれの大学だけで勘定するのである。従ってわたくしの場合には、東京大学に転任した時から、名誉教授の資格のないことが確定していた。こういう例はわたくしばかりではない。東北大学から転任して来た宇井伯寿君でも、太田正雄君でも、みな同じである。 |
非名誉教授の弁 | しかしわたくしたちは一度もそれを問題としたことはなかった。名誉教授が勤続年数を表示する制度である以上、事実は事実なのであって、問題とする余地は全然なかったのである。 それを今になって問題とせざるを得ないのは、わたくしを不当にも名誉教授と呼ぶ人があるからである。わたくしは決して東京大学の名誉教授ではない。すなわち東京大学に二十年以上勤務したことはない。わたくしの勤続年数は、満十五年に三か月ほど足りない。わたくしの知っている限りでも、勤続年数が十九年何か月とか十八年何か月とかで、もうあとわずかのところだからと言って、特別の取り扱いを学部から要求し、それが通った例はある。しかし十五年未満では全然問題にならないのである。 名誉教授をそういうものと知らなかったから、間違えるのも無理はないだろう、という人があるかも知れない。それではそういう人は名誉教授をどういうものと考えているのであろうか。名誉教授はおおやけに任命され、指定された大学の一人の成員となるのであるから、社会的な身分を現わすことにはなるかも知れぬ。 |
非名誉教授の弁 | 宿帳などには、無職と書く代わりに何々大学名誉教授と書くことができるかも知れない。しかしこれが一つの職業であるというのは嘘である。名誉教授はその大学において公的なことは何もしない、あるいはしてはならないからこそ名誉教授なのである。大学に定年制のできたおもな理由は、老教授の発言権を封じ、新進に道を開くためであった。名誉教授も入学式とか卒業式とかのような式典にはたぶん招かれるのであろうと思う。しかしそれだけで一つの職業が成り立つというわけには行かない。学部によると、名誉教授室を設けて研究の便宜を計っているところもあるらしい。しかしそういうところでも、名誉教授には便宜を計るが、名誉教授に任ぜられなかった前教授に対してはそれを拒むというのではないであろう。余裕さえあれば、名誉教授にも非名誉教授にも等しく便宜を計っているであろう。そういう意図を明示するために、名誉教授室を前教授室と改称した学部もある。 |
非名誉教授の弁 | 大学がかつての教授の研究に対して便宜を計ってくれるのは、学者としての個人に対する情誼であって、名誉教授に対する義務なのではない。室が足りなくなれば、名誉教授室などはどしどし撤回してしまうであろう。そのように名誉教授は、大学において何の権利も義務もないのである。 と思っていたところが、敗戦後教職追放の問題が起こり、各学部に審査委員会が設けられたとき、驚いたことには、名誉教授もまたその審査対象となったのであった。名誉教授は、その地位から追放すべきか否かを慎重審議すべきであるような、れっきとした「教職」なのであった。それなら宿帳に、無職とかく代わりに名誉教授と書き込んでよいはずである。わたくしはこの時になるほどと思った。欧米の社会のように社交の盛んなところ、従って教授などが学問の世界とはまるで違った方面の人々に接する機会の多いところでは、名誉教授という肩書きがなるほど物をいうであろう。人を呼ぶのにプロフェッサー何々と肩書きをつけて呼ぶ習慣のあるところで、大学を退職して急にプロフェッサーでなくなれば、ちょっと困るであろう。 |
非名誉教授の弁 | ゆえあるかなとわたくしは思ったのである。 しかしそうなると、社交界というもののあまりはっきり存在していない日本でも、肩書きの効用は相当にあるではないかということになる。その証拠には、肩書き付きの名刺を持っている人が日本には非常に多い。ということは、自分の名を自分の地位や身分と不可分なものとして相手に印象しようという意図が、一般的に存しているということの証拠である。これは一般に日本人が、未知の人を一個の人格として取り扱うとか、その人品骨柄に目をつけるとかいうことをしないで、ただその肩書きに応じて取り扱うという習性を持っているせいであろう。そうなると何々大学名誉教授などという肩書きも、毎日その効用を発揮し得るかも知れない。 こういう肩書きの効用を眼中に置いて、わたくしに東大名誉教授という肩書きをつけてくれたのであるとすると、その好意に対してはわたくしは感謝すべきであるかも知れぬ。しかしわたくしの動いている社会では、名誉教授も相当にいるにはいるが、それを名刺の肩書きにしている人はどうもいないように思う。 |
非名誉教授の弁 | わたくしどもは肩書きの効用などにあずかりたくないのである。そのため時には横柄な態度で迎えられることもあるであろうが、しかし肩書きを見て急に横柄な態度を改めるような人たちから、どれほど強い敬意を表せられたところで、それを喜ばしく受け容れるわけには行かない。未知の人に対しても、一個の人格として、相当の敬意や親切をもって接するような人が、おのずからに表明する敬意こそ、われわれもまた等しい敬意をもって、喜ばしく受け容れることができるのである。横柄な態度はいわゆるインフェリオリティー・コンプレックスの現われで、むしろ憐れむべきものである。それに対抗するために肩書きを用いるなどは、同じくインフェリオリティー・コンプレックスの現われであるかも知れない。(昭和二十七年十月『心』) |
文楽座の人形芝居 | 日本文化協会の催しで文楽座の人形使いの名人吉田文五郎、桐竹紋十郎諸氏を招いて人形芝居についての講演、実演などがあった。竹本小春太夫、三味線鶴沢重造諸氏も参加した。人形芝居のことをあまり知らない我々にとってはたいへんありがたい催しであった。舞台で見ているだけではちょっと気づかないいろいろな点をはっきり教えられたように思う。 あの人形芝居の人形の構造はきわめて簡単である。人形として彫刻的に形成せられているのはただ首と手と足に過ぎない。女の人形ではその足さえもないのが通例である。首は棒でささえて紐で仰向かせたりうつ向かせたりする。物によると眼や眉を動かす紐もついている。それ以上の運動は皆首の棒を握っている人形使いの手首の働きである。手は二の腕から先で、指が動くようになっている。女の手は指をそろえたままで開いたり屈めたりする。三味線を弾く時などは個々の指の動く特別の手を使う。男の手は五本の指のパッと開く手、親指だけが離れて開く手など幾分種類が多い。 |
