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福本伸行
福本 伸行(ふくもと のぶゆき、1958年12月10日 - )は、日本の漫画家・漫画原作者。右利き。既婚。 神奈川県横須賀市出身。かざま鋭二のアシスタントを経て、1980年『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)連載の『よろしく純情大将』でデビュー。主な作品に『賭博黙示録カイジ』、『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』、『銀と金』、『天 天和通りの快男児』などがある。1998年に『賭博黙示録カイジ』で第22回講談社漫画賞受賞。 幼少時は『パーマン』などの少年漫画を読んで育つ。高校では建築科に進み、本人曰く「勉強は出来ないが不良でもないボーッとした学生だった」という。また、強さに憧れ空手やキックボクシングを経験した。高校卒業後、建設会社に就職して現場監督の仕事に就くも、仕事がつまらないと感じ、何か一発当てようと漫画家を志す。 会社勤めに並行して描いた剣道漫画を講談社に持ち込んだところ、「まずアシスタントをして経験を積んではどうか」と勧められる。そこでアシスタントを募集していたかざま鋭二に頼み込んでアシスタントの内定を取り付け、「長く勤めて資格などを取ると辞められなくなる」と考えて入社後わずか3か月で会社を辞める。アシスタント入りしたものの、器用な絵が描けなかった福本はもっぱら炊事などの雑用を任される。1年半ほどした後に、福本を案じたかざまから「福ちゃんは性格がガサツだから、トラック運転手なんかが向いてるんじゃないかなあ」と諭され、アシスタントを辞めることになる。これらの経緯について、かざまは(自ら認めるほど絵に誉めるところはなかったが)「18歳と若いので可能性に賭けた」「福本はあまりにも使えないからクビにしたけど、(俺より)あいつの方が売れちゃった」と語っている。その一方で、福本は退職時に至るまで手厚く世話をしてくれたかざまに対して感謝の念を語っている。 1980年『月刊少年チャンピオン』掲載の『よろしく純情大将』でデビュー。その後、なかなかヒットが出ず、ちゃんぽん店などでアルバイトをし生計を立てつつ、ちばてつや賞などへの応募を続けながら、長く下積みの生活を送る。1983年、『ワニの初恋』で、ちばてつや賞優秀新人賞を受賞。また、バイトも順調でそれなりに稼げていたが、「漫画一本で行くべき」と24歳の時に辞め、退路を断った。この頃使用していたペンネームには、「ふくもと飛火」(とび)というものもある。 投稿時代からデビュー当初は主に人情ものを描いていたが、1980年代は日本経済の景気も良く、ギャンブルをテーマにした漫画が隆盛を極めていたため、仕事が取りやすいという理由でギャンブル漫画を描き始める。1980年代末より『近代麻雀ゴールド』に『天 天和通りの快男児』を連載。この作品は増刷されて福本の初めての人気作品となり、漫画家として名が知られるようになる。 この頃から作品に「ギャンブルもの」が多くなり、『近代麻雀』連載の『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』や、更にアウトローの世界の駆け引きを描いた『アクションピザッツ』連載の『銀と金』で、一躍人気作家となる。 1996年から『週刊ヤングマガジン』に『賭博黙示録カイジ』の連載を開始する。『カイジ』シリーズは2023年現在で通算87巻、2000万部以上を売るヒット作となり、福本の人気を不動のものとした。2005年には『アカギ』が、2007年・2011年には『カイジ』がそれぞれTVアニメ化されている。2007年10月からは『週刊少年マガジン』に『賭博覇王伝 零』を連載開始。2019年5月からは『近代麻雀』に『闇麻のマミヤ』を連載開始。 2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地への義援金として現金3000万円を寄付し、応援イラストを寄せた。被災地にも自ら訪れ、被災者にサインやイラストを描いている。 2023年6月現在、『週刊ヤングマガジン』誌上で『賭博堕天録カイジ 24億脱出編』、『近代麻雀』誌上で『老境博徒伝SOGA』の2作品を同時に連載中。 ギャンブル漫画の第一人者として知られ、緻密な心理描写・強烈な人物描写が特徴である。作品の多くは、極限勝負に身を置く男達の姿が描かれており、数多くのオリジナルのギャンブルを生み出している。圧倒的なストーリーの面白さが評価される一方で、キャラクターの作画力は漫画家として非常に低く、逆にそれが独特の魅力となり持ち味となっている。 好きなギャンブルは麻雀、大小など。競馬は嫌い。麻雀は中学時代から続けており、本人によれば、学生時代はほとんど負けたことがないが、現在の実力は並だという。本人曰く「大会運がある」らしく、麻雀漫画家の麻雀大会で優勝したことも。プロの麻雀対局に出場した事もある。芸能界屈指の雀士と知られるアカギ・カイジの声優萩原聖人と二度ほど対局して、萩原に「この人に勝てる気がしない」と言わしめた。 また、女性キャラクターの登場が極端に少ない。その理由は「描いていなかったら描けなくなってしまった」とのこと で、「「」(かぎかっこ)」のインタビューでは「ギャンブルの世界に女性はいらない」とも語っている(ただし、人情を主に取り扱った作品にはごく普通に登場している)。ただし、『オトナファミ』2009年10月号では「タカピーな女の娘が体を賭けてギャンブルをして悪いオヤジから金を搾りやっつけるような漫画を描いてみたい」とも言及しており、その後『闇麻のマミヤ』において女性主人公による自分の身体を賭けたギャンブル漫画を描き始めた。 作画の際には「原稿用紙を回しながら執筆する」という特徴的な執筆方法を取る。2009年7月に東京・新宿のロフトプラスワンで開かれた「ビッグコミックスペリオールPresents 第6回『西原理恵子の人生画力対決』」に出演した際には、多数の観客が見守る中でその独特の方法でカイジのイラストを描き、西原や江口寿史など他の出演者を仰天させた。
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福本 伸行は、日本の漫画家・漫画原作者。右利き。既婚。 神奈川県横須賀市出身。かざま鋭二のアシスタントを経て、1980年『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)連載の『よろしく純情大将』でデビュー。主な作品に『賭博黙示録カイジ』、『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』、『銀と金』、『天 天和通りの快男児』などがある。1998年に『賭博黙示録カイジ』で第22回講談社漫画賞受賞。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 福本 伸行 | ふりがな = ふくもと のぶゆき | 画像 = Nobuyuki_Fukumoto.jpg | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[神奈川県]][[横須賀市]] | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1958|12|10}} | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1958|12|10|****|**|**}} --> | ジャンル = [[青年漫画]]・[[少年漫画]] | 活動期間 = [[1980年]] - | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = *[[1998年]]:第22回[[講談社漫画賞]](『賭博黙示録カイジ』) }} '''福本 伸行'''(ふくもと のぶゆき、[[1958年]][[12月10日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[漫画原作者]]。既婚。 [[神奈川県]][[横須賀市]]出身。[[かざま鋭二]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て、[[1980年]]『[[月刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])連載の『よろしく純情大将』でデビュー。主な作品に『[[賭博黙示録カイジ]]』、『[[アカギ 〜闇に降り立った天才〜]]』、『[[銀と金]]』、『[[天 天和通りの快男児]]』などがある。[[1998年]]に『賭博黙示録カイジ』で第22回[[講談社漫画賞]]受賞。 == 来歴 == 幼少時は『[[パーマン]]』などの少年漫画を読んで育つ。高校では[[建築科]]に進み、本人曰く「勉強は出来ないが不良でもないボーッとした学生だった」という。また、強さに憧れ[[空手]]や[[キックボクシング]]を経験した。高校卒業後、建設会社に就職して現場監督の仕事に就くも、仕事がつまらないと感じ、何か一発当てようと漫画家を志す<ref name=wani>『ワニの初恋』講談社版コミック巻末漫画より</ref>。 会社勤めに並行して描いた[[剣道]]漫画を[[講談社]]に持ち込んだところ、「まず[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をして経験を積んではどうか」と勧められる。そこでアシスタントを募集していた[[かざま鋭二]]に頼み込んでアシスタントの内定を取り付け、「長く勤めて資格などを取ると辞められなくなる」と考えて入社後わずか3か月で会社を辞める<ref>『ヤングマガジン増刊赤BUTA』12号より</ref>。アシスタント入りしたものの、器用な絵が描けなかった福本はもっぱら炊事などの雑用を任される。1年半ほどした後に、福本を案じたかざまから「福ちゃんは性格がガサツだから、[[貨物自動車|トラック]]運転手なんかが向いてるんじゃないかなあ」と諭され、アシスタントを辞めることになる<ref name=wani/>。これらの経緯について、かざまは(自ら認めるほど絵に誉めるところはなかったが)「18歳と若いので可能性に賭けた」<ref name=wani/>「福本はあまりにも使えないからクビにしたけど、(俺より)あいつの方が売れちゃった」と語っている。その一方で、福本は退職時に至るまで手厚く世話をしてくれたかざまに対して感謝の念を語っている。 [[1980年]]『[[月刊少年チャンピオン]]』掲載の『よろしく純情大将』でデビュー。その後、なかなかヒットが出ず、ちゃんぽん店などでアルバイトをし生計を立てつつ、[[ちばてつや賞]]などへの応募を続けながら、長く下積みの生活を送る。[[1983年]]、『ワニの初恋』で、ちばてつや賞優秀新人賞を受賞<ref name=wani/>。また、バイトも順調でそれなりに稼げていたが、「漫画一本で行くべき」と24歳の時に辞め、退路を断った。この頃使用していたペンネームには、「ふくもと飛火」(とび)というものもある<ref>ユリイカ2009年10月号 特集=福本伸行 『アカギ』『カイジ』『最強伝説 黒沢』福本伸行全著作解題</ref>。 投稿時代からデビュー当初は主に人情ものを描いていたが、[[1980年代]]は日本経済の景気も良く、[[賭博|ギャンブル]]をテーマにした漫画が隆盛を極めていたため、仕事が取りやすいという理由でギャンブル漫画を描き始める。1980年代末より『近代麻雀ゴールド』に『[[天 天和通りの快男児]]』を連載。この作品は増刷されて福本の初めての人気作品となり、漫画家として名が知られるようになる。 この頃から作品に「ギャンブルもの」が多くなり、『近代麻雀』連載の『[[アカギ 〜闇に降り立った天才〜]]』や、更にアウトローの世界の駆け引きを描いた『アクションピザッツ』連載の『[[銀と金]]』で、一躍人気作家となる。 [[1996年]]から『[[週刊ヤングマガジン]]』に『[[賭博黙示録カイジ]]』の連載を開始する。『カイジ』シリーズは[[2023年]]現在で通算87巻、2000万部以上を売るヒット作となり、福本の人気を不動のものとした。[[2005年]]には『アカギ』が、[[2007年]]・[[2011年]]には『カイジ』がそれぞれTVアニメ化されている。2007年10月からは『[[週刊少年マガジン]]』に『[[賭博覇王伝 零]]』を連載開始。2019年5月からは『近代麻雀』に『[[闇麻のマミヤ]]』を連載開始。 2011年3月11日に発生した[[東日本大震災]]の被災地への義援金として現金3000万円を寄付し、応援イラストを寄せた<ref>[https://natalie.mu/comic/news/47224 福本伸行、被災者に3000万円を寄付「絶対に負けないっ!!」] - コミックナタリー・2011年4月1日</ref>。被災地にも自ら訪れ、被災者にサインやイラストを描いている。 2023年6月現在、『[[週刊ヤングマガジン]]』誌上で『[[賭博黙示録カイジ|賭博堕天録カイジ 24億脱出編]]』、『[[近代麻雀]]』誌上で『[[老境博徒伝SOGA]]』の2作品を同時に連載中{{R|natalie20230601}}。 == 作風 ==<!--出典なし--> ギャンブル漫画の第一人者として知られ、緻密な心理描写・強烈な人物描写が特徴である。作品の多くは、極限勝負に身を置く男達の姿が描かれており、数多くのオリジナルのギャンブルを生み出している。圧倒的なストーリーの面白さが評価される一方で、キャラクターの作画力は漫画家として非常に低く、逆にそれが独特の魅力となり持ち味となっている。 好きなギャンブルは[[麻雀]]、[[大小 (賭博)|大小]]など。[[競馬]]は嫌い。麻雀は中学時代から続けており、本人によれば、学生時代はほとんど負けたことがないが、現在の実力は並だという。本人曰く「大会運がある」らしく、麻雀漫画家の麻雀大会で優勝したことも。プロの麻雀対局に出場した事もある。芸能界屈指の雀士と知られるアカギ・カイジの声優[[萩原聖人]]と二度ほど対局して、萩原に「この人に勝てる気がしない」と言わしめた。 また、女性キャラクターの登場が極端に少ない。その理由は「描いていなかったら描けなくなってしまった」とのこと<ref>[[週刊少年「」]]より</ref> で、「「」(かぎかっこ)」のインタビューでは「ギャンブルの世界に女性はいらない」とも語っている(ただし、人情を主に取り扱った作品にはごく普通に登場している)。ただし、『オトナファミ』2009年10月号では「タカピーな女の娘が体を賭けてギャンブルをして悪いオヤジから金を搾りやっつけるような漫画を描いてみたい」とも言及しており、その後『闇麻のマミヤ』において女性主人公による自分の身体を賭けたギャンブル漫画を描き始めた。 作画の際には「原稿用紙を回しながら執筆する」という特徴的な執筆方法を取る。[[2009年]]7月に東京・新宿の[[ロフトプラスワン]]で開かれた「[[ビッグコミックスペリオール]]Presents 第6回『[[西原理恵子の人生画力対決]]』」に出演した際には、多数の観客が見守る中でその独特の方法でカイジのイラストを描き、西原や[[江口寿史]]など他の出演者を仰天させた<ref>[http://natalie.mu/comic/news/show/id/18577 カイジ作画に驚愕の事実!西原画力対決に新宿が揺れた夜] - コミックナタリー・2009年7月10日</ref>。 == 作品リスト == * 男の風(1977年)※処女作 * よろしく純情大将(1980年、『[[月刊少年チャンピオン]]』)※デビュー作 * 当たってくだけろ!(1980年、『月刊少年チャンピオン』) * あまりちゃん(1980年、『[[週刊少年チャンピオン]]』)※初連載 * ワニの初恋(1983年、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』) ** 単行本は1987年に講談社({{ISBN2|978-4-06-102611-7}})、のちに竹書房から再刊({{ISBN2|4-8124-5223-6}}) * 麻雀グラフィティ(1983年、『劇画オール麻雀』)原作は[[剣名舞]]。<ref>{{Cite web|和書|title=『劇画オールギャンブル』『オール麻雀』掲載作リスト |url=https://vhysd.hatenablog.com/entry/2016/02/29/011216 |website=「未来の麻雀」ブログ |date=2016-02-28 |access-date=2023-05-15 |language=ja |last=vhysd}}</ref> * 見上げれば通天閣(1986年、『[[漫画アクション|別冊アクション]]』) ** 単行本は1988年に[[ぶんか社]]({{ISBN2|4-8211-9240-3}})、1998年に竹書房({{ISBN2|4-8124-5240-6}})、2008年に[[双葉社]]から出版({{ISBN2|978-4-575-99431-5}}) * [[熱いぜ辺ちゃん]](1986年 - 1987年・1994年 - 1995年、『近代麻雀オリジナル』) ** 単行本・全2巻。 * 春風にようこそ(1988年 - 1989年、特選麻雀) ** 単行本は1996年に竹書房から出版。 * [[天 天和通りの快男児]](1989年 - 2002年、『[[近代麻雀#近代麻雀ゴールド・近代麻雀ギャンブルCOM|近代麻雀ゴールド]]』) ** 単行本・全18巻。 * 銀ヤンマ(1990年、『劇画麻雀時代』){{ISBN2|4-88475-558-8}} ** 単行本は1991年に竹書房から出版、「銀ヤンマ」「ガン辰」「遠藤」の3作収録。 * [[熱いぜ天馬]](1990年、『[[週刊少年マガジン]]』){{ISBN2|4-06-311568-2}} ** のちに竹書房から再刊({{ISBN2|4-8124-5211-2}}) * [[無頼な風 鉄]](1990年 - 1991年、『競馬ゴールド』) ** 単行本化されていなかったが、後に竹書房から出版({{ISBN2|4-8124-5241-4}}) * [[アカギ 〜闇に降り立った天才〜]](1992年 - 2018年、『[[近代麻雀]]』) ** 単行本・全36巻、月一ペースで連載<ref group="注釈">『[[近代麻雀]]』は当時月2回発行であった</ref>。 * [[銀と金]](1992年 - 1996年、『[[アクションピザッツ]]』) ** 単行本・全11巻。 * 真実の男 大安吉日真太郎(1996年、『[[漫画サンデー]]』) ** 単行本は竹書房から({{ISBN2|4-8124-5077-2}}) * [[賭博黙示録カイジ]](1996年 - 1999年、『[[週刊ヤングマガジン]]』) ** 単行本・全13巻。 * RUDE(あくたれ)39(1999年、『パチンコ時代』) ** 単行本は竹書房から({{ISBN2|4-8124-5321-6}}) * [[無頼伝 涯]](2000年 - 2001年、『週刊少年マガジン』) ** 単行本・全5巻。 * 賭博破戒録カイジ(2000年 - 2004年、『週刊ヤングマガジン』) ** 単行本・全13巻。 * [[最強伝説 黒沢]](2003年 - 2006年、『[[ビッグコミックオリジナル]]』) ** 単行本・全11巻。 * 賭博堕天録カイジ(2004年 - 2008年、『週刊ヤングマガジン』) ** 単行本・全13巻。 * [[賭博覇王伝 零]](2007年 - 2009年、『週刊少年マガジン』) ** 単行本・全8巻。 * 賭博堕天録カイジ 和也編(2009年 - 2012年、『週刊ヤングマガジン』) ** 単行本・全10巻。 * 賭博覇王伝 零 ギャン鬼編(2011年 - 2013年、『週刊少年マガジン』) ** 単行本・全10巻。 * 賭博堕天録カイジ ワン・ポーカー編(2013年 - 2017年、『週刊ヤングマガジン』) ** 単行本・全16巻。 * [[新黒沢 最強伝説]](2013年 - 2020年、『ビッグコミックオリジナル』) ** 単行本・全21巻。 * 賭博堕天録カイジ 24億脱出編(2017年 - 、『週刊ヤングマガジン』) ** 単行本・既刊26巻。 * 闇麻のマミヤ(2019年 - 2023年{{R|kinma202306}}、『近代麻雀』)※第一部完<ref name="kinma202306">{{Cite journal|和書|date = 2023-05-01|journal =近代麻雀|volume=2023年6月号|publisher = 竹書房}}表紙より。</ref> ** 単行本・既刊6巻。 * [[老境博徒伝SOGA]](2023年<ref name="natalie20230601">{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/526848|title=福本伸行「天」の僧我スピンオフ開始、描くのは「イチジョウ」の三好・瀬戸タッグ|newspaper=コミックナタリー|date=2023-06-01|accessdate=2023-06-01}}</ref> - 、『近代麻雀』) * 二階堂地獄ゴルフ(2023年 - 、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』) === 作品集 === * [[あの人のトランペット]] 福本伸行自撰短編集 1(竹書房、1998年11月){{ISBN2|4-8124-5262-7}} * 星降る夜に 福本伸行自撰短編集 2(竹書房、1999年1月){{ISBN2|4-8124-5271-6}} * 前へ…!! 福本伸行自撰短編集 3(竹書房、1999年1月){{ISBN2|4-8124-5272-4}} * 福本伸行作品集(竹書房、2008年) **[[コンビニコミック|コンビニ版]]とも言われる。同じような内容で2004年にも出版しているが、2008年版の方が作品を多く収録している。 ** 鉄と天馬(2008年6月 {{ISBN2|978-4-8124-6679-7}}) *** 「無頼な風 鉄」「熱いぜ天馬」収録。 ** 熱いぜ辺ちゃん(2008年7月 {{ISBN2|978-4-8124-6684-1}}) *** 単行本2巻まとめて収録。 ** 最強伝説 真実の男(2008年9月 {{ISBN2|978-4-8124-6904-0}}) *** 「ワニの初恋」も併録。 ** 銀ヤンマ(2008年10月 {{ISBN2|978-4-8124-6910-1}}) *** 「銀ヤンマ」「ガン辰」「遠藤」「赤鼻」「オヤジのオヤジ」「かすみとゲンコツ」「まさみ」「先生お元気ですか?」「千葉ケンの空」「エンマ先生」「あの人のトランペット」「ガメラ」収録。 === 漫画原作 === * [[生存 LifE]] (1999年、『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』)作画は[[かわぐちかいじ]]。2002年にテレビドラマ化。単行本は全3巻。 * [[告白 CONFESSION (漫画)|告白 CONFESSION]](2001年、『ヤングマガジンアッパーズ』)作画はかわぐちかいじ。 === 漫画監修 === * [[ワシズ -閻魔の闘牌-]](2008年 - 2012年、『[[近代麻雀|近代麻雀オリジナル]]』<ref group="注釈">[[2009年]]5月から[[2010年]]3月までの間、『近代麻雀オリジナル』のリニューアルにより近代麻雀に移籍していた。</ref>) * ワシズ 天下創世闘牌録 (2012年 - 2014年、『近代麻雀オリジナル』→『近代漫画』) ** 「アカギ 〜闇に降り立った天才〜」のスピンオフ作品。『近代麻雀オリジナル』で移籍。作者は[[原恵一郎]]。単行本は「閻魔の闘牌」が全8巻、「天下創世闘牌録」が全4巻。 * [[HERO -逆境の闘牌-]](2009年 - 2021年、『近代麻雀』) ** 「天 天和通りの快男児」のスピンオフ作品。作者は前田治郎。単行本は全18巻。 * [[中間管理録トネガワ]](2015年 - 2020年、『月刊ヤングマガジン』→『[[コミックDAYS]]』) ** 「賭博黙示録カイジ」のスピンオフ作品第1弾。原作は萩原天晴、漫画は[[橋本智広]]。単行本は全10巻。 * [[1日外出録ハンチョウ]](2016年 - 、『週刊ヤングマガジン』) ** 「賭博黙示録カイジ」のスピンオフ作品第2弾。原作は萩原天晴、漫画は上原求・新井和也。単行本は既刊17巻。 * [[最強伝説 仲根]](2017年 - 、『[[やわらかスピリッツ]]』) ** 「最強伝説黒沢」のスピンオフ作品。原作は横井憲治、漫画は上原求・新井和也。単行本は既刊2巻。 * [[上京生活録イチジョウ]](2021年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/413285|title=カイジの新作スピンオフ「上京生活録イチジョウ」、帝愛裏カジノ店長・一条聖也描く|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-01-21|accessdate=2023-01-12}}</ref> - 2023年<ref>{{Twitter status2|1=morningmanga|2=1613372205672595456|4=モーニング公式 2023年1月12日のツイート|5=2023-01-12}}</ref>、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』) ** 「賭博黙示録カイジ」のスピンオフ作品第3弾。原作は萩原天晴、漫画は三好智樹・瀬戸義明。単行本は全6巻。 * 老境博徒伝SOGA(2023年 - 、『[[近代麻雀]]』) ** 「天 天和通りの快男児」のスピンオフ作品。原作は[[森橋ビンゴ]]、漫画は三好智樹・瀬戸義明。 === その他 === * 短編マンガ「合法といって売られている薬物の、本当の怖さを知っていますか?」(2014年、[[政府広報]]オンライン)<ref>[http://www.gov-online.go.jp/tokusyu/drug/manga/index.html 短編マンガ「合法といって売られている薬物の、本当の怖さを知っていますか?」](2014年3月17日)、政府広報オンライン([[内閣府]]大臣官房政府広報室)、2014年3月18日閲覧。</ref> * [[山田くんと7人の魔女]] 第4話エンドカード * 大戦乱!!三国志バトル 鐘会カードイラスト <ref>{{Cite web|和書|date=2014-08-01|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000086.000007342.html|title=『大戦乱!!三国志バトル』に福本伸行氏描き下ろしカードが登場!!|株式会社gloopsのプレスリリース|accessdate=2015年6月13日 }}</ref> * [[メイドインアビス (アニメ)|メイドインアビス]] 第9話エンドカード == 関連人物 == === 師匠 === *[[かざま鋭二]] === 知人 === *[[西原理恵子]] **「[[ビッグコミックスペリオール]]Presents 第6回『[[西原理恵子の人生画力対決]]』」に出演した際には、その場で二十年来の知己であることを明かし、「当時から福本さんは男前でマジメ、ものごしのやわらかいステキな人で」、でも絶対に売れそうにないので女性マンガ家たちに無視されていたと記している。「まさか後から売れるとは、いいえ、今でもどうして売れているのかさっぱりわからない」「次々と出てくる、数式的に間違った頭脳戦(バツで消してある)」と発言した。 == テレビ出演 == * [[アメトーーク!]]([[テレビ朝日]])「福本伸行先生にシビれた芸人」でゲストとして出演した。 * [[NMB48須藤凜々花の麻雀ガチバトル! りりぽんのトップ目とったんで!|NMB48須藤凜々花の麻雀ガチバトル!]] (2015年9月5日、2016年3月19日、[[TBSチャンネル|TBSチャンネル1]]) * [[銀と金#テレビドラマ|銀と金]] 第9話、第10話(2017年3月4日、2017年3月11日、テレビ東京) * [[アカギ 〜闇に降り立った天才〜#テレビドラマ|アカギ「竜崎・矢木編 /市川編」]] 第2話(2017年10月20日、[[BSスカパー!]]) * [[ゼロ 一獲千金ゲーム]] 第7話(2018年8月26日、日本テレビ) - 黒服 役<ref>[https://www.ntv.co.jp/0/news/04.html ゼロニュース 04] ゼロ 一獲千金ゲーム|日本テレビ</ref> * [[天 天和通りの快男児#テレビドラマ|天 天和通りの快男児]] 第5話(2018年11月1日、テレビ東京) - 黒服 役 == 映画出演 == * [[賭博黙示録カイジ#カイジ 人生逆転ゲーム(第1作)|カイジ 人生逆転ゲーム]](2009年) - 黒服 役 * [[賭博黙示録カイジ#カイジ2 人生奪回ゲーム(第2作)|カイジ2 人生奪回ゲーム]](2011年)<ref>[https://natalie.mu/comic/news/58909 福本伸行が映画「カイジ2」カメオ出演で役柄当てクイズ] - コミックナタリー</ref> * [[賭博黙示録カイジ#カイジ ファイナルゲーム(第3作)|カイジ ファイナルゲーム]](2020年) == 特集など == * 『[[週刊ヤングマガジン#ヤングマガジン増刊赤BUTA|ヤングマガジン増刊 赤BUTA]]』 1997年6月18日(No.12)講談社(インタビュー)<ref>[http://ikesanfromfrneore.blog64.fc2.com/blog-entry-565.html 「カイジ」の連載が始まった頃の福本伸行インタビュー記事('97)]</ref> * [[週刊少年「」]] 2003年5月6日放送 [[フジテレビジョン|フジテレビ]][[衛星放送|CS放送]]・[[フジテレビTWO|フジテレビ721]](インタビュー)<ref>[https://web.archive.org/web/20040227134151/http://karzusp.hp.infoseek.co.jp/column/fukumoto.html 週刊少年『福本伸行』テキスト起こし]</ref> ** のち単行本化([[太田出版]] 2003年12月 {{ISBN2|978-4-87233-819-5}}) * [[ウォーカープラス]] 2006年6月24日 [[角川クロスメディア]](インタビュー)<ref>[http://comic.2ch-library.com/fukumoto/source/walker_030624.htm Tokyo.Walkerplus.com book interview]</ref> * 『[[オトナファミ]]』 2008年5月3日 [[エンターブレイン]](インタビュー)<ref>[http://emma.blog.shinobi.jp/Entry/57/ 「オトナファミ」福本伸行インタビュー:『銀と金』について]</ref> * 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』 2009年10月号 * 福本伸行 人生を逆転する名言集 {{ISBN2|978-4-8124-3991-3}} * 福本伸行 人生を逆転する名言集 2 {{ISBN2|978-4-8124-4227-2}} == 主な麻雀戦績 == * [[麻雀最強戦]]2018著名人代表決定戦 常勝の盾優勝、ファイナル敗退(ベスト16) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} {{福本伸行}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふくもと のふゆき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:雀士]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]]
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カー・パリネロ法
カー・パリネロ法(カーパリネロほう、英: Car–Parrinello method、CP法)は、1985年、カー(R. Car)とパリネロ(M. Parrinello)によって考案されたバンド計算の手法である。従来用いられていた行列要素の対角化を行わずに固有値(及び固有ベクトル)を求めることにより、計算を大幅に高速化した。これにより、系の電子状態と共に、その構造の最適化(この部分は古典的分子動力学法を用いる)も可能とした。 本手法は、第一原理分子動力学法(first-principles molecular dynamics, FPMD, またはab initio molecular dynamics, AIMD)などとも呼ばれる。それぞれ微妙に異なるものを意味している場合もある。現在では、カー、パリネロによるオリジナルな手法が用いられることはほとんどなく、より効率化、高速化を図った手法に置き換わっている。ただし、これら現在主流となっている手法も広い意味でのカー・パリネロ法の範疇にあると言える。 ドットは時間微分を表し、上付きの"*"は複素共役を表す。 以上から、以下の二つの運動方程式が得られる。t は時間(波動関数に対する時間tは仮想的な時間で実時間ではない)、δは変分(汎関数微分)、H はハミルトニアンを意味する。 参照 : ラグランジュ力学 上記、最後の2式から系の電子状態及び系の構造の最適化を行う。波動関数に関しての仮想的な運動方程式は、時間の2階微分を1階微分に置き換えると最急降下法となる。他にもいくつかの手法(例 : 共役勾配法など)への発展形がある。 カー・パリネロ法が出てくる以前は、電子状態の計算(バンド計算)を行いつつ、構造の最適化(〔準〕安定構造の探索)を同時に行うことは、計算(対角化)で求められる原子間に働く力から、手動でユニットセル内の原子を動かして次のステップに回すか(手動で動かす段階で一旦計算が終了してしまう)、計算量が膨大な対角化を用いて、計算から得られる力をもとにユニットセル内の原子を分子動力学を用いて動かすことが行われていた。いずれにしても、大変効率が悪く、扱える原子数はせいぜい数個のオーダーであった。 カー・パリネロ法の出現は、この扱える原子数を一気に数十個のオーダーに引き上げた。数十個という規模ならスラブ近似を用いれば比較的扱い易いシリコンの表面系の安定構造を求める計算や、構造最適化の動力学的な過程を追っていくことが可能となった。 初期のカー・パリネロ法では、系の原子(より正確にはイオン芯または原子核)を分子動力学によって解くのと同時に、電子の波動関数を仮想的に時間発展していくものとして、波動関数に関する仮想的な運動方程式を分子動力学的手法と同じ形式を用いて原子系と連動して解いていた(上記、ラグランジアンの式変形参照)。これは後により効率の良い方法へと発展していくこととなる。 当初は、専ら擬ポテンシャル+平面波基底による方法で、カー・パリネロ的手法が実現されたが、その後、全電子手法であるAPW法に対し、カー・パリネロ的手法を取り入れたものが出現している。更に、タイトバインディング法との結合 (TBMD) や、混合基底を使った手法でもカー・パリネロ的手法を導入したものが登場している。 電子状態を解くための手法面でも、初めは電子の波動関数を最急降下法やベレの方法で逐次的に解く方法が使われたが、その後、共役勾配法(いくつかの改良版がある)や、より洗練された方法(例 : RMM-DIIS法、ダビッドソン法)が使われるようになっている。 波動関数を計算する部分(電子状態計算部分)も、原子の動力学と同時に解くのではなく、原子を動かす時間幅を大きくとるようにして、原子を動かす毎に電子状態部分を常にボルン‐オッペンハイマー面まで収束させるようにする手法が主流となっていった(ペインのアルゴリズム)。また、この手法では原子の移動(構造の最適化)も同時に行われるが、この時原子の移動量による波動関数の変化を外挿により予想する方法など、高速化、効率化を図る数多くの提案がなされている。 最近では、オーダーN法や、ハイブリッド法内での利用などの拡張も行われている。 ユニットセル内の原子(イオン芯)を分子動力学手法で扱う場合は有限温度での計算が可能であるが、一方、同時に行う電子状態計算部分は密度汎関数法の枠内での計算なので絶対零度での計算となる。ペインのアルゴリズムのように、原子を動かす毎に電子状態をボルン‐オッペンハイマー面に収束させる場合、計算上の支障はないが、電子状態計算はあくまで絶対零度での計算であることに注意が必要である。電子状態計算部分も有限温度へ拡張するアプローチも存在する。
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カー・パリネロ法は、1985年、カーとパリネロによって考案されたバンド計算の手法である。従来用いられていた行列要素の対角化を行わずに固有値(及び固有ベクトル)を求めることにより、計算を大幅に高速化した。これにより、系の電子状態と共に、その構造の最適化(この部分は古典的分子動力学法を用いる)も可能とした。
'''カー・パリネロ法'''(カーパリネロほう、{{lang-en-short|Car–Parrinello method}}、'''CP法''')は、[[1985年]]、カー([[:en:Roberto Car|R. Car]])とパリネロ([[:en:Michele Parrinello|M. Parrinello]])によって考案された[[バンド計算]]の手法である<ref>R. Car and M. Parrinello, Phys. Rev. Lett., '''55''' (1985) 2471.</ref>。従来用いられていた行列要素の[[対角化]]を行わずに[[固有値]](及び[[固有ベクトル]])を求めることにより、計算を大幅に高速化した。これにより、系の電子状態と共に、その構造の最適化(この部分は古典的[[分子動力学法]]を用いる)も可能とした。 == 名称に関して == 本手法は、'''[[第一原理計算|第一原理]][[分子動力学法]]'''({{lang|en|first-principles molecular dynamics}}, '''FPMD''', または[[ab initio]] molecular dynamics, '''AIMD''')などとも呼ばれる。それぞれ微妙に異なるものを意味している場合もある。現在では、カー、パリネロによるオリジナルな手法が用いられることはほとんどなく、より効率化、高速化を図った手法に置き換わっている。ただし、これら現在主流となっている手法も広い意味でのカー・パリネロ法の範疇にあると言える。 == カー・パリネロ法使用の利点 == * 計算量の減少 : 対角化を使用しないため、計算量のオーダーを''N''<sup>3</sup>から最大 ''N'' log ''N'' 程度まで減らすことができる。''N'' は使用する基底関数の展開数。 * メモリの節約 : 同様にして必要なメモリも大体''N''<sup>2</sup>から、''NM''のオーダーにすることが出来る。''M'' はバンドの数。ここで基底関数の数は、バンド数より一桁以上大きいことが前提(←平面波基底の場合、''N'' ≫ ''M'') * 系の構造の分子動力学計算や最適化が電子状態計算と同時に行える。 == ラグランジアンが出発点 == :<math> L = \sum_{i,\vec{k}} \int m |\dot{\psi}_{i,\vec{k}} (\vec{r}) |^2 d\vec{r} + \sum_I {1 \over 2} M_I \dot{\vec{R_I}}^2 - E_\text{tot}[{\psi_{i,\vec{k}} },{\vec R_I }] + \sum_{i,j,\vec{k}} \Lambda_{i,j,\vec{k}} \left(\int {\psi^*}_{i,\vec{k}} (\vec{r}) \psi_{j,\vec{k}} (\vec{r}) d\vec{r} - \delta_{i,j}\right) </math> :: <math>i</math> : バンドの指標 :: <math>\vec{k}</math> : [[ブリュアンゾーン#k点|k点]] :: <math>m</math> : 波動関数に対する仮想質量 :: <math>\psi</math> : [[波動関数]] :: <math>M_I</math> : イオン芯(原子核)部分の質量(''I''は指標) :: <math>\vec{R}_I</math> : イオン芯の座標の位置ベクトル :: <math>E_\text{tot}[\cdot]</math> : 系の全エネルギー :: <math>\Lambda_{i,j,\vec{k}}</math> : ラグランジュの未定係数 ドットは[[時間微分]]を表し、上付きの"*"は[[複素共役]]を表す。 :<math> \int {\psi^*}_{i,\vec{k}} (\vec{r}) \psi_{j,\vec{k}} (\vec{r}) d\vec{r} = \delta_{i,j} </math> 規格直交性(基底関数に対する制約) :<math> \frac{d}{dt} \left( \frac{\delta L}{\delta \dot{\psi^*}_{i,\vec{k}} } \right) = \frac{\delta L}{\delta {\psi^*}_{i,\vec{k}} }</math> 波動関数部分 :<math> \frac{d}{dt} \left( \frac{\partial L}{\partial \dot{\vec{R}_I}} \right) = \frac{\partial L}{\partial \vec{R}_I} </math> ← イオン芯部分 以上から、以下の二つの運動方程式が得られる。''t'' は時間(波動関数に対する時間tは仮想的な時間で実時間ではない)、&delta;は[[変分]](汎関数微分)、''H'' は[[ハミルトニアン]]を意味する。 :<math> \begin{align} m \ddot{\psi}_{i,\vec{k}} (\vec{r},t) = - \frac{\delta E_{tot}}{\delta {\psi^*}_{i,\vec{k}} (\vec{r},t) } + \sum_j \Lambda_{i,j,\vec{k}} \psi_{j,\vec{k}} (\vec{r},t) = - H \psi_{i,\vec{k}} (\vec{r},t) + \sum_j \Lambda_{i,j,\vec{k}} \psi_{j,\vec{k}} (\vec{r},t) \\ M_I \ddot{\vec{R}_I} = - \nabla_{\vec{R}_I} E \end{align} </math> 参照 : [[ラグランジュ力学]] 上記、最後の2式から系の電子状態及び系の構造の最適化を行う。波動関数に関しての仮想的な運動方程式は、時間の2階微分を1階微分に置き換えると[[最急降下法]]となる。他にもいくつかの手法(例 : [[共役勾配法]]など)への発展形がある。 == 過去、現在、未来 == カー・パリネロ法が出てくる以前は、電子状態の計算(バンド計算)を行いつつ、構造の最適化(〔準〕安定構造の探索)を同時に行うことは、計算(対角化)で求められる原子間に働く力から、手動でユニットセル内の原子を動かして次のステップに回すか(手動で動かす段階で一旦計算が終了してしまう)、計算量が膨大な対角化を用いて、計算から得られる力をもとにユニットセル内の原子を分子動力学を用いて動かすことが行われていた。いずれにしても、大変効率が悪く、扱える原子数はせいぜい数個のオーダーであった<ref group="注">そもそもカー・パリネロ法が登場する以前は、通常のバンド計算(電子状態計算)で構造の最適化(〔準〕安定構造の探索)を同時に遂行することはほとんどなく、[[表面]]などのような複雑な系での構造は、実験によって観測された値を流用することがほとんどであった。</ref>。 カー・パリネロ法の出現は、この扱える原子数を一気に数十個のオーダーに引き上げた。数十個という規模なら[[スラブ近似]]を用いれば比較的扱い易い[[シリコン]]の表面系の安定構造を求める計算や、構造最適化の動力学的な過程を追っていくことが可能となった。 初期のカー・パリネロ法では、系の[[原子]](より正確には[[イオン芯]]または[[原子核]])を分子動力学によって解くのと同時に、[[電子]]の[[波動関数]]を仮想的に時間発展していくものとして、波動関数に関する仮想的な運動方程式を分子動力学的手法と同じ形式を用いて原子系と連動して解いていた(上記、ラグランジアンの式変形参照)。これは後により効率の良い方法へと発展していくこととなる。 当初は、専ら[[擬ポテンシャル]]+[[平面波]]基底による方法で、カー・パリネロ的手法が実現されたが、その後、全電子手法である[[APW法]]に対し、カー・パリネロ的手法を取り入れたものが出現している<ref>T. D. Kühne, M. Krack, F. R. Mohamed and M. Parrinello, Phys. Rev. Lett. '''98''', 066401 (2007).</ref><ref>J. M. Soler and A. R. Williams, Phys. Rev. B'''40''' (1989) 1560.</ref>。更に、[[タイトバインディング法]]との結合 (TBMD) や、[[混合基底]]を使った手法でもカー・パリネロ的手法を導入したものが登場している。 電子状態を解くための手法面でも、初めは電子の波動関数を最急降下法や[[ベレの方法]]で逐次的に解く方法が使われたが、その後、[[共役勾配法]](いくつかの改良版がある)や、より洗練された方法(例 : RMM-DIIS法、ダビッドソン法)が使われるようになっている。 波動関数を計算する部分(電子状態計算部分)も、原子の動力学と同時に解くのではなく、原子を動かす時間幅を大きくとるようにして、原子を動かす毎に電子状態部分を常にボルン‐オッペンハイマー面まで収束させるようにする手法が主流となっていった(ペインのアルゴリズム<ref>J. M. Soler and A. R. Williams, Phys. Rev. B'''42''' (1990) 9728.</ref>)。また、この手法では原子の移動(構造の最適化)も同時に行われるが、この時原子の移動量による波動関数の変化を[[外挿]]により予想する方法<ref>M. C. Payne, M. P. Teter, D. C. Allan, T. A. Arias and J. D. Joannopoulos, Review of Modern Physics, Vol. 64, No. 4, (1992) 1045. (総合的な解説記事としても重要)</ref>など、高速化、効率化を図る数多くの提案がなされている。 最近では、[[オーダーN法]]や、[[ハイブリッド法]]内での利用などの拡張も行われている。 == 温度に関して == ユニットセル内の原子(イオン芯)を分子動力学手法で扱う場合は有限温度での計算が可能であるが、一方、同時に行う電子状態計算部分は[[密度汎関数法]]の枠内での計算なので絶対零度での計算となる。ペインのアルゴリズムのように、原子を動かす毎に電子状態をボルン‐オッペンハイマー面に収束させる場合、計算上の支障はないが、電子状態計算はあくまで絶対零度での計算であることに注意が必要である。電子状態計算部分も有限温度へ拡張するアプローチも存在する。 == カー・パリネロ法で必要な近似、手法、道具 == * 上述のように、最急降下法、共役勾配法、RMM-DIIS法などを使って、波動関数の更新(電子状態部分の計算)を行う。 * [[断熱近似]] : 電子状態の計算と共に、ユニットセル内の原子の分子動力学計算(→原子を動かす)を行うので、この近似が成立しない系には適用できない。 * [[ヘルマン-ファインマン力]] : 原子(イオン芯)の分子動力学計算を行うためには、原子間に働く力を電子状態計算から求める必要がある。 * [[圧力]](ストレス) : 初期の頃は、ユニットセル内の原子(イオン芯)の構造の最適化のみが行われたが、後に圧力や[[ストレス (物理学)|ストレス]]も計算してユニットセルの大きさや形そのものも最適化の対象となった。つまり電子状態の計算と同時に、ユニットセルの内部構造及びユニットセル自身の最適化(〔準〕安定構造の探索)も現在では行われるようになっている。 * [[グラム・シュミットの正規直交化法]] : 電子状態計算において、基底は直交していなければならない(←少なくとも[[セルフコンシステント]]な計算が収束した段階では)。このため直交化(手法←グラムシュミットの方法以外の直交化手段もある)が必要。 * [[高速フーリエ変換]] : カー・パリネロ法に限らず、[[実空間法]]のような場合を除いて、電子状態計算(バンド計算)にとっては必須の手法と言っても過言ではない。 * [[スーパーコンピュータ]]、[[超並列マシン]] : カー・パリネロ法の出現により、計算速度、効率は飛躍的に上がったが、電子状態部分の計算には依然として大量の計算資源が要求され、[[2003年]]においても原子数が100個を越えるような大きな系の計算の実現のためには、スーパーコンピュータや超並列マシンが必須である。 * [[ワークステーション]]、[[パーソナルコンピュータ]](PC) : カー・パリネロ法が登場した当初はPC上での第一原理分子動力学計算などは夢のような話であったが、同法が利用されるようになってから20年近くが経った2003年では、手法そのものの向上及び、ワークステーションやPC等の飛躍的な性能向上も相まって、スーパーコンピュータのような巨大な計算資源を使わなくとも中規模程度(〜数十原子からなる系)の第一原理分子動力学計算なら(←計算条件、目的にもよる)、ワークステーションや数台のPCクラスターあるいは単独で計算遂行が可能になっている。 == 脚注 == {{reflist|group=注}} == 参考文献 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:かあはりねろほう}} [[Category:固体物理学]] [[Category:計算物理学]] [[Category:量子化学]] [[Category:分子動力学]]
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調理法
調理法(ちょうりほう)とは、調理に用いる手法である。専門的な手法は調理技術などと呼ばれる。
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調理法(ちょうりほう)とは、調理に用いる手法である。専門的な手法は調理技術などと呼ばれる。 食材の切り方一覧 中華料理の切り方一覧、フランス料理の切り方一覧 漬け方一覧 茹で物 煮物 焼き物 揚げ物 炒め物 蒸し物 和え物 焙煎 燻製 冷凍 盛り付け
{{出典の明記|date=2021年2月}} '''調理法'''(ちょうりほう)とは、[[調理]]に用いる手法である。専門的な手法は'''調理技術'''などと呼ばれる。 * [[食材の切り方一覧]] ** [[中華料理の切り方一覧]]、[[フランス料理の切り方一覧]] * [[漬け方一覧]] * [[茹で物]] * [[煮物]] * [[焼き物 (料理)|焼き物]] * [[揚げ物]] * [[炒め物]] * [[蒸し物]] * [[和え物]] * [[焙煎]] * [[燻製]] * [[冷凍]] * [[盛り付け]] == 調理技術 == * [[霜降り造り|霜降り]] * [[炊き合せ]] * [[灰汁抜き]] * [[三杯酢]] * [[三枚おろし]] * [[洗い]] * [[塩揉み]] * [[塩茹で]] * [[水煮]] * [[下拵え]] * [[しめ|しめ、締め]]、[[〆#一般名詞|〆]] * [[湯煎]] * [[湯通し]] * [[燻製|燻煙]] == 関連項目 == * [[電子レンジ]] * [[真空調理法]] * [[新調理システム]] * [[料理本]] {{料理}} {{food-stub}} {{デフォルトソート:ちようりほう}} [[Category:調理法|*]] [[Category:食文化関連の一覧]] [[de:Lebensmittelindustrie#Industrielle Lebensmittelverarbeitung]] [[en:Outline of food preparation#Food preparation techniques]] [[he:עיבוד מזון]]
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山田玲司
山田 玲司(やまだ れいじ、1966年1月8日 - )は、日本の漫画家。東京都出身、埼玉県越谷市在住。多摩美術大学美術学部絵画学科油絵専攻卒。 東京都中央区日本橋生まれ。7歳から埼玉県越谷市にて育つ。10歳の頃に手塚治虫に憧れ、漫画家を志す。13歳で秋田書店に持ち込みを行い、高校では創作研究同好会に入って漫画漬けの日々を送る。高校在学中、父親に薦められた美術大学受験のために、放課後は予備校に通い、多摩美術大学に現役合格する。 大学では、たかはまこから漫画やその後についてのアドバイスを受けたという。漫画家の江川達也のアシスタントもしており、当時のチーフアシスタントは藤島康介だった。初期作品では、大学時代の後輩であるウエダハジメや冬目景、きらたかしなどがアシスタントを務めていた。在学中の1986年に『コミックモーニング』に掲載された『17番街の情景』で漫画家としてデビューする。 デビュー後は、連載した作品が4度も打ち切られるなど、しばらく不遇の時代を過ごす。1991年に『ヤングサンデー』で連載を開始した『Bバージン』がヒットし、その後は各界の著名人へのインタビュー漫画『絶望に効くクスリ』、自身の美大受験体験を基に『美大受験戦記アリエネ』などを連載した。多摩美術大学の漫研に在籍していた沙村広明は、大学祭のときに漫研OBである山田から持ち込みを勧められたことがデビューのきっかけであるとしている。 女性のための恋愛コミックエッセイ『モテない女は罪である』など、一般書籍も多数執筆している。 2014年10月から、ニコニコチャンネルで『山田玲司のヤングサンデー』を毎週水曜日に配信。番組名はヤングサンデー創刊から休刊まで関わったこと。休刊で喪失感を味わい、当時の何でもありの空気が好きだったことなどが由来。当初は小学館黙認であったが、小学館社員ゲスト出演以降は(会社として何かをするわけでないものの)番組名のみ認める形となっており、いずれは小学館と何らかの形でコラボしたいと述べている。番組のモットーは「ゴキゲン主義」。 2021年3月から、AuDeeで『山田玲司とバグラビッツ』を毎週日曜22時に配信中。 動画生配信などが話題になり、2022年5月頃よりYahoo! JAPANにおける検索数が徐々に伸びていることから、Yahoo!検索大賞 2022のネクストブレイクカテゴリーの3名のうちの1名に選出された。
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山田 玲司は、日本の漫画家。東京都出身、埼玉県越谷市在住。多摩美術大学美術学部絵画学科油絵専攻卒。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 山田 玲司 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1966|1|8}} | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1986年]] - <!--YYYY年 --> | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = 『[[Bバージン]]』<br/>『[[絶望に効くクスリ]]』<ref>[https://yamada-reiji.com/profile 公式サイト プロフィール]より</ref> | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = [https://yamada-reiji.com 絶望に効く処方箋 漫画家 山田玲司 OFFICIAL SITE] }} '''山田 玲司'''(やまだ れいじ、[[1966年]][[1月8日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]]出身、[[埼玉県]][[越谷市]]在住。[[多摩美術大学]][[美術学部]]絵画学科油絵専攻卒。 == 略歴 == [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都)|日本橋]]生まれ。7歳から[[埼玉県]][[越谷市]]にて育つ<ref>[http://www.city.koshigaya.saitama.jp/kanko/tokimeki/yamadareiji.html ときめきインタビュー] - 越谷市公式サイト</ref>。10歳の頃に[[手塚治虫]]に憧れ、漫画家を志す。13歳で[[秋田書店]]に持ち込みを行い、高校では創作研究同好会に入って漫画漬けの日々を送る<ref>[http://www.mammo.tv/interview/archives/no196.html #196 何でだろう?の問いが自分を引っ張りあげる] - マンモTV</ref>。高校在学中、父親に薦められた美術大学受験のために、放課後は予備校に通い、[[多摩美術大学]]に現役合格する。 大学では、<!--[[貞本義行]]の妻である-->[[たかはまこ]]から漫画やその後についてのアドバイスを受けたという。漫画家の[[江川達也]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]もしており、当時のチーフアシスタントは[[藤島康介]]だった。初期作品では、大学時代の後輩である[[ウエダハジメ]]や[[冬目景]]、[[きらたかし]]などがアシスタントを務めていた。在学中の[[1986年]]に『[[モーニング (漫画雑誌)|コミックモーニング]]』に掲載された『17番街の情景』で漫画家としてデビューする。 デビュー後は、連載した作品が4度も打ち切られるなど、しばらく不遇の時代を過ごす。[[1991年]]に『[[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]』で連載を開始した『[[Bバージン]]』がヒットし、その後は各界の著名人へのインタビュー漫画『[[絶望に効くクスリ]]』、自身の美大受験体験を基に『美大受験戦記アリエネ』などを連載した。多摩美術大学の漫研に在籍していた[[沙村広明]]は、大学祭のときに漫研OBである山田から持ち込みを勧められたことがデビューのきっかけであるとしている。 女性のための恋愛コミックエッセイ『モテない女は罪である』など、一般書籍も多数執筆している。 2014年10月から<ref>{{Cite web|和書|title=山田玲司のヤングサンデー【第1号】メンヘラブートキャンプとは?:山田玲司のヤングサンデー|url=https://ch.nicovideo.jp/yamadareiji/blomaga/ar636964|website=山田玲司のヤングサンデー:ブロマガ - ニコニコチャンネル|accessdate=2019-05-25|publisher=|date=2014-10-04}}</ref>、[[ニコニコチャンネル]]で『山田玲司のヤングサンデー』を毎週水曜日に配信<ref>{{Cite web|和書|title=山田玲司のヤングサンデー【第0号】:山田玲司のヤングサンデー|url=https://ch.nicovideo.jp/yamadareiji/blomaga/ar624900|website=山田玲司のヤングサンデー:ブロマガ - ニコニコチャンネル|accessdate=2019-05-25|publisher=|date=2014-09-29}}</ref>。番組名はヤングサンデー創刊から休刊まで関わったこと。休刊で喪失感を味わい、当時の何でもありの空気が好きだったことなどが由来<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=W9t9JmBKJ08 |title=「仮面ライダー」とは何なのか?〜漫画家・村枝賢一と語る仮面ライダーの魂と“BLACK SUN”(ネタバレあり)【山田玲司−380】 |access-date=2022/11/09 |publisher=山田玲司のヤングサンデー |date=2022/11/09}}</ref>。当初は小学館黙認であったが、小学館社員ゲスト出演以降は(会社として何かをするわけでないものの)番組名のみ認める形となっており、いずれは小学館と何らかの形でコラボしたいと述べている。番組のモットーは「ゴキゲン主義」<ref>{{Cite web|和書|title=『Bバージン』『ゼブラーマン』の生みの親! 漫画家・山田玲司が独自の視点で語る話題のYouTube |url=https://goetheweb.jp/person/article/20220909-reiji-yamada |website=GOETHE[ゲーテ] |access-date=2022-11-19 |language=ja |date=2022.09.09}}</ref>。 2021年3月から<ref>{{Cite web|和書|title=恋愛大肯定プログラム!『山田玲司とバグラビッツ』が本日スタート! |url=https://audee.jp/news/show/77342|website=山田玲司とバグラビッツ|accessdate=2021-10-26|publisher=|date=2021-3-14}}</ref>、[[AuDee]]で『山田玲司とバグラビッツ』を毎週日曜22時に配信中<ref>{{Cite web|和書|title=山田玲司とバグラビッツ |url=https://audee.jp/program/show/100000214|website=山田玲司とバグラビッツ|accessdate=2021-10-26|publisher=|date=2021-3-14}}</ref>。 動画生配信などが話題になり、2022年5月頃より[[Yahoo! JAPAN]]における検索数が徐々に伸びていることから、[[Yahoo!検索大賞]] 2022のネクストブレイクカテゴリーの3名のうちの1名に選出された<ref>{{Cite press release |和書 |title=2022年に最も検索数が急上昇した“今年の顔”、「Yahoo!検索大賞2022」を発表 羽生結弦さんが「大賞」とアスリート部門1位をダブル受賞! 俳優部門1位 “松本若菜”さん、ミュージシャン部門1位 “なにわ男子” 、お笑い芸人部門1位 “JP”さん、声優部門1位 “種﨑敦美”さん |publisher=[[ヤフー (企業)|ヤフー株式会社]] |date=2022-12-05 |url=https://about.yahoo.co.jp/pr/release/2022/12/05a/ |accessdate=2022-12-06}}</ref>。 == 作品リスト == === 漫画作品 === * 17番街の情景([[コミックモーニング]]、1986年 - 1988年) * RAIN(1986年) * COLD(コミックモーニング、1987年) * 真夜中の蒸気船(コミックモーニング、1987年) * 眠れぬ夜のために([[週刊ヤングサンデー]]、1987年 - 1988年) * 霧の降る夜に(コミックモーニング、1988年) * 不器用なテレフォンフィッシュ(週刊ヤングサンデー、1988年) * 木曜日の絵画達 * SWEET DREAMS([[月刊アフタヌーン]]、1989年) * 理想主義者の屍に乾杯(自費出版、1989年) * 適応の条件(ロッキングコミック、1989年) * イデオロキッズ([[宝島 (雑誌)|宝島]]、1990年) * 駿河台ブレイクダウン(マンガ宝島、1990年) * [[Bバージン]](週刊ヤングサンデー、1991年 - 1997年) * インディゴブルース(短編集、1992年) * ストリッパー(ヤングサンデー増刊号「大漫王」、1994年) * 心のジョアンナ(1994年) * ドルフィン・ブレイン(第一部:[[週刊少年サンデー]]・第二部:[[週刊少年サンデー超]]、1995年 - 1997年) * 人生裏口入学([[コミッカーズ]]、1995年 - 2000年) * あらいぐまタンピー([[月刊近代麻雀ゴールド|近代麻雀]]、1997年) * [[アガペイズ]](週刊ヤングサンデー、1998年 - 2000年) * NG(週刊ヤングサンデー、2000年 - 2001年) * ゴールドパンサーズ(週刊ヤングサンデー、2001年 - 2002年) * [[絶望に効くクスリ]](週刊ヤングサンデー、2003年 - 2008年) * [[ゼブラーマン (漫画)|ゼブラーマン]](原作:[[宮藤官九郎]]、[[ビッグコミックスピリッツ]]、2004年 - 2005年) * しあしご([[木楽舎]]『ソトコト』、2005年 - 2007年)<!--雑誌の記事が存在しないため出版社を特に明記。--><!--正規のタイトルは「SIA・SIGO」/「しあしご」?--> * いのちの食べ方(アスコム『田原総一朗 責任編集 オフレコ!』、2005年) * 水の鳥(短編集、2007年) * ほんと未来はどうなるの? あかりちゃんとタルト(フリーペーパー『[[豪快な号外]]』収録、2007年) * ココナッツピリオド -地球温暖化を止めるウサギ-(ビッグコミックスピリッツ、2008年 - 2009年) * エコエコパンドラ([[まんがくらぶオリジナル]]、2008年 - 2009年)<!-- - 単行本未収録--> * リア充ハンター ウサラッチ([[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]、2009年) * SOUL BOX MAN([[近代麻雀]]、2009年) * [[ゼブラーマン2 〜ゼブラシティの逆襲〜]](原作:宮藤官九郎、[[月刊スピリッツ]]、2009年 - 2010年) <!--* マケデミー賞(FLASH連載中、2009年 - )--><!--復帰に際しては同タイトルでの終了(時期)を明記のこと。--> * 絶望に効く薬 敗者復活編(FLASH、2010年 - 2012年9月)※『マケデミー賞』改題 * 美大受験戦記 アリエネ([[ビッグコミックスピリッツ]]、2011年 - 2014年) * モテない女は罪である ([[大和書房]]、2014年) * スーパースーパーブルーハーツ ([[クラブサンデー]]、2015年) * CICADA(原作:山田玲司、作画:バナーイ、[[月刊!スピリッツ]]、2016年 - 2018年) * シェアボーイ(漫画家 山田玲司 公式サイト、2017年 - ) * 白亜(原作:山田玲司、作画・原案:愛☆まどんな 2019年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://yamada-reiji.com/archives/2293 | title=山田玲司 × 愛☆まどんな × 柿内芳文 異色のタッグによるグループ展「白亜展」を開催!【GW5月1日〜7日】| date=2019-4-6 |accessdate=2019-4-10}}</ref> === 一般書籍 === * アルマジロの木([[どうぶつ社]]、[[1994年]]) ISBN 4-88622-002-9 * 学校嫌い 江川達也×山田玲司 狂った教育から解放されるために(共著:[[江川達也]]、[[一迅社]]、2007年) ISBN 9784758010771 * [[非属の才能]]([[光文社新書]]、2007年) ISBN 978-4-334-03429-0 ** 【改題】ハミ出す自分を信じよう([[星海社文庫]]、2013年) * いますぐ考えよう!地球温暖化1 地球温暖化と自然環境 なぜおこる、なにがおこる(共著:[[田中優]]、[[岩崎書店]]、2008年) ISBN 978-4-265-02851-1 * いますぐ考えよう!地球温暖化2 地球温暖化と省エネルギー なにができる、なにがへらせる(共著:田中優、岩崎書店、2008年) ISBN 978-4-265-02852-8 * いますぐ考えよう!地球温暖化3 地球温暖化と自然エネルギー わたしたちの未来、みんなの地球(共著:田中優、岩崎書店、2008年) ISBN 978-4-265-02853-5 * キラークエスチョン 会話は「何を聞くか」で決まる(光文社新書、2009年) ISBN 978-4334035211 * 資本主義卒業試験([[星海社新書]]、2011年) ISBN 978-4061385054 * おそらく彼は「もう1度話し合おう(涙)」と来ます。 でも実は、「しばらくほっておいたら、どうにかなるだろ」と思っています。 - 男の本音を密告する「恋の男子更衣室」([[ワニブックス]]、2015年) * 見下すことからはじめよう 「中2」でなければ生き残れない([[ベストセラーズ]]、2016年) * 年上の義務(光文社新書、2016年) * UMA水族館(文響社、2017年) == 出演など == === 舞台 === * 夜の手塚治虫〜ここでしか語れない、黒くて妖しいオサムのこと。(2018年10月12日、[[吉祥寺シアター]]) - 手塚のアシスタント・山田玲司役<ref>{{Cite web|title=Kichijoji Anime wonderland 19th|url=http://www.kichifes.jp/wonderland/event/yoru.html|website=www.kichifes.jp|accessdate=2019-07-17}}</ref> === その他 === * 2017年1月開始のテレビアニメ「[[けものフレンズ (アニメ)|けものフレンズ]]」について、同年3月上旬のヤングサンデーで考察を行った。その後、3月下旬に以下の媒体でコメントをした。 ** [[TOKYOFM]]「[[TIME LINE]]」2017年3月28日 - 『深夜アニメ「けものフレンズ」が支持される深い理由』 ** [[AERA]] 2017年4月10日号 - 『「けものフレンズ」がネットで20~40代に受け入れられた理由』 * 芸人アニメ監督([[フジテレビジョン|フジテレビ]] 2022年6月11日) - ゲスト出演 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連人物 == * [[江川達也]] - 漫画家。アシスタント経験がある。 * [[藤島康介]] - 漫画家。アシスタント時代の先輩。 * [[だろめおん]] - 漫画家。元アシスタント。 * [[ウエダハジメ]] - 漫画家。元アシスタント。大学の後輩。 * [[冬目景]] - 漫画家。元アシスタント。大学の後輩。 * [[沙村広明]] - 漫画家。大学の後輩。 * [[石渡治]] - 漫画家。<!--関連性は不明--> * [[井上雄彦]] - 漫画家。<!--関連性は不明--> *[[きたがわ翔]] - 漫画家。山田を「玲ちゃん」と呼ぶほど親しい。漫画について語るWeb番組『れいとしょう(玲と翔、レイトショーを掛けている)』を不定期に配信している。2021年にきたがわが出した新書の帯には山田の名が載った。 * [[軌保博光]] - 環境活動家。 * [[田中優]] - 環境活動家。 * [[枝廣淳子]] - [[環境]][[ジャーナリスト]]、[[同時通訳]]者、[[翻訳家]]。 <!--関連性不明もしくは適当ではないと思われる列挙が多い。いわゆる「師匠」/「アシ」の記述法の方がマシなのでは?スタイルを含めて変更の余地があるので「きらたかし」の追加は見送り。--> == 外部リンク == * [https://yamada-reiji.com 漫画家 山田玲司 公式サイト] * {{Twitter}} * {{Mediaarts-db|name=山田玲司}} * [http://zetsuyaku.jugem.jp/ リゾート計画] - 本人のブログ * [https://www.1101.com/yasai/yamada_reiji/index.html 山田玲司が語る、永田照喜治。] - ほぼ日刊イトイ新聞 * [https://am-our.com/love/245/recent_post 山田玲司の男子更衣室へようこそ] - AM「アム」で連載していた恋愛コラム * {{ニコニコチャンネル|yamadareiji|山田玲司のヤングサンデー}} * {{youTube|channel=UC09D3M_DdLaZMJnZp0v4pLQ|山田玲司のヤングサンデー}} * [https://audee.jp/program/show/100000214 山田玲司とバグラビッツ] - AuDee {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やまた れいし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:多摩美術大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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福田重男
福田 重男(ふくだ しげお、1957年5月8日 - )は、ジャズピアニスト。 群馬県前橋市出身。3~4歳からクラシック・ピアノを始める。明治大学在学中にジャズ・ピアノを志し、辛島文雄に師事。1980年、プロ・デビュー。 2010年 第一回 風のまち音楽祭(前橋市)をアドバイザーとして成功に導く。
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福田 重男は、ジャズピアニスト。 群馬県前橋市出身。3~4歳からクラシック・ピアノを始める。明治大学在学中にジャズ・ピアノを志し、辛島文雄に師事。1980年、プロ・デビュー。 2010年 第一回 風のまち音楽祭(前橋市)をアドバイザーとして成功に導く。
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藤子不二雄
藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は、日本の漫画家。藤本弘(ふじもと ひろし)と安孫子素雄(あびこ もとお)の共同ペンネーム。1951年に連名でプロデビュー。独立後の1988年以降はそれぞれ藤子・F・不二雄、藤子 不二雄Aのペンネームで作品を発表した。代表作は『オバケのQ太郎』(合作)、『ドラえもん』(藤本単独作)、『パーマン』(旧作は藤本メインの合作、新作は藤本単独作)、『忍者ハットリくん』(安孫子単独作)、『怪物くん』(安孫子単独作)、『まんが道』(安孫子単独作)など多数。 1953年7月に改名して以降、コンビ時代は、合作、単独執筆作にかかわらず、すべて共通のペンネーム「藤子不二雄」で作品を発表した。 「1960年代半ばの『オバケのQ太郎』を最後に合作をやめた」という誤った情報が広まっているが、合作が行われなくなった年度から独立までの年度は1977年〜1987年のわずか11年で、『オバケのQ太郎』の連載開始以後も『わかとの』『名犬タンタン』『ベレーのしんちゃん』『チンタラ神ちゃん』『仙べえ』など、多数の合作が描かれている(詳細は#藤子不二雄の合作を参照)。 本稿ではコンビ活動中の仕事を中心に記述する。個別の経歴についてはそれぞれの項目を参照のこと。 終戦前の1944年に10歳で出会った藤本と安孫子は、漫画が好きという共通点からすぐに意気投合。1946年に『マァチャンの日記帳』、1947年に『新宝島』と出会ったことで大の手塚治虫ファンになり、自らも漫画家を目指すようになる。雑誌や新聞への読者投稿でたびたび入選。やがて「1人でやるより2人でやった方が力になるだろう」と合作を決意。かつて手塚が連載していた新聞に投稿した『天使の玉ちゃん』が、1951年12月に本人たちも気づかないうちに連載され、高校3年生でプロデビューを果たす。 1952年の高校卒業時にはあこがれの神様・手塚治虫と初対面。手塚の人気が700ページもの没原稿に支えられていることを知り、大きなショックを受ける。 新聞社に就職した安孫子と、家で漫画に専念する生活を選んだ藤本は、漫画の執筆を続け『西部のどこかで』で雑誌デビュー。1953年1月に初の雑誌連載『四万年漂流』を開始するも6回で打ち切られてしまう。同年7月、初の単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』を刊行(手塚の紹介で出版社から依頼があり描き下ろした)。これは後に日本で最もプレミアム価値がついた伝説の漫画単行本となる。 1954年6月に意を決して上京した2人は両国の2畳間の下宿を経て、後に伝説のアパートとなるトキワ荘の手塚治虫の部屋に入れ替わりで入居。仕事も順調に増えて多忙な生活を送るも、1955年の正月に連載を含む11本のうち5本を落とすという事件を起こしてしまう。 しばらく仕事が減ったものの干されることはなく、翌年には連載を獲得して復活。初の週刊連載『海の王子』(合作)もスタートし、ほどなく連載10本を抱える売れっ子漫画家となる。 1961年、トキワ荘を出た2人は川崎市に隣同士で家を新築して転居。 1963年には鈴木伸一、石森章太郎、つのだじろうらとアニメーション・スタジオ「スタジオゼロ」を設立。1964年、その雑誌部の仕事として描かれた『オバケのQ太郎』(合作)が大ヒット。テレビアニメ化されたこともあり「オバQブーム」と呼ばれる社会現象になる。 これに続いて数年のうちに『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)、『パーマン』(この時代に描かれた旧作は藤本メインの合作)、『21エモン』(藤本)などの代表作が続々と新たに発表され、その多くがテレビアニメやテレビドラマになる。 1968年には青年向け漫画誌が次々と創刊したことで大人漫画にも進出。安孫子は『黒イせぇるすまん』を皮切りに、70年代を中心にブラックユーモア短編の数々を執筆。他にも『ミス・ドラキュラ』(1975-1980)を長期連載するなど、多数の大人漫画を発表した。藤本も『ミノタウロスの皿』をはじめとしたSF短編を数多く執筆した。 1970年代に安孫子は少年向け作品も精力的に執筆。週刊少年誌にて、後に藤子漫画史上最長となる自伝的漫画『まんが道』シリーズ(1970-2013)を開始した他、怪奇漫画『魔太郎がくる!!』(1972-1975)、ギャグ漫画『オヤジ坊太郎』(1975-1976)等を次々と連載。趣味のゴルフを生かした大作『プロゴルファー猿』シリーズ(1974-2005)はゴルフ漫画の先駆けとなった。 一方で藤本は劇画の隆盛もあってヒットから遠のく。『ウメ星デンカ』(1968-1970)の後、合作『仙べえ』(1971-1972)を経て週刊少年誌の連載から撤退し、小学館の学習雑誌に注力。1969年に連載を開始した『ドラえもん』(1969-1996)が1973年のテレビアニメ化を経てじわじわと人気を高め、1977年にはドラえもんを大量に読める児童漫画誌としてコロコロコミックが創刊。1979年の2度目のアニメ化により空前のドラえもんブームを巻き起こした。その人気は一過性のブームのみに留まらず、1980年の映画化以来、毎年シリーズ作品の新作が公開されるなど、40年以上にわたって続いている。 ドラえもんに次いで1980年〜1987年にかけて『怪物くん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『ウルトラB』等の藤子漫画が立て続けにテレビアニメ・映画化。藤子のアニメだけを放送する『藤子不二雄ワイド』が毎週放送され、藤子の新作漫画が毎週掲載される週刊誌形式の漫画全集『藤子不二雄ランド』(1984-1991)が毎週刊行されるなど、藤子不二雄ブームと呼ばれる現象となった。 そんな中で1986年に安孫子は倒れた妻を介護する身となり、藤本は癌手術で休養。1987年末にそれぞれ1人の漫画家として独立することを発表し、1988年から「2人で2人の藤子不二雄」として新たなスタートを切る(最後の合作はドラえもんブーム直前の1976年に描かれた『オバケのQ太郎』の読切)。 独立後、安孫子は1990年公開の映画『少年時代』をプロデュース。数々の賞を受賞した。また、1989年にアニメ化された『笑ゥせぇるすまん』が人気となり、新作の長期連載等、せぇるすまんシリーズ(1968-2004)の漫画執筆を行った。その他、『パラソルヘンべえ』(1989-1991)や『プリンスデモキン』(1991-1999)など、20世紀は児童漫画の執筆も一貫して行った。 1988年以降から1996年にかけて、藤本作では『キテレツ大百科』『チンプイ』『21エモン』『ポコニャン!』『モジャ公』等が、安孫子作では『ビリ犬』『笑ゥせぇるすまん』『さすらいくん』『夢魔子』『パラソルヘンべえ』等が次々とアニメ化された。 藤本は1996年9月23日に死去するまで、毎年『大長編ドラえもん』の漫画連載を執筆。春休みの映画公開は2023年現在も続いている。 安孫子は2000年代以降もまんが道シリーズ『愛...しりそめし頃に...』等の連載を継続して執筆。『怪物くん』は嵐の大野智主演で連続ドラマ化、3D実写映画化された。 『忍者ハットリくん』は2004年にSMAPの香取慎吾主演で映画化された他、インドでアニメが放送され人気が爆発。2012年からは日本とインドで共同で新作アニメの制作を開始。2023年現在もYouTubeやテレビ放送で新作が公開される国際的人気作となっている。 2022年4月6日に安孫子が死去した後も、2人の遺した作品の数々は社会に根強く影響を与え続けている。 (以上は「年譜」の要約。詳細と注釈は「年譜」を参照のこと) 10歳で運命の出会い。2人で神様・手塚治虫を崇め続けた結果、高校3年で本人たちも知らない間にプロデビューを果たす。 あこがれの手塚治虫と初対面を果たし大きなショックを受ける。昼は高岡市と富山市に分かれ、夜と日曜日のみ共に執筆する「まわり道」時代。雑誌デビューを果たし、19歳で伝説の単行本を世に送り出す。 上京。2畳間で2人で暮らす両国下宿時代の4か月を経て、あこがれのトキワ荘へ入居。わずか2か月後に「大量原稿遅延・落とし事件」を起こすも、干されることなく1年で復活。順調に仕事を増やし、母たちを東京に呼び寄せる。合計3部屋を借りる、連載10本の売れっ子漫画家に。 1962年に藤本、1966年に安孫子が結婚。 週刊少年誌の新連載が次々と増え、1964年には「週刊漫画誌3誌同時連載」を達成。 『オバQ』がアニメ化され大ヒット。オバQブームが起こり、社会的に知られる漫画家となる。 『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)、『パーマン』(この時代に描かれた旧作は藤本メインの合作)、『21エモン』(藤本)などの代表作が続々と発表され、その多くがテレビアニメやテレビドラマになる。 1960年代中頃から、劇画が隆盛し、少年誌に掲載される漫画の対象年齢も高くなった。 1968年(S43)には青年向け漫画誌『ビッグコミック』が創刊され、安孫子は読切『黒イせぇるすまん』を発表した。安孫子はそれまでも風刺色の強い漫画をしばしば発表していたが、本作を機に大人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。後にブラックユーモア短編と呼ばれる『マグリットの石』(1970)らの短編群の他、『毛沢東伝』(1971)、『愛ぬすびと』(1973)、『ミス・ドラキュラ』(1975-1980)等、多数の大人向け漫画が描かれた。 1969年(S44)に藤本も『ビッグコミック』に『ミノタウロスの皿』(1969)を発表。1970年代には多数の大人向け漫画を青年漫画雑誌、SF専門誌などで発表した。これらの短編は、少年向けのものとあわせてSF短編と呼ばれるようになった。 安孫子によると、青年漫画を描くようになった1973年頃、「少年雑誌にまた、たくさんおもしろいマンガをかいてください」というドラえもんファンの子供のファンレターを読み、少年漫画への回帰を決意したという。安孫子は1970年代、少年雑誌においても週刊連載を精力的に執筆する。後に藤子漫画史上最長となる自伝的漫画『まんが道』(少年チャンピオン連載は1970-1972)を開始した他、怪奇漫画『魔太郎がくる!!』(1972-1975)、『ブラック商会変奇郎』(1976-1977)、ギャグ漫画『オヤジ坊太郎』(1975-1976)等を次々と連載した。その中で趣味のゴルフを生かした大作『プロゴルファー猿』も生まれた。 一方、藤本は週刊少年誌で苦闘。劇画隆盛の中、藤本単独作の『ウメ星デンカ』(週刊少年サンデー連載は1969のみ)や『モジャ公』(1969-1970)の人気が伸び悩んでいたためだ。少年漫画誌が青年読者の獲得に力を入れる中、『週刊少年サンデー』編集部に、ゴンスケをサラリーマン化した新作を提案されたが、藤本は「私は最近の読者層の変質についていけません」と拒否している。『週刊少年サンデー』では『ウメ星デンカ』が終了。その後、合作『仙べえ』(1971-1972)を挟んで、次作は安孫子単独作の『プロゴルファー猿』(週刊少年サンデー連載は1974-1978)が連載となる。 週刊少年誌という舞台を失った藤本は小学館の学習雑誌に注力するが、学習雑誌での『ウメ星デンカ』(学習雑誌連載は1968-1970)の後継作『ドラえもん』(1969-1996)は、1973年にせっかく実現した初アニメ化(日本テレビ版)が制作サイドの問題で半年で打ち切りとなっていた。 1974年(S49)夏、単行本(てんとう虫コミックス)が発売されたことで『ドラえもん』(藤本単独作)の人気は徐々に高まっていく。 そんな中、1976年(S51)4月、『オバケのQ太郎』の読切作品(最後の合作)が『月刊少年ジャンプ』5月号に掲載される。 『ドラえもん』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、1977年(S52)には藤子不二雄作品を中心とした『コロコロコミック』が創刊。 『週刊少年キング』では藤子不二雄の自伝的漫画『まんが道』(キング連載は1977-1982。安孫子単独作)も開始した。 1979年(S54)には『ドラえもん』がテレビ朝日の製作により同系列で再アニメ化。全国放映され、不動の人気を決定づけた。 1980年(S55)には映画化され、現在まで続くシリーズ作品となる。 この30年後に安孫子は、『ドラえもん』が大ヒットしたのを見て「このままだと、藤本氏のマネジャーかアシスタントをやるしかないのでは」と内心悩んでいたというジョークであまりの過熱ぶりを振り返っている。 『ドラえもん』に続いて1980年〜1987年にかけて『怪物くん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『ウルトラB』が立て続けにテレビアニメ・映画化され、各メディアを席巻した。1985年(S60)にはこれらの藤子アニメを複数まとめて放送する番組枠『藤子不二雄ワイド』がレギュラー編成されるほどだった。 前年の1984年(S59)には、新作漫画が毎週掲載されるという異例の漫画全集『藤子不二雄ランド』(中央公論社)が創刊され、藤子不二雄は自身専用の週刊連載媒体を持つ漫画家となった。 1980年代の人気の過熱ぶりは藤子不二雄ブームと呼ばれる。 妻倒れ安孫子オロオロ、藤本は52歳で胃癌に。1987年末に2人は独立(コンビ解消)を発表する。 多くの連載を抱えながら妻を看護する身となった安孫子を心配し、「大丈夫? 少し休んだら。仕事はおれがカバーするから」と藤本。突然そう言われた安孫子は泣きそうになったという。だが、ほどなく藤本に胃癌が見つかったため、安孫子は妻を見舞いつつ、大量の仕事をこなして藤本をカバーする日々を送ることになる。 1986年に藤本が胃癌になってからの経緯を見れば、独立(コンビ解消)の大きな原因が藤本の体調(自由に休み時間をとりつつ自分のペースで仕事ができる環境が必要だった)にあることが伺える。また、安孫子家も大変な状況だった。 その他の「作風の違い」等の理由は、病気のことにあまり触れないために語っている可能性もふまえたうえで真相を考える必要がある。 アマチュア時代に合作形式になって以降、収入はすべて同一の口座に貯蓄し、必要な金銭は2人で均等に引き出していた。昔からの慣習のため、それが当たり前だったという。1966年の藤子スタジオ設立後も、原稿料等の収入はすべて会社に納入され、それにより会社が経営され、藤本と安孫子の2人にはそれぞれ同額の給与が支払われていた。独立前の1980年代の高額納税者公示制度を参照すると、2人がほぼ同額を納税していることが確認できる。 1988年の独立より前に、金銭的なトラブルが藤本と安孫子、または親族間において発生したという関係者の証言は確認されていない。藤本の妻は書籍にて、大病を患った藤本が退院後、安心して仕事ができる環境を整えることが独立の一因であることを示唆している。 1988年から「2人で2人の藤子不二雄」として新たにスタート。1996年9月までの9年弱の間に、2者2様の活動が行われた。映画での共演など、コンビ時代と変わらぬ関係も続いた。 AランドとF大全集が刊行。藤子漫画の変わらぬ人気ぶりが続く。藤本と安孫子の合作作品の購入がかつてよりも容易に。日の目を見ていない作品のさらなる復刊が待たれる。 『藤子不二雄Aデジタルセレクション』刊行。これによりF大全集とあわせて2人の作品の大部分が体系的に読めるようになった。藤子Aは未収録作品がまだまだ膨大にあるので、さらなる復刊が期待されている。 受賞、受章など。 藤本弘と安孫子素雄の2人の合作による主な漫画作品。それぞれが単独で執筆した作品は#作品一覧を参照。 ※上の「ピックアップ」で紹介した作品も含む。 藤子不二雄の主な作品。 以下は、別作品同士の共通点や類似点。 中には藤本作品と安孫子作品の両方にまたがる共通点もある。コンビ時代は単独作でもすべて「自作」「合作」なので、アイデアや同一のネタも共有し、各自で自由に使用していた。単独作の中にも、相棒の影響下のもとに描かれているものがあることがわかる。 テレビドラマや映画で実写映像となった主な藤子作品。 その他の作品はCategory:藤子不二雄原作の実写作品を参照。 藤子作品に付随して作られた主な音楽。 その他の作品はCategory:藤子不二雄の映像作品の音楽を参照。 1987年以前の「藤子不二雄」名義の楽曲。 藤子作品を題材に作られた主なコンピュータゲーム。 その他の作品はCategory:藤子不二雄のコンピュータゲームを参照。 2023年現在入手困難な作品、または未単行本化作品。 他多数。 藤子不二雄のサインや、作品の最後のコマ等に記されていることがある「Mo」に似たマークはアルファベットではなく「富士山」と「湖」で、「富士+湖」→「フジコ」を表している。独立後、藤本は「M」の左下に「o」を描くようになった。独立後、安孫子はMoマークを使用しなくなった(主にAをマークとして使うようになった)。安孫子は「これは藤子不二雄のマークなので、ぼくひとりのものではないから」と2005年にコメントしている。 藤子不二雄本人によるメディア出演。 藤子不二雄(または藤子不二雄をモデルとした人物)が登場する作品。 藤子スタジオ(1988年以降は藤子プロも含む)にて作画に関わったスタッフまたは友人。 ※在籍順。 ドラえもんの関連書籍の執筆者。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は、日本の漫画家。藤本弘(ふじもと ひろし)と安孫子素雄(あびこ もとお)の共同ペンネーム。1951年に連名でプロデビュー。独立後の1988年以降はそれぞれ藤子・F・不二雄、藤子 不二雄Aのペンネームで作品を発表した。代表作は『オバケのQ太郎』(合作)、『ドラえもん』(藤本単独作)、『パーマン』(旧作は藤本メインの合作、新作は藤本単独作)、『忍者ハットリくん』(安孫子単独作)、『怪物くん』(安孫子単独作)、『まんが道』(安孫子単独作)など多数。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1953年7月に改名して以降、コンビ時代は、合作、単独執筆作にかかわらず、すべて共通のペンネーム「藤子不二雄」で作品を発表した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「1960年代半ばの『オバケのQ太郎』を最後に合作をやめた」という誤った情報が広まっているが、合作が行われなくなった年度から独立までの年度は1977年〜1987年のわずか11年で、『オバケのQ太郎』の連載開始以後も『わかとの』『名犬タンタン』『ベレーのしんちゃん』『チンタラ神ちゃん』『仙べえ』など、多数の合作が描かれている(詳細は#藤子不二雄の合作を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本稿ではコンビ活動中の仕事を中心に記述する。個別の経歴についてはそれぞれの項目を参照のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "終戦前の1944年に10歳で出会った藤本と安孫子は、漫画が好きという共通点からすぐに意気投合。1946年に『マァチャンの日記帳』、1947年に『新宝島』と出会ったことで大の手塚治虫ファンになり、自らも漫画家を目指すようになる。雑誌や新聞への読者投稿でたびたび入選。やがて「1人でやるより2人でやった方が力になるだろう」と合作を決意。かつて手塚が連載していた新聞に投稿した『天使の玉ちゃん』が、1951年12月に本人たちも気づかないうちに連載され、高校3年生でプロデビューを果たす。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1952年の高校卒業時にはあこがれの神様・手塚治虫と初対面。手塚の人気が700ページもの没原稿に支えられていることを知り、大きなショックを受ける。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "新聞社に就職した安孫子と、家で漫画に専念する生活を選んだ藤本は、漫画の執筆を続け『西部のどこかで』で雑誌デビュー。1953年1月に初の雑誌連載『四万年漂流』を開始するも6回で打ち切られてしまう。同年7月、初の単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』を刊行(手塚の紹介で出版社から依頼があり描き下ろした)。これは後に日本で最もプレミアム価値がついた伝説の漫画単行本となる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1954年6月に意を決して上京した2人は両国の2畳間の下宿を経て、後に伝説のアパートとなるトキワ荘の手塚治虫の部屋に入れ替わりで入居。仕事も順調に増えて多忙な生活を送るも、1955年の正月に連載を含む11本のうち5本を落とすという事件を起こしてしまう。 しばらく仕事が減ったものの干されることはなく、翌年には連載を獲得して復活。初の週刊連載『海の王子』(合作)もスタートし、ほどなく連載10本を抱える売れっ子漫画家となる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1961年、トキワ荘を出た2人は川崎市に隣同士で家を新築して転居。", 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"paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "10歳で運命の出会い。2人で神様・手塚治虫を崇め続けた結果、高校3年で本人たちも知らない間にプロデビューを果たす。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "あこがれの手塚治虫と初対面を果たし大きなショックを受ける。昼は高岡市と富山市に分かれ、夜と日曜日のみ共に執筆する「まわり道」時代。雑誌デビューを果たし、19歳で伝説の単行本を世に送り出す。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "上京。2畳間で2人で暮らす両国下宿時代の4か月を経て、あこがれのトキワ荘へ入居。わずか2か月後に「大量原稿遅延・落とし事件」を起こすも、干されることなく1年で復活。順調に仕事を増やし、母たちを東京に呼び寄せる。合計3部屋を借りる、連載10本の売れっ子漫画家に。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1962年に藤本、1966年に安孫子が結婚。 週刊少年誌の新連載が次々と増え、1964年には「週刊漫画誌3誌同時連載」を達成。 『オバQ』がアニメ化され大ヒット。オバQブームが起こり、社会的に知られる漫画家となる。 『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)、『パーマン』(この時代に描かれた旧作は藤本メインの合作)、『21エモン』(藤本)などの代表作が続々と発表され、その多くがテレビアニメやテレビドラマになる。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1960年代中頃から、劇画が隆盛し、少年誌に掲載される漫画の対象年齢も高くなった。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1968年(S43)には青年向け漫画誌『ビッグコミック』が創刊され、安孫子は読切『黒イせぇるすまん』を発表した。安孫子はそれまでも風刺色の強い漫画をしばしば発表していたが、本作を機に大人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。後にブラックユーモア短編と呼ばれる『マグリットの石』(1970)らの短編群の他、『毛沢東伝』(1971)、『愛ぬすびと』(1973)、『ミス・ドラキュラ』(1975-1980)等、多数の大人向け漫画が描かれた。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1969年(S44)に藤本も『ビッグコミック』に『ミノタウロスの皿』(1969)を発表。1970年代には多数の大人向け漫画を青年漫画雑誌、SF専門誌などで発表した。これらの短編は、少年向けのものとあわせてSF短編と呼ばれるようになった。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "安孫子によると、青年漫画を描くようになった1973年頃、「少年雑誌にまた、たくさんおもしろいマンガをかいてください」というドラえもんファンの子供のファンレターを読み、少年漫画への回帰を決意したという。安孫子は1970年代、少年雑誌においても週刊連載を精力的に執筆する。後に藤子漫画史上最長となる自伝的漫画『まんが道』(少年チャンピオン連載は1970-1972)を開始した他、怪奇漫画『魔太郎がくる!!』(1972-1975)、『ブラック商会変奇郎』(1976-1977)、ギャグ漫画『オヤジ坊太郎』(1975-1976)等を次々と連載した。その中で趣味のゴルフを生かした大作『プロゴルファー猿』も生まれた。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "一方、藤本は週刊少年誌で苦闘。劇画隆盛の中、藤本単独作の『ウメ星デンカ』(週刊少年サンデー連載は1969のみ)や『モジャ公』(1969-1970)の人気が伸び悩んでいたためだ。少年漫画誌が青年読者の獲得に力を入れる中、『週刊少年サンデー』編集部に、ゴンスケをサラリーマン化した新作を提案されたが、藤本は「私は最近の読者層の変質についていけません」と拒否している。『週刊少年サンデー』では『ウメ星デンカ』が終了。その後、合作『仙べえ』(1971-1972)を挟んで、次作は安孫子単独作の『プロゴルファー猿』(週刊少年サンデー連載は1974-1978)が連載となる。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "週刊少年誌という舞台を失った藤本は小学館の学習雑誌に注力するが、学習雑誌での『ウメ星デンカ』(学習雑誌連載は1968-1970)の後継作『ドラえもん』(1969-1996)は、1973年にせっかく実現した初アニメ化(日本テレビ版)が制作サイドの問題で半年で打ち切りとなっていた。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1974年(S49)夏、単行本(てんとう虫コミックス)が発売されたことで『ドラえもん』(藤本単独作)の人気は徐々に高まっていく。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "そんな中、1976年(S51)4月、『オバケのQ太郎』の読切作品(最後の合作)が『月刊少年ジャンプ』5月号に掲載される。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "『ドラえもん』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、1977年(S52)には藤子不二雄作品を中心とした『コロコロコミック』が創刊。 『週刊少年キング』では藤子不二雄の自伝的漫画『まんが道』(キング連載は1977-1982。安孫子単独作)も開始した。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1979年(S54)には『ドラえもん』がテレビ朝日の製作により同系列で再アニメ化。全国放映され、不動の人気を決定づけた。 1980年(S55)には映画化され、現在まで続くシリーズ作品となる。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "この30年後に安孫子は、『ドラえもん』が大ヒットしたのを見て「このままだと、藤本氏のマネジャーかアシスタントをやるしかないのでは」と内心悩んでいたというジョークであまりの過熱ぶりを振り返っている。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "『ドラえもん』に続いて1980年〜1987年にかけて『怪物くん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『ウルトラB』が立て続けにテレビアニメ・映画化され、各メディアを席巻した。1985年(S60)にはこれらの藤子アニメを複数まとめて放送する番組枠『藤子不二雄ワイド』がレギュラー編成されるほどだった。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "前年の1984年(S59)には、新作漫画が毎週掲載されるという異例の漫画全集『藤子不二雄ランド』(中央公論社)が創刊され、藤子不二雄は自身専用の週刊連載媒体を持つ漫画家となった。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1980年代の人気の過熱ぶりは藤子不二雄ブームと呼ばれる。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "妻倒れ安孫子オロオロ、藤本は52歳で胃癌に。1987年末に2人は独立(コンビ解消)を発表する。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "多くの連載を抱えながら妻を看護する身となった安孫子を心配し、「大丈夫? 少し休んだら。仕事はおれがカバーするから」と藤本。突然そう言われた安孫子は泣きそうになったという。だが、ほどなく藤本に胃癌が見つかったため、安孫子は妻を見舞いつつ、大量の仕事をこなして藤本をカバーする日々を送ることになる。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1986年に藤本が胃癌になってからの経緯を見れば、独立(コンビ解消)の大きな原因が藤本の体調(自由に休み時間をとりつつ自分のペースで仕事ができる環境が必要だった)にあることが伺える。また、安孫子家も大変な状況だった。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "その他の「作風の違い」等の理由は、病気のことにあまり触れないために語っている可能性もふまえたうえで真相を考える必要がある。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "アマチュア時代に合作形式になって以降、収入はすべて同一の口座に貯蓄し、必要な金銭は2人で均等に引き出していた。昔からの慣習のため、それが当たり前だったという。1966年の藤子スタジオ設立後も、原稿料等の収入はすべて会社に納入され、それにより会社が経営され、藤本と安孫子の2人にはそれぞれ同額の給与が支払われていた。独立前の1980年代の高額納税者公示制度を参照すると、2人がほぼ同額を納税していることが確認できる。 1988年の独立より前に、金銭的なトラブルが藤本と安孫子、または親族間において発生したという関係者の証言は確認されていない。藤本の妻は書籍にて、大病を患った藤本が退院後、安心して仕事ができる環境を整えることが独立の一因であることを示唆している。", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1988年から「2人で2人の藤子不二雄」として新たにスタート。1996年9月までの9年弱の間に、2者2様の活動が行われた。映画での共演など、コンビ時代と変わらぬ関係も続いた。", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "AランドとF大全集が刊行。藤子漫画の変わらぬ人気ぶりが続く。藤本と安孫子の合作作品の購入がかつてよりも容易に。日の目を見ていない作品のさらなる復刊が待たれる。", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "『藤子不二雄Aデジタルセレクション』刊行。これによりF大全集とあわせて2人の作品の大部分が体系的に読めるようになった。藤子Aは未収録作品がまだまだ膨大にあるので、さらなる復刊が期待されている。", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "受賞、受章など。", "title": "受賞歴" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "藤本弘と安孫子素雄の2人の合作による主な漫画作品。それぞれが単独で執筆した作品は#作品一覧を参照。", "title": "藤子不二雄の合作" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "※上の「ピックアップ」で紹介した作品も含む。", "title": "藤子不二雄の合作" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "藤子不二雄の主な作品。", "title": "作品一覧" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "以下は、別作品同士の共通点や類似点。 中には藤本作品と安孫子作品の両方にまたがる共通点もある。コンビ時代は単独作でもすべて「自作」「合作」なので、アイデアや同一のネタも共有し、各自で自由に使用していた。単独作の中にも、相棒の影響下のもとに描かれているものがあることがわかる。", "title": "作品の共通点" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "テレビドラマや映画で実写映像となった主な藤子作品。 その他の作品はCategory:藤子不二雄原作の実写作品を参照。", "title": "実写" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "藤子作品に付随して作られた主な音楽。 その他の作品はCategory:藤子不二雄の映像作品の音楽を参照。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1987年以前の「藤子不二雄」名義の楽曲。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "藤子作品を題材に作られた主なコンピュータゲーム。 その他の作品はCategory:藤子不二雄のコンピュータゲームを参照。", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2023年現在入手困難な作品、または未単行本化作品。", "title": "その他の情報" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "他多数。", "title": "その他の情報" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "藤子不二雄のサインや、作品の最後のコマ等に記されていることがある「Mo」に似たマークはアルファベットではなく「富士山」と「湖」で、「富士+湖」→「フジコ」を表している。独立後、藤本は「M」の左下に「o」を描くようになった。独立後、安孫子はMoマークを使用しなくなった(主にAをマークとして使うようになった)。安孫子は「これは藤子不二雄のマークなので、ぼくひとりのものではないから」と2005年にコメントしている。", "title": "その他の情報" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "藤子不二雄本人によるメディア出演。", "title": "その他の情報" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "藤子不二雄(または藤子不二雄をモデルとした人物)が登場する作品。", "title": "その他の情報" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "藤子スタジオ(1988年以降は藤子プロも含む)にて作画に関わったスタッフまたは友人。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "※在籍順。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ドラえもんの関連書籍の執筆者。", "title": "関連人物" } ]
藤子 不二雄は、日本の漫画家。藤本弘と安孫子素雄の共同ペンネーム。1951年に連名でプロデビュー。独立後の1988年以降はそれぞれ藤子・F・不二雄、藤子 不二雄Ⓐのペンネームで作品を発表した。代表作は『オバケのQ太郎』(合作)、『ドラえもん』(藤本単独作)、『パーマン』(旧作は藤本メインの合作、新作は藤本単独作)、『忍者ハットリくん』(安孫子単独作)、『怪物くん』(安孫子単独作)、『まんが道』(安孫子単独作)など多数。 1953年7月に改名して以降、コンビ時代は、合作、単独執筆作にかかわらず、すべて共通のペンネーム「藤子不二雄」で作品を発表した。 「1960年代半ばの『オバケのQ太郎』を最後に合作をやめた」という誤った情報が広まっているが、合作が行われなくなった年度から独立までの年度は1977年〜1987年のわずか11年で、『オバケのQ太郎』の連載開始以後も『わかとの』『名犬タンタン』『ベレーのしんちゃん』『チンタラ神ちゃん』『仙べえ』など、多数の合作が描かれている(詳細は#藤子不二雄の合作を参照)。 本稿ではコンビ活動中の仕事を中心に記述する。個別の経歴についてはそれぞれの項目を参照のこと。
{{特殊文字}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 藤子 不二雄 | ふりがな = ふじこ ふじお | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 藤本 弘([[藤子・F・不二雄]]、以下F)<br />安孫子 素雄([[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]、以下A) | 生地 = {{JPN}}・[[富山県]]<br />F:[[高岡市]]<br />A:[[氷見市]]<ref group="注釈" name="himi">出生時は[[氷見郡]]氷見町で、1952年に市制施行。</ref> | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = F:[[1933年]][[12月1日]]<br />A:[[1934年]][[3月10日]] | 没年 = F:[[1996年]][[9月23日]](62歳没)<br />A:[[2022年]][[4月6日]](88歳没) | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1951年]]-[[1987年]] コンビ36年<br />-[[1996年]] AF独立活動9年<br />-[[2022年]] Aのみ活動26年 | ジャンル = [[幼年漫画|児童漫画]]、[[少年漫画]]、[[青年漫画|大人漫画]]、<br />[[SF漫画]]、[[ユーモア|ブラックユーモア]] | 代表作 = 『[[UTOPIA 最後の世界大戦]]』<br />『[[海の王子]]』『[[オバケのQ太郎]]』<br />『[[パーマン]]』(以上合作)、<br />『[[忍者ハットリくん]]』『[[怪物くん]]』<br />『[[プロゴルファー猿]]』<br />(以上安孫子単独作)、<br />『[[ドラえもん]]』『[[キテレツ大百科]]』<br />『[[エスパー魔美]]』<br />(以上藤本単独作) | 受賞 = 第8回[[小学館漫画賞]]<br />(『[[すすめロボケット]]』<br />『[[てぶくろてっちゃん]]』)<br />第23回 日本漫画家協会 優秀賞<br />(『[[ドラえもん]]』)<br />第27回小学館漫画賞 児童部門<br />(『ドラえもん』)<br />第29回 映画の日 特別功労章<br />第2回ゴールデングロス賞<br /> 最優秀・金賞(『ドラえもん』)<br />※詳細は[[#受賞歴]]を参照。 }} '''藤子 不二雄'''(ふじこ ふじお)は、[[日本]]の[[漫画家]]。'''[[藤子・F・不二雄|藤本弘]]'''(ふじもと ひろし)と'''[[藤子不二雄A|安孫子素雄]]'''(あびこ もとお)の共同ペンネーム。[[1951年]]に連名でプロデビュー。独立後の[[1988年]]以降はそれぞれ'''[[藤子・F・不二雄]]'''、'''[[藤子不二雄A|藤子 不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]'''のペンネームで作品を発表した。代表作は『[[オバケのQ太郎]]』(合作)、『[[ドラえもん]]』(藤本単独作)、『[[パーマン]]』(旧作は藤本メインの合作、新作は藤本単独作)、『[[忍者ハットリくん]]』(安孫子単独作)、『[[怪物くん]]』(安孫子単独作)、『[[まんが道]]』(安孫子単独作)など多数。 [[1953年]]7月に改名して以降、コンビ時代は、合作、単独執筆作にかかわらず、すべて共通のペンネーム「藤子不二雄」で作品を発表した<ref group="注釈">1953年に数作のみ例外あり。</ref>。 「1960年代半ばの『[[オバケのQ太郎]]』を最後に合作をやめた」という誤った情報が広まっているが、合作が行われなくなった年度から独立までの年度は1977年〜1987年のわずか11年で、『オバケのQ太郎』の連載開始以後も『[[わかとの]]』『[[名犬タンタン]]』『[[ベレーのしんちゃん]]』『[[チンタラ神ちゃん]]』『[[仙べえ]]』など、多数の合作が描かれている(詳細は[[#藤子不二雄の合作]]を参照)。 本稿ではコンビ活動中の仕事を中心に記述する。個別の経歴についてはそれぞれの項目を参照のこと。 == プロフィール == * 本名:'''藤本 弘'''(ふじもと ひろし) ** [[1933年]][[12月1日]] - [[1996年]][[9月23日]]、O型<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、323 - 324頁</ref>。 ** [[富山県]][[高岡市]]出身<ref name="mangaseek" />。 ** 自画像では[[ベレー帽]]に長身、[[パイプ]]をくわえた人物。 ** 頭文字はF。 * 本名:'''安孫子 素雄'''(あびこ もとお) ** [[1934年]][[3月10日]] - [[2022年]][[4月6日]]<ref name="ameinichi">[https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/769351 富山新聞「藤子不二雄Ⓐさん、命日は4月6日」]</ref>、A型<ref name="mangaseek" />。 ** [[富山県]][[氷見市]]出身<ref name="mangaseek" /><ref group="注釈" name="himi" />。 ** 自画像では低身長でメガネをかけた人物。 ** 頭文字はA。 === コンビ活動時代 (1951〜1987年)=== * 2人で共通 ** ペンネーム:藤子不二雄(ふじこ ふじお) ※[[1953年]]-[[1988年]]に使用<ref group="注釈">コンビ結成初期のペンネームの変遷については来歴を参照。</ref> ** 漫画制作会社:[[藤子スタジオ]](1962年に藤本と安孫子で設立) === 独立後(1988年〜) === * 藤本 ** ペンネーム:'''[[藤子・F・不二雄]]'''(ふじこ・エフ・ふじお) *** 1988年3月から1989年1月までの1年弱は「藤子不二雄{{Unicode|Ⓕ}}」(ふじこ ふじお エフ)<ref>藤本作品のうち、[[藤子不二雄ランド]]の1988年2月19日発行の『バケルくん』1巻までは奥付に「藤子不二雄」「Fuziko Fuzio」「FUZIKO STUDIO」と記載。1988年3月11日発行の『パーマン』8巻から1989年1月13日発行の『T・Pぼん』2巻までは「藤子不二雄{{Unicode|Ⓕ}}」「Fuziko Fuzio」「FUZIKO PRO」と記載。1989年1月20日発行の『少年SF短編』1巻から「藤子・F・不二雄」「Fuziko F Fuzio」「FUZIKO PRO」と記載。</ref><ref name="mangaseek" /><ref group="注釈">[[石ノ森章太郎]]の助言で「藤子・F・不二雄」に改名した。</ref> ** 漫画制作会社:[[藤子・F・不二雄プロ]](通称藤子プロ)<ref group="注釈">設立当初は「藤子プロ」の名称だったが1989年10〜11月頃に「藤子・F・不二雄プロ」に改称。詳細は[[藤子・F・不二雄プロ]]を参照。</ref><ref group="注釈" name="pro">藤子プロは藤子スタジオから分社する形で設立されたが、現在は互いに資本・人的関係を持たない別個の企業となっている。</ref> * 安孫子 ** ペンネーム:'''[[藤子不二雄A|藤子 不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]'''(ふじこ ふじお エー) ** 漫画制作会社:[[藤子スタジオ]] {| class="wikitable" |+ ペンネーム (または著者名)の変遷<ref group="注釈">アマチュア投稿作品は除く。</ref> ! 年.月 !! [[藤本弘]] !! [[#藤子不二雄の合作|合作]] !! [[安孫子素雄]] |- ! 1951.12-<br />1952.4 | colspan="3" style="text-align:center;" | 「'''あびこもとお・ふじもとひろし'''」 |- ! 1952.11- | colspan="3" style="text-align:center;" | '''足塚不二雄''' |- ! 1953.7-<br />1988.2 | colspan="3" style="text-align:center; height:100px;" | '''藤子不二雄''' |- ! 1988.2- || '''藤子不二雄{{Unicode|Ⓕ}}''' || | rowspan="2" | '''[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]''' |- ! 1989.1- || '''[[藤子・F・不二雄]]''' || 「'''藤子・F・不二雄''' '''藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}'''」<br />または「'''藤子・F・不二雄'''」<br />または「'''藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}'''」<ref group="注釈">[[#独立後の合作の名義]]を参照。</ref> |} == 来歴 == [[File:Fujikofujio penname.png|thumb|漫画家・藤子不二雄の活動状況とペンネーム(新作発表時)の変遷。]] === デビューと単行本の上梓 === 終戦前の[[1944年]]に10歳で出会った藤本と安孫子は、[[漫画]]が好きという共通点からすぐに意気投合。[[1946年]]に『[[マァチャンの日記帳]]』、[[1947年]]に『[[新宝島]]』と出会ったことで大の[[手塚治虫]]ファンになり、自らも漫画家を目指すようになる。雑誌や新聞への読者投稿でたびたび入選。やがて「1人でやるより2人でやった方が力になるだろう」と合作を決意。かつて手塚が連載していた新聞に投稿した『[[天使の玉ちゃん]]』が、[[1951年]]12月に本人たちも気づかないうちに連載され、高校3年生でプロデビューを果たす。 [[1952年]]の高校卒業時にはあこがれの神様・手塚治虫と初対面。手塚の人気が700ページもの没原稿に支えられていることを知り、大きなショックを受ける。 新聞社に就職した安孫子と、家で漫画に専念する生活を選んだ藤本は、漫画の執筆を続け『西部のどこかで』で雑誌デビュー。[[1953年]]1月に初の雑誌連載『[[四万年漂流]]』を開始するも6回で打ち切られてしまう。同年7月、初の単行本『[[UTOPIA 最後の世界大戦]]』を刊行(手塚の紹介で出版社から依頼があり描き下ろした)。これは後に日本で最もプレミアム価値がついた伝説の漫画単行本となる。 === トキワ荘、スタジオゼロとオバQブーム=== [[1954年]]6月に意を決して上京した2人は両国の2畳間の下宿を経て、後に伝説のアパートとなるトキワ荘の手塚治虫の部屋に入れ替わりで入居。仕事も順調に増えて多忙な生活を送るも、[[1955年]]の正月に連載を含む11本のうち5本を落とすという事件を起こしてしまう。 しばらく仕事が減ったものの干されることはなく、翌年には連載を獲得して復活。初の週刊連載『[[海の王子]]』(合作)もスタートし、ほどなく連載10本を抱える売れっ子漫画家となる。 [[1961年]]、トキワ荘を出た2人は川崎市に隣同士で家を新築して転居。 [[1963年]]には[[鈴木伸一]]、[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]、[[つのだじろう]]らとアニメーション・スタジオ「[[スタジオゼロ]]」を設立。[[1964年]]、その雑誌部の仕事として描かれた『[[オバケのQ太郎]]』(合作)が大ヒット。テレビアニメ化されたこともあり「オバQブーム」と呼ばれる社会現象になる。 これに続いて数年のうちに『[[忍者ハットリくん]]』(安孫子)、『[[怪物くん]]』(安孫子)、『[[パーマン]]』(この時代に描かれた旧作は藤本メインの合作)、『[[21エモン]]』(藤本)などの代表作が続々と新たに発表され、その多くが[[テレビアニメ]]や[[テレビドラマ]]になる。 === 青年・大人漫画と児童・少年漫画の両輪で活躍 === [[1968年]]には青年向け漫画誌が次々と創刊したことで大人漫画にも進出。安孫子は『[[笑ゥせぇるすまん|黒イせぇるすまん]]』を皮切りに、70年代を中心に[[藤子不二雄Aブラックユーモア短編|ブラックユーモア短編]]の数々を執筆。他にも『[[ミス・ドラキュラ]]』(1975-1980)を長期連載するなど、多数の大人漫画を発表した。藤本も『[[ミノタウロスの皿]]』をはじめとした[[藤子・F・不二雄のSF短編|SF短編]]を数多く執筆した。 [[1970年代]]に安孫子は少年向け作品も精力的に執筆。週刊少年誌にて、後に藤子漫画史上最長となる自伝的漫画『[[まんが道]]』シリーズ(1970-2013)を開始した他、怪奇漫画『[[魔太郎がくる!!]]』(1972-1975)、ギャグ漫画『[[オヤジ坊太郎]]』(1975-1976)等を次々と連載。趣味の[[ゴルフ]]を生かした大作『[[プロゴルファー猿]]』シリーズ(1974-2005)はゴルフ漫画の先駆けとなった。 === ドラえもん、藤子不二雄の大ブーム === 一方で藤本は劇画の隆盛もあってヒットから遠のく。『[[ウメ星デンカ]]』(1968-1970)の後、合作『[[仙べえ]]』(1971-1972)を経て週刊少年誌の連載から撤退し、[[小学館の学習雑誌]]に注力。[[1969年]]に連載を開始した『[[ドラえもん]]』(1969-1996)が[[1973年]]のテレビアニメ化を経てじわじわと人気を高め、[[1977年]]にはドラえもんを大量に読める児童漫画誌として[[コロコロコミック]]が創刊。[[1979年]]の2度目のアニメ化により空前のドラえもんブームを巻き起こした。その人気は一過性のブームのみに留まらず、[[1980年]]の映画化以来、毎年<ref group="注釈">アニメ声優交代時とCOVID-19感染拡大時の2年を除く</ref>[[ドラえもん映画作品|シリーズ作品]]の新作が公開されるなど、40年以上にわたって続いている。 ドラえもんに次いで[[1980年]]〜[[1987年]]にかけて『[[怪物くん (カラーアニメ)|怪物くん]]』『[[忍者ハットリくん]]』『[[パーマン]]』『[[オバケのQ太郎]]』『[[プロゴルファー猿]]』『[[エスパー魔美]]』『[[ウルトラB]]』等の藤子漫画が立て続けにテレビアニメ・映画化。藤子のアニメだけを放送する『[[藤子不二雄ワイド]]』が毎週放送され、藤子の新作漫画が毎週掲載される週刊誌形式の漫画全集『[[藤子不二雄ランド]]』(1984-1991)が毎週刊行されるなど、藤子不二雄ブームと呼ばれる現象となった。 === 闘病と独立(コンビ解消) === そんな中で[[1986年]]に安孫子は倒れた妻を介護する身となり、藤本は癌手術で休養。[[1987年]]末にそれぞれ1人の漫画家として独立することを発表し、[[1988年]]から「2人で2人の藤子不二雄」として新たなスタートを切る(最後の合作はドラえもんブーム直前の[[1976年]]に描かれた『[[オバケのQ太郎]]』の読切)。 独立後、安孫子は[[1990年]]公開の映画『[[少年時代]]』をプロデュース。数々の賞を受賞した。また、[[1989年]]にアニメ化された『[[笑ゥせぇるすまん]]』が人気となり、新作の長期連載等、せぇるすまんシリーズ(1968-2004)の漫画執筆を行った。その他、『[[パラソルヘンべえ]]』(1989-1991)や『[[プリンスデモキン]]』(1991-1999)など、[[20世紀]]は児童漫画の執筆も一貫して行った。 [[1988年]]以降から[[1996年]]にかけて、藤本作では『[[キテレツ大百科]]』『[[チンプイ]]』『[[21エモン]]』『[[ポコニャン#テレビアニメ|ポコニャン!]]』『[[モジャ公]]』等が、安孫子作では『[[ビリ犬]]』『[[笑ゥせぇるすまん]]』『[[さすらいくん]]』『[[夢魔子]]』『[[パラソルヘンべえ]]』等が次々とアニメ化された。<!--一部タイトルが前段と重複しますがコピペ利用される場合を考慮して重複したままにしてあります--> === 藤本の晩期と安孫子の円熟期 === 藤本は[[1996年]]9月23日に死去するまで、毎年『[[大長編ドラえもん]]』の漫画連載を執筆。春休みの映画公開は[[2023年]]現在も続いている。 安孫子は[[2000年代]]以降も[[まんが道]]シリーズ『[[まんが道#愛…しりそめし頃に…|愛…しりそめし頃に…]]』等の連載を継続して執筆。『[[怪物くん]]』は[[嵐 (グループ)|嵐]]の[[大野智]]主演で[[怪物くん (テレビドラマ)|連続ドラマ化]]、[[怪物くん (テレビドラマ)#映画|3D実写映画化]]された。 『[[忍者ハットリくん]]』は[[2004年]]に[[SMAP]]の[[香取慎吾]]主演で[[NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE|映画化]]された他、インドでアニメが放送され人気が爆発。[[2012年]]からは日本とインドで共同で[[忍者ハットリくん#NINJAハットリくんリターンズ_(2012年)|新作アニメ]]の制作を開始。[[2023年]]現在も[[YouTube]]やテレビ放送で新作が公開される国際的人気作となっている。 [[2022]]年4月6日に安孫子が死去した後も、2人の遺した作品の数々は社会に根強く影響を与え続けている。 (以上は「年譜」の要約。詳細と注釈は「年譜」を参照のこと) == 年譜 == === 高岡での少年時代〜高校生デビュー === 10歳で運命の出会い。2人で神様・手塚治虫を崇め続けた結果、高校3年で本人たちも知らない間にプロデビューを果たす。 {{Anchors|1944}} ==== [[1944年]](S19/国民学校初等科5年) ==== * 6月12日(月) 安孫子の父(寺の住職)が死去。 * 6月 安孫子が高岡市立定塚[[国民学校]]<ref group="注釈">後の[[高岡市立定塚小学校]]、2022年閉校。</ref>に転校。藤本と同じクラスになる。休み時間にノートに絵<ref group="注釈">「ぼくはもともと[[小田富弥|小田富彌]]、[[岩田専太郎]]氏などの時代劇挿絵が大好きで、よくチャンバラの絵を描いていた」「藤本君の影響で漫画の方へ転向」藤子{{Unicode|Ⓐ}}の寄稿より 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.6</ref>を描いていた安孫子に藤本が話しかけたことで2人は仲良くなり、毎日のように一緒に遊ぶようになる。 * 7月 安孫子、山崎村(尼寺・長養庵)に縁故疎開<ref>火の鳥人物文庫『藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}』(2002)P.14</ref>。 {{Anchors|1945}} ==== [[1945年]](S20/同6年) ==== * 8月15日(水) 藤本は高岡、安孫子は山崎村で玉音放送を聴く。 * 2学期 安孫子、定塚[[国民学校]]に戻る。 {{Anchors|1946}} ==== [[1946年]](S21/同6年-中1<ref group="注釈">新制中学になるのは1947年4月〜なので当時から中1という略称が使われていたかどうかは要検証。</ref>) ==== * 1月 『[[毎日小学生新聞|少国民新聞]]』<ref group="注釈">安孫子「藤本くんがとっていて〜」 『藤子・F・不二雄の世界』(小学館 1992年)P.62</ref><ref group="注釈">安孫子「ズーッと愛読していた。ぼくの家でとっていたわけではないので、きっと学校でとっていたのだろう」「戦時中から連載漫画を愛読」「[[松下井知夫]]、[[花野原芳明]]、[[井元水明]]氏などの漫画を記憶」藤子{{Unicode|Ⓐ}}の寄稿より 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.6</ref>で連載が始まった『[[マァチャンの日記帳]]』で[[手塚治虫]]作品をはじめて読み、目からウロコが落ちる<ref group="注釈">安孫子「新しい漫画」「新鮮でチャーミングなタッチ」「スマートな流れるような曲線」「それまで戦前の漫画のタッチで描いていたぼくたちの画風が、いっぺんに手塚タッチに転向してしまった」藤子{{Unicode|Ⓐ}}の寄稿より 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.7</ref>。 * 4月 藤本は高岡工芸専門学校中等部電機科、安孫子は高岡中学の入学試験に合格し進学<ref group="注釈">新制中学になるのは1947年4月〜なので当時の名称は要検証。</ref>。 * 7月 手塚の次の連載『[[AチャンB子チャン探検記]]』を読むため、すでに初等科を卒業していながらも『[[毎日小学生新聞|少国民新聞]]』を定期購読する<ref>『手塚治虫デビュー作品集』P.8</ref>。 * 8月<ref>『@ll藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}』P.58</ref> 藤本が『子供の科学』に掲載されていた設計図を見て反射幻灯機を自作。上映会用の作品を制作する。個別に作った作品の他、初めて'''合作'''で『天空魔』(54コマ)<ref>『まんが道』春雷編(中公文庫p70)</ref>を制作する。 {{Anchors|1947|1948}} ==== [[1947年]](S22/中2) ==== * [[手塚治虫]]の『[[新宝島]]』に強い衝撃を受け、漫画家になりたいという夢が本格的にふくらむ。 * その1か月後、『[[新宝島]]』190ページをそっくり真似して描き写す。<ref>『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』文春文庫版P.27</ref> {{Anchors|1949}} ==== [[1949年]](S24/高1) ==== *10月 手塚治虫にファンレターを書く<ref>小学館版学習まんが人物館「藤子・F・不二雄」1997年 P.34</ref>。 * 『[[漫画少年]]』『[[北日本新聞]]』などに漫画の投稿をはじめる。 {{Anchors|1950}} ==== [[1950年]](S25/高1-2) ==== * 2月 『[[漫画少年]]』に安孫子の投稿漫画『ドンチャン』(4コマ)が初入選。 * 3月 『[[漫画少年]]』に藤本の投稿漫画『種まき奇談』(2頁)が初入選。 *3月18日(土)<ref>『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』文春文庫版P.33</ref> 尊敬する手塚治虫から、ファンレターの返事がはじめて届く(藤本宛)。その葉書には「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」と直筆で書かれており、漫画家になる決意がますます固くなる<ref group="注釈">『まんが道』では2人宛の葉書になっているが実際は藤本宛で、冒頭に大きく「DEAR Fujimoto」とあり、渦巻状に記述された文字はどんどん小さくなり、最後に極小の文字で「アビコ君によろしく」と書かれている。『漫画少年』に入選した漫画のことなども記されている。5か月前に出したファンレターの返事。</ref>。手塚作品の模写に励み、手塚タッチの絵柄の漫画も多く描く。 * 4月30日(日) 肉筆回覧誌『[[少太陽]]』創刊号完成。<ref>『@ll 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}』P.58</ref> ** 藤本と安孫子で漫画、小説、ペン画、広告まですべて手描きした私製雑誌。架空の筆名を複数用い様々なタッチの作品が執筆された。<ref group="注釈">当時製作された『[[少太陽]]』は数冊現存し、1995年に『[[開運!なんでも鑑定団]]』にて1200万円と鑑定されている(出演・持込をしたのは藤本)。</ref> * 藤本の父(儀男)が死去<ref>『Neo Utopia』Vol.46 p117</ref>。2人は共に母子家庭という境遇に。 {| class="wikitable" |+ 1950年のアマチュア投稿入選作品<ref group="注釈">「月/日」は発売された月または月日。</ref><ref name="名前なし-20231105130920">『Fピース』(藤子・F・不二雄大全集予約特典冊子)、『藤子・F・不二雄作品リスト』『藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}作品リスト』(Neo Utopa)</ref> ! 月/日 !! [[藤本弘]] !! [[安孫子素雄]] |- ! 2 || || * ドンチャン(漫画少年) |- ! 2/26 || * こんな子供に誰がした(北日本新聞) || * 冬来たりなば(北日本新聞) |- ! 3 || * 種まき奇談(漫画少年) || |- ! 3/9 || * ああ無情(北日本新聞) || * ドングリ君(北日本新聞) |- ! 4 || * 花咲爺さんの嘆き(北日本新聞) * 幼児の心理(北日本新聞) || * 商人はかくあるべし(北日本新聞) * 今様大久保彦左(北日本新聞) |- ! 5 || * 時の記念日(漫画少年) || * あゝ宣傳とはつらきものじゃ(北日本新聞) |- ! 6 || * りんきおうへん(北日本新聞) * スピード興業(北日本新聞) || * あらいやだ(北日本新聞) * 何の日?(北日本新聞) |- ! 7 || * ダンゴ仙人とたなばた(漫画少年) * 諸行無常(北日本新聞) * コロコロマダム(北日本新聞) || * チャッカリ坊や(北日本新聞) |- ! 8 || * 奇禍(北日本新聞) || |- ! 9 || * はかられたか!(漫画少年) * サンドウィッチマン(北日本新聞) || * おんや てんぐのおめんがおちてるぞ<ref group="注釈">無題のため、1コマ目のセリフを記載。</ref>(少年) |- ! 11 || * (タイトル不明)(漫画少年)<ref group="注釈">はがき漫画で特等に入選するも作品の掲載はなし。</ref> || |} * 2人は漫画家を目指すにあたり、1人でやるより2人でやった方が力になるだろうということで合作を決意。1950年から、[[手塚治虫]]にあやかり「手塚不二雄」の共同ペンネームで投稿をはじめ、1951〜1952年にかけて複数のアマチュア投稿漫画(4コマ漫画など)が掲載される。 * 「手塚不二雄」の「手塚」は、尊敬する「手塚治虫」から。「不二雄」は藤本弘の「フジ」と安孫子素雄の「雄」をくっつけて命名。「藤」を「不二」という表記にしたのは、安孫子によると「二人だけれど二人じゃないというのをひっかけている」「不二書房とは無関係」とのこと<ref name="allffap182">『@ll 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}』(小学館)p182</ref>。 * それぞれ単独で投稿していた頃の入選率は藤本のほうが高く、安孫子は屈辱感と嫉妬に悩まされることもあった。だが合作形式をとるようになってからはそのような心理的屈折は皆無になった。「二人で一体の同一人格になったのだ」と後年安孫子は後年執筆した自著『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』<ref>日本図書センター版P.64-65</ref>に記している。 * 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』に記載された安孫子の文章では入選率は「藤本のほうが断然よく」と表現されているが、判明している入選作の数を比較すると(1950〜1953年の3つの表を参照)、藤本のほうが若干多い程度で、二人の投稿作品の掲載数にはさほどの違いはない。『[[漫画少年]]』に最初に掲載されたのも安孫子の作品だが、安孫子の読者投稿漫画が『漫画少年』に掲載されたのはその一度きりで、藤本の読者投稿漫画はその後6回掲載されている。「断然よく」は、『漫画少年』への投稿に限ればあてはまるといえる。 {{Anchors|1951}} ==== [[1951年]](S26/高2-3) ==== * 1951年頃から合作中心の体制に切り替え、共通の郵便貯金口座を作り、原稿料を管理するようになる。金の管理は、藤本が行っていた。そこから金を引き出し、一緒に映画を鑑賞するようになった。これがきっかけで藤子不二雄名義で描いたもののギャラはすべて二分割というスタイルが独立(コンビ解消)時まで貫かれた。<ref>[[阿川佐和子]]『阿川佐和子のこの人に会いたい』(文春文庫、1997年)P.210 藤子不二雄Aのインタビュー</ref> * 高岡市で発行されていた[[週刊市民新聞]]1月新春号に、安孫子の1コマ漫画「うさぎの年」、藤本の4コマ漫画「かるたとり」が掲載。読者投稿作品<ref>『島知一著 私の見た戦後の高岡諸相』</ref>。 * 1950年の末には大人漫画の投稿を「手塚不二雄」という同一のペンネームで行う<ref>『まんだらけ10』藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}インタビュー</ref>ことを決め、コマ漫画の投稿は次第に同一ペンネームでの投稿のみに移行していった。以下の入選した投稿作品のリストを見ると、藤本は『漫画少年』への投稿で本名を使い続けているが、他の媒体ではほとんどが「手塚不二雄」に移行したことが分かる(例外は安孫子の『グッドバイ』『千鳥足』と、藤本の『死なばもろとも』)。 {| class="wikitable" |+ 1951年のアマチュア投稿入選作品<ref group="注釈">「月/日」は発売された月または月日。</ref><ref name="名前なし-20231105130920"/> ! 月/日 !| [[藤本弘]] !colspan="2"| 手塚不二雄<ref group="注釈">「手塚不二夫」(おそらく誤植)名義の作品も含む。その場合は注釈を記す。</ref> !| [[安孫子素雄]] |- ! 1 || * かるたとり(週刊市民新聞) |style="border-right-color:#fff;"| || || * うさぎの年(週刊市民新聞) |- ! 1/1 || |style="border-right-color:#fff;"| * 野球天神(富山新聞) || || * グッドバイ(富山新聞) |- ! 1/7 || |style="border-right-color:#fff;"| || || * 千鳥足(北日本新聞) |- ! 2 || |style="border-right-color:#fff;"| * てれかくし(キング) || || |- ! 4 || |style="border-right-color:#fff;"| * ギョッ(サンデー毎日) || || |- ! 5 || * 利口すぎらァ(漫画少年) |style="border-right-color:#fff;"| || || |- ! 6 || |style="border-right-color:#fff;"| * 天狗昇トビキリ(キング) || * 選挙違反・・・・<br />被告は眼科医<br />(北日本新聞) || |- ! 7 || |style="border-right-color:#fff;"| * 大奇術(キング) || || |- ! 7/27 || * 死なばもろとも(北日本新聞) |style="border-right-color:#fff;"| * 公正取引(北日本新聞) || || |- ! 9 || * 遠近法(漫画少年) |style="border-right-color:#fff;"| || || |- ! 10 || |style="border-right-color:#fff;"| || * 君は誰だ(キング) * カメラマン <br />ちょっとそのままで<br />(北日本新聞)<ref group="注釈">「手塚不二夫」名義での掲載。</ref> || |} * 『[[天使の玉ちゃん]]』 ** 10月14日(日) 『[[毎日小学生新聞]]』へ手紙と4コマ漫画を送る。手紙の内容は「ぼくたちは富山の高校生です。手塚治虫先生の大ファンで、[[マァチャンの日記帳]]からの愛読者です。今、手塚先生の連載漫画がのっていないので、かわりにぼくたちの漫画を連載して下さい」<ref>『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.9 藤子{{Unicode|Ⓐ}}の寄稿より</ref>というものであった<ref group="注釈">手塚の連載漫画を目あてに中学生になってからも『毎日小学生新聞』を購読し『AチャンB子チャン探検記』を楽しんでいたという藤子(小学生時代は小学校で読めたとのこと)。1948年12月に『グッちゃんとパイコさん』の連載が終了してからも当然次の連載を待ち、身銭を切って購読を続ける。しかし手塚の新連載は一向に始まらない。『天使の玉ちゃん』はその3年後に投稿されている。</ref>。 ** 12月16日(日) 『[[天使の玉ちゃん]]』連載第1回が掲載。事実上の'''デビュー'''作<ref group="注釈">読者による投稿が採用されたという意味ではこれまでの投稿漫画と同じだが、読者(アマチュア作家)に向けた「賞金」としてではなく、「連載漫画の掲載代」として原稿料が支払われている。</ref>。「あびこ もとお・ふじもと ひろし」名義。<ref group="注釈">『[[まんが道]]』に掲載された『天使の玉ちゃん』はオリジナルのものではなく安孫子がリメイクしたもので、キャラクターの造形が大きく異なる。</ref><ref group="注釈">このことで、2人が漫画を描いていることが先生や他の同級生にも一気に知れ渡った。{{要出典|date=2023年4月|title=年初の週刊市民新聞の項に記載したほうがふさわしい?}}。</ref> ** 12月29日(日) 2人が掲載の事実を知る。藤本宅に原稿料の郵便為替が届いたため<ref group="注釈">知らない間にデビューしており、当の作者が後から印刷物を見るという状況から考えて、この時点では藤子は『毎日小学生新聞』の定期購読をやめていたと考えられる。</ref>。 === 神様との対面〜伝説を生み出した「まわり道」時代 === あこがれの手塚治虫と初対面を果たし大きなショックを受ける。昼は高岡市と富山市に分かれ、夜と日曜日のみ共に執筆する「まわり道」時代。雑誌デビューを果たし、19歳で伝説の単行本を世に送り出す。 {{Anchors|1952}} ==== [[1952年]](S27/社会人1年目) ==== * 安孫子も藤本も高校卒業後は就職することが決まる。 * 3月13日(木) 安孫子の就職先の富山新聞に「漫画罷り通る」と題した安孫子の紹介記事が掲載。安孫子の自画像とともに「アビコ・モトオ」の署名で「ぼくは漫画を書きなぐってさえおれば『来たる春風たもとが踊る……』といった工合に心が軽く朗らかなのです」「富山新聞上で踊り通るとすれば、時には憎まれることもあると思います」等の文章が「憎まれます」という見出しで掲載されており、漫画ありきの特別待遇だったことがうかがえる<ref name="actsp9">『月刊北國アクタス』2018年10月号p9</ref>。 * 3月21日(金) 手塚治虫の自宅([[宝塚市|宝塚]])を訪問。 ** 卒業式を終えた後の春休みを利用して訪問した。 **2人が描いた漫画(『[[ベン・ハー]]』)を見せると、手塚は「上手だね」という言葉を掛けてその場を取り繕ったが、内心はその出来栄えに衝撃を覚え「とんでもない子達が現れた…」と驚いたという<ref group="注釈">この時2人が見せた漫画を手塚は終生大切に保管していた。</ref><ref>[[日本放送協会|NHK]]『[[この人○○ショー|この人藤子不二雄ショー]]』 [[1985年]][[3月14日]]</ref>。 ** 安孫子はこの時の手塚の印象を「あまりにもオーラが凄過ぎて光り輝いて見えた」とラジオ番組で語っている。 ** この日2人は手塚の『[[来るべき世界 (漫画)|来るべき世界]]』の生原稿を見せてもらい感激する。しかし、その原稿は1300ページもあり2人が知っている内容ではなかった。「ああ、それはね、没にした原稿なんだよ」という手塚の言葉を聞き、「手塚先生は700ページも没にして漫画を描くのか!」と2人は驚いたという<ref>小学館版学習まんが人物館「藤子・F・不二雄」1997年 P.55</ref>。 * 3月25日(火) 富山新聞に安孫子の政治風刺1コマ漫画『勇ましや県議会春の陣』(あびこ・もとお名義)が掲載<ref name="actsp9" />。 * 3月<ref>『月刊北國アクタス』2018年10月号p7</ref><ref group="注釈">継続的な初出勤日は、3月末の月曜日であれば31日。</ref> 安孫子、伯父の[[鍋島弘蔵]]が経営していた[[富山新聞]]へ入社。漫画業と二足のわらじ。 ** 18歳になったばかりの若者だが、得意の漫画をいかして紙面に[[イラスト]]を多く取り入れるなどし、会社勤めを順調<ref group="注釈">当初は図案部に配属されるも、ほどなく学芸部に異動。「絵が漫画っぽくて、信用が得られない」との広告主からのクレームが理由。学芸部でも当初は絵を描く仕事ばかりに追われた(1面を飾った吉田総理の似顔など)。図案部は大金が絡む広告の作成をメインとした部署だが、学芸部での安孫子は新聞に掲載される雑多なものを含め様々なカットを手掛けたと考えられる。 『月刊北國アクタス』2018年10月号 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}ロングインタビュー P.9〜10</ref><ref group="注釈">別の日のラジオ欄を誤って掲載してしまうという大事件も起こした。</ref>にこなした。 * 藤本、製菓会社へ入社。 * 4月4日(金) 『[[天使の玉ちゃん]]』第26回が掲載(最後の掲載)<ref group="注釈">この続きの原稿も送付済みだったが、掲載されることはなかった。藤本と安孫子はこの日の時点では最後の掲載とは認識していない。</ref>。 * 入社から数日後<ref group="注釈">藤本によると「3日というのはオーバーですが、まあ、それに近い感じ」(『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 文春文庫版P.73)。『Fの森の歩き方』P.265には「4日で退社」と記載されている。4日でも3日でもたいして変わらないので、事実が4日だった場合に3日を「オーバー」と表現するのかどうかという疑問が生じる。</ref><ref group="注釈">火の鳥人物文庫『藤子不二雄Ⓐ』(2002)では、安孫子が5日間勤めた週末の帰り道に藤本に会い「昨日辞表を出した」と告げられる。この火の鳥人物文庫では安孫子の就職日を「4月」としており、週末は4月5日(土)なので、4月1日に安孫子が初出勤し、藤本は4月4日に退職した考えれば辻褄があう(ただし『月刊北國アクタス』2018年10月号には安孫子は3月から勤務と記載されている)。ドラマチックにみせるための脚色や重大な事実誤認もある書籍なので、信憑性は不明。</ref> 藤本、製菓会社を退社<ref group="注釈">理由は「漫画に専念する時間がほしかった」「会社づとめが性に合わない(内向的で安孫子よりもさらに人見知り)」から「漫画とまるで無関係な仕事なのが耐えられなかった(安孫子は得意の漫画を職務に活用)」「手を怪我するかもという不安から」「実際に手に怪我を負った」まで様々なものがあがっており検証が必要。実際に怪我を負ったとしたら、エンターテインメント的な面白さを追求している半自伝フィクション作品『まんが道』でなぜ一切取り上げないのかという疑問が生じる(藤本がストップをかけた?)。小学館の『学習漫画人物館 藤子・F・不二雄』(1997)では本編にで事故のシーンが詳細に描かれ、巻末の年表にも「事故により退社」と記載されているが、事故の詳細の出典はどこなのか、出典がないとすれば学習漫画でわざわざ歴史的な嘘を掲載していいのか(子供の教育目的のシリーズなので明確な退職理由を記す必要があった?)という問題も含めて考える必要がある。1997年以降のテレビ番組等では「学習漫画人物館」の内容をそのまま放送しているだけとも考えられる。 火の鳥人物文庫『藤子不二雄Ⓐ』(2002)では怪我のことは一切語られず、退職理由としてサラリーマンの適正がないことが長く語られる(『まんが道』の才野と同じ理由なので『まんが道』を参考にしていると推測できる)。 公式の書籍『Fの森の歩き方』(2010)でも怪我については非掲載。</ref><ref group="注釈">「もし機械に腕を巻き込まれ大怪我をして漫画が描けなくなったらどうしよう。仕事が合わない」{{要出典|date=2023年4月}}</ref>。漫画業に専念。 {| class="wikitable" |+ 1952年のアマチュア投稿入選作品<ref group="注釈">「月/日」は発売された月または月日。</ref><ref>『藤子・F・不二雄作品リスト』『藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}作品リスト』(Neo Utopa)</ref> ! 月/日 !| [[藤本弘]] !colspan="2"| 手塚不二雄<ref group="注釈">「牛塚不二雄」(おそらく誤植)名義の作品も含む。その場合は注釈を記す。</ref> !| [[安孫子素雄]] |- ! 4/2 || |style="border-right-color:#fff;"| * 遺作(アサヒグラフ)<ref group="注釈">「牛塚不二雄」名義での掲載。作品が掲載された『アサヒグラフ』4/9号が発売された4月2日は、『[[天使の玉ちゃん]]』が最後に掲載された日の2日前。</ref> || || |- ! 5/28 || |style="border-right-color:#fff;"| || * サア アーン(アサヒグラフ) || |} * [[鶴書房]]から単行本用長編漫画の執筆依頼があり<ref group="注釈">火の鳥人物文庫『藤子不二雄Ⓐ』(2002)「帰郷後、依頼があった」という事実が就職前の位置に記載されているが、3月中に依頼があったことを必ずしも示しているとはいえない。「手塚が出版社に2人を推薦」「出版社が検討」「執筆依頼の連絡が届く」という3行程が9日ほどで行われるものなのかという問題もある。</ref>、2人は頓挫していた『[[UTOPIA 最後の世界大戦|UTOPIA]]』の執筆を再開。その他に雑誌社への短編の投稿も行った。藤本は日中から漫画を描き、安孫子は夜や週末に駆けつけるという状態だった。 * 8月 短編漫画『西部のどこかで』を『[[冒険王 (漫画雑誌)|少年少女冒険王]]』に送る。採用され、姉妹誌の『[[漫画王]]』から別冊付録の執筆依頼が来る<ref>ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p123</ref>。 * 11月 ** 『西部のどこかで』([[冒険王 (漫画雑誌)|少年少女冒険王]] 12月号)で'''雑誌デビュー'''。'''足塚不二雄'''名義。「足塚」は「手塚先生の足元」という意味<ref name="allffap182" /><ref group="注釈">「手塚不二雄」ではあまりに露骨だということで変更した。</ref>。 ** 『三人きょうだいとにんげん砲弾』([[漫画王]]12月号付録)で'''別冊付録デビュー'''。 {{Anchors|1953}} ==== [[1953年]](S28/社1-2) ==== * 1月 '''初の雑誌連載'''『[[四万年漂流]]』([[冒険王 (漫画雑誌)|少年少女冒険王]] 2月号〜)を開始するも6回で打ち切られる。 * 7月 『[[UTOPIA 最後の世界大戦]]』([[鶴書房]]。 8月10日付)刊行。合作作品としては'''最初で最後の単行本書き下ろし'''作品。「足塚不二雄」名義。現存冊数も少なく日本で最もプレミアム価値がついた漫画単行本の一つである。 * 7月 『旋風都市』([[少年ブック|おもしろブック]] 夏休み増刊号)掲載。初の「'''藤子不二雄'''」名義。 * 12月 藤本、安孫子宅を突然訪問し「お前、新聞社やめろ」<ref group="注釈">『月刊北國アクタス』2018年10月号 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}ロングインタビュー P.13 安孫子の「聞き手を楽しませるためのインタビュー」なので、藤本の口調等は実際は異なっていた可能性も考える必要がある。独立(コンビ解消)時も、藤本が安孫子宅を突然訪問し「別れよう」と告げている。</ref> ** 安定した[[サラリーマン]]生活を送る安孫子は新聞社に未練があったと語っている。 ** 縁故入社で長男という責任上、安孫子は「母に反対されたら上京は無理」と藤本に告げたが、母は「あんたの好きなようにしられ」。悩んだ末に「夢にかけよう」と決める。<ref group="注釈">『月刊北國アクタス』2018年10月号 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}ロングインタビュー P.13 母の言葉は「あなたの好きなようにしたらいい」の意。息子の自主性を尊重した言葉。</ref> * 12月 安孫子、富山新聞社を退職。 ** クリスマスに送別会が開かれ、粉雪舞う富山駅で思いをよせていた竹内さんと別れる<ref group="注釈">『月刊北國アクタス』2018年10月号 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}ロングインタビュー P.12 『平成日本の夜ふけ2』でも同様のエピソードが語られているが、各種エピソードは細部の数字が事実と異なるなど不正確な点が多々ある。後年のインタビューでの発言はとくに検証が必要。『北國アクタス』では数十年後に竹内さんにテレビのご対面番組出演を頼み「おばあさんになったから」と断られるも「覚えてくれていてすごくうれしかった」とのエピソードも語っている。</ref>。 ** 在籍期間は1年9か月。退職時はまだ19歳<ref group="注釈">同僚と酒宴を行うシーンが『まんが道』にはたびたび登場するが、『まんが道』は少年向けフィクション作品である([[二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律]])。</ref>。 {{Anchors|1954}} ==== [[1954年]](S29/社2-3) ==== * 2月2日(火) 安孫子、視察上京。<ref group="注釈">『Neo Utopia』Vol.62(2021)P.32 森下の親戚、各出版社を訪問。トキワ荘には手塚を訪ねるも、手塚は編集者に連れられてすぐにいなくなってしまう(旅館にカンヅメになって原稿を執筆するため)。</ref> ** トキワ荘に[[手塚治虫]]を訪問。初対面の[[寺田ヒロオ]]の部屋に10日間滞在。 ** 安孫子、[[手塚治虫]]『[[ジャングル大帝]]』最終回の執筆を手伝う。 === 上京、両国からトキワ荘へ === 上京。2畳間で2人で暮らす両国下宿時代の4か月を経て、あこがれのトキワ荘へ入居。わずか2か月後に「大量原稿遅延・落とし事件」を起こすも、干されることなく1年で復活。順調に仕事を増やし、母たちを東京に呼び寄せる。合計3部屋を借りる、連載10本の売れっ子漫画家に。 ==== [[1954年]](S29/20-21歳) ==== * 6月28日(月)<ref>『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 文春文庫版P.102</ref> 夜行列車にて上京。翌朝、小雨の新宿駅に降り立つ。 * 最初に2人が暮らしたのは[[東京都]][[江東区]][[森下 (江東区)|森下]]にある安孫子の親戚の家の2畳の和室であった。 * 7月9日(金) 「[[新漫画党]]」結成。メンバーは新進児童漫画家で、藤子の他は[[寺田ヒロオ]]、[[坂本三郎]]、[[森安なおや]]、[[永田竹丸]]ら。 * 7月21日(水) 安孫子が漫画の手伝い中に手塚「トキワ荘を出るので後に入らないか」<ref group="注釈"> 敷金も置いていくと言われたとのこと。8月1日2人でトキワ荘訪問。手塚と加藤の会話から話が流れたとガッカリ。10月4日、手塚再度「トキワ荘のぼくの部屋にこないか」 『トキワ荘青春日記』より</ref> * 10月30日(土) [[トキワ荘]]([[豊島区]])14号室に転居。 ** あこがれの手塚がいた部屋で漫画が描けることを2人は喜んだ。手塚はお金のない2人のために敷金3万円<ref group="注釈">藤子は2年後の8月に手塚に返還。</ref>と愛用の執筆机もそのままにしておいた<ref group="注釈">2人は手塚愛用の机で漫画を執筆した。手塚と藤子が使用したこの机は現存しており、安孫子の生家である富山県氷見市の[[光禅寺 (氷見市)|光禅寺]]に保管されている。</ref>。 ** 戦後間もない当時の水準では家賃も敷金も高価な高級アパート。一般の家族も居住していた<ref group="注釈">たとえば入居時藤子の隣室に住んでいたのは母親と娘2人。上の娘は卒業まで間もない女子高生。毎朝6時に炊事場で米を炊く20〜21歳の藤本と顔をあわせた。 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 文春文庫版P.177</ref>。 ** 藤子は「漫画家を夢見る若者の入居」ではなく「仕事が軌道に乗りだした新進プロ漫画家の入居」といえる。 * トキワ荘入居後、読切や新漫画党メンバーによる合作などをこなすうちに仕事が急増し、毎月10本近くの仕事を抱えるようになる。安孫子は手塚治虫の漫画を手伝うことも多かった。 * 12月30日(木) 2人で高岡に帰省。多くの仕事を抱えての半年ぶりの故郷凱旋となった。<ref group="注釈">「正月休みを田舎で過ごそうとヘタヘタになりながら帰った。」『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 文春文庫版P.147</ref> {{Anchors|1955}} ==== [[1955年]](S30/20-22歳) ==== * 1月 高岡に一時帰省中、連載を含む仕事'''11本'''ほぼ全ての締切を遅延、最終的に'''5本'''を落とす(大量原稿遅延・落とし事件)<ref group="注釈">実際に間に合ったのは安孫子担当の『世界とたたかう少年(連載)』『どんぐりくん(連載)』『英雄暁に死す』『銭無平太捕物帖』『漫画図鑑スポーツ篇』、藤本担当の『ゆりかちゃん(連載)』の6本。落ちたのは藤本担当の『ああ無情(別冊)』『海底人間メバル(連載)』『よるの王子さま(新連載)』の他、「少年」漫景、「少女」読切の5本。以上、『Neo Utopia』Vol.62(2021)P.64の検証による。『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』では「この月、連載5本のうち3本轟沈。読切3本のうち2本轟沈。別冊轟沈(要約)」、『トキワ荘青春日記』1996光文社版P.47の2月4日の日記には「大破3、中破2、小破3」と記されている。</ref>。 ** 限界を無視して仕事を引き受け過ぎたためだった。<ref group="注釈">19日の時点ですでに安孫子の2つの連載は送付され、藤本の担当作はすべて落ちた状態(『ゆりかちゃん』は藤本上京後完成)のため、藤本の体調不良の可能性も指摘されている。また藤子{{Unicode|Ⓐ}}は「帰省するまでほとんど寝た記憶がない(ほど働きづめだった)」「おとそを飲んでちょっと横になったら寝ちゃいますよ」「出版社も5日まで正月休みだから催促してこない」「北国ならではのこたつもまずかった」(一部は意訳)等の理由を語っている(『まんが道大解剖』(2017)、『@ll 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}』P.180より)。</ref> * 1月21日(金) 様子を見に上京するため、藤本のみ高岡を出発。 <ref group="注釈">安孫子は粉雪の中見送る。 『トキワ荘青春日記』より。安孫子よりも内向的な藤本が1人で上京したのは、落とした仕事の多くが藤本担当(藤本上京時には『ゆりかちゃん』も落ちた状態)で、編集者もそれを認識していたためだと考えられる。</ref> *1月22日(土) 藤本、トキワ荘着。翌日にかけて『ゆりかちゃん』を執筆。<ref group="注釈">23日藤本より葉書「鍵忘れ家なき子」。24日藤本より第2報「カミソリで開けた。夜間仕事の才能あり」「少女、明日までに完成せよ」。 以上『トキワ荘青春日記』より。</ref> * 一時は漫画家廃業も考えたが、寺田ヒロオの勧めもあり継続することに。 * 2月 安孫子も上京。<ref group="注釈">2月4日藤本より上京第3報「あとは日本晴れ、とはいきませんが、とにかく大丈夫」 『トキワ荘青春日記』より。</ref> * 多くの雑誌社から不評を買ったため、仕事が減少するが(この年の10月号までに5本の連載がすべて終了<ref group="注釈">安孫子が担当していた『どんぐりくん』と『世界とたたかう少年』は原稿は落ちなかったにもかかわらずほどなく連載終了(それぞれ5月号、6月号にて)。藤本担当作『海底人間メバル』は3月号を休載、4月号で終了、『ゆりかちゃん』は7〜8月号を休載し9〜10月号まで連載が継続した後で終了、『よるの王子さま』は次号の4月号から連載開始し、原稿落とし事件とは関係なく雑誌の休刊により6月号で終了。</ref>。ただし読切はいくつも執筆している)年末にはすでに徹夜するほど多忙になり、翌年には複数の新連載を獲得して完全復活する。 * 12月上旬 安孫子の姉が上京。14号室にて3人で共同生活。 ** 2人が急に多忙(翌年春の付録の仕事が入った)になったため、炊事等の手伝いのために一時的に同居。<ref group="注釈">ベタ、ホワイト、ライン等の作画上の手伝いも。押入で寝たというが、その間も2人は机に向かっていたという。 『まんが道大解剖』(2017刊内の2016の談話)P.56</ref>。 * 12月 隣の15号室を新たに借り、藤本が転居。 * 12月31日(土) 安孫子の姉を含めた3人で一緒に高岡へ帰省<ref group="注釈">安孫子姉「(混雑した列車内で)弘さんが買ってきてくれたアイスがすご〜く美味しかった」。 『まんが道大解剖』(2017刊内の2016の談話)P.56</ref>。 {{Anchors|1956}} ==== [[1956年]](S31/22-23歳) ==== * 4月 『宇宙少年団』(第3回から『[[ロケットくん]]』に改題。安孫子)連載開始。半年ぶりの連載。初の長期連載。 * 7月 当時珍しかった[[テレビ]]を購入。 ** つのだじろうに連れられて[[秋葉原]]にて。7インチで3万円。 ** テレビの導入は週刊誌での連載が増えて〆切日も短くなったため、話題を知るために役に立ったといい、仕事中はいつもつけっぱなしにしていたという。 * 8月 ラジオを購入<ref>ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p247</ref>。 {{Anchors|1957}} ==== [[1957年]](S32) ==== * 10月 寺田、赤塚、石森、つのだ、長谷と野球チームを作る<ref>ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p257</ref>。 * 12月 『[[わが名はXくん]]』(安孫子。-1958)を『幼年クラブ』で連載開始。後の『[[パーマン]]』の原型。 * 12月頃〜 趣味のスライド『こけしぼっこ』を2人で合作<ref>『トキワ荘青春日記』(1996年版)p159の12/21(土)の日記の安孫子の目先にやらなければならぬことリスト内に「スライド「こけしぼっこ」用コンテ」の記述</ref><ref name="fffwp105">『Fujiko F Fujio World』(「藤子・F・不二雄展」図録。1998年1刷)p105にスライド4枚の写真。</ref>。 {{Anchors|1958}} ==== [[1958年]](S33) ==== * 安孫子が高岡から母を呼び寄せ共に暮らす(藤子両人は父親不在)。<ref group="注釈">安孫子の姉によると「収入が入るようになって呼んだ」 『まんが道大解剖』(2017刊内の2016の談話)P.57</ref> * 7月 [[新漫画党]]が[[中野区|中野]]に事務所を構える<ref name="fffwp5">『Fujiko F Fujio World』(「藤子・F・不二雄展」図録。1998年1刷)p5</ref>。 * 8月 [[8ミリ映画|8ミリカメラで映画]]を製作する。この年は鈴木伸一、つのだじろうと西部劇を撮影<ref name="allffap195">『@ll 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}』p195</ref><ref name="fffwp5" />。 {{Anchors|1959}} ==== [[1959年]](S34) ==== * 1月 ** 1月18日(日) トキワ荘の仲間でスキー旅行。 ** 大型電気蓄音機を購入。池袋西武デパートにて<ref>ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p285</ref>。 ** テレビ番組『怪人二十面相』の小道具用紙芝居を制作<ref>ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p289</ref>。 * 3月17日(火) 『[[海の王子]]』(合作)連載開始。'''初の週刊連載'''。 ** 日本初の週刊少年誌『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])の連載陣として白羽の矢が立つ。 * 5月頃 向かいの新築アパート「兎荘」の一室を借りて仕事場とする<ref name="nu6236">『Neo Utopia』Vol.62。(2021)P.36</ref> * 8月 初のアシスタントを雇用<ref name="nu6236" />。女性。 * 9月 『[[わが名はXくん]]』(安孫子。-1962)を『[[たのしい四年生]]』で連載開始。 ** 本作から登場するロボット鳥・QPは、後に『オバQ』から定着する居候キャラの先駆け。 {{Anchors|1960}} ==== [[1960年]](S35) ==== * 1月6日(水) 新連載依頼。「断りきれず4月から'''連載10本'''に<ref>『トキワ荘青春日記』(光文社1996)P.224〜228</ref>」との安孫子の日記。大の売れっ子状態に。 * 5月 『[[シルバー・クロス]]』(安孫子)連載開始。[[光文社]]の『[[少年 (雑誌)|少年]]』にて。 {{Anchors|1961}} ==== [[1961年]](S36) ==== * 10月 トキワ荘を出て川崎市東生田へ転居<ref>『Neo Utopia』Vol.62(2021)P.92</ref><ref>{{Cite book|和書|author = 稲垣高広|year = 2009|title = 藤子不二雄Aファンはここにいる Book1 座談会編|publisher =社会評論社|page = 18|isbn =978-4784509386}}</ref>。 ** 土地を購入し隣同士で2軒の一戸建てを新築(当初は一軒に一緒に住む案も)。 ** 自宅を住居兼仕事場とする<ref>『ビッグ作家 究極の短編集 藤子・F・不二雄』p.236 藤本正子 談</ref>。 === スタジオゼロとオバQブーム === 1962年に藤本、1966年に安孫子が結婚。 週刊少年誌の新連載が次々と増え、1964年には「週刊漫画誌3誌同時連載」を達成。 『オバQ』がアニメ化され大ヒット。オバQブームが起こり、社会的に知られる漫画家となる。 『[[忍者ハットリくん]]』(安孫子)、『[[怪物くん]]』(安孫子)、『[[パーマン]]』(この時代に描かれた旧作は藤本メインの合作)、『[[21エモン]]』(藤本)などの代表作が続々と発表され、その多くが[[テレビアニメ]]や[[テレビドラマ]]になる。 {{Anchors|1962}} ==== [[1962年]](S37) ==== * 藤本結婚<ref group="注釈">同郷の女性と見合い。翌年連載開始の『オバQ』の正ちゃんの名前は石森章太郎の名を借りて付けたといわれているが、妻の名前でもある。</ref>。 {{Anchors|1963}} ==== [[1963年]](S38) ==== * 5月8日(水) [[鈴木伸一]]、[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]、[[つのだじろう]]らとアニメーション・スタジオ「[[スタジオゼロ]]」を設立。中野に社屋を構える(通称スタジオボロ)。 * 1963年頃、下北沢の「小松アパート」<ref>『Neo Utopia』Vol.46 p120</ref>を仕事場として借りる<ref>[https://koikesan.hatenablog.com/entry/20060716 梶田達二 洋画展-藤子不二雄ファンはここにいる]</ref>。この時期の藤子は川崎に自宅、下北沢に漫画の仕事場、中野にアニメの仕事場と、3つの拠点を持っていたことになる。 {{Anchors|1964}} ==== [[1964年]](S39) ==== * 1月22日(水) 『[[オバケのQ太郎]]』(合作)連載開始。 ** 『[[週刊少年サンデー]]』[[1964年]]6号がこの日発売(誌面にクレジットされている発行日は2月2日)。 ** 藤本、安孫子と、スタジオゼロの雑誌部によって描かれた。 ** 翌年テレビアニメ化され大ヒット。「ギャグ漫画の藤子不二雄」として広く世間に認知されるきっかけとなった作品。 * 2月 『[[わかとの|サンスケ]]』(安孫子メインの合作)[[週刊少年マガジン]]にて連載開始(安孫子、藤本、スタジオゼロ雑誌部で作画)。 * 4月 『[[フータくん]]』(安孫子)[[週刊少年キング]]にて連載開始。 ** '''週刊漫画誌3誌同時連載'''を達成<ref>幸森軍也『ゼロの肖像』講談社、2012年、82頁。</ref>。5月10日号から2週だけ連載された『[[海の王子]]』を含めれば、その間は'''週刊漫画誌3誌4本同時連載'''。 * 10月『[[忍者ハットリくん]]』(安孫子)連載開始。 * 1964年頃、安孫子、後の妻・和代氏と知り合う。 {{Anchors|1965}} ==== [[1965年]](S40) ==== * 1月『[[怪物くん]]』(安孫子)連載開始。 * 8月29日(日) アニメ『[[オバケのQ太郎]]』放送開始。人気が爆発。'''オバQブーム'''に。 * 10月 [[スタジオゼロ]]が新宿市川ビルに移転(人員増強のため)<ref>『Neo Utopa』Vol.64 p17</ref>。藤子も同所を仕事場とする(藤子、赤塚、つのだ、スタジオゼロ動画部でフロアを4分割して使用)。 {{Anchors|1966}} ==== [[1966年]](S41) ==== * 2月 有限会社[[藤子スタジオ]]設立。<ref group="注釈">安孫子の姉がマネージャーに就任。 『まんが道大解剖』(2017刊内の2016の談話)P.57より。別の書籍で「安孫子姉のマネージャー就任はドラえもん連載の途中」と語っている人物の発言の信憑性を失わせる事実。</ref> * 4月7日(木) テレビドラマ『[[忍者ハットリくん]]』放送開始。 * 5月7日(土) アフリカ旅行に出発。「オバQといっしょにケニアへ行こう!」企画。 * 5月24日(火) 安孫子結婚式。 * 11月 『[[パーマン]]』(この時代に描かれた旧作は藤本メインの合作)連載開始。アニメ化を見越した新連載。 {{Anchors|1967}} ==== [[1967年]](S42) ==== * 4月2日(日) アニメ『[[パーマン]]』放送開始。 * 12月18日(月) 『[[21エモン]]』(藤本)連載開始。 * 12月19日(火) テレビドラマ『丹下左膳』にゲスト出演<ref>ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p409では「昭和43年10月」となっているが、『丹下左膳』の放送記録によると左記。</ref>。 {{Anchors|1968}} ==== [[1968年]](S43) ==== * 4月 藤本が[[スタジオゼロ]]の社長に就任(翌9月に石森と交代)<ref>『Neo Utopia』Vol.64 p15。ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p413では「昭和44年5月」となっているが誤り。</ref>。 * 4月21日(日) [[怪物くん (モノクロアニメ)]]放送開始。1度目のアニメ化。 {{Anchors|1969}} ==== [[1969年]](S44) ==== * 5月? [[スタジオゼロ]]の重役で香港旅行<ref>ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p410。同書p413に記載されている藤本のスタジオゼロ社長就任の年月(同年同月)が誤っているため、この年月も誤っている可能性がある。</ref>。 {{Anchors|1970|1971|1972|1973|1974|1975}} === 大人漫画で新路線開拓、そして原点回帰へ === ==== 青年・大人漫画への傾倒 ==== 1960年代中頃から、[[劇画]]が隆盛し、少年誌に掲載される漫画の対象年齢も高くなった。 [[1968年]](S43)には青年向け漫画誌『[[ビッグコミック]]』が創刊され、安孫子は読切『[[笑ゥせぇるすまん|黒イせぇるすまん]]』を発表した。<br />安孫子はそれまでも風刺色の強い漫画をしばしば発表していたが、本作を機に大人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。<br />後に[[藤子不二雄Aブラックユーモア短編|ブラックユーモア短編]]と呼ばれる『[[マグリットの石]]』(1970)らの短編群の他、『[[毛沢東伝]]』(1971)、『[[愛ぬすびと]]』<ref group="注釈">翌1974年にテレビドラマ化。次連載は『[[愛たずねびと]]』(1974)。</ref>(1973)、『[[ミス・ドラキュラ]]』(1975-1980)等、多数の大人向け漫画が描かれた。 [[1969年]](S44)に藤本も『[[ビッグコミック]]』に『[[ミノタウロスの皿]]』(1969)を発表。<br />1970年代には多数の大人向け漫画を青年漫画雑誌、SF専門誌などで発表した。<br />これらの短編は、少年向けのものとあわせて[[藤子・F・不二雄のSF短編|SF短編]]<ref group="注釈">大人向けのものは異色短編と呼ばれることもある。</ref>と呼ばれるようになった。 {{Anchors|1976}} ==== 週刊少年誌をめぐる安孫子と藤本の明暗 ==== 安孫子によると、青年漫画を描くようになった[[1973年]]頃、「少年雑誌にまた、たくさんおもしろいマンガをかいてください」というドラえもんファンの子供のファンレターを読み、少年漫画への回帰を決意したという<ref>『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 日本図書センター版pp.260-263</ref>。<br />安孫子は1970年代、少年雑誌においても週刊連載を精力的に執筆する。後に藤子漫画史上最長となる自伝的漫画『[[まんが道]]』([[少年チャンピオン]]連載は1970-1972)を開始した他、怪奇漫画『[[魔太郎がくる!!]]』(1972-1975)、『[[ブラック商会変奇郎]]』(1976-1977)、ギャグ漫画『[[オヤジ坊太郎]]』(1975-1976)等を次々と連載した。<br />その中で趣味の[[ゴルフ]]を生かした大作『[[プロゴルファー猿]]』も生まれた。 一方、藤本は週刊少年誌で苦闘。劇画隆盛の中、藤本単独作の『[[ウメ星デンカ]]』(週刊少年サンデー連載は1969のみ)や『[[モジャ公]]』(1969-1970)の人気が伸び悩んでいたためだ。<br />少年漫画誌が青年読者の獲得に力を入れる中、『週刊少年サンデー』編集部に、[[ゴンスケ]]を[[サラリーマン]]化した新作を提案されたが、藤本は「私は最近の読者層の変質についていけません」と拒否している。<br />『週刊少年サンデー』では『[[ウメ星デンカ]]』が終了。その後、合作『[[仙べえ]]』(1971-1972)を挟んで、次作は安孫子単独作の『[[プロゴルファー猿]]』(週刊少年サンデー連載は1974-1978)が連載となる。 週刊少年誌という舞台を失った藤本は[[小学館の学習雑誌]]に注力<ref group="注釈">SF短編等の掲載はその後も行った。『エスパー魔美』『T・Pぼん』等の執筆もほどなく行われたため児童漫画に専念したわけではない(魔美とぼんの掲載誌は非週刊)。</ref>するが、学習雑誌での『[[ウメ星デンカ]]』(学習雑誌連載は1968-1970)の後継作『[[ドラえもん]]』(1969-1996)は、[[1973年]]にせっかく実現した[[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|初アニメ化]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]版)が制作サイドの問題で半年で打ち切りとなっていた。 {{Anchors|1977|1978|1979|1980}} === ドラえもんの人気爆発 === [[1974年]](S49)夏、単行本(てんとう虫コミックス)が発売されたことで『[[ドラえもん]]』(藤本単独作)の人気は徐々に高まっていく。 そんな中、[[1976年]](S51)4月、『[[オバケのQ太郎]]』の読切作品('''最後の合作'''<ref group="注釈">通常の形式の漫画作品としては最後の合作。「オバQが最後の合作」ときくと1964年頃までしか合作をしていないと誤解しがちで、そのように誤記された解説文等も多く流布している。</ref>)が『[[月刊少年ジャンプ]]』5月号に掲載される。 『[[ドラえもん]]』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、[[1977年]](S52)には藤子不二雄作品を中心とした『[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]』が創刊。<br /> 『[[少年キング|週刊少年キング]]』では藤子不二雄の自伝的漫画『[[まんが道]]』(キング連載は1977-1982。安孫子単独作)も開始した。 [[1979年]](S54)には『ドラえもん』が[[テレビ朝日]]の製作により[[オールニッポン・ニュースネットワーク|同系列]]で[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|再アニメ化]]。全国放映され、不動の人気を決定づけた。<br /> [[1980年]](S55)には映画化され、現在まで続く[[ドラえもん映画作品|シリーズ作品]]となる。 この30年後に安孫子は、『ドラえもん』が大ヒットしたのを見て「このままだと、藤本氏の[[マネージャー|マネジャー]]か[[アシスタント_(漫画)|アシスタント]]をやるしかないのでは」と内心悩んでいたというジョークであまりの過熱ぶりを振り返っている<ref>『[[読売新聞|讀賣新聞]]』2010年7月5日号、藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}『78歳いまだまんが道を』 p.110</ref>。 ==== [[1979年]](S54) ==== * アメリカに取材旅行(ニューヨーク等)。同年夏に藤本にがシナリオを執筆した映画『のび太の恐竜』の主な舞台は北米<ref name="dremncnp197912">月刊コロコロコミック1979年12月号 ドラえもんカラー新聞</ref>。 * 9月26日(水)から10月8日(月) 中国方面に取材旅行(北京、長沙、桂林、広州、香港等)<ref name="dremncnp197912" /><ref>ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p441には「昭和53年10月」に「北京、長沙、桂林、広洲」を旅行と記されているが、2年連続で同じ地を巡ったのでない限り年月の誤植。</ref>。 {{Anchors|1981|1982|1983|1984}} === 藤子不二雄ブーム === 『ドラえもん』に続いて[[1980年]]〜[[1987年]]にかけて『[[怪物くん (カラーアニメ)|怪物くん]]』『[[忍者ハットリくん]]』『[[パーマン]]』『[[オバケのQ太郎]]』『[[プロゴルファー猿]]』『[[エスパー魔美]]』『[[ウルトラB]]』<!--この部分、アニメ化順になっています。ビリ犬は独立後に移動しました-->が立て続けにテレビアニメ・映画化され、各[[メディア (媒体)|メディア]]を席巻した。<br />[[1985年]](S60)にはこれらの藤子アニメを複数まとめて放送する番組枠『[[藤子不二雄ワイド]]』がレギュラー編成されるほどだった。 前年の[[1984年]](S59)には、新作漫画が毎週掲載されるという異例の漫画全集『[[藤子不二雄ランド]]』([[中央公論新社|中央公論社]])が創刊され、藤子不二雄は自身専用の週刊連載媒体を持つ漫画家となった。 1980年代の人気の過熱ぶりは藤子不二雄ブーム<ref group="注釈">オバQブームの際の多数のアニメ化を第一次ブームとするならば、第二次藤子不二雄ブーム</ref>と呼ばれる。 {{Anchors|1985}} === 2つの闘病と独立(コンビ解消) === 妻倒れ安孫子オロオロ、藤本は52歳で胃癌に。1987年末に2人は独立(コンビ解消)を発表する。 ==== [[1985年]](S60) ==== * 12月31日(火) 安孫子の妻・和代氏、右脳内出血で倒れICU搬送。左半身麻痺、失語症で10か月間入院。<ref name="tnmykzys">藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}『たのむよ和代氏、もう一度しゃべって』</ref> {{Anchors|1986}} ==== [[1986年]](S61) ==== 多くの連載を抱えながら妻を看護する身となった安孫子を心配し、「大丈夫? 少し休んだら。仕事はおれがカバーするから」と藤本。突然そう言われた安孫子は泣きそうになったという<ref name="名前なし_2-20231105130920">「週刊読売」1996年10月13日号</ref>。だが、ほどなく藤本に胃癌が見つかったため、安孫子は妻を見舞いつつ、大量の仕事をこなして藤本をカバーする日々を送ることになる。 * 1月12日(火) 安孫子、藤本家を訪問。藤本長女の成人祝。<ref group="注釈">正子さんが「あらー、アビコさんところ大変なのに、こんなにしてもらって」と言うから、「こういうときだから、おめでたいことはおおいに……」と言う。 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}『たのむよ和代氏、もう一度しゃべって』P.62</ref> * 1月21日(日) 藤本夫妻、和代氏を見舞う。<ref group="注釈">藤本氏、「心配していたけど、ずいぶん元気じゃない。笑ったり、うなずいたり表情も豊かだし、あれなら大丈夫。回復するよ」と励ましてくれる。 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}『たのむよ和代氏、もう一度しゃべって』P.88</ref> * 夏 藤本(52歳<ref group="注釈">学年誌の7月号までは全学年に計6本のドラ短編を執筆。8月号から3学年が、9月号から全学年が再録。</ref>)に[[胃癌]]が見つかる。健康診断の再検査にて発覚。本人には告知せず<ref group="注釈">藤本正子(妻)によると「あれだけ本を読んでいた人ですから、自分がガンであることはわかっていたように思います。けれど、彼は最後まで何も言いませんでした」『こだわり人物伝 藤子・F・不二雄』(2010年)P.54</ref>。安孫子によると、医師から再検査を受けるように言われた藤本は「まったく自覚症状がないのになァ」と不満そうだったという<ref name="名前なし_2-20231105130920"/>。 * 藤本、[[胃癌]]手術。成功。<ref group="注釈" name="kdwrp54">藤本正子(妻)談。『こだわり人物伝 藤子・F・不二雄』(2010年)P.54</ref> * 9月 藤本、仕事に復帰。<ref>各誌の『ドラえもん』短編の連載は再録となっていたが、コロコロ11月号(10月15日発売)から新作大長編『竜の騎士』を新連載。</ref> * 10月4日(土) 和代氏、退院。<ref name="tnmykzys" /> {{Anchors|1987}} ==== [[1987年]](S62) ==== * 3月 藤本、再度体調を崩す。<ref group="注釈" name="kdwrp54" /><ref>再開していた学年誌での『ドラえもん』短編の新作連載が、5月号(4月1日発売)に新作掲載後は再録に。</ref> * 8月 毎年半年間の短期連載が通例となっていた漫画『[[大長編ドラえもん]]』がこの年は休載(『[[ドラえもん のび太のパラレル西遊記]]』は原作漫画が描かれないまま[[1988年]]3月公開)。 * 夏 藤本が妻に「安孫子氏と別れようと思う」と言う。<ref group="注釈" name="kdwrp54" /> * 藤本は、以前から借りていたマンションの一室で仕事をするように。<ref group="注釈" name="kdwrp54" /> * ある夜、藤本が安孫子の自宅を突然訪問し、独立(コンビ解消)の意向を伝える。<ref group="注釈">テレビ番組『こだわり人物伝 藤子・F・不二雄』#3(2010年NHK教育)</ref><ref group="注釈">"「もしかしたら僕や周りの人に迷惑をかけられないと思ったのかもしれない」「少し考えさせてほしい」と引き取っただけで、理由も問わなかった。「大事なことはいつも彼の判断に従ってきた。その彼の決めたことなら」。後日、電話で「分かった」と告げた。"「[https://www.tokyo-np.co.jp/article/170490 コンビ解散後も互いに手放さなかったペンネーム2022年4月8日 12時00分]」</ref> ** 安孫子「思えば、上京する時も藤本氏が誘ってくれて、どうなるかと思ったけれど、後に『あの時、言ってくれてよかった』と思ったし、独立の時も、言い出してくれてよかったと今では思っています」<ref group="注釈">藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}} 「未来の国からはるばると」『NHKテレビテキスト こだわり人物伝』2010年4-5月号(第6巻3号)、[[NHK出版|日本放送出版協会]]、p.22。</ref>。「今では」とあるので、意向を伝えられた時点では安孫子には独立(コンビ解消)の意思がなかったことが伺える。 * 10月29日(木) 和代氏、この日までに再度倒れ入院中。<ref name="tnmykzys" /> * 12月18日(金) 和代氏、退院。<ref name="tnmykzys" /> * 12月23日(水) 藤子不二雄の独立の「ごあいさつ」を出版関係者に発送。 ** 挨拶状によりコンビ解消の意思を表明した。その理由として「この辺で、二人三脚のヒモをほどいて、それぞれの足で歩いてみたらどうか、と話し合いました。新しい展開としてそれぞれやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと」<ref name="asa">朝日新聞1988年1月30日付夕刊</ref>と記した。 ** 藤本は自身が入退院を繰り返したことから「二人三脚でくくっていたほうの足が、かすかにヒリヒリしていた。ひもを解いてみれば、何か新しいことやれるのではないか」<ref name="asa"/>と記した。 ** 安孫子は「いままでのように二人のペースを合わせるのは無理な年になってきた。漫画だけでなく、ぼくも文章なども書いてみたいが、藤子不二雄の名前では勝手なことやれない」<ref name="asa"/>と記した。 ** 挨拶状にて、これまでの執筆作品の中にそれぞれが単独で描いていた作品があることと、その内訳を公式に明らかにした<ref name="asa"/>。 ** 作品執筆分担の内情は「企業秘密をもらします」という前置きで明かされたが、これはジョーク(雑誌によってはプロフィール欄にて片方の名前や、片方の代表作名が列挙されており、かねてから読者にも執筆分担が分かる状況だった<ref group="注釈">単独作であっても2人で描いているかのように紹介される記事もあったが、一定のファンの間では分担は周知されていた。</ref>)。また、作画上は明らかな合作である『[[パーマン]]』(旧作)がF作品とされるなど、事実とは必ずしも一致しない。関係者や読者に向けて、独立後の権利の移行を説明する意味で分類・発表された意味合いが強い。 {{Anchors|1988}} ==== [[1988年]](S63) ==== * 1月25日(月) 「二人の藤子不二雄を励ます会」開催(全日空ホテル) ** 「藤子不二雄が二人に独立する記念日」パーティ<ref>『{{Unicode|Ⓐ}}の人生』(2002年)P.107</ref> ; ペンネームの分離 * 安孫子は'''藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}'''、藤本は'''藤子不二雄{{Unicode|Ⓕ}}'''の名でそれぞれ漫画家として活動を続けた。 * 約1年で、藤子不二雄{{Unicode|Ⓕ}}は'''藤子・F・不二雄'''へ改名した。[[石ノ森章太郎]]の薦めによる。 ** 「藤子・F・不二雄」への改名前は、単行本の背表紙等で{{Unicode|Ⓕ}}や{{Unicode|Ⓐ}}の文字が小さいサイズで記載されており、FかAかの判別が難しかった。藤本の改名後、安孫子も{{Unicode|Ⓐ}}の文字を通常のサイズで記載するようになった。Fと{{Unicode|Ⓐ}}の文字が大きくなり、アルファベットが異なる位置になったことで、ペンネームの違いが判別しやすくなった。 ; 独立後の合作の名義{{Anchors|独立後の合作の名義}} * 独立前の合作の多くは、独立後はどちらかの単独名義扱いとなったため、合作であることは明記されずに単独名義で発行されるようになった(『[[パーマン]]』『新[[オバケのQ太郎]]』『[[わかとの]]』『[[きえる快速車]]』など)。{{Anchors|独立後も共作扱いの合作の名義}} * 独立後も共作扱いとなった合作作品の単行本は、独立後しばらくは「藤子不二雄」名義のまま発売を続けていたが、やがて単行本の新装版や復刻版、書籍の共著の再版は「藤子・F・不二雄、藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}」名義で発行されるようになった(『[[オバケのQ太郎]]』など)。 ; 漫画制作会社の分離 * 安孫子は「藤子スタジオ」をそのまま引き継いだ。 * 藤本は新たに「藤子プロ」を立ち上げ、藤子スタジオの隣のビルに移った。 ==== 独立(コンビ解消)の真相 ==== 1986年に藤本が胃癌になってからの経緯を見れば、独立(コンビ解消)の大きな原因が藤本の体調(自由に休み時間をとりつつ自分のペースで仕事ができる環境が必要だった<ref group="注釈" name="kdwr27">妻の藤本正子は、後に藤子プロの社長に就任する伊藤に「藤本に原稿を描かせてあげるための体制を作って欲しい」「健康が大切なので、休み時間をきちんととれるようにしてほしい」と要望している。『こだわり人物伝 藤子・F・不二雄』(2010年)P.27</ref><ref group="注釈">長谷邦夫は「重病の藤本は(中略)生前にこれまでの二人の共同作品も含めて全作品を、FとA、そして合作とに線引しておく必要を強く感じていたはずである。 彼ら二人っきりだったら、友情という絆だけで、どのようにも分割できる。しかし、二人にはすでに家族が存在する。後にトラブルを起こさないよう、明確に分離しておかなければならない」と推測している。 長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』(2004年)P.296</ref><ref group="注釈">藤子不二雄としての著作権料は関与の度合いに関係なく均等に二分割だったが、どちらかの死後、遺族によって『ドラえもん』の巨額の著作権料の分配が問題となると予想され、それを未然に防ぐためにコンビを解消したという。 [[安藤健二]]「封印作品の謎2」[[太田出版]]、P181~184</ref>)にあることが伺える。また、安孫子家も大変な状況だった。 その他の「作風の違い」等の理由は、病気のことにあまり触れないために語っている可能性もふまえたうえで真相を考える必要がある。 * 作風の違い1(過激な作品で迷惑をかける?) ** 安孫子「藤本君は生活ギャグ一本でやってきたが、自分は傾向が変わってきた。ブラックユーモアを描くようになったのが転機となった。作品も生活も自分と藤本君とは違いが出て来た。自分が過激なのを描こうとして、藤本君の『ドラえもん』を傷つけるといけないから。50まで漫画家をやるとは思わなかったし、やる事はやり尽くして来たので、あとは好きなように気楽にやろうと別れた(要約)」<ref group="注釈">『[[別冊宝島]]』409 ザ・マンガ家 / [[宝島社]] [http://www.ceres.dti.ne.jp/~toshio/DoraColumn/DoraColumn008.html 参考:ドラえもんコラム008]</ref>。 ** しかし『[[笑ゥせぇるすまん]]』(改題前は『[[黒ィせぇるすまん]]』)は独立(コンビ解消)の20年前の1968年の作品であり、同時期に『黒ベエ』(1969)、『魔太郎がくる!!』(1972-1975)、多数のブラック短編等のダークな作品群を発表している。1988年の独立(コンビ解消)と結びつけるには時代が離れすぎている。 * 作風の違い2(Fとは違い、Aはこども心が薄れた?) ** 安孫子「自分は社交性があるため、[[酒]]や[[ゴルフ]]を覚えたが、藤本君はそのようなことは一切しなかった<ref group="注釈">[[大山のぶ代]]によると、藤本はアニメ『ドラえもん』関係者によるゴルフコンペ「ドラコン会」には参加していたが、ゴルフをするのは年に1、2度と本人に言われたという。大山のぶ代『ぼく、ドラえもんでした。』 [[小学館文庫]]、pp.112-113</ref>。結果的に藤本君は少年のような心を持ち続けるきっかけとなり、逆に自分はこども心が薄れ、作風に差が出た」 ** しかし安孫子は1980年代も『[[忍者ハットリくん]]』(1980年代の連載期間は1981-1988)等の児童漫画を大量に描き、独立後も『[[パラソルヘンべえ]]』(1989-1991)や『[[プリンスデモキン]]』(1991-1999)を長期連載するなど、一貫して児童漫画を描き続けている。その意味では、独立が必要なほど大きく作風に差が出たとは言い難い。 ==== 独立後の交流 ==== * お互いの不仲による独立ではなかったため、藤本は海外旅行へ行くたび安孫子に土産をプレゼントしており、安孫子も自宅の応接間にそれらを飾るなど、独立後も友好な関係が続いていたという<ref>藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}『[[まんが道]] [[愛…しりそめし頃に…]]』第02巻収録 「特別編さらば友よ」</ref>。 * 映画鑑賞が共通の趣味である事から、映画の[[試写会]]で月に1度程度顔を合わせていたという。<ref>『{{Unicode|Ⓐ}}の人生』(2002年)P.111</ref> ==== コンビ記録 ==== * プロデビューから独立までの活動期間は36年余り。 ** “他人同士が組んだ漫画家”としては、[[2015年]]に『[[キン肉マン]]』などの作者・[[ゆでたまご]]が更新するまで、日本の漫画家で最長だった。 * プロデビュー前に反射幻灯機用の作品を合作した時期まで含めれば、活動期間は40年を超える。 == 収入 == アマチュア時代に合作形式になって以降、収入はすべて同一の口座に貯蓄し、必要な金銭は2人で均等に引き出していた。昔からの慣習のため、それが当たり前だったという。[[1966年]]の藤子スタジオ設立後も、原稿料等の収入はすべて会社に納入され、それにより会社が経営され、藤本と安孫子の2人にはそれぞれ同額の給与が支払われていた。独立前の1980年代の[[高額納税者公示制度]]を参照すると、2人がほぼ同額を納税していることが確認できる。 [[1988年]]の独立より前に、金銭的なトラブルが藤本と安孫子、または親族間において発生したという関係者の証言は確認されていない。藤本の妻は書籍にて、大病を患った藤本が退院後、安心して仕事ができる環境を整えることが独立の一因であることを示唆している<ref group="注釈" name="kdwr27" />。 {{Anchors|1989|1990|1991|1992|1993|1994|1995}} === 2人で2人の藤子不二雄時代 === 1988年から「2人で2人の藤子不二雄」として新たにスタート。<br />1996年9月までの9年弱の間に、2者2様の活動が行われた。映画での共演など、コンビ時代と変わらぬ関係も続いた。 ; 漫画 :; 藤子・F(藤本) :* [[1996年]]まで、毎年『[[大長編ドラえもん]]』の漫画連載を執筆。春休みの映画公開は[[2023年]]現在も続いている。 :* [[1991年]] 『[[未来の想い出]]』を短期連載。漫画家の人生やり直しもの。1話完結でない長い大人向けの連載としては唯一の作品。 :; 藤子Ⓐ(安孫子) :* 『[[ビリ犬]](新)』シリーズ(1988-1989)、『[[パラソルヘンべえ]]』(1989-1991)、『[[プリンスデモキン]]』(1991-1999)など、児童漫画の執筆を10年以上継続。 :* アニメ化で人気となった『[[笑ゥせぇるすまん]]』(1990-1995)の新作漫画を長期連載。 ; アニメ : [[1988年]]以降から[[1996年]]までの間に新作の放送が開始された主な藤子アニメは以下の通り。<br />[[1989年]]にアニメ化された『[[笑ゥせぇるすまん]]』が大人気となり、安孫子の新たな代表作として一般に浸透した。 :; 藤本作 :* テレビ朝日:『[[チンプイ]]』『[[21エモン]]』 :* [[フジテレビ系列|フジテレビ]]:『[[キテレツ大百科]]』 :* NHK:『[[ポコニャン#テレビアニメ|ポコニャン!]]』 :* 日本テレビ:『[[T・Pぼん]]』 :* [[TXNネットワーク|テレビ東京]]:『[[モジャ公]]』 :; 安孫子作 :* TBS:『[[笑ゥせぇるすまん]]』『[[さすらいくん]]』『[[夢魔子]]』 :* テレビ朝日:『[[新プロゴルファー猿]]』『[[ビリ犬]]』『[[ビリ犬なんでも商会]]』 :* NHK:『[[パラソルヘンべえ]]』 ; 実写映画 : 安孫子は[[1990年]]公開の映画『[[少年時代]]』をプロデュース。数々の賞を受賞した。<br />藤本は、自身の漫画の映画化作品『[[未来の想い出]] Last Christmas』が[[1992年]]に公開。藤本と安孫子も、トキワ荘時代の仲間とともに[[カメオ出演]]した。 {{Anchors|1996}} === 藤本の死去 === * 死去の3週間前頃 安孫子と藤本の最後の会話。電話で会話した際に声に元気がなかったため、安孫子が「最近、調子はどうなの」と聞くと、藤本は「ここのとこ、ちょっと調子が悪いんだ」と答えたという<ref>「週刊朝日」1996年10月11日号</ref><ref>「週刊文春」1996年10月31日号 阿川佐和子のこの人に会いたい--長年の相棒が亡くなり眠れない毎日なんです / 藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}(漫画家)</ref>。 * [[1996年]]([[平成]]8年)9月23日(月)午前2時10分 藤本弘 死去。独立から9年弱後。 {{Anchors|1997|1998|1999}} === 藤本死去後 === ==== 1990年代 ==== * [[1998年]]([[平成]]10年) [[藤子不二雄Ⓐ]]『[[用心棒]]』刊行。 ** 独立(コンビ解消)後も含めれば、藤子不二雄の『[[UTOPIA 最後の世界大戦]]』以来2冊目の描き下ろし単行本。ちなみに[[藤子・F・不二雄]]も[[1994年]]に『[[落窪物語]]』を書き下ろす予定だったが体調不良のため実現しなかった。 {{Anchors|2000|2001}} ==== 2000年代 ==== {{Unicode|Ⓐ}}ランドとF大全集が刊行。藤子漫画の変わらぬ人気ぶりが続く。<br />藤本と安孫子の合作作品の購入がかつてよりも容易に。日の目を見ていない作品のさらなる復刊が待たれる。 {{Anchors|2002|2003}} * [[2002年]] 『藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}ランド』刊行。全149巻。 ** 『[[藤子不二雄ランド]]』全301巻のうちの安孫子作品(独立後に権利的に藤子{{Unicode|Ⓐ}}作品となったもの。藤本が作画で参加した『[[わかとの]]』や『[[きえる快速車]]』も含む)だけを全集として刊行。 {{Anchors|2004|2005|2006|2007|2008}} * [[2004年]] 実写映画『[[忍者ハットリくん]]』公開。主演は[[SMAP]]の[[香取慎吾]]。 * [[2004年]] アニメ『[[忍者ハットリくん]]』がインドで放送され人気が爆発。 {{Anchors|2009}} * [[2009年]] 『[[藤子・F・不二雄大全集]]』([[小学館]])刊行。 ** 『[[オバケのQ太郎]]』等、藤本と安孫子の合作作品の一部は『[[藤子不二雄ランド]]』が[[絶版]]になった後、20年近くにわたり購入不可能になっていたが、F大全集の刊行により『[[オバケのQ太郎]]』をはじめとした合作作品が数多く復刊された。 ** 『[[チンタラ神ちゃん]]』『[[仙べえ]]』等の合作の未収録話も数多く収録。 {{Anchors|2010}} ==== 2010年代 ==== 『[[藤子不二雄Aデジタルセレクション|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}デジタルセレクション]]』刊行。これによりF大全集とあわせて2人の作品の大部分が体系的に読めるようになった。<br />藤子Ⓐは未収録作品がまだまだ膨大にあるので、さらなる復刊が期待されている。 * [[2010年]] 『[[二人で少年漫画ばかり描いてきた]]』復刊。 {{Anchors|2011}} * [[2011年]] 『[[UTOPIA 最後の世界大戦]]』復刊。半世紀の時を超え、伝説の単行本がそのままの姿で復刊。 {{Anchors|2012|2013}} * [[2012年]] アニメ『[[忍者ハットリくん#NINJAハットリくんリターンズ_(2012年)|NINJAハットリくんリターンズ]]』制作開始。 ** 日本とインドの共同制作。 ** [[2023年]]現在も[[YouTube]]やテレビ放送で新作が公開される国際的人気作に。 {{Anchors|2014}} * [[2014年]]  [[電子書籍]]にて『[[藤子不二雄Aデジタルセレクション|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}デジタルセレクション]]』刊行。小学館の編集。安孫子作品の多くが体系的に読めるようになった。 {{Anchors|2015|2016|2017|2018|2019|2020|2021}} * [[2015年]] 『[[オバケのQ太郎]]』新装版刊行。小学館[[てんとう虫コミックス]]。 {{Anchors|2022}} === 安孫子死去後 === * [[2022年]]([[令和]]4年)4月6日(水)<ref name="ameinichi" /> 安孫子素雄 死去。 ** 神奈川県川崎市の自宅にて。藤本の死去から26年後、コンビの両方がこの世を去った。 == 受賞歴 == 受賞、受章など。 * [[1963年]]3月8日 第8回(昭和37年度)[[小学館漫画賞]](『[[すすめロボケット]]』『[[てぶくろてっちゃん]]』) * [[1973年]] 第2回(1973年度)[[日本漫画家協会賞]] 優秀賞<ref group="注釈">賞の正確な名称は「日本漫画家協会 優秀賞」。</ref>(『ドラえもん』) * [[1981年]] 第10回(昭和56年度)[[川崎市文化賞]](藤子不二雄) * [[1982年]] 第27回(昭和56年度)小学館漫画賞 児童部門(『ドラえもん』) * [[1984年]] 第29回(昭和59年度)映画の日 特別功労章(藤子不二雄)<ref name="movieday">{{Cite web|和書| url=http://www.eidanren.com/activity01_02.html|title=映画産業団体連合会(映画の日)|accessdate=2023-07-30}}</ref> * [[1984年]] 第2回(1984年)[[ゴールデングロス賞]] 最優秀・金賞([[ドラえもん映画作品#大長編|映画『ドラえもん』]])<ref name="ggp2">{{Cite web|和書| url=https://www.zenkoren.or.jp/zenkoren/goldengross/2_goldengross/|title=第2回ゴールデングロス賞受賞作品|accessdate=2023-07-30}}</ref> * [[1988年]]の独立後 **[[藤子・F・不二雄#受賞歴]] **[[藤子不二雄A#受賞歴|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}#受賞歴]] == 藤子不二雄の合作 == === 藤子不二雄の合作作品 === 藤本弘と安孫子素雄の2人の合作による主な漫画作品。それぞれが単独で執筆した作品は[[#作品一覧]]を参照。 * ★★ - 独立(コンビ解消)後は権利の都合上、単独作として管理されている合作作品。 ** 「単独作」「単独作を少し手伝った程度」と勘違いして紹介されることもあるが、事前に作画分担等の役割を決めた上で執筆されている。 * ★ - 独立(コンビ解消)後、単独名義の単行本等で「合作」と明示していない場合がある作品。 ==== 合作ピックアップ ==== :; [[天使の玉ちゃん]](1951-1952) - デビュー作。 :; [[UTOPIA 最後の世界大戦]](1953) - 初の単行本。 :; [[海の王子]](1959-1965) - 初の週刊誌連載。 ::: 善玉側を藤本が、悪玉側を安孫子が作画担当。アイデアは藤本メインだが、安孫子が担当することも<ref group="注釈">藤本「アイデアは僕のほうが多かったけれども彼がやったこともあります。ネームを入れたりね。善玉側を僕が描いて悪玉側とメカとかコスチュームとかを彼にやってもらって」『まんだらけ 12』1996年 P.22</ref>。 :; [[オバケのQ太郎]](旧)(1964-1967,1969) - オバQブーム。 ::: オバQらを藤本が、正太、伸一らを安孫子が作画担当。 :::『週刊少年サンデー』連載版では、[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]も大勢の脇役キャラクターの作画を担当している。 ::: ネーム(ストーリーとコマ割り)は大部分の回を藤本が担当しているが、安孫子も数本担当している<ref name="名前なし_3-20231105130920">『まんだらけ 12』P.22</ref>。 ::: 藤本のみで描かれた回もある(幼年誌掲載回など)。 :; [[オバケのQ太郎|オバケのP子日記]](1966) - オバQのスピンオフ。 ::: P子を藤本が、ユカリを安孫子が作画担当。 :; (新)[[オバケのQ太郎]](1971-1974,1976)★★<ref group="注釈">「オバケのQ太郎」のタイトルで発表された作品のうちの1971年以降のもの。「新オバケのQ太郎」のタイトルの単行本に収録されている。O次郎登場以降。</ref> ::: 藤本メイン作だが、正太、伸一らの作画を安孫子が担当。 :; [[パーマン]](旧)(1966-1968)★★ ::: 藤本メイン作だが、パーマン2号、カバ夫、サブ、スーパーマン、2号のママらの作画を安孫子が担当。 ::: オバQの次作。主役と相棒を作画分担する同システム。 :; [[チンタラ神ちゃん]](1967) ::: チンタラ教の教祖である神ちゃんが町で信者を増やそうとして騒動を巻き起こす連載ギャグ漫画。 ::: 神ちゃん、貧乏神を藤本が、ジロー、福の神を安孫子が作画担当。 ::: ネームは藤本、安孫子の双方が担当。完全合作でオバQブーム引継ぎを狙う。<ref>NeoUtopia vol.32 P.80</ref> :; [[仙べえ]](1971-1972) ::: 半人前の[[仙人]]・仙べえが100年後の現代に帰ってきて、弟のひ孫である峰野家に居候して騒動を巻き起こす連載ギャグ漫画。 ::: ストーリーと背景の作画を藤本が、キャラクターの作画を安孫子が担当<ref group="注釈">藤本が通常通りに執筆した漫画作品のうちの、全人物の作画を安孫子が担当したと考えると分かりやすい。</ref>。 :; [[わかとの]]/サンスケ(1964-1965)★★ ::: 安孫子メイン作だが、主人公のわかとのの作画を藤本が担当。 ::: もともとはオバQとは逆の分担でスタートするも主役交代。 :; [[きえる快速車]](1963)★★ ::: 安孫子メイン作。零太郎を安孫子が、助手の熱海、ヒロイン・本田富士子、母、妹らを藤本が作画担当。 :; [[ウルトラB|ウルトラB そのとき3発!]](1965)★★ ::: 後年安孫子単独で執筆された『[[ウルトラB]]』(1984-1989)の元となった短編。 ::: 主人公の赤ん坊を安孫子が、敵役スパイ2人を藤本が作画担当。 ==== 藤子不二雄の合作一覧 ==== ※上の「ピックアップ」で紹介した作品も含む。 ===== 連載 ===== * [[天使の玉ちゃん]](1951-1952) - デビュー作。 * [[四万年漂流]](1953) - 初の雑誌連載。足塚不二雄名義。 * 光にあたれ陽にあたれ(1955) * [[タップタップのぼうけん]](1957-1958) - 藤本メイン作だが、一部の作画を安孫子が担当<ref>NeoUtopia vol.32 P.81</ref>。 * [[タトルくんのぼうけん]](1958-1959) * [[海の王子]](1959-1965) - 初の週刊誌連載。 * [[かせいのたまちゃん]](1960) * [[星の子ガン]](1961) - ガンを安孫子、三ぞう博士らを藤本が作画担当。宇宙西遊記。のちの『[[モジャ公]]』につながる作品。 * [[銀星少年]](1961) - #4は安孫子による作画<ref>コロタン文庫『藤子不二雄まんが全百科』</ref>。 * [[きえる快速車]](1963)★★ * [[オバケのQ太郎]](旧)(1964-1967,1969) * [[わかとの|サンスケ]](1964)★★ * [[名犬タンタン]](1964-1968) - タンタンとみどりを藤本、英雄を安孫子が作画担当。 * [[レインボー戦隊ロビン|レインボー戦隊]](1964-1965) - [[スタジオゼロ]]の合作。 * [[火星からきたベラくん]](1964-1965) - ベラくんを安孫子、少年を藤本が作画担当。 * [[わかとの]](1965)★★ * [[ベレーのしんちゃん]](1965-1966)★ - しんちゃんを藤本、発明家のパパを安孫子が作画担当。 * [[ジロキチ]](1965-1966) - ジロキチ、カバオらを安孫子、アルセーヌ・パン、千面相らを藤本が作画担当。ネームは藤本と安孫子の双方が担当<ref>NeoUtopia vol.32 P.48</ref>。 * [[オバケのQ太郎|オバケのP子日記]](1966) * [[てぶくろてっちゃん]](1966のディズニーランド版)★★ - てっちゃんを安孫子、みっちゃんを藤本が作画担当。ネームは回ごとに交替で担当。 * [[パーマン]](旧)(1966-1968)★★ * [[チンタラ神ちゃん]](1967) * [[仙べえ]](1971-1972) * (新)[[オバケのQ太郎]](1971-1974,1976)★★ ===== 単行本 ===== * [[UTOPIA 最後の世界大戦]](1953) - 初の単行本。足塚不二雄名義。 ===== 別冊付録 ===== * 三人きょうだいとにんげん砲弾(1952) - 初の別冊。足塚不二雄名義。 * バラとゆびわ(1954)★ * なかないさぶちゃん(1956) * 少年カメラ探偵 カメラは見ていた(1957) * 星の子カロル(1957) - 本文64頁<ref group="注釈">表1〜表4は除く。</ref>。宇宙探検もの。 * 恐怖のウラン島(1958) ===== 読切 ===== * 西部のどこかで(1952) - 雑誌デビュー作。足塚不二雄名義。 * 旋風都市(1953) - 初の藤子不二雄名義。 * 大平原児(1954) * 一米四方の冒険(1954) - 通常サイズの世界を安孫子、小さなサイズの世界を藤本が作画担当。 * [[海抜六千米の恐怖]](1954) * お化け退治(1954) - ローマ帝ガラガラの病気を治すため「時航機」で2000年前のローマへとタイムトラベルする少年の話。 * 史劇絵物語 十字架上の英雄(1954) - 文章と構成を藤本が担当。ペン画タッチの作画を安孫子がメインで担当。 * ねらわれた地球(1955) * 白さぎ城物語(1956) * きょぞうジャンバ(1958) * あきおくん火星へ行く(1958) * ノアはかせのロケット(1958) * 正義の味方(1961) - 基本的に主人公の正をはじめとした善人側を藤本、悪人側を安孫子(または作画スタッフ)が担当。 * [[ウルトラB|ウルトラB そのとき3発!]](1965)★★ * ギャハハ三銃士(1965) - 藤子、[[赤塚不二夫]]、[[つのだじろう]]の合作。 * 世界めい作全集(1966) * のらくろよ永遠に(1984) - 安孫子メイン作だが、ドラえもんとパーマンを藤本が作画。 === 合作の区別と作風 === ; ごく初期から3つのスタイルで作品制作 : ごく初期から、藤子不二雄の漫画作品は「合作」<ref group="注釈">「合作」はさらに「藤本メイン作品」「安孫子メイン作品」(一部の作画等を相棒が担当している)と「完全合作」(共に多く関わる)の3つに分けられる。</ref>「藤本担当作品」「安孫子担当作品」の3種に大別できる。藤本と安孫子の作風の違いを理解している編集者は、次第にどちらかを名指しして原稿を依頼するようになっていった。 : 十分な人数のアシスタントを雇用するまでは、互いの担当作を手伝うこともあったため(背景、背景の人物、効果、枠線等)、どちらかの担当作だからといって完全に単独で執筆した作品とは言い切れない(状況に応じて単独作品として扱うのは問題ないが、あくまでも「藤子不二雄」として発表した作品であり、もともと一人の作家として発表した作品かのように扱ってしまうと歴史的な齟齬が生まれる)<ref name="名前なし_3-20231105130920"/>。 : 逆に、多くのアシスタントを雇用してからはそれぞれが自身の担当作の締切に追われる状態のため、合作以外の互いの作品に関与することはなかった。そのため、合作以外は「藤本単独作品」または「安孫子単独作品」と呼んでも大きな問題は生じない(例えば『ドラえもん』は藤本単独作品。コンビ時代から続いている作品だから安孫子も一部の回を執筆しているというのはデマで、そのような証言は一切ない)。 ; コンビ時代は「藤子不二雄作品はすべて合作」 : 2人の作品の中に単独で執筆したものがあることは、独立(コンビ解消)まで積極的には公言していなかった。たとえば、[[1977年]]初版の自伝『二人で少年漫画ばかり描いてきた』では、安孫子は合作ではない作品についても「僕たち」の作品と表現している<ref>藤子不二雄A、藤子・F・不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』 日本図書センター、p.250</ref>。 :: 作中に作者本人が描かれる時も、2人揃って登場することが多かった<ref>藤子・F・不二雄『ドラえもん』 てんとう虫コミックス10巻「見えなくなる目ぐすり」(『小学四年生』1975年12月号掲載)、23巻「長い長いお正月」(『小学三年生』1980年1月号掲載)など。</ref>。 :: 実際に自分が一切執筆していない作品について取材を受けたり、コメントをしたりすることもあった。 ; コンビ時代も単独執筆は「通常開示」 : 単独での執筆をとくに「極秘」にしていたわけではなかった。 : 掲載誌によっては作者のプロフィールの本名として片方の名前だけが記され、代表作としてもそれぞれの執筆作だけが列挙されていた(編集者もどちらの作品かを理解していた)。自画像も1人の姿として描かれ掲載される場合もあった。 : 藤本の手による漫画『[[ドラえもん|ドラえもん誕生]]』(1978)では、冒頭に登場した安孫子が「あとよろしく」と言い残してすぐに立ち去ってしまう(他の連載『[[黒ベエ]]』と『[[狂人軍]]』の進行が遅れているため)。このことで『[[ドラえもん]]』が藤本だけで生み出されたことがさり気なく分かるようになっている。合作の実情をくみ取った上で気にせずに作品を楽しんでいるファンも多かった。 ; 作風の違い : 2人の画風の違いは徐々に一部の読者には知られるようになった<ref group="注釈" name="tezuka">『二人で少年漫画ばかり描いてきた』に序文を寄せた手塚治虫は、「両氏の個性は作品を一目見ればすぐ見分けがつく」と指摘している。 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』 日本図書センター、p.3</ref>。 : 原稿の色味の違いから安孫子は「黒い藤子」、藤本は「白い藤子」とあだ名されることもあった<ref>藤子不二雄A『78歳いまだまんが道を…』 p.100</ref><ref group="注釈">あくまでもごく一部の人がごく一部の状況で用いた呼び名であり、日常的に用いられた定番のあだ名ではない。熱心なファンは藤本作品に安孫子作品並の闇が内包されていることを知っているし、ライトファンや一般人の多くはそもそも作風の違いに気づかないので、「残酷で暗い描写が特徴のA作品、清く明るいF作品という意味で当時のファンがこのあだ名を広く用いていた」等の文脈で報道されると何重もの歴史的誤認が生じる。</ref>。 === 最後の合作 === : 独立(コンビ解消)時に「合作はオバQあたりまで」と藤子が語ったことで、「最後の合作は1964年に描かれたオバQ」という誤った認識が広まった。実際には1965年以降も『名犬タンタン』『ジロキチ』『パーマン(旧)』『チンタラ神ちゃん』『仙べえ』等の多数の合作が毎年のように執筆されている。 : 通常の漫画作品として最後の合作となったのは、1976年に執筆された『[[オバケのQ太郎]]』の読切作品(『[[月刊少年ジャンプ]]』)<ref group="注釈">「[https://aucfree.com/items/g370579027 参考:オークションに出品された最後の合作・読切オバQ掲載の月刊少年ジャンプ]」</ref><ref group="注釈">これ以降合作が行われなかった理由は「藤本がドラえもんの執筆で超多忙、安孫子もハットリくん、猿等の人気作の連載で多忙だったので合作の時間がなかった」等の状況からその一端が伺える。『たのむよ和代氏、もう一度しゃべって』に掲載された当時の日記には、遊び人のイメージとは裏腹に日々連載漫画のアイデア出しと執筆に追われる安孫子の多忙な様子が記されている。</ref>。『[[ドラえもん]]』の連載開始から6年半後、最初のテレビアニメ化(日本テレビ版)からちょうど3年後の作品である。 : 2023年現在は[[藤子・F・不二雄大全集]]の『[[新オバケのQ太郎]]』第3巻<ref group="注釈">外部リンク:[https://www.shogakukan.co.jp/pr/fzenshu/lineup/shin_obakeno_qtaro/ 藤子・F・不二雄大全集『新オバケのQ太郎』公式]</ref>で読むことができる。 : 特別な漫画作品まで含めれば、最後の合作は、1984年の『[[のらくろ|のらくろよ永遠に]]』。安孫子がメインで執筆し、ドラえもんとパーマンを藤本が作画した作品となっている。 : : 同時期の1983年〜1984年に執筆された漫画『[[忍者ハットリくん+パーマン 超能力ウォーズ|忍者ハットリくん+パーマン]]』は安孫子の単独作だが、合作が封印されていたわけではなく、藤本の不参加は『[[大長編ドラえもん]]』の執筆による多忙等の別の理由であることが伺える。 : その後も1988年頭の独立(コンビ解消)時まで、藤子不二雄は年賀状で両人の人気キャラクターが勢揃いする合作イラストを毎年執筆していた。藤子不二雄の2人が共同制作したイラストまで含めれば、1988年正月用の年賀状も存在する。独立ギリギリまで合作を行っていたともいえる。 : 独立後に出版された伝記等では合作の認識が誤っているものも多い。「久しぶりに合作をしよう」と言って1964年に『オバQ』を描き、それが最後の合作となった……と記されている伝記書籍<ref>講談社火の鳥文庫『藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}』</ref>もあるが、実際にはその翌年以降も新作の合作が発表され続けているのは前述の通り。 :歴史的事実にはない誤ったストーリーが、あたかも事実のように伝記書籍に記載され、正式に出版されている状況にある。 ==== その他の最後の合作 ==== :* 『[[仙べえ]]』(1971-1972):「両者が深く関わった漫画」「新作連載漫画」としては最後の合作<ref group="注釈">『オバQ』は初期をのぞけばほぼ藤本メイン作で安孫子は一部の作画のみの参加。</ref>。 === 合作の自伝 === ; 二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史 :* 1977年4月 毎日新聞社、ISBN 4620300810 :* 1980年9月 文庫版 [[文春文庫]] ISBN 4167253011 :* 2010年1月25日 人間の記録 171 日本図書センター(「人間の記録」シリーズとして復刻) ISBN 978-4284700412 : [[TBSテレビ|TBS]]『[[調査情報]]』連載の「僕たちはこの歳になっても、まだ少年漫画を描いている」を元にしている。『調査情報』の[[鈴木明|今井明]]編集長に安孫子が勧められて始めた連載。 : 大きな脚色がある自伝的漫画『[[まんが道]]』とは異なり、事実に即した内容。また、漫画ではない。自伝的な内容と、その時代の戦後児童漫画の状況を書き記した内容をセットにした構成になっている。 : 主に安孫子が書き、各章の冒頭に藤本の「中書き」が付いている。中書きと本文の字数の比が、藤本と安孫子の「普段の口数の比に等しいとお考え下さい」と、藤本は述べている<ref>『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 日本図書センター版p14</ref>。 : 巻末の年表は、[[石子順造]]『戦後マンガ史略年譜』<ref>[[至文堂]]『現代のエスプリ』108号 「戦後マンガ史略年譜」石子順造、[[長谷川正信]]のこと。</ref>の年表を元に加筆変更したもの。 : 文春文庫版では、一部の誤字が訂正された。また本文中の図表、巻末の年表が加筆、あるいは変更されている。後書き(安孫子の筆)では『ドラえもん』が大ブームになったことが記され、少年漫画の世界に戻ったのは間違っていなかったこと、また『[[少年時代]]』(安孫子作)の反響について記されている。 : 日本図書センターの復刻版では著者名表記が「藤子不二雄」から「藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}」「藤子・F・不二雄」連名に変わった。誤字(「ドラえもん」を「どらえもん」と表記しているなど)もそのまま復刻している。また、毎日新聞社版の復刻であるため、文春文庫版の加筆部分は収録されていない。 == 作品一覧 == 藤子不二雄の主な作品。 * すべてのタイトルは下記ページを参照。 ** '''[[藤子不二雄の連載一覧]]''' - 連載、別冊、描き下ろし単行本。 ** '''[[藤子不二雄の読切一覧]]''' - 読切、コマ漫画、イラスト等。 {| class="wikitable" |+ 藤子不二雄(独立前)時代(1987年まで<ref group="注釈">正確には1988年2月号頃まで</ref>) ! [[藤子・F・不二雄|藤本弘]] !! [[藤子不二雄#藤子不二雄の合作作品|合作]] !! [[藤子不二雄A|安孫子素雄]] |- | * [[藤子・F・不二雄の著作一覧|著作一覧]]([[:Category:藤子・F・不二雄の漫画作品|カテゴリ]]) || * [[藤子不二雄#藤子不二雄の合作作品|合作一覧]]([[:Category:藤子不二雄の漫画作品|カテゴリ]]) || * [[藤子不二雄A#作品|作品一覧(抜粋)]]([[:Category:藤子不二雄Aの漫画作品|カテゴリ]]) |- | * [[ゆりかちゃん]] * [[おやゆびひめ]] * [[しゃっくり丸]] * [[ユリシーズ]] * [[名犬ラッシー]] * [[ジャングルブック]] * [[ぴーたーぱん]] * [[かいじん二十めんそう]] || * [[天使の玉ちゃん]] * [[UTOPIA 最後の世界大戦]] || * [[ロケットくん]] * 白馬の王者 [[ローン・レンジャー]] * [[奇巌城]] * [[王子と乞食|こじきおうじ]] * [[わが名はXくん]] * [[怪人二十面相]] |- | * [[てぶくろてっちゃん]](1960) * [[ピロンちゃん]] * [[すすめロボケット]] * [[21エモン]] * [[藤子・F・不二雄のSF短編|SF短編]]([[藤子・F・不二雄のSF短編一覧|一覧]]/[[:Category:藤子・F・不二雄のSF短編|カテゴリ]]) * [[ウメ星デンカ]] * [[モジャ公]] * [[ドラえもん]]([[:Category:ドラえもん|カテゴリ]]) || * [[海の王子]] * [[きえる快速車]] * [[オバケのQ太郎]]([[:Category:オバケのQ太郎|カテゴリ]]) * [[わかとの]] * [[名犬タンタン]] * [[ベレーのしんちゃん]] * [[ジロキチ]] * [[てぶくろてっちゃん]](1966) * [[パーマン]](旧)([[:Category:パーマン|カテゴリ]]) * [[チンタラ神ちゃん]] || * [[シルバー・クロス]] * [[銀河船長]] * [[ビッグ・1]] * [[シスコン王子]] * [[フータくん]] * [[忍者ハットリくん]]([[:Category:忍者ハットリくん|カテゴリ]]) * [[スリーZメン]] * [[怪物くん]]([[:Category:怪物くん|カテゴリ]]) * [[マスクのXくん]] * [[わかとの#『怪人わかとの』|怪人わかとの]] * [[藤子不二雄Aブラックユーモア短編|ブラックユーモア短編]] * [[笑ゥせぇるすまん|黒ィせぇるすまん]] * [[ビリ犬]] * [[黒ベエ]] * [[狂人軍]] |- | * [[ポコニャン]] * [[ドビンソン漂流記]] * [[ジャングル黒べえ]] * [[パジャママン]] * [[モッコロくん]] * [[バケルくん]] * [[キテレツ大百科]]([[:Category:キテレツ大百科|カテゴリ]]) * [[みきおとミキオ]] * [[Uボー]] * [[バウバウ大臣]] * [[きゃぷてんボン]] * [[エスパー魔美]] * [[中年スーパーマン左江内氏]] * [[T・Pぼん]] * [[ミラ・クル・1]] * [[大長編ドラえもん]]([[:Category:大長編ドラえもん|カテゴリ]]) || * [[仙べえ]] * (新)[[オバケのQ太郎]] || * [[チャンピオンマンガ科]] * [[まんが道]] * [[夢魔子]] * [[マボロシ変太夫]] * [[恐喝有限会社]] * [[魔太郎がくる!!]] * [[番外社員]] * [[愛ぬすびと]] * [[喝揚丸ユスリ商会]] * [[さすらいくん]] * [[プロゴルファー猿]] * [[オヤジ坊太郎]] * [[ミス・ドラキュラ]] * [[ブラック商会変奇郎]] * [[少年時代]] |- | * [[パーマン]](新)([[:Category:パーマン|カテゴリ]]) * [[宙ポコ]] * [[宙犬トッピ]] * [[チンプイ]] || || * [[ウルトラB]] |} {| class="wikitable" |+ 独立時代(1988年〜) ! [[藤子・F・不二雄]] !! [[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]] |- | * [[ドラえもん]]([[:Category:ドラえもん|カテゴリ]])※87作品 * [[大長編ドラえもん]]([[:Category:大長編ドラえもん|カテゴリ]])※『日本誕生』以降 * [[チンプイ]] * [[未来の想い出]] * [[異人アンドロ氏]] || * (新)[[忍者ハットリくん]] * [[ウルトラB]] * (新)[[プロゴルファー猿]] * [[まんが道]] ※春雷編の途中から * [[ビリ犬]](新) * [[タカモリが走る]] * [[ビリ犬なんでも商会]] * [[パラソルヘンべえ]] * [[笑ゥせぇるすまん]] * [[まんが道#愛…しりそめし頃に…|愛…しりそめし頃に…]] * [[プリンスデモキン]] |- | || * [[笑ゥせぇるすまん#喪黒福次郎の仕事|喪黒福次郎の仕事]] * [[ホアー!! 小池さん]] * [[用心棒]] ※描き下ろし * [[プロゴルファー猿|サル (SARU)]] * [[笑ゥせぇるすまん|踊ルせぇるすまん]] * [[PARマンの情熱的な日々]] * [[怪物くん]](2011) |} == 全集など == * [[藤子・F・不二雄大全集]] ([[小学館]]) - 安孫子との合作も収録。115巻。 * [[藤子不二雄Aデジタルセレクション|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}デジタルセレクション]](小学館) - 事実上の全集。[[電子書籍]]。藤本との合作も収録。215巻。 * [[藤子不二雄Aランド|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}ランド]] - 「藤子不二雄ランド」の中から独立後に藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}名義となった作品のみを2002年より復刊([[ブッキング]])。2012年より再発売([[復刊ドットコム]])。藤本との合作も収録。149巻。 ;絶版 * [[藤子不二雄ランド]] ([[中央公論社]]) - 週刊誌形式で発売された全集。301巻。 == 作品の共通点 == 以下は、別作品同士の共通点や類似点。 中には藤本作品と安孫子作品の両方にまたがる共通点もある。コンビ時代は単独作でもすべて「自作」「合作」なので、アイデアや同一のネタも共有し、各自で自由に使用していた。単独作の中にも、相棒の影響下のもとに描かれているものがあることがわかる。 === 共通のキャラクター === ; [[小池さん]] : 合作『[[オバケのQ太郎]]』をはじめとした数多くの藤子作品に出演。安孫子作『[[小池さんの奇妙な生活]]』、藤本作『[[カイケツ小池さん]]』等、主演作品も複数ある。生みの親は安孫子。 ; [[神成さん]] : 合作『[[オバケのQ太郎]]』と藤本作『[[ドラえもん]]』の両作に出演。 ; [[ゴンスケ]] : 藤本作の『[[21エモン]]』『[[ウメ星デンカ]]』に出演後、安孫子作の『[[ゴンスケ]]』で主演に。生みの親は藤本。 === 共通の設定・アイデア === ; マスク(他者からもらったマスクで少年がパワーアップする) : 安孫子作『[[わが名はXくん]]』の設定を、藤本メイン作『[[パーマン]]』で流用。 ; フトンたたきゲーム(棒状に丸めた布団で叩き合うゲーム) : 合作『[[オバケのQ太郎]]』、安孫子作『[[オヤジ坊太郎]]』、藤本作『[[ドラえもん]]』、安孫子作『[[ウルトラB]]』等、多くの作品で対戦が行われた。藤本は「昔、安孫子とやって楽しかった」と想い出を語りつつ、娘と対戦することもあったという。『[[オヤジ坊太郎]]』では大ブームに。『オバQ』では「ふとんゲーム」、『[[ドラえもん]]』では「マット・フェンシング」という名称。 ; 恐竜に関する無茶な約束(できなかったら罰ゲーム) : 安孫子作『[[怪物くん]]』「ほんとに恐竜はいるのかい?」(1967)でのキザオとヒロシのやりとりを、藤本作『[[ドラえもん]]』「[[ドラえもん_のび太の恐竜|のび太の恐竜]]」(1975)でスネ夫とのび太が再演。 ; 悪徳不動産屋 : 藤本と安孫子は1961年に川崎市に土地を購入し、隣同士で一軒家を新築した。その経験もあって、その後の作品にマイホーム購入をテーマとした回がたびたび登場する。一部のアイデアは共通のものが使われている。主な作品は以下の通り。 :* 『[[わかとの]]』(安孫子メインの合作)「きびしいマイホーム」 - 1965年24号。デジタルセレクション3巻。 :* 『[[オバケのQ太郎]]』(合作)「百坪一万円」 - 1966年19号。大全集4巻。 :* 『[[忍者ハットリくん]]』(安孫子単独作)「住宅難には忍者もマイッタの巻」 - 1967年2月号。 == アニメ == {{Main|藤子不二雄のアニメ作品}} {| class="wikitable" |+ 最近の藤子アニメ ! !![[藤子・F・不二雄|藤本弘]]アニメ<br />([[:Category:藤子・F・不二雄原作のアニメ作品|カテゴリ]]) !! 原作漫画がもとは[[藤子不二雄#藤子不二雄の合作作品|合作]]<br />だった作品のアニメ<br />([[:Category:藤子不二雄原作のアニメ作品|カテゴリ]]) !! [[藤子不二雄A|安孫子素雄]]アニメ<br />([[:Category:藤子不二雄A原作のアニメ作品|カテゴリ]]) |- ! 最新作<ref group="注釈">2023年現在。</ref> | [[ドラえもん_(2005年のテレビアニメ)|ドラえもん]](1979-放送中の第2作) || 映画[[Pa-Pa-Pa_ザ★ムービー_パーマン_タコDEポン!アシHAポン!|Pa-Pa-Pa_ザ★ムービー <br />パーマン タコDEポン!アシHAポン!]](2004)<ref group="注釈">ただし、『[[パーマン]]』は独立後は藤子・F名義となったため、安孫子は映画に一切関わっていない。</ref> || [[忍者ハットリくん|NINJAハットリくんリターンズ]](2012-新作公開中) |- ! 最新作の前の<br />別の新作タイトル | [[モジャ公]](1995-1997) || [[オバケのQ太郎_(アニメ)|オバケのQ太郎]](1985-1987の第3作)<ref group="注釈">ただし、キャラクター指示書は藤本が描いており、アニメの正太や伸一は藤本作画に近い見た目になっている。</ref> || [[笑ゥせぇるすまん|笑ゥせぇるすまんNEW]](2017) |} == 実写 == テレビドラマや映画で実写映像となった主な藤子作品。 その他の作品は[[:Category:藤子不二雄原作の実写作品]]を参照。 {| class="wikitable" |+ 実写化された主な藤子作品(コンビ時代) ![[藤子・F・不二雄|藤本弘]] !! [[藤子不二雄A|安孫子素雄]] |- | * [[藤子不二雄の夢カメラ|夢カメラ]](1986,1987) * [[赤毛のアン子]](1986) * [[バケルくん]](1987) || * [[忍者ハットリくん]](1966) * [[忍者ハットリくん|忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ]](1967) * [[愛ぬすびと#テレビ映画|愛ぬすびと]](1974) * [[まんが道#テレビドラマ|まんが道]](1986,1987) |} {| class="wikitable" |+ 実写化された主な藤子作品(1988年の独立以降) ! [[藤子・F・不二雄]] !! [[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]] |- | * [[藤子不二雄の夢カメラ#連続ドラマ版|夢カメラ]](1988) * 映画 [[未来の想い出#映画|未来の想い出 Last Christmas]](1992) * [[キテレツ大百科#テレビドラマ|キテレツ]](2002) * [[エスパー魔美#テレビドラマ|エスパー魔美]](2002) * [[藤子・F・不二雄のパラレル・スペース]](2008) * [[中年スーパーマン左江内氏#テレビドラマ|スーパーサラリーマン左江内氏]](2017) * [[藤子・F・不二雄 SF短編ドラマ]](2023) || * 映画 [[少年時代]](1990)※製作 * [[恐喝有限会社|ユスリ有限会社・満福鶴丸の内職]](1990) * [[オカルト勘平]](1991) * [[笑ゥせぇるすまん#テレビドラマ|笑ゥせぇるすまん]](1992,1999) * [[ブラック商会変奇郎#テレビドラマ|シャドウ商会変奇郎]](1996) * [[NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE]](2004) * [[怪物くん_(テレビドラマ)|怪物くん]](2010) * 映画 [[怪物くん_(テレビドラマ)#映画|怪物くん]](2011) |} == 音楽 == 藤子作品に付随して作られた主な音楽。 その他の作品は[[:Category:藤子不二雄の映像作品の音楽]]を参照。 {| class="wikitable" |+ 主な藤子曲(コンビ時代) ![[藤子・F・不二雄|藤本弘]] !! [[藤子不二雄#藤子不二雄の合作作品|合作]] !! [[藤子不二雄A|安孫子素雄]] |- | * [[ぼくドラえもん]](1979)※作詞 || * [[オバQ音頭]](1966)※作詞 || * [[ユカイツーカイ怪物くん]](1980)※作詞 |} {| class="wikitable" |+ 主な藤子曲(1988年の独立以降) ! [[藤子・F・不二雄]] !! [[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]] |- | * [[はじめてのチュウ]](1990) || * [[少年時代 (井上陽水の曲)]](1990) |} === 作詞 === [[1987年]]以前の「藤子不二雄」名義の楽曲<ref group="注釈">コンビ時代はすべて藤子不二雄作品なので、「藤本メインの合作」や「藤本単独作」であっても、安孫子が作詞を行っている可能性がある。</ref>。 * [[オバケのQ太郎]](1966) ** [[オバQ音頭]](作曲:[[広瀬健次郎]]) ** オバQマーチ(作曲:広瀬健次郎) ** オバケのP子(作曲:広瀬健次郎) * [[パーマン]](1967) ** [[ぼくらのパーマン]](作曲:[[越部信義]]) ** すてきなパー子(作曲:越部信義) ** パーマン2号はウキャキャのキャ(作曲:[[筒美京平]]) * [[ウメ星デンカ]](1969) ** ウメ星デンカがこんにちは(作曲:[[鈴木邦彦 (作曲家)|鈴木邦彦]]) ** ウメ星マーチ(作曲:鈴木邦彦) ** ウメ星デンカの子守歌(作曲:鈴木邦彦) ** ウメ星国家(作曲:鈴木邦彦) * [[ジャングル黒べえ]](1973) ** ジャングル黒べえの歌(作曲:[[三沢郷]]) ** ウラウラ・タムタムベッカンコ?(作曲:三沢郷) * [[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|ドラえもん]](1973) ** [[ドラえもん (内藤はるみ/劇団NLTの曲)|ドラえもん]](作曲:越部信義) ** ドラえもん いん できしいらんど(作曲:越部信義) * [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]](1979) ** ドラえもん音頭(作曲:菊池俊輔) ** ドラえもん子守歌(作曲:菊池俊輔) * [[21エモン|21エモン 宇宙へいらっしゃい!]](1981) ** 宇宙へいらっしゃい!(作曲:菊池俊輔) * パーマン(1983) ** [[きてよパーマン]](作曲:[[古田喜昭]]) ** パーマン音頭(作曲:古田喜昭) * オバケのQ太郎(1985) ** ぼくはオバQノンキなオバケ(作曲:菊池俊輔) == ゲーム == 藤子作品を題材に作られた主なコンピュータゲーム。 その他の作品は[[:Category:藤子不二雄のコンピュータゲーム]]を参照。 {| class="wikitable" |+ 主な藤子ゲーム(コンビ時代) ![[藤子・F・不二雄|藤本弘]] !! [[藤子不二雄#藤子不二雄の合作作品|合作]] !! [[藤子不二雄A|安孫子素雄]] |- | * [[:Category:ドラえもんゲーム作品|ドラえもん]] ※多数 || * [[オバケのQ太郎 ワンワンパニック]](1985) || * [[忍者ハットリくん (ゲーム)|忍者ハットリくん]](1986) |} {| class="wikitable" |+ 主な藤子ゲーム(1988年の独立以降) ! [[藤子・F・不二雄]] !! 原作漫画がもとは[[藤子不二雄#藤子不二雄の合作作品|合作]]<br />だった作品のゲーム !! [[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]] |- | * [[藤子・F・不二雄キャラクターズ 大集合!SFドタバタパーティー!!|SFドタバタパーティー!!]](2014) || * [[パーマン (ゲーム)|パーマン]](1990) || * [[パラソルヘンべえ#ゲーム|パラソルヘンべえ]](1990,1991) |} == その他の情報 == === コラボレーション === ; 『[[忍者ハットリくん+パーマン 超能力ウォーズ|忍者ハットリくん+パーマン]]』 : 安孫子作『[[忍者ハットリくん]]』と、藤本メイン作『[[パーマン]]』がコラボレーションしている。漫画作品は安孫子の単独執筆作。 === 入手困難作品 === 2023年現在入手困難な作品、または未単行本化作品。 ; 入手困難 * 『[[忍者ハットリくん+パーマン 超能力ウォーズ|忍者ハットリくん+パーマン]]』 ; 単行本未収録回がある作品 * 『[[オヤジ坊太郎]]』 * 『[[添乗さん]]』 * 『[[オレ係長補佐]]』 他多数。 === Moマーク === 藤子不二雄のサインや、作品の最後のコマ等に記されていることがある「Mo」に似たマークはアルファベットではなく「富士山」と「湖」で、「富士+湖」→「フジコ」を表している。独立後、藤本は「M」の左下に「o」を描くようになった。独立後、安孫子はMoマークを使用しなくなった(主に{{Unicode|Ⓐ}}をマークとして使うようになった)。安孫子は「これは藤子不二雄のマークなので、ぼくひとりのものではないから」と2005年にコメントしている<ref>『Neo Utopia』Vol.40 p36</ref>。 === 出演 === 藤子不二雄本人によるメディア出演。 ; テレビ * 『[[忍者ハットリくん#忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ (1967年)|忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ]]』 - 第18話「ジッポウの病気は特大でござる」<ref>{{Cite web|和書|title=忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇ |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-10433 |website=テレビドラマデータベース |access-date=2023-06-06 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ VOL.2 {{!}} 東映ビデオオフィシャルサイト |url=https://www.toei-video.co.jp/catalog/dutd06762/ |website=東映ビデオ株式会社 |date=2017-04-03 |access-date=2023-06-06 |language=ja}}</ref> * [[ウメ星デンカ]](1969年9月2日) - 第23回Aパート「ゴンスケナラ子対決の巻」のゴンスケとナラ子が戦おうとする場面で、藤本と安孫子が顔写真アニメキャラとして登場。声も本人たちが演じた。 * [[ケンちゃんチャコちゃん]](1980年5月1日、11月6日) - 第9話「マンガと時代劇」、第36話「時代劇と西部劇」で本人役で出演。 * [[春休み・夏休みマンガ祭り|春休みマンガ祭り]](1981年3月11日、1984年3月14日) - 『[[水曜スペシャル]]』で放送。 * [[オールスター番組対抗ボウリング大会|輝け! オールスター春の番組対抗ボウリング大会]](1982年3月24日) - 『水曜スペシャル』で放送。初めてアニメチームが出場するにあたり、藤本と安孫子がアニメチームに参加した。 * [[ドラえもん・ヨーロッパ鉄道の旅]] - [[テレビ朝日]]、1983年10月18日。ヨーロッパ各地の鉄道を取材する藤子不二雄の2人が、実写に合成されたアニメのドラえもん・のび太と共演。アニメパートでは声の出演(冒頭でのび太からの電話に出る役)、実写パートでは本人たちが出演。ヨーロッパ各国([[イギリスの鉄道|イギリス]]、[[オランダ]]、[[フランスの鉄道|フランス]]、[[スイスの鉄道|スイス]])の鉄道に乗って旅行した。テレビ朝日開局25周年特別番組。 === 登場作品 === 藤子不二雄(または藤子不二雄をモデルとした人物)が登場する作品。 ; テレビドラマ * [[まんが道]] - [[日本放送協会|NHK]]「[[銀河テレビ小説]]」[[1986年]](昭和61年)・[[1987年]](昭和62年)。満賀道雄(演:[[竹本孝之]])は安孫子がモデル。才野茂(演:[[長江健次]])は藤本がモデル。 ; テレビアニメ * [[ぼくらマンガ家 トキワ荘物語]] - [[フジテレビ|CX]]「[[日生ファミリースペシャル]]」[[1981年]](昭和56年)。[[声優]]:[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]](藤本役)、[[井上真樹夫]](安孫子役)。 ; 映画 * [[忍者ハットリくん+パーマン 超能力ウォーズ]] - [[笹川ひろし]]総監督、原田益次監督、[[1984年]](昭和59年)。声優:不明。 * [[忍者ハットリくん+パーマン 忍者怪獣ジッポウVSミラクル卵]] - 笹川ひろし総監督、原田益次監督、[[1985年]](昭和60年)。声優:不明。 * [[トキワ荘の青春]] - [[市川準]]監督、[[1996年]](平成8年)。演:[[阿部サダヲ]](藤本役)、 [[鈴木卓爾]] (安孫子役)。 == 関連人物 == === 漫画家 === * [[手塚治虫]] * [[寺田ヒロオ]] * [[永田竹丸]] * [[森安なおや]] * [[坂本三郎]] * [[鈴木伸一]] * [[石ノ森章太郎]] * [[赤塚不二夫]] * [[つのだじろう]] * [[園山俊二]] * [[しのだひでお]] === 共同制作者など === 藤子スタジオ(1988年以降は藤子プロも含む)にて作画に関わったスタッフまたは友人。 ==== 作画に関与した友人 ==== ; [[しのだひでお]] : 手塚治虫の元アシスタント。社員ではなかったにもかかわらず机が用意され、数多くの作品に関与。 : 『[[ドラQパーマン]]』(藤本がコマ割りまで行い、しのだが作画を担当した合作)、『[[ベラボー]]』(藤本メイン作のサブキャラをしのだが作画担当した合作連載)、『[[ぼくんちのタコくん]]』(安孫子との合作連載)、『[[怪物くん]]』第1話の多大な作画協力、『黒イせぇるすまん』(後の『[[笑ゥせぇるすまん]]』の最初の読切版)の作画協力など。 ; [[永田竹丸]] : 田河水泡に師事。藤子の信頼できる友人として1967年12月〜1973年2月にチーフアシスタントを務め、『ドラえもん』等の作画(人物の身体のペン入れなど)に携わる。 ==== アシスタント(作画スタッフ) ==== ※在籍順。 ===== 1960年代〜 ===== * 西村英夫 - チーフ。 * 猪目和代 - のちの安孫子夫人。 * [[ヨシダ忠]] - チーフ。 * [[志村みどり]](荒俣静枝) - ロボ子の作画等。[[荒俣宏]]の妹。 ===== 1970年代前半〜 ===== * [[方倉陽二]]<ref>『漫画家人名事典』 101頁</ref> - チーフ。 * [[羽中ルイ]](早川正美) * [[えびはら武司]]<ref>『漫画家人名事典』 70頁</ref> * 高峰至(青木則幸) ===== 1970年代後半〜 ===== * さとうかずひろ(佐藤和裕) - チーフ。 * [[田中道明]] - チーフ。 * [[さいとうはるお]] - チーフ。 * [[たかや健二]](石毛憲一) - チーフ。 * 佐藤光重 - チーフ。 * [[いそほゆうすけ]](山川輝幸) - チーフ。 * [[藤原茂樹_(ゲームクリエイター)|藤原茂樹]] - ゲームクリエイター。 ===== 1980年代前半〜 ===== * 阿部淳二 * 藤田徹 - チーフ。 * [[三谷幸広]] * 西田真基 - チーフ。 ===== 1988年以降(独立後) ===== * [[むぎわらしんたろう]](藤子プロ) - 1988年入社。1993年Fチーフ。2000年退社。 ===== 不明 ===== ドラえもんの関連書籍の執筆者<ref group="注釈">アシスタントとしての勤務実績は不明</ref>。 * [[竹村よしひこ]] * 村田博司 === [[声優]] === * [[肝付兼太]] - [[藤子不二雄のアニメ作品|藤子原作のアニメ作品]]の常連として多数出演していた。 == 関連項目 == === カテゴリ === * [[:Category:藤子不二雄]] ** [[:Category:藤子・F・不二雄]] ** [[:Category:藤子不二雄A]] * [[:Category:藤子不二雄の映像作品]] === 組織 === * [[トキワ荘]]([[:Category:トキワ荘|カテゴリ]]) * [[新漫画党]] * [[スタジオゼロ]] * [[シンエイ動画]] * [[藤子不二雄FCネオ・ユートピア]] === 掲載誌 === * [[小学館の学習雑誌]] * [[月刊コロコロコミック]] * [[てれびくん]] * [[週刊少年サンデー]] * [[こどもの光]] * [[ビッグコミック]] === レーベル === * [[てんとう虫コミックス]] * [[藤子不二雄ランド]] === 施設等 === * [[トキワ荘マンガミュージアム]] * [[高志の国文学館]] === 漫画賞 === * [[藤子不二雄賞]] == 関連図書 == === 藤子不二雄研究を取り扱った書籍 === {{ウィキポータルリンク|漫画|[[画像:Logo serie manga.png|50px|Portal:漫画]]}} * 浜田祐介(著)『藤子・F・不二雄論』ISBN 4835518748 * [[米澤嘉博]](著)『藤子不二雄論―FとAの方程式』河出書房新社、ISBN 4309265499(2002年4月)。のちに河出文庫版も。 * 藤子不二雄(A)(監修):完全保存版「まんが道 大解剖」、三栄書房(サンエイムック)、ISBN 978-4-7796-3054-5(2017年4月13日)。 === 伝記漫画 === * [[まんが道]] * [[藤子不二雄物語 ハムサラダくん]] === 元アシスタントの書籍 === * [[まいっちんぐマンガ道|藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://dora-world.com/ ドラえもんチャンネル] - 藤子プロ(藤子・F・不二雄)の公式サイト * [https://www.sankei.com/article/20210406-NFRMYFVVFJKILPNDYUJH74ILL4/ 藤子不二雄Aさんが語る手塚さんの思い出 7日から特別展「トキワ荘と手塚治虫展」(産経新聞2021年4月6日記事)] {{藤子不二雄}} {{赤塚不二夫}} {{石ノ森章太郎}} {{手塚治虫}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふしこ ふしお}} [[Category:藤子不二雄|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:トキワ荘]] [[Category:共有筆名]] [[Category:富山県出身の人物]]
2003-02-13T13:57:48Z
2023-12-22T03:02:07Z
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[ "Template:Infobox 漫画家", "Template:Cite book", "Template:藤子不二雄", "Template:Normdaten", "Template:Unicode", "Template:Anchors", "Template:ウィキポータルリンク", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:手塚治虫", "Template:石ノ森章太郎", "Template:特殊文字", "Template:Main", "Template:Notelist", "Template:要出典", "Template:Cite web", "Template:赤塚不二夫" ]
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安永航一郎
安永 航一郎(やすなが こういちろう、1962年(昭和37年)1月13日 - )は、日本の漫画家。パロディや下ネタを扱った作品を多く手掛ける。 また、同人サークル「沖縄体液軍人会」(おきなわたいえきぐんじんかい)を主宰しており、同人活動においては、自身の作風をより強めた形でアニメやゲーム作品などの二次創作作品を発行している。
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安永 航一郎は、日本の漫画家。パロディや下ネタを扱った作品を多く手掛ける。 また、同人サークル「沖縄体液軍人会」(おきなわたいえきぐんじんかい)を主宰しており、同人活動においては、自身の作風をより強めた形でアニメやゲーム作品などの二次創作作品を発行している。
{{存命人物の出典明記|date= 2021年1月11日 (月) 20:27 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 安永 航一郎 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1962|01|13}} | 生地 = {{JPN}}・[[大分県]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、390頁</ref> | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1962|01|13|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1980年]] - | ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[青年漫画]] | 代表作 = 『[[県立地球防衛軍]]』<br />『[[陸軍中野予備校]]』<br />『[[巨乳ハンター]]』<ref name="mangaseek" /> | 受賞 = ヤングマガジン創刊記念新人賞(『FIELD BALL1980』)※ '''図星 京一郎'''名義 | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''安永 航一郎'''(やすなが こういちろう、[[1962年]]([[昭和]]37年)[[1月13日]]<ref name="mangaseek" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[パロディ]]や[[下ネタ]]を扱った作品を多く手掛ける<ref name="sansai"> {{Cite book ja-jp |author = 伊藤真広 |editor = 村中宣彦 |year = 2006 |chapter = 【プロ作家】→【同人名義】データベース |title = ゲームラボ特別編集「現代視覚文化研究」 |publisher = [[三才ブックス]] |isbn = 4-86199-061-0 |page = 192 }}</ref>。 また、[[同人サークル]]「'''沖縄体液軍人会'''」(おきなわたいえきぐんじんかい)を主宰しており、[[同人]]活動においては、自身の作風をより強めた形でアニメやゲーム作品などの[[二次創作]]作品を発行している<ref name="sansai"/>。 __TOC__{{-}} == 経歴 == * [[大分県]]出身<ref name="mangaseek" />。[[大分舞鶴高等学校]]を経て、[[九州大学]]へ進学。 * [[1980年]](昭和55年)、「FIELD BALL1980」が『[[週刊ヤングマガジン]]』([[講談社]])主催の「ヤングマガジン創刊記念新人賞」を受賞し、同誌に掲載されて大学在学中にデビュー('''図星 京一郎'''名義)。 * [[1981年]](昭和56年)、「鉄人スポーツマスク」が『[[少年ジェッツ]]』([[白泉社]])主催の「少年ジェッツ創刊記念少年漫画賞ギャグ漫画部門」に入選し、同誌へ掲載される('''TAJIMAN'''名義)。連作シリーズとなり計4話が同誌および別冊誌へ掲載。 * [[1982年]](昭和57年)から『[[少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊]]』([[小学館]])に短編を発表し、現在の[[ペンネーム]]である「'''安永 航一郎'''」名義を使用する。[[1980年代]]後半は、『[[週刊少年サンデー]]』および『週刊少年サンデー増刊』を中心に、主に小学館系の雑誌で活動。 * [[1995年]]([[平成]]7年)末から「沖縄体液軍人会」という同人サークルを主宰し、アニメ・マンガ・ゲームのパロディ作品を積極的に制作している。 == 作品 == === 漫画 === ==== 連載 ==== * [[県立地球防衛軍]] ([[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]、1983年5月号 - 1985年9月号) * [[エイチマン]] ([[週刊少年サンデー]]、1984年34号 - 36号) * [[陸軍中野予備校]] (週刊少年サンデー、1985年42号 - 1986年52号) * [[巨乳ハンター]] (週刊少年サンデー、1989年 - 1990年 → 週刊少年サンデー増刊号、1990年) - 不定期連載 * [[わたしの親父はホトケ様]] ([[ウィングス (雑誌) |ウィングス]]、1989年4月号 - 7月号) - 短期集中連載 * [[海底人類アンチョビー]] (週刊少年サンデー増刊号、1992年3月 - 1994年8月) * [[頑丈人間スパルタカス]] ([[少年キャプテン]]、1993年6月号 - 1996年1月号) * [[超感覚ANALマン]] ([[月刊コミック電撃大王|電撃大王]]、1994年創刊号 - 1999年12月号) * [[超人トトカルチョ]] ([[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生 → 小学六年生]]、1995年3月号 - 8月号) * [[火星人刑事]] ([[ウルトラジャンプ]]、1997年No.14 - 2002年9月号) * [[青空にとおく酒浸り]] ([[月刊COMICリュウ]]、2006年創刊号 - 2012年12月号) * [[下のほうの兄さん]]([[モバMAN]]、掲載年不詳) ==== 読み切り ==== * 悪夢の昼食<ref>{{Cite web |title=少年サンデー特別増刊 サンデー1000 安永航一郎 悪夢の昼食 肉弾X う 立て一代男 きりやま俊介 いっくすの大冒険 六田登 さらば人類「中古」の落札価格|少年サンデー|ヤフオク! 落札相場- オークファン(aucfan.com) |url=https://aucview.aucfan.com/yahoo/h1020973405/ |website=買うときも売るときも オークファン -ヤフオク!などオークションの情報が満載 {{!}} 新品から中古まであらゆる商品の最安値を徹底比較! |access-date=2023-12-12 |language=ja |last=aucfan}}</ref> * 肉弾X<ref>{{Cite web |title=少年サンデー特別増刊 サンデー1000 安永航一郎 悪夢の昼食 肉弾X う 立て一代男 きりやま俊介 いっくすの大冒険 六田登 さらば人類「中古」の落札価格|少年サンデー|ヤフオク! 落札相場- オークファン(aucfan.com) |url=https://aucview.aucfan.com/yahoo/h1020973405/ |website=買うときも売るときも オークファン -ヤフオク!などオークションの情報が満載 {{!}} 新品から中古まであらゆる商品の最安値を徹底比較! |access-date=2023-12-12 |language=ja |last=aucfan}}</ref> * うで立て一代男<ref>{{Cite web |title=少年サンデー特別増刊 サンデー1000 安永航一郎 悪夢の昼食 肉弾X う 立て一代男 きりやま俊介 いっくすの大冒険 六田登 さらば人類「中古」の落札価格|少年サンデー|ヤフオク! 落札相場- オークファン(aucfan.com) |url=https://aucview.aucfan.com/yahoo/h1020973405/ |website=買うときも売るときも オークファン -ヤフオク!などオークションの情報が満載 {{!}} 新品から中古まであらゆる商品の最安値を徹底比較! |access-date=2023-12-12 |language=ja |last=aucfan}}</ref> * 宇宙戦艦ハーレムノクターン([[サイバーコミックス]]、004号および[[ガンダムジェネレーション]]、1号) - [[アンソロジー]]コミックに収録 * [[実録ジオン体育大学]](サイバーコミックス、1990年016号) - アンソロジーコミックに収録 * [[ゾック|ロボゾック]](サイバーコミックス、022号) * ゴジラ 対 盆栽娘([[ゴジラ|THEゴジラCOMIC]]収録) * [[サンデー19Show]] 奥崎健三、貧者の一報(週刊少年サンデー、1988年2・3合併号) * フィギュアB×B(月刊チャンピオンREDいちご、2010年05月号) === 挿絵 === * [[東京忍者・総集編]]([[ぶらじま太郎]]・著、[[富士見ファンタジア文庫]]) * [[中村うさぎ#エッセイ|中村うさぎのビンボー日記]]([[中村うさぎ]]・著、[[ザ・スニーカー]]連載<ref group="注">雑誌連載時のみ、単行本では別のイラストレーターが担当した。</ref><ref>連載時のイラスト担当は中村からの指名であったことが中村の単行本{{Cite book|和書|title=だって、欲しいんだもん!―借金女王のビンボー日記|author=中村うさぎ|authorlink=中村うさぎ|publisher=[[ゴマブックス]]|year=2014|chapter=シャネル仮面V3、登場!}}で記されている。</ref>) * [[定吉七番]]シリーズ([[東郷隆]]・著) ** [[定吉七番#太閤殿下の定吉七番|太閤殿下の定吉七番]] カバーイラスト、ゲーム版のキャラクターデザイン・イラスト・コミカライズ ** [[定吉七番#定吉七番の復活|定吉七番の復活]] ([[小説現代]]2010年6月号 - 2011年2月号)雑誌連載版のみで[[単行本]]には未収録、[[文庫]]版でカバーイラスト ** [[定吉七番#ビンボー・怒りの脱出|ビンボー・怒りの脱出]]([[同人誌]])表紙イラスト ** [[定吉七番#マンコ・カパックの陰謀|マンコ・カパックの陰謀]](同人誌)表紙イラスト ** [[定吉七番#マンコ・カパックの逆襲|マンコ・カパックの逆襲]](同人誌)表紙イラスト === ゲーム === * [[定吉七番#その他|定吉七番]]([[ハドソン]]、[[PCエンジン]]) キャラクターデザイン、コミカライズ * [[悪代官 (カードゲーム)|悪代官]]([[ホビージャパン]]) カードイラスト、パッケージイラスト == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やすなか こういちろう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:大分県立大分舞鶴高等学校出身の人物]] [[Category:九州大学出身の人物]] [[Category:大分県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]]
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DVD
DVD(英語: Digital Versatile Disc、デジタル多用途〈多目的〉ディスク)は、デジタルデータの記録媒体である第2世代光ディスクの一種である。 媒体の形状や記録・読取方式はCD(コンパクトディスク)とほぼ同じだが記録容量がCDの約6倍になるため、CDでは不可能だった長時間映像の記録が可能である。 開発にあたっては、ハリウッド映画業界からの要求で「現在のメディアを上回る高画質・高音質で、1枚につき片面133分以上の収録時間」を目指すこととされ、1枚あたりの記録容量は当時の技術水準との兼ね合いからVHSビデオテープ方式と同等画質で133分の録画が可能となる4.7GB(片面一層の場合)のディスクとして開発された。約2時間の映像の場合、DVD以前から映像記録媒体として使用されていたレーザーディスクでは両面に記録する必要があり、視聴途中でディスクを裏返す必要があったが、DVDでは片面で収録可能になったため、映画作品の大半を途切れることなく視聴できるようになった。またデジタル化されたため、安定した映像が再生できるようになった。ただし、レコーダーでの通常画質の録画は片面120分に制限される場合が多い。 こうしてCDと同様の使い勝手で高画質な映像を視聴出来ることから、2000年代以降の映像記録の主要メディアに位置づけられ、VHSやレーザーディスクを置き換える形で普及した。従来の映像記録媒体と同様に映画やドキュメンタリー、ドラマなど、様々な映像ソフトが市販されている。さらに、民生用カムコーダやノンリニア編集対応パソコンなどの普及に伴い、自主編集した映像のDVD記録も可能で、また映像用途だけでなくコンピュータ用のデータ・ストレージ(保存媒体)としても使用される。 2000年代からは容量面でDVDを上回る、第3世代光ディスクと呼ばれるBlu-ray Discが登場し、2010年代以降はDVDと同時期に普及したUSBメモリなどのフラッシュメモリの容量もDVDを上回り、製造単価も減少した。1メディアの容量当たり単価はフラッシュメモリが上回っているが、堅牢性、融通性から、PCなどでの単なるデータの受け渡し用途としては、フラッシュメモリにその座を明け渡している。 2020年代に入ると、ネットワークを経由して端末やクラウドの間で大容量データをやり取りすることが主流となり、映像用途としてもBlu-ray DiscおよびYouTubeやNetflixなどの動画配信サービスが普及したことで、その座を明け渡している。 DVD登場以前の1990年代初頭、CDより高密度の第2世代光ディスクには映画の情報量から考えると50倍の容量が必要でそれを実現するためには青色レーザーが必須と考えられており、研究が行われていた。ハリウッド映画業界から早期に商品化してほしいという要望があったが当時は青色レーザーによる光ディスクの実用化は困難であった。そのため当時急速に進歩していた動画圧縮技術で必要とする容量を大幅に減らし、青色レーザーを使わず大容量化を図った光ディスクを組み合わせる方向で開発が進められた。ソニーは青色と赤色レーザーの中間の波長となるSHGグリーンレーザーを用いた光ディスクを研究していたがCDと同じディスクの厚みに拘ったため他社の赤色レーザーを用いた改良型の光ディスクに容量で劣っていた。1994年末には東芝・タイム・ワーナー・松下電器産業(現・パナソニック)・日立・パイオニア(2022年まではオンキヨーホームエンターテイメント、2022年に経営破綻後はオンキヨーテクノロジーなど)・トムソン・日本ビクター(現・JVCケンウッド)の連合による赤色レーザーを使ったSuper Density Disc(SD)の開発がされていた。一方で、フィリップス・ソニー陣営も赤色レーザーを使ったMultiMedia Compact Disc(MMCD)を同時期に開発しており、1980年代のVHS対ベータ戦争の再来が危惧されていた。 そこで、IBMのルー・ガースナーが仲介に入り、フィリップスとソニーはMMCD規格の採用を諦めることと引き替えに、SD規格のサーボトラッキング機構に関する2項目の修正を認めることで、フィリップスとソニーも東芝主導のSD規格につき、両陣営は合意に至った。 1つ目の項目は、フィリップス・ソニーの特許技術である「プッシュプル式トラッキング」技術を可能とするためのピットジオメトリーの採用だった。2つ目は、ケイス・スホウハメル・イミンクの設計によるフィリップスのEFMPlus採用だった。これは、東芝のSDコードよりも効率が6 %低かったため、SD規格自体の容量は5 GBだったが、結果的に4.7 GBの容量となった。EFMPlusは、ディスク面に対するひっかき傷や指紋等に対する耐障害性に大きく優れていた。結果としてDVD specification Version 1.0が1995年に発表され、1996年9月に完成した。名称はDVDになったが、SDのロゴはSDメモリーカードのロゴに継承されている。 この統合により、規格の乱立は避けられると一旦は思われたが、その後各家電メーカーや映画会社から多数の注文をつけられ(ランダムアクセス、2時間収録、ドルビーデジタル収録など)、後述の「DVD-」「DVD+」「DVD-RAM」など、多数の派生規格が生まれた。また、2000年4月に入り、PlayStation 2やマトリックスのDVD版の発売の影響でワーナー・ブラザーズなどのDVD製造が本格化するまではDVDの普及率はマイナーな方に入る状態であった。その前までは、DVDを二層にせず、レーザーディスクのように両面1層にしたり、ディスクケースがVHSを参考にしたものであったりと、規格の理解に混乱が発生していた。2000年を過ぎることで、CDでもあまり行われていなかったディスクのインクジェット印刷が本格化し、ディスクケースのサイズがPS2用のディスクケースのサイズで統一され始めるようになった。DVD-ROM、DVD-VIDEOのロゴは2001年を境によりわかりやすいものに変更されている。 DVDは上記の経緯により当初はデジタルビデオ映像を記録するためのメディアとして策定され、Digital Video Discの略だと解釈されたが、その後コンピュータ補助記憶メディアとしても用いられることから、DVDフォーラムはDVDをvideo の代わりに「多用途」の意味がある versatile(ヴァーサタイル)を用いた「Digital Versatile Disc(デジタルヴァーサタイルディスク)」の略称とした。 またデジタルビデオ映像が記録されたDVDのことを世間的に総称で「DVDビデオ」と表現することが多いがそれとは別にDVDへのデジタルビデオ映像データの記録方法の1つに「DVD-Video」があり、両者は同義ではなく全く別のものである。「DVD-Video」は、DVDにデジタルビデオ映像のデータをDVD-Videoフォーマット(「DVD-VF」) で記録したものに限定される。 一方、「DVDビデオ」という総称はDVDにデジタルビデオ映像のデータが記録されたもの全て(DVD-Video、DVD-VR、AVCHD、AVCRECなどビデオ専用アプリケーションフォーマットで記録したもの、ビデオ専用フォーマットを用いずにMPEGファイルやAVIファイルを直接記録したものなど)が対象になる。ビデオカメラの撮影記録メディアとして記録されたものも一般的にここに包含される。 プレーヤーやドライブは、CD-DAやCD-ROMの再生にも兼用できるものが一般的であり、DVD-Videoメディア及びプレイヤーの初の商用化は日本では1996年11月、米国では1997年3月、欧州では1998年3月、豪州では1999年2月になされた。世界で初めての市販DVD-Videoソフトは『Ya&Ya〜世界初のDVD電脳マガジン』であり、1996年11月1日にビクターエンタテインメントから発売された。なお、初の2.1chサラウンド音響は『ツイスター』、5.1chサラウンドは『インデペンデンス・デイ』が初である。 その後日本では2000年3月4日にソニーコンピュータエンタテインメントから発売されたゲーム機、PlayStation 2にもDVD視聴機能が搭載されたことで普及が始まり、2004年にはDVDプレーヤーの国内出荷台数がVTRを上回った。 パソコン分野でも光学メディアの中心はCDからDVDに移行した。一方オーディオ分野では、一部愛好者向けに留まり、普及しなかった(DVD-Audio参照)。 メディア製造コストは、VHSの1巻120円程度に対し、DVDは1枚20円程度と安い。取扱いも容易なので、パブリッシャー側からすれば収益が上げやすい。このため、映像を取り扱う産業では、セルDVDを(副ではなく)主な収益源とする企業が増え、業界の状況を一変させた。 こうしてデジタルビデオといえばDVDと認知されるほど広く定着した。 DVDのフォーマットおよびロゴのライセンスは、DVD Format/Logo License Corporation (DVD FLLC)が管理している。 ディスクには物理構造による違いとデータ書き込み方の形式(論理フォーマット)による違い、さらにはビデオ用途でのアプリケーションフォーマットによる違いもあり、それぞれの組み合わせでさらに多くの種類が存在する。 DVDは、大容量の記録を目指したディスクであり、CDではレーベル面に当たる面にも記録できるよう、両面記録の規格が存在する。しかし、レーザーディスクのように一面の読み込みが終わった際に裏返すのは手間がかかる。そこで、片面に二層構造を持たせれば、一層構造より多くの容量を確保することができ、裏返す手間もなくなる。ユーザ記録型のDVD+R DLが市場に登場したのは2004年6月で、DVD-R DLが2005年5月である。光学ドライブによっては、相性や仕様で読み取れない場合もある。また、単層方式に比べレーベル面の取り扱いに注意しないと、CDのように記録層が破損する等のトラブルに見舞われる。また、ドライブがあまりにも古い場合(例えばPS2のSCPH-10000)、レンズの経年劣化が原因で二層DVDだけを読み取れなくなる症状に陥ることも多い。Xbox、Xbox 360規格のディスクは二層DVDを独自規格にしたものが採用されている。 二層構造の場合、全反射をする層を2つ持たせると奥にある層の読み込みができなくなる。それゆえ、片面(両面)二層ディスクの第1層目(「レイヤー0」、あるいは略して「L0」と呼ぶ)が薄い金属膜でできており、第2層目(「レイヤー1」または「L1」と呼ぶ)は全反射をする構造になっている。レイヤー0は薄膜であるのでレイヤー1よりも読み取りのための反射光の検出率が悪くなるが、記録密度を下げることで読み取り性能を確保している。したがって、二層ディスクの容量は単層ディスクの2倍よりも少ない。 レイヤー0は(CDと同じで)内周側から外周側に向かって記録・読み込みを行う方式であるが、レイヤー1の記録方式には以下の二通りがある。 これらの情報は、DVDの管理情報としてレイヤー0の最内側に記録されている。ちなみに、DVD+R DLではオポジット方式のみとなっている。二層ディスクのDVDを再生していると、途中で読み込むレイヤーを切り替えるときが来る。DVD-Videoを再生している場合、一部の再生機ではレイヤーの切り替えの際に時間がかかってビデオ再生が一瞬停止したような状態になることがある。(連続再生時にレイヤーが切り替わる際の読み取りピックアップの移動はオポジット方式であればパラレル方式よりも少なくて済む利点がある。) 二層方式のDVDはDLと略して呼ばれることが多いが、正式名称はDVD-DLではDual Layer、DVD+DLではDouble Layerと、それぞれ異なる。 トラックに沿って、ピットと呼ばれる凹みを作ることで記録することができる。読みとる際はレーザー光線を当て、凹み有無による反射の違いを利用する。 DVDのトラック形状は同心円型ではなく、CDと同様の渦巻き型である。 トラック・フォーマットは物理規格ごとに異なっている。 ウォブル・ランドプリピット方式を採用したDVD-R/RWディスクには、グルーブ(溝)とランド(丘)があらかじめ刻まれており、グルーブは蛇行している。この蛇行をウォブルと呼ぶ。またランドにはあらかじめランドプレピットというランド部分の途切れている部分がある。ドライブは、ウォブルとランドプレピットにより、位置決め(アドレッシング)を行う。記録されるデータ(ピット)はグルーブに書き込まれる。 高周波ウォブル・グルーブ方式を採用したDVD+R/RWディスクでは、ランドプレピットがなく、ウォブルの蛇行周波数が高い。ピットはDVD-R/RWと同じくグルーブに書き込む。 ウォブル・ランドグルーブ方式を採用したDVD-RAMではグルーブとランドにピットを書き込む。 読み出し専用のDVD-ROMはピット方式を採用している。 なお、位置情報の記録方法はDVD-RW系とDVD+RW系で異なる。 データの転送速度は等倍速で11.08 Mbps (=1385 kiB/s) である。これはCDの転送速度を1倍速 (150 kiB/s) として、9倍速程度に相当する。規格上定められている最大転送速度は16倍速(DVD-Rの場合)であるが、これは177.28 Mbps (=22.16 MiB/s) に相当する。 DVDに使用される論理フォーマットは主に以下の二つである。 CD時代から使用されているISO 9660に加えて、Optical Storage Technology Association(略:OSTA)が策定した、拡張性の高いUDFに対応している。映像用途ではDVD-VideoがUDF 1.02、デジタル放送の録画で使われるDVD-VRにはUDF 2.00が使用されている。 PC向けのデータDVDでは上記のどのフォーマットでも使用できるが、PCのDVDドライブとOSが対応していないければ読み込むことができない。ISO 9660は古い規格で拡張性に乏しいのでそれだけ互換性には優れているため、ISO 9660とUDF 1.02の両方に対応したUDF Bridgeも使用される。 実際のファイルシステムは使用するOSやドライバーソフトに依存する。 現在のWindows11では、UDF1.50,2.00,2.01,2.50でフォーマットすることが可能である。このフォーマットで初期化することでHDD同様、自由に読み書きができる。 DVD-ROMでは「年齢制限」、「リージョンコード」により視聴制限をかけることが可能である。再生時にハードウェア側でこれらの制限をかけずに映像を視聴しようとした場合は、DVD側の画面で年齢制限やリージョンコードについて警告する画面が出る。これは付録などの一般販売されないものも含め、すべての映像用DVD-ROM作品に存在する。年齢制限は予め全年齢に設定すること、リージョンコードは「ALL」を採用することでこのエラー画面を省略することが可能である。 コピーガードはCSSが設定されているが、現在ではそのコピーガードを簡単に解除できるため、会社ごとに独自のコピーガードが追加される場合がある。また、VHSなどに記録されたマクロビジョン製コピーガードを無視して録画することも依然不可能である。 規格はDVDフォーラムの他、Ecmaインターナショナルによっても標準化されている。 データを記録するには記録型DVDを使用する。記録型DVD規格としてDVD-R(1回だけ書き込み可能)とDVD-RW、DVD-RAM(複数回の書き込みが可能)がDVDフォーラムによって制定されている。これに対抗するものとして、DVD+RWアライアンスの策定したDVD+RやDVD+RWがある。 記録型DVDについて、一部海外メーカーのものに品質に重大な問題がある場合がある。品質の悪いディスクは動画の再生時にブロックノイズが入る、再生が止まる、保存したデータが消える、ドライブやレコーダの寿命が縮むといった問題を引き起こす可能性が高い。 しかし、ドライブの性能や相性によって書き込み品質が下がることもあるため、一概に国産メディアを使えば大丈夫という保証はない(国内ブランドでも海外製メディアを採用していることがある)。安心して使うためには、これから利用するメディアを1枚買って書き込みテストを行い、問題がないことを確認してから利用することが望ましい。また、発売当初は100年程度もつといわれていた書き込みメディア耐久性であるが、これはあくまで良質なメディアの加速試験(実際に100年間試験するのではなく、代わりに紫外線の照射強度などを変えて100年間相当の環境にするもの)における結果であって、現実には数年程度でデータが消えてしまう品質の悪いディスクも存在する(逆に言えば100年を超えても使えるメディアも存在する)。長持ちさせるためには、紫外線の当たる場所や高温多湿な場所を避けることが重要である。また、VHSと比較してテープが絡まって故障する心配は無いものの、ディスクが傷つくと読み込み不可能になる場合もある。 DVDにコンピュータ用の読み取りファイルを記録したもの。DVDフォーラムにより策定、ECMA-267・268により標準化されており、パソコンやゲーム機データ配布用媒体として定着している。 容量は一層タイプが片面4.7 GB・両面9.4 GB、2層タイプが片面8.5 GB・両面17 GB。論理フォーマットはUDF Ver.1.02である。 ゲーム機としてはPlayStation 2、Xbox、Xbox 360がソフト用の媒体に採用しており、パソコンではAppleのmacOSが媒体に採用しWindows 98 Second Edition以降のWindowsがサポートしている。アーケードゲーム基板ではFirebeat、System246あたりから採用された。 市販のDVDビデオソフトは、このDVD-ROMの物理フォーマットのディスクに映像データがDVD-Videoのアプリケーションフォーマットで記録されたもの。 ゲームやDVDビデオソフトなども含めたDVD-ROMは読み取り専用であるため、他の書き込み型DVDやレンタルも含む市販ビデオテープソフトなどのように、その作成時には記録媒体にデータを直接記録して作成されているわけではなく、データ記録面に読み取り用のピットを形成したマスター原盤(スタンパー)を作成後、それを元にしたプレスと張り合わせの工程による物理的な工法によって量産されている。そのため、書き込み型DVDに比べて経年化学変化の影響を受けにくく、物理的な形状破損や読み取りレーザー光反射層の金属素材の劣化がない限りは基本的に読み取り可能である。 以下、全てのメディアに「データ用 (for DATA)」と「ビデオ録画用 (for VIDEO)」の2種類がある。後者は地上デジタル放送移行前は私的録音録画補償金制度により補償金が上乗せされていたが、移行後は、コピー制限があるという理由で補償金が上乗せずに販売されている(私的録音録画補償金制度#デジタル放送専用レコーダーの私的録画補償金に対する訴訟を参照)。なおCPRM非対応の録画用メディア(アナログ放送専用などと表示されている場合もある)にはコピーワンス、ダビング10のデジタル放送を記録できない。DVD-VRはすべてのDVD±R,DVD±RWで対応しているが、CPRMはすべてのDVD±R,DVD±RWで対応しているわけではなく、「for VIDEO」と書かれたDVD±R,DVD±RWを使用する必要がある。また、DVD-VR規格でフォーマットしたDVD-RWにコピーワンスの映像を録画し、そのままファイナライズしてしまった場合、その映像は強制的に視聴できなくなる。 DVD-R/DVD-RWの「-」は本来ハイフンであるが、後述のDVD+R/DVD+RWが「+」を「プラス」と読むため、区別のために「マイナス」と読まれる場合も多い。一方、DVD-RAMの「-」もハイフンであるが、DVD+RAMが存在しないので「マイナス」とはほとんど読まれない。 VCPSを採用したDVD+と異なり、DVD-の録画用メディアはCPRM、HD Rec、AVCRECに対応している。 一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。 DVD-RはDVD Recordable の略称。ライトワンス型の記録型DVDフォーマット。DVDフォーラムにより策定、ECMA-359により標準化されている。1997年9月にパイオニアによって開発された。ディスクの裏面は紫色が通常。 容量は片面で4.7GB、両面で9.4GBである。 CD-Rと同様、色素を使って記録されるがM-DISCには無機系が採用されている。記録層にはアゾ色素、シアニン色素、オキソライフ色素が用いられている。 データの記録は、ディスクの基板上に連続した線上に存在するランド(丘)に挟まれたグルーブ(溝)に強いレーザー光を当てることでピット(くぼみ)を焼付け形成することで行なわれる。ピットを形成する皮膜の記録材料には有機色素材料を使用しておりレーザー光照射による色素の分解という化学変化を利用しているため、素材コストの関係で比較的に価格を安価にできる一方で一度しかその場所にはデータを書き込めない。また、当初のVersion1.0規格では3.95GBだったが、Version2.0規格で4.7GBに容量を増加した。またVersion2.0規格では業務用の「DVD-R for Authoring」と一般向けの「DVD-R for General」の2つに規格が分かれており、一般向けの「for General」にはコピー防止機能が組み込まれている。 量産効果により価格が最も低く、パーソナルコンピュータ用としてはDVD-RAM/RやDVD-RW/Rといった両対応ドライブが登場しCD-Rに代わるものとして広く普及している。家庭用DVDレコーダーにおいてもパナソニックとソニー以外の企業はDVD-R/-RWドライブを採用している。またパナソニックも2005年春以降のモデルはDVD-RWへの書き込みに対応している。 また、記録面皮膜材料に有機色素材料を使用していることで光の中でも特に紫外線の影響を受けやすく、太陽光を長時間当てた場合など記録情報が失われることがあることが実験で示されている。DVD-RAMやDVD-RWは皮膜材料に有機色素材料とは異なるものを用いているので光の影響による経年変化はほとんどないとされているが代わりに熱に弱いと言われ、アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) では「書き換え可能なDVD-RAMやDVD-RWは熱に敏感に反応する素材を使っているためにDVD-Rより長期保存には使えない」としている。いずれにせよ、保存環境やディスクの質によって寿命は大きく変化する。 コピーワンスの制限がかかった地上デジタルテレビ放送・BS・CSデジタル放送の場合、DVD-Rへの録画は出来なかったが2004年に録画が可能なCPRM対応DVD-R(CPRMへの対応はDVD-VRフォーマット時のみ可能)が登場した。 DVD-Videoでの記録の場合、テレビ放送/DVD-VR/DVD-Videoの各音声方式の違いによる影響のためレコーダーでテレビ放送の二ヶ国語放送/解説放送が記録出来る市販レコーダーは2006年現在製造されていない(ステレオ放送は可能)。ただし後年はDVD-VRフォーマットでの記録が可能な製品も販売されており、DVD-VRの場合は二ヶ国語放送/解説放送の記録も可能。またDVD-Videoフォーマットでの記録の場合でも、マルチ音声トラック機能を用いて二ヶ国語以上の音声のDVD-Videoディスクを作成することは可能(DVD-VRでの記録も、DVD-Videoでの二ヶ国語切り替えディスクの作成もその可/不可は録画機器や作成ソフトなどのツール側の機能による)。また、東芝やパイオニア、シャープ等の一部メーカーのDVDレコーダーでは追記型VR記録が可能であるがファイナライズ処理を行わないと他のプレーヤー等で再生はできない。またDVD-Rメディアの初期状態はDVD-Videoフォーマットだが、DVD-VRでフォーマットをするとDVD-Videoフォーマットには戻せない。 DVD-R DL (Dual Layer) は1層タイプのDVD-Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。DVDフォーラムにより策定、ECMA-382により標準化されている。 容量は片面で8.5 GBである。両面のものは市販されていない。 初期は+DLに比べて記録速度が遅くシェアも低かったが、現在では速度では+DLに並びほとんどのドライブで対応している。2005年春に三菱化学メディアよりDVD-R DLが発売された。 削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。 DVD-RWはパイオニアが開発したDVD ReWritable の略称。DVDフォーラムにより策定、ECMA-338により標準化されている。ディスクの裏面は通常水色。 容量は片面4.7 GB・両面9.4 GB。 データの記録は、基本的にはDVD-Rと同じ方式。ただし記録マークを形成する皮膜の記録材料にはDVD-Rのような有機色素材料ではなくアモルファス金属材料を使用しており、色素材料のように光による化学変化で分解するわけではなくレーザー光照射による加熱でのアモルファス金属の結晶化・非結晶化を利用している(結晶化することでその場所の反射率が変化する)。結晶化した場所に再びレーザーを当てて結晶状態を溶かして急激に冷やすことで非結晶化が可能であり、データの消去や再利用(同じ場所へのデータ書き込み)が可能となっている。又、DVD-Rに比べてデータ記録後の光による経年変化の影響を受けにくいのもこの使用材料の違いによるもの。この方式でデータが書き込まれた場合、読み取り時のレーザー光の反射率がDVD-ROMやDVD-Rに比べて若干弱いという弱点がありドライブによってはDVD-Rに比べて再生互換性が若干劣るのはその理由による(ただし、新しい製品では対応改善がされているものがほとんど。またこの点については後述のDVD-RAMも同様の特性があるがDVD-RWの場合は読み取りドライブの互換性が高い関係でDVD-Rの書き換え型として使用されるため、直接の比較対象になる場合が多い)。 記録型DVDとして最初に登場したDVD-RAMはDVD-VideoやDVD-ROMとのフォーマットの互換性が低かったためDVD-RWは互換性を重視、主に動画の記録編集用として開発された。そのため、DVD-RWで記録されたディスクは読み取り専用のDVD-ROMドライブでも読み出すことが可能であることが多い。 書き換え可能回数は1000回以上で10万回以上書き換え可能なDVD-RAMよりは少ない。他の書き込み型DVDとの違いは、ビデオ用途で使用する場合に買ってそのままではデータの書き込みができないことである。VideoモードとVRモード両方で使えるメリットがある一方でフォーマット形式が異なるため、どちらで使用するかを選択し、約1分程度かけてフォーマットする必要がある。 再生機との互換性を確保するためファイナライズ処理が可能で、ファイナライズを解除し再び追記することも基本的には可能である(レコーダーによっては不可)。 日本ビクター(現・JVCケンウッド)が2層のDVD-RW (DVD-RW DL; 容量8.5 GB)を開発し、2007年6月のDVDフォーラムの承認後、同8月に発売予定だったが、対応ドライブが製品化されないまま2008年3月に発売の凍結が発表された。 規格はECMA-384により標準化されている。 DVD-RAMはDigital Versatile Disc Random Access Memoryの略称。相変化記録方式の記録型DVDである。DVDフォーラムにより策定、1997年4月に2.6 GBのVersion1.0規格が制定され、2000年夏に片面4.7 GBのVersion2.0規格が制定された。またECMA-330により標準化されている。 PD規格を提案した松下電器産業(現・パナソニック)が中心となってPDの技術をもとに開発され、1998年4月にパナソニックと日立製作所から最初の製品が発売された。 DVD-RWとは異なりデータの記録面の材料にはアモルファス金属材料を用いているが、レーザー光照射による加熱での結晶化を利用している(結晶化することで反射率が変化する)点では同じである。 DVD規格の一つであるが、記録密度・ランダムアクセス性向上のために通常のDVDとは異なるアドレス方式やトラッキング方式をとっており(前述)、ディスクの回転制御の方式も大きく異なるなど他のディスク (DVD-ROM/DVD-R/DVD-RW) とは物理的記録方式に異なる点が多いため、特に対応したドライブでしか読み書きができない。他の書き換え型DVDであるDVD±R/RWが一般のDVD機器で読み書きができるのとは対照的である。また、初期のDVD-RAMドライブはPDも使用可能であったが、Version2.0対応のドライブからは互換性がなくなった。 記録面は、円周方向に他のDVDメディアには見られない細く短い線が微妙に角度を変えながら全面に分布している。これは埋め込みサーボ技術のサーボパターンであり、このパターンを検出することで瞬時にヘッドの位置を認識することが出来、ランダムアクセスの高速化に役立っている。同様の技術はMOやHDD(磁気情報なので肉眼では見ることが出来ない)にも使われている。 かつてはDVD-RAMへ書き込みを行うにはドライバ(UDF)のインストールが必要だったが、Mac OS XやWindows XP以降ではOS標準でサポートされるようになった(FAT32形式のみ)。また読み書きに専用のライティングソフトは必要とせず、通常のファイル操作で使用できるのも特徴である。Windows 95ではHDDだと1つのドライブにつき2 GB以下のパーティションしか扱えないというFAT16フォーマットの制限があったが、DVD-RAMの場合はUDFフォーマットが利用できるため、Windows 95であっても2.6 GBや4.7 GBといった大容量を1つのドライブとしてHDD感覚で読み書きできた。こうした環境ではデータ用HDDの代替としても利用価値があった。 当初はデータ用として普及したが後にビデオ録画用にも普及した。民生機では書き込みの高速性を利用して録画を行いながら別番組を再生することなども可能。また、DVD-RAMは不要な部分だけを簡単に消せるうえ、録画したDVD-RAMを別の機器で再生させる場合でもファイナライズ処理が不要である。 アナログ放送用のDVD-RAMレコーダーでは、DVD-VR方式で記録する。このため、パソコンを使って映像をDVD-VR方式で書き込めばレコーダーで再生することができる。逆に、レコーダーで録画したディスクをパソコン上で再生することもできる。これらを可能にするソフトウェアとしてはパナソニックのDVD-Movie album、UleadのDVD Diskrecorder(DVD MovieWriterにも実装)、ペガシス製のTMPGEncシリーズ等がある。これらは主にタイトル名編集、カット編集、DVD-Videoモード形式への変換などの機能がある。 ハイビジョン放送用のDVD-RAM対応レコーダーでは、AVCREC方式で記録する。これもパソコンで扱えるが、UDF2.5フォーマットに対応していること、アプリケーションがAVCRECに対応していることが前提となる。 なおDVD-Video方式でDVD-RAMに書き込むことも可能であり、対応するアプリケーションも存在するが、市販されているDVDプレーヤーの多くは最新機種も含めてDVD-RAMには未対応のまま現在に至っている。 ファイルシステムとして読み書きすることが前提となっているため、回転速度は各ドライブの設計に依存する。ただし実際には低速度メディアではZCLV、高速メディアではPCAVで制御しているドライブが大半である。 DVD±RWの1000回を上回る、10万回以上の書き換えが可能である。さらに不良セクタの代替機構の構築や、書き込み時のベリファイが自動的に行われる。ただしベリファイを行うため、たとえば2倍速の書き込みは1倍速の読み出しと同程度の時間を要する。 デメリットは構造上の特徴からDVD-Videoとの互換性が無い点であり、DVD再生専用プレイヤーやDVD再生対応ゲーム機などで対応機種が少ない点である。また、カートリッジ付メディアの挿入は出来ないドライブが多い。現在、カートリッジ型対応のドライブを生産しているのはパナソニックほか少数である。ただし後年は読み取りドライブのマルチ化が進んでおり、未対応ドライブを除いて実用上の互換性は大きな問題にはならなくなりつつある。 当初規格統一に参加していたソニーやフィリップスなどはDVD-RAMがDVD-ROMとの互換性が比較的低いことなどを理由に、1997年5月になってDVD+RWを対抗する規格として提唱した。これは片面3 GB、両面6 GBの容量を持ちDVD-ROMと互換性があった。しかしDVD-RAM陣営は1999年6月、これを上回る片面4.7 GBのVersion 2.0規格の決定を発表した。ソニー、フィリップス、ヒューレット・パッカードの3社を中心とするDVD+RWアライアンスは、独自の対抗規格として同等の容量を持つDVD+RWを策定している。 DVD-RAM陣営はドライブの製造メーカーとしてはパナソニック、日立LGデータストレージ、東芝サムスンストレージ・テクノロジーなどが、テレビの録画用DVDレコーダーとしてはパナソニック、日立、東芝、日本ビクターなどがあった。2006年4月にはパイオニアも加わった。このうち日立・日本ビクター・パイオニアはカートリッジタイプのディスクは使用できなかった。 2003年の時点では記録型DVDとしての世界シェアは約10 %、日本国内ではレコーダーの普及により約60 %のシェアを持っていた。2001年発売されたApple Power Mac G4 にDVD-RAMドライブがオプションでラインナップされたことにより、一時的にシェアが増大したこともある。しかしその後日立と日本ビクターが民生用DVDレコーダー事業から事実上撤退し、2007年12月以降はパナソニック・東芝の2社のみとなった。 そもそも、東芝はDVD-RAM陣営であるにもかかわらず再生専用機ではDVD-RAMへの対応を行っていなかった。これは、同社のDVDプレーヤーの大半がオリオン電機(社名変更を経て清算済)などからOEM供給されたものであったためである。自社生産品であるHD DVDプレーヤー「HD-XA1」では対応していたものの、CPRMには対応していなかった。Blu-ray Discレコーダーでも再生のみの対応となっている。パナソニックも車載用機器では対応していなかった。また海外では当初からDVD-RWに対して劣勢であり、メディアの価格が下がらなかったのもシェアを落とす理由のひとつと言われる。 最近の傾向としてパイオニア、NECなど今までDVD-RAMに対応していなかった複数のメーカーからDVD-RAM対応のドライブ(パイオニアの場合はDVD-RAM録再対応のDVDレコーダーも登場。ただし、2006年4月以降の新機種から)が発売された。ランダムアクセスが可能でありデータの書き込みに専用ライティングソフトが不要である。 パナソニックは市場規模の縮小を理由に、2019年5月末で録画用DVD-RAMの生産を完了した。 メディアの規格は基本的に他のDVD規格に準ずる。両面メディアが存在するなど仕様は複数あり、容量は片面1.46–4.7 GB、両面2.92–9.4 GB。2層タイプは製品化されていない。8 cmディスクはVersion2.1より設定された。 当初はディスク保護のためカートリッジ入りでそこからメディア円盤の取り外しができない規格のみだったが、後にメディア取り外しが可能なカートリッジ型が登場し、さらに記録面の耐久性が改善されたことにより安価なカートリッジ無しタイプも販売されるようになった。現在ではドライブ、メディア共にカートリッジなしタイプで2倍速から5倍速に対応した製品が主流となっている。 DVD+RWアライアンスが策定したこれらの規格はDVDフォーラムの規格外のため厳密にはDVDとは呼べず、DVDロゴは付いていない。また正式名称に「DVD」の文字はない。このように本来のDVDとは似て非なるものである。しかし2008年にはDVD関連ライセンス団体であるDVD6Cがこれらの規格のライセンスを管理するようになるなどDVDフォーラムとの規格争いが過去のものになっており、既にDVD規格の一種として認知されたと見ることもできる。 DVD+RWアライアンス参加企業以外は印刷物で「DVD+R/+RW」という表現をせずに「+R/+RW」と表記し、脚注に「『+R/+RW』は『DVD+R/+RW』と表現されることがあります」と書くことが多い。 DVD-R/-RW/-RAM陣営(以下、DVDフォーラム陣営)とDVD+R/+RW陣営(以下、+RWアライアンス陣営)がVHS対ベータマックスのような規格争いを行って消費者に混乱を招くことが懸念されたが、現在はDVDレコーダーではDVD-R/-RW/-RAMにほぼ落ち着き、パソコン向けドライブでは両対応のスーパーマルチドライブが普及したためそれほど混乱は生じていない。 Windows Vistaでは、Mount Rainier(DVD+MRW)と呼ばれる規格がサポートされている。これはパケットライト方式で書き込む際に有効でフォーマットを必要最小限の領域にとどめ、残りの領域のフォーマットは書き込みドライブが未使用のときに実行することでフォーマット時間を大幅に短縮できるというものである。 記録速度や2層メディアの登場など開発スピードがDVDフォーラム陣営に比べて速いことが特長だった。しかし、DVDフォーラム陣営も開発速度を上げ、DVD+R/+RWは著作権保護技術としてCPRMではなくVCPS (Video Content Protection System(英語版))を採用しているために日本のコピーガードに対応しておらず録画用メディアであってもデジタル放送を記録できない。日本では、DVD+R/+RWは廃れた存在となった。 一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。 ライトワンス型の記録型DVDフォーマットで、正式名称はplus R(プラス アール)。規格としてはECMA-349で標準化されている。DVD+Rで記録されたディスクは一般的なDVD-VideoやDVD-ROMドライブで再生が可能とされるが、実際にはメディアID(ブックタイプ)がDVD+Rであるため再生できないケースもまれにある。ただし、ファイルシステムの構造がDVD-Rに比べDVD-ROMに近いためROM化を行った場合、DVD-Rよりも互換性は高くなる。 記録面材料は、DVD-Rと同様に有機色素系材料である。 当初DVD+RWアライアンス陣営は書き換え型のみを想定してDVD+RW規格を策定したが既存のDVDプレイヤーでの再生互換性が想定より低いことがわかり、その対策としてDVD+R規格を追加する形になった。この際、初期のDVD+RW専用ドライブはファームウェアの更新によりDVD+Rにも対応できるとされたが結局ハードウェアの問題で棚上げとなり一部のユーザーに混乱を招いた。 現在はソニーの「スゴ録」「PSX」(共に生産終了)ブルーレイディスクレコーダーに、DVD+Rでの録画に対応するDVDレコーダーが存在する。パイオニア等も対応レコーダー(デジタルチューナー非搭載機)を販売していたことがある。パソコンでもスーパーマルチドライブによりDVD-Rと全く同じように記録できる。 DVD-Rがたとえ1バイトのデータを記録する際でもダミーデータを上乗せして1.1 GBにしてしまうのに対しDVD+Rではダミーデータの上乗せを行わないこと(DVD-Rも後に制限が解除された)、高速化が容易なこと、メディアID(ブックタイプ)がDVD-ROMと同じものに変更可能であるため互換性が向上することなど利便性という点でDVD-Rを上回っていた。反面、DVDフォーラムによって策定されたわけではないこと、再生時に振動の影響を受けやすいこと、ディスク品質にシビアにならなければならないこと、デジタル放送で採用されているCPRMに対応できていないこと、書き込み速度がDVD-Rに追いつかれたといった理由から日本国内ではDVD-Rの販売シェアの後塵を拝している。 DVD+R DL (Double Layer) はDVD+Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。規格としてはECMA-364で標準化されている。DVD-R DLよりも先行して一般市場に出回った。ディスクのメディアIDをROM化することによりDVDプレーヤーでの再生互換性が一般的には高まることが知られている。 削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。 パナソニックのDVD-RAMに対抗する規格として策定された規格で、正式名称はplus RW。規格としてはECMA-337で標準化されている。DVD-ROMとの互換性のある独自の書き換え可能方式を採用している。書き込み可能回数は1000回以上。記録面の使用材料はDVD-RWと同じようにアモルファス金属材料を用いている。 世界三大経済圏の有力電機メーカーである日本のソニー、オランダのフィリップス、アメリカのヒューレット・パッカードの3社が提唱しているだけに有力視されていたが、日本の大手電機メーカーでDVDレコーダーにこの方式を採用しているのはソニーのみである。一時は日立製作所とパイオニア(いずれもデジタルチューナー非搭載モデル)に対応機種があったが現在は生産終了している。 高速記録が特長の一つであり登場時は2.4倍速(-RWは1倍速)、2008年1月時点でDVD+RWは8倍速(DVD-RWは6倍速)である。メディアIDの書き換えも可能であり、互換性が高まるとされる。またDVD+RWの片面2層化された「DVD+RW DL」が開発中だったが日本ではDVD-RW DL同様、2008年7月現在、対応ドライブもメディアも発売されていない。 ただし、録画用メディアとしてはDVD+RWの仕様として「1つのファイルは連続した領域のみに記録される」仕様のため、DVD上での編集により生じた空き領域は使用できない。そのため、CMカットしても実質空き時間が増えないという欠点がある。いったんハードディスクドライブに移し変え、再記録することでは可能である。 DVD+Rよりも先に規格が制定され、当初はDVD+RWと記録型CDの書き込みのみに対応したドライブが発売された。 規格としてはECMA-374で標準化されているが製品化は中止。 DVDplus(英語版)とは、片面に音楽CD、もう片面にDVDを貼り合わせた両面ディスクであり、採用例としてはイヤーエイク・レコードが2000年に発売したオムニバスアルバム『Immortalised DVD』が該当する。日本のニュースサイト「CDジャーナル」は実物を見た者からの話として、いかにもCDとDVDを貼り付けてみたという感じがして、時代の先端を行くような代物ではなかったとしている。 DualDiscは、片面に音楽CD、もう片面にDVDを貼り合わせた両面の再生専用ディスクであり、2004年に米国の大手レコード会社が発売した。DVDフォーラムが定めた規格ではない。CD面は正式な音楽CD規格(レッドブック)に準拠していないためCDロゴは付いておらず、DuallDiscの製造元は「音楽専用面」「非DVD面」など遠回しな呼び方をしている。また、カーステレオなどの一部の機器では再生に支障が出ているともいわれている。以上のことから、2005年末の時点で普及が北米にとどまっているという指摘もあった。 片面にDVD-ROMとHD DVD-ROMの両規格を収録した多層構造のディスクで、2006年にメモリーテックと東芝が発表した。映像ソフトで製品化されている。 48DVDはアメリカのFlexplayが開発した技術であり、酸素に触れると徐々に劣化する色素を記録に使用しているため、再生可能な時間が開封後48時間以内に限定されている。日本出版販売が日本での独占販売契約を締結し、2005年9月から発売を開始した。日本国内においては、プロモーション目的で頒布されたり(例:『ミッション:インポッシブル3』)、雑誌の付録として同梱した例があった。 アメリカ国内においては、使い捨て式であるため環境面での批判があった。DVDフォーラムが定めた規格ではない。 ディスクに書き込むデータ形式の違いにより以下のものが存在する。 DVDに複数の映像、音声、字幕を記録するフォーマット。マルチアングルでの記録も可能。複製防止技術(厳密には、再生技術である)として Content Scramble System (CSS) という暗号化をすることが可能。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。 本来は市販DVDビデオソフトの製作用(読み出し専用)に策定された規格であるが、家庭用DVDレコーダーや、パソコンで専用ソフトウェアを使っての記録・追記・書き込み前の編集などが可能になった。 DVDの規格上は両面2層まで可能(富士フイルムから両面式のDVD-Rが発売されている)であるが、パッケージソフトとして販売される性格から片面2層とし裏面に絵やロゴ等(レーベル)を印刷する場合がほとんどである。なおディスクを返すことなく、両面自動連続再生可能なプレーヤーが存在しない。そのため、2枚組でも両面2層でも入れ替える必要性がある点は同様なのでユーザの利便性にとっては大差がないと言える(ちなみに、LDでは両面再生対応機種が存在した)。 DVD-Videoプレーヤーのほか、LDとのコンパチブルプレーヤー(2008年1月現在、生産中)、VHSとの複合機などで再生できる。またディスクサイズが12 cmと小型であるためラジカセやカーオーディオ、LCD付ポータブルプレーヤーなど様々な対応機器が存在する。PC用のドライブでも利用可能であるため、DVD-ROMドライブを搭載したPCでは、DVD-Videoの視聴が可能であることが多い。 世界をいくつかの地域に分け、リージョンコード(地域コード)を割り当てることで地域限定のリリースやリリース日をずらすということができる。DVDプレーヤーとDVD-Videoディスクの地域コードが一致しないと再生できない。一致してもテレビ方式が合わないと再生できない。PCに海外のリージョンコードの入ったDVDを入れると勝手にリージョンが変更されることがある。 映像はMPEG-2で記録され音声はドルビーデジタル (AC-3)、オプションで2chPCM、DTS(デジタル・シアター・システムズ)が利用可能である。地域によって、その他の音声フォーマットにも対応する。 正式には、DVD Video Recording Format。一部ではDVD-VRFとも表記されているがいずれも同じものであり、登場時からの時間の経過と共にDVD-VRとしての記述に収束方向にある。論理フォーマットはUDF Ver.2.00。新たにシーンの編集機能やアングル機能、CPRMへの対応などが実装された。ファイナライズが必要なディスク規格では引き続きファイナライズが必要。 DVD-Videoフォーマット規格を元に、家庭用レコーダーで記録するためにより適した規格に改良したもの。技術的な内容は近似しているので、レコーダーの設計者が両方式間のコンバート機能を設計する際には便利ではあるが、記録されたディスクとしてはDVD-Videoフォーマットとの間に互換性があるわけではない。 HDD搭載のDVDレコーダーの多くは実質的にはDVD-VRレコーダーの性格で企画開発されたものが多いため、録画物をHDD内に記録する場合はDVD-VRの規格に応じた形式が用いられる場合が多い。ごく一部の機種ではHDDへの記録でもDVD-Videoフォーマットで行うものがある。 コンパクトディスク (CD) に比べ高音質で、著作権保護など複製されにくい特徴を備えた、通称「次世代CD」規格としてDVDフォーラムが1999年に策定を完了させたオーディオ専用のアプリケーションフォーマット。 リニアPCM 最大192 kHz/24 bit(2.0chステレオ時のみ)、最大96 kHz/24 bit(最大5.1chサラウンド)に対応する。可逆圧縮音声データを収録することも可能 (MLP)。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。読み取り専用の音楽ソフトだけでなく、パーソナルコンピュータ用の音楽制作アプリケーションと記録型DVDを用いて作成することも可能。 「次世代CD」規格としては日本ビクター(現・JVCケンウッド)・パナソニック・東芝・パイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)等が推進したDVDオーディオ (DVD-Audio)と、ソニー・フィリップス等が推進するスーパーオーディオCD (SACD)の2つの規格がある。これらの間に互換性はない。 DVDオーディオの再生にはDVDオーディオ対応のプレーヤーが必要である。ただしソフト(録音媒体)によってはDVD-Videoに準拠したデータを併せて収録しており、その場合はDVDプレーヤーでも再生ができる(ただし音質はDVD-Video相当となる)。また、音楽コンテンツ向けの付加機能として映像コンテンツを収録することもできる。 ユーザーが録ったハイサンプリングレートによる音源を記録する用途にはDVDオーディオ方式の方がスーパーオーディオCDの方式よりも有利であると言える。ダイレクトストリームデジタルでは録音レベルを調整するためのイコライザですらかけられない上に、1bitレコーダーを用いた録音はファイル形式が異なるので市販のスーパーオーディオCDプレイヤーでは再生ができる対応機種はほとんど存在しないからである。DVDオーディオではその点、専用ソフトを用いればDVD書き込みに対応した光学ドライブを用いてDVDオーディオ規格のディスク媒体の作成が自由に可能であった。 スーパーオーディオCDの項目にあるように、高音質・サラウンドへの需要は盛り上がらず、それよりもむしろ利便性に優れているMP3や音楽配信などが普及し、2010年代に入るとDVDオーディオと同等のリニアPCM・FLAC音源やスーパーオーディオCDと同等以上のDSD音源も配信されているため、DVDオーディオもスーパーオーディオCDも共に普及のペースは非常に鈍いので将来が危ぶまれる。 スーパーオーディオCDはオーディオ愛好者から一定の支持を得てまだ専用プレーヤーも発売されているが、DVDオーディオの方は既に自然消滅に近い状態である。日本の業界団体・DVDオーディオ プロモーション協議会は2007年3月をもってホームページを事実上閉鎖した。2013年現在ではマルチ対応のユニバーサルプレーヤーが対応する。また、2008年以前まではパソコン用のDVDビデオ再生アプリケーションの一部もDVDオーディオの再生をサポートしていた。 正式には、DVD Audio Recording Format。DVD-Audioに対するDVD-VRに相当する規格である。2007年現在は規格として存在するのみで、適応製品としては開発されていない。 正式には、DVD Stream Recording Format。論理フォーマットはUDF Ver.2.01。デジタル放送の放送信号(ストリーム信号)をそのまま丸ごと記録するための方式。ハイビジョンをDVDに録画できるが、可能記録容量の関係でDVDへの適応は2008年現在は行なわれていない。DVD-VRと一部共通性があるので、同一のディスクに記録して利用できるメリットもある。 BDの派生規格であるAVCRECの登場後はそちらが主流である。 HD DVDのアプリケーションフォーマットに準拠したハイビジョン映像を記録型DVDに記録する規格。DVDフォーラムが2007年に策定した。東芝が対応レコーダーを2007年末に発売。 既に対応機器の発売は終了しており、AVCRECに移行している。類似する規格としてHD DVD9がある。 上記のDVDビデオとしてのアプリケーションフォーマット以外にも、PCのメモリ上で認識可能な各種データも書き込み可能である。ゲームソフトのプログラムやDVDビデオの規格では許容されていない各種画像・映像データファイルも書き込み可能で、読み取り機器側さえ対応していればそれらのデータファイルの表示・動作も可能となる。用語としての定義とは別に、DVDがDigital Video DiscではなくDigital Versatile Discという名称であるのはこれによるものである。 正式には、DVD+RW Video Recording Format。DVD+RWアライアンス陣営が策定したDVD+RW向けの Video Recording フォーマット。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。DVD-VRがDVD-Videoとの再生互換性が全くない一方で、DVD-Videoとの再生互換性を目指して策定された規格。論理的にはDVD-ROMドライブやDVD-Videoプレーヤーでの再生可能なフォーマット。DVD-RWと異なりCPRMは規格上存在しないため、「1回だけ録画可能」のデジタル放送を記録することはできない。 前述した各種デジタルデータファイルの書き込みの延長線上にあるものでもあるが、既存のDVDビデオの各種規格とは別にハイビジョン動画ビデオの記録と再生を目的にした次世代規格として2006年にAVCHDの規格が登場した。ソニーとパナソニックが策定。書き込みも読み出しも専用対応機器が必要である。 Blu-ray Disc Associationが策定した、HD Recと同様のハイビジョン映像記録用規格。従来のDVDレコーダーで採用されているDVD-Video・DVD-VR規格はハイビジョン規格の映像信号をSD(標準画質)にダウンコンバートしなければならない。DVDメディアにハイビジョンを記録するにはDVDビデオ規格 (DVD-Video・DVD-VR) にハイビジョン規格の解像度を新たに加える規格変更が必要になるが規格変更の必要性の他にも大きな問題がありDVD-Video・DVD-VR規格で映像圧縮技術に採用されているMPEG-2ではDVDメディアには2層メディアでも1時間以下、1層メディアでは30分以下となり特にテレビ番組の録画を目的にした場合の実用性に乏しいためDVDメディアにハイビジョン映像をMPEG-2のままで記録するDVD規格は当初から考案・策定されていない。 ただし映像を記録する際の圧縮技術に従来のMPEG-2の約2倍の圧縮効率を持つMPEG4 AVC/H.264を採用したHD RecやAVCRECにより、ハイビジョンのままでDVD-VideoやDVD-VRと同程度の時間をDVDメディアに記録できる。2007年11月に松下(現:パナソニック)がAVCREC対応レコーダーを発売した。HD RecとAVCRECの間に互換性はないが、各社から発売されたAVCREC対応のレコーダー・BDプレイヤーが市場を席巻している。HD Recは事実上東芝のみで終焉を迎え、同社もAVCREC対応へとシフトした。また、類似したコンセプトでBD9も策定されたことがある。 ワーナー・ブラザースが提唱した規格。DVD-Videoの3倍の帯域幅を持っており、ハイビジョン規格映像をDVDに記録できる。 BD規格からアプローチしたBD9とHD DVD規格からアプローチしたHD DVD9に細分化されるが、いずれも製品化は実現していない。 類似した規格で製品化したものとして、既に対応機器の生産が終了しているHD Rec、ならびにデファクトスタンダード化したAVCRECがある。 2000年代後半、DVDで用いられる赤色レーザーに比べ、より波長の短い青紫色レーザーを使用した高密度な第3世代光ディスク規格としてBlu-ray Disc(以下BD)とAOD(後のHD DVD)が登場した。DVDと同じ12 cmサイズのディスクだが、既存のDVDプレーヤーでの再生互換はない。第3世代光ディスク機器の多くは主にユーザーに対する販売・普及戦略上の理由からDVDの再生機能も併載することでDVDの再生を可能として、機器としての互換性を確保している。このように、第3世代光ディスク機器でDVDが再生できるのは第3世代光ディスクの方式自体の互換性ではない。 主に映像ソフトやデジタルテレビ放送のHD映像記録用途を主眼としておりソニー・パナソニックなどのBD陣営と東芝・NECのHD DVD陣営は規格統一を模索していたが、2005年交渉が決裂。2006年に分裂した状態で製品化され、ハリウッドの映画産業などを巻き込んだ激しい規格争いが勃発した。しかし2008年2月、製品の発売から2年を経ずして東芝がHD DVD事業からの撤退を発表し第3世代光ディスクのデファクトスタンダードはBDに一本化された。これはBDがBD-RE ver1.0が登場したばかりの時から3年後に大幅に規格が改良されたことでBD-ROMが誕生し、東芝の見込みよりも早くディスクの耐久性に関する問題を克服したこと、BDはHDDVDよりも容量が多く、またディスクケースデザインの統一などで印象をDVDから大幅に変更できたこと、PS3のゲーム用ディスクがブルーレイになったことも一因である。 DVDの規格策定時にもソニーと東芝は、ソニーフィリップス陣営のMMCDと東芝・パナソニック陣営のSDのどちらを選ぶかで対立した。結果的にはCD規格延長を目論むMMCDより、CDと異なり2枚の板の貼り合せ構造を採用し大容量化を実現したSDを基にDVD規格は作られた。一方、同じBD陣営に属するソニーとパナソニックも書き換え可能型DVDで激しく対立した間柄だった。ソニーはDVDと似て非なるDVD+RWを作り出している。またパイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)やシャープもBD陣営だが、こちらも書き換え型DVDではDVD-RW陣営としてパナソニックと敵対関係である。 しかしデータ記録・搬送用途では従来型DVDがあり、大量のデータ容量が必要な場合でもハードディスクがある。映像分野でもDVDビデオの画像をBD並のHD映像画質に補正補完するアップスケール技術、逆にMPEG-4 AVC/H.264圧縮により記録型DVDにHD映像の長時間録画を可能にする技術などを搭載したレコーダーもある。そもそもインターネットを介して利用するオンラインストレージやコンテンツ配信サービスの普及で、一般消費者における物理メディアの需要は大幅に減少している。しかし、現在も日本製のアニメなどのレンタルビデオ、アダルトビデオに関しては流通量を海外の光ディスク市場よりも高速で行う必要があるため、未だにブルーレイを使用せずにDVDで発行されることが多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "DVD(英語: Digital Versatile Disc、デジタル多用途〈多目的〉ディスク)は、デジタルデータの記録媒体である第2世代光ディスクの一種である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "媒体の形状や記録・読取方式はCD(コンパクトディスク)とほぼ同じだが記録容量がCDの約6倍になるため、CDでは不可能だった長時間映像の記録が可能である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "開発にあたっては、ハリウッド映画業界からの要求で「現在のメディアを上回る高画質・高音質で、1枚につき片面133分以上の収録時間」を目指すこととされ、1枚あたりの記録容量は当時の技術水準との兼ね合いからVHSビデオテープ方式と同等画質で133分の録画が可能となる4.7GB(片面一層の場合)のディスクとして開発された。約2時間の映像の場合、DVD以前から映像記録媒体として使用されていたレーザーディスクでは両面に記録する必要があり、視聴途中でディスクを裏返す必要があったが、DVDでは片面で収録可能になったため、映画作品の大半を途切れることなく視聴できるようになった。またデジタル化されたため、安定した映像が再生できるようになった。ただし、レコーダーでの通常画質の録画は片面120分に制限される場合が多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "こうしてCDと同様の使い勝手で高画質な映像を視聴出来ることから、2000年代以降の映像記録の主要メディアに位置づけられ、VHSやレーザーディスクを置き換える形で普及した。従来の映像記録媒体と同様に映画やドキュメンタリー、ドラマなど、様々な映像ソフトが市販されている。さらに、民生用カムコーダやノンリニア編集対応パソコンなどの普及に伴い、自主編集した映像のDVD記録も可能で、また映像用途だけでなくコンピュータ用のデータ・ストレージ(保存媒体)としても使用される。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2000年代からは容量面でDVDを上回る、第3世代光ディスクと呼ばれるBlu-ray Discが登場し、2010年代以降はDVDと同時期に普及したUSBメモリなどのフラッシュメモリの容量もDVDを上回り、製造単価も減少した。1メディアの容量当たり単価はフラッシュメモリが上回っているが、堅牢性、融通性から、PCなどでの単なるデータの受け渡し用途としては、フラッシュメモリにその座を明け渡している。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2020年代に入ると、ネットワークを経由して端末やクラウドの間で大容量データをやり取りすることが主流となり、映像用途としてもBlu-ray DiscおよびYouTubeやNetflixなどの動画配信サービスが普及したことで、その座を明け渡している。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "DVD登場以前の1990年代初頭、CDより高密度の第2世代光ディスクには映画の情報量から考えると50倍の容量が必要でそれを実現するためには青色レーザーが必須と考えられており、研究が行われていた。ハリウッド映画業界から早期に商品化してほしいという要望があったが当時は青色レーザーによる光ディスクの実用化は困難であった。そのため当時急速に進歩していた動画圧縮技術で必要とする容量を大幅に減らし、青色レーザーを使わず大容量化を図った光ディスクを組み合わせる方向で開発が進められた。ソニーは青色と赤色レーザーの中間の波長となるSHGグリーンレーザーを用いた光ディスクを研究していたがCDと同じディスクの厚みに拘ったため他社の赤色レーザーを用いた改良型の光ディスクに容量で劣っていた。1994年末には東芝・タイム・ワーナー・松下電器産業(現・パナソニック)・日立・パイオニア(2022年まではオンキヨーホームエンターテイメント、2022年に経営破綻後はオンキヨーテクノロジーなど)・トムソン・日本ビクター(現・JVCケンウッド)の連合による赤色レーザーを使ったSuper Density Disc(SD)の開発がされていた。一方で、フィリップス・ソニー陣営も赤色レーザーを使ったMultiMedia Compact Disc(MMCD)を同時期に開発しており、1980年代のVHS対ベータ戦争の再来が危惧されていた。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そこで、IBMのルー・ガースナーが仲介に入り、フィリップスとソニーはMMCD規格の採用を諦めることと引き替えに、SD規格のサーボトラッキング機構に関する2項目の修正を認めることで、フィリップスとソニーも東芝主導のSD規格につき、両陣営は合意に至った。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1つ目の項目は、フィリップス・ソニーの特許技術である「プッシュプル式トラッキング」技術を可能とするためのピットジオメトリーの採用だった。2つ目は、ケイス・スホウハメル・イミンクの設計によるフィリップスのEFMPlus採用だった。これは、東芝のSDコードよりも効率が6 %低かったため、SD規格自体の容量は5 GBだったが、結果的に4.7 GBの容量となった。EFMPlusは、ディスク面に対するひっかき傷や指紋等に対する耐障害性に大きく優れていた。結果としてDVD specification Version 1.0が1995年に発表され、1996年9月に完成した。名称はDVDになったが、SDのロゴはSDメモリーカードのロゴに継承されている。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この統合により、規格の乱立は避けられると一旦は思われたが、その後各家電メーカーや映画会社から多数の注文をつけられ(ランダムアクセス、2時間収録、ドルビーデジタル収録など)、後述の「DVD-」「DVD+」「DVD-RAM」など、多数の派生規格が生まれた。また、2000年4月に入り、PlayStation 2やマトリックスのDVD版の発売の影響でワーナー・ブラザーズなどのDVD製造が本格化するまではDVDの普及率はマイナーな方に入る状態であった。その前までは、DVDを二層にせず、レーザーディスクのように両面1層にしたり、ディスクケースがVHSを参考にしたものであったりと、規格の理解に混乱が発生していた。2000年を過ぎることで、CDでもあまり行われていなかったディスクのインクジェット印刷が本格化し、ディスクケースのサイズがPS2用のディスクケースのサイズで統一され始めるようになった。DVD-ROM、DVD-VIDEOのロゴは2001年を境によりわかりやすいものに変更されている。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "DVDは上記の経緯により当初はデジタルビデオ映像を記録するためのメディアとして策定され、Digital Video Discの略だと解釈されたが、その後コンピュータ補助記憶メディアとしても用いられることから、DVDフォーラムはDVDをvideo の代わりに「多用途」の意味がある versatile(ヴァーサタイル)を用いた「Digital Versatile Disc(デジタルヴァーサタイルディスク)」の略称とした。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "またデジタルビデオ映像が記録されたDVDのことを世間的に総称で「DVDビデオ」と表現することが多いがそれとは別にDVDへのデジタルビデオ映像データの記録方法の1つに「DVD-Video」があり、両者は同義ではなく全く別のものである。「DVD-Video」は、DVDにデジタルビデオ映像のデータをDVD-Videoフォーマット(「DVD-VF」) で記録したものに限定される。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方、「DVDビデオ」という総称はDVDにデジタルビデオ映像のデータが記録されたもの全て(DVD-Video、DVD-VR、AVCHD、AVCRECなどビデオ専用アプリケーションフォーマットで記録したもの、ビデオ専用フォーマットを用いずにMPEGファイルやAVIファイルを直接記録したものなど)が対象になる。ビデオカメラの撮影記録メディアとして記録されたものも一般的にここに包含される。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "プレーヤーやドライブは、CD-DAやCD-ROMの再生にも兼用できるものが一般的であり、DVD-Videoメディア及びプレイヤーの初の商用化は日本では1996年11月、米国では1997年3月、欧州では1998年3月、豪州では1999年2月になされた。世界で初めての市販DVD-Videoソフトは『Ya&Ya〜世界初のDVD電脳マガジン』であり、1996年11月1日にビクターエンタテインメントから発売された。なお、初の2.1chサラウンド音響は『ツイスター』、5.1chサラウンドは『インデペンデンス・デイ』が初である。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後日本では2000年3月4日にソニーコンピュータエンタテインメントから発売されたゲーム機、PlayStation 2にもDVD視聴機能が搭載されたことで普及が始まり、2004年にはDVDプレーヤーの国内出荷台数がVTRを上回った。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "パソコン分野でも光学メディアの中心はCDからDVDに移行した。一方オーディオ分野では、一部愛好者向けに留まり、普及しなかった(DVD-Audio参照)。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "メディア製造コストは、VHSの1巻120円程度に対し、DVDは1枚20円程度と安い。取扱いも容易なので、パブリッシャー側からすれば収益が上げやすい。このため、映像を取り扱う産業では、セルDVDを(副ではなく)主な収益源とする企業が増え、業界の状況を一変させた。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "こうしてデジタルビデオといえばDVDと認知されるほど広く定着した。", "title": "登場から普及までの経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "DVDのフォーマットおよびロゴのライセンスは、DVD Format/Logo License Corporation (DVD FLLC)が管理している。", "title": "ライセンス" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ディスクには物理構造による違いとデータ書き込み方の形式(論理フォーマット)による違い、さらにはビデオ用途でのアプリケーションフォーマットによる違いもあり、それぞれの組み合わせでさらに多くの種類が存在する。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "DVDは、大容量の記録を目指したディスクであり、CDではレーベル面に当たる面にも記録できるよう、両面記録の規格が存在する。しかし、レーザーディスクのように一面の読み込みが終わった際に裏返すのは手間がかかる。そこで、片面に二層構造を持たせれば、一層構造より多くの容量を確保することができ、裏返す手間もなくなる。ユーザ記録型のDVD+R DLが市場に登場したのは2004年6月で、DVD-R DLが2005年5月である。光学ドライブによっては、相性や仕様で読み取れない場合もある。また、単層方式に比べレーベル面の取り扱いに注意しないと、CDのように記録層が破損する等のトラブルに見舞われる。また、ドライブがあまりにも古い場合(例えばPS2のSCPH-10000)、レンズの経年劣化が原因で二層DVDだけを読み取れなくなる症状に陥ることも多い。Xbox、Xbox 360規格のディスクは二層DVDを独自規格にしたものが採用されている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "二層構造の場合、全反射をする層を2つ持たせると奥にある層の読み込みができなくなる。それゆえ、片面(両面)二層ディスクの第1層目(「レイヤー0」、あるいは略して「L0」と呼ぶ)が薄い金属膜でできており、第2層目(「レイヤー1」または「L1」と呼ぶ)は全反射をする構造になっている。レイヤー0は薄膜であるのでレイヤー1よりも読み取りのための反射光の検出率が悪くなるが、記録密度を下げることで読み取り性能を確保している。したがって、二層ディスクの容量は単層ディスクの2倍よりも少ない。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "レイヤー0は(CDと同じで)内周側から外周側に向かって記録・読み込みを行う方式であるが、レイヤー1の記録方式には以下の二通りがある。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "これらの情報は、DVDの管理情報としてレイヤー0の最内側に記録されている。ちなみに、DVD+R DLではオポジット方式のみとなっている。二層ディスクのDVDを再生していると、途中で読み込むレイヤーを切り替えるときが来る。DVD-Videoを再生している場合、一部の再生機ではレイヤーの切り替えの際に時間がかかってビデオ再生が一瞬停止したような状態になることがある。(連続再生時にレイヤーが切り替わる際の読み取りピックアップの移動はオポジット方式であればパラレル方式よりも少なくて済む利点がある。)", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "二層方式のDVDはDLと略して呼ばれることが多いが、正式名称はDVD-DLではDual Layer、DVD+DLではDouble Layerと、それぞれ異なる。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "トラックに沿って、ピットと呼ばれる凹みを作ることで記録することができる。読みとる際はレーザー光線を当て、凹み有無による反射の違いを利用する。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "DVDのトラック形状は同心円型ではなく、CDと同様の渦巻き型である。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "トラック・フォーマットは物理規格ごとに異なっている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ウォブル・ランドプリピット方式を採用したDVD-R/RWディスクには、グルーブ(溝)とランド(丘)があらかじめ刻まれており、グルーブは蛇行している。この蛇行をウォブルと呼ぶ。またランドにはあらかじめランドプレピットというランド部分の途切れている部分がある。ドライブは、ウォブルとランドプレピットにより、位置決め(アドレッシング)を行う。記録されるデータ(ピット)はグルーブに書き込まれる。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "高周波ウォブル・グルーブ方式を採用したDVD+R/RWディスクでは、ランドプレピットがなく、ウォブルの蛇行周波数が高い。ピットはDVD-R/RWと同じくグルーブに書き込む。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ウォブル・ランドグルーブ方式を採用したDVD-RAMではグルーブとランドにピットを書き込む。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "読み出し専用のDVD-ROMはピット方式を採用している。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、位置情報の記録方法はDVD-RW系とDVD+RW系で異なる。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "データの転送速度は等倍速で11.08 Mbps (=1385 kiB/s) である。これはCDの転送速度を1倍速 (150 kiB/s) として、9倍速程度に相当する。規格上定められている最大転送速度は16倍速(DVD-Rの場合)であるが、これは177.28 Mbps (=22.16 MiB/s) に相当する。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "DVDに使用される論理フォーマットは主に以下の二つである。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "CD時代から使用されているISO 9660に加えて、Optical Storage Technology Association(略:OSTA)が策定した、拡張性の高いUDFに対応している。映像用途ではDVD-VideoがUDF 1.02、デジタル放送の録画で使われるDVD-VRにはUDF 2.00が使用されている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "PC向けのデータDVDでは上記のどのフォーマットでも使用できるが、PCのDVDドライブとOSが対応していないければ読み込むことができない。ISO 9660は古い規格で拡張性に乏しいのでそれだけ互換性には優れているため、ISO 9660とUDF 1.02の両方に対応したUDF Bridgeも使用される。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "実際のファイルシステムは使用するOSやドライバーソフトに依存する。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "現在のWindows11では、UDF1.50,2.00,2.01,2.50でフォーマットすることが可能である。このフォーマットで初期化することでHDD同様、自由に読み書きができる。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "DVD-ROMでは「年齢制限」、「リージョンコード」により視聴制限をかけることが可能である。