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夢 | こういう際に好意でお出しいたすのでございますから、まずわたくしどもの××協会の活動に同情していただいて、寄付金千円頂戴いたしとうございます。それから渡し舟料は三千円にしていただきます。この××協会というのもその時ははっきりと名を聞いたのであるが、今は思い出せない。とにかくその協会の名を聞いて、わたくしは、ああこの女は左翼の運動に参加しているのかと思った。こんなわずかな渡し舟のために、足許を見て三千円と吹きかけるのも、資金かせぎのためであろう。ところでわたくしは、千五百円しか持っていない。紙入れを調べて見なくてもわたくしにはそれが解ったのである。普通の相場から言えば千五百円でも高すぎるくらいであるが、しかしこの相手では値切ってもだめであろう。そう思ってわたくしは退却した。その女にどういう挨拶をし、その女がどう言ったかは、はっきりしない。 わたくしは爺さんの所へひき返して○○の言い分を話した。 |
夢 | 爺さんはいかにも気の毒そうな表情をしたが、そうかねと言ったきり、何も説明してくれなかった。しかしその表情でわたくしは、爺さんが○○のやっていることに対して強い非難の気持ちを抱いていること、しかし口に出して非難するのを用心深く差し控えていること、爺さんが仲にはいって口をきいても○○の気持ちを変えさせる望みがないことを了解した。でわたくしは、爺さんの顔から気の毒そうな表情が消えないうちに、目的地の温泉場へ行くことを断念した。そうしてできるだけ早く大会へ欠席の旨を通知したいと思った。わたくしは爺さんに、電話のある家はなかろうかと聞いた。爺さんは、電話ならあのうちにあるがね、と浮かない顔をしながら、近所の大きい木に囲まれた家を指さした。 わたくしはなるべく早く電話をかけて、大会の人たちに事情を知らせたいと考え、急いでその家の方へ行った。そこはその家の横手で、草花などを植えた庭のよく見えるところであった。 |
夢 | 門はどこにあるか解らなかった。気がせくのでその庭の垣根のそばだか土手のそばだかへ近づいて行った。どんな垣根があったかははっきりしないが、そこから家へ近づいて行って電話の借用を申し込むつもりであったらしい。一歩庭へ足を踏み入れたときに、突然庭の方から、和服を着流した四十格好の役者のような美男子が出て来て、なんだって人の邸へ侵入するのだと詰問した。わたくしは足を引きこめて、へどもどしながら、急ぎの用のために電話を拝借したいのだと弁明した。しかしその男は承知しなかった。そういう用事なら門からはいってくるがよい。庭へ侵入してくるとはけしからん、と言った。わたくしはこの際電話を借りることができなくては大会の人たちに迷惑をかける、なんとかしてこの相手の気持ちを和らげなくては、と思って、しきりに言いわけを言ったが、相手は頑としてきかなかった。元来わたしはノラクラ遊んで生活しているやつは大嫌いなんだと言った。 |
夢 | わたくしは気がせいたために人の家の庭先からはいり込もうとした手落ちを認め、改めて表門から訪ねて行って頼み込もうと考えた。そうしてその庭の外側を回って表門の方へ出ようとした。初めはさほど広い庭でもなかったはずであるが、土手の上に生垣を作った外側は数町も続いていた。相変わらず、早く電話をかけなくてはと思いながら、やっと表門へ出て、玄関から声をかけると、すぐに前の人が出て来た。改めて急ぎの用のあることを言い始めると、今度は前と変わって非常に和らかな調子になって、わたしは根本方針を変えることはできない、従ってわたしの家の電話をお貸しすることはできないが、しかしこの村にはもう一軒電話を持った家がある、そこへ案内して差し上げようと言った。そうしてわたくしと連れ立って、この村の中心ででもあるらしい場所を歩いた。火の見櫓の下を左へ折れると、突き当たりに寺の山門が見えた。その寺がもう一軒の電話のある家であった。 |
夢 | 案内の人に連れられてその寺に上がると、そこは本堂だか庫裏だかハッキリしないが、とにかく天井の高い広い部屋に、ところどころ椅子やテーブルが置いてあって、そこでいろいろな人が事務を取っていた。その間を通りぬけて奥まったところ、どうやらもと内陣であったらしいところに、これもやはり四十格好の、せいの低い、太った、逞しい男が控えていた。その顔は、下品ではあるが精悍であった。わたくしは一眼見て、あゝこれが和尚さんだなと思った。案内の人はわたくしを紹介して、電話を貸して上げてくれと言った。和尚さんは無愛想なムッツリとした顔をして、あゝよろしいと答えた。 わたくしはこれでやっと解決したと思いながら、和尚さんの左うしろの壁にかかっている電話器のそばへ行った。がさてかけようとしても向こうの番号が解らなかった。で振りかえってそこいらにいた人に大会場の番号をきいた。すると和尚さんの顔が急に緊張した。それとともに数人の人がばらばらとわたくしの囲りに集まって来た。 |
夢 | ただならぬ空気がそこに醸し出された。 わたくしはおおぜいに取り巻かれて、いろいろ和尚さんから詰問をうけた。大会場へ何の用で電話をかけるのか、いったい君は誰だというようなことであった。結局わたくしは、自分の名を名のり、なぜ電話をかけなくてはならなくなったかを白状せざるを得なくなった。しかし白状しても和尚さんはそれを信用しなかった。今世界的なニュースになっている大会の、しかも最も重要な宣言演説者が、今ごろこんなところでまごまごしているはずはない。そういう地位の人は自動車でも飛行機でも自由に使えるはずではないか。人を馬鹿にするな、というのである。致し方なくわたくしは胸のポケットから書類を出した。それを和尚さんに渡す前にパラパラとめくって見ると、初めの二三枚は和文のタイプライターで打った宣言演説の原稿であり、そのあとにこの地方の知事とか警務部長とか国鉄の当局とか町長とかに当てた通牒が続いていた。一々名宛てを書いて、別々の文句が記されていた。 |
夢 | それは大会場へ赴くためにあらゆる便宜を供与してもらいたいという意味のものである。わたくしは、おやこんなものを持っていたのかと思いながら、それを和尚さんに渡した。和尚さんはそれを見ると急に態度をかえて、部下に早く電話をかけろと命令した。 その時にわたくしは時計を見た。十一時三十分であった。わたくしは、あゝとうとう間に合わなかったかと思った。そこで目がさめた。 この夢にシカゴの大統領指名大会とかマッカーサーの基調演説とかが反映していることは明らかであろう。またその基調演説が行なわれる前であったということも重要な関係を持っているであろう。その演説を阻止する契機として洪水が出てくるのは、多分その晩に雨が降ったせいであろうと思われる。しかしその洪水が、濁水の奔流としてでなく、透きとおった水の停滞した姿で現われて来たのは、実に案外である。わたくしは洪水で見渡す限り一面に泥海になるという光景を見たことがある。 |
夢 | また逆巻く濁流のなかに田舎家の流されて行くのを見たこともある。しかし澄んだ水の洪水というのは、ただ一度、明治四十年の秋に、河口湖で見ただけである。その時は春山武松君などと一緒に富士五湖めぐりをやったのであるが、船津で泊まって翌日舟で河口湖を渡るときに、湖水の水の下に立ったままの唐もろこしの畑などが見えた。船頭の説明によると、その夏の豪雨の時に湖水の水位が一丈何尺とか上がり、周囲の畑に水をかぶったまま、まだ減水しないのだということであった。つまりその時には、平生の畑の上を舟でとおっていたのである。その時の経験以外には、どう考えて見ても、水の底に往来が見えるなどという光景の思い浮かべられる機縁がない。して見るとこの夢には、前の晩に読んだ夕刊の記事と一緒に、四十何年か前の印象が蘇って来ているとしなくてはならない。まことにでたらめなものである。 わたくしはこの久しぶりの夢を回想してあんまりいい気持ちがしない。 |
夢 | ヒルティの言葉が本当なら、全くやり切れないなと思う。いくらなんでもあんまりケチ臭すぎる。その上、前の夢と違ってその後年月が経っていないのであるから、この夢の中の予言的な要素などを見つけ出してくることもできない。だからこの夢を書いて見ようと思ったときに、いきなり、痴人夢を説くという言葉が頭に浮かんだのである。しかし古人が戒めているのは、痴人に対して夢を説くことであって、痴人が夢を説くことではないと気づいて、ケチ臭い夢をケチ臭いままに書いて見たのであるが、そうやって反芻しているうちに二つのことに気づいた。それはいずれも覚めている時のわたくしにとって、おやと思うようなことである。 夢のなかでわたくしを押えつけていた力の一つは、渡し舟料を高く吹きかけた○○の娘である。それは左翼運動を代表して現われて来たはずであるが、わたくしは渡し舟料を払い得ない貧乏のためにその前に屈した。もう一つは電話を貸してくれなかった男であるが、最初垣根越しに相対した時の人相が妙にハッキリと記憶に残っている。 |
夢 | 若いころの寿美蔵と現在の清水幾太郎氏とを一緒にしたような顔であった。何かしゃれた和服を着流していたし、その邸はなかなか広大であったのであるが、その男が実にはっきりと、ノラクラ遊んで暮らしているやつは大嫌いだと言った。この言葉はわたくし自身に向けられていたのである。つまり資本家階級を代表して現われて来たらしい男が、わたくしを遊民として非難したのであった。左翼からは貧乏のためにやっつけられ、右翼からは徒食のためにやっつけられるというのは、どうも理屈に合わない。 もっともこの、ノラクラ遊んで暮らしているという非難は、戦前から戦争中へかけて、われわれ頭脳労働者が時々あびせかけられたものである。そのころは肉体労働をしないとノラクラ遊んでいることにされた。だから文学報国会などというものができて、文芸家たちが宮城前広場で肉体労働をやったりなどした。わたくしはそういうものに一度も関係したことはないし、学生の勤労奉仕について行ってもただ眺めているだけであった。 |
夢 | そのため陰では非難する人もあったらしい。わたくしはそんなことは意に介しなかったが、最も困ったのは、近所の畑道を散歩することであった。書斎で頭脳労働をやっているものは、時々散歩でもしないと体がもたない。ところでその散歩する時刻は、ちょうど農業労働者の労働の真っ最中にぶつかる。散歩はノラクラ遊んでいることを露骨に形に現わしたものであるから、それを農人たちの労働の真中へ持ち出せば、否応なしに極端なコントラストが起こる。おれはノラクラ遊んでいるのではない、書斎で苦しい労働をしているのだ、と弁解して見たところで、散歩がノラクラ遊んでいる姿であることを変えるわけには行かない。またノラクラ遊ぶのでなくては、散歩は休養の役には立たない。だから右のコントラストはどうにもできなかったのである。そこへ文芸家が人前で肉体労働をやって見せるなどという形勢が現われて来たのであるから、右のコントラストはおいおい心理的に重荷として感ぜられるようになって来た。 |
夢 | とうとう最後には、一年くらいの間、散歩ができなくなってしまった。ノラクラ遊んで暮らしているやつは大嫌いだという言葉の裏には、そういう重荷の経験がひそんでいるのである。 しかしその言葉が、麦の脱穀に忙しい爺さんの家の庭ででも聞かれたのなら不思議はないが、大きい邸に住んでいて和服をぞろりと着流している男、おのれ自身がノラクラ遊んで暮らしているらしい男の口から出たのだから、不思議である。爺さんの家の庭で働いていた人たちは皆笑顔でわたくしを迎えてくれた。しかるにこの和服を着流した男は、いかにも憎悪をこめた調子であの言葉を言った。どうも話が逆である。 もう一つ気づいたことは、和尚さんや寺の様子が、覚めているわたくしにとって案外に感ぜられることである。和尚さんもまた夢の中でわたくしを押えつけていた力の一つであり、しかも前の二つと違ってわたくしを吊し上げのような目に合わせるのであるが、その面構えは、徳田球一と広川弘禅とを一つにしたようであった。 |
夢 | もっともこの二人の顔は写真で見ただけである。肉づきの工合やふてぶてしい感じは徳田に似ていたが、鼻の下の髯や無愛想な表情は広川そっくりであった。ところで寺を改造した事務所の空気は、どうも十年前の大政翼賛会と同じであったように思う。和尚さんの下にそういう若者たちが集まっていて、それがこの村の政治を握っている。そうしてみんながいやに威張っている。そういうことを覚めているわたくしはかつて想像して見たこともない。仏教や寺や僧侶たちが新しい活気を帯び、指導的な役目にのり出してくるであろうということは、今の情勢ではちょっと考えにくい。しかるに夢の中の和尚さんは、十年前の軍人のように威圧力を持っていて、若者たちを手足のように動かしていた。これがどうも不思議である。 この和尚さんも若者たちも、大会の権威の前には恭順の意を表したのであるから、大会そのものも大政翼賛会のようなものであったかというと、それはそうでなかったようである。 |