文楽座の人形芝居 | しかし手そのものの構造や動きかたはきわめて単純である。それを生かせて使う力は人形使いの腕にある。足になると一層簡単で、ただ膝から下の足の形が作られているというに過ぎない。 これらの三つの部分、首と手と足とを結びつける仕方がまた簡単である。首をさし込むために洋服掛けの扁平な肩のようなざっとした框が作ってあって、その端に糸瓜が張ってある。首の棒を握る人形使いの左手がそれをささえるのである。その框から紐が四本出ていて、その二本が腕に結びつけられ、他の二本が脚に結びつけられている。すなわち人形の肢体を形成しているのは実はこの四本の紐なのであって、手や足はこの紐の端に過ぎない。従って足を見せる必要のない女の人形にあっては肢体の下半には何もない。あるのは衣裳だけである。 人形の肢体が紐であるということは、実は人形の肢体を形成するのが人形使いの働きだということなのである。すなわちそれは全然彫刻的な形成ではなくして人形使い的形成なのである。 |
文楽座の人形芝居 | この形成が人形の衣裳によって現わされる。あの衣裳は胴体を包む衣裳ではなくしてただ衣裳のみなのであるが、それが人形使い的形成によって実に活き活きとした肢体となって活動する。女の人形には足はないが、ただ着物の裾の動かし方一つで坐りもすれば歩きもする。このように人形使いは、ただ着物だけで、優艶な肉体でも剛強な肉体でも現わし得るのである。ここまでくると我々は「人形」という概念をすっかり変えなくてはならなくなる。ここに作り出された「人の形」はただ人形使いの運動においてのみ形成される形なのであって、静止し凝固した形象なのではない。従って彫刻とは最も縁遠いものである。 たぶんこの事を指摘するためであったろうと思われるが、桐竹紋十郎氏は「狐」を持ち出して、それが使い方一つで犬にも狐にもなることを見せてくれた。そうしてこういう話をした。ある時西洋人が文楽の舞台で狐を見て非常に感心し、それを見せてもらいに楽屋へ来た。 |
文楽座の人形芝居 | 人形使いはあそこに掛かっていますと言って柱にぶら下げた狐をさした。それは胴体が中のうつろな袋なので、柱にかかっている所を見れば子供の玩具にしか見えない。西洋人はどうしても承知しなかった。舞台で見たあの活き活きとした狐がどんなに精妙な製作であろうかを問題として彼は見に来たのであった。そこで人形使いはやむなく立って柱から狐を取りそれを使って見せた。西洋人は驚喜して、それだそれだと叫び出したというのである。西洋人は彫刻的に完成せられた驚くべき狐の像を想像していたのであった。しかるにその狐は人形使いの動きの中に生きていたのである。 人形がこういうものであるとすると、我々の第一に気づくことは、人形芝居がそれを使う人の働きを具象化しているものであり、従って音楽と同様に刻々の創造であるということである。しかるに人形は一人では使えない。人形使いは左手に首を持ち右手に人形の右手を持っている。人形の左手は他の使い手に委せなくてはならぬ。 |
文楽座の人形芝居 | さらに人形の足は第三の人の共働を待たねばならぬ。そうすると使う人の働きを具象化するということは少なくともこの三人の働きの統一を具象化することでなくてはならない。ところでここに表現せられるのは一人の人の動作である。三人の働きが合一してあたかも一人の人であるかのごとく動くのではまだ足りない。実際に一人の人として動かなければ人形の動きは生きて来ないのである。そこでこの三人の間の気合いの合致が何よりも重大な契機になる。人形が生きて動いている時には、同時にこの三人の使い手の働きが有機的な一つの働きとして進展している。見る目には三人の使い手の体の運動があたかも巧妙な踊りのごとくに隙間なく統一されてなだらかに流れて行くように見える。ただ一つの躊躇、ただ一つのつまずきがこの調和せる運動を破るのである。しかしこの一つの運動を形成する三人はあくまでも三人であって一人ではない。足を動かす人の苦心は彼自身の苦心であって首を持つ師匠の苦心ではない。 |
文楽座の人形芝居 | それぞれの人はそれぞれの立場においてその精根をつくさねばならぬ。そうして彼が最もよくその自己であり得た時に、彼らは最もよく一つになり得るのである。 吉田文五郎氏の話した若いころの苦心談はこの事を指示していたように思われる。足を使っていた少年の彼を師匠は仮借するところなく叱責した。種々に苦心してもなかなか師匠は叱責の手をゆるめない。ある日彼はついに苦心の結果一つのやり方を考案し、それでもなお師匠が彼を叱責するようであれば、思い切り師匠を撲り飛ばして逃亡しようと決心した。そうしてそのきわどい瞬間に達したときに、師匠は初めてうまいとほめた。自分の運命をその瞬間にかけるというほどに己れが緊張したとき、初めて師匠との息が合ったのである。それまでの叱責は自分の非力に起因していた。そこで文五郎氏も初めて師匠の偉さ、ありがたさを覚ったというのである。 このような気合いの統一はしかしただ三人の間に限ることではない。 |
文楽座の人形芝居 | 他の人形との間に、さらに語り手や三味線との間に、存しなくてはならない。それでなくては舞台上の統一は取れないのである。オペラや能と違って人形浄瑠璃においては音楽は純粋に音楽家が、動作は純粋に人形使いが引き受ける。そこで動作の心使いに煩わされることのない音楽家の音楽的表現が、直ちに動作する人形の言葉になる。人形は自ら口をきかないがゆえにかえって自ら言うよりも何倍か効果のある言葉を使い得るのである。そこで人形の動作において具象化せられる人形使いの働きと、その人形の魂の言葉を語っている音楽家の働きとが、ぴったりと合って来なくてはならない。オペラにおいて唱い手が唱いつつ動作しているあの働きと同じ事をやるために、人形使いたちと語り手の間に非常に緊密な気合いの合致が実現されねばならぬのである。そうしてそれだけの苦労は決して酬われないのではない。オペラにおける動作は一般に芸術的とは言い難い愚かなものであるが、人形の動作はまさに人間の表情活動の強度な芸術化純粋化と言ってよいのである。 |
文楽座の人形芝居 | ところでオペラの統一はオーケストラの指揮者が握っているが、人形芝居にはこのような指揮者がいない。しかも人形の使い手、語り手、弾き手は、直接に統一を作り出すのである。それは古くから言われているように「息を合わせる」のであって、悟性の判断に待つのではない。この点について三味線の鶴沢重造氏はきわめて興味の深いことを話してくれた。最初三味線を弾き出す時に、左右を顧み、ころあいをはかってやるのではない。もちろん合図などをするのではない。自分がパッと飛び出す時に同時に語り手も使い手も出てくれるのである。左右に気を兼ねるようであればこの気合いが出ない。思い切ってパッと出てしまうのである。ところでこの気合いは弾き出しの時に限らない。あらゆる瞬間がそれである。刻々として気合いを合わせて行かなければ舞台は生きるものではない。この話は我々に「指揮者なきオーケストラ」の話を思い出させる。それはロシアでは革命的な現象であったかも知れない。 |