再生時にハードウェア側でこれらの制限をかけずに映像を視聴しようとした場合は、DVD側の画面で年齢制限やリージョンコードについて警告する画面が出る。これは付録などの一般販売されないものも含め、すべての映像用DVD-ROM作品に存在する。年齢制限は予め全年齢に設定すること、リージョンコードは「ALL」を採用することでこのエラー画面を省略することが可能である。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "コピーガードはCSSが設定されているが、現在ではそのコピーガードを簡単に解除できるため、会社ごとに独自のコピーガードが追加される場合がある。また、VHSなどに記録されたマクロビジョン製コピーガードを無視して録画することも依然不可能である。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "規格はDVDフォーラムの他、Ecmaインターナショナルによっても標準化されている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "データを記録するには記録型DVDを使用する。記録型DVD規格としてDVD-R(1回だけ書き込み可能)とDVD-RW、DVD-RAM(複数回の書き込みが可能)がDVDフォーラムによって制定されている。これに対抗するものとして、DVD+RWアライアンスの策定したDVD+RやDVD+RWがある。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "記録型DVDについて、一部海外メーカーのものに品質に重大な問題がある場合がある。品質の悪いディスクは動画の再生時にブロックノイズが入る、再生が止まる、保存したデータが消える、ドライブやレコーダの寿命が縮むといった問題を引き起こす可能性が高い。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "しかし、ドライブの性能や相性によって書き込み品質が下がることもあるため、一概に国産メディアを使えば大丈夫という保証はない(国内ブランドでも海外製メディアを採用していることがある)。安心して使うためには、これから利用するメディアを1枚買って書き込みテストを行い、問題がないことを確認してから利用することが望ましい。また、発売当初は100年程度もつといわれていた書き込みメディア耐久性であるが、これはあくまで良質なメディアの加速試験(実際に100年間試験するのではなく、代わりに紫外線の照射強度などを変えて100年間相当の環境にするもの)における結果であって、現実には数年程度でデータが消えてしまう品質の悪いディスクも存在する(逆に言えば100年を超えても使えるメディアも存在する)。長持ちさせるためには、紫外線の当たる場所や高温多湿な場所を避けることが重要である。また、VHSと比較してテープが絡まって故障する心配は無いものの、ディスクが傷つくと読み込み不可能になる場合もある。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "DVDにコンピュータ用の読み取りファイルを記録したもの。DVDフォーラムにより策定、ECMA-267・268により標準化されており、パソコンやゲーム機データ配布用媒体として定着している。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "容量は一層タイプが片面4.7 GB・両面9.4 GB、2層タイプが片面8.5 GB・両面17 GB。論理フォーマットはUDF Ver.1.02である。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ゲーム機としてはPlayStation 2、Xbox、Xbox 360がソフト用の媒体に採用しており、パソコンではAppleのmacOSが媒体に採用しWindows 98 Second Edition以降のWindowsがサポートしている。アーケードゲーム基板ではFirebeat、System246あたりから採用された。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "市販のDVDビデオソフトは、このDVD-ROMの物理フォーマットのディスクに映像データがDVD-Videoのアプリケーションフォーマットで記録されたもの。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ゲームやDVDビデオソフトなども含めたDVD-ROMは読み取り専用であるため、他の書き込み型DVDやレンタルも含む市販ビデオテープソフトなどのように、その作成時には記録媒体にデータを直接記録して作成されているわけではなく、データ記録面に読み取り用のピットを形成したマスター原盤(スタンパー)を作成後、それを元にしたプレスと張り合わせの工程による物理的な工法によって量産されている。そのため、書き込み型DVDに比べて経年化学変化の影響を受けにくく、物理的な形状破損や読み取りレーザー光反射層の金属素材の劣化がない限りは基本的に読み取り可能である。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "以下、全てのメディアに「データ用 (for DATA)」と「ビデオ録画用 (for VIDEO)」の2種類がある。後者は地上デジタル放送移行前は私的録音録画補償金制度により補償金が上乗せされていたが、移行後は、コピー制限があるという理由で補償金が上乗せずに販売されている(私的録音録画補償金制度#デジタル放送専用レコーダーの私的録画補償金に対する訴訟を参照)。なおCPRM非対応の録画用メディア(アナログ放送専用などと表示されている場合もある)にはコピーワンス、ダビング10のデジタル放送を記録できない。DVD-VRはすべてのDVD±R,DVD±RWで対応しているが、CPRMはすべてのDVD±R,DVD±RWで対応しているわけではなく、「for VIDEO」と書かれたDVD±R,DVD±RWを使用する必要がある。また、DVD-VR規格でフォーマットしたDVD-RWにコピーワンスの映像を録画し、そのままファイナライズしてしまった場合、その映像は強制的に視聴できなくなる。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "DVD-R/DVD-RWの「-」は本来ハイフンであるが、後述のDVD+R/DVD+RWが「+」を「プラス」と読むため、区別のために「マイナス」と読まれる場合も多い。一方、DVD-RAMの「-」もハイフンであるが、DVD+RAMが存在しないので「マイナス」とはほとんど読まれない。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "VCPSを採用したDVD+と異なり、DVD-の録画用メディアはCPRM、HD Rec、AVCRECに対応している。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "DVD-RはDVD Recordable の略称。ライトワンス型の記録型DVDフォーマット。DVDフォーラムにより策定、ECMA-359により標準化されている。1997年9月にパイオニアによって開発された。ディスクの裏面は紫色が通常。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "容量は片面で4.7GB、両面で9.4GBである。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "CD-Rと同様、色素を使って記録されるがM-DISCには無機系が採用されている。記録層にはアゾ色素、シアニン色素、オキソライフ色素が用いられている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "データの記録は、ディスクの基板上に連続した線上に存在するランド(丘)に挟まれたグルーブ(溝)に強いレーザー光を当てることでピット(くぼみ)を焼付け形成することで行なわれる。ピットを形成する皮膜の記録材料には有機色素材料を使用しておりレーザー光照射による色素の分解という化学変化を利用しているため、素材コストの関係で比較的に価格を安価にできる一方で一度しかその場所にはデータを書き込めない。また、当初のVersion1.0規格では3.95GBだったが、Version2.0規格で4.7GBに容量を増加した。またVersion2.0規格では業務用の「DVD-R for Authoring」と一般向けの「DVD-R for General」の2つに規格が分かれており、一般向けの「for General」にはコピー防止機能が組み込まれている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "量産効果により価格が最も低く、パーソナルコンピュータ用としてはDVD-RAM/RやDVD-RW/Rといった両対応ドライブが登場しCD-Rに代わるものとして広く普及している。家庭用DVDレコーダーにおいてもパナソニックとソニー以外の企業はDVD-R/-RWドライブを採用している。またパナソニックも2005年春以降のモデルはDVD-RWへの書き込みに対応している。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、記録面皮膜材料に有機色素材料を使用していることで光の中でも特に紫外線の影響を受けやすく、太陽光を長時間当てた場合など記録情報が失われることがあることが実験で示されている。DVD-RAMやDVD-RWは皮膜材料に有機色素材料とは異なるものを用いているので光の影響による経年変化はほとんどないとされているが代わりに熱に弱いと言われ、アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) では「書き換え可能なDVD-RAMやDVD-RWは熱に敏感に反応する素材を使っているためにDVD-Rより長期保存には使えない」としている。いずれにせよ、保存環境やディスクの質によって寿命は大きく変化する。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "コピーワンスの制限がかかった地上デジタルテレビ放送・BS・CSデジタル放送の場合、DVD-Rへの録画は出来なかったが2004年に録画が可能なCPRM対応DVD-R(CPRMへの対応はDVD-VRフォーマット時のみ可能)が登場した。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "DVD-Videoでの記録の場合、テレビ放送/DVD-VR/DVD-Videoの各音声方式の違いによる影響のためレコーダーでテレビ放送の二ヶ国語放送/解説放送が記録出来る市販レコーダーは2006年現在製造されていない(ステレオ放送は可能)。ただし後年はDVD-VRフォーマットでの記録が可能な製品も販売されており、DVD-VRの場合は二ヶ国語放送/解説放送の記録も可能。またDVD-Videoフォーマットでの記録の場合でも、マルチ音声トラック機能を用いて二ヶ国語以上の音声のDVD-Videoディスクを作成することは可能(DVD-VRでの記録も、DVD-Videoでの二ヶ国語切り替えディスクの作成もその可/不可は録画機器や作成ソフトなどのツール側の機能による)。また、東芝やパイオニア、シャープ等の一部メーカーのDVDレコーダーでは追記型VR記録が可能であるがファイナライズ処理を行わないと他のプレーヤー等で再生はできない。またDVD-Rメディアの初期状態はDVD-Videoフォーマットだが、DVD-VRでフォーマットをするとDVD-Videoフォーマットには戻せない。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "DVD-R DL (Dual Layer) は1層タイプのDVD-Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。DVDフォーラムにより策定、ECMA-382により標準化されている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "容量は片面で8.5 GBである。両面のものは市販されていない。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "初期は+DLに比べて記録速度が遅くシェアも低かったが、現在では速度では+DLに並びほとんどのドライブで対応している。2005年春に三菱化学メディアよりDVD-R DLが発売された。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "DVD-RWはパイオニアが開発したDVD ReWritable の略称。DVDフォーラムにより策定、ECMA-338により標準化されている。ディスクの裏面は通常水色。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "容量は片面4.7 GB・両面9.4 GB。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "データの記録は、基本的にはDVD-Rと同じ方式。ただし記録マークを形成する皮膜の記録材料にはDVD-Rのような有機色素材料ではなくアモルファス金属材料を使用しており、色素材料のように光による化学変化で分解するわけではなくレーザー光照射による加熱でのアモルファス金属の結晶化・非結晶化を利用している(結晶化することでその場所の反射率が変化する)。結晶化した場所に再びレーザーを当てて結晶状態を溶かして急激に冷やすことで非結晶化が可能であり、データの消去や再利用(同じ場所へのデータ書き込み)が可能となっている。又、DVD-Rに比べてデータ記録後の光による経年変化の影響を受けにくいのもこの使用材料の違いによるもの。この方式でデータが書き込まれた場合、読み取り時のレーザー光の反射率がDVD-ROMやDVD-Rに比べて若干弱いという弱点がありドライブによってはDVD-Rに比べて再生互換性が若干劣るのはその理由による(ただし、新しい製品では対応改善がされているものがほとんど。またこの点については後述のDVD-RAMも同様の特性があるがDVD-RWの場合は読み取りドライブの互換性が高い関係でDVD-Rの書き換え型として使用されるため、直接の比較対象になる場合が多い)。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "記録型DVDとして最初に登場したDVD-RAMはDVD-VideoやDVD-ROMとのフォーマットの互換性が低かったためDVD-RWは互換性を重視、主に動画の記録編集用として開発された。そのため、DVD-RWで記録されたディスクは読み取り専用のDVD-ROMドライブでも読み出すことが可能であることが多い。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "書き換え可能回数は1000回以上で10万回以上書き換え可能なDVD-RAMよりは少ない。他の書き込み型DVDとの違いは、ビデオ用途で使用する場合に買ってそのままではデータの書き込みができないことである。VideoモードとVRモード両方で使えるメリットがある一方でフォーマット形式が異なるため、どちらで使用するかを選択し、約1分程度かけてフォーマットする必要がある。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "再生機との互換性を確保するためファイナライズ処理が可能で、ファイナライズを解除し再び追記することも基本的には可能である(レコーダーによっては不可)。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "日本ビクター(現・JVCケンウッド)が2層のDVD-RW (DVD-RW DL; 容量8.5 GB)を開発し、2007年6月のDVDフォーラムの承認後、同8月に発売予定だったが、対応ドライブが製品化されないまま2008年3月に発売の凍結が発表された。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "規格はECMA-384により標準化されている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "DVD-RAMはDigital Versatile Disc Random Access Memoryの略称。相変化記録方式の記録型DVDである。DVDフォーラムにより策定、1997年4月に2.6 GBのVersion1.0規格が制定され、2000年夏に片面4.7 GBのVersion2.0規格が制定された。またECMA-330により標準化されている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "PD規格を提案した松下電器産業(現・パナソニック)が中心となってPDの技術をもとに開発され、1998年4月にパナソニックと日立製作所から最初の製品が発売された。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "DVD-RWとは異なりデータの記録面の材料にはアモルファス金属材料を用いているが、レーザー光照射による加熱での結晶化を利用している(結晶化することで反射率が変化する)点では同じである。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "DVD規格の一つであるが、記録密度・ランダムアクセス性向上のために通常のDVDとは異なるアドレス方式やトラッキング方式をとっており(前述)、ディスクの回転制御の方式も大きく異なるなど他のディスク (DVD-ROM/DVD-R/DVD-RW) とは物理的記録方式に異なる点が多いため、特に対応したドライブでしか読み書きができない。他の書き換え型DVDであるDVD±R/RWが一般のDVD機器で読み書きができるのとは対照的である。また、初期のDVD-RAMドライブはPDも使用可能であったが、Version2.0対応のドライブからは互換性がなくなった。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "記録面は、円周方向に他のDVDメディアには見られない細く短い線が微妙に角度を変えながら全面に分布している。これは埋め込みサーボ技術のサーボパターンであり、このパターンを検出することで瞬時にヘッドの位置を認識することが出来、ランダムアクセスの高速化に役立っている。同様の技術はMOやHDD(磁気情報なので肉眼では見ることが出来ない)にも使われている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "かつてはDVD-RAMへ書き込みを行うにはドライバ(UDF)のインストールが必要だったが、Mac OS XやWindows XP以降ではOS標準でサポートされるようになった(FAT32形式のみ)。また読み書きに専用のライティングソフトは必要とせず、通常のファイル操作で使用できるのも特徴である。Windows 95ではHDDだと1つのドライブにつき2 GB以下のパーティションしか扱えないというFAT16フォーマットの制限があったが、DVD-RAMの場合はUDFフォーマットが利用できるため、Windows 95であっても2.6 GBや4.7 GBといった大容量を1つのドライブとしてHDD感覚で読み書きできた。こうした環境ではデータ用HDDの代替としても利用価値があった。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "当初はデータ用として普及したが後にビデオ録画用にも普及した。民生機では書き込みの高速性を利用して録画を行いながら別番組を再生することなども可能。また、DVD-RAMは不要な部分だけを簡単に消せるうえ、録画したDVD-RAMを別の機器で再生させる場合でもファイナライズ処理が不要である。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "アナログ放送用のDVD-RAMレコーダーでは、DVD-VR方式で記録する。このため、パソコンを使って映像をDVD-VR方式で書き込めばレコーダーで再生することができる。逆に、レコーダーで録画したディスクをパソコン上で再生することもできる。これらを可能にするソフトウェアとしてはパナソニックのDVD-Movie album、UleadのDVD Diskrecorder(DVD MovieWriterにも実装)、ペガシス製のTMPGEncシリーズ等がある。これらは主にタイトル名編集、カット編集、DVD-Videoモード形式への変換などの機能がある。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ハイビジョン放送用のDVD-RAM対応レコーダーでは、AVCREC方式で記録する。これもパソコンで扱えるが、UDF2.5フォーマットに対応していること、アプリケーションがAVCRECに対応していることが前提となる。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "なおDVD-Video方式でDVD-RAMに書き込むことも可能であり、対応するアプリケーションも存在するが、市販されているDVDプレーヤーの多くは最新機種も含めてDVD-RAMには未対応のまま現在に至っている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ファイルシステムとして読み書きすることが前提となっているため、回転速度は各ドライブの設計に依存する。ただし実際には低速度メディアではZCLV、高速メディアではPCAVで制御しているドライブが大半である。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "DVD±RWの1000回を上回る、10万回以上の書き換えが可能である。さらに不良セクタの代替機構の構築や、書き込み時のベリファイが自動的に行われる。ただしベリファイを行うため、たとえば2倍速の書き込みは1倍速の読み出しと同程度の時間を要する。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "デメリットは構造上の特徴からDVD-Videoとの互換性が無い点であり、DVD再生専用プレイヤーやDVD再生対応ゲーム機などで対応機種が少ない点である。また、カートリッジ付メディアの挿入は出来ないドライブが多い。現在、カートリッジ型対応のドライブを生産しているのはパナソニックほか少数である。ただし後年は読み取りドライブのマルチ化が進んでおり、未対応ドライブを除いて実用上の互換性は大きな問題にはならなくなりつつある。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "当初規格統一に参加していたソニーやフィリップスなどはDVD-RAMがDVD-ROMとの互換性が比較的低いことなどを理由に、1997年5月になってDVD+RWを対抗する規格として提唱した。これは片面3 GB、両面6 GBの容量を持ちDVD-ROMと互換性があった。しかしDVD-RAM陣営は1999年6月、これを上回る片面4.7 GBのVersion 2.0規格の決定を発表した。ソニー、フィリップス、ヒューレット・パッカードの3社を中心とするDVD+RWアライアンスは、独自の対抗規格として同等の容量を持つDVD+RWを策定している。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "DVD-RAM陣営はドライブの製造メーカーとしてはパナソニック、日立LGデータストレージ、東芝サムスンストレージ・テクノロジーなどが、テレビの録画用DVDレコーダーとしてはパナソニック、日立、東芝、日本ビクターなどがあった。2006年4月にはパイオニアも加わった。このうち日立・日本ビクター・パイオニアはカートリッジタイプのディスクは使用できなかった。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2003年の時点では記録型DVDとしての世界シェアは約10 %、日本国内ではレコーダーの普及により約60 %のシェアを持っていた。2001年発売されたApple Power Mac G4 にDVD-RAMドライブがオプションでラインナップされたことにより、一時的にシェアが増大したこともある。しかしその後日立と日本ビクターが民生用DVDレコーダー事業から事実上撤退し、2007年12月以降はパナソニック・東芝の2社のみとなった。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "そもそも、東芝はDVD-RAM陣営であるにもかかわらず再生専用機ではDVD-RAMへの対応を行っていなかった。これは、同社のDVDプレーヤーの大半がオリオン電機(社名変更を経て清算済)などからOEM供給されたものであったためである。自社生産品であるHD DVDプレーヤー「HD-XA1」では対応していたものの、CPRMには対応していなかった。Blu-ray Discレコーダーでも再生のみの対応となっている。パナソニックも車載用機器では対応していなかった。また海外では当初からDVD-RWに対して劣勢であり、メディアの価格が下がらなかったのもシェアを落とす理由のひとつと言われる。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "最近の傾向としてパイオニア、NECなど今までDVD-RAMに対応していなかった複数のメーカーからDVD-RAM対応のドライブ(パイオニアの場合はDVD-RAM録再対応のDVDレコーダーも登場。ただし、2006年4月以降の新機種から)が発売された。ランダムアクセスが可能でありデータの書き込みに専用ライティングソフトが不要である。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "パナソニックは市場規模の縮小を理由に、2019年5月末で録画用DVD-RAMの生産を完了した。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "メディアの規格は基本的に他のDVD規格に準ずる。両面メディアが存在するなど仕様は複数あり、容量は片面1.46–4.7 GB、両面2.92–9.4 GB。2層タイプは製品化されていない。8 cmディスクはVersion2.1より設定された。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "当初はディスク保護のためカートリッジ入りでそこからメディア円盤の取り外しができない規格のみだったが、後にメディア取り外しが可能なカートリッジ型が登場し、さらに記録面の耐久性が改善されたことにより安価なカートリッジ無しタイプも販売されるようになった。現在ではドライブ、メディア共にカートリッジなしタイプで2倍速から5倍速に対応した製品が主流となっている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "DVD+RWアライアンスが策定したこれらの規格はDVDフォーラムの規格外のため厳密にはDVDとは呼べず、DVDロゴは付いていない。また正式名称に「DVD」の文字はない。このように本来のDVDとは似て非なるものである。しかし2008年にはDVD関連ライセンス団体であるDVD6Cがこれらの規格のライセンスを管理するようになるなどDVDフォーラムとの規格争いが過去のものになっており、既にDVD規格の一種として認知されたと見ることもできる。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "DVD+RWアライアンス参加企業以外は印刷物で「DVD+R/+RW」という表現をせずに「+R/+RW」と表記し、脚注に「『+R/+RW』は『DVD+R/+RW』と表現されることがあります」と書くことが多い。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "DVD-R/-RW/-RAM陣営(以下、DVDフォーラム陣営)とDVD+R/+RW陣営(以下、+RWアライアンス陣営)がVHS対ベータマックスのような規格争いを行って消費者に混乱を招くことが懸念されたが、現在はDVDレコーダーではDVD-R/-RW/-RAMにほぼ落ち着き、パソコン向けドライブでは両対応のスーパーマルチドライブが普及したためそれほど混乱は生じていない。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "Windows Vistaでは、Mount Rainier(DVD+MRW)と呼ばれる規格がサポートされている。これはパケットライト方式で書き込む際に有効でフォーマットを必要最小限の領域にとどめ、残りの領域のフォーマットは書き込みドライブが未使用のときに実行することでフォーマット時間を大幅に短縮できるというものである。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "記録速度や2層メディアの登場など開発スピードがDVDフォーラム陣営に比べて速いことが特長だった。しかし、DVDフォーラム陣営も開発速度を上げ、DVD+R/+RWは著作権保護技術としてCPRMではなくVCPS (Video Content Protection System(英語版))を採用しているために日本のコピーガードに対応しておらず録画用メディアであってもデジタル放送を記録できない。日本では、DVD+R/+RWは廃れた存在となった。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ライトワンス型の記録型DVDフォーマットで、正式名称はplus R(プラス アール)。規格としてはECMA-349で標準化されている。DVD+Rで記録されたディスクは一般的なDVD-VideoやDVD-ROMドライブで再生が可能とされるが、実際にはメディアID(ブックタイプ)がDVD+Rであるため再生できないケースもまれにある。ただし、ファイルシステムの構造がDVD-Rに比べDVD-ROMに近いためROM化を行った場合、DVD-Rよりも互換性は高くなる。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "記録面材料は、DVD-Rと同様に有機色素系材料である。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "当初DVD+RWアライアンス陣営は書き換え型のみを想定してDVD+RW規格を策定したが既存のDVDプレイヤーでの再生互換性が想定より低いことがわかり、その対策としてDVD+R規格を追加する形になった。この際、初期のDVD+RW専用ドライブはファームウェアの更新によりDVD+Rにも対応できるとされたが結局ハードウェアの問題で棚上げとなり一部のユーザーに混乱を招いた。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "現在はソニーの「スゴ録」「PSX」(共に生産終了)ブルーレイディスクレコーダーに、DVD+Rでの録画に対応するDVDレコーダーが存在する。パイオニア等も対応レコーダー(デジタルチューナー非搭載機)を販売していたことがある。パソコンでもスーパーマルチドライブによりDVD-Rと全く同じように記録できる。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "DVD-Rがたとえ1バイトのデータを記録する際でもダミーデータを上乗せして1.1 GBにしてしまうのに対しDVD+Rではダミーデータの上乗せを行わないこと(DVD-Rも後に制限が解除された)、高速化が容易なこと、メディアID(ブックタイプ)がDVD-ROMと同じものに変更可能であるため互換性が向上することなど利便性という点でDVD-Rを上回っていた。反面、DVDフォーラムによって策定されたわけではないこと、再生時に振動の影響を受けやすいこと、ディスク品質にシビアにならなければならないこと、デジタル放送で採用されているCPRMに対応できていないこと、書き込み速度がDVD-Rに追いつかれたといった理由から日本国内ではDVD-Rの販売シェアの後塵を拝している。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "DVD+R DL (Double Layer) はDVD+Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。規格としてはECMA-364で標準化されている。DVD-R DLよりも先行して一般市場に出回った。ディスクのメディアIDをROM化することによりDVDプレーヤーでの再生互換性が一般的には高まることが知られている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "パナソニックのDVD-RAMに対抗する規格として策定された規格で、正式名称はplus RW。規格としてはECMA-337で標準化されている。DVD-ROMとの互換性のある独自の書き換え可能方式を採用している。書き込み可能回数は1000回以上。記録面の使用材料はDVD-RWと同じようにアモルファス金属材料を用いている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "世界三大経済圏の有力電機メーカーである日本のソニー、オランダのフィリップス、アメリカのヒューレット・パッカードの3社が提唱しているだけに有力視されていたが、日本の大手電機メーカーでDVDレコーダーにこの方式を採用しているのはソニーのみである。一時は日立製作所とパイオニア(いずれもデジタルチューナー非搭載モデル)に対応機種があったが現在は生産終了している。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "高速記録が特長の一つであり登場時は2.4倍速(-RWは1倍速)、2008年1月時点でDVD+RWは8倍速(DVD-RWは6倍速)である。メディアIDの書き換えも可能であり、互換性が高まるとされる。またDVD+RWの片面2層化された「DVD+RW DL」が開発中だったが日本ではDVD-RW DL同様、2008年7月現在、対応ドライブもメディアも発売されていない。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "ただし、録画用メディアとしてはDVD+RWの仕様として「1つのファイルは連続した領域のみに記録される」仕様のため、DVD上での編集により生じた空き領域は使用できない。そのため、CMカットしても実質空き時間が増えないという欠点がある。いったんハードディスクドライブに移し変え、再記録することでは可能である。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "DVD+Rよりも先に規格が制定され、当初はDVD+RWと記録型CDの書き込みのみに対応したドライブが発売された。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "規格としてはECMA-374で標準化されているが製品化は中止。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "DVDplus(英語版)とは、片面に音楽CD、もう片面にDVDを貼り合わせた両面ディスクであり、採用例としてはイヤーエイク・レコードが2000年に発売したオムニバスアルバム『Immortalised DVD』が該当する。日本のニュースサイト「CDジャーナル」は実物を見た者からの話として、いかにもCDとDVDを貼り付けてみたという感じがして、時代の先端を行くような代物ではなかったとしている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "DualDiscは、片面に音楽CD、もう片面にDVDを貼り合わせた両面の再生専用ディスクであり、2004年に米国の大手レコード会社が発売した。DVDフォーラムが定めた規格ではない。CD面は正式な音楽CD規格(レッドブック)に準拠していないためCDロゴは付いておらず、DuallDiscの製造元は「音楽専用面」「非DVD面」など遠回しな呼び方をしている。また、カーステレオなどの一部の機器では再生に支障が出ているともいわれている。以上のことから、2005年末の時点で普及が北米にとどまっているという指摘もあった。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "片面にDVD-ROMとHD DVD-ROMの両規格を収録した多層構造のディスクで、2006年にメモリーテックと東芝が発表した。映像ソフトで製品化されている。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "48DVDはアメリカのFlexplayが開発した技術であり、酸素に触れると徐々に劣化する色素を記録に使用しているため、再生可能な時間が開封後48時間以内に限定されている。日本出版販売が日本での独占販売契約を締結し、2005年9月から発売を開始した。日本国内においては、プロモーション目的で頒布されたり(例:『ミッション:インポッシブル3』)、雑誌の付録として同梱した例があった。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "アメリカ国内においては、使い捨て式であるため環境面での批判があった。DVDフォーラムが定めた規格ではない。", "title": "物理フォーマット" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "ディスクに書き込むデータ形式の違いにより以下のものが存在する。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "DVDに複数の映像、音声、字幕を記録するフォーマット。マルチアングルでの記録も可能。複製防止技術(厳密には、再生技術である)として Content Scramble System (CSS) という暗号化をすることが可能。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "本来は市販DVDビデオソフトの製作用(読み出し専用)に策定された規格であるが、家庭用DVDレコーダーや、パソコンで専用ソフトウェアを使っての記録・追記・書き込み前の編集などが可能になった。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "DVDの規格上は両面2層まで可能(富士フイルムから両面式のDVD-Rが発売されている)であるが、パッケージソフトとして販売される性格から片面2層とし裏面に絵やロゴ等(レーベル)を印刷する場合がほとんどである。なおディスクを返すことなく、両面自動連続再生可能なプレーヤーが存在しない。そのため、2枚組でも両面2層でも入れ替える必要性がある点は同様なのでユーザの利便性にとっては大差がないと言える(ちなみに、LDでは両面再生対応機種が存在した)。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "DVD-Videoプレーヤーのほか、LDとのコンパチブルプレーヤー(2008年1月現在、生産中)、VHSとの複合機などで再生できる。またディスクサイズが12 cmと小型であるためラジカセやカーオーディオ、LCD付ポータブルプレーヤーなど様々な対応機器が存在する。PC用のドライブでも利用可能であるため、DVD-ROMドライブを搭載したPCでは、DVD-Videoの視聴が可能であることが多い。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "世界をいくつかの地域に分け、リージョンコード(地域コード)を割り当てることで地域限定のリリースやリリース日をずらすということができる。DVDプレーヤーとDVD-Videoディスクの地域コードが一致しないと再生できない。一致してもテレビ方式が合わないと再生できない。PCに海外のリージョンコードの入ったDVDを入れると勝手にリージョンが変更されることがある。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "映像はMPEG-2で記録され音声はドルビーデジタル (AC-3)、オプションで2chPCM、DTS(デジタル・シアター・システムズ)が利用可能である。地域によって、その他の音声フォーマットにも対応する。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "正式には、DVD Video Recording Format。一部ではDVD-VRFとも表記されているがいずれも同じものであり、登場時からの時間の経過と共にDVD-VRとしての記述に収束方向にある。論理フォーマットはUDF Ver.2.00。新たにシーンの編集機能やアングル機能、CPRMへの対応などが実装された。ファイナライズが必要なディスク規格では引き続きファイナライズが必要。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "DVD-Videoフォーマット規格を元に、家庭用レコーダーで記録するためにより適した規格に改良したもの。技術的な内容は近似しているので、レコーダーの設計者が両方式間のコンバート機能を設計する際には便利ではあるが、記録されたディスクとしてはDVD-Videoフォーマットとの間に互換性があるわけではない。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "HDD搭載のDVDレコーダーの多くは実質的にはDVD-VRレコーダーの性格で企画開発されたものが多いため、録画物をHDD内に記録する場合はDVD-VRの規格に応じた形式が用いられる場合が多い。ごく一部の機種ではHDDへの記録でもDVD-Videoフォーマットで行うものがある。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "コンパクトディスク (CD) に比べ高音質で、著作権保護など複製されにくい特徴を備えた、通称「次世代CD」規格としてDVDフォーラムが1999年に策定を完了させたオーディオ専用のアプリケーションフォーマット。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "リニアPCM 最大192 kHz/24 bit(2.0chステレオ時のみ)、最大96 kHz/24 bit(最大5.1chサラウンド)に対応する。可逆圧縮音声データを収録することも可能 (MLP)。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。読み取り専用の音楽ソフトだけでなく、パーソナルコンピュータ用の音楽制作アプリケーションと記録型DVDを用いて作成することも可能。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "「次世代CD」規格としては日本ビクター(現・JVCケンウッド)・パナソニック・東芝・パイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)等が推進したDVDオーディオ (DVD-Audio)と、ソニー・フィリップス等が推進するスーパーオーディオCD (SACD)の2つの規格がある。これらの間に互換性はない。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "DVDオーディオの再生にはDVDオーディオ対応のプレーヤーが必要である。ただしソフト(録音媒体)によってはDVD-Videoに準拠したデータを併せて収録しており、その場合はDVDプレーヤーでも再生ができる(ただし音質はDVD-Video相当となる)。また、音楽コンテンツ向けの付加機能として映像コンテンツを収録することもできる。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "ユーザーが録ったハイサンプリングレートによる音源を記録する用途にはDVDオーディオ方式の方がスーパーオーディオCDの方式よりも有利であると言える。ダイレクトストリームデジタルでは録音レベルを調整するためのイコライザですらかけられない上に、1bitレコーダーを用いた録音はファイル形式が異なるので市販のスーパーオーディオCDプレイヤーでは再生ができる対応機種はほとんど存在しないからである。DVDオーディオではその点、専用ソフトを用いればDVD書き込みに対応した光学ドライブを用いてDVDオーディオ規格のディスク媒体の作成が自由に可能であった。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "スーパーオーディオCDの項目にあるように、高音質・サラウンドへの需要は盛り上がらず、それよりもむしろ利便性に優れているMP3や音楽配信などが普及し、2010年代に入るとDVDオーディオと同等のリニアPCM・FLAC音源やスーパーオーディオCDと同等以上のDSD音源も配信されているため、DVDオーディオもスーパーオーディオCDも共に普及のペースは非常に鈍いので将来が危ぶまれる。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "スーパーオーディオCDはオーディオ愛好者から一定の支持を得てまだ専用プレーヤーも発売されているが、DVDオーディオの方は既に自然消滅に近い状態である。日本の業界団体・DVDオーディオ プロモーション協議会は2007年3月をもってホームページを事実上閉鎖した。2013年現在ではマルチ対応のユニバーサルプレーヤーが対応する。また、2008年以前まではパソコン用のDVDビデオ再生アプリケーションの一部もDVDオーディオの再生をサポートしていた。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "正式には、DVD Audio Recording Format。DVD-Audioに対するDVD-VRに相当する規格である。2007年現在は規格として存在するのみで、適応製品としては開発されていない。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "正式には、DVD Stream Recording Format。論理フォーマットはUDF Ver.2.01。デジタル放送の放送信号(ストリーム信号)をそのまま丸ごと記録するための方式。ハイビジョンをDVDに録画できるが、可能記録容量の関係でDVDへの適応は2008年現在は行なわれていない。DVD-VRと一部共通性があるので、同一のディスクに記録して利用できるメリットもある。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "BDの派生規格であるAVCRECの登場後はそちらが主流である。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "HD DVDのアプリケーションフォーマットに準拠したハイビジョン映像を記録型DVDに記録する規格。DVDフォーラムが2007年に策定した。東芝が対応レコーダーを2007年末に発売。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "既に対応機器の発売は終了しており、AVCRECに移行している。類似する規格としてHD DVD9がある。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "上記のDVDビデオとしてのアプリケーションフォーマット以外にも、PCのメモリ上で認識可能な各種データも書き込み可能である。ゲームソフトのプログラムやDVDビデオの規格では許容されていない各種画像・映像データファイルも書き込み可能で、読み取り機器側さえ対応していればそれらのデータファイルの表示・動作も可能となる。用語としての定義とは別に、DVDがDigital Video DiscではなくDigital Versatile Discという名称であるのはこれによるものである。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "正式には、DVD+RW Video Recording Format。DVD+RWアライアンス陣営が策定したDVD+RW向けの Video Recording フォーマット。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。DVD-VRがDVD-Videoとの再生互換性が全くない一方で、DVD-Videoとの再生互換性を目指して策定された規格。論理的にはDVD-ROMドライブやDVD-Videoプレーヤーでの再生可能なフォーマット。DVD-RWと異なりCPRMは規格上存在しないため、「1回だけ録画可能」のデジタル放送を記録することはできない。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "前述した各種デジタルデータファイルの書き込みの延長線上にあるものでもあるが、既存のDVDビデオの各種規格とは別にハイビジョン動画ビデオの記録と再生を目的にした次世代規格として2006年にAVCHDの規格が登場した。ソニーとパナソニックが策定。書き込みも読み出しも専用対応機器が必要である。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "Blu-ray Disc Associationが策定した、HD Recと同様のハイビジョン映像記録用規格。従来のDVDレコーダーで採用されているDVD-Video・DVD-VR規格はハイビジョン規格の映像信号をSD(標準画質)にダウンコンバートしなければならない。DVDメディアにハイビジョンを記録するにはDVDビデオ規格 (DVD-Video・DVD-VR) にハイビジョン規格の解像度を新たに加える規格変更が必要になるが規格変更の必要性の他にも大きな問題がありDVD-Video・DVD-VR規格で映像圧縮技術に採用されているMPEG-2ではDVDメディアには2層メディアでも1時間以下、1層メディアでは30分以下となり特にテレビ番組の録画を目的にした場合の実用性に乏しいためDVDメディアにハイビジョン映像をMPEG-2のままで記録するDVD規格は当初から考案・策定されていない。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "ただし映像を記録する際の圧縮技術に従来のMPEG-2の約2倍の圧縮効率を持つMPEG4 AVC/H.264を採用したHD RecやAVCRECにより、ハイビジョンのままでDVD-VideoやDVD-VRと同程度の時間をDVDメディアに記録できる。2007年11月に松下(現:パナソニック)がAVCREC対応レコーダーを発売した。HD RecとAVCRECの間に互換性はないが、各社から発売されたAVCREC対応のレコーダー・BDプレイヤーが市場を席巻している。HD Recは事実上東芝のみで終焉を迎え、同社もAVCREC対応へとシフトした。また、類似したコンセプトでBD9も策定されたことがある。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "ワーナー・ブラザースが提唱した規格。DVD-Videoの3倍の帯域幅を持っており、ハイビジョン規格映像をDVDに記録できる。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "BD規格からアプローチしたBD9とHD DVD規格からアプローチしたHD DVD9に細分化されるが、いずれも製品化は実現していない。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "類似した規格で製品化したものとして、既に対応機器の生産が終了しているHD Rec、ならびにデファクトスタンダード化したAVCRECがある。", "title": "アプリケーションフォーマット" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "2000年代後半、DVDで用いられる赤色レーザーに比べ、より波長の短い青紫色レーザーを使用した高密度な第3世代光ディスク規格としてBlu-ray Disc(以下BD)とAOD(後のHD DVD)が登場した。DVDと同じ12 cmサイズのディスクだが、既存のDVDプレーヤーでの再生互換はない。第3世代光ディスク機器の多くは主にユーザーに対する販売・普及戦略上の理由からDVDの再生機能も併載することでDVDの再生を可能として、機器としての互換性を確保している。このように、第3世代光ディスク機器でDVDが再生できるのは第3世代光ディスクの方式自体の互換性ではない。", "title": "DVDの後継規格" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "主に映像ソフトやデジタルテレビ放送のHD映像記録用途を主眼としておりソニー・パナソニックなどのBD陣営と東芝・NECのHD DVD陣営は規格統一を模索していたが、2005年交渉が決裂。2006年に分裂した状態で製品化され、ハリウッドの映画産業などを巻き込んだ激しい規格争いが勃発した。しかし2008年2月、製品の発売から2年を経ずして東芝がHD DVD事業からの撤退を発表し第3世代光ディスクのデファクトスタンダードはBDに一本化された。これはBDがBD-RE ver1.0が登場したばかりの時から3年後に大幅に規格が改良されたことでBD-ROMが誕生し、東芝の見込みよりも早くディスクの耐久性に関する問題を克服したこと、BDはHDDVDよりも容量が多く、またディスクケースデザインの統一などで印象をDVDから大幅に変更できたこと、PS3のゲーム用ディスクがブルーレイになったことも一因である。", "title": "DVDの後継規格" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "DVDの規格策定時にもソニーと東芝は、ソニーフィリップス陣営のMMCDと東芝・パナソニック陣営のSDのどちらを選ぶかで対立した。結果的にはCD規格延長を目論むMMCDより、CDと異なり2枚の板の貼り合せ構造を採用し大容量化を実現したSDを基にDVD規格は作られた。一方、同じBD陣営に属するソニーとパナソニックも書き換え可能型DVDで激しく対立した間柄だった。ソニーはDVDと似て非なるDVD+RWを作り出している。またパイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)やシャープもBD陣営だが、こちらも書き換え型DVDではDVD-RW陣営としてパナソニックと敵対関係である。", "title": "DVDの後継規格" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "しかしデータ記録・搬送用途では従来型DVDがあり、大量のデータ容量が必要な場合でもハードディスクがある。映像分野でもDVDビデオの画像をBD並のHD映像画質に補正補完するアップスケール技術、逆にMPEG-4 AVC/H.264圧縮により記録型DVDにHD映像の長時間録画を可能にする技術などを搭載したレコーダーもある。そもそもインターネットを介して利用するオンラインストレージやコンテンツ配信サービスの普及で、一般消費者における物理メディアの需要は大幅に減少している。しかし、現在も日本製のアニメなどのレンタルビデオ、アダルトビデオに関しては流通量を海外の光ディスク市場よりも高速で行う必要があるため、未だにブルーレイを使用せずにDVDで発行されることが多い。", "title": "DVDの後継規格" } ]
DVDは、デジタルデータの記録媒体である第2世代光ディスクの一種である。 媒体の形状や記録・読取方式はCD(コンパクトディスク)とほぼ同じだが記録容量がCDの約6倍になるため、CDでは不可能だった長時間映像の記録が可能である。 開発にあたっては、ハリウッド映画業界からの要求で「現在のメディアを上回る高画質・高音質で、1枚につき片面133分以上の収録時間」を目指すこととされ、1枚あたりの記録容量は当時の技術水準との兼ね合いからVHSビデオテープ方式と同等画質で133分の録画が可能となる4.7GB(片面一層の場合)のディスクとして開発された。約2時間の映像の場合、DVD以前から映像記録媒体として使用されていたレーザーディスクでは両面に記録する必要があり、視聴途中でディスクを裏返す必要があったが、DVDでは片面で収録可能になったため、映画作品の大半を途切れることなく視聴できるようになった。またデジタル化されたため、安定した映像が再生できるようになった。ただし、レコーダーでの通常画質の録画は片面120分に制限される場合が多い。 こうしてCDと同様の使い勝手で高画質な映像を視聴出来ることから、2000年代以降の映像記録の主要メディアに位置づけられ、VHSやレーザーディスクを置き換える形で普及した。従来の映像記録媒体と同様に映画やドキュメンタリー、ドラマなど、様々な映像ソフトが市販されている。さらに、民生用カムコーダやノンリニア編集対応パソコンなどの普及に伴い、自主編集した映像のDVD記録も可能で、また映像用途だけでなくコンピュータ用のデータ・ストレージ(保存媒体)としても使用される。 2000年代からは容量面でDVDを上回る、第3世代光ディスクと呼ばれるBlu-ray Discが登場し、2010年代以降はDVDと同時期に普及したUSBメモリなどのフラッシュメモリの容量もDVDを上回り、製造単価も減少した。1メディアの容量当たり単価はフラッシュメモリが上回っているが、堅牢性、融通性から、PCなどでの単なるデータの受け渡し用途としては、フラッシュメモリにその座を明け渡している。 2020年代に入ると、ネットワークを経由して端末やクラウドの間で大容量データをやり取りすることが主流となり、映像用途としてもBlu-ray DiscおよびYouTubeやNetflixなどの動画配信サービスが普及したことで、その座を明け渡している。
{{出典の明記|date=2011年9月}} {{pathnav|メディア (媒体)|記録媒体|光ディスク|frame=1}} {{ディスクメディア |名称 = DVD<br />{{Lang|en|Digital Versatile Disc}} |ロゴ = [[ファイル:DVD logo.svg|200px]] |画像 = DVD-R bottom-side.jpg |画像コメント = 記録面 |種類 = 光ディスク |容量 = * '''120 mmディスク''' ** 片面一層4.7 GB ** 片面二層8.54 GB ** 両面一層9.4 GB ** 両面二層17.08 GB * '''80 mmディスク''' ** 片面一層1.4 GB ** 片面二層2.6 GB ** 両面一層2.8 GB ** 両面二層5.2 GB |フォーマット = |コーデック = |読み込み速度 = 11.08 Mbps<br />(1385 [[kiB]]/s、1倍速)<br />最高16倍速 |書き込み速度 = |回転速度 = |読み取り方法 = 650 nm赤色レーザー |書き込み方法 = |書き換え = |回転制御 = |策定 = |用途 = 映像、音楽、データ、ゲーム等 |ディスク径 = 12 cm、8 cm |大きさ = 120 mm × 120 mm × 1.2 mm(12 cm型)<br />80 mm × 80 mm × 1.2 mm(8 cm型) |重さ = |上位 = [[Blu-ray Disc]]<br />[[HD DVD]] |下位 = [[CD]]([[コンパクトディスク|Compact Disc]]) |関連 = }} [[ファイル:Sony RDZ-D700.jpg|thumb|240px|市販の[[DVDレコーダー]]([[ソニー]]製)]] '''DVD'''({{Lang-en|Digital Versatile Disc}}、デジタル多用途〈多目的〉ディスク<ref>{{Cite journal|和書|title=HD DVD基盤要素技術の現状と動向|journal=東芝レビュー|volume=60|issue=1|pages=2-8|publisher=東芝|date=2005|url=https://www.global.toshiba/content/dam/toshiba/migration/corp/techReviewAssets/tech/review/2005/01/60_01pdf/a02.pdf|}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.panasonic.com/jp/press/data/jn061016-3/jn061016-3.html|title=DVD-RAMの記録速度を支配する構造の謎を解明|publisher=高輝度光科学研究センター; 科学技術振興機構; 理化学研究所; 松下電器産業; 筑波大学|date=2006-10-16|accessdate=2021-5-3}}</ref>)は、主に[[東芝]]が開発した[[デジタル]]データの記録媒体である第2世代[[光ディスク]]の一種である。 媒体の形状や記録・読取方式はCD([[コンパクトディスク]])とほぼ同じだが記録容量がCDの約6倍になるため、CDでは不可能だった長時間映像の記録が可能である。 開発にあたっては、[[アメリカ合衆国の映画|ハリウッド映画]]業界からの要求で「現在のメディアを上回る高画質・高音質で、1枚につき片面133分以上の収録時間」<ref name="panasonic-2000-01">{{Cite web|和書|url=https://av.jpn.support.panasonic.com/support/dvd/faq/se/se-100.html |title=DVD技術解説 |publisher=パナソニック |date=2000-01 |accessdate=2022-01-11}}</ref>を目指すこととされ、1枚あたりの記録容量は当時の技術水準との兼ね合いから[[VHS]][[磁気テープ|ビデオテープ]]方式と同等画質で133分の録画が可能となる4.7[[ギガバイト|GB]](片面一層の場合)のディスクとして開発された。約2時間の映像の場合、DVD以前から映像記録媒体として使用されていた[[レーザーディスク]]では両面に記録する必要があり、視聴途中でディスクを裏返す必要があったが、DVDでは片面で収録可能になったため、映画作品の大半を途切れることなく視聴できるようになった。またデジタル化されたため、安定した映像が再生できるようになった。ただし、レコーダーでの通常画質の録画は片面120分に制限される場合が多い。 こうして[[コンパクトディスク|CD]]と同様の使い勝手で高画質な映像を視聴出来ることから、2000年代以降の映像記録の主要メディアに位置づけられ、VHSやレーザーディスクを置き換える形で普及した。従来の映像記録媒体と同様に[[映画]]や[[ドキュメンタリー]]、[[ドラマ]]など、様々な映像ソフトが市販されている。さらに、民生用[[カムコーダ]]や[[ノンリニア編集]]対応[[パソコン]]などの普及に伴い、自主編集した映像のDVD記録も可能で、また映像用途だけでなくコンピュータ用のデータ・ストレージ(保存媒体)としても使用される。 2000年代からは容量面でDVDを上回る、[[第3世代光ディスク]]と呼ばれる[[Blu-ray Disc]]が登場し、2010年代以降はDVDと同時期に普及した[[USBメモリ]]などの[[フラッシュメモリ]]の容量もDVDを上回り、製造単価も減少した。1メディアの容量当たり単価はフラッシュメモリが上回っているが、堅牢性、融通性から、PCなどでの単なるデータの受け渡し用途としては、フラッシュメモリにその座を明け渡している。 [[2020年代]]に入ると、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]を経由して端末やクラウドの間で大容量データをやり取りすることが主流となり、映像用途としてもBlu-ray Discおよび[[YouTube]]や[[Netflix]]などの動画配信サービスが普及したことで、その座を明け渡している。 == 登場から普及までの経緯 == {{独自研究|date=2021年9月|section=1}} === 第2世代光ディスクの開発と規格争い === DVD登場以前の[[1990年代]]初頭、CDより高密度の第2世代[[光ディスク]]には映画の情報量から考えると50倍の容量が必要でそれを実現するためには青色レーザーが必須と考えられており、研究が行われていた。[[ハリウッド]]映画業界から早期に商品化してほしいという要望があったが当時は青色レーザーによる光ディスクの実用化は困難であった。そのため当時急速に進歩していた動画圧縮技術で必要とする容量を大幅に減らし、青色レーザーを使わず大容量化を図った光ディスクを組み合わせる方向で開発が進められた<ref>{{Cite web|和書|url=https://dbnst.nii.ac.jp/junior/detail/1976|title=発見と発明のデジタル博物館: DVDの開発およびその国際標準化推進 (入門向け)|accessdate=2021-2-25}}</ref>。ソニーは青色と赤色レーザーの中間の波長となる[[第二次高調波発生|SHG]]グリーンレーザーを用いた光ディスクを研究していたがCDと同じディスクの厚みに拘ったため他社の赤色レーザーを用いた改良型の光ディスクに容量で劣っていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/118.pdf|title=書込型光ディスク技術の系統化調査|accessdate=2021-2-27}}</ref>。1994年末には[[東芝]]・[[タイム・ワーナー]]・松下電器産業(現・[[パナソニック]])・[[日立製作所|日立]]・[[パイオニア]](2022年までは[[オンキヨーホームエンターテイメント]]、2022年に経営破綻後は[[オンキヨーテクノロジー]]など)・[[トムソン (企業)|トムソン]]・[[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]])の連合による赤色レーザーを使った[[Super Density Disc]](SD)の開発がされていた。一方で、[[フィリップス]]・[[ソニー]]陣営も赤色レーザーを使った<ref>{{Cite web|url=http://www.hughsnews.ca/philips-and-sony-tease-high-density-multimedia-compact-disc-0053101|title=Philips and Sony Tease High Density Multimedia Compact Disc|accessdate=2021-2-27}}</ref>{{Efn|ソニー陣営だがMMCDは前述のSHGグリーンレーザーは使ってない}}MultiMedia Compact Disc(MMCD)を同時期に開発しており、[[1980年代]]の[[VHS]]対[[ベータマックス|ベータ]][[ビデオ戦争|戦争]]の再来が危惧されていた。 そこで、[[IBM]]の[[ルイス・ガースナー|ルー・ガースナー]]が仲介に入り、フィリップスとソニーはMMCD規格の採用を諦めることと引き替えに、SD規格の[[サーボ]][[トラッキング]]機構に関する2項目の修正を認めることで、フィリップスとソニーも東芝主導のSD規格につき、両陣営は合意に至った。 1つ目の項目は、フィリップス・ソニーの特許技術である「プッシュプル式トラッキング」技術を可能とするためのピットジオメトリーの採用だった。2つ目は、[[ケイス・スホウハメル・イミンク]]の設計によるフィリップスの[[EFMPlus]]採用だった。これは、東芝のSDコードよりも効率が6 %低かったため、SD規格自体の容量は5 GBだったが、結果的に4.7 GBの容量となった。EFMPlusは、ディスク面に対するひっかき傷や指紋等に対する耐障害性に大きく優れていた。結果として{{lang|en|'''DVD specification Version 1.0'''}}が1995年に発表され、1996年9月に完成した。名称はDVDになったが、SDのロゴは[[SDメモリーカード]]のロゴに継承されている。 この統合により、規格の乱立は避けられると一旦は思われたが、その後各家電メーカーや映画会社から多数の注文をつけられ(ランダムアクセス、2時間収録、[[ドルビーデジタル]]収録など)、後述の「DVD-」「DVD+」「DVD-RAM」など、多数の派生規格が生まれた。また、[[2000年]]4月に入り、[[PlayStation 2]]や[[マトリックス (映画)|マトリックス]]のDVD版の発売の影響で[[ワーナー・ブラザース|ワーナー・ブラザーズ]]などのDVD製造が本格化するまではDVDの普及率はマイナーな方に入る状態であった。その前までは、DVDを二層にせず、[[レーザーディスク]]のように両面1層にしたり、ディスクケースが[[VHS]]を参考にしたものであったり([[ワーナー・ブラザース|ワーナーブラザーズ]]製)、[[コンパクトディスク|CD]]のケースを流用したものだったり([[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニバーサル]]など)と、規格の理解に混乱が発生していた。2000年を過ぎることで、CDでもあまり行われていなかったディスクの[[インクジェットプリンター|インクジェット]]印刷が本格化し、ディスクケースのサイズがPS2用のディスクケースのサイズで統一され始めるようになった。DVD-ROM、DVD-VIDEOのロゴは2001年を境によりわかりやすいものに変更されている。 === 名称 === DVDは上記の経緯により当初は[[デジタルビデオ]]映像を記録するためのメディアとして策定され、{{lang|en|Digital Video Disc}}の略だと解釈されたが、その後[[コンピュータ]]補助記憶メディアとしても用いられることから{{R|panasonic-2000-01}}、[[DVDフォーラム]]はDVDを{{lang|en|video}} の代わりに「多用途」の意味がある {{lang|en|versatile}}(ヴァーサタイル)を用いた「'''{{Lang|en|Digital Versatile Disc}}(デジタルヴァーサタイルディスク)'''」の略称とした<ref>{{cite web|url=http://www.dvdforum.org/tech-dvdprimer.htm|title=DVD Primer|publisher=DVD Forum|date=2000-09-06|accessdate=2022-01-10}}</ref>。 またデジタルビデオ映像が記録されたDVDのことを世間的に総称で「DVDビデオ」と表現することが多いがそれとは別にDVDへのデジタルビデオ映像データの記録方法の1つに「[[DVD-Video]]」があり、両者は同義ではなく全く別のものである。「DVD-Video」は、DVDにデジタルビデオ映像のデータをDVD-Videoフォーマット(「DVD-VF」) で記録したものに限定される。 一方、「DVDビデオ」という総称はDVDにデジタルビデオ映像のデータが記録されたもの全て(DVD-Video、[[#DVD-VR|DVD-VR]]、[[AVCHD]]、[[AVCREC]]などビデオ専用アプリケーションフォーマットで記録したもの、ビデオ専用フォーマットを用いずに[[MPEG]]ファイルや[[AVI]]ファイルを直接記録したものなど)が対象になる。[[ビデオカメラ]]の撮影記録メディアとして記録されたものも一般的にここに包含される。{{要出典|date=2011年9月}} === DVD-Videoメディア・プレイヤーの商用化 === [[DVDプレーヤー|プレーヤー]]や<!--[[#DVD-ROM|DVD-ROM]]-->ドライブは、[[CD-DA]]や[[CD-ROM]]の再生にも兼用できるものが一般的であり、DVD-Videoメディア及びプレイヤーの初の商用化は[[日本]]では1996年11月、[[アメリカ合衆国|米国]]では1997年3月、[[ヨーロッパ|欧州]]では1998年3月、[[オーストラリア|豪州]]では1999年2月になされた。世界で初めての市販DVD-Videoソフトは『Ya&Ya〜世界初のDVD電脳マガジン』であり、1996年11月1日にビクターエンタテインメントから発売された。なお、初の2.1ch[[デジタル音響システム|サラウンド]]音響は『[[ツイスター (映画)|ツイスター]]』、5.1chサラウンドは『[[インデペンデンス・デイ]]』が初である。 その後日本では2000年3月4日にソニーコンピュータエンタテインメントから発売されたゲーム機、[[PlayStation 2]]にもDVD視聴機能が搭載されたことで普及が始まり、2004年にはDVDプレーヤーの国内出荷台数が[[ビデオテープレコーダ|VTR]]を上回った。 パソコン分野でも光学メディアの中心はCDからDVDに移行した。一方オーディオ分野では、一部[[愛好]]者向けに留まり、普及しなかった([[#DVD-Audio|DVD-Audio]]参照)。 メディア製造コストは、VHSの1巻120円程度に対し、DVDは1枚20円程度と安い。取扱いも容易なので、パブリッシャー側からすれば収益が上げやすい。このため、映像を取り扱う産業では、セルDVDを(副ではなく)主な収益源とする企業が増え、業界の状況を一変させた。 こうしてデジタルビデオといえばDVDと認知されるほど広く定着した。 == ライセンス == DVDのフォーマットおよびロゴのライセンスは、{{lang|en|DVD Format/Logo License Corporation}}<ref>[http://www.dvdfllc.co.jp/index.html DVD Format/Logo License Corporation]</ref> (DVD FLLC)が管理している。 == 仕様 == {{出典の明記|date=2021年9月|section=1}} ディスクには物理構造による違いとデータ書き込み方の形式(論理フォーマット)による違い、さらにはビデオ用途でのアプリケーションフォーマットによる違いもあり、それぞれの組み合わせでさらに多くの種類が存在する。 ; サイズ : 0.6 mm厚、直径12 cmおよび8 cmの[[ポリカーボネート]]製円板を2枚張り合わせたもの。 ; 読み取り方法 : 読み取りには、650 [[ナノメートル|nm]]の[[半導体レーザー|赤色レーザー光]]を使用する。 === 音声 === : 音声信号は、DVD-ROMの場合「2ch[[ドルビーデジタル]]」、「5.1chドルビーデジタル」、「5.1ch [[DTS (サウンドシステム)|DTS]]」の中から2~3つ(多言語を考慮する場合はそれ以上)を同時記録する場合が多い。そのため、すべてのDVDプレイヤーは最低でも必ず2chドルビーデジタルのデコード処理が可能な仕様となっている。2ch LPCMは録画用のディスクで採用される場合がある。 === 容量 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !種類||12 cm||8 cm |- ||片面一層||4.7 [[ギガバイト|GB]] (4.37 [[GiB]]) ||1.4 GB (1.30 GiB) |- ||片面二層||8.54 GB (7.95 GiB) ||2.6 GB (2.42 GiB) |- ||両面一層||9.4 GB (8.74 GiB) ||2.8 B (2.61 GiB) |- ||両面二層||17.08 GB (15.90 GiB) ||5.2 GB (4.84 GiB) |} * 1セクタあたりの容量は2048バイトでこれにヘッダの16バイトを加えて2064バイトとなる、[[Content Scramble System|CSS]]等もこのヘッダを利用しているが基本的にリッピング時にこの16バイトをリッピングすることはできない。 * 容量4.9 [[ギガバイト|GB]]の片面一層12 cmDVDも存在する。 * 両面のディスクは、片面に対して2倍の容量を持つが、二層のディスクは一層に対して2倍の容量を持たない([[#二層構造|後述]])。 * 1 [[GiB]] = 1024<sup>3</sup> バイト (byte) = 2<sup>30</sup> バイト = {{val|1.073741824||e=9}} バイト = {{val|1.073741824|u=GB}}。DVDの商品には容量がGB単位で表示されているが、[[オペレーティングシステム|OS]]や[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]が[[ファイルサイズ]]を[[GiB]]単位で表示するとき(そしてそのときはたいてい「〇〇 [[GiB]]」のような形式ではなく「〇〇 GB」のように表示されるから紛らわしいのであるが)、数字の上で7&nbsp;%以上も差があることに留意が必要である。DVD-Rなどの媒体ではファイル管理に使われる領域が確保されるため、ユーザファイルが使える容量はそれを差し引いた量となる。4.7 GBのDVDにたとえば4.25 [[GiB]]より大きなファイルが書き込めないのは、このような理由による。 === 二層構造 === DVDは、大容量の記録を目指したディスクであり、CDではレーベル面に当たる面にも記録できるよう、両面記録の規格が存在する。しかし、[[レーザーディスク]]のように一面の読み込みが終わった際に裏返すのは手間がかかる。そこで、片面に二層構造を持たせれば、一層構造より多くの容量を確保することができ、裏返す手間もなくなる。ユーザ記録型のDVD+R DLが市場に登場したのは2004年6月で、DVD-R DLが2005年5月である。[[光学ドライブ]]によっては、相性や仕様で読み取れない場合もある。また、単層方式に比べレーベル面の取り扱いに注意しないと、CDのように記録層が破損する等のトラブルに見舞われる。また、ドライブがあまりにも古い場合(例えば[[PlayStation 2|PS2]]のSCPH-10000)、レンズの経年劣化が原因で二層DVDだけを読み取れなくなる症状に陥ることも多い。[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]、[[Xbox 360]]規格のディスクは二層DVDを独自規格にしたものが採用されている。 二層構造の場合、全反射をする層を2つ持たせると奥にある層の読み込みができなくなる。それゆえ、片面(両面)二層ディスクの第1層目(「レイヤー0」、あるいは略して「L0」と呼ぶ)が薄い金属膜でできており、第2層目(「レイヤー1」または「L1」と呼ぶ)は全反射をする構造になっている。レイヤー0は薄膜であるのでレイヤー1よりも読み取りのための反射光の検出率が悪くなるが、[[記録密度]]を下げることで読み取り性能を確保している。したがって、二層ディスクの容量は単層ディスクの2倍よりも少ない。 レイヤー0は(CDと同じで)内周側から外周側に向かって記録・読み込みを行う方式であるが、レイヤー1の記録方式には以下の二通りがある。 ; パラレル方式 : レイヤ―0(第1層目)と同じく、内周側から外周側に向かっていく方式。 ; オポジット方式 : レイヤー0とは逆で、外周側から内側に向かっていく方式。 これらの情報は、DVDの管理情報としてレイヤー0の最内側に記録されている。ちなみに、DVD+R DLではオポジット方式のみとなっている。二層ディスクのDVDを再生していると、途中で読み込むレイヤーを切り替えるときが来る。DVD-Videoを再生している場合、一部の再生機ではレイヤーの切り替えの際に時間がかかってビデオ再生が一瞬停止したような状態になることがある。(連続再生時にレイヤーが切り替わる際の読み取りピックアップの移動はオポジット方式であればパラレル方式よりも少なくて済む利点がある。) 二層方式のDVDは'''DL'''と略して呼ばれることが多いが、正式名称はDVD-DLでは'''{{lang|en|Dual Layer}}'''、DVD+DLでは'''{{lang|en|Double Layer}}'''と、それぞれ異なる。 === 記録方法 === トラックに沿って、'''ピット'''と呼ばれる凹みを作ることで記録することができる。読みとる際はレーザー光線を当て、凹み有無による反射の違いを利用する。 DVDのトラック形状は同心円型ではなく、CDと同様の渦巻き型である。 トラック・フォーマットは物理規格ごとに異なっている<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/fpc/kaisetsu/dvd_war/dvdwar01.html ニュース解説:混沌のDVD規格、ライトワンス型のDVD+Rが登場]ITmedia</ref>。 ウォブル・ランドプリピット方式を採用したDVD-R/RWディスクには、グルーブ(溝)とランド(丘)があらかじめ刻まれており、グルーブは蛇行している。この蛇行をウォブルと呼ぶ。またランドにはあらかじめランドプレピットというランド部分の途切れている部分がある。ドライブは、ウォブルとランドプレピットにより、位置決め(アドレッシング)を行う。記録されるデータ(ピット)はグルーブに書き込まれる。 高周波ウォブル・グルーブ方式を採用したDVD+R/RWディスクでは、ランドプレピットがなく、ウォブルの蛇行周波数が高い。ピットはDVD-R/RWと同じくグルーブに書き込む<ref>[https://www.sony.jp/products/digitaltheater/contents/dvd-recorder/format/dvd_format.html 記録型DVDフォーマットの特徴]</ref>。 ウォブル・ランドグルーブ方式を採用したDVD-RAMではグルーブとランドにピットを書き込む。 読み出し専用のDVD-ROMはピット方式を採用している。 なお、位置情報の記録方法はDVD-RW系とDVD+RW系で異なる。 === 転送速度 === データの転送速度は等倍速で11.08 Mbps (=1385 [[kiB]]/s) である。これは[[CD]]の転送速度を1倍速 (150 [[kiB]]/s) として、9倍速程度に相当する。規格上定められている最大転送速度は16倍速(DVD-Rの場合)であるが、これは177.28 Mbps (=22.16 [[MiB]]/s) に相当する。 === 論理フォーマット === DVDに使用される論理フォーマットは主に以下の二つである。 * [[ISO 9660]] * [[Universal Disk Format]] (UDF 1.02, 1.50, 2.00, 2.01) CD時代から使用されているISO 9660に加えて、Optical Storage Technology Association(略:OSTA)が策定した、拡張性の高いUDFに対応している。映像用途ではDVD-VideoがUDF 1.02、デジタル放送の録画で使われるDVD-VRにはUDF 2.00が使用されている。 PC向けのデータDVDでは上記のどのフォーマットでも使用できるが、PCのDVDドライブとOSが対応していないければ読み込むことができない。ISO 9660は古い規格で拡張性に乏しいのでそれだけ互換性には優れているため、ISO 9660とUDF 1.02の両方に対応した[[Universal Disk Format#UDF Bridge|UDF Bridge]]も使用される。 実際のファイルシステムは使用する[[オペレーティングシステム|OS]]や[[デバイスドライバ|ドライバーソフト]]に依存する。 * UDF - 他のOSとの[[互換性]]に優れる。通常はこれが推奨される。[[リッピング]]を行うと「.iso」ファイルのみが出力される。 ** UDF1.02 - DVD-ROMの標準フォーマット。記録型メディアにも使用できるが、一度に全体を書き込む必要がある。DVD-Video方式での記録ができるようになる。DVD-RAMではほとんど使われない。 ** UDF1.5 - CD-R/RWの登場を機に、UDF1.02に[[パケットライト]]機能を追加したもの。パソコン用途でよく使用される。 ** UDF2.00 - UDF1.5の拡張版で、DVD-VR方式での記録ができるようになる。DVD-RAMの標準的なフォーマット。アナログ放送用のDVD-RAMレコーダーで使用されていたほか、パソコン用途でもよく使用される。 ** UDF2.01 - UDF2.00のバグ修正版。DVD-AR (DVD-Audio) 等で利用。 ** UDF2.5 - 本来は[[Blu-ray Disc|BD]]用のフォーマット。[[AVCREC]]方式での記録ができるようになる。ハイビジョン対応のレコーダーで使用される。 ** UDF2.6 - UDF2.6はBD-Rにファイルの疑似消去や疑似書き換えを盛り込んだ規格。 * [[File Allocation Table|FAT]] - FAT16とFAT32が使える。主に[[Microsoft Windows|Windows]]用のフォーマットであり、Windowsを除く古いOSとの互換性に問題がある。Windows XPや、デスクトップ向け[[Linuxディストリビューション]]など、OSに標準搭載されているディスク・ユーティリティがUDFでのフォーマットをサポートしていない場合を除き、DVD-RAMではほとんど使われない。[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]以降の標準ディスク・ユーティリティ上でのフォーマットはサポートされていない。 * [[Hierarchical File System|HFS]]、[[HFS Plus|HFS+]] - 主にMac用。他のOSとの互換性に問題がある。ほとんど使われないが、2000年頃のPower MacにDVD-RAMドライブが搭載された事が有り、一部機種では起動ディスクにする事が出来たためメンテナンス用には重宝した。 * [[ISO 9660]] - ほとんど全てのOSで読み込みができるが、[[ファイル名]]などに制限がある。DVD-RAMではほとんど使われない。[[リッピング]]すると「.cue」と呼ばれる1kbのファイルと「.bin」ファイルが生成される。 現在の[[Microsoft Windows 11|Windows11]]では、UDF1.50,2.00,2.01,2.50でフォーマットすることが可能である。このフォーマットで初期化することで[[ハードディスクドライブ|HDD]]同様、自由に読み書きができる。 === エラー画面 === DVD-ROMでは「年齢制限」、「リージョンコード」により視聴制限をかけることが可能である。再生時にハードウェア側でこれらの制限をかけずに映像を視聴しようとした場合は、DVD側の画面で年齢制限やリージョンコードについて警告する画面が出る。これは付録などの一般販売されないものも含め、すべての映像用DVD-ROM作品に存在する。年齢制限は予め全年齢に設定すること、リージョンコードは「ALL」を採用することでこのエラー画面を省略することが可能である。 コピーガードは[[Content Scramble System|CSS]]が設定されているが、現在ではそのコピーガードを簡単に解除できるため、会社ごとに独自のコピーガードが追加される場合がある。また、VHSなどに記録された[[マクロビジョン]]製コピーガードを無視して録画することも依然不可能である。 == 物理フォーマット == {{出典の明記|date=2021年9月|section=1}} 規格はDVDフォーラムの他、[[Ecmaインターナショナル]]によっても標準化されている。 データを記録するには記録型DVDを使用する。記録型DVD規格として[[#DVD-R|DVD-R]](1回だけ書き込み可能)と[[#DVD-RW|DVD-RW]]、[[#DVD-RAM|DVD-RAM]](複数回の書き込みが可能)がDVDフォーラムによって制定されている。これに対抗するものとして、[[DVD+RWアライアンス]]の策定した[[#DVD+R|DVD+R]]や[[#DVD+RW|DVD+RW]]がある。 記録型DVDについて、一部海外メーカーのものに品質に重大な問題がある場合がある<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/0303/11/nj00_dvdmedia.html 粗悪な記録型DVDメディアが、なぜ“怖い”のか]</ref>。品質の悪いディスクは動画の再生時に[[ブロックノイズ]]が入る、再生が止まる、保存したデータが消える、ドライブやレコーダの寿命が縮むといった問題を引き起こす可能性が高い。 しかし、ドライブの性能や相性によって書き込み品質が下がることもあるため、一概に国産メディアを使えば大丈夫という保証はない(国内ブランドでも海外製メディアを採用していることがある)。安心して使うためには、これから利用するメディアを1枚買って書き込みテストを行い、問題がないことを確認してから利用することが望ましい。また、発売当初は100年程度もつといわれていた書き込みメディア耐久性であるが、これはあくまで良質なメディアの加速試験(実際に100年間試験するのではなく、代わりに紫外線の照射強度などを変えて100年間相当の環境にするもの)における結果であって、現実には数年程度でデータが消えてしまう品質の悪いディスクも存在する(逆に言えば100年を超えても使えるメディアも存在する)。長持ちさせるためには、紫外線の当たる場所や高温多湿な場所を避けることが重要である。また、VHSと比較してテープが絡まって故障する心配は無いものの、ディスクが傷つくと読み込み不可能になる場合もある。 === 読み出し専用型 === ==== DVD-ROM ==== {{出典の明記|date=2021年9月|section=1}} DVDにコンピュータ用の読み取りファイルを記録したもの。DVDフォーラムにより策定、ECMA-267<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-267/ |title=120 mm DVD - Read-only disk |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>・268<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-268/ |title=80 mm DVD - Read-only disk |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>により標準化されており、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や[[ゲーム機]]データ配布用媒体として定着している。 容量は一層タイプが片面4.7 GB・両面9.4 GB、2層タイプが片面8.5 GB・両面17 GB。論理フォーマットはUDF Ver.1.02である。 [[ゲーム機]]としては[[PlayStation 2]]、[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]、[[Xbox 360]]{{Efn|PS2のゲーム用ディスクは[[グランツーリスモ4]]などで2層も存在するが、SCPH10000~18000の型番などで読み込み不良を起こしかねないほどのディスク密度になってしまったため、2層を実現したPS2作品はほとんど存在しない。Xbox 360のディスクは単純な2層のDVDではなく、独自規格によって1層から2層の中間あたりまでに容量を拡張したものである。Xbox,Xbox 360のゲーム用ディスクを通常のDVDプレイヤーに挿入すると専用のエラー演出が出るが、Xbox 360の初期以外に製造されたDVDではエラー演出も見ることができない。}}がソフト用の媒体に採用しており、パソコンでは[[Apple]]の[[macOS]]が媒体に採用し[[Microsoft Windows 98|Windows 98]] Second Edition以降の[[Microsoft Windows|Windows]]がサポートしている。アーケードゲーム基板では[[Firebeat]]{{Efn|Firebeatでは、ゲームデータ用のCDROM、音楽データのみが入ったDVDROMの二枚組で基板を起動させる。}}、[[SYSTEM246|System246]]あたりから採用された。 市販のDVDビデオソフトは、このDVD-ROMの物理フォーマットのディスクに映像データが[[DVD-Video]]のアプリケーションフォーマットで記録されたもの。 ゲームやDVDビデオソフトなども含めたDVD-ROMは読み取り専用であるため、他の書き込み型DVDやレンタルも含む市販ビデオテープソフトなどのように、その作成時には記録媒体にデータを直接記録して作成されているわけではなく、データ記録面に読み取り用のピットを形成したマスター原盤(スタンパー)を作成後、それを元にしたプレスと張り合わせの工程による物理的な工法によって量産されている。そのため、書き込み型DVDに比べて経年化学変化の影響を受けにくく、物理的な形状破損や読み取りレーザー光反射層の金属素材の劣化がない限りは基本的に読み取り可能である。 === 書き込み可能型 === 以下、全てのメディアに「データ用 ({{lang|en|'''for DATA'''}})」と「ビデオ録画用 ({{lang|en|'''for VIDEO'''}})」の2種類がある。後者は地上デジタル放送移行前は[[私的録音録画補償金制度]]により補償金が上乗せされていたが、移行後は、コピー制限があるという理由で補償金が上乗せずに販売されている(''[[私的録音録画補償金制度#デジタル放送専用レコーダーの私的録画補償金に対する訴訟]]を参照'')。なおCPRM非対応の録画用メディア(アナログ放送専用などと表示されている場合もある)にはコピーワンス、ダビング10のデジタル放送を記録できない。DVD-VRはすべてのDVD±R,DVD±RWで対応しているが、CPRMはすべてのDVD±R,DVD±RWで対応しているわけではなく、「for VIDEO」と書かれたDVD±R,DVD±RWを使用する必要がある。また、[[DVD-VR]]規格でフォーマットしたDVD-RWにコピーワンスの映像を録画し、そのままファイナライズしてしまった場合、その映像は強制的に視聴できなくなる。 ==== DVDフォーラムが制定した正式規格 ==== DVD-R/DVD-RWの「-」は本来[[ハイフン]]であるが、後述のDVD+R/DVD+RWが「+」を「プラス」と読むため、区別のために「マイナス」と読まれる場合も多い。一方、DVD-RAMの「-」もハイフンであるが、DVD+RAMが存在しないので「マイナス」とはほとんど読まれない。 VCPSを採用したDVD+と異なり、DVD-の録画用メディアは[[CPRM]]、[[HD Rec]]、[[AVCREC]]に対応している。 ===== 追記型 ===== 一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。 ====== DVD-R ====== {{出典の明記|date=2021年9月|section=1}} DVD-RはDVD Recordable の略称。[[Write Once Read Many|ライトワンス]]型の記録型DVDフォーマット。DVDフォーラムにより策定、ECMA-359<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-359/ |title=80 mm (1,46 Gbytes per side) and 120 mm (4,70 Gbytes per side) DVD Recordable disk (DVD-R) |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>により標準化されている。1997年9月にパイオニアによって開発された。ディスクの裏面は紫色が通常。 容量は片面で4.7GB、両面で9.4GBである。 [[CD-R]]と同様、色素を使って記録されるが[[M-DISC]]には無機系が採用されている。記録層には[[アゾ|アゾ色素]]、[[シアニン|シアニン色素]]、オキソライフ色素が用いられている。 データの記録は、ディスクの基板上に連続した線上に存在するランド(丘)に挟まれたグルーブ(溝)に強いレーザー光を当てることでピット(くぼみ)を焼付け形成することで行なわれる。ピットを形成する皮膜の記録材料には有機色素材料を使用しておりレーザー光照射による色素の分解という化学変化を利用しているため、素材コストの関係で比較的に価格を安価にできる一方で一度しかその場所にはデータを書き込めない。また、当初のVersion1.0規格では3.95GBだったが、Version2.0規格で4.7GBに容量を増加した。またVersion2.0規格では業務用の「{{lang|en|DVD-R for Authoring}}」と一般向けの「{{lang|en|DVD-R for General}}」の2つに規格が分かれており、一般向けの「{{lang|en|for General}}」にはコピー防止機能が組み込まれている。 量産効果により価格が最も低く、パーソナルコンピュータ用としてはDVD-RAM/RやDVD-RW/Rといった両対応ドライブが登場しCD-Rに代わるものとして広く普及している。家庭用DVDレコーダーにおいてもパナソニックとソニー以外の企業はDVD-R/-RWドライブを採用している。またパナソニックも2005年春以降のモデルはDVD-RWへの書き込みに対応している。 また、記録面皮膜材料に有機色素材料を使用していることで光の中でも特に紫外線の影響を受けやすく、太陽光を長時間当てた場合など記録情報が失われることがあることが実験で示されている。DVD-RAMやDVD-RWは皮膜材料に有機色素材料とは異なるものを用いているので光の影響による経年変化はほとんどないとされているが代わりに熱に弱いと言われ、[[アメリカ国立標準技術研究所]] (NIST) では「書き換え可能なDVD-RAMやDVD-RWは熱に敏感に反応する素材を使っているためにDVD-Rより長期保存には使えない」としている。いずれにせよ、保存環境やディスクの質によって寿命は大きく変化する。 [[コピーガード|コピーワンス]]の制限がかかった[[地上デジタルテレビ放送]]・[[衛星放送|BS・CSデジタル放送]]の場合、DVD-Rへの録画は出来なかったが2004年に録画が可能な[[コピーガード#CPRM(Content Protection for Recordable Media)|CPRM]]対応DVD-R(CPRMへの対応はDVD-VRフォーマット時のみ可能)が登場した。 DVD-Videoでの記録の場合、テレビ放送/DVD-VR/DVD-Videoの各音声方式の違いによる影響のためレコーダーでテレビ放送の[[二ヶ国語放送]]/[[解説放送]]が記録出来る市販レコーダーは2006年現在製造されていない([[ステレオ放送]]は可能)。ただし後年は[[DVD-VR]]フォーマットでの記録が可能な製品も販売されており、DVD-VRの場合は二ヶ国語放送/解説放送の記録も可能。またDVD-Videoフォーマットでの記録の場合でも、マルチ音声トラック機能を用いて二ヶ国語以上の音声のDVD-Videoディスクを作成することは可能(DVD-VRでの記録も、DVD-Videoでの二ヶ国語切り替えディスクの作成もその可/不可は録画機器や作成[[ソフトウェア|ソフト]]などの[[ツールソフトウェア|ツール]]側の機能による)。また、[[東芝]]や[[パイオニア]]、[[シャープ]]等の一部メーカーの[[DVDレコーダー]]では追記型VR記録が可能であるが[[ファイナライズ]]処理を行わないと他のプレーヤー等で再生はできない。またDVD-Rメディアの初期状態はDVD-Videoフォーマットだが、DVD-VRでフォーマットをするとDVD-Videoフォーマットには戻せない。 ====== DVD-R DL ====== DVD-R DL (Dual Layer) は1層タイプのDVD-Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。DVDフォーラムにより策定、ECMA-382<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-382/ |title=120 mm (8,54 Gbytes per side) and 80 mm (2,66 Gbytes per side) DVD recordable dsk for dual layer (DVD-R for DL) |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>により標準化されている。 容量は片面で8.5 GBである。両面のものは市販されていない。 初期は+DLに比べて記録速度が遅くシェアも低かったが、現在では速度では+DLに並びほとんどのドライブで対応している。2005年春に[[三菱化学メディア]]よりDVD-R DLが発売された<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0217/mcmedia.htm 三菱、初の8.5 GB DVD-R DLメディア]</ref>。 ===== 繰り返し記録型 ===== 削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。 ====== DVD-RW ====== DVD-RWはパイオニアが開発したDVD ReWritable の略称。DVDフォーラムにより策定、ECMA-338<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-338/ |title=80 mm (1,46 Gbytes per side) and 120 mm (4,70 Gbytes per side) DVD re-recordable disk (DVD-RW) |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>により標準化されている。ディスクの裏面は通常水色。 容量は片面4.7 GB・両面9.4 GB。 データの記録は、基本的にはDVD-Rと同じ方式。ただし[[記録媒体#ディスクタイプ|記録マーク]]を形成する皮膜の記録材料にはDVD-Rのような有機色素材料ではなくアモルファス金属材料を使用しており、色素材料のように光による化学変化で分解するわけではなくレーザー光照射による加熱でのアモルファス金属の結晶化・非結晶化を利用している(結晶化することでその場所の反射率が変化する)。結晶化した場所に再びレーザーを当てて結晶状態を溶かして急激に冷やすことで非結晶化が可能であり、データの消去や再利用(同じ場所へのデータ書き込み)が可能となっている。{{要出典|又、DVD-Rに比べてデータ記録後の光による経年変化の影響を受けにくいのもこの使用材料の違いによるもの。この方式でデータが書き込まれた場合、読み取り時のレーザー光の反射率がDVD-ROMやDVD-Rに比べて若干弱いという弱点がありドライブによってはDVD-Rに比べて再生互換性が若干劣るのはその理由による(ただし、新しい製品では対応改善がされているものがほとんど。|date=2021年9月}}{{独自研究範囲|またこの点については後述の[[#DVD-RAM|DVD-RAM]]も同様の特性があるがDVD-RWの場合は読み取りドライブの互換性が高い関係でDVD-Rの書き換え型として使用されるため、直接の比較対象になる場合が多い)。|date=2021年9月}} {{要出典|記録型DVDとして最初に登場したDVD-RAMはDVD-VideoやDVD-ROMとのフォーマットの互換性が低かったためDVD-RWは互換性を重視、主に動画の記録編集用として開発された。そのため、DVD-RWで記録されたディスクは読み取り専用のDVD-ROMドライブでも読み出すことが可能であることが多い。|date=2021年9月}} 書き換え可能回数は1000回以上で10万回以上書き換え可能なDVD-RAMよりは少ない。他の書き込み型DVDとの違いは、ビデオ用途で使用する場合に買ってそのままではデータの書き込みができないことである。VideoモードとVRモード両方で使えるメリットがある一方でフォーマット形式が異なるため、どちらで使用するかを選択し、約1分程度かけてフォーマットする必要がある。 再生機との互換性を確保するためファイナライズ処理が可能で、ファイナライズを解除し再び追記することも基本的には可能である(レコーダーによっては不可)。 ====== DVD-RW DL ====== [[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]])が2層のDVD-RW (DVD-RW DL; 容量8.5 GB)を開発し<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0404/victor.htm 日本ビクター、世界初の片面2層DVD-RWディスク技術]([[インプレス|Impress]] PC Watch 2005年4月4日)</ref>、2007年6月のDVDフォーラムの承認後、同8月に発売予定だった<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2007/0703/victor.htm 日本ビクター、容量8.5 GBのDVD-RW DLメディア] (Impress PC Watch, 2007年7月3日)</ref>が、対応ドライブが製品化されないまま2008年3月に発売の凍結が発表された<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2008/0310/victor.htm ビクター、DVD-RW DLメディアの発売計画を凍結] (Impress PC Watch, 2008年3月10日)</ref>。 規格はECMA-384<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-384/ |title=120 mm (8,54 Gbytes per side) and 80 mm (2,66 Gbytes per side) DVD re-recordable disk for dual layer (DVD-RW for DL) |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>により標準化されている。 ====== DVD-RAM ====== {{独自研究|section=1|date=2021年7月20日 (火) 01:42 (UTC)}} {{出典の明記|date=2013年5月|section=1}} {{右| [[ファイル:DVDRAM.jpg|240px|thumb|DVD-RAM TYPE 2]] [[ファイル:DVD-RAM Datenseite Farbenspiel 1.jpg|thumb|right|240px|DVD-RAMメディアの表面]] [[ファイル:Panasonic_DVD-RAM001.JPG|thumb|right|240px|記録面の耐久性が改善された事により、カートリッジ無しでも使用できるようになった。]] }} DVD-RAMはDigital Versatile Disc Random Access Memoryの略称。[[相変化記録技術|相変化記録方式]]の記録型DVDである。DVDフォーラムにより策定、1997年4月に2.6 GBのVersion1.0規格が制定され、2000年夏に片面4.7 GBのVersion2.0規格が制定された。またECMA-330<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-330/ |title=120 mm (4,7 Gbytes per side) and 80 mm (1,46 Gbytes per side) DVD rewritable disk (DVD-RAM) |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>により標準化されている。 [[Phase-change Dual|PD]]規格を提案した松下電器産業(現・パナソニック)が中心となってPDの技術をもとに開発され、1998年4月にパナソニックと日立製作所から最初の製品が発売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980317/dvdram.htm |title=日立、DVD-RAMドライブを4月に発売 |format= |work= |accessdate=2014-03-07}}</ref>。 DVD-RWとは異なりデータの記録面の材料にはアモルファス金属材料を用いているが、レーザー光照射による加熱での結晶化を利用している(結晶化することで反射率が変化する)点では同じである。 DVD規格の一つであるが、[[記録密度]]・ランダムアクセス性向上のために通常のDVDとは異なるアドレス方式やトラッキング方式をとっており([[#記録方法|前述]])、ディスクの回転制御の方式も大きく異なるなど他のディスク (DVD-ROM/DVD-R/DVD-RW) とは物理的記録方式に異なる点が多いため、特に対応したドライブでしか読み書きができない。他の書き換え型DVDであるDVD±R/RWが一般のDVD機器で読み書きができるのとは対照的である。また、初期のDVD-RAMドライブはPDも使用可能であったが、Version2.0対応のドライブからは互換性がなくなった。 記録面は、円周方向に他のDVDメディアには見られない細く短い線が微妙に角度を変えながら全面に分布している。これは埋め込みサーボ技術のサーボパターンであり、このパターンを検出することで瞬時にヘッドの位置を認識することが出来、ランダムアクセスの高速化に役立っている。同様の技術は[[光磁気ディスク|MO]]や[[ハードディスクドライブ|HDD]](磁気情報なので肉眼では見ることが出来ない)にも使われている。 かつてはDVD-RAMへ書き込みを行うにはドライバ(UDF)のインストールが必要だったが、Mac OS Xや[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]以降ではOS標準でサポートされるようになった(FAT32形式のみ)。また読み書きに専用のライティングソフトは必要とせず、通常のファイル操作で使用できるのも特徴である。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]ではHDDだと1つのドライブにつき2 GB以下の[[パーティション]]しか扱えないというFAT16フォーマットの制限があったが、DVD-RAMの場合はUDFフォーマットが利用できるため、Windows 95であっても{{要出典|2.6 GBや4.7 GBといった大容量を1つのドライブとしてHDD感覚で読み書きできた。<!-- 同様に[[Windows 9x系]]OSにおいてもFAT32で2 GBを超えるファイルサイズを扱うには制限があったが、UDFフォーマットでは約4 GBまでのファイルを扱うことができた。 -->こうした環境ではデータ用HDDの代替としても利用価値があった。|date=2021年9月}} 当初はデータ用として普及したが後にビデオ録画用にも普及した。民生機では書き込みの高速性を利用して録画を行いながら別番組を再生することなども可能。また、DVD-RAMは不要な部分だけを簡単に消せるうえ、録画したDVD-RAMを別の機器で再生させる場合でも[[ファイナライズ]]処理が不要である。 アナログ放送用のDVD-RAMレコーダーでは、DVD-VR方式で記録する。このため、パソコンを使って映像をDVD-VR方式で書き込めばレコーダーで再生することができる。逆に、レコーダーで録画したディスクをパソコン上で再生することもできる。これらを可能にするソフトウェアとしてはパナソニックのDVD-Movie album、UleadのDVD Diskrecorder(DVD MovieWriterにも実装)、ペガシス製のTMPGEncシリーズ等がある。これらは主にタイトル名編集、カット編集、DVD-Videoモード形式への変換などの機能がある。 ハイビジョン放送用のDVD-RAM対応レコーダーでは、AVCREC方式で記録する。これもパソコンで扱えるが、UDF2.5フォーマットに対応していること、アプリケーションがAVCRECに対応していることが前提となる。 なおDVD-Video方式でDVD-RAMに書き込むことも可能であり、対応するアプリケーションも存在するが、市販されているDVDプレーヤーの多くは最新機種も含めてDVD-RAMには未対応のまま現在に至っている。 [[ファイルシステム]]として読み書きすることが前提となっているため、回転速度は各ドライブの設計に依存する。ただし実際には低速度メディアでは[[ZCLV]]、高速メディアでは[[PCAV]]で制御しているドライブが大半である。 DVD±RWの1000回を上回る、10万回以上の書き換えが可能である。さらに不良セクタの代替機構の構築や、書き込み時のベリファイ{{Efn|正しく書き込まれたか読み込みをして検証すること。}}が自動的に行われる。ただしベリファイを行うため、たとえば2倍速の書き込みは1倍速の読み出しと同程度の時間を要する。 デメリットは構造上の特徴からDVD-Videoとの互換性が無い点であり、DVD再生専用プレイヤーやDVD再生対応ゲーム機などで対応機種が少ない点である。また、カートリッジ付メディアの挿入は出来ないドライブが多い。{{いつ範囲|現在|date=2021年7月27日 (火) 02:31 (UTC)}}、カートリッジ型対応のドライブを生産しているのはパナソニックほか少数である。ただし後年は読み取りドライブの[[ユニバーサルプレーヤー|マルチ化]]が進んでおり、{{要出典|未対応ドライブを除いて実用上の互換性は大きな問題にはならなくなりつつある。|date=2021年9月}} 当初規格統一に参加していたソニーやフィリップスなどはDVD-RAMがDVD-ROMとの互換性が比較的低いことなどを理由に、[[1997年]]5月になって[[#DVD+RW|DVD+RW]]を対抗する規格として提唱した。これは片面3 GB、両面6 GBの容量を持ち[[#DVD-ROM|DVD-ROM]]と互換性があった。しかしDVD-RAM陣営は[[1999年]]6月、これを上回る片面4.7 GBのVersion 2.0規格の決定を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii.jp/elem/000/000/303/303748/ |title=ASCII.jp:DVDフォーラム、4.7 GBのDVD-RAMディスクの規格“DVD-RAM バージョン2.0”を決定 |format= |work= |accessdate=2014-03-07}}</ref>。ソニー、フィリップス、[[ヒューレット・パッカード]]の3社を中心とするDVD+RWアライアンスは、独自の対抗規格として同等の容量を持つ[[#DVD+RW|DVD+RW]]を策定している。 DVD-RAM陣営はドライブの製造メーカーとしてはパナソニック、[[日立LGデータストレージ]]、[[東芝サムスンストレージ・テクノロジー]]などが、テレビの録画用DVDレコーダーとしてはパナソニック、日立、東芝、日本ビクターなどがあった。2006年4月にはパイオニアも加わった。このうち日立・日本ビクター・パイオニアはカートリッジタイプのディスクは使用できなかった{{Efn|カートリッジから出せば使用可能。従ってディスクを出せないタイプ1は使用不可。}}。 2003年の時点では記録型DVDとしての世界シェアは約10 %、日本国内ではレコーダーの普及により約60 %のシェアを持っていた。{{要出典|2001年発売されたApple Power Mac G4 にDVD-RAMドライブがオプションでラインナップされたことにより、一時的にシェアが増大したこともある。|date=2021年7月27日 (火) 02:31 (UTC)}}しかしその後日立と日本ビクターが民生用DVDレコーダー事業から事実上撤退し、2007年12月以降はパナソニック・東芝の2社のみとなった。 そもそも、東芝はDVD-RAM陣営であるにもかかわらず再生専用機ではDVD-RAMへの対応を行っていなかった。これは、同社のDVDプレーヤーの大半が[[オリオン電機]](社名変更を経て清算済)などからOEM供給されたものであったためである。自社生産品であるHD DVDプレーヤー「HD-XA1」では対応していたものの、[[CPRM]]には対応していなかった。Blu-ray Discレコーダーでも再生のみの対応となっている。パナソニックも車載用機器では対応していなかった。{{要出典|また海外では当初からDVD-RWに対して劣勢であり、メディアの価格が下がらなかったのもシェアを落とす理由のひとつと言われる|date=2012年7月}}。 {{いつ範囲|最近|date=2021年7月27日 (火) 02:31 (UTC)}}の傾向としてパイオニア、NECなど今までDVD-RAMに対応していなかった複数のメーカーからDVD-RAM対応のドライブ(パイオニアの場合はDVD-RAM録再対応のDVDレコーダーも登場。ただし、2006年4月以降の新機種から)が発売された。ランダムアクセスが可能でありデータの書き込みに専用ライティングソフトが不要である。 パナソニックは市場規模の縮小を理由に、2019年5月末で録画用DVD-RAMの生産を完了した<ref>{{Cite web|和書|url=https://panasonic.jp/media/products/dvd.html|title=録画用DVD-RAMディスク 生産完了のご案内|accessdate=2021-01-12|publisher=パナソニック}}</ref>。 メディアの規格は基本的に他のDVD規格に準ずる。両面メディアが存在するなど仕様は複数あり、容量は片面1.46&ndash;4.7 GB、両面2.92&ndash;9.4 GB。2層タイプは製品化されていない。8 cmディスクはVersion2.1より設定された。 当初はディスク保護のため[[カートリッジ]]入りでそこからメディア円盤の取り外しができない規格のみだったが、後にメディア取り外しが可能なカートリッジ型が登場し、さらに記録面の耐久性が改善されたことにより{{要出典|安価な|date=2021年9月}}カートリッジ無しタイプも販売されるようになった。{{いつ範囲|現在|date=2021年7月27日 (火) 02:31 (UTC)}}ではドライブ、メディア共にカートリッジなしタイプで2倍速から5倍速に対応した製品が主流となっている。 {| class="wikitable" |+ メディアの分類 !!!直径!!容量!!書込速度!!クラス |- |バージョン1.0||rowspan="2"|12 cm||片面2.6 GB、両面5.2 GB||1倍速||rowspan="4"|0 |- |バージョン2.0で加わった規格||rowspan="2"|片面4.7 GB、両面9.4 GB||2倍速 |- |rowspan="2"|バージョン2.1で加わった規格||12 cm||rowspan="2"|3/5倍速 |- |8 cm||片面1.46 GB、両面2.92 GB |- |rowspan="2"|バージョン2.2で加わった規格||12 cm||片面4.7 GB、両面9.4 GB||rowspan="2"|6/8/12/16倍速||rowspan="2"|1 |- |8 cm||片面1.46 GB、両面2.92 GB |- |colspan="5"|''※バージョン2.0以降の大容量メディアは、バージョン1.0のみ対応のドライブでは読み書きできない。また、6倍速以上のメディアは5倍速以下のドライブでの書き込みができない。'' |} {| class="wikitable" |+ カートリッジの分類 !!!ディスクの直径!!カートリッジからのディスクの取り出し!!記録面 |- |タイプ1||rowspan="5"|120 mm||不可||両面/片面 |- |タイプ2||可能||rowspan="2"|片面 |- |タイプ3||ディスクのみ |- |タイプ4||可能||rowspan="3"|両面 |- |タイプ5||ディスクのみ |- |タイプ6||rowspan="4"|80 mm||rowspan="2"|可能 |- |タイプ7||片面 |- |タイプ8||rowspan="2"|ディスクのみ||両面 |- |タイプ9||片面 |} ==== DVD+RWアライアンスが制定した別規格 ==== [[DVD+RWアライアンス]]が策定したこれらの規格はDVDフォーラムの規格外のため厳密にはDVDとは呼べず、DVDロゴは付いていない。また正式名称に「DVD」の文字はない。このように本来のDVDとは似て非なるものである。しかし2008年にはDVD関連ライセンス団体であるDVD6Cがこれらの規格のライセンスを管理するようになる<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0801/25/news125.html 出典]</ref>など{{要出典|DVDフォーラムとの規格争いが過去のものになっており、既にDVD規格の一種として認知されたと見ることもできる|date=2021年9月}}。 {{要出典|DVD+RWアライアンス参加企業以外は印刷物で「DVD+R/+RW」という表現をせずに「+R/+RW」と表記し、脚注に「『+R/+RW』は『DVD+R/+RW』と表現されることがあります」と書くことが多い。|date=2021-7}} DVD-R/-RW/-RAM陣営(以下、DVDフォーラム陣営)とDVD+R/+RW陣営(以下、+RWアライアンス陣営)が[[ビデオ戦争|VHS対ベータマックス]]のような[[規格争い]]を行って消費者に混乱を招くことが懸念されたが、現在は[[DVDレコーダー]]ではDVD-R/-RW/-RAMにほぼ落ち着き、パソコン向けドライブでは両対応のスーパーマルチドライブが普及したためそれほど混乱は生じていない。 [[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]では、[[Mount Rainier]](DVD+MRW)と呼ばれる規格がサポートされている。これは[[パケットライト]]方式で書き込む際に有効でフォーマットを必要最小限の領域にとどめ、残りの領域のフォーマットは書き込みドライブが未使用のときに実行することでフォーマット時間を大幅に短縮できるというものである。 記録速度や2層メディアの登場など開発スピードがDVDフォーラム陣営に比べて速いことが特長だった。しかし、DVDフォーラム陣営も開発速度を上げ、DVD+R/+RWは著作権保護技術としてCPRMではなくVCPS ({{仮リンク|Video Content Protection System|en|Video Content Protection System}})を採用しているために日本のコピーガードに対応しておらず録画用メディアであってもデジタル放送を記録できない<ref>[https://www.iodata.jp/support/qanda/answer/s17289.htm 地デジ番組をDVDにダビングしたいのですが注意する点はありますか?]I-O DATA</ref>。日本では、DVD+R/+RWは廃れた存在となった<ref>DVD&ブルーレイコピーパーフェクトガイド 晋遊舎 12頁 ISBN 978-4-8018-0490-6</ref>。 ===== 追記型 ===== 一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。 ====== DVD+R ====== ライトワンス型の記録型DVDフォーマットで、正式名称は{{lang|en|'''plus R'''}}(プラス アール)。規格としてはECMA-349で標準化されている<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-349/ |title=Data interchange on 120 mm and 80 mm optical disk using +R format - Capacity: 4,7 and 1,46 Gbytes per side (Recording speed up to 16X) |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>。DVD+Rで記録されたディスクは一般的なDVD-VideoやDVD-ROMドライブで再生が可能とされるが、実際にはメディアID(ブックタイプ)がDVD+Rであるため再生できないケースもまれにある。ただし、ファイルシステムの構造がDVD-Rに比べDVD-ROMに近いためROM化<ref group="注釈" name="ROM"/>を行った場合、DVD-Rよりも互換性は高くなる。 記録面材料は、DVD-Rと同様に有機色素系材料である。 {{要出典|当初DVD+RWアライアンス陣営は書き換え型のみを想定してDVD+RW規格を策定したが既存のDVDプレイヤーでの再生互換性が想定より低いことがわかり、その対策としてDVD+R規格を追加する形になった。この際、初期のDVD+RW専用ドライブは[[ファームウェア]]の更新によりDVD+Rにも対応できるとされたが結局ハードウェアの問題で棚上げとなり一部のユーザーに混乱を招いた。|date=2021年9月}} 現在はソニーの「[[スゴ録]]」「[[PSX]]」(共に生産終了)[[BDZ|ブルーレイディスクレコーダー]]に、DVD+Rでの録画に対応するDVDレコーダーが存在する。[[パイオニア]]等も対応レコーダー(デジタルチューナー非搭載機)を販売していたことがある。パソコンでも[[スーパーマルチドライブ]]によりDVD-Rと全く同じように記録できる。 DVD-Rがたとえ1バイトのデータを記録する際でもダミーデータを上乗せして1.1 GBにしてしまう<ref>[http://pioneer.jp/dvdrrw/future/future_1.html DVD-R/RWはもっと便利に : パイオニア All About DVD-R/RW]</ref>のに対しDVD+Rではダミーデータの上乗せを行わないこと(DVD-Rも後に制限が解除された)、高速化が容易なこと、メディアID(ブックタイプ)がDVD-ROMと同じものに変更可能<ref group="注釈" name="ROM">メディアIDをROMに変えることを'''ROM化'''という。</ref>であるため互換性が向上することなど{{要出典|利便性という点でDVD-Rを上回っていた。反面、DVDフォーラムによって策定されたわけではないこと、再生時に振動の影響を受けやすいこと、ディスク品質にシビアにならなければならないこと、デジタル放送で採用されているCPRMに対応できていないこと、書き込み速度がDVD-Rに追いつかれたといった理由から日本国内ではDVD-Rの販売シェアの後塵を拝している。|date=2021年9月}} ====== DVD+R DL ====== DVD+R DL (Double Layer) はDVD+Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。規格としてはECMA-364で標準化されている<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-364/ |title=Data interchange on 120 mm and 80 mm optical disk using +R DL format - Capacity: 8,55 and 2,66 Gbytes per side (Recording speed up to 16X) |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>。[[#DVD-R DL|DVD-R DL]]よりも先行して一般市場に出回った。ディスクのメディアIDをROM化<ref group="注釈" name="ROM"/>することによりDVDプレーヤーでの再生互換性が{{要出典|一般的には高まることが知られている|date=2021年9月}}。 ===== 繰り返し記録型 ===== 削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。 ====== DVD+RW ====== パナソニックのDVD-RAMに対抗する規格として{{Efn|パナソニックのDVD-RAM関連特許ライセンス回避の目的もある}}策定された規格で、正式名称は'''plus RW'''。規格としてはECMA-337で標準化されている<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-337/ |title=Data interchange on 120 mm and 80 mm - Optical disk using +RW format - Capacity: 4,7 and 1,46 Gbytes per side (Recording speed up to 4X) |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>。DVD-ROMとの互換性のある独自の書き換え可能方式を採用している。書き込み可能回数は1000回以上。記録面の使用材料はDVD-RWと同じようにアモルファス金属材料を用いている。 世界三大経済圏の有力電機メーカーである日本のソニー、オランダのフィリップス、アメリカのヒューレット・パッカードの3社が提唱している<ref name="DVD+RW">「[http://www.maxell.co.jp/consumer/data_disc_dvd_plus_r/cdata_pr16/index.html 日立maxell株式会社ホムページ DVD+RW/+R規格について]」</ref>だけに有力視されていたが、日本の大手電機メーカーで[[DVDレコーダー]]にこの方式を採用しているのはソニーのみである。一時は[[日立製作所]]とパイオニア(いずれもデジタルチューナー非搭載モデル)に対応機種があったが現在は生産終了している。 {{要出典|高速記録が特長の一つであり登場時は2.4倍速(-RWは1倍速)、2008年1月時点でDVD+RWは8倍速(DVD-RWは6倍速)である。メディアIDの書き換えも可能であり、互換性が高まるとされる。またDVD+RWの片面2層化された「DVD+RW DL」が開発中だったが日本ではDVD-RW DL同様、2008年7月現在、対応ドライブもメディアも発売されていない。|date=2021年9月}} ただし、録画用メディアとしてはDVD+RWの仕様として「1つのファイルは連続した領域のみに記録される」仕様のため、DVD上での編集により生じた空き領域は使用できない。そのため、CMカットしても実質空き時間が増えないという欠点がある。いったん[[ハードディスクドライブ]]に移し変え、再記録することでは可能である。 DVD+Rよりも先に規格が制定され、当初はDVD+RWと記録型CDの書き込みのみに対応したドライブが発売された。 ====== DVD+RW DL ====== 規格としてはECMA-374で標準化されている<ref>{{Cite web |url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-374/ |title=Data interchange on 120 mm and 80 mm optical disk using +RW DL format – Capacity: 8,55 and 2,66 Gbytes per side (Recording speed 2,4X) |language=en |publisher=Ecma International |accessdate=2022-01-10}}</ref>が製品化は中止。 === 特殊な物理規格 === ==== DVDplus ==== {{仮リンク|DVDplus|en|DVDplus}}とは、片面に音楽CD、もう片面にDVDを貼り合わせた両面ディスクであり、採用例としては[[イヤーエイク・レコード]]が2000年に発売したオムニバスアルバム『Immortalised DVD』が該当する<ref name="CDJournal20051222"/>。日本のニュースサイト「CDジャーナル」は実物を見た者からの話として、いかにもCDとDVDを貼り付けてみたという感じがして、時代の先端を行くような代物ではなかったとしている<ref name="CDJournal20051222"/>。 ==== DualDisc ==== {{Main|DualDisc}} [[DualDisc]]は、片面に音楽CD、もう片面にDVDを貼り合わせた両面の再生専用ディスクであり、2004年に[[アメリカ合衆国|米国]]の大手レコード会社が発売した<ref name="AVWatch20040826">{{Cite web |title=片面CD/片面DVDの両面ディスク“DualDisc”発表 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20040826/dualdisc.htm |website=AV Watch|publisher=インプレス|access-date=2023-11-19|date=2004年8月26日}}</ref>。DVDフォーラムが定めた規格ではない<ref>{{Cite web |title=DVDフォーラム、「Japan Conference 2004」を開催 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20041007/dvdf.htm |website=AV Watch|publisher=インプレス |access-date=2023-11-20|date=2004年10月7日}}</ref>。CD面は正式な音楽CD規格(レッドブック)に準拠していないためCDロゴは付いておらず、DuallDiscの製造元は「音楽専用面」「非DVD面」など遠回しな呼び方をしている<ref name="CDJournal20051222">{{Cite web |title=DualDiscについて詳しく教えて!|url=https://www.cdjournal.com/main/research/-/1898 |website= CDJournal リサーチ |access-date=2023-11-19 |date=2005/12/22}}</ref>。また、カーステレオなどの一部の機器では再生に支障が出ているともいわれている<ref name="CDJournal20051222"/>。以上のことから、2005年末の時点で普及が北米にとどまっているという指摘もあった<ref name="CDJournal20051222"/>。 ==== ツインフォーマットディスク ==== 片面にDVD-ROMとHD DVD-ROMの両規格を収録した多層構造のディスクで、2006年にメモリーテックと東芝が発表した<ref>{{Cite web |title=東芝ら、片面で2層HD DVDとDVDを収録できる3層ツインフォーマットディスク |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0911/toshiba.htm |website=PC Watch|publisher=インプレス|access-date=2023-11-19|date=2006年9月11日}}</ref>。映像ソフトで製品化されている。 ==== 48DVD ==== {{Main|48DVD}} [[48DVD]]はアメリカのFlexplayが開発した技術であり、酸素に触れると徐々に劣化する色素を記録に使用しているため、再生可能な時間が開封後48時間以内に限定されている<ref name="AVWatch20050915"/>。[[日本出版販売]]が日本での独占販売契約を締結し、2005年9月から発売を開始した<ref name="AVWatch20050915">{{Cite web|和書|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20050915/48dvd.htm|title=48時間視聴限定DVD「48DVD」を試す|date=2005-09-15|accessdate=2023-11-19|work=AV Watch|publisher=[[インプレス]]}}</ref>。日本国内においては、プロモーション目的で頒布されたり(例:『[[ミッション:インポッシブル3]]』<ref>{{Cite web |title=「このDVDは48時間で消滅する」――M:i:IIIプロモに“時限DVD” |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0605/18/news106.html |website=ITmedia NEWS |access-date=2023-11-19 |date=2006年05月18日}}</ref>)、雑誌の付録として同梱した例<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.nippan.co.jp/news/2006/1016.html |title=「48(よんぱち)DVD」が創刊誌の付録に採用 |date=2006-10-16 |work=ニュースリリース |publisher=[[日本出版販売]] |accessdate=2023-11-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061109080706/http://www.nippan.co.jp/news/2006/1016.html |archivedate=2006-11-09 |deadlinkdate=2019-04-22 }}</ref>があった。 アメリカ国内においては、使い捨て式であるため環境面での批判があった<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2003/05/22/48%E6%99%82%E9%96%93%E6%9C%89%E5%8A%B9%E3%81%AE%E4%BD%BF%E3%81%84%E6%8D%A8%E3%81%A6dvd%E3%81%AB%E7%92%B0%E5%A2%83%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%AE%B6%E3%81%8B%E3%82%89%E9%9D%9E%E9%9B%A3%E3%81%AE%E5%A3%B0/ |title=48時間有効の使い捨てDVDに環境活動家から非難の声 |date=2003-05-22 |work=[[WIRED (雑誌)|WIRED]] |publisher=[[コンデナスト・パブリケーションズ|コンデナスト・ジャパン]] |accessdate=2023-11-19}}</ref>。DVDフォーラムが定めた規格ではない。 == アプリケーションフォーマット == ディスクに書き込む<!--ビデオ-->データ形式の違いにより以下のものが存在する。 === DVD-Video === DVDに複数の映像、音声、字幕を記録するフォーマット。マルチアングルでの記録も可能。[[複製防止技術]](厳密には、再生技術である)として {{lang|en|[[Content Scramble System]]}} (CSS) という[[暗号化]]をすることが可能。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。 本来は市販DVDビデオソフトの製作用(読み出し専用)に策定された規格であるが、家庭用DVDレコーダーや、パソコンで専用ソフトウェアを使っての記録・追記・書き込み前の編集などが可能になった。 DVDの規格上は両面2層まで可能(富士フイルムから両面式のDVD-Rが発売されている)であるが、パッケージソフトとして販売される性格から片面2層とし裏面に絵やロゴ等(レーベル)を印刷する場合がほとんどである。なおディスクを返すことなく、両面自動連続再生可能なプレーヤーが存在しない。そのため、2枚組でも両面2層でも入れ替える必要性がある点は同様なのでユーザの利便性にとっては大差がないと言える(ちなみに、[[レーザーディスク|LD]]では両面再生対応機種が存在した)。 DVD-Videoプレーヤーのほか、LDとのコンパチブルプレーヤー(2008年1月現在、生産中)、VHSとの複合機などで再生できる。またディスクサイズが12 cmと小型であるためラジカセや[[カーオーディオ]]、LCD付ポータブルプレーヤーなど様々な対応機器が存在する。PC用のドライブでも利用可能であるため、DVD-ROMドライブを搭載したPCでは、DVD-Videoの視聴が可能であることが多い。 世界をいくつかの地域に分け、[[リージョンコード]](地域コード)を割り当てることで地域限定のリリースやリリース日をずらすということができる。DVDプレーヤーとDVD-Videoディスクの地域コードが一致しないと再生できない。一致しても[[世界の放送方式|テレビ方式]]が合わないと再生できない。PCに海外のリージョンコードの入ったDVDを入れると勝手にリージョンが変更されることがある。 映像は[[MPEG-2]]で記録され音声は[[ドルビーデジタル]] (AC-3)、オプションで2chPCM、[[デジタル・シアター・システムズ|DTS]](デジタル・シアター・システムズ)が利用可能である。地域によって、その他の音声フォーマットにも対応する。 {{Main|DVD-Video}} === DVD-VR === 正式には、{{lang|en|DVD Video Recording Format}}。一部ではDVD-VRFとも表記されているがいずれも同じものであり、登場時からの時間の経過と共にDVD-VRとしての記述に収束方向にある。論理フォーマットはUDF Ver.2.00。新たにシーンの編集機能やアングル機能、CPRMへの対応などが実装された。ファイナライズが必要なディスク規格では引き続きファイナライズが必要。 DVD-Videoフォーマット規格を元に、家庭用レコーダーで記録するためにより適した規格に改良したもの。技術的な内容は近似しているので、レコーダーの設計者が両方式間のコンバート機能を設計する際には便利ではあるが、記録されたディスクとしてはDVD-Videoフォーマットとの間に互換性があるわけではない。 HDD搭載のDVDレコーダーの多くは実質的にはDVD-VRレコーダーの性格で企画開発されたものが多いため、録画物をHDD内に記録する場合はDVD-VRの規格に応じた形式が用いられる場合が多い。ごく一部の機種ではHDDへの記録でもDVD-Videoフォーマットで行うものがある。 {{Main|DVD-VR}} === DVD-Audio === コンパクトディスク (CD) に比べ高音質で、[[コピーガード|著作権保護]]など複製されにくい特徴を備えた、通称「次世代CD」規格としてDVDフォーラムが1999年に策定を完了させた[[オーディオ]]専用のアプリケーションフォーマット。 [[パルス符号変調#種類|リニアPCM]] 最大192 kHz/24 bit(2.0chステレオ時のみ)、最大96 kHz/24 bit(最大[[サラウンド|5.1chサラウンド]])に対応する。[[可逆圧縮]]音声データを収録することも可能 ([[Meridian Lossless Packing|MLP]])。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。読み取り専用の音楽ソフトだけでなく、パーソナルコンピュータ用の音楽制作アプリケーションと記録型DVDを用いて作成することも可能。 「次世代CD」規格としては日本ビクター(現・JVCケンウッド)・パナソニック・東芝・パイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)等が推進したDVDオーディオ (DVD-Audio)と、ソニー・フィリップス等が推進する[[Super Audio CD|スーパーオーディオCD]] (SACD)の2つの規格がある。これらの間に互換性はない。 DVDオーディオの再生にはDVDオーディオ対応のプレーヤーが必要である。ただしソフト(録音媒体)によってはDVD-Videoに準拠したデータを併せて収録しており、その場合はDVDプレーヤーでも再生ができる(ただし音質はDVD-Video相当となる)。また、音楽コンテンツ向けの付加機能として映像コンテンツを収録することもできる。 ユーザーが録ったハイサンプリングレートによる音源を記録する用途にはDVDオーディオ方式の方がスーパーオーディオCDの方式よりも有利であると言える。ダイレクトストリームデジタルでは録音レベルを調整するためのイコライザですらかけられない上に、1bitレコーダーを用いた録音はファイル形式が異なるので市販のスーパーオーディオCDプレイヤーでは再生ができる対応機種はほとんど存在しないからである。DVDオーディオではその点、専用ソフト{{Efn|2009年1月現在まで[[サイバーリンク|サイバーリンク・トランスデジタル]]のDigiOnブランドから発売されていたDVDオーディオ作成用[[オーサリング]]ソフトの「DigiOn DVD Audio」がこれに該当していた。但し現在では販売終了。}}を用いればDVD書き込みに対応した光学ドライブを用いてDVDオーディオ規格のディスク媒体の作成が自由に可能であった<ref>[http://software.transdigital.co.jp/digion/dvdaudio/index.html DigiOn DVD Audio]</ref>。 [[Super Audio CD|スーパーオーディオCD]]の項目にあるように、高音質・サラウンドへの需要は盛り上がらず、それよりもむしろ利便性に優れている[[MP3]]や[[音楽配信]]などが普及し、2010年代に入るとDVDオーディオと同等のリニアPCM・FLAC音源やスーパーオーディオCDと同等以上のDSD音源も配信されているため、DVDオーディオもスーパーオーディオCDも共に普及のペースは非常に鈍いので将来が危ぶまれる。 スーパーオーディオCDはオーディオ愛好者から一定の支持を得てまだ専用プレーヤーも発売されているが、DVDオーディオの方は既に自然消滅に近い状態である。日本の業界団体・DVDオーディオ プロモーション協議会<ref>[http://www.dvdaudio-net.com/ 公式]</ref><!-- 2008年3月31日をもって掲示を終了 -->は2007年3月をもってホームページを事実上閉鎖した。2013年現在ではマルチ対応の[[ユニバーサルプレーヤー]]が対応する。また、2008年以前まではパソコン用のDVDビデオ再生アプリケーションの一部{{Efn|例 : [[サイバーリンク]]社製の「PowerDVD 8 ULTRA」および「PowerDVD 8 DELUXE」等。現在絶版。}}もDVDオーディオの再生をサポートしていた。 {{Main|DVD-Audio}} === DVD-AR === 正式には、{{lang|en|DVD Audio Recording Format}}。{{lang|en|DVD-Audio}}に対する{{lang|en|DVD-VR}}に相当する規格である。2007年現在は規格として存在するのみで、適応製品としては開発されていない。 === DVD-SR === 正式には、{{lang|en|DVD Stream Recording Format}}。論理フォーマットはUDF Ver.2.01。デジタル放送の放送信号(ストリーム信号)をそのまま丸ごと記録するための方式。ハイビジョンをDVDに録画できるが、可能記録容量の関係でDVDへの適応は2008年現在は行なわれていない{{Efn|[[第3世代光ディスク]]への記録アプリケーションフォーマットやハイビジョンレコーダーに搭載のHDD録画のフォーマットに一部応用利用されている。}}。DVD-VRと一部共通性があるので、同一のディスクに記録して利用できるメリットもある{{Efn|第3世代光ディスクの市販ソフトがDVDフォーマットの映像も同一ディスクに収録できるのはこのため。}}。 BDの派生規格であるAVCRECの登場後はそちらが主流である。 === HD Rec === [[HD DVD]]のアプリケーションフォーマットに準拠した[[ハイビジョン]]映像を記録型DVDに記録する規格。DVDフォーラムが2007年に策定した。東芝が対応レコーダーを2007年末に発売。 既に対応機器の発売は終了しており、[[AVCREC]]に移行している。類似する規格として[[#3x DVD|HD DVD9]]がある。 {{Main|HD Rec}} === DVDフォーラム以外で策定されたアプリケーションフォーマット === ==== 各種デジタルデータの記録 ==== 上記のDVDビデオとしてのアプリケーションフォーマット以外にも、PCのメモリ上で認識可能な各種データも書き込み可能である。ゲームソフトのプログラムやDVDビデオの規格では許容されていない各種画像・映像データファイルも書き込み可能で、読み取り機器側さえ対応していればそれらのデータファイルの表示・動作も可能となる。用語としての定義とは別に、DVDが{{lang|en|Digital Video Disc}}ではなく{{lang|en|Digital Versatile Disc}}という名称であるのは{{要出典|これによるものである|date=2021年9月}}。 ==== DVD+VR ==== 正式には、{{lang|en|DVD+RW Video Recording Format}}。<!--その名の示すように-->DVD+RWアライアンス陣営が策定したDVD+RW向けの {{lang|en|Video Recording}} フォーマット。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。DVD-VRがDVD-Videoとの再生互換性が全くない一方で、[[DVD-Video]]との再生互換性を目指して策定された規格。論理的にはDVD-ROMドライブやDVD-Videoプレーヤーでの再生可能なフォーマット。DVD-RWと異なりCPRMは規格上存在しないため、「1回だけ録画可能」のデジタル放送を記録することはできない。 ==== AVCHD ==== 前述した各種デジタルデータファイルの書き込みの延長線上にあるものでもあるが、既存のDVDビデオの各種規格とは別にハイビジョン動画ビデオの記録と再生を目的にした次世代規格として2006年に[[AVCHD]]の規格が登場した。ソニーとパナソニックが策定<!--したもので、DVDフォーラムとは無関係-->。書き込みも読み出しも専用対応機器が必要である。 {{Main|AVCHD}} ==== AVCREC ==== {{lang|en|[[Blu-ray Disc Association]]}}が策定した、HD Recと同様のハイビジョン映像記録用規格。従来のDVDレコーダーで採用されているDVD-Video・DVD-VR規格はハイビジョン規格の映像信号をSD(標準画質)に[[映像のコンバート|ダウンコンバート]]しなければならない。DVDメディアにハイビジョンを記録するにはDVDビデオ規格 (DVD-Video・DVD-VR) にハイビジョン規格の解像度を新たに加える規格変更が必要になるが規格変更の必要性の他にも大きな問題がありDVD-Video・DVD-VR規格で映像圧縮技術に採用されているMPEG-2ではDVDメディアには2層メディアでも1時間以下、1層メディアでは30分以下となり特にテレビ番組の録画を目的にした場合の実用性に乏しいためDVDメディアにハイビジョン映像をMPEG-2のままで記録するDVD規格は当初から考案・策定されていない。 ただし映像を記録する際の圧縮技術に従来のMPEG-2の約2倍の圧縮効率を持つMPEG4 AVC/H.264を採用したHD RecやAVCRECにより、ハイビジョンのままでDVD-VideoやDVD-VRと同程度の時間をDVDメディアに記録できる。2007年11月に松下(現:[[パナソニック]])がAVCREC対応レコーダーを発売した。HD RecとAVCRECの間に互換性はないが、各社から発売されたAVCREC対応のレコーダー・BDプレイヤーが市場を席巻している。HD Recは事実上東芝のみで終焉を迎え、同社もAVCREC対応へとシフトした。また、類似したコンセプトで[[#3x DVD|BD9]]も策定されたことがある。 {{Main|AVCREC}} ==== 3x DVD ==== [[ワーナー・ブラザース]]が提唱した規格。DVD-Videoの3倍の帯域幅を持っており、ハイビジョン規格映像をDVDに記録できる。 BD規格からアプローチした[[BD9]]とHD DVD規格からアプローチした[[HD DVD#HD DVD-VR|HD DVD9]]に細分化されるが、いずれも製品化は実現していない。 類似した規格で製品化したものとして、既に対応機器の生産が終了しているHD Rec、ならびに[[デファクトスタンダード]]化したAVCRECがある。 {{Main|Blu-ray Disc#BD9|HD DVD#HD DVD-VR}} == メーカー == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2021年7月27日 (火) 02:31 (UTC)}} === ディスク販売メーカー === * [[日立マクセル]](現・[[マクセル]]) * [[ソニー]] * [[パナソニック]] * [[Verbatim|Verbatim Japan]]([[三菱ケミカルメディア]]より事業譲受、CMCマグネティクス子会社) * [[磁気研究所]] (HIDISC) * リーダー・メディア・テクノ (ALL-WAYS) ; 撤退 * [[リコー|RICOH]] * [[太陽誘電]] * [[イメーション]](現:[[グラスブリッジ・エンタープライゼス]]) * [[TDK]] * [[JVCケンウッド]] * 三菱ケミカルメディア === 海外ディスク製造メーカー === * [[RiTEK]] (RiDATA) * [[CMCマグネティクス]] (Mr.DATA) == DVDの後継規格 == [[2000年代]]後半、DVDで用いられる赤色レーザーに比べ、より波長の短い青紫色レーザーを使用した高密度な[[第3世代光ディスク]]規格としてBlu-ray Disc(以下BD)とAOD(後のHD DVD)が登場した。DVDと同じ12 cmサイズのディスクだが、既存のDVDプレーヤーでの再生互換はない。第3世代光ディスク機器の多くは主にユーザーに対する販売・普及戦略上の理由からDVDの再生機能も併載することでDVDの再生を可能として、機器としての互換性を確保している。このように、第3世代光ディスク機器でDVDが再生できるのは第3世代光ディスクの方式自体の互換性ではない。 主に映像ソフトや[[デジタルテレビ放送]]の[[高精細度テレビジョン放送|HD映像]]記録用途を主眼としておりソニー・パナソニックなどのBD陣営と東芝・NECのHD DVD陣営は規格統一を模索していたが、2005年交渉が決裂。2006年に分裂した状態で製品化され、ハリウッドの映画産業などを巻き込んだ激しい[[規格争い]]が勃発した。しかし2008年2月、製品の発売から2年を経ずして東芝が[[HD DVD]]事業からの撤退を発表し第3世代光ディスクの[[デファクトスタンダード]]はBDに一本化された。これはBDがBD-RE ver1.0が登場したばかりの時から3年後に大幅に規格が改良されたことでBD-ROMが誕生し、東芝の見込みよりも早くディスクの耐久性に関する問題を克服したこと、BDはHDDVDよりも容量が多く、またディスクケースデザインの統一などで印象をDVDから大幅に変更できたこと、[[PlayStation 3|PS3]]のゲーム用ディスクがブルーレイになったことも一因である。 DVDの規格策定時にもソニーと東芝は、ソニーフィリップス陣営のMMCDと東芝・パナソニック陣営のSDのどちらを選ぶかで対立した。結果的にはCD規格延長を目論むMMCDより、CDと異なり2枚の板の貼り合せ構造を採用し大容量化を実現したSDを基にDVD規格は作られた。<!-- APT,NOR:しかし次世代DVDの規格争いではそのDVD規格に固執した東芝が孤立してHD DVDを推進しDVDと異なる単盤式でより大容量を可能にしたソニー・パナソニックらのBD陣営に敗れたのはまさに皮肉であろう。 -->一方、同じBD陣営に属するソニーとパナソニックも書き換え可能型DVDで激しく対立した間柄だった。ソニーはDVDと似て非なるDVD+RWを作り出している。またパイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)やシャープもBD陣営だが、こちらも書き換え型DVDではDVD-RW陣営としてパナソニックと敵対関係である。 しかしデータ記録・搬送用途では従来型DVDがあり、大量のデータ容量が必要な場合でも[[ハードディスク]]がある。{{Efn|DVD±RWは書き換えを何十回も繰り返すことで耐久性が大幅に減少するため、ハードディスクの需要が失われることはなかった。また、4K映像はウルトラHDブルーレイに収めることが可能であるが、8K以上の画質になるとブルーレイにすら映像が入らなくなるため、必然的に8K映像の録画はハードディスクなどで行う必要がある。2023年現在では、ブルーレイの容量限界は100GBが一般になっている。}}映像分野でもDVDビデオの画像をBD並のHD映像画質に補正補完する[[アップスケール]]技術、逆に[[H.264|MPEG-4 AVC/H.264]]圧縮により記録型DVDにHD映像の長時間録画を可能にする技術などを搭載したレコーダーもある。そもそも[[インターネット]]を介して利用する[[オンラインストレージ]]やコンテンツ配信サービスの普及で、[[消費者|一般消費者]]における物理メディアの需要は大幅に減少している。しかし、現在も日本製のアニメなどの[[レンタルビデオ]]、[[アダルトビデオ]]に関しては流通量を海外の光ディスク市場よりも高速で行う必要があるため、未だに[[Blu-ray Disc|ブルーレイ]]を使用せずにDVDで発行されることが多い。 {{Main|第3世代光ディスク|Blu-ray Disc|HD DVD}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commons|DVD}} * DVD規格 ** [[MPEG-2]] ** [[miniDVD]] ** [[AVCHD]] ** [[AVCREC]] * 他のディスクメディア ** [[レーザーディスク]] ** [[VHD]] ** [[CDビデオ]] ** [[ビデオCD]] ** [[スーパービデオCD]] ** [[第3世代光ディスク]] *** [[HD DVD]] *** [[Blu-ray Disc]] ** [[HVD]] * 機器 ** [[DVDレコーダー]] ** [[DVDプレーヤー]] ** [[ユニバーサルプレーヤー]] * その他 ** [[DVD探知犬]] ** [[DVD6C]] ** [[プロッティー]] - DVDプロテクター == 外部リンク == * [https://pioneer.jp/dvdrrw/ ALL About DVD-R/RW], パイオニア <!--* [http://www.sony.jp/products/digitaltheater/contents/dvd-recorder/format/dvd_format.html SONY 記録型DVDフォーマットの特徴] * [http://www.jva-net.or.jp/dvd-tech/ DVD周辺技術講座], 一般社団法人日本映像ソフト協会 --> {{光ディスク}} {{Video storage formats}} {{Basic computer components}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ていいふいていい}} [[Category:DVD|*]] [[Category:ビデオディスク]] [[Category:デジタルオーディオストレージ]] [[Category:コンピュータゲーム流通]] [[Category:相変化記録]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/DVD
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藤原カムイ
藤原 カムイ(ふじわら カムイ、1959年9月23日 - )は、日本の漫画家。東京都荒川区出身。男性。 私立本郷高校デザイン科を経て、桑沢デザイン研究所卒業。竹熊健太郎は桑沢時代の友人。 幼少の頃からマンガを描き、1979年、第18回手塚賞佳作でデビュー(「いつもの朝に」(藤原領一名義)。同期受賞者に北条司、野部利雄がいる)。商業誌デビューは1981年に『マンガ宝島』(宝島社)に掲載された「バベルの楽園」(藤原神居名義)。以降、オリジナリティのある繊細な画風が話題となり、様々な雑誌で独自の世界観に基づく短編作品を多く発表する。 1987年より『月刊コミックバーガー』(スコラ)で寺島優原作の『雷火』、1991年には『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)で川又千秋原作の『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』を連載し、人気となる。 代表作に『雷火』『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』『西遊記』『精霊の守り人』など。 大友克洋同様、メビウスより多大な影響を受けており、繊細な絵が特徴。ペンネームの由来は、アイヌ語で神や森羅万象を表す「カムイ」からで、高校時代より使い始める。 押井守原作『犬狼伝説』と『犬狼伝説 完結篇』で作画を担当。押井の作品『御先祖様万々歳!』が好きで久々にハマりましたと発言している。『アサルトガールズ』トリビュートコミック「アサルトガールズ・ボーナスステージ」も書いている。 阪神・淡路大震災の復興チャリティユニットとして声優の神谷明の呼びかけで結成されたWITH YOUのロゴデザインを務めている。 各作品の詳細などについてはリンク先の各記事を参照。
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藤原 カムイは、日本の漫画家。東京都荒川区出身。男性。 私立本郷高校デザイン科を経て、桑沢デザイン研究所卒業。竹熊健太郎は桑沢時代の友人。 幼少の頃からマンガを描き、1979年、第18回手塚賞佳作でデビュー(「いつもの朝に」。同期受賞者に北条司、野部利雄がいる)。商業誌デビューは1981年に『マンガ宝島』(宝島社)に掲載された「バベルの楽園」(藤原神居名義)。以降、オリジナリティのある繊細な画風が話題となり、様々な雑誌で独自の世界観に基づく短編作品を多く発表する。 1987年より『月刊コミックバーガー』(スコラ)で寺島優原作の『雷火』、1991年には『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)で川又千秋原作の『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』を連載し、人気となる。 代表作に『雷火』『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』『西遊記』『精霊の守り人』など。 大友克洋同様、メビウスより多大な影響を受けており、繊細な絵が特徴。ペンネームの由来は、アイヌ語で神や森羅万象を表す「カムイ」からで、高校時代より使い始める。 押井守原作『犬狼伝説』と『犬狼伝説 完結篇』で作画を担当。押井の作品『御先祖様万々歳!』が好きで久々にハマりましたと発言している。『アサルトガールズ』トリビュートコミック「アサルトガールズ・ボーナスステージ」も書いている。 阪神・淡路大震災の復興チャリティユニットとして声優の神谷明の呼びかけで結成されたWITH YOUのロゴデザインを務めている。
