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純粋経済学要論
右のようなシステムについて、本書において出来る限り入念で詳細な説明を与えようと思う。しかし私はこれを既に一八七三年から一八七六年に亙って「社会的富の数学的理論」(Théorie mathématique de la richesse sociale)の初めの四章に解説し、また一八七四年と一八七七年とに純粋経済学理論の第一版に解説し、証明した。私はこの全理論の原理を得るや否や、これをパリーの精神科学及び政治学学士院に報告するのを私の義務と感じた。そこで右に挙げた四論文の第一を草し、二商品相互の交換の場合につき、各交換者の欲望の最大満足の問題の解法を、充された最後の欲望の強度が交換価値に比例せねばならぬことによって示し、かつまた二商品のそれぞれの市場価格の決定の問題の解法を、需要が供給に超過する場合には騰貴により、供給が需要に超過する場合には下落によって与えた。だが学士院がこの報告を受けるに当って示した態度は私に快いものでもなければ、私の勇気を増すようなものでもなかった。
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むしろ私はこの学者の団体に対しては憤慨を禁じ得ないのである。あえていうが、学士院は既にカナール(Canard)に賞を与えながら、クールノー(Cournot)の価値を認めないで、二重の誤をなしているのであるが、この学士院は自らの名誉のために、機会を捕えて経済学上のその力量をもう少し華々しく確立しておくがよかろうと思う。しかし私の場合には学士院の冷遇はむしろ幸となった。なぜなら私が二十七年前に主張した学説は、それ以来、その内容の点でもその形式の点でも、著しい進歩をなしたから。 事情に通暁したすべての人々がよく知るように、価格は充された最後の欲望の強度すなわち Final Degree of Utility あるいは Grenznutzen に比例するとの学説、ジェヴォンスとメンガー氏と私とがほとんど時を同じゅうして考え出した理論、全経済学の基礎を作ったこの理論は、イギリス、オーストリア、アメリカ、そのほか純粋経済学が研究せられ教授せられる諸国において、経済学上の定説となった。
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ところで交換理論の原理が経済学に入ってから、生産理論の原理もまたまもなく経済学に入ってこざるを得なかったが、事実において入ってきた。ジェヴォンスは「経済学の理論」の第二版において、第一版に認めなかったものを認めた。それは、利用の最終度が生産物の価格を決定する瞬間から、これがまた生産的用役の価格すなわち地代、賃銀、利子を決定するというにある。なぜなら自由競争の制度の下においては、生産物の販売価格は生産的用役から成る生産費に等しくなるからである。ジェヴォンスは、彼の著書の第二版の序文の終りのはなはだ興味深い十頁(Pp. XLIII-LVII)において、イギリス派の方式または少くともリカルド・ミル派の方式を全く変えて、生産的用役の価格により生産物の価格を決定する代りに、生産物の価格により生産的用役の価格を決定せねばならぬと明言している。この大きな発展の可能である指示はイギリスでは直ちに追随はされなかった。
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かえってジェヴォンスの思想に対する反動が起って、リカルドの生産費理論が有力となった。しかるに自ら限界利用の概念を把握したオーストリアの経済学もまた、この結果を論理的に生産理論のうちに押しつめて、生産物の価値と生産手段の価値との間に、私が生産物の価値と原料及び生産的用役の価値との間に導き入れた関係と全く同じ関係を導き入れたのである。 けれども我々の一致は、資本化の理論に関してはそれほど完全ではない。この問題についてメンガー氏は Jahrbücher für Nationalökonomie und Statistik, tome XVII 中に彼の研究「資本理論について」(Zur Theorie des Kapitals)を公にし、またインスブルック(Innsbruck)の教授ベェーム=バウェルク氏はその著書「資本と利子」(Kapital und Kapitalzins)(一八八四年、一八八九年)を完成した。
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ベェーム=バウェルク氏はこの書物の中で、資本利子の事実を現在財の価値と将来財の価値との差から引き出した(九)。私は、ここではベェーム=バウェルク氏と意見を同じゅうしないことを言明せねばならぬし、かつ何故に私が氏の理論に賛成し得ないかを、簡単に説明せねばならぬ。だがこれは、この理論または少くともこの理論が含む所の利子率決定の理論を数学的に築き上げた上でなくては、なされ得ない(一〇)。「n年の後にしか引渡されないでAなる価値をもつべき物を想像し、この物が今直ちに引渡されるとすると、利子の年率がiであるとき、それは現在だけの価値しかもたない。このことは商業算術書を開けば直ちに解る。しかしこの方式の上に利子率決定の経済理論を立てるには、まずいかにしてA’が決定するかを明らかにせねばならぬし、次に右に与えられた方程式に従ってiがAから導き出される所の市場を示さねばならぬ。私はこの市場を求めても、見出すことが出来ない。
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これ、私が(償却費と保険料とを捨象して)iを方程式から導き出すことを主張するゆえんである。ここで pk, pk', pk'' は新資本(K)、(K')、(K'')の用役の価格であり、交換及び生産理論によって決定せられる。Dk, Dk', Dk'' ……は製造せられた新資本の量であって、その販売価格と生産費との均等を条件として決定せられる。語を換えていえばそれらは収入率の均一を条件として決定せられる。そしてこの条件はまた新資本の量の最大の利用の条件でもある。または貯蓄の額であって、各貯蓄者が、用役及び生産物の市場価格において直ちに消費すべき1と毎年消費すべきiとのそれぞれの利用についてなした比較によって決定される。方程式の第一項は価値尺度財で表わした新資本の供給を示し、明かにiの減少函数である。第二項は価値尺度財で表わした新資本の需要を構成し、iの初め増加次に減少の函数である。そしてこの需要はあるいは貯蓄者自らにより、または貨幣資本の形をとったこれらの貯蓄を借り入れる企業者によってなされる。
純粋経済学要論
故に需要が供給より大であるかまたは供給が需要より大であるかに従って、人々は、iをあるいは下落せしめあるいは高騰せしめて、新資本の価格をあるいは騰貴せしめあるいは下落せしめ、方程式の両辺を相等しからしめるのである。注意深い読者は、証券となって現われる新資本が、騰貴下落の機構により、その収入に比例した価格で貯蓄と交換せられるときに、取引所の市場において現われる現象は、まさしく右に説いてきたようなものであることを認めるであろう。また注意深い読者は、繰り返していうが交換及び生産に関し先に述べた理論を基礎とする私の資本化の理論は、この種の理論があらねばならぬ所のものすなわち現実の現象の抽象的表現であり、合理的説明であることを認めるであろう。そしてこの点に関し、もし許されるならば、新資本の最大利用に関する私の理論が私の純粋経済学の全体系の妥当性をいかによく証明しているかを、読者は注意していただきたいのである。
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もちろん低い利子しか生まない用途から資本を引き上げて、これを、高い利子を生む用途にもっていくのが、社会に対し利用を増加するゆえんであることを認めたのは、大なる発見ではない。だがかくももっともらしい、否かくも明白な真理を数学的に証明し得たことは、この証明の基礎となった所の定義と分析とが有力であったことを証明しているように、私には見える。」 数学者はそれを判断するであろう。しかし既に今から私の立場を示しておいてもよいものがある。ジェヴォンスの理論と私の理論とは、現われるとまもなくヒューウェル(Whewell)及びクールノーの古い試みと共にイタリア語に訳出された。またドイツでは、初め忘れられながらもゴッセンの著作が、既に知られていたチューネンやマンゴルトらの著作に加えられた。その後またドイツ、オーストリア、イギリス、イタリア、アメリカにおいて、数理経済学の多数の文献が現われた(一一)。このようにして形成せられる学派は、すべてのシステムのうちで、真に科学を構成すべきシステムとして異彩を放つであろう。
純粋経済学要論
数学を知らず、数学がいかなるものであるかをさえ正確に知らないで、数学は経済学の原理の解明に役立たぬときめ込んでいる経済学者に至っては、「人間の自由は方程式に表わすことが出来ない」とか、「数学はすべての精神科学に存する摩擦を捨象する」とか、またはこれらと同様の力しか無い他愛もないことを繰り返して去っていくがよかろう。彼らは、自由競争における価格決定の理論が数学的理論にならぬようにと努めている。だから彼らは数学を避けて、純粋経済学の基礎なくして応用経済学を構成していくか、それとも必要な根底もなく純粋経済学を構成して、はなはだ悪い純粋経済学またははなはだ悪い数学を構成するか、これらのいずれか一つを選ばねばならぬ。私は第四十章で私の理論のように数学的理論である所の理論の標本をあげた。これらの理論と私の理論との相異は、私が私の問題における未知数だけの方程式を得ようと努めたのに反し、これらの人々は二つの方程式によって一つの未知数を決定しようとしたり、二つ、三つまたは四個の未知数を決定するのに一つの方程式を用いる点にある。
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私は、人々が、これらの人々のこのような方法を、純粋経済学を精密科学として構成する方法に全く相反するものとして、疑われることを望む者である。 精密科学としての経済学が遠からず樹立せられるであろうか、または遠い将来においてしか樹立せられるに至らないであろうか。それらは私の問題ではなく、ここに論ずるを要しない。今日ではたしかに経済学は天文学の如く、力学の如く、経験的であり同時に合理的な科学である。我々は経済学の経験的性質でこの合理的性質を蔽いかくしていたことが久しいが、何人もこれを批難し得ないであろう。ケプレルの天文学、ガリレーの力学がニュートンの天文学となり、ダランベールとラグランジの力学となるには、百年ないし百五十年二百年を要したのである。しかるにアダム・スミスの著書の出現とクールノー、ゴッセン、ジェヴォンスと私の試みとの間には、一世紀を経過していない。故に我々は、その持場にあって我々の職務を果したのである。
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純粋経済学の発祥地である十九世紀のフランスがこれに全く無関心であるとしたら、それはブルジョアの狭隘な見解、十九世紀のフランスを、哲学、倫理学、歴史、経済学の知識のない計算者を作り出す領域と、少しの数学的知識もない文学者を出す領域の二つに分けた智的教養、に基いた見解によるのである。来るべき二十世紀においてはフランスもまた、社会科学を、一般的教養があって、帰納と演繹、推理と経験とを共に操るのに馴れた人の手に委ねる必要を感ずるであろう。そのとき数理経済学は、数理天文学、数理力学と並んでその地位を占めるであろう。そして我々がなしたことの正しさはそのときにこそ認められるであろう。ローザンヌ、一九〇〇年六月レオン・ワルラス註一 この書の印刷用の紙型が出来上ってから、第三七六頁と第四一四頁とにわずかの修正を加え、かつ一九〇二年日付の二つの註を添えた。(一九〇二年記す)註二 これら第二、第三部に代えて、Études d'économie sociale(1896)と Études d'économie appliquée(1898)との二巻を公にした。
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これで私の仕事はほぼ完成したわけである。註三 Compte-rendu des séances et travaux de l'Académie des sciences morales et politiques, janvier 1874. または Journal des économistes, avril et juin 1874. 参照。註四 純粋経済学要論の第一版の第一分冊は、Principe d'une théorie mathématique de l'échange 及び Equation de l'échange と題せられる二箇の論文に要約せられ、一は一八七三年パリの Académie des sciences morales et politiques に、他は一八七五年十二月ローザンヌの Société vaudoise des sciences naturelles に報告せられた。
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第二分冊は Equation de la production 及び Equation de la capitalisation et du crédit と題する二論文に要約せられ、出版前に、一は一八七六年一月と二月、他は七月 Société vaudoise に報告せられた。これら四箇の論文は Teoria matematica della richezza sociale(Biblioteca dell'economista. 1878.)という書名の下にイタリー語に訳され、また Mathematische Theorie der Preisbestimmung der wirtschaftlichen Güter(Stuttgart. Verlag von Ferdinand Enke. 1881)という書名の下にドイツ語に訳出された。(邦訳、早川三代治訳レオン・ワルラアス純粋経済学入門。)