文楽座の人形芝居 | しかし日本の芸術家にはきわめて当たり前のことであった。否、そのほかに統一をつくる仕方はなかったのである。 第二に我々の気づいたことは、人形の動作がいかに鋭い選択によって成っているかということであった。この選択は必ずしも今の名人がやったのではない。最初、人形芝居が一つの芸術様式として成立したのは、この選択が成功したということにほかならぬのである。人形に動作を与え、そうして生ける人よりも一層よく生きた感じを作り出すためには、人間の動作の中からきわめて特徴的なものを選び取らなくてはならなかった。いかに人形使いの手先が器用であるからといって、人形に無限に多様な動きを与えることはできない。手先の働きには限度がある。そこでこの限度内において人形を動かすためには、不必要な動作、意味の少ない動作は切り捨てるほかはない。そうすれば人の動作にとって本質的な(と人形使いが直観する)契機のみが残されてくることになる。 |
文楽座の人形芝居 | ここに能の動作との著しい対照が起こって来るゆえんがあり、また人形振りが歌舞伎芝居に深い影響を与えたゆえんもある。これらの演劇形態について詳しい知識を有する人が、一々の動作の仕方を細かく分析し比較したならば、そこにこれらの芸術の最も深い秘密が開示せられはしまいかと思われる。 一、二の例をあげれば、人形使いが人形の構造そのものによって最も強く把握しているのは、首の動作である。特に首を左右に動かす動作である。これは人形使いの左手の手首によって最も繊細に実現せられる。それによってうつ向いた顔も仰向いた顔も霊妙な変化を受けることができる。ところでこの種の運動は「能」の動作において最も厳密に切り捨てられたものであった。とともに、歌舞伎芝居がその様式の一つの特徴として取り入れたものであった。歌舞伎芝居において特に顕著に首を動かす一、二の型を頭に浮かべつつ、それが自然な人間の動作のどこに起源を持つかを考えてみるがよい。 |
文楽座の人形芝居 | そこにおのずから、人形の首の運動が演技様式発展の媒介者として存することを見いだし得るであろう。 あるいはまた人形の肩の動作である。これもまた首の動作に連関して人形の構造そのものの中に重大な地位を占めている。人形使いはたとえば右肩をわずかに下げる運動によって肢体全体に女らしい柔軟さを与えることができる。逆に言えば肢体全体の動きが肩に集中しているのである。ところでこのように肩の動きによって表情するということも「能」の動作が全然切り捨て去ったところである。とともに歌舞伎芝居が誇大化しつつ一つの様式に作り上げたものである。ここでも我々は人間の自然的な肩の動作が、人形の動作の媒介によって歌舞伎の型にまで様式化せられて行ったことを見いだし得るであろう。 この種の例はなおいくらでもあげることができるであろう。人形使いは人間の動作を選択し簡単化することによって逆に芸術的な人間の動作を創造したのである。そうしてかく創造せられた動作は、それが芸術的であり従って現実よりも美しいというまさにその理由によって、人間に模倣衝動を起こさせる。自然的な人の動作の内に知らず知らずに人形振りが浸み込んで来る。この際にはまた逆に、歌舞伎芝居が媒介の役をつとめていると言えるかもしれない。徳川時代にできあがった風俗作法のうちには、右のごとき視点からして初めて理解され得るものが少なからず存すると思う。 |
ベエトォフェンの面 | 一 人生が苦患の谷であることを私もまたしみじみと感じる。しかし私はそれによって生きる勇気を消されはしない。苦患のなかからのみ、真の幸福と歓喜は生まれ出る。 ある人は言うだろう。歓喜を産む苦患は真の苦患でない。苦患の形をした歓喜は真の歓喜でない。お前は苦患をも歓喜をも知らないのだ。お前の体験はそれほどに希薄だ。 しかし私は答える。歓喜を産む可能性のない苦患は「生きている人」にはあり得ない。苦患の色を帯びない歓喜は「生に触れない人」にのみあり得る。そのような苦患と歓喜とは、息をしている死人や腐った頽廃者などの特権だ。 苦患は戦いの徴候である。歓喜は勝利の凱歌である。生は不断の戦いであるゆえに苦患と離れることができない。勝利は戦って獲られるべき貴い瞬間であるゆえに必ず苦患を予想する。我らは生きるために苦患を当然の運命として愛しなければならぬ。そして電光のように時おり苦患を中断する歓喜の瞬間をば、成長の一里塚として全力をもってつかまねばならぬ。 |
ベエトォフェンの面 | 苦患のゆえに生を呪うものは滅べ。生きるために苦患を呪うものは腐れ。二 ショペンハウェルの哲学は苦患の生より生い出る絶妙な歓喜への讃歌であった。 生を謳歌するニイチェの哲学は苦患を愛する事を教うるゆえに尊貴である。 苦患を乗り超えて行こうとする勇気。苦患に焔を煽られる理想の炬火。それのない所に生は栄えないだろう。三 私は痛苦と忍従とを思うごとに、年少のころより眼の底に烙きついているストゥックのベエトォフェンの面を思い出す。暗く閉じた二つの眼の間の深い皺。食いしばった唇を取り巻く荘厳な筋肉の波。それは人類の悩みを一身に担いおおせた悲痛な顔である。そして額の上には永遠にしぼむことのない月桂樹の冠が誇らしくこびりついている。 この顔こそは我らの生の理想である。四 苦患を堪え忍べ。 苦患に堪える態度は一つしかない。そしてそれをベエトォフェンの面が暗示する。苦患に打ち向こうて、苦患と取り組んで、沈黙、静寂、悲痛の内に、苦患の最後の一滴まで嘗め尽くす。 |
ベエトォフェンの面 | この態度のみが耐忍の名に価するだろう。 苦患に背を向け、感傷的に慟哭し、饒舌に告白する。かくしてもまた苦患の終わりを経験することはできる。しかしそれを真に苦しみに堪えたと呼ぶことはできない。 卑近の例を病気に取ってみよう。病苦は病の癒えるまで、あるいは病が生命を滅ぼすまで続く。言を換えて言えば、病苦は続く間だけ続く。病気に罹った以上は誰でも最後まで苦しみ通すのである。耐忍するもしないもない。しかも我々は病苦に堪え得る人と堪え得ぬ人とを区別する。同じ病苦を受けるにもそれほど異なった二つの態度があるからである。「しかり」と「否」と。受ける態度と逃げる態度と。生きる人と死ぬ人と。これがまず人間の尊卑をきめるだろう。五 生の苦患に対する態度については、それが道徳的に大きい意義を持てば持つほど、より大きい危険がある。 病苦は号泣や哀訴によってごまかすことはできても、全然逃避し得る性質のものでない。しかし精神的な生の悩みは、露出させる事によってごまかし得るほかに、また全然逃避することもできるのである。 |