{{存命人物の出典明記|date=2022年3月1日 (火) 12:24 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 藤原 カムイ | 画像 = Kamui Fujiwara - Lucca Comics and Games 2015.JPG | 画像サイズ = | 脚注 = 藤原カムイ | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1959|9|23}} | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[荒川区]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = | 活動期間 = | ジャンル = | 代表作 = *『[[雷火]]』 *『[[ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章]]』 *『[[西遊記]]』 *『[[精霊の守り人]]』 | 受賞 = 第18回[[手塚賞]]佳作 | サイン = | 公式サイト = {{Wayback|http://www004.upp.so-net.ne.jp/studio2b/|KAMUI'S NOTE|date=20210126153800}} }} '''藤原 カムイ'''(ふじわら カムイ、[[1959年]]{{R|dot}}[[9月23日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]][[荒川区]]出身{{R|booklive}}。男性。 私立[[本郷中学校・高等学校|本郷高校]]デザイン科を経て{{R|dot}}、[[桑沢デザイン研究所]]卒業。[[竹熊健太郎]]は桑沢時代の友人。 幼少の頃からマンガを描き、[[1979年]]、第18回[[手塚賞]]佳作でデビュー(「いつもの朝に」('''藤原領一'''名義){{R|dot}}。同期受賞者に[[北条司]]、[[野部利雄]]がいる){{R|booklive}}。商業誌デビューは1981年に『[[マンガ宝島]]』([[宝島社]])に掲載された「バベルの楽園」('''藤原神居'''名義){{R|nat}}。以降、オリジナリティのある繊細な画風が話題となり、様々な雑誌で独自の世界観に基づく短編作品を多く発表する{{R|dea}}。 1987年より『[[月刊コミックバーガー]]』([[スコラ]])で[[寺島優]]原作の『[[雷火]]』、1991年には『[[月刊少年ガンガン]]』([[スクウェア・エニックス]])で[[川又千秋]]原作の『[[ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章]]』を連載し、人気となる{{R|nat}}。 代表作に『雷火』『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』『[[西遊記]]』『[[精霊の守り人]]』など{{R|dot|booklive|dea}}。 [[大友克洋]]同様、[[ジャン・ジロー|メビウス]]より多大な影響を受けており、繊細な絵が特徴。ペンネームの由来は、[[アイヌ語]]で神や森羅万象を表す「カムイ」からで、高校時代より使い始める{{要出典|date=2022年3月1日 (火) 12:24 (UTC)}}。 [[押井守]]原作『[[犬狼伝説]]』と『犬狼伝説 完結篇』で作画を担当。押井の作品『[[御先祖様万々歳!]]』が好きで久々にハマりましたと発言している。『[[アサルトガールズ]]』トリビュートコミック「アサルトガールズ・ボーナスステージ」も書いている{{要出典|date=2022年3月1日 (火) 12:24 (UTC)}}。 [[阪神・淡路大震災]]の復興チャリティユニットとして[[声優]]の[[神谷明]]の呼びかけで結成された[[WITH YOU (音楽ユニット)|WITH YOU]]のロゴデザインを務めている{{要出典|date=2022年3月1日 (火) 12:24 (UTC)}}。 == 仕事一覧 == === デザイン === * [[エルヴァンディアストーリー]](キャラクターデザイン) * [[天地創造 (ゲーム)|天地創造]](キャラクターデザイン) * [[グランディア エクストリーム]](キャラクターデザイン) * [[46億年物語]] はるかなるエデンへ(キャラクターデザイン) * [[アド・バード]](キャラクターデザイン、制作中止) * [[地球防衛未亡人]](ユニフォームデザイン) === 漫画作品 === 各作品の詳細などについてはリンク先の各記事を参照。 <small> * 2022年10月現在。 </small> {| style="font-size:smaller" | style="background-color: #fdd; width: 1em; " | | 連載作品 | style="background-color: #ddf; width: 1em; " | | 短編集 |} {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller; background-color:#fdd" ! 作品名 !! 発売 !! 掲載誌 !! 巻数 !! 注記 |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">でじやぶ</span>デジャヴ || [[白夜書房]] || 1983年12月10日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全11話</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # ONE WAY LOVE(『少女激写』) # ヒョウイ(『[[プチアップルパイ|プチアップル・パイ]] 美少女まんがベスト集成2』1983年) # Cannibalisms Carnival(『[[漫画ブリッコ]]』1983年6月号) # デジャヴ水の記憶(『漫画ブリッコ』1983年8月号) # 打獣記(『漫画ブリッコ』1983年10月号) # THE END OF THE GAME # メトロのアリス SUB WAY LOVE # 欲望という名の惑星(『漫画ブリッコ』1983年9月号) # PIN BALL H2O CONCEPT(『漫画ブリッコ』1983年11月号 - 12月号) # H2O(『漫画ブリッコ』1983年7月号) # 麒麟の戻る日(1983年7月下旬製造) || 全1巻 || 「水の記憶」に収録された漫画は1991年に「[[水の記憶 MEMORY OF WATER]]」のタイトルでテレビドラマ化。 |- | <span style="display:none">かなたへどくたあかんとのうちゆうそうせいき</span>彼方へ Dr.カントの宇宙創世紀 || コア出版 || 『[[漫画ブリッコ|漫画ブリッコDX]]』1984年8月号、『コミックOZ』1985年1月創刊号 - 不明 || 全1巻 || 藤原の初長編作品(未完)。マンガ誌『コスモコミック』(サンポウジャーナル)にて連載予定だったが、第1話の完成直後に雑誌が休刊(1978年){{R|booklive}}。 |- | <span style="display:none">ほつとあいきゆう</span>HOT!愛Q || [[双葉社]] || 『[[漫画アクション|別冊アクション]]』1984年5月25日号 - 不明 || 全1巻 || |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">ぶよぶよ</span>BUYO BUYO || 白夜書房 || 1984年6月1日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全9話</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 楽しいムーミン一族(『[[漫画ブリッコ]]』1984年5月号) # 室内の家族グループ # BUYO BUYO(『[[プチアップルパイ|プチアップル・パイ]] 美少女まんがベスト集成5』1983年) # イグアナ少年ジム(『[[コミックマルガリータ]]』1984年 Vol.3 - 5 # ししゃもくずし(『漫画ブリッコ』1984年4月号) # 茶目子の一日 (『漫画ブリッコ』1984年6月号) # 必殺仕上人(『漫画ブリッコ』1984年5月号) # おいね(『漫画ブリッコ』1984年2月号、原作:[[竹熊健太郎]]) # 蜜柑(『漫画ブリッコ』1984年3月号) || 全1巻 || |- | <span style="display:none">ちよこれとぱにつく</span>チョコレート パニック || 双葉社 || 『[[月刊スーパーアクション]]』1984年7月号 - 1987年9月号 || 全4巻 || 読切版が月刊スーパーアクション1983年12月号から1984年4月号まで連載した。1985年には「ザ・チョコレートパニック・ピクチャーショー」というタイトルでアニメ化された。 |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">ゆうとぴあ</span>遊人PIΔ(ゆうとぴあ) || 壱番館書房 || 1985年2月20日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全7話</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM(同人誌『大西洋』1979年) # MOON CHILD(『アリスくらぶ』1984年3号) # PRISM(『[[遠藤諭|東京おとなクラブ増刊 PRESS]]』1984/8/1発売) # 遊人PIΔ(『[[季刊コミックアゲイン]]』1984年8月夏号) # ピンナップベイビ(『劇画デカメロン』1984年5月号) # SOME TIME(『メロンCOMIC』1984年8月号) # COPY CITY(『[[漫画アクション|別冊アクション]]』1983年) || 全1巻 || |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">ひようい</span>憑依 || 白夜書房 || 1985年8月1日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全8話</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 発酵(『[[季刊コミックアゲイン]]』1984年11月秋号) # ラマ・マニ(『[[漫画ブリッコ]]』1985年1月号 - 3月号) # エンチウ(『[[プチアップルパイ|プチアップル・パイ]] 美少女まんがベスト集成3』1983年) # ピナ(『プチアップル・パイ FOR GIRL 美少女まんがベスト集成8』1984年) # HAG(『怪奇と幻想 メディウム』1984 Vol.1) # 皐月病と玉姫様(『プチアップル・パイ 美少女まんがベスト集成7』1984年) # 泥濘(『漫画ブリッコ』1984年7月号) # 増殖 KINOKO SYNDROME(『漫画ブリッコ』1984年10月号) || 全1巻 || |- | <span style="display:none">えいちつうおおいめえじー</span>H2O Image || [[徳間書店]] || 『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』1985年11月号 - 1986年7月号 || 全3巻 || |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">ちやめこ</span>茶目子 || [[新書館]] || 1986年2月5日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全7話</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 茶目子の一日(書き下ろし版) # 茶目子(書き下ろし) # 岩窟翁andダサイ(『いけないCOMIC』1984年創刊号) # 爆裂都市 茶目子 # ジャンキーソルジャー・メタム(『[[アニメージュ]]増刊 ザ・ゼロ』1984年6月号) # 茶目子と愉快な仲間たち # 茶目子(書き下ろし) || 全1巻 || |- | <span style="display:none">せいみかえらがくえんひようりゆうき</span>[[聖ミカエラ学園漂流記]] || ふゅーじょんぷろだくと || 『少年宝島』1987年1月16日号 - 3月6日号 || 全1巻 || 原作:[[高取英]] |- | <span style="display:none">らいか</span>[[雷火]] || スコラ || 『[[月刊バーズ|コミックバーガー]]』1987年第10号 - 『[[月刊バーズ|コミックバーズ]]』1997年10月号 || 全15巻 || 原作:[[寺島優]] |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">しふくせんねん</span>至福千年 || [[河出書房新社]] || 1988年01月29日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全12話</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # KAMUI VISION # リラのホテル(『ShortStories』1987年SUMMER号) # 九月になれば # メタモルフォーゼ(『アリスくらぶ』1984年第6号) # 発酵(『[[季刊コミックアゲイン]]』1984年11月秋号) # ONE WAY LOVE(『少女激写』) # ピナ(『[[プチアップルパイ|プチアップル・パイ]] FOR GIRL 美少女まんがベスト集成8』1984年) # 鬼童(『ビッグコミックスピリッツ』1985年02月28日号) # エンチウ(『プチアップル・パイ 美少女まんがベスト集成3』1983年) # 泥濘(『[[漫画ブリッコ]]』1984年7月号) # HAG(『怪奇と幻想 メディウム』1984 Vol.1) # 増殖(『漫画ブリッコ』1984年10月号) || 全1巻 || |- | <span style="display:none">ていとものがたりばびろんとうきよう</span>[[帝都物語|帝都物語―Babylon Tokyo]] || [[角川書店]] || 1988年2月 (単行本発売) || 全1巻 || 原作:[[荒俣宏]] |- | <span style="display:none">けんろうでんせつ</span>[[犬狼伝説]] || [[日本出版社]]、<br>角川書店 ||第一部:『アメージング・コミックス』1988年第2号 - 1989年第5号、『コンバットコミック』1989年第30号 - 1990年第38号<br>完結篇:『[[月刊少年エース]]』1999年8月号 - 2000年1月号 || 全2巻 || 原作:[[押井守]]。[[ケルベロス・サーガ]]作品シリーズの第2作目。 |- | <span style="display:none">きゆうやくせいしよそうせいき</span>旧約聖書ー創世記ー || コア出版 || 1989年6月発売 描き下ろし || 全2巻 || [[創世記]]を原作とする漫画作品。 |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">どろつぷ</span>ドロップ || [[潮出版社]] || 1990年01月30日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全9話</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # venise2001(1984年) # 生きる(『[[週刊ヤングマガジン|ヤングマガジン増刊]]』1987年10月12日号) # 羽衣天女(『[[月刊コミコミ]]』1985年11月号) # 飛翔の鎖(『コミコミ』1984年12月号) # ビッグバン(『[[モーニング (漫画雑誌)|コミックモーニング]]』1984年23号) # メモリータンク(『モーニング』1985年5号) # 千年王国(『モーニング』1985年6号) # 純粋都市(『モーニング』1985年7号) # 水の記憶(『[[コミックトム]]』1987年7−8月号) || 全1巻 || |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">くりつぷ</span>クリップ || スコラ || 1990年9月16日発売 || 全1巻 || |- | <span style="display:none">どらごんくえすとれつでんろとのもんしよう</span>[[ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章]] || [[スクウェア・エニックス]] || 『[[月刊少年ガンガン]]』1991年4月創刊号 - 1997年第8号 || 全21巻 || 原作・設定:[[川又千秋]]、脚本:小柳順治。完全版全15巻。 |- | <span style="display:none">からあめいる</span>カラーメイル || スクウェア・エニックス || 『月刊少年ガンガン』1998年2月号 - 10月号 || 全1巻 || |- | <span style="display:none">ふくじんちようきたん</span>福神町綺譚 || [[集英社]] || 『[[ウルトラジャンプ]]』1998年第17号 - 2000年10月号 || 全3巻 || 読み切りはウルトラジャンプ1998年13号に掲載された。ウルトラジャンプ誌上での連載と並行してネット上で「町民」を募集し、登録した町民と作者とのコミュニケーションによって内容が決まっていくという試みがなされ、「双方向漫画(インタラクティブコミック)」と銘打たれた作品であった。 |- | <span style="display:none">さいゆうき</span>西遊記 || [[NHK出版]] || 1998年11月20日 - 2005年10月31日 (単行本発売) || 全4巻 || 岩波文庫版を底本とし、フルカラーで描かれた作品。 |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">ばああじん</span>VIRGIN || Studio 2B || 1999年12月23日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全9話</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # ねこくんとねずみくん (1966~68年) # いつもの朝に (1981年) # 揚棄 (1979年) # Species in Peril (1973年) # 燃えよドラゴン2 (1976年) # MIND (1983年) # 神居オリジナル (1976~78年) # ヒストレスヴィラからの脱出 (1977年、原作:[[筒井康隆]]) # 西遊記 (1978年) || 全1巻 || 初期短編集 |- | <span style="display:none">きぶんはもうせんそうつうぽいんとわん</span>[[気分はもう戦争|気分はもう戦争2.1]] || 角川書店 || 『月刊少年エース』2001年2月号 - 2002年1月号 || 全1巻 || 原作:[[矢作俊彦]] |- | <span style="display:none">どらごんくえすとえでんのせんしたち</span>[[ドラゴンクエスト エデンの戦士たち]] || スクウェア・エニックス || 『月刊少年ガンガン』2001年2月号 - 2006年1月号 || 全14巻 || |- | <span style="display:none">うるとらきゆう</span>[[ウルトラQ]] Unbalance Zone || 角川書店 || 「[[月刊ニュータイプ|Newtype THE LIVE]]」No.004 (2002年11月号) - No.009 (2003年11月号) || 全2巻 || 特撮テレビ番組「[[ウルトラQ]]」のリメイク漫画。 |- | <span style="display:none">あんらつきいやんぐめん</span>[[アンラッキーヤングメン]] || 角川書店 || 『[[小説 野性時代]]』2004年2月3号 - 2006年5月30号 || 全2巻 || 原作:[[大塚英志]] |- | <span style="display:none">どらごんくえすとれつでんろとのもんしようりたあんず</span>[[ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章|ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章Returns]] || スクウェア・エニックス || 『[[ガンガンYG]]』壱号 (2004年03月号) - 参号 (2004年09月号) || 全1巻 || 原作・設定:[[川又千秋]]、脚本:小柳順治。完全版全15巻。 |- | <span style="display:none">どらごんくえすとれつでんろとのもんしようもんしようをつぐものたちへ</span>[[ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章 〜紋章を継ぐ者達へ〜]] || スクウェア・エニックス || 『[[ヤングガンガン]]』2004年創刊号 - 2020年2号 || 全34巻 || 原作・原案:[[映島巡]](1 - 4巻)、梅村崇(5巻 - 34巻)。完全版全15巻。 |- | <span style="display:none">せいれいのもりびと</span>[[守り人シリーズ|精霊の守り人]] || スクウェア・エニックス || 『月刊少年ガンガン』2007年4月号 - 2008年8月号 || 全3巻 || 原作:[[上橋菜穂子]] |- | <span style="display:none">らぶしんくどりいむ</span>[[LOVE SYNC DREAM]] || 徳間書店 || 『[[月刊COMICリュウ]]』2008年1月号 - 2011年8月号 || 全2巻 || 原作:[[J.D.モルヴァン]]。[[不思議の国のアリス]]をモチーフとしている。 |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">かばあず</span>[[COVERS (漫画)|COVERS]] || 集英社 || 2008年11月20日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全5話</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # ひまわり 機動戦士ガンダム オリジナルサイドストーリー(原作:[[矢立肇]]・[[富野由悠季]]、脚本:[[兵頭一歩]]、[[ガンダムエース]]特別号 2003年5月号増刊(月刊準備号)) # 鉄人28号(原作:[[横山光輝]]、Lemni3003 第3號) # 8マン(原作:[[平井和正]]・[[桑田二郎]]、[[robot (雑誌)|robot]] 9 (2007年8月発売)) # シヴァの憂鬱 # 八犬伝PREVIEW(robot 8 (2007年3月発売)) || 全1巻 || |- | <span style="display:none">るうつ</span>ROOTS || 徳間書店 || 『[[JC.COM]]』第1号 - 第9号 || 全1巻 || |- | <span style="display:none">おず</span>orz || 徳間書店 || 『JC.COM』第10号 - 第12号、PLUS NEWLY 2011年 || 全1巻 || 「LOVE SYNC DREAM」のスピンオフ作品。[[オズの魔法使い]]をモチーフとしている。 |- | <span style="display:none">れこおど</span>RECORD || [[アース・スター エンターテイメント|泰文堂]] || 『[[コミック アース・スター]]』2011年3月12日 - 11月12日 || 全1巻 || 原作協力:中島直俊) |- style="background-color:#ddf" | <span style="display:none">ふじわらかむいしよきあなろぐかるとたんぺんしうういしううでいじたるこみつくりろおどばあじおん</span>藤原カムイ初期アナログカルト短編拾遺集 DIGITAL COMIC RELOAD Ver. || CoMax || 2021年12月25日発売 <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">メタモルフォーゼ</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 蛹化の女 # PUNK蛹化の女 # HAG # PRISM # 増殖 # 博士の異常な愛情 # SOMETIME AGAIN # ピンナップベイビ # メタモルフォーゼ # SOUL TRAIN # 泥濘 # メトロのアリス # 発酵 # モノクローム エンジェル # ヒョウイ # THE END OF THE GAME # Cannibalisms Carnival # 麒麟の戻る日 </div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">ラマ・マニ</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # ラマ・マニ # 飛翔の鎖  # COPY CITY # 羽衣天女 # 受胎酷知 # ピナ # 趨向(同人雑誌『ANG ANG』79年夏) # 欲望という名の惑星 # バベルの楽園(マンガ宝島 1981年) # 生きる </div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">ブヨブヨ</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 七福ジンジャー # BUYO BUYO # 地球防衛少女イコちゃん # MOON CHILD # 打獸記 # ロイド博士の実験 # ししゃもくずし # 必殺仕上人 # イグアナ少年ジム # おいね </div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">ドロップ</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 四月になれば (「九月になれば」改題) # 冒険島は終わらない # 河童 # sloblue monad # 遊人PIΔ # エンチウ # DROP MILLENARIANISM (「千年王国」改題) # DROP PURE CITY (「純粋都市」改題) # DROP BIG BANG (「ビッグバン」改題) # DROP MEMORY TANK (「メモリータンク」改題) # VENIS 2010 (「venise2001」改題) || 全4巻 || 初期短編作品デジタルリマスター版 |} === 未単行本化漫画 === * [[週刊マンガ日本史|週刊マンガ日本史(]][[朝日新聞出版]]) ** 創刊号「[[卑弥呼]]」 ** 第16号「[[雪舟]]」 ** 他に付録「日本史人物カード」の絵を「毎号9枚×50号=450枚」描いた。 * [[週刊マンガ世界の偉人]](朝日新聞出版) ** 第80号「[[ニール・アームストロング|アームストロング]]」 ** 他に付録「世界史人物カード」の絵を「毎号9枚×50号=450枚」描いた。 * 銀色のうさぎ([[ケロケロエース]]、2012年8月号)原案[[久保淳]] / 脚本[[伊藤和典]] マンガアニメーションとしても配信 * 異世界に転生したら投資を勧められた件 - YouTubeチャンネル「ビジネスドライブ!」で公開された。([[株式会社]]SBI証券, 2021年11月19日 - 2022年1月29日) * ゾディアック・リヴォルバー<ref>{{Cite web|和書|url=https://medium.com/playmining-game/%E4%BD%9C-%E8%97%A4%E5%8E%9F%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%A4-%E3%82%BE%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E8%A9%B1-42b4006555a2|title=作・藤原カムイ「ゾディアック・リヴォルバー」第一話|accessdate=2023-02-22}}</ref> - 藤原がデザインしたFujiwara Kamui Verse〜Antiqua Reincarnation〜(カムイバースプロジェクト・アンティクア・リインカーネーション)プロジェクトの一環<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/529863|title=藤原カムイがデザインしたメタバースが老舗酒造とコラボ、日本酒「カムイバー酒」販売|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-06-22|accessdate=2023-06-22}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://kamuiverse.com/|title=Fujiwara Kamui Verse〜Antiqua Reincarnation〜|website=Fujiwara Kamui Verse〜Antiqua Reincarnation〜|accessdate=2023-02-22}}</ref> === 挿絵 === * 「半熟せりかの探偵ごっこ」シリーズ(1984年 - 1988年、コバルト文庫、著:[[久美沙織]]) **季刊小説誌「[[Cobalt (雑誌)|Cobalt]]」掲載時から担当。単行本カバーは描きおろし(「3時のおやつに毒薬を」「碧い宝石箱」「ありがちのラブ・ソング」「百九十センチの迷惑」)。 **久美の小説をモチーフとしたイメージアルバム「MYSTERIOUS BEAUTY」(1985年、日本コロムビア) - ジャケット及びライナー(イラスト)。 * [[アルフレッド・ノーベル|ノーベル]] 未来へのメッセージ(2022年4月13日、著:[[大野進]]、[[青い鳥文庫|講談社青い鳥文庫]]) 全1巻 === ゲーム === * [[ワールド・ネバーランド]] - パッケージなどのデザイン * [[46億年物語]] - パッケージイラスト SFC版 エニックス * [[天地創造 (ゲーム)|天地創造]] - キャラクターデザイン SFC エニックス  * [[グランディアエクストリーム]] - キャラクターデザイン PS2 エニックス * 特撮世代のための正義と愛と力の新感覚カードゲーム スーパーヒーローvs悪の帝国 - イラスト全般 カードゲーム [[翔企画]] === アニメ === * 「ザ・チョコレートパニック・ピクチャーショー」(1985年) *:「チョコレート・パニック」のアニメ化。藤原カムイは原作だけでなく企画・構成等にも連名だがクレジットされている。 * 「[[王立宇宙軍 オネアミスの翼]]」 *:<!--この作品のために [[ガイナックス|GAINAX]]が創立されたのは有名だが、藤原カムイも-->プロダクションデザインとレイアウトデザインの一人として参加していた{{要出典|date=2022年3月1日 (火) 12:24 (UTC)}}。 * 「[[地底人 (漫画)|地底人Ⅱ クリスマスはエエド]]」 == アシスタント == * [[伊藤勢]] * [[杉浦守]] == 出典 == {{Reflist|refs= <ref name="booklive">{{Cite web|和書|title=田中圭一× 『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』藤原カムイ先生インタビュー|url=https://booklive.jp/feature/index/id/wagakoma07|website=booklive.jp|accessdate=2019-10-26}}</ref> <ref name="nat">{{Cite web|和書|title=藤原カムイ|url=https://natalie.mu/comic/artist/2310|website=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|accessdate=2022-03-01}}</ref> <ref name="dea">{{Cite press release|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000085.000047612.html|title=DEA社、PlayMining Verse第一弾となる漫画家藤原カムイ氏デザインの「ランドNFT」を販売!|publisher=Digital Entertainment Asset Pte.Ltd|works=PRTIMES|date=2022-01-31|accessdate=2022-03-01}}</ref> <ref name="dot">{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/94327?page=1|title=「卑弥呼の生足はNGだった」週刊マンガ日本史改訂版発刊で語る藤原カムイ|date=2015-01-27|website=[[AERA dot.]]|accessdate=2022-03-01}}</ref> }} == 外部リンク == * {{Wayback|http://www004.upp.so-net.ne.jp/studio2b/|KAMUI'S NOTE|date=20210126153800}} * {{Wayback|http://www.studio2b.co.jp/|KAMUI'S NOTE|date=20000306054100}} 旧公式サイト * {{Twitter|kamuif}} {{Manga-artist-stub}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=福神町綺譚 |1-1=漫画作品 ふ |1-2=ウルトラジャンプ }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふしわら かむい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:桑沢デザイン研究所出身の人物]] [[Category:本郷高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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藤原芳秀
藤原 芳秀(ふじわら よしひで、男性、1966年6月13日 - )は、日本の漫画家。鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市河原町)出身(本籍地は八頭郡船岡町〈現・八頭町〉)。 河原第一小学校→河原中学校→鳥取県立鳥取西工業高等学校(現・鳥取県立鳥取湖稜高等学校)卒業。 1984年、高校在学中に『魔利巣(マリス)』で小学館新人コミック大賞に入選。卒業後、池上遼一・本宮ひろ志のアシスタントを経て、1986年に『私立終点高校』でデビューする。 代表作に『拳児』、『ジーザス』、『コンデ・コマ』、『闇のイージス』など。師匠譲りの劇画調タッチが特色である。 2019年からふじわら・よしひでの名義でさいとう・プロダクションに制作スタッフとして所属している。「作画チーフ」という肩書であるが、さいとう・たかをの没後は「実質的な作者」として活動している。同じくさいとう・プロダクション所属の藤原輝美は、芳秀の双子の兄である。 以上、ふじわら・よしひで名義、作画の一員として(2019年から)
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藤原 芳秀は、日本の漫画家。鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市河原町)出身(本籍地は八頭郡船岡町〈現・八頭町〉)。 河原第一小学校→河原中学校→鳥取県立鳥取西工業高等学校(現・鳥取県立鳥取湖稜高等学校)卒業。 1984年、高校在学中に『魔利巣(マリス)』で小学館新人コミック大賞に入選。卒業後、池上遼一・本宮ひろ志のアシスタントを経て、1986年に『私立終点高校』でデビューする。 代表作に『拳児』、『ジーザス』、『コンデ・コマ』、『闇のイージス』など。師匠譲りの劇画調タッチが特色である。 2019年からふじわら・よしひでの名義でさいとう・プロダクションに制作スタッフとして所属している。「作画チーフ」という肩書であるが、さいとう・たかをの没後は「実質的な作者」として活動している。同じくさいとう・プロダクション所属の藤原輝美は、芳秀の双子の兄である。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 藤原 芳秀 |画像 = Yoshihide Fujiwara.jpg |画像サイズ = 200px |脚注 = |本名 = 藤原 芳秀 |生年 = {{生年月日と年齢|1966|6|13}} |生地 = {{JPN}}、[[鳥取県]][[八頭郡]][[河原町 (鳥取県)|河原町]](現・[[鳥取市]]) |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = 漫画家 |活動期間 = [[1986年]](昭和61年) - |ジャンル = [[少年漫画]]・[[青年漫画]] |代表作 = 『[[拳児]]』<br />『[[ジーザス (漫画)|ジーザス]]』<br />『[[コンデ・コマ]]』<br />『[[闇のイージス]]』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''藤原 芳秀'''(ふじわら よしひで、男性、[[1966年]][[6月13日]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、328頁</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[鳥取県]][[八頭郡]][[河原町 (鳥取県)|河原町]](現・[[鳥取市]]河原町)出身<ref name="まんが博">[http://manga-tottori.jp/?id=343 国際まんが博会場内、展示パネルプロフィールより、2012年8月4日確認]</ref>([[本籍地]]は八頭郡[[八頭町|船岡町〈現・八頭町〉]])<ref>[[渡辺美術館]]で開催中の原画展より</ref>。 [[鳥取市立河原第一小学校|河原第一小学校]]→[[鳥取市立河原中学校|河原中学校]]→[[鳥取県立鳥取湖陵高等学校|鳥取県立鳥取西工業高等学校(現・鳥取県立鳥取湖稜高等学校)]]卒業<ref name="まんが博" />。 [[1984年]]、高校在学中に『魔利巣(マリス)』で[[小学館新人コミック大賞]]に入選。卒業後、[[池上遼一]]・[[本宮ひろ志]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て<ref name="mangaseek" />、[[1986年]]に『私立終点高校』でデビューする。 代表作に『拳児』、『ジーザス』、『コンデ・コマ』、『闇のイージス』など。師匠譲りの劇画調タッチが特色である。 2019年から'''ふじわら・よしひで'''の名義で[[さいとう・たかを#さいとう・プロダクション|さいとう・プロダクション]]に制作スタッフとして所属している。「作画チーフ」という肩書であるが、[[さいとう・たかを]]の没後は「実質的な作者」として活動している<ref>[https://www.saito-pro.co.jp/staff 制作スタッフ|さいとう・プロダクション公式サイト](2019年11月23日閲覧)</ref>。同じくさいとう・プロダクション所属の藤原輝美は、芳秀の双子の兄である。 == 作品リスト == * 私立終点高校(原作・[[勝鹿北星|きむらはじめ]]) * [[拳児]](原作・[[松田隆智]]、[[週刊少年サンデー]]、[[小学館]]) ** 拳児2 (原案・[[松田隆智]]、シナリオ協力・佐藤俊章、[[サンデーうぇぶり]]、2018年 - ) * [[ジーザス (漫画)|ジーザス]](原作・[[七月鏡一]]、週刊少年サンデー、小学館) ** [[JESUS 砂塵航路]](原作・七月鏡一、[[モバMAN]]、小学館) * Dr.トゥモロウ(原作・七月鏡一、『週刊少年サンデー』1999年41-42号、小学館) * [[バーチャファイター]](原作・七月鏡一、小学館) * [[コンデ・コマ]](原作・[[鍋田吉郎]]、[[週刊ヤングサンデー]]、小学館) * 諸葛孔明伝(原作・[[瀬戸龍哉]]、小学館 、『[[小学館の学年別学習雑誌|小学六年生]]』1996年4月号 - 1997年3月号) * [[闇のイージス]](原作・七月鏡一、週刊ヤングサンデー、小学館) ** [[闇のイージス#暁のイージス AEGIS IN THE DAWN|暁のイージス]](原作・七月鏡一、週刊ヤングサンデー - [[週刊ヤングサンデー#YSスペシャル|YSスペシャル]]、小学館) * [[BUGS -捕食者たちの夏-]](原作・七月鏡一、週刊ヤングサンデー、小学館) ** BUGS LAND(原作・七月鏡一、モバMAN連載中、小学館) * ファーストレディ(原作・[[宮崎克]]、[[週刊漫画ゴラク]]連載中、不定期連載、[[日本文芸社]]) * もののふ-山陰鳥取 知られざる歴史の物語-(原作・増田孝彦、[[リイド社]]、2014年) - 鳥取を舞台とした『[[コミック乱ツインズ]]』掲載読切を収録 * 葉隠物語(原作・[[安部龍太郎]]、[[コミック乱ツインズ]]、リイド社) * リー・クアンユー物語:国家を創った男(原作・鍋田吉郎、小学館、2016年) * ZEUS -INSTALLED-(原作・七月鏡一、モバMAN、小学館、2016年) * コミック版 金栗四三物語 ~日本初のオリンピックマラソンランナー(原案協力・[[佐山和夫]]、脚本・鍋田吉郎、小学館、2018年) * たびごはん ~みさと駅弁メモリーズ~(モバMAN、小学館、2018年) == 参加作品 == === 漫画 === * [[ゴルゴ13]]([[さいとう・たかを]]/さいとう・プロダクション) ** 銃器職人・デイブ(同上) - スピンオフシリーズ第1作 ** Gの遺伝子 少女ファネット(同上) - スピンオフシリーズ第2作 * [[鬼平犯科帳]](同上) 以上、ふじわら・よしひで名義、作画の一員として(2019年から{{Efn2|さいとうの死後、構成・構図は「さいとう・プロ」表記となるが、その直前には構図でもクレジットされる回もあった<ref>{{Cite web|和書|title=ビッグコミック 16号 8月10日発売 ゴルゴ13 第610話「覚悟がすべて 中編1」収録|url=https://www.saito-pro.co.jp/archives/3792|website=さいとう・プロダクション|accessdate=2022-02-11}}</ref>。}}) === ゲーム === * [[ライブ・ア・ライブ|LIVE A LIVE]] (1994年、[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]) 功夫編のキャラクターデザイン * [[ガープス|GURPS]] マーシャル・アーツ(1993年)表紙、本文イラスト == 師匠 == * [[池上遼一]]<ref name="mangaseek" /> * [[本宮ひろ志]]<ref name="mangaseek" /> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Yoshihide Fujiwara}} * {{Twitter|dghnb009|藤原芳秀}} * [http://www.chukai.ne.jp/~agora/room-fujiwara.htm 藤原芳秀の部屋] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:ふしわら よしひて}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:さいとう・プロダクションの人物]] [[Category:日本出身の双子]] [[Category:鳥取県出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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羅川真里茂
羅川 真里茂(らがわ まりも、9月21日 - )は、日本の漫画家。青森県八戸市出身。血液型はB型。女性。 青森県立南郷高等学校に通学していた。 デビュー以前は、月刊『JUNE』「ケーコたん(竹宮惠子)のお絵描き教室」に投稿。竹宮から「背景画がサッパリしすぎていてプロとしては通用しない」と酷評された。なお、このとき用いられた主人公たちは後に『赤ちゃんと僕』などに再登場している。 1990年、「タイムリミット」(『花とゆめ』(白泉社)11号)にてデビュー。翌1991年、同誌にてホームコメディ「赤ちゃんと僕」の連載を開始。同作品は6年間に渡って連載され、1996年にはアニメ化も行われるなど、羅川の代表作となった。 1995年、『花とゆめ』にてゲイをテーマにしたシリアスな作品「ニューヨーク・ニューヨーク」の連載を開始。同年、『赤ちゃんと僕』で第40回小学館漫画賞(少女部門)を受賞。 1998年、『花とゆめ』にて高校を舞台としたテニス漫画「しゃにむにGO」の連載を開始。同作品は約11年に渡る長期連載となった。 2010年、読み切りを経て『月刊少年マガジン』(講談社)5月号より「ましろのおと」の連載を開始。出身の青森県内の津軽地方における津軽三味線奏者をテーマとしている。 2011年4月2日、TV番組『王様のブランチ』に出演した。 2016年、『別冊花とゆめ』にて木原音瀬の同名BL小説を漫画化した「吸血鬼と愉快な仲間たち」の連載を開始。 父の勇男は過酷な遠洋漁業を16歳から50年に渡り戦い抜いた元イカ漁師。 元女子レスリング選手・吉田沙保里ははとこにあたる。羅川の父方の祖母の妹が吉田の父方の祖母である。2019年8月13日放送の「初めまして!遠い親戚さん」にて2人の関係が判明したが、その際に手紙と一緒に吉田沙保里の似顔絵を本人に送った。 詳細は各リンク先および脚注を参照 。
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羅川 真里茂は、日本の漫画家。青森県八戸市出身。血液型はB型。女性。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 羅川 真里茂 | ふりがな = らがわ まりも | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[青森県]][[八戸市]] | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢||9|21}} | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1990年]] - | ジャンル = [[少女漫画]]<br />[[少年漫画]] | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = 第152回花とゆめまんが家コーストップ賞(1990年)<br />第16回花とゆめまんが家コースビッグチャレンジ賞佳作(1990年)<br />第40回[[小学館漫画賞]](少女部門・1995年)<br />第36回講談社漫画賞(少年部門・2012年)<br />第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(2012年) | 公式サイト = [http://www.ragawa.co.jp/ ぱりぱりまりもせんべぇ] }} '''羅川 真里茂'''(らがわ まりも、[[9月21日]]<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=http://www.hakusensha.co.jp/artist/profile.php?artistname=%97%85%90%EC%90%5E%97%A2%96%CE&artistname2=%82%E7%82%AA%82%ED%82%DC%82%E8%82%E0&keyword=%82%E7&home=%90%C2%90X%8C%A7&birthday=9%8C%8E21%93%FA&bloodtype=B%8C%5E&debut=1990%94N%81u%89%D4%82%C6%82%E4%82%DF%81v22%8D%86%81w%83%5E%83C%83%80%83%8A%83%7E%83b%83g%81x|title=白泉社 作家データベース 羅川真里茂|publisher=白泉社 |accessdate=2016-03-05}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[青森県]]<ref name="profile"/>[[八戸市]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はB型<ref name="profile"/>。[[女性]]。 == 来歴 == [[青森県立八戸北高等学校南郷校舎|青森県立南郷高等学校]]に通学していた。 デビュー以前は、月刊『[[JUNE (雑誌)|JUNE]]』「ケーコたん([[竹宮惠子]])のお絵描き教室」に投稿。竹宮から「背景画がサッパリしすぎていてプロとしては通用しない」と酷評された。なお、このとき用いられた主人公たちは後に『[[赤ちゃんと僕]]』などに再登場している。 1990年、「タイムリミット」(『[[花とゆめ]]』([[白泉社]])11号)にてデビュー。翌1991年、同誌にてホームコメディ「[[赤ちゃんと僕]]」の連載を開始。同作品は6年間に渡って連載され、1996年にはアニメ化も行われるなど、羅川の代表作となった。 1995年、『花とゆめ』にて[[同性愛|ゲイ]]をテーマにしたシリアスな作品「[[ニューヨーク・ニューヨーク (漫画)|ニューヨーク・ニューヨーク]]」の連載を開始。同年、『赤ちゃんと僕』で第40回[[小学館漫画賞]](少女部門)を受賞。 1998年、『花とゆめ』にて高校を舞台としたテニス漫画「[[しゃにむにGO]]」の連載を開始。同作品は約11年に渡る長期連載となった。 2010年、読み切りを経て<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/24789|title=コミックナタリー 2009年12月6日 8:50付記事|羅川真里茂の111P読み切り「ましろのおと」月マガにて|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]] |accessdate=2010年6月26日 }}</ref>『[[月刊少年マガジン]]』([[講談社]])5月号より「[[ましろのおと]]」の連載を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/30117|title=コミックナタリー 2010年4月6日 15:30付記事|羅川真里茂が三味線男子描く「ましろのおと」月マガで始動|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]. |accessdate=2010年6月26日 }}</ref>。出身の青森県内の[[津軽地方]]における[[津軽三味線]]奏者をテーマとしている。 2011年4月2日、TV番組『[[王様のブランチ]]』に出演した<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/47084 |title=羅川真里茂が王様のブランチ出演!「ましろのおと」裏話も|publisher=コミックナタリー|date=2011-03-31|accessdate=2016-05-13}}</ref>。 2016年、『[[別冊花とゆめ]]』にて[[木原音瀬]]の同名BL小説を漫画化した「吸血鬼と愉快な仲間たち」の連載を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/185070 |title=羅川真里茂・中条比紗也・伊沢玲の新連載3本、別花で開幕!紫のバラの贈呈も|publisher=コミックナタリー|date=2016-04-26|accessdate=2016-05-13}}</ref>。 == 人物 == 父の勇男は過酷な遠洋漁業を16歳から50年に渡り戦い抜いた元イカ漁師。 元女子レスリング選手・[[吉田沙保里]]は[[はとこ]]にあたる<ref>{{Cite news |title=吉田沙保里、“超有名漫画家”と親戚だった |newspaper=[[ナリナリドットコム]] |date=2019-08-14 |url=https://www.narinari.com/Nd/20190855900.html |accessdate=2019-08-16}}</ref>。羅川の父方の祖母の妹が吉田の父方の祖母である。2019年8月13日放送の「初めまして!遠い親戚さん」にて2人の関係が判明したが、その際に手紙と一緒に吉田沙保里の似顔絵を本人に送った。 == 作品リスト == * 発表年は掲載誌の号数に準拠。 * '''太字'''は連載作品 * 〈'''掲載誌'''〉'''HY''':『[[花とゆめ]]』 / '''THY''' :『[[ザ花とゆめ]]』 / '''HYE''':『花とゆめEPO』 / '''HYPZ''':『花とゆめプラネット増刊』 / '''BHY''':『[[別冊花とゆめ]]』 / '''HYP''':『花とゆめプラス』 / '''HYA''':『花とゆめAi』 / '''ML''':『[[メロディ]]』 (以上、[[白泉社]]) '''MSM''':『[[月刊少年マガジン]]』 ([[講談社]]) * 〈'''収録'''〉'''赤僕''':『[[赤ちゃんと僕]]』 / '''東京''':『東京少年物語』 / '''お天気''':『[[いつでもお天気気分]]』 / '''NY''':『[[ニューヨーク・ニューヨーク]]』 / '''チムア''':『[[チムアポート]]』 / '''朝くる''':『[[朝がまたくるから]]』、後ろの数字は単行本巻数 {| style="font-size:smaller" | style="background-color: #fdd; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | 連載作品 | style="background-color: #ddf; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | シリーズ作品 | style="background-color: #ffffff; width: 1em; border: 1px solid gray;" |無色 | 単発・読み切り作品 |} {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller" !#!!作品名!!掲載誌!!発表年・掲載号!!収録!!注記 |- style="background-color:#fdd" !1 |<span style="display:none">あかちやんとほく<br /></span>'''[[赤ちゃんと僕]]''' |HY |<span style="display:none">19910502</span>1991年11号 - 1997年14号 | style="text-align:center" | ― |初連載作品。全103話。第40回[[小学館漫画賞]](少女部門)受賞作。 |- style="background-color:#fdd" !2 |<span style="display:none">にゆうよおくにゆうよおく2<br /></span>'''[[ニューヨーク・ニューヨーク (漫画)|ニューヨーク・ニューヨーク]]''' |HY |<span style="display:none">19971020</span>1997年22号 - 1998年14号 |style="text-align:center" | ― |短期掲載2話を経て連載化。 |- style="background-color:#fdd" !3 |<span style="display:none">しやにむにこお<br /></span>'''[[しゃにむにGO]]''' |HY |<span style="display:none">19980905</span>1998年19号 - 2009年7号 | style="text-align:center" | ― |最長連載作品。全192話。 |- style="background-color:#fdd" !4 |<span style="display:none">ましろのおと<br /></span>'''[[ましろのおと]]''' |MSM |<span style="display:none">201004</span>2010年5月号 - 2022年9月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/488323|title=羅川真里茂「ましろのおと」約12年の連載に幕、津軽三味線奏者を描く青春ストーリー|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-08-05|accessdate=2022-08-05}}</ref> |style="text-align:center" | ― |初の少年誌での連載。 |- style="background-color:#fdd" !5 |<span style="display:none">いつてもおてんききふん8<br /></span>'''[[いつでもお天気気分]]''' |BHY |<span style="display:none">20100426</span>2010年6月号 - 2014年5月号 |style="text-align:center" | ― |不定期掲載を経て連載化。 |- style="background-color:#fdd" !6 |<span style="display:none">きゆうけつきとゆかいななかまたち<br /></span>'''吸血鬼と愉快な仲間たち''' |BHY<br />HYAi<br />ML |<span style="display:none">20160426</span>2016年6月号<ref name="natalie20160426">{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/185070|title=羅川真里茂・中条比紗也・伊沢玲の新連載3本、別花で開幕!紫のバラの贈呈も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-04-26|accessdate=2022-12-26}}</ref> - 2018年7月号<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/283877|title=別冊花とゆめが休刊で約40年の歴史に幕、今秋に新Webマンガ誌創刊|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2018-05-26|accessdate=2022-12-26}}</ref><br />Vol.5<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/320776|title=木原音瀬×羅川真里茂「吸血鬼と愉快な仲間たち」花ゆめAiで移籍連載開始|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2019-02-20|accessdate=2022-12-26}}</ref> - <br />2023年2月号<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/506858|title=羅川真里茂×木原音瀬「吸血鬼と愉快な仲間たち」がメロディに移籍|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-12-26|accessdate=2022-12-27}}</ref> - |style="text-align:center" | ― |原作は[[木原音瀬]]{{R|natalie20160426}}。 |- !7 |<span style="display:none">きようたいのめんめん<br /></span>兄弟の面々 |HYE |<span style="display:none">19881128</span>1989年1月号 |未収録 |第152回HMC(花とゆめまんが家コース)トップ賞。 |- !8 |<span style="display:none">はかてかるくてわかままて<br /></span>ばかでかるくてわがままで |HY |<span style="display:none">19900705</span>1990年15号 |赤僕6 | |- !9 |<span style="display:none">たいむりみつと<br /></span>タイムリミット |HY |<span style="display:none">19901020</span>1990年22号 |赤僕4 |デビュー作。 |- !10 |<span style="display:none">しいくれつとほおいにてえたすな<br /></span>Secret Boyに手ぇだすな!! |HY |<span style="display:none">19910220</span>1991年6号 |赤僕4 | |- style="background-color:#ddf" !11 |<span style="display:none">とうきようしようねんものかたり<br /></span>東京少年物語 |HY |<span style="display:none">19910405</span>1991年9号 |東京1 |『別冊花とゆめ』2002年5月号に再掲載。 |- !12 |<span style="display:none">おにいちやんのほく<br /></span>お兄ちゃんの僕 |HY |<span style="display:none">19910805</span>1991年17号 |赤僕1 | |- !13 |<span style="display:none">なつときみのいらしえいしよん<br /></span>夏と君のイラジエーション |HYPZ |<span style="display:none">19910810</span>1991年9月1日号 |赤僕15 | |- style="background-color:#ddf" !14 |<span style="display:none">いつてもおてんききふん1<br /></span>[[いつでもお天気気分]] |HY |<span style="display:none">19930604</span>1993年13号・14号 |お天気1 |『花とゆめプラネット増刊号』同年12月15日号に再掲載。 |- style="background-color:#ddf" !15 |<span style="display:none">いつてもおてんききふん2<br /></span>いつでもお天気気分 |HY |<span style="display:none">19940319</span>1994年8号・9号 |お天気1 |『別冊花とゆめ』2002年5月号に再掲載。 |- style="background-color:#ddf" !16 |<span style="display:none">とうきようしようねんものかたり<br /></span>東京少年物語 |HY |<span style="display:none">19940820</span>1994年18号 |東京1 | |- style="background-color:#ddf" !17 |<span style="display:none">にゆうよおくにゆうよおく<br /></span>[[ニューヨーク・ニューヨーク (漫画)|ニューヨーク・ニューヨーク]] |HY |<span style="display:none">19950905</span>1995年19号・20号 |NY1 |全2話。 |- style="background-color:#ddf" !18 |<span style="display:none">いつてもおてんききふん3<br /></span>いつでもお天気気分 |HY |<span style="display:none">19960305</span>1996年7号・8号 |お天気2 | |- style="background-color:#ddf" !19 |<span style="display:none">いつてもおてんききふん4<br /></span>いつでもお天気気分 |HY |<span style="display:none">19970820</span>1997年18号・19号 |お天気2 | |- !20 |<span style="display:none">ほくからきみへ<br /></span>僕から君へ |ML |<span style="display:none">19971216</span>1998年1月号 |NY4 | |- !21 |<span style="display:none">かんはつてや<br /></span>がんばってや |BHY |<span style="display:none">20010608</span>2001年7月号 |東京1 | |- style="background-color:#ddf" !22 |<span style="display:none">いつてもおてんききふん5<br /></span>いつでもお天気気分 |BHY |<span style="display:none">20020726</span>2002年9月号 |お天気3 | |- style="background-color:#ddf" !23 |<span style="display:none">いつてもおてんききふん6<br /></span>いつでもお天気気分 |BHY |<span style="display:none">20030326</span>2003年5月号 |お天気3 | |- style="background-color:#ddf" !24 |<span style="display:none">ちむあほおと<br /></span>チムアポート |THY |<span style="display:none">20030626</span>2003年8月1日号 |チムア |副題「戦士 ジャバ・ウー」 |- style="background-color:#ddf" !25 |<span style="display:none">いつてもおてんききふん7<br /></span>いつでもお天気気分 |BHY |<span style="display:none">20040526</span>2004年7月号・9月号 |お天気3 | |- style="background-color:#ddf" !26 |<span style="display:none">あさかまたくるから<br /></span>朝がまたくるから |HYP |<span style="display:none">20050315</span>2005年4月25日号 |朝くる |副題「葦の穂綿」 |- style="background-color:#ddf" !27 |<span style="display:none">あさかまたくるから<br /></span>朝がまたくるから |BHY |<span style="display:none">20070825</span>2007年10月号 |朝くる |副題「半夏生」 |- style="background-color:#ddf" !28 |<span style="display:none">ちむあほおと<br /></span>チムアポート |THY |<span style="display:none">20090627</span>2009年8月1日号 |チムア |副題「夢語り ジョー」 |- style="background-color:#ddf" !29 |<span style="display:none">あさかまたくるから<br /></span>朝がまたくるから |BHY |<span style="display:none">20091216</span>2010年2月号 |朝くる |副題「冬霞」 |- style="background-color:#ddf" !30 |<span style="display:none">ちむあほおと<br /></span>チムアポート |HY |<span style="display:none">20100104</span>2010年3号 |チムア |副題「魔法使い ピノ」 |} == 書籍 == === 漫画単行本 === 詳細は各リンク先および脚注を参照 <ref>{{Cite web|和書|url=http://www.s-book.net/plsql/slib_search?sha=8&jan=&pat=w2&text=%97%85%90%EC%90^%97%A2%96%CE|title=白泉社オンライン|s-book.net Library Service|検索結果|publisher=白泉社 |accessdate=2010年6月26日 }}</ref>。 * 新書版(注記なきものは全て[[花とゆめコミックス]]レーベル(白泉社)より刊行) ** 『[[赤ちゃんと僕]]』 全18巻 ** 『[[いつでもお天気気分]]』 全7巻 ** 『[[ニューヨーク・ニューヨーク (漫画)|ニューヨーク・ニューヨーク]]』 [[ヤングアニマル|ジェッツコミックス]](白泉社) 全4巻 ** 『[[しゃにむにGO]]』 全32巻 ** 『東京少年物語』 ** 『[[朝がまたくるから]]』 花とゆめコミックススペシャル(白泉社) ** 『[[チムアポート]]』 花とゆめコミックススペシャル ** 『[[ましろのおと]]』 講談社コミックス月刊マガジン、全31巻 ** 『吸血鬼と愉快な仲間たち』 原作:[[木原音瀬]]、花とゆめコミックススペシャル、既刊5巻(2023年9月現在) * 文庫版(全て白泉社文庫より刊行) ** 『[[赤ちゃんと僕]]』全10巻 ** 『[[ニューヨーク・ニューヨーク (漫画)|ニューヨーク・ニューヨーク]]』 全2巻 ** 『僕から君へ 羅川真里茂傑作集』 * 愛蔵版(花とゆめコミックススペシャルより刊行) ** 『[[赤ちゃんと僕]]』 全9巻 * 新装版(花とゆめコミックススペシャルより刊行) ** 『[[しゃにむにGO]]』 全16巻 === 画集 === * 『赤ちゃんと僕 おもちゃ箱ひっくりかえした』 白泉社、1995年2月発売、{{ISBN2|4-59273-123-9}}、B6判 * 『赤ちゃんと僕 くりーむいっぱいのケーキ』 白泉社、1996年12月発売、{{ISBN2|4-59273-137-9}}、B6判 === その他 === * 『花とゆめメモリアル 赤ちゃんと僕トリビュート』 白泉社、2009年8月5日発売、{{ISBN2|978-4-592-19807-9}}、B6判 === 関連書籍 === * 明るい家族プロジェクト研究会 『『赤ちゃんと僕』の秘密』 [[データハウス]]、1997年2月発売、{{ISBN2|4-88718-418-2}} * [[藤本由香里]] 『少女まんが魂 現在を映す少女まんが完全ガイド&インタビュー集』{{efn|少女マンガ評論家・[[藤本由香里]]による羅川真里茂へのインタビューを掲載。}} 白泉社、2000年12月発売、{{ISBN2|4-592-73178-6}} == 受賞歴 == * 第152回花とゆめまんが家コーストップ賞(1990年・受賞作 「兄弟の面々」) * 第16回花とゆめまんが家コースビッグチャレンジ賞佳作(1990年・受賞作 「ばかでかるくてわがままで」) * 第40回[[小学館漫画賞]](少女部門)(1995年・受賞作 「赤ちゃんと僕」) * 第35回[[講談社漫画賞]](少年部門)(2012年・受賞作 「ましろのおと」) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.ragawa.co.jp/ PariPariMarimosenbei] - 羅川真里茂公式サイト「ぱりぱりまりもせんべぇ」 {{小学館漫画賞少女向け部門}} {{講談社漫画賞少年部門}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らかわ まりも}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:青森県出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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コヒーレントポテンシャル近似
コヒーレントポテンシャル近似(コヒーレントポテンシャルきんじ、英: coherent potential approximation、CPA) は1967年に P. Sovenが考案したバンド計算手法のことである。 ポテンシャルがランダムな系(例:不規則二元合金、原理上三元以上でも計算可能)の電子状態を計算するための手法であり、電子の散乱理論を基にして電子状態を求める KKR-CPA法が最もよく使われる。これは、KKR法をランダムな系に対応させるためCPAを導入したものである。 他に、タイトバインディング法によるCPA (TB-CPA) もある。
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コヒーレントポテンシャル近似 は1967年に P. Sovenが考案したバンド計算手法のことである。 ポテンシャルがランダムな系の電子状態を計算するための手法であり、電子の散乱理論を基にして電子状態を求める KKR-CPA法が最もよく使われる。これは、KKR法をランダムな系に対応させるためCPAを導入したものである。 他に、タイトバインディング法によるCPA (TB-CPA) もある。
'''コヒーレントポテンシャル近似'''(コヒーレントポテンシャルきんじ、{{lang-en-short|coherent potential approximation}}、'''[[CPA]]''') は[[1967年]]に P. Soven<ref>P. Soven, Phys. Rev. '''156''' (1967) 809.</ref>が考案した[[バンド計算]]手法のことである。 ポテンシャルが[[ランダム]]な系(例:[[不規則二元合金]]、原理上三元以上でも計算可能)の電子状態を計算するための手法であり、[[電子]]の[[散乱理論]]を基にして電子状態を求める '''KKR-CPA法'''<ref>H. Ehrenreich and L. M. Schwartz, in Solid State Physics, edited by H. Ehrenreich, F. Seitz, and D. Turnbull (Academic, New York, 1976), Vol. 31, p. 149</ref>が最もよく使われる。これは、[[KKR法]]をランダムな系に対応させるためCPAを導入したものである。 他に、[[タイトバインディング法]]によるCPA ('''TB-CPA''') もある。 == 参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == *[[Averaged t-matrix Approximation|ATA]] *[[仮想結晶近似]] *[[リジッドバンドモデル]] {{DEFAULTSORT:こひいれんとほてんしやるきんし}} [[Category:バンド計算]]
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陽気婢
陽気婢(ようきひ、1966年4月7日 - )は、日本の漫画家。男性。大阪府出身。大阪大学卒業。 大学卒業前に漫画家デビュー。卒業後は都銀に勤めていたが、1年で退社。『キャンディータイム』での連載などを経て、『週刊ヤングマガジン』、『快楽天』などに作品を発表している。男性の理想を具体化したような作品が多く、エロティックなシーンのある漫画が主である。代表作に『2×1』『えっちーず』『眠れる惑星』など。 趣味はフライ・フィッシング、好物はカレーライス。 単行本「眠れる惑星」カバー折り返しに記載されている「好きな漫画家」一覧。 星里もちる、永野のりこ、ふくやまけいこ、黒田硫黄、福島聡、植芝理一、あさりよしとお、桜玉吉、うすた京介、伊藤潤二、松本次郎、岩明均、谷川史子、小畑健、渡辺多恵子、天竺浪人、SABE、古屋兎丸、桑田乃梨子、園田健一、藤島康介、士郎正宗、武富智、ウエダハジメ、山本直樹、櫻見弘樹、喜国雅彦、島本和彦、奥浩哉、藤田和日郎、細野不二彦、浦沢直樹、高橋留美子、諸星大二郎、外薗昌也、竹本泉、すぎむらしんいち、花見沢Q太郎、唐沢なをき、吉田戦車、ロクニシコージ、田丸浩史、吉田蛇作、末広雅里、森永みるく、福山庸治、こうの史代、松本剛、華倫変、坂口尚、手塚治虫 単行本「ドクター&ドーター」カバー折返しに記載。 初版年代順。
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陽気婢は、日本の漫画家。男性。大阪府出身。大阪大学卒業。
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JR京都線
JR京都線(ジェイアールきょうとせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、京都府京都市下京区の京都駅から大阪府大阪市北区の大阪駅までの区間に付けられた愛称である。 この愛称は1988年3月13日から使用されている。ほぼ全区間で阪急電鉄の京都線とも呼ばれる京都本線と並行し、近畿日本鉄道(近鉄)にも京都線があり、阪急とは大阪駅(大阪梅田駅)で、近鉄とは京都駅で接続しているため、それらと区別するために「JR」と付けている。 JR西日本のアーバンネットワーク(京阪神エリア)の路線のひとつである。東海道新幹線や阪急京都本線に並行して淀川右岸を走り、京都市と大阪市を結ぶ都市間連絡輸送(インターアーバン)を担っている。大阪・京都への通勤・通学路線であるとともに、京都へ向かう観光路線でもある。 新快速を中心に多くの列車がJR神戸線・琵琶湖線・湖西線に直通運転を行なっている。京都駅 - 大阪駅間 (42.8km) を新快速が最短28分で結んでおり、表定速度は92km/hと特急列車に匹敵する。全区間が方向別複々線であり、緩急分離運転が行われている。大阪駅から日本海側を縦貫して青森駅まで結ぶ路線の総称「日本海縦貫線」の一部となっており、金沢駅まで至る特急「サンダーバード」など日本海縦貫線の列車が多く乗り入れる。 大阪駅から淀川を挟んで1駅北隣には東海道新幹線・山陽新幹線が乗り入れる新大阪駅が位置している。東海道新幹線、阪急京都本線と並行する区間が長く、また淀川を挟んで京阪本線が存在するが、それぞれターミナルの位置で棲み分けがなされており、直接的な競合は存在しないが、各線とも運営会社がサービス面で非常に力を入れている。大阪駅 - 京都駅間の1日平均利用者数は350,717人で、同区間では阪急京都本線の180,954人、京阪本線の162,479人と比べて圧倒的に多い。 ラインカラーは青(■)であり、JR神戸線とともにアーバンネットワークの主要路線という位置づけから、JR西日本のコーポレートカラー自体がそのままラインカラーとして使われている。路線記号は A 。 当該区間での旅客案内での路線表記も基本的には「東海道線」ではなく「JR京都線」で統一されているが、例外として新大阪駅では、高槻・京都方面のみ「JR京都線」と案内され、大阪方面は「JR神戸線」及び「JR宝塚線」といった、大阪駅以西の直通先の愛称で案内されている(JR神戸線の尼崎駅、琵琶湖線の山科駅でも同様の対応が取られている)。なお、駅備え付けの運賃表や一部の路線図では、括弧書きで(東海道線)と併記される。全区間がJR西日本近畿統括本部の管轄であり、IC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれているとともに、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、電車特定区間に含まれ、区間外よりも割安な旅客運賃が適用されている。 京都駅 - 向日町駅間は上下内外側線を構成する複々線と貨物線1線を加えた5線区間で、向日町駅 - 茨木駅は複々線となるが、茨木駅からは再び貨物線が分岐する。茨木駅 - 吹田貨物ターミナル駅間は5線(上下内外側線と貨物線)、吹田貨物ターミナル駅から新大阪駅にかけては上下内外側線に梅田貨物線と北方貨物線の複線を加えた8線区間となっている。 多数の欠円アーチやねじりまんぽを含む沿線の煉瓦造の鉄道橋及び隧道群(1875年 - 1876年造)は、2017年(平成29年)に「大阪京都間鉄道煉瓦拱渠群」として土木学会選奨土木遺産に選ばれている。 隣接する琵琶湖線やJR神戸線と一体的に運行されており、湖西線や福知山線(JR宝塚線)との直通列車も設定されている。乗車券のみで利用できる列車は停車駅の少ない順に新快速・快速・普通(緩行電車)の3種別があり、このほかに北陸・関西国際空港・南紀・山陰方面などへの特急列車が加わり、複々線を有効活用したパターンダイヤが組まれている。 ほぼ全線にわたり線形はきわめてよく、外側線は一部の曲線区間を除いて130km/h運転が可能である。内側線も120km/h運転に対応している。 基本的に15分サイクルで運転されており、22時(土曜・休日は21時)を過ぎると20分サイクルになる。 朝通勤時間帯下り(大阪方面)は10分サイクルが基本となっている。基本的に1サイクルに新快速が1本、快速が1本、京都駅あるいはそれ以遠始発の普通が1本、高槻駅発の普通が1本である。 昼間時間帯は、基本的に15分サイクルに新快速1本、快速1本、高槻駅発着の普通1本、京都駅発着の普通1本である。曜日・時間帯によって高槻駅 - 京都駅の普通列車の本数は変わる。 夕ラッシュ時間帯の上り(京都方面)は昼間時間帯と同様のダイヤであるが、平日の最ラッシュ時間帯において大阪駅始発の新快速が2本設定されており、その時間帯については新快速の運行が7.5分間隔となる。夜間は20分サイクルとなる。 JR発足後、天王寺発着だった南紀方面の特急や、智頭急行線開業で運行を開始した山陰地方への特急「スーパーはくと」などが新たに京都駅まで直通運転されるようになり、この区間の特急の列車本数は増えた。特に関西国際空港開港と同時に運転を開始した特急「はるか」は、その1年後にはすべての列車が京都駅まで定期列車で入るようになり、新大阪駅 - 京都駅間は北陸方面との特急「サンダーバード」など、ほかの列車と合わせ1時間に4本程度が運転される特急街道になっている。 阪和線に直通する特急「はるか」や「くろしお」は、下り列車が吹田貨物ターミナル駅から大阪環状線の西九条駅まで、上り列車が西九条駅から新大阪駅まで、それぞれ梅田貨物線を走行する。以前は大阪駅を経由しなかったが、2023年2月13日から大阪駅の地下ホームを経由し、同年3月18日のダイヤ改正後から大阪駅の地下ホーム(うめきたエリア)に停車するようになった。 京都駅30番のりば発の下り列車は京都貨物駅構内を通り、向日町駅構内で下り外側線に合流するため、この区間を外側線で走る特急や新快速より若干所要時間が余計にかかる。 この区間を走行する優等列車は2021年3月13日改正時点では以下のとおり。 特急・急行列車以外の料金不要列車では最も停車駅の少ない速達列車である。JR京都線内の停車駅は、京都駅・高槻駅・新大阪駅・大阪駅。特に京都駅 - 高槻駅間 21.6 km は無停車となる。JR神戸線姫路駅、山陽本線網干駅・上郡駅、赤穂線播州赤穂駅からJR京都線を経由し琵琶湖線長浜駅、北陸本線近江塩津駅・敦賀駅まで直通運転している。 日中時間帯は大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本運転されており、このうち3本が琵琶湖線野洲駅・米原駅発着および北陸本線経由近江塩津駅発着、1本は湖西線経由敦賀駅発着である。この時間帯の下り列車は京都駅を、また上り列車は大阪駅を、それぞれ毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を28 - 29分で結んでいる。夕方ラッシュ時から21時台までは大阪駅 → 京都駅間で基本4本であるが、18時台は大阪始発の列車2本が入るため6本(最短で7分半間隔)で運行されている。大阪発18時台の敦賀行きが京都駅から湖西線経由の「快速」(おごと温泉駅にも停車)として運転する以外は、すべて琵琶湖線に直通する。このため、大阪発15 - 18時台の30分発は米原経由敦賀行きとして運転されている。 全列車が全区間で外側線を走行する。ただし、新大阪駅配線改良が行われるまでは、新大阪駅 - 大阪駅間のみ内側線を走行していた。日中は茨木駅と西大路駅で先行の普通列車を、山崎駅で先行の快速列車を追い抜く。 全列車網干総合車両所所属の225系0番台・100番台・223系1000番台・2000番台が使用されており、12両編成(平日夕方の大阪始発は8両編成)で運転されている。土曜・休日は2011年3月12日のダイヤ改正から、平日は2017年3月4日のダイヤ改正から一部を除いて、姫路駅 - 米原駅間を終日12両編成として混雑緩和を図っている。 快速は京都駅を越え琵琶湖線や一部は湖西線と直通し、大阪駅からは朝ラッシュ時の一部を除きJR神戸線へと直通している。JR宝塚線とは直通しない。JR京都線内の停車駅は京都駅・長岡京駅・高槻駅・茨木駅・新大阪駅・大阪駅。JR京都線の全区間を快速運転する列車は、下りは京都発基準で朝5時台から8時過ぎまでの15本(土曜・休日は5・6時台の6本)、上りは大阪発基準で朝5 - 7時台の6本(土曜・休日は5・6時台の4本)のみで、日中以降のJR京都線での快速運転区間は高槻駅 - 大阪駅間であり、京都駅 - 高槻駅間は各駅に停車する「普通」として運転している。2003年11月28日までは全区間で快速運転する列車に須磨駅・垂水駅・舞子駅を通過する設定があった。 平日朝は高槻駅→大阪駅間で外側線を走行しており、223系1000・2000番台と225系0番台・100番台を用いて130km/hで走行する。朝ラッシュ時間帯大阪方面行きはおおむね8分間隔の運転である。日中から夜21時台にかけては大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本が運転されており、この時間帯の高槻駅 - 京都駅間の各駅での停車本数は4 - 8本(時間帯によって変動する)である。この時間帯の下り列車は京都駅を毎時09・24・39・54分、また上り列車は大阪駅を毎時08・23・38・53分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を41分で結んでいる。 平日の日中以降および土曜・休日ダイヤでは内側線を走行する。2006年3月17日までは全区間で快速運転を行い、外側線を走行する大阪発17時台の快速野洲行きが運行されていた。2004年10月15日までは17 - 19時台の50分発で、野洲駅・草津線柘植駅・湖西線近江今津駅にそれぞれ直通していた。 車両は網干総合車両所所属の221系、223系1000番台・2000番台・6000番台および225系0番台・100番台が使用されており、6・8・10・12両編成で運転されている。日中は6両編成が増え、それ以外の時間帯は12両が増える。 「普通」は各駅に停車する列車であるが、ここではJR京都線内の全区間で「普通」として運転される列車について解説する(高槻以東のみ各駅に停車する列車については前節を参照)。国鉄時代の通称である京阪神緩行線(緩行電車)と呼ばれることがある。全区間で内側線を走行する。 日中から21時台までは1時間に8本運転されている。日中は8本とも高槻駅発着であるが、夕方ラッシュ時から21時台までは高槻駅・京都駅発着が4本ずつ運転されている。土曜・休日ダイヤの11・12時台では高槻駅・京都駅発着が4本ずつの運行である。大阪駅以西は半数がJR神戸線須磨・西明石方面、半数がJR宝塚線新三田方面(2020年3月14日のダイヤ改正より、概ね下り10 - 14時台・上り12 - 16時台は宝塚駅発着に短縮された)と直通する。 朝ラッシュ時以外は大阪駅 - 京都駅間で後続の快速より先着し、朝ラッシュ時も高槻駅 - 京都駅間は後続の快速より先着する。下りのJR宝塚線直通列車は東淀川駅 - 塚本駅間で新快速と並走し、新大阪駅・大阪駅でそれぞれ相互接続を行う(平日朝夕は相互接続を行わず別々のホームに発着)。 大阪発で平日ダイヤの朝7時台に琵琶湖線直通草津行きが1本設定されている。また、平日朝の高槻発2本はJR神戸線加古川行きとして運行されている。 区間列車として、高槻発4時と平日6時台に京都行きの設定がある。また、毎日朝には大阪駅 - 吹田駅間の列車が1往復設定されている。 車両は、網干総合車両所所属の207系・321系電車が使用され、すべて7両編成で運転されている。 1972年3月15日の新幹線の岡山駅までの開業に伴うダイヤ改正で、昼間15分パターンのダイヤが生まれた。当時の1時間の運行本数は大阪駅 - 吹田駅間で8本、吹田駅 - 京都駅間で4本であった。上り京都方面を例にすると、新快速・快速(大阪駅で新快速待避)・普通(甲子園口発京都行き)・普通(西明石発吹田行き)の順に大阪駅を発車するパターンが15分ごとに繰り返される。普通が西明石駅 - 吹田駅間と甲子園口駅 - 京都駅間に系統分割されたのは、西明石発京都行きで直通運転を行うと当時内側線を走行していた新快速に追いつかれるからである。さらに朝晩時間帯は高槻駅発着の列車も運転されていた。 1985年3月14日の改正で日中の快速が高槻駅 - 京都駅間で各駅に停車するようになり、この時間帯の運転区間は大阪駅 - 高槻駅間となった。201系が投入されたことによりスピードアップが図られ、大阪駅 - 吹田駅間で6本、吹田駅 - 高槻駅間が4本の運行パターンとなった。朝・夕方の一部列車は草津駅まで延長運転されるようになった。1986年11月1日改正では新快速が外側線運転に変更されたのに伴い、日中時間帯は高槻駅発着に統一され、運行本数も1時間に8本に増発された。 1994年3月1日に、207系が運用を開始するとともに、湖西線堅田始発の列車が運行されるようになった。京都駅ビル開業の1997年9月1日の改正で日中の高槻駅発着の半数が京都駅発着に延長され、2002年10月5日改正でJR神戸線直通系統が京都駅発着、JR宝塚線発着系統は高槻駅発着に統一された。2004年10月16日の改正で、琵琶湖線野洲駅と湖西線近江今津駅発着の列車が運行されるようになった。 2010年3月13日改正で日中の高槻駅 - 京都駅間の運行本数が1時間に2本に減便された。2011年3月12日改正で朝のJR宝塚線からの上りと下り尼崎行きの1往復が吹田駅発着に変更されたのち、2013年3月16日改正で現在の形態となっている。 2015年3月14日改正時点で、大阪発毎日21時台には湖西線近江舞子行きが設定されていたほか、湖西線堅田を毎日6時台に出発して大阪方面へ向かう列車が設定されていたが、2016年3月26日のダイヤ改正で湖西線と直通しJR京都線内全線を普通として運転される列車はなくなった。 平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、207系の加古川・西明石・須磨側から5両目と321系の5号車に女性専用車が設定されている。なお、ダイヤが乱れた際などに女性専用車の設定が解除されることがある。 JR京都線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。なお、京都駅を越えてJR京都線と琵琶湖線を直通および京都駅発の琵琶湖線内のみ運転する207系・321系による列車についても列車の運転全区間において女性専用車の設定は維持される。 大晦日深夜から元旦にかけて、JR京都線では全線(運転区間は京都駅 - JR神戸線西明石駅間)で普通のみ約30分間隔で終夜運転が実施されている。かつては奈良線にも乗り入れ、奈良駅 - (奈良線経由) - 京都駅 - 大阪駅 - 西明石駅間で運転されていたこともあったが、奈良線への乗り入れは1999年度限りで終了している。 貨物列車は全列車、茨木駅構内で分岐し、吹田貨物ターミナル駅を経由する貨物線で運転されている。 山陽本線と直通する貨物列車は、吹田貨物ターミナル駅 - 宮原操車場 - 尼崎駅間の通称北方貨物線を経由する。桜島線安治川口駅への貨物列車は吹田貨物ターミナル駅から大阪駅地下ホームを経て、大阪環状線西九条駅に至る梅田貨物線を通る。 国鉄分割民営化後の使用車両を記述する。 このほか、大阪駅 - 向日町操車場間では回送列車として「はまかぜ」や「サンダーバード」の一部列車が運転されている。「サンダーバード」は、大阪駅到着後そのまま神戸方面へ発車し、塚本駅から北方貨物線に入り、茨木駅構内でJR京都線(外側線)に合流する(出区のときはこの逆ルート)。この場合、JR京都線内は編成の向きが逆向きになる。 すべて電車で運転されている。 国鉄分割民営化以降は、すべて電車が使用されていた。 以下では、JR京都線内にある各停車場(駅・信号場)の営業キロ、停車列車、接続路線を一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「東海道本線#廃駅」を参照。 高槻市は、高槻駅 - 島本駅間の新駅設置を検討している。 摂津富田駅付近(区間は、JR総持寺駅東付近から川西中学校東付近まで)において、連続立体交差事業(鉄道高架化)の事業化を進める計画がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "JR京都線(ジェイアールきょうとせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、京都府京都市下京区の京都駅から大阪府大阪市北区の大阪駅までの区間に付けられた愛称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この愛称は1988年3月13日から使用されている。ほぼ全区間で阪急電鉄の京都線とも呼ばれる京都本線と並行し、近畿日本鉄道(近鉄)にも京都線があり、阪急とは大阪駅(大阪梅田駅)で、近鉄とは京都駅で接続しているため、それらと区別するために「JR」と付けている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "JR西日本のアーバンネットワーク(京阪神エリア)の路線のひとつである。東海道新幹線や阪急京都本線に並行して淀川右岸を走り、京都市と大阪市を結ぶ都市間連絡輸送(インターアーバン)を担っている。大阪・京都への通勤・通学路線であるとともに、京都へ向かう観光路線でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "新快速を中心に多くの列車がJR神戸線・琵琶湖線・湖西線に直通運転を行なっている。京都駅 - 大阪駅間 (42.8km) を新快速が最短28分で結んでおり、表定速度は92km/hと特急列車に匹敵する。全区間が方向別複々線であり、緩急分離運転が行われている。大阪駅から日本海側を縦貫して青森駅まで結ぶ路線の総称「日本海縦貫線」の一部となっており、金沢駅まで至る特急「サンダーバード」など日本海縦貫線の列車が多く乗り入れる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大阪駅から淀川を挟んで1駅北隣には東海道新幹線・山陽新幹線が乗り入れる新大阪駅が位置している。東海道新幹線、阪急京都本線と並行する区間が長く、また淀川を挟んで京阪本線が存在するが、それぞれターミナルの位置で棲み分けがなされており、直接的な競合は存在しないが、各線とも運営会社がサービス面で非常に力を入れている。大阪駅 - 京都駅間の1日平均利用者数は350,717人で、同区間では阪急京都本線の180,954人、京阪本線の162,479人と比べて圧倒的に多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ラインカラーは青(■)であり、JR神戸線とともにアーバンネットワークの主要路線という位置づけから、JR西日本のコーポレートカラー自体がそのままラインカラーとして使われている。路線記号は A 。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当該区間での旅客案内での路線表記も基本的には「東海道線」ではなく「JR京都線」で統一されているが、例外として新大阪駅では、高槻・京都方面のみ「JR京都線」と案内され、大阪方面は「JR神戸線」及び「JR宝塚線」といった、大阪駅以西の直通先の愛称で案内されている(JR神戸線の尼崎駅、琵琶湖線の山科駅でも同様の対応が取られている)。なお、駅備え付けの運賃表や一部の路線図では、括弧書きで(東海道線)と併記される。全区間がJR西日本近畿統括本部の管轄であり、IC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれているとともに、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、電車特定区間に含まれ、区間外よりも割安な旅客運賃が適用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "京都駅 - 向日町駅間は上下内外側線を構成する複々線と貨物線1線を加えた5線区間で、向日町駅 - 茨木駅は複々線となるが、茨木駅からは再び貨物線が分岐する。茨木駅 - 吹田貨物ターミナル駅間は5線(上下内外側線と貨物線)、吹田貨物ターミナル駅から新大阪駅にかけては上下内外側線に梅田貨物線と北方貨物線の複線を加えた8線区間となっている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "多数の欠円アーチやねじりまんぽを含む沿線の煉瓦造の鉄道橋及び隧道群(1875年 - 1876年造)は、2017年(平成29年)に「大阪京都間鉄道煉瓦拱渠群」として土木学会選奨土木遺産に選ばれている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "隣接する琵琶湖線やJR神戸線と一体的に運行されており、湖西線や福知山線(JR宝塚線)との直通列車も設定されている。乗車券のみで利用できる列車は停車駅の少ない順に新快速・快速・普通(緩行電車)の3種別があり、このほかに北陸・関西国際空港・南紀・山陰方面などへの特急列車が加わり、複々線を有効活用したパターンダイヤが組まれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ほぼ全線にわたり線形はきわめてよく、外側線は一部の曲線区間を除いて130km/h運転が可能である。内側線も120km/h運転に対応している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "基本的に15分サイクルで運転されており、22時(土曜・休日は21時)を過ぎると20分サイクルになる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "朝通勤時間帯下り(大阪方面)は10分サイクルが基本となっている。基本的に1サイクルに新快速が1本、快速が1本、京都駅あるいはそれ以遠始発の普通が1本、高槻駅発の普通が1本である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "昼間時間帯は、基本的に15分サイクルに新快速1本、快速1本、高槻駅発着の普通1本、京都駅発着の普通1本である。曜日・時間帯によって高槻駅 - 京都駅の普通列車の本数は変わる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "夕ラッシュ時間帯の上り(京都方面)は昼間時間帯と同様のダイヤであるが、平日の最ラッシュ時間帯において大阪駅始発の新快速が2本設定されており、その時間帯については新快速の運行が7.5分間隔となる。夜間は20分サイクルとなる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "JR発足後、天王寺発着だった南紀方面の特急や、智頭急行線開業で運行を開始した山陰地方への特急「スーパーはくと」などが新たに京都駅まで直通運転されるようになり、この区間の特急の列車本数は増えた。特に関西国際空港開港と同時に運転を開始した特急「はるか」は、その1年後にはすべての列車が京都駅まで定期列車で入るようになり、新大阪駅 - 京都駅間は北陸方面との特急「サンダーバード」など、ほかの列車と合わせ1時間に4本程度が運転される特急街道になっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "阪和線に直通する特急「はるか」や「くろしお」は、下り列車が吹田貨物ターミナル駅から大阪環状線の西九条駅まで、上り列車が西九条駅から新大阪駅まで、それぞれ梅田貨物線を走行する。以前は大阪駅を経由しなかったが、2023年2月13日から大阪駅の地下ホームを経由し、同年3月18日のダイヤ改正後から大阪駅の地下ホーム(うめきたエリア)に停車するようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "京都駅30番のりば発の下り列車は京都貨物駅構内を通り、向日町駅構内で下り外側線に合流するため、この区間を外側線で走る特急や新快速より若干所要時間が余計にかかる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この区間を走行する優等列車は2021年3月13日改正時点では以下のとおり。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "特急・急行列車以外の料金不要列車では最も停車駅の少ない速達列車である。JR京都線内の停車駅は、京都駅・高槻駅・新大阪駅・大阪駅。特に京都駅 - 高槻駅間 21.6 km は無停車となる。JR神戸線姫路駅、山陽本線網干駅・上郡駅、赤穂線播州赤穂駅からJR京都線を経由し琵琶湖線長浜駅、北陸本線近江塩津駅・敦賀駅まで直通運転している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日中時間帯は大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本運転されており、このうち3本が琵琶湖線野洲駅・米原駅発着および北陸本線経由近江塩津駅発着、1本は湖西線経由敦賀駅発着である。この時間帯の下り列車は京都駅を、また上り列車は大阪駅を、それぞれ毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を28 - 29分で結んでいる。夕方ラッシュ時から21時台までは大阪駅 → 京都駅間で基本4本であるが、18時台は大阪始発の列車2本が入るため6本(最短で7分半間隔)で運行されている。大阪発18時台の敦賀行きが京都駅から湖西線経由の「快速」(おごと温泉駅にも停車)として運転する以外は、すべて琵琶湖線に直通する。このため、大阪発15 - 18時台の30分発は米原経由敦賀行きとして運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "全列車が全区間で外側線を走行する。ただし、新大阪駅配線改良が行われるまでは、新大阪駅 - 大阪駅間のみ内側線を走行していた。日中は茨木駅と西大路駅で先行の普通列車を、山崎駅で先行の快速列車を追い抜く。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "全列車網干総合車両所所属の225系0番台・100番台・223系1000番台・2000番台が使用されており、12両編成(平日夕方の大阪始発は8両編成)で運転されている。土曜・休日は2011年3月12日のダイヤ改正から、平日は2017年3月4日のダイヤ改正から一部を除いて、姫路駅 - 米原駅間を終日12両編成として混雑緩和を図っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "快速は京都駅を越え琵琶湖線や一部は湖西線と直通し、大阪駅からは朝ラッシュ時の一部を除きJR神戸線へと直通している。JR宝塚線とは直通しない。JR京都線内の停車駅は京都駅・長岡京駅・高槻駅・茨木駅・新大阪駅・大阪駅。JR京都線の全区間を快速運転する列車は、下りは京都発基準で朝5時台から8時過ぎまでの15本(土曜・休日は5・6時台の6本)、上りは大阪発基準で朝5 - 7時台の6本(土曜・休日は5・6時台の4本)のみで、日中以降のJR京都線での快速運転区間は高槻駅 - 大阪駅間であり、京都駅 - 高槻駅間は各駅に停車する「普通」として運転している。2003年11月28日までは全区間で快速運転する列車に須磨駅・垂水駅・舞子駅を通過する設定があった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "平日朝は高槻駅→大阪駅間で外側線を走行しており、223系1000・2000番台と225系0番台・100番台を用いて130km/hで走行する。朝ラッシュ時間帯大阪方面行きはおおむね8分間隔の運転である。日中から夜21時台にかけては大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本が運転されており、この時間帯の高槻駅 - 京都駅間の各駅での停車本数は4 - 8本(時間帯によって変動する)である。この時間帯の下り列車は京都駅を毎時09・24・39・54分、また上り列車は大阪駅を毎時08・23・38・53分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を41分で結んでいる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "平日の日中以降および土曜・休日ダイヤでは内側線を走行する。2006年3月17日までは全区間で快速運転を行い、外側線を走行する大阪発17時台の快速野洲行きが運行されていた。2004年10月15日までは17 - 19時台の50分発で、野洲駅・草津線柘植駅・湖西線近江今津駅にそれぞれ直通していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "車両は網干総合車両所所属の221系、223系1000番台・2000番台・6000番台および225系0番台・100番台が使用されており、6・8・10・12両編成で運転されている。日中は6両編成が増え、それ以外の時間帯は12両が増える。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "「普通」は各駅に停車する列車であるが、ここではJR京都線内の全区間で「普通」として運転される列車について解説する(高槻以東のみ各駅に停車する列車については前節を参照)。国鉄時代の通称である京阪神緩行線(緩行電車)と呼ばれることがある。全区間で内側線を走行する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日中から21時台までは1時間に8本運転されている。日中は8本とも高槻駅発着であるが、夕方ラッシュ時から21時台までは高槻駅・京都駅発着が4本ずつ運転されている。土曜・休日ダイヤの11・12時台では高槻駅・京都駅発着が4本ずつの運行である。大阪駅以西は半数がJR神戸線須磨・西明石方面、半数がJR宝塚線新三田方面(2020年3月14日のダイヤ改正より、概ね下り10 - 14時台・上り12 - 16時台は宝塚駅発着に短縮された)と直通する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "朝ラッシュ時以外は大阪駅 - 京都駅間で後続の快速より先着し、朝ラッシュ時も高槻駅 - 京都駅間は後続の快速より先着する。下りのJR宝塚線直通列車は東淀川駅 - 塚本駅間で新快速と並走し、新大阪駅・大阪駅でそれぞれ相互接続を行う(平日朝夕は相互接続を行わず別々のホームに発着)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "大阪発で平日ダイヤの朝7時台に琵琶湖線直通草津行きが1本設定されている。また、平日朝の高槻発2本はJR神戸線加古川行きとして運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "区間列車として、高槻発4時と平日6時台に京都行きの設定がある。また、毎日朝には大阪駅 - 吹田駅間の列車が1往復設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "車両は、網干総合車両所所属の207系・321系電車が使用され、すべて7両編成で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1972年3月15日の新幹線の岡山駅までの開業に伴うダイヤ改正で、昼間15分パターンのダイヤが生まれた。当時の1時間の運行本数は大阪駅 - 吹田駅間で8本、吹田駅 - 京都駅間で4本であった。上り京都方面を例にすると、新快速・快速(大阪駅で新快速待避)・普通(甲子園口発京都行き)・普通(西明石発吹田行き)の順に大阪駅を発車するパターンが15分ごとに繰り返される。普通が西明石駅 - 吹田駅間と甲子園口駅 - 京都駅間に系統分割されたのは、西明石発京都行きで直通運転を行うと当時内側線を走行していた新快速に追いつかれるからである。さらに朝晩時間帯は高槻駅発着の列車も運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1985年3月14日の改正で日中の快速が高槻駅 - 京都駅間で各駅に停車するようになり、この時間帯の運転区間は大阪駅 - 高槻駅間となった。201系が投入されたことによりスピードアップが図られ、大阪駅 - 吹田駅間で6本、吹田駅 - 高槻駅間が4本の運行パターンとなった。朝・夕方の一部列車は草津駅まで延長運転されるようになった。1986年11月1日改正では新快速が外側線運転に変更されたのに伴い、日中時間帯は高槻駅発着に統一され、運行本数も1時間に8本に増発された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1994年3月1日に、207系が運用を開始するとともに、湖西線堅田始発の列車が運行されるようになった。京都駅ビル開業の1997年9月1日の改正で日中の高槻駅発着の半数が京都駅発着に延長され、2002年10月5日改正でJR神戸線直通系統が京都駅発着、JR宝塚線発着系統は高槻駅発着に統一された。2004年10月16日の改正で、琵琶湖線野洲駅と湖西線近江今津駅発着の列車が運行されるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2010年3月13日改正で日中の高槻駅 - 京都駅間の運行本数が1時間に2本に減便された。2011年3月12日改正で朝のJR宝塚線からの上りと下り尼崎行きの1往復が吹田駅発着に変更されたのち、2013年3月16日改正で現在の形態となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2015年3月14日改正時点で、大阪発毎日21時台には湖西線近江舞子行きが設定されていたほか、湖西線堅田を毎日6時台に出発して大阪方面へ向かう列車が設定されていたが、2016年3月26日のダイヤ改正で湖西線と直通しJR京都線内全線を普通として運転される列車はなくなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、207系の加古川・西明石・須磨側から5両目と321系の5号車に女性専用車が設定されている。なお、ダイヤが乱れた際などに女性専用車の設定が解除されることがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "JR京都線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。なお、京都駅を越えてJR京都線と琵琶湖線を直通および京都駅発の琵琶湖線内のみ運転する207系・321系による列車についても列車の運転全区間において女性専用車の設定は維持される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "大晦日深夜から元旦にかけて、JR京都線では全線(運転区間は京都駅 - JR神戸線西明石駅間)で普通のみ約30分間隔で終夜運転が実施されている。かつては奈良線にも乗り入れ、奈良駅 - (奈良線経由) - 京都駅 - 大阪駅 - 西明石駅間で運転されていたこともあったが、奈良線への乗り入れは1999年度限りで終了している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "貨物列車は全列車、茨木駅構内で分岐し、吹田貨物ターミナル駅を経由する貨物線で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "山陽本線と直通する貨物列車は、吹田貨物ターミナル駅 - 宮原操車場 - 尼崎駅間の通称北方貨物線を経由する。桜島線安治川口駅への貨物列車は吹田貨物ターミナル駅から大阪駅地下ホームを経て、大阪環状線西九条駅に至る梅田貨物線を通る。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "国鉄分割民営化後の使用車両を記述する。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "このほか、大阪駅 - 向日町操車場間では回送列車として「はまかぜ」や「サンダーバード」の一部列車が運転されている。「サンダーバード」は、大阪駅到着後そのまま神戸方面へ発車し、塚本駅から北方貨物線に入り、茨木駅構内でJR京都線(外側線)に合流する(出区のときはこの逆ルート)。この場合、JR京都線内は編成の向きが逆向きになる。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "すべて電車で運転されている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "国鉄分割民営化以降は、すべて電車が使用されていた。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "以下では、JR京都線内にある各停車場(駅・信号場)の営業キロ、停車列車、接続路線を一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「東海道本線#廃駅」を参照。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "高槻市は、高槻駅 - 島本駅間の新駅設置を検討している。", "title": "新駅設置計画" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "摂津富田駅付近(区間は、JR総持寺駅東付近から川西中学校東付近まで)において、連続立体交差事業(鉄道高架化)の事業化を進める計画がある。", "title": "連続立体交差事業" } ]
JR京都線(ジェイアールきょうとせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、京都府京都市下京区の京都駅から大阪府大阪市北区の大阪駅までの区間に付けられた愛称である。 この愛称は1988年3月13日から使用されている。ほぼ全区間で阪急電鉄の京都線とも呼ばれる京都本線と並行し、近畿日本鉄道(近鉄)にも京都線があり、阪急とは大阪駅(大阪梅田駅)で、近鉄とは京都駅で接続しているため、それらと区別するために「JR」と付けている。
{{Pathnav|東海道本線|frame=1}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] JR京都線 |路線色=#0072ba |ロゴ = JRW kinki-A.svg |ロゴサイズ = 40px |画像=File:Tennozan Shimamoto.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=天王山をバックに走る普通列車 |国={{JPN}} |所在地=[[京都府]]、[[大阪府]] |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]]) |起点=[[京都駅]] |終点=[[大阪駅]] |駅数=17駅(貨物駅2駅除く) |経由路線=[[東海道本線]] |電報略号=トカホセ |路線記号={{JR西路線記号|K|A}} |開業=[[1876年]][[7月26日]](東海道本線として)<br />[[1988年]][[3月13日]](愛称使用開始) |廃止= |所有者=[[西日本旅客鉄道]] |運営者=西日本旅客鉄道 |車両基地 = [[網干総合車両所|網干総合車両所本所]]・[[網干総合車両所#明石支所|明石支所]] |使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=42.8 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]]) |線路数=[[複々線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式=複線自動閉塞式 |保安装置=[[自動列車停止装置#拠点P|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P方式) |最高速度=外側線:130 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />内側線:120 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図= }} '''JR京都線'''(ジェイアールきょうとせん)は、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が管轄する[[東海道本線]]のうち、[[京都府]][[京都市]][[下京区]]の[[京都駅]]から[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]の[[大阪駅]]までの区間に付けられた[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]である。 この愛称は[[1988年]][[3月13日]]から使用されている。ほぼ全区間で[[阪急電鉄]]の京都線とも呼ばれる[[阪急京都本線|京都本線]]と並行し、[[近畿日本鉄道]](近鉄)にも[[近鉄京都線|京都線]]があり、阪急とは大阪駅([[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]])で、近鉄とは京都駅で接続しているため、それらと区別するために「JR」と付けている。 == 概要 == JR西日本の[[アーバンネットワーク]]([[京阪神]]エリア)の路線のひとつである。[[東海道新幹線]]や[[阪急京都本線]]に並行して[[淀川 (近畿)|淀川]]右岸を走り、[[京都市]]と[[大阪市]]を結ぶ都市間連絡輸送([[インターアーバン]])を担っている。大阪・京都への通勤・通学路線であるとともに、京都へ向かう観光路線でもある<ref>[https://www.westjr.co.jp/info/pdf/occupancy/220224_00_weekday_urban_jp.pdf 京阪神エリアの時間帯別 列車の混雑状況]</ref>。 [[新快速]]を中心に多くの列車が[[JR神戸線]]・[[琵琶湖線]]・[[湖西線]]に[[直通運転]]を行なっている。京都駅 - 大阪駅間 (42.8km) を新快速が最短28分で結んでおり、[[表定速度]]は92km/hと[[特別急行列車|特急列車]]に匹敵する。全区間が[[複々線#方向別複々線|方向別複々線]]であり、緩急分離運転が行われている。大阪駅から[[日本海]]側を縦貫して[[青森駅]]まで結ぶ路線の総称「[[日本海縦貫線]]」の一部となっており、[[金沢駅]]まで至る[[特別急行列車|特急]]「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」など日本海縦貫線の列車が多く乗り入れる。 大阪駅から淀川を挟んで1駅北隣には[[東海道新幹線]]・[[山陽新幹線]]が乗り入れる[[新大阪駅]]が位置している<ref>{{Cite web|和書|title=新大阪駅情報:周辺地図・観光情報 |url=https://guide.jr-odekake.net/station/0610155/#areamap |website=JRおでかけネット |access-date=2023-02-15}}</ref>。東海道新幹線、阪急京都本線と並行する区間が長く、また淀川を挟んで[[京阪本線]]が存在するが、それぞれ[[ターミナル駅|ターミナル]]の位置で棲み分けがなされており、直接的な競合は存在しないが、各線とも運営会社がサービス面で非常に力を入れている。大阪駅 - 京都駅間の1日平均利用者数は350,717人<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=都市鉄道完全ガイド関西JR編 2021-2022年版|date=2021年6月22日 |publisher=双葉社}}</ref>で、同区間では阪急京都本線の180,954人<ref name=":0" />、京阪本線の162,479人<ref name=":0" />と比べて圧倒的に多い。 ラインカラーは'''青'''({{Color|#0072ba|■}})であり、JR神戸線とともにアーバンネットワークの主要路線という位置づけから、JR西日本の[[コーポレートカラー]]自体がそのままラインカラーとして使われている。路線記号は''' A '''<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。 当該区間での旅客案内での路線表記も基本的には「東海道線」ではなく「JR京都線」で統一されているが、例外として[[新大阪駅]]では、高槻・京都方面のみ「JR京都線」と案内され、大阪方面は「JR神戸線」及び「[[福知山線|JR宝塚線]]」といった、大阪駅以西の直通先の愛称で案内されている(JR神戸線の[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]、琵琶湖線の[[山科駅]]でも同様の対応が取られている)。なお、駅備え付けの運賃表や一部の路線図では、括弧書きで(東海道線)と併記される。全区間がJR西日本[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]の管轄であり、[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」のエリアに含まれているとともに<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>、[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」および、[[電車特定区間]]に含まれ、区間外よりも割安な旅客運賃が適用されている。 === 路線データ === [[ファイル:Railway-Line-Osaka-Kyoto.jpg|thumb|300px|JR京都線と競合する阪急京都本線・京阪本線の位置関係]] * 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長42.8 km ** 西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]): *** 京都駅 - 大阪駅間 42.8 km ** [[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]): *** 京都駅 - [[吹田貨物ターミナル駅]]間 (33.7km)…吹田貨物ターミナル駅以西は貨物支線経由 * [[軌間]]:1,067 mm * 駅数:17(起終点駅含む・貨物駅2駅除く) * 複線区間: ** 複々線:京都駅 - 大阪駅間(ただし京都駅 - 向日町駅間と茨木駅 - 吹田貨物ターミナル駅間は貨物列車用の線増あり) * 電化区間:全線電化(直流1,500 V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:複線自動閉塞式 * 保安装置:[[自動列車停止装置#拠点P|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]]([[自動列車停止装置#拠点P|拠点P]]方式) * [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]] * [[列車運行管理システム]]:[[運行管理システム (JR西日本)|JR京都・神戸線運行管理システム]] * 最高速度:外側線130 km/h、内側線120 km/h * [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間 ** [[ICOCA]]エリア:全線(全線[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間) * 2020年度の混雑率:快速線98%(茨木→新大阪 6:50-7:50)、緩行線85%(茨木→新大阪 7:30-8:30)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=2|format=PDF}}</ref> == 沿線概況 == {{JR京都線路線図}} {{Main|東海道本線#京都駅 - 大阪駅間}} 京都駅 - [[向日町駅]]間は上下内外側線を構成する複々線と貨物線1線を加えた5線区間で、向日町駅 - [[茨木駅]]は複々線となるが、茨木駅からは再び貨物線が分岐する。茨木駅 - [[吹田貨物ターミナル駅]]間は5線(上下内外側線と貨物線)、吹田貨物ターミナル駅から[[新大阪駅]]にかけては上下内外側線に[[梅田貨物線]]と[[北方貨物線]]の複線を加えた8線区間となっている。 多数の欠円アーチや[[ねじりまんぽ]]を含む沿線の[[煉瓦]]造の鉄道橋及び隧道群([[1875年]] - [[1876年]]造)は、2017年(平成29年)に「大阪京都間鉄道煉瓦拱渠群」として[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=土木学会 平成29年度選奨土木遺産 大阪京都間鉄道煉瓦拱渠群 |url=https://www.jsce.or.jp/contents/isan/files/2017_19.shtml |website=www.jsce.or.jp |access-date=2022-06-09 |publisher=土木学会}}</ref>。 == 運行形態 == 隣接する[[琵琶湖線]]や[[JR神戸線]]と一体的に運行されており、[[湖西線]]や[[福知山線]](JR宝塚線)との直通列車も設定されている。乗車券のみで利用できる列車は停車駅の少ない順に新快速・快速・普通([[京阪神緩行線|緩行電車]]{{Efn|name="localline"|緩行電車は、『JR時刻表』では「[[各駅停車]]」と表記されている。}})の3種別があり、このほかに[[北陸地方|北陸]]・[[関西国際空港]]・[[南紀]]・[[山陰地方|山陰]]方面などへの[[特別急行列車|特急列車]]が加わり、複々線を有効活用したパターンダイヤが組まれている。 ほぼ全線にわたり線形はきわめてよく、外側線は一部の曲線区間を除いて130km/h運転が可能である。内側線も120km/h運転に対応している。 [[ファイル:TokaidoLineStops JRW osaka1 20180317.svg|500px|停車駅(琵琶湖線区間を含む)]] === ダイヤ === 基本的に15分サイクルで運転されており、22時(土曜・休日は21時)を過ぎると20分サイクルになる。 朝通勤時間帯下り(大阪方面)は10分サイクルが基本となっている。基本的に1サイクルに新快速が1本、快速が1本、京都駅あるいはそれ以遠始発の普通が1本、高槻駅発の普通が1本である。 昼間時間帯は、基本的に15分サイクルに新快速1本、快速1本、高槻駅発着の普通1本、京都駅発着の普通1本である。曜日・時間帯によって高槻駅 - 京都駅の普通列車の本数は変わる。 夕ラッシュ時間帯の上り(京都方面)は昼間時間帯と同様のダイヤであるが、平日の最ラッシュ時間帯において大阪駅始発の新快速が2本設定されており、その時間帯については新快速の運行が7.5分間隔となる。夜間は20分サイクルとなる。 {| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; margin:0 auto" |- |+日中1時間あたりの運転本数<br />(2020年3月14日現在) !種別\駅名 !… !colspan="2" style="width:1em"|京都 !… !colspan="2" style="width:1em"|高槻 !… !colspan="2" style="width:1em"|新大阪 !… !colspan="2" style="width:1em"|大阪 !… |- |rowspan="4"|特急 |金沢←||colspan="10" style="background-color:#ff8080"|2本||colspan="2"|&nbsp; |- |rowspan="2" colspan="2"|&nbsp;||colspan="10" style="background-color:#ff8080"|0-1本||→鳥取方面 |- |colspan="7" style="background-color:#ff8080"|2本||colspan="4"|→関西空港 |- |colspan="8"|&nbsp;||colspan="4" style="background-color:#ff8080"|1本||→福知山方面 |- |rowspan="2"|新快速 |湖西線←||colspan="11" style="background-color:#cdf"|1本||rowspan="4"|→JR神戸線 |- |rowspan="2"|琵琶湖線←||colspan="11" style="background-color:#cdf"|3本 |- |快速 |colspan="11" style="background-color:#feb"|4本{{Efn|京都駅 - 高槻駅間は普通。}} |- |rowspan="2"|普通 |colspan="2"|&nbsp;||colspan="10" style="background-color:#ccc"|4本{{Efn|日中は京都駅 - 高槻駅間で2 - 4時間ほど運転されない時間帯がある。}} |- |colspan="5"| ||colspan="7" style="background-color:#ccc"|4本||→宝塚方面 |} === 優等列車 === JR発足後、[[天王寺駅|天王寺]]発着だった南紀方面の特急や、[[智頭急行智頭線|智頭急行線]]開業で運行を開始した[[山陰地方]]への特急「[[スーパーはくと]]」などが新たに京都駅まで直通運転されるようになり、この区間の特急の列車本数は増えた。特に[[関西国際空港]]開港と同時に運転を開始した特急「[[はるか (列車)|はるか]]」は、その1年後にはすべての列車が京都駅まで定期列車で入るようになり、新大阪駅 - 京都駅間は北陸方面との特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」など、ほかの列車と合わせ1時間に4本程度が運転される特急街道になっている。 [[阪和線]]に直通する特急「はるか」や「[[くろしお (列車)|くろしお]]」は、下り列車が[[吹田貨物ターミナル駅]]から大阪環状線の[[西九条駅]]まで、上り列車が西九条駅から新大阪駅まで、それぞれ[[梅田貨物線]]を走行する。以前は大阪駅を経由しなかったが、2023年2月13日から大阪駅の地下ホームを経由し、同年3月18日のダイヤ改正後から大阪駅の地下ホーム([[北梅田駅|うめきたエリア]])に停車するようになった。 京都駅30番のりば発の下り列車は[[京都貨物駅]]構内を通り、向日町駅構内で下り外側線に合流するため、この区間を外側線で走る特急や新快速より若干所要時間が余計にかかる。 この区間を走行する優等列車は2021年3月13日改正時点では以下のとおり。 * 定期列車 ** 寝台特急「[[サンライズ瀬戸]]」「[[サンライズ出雲]]」([[東京駅]] - [[高松駅 (香川県)|高松駅]]・[[出雲市駅]]間) - JR京都線内は東京行きのみ大阪駅に停車。 ** 特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」([[和倉温泉駅]]・[[金沢駅]] - 大阪駅間) ** 特急「[[びわこエクスプレス]]」([[米原駅]]・[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] - 大阪駅間) ** 特急「[[はるか (列車)|はるか]]」(野洲駅・草津駅・京都駅 - [[関西空港駅]]間) ** 特急「[[ひだ (列車)|ひだ]]」([[高山駅]] - 大阪駅間) ** 特急「[[くろしお (列車)|くろしお]]」(京都駅 - 新宮駅間) ** 特急「[[スーパーはくと]]」(京都駅 - 鳥取駅・倉吉駅間) ** 特急「[[こうのとり (列車)|こうのとり]]」(新大阪駅 - [[福知山駅]]・[[豊岡駅 (兵庫県)|豊岡駅]]・[[城崎温泉駅]]間) === 新快速 === {{See also|新快速#東海道本線・山陽本線・北陸本線・赤穂線・湖西線|京阪神快速}} 特急・急行列車以外の料金不要列車では最も停車駅の少ない速達列車である。JR京都線内の停車駅は、京都駅・高槻駅・新大阪駅・大阪駅。特に京都駅 - 高槻駅間 21.6 km は無停車となる。JR神戸線姫路駅、[[山陽本線]][[網干駅]]・[[上郡駅]]、[[赤穂線]][[播州赤穂駅]]からJR京都線を経由し琵琶湖線[[長浜駅]]、[[北陸本線]][[近江塩津駅]]・[[敦賀駅]]まで直通運転している。 日中時間帯は大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本運転されており、このうち3本が琵琶湖線野洲駅・米原駅発着および北陸本線経由近江塩津駅発着、1本は湖西線経由敦賀駅発着である。この時間帯の下り列車は京都駅を、また上り列車は大阪駅を、それぞれ毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を28 - 29分で結んでいる。夕方ラッシュ時から21時台までは大阪駅 → 京都駅間で基本4本であるが、18時台は大阪始発の列車2本が入るため6本(最短で7分半間隔)で運行されている。大阪発18時台の敦賀行きが京都駅から湖西線経由の「快速」([[おごと温泉駅]]にも停車)として運転する以外は、すべて琵琶湖線に直通する。このため、大阪発15 - 18時台の30分発は米原経由敦賀行きとして運転されている。 全列車が全区間で外側線を走行する。ただし、新大阪駅配線改良が行われるまでは、新大阪駅 - 大阪駅間のみ内側線を走行していた。日中は茨木駅と西大路駅で先行の普通列車を、山崎駅で先行の快速列車を追い抜く。 全列車[[網干総合車両所]]所属の[[JR西日本225系電車|225系0番台・100番台]]・[[JR西日本223系電車#1000番台|223系1000番台]]・[[JR西日本223系電車#2000番台|2000番台]]が使用されており、12両編成(平日夕方の大阪始発は8両編成)で運転されている。土曜・休日は2011年3月12日のダイヤ改正から<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成23年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道近畿統括本部 |date=2010-10-17 |url=http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf |format=PDF |accessdate=2017-03-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110124215220/http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf |archivedate=2011-01-24}}</ref>、平日は2017年3月4日のダイヤ改正から一部を除いて<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成29年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道近畿統括本部 |date=2016-12-16 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/161216_00_keihanshin.pdf |format=PDF |accessdate=2017-03-16 |archiveurl=|archivedate=}}</ref>、姫路駅 - 米原駅間を終日12両編成として混雑緩和を図っている。 === 快速 === {{See also|京阪神快速}} 快速は京都駅を越え琵琶湖線や一部は湖西線と直通し、大阪駅からは朝ラッシュ時の一部を除きJR神戸線へと直通している。JR宝塚線とは直通しない。JR京都線内の停車駅は京都駅・長岡京駅・高槻駅・茨木駅・新大阪駅・大阪駅。JR京都線の全区間を快速運転する列車は、下りは京都発基準で朝5時台から8時過ぎまでの15本(土曜・休日は5・6時台の6本)、上りは大阪発基準で朝5 - 7時台の6本(土曜・休日は5・6時台の4本)のみで、日中以降のJR京都線での快速運転区間は高槻駅 - 大阪駅間であり、京都駅 - 高槻駅間は各駅に停車する「普通」として運転している。2003年11月28日までは全区間で快速運転する列車に須磨駅・垂水駅・舞子駅を通過する設定があった。 平日朝は高槻駅→大阪駅間で外側線を走行しており、[[JR西日本223系電車|223系1000・2000番台]]と[[JR西日本225系電車|225系0番台・100番台]]を用いて130km/hで走行する。朝ラッシュ時間帯大阪方面行きはおおむね8分間隔の運転である。日中から夜21時台にかけては大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本が運転されており、この時間帯の高槻駅 - 京都駅間の各駅での停車本数は4 - 8本(時間帯によって変動する)である。この時間帯の下り列車は京都駅を毎時09・24・39・54分、また上り列車は大阪駅を毎時08・23・38・53分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を41分で結んでいる。 平日の日中以降および土曜・休日ダイヤでは内側線を走行する。[[2006年]]3月17日までは全区間で快速運転を行い、外側線を走行する大阪発17時台の快速野洲行きが運行されていた。2004年10月15日までは17 - 19時台の50分発で、野洲駅・草津線柘植駅・湖西線近江今津駅にそれぞれ直通していた。 車両は網干総合車両所所属の[[JR西日本221系電車|221系]]、223系1000番台・2000番台・6000番台および225系0番台・100番台が使用されており、6・8・10・12両編成で運転されている{{Efn|12両編成の列車は、223系1000番台・2000番台、225系0番台・100番台による8+4両のほかに、221系・223系6000番台による6+6両、223系2000番台・225系100番台による6+6両の編成で運行されるものがある。なお10両編成にはペアを組める4両編成が存在しない221系と223系6000番台は使用されない。}}。日中は6両編成が増え、それ以外の時間帯は12両が増える。 === 普通 === {{See also|京阪神緩行線}} 「普通」は各駅に停車する列車であるが、ここではJR京都線内の全区間で「普通」として運転される列車について解説する(高槻以東のみ各駅に停車する列車については前節を参照)。国鉄時代の通称である[[京阪神緩行線]](緩行電車)と呼ばれることがある{{Efn|name="localline"}}。全区間で内側線を走行する。 日中から21時台までは1時間に8本運転されている。日中は8本とも高槻駅発着であるが、夕方ラッシュ時から21時台までは高槻駅・京都駅発着が4本ずつ運転されている。土曜・休日ダイヤの11・12時台では高槻駅・京都駅発着が4本ずつの運行である。大阪駅以西は半数がJR神戸線[[須磨駅|須磨]]・[[西明石駅|西明石]]方面、半数がJR宝塚線[[新三田駅|新三田]]方面(2020年3月14日のダイヤ改正より、概ね下り10 - 14時台・上り12 - 16時台は[[宝塚駅|宝塚]]駅発着に短縮された)と直通する。 朝ラッシュ時以外は大阪駅 - 京都駅間で後続の快速より先着し、朝ラッシュ時も高槻駅 - 京都駅間は後続の快速より先着する。下りのJR宝塚線直通列車は東淀川駅 - 塚本駅間で新快速と並走し、新大阪駅・大阪駅でそれぞれ相互接続を行う(平日朝夕は相互接続を行わず別々のホームに発着)。 大阪発で平日ダイヤの朝7時台に琵琶湖線直通草津行きが1本設定されている。また、平日朝の高槻発2本はJR神戸線加古川行きとして運行されている。 区間列車として、高槻発4時と平日6時台に京都行きの設定がある。また、毎日朝には大阪駅 - 吹田駅間の列車が1往復設定されている。 車両は、網干総合車両所所属の[[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本321系電車|321系]]電車が使用され、すべて7両編成で運転されている。 [[1972年]][[3月15日]]の新幹線の岡山駅までの開業に伴うダイヤ改正で、昼間15分パターンのダイヤが生まれた。当時の1時間の運行本数は大阪駅 - 吹田駅間で8本、吹田駅 - 京都駅間で4本であった。上り京都方面を例にすると、新快速・快速(大阪駅で新快速待避)・普通(甲子園口発京都行き)・普通(西明石発吹田行き)の順に大阪駅を発車するパターンが15分ごとに繰り返される。普通が西明石駅 - 吹田駅間と甲子園口駅 - 京都駅間に系統分割されたのは、西明石発京都行きで直通運転を行うと当時内側線を走行していた新快速に追いつかれるからである。さらに朝晩時間帯は高槻駅発着の列車も運転されていた。 [[1985年]]3月14日の改正で日中の快速が高槻駅 - 京都駅間で各駅に停車するようになり、この時間帯の運転区間は大阪駅 - 高槻駅間となった。[[国鉄201系電車|201系]]が投入されたことによりスピードアップが図られ、大阪駅 - 吹田駅間で6本、吹田駅 - 高槻駅間が4本の運行パターンとなった。朝・夕方の一部列車は草津駅まで延長運転されるようになった。[[1986年]]11月1日改正では新快速が外側線運転に変更されたのに伴い、日中時間帯は高槻駅発着に統一され、運行本数も1時間に8本に増発された。 1994年3月1日に、207系が運用を開始するとともに、湖西線堅田始発の列車が運行されるようになった。京都駅ビル開業の[[1997年]]9月1日の改正で日中の高槻駅発着の半数が京都駅発着に延長され、[[2002年]][[10月5日]]改正でJR神戸線直通系統が京都駅発着、JR宝塚線発着系統は高槻駅発着に統一された。[[2004年]][[10月16日]]の改正で、琵琶湖線野洲駅と湖西線近江今津駅発着の列車が運行されるようになった。 [[2010年]][[3月13日]]改正で日中の高槻駅 - 京都駅間の運行本数が1時間に2本に減便された。[[2011年]][[3月12日]]改正で朝のJR宝塚線からの上りと下り尼崎行きの1往復が吹田駅発着に変更されたのち、[[2013年]][[3月16日]]改正で現在の形態となっている<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/121221_00_kinki.pdf 平成25年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース、2012年12月21日付、2012年12月24日閲覧。</ref>。 2015年3月14日改正時点で、大阪発毎日21時台には湖西線[[近江舞子駅|近江舞子]]行きが設定されていたほか、湖西線[[堅田駅|堅田]]を毎日6時台に出発して大阪方面へ向かう列車が設定されていたが<ref>『JTB時刻表』2015年3月号、JTBパブリッシング、pp.482-483</ref>、2016年3月26日のダイヤ改正で湖西線と直通しJR京都線内全線を普通として運転される列車はなくなった<ref>『JTB時刻表』2016年4月号、JTBパブリッシング、pp.474-491</ref>。 ==== 女性専用車 ==== {|style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray" |- |style="background:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 5px #0072ba"|女性専用車 |- |{{TrainDirection|加古川|京都}} |- | {|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0.5em" |- |style="width:2em"|1 |style="width:2em"|2 |style="width:2em"|3 |style="width:2em"|4 |style="width:2em; background:#fcf"|5 |style="width:2em"|6 |style="width:2em"|7 |} |} 平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、207系の加古川・西明石・須磨側から5両目と321系の5号車に[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている。なお、ダイヤが乱れた際などに女性専用車の設定が解除されることがある。 JR京都線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた<ref name="jrw_20021007">[https://web.archive.org/web/20021018141417/http://www.westjr.co.jp/news/021017a.html 〜より快適な車内環境をめざして〜「女性専用車」を拡大します](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年10月17日</ref>が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった<ref name="jrw_20110304">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について]・[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日・2011年4月6日</ref>。なお、京都駅を越えてJR京都線と琵琶湖線を直通および京都駅発の琵琶湖線内のみ運転する207系・321系による列車についても列車の運転全区間において女性専用車の設定は維持される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/railroad/service/train_woman/ |title=女性専用車両:JRおでかけネット|accessdate=2015-07-11}}</ref>{{Efn|ただし[[びわ湖大花火大会]]開催日の多客輸送など、臨時列車として207系・321系による列車が延長運転される場合はこの限りではない。かつては[[湖西線]]にも京阪神緩行線の電車が乗り入れており湖西線でも女性専用車の設定列車があったが、2016年3月26日のダイヤ改正で京都駅発着の普通となったため女性専用車の設定列車は無くなった。2016年3月26日現在、琵琶湖線直通列車で女性専用車の設定があるのは朝の西明石発草津行きの上り列車1本と深夜0時台の京都発野洲行きの最終列車のみである。}}。 <!-- 高校総体等の開催による臨時列車は4扉車を仕立てないため4扉車である207系・321系の各列車に限定 --> ==== 大晦日終夜運転 ==== [[大晦日]]深夜から[[元日|元旦]]にかけて、JR京都線では全線(運転区間は京都駅 - JR神戸線西明石駅間)で普通のみ約30分間隔で[[終夜運転]]が実施されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>。かつては[[奈良線]]にも乗り入れ、奈良駅 - (奈良線経由) - 京都駅 - 大阪駅 - 西明石駅間で運転されていたこともあったが、奈良線への乗り入れは1999年度限りで終了している<ref name="jrw_19991015">[https://web.archive.org/web/20000519092121/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n991015d.html 平成11年度【 冬 】の臨時列車の運転について 在来線(終夜臨時列車&初日の出列車)](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年10月15日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20010303123917/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n001016d.html −平成12年度【 冬 】の臨時列車の運転について−(別紙詳細)](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2000年10月16日</ref>。 === 貨物列車 === {{Main|東海道本線#貨物列車}} 貨物列車は全列車、茨木駅構内で分岐し、[[吹田貨物ターミナル駅]]を経由する貨物線で運転されている。 山陽本線と直通する貨物列車は、吹田貨物ターミナル駅 - 宮原操車場 - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]間の通称[[北方貨物線]]を経由する。[[桜島線]][[安治川口駅]]への貨物列車は吹田貨物ターミナル駅から大阪駅地下ホームを経て、[[大阪環状線]][[西九条駅]]に至る[[梅田貨物線]]を通る。 == 使用車両 == [[国鉄分割民営化]]後の使用車両を記述する。 === 現在の車両 === <!-- 「JR神戸線」の記事にも同様の記述があります。「JR神戸線」の記述内容も確認してください。--> ==== 優等列車 ==== ; [[電車]] :* [[JR西日本287系電車|287系]]:特急「くろしお」として京都駅 - 新大阪駅間で、特急「こうのとり」として新大阪駅 - 大阪駅間で運用されている。 :* [[JR西日本683系電車#289系|289系]]:特急「くろしお」として京都駅 - 大阪駅間で、特急「こうのとり」「らくラクはりま」として新大阪駅 - 大阪駅間で運用されている。 :* [[JR西日本283系電車|283系]]:特急「くろしお」として京都駅 - 新大阪駅間で運用されていたが、運行区間の縮小で運行線区外となっていた。大阪駅地下ホームの開業に伴い、別線ながらJR京都線区間にあたる新大阪駅 - 大阪駅間での運行が復活した。吹田駅([[吹田総合車両所]]) - 新大阪駅間を回送列車として運行する場合がある。 :* [[JR西日本281系電車|281系]]・[[JR西日本271系電車|271系]]:特急「はるか」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 :* [[JR西日本285系電車|285系]]:寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 :* [[JR西日本681系電車|681系]]・[[JR西日本683系電車|683系]]:特急「サンダーバード」・特急「びわこエクスプレス」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 :* [[国鉄117系電車|117系]]:臨時寝台特急「[[WEST EXPRESS 銀河]]」や団体臨時列車として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 : ; [[気動車]] :* [[JR西日本キハ189系気動車|キハ189系]]:特急「びわこエクスプレス」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 :* [[JR東海HC85系気動車|HC85系]]:特急「(ワイドビュー)ひだ」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 :* [[智頭急行HOT7000系気動車|HOT7000系]]:特急「スーパーはくと」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 このほか、大阪駅 - [[京都総合運転所#向日町操車場|向日町操車場]]間では回送列車として「[[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]」や「サンダーバード」の一部列車が運転されている。「サンダーバード」は、大阪駅到着後そのまま神戸方面へ発車し、[[塚本駅]]から北方貨物線に入り、茨木駅構内でJR京都線(外側線)に合流する(出区のときはこの逆ルート)。この場合、JR京都線内は編成の向きが逆向きになる。 ==== 快速・普通列車 ==== すべて電車で運転されている。 * [[JR西日本225系電車|225系]](0・100番台) ** [[網干総合車両所]](本所)の車両が使用されている。2010年12月1日から新快速・快速(高槻駅 - 京都駅間を普通として運転する列車も含む)で営業運転を開始した<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2010/12/jr225_3.html 【JR西】225系営業運転開始] - 『鉄道ホビダス』[[ネコ・パブリッシング]] RMニュース 2010年12月3日</ref>。 * [[JR西日本223系電車|223系]](1000・2000・6000番台) ** 網干総合車両所の車両が使用されている。1995年8月12日から運用を開始し、新快速・快速(高槻駅 - 京都駅間を普通として運転する列車も含む)に使用されている。なお、6000番台は車両の性能を221系に合わせて固定し、221系と連結して運転することを前提としているため、新快速には充当されていない。 * [[JR西日本221系電車|221系]] ** [[網干総合車両所]](本所)の車両が使用されている。快速(高槻駅 - 京都駅間を普通として運転する列車も含む)に使用され、一部の列車は223系6000番台と併結して運転されている。 * [[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本321系電車|321系]] ** 207系は1994年3月1日から<ref>『JR電車編成表 '94夏号』ジェー・アール・アール、1994年。{{ISBN2|4-88283-021-3}}。</ref>、321系は2005年12月1日から運用を開始した。いずれも網干総合車両所(明石支所)の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運転されている。 <gallery> JR-Series225-100 U7.jpg|225系100番台 JR-Series225-0 U3.jpg|225系0番台 JRwest 223-2000 S.Rapid FH.jpg|223系2000番台 JRW series221 Kobe.jpg|221系 JRW 207 Series Set F1 20190720.jpg|207系 WestJapanRailwayCompanyType321-1.jpg|321系 </gallery> === 過去の車両 === ==== 優等列車 ==== ; 電車 :* [[国鉄381系電車|381系]]:特急「くろしお」として京都駅 - 新大阪駅間で、特急「こうのとり」として新大阪駅 - 大阪駅間で、特急「しなの」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 :* [[国鉄485系電車|485・489系電車]]:特急「[[サンダーバード (列車)#ふるさと雷鳥|雷鳥]]」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 :* [[国鉄583系電車|583系]]:急行(2012年3月 - 2013年1月まで臨時急行)「[[きたぐに (列車)|きたぐに]]」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 :* [[JR東海383系電車|383系]]:特急「(ワイドビュー)しなの」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていたが、運用区間の縮小で運行線区外となった。 : ; 気動車 :* [[国鉄181系気動車|181系]]:特急「[[スーパーはくと|はくと]]」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 :* [[JR東海キハ85系気動車|キハ85系]]:特急「(ワイドビュー)ひだ」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 : ; [[電気機関車]] :* [[国鉄EF81形電気機関車|EF81形]]:寝台特急「[[日本海 (列車)|日本海]]」、臨時寝台特急「[[トワイライトエクスプレス]]」の牽引機関車として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 : ; [[客車]] :* [[国鉄24系客車|24系]]:寝台特急「日本海」、臨時寝台特急「トワイライトエクスプレス」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 ==== 普通・快速列車 ==== 国鉄分割民営化以降は、すべて電車が使用されていた。 * [[国鉄113系電車|113系]] ** 宮原電車区・網干総合車両所の車両が6両・7両・8両・11両・12両編成で大垣駅 - 姫路方面間の快速に、また京都総合運転所の車両が4両・8両・12両で湖西線・草津線からの直通として大阪駅まで運転されていたが、最後まで残った網干車の運転が2004年10月16日のダイヤ改正により廃止された。113系自体は京都駅 - 向日町駅間で湖西線・草津線での運用のために、[[回送]]として運転されていたが、2023年4月1日を持って湖西線・草津線での定期運用も終了した。 * [[国鉄117系電車|117系]] ** 1980年から新快速として運用を開始し、1989年3月11日から新快速に221系が投入された後でも最高速度を115km/hに向上させて新快速に充当されていたが、1991年3月16日のダイヤ改正以降は早朝・深夜の新快速に限定して運用されていた。1995年8月12日に223系の投入が始まり、1999年5月10日のダイヤ改正から朝ラッシュ時において223系で130km/h運転が始まったのに伴い、JR京都線からは前日の9日限りで運用を終了した。新快速撤退後一部編成は快速用に8両編成に組成し運用されていたが、1992年に岡山地区への転用によって当路線への運用が廃止された。113系と同様、京都駅 - 向日町駅間では回送として運転されていた。 * [[国鉄103系電車|103系]] ** [[明石電車区]]・[[高槻電車区]]・宮原総合運転所の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運用していたが、高速化や[[JR東西線]]の開業を見越して207系に置き換えられ、JR宝塚線直通を除いて1994年3月1日に運用が廃止された。1995年9月1日に新大阪行き・吹田駅始発運用が設定され、1997年3月8日に高槻駅始発、そして9月1日に京都駅発着運用が復活したが、2003年8月14日に当路線での運用は廃止された。その後、[[JR福知山線脱線事故]]の影響で2005年8月1日より[[森ノ宮電車区]]から宮原総合運転所に103系を借り入れて運用に復帰、9月には[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)から103系を購入した編成が運用を開始し、321系の運用が始まる前日の2005年11月30日まで使用された。 * [[国鉄201系電車|201系]] ** 明石電車区・高槻電車区・網干総合車両所の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運用していたが、321系を投入して普通の最高速度120km/hに統一するため、森ノ宮電車区および[[奈良電車区]]に転属して2007年3月17日限りで運用が廃止された。 * [[国鉄205系電車|205系]](0番台) ** 網干総合車両所の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運用していたが、321系を投入して普通の最高速度120km/hに統一するため、2006年2月7日限りで運用が廃止され、[[日根野電車区]](現:吹田総合車両所日根野支所)に転属して[[阪和線]]運用に就いた。その後、[[宮原総合運転所]](現:網干総合車両所宮原支所)に転属した車両により2011年3月12日から4編成すべて運用に復帰した<ref>「大阪中心部のJR線事情」『[[鉄道ダイヤ情報]]』2011年5月号、[[交通新聞社]]、p.17。</ref>。しかし、阪和線転属前のように終日運用されるのではなく、平日の朝のラッシュ時の京都駅・高槻駅 - 尼崎駅間限定の運用だった。また、帯の色も水色から207系や321系と同様の濃紺とオレンジに変わり、復帰当初は行先表示器は幕だったが、後に4編成すべて[[発光ダイオード|LED]]表示に改装され、車内の更新工事も施され、ドアチャイムも設置された。しかし、2013年3月16日のダイヤ改正で再び撤退し、再度阪和線に転属した<ref>[http://railf.jp/news/2013/03/16/094200.html 205系が東海道本線から撤退] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース、2013年3月16日</ref><ref>[http://railf.jp/news/2013/03/20/055000.html 205系C4編成が日根野支所へ] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース、2013年3月20日</ref>。 <gallery> JNR111.JPG|113系 JNR 117-103 shinkaisoku.jpg|117系 JRW series201-Kyoto.jpg|201系 JRW 205 series Kuha 205-36 at Kyoto Station 2012-07-06.jpg|205系0番台 </gallery> == 歴史 == {{Main2|路線・駅設置などの沿革|東海道本線#年表|新快速・快速の沿革|京阪神快速#歴史|普通(緩行電車)の沿革|京阪神緩行線#沿革}} == 駅一覧 == 以下では、JR京都線内にある各停車場(駅・信号場)の営業キロ、停車列車、接続路線を一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「[[東海道本線#廃駅]]」を参照。 * 駅名 ** (貨)=貨物専用駅 ** [[特定都区市内]]制度適用範囲の駅:{{JR特定都区市内|京}}=京都市内、{{JR特定都区市内|阪}}=大阪市内 * 停車駅 ** 普通:すべての旅客駅に停車(表中省略) ** 快速・新快速:●印の駅は全列車停車、○印の駅は朝ラッシュ終了以降停車、|印の駅は全列車通過 *** 快速は、高槻駅または京都駅から琵琶湖線米原方面は普通として運転 ** 特急:[[#優等列車]]に挙げられている各列車記事参照 * 接続路線:駅名が異なる場合は⇒印で駅名を示す。 * 線路は、全区間方向別複々線 * [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月17日より導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年7月20日</ref>、北陸本線と琵琶湖線からの通し番号となっている。 {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:85%" |- !rowspan="2" style="width:5em; border-bottom:solid 3px #0072ba; font-size:90%;"|駅ナンバー<br /><ref name="numberlist">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf 「駅ナンバー」一覧表]}} - 西日本旅客鉄道、2016年7月20日</ref> !rowspan="2" style="width:8.5em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅名・信号場名 !rowspan="2" style="width:2.5em; line-height:1.5em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅間<br />営業<br />キロ !colspan="3"|累計営業キロ !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072ba; background:#feb;"|{{縦書き|快速|height=3em}} !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072ba; background:#cdf;"|{{縦書き|新快速|height=4em}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|接続路線 !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|所在地 |-style="border-bottom:solid 3px #0072ba; line-height:1.5em;" !京都<br />から ![[米原駅|米原]]<br />から ![[東京駅|東京]]<br />から |- !JR-A31 |[[京都駅]] {{JR特定都区市内|京}} |style="text-align:center"| - |style="text-align:right"|0.0 |style="text-align:right"|67.7 |style="text-align:right"|513.6 |style="background:#feb"|● |style="background:#cdf"|● |[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW kinki-A.svg|17px|A]] [[東海道本線]]([[琵琶湖線]])<ref group="*">[[北陸本線]][[敦賀駅]]まで直通運転。</ref>・[[ファイル:JRW kinki-B.svg|17px|B]] [[湖西線]](JR-B31)<ref group="*">湖西線の正式な起点は東海道本線(琵琶湖線)[[山科駅]]だが、運行形態上は全列車が京都駅に乗り入れている。北陸本線敦賀駅まで直通運転。</ref>・[[ファイル:JRW kinki-E.svg|17px|E]] [[山陰本線]]([[嵯峨野線]]: JR-E01)・[[ファイル:JRW kinki-D.svg|17px|D]] [[奈良線]](JR-D01)<br />[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] [[東海道新幹線]]<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]](B01)<br />[[京都市営地下鉄]]:[[ファイル:Subway KyotoKarasuma.svg|17px|K]] [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]](K11) |rowspan="7" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em"|{{縦書き|[[京都府]]|height=6em}} |rowspan="4" style="width:1em; text-align:center"|{{縦書き|[[京都市]]|height=4em}} |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[下京区]] |- !&nbsp; |style="width:8em"|(貨)[[京都貨物駅]] |style="text-align:right"|1.8 |style="text-align:right"|1.8 |style="text-align:right"|69.5 |style="text-align:right"|515.4 |style="background:#feb"|| |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |- !JR-A32 |[[西大路駅]] {{JR特定都区市内|京}} |style="text-align:right"|0.7 |style="text-align:right"|2.5 |style="text-align:right"|70.2 |style="text-align:right"|516.1 |style="background:#feb"|○ |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[南区 (京都市)|南区]] |- !JR-A33 |[[桂川駅 (京都府)|桂川駅]](久世) {{JR特定都区市内|京}} |style="text-align:right"|2.8 |style="text-align:right"|5.3 |style="text-align:right"|73.0 |style="text-align:right"|518.9 |style="background:#feb"|○ |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |- !JR-A34 |[[向日町駅]] |style="text-align:right"|1.1 |style="text-align:right"|6.4 |style="text-align:right"|74.1 |style="text-align:right"|520.0 |style="background:#feb"|○ |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |colspan="2" style="width:1em;"|[[向日市]] |- !JR-A35 |[[長岡京駅]] |style="text-align:right"|3.7 |style="text-align:right"|10.1 |style="text-align:right"|77.8 |style="text-align:right"|523.7 |style="background:#feb"|● |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |colspan="2" style="width:1em;"|[[長岡京市]] |- !JR-A36 |[[山崎駅 (京都府)|山崎駅]] |style="text-align:right"|4.0 |style="text-align:right"|14.1 |style="text-align:right"|81.8 |style="text-align:right"|527.7 |style="background:#feb"|○ |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |style="white-space:nowrap" colspan="2" style="width:1em;"|[[乙訓郡]]<br />[[大山崎町]] |- !JR-A37 |[[島本駅]] |style="text-align:right"|2.2 |style="text-align:right"|16.3 |style="text-align:right"|84.0 |style="text-align:right"|529.9 |style="background:#feb"|○ |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |rowspan="12" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}} |colspan="2" style="width:1em;"|[[三島郡 (大阪府)|三島郡]]<br />[[島本町]] |- !JR-A38 |[[高槻駅]] |style="text-align:right"|5.3 |style="text-align:right"|21.6 |style="text-align:right"|89.3 |style="text-align:right"|535.2 |style="background:#feb"|● |style="background:#cdf"|● |&nbsp; |colspan="2" rowspan="2" style="width:1em;"|[[高槻市]] |- !JR-A39 |[[摂津富田駅]] |style="text-align:right"|2.9 |style="text-align:right"|24.5 |style="text-align:right"|92.2 |style="text-align:right"|538.1 |style="background:#feb"|| |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |- !JR-A40 |[[JR総持寺駅]] |style="text-align:right"|1.7 |style="text-align:right"|26.2 |style="text-align:right"|93.9 |style="text-align:right"|539.8 |style="background:#feb"|| |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |rowspan="2" colspan="2" style="width:1em;"|[[茨木市]] |- !JR-A41 |[[茨木駅]] |style="text-align:right"|2.0 |style="text-align:right"|28.2 |style="text-align:right"|95.9 |style="text-align:right"|541.8 |style="background:#feb"|● |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |- !JR-A42 |[[千里丘駅]] |style="text-align:right"|2.9 |style="text-align:right"|31.1 |style="text-align:right"|98.8 |style="text-align:right"|544.7 |style="background:#feb"|| |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |colspan="2" style="width:1em;"|[[摂津市]] |- !JR-A43 |[[岸辺駅]] |style="text-align:right"|1.7 |style="text-align:right"|32.8 |style="text-align:right"|100.5 |style="text-align:right"|546.4 |style="background:#feb"|| |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |rowspan="3" colspan="2" style="width:1em;"|[[吹田市]] |- !&nbsp; |(貨)[[吹田貨物ターミナル駅]] |style="text-align:right"|0.9 |style="text-align:right"|33.7 |style="text-align:right"|101.4 |style="text-align:right"|547.3 |style="background:#feb"|| |style="background:#cdf"|| |西日本旅客鉄道:東海道本線貨物支線([[梅田貨物線]]<ref name="youran201459">電気車研究会『平成二十六年度 鉄道要覧』 p.59</ref>・[[北方貨物線]]<ref>電気車研究会『平成二十六年度 鉄道要覧』 p.38</ref>)・[[片町線]]貨物支線([[おおさか東線|城東貨物線]])<ref>電気車研究会『平成二十六年度 鉄道要覧』 p.46,57</ref><br />[[日本貨物鉄道]]:東海道本線貨物支線([[大阪貨物ターミナル駅]]方面)<ref name="youran201459" /> |- !JR-A44 |[[吹田駅 (JR西日本)|吹田駅]] |style="text-align:right"|1.5 |style="text-align:right"|35.2 |style="text-align:right"|102.9 |style="text-align:right"|548.8 |style="background:#feb"|| |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |- !JR-A45 |[[東淀川駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right"|3.1 |style="text-align:right"|38.3 |style="text-align:right"|106.0 |style="text-align:right"|551.9 |style="background:#feb"|| |style="background:#cdf"|| |&nbsp; |rowspan="3" style="width:1em; text-align:center"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=4em}} |rowspan="2" |[[淀川区]] |- !JR-A46 |[[新大阪駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right"|0.7 |style="text-align:right"|39.0 |style="text-align:right"|106.7 |style="text-align:right"|552.6 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group="*">おおさか東線の正式な起点は新大阪駅だが、運転系統としての「おおさか東線」は全列車が東海道本線貨物支線(梅田貨物線)経由で大阪駅(うめきたエリア)まで乗り入れる。</ref>・東海道本線貨物支線(梅田貨物線)・[[ファイル:JRW kinki-H.svg|17px|H]] [[JR東西線]]([[北新地駅]]<ref group="*">大阪駅と北新地駅の間は徒歩連絡の特例がある([[JR東西線#乗車制度]]を参照)。</ref>: JR-H44)<br />[[阪急電鉄]]:[[File:Number_prefix_Hankyu_Kyōto_line.svg|17px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]]<ref group="*">運転系統としての「京都本線」。同線の正式な起点は[[十三駅]]。</ref>・[[File:Number_prefix_Hankyu_Takarazuka_line.svg|17px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[File:Number_prefix_Hankyu_Kōbe_line.svg|17px|HK]] [[阪急神戸本線|神戸本線]]([[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]:HK-01)<br />[[阪神電気鉄道]]:[[File:Number prefix Hanshin line.svg|17px|HS]] [[阪神本線|本線]]([[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]:HS 01)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka Metro Midosuji line symbol.svg|17px|M]] 御堂筋線([[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]:M16)・[[File:Osaka Metro Tanimachi line symbol.svg|17px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]]([[東梅田駅]]:T20)・[[File:Osaka Metro Yotsubashi_line symbol.svg|17px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]([[西梅田駅]]:Y11) |[[北区 (大阪市)|北区]] |} {{Reflist|group="*"}} * 直営駅(15駅) ** 京都駅・西大路駅・桂川駅・向日町駅・長岡京駅・高槻駅・摂津富田駅・JR総持寺駅・茨木駅・千里丘駅・岸辺駅・吹田駅・東淀川駅・新大阪駅・大阪駅 * 業務委託駅(2駅) ** [[JR西日本交通サービス]] *** 山崎駅・島本駅 === 過去の接続路線 === * 京都駅:[[京都市電]]([[京都駅|京都駅前駅]]) ** [[京都市電堀川線|堀川線]] - 1961年8月1日廃止 ** [[京都市電伏見線|伏見線]] - 1970年4月1日廃止 ** [[京都市電烏丸線|烏丸線]] - 1977年10月1日廃止 ** [[京都市電河原町線|河原町線]] - 1978年10月1日廃止 * 西大路駅:[[京都市電西大路線]]([[西大路駅|西大路駅前駅]]) - 1978年10月1日廃止 == 新駅設置計画 == 高槻市は、高槻駅 - 島本駅間の新駅設置を検討している<ref>{{Cite web|和書|title=高槻市ホームページはこちら |url=https://www.city.takatsuki.osaka.jp/soshiki/48/3797.html |website=高槻市 新ホームページ |access-date=2023-01-15 |language=ja}}</ref>。 == 連続立体交差事業 == 摂津富田駅付近(区間は、JR総持寺駅東付近から川西中学校東付近まで)において、[[連続立体交差事業]](鉄道高架化)の事業化を進める計画がある<ref>{{PDFlink|[http://www.city.takatsuki.osaka.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/74/04kouka.pdf まちづくり基本構想のさらなる推進に向けた取組]}} - 高槻市都市創造部、2019年3月3日閲覧。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[川島令三]]編著『東海道ライン - 全線・全駅・全配線』8 米原駅 - 大阪エリア、[[講談社]]、2009年。{{ISBN2|978-4-06-270016-0}}。 == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[京阪神快速]] * [[京阪神緩行線]]<!-- 同一駅名がある理由で線区を追加しないでください。関連性は希薄です --> == 外部リンク == * [https://www.train-guide.westjr.co.jp/kyoto.html JR京都線:JR西日本 列車走行位置] {{東海道本線関連路線}} {{アーバンネットワーク}} {{西日本旅客鉄道近畿エリア}} {{西日本旅客鉄道近畿統括本部}} {{DEFAULTSORT:しえいああるきようとせん}} [[Category:JR京都線|*]] [[Category:近畿地方の鉄道路線]] [[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:京都府の交通]] [[Category:鉄道路線の愛称|きようとせん]]