夢 | 大会はもっと進歩的で、国際的で、思い切った革新的なプログラムを発表するはずであった。ところがそのプログラムの内容が一向明らかでない。最後の場で演説の草稿を一瞥したとき、わたくしは、あゝあれかと思った。その内容は先刻御承知という気持ちであった。しかるにわたくしは一語も覚えていない。ただそれが近い将来には到底実現の見込みのない理想的なものだということだけが、この夢の前提になっている。 十数年後にふり返って何かこの夢の中に意義が見いだされるとすれば、それは今理屈に合わない、不思議だと思われる点の中にあるかも知れない。(昭和二十七年九月『新潮』) |
『劉生画集及芸術観』について | 自分は現代の画家中に岸田君ほど明らかな「成長」を示している人を知らない。誇張でなく岸田君は一作ごとにその美を深めて行く。ことにこの四、五年は我々を瞠目せしめるような突破を年ごとに見せている。そうしてこの成長、突破が年ごとに迫り行くところは、ただ偉大な古典的作品にのみ見られる無限の深さ、底知れぬ神秘感、崇高な気品、清朗な自由、荘重な落ちつきである。自分は正直に白状するが去年美術院の展覧会で初めてルノアルの原画を見たときにも、岸田君の不思議に美しい「毛糸肩掛せる麗子像」を見た時ほどは動かされなかった。 が、自分はここで岸田君の画を批評しようとするのではない。ただ、君の近著の『芸術観』について一、二の感想を語ろうとするのである。この論文集において岸田君は、優れたる画家であるとともにまた優れたる「思索家」であることを示した。その思索は君の画と同じく深い洞察に充たされ、君の画と同じく不思議な生を捕えている。 |
『劉生画集及芸術観』について | もとより自分はここに説かれた「思想」が岸田君の画の根柢であるというのではない。岸田君の画の根柢は、君の語をかりて言えば、君自身の「内なる美」である。「精神」である。その「内なる美」、「精神」が、線と色とをもってする表現手段によって現わされずに、――あるいはこの表現手段によって現わされ得ないものを持つゆえに、――概念と論理とをもってする他の表現手段によって現わされたとき、そこにこれらの思想が生まれたのである。だから我々はこれを、君の画と並んで存在する精神の表現と見なければならぬ。その意味でここには一人の画家の、画によって直接には現わされ得ないさまざまの優れた感情、信念、洞察などが伺われる。それは人としての岸田君の切実な内生を示すものである。が、同時にまた我々はこれを、製作家の書いた美学上の論文として、すなわち「製作の心理」を明らかにし得る可能の最も多い論文として、取り扱うこともできる。この意味でも自分はこれらの論文が深い暗示に富んだ価値の高いものであることを感ずる。 |
『劉生画集及芸術観』について | それは美学者にとってよき反省の機会を与えるとともに、美術家にとっても力強い教示となるであろう。 岸田君の暗示に富んだ無数の観察を一々紹介することは容易でない。が、美術家としての岸田君の理想・信念は、君の生活の根本の力であり、また美術家にとって最も重要な問題であるゆえに、まずそれを取り上げてみようと思う。 画家としての岸田君の理想・信念には、「人として」の岸田君の本質的要求が投げ込まれている。我々はここに享楽的浮浪人としての画家、道義的価値に無関心な官能の使徒としての画家を見ずして、人類への奉仕・真善美の樹立を人間最高の目的とする人類の使徒としての画家を見る。もとより画家である限り、その奉仕は「美」への奉仕に限られている。しかしこの画家は「美」への奉仕が、「真」への奉仕、「善」への奉仕とともに、真実の人類への奉仕であることを、そうしてそれが自己の任務づけられた、自己の分担し得る人類への奉仕であることを、明白に自覚している。 |
『劉生画集及芸術観』について | この自覚を岸田君は切実なる内生の告白として表現しているのである。 美への奉仕はすなわち人類への奉仕である。言い換えれば、芸術のための芸術と人類のための芸術とは別物でない。この考えを深く裏づけるものは「人類」の理念であるが、しかし岸田君はこの理念について詳しく語ってはいない。時には人類を地球上の人間の総体と考える。すると、「少数の人にしか深い美は見えないのなら、美が何で人類の喜びかと思いたくなる」という懐疑が起こって来る。しかしこの懐疑は「人類」の意義が量から質に、物質から意味価値に移されるとき、たちまちに脱却せられる。で君は、一般の人にわかってもらえない淋しさが「美への奉仕」を理解することによって追い払われることを説く。「美術家は個人に奉仕するよりも、美に奉仕すればいいのだ。一般の人に通じると否とにかかわらず、ただ人類の美の事業に役に立つのか否かという事が大切なのだ」という。ここに「人類」は明らかに一つの理念として意味せられている。 |
『劉生画集及芸術観』について | それはなお岸田君の「自然」の考え方によっても裏づけられる。自然はそれ自身には「心なき物質」である。価値なき存在である。ただ人間の「心」のみが「世界じゅうで盲目からさめた唯一の存在」であって、あらゆる価値はそこから生み出される。自然において人間が美を感ずるのは人間が自らの内にある美を自然物に投げかけるからである。すなわち自然の美とは、「無常無情の自然物と人間の心とが合致して生まれた暖かき子供」である。人は自然において美を感ずる瞬間に、すでに自ら「製作」しているのである。この考えを押し進めて行けば、同じ事が人間自身の肉体についても言えるであろう。肉体それ自身は自然物であって価値がない。その形、質量、などにおいて感ぜられる美しさは、人間の心の「製作」であって、肉体のものではない。さらに進んで美的価値以外の価値を問題とする時にも、同じ事は言えるであろう。しからば人間において感ぜられる一切の価値は、喜びも苦しみも悲しみも、すべて心の所産であって自然のものではない。 |
『劉生画集及芸術観』について | この考えをもって「人類」を意味づける時、それは初めて明白な内容を得るのである。動物学的に類別せられた「人類」は自然物であって、価値とは関係がない。が、我々が奉仕すべき対象としての「人類」は、「心なき物質」ではなくして、真善美の樹立をその事業とする大いなる「心」でなくてはならぬ。 自分は岸田君がこの事を感じて人類への奉仕を説いているように思う。理解なき徒輩からしばしば空虚な言葉として受け取られている「人類」なるものは、理解ある人にとって切実なる現前の実在である。ただ人はこの実在を理解し得るために、空間的、物質的、数量的の考え方を捨てて、純粋な意味価値の世界を直視し得なくてはならぬ。そこには過去現在を通じて数限りのない人間がその生命を投入し、その精神をささげて実現に努力した大いなる「価値の体系」がある。それは我々の現前に輝き、我々が心をもって動く限り、我々を指導する。この価値の体系の創造者こそは「人類」である。 |
『劉生画集及芸術観』について | それは真善美に分別せられ得るあらゆる価値を、欲し造り支持する。この人類の前にあっては、生物学的に意味せられた民族の別のごときは根本の問題ではない。我々がエジプトの彫刻に接して、その不思議な生きた感じに打たれるとき、我々は真実にエジプト人の血を受けるのである。我々が『イリアス』を読んでその雄渾清朗な美に打たれるとき、我々は真実にギリシア人の血を受けるのである。かくしてこそ我々は人類の内に生き人類の意志を意志とすることができるであろう。「人類」がかくのごとき永遠にして現前せる創造者であるとすれば、我々が心をもってする一切の製作は、この人類の意志を現われしむることに帰しなくてはならない。人類への奉仕とは畢竟この意志の実現を我々の生の最高の目的とすることである。しからば真善美の創造を欲する人類の使徒として、美の王国を、美のための美を、芸術のための芸術を、創造しようとする努力は、直ちに人類への奉仕でなくてはならない。 |
『劉生画集及芸術観』について | 「芸術のための芸術」はかく解せられるときその最奥の意味を発揮する。もしこの言葉が芸術家の楽屋落ちを弁護するために、すなわち「芸術家のための芸術」の意味において用いられるとすれば、それはこの言葉を真実に生かしているとは言えない。 自分は美の王国への情熱が岸田君の生活の中核となり、その製作に人類的事業としての覚悟がこめられていることを、愉快に思う。「人類」を口にすることは近ごろの流行である。しかし真実に「人類」を感じているものが、我々の前にどれほどあるだろう。人類を自己の内に切実に感ずるとき、価値の階級は初めて如実に感得せられる。低劣なる価値に没頭して一切の高き価値に無関心なる雰囲気においては、価値は明らかに逆倒せられ人類の意志は歪にせられている。岸田君のいわゆる「世界の美術の病気」とはこれであろう。ここに人類の意志を明らかにし、真実の価値の階級を樹立することは、大いなる価値の実現のために、従って人類のために、目下緊急の大事である。 |
『劉生画集及芸術観』について | なお岸田君の著書に著しい「内なる美」、「装飾」、「写実」等の考え方についても、一言付加しておく必要を感ずる。岸田君が内なる美の直接に現わされたものを装飾とし、自然に触発せられて現わされたものを写実とする見方は、きわめて興味の深いものである。ことに写実の「実」について、自然の「事実」と「真実」とを区別したことは、君の作画の態度と照合して注目に価する。一般に意味せられている写実とは、「事実」を写すのである。しかし芸術の名に価する写実は「真実」を写したものでなくてはならない。そうしてこの「真実」は写す人の心の内にある。同じ自然を写してもこの真実の現われたものと現われないものとがあるのは、写す人の心の内に真実があるとないとに起因するのである。 が、かく見るときには、君の区別した装飾と写実とは、さらに根本的な区別を受けなくてはならない。装飾は内なる美の直接の表現である。写実も畢竟内なる美の表現である。 |
『劉生画集及芸術観』について | ここにおいて内なる美の真実と虚偽とが、深と浅とが、一切の美術の価値を規定する。建築は君によれば装飾美術である。が、この装飾美術にもまた真実と虚偽は存在している。その関係は自然を写した美術に実と偽の存在すると異ならない。君は自然主義の作家の製作には「内なる美がない」という。もしこの考え方によって、内なる美の「真実」と「虚偽」との区別を、内なる美の「ある」と「ない」の区別に代えるとすれば、この「ある」と「ない」の区別は美術にとって最も根本的なものでなくてはならない。 この「真実」と「虚偽」、あるいは「ある」と「ない」の区別が、我々に芸術の real と unreal の区別を感じさせるのである。我々があらゆる偉大な芸術は realism であるという時、この realism(これを写実主義と訳するのは十分でない。しかし我々は慣例に従ってしばしばこの言葉に realism の意味を含ませる)は、内なる美の真実であることを、あるいは内なる美が存在することを、意味するのである。 |
『劉生画集及芸術観』について | しからざればドストイェフスキイが自己を realist と呼んだ意味は通じないであろう。内なる美が真実である時にのみ画家は自然において真実を見る。内なる美が真実である時にのみ、建築家は真実の構造を、真実の装飾を、作り得る。すなわち重大なのは内なる真実であって、写すと写さないの別ではない。写実が「内なる真実の表現」であると言い得られるならば、装飾と写実とを問わず、一切の真芸術は写実でなくてはならない。 ここにおいて自分は「写実」なる語の多義に注意せざるを得ない。内なる真実の表現を意味する写実と、自然物に触発せられて内なる真実を表現することを意味する写実と、ただ単に自然の外形をのみ写すことを意味する写実とは、同語にしてはなはだしく意味を異にするのである。岸田君が第二の意味を取ってこれを装飾と対せしめたことは、装飾の意義を明らかにする点において暗示するところが多い。しかし右のごとく「写実」の意義の多様を弁別しおくこともまた必要であろう。岸田君の論文集が自分に与えた感銘はこれだけにとどまらない。が、自分はただこの書を読者諸君に推薦し得たことに満足して筆を擱く。 |
霊的本能主義 | 一 荒漠たる秋の野に立つ。星は月の御座を囲み月は清らかに地の花を輝らす。花は紅と咲き黄と匂い紫と輝いて秋の野を飾る。花の上月の下、潺湲の流れに和して秋の楽匠が技を尽くし巧みを極めたる神秘の声はひびく。遊子茫然としてこの境にたたずむ時胸には無量の悲哀がある。この堪え難き悲哀は何をか悲しみ何をか哀れむ。虫の音は、花の色は、すべての宇宙の美は、虚無でない、虚無でない「美」の底に悲哀が包まれたるは何の意味であるか。銀座の通りを行く。数十百の電車は石火の一刹那に駛せ違う。数百千の男女はエジプトの野を覆うという蝗の群れのように動いている。貴公は何ゆえに歩いてるかと問うと用事があるからだと言う、何ゆえに用事があるかと問うと、おれは商売をしている、遊んでるのじゃないと答える。商売は金のためで金は欲のためである。生きるだけで満足する者はない。すべての欲を充たさねばならぬ、欲は変現限りなし。限りなき本能の欲の前には限りある「人の命」は無益である。 |