ベエトォフェンの面 | ある内的必然によって意志を緊張させた場合を想像する。喩えて言えば、ある理想のために重い石を両手でささげるのである。腕が疲れる。苦しくなる。理想の焔に焼かれている者は、腕がしびれても、眼が眩んでも、歯を食いしばってその石をささげ続ける。彼の心は、神の手がその石を受け取ってくれる瞬間のためにあえいでいる。しかしこれと異なった態度の人は、腕が疲れて来るに従って、石を大地に投げ捨てた時の安楽と愉快とを思う。そして自分にささやく。「こんな石をささげているのはばかばかしいではないか。これを投げ捨てれば俺の生は自由に軽快になるだろう。そこに真の生活があるのだ。」こういう自己是認ができるとともに、石が地に落ちる。彼は苦患を脱する。 こうしてある種の人々は生から逃げ出して行く。そして漸次に息をしながら死んで行く。何ものも人格に痕を残さない。人格は一歩も成長しない。腐敗がいつのまにか核実にまで及んでいる。六 製作の苦しみは直ちに生の苦しみであるとは言えない。 |
ベエトォフェンの面 | 製作の苦しみが人格の苦しみに根を持つ時、初めて貴むべき苦しみになるのである。 生活と製作とは一つでなければならぬ。これは自明のことである。しかしそれは恋をしながら同時に恋物語を書いて行くという意味ではない。製作は花、生活は根である。一つの生に貫ぬかれてはいるが、産む者と産まるる者との相違はある。偉大な花は深く張った根からでなくては産まれない。 真に価値ある苦しみはただ根にのみ関する。大きい根から美しい花の咲かないことはあっても枯れかかった根から美しい花の咲くことは決してあり得ない。根の枯れるのを閑却して、ただ花のみ咲かせようとあせる人ほど、ばかげた哀れなものはないだろう。 しかしその哀れな人々が、大きい顔をして、さも生きがいありそうに働いている。七お前の生を最もよく生きるために、お前の苦しみを底まで深く苦しめ。生が愛であることを、愛が苦しみであることを、苦しみが愛を煽ることを、愛が生を高めることを、お前のその顔に刻みつけろ。 |
松風の音 | 東京の郊外で夏を送っていると、時々松風の音をなつかしく思い起こすことがある。近所にも松の木がないわけではないが、しかし皆小さい庭木で、松籟の爽やかな響きを伝えるような亭々たる大樹は、まずないと言ってよい。それに代わるものは欅の大樹で、戦争以来大分伐り倒されたが、それでもまだ半分ぐらいは残っている。この欅が、少し風のある日には、高い梢の方で一種独特の響きを立てる。しかしそれは松風の音とは大分違う。それをどう言い現わしたらいいか、ちょっと困るが、実際に響きそのものが相当に違っているばかりでなく、それを聞いたときに湧然と起こってくる気分、それに伴う連想などが、全部違っているのである。 響きそのものが違うのは、その響きを立てる松の姿と欅の姿とを比べて見れば解る。直接音に関係のあるのは葉だろうと思うが、松の葉は緑の針のような形で、実際落葉樹の軟らかい葉には針のように突き刺すことができる。葉脈が縦に並んでいて、葉の裏には松の脂が出るらしい白い小さい点が細い白線のように見えている。 |
松風の音 | 実際強靭で、また虫に食われることのない強健な葉である。それに比べると、欅の葉は、欅が大木であるに似合わず小さい優しい形で、春芽をふくにも他の落葉樹よりあとから烟るような緑の色で現われて来、秋は他の落葉樹よりも先にあっさりと黄ばんだ葉を落としてしまう。この対照は、常緑樹と落葉樹というにとどまらず、剛と柔との極端な対照のように見える。が一層重要なのは枝のつき工合である。松の枝は幹から横に出ていて、強い弾力をもって上下左右に揺れるのであるが、欅の枝は幹に添うて上向きに出ているので、梢の方へ行くと、どれが幹、どれが枝とは言えないようなふうに、つまり箒のような形に枝が分かれていることになる。欅であるから弾力はやはり強いであろうが、しかしこの枝は、前後左右に揺れることはあっても、上下に揺れることは絶対にない。松の風の音は、右のような松の葉が右のような松の枝に何千何万と並んでいて、風によって上下左右に動かされて立てる響きなのであるが、欅の風の音は、右のような欅の葉が右のような欅の枝に同じく何千何万と並んでいて、風によってただ前後にだけ動かされて立てる響きなのである。 |
松風の音 | それが非常に違うのは当然のことだと言ってよい。 松風の音に伴って起こってくる連想は、パチッパチッという碁石の音である。小高いところにあるお寺の方丈か何かで、回りに高い松の樹があり、その梢の方から松籟の爽やかな響きが伝わってくる。碁盤を挟んで対坐しているのは、この寺の住持と、麓の村の地主とであって、いずれもまだ還暦にはならない。時は真夏の午後、三、四時ごろである。二人は何も言わない。ただ時々、パチッパチッと石を置く音がする。 わたくしにはこの寺がどこであるか解らない。また碁を打っている住持と地主が誰であるかも解らない。しかしいつのころからか、松風の音を思うと、そういう光景が頭に浮かんでくる。碁石の音が、何か世間に超然としている存在を指しているように思える。松風の音はそういう存在の伴奏なのである。 わたくしの子供の時分には、こういう住持や地主が農村の知識階級を代表していた。その後半世紀を経たのであるから、そういう人たちはもう一人も残っていないであろう。たといそういう種族のうちで生き残っている人があるとしても、そういう生活の仕方は、もう許されなくなっているであろう。しかしああいう存在はあっていいと思う。あれもギリシア人のいわゆるスコレー(ひま)を楽しむ一つの仕方であろう。 |
面とペルソナ | 問題にしない時にはわかり切ったことと思われているものが、さて問題にしてみると実にわからなくなる。そういうものが我々の身辺には無数に存している。「顔面」もその一つである。顔面が何であるかを知らない人は目明きには一人もないはずであるが、しかも顔面ほど不思議なものはないのである。 我々は顔を知らずに他の人とつき合うことができる。手紙、伝言等の言語的表現がその媒介をしてくれる。しかしその場合にはただ相手の顔を知らないだけであって、相手に顔がないと思っているのではない。多くの場合には言語に表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。それは通例きわめて漠然としたものであるが、それでも直接逢った時に予期との合不合をはっきり感じさせるほどの力強いものである。いわんや顔を知り合っている相手の場合には、顔なしにその人を思い浮かべることは決してできるものでない。 |