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塀内夏子
塀内 夏子(へいうち なつこ、1960年6月30日 - )は、日本の漫画家。神奈川県川崎市宮前区出身。女性。元ペンネームは、塀内真人(へいうち まさと)。 神奈川県川崎市宮前区出身。中学時代はバスケットボール部に、神奈川県立多摩高等学校時代はワンダーフォーゲル部に所属した。 高校在学中に本格的に少女漫画を描き始め、処女作の『ボロクズ』が別マ少女まんがスクール銀賞を受賞し、『別冊マーガレット』(集英社)1979年2月増刊号に掲載されてデビューした。一方、担当編集と打ち合わせを続けるうちに少女誌的な表現方法やラブコメディは不向きだと認識し、次第に漫画を描かなくなった。 高校卒業後に武蔵野美術大学に進学するものの中退(塀内本人は学費未納で除籍と言っている)。アニメの背景画を手掛ける石垣プロダクションに就職し『六神合体ゴッドマーズ』などの作品に関わるも1年半ほどで退職した。その後、少年漫画を描き始めるようになり山をテーマにした『背負子と足音』が週刊少年マガジン新人漫画賞に入選(1982年11月入選)し、『週刊少年マガジン』(講談社)1983年1・2合併号に掲載されて、再デビューをした。 なお、デビュー当初は弟の名前を拝借して「塀内真人」というペンネームを使用していた。その理由については「女の子の書いたスポーツ漫画なんて、だれも読んでくれないんじゃないかって、思ったんです」としている。その後、読者にとっては面白ければ性別は特に関係ないと理解し、元号が平成に変わったのを機にペンネームの使用を止め本名に戻している。ただし、1986年に刊行した短編集『夢千代パラダイス』の著者名には塀内夏子を採用し、カバーを外した表紙には彼女の中学3年生のときの通知表を印刷していた。 以降、『おれたちの頂』(登山)、『フィフティーン・ラブ』(テニス)、『オフサイド』(サッカー)などのスポーツ漫画を多く発表していることから、スポーツ青春漫画の盟主とも評される。また『海よ、おまえは』や『勝利の朝』のような実在の社会問題を題材とした作品も発表している。 2004年からは三国志を題材としながらも戦争の悲惨さと平和の大切さをテーマとした『覇王の剣』を発表したが「虎牢関の戦い」の後に打ち切りとなり、2000年代半ば以降は青年誌や女性誌などに発表の場を広げている。 登場人物の激情的な心理描写や、熱血青春ものを得意としている。塀内自身は「私には男の子のDNAはない」「多少無理をして少年マンガのラインにいる」と発言しており、萩尾望都や樹村みのりといった少女漫画家の言葉の感覚に影響を受けているとしている。 先述のようにスポーツ青春漫画の盟主とも評されており、自身は「スポーツ漫画を描くならスポーツを好きでなくてはならないという信念を持っている」と発言している。その作風は正統的なスポーツ漫画ではなく、スポーツノンフィクションに近いものとも評される。 スポーツを題材として選んだ経緯については「80年代の『週刊少年マガジン』で流行っていたのは、不良マンガとバイクマンガとスポーツマンガ。そのほかに(中略)ラブコメディが出始めた頃で、おおざっぱに言うとその四つくらい。消去法で、ラブコメディはもう二度と描きたくない。バイクマンガはどうしても理解できない。不良マンガは『マガジン』にコンテまで出していたんですけど、やっぱりわからない」と消去していくうちに、スポーツマンガが残されたと語っている。ただし、当時からスポーツをテレビ観戦するのが好きで、ちばてつやや水島新司の作品にも親しんでいたという。 「取材力に定評がある」と評されるが、登場人物のキャラクター作りを最優先している。また競技特有の繊細な身体動作を良く理解できないまま連載に入るため、後から読み返して赤面することもあるという。こうした点について塀内は「半年くらい描いていると、なんとなく滑らかになってくる」「サッカーとかバレーボールみたいな、あまり道具を使わないものの方がつかみやすい。みんな自然の動きでしょ。だから、テニスとか野球とか、ああいう道具を使うものはなかなかわからなかった」と評している。 短編の大半は、『ダイヤモンド芸夢』『夢千代パラダイス』『サーカス★ドリーム』『塀内夏子短編集1』『塀内夏子短編集2』(いずれも単巻)及び、連載作品のコミックスに収められている。『週刊少年マガジン』、『週刊少年マガジン増刊』、『マガジンFRESH』、『マガジンSPECIAL』等で不定期に掲載された漫画家漫画は、『雲の上のドラゴン』(全1巻)として刊行されている。
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塀内 夏子は、日本の漫画家。神奈川県川崎市宮前区出身。女性。元ペンネームは、塀内真人。
{{存命人物の出典明記|date=2014年5月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 塀内 夏子<br />(旧:塀内 真人) | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 塀内 夏子 | 生地 = {{flagicon|JPN}} [[神奈川県]][[川崎市]][[宮前区]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|6|30}} | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1979年]] - | ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[青年漫画]]<br />[[スポーツ漫画]] | 代表作 = 『[[オフサイド (漫画)|オフサイド]]』<br />『[[Jドリーム]]』など | 受賞 = 別マ少女まんがスクール銀賞([[1979年]])<br />週刊少年マガジン新人漫画賞入選([[1982年]]11月) | 公式サイト = [http://www.ponytail.co.jp/index2.html なつこの部屋] }} '''塀内 夏子'''(へいうち なつこ、[[1960年]][[6月30日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]][[川崎市]][[宮前区]]出身。女性。元ペンネームは、'''塀内真人'''(へいうち まさと)。 == 経歴 == [[神奈川県]][[川崎市]][[宮前区]]出身<ref name="川崎20030612">{{Cite web|和書|url=http://www.frontale.co.jp/info/2003/0612_1.html|title=漫画家・塀内夏子先生がフロンターレを強力サポート!!|publisher=[[川崎フロンターレ]]|date=2003年6月12日|accessdate=2014年5月3日}}</ref>。中学時代は[[バスケットボール]]部に、[[神奈川県立多摩高等学校]]時代は[[ワンダーフォーゲル]]部に所属した<ref name="編集会議">{{Cite journal|和書 |title=スポーツマンガ家インタビュー3 塀内夏子|journal=編集会議|issue=2004年1月号|publisher=宣伝会議|pages=50-53}}</ref>。 高校在学中に本格的に[[少女漫画]]を描き始め、処女作の『ボロクズ』が別マ少女まんがスクール銀賞を受賞し、『[[別冊マーガレット]]』([[集英社]])[[1979年]]2月増刊号に掲載されてデビューした。一方、担当編集と打ち合わせを続けるうちに少女誌的な表現方法や[[ラブコメディ]]は不向きだと認識し、次第に漫画を描かなくなった<ref name="編集会議"/>。 高校卒業後に[[武蔵野美術大学]]に進学するものの中退(塀内本人は学費未納で除籍と言っている)。アニメの背景画を手掛ける[[石垣プロダクション]]に就職し『[[六神合体ゴッドマーズ]]』などの作品に関わるも1年半ほどで退職した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ponytail.co.jp/weekly/2017_01.html|title=最近のなつこ|publisher=夏子の部屋|date=2017-01-26|accessdate=2017-02-12}}</ref>。その後、[[少年漫画]]を描き始めるようになり山をテーマにした『背負子と足音』が[[週刊少年マガジン新人漫画賞]]に入選([[1982年]]11月入選)し、『[[週刊少年マガジン]]』([[講談社]])[[1983年]]1・2合併号に掲載されて、再デビューをした。 なお、デビュー当初は弟の名前を拝借して「塀内真人」というペンネームを使用していた<ref name="トリビア">{{Citation|和書|editor=[[週刊少年マガジン]]編集部|title=少年マガジン・トリビア134 すべての漫画少年に捧げる|publisher=[[講談社]]|year=2008|isbn=978-4-06-375629-6|page=128}}</ref>。その理由については「女の子の書いたスポーツ漫画なんて、だれも読んでくれないんじゃないかって、思ったんです」としている<ref name="オフ10">{{Cite book|和書|author=塀内夏子|title=オフサイド|volume=第10巻|publisher=講談社|year=1988|isbn=4-06-311408-2|page=表紙裏}}</ref>。その後、読者にとっては面白ければ性別は特に関係ないと理解し<ref name="オフ10"/>、[[元号]]が[[平成]]に変わったのを機にペンネームの使用を止め本名に戻している<ref>{{Cite book|和書|author=塀内夏子|title=オフサイド|volume=第11巻|publisher=講談社|year=1989|isbn=4-06-311431-7|page=表紙裏}}</ref>。ただし、1986年に刊行した短編集『夢千代パラダイス』の著者名には'''塀内夏子'''を採用し、カバーを外した表紙には彼女の中学3年生のときの通知表を印刷していた。 以降、『おれたちの頂』(登山)、『[[フィフティーン・ラブ]]』(テニス)、『[[オフサイド (漫画)|オフサイド]]』(サッカー)などのスポーツ漫画を多く発表していることから<ref name="編集会議"/>、スポーツ青春漫画の盟主とも評される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamakei.co.jp/products/2814047760.html|title=ヤマケイ文庫 おれたちの頂 復刻版|publisher=[[山と溪谷社]]|accessdate=2014-05-03}}</ref>。また『海よ、おまえは』や『[[勝利の朝 (漫画)|勝利の朝]]』のような実在の社会問題を題材とした作品も発表している。 [[2004年]]からは[[三国志]]を題材としながらも戦争の悲惨さと平和の大切さをテーマとした『[[覇王の剣]]』を発表したが「[[陽人の戦い|虎牢関の戦い]]」の後に[[打ち切り]]となり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ponytail.co.jp/weekly/2005_04.html|title=「お詫び」|publisher=夏子の部屋|date=2005-04-13|accessdate=2014-05-03}}</ref>、[[2000年代]]半ば以降は青年誌や女性誌などに発表の場を広げている。 == 作風 == 登場人物の激情的な心理描写や<ref name="坂114-115">[[#坂 2009|坂 2009]]、114-115頁</ref>、熱血青春ものを得意としている<ref name="坂242-243">[[#坂 2009|坂 2009]]、242-243頁</ref>。塀内自身は「私には男の子のDNAはない」「多少無理をして少年マンガのラインにいる」と発言しており、[[萩尾望都]]や[[樹村みのり]]といった少女漫画家の言葉の感覚に影響を受けているとしている<ref name="編集会議"/>。 先述のようにスポーツ青春漫画の盟主とも評されており、自身は「スポーツ漫画を描くならスポーツを好きでなくてはならないという信念を持っている」と発言している<ref>{{Cite book|和書|author=塀内夏子|title=雲の上のドラゴン―なつこの漫画入門|publisher=[[講談社]]|year=2005|isbn=978-4063634808|page=45}}</ref>。その作風は正統的なスポーツ漫画ではなく、スポーツノンフィクションに近いものとも評される<ref name="編集会議"/>。 スポーツを題材として選んだ経緯については「80年代の『週刊少年マガジン』で流行っていたのは、[[ヤンキー漫画|不良マンガ]]と[[バイク漫画|バイクマンガ]]とスポーツマンガ。そのほかに(中略)[[ラブコメディ]]が出始めた頃で、おおざっぱに言うとその四つくらい。消去法で、ラブコメディはもう二度と描きたくない。バイクマンガはどうしても理解できない。不良マンガは『マガジン』にコンテまで出していたんですけど、やっぱりわからない」と消去していくうちに、スポーツマンガが残されたと語っている<ref name="編集会議"/>。ただし、当時からスポーツをテレビ観戦するのが好きで、[[ちばてつや]]や[[水島新司]]の作品にも親しんでいたという<ref name="編集会議"/>。 「取材力に定評がある」と評されるが<ref name="トリビア"/>、登場人物のキャラクター作りを最優先している<ref name="編集会議"/>。また競技特有の繊細な身体動作を良く理解できないまま連載に入るため、後から読み返して赤面することもあるという<ref name="編集会議"/>。こうした点について塀内は「半年くらい描いていると、なんとなく滑らかになってくる」<ref name="編集会議"/>「サッカーとかバレーボールみたいな、あまり道具を使わないものの方がつかみやすい。みんな自然の動きでしょ。だから、テニスとか野球とか、ああいう道具を使うものはなかなかわからなかった」と評している<ref name="編集会議"/>。 == 趣向 == ;登山 :高校時代に[[ワンダーフォーゲル]]部に所属していた経緯から、少年誌での初掲載は登山を扱った作品となっているが<ref name="編集会議"/>、自ら題材として選んだのではなく当時の編集者から勧められたからだとしている<ref name="編集会議"/>。その後も数本の登山漫画を連載している。 :高校時代にもいくつか登ってはいたが、2003年より本格的に[[日本百名山]]を[[筑波山]]から登り始め、2008年に[[幌尻岳]]で100を登山している(高校時代に登頂経験のある山もこの期間内に再登頂している)。『[[山と渓谷]]』([[山と溪谷社]])に、この体験をエッセー漫画、ルポ漫画「なつこの百名山奮“登”記」として2013年7月号から2015年まで20山分ほどを連載し、2020年には残りを描き下ろして電子書籍『なつこの百名山 百コ登ったどー』([[電書バト]])として刊行した。 ;テニス :1980年代の『フィフティーン・ラブ』連載当時は取材のために国外の大会へ訪れるほどだった<ref name="トリビア"/>。当時は[[チェコスロバキア]]出身の[[イワン・レンドル]]のファンで、[[1985年]]に日本で行われた「[[セイコー・スーパー・テニス]]」にレンドルが出場した際には取材用パスを使って関係者エリアに入り込み、直接プレゼントを渡したこともある<ref name="トリビア"/>。 ;サッカー :『[[オフサイド (漫画)|オフサイド]]』の連載前は特別にサッカー好きだった訳ではなく<ref name="文庫版1">{{Cite book|和書|author=塀内夏子|title=オフサイド|volume=文庫版第1巻|publisher=講談社|year=2000|isbn=978-4062608138|page=365}}</ref><ref name="文庫版3">{{Cite book|和書|author=塀内夏子|title=オフサイド|volume=文庫版第3巻|publisher=講談社|year=2000 |isbn=978-4062608152 |page=349}}</ref>、海外サッカーは[[1982年]]の[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]<ref name="文庫版1"/>、国内では[[1983年]]1月に[[静岡県立清水東高等学校|清水東高校]]と[[山梨県立韮崎高等学校|韮崎高校]]が対戦した[[第61回全国高等学校サッカー選手権大会|高校選手権決勝]]を記憶している程度だった<ref>{{Cite book|和書|author=塀内夏子|title=オフサイド|volume=文庫版第2巻|publisher=講談社|year=2000|isbn=978-4062608145|page=365}}</ref>。そのためサッカー漫画の連載にあたっては基礎的なルールを覚えることから始めたという<ref name="文庫版3"/>。[[1993年]]に取材旅行として[[カタール]]を訪れた際に[[ドーハの悲劇]]を体験したことが自慢といい、『[[Jドリーム]]』ではフィールドプレーヤーの視点から、『松永成立物語』では[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]の視点からドーハの悲劇を描いた<ref name="編集会議"/>。 == トラブル == ;海よ、おまえは :『週刊少年マガジン』[[1984年]]39号に掲載された読み切り『海よ、おまえは』は[[石垣島]]の空港建設([[新石垣空港]])計画をテーマにし<ref name="坂114-115"/><ref name="戦後マンガ">{{Cite book|和書|author=竹内オサム|authorlink=竹内オサム|title=戦後マンガ50年史|publisher=[[筑摩書房]]|year=1995|isbn=4-480-87347-3|pages=166-167}}</ref>、白保地区で民宿を営む両親の下で暮らす建設反対派の少女(中学3年生)が建設推進派の青年技師に命を助けられたことを契機にそれまでの主義主張を捨て賛成派に転向する姿を描いた<ref name="戦後マンガ"/>。一方、主人公の少女のモデルを容易に特定できる点や、空港建設が開始されていないにもかかわらず作中において決定事項であるかのように描かれていた点が問題視され<ref name="坂114-115"/><ref name="戦後マンガ"/>、建設反対派の「新石垣島空港建設阻止委員会」と「八重山白保の海を守る会」から週刊少年マガジン編集部と塀内に対して公開質問状が送られた<ref name="戦後マンガ"/>。 :塀内側は「特定の人物をモデルにした事実はない」と主張したが、作品自体は取材に基づいたものだった<ref name="戦後マンガ"/>。また、舞台となった白保地区には民宿は一件しか存在しない点、その家には作品と同様に中学3年生で反対派に属する少女がいた点、実在する民宿の名称をそのまま使用した点などから、モデルが存在することは明らかだった<ref name="戦後マンガ"/>。協議の結果、掲載誌上において謝罪文を掲載、モデルとなった少女および家族に対し謝罪文を送ることで決着した<ref name="戦後マンガ"/>。 ;イカロスの山 :『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』で連載されていた登山漫画『[[イカロスの山]]』第2巻が[[2006年]]5月に発売された際、事前に登山用ロープの技術用法に関する事実誤認が指摘されていたにもかかわらず、修正を見落とした状態で出版した<ref name="坂242-243"/>。そのため『モーニング』2006年6月22日号において謝罪文と修正箇所を掲載した<ref name="坂242-243"/>。 == 作品リスト == === 主な連載 === * [[おれたちの頂]] ([[週刊少年マガジン]]、1983年30号 - 41号、全2巻、ワイド版全1巻)のちに山と溪谷社から文庫本が出版 * [[フィフティーン・ラブ]] (週刊少年マガジン、1984年1・2合併号 - 1986年15号、全11巻、ワイド版全5巻) * [[涙のバレーボール]] ([[マガジンSPECIAL]]、1986年1号 - 1987年2号、全3巻、ワイド版全2巻、文庫版全2巻) * [[オフサイド (漫画)|オフサイド]] (週刊少年マガジン、1987年6号 - 1992年17号、全29巻、ワイド版全15巻、文庫版全15巻) * [[勝利の朝 (漫画)|勝利の朝]] ([[週刊ヤングサンデー]]、1992年18号 - 1992年22号、全1巻) * [[ミス・バレーボール]] (週刊少年マガジン、1992年34号 - 1992年35・36合併号、全1巻) * [[Jドリーム]] (週刊少年マガジン、1993年3・4合併号 - 1995年43号、全14巻、文庫版全7巻) ** Jドリーム・飛翔編 (週刊少年マガジン、1996年7号 - 1997年41号、全10巻、文庫版全5巻) ** Jドリーム・完全燃焼編 (週刊少年マガジン、1998年16号 - 1999年44号、全8巻、文庫版全4巻) * [[Boy Meets Girl〜マウンドの少女〜]] (マガジンSPECIAL、2000年5号 - 12号、全2巻) * [[ROAD〜輝ける道〜]] (週刊少年マガジン、2001年28号 - 2002年1号、全3巻) ** ROAD〜ふたつの太陽〜 (週刊少年マガジン、2002年42号 - 50号、全5巻) * [[史上最低のレガッタ]] ([[ヤングマガジンアッパーズ]]、2003年9号 - 2004年1号、全3巻) * [[覇王の剣]] (週刊少年マガジン、2004年40号 - 2005年21号、全4巻) * [[イカロスの山]] ([[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]、2005年52号 - 2007年42号、全10巻) * [[プリンセス オン アイス]] ([[BE・LOVE]]、2008年5号 - 2009年2号、全3巻) * [[明日のない空]] ([[ビッグコミックスピリッツ]]、 2008年41号 - 2012年25号、全3巻) ※不定期でシリーズ連載 * [[中澤佑二物語]] ([[週刊ヤングマガジン]]、2006年・2008年17号 - 20号、全1巻) * [[コラソン サッカー魂]] (週刊ヤングマガジン、2010年13号 - 2012年1号、全9巻) * [[青春少年マガジン -紙の翼-]] (週刊少年マガジン、2014年12号<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20140218dog00m200071000c.html|title=マンガ新連載 *: 「青春少年マガジン -紙の翼-」塀内夏子が描く人気マンガ家誕生秘話|publisher=MANTANWEB(まんたんウェブ)|date=2014-02-19|accessdate=2014-05-03}}</ref> - 2014年21・22合併号) * なつこの百名山奮“登”記([[山と渓谷]]、2013年7月号 - 2015年) 書き下ろしを含めて『なつこの百名山 百コ登ったどー』([[電書バト]])として電子書籍を刊行 * EVIL〜光と影のタペストリー〜([[漫画 on Web|マンガonウェブ]]、創刊号 - 第8号、全3巻) * EVIL II〜メビウスの扉〜(マンガonウェブ、第10号 - 第18号、全3巻) == 短編・読み切り等 == 短編の大半は、『ダイヤモンド芸夢』『夢千代パラダイス』『サーカス★ドリーム』『塀内夏子短編集1』『塀内夏子短編集2』(いずれも単巻)及び、連載作品のコミックスに収められている。『週刊少年マガジン』、『週刊少年マガジン増刊』、『マガジンFRESH』、『マガジンSPECIAL』等で不定期に掲載された漫画家漫画は、『雲の上のドラゴン』(全1巻)として刊行されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=坂茂樹|title=封印漫画大全|publisher=[[三才ブックス]]|year=2009|isbn=978-4-86199-067-0|ref=坂 2009}} == 外部リンク == * {{Official website|http://www.ponytail.co.jp/index2.html|なつこの部屋}}(公式サイト) {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へいうち なつこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:川崎市出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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松苗あけみ
松苗 あけみ(まつなえ あけみ、1956年11月18日 - )は、日本の漫画家。コメディを多く手がける。内田善美の紹介で一条ゆかりのアシスタントをしていた。「有閑倶楽部」に登場するペットのニワトリ・アケミの名前のモデルである(詳しくは「有閑倶楽部」参照)。 1977年、『リリカ』4月号にて「約束」でデビュー。その後1978年3月号で『リリカ』が休刊となったため『ぶ〜け』他で活躍。代表作「純情クレイジーフルーツ」など。華やかな絵柄と脱力系のキャラクターのギャップが大きく、それがギャグともなっている。 1988年度(昭和63年)、第12回講談社漫画賞少女部門受賞(「純情クレイジーフルーツ」)。1988年から1991年にかけて『ビッグコミックスピリッツ』で連載された「原色恋愛図鑑」は、1989年に井森美幸が主演でTVドラマ化された。2005年には『COMIC MIU』で連載された「恋愛内科25時」が吉沢悠主演でTVドラマ化された。 2022年現在は、ぶんか社を中心に活動している。 影響を受けた画家として、松苗はアルフォンス・ミュシャを挙げている。2020年7月11日から9月6日まで静岡県立美術館で開催されている展覧会「みんなのミュシャ」において、「コマーシャリズムの要素もありながら、絵画的でもあり、装飾美にもあふれて、それを一幅の絵に収めているのはミュシャだけだった」(原文のまま)とコメントしている。
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松苗 あけみは、日本の漫画家。コメディを多く手がける。内田善美の紹介で一条ゆかりのアシスタントをしていた。「有閑倶楽部」に登場するペットのニワトリ・アケミの名前のモデルである(詳しくは「有閑倶楽部」参照)。
'''松苗 あけみ'''(まつなえ あけみ、[[1956年]][[11月18日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[コメディ]]を多く手がける。[[内田善美]]の紹介で[[一条ゆかり]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしていた。「[[有閑倶楽部]]」に登場するペットの[[ニワトリ]]・アケミの名前のモデルである(詳しくは「有閑倶楽部」参照)。 == 概要・経歴 == [[1977年]]、『[[リリカ (雑誌)|リリカ]]』4月号にて「約束」でデビュー。その後[[1978年]]3月号で『リリカ』が休刊となったため『[[ぶ〜け]]』他で活躍。代表作「[[純情クレイジーフルーツ]]」など。華やかな絵柄と脱力系のキャラクターのギャップが大きく、それがギャグともなっている。 [[1988年]]度(昭和63年)、第12回[[講談社漫画賞]]少女部門受賞(「純情クレイジーフルーツ」)。1988年から[[1991年]]にかけて『[[ビッグコミックスピリッツ]]』で連載された「原色恋愛図鑑」は、[[1989年]]に[[井森美幸]]が主演で[[TVドラマ]]化された。[[2005年]]には『[[恋愛LoveMAX|COMIC MIU]]』で連載された「[[恋愛内科25時]]」が[[吉沢悠]]主演でTVドラマ化された。 [[2022年]]現在は、[[ぶんか社]]を中心に活動している。 影響を受けた画家として、松苗は[[アルフォンス・ミュシャ]]を挙げている。[[2020年]][[7月11日]]から[[9月6日]]まで[[静岡県立美術館]]で開催されている展覧会「みんなのミュシャ」<ref>{{Cite press release|和書|title=みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ-線の魔術|publisher=静岡県立美術館|url=http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/exhibition/detail/72}}</ref>において、「コマーシャリズムの要素もありながら、絵画的でもあり、装飾美にもあふれて、それを一幅の絵に収めているのはミュシャだけだった」(原文のまま)とコメントしている<ref>{{Cite press release|和書|title=みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ-線の魔術 アーティストインタビュー|publisher=BUNKAMURA|url=https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/19_mucha/interview.html}}</ref>。 == 作品リスト == === 雑誌掲載 === * 約束(『[[リリカ (雑誌)|リリカ]]』1977年4月号) * 赤毛のアン(『リリカ』1977年5月号) * ハッピー・エンドじゃ終わらない(『リリカ』1978年3月号) * 私の愛したスーパーマン(『リリカ』1978年6月号) * ハロー・グッドバイ(『ぶ〜け』1979年11月号) * 春だからめざめたみたい(『ぶ〜け』1980年5月号) * マジックラブ・チャイルド(『[[ぶ〜け]]』1981年2月号 - 3月号前後編) * 僕は天使に嘘をつかない(『ぶ〜け』1981年8月号 - 10月号連載) *ふり向いてねゴードン(『ぶ〜け』1982年2月号) * [[純情クレイジーフルーツ]](『ぶ〜け』1982年7月号 - 12月号連載) * 山田くんと佐藤さん(『ぶ〜け』1983年5月号 - 1984年3月号連載) * ファンタストの恋愛(『ぶ〜け』1984年7月号、集英社) * 浮気なファンタスト(『ぶ〜け』1984年11月号、集英社) * 奥様とわたし(『ぶ〜け』集英社、1984年10月号) * 九月姫最後の冒険」(『ぶ〜け』1984年9月号) * WE LOVE YOU * 海で、真珠がみる夢は(『ぶ〜け』1984年8月号) * 純情クレイジーフルーツ続編(『ぶ〜け』1985年2月号 - 1988年3月号連載) * My favorite things(『ぶ〜けデラックス』1986年増刊号) * 原色恋愛図鑑(『[[ビッグコミックスピリッツ]]』1988年 - 1991年不定期連載) * カトレアな女達(『[[LaLa]]増刊』1988年 - 1991年) * HUSH!(『ぶ〜け』1988年7月号 - 1990年9月号連載) * 純情クレイジーフルーツ番外編 大奥純情絵巻(『ぶ〜け』1990年11月号 - 12月号前後編) * ロマンスの王国(『ぶ〜け』1991年4月号 - 1993年7月号連載) * 女たちの都(『ぶ〜け』1993年9月号 - 1994年7月号連載)※「カトレアな女達」の続編。 * お友達で行こう!(『ぶ〜け』1994年10月号 - 1996年3月号連載) * 結婚よそうよ(『[[mimi (雑誌)|Monthly mimi]]』1996年6月号、9月号、『Monthly Kiss』1997年1月号、4月号、『[[Kiss (雑誌)|Kiss]]』1997年 - 1999年連載) * この国で幸せになるの(『[[Cocohana|コーラス]]』1996年7月号 - 1997年連載) * 友よ尾をふれ!(『セリエミステリー』1996年8月号 - 1997年6月号連載) * うるとらまりりん-3001年から来た女(『コーラス』1997年9月号 - 1998年連載) * 進めBowwow Road(『ぶ〜け』1997年11月号 - 12月号) * あなたにだけ見えない(『ぶ〜け』1997年5月号) * 新・お友達で行こう!(『ぶ〜け』1998年6月号) * 先生、泊めてください(『Kissカーニバル』1999年2月号、『[[Kiss (雑誌)|Kiss]]』1999年No.12、2000年No.5) * ロミオとジュリエットの法則(『ぶ〜け』1999年3月号) * もう学校へなんかいかない(『ぶ〜け』1999年9月号 - 10月号前後編) * [[恋愛内科25時]](『[[恋愛LoveMAX|COMIC MIU]]』1999年 - 2004年連載) * マサコ先生のお気に入り(『ぶ〜け』2000年2月号) * [[食と薔薇の日々]](『[[MELODY (雑誌)|月刊MELODY]]』2000年 - 2002年不定期連載) * 純情クレイジーフルーツ21世紀篇もう一度夢みたい!([[クイーンズコミックス]]、2002年 - 2004年) * アパートの鍵あいてます(『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』2002年23号、47号、2003年21・22合併号、『[[イブニング]]』2004年6号 - 9号) * 世界で一番幸せなハズ(『Kiss』2002年No.18 - 2003年No.17) * 恋愛内科クリニック(『COMIC MIU』2004年)「恋愛内科25時」の続編。 * 猫と薔薇の日々(『[[One more Kiss (雑誌)|One more Kiss]]』2006年9月号 - 2008年1月号、『[[Kiss PLUS]]』2008年3月号 - 7月号) * [[マダムとお遊戯]](『[[マンガ・エロティクス・エフ]]』2006年Vol.37 - 2009年Vol.57不定期連載) * [[デリカレ]](『[[Silky]]』2007年10月号 - 2008年6月号) * 花咲ける國のオトメ~英国紳士と出会う~(『[[BE・LOVE]]』2009年2号 - 7号連載) * 十二月がくるたびに/優しすぎる花嫁(2008年12月)宙出版 * 猫もえ!(2010年9月)ぶんか社 * 妄想婦人倶楽部(2011年3月)実業之日本社 * ゆううつ皇女の結婚(2011年3月)宙出版 * グリム艶童話~恋を欲しがるお姫様たち~(2011年7月)ぶんか社 * 不機嫌な伯爵()宙出版 * 放課後は恋のレッスンを/君は最高のダイヤモンド(2012年5月)宙出版 * ベルサイユ狂想曲~エマは♥♥がお好き~(2012年10月)ぶんか社 * 伯爵と一輪の花(2013年5月)宙出版 * 猫はなんにもすることがない(『[[本当にあった笑える話]]』連載) * 松苗あけみの少女まんが道(『本当にあった笑える話』2018年9月号 - 2020年4月号連載) * 松苗あけみの少女まんが道・結(むすび)(『本当にあった笑える話』2022年11月号〜連載中) === 単行本未収録 === * 花嫁にダイヤモンドを(集英社『ぶ〜け』1979年6月号) * 選挙の日([[白泉社]]『ShortStories』1987年SUMMER号) * あっらー、アクバル(白泉社『MELODY』1999年10月号) === 調査中 === * 緋野家の兄弟 花賀家の姉妹(「緋野家の兄弟」2話、「花賀家の姉妹」2話収録) * 夏は人魚とパラダイス * 猫もえ!お蔵出し ぶんか社 == 単行本 == === 1981年 - 1989年 === * 『マジックラブ・チャイルド』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1981年、{{ISBN2|978-4088600154}} * 『僕は天使に嘘をつかない』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1982年、{{ISBN2|978-4088600383}} * 『[[純情クレイジーフルーツ]]』、集英社〈ぶ〜けコミックス〉、全2巻 *# 前編、1983年、{{ISBN2|978-4088600468}} *# 後編、1983年、{{ISBN2|978-4088600475}} * 『山田くんと佐藤さん』集英社〈ぶ〜けコミックス〉 *# 前編、1984年、{{ISBN2|978-4088600673}} *# 後編、1984年、{{ISBN2|978-4088600697}} * 『ファンタストの恋愛』、集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1985年6月、{{ISBN2|978-4088600864}} *:併録「浮気なファンタスト」「奥様とわたし」「九月姫最後の冒険」 * 『純情クレイジーフルーツ 続編』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、全9巻 *# 1985年、{{ISBN2|978-4088600956}} *# 1985年、{{ISBN2|978-4088600970}} *# 1986年、{{ISBN2|978-4088601113}} *# 1986年、{{ISBN2|978-4088601199}} *# 1986年、{{ISBN2|978-4088601304}} *# 1987年、{{ISBN2|978-4088601328}} *# 1988年、{{ISBN2|978-4088601434}} *# 1988年、{{ISBN2|978-4088601502}} *# 1988年、{{ISBN2|978-4088601526}} * 『WE LOVE YOU』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1986年9月、{{ISBN2|978-4088601144}} *: 併録「海で、真珠がみる夢は」「My favorite things」 * 『HUSH!』、集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1988年 - 1990年、全7巻 *# 1988年11月、{{ISBN2|978-4088601625}} *# 1989年4月、{{ISBN2|978-4088601731}} *# 1989年9月、{{ISBN2|408860184X}} *# 1990年、{{ISBN2|978-4088601946}} *# 1990年5月、{{ISBN2|978-4088602066}} *# 1990年8月、{{ISBN2|978-4088602141}} *# 1990年11月、{{ISBN2|978-4088602240}} === 1990年 - 1999年 === * 『山田くんと佐藤さん』集英社文庫、1990年2月、{{ISBN2|978-4086174572}} * 『山田くんと佐藤さん ハイスクール編』、集英社〈ぶ〜けコミックスワイド版〉、1990年2月、{{ISBN2|978-4088601960}} * 『純情クレイジーフルーツ番外編 大奥純情絵巻』集英社〈ぶ〜けコミックスワイド版〉、1991年、{{ISBN2|978-4088602479}} * 『緋野家の兄弟 花賀家の姉妹』、集英社〈ぶ〜けコミックスワイド版〉、1991年、{{ISBN2|978-4088602325}} *:「緋野家の兄弟」2話、「花賀家の姉妹」2話収録 * 『カトレアな女達』白泉社〈ジェッツコミックス〉、1991年、{{ISBN2|978-4592131458}} * 『ロマンスの王国』集英社〈ぶ〜けコミックスワイド版〉 *# 1991年、{{ISBN2|978-4088602578}} *# 1992年、{{ISBN2|978-4088602660}} *# 1992年、{{ISBN2|978-4088602806}} *# 1993年3月、{{ISBN2|978-4088602936}} *# 1993年7月、{{ISBN2|978-4088603056}} *# 1993年11月、{{ISBN2|978-4088603179}} * 『夏は人魚とパラダイス』、集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1992年、{{ISBN2|978-4088602769}} * 『原色恋愛図鑑』小学館〈ビッグコミックス〉、1992年2月、{{ISBN2|978-4091827517}} * 『女たちの都』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、全3巻 ※「カトレアな女達」の続編。 *# 1994年3月、{{ISBN2|978-4088603315}} *# 1994年6月、{{ISBN2|978-4088603391}} *# 1994年9月、{{ISBN2|978-4088603490}} * 『お友達で行こう!』集英社〈マーガレットコミックス〉、全4巻 *# 1995年3月、{{ISBN2|978-4088483290}} *# 1995年7月、{{ISBN2|978-4088483801}} *# 1995年12月、{{ISBN2|978-4088484464}} *# 1996年5月、{{ISBN2|978-4088485119}} * 『HUSH!』創美社〈マーガレットレインボーコミックス〉、全4巻 *# 1996年7月、{{ISBN2|978-4420115070}} *# 1996年8月、{{ISBN2|978-4420115087}} *# 1996年9月、{{ISBN2|978-4420115094}} *# 1996年10月、{{ISBN2|978-4420115100}} * 『結婚よそうよ』講談社〈コミックキス〉、全3巻 *# 1997年6月、{{ISBN2|978-4063257274}} *# 1998年7月、{{ISBN2|978-4063257823}} *# 1999年5月、{{ISBN2|978-4063258332}} * 『この国で幸せになるの』集英社〈ヤングユーコミックス〉、全2巻 *# 1997年7月、{{ISBN2|978-4088643113}} *# 1997年11月、{{ISBN2|978-4088643359}} * 『友よ尾をふれ!』白泉社、1997年9月、{{ISBN2|978-4592156703}}(全1巻、文庫版は「カトレアな女達」に併録) * 『うるとらまりりん - 3001年から来た女』集英社〈ヤングユーコミックス〉、1998年8月、{{ISBN2|978-4088643854}} * 『進めBowwow Road』集英社〈マーガレットコミックス〉、1998年11月、{{ISBN2|978-4088488936}} *:併録「あなたにだけ見えない」「新・お友達で行こう!」 * 『[[純情クレイジーフルーツ]]』、集英社文庫、1999年2月、全1巻、{{ISBN2|978-4086174565}} === 2000年 - 2009年 === * 『続・純情クレージーフルーツ』集英社文庫、全5巻 *# 2000年1月、{{ISBN2|978-4086175616}} *# 2000年1月、{{ISBN2|978-4086175623}} *# 2000年3月、{{ISBN2|978-4086175630}} *# 2000年3月、{{ISBN2|978-4086175647}} *# 2000年3月、{{ISBN2|978-4086175654}} * 『もう学校へなんかいかない』集英社〈マーガレットコミックス〉、2000年4月、{{ISBN2|978-4088472171}} *: 併録「ロミオとジュリエットの法則」「マサコ先生のお気に入り」 * 『先生、泊めてください!』講談社〈コミックキス〉、2000年6月、{{ISBN2|978-4063258882}} * 『[[恋愛内科25時]]』秋田書店〈Miu comics〉、全6巻 *# 2000年12月、{{ISBN2|978-4253133715}} *# 2001年6月、{{ISBN2|978-4253133722}} *# 2002年1月、{{ISBN2|978-4253133739}} *# 2002年8月、{{ISBN2|978-4253133746}} *# 2003年6月、{{ISBN2|978-4253134354}} *# 2004年2月、{{ISBN2|978-4253134361}} * 『[[食と薔薇の日々]]』白泉社〈ジェッツコミックス〉、全2巻 *# 2001年11月、{{ISBN2|978-4592132318}} *# 2002年5月、{{ISBN2|978-4592132325}} * 『原色恋愛図鑑』小学館〈小学館文庫〉、2002年12月、{{ISBN2|978-4091927019}} * 『恋愛内科クリニック』秋田書店〈Miu comics DX〉、2004年12月、{{ISBN2|978-4253105026}} ※「恋愛内科25時」の続編。 * 『純情クレイジーフルーツ - 21世紀篇もう一度夢みたい!』集英社〈[[クイーンズコミックス]]〉、全2巻 *# 2002年5月、{{ISBN2|978-4088650661}} *# 2004年10月、{{ISBN2|978-4088652436}} * 『カトレアな女達』白泉社〈白泉社文庫〉、2002年6月、{{ISBN2|978-4592885504}} *: 文庫版併録「友よ尾をふれ!」 * 『松苗あけみ the best : 恋はジタバタ』集英社〈クイーンズコミックス〉、2003年6月、{{ISBN2|978-4088651293}} * 『世界で一番幸せなハズ』講談社〈コミックキス〉、2003年11月、{{ISBN2|978-4063404586}} * 『アパートの鍵あいてます』講談社〈イブニングKC〉 *# 2004年5月、{{ISBN2|978-4063520644}} * 『女たちの都』[[あおば出版]]、2005年、{{ISBN2|978-4873176123}} * 『大停電の夜に』原案・原作:カリュアード([[源孝志]]+[[相沢友子]]、講談社〈ワイドKC〉、2005年11月、{{ISBN2|978-4063375848}} ※書き下ろし * 『[[マダムとお遊戯]]』太田出版〈F×COMICS〉、全2巻 *# 2007年2月22日、{{ISBN2|978-4778320348}} *# 2009年6月27日、{{ISBN2|978-4778320904}} * 『ロマンスの王国』宙出版、2007年、{{ISBN2|978-4776723509}} * 『[[食と薔薇の日々]]』白泉社〈白泉社文庫〉、2007年11月、{{ISBN2|978-4592885900}} * 『[[デリカレ]]』白泉社〈Hana to yume comics special〉、2008年8月、{{ISBN2|978-4592187806}} * 『HOMETOWN GIRL - ロマンスの王国2』宙出版、2008年、{{ISBN2|978-4776724704}} * 『猫と薔薇の日々』講談社〈ワイドKC〉、2008年9月、{{ISBN2|978-4063376500}} * 『十二月がくるたびに/優しすぎる花嫁』、グレイス・グリーン/ローリー・ブライト原作、宙出版、2008年12月、{{ISBN2|978-4776726876}} * 『花咲ける國のオトメ〜英国紳士と出会う〜』講談社〈KCデラックス〉、2009年6月、{{ISBN2|978-4063757309}} === 2010年 - === * 『HUSH!』[[ホーム社]]〈ホーム社漫画文庫〉、全4巻 *# 2010年6月、{{ISBN2|978-4834274752}} *# 2010年7月、{{ISBN2|978-4834274769}} *# 2010年8月、{{ISBN2|978-4834274776}} *# 2010年9月、{{ISBN2|978-4834274783}} * 『猫もえ!』ぶんか社、2010年10月、{{ISBN2|978-4821170593}} * 『妄想婦人倶楽部』実業之日本社〈コンペイトウ書房〉、2011年3月、{{ISBN2|978-4408411538}} * 『ゆううつ皇女の結婚』宙出版〈ロマンスコミックス. Emerald comics〉、2011年3月、{{ISBN2|978-4776730712}} *: 併録「不機嫌な伯爵」 * 『グリム艶童話~恋を欲しがるお姫様たち~』ぶんか社、2011年7月、{{ISBN2|978-4821171903}} * 『放課後は恋のレッスンを/君は最高のダイヤモンド』宙出版〈ロマンスコミックス. Emerald comics〉、2012年5月、{{ISBN2|978-4776732846}} * 『ベルサイユ狂想曲~エマは♥♥がお好き~』ぶんか社、2012年10月、{{ISBN2|978-4821173716}} *: 併録「猫もえ!お蔵出し」 * 『伯爵と一輪の花』ダイアナ・パーマー原作、宙出版、2013年5月、{{ISBN2|978-4776735052}} * 『猫はなんにもすることがない』、ぶんか社〈Bunkasha comics〉、2016年10月、{{ISBN2|978-4821179022}} * 『あと何回ペットロスになればいいですか?』、ぶんか社、2018年10月、{{ISBN2|978-4821144891}} * 『松苗あけみの少女まんが道』、ぶんか社、2020年6月、{{ISBN2|978-4821145539}} === 画集・ぬり絵 === * 『DREAM GARDEN - 松苗あけみイラストレーション集』、集英社、1988年、{{ISBN2|978-4087823011}} * 『松苗あけみぬり絵』、宙出版、2007年1月、{{ISBN2|978-4776793403}} === アンソロジー === * 『もっともっともっと愛し合うH』集英社、2001年2月、{{ISBN2|978-4088625263}} * 『てのひらに月 : 10minute diary』集英社〈Queens' comics〉、2005年10月 * 『ねこまん : 猫だらけコミック・アンソロジー』ホーム社〈ホームコミックス〉、2008年6月 * 『にゃんスペ : nyanko-special anthology』、イースト・プレス, 2010.4 * 『女子校育ちはなおらない』KADOKAWA〈メディアファクトリーのコミックエッセイ〉、2014年10月、{{ISBN2|978-4040671390}} * 『ねこまみれ : おだんご』野中のばら, 松苗あけみ, たらさわみち ほか著. ぶんか社, 2014年10月 * 『ねこざんまい』野中のばら, 松苗あけみ, たらさわみち ほか著. ぶんか社〈Bunkasha comics〉、2015年5月 * 『泣けちゃう両想い』、講談社〈KCフレンド〉、2002年8月 *:「私立ヒミツの花園女学院」収録 * 『マイ・ダイヤモンド センシティブLOVE』講談社〈講談社漫画文庫〉、2004年5月 * 『カップル乱れ打ち』講談社〈KCデラックス〉、2004年6月、{{ISBN2|978-4063348996}} * 『妖怪変化 京極堂トリビュート』講談社、2007年12月 *:「薔薇十字猫探偵社」収録 * 『王宮ロマンスアンソロジー プリンスの魅惑のプロポーズ』宙出版〈ハーモニィ&ロマンスコミックス〉、2013年12月 === 挿絵・イラスト === * 『王子さまを探して』、[[花井愛子]]著、角川書店〈角川スニーカー文庫〉、1988年、{{ISBN2|978-4044316020}} * 『オヤジの穴』、[[泉麻人]]と共著、[[ロッキングオン]]、2006年3月、{{ISBN2|978-4860520571}} * 『しあわせ脳練習帖』、[[黒川伊保子]]監修、講談社、2006年、{{ISBN2|978-4062134750}} * 『しあわせ脳練習帖』、黒川伊保子監修、講談社+α文庫、2010年6月、{{ISBN2|978-4062813747}} * 『しあわせ脳学・習・帖 - 男ゴコロの取扱説明書』、黒川伊保子監修、講談社、2007年9月、{{ISBN2|978-4062140270}} * 『ハナイ式ちょびっとダイエット』、花井愛子著、講談社、2007年、{{ISBN2|978-4062140928}} == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20070928133237/http://anna.caitsith.ne.jp/romantic/index.html ROMANTIC KINGDOM 松苗あけみさんのデータベース] * [https://joshi-spa.jp/1049607 一条ゆかりら少女漫画界レジェンドの裏話を『純情クレイジーフルーツ』松苗あけみが語る | 女子SPA!] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:まつなえ あけみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
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星野めみ
星野 めみ(ほしの めみ)は、東京都大森出身。日本の漫画家であり薬剤師でもある。 9月29日生まれのA型。1975年、『週刊マーガレット』(集英社)増刊号に掲載の「セントヘレナのケーキ屋さん」でデビュー。同誌や『BE・LOVE』(講談社)他のレディースコミック誌で活躍。代表作に『え~カミさんを一席』『新・夢ホテル』『アリス動物病院診察絵日記』など。趣味は観劇、落語、ミステリー読み。ファンクラブに入会するほど氷川きよしのファンであり、犬好きでもある。 薬剤師の経歴は共立薬科大学卒業。実家が薬局であり、薬剤師として店にいることもある。 公式には表記されていないが、作品の題名が異なる同キャラクター登場の連載作品に関しては、分類別として「○○シリーズ」と記述する。 販売終了している作品が多い。
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星野 めみは、東京都大森出身。日本の漫画家であり薬剤師でもある。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 星野めみ |画像 = |画像サイズ = |脚注 = 配偶者はいない<ref name="meiji">宙出版『花より明治堂』(ISBN:9784776723400)「イラスト・エッセイ 私のお気に入り」より。</ref>。親と兄弟はいる<ref name="meiji" /> |本名 = |生年 = 9月29日<ref name=alice>竹書房。アリス動物病院絵日記、第1巻の単行本の著者のプロフィールより。</ref> |生地 = {{JPN1947}} |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]]・[[薬剤師]] |活動期間 = 1975年 - |ジャンル = |代表作 = |受賞 = |サイン = |公式サイト = http://hoshino-memi.at.webry.info/ }} '''星野 めみ'''(ほしの めみ)は、[[東京都]]大森出身<ref name="meiji">宙出版『花より明治堂』(ISBN:9784776723400)「イラスト・エッセイ 私のお気に入り」より。</ref>。[[日本]]の[[漫画家]]であり[[薬剤師]]でもある<ref name="meiji"/>。<br> == 人物 == 9月29日生まれのA型<ref name=alice />。[[1975年]]、『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』([[集英社]])増刊号に掲載の「セントヘレナのケーキ屋さん」でデビュー。同誌や『[[BE・LOVE]]』([[講談社]])他のレディースコミック誌で活躍。代表作に『え~カミさんを一席』『新・夢ホテル』『アリス動物病院診察絵日記』など<ref name=yumey>宙出版「夢ホテルへようこそ」の著者のプロフィールより。</ref>。趣味は観劇<ref>講談社漫画文庫『星野めみ傑作集』シリーズのプロフィールより。</ref>、落語、ミステリー読み<ref name=haruna>双葉社「春*奈ころりん」著者のプロフィールより。</ref>。ファンクラブに入会するほど[[氷川きよし]]のファンであり、犬好きでもある<ref name=haruna />。 薬剤師の経歴は[[共立薬科大学]]卒業<ref name=alice />。実家が薬局であり、薬剤師として店にいることもある<ref name="meiji" />。 ==エピソード== {{内容過剰|section=1|date=2019年4月}} ===2015年=== :2015年年末は氷川きよしの通常コンサート、大阪フェスティバルホール。クリスマスコンサート、東京国際フォーラムAホームの総動員可数満員で歓喜した話。クリスマスコンサートの翌年のコンサートの雛型になる上に、コンセプト沢山詰まっているという。オープニングは、赤頭付き歌舞伎の連獅子の衣装で登場。『男花』『御免』を歌い上げた後、司会者の西寄ひがしのMC、その間に衣装変え。白波五人男の弁天男にふんして、番傘片手に『弁天小僧』の歌詞「女にしたい~」は、衣装込みで大歓喜だった。2016年の通常コンサートは、ウェスタ川越。満員だったと語っていた。新曲『みれん心』が、オリコン総合初登場2位。カラオケでも歌いやすそうな上に、初動45000枚の快進撃だと言う。しかしながら近年のCDの売り方に対して、10枚買ったら、サイン。握手券など、枚数を釣り上げる風潮を何とかならないかと苦言を出した。自身は、本当は家族に1枚が理想だが、3バージョンの場合、カップリングの曲が聞きたいので3枚買う。後は、姉の分。これが限界だと述べていた。順位や枚数を上げる為にCDを買う事は資金が尽きたら、崩壊する事を挙げてる。CD業界が沈下している昨今、1番知恵を搾らないといけないのは、レコード会社だと言う事を述べていた<ref>『動物ER ワンコはワンコ』1巻「おまけのページ」P176、177。</ref>。 ===2016年=== :2016年。妹と一緒に初めて氷川のコンサート遠征を2回した話。1回目は奈良、2回目は名古屋。特に名古屋はファンクラブ限定のツーショット撮影会があった。去年から全国各地で催されていたが、今年の名古屋で一区切りするそうである。去年は東京開催日にエントリーしたが落選している。今年は東京を第1希望、名古屋を第2希望にしたら名古屋の方が当たった。妹も名古屋に当たった上に3部に分けて行われる撮影会では姉妹共々1部。しかし妹は星野と一緒ではなく30番先の順番だった。氷川が前日が埼玉県戸田市でNHK『新・BS日本のうた』SPの収録や前後にコンサート、TV、ラジオ出演とハードスケジュールなのに元気に『Jewel』『へっちゃらマンボ』の生歌披露している。妹は『Jewel』を聞いた時、メロメロになったと言う。ツーショット撮影会の感想はありとあらゆる言葉で褒めまくるほど素敵だったと語っている。次に芝公園で行われた2日間昼夜コンサートに行った。更に『みれん心』のD、E、F盤のリリースイベント。愛知、大阪、東京、川崎へ行っている。ラゾーナ川崎サイドから記録的動員数告げられて歓喜している。『みれん心』の売り上げが125000枚以上になった事に喜んでいた。しかしCD1枚買って握手をする事はしていません。ツーショット撮影時にもCDは売らない。トップ演歌歌手としての心意気が潔い!D、E、F盤を発売する事に悩まされたと思う。基本的にCDは1人に1枚と言う方だと信じていると推論を語っている。CD業界はITによってかなり厳しい状況。氷川に頼らざるをえないでしょうと言う推論後。出版業界も厳しい状況だと明かしている。2017年ではレコード会社は知恵を絞り、古い因習を捨てて新しいやり方を頑張って欲しいと述べている。最後に氷川、司会者の西寄、スタッフ方々にエールを送っている。更にこの後盛岡、大阪、東京のコンサートに参りますと語っていた<ref>『動物ER ワンコはワンコ』2巻「おまけのページ」P175~177。</ref>。 ===2017年=== :2016年、[[紅白歌合戦]]で氷川が[[熊本城]]の中継。震災の後、修復していない城の前で『白雲の城』を歌い上げた姿に妹込みで感激しまくった話から始まった。そして氷川は休み無く1月に「氷川きよしコンサートツアー、日本全国 歌の渡り鳥Part2」がはじまり、3月に新曲『男の絶唱』A、B、C盤がオリコンウィークリー総合初登場3位、9月に『男の絶唱』D、E、F盤がオリコンウィークリー総合2位で20万枚の大ヒット。アルバムも2枚発売し、2枚ともオリコンウィークリー総合トップ10入り。アニメ『[[ドラゴンボール超]]』の主題歌が配信で500ダウンロード超え、オリコンウィークリー総合5位と讃えた。NHKの「ラジオ深夜便」の歌で[[GReeeeN]]の作詞作曲した『碧し』も歌唱。この曲は2017年で星野自身が1番好きな歌だと述べている。6月の明治座1ヶ月の座長公演『きよしのねずみ小僧』43公園全て満員。2018年10月にも明治座1ヶ月公演も決まっていると言う。『思い出のメロディー』の司会に抜擢。平和の思いを込めて[[美空ひばり]]の『一本の鉛筆』を歌唱。他に大阪の新歌舞伎座で昼夜1日満席の公演、第20回日本有線大賞を受賞と目が回るスケジュールなのでファンも嬉しい悲鳴だということを語っていた。11月末の大阪のフェスティバルホール昼夜4公演が通常コンサートの最後で丁度100公演。明治座の公演を入れると143公演。動員数、約25万人。デビューからのコンサート数は、まもなく3000回になると語っていた。このスケジュールに星野は氷川を凄いと讃えていた。一方星野自身は、明治座を12回。遠征は宇治、水戸、山形、大阪。ツーショット撮影会は落選。握手会は妹込みで当たり。氷川の両手を取りあった時、かなり幸せだったと述べていた。通常コンサートと演歌まつり等は約30回参加。司会者・西寄ひがしのトークライブには3回。非常に忙しかったと語っている。この後、ディナーショー、レコード大賞、紅白歌合戦に行くと言う。2018年も、まだまだ行く事を公言していた<ref>『動物ER ワンコはワンコ』3巻「おまけのページ」P173~175。</ref>。 ===2018年=== :氷川のファン歴8年、ファンをやっていると1年が滅茶苦茶早く過ぎる上に、ここ2年加速しているという。テレビ出演が多い為、録画のハードディスクの容量のどんどん減る、嬉しい悲鳴だと語っている。今年の勝負曲は『勝負の花道』。20万超えのロングヒットになり、演歌部門では2018年度の売り上げ第1位。氷川とファンの皆様頑張った!と語っている。2018年、演歌まつり、明治座座長公演、クリスマスコンサート、ディナーショーを含めて、38回もコンサートに行ってしまったと明かしている。何処に行っても超満員だったと驚愕していたという。1月、8月に珍しく握手会が当たり、妹と参加。1000人クラスの握手会なので、1人3秒だとスタッフから言われた。しかし、前に並んでいる人が長かったりすると、1人、1秒になったりと言う事もあり、妹が焦りまくる星野を冷静に見てくれたので有難かったと語っている。初めの握手会の時は氷川の目しか覚えていなかった。2018年時には漸く全身を覚えるようになったと、語っている。自身が一番好きなのは、通常コンサート。今年のオープニングは、津軽三味線で、アルバム収録曲『じょんから挽歌』。袴姿で凛と立つ氷川に雪が舞い散る中、まるで紅白歌合戦のトリみたいに歌う氷川に格段に上手いと称賛。演歌を堪能させた後、軽快なリズム歌謡。この時の宝塚風のマタドール姿に絶賛。更に[[アニメソング]]も歌ったと言う。他に会場の席が良いと嬉しいが、隣の方が良い方だと、またとても楽しいと語っている。一回だけ最前列席が当選し、お隣の人も良い人で、キャーキャーと見ていたら、氷川が星野のいる方向にニッコリと笑みをした後、大きな目に感激し、それ以降の記憶が無いほどぶっ飛んだと述べている。コンサートのラストは『[[きよしのズンドコ節]]』でいつも大盛りで終演を迎え「あ~あ終わっちゃた」と皆でため息、「またどこかの会場で!」と別れます。それ故に、仲の良いきよ友<ref group="注">氷川の全てのファン同士を指すと、きよ友の文末に括弧で記述。</ref>とコンサートを見る時は本当に楽しいと述べていた。10月の明治座1ヶ月座長公演は、40公演。自身は9回行ったと言う。氷川の初の若衆姿に感激し、今回5万4千人を動員した上に連日の大入り、立ち見が出る程、大盛況な上に、入場列が明治座を一周していた事に、驚愕していたと述べていた。2019年、氷川の20周年コンサートは武道館、7月11日~12日の2日間、3公演において、皆で「おめでとう!!」と言いたいと語ってた<ref>『すずなり動物ハウス1』「あとがき」P173~176。</ref>。 == 作品リスト == 公式には表記されていないが、作品の題名が異なる同キャラクター登場の連載作品に関しては、分類別として「○○シリーズ」と記述する。 ===少女漫画=== * セントヘレナのケーキ屋さん (1975年、週刊マーガレット増刊号、集英社)デビュー作 * 星空1号館 (1976年、週刊マーガレット) * リンゴひとつ物語 * 記念樹 * 3月のピーターパン (1977年、週刊マーガレット) * 太鼓がドンドン (1977年、週刊マーガレット) * 夢物語さん (1977年、週刊マーガレット) * マッチのお弁当箱 (1978年、週刊マーガレット) * 雪色クレヨン1ダース (1978年、週刊マーガレット) * ユッコの夢追い船 (1978年、週刊マーガレット) * きこえますか愛! (1978年、週刊マーガレット) * エドウィンさんの子守唄 (1978年、週刊マーガレット) **アッキ(※オムニバス題名) **ひふみ(※オムニバス題名) **ちひろ(※オムニバス題名) * 笑って!殿下 * かくれんぼシリーズ ** かくれんぼ手帳 ** かくれんぼLOVE<ref>[[集英社]]文庫「かくれんぼキッス」に登場人物が同じ為、合同収録。</ref> (1979年、週刊マーガレット) ** かくれんぼキッス (1979年 - 1981年、週刊マーガレット) * ノボとニンジン先生 (1980年、週刊マーガレット) * 私はピアノ * エリントン家の奇跡 (1982年、週刊マーガレット) * おとなりの明智先生 (1983年、週刊マーガレット) * おとなりの東くん (1983年 - 1984年、週刊マーガレット) * りんこ親衛隊 * 秘密のリリアス * おまたせ美彦くん * Darling!!シリーズ **Darling!! **メヌエット * きのこホテル日記 * 虹の時間のルカ * 菜々いろの瞳 * 五月の贈り物 * 霊界から来た少年 * 暗闇のシンフォニー ===レディース漫画=== ====短編==== * 夏祭り夫婦漫才 * 乙姫の春 * 恋はMrs,ドーナッツ * せつ子さんちの古時計 * クリスマスの真珠 * レディス・カツ丼・ジェントルメン * 夕鶴恋まとい * 愛しのGREEN GROCER * 引っ越しセンター金太郎 * おやこ小町捕物帖 * 花嫁坂 * せつない探偵 * クリスマスパイ物語 * 星子のおじさま (1990年、[[BE・LOVE]]ブライダル、[[講談社]]) * 星影のテラス (1990年、BE・LOVEブライダル) * 夢子さんのカレーライス (1990年、BE・LOVEブライダル) * おむすびパラダイス (1991年、BE・LOVEブライダル) * ウェディング イン ザ レイン (1991年、BE・LOVEブライダル) * ときめき珈琲館 (1991年、BE・LOVEパフェ) * 君に着せたいウェディングドレス (1992年、BE・LOVEブライダル) * 野の花の花嫁 (1992年、BE・LOVEブライダル) * 足ながおじさんの赤い靴 (1992年、BE・LOVEパフェ) * オムライスより愛をこめて (1992年、BE・LOVEブライダル) * 聖パンプキン物語 (1993年、BE・LOVEブライダル) * 天使が街にやってきた (1994年、BE・LOVEブライダル) * 危険なあなたに紅いバラ (1994年、BE・LOVEブライダル) * 花子さん お茶! (1994年、BE・LOVEブライダル) * メリーさんちのクリスマス (1994年、BE・LOVEブライダル) * 春うらら (1995年、BE・LOVEブライダル) * ホワイト・シチュー物語 * ケーキ畑のプリンセス * Happy Newままこさん (1997年、BE・LOVEブライダル) * 不思議屋だより〜オムレツ天使〜 * 男前やでパパ * 花婿募集 * 純情かぐや姫 * ケーキ畑のプリンセス * 乙姫の春 * せつない探偵 * 君はおめでたい花嫁 (1999年、BE・LOVEパフェ) * シンデレラ伝説 * 春を待つウサギ (1999年、BE・LOVEパフェ) * 合言葉はパパとママ (1999年、BE・LOVEパフェ) * おそうじ人走る (1999年、BE・LOVEパフェ) * あなたは花形オムコさん (2001年、[[Silky]]、[[白泉社]]) ====連載、読み切り連載==== =====2話以上4話以内作品===== * 舞ダーリン * 林檎の秘密 (1995年 - 1996年、BE・LOVEブライダル) * さえ子さんの縁側物語 (1996年、BE・LOVEブライダル) =====1巻もの===== * ロマンスシリーズ<ref group="注" name="MOON">講談社、BE・LOVEコミックスでは『三日月ロマンス』。竹書房、バンブーコミックスでは『薔薇色ロマンス』の題名で単行本化している。どちらも『三日月ロマンス』又は『薔薇色ロマンス』と『満月ロマンス』『月光ロマンス』が全て単行本に収録している。</ref> ** 三日月ロマンス (1994年、BE・LOVEブライダル) ** 満月ロマンス (1994年、BE・LOVEブライダル) ** 薔薇色ロマンス (1995年、BE・LOVEブライダル) ** 月光ロマンス (1996年、BE・LOVEブライダル) * うちのカミ様 * 栗子さんちシリーズ ** 栗子さんちのオルゴール (1995年、BE・LOVEブライダル) ** 栗子さんちのお弁当 (1995年、BE・LOVEブライダル) ** 栗子さんちの秋祭り (1996年、BE・LOVEブライダル) * 家族のメロディー (1999年 - 2000年、BE・LOVEパフェ) * クマさんのやさしい手 (1996年、BE・LOVEブライダル) * チョコさんの彼氏 (1997年、BE・LOVEブライダル) * おべんと殿下 (1997年、BE・LOVEブライダル) * マリアと茶・チャ・チャ!! * 人形館物語 (1998年、BE・LOVEブライダル) **第1話 おかえりチーズ(※オムニバス題名) **第2話 9月の「いちま」さん(※オムニバス題名) **第3話 10月のピエロ(※オムニバス題名) **第4話 11月のテディ・ベア(※オムニバス題名) * 花より明治堂 * 「花のや」でございます (2004年 - 2005年、BE・LOVE) * 私はいい人ではありません!!(2008年 - 不明、デジールSP) * ハルちゃんの恋歌 (2007年 - 2008年、BE・LOVE) * 春*奈ころりん(2011年12月号-2012年12月号、[[JOURすてきな主婦たち]]、双葉社、監修・[[林家彦いち]]) *ボスは不機嫌な探偵(2013年8月号 - 2014年12月号、JOURすてきな主婦たち、双葉社、「特集・事件です!<ref group="注">第一話限定。</ref>」「特集・子供を守る<ref group="注">第二話限定。</ref>」の個別作品としての参加<ref group="注">第三話は第四話への続編になっている。</ref>) * ルリさんの不思議なアパート(2020年5月号 - 2021年1月号、JOURすてきな主婦たち、双葉社) =====2巻もの===== * 桜町4丁目ものがたり * 花言葉の恋 湯の花橋純情(2005年 - 不明、[[デジールSP|デジール]]、[[デジールSP]]、[[秋田書店]]) **かおり湯の花(※オムニバス題名) **姫ヒオウギの約束(※オムニバス題名) **キッチン螢(※オムニバス題名) **面影のシオン(※オムニバス題名) **仔犬とドレス(※オムニバス題名) **後ろ姿のカクテル(※オムニバス題名) **Dr.スイートピー(※オムニバス題名) **ミモザ写真館(※オムニバス題名) * キャサリン、巫女です!!(アイディア協力・林家彦いち<ref>15の愛情物語スペシャル 2010年7月号より。</ref><ref group="注">竹書房版の単行本では本の表紙、中表紙でもなく、無印(1巻)はpart1の表紙、2巻はPart5の表紙に記載。</ref>、2008年 - 不明、[[サクラ愛の物語]]、[[メディアックス]]、初の単行本は[[竹書房]]より2014年4月28日に発売。初の税込8%込みの完全新刊本でもある。) **キャサリン、巫女です!!2(不明-2013年2月号、[[海王社]]、最高の主婦たち、初の単行本は竹書房から2014年5月30日発売。) * [[アリス動物病院診察絵日記]](監修、クローバー動物病院、蜷川圭。2011年、ウーマン劇場、竹書房) ** [[アリス動物病院 診察絵日記2]]<ref>竹書房「笑って!殿下 青春編」の帯宣伝より。</ref>(2012年 - 2013年、ウーマン劇場、竹書房) * すずなり動物ハウス(2018年5月号 - 2020年1月号 、JOURすてきな主婦たち) =====3巻以上===== * 大黒屋本舗シリーズ ** 花ざかり大黒屋本舗 (1999年 - 2011、[[JOURすてきな主婦たち]]、[[双葉社]]) ** 梨絵さんのささやかな夢 (2002年、JOURすてきな主婦たち) * 夢ホテルシリーズ ** 夢ホテル(さくら 愛の物語、あおば出版~宙出版<ref group="注">幸せな結婚2012年6月号から新エピソードをスタートしている。</ref>) ** 新・夢ホテル<ref name=yumehoteru>連載作品名は「夢ホテル」名義。</ref> ** 夢ホテルへようこそ<ref name=yumehoteru />(2012 、宙出版、幸せな結婚と15の感動クライマックス2012年10月号<ref group="注">一部の復刻作品は同出版社「15の感動クライマックス」で掲載されている。</ref>、2巻以降、不明 - 2014年、幸せな結婚<ref>2014年2月号をもって休刊。</ref>、15の感動クライマックススペシャル<ref name=kanndouc>2015年12月号をもって休刊</ref>、15の感動クライマックス<ref name= kanndouc />) * 一席シリーズ(監修・林家彦いち) ** え〜カミさんを一席 (2000年 - 連載中、BE・LOVEパフェ<ref group="注">最終に発行した第7巻において「第8巻へと続く」と記載されている為。</ref>) *** え〜カミさんを一席 特別番外編(※漫画文庫版) ** 帰ってきたえ〜カミさんを一席 (2003年 - 2005年、BE・LOVE、BE・LOVEパフェ大人が泣けるラブストーリー、講談社) ** 如春亭にようこそ<ref group="注">作品中「カミさんを一席」シリーズのキャラクターが殆ど登場する為。</ref> (2006年 - 2007年、BE・LOVE) ** [[毎度!え〜カミさんを一席]] (2010年-不明 この作品から[[宙出版]]の発行となる。この出版社からの未収録4作品込みの単行本以降、2010年同社「幸せな結婚」12月号から連載再開となったが<ref>星野めみ公式ホームページ『Memi's Park』Information、2011年10月閲覧。</ref>。同雑誌が休刊になったと同時に連載は終わった。) *[[動物ER ワンコはワンコ]] (2015年2月号 -2018年1月号、JOURすてきな主婦たち、双葉社) <!--=====不明=====--> ==再版== 販売終了している作品が多い。 ===あおば出版=== *夢ホテル(ポケット版)- 全9巻。 *結婚協奏曲pockets **「うちのカミ様」が収録。 ===宙出版=== *マリアと茶・チャ・チャ!! *クマさんのやさしい手 **「野の花の花嫁」が収録。 ===講談社=== *新12の結婚物語 (他の作者と合同) - 全6巻。 *星野めみ傑作集(講談社漫画文庫)- 全4巻。 *りんこ親衛隊 (講談社漫画文庫)- 全3巻。 ===集英社=== *かくれんぼキッス (集英社文庫―コミック版) - 全2巻。 ===スコラ=== *舞ダーリン ===竹書房=== *チョコさんの彼氏 *家族のメロディー *花婿募集 **「乙姫の春」「夏祭り夫婦漫才」「おそうじ人走る」が収録。 *栗子さんちのオルゴール *恋はMrs,ドーナッツ **「春うらら」「不思議屋だより〜オムレツ天使〜」「あしながおじさんの赤い靴」が収録。 *菜々いろの瞳 **「Darling!!」「暗闇のシンフォニー」が収録。 *シンデレラ伝説 **「ホワイト・シチュー物語」「レディス・カツ丼・ジェントルメン」「霊界から来た少年」が収録。 *男前やでパパ **「林檎の秘密」「ケーキ畑のプリンセス」が収録。 *花嫁坂 **「Happy Newままこさん」「純情かぐや姫」「夢子さんのカレーライス」が収録。 *5月の贈り物 **「オムライスより愛をこめて」「引っ越しセンター金太郎」「せつ子さんちの古時計」が収録。 *さえ子さんの縁側物語 **「花子さん お茶!」「愛しのGREEN GROCER」が収録。 *合言葉はパパとママ **「舞ダーリン」1~3を収録。 *薔薇色ロマンス<ref group="注" name="MOON" /> *笑って!殿下(1~3巻まで販売した。レディースコミックからの再録) **笑って!殿下 青春編 **笑って!殿下2 愛情編 **笑って!殿下3 友情編 *人形館物語 *聖パンプキン物語 **「春を待つウサギ」「天使が街にやってきた」「夕鶴恋まとい」が収録。 *星影のテラス **「危険なあなたに紅いバラ」「メヌエット」が収録。 ==その他== ;完全保存版大好きだった! 少女マンガ70年代篇 *双葉社、2014年7月23日、オフィスJ.B 編集、ISBN 4575454605 *「作家&作品リスト」に『記念樹』をメインに1970年代の作品が紹介された。 == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <div class="references-small"><references/></div> == 外部リンク == * [http://hoshino-memi.at.webry.info/ 星野めみの日記/ウェブリブログ] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:ほしの めみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の薬剤師]] [[Category:女性薬剤師]] [[Category:共立薬科大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:20世紀生]] [[Category:存命人物]]
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コンピュータビジョン
コンピュータビジョン(computer vision)はコンピュータがデジタルな画像、または動画をいかによく理解できるか、ということを扱う研究分野である。工学的には、人間の視覚システムが行うことができるタスクを自動化することを追求する分野である。 この分野はコンピュータが実世界の情報を取得する全ての過程を扱うため、画像センシングのためのハードウェアから情報を認識するための人工知能的理論まで幅広く研究されている。また、近年ではコンピュータグラフィックスとコンピュータビジョンの融合が注目を集めている。 研究対象を大別すると、 が挙げられる。 これらの技術はロボットビジョン、ウェアラブルコンピュータなどとも深く結びついている。 また、背景知識として信号処理、線型代数などが要求される。人間の目と脳に匹敵するコンピュータビジョンの開発はAI完全な問題とされている。
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コンピュータビジョンはコンピュータがデジタルな画像、または動画をいかによく理解できるか、ということを扱う研究分野である。工学的には、人間の視覚システムが行うことができるタスクを自動化することを追求する分野である。 この分野はコンピュータが実世界の情報を取得する全ての過程を扱うため、画像センシングのためのハードウェアから情報を認識するための人工知能的理論まで幅広く研究されている。また、近年ではコンピュータグラフィックスとコンピュータビジョンの融合が注目を集めている。 研究対象を大別すると、 画像センサ カメラ レンジファインダ 2次元画像処理 背景差分法 フレーム間差分法 オプティカルフロー 動きベクトル 3次元画像処理 ステレオ法(コンピュータステレオビジョン) エピポーラ幾何 Shape from X 因子分解法 (factorization) 認識・識別 機械学習のアルゴリズム(k-nn, k-means, svm等) 深層学習のアルゴリズム(CNN, RNN等) 情報提示 バーチャルリアリティ 複合現実感・拡張現実感 が挙げられる。 これらの技術はロボットビジョン、ウェアラブルコンピュータなどとも深く結びついている。 また、背景知識として信号処理、線型代数などが要求される。人間の目と脳に匹敵するコンピュータビジョンの開発はAI完全な問題とされている。
{{Expand English|date=2023年12月}}{{複数の問題 |出典の明記=2017年1月 |大言壮語=2017年1月 |言葉を濁さない=2017年1月 }} '''コンピュータビジョン'''({{Lang|en|computer vision}})は[[コンピュータ]]が[[デジタル]]な画像、または[[動画]]をいかによく理解できるか、ということを扱う研究分野である。工学的には、人間の[[視覚]]システムが行うことができる[[タスク]]を自動化することを追求する分野である。 この分野はコンピュータが実世界の情報を取得する全ての過程を扱うため、[[画像]][[センシング]]のための[[ハードウェア]]から情報を認識するための[[人工知能]]的理論まで幅広く研究されている。また、{{いつ範囲|近年|date=2017年1月}}では[[コンピュータグラフィックス]]とコンピュータビジョンの融合が注目を集めている。 研究対象を大別すると、 * 画像センサ ** [[カメラ]] ** [[レンジファインダ]] * 2次元画像処理 ** [[背景差分]]法 ** [[フレーム間差分]]法 ** [[オプティカルフロー]] ** [[動きベクトル]] * 3次元画像処理 ** [[ステレオ]]法([[コンピュータステレオビジョン]]) ** [[エピポーラ幾何]] ** [[Shape from X]] ** [[因子分解法]] (factorization) * 認識・識別 ** [[機械学習]]のアルゴリズム([[K近傍法|k-nn]], [[K平均法|k-means]], [[サポートベクターマシン|svm]]等) ** [[ディープラーニング|深層学習]]のアルゴリズム([[畳み込みニューラルネットワーク|CNN]], [[回帰型ニューラルネットワーク|RNN]]等) * 情報提示 ** [[バーチャルリアリティ]] ** [[複合現実]]感・[[拡張現実]]感 が挙げられる。 これらの技術は[[ロボットビジョン]]、[[ウェアラブルコンピュータ]]などとも深く結びついている。 また、背景知識として[[信号処理]]、[[線型代数]]などが要求される。人間の目と脳に匹敵するコンピュータビジョンの開発は[[AI完全]]な問題とされている。 == 関連項目 == * [[OpenCV]] - [[オープンソース]]の汎用的なコンピュータビジョンライブラリ。様々な画像処理が標準機能として実装されている。 * [[Matrox Imaging Library]] * [[情報学]] * [[マシンビジョン]] * [[物体認識]] ** [[物体検出]] * [[視覚と自然言語の融合研究]] - コンピュータビジョンと[[自然言語処理]]の融合分野 == 外部リンク == * [http://www.j-imaging.com/ 画像処理ポータル 画像機器総覧] 画像機器総覧は画像処理に関連する製品、技術情報を紹介しているポータルサイト * [http://www.cvpr.org/ CVPR] * [http://iccv2007.rutgers.edu/ ICCV2007] * [http://www.computer.org/tpami/ PAMI] * [https://note.com/masayamori/n/n02fffa7638b7 数分でComputer Vision を概観] {{Normdaten}} [[Category:人工知能|こんひゆうたひしよん]] [[Category:目|こんひゆうたひしよん]] [[Category:コンピュータビジョン|*]]
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横浜DeNAベイスターズ (ファーム)
横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、Yokohama DeNA BayStars)のファームは、日本のプロ野球球団・横浜DeNAベイスターズの下部組織として設置されているファームチームである。イースタン・リーグの球団のひとつ。2000年から2010年のシーズン終了までは「湘南シーレックス」(しょうなんシーレックス、Shonan Searex)という名称だった(詳細は後述)。 本拠地は横須賀スタジアム(神奈川県横須賀市)。イ・リーグ優勝歴は3度あるが、いずれもジュニア日本選手権及びファーム日本選手権が開催される前の優勝であるため、これらの大会に出場したことはない。これはイ・リーグ所属チームの中では唯一である。 準本拠地であるバッティングパレス相石スタジアムひらつか(神奈川県平塚市)で月2試合程度公式戦を行う。本拠地以外の主催試合に関しては横浜DeNAベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。 元々は1949年暮れに発足した「大洋ホエールズ」(たいようホエールズ)の二軍として一軍の創設と同時に誕生したとみられ、1950年のプロ野球二軍選手権に参加している。 渡辺大陸総監督が退団した1951年5月に二軍組織が一時解散したことから、山陽電気鉄道傘下の独立二軍球団『山陽クラウンズ』に二軍の選手の育成を委託するという、今日のアメリカにおけるメジャーリーグ球団とマイナーリーグ球団のような方式をとっていた。 その後、山陽クラウンズが1952年10月に解散し、1953年1月に一軍が松竹ロビンスと合併したことに伴い、山陽から復帰した選手と松竹の二軍を合併する形で活動を再開。1954年に新日本リーグに「洋松ジュニアロビンス」(ようしょうジュニアロビンス)として参加、小倉市(現:北九州市)の小倉豊楽園球場を本拠地とする。しかし、松竹が同年末を以て球団経営から撤退したことから「大洋ジュニアホエールズ」に改称し、イースタン・リーグ(第1期)に参加。この際に川崎市へ移転し、長期間のリーグ中断を経て1961年よりイースタンリーグ(第2期)に参加した。 大洋多摩川グランド(1955年~1980年)、保土ヶ谷大洋球場(1980年~1986年、現:横浜FC東戸塚フットボールパーク in 横浜スポーツマンクラブ)を経て、1986年に平塚球場を本拠地として以来、湘南地域をフランチャイズと位置づけ(実際は二軍には保護地域はない)、1997年に横須賀スタジアムの改修工事が完了してからは横須賀と平塚の2球場を主に使用していた。 2000年1月1日、二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、ファームに独自の球団名を採用することを決定。チーム名は「海」を表す“Sea”と、ラテン語で「王」を意味する“Rex”を組み合わせた造語から「湘南シーレックス」と命名。球団旗も独自のデザインに変更したが、ベイスターズのものと同様「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入った。また、チームエンブレムは2本のバットに「三浦半島と相模湾を中心とした神奈川県湘南地域」を図案化したものとした。同時に、地元を中心に独自のスポンサーを募るなど独立採算の道を模索するための部署「シーレックス事業部」を開設。しかし毎年2億円前後の赤字を計上するなど採算割れを解消することができず、2004年に解散。その後は球団業務部内の一部署となった。 チーム名やユニフォームなどを一軍とは異なるものを使用することにより、若手選手の意識向上を促すとともに、観客へのサービス向上などを通じた地域密着を目指した。本拠地は引き続き横須賀スタジアムを使用(平塚球場は準本拠地と位置づけた)。 二軍としては異例だが、毎年11月には横須賀スタジアムで「ファン感謝デー」を行っている。 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けていた。これは「シーレックスに定着されては困る」という励ましの意味で、2020年現在、日本のプロ球団に於いては唯一の例である。 同じ横須賀市を本拠地とする社会人チームの日産自動車(2009年休部)とは密接な関係があり、柳川事件以後初めてとなるプロアマ交流戦を2001年8月15日に行ったほか、毎年交流戦を行っていた。また、「湘南」を冠しているプロサッカークラブの湘南ベルマーレとも交流を深めており、合同トレーニングなどを実施することもある。 相模原市の政令指定都市指定に向け、相模原球場の所有者が神奈川県から相模原市へ移譲されることに伴い、2009年のシーズンより同球場を準本拠地に加える。 2010年10月より「湘南シーレックス」のチーム名を廃止し「横浜ベイスターズ」に戻す。なお、ユニフォームは一軍と同じものを使用する。2011年12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認され、翌2日に球団株式が譲渡され、商号変更により「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。 1987年に竣工した同市長浦町のマルハニチロアセット社有地(旧:大洋漁業倉庫敷地跡地)に球団が借り受けて使用していた横浜DeNAベイスターズ総合練習場(ベイスターズ球場)の老朽化が進んでいることや、同練習場と試合会場の横須賀スタジアムのある追浜公園との距離が離れていることから、2016年4月、横須賀市とベイスターズ球団は、合宿所・練習用サブ球場などを追浜公園内に集約・一体化させることを目指した基本協定を締結、2019年7月に「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」として竣工した。 このファーム施設の一体化を受けて、横須賀市・ベイスターズ球団と、横須賀市・1軍本拠地の横浜市が沿線に入っている京浜急行電鉄(京急電鉄)と3社連携協定を結び、スポーツを中心とした魅力あふれる街づくりを進めることで合意した。 一覧は、イースタン・リーグ再発足以降。 日本のプロ野球では1、2軍合わせて最多の16人。モチーフは海の生物(テントリーのみテントウムシ)。全員がベイスターズ二軍の一員という設定。ただし、試合に登場する着ぐるみはレックのみ。 横浜京急バス追浜営業所では、これらのキャラクターを起用した路線バス2台を「シーレックスバス」として、追浜地区路線と磯子駅 - 追浜車庫前線で運行。 漫画家のいけだたかしが横浜の情報誌「Beautiful Yokohama」(2004年シーズンで廃刊)で、球団マスコット達の活躍を描いた漫画を掲載していた。 2012年3月20日のイースタンリーグ公式戦にて全員引退した。
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横浜DeNAベイスターズのファームは、日本のプロ野球球団・横浜DeNAベイスターズの下部組織として設置されているファームチームである。イースタン・リーグの球団のひとつ。2000年から2010年のシーズン終了までは「湘南シーレックス」という名称だった(詳細は後述)。 本拠地は横須賀スタジアム(神奈川県横須賀市)。イ・リーグ優勝歴は3度あるが、いずれもジュニア日本選手権及びファーム日本選手権が開催される前の優勝であるため、これらの大会に出場したことはない。これはイ・リーグ所属チームの中では唯一である。 準本拠地であるバッティングパレス相石スタジアムひらつか(神奈川県平塚市)で月2試合程度公式戦を行う。本拠地以外の主催試合に関しては横浜DeNAベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。
{{野球チーム| |ページ名 = 横浜DeNAベイスターズ(ファーム) |チーム名 = 横浜DeNAベイスターズ |会社名 = 株式会社 横浜DeNAベイスターズ |加盟団体 = [[イースタン・リーグ]] |創設年度 = 1950年 |チーム名の遍歴 = <nowiki></nowiki> * 大洋ホエールズ(1950年 - 1951年) ** 1951年5月 - 1952年は[[山陽クラウンズ]]に委託 * 大洋松竹ロビンス(1953年) * 洋松ジュニアロビンス(1954年) * 大洋ジュニアホエールズ(1955年) ** (リーグ中断のため不明) * 大洋ホエールズ(1961年 - 1977年) * 横浜大洋ホエールズ(1978年 - 1992年) * 横浜ベイスターズ(1993年 - 1999年) * 湘南シーレックス(2000年 - 2010年) * 横浜ベイスターズ(2011年) * 横浜DeNAベイスターズ(2012年 - 現在) |シリーズ優勝回数 = |シリーズ優勝 = |リーグ優勝回数 = 3 |リーグ優勝 = * 1968 * 1975 * 1982 |タイトル以外 = no |本拠地 = [[横須賀スタジアム]]([[神奈川県]][[横須賀市]])[[File:Yokosuka-Stadium.jpg|center|300px]] |キャパ = 5,000人 |オーナー = |スポンサー = [[ディー・エヌ・エー|ディー・エヌ・エー(DeNA)]] |監督 = [[青山道雄]] }} '''横浜DeNAベイスターズ'''(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、''Yokohama DeNA BayStars'')の'''ファーム'''は、[[日本]]の[[プロ野球チーム一覧#日本|プロ野球球団]]・[[横浜DeNAベイスターズ]]の下部組織として設置されている[[二軍|ファームチーム]]である。[[イースタン・リーグ]]の球団のひとつ。2000年から2010年のシーズン終了までは「'''湘南シーレックス'''」(しょうなんシーレックス、''Shonan Searex'')という名称だった(詳細は後述)。 本拠地は[[横須賀スタジアム]]([[神奈川県]][[横須賀市]])。イ・リーグ優勝歴は3度あるが、いずれも[[ファーム日本選手権|ジュニア日本選手権及びファーム日本選手権]]が開催される前の優勝であるため、これらの大会に出場したことはない。これはイ・リーグ所属チームの中では唯一である。 準本拠地である[[平塚球場|バッティングパレス相石スタジアムひらつか]](神奈川県[[平塚市]])で月2試合程度公式戦を行う。本拠地以外の主催試合に関しては[[横浜DeNAベイスターズ主催試合の地方球場一覧]]を参照。 == 歴史・概要 == 元々は[[1949年]]暮れに発足した「大洋ホエールズ」(たいようホエールズ)の二軍として一軍の創設と同時に誕生したとみられ、1950年のプロ野球二軍選手権に参加している。 [[渡辺大陸]]総監督が退団した1951年5月に二軍組織が一時解散したことから、[[山陽電気鉄道]]傘下の独立二軍球団『[[山陽クラウンズ]]』に二軍の選手の育成を委託するという、今日のアメリカにおけるメジャーリーグ球団とマイナーリーグ球団のような方式をとっていた。 その後、山陽クラウンズが1952年10月に解散し、1953年1月に一軍が[[松竹ロビンス]]と合併したことに伴い、山陽から復帰した選手と松竹の二軍を合併する形で活動を再開。1954年に[[新日本リーグ]]に「洋松ジュニアロビンス」(ようしょうジュニアロビンス)として参加、[[小倉市]](現:[[北九州市]])の[[小倉豊楽園球場]]を本拠地とする。しかし、[[松竹]]が同年末を以て球団経営から撤退したことから「大洋ジュニアホエールズ」に改称し、イースタン・リーグ(第1期)に参加。この際に[[川崎市]]へ移転し、長期間のリーグ中断を経て1961年よりイースタンリーグ(第2期)に参加した。 大洋多摩川グランド(1955年~1980年)、保土ヶ谷大洋球場(1980年~1986年、現:[[横浜FC LEOCトレーニングセンター#戸塚トレーニングセンター|横浜FC東戸塚フットボールパーク in 横浜スポーツマンクラブ]])を経て、[[1986年]]に平塚球場を本拠地として以来、[[湘南]]地域<ref group="注釈">元来、『湘南』は神奈川県の相模湾沿岸地方をさす。</ref>を[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]と位置づけ(実際は二軍には保護地域はない)、[[1997年]]に横須賀スタジアムの改修工事が完了してからは横須賀と平塚の2球場を主に使用していた。 [[2000年]][[1月1日]]、二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、ファームに独自の球団名を採用することを決定。チーム名は「海」を表す“Sea”と、ラテン語で「王」を意味する“Rex”を組み合わせた造語から「湘南シーレックス」と命名<ref group="注釈">同年は横浜以外にも[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]が同じく[[オリックス・バファローズ (ファーム)|二軍]]のチーム名を「サーパス神戸」に改称した。なお、オリックスではその後2006年に「サーパス」、2009年に現在の一軍と同じ「オリックス・バファローズ」にそれぞれ改称している。</ref>。球団旗も独自のデザインに変更したが、ベイスターズのものと同様「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入った。また、チームエンブレムは2本のバットに「[[三浦半島]]と[[相模湾]]を中心とした神奈川県湘南地域」を図案化したものとした。同時に、地元を中心に独自のスポンサーを募るなど独立採算の道を模索するための部署「シーレックス事業部」を開設。しかし毎年2億円前後の赤字を計上するなど採算割れを解消することができず、2004年に解散。その後は球団業務部内の一部署となった。 チーム名や[[ユニフォーム]]などを一軍とは異なるものを使用することにより、若手選手の意識向上を促すとともに、観客へのサービス向上などを通じた地域密着を目指した。本拠地は引き続き横須賀スタジアムを使用(平塚球場は準本拠地と位置づけた)。 二軍としては異例だが、毎年11月には横須賀スタジアムで「ファン感謝デー」を行っている。<ref group="注釈">これに倣い、現在では[[北海道日本ハムファイターズ]]も同月、[[千葉県]][[鎌ケ谷市]]の[[ファイターズ鎌ケ谷スタジアム]]で[[北海道日本ハムファイターズ (ファーム)|二軍]]のファン感謝デーを行っている。</ref> 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けていた。これは「シーレックスに定着されては困る」という励ましの意味で、2020年現在、日本のプロ球団に於いては唯一の例である。 同じ横須賀市を本拠地とする社会人チームの[[日産自動車硬式野球部|日産自動車]](2009年休部)とは密接な関係があり、[[柳川事件]]以後初めてとなるプロアマ交流戦を[[2001年]][[8月15日]]に行ったほか、毎年交流戦を行っていた。また、「湘南」を冠しているプロサッカークラブの[[湘南ベルマーレ]]とも交流を深めており、合同トレーニングなどを実施することもある。 相模原市の[[政令指定都市]]指定に向け、[[相模原市立相模原球場|相模原球場]]の所有者が神奈川県から相模原市へ移譲されることに伴い、2009年のシーズンより同球場を準本拠地に加える<ref group="注釈" name="sagamihara">1992年~1996年までは日本ハムの二軍が本拠地としていた。</ref>。 [[2010年]]10月より「湘南シーレックス」のチーム名を廃止し「横浜ベイスターズ」に戻す<ref group="注釈">2010年8月のプロ野球実行委員会で正式に承認を受けた。これにより日本プロ野球の二軍は1999年以来、11シーズンぶりに全球団が一軍と同じ名称になる。なお、2010年のレギュラーシーズン終了後の[[教育リーグ|フェニックス・リーグ]]から「ベイスターズ」の名称を使用している。またこの11シーズンの間、二軍では横浜やオリックス以外にも[[埼玉西武ライオンズ (ファーム)|埼玉西武ライオンズ]]が2005年~2006年まで「インボイス」、2007年に「グッドウィル」としていた。</ref>。なお、ユニフォームは一軍と同じものを使用する。[[2011年]]12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認され、<ref>{{Cite web|和書|date=2011-12-01|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/12/01/kiji/K20111201002147110.html|title=横浜DeNA誕生 組閣、補強、村田のFA流出阻止が急務|publisher=スポーツニッポン|accessdate=2011-12-01}}</ref>翌2日に球団株式が譲渡され、商号変更により「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。 [[1987年]]に竣工した同市長浦町の[[マルハニチロ]]アセット社有地(旧:[[マルハ|大洋漁業]]倉庫敷地跡地)に球団が借り受けて使用していた[[横浜DeNAベイスターズ総合練習場]](ベイスターズ球場)<ref group="注釈">同練習場内の野球場では、春秋の[[教育リーグ]]やアマチュアチームとの練習試合、並びに一部のイースタンリーグの公式戦で使用された。</ref>の老朽化が進んでいることや、同練習場と試合会場の横須賀スタジアムのある[[追浜公園]]との距離が離れていることから、[[2016年]][[4月]]、横須賀市とベイスターズ球団は、合宿所・練習用サブ球場などを追浜公園内に集約・一体化させることを目指した基本協定を締結<ref name="横須賀市リリース">{{Cite news|url=https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0810/sportstown/ydbgpf.html|title=横浜DeNAベイスターズ総合練習場の移転|newspaper=[[横須賀市]]|date=2018-07-02|archiveurl=https://archive.fo/GOIh1|archivedate=2019-09-18|accessdate=2019-09-19}}</ref>、2019年7月に[[横須賀スタジアム#DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA|「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」]]として竣工した<ref name="ベイスターズリリース">{{Cite news|url=https://www.baystars.co.jp/news/2019/07/0703_03.php|title=選手やコーチ・トレーナーの声を反映した、選手が強くなるための寮「青星寮」を新設!追浜公園内の新たなファーム施設「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」が7月下旬に完成!|newspaper=[[横浜DeNAベイスターズ]]|date=2019-07-03|archiveurl=https://archive.fo/lGwsT |archivedate=2019-09-18|accessdate=2019-09-19}}</ref>。 このファーム施設の一体化を受けて、横須賀市・ベイスターズ球団と、横須賀市・1軍本拠地の[[横浜市]]が沿線に入っている[[京浜急行電鉄]](京急電鉄)と3社連携協定を結び、スポーツを中心とした魅力あふれる街づくりを進めることで合意した<ref>{{Cite news|url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20181119HP_18183NS.html|title=横須賀市、株式会社横浜DeNAベイスターズ、京浜急行電鉄株式会社との三者連携に関する基本協定書締結について|newspaper=[[京浜急行電鉄]]株式会社|date=2018-11-19|archiveurl=https://archive.fo/FHWcI|archivedate=2019-09-19|accessdate=2019-09-19}}</ref>。 ==略歴== *[[1950年]]頃 - 大洋ホエールズ創立とほぼ同時に二軍発足。「プロ野球二軍選手権」参加。この当時は[[下関市]]を本拠地としていた。 *[[1954年]] - [[新日本リーグ]]に「洋松ジュニアロビンス」として参加。1軍は[[大阪市]]が本拠だったが、2軍は下関市と小倉市(現:北九州市)のダブルフランチャイズを採用。 *[[1955年]] - イースタン・リーグ発足。「大洋ホエールズ」に改称し参加。ここから本拠地を[[川崎市]]に移す。 *[[1961年]] - イ・リーグ再発足。当時の本拠地は大洋多摩川グランド([[神奈川県]][[川崎市]][[中原区]]等々力向原3021)。 *[[1968年]] - イ・リーグ優勝。 *[[1975年]] - イ・リーグ優勝。 *[[1978年]] - 「横浜大洋ホエールズ」(よこはまたいよう - )に改称。 *[[1980年]] - 本拠地を保土ヶ谷大洋球場へ移転。 *[[1982年]] - イ・リーグ優勝。 *[[1986年]] - 本拠地を平塚球場(現:バッティングパレス相石スタジアムひらつか)へ移転。 *[[1987年]] - 練習場を新設した横浜大洋ホエールズ総合練習場(現:横浜DeNAベイスターズ総合練習場、通称:ベイスターズ球場)へ移転。 *[[1993年]] - 「横浜ベイスターズ」に改称。 *[[1997年]] - 本拠地を横須賀スタジアムに移転。この頃より、ユニフォーム左袖に「かがやけYOKOSUKA」と二段組みで書かれた[[ワッペン]]が付けられた([[1999年]]まで)。 *[[2000年]] - 「湘南シーレックス」に改称。 *[[2009年]] - 相模原球場(現:サーティーフォー相模原球場)を準本拠地に加える<ref group="注釈" name="sagamihara"/>。 *[[2010年]]10月 - 「横浜ベイスターズ」に改称。 *[[2012年]] - 「横浜DeNAベイスターズ」に改称。 *[[2016年]]2月 - 横須賀市と横浜DeNAベイスターズ球団が、追浜公園内に2軍の練習施設を集約するための基本協定を締結<ref name="横須賀市リリース"/> *[[2019年]]7月 - 2軍練習場(屋外練習場=練習用サブ球場、屋内練習場、合宿所)を集約した「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」が完成<ref name="ベイスターズリリース"/> == 監督・コーチ == {{Main|横浜DeNAベイスターズの選手一覧#二軍}} == 歴代監督 == 一覧は、イースタン・リーグ再発足以降。 * 1957年 - 1958年:[[宮崎剛 (1918年生の内野手)|宮崎剛]](第1次) * 1961年 - 1962年:[[保井浩一]] * 1963年 - 1965年:宮崎剛(第2次) * 1966年:[[沖山光利]] * 1967年:宮崎剛(第3次) * 1968年 - 1969年:[[藤井勇]] * 1970年 - 1971年:[[山田潔]] * 1972年:宮崎剛(第4次) * 1973年:[[土井淳]] * 1973年 - 1974年:[[鈴木隆 (投手)|鈴木隆]] * 1975年 - 1976年:[[引地信之]](第1次) * 1977年:[[秋山登]] * 1978年 - 1979年:引地信之(第2次) * 1980年 - 1981年:[[須藤豊]] * 1982年 - 1984年:[[山根俊英]] * 1985年 - 1986年:[[江尻亮]] * 1987年 - 1988年:[[前田益穂]] * 1989年 - 1992年:[[中塚政幸]] * 1993年 - 1996年:[[米田慶三郎]] * 1997年 - 1998年:[[竹之内雅史]] * 1999年 - 2003年:[[日野茂]] * 2003年:[[江藤省三]] * 2004年 - 2006年:[[岩井隆之]] * 2007年 - 2010年:[[田代富雄]] <small>※1</small> * 2011年:[[白井一幸]] * 2012年 - 2013年:[[山下大輔]] * 2014年:[[大村巌]] * 2015年:山下大輔(第2次) * 2016年 - 2017年:[[二宮至]] * 2018年 - 2019年:[[万永貴司]] * 2020年:[[三浦大輔]] * 2021年 - 2023年:[[仁志敏久]] * 2024年 - :[[青山道雄]] : <small>※1 2009年5月18日よりシーズン終了まで一軍監督代行に就任。その間、シーズン終了までを[[高木由一]]が代行</small> == キャラクター(球団マスコット) == 日本のプロ野球では1、2軍合わせて最多の16人。モチーフは海の生物(テントリーのみ[[テントウムシ]])。全員がベイスターズ二軍の一員という設定。ただし、試合に登場する[[着ぐるみ]]はレックのみ。 [[京浜急行バス|横浜京急バス]][[京浜急行バス追浜営業所|追浜営業所]]では、これらのキャラクターを起用した路線バス2台を「シーレックスバス」として、追浜地区路線と[[磯子駅]] - 追浜車庫前線で運行。 漫画家の[[いけだたかし]]が横浜の情報誌「Beautiful Yokohama」(2004年シーズンで廃刊)で、球団マスコット達の活躍を描いた漫画を掲載していた。 2012年3月20日のイースタンリーグ公式戦にて全員引退した。 ; レック : ベイスターズ二軍のエースで、キャプテンを務める。チームからも慕われる人気者。ポジションは投手。背番号01。「シーレックス」廃止に伴い、2011年以降は横浜ベイスターズのマスコットの一員となる。二軍マスコットであるが、球団側は「ホッシーの働きが悪ければホッシーを二軍に落とし、入れ替わりで一軍登録もあり得る」とコメントしていた。しかし、結局一軍に昇格されないまま引退となった。 ; レッタコス : ベイスターズ二軍の女房役的存在。野球に関しては理論派だが性格は短気。怒るとスミを吐き出す。ポジションは捕手。背番号02。 ; スー : ベイスターズ二軍一の美人選手。守備は華麗だが打撃はイマイチ。しかし、とてもお洒落な女性である。ポジションは一塁手。背番号03。 ; カモドッキー : ベイスターズ二軍の俊足選手。そそっかしいが、誰とでも仲良くなれる優しい性格。不思議な言葉遣いの持ち主である。ポジションは二塁手。背番号04。 ; ナンナン : 喜怒哀楽がはっきりと表情に出るキュートな女の子。チームのマスコット的存在である。ポジションは三塁手。背番号05。 ; クスマキ : 寡黙な性格だが、ファイトプレイはチーム一の腕白小僧。ヘッドスライディングはお手の物。ポジションは遊撃手。背番号06。 ; タヌパンマキ : 練習嫌いでイタズラ好き。ズル賢い性格だが、何故か憎めないヤツ。[[駄洒落|ダジャレ]]が得意。ポジションは左翼手。背番号07。 ; ショー : 華麗な守備を見せる名プレイヤー。根は優男で、スーにアタックしても相手にされないらしい。ポジションは中堅手。背番号08。 ; アンコラーノ : チーム一の大食漢。鈍足だが、何故か強肩の持ち主である。ポジションは右翼手。背番号09。 ; シュリンピー : バネを生かした「エビゾリ投法」の持ち主のリリーフエース。子供が24人いる。背番号10。 ; クルマキ : クスマキの妹。兄との出場を夢見る「思い込み」アイドル的存在。ポジションは外野手。背番号12。 ; ボー : 恥ずかしがり屋の女の子。耳を閉じるとまん丸くなる。名前通りボーっとしている。ポジションは内野手。背番号13。 ; サンジュゴロー : 紅顔の頑固者で、監督の言うことを聞かず、身勝手。打ち出すと止まらない打撃の持ち主であるが、好不調の波が激しい。 : ポジションは捕手。背番号35。 ; ハマグリン : いつもは冷静な哲学者の外見だが、居眠りの名人。物知りで、チーム最年長のコーチ。背番号89。 ; テントリー : ヘッドコーチで、身体はピンポン球サイズ。敵のチームに飛んでいく参謀役の存在。背番号64。 ; シーノン : いつもは冷静だが、試合になると血が騒ぐ熱血漢に。ファンからも親しまれている温情監督で、背番号71。シーレックス発足当時の監督であった[[日野茂]]がモデルと言われている。 ==放送== * [[テレビ神奈川]](?~2004年)湘南シーレックス時代に年間数試合ナイター中継があった * [[BSフジ]](2001年のみ) * [[日テレジータス|日テレG+]] 読売ジャイアンツ主催ゲーム * [[GAORA]] 日本ハムファイターズ主催ゲーム ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == * [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]] * [[大堀隆]] * [[ケチャップ (タレント)]] * [[吉岡さちこ]] * [[湘南ベルマーレ]] * [[天津ライオンズ]] * [[佐藤友香 (1983年生のアナウンサー)|佐藤友香]]([[湘南ケーブルネットワーク]][http://www.scn-net.ne.jp/shonanCH/blog/index.php?c=6-/ FAN FUN シーレックス]) == 外部リンク == {{Commonscat|Shonan Searex}} * [https://www.baystars.co.jp/farm/ 横浜DeNAベイスターズ - ファーム](公式サイト) {{横浜DeNAベイスターズ}} {{日本プロ野球}} {{デフォルトソート:よこはまていいえぬええへいすたあす}} [[Category:日本プロ野球のファームチーム]] [[Category:横浜DeNAベイスターズ|*2]] [[Category:神奈川県の野球チーム]] [[Category:平塚市のスポーツ]] [[Category:横須賀市のスポーツ]] [[Category:1950年設立のスポーツチーム]]
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山本おさむ
山本 おさむ(やまもと おさむ)は、日本の漫画家。血液型はA型。長崎県立大村工業高校卒業。妻(後に死別)は同業者の久木田律子。 母子家庭に育ち、1973年に高校卒業後に上京して、運送助手などをしながら漫画修業した。1976年から巴里夫のアシスタントを数年間つとめて、その他に尾瀬あきらのアシスタントもつとめながら、作品を幾多かの出版社に持ち込むが、すべて断られて、唯一『漫画アクション』(双葉社)のみ認められて、本名の山本 収名義で1980年にデビューした。 その後『ぼくたちの疾走』などの青春漫画路線から、『遥かなる甲子園』以降、『漫画アクション』の編集長に掛け合った末に聴覚障害者などを取り上げた作品を多く描くようになる。こうしたテーマへの取り組みの意図は、エッセイ『どんぐりの家のスケッチ - 漫画で障害者を描く』(1998年刊行)で読むことができる。 『遥かなる甲子園』では聾学校の野球部の子供たちを、『わが指のオーケストラ』では日本のろう教育の歴史を描き、障害児教育へ一石を投じたものとして反響を呼んだ。聾学校での重複障害の子供たちを描いた。 『どんぐりの家』は第24回(1995年度)日本漫画家協会賞優秀賞を受賞した。同作品は1997年に映画化され、社会的にも話題になった。映画化にあたり、自ら脚本の執筆、総監督を行った。第1回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞した。 夭折した非凡の棋士村山聖の人生を基にした『聖-天才・羽生が恐れた男』を描くことになったきっかけは、後に死別した妻の久木田が村山と同じ病気を患っていたことであり、間もなく久木田は連載中に亡くなった(後に福島県岩瀬郡天栄村出身の女性と再婚)。 ほかに日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗 日曜版』でエッセイ漫画『今日もいい天気』を連載している(2008年 - 2009年パートI、2012年パートII、2017年パートIII)。福島県天栄村での作者の田舎暮らしをコミカルに描いたパートIが好評だったため、震災前の2010年にパートIIの連載が決まっていたが、その後の原発事故を受け、編集部は続編は無理ではないかと判断していた。作者自身の自主避難体験を描くことを決意していたことも連載の中で描かれている。パートIと対照的な連載になったが、パートIも含めたこの作品が、第42回 (2013年度)日本漫画家協会賞特別賞を受賞をした。 九条の会傘下の「九条の会・さいたま」呼びかけ人を務めている。
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山本 おさむは、日本の漫画家。血液型はA型。長崎県立大村工業高校卒業。妻(後に死別)は同業者の久木田律子。
{{BLP sources|date=2014年4月}} {{別人|x1=実業家の|山本収}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 山本 おさむ | ふりがな = やまもと おさむ | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = 山本 収<ref name="yamamoto">[http://nishimitsu.com/2nd/o_yamamoto/list.htm 山本作品リスト]</ref> | 生年 = {{生年月日と年齢|1954|2|16}} | 生地 = [[日本]]・[[長崎県]][[諫早市]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1980年]] - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = }} '''山本 おさむ'''(やまもと おさむ)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[血液型]]はA型。[[長崎県立大村工業高等学校|長崎県立大村工業高校]]卒業。妻(後に死別)は同業者の[[久木田律子]]。 == 来歴 == [[一人親家庭|母子家庭]]に育ち<ref>『しんぶん赤旗 日曜版』2018年3月18日付より。</ref>、[[1973年]]に高校卒業後に上京して、運送助手などをしながら漫画修業した。[[1976年]]から[[巴里夫]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を数年間つとめて、その他に[[尾瀬あきら]]のアシスタントもつとめながら<ref>{{Harvnb|OFM仮面ライダー4|2004|p=30|loc=五十嵐浩司「石ノ森章太郎を継ぐ者 仮面ライダーマンガ家列伝 第6回 尾瀬あきら」}}</ref>、作品を幾多かの出版社に持ち込むが、すべて断られて、唯一『[[漫画アクション]]』([[双葉社]])のみ認められて、本名の'''山本 収'''名義で[[1980年]]にデビューした<ref name="yamamoto"/>。 その後『[[ぼくたちの疾走]]』<ref>「[[漫画アクション]]」に1981年から1985年にかけて連載されたほか[[1984年]]には、[[TBSテレビ|TBS]]でテレビドラマ化された。[https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d2207/]</ref>などの青春漫画路線から、『[[遥かなる甲子園]]』以降、『漫画アクション』の編集長に掛け合った末に[[聴覚障害者]]などを取り上げた作品を多く描くようになる。こうしたテーマへの取り組みの意図は、エッセイ『どんぐりの家のスケッチ - 漫画で障害者を描く』(1998年刊行)で読むことができる。 『遥かなる甲子園』では聾学校の野球部の子供たちを、『わが指のオーケストラ』では日本の[[ろう教育]]の歴史を描き、障害児教育へ一石を投じたものとして反響を呼んだ。[[聾学校]]での[[重複障害]]の子供たちを描いた。 『[[どんぐりの家]]』は第24回(1995年度)[[日本漫画家協会賞]]優秀賞を受賞した。同作品は1997年に映画化され、社会的にも話題になった。映画化にあたり、自ら脚本の執筆、総監督を行った。第1回[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門]]優秀賞を受賞した。 夭折した非凡の棋士[[村山聖]]の人生を基にした『聖-天才・羽生が恐れた男』を描くことになったきっかけは、後に死別した妻の久木田が村山と同じ病気を患っていたことであり、間もなく久木田は連載中に亡くなった(後に[[福島県]][[岩瀬郡]][[天栄村]]出身の女性と再婚)。 ほかに[[日本共産党]]の[[機関紙]]『[[しんぶん赤旗#日曜版|しんぶん赤旗 日曜版]]』で[[エッセイ]]漫画『[[今日もいい天気 (山本おさむの漫画)|今日もいい天気]]』を連載している(2008年 - 2009年パートI、2012年パートII、2017年パートIII)。福島県天栄村での作者の田舎暮らしをコミカルに描いたパートIが好評だったため、震災前の2010年にパートIIの連載が決まっていたが、その後の原発事故を受け、編集部は続編は無理ではないかと判断していた。作者自身の自主避難体験を描くことを決意していたことも連載の中で描かれている。パートIと対照的な連載になったが、パートIも含めたこの作品が、第42回 (2013年度)[[日本漫画家協会賞]]特別賞を受賞をした。 [[九条の会]]傘下の「九条の会・さいたま」呼びかけ人を務めている<ref>[https://ameblo.jp/kyuujyou-saitama/theme-10000144102.html ブログテーマ 九条の会・さいたま 呼びかけ人 九条の会・さいたま]</ref>。 == 作品リスト == * [[ぼくたちの疾走]] - 『[[漫画アクション]]』([[双葉社]]、1981年 - 1985年) * 麦青 - 共著:[[白山宣之]]、『漫画アクション』(双葉社、1986年) * 8カラット - (双葉社、1987年) * [[遥かなる甲子園]] - 『漫画アクション』(双葉社、1988年 - 1990年) * わが指のオーケストラ - 原案:川淵依子『指骨』、『[[ヤングチャンピオン]]』([[秋田書店]]、1991年 - 1992年、全4巻) * [[どんぐりの家]] - 『[[ビッグコミック]]』([[小学館]]、1993年 - 1997年) * ペンだこパラダイス(双葉社、1994年 - 1995年) * コキーユ - 貝殻 - 『ビッグコミック』(小学館、1995年) * [[オーロラの街]] - 『ビッグコミック』(小学館、1998年 - 1999年) * [[聖 -天才・羽生が恐れた男-]] - 『ビッグコミック』(小学館、2000年 - 2002年) * Hey!! ブルースマン - 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』([[講談社]]、2003年 - 2004年) * 天上の弦 - 『ビッグコミック』(小学館、2003年 - 2006年)『[[海峡を渡るバイオリン]]』を原作に、バイオリン製作者[[陳昌鉉]]を題材にした漫画。 * [[どんぐりの家|どんぐりの家〜それから〜]] - (小学館、2007年) * [[今日もいい天気 (山本おさむの漫画)|今日もいい天気]] - 『[[しんぶん赤旗#日曜版|しんぶん赤旗 日曜版]]』(2008年 - 2009年、2012年、2017年) * [[そばもん ニッポン蕎麦行脚]] - 監修:[[藤村和夫]] 『[[ビッグコミック増刊号]]』(2008年 - 2009年)→『ビッグコミック』(小学館、2009年 - 2016年) * [[津軽 (小説)|津軽]] 太宰治短編集(原作:[[太宰治]]、小学館、2011年) * そばもん外伝 駿府のそば - 山本おさむ with 神田ゆう、『[[コミック乱ツインズ]]』([[リイド社]]、2016年 - ) * [[赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD]] - 『[[ビッグコミックオリジナル]]』(小学館、2017年 - 2021年、全10巻) * 父を焼く - 『ビッグコミックオリジナル』(原作:宮部喜光、小学館、2022年<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogakukan-comic.jp/news/36222|title=山本おさむ氏の超重量新連載『父を焼く』開始!「オリジナル」10号|website=小学館コミック|publisher=小学館|date=2022-05-02|accessdate=2022-08-20}}</ref>) ** シリーズ【父を焼く】もものこと - 『ビッグコミックオリジナル』2022年20号<ref>{{Cite journal|和書|date = 2022-10-05|journal =ビッグコミックオリジナル|volume=2022年20号|publisher = 小学館|asin = B0BF33NHK8}}表紙より。</ref> - 2023年3号<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-01-20|title=シリーズ【父を焼く】もものこと 第八話 祈り|journal =ビッグコミックオリジナル|volume=2023年3号|page=241|publisher = 小学館|asin = B0BRQSHBPQ}}扉ページより。</ref>(小学館、2022年 - 2023年) * れむ - 『ビッグコミックオリジナル』(小学館、2024年1号<ref>{{Cite web|和書|url=https://bigcomicbros.net/magazines/81553/|title=ビッグコミック新年第1号|website=ビッグコミックBROS.NET|publisher=小学館|accessdate=2023-12-20}}</ref> - ) === 漫画以外の作品 === * 小説[[どんぐりの家]](汐文社 1997年) - 原案 * どんぐりの家のデッサン-漫画で障害者を描く([[岩波書店]]、1998年。2018年岩波現代文庫) - エッセイ * 映画『[[星に語りて]]』(2019年3月全国公開) - 脚本 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[巴里夫]] - 師匠 *[[尾瀬あきら]] - 師匠 *[[太田垣康男]] - アシスタント {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やまもと おさむ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:九条の会の人物]] [[Category:長崎県立大村工業高等学校出身の人物]] [[Category:長崎県出身の人物]] [[Category:1954年生]] [[Category:存命人物]]
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山根和俊
山根 和俊(やまね かずとし、1970年8月10日 - )は、日本の漫画家。三重県出身、京都府育ち。
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山根 和俊は、日本の漫画家。三重県出身、京都府育ち。
'''山根 和俊'''(やまね かずとし、[[1970年]][[8月10日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[三重県]]出身、[[京都府]]育ち<ref name="aa">{{Cite web|和書|url=http://www.daimokuroku.com/?index=suga&date=20090808 |title=19歳まで漫画を描いたことなし!漫画家・山根和俊 |accessdate=2021-02-04 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20160310144455/http://www.daimokuroku.com/?index=suga&date=20090808 |archivedate= 2016-03-10}}</ref>。 == 経歴 == * [[1989年]]、「BERSERK」が[[ホップ☆ステップ賞]]にて佳作を受賞。その後、[[萩原一至]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]になり<ref>『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』15巻より。</ref>、同時にゲームメーカー[[ウルフ・チーム]]にアルバイトとして勤務した。 * 『アークス・オデッセイ(移植版タイトル:アークス・スピリッツ)』『アーネストエバンス』『[[エル・ヴィエント]]』『アークスIII』といった作品でキャラクターデザインやイラスト、ビジュアルシーン原画などを担当する。[[1991年]]に[[ゲーマガ|BEEP!メガドライブ]]([[ソフトバンククリエイティブ|ソフトバンク]])掲載の『エル・ヴィエント』漫画版で商業誌デビュー。なお、この連載の際に使ったペンネーム「上野哲也」は、同作の製作に携わったスタッフの名前をそのまま流用したものだった。 * 定金伸治の小説『[[ジハード (小説)|ジハード]]』の挿絵を経て、『[[週刊少年ジャンプ]]』にて「[[超弩級戦士ジャスティス]]」にて連載デビュー。以降も『週刊少年ジャンプ』で連載を持つが、あまり支持を得られない時期が続いた。その後、『[[月刊少年ジャンプ]]』や『[[スーパージャンプ]]』などでも連載を行っていた。 * [[2006年]]、『[[週刊少年チャンピオン]]』に移籍し「[[ギャンブルフィッシュ]]」(原作:[[青山広美]])を連載開始する。[[2010年]]に連載終了。 * [[2011年]]、『[[近代麻雀]]』で青山広美の過去作品『[[バード (漫画)|バード]]』のリメイク版『バード 〜最凶雀士VS天才魔術士〜』を連載する。その後、新規の続編『バード 〜雀界天使VS天才魔術師〜』『バード BLACK MARKET -闇市編-』を連載している。 == 作品リスト == *BARSERK(読み:バァーサーク、ホップ★ステップ賞SELECTION第4巻掲載、「山根和俊短編集 プロトタイプ」に収録) *KILL BLADE(『週刊少年ジャンプ増刊 1990年SpringSpecial) *SCORPIO(『週刊少年ジャンプ増刊』 1990年SummerSpecial、同短編集に収録) *魔剣戦記 DEICIDE(『週刊少年ジャンプ』 1993年30号) *[[ジハード (小説)|ジハード]](『少年ジャンプ季節増刊号』1992年AS(オータムスペシャル) - 1993年SS(スプリングスペシャル)、原作:[[定金伸治]]) *[[超弩級戦士ジャスティス]](『週刊少年ジャンプ』[[1993年]]48号 - [[1994年]]11号、全2巻) *クルセイド 〜風のヴァレリー〜(『月刊少年ジャンプ』[[1995年]]8月号 - [[1996年]]3月号、原作:定金伸治、全2巻) *: 『ジハード』の翻案版。原作の描写や設定についてはあえて細部まで踏襲せず、山根が独自解釈で再構成している。 *オメガエンジェル (『週刊少年ジャンプ増刊』、1995年WinterSpecial、同短編集に収録) *GANRYU(『週刊少年ジャンプ』 1997年1号、同短編集に収録) *[[JOKER (山根和俊の漫画)|JOKER]](『週刊少年ジャンプ』[[1997年]]15号(読切) 32号 - 47号、全2巻) *[[山根和俊短編集 プロトタイプ]] (1998年3月9日発行) *CHOPPERS!!(『週刊少年ジャンプ』[[1998年]]19号) *[[ガンリュウ]](『月刊少年ジャンプ』[[2000年]]4月号 - [[2003年]]2月号、全8巻) *大江戸バーリトゥード(『[[スーパージャンプ]]』[[2004年]]17号 - [[2005年]]7号、『[[オースーパージャンプ]]』[[2005年]]5月号、原作:福内鬼外、全2巻) *蹴人(シュート)(『週刊少年チャンピオン』、[[2006年]])<ref>{{Cite web|和書|title=GBR>ニュース>【ニュース】小林聡、全面協力!漫画「蹴人」が連載開始 |url=https://gbring.com/sokuho/news/2006_04/0425_news.htm |website=gbring.com |access-date=2023-07-07}}</ref> *[[ギャンブルフィッシュ]](『週刊少年チャンピオン』[[2007年]]10号 - [[2010年]]33号、原作:[[青山広美]]、全19巻) *[[バード (漫画)|バード]]シリーズ **バード 〜最凶雀士VS天才魔術師〜(『近代麻雀』、原作:青山広美、全2巻) **バード 〜雀界天使VS天才魔術師〜(『近代麻雀』、原作:青山広美、全3巻) **バード BLACK MARKET -闇市編-(『近代麻雀』、原作:青山広美、全9巻) *[[超人戦線]](『[[チャンピオンRED]]』、原作:青山広美、全7巻) *林道タイガー(『[[ヤングチャンピオン]]』2020年No.20 - No.21) *[[黄金バット|黄金バット 大正髑髏奇譚]](『チャンピオンRED』2023年2月号 - 、原作:[[神楽坂淳]]) == 逸話 == * 上記の他にアメリカのコミックレーベル[[verotik]]で読切を数本掲載していた。 * 父が[[手塚治虫]]のファンで、それを読んでいたが、19歳まで漫画を描いたことがなく、[[オートバイ|バイク]]に夢中だった。高校卒業後に漫画家を目指すことになった<ref name="aa"/>。 * 上記のように[[ハーレーダビッドソン]]や[[ドゥカティ]]に乗るバイカーでもあり、両腕に[[入れ墨|タトゥー]]を施している。バイク交通事故によって右腕を切断しかける事態に陥ったこともあり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.daimokuroku.com/?index=suga&date=20090822 |title= 格闘技・アメコミ・サイドカー そして『ギャンブルフィッシュ』漫画家・山根和俊 |accessdate=2021-02-04 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20160416165803/http://www.daimokuroku.com/?index=suga&date=20090822# |archivedate= 2016-04-16}}</ref>、この際に『エル・ヴィエント』の連載を中断([[打ち切り]])している。 * ウルフ・チームのゲームソフト『アークスI・II・III』や、アーネストエバンズシリーズの最終作『アネット再び』の製作時には既にウルフ・チームでのアルバイトを辞めていたため参加していないが、前者では関連作『アークス・オデッセイ』や『アークスIII』のキャラクターデザインが流用されており、後者でも『アーネストエバンス』『エル・ヴィエント』における山根のデザインを踏襲の上で新規デザインが起こされている。 * 既婚者であり、『ギャンブルフィッシュ』11巻の単行本では妻の写真を掲載している。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[萩原一至]] - 師匠 * [[柳田東一郎]] - アシスタント * [[坂本眞一 (漫画家)|坂本眞一]] - 親友 == 外部リンク == * {{Twitter|iseshima_attack|霧島@山根和俊(漫画家)}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やまね かすとし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本テレネットの人物]] [[Category:京都府出身の人物]] [[Category:三重県出身の人物]] [[Category:1970年生]] [[Category:存命人物]]
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堀江卓
堀江 卓(ほりえ たく、男性、1925年3月14日 - 2007年2月8日)は、日本の漫画家。山口県下関市出身。1956年から連載した『つばくろ頭巾』が人気となり、1957年から連載した『矢車剣之助』はテレビドラマ化されて代表作となった。他の代表作には、テレビドラマ化された『天馬天平』や、新東宝で映画化された『ハンマー・キット』などがある。 太平洋戦争中は海軍に所属した。終戦後、日立製作所笠戸工場に入り、直営の映画館を任される。支配人を務めながら映画の看板を描く一方、1コマ漫画や4コマ漫画を週刊誌に投稿した。 映画のフィルムを借りに来た大阪でテレビを見て映画の時代は終わると感じ、片手間で描いたコマ漫画が採用されるなら本気で描けば漫画家になれると思い、1955年に漫画家を目指して上京した。1週間でダメなら戻ろうと思って最初に飛び込んだ出版社では、6回描き直させられた挙げ句、編集長に居留守を使われた。しかし、その帰り道に飛び込んだ芳文社で「絵は下手だしストーリーもつたない。しかし、変わっている」と言われ、依頼されるようになる。 1956年、痛快ブック増刊『剣豪ブック』陽春活劇号(3月1日発行)に「俺は藤吉郎だ」を発表してデビュー。以後、『痛快ブック』(芳文社)に時代物の読み切り短編を掲載していった。 『痛快ブック』1957年2月号に掲載された短編「飛燕一刀流」に登場した“つばくろ頭巾”が人気を得た。当時の『痛快ブック』編集者だった藤本七三夫は「西部劇を日本の時代劇に登場させては」と堀江に提案し、5月号より『つばくろ頭巾』の連載が始まった。白馬に乗って拳銃を放つ侍が主人公であるこの作品は3年間の長期連載となり、初期の代表作となるとともに作者を人気作家の地位に押し上げた。 また、『少年』(光文社)1957年8月号からは、後に代表作となる『矢車剣之助』の連載を始める。大岡越前守配下で、剣と銃の達人である少年剣士・矢車剣之助が、謎の黒覆面「夜の帝王」に扮し活躍するこの作品は、無限の弾数を持つ二丁拳銃による派手なアクションや、敵方の城が巨大戦車になるなどのSF的なからくりが全国の子どもたちを熱狂させ、同誌に連載されていた手塚治虫『鉄腕アトム』や横山光輝『鉄人28号』と人気を分けた。後に手塚茂夫主演でテレビドラマ化され、こちらもヒットした。 以後も頼まれた仕事は断らず、『ハンマー・キット』(『少年』)、『ブルージェット』(『おもしろブック』『少年ブック』)、『少年ハリマオ』(『少年クラブ』)、『天馬天平』(『少年画報』)、『隠密剣士』(『週刊少年マガジン』)、『赤い風車』(『ぼくら』)、『スパイキャッチャーJ3』(『ぼくら』)などを連載した。 1974年、短編「路地」を『ビッグコミック』(小学館)7月25日号に発表し、青年誌に進出する。以後、『リイドコミック』などに青年漫画、劇画を執筆する。 1980年からは、『オオカミ王ロボ シートン動物記』(学研)など、名作や伝記、歴史などの学習漫画を執筆。1996年まで漫画を描き続けた。 2007年2月8日、死去。81歳没。 その他、多数
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "堀江 卓(ほりえ たく、男性、1925年3月14日 - 2007年2月8日)は、日本の漫画家。山口県下関市出身。1956年から連載した『つばくろ頭巾』が人気となり、1957年から連載した『矢車剣之助』はテレビドラマ化されて代表作となった。他の代表作には、テレビドラマ化された『天馬天平』や、新東宝で映画化された『ハンマー・キット』などがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "太平洋戦争中は海軍に所属した。終戦後、日立製作所笠戸工場に入り、直営の映画館を任される。支配人を務めながら映画の看板を描く一方、1コマ漫画や4コマ漫画を週刊誌に投稿した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "映画のフィルムを借りに来た大阪でテレビを見て映画の時代は終わると感じ、片手間で描いたコマ漫画が採用されるなら本気で描けば漫画家になれると思い、1955年に漫画家を目指して上京した。1週間でダメなら戻ろうと思って最初に飛び込んだ出版社では、6回描き直させられた挙げ句、編集長に居留守を使われた。しかし、その帰り道に飛び込んだ芳文社で「絵は下手だしストーリーもつたない。しかし、変わっている」と言われ、依頼されるようになる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1956年、痛快ブック増刊『剣豪ブック』陽春活劇号(3月1日発行)に「俺は藤吉郎だ」を発表してデビュー。以後、『痛快ブック』(芳文社)に時代物の読み切り短編を掲載していった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『痛快ブック』1957年2月号に掲載された短編「飛燕一刀流」に登場した“つばくろ頭巾”が人気を得た。当時の『痛快ブック』編集者だった藤本七三夫は「西部劇を日本の時代劇に登場させては」と堀江に提案し、5月号より『つばくろ頭巾』の連載が始まった。白馬に乗って拳銃を放つ侍が主人公であるこの作品は3年間の長期連載となり、初期の代表作となるとともに作者を人気作家の地位に押し上げた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、『少年』(光文社)1957年8月号からは、後に代表作となる『矢車剣之助』の連載を始める。大岡越前守配下で、剣と銃の達人である少年剣士・矢車剣之助が、謎の黒覆面「夜の帝王」に扮し活躍するこの作品は、無限の弾数を持つ二丁拳銃による派手なアクションや、敵方の城が巨大戦車になるなどのSF的なからくりが全国の子どもたちを熱狂させ、同誌に連載されていた手塚治虫『鉄腕アトム』や横山光輝『鉄人28号』と人気を分けた。後に手塚茂夫主演でテレビドラマ化され、こちらもヒットした。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "以後も頼まれた仕事は断らず、『ハンマー・キット』(『少年』)、『ブルージェット』(『おもしろブック』『少年ブック』)、『少年ハリマオ』(『少年クラブ』)、『天馬天平』(『少年画報』)、『隠密剣士』(『週刊少年マガジン』)、『赤い風車』(『ぼくら』)、『スパイキャッチャーJ3』(『ぼくら』)などを連載した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1974年、短編「路地」を『ビッグコミック』(小学館)7月25日号に発表し、青年誌に進出する。以後、『リイドコミック』などに青年漫画、劇画を執筆する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1980年からは、『オオカミ王ロボ シートン動物記』(学研)など、名作や伝記、歴史などの学習漫画を執筆。1996年まで漫画を描き続けた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2007年2月8日、死去。81歳没。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その他、多数", "title": "作品リスト" } ]
堀江 卓は、日本の漫画家。山口県下関市出身。1956年から連載した『つばくろ頭巾』が人気となり、1957年から連載した『矢車剣之助』はテレビドラマ化されて代表作となった。他の代表作には、テレビドラマ化された『天馬天平』や、新東宝で映画化された『ハンマー・キット』などがある。
'''堀江 卓'''(ほりえ たく、男性、[[1925年]][[3月14日]] - [[2007年]][[2月8日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[山口県]][[下関市]]出身<ref name="nishinihon960729">「「矢車剣之助」71歳、漫画家・堀江卓さん、デビュー40年」、西日本新聞 朝刊、1996年7月29日、11頁。</ref>。1956年から連載した『つばくろ頭巾』が人気となり、1957年から連載した『矢車剣之助』はテレビドラマ化されて代表作となった<ref name="nishinihon960729" />。他の代表作には、テレビドラマ化された『天馬天平』や、[[新東宝]]で映画化された『ハンマー・キット』などがある。 == 来歴 == [[太平洋戦争]]中は[[大日本帝国海軍|海軍]]に所属した<ref name="nishinihon960729" />。終戦後、[[日立製作所笠戸工場]]に入り、直営の映画館を任される<ref name="nishinihon960729" />。支配人を務めながら映画の看板を描く一方、1コマ漫画や[[4コマ漫画]]を週刊誌に投稿した<ref name="nishinihon960729" />。 映画のフィルムを借りに来た大阪でテレビを見て映画の時代は終わると感じ、片手間で描いたコマ漫画が採用されるなら本気で描けば漫画家になれると思い、[[1955年]]に漫画家を目指して[[上京]]した<ref name="nishinihon960729" />。1週間でダメなら戻ろうと思って最初に飛び込んだ出版社では、6回描き直させられた挙げ句、編集長に居留守を使われた<ref name="nishinihon960729" />。しかし、その帰り道に飛び込んだ[[芳文社]]で「絵は下手だしストーリーもつたない。しかし、変わっている」と言われ、依頼されるようになる<ref name="nishinihon960729" />。 1956年、痛快ブック増刊『剣豪ブック』陽春活劇号(3月1日発行)に「俺は藤吉郎だ」を発表してデビュー<ref name="nishinihon960729" />。以後、『痛快ブック』(芳文社)に時代物の読み切り短編を掲載していった。 『痛快ブック』1957年2月号に掲載された短編「飛燕一刀流」に登場した“つばくろ頭巾”が人気を得た<ref name=" mangashoptubakuro">{{Cite web|和書|author=マンガショップ |date=2007-05 |url= http://www.mangashop.jp/bin/showprod?c=9784775911655&loc=rel |title=マンガショップ:つばくろ頭巾【上】|accessdate=2015-09-10 }}</ref>。当時の『痛快ブック』編集者だった藤本七三夫は「[[西部劇]]を日本の[[時代劇]]に登場させては」と堀江に提案<ref>「郷土出版だより」、朝日新聞 大阪地方版/地方総合、2001年3月18日、36頁。</ref>し、5月号より『つばくろ頭巾』の連載が始まった。白馬に乗って[[拳銃]]を放つ侍が主人公であるこの作品は3年間の長期連載<ref name=" mangashoptubakuro" />となり、初期の代表作となるとともに作者を人気作家の地位に押し上げた<ref name="nishinihon960729" /><ref name=" mangashoptubakuro" />。 また、『[[少年 (雑誌)|少年]]』([[光文社]])1957年8月号からは、後に代表作となる『矢車剣之助』の連載を始める<ref name=" mangashopyaguruma">{{Cite web|和書|author=マンガショップ |date=2008-06 |url= http://www.mangashop.jp/bin/showprod?c=9784775912461 |title=マンガショップ:矢車剣之助〔完全版〕―疾風編―【上】|accessdate=2015-09-10 }}</ref>。[[大岡忠相|大岡越前守]]配下で、剣と銃の達人である少年剣士・矢車剣之助が、謎の黒覆面「夜の帝王」に扮し活躍するこの作品は、無限の弾数を持つ二丁拳銃による派手なアクションや、敵方の城が巨大戦車になるなどの[[サイエンス・フィクション|SF]]的なからくりが全国の子どもたちを熱狂させ、同誌に連載されていた[[手塚治虫]]『[[鉄腕アトム]]』や[[横山光輝]]『[[鉄人28号]]』と人気を分けた<ref name="asahi090103">「(熱血!マンガ学)矢車剣之助 破天荒アクションの「超時代劇」」、朝日新聞 大阪夕刊、2009年1月13日、3頁 Do2。</ref>。後に[[手塚しげお|手塚茂夫]]主演でテレビドラマ化され、こちらもヒットした<ref name="asahi090103" />。 以後も頼まれた仕事は断らず<ref name="nishinihon960729" />、『ハンマー・キット』(『少年』)、『ブルージェット』(『[[少年ブック|おもしろブック]]』『[[少年ブック]]』)、『少年ハリマオ』(『[[少年倶楽部|少年クラブ]]』)、『天馬天平』(『[[少年画報]]』)、『隠密剣士』(『[[週刊少年マガジン]]』)、『赤い風車』(『[[ぼくら]]』)、『[[スパイキャッチャーJ3]]』(『ぼくら』)などを連載した。 1974年、短編「路地」を『[[ビッグコミック]]』([[小学館]])7月25日号に発表し、青年誌に進出する<ref name="nishinihon960729" />。以後、『[[リイドコミック]]』などに青年漫画、劇画を執筆する。 1980年からは、『オオカミ王ロボ [[シートン動物記]]』([[学研ホールディングス|学研]])など、名作や[[伝記]]、歴史などの[[学習漫画]]を執筆。1996年まで漫画を描き続けた。 2007年2月8日、死去。{{没年齢|1925|3|14|2007|2|28}}。 == 作品リスト == * おれは藤吉郎だ (痛快ブック増刊「剣豪ブック」陽春活劇号 1956年3月1日発行) * デカンショくん (痛快ブック 1956年 6月号付録) * 忠治子守りうた (痛快ブック増刊「剣豪ブック」白刃乱舞号 1956年8月20日発行) * 江戸っ子奉行[[遠山景元|遠山金四郎]](痛快ブック 1956年7月号付録 -1957年 5月号) * 剣豪一刀流(痛快ブック 1956年8月号付録) * 鞍馬二刀流 (痛快ブック 1956年11月号付録) * 魚河岸の石松(痛快ブック 1956年12月号付録) * 豪力雲竜 * 飛燕一刀流 *『つばくろ頭巾』完全版、マンガショップ、2007 - 『飛燕一刀流』の登場人物の一人を主人公にしたもの *『矢車剣之助』[[光文社]]、1959 [[秋田書店]]、1967、[[講談社漫画文庫]]、1976- アース出版局、1993 ドラマ化 *『天馬天平』全5巻 [[少年画報社]]、1957-58 - ドラマ化 *『ブルージェット』きんらん社、1961 *『ハンマー・キット』完全版、マンガショップ、2010 * あばれ頭巾 * 風速一平太 *『太陽仮面』(原作・[[川内康範]])完全版、マンガショップ、2007 *『ガン・キング』[[講談社]]、1961 *『少年ハリマオ』きんらん社、1960 [[朝日ソノラマ]]・サン・コミックス、1968 *『黒い野牛』完全版、マンガショップ、2007 * 怪傑黒い月 * 保安官キッド *『隠密剣士』完全版、マンガショップ、2009 - テレビドラマの漫画化 *『黒王子』完全版、マンガショップ、2010 * 戦国の虎 *『忍者シデン』完全版、マンガショップ、2008 *『[[スパイキャッチャーJ3]]』(原作・[[都筑道夫]])完全版、マンガショップ、2010 - 特撮テレビドラマの漫画化 *『少年ハリケーン』完全版 マンガショップ、2006 *『赤い風車』秋田書店・サンデーコミックス、1968 完全版、マンガショップ、2006 *『[[黒い編笠]]』ーテレビ放送された時代劇のコミカライズを『ぼくら』に連載 * [[ウルトラセブン]]([[ぼくら]] 1968年6月号付録) -  特撮テレビドラマの漫画化 *『[[上杉謙信]]』[[宮崎惇]]原作 (講談社劇画伝記文庫 1969 *『[[豊臣秀吉]]』宮崎惇 原作 (講談社劇画伝記文庫 1970 *路地 * 劇画[[関東大震災]] * 万華鏡 * 遠賀川 * ニルスのふしぎな旅 * シートン動物記 *『天下の副将軍 水戸黄門』[[学習研究社]], 1981.7 *『[[聖徳太子]] 国づくりの若きリーダー』(学研まんが. 伝記シリーズ) 学習研究社, 1982.1 *『源氏と平氏(日本の歴史 5)』学習研究社, 1982.3 *『元寇のあらまし(日本の歴史 6)』学習研究社, 1982. *『南北朝の争い(日本の歴史 7)』学習研究社, 1982. *『平家物語 (コミグラフィック. 日本の古典)』[[辻真先]]構成. 暁教育図書, 1982.9 *『心中天網島 女殺油地獄・曽根崎心中』(コミグラフィック. 日本の古典) 辻真先 構成. 暁教育図書, 1983.5 *『まんがでわかる刑法』(原作[[円山雅也]])[[集英社]]、1983 *『まんがでわかる刑法の落とし穴』円山雅也 著, 集英社, 1987.10 *『金色夜叉 :[[尾崎紅葉]] 不如帰 :[[徳富蘆花]]』 (コミグラフィック. 日本の文学) [[三上修平]]構成, 暁教育図書, 1988.2 *『暮らしを守る法律戦術 知らないと一生ソンする!! まんが』[[和久峻三]]原作・監修,学習研究社, 1988.4 *『[[高杉晋作]] 幕末・維新の風雲児 (学研まんが人物日本史) 学習研究社, 1989.11 *『広島の歴史 ふるさとまんが 上巻 ([[毛利元就]])』[[祖田浩一]]原案. 学習研究社, 1989.3 *『広島の歴史 ふるさとまんが 下巻 ([[毛利輝元]])』祖田浩一原案. 学習研究社, 1989.3 *『人物日本の歴史 まんがで学習 4 江戸時代(元禄~幕末) 』[[あかね書房]], 1990.4 *『まんが百人一首なんでも事典』[[金の星社]], 1993.7 *『おもしろ日本史まんが人々のくらしと経済』全3巻 [[ぎょうせい]], 1996.8 * 源義経 * 西郷隆盛と大久保利通 * エネルギーのひみつ その他、多数 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.iza.ne.jp/article/20210110-IRNCTB225FMP7KU7PRHVY7O6AU/ 丑年にちなんだ西部劇マンガ『黒い野牛』 忍者がアメリカ先住民のリーダーに!?(中野晴行【マンガ探偵局がゆく】2021年1月10日記事)] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:ほりえ たく}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:1925年生]] [[Category:2007年没]]
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ほりのぶゆき
ほり のぶゆき(1964年10月16日 - )は、日本の漫画家。兵庫県神戸市出身。法政大学卒業。学生時代は漫画研究会で活動。同期に永野のりこがいるが、当時は面識が無かった。 1988年、『ビッグコミックスピリッツ』の第1回相原賞で「金のアイハラ賞」を受賞してデビュー。特撮と時代劇を中心に、テレビ周辺の雑多なネタのパロディギャグを得意としている。 1995年7月21日に代表作の『江戸むらさき特急』がオリジナルビデオ化されている。監督は俳優の山城新伍。脱力系の芸風から、近年は河崎実との仕事も多い。 兄は元『ビッグコミックスピリッツ』『ビッグコミックオリジナル』編集長の堀靖樹(サルまんのグラビアでは兄弟そろって顔出ししていた)。
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ほり のぶゆきは、日本の漫画家。兵庫県神戸市出身。法政大学卒業。学生時代は漫画研究会で活動。同期に永野のりこがいるが、当時は面識が無かった。 1988年、『ビッグコミックスピリッツ』の第1回相原賞で「金のアイハラ賞」を受賞してデビュー。特撮と時代劇を中心に、テレビ周辺の雑多なネタのパロディギャグを得意としている。 1995年7月21日に代表作の『江戸むらさき特急』がオリジナルビデオ化されている。監督は俳優の山城新伍。脱力系の芸風から、近年は河崎実との仕事も多い。 兄は元『ビッグコミックスピリッツ』『ビッグコミックオリジナル』編集長の堀靖樹(サルまんのグラビアでは兄弟そろって顔出ししていた)。
{{別人|堀信行|堀宣行|x1=地理学者の|x2=中央競馬調教師の}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = ほり のぶゆき | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 堀伸之 | 生地 = {{JPN}} [[兵庫県]][[神戸市]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1964|10|16}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1988年]] - | ジャンル = | 代表作 = [[江戸むらさき特急]]<br />[[最終戦争ちょんまげどん]] | 受賞 = [[1988年]]:『[[ビッグコミックスピリッツ]]』の第1回[[相原コージ|相原賞]]で「金のアイハラ賞」を受賞 | 公式サイト = http://48662736.at.webry.info/ }} '''ほり のぶゆき'''([[1964年]][[10月16日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[兵庫県]][[神戸市]]出身。[[法政大学]]卒業。学生時代は漫画研究会で活動。同期に[[永野のりこ]]がいるが、当時は面識が無かった。 [[1988年]]、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』の第1回[[相原コージ|相原賞]]で「金のアイハラ賞」を受賞してデビュー。特撮と時代劇を中心に、テレビ周辺の雑多なネタのパロディギャグを得意としている。 [[1995年]][[7月21日]]に代表作の『江戸むらさき特急』がオリジナルビデオ化されている。監督は[[俳優]]の[[山城新伍]]。脱力系の芸風から、近年は[[河崎実]]との仕事も多い。 兄は元『ビッグコミックスピリッツ』『[[ビッグコミックオリジナル]]』編集長の[[堀靖樹]]([[サルでも描けるまんが教室|サルまん]]のグラビアでは兄弟そろって顔出ししていた)。 == 作品リスト == * 世相木端微塵 * 天然の馬鹿力 * もののふの記 * からげんき * バーディー侍 (『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』[[メディアリーヴス|アスキー]]) * たわけMONO (『[[まんがくらぶ]]』[[竹書房]]) * [[荒川道場]] (『[[まんがくらぶオリジナル|まんがパロ野球ニュース]]』竹書房) * [[宇宙喜劇M774]] (『まんがくらぶ』竹書房)- [[アスペクト_(企業)|アスペクト]]より「21世紀画報」「極東ロボ社会」も収録して単行本化 * 21世紀画報 (『まんがくらぶ』竹書房) * 極東ロボ社会 (『まんがくらぶ』竹書房) * [[江戸むらさき特急]] (『[[ビッグコミックスピリッツ]]』小学館、1991年47号 - 1995年19号) * 店もん (『ビッグコミックスピリッツ』小学館) * [[ちょんまげどん]] (『ビッグコミックスピリッツ』小学館) * 旅マン (『ビッグコミックスピリッツ』小学館) * [[怪獣人生]] (『ビッグコミックスピリッツ』小学館) * [[てれびさん]]<ref group="注">2巻目は諸事情により、タイトルを『超人読本』に改められている</ref> (『[[コミックバーズ|コミックバーガー]]』[[スコラ]]) * [[喜劇・空想特撮温泉]] (『[[コミックバーズ]]』[[スコラ]]) * 38年目の疑問 (小学館刊『ウルトラマンDNA』掲載) * 黒幕さん (『[[ビッグコミックオリジナル増刊]]』小学館) * 猛虎はん 野球マンガ選集(『HotSPA!』) * [[旅愁マスク観光系]](『[[パチスロパニック7|パニック7ゴールド]]』[[白夜書房]]) * 企業の犬 (『[[コミックチャージ]]』[[角川書店]]) * 東京お侍ランド (『[[モバMAN]]』小学館、2008年7月18日 - 2011年2月18日) * 東京お侍ランド ハイブリッド<ref group="注">2017年に「まんが版 武士の歴史」と題して全2巻で単行本化</ref>(『モバMAN』小学館、2011年<ref>{{Cite web|和書|url=http://s.webry.info/sp/48662736.at.webry.info/201103/article_1.html|title=東京お侍ランド ハイブリッド|date=2011年3月30日|accessdate=2017年2月23日 }}</ref> - 2015年4月3日) * 哀しみ本線ブルーダイヤ (『パニック7ゴールド』白夜書房→[[ガイドワークス]])、監修:川崎ぶら * パパ侍が往く! (『[[AERA with Baby]]』[[朝日新聞出版]]) * 温泉地獄変 (『[[漫画サンデー]]』[[実業之日本社]]、2012年30号) * 阿鼻叫喚!!ゆるふわ地獄 (『[[ビッグコミックオリジナル増刊]]』[[小学館]]、2014年1月増刊号 - 2017年1月増刊号) * 阿鼻叫喚!!ゆるふわ地獄 阪神増刊特別編(『ビッグコミックオリジナル阪神タイガース増刊号』小学館、2015年6月30日号) * 絶倫将軍 (『[[ビッグコミックオリジナル]]』小学館、2014年2号) * これはゴジラではない(『ビッグコミックオリジナルゴジラ増刊号』小学館、2014年8月10日号) * 2014 1号スーツの逆襲(『ビッグコミックオリジナルゴジラ増刊号』小学館、2014年8月10日号)、作画:深山雪男 * (タイトル不定)<ref group="注">歴史クイズ記事「レキッパ!!」(出題と文:伊沢宏樹)のスペースに掲載の漫画。タイトルは毎回異なる。</ref>(『[[月刊Newsがわかる]]』[[毎日新聞社]]、2014年11月号 - ) * アサ芸お侍トピックス(『[[週刊アサヒ芸能]]』[[徳間書店]]、2015年1月1日・8日合併号 - ) * [[信長の理望~ん]]<ref group="注">「信長の理望~ん 創造」と題して単行本化</ref>(『[[コミック乱]]』[[リイド社]]、2015年5月号 - 2017年8月号)、協力:[[コーエーテクモゲームス]] * 人間の20年 漫画誌の20年(『[[コミックビーム]]』[[KADOKAWA]]、2015年12月号) * 20世紀から来たパチンカー パチマン(『[[ぱちガブッ!]]』[[サミーネットワークス]]・[[ガイドワークス]]、2016年4月14日 - 2016年12月29日) * 言うほどみんな猫が好きかというとちょっとギモンである(『月刊ねこだのみ』小学館、vol.5 - vol.12) * 猫道 (『ビッグコミックオリジナル増刊』小学館、2017年5月増刊号 - 2022年7月増刊号) * [[三大怪獣グルメ]](『[[WEBコミックガンマ]]』竹書房、2019年9月30日 - 2020年4月20日)、原作:[[河崎実]]、監修:[[久住昌之]] == 脚本 == * 映画『突撃!隣のUFO』<ref>{{Cite web|和書|title=映画『突撃!隣のUFO』公式サイト |url=https://totsugeki-ufo.com/ |website=映画『突撃!隣のUFO』公式サイト |access-date=2023-01-13 |language=ja}}</ref>(2023年2月3日公開) 監督・脚本:[[河崎実]] == イラスト == * 『[[信長の野望・創造]]』(織田信長)<ref>[https://twitter.com/nobunaga_souzou/status/581024800899919872 信長の野望シリーズ(公式): "【広報】3/30の大型アップデートで加わる新規“織田信長”顔CG2点の内、1点は漫画家ほりのぶゆき先生描き下ろしになります。]</ref> * 『コマンタレビーマー』<ref group="注">当初のタイトルは『マッドサイエンティスト列伝 世界のビーマー』。その後タイトルが何回か変更されて「コマンタレビーマー」で定着。2015年に「世界偉人変人博物館」と題して書籍化。</ref>(『[[コミックビーム]]』[[アスキー (企業)|アスキー]]→[[エンターブレイン]]→[[KADOKAWA]]、1995年12月号 - )、コラム:神山修一 * 『ちょっとチョンマゲ!』<ref group="注">2008年にペリー荻野とほりのぶゆきの語りおろし対談と当時未単行本化の漫画を加え「チョンマゲ江戸むらさ記」と題して[[辰巳出版]]より書籍化。</ref>(『[[じゃらん|関西じゃらん]]』[[リクルートホールディングス|リクルート]]、1997年 - 2006年)、コラム:[[ペリー荻野]] == コラム == * 『ひとときエッセイ そして旅へ』(『[[ひととき]]』[[ウェッジ (出版社)|ウェッジ]]、2016年3月号) * 『ホリホリの旅の絵日記』(『ひととき』ウェッジ、2018年4月号 - ) *: ※漫画家の[[堀道広]]と1ヶ月交代での連載 * 『ぼくらの好きな怪獣』(『ビッグコミックオリジナル増刊』小学館、2023年5月増刊号 - )、話し手:唐沢なをき・ほりのぶゆき、聞き手:川崎ぶら、やり手:堀(兄) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[悪代官 (ゲーム)|悪代官]] - 三作目でイベントの挿絵を担当 * [[超高速!参勤交代]] - 映画のパンフレットに4コマ漫画が掲載 == 外部リンク == * [http://48662736.at.webry.info/ 旅姿一人マン](本人のブログ) * {{Twitter|nobhori}} * {{Instagram|horinob1964}} * {{マンガ図書館Z作家|132}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:ほり のふゆき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:法政大学出身の人物]] [[Category:神戸市出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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横須賀市