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註五 この論文は Études d'économie sociale 中に収められている。註六 私は maxima(複数)といって、maximum(単数)といわない。Théorie de la monnaie の初めの二編を、La Revue scientifique の一八八六年四月号に公にしたとき、この雑誌の校正係であるパリ人は、ラテン語の形容詞 maximum を名詞に一致せしめるべきものと考え、これを訂正した。私はこの校正係の処置は普通の用法に一致するものと考え、それを採用することにした。註七 これらの研究のうち、Notes sur le 15 1/2 légal; Théorie mathématique du bimétallisme; De la fixité de valeur de l'étalon monétaire(Journal des économistes. 一八七六年十二月、一八八一年五月、一八八二年十月所載); Équations de la circulation(Bulletin de la Société vaudoise des sciences naturelles. 一八九九年所載)は純理論の研究であって、これらは本書中に収められている。
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D'une méthode de régularisation de la variation de valeur de la monnaie(一八八五年); Théorie de la monnaie(一八八六年); Le probléme monétaire(一八八七年―一八九五年)は応用論の研究であって、これらは Études d'économie politique appliquée 中に収められている。(訳者註) "encaisse désirée" はケインズの交換方程式におけるkと等しい意味をもっている。註八 ここで自由競争の制度というのは、用役をせり下げつつ売る者及び生産物をせり上げつつ買う者の自由競争の制度を意味する。企業者の自由競争の場合には、一八八節に説明するように、これのみが価値を生産費の高さに一致せしめる唯一の方法ではない。また応用経済学は、この制度が常に最良の制度であるか否かを問わねばならない。
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註九 メンガーの論文とベェーム=バウェルク氏の著書とは、Revue d'économie politique(一八八八年十一、十二月、一八八九年、三、四月)によく分析されている。註一〇 次の一節は本書第二版(一八八九年五月)の序文の一節そのままである。たとい私が、私の著書のうちでは、貯蓄の函数を経験的に導き出していても、既にこの序文のうちで、あるいは純収入率の増加函数としてあるいはその減少函数として、演繹的にこれを導き出す方法を示しているのを、読者は知られるであろう。註一一 これら数理経済学の文献は、古い数理経済学文献と共に、M. T. N. Bacon が英訳したクールノーの訳書の巻末に I. Fisher が載せた数理経済学文献中に詳かである。この訳書は Economic Classics 中の一冊として一八九七年に公にされた。  第一編 経済学及び社会経済学の目的と分け方    第一章 スミスの定義とセイの定義
純粋経済学要論
要目 一 定義の必要。二 フィジオクラシー。三 スミスによって経済学に課せられた二つの目的。(一)人民に収入すなわち豊富な生活を得せしめること。(二)国家に充分な収入を与えること。四 第一の観察。二つの目的は等しく重要であるが、いずれも本来の科学の目的ではない。経済学については別の見解がある。五 第二の観察。二つの活動は等しく重要であるが、異る性質をもっている。前者は利益、後者は公正。六 セイが考察した経済学は富が形成せられ、分配せられ、消費せられる方法の単なる記述である。七 自然主義者の見解は社会主義の排撃を容易ならしめるが部分的に不正確である。富の生産または分配については人は最も有用なまたは最も公正な組合せを選ばねばならぬ。八 経験的な分け方。九 ブランキ及びガルニエの不完全な訂正。 一 経済学の講義または概論の当初にまず、経済学それ自身、その目的、その分け方、その性格、その限界を限定せねばならない。
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私はこの義務を回避しようとは思わない。だが断っておかねばならぬが、この義務は、人々がおそらく想像するであろう以上に、果すに困難であり、簡単ではない。経済学の正しい定義は未だにないのである。既に経済学に与えられたすべての定義のうちで、科学上に獲得された真理の象徴である所の一般的で決定的な承認を得ているものは、一つとして無い。私はそれらのうち比較的に最も興味あるものを引用し批評し、しかる後私の定義を示すに努めたいと思う。そしてこれらのことをなす間に、我々が知っておかねばならぬ若干の著者名や著作名や時日等を挙げる機会を作るであろう。 二 最初の重要な経済学者の集団はケネーとその弟子達である。彼らは共通の学説をもち、一つの学派を作った。彼らは自らこの学説をフィジオクラシー(社会の自然的統治を意味する)と呼んだ。今日彼らをフィジオクラットと呼ぶのは、この理由に基くのである。フィジオクラットの主な者は「経済表」の著者ケネーのほか、「自然的秩序と政治的社会の本質」(L'Ordre nature et essentiel des sociétés politiques, 1767)の著者メルシエ・ド・ラ・リヴィエール(Mercier de la Rivière)、「フィジオクラシーまたは人類に最も有利な統治の自然的構成」(Physiocratie ou constitution naturelle du gouvernement le plus avantageux au genre humain, 1767, 1768)、著者デュポン・デュ・ヌムール(Dupont du Nemours)、ボードー僧正(L'Abbé Baudeau)、ル・トローヌ(Le Trosne)である。
純粋経済学要論
チュルゴーはこの派の人ではない。フィジオクラットは、彼らの著作の書名で解るように、経済学の領域を制限せずむしろ拡張した。社会の自然的統治の理論は、経済学よりはむしろ社会科学に属する。故にフィジオクラシーという語をもって経済学を表わすのは、広汎に過ぎる定義であろう。 三 アダム・スミスは、一七七六年に公にした国富論において、初めて経済学の材料を結合して統一体となすのに成功した。ところでスミスが経済学の定義を与えようとしているのは、「経済学の体系について」と題する第四編の序説の当初においてである。そこで彼が下している定義は次の如くである。「経済学、立法者または政治家の知識の一分枝として考えられる経済学は二つの異った目的をもっている。その一つは人民に豊富な収入すなわち豊富な生活を得せしめること、より適切な言葉でいえば、人民をして自ら豊富な収入すなわち豊富な生活を得ることの出来る地位に置くことにある。他の一つは国家または公共団体に公務に必要な収入を得せしめることにある。一言にいえば、経済学は人民と主権者とを富ますことを目的とする。」この定義は経済学の父と呼ばれる人によって下されたものではあり、かつまた彼の著作の当初に掲げられたものではなくて、自ら問題の内容を充分に知り得た後に、その中央部に取扱われたものであるから、我々の充分な研究に値する。
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それには考慮せられるべき二つの点が含まれていると思う。 四 人民に豊富な収入を得せしめ、国家に充分な収入を得せしめること、それらはたしかにはなはだ重要な二つの目的である。そして経済学がこれらの目的を達せしめるとすれば、経済学は著しく我々の役に立つわけである。けれども私はいわゆる科学の目的がそこにあるとは思わない。実際本来の科学の特質は有益なまたは有害な結果に無関心に、純粋の真理を追求していく所にある。だから幾何学が二等辺三角形は二等角三角形であるとの命題を立言するとき、また天文学が遊星は太陽が中心をなしている楕円の軌道をめぐるとの命題を立言するとき、これら幾何学や天文学は本来の科学である。これら二つの真理の第一が他の幾何学上の真理と同じく建築の骨組に、石材の切り方に、家屋の建設に、貴い結果を齎らすことも可能である。またこれら二つの真理の第二が天文学上のすべての真理と共に、航海に大いに役立つことも可能である。
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しかし大工も石工も建築家も航海者も、また大工の理論家、石切の理論家、建築、航海の理論家さえも、学者ではなく、真の意味の科学者として科学を研究しているのでは無い。ところでスミスがいった二つの操作は、幾何学者天文学者がなすそれに類するものではなく、建築家航海家のそれに似ている。故にもし経済学がスミスのいった通りのもので、その他のものでないとすれば、それはたしかにはなはだ興味ある研究ではあるが、しかし本来の科学ではないであろう。我々は経済学はスミスがいったものとは別なものであると云わねばならない。人民に豊富な収入を得せしめようと思う前に、また国家に充分な収入を得せしめようと思う前に、経済学者は純粋に科学的な真理を追求し、把握するのである。物の価値は、需要せられる量が増加し、供給せられる量が減少するときに増大するといい、反対の二つの場合にはこの価値は減少するといい、利子率は進歩的社会においては低下するといい、地代に課せられる租税はすべて地主の負担に帰し、土地の生産物の価格を変化せしめないというとき、経済学は純粋の科学的研究をなしているのである。
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スミス自身もこのような純粋の科学的研究をしている。彼の弟子マルサスは「人口論」(一七九八年)において、リカルドは「経済学及び課税の原理」(一八一七年)において、より多く純粋科学的研究をなしている。故にスミスの定義は、本来の科学として考えられた経済学の目的を指示しなかったという意味において不完全である。まことに経済学が人民に豊富な収入を得せしめ、国家に充分な収入を得せしめることを目的とするというのは、幾何学が堅牢な家屋を建築することを目的とするといい、あるいは天文学は海上を安全に航海することを目的とするというに等しい。一言にいえばそれは科学を応用の方面から定義しようとするものである。 五 スミスの定義についての右の考察は、科学の目的に関するものである。私はその性質についても同様に重大な考察をしておかねばならぬ。 人民に豊富な収入を得せしめかつ国家に充分な収入を得せしめることは、共に重要にして微妙な活動ではあるが、しかし全く異る性質の活動である。
純粋経済学要論
前者は農業工業商業を一定の状態に置こうとすることから成立つ。これらの状態が有利なものであるかまたは不利であるかに従い、農業・商業・工業の生産はあるいは豊富となり、あるいは減少する。だから既に知られているように、職人組合、同業組合、親方の制度、厳重な干渉制限の制度、公定価格制度等の下においては、産業は悩み続け、空しく時を過した。今日では労働の自由と交換の自由の制度の下に産業は繁栄している。条件は前の場合には有利であり、後の場合には不利である。だが二つの場合ともに不利となりまたは有利となったものは、個人の利益のみである。冒されたものまたは尊重せられたものは正義ではない。国家に充分な収入を得せしめようとする場合は、これと異る。そこには国家の収入を構成するに必要なものを、個人の収入から徴収する活動がある。これは、よい条件で行われることもあれば、悪い条件でなされることもある。そしてこれらの条件がよいかまたは悪いかによって、国家の収入が充分となりまたは不充分となるのみでなく、また個人が公正に取扱われるかまたは不公正に取扱われるかの結果が生じてくる。
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すなわち各人の負担が公正になされるか、または不公正のためにある者が犠牲に供せられ、他の者が特権を得ているかの結果が起る。このようにして、社会のある階級が租税の負担を免れ、それがある他の階級にのみ課せられたことがあった。それが明白な不正義であることは、今日認められている所である。要するに人民に豊富な収入を得せしめることは有益な仕事をなすことであり、国家に充分な収入を供給することは公正の仕事をなすことである。利用と公正、利益と正義とははなはだしく異る種類の観点である。従ってスミスは例えば経済学の目的はまず第一に社会的収入を豊富ならしめる生産条件を示すにあり、次に作られた生産物を個人と国家との間に分配する条件を示すにあるといって、この区別を明らかにしたらよかったと思う。この定義の方がよりよいであろう。だがこれをもってしてもなお、経済学の真に科学的な部分は依然として明らかにせられていない。 六 歴史的順序からはスミスの後に来るジ・ベ・セイ(Jean-Baptiste Say)は経済学上最も有名な名の一つであるが、彼はスミスの定義について次の如くいう。