霊的本能主義 | 銀座の人は無益に歩いているのか。 人生は複雑である、むずかしい問題である。スフィンクスが眼をむいて出現して以来、人間が羽なき二足獣であって以来の問題である。高橋氏の「人生観」が人生を解き、黒岩氏の天人論が天と人との神秘を開いたる今日にも依然としてむずかしい。むずかしければこそ藤村君は巌頭に立ち、幾万の人は神経衰弱になる、新渡戸先生でさえ神経衰弱である、鮪のさし身に舌鼓を打ったところで解ける問題でない。魚河岸の兄いは向こう鉢巻をもって、勉強家は字書をもってこの問題を超越している。ある人は「粋」の小盾に隠れてこの悶を野暮と呼び、ある人は「理想」の塹壕に身を沈めてこの煩を病的と呼ぶ。 人生問題はすべての歴史の根底に横たわる。星を数えつつ井戸に落ちた人、骨と皮とになるまで黙然として考えた人は史上の立て物ではない。しかしながら過去数千年の人類の経路は一日としてこの問題から離るるを許さなかった。西行はために健脚となり信長は武骨な舞いを舞った。 |
霊的本能主義 | 神農もソクラテスもカントもランスロットもエレーンも乃至はお染久松もこの問題に触れた。釈尊やイエスはこれを解いて、多くの精霊を救う。この救われたる衆生が真の人生を現わしたか。救われずして地獄の九圏の中に阿鼻叫喚しているはずの、たとえば歴山大王や奈翁一世のごとき人間がかえって人生究竟の地を示したか。これは未決問題である。宗教の信仰に救われて全能者の存在を霊妙の間に意識し断乎たる歩武を進めて Im schönen, Im guten, Im ganzen, に生くべく猛進するわが理想であると言ったら、ある人は嘲笑した。我れに取っては最も明白合理なる信念である。その人は笑うべき思想だと言う。公平に見れば水掛け論に過ぎぬ。社会主義が奮然として赤旗を翻す時、帝国主義は冷然として進水式をやっている。電車のただ乗りを発明する人と半農主義者とは同じ米を食っている。身のとろけるような艶な境地にすべての肉の欲を充たす人がうらやまれている時、道学先生はいやな眼つきで人を睨め回す。 |
霊的本能主義 | いずれが善、いずれが悪、人の世は不可解である。この人の世に生まれて「人」として第一義に活動せんとするものは、一度は人生問題の関門に到達せねばならぬ。二 眼を人生の百般に放つ。光明なる表面は暗黒なる罪悪を包む。闇の中には爆裂弾をくれてやりたい金持ちや馬糞を食わしてやりたい学者が住んでいる。万事はただ物質に執着する現象である。執着の反面には超越がある。酒に執着するものは饅頭を超越し、肉体に執着するものは心霊を超越す。この二つが長となり短となり千種万種の波紋を画く、人事はこの波紋を織り出した刺繍に過ぎぬ。 社会には美しい方面がある。しかしこれを汚さんとする悪の勢力ははなはだ強い。一人の遊冶郎の美的生活は家庭の荒寥となり母の涙となり妻の絶望となる。冷たき家庭に生い立つ子供は未来に希望の輝きがない。また安逸に執着する欲情を見よ。勉強するはいやである。勉強を強うる教師は学生の自負と悦楽を奪略するものである。 |
霊的本能主義 | 寄席にあるべき時間に字書をさし付けらるるは「自己」を侮辱されたと認めてよい。かくして朝寝に耽り学校を牢獄と見る。「自己」を救うために学校を飛び出す。友は騒ぎ母は泣く。保証人はまっかになって怒鳴る。 生命の執着はまた人生に大変調を来たす。恋の怨みに世を去り、悲痛なる反抗心に死する人が世に遺す凄き呪い。一念の凝った生き霊。藤村操君の魂魄が百数十人の精霊を華厳の巌頭に誘うたごとく生命の執着は「人生」を忘れ「自己」の存在を失いたる凡俗の心胸に一種異様の反響を与う。小さき胸より胸へと三を数え七十を数え九百を数え千万に至るまで伝わって行く。この波紋が伝説となり神話となり口碑となっていつまでも残る。生命の執着はさらに形を変じ姿を化して日常生活に刻々現われている。勇気といい剛毅というもすべてこの執着を離れたる現象である。肉体! 肉体の存在が何である。物質の執着は霊の権威を無視し肉の欲の前に卑しき屈従をなす。 |
霊的本能主義 | 米と肉と野菜とで養う肉体はこの尊ぶべき心霊を欠く時一疋の豕に過ぎない、野を行く牛の兄弟である。塵よりいでて塵に返る有限の人の身に光明に充つる霊を宿し、肉と霊との円満なる調和を見る時羽なき二足獣は、威厳ある「人」に進化する。肉は袋であり霊は珠玉である。袋が水に投げらるる時は珠もともに沈まねばならぬ。されど袋が土に汚れ岩に破らるるとも珠玉は依然として輝く、この光が尊いのである。珠を九仞の深きに投げ棄ててもただ皮相の袋の安き地にあらん事を願う衆人の心は無智のきわみである。さはあれわが保つ宝石の尊さを知らぬ人は気の毒を通り越して悲惨である、ただ己が命を保たんため、己が肉欲を充たさんために内的生命を失い内的欲求を枯らし果つるは不幸である。この哀れむべき人の中にさらに歩を進めたる労働者を見よ。尊き内的生命を放棄してただ懸命にすがる命の綱が一筋切れ二筋絶ち、まさに絶望に瀕している。社会主義の叫喚はたちまち響きわたる。 |
霊的本能主義 | 「わが細き生命の綱を哀れめ、安全を保する太き綱を与えよ」と叫ぶ。冷ややけき世人は前世の因と説き運命と解き平然として哀れなる労働者を見下す。惨酷である。咫尺を解かぬ暗夜にこれこそとすがりしこの綱のかく弱き者とは知らなかった。危うしと悟る瞬間救いを叫ぶは自然である。彼らを危うしと見ながら悠々とエジプトの葉巻咽草を吹かすは逆自然である、悪逆である、さらに無道の極みである。「絶望」に面して立つ雄々しき労働者は無情なる世人を見て憤怒の念を起こす。綱の切れるはかまわない。ただかの冷ややけき笑いを唇辺に漂わす人の頭に猛烈なる爆烈弾を投げたい。かの嘲笑に報いんためにはあえて数千の兄弟の血を賭する、吾人の憤怒は血に喝く。「人生は虚無、ただこの怒りあるのみ、来たれ兄弟、虚無なる人生に何の執着ぞ。」虚栄と獣性に充ちたる貴族のため霊を地に委し、さらに生命の危険を覚ゆる時、仏国の革命は声を一つにして起こった。憤怒は血を見て快哉を叫ぶ。 |
霊的本能主義 | ここに人生は華麗なる波紋を画き出した、執着の反動は恐ろしきものである。 憤怒があり哀願があるのは「自己」の存在を認識して後に起こる現象である。己が不遇を知らずして天を楽しみ地を喜び平然として生きるものはさらに憐れむに足る。深山に人跡を探れ、太古の民は木の実を食って躍っている。ロビンフッドは熊の皮を着て落ち葉を焚いている、彼らの胸には執着なく善なく悪なし、ただ鈍き情がある。情が動くままに体が動く、花が散ると眠り鳥がさえずると飛び上がる。詩人ジョン・キーツはこの生活を憧憬して歌う、No, the bugle sounds no more,And twanging bow no more ;Silent is the irony shrillPast the heath and up the hill ;There is no mid-forest laugh,Where lone echo gives the half |
霊的本能主義 | To some wight amazed to hearJesting deep in forest drear. 春の一夜、日光の下に七つの星を頂いて森をさすらう時、キーツの胸には悪に満ちたる現世に対して激烈なる憎悪の念が起こる。やがて古えの憂いなき森の人がそぞろに恋しくなる。ああなつかしきその代の人となりたい。しかし、今、此宵の月に角笛は響かず。キーツは憧憬の眼を月に向けた。 キーツが何と言おうともこの「自我」なき「山の人」は憐れむべき者である。霊活の詩人が山の奥に山の人の衣を着る時、山の人は「人」として第一義に活動する。すべてを超越した山の人はついに心霊をも超越し去った。最も鹿と猪とに近くなって第十義に堕落したのである。キーツが山の人の衣を着くる時ウィルヘルム・テルは弓矢を持って出現する。テルは詩人の理想に生まれた第一義の人である。 霊の権威を知り、多少内的生命を有する人にしてなお虚栄に沈湎して哀れむべき境地に身を置く人がある。 |
霊的本能主義 | 虚栄は果てなき砂の文字である。「自己」を誤解されまじとするは恕す、「自己」を真価以上に広告し、すべての他人を凌駕し得たりと自負するに至ッては最も醜怪、最も卑怯なる人格の発露である。虚栄の権化は時に人を威圧して崇敬の念を起こさしむ。神にも近しと尊ぶ人格は時に空虚である。真の偉人は飾らずして偉である。付け焼き刃に白眼をくるる者は虚栄の仮面を脱がねばならぬ、高き地にあってすべてを洞察する時、虚栄は実に笑うに堪えぬ悪戯である。美を装い艶を競うを命とする女、カラーの高さに経営惨憺たる男、吾人は面に唾したい、食を粗にしてフェザーショールを買う人がある。家庭を破壊してズボンの細きを追う人がある。雪隠に烟草を吹かし帽子の型に執着する子供を「人」たらしむべき教育は実に難中の難である、ああ、かくして虚栄は人を魔境にさそい堕落の暗礁に誘うローレライである。 人生は混沌。肉の執着といい生命虚栄の執着という、すべて人生を乱す魔道である。 |
霊的本能主義 | 数億の人類が数億の眼を白うして睨み合う。睨み合う果てに噛み合いを初める。この地獄に似る混沌海の波を縫うて走る一道の光明は「道徳」である。吾人はここにおいて現代の道徳に眼を向ける。三 現代の因襲的道徳と機械的教育は吾人の人格に型を強いるものである。「人」として何らの霊的自覚なく、命ぜらるるがままに右に向かい左に動く。かくて忠も孝も無意味なる身体の活動となる。徳の根底に横たわるべき源泉なくして善といい悪と呼ぶがゆえに反哺の孝と三枝の礼は人生の第一義だと言われる。烏と鳩とに比べらるるのは吾人の耻である。吾人は自覚ある「人」として孝たるを欲す。愛なき孝は冷たき虚礼に過ぎぬ。人格の共鳴なき信は水の面の字である。犠牲心なき忠は偽善である。 現代の道徳は霊的根底を超越して偽善を奨励す。冷ややけき顔に自ら「理性の権化」と銘する人はこの偽善を社会に強い、この虚礼をもって人生を清くせんとす。人生は厳格である。 |
霊的本能主義 | 人間の向上はまじめなる努力を要する。仮面に精髄を抜き去ったる肉骸を覆うてごまかさんとするは醜の極みである。血なき大理石の像にも崇高と艶美はある。冷たきながらも血ある「理性権化」先生は蝦蟇と不景気を争う。この道徳の上に立つ教育主義は無垢なる天人を偽善の牢獄に閉じこむ。人格の光にあらず、霊のひらめきにあらず、人生の暁を彩どる東天の色は病毒の汚濁である。 日本民族が頭高くささぐる信条は命を毫毛の軽きに比して君の馬前に討ち死にする「忠君」である。武士道の第一条件、二千五百年の青史はあらゆるページにこの華麗なる波紋の跡を残す。君は絶対の権威を持ってその前には人間の平等なく思想の自由がない。肉体に黄金に狂的執着なす者も「君のため」にはこれを超越した。そこに義の人ができる。しかしながら因襲的道徳に鋳られし者が習慣性によって壕の埋め草となり蹄の塵となるのは豕が丸焼きにされて食卓に上るのと択ぶところがない。 |
霊的本能主義 | 吾人はこの意味なき「忠君」に敬意を表したくない。同じく人としてこの世に実在するならば吾人の霊的出発点は一つである、神の前に同じ権威を有する精霊である。君主と高ぶり奴隷と卑しめらるるは習慣の覊絆に縛されて一つは薔薇の前に据えられ他は荊棘の中に棄てられたにほかならぬ、吾人相互の尊卑はただ内的生命の美醜に定まる。心霊の大なるものが英傑である。幾千万の心霊を清きに救いその霊の住み家たる肉体を汚れより導き出すために誠心の興奮は吾人の肉骸を犠牲に供す。「愛国心」はこの見地に立つ。「愛国心」は変体して忠君となった。 忠君の血を灑ぎ愛国の血を流したる旅順には凶変を象どる烏の群れが骸骨の山をめぐって飛ぶ。田吾作も八公も肉体の執着を離れて愛国の士になった。烏は績を謳歌してカアカアと鳴く、ただ願わくば田吾作と八公が身の不運を嘆き命惜しの怨みを呑んで浮世を去った事を永しえに烏には知らさないでいたい。 孝は東洋倫理の根本である、神も人もこれを讃美する。 |
霊的本能主義 | 寒夜裸になって氷の上に寝たら鯉までが感心して躍り上がったという。故郷に遺せる老いたる母を慰めたいとて狂的に奮闘せる一青年は一念のために江知勝を超越しカフェーを超越す。菊地慎太郎は行く春の桜の花がチラと散る夕べ、亡父の墓を前にして、なつかしき母の胸より短刀のひらめきを見た。氷のごときその光は一瞬も菊地君の頭から離れぬ。やがてこの光が恩賜の時計の光となった。この美しい情は「愛」の上にたつ人の身の霊的興奮である。吾人は「愛」に重きを置く、公爵家の若君は母堂を自動車に載せて上野に散策し、山奥の炭焼きは父の屍を葬らんがために盗みを働いた。いずれが孝子であるか、今の社会にはわからぬ。親の酒代のために節操を棄て霊を離るる女が孝子であるならば吾人はむしろ「孝」を呪う。 八犬伝は「浜路が信乃のもとへ忍ぶ」個所などを除く時、トルストイの芸術観に適合する作物となるそうである。現代徳育の理想もまた八犬士の境地である。 |