横須賀市(よこすかし)は、神奈川県南東部の三浦半島に位置する市。中核市に指定されている。 神奈川県南東部に位置する三浦半島の北半分を占め、市域の東側は東京湾(浦賀水道)、西側は相模湾に面する。東京湾唯一の自然島である猿島も行政区域に含まれる。行政区域内標高の最高点は大楠山の標高242mであり三浦半島の最高峰となっている。それほど標高が高い山はないが、中央部は山間部や急峻な丘陵部(三浦丘陵)が中心で平地は少ない。そのため、古くから海岸線の埋め立てが行われており、現在の中心市街地(京急の横須賀中央駅周辺)も大部分が埋立地にある。また、海岸沿いまで山が迫る地形のためトンネルが多いのも特徴で、神奈川県にある道路・鉄道トンネルのおよそ半数が市内に集中している。直下には三浦半島断層群が所在している。 市内の行政・経済的都市機能が集中する東京湾岸には大工場や住宅群がひしめきあうが、相模湾岸には自然が多く残され農業も盛んである。市内中心部から東京都心までは京急本線で約1時間の距離で、JR横須賀線では約1時間10分かかる。また横浜横須賀道路など地域高規格道路が整備されており、車では平日朝の通勤時間帯だと東京国際空港まで約1時間、東京都心へは1時間15分程度となっている。 東京湾の入口に位置するため江戸時代から国防の拠点とされ、戦前には大日本帝国海軍横須賀鎮守府や横須賀海軍工廠を擁する軍港都市(軍都)として栄えた。幕末には市内東部の浦賀にペリーが来航したことでも有名である(黒船来航)。現在もアメリカ海軍第7艦隊・横須賀海軍施設および海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊および陸上自衛隊武山駐屯地・久里浜駐屯地や航空自衛隊武山分屯基地などの基地が置かれており、現在でもかつての軍都・軍港としての名残を多く残す。また自衛隊関係の教育施設(防衛大学校、陸上自衛隊高等工科学校)も置かれている。 三浦丘陵に位置するため地形が山がちという地理的要因から、今後大きな人口増加は望めないため、「国際海の手文化都市」をスローガンに「交流人口」(仕事やレジャーでの流入人口)の増加、そして「また来てもらえる街」をめざしている。施策として横須賀リサーチパーク (YRP) 開設やよこすか海辺ニュータウンの開発、高等教育機関(神奈川県立保健福祉大学、陽光小学校跡地への福祉系4年制大学)の誘致、海軍カレー、ヨコスカネイビーバーガー(ご当地バーガー)による街興し、異国情緒漂うどぶ板通り、映画撮影や市内が登場するアニメ作品の誘致やタイアップ企画、ヴェルニー公園(1万メートルプロムナード計画の起点)、三笠公園、くりはま花の国、長井海の手公園 ソレイユの丘、横須賀美術館など、観光施設の整備などが積極的に行われている。 また、基幹産業が景気に左右されやすい重厚長大産業であることが災いして、市民の所得水準が県内では三浦市についで低く(ただし、他都道府県の市町村と比べれば高めの方ではある)、多くの人口を抱えながら市民税の収入が県内でワースト3であり、市の財政は市債と地方交付税に頼らざるを得ない。市債償還が財政を圧迫しており、市の財政は非常に苦しいものとなっている。一時は年間数千人単位の人口減にもかかわらずYRP効果で法人市民税が増加していたが、ここ5年はほぼ頭打ちとなり横ばいである。 約3万年前(旧石器時代)に遡る石器や29000年以前に作られた長方形の落とし穴列が船久保遺跡で発見されている。縄文時代に入ると生活の跡である貝塚も市内に散見されるようになる。古墳時代には小規模ながら古墳がつくられ、奈良時代中ごろまでは相模国から上総国へと抜ける古東海道が通じていた。 市内公郷の宗元寺(曹源寺)は県内屈指の古刹であり、三浦郡の行政の中心地であったともいわれる。中世には三浦氏、後に相模三浦氏が一帯を支配するようになるが、戦国時代に北条氏により滅亡、その後徳川家康の領地となる。江戸時代に入ると海上からの首都の玄関口となり、燈明堂や奉行所がおかれた。1720年(享保5年)に浦賀奉行所が置かれて以降は浦賀が商業地として栄えた。 幕末には黒船来航の地となり、観音埼灯台の点灯、横須賀製鉄所や横須賀鎮守府設置、横須賀線の開通など、近代化や国防における要所として発展、県内では横浜市に次いで2番目に市制施行を果たした。昭和時代に入ると大日本帝国海軍の一大拠点となり、軍事施設を持つ周辺の町村を併合することでほぼ現在と同様の市域が形作られた(逗子町は後に分離)。このため横須賀市では昭和と平成の大合併に伴う市町村合併は行われていない。 戦後はアメリカ軍や自衛隊が駐留する一方、東京や横浜など首都圏のベッドタウンとして発展した。 1992年(平成4年)5月1日に43万7171人と最高値を記録した。その後は減少に転じ、2018年2月には推計人口が399,845人と発表され、1977年以来41年ぶりに40万の大台を割り込んだ。2023年(10月1日現在)の人口は37万5424人。 横須賀市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている(実施率68.36パーセント)。また、1949年から1956年にかけて一部の区域で町界町名地番整理が実施された。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。なお、町名欄に※印があるものについては、その町区域の一部に住居表示未実施の区域があることを示す。 総務部、企画調整部、財政部、市民部、健康福祉部、こども育成部、病院管理部、環境部、経済部、都市部、土木みどり部、港湾部、上下水道局業務部、上下水道局施設部、消防局、市議会事務局、教育委員会事務局管理部、教育委員会事務局生涯学習部、選挙管理委員会事務局、監査委員事務局 東京湾・浦賀水道に面する市の東側では南部や北部で工業地が形成されている。横須賀港からは自動車が輸出され、ウランとマグロが輸入されている。また主要駅の周辺で商業機能の集積が見られる。市西部では農業や漁業が盛んである。 市内では都市部、工場地帯、山林が共存し、市の南部・西部を中心に農業活動が盛んに行われている。近年では減少傾向にあるものの、農地は市域の 4% 以上を占める。かつては水田も多く見られたが、平野部の低地は住宅地や工業地に転換し、近年では大部分が畑作地となっている。主な生産物はキャベツ、大根、カボチャ、メロンなど。農協業務は市全域に亘って JAよこすか葉山が執り行っている。 市西部のほうが漁港が多い。東部の東京湾側は軍港や商港の占める割合が高い。 市内の漁協としては以下の3つがある: 近年横須賀市でも国道や主要地方道といった幹線沿いに多く立地するロードサイド店舗の進出が目立っている。そのため小規模小売店などは厳しい状態に追い込まれておりシャッター街状態の商店街が増え問題となっている。 一方で衰退に歯止めをかけるため斬新な活性化策を実施して効果をあげている商店街も少なくない。市内全体の人口は減少、高齢化が進んでおりロードサイド店舗、商店街関係なく対策が求められている。ちなみに市内で全蓋式アーケードを設置した商店街は市内3つ(船越、衣笠、久里浜)で県内でも3番目に数が多い自治体となっている。 横須賀市は日本国外の以下の都市と姉妹都市協定を結んでいる。地名のカナ表記は横須賀市のサイトによる。 姉妹都市のほか、姉妹港提携を結んでいる港湾もある。 横須賀市は、以下のグループに所属している。 2018年(平成30年)現在、市立46校、私立1校が存在。少子化の進展に伴い、近年市立校の再編が始まっている。 2018年(平成30年)現在、市立23校、私立2校が存在。中学校についても市立校の再編が始まっている。 公立 私立 市内の集配業務は以下の5集配局が管轄する。 下記のうち、集配局は横須賀郵便局、久里浜郵便局、長井郵便局、田浦郵便局である。なお、葉山町にある葉山郵便局の集配地域が存在する。 市内全域が横須賀MAに属する。市外局番および市内局番合わせての頭4桁は046-8xxであり、横須賀市・三浦市・逗子市・三浦郡葉山町で共通である。 中心となる駅:横須賀中央駅(京急)、横須賀駅(JR東日本) 漁港については#漁業を参照。 ※ 1989年のドブ板通り改修に際し、これら出身者およびゆかりある人物18名の手形のレリーフが路面に埋め込まれた。
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横須賀市(よこすかし)は、神奈川県南東部の三浦半島に位置する市。中核市に指定されている。
{{日本の市 | 画像 = Yokosuka Montage.jpg | 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td colspan="2">[[ヴェルニー公園]]より[[どぶ板通り|本町]]、[[汐入駅]]方面を臨む</tr> <td><small>[[記念艦三笠]]と[[東郷平八郎]]像</small><td style="vertical-align:middle;">[[ペリー公園]]</tr> <tr><td>[[よこすか海軍カレー]]<td>[[観音崎 (神奈川県)|観音崎]]</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Yokosuka, Kanagawa.svg|100px|border|横須賀市旗]] | 市旗の説明 = 横須賀[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:神奈川県横須賀市市章.svg|75px|横須賀市章]] | 市章の説明 = 横須賀[[市町村章|市章]]<br />(1912年3月16日制定) | 自治体名 = 横須賀市 | 都道府県 = 神奈川県 | コード = 14201-8 | 隣接自治体 = [[横浜市]]、[[逗子市]]、[[三浦市]]、[[三浦郡]][[葉山町]]<br />(海上を隔てて隣接)<br />[[千葉県]][[富津市]] | 木 = [[オオシマザクラ]] | 花 = [[ハマユウ]] | シンボル名 = 市の歌 | 鳥など = [[横須賀市歌]](1967年制定) | 郵便番号 = 238-8550 | 所在地 = 横須賀市小川町11番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-14|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Yokosuka City Hall 20110223.JPG|250px|center|横須賀市役所]] {{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=200|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}} | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像={{基礎自治体位置図|14|201|image=Yokosuka in Kanagawa Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}} | 特記事項= }} '''横須賀市'''(よこすかし)は、[[神奈川県]]南東部の[[三浦半島]]に位置する[[市]]。[[中核市]]に指定されている。 == 概要 == [[File:View of Mount Fuji from Nagai(Yokosuka).jpg|thumb|260px|長井から相模湾越しに望む箱根山と富士山]] 神奈川県南東部に位置する三浦半島の北半分を占め、市域の東側は[[東京湾]]([[浦賀水道]])、西側は[[相模湾]]に面する。東京湾唯一の自然[[島]]である[[猿島]]も行政区域に含まれる。行政区域内標高の最高点は[[大楠山]]の標高242mであり[[三浦半島]]の最高峰となっている。それほど標高が高い山はないが、中央部は山間部や急峻な丘陵部([[三浦丘陵]])が中心で平地は少ない。そのため、古くから海岸線の埋め立てが行われており、現在の[[中心市街地]]([[京浜急行電鉄|京急]]の[[横須賀中央駅]]周辺)も大部分が埋立地にある。また、海岸沿いまで山が迫る地形のため[[トンネル]]が多いのも特徴で、神奈川県にある道路・鉄道トンネルのおよそ半数が市内に集中している。直下には[[三浦半島断層群]]が所在している。 市内の行政・経済的都市機能が集中する東京湾岸には大工場や住宅群がひしめきあうが、相模湾岸には自然が多く残され農業も盛んである。市内中心部から東京[[都心]]までは[[京急本線]]で約1時間の距離で、[[東日本旅客鉄道|JR]][[横須賀線]]では約1時間10分かかる。また[[横浜横須賀道路]]など[[地域高規格道路]]が整備されており、車では平日朝の通勤時間帯だと[[東京国際空港]]まで約1時間、東京都心へは1時間15分程度となっている。 [[東京湾]]の入口に位置するため[[江戸時代]]から国防の拠点とされ、戦前には[[大日本帝国海軍]][[横須賀鎮守府]]や[[横須賀海軍工廠]]を擁する'''[[軍港]]都市([[軍都]])'''として栄えた。[[幕末]]には市内東部の[[浦賀]]に[[マシュー・ペリー|ペリー]]が来航したことでも有名である([[黒船来航]])。現在も[[アメリカ海軍]][[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]・[[横須賀海軍施設]]および[[海上自衛隊]][[自衛艦隊]]・[[横須賀地方隊]]および[[陸上自衛隊]][[武山駐屯地]]・[[久里浜駐屯地]]や[[航空自衛隊]][[武山分屯基地]]などの基地が置かれており、現在でもかつての軍都・軍港としての名残を多く残す。また自衛隊関係の教育施設([[防衛大学校]]、[[陸上自衛隊高等工科学校]])も置かれている。 三浦丘陵に位置するため地形が山がちという地理的要因から、今後大きな人口増加は望めないため、「国際海の手文化都市」をスローガンに「交流人口」(仕事やレジャーでの流入人口)の増加、そして「また来てもらえる街」をめざしている。施策として[[横須賀リサーチパーク]] (YRP) 開設や[[よこすか海辺ニュータウン]]の開発、高等教育機関([[神奈川県立保健福祉大学]]、陽光小学校跡地への福祉系4年制大学)の誘致、[[海軍カレー]]、[[ヨコスカネイビーバーガー]](ご当地バーガー)による街興し、異国情緒漂う[[どぶ板通り]]、映画撮影や市内が登場するアニメ作品の誘致やタイアップ企画、[[ヴェルニー公園]](1万メートルプロムナード計画の起点)、[[三笠公園]]、[[くりはま花の国]]、[[長井海の手公園 ソレイユの丘]]、[[横須賀美術館]]など、観光施設の整備などが積極的に行われている。 また、基幹産業が景気に左右されやすい重厚長大産業であることが災いして、市民の所得水準が県内では三浦市についで低く(ただし、他都道府県の市町村と比べれば高めの方ではある)、多くの人口を抱えながら市民税の収入が県内でワースト3であり、市の財政は市債と地方交付税に頼らざるを得ない。市債償還が財政を圧迫しており、市の財政は非常に苦しいものとなっている。一時は年間数千人単位の人口減にもかかわらずYRP効果で法人市民税が増加していたが、ここ5年はほぼ頭打ちとなり横ばいである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2310/g_info/documents/2018-02.pdf|title=市税年度比較|accessdate=20200321|publisher=横須賀市}}</ref>。 == 地理 == === 隣接している自治体・行政区 === * [[横浜市]]([[金沢区]]) * [[逗子市]] * [[三浦市]] * [[三浦郡]]:[[葉山町]] * [[東京湾]]を間に挟んで[[千葉県]][[富津市]]に面する。[[東京湾フェリー]]で連絡。 === 主な山 === * [[大楠山]] * [[鷹取山 (横須賀市・逗子市)|鷹取山]] * [[衣笠山 (神奈川県)|衣笠山]] * [[武山]] * 富士山(三浦富士) * 砲台山 * 大勝利山 * 愛宕山 * 権現山 === 主な河川 === * [[平作川]] * 鷹取川 * 松越川 * 竹川 * 野比川 * 長沢川 * 津久井川 * 川間川 * 小田和川 * 萩野川 * 前田川 == 歴史 == * 江戸時代以前については[[三浦半島#歴史]]も参照。 約3万年前([[日本の旧石器時代|旧石器時代]])に遡る[[石器]]や29000年以前に作られた長方形の落とし穴列が[[船久保遺跡]]で発見されている。[[縄文時代]]に入ると生活の跡である[[貝塚]]も市内に散見されるようになる。[[古墳時代]]には小規模ながら[[古墳]]がつくられ、[[奈良時代]]中ごろまでは[[相模国]]から[[上総国]]へと抜ける古[[東海道]]が通じていた。 市内公郷の宗元寺([[曹源寺 (横須賀市)|曹源寺]])は県内屈指の古刹であり、[[三浦郡]]の行政の中心地であったともいわれる。[[中世]]には[[三浦氏]]、後に[[相模三浦氏]]が一帯を支配するようになるが、戦国時代に[[後北条氏|北条氏]]により滅亡、その後[[徳川家康]]の領地となる。[[江戸時代]]に入ると海上からの首都の玄関口となり、燈明堂や[[遠国奉行|奉行所]]がおかれた。[[1720年]](享保5年)に浦賀奉行所が置かれて以降は[[浦賀]]が商業地として栄えた。 [[幕末]]には[[黒船来航]]の地となり、[[観音埼灯台]]の点灯、[[横須賀造船所|横須賀製鉄所]]や[[横須賀鎮守府]]設置、[[横須賀線]]の開通など、近代化や国防における要所として発展、県内では横浜市に次いで2番目に市制施行を果たした。[[昭和]]時代に入ると[[大日本帝国海軍]]の一大拠点となり、軍事施設を持つ周辺の町村を併合することでほぼ現在と同様の市域が形作られた(逗子町は後に分離)。このため横須賀市では[[市町村合併|昭和と平成の大合併]]に伴う市町村合併は行われていない。 [[戦後]]は[[在日米軍|アメリカ軍]]や[[自衛隊]]が駐留する一方、[[東京都区部|東京]]や[[横浜市|横浜]]など[[首都圏 (日本)|首都圏]]の[[ベッドタウン]]として発展した。 === 年表 === * [[1063年]]:[[三浦為通|村岡為通]]が[[衣笠城]]を築き、[[三浦氏]]を名乗る。 * [[1180年]]:衣笠城が落ち、[[三浦義明|三浦大介義明]]が死ぬ([[衣笠城合戦]])。 * [[1247年]]:三浦氏は[[北条時頼]]に滅ぼされるが、[[佐原義連|佐原十郎義連]]の子らが北条氏側につき、「三浦介」をつぐ。 * [[1253年]]:[[日蓮]]が米が浜に流れ着いたと伝えられる。 * [[1518年]]:新井城が[[北条早雲]]に攻められ、三浦氏一族滅亡。 * [[1590年]]:[[豊臣秀吉]]が全国を統一し、三浦半島は[[徳川家康]]の領地となる。 * [[1648年]]:[[浦賀]]に[[燈明堂 (横須賀市)|燈明堂]]が置かれる。 * [[1660年]]:[[砂村新左衛門]]が[[内川新田]]の開発に着手。 * [[1720年]]:浦賀に[[遠国奉行|奉行所]]が置かれる。 * [[1842年]]:[[大津陣屋]]が置かれ、江戸湾(現在の東京湾)の守りが固められる。 * [[1853年]]:浦賀沖に[[マシュー・ペリー]]の率いる[[黒船]]が来航([[中島三郎助]]が乗船)、[[久里浜]]に上陸。 * [[1860年]]:[[咸臨丸]]、浦賀港を出港。 * [[1864年]]:[[小栗忠順]]たちが造船工場をつくるために横須賀の海を調査。 * [[1865年]]:[[レオンス・ヴェルニー]]と小栗の尽力により横須賀製作所建設開始。 * [[1866年]](慶応元年):[[江戸幕府]]により[[横須賀造船所]]が開設。 * [[1869年]](明治2年):日本初の洋式灯台観音埼灯台が点灯。 * [[1870年]](明治3年):西浦賀と東浦賀が合併、浦賀村となる。 * [[1873年]](明治6年):ヴェルニー、走水の湧水を利用し、造船所への引水を計画する。 * [[1876年]](明治9年):横須賀村と浦賀村が町制施行。 * [[1878年]](明治11年):[[郡区町村編制法]]施行。現在の市域は全域が三浦郡となり、横須賀町に郡役所設置。 * [[1884年]](明治17年):横須賀鎮守府が置かれる。 * [[1889年]](明治22年):[[町村制]]施行により、三浦郡'''横須賀町'''が発足。横須賀線([[大船駅]] - [[横須賀駅]])開通。 * [[1895年]](明治28年):[[東京湾要塞]]司令部が置かれる。 * [[1901年]](明治34年):[[久里浜]]海岸でペリー提督上陸記念碑の除幕式が行われる。 * [[1905年]](明治38年):横須賀電燈株式会社設立。 * [[1906年]](明治39年):横須賀ガス株式会社設立。横須賀町と[[豊島町]]が新設合併し、改めて'''横須賀町'''が発足。 * [[1907年]](明治40年):[[2月15日]]、市制施行し、'''横須賀市'''が発足。当時の人口は 62,876人。 * [[1908年]](明治41年):水道が引かれる(市営走水水道)。 * [[1916年]](大正5年):追浜に海軍航空隊開設。 * [[1921年]](大正10年): ** 横須賀水道が海軍により整備される。 ** 横須賀商業銀行が[[取り付け騒ぎ]]を起こして休業(後に他行と合併して共信銀行)<ref name="bank"/>。 * [[1923年]](大正12年):[[関東大震災]]で大きな被害を受ける。 * [[1925年]](大正14年) ** 3月23日:市内小川町に本店があった共信銀行が休業。関東大震災後の業務不振によるもの<ref name="bank">横須賀の共信銀行が休業『中外商業新報』大正14年3月24日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p143 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 ** 4月11日:[[第二国立銀行|第二銀行]]横須賀支店で取り付け騒ぎが発生<ref>第ニ銀行横須賀支店で取り付け『中外商業新報』大正14年4月12日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p143)</ref>。銀行は翌日(日曜日)も営業を続け持ちこたえる。 ** 7月:横須賀線が[[鉄道の電化|電化]]される。 * [[1930年]](昭和5年):[[湘南電気鉄道]]([[黄金町駅]] - [[浦賀駅]]、現[[京急本線]])運転開始。 * [[1931年]](昭和6年):湘南電鉄黄金町駅 - [[日ノ出町駅]]開通、京浜電鉄と乗入れ開始。 * [[1933年]](昭和8年):衣笠村、田浦町を編入。 * [[1937年]](昭和12年):初代「[[横須賀市歌]]」(作詞・[[北原白秋]]、作曲・[[山田耕筰]])を制定。久里浜村を編入。 * [[1938年]](昭和13年):[[6月29日]]、集中豪雨により横須賀市立豊島小学校で土砂災害が発生。児童5人が死亡<ref>豪雨やまず、東京で七万五千戸浸水『東京日日新聞』昭和13年6月30日夕刊(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p219 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1942年]](昭和17年):[[2月1日]]、[[味噌]]と[[醤油]]の配給制度が始まる([[横浜市]]、[[川崎市]]、[[藤沢市]]、[[平塚市]]、[[鎌倉市]]、[[小田原市]]も同日から開始)<ref>六大府県で味噌、醤油の割当配当『朝日新聞』昭和17年1月8日夕刊(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p124)</ref>。同時に[[衣料品]]にも点数切符制が導入された。 * 1942年(昭和17年):12月1日、[[東京急行電鉄|東急]](同年京浜電鉄を合併)[[京急久里浜線|久里浜線]](横須賀堀内駅〜久里浜駅、現[[堀ノ内駅]] - [[京急久里浜駅]])開通。 * [[1943年]](昭和18年):[[浦賀町]]、[[北下浦村]]、[[長井町 (神奈川県)|長井町]]、[[武山村]]、[[大楠町]]、[[逗子町]]を編入。 * [[1944年]](昭和19年):[[日本国有鉄道|国鉄]]横須賀線(横須賀駅 - [[久里浜駅]])延伸開通。 * [[1945年]](昭和20年):米海兵隊が8月30日に上陸、市内軍事施設は全て進駐軍管理下に置かれる。米海軍横須賀基地司令部が発足。 * [[1948年]](昭和23年):横須賀港が[[重要港湾]]に指定される。 * [[1950年]](昭和25年):[[旧軍港市転換法]]に関する住民投票実施、施行。旧逗子町域が横須賀市より分離して逗子町となる。 * [[1952年]](昭和27年):[[保安庁]][[警備隊 (保安庁)|警備隊]](後の[[海上自衛隊]])[[横須賀地方隊]]が編成される。 * [[1953年]](昭和28年):[[観音崎自然博物館]]が開設される。 * [[1962年]](昭和37年):[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[コーパスクリスティ (テキサス州)|コーパスクリスティ]]市と姉妹都市になる。 * [[1963年]](昭和38年):京急久里浜線(京浜久里浜駅 - 野比駅、現京急久里浜駅 - [[YRP野比駅]])延伸開通。 * [[1966年]](昭和41年):京急久里浜線(野比駅 - [[三浦海岸駅]]間)延伸開通。 * [[1967年]](昭和42年):2代目「横須賀市歌」(作詞・[[堀口大學]]、作曲・[[團伊玖磨]])を制定。 * [[1970年]](昭和45年):[[フランス]]の[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]市と姉妹都市になる。 * [[1974年]](昭和49年):[[昭和49年台風第8号|台風8号]]による豪雨で大きな被害を受ける(市内の死者13人)。 * [[1975年]](昭和50年):横須賀新港開港。 * [[1976年]](昭和51年):市の木と市の花が決まる。 * [[1979年]](昭和54年):[[オーストラリア]]の[[フリーマントル (西オーストラリア州)|フリマントル市]]と姉妹都市になる。 * [[1981年]](昭和56年):[[群馬県]][[倉渕村]](現[[高崎市]])と友好都市になる。 * [[1982年]](昭和57年):[[イギリス]]のジリンガム市(現在の{{仮リンク|メッドウェイ|en|Medway}}市)と姉妹都市になる。[[横浜横須賀道路]]が[[衣笠インターチェンジ|衣笠IC]]まで開通。 * [[1984年]](昭和59年):新市庁舎と教育研究所ができる。平成町の埋め立て工事が始まる。 * [[1985年]](昭和60年):4月1日に[[防災行政無線]]が開局する。 * [[1987年]](昭和62年):市制80周年記念として、倉渕村に「はまゆう山荘」ができる。 * [[1988年]](昭和63年):久里浜緑地(現・[[くりはま花の国]])コスモス園開設。 * [[1989年]](平成元年):「核兵器廃絶・平和都市宣言」をする。 * [[1990年]](平成2年):横浜横須賀道路衣笠IC - [[佐原インターチェンジ|佐原IC]]間開通。 * [[1992年]](平成4年):[[神奈川県道28号本町山中線|本町山中有料道路]]開通。平和モニュメントができる。平成町の埋め立て工事が完了。 * [[1993年]](平成5年):ベイスクエアよこすか、総合福祉会館ができる。 * [[1994年]](平成6年):2月に[[横須賀芸術劇場]]、5月に[[湘南国際村]]開設。 * [[1995年]](平成7年):よこすかの新しいイメージを考える協議会が「国際海の手文化都市」を提言。 * [[1997年]](平成9年):「国際海の手文化都市」を都市像とする横須賀市基本構想を策定。[[横須賀リサーチパーク]] (YRP) オープン。 * [[1998年]](平成10年):イギリスの{{仮リンク|メッドウェイ|en|Medway}}市と姉妹都市になる(4月にジリンガム市とロチェスター市が合併しメッドウェイ市となった)。かながわ・ゆめ国体秋季大会開催。 * [[1999年]](平成11年):商工会議所、海上自衛隊と協力して「[[海軍カレー|カレーの街]]」を旗揚げ。 * [[2000年]](平成12年):[[三浦縦貫道路]]第1期区間開通。 * [[2001年]](平成13年):[[湘南新宿ライン]]久里浜駅まで延伸。[[中核市]]に指定される。横須賀市市民憲章制定。臨海公園を[[ヴェルニー公園]]として改修。 * [[2004年]](平成16年):[[湘南新宿ライン]]乗り入れ廃止。 * [[2005年]](平成17年):[[長井海の手公園 ソレイユの丘]]完成。 * [[2007年]](平成19年):市制施行100周年。[[横須賀美術館]]完成。 * [[2009年]](平成21年):横浜横須賀道路佐原IC - [[馬堀海岸インターチェンジ|馬堀海岸IC]]間開通。「[[ヨコスカネイビーバーガー]]」による街おこしがはじまる。 * [[2010年]](平成22年):[[さいか屋|さいか屋横須賀店]]の大通り館閉店。 * [[2019年]](平成31年):イオン横須賀店が一時閉店。 * [[2020年]](令和2年):[[ショッパーズプラザ横須賀|イオン横須賀店]]が[[コースカベイサイドストアーズ]]として新装開店。 * [[2020年]](令和2年):6月から市内や隣接する横浜市や三浦市で異臭の通報が相次いだため、神奈川県は気体を採取し分析した結果、ガソリンなどに含まれるイソペンタンなどが通常よりも多く検出された。しかし原因の特定には至っていない。 * [[2022年]](令和4年):神奈川県は大滝町1丁目、同2丁目、本町1丁目、米が浜通1丁目、若松町1丁目および同3丁目を[[暴力団排除条例#暴力団排除特別強化地域|暴力団排除特別強化地域]]に指定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.police.pref.kanagawa.jp/pdf/c8040_01.pdf |title=神奈川県暴力団排除条例(平成22年神奈川県条例第75号) 令和4年改正 令和4年11月1日施行|publisher=神奈川県 |date=2022年 |accessdate=2022-09-19}}</ref>。 == 人口 == [[1992年]](平成4年)5月1日に43万7171人と最高値を記録した。その後は減少に転じ、2018年2月には推計人口が399,845人と発表され<ref>{{Cite news |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201802/CK2018021402000131.html |title=横須賀市の人口、41年ぶり40万人割れ 若い世代の転入少なく |newspaper=東京新聞 |date=2018-02-14|accessdate=2021-05-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180214012658/https://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201802/CK2018021402000131.html |archivedate=2018-02-14}}</ref>、1977年以来41年ぶりに40万の大台を割り込んだ。2023年(10月1日現在)の人口は37万5424人<ref>{{Cite news |url=https://view.officeapps.live.com/op/view.aspx?src=https%3A%2F%2Fwww.city.yokosuka.kanagawa.jp%2F0830%2Fdata%2Ftoukei%2Fsuikei%2Fdocuments%2Fs2310.xlsx&wdOrigin=BROWSELINK|title=横須賀市 推計人口 令和5年10月1日現在 |accessdate=2023-11-08}}</ref>。 {{人口統計|code=14201|name=横須賀市|image=Demography14201.svg}} == 地域 == {{出典の明記|section=1|date=2020年8月}} 横須賀市では、一部の区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている(実施率68.36パーセント)。また、[[1949年]]から[[1956年]]にかけて一部の区域で町界町名地番整理が実施された。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。なお、町名欄に※印があるものについては、その町区域の一部に住居表示未実施の区域があることを示す。 <!-- 町名の順序は、横須賀市統計書等公的資料の順序による。 --> {{hidden begin |title = 横須賀市役所管内(69町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |'''坂本町一丁目''' |rowspan="6"|さかもとちょう |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''坂本町二丁目''' |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''坂本町三丁目''' |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''坂本町四丁目''' |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''坂本町五丁目''' |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''坂本町六丁目''' |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''[[汐入町 (横須賀市)|汐入町一丁目]]''' |rowspan="5"|しおいりちょう |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''[[汐入町 (横須賀市)|汐入町二丁目]]''' |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''[[汐入町 (横須賀市)|汐入町三丁目]]''' |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''[[汐入町 (横須賀市)|汐入町四丁目]]''' |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''[[汐入町 (横須賀市)|汐入町五丁目]]''' |1949年9月1日 |未実施 | | |- |'''本町一丁目''' |rowspan="3"|ほんちょう |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''本町二丁目''' |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''本町三丁目''' |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''稲岡町''' |いなおかちょう |1889年4月1日 |未実施 | | |- |'''楠ヶ浦町''' |くすがうらちょう |1889年4月1日 |未実施 | | |- |'''泊町''' |とまりちょう |1889年4月1日 |未実施 | | |- |'''[[猿島]]''' |さるしま |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''[[新港町 (横須賀市)|新港町]]''' |しんこうちょう |1975年5月1日 |未実施 | | |- |'''小川町''' |おがわちょう |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''大滝町一丁目''' |rowspan="2"|おおだきちょう |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''大滝町二丁目''' |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''緑が丘''' |みどりがおか |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''若松町一丁目''' |rowspan="3"|わかまつちょう |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''若松町二丁目''' |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''若松町三丁目''' |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''日の出町一丁目''' |rowspan="3"|ひのでちょう |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''日の出町二丁目''' |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''日の出町三丁目''' |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''米が浜通一丁目''' |rowspan="2"|よねがはまどおり |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''米が浜通二丁目''' |1949年4月1日 |未実施 | | |- |'''平成町一丁目''' |rowspan="3"|へいせいちょう |1992年10月xx日 |未実施 | | |- |'''平成町二丁目''' |1992年10月xx日 |未実施 | | |- |'''平成町三丁目''' |1992年10月xx日 |未実施 | | |- |'''安浦町一丁目''' |rowspan="3"|やすうらちょう |1949年6月1日 |未実施 | | |- |'''安浦町二丁目''' |1949年6月1日 |未実施 | | |- |'''安浦町三丁目''' |1949年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[三春町 (横須賀市)|三春町一丁目]]''' |rowspan="6"|みはるちょう |1949年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[三春町 (横須賀市)|三春町二丁目]]''' |1949年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[三春町 (横須賀市)|三春町三丁目]]''' |1949年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[三春町 (横須賀市)|三春町四丁目]]''' |1949年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[三春町 (横須賀市)|三春町五丁目]]''' |1949年6月1日 |未実施 | | |- |'''[[三春町 (横須賀市)|三春町六丁目]]''' |1949年6月1日 |未実施 | | |- |'''富士見町一丁目''' |rowspan="3"|ふじみちょう |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''富士見町二丁目''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''富士見町三丁目''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[田戸台]]''' |たどだい |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''深田台''' |ふかだだい |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[上町 (横須賀市)|上町一丁目]]''' |rowspan="4"|うわまち |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[上町 (横須賀市)|上町二丁目]]''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[上町 (横須賀市)|上町三丁目]]''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[上町 (横須賀市)|上町四丁目]]''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''不入斗町一丁目''' |rowspan="4"|いりやまずちょう |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''不入斗町二丁目''' |1950年8月1日 |1971年11月1日 |不入斗町2 | |- |'''不入斗町三丁目''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''不入斗町四丁目''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''鶴が丘一丁目''' |rowspan="2"|つるがおか |1971年11月1日 |1971年11月1日 |不入斗町2、不入斗町3 | |- |'''鶴が丘二丁目''' |1971年11月1日 |1971年11月1日 |不入斗町2、不入斗町3 | |- |'''平和台''' |へいわだい |1971年11月1日 |1971年11月1日 |不入斗町2 | |- |'''汐見台一丁目''' |rowspan="3"|しおみだい |1971年11月1日 |1971年11月1日 |不入斗町2、佐野町4 | |- |'''汐見台二丁目''' |1971年11月1日 |1971年11月1日 |不入斗町2、佐野町4 | |- |'''汐見台三丁目''' |1971年11月1日 |1971年11月1日 |不入斗町2、佐野町4 | |- |'''望洋台''' |ぼうようだい |1971年11月1日 |1971年11月1日 |佐野町4、佐野町6、衣笠栄町1、衣笠栄町2 | |- |'''[[佐野町 (横須賀市)|佐野町一丁目]]''' |rowspan="6"|さのちょう |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[佐野町 (横須賀市)|佐野町二丁目]]''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[佐野町 (横須賀市)|佐野町三丁目]]''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[佐野町 (横須賀市)|佐野町四丁目]]''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[佐野町 (横須賀市)|佐野町五丁目]]''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |'''[[佐野町 (横須賀市)|佐野町六丁目]]''' |1950年8月1日 |未実施 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[追浜|追浜行政センター]]管内(xx町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |[[鷹取]]一・二丁目 |たかとり |年月日 |年月日 | | |- |[[追浜本町]]一・二丁目 |おっぱまほんちょう |年月日 |未実施 | | |- |[[夏島町]] |なつしまちょう |年月日 |未実施 | | |- |[[浦郷町 (横須賀市)|浦郷町]]一〜五丁目 |うらごうちょう |年月日 |未実施 | | |- |[[追浜東町]]一〜三丁目 |おっぱまひがしちょう |年月日 |未実施 | | |- |[[浜見台]]一・二丁目 |はまみだい |年月日 |年月日 | | |- |[[追浜町]]一〜三丁目 |おっぱまちょう |年月日 |未実施 | | |- |[[追浜南町]]一〜三丁目 |おっぱまみなみちょう |年月日 |未実施 | | |- |[[湘南鷹取]]一〜六丁目 |しょうなんたかとり |年月日 |年月日 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[田浦 (横須賀市)|田浦行政センター]]管内(25町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |'''船越町一丁目''' |rowspan="10"|ふなこしちょう |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''船越町二丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''船越町三丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''船越町四丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''船越町五丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''船越町六丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''船越町七丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |rowspan="3"|'''船越町八丁目''' |rowspan="3"|1977年3月1日 |1977年3月1日 |浦郷町1、浦郷町2、追浜東町1、船越町6、船越町7 | |- |1985年3月1日 |浦郷町1、船越町7 | |- |2008年7月1日 |追浜東町1 | |- |'''港が丘一丁目''' |rowspan="2"|みなとがおか |1999年6月5日 |1999年6月5日 |船越町2、田浦町5、田浦町6 | |- |'''港が丘二丁目''' |1999年6月5日 |1999年6月5日 |船越町1、船越町2、田浦町6 | |- |'''田浦港町''' |たうらみなとちょう |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''田浦町一丁目''' |rowspan="6"|たうらちょう |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''田浦町二丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''田浦町三丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''田浦町四丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''田浦町五丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''田浦町六丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''田浦大作町''' |たうらおおさくちょう |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''田浦泉町''' |たうらいずみちょう |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''長浦町一丁目''' |rowspan="5"|ながうらちょう |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''長浦町二丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''長浦町三丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''長浦町四丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''長浦町五丁目''' |1952年4月1日 |未実施 | | |- |'''[[吾妻島|箱崎町]]''' |はこざきちょう |1952年4月1日 |未実施 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[逸見 (横須賀市)|逸見行政センター]]管内(12町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |'''安針台''' |あんじんだい |1991年6月1日 |1991年6月1日 |長浦町1、長浦町2、長浦町3、吉倉町1、吉倉町2 | |- |'''吉倉町一丁目''' |rowspan="2"|よしくらちょう |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''吉倉町二丁目''' |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''西逸見町一丁目''' |rowspan="3"|にしへみちょう |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''西逸見町二丁目''' |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''西逸見町三丁目''' |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''山中町''' |やまなかちょう |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''東逸見町一丁目''' |rowspan="4"|ひがしへみちょう |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''東逸見町二丁目''' |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''東逸見町三丁目''' |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''東逸見町四丁目''' |1950年1月1日 |未実施 | | |- |'''逸見が丘''' |へみがおか |1994年6月1日 |1994年6月1日 |東逸見町3、東逸見町4、坂本町4、坂本町6、池上1 | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[衣笠 (横須賀市)|衣笠行政センター]]管内(xx町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |[[公郷町]]一〜六丁目 |くごうちょう |年月日 |未実施 | | |- |[[衣笠栄町]]一〜四丁目 |きぬかささかえちょう |年月日 |未実施 | | |- |[[金谷 (横須賀市)|金谷]]一〜三丁目 |かねや |年月日 |年月日 | | |- |[[池上 (横須賀市)|池上]]一〜七丁目 |いけがみ |年月日 |年月日 | | |- |[[阿部倉]] |あべくら |年月日 |年月日 | | |- |[[平作]]一〜八丁目 |ひらさく |年月日 |年月日 | | |- |[[小矢部]]一〜四丁目 |こやべ |1967年6月1日 |1967年6月1日 | | |- |[[衣笠町]] |きぬかさちょう |年月日 |年月日 | | |- |[[大矢部]]一〜六丁目 |おおやべ |年月日 |年月日 | | |- |[[森崎]]一〜六丁目 |もりさき |1967年6月1日(一〜四) |1967年6月1日 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[大津 (横須賀市)|大津行政センター]]管内(28町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |'''根岸町一丁目''' |rowspan="5"|ねぎしちょう |1954年4月1日 |2001年8月25日 |<u>根岸町1</u>、根岸町2 | |- |'''根岸町二丁目''' |1954年4月1日 |2001年8月25日 |根岸町2 | |- |'''根岸町三丁目''' |1954年4月1日 |2001年8月25日 |<u>根岸町3</u> | |- |'''根岸町四丁目''' |1954年4月1日 |2001年8月25日 |<u>根岸町4</u> | |- |'''根岸町五丁目''' |1954年4月1日 |2001年8月25日 |<u>根岸町5</u>、大津町5 | |- |'''大津町一丁目''' |rowspan="5"|おおつちょう |1954年4月1日 |2000年11月25日 |<u>大津町1</u>、馬堀海岸1、三春町4 | |- |'''大津町二丁目''' |1954年4月1日 |2000年11月25日 |大津町2 | |- |'''大津町三丁目''' |1954年4月1日 |2000年11月25日 |大津町3 | |- |'''大津町四丁目''' |1954年4月1日 |2000年11月25日 |<u>大津町4</u> | |- |'''大津町五丁目''' |1954年4月1日 |2000年11月25日 |大津町5、根岸町5、三春町5 | |- |'''馬堀海岸一丁目''' |rowspan="4"|まぼりかいがん |年月日 |1999年11月6日 |馬堀海岸1、大津町1 | |- |'''馬堀海岸二丁目''' |年月日 |1999年11月6日 |<u>馬堀海岸2</u> | |- |'''馬堀海岸三丁目''' |年月日 |1999年11月6日 |<u>馬堀海岸3</u> | |- |'''馬堀海岸四丁目''' |年月日 |1999年11月6日 |馬堀海岸4、走水1、馬堀町4 | |- |'''走水一丁目'''※ |rowspan="2"|はしりみず |1964年9月1日 |1964年9月1日 |大字走水、大字大津、大字鴨居 | |- |'''走水二丁目'''※ |1964年9月1日 |1964年9月1日 |大字走水、大字鴨居 | |- |'''馬堀町一丁目''' |rowspan="4"|まぼりちょう |1954年4月1日 |2000年11月25日 |馬堀町1 | |- |'''馬堀町二丁目''' |1954年4月1日 |2000年11月25日 |<u>馬堀町2</u>、馬堀町1 | |- |'''馬堀町三丁目''' |1954年4月1日 |2000年11月25日 |馬堀町3 | |- |'''馬堀町四丁目''' |1954年4月1日 |2000年11月25日 |馬堀町4、馬堀町3 | |- |'''桜が丘一丁目''' |rowspan="2"|さくらがおか |1976年3月1日 |1976年3月1日 |馬堀町1、馬堀町2、池田町1、吉井、浦賀町2 | |- |'''桜が丘二丁目''' |1976年3月1日 |1976年3月1日 |馬堀町2、浦賀町2 | |- |'''池田町一丁目''' |rowspan="6"|いけだちょう |1954年4月1日 |1998年9月26日 |池田町1、池田町2、根岸町2 | |- |'''池田町二丁目''' |1954年4月1日 |1998年9月26日 |池田町2、池田町4 | |- |'''池田町三丁目''' |1954年4月1日 |1998年9月26日 |池田町3、池田町1、池田町2、池田町4、桜が丘1 | |- |'''池田町四丁目''' |1954年4月1日 |1998年9月26日 |池田町4、池田町5 | |- |'''池田町五丁目''' |1954年4月1日 |1998年9月26日 |池田町5 | |- |'''池田町六丁目''' |1989年2月13日 |1989年2月13日 |池田町1、池田町2、池田町5 | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[浦賀|浦賀行政センター]]管内(35町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |'''吉井一丁目''' |rowspan="4"|よしい |1998年9月26日 |1998年9月26日 |吉井、浦賀町5 | |- |'''吉井二丁目''' |1998年9月26日 |1998年9月26日 |吉井、浦賀町2、池田町3 | |- |'''吉井三丁目''' |1998年9月26日 |1998年9月26日 |吉井、浦賀町2、桜が丘1、池田町3 | |- |'''吉井四丁目''' |1998年9月26日 |1998年9月26日 |吉井、浦賀町2、浦賀町5、桜が丘1 | |- |'''浦賀一丁目''' |rowspan="7"|うらが |1956年4月1日 |2006年10月28日 |浦賀町1、浦上台2 | |- |'''浦賀二丁目''' |1956年4月1日 |2006年10月28日 |<u>浦賀町2</u> | |- |'''浦賀三丁目''' |1956年4月1日 |2006年10月28日 |<u>浦賀町3</u>、浦賀町5 | |- |'''浦賀四丁目''' |1956年4月1日 |2006年10月28日 |<u>浦賀町4</u> | |- |'''浦賀五丁目''' |1956年4月1日 |2006年10月28日 |浦賀町5、浦賀町6 | |- |'''浦賀六丁目''' |1956年4月1日 |2006年10月28日 |浦賀町6、浦賀町5、浦賀町7 | |- |'''浦賀七丁目''' |1956年4月1日 |2006年10月28日 |浦賀町7 | |- |'''浦上台一丁目''' |rowspan="4"|うらがみだい |1976年3月1日 |1976年3月1日 |浦賀町1、馬堀町3 | |- |'''浦上台二丁目''' |1976年3月1日 |1976年3月1日 |浦賀町1 | |- |'''浦上台三丁目''' |1976年3月1日 |1976年3月1日 |浦賀町1 | |- |'''浦上台四丁目''' |1976年3月1日 |1976年3月1日 |浦賀町1、馬堀町3 | |- |'''二葉一丁目''' |rowspan="2"|ふたば |1964年9月1日 |1964年9月1日 |大字鴨居、浦賀町1 | |- |'''二葉二丁目''' |1964年9月1日 |1964年9月1日 |大字鴨居 | |- |'''小原台''' |おばらだい |1980年3月1日 |1980年3月1日 | | |- |'''鴨居一丁目''' |rowspan="4"|かもい |1964年9月1日 |1964年9月1日 |大字鴨居 | |- |'''鴨居二丁目''' |1964年9月1日 |1964年9月1日 |大字鴨居 | |- |'''鴨居三丁目''' |1964年9月1日 |1964年9月1日 |大字鴨居、大字走水 | |- |'''鴨居四丁目''' |1964年9月1日 |未実施 | | |- |'''東浦賀一丁目''' |rowspan="2"|ひがしうらが |1956年4月1日 |2008年10月25日 |東浦賀町1、東浦賀町2 | |- |'''東浦賀二丁目''' |1956年4月1日 |2008年10月25日 |東浦賀町2 | |- |'''浦賀丘一丁目''' |rowspan="3"|うらがおか |1978年11月15日 |1978年11月15日 |浦賀町6、西浦賀町3 | |- |'''浦賀丘二丁目''' |1978年11月15日 |1978年11月15日 |浦賀町6、浦賀町7、西浦賀町3 | |- |'''浦賀丘三丁目''' |1978年11月15日 |1978年11月15日 |浦賀町7、西浦賀町2、西浦賀町3 | |- |'''西浦賀一丁目''' |rowspan="6"|にしうらが |1956年4月1日 |2007年10月27日 |西浦賀町1 | |- |'''西浦賀二丁目''' |1956年4月1日 |2007年10月27日 |<u>西浦賀町2</u>、西浦賀町1、西浦賀町3、西浦賀町5 | |- |'''西浦賀三丁目''' |1956年4月1日 |2007年10月27日 |西浦賀町3 | |- |'''西浦賀四丁目''' |1956年4月1日 |2007年10月27日 |西浦賀町4、西浦賀町5 | |- |'''西浦賀五丁目''' |1956年4月1日 |2007年10月27日 |西浦賀町5、西浦賀町1、西浦賀町4 | |- |'''西浦賀六丁目''' |1956年4月1日 |2007年10月27日 |<u>西浦賀町6</u> | |- |'''光風台''' |こうふうだい |1997年10月6日 |1997年10月6日 |西浦賀町3、久比里1、舟倉町 | |- |'''南浦賀''' |みなみうらが |1981年3月2日 |1981年3月2日 |西浦賀町3、西浦賀町5 | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[久里浜|久里浜行政センター]]管内(xx町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |[[久里浜台]]一・二丁目 |くりはまだい |年月日 |年月日 | | |- |[[長瀬 (横須賀市)|長瀬]]一〜三丁目 |ながせ |1965年11月1日(二・三) |1965年11月1日 |大字川間の一部 | |- |[[久比里]]一・二丁目 |くびり |1965年11月1日 |1965年11月1日 |大字久比里、大字川間、大字内川新田の各一部 | |- |[[若宮台]] |わかみやだい |年月日 |年月日 | | |- |[[舟倉]]一・二丁目 |ふなぐら |年月日 |年月日 | | |- |[[内川 (横須賀市)|内川]]一・二丁目 |うちかわ |年月日 |年月日 | | |- |[[内川新田]] |うちかわしんでん |年月日 |未実施 | | |- |[[佐原 (横須賀市)|佐原]]一〜五丁目 |さはら |年月日 |年月日 | | |- |[[岩戸 (横須賀市)|岩戸]]一〜五丁目 |いわと |年月日 |年月日 | | |- |[[久村 (横須賀市)|久村]] |くむら |年月日 |未実施 | | |- |[[久里浜]]一〜九丁目 |くりはま |1965年11月1日 |1965年11月1日 |久里浜町1〜3、大字八幡久里浜の各全部及び大字内川新田、大字久村、大字野比の各一部 | |- |[[神明町 (横須賀市)|神明町]] |しんめいちょう |年月日 |未実施 | | |- |[[湘南ハイランド|ハイランド]]一〜五丁目<ref group="注釈">「ハイランド」は、全国で初めてのカタカナ町名。</ref> |はいらんど |年月日 |年月日 | | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[北下浦|北下浦行政センター]]管内(20町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |'''野比一丁目''' |rowspan="5"|のび |1992年8月10日 |1992年8月10日 |大字野比 | |- |'''野比二丁目''' |1992年8月10日 |1992年8月10日 |大字野比、大字長沢 | |- |'''野比三丁目''' |1992年8月10日 |1992年8月10日 |大字野比 | |- |'''野比四丁目''' |1992年8月10日 |1992年8月10日 |大字野比 | |- |'''野比五丁目''' |1992年8月10日 |1992年8月10日 |大字野比 | |- |'''粟田一丁目''' |rowspan="2"|あわた |1975年3月1日 |1975年3月1日 |大字野比、大字岩戸 | |- |'''粟田二丁目''' |1975年3月1日 |1975年3月1日 |大字野比 | |- |'''光の丘''' |ひかりのおか |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字長沢、野比1、粟田2、武1 | |- |'''長沢一丁目''' |rowspan="6"|ながさわ |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字長沢 | |- |'''長沢二丁目''' |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字長沢 | |- |'''長沢三丁目''' |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字長沢 | |- |'''長沢四丁目''' |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字長沢 | |- |'''長沢五丁目''' |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字長沢 | |- |'''長沢六丁目''' |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字長沢 | |- |'''グリーンハイツ''' |ぐりーんはいつ |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字長沢、大字津久井 | |- |'''津久井一丁目''' |rowspan="5"|つくい |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字津久井 | |- |'''津久井二丁目''' |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字津久井 | |- |'''津久井三丁目''' |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字津久井 | |- |'''津久井四丁目''' |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字津久井 | |- |'''津久井五丁目''' |1996年11月5日 |1996年11月5日 |大字津久井、大字須軽谷 | |- |} {{hidden end}} {{hidden begin |title = [[西 (横須賀市)|西行政センター]]管内(xx町丁) |titlestyle = text-align:center; |border = solid }} {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |- !style="width:12%;"|町名 !style="width:12%;"|町名の読み !style="width:12%;"|町区域新設年月日 !style="width:12%;"|住居表示実施年月日 !style="width:36%;"|住居表示実施前の町名など !style="width:16%;"|備考 |- |[[長井 (横須賀市)|長井]]一〜六丁目 |ながい |年月日 |年月日 | | |- |[[御幸浜]] |みゆきはま |年月日 |年月日 | | |- |[[林 (横須賀市)|林]]一〜五丁目 |はやし |年月日 |年月日 | | |- |[[須軽谷]] |すがるや |年月日 |未実施 | | |- |[[武 (横須賀市)|武]]一〜五丁目 |たけ |年月日 |年月日 | | |- |[[山科台]] |やましなだい |年月日 |年月日 | | |- |[[太田和 (横須賀市)|太田和]]一〜五丁目 |おおたわ |年月日 |年月日 | | |- |[[荻野 (横須賀市)|荻野]] |おぎの |年月日 |年月日 | | |- |[[長坂 (横須賀市)|長坂]]一〜五丁目 |ながさか |年月日 |年月日 | | |- |[[佐島 (横須賀市)|佐島]]一〜三丁目 |さじま |年月日 |年月日 | | |- |[[芦名 (横須賀市)|芦名]]一〜三丁目 |あしな |年月日 |年月日 | | |- |[[秋谷 (横須賀市)|秋谷]] |あきや |年月日 |未実施 | | |- |[[秋谷 (横須賀市)|秋谷]]一〜四丁目 |あきや |年月日 |年月日 | | |- |[[子安 (横須賀市)|子安]] |こやす |年月日 |年月日 | | |- |[[湘南国際村]]一〜三丁目 |しょうなんこくさいむら |年月日 |年月日 | | |- |[[佐島の丘]]一・二丁目 |さじまのおか |年月日 |年月日 | | |- |} {{hidden end}} == 行政 == === 歴代市長 === [[ファイル:Katsuaki Kamiji.jpg|サムネイル|現市長の[[上地克明]]]] {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日 |- |1||[[鈴木忠兵衛 (横須賀市長)|鈴木忠兵衛]]||[[1907年]]5月17日||[[1909年]]4月18日 |- |2||[[鈴木福松]]||[[1909年]]9月14日||[[1911年]]1月9日 |- |3||[[田辺男外鉄]]||[[1911年]]7月15日||[[1917年]]7月14日 |- |4-5||[[奥宮衛]]||[[1917年]]10月6日||[[1923年]]7月14日 |- |6||奥宮衛||[[1923年]]10月9日||[[1924年]]8月16日 |- |7||[[石渡坦豊]]||[[1924年]]12月6日||[[1927年]]5月26日 |- |8||[[岡田三善]]||[[1927年]]7月4日||[[1927年]]12月12日 |- |9||[[小栗盛太郎]]||[[1928年]]3月12日||[[1930年]]5月30日 |- |10||[[高橋節雄]]||[[1930年]]9月22日||[[1932年]]3月2日 |- |11||[[大井鉄丸]]||[[1932年]]3月22日||[[1933年]]5月15日 |- |12||[[三上文太郎]]||[[1933年]]5月26日||[[1934年]]4月18日 |- |13||[[小泉又次郎]]||[[1934年]]5月15日||[[1935年]]11月15日 |- |14||[[鈴木斎治郎]]||[[1936年]]1月22日||[[1938年]]8月10日 |- |15||[[久野工]]||[[1938年]]9月27日||[[1941年]]1月17日 |- |16-17||[[岡本伝之助]]||[[1941年]]2月13日||[[1943年]]4月17日 |- |18||[[梅津芳三]]||[[1943年]]5月9日||[[1947年]]1月3日 |- |19||[[太田三郎 (外交官)|太田三郎]]||[[1947年]]4月8日||[[1949年]]6月13日 |- |20||[[石渡直次]]||[[1949年]]7月19日||[[1953年]]6月24日 |- |21||梅津芳三||[[1953年]]7月12日||[[1957年]]7月9日 |- |22-25||[[長野正義]]||[[1957年]]7月10日||[[1973年]]7月9日 |- |26-30||[[横山和夫]]||[[1973年]]7月10日||[[1993年]]7月9日 |- |31-33||[[沢田秀男]]||[[1993年]]7月10日||[[2005年]]7月9日 |- |34||[[蒲谷亮一]]||[[2005年]]7月10日||[[2009年]]7月9日 |- |35-36||[[吉田雄人]]||[[2009年]]7月10日||[[2017年]]7月9日 |- |37-38 |[[上地克明]] |[[2017年]]7月10日 |現職 |} === 市組織 === 総務部、企画調整部、財政部、市民部、健康福祉部、こども育成部、病院管理部、環境部、経済部、都市部、土木みどり部、港湾部、上下水道局業務部、上下水道局施設部、消防局、市議会事務局、教育委員会事務局管理部、教育委員会事務局生涯学習部、選挙管理委員会事務局、監査委員事務局 === 消防 === * [[横須賀市消防局]] ** 中央消防署(出張所3) ** 北消防署(出張所2) ** 南消防署(分署1、出張所3、派遣所1) ** 総合訓練センター === 警察 === * [[横須賀警察署]]、[[田浦警察署]]、[[横須賀南警察署]] == 議会 == === 横須賀市議会 === {{Main|横須賀市議会}} * 定数:40人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/7860/g_info/l100000953.html|title=横須賀市議会とは|accessdate=2019年4月23日|publisher=横須賀市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/7860/council/roster/giin_kaiha.html|title=会派別|accessdate=2019年5月18日|publisher=横須賀市}}</ref> * 任期:2023年5月2日 - 2027年5月1日 :{| class="wikitable" style="text-align: center" ! 会派名 ! 議員数 |- | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] | 14 |- | よこすか未来会議 | 10 |- | [[公明党]] | 7 |- | [[日本共産党]] | 3 |- | 無会派 | 5 |- ! 計 ! 39 |} === 神奈川県議会 === {{Main|2023年神奈川県議会議員選挙}} * 選挙区:横須賀市選挙区 * 定数:4人 * 任期:2023年4月30日 - 2027年4月29日 * 投票日:2023年4月9日 * 当日有権者数:329,772人 * 投票率:38.51% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 田中洋次郎 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 46 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 26,683票 |- | 竹内英明 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 72 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 24,064票 |- | 亀井貴嗣 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 56 || 公明党 || style="text-align:center" | 現 || 22,451票 |- | 永井真人 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 45 || [[無所属]] || style="text-align:center" | 新 || 19,365票 |- | 井坂新哉 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 51 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 現 || 15,806票 |- | 生井洋子 || style=" text-align:center;" | 落 || style="text-align:center" | 56 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center" | 新 || 12,257票 |- | 内川真樹 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 52 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || 2,849票 |} === 衆議院 === * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日(「[[第49回衆議院議員総選挙]]」参照) {| class="wikitable" |- !選挙区!!議員名!!党派名!!当選回数!!備考 |- | [[神奈川県第11区]](横須賀市、[[三浦市]])|| [[小泉進次郎]] || 自由民主党 || align="center" | 5 || 選挙区 |} == 経済 == === 産業 === 東京湾・浦賀水道に面する市の東側では南部や北部で工業地が形成されている。[[横須賀港]]からは[[自動車]]が輸出され、[[ウラン]]と[[マグロ]]が輸入されている。また主要駅の周辺で商業機能の集積が見られる。市西部では農業や漁業が盛んである。 ==== 主な立地企業など ==== <!--国内視点で主要なものを記載してください。横須賀市視点だと際限なくなります--> [[ファイル:DocomoR&D.JPG|thumb|220px|YRP、NTTドコモR&Dセンター]] ;[[日産自動車追浜工場]]、総合研究所、追浜専用埠頭 ; [[JVCケンウッド]]横須賀工場、久里浜技術センター : JVCケンウッド(旧・[[日本ビクター]])の研究機関であり、1980年代後半大ブームとなった[[VHS]]ビデオデッキを開発した。 ; [[JERA]][[横須賀火力発電所]] ; [[電力中央研究所]] (CRIEPI) : 日本の発電技術の開発を担う[[シンクタンク]]兼[[研究機関]]。電力各社の共同出資により運営され、[[公益法人]]としては日本最大の研究機関でもある。同組織の部門別組織である、電力技術研究所、エネルギー技術研究所、材料科学研究所がある。数年内に他の研究部門を横須賀市に移転し、横須賀市を発電技術研究の中心地としていく方針となっている。 ; [[横須賀リサーチパーク]] (YRP) : 日本の最先端の電気・通信事業の拠点。特に、[[NTTドコモ]]の[[携帯電話]]の研究・開発拠点であり、国内外の[[情報通信]]研究をリードする機関である。NTTドコモのほかに、[[富士通]]、[[日本電気|NEC]]、[[パナソニックモバイルコミュニケーションズ]]、[[沖電気工業]]、[[シャープ]]なども進出している。 ; [[日本電信電話]]横須賀研究開発センタ(サイバーコミュニケーション総合研究所、サイバーソリューション研究所、サイバースペース研究所、未来ねっと研究所) : [[日本電信電話公社]]横須賀通信研究所として開設され、現在でもバス停留所などでは「通信研究所」と表記されている。 ; [[グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン]](旧日本ニュークリア・フュエル) : 国内における[[原子力発電]]用[[核燃料]]工場として重要な位置づけにある。 ; [[住友重機械工業]]横須賀製造所、技術開発センター ; [[東芝ライテック]]本社(横須賀事業所)[[2009年]](平成21年)に[[品川区]]から移転。 ; [[ハリソン東芝ライティング]]横須賀事業所 ; [[オカムラ]]追浜事業所 ;[[マレリ (企業)|マレリ]]追浜工場 ; [[東邦化学工業]]追浜工場、追浜研究所 ; [[北辰工業]]横須賀工場 ; 東京ファインケミカル横須賀工場 ; [[丸大食品]]横須賀工場 ; 池内精工本社工場 : 鉄鋼製品の2次加工(自動車車体部品[[ドライブシャフト]]・[[ばね|コイルばね]]・[[軸受|ベアリング]]など)の製造・開発企業。 ; [[生化学工業]]久里浜工場 : [[ヒアルロン酸]]を中心とした大手医療用医薬品製造・開発企業。 ; [[コロワイド]]MD神奈川工場 : 居酒屋チェーン「甘太郎」・「うまいもん酒場・えこひいき」などを展開する、コロワイドの食材・加工センター。 ; [[日清オイリオ]]横須賀事業場 ; ステップ本社 : 移動体端末(携帯・スマートフォン)・基地局のソフトウェア・支援ソフト開発関連企業。 ; [[芝技研]]本社・久里浜テクノパーク工場 : 非鉄金属(ガラス・シリコン・セラミック)研削加工・および特殊工作機械の製造開発企業。 ; [[東邦電線工業]]本社工場 : 電気・電子機器内の電線([[ワイヤーハーネス]])製造・販売・開発企業。 ; [[ニコン]]横須賀製作所 : 液晶露光装置および半導体露光装置用部品・ユニットなどの製造 ; [[ニフコ]]本社、横浜営業部、MCD営業部、ホームソリューションカンパニー : 2015年1月に[[横浜市]][[戸塚区]]から本社を移転。 ==== 農業 ==== 市内では都市部、工場地帯、山林が共存し、市の南部・西部を中心に農業活動が盛んに行われている。近年では減少傾向にあるものの、農地は市域の 4% 以上を占める。かつては水田も多く見られたが、平野部の低地は住宅地や工業地に転換し、近年では大部分が畑作地となっている。主な生産物はキャベツ、大根、カボチャ、メロンなど。[[農業協同組合|農協]]業務は市全域に亘って [[よこすか葉山農業協同組合|JAよこすか葉山]]が執り行っている。 ==== 漁業 ==== 市西部のほうが漁港が多い。東部の[[東京湾]]側は軍港や商港の占める割合が高い。 * [[長井漁港]] (第2種) * [[佐島漁港]](第2種) * [[秋谷漁港]] * [[久留和漁港]] * [[新安浦漁港]] * [[鴨居漁港]] * [[北下浦漁港]] * 大津漁港 * 走水漁港 市内の[[漁協]]としては以下の3つがある: * 横須賀市大楠漁協 * 横須賀市東部漁協 * 長井町漁協 ==== 商業 ==== [[ファイル:Kanagawa Route 26 -02.jpg|thumb|220px|横須賀中央大通り]] 近年横須賀市でも国道や[[主要地方道]]といった幹線沿いに多く立地する[[ロードサイド店舗]]の進出が目立っている。そのため小規模小売店などは厳しい状態に追い込まれており[[シャッター街]]状態の[[商店街]]が増え問題となっている。 一方で衰退に歯止めをかけるため斬新な活性化策を実施して効果をあげている商店街も少なくない。市内全体の人口は減少、高齢化が進んでおりロードサイド店舗、商店街関係なく対策が求められている。ちなみに市内で[[アーケード (建築物)|全蓋式アーケード]]を設置した商店街は市内3つ(船越、衣笠、久里浜)で県内でも3番目に数が多い自治体となっている。 ===== 商店街 ===== * [[横須賀中央駅#駅周辺|横須賀中央]] **[[どぶ板通り]] - アメリカと日本の文化が融合した独特の雰囲気を持つ商店街で市内の代表的な観光地の一つ。 **[[三笠ビル商店街]] * [[追浜商盛会]] * [[衣笠商店街]] * [[久里浜商店街]] * [[浦賀商友会]] * [[北久里浜商店街振興組合|北久里浜商店街]] * [[YRP野比駅前商店街]] * [[船越仲通り商店街]] - 田浦地区に所在する約140mの全蓋式アーケードを持つ商店街である。 ===== 百貨店・ショッピングモール ===== * [[さいか屋#横須賀店→SAIKAYA_YOKOSUKA_SHOPPING_PLAZA|SAIKAYA YOKOSUKA SHOPPING PLAZA]] * [[横浜岡田屋#横須賀モアーズシティ|横須賀モアーズシティ]] * [[ショッパーズプラザ横須賀]]([[イオン (店舗ブランド)|イオン]]横須賀店) - 2019年3月21日をもって営業終了 → 2020年4月より[[コースカベイサイドストアーズ]]としてリニューアルオープン。 * [[京急ショッピングセンター#店舗|京急ショッピングセンター ウィング久里浜]] * [[サンビーチ追浜]] * [[ノジマ#店舗展開|ノジマモール横須賀]] ===== 郊外型店舗・スーパーマーケットチェーン ===== * [[西友]]鷹取店、衣笠店、馬堀店、[[リヴィン]]よこすか店 * [[イオン (店舗ブランド)|イオン]]久里浜店 * [[ヤマダデンキ]]家電住まいる館YAMADA横須賀店、YAMADA web.com 久里浜店、ヤマダアウトレット館横須賀店 * [[コジマ]]×[[ビックカメラ]]横須賀店 * [[島忠]]ホームズ * [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]横須賀店 * ピカソ横須賀店 * [[ケーヨー|ケーヨーD2]]久里浜店 * [[エイヴイ]] (市内に6店舗) * [[ユニオネックス]](市内に11店舗) * [[京急ストア]] (市内に11店舗) * [[トイザらス]] * [[スズキヤ]] === 金融機関 === * [[みずほ銀行]] - 横須賀、衣笠、追浜各支店 * [[三菱UFJ銀行]] - 横須賀支店 * [[りそな銀行]] - 横須賀支店 * [[横浜銀行]] - 計7支店 * [[スルガ銀行]] - 横須賀、横須賀武山、久里浜各支店 * [[三井住友信託銀行]] - 横須賀支店 * [[神奈川銀行]] - 横須賀支店、長井支店 * [[かながわ信用金庫]] - 本店営業部ほか、計11支店 * [[湘南信用金庫]] - 本店営業部ほか、計18支店 * [[横浜幸銀信用組合]] - 横須賀支店 * [[中央労働金庫]] - 横須賀支店 == 国の機関 == [[ファイル:Yoshikura Pier 吉倉桟橋 (3369785287).jpg|thumb|right|220px|横須賀基地に停泊する自衛艦の群れ]] [[ファイル:JMSDF - JS Inazuma (DD-105) - Starboard Bow View.jpg|thumb|right|220px|横須賀基地を出港する[[いなづま (護衛艦・2代)|護衛艦いなづま]]と[[しらせ (砕氷艦・2代)|南極観測艦しらせ]]]] [[ファイル:JMSDF DD101 Muarasame 20090208.JPG|thumb|right|220px|横須賀基地に停泊する[[むらさめ (護衛艦・2代)|護衛艦むらさめ]]]] *[[横浜地方裁判所]]横須賀支部、[[横浜家庭裁判所]]横須賀支部、横須賀[[簡易裁判所]] *[[法務省]] **横浜地方法務局横須賀支局 **[[横浜刑務所横須賀刑務支所]] (2007年4月より。それ以前は横須賀刑務所) **[[久里浜少年院]] *[[横浜地方検察庁]]横須賀支部、横須賀[[区検察庁]] *[[財務省]][[横浜税関]]横須賀税関支署 *[[国税庁]][[東京国税局]]横須賀[[税務署]] *[[厚生労働省]][[神奈川労働局]]横須賀[[労働基準監督署]] *厚生労働省神奈川労働局横須賀[[公共職業安定所]] *[[国土交通省]] **[[関東地方整備局]]東京湾口航路事務所 **[[国土技術政策総合研究所]]・横須賀庁舎(沿岸海洋・港湾・空港の研究部門) **[[海上保安庁]][[第三管区海上保安本部]]横須賀海上保安部 **海上保安庁第三管区海上保安本部東京湾[[海上交通センター]] *[[防衛省]] **[[南関東防衛局]]横須賀防衛事務所 **[[防衛大学校]] **[[陸上自衛隊]][[武山駐屯地]]、[[陸上自衛隊高等工科学校|高等工科学校]]、[[久里浜駐屯地]]、[[陸上自衛隊通信学校|通信学校]] **[[海上自衛隊]][[横須賀基地 (海上自衛隊)|横須賀基地]]、[[自衛艦隊]][[司令部]]、[[横須賀地方隊|横須賀地方総監部]]、横須賀[[教育隊]] **[[航空自衛隊]]武山分屯基地 **[[防衛装備庁]]艦艇装備研究所久里浜地区 == 在日米軍施設 == [[ファイル:US Navy 090610-N-9565D-019 Sailors man the rails aboard the aircraft carrier USS George Washington (CVN 73) as the ship departs on her first summer deployment since arriving at Fleet Activities Yokosuka, Japan.jpg|thumb|right|220px|横須賀海軍施設に入港したUSSジョージ・ワシントン]] [[ファイル:Yokosuka-dry dock-1a.JPG|thumb|right|220px|1871年に完成し、現在も使用されている横須賀海軍施設1号ドック。]] *[[横須賀海軍施設]] **[[横須賀海軍施設ドック]] *[[吾妻倉庫地区]] *[[浦郷倉庫地区]] == 姉妹都市・提携都市 == === 国内 === * [[会津若松市]]([[福島県]]) ** [[2005年]](平成17年)[[4月17日]] - [[友好都市]]提携<ref name="Yokosuka-sistercities">{{Cite web|和書| url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0140/g_info/l100050650.html | title=姉妹都市、友好都市 | publisher=横須賀市 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。 :文治5年(1189年)、[[三浦氏|三浦一族]]の[[佐原義連]]が源頼朝から会津四郡を与えられたとされ、室町時代には佐原義連の子孫である[[蘆名氏]](名字は横須賀市[[芦名 (横須賀市)|芦名]]に由来する)が会津地方を治めた。文化7年(1810年)から文政3年(1820年)にかけて、江戸湾警備を命じられた[[会津藩]]は、[[鴨居 (横須賀市)|鴨居村]]に陣屋を、[[観音崎 (神奈川県)|観音崎]]に砲台を築いた<ref name="Yokosuka-sistercities" /><ref name="Yokosuka-Aizu">{{Cite web|和書| url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0140/aizuwakamatsu/history/grave.html | title=横須賀に会津藩士のお墓があるのはなぜ? | publisher=横須賀市 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。会津藩は藩士と家族を移住させ、鴨居村に藩校養正館を築いた。横須賀市内には70基以上の会津藩士の墓があり、市の史跡に指定されている<ref name="Yokosuka-Aizu" />。 * [[富岡市]] ([[群馬県]]) ** [[2015年]](平成27年)[[11月15日]] - [[友好都市]]提携 === 日本国外 === 横須賀市は日本国外の以下の都市と姉妹都市協定を結んでいる。地名のカナ表記は横須賀市のサイトによる。 *{{Flagicon|USA}} [[コーパスクリスティ (テキサス州)|コーパスクリスティ]]市([[アメリカ合衆国]]) **[[1962年]](昭和37年)[[10月18日]] - 姉妹都市提携<ref name="clair">{{Cite web|和書| url=http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | title=姉妹(友好)提携情報 | publisher=[[自治体国際化協会]] | accessdate=2013-09-21 }}</ref> :コーパスクリスティからの申し入れによる<ref name="clair" /><ref name="Yokosuka-Corpus Christi">{{Cite web|和書| url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0120/emaki/shouwa/shouwa_data5.html | title=米国テキサス州コーパスクリスティ市と姉妹市提携(昭和時代) | publisher=横須賀市 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。海軍基地を有する港湾・産業都市、観光都市であり、横須賀市と類似点が多い<ref name="clair" /><ref name="Yokosuka-sistercities" />。 *{{Flagicon|FRA}} [[ブレスト (フランス)|ブレスト]]市([[フランス]]) **[[1970年]](昭和45年)[[11月26日]] - 姉妹都市提携<ref name="clair" /> :海軍工廠や海軍士官学校を有する軍港都市であるとともに、造船業をはじめとする産業の盛んな港湾都市<ref name="clair" />。ブレストの海軍工廠には、横須賀製鉄所や観音崎灯台をつくるにあたり尽力した[[レオンス・ヴェルニー]]が勤務していた縁もある<ref name="Yokosuka-sistercities" /><ref name="Yokosuka-Brest">{{Cite web|和書| url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0120/emaki/shouwa/shouwa_data6.html | title=フランスのブレスト市と姉妹都市提携(昭和時代) | publisher=横須賀市 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。 *{{Flagicon|AUS}} [[フリーマントル (西オーストラリア州)|フリマントル]]市([[オーストラリア]]) ** [[1979年]](昭和54年)[[4月25日]] - 姉妹都市提携<ref name="clair" /> :外務省在パース日本総領事の仲介による<ref name="clair" />。横須賀市を母港とする[[南極観測船]]「[[ふじ (砕氷艦)|ふじ]]」の補給港という縁があり<ref name="clair" /><ref name="Yokosuka-sistercities" />、「ふじ」は両市からのメッセージを運ぶなど、姉妹都市提携に大きな役割を果たした<ref name="Yokosuka-Fremantle">{{Cite web|和書| url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0120/emaki/shouwa/shouwa_data9.html | title=オーストラリアのフリマントル市と姉妹都市提携(昭和時代) | publisher=横須賀市 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。 *{{Flagicon|GBR}} {{仮リンク|メドウェイ|en|Medway|label=メッドウェイ}}市([[イギリス]]) **[[1982年]](昭和57年)[[4月8日]] - ジリンガム市と友好都市提携<ref name="Yokosuka-Medway">{{Cite web|和書| url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0120/emaki/shouwa/shouwa_data11.html | title=イギリスのジリンガム市と友好都市提携(昭和時代) | publisher=横須賀市 | accessdate=2013-09-21 }}</ref> **[[1998年]](平成10年)[[8月26日]] - メッドウェイ市と姉妹都市提携<ref name="Yokosuka-Medway" />{{Refnest|group="注釈"|[[自治体国際化協会]]のサイトでは「友好都市協定」としている<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | title=姉妹(友好)提携情報 | publisher=[[自治体国際化協会]] | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。}} :航海術や造船技術を日本に伝えた[[ウィリアム・アダムス]](三浦按針)の縁による。アダムスが当地に所領を持ったことから「三浦按針祭」を挙行する横須賀市側が、英国按針会の仲立ちにより、アダムスの出生地であるジリンガム市に友好都市提携を提案。1982年4月にジリンガム市と友好都市提携(イギリスの都市が日本の都市と友好都市提携をするのは初であった<ref name="Yokosuka-Medway" />)。ジリンガムはかつて海軍造船の町として栄えた歴史を持つ<ref name="Yokosuka-Medway" />。1998年、ジリンガム市が隣接するロチェスター市と合併しメッドウェイ市が発足したため、1999年にメドウェイ市との姉妹都市提携に調印<ref name="Yokosuka-sistercities" />。なお、同じくアダムスの縁で[[伊東市]](静岡県)もメドウェイ市(旧ジリンガム市)と友好都市協定を結んでいる<ref name="clair" />。 === かつての友好都市提携 === *旧[[倉渕村]]([[群馬県]]) **[[1981年]](昭和56年)[[12月14日]] - 友好都市提携<ref name="Yokosuka-Kurabuchi">{{Cite web|和書| url=http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0120/emaki/shouwa/shouwa_data10.html | title=群馬県倉渕村と友好都市提携(昭和時代) | publisher=横須賀市 | accessdate=2013-09-21 }}</ref> :横須賀製鉄所をつくるにあたり尽力した[[小栗忠順|小栗上野介]]の縁<ref name="Yokosuka-Kurabuchi" />。倉渕村の一部となった権田は小栗の領地であり、終焉の地でもある<ref name="Hamayu-Yokosuka">{{Cite web|和書| url=http://www.hamayu.org/facilities.php | title= 施設 / はまゆう山荘の生い立ち | publisher=はまゆう山荘 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。倉渕村は2006年1月23日付で[[高崎市]]に編入されたが、横須賀市と倉渕地域との交流は継続されることとなった<ref name="Hamayu-Yokosuka" />。 :横須賀市の市制施行80周年記念事業の一環として、旧倉渕村には横須賀市民休養村「はまゆう山荘」が建設された。「はまゆう山荘」は2005年(平成17年)10月1日に横須賀市から倉渕村に譲渡され<ref name="Yokosuka-Kurabuchi" />、倉渕村の高崎市への編入後は高崎市国民健康保険保養施設に指定されているが、横須賀市民は高崎市民とともに割引料金で利用することができる<ref name="Hamayu">{{Cite web|和書| url=http://www.hamayu.org/guidance.php | title=ご利用案内 | publisher=はまゆう山荘 | accessdate=2013-09-21 }}</ref>。 === その他 === 姉妹都市のほか、[[#姉妹港|姉妹港提携]]を結んでいる港湾もある。 横須賀市は、以下のグループに所属している。 *[[カレー五大都市カレーサミット]] : 参加自治体:[[土浦市]]、[[横浜市]]、'''横須賀市'''、[[郡上市]]、[[鳥取市]] == 主な医療機関 == * [[横須賀市立市民病院]] * [[横須賀市立うわまち病院]](旧国立横須賀病院) * [[横須賀共済病院]] - [[1906年]](明治39年)に開設。出自は海軍病院。癌に対する手術件数は神奈川トップ3。各科とも内視鏡下手術など低侵襲治療に積極的に取り組む。 * [[横須賀共済病院分院]] - [[2015年]](平成27年)閉院 * [[自衛隊病院#自衛隊地区病院|自衛隊横須賀病院]] * [[湘南病院]] * 聖ヨゼフ病院 * [[衣笠病院]] * [[よこすか浦賀病院]] ※[[救急指定病院]]のみ == 教育 == === 小学校 === 2018年(平成30年)現在、市立46校、私立1校が存在<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8110/siritugakkouitiranhyou.html|title=市立学校一覧表|accessdate=2021年3月23日|publisher=横須賀市}}</ref>。少子化の進展に伴い、近年市立校の再編が始まっている。 * 公立 ** すべて横須賀市立。[[神奈川県小学校一覧#横須賀市]]を参照。 * 私立 ** 横須賀学院小学校 === 中学校 === 2018年(平成30年)現在、市立23校、私立2校が存在。中学校についても市立校の再編が始まっている。 * 公立 ** すべて横須賀市立。[[神奈川県中学校一覧#横須賀市]]を参照。 * 私立 ** [[緑ヶ丘女子中学校・高等学校|緑ヶ丘女子中学校]] ** [[横須賀学院中学校]] === 高等学校 === {{表2列| '''公立''' * [[神奈川県立追浜高等学校]] * [[神奈川県立海洋科学高等学校]] * [[神奈川県立津久井浜高等学校]] * [[神奈川県立横須賀高等学校]] * [[神奈川県立横須賀大津高等学校]] * [[神奈川県立横須賀工業高等学校]] * [[神奈川県立横須賀明光高等学校|神奈川県立横須賀南高等学校]] * [[横須賀市立横須賀総合高等学校]] | '''私立''' * [[三浦学苑高等学校]] * [[湘南学院高等学校]] * [[横須賀学院高等学校]] * [[緑ヶ丘女子高等学校]]}} === 特別支援学校 === * [[筑波大学附属久里浜特別支援学校]] * [[神奈川県立岩戸支援学校]] * [[神奈川県立武山支援学校]] * 横須賀市立養護学校 * 横須賀市立ろう学校 === 専門学校 === * [[横須賀市立看護専門学校]] * [[神奈川衛生学園専門学校]] *[[横須賀法律行政専門学校]] === 大学・短期大学 === * [[神奈川県立保健福祉大学]] * [[神奈川歯科大学]] * [[神奈川歯科大学短期大学部]] === 学校教育以外の施設=== * [[防衛大学校]]([[防衛省]]の[[施設等機関]]) * [[陸上自衛隊高等工科学校]] (卒業生は高等学校卒業資格授与) ==文化系施設== [[ファイル:MIKASA02.jpg|thumb|260px|[[三笠公園]]の記念艦三笠]] [[ファイル:Yokosuka Museum of Art 2009.jpg|thumb|right|260px|[[横須賀美術館]]]] === 美術館 === * [[横須賀美術館]] ** [[谷内六郎|谷内六郎館]] * カスヤの森現代美術館 === 博物館 === * [[観音崎自然博物館]] * [[横須賀市自然・人文博物館]] * [[ヴェルニー公園#ヴェルニー記念館|ヴェルニー記念館]] * よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸 * [[三笠公園#記念艦「三笠」|記念艦三笠]] * [[ペリー公園#ペリー記念館|ペリー記念館]] * [[赤星直忠博士文化財資料館]] === 図書館 === * 横須賀市立図書館(中央図書館ほか) == 通信 == === 郵便 === 市内の集配業務は以下の5集配局が管轄する。 * [[田浦郵便局]]:「237-00xx」 * [[横須賀郵便局]]:「238-00xx」 * [[長井郵便局 (神奈川県)|長井郵便局]]:「238-03xx」 * [[久里浜郵便局]]:「239-08xx」 * [[葉山郵便局]](葉山町内):「240-01xx」 ==== 郵便局 ==== 下記のうち、集配局は[[横須賀郵便局]]、[[久里浜郵便局]]、[[長井郵便局 (神奈川県)|長井郵便局]]、[[田浦郵便局]]である。なお、葉山町にある[[葉山郵便局]]の集配地域が存在する。{{Columns-start|num=3}} * 横須賀郵便局(02003) * 久里浜郵便局(02005) * 横須賀上町北郵便局(02038) * 長井郵便局(02041) * 横須賀逸見郵便局(02045) * 横須賀米が浜通郵便局(02046) * 横須賀大津郵便局(02087) * 横須賀上町郵便局(02099) * 横須賀秋谷郵便局(02120) * 横須賀汐入郵便局(02122) * 横須賀安浦郵便局(02135) * 横須賀不入斗郵便局(02147) * 横須賀浦賀郵便局(02148) * 横須賀新町郵便局(02158) * 横須賀武郵便局(02163) * 横須賀船越郵便局(02176) {{Column}} * 横須賀佐野町郵便局(02184) * 横須賀鴨居郵便局(02209) * 横須賀坂本郵便局(02213) * 追浜郵便局(02214) * 横須賀三春郵便局(02223) * 北下浦郵便局(02226) * 横須賀長浦郵便局(02231) * 横須賀浦郷郵便局(02235) * 横須賀馬堀海岸郵便局(02246) * 武山郵便局(02255) * 横須賀佐野南郵便局(02266) * 横須賀津久井郵便局(02278) * 田浦郵便局(02288) * 横須賀三春西郵便局(02316) * 横須賀本浦郵便局(02317) * 横須賀池上郵便局(02344) {{Column}} * 横須賀公郷郵便局(02404) * 横須賀鶴が丘郵便局(02445) * 横須賀浦賀一郵便局(02485) * 横須賀長坂郵便局(02498) * 横須賀森崎郵便局(02525) * 横須賀金谷郵便局(02560) * 横須賀野比郵便局(02575) * 北久里浜郵便局(02589) * 横須賀かもめ団地内郵便局(02594) * 横須賀ハイランド郵便局(02606) * 横須賀鷹取台郵便局(02621) * 横須賀森崎四郵便局(02689) * 横須賀岩戸郵便局(02697) * 横須賀粟田簡易郵便局(02710) * 横須賀走水簡易郵便局(02717) {{Columns-end}} === 電話番号 === 市内全域が横須賀MAに属する。市外局番および市内局番合わせての頭4桁は046-8xxであり、横須賀市・三浦市・逗子市・三浦郡葉山町で共通である。 === マスメディア === * [[横須賀エフエム放送|横須賀FM放送]] ([[コミュニティFM]]:78.50MHz) * [[神奈川新聞社]]横須賀支社 * [[読売新聞社]]横須賀支局 * [[朝日新聞社]]横須賀支局 * [[毎日新聞社]]横須賀通信部 * [[タウンニュース社]]横須賀編集室([[フリーペーパー]]) == 交通 == === 鉄道 === 中心となる駅:横須賀中央駅(京急)、横須賀駅(JR東日本)<ref group="注釈">市役所、中心街へは、横須賀中央駅が至近であるが、当駅が中心駅とJTB時刻表に記載</ref> *[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) **[[横須賀線]]:[[田浦駅]] - '''[[横須賀駅]]''' - [[衣笠駅]] - [[久里浜駅]] *[[京浜急行電鉄]] **[[京急本線|本線]]:[[追浜駅]] - [[京急田浦駅]] - [[安針塚駅]] - [[逸見駅]] - [[汐入駅]] - '''[[横須賀中央駅]]''' - [[県立大学駅]] - [[堀ノ内駅]] - [[京急大津駅]] - [[馬堀海岸駅]] - [[浦賀駅]] **[[京急久里浜線|久里浜線]]:[[堀ノ内駅]] - [[新大津駅]] - [[北久里浜駅]] - [[京急久里浜駅]] - [[YRP野比駅]] - [[京急長沢駅]] - [[津久井浜駅]] === 路線バス === *[[京浜急行バス]] **[[京浜急行バス衣笠営業所|衣笠営業所]]・[[京浜急行バス久里浜営業所|久里浜営業所]]・[[京浜急行バス追浜営業所|追浜営業所]] *ハマちゃんバス **横須賀市[[追浜]]地区で、市内のタクシー事業者が横須賀市より委託を受けて運営している[[コミュニティバス]]。2012年2月より運行開始。追浜地区の高台の住宅地と追浜駅などを結ぶ<ref>[http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1201260016/ お年寄りら待望「ハマちゃんバス」、2月から運行へ/横須賀 2012年1月26日] カナロコ 2012年3月29日閲覧。</ref>。 === 高速バス === * JR横須賀駅前 - 京急横須賀中央駅前 - 大阪駅前(桜橋ロJR線高架下)- 湊町バスターミナル(OCAT)- 南海なんば高速バスターミナル(南海バス、和歌山バスの共同運行) * [[YCAT|横浜駅東口(YCAT)]] - [[西 (横須賀市)|横須賀西地区]](衣笠IC経由、京浜急行バスが運行<ref>[http://www.keikyu-bus.co.jp/yokohama/04.html 京浜急行バス公式サイト横浜駅(YCAT) ⇔ 横須賀西地区線](2012年6月閲覧)</ref> * [[横浜シティ・エア・ターミナル|YCAT]] - [[湘南国際村]] (逗子IC経由、京浜急行バスが運行<ref>[http://www.keikyu-bus.co.jp/yokohama/04.html 京浜急行バス公式サイト 横浜駅(YCAT) ⇔ 横須賀西地区線](2012年6月閲覧)</ref> === 道路 === * [[高速道路]] ** [[横浜横須賀道路]](国道16号):[[横須賀インターチェンジ (神奈川県)|横須賀IC]] - [[衣笠インターチェンジ|衣笠IC]] - [[佐原インターチェンジ|佐原IC]] - [[浦賀インターチェンジ|浦賀IC]] - [[馬堀海岸インターチェンジ|馬堀海岸IC]] ** [[三浦縦貫道路]](神奈川県道26号横須賀三崎線):三浦縦貫道衣笠入口交差点 - [[衣笠インターチェンジ|衣笠IC]] - 三浦縦貫道林入口 ** [[神奈川県道28号本町山中線]](旧・本町山中有料道路) * [[一般国道]] ** [[国道16号]]、[[国道134号]]、[[国道357号]](未開通) * [[主要地方道]] ** [[神奈川県道24号横須賀逗子線|県道24号 横須賀逗子線]] ** [[神奈川県道25号横須賀停車場線|県道25号 横須賀停車場線]] ** [[神奈川県道26号横須賀三崎線|県道26号 横須賀三崎線]] ** [[神奈川県道27号横須賀葉山線|県道27号 横須賀葉山線]] * [[都道府県道|一般県道]] ** [[神奈川県道208号浦賀港線|県道208号 浦賀港線]] ** [[神奈川県道209号観音崎環状線|県道209号 観音崎環状線]] ** [[神奈川県道210号浦賀港久里浜停車場線|県道210号 浦賀港久里浜停車場線]] ** [[神奈川県道211号久里浜港久里浜停車場線|県道211号 久里浜港久里浜停車場線]] ** [[神奈川県道212号久里浜港線|県道212号 久里浜港線]] ** [[神奈川県道213号佐島港線|県道213号 佐島港線]] ** [[神奈川県道214号武上宮田線|県道214号 武上宮田線]] ** [[神奈川県道217号逗子葉山横須賀線|県道217号 逗子葉山横須賀線]] === 港湾 === * [[横須賀港]] ** [[長浦港]] ** 久里浜港 ** 浦賀港 - [[浦賀の渡し]] *** [[東京湾フェリー]] - 久里浜港と[[千葉県]][[富津市]]の[[金谷港]]を結ぶ。 *** [[シャトル・ハイウェイライン]] - 横須賀新港と[[大分県]][[大分市]][[大分港]]を結んでいたフェリー。2007年に廃止。 ***[[東京九州フェリー]] - 横須賀新港と福岡県北九州市門司区新門司港を結ぶフェリー。2021年7月1日より運航中 *** [[トライアングル (海運)]] - [[YOKOSUKA 軍港めぐり]]や猿島への渡し船を運営。 漁港については[[#漁業]]を参照。 ==== 姉妹港 ==== * [[ロサンゼルス]]港、[[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]港(アメリカ合衆国) ** [[1974年]] 横須賀港と姉妹港提携 === 航空灯台 === * 横須賀 VOR/DME == 名所・旧跡など == === 神社 === * [[諏訪大神社 (横須賀市)|諏訪大神社]] * [[走水神社 (横須賀市)|走水神社]] * [[叶神社]] === レジャー・観光 === [[ファイル:Sarushima fort.JPG|thumb|260px|[[猿島]]の要塞跡]] [[ファイル:Kinugasayama Park02.jpg|thumb|260px|衣笠山公園]] [[ファイル:Arasaki Park - Yokosuka 02.jpg|thumb|260px|[[荒崎公園|荒崎]]]] [[ファイル:Mt. Fuji from Tateishi park(Yokosuka).jpg|thumb|260px|[[立石公園 (横須賀市)|立石公園]]]] [[ファイル:Nagai umi-no-te park soleil-no-oka 02.jpg|thumb|260px|[[長井海の手公園 ソレイユの丘]]]] * [[猿島]] * [[YOKOSUKA 軍港めぐり]] * [[くりはま花の国]] * [[観音崎 (神奈川県)|観音崎]] * [[ペリー公園]] * [[三笠公園]] * 横須賀市[[横須賀しょうぶ園|しょうぶ園]] * [[大楠山]]ハイキングコース * [[追浜公園]]・[[横須賀スタジアム]] * [[横須賀美術館]] * カスヤの森現代美術館 * [[田浦梅の里]] * [[十三峠 (横須賀市)|十三峠]] * [[塚山公園 (横須賀市)|塚山公園]] * 市役所前公園 * [[平和中央公園]] * [[ヴェルニー公園]] * [[海辺つり公園]] * [[うみかぜ公園]] * 走水ボードウォーク * 根岸公園 * 神明公園 * [[不入斗公園]] * 陸軍桟橋(西浦賀緑地) * [[夏島貝塚]] * [[衣笠城]]跡 * [[衣笠山公園]]([[日本さくら名所100選]]) * 光の丘水辺公園 * [[太田和つつじの丘]] * [[荒崎公園]] * [[立石公園 (横須賀市)|立石公園]] * 秋谷海岸 * [[長井海の手公園 ソレイユの丘]] * [[どぶ板通り]] * [[はまゆう公園]] * ポートマーケット * [[鷹取山 (横須賀市・逗子市)|鷹取山]] * 三浦富士・武山ハイキングコース * 三浦アルプス * 津久井浜観光農園 * 津久井浜海水浴場 * [[長者ヶ崎]] * [[燈明堂 (横須賀市)|燈明堂]] * [[天神島]] * 千代ヶ崎砲台跡 === 祭り === * 武山初不動(1月) * 田浦梅林祭り(2月) * よこすかキッズフェスティバル(2月) * のたろんフェア(2月) * ドブ板バザール(2, 5, 7, 11月) * 船越南郷公園桜まつり(3, 4月) * 塚山公園さくら祭(3, 4月) * 衣笠さくら祭(3, 4月) * 桜の散策 走水水源地(3, 4月) * うわまち浪漫さくら祭り(3, 4月) * 日米親善よこすかスプリングフェスタ(3月) * 武山つつじ祭り(5月) * よこすかカレーフェスティバル(5月) * よこすかYYのりものフェスタ(6月) * よこすか開国祭(8月) * [[よこすかシーサイドマラソン]](11月) * よこすかカウントダウン(12月)<ref>[http://cocoyoko.net/event/festival/ 横須賀観光情報 ここはヨコスカ]</ref> == 横須賀を本拠地とするスポーツチーム == * [[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)]](旧名:'''湘南シーレックス''') * [[日産自動車硬式野球部]](横浜DeNAベイスターズ二軍とも交流戦を行っていたが、[[2009年]](平成21年)度で休部) * [[横浜F・マリノス]]([[2005年]](平成17年)度から横浜市に加えて[[ホームタウン]]に認定。下部組織の練習会場に使用されている) == 関係者 == === 主な出身者 ===<!--著名でない方もいるので--> ==== 政界・法曹界 ==== * [[小泉純一郎]](元[[衆議院]]議員、第87 - 89代[[内閣総理大臣]]) * [[田川誠一]](元衆議院議員、[[自治大臣]]、[[新自由クラブ]]代表) * [[小泉進次郎]](衆議院議員、[[環境大臣]]、小泉純一郎の次男、[[小泉孝太郎]]の弟) *[[円より子]](元参議院議員、[[日本新党]]組織委員長、[[新進党]]・[[明日の内閣]]法務・人権副大臣、政審人権部会長、民主党副代表、参院財政金融委員長) * [[牧島かれん]](衆議院議員、[[デジタル大臣]]) * [[田川亮三]](元[[三重県知事]]) * [[浅羽義里]]([[神奈川県副知事]]、[[横浜新都市センター]]取締役) * [[木村良二]]([[弁護士]]、[[日本弁護士連合会]]副会長、[[関東弁護士会連合会]]理事長) * [[坂本堤]](弁護士、自由法曹団員。オウム真理教幹部などによって殺害される→[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]) * [[大津綾香]](政治活動家、元タレント) ==== マスコミ ==== {{表2列| * [[相川浩]]([[フリーアナウンサー]]、元[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]) * [[飯田浩司]]([[ニッポン放送]]アナウンサー) * [[石川顕]](元[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー) * [[宇内梨沙]](TBSアナウンサー) * [[大和田新]](フリーアナウンサー、元[[ラジオ福島]]アナウンサー) * [[川添麻美]](元[[RKB毎日放送]]アナウンサー) * [[近藤雄介]](フリーアナウンサー、元[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー) | * [[齋藤慎太郎]](TBSアナウンサー) * [[鈴木秀喜]]([[新潟総合テレビ]]アナウンサー) * [[高嶋秀武|高嶋ひでたけ]](フリーアナウンサー、元ニッポン放送アナウンサー) * [[冨田憲子]](フジテレビ報道記者・元アナウンサー) * [[廣瀬隼也]]([[広島ホームテレビ]]アナウンサー) * [[山ノ井友司]](元[[横浜エフエム放送|FM横浜]]アナウンサー) * [[横山太一]]([[朝日放送テレビ]]アナウンサー) }} ==== 芸能 ==== {{表2列| * [[相澤秀禎]]([[サンミュージックプロダクション]]創立者・会長) * [[網倉一也]]([[作詞家]]、[[作曲家]]) * [[五十嵐恵]](元[[チェキッ娘]]) * [[石川晶]]([[ドラマー]]) * [[石川梨華]](元[[美勇伝]]、元[[モーニング娘。]]、元[[ドリームモーニング娘。]]) * [[石立鉄男]]([[俳優]]) * [[伊藤一朗]](ギタリスト、[[Every Little Thing]]メンバー) * [[渡邊達徳|Tatsu]](ヴァイオリニスト、[[NormCore]]メンバー) * [[井上喜久子]]([[声優]]) * [[井之脇海]](俳優) * [[岩間沙織]](女優・元[[セイントフォー]]) * [[上杉昇]]([[歌手]]・元[[WANDS]]、[[al.ni.co]]) * [[太田有美]](タレント) * [[楓 (ダンサー)|楓]](ダンサー、[[Happiness (グループ)|Happiness]]、[[E-girls]]) * [[加羽沢美濃]]([[ピアニスト]]) * [[上地雄輔]](タレント、歌手) * [[寛涼佐]](ミュージカル俳優) * [[北乃きい]](女優) * [[窪塚俊介]](俳優) * [[窪塚洋介]](俳優) * [[熊谷茶]](芸人[[ガリットチュウ]]) * [[小泉孝太郎]](俳優) * 斎藤守也・斎藤圭土(兄弟ピアノデュオ[[レ・フレール]]) * [[坂詰美紗子]]([[シンガーソングライター]]) * [[佐久間由衣]](モデル・女優) * [[桜井千寿]](タレント・[[俳優|女優]]) * [[三笑亭小夢]]([[落語家]]) * [[真行寺恵里]](歌手) * [[清水ゆう子]](グラビアアイドル)| * [[篠崎こころ]](モデル) * [[鈴木飛雄]](俳優) * [[高崎かなみ]](モデル・クラビアアイドル) * [[瀧川鯉丸]](落語家) * [[田島令子]](女優) * [[チェルシーリナ]](ファッションモデル) * [[中川あゆみ]](歌手) * [[東原亜希]](タレント) * [[hide]]([[X JAPAN]]) * [[深野晴美]](元[[オナッターズ]]) * [[ブライアン (YouTuber)|ブライアン]](YouTuber) * [[堀内健]](お笑い芸人:[[ネプチューン (お笑いトリオ)|ネプチューン]]) * [[松田亮治]](シンガーソングライター) * [[三宅弘城]](俳優) * [[森田香央里]](タレント) * [[盛本真理子]](女優) * [[矢沢透]]([[アリス (フォークグループ)|アリス]]・ドラム) * [[渡辺真知子]](シンガーソングライター) * [[渡辺めぐみ]](女優) * [[東愛美]](モデル) * [[BIG RON]](ヒップホップシンガー) * [[橘ケンチ]]([[EXILE]]、[[EXILE THE SECOND]]) * [[TETSUYA (ダンサー)|TETSUYA]](EXILE、EXILE THE SECOND) * [[ふなっしー]](タレント) * [[Lynn]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/animemashite/backnumber/|title=『アニメマシテ』番組公式サイト バックナンバー|publisher=2014年10月20日放送分|accessdate=2021-11-07}}</ref>(声優) * [[MEGWIN]](コメディアン、YouTuber、株式会社MEGWIN TV 代表取締役社長) * [[田原俊彦]](歌手) * [[真野すがた]](元[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]男役) * [[山口百恵]](元歌手) * [[ますぶちさちよ]](フードファイター、タレント) }} ==== 芸術 ==== * [[芦奈野ひとし]]([[漫画家]]) * [[市川孝典]]([[現代美術家]]) * [[遠藤俊介]]([[写真家]]) * [[川崎ヒロユキ]]([[脚本家]]) * [[上村一夫]](漫画家) * [[久米田康治]](漫画家) * [[野島稔]]([[ピアニスト]]) * [[鈴木慶江]]([[ソプラノ歌手]]) * [[渡邊達徳]]([[ヴァイオリニスト]]) * [[角田喜久雄]]([[小説家]]) * [[東山むつき]](漫画家) * [[平井和正]](小説家) * [[最上壽之]]([[彫刻家]]) * [[福本伸行]](漫画家) * [[島田修二]]([[歌人]]) * [[島田章三]]([[洋画家]]) * [[佐藤さとる]]([[児童文学作家]]) * [[宮武一貴]]([[メカニックデザイナー]]、[[イラストレーター]]) * [[花形みつる]](小説家) * [[青山正明]](編集者・ライター) * [[吉野竜平]](映画監督) ==== スポーツ ==== ===== 野球 ===== {{columns-list|2| * [[青山美夏人]](プロ野球選手:[[埼玉西武ライオンズ]]) * [[秋山翔吾]](プロ野球選手:[[広島東洋カープ]]) * [[今関勝]](プロ野球選手:元[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]) * [[北野洸貴]](プロ野球選手:元[[東京ヤクルトスワローズ]]) * [[坂田遼]](プロ野球選手:元埼玉西武ライオンズ) * [[高橋徹 (野球)|高橋徹]](プロ野球選手:元[[福岡ソフトバンクホークス]]) * [[竹之内雅史]](プロ野球選手:元西鉄ライオンズ) * [[内藤雄太]](プロ野球選手:元[[横浜DeNAベイスターズ]]) * [[早坂圭介]](プロ野球選手:元[[千葉ロッテマリーンズ]]) * [[水上善雄]](プロ野球選手:元ロッテオリオンズ) * [[森笠繁]](プロ野球選手:元横浜ベイスターズ、現[[広島東洋カープ]]コーチ) * [[山本賢寿]](プロ野球選手:元読売ジャイアンツ) }} ===== サッカー ===== {{Div col|2}} * [[石川直宏]](元[[プロサッカー選手]]:[[FC東京]]、[[横浜F・マリノス]]) * [[石川貢 (サッカー選手)|石川貢]](元フットサル選手・サッカー選手:[[湘南ベルマーレフットサルクラブ]]など) * [[伊東純也]](プロサッカー選手:[[KRCヘンク]]) * [[大久保哲哉]](サッカー選手:FIFTY CLUB) * [[柴崎貴広]](プロサッカー選手:[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]) * [[鈴木達也 (1982年生のサッカー選手)|鈴木達也]](元プロサッカー選手:[[柏レイソル]]、FC東京など) * [[鈴木智子 (サッカー選手)|鈴木智子]](元女子サッカー選手:[[TASAKIペルーレFC]]、[[INAC神戸レオネッサ]]など) * [[谷口博之]](元プロサッカー選手:[[川崎フロンターレ]]、[[サガン鳥栖]]など) * [[寺田周平]](元プロサッカー選手:川崎フロンターレ) * [[内藤友康]](サッカー選手:[[東邦チタニウムサッカー部]]) * [[中村帆高]](プロサッカー選手:FC東京) * [[早坂優]](元女子サッカー選手:[[東京電力女子サッカー部マリーゼ]]) * [[福田健介]](サッカー選手:[[おこしやす京都AC]]) * [[前田尚輝]](サッカー選手:[[いわきFC]]) * [[山本絵美]](女子サッカー選手:[[横浜FCシーガルズ|ニッパツ横浜FCシーガルズ]]) {{Div col end}} ===== バスケットボール ===== * [[蒲谷正之]] - 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[[1600年]](慶長5年)に日本へ漂着し、後に[[江戸幕府]]の外交顧問となった。塚山公園に[[史跡]]指定となった墓がある。 * [[レオンス・ヴェルニー]] - 横須賀造兵廠建設責任者。JR横須賀駅近くにヴェルニー公園がある。 * [[小栗忠順]] - 横須賀造船所の計画者 * [[前島密]] - 日本の官僚、政治家。日本の近代郵便制度の創設者の一人。横須賀市芦名にて没。芦名の浄楽寺に墓所がある。 * [[楢崎龍]] - 通称おりょう。[[坂本龍馬]]の妻。龍馬の死後、横須賀に移り住み、横須賀で没した。市内大津の[[信楽寺 (横須賀市)|信楽寺]]に墓所があり、住んでいた米が浜には「おりょう会館」がある。 * [[芥川龍之介]] - 海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として横須賀市に赴任。汐入に下宿した。 * [[井上成美]] - 海軍軍人。晩年横須賀市長井で暮らした。 * [[團伊玖磨]] - 作曲家。晩年横須賀市秋谷に暮らした。[[1967年]](昭和42年)横須賀市歌を作曲。 * [[立原正秋]] - 作家。少年期を横須賀で過ごした。横須賀市立商業学校卒。 * [[小柴昌俊]] - [[ノーベル物理学賞]]受賞者。少年時代を横須賀で暮らした。[[神奈川県立横須賀高等学校|県立横須賀中学校]]卒業。横須賀市名誉市民第一号。 * [[川村エミコ]](芸人、たんぽぽ) - 横須賀の高校に通っていた。 * [[舞田敏彦]] - 社会統計学者。横須賀市在住。 ※ [[1989年]]の[[どぶ板通り|ドブ板通り]]改修に際し、これら出身者およびゆかりある人物18名の手形のレリーフが路面に埋め込まれた。 == 横須賀を舞台にした作品 == === 文芸 === * 病牀六尺(1902年、[[正岡子規]]) * [[蜜柑 (小説)|蜜柑]] (1919年、芥川龍之介) * 進水式 (1929年、[[寒川鼠骨]]) * [[坂の上の雲]] (1972年、[[司馬遼太郎]]) * 血族 (1979年、[[山口瞳]]) * 井上成美(1992年、[[阿川弘之]]) * 星のダンスを見においで<ref>{{マンガ図書館Z作品|75561|星のダンスを見においで}}(外部リンク)</ref> (1993年、[[笹本祐一]]) * 「三浦半島記」街道をゆく(1998年、司馬遼太郎) * [[翳りゆく夏]](2003年、[[赤井三尋]]) * [[海の底]] (2005年、[[有川浩]]) * [[流星の絆]](2006年、[[東野圭吾]]) === 映画 === * [[豚と軍艦]] (1961年、[[日活]]、[[今村昌平]]監督) * [[メカゴジラの逆襲]] (1975年、[[東宝]]、[[本多猪四郎]]監督) * [[横須賀男狩り 少女・悦楽]] (1977年、日活、[[藤田敏八]]監督) * [[あの夏、いちばん静かな海。]] (1991年、東宝、[[北野武]]監督) * [[赤と黒の熱情]] (1992年、[[東映]]、[[工藤栄一]]監督) * [[すももももも]] (1995年、パル企画配給、[[今関あきよし]]監督) * [[竜馬の妻とその夫と愛人]] (2002年、東宝、[[市川準]]監督) * [[そのときは彼によろしく]] (2007年、東宝、[[平川雄一朗]]監督) * [[ガマの油 (映画)|ガマの油]] (2009年、ファントム・フィルム、[[役所広司]]監督・主演) * [[BECK (映画)|BECK]] (2010年、松竹、[[堤幸彦]]監督) * [[スカブロ]] (2017年、トンネルフィルムズ、[[矢城潤一]]監督) === テレビドラマ === * [[ポニーテールはふり向かない]] (1985年、[[TBSテレビ|TBS]]・[[大映テレビ]]) * [[二十歳の約束]] (1992年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * 土曜ワイド劇場 警察署長 浮かばない死体の謎 (1997年、[[テレビ朝日]]・[[東映]]) * [[L×I×V×E]] (1999年、TBS) * [[ディア・フレンド]] (1999年、TBS) * サスペンススペシャル 警察署長 殺意のウェディングベル (2001年、テレビ朝日) * [[流星の絆]](2008年、TBS) * [[美しい隣人]](2011年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[メディアミックス・ジャパン|MMJ]])舞台の「美空野町」は湘南佐島なぎさの丘。 * [[仰げば尊し (2016年のテレビドラマ)|仰げば尊し]](2016年、TBS・[[東宝]]) * [[釣りバカ日誌]](2015年・Season2 2017年・[[テレビ東京]]) 主人公の浜崎伝助(ハマちゃん)の住所が汐入である事がSeason2の話で明らかになる。また浜崎伝助と鈴木一之助(スーさん)が普段釣り場に使うスポットとして使用されるのが鴨居2丁目にある鴨居港である。 * [[ワンダーハッチ -空飛ぶ竜の島-]](2023年、[[スター (Disney+)|スター]]・[[hulu]](米国内向け)) === ご当地ソング === * [[横須賀ストーリー]]、I CAME FROM 横須賀、横須賀サンセット・サンライズ ([[山口百恵]]) * [[港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ]] ([[ダウン・タウン・ブギウギ・バンド]]) * [[ブルーライト ヨコスカ]] ([[Mi-Ke]]) * 横須賀BABY ([[横浜銀蝿]]) * よそゆき顔で ([[松任谷由実]]、歌詞に「観音崎の歩道橋」が登場する) * [[タイガー&ドラゴン (曲)|タイガー&amp;ドラゴン]] ([[クレイジーケンバンド]]) * ヨコスカン・ショック (クレイジーケンバンド) * ヨコスカン・ミラクル (クレイジーケンバンド) * ヨコスカ慕情 (クレイジーケンバンド) * スカジャン・ブルース (クレイジーケンバンド) * [[そんなヒロシに騙されて]] ([[サザンオールスターズ]]、[[高田みづえ]]、[[ジューシィ・フルーツ]]) * ヨコスカ・バーニング・ナイト、ヨコスカ・マンボ ([[上々颱風]]) * Welcome To Yokosuka ([[渡辺真知子]]、アルバム曲) * [[トランジスタGガール]]([[TOKIO]]) * ビールを飲もう!横須賀の街で([[矢口壹琅]]) *Good-bye 横須賀(網倉一也) * [[出町柳パラレルユニバース|追浜フィーリンダウン]] ([[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]) * 横浜横須賀道路 (feat. 横山剣 CRAZY KEN BAND) ([[Home Grown]]) === 漫画 === * [[B・B]](1985年 - 1991年、[[石渡治]]) * [[チャイルド★プラネット]](1996年 - 1997年、[[永福一成]]) * [[ヨコハマ買い出し紀行]](1994年 - 2006年、[[芦奈野ひとし]])- 横須賀中央、衣笠、馬堀海岸、大楠山、横須賀火力発電所の煙突など市内各地が登場。 * [[ジパング (漫画)|ジパング]](2000年 - 2009年、[[かわぐちかいじ]])- 主人公の乗船する[[イージス艦]]みらいの母港。 * [[カブのイサキ]](2007年 -、芦奈野ひとし) * [[あおざくら 防衛大学校物語]](2016年 - 、[[二階堂ヒカル]]) - 走水にある防衛大学校を舞台とした作品。 *[[スローループ]](2018年 - 、[[うちのまいこ]]) === アニメ === * [[B・B#OVA|B・B]](1990年、[[OVA]]) - 原作漫画をアニメ化。 * [[ヨコハマ買い出し紀行#OVA|ヨコハマ買い出し紀行]](1998年と2002年 - 2003年、[[OVA]]) - 原作漫画をアニメ化。 * [[ジパング (漫画)#テレビアニメ|ジパング]](2004年、TBS系) - 原作漫画をアニメ化。 * [[つよきす Cool×Sweet]] (2006年、UHFアニメ) - [[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛アドベンチャーゲーム]]「[[つよきす]]」のアニメ化作品。作品の舞台「松笠市」のモデル。 * [[スカイガールズ]] (2007年、UHFアニメ) - ソニックダイバー隊の駐屯地が追浜にあるという設定。他に主人公らが横須賀中央に買い物に行くシーンが登場。 * [[たまゆら (アニメ)]] (2010年、OVA)(2011年・2013年、AT-X他) - 主人公の沢渡楓が中学生まで過ごした物語の最初の舞台として汐入が登場。TVアニメ化を記念したイベントやタイアップ企画が市内各地で行われている<ref>[https://web.archive.org/web/20121001205616/http://www.cocoyoko.net/tamayura/index.html 「たまゆら」×「横須賀市」タイアップについて 横須賀市観光情報]2011年9月5日閲覧(2012年10月1日時点での[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref>[https://www.townnews.co.jp/0501/2011/07/22/112040.html タウンニュース アニメファン呼び込め 2011年7月22日号]</ref>。 * [[ハイスクール・フリート]] (2016年、BS11他) - 主人公たちが通う学校が横須賀にあるという設定。特にOVAではヴェルニー公園やどぶ板通りなど、横須賀市の名所が随所に登場する<ref>[http://www.hai-furi.com/news/?article_id=36576 物語の舞台は横須賀! ハイスクール・フリート公式](外部リンク)</ref>。アニメとのタイアップ企画も催されている。 *[[スローループ]] (2022年、AT-X他)-原作漫画をアニメ化。フライフィッシングのお店のモデルが都内だったりするが、主人公達の家や通っている学校、バイト先は横須賀市内のため、基本的には横須賀が物語の舞台となっている。アニメ化に伴い作中の舞台に使用されている市内各所にてタイアップ企画も行われている。 === ビデオゲーム === * [[シェンムー 一章横須賀]] (1999年、[[セガ]]) * [[Train Simulator Real THE 京浜急行]] (2002年、[[音楽館]]) * [[Monochrome (ゲーム)|Monochrome]](2004年、[[KID (ゲームブランド)|KID]]) * [[つよきす]] (2005年、[[きゃんでぃそふと]]) - 作品の舞台「松笠市」のモデル * [[サイキックハーツ]] (2014年、[[トミーウォーカー]]) - 2014年12月21日開催のリアルタイムイベント「武神大戦獄魔覇獄」及び同前哨戦の舞台 * [[帝国海軍恋慕情〜明治横須賀行進曲〜]](2015年、[[ディースリー・パブリッシャー]]) * [[ソレヨリノ前奏詩]] (2015年、[[minori]]) == 横須賀が登場した作品 == === 文芸 === * [[ガリヴァー旅行記]] (1726年、[[ジョナサン・スウィフト]]) - 設定ではガリヴァーが日本に上陸した地が観音崎だとされる。 === 映画 === * [[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]] (1954年、[[東宝]]、[[本多猪四郎]]監督)- [[ゴジラ_(架空の怪獣)#『ゴジラ』(1954年)|ゴジラ]]が日本に初上陸したのは、[[観音崎 (神奈川県)|観音崎]]近くにあるたたら浜という海岸であるという俗説から。現在、足跡の石碑が残っている。実際にはゴジラが初上陸したのは大戸島という架空の島であり、本州に上陸したのも品川である。 * [[メカゴジラの逆襲]] (1975年、東宝、本多猪四郎監督)- 横須賀を[[メカゴジラ (昭和ゴジラシリーズ)#『メカゴジラの逆襲』のメカゴジラ(メカゴジラ2)|メカゴジラ]]と[[チタノザウルス]]が襲撃する。 * [[あぶない刑事 (映画)|あぶない刑事]] (1987年、[[東映]]、[[長谷部安春]]監督)- TVシリーズからの劇場3部作の1作目。横須賀EMクラブなどが登場。 * [[またまたあぶない刑事]] (1988年、東映、[[一倉治雄]]監督)- TVシリーズからの劇場版3部作の2作目。ボートハウスが登場。 * [[あぶない刑事フォーエヴァー|あぶない刑事フォーエバー THE MOVIE]](1998年、東映、[[成田祐介]]監督)- 日本テレビ開局45周年記念作品。あぶない刑事フォーエバーTVスペシャル'98の続き。サブタイトルは「爆発」。 * [[日本沈没]] (2006年、[[東宝]]、[[樋口真嗣]]監督) * [[キャッチ ア ウェーブ]] (2006年、[[ワーナー・ブラザース]]映画、[[高橋伸之]]監督) * [[シン・ゴジラ]] (2016年、[[東宝]]、[[庵野秀明]]監督) * [[シン・ウルトラマン]] (2022年、[[東宝]]、[[樋口真嗣]]監督) - 横須賀を[[にせウルトラマン]]が襲撃する。 === アニメーション === * [[新世紀エヴァンゲリオン]](1995年 - 1996年、テレビ東京系列)‐[[セカンドインパクト]]の影響で水没した横須賀の代替として、[[小田原市]]の一部を『新横須賀』として再建 * [[ストライクウィッチーズ]](2008年と2010年、UHFアニメ) * [[セイクリッドセブン]](2011年、MBS他) * [[蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-]](2013年、AT-X他) * [[ろんぐらいだぁす!]](2016年、TOKYO MX他)-第2話で三浦半島ツーリングとして京急の[[浦賀駅]]からスタートし、三浦半島の海沿いを進む。ゴールは[[江ノ島]]。<ref>[http://anime-longriders.com/map/route/02.html 亜美のサイクリングBlog Vol.2 三浦半島ツーリング ろんぐらいだぁす!公式](外部リンク)</ref> * [[南鎌倉高校女子自転車部]](2017年、AT-X他)-第10話・第11話で自転車部初の輪行ツーリングとして三浦半島を選ぶ。スタートは[[東日本旅客鉄道|JR]][[横須賀駅]]で[[三笠公園]]〜[[馬堀海岸]]〜[[観音崎 (神奈川県)|観音崎]]〜[[浦賀]](巴、夏海、冬音は途中道を間違え[[東浦賀]]から[[浦賀の渡し]]で[[西浦賀]]へショートカットをする事になる)〜[[久里浜]]を経由し、ゴールは[[城ヶ島]]。 === テレビドラマ === * [[あぶない刑事]] (1986年、日本テレビ・セントラルアーツ)-横須賀EMクラブが登場。 * [[人間の証明]] (2004年、フジテレビ) * [[Mの悲劇 (日曜劇場)|Mの悲劇]] (2005年、TBS) * [[おとなの夏休み]] (2005年、日本テレビ) * [[探偵学園Q]] (2006年、日本テレビ)- 猿島が登場。 * [[坂の上の雲 (テレビドラマ)]](2009年 - 2011年、NHK) === ビデオゲーム === * [[FRONT MISSION3]] (1999年、[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==参考文献== * {{Citation|和書|author =神奈川県県民部県史編集室 編|authorlink = |translator = |title = 神奈川県史 別編1 人物|publisher = 神奈川県|series = |volume = |edition = |date = 1983|pages = |url = |doi = |id = |isbn = |ncid = |ref = kanagawakenshi}} == 関連項目 == * [[旧軍港市転換法]] * [[神奈川県の軍事拠点や軍事史跡]] * [[スカレー]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website}} * {{Facebook|yokosuka.hisyo|横須賀市役所秘書課の部屋}} * {{YouTube|channel=UCQDVaWThh91v2lgtCCqio5w}} * {{Twitter|yokosuka_city}} * {{LINE公式アカウント|yokosuka_official}} * {{Instagram|yokosuka_trip|横須賀女子旅}} * [https://yokosuka-kanko.com/ 横須賀市観光協会] * {{ウィキトラベル インライン|横須賀市|横須賀市}} * {{Wikivoyage-inline|ja:横須賀市|横須賀市{{ja icon}}}} * {{Wikivoyage-inline|en:Yokosuka|横須賀市{{en icon}}}} * {{Osmrelation|2689433}} {{横須賀市の地域}} {{神奈川県の自治体}} {{日本の中核市}} {{日本50大都市}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:よこすかし}} [[Category:神奈川県の市町村]] [[Category:横須賀市|*]] [[Category:日本の港町]] [[Category:中核市]] [[Category:三浦郡]]<!--横須賀町のカテゴリ--> [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1906年設置の日本の市町村]]
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山田南平
山田 南平(やまだ なんぺい、本名:(旧姓:)山田 由夏、西山 由夏、1972年9月2日 - )は、日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はB型。既婚。 1991年、『花とゆめプラネット増刊』春の号(白泉社)に掲載の「48ロマンス」でデビュー。以後、『花とゆめ』を中心とした白泉社の雑誌で活動。思春期の少年少女の成長を描いた『オトナになる方法』などを執筆した。 単行本は花とゆめコミックス(白泉社)、文庫版は白泉社文庫(白泉社)。
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山田 南平は、日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はB型。既婚。 1991年、『花とゆめプラネット増刊』春の号(白泉社)に掲載の「48ロマンス」でデビュー。以後、『花とゆめ』を中心とした白泉社の雑誌で活動。思春期の少年少女の成長を描いた『オトナになる方法』などを執筆した。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 山田 南平 | ふりがな = やまだ なんぺい | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1972|9|2}} | 生地 = [[日本]]・[[神奈川県]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1991年]] - | ジャンル = [[少女漫画]] | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = [http://nanpei.net/ Hot Water Jug] }} '''山田 南平'''(やまだ なんぺい、本名:<span style="font-size:80%">(旧姓:)</span>山田 由夏<ref name="130cm">{{Cite book|和書|title=130センチのダンディ|publisher=白泉社|author=山田南平|date=1992年4月|isbn=978-4592123316}} p.22</ref>、西山 由夏<ref name="dodge">{{Cite book|和書|title=ドッジボールをしよう|publisher=白泉社|author=山田南平|date=1992年11月|isbn=978-4592123323}} p.185</ref>、[[1972年]][[9月2日]]<ref name="koucha1">{{Cite book|和書|title=紅茶王子 1巻|publisher=白泉社|author=山田南平|date=1997年8月|isbn=978-4592128953}}「ごあいさつのこと」に明記。</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はB型。既婚<ref name="koucha1" />。 [[1991年]]、『花とゆめプラネット増刊』春の号([[白泉社]])に掲載の「48ロマンス」でデビュー。以後、『[[花とゆめ]]』を中心とした白泉社の雑誌で活動。思春期の少年少女の成長を描いた『[[オトナになる方法]]』などを執筆した。 == 作品リスト == === 漫画作品 === 単行本は[[花とゆめコミックス]](白泉社)、文庫版は白泉社文庫(白泉社)。 *[[オトナになる方法]]〔別名『久美子&真吾シリーズ』〕(『[[花とゆめ]]』1990年20号 - 1993年24号〔狭義の『オトナになる方法』は同誌1994年2号 - 1997年4号〕) - 単行本全15巻〔狭義部分が全10巻〕、文庫版全8巻 *[[紅茶王子]](『花とゆめ』1996年21号 - 2004年17号) - 単行本全25巻、文庫版全12巻 *[[オトナになる方法|オトナのコドモたち オトナになる方法特別編]](『[[ザ花とゆめ]]』2002年10月1日号→『花とゆめプラス』2004年9月15日号 - 2005年10月25日号→『[[別冊花とゆめ]]』2007年6月号 - 2008年3月号) - 単行本全1巻 *[[まなびや三人吉三]](『花とゆめ』2004年23号 - 2006年3号) - 単行本全4巻 *[[紅茶王子|紅茶王子の姫君]](『ザ花とゆめ』2000年3月1日号 - 2006年4月1日号→『花とゆめ』2006年7号→『ザ花とゆめ』2006年6月1日号) - 単行本全1巻 *[[空色海岸]] (『別冊花とゆめ』2006年7月号、2006年9月号 - 2008年11月号)- 単行本全6巻、文庫版全3巻 *[[オレンジチョコレート]](『別冊花とゆめ』2009年2月号 - 2014年1月号<ref>{{Cite news|和書|title=別花で「オレンジ チョコレート」完結、いつ天は最終章へ|newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|date=2013-11-26|publisher=株式会社ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/104328|accessdate=2023-01-31}}</ref>) - 単行本全13巻 *in JACK out(『別冊花とゆめ』2010年2月号<ref>{{Cite news|和書|title=別花で山田南平が前後編、仮想空間舞台のサイバーコメディ|newspaper=コミックナタリー|date=2010-12-26|publisher=株式会社ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/42595|accessdate=2017-06-24}}</ref> - '''継続中''') - 単行本既刊1巻(2015年12月現在) *[[紅茶王子|桜の花の紅茶王子]](読み切り版『花とゆめプラチナ』<ref>{{Cite news|和書|title=紅茶王子、せかキラ新作掲載の「花とゆめプラチナ」誕生|newspaper=コミックナタリー|date=2012-01-20|publisher=株式会社ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/62979|accessdate=2017-06-24}}</ref>→連載版『別冊花とゆめ』2013年6月号<ref>{{Cite news|和書|title=別花で「紅茶王子」新シリーズ始動、月影先生メモパッドも |newspaper=コミックナタリー |date=2013-04-26 |url=https://natalie.mu/comic/news/89469 |access-date=2023-01-20 |publisher=株式会社ナターシャ}}</ref> - 2018年7月号<ref>{{Cite news|和書|title=別冊花とゆめが休刊で約40年の歴史に幕、今秋に新Webマンガ誌創刊|newspaper=コミックナタリー|date=2018-05-26|publisher=株式会社ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/283877|accessdate=2023-01-20}}</ref>) - 単行本全13巻 *[[金色のマビノギオン -アーサー王の妹姫-]](『別冊花とゆめ』2017年1月号<ref>{{Cite news|和書|title=「執事様のお気に入り Encore!」が別花で完結、山田南平の新作も登場|newspaper=コミックナタリー|date=2016-11-26|publisher=株式会社ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/210902|accessdate=2017-06-24}}</ref>→『花LaLa online』2017年1月20日<ref>{{Cite tweet|author=別冊花とゆめ|user=BetsuHana|number=822317488650129408|title=【山田南平新作!】別花1月号に先行掲載された山田南平先生の新作「金色のマビノギオン」が本日、花LaLaオンラインで連載開始です! 第1話、2話同時掲載です!https://hanayumeonline.com|date=2017-01-20|accessdate=2023-01-16}}</ref> - 2017年7月21日<ref>{{Cite web|和書|author=山田南平|url=https://nanpei.exblog.jp/237228226/|title=金色のマビノギオン 第五話後編|website=山田南平Blog|publisher=[[エキサイト|エキサイトブログ]]|date=2017-07-21|accessdate=2023-01-16}}</ref><ref>{{Cite tweet|author=花LaLa online(白泉社)|user=hanalalaonline|number=888238461051744260|title=【本日更新!】山田南平「金色のマビノギオン」第5話(2)、本日更新! なんだかいい雰囲気の2人…ガウェインはたまきに何と耳打ちしているでしょう? 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~恋するMOON DOGスピンオフ~(『Trifle by 花とゆめ』1号<ref>{{Cite news|和書|title=花ゆめから電子BL誌が誕生!山田南平「恋犬」スピンオフや花ゆめ編集部の“半ナマ”も|newspaper=コミックナタリー|date=2020-12-05|publisher=株式会社ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/407553|accessdate=2023-01-31}}</ref> - '''継続中''') - 単行本既刊:1巻(2023年1月31日現在) === 画集 === * カードギャラリー 山田南平(1994年、白泉社) * 山田南平画集 Quality Seasons(1999年、白泉社) === イラスト === * いかにしてアーサー王は日本で受容されサブカルチャー界に君臨したか(岡本広毅・小宮真樹子編、2019年、みずき書林) - 表紙<ref>{{Cite news|和書|title=山田南平が3種のカバー描き下ろし、アーサー王とサブカルチャーの関係紐解く書籍|newspaper=コミックナタリー|date=2019-02-27|publisher=株式会社ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/321705|accessdate=2023-01-31}}</ref> * 映画『グリーン・ナイト』描きおろしイラスト(2022年11月<ref>{{Cite news|和書|title=山田南平が映画「グリーン・ナイト」のイラスト描き下ろし、奈須きのこらコメントも|newspaper=コミックナタリー|date=2022-11-05|publisher=株式会社ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/500267|accessdate=2022-11-05}}</ref>) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://nanpei.net/ Hot Water Jug](公式サイト) {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やまた なんへい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1972年生]] [[Category:存命人物]]
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巻来功士
巻来 功士(まき こうじ、1958年7月21日 - )は、日本の漫画家。 長崎県佐世保市出身。小学生時代から漫画家を目指し、1974年(16歳時)に投稿作品が『週刊少年ジャンプ』の新人漫画賞の最終候補作になった。それ以来、年5・6回応募して九州産業大学入学後も続けて1978年、20歳で小学館のマンガくん月間まん研新人杯の佳作を受賞する。その後も大賞をめざして『コロコロコミック』『少年サンデー』に応募したが、最終候補に止まった間の授業はさぼり続けて単位が取れず、留年する。本腰を入れて漫画家になるため、1979年に大学を中退して上京。少年画報社に持ち込んだ原稿が認められ、1981年に村田光介名義で同社の『少年キング』に連載された学園アクションコメディ『ジローハリケーン』でデビュー。それが終了した後は『ローリング17』を連載するが、同誌の休刊によって打ち切りとなる。 再び新人賞に応募する日々に戻り、1983年からは集英社へ移って『週刊少年ジャンプ増刊号』に読み切り作品を掲載。原哲夫の『北斗の拳』のアシスタントを経て『週刊少年ジャンプ』に『機械戦士ギルファー』を連載するが、13回で打ち切りとなる。1986年には心機一転し、ダークホラーアクションの『メタルK』を連載、ファンレターが何通も届くなど人気は出たが、10回で打ち切りとなる。その13か月後、代表作の1つとなる『ゴッドサイダー』を1年半連載し、単行本の増刷で印税収入が増える。しかし、その完結から10か月後に新連載した『ザ・グリーンアイズ』は人気が出ず、3か月で終了。その後、少年漫画に見切りをつけて作品発表の場を『スーパージャンプ』などの青年向け漫画誌に移し、『ミキストリ -太陽の死神-』は長期連載となった。 独特で安定した画力と構成力をデビュー時から持っていた。しかし、『週刊少年ジャンプ』での作品はグロテスクなシーンに抵抗を持つ子供も多く、『ゴッドサイダー』以外は1年未満の短期連載に終わった。巻来は、雑誌内のポジションで荒木飛呂彦とダークホラーアクション枠で競合していたことも原因だったと述べている。また、美少女の皮膚が溶ける、お腹で孵化したウジを吐き出す、美女が犯されながら締め殺されるなど、読者が生理的嫌悪感を催すような描写が多く、単に血しぶきの描写がある漫画とは異なっていた。しかし、善と悪の明瞭な分け方もあってか、青年向け漫画誌ではある程度の成功を収め、後に『ゴッドサイダーセカンド』『ニューカマー〜来るべき者達〜 (REVENGER METAL-K2)』など、少年誌時代のリメイク作品も描いている。 全ての漫画にエログロ、寝取られ、オカルトの3要素のいずれかが入っている。
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巻来 功士は、日本の漫画家。
{{存命人物の出典明記|date=2020-06-19}} '''巻来 功士'''(まき こうじ、[[1958年]][[7月21日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。 == 略歴 == [[長崎県]][[佐世保市]]出身<ref name=":0">[http://www.sokaido.com/makikoji/profile.html 巻来功士Official Website 作者紹介]</ref>。小学生時代から漫画家を目指し、1974年(16歳時)に投稿作品が『[[週刊少年ジャンプ]]』の新人漫画賞の最終候補作になった。それ以来、年5・6回応募して[[九州産業大学]]入学後も続けて1978年、20歳で小学館のマンガくん月間まん研新人杯の佳作を受賞する。その後も大賞をめざして『コロコロコミック』『少年サンデー』に応募したが、最終候補に止まった間の授業はさぼり続けて単位が取れず、留年する。本腰を入れて漫画家になるため、1979年に大学を中退して上京。[[少年画報社]]に持ち込んだ原稿が認められ、[[1981年]]に'''村田光介'''名義で同社の『[[少年キング]]』に連載された学園アクションコメディ『ジローハリケーン』でデビュー。それが終了した後は『ローリング17』を連載するが、同誌の休刊によって[[打ち切り]]となる。 再び新人賞に応募する日々に戻り、[[1983年]]からは[[集英社]]へ移って『週刊少年ジャンプ増刊号』に読み切り作品を掲載。[[原哲夫]]の『[[北斗の拳]]』の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て『週刊少年ジャンプ』に『[[機械戦士ギルファー]]』を連載するが、13回で打ち切りとなる。1986年には心機一転し、ダークホラーアクションの『[[メタルK]]』を連載、ファンレターが何通も届くなど人気は出たが、10回で打ち切りとなる。その13か月後、代表作の1つとなる『[[ゴッドサイダー]]』を1年半連載し、単行本の増刷で印税収入が増える。しかし、その完結から10か月後に新連載した『ザ・グリーンアイズ』は人気が出ず、3か月で終了。その後、少年漫画に見切りをつけて作品発表の場を『[[スーパージャンプ]]』などの青年向け漫画誌に移し、『[[ミキストリ (漫画)|ミキストリ -太陽の死神-]]』は長期連載となった。 == 作風 == 独特で安定した画力と構成力をデビュー時から持っていた。しかし、『週刊少年ジャンプ』での作品はグロテスクなシーンに抵抗を持つ子供も多く、『ゴッドサイダー』以外は1年未満の短期連載に終わった。巻来は、雑誌内のポジションで[[荒木飛呂彦]]とダークホラーアクション枠で競合していたことも原因だったと述べている。また、美少女の皮膚が溶ける、お腹で孵化したウジを吐き出す、美女が犯されながら締め殺されるなど、読者が生理的嫌悪感を催すような描写が多く、単に血しぶきの描写がある漫画とは異なっていた。しかし、善と悪の明瞭な分け方もあってか、青年向け漫画誌ではある程度の成功を収め、後に『ゴッドサイダーセカンド』『ニューカマー〜来るべき者達〜 (REVENGER METAL-K2) 』など、少年誌時代のリメイク作品も描いている。 全ての漫画に[[エログロ]]、[[寝取られ]]、[[オカルト]]の3要素のいずれかが入っている。 == 作品リスト == * ジローハリケーン(少年キング、1981年) * ローリング17(少年キング、1982年) * [[機械戦士ギルファー]](原案は西尾元宏。週刊少年ジャンプ、1983年 - 1984年) * [[メタルK]](週刊少年ジャンプ、1986年) * [[ゴッドサイダー]](週刊少年ジャンプ、1987年 - 1988年) * ザ・グリーンアイズ(週刊少年ジャンプ、1989年 - 1990年) * [[ミキストリ (漫画)|ミキストリ -太陽の死神-]](スーパージャンプ、1990年 - 1995年) * マジックパラダイス(スーパージャンプ、スーパージャンプアルファ、1992年 - 1994年) * 瑠璃子女王の華麗なる日々(スーパージャンプ、1997年 - 1998年) * たそかれの夢(スーパージャンプ、1998年 - 1999年) * ヘルバスター~地獄を狩る者~(MANGAオールマン、1999年 - 2000年)<ref name=":0" /> * 迷宮魔術団(オースーパージャンプ、1999年 - 2002年) * 鬼哭忍伝 霊牙(オースーパージャンプ、2003年 - 2004年) * ゴッドサイダーセカンド(週刊コミックバンチ、2004年 - 2008年) * ニューカマー〜来るべき者達〜 (REVENGER METAL-K2)(週刊コミックバンチ、2008年 - 2009年) * [[ミキストリ (漫画)|ミキストリII -太陽の死神-]](週刊コミックバンチ、2009年 - 2010年) * ゴッドサイダーサーガ 神魔三国志(月刊ヤングチャンピオン烈、2010年 - 2013年) * 連載終了!少年ジャンプ黄金期の舞台裏(描き下ろし、2016年) * SHODO 勝道上人伝(週刊ヤングジャンプ、2017年) * FAKE WORLD(LINEマンガ、2021年 - 2023年) == 出典 == {{reflist}} == 外部リンク == * [http://www.sokaido.com/makikoji/ MindHouse] - 公式サイト * {{twitter|godsider1}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:まき こうし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:長崎県出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:原哲夫|アまき こうし]]
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1,372
牧村久実
牧村 久実(まきむら くみ、1969年6月13日 - )は日本の漫画家、イラストレーター。東京都出身。血液型はA型。 趣味は散歩とゴルフ。虫と長い魚が嫌い。 『おまじないコミック』(後に『ティーンズコミックパル』→『少女パル』と誌名変更、実業之日本社)で活動していた。『少女フレンド』(講談社)で執筆し、同誌の休刊後は『デザート』(同)でも作品を発表した。代表作は『ガラス色の瞳』『空においでよ』『毎日逢いたい』『天使の唄』など。 講談社X文庫ティーンズハートでは小林深雪の小説の挿絵としても活躍していた。小林深雪が講談社青い鳥文庫で執筆している現在も、引き続き挿絵を描いている。 また、自身の作品『ツインハート ツインゲーム』(実業之日本社)のイメージCDをリリースしたこともある。 実業之日本社のMBコミックスより刊行されたもの。 講談社の KCフレンド/KCデザートより刊行されたもの。
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牧村 久実は日本の漫画家、イラストレーター。東京都出身。血液型はA型。 趣味は散歩とゴルフ。虫と長い魚が嫌い。 『おまじないコミック』(後に『ティーンズコミックパル』→『少女パル』と誌名変更、実業之日本社)で活動していた。『少女フレンド』(講談社)で執筆し、同誌の休刊後は『デザート』(同)でも作品を発表した。代表作は『ガラス色の瞳』『空においでよ』『毎日逢いたい』『天使の唄』など。 講談社X文庫ティーンズハートでは小林深雪の小説の挿絵としても活躍していた。小林深雪が講談社青い鳥文庫で執筆している現在も、引き続き挿絵を描いている。 また、自身の作品『ツインハート ツインゲーム』(実業之日本社)のイメージCDをリリースしたこともある。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 牧村 久実 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1969|6|13}} |生地 = {{JPN}}・[[東京都]] |没年 = |没地 = |国籍 = |職業 = [[漫画家]]、[[イラストレーター]] |活動期間 = |ジャンル = [[少女漫画]] |代表作 =『天使の唄』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''牧村 久実'''(まきむら くみ、[[1969年]][[6月13日]]<ref name="yume1">{{Cite web|和書|publisher=講談社コミックプラス|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000036801|title=夢みることはやめられない(1)|accessdate=2018-07-27}}</ref> - )は[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[東京都]]出身<ref name="yume1" />。[[ABO式血液型|血液型]]はA型<ref name="yume1" />。 趣味は[[散歩]]と[[ゴルフ]]<ref name="yume1" />。[[虫]]と長い[[魚]]が嫌い<ref name="yume1" />。 『[[おまじないコミック]]』(後に『[[パル (雑誌)|ティーンズコミックパル]]』→『少女パル』と誌名変更、[[実業之日本社]])で活動していた。『[[少女フレンド]]』([[講談社]])で執筆し、同誌の休刊後は『[[デザート (雑誌)|デザート]]』(同)でも作品を発表した。代表作は『ガラス色の瞳』『空においでよ』『毎日逢いたい』『天使の唄』など。 [[講談社X文庫ティーンズハート]]では[[小林深雪]]の小説の挿絵としても活躍していた。小林深雪が[[青い鳥文庫|講談社青い鳥文庫]]で執筆している現在も、引き続き挿絵を描いている。 また、自身の作品『ツインハート ツインゲーム』([[実業之日本社]])のイメージCDをリリースしたこともある。 == 作品リスト == === MBコミックス === [[実業之日本社]]のMBコミックスより刊行されたもの。 * ガラス色の瞳(1988年) * 陽だまりのさくらんぼ(1988年 - 1989年、全2巻) * 雪のイヴ(1989年) * ツインハートツインゲーム(1990年 - 1991年、全4巻) * 空においでよ(1993年 - 1996年、全3巻) * 空においでよ 愛蔵版(2000年 - 2001年、全2巻) === KCフレンド/KCデザート === [[講談社]]の KCフレンド/KCデザートより刊行されたもの。 * 満月にお願い(1992年) * ASTRAL TWIN (1992年、全2巻) * いっしょに暮らそう(1993年、全2巻) * Cotton Candy(1994年、全3巻) * パラダイスへの扉 (1995年、原作:うさぎ屋宗達) * 毎日逢いたい(1996年 - 1997年、全3巻) * 天使の唄(1997年 - 2001年、全9巻) * 涙は覚悟の恋(2004年、原作:[[小林深雪]]) * 夢みることはやめられない―フリーライターAYU(2002年 - 2007年、全4巻、原作:小林深雪) == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|kumimakim}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:まきむら くみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:存命人物]] [[Category:生年未記載]]
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月食