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「経済学は、富が形成せられ、分配せられ、消費せられる道行を知らしめるものだ、と私は言いたい。」彼の著書は一八〇三年に第一版を出し、第二版は執政政府の検閲に基き発売を禁止せられ、第一帝国の転落後にしか公にせられなかったが、それは「経済学概論、または富が形成せられ、分配せられ、消費せられる方法の簡単な解説」(Traité d'économie politique, ou simple exposition de la manière dont se forment, se distribuent et se consomment les richesses)と題せられている。この定義とこの書物が採った分け方とは、経済学者が一般に承認し、追随しているものである。それはたしかに、人々がクラシックと考えようとしている定義であり、分け方である。だが私は、これに従い得ないと主張するのを許してもらわねばならぬ。
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そしてその理由は、この定義と分け方とを成功せしめたその点にまさしくあるのである。 七 一見して明らかであるように、セイの定義はスミスのそれと異るのみでなく、ある意味においてはそれと正反対である。スミスを信ずる限り全経済学は科学であるよりはむしろ技術であり(第四節)、セイに従えばそれは自然科学である。セイによれば、富は全く自然的ではないにしても、少くとも人間の意志とは独立の態様で形成せられ、分配せられ、消費せられるのであり、全経済学はこの態様の単純なる解説であるようである。 セイがこの定義のうちで経済学に与えた自然科学的色彩は、経済学者を魅きつけた。実際に経済学者は、社会主義者との闘争において、この考え方の助けを借りたことが大である。経済学者は労働組織改造のすべてのプラン、所有権制度の改造のすべてのプランを先験的に排斥した。換言すれば何らの議論をなすことなく、すなわち経済的利益に反するものとしてでもなく、また社会的正義に反するものとしてでもなく、ただ人為的結合を自然的結合に代えるものとして排斥した。
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セイはこの自然主義的な見方をフィジオクラットに借り、かつフィジオクラットが工業及び商業生産に関し自らの学説を要約した方式「自由放任」(Laissez faire, laissez passer)によって動かされた。プルードンは自由主義派の経済学者に宿命論者という形容詞を冠せたが、これはセイのためであった。この派の学者がいかなる程度までこの見方を押しつめていったかは、我々の想像も及ばないほどである。それを知るには経済学辞典(Dictionnaire d'économie politique, 2 vol., 1851-3)中の記事、例えばシャール・コックラン(Charles Coquelin)が執筆した競争、経済学、産業、コッシュー(Cochut)が執筆した道徳等を読まねばならぬ。そこには最も意味深い諸句が見出される。 不幸にしてこの見方ははなはだ便利ではあるが、はなはだしく誤でもある。もし人間が高等な動物に過ぎず、例えば本能的に働き本能的に風習を作っている蜜蜂の如くであるとしたら、社会現象一般特に富の生産、分配、消費の解説と説明とは、たしかに自然科学に過ぎず、博物学の一分科、蜜蜂の博物学の続編をなす人間の博物学に過ぎないであろう。
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だが事実はこれと全く異る。人間は理性と自由とを有し、独創力を有し、進歩をなし得るのである。富の生産と分配に関しては、一般に社会組織のすべての事柄においてと同じく、人間は善と悪との選択をなし得て、悪から次第に善へ向いつつあるのである。だから人々は組合制度、統制の制度、公定価格の制度から、商工業自由のシステム、レッセ・フェール、レッセ・パッセのシステムに、奴隷制度から賃銀制度に移ってきた。最近の制度は古い制度に優っているが、こうなったのは、これらが古い制度よりもより自然的であるが故ではなく(これらは共に人為的であり、前者は後者より人為的である。けだし新しい制度は古い制度の後にしか現われないから)、利益と正義とにより多く合致しているからである。自由放任が必要とされるのは、この合致の証明をなした後においてのみである。社会主義的制度が排斥せられねばならぬとしたら、それは利益と正義とに相反する制度でなければならぬ。
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八 スミスの定義は不完全であるに過ぎないが、セイの定義はこれに劣り、不正確である。またこの定義から出てくる分け方も全く経験的であると、私は附言しておく。所有権の理論、租税の理論は実はまず孤立して考えられた社会人の間の、次に国家として集団的に考えられた人の間の富の分配の唯一の理論の各半面に過ぎないもので、かつ二つは共に道徳の原理に密接に依存しているのであるが、それらは分たれて一方所有権の理論は生産理論に、他方租税の理論は消費理論に投げ込まれ、共に全く経済的な観点からその理論が立てられている。反対に明らかに自然現象の研究としての性質を具えている交換理論は分配理論の一部をなしている。もっとも彼の弟子らはこれらの勝手な分類を自由に解釈して、ある者は交換価値の理論を生産理論の中に、ある者は所有権の理論を分配の理論の中に、任意に組み入れている。このようにして今日の経済学は形成せられ教授せられている。しかしこれでは枠が破れていて、ただ表面的に維持されているに過ぎないのではないか。
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そしてかかる状態においては、経済学者の権利と義務とは、まず入念に科学の哲学を研究することにあるのではあるまいか。 九 セイの弟子らのある者は、セイの定義の欠点を知っていたが、あえて修正しなかった。アドルフ・ブランキ(Adolphe Blanqui)はいっている。「ドイツ並びにフランスでは、今日経済学は、一般に考えられている領域を脱出している。ある経済学者は経済学を普遍的科学となそうとし、他の人は狭いかつ通俗的に考えられている範囲に限ろうとする。フランスにおいてこれら両極端の意見の間に存する争は、経済学はある所のものの説明であるかまたはあるべき所のもののプログラムを立てるべきものであるか。他の言葉でいえば、それは自然科学であるか規範科学であるかということに関する。私は、経済学がそれらの二つの性質を具えたものであると思う。」ブランキはかかる動機からセイの定義を支持したがこの動機はかえってこれを弱からしめるであろう。
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ブランキに次いで、ジョセフ・ガルニエ(Joseph Garnier)はいっている。「経済学は自然科学であり、同時に規範科学である。これらの二つの観点から、経済学は、ある所のものと、物の自然的流れに従い正義の観念に一致してあるべき所のものとを証明する。」そこでガルニエはセイの定義に少しく附け加えて、それを修正しようとした。曰く、「経済学は富の科学である」すなわちいかにして富が、個人及び社会の利益となるように、最も合理的に(もちろん正義に合するように)生産せられ、分配せられ、消費せられるか、またはせられるべきかを決定することを目的とする科学である」と。ここでガルニエは彼の学派の軌道から離れようとして、真剣でかつ賞讃すべき努力をなしている。しかし二つの定義を接ぎ合して作った合金が、いかに奇妙で支離滅裂であるかを不思議にも彼は認めなかった。これは、経済学者に哲学がないことの好例であって、明快と正確とを主な特質とするフランス経済学者の精神の美点を打ち消してしまう。
純粋経済学要論
経済学はいかにして自然科学であり、同時に規範科学であり得るか。いかにしてかかる科学を考え得るか。一方においていかにして富が最も公正に分配せられねばならぬかを研究の目的とする科学が、他方においていかにして富が最も自然的に生産せられるかを研究の目的とする自然科学となり得るか。またこの自然科学は富を豊富に生産すべき技術にもならねばなるまい。要するにセイの定義もスミスのそれに帰するのであって、経済学の真の自然科学的性質は依然として明らかにせられていない。 私はこれを明らかにしようと思う。必要ならば経済学を自然科学、規範科学、政策に分けよう。そしてそれがため、我々はまずあらかじめ、科学と政策と道徳との区別を明らかにせねばならない。    第二章 科学と政策と道徳との区別要目 一〇 政策は忠告し、命令し、指導する。科学は観察し、記述し、説明する。一一 科学と政策の区別と理論と実際の区別とは全く別である。
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一二 科学は政策に光を与える。政策は科学を利用する。一三 一つの科学によって与えられる理論は多くの政策に光を与え得る。一つの政策は多くの科学によって与えられる理論を利用することが出来る。一四、一五 区別は優れているが不充分である。一六 科学は事実の研究である。一七 第一の区別。自然力の働きをその起源とする自然的事実。人間の意志の作用にその起源をもつ人間的事実。自然的及び人間的事実は純粋科学(狭義の科学と歴史)の対象である。一八 第二の区別。産業上の人間的事実、すなわち人格と物との関係。道徳上の人間的事実、すなわち人格と人格との関係。一九 産業的事実は応用科学すなわち政策の対象である。道徳的事実は精神科学すなわち道徳学の対象である。二〇 真。利用。善はそれぞれ科学、政策、道徳の規準である。 一〇 既に幾年かを経過していることであるが、好著「信用及び銀行概論」(Traité du crédit et des banques)の著者でまた「経済学辞典」(Dictionnaire d'économie politique)の執筆者中最も活動的なかつ尊敬すべき人の一人であったシャール・コックラン(Charles Coquelin)は、この辞典のうち経済学(Économie politique)と題する項において、経済学の定義は未だに完成していないといった。
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この主張を助けるために彼は、私が既に述べたスミス、セイの定義やシスモンジ、ストルク(Storch)、ロッシ(Rossi)らの定義を示し、それらのいずれも他を排して採らねばならぬほど際立って優れていないと断言し、かつまたこれらの人は自分の著書において自分の定義に従っていないといっている。次に彼は、経済学を定義しようとする者はまずそれが科学であるか、または政策であるか、あるいはそれらの両者であるかを問うべきであり、ことに政策と科学との区別を明らかにすべきであると注意している。これはまことに明敏な注意である。この点について彼が述べている考察は目立って正しく、かつ問題は常に同じ点にあるのであるから、我々はそれを繰り返すほかはない。彼はいう、「政策は従われるべき命令または規則から成り立っている。科学は、ある現象または観察せられたまたは明らかにせられた関係の知識から成立する。政策は忠告を与え、命令し、指導する。科学は観察し記述し、説明する。天文学者が天体の運行を観察し記述するときには、科学を研究している。しかし一度この観察が終了すれば、天文学者は、航海に応用せられる規則を導き出すであろうが、この場合には政策を研究している……かように現実の現象を観察し記述する所に科学がある。命令を下し、規則を規定する所に政策がある。」
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一一 著者はなお註として一つの注意を与えているが、これは科学と政策との区別を完成したもので、ここに引用する価値がある。彼はいう、「我々が科学と政策との間に立てる真の区別は、人々が理論と実践との間になす区別とは何ら共通なものはない。政策の理論もあれば科学の理論もある。そして実践と矛盾することがあり得るであろうといい得るのは、政策の理論についてだけである。政策は規則を命令するが、しかしこれらの規則は一般的である。従ってこれらの命令は、たとい正しいものであっても、ある特別な場合に実践と調和し得ないと考えても不合理ではない。だが何ものをも命ぜず、何ものをもすすめず、ただ観察し説明するに止まる科学にあっては、そうではない。科学はいかなる意味においても実践と衝突することが出来ない。」 一二 コックランは政策と科学とをかく区別した後、それら各々の職分と重要さとを指摘している。彼はいう、「科学的真理が一度よく認識せられ、導き出されたとき、人間の事業の経営に適用せられるべき規則を、これらから導き出そうとするのに対して、私共は不平でもなければ、またこの企を奇妙だとも思わない。科学的真理が何らの役にも立たぬのは、よいことではない。これらを利用する唯一の方法は、これらから政策を演繹することにある。既にいったように、科学と政策との間には密接な親族関係がある。科学は政策に光明を与え、政策の方法を正しからしめ、その行手を照し指示する。科学の援助が無ければ、政策は一歩ごとに躓きながら跚き歩むことしか出来ない。他方、科学が発見した真理を価値あらしめるものも政策であって、この政策が無ければ、科学の真理も無益である。また科学的研究の主な動機はほとんど常に政策である。人が、知るための興味のみで科学的研究をなすことは稀である。一般に人は、役立つという目的を研究に求めている。そしてこの目的を充し得るのは、政策によってのみである。」