霊的本能主義 | この理想はよい。よいには相違ないがこの理想によって「虚栄を根本より覆せ」と叫ぶものは過激だとお叱りを蒙る。「不徳の人間を社会より放逐せよ」と言うと僭越だとてお目玉を頂戴する。「すべての不正を打破して社会を原始の純粋に返せ」と叫ぶ者は狂人をもって目せらる。姑息なる思想! 安逸に耽る教育者! 見よ汝が造れる人の世は執着を虚栄の皮に包んだる偽善の塊に過ぎぬじゃないか。要するに現代の道徳は本義として「物質的超越と霊的執着とをもって自ら処決せよ」と求む。言い変うれば「利己」を脱して精神的自覚の上に立ち汝の義務をなし果たせというにある。しかるに外面に表われたる道徳は形式と因襲に伝えられてその精神を忘れ去った。 現代にもたとえば「家庭」のごとく比較的清きものがある。あの大きなストーブを囲み祖父さんが孫に取り巻かれて昔話に興をやる。夫婦はこの一日の物語に疲れを忘れて互いに笑みかわす。楽しき家庭があればこそ朝より夕まで一息に働いた。 |
霊的本能主義 | 暖かき家庭には愛が充つ。愛の充つ所にはすべての徳がある。宇宙の第一者に意識してさらに真善美に突進するの勇を振るい起こす。この境地は現世の理想郷である。ディッキンスのクリスマスカロルはおもしろい小説である。愛なく情なく血なく肉なくしてただ黄金にのみ執着する獰猛なスクルジは過去現在未来の幽霊に引っ張り回されて一夜の間に昔の夢のようなホームの楽しさと冷酷なる今と身近く迫れる暗き死の領とを痛切に見せられた。翌朝はクリスマスである。スクルジはなんとなく愉快でたまらぬ。犬がころげてもおかしい、子供が通っても嬉しい。スクルジは黄金の執着を脱して perfect life of love and peacefulness(Dante)に一歩踏み入った。現代に清きはただ家庭である。暖かき円満なる家庭を有するものは人生に幾分の同情を有し悲哀の興趣を味わい自己を自覚せる人である。多くの富豪や華族は真に「家庭」と呼び得べき者を有せぬ。 |
霊的本能主義 | 彼らは経済学の見地に立てば社会の宝玉である。精神的観察よりすれば社会の悪毒である。皮相なる形式的道徳は「金持ち」にとって最も破りやすい。金持ちはついに人道を踏みはずす。吾人は自覚ある平和な農夫の家庭のむしろ尊きを思う。 かくのごとく一二の例外を除いて現代の道徳はすべて混沌、すべて闇濁、最も悲観すべき半面を有す。文明の発達に従いて肉の欲望はますます大となり、虚栄の渇仰はいよいよ強となる。吾人は浅薄なる皮相の下に真精神を発見したい。時代思潮に革命を起こし新時代の光明を彼岸に認めねばならぬ。「吾人は絶対に物質を超越し絶対に心霊に執着せざるべからず」。これを名づけて霊的本能主義と言う。四 浮世は住みにくい。ウルサイ人間とばかな人間との群れに悪党が出没して、真面目に生きようとすると神経衰弱になる。樗牛は「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」とて神経衰弱に縄を張った。あに計らんやからめ手は肺病に破られて、樗牛はどうしても真面目に生きねばならなくなった。 |
霊的本能主義 | 晩年の煩悶はこれがためである。宗教の要求はこれがためである。若い時から「どこまでも世人をばかにして暮らすべきものに候」と言いながら樗牛全集五巻を世人に遺したのはこれがためである。たとえ有能なる影響を吾人の心霊に与えずとも少なくとも彼の霊的努力は彼がばかにしていた「小児輩」にかなりの勢力がある。この霊的執着の半面には物質を超越せんがために強烈なる煩悶があった。「草枕」の画かきさんはこの世を「住みにくい国」と言う。画かきさんは芸術をもってこの世を住みよくし浮世の有象無象を神経衰弱より救うつもりである。春の、ホコホコと暖かい心持ちのよい日に、春の海を眺め春の山を望みボケの花の中で茫然として無我の境に無我の詩を造る。画工さんはまず自己を救った。すべての物質的人事を超越している。この画かきさんが大なる決心と気概とをもって、霊の権威のために、人道のために、はた宇宙の美のために断々乎として歩むならば吾人は霊的本能主義の一戦士として喜んで彼を迎えたい。 |
霊的本能主義 | も少し精を出して大作を作り、も少し力を入れてウルサイ世人をばかにしたら吾人は双手に彼を擁したく思う。画かきさんはさらに煩わしい人事の渦中、平然としてボケ花中に眠る心持ちを保たねばならぬ。他人の神経衰弱を癒すにはまず陰気な顔をした患者を自由に操縦せねばならぬ。 西行法師はこの点に一種の解決を与えた男である。一朝浮世のはかなさを悟っては直ちに現世の覊絆を絶ち物質界を超越して山を行き河を渉る。飄然として岫をいずる白雲のごとく東に漂い西に泊す。自然の美に酔いては宇宙に磅礴たる悲哀を感得し、自然の寂寥に泣いては人の世の虚無を想い来世の華麗に憧憬す。胸に残るただ一つは花の下にて春死なんの願いである。西行はかく超越を極めた。しかれども霊的執着は薄弱である。彼の蹈む人道は誠に責任を無視している。彼の信仰は問わず、彼に空海の才腕と日蓮の熱烈なきはかれの霊的価値を無に近からしむ。わずかに和歌に隠れて詩人を気取るとも「自己」をのみ目的とする彼に何の価値があろう。 |
霊的本能主義 | かつてはなはだ奇体な旅の僧に逢った事がある。ハンモックと毛布を負うて無人の山奥へ平然として分け入る。阿蘇ではハンモックにぶら下がったまま凍死しようとした、妙義では頂に近き岩窟に一夜を明かした。肉体と社会を超越してのこのこと日本じゅう歩きめぐっている。旅は人を自然に近づかしめて、峨々たる日本アルプスの連峰が蜿々として横たわるを見れば胸には宇宙の荘厳が湧然として現われる。この美この壮はもっとも強烈に霊を震※(雨かんむり/湯)してそぞろに人生の真面目に想いを駛す。ただ惜しむらくは西行と同じ誤りに陥っている。隠者仙人は人生と没交渉なると同時に社会の人として価値がない。一己の心霊の満足は目的でない。霊水に凡俗を浴せしめ凡界を洗うの信念が無ければ仙人は鶴と類を同じゅうせる生物に過ぎない。 真と義と愛と荘とに対する絶対の執着即神の憧憬と悪の憎悪は「人」たるべき最大要件である。この自覚に立ってすべての人が奮闘したならば人生は理想化せられ人類は向上す。 |
霊的本能主義 | 獣性と虚栄と悪習慣とを超越して「全き人格」に憧るる時はクリアハートとクリンヘッドとをもって「人格」を形づくる刹那である。吾人が真正の社会主義の理想に歩を進め、ダンテの楽園に到達すべき出発点である。世人がすべてこれに傾向する時 To thee be all man Hero の境地はますます明らかになるであろう。ソシアリティの本義も恐らくはここである。深山に俗塵を離れて燎乱と咲く桜花が一片散り二片散り清けき谷の流れに浮かびて山をめぐり野を越え茫々たる平野に拡がる。深山桜は初めてありがたい。人の世を超越して宇宙の神秘を直覚したる心霊は衆を化し群を悟らす時初めて完全である。吾人の心は安逸を貪るべきでない。真と義と愛と荘とのためにあらゆる必死の奮闘を要す。精神が「義」に猛烈なる執着をなせば犠牲の念は忽然として翼をのぶ。ニュウトンといいワシントンといいルーテルという、彼らが大建設の時代は満身犠牲の念に充つ。 |
霊的本能主義 | 心霊は神の摂理の真と人道の義と美の愛と宇宙の荘厳とに烈しく動かされて物質的世界を全く超越する。生活が何である! 苦痛が何である! わが心霊は肉の痛苦に感触しない。ただ霊の本能に従って思うがままに動く。かの熱烈なる殉教者に見よ。バイロンは「シーヨンの囚人」に七人の雄大なる兄弟を画いた。物暗き牢獄に鉄鎖の鏽となりつつ十数年の長きを「道義」のために平然として忍ぶ。荘厳なる心霊の発現である。兄弟は一人と死に二人と斃る。愛する同胞の可憐なる瞳より「生命」の光が今消え去らんとする一瞬にも彼らは互いに二間の距離を越えて見かわすのみである。ただ一度かの暖かき手を握りたい、ああ玉の緒の絶え行く前に今一度彼の膝に……と狂人のように猛り立つ。鏽びたる鉄鎖はただ重げに音するのみである。かくて兄弟の膝に怨みの涙、憤怒の涙は流るるとも「道義」のために彼らは断乎として嘆かぬ。吾人はレマン湖畔シーヨンの城にこの七人の猛き霊的本能主義者の足跡の残れるを知る。 |
霊的本能主義 | さらにルーテルを見よ、クリストを見よ、霊の高翔する時物質の苦を忍ぶはやすい事である。一生を衆人救済と贖罪とに送って十字架に血を流したる主エスはわが主義の証明者である。要するに吾人は肉体を超越して宇宙の悲哀に恍惚たる心霊が雄壮に触れ真を憧憬し義に熱し愛に酔いて無我の境に入る時高潮に達する。Im Schönen, Im Guten, Im Ganzen resolbt zu leben の境地、神にあくがれて全きものたらんとする渇望、人を全能なる人格に Converge し、厳粛なる宇宙の真趣に歩一歩迫るが理想である。肉体の満足に尊き心霊を没するものは豕の一種である。吾人は豕と伍するを恥ず。同時に耻を忍んで豕を洗い清めてやらねばならぬ。吾人が昂々然として向上する前に「愛」が活きて哀憐となり「雄壮」が動いて犠牲となってこの事業に執着せしめる。かくのごとくして吾人は心霊の命ずるがままに現世に行動したい、これが吾人の主義である。 |
霊的本能主義 | 五「絶対に物質を超越し絶対に霊に執着せよ」との主義はあまりに漠然たるものである。絶対の物質超越は死に至る。吾人は死を辞せない、死を恐れない。ただ霊的執着のために此世に活き此界に動く。ゆえに吾人の生活は心霊の光彩を帯びなければならぬ。生活の困難に嘆かず黄金に屈服せざるは死を恐るる人にできる事でない。しかしながら吾人は生きるために食物を要する、食物のためには働く義務がある。世人がすべて仙人となり隠者となってははなはだ迷惑だ。トルストイ伯はかるがゆえに半農主義を唱えた、すでに半農主義ある以上半商主義も可なり、半教師主義もよし。否、余裕があるなら全農も全商もよい。要は「人間の本領」を失わない事である。この決心のもとに虚栄と獣性と罪悪との渦巻く淵を彼岸に泳ぎ切る。若きダンテはビアトリースの弔いの鐘に胸を砕かれてこの淵に躍り入った。フロレンスの門の永久に彼に向かって閉じられてよりはさらに荒き浮世の波に乗る。 |
霊的本能主義 | 彼の魂は世の汚れたる群れより離れて天堂と地獄に行く。この不覊の魂を宿したる骸は憂き現し世の鬼の手に落ちた。Yea, thou shalt learn how salt his food who bdresUpon another's bread, ― how steep his pathWho treads up and down another's stairs.とは烈しき迫害に逢うて霊が思わずもあげたる悲痛の叫びである。されどダンテはいかなる迫害にも堪えた。この「不覊なる想いと繋がれたる意志」との二様生活こそダンテの真髄である。ヴェロナにありて、森の奥深くさまよいては栄ある天堂を思い、街を歩みては「あれこそ地獄より帰りし人よ」と指さされる。この悲境にあって詩人は深厳なる人世の批評をなしつつ断乎として悪を斥けた、黄金と虚栄とを怒罵の下に葬った。吾人はこの自信と信念とを渇仰する。 吾人の生活にかくのごとき信念を与うる者は芸術である。 |
霊的本能主義 | 芸術は吾人を瑣細なる世事より救いて無我の境に達せしめる。枝葉よりさらに枝葉に、末節よりさらに末節に移りたる顕し世の煩いを離れたる時、人は初めてその本体に帰る。本体に帰りたる人は自己の心霊を見神を見、向上の奮闘に思い至る。かの芸術が真義愛荘の高き理想を対象として「人生」を表現するはこれがためである。吾人はこの真義愛荘を通じて「全き者」を見たい。「全能」なるある者に接したい。荘厳なる華厳の滝万仞の絶壁に立つ時、堂々たる大蓮華が空を突いて聳だつ絶頂に白雲の皚々たるを望む時、吾人の胸はただ大なる手に圧せらるるを覚ゆ。これ吾人の心胸にひそむ「全き人格」の片影がその本体と共鳴するのである。しかしながら内心にひそむ芸術心なきもの、審美の情なき者は自然の大景よりこの啓示を得ない。彼らには滝は珍であり山は奇たるにとどまる。その境地に誘うためには霊を開拓せねばならぬ。開拓の鍵となるものは芸術である。芸術はかくして吾人の渇仰を充たすべきものである。 |
霊的本能主義 | 宇宙の森羅万象の根底にひそむ悲哀を悟得し芸術にその糧を得て現世の渦中に身を置く。信念の下に働けば事業は尊い。かくして二十世紀の今日に確乎たる二様生活を行なわんがため、霊的本能主義は神により感得したる信念とその実行とをまっこうに振りかざし堂々として歩むものである。実行は霊的興奮により自然に表わるる肉体の活動である。吾人の渇仰する天才力ーライルは三階の屋根裏からはるかに樽の中の蛇を眺めながら星とともに超越していた。しかも彼には星とともに下界を輝らす信念がある。「身に近き義務と信ぜらるるものをまずなし果たせ。第二義務は直ちに明らかならん。霊的解脱はここにあり。かくてすべての人が漠然として欲求し、茫然として不可達に苦しむ理想の境はたちまちにして汝の前に開かれん。汝のアメリカはここにあるのみ、他にあらざるなり。実に汝が今立てる地はすなわち理想の郷たるべき地なり。」という。このアメリカはワシントンが豚の焼き肉をうまそうに食った時代、リップ・ヴァン・ウィンクルが妻君に牛耳られて山に逃げ込んだ時代のアメリカである。 |