月食(げっしょく、英語: lunar eclipse)とは、地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のことである。月蝕と表記する場合がある(「食 (天文)#表記」参照)。 望(満月)の時に起こる。日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。 地球から見える月面が本影(地球によって太陽が完全に隠された部分)に入る場合を皆既月食(total eclipse)、一部分だけが本影に入る場合を部分月食(partial eclipse)という。 月が半影(地球が太陽の一部を隠している部分)に入った状態は半影食(もしくは半影月食、penumbral eclipse)と呼ばれるが、半影に入った月面部分の減光の度合いは注意深く観察しなければ分からない程度であるため、事前の予告なしに肉眼で見ても気がつかない場合も多い。 月が地球の影によって隠される度合いを食分といい、「(本影の半径+月の視半径-本影の中心と月の中心の距離)÷(月の視直径)」という式で計算される。皆既月食の場合は1以上、部分月食は0 - 1、半影食ならマイナスの値となる。 太陽光のうち、波長の長い赤系の光が地球の大気によって屈折・散乱されて本影の中に入るため、皆既月食でも通常、月は真っ暗にはならず暗い赤色(赤銅色)に見える。しかし火山爆発等で大気中に特に多量の微粒子が浮遊している場合には、月が非常に暗くなり灰色かほとんど見えなくなる。月食時の明るさは後述の「ダンジョンの尺度」(後述)などで表される。 なお、月食の途中の欠け月が昇ってくることを月出帯食といい、その逆に欠けたままの月が沈むことを月没帯食(もしくは月入帯食)という。 月食が起こるのは太陽・月が黄道・白道の交わる点(月の昇交点・降交点)付近にいる時に限られる。 月食は多くの場合1年間に2回起こるか起こらない年、3回起こる年もあり21世紀の100年間では合計142回(皆既月食85回、部分月食57回)起こる。一方、日食は最低でも年に2回、最多で5回起こる年もあり21世紀の100年間では合計224回(皆既日食68回、金環食72回、金環皆既食7回、部分日食77回)である。したがって月食の発生頻度は日食より低い。にもかかわらず普通、日食よりも月食の方が目にする機会は多い。これは月が見えてさえいれば月食は地球上のどこからでも観測が可能なのに対し、日食は月の影が地球表面を横切る帯状の限られた地域でしか見ることができないためである。 月食と日食の頻度に違いが生じる理由は次のように説明できる。地球と太陽がともに内接する巨大な円錐を想定する。月がこの円錐の太陽と反対の部(地球の本影)に入れば月食が生じ、太陽と同方向の部分に入れば日食が生じることになる。この円錐の月軌道付近における半径は月食側が約4460 - 4750km、日食側が約7990 - 8280kmと異なるため月食の発生頻度は日食のそれよりも低くなる。 日本の陸上(島嶼部を含む)でも見られた(見られる)日付を部分月食は斜体字、皆既月食は太文字にて記述している。 皆既月食の時の月面の様子は、地球の大気中の塵の量によって異なる。塵が少ないと、太陽の光が大気中を通過する際の散乱が少なくなり、月面は黄色っぽく明るく見える。逆に、塵が多いと、大気中の散乱が多くなり、月面は暗く見える(大規模な火山噴火があると、大気中の火山灰により、月面が暗くなることが知られている)。フランスの天文学者アンドレ・ダンジョンが20世紀初頃に、月食の明るさを分類するために独自に尺度を決めた。一般的に「ダンジョン・スケール」とも呼ばれる。 成層圏まで到達した太陽光の中で、波長の長い赤い光はオゾンに吸収されやすいため、波長の短い青い光だけがオゾン層を通過する。 その青い光が月面に投影され、青い帯として見える現象が観測されることがある。 この青い帯は「ターコイズフリンジ」(turquoise fringe)とも呼ばれ、月食の本影と半影の境目に現れる。2007年5月4日にドイツで観測された皆既月食時に、月に映る青い光の帯が撮影された。2008年2月13日にアメリカ航空宇宙局(NASA)のサイエンスニュースで、その光は「ターコイズフリンジ」と提唱された。2014年10月4日の月食時にも「ターコイズフリンジ」が見られ、日本で大きな話題となった。 月食時に月から太陽を見ると、地球から見る日食のように、太陽が地球によって隠されるように見えるはずである。2009年2月19日、日本の月周回衛星「かぐや」が世界で初めてこの光景の撮影に成功した。半影からの撮影だったため太陽は完全に隠れなかったが、地球による「ダイヤモンドリング」が観察された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "月食(げっしょく、英語: lunar eclipse)とは、地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のことである。月蝕と表記する場合がある(「食 (天文)#表記」参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "望(満月)の時に起こる。日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "地球から見える月面が本影(地球によって太陽が完全に隠された部分)に入る場合を皆既月食(total eclipse)、一部分だけが本影に入る場合を部分月食(partial eclipse)という。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "月が半影(地球が太陽の一部を隠している部分)に入った状態は半影食(もしくは半影月食、penumbral eclipse)と呼ばれるが、半影に入った月面部分の減光の度合いは注意深く観察しなければ分からない程度であるため、事前の予告なしに肉眼で見ても気がつかない場合も多い。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "月が地球の影によって隠される度合いを食分といい、「(本影の半径+月の視半径-本影の中心と月の中心の距離)÷(月の視直径)」という式で計算される。皆既月食の場合は1以上、部分月食は0 - 1、半影食ならマイナスの値となる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "太陽光のうち、波長の長い赤系の光が地球の大気によって屈折・散乱されて本影の中に入るため、皆既月食でも通常、月は真っ暗にはならず暗い赤色(赤銅色)に見える。しかし火山爆発等で大気中に特に多量の微粒子が浮遊している場合には、月が非常に暗くなり灰色かほとんど見えなくなる。月食時の明るさは後述の「ダンジョンの尺度」(後述)などで表される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、月食の途中の欠け月が昇ってくることを月出帯食といい、その逆に欠けたままの月が沈むことを月没帯食(もしくは月入帯食)という。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "月食が起こるのは太陽・月が黄道・白道の交わる点(月の昇交点・降交点)付近にいる時に限られる。", "title": "頻度" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "月食は多くの場合1年間に2回起こるか起こらない年、3回起こる年もあり21世紀の100年間では合計142回(皆既月食85回、部分月食57回)起こる。一方、日食は最低でも年に2回、最多で5回起こる年もあり21世紀の100年間では合計224回(皆既日食68回、金環食72回、金環皆既食7回、部分日食77回)である。したがって月食の発生頻度は日食より低い。にもかかわらず普通、日食よりも月食の方が目にする機会は多い。これは月が見えてさえいれば月食は地球上のどこからでも観測が可能なのに対し、日食は月の影が地球表面を横切る帯状の限られた地域でしか見ることができないためである。", "title": "頻度" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "月食と日食の頻度に違いが生じる理由は次のように説明できる。地球と太陽がともに内接する巨大な円錐を想定する。月がこの円錐の太陽と反対の部(地球の本影)に入れば月食が生じ、太陽と同方向の部分に入れば日食が生じることになる。この円錐の月軌道付近における半径は月食側が約4460 - 4750km、日食側が約7990 - 8280kmと異なるため月食の発生頻度は日食のそれよりも低くなる。", "title": "頻度" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本の陸上(島嶼部を含む)でも見られた(見られる)日付を部分月食は斜体字、皆既月食は太文字にて記述している。", "title": "頻度" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "皆既月食の時の月面の様子は、地球の大気中の塵の量によって異なる。塵が少ないと、太陽の光が大気中を通過する際の散乱が少なくなり、月面は黄色っぽく明るく見える。逆に、塵が多いと、大気中の散乱が多くなり、月面は暗く見える(大規模な火山噴火があると、大気中の火山灰により、月面が暗くなることが知られている)。フランスの天文学者アンドレ・ダンジョンが20世紀初頃に、月食の明るさを分類するために独自に尺度を決めた。一般的に「ダンジョン・スケール」とも呼ばれる。", "title": "ダンジョンの尺度" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "成層圏まで到達した太陽光の中で、波長の長い赤い光はオゾンに吸収されやすいため、波長の短い青い光だけがオゾン層を通過する。 その青い光が月面に投影され、青い帯として見える現象が観測されることがある。 この青い帯は「ターコイズフリンジ」(turquoise fringe)とも呼ばれ、月食の本影と半影の境目に現れる。2007年5月4日にドイツで観測された皆既月食時に、月に映る青い光の帯が撮影された。2008年2月13日にアメリカ航空宇宙局(NASA)のサイエンスニュースで、その光は「ターコイズフリンジ」と提唱された。2014年10月4日の月食時にも「ターコイズフリンジ」が見られ、日本で大きな話題となった。", "title": "ターコイズフリンジ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "月食時に月から太陽を見ると、地球から見る日食のように、太陽が地球によって隠されるように見えるはずである。2009年2月19日、日本の月周回衛星「かぐや」が世界で初めてこの光景の撮影に成功した。半影からの撮影だったため太陽は完全に隠れなかったが、地球による「ダイヤモンドリング」が観察された。", "title": "月食時に月から見た太陽" } ]
月食とは、地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のことである。月蝕と表記する場合がある。 望(満月)の時に起こる。日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。
{{Redirect|月蝕|その他の月蝕・月食|月食 (曖昧さ回避)}} [[ファイル:Lunar-eclipse-09-11-2003.jpeg|200px|thumb|right|[[2003年]][[11月9日]]に起こった皆既月食]] '''月食'''<ref name="ox"/>(げっしょく、{{Lang-en|lunar eclipse}}<ref name="ox"/>)とは、[[地球]]が[[太陽]]と[[月]]の間に入り、地球の[[影]]が月にかかることによって月が欠けて見える[[現象]]のことである。'''月蝕'''と表記する場合がある(「[[食 (天文)#表記]]」参照)。 望([[満月]])の時に起こる。[[日食]]と違い、月が<!-- [[地平線]]や[[水平線]]より上に -->見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。 == 種類 == [[ファイル:Eclipse lune.jpg|200px|thumb|right|月食の進行の連続写真]] [[ファイル:Solar total eclipse December 10,2011.ogv|thumb|月食の連続写真動画]] 地球から見える月面が[[本影#本影|本影]](地球によって太陽が完全に隠された部分)に入る場合を'''皆既月食'''({{En|total eclipse}})<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202211050000483.html|title=442年ぶり皆既月食中に惑星食、次回は322年後の天体ショー 8日夜、天気よければ各地で|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2022-11-05|accessdate=2022-11-06}}</ref>、一部分だけが本影に入る場合を'''部分月食'''({{En|partial eclipse}})という。 月が[[本影#半影|半影]](地球が太陽の一部を隠している部分)に入った状態は'''半影食'''(もしくは'''半影月食'''、{{En|penumbral eclipse}})と呼ばれるが、半影に入った月面部分の[[減光]]の度合いは注意深く観察しなければ分からない程度であるため、事前の予告なしに[[肉眼]]で見ても気がつかない場合も多い。 月が地球の影によって隠される度合いを'''食分'''といい、「(本影の半径+月の視半径-本影の中心と月の中心の距離)÷(月の視直径)」という式で計算される。皆既月食の場合は1以上、部分月食は0 - 1、半影食ならマイナスの値となる。 [[太陽光]]のうち、[[波長]]の長い赤系の光が[[地球の大気]]によって[[屈折]]・散乱されて本影の中に入るため、皆既月食でも通常、月は真っ暗にはならず暗い赤色([[赤銅 (合金)|赤銅]]色)に見える<ref>「[https://www.asahi.com/articles/DA3S15473940.html 皆既月食の赤銅色 理由は光の性質]」『[[朝日新聞]]』朝刊2022年11月15日(科学・環境面)2022年11月20日閲覧</ref>。しかし[[火山]]爆発等で大気中に特に多量の微粒子が浮遊している場合には、月が非常に暗くなり灰色かほとんど見えなくなる。月食時の明るさは後述の「ダンジョンの尺度」([[#ダンジョンの尺度|後述]])などで表される。 なお、月食の途中の欠け月が昇ってくることを'''月出帯食'''といい、その逆に欠けたままの月が沈むことを'''月没帯食'''(もしくは'''月入帯食''')という。 == 月食の経過 == ;第1接触 :月が地球の本影に入り始めた瞬間。 ;第2接触 :月が地球の本影に完全に入った瞬間。この瞬間が'''中心食'''の始まりとなる。 ;食の最大・食甚 :月の中心と本影錐の中心との角距離が最小となった時点。 ;第3接触 :月が地球の本影から出始めた瞬間。この瞬間が中心食の終わりとなる。 ;第4接触 :月が地球の本影から完全に出た瞬間。 == 頻度 == [[ファイル:Eclipse_Sun_Moon_Earth.jpg|thumb|320px|日食・月食時の「太陽-月-地球」関係図。<br />黒色の範囲が日食・月食を観察できる範囲である。]] 月食が起こるのは太陽・月が[[黄道]]・[[白道]]の交わる点([[月の交点|月の昇交点・降交点]])付近にいる時に限られる。 月食は多くの場合1年間に2回起こるか起こらない年、3回起こる年もあり[[21世紀]]の100年間では合計142回(皆既月食85回、部分月食57回)起こる。一方、[[日食]]は最低でも年に2回、最多で5回起こる年もあり21世紀の100年間では合計224回(皆既日食68回、金環食72回、金環皆既食7回、部分日食77回)である。したがって月食の発生頻度は日食より低い<ref group="注">ただし半影食の86回を含めれば今世紀中に起こる月食の回数は228回となり、日食とほぼ同等の頻度である。</ref>。にもかかわらず普通、日食よりも月食の方が目にする機会は多い。これは月が見えてさえいれば月食は地球上のどこからでも観測が可能なのに対し、日食は月の影が地球表面を横切る帯状の限られた地域でしか見ることができないためである<ref group="注">地球上の1定点で皆既日食が観測可能となるのは300 - 400年に1回といわれている。</ref>。 月食と日食の頻度に違いが生じる理由は次のように説明できる。地球と太陽がともに内接する巨大な[[円錐]]を想定する。月がこの円錐の太陽と反対の部(地球の本影)に入れば月食が生じ、太陽と同方向の部分に入れば日食が生じることになる<ref group="注">月の一部が円錐内に入れば部分月食あるいは部分日食となり、月全体が円錐内に入れば皆既月食あるいは皆既日食または金環日食となる。</ref>。この円錐の[[月の軌道|月軌道]]付近における半径は月食側が約4460 - 4750km<ref group="注">月食側円錐半径の視野角は0°37'38" - 0°45'45"、皆既月食の横緯差限界は±0°22'58" - ±0°29'1"、部分月食の横緯差限界は±0°52'18" - ±1°2'28"。望、すなわち満月の時に月の黄緯がこの範囲内である(月食が生じる)ための太陽の昇交点又は降交点から黄経差限界は皆既月食で±4°15'50" - ±5°23'24"、部分月食で±9°44'58" - ±11°40'10" である。一方、太陽の昇交点からの黄経は1朔望月(満月から次の満月まで)の間に平均で30°40'13"変化する。これは黄経差限界の2倍よりも大きく、1朔望月の間に太陽が昇交点付近の黄経差限界範囲を通り抜けてしまうということが生じ得る。この場合、食の季節であるにもかかわらず月食が起こらないということになる。</ref>、日食側が約7990 - 8280km<ref group="注">日食側円錐半径の視野角は1°9'22" - 1°17'28"、皆既/金環日食の横緯差限界は±0°54'42" - ±1°0'44"、部分日食の横緯差限界は±1°24'2" - ±1°34'12"。朔、すなわち新月の時に月の黄緯がこの範囲内である(日食が生じる)ための太陽の昇交点又は降交点から黄経差限界は皆既/金環日食で±10°11'57" - ±11°20'29"、部分日食で±15°47'13" - ±17°45'26" である。部分日食の黄経差限界範囲は常に太陽の1朔望月間の移動量よりも大きいので食の季節には少なくとも部分日食が1回は生じ、また2回生じることも可能となる。</ref>と異なるため月食の発生頻度は日食のそれよりも低くなる。 ;1年に月食が3回見られた(見られる)年 日本の陸上(島嶼部を含む)でも見られた(見られる)日付を部分月食は斜体字、皆既月食は太文字にて記述している。 :[[1833年]]([[天保]]3年閏) ::''[[1月6日]](天保2年[[11月16日 (旧暦)|閏11月16日]])'' - [[7月2日]](天保3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]。[[日本標準時|日本時間]]:[[7月3日]]([[5月16日 (旧暦)|5月16日]])) - '''[[12月26日]](11月16日。日本時間:[[12月27日]]([[11月17日 (旧暦)|11月17日]]))''' :[[1852年]]([[嘉永]]4年) ::''[[1月7日]](嘉永4年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]])'' - '''[[7月1日]](嘉永5年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]])''' - ''12月26日(11月16日)'' :[[1898年]]([[明治]]31年) ::[[1月8日]]([[日本標準時|日本時間]]:[[1月9日]]) - [[7月3日]](日本時間:[[7月4日]]) - ''[[12月27日]](日本時間:[[12月28日]])'' :[[1917年]]([[大正]]6年) ::'''1月8日''' - 7月4日(日本時間:[[7月5日]]) - '''[[12月28日]]''' :[[1982年]]([[昭和]]57年) ::'''[[1月9日]](日本時間:[[1月10日]])''' - [[7月6日]] - '''[[12月30日]]''' :[[2028年]] ::[[1月12日]] - '''7月6日(日本時間:[[7月7日]])''' - '''[[12月31日]](日本時間:[[2029年]][[1月1日]])''' :[[2094年]] ::''1月1日(日本時間:[[1月2日]])'' - [[6月28日]] - ''[[12月21日]](日本時間:[[12月22日]])'' :日本では他にも[[2010年]]([[平成]]22年)(''1月1日''、''[[6月26日]]''、'''12月21日''')があった。 ;月食がない年 :[[1966年]] - [[1969年]] - [[1980年]] - [[1984年]] - [[1998年]] - [[2002年]] - [[2016年]] - [[2020年]] == 日本での観測 == === 最近見られた月食 === [[ファイル:Lunar eclipse of 2011 December 10.jpg|thumb|right|250px|[[2011年12月10日の月食|2011年12月10日の皆既月食]]]] [[ファイル:Lunar eclipse of 2014 October 8.JPG|thumb|right|250px|2014年10月8日の皆既月食]] [[ファイル:Lunar eclipse of 2018 January 31 (Montage s2).jpg|thumb|right|250px|[[2018年1月31日の月食|2018年1月31日の皆既月食]]]] [[ファイル:2022年11月8日の皆既月食と天王星食.jpg|thumb|right|370px|[[2022年11月8日の月食|2022年11月8日の皆既月食]]と天王星食]] {| class="wikitable" !日付!!種類!!月食現象の詳細説明 |- |[[2000年]][[7月16日]]<ref>[https://web.archive.org/web/20000920074410/http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/acsc/lun_ecl/20000716/le20000716.html 2000年7月16〜17日の皆既月食を見よう] [[厚木市]]子ども科学館(2000年5月14日)2022年11月20日閲覧</ref>||rowspan="2"|皆既||rowspan="6"|&nbsp; |- |[[2001年]][[1月10日]]<ref name="kurashiki">[https://web.archive.org/web/20180117012031/https://www2.city.kurashiki.okayama.jp/lifepark/ksc/tokusyu/le2014/le4.html 日本で見える(見えた)月食の一覧] [[倉敷市|倉敷]]科学センター(2022年11月20日閲覧)</ref> |- |2001年[[7月5日]]<ref>[https://web.archive.org/web/20010620155727/http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/acsc/lun_ecl/20010705/le20010705.html 2001年7月5〜6日の部分月食を見よう] 厚木市子ども科学館(2001年5月25日)2022年11月20日閲覧</ref>||部分 |- |[[2004年]][[5月5日]]<ref name="kurashiki"/>||皆既 |- |[[2005年]][[10月17日]]<ref name="kurashiki"/>||rowspan="3"|部分 |- |[[2006年]][[9月8日]]<ref name="kurashiki"/> |- |[[2007年]][[3月4日]]<ref name="kurashiki"/>||月没帯食 |- |2007年[[8月28日]]<ref name="kurashiki"/>||皆既||月出帯食 |- |[[2008年]][[8月17日]]<ref name="kurashiki"/>||rowspan="3"|部分||rowspan="5"|&nbsp; |- |[[2010年]][[1月1日]]<ref name="kurashiki"/> |- |2010年[[6月26日]]<ref name="kurashiki"/> |- |2010年[[12月21日]]<ref name="kurashiki"/>||rowspan="3"|皆既 |- |[[2011年]][[6月16日]]<ref name="kurashiki"/> |- |2011年[[12月10日]]<ref name="kurashiki"/>||[[2011年12月10日の月食|別項]]参照 |- |[[2012年]][[6月4日]]<ref name="kurashiki"/>||rowspan="2"|部分||rowspan="5"|&nbsp; |- |[[2014年]][[4月15日]]<ref name="kurashiki"/> |- |2014年[[10月8日]]<ref name="kurashiki"/>||rowspan="2"|皆既 |- |[[2015年]][[4月4日]]<ref name="kurashiki"/> |- |[[2017年]][[8月8日]]<ref name="kurashiki"/>||部分 |- |[[2018年]][[1月31日]]||rowspan="3"|皆既||[[2018年1月31日の月食|別項]]参照 |- |2018年[[7月28日]]<ref name="kurashiki"/>||月没帯食 |- |2021年[[5月26日]]<ref name="kurashiki"/>||[[2021年5月26日の月食|別項]]参照 |- |2021年[[11月19日]]||部分||[[2021年11月19日の月食|別項]]参照 |- |[[2022年]][[11月8日]]||皆既||[[2022年11月8日の月食|別項]]参照。 |} === 今後見られる月食 === <!--上段の「最近見られた月食」節移動時には、説明を節に合わせて変更--> {| class="wikitable" !日付!!種類!!月食現象の詳細説明 |- |[[2023年]][[10月29日]]||部分||最大約10%<ref name="kurashiki"/> |- |[[2025年]][[3月14日]]||部分||皆既月食だが、日本では[[北海道]]で部分食のみ見える<ref name="kurashiki"/> |- |2025年[[9月8日]]||皆既||日本全国で観測、皆既は約1時間24分継続<ref name="kurashiki"/> |} == ダンジョンの尺度 == 皆既月食の時の月面の様子は、地球の大気中の塵の量によって異なる。塵が少ないと、太陽の光が大気中を通過する際の散乱が少なくなり、月面は黄色っぽく明るく見える。逆に、塵が多いと、大気中の散乱が多くなり、月面は暗く見える(大規模な火山噴火があると、大気中の火山灰により、月面が暗くなることが知られている)。フランスの天文学者[[アンドレ・ダンジョン]]が[[20世紀]]初頃に、月食の明るさを分類するために独自に尺度を決めた。一般的に「ダンジョン・スケール」とも呼ばれる。 {| class="wikitable" !尺度!!月面の様子 |- |0||非常に暗い月食。月面の中心は見えない。 |- |1||暗い月食。灰色か褐色で、月の細部はわかりづらい。 |- |2||暗い赤または赤錆色の月食。月の中心はとても暗く、周辺部はやや明るい。 |- |3||れんが色の月食。月の縁は明るいかまたは黄色。 |- |4||非常に明るい月食。月の縁は青みがかって非常に明るい。 |} == ターコイズフリンジ == [[ファイル:20221108 LunarEclipse TurquoiseFringe.jpg|サムネイル|ターコイズフリンジが発生した状態を撮影した画像。月の左半分に青い光の帯が写っている。]] [[成層圏]]まで到達した太陽光の中で、波長の長い赤い光は[[オゾン]]に吸収されやすいため、波長の短い青い光だけがオゾン層を通過する。 その青い光が月面に投影され、青い帯として見える現象が観測されることがある。 この青い帯は「ターコイズフリンジ」(turquoise fringe)とも呼ばれ、月食の本影と半影の境目に現れる。2007年5月4日に[[ドイツ]]で観測された皆既月食時に、月に映る青い光の帯が撮影された。2008年2月13日に[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)のサイエンスニュースで、その光は「ターコイズフリンジ」と提唱された。2014年10月4日の月食時にも「ターコイズフリンジ」が見られ、日本で大きな話題となった。 == 月食時に月から見た太陽 == 月食時に月から太陽を見ると、地球から見る日食のように、太陽が地球によって隠されるように見えるはずである。[[2009年]][[2月19日]]、日本の月周回衛星「[[かぐや]]」が世界で初めてこの光景の撮影に成功した。半影からの撮影だったため太陽は完全に隠れなかったが、地球による「[[ダイヤモンド・リング (日食)|ダイヤモンドリング]]」が観察された<ref>[https://www.jaxa.jp/press/2009/02/20090218_kaguya_j.html JAXA - 月周回衛星「かぐや(SELENE)」のハイビジョンカメラ(HDTV)による半影月食時の地球の撮影の成功について] [[宇宙航空研究開発機構]](2009年2月18日)2022年11月20日閲覧</ref>。 == その他 == * 書物における月食の記録は、『[[日本書紀]]』に[[皇極天皇]]二年庚戌朔乙丑(十六日)と[[天武天皇]]九年十一月丁亥(十六日)の2例の記載(ただし前者は日本では観測されるはずのないもの)であった<ref>{{cite journal|url=https://www.nao.ac.jp/contents/about-naoj/reports/report-naoj/p145.pdf|title=日本書紀天文言己録の信頼性|work=[[国立天文台]]報|accessdate=2022-11-13}}</ref>。 * [[鎌倉時代]]、[[九条兼実]]の日記『[[玉葉]]』では「殊に慎むべき」として祈念するような記載がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://weathernews.jp/s/topics/201801/260095/|title=【中世日本の月食観】月食が怖かった!?|work=[[ウェザーニューズ|ウェザーニュース]]|date=2018-01-26|accessdate=2022-11-13}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=湯浅吉美 |date=2010-12 |url=https://saigaku.repo.nii.ac.jp/records/589 |title=中世びとの月蝕観 : 『玉葉』と『吾妻鏡』の記事から見て |journal=埼玉学園大学紀要. 人間学部篇 |ISSN=13470515 |publisher=埼玉学園大学 |volume=10 |pages=63-76 |CRID=1050282812975086848 |accessdate=2023-12-08}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="ox">{{Cite book|和書 |author = |year = |title = オックスフォード天文学辞典 |edition = 初版第1刷 |publisher = [[朝倉書店]] |page = 131 |isbn = 4-254-15017-2 }} </ref> }} == 関連項目 == {{Commonscat|Lunar eclipses}} *[[日食]] *[[食 (天文)]] *[[サロス周期]] *[[黄道]] *[[白道]] *[[朔]] *[[交点 (天文)]] *[[2011年12月10日の月食]] *[[2018年1月31日の月食]] == 外部リンク == *[https://www.nao.ac.jp/astro/basic/lunar-eclipse.html 月食とは] - [[国立天文台]] *[https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/eclipsex_l.cgi 月食各地予報] - 国立天文台 *[https://www.city.atsugi.kanagawa.jp/soshiki/seishonenka/kagakukan/astro/gesshoku/whatis_lun_ecl.html 月食のページ] - [[厚木市子ども科学館]]の公式[[ウェブサイト|サイト]]内ページ *[https://kurakagaku.jp/tokusyu/le2022/le2.html 月食の基礎知識] - 倉敷科学センター {{月}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けつしよく}} [[Category:月]] [[Category:月食|*]] [[Category:天文学に関する記事]]
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微分幾何学
数学における微分幾何学(びぶんきかがく、ドイツ語: Differentialgeometrie、英語:differential geometry)とは微分を用いた幾何学の研究である。また、可微分多様体上の微分可能な関数を取り扱う数学の分野は微分位相幾何学(びぶんいそうきかがく、ドイツ語: Differentialtopologie、英語: differential topology)とよばれることがある。微分方程式の研究から自然に発生したこれらの分野は互いに密接に関連しており、特に一般相対性理論をはじめとして物理学に多くの応用がある。これらは可微分多様体についての幾何学を構成しているが、力学系の視点からも直接に研究される。 微分幾何学における基本的な問題意識は多様体上の微分である。これには多様体、接束、余接束、外微分、p-次元部分多様体上のp-形式の積分、ストークスの定理、ウェッジ積、リー微分などの研究が含まれることになる。これらはみな多変数の微積分と関連しているが、幾何学的な理論に応用するために特定の座標系によらずに意味を持つような形で定式化されなければならない。微分幾何学に特徴的な概念によって、二階の導関数の持つ幾何学的な性質、特に曲率の多くの側面が体現されるといえるだろう。 微分位相幾何学では多様体上の滑らかな構造のみに起因するような構造や性質が調べられる。滑らかな多様体は付加的な幾何構造を付与されてしまった多様体よりも柔軟な対象である。付加的な構造は微分位相幾何学的には可能な変形や同値関係の存在に対する障害になることがある。例えば体積やリーマン曲率は一つの滑らかな多様体上の異なった幾何構造を区別する不変量になりうる。つまり、多様体を滑らかに「引き延ばす」ことができるとしてもそれによって空間が変形されてしまい曲率や体積が影響を受けるということがありうる。 逆に、滑らかな多様体は位相多様体と比較すればより厳しい構造をもっている。ある種の位相多様体は滑らかな構造を持ち得ない(ドナルドソンの定理)し、ある種のものは相異なる複数の滑らかな構造を持ちうる(例えば異種球面)。滑らかな多様体から得られる構成のうち、接束のように(追加の考察をすることで)位相多様体に対しても実現可能なものもあるが、そうでないものもある。 19世紀の初めから中頃まで、微分幾何は外在的な視点に立って研究されていた。外在的な視点とは、(曲面としてはじめから三次元の空間の中に実現されているものを考えるように)曲線や曲面を、より高い次元のユークリッド空間の中におかれたものとして見ることである。特に単純な部分は曲線の微分幾何学に関する結果である。 これに対し、リーマンによる研究を基点として、問題とする幾何学的対象を一個の自立したものとして考え、その「外に出る」ことを要請しない、内在的な視点が発展してきた。この内在的な視点は、外在的な視点に比べ、より柔軟なものである。例えば相対性理論においては、時空(その「外側」の意味は全く明らかではない)を外在的な方法によって自然に捉えられないため、内在的な方法は便利である。しかし内在的な視点のもとでは曲率や接続などの中心的な概念を定義することが見かけ上困難になるという代償を払わなければならない。 これら二つの視点は融和させることが可能であり、外在的な幾何とは、内在的に定められた幾何学的対象に付加的な構造を付与することだとも考えられる。ナッシュの埋め込み定理も参照のこと。 リーマン幾何学では、滑らかな多様体に線素の長さの概念を付け加えてごく微小な範囲ではユークリッド空間のような構造をあたえられたリーマン多様体が主要な研究対象となる。リーマン多様体上では関数の勾配、ベクトル場の発散や曲線の長さなど様々なユークリッド幾何の概念が(大域的な対称性を落とすことによって)一般化される。リーマン曲率テンソルがリーマン多様体の各点に対して定まり、これによって多様体がどれだけ平坦かをはかることができる。 リーマン多様体の概念をさらに一般化し、各点での接ベクトル空間にノルムが定義されている状況を考えるフィンスラー幾何学が得られる。 シンプレクティック幾何学では、シンプレクティック形式(つまり、非退化で反対称な2次閉形式)があたえられたシンプレクティック多様体(偶数次元でなければならない)が主要な研究対象になる。リーマン幾何学と異なり、次元が同じシンプレクティック多様体の局所的な構造はすべて同じになり(ダルブーの定理)、したがって本質的に問題になるのは大域的な構造だということになる。 複素微分幾何では複素多様体が研究される。概複素構造とよばれる接ベクトル場準同型(つまり(1, 1) 型のテンソル)J: TM → TM でその自乗が -1 倍作用であるようなものを持つ実多様体 M は概複素多様体とよばれる。概複素多様体のうちで概複素構造 J の「ねじれ」を表すNijenhuisテンソル NJ が消えているようなものは複素多様体とよばれる。この条件は正則なアトラスの存在と同値になる。 複素多様体 (M, J) に対し、さらにリーマン計量g で概複素構造 J と両立するものを考え、g の「ねじれ」ω(X, Y) = g(JX, Y) が閉形式になっているならば (M, J, g) はケーラー多様体とよばれる。ケーラー多様体は特に複素多様体であり、またシンプレクティック多様体にもなっている。滑らかな複素代数多様体として様々なケーラー多様体の例があたえられる。 マキシム・コンツェビッチによるミラー対称性の定式化からはシンプレクティック幾何学と複素幾何学の間に対応がつくことが予想されている。
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数学における微分幾何学とは微分を用いた幾何学の研究である。また、可微分多様体上の微分可能な関数を取り扱う数学の分野は微分位相幾何学とよばれることがある。微分方程式の研究から自然に発生したこれらの分野は互いに密接に関連しており、特に一般相対性理論をはじめとして物理学に多くの応用がある。これらは可微分多様体についての幾何学を構成しているが、力学系の視点からも直接に研究される。
{{出典の明記|date=2011年11月}} 数学における'''微分幾何学'''(びぶんきかがく、[[ドイツ語]]: Differentialgeometrie、[[英語]]:differential geometry)とは[[微分]]を用いた[[幾何学]]の研究である。また、[[多様体|可微分多様体]]上の微分可能な[[関数 (数学)|関数]]を取り扱う数学の分野は'''微分位相幾何学'''(びぶんいそうきかがく、[[ドイツ語]]: Differentialtopologie、[[英語]]: differential topology)とよばれることがある。[[微分方程式]]の研究から自然に発生したこれらの分野は互いに密接に関連しており、特に[[一般相対性理論]]をはじめとして[[物理学]]に多くの応用がある。これらは可微分多様体についての幾何学を構成しているが、[[力学系]]の視点からも直接に研究される。 == 微分幾何学の道具立て == 微分幾何学における基本的な問題意識は''多様体上の微分''である。これには[[多様体]]、[[接束]]、[[余接束]]、[[微分形式#外微分|外微分]]、p-次元部分多様体上の[[微分形式|p-形式]]の積分、[[一般化されたストークスの定理|ストークスの定理]]、[[ウェッジ積]]、[[リー微分]]などの研究が含まれることになる。これらはみな多変数の微積分と関連しているが、幾何学的な理論に応用するために特定の[[座標系]]によらずに意味を持つような形で定式化されなければならない。微分幾何学に特徴的な概念によって、二階の[[導関数]]の持つ幾何学的な性質、特に[[曲率]]の多くの側面が体現されるといえるだろう。 == 微分位相幾何学 == 微分位相幾何学では多様体上の滑らかな構造のみに起因するような構造や性質が調べられる。滑らかな多様体は付加的な幾何構造を付与されてしまった多様体よりも柔軟な対象である。付加的な構造は微分位相幾何学的には可能な変形や[[同値関係]]の存在に対する障害になることがある。例えば[[体積]]や[[リーマン曲率テンソル|リーマン曲率]]は一つの滑らかな多様体上の異なった幾何構造を区別する[[不変量]]になりうる。つまり、多様体を滑らかに「引き延ばす」ことができるとしてもそれによって空間が変形されてしまい曲率や体積が影響を受けるということがありうる。 逆に、滑らかな多様体は[[位相多様体]]と比較すればより厳しい構造をもっている。ある種の位相多様体は滑らかな構造を持ち得ない([[ドナルドソンの定理]])し、ある種のものは相異なる複数の滑らかな構造を持ちうる(例えば[[異種球面]])。滑らかな多様体から得られる構成のうち、接束のように(追加の考察をすることで)位相多様体に対しても実現可能なものもあるが、そうでないものもある。 == 内在的な定式化と外在的な定式化 == [[19世紀]]の初めから中頃まで、微分幾何は外在的な視点に立って研究されていた。外在的な視点とは、([[曲面]]としてはじめから三次元の空間の中に実現されているものを考えるように)[[曲線]]や曲面を、より高い次元の[[ユークリッド空間]]の中におかれたものとして見ることである。特に単純な部分は曲線の微分幾何学に関する結果である。 これに対し、[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]による研究を基点として、問題とする幾何学的対象を一個の自立したものとして考え、その「外に出る」ことを要請しない、内在的な視点が発展してきた。この内在的な視点は、外在的な視点に比べ、より柔軟なものである。例えば相対性理論においては、[[時空]](その「外側」の意味は全く明らかではない)を外在的な方法によって自然に捉えられないため、内在的な方法は便利である。しかし内在的な視点のもとでは曲率や[[接続 (幾何学)|接続]]などの中心的な概念を定義することが見かけ上困難になるという代償を払わなければならない。 これら二つの視点は融和させることが可能であり、外在的な幾何とは、内在的に定められた幾何学的対象に付加的な構造を付与することだとも考えられる。[[ナッシュ埋め込み定理|ナッシュの埋め込み定理]]も参照のこと。 == 微分幾何学の分野 == === リーマン幾何学 === {{Main|リーマン幾何学}} リーマン幾何学では、滑らかな多様体に線素の長さの概念を付け加えてごく微小な範囲ではユークリッド空間のような構造をあたえられたリーマン多様体が主要な研究対象となる。リーマン多様体上では関数の[[勾配 (ベクトル解析)|勾配]]、ベクトル場の[[発散 (ベクトル解析)|発散]]や曲線の長さなど様々なユークリッド幾何の概念が(大域的な対称性を落とすことによって)一般化される。リーマン曲率テンソルがリーマン多様体の各点に対して定まり、これによって多様体がどれだけ平坦かをはかることができる。 リーマン多様体の概念をさらに一般化し、各点での接ベクトル空間にノルムが定義されている状況を考える[[フィンスラー幾何学]]が得られる。 === シンプレクティック幾何学 === {{Main|シンプレクティック幾何学}} シンプレクティック幾何学では、[[シンプレクティック形式]](つまり、非退化で反対称な2次閉形式)があたえられた[[シンプレクティック多様体]](偶数次元でなければならない)が主要な研究対象になる。[[リーマン幾何学]]と異なり、次元が同じシンプレクティック多様体の局所的な構造はすべて同じになり([[ダルブーの定理 (微分幾何学)|ダルブーの定理]])、したがって本質的に問題になるのは大域的な構造だということになる。 === 複素幾何学=== {{Main|複素幾何学}} 複素微分幾何では[[複素多様体]]が研究される。概複素構造とよばれる接ベクトル場準同型(つまり(1, 1) 型のテンソル)J: TM &rarr; TM でその自乗が -1 倍作用であるようなものを持つ実多様体 M は[[概複素多様体]]とよばれる。概複素多様体のうちで概複素構造 J の「ねじれ」を表すNijenhuisテンソル N<sub>J</sub> が消えているようなものは複素多様体とよばれる。この条件は正則なアトラスの存在と同値になる。 複素多様体 (M, J) に対し、さらにリーマン計量g で概複素構造 J と両立するものを考え、g の「ねじれ」&omega;(X, Y) = g(JX, Y) が閉形式になっているならば (M, J, g) は[[ケーラー多様体]]とよばれる。ケーラー多様体は特に複素多様体であり、またシンプレクティック多様体にもなっている。滑らかな複素代数多様体として様々なケーラー多様体の例があたえられる。 [[マキシム・コンツェビッチ]]による[[ミラー対称性 (弦理論)|ミラー対称性]]の定式化からはシンプレクティック幾何学と複素幾何学の間に対応がつくことが予想されている。 == 関連項目 == * [[中島啓]] * [[古典力学]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひふんきかかく}} [[Category:微分幾何学|*]] [[Category:数学に関する記事]]
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2023-07-06T00:50:30Z
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槇村さとる
槇村 さとる(まきむら さとる、1956年10月3日 - )は、日本の漫画家。東京都葛飾区出身。東京都立工芸高等学校工芸デザイン科卒業。女性。 思春期に父親から性的虐待を受け、そのトラウマから逃れるために漫画を描き始める。1973年、高校1年で『別冊マーガレット』(集英社)に掲載の「白い追憶」でデビュー。1978年に同誌でフィギュアスケートを題材にした『愛のアランフェス』を連載。1980年代には、ジャズダンスを題材にした『ダンシング・ゼネレーション』、アイスダンスを題材にした『白のファルーカ』などを発表して活躍。 高校卒業後、メーカーに就職したが、漫画の原稿料が給料を上回ったので退職し専業作家になる。1990年代には『ヤングユー』(集英社)など、大人の女性向け漫画誌に活動の舞台を移す。他に代表作として、テレビドラマ化された『イマジン』『おいしい関係』『Real Clothes』など。 父親から受けた虐待のトラウマを35歳で克服し、その経験を綴った自伝的エッセイ『イマジンノート』を2002年に出版。選択的夫婦別姓制度導入がなされないため、42歳で性人類学者のキム・ミョンガンと事実婚。愛知淑徳大学にて非常勤講師として年1回教鞭をとっている。 マーガレットコミックスから刊行されたものより、集英社にて順次漫画文庫化が進んでいる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "槇村 さとる(まきむら さとる、1956年10月3日 - )は、日本の漫画家。東京都葛飾区出身。東京都立工芸高等学校工芸デザイン科卒業。女性。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "思春期に父親から性的虐待を受け、そのトラウマから逃れるために漫画を描き始める。1973年、高校1年で『別冊マーガレット』(集英社)に掲載の「白い追憶」でデビュー。1978年に同誌でフィギュアスケートを題材にした『愛のアランフェス』を連載。1980年代には、ジャズダンスを題材にした『ダンシング・ゼネレーション』、アイスダンスを題材にした『白のファルーカ』などを発表して活躍。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "高校卒業後、メーカーに就職したが、漫画の原稿料が給料を上回ったので退職し専業作家になる。1990年代には『ヤングユー』(集英社)など、大人の女性向け漫画誌に活動の舞台を移す。他に代表作として、テレビドラマ化された『イマジン』『おいしい関係』『Real Clothes』など。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "父親から受けた虐待のトラウマを35歳で克服し、その経験を綴った自伝的エッセイ『イマジンノート』を2002年に出版。選択的夫婦別姓制度導入がなされないため、42歳で性人類学者のキム・ミョンガンと事実婚。愛知淑徳大学にて非常勤講師として年1回教鞭をとっている。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "マーガレットコミックスから刊行されたものより、集英社にて順次漫画文庫化が進んでいる。", "title": "作品リスト" } ]
槇村 さとるは、日本の漫画家。東京都葛飾区出身。東京都立工芸高等学校工芸デザイン科卒業。女性。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 槇村 さとる | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1956|10|3}}<ref name="nataprof" /> | 生地 = {{JPN}} [[東京都]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = | 職業 = | 活動期間 = [[1973年]] - | ジャンル = [[少女漫画]]、[[女性漫画]] | 代表作 = | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = [http://www.hh.iij4u.or.jp/%7Efcs/ 槇村さとる公式ページ 人生の穴] }} '''槇村 さとる'''(まきむら さとる、[[1956年]][[10月3日]]<ref name="nataprof">{{Cite web|和書|url = https://natalie.mu/comic/artist/2473 | title = コミックナタリー - 槇村さとるのプロフィール | publisher = 株式会社ナターシャ | accessdate = 2013-03-02 }}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]{{R|mangapedia}}。[[東京都]]<ref name="nataprof" />[[葛飾区]]出身。[[東京都立工芸高等学校]]工芸デザイン科卒業。[[女性]]<ref name="mangapedia">{{Cite web|和書|url=https://mangapedia.com/槇村さとる-zjm99qgep|title=槇村 さとる(漫画家)|website=マンガペディア|accessdate=2022-01-03}}</ref>。 == 来歴・人物 == 思春期に父親から[[性的虐待]]を受け、その[[トラウマ]]から逃れるために漫画を描き始める<ref name=zenrosai>[http://www.zenrosai.coop/kurashi/osusume/turning_point/11.php ターニングポイント「槇村さとる」]全国労働者共済生活協同組合連合会「暮らしのお役立ち情報 今月の生きるヒント」</ref>。[[1973年]]、高校1年で『[[別冊マーガレット]]』([[集英社]])に掲載の「白い追憶」でデビュー<ref name="nataprof" /><ref name=zenrosai/>。[[1978年]]に同誌で[[フィギュアスケート]]を題材にした『[[愛のアランフェス]]』を連載。[[1980年代]]には、[[ジャズダンス]]を題材にした『[[ダンシング・ゼネレーション]]』、[[アイスダンス]]を題材にした『白のファルーカ』などを発表して活躍。 高校卒業後、メーカーに就職したが、漫画の原稿料が給料を上回ったので退職し専業作家になる<ref name=zenrosai/>。[[1990年代]]には『[[ヤングユー]]』(集英社)など、大人の女性向け漫画誌に活動の舞台を移す。他に代表作として、[[テレビドラマ]]化された『[[イマジン (漫画)|イマジン]]』『[[おいしい関係]]』『[[Real Clothes]]』など。 父親から受けた虐待のトラウマを35歳で克服し、その経験を綴った自伝的エッセイ『イマジンノート』を2002年に出版<ref name=zenrosai/>。選択的[[夫婦別姓]]制度導入がなされないため、42歳で性人類学者の[[キム・ミョンガン]]と[[事実婚]]。[[愛知淑徳大学]]にて[[非常勤講師]]として年1回教鞭をとっている。 == 作品リスト == === 書籍 === マーガレットコミックスから刊行されたものより、集英社にて順次漫画文庫化が進んでいる。 ;[[マーガレットコミックス]]([[集英社]]) * 放課後(1977年5月20日) * ディスコ・ベイビー(1978年1月20日) * 青春志願(1978年6月20日) * 氷のミラージュ(1979年2月20日) * [[愛のアランフェス]](1979年6月30日 - 1980年11月、全7巻) * クリスタル・レイン(『氷のミラージュ』収録) * 青春志願-明日のヒーロー(1981年5月) * 鏡の中のアリス(1982年1月30日) * [[ダンシング・ゼネレーション]](1982年3月30日 - 1982年11月30日、全4巻) * [[N★Yバード]](1983年 - 1984年、全3巻) ※『ダンシング・ゼネレーション』の続編的コミック。 * スキャンダル8 1/2(1984年6月) * フット・ステップ(1985年) * [[ダイヤモンド・パラダイス]](1984年11月 - 1985年4月、全3巻) * しなやかに夜は踊る(1986年) * 半熟革命(1986年、全3巻) * ベルベット・アーミー(1987年、全2巻) * 白のファルーカ(1987年 - 1989年、全8巻) * NGダンディー・OKレディー(1988年) * [[まみあな四重奏団]](1988年 - 1989年) * ピーナッツ戦線(1989年) * 勝手にしやがれ(1990年) * 赤とうがらし物語(1990年) * コクーン荘1x1(1991年) * シンパシー-失われたささやき(1991年) * ラブ・ストーリー19XX(1991年) * ダブルヴィジョン(1992年) * クレヨンの王様(1992年) * フェイク(1992年) * God Bless You(1993年) * うさぎ(1993年) * 華のなまえ(1993年) * YES!(2012年、全3巻) * モーメント 永遠の一瞬(『[[Cocohana]]』2014年3月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/108653|title=槇村さとるが描く女子フィギュアの世界、Cocohanaで開幕|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2014-01-28|accessdate=2022-01-03}}</ref> - 2024年1月号<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-11-28|title=CONTENTS|journal =Cocohana|volume=2024年1月号|publisher = 集英社}}目次より。</ref>、既刊19巻) ;YOUNG YOUコミックス(集英社) * ピタゴラスの定理(1992年) * [[おいしい関係]](1993年 - 2000年、全16巻) * [[イマジン (漫画)|イマジン]](1994年 - 1999年、全11巻) * ボレロ(1998年) * お天気予報(2000年) * ヒューマンステップス(2000年) * imagine29(2000年 - 2001年、全3巻) * [[Do Da Dancin'!]](2001年 - 2005年、全9巻) * 恋のたまご(2002年 - 2004年、全4巻) ;[[クイーンズコミックス]](集英社) * BELIEVE(2004年 - 2006年、全7巻) * ヒロインの条件(2006年) * [[Real Clothes]](2007年 - 2011年、全13巻) ;OFFICE YOUコミックス(集英社) * [[Do Da Dancin'!|ドゥ ダ ダンシン!ヴェネチア国際編]](2007年 - 2013年、全13巻)※ヤングユーコミックス『Do Da Dancin'!』の続編 ;その他単行本 * 人生の穴 ときどき落ちても大丈夫-槇村さとる対談集(2005年、集英社) * イマジン・ノート(2002年、集英社) * ふたり歩きの設計図(2003年、集英社) * あなた、今、幸せ?(2005年、集英社、キム ミョンガンと共著) * スタイル・ノート(2006年、[[幻冬舎]]) * Do Da Dancin'!バレエエッセンス 槇村さとるに夢中(2007年、集英社) * おとな養成所(2010年、[[光文社]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === --> <!-- {{Reflist|group=注}} --> === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://www.hh.iij4u.or.jp/%7Efcs/ |title=人生の穴(槇村さとる公式ホームページ)|date=20160305101204}} * [https://www.asahi.com/articles/ASP1T6V65P1NUZVL002.html 漫画家辞めようと…更年期の不調、槇村さとるさんの場合(朝日新聞記事2021年1月27日)] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:まきむら さとる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のマンガ・アニメ教育者]] [[Category:愛知淑徳大学の教員]] [[Category:東京都立工芸高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
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やまだないと
やまだ ないと(1965年10月19日 - )は、日本の漫画家。佐賀県唐津市出身。女性。初期のペンネームは山田 朝子(やまだ あさこ)、別のペンネームに加賀 マヒル(かが マヒル)がある。 代表作に『東京座』、『コーデュロイ』、『西荻夫婦』、映画化もされた『フレンチドレッシング』、『L'amant ラマン』、『王様とボク』などがある。 九州デザイナー学院放送映画学科卒業。山田朝子の名で少女漫画家として活動した後、青年誌に活動の場を移し、1987年、やまだないとのペンネームで『週刊ヤングマガジン』にて「キッス」でデビュー。1996年より、画材としてMacを使い始める。1990年代後半から『COMIC CUE』、『マンガ・エロティクス』、『FEEL YOUNG』などの雑誌で活動。 2021年5月8日から京都のトランスポップギャラリーにて個展「BAD GIRLS」が開催された。同年10月23日から東京都阿佐ヶ谷のギャラリーのVOIDにて、個展「放蕩娘」を開催。 新装版・他社版などは省略した。
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やまだ ないとは、日本の漫画家。佐賀県唐津市出身。女性。初期のペンネームは山田 朝子、別のペンネームに加賀 マヒルがある。 代表作に『東京座』、『コーデュロイ』、『西荻夫婦』、映画化もされた『フレンチドレッシング』、『L'amant ラマン』、『王様とボク』などがある。
{{Infobox 漫画家 |名前 = やまだ ないと |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1965|10|19}} |生地 = [[佐賀県]]・[[唐津市]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = |活動期間 = 1987年 - |ジャンル = |代表作 = |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''やまだ ないと'''([[1965年]][[10月19日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[佐賀県]][[唐津市]]出身。[[女性]]。初期の[[ペンネーム]]は'''山田 朝子'''(やまだ あさこ)、別のペンネームに'''加賀 マヒル'''(かが マヒル)がある。 代表作に『東京座』、『コーデュロイ』、『西荻夫婦』<ref>[http://morning.moae.jp/lineup/37 ビアティチュード / やまだないと - モーニング公式サイト - モアイ](2021年1月11日閲覧)</ref>、映画化もされた『[[フレンチドレッシング (映画)|フレンチドレッシング]]』、『[[L'amant ラマン]]』、『[[王様とボク]]』などがある。 == 来歴 == [[九州デザイナー学院]]放送映画学科卒業。山田朝子の名で[[少女漫画]]家として活動した後、青年誌に活動の場を移し、1987年、やまだないとのペンネームで『[[週刊ヤングマガジン]]』にて「[[キッス (漫画)|キッス]]」でデビュー。1996年より、画材として[[Macintosh|Mac]]を使い始める<ref>[https://natalie.mu/comic/artist/1754 やまだないと - コミックナタリー](2021年1月11日閲覧)</ref>。[[1990年代]]後半から『[[COMIC CUE]]』、『[[マンガ・エロティクス]]』、『[[FEEL YOUNG]]』などの雑誌で活動。 2021年5月8日から京都のトランスポップギャラリーにて個展「BAD GIRLS」が開催された<ref>{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/427171|title=やまだないとが「BAD GIRLS」描く個展、京都トランスポップギャラリーで開催|date=2021-05-08|accessdate=2021-05-08}}</ref>。同年10月23日から東京都阿佐ヶ谷のギャラリーのVOIDにて、個展「放蕩娘」を開催<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/450298|title=やまだないとの個展「放蕩娘」阿佐ヶ谷で、描き下ろし作品の展示販売やグッズも|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-10-23|accessdate=2021-10-23}}</ref>。 == 作品リスト == === 主な連載作品 === * [[キッス (漫画)|キッス]](1990年、[[週刊ヤングマガジン]])- 同年[[講談社]]より全2巻 * [[42℃物語]](1991年、[[週刊ヤングマガジン#ヤングマガジン海賊版|ヤングマガジン増刊海賊版]])- 同年講談社より全1巻 * チャージ(1992年、[[狩撫麻礼]]原作、[[コミックジャングル]])- 同年[[ワニブックス]]より全2巻 * [[王様とボク]](1992年、[[週刊ヤングサンデー]])- 同年[[小学館]]より全1巻 * ヤング・アンド・ティアーズ(1993-94年、[[コミックスコラ]])- 1993-94年、[[スコラ]]より全3巻 * しましまのぶちぶち(1994-95年、[[どーぶつくん]])- 1997年、[[朝日ソノラマ]]より全1巻 * [[42℃物語]](1995年、[[ミスターマガジン]])- 同年講談社より全1巻 ※1991年作とは別作品 * [[L'amant ラマン]](1995-96年、[[漫画アクション|WEEKLY漫画アクション]])- 1997年、[[双葉社]]より全1巻 * エロマラ(1996年、[[Qyar Lovely!]])- 1997年、[[イースト・プレス]]より『ero*mala』の題名で単行本化 * ビューティフル・ワールド(1998-99年、[[CUTiE Comic]]、[[FEEL YOUNG]])- 2000年、[[祥伝社]]より全1巻 * 西荻夫婦(2000-01年、FEEL YOUNG)- 2001年、祥伝社より全1巻 * フィガロ(2003-2005年、[[西田俊也]]原作、FEEL YOUNG)- 未単行本化 * お針子マチルド(2006年- 、FEEL YOUNG)- 未単行本化 === 上記作品以外の単行本 === * ピース!(1986年、[[マーガレット・レインボー・コミックス]]、[[集英社]]) ※山田朝子名義 * 恋に似ている(1994年、[[FEEL YOUNG]]、祥伝社) * フレンチドレッシング(1995年、[[漫画アクション#レーベル|アクションコミックス]]、双葉社) * さよなら おやすみ またあした(1996年、[[角川書店]]) * MIOU MIOU ミウミウ(1998年、[[ぶんか社]]) * バイエル[太陽の下の18歳](1999年、[[太田出版]]) * バイエル[なつびより](1999年、太田出版) * ガールフレンズ(1999年、[[竹書房]]) * 東京座(1999年、[[飛鳥新社]]) * コーデュロイ(2000年、ぶんか社) * FAXPRESS (2000年5月、[[三好銀]]共著、竹書房) * 傷だらけの天使 (2000年、[[市川森一]]原案・西田俊也脚本、[[辰巳出版]]) * Yの思い出(2001年9月、[[CUE COMICS]]、イースト・プレス) * イはイチゴのイ(2001年、太田出版) * ポルノ青春狂走曲(2002年10月、太田出版) * Girl Friday(2002年10月、祥伝社) * コーヒーアンドシガレット(2005年3月、祥伝社) * ソラミミ(2005年5月、飛鳥新社) * ペリカン通り(2005年6月、飛鳥新社) * ボーイフレンド 男の子じゃないとだめなんだもの(2006年12月、[[ディスカヴァー・トゥエンティワン]]) * ハルヒマヒネマ(2008年10月、講談社) * ビアティチュードBEATITUDE 1(2008年10月、講談社) * 家族生活(2009年5月、小学館クリエイティブ) 新装版・他社版などは省略した。 === その他 === * パリの友達(1999年、[[関口涼子|ナツヨウコ]]共著、[[KKベストセラーズ]]) - [[パリ]]のガイド本 * 文藝別冊やまだないと総特集(2004年3月、河出書房新社) ISBN 4309976751 : 『家族生活』を収録。 * [[プリンセス プリンセス]]「[[プリ2 〜PRINCESS PRINCESS BEST OF BEST〜]]」(2006年3月8日)ジャケットイラスト * メールマガジン「コーヒー&シガレッチョ」エッセイ、写真など * 子宮の記憶(2013年、[[島田佳奈]]著、ソニー・デジタルエンタテイメント) == 脚本作品 == === テレビ番組 === * 出会いのストーリー(2001-2003年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)- 2002年8月分 * [[私立探偵 濱マイク]](2002年7月-9月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系)- 第10話 == 映像化作品 == === 映画 === * [[フレンチドレッシング (映画)|フレンチドレッシング]](1998年、[[斎藤久志]]監督) * [[L'amant ラマン]](2004年、[[廣木隆一]]監督) * [[王様とボク]](2012年、[[前田哲]]監督) === オリジナルビデオ === * エリ 従姉弟関係(2003年)- 原作:『いとこ同士』(『恋に似ている』収録) * 天使の病ひ(2003年)- 原作:『エロマラ』 == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|naito_stylo}} * {{Note.com|yamadanaito}} * {{マンガ図書館Z作家|4783}} * [https://web.archive.org/web/19991002030604/http://www.neoplan.co.jp/nuit/ やまだないと][https://web.archive.org/web/20070812014506/http://www.nuit.jp/] - 旧ホームページ {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やまた ないと}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:佐賀県出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]]
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まついなつき
まつい なつき(1960年7月1日 - 2020年1月21日)は、日本の漫画家、エッセイスト、占い師、占い講師。ライター、漫画家としての活動とともに、企画、編集といった出版の仕事にも携わった。 本名は松井なつき(読み;同じ)(結婚してから元夫と別れる迄は町田なつき) 東京都新宿区生まれ、北海道育ち。16歳で東京に戻り、17歳より同人雑誌活動を始め漫画専門誌(旧)『ぱふ』にてデビュー。1979年にはエロ劇画誌の『漫画エロジェニカ』にH系のギャグ漫画を執筆、「かるめら姫」を名乗る本人がおかっぱにぶかぶかのパンツ一つの姿で描かれていた。 3児の母であり、出産や育児をテーマにした著書が多数ある。1994年に出版された「笑う出産」は60万部のベストセラーであり、代表作。 2002年頃より、西洋占星術・タロット・絵画心理分析・夢分析などの初心者向け講座を開講し、個人鑑定や占い記事の執筆・監修等の活動を行った。 2008年10月に、中野ブロードウェイ内に占い店舗「中野トナカイ」を開店させ、様々な占い師とフレキシブルな営業をした。 元夫はカメラマンの町田仁志。 2020年1月21日、脳梗塞のため東京都中野区内の病院で死去。翌22日に息子3人がまつい本人のTwitterで死去を公表した。59歳没。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "まつい なつき(1960年7月1日 - 2020年1月21日)は、日本の漫画家、エッセイスト、占い師、占い講師。ライター、漫画家としての活動とともに、企画、編集といった出版の仕事にも携わった。 本名は松井なつき(読み;同じ)(結婚してから元夫と別れる迄は町田なつき)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京都新宿区生まれ、北海道育ち。16歳で東京に戻り、17歳より同人雑誌活動を始め漫画専門誌(旧)『ぱふ』にてデビュー。1979年にはエロ劇画誌の『漫画エロジェニカ』にH系のギャグ漫画を執筆、「かるめら姫」を名乗る本人がおかっぱにぶかぶかのパンツ一つの姿で描かれていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "3児の母であり、出産や育児をテーマにした著書が多数ある。1994年に出版された「笑う出産」は60万部のベストセラーであり、代表作。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2002年頃より、西洋占星術・タロット・絵画心理分析・夢分析などの初心者向け講座を開講し、個人鑑定や占い記事の執筆・監修等の活動を行った。 2008年10月に、中野ブロードウェイ内に占い店舗「中野トナカイ」を開店させ、様々な占い師とフレキシブルな営業をした。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "元夫はカメラマンの町田仁志。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2020年1月21日、脳梗塞のため東京都中野区内の病院で死去。翌22日に息子3人がまつい本人のTwitterで死去を公表した。59歳没。", "title": "来歴" } ]
まつい なつきは、日本の漫画家、エッセイスト、占い師、占い講師。ライター、漫画家としての活動とともに、企画、編集といった出版の仕事にも携わった。 本名は松井なつき(読み;同じ)(結婚してから元夫と別れる迄は町田なつき)
{{Infobox 漫画家 | 名前 = まつい なつき | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = [[1960年]][[7月1日]] | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[新宿区]] | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1960|07|01|2020|01|21}} | 没地 = {{JPN}}・東京都[[中野区]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]]<br />[[随筆家|エッセイスト]]<br />[[占い]]師<br />占い講師<br />[[著作家|ライター]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1977年]] - [[2020年]] | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = 『笑う出産』 | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''まつい なつき'''([[1960年]][[7月1日]] - [[2020年]][[1月21日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[随筆家|エッセイスト]]、[[占い]]師、占い講師。[[著作家|ライター]]、[[漫画家]]としての活動とともに、企画、編集といった出版の仕事にも携わった。 本名は松井なつき(読み;同じ)(結婚してから元夫と別れる迄は町田なつき) == 来歴 == [[東京都]][[新宿区]]生まれ、[[北海道]]育ち。16歳で東京に戻り、17歳より同人雑誌活動を始め漫画専門誌(旧)『[[ぱふ]]』にてデビュー。[[1979年]]には[[エロ劇画誌]]の『漫画エロジェニカ』にH系のギャグ漫画を執筆、「かるめら姫」を名乗る本人がおかっぱにぶかぶかのパンツ一つの姿で描かれていた。 3児の母であり、出産や育児をテーマにした著書が多数ある。[[1994年]]に出版された「笑う出産」は60万部のベストセラーであり、代表作。 [[2002年]]頃より、西洋占星術・タロット・絵画心理分析・夢分析などの初心者向け講座を開講し、個人鑑定や占い記事の執筆・監修等の活動を行った。 [[2008年]][[10月]]に、中野ブロードウェイ内に占い店舗「中野トナカイ」を開店させ、様々な占い師とフレキシブルな営業をした。 元夫はカメラマンの町田仁志。 2020年1月21日、[[脳梗塞]]のため東京都[[中野区]]内の病院で死去<ref>{{Cite news | url = https://www.sanspo.com/article/20200123-TA4VANMIAZJBRH47DIJFC6YDOQ/ | title = 漫画家、まついなつきさん死去 「笑う出産」「まさかわたしがPTA!?」など | publisher = [[サンケイスポーツ]] | date = 2020-01-23 | accessdate = 2020-01-28 }}</ref>。翌22日に息子3人がまつい本人のTwitterで死去を公表した<ref>{{Twitter status2|matsunatsu|1219978560070283264|date=2020-01-22|accessdate=2020-01-22}}</ref>。59歳没。 == 作品リスト == === 単行本(まんが・エッセイ系) === * かるめら丼 [[河出書房新社|けいせい出版]] (1981年6月) * かるめらビンボー生活 [[宝島社|宝島ブックス]] (1984年7月) * みりん星通信 [[河出書房新社]] (1990年12月) * オフレコ。―まついなつきインタビュー全仕事 ビー・エヌ・エヌ (1991年2月) * 笑う出産―やっぱり産むのはおもしろい [[情報センター出版局]] (1994年2月) * 東京暮らしの逆襲 [[角川書店]] (1995年5月) * うちの子どもにゃヘソがある [[小学館]] (1995年10月) * 子育てが地球を汚す?―子連れエコ転び八起き [[婦人生活社]] (1995年11月) * 笑う出産〈2〉やっぱり2人目もおもしろい 情報センター出版局 (1996年3月) * 笑う英会話 情報センター出版局 (1997年5月) * おつきあいの極意 ([[藤臣柊子]]との共著) [[幻冬舎]] (1997年6月) * お茶の間番長 ぶんか社 (1999年7月) * 出産育児どーするどーなる百科 [[二見書房]] (1999年7月) * まついなつきのパソコンでこんなんできまっせ [[朝日新聞社]] (1999年7月) * アトピー息子―笑う出産スペシャル 情報センター出版局 (1999年8月) * まついさんちの「遊んじゃう家庭生活」講談社 (2000年9月) * 恋する女はみんなバカ。―21世紀対応“自立する恋愛”考 [[祥伝社]] (2001年2月) * 私だけがタイヘン?―笑う子育て生活 [[海竜社]] (2001年4月) * あしたはワタシのお葬式 [[日本放送出版協会]] (2002年4月) * ねじまき小学生―ウチの子どもが小学生になっちゃった!! [[カンゼン]] (2003年2月) * どうすればほめてもらえるの? [[現代書林]] (2003年9月) * まついさんちの子どもめし カンゼン (2006年10月) * 英語ってそういうことだったのか!! ([[山西治男]]との共著) [[アスコム (出版社)|アスコム]] (2006年11月) * まさかわたしがPTA!? [[メディアファクトリー]] (2010年3月) === 単行本(占い系) === * しあわせ占星術 情報センター出版局 (2000年10月) * 驚くほど当たる占い完全ガイド [[講談社]] (2002年4月) * 運命が変わる土星占い(サターンリターン) 祥伝社 (2006年12月) * まついなつきのムーンチャイルド占星術―親子の相性がわかると子育てが楽になる! [[主婦の友社]] (2008年3月) === 文庫 === * 東京暮らしの逆襲 [[角川書店]] (1999年3月) * 女王様のじまんの園 [[光文社]]文庫 (1999年2月) * 断食ダイエット入門―効果てきめん! [[ソニーマガジンズ]] (2004年8月) * 愛はめんどくさい 幻冬舎 (2005年2月) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考 == * [http://www.uranai-w.com/know/column5.html 占いワールド | 占いコラム| 第5回 まつい なつき先生] * [http://natsuki-matsui.cocolog-nifty.com/blog/ まついさんの連絡帳] 公式webページ(2007年9月2日 18:18 - 2008年6月3日 09:08) * [http://blog.livedoor.jp/natsukimatsui/ 続・まついさんの連絡帳] 公式webページ(2008年6月5日 12:26 - 2010年4月1日 14:48) * [http://tonakai.her.jp/ 西洋占星術・タロット占いのお店 - 中野トナカイ](最終更新日:2020年1月23日) * {{Twitter|matsunatsu|まついなつき}}(2010年2月12日 13:44:03 - 2020年1月26日 00:18)'''※ [[協定世界時|UTC]]表記。''' {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:まつい なつき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:20世紀日本の女性随筆家]] [[Category:21世紀日本の女性随筆家]] [[Category:日本の占星術師]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:2020年没]]
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松井雪子
松井 雪子(まつい ゆきこ、1967年1月5日 - )は、東京都武蔵野市出身の漫画家、小説家。代表作に『おんなのこポコポン』『マヨネーズ姫』など。カー雑誌『ベストカー』誌上で連載の4コマ漫画では松井くるまりこ名義で執筆している。 『アックス』(青林工藝舎)誌上にて「マヨネーズ姫」を連載中。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "松井 雪子(まつい ゆきこ、1967年1月5日 - )は、東京都武蔵野市出身の漫画家、小説家。代表作に『おんなのこポコポン』『マヨネーズ姫』など。カー雑誌『ベストカー』誌上で連載の4コマ漫画では松井くるまりこ名義で執筆している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『アックス』(青林工藝舎)誌上にて「マヨネーズ姫」を連載中。", "title": null } ]
松井 雪子は、東京都武蔵野市出身の漫画家、小説家。代表作に『おんなのこポコポン』『マヨネーズ姫』など。カー雑誌『ベストカー』誌上で連載の4コマ漫画では松井くるまりこ名義で執筆している。 『アックス』(青林工藝舎)誌上にて「マヨネーズ姫」を連載中。
'''松井 雪子'''(まつい ゆきこ、[[1967年]][[1月5日]] - )は、[[東京都]][[武蔵野市]]出身の[[漫画家]]、[[小説家]]。代表作に『おんなのこポコポン』『マヨネーズ姫』など。カー雑誌『ベストカー』誌上で連載の4コマ漫画では'''松井くるまりこ'''名義で執筆している。 『[[アックス (雑誌)|アックス]]』([[青林工藝舎]])誌上にて「マヨネーズ姫」を連載中。 == 経歴 == * [[共立女子高等学校]]、[[共立女子大学]]家政学部生活美術科卒業。 * [[1988年]]、大学在学中に[[月刊Asuka|ASUKA]]([[角川書店]])誌上にて漫画家デビュー(漫画家という職業を選んだのは家でできるからだと話す)。 * [[2001年]]、「[[群像]]」誌上で「私のフジサン」を発表し、小説家としてもデビューする。 * [[2003年]]、「イエロー」で第128回[[芥川龍之介賞]]候補<ref>{{Cite web|和書|date=2003-01-09 |url=http://www.47news.jp/CN/200301/CN2003010901000029.html |title=芥川・直木賞候補決まる 19歳の島本さんも |publisher=47NEWS |accessdate=2012-09-06}}</ref>。 * [[2004年]]、「日曜農園」で第131回芥川龍之介賞候補<ref>{{Cite web|和書|date=2004-07-08 |url=https://web.archive.org/web/20130927115152/http://www.47news.jp/CN/200407/CN2004070801000736.html |title=芥川、直木賞候補決まる 異色の覆面作家も |publisher=47NEWS |accessdate=2012-09-06}}</ref>。 * [[2005年]]、「恋蜘蛛」で第133回芥川龍之介賞候補。 * [[2007年]]、「アウラ アウラ」で第137回芥川龍之介賞候補。 == 作品リスト == === 漫画 === *『スピカにおまかせ』(1989年7月、[[角川書店]]・あすかコミックス) *『東京デビュー』1991年10月、[[青林堂]] *『おんなのこポコポン』全5巻、[[竹書房]]・バンブーコミックス、1992-98 *『謎のオンナV』(1993年5月、ヤングロゼコミックスDX) *『なぞのカッパ星人』(1993年7月、[[集英社]]・ジャンプコミックスデラックス) *『おじゃましまっそ』(1994年2月、竹書房・バンブーコミックス) *『[[4Pの事情]]』(1995年1月、[[祥伝社]]・フィールコミックスゴールド) *『マヨネーズ姫』(1996年10月、青林堂) *『絶望ハンバーグ工場』(1997年1月、文春コミックス) *『[[春庭家の3人目]]』全2巻 アクションコミックス、1997-98  *『[[家庭科のじかん]]』(1997年9月、祥伝社・フィールコミックスゴールド) *『恋の南極』(1997年12月、[[ぶんか社]]コミックス) *『愛の北極』(1998年4月、ぶんか社コミックス) *『[[らぶらぶルールブック]]』(1999年6月、フィールコミックスゴールド) *『お嫁ちゃんばー』(2001年10月、まんがタイムコミックス) *『犬と遊ぼ!』(2003年2月、[[講談社]]コミックス) === 絵本(マツイユキコ名義) === *『クウとポーのクリスマス』(2004年11月、[[平凡社]]) === 小説 === *『イエロー』(2003年7月、講談社) ** イエロー(『群像』2002年12月号) ** 私のフジサン(『群像』2001年5月号) *『チル☆』(2003年1月、講談社)のち文庫 *『刺繍天国』(2006年2月、文藝春秋) ** 恋蜘蛛(『文學界』2005年6月号) ** 愛・弾丸ツアー(『文學界』2005年12月号) *『日曜農園』(2007年10月、講談社) **日曜農園(『群像』2004年5月号) *『まよいもん』(2008年3月、幻冬舎) のち文庫  *『肉と衣のあいだに神は宿る』文藝春秋 2015 ==== 単行本未収録作品 ==== * 白鳥の湖(『小説現代』2005年7月号) === エッセイ集ほか === *『犬と旅する20の約束』(1996年3月、大和書房)「犬と楽しく旅するQ&A」幻冬舎文庫 *『お局さまが待っている』おつぼネット評議委員会共著(1999年5月、小学館文庫) *『奇跡でも魔法でもない犬語の話し方』(2004年7月、幻冬舎) *『男子はじめて物語 それゆけ、映画スタァ「局部」探訪隊』(2006年7月、文藝春秋) *『しあわせぷーどるず』文藝春秋 2009 *『ぐうたら山暮らし』[[イースト・プレス]] 2013 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[http://matsui-yukiko.com/ 松井温泉 雪乃湯](公式サイト)※休館中 *https://yukinoyu.exblog.jp/  しあわせぷーどるず(公式ブログ) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まつい ゆきこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の小説家]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:共立女子大学出身の人物]] [[Category:アックス]]
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まつざきあけみ
まつざき あけみは、日本の漫画家。 1970年、『週刊マーガレット』にて『リリー』でデビュー。以後講談社の漫画雑誌を皮切りに活動を開始、一時期は、ボーイズラブ雑誌『JUNE(ジュネ)』、『ALLAN(アラン)』(OUT別冊)では欠かせない作家であった。『ぼくらは青年探偵団』は、その系統の代表作で、ギャグのセンスも著しく冴えている。その後、『ハロウィン』などの少女ホラー雑誌を経て、現在も童話系レディースコミック雑誌『まんがグリム童話』で活躍中。 美少年、男色、スプラッタと3拍子揃った、耽美派系(少女)漫画家。白黒原稿では美麗な描線と緻密な描き込みを特徴とし、カラー原稿では日本画の影響を受けた優美な色彩を見せる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "まつざき あけみは、日本の漫画家。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1970年、『週刊マーガレット』にて『リリー』でデビュー。以後講談社の漫画雑誌を皮切りに活動を開始、一時期は、ボーイズラブ雑誌『JUNE(ジュネ)』、『ALLAN(アラン)』(OUT別冊)では欠かせない作家であった。『ぼくらは青年探偵団』は、その系統の代表作で、ギャグのセンスも著しく冴えている。その後、『ハロウィン』などの少女ホラー雑誌を経て、現在も童話系レディースコミック雑誌『まんがグリム童話』で活躍中。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "美少年、男色、スプラッタと3拍子揃った、耽美派系(少女)漫画家。白黒原稿では美麗な描線と緻密な描き込みを特徴とし、カラー原稿では日本画の影響を受けた優美な色彩を見せる。", "title": "作風" } ]
まつざき あけみは、日本の漫画家。
'''まつざき あけみ'''は、[[日本]]の[[漫画家]]。 == 経歴 == [[1970年]]、『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』にて『リリー』でデビュー。以後[[講談社]]の漫画雑誌を皮切りに活動を開始、一時期は、[[ボーイズラブ]]<ref>[[1970年代|70年代]]末の当時では、「ボーイズラブ」という用語は、まだ一般的でなく「耽美」が多用された。</ref>雑誌『[[JUNE (雑誌)|JUNE]](ジュネ)』、『[[ALLAN (雑誌)|ALLAN]](アラン)』(OUT別冊)では欠かせない作家であった。『ぼくらは青年探偵団』は、その系統の代表作で、[[ギャグ]]のセンスも著しく冴えている。その後、『[[ハロウィン (雑誌)|ハロウィン]]』などの[[ホラー漫画|少女ホラー]]雑誌を経て、現在も[[童話]]系[[レディースコミック]]雑誌『[[まんがグリム童話]]』で活躍中。 == 作風 == [[美少年]]、[[男色]]、[[スプラッター映画|スプラッタ]]と3拍子揃った、耽美派系(少女)漫画家。白黒原稿では美麗な描線と緻密な描き込みを特徴とし、カラー原稿では[[日本画]]の影響を受けた優美な色彩を見せる。 == 作品リスト == === 初期作品(週刊・別冊少女誌など) === * ガラスのアンジェリアン - 『[[なかよし]]』(講談社)にて連載。 * ごきげん?アピ(原作 / 香田あかね、[[名木田恵子]]) - 『なかよし』(講談社)にて連載(講談社、1975年)。 * 白い鎮魂歌(レクイエム) - 白人と黒人の対立する町に、中学教師としてやって来たシークフリート。 誰の心にも潜む「差別と憎悪」を描く(ペーパームーン・コミックス、1980年)。 * リセアン(ペーパームーン・コミックス、1981年) === 華麗なる恐怖シリーズ === * スペシャル・メニュー * 犬姫御殿 * 夜光華 * 逢魔が刻 * ふりむいた男 * 黄金海流 * 好敵手 === まんがグリム童話 === * [[ラプンツェル]] * [[一寸法師]] * 淫楽の宴編 * [[竹取物語|かぐや姫]] * [[眠れる森の美女]] * [[秘密の花園]] * かしこい田舎娘([[ぶんか社]]、2017年9月) - 主人公に一貫して尽くした[[侍女]]が破滅し、罪なき民を疑って投獄したり、金銀に執着する[[王]]が罰せられない不条理な結末になっている。 === その他 === * ぼくらは青年探偵団(東京デカド社、1987年) * 真夜中の子供([[朝日ソノラマ]]、1991年) * ラブ・ゲーム([[マガジン・マガジン]]、1997年) - 宇堂と故硲は高校の同級生。二人を中心に巻き起こされる事件を描く学園サスペンス。 * 魔の恋人 * 夢十夜 * 踊る死仮面 * 醜い人 * 人虫 * 魍魎狩り * 魔樹 * 迷宮城 * 魔の顔 * 真夜中の遊戯 * 封印された心霊体験スペシャル 真夜中の呪文編 * 学園ホラー&ミステリースペシャル 教室の恐怖伝説編 * あなたの心に潜む魔物語スペシャル 悪魔 運命の扉編 * 花子さんがいる * 恐怖劇場(デビル・シアター) * メタモルフォーゼ * 神尾中正義団 * 惨劇姫 * 夏休みはもうこない * あの子がこわい * 死人の花 * 死招き人形 * 子泣きの杜 * ブラディ・マリー === 画集・イラスト === * まつざきあけみ画集 夜伽草子 * [[My Birthday|月刊My Birthday]](表紙イラスト) === ゲーム === * 世界一ツイてない女 どつぼちゃん([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ソフト、[[キャラクターデザイン]]) == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://matsuzakiakemi.seesaa.net/ まつざきあけみのブログ] * {{Wayback|url=http://www16.ocn.ne.jp/~shina/index.html |title=迷宮城(ファンサイト)|date=20150713183251}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:まつさき あけみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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大島
大島(おおしま、おおじま、おしま) 異表記 : 大嶋・大嶌・大㠀・大隝・大嶹など (かつて島であった地名も含む) 該当者が複数名存在する場合は曖昧さ回避ページを参照のこと。
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大島(おおしま、おおじま、おしま) 異表記 : 大嶋・大嶌・大㠀・大隝・大嶹など
'''大島'''(おおしま、おおじま、おしま) [[字体#異体字|異表記]] : '''大[[wikt:嶋|嶋]]'''・'''大[[wikt:嶌|嶌]]'''・'''大[[wikt:㠀|㠀]]'''・'''大[[wikt:隝|隝]]'''・'''大[[wikt:嶹|嶹]]'''など == 地名 == === 島嶼 === ==== 北海道地方 ==== * [[渡島大島]] - [[北海道]][[松前郡]][[松前町 (北海道)|松前町]]の[[島]]。 * [[大島 (北海道色丹村)]] - 北海道[[色丹郡]][[色丹村]]の島。 * [[大島 (阿寒湖)]] - 北海道[[釧路市]]にある[[阿寒湖]]の湖中島。 ==== 東北地方 ==== * [[大島 (青森県深浦町)]] - [[青森県]][[西津軽郡]][[深浦町]]の島。 * [[大島 (陸奥湾)]] - 青森県[[東津軽郡]][[平内町]]の島。 * [[大島 (岩手県)]] - [[岩手県]][[下閉伊郡]][[山田町]]の島。 * [[大島 (宮城県気仙沼市)]] - [[宮城県]][[気仙沼市]]の島。「気仙沼大島」とも。 * [[大島 (宮城県女川町)]] - 宮城県[[牡鹿郡]][[女川町]]の島。 ==== 関東地方 ==== * [[大島 (千葉県)]] - [[千葉県]][[鴨川市]]の島。 * [[伊豆大島]] - [[東京都]][[大島町]]の島。 ==== 中部地方 ==== <!-- 東海地方 --> * [[三河大島]] - [[愛知県]][[蒲郡市]]の島。 * [[大島 (愛知県)]] - 愛知県[[西尾市]]の島。 * [[志摩町和具#大島|大島 (三重県志摩市)]] - [[三重県]][[志摩市]]の島。 * [[大島 (三重県紀北町)]] - 三重県[[北牟婁郡]][[紀北町]]の島。 <!-- 東山地方 --> <!--北陸地方--> <!-- 粟島 (新潟県) に対しての佐渡島のことか? * 大島 (佐渡市) - [[新潟県]][[佐渡市]]の島。 --> * [[大島 (石川県輪島市)]] - [[石川県]][[輪島市]]の島。 * [[大島 (石川県七尾市)]] - 石川県[[七尾市]]の島。 ==== 近畿地方 ==== * [[冠島|大島 (京都府舞鶴市)]] - [[京都府]][[舞鶴市]]の島。 * [[大島 (京都府京丹後市)]] - 京都府[[京丹後市]]の島。 * [[大島 (兵庫県香美町)]] - [[兵庫県]][[美方郡]][[香美町]]の島。 * [[大島 (兵庫県新温泉町)]] - 兵庫県美方郡[[新温泉町]]の島。 * [[大島 (兵庫県相生市)]]大島町。 [[現在]]は[[土壌|土砂]]の[[堆積]]で埋まり、[[住宅地|住宅街]]の中の小さな岩山。頂上には[[真言宗]]の善光寺と言う[[寺院]]がある。 * [[大島 (和歌山県和歌山市)]] - [[和歌山県]][[和歌山市]]の島。 * [[大島 (和歌山県白浜町)]] - 和歌山県[[西牟婁郡]][[白浜町]]の島。 * [[紀伊大島]] - 和歌山県[[東牟婁郡]][[串本町]]の島。 ==== 中国地方 ==== <!-- 山陽地方 --> * [[大島 (備前国)]] - [[備前国]][[御野郡]]にかつてあった島・[[三角州]]。[[中世]]の[[干拓]]により陸地化し、[[現在]]の[[岡山県]][[岡山市]]中心市街地にあたる。大洲、大洲原とも呼ばれた。 * [[大島 (備中国浅口郡)]] - [[備中国]][[浅口郡]]にかつてあった島・[[地名]]。 * [[笠岡諸島#真鍋島|大島 (笠岡諸島)]] - 備中国小田郡、現・[[岡山県]][[笠岡市]]の島。[[笠岡諸島]]の島の一つ。笠岡市大島地区とは別。 * [[屋代島|周防大島]] - [[山口県]][[大島郡 (山口県)|大島郡]][[周防大島町]]の島「[[屋代島]]」(やしろじま) の[[通称|異称]]。 * [[大島 (山口県萩市)]] - 山口県[[萩市]]の島。 * 大島 (山口県長門市) - 山口県[[長門市]]の島。2島存在する。 <!-- 山陰地方 --> * [[大島 (鳥取県)]] - [[鳥取県]][[鳥取市]]の島。「伏野大島」とも。 * [[大島 (島根県江津市)]] - [[島根県]][[江津市]]の島。 * [[大島 (島根県松江市)]] - 島根県[[松江市]]の島。 * [[大島 (島根県浜田市)]] - 島根県[[浜田市]]の島。 * [[大島 (島根県知夫村)]] - 島根県[[隠岐郡]][[知夫村]]の島。 ==== 四国地方 ==== * [[大島 (徳島県)]] - [[徳島県]][[海部郡 (徳島県)|海部郡]][[牟岐町]]の島。 * [[大島 (香川県土庄町)]] - [[香川県]][[小豆郡]][[土庄町]]の島。 * [[大島 (香川県高松市)]] - 香川県[[高松市]]の島。 * [[新居大島]] - [[愛媛県]][[新居浜市]]の島。 * [[大島 (愛媛県今治市)]] - 愛媛県[[今治市]]の島。 * [[御籠島|大島 (愛媛県伊方町)]] - 愛媛県[[西宇和郡]][[伊方町]]の島。御島(おしま)。 * [[大島 (愛媛県八幡浜市)]] - 愛媛県[[八幡浜市]]の島。「八幡浜大島」とも。 * [[大島 (愛媛県宇和島市)]] - 愛媛県[[宇和島市]]の島。 * [[大島 (高知県)]] - [[高知県]][[宿毛市]]の島。 ==== 九州地方 ==== * [[大島 (福岡県)]] - [[福岡県]][[宗像市]]の島。「筑前大島」「筑紫大島」「宗像大島」とも。 * [[的山大島]] - [[長崎県]][[平戸市]]の島。 * [[大島 (長崎県佐世保市)]] - 長崎県[[佐世保市]]江上町の島。 * [[大島 (長崎県佐世保市鹿町町九十九島)]] - 長崎県佐世保市[[鹿町町]]の島。 * [[大島 (長崎県対馬市)]] - 長崎県[[対馬市]]の島。 * [[大島 (長崎県壱岐市)]] - 長崎県[[壱岐市]]の島。 * [[大島 (長崎県西海市)]] - 長崎県[[西海市]]の島。 * [[大島 (長崎県小値賀町)]] - 長崎県[[北松浦郡]][[小値賀町]]の島。 * [[大島 (熊本県)]] - [[熊本県]][[天草市]]の島。 * [[大島 (大分県佐伯市)]] - [[大分県]][[佐伯市]]の島。 * [[大島 (大分県杵築市)]] - 大分県[[杵築市]]の島。 * [[大島 (宮崎県)]] - [[宮崎県]][[日南市]]の島。 * [[阿久根大島]] - [[鹿児島県]][[阿久根市]]の島。 * [[奄美大島]] - 鹿児島県の島。[[奄美市]]、[[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[龍郷町]]・[[大和村]]・[[宇検村]]・[[瀬戸内町]]を含む。 === 島嶼以外 === ''(かつて島であった地名も含む)'' * [[大島 (杉戸町)]](おおじま) - [[埼玉県]][[杉戸町]]の[[町丁]]。 * [[大島 (江東区)]](おおじま) - [[東京都]][[江東区]]の町丁。 * [[大島 (川崎市)]](おおしま) - [[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]の町丁。 * [[大島 (新潟市)]](おおじま) - [[新潟県]][[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]]の町字。 * [[大島 (郡上市)]](おおしま) - [[岐阜県]][[郡上市]](旧・[[郡上郡]][[白鳥町 (岐阜県)|白鳥町]])の[[大字]]。 * [[大島 (志賀町)]](おしま) - [[石川県]][[羽咋郡]][[志賀町]]の大字。''cf.'' 大島海岸、[[大島海水浴場]]。 * [[大島 (宮津市)]](おおしま) - [[京都府]][[宮津市]]の大字。 * [[大島 (尼崎市)]](おおしま) - [[兵庫県]][[尼崎市]][[大庄地区]]の地名。 * [[大島 (串本町)]](おおしま) - [[和歌山県]][[東牟婁郡]][[串本町]]の大字。 * [[大島 (北栄町)]](おおしま) - [[鳥取県]][[東伯郡]][[北栄町]]の[[地名]]。旧・東伯郡[[大栄町 (鳥取県)|大栄町]]島。北栄町成立時に地名の重複を避けるため大栄町の「大」を冠し、大島となった。 * [[大島 (倉敷市)]](おおじま) - [[岡山県]][[倉敷市]]の大字。 * [[大島 (笠岡市)]](おおしま) - 岡山県[[笠岡市]]の[[行政]][[地域]]。大島中・西大島・西大島新田からなる。旧・[[浅口郡]]大島村。 * [[大島 (八女市)]](おおじま) - [[福岡県]][[八女市]]の地名。 * [[大島町]](おおしままち) - [[東京都]]にある町・[[地方公共団体]]。 * [[大島区]](おおしまく) - [[新潟県]][[上越市]]の[[地域自治区]]。旧・[[大島村 (新潟県東頸城郡)|大島村]]。 * [[大島郷]](おおしまごう) - [[備中国]][[浅口郡]]にあった[[郷]]。[[大島 (備中国浅口郡)|大島]]の西部。 * [[寄島町|東大島]](ひがしおおしま) - 現在の岡山県[[浅口市]][[寄島町]]の旧称。 * [[周防大島町|周防大島]]町(すおうおおしま)-山口県にある町、地方公共団体 * [[大島郡 (曖昧さ回避)]] * [[大島支庁 (曖昧さ回避)]] * [[大島町 (曖昧さ回避)]] * [[大島村 (曖昧さ回避)]] == 歴史・文化 == <!-- 「大島」とその関連語。 --> * [[大島 (相撲)]] - [[相撲]]の[[年寄名跡]]の一つ。 ** [[大島部屋]] - [[相撲部屋]]の一つ。 * [[大島城]] - [[信濃国]][[伊那郡|伊奈郡]](現・[[長野県]][[下伊那郡]][[松川町]]元大島)にあった[[城]]。 * [[大島本]] - [[源氏物語の写本]]等。 * [[大島紬]] - [[奄美群島]]特産の[[平織|平織り]][[絹織物|絹布]]、および、その絹布で[[裁縫|縫製]]した[[和服]]。 * [[大島節]] - 伊豆大島の[[民謡]]。 * [[大島流]] - [[槍術]]の[[流派]]の一つ。 * [[大島氏]] - [[日本]]の[[氏族]]。既存項目は「'''[[:Category:大島氏]]'''」を参照のこと。 == 施設・組織・乗りもの == <span id="施設・ 組織・乗りもの"></span> * [[大島 (砲艦)]] - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[船|艦船]]。 * [[大島丸 (曖昧さ回避)]] - [[日本語]][[船|船舶]]名の一つ<!-- ※「日本の船舶名の一つ」より広義。 -->。 * [[大島連絡船]] - [[日本]]にあった[[鉄道連絡船]]。 * [[大島空港]] - [[伊豆大島]]にある[[空港]]。 * [[大島駅 (曖昧さ回避)]] - 日本各地にある[[鉄道駅]]。 * [[大島大橋 (曖昧さ回避)]] - 日本に複数ある[[道路]][[橋]]の[[名前|名称]]。 == 人物 == 該当者が複数名存在する場合は[[Wikipedia:曖昧さ回避|曖昧さ回避]]ページを参照のこと。 {{Col-begin}} {{Col-2}} === あ行 === * [[大島明美]]( - あけみ) - [[俳優]]。 * [[大島敦]]( - あつし) - [[政治家]]。 * [[大島郁将]]( - いくまさ) - 元・[[プロ野球選手]]。 * [[大島宇三郎]]( - うさぶろう) - 俳優。 * [[大島映二]]( - えいじ) - [[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。 * [[大島江里奈]]( - えりな) - [[ファッションモデル]]。 === か行 === * [[大島かおり]] - [[翻訳|翻訳家]]。 * [[大島和子]]( - かずこ) - 元・[[アマチュアレスリング]][[アスリート|選手]]。 * [[大島一彦]]( - かずひこ) - [[イギリス文学者|英文学者]]。 * [[大島和久]]( - かずひさ) - [[タレント]]。 * [[大嶋一也]]( - かずや) - [[競艇選手]]。 * [[大嶋和也]]( - かずや) - [[競技運転手|レーシングドライバー]]。 * [[大嶋勝吉]]( - かつよし) - [[武将]]。 * [[大島榎奈]]( - かな) - [[ナレーター]]。 * [[大島喜一郎]]( - きいちろう) - [[政治家]]。 * 大島吉之助( - きちのすけ) - [[西郷隆盛]]の[[変名]]の一つ。 * [[大島衣恵]]( - きぬえ) - [[能楽師]]。 * [[大島希巳江]]( - きみえ) - [[教育学|教育学者]]、[[社会言語学|社会言語学者]]。 * '''[[大島清 (曖昧さ回避)]]'''( - きよし) * [[大島杏子]]( - きょうこ) - 元・[[体操競技選手一覧|体操競技選手]]。 * [[大島くじら]] - [[プロレスラー]]。 * [[大島九州男]]( - くすお) - 政治家。 * [[大島邦秀]]( - くにひで) - [[武士]]、[[官僚]]、[[軍人]]([[大日本帝国陸軍|陸軍]]軍人)。 * [[大島久満次]]( - くまじ) - 政治家。 * [[大島健一]]( - けんいち) - 軍人(陸軍軍人)、政治家。 * [[大島堅一]]( - けんいち) - 政治家。 * [[大島鎌吉]]( - けんきち) - [[陸上競技]]選手([[三段跳]]選手)。 * [[大島健伸]]( - けんしん) - [[実業家]]([[SFCG]]創業者)。 * [[大島賢治]]( - けんじ) - [[演奏者]]([[ドラマー]])。 * [[大島堅造]]( - けんぞう) - 実業家。 * [[大島賢三]]( - けんぞう) - [[外交官]]。 * [[大島公一]]( - こういち) - [[プロ野球選手]]。 * [[大島幸治]]( - こうじ) - [[評論家]]。 * [[大島こうすけ]] - [[音楽家|ミュージシャン]]。 === さ行 === * [[大島貞薫]]( - さだか) - 武士、洋[[兵学]]者。 * [[大島貞益]]( - さだます) - [[著作家]]。 * [[大島さと子]]( - さとこ) - [[タレント]]。 * [[大島里美]]( - さとみ) - [[脚本家]]。 * [[大島さやか]] - [[アナウンサー]]。 * 大島三右衛門( - さんえもん) - [[西郷隆盛]]の変名の一つ。 * [[大島治喜太]]( - じきた) - 戦前の[[剣道]]家。 * [[大嶋修一]]( - しゅういち) - [[映画]][[美術監督]]。 * [[大島史洋]]( - しよう) - [[歌人]]。 * [[大島襄二]]( - じょうじ) - [[文学]][[学者]]、文化[[地理学者]]。 * [[大島正太郎]]( - しょうたろう) - [[外交官]]。 * [[大島末男]]( - すえお) - [[神学者]]。 * [[大島聖子]]( - せいこ) - 元・[[競艇選手]]。 === た行 === * [[大島泰郎]]( - たいろう) - [[生化学|生化学者]]。 * [[大島孝雄]]( - たかお) - [[小説家]]。 * [[大島高任]]( - たかとう) - 鉱山学者。 * [[大島嵩弘]]( - たかひろ) - [[プロフェッショナル (サッカー)|プロサッカー]]選手。 * [[大島崇行]]( - たかゆき) - [[プロ野球選手]]。 * [[大島隆義]]( - たかよし) - [[理学|理学者]]。 * [[大嶋拓]]( - たく) - [[映画監督]]。 * [[大嶋匠]]( - たくみ) - プロ野球選手。 * [[大島武]]( - たけし) - 元・プロ野球選手。 * [[大島理森]]( - ただもり) - [[政治家]]。 * [[大島建彦]]( - たてひこ) - [[民俗学|民俗学者]]。 * [[大島ちあき]] - [[俳優]]。 * [[大島親崇]]( - ちかたか) - [[武将]]。 * [[大島忠一]]( - ちゅういち) - 元・プロ野球選手。 * [[大島司]]( - つかさ) - [[漫画家]]。 * [[大島翼]]( - つばさ) - プロサッカー選手。 * [[大島稔彦]]( - としひこ) - 政治家。 * '''[[大島俊之 (曖昧さ回避)]]'''( - としゆき) * 大島智( - とも) - [[漫画家]]「[[二階堂みつき]]」の別・[[ペンネーム]]。 * [[大島友治]]( - ともじ) - 政治家。 * [[大島友之允]]( - とものじょう) - [[武士]]、[[外交官]]。 * 大嶋文博( - ともひろ) - [[音楽家|ミュージシャン]]「[[Tom-H@ck]]」の[[本名]]。 * [[大島ともよ]] - [[映像編集]][[技師]]。 * [[大島永遠]]( - とわ) - 漫画家。 === な行 === * [[大島直子]]( - なおこ) - [[アナウンサー]]。 * [[大島直人]]( - なおと) - [[ゲームクリエイター]]。 * [[大島直政]]( - なおまさ) - [[トルコ]]文化・[[トルコ語]]研究者。 * [[大島直也]]( - なおや) - [[タレント]]。 * [[大島なぎさ]] - [[モデル (職業)|モデル]]。 * [[大島渚]]( - なぎさ) - [[映画監督]]。 * [[大島信生]]( - のぶお) - [[日本文学研究者]](国文学者)。 * [[大島信雄]] ( - のぶお)- [[プロ野球選手]]。 * 大島伸彦( - のぶひこ) - [[プロレスラー]]「[[CIMA (プロレスラー)|CIMA]]」の本名。 * [[大島信彦]]( - のぶひこ) - [[テレビ局]]制作局長。 * [[大島典子]]( - のりこ) - [[テレビ番組]][[プロデューサー]]。 * [[大嶋記胤]]( - のりつぐ) - [[プロボクサー]]。 {{Col-2}} === は行 === * [[大島久直]]( - ひさなお) - 軍人(陸軍軍人)。 * [[大島久見]]( - ひさみ) - [[能楽師]]。 * [[大嶋仁]]( - ひとし) - [[比較文学|比較文学者]]。 * [[大島破竹郎]]( - はちくろう) - [[官僚]]、政治家。 * [[大島伯鶴]]( - はっかく) - [[講談|講釈師]]の[[名跡]]。初代および2代目あり。 * [[大島花子]]( - はなこ) - [[歌手]]。 * [[大島治男]]( - はるお) - [[プロフェッショナル (サッカー)|プロサッカー]]選手。 * [[大島春行]]( - はるゆき) - [[タレント]]([[NHK解説委員室|NHK解説委員]])。 * [[大島秀夫]]( - ひでお) - プロサッカー選手。 * [[大島弘子]]( - ひろこ) - 元・[[タレント]]。 * [[大島浩]]( - ひろし) - 軍人(陸軍軍人)。 * [[大島寛史]]( - ひろし) - 官僚、[[生理学者]]。 * [[大嶋宏成]]( - ひろなり) - [[プロボクサー]]。 * 大島浩美( - ひろみ) - [[ヌードモデル]]「[[オオシマ・ヒロミ]]」の[[通称|別名]]。 * [[大島博光]]( - ひろみつ) - [[詩人]]。 * [[大島裕行]]( - ひろゆき) - [[プロ野球選手]]。 * [[大嶋啓之]]( - ひろゆき) - [[作曲家]]。 === ま行 === * [[大島麻衣]]( - まい) - タレント。 * [[大島正健]] ( - まさたけ) - [[教育関係人物一覧|教育者]]。 * [[大島雅太郎]]( - まさたろう) - 実業家([[三井財閥]][[理事]])。 * [[大島政允]]( - まさのぶ) - [[能楽師]]。 * [[大島正徳]]( - まさのり) - [[哲学|哲学者]]、[[教育関係人物一覧|教育者]]。 * [[大島昌宏]]( - まさひろ) - [[小説家]]。 * [[大島正光]]( - まさみつ) - [[医学|医学者]]。 * [[大島正満]]( - まさみつ) - [[生物学者の一覧|生物学者]]。 * [[大島将哉]]( - まさや) - [[声優]]。 * [[大島真寿美]]( - ますみ) - [[小説家]]。 * [[大島又彦]]( - またひこ) - 軍人(陸軍軍人)。 * [[大嶋真由子]]( - まゆみ) - [[アナウンサー]]。 * [[大島幹雄]]( - みきお) - [[サーカス]]・[[プロモーター]]。 * [[大島通義]]( - みちよし) - [[経済学者]]。 * [[大嶋光昭]]( - みつあき) - 電子技術者。 * [[大島美恵子]]( - みえこ) - [[生化学|生化学者]]。 * [[大島ミチル]] - [[作曲家]]。 * [[大島盈株]]( - みつもと) - [[大工]][[棟梁]]、[[建築家]]。 * [[大島みづき]] - タレント。 * [[大島みなみ]] - 元・[[AV女優]]。 * [[大島美幸]]( - みゆき) - タレント。 * [[大島美和]]( - みわ) - [[アニメーター]]。 * [[大島めぐみ]] - [[陸上競技]]選手。 * [[大嶋恵]]( - めぐみ) - AV女優。 === や行 === * [[大島康明]]( - やすあき) - 元・プロサッカー選手。 * [[大島やすいち]] - [[漫画家]]。 * [[大島保克]]( - やすかつ) - [[歌手]]。 * [[大島康邦]]( - やすくに) - 元・[[バスケットボール]]選手。 * [[大島靖]]( - やすし) - 政治家。 * [[大島康徳]]( - やすのり) - プロ野球選手。 * [[大島保彦]]( - やすひこ) - [[翻訳|翻訳家]]。 * [[大島康正]]( - やすまさ) - [[倫理学|倫理学者]]。 * [[大嶋優木]]( - ゆうき) - [[原型師]]。 * [[大島優希]]( - ゆうき) - [[演奏者]]([[三味線]]奏者)。 * [[大島ゆう子]]( - ゆうこ) - [[ヌードモデル|ヌードグラビアモデル]]。 * '''[[大島優子 (曖昧さ回避)|大島優子(曖昧さ回避)]]'''( - ゆうこ) * [[大島雄次]]( - ゆうじ) - [[実業家]]。 * [[大島由佳]]( - ゆか) - 元・[[アナウンサー]]。 * [[大島由香里]]( - ゆかり) - アナウンサー。 * [[大島寛]]( - ゆたか) - 元・プロ野球選手。 * [[大島弓子]]( - ゆみこ) - 漫画家。 * [[大島由美子]]( - ゆみこ) - [[タレント]]。 * [[大島蓉子]]( - ようこ) - [[俳優]]。 * [[大島洋平]]( - ようへい) - プロ野球選手。 * [[大島良明]]( - よしあき) - [[天文家#アマチュア天文家|アマチュア天文家]]。 * [[大島義夫]]( - よしお) - [[言語学|言語学者]]。 * 大島芳彦( - よしひこ) - [[建築家]]。 ⇒ [[ブルースタジオ]] * [[大島慶久]]( - よしひさ) - 元・政治家。 * [[大島嘉仁]]( - よしひと) - [[経営者]]。 * [[大島義浮]]( - よしひろ) - [[武士]]。 * [[大島義昌]]( - よしまさ) - 武士、[[軍人]](陸軍軍人)。 === ら行 === * [[大島りえ]] - [[アニメーター]]。 * [[大島璃生]]( - りお) - 俳優([[子役]])。 * [[大島里喜]]( - りき) - [[歌手]]([[民謡]]歌手)。 * [[大島りこ]] - AV女優。 * [[大嶋良介]]( - りょうすけ) - [[アイスホッケー]]選手。 * [[大嶋竜太郎]]( - りゅうたろう) - [[武道家]]。 * [[大島竜珉]]( - りゅうみん) - [[右翼]][[政治活動家|活動家]]。 * [[大島崚]]( - りょう) - [[声優]]。 * [[大島涼花]]( - りょうか) - [[アイドル]]。[[AKB48]]メンバー。 * [[大島僚太]]( - りょうた) - プロサッカー選手。 * [[大島令子]]( - れいこ) - 政治家。 {{Col-end}} == 関連項目 == * {{Prefix}} * {{Prefix|大嶋}} * {{Prefix|大嶌}} * [[小島 (曖昧さ回避)]] * [[中島 (曖昧さ回避)]] {{曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:おおしま}} [[Category:地名姓]]
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やまざき貴子
やまざき 貴子(やまざき たかこ、8月18日生)は、日本の少女漫画家。北海道別海町出身、女性。愛称はやまらき。 1985年、白泉社の第10回アテナ新人大賞新人賞を受賞。1986年、『LaLa DX』掲載の「インセクター☆シンドローム」でデビュー。1987年、第12回アテナ新人大賞にてデビュー優秀者賞を受賞。代表作は「マリー・ブランシュに伝えて」、「ZERO」、「っポイ!」。 2001年、『LaLa』から同社の『MELODY』に移籍。『月刊フラワーズ』(小学館)でも漫画連載を行われている。
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やまざき 貴子は、日本の少女漫画家。北海道別海町出身、女性。愛称はやまらき。
{{Infobox 漫画家 |名前 = やまざき 貴子 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = |生地 = |没年 = |没地 = |国籍 = |職業 = |活動期間 = [[1986年]](昭和61年) - |ジャンル = [[少女漫画]] |代表作 = |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''やまざき 貴子'''(やまざき たかこ、[[8月18日]]生<ref name="syoprof">{{Cite web|和書|url = https://flowers.shogakukan.co.jp/author/289/ | title = 小学館コミック -フラワーズ- やまざき貴子 PROFILE | publisher = [[小学館]] | accessdate = 2013-02-03 }}</ref>)は、[[日本]]の少女漫画家。[[北海道]]<ref name="syoprof" />[[別海町]]出身、女性。愛称はやまらき。 == 経歴 == [[1985年]]、[[白泉社]]の第10回[[白泉社アテナ新人大賞|アテナ新人大賞]]新人賞を受賞。[[1986年]]、『[[LaLa DX]]』掲載の「インセクター☆シンドローム」でデビュー<ref name="syoprof" />。[[1987年]]、第12回アテナ新人大賞にてデビュー優秀者賞を受賞。代表作は「マリー・ブランシュに伝えて」、「[[ZERO (やまざき貴子の漫画)|ZERO]]」、「[[っポイ!]]」。 [[2001年]]、『[[LaLa]]』から同社の『[[MELODY (雑誌)|MELODY]]』に移籍。『[[月刊フラワーズ]]』([[小学館]])でも漫画連載を行われている。 == 作品リスト == ; 白泉社・[[花とゆめコミックス]] * [[っポイ!]](全30巻) * 「ムシ」シリーズ ** アカデメイアの冒険者 ** マリー・ブランシュに伝えて ** GONDWANA ** アカデメイアの冒険者2 * 「若菜」シリーズ ** 晴れて、カラカラ ** きょうはアラシ * 可視光線 * [[ZERO (やまざき貴子の漫画)|ZERO]](全11巻) ; 白泉社・画集 * [[っポイ!]] ; 小学館・[[フラワーコミックス]] * [[LEGAの13]](全6巻) * [[――準備中。]](全4巻) * 夢みる機械人形(既刊1巻) ; 小学館・文庫 * きょうはアラシ * インセクター☆シンドローム * アカデメイアの冒険者 == 小説の挿絵 == * 自由時間は終わらない([[阪本直子]]作) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://ameblo.jp/yamazaki-takako/ やまざき貴子 オフィシャルブログ] * [https://flowers.shogakukan.co.jp/author/289/ 小学館コミック -フラワーズ- やまざき貴子] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やまさき たかこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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まつもと泉
まつもと 泉(まつもと いずみ、1958年10月13日 - 2020年10月6日)は、日本の漫画家。男性。富山県高岡市生まれ。富山県立高岡工芸高等学校卒業。 高校卒業後、ロックミュージシャンを目指して上京する。パートはドラムス。無類のロック好きで、シンガーソングライターの杉真理、ジェネシス、TOTOの大ファンである。しかし、楽譜が読めなかったこともあってミュージシャンは断念し、デザイン専門学校に入学する。 専門学校在学中、高校時代の友人と2人で漫画作品を描き、いくつかの出版社に持ち込みをした。「まつもと泉」のペンネームは、当初はユニットとして、高校時代の同級生の友人と2人で組んで活動を始めたため、それぞれが「松本」「いずみ」と語感の好きな名前を出し合い、そのままでは前者は硬すぎる印象で、後者は女性的な印象なので漢字とひらがなを逆にして決定した。その他の候補では、当時2人でよく打ち合わせに利用していた渋谷駅前の喫茶店名から取った「渋谷パテオ」というのもあったが、却下された。 持ち込みの結果、集英社『週刊少年ジャンプ』編集部の高橋俊昌に認められ、本格的にデビューへの道を歩み出す。1980年代当初、硬派・劇画・スポーツ・ギャグを主軸としていたジャンプでは、売り上げの減少を食い止めるために他誌で人気を博していたラブコメと美少女キャラの要素を取り入れる方向で模索していた。ちょうどその路線に合致するまつもとの絵柄を気に入り、初代担当編集者となった高橋とともに、連載に向けてコンセプトや企画の打ち合わせを重ねつつ、原稿が落ちた『ストップ!! ひばりくん!』(江口寿史)の穴埋め短編漫画や、懸賞ページのイラストなどを描いていた。なお、友人は連載デビューまでの年間のギャラが数万円という経済状況に耐えきれず脱落し、以降は1人で活動を続ける。 1984年から『きまぐれオレンジ☆ロード』の連載を開始する。それまでのジャンプにはあまり見られなかった絵柄、当時はまだ珍しかったカラースクリーントーンを多用したデザイン性の高いカラーページは注目を集め、瞬く間に人気作品となる。ちば拓や桂正和とともにジャンプでのラブコメ、美少女路線を開拓、読者アンケートでは作中のキャラクターと同年代の10代を中心に男女共にバランスの良い人気を集めた。 影響を受けたマンガ家は、永井豪、山上たつひこ、吾妻ひでお、田村信、江口寿史、高橋留美子など。漫画家の友人は、みやすのんきや清水としみつ、宮崎摩耶など。 また、まつもとの姉が雑誌を購入していた少女マンガにも影響を受けており、この分野では、多田かおる、よしまさこ、くらもちふさこなどの女流漫画家の画風とラブコメの要素の影響も受けている。 『きまぐれオレンジ☆ロード』の連載終了後、『せさみ☆すとりーと』を連載する。この作品は、江口寿史の影響が色濃く見られ、イラスト的な手法を取り入れるなど実験的な試行錯誤もなされていた。 21世紀に入ってからは、脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)により漫画家活動ができなくなり、闘病に専念する。『スーパージャンプ』で数年ぶりの新連載の予定だったが、これにより延期となり、結果的には中止となった。また、闘病生活を基にした自伝的な書き下し漫画の計画もあったが、実現することはなかった。さらに、心房細動を発病し心臓の手術をしたことから、イラストや漫画の構想のみに活動が絞られた。 2020年10月6日、入院療養中の病院にて死去。享年61。
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まつもと 泉は、日本の漫画家。男性。富山県高岡市生まれ。富山県立高岡工芸高等学校卒業。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = まつもと 泉 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 寺嶋 一弥<br>(てらしま かずや)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64924950T11C20A0000000/|title=まつもと泉さんが死去 漫画家|publisher=日本経済新聞|date=2020-10-13|accessdate=2020-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201013081044/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64924950T11C20A0000000/|archivedate=2020-10-13}}</ref> | 生地 = {{JPN}}・[[富山県]][[高岡市]] | 国籍 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1958|10|13|no}} | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1958|10|13|2020|10|6}} | 職業 = [[漫画家]] | ジャンル = [[青年漫画]] | 活動期間 = [[1982年]] - [[2020年]] | 代表作 = 『[[きまぐれオレンジ☆ロード]]』<br/>『せさみ☆すとりーと』 | 受賞 = | 公式サイト = [http://www.comic-on.co.jp/ デジタル・コミック「COMIC ON」] }} '''まつもと 泉'''(まつもと いずみ、[[1958年]][[10月13日]] - [[2020年]][[10月6日]]<ref name="sponichi20201013">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/10/13/kiji/20201013s00041000110000c.html|title=「きまぐれオレンジロード」漫画家・まつもと泉さん死去、61歳 脳脊髄液減少症で闘病|publisher=スポニチアネックス|date=2020-10-13|accessdate=2020-10-13|archiveurl=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/10/13/kiji/20201013s00041000110000c.html|archivedate=2020-10-13}}</ref><ref name="WAVE">{{Cite web|和書|url=http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2020&mm=10&dd=13|title=『まつもと泉についてWAVE STUDIOから皆さまへのご報告』|work=IZUMI MATSUMOTO Home Page|accessdate=2021-01-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201014144642/http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2020&mm=10&dd=13|archivedate=2020-10-14}}</ref>)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[男性]]。[[富山県]][[高岡市]]生まれ<ref name="sponichi20201013" />。[[富山県立高岡工芸高等学校]]卒業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toyama-brand.jp/TJN/?tid=102170|title=No.210-2:「まんが甲子園」で日本一、県立高岡工芸高校|publisher=Toyama Just Now|accessdate=2021-01-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201013081722/https://www.toyama-brand.jp/TJN/?tid=102170|archivedate=2020-10-13}}</ref>。 == 経歴 == === デビューまで === 高校卒業後、[[ロック (音楽)|ロック]][[ミュージシャン]]を目指して上京する。パートは[[ドラムス]]。無類の[[ロック (音楽)|ロック]]好きで、[[シンガーソングライター]]の[[杉真理]]、[[ジェネシス (バンド)|ジェネシス]]、[[TOTO (バンド)|TOTO]]の大ファンである。しかし、[[楽譜]]が読めなかったこともあってミュージシャンは断念し、デザイン専門学校に入学する。 専門学校在学中、高校時代の友人と2人で漫画作品を描き、いくつかの出版社に持ち込みをした。「'''まつもと泉'''」のペンネームは、当初はユニットとして、高校時代の同級生の友人と2人で組んで活動を始めたため、それぞれが「松本」「いずみ」と語感の好きな名前を出し合い、そのままでは前者は硬すぎる印象で、後者は女性的な印象なので漢字とひらがなを逆にして決定した。その他の候補では、当時2人でよく打ち合わせに利用していた渋谷駅前の喫茶店名から取った「渋谷パテオ」というのもあったが、却下された。 持ち込みの結果、[[集英社]]『[[週刊少年ジャンプ]]』編集部の[[高橋俊昌]]に認められ、本格的にデビューへの道を歩み出す。1980年代当初、硬派・劇画・スポーツ・ギャグを主軸としていたジャンプでは、売り上げの減少を食い止めるために他誌で人気を博していた[[ラブコメ]]と[[美少女]]キャラの要素を取り入れる方向で模索していた。ちょうどその路線に合致するまつもとの絵柄を気に入り、初代担当編集者となった高橋とともに、連載に向けてコンセプトや企画の打ち合わせを重ねつつ、原稿が落ちた『[[ストップ!! ひばりくん!]]』([[江口寿史]])の穴埋め短編漫画や、懸賞ページのイラストなどを描いていた。なお、友人は連載デビューまでの年間のギャラが数万円という経済状況に耐えきれず脱落し、以降は1人で活動を続ける。 === 連載デビュー === [[1984年]]から『'''[[きまぐれオレンジ☆ロード]]'''』の連載を開始する。それまでのジャンプにはあまり見られなかった絵柄、当時はまだ珍しかったカラー[[スクリーントーン]]を多用したデザイン性の高いカラーページは注目を集め、瞬く間に人気作品となる。[[ちば拓]]や[[桂正和]]とともにジャンプでのラブコメ、美少女路線を開拓、読者アンケートでは作中のキャラクターと同年代の10代を中心に男女共にバランスの良い人気を集めた。 影響を受けたマンガ家は、[[永井豪]]、[[山上たつひこ]]、[[吾妻ひでお]]、[[田村信]]、[[江口寿史]]、[[高橋留美子]]など。漫画家の友人は、[[みやすのんき]]や[[清水としみつ]]、[[宮崎摩耶]]など。 また、まつもとの姉が雑誌を購入していた[[少女マンガ]]にも影響を受けており、この分野では、[[多田かおる]]、[[よしまさこ]]、[[くらもちふさこ]]などの女流漫画家の画風とラブコメの要素の影響も受けている<ref>Graffiti(短編集)の本人コメントより</ref>。 『きまぐれオレンジ☆ロード』の連載終了後、『せさみ☆すとりーと』を連載する。この作品は、[[江口寿史]]の影響が色濃く見られ、イラスト的な手法を取り入れるなど実験的な試行錯誤もなされていた。 === 闘病生活と死 === 21世紀に入ってからは、[[脳脊髄液減少症]](低髄液圧症候群)により漫画家活動ができなくなり、闘病に専念する。『[[スーパージャンプ]]』で数年ぶりの新連載の予定だったが、これにより延期となり、結果的には中止となった。また、闘病生活を基にした自伝的な書き下し漫画の計画もあったが、実現することはなかった。さらに、[[心房細動]]を発病し心臓の手術をしたことから、イラストや漫画の構想のみに活動が絞られた。 [[2020年]][[10月6日]]、<!--訃報告知内では死因が明示されていない//脳脊髄液減少症による[[不定愁訴]]のため-->入院療養中の病院にて死去<ref name="WAVE" />。享年61。 == エピソード == * 『きまぐれオレンジ☆ロード』連載中のハードスケジュールの中、連載中盤で体の調子を崩し、半年ほど休養した。その休養期間にアニメ化の企画の話が来た<ref name="名前なし-1">MANGA姉っくす!Vol.21「ゲスト:まつもと泉」2014年10月1日{{出典無効|date=2016年2月}}</ref>。 * [[平井和正]]は『きまぐれオレンジ☆ロード』をファンとして愛読していた。1990年代中盤、まつもとの仕事場に平井本人から「『きまぐれオレンジ☆ロード』のアニメと漫画を読んで、とても感銘を受けた」との[[ファックス]]が届いた。『きまぐれオレンジ☆ロード』へのオマージュとして小説『ボヘミアンガラス・ストリート』を描いたとのことである。何度か会い、[[電子出版]]の未来に新しい出版の形態があることに意気投合し、デジタルコミック『COMIC-ON』[http://www.comic-on.co.jp/]を制作した<ref>[http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2015&mm=01&dd=18 サイキンのまつもと 「平井和正先生死去」 2015年01月18日付]</ref><ref>[http://www.comic-on.co.jp/comic-on/vol1/hirai.html COMIC-ON SPECIAL対談~平井和正の世界~]</ref>。 * 『きまぐれオレンジ☆ロード』はリアルタイムでストーリーが進んでいたため、長期連載により主人公である恭介たちは中学3年生から高校3年生になっていた。翌年は大学生の年となり、純粋な世界観にすることが難しく連載を続けることが出来ないと思い至ったまつもとは、担当編集者に「連載を終わらせたい」と相談したところ「最終回まで5週で終わらせろ」と言われ、引き続きさらに「最終回まで3週」に縮まってしまった。本当は最終回につながる終盤の展開は半年ぐらいかけて終わりたかったとのことである。ジャンプ本誌では苦労してどうにか3週で終わらせたが、どうしてもページ数が足りなかったので、ジャンプコミックス単行本に最終回の45Pを書き足した<ref name="名前なし-1"/>。 * 『きまぐれオレンジ☆ロード』で自身が好きなエピソードは、恭介が過去にタイムスリップして、まだ幼いまどかに出会って赤い麦藁帽子を買ってあげる長編エピソード<ref>単行本15巻「想い出の樹の下で!」「のぞいてジェラシー!」~単行本16巻「ハプニング・キッス!」「帰れない男!」「そしてダ・カーポ!」</ref>。ストーリーが自分の中できちんとまとまったことが理由である。テレビアニメはこのエピソードで最終回を迎えたが、原作の最終回もここで終わっても良かったとのことである。連載中にはここで終わるつもりで描いていなかったが、このエピソードの最後のページの大きな樹のシーン<ref>単行本16巻「そしてダ・カーポ!」P63</ref>を描いた時に、「先生、これで話が終わるんじゃないの?」と当時のアシスタントたちは全員シーンと黙ってしまったという<ref name="名前なし-1"/>。 * 『きまぐれオレンジ☆ロード』の女性キャラクターで一番好きなのは、鮎川まどか。同作を描いているエネルギーの比重の70%ぐらいがまどかで、楽しいし辛いけど描くのに気合が入るし好きで描いていたキャラクターだという。しかしまどかを描く時、描いては消しを繰り返すためとても時間が掛かるキャラクターで、『きまぐれオレンジ・ロード』で何が印象に残っているかというと「まどかを描いていた」ことだという<ref name="名前なし-1"/>。 == 年表 == * [[1981年]]、『週刊少年ジャンプ』の[[週刊少年ジャンプの新人漫画賞#フレッシュジャンプ賞|フレッシュジャンプ賞]]で佳作入選。「LIVE! とってもロックンロール」「週刊少年ジャンプ」でショート短編掲載。 * [[1982年]]、『フレッシュジャンプ』に掲載された『ミルク☆レポート』で正式デビュー。 * [[1984年]]、『週刊少年ジャンプ』において『きまぐれオレンジ☆ロード』を連載開始。 * [[1988年]]、『[[スーパージャンプ]]』初月刊号から『せさみ☆すとりーと』を連載。 * [[1993年]]、竹書房『[[コミックガンマ]]』新年号から[[大倉らいた]]原作で『BLACK MOON』の作画を担当。 * [[1994年]]、[[ジャンプJブックス]]で [[寺田憲史]]との共同原作により小説『新きまぐれオレンジ☆ロード』を制作。 * [[1996年]]、東芝EMI(現:[[EMIミュージック・ジャパン]])と共同でデジタルコミックCD-ROMマガジン『COMIC ON』を発売。プロデュース業と作家陣の一人二役を兼ねる。以降、紙媒体の雑誌からデジタル・メディアでのマンガ制作に発表の場を移す。 * [[1999年]][[6月]]、[[2000年]]初めから『スーパージャンプ』で数年ぶりの新連載の予定だったが、原因不明の体調不良により延期となった。 * [[2004年]][[7月]]、上記の病気が4歳の時に遭った交通事故が原因<!--可能性が極めて高い-->の[[脳脊髄液減少症]](低髄液圧症候群)であったことが判明。まつもとの姉が脳脊髄液減少症という病名と症状を知った時、「弟(まつもと)の症状と同じ」と思ったため、病院で受診するよう勧めた。検査の結果、病名が判明した。効果があると言われている[[ブラッドパッチ]](硬膜外自家血注入)治療を受け、以前より体調は改善されたという。闘病生活を基にした自伝的な書き下し漫画の準備を進めている。「この病気のことを知らないために、死んでいった人もたくさんいるだろう。漫画の力でこの病気のことを伝えたい」とのこと<ref>「[https://web.archive.org/web/20050924211610/http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050903k0000m040138000c.html 脳脊髄液減少症:闘い6年、人気漫画家が再び活動開始!]」([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ) MSN毎日インタラクティブ、2005年9月3日。</ref><ref>「ひと――脳脊髄液減少症からの復帰をめざす漫画家 まつもと泉さん(52)」『朝日新聞』2010年10月14日付朝刊、第13版、第2面。</ref>。 * [[2007年]][[10月19日]]、母校の[[富山県立高岡工芸高等学校]]で講演をした。 * [[2010年]][[1月10日]]、『[[NHKニュースおはよう日本]]』に出演、自らの持病である脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)や自身の今後の活動に関して語った。 * [[2011年]]7月1日 - 4日、ロサンゼルスで行われた『[[Anime Expo|アニメエキスポ]]2011』に15年ぶりに参加した<ref>[http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2015&mm=03&dd=26 サイキンのまつもと 「ANIME EXPO AX2011」 2011年07月15日付]</ref>。 * [[2011年]][[7月21日]]、若いころからファンだった[[杉真理]]のライブを楽しんだ後、知人の紹介で杉と対面を果たし感激。記念撮影をしたことをブログに掲載した<ref>[http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2011&mm=07&dd=27 サイキンのまつもと 「YOKOHAMA BLITZZ 杉真理&ドリーマーズ」 2011年07月27日付]</ref>。 * [[2015年]][[3月26日]]、[[心房細動]]の持病を持っていることを明らかにし、4月3日より8日まで入院して手術を行った<ref>[http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2015&mm=03&dd=26 サイキンのまつもと 「カテーテル アプレーション手術」 2015年03月26日付]</ref>。 * [[2016年]][[8月27日]]、同年4月末に駅で男性とぶつかり頭部を強打し、脳脊髄液減少症が再発したこと、3か月間寝たきりの状態で自宅療養をしていたことを公式サイトで明らかにした。PCなどを操作することが困難であるため、しばらくはそれらには触れず治療に専念するという<ref>[http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2016&mm=08&dd=27 サイキンのまつもと「脳脊髄液減少症 再発」2016年8月27日付]</ref>。 * [[2017年]]11月19日、公私ともに親交のあった[[鶴ひろみ]]が同年11月16日に死去した。まつもとは療養中の身を押して、自身の公式サイトへ追悼のコメントを掲載した<ref>[http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2017&mm=11&dd=19 サイキンのまつもと 『鶴ひろみ逝く』 2017年11月19日付]</ref>。 * [[2018年]]10月1日、1年1か月ぶりにブログを更新。2年に及ぶ闘病生活を経て活動再開を宣言。 * [[2019年]]2月、杉真理デビュー40周年アルバム『MUSIC LIFE』リリースを記念したスペシャルサイトに祝辞コメントを寄稿<ref>{{Cite web|url=https://www.masamichi-sugi-40th-anniversary.com/special|title=SPECIAL|publisher=杉真理40周年記念スペシャルサイト|accessdate=2019-09-03}}</ref>。 * [[2020年]][[10月6日]]、入院療養中であった病院で死去。{{没年齢|1958|10|13|2020|10|6}}。脳脊髄液減少症による[[不定愁訴]]に苦しみながら復帰に向けて闘病を続けていたが、数年前に手術をした心臓にも不安を抱え、身体が保たなかったという。葬儀は近親者のみで執り行われた<ref name="WAVE"/>。 == 作品リスト == * [[きまぐれオレンジ☆ロード]] * せさみ☆すとりーと(未完) * 新きまぐれオレンジ☆ロード(小説) * Graffiti(短編集) * BLACK MOON(作画) * カッパ・トゥ・ザ・ティーチャー(原案、監修) * エンジェルグラフィティ 〜あなたへのプロフィール〜(キャラクターデザイン) * EE(漫画) * 幕末綿羊娘情史(構想のみ) * DIGITAL SHORT CONTENTS(フルカラー短編集) * GRAPHIC ANTHOLOGY(フルカラー画集) * 公式ファンブック第1巻「Recurrence」(インタビュー、ネーム集) * 公式ファンブック第2巻「Orange Blossom」(インタビュー、ネーム集) == 影響を受けた漫画家 == * [[永井豪]] * [[山上たつひこ]] * [[吾妻ひでお]] * [[田村信]] * [[江口寿史]] * [[高橋留美子]] * [[多田かおる]] * [[くらもちふさこ]] * [[よしまさこ]] == アシスタント == * [[萩原一至]] * [[岡崎武士]] * 本多将 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{columns-list|3| * [[高橋俊昌]] * [[清水としみつ]] * [[幡地英明]] * [[みやすのんき]] * [[寺田憲史]] * [[富沢順]] * [[黒岩よしひろ]] * [[宮崎摩耶]] }} == 外部リンク == * [http://www.comic-on.co.jp/ デジタル・コミック「COMIC ON」] -公式サイト(1) * [http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi サイキンのまつもと] (公式ブログ)-公式サイト(2) * [http://chibisake.wordpress.com/2010/12/03/caprichosa-entrevista-con-izumi-matsumoto/ Kimagure Interview (Spanish) with Matsumoto-Sensei ] -Chibisake(1) * [http://chibisake.wordpress.com/2010/12/03/caprichosa-biografia-de-izumi-matsumoto/ Izumi Matsumoto Biography (Spanish) ] -Chibisake(2) {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:まつもと いすみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:富山県出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:2020年没]] [[Category:障害を持つ人物]] [[Category:心臓病で死亡した人物]]
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松本零士
松本 零士(まつもと れいじ、Leiji Matsumoto、男性、1938年〈昭和13年〉1月25日 - 2023年〈令和5年〉2月13日)は、日本の漫画家。本名:松本 晟(まつもと あきら)。代表作に『男おいどん』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』など。 福岡県久留米市生まれ、東京都練馬区在住。血液型はB型。宝塚大学特任教授、京都産業大学客員教授、デジタルハリウッド大学特任教授を歴任。正六位、旭日小綬章、紫綬褒章、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。称号は練馬区名誉区民。 妻は同じく漫画家の牧美也子。早稲田大学大学院名誉教授で元三菱重工業長崎研究所主管の松本將は実弟。 一般的にSF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いている。アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』が映画化されて大ヒットするなど、松本アニメブームを巻き起こした。 デビューから1968年までは本名のひらがな表記である松本 あきらのペンネームを使用。松本零士名義は1965年から松本あきら名義と並行して使い始め、1968年に松本零士にペンネームを一本化した。ペンネームの由来は、“零歳児の感性をいつまでも忘れずに”というモットー、夜半―午前零時を過ぎないとアイデアが浮かばない事が度々あった事、“毎日夜零時まで働く士(サムライ)”から。 2008年5月に北九州で行われた『毎日フォーラム』では“零士の零は無限大の「れい」、士は「さむらい」、また本名である「あきら」とも読む”と語った。 零士をローマ字で表記する場合、Reijiとはせず、Leijiとする。RでなくLを使っているのは、少年時代に愛読していた山川惣治の絵物語『少年王者』に登場する悪役ライオン「ライオンL」が強くて逞しかったことから。 1938年(昭和13年)、福岡県久留米市に生まれる。 父親である松本強 は、一兵卒として大日本帝国陸軍に入営し、厳しい選抜を経て将校に抜擢された人であり(陸軍少尉候補者 第10期、最終階級は陸軍少佐)、また陸軍航空隊の古参の空中勤務者(パイロット)であった。 第二次世界大戦中、零士の父がテストパイロットをやっていた関係で、幼少期の一時期(1940年頃)、陸軍各務原飛行場がある現在の岐阜県各務原市に住み、4歳から6歳まで兵庫県明石市の川崎航空機の社宅に住んでいた。その後は、母親の実家がある愛媛県喜多郡新谷村(現在の大洲市新谷町)に疎開していた(両親共に大洲市の出身である)。このときアメリカ軍の戦闘機や、松山市へ空襲に向かうB-29などの軍用機を多数目撃、この体験が後の作品に影響を与えたという。当時10人家族で、バラックのような長屋で貧乏暮らしをしながら、本人は6歳頃から絵を描くのが好きになり、自宅で漫画を描いていた。 終戦後、小学校三年から福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。小倉市立米町小学校(現・北九州市立小倉中央小学校)のときから漫画少年で、高井研一郎らと同人グループ「九州漫画研究会」を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰。 松本が漫画家を志した理由は彼が小学二・三年の頃にあった学級文庫である。それは手塚治虫の漫画『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』であった。 小倉市立菊陵中学校(現・北九州市立菊陵中学校)に進学。 1954年(昭和29年)、福岡県立小倉南高等学校1年生(15歳)のときの投稿作「蜜蜂の冒険」が『漫画少年』(昭和29年2年号)に掲載されデビュー。そのときから中央でも既に知られる存在で、手塚治虫が出奔先の九州で原稿を描くときに高井、松本ら九州漫画研究会にアシスタントを頼んだというエピソードもある。またこの頃から1957年まで「毎日小学生新聞」に多数のマンガが掲載される。この時は、昆虫が主人公の短編作品などが連載された。 高校卒業後の1957年(昭和32年)、毎日新聞西部本社版で連載をするはずだったが急に担当者が代わりその話は反故にされる。しかし月刊少女雑誌『少女』での連載が決定して上京。本郷三丁目の四畳半の下宿で仕事を始め、しばらくは貧乏暮らしが続いたが、この飢餓感が漫画を描く上でのエネルギーになったという。『少女』と『少女クラブ』に不定期で描く少女漫画家で出発、少女漫画においてスランプに至った頃にはライターとしてタレントの取材などを手がけ、その後1960年前後から少年誌、青年誌にも進出。デビュー時は「松本あきら」名義を使用しており、「松本零士」を使うようになったのは1965年以降である(後述)。 上京後に漫画家の牧美也子と出会い、1962年(昭和37年)に結婚して翌年夫婦で練馬区に移り住んだ。 少年時代から海野十三やH・G・ウェルズのSF小説を愛読して育ったため、SF漫画などを好んで描いていたが、不人気で打ち切りも多く、出世作となったのは1971年(昭和46年)から『週刊少年マガジン』に連載した『男おいどん』である。同作は人気となり、1972年に講談社出版文化賞受賞。松本ならではの「四畳半もの」という独自のジャンルを開拓した。 1974年(昭和49年)秋から放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には企画途中から参加(詳細は宇宙戦艦ヤマト#制作の経緯を参照)。メカニックデザイナーとしての招聘だったが、かねてからアニメ作りを願望していた松本は全面的に携わった。本放送時には低視聴率に終わったものの、再放送によって人気を得、1977年(昭和52年)の劇場版アニメ公開時には社会現象を巻き起こした。 これがアニメブームのきっかけとなり、松本はアニメ制作会社の東映動画にイメージクリエイターとして起用され、テレビアニメ『惑星ロボ ダンガードA』『SF西遊記スタージンガー』にデザインを提供。また、自らも企画として温めていた『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』がヤマト人気によりアニメ化が決定され、特に『銀河鉄道999』は大ヒットし、松本零士ブームが到来。以降数々の松本アニメが作られた。 松本アニメブームは1982年(昭和57年)の『わが青春のアルカディア』『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』の頃には下火となり、1983年夏の劇場アニメ映画として企画されていた『クイーン・エメラルダス』 は頓挫して、ブームは終焉。その後20年近く松本原作のテレビアニメは実現しなかった。 一方、1980年代後半からは、宇宙開発事業団などさまざまな団体の役職に就任。また、漫画の執筆では、自作の異なる作品に登場した人気キャラクターを同一の作品世界にまとめる作業を進める。往年の松本アニメブームで育ったクリエイターにより、1990年代後半以降、再び松本作品を原作としたアニメのリリースが活発となった。 1999年に『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、松本零士であることの確認を求めて、松本が西崎義展を提訴したが、2003年に著作者人格権確認訴訟のそれぞれの控訴審は、法廷外で和解し西崎が著作者、著作者人格権者であることが確定した。 2003年(平成15年)には、画業50周年記念作品として『銀河鉄道999』から派生した『銀河鉄道物語』が発表された。 2006年(平成18年)に宝塚造形芸術大学(2010年、宝塚大学に名称変更)のメディア・コンテンツ学部の教授に就任。 2015年(平成27年)に妻の牧美也子と「松本零士×牧美也子 夫婦コラボ展」で話題となる。2018年(平成30年)に『銀河鉄道999』の新作を発表するなど、晩年まで創作意欲が衰えることはなかった。 2019年(令和元年)11月15日にイベント出席のため訪問中だったイタリア・トリノで体調を崩して倒れ、現地の病院へ緊急搬送されたが命に別状なく、12月4日に退院、翌5日に帰国した。 2023年(令和5年)2月13日、急性心不全のため東京都内の病院で死去したことが、同月20日に東映により発表された。85歳没。6月2日、生前の功績が評価され、日本国政府から松本に対し死没日付をもって正六位に叙されたことが零時社より発表された。同年6月3日に東京国際フォーラムでお別れの会が開かれた。7月10日発売のビッグコミック2023年第14号の表紙に追悼の言葉とともに松本の肖像イラストが掲載された。 ※おおむね発表順。 ※ほぼ松本あきら名義 原作が映像化されたもの、企画に関わったものを記す。アニメと並行して描かれた漫画化作品は前項に記す。 日本漫画家協会著作権部責任者やコンピュータソフトウェア著作権協会理事などの役職を持つ立場にあることもあって、著作権に対し敏感な面があり、過去に著作権関連のシンポジウムで「孫子の時代まで自分の著作権を守りたいというのが心情だ」と述べたこともあるほか、自らが過去に漫画の中で使用した台詞等の表現を「創作造語」と称し、それに似た表現を他者が無断で使うことに否定的な見解を示している。 松本が著作権に強硬なのは、『宇宙戦艦ヤマト』や戦争ものなどを描く際には戦没者や民族感情に細心の注意を払って配慮しているのに、自分のあずかり知らぬところで、第三者によって自分の創作が意図に反した使われ方をされるのが我慢できないことが一因だという。 2002年には自らが原作のテレビアニメ『SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK』がダビデの星を敵のデザインに使ったことから、ユダヤ人感情に配慮して一時製作中止にさせたこともあった。 権利関係に非常にシビアである印象を持たれるが、作家に対する敬意があり無断で使うのでなければ他の漫画家やミュージックビデオ、広告等に自作のキャラクターを使うことには寛容である。自作を笑いのネタにしたパロディ的な引用にも、松本自身が「面白い」と思えば快く許諾する傾向にある。但し「面白くない」と感じたパロディ的な引用には非常に厳しく、名指しで非難したり、担当編集者や漫画家自身を呼びつけて説教することもあるという。人気ヤンキー漫画『カメレオン』を連載していた加瀬あつしは、作中にメーテルのコスプレパロディネタを描いた際、松本に呼び出され夜通しで説教を受け、翌週の「週刊少年マガジン」誌上でお詫び文を掲載する羽目になった。このエピソードは単行本に収録される際、メーテルのコスプレが登場する部分の原稿は全て差し替えられ、オチも違うものとなっている 松本は『スター・ウォーズ』の企画書のレイア姫の初期設定は『宇宙海賊キャプテンハーロック』の有紀蛍と類似しており、同作品の初期企画に自作が影響を与えたと発言しているが、松本が「自身の作品の影響を受けた」とする作品の中には、本当に影響を受けたものかどうか不明なものも含まれている。 『銀河鉄道999』劇場版第2作『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』に登場する星野鉄郎の父親・黒騎士ファウストに関しては、『スター・ウォーズ』旧3部作に登場するダース・ベイダーとでいくつかの共通点が見られる。また宝島社の『完全版 銀河鉄道999 PERFECT BOOK』では、その子ルーク・スカイウォーカーと鉄郎の設定上の類似点などについて言及されている。時期的には『スター・ウォーズ』のほうが制作開始・公開いずれも早い。 松本零士は1976年頃に、『宇宙戦艦ヤマト』の原作について、企画・原案はプロデューサーの西崎義展であり、自分は基本ストーリーやアイデアのほとんどを出したが共同作品でもあり、原作については判断できず曖昧であると述べていた。『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルも西崎がつけたものと認めていたが、西崎が破産した1997年頃から、自らが『宇宙戦艦ヤマト』の著作権者であり、西崎はアニメ化の使用許諾権を得たプロデューサーに過ぎず、その使用許諾権も失効したと主張し始め、次いで西崎が逮捕された1998年には新潮社や産経新聞社のウェブページにおいて、西崎は『ヤマト』とは無関係で、『ヤマト』の全ての権利は自分が持っていると述べるようになった。そもそも『宇宙戦艦ヤマト』は自作『電光オズマ』の「宇宙戦艦大和の巻」が原型であるというのが松本の説明である。 そして、『ヤマト』の著作権を西崎から取得した東北新社との間で、1999年に「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わして、2000年からは『新宇宙戦艦ヤマト』という新作を連載し、そのアニメ版の制作発表もした。 1999年になって『宇宙戦艦ヤマト』を作ったのは誰かという著作者を巡って西崎義展と裁判が行われた。松本側が原作と主張した『電光オズマ』『光速エスパー』、『ヤマト』の「創作ノート」、そして『冒険王』連載の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のいずれも原作ではないと否定され、なおかつ松本はアニメの製作過程においても部分的にしか関わっていないとして、東京地方裁判所は西崎を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となった。控訴審中の2003年に法廷外和解して、松本と西崎の両者ともが著作者という合意を交わしたが、西崎が筆頭著作者であり代表して著作者人格権を有することになり、松本は西崎の同意なしに『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの新作を作れず、また、西﨑側が許諾したヤマト新作については松本は自分の権利を行使できないことになった。西崎側のヤマト新作で松本の名前がクレジットされる際は、従来主張してきた「原作」ではなく「設定・デザイン」であることを松本はこの和解書で認めている。ただしこの和解は、判決と同等の効力がある訴訟上の和解でなく裁判外の和解に過ぎず、その拘束力が及ぶのは和解の当事者のみであり、著作権者の東北新社はこの和解に縛られないとの見解を発表している。 なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」「西崎は悪魔だ、彼に味方する人物も赦さない!」とのコメントを一部マスコミに報道された。 裁判終結後のシリーズ続編『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』にはスタッフとして参加せず、名前もクレジットされなかった。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの翻案にあたる実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や第1作のリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2199』『宇宙戦艦ヤマト2202』『宇宙戦艦ヤマト2205』でも、西崎が原作者としてクレジットされ、松本の名は表示されなかった。なお、リメイク版の総監督を務めた出渕裕は、松本と豊田有恒のクレジットを入れようと制作プロダクション側に掛け合っている。 製作スタッフの中では、SF設定を担当した豊田有恒は、著書(日本SFアニメ創世記)で松本零士を全面的に支持し、西崎義展を批判している。一方で作詞家として1作目から関わっていた阿久悠は最晩年に産経新聞内で連載していたコラム『阿久悠 書く言う』にて「松本がヤマトの著作権者を名乗れるのなら、他のスタッフ達や私だって著作権者を名乗れる」、「西崎さんの熱意と情熱無しに『宇宙戦艦ヤマト』は存在しなかった」と書き残している。劇場版を監督した舛田利雄は実質的な原作者は西崎だとの見解を持っており、企画段階から携わった藤川桂介と山本暎一、松本を補佐した石黒昇も、松本の原作者だとの主張に対して、本作はオリジナル企画であるとして松本による原著作物は存在しないとの立場である。メカデザインのスタジオぬえのメンバーでも松本を原作者と認識するのは少数だという。第1作から絵コンテや作画で参加した安彦良和によれば、ヤマトをめぐる訴訟の際は大方の人が西崎の肩を持ったという。安彦本人は中立を宣言して、やって来た松本の弁護士にもヤマトは松本のものでなく松本と西崎両者のものだと伝え、松本敗訴の一審判決は当然のこととした。 絵コンテで参加した富野由悠季はそのときの経緯から、松本零士と山本暎一が並列でその上に西崎義展がいて全ての主導権を西崎が握った、西崎が主導する西崎の作品だったとインタビューで語っている。 2006年、槇原敬之がCHEMISTRYに提供した楽曲『約束の場所』の歌詞の一部が、1996年から再開された新展開編『銀河鉄道999』の作中のセリフの盗用であると、松本零士は10月19日発売の『女性セブン』で槇原敬之を非難した。翌日20日の日本テレビ系『スッキリ!!』にも生出演し、同様に槇原を盗作したと非難した。 これに対して槇原は記者会見で否定し、同年11月7日付の公式ホームページにて「『銀河鉄道999』は個人的趣味で読んだことが無く、歌詞は全くのオリジナルであり、本当に盗作だと疑っているのなら(自分を告訴して)裁判で決着していただきたい」旨のコメントを発表している。 2007年3月22日、『スッキリ!!』における松本の発言をめぐり、槇原が松本に対して、盗作だと言っている部分に対して証拠を示して欲しいと著作権侵害不存在確認等請求を東京地方裁判所に起こした。裁判で松本側が盗作だという証拠が示せなかった場合は、CMソングの中止などにより、2,200万円の損害賠償請求も行った。これについて松本は3月26日のトークショーで「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある、一連の訴訟について口頭弁論などに立つ気はない」とも語った。 2008年7月7日、東京地裁で口頭弁論のため、事件以降、両者が初めて顔を合わせた。槇原はニュースやマスコミなどで取り上げられ、「泥棒扱いされてもしていないものはしてない」「(問題の歌詞の部分は)仏教の因果応報の教えから」「謝れば許すつもりといっているが、それは罪を認める行為だ」と弁論、直後に松本の反論を聴くことなく退廷した。松本は「このセリフは私の座右の銘」で「長く使い、媒体でも講演会でも発表している」「一言、公の場で『すまん』と言ってほしかった」「偶然としても、あそこまで似てるのはありえない」と反論した。 同年12月26日、東京地裁は「原告表現が被告表現に依拠したものと断定することはできない」「2人の表現が酷似しているとは言えない」と依拠性と類似性という著作権侵害となる2つの構成要件を認めず、槇原に対する名誉毀損を認め、松本に220万円の損害賠償支払いを命じる判決を下した。その後双方とも控訴している。 2009年11月26日、東京高裁で控訴審が開かれ、松本が「槇原さんの社会的な評価に相当な影響を与えた」と陳謝する内容を和解条項として、和解が成立した(金銭支払なし)。 2011年12月16日、『菊地成孔の粋な夜電波』に近田春夫がゲスト出演。話題がJ-POPのパクリ問題になると「マッキーがパクるわけないじゃん」「(松本が)自分のフレーズを知らないはずがない、というのは思い上がり」と槇原側を全面擁護した。 松本は2011年に槇原のCDの購入者に向けた描き下ろしクリスマスカードで槇原の似顔絵を描いたが、『SPA!』2012年3月27日号で「ひと言『ごめん』と言ってくれたら、それでよかったんです」と、謝罪すべきだったのは槇原側だったとの主張を再び行った。 槇原はその後、2022年3月2日にリリースしたアルバム『Bespoke』で「約束の場所」をセルフカバーしている。 零士メーター(れいじメーター)とは、漫画やアニメ等のフィクション作品に登場する計器デザインの呼称、俗称。松本メーターとも呼ばれる。 主に未来を描いたSF作品に登場する。円形もしくは歯車形のガラスパネルの中に、目盛りと複数(最低でも3本)の指針が書き込まれたスタイル。クロノグラフに似るが、違いは全周型ではなく限界点があること。 『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』を代表とする松本零士の作品に頻繁に登場する事から、同作品のファンを中心に「零士メーター」と呼ばれるようになった。 2009年には、日本のSEAHOPEがレイジメーターをモチーフとした腕時計「零士メーターウォッチ」を999本限定で製品化し、松本がデザイン監修を手掛けた。 板橋克己は『零士メーターから始めるSFメカの描き方』を2017年に玄光社より上梓している。 前述の通り松本零士作品の抽象的な存在ではあったが、他にも『タイムボカンシリーズ』など、1970年代後半から1980年代前半頃までの、日本のSFアニメ、SF漫画には、同種の意匠が多用されていた。 しかし、所謂「リアルロボット系」と呼ばれる『機動戦士ガンダム』シリーズでは、デザイン上のリアリティの追求から実在のOA機器を意識した意匠を多用した為、あまり見られなくなった。その為、同作品がブームを起こした1980年代以降は、他の作品でも徐々に姿を消していった。さらに、1990年代に入ると、パーソナルコンピュータにおいて普及したMicrosoft Windowsを意識したGUIによる統合環境モニターをデザインする事が多くなり、自動車用や、旧来の鉄道車両用・航空機用の単品計器を意識したこの意匠はほとんど使われなくなっている。