面とペルソナ | 絵をながめながらふとその作者のことを思うと、その瞬間に浮かび出るのは顔である。友人のことが意識に上る場合にも、その名とともに顔が出てくる。もちろん顔のほかにも肩つきであるとか後ろ姿であるとかあるいは歩きぶりとかというようなものが人の記憶と結びついてはいる。しかし我々はこれらの一切を排除してもなお人を思い浮かべ得るが、ただ顔だけは取りのけることができない。後ろ姿で人を思う時にも、顔は向こうを向いているのである。 このことを端的に示しているのは肖像彫刻、肖像画の類である。芸術家は「人」を表現するのに「顔」だけに切り詰めることができる。我々は四肢胴体が欠けているなどということを全然感じないで、そこにその人全体を見るのである。しかるに顔を切り離したトルソーになると、我々はそこに美しい自然の表現を見いだすのであって、決して「人」の表現を見はしない。もっとも芸術家が初めからこのようなトルソーとして肉体を取り扱うということは、肉体において自然を見る近代の立場であって、もともと「人」の表現をねらっているのではない。 |
面とペルソナ | それでは、「人」を表現して、しかも破損によってトルソーとなったものはどうであろうか。そこには明白に首や手足が欠けているのである。すなわちそれは「断片」となっているのである。そうしてみると、胴体から引き離した首はそれ自身「人」の表現として立ち得るにかかわらず、首から離した胴体は断片に化するということになる。顔が人の存在にとっていかに中心的地位を持つかはここに露骨に示されている。 この点をさらに一層突き詰めたのが「面」である。それは首から頭や耳を取り去ってただ顔面だけを残している。どうしてそういうものが作り出されたか。舞台の上で一定の人物を表現するためにである。最初は宗教的な儀式としての所作事にとって必要であった。その所作事が劇に転化するに従って登場する人物は複雑となり面もまた分化する。かかる面を最初に芸術的に仕上げたのはギリシア人であるが、しかしその面の伝統を持続し、それに優れた発展を与えたものは、ほかならぬ日本人なのである。 |
面とペルソナ | 昨秋表慶館における伎楽面、舞楽面、能面等の展観を見られた方は、日本の面にいかに多くの傑作があるかを知っていられるであろう。自分の乏しい所見によれば、ギリシアの仮面はこれほど優れたものではない。それは単に王とか王妃とかの「役」を示すのみであって、伎楽面に見られるような一定の表情の思い切った類型化などは企てられていない。かと言って、能面のある者のように積極的な表情を注意深く拭い去ったものでもない。面におけるこのような芸術的苦心はおそらく他に比類のないものであろう。このことは日本の彫刻家の眼が肉体の美しさよりもむしろ肉体における「人」に、従って「顔面の不思議」に集中していたことを示すのではなかろうか。 が、これらの面の真の優秀さは、それを棚に並べて、彫刻を見ると同じようにただながめたのではわからない。面が面として胴体から、さらに首から、引き離されたのは、ちょうどそれが彫刻と同じに取り扱われるのではないがためである。 |
面とペルソナ | すなわち生きて動く人がそれを顔につけて一定の動作をするがためなのである。しからば彫刻が本来静止するものであるに対して、面は本来動くものである。面がその優秀さを真に発揮するのは動く地位に置かれた時でなくてはならない。 伎楽面が喜び怒り等の表情をいかに鋭く類型化しているか、あるいは一定の性格、人物の型などをいかにきわどく形づけているか、それは人がこの面をつけて一定の所作をする時にほんとうに露出して来るのである。その時にこそ、この顔面において、不必要なものがすべて抜き去られていること、ただ強調せらるべきもののみが生かし残されていることが、はっきり見えて来る。またそのゆえにこの顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎楽面の側に自然のままの人の顔を見いだすならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを得ないであろう。芸術の力は面において顔面の不思議さを高め、強め、純粋化しているのである。 |
面とペルソナ | 伎楽面が顔面における「人」を積極的に強調し純粋化しているとすれば、能面はそれを消極的に徹底せしめたと言えるであろう。伎楽面がいかに神話的空想的な顔面を作っても、そこに現わされているものはいつも「人」である。たとい口が喙になっていても、我々はそこに人らしい表情を強く感ずる。しかるに能面の鬼は顔面から一切の人らしさを消し去ったものである。これもまた凄さを具象化したものとは言えるであろうが、しかし人の凄さの表情を類型化したものとは言えない。総じてそれは人の顔の類型ではない。能面のこの特徴は男女を現わす通例の面においても見られる。それは男であるか女であるか、あるいは老年であるか若年であるか、とにかく人の顔面を現わしてはいる。しかし喜びとか怒りとかというごとき表情はそこには全然現わされていない。人の顔面において通例に見られる筋肉の生動がここでは注意深く洗い去られているのである。だからその肉づけの感じは急死した人の顔面にきわめてよく似ている。 |
面とペルソナ | 特に尉や姥の面は強く死相を思わせるものである。このように徹底的に人らしい表情を抜き去った面は、おそらく能面以外にどこにも存しないであろう。能面の与える不思議な感じはこの否定性にもとづいているのである。 ところでこの能面が舞台に現われて動く肢体を得たとなると、そこに驚くべきことが起こってくる。というのは、表情を抜き去ってあるはずの能面が実に豊富きわまりのない表情を示し始めるのである。面をつけた役者が手足の動作によって何事かを表現すれば、そこに表現せられたことはすでに面の表情となっている。たとえば手が涙を拭うように動けば、面はすでに泣いているのである。さらにその上に「謡」の旋律による表現が加わり、それがことごとく面の表情になる。これほど自由自在に、また微妙に、心の陰影を現わし得る顔面は、自然の顔面には存しない。そうしてこの表情の自由さは、能面が何らの人らしい表情をも固定的に現わしていないということに基づくのである。 |