霊的本能主義 | この美しい理想郷を得るは「自覚」の下に立てばやすい事だと狂気のように力ーライルは説く。一生懸命のけんか腰で説く。霊的本能主義はここに出発点を得たのである。 吾人は自らの人格を想い、自らの行為を省み慨嘆に堪えないものである。されどこの主義の下に奮闘するは辞するところでない。吾人の胸には親愛義荘の権化たる「全き者」の影を抱き、その反影たる犠牲の念の下に力ーライルの言う「義務」をなし果たさん事を思う。かくて吾人は厳々乎として現実の社会を歩みたい。 吾人はさらに進んで一言付加したい事がある。日本の武士道は種々なる徳の形を取れどその根本は真義愛荘に啓示を得て物質を超越し霊的人生に執着するにある。勇気、仁恵、礼譲、真誠、忠義、克己、これすべてこの執着の現象である。ただ末世に至って真の精神を忘れ形式に拘泥して卑しむべき武士道を作った。吾人は豪快なる英雄信玄を愛し謙信を好む。白馬の連嶺は謙信の胸に雄荘を養い八つが岳、富士の霊容は信玄の胸に深厳を悟らす。 |
霊的本能主義 | この武士道の美しい花は物質を越えて輝く。しかれども豪壮を酒飲と乱舞に衒い正義を偏狭と腕力との間に生むに至っては吾人はこれを呪う。 吾人はこの例を一高校風に適用し得べしと思う。吾人の四綱領は武士道の真髄でありソシアリティの変態であろう。しかれどもこの美名の下に隠れたる「美ならざる」者ははたして存在せざるか。向陵の歴史は栄あるものであろう。しかれどもこの影に潜める悪習慣を見よ! 吾人はあえて一二の例を取る。そもそもかのストームは何であるか。かつて初めて向陵の人となり今村先生に醇々として飲酒の戒を聞いたその夜、紛々たる酒気と囂々たる騒擾とをもって眠りを驚かす一群を見て嫌悪の念に堪えなかった。ああ暴飲と狂跳! 人はこれを充実せる元気の発露と言う。吾人は最も下劣なる肉的執着の表現と呼ぶをはばからぬ。さらにまたかの卑猥なる言語を弄して横行する一群を見る時、吾人は一高校風の前途を危ぶまざるを得ない。校風の暗黒面にみなぎる悪思潮は門鑑制度、上草履制度の無視ではない、尊き心霊に対する肉的侮辱である。吾人は口に豪壮を語る輩が女々しく肉に降服せるを見て憐れまざるを得ない。吾人は社会に罪悪の絶えぬ以上校友の思想に欠点あるを怪しまぬ。ただ願わくばこの悪潮流が光栄ある四綱領を汚さざらん事を望むのである。 |
露伴先生の思い出 | 関東大震災の前数年の間、先輩たちにまじって露伴先生から俳諧の指導をうけたことがある。その時の印象では、先生は実によく物の味のわかる人であり、またその味を人に伝えることの上手な人であった。俳句の味ばかりでなく、釣りでも、将棋でも、その他人生のいろいろな面についてそうであった。そういう味は説明したところで他の人にわかるものではない。味わうのはそれぞれの当人なのであるから、当人が味わうはたらきをしない限り、ほかからはなんともいたし方がない。先生は自分で味わってみせて、その味わい方をほかの人にも伝染させるのであった。たとえばわかりにくい俳句などを「舌の上でころがしている」やり方などがそれである。わかろうとあせったり、意味を考えめぐらしたりなどしても、味は出てくるものではない。だから早く飲み込もうとせずに、ゆっくりと舌の上でころがしていればよいのである。そのうちに、おのずから湧然として味がわかってくる。 |
露伴先生の思い出 | そういうやり方が、先生と一座していると、自然にうつってくるのであった。そのくせ今残っている感じからいうと、「手を取って教えられた」というような気がする。 先生の味解の力は非常に豊富で、広い範囲にわたっていたが、しかし無差別になんでも味わうというのではなく、かなり厳格な秩序を含んでいたと思う。人生の奥底にある厳粛なものについての感覚が、太い根のようにすべての味解をささえていた。従って味の高下や品格などについては決して妥協を許さない明確な標準があったように思われる。外見の柔らかさにかかわらず首っ骨の硬い人であったのはそのゆえであろう。 何かのおりに、どうして京都大学を早くやめられたか、と先生に質問したことがある。その時先生は次のようなことを答えられた。自分は江戸時代の文芸史の講義をやるはずになっていたが、いよいよ腰を据えてやるとなると、自分の好きな作品や作家だけを取り上げて問題にしているわけには行かない。 |
露伴先生の思い出 | 御承知の通り江戸時代の戯作者の作品には実にくだらないものが多いが、ああいうものを一々まじめに読んで、学問的にちゃんと整理しなくてはならないとなると、どうにもやりきれないという気がする。それよりも自分の好きなものを、時代のいかんを問わず、また日本と外国とを問わず、自由に読んでいたい。そういうわけでまあ一年きりで御免をこうむったわけです。 先生のあげられたこの理由が、先生の大学に留まらなかった理由の全部であるかどうかは、わたくしは知らない。しかしもしそれだけであったならば、まことに惜しいことをしたとわたくしはその時に感じた。先生が好きなものを自由に読んでいられても、江戸時代の文芸史の講義ができなかったはずはない。いわんや先生の目から見てくだらない作家や作品は、ただ名前をあげる程度に留めておき、先生が価値を認められる作家や作品だけを大きく取り扱ったような文芸史ができたならば、かえって非常に学界を益したであろう。 |
露伴先生の思い出 | 日本の文芸の作品は世界的な広い視野のなかでもっと厳重に淘汰されてよいのである。先生が思い切ってそれをやろうとせられなかったことは、今考えても惜しい気がする。 先生が京都で講義せられていたときのことを後に成瀬無極氏から聞いたことがある。成瀬氏は大学卒業後まだ間のないころであったが、すでにドイツ文学の講師となっており、同僚の立場から先生を見ることができたのである。氏によると、先生は非常にきちょうめんで、大学の規定は大小となく精確に守られた。同僚の教師たちがなまけて顔を出していないような席にも、規定とあれば先生は必ず出席せられた。何かの式であるとか、学友会の遠足であるとか、すべてそうであった。そばから見ていると、あれでは窮屈でとても永続きはしまいと思われた、というのである。この話をきいた時わたくしは前述の先生の言葉を思い出した。先生は学問の上においても同じようにきちょうめんな態度を取ろうとして、それが窮屈なためにやめられたのである。 |
露伴先生の思い出 | わたくしはそのころの京都大学の空気を知らないから、このきちょうめんさが外からの要求なのか、あるいは先生自身の内から出たのか、それを判断することはできないが、晩年まで衰えることのなかった先生の旺盛な探求心のことを思うと、あのとき先生が大学の方へ調子を合わせようとせずに、自分の方へ大学をひき寄せるようにせられたならば、日本の学界のためには非常によかったろうと思われる。 もっともあの時代には、大学などを尻目にかけるということが非常にいさぎよいことのように感ぜられた。少なくともわれわれ青年にとってはそうであった。それほど学界のボスの現象が顕著であり、そういうボスに接近する青年たちは、当時の流行語でいえば、シュトレーバーだと見られた。その後三、四十年の歴史が実証したところによると、そういう青年の感じ方は必ずしも間違ってはいなかったといえる。だから先生がいち早く身をひかれたのはいかにももっともなのであるが、しかしまたそれだけに先生の廓清的な仕事の余地もあったのである。 |
露伴先生の思い出 | 先生の探求心が晩年まで衰えなかったことの一つの証拠は『音幻論』であるが、伝え聞くところによると、先生はあれを病床で口授せられたのだという。先生は丹念にカードを作る人であったから、調べた材料は相当に整理せられていたのでもあろうが、しかしああいう引例の多い議論を病床で口授するということは、どうも驚くのほかはない。おそらくあの問題を絶えず追いかけているうちに、頭のなかで議論のすじ道ができあがってしまったのだろうと思う。これはよほど粘り強い、頑強な探求心のしわざである。もちろんそこにはわれわれの思いも及ばない旺盛な記憶力が伴なっているのではあろうが、しかし記憶力だけではかえって雑然としてまとまりがつかないであろう。雑多な記憶材料に一定の方向を与え、それを整然とした形に結晶させた力は、あくまでも探求心である。 言語の問題に関しては先生はいつも活発な関心を持っていられた。わたくしのわずかな接触の間にも、この問題についておりにふれて教えられたことは、かなり多く記憶に残っている。 |
露伴先生の思い出 | 漢字をいきなり象形文字と考えるのは非常な間違いで、音を写した文字の方が多いこと、同じ音で偏だけ異なっているのは偏によって意味の違いを表示したもので、発音的には同一語にほかならないこと、従って一つの音を表示する基準的な文字があれば、象形的に全然つながりのない語に対しても、同音である限りその文字が襲用せられていること、などは、わたくしは先生から教わったのである。子供の時以来漢字や漢文を教わって来ていても、右のような単純明白なことを誰も教えてくれなかった。英語の字引きをひいて must(1)must(2)などとあるのをおもしろがっていた年ごろに、もし漢語を同じように写音文字にすれば、(1)(2)どころではなく(1)から(20)、否(30)…(50)と並べなくてはならないのだと知ったならば、よほど漢字に対する考え方が違っていたろうと思う。そこには漢語のような単音節語特有の困難な事情がある。日本語は単音節語ではないのであるから、右のような困難を背負い込む必要はなかったのである。 |
露伴先生の思い出 | そういう類のことは日本語についてもいくつか聞いたと思うが、それらは大抵『音幻論』のなかに出ているらしい。そこに出ていないと思われることでさしずめ思い出すのは、「なければならない」という言い回しについて先生のいわれたことである。この言い回しがひどく目立って来たのは、ちょうど関東震災前後の時代からであった。先生は「この不思議な」言葉がどこから出て来たかをいろいろと考えてみたが、どうもこれは「なけらにゃならん」という地方なまりをひき直したものらしい、といわれた。この着眼にはわたくしは少なからず驚かされたのである。わたくし自身もこの言い回しが著しく目立って来たことには気づいていたが、しかしこれが格はずれの用法であるとは全然思い及ばなかった。先生の説明によると、「なければ」は「なくあれば」のつまったものであるから、「ならない」で受けることはできない。「あってはならない」「なくてはならない」ということはいえる。 |
露伴先生の思い出 | しかし「あればならない」という人はなかろう。「もしそうでなければ、かくかくであろう」というのが「なければ」の普通の用法である。それは、「もしそうであれば、かくかくでなかろう」という用法と対になる。もっとも後半の受ける方の文章はどう変わってもよいのであるが、とにかく「なければ」「あれば」は一つの条件を示す言葉であるから、それを「ならない」で受けることはできないはずである。これが先生の主張であった。わたくしはいかにももっともだと思った。その後わたくしは自分の書いたものを調べてみたが、やはりところどころに使っていることを見いだした。そうして「どこまでも追究して見なければならない」というふうな言い回しが、「どこまでも追究して見なくてはならない」というのと幾分違った語感を伴なうに至っていることをも認めざるを得なかった。先生が「なければならない」という言葉に出会うごとに感じられたような不快な感じを、わたくしたちは感じないばかりか、そこに新しい表現が作り出されているようにさえ感じていたのである。 |
露伴先生の思い出 | しかしわたくしは、一度先生に注意されてからは、この言い回しを平気で使うことができなくなった。それでも不用意に使うことはあるが、気がつけば直さずにはいられないのである。そういうことをわたくしはほかの人にも要求しようとは思わない。どんな破格な用法を取ろうと、それはその人の自由である。日本語の進歩もたぶんそういう破格な用法からひき起こされるのであろう。そうあってほしい。しかしわたくしは破格を好まない。そういう点で露伴先生の鋭い語感は実際敬服に堪えないのである。 晩年の露伴先生に対しては、小林勇君が実によく面倒を見ていた。先生もおそらく後顧の憂いのない気持ちがしていられたことと思う。 小林君の話によると、先生は最後に呵々大笑せられたという。わたくしはそれが先生の一面をよく現わしていると思う。(昭和二十二年十月) |