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一三 しかし彼は科学と政策との間に置くべき区別を同様に強く主張し、かつこの区別を明らかにするために最後の注意を与えているが、これもまた引用の価値がある。彼はいう、「科学と政策とはしばしば多数の接触点をもっているとしても、政策と科学の範囲と輪廓とが同一であるのには、よほど多くの接触点が無ければならぬと考えられるのであって、それほどに右に述べてきた区別が強調せられる。科学が提供する理論は種々の政策によって利用せられることがあり得る。広がりの関係の学問である幾何学は、測量師・技師・砲術家・航海家・建築家の仕事を照し指導する。化学は薬剤師・染物屋・多数の工業に援助を与えている。物理学が提供してくれた一般的理論を、種々の政策がいかに利用しつつあるかを誰が正確にいい得るであろうか。反対に政策は、多くの科学によって提供せられるべき理論から光明を得ることが出来る。ただ一つの例だけを引けば医学すなわち治療の技術は解剖学・生理学・化学・物理学・植物学の理論と結果を利用している。」
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一四 最後にコックランは、科学と政策との区別がいかに経済学の定義とその内容の分け方に応用せられるのに適しかつ有益であるかを、人々に感知せしめようと努力し、次いで附言していう、「科学と政策との間に今から更に純粋な区別を設け、これらの各々に異る名称を与えるように努めるべきであるか、否。私には、この区別を明らかにするだけで足るのであり、それ以上のことは、この問題をよりよく知悉した者によって、いつかなされるであろう。」 この遠慮は意外である。極めて正当な思想をもっているこの著者が、この思想を実行に移せば与えられるであろう所の愉快と名誉とを、かくも故らに捨てたのは、奇異である。だがそれにも増して奇妙なのは、著者が、何といおうと実際において、経済政策と経済学の区別をなし、経済学の真の目的を決定しようとしながら、それに成功しないで、政策の要素と科学の要素とを混同し、かつ私がセイについて批評しておいたそして彼の弟子らも脱け切れなかった自然主義的重農主義的見方(第七節)を経済社会についてもっていて、そのためにこの見方を消散せしめるどころか、かえって自ら指摘し非難した混同に陥っていることである。
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彼が「経済科学の目的をなすものは、富かそれとも富の根源である産業か」と問い、また、「経済学の研究の目的として、人々が人間の産業よりはむしろ富をとったのはいかなる理由から来ているか」を考え、また「この誤謬の結果」はいかなるものであるかを考え、更にまた経済科学は、結局、人間の自然史の一分科であるといっているとき、彼はまさしくこの混同をしているのである。最も綿密な注意を払いながらこのような迷路に入るのは不可能であるはずである。 一五 この結果は、科学と政策とを区別する思想さえも、一見見えるようには現在の事情に適するものでないことを信ぜしめる性質を真に帯びている。しかしながら実はこの区別は経済学には完全に適用せられる。そして科学である所の富の理論すなわち交換価値及び価値の理論のあること及び政策である所の富の生産論すなわち農業・工業・商業の理論のあることを信ずるには、学派に囚われることなくわずかに反省するところがあれば足りるのである。
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ただここで直ちにいっておかねばならぬが、この区別に基礎があるとしても、同時にこの区別は富の分配を度外する故に、不充分である。 直ちにこの確信を得るため、経済学はある所のものの説明であると同時にあるべき所のもののプログラムであると考え得られるといったブランキの所説を想い起してみる。ところであるべき所のものは、あるいは利用または利益の観点から、あるいは公正のまたは正義の観点からのそれなのである。利益の観点からあるべき所のものは応用科学または政策の対象であり、正義の観点からあるべき所のものは道徳学または道徳の対象である。ブランキやガルニエが取扱っているのは、正義の観点から見てあるべき所のものなのである。なぜなら彼らは、経済学は道徳学であるといい、法や正義の概念を論じ、富を最も公平に分配すべき方法を論じているからである(第九節)。反対にコックランはこの見方を明らかにとっていないのであるが、ただ氏は政策と科学の区別を指摘しながら、政策と道徳との区別を指摘することを忘れている。
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我々はいかなるものをも見逃してはならない。我々は合理的に完全に決定的に区別をなさねばならぬ。 一六 我々は科学と政策と道徳とを相互に区別しなければならぬ。他の言葉でいえば、特に経済学、社会経済学の哲学を明らかにするために、科学一般の哲学の概要を論じなければならぬ。 科学は本体を研究するのでなくして、本体を場面として現われる事実を研究するものであることは、既にプラトーンの哲学によって明らかにせられている。本体は去り、事実は永く残っている。事実とその関係とその法則とがすべての科学的研究の目的である。そして科学は、それが研究する目的すなわち事実の差異によってのみ分かれるのである。だから科学を分けようとすれば、事実が分けられねばならない。 一七 ところでまず世界に発生する事実は二種あると考えられ得る。その一は盲目的で如何ともなし難い自然力の働きをその起源とするし、他は人間の聡明で自由な意志にその根源をもつ。
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第一種の事実の場面は自然である。これらの事実を我々が自然的事実と呼ぶのはこの理由による。第二種の事実の場面は人間社会である。我々がこれらの事実を社会的事実(faits humanitaires)と呼ぶのは、この理由による。宇宙には盲目的でどうすることも出来ない力と並んで、自ら知り自ら抑制する力がある。これは人間の意志である。おそらくはこの力は、自ら信じているほどには、自らを知り、自らを抑制してはいないであろう。このことは、この力の研究だけが理解せしめてくれよう。しかしそれは当面の問題ではない。今重要なのは、この力は自らを知りまたまた少くともある限度の中では抑制し得ることである。そしてこの事実が、この力の効果と他の力の効果との間に深い差異を生ぜしめるのである。自然力の効果については、我々はこれを認識し、識別し、説明することよりほかに為し得ないのは明らかであり、また人間の意志の効果については、まずこれを認識し識別し、説明し、更にこれを支配せねばならぬのは明らかである。
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これらのことが明らかであるというゆえんは、自然力は行動の意識をもたず、従ってなお更に必然的に動くよりほかに働きようがないからであり、反対に人の意志は行動の意識をもち、かつ種々な態様に働き得るからである。故に自然力の効果は、純粋自然科学または狭義の科学と呼ばれる研究の対象となる。人間の意志の効果はまず純粋精神科学または歴史と称せられる研究の対象となり、次に他の名称例えば政策、道徳等の名を冠せられる所の既に我々が述べてきたような研究の対象となる。だからコックランが科学と政策との間になした区別(第十節)は正当であることになる。「政策は忠告を与え、命令し、指揮する。」なぜかというに、それは人間の意志の働きを根源とする事実を対象とするからであり、また人間の意志は少くともある点までは聡明で自由な力であって、人の意志に忠告を与え、ある行動を命じこれを指導することが出来るからである。科学は「観察し、解明し、説明する。」なぜなら、科学は自然の力の働きを原因とする事実を対象とするからであり、自然の力は盲目で如何ともなし難いから、これに対してはこれらの効果を観察し、解明し説明するほか何事をもなし得ないからである。
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一八 かようにして私は、コックランのように経験的にではなく、人間の意志の聡明と自由との考察から、科学と政策との区別を理論的に見出した。今は政策と道徳との区別を見出すことが問題である。だが人間の意志の聡明と自由とを考察しまたは少くともこの事実の一つの結果を考察すれば、社会的事実を二つの範疇に分つ原理を得ることが出来よう。 人間の意志が聡明であり自由である事実によって、宇宙のすべての存在は、人格と物との二大種類に分れる。自らを識らないもの、自らを抑制しないすべてのものは物である。自らを識り自らを抑制する者は人格である。人間のみが人格であり、鉱物、植物、動物は物である。 物の目的は人格の目的に合理的に従属している。自覚を有せず自らを抑制しない物は、その目的の追求に対し、またその使命の実現に対し責任をもたない。また物は悪事も善事もなし得ないのであって、常に全く罪が無い。それは純粋の機械装置と同一視される。
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この点では動物も鉱物、植物と異らない。動物の衝動はすべての自然力の如く盲目的で如何ともし難い力に過ぎない。これに反し人格は自覚を有し自らを抑制するという事実のみによって自らその目的を追求せねばならぬという負担を負わされ、その使命の実現の責任を負うのである。もしこの使命を実現すれば、人格は価値があるのであり、もしこの使命を実現しなければ人格は無価値なのである。だから人格は物の目的を自己の目的に従属せしめる能力と自由とをもっている。この能力と自由とは特別な性質をもっている。すなわちそれは道徳的力であり、権利である。これが物に対する人格の権利の基礎である。 しかしすべての物の目的はすべての人格の目的に従属しているのではあるが、ある人格の目的は、他のいかなる人格の目的にも従属していない。もし地上にただ一人の人間しかいないとしたら、彼はすべての物を支配し得るであろう。けれども人は地上に一人ではない。
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地上にあるすべての人間は互に相等しく人格であるから、同じ様に自らの目的を追求する責任を有し、自らの使命を実現する責任をもっている。これらすべての目的、これらすべての使命は互にそれぞれその処を得なければならぬ。そこに人格相互の間の権利と義務の相互関係の根源があるのである。 一九 これによって見ると、社会事実のうちに深い区別がなされなければならぬことが解る。一方自然力に対して働きかけた人間の意志と活動から来る所のもの、すなわち人格と物との関係を区別せねばならぬ。他方他人の意志または活動に対して働く人の意志または活動から来る所のもの、すなわち人格と人格との関係を区別せねばならぬ。これら二つの範疇の事実の法則は本質的に異る。自然力に対して働く人間の意志の目的、人格と物との関係の目的は、物の目的を人格の目的に従属せしめるにある。他人の意志の領域に影響を及ぼす人間の意志の目的、人格と人格との目的は、人の使命の相互の調整にある。
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故に、おそらく便利であろうと思われるが、私はこの区別を定義によって定め、第一の範疇の事実の全体を産業(industrie)と呼び、第二の範疇の事実の総体を道徳現象(moeurs)と呼ぶ。産業の理論は応用科学または政策と呼ばれ、道徳現象の理論は精神科学または道徳学と呼ばれる。 従って一つの事実が産業の範疇に属するには、またこの事実の理論が何らかの政策を構成するには、この事実が人間の意志の働きにその起源を有し、かつ物の目的を人格の目的に従属せしめるという観点から人格と物との関係を構成していなければならぬし、またこれだけで足るのである。読者は私が先に引用した政策の例を再び採ってみるなら、それらのいずれにもこの性質があることが解るであろう。例えば既に述べた建築は家の建築要素として木材及び石材を、造船は船舶建造の要素として木材及び鉄を、航海は綱具の製造、帆の据え附けまたは操縦の材料として大麻を用いる。
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海洋は船舶を支え、風は帆を膨脹せしめ、空と星とは航海者に航路を指示する。 一つの事実が道徳現象の範疇に属するには、そしてこの事実の理論が道徳学の一部門であるためには、この事実が常に人間の意志の働きにその起源を発し、人格の使命の相互の調整という点から見ての人格と人格との関係を成していなければならぬし、またそれだけで足りる。例えば結婚または家族等に関し、夫と妻、親と子の職分と地位を定めるものは道徳である。 二〇 科学、政策、道徳とはこのようなものである。それらのそれぞれの規準は真、利用または利益、善または正義である。さて社会的富及びそれに関係のある事実の完全な研究のうちに、この種の知的研究の一つまたは二つが材料となるものがあろうか、あるいはそれらの三つとも含まれるであろうか。これは、私が富の概念を分析しつつ次章において明らかにしようとする問題である。    第三章 社会的富について。稀少性から生ずる三つの結果。
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交換価値の事実と純粋経済学について要目 二一 社会的富は稀少な物、すなわち(一)利用があり、量において限りがある物の総体である。二二 稀少性は科学的用語である。二三、二四、二五 稀少な物のみが、またすべての稀少な物は(一)占有せられ(二)価値を有し交換し得られ(三)産業により生産し得られ増加し得られる。二六 経済学、交換価値の理論、産業の理論、所有権の理論。二七 交換価値の事実。市場において生ずる。二八「小麦は一ヘクトリットル二四フランの価値がある。」これは自然的事実である。二九 これは数学的事実でもある。 5vb=600va 三〇 交換価値は評価され得る大きさである。交換価値と交換の理論すなわち社会的富の理論は物理数学的科学である。合理的方法。代数的用語。 二一 物質的なまたは非物質的な物(物が物質であるか非物質であるかは何ら関する所ではない)であって稀少なもの、すなわち我々にとって利用があるものであると同時に量に限りがあって我々が自由勝手に獲得出来ないすべての物を社会的富(richesse sociale)と呼ぶ。