面とペルソナ | 笑っている伎楽面は泣くことはできない。しかし死相を示す尉や姥は泣くことも笑うこともできる。 このような面の働きにおいて特に我々の注意を引くのは、面がそれを被って動く役者の肢体や動作を己れの内に吸収してしまうという点である。実際には役者が面をつけて動いているのではあるが、しかしその効果から言えば面が肢体を獲得したのである。もしある能役者が、女の面をつけて舞台に立っているにかかわらず、その姿を女として感じさせないとすれば、それはもう役者の名には価しないのである。否、どんな拙い役者でも、あるいは素人でも、女の面をつければ女になると言ってよい。それほど面の力は強いのである。従ってまた逆に面はその獲得した肢体に支配される。というのは、その肢体は面の肢体となっているのであるから、肢体の動きはすべてその面の動きとして理解され、肢体による表現が面の表情となるからである。この関係を示すものとして、たとえば神代神楽を能と比較しつつ考察してみるがよい。 |
面とペルソナ | 同じ様式の女の面が能の動作と神楽の動作との相違によっていかにはなはだしく異なったものになるか。能の動作の中に全然見られないような、柔らかな、女らしい体のうねりが現われてくれば、同じ女の面でも能の舞台で決して見ることのできない艶めかしいものになってしまう。その変化は実際人を驚かせるに足るほどである。同じ面がもし長唄で踊る肢体を獲得したならば、さらにまた全然別の面になってしまうであろう。 以上の考察から我々は次のように言うことができる。面は元来人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢体を獲得する。人を表現するためにはただ顔面だけに切り詰めることができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。 |
面とペルソナ | ここまで考えて来ると我々はおのずから persona を連想せざるを得ない。この語はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。dramatis personae がそれである。しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格等もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。しかるに人は社会においておのおの彼自身の役目を持っている。己れ自身のペルソナにおいて行動するのは彼が己れのなすべきことをなすのである。従って他の人のなすべきことを代理する場合には、他の人のペルソナをつとめるということになる。そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。 |
面とペルソナ | かくして「面」が「人格」となったのである。 ところでこのような意味の転換が行なわれるための最も重大な急所は、最初に「面」が「役割」の意味になったということである。面をただ顔面彫刻としてながめるだけならばこのような意味は生じない。面が生きた人を己れの肢体として獲得する力を持てばこそ、それは役割でありまた人物であることができる。従ってこの力が活き活きと感ぜられている仲間において、「お前はこの前には王の面をつとめたが、今度は王妃の面をつとめろ」というふうなことを言い得るのである。そうなると、ペルソナが人格の意味を獲得したという歴史の背後にも、前に言った顔面の不思議が働いていた、と認めてよいはずである。 面という言葉はペルソナと異なって人格とか法人とかの意味を獲得してはおらない。しかしそういう意味を獲得するような傾向が全然なかったというのではない。「人々」という意味で「面々」という言葉が用いられることもあれば、各自を意味して「めいめい」(面々の訛であろう)ということもある。これらは面目を立てる、顔をつぶす、顔を出す、などの用法とともに、顔面を人格の意味に用いることの萌芽であった。付記。能面についての具体的なことは近刊野上豊一郎氏編の『能面』を見られたい。氏は能面の理解と研究において現代の第一人者である。 |
夢 | 夢の話をするのはあまり気のきいたことではない。確か痴人夢を説くという言葉があったはずだ。そう思って念のために辞書をひいて見ると、痴人が夢を説くというのではなくして、痴人に対して夢を説くというのがシナのことわざであった。夢の話をすること自体が馬鹿げたことだというのではない。痴人に対して夢の話をするのが馬鹿げているというのである。そうなると大分むつかしくなる。どうしてそれが馬鹿げているのであろうか。反対に、賢人に対して夢の話をしても馬鹿げたことにならないのはなぜであろうか。それに対するシナ人の答えは、痴人ノ前ニ夢ヲ説クベカラズ、達人ノ前ニ命ヲ説クベカラズという句に示されているように見える。これは陶淵明の句だと言われているが、典拠は明らかでない。とにかく、すでに命を十分に体得している達人に対して、今さら命を説くのが馬鹿げているように、到底現実となり得ないような夢にあこがれている痴人に対して、さらに夢を説いて聞かせるのは、馬鹿げたことだという意味であろう。 |
夢 | 夢にあこがれている痴人に対してなすべきことは、人力のいかんともなし難い命運を説いて聞かせることである。そのように、命を悟ってあきらめに達している賢人に対しても、夢を説いて聞かせるのは無意味ではあるまい。夢へのあこがれがどれほど現実に動いているかを痛感させてやれば、命運で割り切ってあきらめの底に沈んでいる達人も、なんとかしなくてはという気持ちで、動き出してくるかも知れない。あるいはまたそういう達人は、夢の話を聞いて、その底に動いている命を達観し、それを解りやすく教えてくれるかも知れない。従って達人に対して夢を説くということは、少しも馬鹿げたことではない。これが陶淵明の句から当然帰結されてよい考えだと言ってよかろう。 右のシナ人の句では、夢というのが文字通りの夢であるのか、あるいは理想のことを比喩的に言っているのか、はっきりしないのであるが、理想のことを言っているのだとすると、空想的なユートピアの論や歴史的転回の必然性の論に関係がなくもなさそうである。 |
夢 | しかし文字通りの夢を問題としているのだとしても、学者が夢の中から無意識の底の深い真実を掴み出してくれる現代にあっては、なかなか馬鹿にできぬ考えだといわなくてはならない。痴人に対して夢を説いても何にもならないが、精神分析学者の前で夢を説けば、自分にも解らない自分の真相を実に明白に開示してもらえるからである。もっともそういう精神分析学者の解釈を信用しないことはその人の自由である。昔は夢は神のお告げということになっていたので、占卜者の解釈を信用しないと、恐ろしい神罰を受ける怖れがあった。精神分析学者は神のお告げを神様の方から生理心理的な個体の方へ移してしまって、リビドの表現ということにしてしまったのであるから、そういう学説をエセ学説として排斥しても、リビドが復讐するなどということはなかろう。そういう態度を取る方がかえってその人のリビドを健康ならしめるかも知れない。もっともこのリビドがエラン・ヴィタールのようなものであるとすると、また大分神様の方へ近づいてくるが、それにしても神罰などの怖れはない。 |