純粋経済学要論 | 訳者序 一九〇九年、レオン・ワルラスの七十五歳の齢を記念して、ローザンヌ大学は médaillon を作った。それには、次の銘が刻んである。 "A Léon Walras, né à Evreux en 1834, professeur à l'Académie et à l'Université de Lausanne, qui le premier a établi les conditions générales de l'équilibre économique, fondant ainsi l'école de Lausanne. Pour honorer cinquante ans de travail désintéressé."(一八三四年に Evreux に生れローザンヌ Acdémie 並びにローザンヌ大学の教授であり、経済均衡の一般的条件を論証した最初の人であり、ローザンヌ学派の開祖であるレオン・ワルラスに。利慾を離れた五十年の研究生活に敬意を表するために。) |
純粋経済学要論 | この銘こそはワルラスの学問的業績を最も明確に表明しているものである。多くの経済学説史家は、メンガー、ジェヴォンスと共に限界利用説を作りあげたこと、または数学を経済学に応用したことをもって、ワルラスの学問的功績となそうとしている。まことにこの点に関するワルラスの業績は、時間的に見ればジェヴォンスとメンガーとに後れてはいるが、立論の精緻なことにおいて、これらの学者の及ぶ所ではない。けれどもワルラスの業績の第一次的意義をここに求めようとするほど、彼に対する理解の浅薄を示すものはないであろう。だがワルラス自身さえも第一次的意義のあるものを意識しなかったのである。ローザンヌ学派に属する有力な一人である G. Sensini の一句、「ワルラスは、一八七三年から一八七六年の間に、有名な四箇の論文を書いた。――彼の学問的仕事はほとんどすべてこれらの中に含まれている。――しかし彼は、これらの論文に述べられた先人未発の思想の稀有の重要さを解しなかった。彼の頭脳と性質と、そして一部には偶然とが、彼をして、経済学にとりすこぶる豊沃な方途に向わしめたのである。しかるに不幸にも、彼は、社会改良家としての性質に支配されて、まもなくこの研究領域を捨てて、空想的応用方面に進んでいった(一)。」は、この事情を明快に指摘して、余蘊がない。 |
純粋経済学要論 | ワルラスが意識せると否とにかかわらず、彼の業績の客観的独自性は、経済現象の相互依存の関係(mutuelle dépendance)を認識した点にある。一切の経済現象は各々独立なものではなく、相互に密接に作用し合っている。これら経済現象中のいずれの一つに起る変化も他のすべてに影響を及ぼし、これらの影響はまた逆にこの一つの現象に影響を及ぼす。従って経済現象は互に原因結果の関係によって結び付いているのではなく、相互依存の関係に織り込まれているのである。ワルラス以前にも経済現象が互にこの依存の関係をもっていることを認識した者がないではない。だがこれらの現象が同時にかつ相互に(ensemble et réciproquement)決定し合うことを証明した最初の人がワルラスであったことは、争う余地がない(二)。ところで、この相互依存の関係を明らかにするには、パレートがいっているように、通常の論理は無力であり、数学の力に拠らねばならぬ(三)。 |
純粋経済学要論 | ワルラスが、経済学に数学を用いた理由の一つには、経済学が量に関する研究であることもあるが、その主たる理由は、数学のみがこれら経済現象の相互依存の関係を明らかにし得ることにあった。ワルラスの業績の独自性と偉大さとは、一に、この点にのみ存する。もちろん、あらゆる事の先駆者においてそうであるように、経済現象の相互依存の関係を発見したワルラスにも、これら現象の間に因果関係を認めているが如き見解が残っている。けれども、これは、いずれの先駆者にも除き尽すことの出来ない古い物の残滓である。 この残滓はパレートによって除き去られて、ワルラスの一般均衡理論は、後期ローザンヌ学派の純粋なる一般均衡理論となった。今日 désintéressé の経済科学者にとっては、主観的価値説もなければ、労働価値説もない。ひとり一般均衡理論あるのみである。経済現象の désintéressé な研究をなそうと志す人々は、ワルラスとパレートとの研究から始めねばならない。 |
純粋経済学要論 | 誤訳なども多くあるかもしれないこの「純粋経済学要論」が、これらの人々にとっていくらかの役に立ち得るならば、訳者のこの仕事は無駄にはならぬであろう。この場合にも、R. Gibrat が Les Inégalités économiques, Paris. 1931. の表紙に引用した Carver の一句は、記憶のうちに止めらるべきであろう。 "The author hopes that the reader who takes up this volume may do so with the understanding that economics is a science rather than a branch of polite literature, and with the expectation of putting as much mental effort into the reading of it as he would into the reading of a treatise on physics, chemistry, or biology.(四)" |
純粋経済学要論 | この飜訳に際しても、「国際貿易政策思想史研究」の場合と同様に、高垣寅次郎先生の御指導と御尽力を忝くした。けれども出来上がったものは、かくも拙劣である。この点、切に先生の御容赦を乞わねばならぬ。 一九三三年三月手塚壽郎註一 Sensini: La teoria della "rendita," 1912, pp. 407-8.註二 〔Antonelli: Le'on Walras, dans la Revue d'histoire des doctrines e'conomiques et sociales, 1910, p. 187.註三 〔V. Pareto: Manuel d'e'conomie politique trad. de l'italien par Al. Bonnet, 1909. pp. 160, 247.註四 T. N. Carver: The Distribution of Wealth, 1899, Preface. |
純粋経済学要論 | 凡例 一 この書物は、Léon Walras: Eléments d'économie politique pure ou Théorie de la richesse sociale. Paris et Lausanne. を、一九二六年版に拠って、訳出したものである。厳密に訳せば、書名は「純粋経済学要論――社会的富の理論」とせられねばならぬのではあるが、称呼上の簡便を期するため、単に「純粋経済学要論」としておいた。一九二六年版は、三箇所に加えられた僅少の修正を除けば、決定版として知られている第四版すなわち一九〇〇年版と異る所が無い。これらのうち、二箇所はワルラスが一九〇二年付の註をもって一九二六年版に断っているが(本訳書下巻、第三二六、三六二節)、他の一箇所は断ってない。しかしこの一箇所は旧版の当該部分をより容易に理解せしめようとしてなされた修正であって、重要な修正ではない。第八二節がこの部分である。 |
純粋経済学要論 | 二 原著の叙述は、ほとんど全部条件法を用い、原著者がその主張にいかに謙譲であったかをよく示している。だが訳文には、必要な場合のほか、大部分直接法を用いることとした。 レオン・ワルラスの略伝 レオン・ワルラス(Marie-Esprit-Léon Walras)は、一八三四年十二月十六日、パリを西北に百粁ほど隔てるエヴルー(Evreux)の町に、オーギュスト・ワルラス(Antoine-Auguste Walras)を父として生れた。父オーギュスト(一八〇一―一八六六)は南仏のモンペリエ(Montpellier)市の人であったが、一八三〇年にエヴルーの中学校の修辞学の教師となり、一八三三年には同校の校長となった。一八三四年に、この町で Louise-Aline de Sainte-Beuve と結婚した(一)。この同じ年にレオンが生れたわけである。オーギュストは一八三五年十一月までこの職にあったが、辞職の後、大学教授を目指してパリに移り、一八三九年までここで教授資格試験の受験準備をした。 |
純粋経済学要論 | この年、リーユ(Lille)の中学校の哲学教授となり、一八四〇年には、カーン(Caen)の中学校に転じ、一八四六年に、カーン大学の文学部のフランス修辞学(éloquence française)の講師となった。一八四七年、学位論文 Le Cid, esquisse littéraire によって、文学博士(Docteur-ès-lettres)を授けられた。その後は視学官として、Nancy, Caen, Douai, Pau 等に転任している。これらの生活を通じてオーギュストが専門とした学問はフランス語学・文学・哲学であったのであるが、エヴルーの教師時代から経済学の研究が常に彼の大なる興味をひきつけていた。その間、かなり多数の経済学上の論文を公にしているのみならず、一八三一年には、「富の性質及び価値の源泉について」(De la nature de la richesse et de l'origine de la valeur. Paris.)を公刊し、一八四九年には「社会的富の理論、経済学の基本原理の要約」(Théorie de la richesse sociale, ou Résumé des principes fondamentaux de l'économie politique. Paris.)を公刊している。 |
純粋経済学要論 | これらの二書は、レオンの思想に重大な影響を及ぼしたものとして、重要視すべきものである。レオン自身もこのことを認めている(二)。単に価値の心理的観方をなした点においてのみならず、また経済学を数理的科学でなければならぬと考えた点においても、父の思想はそのままレオンの思想となっているのである(三)(四)。 レオンは、一八五一年、文科大学入学資格者(Bachelier ès lettres)となり、一八五三年、理科大学入学資格者(Bachelier ès sciences)となり、砲工学校(Ecole Polytechnique)の入学試験を受けたが、失敗した。この頃彼は微積分学や理論力学を勉強していたが、それのみでなく、クールノーの「富の理論の数学的原理に関する研究」(Recherches sur les principes mathématiques de la théorie des richesses. 1838.)をも初めて読んだという(五)。 |
純粋経済学要論 | 一八五四年、鉱山学校(Ecole des Mines)に入学したが、まもなく退学して、文学などに熱中した。 一八五八年、レオンは小さな小説 Francis Sauveur を公にしている。しかし父は彼に経済学の勉強を熱心にすすめた。レオンが経済学者として立つに至るべき動機はここに発すると、彼自らいっている。「私の全生涯の最も決定的な時は、一八五八年の夏のある美しい夜であった。その夜 Gave de Pau 河の河辺を散歩していたとき、父は、一九世紀中になさるべき二つの大なる仕事――歴史を書き上げることと、社会科学を建設すべきこと――が残っていることを力説した。これらの二つの仕事のうちの第一については、ルナン(Renan)が充分に父を満足せしめるであろうことを、父は知らなかった。第二の仕事は、父が終生念願していた所であり、この仕事に特に父は感激をもっていた。父は、私がこの仕事を継ぐべきであると、力強くいっていた。Les Roseaux という農場の入口まで来たとき、私は、文学や文芸批評を放擲して、父の仕事を承け継ぐことに専心しようと、父に堅く誓った(六)。」 |
純粋経済学要論 | 一八五九年に、レオンは Journal des Economistes の記者となり、一八六〇年に、Presse の記者となった。まもなくこれをもやめた。この年「経済学と正義、プルードンの経済学説の吟味と駁論」(L'Economie politique et la justice. Examen critique et réfutation des doctrines économiques de M. P.-J. Proudhon. Paris.)を公にした。また同年七月、ローザンヌに開かれた国債租税会議に列席した。また同年ヴォー(Vaud)州が募集した租税に関する懸賞論文に応じた。一八六一年に出版された「租税理論批判」(Théorie critique de l'impôt. Paris.)がそれである。プルードンの「租税理論」(Théorie de l'impôt. Paris.)が第一等賞となり、レオンは第四等となった。 |