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この定義は重要である。私はそれに含まれた言葉を明確にしておく。 物は何らかの使用に役立ち得るときから、すなわち何らかの欲望に適いこれを満足し得るときから利用があるという。だから、通常の会話では必要と贅沢との間に快適と列べて有用を分類するのであるが、ここではこれらの語のニュアンスを問題としない。必要・有用・快適・贅沢これらすべては我々にとっては程度を異にする利用を意味するに過ぎない。またここでは、利用のある物が対応し、これが満足することの出来る欲望が、道徳的であるかまたは不道徳的であるかを問わない。ある物が病人の治療の目的のために医師によって求められるか、または人を殺害しようとして殺人者によって求められるかは、私共の観点からは全く興味のない問題であるが、他の観点からは重要な問題である。この物はこれら二つの場合に共に利用があるのみでなく、後の場合に利用がより多いこともあり得る。 我々の各々がある物に対してもっている欲望を欲するままに満足し得るほど多くのこの物の量が存在しないとき、この物は我々の処分に対し限られた量しかないという。
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世には、全く無い場合を除けば、常に無限量が我々の処分に委せられているような若干の利用がある。例えば大気、太陽が上っているときの太陽の光線と熱、湖水の岸辺の水、河川の岸の水等は、何人にも不足の無い程度に存在し、何人も欲するままの量を採ることが出来る。これらの物は利用を有するが一般に稀少ではなく、社会的富を成さない。例外的にこれらの物も稀少となることがあるが、そのときにはこれらの物も社会的富の一部を成すことが出来る。 二二 これによって、稀少(rare)と稀少性(rareté)という語がここでいかなる意味のものであるかが解るであろう。この意味は、力学における速度、物理学における熱という語の意味の如く科学的である。数学者や物理学者にとっては速度は緩徐に対立するものではなく、熱は寒さに対立するものではない。緩徐は数学者にとってはより少い速度に過ぎないし、寒さは物理学者にとってより少い熱に過ぎない。
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科学上の用語では、物体は動き始めれば速度をもち、何らかの温度をもち始めれば熱をもつ。それと同じように、稀少性と豊富とは互に矛盾しない。いかに豊富に存在する物であっても、その物に利用があり、量において限られているなら、経済学上では稀少である。このことは、ある物体がある時間中にある空間を通過すれば、この物は力学上では速度をもつといわれるのと全く異る所がない。しからばあたかも、通過せられた空間のこれを通過するに要した時間に対する比、または一単位時間にのうちに通過せられた空間が速度といわれるように、稀少性とは、利用の量に対する比、または一単位の量のうちに含まれる利用をいうのであろうか。しばらく私はこの点に対する断定を下すのを差控え、後に再びこの論究に立ち帰るであろう。ところで利用のある物はその量の制限せられている事実によって稀少となるのであるが、この結果として三つの事情が生れる。 二三 (1)量において限られかつ利用のある物は、専有せられる。
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無用の物は、専有せられない。何らの用途にも役立たない物は、何人もこれを専有しようと思わない。また利用のある物であっても無限の量のあるものは専有せられない。まずこのような物は、無理に押し付けることも出来ねばまた差押えることも出来ない。人々はこれらの物を共有の状態から取り去ってしまうとしたところで、無限の量があるから、出来るものではない。大部分を各自の処分の下に置き得るのならとにかく、わずか一部分を所有し貯えておいて、何になるか。何かにこれを利用しようとするのか。だが、何人も常にこれを獲得出来るのに、誰がこれを需要するのか。それとも自らこれを使用するためなのであるか。だが常にいつでもこれを獲得出来ることが確実であるとしたら、これを貯蔵して何の役に立つか。空気は誰にも与えることが出来ないもので、また自ら呼吸する必要を感ずる場合には、口を開けばこれを得られるのであるから空気の貯蔵をしておく必要はない(通常の場合をいうのである)。
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これに反し限られた量しか存在しない利用のある物は、専有せられ得る物であり、専有せられる。まずそれらは、強制的に押しつけることも出来れば、差押えされることも出来る。ある数の個人のみが、この物の存在する量を集めて、共有の領域にこれを残しておかないようにすることが、たしかに可能である。そしてこの操作を行えば、これらの人々には二重の利益がある。第一に彼らはこれらの物の貯蔵を確保し、これらを利用して自らの欲望を充すに役立たせる可能性を準備しておく。第二にもし彼らがその貯蔵の一部しか消費しようと欲しないかまたは消費し得ないとしても、この過剰量と交換に、その代りとして消費すべきかつ量において限られた他の利用を獲得する能力を保留しておく。しかしこれはまた私共が別に取扱わねばならぬ所の異る事実となってくる。今ここでは専有(従って合法的なまたは正義に一致せる専有である所有権もまた)は社会的富にしか存在せず、またすべての社会的富に存在すると認めておくに止める。
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二四 (2)利用があって量において限られた物は、先に一言触れたように、価値がありかつ交換せられ得る。稀少な物が一度専有せられると(そして稀少なもののみが専有せられ、また専有せられる物はすべて稀少である)これらすべての物の間に一つの関係が成立する。この関係とは、これら稀少な物の各々は、それに固有な直接的利用とは独立に、特別な性質として、一定の比例で他の各々と交換せられる能力をもっているということである。もし人がこれら稀少な物の一つしかもっていないとすると、これを譲渡してこれと交換に、自らもっていない他の稀少な物を得ることが出来る。そして人がこの稀少な物をもっていないとすれば、自ら所有している稀少な他の物を与えることを条件としてしか、これと交換にこの稀少な物を得ることが出来ない。もしこの物をも所有せず、またこれと交換に与えるべき何ものも有たないとすれば、このままで済ますほかはない。交換価値の事実とはこのようなものであり、所有権の事実と同じく、社会的富にしか存在せず、またすべての社会的富の上に存在する。
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二五 (3)利用があって量において限られた物は産業により生産せられ得る物であり、または増加し得られるものである。だから規則的組織的努力によってこれらを生産し、その数を出来るだけ多く増加するのが利益である。世の中には雑草や何らの役にも立たない動物のような利用の無い物(有害な物までもいわぬとしても)がある。人々はこれらの物のうちに、これらの物を無用の範疇から有用の範疇に移さしめ得る性質がないかと、注意深く探索する。また利用はあるが量において限り無く存在する物もある。人々はこれを利用しようとはするが、その量を増加しようとはしない。最後に利用があって量において限られた物すなわち稀少な物がある。この最後のもののみが、現在の限られた量をより多くする目的をもつ研究または行動の対象となることが出来るのは明らかである。またこの最後の物は例外無くかかる研究または行動の対象となることが出来るのも明らかである。故にもし既に呼んだように、稀少な物の総体を社会的富と呼べば、産業的生産(production industrielle)または産業(industrie)は、社会的富だけにそしてすべての社会的富に行われる。
純粋経済学要論
二六 交換価値、産業、所有権、これらは物の量の制限すなわち稀少性によって生ずる三つの一般的事実であり、三つの系列または種類の特種的事実である。そしてこれら三種の事実が動く場面はすべての社会的富であり、また社会的富のみである。そこで今は、例えばロッシのように、経済学は社会的富を研究するものであるというのがたとえ不正確でないとしてもいかに不明瞭で粗雑で非哲学的であるかが解るであろう。実際、経済学はいかなる観点から社会的富を研究するのであるか。その交換価値の観点、すなわち社会的富に行われる売買の現象の観点からか。または産業的生産の観点すなわち社会的富を増加することが有利であるか不利であるかの条件の観点からであるか。最後に社会的富を目的とする所の所有権すなわち専有を合法的または非合法的ならしめる条件の観点からであるか。我々はそれをいわねばならぬ。だが特に注意せねばならぬのは、これら三つまたは二つの観点から同時に研究するのではないことである。
純粋経済学要論
なぜなら、容易に解るように、これらの観点は各々全く異っているから。 二七 稀少な物が一度専有せられるとき、いかにして交換価値を得るかを、私共は先験的に認めた(第二四節)。一般的事実のうちに交換の事実を経験的に認めようと思えば、我々はただ眼を開きさえすればよい。 我々は皆日々、特種な一系列の行為として、交換すなわち売と買とをなしている。我々のある者は土地または土地の使用または土地の果実を売る。ある者は家または家の使用を売る。ある者は大量に獲得した工業生産物または商品を細分して売る。ある者は診療・弁護・芸術作品・ある日数または時間の労働を売る。これらを売ってこれらの人々は、貨幣を受ける。かくして得た貨幣で人々は、あるときはパン・肉・葡萄酒を購い、あるときは衣服を購い、あるときは住居を購い、あるときは家具・宝石・馬車を購い、あるときは原料または労働を購い、あるときは商品・家屋・土地を購い、あるときは種々の企業の株式または債券を購う。
純粋経済学要論
交換は市場において行われる。ある特種な交換が行われる場所を、我々は特種な市場と考える。例えばヨーロッパ市場・フランス市場・パリ市場、などという。ル・アーヴル(Le Havre)は棉花市場であり、ボルドーは葡萄酒の市場であり、食品市場(les halles)といえば果実・野菜・小麦・その他の穀物の市場であり、証券取引所(la bourse)は商業証券の市場である。 小麦の市場をとれば、そこで与えられた時において五ヘクトリットルの小麦が一二〇フランすなわち九〇パーセントの銀六百グラムと交換せられたとすれば、「小麦の一ヘクトリットルは二四フランの価値がある」という。これが交換価値の事実である。 二八 小麦の一ヘクトリットルは二四フランの価値がある。まずこの事実は自然的事実の性質をもっていることを注意すべきである。銀で表わした小麦のこの価値すなわち小麦のこの価格は、売手の意志から生ずるのでもなく、買手の意志から生ずるのでもなく、またこれらの二つの意志の合致から生ずるのでもない。
純粋経済学要論
売手はより高く売ろうとするけれども、それをなし得ない。なぜなら小麦はこれ以上の価値が無いからであり、また売手がこの価格で売らなければ、買手は、この価格で売ろうとしている他のある数の売手を見出し得るからである。また買手はより安く買おうとするがそれをなし得ない。なぜなら小麦の価値はこれ以下ではないからであり、また買手がこの価格で買おうとしなければ、売手はこの価格で買おうとするある数の買手を見出し得るからである。 故に交換価値の事実は、一度成立すれば、自然的事実の性質をもってくる。それはその起源においても自然であり、その現われにおいても自然であり、その存在の様式においても自然である。小麦や銀が価値をもっているのは、これらの物が稀少であるからであり、換言すれば利用があり、かつ量において制限せられているからであるが、これら二つの事情は共に自然的である。そして小麦と銀とが互に比較せられて、しかじかの価値を有つのは、それらがそれぞれ稀少の程度を異にするからである。
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他の言葉でいえば、利用の程度及び量において制限せられる程度を異にするからであるが、これら二つの事情は右に述べたそれらと同じく自然現象である。 しかしこれは、我々が価格に対し何らの働きをも加え得ない、という意味ではない。重さが自然法則に従う自然的事実だとしても、これを袖手傍観していなければならぬということにはならない。我々の便利になるようにこれに抵抗したり、これを自由に働かせたりする。しかしこの性質も法則も変化することは出来ない。我々はいわばこれに従ってしか、これを支配することが出来ない。価値の場合も同様である。例えば小麦についていえば、小麦の在荷貯蔵量の一部を破棄してその価格を騰貴せしめることが出来る。また小麦に代えて、米、馬鈴薯、またはその他の物を食して、この価格を下落せしめることも出来る。また小麦一ヘクトリットルの価値は二四フランではなく、二〇フランであるべしと法律で定めることさえも出来る。