夢 | そういうエセ形而上学は困ると考えるのはその人の自由である。しかしそれにもかかわらず、夢を説くことは、痴人に対してこそなすべきでないが、達人に対してはやってよいという事態は、依然として変わらないのである。昔のシナ人の言葉にはなかなか味があると思われる。 フロイドが夢の解釈を書いた時よりも後に出た本だと思うが、ヒルティの『眠られぬ夜々のために』というのを高等学校の時に岩元さんに読まされたことがある。その中に、夢はその時々の人格の成長のインデックスだという意味の言葉があった。この言葉はその後長くわたくしの心にこびりついていたが、夢を見たあとで、自分の人格の成長を知って喜ぶなどということは一度もなかった。何か食い過ぎた夜の夢などはろくなことはなかった。ヒルティの言葉が本当なら、わたくしは人格的に一向成長しなかったことになる。あるいはそうであるのかも知れない。そういう点についても、少し夢を語って見なければ、達人から教えを受けるわけに行かないであろう。 |
夢 | もう十何年か前の話である。日米関係が大分険悪になっていたころであるから、昭和十五年の末か十六年の初めごろであったかと思う。国際文化振興会の黒田清氏に招かれて、谷川徹三氏などとともに星ヶ岡茶寮で会食したことがある。その席で少し食い過ぎたためであったかも知れない。その夜の夢にわたくしは日米開戦を見たのである。 星ヶ岡茶寮のあった日枝神社の台は、少し小高くなっていて、溜池の方向から下町が少し見える。しかし東京湾まで見晴らせるというわけではない。しかるに夢では、どうやら星ヶ岡らしい高台から見晴らしているのであるが、海がわりに近くに見え、その海に面して十層くらいの高層建築が数多く立ち並んでいた。初め岡の麓から崖ぞいの道をのぼりかかった時、どういう仕方であったか、とにかく空襲だということが解って、急いで見晴らしのきくところまでのぼって行ったのであるが、その時にはちょうど右の高層建築群の上へ編隊がさしかかっていた。 |
夢 | 盛んに爆弾が落ちてくる。急降下爆撃をやる飛行機もある。あっと思った瞬間に、わたくしにはこれがアメリカの飛行機であり、この爆撃によって日本が致命的な打撃をうけるということが解っていた。やっぱりやられることになったのかと思って、わたくしは、なんともいえず重苦しい気持ちになった。 東京で海添いに高層建築の立ち並んだ場所などはない。どうしてそういう風景が心に浮かんで来たかは、まるで見当がつかない。しかしその風景は、夢のさめた後まで、実にはっきりと心に残っていた。それはどこかシンガポールのようでもあったし、またヴェニスのようでもあったが、それらよりはよほど壮大であった。むしろ、飛行機から撮ったニューヨーク港の景色に似ていたといってよいかも知れない。高層建築はニューヨークほど高くはなかったが、それらの建築が日光に輝いている光景は、なかなか立派であった。ここをやられると日本は致命的な打撃をうけるというのが、この夢の前提であった。 |
夢 | 右の第一場から第二場へどういうふうに転換したかは、まるで覚えがない。第二場は今住んでいる練馬あたりの田舎と同じような、畑つづきの野原であった。その畑の間の野道を家内や孫とともにぶらぶら歩いていると、突然空にガーッと飛行機の音が聞こえて来た。驚いて見上げると、数十機の編隊がわりに低空を飛んで来る。それを見た瞬間に、どういうわけかわたくしには、それがアメリカの飛行機であることが解った。のみならずわたくしは、あゝ、やっぱりあれを発明していたのだ、これではどうにも仕方がない、と感じて、ひどいショックをうけた。その「あれ」が何であったかは一向明らかでない。蒼空にくっきりと刻まれた飛行機の姿は、妙に鮮やかに記憶に残っているが、それには新しい発明を思わせるものは何もなかった。それでもわたくしは、かねがね恐れていた発明をアメリカ人がすでに成就していること、その恐ろしい武器をもって今日本を攻撃して来たのであることなどを、この瞬間に理解して縮み上がったのである。 |
夢 | でとにかく家内や孫をどこかへ避難させなくてはならぬと思って、あたりを見回すと、そこは一面の茄子畑で、茄子の紫色が葉陰から点々と見えているだけで、身を隠す草むらさえなかった。飛行機の編隊はもう真上へ迫ってくる。それは晴れ上がったよい天気の日で、野一面の緑が実に明るく美しかったが、もういよいよこれで最期だ……という時に目がさめたのである。 この茄子畑の印象は、関東大地震の時の記憶が蘇ったものらしい。わたくしはあの地震に千駄ヶ谷の徳大寺山の下で会ったが、最初の大きい地震で家の南側の畑の中に避難していると、そこの茄子畑が余震の時にちょうど池の面のさざなみのように波うつのが見えた。茄子畑と危険とが結びついたのはそういう因縁であろうと思われる。飛行機の編隊なども平生見慣れていた低空飛行の時の姿であって、後に実際に B29 の攻撃を受けたときの光景とはまるで似寄りがなかった。夢の個々の要素を捕えて洗い上げて行けば、大抵は見当がつくかと思う。 |
夢 | しかし東京がアメリカの航空隊の奇襲をうけるということ、そのアメリカの航空隊が何か重大な恐ろしい発明を運んでくるということは、昭和十五六年ごろのわたくしの意識には、はっきりとはのぼっていなかったように思う。わたくしのみではない。世界の軍事専門家の間でも、真珠湾の奇襲やプリンス・オブ・ウェールズの撃沈が起こるまでは、まだ航空機をそれほど重要視してはいなかったであろう。従ってこの夢の主題そのものは、覚めた意識のなかから生まれて来たと考えることができない。それを産んだのは潜在意識である。昔の人のように、これを神の告げと解し、それを心の底から信じて人々に説いていたならば、わたくしは予言者になることができたわけである。航空隊の奇襲で戦争が始まるという予言は、アメリカ側の奇襲でなく日本側の奇襲であったという点において、ちょっと外れた格好にはなるが、しかし数か月待っていれば、アメリカ航空隊の東京奇襲は事実になってくる。 |