純粋経済学要論 | レオンは一八六五年に至るもなお一定の職業を得なかったが、この頃盛になりつつあった協同組合運動に加わり、同年「庶民組合割引銀行」(Caisse d'escompte des associations populaires)の理事となり、これが一八六八年に破産するに至るまで、それに従事した。その間、あるいは協同組合運動に関する公開講演をなし、あるいは Léon Say と共にこの運動の週刊雑誌「労働」(Le Travail)を発刊した。ひとたびこの雑誌に公にされた一八六七年と八年の公開講演「社会理想の研究」(Recherche de l'idéal social)は一八六八年、単行書として出版された。その後銀行員となったりしているうちに、一八七〇年六月、レオンはルイ・リュショネー(Louis Ruchonnet)の来訪を受けたが、氏は近くローザンヌ大学に経済学講座が開設せられるべきことを報じ、かつその教授候補者となることをレオンにすすめた。 |
純粋経済学要論 | レオンはこのすすめに応じ、この受験準備のため、八月七日ノルマンディーに赴き、静かな環境のうちに勉強した。試験官は州の名士三名と経済学者四名から成っていた。これら三人の名士はワルラスの採用に賛成したが、四人の経済学者のうち三人はこれに反対した。残る一人であるジュネーヴ大学教授であった経済学者ダメト(Dameth)は、ワルラスの数理経済学を正しいとは思わないが、しかしかような思想を発展せしめ講義せしめてみるのは、学問の進歩のために有益であろうといって、ワルラスの採用に賛成した。その結果、ワルラスはローザンヌ大学の教授に任命せられ、同年十二月十六日開講した。この時から、一八九二年にパレートが彼の講座を継ぐまで、ワルラスは数理経済学の建設に全努力を傾倒した。その間、一八七三年にまず「交換の数学的理論の原理」(Principes d'une théorie mathématique de l'échange)が公にせられ、一八七五年に「交換の方程式」(Equations de l'échange)が、一八九六年に「生産の方程式」(Equations de la production)及び「資本化の方程式」(Equations de la capitalisation)が公にせられ、それらが綜合せられて「純粋経済学要論」(Eléments d'économie politique pure)の第一版第一分冊が一八七四年に、第二分冊が一八七七年に出版せられ、第二版が一八八九年に、第三版が一八九六年に出版せられた。 |
純粋経済学要論 | これら出版の事情と各版の相異とは原著第四版の序文に明らかにせられている。これらの相異のうち、貨幣の価値に関する第一版と第二版とのそれは、我々の注意に値するものであろう。マージェット(A. W. Marget)が指摘しているように、第一版に見られるフィッシャー流の貨幣数量説は、第二版においてケンブリッジ学派の数量説に変化しているのである(七)。 ローザンヌ大学を退いて後も、ワルラスの学問的活動は停止していない。一八九六年には論文集「応用経済学研究」(Etudes d'économie appliquée)を、一八九八年には論文集「社会経済学研究」(Etudes d'économie sociale)を出版したほか、大小の論文を公にしている。 翌年にはノーベル賞を目指して、著作を志している。一九〇七年の Questions pratiques de législation ouvrière et d'économie politique に公にされた論文「社会的正義と自由交換による平和」(La Paix par la justice sociale et le libre échange)はその一端であるという。 |
純粋経済学要論 | 一九一〇年一月五日クララン(Clarens)に逝った。註一 L. Walras: Un initiateur en économie politiquë A. A. Walras, dans la Revue du mois, août 1908, p. 173.註二 本書原著第四版の序、二一頁参照。註三 E. Antonellï Un économiste de 1830: Auguste Walras, dans la Revue d'histoire économique et sociale, 1923, p. 529.註四 オーギュストとクールノーとの関係については、L. Hecht: A Cournot und L. Walras, Heidelberg, 1930, p. 23 以下を参照。註五 Antonellï Léon Walras, dans la Revue d'histoire des doctrines économiques, 1910, p. 170. Cf. Bompairë Du Principe de liberté économique dans l'œuvre de Cournot et dans celle de l'Ecole de Lausanne, p. 238. |
純粋経済学要論 | 註六 Antonellï Principes d'économie pure, pp. 24-5.註七 A. W. Marget: Léon Walras and the "Cash-Balance Approach" to Problem of the Value of Money, in the Journal of Political Economy, October 1931, pp. 569-600. 原著第四版の序「純粋経済学要論」のこの第四版は最終版である(一)。一八七四年の六月、初版の巻頭に、私は今ここに転載しようとする次の文を書いた。「一八七〇年、ヴォー州(Vaud)の参事院はローザンヌ大学の法学部に経済学の一講座の開設を計画し、かつその開設の準備として教授候補者を募った。私が今日あるのはこの見識ある発案の賜である。ことに、教育宗教局長で同時にスイス国聯邦参事院の一員であるルイ・リュショネー氏(Louis Ruchonnet)に負うところが大である。 |
純粋経済学要論 | 氏は、私にこの講座の教授候補者となることをすすめ、また私がこの講座を占めてからは、絶えず私を激励して、経済学及び社会経済学の基礎的概論の公刊を始めることを得せしめた。この概論は独創的方法によって仕上げられた新しいプランに基いて組み立てられ、その結論もまた――あえていっておかねばならぬが――ある点において現在の経済学の結論と同一ではない。「この概論は三部に分たれ、各部は一巻二分冊として出版せられるであろうが、それぞれの内容は次の如くであろう。 第一部 純粋経済学要論すなわち社会的富の理論。 第一編 経済学及び社会経済学の目的と分け方。第二編 交換の数学的理論。第三編 価値尺度財並びに貨幣について。第四編 富の生産及び消費の自然的理論。第五編 経済的進歩の条件と結果。第六編 社会の経済組織の諸形態の自然的必然的結果。 第二部 応用経済学要論すなわち農工商業による富の生産の理論。 第三部 社会経済学要論すなわち所有権と租税とによる富の分配の理論(二)。 |
純粋経済学要論 | 「今ここに現われようとしているのは、第一巻の第一分冊である。これには、任意数の商品相互の交換の場合における市場価格決定の問題の数学的解法と需要供給法則の科学的方式とが含まれている。私がそこで用いた記号法は、当初には、やや複雑に見えるかもしれない。だが読者はこの複雑さに辟易してはならない。なぜなら、この複雑さは問題に内在して止むを得ないものであると同時に、このほかに難解な数学は少しも用いられていないから。ひとたびこれらの記号のシステムが理解せられれば、このことだけで、経済現象のシステムは自ら理解せられる。「今から一ヵ月ほど前私は、マンチェスター大学の経済学教授ジェヴォンス氏が私の問題と同じ問題について書いた「経済学の理論」(The Theory of Political Economy)と題せられる著作が、一八七一年に、ロンドンマクミラン会社から出版せられているのを知った。だがそのときには私の第一分冊は全く稿を了え、かつ大方印刷をもおえていたし、またその理論の概要はパリの精神学及び政治学学士院に報告せられ、解説せられていたのである(三)。 |
純粋経済学要論 | ジェヴォンス氏は私と同じく、数学的解析法を純粋経済学、特に交換の理論に応用している。そして氏のこの応用の一切は、氏が交換方程式と名付ける基本方程式の上に立っているが、この交換方程式は、私の出発点となっていて私が最大満足の条件と呼ぶ所のものに全く相等しい。これはまことに注目すべき事実である。「またジェヴォンス氏は特にこの新方法の一般的哲学的解説をなそうと努力し、かつこれを交換理論、労働理論、地代理論、資本理論へ応用すべき基礎を作ろうと努力している。私はこの分冊では特に交換の数学的理論を深奥な方法に拠って解説しようと努めた。だからジェヴォンス氏の方式の先駆性を認めねばならぬが、若干の重要な演繹については、私は私の権利を主張することが出来る。ここにはこれらの点をいちいち挙げない。有能な読者はこれらの点をよく認め得るであろう。私としては、ジェヴォンス氏の著書と私の著書とは互に他を妨げないで、かえって互に補充し合い、不思議にも互に他の価値を増加し合うものであるといえば足りるのである。これは動かすべからざる私の確信である。私は、これを証明するために、イギリスの勝れた経済学者のこの好著をまだ読まないすべての人々に熱心にすすめる。」 |
純粋経済学要論 | 第一版の第二分冊は一八七七年に出版せられた。私はこの中で生産的用役の価格(賃銀、地代、利子)の決定の理論と純収入の率の決定の理論とを説いたが、これらはジェヴォンスのそれとは著しく異っている(四)。 一八七九年に、当時ロンドン大学教授であったジェヴォンスは「経済学の理論」の第二版を公にし、この第二版の序文中で(Pp. XXXV-XLII)、数理経済学の建設の先駆性を一部分ドイツ人ゴッセンに認めている。私がこの先駆性をジェヴォンスに認めたことは、既に読者が知る如くである。ゴッセンについて私は、一八八五年四月及び五月の Journal des économistes に、「忘れられた経済学者ヘルマン・ハインリッヒ・ゴッセン」と題する一文を公にした。その中で私は、ゴッセンの生涯と著書についての解説を与え、併せて、二人の先駆者の著作があるにもかかわらず、新理論のうち結局私自身のものとして残されるべき部分を定めようと努力した(五)。 |
純粋経済学要論 | この点を、本書の第十六章の末尾の一節で、再び明らかにするであろう。その所で読者は知られるであろうように、交換において稀少性を考えることのいかに重要であるかは、一八七二年に私共三人とは独立に、ウィーン大学の経済学教授カール・メンガーによってもまた認められ、立証せられているのである。 私は、ゴッセンが利用曲線についての先駆者であるのを認め、またジェヴォンスが交換における最大利用の方程式についての先駆者であるのを認める。だが私はこれらの思想を借用したのではない。私は私の経済学説の根本原理を父オーギュスト・ワルラス(Auguste Walras)から借用し、この学説の解説のために函数計算を用いる根本原理をクールノーから借用したのである。これらのことを私は最初の論文で明言し、またそれ以後のあらゆる機会に明言している。今ここでは、この学説が本書の各版で順次にいかに正確さを加えられ、展開せられ、補充せられたかを説明しようと思う。 |
純粋経済学要論 | 私は交換方程式、生産方程式、資本化及び信用方程式の解法に、その全体についてはほぼ元のままとしながら、いくつかの細かい部分について修正を加えた。 交換に関しては諸商品の最大利用の定理(六)の基礎的証明のほかに、次の二つの証明を加えた。(一)利用曲線が連続な場合につき、微分学の通常の記号法による証明――この証明は後に新資本の最大利用の定理を証明するに必要である。(二)利用曲線が不連続な場合の証明。 生産に関しては、均衡の成立のための予備的摸索を仮定し、かつこの運動は有効になされるのではなく、取引証書によって(sur bons)なされると仮定した。そして私はこの仮定をそれ以後においても維持した。 資本化については、交換方程式と最大満足の方程式とから、貯蓄の函数を理論的に演繹し、これを経験的に導き出すことを避けた。そして、純収入率の均等もまた新資本から得られる利用の最大の条件であることを、新定理として証明した。 |
純粋経済学要論 | 第一版を公にときには、私は新資本用役の最大利用に関する二つの問題のただ一つしか認めることが出来なかった。詳言すれば、ある個人がその収入を種々の欲望の間に配分するに当り資本の量をその当然の性質によって与えられていると考えまたは偶然に決定せられていると想像するときに起る問題、すなわち私が諸商品の最大利用の問題と呼び、数学的には資本用役の稀少性がその価格に比例せねばならぬことによって解かれる問題しか、第一版では私は考えていなかった。しかるに第二版を準備していたとき、なお一つの問題があるのを認めた。それは、社会がその収入の消費に対する超過部分を種々に配分して種々に資本化するに当り、新資本用役の有効利用の最大を目的として、この資本の量を決定しようとするときに現われる問題、すなわち、私が新資本の最大利用の問題と呼び、数学的には資本の稀少性がこの資本の価格に比例せねばならぬことによって解かれる問題である。 |