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前の場合には我々が価値の原因に働きを加えたのであって、自然的価値を、他の自然的価値に置き換えたに過ぎない。第二の場合には我々は事実そのものに働きを加えたのであって、自然的価値に人為的価値を加えたのである。最後に厳密にいえば、交換を廃止して、価値を廃止することも出来る。しかしもし交換を行うものとして、在庫貯蔵量と消費量とのある状態、一言にいって稀少性の状態が与えられたとすれば、それからある価値が生じまたは生じようとする傾向を我々は妨げ得ないであろう。 二九 小麦一ヘクトリットルは二四フランの価値がある。だがこの場合にこの事実は数学的性質をもっていることを注意すべきである。銀で表わした小麦の価値すなわち小麦の価格は、昨日、二二または二三フランであった。先刻は二三・五〇フランまたは二三・七五フランであった。しばらくの後には二四・二五フランまたは二四・五〇フランとなり、明日は、二五または二六フランとなるであろう。
純粋経済学要論
しかし今日の現在では二四フランであって、それ以上でも無ければ、それ以下でも無い。この事実は明白に数学的事実の性質をもっているのであって、従って直ちにこれを方程式で表わすことが出来、またこの表わし方によってのみ、その真の表現をなすことが出来るのである。 ヘクトリットルは小麦の量の尺度の単位として許容せられ、グラムは銀の量の尺度の単位として許容せられたとして、もし小麦五ヘクトリットルが銀六百グラムと交換せられるとすると、正確には「小麦五ヘクトリットルは銀六百グラムに等しい価値を有する」ということも出来れば、「小麦一ヘクトリットルの交換価値の五倍は、銀一グラムの交換価値の六百倍に等しい」ということも出来る。 そこで、vb を小麦一ヘクトリットルの交換価値であるとし、 va を九〇パーセントの銀一グラムの交換価値であるとする。しからば数学の普通の記号法によって、方程式[1] 5vb=600vaが得られ、また両辺を5で除せば、
純粋経済学要論
vb=120vaが得られる。 もしまた、既に述べた例の中で仮定したように、一グラムの銀の交換価値の代りに、九〇パーセントの銀五グラムの交換価値を価値の尺度として採用し、かつこの銀五グラムの交換価値をフランと呼べば、換言すれば、5va=1 フランであるとすれば、[2] vb=24 フランとなる。 しかし[1]の形式をとろうが、[2]の形式をとろうが、これらの方程式は、「小麦一ヘクトリットルの価値は二四フランである」という句の正確な飜訳――私はあえてこの事実の科学的表現であるといいたい――である。 三〇 故に交換価値は一つの大きさであり、評価せられ得る大きさであることを、私共は今から知ることが出来る。そして一般に数学がこの種の大きさの研究を目的とするとしたら、たしかにここに、今まで数学者が忘れていて充分に研究されていなかった数学の一分科、交換価値の理論があるわけである。 私は、この科学が経済学の全部であるとはいわない。
純粋経済学要論
これは既に人々が熟知している所である。力、速度は評価し得る力であるが、力と速度の数学的理論が力学の全部ではない。しかしこの純粋力学が応用力学に先行せねばならぬことも確かである。同様に応用経済学に先行する純粋経済学があり、この純粋経済学は物理数学的科学に全く相類する科学である。この主張は全く斬新であり、奇異に見えるかもしれない。しかし私は既にこの主張を証明した。私はこれを更によく証明するであろう。 純粋経済学すなわち交換価値と交換の理論、更に換言すれば抽象的に考えられた社会的富の理論が、力学・水力学の如く、物理数学的科学であるとしたら、それに数学的方法と用語とを用いるのに、何らの躊躇をする必要はない。 数学的方法は経験的方法ではなく、合理的方法である。狭義の自然科学は、自然を純粋に単純に記述するに止まり、経験の領域外に出ないものであるか。私は、この問題に答える労を自然科学者に委せておく。だがたしかなのは、物理数学的科学は狭義の数学の如くその内容のタイプを経験に借りるけれども、これらを借りたそのときから経験の領域を離れていくことである。
純粋経済学要論
これらの科学は現実のタイプから理念的タイプを定義し、引出してくる。そしてこれらの定義の基礎の上に、先験的に定理と証明の足場を作る。そして後その結論を応用しようとして経験に帰るのである。その結論を確証しようとして経験のうちに入っていくのではない。幾何学を多少でも学んだ者は何人も熟知するように、円の半径は互に相等しく、三角形の内角の和は二直角に等しい。だがこれは抽象的理念的円または三角形においてのみ真理である。実在は、これらの定義や証明を近似的にしか確証しない。しかもこれらの定義と証明とは充分に実在に応用され得るのである。この方法に従い、純粋経済学は、交換、需要、供給、市場、資本、収入、生産的用役、生産物等のタイプを経験に借りねばならぬ。純粋経済学は、これらの現実的形態から、定義によって理念的形態を抽象し、これら理念的形態の上に推論を行い、科学が成立してから応用を目的として再び現実に帰らなければならない。
純粋経済学要論
かようにして理念的市場において、理念的需要供給と厳密な関係をもつ所の理念的価格が得られる。他もすべて同様である。これらの純粋な真理はしばしば応用せられるものであろうか。厳密にいえば、科学のために科学を研究するのは、科学者の権利である。ある奇怪な図形の奇怪な性質が不思議ならば、幾何学者はこれを研究する権利をもっている(また日々この権利を行使している)。けれども純粋経済学のこれらの真理も、応用経済学及び社会経済学の上の最も重要で最も論争があったかつ最も不分明な問題に解決を与えるであろうことは、後に明らかにする如くである。 用語に関しては、数学上の用語を用いれば少数の語で最も正確に最も明快に表現出来ることをば、リカルドがしばしばなしたように、またミルが経済原論の到る所になしたように、通常の用語を用いてすこぶる不正確にすこぶる困難に説明することに人々が執著しているのは、なぜであろうか。    第四章 産業の事実と応用経済学とについて。
純粋経済学要論
所有権の事実と社会経済学とについて要目 三一 産業の事実。直接的利用、間接的利用。利用の増加。間接的利用の直接的利用への変形。三二 産業の二系列の活動。(一)技術的活動 (二)分業の結果生ずる経済的活動。三三 二重の問題。三四 産業的経済的生産の事実は社会的事実で自然的事実ではなく、産業的事実で道徳的事実ではない。社会的富の生産の理論は応用科学である。三五 専有の事実は社会的事実であって、自然的事実ではない。自然は占有せられ得る状態を作り、人間が専有をなす。三六、三七 道徳的事実であって、産業的事実ではない。所有権は合法的な専有である。三八 共産主義と個人主義。社会的富の分配の理論は道徳科学である。三九 道徳と経済学の関係の問題。 三一 量において限られて利用がある物のみが産業により生産せられ得るのであり、またそれらはすべて産業によって生産せられる(第二五節)。そして事実において確かに、産業は稀少な物しか生産しようと努力しないし、またそれらは稀少なすべての物を生産しようと努力する。
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私は、この産業的生産の事実を、今から、多少の正確さをもって明白にしておかねばならぬ。量において限られて利用がある物は、この限られているという不便のほか(これは一つの不便である)、往々にしてなお他の不便すなわち直接的利用を有しないでただ間接的利用をもっているという不便を有している。羊の毛は無論利用がある物である。しかしこれを欲望の充足例えば衣服のための欲望充足に用いるに先立って、我々はこれに、羊毛を布とする操作と、布を衣服とする操作との二つの予備的な産業上の操作を加えなければならぬ。ところで利用があるがそれが間接であり量において限られた物の数はすこぶる多いのであるが、このことはわずかに一瞬間の熟考によっても知られる。そこで産業的生産は、量において限られてしか存在しない利用がある物の量を増加する目的と、間接的利用を直接的利用に変化する目的との、二つの目的を追うものであるという結果が出てくる。 先に産業は、物の目的を人格の目的に従属せしめることを目的とする、人格と物との関係の総体であると、極めて一般的に定義しておいたが、産業の目的はかくして、正確になってくる。
純粋経済学要論
人間がすべての物と関係をもってくるのは、たしかに、これらの物を利用するがためである。しかしこれらの関係の不変の目的が、社会的富の増加及び変形にあることもまたたしかである。 三二 この二重の目的は、全く異る二系列の活動を通じて、人間によって追求された。 一、産業活動の二系列の一つは、狭義の産業活動すなわち技術的操作から成る。例えば農業は、食物、衣服に役立つ動植物の量を増加し、鉱業は、道具や機械を作る鉱物の量を増加する。製造工業は、繊維を絹布、毛織物、綿布に変じ、鉱物をあらゆる種類の機械に変化する。土木建築業は工場、鉄道を建設する。たしかにそれらは、物の目的を人格の目的に従属せしめようとする人と物との関係の性質を明らかにもつ活動であり、また社会的富の増加と変形を目的とするより限られたかつより確定せる性質をもっている活動である。故にそれらは応用科学または政策の対象の第一系列を構成する産業事実の第一系列すなわち技術である。
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二、産業活動の第二は、狭義の産業の経済的組織に関する操作から成る。 上に述べた第一系列の活動は、第二系列の活動に見るような事実すなわち人の生理が分業に適する事実がないものとしても、産業全体を構成し技術全体の対象を構成し得よう。もしすべての人の運命が互に独立してその欲望を充足するものだとしたら、我々は各々孤立して各自の目的を追求し、無限に存在しないで利用のある物を、自ら必要と認める程度に増加し、また自ら適当と考える所に従い、間接的利用を直接的利用に変じなければならぬ。各人はあるいは百姓となり、あるいは製糸職工となり、パン屋ともなり、洋服屋ともならねばならぬ。我々の状態は動物のそれに近づいてくる。けだし狭義の産業すなわち工業は、分業に負う発展がないとしたら、些細なものに過ぎないから。しかし厳密に考えれば、この場合にも第一系列に属する産業は存在することが出来る。ただ経済的産業生産が存在し得ないのである。
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実際においては、今私共が想像した如くではない。人はただに生理的に分業に適するのみならず、また後に見る如く、この適性は人間の生存と生計とに必要な条件である。すべての人の運命は、欲望の充足の観点から見ると、独立ではなくして密接な関係をもっている。今ここでは分業の事実を、その性質または起源については研究しない。先に、人の道徳的自由と人格の事実を認めただけで、それ以上の研究に入らなかった如く、ここでも今はしばらく右の事実の存在を認めておくに止める。この事実は存在するのである。各人が稀少な物を自ら増加することなく、または自己にために間接利用を直接利用に変化することなく、この仕事を各々特種の職業によって分割して行わしめるときに、この事実は成立する。ある者は特に百姓であって百姓以外のものではないし、ある者は特に製糸職工であってそれ以外の者ではないし、他の者もこれと同様である。分業の事実とはこのことである。
純粋経済学要論
これは、我々が社会に一瞥を投ずれば、直ちに明らかに存在を認められる事実である。ところでこの事実のみが経済的産業生産の事実を生ぜしめるのである。 三三 そこでこのことから二つの問題が生じてくる。 まず分業の無い場合と同じく、分業が行われる場合にも、社会的富の産業的生産は単に豊富でなければならぬのみでなく、またよく釣合を保っていなければならぬ。稀少なある物が過剰に増加せられていながら、他の物の量が不充分に増加せられていてはならぬ。ある間接的利用が大規模に直接的利用に変化されていながら、他の間接的利用が不充分な程度にしか直接的利用に変形せられていないようであってはならぬ。もし我々の各々が自ら百姓の仕事も、大工の仕事も、技師の仕事もするとすれば、これらそれぞれの仕事を自ら必要と信ずるだけするであろう。同様に職業が分化している場合にも、製造工業家が多過ぎて、他方百姓が少な過ぎるようなことがあってはならない。
純粋経済学要論
次に、分業が行われない場合と同じく、分業が行われる場合にも、社会における人々の間に行われる社会的富の分配が、公平でなければならぬ。経済的秩序が乱れていてはならぬように、道徳的秩序が乱れていてはならない。もし我々の各々が、自ら消費する一切の物を自ら生産し、自ら生産する物しか消費しないとすれば、生産が消費の必要を目的として規制せられるのみならず、消費もまたその生産の大きさによって決定せられるであろう。ところで職業の分化があったからとて、ある者が僅少な生産をなしながら、多量の消費をなし、ある他の者が多くの多くの生産をなしながら、わずかの消費しかなし得ないようであってはならない。 かくてこれら二つの問題の重要さも了解せられ、またこれらの問題に与えられた種々なる解答の意味も了解せられ得よう。同業組合、職工組合、親方の制度は、特に生産の釣合の条件を充すことを目的としているのは明らかである。商工業自由の制度すなわち普通にレッセ・フェール、レッセ・パッセの制度と呼ばれるものは、釣合の条件と、富を豊富ならしめる条件とをよく調和しようとする主張をもっている。
純粋経済学要論
この制度に先行した奴隷制度、農奴の制度は、社会のある階級をある他の階級の利益のために労働せしめたという不便を明らかにもっていた。現在見る如き所有権及び租税の制度は、人間による人間の搾取を完全に廃止したといわれる。私共は後にそれを検しよう。 三四 今はただ二つの問題の存在を認め、次にそれらの目的を確定した後、それらの性質を精確にするという一つの事をなすに止める。さてコックランとその派の経済学者がいかにいおうと、社会的富の生産問題にはもちろん、その分配問題にも、自然科学の問題の性質を与えることはまずもって不可能である。人の意志は、社会的な生産の事実に対しても、分配の事実に対しても、自由に働く。ただ分配の場合には、人の意志は正義を考慮して働き、生産の場合には利益を考慮して働く。実際技術的産業の事実と私が右に定義したような経済的生産の事実との間には、性質の相異はない。二つの事実は相互に関係をもっていて、一方は他方を補完する。