夢 | この奇襲は大した効果もなかったように見えるが、しかしそれがミッドウェー海戦を誘発したとすれば、非常に大きい意義を持つものになってくる。それが日本に致命的な打撃を与えたと言えなくもない。やがて間もなく南洋でボーイング B17 が活躍を始め、レーダーが日本海軍の特技を封じてしまう。新しい発明が物を言い始めたのである。そうして最後には、文字通りに、飛行機が「あれ」を、原子爆弾を、運んでくる。ここで予言は完全に適中したことになる。 わたくしは、覚めた意識においても、その種の可能性を考えなかったわけではない。しかし多くの可能性が考えられる場合に、その一つを選んで、これが必ず未来に起こると決定することは、なかなか容易でない。従って右に類することを考えたとしても、それはただ一つの可能性としてであって、未来の見透しというようなはっきりした形を持ってはいなかった。しかるに夢では、その一つの可能性だけが、実現された形で現われてくる。 |
夢 | 自分が選択したのではないのに、それはすでに選択されている。そういうふうに、覚めた意識では決定のできないことを、夢ではすでに決定しているというところに、夢の持つ示唆性があるのであろう。もちろん、夢で決定されている通りに未来の事件が運ばないこともある。恐らくその方が多いであろう。しかし夢の通りに未来の事件が運んで行った場合には、夢にいろいろと意味をつけることになる。右の夢の場合はその一つである。 わたくしはこの二三年あまり夢を見なくなった。停年で大学をやめて講義をする義務から解放されたせいであるかも知れない。あるいは夕食の際に飯を一碗以上は決して食わないという習慣がついたせいかも知れない。あるいはまた、実際に夢を見ていても、醒めた後に意識に残らないのであるかも知れない。しかるに最近、珍しく変てこな夢を見て、それがはっきりと意識に残っているのである。 それはシカゴで共和党の大統領候補者指名大会が開かれ、新聞にデカデカとその記事がのるようになってからであった。 |
夢 | アイゼンハワーの指名はまだきまっておらず、マッカーサーの基調演説の内容もまだ報道されていなかった時だと思う。その新聞の記事が刺激になっていることは明らかである。しかしわたくしは大統領選挙にそれほど肩を入れているわけではないし、あの記事から近ごろの夢を見ない習性を破るほどの強い刺激を受けたとも思わない。多分その晩に食った鳥鍋がおもな原因であろう。鳥鍋と言っても鳥の肉をそんなに食ったわけではない。おもに野菜や豆腐を食ったのである。しかしその分量が普段の日よりは多かったように思う。 その夢の初めの方は少しぼんやりしているが、なんでも山の上の温泉場か何かで重大な大会が数日来催されていた。その様子は毎日テレヴィジョンで全世界に報道されている。今日はその最終日で、プログラムの最後に、重要な宣言が行なわれる。その宣言を演説する役目を、どういうわけかわたくしが引き受けているのである。それでその会場に行くために、わたくしは麓の電車の終点から、ぽつぽつと山あいの道を歩いている。 |
夢 | 時間は余分に見込んであるので、ゆっくりぶらついて行って大丈夫なのである。 この山あいの道は箱根のような山道ではなく、鎌倉の町から十二所の方へはいって行く道のように、平坦な道であった。そのくせ山の上の温泉場は、太平洋側と日本海側との分水嶺になっていて、日本海がよく見晴らせるはずであった。数日来のテレヴィジョンで、わたくしはその会場の広闊な眺めを知っていることになっていた。なんだかそこは山陽道と山陰道との脊椎に当たる場所であったような気もする。そういう場所へ平坦な山あいの道を歩いて簡単に行けるということは、いかにもおかしいが、そこはいかにも夢らしいところである。 わたくしは非常に憂欝な気持ちでその道を歩いて行った。なんだってこんな役目を引きうけたろうとムシャクシャするのである。大会の宣言演説はテレヴィジョンで全世界に報道される。それはまことに花やかな役目であるかも知れないが、しかし今の世界に対してこういう理想を説くことは、いかにもそらぞらしいではないか。 |
夢 | 舞台で見栄を切ることはわたくしの性には合わない。わたくしはそういう世界からは文字通りに隠居することを堅く決意していたはずである。それになんだって気弱く譲歩してしまったのであろう。それでも大会のお祭り騒ぎに列することは避けて、自分の役目を果たすだけのぎりぎりの時間に出席しようとはしている。そのため人目を避けてこっそり電車でやって来て、こうしてぽくぽく歩いているのである。しかしそうするくらいなら、なんだって初めに固くことわってしまわなかったのであろう。実にだらしがない。そういうことをくよくよ考えながら歩いて行った。 やがてこの谷の奥にある最後の村へついた。その村はだらだら坂をのぼった丘の上にある。この村の左下を回って裏へ抜けると、向こうに目ざす温泉場の山が見えることになっている。約束の時間にはゆっくり間に合うと思いながら、村のうしろへ回る道を崖の上から見おろすと、驚いたことには、その道の上に一メートルほどの深さで澄んだ水が溜まっている。 |
夢 | その水の底に白っぽい道の表面がはっきりと見えた。その道はどういうわけかわたくしには見慣れた馴染みの道なのである。この道がこれほど水をかぶるくらいならば、この谷の奥はよほどひどい洪水だなとわたくしは思う。これでは予定通りに向こうへつくことはできないかも知れない。これは大変なことになった。なんとかならないだろうかとわたくしはやきもきし始める。ここへ来るまでは大会へ出席することがいやでたまらなかったのに、ここで約束通り目的地へ着けないかも知れぬということが大問題になってくる。 わたくしは大急ぎで馴染みの爺さんの家の方へ歩いて行った。いつの間にかこの村がわたくしの馴れ親しんだ土地だということになっていて、ここに親切な爺さんの家があるのである。爺さんの家の前の庭にはいっぱいに刈り取った麦が積んであって、人々が忙しそうに脱穀の作業をやっていた。はいって行くと皆が笑顔で迎えてくれる。この庭を取り囲んで納屋や鶏小屋があり、おも屋の軒には小鳥の籠が吊してあった。 |
夢 | その小鳥の籠の下で爺さんにわけを話し、なんとか方法はなかろうかと相談すると、爺さんは、そんなら舟で行ったらよかろう、あいにくわたしンとこには舟はないが、あの崖ぶちの○○が舟を持っている。頼めば舟で向こうまで渡してくれるだろうと教えてくれた。わたくしはその○○という名を聞いて、あああの家かとすぐに了解したのであるが、今その名を思い出そうとしても、どうしても出て来ない。 わたくしはほっとした気持ちで崖ぶちへ引き返し、その○○の家の前に立った。その家は戦災後の東京でよく見かけるような、こけら葺きの板小屋であった。往来に向いた方は羽目板ばかりで窓もなかった。その家の扉の前で音ずれると、扉を中から押し開いて顔を出したのが、洋装した若い女であった。わたくしが来意をつげると、それを落ちついて聞いていた女が、いやにハキハキした言葉で答えた。よろしゅうございます。舟はお出しいたしましょう。しかしこちらにも条件がございます。 |
Subsets and Splits