純粋経済学要論 | だから用役の価格と資本の価格とが比例することにより二つの最大が生ずるのであるが、この用役の価格と資本の価格とが比例することは、一の留保の下に、まさしく自由競争によって生ずる結果なのである。 しかしながら、一八七六年以後一八九九年に至る私の研究によって著しく変化せられたのは特に貨幣理論である(七)。第一並びに第二版においては、貨幣編は純理論と応用論との二部から成っていたが、第三、第四版においては、応用論が除かれ、従って純理論、特に貨幣理論の根本である貨幣価値の問題の解法しか研究しなかった。第一版ではこの解法は、私が一般の経済学者から借りてきた「流通に役立った現金」(circulation à desservir)の思想を基礎としている。第二版においてはこの解法は、拙著(Théorie de la monnaie)に用いられた「所望の現金」(encaisse désirée)(訳者註)の思想を基礎としている。 |
純粋経済学要論 | だがこの第二版においても第三版においても、第一版におけるように、別に私は貨幣の需要供給の均等方程式を経験的に立てた。この第四版ではそれは、流動資本の需要供給の均等方程式と共に、交換方程式及び最大満足の方程式から理論的に演繹せられている。このようにして流通及び貨幣の理論は、交換の理論、生産の理論、資本化の理論、信用の理論のように、それに相応するシステムの方程式の定立と解法とを含むのである。そしてこの流通論を組成する六章は、純粋経済学の大きな問題の第四である所の流通の問題の解法を示したものである。 私は、これら四つの問題の関連を明らかにするため、章編の数、順序、表題に少しく変更を加えた。ことに流通理論を資本化の理論の直後に置き、その次に一編を設け、経済的進歩の研究及び純粋経済学のシステムの研究をこの中に入れた。また限界生産力説すなわち問題の所与としてではなく未知数と考えられた製造係数の決定理論をも、この編の中に加えた。 |
純粋経済学要論 | これらの変化の結果として、本書の概要は次の如くなった。純粋経済学要論すなわち社会的富の理論第一編 経済学及び社会経済学の対象と分け方――第二編 二商品相互の間の交換の理論――第三編 多数の商品相互の間の交換の理論――第四編 生産の理論――第五編 資本化及び信用の理論――第六編 流通及び貨幣の理論――第七編 経済的進歩の条件と結果、純粋経済学のシステムの批評――第八編 公定価格・独占・租税について附録第一 価格決定の幾何学的理論附録第二 アウスピッツ氏とリーベン氏の価格理論の原理についての考察 この版はかく変化せられてはいるけれども、先にいったように一八七四年―一八七七年のものの最終版に過ぎない。かくいう意味は、私の今の学説が、数学者にして同時に経済学者であった少数の人々が解してくれたような私の原の学説と全く同一であるということにある。私の学説は次のように要約し得られる。 純粋経済学は、本質的には、絶対的自由競争を仮定した制度の下における価格決定の理論である(八)。 |
純粋経済学要論 | 稀少であるために、すなわち利用があると共に限られた量しかないために、価格をもつことの出来る有形無形の一切の物の総体は、社会的富を構成する。純粋経済学がまた社会的富の理論であるゆえんはここにある。 社会的富を組成する物のうちに、一回以上役立つ物すなわち資本または持続財と、一回しか役立たない物すなわち収入または消耗財(biens fongibles)とを区別せねばならぬ。資本は土地、人的能力及び狭義の資本を含む。収入は第一に消費の目的物及び原料を含む。これらは多くの場合有形の物である。次に収入はいわゆる用役(services)すなわち資本の継続的使用を含む。これらの用役は多くの場合無形のものである。資本の用役で直接的利用を有するものは、消費的用役(services consommables)と称せられ、消費目的物に結合する。間接的利用しかもたない資本の用役は、生産的用役(services producteurs)と称せられ、原料と結合する。 |
純粋経済学要論 | 私は、ここにこそ純粋経済学全体の鍵があると思う。もし資本と収入との区別を看過し、あるいはことに、社会的富のうちに有形の収入と併んで無形の資本用役が存在することを認めないとすれば、科学的な価格決定理論を建設することは出来ない。反対にもし、右の区別と分類とを承認すれば、交換の理論によって消費目的物及び消費的用役の価格決定を、次に資本化の理論によって固定資本の価格の決定を、流通の理論によって流動資本の価格の決定を、することが出来る。その理由は次の如くである。 まず消費目的物と消費的用役とのみが売買せられる市場、換言すればそれらのもののみが交換せられる市場を想像し、かつそこでは用役の販売が資本の賃貸によって行われると想像する。これらのもののうちから価値尺度財として採択せられた物で表わしたこれらの物または用役の価格すなわち交換比率が偶然に叫ばれると、各交換者は、自らある一定期間の消費に比較的に過剰に所有していると信ずる物または用役を、これらの価格で供給し、自ら不充分であると信ずる物または用役を需要する。 |
純粋経済学要論 | かくの如くにして各商品の有効に需要せられる量と供給せられる量は決定されるのであるが、需要が供給を超える物の価格は騰貴せしめられ、供給が需要を超える物の価格は下落せしめられる。このようにして叫ばれた新しい価格に対して、各交換者は新な量を需要し、供給する。そして人々はなおも価格の騰貴または下落を生ぜしめ、それぞれの物または用役の需要と供給とが相等しくなったとき、これを停止する。そのとき価格は均衡市場価格となり、交換が現実に行われる。 次に交換の問題の中に、消費の目的物が生産的用役の相互の結合によって生ずる所のまたは生産的用役を原料に適用することによって生ずる所の生産物であるという事情を導き入れて、我々は生産の問題を提出する。この事情を考慮に入れるには、用役の売手であると同時に消費的用役及び消費の目的物の買手である地主、労働者、資本家の面前に、生産物の売手としてのまた生産的用役及び原料の買手としての企業者を置かねばならぬ。 |
純粋経済学要論 | この企業者の目的は、生産的用役を生産物に変化して利益を得るにある。生産物は、彼ら企業者が相互に売買し合う原料であることもあれば、彼ら企業者に生産的用役を売った地主、労働者、資本家に販売せられる消費の目的物であることもある。だがこれらの現象をよく了解するためには、一つの市場の代りに、用役の市場(marché des services)と生産物の市場(marché des produits)とを想像するがよい。用役の市場ではこれらの用役は地主、労働者、資本家のみによって供給せられ、消費的用役は地主、労働者、資本家によって需要せられ、生産的用役は企業者によって需要せられる。生産物の市場では生産物は企業者のみによって供給せられ、原料はこの同じ企業者によって需要せられ、消費の目的物は地主、労働者、資本家によって需要せられる。これら二つの市場においては、偶然に叫ばれた価格で、地主、労働者、資本家であって同時に消費者である者が用役を供給し、消費的用役と消費の目的物とを需要し、それにより、考えられた期間中に出来るだけ多くの利用を得ようとし、生産者である企業者は生産物を供給し、また生産的用役で表わした製造係数の割合に従って同じ期間中に処分すべき生産的用役または原料を需要する。 |
純粋経済学要論 | そしてこれらの生産者である企業者は、生産物の販売価格が生産的用役から成る生産費に超過する場合には生産を拡張し、反対に生産的用役から成る生産費が生産物の販売価格を超えるときは生産を縮小する。各市場では人々は、需要が供給を超えるときは、価格を騰貴せしめ、供給が需要を超過するときは、これを下落せしめる。均衡市場価格は、各用役または生産物の需要と供給とを等しからしめる価格であり、また各生産物の販売価格を生産的用役から成る生産費に等しからしめる価格である。 資本化の問題を解くには、貯蓄をする地主、労働者、資本家すなわち自ら供給する用役の価値の全部をあげて消費的用役及び消費目的物を需要することなく、この価値の一部をもって新資本を需要する換言すれば貯蓄する地主、労働者、資本家の存在を仮定せねばならない。そしてこれら貯蓄創造者に相対して、原料または消費の目的物を製造することなく新資本を製造する企業者の存在を仮定せねばならぬ。 |
純粋経済学要論 | 一方においてはある額の貯蓄と他方においてはある額の新資本とを与えられたとすれば、これらの貯蓄と新資本とは新資本の市場において、せり上げせり下げの機構に従い、交換理論と生産理論とによって決定せられた、新資本の消費的用役または生産的用役の価格に応じて互に交換せられる。そこで収入のある一定の率が成立し、各新資本の販売価格はその用役の価格と収入の率の比に等しくなる。新資本の企業者は、生産物の企業者と同じく、販売価格が生産費を超えるかまたは生産費が販売価格を超えるかに従い、その生産をあるいは拡張し、あるいは縮小する。 一度収入の率が得られると、ただに新固定資本の価格のみでなく、また旧固定資本すなわち既に存在する土地、人的能力、狭義の資本の価格が得られる。これは旧資本の用役の価格である地代、賃銀、利子をこの率で除すことによって得られる。残るのは流動資本の価格を見出すことと、価値尺度財が貨幣である場合にこれらすべての価格がいかなるものとなるかを知ることとだけである。 |
純粋経済学要論 | これらは流通及び貨幣の問題である。 読者はこの第四版において私が「所望の現金」の考察により、いかにして静学的観点を離れることなく、先の問題を取扱ったと同じ条件と方法とをもって、右の問題を提出し、解決することが出来たかを見ることが出来よう。この問題の提出と解決のためには、流動資本を物または貨幣の形態をとる所の予備(approvisionnement)の用役を果すものと考え、かつこれらの用役を、資本家によってのみ供給せられ、地主、労働者、資本家によっては消費的用役として需要せられ、企業者によっては、予備の用役で表わした製造係数の割合に従って、生産的用役として需要せられると考えれば足る。かくてこれら予備の用役の市場価格は狭義の用役の市場価格の如くにして決定せられる。そして流動資本及び貨幣の価格もまた予備の用役の価格の純収入率に対する比として生ずるのであって、貨幣の価格は、貨幣が貨幣である限り、その量の反比例函数として成立する。 |
純粋経済学要論 | ところでこの全理論は数学的理論である。語を換えていえばその説明が通常の語でなされ得るとしても、その証明は数学的になされねばならぬ。それは全く交換理論の基礎の上に立つのであり、交換理論はすべて市場の均衡状態における二つの事実に約言される。まず交換者が利用の最大を得る事実、次にすべての交換者が需要する各商品の量と供給する量とは相等しいとの事実に要約される。ところでひとり数学によってのみ我々は利用の最大の条件を知ることが出来るのである。我々は数学によって、各交換者につき、各消費の目的物または消費的用役に対し、それらの充された最後の欲望の強度または稀少性をそれらの消費量の減少函数として表わす方程式または曲線を作ることが出来、また数学によって各交換者がその欲望の最大満足を得られるのは、ある叫ばれた価格において、交換後における各商品の稀少性がそれらの価格に比例するように、これらの商品の量を需要し供給するときであることを知ることが出来る。 |
純粋経済学要論 | ただに交換においてのみでなくまた生産、資本化、流通においても、何故にかついかにして我々は需要が供給に超過する用役、生産物、新資本の価格を騰貴せしめ、供給が需要に超過するそれらの価格を下落せしめて、均衡の市場価格を得るのであるか。ひとり数学のみがこれを教え得るのである。これを教えるに数学は、まず稀少性の函数、欲望の最大満足を目的とする用役の供給を表わす函数、用役、生産物、新資本の需要と供給との均等を表わす方程式を導き出す。次にこれらの方程式を、生産費及び新資本の販売価格と生産費との均等を表わし、またすべての新資本の収入率の均等を表わす所の他の方程式に結び付ける。最後に数学は、(一)かようにして提出された交換、生産、資本化、流通の問題は不能の問題でないことすなわち未知数にまさに等しい数の方程式を与える問題であること、(二)市場における価格の騰貴下落の機構は、企業者が損失のある企業から利益のある企業へ転向するという事実と相結合して、これらの問題の方程式を摸索によって解く方法に他ならないことを教える。 |
Subsets and Splits