純粋経済学要論
二つは共に人間的事実であって自然的事実ではない。かつ二つは共に産業的事実であって道徳的事実ではない。けだし二つは共に、物の目的を人格の目的に従属せしめることを目的とする人格と物との関係から成立しているから。 故に社会的富の経済的生産の理論すなわち分業を基礎とする産業組織の理論は応用科学である。我々がそれを名附けて応用経済学(économie politique appliquée)というゆえんはここにある。 三五 既に明らかにしたように、量において限られて利用がある物のみが専有せられ、またこのような物はすべて専有せられる(第二三節)。そしてこのような物のみが専有せられ、またこのような物がすべて専有されていることは、ただ我々の周囲を眺めれば、直ちに認められる。利用の無い物は見捨てられ、利用があっても量において無限な物は、共有の領域に見捨てられる。これに反し稀少な物は引込められていて、最初に来る人といえどももはやこれを自由にすることが出来ない。
純粋経済学要論
稀少な物すなわち社会的富の専有は人間的事実であって、自然的事実ではない。その起源は人間の意志と行動にあって、自然力の活動にあるのではない。 利用があって量において無限な物が専有せられることがあっても、もちろんそれは我々によるのではない。また利用があって量において限られた物が専有せられないことがあっても、もちろんそれは我々によるのではない。しかし専有の自然的条件が一度充されれば、この専有はある仕方で行われ、他の仕方では行われないというのは、我々によるのである。もちろんそれは個々の人によるのではなく、我々の全体によるのである。それは、各人の個人的意志にその起源を有する人間的事実である。実に人の創意は、専有の事実を欲するままに修正するように、この事実に対し過去において働いたのであり、現在働きつつあり、また働くであろう。社会の成立の当初においては分業を行った人々の間の物の専有すなわち社会的富の分配は、合理的条件を全く離れて行われたのではないにせよ、おおむね力に制せられ、策略に制せられ、偶然に制せられて行われた。
純粋経済学要論
最も大胆な者、最も強い者、最も巧妙な者、最も好運な者が最もよい分け前を得、他の者はその残部を、すなわち僅少な物を得たか、またはほとんど全く何ものも得ていなかったのである。しかし政治と同じように所有権もまた、当初の無秩序な事実から、秩序ある最後の原理へと、徐々に進んできた。要するに自然は専有せられ得る状態を作ったのに止り、専有の状態を作ったのは人間である。 三六 かつまた、人間による物の専有すなわち社会の人々の間における社会的富の分配は、道徳的事実であって、産業的事実ではない。人格と人格との関係である。 もちろん我々は、稀少な物を専有しようとする目的をもって、これらの物との関係に入るのである。そして長い継続的努力の後にしか、この専有の目的を達し得ない場合も少くない。しかしこの観点、既に述べた所のこの観点をここでは採らない。今はただ予備的事情や自然的条件に関係なく、社会における人間の間の社会的富の分配の事実を考えよう。
純粋経済学要論
私は、野蛮人の一族と森林中にいる一匹の鹿とを想像する。この鹿は量において限られて利用がある物であり、従って専有せられる。私はこの点を疑の無いものと考えて論じない。しかしいわゆる専有をなすに先立って、この鹿を追い殺さねばならぬ。私は問題の第二面であるこの点も論じない。これは狩猟の問題であって、この鹿を切断し煮焼するのが料理の問題であるのに等しい。だが鹿とのこれらの関係を捨象しても、なお一つの問題がある。それは、森林中に鹿がいたとき、または死んだとき、誰がこれを専有するかの問題である。問題となるのは、このように見られた専有の事実である。また人と人との関係を構成するものは、このように見られた専有の事実である。そしてこの問題に一歩を踏み入れれば、我々は直ちに次の事実を信ぜざるを得ない。――「一族中の若年の機敏な一人がいう。鹿は、これを殺した者が専有すべきである。諸君が呑気であったため、またはよく見当を付けなかったために鹿を殺すことが出来なかったとしたら、諸君が悪いのだと。老いた無力な一人はいう、鹿は我々のすべてによって平等に分配せられねばならぬ。森林中に一匹の鹿しかいないとして、君が第一番にそれを発見した所で、その事は我々がこれを食わないでいなければならぬという理由にはならないと。」――直ちに解るようにこれは本質上道徳的事実であり、正義の問題であり、人々の使命の相互関係の問題である。
純粋経済学要論
三七 かようにして専有の形態は我々の決断に依存するのであり、採られた決断がよいか悪いかに従って、専有の形態はあるいはよいものとなり、あるいは悪いものとなる。よい形態であれば、人々の使命をこれらの人々の間によく調和せしめ、正義の要求を満足せしめるであろう。悪い形態であれば、ある人の使命をある他の人々のそれに従属せしめ、不正義を生ぜしめるであろう。いかなる形態が良いものであってかつ正当なのであるか。いかなる形態の専有が、道徳的人格の要求に合うものとして理性によって推薦せられるものであるか。ここに所有権の問題がある。所有権は公正で合理的な専有であり、合法的な専有である。専有は純粋にして単純な事実である。所有権は合法的事実であり、権利である。事実と権利との間には、道徳論の余地がある。ここに本質的な点があるのであって、これを誤解してはならない。専有の自然的状態を明らかにし、あらゆる所と時において社会の人々の間に社会的富の分配が行われている種々な形態を枚挙してみたところで、それは何ものでもない。
純粋経済学要論
これらの形態を、道徳的人格の事実から出てくる正義の観点から、また平等と不平等の観点から批評し、それらがいかなる点に常に欠陥があったかを指摘し、唯一の良い形態を示すこそ、すべてである。 三八 社会的富と、社会を作っている人とが現れて以来、社会の人々の間における社会的富の分配の問題は論議されてきた。それは常に正しい、そしてその上に分配を維持しなければならない基礎を問題としてきた。考え出されたすべてのシステムのうちで最も有名なのは、古代の最大の哲学者プラトーンとアリストートをチャンピオンとする共産主義と個人主義である。だが共産主義といい、個人主義といい、それらは何を意味するか。共産主義者はいう、「財は共同に専有せられねばならぬ。自然は財をすべての人に与えた。単に現に生存している人にのみならず、将来生存するであろう人々にも与えたのである。これを個々の人々の間に分つのは、現存の社会と後世の社会の財産を分割することである。それは、この分割後に生れる人々をして、神が準備してくれた資源を利用出来ないようにすることである。これらの人々の目的の追求とその使命の実現を妨げることである。」これに対し個人主義者は答える。
純粋経済学要論
「財は個人によって専有せられねばならぬ。自然は人々を、各々の徳につき、技倆につき、不平等に作った。勤勉な者、巧妙な者、倹約な者の労働の成果、貯蓄の成果を共同の所有としようと強いるのは、これらの人々の手からこれらを奪って、懶惰な者、巧妙でない者、浪費者のために与えるものであり、すべての人々から、各自の目的の追求が適当であったか否かの責任を奪うものであり、各自の使命の遂行が道徳的であったか否かの責任を奪うものである。」――私はこれだけの記述しかしない。共産主義が正しいか。個人主義が正しいか。それとも共に誤であるのか。または共に理由があるものなのか。我々は未だにこの論争を尽していない。私は今これらの学説に評価を下さないし、より詳細な解説も加えない。ただ、所有権問題の目的を広汎で完全な立場から見たならば、それが正確にはいかなるものであろうかを理解せしめようとしたに過ぎない。ところでこの目的は、本質的には、社会的富の専有に関して人格と人格との関係を定めるのに、理性と正義とに合致するように諸人格の使命を調和することにある。
純粋経済学要論
故に専有の事実は、本質的には道徳的事実であり、従って所有権の理論は、本質的には道徳科学に属する。Jus est suum cuinque tribuere. 正義とは、各人に属する物を、各人に得せしめるにある。だから各人に属する物を各人に得せしめることを目的とし、正義を原理とすれば、その科学は社会的富の分配の科学であり、私が呼ぶ所の社会経済学(économie sociale)である。 三九 だがここに一つの困難がある。私はそれを指摘しておきたいと思う。 所有権の理論は、道徳的人格としての人間と人間との間に存在する社会的富に関する関係、すなわち社会における人々の間の社会的富の公正な分配の条件を決定する。産業の理論は、特種な職業に従事して労働者と考えられる人と物との関係を、社会的富の増加と変形の観点から決定する、すなわち社会の人々の間に社会的富を豊富ならしめる条件を決定する。前者の条件は、正義の観点から導き出されるべき道徳的条件である。
純粋経済学要論
後者の条件は、利益の観点から導き出されるべき経済的条件である。しかしこれらは同じく社会的条件であり、社会の組織を目的とする手引きである。ところでこれら二つの種類の考察は互に矛盾するのであるか、または反対に相互に支持し合うのであるか。例えば所有権の理論と産業の理論とが共に奴隷制度または共産主義を拒否したとしても、もちろんよい。しかしこれらの理論の一つが、正義の名によって奴隷制度を拒否し、または共産主義を吹聴し、他の一つは、利益の名をもって、奴隷制度を賞讃し、または共産主義を拒否したと想像すれば、道徳科学と応用科学との間に矛盾があることになる。この矛盾は可能であるか。この矛盾が現れたとしたら、いかになすべきであろうか。 我々はこの問題に遭遇するのであるが、私はこの問題に、それがもつべき地位を与えたいと思う。これは特にプルードンとバスチアとの間に、一八四八年の頃、道徳と経済学の関係について行われた論争の問題であった。
純粋経済学要論
プルードンは「経済的矛盾」において、正義と利益との間に矛盾があると主張し、バスチアは「経済的調和」において反対の説を主張した。私は二人が共にその証明を完全に果したとは考えない。そして私はバスチアの説を採るが、しかしバスチアとは異る方法によってこれを弁じたいと思う。とにかく、問題が存在するとしたら、これを解決せねばならない。全く異る道徳科学である所有権の理論と、応用科学である産業の理論とを混同して、この問題を隠蔽してはならない。  第二編 二商品間に行われる交換の理論    第五章 市場と競争とについて。二商品間に行われる交換の問題要目 四〇 社会的富は価値がありかつ交換し得られる物のすべてである。四一 交換価値は互にある割合の分量で受けまたは与えられる物がもつ性質である。市場は交換が行われる場所である。競争の機構の分析。四二、四三 証券市場。有効な需要と供給。供給と需要の均等、静止的な流通価格。
純粋経済学要論
需要が供給に超過すれば騰貴する。供給が需要に超過すれば下落する。四四 商品A及びB。方程式 mva=nvb. 価格 pa 及び pb. 四五 有効な需要と供給、Da, Oa, Db, Ob. 定理 Ob=Dapa, Oa=Dbpb. 需要が主要な事実であり、供給は附随的な事実である。四六 定理 . 四七 供給と需要の均等すなわち均衡の仮説。四八 供給と需要の不均等の仮説。価格の騰貴または下落は需要を減少、または増加せしめる。供給については如何。 四〇 第二一節になした基礎的一般的考察の中で、私は、社会的富を、稀少な物すなわち利用があると同時に量において限られた有形または無形の物の総体であると定義し、かつ稀少な物はすべて、そしてこれらのみが価値があり、交換せられ得ることを証明した。それとは別にここでは、社会的富を価値があって交換せられ得る有形無形の物の総体であると定義し、かつ価値があって交換せられるすべての物が、そしてそれらのみが利用があると同時に量において限られている物であることを証明しよう。
純粋経済学要論
先の定義では、私は原因から結果に赴いているわけであり、今与えた定義では、結果から原因に遡っているわけである。だが稀少性と交換価値との二つの事実の関係を明らかにすることが出来るならば、これらのいずれの行き方をしようと、自由であるのはいうまでもない。ただ私は、交換価値のような一般的事実の組織的研究にあっては、性質の研究が起源の研究に先立たねばならぬと考えるのみである。 四一 交換価値はある物がもつ性質であり、無償で獲得せられることも無償で譲渡されることもなくして売り買いせられる性質、すなわち他の物を与えまたは受けるのにある割合の分量で受けまたは与えられる性質である。一つの物の売手は、それと交換に受ける物の買手である。一つの物の買手は、それと交換に与える物の売手である。他の言葉でいえば、二つの物の相互の交換はすべて二つの売りと買いとから成り立つ。 価値があって交換せられる物は、また商品(marchandises)と呼ばれる。
純粋経済学要論
市場は商品が交換せられる場所である。故に交換価値という現象は市場に生れるのであって、交換価値の研究は市場においてなされねばならぬ。 自由に放任せられる限り、交換価値は自由競争の支配を受けている市場において自然に発生する。交換をなす者は、買手としては互により高く需要しようとし、売手としては互により安く供給しようとする。これらの競り合いから、あるいは上向の、あるいは下向の、あるいは静止する商品の交換価値が生れる。この競争が充分に働くか否かによって、交換価値は、あるいは正確に、あるいは不正確に現われる。競争の点から見て最もよく組織化された市場は、売買が例えば仲買人・才取等のような売買を集中する仲介者によって行われる市場である。従ってこのような市場では、いかなる交換も、その条件が公にせられることなくしては行われず、売手が互により安く売ろうとし、買手が互により高く買おうとすることなくしては、行われない。
純粋経済学要論
株式取引所・商品取引所・穀類取引所・魚市場等は、実にこのような働き方をする市場である。しかしこれらの市場のほかに、多少は制限せられていても競争がともかくも相応にかつ満足な程度に行われる市場がある。蔬菜市場、家禽市場などがこれである。小売商店・パン屋・肉屋・乾物屋・服屋・靴屋等の並列した街は、競争の点から見ると充分に組織化されていない市場ではあるが、それにしても、そこではかなりの程度まで競争が行われる。医師・弁護士の仕事の価値、音楽家の興行の価値の決定を支配するものもまた競争であることは争い得ない。更にまた全世界は、社会的富の売買が行われる一つの広大な一般的市場で、それを個々の特種な市場が形成しているのである。これらの市場においてこれらの売買はいかにして自ら成立していくか。その法則を知ることが我々の問題である。この目的をもって常に私は、競争の点から見て完全な組織をもっている市場を仮定する。これは、純粋力学において摩擦のない機械を仮定するのと同様である。
純粋経済学要論
四二 ところでよく組織せられた市場において競争がいかに働くかを見ようと思うのであるが、その目的のために、パリまたはロンドンのような資本の大市場における証券取引所に入ってみよう。これらの場所で人々が売買している物は、社会の富のうちで、証券によって表わされている重要な富の一部分である。例えば国家その他の公共団体に対する債権の一部分・鉄道・運河・重工業工場等の一部分である。我々がこの市場に入るとき、聞き得るものは、取りとめのない喧騒のみであり、見得るものは、無秩序の運動のみである。しかし一度私共がその内容に通暁するに至るならば、この喧騒とこの活動との意味が極めて明瞭になってくる。 今例えばパリの取引所において行われる三分利付フランス国債の取引を、他の取引から引離して観察してみる。 三分利付公債は六〇フランであるという。これを六〇フランまたはそれ以下に売ってよいとの指図を受けた仲買人は、三分利付の公債のある量すなわちフランス国家に対する三分の利子の要求証券のある量を六〇フランの価格で供給する。
純粋経済学要論
かくの如く一定の価格である量の商品が供給せられたとき、この供給を有効供給(offre effective)と呼ぶ。反対に六〇フランまたはそれ以上で買ってもよいとの指図を受けた仲買人は、三分利付公債のある量を六〇フランの価格で需要しているのである。ある価格である量の商品が需要せられるとき、この需要を有効需要(demande effective)と名づける。 さてこの需要が供給に等しいか、これより多いかまたは少いかに従って、我々は三箇の仮定を設ける。 仮定一。六〇フランで需要せられる量が、この価格で供給せられる量に等しい場合。これは売手または買手である仲買人がいわばその相手方を他の買手または売手である仲買人に正確に見出す場合である。この場合には交換が行われ、相場は六〇フランを維持し、市場の静止状態すなわち市場の均衡(équilibre)が現われる。 仮定二。買手である仲買人がその相手方を見出し得ない場合。
純粋経済学要論
この場合には六〇フランの価格で需要せられる三分利付公債の量は、この価格で供給せられる量を超過している。理論上交換は中止せられる。六〇・〇五フランまたはそれ以上で買ってもよいとの指図を受けた仲買人がこの価格で需要する。彼らはせり上げる。このせりは二つの結果を生ぜしめる。(一)六〇・〇五フランでの買手となり得ない所の六〇フランの買い手は退く。(二)六〇フランでの売手となり得ない所の六〇・〇五フランにおいての売手が加わってくる。もし彼らが既に指図を与えていないとすれば、彼らは新に指図を与える。かく二つの動因によって、有効需要と有効供給との間に存する隔りは減少する。両者の均等が再び出現すれば、価格の騰貴はそこで停止する。そうでない場合には六〇・〇五フランから六〇・一〇フランに、六〇・一〇フランから六〇・一五フランにと、供給と需要との均等が成立するまで、価格は騰貴する。そして高い相場で、新しい静止状態が現われる。
純粋経済学要論
仮定三。売手である仲買人がその相手方を見出し得ない場合。この場合には六〇フランの価格で供給せられる三分利付公債の量は、同じ価格で需要せられる量より大である。この場合にも交換は停止する。五九・九五フランまたはそれ以下で売ってもよいとの指図を受けた仲買人は、この価格で供給する。彼らは互にせり下げる。 これから二つの結果が生ずる。(一)五九・九五フランにおいて売手となり得ない所の六〇フランにおいての売手は退く。(二)六〇フランにおいて買手となり得ない所の五九・九五フランにおいての買手が現われる。そこで供給と需要との隔りが減少する。そして供給と需要との均等が再び現われるまで、価格は五九・九五フランから五九・九〇フランへ、五九・九〇フランから五九・八五フランへと下落する。 この三分利付フランス国債に行われたと同じ作用が、すべての公債例えばイギリス、イタリア、スペイン、トルコ、エジプト等の公債にも、また鉄道・港湾・運河・鉱山・瓦斯事業・銀行その他の信用機関等の株式及び社債にも行われ、その変化は証券の如何により〇・〇五フラン、〇・二五フラン、一・二五フラン、五フラン、二五フラン等であると想像し、また現物取引のほかに定期取引が行われ、その定期取引中にも単純定期取引、歩金取引等が行われると想像せよ。
純粋経済学要論
かくて取引所の喧騒はあたかも各人がそれぞれの楽器を受持っている演奏会のようなものである。 四三 私共は、これからかかる競争状態において生ずる交換価値を研究しようとする。一般に経済学者は、例外的な事情の下に現われるような交換のみを研究しようとする。彼らはダイヤモンドや、ラファエルの絵画、流行の音楽会のみを研究する。ジョン・スチュアート・ミルの引用によれば、ド・クィンシー(De Quincey)氏は、汽船に乗ってスーペリオール湖(Lac Supérieur)を旅行する二人を想像する。一人は楽器を所有し、他の一人は「文明から八百哩も遠ざかっている無人の地への移住の途中であり」、ロンドンを出発するに際し楽器を購うのを忘れたのであった。この人にとって楽器は心の不安を和げる神秘な力をもっている。下船しようとするとき、この人は他の一人が所有する楽器を六〇ギニーの価格で購ったという。もちろん理論はかかる特殊な場合をも考えねばならない。
純粋経済学要論
市場に行われる一般的法則は、ダイヤモンドの市場にも、ラファエルの絵画の市場にも、楽器の市場にも適用せられねばならない。それはまたクィンシーが考えたような一人の売手と一人の買手と一箇の物と一瞬間とから成る市場にも適用せられねばならない。しかし論理的には一般の場合から特殊の場合に進むのがよいのであり、特殊の場合から一般の場合に進むべきではない。天文学者が天体を観測するのに、雲の無い夜を利用しないで、雲の多い時を選ぶべきではあるまい。 四四 交換の現象と競争の機構の基本概念を与えるため、私は、株式市場において金銀貨幣と交換せられる証券の売買を例にとった。けれどもこれらの証券は全く特殊な種類の商品であり、交換に貨幣が介在するのもまた交換の特殊の場合である。私は後に貨幣が介在する交換の研究をするが、当初にはこれを交換価値の一般的事実の研究と混同せぬがよいように思う。そこで私共の本道に立ち帰り、かつ私共の観察に科学的性質を与えるため、任意の二商品のみをとることとする。
純粋経済学要論
今これらの二商品を、燕麦と小麦であると仮定してもよければ、または抽象的に(A)、(B)と仮定してもよい。私はA、Bを(A)、(B)のように括弧に収め、量を表わす文字との混同を避けたい。量を表わす文字は方程式に組み込まれる唯一のものであり、(A)、(B)で表わすものは量ではなくして、種類であり、哲学上の言葉を用いれば、本質である。 そこで今、一市場を想像し、そこに(A)を携えながらその一部分を与えて(B)を得ようとする人々が一方から到着し、(B)を所有しその一部分を与えて(A)を得ようとしている人々が他方から到着したとする。この場合にせりの基礎となるものが必要であるから、今は例えば、ある仲買人が、前回の取引の相場通り、(A)のm単位に対し(B)のn単位を与えると想像する。この交換は次の方程式で表わされる。mva=nvbここで(A)の一単位の交換価値を va と呼び、(B)の一単位の交換価値を vb と呼んでおく(第二九節)。
純粋経済学要論
交換価値の比すなわち相対的交換価値を価格(prix)と一般的に呼び、(A)で表わした(B)の価格、(B)で表わした(A)の価格を、それぞれ pb, pa で一般的に表わし、比及びの値を特にそれぞれμ及びで表わせば、この第一の方程式からを得べく、かつまたこれらの二つの方程式からが得られる。よって、 価格すなわち交換価値の比は、交換せられた商品の量の反比に等しい。 各商品の価格は互に逆数である。 もし(A)が燕麦であって、(B)が小麦であるとし、仲買人が五ヘクトリットルの小麦を一〇ヘクトリットルの燕麦と交換しようと申込んだとすれば、燕麦で表わした小麦の申込価格は2であって、小麦で表わした燕麦の申込価格はである。先にいったように、一つの交換には常に二つの売と二つの買とがあるが、それと同じく二つの価格がある。常に存在するこの相互の逆数関係は、交換の事実において注意すべき最も重大な事項であり、代数記号の使用はこれを極めて明瞭ならしめるから、はなはだ便利である。
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その上代数記号の使用は、一般的命題を簡潔明瞭な式で表わし得る利益をもっている。私がそれを用いる理由もここにある。 四五 価格における(A)及び(B)の有効需要及び有効供給を、それぞれ Da, Oa, Db, Ob とすれば、これらの需要量と供給量と価格との間には、ここに指摘しておかねばならぬ重要な関係がある。 先にいったように、有効需要及び有効供給は一定の価格における一定商品量の需要及び供給である。故に pa の価格において、(A)の Da 量の需要があるといえば、それは、Dapa に等しい Ob 量の(B)が供給せられているということである。だから例えば小麦で表わした価格で二〇〇ヘクトリットルの燕麦が需要せられるといえば、それは小麦の一〇〇ヘクトリットルの供給があるということでもある。故に一般に、Da, pa 及び Ob の間には、方程式Ob=Dapaが成立する。 同様に pa の価格で Oa 量の(A)の供給があるといえば、それは、Oapa に等しい Db 量の(B)が需要せられるということでもある。
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だから例えば小麦で表わした価格で一五〇ヘクトリットルの燕麦の供給があるといえば、それは、小麦の七五ヘクトリットルの需要があるということでもある。故に一般に Oa, pa, Dbの間には、次の方程式が成り立つ。Db=Oapa 同様に Db, Ob, pb, Oa, Da の間に、次の方程式が成立するのを証明し得るであろう。Oa=DbpbDa=Obpbこれら二つの式は、先の二つの方程式と方程式 papb=1 とからも導き出されるが、それに関係なく証明せられ得る。 よって、ある商品を反対給付とする一商品の有効需要または供給は、このある商品の有効供給または有効需要と、この一商品で表わされたこのある商品の価格との積に等しい。 ここで、これら四つの量 Da, Oa, Db, Ob のうち、二つは他の二つから決定せられることを、知ることが出来る。私共は、後に新しい説明を加えるまで、供給量 Ob 及び Oa は、需要量 Da 及び Db から生ずるものであると考え、需要量が供給量から生ずるものとは考えないでおく。
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実際二つの商品の相互の物々交換の現象においては、需要は根本的な事実であると考えられねばならぬし、供給は附随的な事実であると考えられねばならぬ。人は供給のために、供給するのではない。供給をすることなくしては、需要をすることが出来ない故に、供給をするのである。供給は需要の結果に過ぎない。故にまず我々は、供給と価格との間に間接的関係を認めるだけで満足し、需要と価格との間にのみ直接の関係を求めようと思う。これ故、pa, pb の価格において、Da, Db の需要があるとすれば、供給はOa=Dbpb, Ob=Dapaとなる。 四六 ところで、Da=αOaであるとすれば、α=1 であるか、α>1 であるか、α<1 であるかの三つの仮定を設けることが出来る。だがまず最後の定理を述べておく。 上記の方程式に、Da=ObpbOa=Dbpbによって与えられた Da, Oa の値を代入すれば、Ob=αDbとなる。
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よって、二つの商品を与えられたとすれば、一つの商品の有効需要のその有効供給に対する比は、他方の商品の有効供給の有効需要に対する比に等しい。 この定理は次のように証明せられることも出来る。Da=ObpbDb=OapaDaDb=OaOb または、Oa=DbpbOb=DapaOaOb=DaDb 結局、いずれの考え方によるもとなる。 故に(A)の有効需要と供給とが等しければ、(B)の有効供給と需要ともまた等しいことが解る。もし(A)の有効需要がその有効供給より大であれば、(B)の有効供給は同じ比例で有効需要より大であることが解る。最後にもし(A)の有効供給が有効需要より大であれば、(B)の有効需要は同じ比例でその有効供給より大であることが解る。これが右の定理の意味である。 四七 さて α=1, Da=Oa, Ob=Db であると仮定すれば、二商品(A)、(B)がそれぞれの価格で需要せられる量、供給せられる量は相等しい。