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"tag": "p", "text": "少年時代から海野十三やH・G・ウェルズのSF小説を愛読して育ったため、SF漫画などを好んで描いていたが、不人気で打ち切りも多く、出世作となったのは1971年(昭和46年)から『週刊少年マガジン』に連載した『男おいどん』である。同作は人気となり、1972年に講談社出版文化賞受賞。松本ならではの「四畳半もの」という独自のジャンルを開拓した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1974年(昭和49年)秋から放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には企画途中から参加(詳細は宇宙戦艦ヤマト#制作の経緯を参照)。メカニックデザイナーとしての招聘だったが、かねてからアニメ作りを願望していた松本は全面的に携わった。本放送時には低視聴率に終わったものの、再放送によって人気を得、1977年(昭和52年)の劇場版アニメ公開時には社会現象を巻き起こした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これがアニメブームのきっかけとなり、松本はアニメ制作会社の東映動画にイメージクリエイターとして起用され、テレビアニメ『惑星ロボ ダンガードA』『SF西遊記スタージンガー』にデザインを提供。また、自らも企画として温めていた『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』がヤマト人気によりアニメ化が決定され、特に『銀河鉄道999』は大ヒットし、松本零士ブームが到来。以降数々の松本アニメが作られた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "松本アニメブームは1982年(昭和57年)の『わが青春のアルカディア』『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』の頃には下火となり、1983年夏の劇場アニメ映画として企画されていた『クイーン・エメラルダス』 は頓挫して、ブームは終焉。その後20年近く松本原作のテレビアニメは実現しなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一方、1980年代後半からは、宇宙開発事業団などさまざまな団体の役職に就任。また、漫画の執筆では、自作の異なる作品に登場した人気キャラクターを同一の作品世界にまとめる作業を進める。往年の松本アニメブームで育ったクリエイターにより、1990年代後半以降、再び松本作品を原作としたアニメのリリースが活発となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1999年に『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、松本零士であることの確認を求めて、松本が西崎義展を提訴したが、2003年に著作者人格権確認訴訟のそれぞれの控訴審は、法廷外で和解し西崎が著作者、著作者人格権者であることが確定した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)には、画業50周年記念作品として『銀河鉄道999』から派生した『銀河鉄道物語』が発表された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)に宝塚造形芸術大学(2010年、宝塚大学に名称変更)のメディア・コンテンツ学部の教授に就任。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)に妻の牧美也子と「松本零士×牧美也子 夫婦コラボ展」で話題となる。2018年(平成30年)に『銀河鉄道999』の新作を発表するなど、晩年まで創作意欲が衰えることはなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2019年(令和元年)11月15日にイベント出席のため訪問中だったイタリア・トリノで体調を崩して倒れ、現地の病院へ緊急搬送されたが命に別状なく、12月4日に退院、翌5日に帰国した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)2月13日、急性心不全のため東京都内の病院で死去したことが、同月20日に東映により発表された。85歳没。6月2日、生前の功績が評価され、日本国政府から松本に対し死没日付をもって正六位に叙されたことが零時社より発表された。同年6月3日に東京国際フォーラムでお別れの会が開かれた。7月10日発売のビッグコミック2023年第14号の表紙に追悼の言葉とともに松本の肖像イラストが掲載された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "※おおむね発表順。", "title": "漫画" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "※ほぼ松本あきら名義", "title": "漫画" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "原作が映像化されたもの、企画に関わったものを記す。アニメと並行して描かれた漫画化作品は前項に記す。", "title": "映像作品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本漫画家協会著作権部責任者やコンピュータソフトウェア著作権協会理事などの役職を持つ立場にあることもあって、著作権に対し敏感な面があり、過去に著作権関連のシンポジウムで「孫子の時代まで自分の著作権を守りたいというのが心情だ」と述べたこともあるほか、自らが過去に漫画の中で使用した台詞等の表現を「創作造語」と称し、それに似た表現を他者が無断で使うことに否定的な見解を示している。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "松本が著作権に強硬なのは、『宇宙戦艦ヤマト』や戦争ものなどを描く際には戦没者や民族感情に細心の注意を払って配慮しているのに、自分のあずかり知らぬところで、第三者によって自分の創作が意図に反した使われ方をされるのが我慢できないことが一因だという。 2002年には自らが原作のテレビアニメ『SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK』がダビデの星を敵のデザインに使ったことから、ユダヤ人感情に配慮して一時製作中止にさせたこともあった。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "権利関係に非常にシビアである印象を持たれるが、作家に対する敬意があり無断で使うのでなければ他の漫画家やミュージックビデオ、広告等に自作のキャラクターを使うことには寛容である。自作を笑いのネタにしたパロディ的な引用にも、松本自身が「面白い」と思えば快く許諾する傾向にある。但し「面白くない」と感じたパロディ的な引用には非常に厳しく、名指しで非難したり、担当編集者や漫画家自身を呼びつけて説教することもあるという。人気ヤンキー漫画『カメレオン』を連載していた加瀬あつしは、作中にメーテルのコスプレパロディネタを描いた際、松本に呼び出され夜通しで説教を受け、翌週の「週刊少年マガジン」誌上でお詫び文を掲載する羽目になった。このエピソードは単行本に収録される際、メーテルのコスプレが登場する部分の原稿は全て差し替えられ、オチも違うものとなっている", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "松本は『スター・ウォーズ』の企画書のレイア姫の初期設定は『宇宙海賊キャプテンハーロック』の有紀蛍と類似しており、同作品の初期企画に自作が影響を与えたと発言しているが、松本が「自身の作品の影響を受けた」とする作品の中には、本当に影響を受けたものかどうか不明なものも含まれている。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "『銀河鉄道999』劇場版第2作『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』に登場する星野鉄郎の父親・黒騎士ファウストに関しては、『スター・ウォーズ』旧3部作に登場するダース・ベイダーとでいくつかの共通点が見られる。また宝島社の『完全版 銀河鉄道999 PERFECT BOOK』では、その子ルーク・スカイウォーカーと鉄郎の設定上の類似点などについて言及されている。時期的には『スター・ウォーズ』のほうが制作開始・公開いずれも早い。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "松本零士は1976年頃に、『宇宙戦艦ヤマト』の原作について、企画・原案はプロデューサーの西崎義展であり、自分は基本ストーリーやアイデアのほとんどを出したが共同作品でもあり、原作については判断できず曖昧であると述べていた。『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルも西崎がつけたものと認めていたが、西崎が破産した1997年頃から、自らが『宇宙戦艦ヤマト』の著作権者であり、西崎はアニメ化の使用許諾権を得たプロデューサーに過ぎず、その使用許諾権も失効したと主張し始め、次いで西崎が逮捕された1998年には新潮社や産経新聞社のウェブページにおいて、西崎は『ヤマト』とは無関係で、『ヤマト』の全ての権利は自分が持っていると述べるようになった。そもそも『宇宙戦艦ヤマト』は自作『電光オズマ』の「宇宙戦艦大和の巻」が原型であるというのが松本の説明である。 そして、『ヤマト』の著作権を西崎から取得した東北新社との間で、1999年に「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わして、2000年からは『新宇宙戦艦ヤマト』という新作を連載し、そのアニメ版の制作発表もした。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1999年になって『宇宙戦艦ヤマト』を作ったのは誰かという著作者を巡って西崎義展と裁判が行われた。松本側が原作と主張した『電光オズマ』『光速エスパー』、『ヤマト』の「創作ノート」、そして『冒険王』連載の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のいずれも原作ではないと否定され、なおかつ松本はアニメの製作過程においても部分的にしか関わっていないとして、東京地方裁判所は西崎を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となった。控訴審中の2003年に法廷外和解して、松本と西崎の両者ともが著作者という合意を交わしたが、西崎が筆頭著作者であり代表して著作者人格権を有することになり、松本は西崎の同意なしに『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの新作を作れず、また、西﨑側が許諾したヤマト新作については松本は自分の権利を行使できないことになった。西崎側のヤマト新作で松本の名前がクレジットされる際は、従来主張してきた「原作」ではなく「設定・デザイン」であることを松本はこの和解書で認めている。ただしこの和解は、判決と同等の効力がある訴訟上の和解でなく裁判外の和解に過ぎず、その拘束力が及ぶのは和解の当事者のみであり、著作権者の東北新社はこの和解に縛られないとの見解を発表している。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」「西崎は悪魔だ、彼に味方する人物も赦さない!」とのコメントを一部マスコミに報道された。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "裁判終結後のシリーズ続編『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』にはスタッフとして参加せず、名前もクレジットされなかった。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの翻案にあたる実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や第1作のリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2199』『宇宙戦艦ヤマト2202』『宇宙戦艦ヤマト2205』でも、西崎が原作者としてクレジットされ、松本の名は表示されなかった。なお、リメイク版の総監督を務めた出渕裕は、松本と豊田有恒のクレジットを入れようと制作プロダクション側に掛け合っている。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "製作スタッフの中では、SF設定を担当した豊田有恒は、著書(日本SFアニメ創世記)で松本零士を全面的に支持し、西崎義展を批判している。一方で作詞家として1作目から関わっていた阿久悠は最晩年に産経新聞内で連載していたコラム『阿久悠 書く言う』にて「松本がヤマトの著作権者を名乗れるのなら、他のスタッフ達や私だって著作権者を名乗れる」、「西崎さんの熱意と情熱無しに『宇宙戦艦ヤマト』は存在しなかった」と書き残している。劇場版を監督した舛田利雄は実質的な原作者は西崎だとの見解を持っており、企画段階から携わった藤川桂介と山本暎一、松本を補佐した石黒昇も、松本の原作者だとの主張に対して、本作はオリジナル企画であるとして松本による原著作物は存在しないとの立場である。メカデザインのスタジオぬえのメンバーでも松本を原作者と認識するのは少数だという。第1作から絵コンテや作画で参加した安彦良和によれば、ヤマトをめぐる訴訟の際は大方の人が西崎の肩を持ったという。安彦本人は中立を宣言して、やって来た松本の弁護士にもヤマトは松本のものでなく松本と西崎両者のものだと伝え、松本敗訴の一審判決は当然のこととした。 絵コンテで参加した富野由悠季はそのときの経緯から、松本零士と山本暎一が並列でその上に西崎義展がいて全ての主導権を西崎が握った、西崎が主導する西崎の作品だったとインタビューで語っている。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2006年、槇原敬之がCHEMISTRYに提供した楽曲『約束の場所』の歌詞の一部が、1996年から再開された新展開編『銀河鉄道999』の作中のセリフの盗用であると、松本零士は10月19日発売の『女性セブン』で槇原敬之を非難した。翌日20日の日本テレビ系『スッキリ!!』にも生出演し、同様に槇原を盗作したと非難した。 これに対して槇原は記者会見で否定し、同年11月7日付の公式ホームページにて「『銀河鉄道999』は個人的趣味で読んだことが無く、歌詞は全くのオリジナルであり、本当に盗作だと疑っているのなら(自分を告訴して)裁判で決着していただきたい」旨のコメントを発表している。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2007年3月22日、『スッキリ!!』における松本の発言をめぐり、槇原が松本に対して、盗作だと言っている部分に対して証拠を示して欲しいと著作権侵害不存在確認等請求を東京地方裁判所に起こした。裁判で松本側が盗作だという証拠が示せなかった場合は、CMソングの中止などにより、2,200万円の損害賠償請求も行った。これについて松本は3月26日のトークショーで「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある、一連の訴訟について口頭弁論などに立つ気はない」とも語った。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2008年7月7日、東京地裁で口頭弁論のため、事件以降、両者が初めて顔を合わせた。槇原はニュースやマスコミなどで取り上げられ、「泥棒扱いされてもしていないものはしてない」「(問題の歌詞の部分は)仏教の因果応報の教えから」「謝れば許すつもりといっているが、それは罪を認める行為だ」と弁論、直後に松本の反論を聴くことなく退廷した。松本は「このセリフは私の座右の銘」で「長く使い、媒体でも講演会でも発表している」「一言、公の場で『すまん』と言ってほしかった」「偶然としても、あそこまで似てるのはありえない」と反論した。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "同年12月26日、東京地裁は「原告表現が被告表現に依拠したものと断定することはできない」「2人の表現が酷似しているとは言えない」と依拠性と類似性という著作権侵害となる2つの構成要件を認めず、槇原に対する名誉毀損を認め、松本に220万円の損害賠償支払いを命じる判決を下した。その後双方とも控訴している。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2009年11月26日、東京高裁で控訴審が開かれ、松本が「槇原さんの社会的な評価に相当な影響を与えた」と陳謝する内容を和解条項として、和解が成立した(金銭支払なし)。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2011年12月16日、『菊地成孔の粋な夜電波』に近田春夫がゲスト出演。話題がJ-POPのパクリ問題になると「マッキーがパクるわけないじゃん」「(松本が)自分のフレーズを知らないはずがない、というのは思い上がり」と槇原側を全面擁護した。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "松本は2011年に槇原のCDの購入者に向けた描き下ろしクリスマスカードで槇原の似顔絵を描いたが、『SPA!』2012年3月27日号で「ひと言『ごめん』と言ってくれたら、それでよかったんです」と、謝罪すべきだったのは槇原側だったとの主張を再び行った。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "槇原はその後、2022年3月2日にリリースしたアルバム『Bespoke』で「約束の場所」をセルフカバーしている。", "title": "創作・著作権に対するスタンス" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "零士メーター(れいじメーター)とは、漫画やアニメ等のフィクション作品に登場する計器デザインの呼称、俗称。松本メーターとも呼ばれる。", "title": "零士メーター" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "主に未来を描いたSF作品に登場する。円形もしくは歯車形のガラスパネルの中に、目盛りと複数(最低でも3本)の指針が書き込まれたスタイル。クロノグラフに似るが、違いは全周型ではなく限界点があること。", "title": "零士メーター" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』を代表とする松本零士の作品に頻繁に登場する事から、同作品のファンを中心に「零士メーター」と呼ばれるようになった。", "title": "零士メーター" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2009年には、日本のSEAHOPEがレイジメーターをモチーフとした腕時計「零士メーターウォッチ」を999本限定で製品化し、松本がデザイン監修を手掛けた。", "title": "零士メーター" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "板橋克己は『零士メーターから始めるSFメカの描き方』を2017年に玄光社より上梓している。", "title": "零士メーター" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "前述の通り松本零士作品の抽象的な存在ではあったが、他にも『タイムボカンシリーズ』など、1970年代後半から1980年代前半頃までの、日本のSFアニメ、SF漫画には、同種の意匠が多用されていた。", "title": "零士メーター" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "しかし、所謂「リアルロボット系」と呼ばれる『機動戦士ガンダム』シリーズでは、デザイン上のリアリティの追求から実在のOA機器を意識した意匠を多用した為、あまり見られなくなった。その為、同作品がブームを起こした1980年代以降は、他の作品でも徐々に姿を消していった。さらに、1990年代に入ると、パーソナルコンピュータにおいて普及したMicrosoft Windowsを意識したGUIによる統合環境モニターをデザインする事が多くなり、自動車用や、旧来の鉄道車両用・航空機用の単品計器を意識したこの意匠はほとんど使われなくなっている。", "title": "零士メーター" } ]
松本 零士は、日本の漫画家。本名:松本 晟。代表作に『男おいどん』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』など。 福岡県久留米市生まれ、東京都練馬区在住。血液型はB型。宝塚大学特任教授、京都産業大学客員教授、デジタルハリウッド大学特任教授を歴任。正六位、旭日小綬章、紫綬褒章、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。称号は練馬区名誉区民。 妻は同じく漫画家の牧美也子。早稲田大学大学院名誉教授で元三菱重工業長崎研究所主管の松本將は実弟。 一般的にSF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いている。アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』が映画化されて大ヒットするなど、松本アニメブームを巻き起こした。
{{出典の明記|date=2023年2月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 松本 零士 | ふりがな = まつもと れいじ | 画像 = Leiji Matsumoto - Lucca Comics & Games 2018 02.jpg | 画像サイズ = 220px | 脚注 = [[イタリア]]のコミコン「[[ルッカコミックス&ゲームズ]]」にて([[2018年]]) | 本名 = 松本 晟<br />(まつもと あきら) | 別名義 = 松本 あきら | 生地 = {{JPN}}・[[福岡県]][[久留米市]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1938|1|25|no}} | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1938|1|25|2023|2|13}} | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = [[紫綬褒章]]<br />[[旭日小綬章]]<br />[[正六位]]<br />[[芸術文化勲章]] | ジャンル = [[SF漫画]] | 活動期間 = [[1954年]] - [[2023年]] | 代表作 = 『[[銀河鉄道999]]』<br />『[[宇宙戦艦ヤマト]]』<br />『[[宇宙海賊キャプテンハーロック]]』<br />『[[クイーン・エメラルダス]]』<br />『[[漂流幹線000]]』他多数 | 受賞 = 第3回[[講談社出版文化賞]]<br />(『[[男おいどん]]』)<br />第6回[[星雲賞]]<br />(『宇宙戦艦ヤマト』(TVアニメ))<br />第23回[[小学館漫画賞]](『銀河鉄道999』『[[戦場まんがシリーズ]]』)<br />第7回[[日本漫画家協会賞]]特別賞<br />[[映画の日]]特別功労賞 | サイン = [[File:Logo dell'Associazione Culturale Leiji Matsumoto..jpg|220px]] | 公式サイト =[https://leijisha.jp/ 松本零士 Offical Site] }} '''松本 零士'''(まつもと れいじ、''Leiji Matsumoto''、[[男性]]、[[1938年]]〈[[昭和]]13年〉[[1月25日]] - [[2023年]]〈[[令和]]5年〉[[2月13日]]<ref name="toei230220">{{Cite web|和書|url=https://www.toei.co.jp/company/press/1231306_2819.html|title= 漫画家・松本零士氏 訃報 |website=東映|date=2023-02-20|accessdate=2023-02-28}}</ref>)は、[[日本]]の[[漫画家]]。本名:松本 晟(まつもと あきら)<ref>{{cite book|和書|title=わたしの失敗 II: 著名40人の体験談|publisher=産経新聞|year=2007|isbn=9784863060166|page=189}}</ref>。代表作に『[[男おいどん]]』『[[宇宙戦艦ヤマト]]』『[[銀河鉄道999]]』など。 [[福岡県]][[久留米市]]生まれ<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 ">週刊現代2023年3月4日号「昭和の怪物」研究・その164“追悼”松本零士「魂は銀河鉄道に乗って」p157-164</ref>、[[東京都]][[練馬区]]在住。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|B型]]。[[宝塚大学]][[特任教授]]、[[京都産業大学]][[客員教授]]、[[デジタルハリウッド大学]]特任教授を歴任。[[正六位]]、[[旭日小綬章]]、[[紫綬褒章]]、[[フランス]][[芸術文化勲章]]シュバリエ受章。[[称号]]は[[練馬区]][[名誉市民|名誉区民]]。 妻は同じく漫画家の[[牧美也子]]。[[早稲田大学]][[大学院]][[名誉教授]]で元[[三菱重工業]]長崎研究所主管の[[松本將]]は実弟。 一般的に[[SF漫画]]作家として知られるが、[[少女漫画]]、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いている。アニメ製作にも積極的に関わり、[[1970年代]]半ばから[[1980年代]]にかけては『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』が映画化されて大ヒットするなど、松本[[アニメブーム]]を巻き起こした<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 == ペンネーム == デビューから[[1968年]]までは本名のひらがな表記である'''松本 あきら'''の[[ペンネーム]]を使用。松本零士名義は[[1965年]]から松本あきら名義と並行して使い始め、1968年に松本零士にペンネームを一本化した。ペンネームの由来は、“零歳児の感性をいつまでも忘れずに”というモットー、夜半―午前零時を過ぎないとアイデアが浮かばない事が度々あった事、“毎日夜零時まで働く士([[サムライ]])”から。 [[2008年]]5月に北九州で行われた『毎日フォーラム』では“零士の零は[[無限|無限大]]の「れい」、士は「さむらい」、また本名である「あきら」とも読む”と語った。 零士をローマ字で表記する場合、Reijiとはせず、Leijiとする。RでなくLを使っているのは、少年時代に愛読していた[[山川惣治]]の[[絵物語]]『少年王者』に登場する悪役ライオン「ライオンL」が強くて逞しかったことから<ref>小野博宣、渡辺勉『戦後生まれのヒーローたち』アース出版局、1995年、pp.12-13。『[[サンデー毎日]]』連載の「ぼくらの戦後50年 あの時、キミたちがヒーローだった」をまとめた単行本。松本への取材に基づく。</ref>。 == 経歴 == ===生い立ち=== [[1938年]](昭和13年)、[[福岡県]][[久留米市]]に生まれる。 父親である[[松本強]]{{Efn|1980年12月28日に76歳で死去した<ref>『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年、299頁</ref>。}} は、[[二等兵|一兵卒]]として[[大日本帝国陸軍]]に入営し、厳しい選抜を経て[[将校]]に抜擢された人であり([[陸軍少尉候補者]] 第10期、最終階級は[[少佐|陸軍少佐]])、また[[陸軍飛行戦隊|陸軍航空隊]]の古参の空中勤務者([[パイロット (航空)|パイロット]])であった。 [[第二次世界大戦]]中、零士の父が[[テストパイロット]]をやっていた関係で、幼少期の一時期(1940年頃)、陸軍[[各務原飛行場]]がある現在の[[岐阜県]][[各務原市]]に住み<ref name="岐阜新聞">{{Cite web|和書|date=202-02-21 |url=https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/199017 |title=松本零士さん「マニアにとって感涙」空宙博名誉館長25年。幼少期に各務原市在住、岐阜との縁 |publisher=岐阜新聞 |accessdate=2023-02-24 }}</ref><ref name="中日新聞">{{Cite web|和書|date=202-02-21 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/639934 |title=岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の名誉館長20年以上。松本零士さん死去 |publisher=中日新聞 |accessdate=2023-02-24 }}</ref>{{Efn|岐阜かかみがはら航空宇宙博物館、松本零士氏追悼の展示パネルより。}}、4歳から6歳まで[[兵庫県]][[明石市]]の[[川崎重工業航空宇宙カンパニー|川崎航空機]]の社宅に住んでいた<ref name="manganavi"/><ref name="家の履歴書">斉藤明美『家の履歴書 文化人・芸術家篇』[[キネマ旬報社]]、2011年、p28-33</ref>。その後は、母親の実家がある[[愛媛県]][[喜多郡]][[新谷村]](現在の[[大洲市]]新谷町)に[[疎開]]していた<ref name="manganavi"/><ref>{{Cite news |url=http://mytown.asahi.com/areanews/ehime/OSK201103060067.html |title=「メーテル役は小雪さんに」松本零士さん、松山で講演 |newspaper=asahi.com |publisher=朝日新聞社 |date=2011-03-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110308174248/http://mytown.asahi.com/areanews/ehime/OSK201103060067.html |archivedate=2011年3月8日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>(両親共に大洲市の出身である<ref>[https://web.archive.org/web/20030111101907/http://www.pref.ehime.jp/izanai/favorite/matsumoto/matsumoto.html 愛媛の観光情報WEBサイト いよ観ネット / 私の愛媛のお気にいり 我がDNAの故郷(ふるさと)(松本零士)](2003年1月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])、[https://web.archive.org/web/20040415195436/http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/127/index.html グレートマザー物語 2004年1月25日放送 松本零士の母 〜泣くな、母ちゃん 俺がおる!!〜](2004年4月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>)。このとき[[アメリカ軍]]の[[戦闘機]]や、[[松山市]]へ空襲に向かう[[B-29 (航空機)|B-29]]などの軍用機を多数目撃、この体験が後の作品に影響を与えたという<ref name="manganavi"/>。当時10人家族で、バラックのような長屋で貧乏暮らしをしながら、本人は6歳頃から絵を描くのが好きになり、自宅で漫画を描いていた<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 終戦後、小学校三年から福岡県小倉市(現・[[北九州市]])に移る<ref name="家の履歴書"/>。小倉市立米町小学校(現・[[北九州市立小倉中央小学校]])のときから漫画少年で、[[高井研一郎]]らと同人グループ「九州漫画研究会」を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰。 松本が漫画家を志した理由は彼が小学二・三年の頃にあった学級文庫である。それは[[手塚治虫]]の漫画『[[新宝島]]』『キングコング』『[[火星博士]]』『月世界紳士』であった。<ref>松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111</ref> 小倉市立菊陵中学校(現・[[北九州市立菊陵中学校]])に進学。 ===漫画家デビュー=== [[1954年]](昭和29年)、[[福岡県立小倉南高等学校]]1年生(15歳)のときの投稿作「蜜蜂の冒険」が『[[漫画少年]]』(昭和29年2年号)に掲載されデビュー{{Efn|副賞の置時計はすぐ贈られてきたが学童社の資金的問題からか賞金の5000円は送られてこず、修学旅行で上京した際に学童社を訪れた際にその場で手渡されている。}}。そのときから中央でも既に知られる存在で、[[手塚治虫]]が出奔先の九州で原稿を描くときに高井、松本ら九州漫画研究会にアシスタントを頼んだというエピソードもある<ref>『ブラックジャック創作秘話』第2巻 秋田書店</ref>。またこの頃から1957年まで「[[毎日小学生新聞]]」に多数のマンガが掲載される<ref name="kasahara1979">笠原博『松本零士マンガの魅力 - 松本零士大いに語る』清山社、1979年2刷、pp.172-175</ref>。この時は、昆虫が主人公の短編作品などが連載された<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 高校卒業後の[[1957年]](昭和32年)、[[毎日新聞]]西部本社版で連載をするはずだったが急に担当者が代わりその話は反故にされる{{Efn|「ぴーぷる最前線松本零士」には編集長と高校を卒業したら嘱託とするとの約束があったが編集長の交代により反故にされた旨の記述がある。}}。しかし月刊少女雑誌『[[少女 (雑誌)|少女]]』での連載が決定して上京{{Efn|[[笠原博]]『松本零士マンガの魅力』では昭和31年の冬に上京とある<ref name="kasahara1979" />。}}。[[本郷 (文京区)|本郷]]三丁目の四畳半の下宿で仕事を始め、しばらくは貧乏暮らしが続いたが、この飢餓感が漫画を描く上でのエネルギーになったという<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。『少女』と『[[少女クラブ]]』に不定期で描く少女漫画家で出発、少女漫画においてスランプに至った頃にはライターとしてタレントの取材などを手がけ、その後[[1960年]]前後から少年誌、青年誌にも進出。デビュー時は「'''松本あきら'''」名義を使用しており、「松本零士」を使うようになったのは1965年以降である(後述)。 上京後に漫画家の[[牧美也子]]と出会い、1962年(昭和37年)に結婚して翌年夫婦で[[練馬区]]に移り住んだ<ref name="kasahara1979" /><ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 少年時代から[[海野十三]]や[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]の[[サイエンス・フィクション|SF]]小説を愛読して育ったため、SF漫画などを好んで描いていたが、不人気で打ち切りも多く、出世作となったのは[[1971年]](昭和46年)から『[[週刊少年マガジン]]』に連載した『[[男おいどん]]』である。同作は人気となり、[[1972年]]に[[講談社出版文化賞]]受賞。松本ならではの「四畳半もの」という独自のジャンルを開拓した。 ===アニメ作家として著名に=== [[1974年]](昭和49年)秋から放送されたテレビアニメ『[[宇宙戦艦ヤマト]]』には企画途中から参加(詳細は[[宇宙戦艦ヤマト#制作の経緯]]を参照)。[[メカニックデザイン|メカニックデザイナー]]としての招聘だったが、かねてからアニメ作りを願望していた松本は全面的に携わった。本放送時には低視聴率に終わったものの、再放送によって人気を得、[[1977年]](昭和52年)の劇場版アニメ公開時には社会現象を巻き起こした。 これがアニメブームのきっかけとなり、松本はアニメ制作会社の[[東映アニメーション|東映動画]]にイメージクリエイターとして起用され、テレビアニメ『[[惑星ロボ ダンガードA]]』『[[SF西遊記スタージンガー]]』にデザインを提供。また、自らも企画として温めていた『[[銀河鉄道999]]』『[[宇宙海賊キャプテンハーロック]]』がヤマト人気によりアニメ化が決定され、特に『銀河鉄道999』は大ヒットし、松本零士ブームが到来。以降数々の松本アニメが作られた。 松本アニメブームは1982年(昭和57年)の『[[わが青春のアルカディア]]』『[[わが青春のアルカディア 無限軌道SSX]]』の頃には下火となり、[[1983年]]夏の劇場アニメ映画として企画されていた『[[クイーン・エメラルダス]]』<ref>『アニメージュ』1982年10月号、p.66</ref> は頓挫して、ブームは終焉。その後20年近く松本原作のテレビアニメは実現しなかった<ref>[[小黒祐一郎]]「[http://www.style.fm/as/05_column/365/365_115.shtml アニメ様365日 第115回 『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』]」 WEB[[アニメスタイル]] 2009年4月27日</ref>。 一方、1980年代後半からは、[[宇宙開発事業団]]などさまざまな団体の役職に就任。また、漫画の執筆では、自作の異なる作品に登場した人気キャラクターを同一の作品世界にまとめる作業を進める。往年の松本アニメブームで育ったクリエイターにより、1990年代後半以降、再び松本作品を原作としたアニメのリリースが活発となった。 [[1999年]]に『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、松本零士であることの確認を求めて、松本が[[西崎義展]]を提訴したが、[[2003年]]に著作者人格権確認訴訟のそれぞれの控訴審は、法廷外で和解し西崎が著作者、著作者人格権者であることが確定した。 ===2000年代=== [[2003年]](平成15年)には、画業50周年記念作品として『[[銀河鉄道999]]』から派生した『[[銀河鉄道物語]]』が発表された。 [[2006年]](平成18年)に[[宝塚造形芸術大学]](2010年、宝塚大学に名称変更)のメディア・コンテンツ学部の教授に就任<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 [[2015年]](平成27年)に妻の牧美也子と「松本零士×牧美也子 夫婦コラボ展」で話題となる<ref>[http://fude.or.jp/jp/exhibition_post/2015/03/1145/ 筆の里公房]</ref>。[[2018年]](平成30年)に『銀河鉄道999』の新作を発表するなど、晩年まで創作意欲が衰えることはなかった{{efn|これには、生前父親から言われた「人の命は限りがあるから頑張れるんだ。どうしても人生に終わりは来る。だからその前にやっておくべきことをやっておけ」との言葉が影響しているという<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。}}。 [[2019年]](令和元年)[[11月15日]]にイベント出席のため訪問中だった[[イタリア]]・[[トリノ]]で体調を崩して倒れ、現地の病院へ緊急搬送されたが命に別状なく<ref>{{Cite news|title=松本零士氏「容体落ち着く。回復待って帰国」関係者|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201911160001020.html|newspaper=nikkansports.com|date=2019-11-16|accessdate=2019-11-16}}</ref>、12月4日に退院<ref>{{Cite news|url= https://web.archive.org/web/20191205134817/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019120500228&g=int |title= 松本零士さん退院 イタリア |newspaper= 時事ドットコム |publisher= 時事通信社 |date= 2019-12-05 |accessdate= 2019-12-05 }}</ref>、翌5日に帰国した<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201912050000608.html |title= 漫画家の松本零士氏「体調は良い」車いす姿で帰国 |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2019-12-05 |accessdate= 2019-12-05 }}</ref>。 ===死去=== [[2023年]](令和5年)[[2月13日]]、[[心不全|急性心不全]]のため東京都内の病院で死去したことが、同月20日に東映により発表された{{R|toei230220}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202302200000303.html|title=「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」松本零士さん死去、85歳 急性心不全|website=日刊スポーツ|date=2023-02-20|accessdate=2023-02-20}}</ref>。{{没年齢|1938|1|25|2023|2|13}}。6月2日、生前の功績が評価され、日本国政府から松本に対し死没日付をもって正六位に叙されたことが零時社より発表された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/society/news/2023/06/02/kiji/20230602s00042000233000c.html 今年2月に死去 松本零士さん、正六位を叙位 エンタメの歴史築いた功績称え…事務所が報告「感謝」],スポーツニッポン,2023年6月2日</ref>。同年6月3日に[[東京国際フォーラム]]でお別れの会が開かれた<ref>{{Cite news|url= https://www.jiji.com/jc/article?k=2023042700953&g=soc |title= 故松本零士さんのお別れの会(漫画家、2月13日死去) |newspaper= 時事ドットコム |publisher= 時事通信社 |date= 2023-04-27 |accessdate= 2023-06-04 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202306030001078.html |title= 松本零士さん「お別れの会」開催 祭壇で鉄郎とメーテルに見守られ…「銀河鉄道999」献歌 |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツNEWS |date= 2023-06-03 |accessdate= 2023-06-04 }}</ref>。[[7月10日]]発売の[[ビッグコミック]]2023年第14号の表紙に追悼の言葉とともに松本の[[肖像]]イラストが掲載された。 == 人物 == * [[石ノ森章太郎]]と同じ年月日に生まれる<ref name="manganavi">{{Cite web|和書|url=http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_11-1a.asp |title=荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第11回 松本零士編 |publisher=ebookJapan |date=2011-10-07 |archiveurl=https://archive.fo/u7JvG |archivedate=2013-05-01|accessdate=2018-07-09}}</ref>。二人は同時期に練馬区に在住し、同時期に手塚治虫のアシスタントを務めたことがあり、松本は石ノ森のことを「旧友」としている。 * 大戦後半、父親は[[飛行隊#日本軍|第32教育飛行隊]]([[1944年]]2月[[編成 (軍事)|編成]])の隊長として、[[特別操縦見習士官]]や[[陸軍少年飛行兵|少年飛行兵]]出身の新参パイロットの教育を行っていたが、課程を終え実戦部隊に転出した部下には後に[[特別攻撃隊]]の隊員として出撃していった者も少なくなかった。末期には[[二式複座戦闘機]]「[[屠龍]]」<ref>自伝漫画「昆虫国漂流記」の記述より。</ref> に搭乗し、[[終戦の日]]まで[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]と戦っていた。戦後、多くの元軍人パイロットが[[自衛隊]]入りしたのに対し、「敵の戦闘機には乗れない」と断固拒否。実家がある大平村での[[炭]]焼きや、[[小倉市|小倉]]で[[野菜]]の行商をしながら線路脇のバラックに住み、その境遇を自ら進んで赤貧へと落としたが、家族で父に反対する者はおらず零士少年も「俺の父親は最高だ、父親と一緒にいられれば俺は満足」と行商の[[大八車]]を押したという。この「本当のサムライとしての父のイメージ」は、後に[[ハーロック]]や[[沖田十三]]のモデルとして、松本の作品に生かされていった。また松本自身、[[進駐軍]]兵士がばら撒くキャンディーなどを「食べたくて仕方なかったが全部下駄で踏みつけて潰した」という。 * 母親は元教師で、子供の宿題に適切な添削までしてくれたという。これについて、子供のころは、大人だからできるのだと思っていたが、後から考えるとなかなかできないことだったと気づいたという。恵まれた家庭に育ち、高等女学校まで出ている母が夫の意地のために、周囲の嘲笑に歯を食いしばって耐えながら働いている姿を見て育った。松本は物心ついた頃から「母を苦労から救いたい。自分が大黒柱になって一家を養う」と心に決めたという。高校時代に漫画家デビューが叶ったこともあり、自身は大学進学の夢を封印して働き、代わりに兄弟には大学進学を考えた時に躊躇わずにすむ経済環境を整えようと決意した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nerimakanko.jp/review/nerimabito/085.php|title=#085 漫画家・アニメーション作家 松本零士さん|website=とっておきの練馬|publisher=ねりま観光センター|data=2012-11-01|accessdate=2023-07-07}}</ref>。 * 漫画執筆時は、いつも夜の8時から翌明け方6時くらいまで作業を行っていた<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。本人は色々な作品を通じて、命の大切さや幸せとは何かを問いかけた<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 * [[宇宙]]への憧れが強く、「片道でもいいから俺を宇宙に行かせてくれ」などの言葉がある。漫画家デビュー後である高校時代から、空いている時間に宇宙をモチーフにした絵を沢山描くようになった<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。結婚後の自宅の応接室の壁には、宇宙に浮かぶ青い地球の写真が飾られていた<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。また、民間宇宙飛行の第一号になるという夢を持っていた(しかし、[[宇宙旅行|第一号]]という夢は叶わなかった)。2018年には、宇宙葬専用の超小型衛星に自身の爪を搭載して宇宙まで飛ばし、本人はこれを「生前葬」としていた<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 * 宇宙飛行士の[[山崎直子 (宇宙飛行士)|山崎直子]]が宇宙に興味を持つようになったのは、子供の頃に見た松本作品がきっかけ<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。また、[[日本人]]初の「宇宙へ行った宇宙飛行士」となった[[秋山豊寛]]は松本作品『ワダチ』の解説を執筆している。 * 漫画古書のコレクター。特に[[手塚治虫]]の初期の希少な漫画本を多くの資料と共に保管し、手塚本人も自作を探す必要があるときはまず松本に問い合わせていた<ref>[[ビッグゴールド]]No.7「コミック作家の趣味・特技」より</ref>。[[2002年]]には[[SF作家]][[小松左京]]がモリミノル名義で描いた[[赤本 (少年向け本)|赤本]]漫画の復刻に関わり、[[2005年]]の[[阪本牙城]]『[[タンクタンクロー]]』の復刻の際には原本の提供を行なった。その他にも漫画本の復刻の際に原本を提供することが多い。『漫画大博物館』という漫画の古書を図版で紹介するビジュアル百科事典も出版している。古式銃のコレクター。法的規制の厳しい日本において100丁以上の私有コレクションは稀である。[[ブライトリング]]等の航空腕時計が好きである。 * 音楽の趣味を尋ねられると「クラシック音楽ファン」であると答えている<ref>『零士のメカゾーン』巻末インタビュー</ref>。特に[[リヒャルト・ワーグナー]]を愛好する「ワグネリアン」である。『音楽の革命児ワーグナー』(音楽之友社)という著書があり、絵と文の双方を執筆している。「作曲家の生涯」シリーズ(新潮文庫)の『ワーグナー』にもコラムを寄稿している。ワーグナーの『[[ニーベルングの指輪]]』を漫画化している。『[[N響アワー]]』に出演してワーグナーについて作曲家の[[池辺晋一郎]]と対談もしている。これらの影響から作品の構造がワーグナーの楽劇と共通している。『宇宙戦艦ヤマト』における男性キャラクターの好戦性による破壊を女性キャラクターが自己犠牲により救済する図式はワーグナー楽劇に一貫する図式と同じである。また『銀河鉄道999』は、主人公とヒロインが恋仲のようでいて母子でもあること、ヒロインの両親が対立していること、母親に忠誠だった娘が密かに父親に寝返っていること、ヒロインが親の野心のための人材を運んでいること、構築した権力の居城が最後に崩壊することなど、『ニーベルングの指輪』と構造が酷似している。『キャプテンハーロック』が[[アイパッチ]]をして肩に黒い鳥がとまっている姿は『指輪』の大神ヴォータンと同じ。猫のミーメとは『指輪』の小人のミーメと同じ名。『SF西遊記スタージンガ-』の題名は『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』をもじったような題名である。など多くの共通点がある<ref>[[井上静]]『宇宙戦艦ヤマトの時代』2012年世論時報社</ref>。 * 高校卒業後に小倉から上京する際、東京行きの夜行列車(当時は蒸気機関車)の中から窓越しに見た夜景や煙の匂いが、『銀河鉄道999』の原点となった<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。また、『男おいどん』の主人公・大山昇太が汚れたパンツから生えてきたキノコを食べるシーンは、松本の実話が元となっている<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 * 上京後[[文京区]][[本郷 (文京区)|本郷]]の山越館へ下宿していた。同じ下宿に[[巡洋艦]]『[[最上 (重巡洋艦)|最上]]』の副艦長などを務めた元海軍中佐の[[猿渡正之]]が住んでおり、猿渡が所有していた『[[大和 (戦艦)|大和]]』『[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]』の設計図を譲り受けたという<ref name=rikunabi>[http://journal.rikunabi.com/p/worker/job/16076.html Vol.148 松本零士] - 就職ジャーナル・2015年6月10日</ref>。また当時のエピソードは、後に『[[男おいどん]]』でやや誇張された形で登場している<ref name=rikunabi />。 * その後[[練馬区]]に居を移している。2008年には練馬名誉区民に選定され、区の活動にも積極的に協力・参加している。同区で交付される[[戸籍]]や[[住民票]]などには「[[銀河鉄道999]]」のキャラクターが印刷されている(2013年まで)。2012年には原動機付自転車のナンバープレートにメーテルのイラストが採用された。区内を走行するシャトルバス、在住している[[大泉学園駅|大泉学園]]を通っている[[西武鉄道]]の車両のラッピングにも作品がプリントされている。 * 自作品のパチンコ化にも精力的に取り組んでおり、大手パチンコメーカー[[三共 (パチンコ)|三共]]とのコラボレーション "SANKYO×松本零士" として[[CRフィーバー大ヤマト]]、[[CRフィーバー銀河鉄道物語]]、[[CRフィーバーキャプテンハーロック]]の3シリーズのパチンコ機が登場している。なお松本零士は『宇宙戦艦ヤマト』の[[著作権]]を保持していないことから「大ヤマト」では登場人物や乗り物をわずかに変えて、『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌を流す "類似品" としての登場となったが[[東北新社]]から訴訟を起こされ、業者が和解金2億5千万円を支払うことになった<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081215/trl0812152023017-n1.htm |title=「ヤマト」著作権で和解 業者が東北新社に2億5000万円 |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2008-12-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081218045548/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081215/trl0812152023017-n1.htm |archivedate=2008年12月18日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>(後述の「宇宙戦艦ヤマト裁判」も参照のこと)。 * 先述の通り歴史を感じさせるものが大好きで色々と収集しており、自宅では数々の宝物が飾られた仕事場で作業していた<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。漫画に登場する照準器や旧式バイクなどもできる限り自宅にコレクションし、実物を見ながら描くことで独自の世界観を構築していた<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。また、自作中のメカ作画にはいろいろこだわりがあり、「実在した兵器についてはデフォルメを行わず、極力設計図等を入手して正確に描く」ことを心がけている<ref>[http://www.valhallagamestudios.com/jp/2010/11/crosstalk-special-matsumoto-01-04.html スペシャル対談:松本零士先生 (前編) (4 / 4)] - Valhalla Game Studios</ref>。さらにオリジナルメカについては大量の計器類を登場させることが多く、その作風は『レイジメーター』([[#零士メーター|零士メーター]])とも通称される。全国の博物館に通いながら取材を重ね、緻密な計器類の描写に役立てていた<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 * 自宅ではトラジマ模様の飼い猫に「ミーくん」と名付け、初代猫の死後も新たな「ミーくん」を飼い続けて代々愛猫として可愛がっていた<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 == 松本作品におけるスター・システム == * 松本零士作品には「[[ハーロック]]」や「[[トチロー]]」「[[クイーン・エメラルダス (架空の人物)|エメラルダス]]」のように、複数の作品に登場するキャラクターが存在する。これは作品自体がクロスオーバーしていることもあれば、単に名称が同じという場合もある。またパラレルワールドのように「背景世界はつながっていないが、その世界における性格や役割が似たキャラクター」として登場する場合もあり、一種の[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スター・システム]]といえる。松本曰く「同じ俳優が演じている」のであり「(描いていると)自然とそうなる」とのことである。 * 自身の飼い猫をモデルにした「ミーめ」あるいは「[[ミーくん]]」というトラジマの猫と、首長で奇声を発する怪鳥「[[トリさん]]」、そして猫の様に見えて正体不明な小動物「ナニカ」は松本零士作品にしばしば登場する動物キャラクターである。なお、原作者の松本自身も自らのアニメ映画などで[[カメオ出演]]している。 == 漫画 == ※おおむね発表順。 === 初期作品 === ※ほぼ松本あきら名義 {{colbegin|2}} * 銀の谷のマリア(『少女クラブ』1958年4月号付録)<ref name="作品一覧2003p365-370">「年代別作品一覧表」『松本零士の宇宙』八幡書店、2003年、365-370頁</ref> * 黄金の騎士(『女学生の友』1959年1月号 - 3月号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> * [[ララミー牧場]](『[[日の丸 (漫画雑誌)|日の丸]]』1960年12月号 - 1962年10月号付録)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: 海外ドラマの漫画化。 * [[電光オズマ]](『ぼくら』1961年2月号 - 1962年12月号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: 謎の戦闘機部隊を駆る男、電光オズマが、世界征服を企む新国家ノバ帝国のガンモス首相や古代の巨大円盤、怪遊星で地球へ迫り来る異星人と闘う。ロケット戦艦「宇宙戦艦大和」も登場する。 * 燃えろ南十字星(『日の丸』1963年1月号 - 2月号、『少年ブック』1963年3月号 - 5月号付録)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: [[ラバウル]]の零戦乗り土浦[[曹長]]が主人公の戦記漫画。未完作品だが『電光オズマ』単行本3巻に収録の際、2頁分の結末が書き加えられた。ただし、昭和37年の作品を14年後に補完したので絵柄が大幅に変化している。 * ブラック0(『冒険王』1964年1月15日お正月大増刊号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: 戦記物。黒い零戦隊の夜間戦闘。 * [[忍法十番勝負]] 三番勝負(『冒険王』1964年3月号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> * わたしのエル(『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』1964年9月6日号 - 11月15日号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: 妻である漫画家・[[牧美也子]]との共作。松本零士生誕80周年を記念し、2018年に限定300部で初単行本化された。 * [[潜水艦スーパー99|スーパー99]](『冒険王』1964年11月号 - 1965年12月号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: 超潜水艦スーバー99とヘルメット党の戦いを描く。 * ダイナモ7(『まんが王』1966年11月号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: カーレーサー物。 * 心よ海をゆけ(『別冊少女フレンド』1967年5月号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: 牧美也子との合作(単行本『マキの口笛』3巻に収録時は「松本零士」名義)。少女マンガではあるが海賊物。 {{colend}} === 連載 === {{colbegin|2}} * [[セクサロイド (漫画)|セクサロイド]](『漫画ゴラクdokuhon』1968年4月9日号 - 1970年11月3日号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> * [[光速エスパー]](『少年ブック』1968年6月号 - 1969年4月号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> * [[漂流三千万光年]](『少年少女新聞』1969年3月7日 - ?)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: 世界観的に『潜水艦スーパー99』の続編的作品。 * [[四次元世界シリーズ]](『COM』1969年4月号 - 12月号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> * [[光速エスパー]](『少年ジャンプ』1969年5月8日号 - 1970年2月16日号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> * [[マシンナー・シリーズ]](『別冊漫画アクション』1969年11月15日号 - 1970年6月13日号)<ref name="作品一覧2003p371-375">「年代別作品一覧表」『松本零士の宇宙』八幡書店、2003年、371-375頁</ref> * [[無限世界シリーズ]](『COM』1970年1月号 - 9月号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> * [[大四畳半シリーズ]](『別冊漫画アクション』1970年6月27日号 - 1974年2月9日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 田舎から上京して来た足立 太(あだち ふとし)が、下宿の四畳半中心に展開する青春物語。いわゆる四畳半ものの、文字通り元祖な作品。長期連載となった。[[元祖大四畳半大物語]] * [[ミステリー・イヴ]](『漫画ゴラクdokuhon』1970年11月17日号 - 1971年8月5日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 惑星イタスから飛来した女性イヴと邂逅した主人公の大口 守(おおぐち まもる)。そして地球を狙うヘド族との戦いを描くSF漫画。 * [[パニックワールド]](『少年キング』1971年2月28日号 - 3月21日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 「第三次世界大戦が東京で…」パニック状態の東京を描いた近未来サスペンス。 * [[男おいどん]](『少年マガジン』1971年5月9日号 - 1973年8月5日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 四畳半ものの一つ。青年誌に掲載された『元祖大四畳半大物語』から性的要素を抜いた後発作品だが、松本にとって少年誌では初めての大ヒット作となった。主人公は大山昇太(おおやま のぼった)。最終話の「宇宙編」は、後の「宇宙戦艦ヤマト」のデザインに繋がっている。 * [[聖凡人伝]](『漫画ゴラク』1971年8月19日号 - 1973年11月15日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 首吊り頻発の曰く付アパートが舞台の四畳半もの。主人公の出戻 始(でもどり はじめ)他、主要キャラの何人かは『出戻社員伝』にもレギュラー出演。 * [[思春期100万年]](『高一時代』1972年4月号 - 1973年3月号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> * [[大不倫伝]](『平凡パンチ』1972年5月15日号 - 7月17日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 女性を抱いて離婚を成立させる不倫請負人の流浪物語。主人公である好川ウタマロの容姿はトチローその物だが、肉親として、ほたる(螢子)なる幼少の妹を引き連れているのが相違点。 * [[ガンフロンティア (漫画)|ガンフロンティア]](『プレイコミック』1972年11月11日号 - 1974年12月14日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> * [[ひるあんどん]](『別冊マンガストーリー』1973年4月14日号 - 『マンガストーリー』12月1日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 『出戻社員伝』系のサラリーマン四畳半ものに連なる作品。ただし、前述2作品とは直接的なつながりはない。 * [[ワダチ|スペース開拓者 ワダチ]](『少年マガジン』1973年11月4日号 - 1974年4月14日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 四畳半もの+SF。後半は未知の惑星での開拓冒険漫画となる。 * [[出戻社員伝]](『週刊大衆』1974年1月3日号 - 3月28日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 冴えないサラリーマン生活を描いた人生哲学的作品。主人公は『聖凡人伝』の出戻 始の兄、出戻 俊郎(でもどり としろう)。 * [[螢の宿]]シリーズ(『別冊漫画アクション』1974年2月23日号 - 12月28日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 大四畳半ものの一つ。ただし、時代設定は[[明治維新]]前後。 * [[宇宙戦艦ヤマト]](『冒険王』1974年11月号 - 1975年4月号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> ** [[宇宙戦艦ヤマト2]](『冒険王』1978年7月号 - 1980年1月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> ** [[新宇宙戦艦ヤマト]](『月刊コミックGOTTA』2000年4月号 - 2001年7月号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> * [[インセクト (漫画)|インセクト]](『ビッグコミックオリジナル』1975年1月5日号 - 6月5日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> * [[帰らざる時の物語]](『プレイコミック』1975年1月11日号 - 1976年12月9日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> * [[戦場まんがシリーズ|ザ・コクピット・シリーズ]](『ビッグコミックオリジナル』1975年6月20日号 - 不定期連載)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> * [[ダイバー0]](『少年サンデー』1975年9月5日増刊号 - 1976年9月10日増刊号)<ref name="作品一覧2003p376-379">「年代別作品一覧表」『松本零士の宇宙』八幡書店、2003年、376-379頁</ref> * [[トラジマのミーめ]](『プリンセス』1975年9月号 - 1977年12月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[ペットファーザー]](『少年アクション』1975年10月6日号 - 1976年1月26日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[親不知讃歌]](『毎日中学生新聞』1976年4月3日付 - 1977年3月26日付)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *: 中学生の日常をユーモラスに描いた全51話(単行本には1話未収録)。 * [[恐竜荘物語]](『漫画ゴラク』1976年9月2日号 - 1977年5月12日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *: 主人公は『元祖大四畳半大物語』にもでてきたヤクザのジュリー。今風に言えばスピンオフ作品である。 * [[ミライザーバン|時間旅行少年 ミライザーバン]](『月刊マンガ少年』1976年9月号 - 1978年10月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[ちいさなマキ]](『読売新聞』日曜版 1977年1月9日付 - 7月31日付)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *: 読売新聞の日曜版に連載された、低年齢層向けオールカラー作品。マキと、ちいさな宇宙人・ミライさんとネコのミーくんの大冒険SFファンタジー。 * [[宇宙海賊キャプテンハーロック]](『プレイコミック』1977年1月13日号 - 1979年6月14日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[銀河鉄道999]](『少年キング』1977年1月24・31日合併号 - 1981年11月6日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> ** [[漂流幹線000]](『少年キング』1983年1月14日号 - 11月25日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> ** [[新銀河鉄道999]](『ビッグゴールド』1996年9月号 - 1999年3月号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> *** [[新銀河鉄道999]](『銀河鉄道999Web』1999年3月15日 - )<ref name="作品一覧2003p380-382" /> *** [[新銀河鉄道999]](『ビッグコミック』2003年5月25日号 - )<ref name="作品一覧2003p380-382" /> * [[大純情くん]](『少年マガジン』1977年2月27日号 - 10月9日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *: 四畳半もの+SF。ただし、『ワダチ』と違って最後まで大四畳半もの。 * [[惑星ロボ ダンガードA]](『冒険王』1977年4月号 - 1978年4月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[大草原の小さな四畳半]](『Apache』1977年7月23日号 - 1978年1月8日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *: 西部劇+日本人+大四畳半もの。『ガンフロンティア』と違い、主人公([[トチロー]])は四畳半に定住している。 * [[昆虫皇帝]](『奇想天外』1978年1月号 - 1979年12月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[魔女天使]] (『月刊少年マガジン』1978年1月号 - 4月号、1978年9月 - 1979年7月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[クイーン・エメラルダス|Queenエメラルダス]](『少年マガジン』1978年1月8日号 - 10月8日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[無限海漂流記]](『ビッグゴールド』1978年6月8日号 - 1985年12月号 不定期連載)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[漂流3000万光年]](『月刊マンガ少年』1978年12月号 - 1979年7月号 未完)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[ステテコンドル]](『サンデー毎日』1979年11月11日 - 1980年12月21日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[新竹取物語 1000年女王]](『サンケイ新聞』朝刊 1980年1月28日付 - 1983年5月11日付)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *:松本が出生した九州・山口エリアでは当時サンケイが発行されていなかったため、[[サンケイスポーツ]]との提携関係があった[[西日本スポーツ]]で連載。 * ナスカ(『月刊マンガ少年』1980年6月号 - 1981年5月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[蜃気楼フェリーアイランダー0]](『少年キング』1982年1月22日号 - ?)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[戦場まんがシリーズ|HARD METAL]]シリーズ(『ビッグコミック』1984年9月10日号 - 1990年1月25日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *: 『戦場まんがシリーズ』、『ザ・コクピット・シリーズ』に続く、[[太平洋戦争]]・[[南洋]]を舞台にした戦記モノ。 * [[どんトラ]](『少年キング』1985年7月12日号 - 10月25日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[コスモロードα 眠れる宇宙の王女]](『yacニュース』1986年9月22日号 - 1988年4月1日号、『L5』1988年5月号-1991年11月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[グスコーブドリの伝記]](『月刊コミックトム』1986年10月号 - 12月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *: [[宮沢賢治]]原作。 * [[V2パンツァー]](『少年キング』1987年9月24日増刊ヤングキング創刊号 - 1988年10月17日号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[無の黒船 クライシスⅢ]](『夕刊フジ』1988年 - 1989年)<ref name="作品一覧2003p380-382">「年代別作品一覧表」『松本零士の宇宙』八幡書店、2003年、380-382頁</ref> *: 無=エネルギーゼロ。その先に来る黒船。明治維新、第二次世界大戦に次ぐ第三のクライシス(危機)とは。[[竹内均]](東大名誉教授)監修。 * [[蜃気楼綺譚]](『ビッグコミック』1990年5月25日号 - 1991年3月25日号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> * [[ニーベルングの指環 (漫画)|ニーベルングの指環①ラインの黄金]](『中古車ファン』1990年10月10日号 - 1991年11月25日号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> *: グレートハーロックが主人公。ハーロック、トチローたちの親世代の物語。 * [[夢奥(王)の細道]](『ビッグコミック』1991年4月25日号 - 8月25日号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> * [[戦場まんがシリーズ|ケースハード]]シリーズ(『ビッグゴールド』1993年1月号 - 1996年8月号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> *: 戦場シリーズのひとつ。第二次世界大戦もの。 * [[天使の時空船]](『コミックトム』1993年5月号 - 1997年7月号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> *: [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]伝。 * [[火聖旅団ダナサイト999.9]](『少年王』1994年10月号 - 1997年4月号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> * [[ニーベルングの指環 (漫画)|ニーベルングの指環②ワルキューレ]](『新潮社Webコミック』1997年4月1日号 - 1998年2月13日号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> * [[コクピット・レジェンド]](『ビッグコミックオリジナル』1997年9月増刊号 - 1999年9月増刊号 不定期連載)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> * [[ニーベルングの指環 (漫画)|ニーベルングの指環③ジークフリート]](『新潮社Webコミック』1998年3月11日号 - 1999年6月10日号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> * [[児女英雄伝]](『コミックトムプラス』1998年5月号 - 2000年5月号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> * [[ニーベルングの指環 (漫画)|ニーベルングの指環④神々の黄昏]](『新潮社Webコミック』1999年8月4日号 - )<ref name="作品一覧2003p380-382" /> {{colend}} === 読み切り === {{colbegin|2}} * [[ダイナソア・ゾーン 恐竜帯]](『漫画ゴラクdokuhon』1968年9月1日増刊号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> * [[パイロット262]](『コミックMagazine』1969年2月25日号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: [[ハーロック]]が初めて主人公となった作品。しかし、傷や眼帯は無い。 * [[機械人間マシンナーバン]](『少年サンデー』1969年夏休み増刊号)<ref name="作品一覧2003p365-370" /> *: [[ミライザーバン]]のプロトタイプ的作品。宇宙飛行士候補生バン・サイゴー少年が宇宙で、地球へ飛来した異星人の先祖一族の記憶(数万年分)を取り戻す。 * [[模型の時代]](『少年マガジン』1971年2月28日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: [[小松左京]]原作。1971年 * [[ヤマビコ13号]](『少年マガジン』1971年4月4日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> * [[空間機甲団]](『COM』1971年8月号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> * [[螢の泣く島]](『ビッグコミックオリジナル』1974年1月20日号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> * [[昆虫国漂流記]](『別冊少年ジャンプ』1974年2月号)<ref name="作品一覧2003p371-375" /> *: 自身の終戦から小学生時代を描く、松本の自伝漫画。 * [[3000年の春]](『漫画ゴラク』1976年1月15日・22日合併号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *: 後に『四次元時計』のタイトルで文庫化。 * [[魔女天使]](『月刊少年マガジン』1977年1月号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[大純情くん]](『少年マガジン』1977年1月30日・2月6日合併号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[海底機械帝国零号]](『少年ジャンプ』1978年4月15日増刊号 SFアドベンチャー特集号)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> *: SF短編。単行本未収録作品。 * [[闇夜の鴉の物語]](『漫画ゴラク』1981年5月)<ref name="作品一覧2003p376-379" /> * [[超時空戦艦まほろば]](『ビッグゴールド』1998年4月号)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> {{colend}} === 未分類 === * [[明日から来た影 GENNAI]](1989年 書き下ろし)<ref name="作品一覧2003p380-382" /> *: SFテイストの加味された[[平賀源内]]の伝記的漫画。 * [[ホタルナ妖]](2006年) * [[Out of Galaxy 銀のコーシカ]](2009年) * 銀河2000光年 宇宙戦艦ノーチラスの伝説(2004年『リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い アルティメット・ガイド』DVD「[[リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い|リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い]] アルティメット・エディション」付属) == 漫画単行本 == {{colbegin|3}} *『宇宙作戦第一号』 *『青い花びら』 *『緑の天使』 *『星よきえないで』 *『忍法十番勝負』 *『セクサロイド』 *『銀の谷のマリア』 *『潜水艦スーパー99』 *『電光オズマ』 *『男おいどん』 *『聖凡人伝』 *『元祖大四畳半大物語』 *『スタンレーの魔女』 *『鉄の墓標』 *『ガンフロンティア』 *『宇宙戦艦ヤマト』 **『新宇宙戦艦ヤマト』 *『ワダチ』 *: 雑誌連載時のタイトルは『スペース開拓者 ワダチ』。 *『パニックワールド』 *: 表題作ほか3作を収めた短編集。 *『オーロラの牙』 *『機械化人都市』 *『わが青春のアルカディア』 *『インセクト』 *: 昆虫を題材にした11作品が収められた短編集。 *『大不倫伝』 *『衝撃降下90度』 *『四次元世界』 *: 様々な雑誌に掲載された『四次元世界シリーズ』、『無限世界シリーズ』、『幻想世界シリーズ』、『未完成世界シリーズ』を中心に25作品を収めた短篇集。内容は昆虫もの、SFもの、戦場ものとバラエティに富む。小学館文庫版(1977年初版)、全2巻のものと、合本され1冊になった小学館叢書版(1992年初版)と小学館文庫版(1995年初版)がある。 *『恐竜荘物語』 *『銀河鉄道999』 **『漂流幹線000』 **『新銀河鉄道999』 *『螢の泣く島』 *: SFのみではないバラエティ豊かな表題作を含んだ9作品を収録した短編集。 *『時間旅行少年ミライザーバン』 *『惑星ロボ ダンガードA』 *『宇宙海賊キャプテンハーロック』 *『帰らざる時の物語』 *: 短編集。秋田書店文庫全2巻。 *『3000年の春』 *『ひるあんどん』 *: 奇想天外文庫。 *『螢の宿』 *『親不知讃歌』 *: 単行本は通常版(朝日ソノラマ、サンコミックス)と限定500部発行の青林堂版がある。 *『出戻社員伝』 *『トラジマのミーめ』 *『大純情くん』 *『大草原の小さな四畳半』 *『ミステリー・イヴ』 *『悪魔伝の七騎士』 *『エスの太陽 - ロマンコミック自選全集 松本零士1』 *『空間機甲団』 *『ダイナソア・ゾーン 恐龍帯』 *『Queen エメラルダス』 *『ヤマビコ13号』 *『その名はテス - ロマンコミック自選全集 松本零士2』 *『復讐を埋めた山』 *『妄想鬼』 *『魔女天使』 *『不滅のアレグレット』 *『昆虫皇帝』 *『勇者の雷鳴』 *『曳光弾回廊』 *『新竹取物語1000年女王』 *『松本零士初期作品集』 *『ナスカ』 *『蜜蜂の冒険』 *『松本零士自選傑作集』 *『闇夜の鴉の物語』 *『ザ・ステテコンドル』 *『思春期100万年』 *『魔境惑星の恋人』 *『ダイバー0』 *『近眼人類詩集』 *『高速エスパー』 *『ザ・コクピット』 *『火星令嬢』 *『蜃気楼フェリー アイランダー0』 *『漂流3000万光年』 *『怪盗M』 *『HARD METAL』 *: 小学館ビッグコミックス、全3巻。 *『V2パンツァー』 *『無の黒船クライシスⅢ』 *『明日から来た影 GENNAI』 *『妖星伝』 *『蜃気楼綺譚』 *『ニーベルングの指環』 *『夢奥(王)の細道』 *『ケースハード』 *『陽炎の紋章』 *『天使の時空船』 *『漫画絵巻 富岡の歴史』 *『無限海漂流記』 *『火聖旅団ダナサイト999.9』 *『松本零士の飛び出せ宇宙へ!』 *『松本零士セレクション』 *『超時空戦艦まほろば』 *『復刻版 冒険記』 *『復刻版 火星令嬢』 *『コクピット・レジェンド』 *『児女英雄伝』 *『ちいさなマキ』 *『宇宙博物誌 火星ホテル』 *『コスモロードα 眠れる宇宙の王女』 *『どんトラ』 *『ペットファーザー』 {{colend}} == 画集・エッセイ == * 零士のメカゾーン(1979年、毎日新聞社) - メカ中心のイラスト集。全二巻。松本自身の手による戦車や航空機の試乗リポートも掲載。連載時のタイトルは「サムライゼロ 零士のメカゾーン」 * 零次元宇宙年代記(1983年、大和書房) - ガン・フロンティアIIを始めとする松本零士の手による小説・エッセイ集。『銀河鉄道999・未発表オリジナル・シナリオ』の掲載された書。 * 時の歯車-機械幻想スイス紀行-(1999年、日本放送出版協会) * 遠く時の輪の接する処(2002年、東京書籍) - 松本の自叙伝。 * 松本零士画集―星の海、美の遺伝子(2004年、愛育社) * 松本零士未来へ翔び立つ名言集-ヤマト・999の言葉たち-(2010年、竹書房)橋富政彦編著 * 未来創造-夢の発想法-(2010年、角川書店) == 原作 == * [[ガンフロンティア (漫画)|ガンフロンティア 〜ハーロック&トチロー青春の旅〜]](原作・総設定・デザイン/松本零士、漫画/[[島崎譲]])『[[チャンピオンRED]]』2016年12月号 - 2017年5月号、単行本(秋田書店、2017年) * 銀河鉄道999 ANOTHER STORY アルティメットジャーニー(原作・総設定・デザイン/松本零士、漫画/島崎譲)『チャンピオンRED』2018年5月号 - 、単行本(秋田書店、2018年 - ) == 編著 == * 漫画歴史大博物館(ブロンズ社、1980年)松本零士/編 日高 敏/編 * 少年小説大系 別巻3 少年漫画傑作集1(三一書房、1993年) * 少年小説大系 別巻4 少年漫画傑作集2(三一書房、1993年) * 漫画大博物館-1924 - 1959-(小学館クリエイティブ、2004年)松本零士編・著 日高敏編・著 == 映像作品 == 原作が映像化されたもの、企画に関わったものを記す。アニメと並行して描かれた漫画化作品は前項に記す。 === テレビアニメ === {{colbegin|2}} * 宇宙戦艦ヤマト(1974年)<!-- 監督・設定デザイン) 松本零士は西崎との和解書で「監督」は自分でなく西崎であると認めている。詳しくは[[宇宙戦艦ヤマト]]の「スタッフ」の節を参照 --> ** [[宇宙戦艦ヤマト2]](1978年) *** 宇宙戦艦ヤマトII ヤマトよ永遠なれ!(1979年) ** [[宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち]](1979年) ** [[宇宙戦艦ヤマトIII]](1980年) *** 宇宙戦艦ヤマトIII 太陽系の破滅(1983年) * [[惑星ロボ ダンガードA]](1977年) * [[SF西遊記スタージンガー]](1978年) ** SF西遊記スタージンガーII(1979年) * [[宇宙海賊キャプテンハーロック]](1978年) ** [[SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK]](2003年) * [[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]](1978年) ** [[銀河鉄道物語]](2003年) 画業50周年記念作品 *** [[銀河鉄道物語 〜永遠への分岐点〜]](2006年) ** [[宇宙交響詩メーテル 銀河鉄道999外伝]](2004年) * [[マリンスノーの伝説]](1980年) * [[メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行]](1980年) * [[新竹取物語 1000年女王]](1981年) * [[わが青春のアルカディア 無限軌道SSX]](1982年) * [[コスモウォーリアー零]](2001年) * [[ガンフロンティア (漫画)#テレビアニメ|ガンフロンティア]](2002年) * [[潜水艦スーパー99|SUBMARINE SUPER 99]](2003年)- 『潜水艦スーパー99』のアニメ化 * [[オズマ (アニメ)|松本零士「オズマ」]](2012年) {{colend}} === 映画 === {{colbegin|2}} * 宇宙戦艦ヤマト(1977年) **[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]](1978年) **[[ヤマトよ永遠に]](1980年) **[[宇宙戦艦ヤマト 完結編]](1983年) **[[宇宙戦艦ヤマト2199]](2012年) *** [[宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海]](2014年) *** [[宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟]](2014年) ***[[宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち]](2017年) ****[[「宇宙戦艦ヤマト」という時代 西暦2202年の選択]](2021年) ****[[宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち]](2021年) * 惑星ロボ ダンガードA対昆虫ロボット軍団(1977年) * 惑星ロボ ダンガードA 宇宙大海戦(1978年) * 宇宙海賊キャプテンハーロック アルカディア号の謎(1978年) * [[銀河鉄道999_(アニメ)#銀河鉄道999_(The_Galaxy_Express_999)|銀河鉄道999]](1979年) **銀河鉄道999 ガラスのクレア(1980年) **銀河鉄道999 エターナルファンタジー(1998年) * [[元祖大四畳半大物語]](1980年) - 実写作品 * さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅(1981年) * [[新竹取物語 1000年女王]](1982年) * [[わが青春のアルカディア]](1982年) * [[インターステラ5555]](2003年) * [[キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-]](2013年<ref>[http://harlock-movie.com/ 宇宙海賊キャプテンハーロック-SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-]</ref>) {{colend}} === OVA === {{colbegin|2}} * [[YAMATO2520]](1995年)<ref>[[ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)#他作品に登場したヤマト|17代・18代ヤマト]]のオリジナルデザイナーとして[[クレジットタイトル|クレジット]]されているが、実制作には関わらなかったとされる。</ref> ** [[大ヤマト零号]](2004年) * ザ・コクピット(1994年) * クイーン・エメラルダス(1998年) * [[火聖旅団 ダナサイト999.9]](1998年) * ハーロック・サーガ ニーベルングの指環 ラインの黄金(1999年) * [[メーテルレジェンド]](2000年) * ヤングハーロックを追え! コスモウォーリアー零外伝(2001年) * [[銀河鉄道物語|銀河鉄道物語 〜忘れられた時の惑星〜]](2007年) {{colend}} === その他の映像作品 === * [[アレイの鏡]](1985年) * セントエルモ 光の来訪者(1986年) - [[関西電力]]の創立35周年記念、企業PR用長編アニメ。電力をテーマとした宇宙の物語。 * 光の風のアーマ(1992年) - [[ハウステンボス]]・アニメワールドで上映された作品。 * まんがビデオ 宇宙海賊キャプテンハーロック(1999年) * 地球のBOOO! 天然ガス・暮らしをささえるエネルギー(1999年) - 東京ガス株式会社 広報部企画。 * 未来・スノーエンゼル ―水と生命の惑星―(2002年) - フルCGアニメ。 * [[銀河鉄道999#スピンオフ作品|ユマの物語 〜シンフォニーNo.V]](2004年) - WEB作品。画像付き音声ドラマ。 * KANPAI!-乾杯-(2015年) - 日本酒造組合中央会のアニメ。キャラクター原案。 == その他の仕事 == * [[1971年]]、[[C・L・ムーア]]の[[スペースオペラ]]小説『[[ノースウェスト・スミス]]』シリーズの日本語版の表紙イラストと挿絵を担当([[ハヤカワ文庫]]『大宇宙の魔女』他)。古典スペースオペラにおいて妖しい美女としてSFファンに有名な[[シャンブロウ]]等が松本の手で描かれている<ref>『ハヤカワ文庫SF総解説2000』早川書房、2015年、p.43</ref>。 * [[1980年]]、東宝映画「[[モスラ対ゴジラ]]」のリバイバル上映の際、パンフレット表紙に[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]のイラストを描く。 * 1980年10月からは[[ニッポン放送]]で[[神谷明]]と共に、ゲストの漫画家との対談番組の「ラジオ漫画館」のパーソナリティを担当<ref>ラジオライフ 1980年10月号 p.59</ref>。 * [[1981年]][[1月]]、[[NHK教育テレビジョン]]「[[ジュニア・文化シリーズ]]」(当時平日17:30-18:00生放送)において、特別講義「松本零士のSF漫画講座」の講師([[麻上洋子]]と)を務める * [[1996年]]3月に開館した[[岐阜県]][[各務原市]]の[[岐阜かかみがはら航空宇宙博物館|かかみがはら航空宇宙博物館]](現・岐阜かかみがはら航空宇宙博物館)の名誉館長を務める<ref name="岐阜新聞"/><ref name="中日新聞"/>。所有していた[[サルムソン 2|サルムソン2A2]]のプロペラなどの飛行機の部品を寄贈<ref>[https://www.nagoyatv.com/news/?id=017505 「忍者列車」に返礼品の「999号フィギュア」。アニメ界の巨匠、松本零士さんと東海地方の繋がり](2023年2月20日)[[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]</ref>。 * [[1997年]]、[[近鉄伊賀線]](現・[[伊賀鉄道]])に[[忍者列車]]のデザイン提供。 [[ファイル:Kintetsu860Series02.jpg|right|thumb|250px|[[近鉄820系電車|近鉄860系]]861号編成、車体デザインの提供も行っている。]] * [[1999年]]にオープンした[[大阪府]][[堺市]]にある[[堺市立ビッグバン|大阪府立大型児童館ビッグバン]](現・堺市立ビッグバン)の館長を務める(後に名誉館長となる)。マスコットキャラクター『ベアル』と『メロウ』をデザイン。[[泉北高速鉄道線]][[大阪府都市開発5000系電車|5000系車両]]1編成を用いたペイント列車にもなり、2017年10月まで運行された。なお2000年には廃車された[[大阪府都市開発100系電車|588号車]]にも『ベアル』がデザインされ、[[泉ケ丘駅]]近くにある[[堺市立ビッグバン]]の裏側、山を越えた場所に位置する公園「ちょっとバン」にて静態保存されている。 [[File:熊電5000系.jpg|thumb|泉北5505編成ハッピーベアル号]] [[File:泉北100系 588.jpg|thumb|「ちょっとバン」にて保存されている泉北588号車]] * 1999年、[[福井県]][[敦賀市]]の駅前通りに銀河鉄道999、宇宙戦艦ヤマトを題材とした28体のブロンズ製モニュメントが建立。「駅と港の街」「科学都市」を掲げる同市のシンボルとして選ばれた。 * [[2001年]]、[[北九州市]][[八幡東区]]の[[スペースワールド駅]]前で開催された、[[北九州博覧祭2001]]公式ポスター。 * 2001年10月にオープンした[[福島県]][[郡山市]]にある[[郡山市ふれあい科学館]]「スペースパーク」の名誉館長を務める。マスコットキャラクター『エンゼルナ』と『みーにゃん』をデザイン。 * 2001年、[[フランス]]の音楽デュオ、[[ダフト・パンク]]のアルバム『[[ディスカバリー (ダフト・パンクのアルバム)|ディスカバリー]]』の[[ミュージック・ビデオ]]を制作。 * [[小倉市]](現在の[[北九州市]])に縁があることから、[[小倉競輪場]]のマスコットキャラクター「スペース騎士(ナイト)」のデザインを行った。名前は小倉[[競輪]]場の[[ナイター競走]]愛称「スペースナイトレース」にちなむ。 * [[2002年]]、[[フライトシミュレーション|フライトシミュレーター]]PCソフト『[[Microsoft Combat Flight Simulator#Microsoft Combat Flight Simulator 3 (2002年12月13日発売)|Microsoft Combat Flight Simulator3]]』(日本発売版)CD-ROM収納ケースに挿入されているラベル絵を担当。 * 2002年、モンゴルと日本の「外交関係樹立30周年」の記念切手の、モンゴルが発行した2種類のうちの1つをデザインした<ref name=" 「昭和の怪物」20230304 "/>。 * [[2003年]]、[[伊賀鉄道]]の車両更新に伴い、[[忍者列車]]のデザイン再提供。 [[ファイル:Igatetsu-200.JPG|right|thumb|250px|[[伊賀鉄道200系電車|伊賀鉄道200系]]201号の運転台側乗務員用ドアの横に直筆サインが書かれている。]] * 2003年からはじまった福島県などが主催する「[[全国高等学校パソコンコンクール]]」(パソコン甲子園)の審査委員長を務める。 * 2003年2月、[[愛媛県]]の伊予観光大使(いよかん大使)に就任。 * [[東京都観光汽船]]の[[水上バス]]『ヒミコ』『ホタルナ』『[[エメラルダス (船)|エメラルダス]]』のデザイン。全て宇宙船をモチーフとしたデザインで、『ヒミコ』は[[2004年]]3月26日から運航を開始し、[[フジミ模型]]が[[プラモデル]]化もした。『ホタルナ』は[[2012年]]から、『エメラルダス』は[[2018年]]から運航を開始している。 [[File:Tokyo Cruise Ship Himiko.jpg|thumb|東京都観光汽船ヒミコ]] * 2004年6月、福島県のしゃくなげ大使に就任。 * [[2005年]]、[[北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線|ちほく高原鉄道]]CR75型車両にペインティング列車のデザイン提供(廃線後、[[足寄郡]][[陸別町]]の[[ふるさと銀河線りくべつ鉄道]]にて動態保存)。CR75型車両の銀河鉄道999ペインティング列車が[[TOMIX]]から[[Nゲージ]][[鉄道模型]]化された際は、松本自らがその試作品の出来を細かくチェックして、完成度に満足した松本はその試作品の車両の屋根に製品化承認を意味する自身のサインをした。このサイン入りの試作品はTOMIXの発売元である[[トミーテック]]で大切に保管されている<ref>[http://www.tomytec.co.jp/tomix/report/n/nj_050.htm TOMIX 北海道ちほく高原鉄道「999号」 Vol.1]</ref>。 * NHK「[[探検ロマン世界遺産]]」進行役CGキャラクターのデザイン。 * [[2006年]]、[[湧永製薬]]の[[足白癬|水虫]]・[[白癬|たむし]]治療薬『マセトローションT』のパッケージデザイン。この薬は『男おいどん』にも登場する。 * [[2008年]]3月16日、[[東京都]][[練馬区]]のねりたんアニメプロジェクトin大泉の一環として[[西武鉄道]][[大泉学園駅]]でに銀河鉄道999のキャラクター「[[車掌 (銀河鉄道999)|車掌さん]]」と一日駅長を務めた。名誉区民に選定される。 ** 「アニメのまち練馬区」をPRする活動にも積極的に参加する。同区の住民票、戸籍に関する証明、課税証明書などの各証明書の発行用紙には「銀河鉄道999」の999号、メーテル、星野鉄郎、車掌さんのイラストが印刷されている(2009年8月3日から2013年8月2日までの期間限定)。また、2012年8月1日からは、[[原動機付自転車]]の[[ナンバープレート]]に、メーテルのカラーイラストを描いたオリジナルプレートを製作。5,000枚限定で交付。希望ナンバーの抽選会及び授受式のイベントにも参加している。 ** 松本の住む[[大泉学園町|大泉学園]]では「アニメと映像・銀河鉄道999の街」をキャッチコピーに掲げている。駅構内には車掌さんの等身大人形が設置されている。駅前の商店街は「ゆめーてる商店街」と名称を変更し、イメージキャラクターにメーテルを起用していた。しかし、2012年8月3日、作者自らデザインしたオリジナルキャラクター「ゆめーてるちゃん」を発表した。このキャラクターは、かぐや姫〜千年女王〜◎〜女王ラー・メタル〜メーテル/クイーンエメラルダスに連なる系譜の「◎」に位置する(メーテルの先祖であるとしている)。現代に生きている小学生の設定<ref>[https://oizumi.gr.jp/blog/2012/08/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%80%8C%E3%82%86%E3%82%81%E3%83%BC%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%80%8D%E7%99%BA/]</ref>。2015年4月4日、大泉学園駅北口にオープンした大泉アニメゲートにメーテルと鉄郎の等身大ブロンズ像が設置された<ref>{{Cite web|和書|url=https://animation-nerima.jp/topics/feature/vol08/|title=練馬のアニメの新名所『大泉アニメゲート』オープン! アニメのまちの玄関口で等身大モニュメントたちがお出迎え!|website=練馬アニメーションサイト|data=2015-05-14|accessdate=2023-07-11}}</ref>。 * 2008年、トヨタ自動車TV-CM「[[あしたのハーモニー]]」出演。 * 東京都[[北区 (東京都)|北区]][[滝野川 (東京都北区)|滝野川]]の商店街「滝野川馬場商店会」のシンボルキャラクターおよび看板のデザイン。 * [[西武池袋線]]所属の[[西武3000系電車|3000系]]にメーテル、星野鉄郎、車掌さんをあしらったデザイン電車のデザイン提供。[[2009年]]5月から2014年12月まで運行。[[ファイル:Leiji.Matsumoto Sign.JPG|right|thumb|250px|西武3000系車内に書かれた直筆サイン]] * [[北九州モノレール]]の開業25周年記念として、[[北九州高速鉄道1000形電車|1000形]]にメーテル、星野鉄郎、車掌さんをデザインした[[ラッピング車両]]のデザイン提供。[[2010年]]3月から3年間運行予定であったが好評のため2016年12月頃までに延長された。 * 2010年4月、福島県の[[猪苗代湖]]・裏磐梯水環境保全のイメージキャラクター発表。9月に「水恋(すいれん)」、「湖春(こはる)」と愛称決定。 * 2011年4月3日、『[[フジテレビ]]夢スペシャル「[[タモリ]]×[[SMAP]]僕らは未来を信じよう!〜宇宙への挑戦と奇跡の物語〜」』内アニメ作品『[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]の奇跡』監修・キャラデザイン担当。 * 2011年11月13日 愛媛県東温市の坊っちゃん劇場ミュージカル[https://mantan-web.jp/article/20111113dog00m200015000c.html 「幕末ガール−ドクトル☆おイネ物語−」のポスター原画の制作]を、愛媛県の観光や特産物をPRするイベント「愛のくに 愛顔のえひめ フェスティバル」PRイベントで発表。その際に、このミュージカルの主人公のイネはメーテル的存在であり、イネさんの娘の(楠本)高子さんの写真が愛媛の実家の近くで見つり、自身の描いてきた女性の絵にそっくりで驚いたと語った。 * 2013年9月4日、[[ORANGE RANGE]]のボーカル・HIROKIとギタリスト兼リーダー・NAOTOのユニット「NaotoHiroki&karatesystems」が発売したアルバム[[Travel Sounds]]のジャケット描画を担当。 * 2016年8月15日、テレビ朝日の[[トーク番組]]「[[徹子の部屋]]」に出演。 * 2016年10月15日、16日、えひめいやしの南予博2016のイベントとして[https://www.city.ozu.ehime.jp/uploaded/attachment/17432.pdf 「零士ワールド in 大洲」]を愛媛県大洲市で開催、トークショーや作品展が行われた。前日の14日には少年期の疎開先の新谷地区に建てられた記念碑の除幕式に出席した。 * 2017年4月22日、北九州モノレールの「銀河鉄道999号」引退に伴い、新しいデザインの「新・銀河鉄道999号」運行開始。同時にモノレール小倉駅の発車メロディーが「銀河鉄道999」に変更された。 * 2017年10月2日、大阪府の[[泉北高速鉄道線]]のペイント列車が運行を終了し、それに替わって[[大阪府都市開発7000系電車|7000系車両]]1編成を用いた新ラッピング車両「フロンティア号」に、大阪府立大型児童館「ビッグバン」のマスコットキャラクター『ベアル』と『メロウ』のデザインを提供<ref>{{Cite press release |和書 |title=ラッピング電車「フロンティア号」を運行します|publisher=泉北高速鉄道 |date=2017-9-22 |url=http://www.semboku.jp/cat_news/6172/ }}</ref>。 [[File:Semboku7000 FRONTIER side.jpg|thumb|泉北7509編成「フロンティア号」側面]] * 2018年6月、「北九州市下水道事業100周年」を記念し、メーテルをはじめとした松本キャラクターのデザインマンホール9種類をJR小倉駅周辺に設置(9箇所)。[[北九州空港]]にメーテルのデザインマンホールを設置(1箇所)。 * [[2021年]]([[令和]]3年)6月末までに、松本の生い立ちや過去の業績を紹介する[[あるあるCity#主要テナント|北九州市漫画ミュージアム]]はじめ各地の遊覧施設・メモリアル施設で務めていた名誉館長を退任してその職務を終えた<ref name="space-park">{{Cite news|url=http://www.space-park.jp/info/archives/202108/261200.html|title=松本零士先生 名誉館長退任 (2021年8月26日)|publisher=[[郡山市ふれあい科学館|郡山市ふれあい科学館「スペースパーク」]]|newspaper=お知らせ|date=2021-08-26|quote=開館から20年間名誉館長をお務めいただいた松本零士先生が2021年6月末をもって退任されました。|accessdate=2021-11-12|url-status=live}}</ref><ref name="ktqmm">{{Cite news|url=https://www.ktqmm.jp/manga_news/32382|title=松本零士名誉館長の退任について|publisher=北九州市漫画ミュージアム|newspaper=新着情報|date=2021-10-08|quote=開館当初(平成24年8月)から当館の発展を支えていただいた松本零士先生が、令和3年6月末をもって退任されました。|accessdate=2021-11-12}}</ref><ref name="sakai">{{Cite journal|和書|title=松本零士氏が名誉館長辞任 ~ ビッグバン|last=山本|first=裕|journal=泉北コミュニティ|date=2021-11-11|issue=2160|page=2|url=https://www.community2525.net/contents/wp-content/uploads/2021/11/S20211111.pdf|publisher=有限会社コミュニティ|location=大阪府堺市|accessdate=2021-11-12|format=PDF|quote=松本零士氏が6月で、名誉館長を辞任していたことがわかった。他府県の施設でも、同時期に役職を辞任していたという。}}</ref>{{efn|name="Yamato_Mus"|[[呉市海事歴史科学館|呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」]]の3階に、名誉館長等(同館の名誉館長には松本零士のほかにも複数人が委嘱されている)による「未来へのメッセージ」のパネルが展示されており、そのうち松本零士のプロフィール説明文の最後に「松本名誉館長におかれましては,ご本人の意向により,令和3(2021)年6月30日をもって名誉館長を辞任されました。長い間,ありがとうございました。」と記載されている。同館の公式ホームページでも、「未来へのメッセージ」欄に以前は松本の名も並べられていた名誉館長の一覧の中から消えている(辞任前<ref>{{Wayback|url=https://yamato-museum.com/館内案内/3f-d-未来へ/|title=館内案内3F「D.未来へ」|date=20210506010228}}</ref>/後<ref>{{Wayback|url=https://yamato-museum.com/館内案内/3f-d-未来へ/|title=館内案内3F「D.未来へ」|date=20210728232506}}</ref>)。}}。 == 創作・著作権に対するスタンス == {{観点|date=2006年11月|section=1}} [[日本漫画家協会]]著作権部責任者や[[コンピュータソフトウェア著作権協会]]理事などの役職を持つ立場にあることもあって、[[著作権]]に対し敏感な面があり、過去に著作権関連のシンポジウムで「孫子の時代まで自分の著作権を守りたいというのが心情だ」と述べたこともあるほか、自らが過去に漫画の中で使用した台詞等の表現を「創作造語」と称し、それに似た表現を他者が無断で使うことに否定的な見解を示している<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2004/09/21/4702.html 権利強化を求める権利者サイドの声〜パネルディスカッション] Internet Watch 2004年9月21日</ref>。 松本が著作権に強硬なのは、『宇宙戦艦ヤマト』や戦争ものなどを描く際には戦没者や民族感情に細心の注意を払って配慮しているのに、自分のあずかり知らぬところで、第三者によって自分の創作が意図に反した使われ方をされるのが我慢できないことが一因だという<ref name="東洋経済">「interview 松本零士 すべての作品に私の信念がこもる 安易な使用は許さん」『[[週刊東洋経済]]』2007年3月10日号、p.50</ref>。 [[2002年]]には自らが原作のテレビアニメ『SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK』が[[ダビデの星]]を敵のデザインに使ったことから、[[ユダヤ人]]感情に配慮して一時製作中止にさせたこともあった<ref>[http://www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20020624k0000m040112000c.html <放映中止>キャプテンハーロック 原作者松本零士さんの抗議で] [[毎日新聞]] 2002年6月24日{{リンク切れ|date=2013年8月}}</ref>。 権利関係に非常にシビアである印象を持たれるが、作家に対する敬意があり無断で使うのでなければ他の漫画家やミュージックビデオ、広告等に自作のキャラクターを使うことには寛容である<ref name="東洋経済" /><ref>[[電気グルーヴ]]『カフェ・ド・鬼(顔と科学)』など</ref>。自作を笑いのネタにしたパロディ的な引用にも、松本自身が「面白い」と思えば快く許諾する傾向にある。但し「面白くない」と感じたパロディ的な引用には非常に厳しく、名指しで非難したり、担当編集者や漫画家自身を呼びつけて説教することもあるという。人気ヤンキー漫画『カメレオン』を連載していた加瀬あつしは、作中にメーテルのコスプレパロディネタを描いた際、松本に呼び出され夜通しで説教を受け、翌週の「週刊少年マガジン」誌上でお詫び文を掲載する羽目になった。このエピソードは単行本に収録される際、メーテルのコスプレが登場する部分の原稿は全て差し替えられ、オチも違うものとなっている<ref>因幡康介『実話ナックルズ』2023年2・3月合併号(大洋図書) 109頁「90年代発禁漫画の世界」。</ref> 松本は『[[スター・ウォーズ]]』の企画書のレイア姫の初期設定は『宇宙海賊キャプテンハーロック』の有紀蛍と類似しており、同作品の初期企画に自作が影響を与えたと発言しているが<ref>「松本零士インタビュー」『宇宙戦艦ヤマト伝説』安斎レオ編、フットワーク出版、1999年、p.58</ref>、松本が「自身の作品の影響を受けた」とする作品の中には、本当に影響を受けたものかどうか不明なものも含まれている。 『銀河鉄道999』劇場版第2作『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』に登場する[[星野鉄郎]]の父親・黒騎士ファウストに関しては、『スター・ウォーズ』旧3部作に登場する[[ダース・ベイダー]]とでいくつかの共通点が見られる。また[[宝島社]]の『完全版 銀河鉄道999 PERFECT BOOK』では、その子[[ルーク・スカイウォーカー]]と鉄郎の設定上の類似点などについて言及されている。時期的には『スター・ウォーズ』のほうが制作開始・公開いずれも早い。 === 宇宙戦艦ヤマト裁判 === 松本零士は1976年頃に、『宇宙戦艦ヤマト』の原作について、企画・原案は[[プロデューサー]]の[[西崎義展]]であり、自分は基本ストーリーやアイデアのほとんどを出したが共同作品でもあり、原作については判断できず曖昧であると述べていた<ref>「インタビュー『私は「みつばちマーヤ」が作りたい』松本零士」『季刊ファントーシュ VOL.2』1976年、ファントーシュ編集室</ref>。『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルも西崎がつけたものと認めていたが<ref>「インタヴュー・松本零士」『[[ぱふ]]』1980年9月号、清彗社、p.91</ref>、西崎が[[破産]]した1997年頃から、自らが『宇宙戦艦ヤマト』の著作権者であり、西崎はアニメ化の使用許諾権を得たプロデューサーに過ぎず、その使用許諾権も失効したと主張し始め<ref>おたくニュース会議室「[http://netcity.or.jp/otakuweekly/BW0.2/topics2-2.html 002-2/11 宇宙戦艦ヤマトの復活だぞ!!]」 [http://netcity.or.jp/otakuweekly/ おたくWeekly]</ref>、次いで西崎が逮捕された1998年には[[新潮社]]や[[産経新聞社]]のウェブページにおいて、西崎は『ヤマト』とは無関係で、『ヤマト』の全ての権利は自分が持っていると述べるようになった<ref name="court">[https://web.archive.org/web/20100509011739/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/27E3DE7D0CD6356249256BE200353BDD.pdf 平成11年(ワ)第20820号 著作権侵害差止等請求事件、同12年(ワ)第14077号 著作者人格権確認反訴請求事件] 裁判所公式サイト</ref>。そもそも『宇宙戦艦ヤマト』は自作『[[電光オズマ]]』の「宇宙戦艦大和の巻」が原型であるというのが松本の説明である<ref>「松本零士インタビュー」『宇宙戦艦ヤマト伝説』安斎レオ編、フットワーク出版、1999年、p.50</ref>。 そして、『ヤマト』の著作権を西崎から取得した[[東北新社]]との間で、1999年に「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わして<ref>[https://web.archive.org/web/20070118081656/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20061228131917.pdf 平成16年(ワ)第13725号損害賠償等請求事件] 裁判所公式サイト</ref>、2000年からは『[[新宇宙戦艦ヤマト]]』という新作を連載し、そのアニメ版の制作発表もした。 1999年になって『宇宙戦艦ヤマト』を作ったのは誰かという[[著作者]]を巡って西崎義展と裁判が行われた。松本側が原作と主張した『電光オズマ』『[[光速エスパー]]』、『ヤマト』の「創作ノート」、そして『冒険王』連載の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のいずれも原作ではないと否定され、なおかつ松本はアニメの製作過程においても部分的にしか関わっていないとして、[[東京地方裁判所]]は西崎を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となった<ref name="court" />。控訴審中の[[2003年]]に法廷外和解して、松本と西崎の両者ともが著作者という合意を交わしたが、西崎が筆頭著作者であり代表して著作者人格権を有することになり、松本は西崎の同意なしに『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの新作を作れず、また、西﨑側が許諾したヤマト新作については松本は自分の権利を行使できないことになった<ref>エナジオ社ニュースリリース [https://web.archive.org/web/20070515052223/http://www.enagio.com/release/old.html#040726 『宇宙戦艦ヤマト」著作権者裁判が終結し、西崎義展の著作者人格権が確定しました」] エナジオ公式サイト内 2003年7月29日(2007年5月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。西崎側のヤマト新作で松本の名前がクレジットされる際は、従来主張してきた「原作」ではなく「設定・デザイン」であることを松本はこの和解書で認めている<ref>[https://web.archive.org/web/20070515052223/http://www.enagio.com/yamato/reconciliation-3-.pdf 和解書] ナジオ公式サイト内 2003年7月29日(2007年5月15日時点のインターネット・アーカイブ</ref>。ただしこの和解は、判決と同等の効力がある訴訟上の和解でなく裁判外の和解に過ぎず、その拘束力が及ぶのは和解の当事者のみであり、著作権者の東北新社はこの和解に縛られないとの見解を発表している<ref>[https://web.archive.org/web/20031008144248/http://www.tfc.co.jp/news/030806.html 著作権は東北新社に。〜『宇宙戦艦ヤマト』について見解発表〜] 東北新社公式サイト 2003年8月6日(2003年10月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」<ref>「『宇宙戦艦ヤマト』 著作者はプロデューサー 東京地裁判決『松本氏は部分関与だけ』」『[[読売新聞]]』2002年3月26日付</ref>{{要出典範囲|date=2010年12月|「西崎は悪魔だ、彼に味方する人物も赦さない!」}}とのコメントを一部マスコミに報道された。 裁判終結後のシリーズ続編『[[宇宙戦艦ヤマト 復活篇]]』にはスタッフとして参加せず、名前もクレジットされなかった。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの[[翻案]]にあたる実写映画『[[SPACE BATTLESHIP ヤマト]]』や第1作のリメイクである『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』『[[宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち|宇宙戦艦ヤマト2202]]』『[[宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち|宇宙戦艦ヤマト2205]]』でも、西崎が原作者としてクレジットされ、松本の名は表示されなかった。なお、リメイク版の総監督を務めた[[出渕裕]]は、松本と[[豊田有恒]]のクレジットを入れようと制作プロダクション側に掛け合っている。<ref>豊田有恒『「宇宙戦艦ヤマト」の真実―いかに誕生し、進化したか』祥伝社新書、2017年、p210</ref> 製作スタッフの中では、SF設定を担当した豊田有恒は、著書(日本SFアニメ創世記)で松本零士を全面的に支持し、西崎義展を批判している。一方で[[作詞家]]として1作目から関わっていた[[阿久悠]]は{{要検証範囲|最晩年に[[産経新聞]]内で連載していたコラム『阿久悠 書く言う』にて「松本がヤマトの著作権者を名乗れるのなら、他のスタッフ達や私だって著作権者を名乗れる」、「西崎さんの熱意と情熱無しに『宇宙戦艦ヤマト』は存在しなかった」と書き残している|date=2012年6月}}。劇場版を監督した[[舛田利雄]]は実質的な原作者は西崎だとの見解を持っており<ref>舛田利雄、佐藤利明、高護編『映画監督舛田利雄 〜アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて〜』ウルトラ・ヴァイヴ、2007年、p.290</ref>、企画段階から携わった[[藤川桂介]]と[[山本暎一]]、松本を補佐した[[石黒昇]]も、松本の原作者だとの主張に対して、本作はオリジナル企画であるとして松本による原著作物は存在しないとの立場である<ref>小池正春「元プロデューサー西崎氏の逮捕で混乱 『宇宙戦艦ヤマト』の著作権は誰のものか」『財界展望』1999年5月号</ref><ref>藤川桂介『アニメ・特撮ヒーロー誕生のとき』ネスコ、1998年、p.117</ref><ref>石黒昇、小原乃梨子『テレビ・アニメ最前線 私説・アニメ17年史』大和書房、1980年、p.200</ref>。メカデザインの[[スタジオぬえ]]のメンバーでも松本を原作者と認識するのは少数だという<ref>高千穂遙「[http://www.takachiho-haruka.com/ascii/01-12.htm ASCII番外地バックナンバーVol.6 ヤマト騒動。]」</ref>。第1作から絵コンテや作画で参加した[[安彦良和]]によれば、ヤマトをめぐる訴訟の際は大方の人が西崎の肩を持ったという。安彦本人は中立を宣言して、やって来た松本の弁護士にもヤマトは松本のものでなく松本と西崎両者のものだと伝え、松本敗訴の一審判決は当然のこととした<ref>[[吉田豪]]「CHAPTER6 安彦良和」『吉田豪の巨匠ハンター』[[毎日新聞出版]]、2020年、p.162</ref>。 絵コンテで参加した富野由悠季はそのときの経緯から、松本零士と山本暎一が並列でその上に西崎義展がいて全ての主導権を西崎が握った、西崎が主導する西崎の作品だったとインタビューで語っている<ref>「富野由悠季INTERVIEW 《第2章》〜サンライズ創成期〜 1972〜1978」『キネ旬ムック 富野由悠季全仕事』[[キネマ旬報社]]、1999年、p.102</ref>。 === 銀河鉄道999裁判 === 2006年、[[槇原敬之]]が[[CHEMISTRY]]に提供した楽曲『[[約束の場所 (CHEMISTRYの曲)|約束の場所]]』の歌詞の一部が、1996年から再開された新展開編『銀河鉄道999』の作中のセリフの盗用であると、松本零士は10月19日発売の『[[女性セブン]]』で槇原敬之を非難した<ref name="jacast200611009">[https://www.j-cast.com/2006/11/09003763.html?p=all 槇原VS松本零士 「盗作」騒動泥仕合] J-CASTニュース 2006年11月9日</ref>。翌日20日の[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系『[[スッキリ!!]]』にも生出演し、同様に槇原を盗作したと非難した<ref name="平成19(ワ)4156">[https://web.archive.org/web/20120324181103/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090224195024.pdf 平成19(ワ)4156 著作権侵害不存在確認等請求事件、東京地方裁判所]</ref>。 これに対して槇原は記者会見で否定し、同年11月7日付の公式ホームページにて「『銀河鉄道999』は個人的趣味で読んだことが無く、歌詞は全くのオリジナルであり、本当に盗作だと疑っているのなら(自分を告訴して)裁判で決着していただきたい」旨のコメントを発表している<ref name="jacast200611009" />。 2007年3月22日、『スッキリ!!』における松本の発言をめぐり、槇原が松本に対して、盗作だと言っている部分に対して証拠を示して欲しいと著作権侵害不存在確認等請求を[[東京地方裁判所]]に起こした。裁判で松本側が盗作だという証拠が示せなかった場合は、CMソングの中止などにより、2,200万円の損害賠償請求も行った<ref>[https://www.j-cast.com/2007/03/23006379.html?p=all 槇原が松本を「盗作問題」で提訴 泥仕合勝つのはどっちだ] J-CASTニュース 2007年3月23日</ref>。これについて松本は3月26日のトークショーで「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある、一連の訴訟について口頭弁論などに立つ気はない」とも語った<ref>[http://www.sanspo.com/geino/top/gt200703/gt2007032608.html 松本零士氏、意味深発言「負けると分かっていても戦わねば」] サンケイスポーツ 2007年3月27日{{リンク切れ|date=2013年8月}}</ref>。 2008年7月7日、東京地裁で口頭弁論のため、事件以降、両者が初めて顔を合わせた。槇原はニュースやマスコミなどで取り上げられ、「泥棒扱いされてもしていないものはしてない」「(問題の歌詞の部分は)仏教の因果応報の教えから」「謝れば許すつもりといっているが、それは罪を認める行為だ」と弁論、直後に松本の反論を聴くことなく退廷した。松本は「このセリフは私の座右の銘」で「長く使い、媒体でも講演会でも発表している」「一言、公の場で『すまん』と言ってほしかった」「偶然としても、あそこまで似てるのはありえない」と反論した<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080708-381095.html 槙原敬之vs松本零士氏が法廷で対決] 日刊スポーツ 2008年7月8日</ref>。 同年12月26日、東京地裁は「原告表現が被告表現に依拠したものと断定することはできない」「2人の表現が酷似しているとは言えない」と依拠性と類似性という著作権侵害となる2つの構成要件を認めず、槇原に対する名誉毀損を認め、松本に220万円の損害賠償支払いを命じる判決を下した<ref name="平成19(ワ)4156" />。その後双方とも控訴している<ref>[[佐藤薫]]「知的財産法」の項目を参照。</ref>。 2009年11月26日、東京高裁で控訴審が開かれ、松本が'''「槇原さんの社会的な評価に相当な影響を与えた」'''と陳謝する内容を和解条項として、和解が成立した(金銭支払なし)<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20091127-569877.html 松本零士氏セリフめぐる騒動で槙原に謝罪] [[日刊スポーツ]] 2009年11月27日</ref>。 [[2011年]][[12月16日]]、『[[菊地成孔の粋な夜電波]]』に[[近田春夫]]がゲスト出演。話題がJ-POPのパクリ問題になると「マッキーがパクるわけないじゃん」「(松本が)自分のフレーズを知らないはずがない、というのは思い上がり」と槇原側を全面擁護した<ref>[http://www.tbsradio.jp/denpa/2011/12/35201112169.html 第35回(2011年12月16日)ポッドキャストをアップしました。近田春夫さんとの年末放談その2、9時台。] TBSラジオ公式サイト内 2012年12月22日 ※7分20秒頃から</ref>。 松本は2011年に槇原のCDの購入者に向けた描き下ろしクリスマスカードで槇原の似顔絵を描いたが、『[[SPA!]]』2012年3月27日号で「ひと言『ごめん』と言ってくれたら、それでよかったんです」と、謝罪すべきだったのは槇原側だったとの主張を再び行った<ref>[https://nikkan-spa.jp/178494 松本零士氏、槇原敬之氏との「和解」を振り返る] 日刊SPA! 2012年3月27日</ref>。 槇原はその後、2022年3月2日にリリースしたアルバム『[[Bespoke (アルバム)|Bespoke]]』で「約束の場所」をセルフカバーしている。 == 零士メーター == '''零士メーター'''(れいじメーター)とは、[[漫画]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]等の[[フィクション]]作品に登場する[[計器]][[デザイン]]の呼称、俗称<ref>{{cite book|和書|title=零士メーターから始めるSFメカの描き方|author=板橋克己|authorlink=板橋克己|publisher=[[玄光社]]|year=2017|isbn=9784768308813}}</ref>。'''松本メーター'''とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japandesign.ne.jp/column/tsukuru-arima-miyake/|title=「コンテンツは心に刺さったら抜けない」。これからのアニメに求められるデザインとは?|author=有馬トモユキ, 三宅陽一郎|publisher=デザイン情報サイト JDN|date=2018-04-27|accessdate=2018-10-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://portal.nifty.com/kiji/150120166106_1.htm|title=松本メーターマグネットで、なんでも松本メカにする|author=松本圭司|publisher=[[デイリーポータルZ]]|date=2015-01-21|accessdate=2018-10-01}}</ref>。 主に[[未来]]を描いた[[サイエンス・フィクション|SF]]作品に登場する。円形もしくは[[歯車]]形のガラスパネルの中に、目盛りと複数(最低でも3本)の指針が書き込まれたスタイル。[[クロノグラフ]]に似るが、違いは全周型ではなく限界点があること。 『[[宇宙戦艦ヤマト]]』、『[[銀河鉄道999]]』を代表とする松本零士の作品に頻繁に登場する事から、同作品のファンを中心に「零士メーター」と呼ばれるようになった。 [[2009年]]には、日本の[[SEAHOPE]]がレイジメーターをモチーフとした腕時計「零士メーターウォッチ」を999本限定で製品化し、松本がデザイン監修を手掛けた<ref>[https://technabob.com/blog/2009/11/30/leiji-matsumoto-manga-meter-watch/ Leiji Matsumoto’S Manga Meter Watch is Big, Bad and Awesome] - technabob・2009年11月30日</ref>。 [[板橋克己]]は『零士メーターから始めるSFメカの描き方』を[[2017年]]に[[玄光社]]より上梓している。 === 影響 === 前述の通り松本零士作品の抽象的な存在ではあったが、他にも『[[タイムボカンシリーズ]]』など、[[1970年代]]後半から[[1980年代]]前半頃までの、日本のSFアニメ、SF漫画には、同種の意匠が多用されていた。 しかし、所謂「リアルロボット系」と呼ばれる『[[機動戦士ガンダム]]』シリーズでは、デザイン上のリアリティの追求から実在の[[オフィスコンピュータ|OA機器]]を意識した意匠を多用した為、あまり見られなくなった。その為、同作品がブームを起こした[[1980年代]]以降は、他の作品でも徐々に姿を消していった。さらに、[[1990年代]]に入ると、[[パーソナルコンピュータ]]において普及した[[Microsoft Windows]]を意識した[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]による統合環境モニターをデザインする事が多くなり、[[自動車]]用や、旧来の[[鉄道車両]]用・[[航空機]]用の単品計器を意識したこの意匠はほとんど使われなくなっている。 == アシスタント経験者 == * [[千之ナイフ]] * [[新谷かおる]] - 松本の作品「[[宇宙海賊キャプテンハーロック]]」[[ヤッタラン]]のモデル。松本を師匠と仰いでおり、自身が設立した有限会社ダイプロダクション(DAIPRO)は日本語に直すと『大会社』であると、松本の表現でよく使われる『無限に広がる大宇宙』『大地球』『[[元祖大四畳半大物語|大四畳半]]』など「大」を受け継いでいるという<ref>{{Cite book|コミック |title=[[アオイホノオ]] |date=2017/05/17 |publisher=小学館 |page=60 |author=[[島本和彦]]}}</ref>。 * 小川保雄 * [[板橋克己]] * [[赤名修]]<ref>『[[イブニング]]』2015年4号より。</ref> == 受賞・受章歴 == * 1954年 - 「[[漫画少年]]」第1回長編漫画新人賞 * 1972年 - 第3回[[講談社出版文化賞#児童まんが部門|講談社出版文化賞]]児童漫画部門賞(『男おいどん』にて)<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=https://leijisha.jp/index.php#profile|title=松本零士プロフィール 受賞・受章歴|publisher=松本零士 零時社 オフィシャルサイト|accessdate=2021-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221126183439/https://leijisha.jp/index.php|archivedate=2022-11-26}}</ref> * 1975年 - 第6回[[星雲賞#映画演劇部門・メディア部門|星雲賞]] 映画演劇部門受賞(『宇宙戦艦ヤマト』にて)<ref name="prizesworld">{{Cite web|和書|url=https://prizesworld.com/prizes/name/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%9B%B6%E5%A3%AB|title=松本零士 受賞・受章歴|website=prizesworld.com(文学賞の世界)|accessdate=2021-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210902190652/https://prizesworld.com/prizes/name/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%9B%B6%E5%A3%AB|archivedate=2021-09-02}}{{Cite web|和書|url=https://prizesworld.com/prizes/sf/siun.htm|title=星雲賞受賞作・参考候補作一覧|website=prizesworld.com(文学賞の世界)|accessdate=2021-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210918015424/https://prizesworld.com/prizes/sf/siun.htm#list006|archivedate=2021-09-18|quote=松本零士(総監督)「宇宙戦艦ヤマト」}}</ref> * 1978年 - 第23回[[小学館漫画賞]]受賞(『銀河鉄道999』『戦場まんがシリーズ』にて)<ref name="profile" /> * 1978年 - 第7回[[日本漫画家協会賞#歴代受賞者リスト|日本漫画家協会賞]]特別賞(一連のSFシリーズにて)<ref name="profile" /> * 1979年 - 第24回[[映画の日]]特別功労賞 <!--* 1990年 - 第21回星雲賞 コミック部門【受賞でなく参考候補作品】(『V2(ツイン)パンツァー』『無の黒船―クライシスIII』にて)<ref name="prizesworld" />--> * 2001年 - 紫綬褒章受章<ref name="profile" /> * 2003年 - 第8回アニメーション神戸特別賞受賞 * 2008年 - 練馬区名誉区民<ref name="profile" /> * 2010年 - 旭日小綬章受章<ref name="profile" /> * 2012年 - フランス[[芸術文化勲章#日本の受勲者|芸術文化勲章]]シュヴァリエ受章<ref name="profile" /> == 役職 == * [[日本漫画家協会]]常務理事(2000年5月<ref>{{Wayback|url=https://nihonmangakakyokai.or.jp/about/about06 |title=日本漫画家協会の歩み|date=20230113205515}}</ref> - 2018年6月頃退任{{efn|後任の役員である[[赤松健]]が常務理事に就任した時期(2018年6月)から推定。}})、著作権部責任者 * [[コンピュータソフトウェア著作権協会]]理事(非常勤、2003年4月<ref>{{Cite news|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2003/0217/accs.htm|title=ACCSの来期理事に漫画家の松本零士氏ら|newspaper=INTERNET Watch|date=2003-02-17|publisher=株式会社インプレス|accessdate=2021-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030414012641/https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2003/0217/accs.htm|archivedate=2003-04-14}}</ref> - 2011年3月ないし2012年3月の間に退任{{efn|2011年2月17日現在の役員一覧に氏名が掲載されていた後に、2012年4月1日現在の一覧には氏名の掲載がないことから<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.accsjp.or.jp/about/director.php|title=役員一覧|publisher=[[コンピュータソフトウェア著作権協会|コンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)]]|accessdate=2021-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120609030220/http://www2.accsjp.or.jp:80/about/director.php|archivedate=2012-06-09}}</ref>。}}) * [[国際科学技術博覧会|つくば科学万博記念財団]]評議員(2002年4月 - 2021年5月<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tsukuba-banpaku.jp/topics/detail/id=446|title=松本零士様ご逝去によせて|date=2023-02-21|publisher=公益財団法人つくば科学万博記念財団|accessdate=2023-02-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230224064908/https://www.tsukuba-banpaku.jp/topics/detail/id=446|archivedate=2023-02-24|url-status=live}}</ref>) * 財団法人[[日本宇宙少年団]]理事長(1994年9月<ref>{{Wayback|url=https://www.yac-j.or.jp/history.html |title=日本宇宙少年団 沿革|date=20230220022701}}</ref> - 2021年6月<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yac-j.or.jp/chairman.html|title=理事長交代のお知らせ|publisher=[[日本宇宙少年団|公益財団法人日本宇宙少年団]]|date=2021-07-30|accessdate=2021-11-12|quote=【辞任】2021年6月2日付 松本 零士(漫画家)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211112123627/https://www.yac-j.or.jp/chairman.html|archivedate=2021-11-12|url-status=live}}</ref>) * [[宇宙開発委員会]]専門委員 * 中央青少年団体連絡協議会会長 * デジタルハリウッド大学特任教授 * [[京都産業大学]] 全学共通教育センター客員教員 * [[京都産業大学]] 全学教育研究センター客員教授 * [[宝塚大学]]教授、後に[[特任教授]]<ref>{{Cite journal|和書|title=授業潜入記No.11「現代漫画文化論Ⅱはこんな授業だった!」|journal =ニュースレター(東京 新宿キャンパス)|date=2019-03-01|issue=98|page=13|url=https://www.takara-univ.ac.jp/about/publicity/pdf/news_letter_98.pdf |format=PDF|publisher=宝塚大学 東京メディア芸術学部|accessdate=2021-11-12}}</ref>(2005年度<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takara-univ.ac.jp/tokyo/news/2023/02/0220news.html|title=訃報 松本零士先生ご逝去のお知らせ|date=2023-02-20|publisher=宝塚大学|accessdate=2023-02-24|quote=2005年度本学の教授としてご着任|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230224060956/https://www.takara-univ.ac.jp/tokyo/news/2023/02/0220news.html|archivedate=2023-02-24|url-status=live}}</ref> - 2021年度<ref>{{Wayback|url=https://www.takara-univ.ac.jp/about/outline/organization/index.html|title=宝塚大学教員組織 - 東京メディア芸術学部(令和3(2021)年4月1日現在)|date=20220331081923}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takara-univ.ac.jp/news/2023/02/0220.html|title=松本零士先生(元本学教員)の訃報に接しまして|date=2023-02-20|publisher=宝塚大学|accessdate=2023-02-24|quote=2021年まで、実に15年にわたり教鞭をとられ、多くの学生がその薫陶を受けました|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230224064449/https://www.takara-univ.ac.jp/news/2023/02/0220.html|archivedate=2023-02-24|url-status=live}}</ref>) * [[郡山市ふれあい科学館]][[名誉館長]](2001年10月<ref>{{Cite web|和書|url=https://space-park.jp/info/archives/202302/211000.html|title=松本零士先生 ありがとうございました -郡山市ふれあい科学館 前名誉館長-|date=2023-02-21|publisher=郡山市ふれあい科学館|accessdate=2023-02-24|quote=2001年10月1日から2021年6月30日まで名誉館長をお務めいただきました|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230224061835/https://space-park.jp/info/archives/202302/211000.html|archivedate=2023-02-24|url-status=live}}</ref> - 2021年6月<ref name="space-park" />) * [[ディスカバリーパーク焼津天文科学館]]名誉館長(1997年4月 - 2021年6月<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.discoverypark.jp/intro/reiji/|title=漫画家・松本零士氏との関わり|website=[[ディスカバリーパーク焼津天文科学館]]|accessdate=2021-11-12|quote=松本零士氏 来館歴 …… 2021年6月30日 ディスカバリーパーク焼津天文科学館名誉館長を退任}}</ref>) * [[岐阜かかみがはら航空宇宙博物館]]名誉館長(1996年 - 2021年3月<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/gifu/20230220/3080010771.html|title=各務原市の博物館 松本零士さんの死を悼む声|date=2023年2月20日|work=NHK NEWS WEB|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230220105524/https://www3.nhk.or.jp/lnews/gifu/20230220/3080010771.html|archivedate=2023年2月20日|url-status=live}}"名誉館長を開館した平成8年からおととし3月まで20年以上にわたって務めていました"</ref>) * 大阪府立大型児童館ビッグバン(現・[[堺市立ビッグバン]])館長(1999年 - 2010年)、名誉館長(2010年 - 2021年6月<ref name="sakai" />) * [[呉市海事歴史科学館]](大和ミュージアム)名誉館長(2005年 - 2021年6月{{efn|name="Yamato_Mus"}}) * [[九州鉄道記念館]](北九州市門司区)名誉館長(2003年 - 2021年6月<ref>{{Cite web|和書|url=https://kitaq.media/29462/|title=「北九州市漫画ミュージアム」新名誉館長にわたせせいぞう氏 観覧チケットも一新|date=2022-04-23|publisher=北九州ノコト編集部(株式会社週刊つりニュース)|accessdate=2022-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221019114007/https://kitaq.media/29462/|archivedate=2022-10-19|quote=昨年6月末に退任した初代名誉館長・松本零士氏に続く2代目の名誉館長である}}</ref>) * [[北九州市漫画ミュージアム]](北九州市小倉北区)名誉館長(2012年8月<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktqmm.jp/permanent_info/77162|title=松本零士 初代名誉館長のご逝去について(令和5年2月23日 更新)|date=2023-02-20|publisher=北九州市漫画ミュージアム|accessdate=2023-02-24|quote=松本零士先生には、2012年8月の「北九州市漫画ミュージアム」の開館から2021年6月末まで名誉館長を務めていただき|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230224055324/https://www.ktqmm.jp/permanent_info/77162|archivedate=2023-02-24|url-status=live}}</ref> – 2021年6月<ref name="ktqmm" />) == 関連書籍 == * 「さらば宇宙戦艦ヤマト」映画公開時、ノベライズ版が松本名義で出版されている。 * いきなり最終回([[JICC出版局]]) - 名作漫画の最終回を集めた本。松本作品は3作掲載。それぞれに松本のコメントあり。 ** PART1(1990年)- 『男おいどん』 ** PART2(1991年)- 『銀河鉄道999』 ** PART4(1992年)- 『宇宙戦艦ヤマト』(加筆修正された単行本版ではなく「冒険王」誌面版) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *『ぴーぷる最前線 松本零士』([[福武書店]]、1983年){{ISBN2|4828803130}} *『遠く時の輪の接する処』松本零士著([[東京書籍]]、2002年){{ISBN2|978-4487796533}} *『松本零士の宇宙』[[吉本健二]]著([[八幡書店]]、[[2003年]]){{ISBN2|978-4893503961}} *『松本零士の世界』([[辰巳出版]]、2005年){{ISBN2|978-4777801367}} *『宇宙戦艦ヤマトの時代』井上静著(世論時報社、2012年){{ISBN2|978-4915340819}} *『松本零士 創作ノート』松本零士著、[[宮川総一郎]]編([[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]]、2013年){{ISBN2|978-4584135181}} *『蜜蜂の冒険 松本零士未発表・初期作品集 限定版BOX』(小学館クリエイティブ、2014年){{ISBN2|978-4778032807}} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[零士 (小惑星)]] * [[大阪府都市開発5000系電車]] ==外部リンク== * {{Official website|https://leijisha.jp/|松本零士 零時社 オフィシャルサイト}} * {{Twitter|leijisha|ミーくん@零時社/松本零士}} - 松本が逝去した後も零時社の公式Twitterとして情報を発信している * {{Mediaarts-db|C47647|松本零士}} * [https://www.yac-j.or.jp/ 日本宇宙少年団] * {{NHK人物録|D0009071965_00000}} * [https://news.yahoo.co.jp/articles/15b745cd62337ba0badbb424e0c5ded4dbe9145e 松本零士作品の“アニメブーム”はいかにして起こったか?(アニメ!アニメ!2023年3月10日記事)] * [https://www.asahi.com/articles/ASR637H6GR63UCVL00Q.html 松本零士さんが夢見た、座布団ビフテキ ちばてつやさんら別れの言葉(朝日新聞2023年6月3日)] お別れの会の様子を伝える記事 * [https://www.yomiuri.co.jp/stream/1/21512/ 松本零士さんお別れの会、「鉄郎」と「メーテル」が弔辞(読売新聞2023年6月3日)] ※ 以下はファンによる準・非公式サイト * [http://www.leiji.jp/ 松本零士 Encyclopedia] * [https://wondercarnival.web.fc2.com/zero/index.html ヤマトギャラリー零(ZERO)] * [https://leijiverse.com/ja/ leijiverse: 松本零士の世界] {{松本零士}} {{NHK紅白歌合戦審査員}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:まつもと れいし}} [[Category:松本零士|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本のコレクター]] [[Category:日本の蔵書家]] [[category:日本の鉄道に関係する人物]] [[Category:宝塚大学の教員]] [[Category:京都産業大学の教員]] [[Category:東北福祉大学の教員]] [[Category:デジタルハリウッド大学の教員]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:正六位受位者]] [[Category:旭日小綬章受章者]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:北九州市出身の人物]] [[Category:心臓病で死亡した人物]] [[Category:1938年生]] [[Category:2023年没]] [[Category:NHK紅白歌合戦審査員]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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真鍋譲治
真鍋 譲治(まなべ じょうじ、1964年12月18日 - )は、日本の漫画家。香川県高松市出身。代表作に『銀河戦国群雄伝ライ』および『アウトランダーズ』がある。アニメーターの真鍋譲二とは別人。 同人サークル「スタジオかつ丼」を主宰し、同人活動では男性向けの二次創作作品や雑誌連載時に未完のまま終わってしまった漫画作品の続編を発行している。 大阪にあるデザイン専門学校に在学していた頃、白泉社に作品を持ち込んだことがきっかけで漫画雑誌『月刊コミコミ』での連載を始める。1984年、「空白海域V-2」(『コミコミ特別編集 コミック読本SF大特集』)でデビュー。初期はSF漫画を描いていたが、90年代に入ってからは掲載誌の休刊や打ち切りが続き、成年漫画と同人誌で活動することが多くなったほか、専門学校で漫画家プロ養成科担当特別講師も務めている。 同人活動に関しても未だに積極的で、自身の作品のセルフパロディないし本編では描けなかった内容の同人誌化をよく行うことでも知られている。商業誌時には一般作品だったものを、同人誌では18禁化して発行することもある(該当するキャラクターは作品本編内でも結婚ないし子供を作っている場合が多い)。 2011年3月11日には、東京都内のマンションの8階に構えていた仕事場で東北地方太平洋沖地震に被災した。本人の怪我は無かったが、フィギュアやプラモデルのコレクションの入ったガラスケースや本棚が転倒し、多大な破損を被った。これらの被害を合わせると、1000万円を超えるだろうと語っている。また、当日は遅れていた原稿を進めるために起きて作業していたが、普段のように寝ていたら倒れてきたもので怪我していただろうと語っている。2021年現在は竹書房月刊キスカ誌で「パトラと鉄十字」、マイクロマガジン社コミックライドアドバンスにてコミカライズ「脱法テイマーの成り上がり冒険譚」を連載中。
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真鍋 譲治は、日本の漫画家。香川県高松市出身。代表作に『銀河戦国群雄伝ライ』および『アウトランダーズ』がある。アニメーターの真鍋譲二とは別人。 同人サークル「スタジオかつ丼」を主宰し、同人活動では男性向けの二次創作作品や雑誌連載時に未完のまま終わってしまった漫画作品の続編を発行している。
{{存命人物の出典明記|date=2013年9月}} {{Infobox 漫画家 | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[香川県]][[高松市]]<ref name="na">{{Cite book|和書|date=1997-04-21|editor=日外アソシエーツ編集部|title=漫画家・アニメ作家人名事典|publisher=[[日外アソシエーツ]]|page=400|isbn=4-8169-1423-4}}</ref> | 国籍 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1964|12|18}}<ref name="na"/> | 没年 = | ジャンル = [[青年漫画]] | 活動期間 = [[1984年]]<ref name="na"/> - | 代表作 = 『[[銀河戦国群雄伝ライ]]』<ref name="sansai">{{Cite book ja-jp |author = 伊藤真広 |editor = 村中宣彦 |year = 2006 |chapter = 【プロ作家】→【同人名義】データベース |title = ゲームラボ特別編集「現代視覚文化研究」 |publisher = [[三才ブックス]] |isbn = 4-86199-061-0 |page = 191 |ref = }}</ref><br />『[[アウトランダーズ]]』<ref name="na"/> | 受賞 = }} '''真鍋 譲治'''(まなべ じょうじ、[[1964年]][[12月18日]]<ref name="na"/><ref name="birth_date">{{Cite web|和書|author=真鍋譲治|date=2009-12-18|url=http://saronpaman.exblog.jp/13261790/|title=誕生日|work=かつ丼日記|accessdate=2013-09-22}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[香川県]]<ref name="tokyo_animator">{{Cite web|和書|url=http://www.mangakaseiyu-pro.com/manga/kou/|title=講師紹介/漫画家プロ養成科:東京アニメーター学院(東アニ)|publisher=東京アニメーター学院|accessdate=2013-09-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160321092724/www.mangakaseiyu-pro.com/manga/kou/|archivedate=2016-03-21}}</ref>[[高松市]]出身<ref name="na"/>。代表作に『[[銀河戦国群雄伝ライ]]』<ref name="sansai"/>および『[[アウトランダーズ]]』<ref name="na"/>がある。[[アニメーター]]の[[真鍋譲二]]とは別人。 [[同人サークル]]「'''スタジオかつ丼'''」を主宰し、[[同人]]活動では男性向けの[[二次創作]]作品や雑誌連載時に未完のまま終わってしまった漫画作品の続編を発行している<ref name="sansai"/>。 == 略歴・人物 == 大阪にあるデザイン専門学校に在学していた頃、[[白泉社]]に作品を持ち込んだことがきっかけで漫画雑誌『[[月刊コミコミ]]』での連載を始める<ref name="tokyo_animator"/>。[[1984年]]、「空白海域V-2」(『コミコミ特別編集 コミック読本SF大特集』)でデビュー<ref name="na"/>。初期はSF漫画を描いていたが、90年代に入ってからは掲載誌の休刊や打ち切りが続き、[[成年漫画]]と[[同人誌]]で活動することが多くなったほか、[[専門学校]]で漫画家プロ養成科担当特別講師も務めている<ref name="tokyo_animator"/>。 同人活動に関しても未だに積極的で、自身の作品のセルフパロディないし本編では描けなかった内容の同人誌化をよく行うことでも知られている。商業誌時には一般作品だったものを、同人誌では18禁化して発行することもある(該当するキャラクターは作品本編内でも結婚ないし子供を作っている場合が多い)。 [[2011年]][[3月11日]]には、東京都内の[[マンション]]の8階に構えていた仕事場で[[東北地方太平洋沖地震]]に被災した。本人の怪我は無かったが、[[フィギュア]]や[[プラモデル]]のコレクションの入ったガラスケースや本棚が転倒し、多大な破損を被った。これらの被害を合わせると、1000万円を超えるだろうと語っている。また、当日は遅れていた原稿を進めるために起きて作業していたが、普段のように寝ていたら倒れてきたもので怪我していただろうと語っている<ref name="2011-03-11">{{Cite web|和書|author=真鍋譲治|date=2011-03-11|url=http://saronpaman.exblog.jp/16041176/|title=いつかこの日が来るのかと。|work=かつ丼日記|accessdate=2012-08-04}}</ref>。2021年現在は[[竹書房]][[月刊キスカ]]誌で「[[パトラと鉄十字]]」、[[マイクロマガジン]]社[[コミックライドアドバンス]]にてコミカライズ「[[脱法テイマーの成り上がり冒険譚]]」を連載中。 == 作品リスト == === 一般作品 === * パワフルまぜごはん(白夜書房・パワフルコミックス) - デビュー前の物を含めた初期作品集・上下巻。袋とじカラーイラスト付き。 ** 上巻「パイレーツ」「トラブルデート」「クーデターSOS」「異次元戦線1945」「辺境惑星の石」解説・みんだ・なお ** 下巻「果肉」「機甲兵」「未来空間の恋人」「MUTANT」「三流海賊 IN 10000光年」あとがき・真鍋譲治 * バンパネラ(富士見書房・富士見ファンタジアコミックス) - 作品集。表題作含めた新規2編や描き下ろしカラー作品、アウトランダーズ(ジェッツコミックス版)に収録された読切を再録。 ** 「ファンタジーワールド」「バンパネラ」「メデューサの船」「Passenger…!!」「ザ・フロンティア」「鳥」「大地の啓示」「ピリオド・セレモニー」 * [[アウトランダーズ]](月刊コミコミ、白泉社) - [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]により[[OVA]]、[[ファミリーコンピュータ|FC]]ゲーム化。 * ドーラ([[ウィングス (雑誌)|月刊ウィングス]]、[[新書館]]) - 本シリーズの隻眼の女主人公カダフィは、他作品にも[[スピンオフ]]登場している(『ライ』の正宗、『カプリコン』のバーラムなど)。 * [[キャラバン・キッド]]([[週刊少年サンデーS|週刊少年サンデー増刊号]]、[[小学館]]) * [[カプリコン]](月刊ウィングス、新書館) - 大陸書房によりOVA化。 * ドラクゥーン 竜姫兵 ([[富士見書房]]・[[角川書店]]) - 単行本描き下ろし。第3巻で中断。後年、描き下ろしにより完結した。 * [[ソーサリアン]] 天の神々達([[コミックコンプ]]、角川書店) * ジャンク・パーティ(角川書店) - 週刊少年サンデー増刊号連載作品だったが、登場人物の肌の色が黒人差別に抵触するとの批判を浴びて打ち切り。 * [[銀河戦国群雄伝ライ]](コミックコンプ・[[電撃コミックガオ]]、[[メディアワークス]]・[[主婦の友社]]) - バンダイにより[[テレビアニメ]]化、エンジェルにより[[スーパーファミコン|SFC]]ゲーム化された真鍋の代表作。 * [[銀河戦国群雄伝ライ 異聞]] - 上記『ライ』の成人向け二次創作の続編を、一般商業作品として刊行した作品。 * [[怒濤! ジャムカの大冒険]](月刊ウィングス、新書館) * ビバ☆うさぎ小僧([[コミックNORA]]、[[学研ホールディングス|学習研究社]]) * 中華一番(コミックNORA、学習研究社) - 雑誌廃刊により打ち切り。 * 護星童子ラン([[少年王]]、[[光文社]]) * パワフルチャイナ([[少年キャプテン]]、[[徳間書店]]) - 雑誌廃刊により打ち切り。 * くろぼね(電撃コミックガオ、メディアワークス) - [[ナチス・ドイツ|ある国]]をモデルにした敗戦国『ガルマ国』の興亡を一種の「戦国乱世」風に描き、[[アドルフ・ヒトラー|ある人物]]をモデルにした主人公を描写した問題作。明確な理由を発表されないまま連載は打ち切られたが、同人で続編が刊行された。なお、往年の[[東映アニメーション|東映動画]]風の「動物化」手法が用いられており、登場「人物」はすべて人間化した犬。 * ワイルドキングダム([[ファミ通ブロス]]、[[エンターブレイン]]) - 雑誌廃刊により打ち切り(後に単行本で加筆完結)。 * [[暴君ティラノさん]]([[コミックドラゴン]]、角川書店) - 初の原作作品(作画は[[みよね椎]])。 * [[重機甲乙女 豆だけど]]([[週刊漫画TIMES]]、[[芳文社]]) - 舞台設定および政治設定は[[ルネサンス]]期のイタリア(但し、時の[[ローマ教皇]]等の要人も含めて登場人物は全て架空の人物であり、国際関係における軍事紛争や外交政策も創作)、社会風俗は[[20世紀]]初頭のイタリア、軍事描写は[[第二次世界大戦]]前後のイタリアおよび[[オスマン帝国]](但し、両勢力共に架空の兵器を保有・運用)というミリタリー作品。 * [[パトラと鉄十字]]([[月刊キスカ]]、[[竹書房]]) * [[脱法テイマーの成り上がり冒険譚 〜Sランク美少女冒険者が俺の獣魔になっテイマす〜]]([[コミックライドアドバンス]]、[[マイクロマガジン社]]) - [[ライトノベル]]の[[コミカライズ]](原作:[[すかいふぁーむ]]、キャラクター原案:[[大熊猫介]]) === 成人向け作品 === * お肉でCHU([[ナマイキッ!|Namaikiッ!]]、[[竹書房]]) - 初のアダルト誌での連載作。真鍋自身は獣人物にしたかったが、編集部が[[ネコ耳]]の類を許可しなかったとのこと。 * お吟―美少女的淫魔獣人伝([[宙出版]]) - 成人向けオリジナル同人作品を商業単行本化した短編集。 * 幕の内でらっくす(Namaikiッ!、竹書房) * てぇいる・ちぇいさー([[富士美出版]]) * [[恋するウシチチ]](富士美出版) - 初版発売時、作品の要修正部分が無修正のまま出版されたとして回収騒動が発生。2009年1月26日には真鍋自身が出版元である[[辰巳出版]]へ殴り込みに出かける事態まで発展すると同時に、「店頭在庫は即時全回収を命令」・「あと3回だがモチベーション維持が困難なので連載中断」・「辰巳とはしばらく仕事しない、冷却期間を置く」・「原稿引き上げはせず保管して頂く」ことを決定したことが、作者ブログにて明かされた<ref>{{Cite web|和書|author=真鍋譲治|date=2009-01-26|url=http://saronpaman.exblog.jp/10719335/|title=殴り込んできた。|work=かつ丼日記|accessdate=2013-09-22}}</ref>。なお、単行本未収録分の原稿は、[[2010年]]に同人誌として出版された。 * [[リン×ママ]](Namaikiッ!、竹書房) - 構成に工夫がある作品で、当初は漫画の基本『[[起承転結]]』を各1巻で表現し、全4巻で完結予定であった。しかし、2010年[[1月27日]]に刊行された「転」にあたる第3巻のあとがきで、「好評につきもう1巻追加」と発表され、全5巻で完結した。 * [[彼女で満室|彼女で満室(いっぱい)]](週刊漫画TIMES、芳文社) - 初の週刊誌連載(後に隔週連載に変更)。 * くいこみをなおしてるヒマはないっ!(Namaikiッ!、竹書房) * 日々これ好日(週刊漫画TIMES、芳文社) * 毒妻クラブ(Namaikiッ!、竹書房) * 裏銀河戦国群雄伝(スタジオかつ丼) - 一般向け作品で発表している『銀河戦国群雄伝ライ』および『銀河戦国群雄伝ライ 異聞』の[[エロ本|成年向け作品]]を自ら執筆している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.katsudon.com/index.htm St.katsudon Web Page] * [https://saronpaman.exblog.jp/ かつ丼日記](公式ブログ) * [https://twitter.com/GLC09BK88PGot7U 公式Twitter] {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まなへ しようし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:香川県出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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真船一雄
真船 一雄(まふね かずお、1964年8月24日 - )は、男性。日本の漫画家。神奈川県南足柄市出身。O型。代表作に『スーパードクターK』、『Doctor K』、『K2』などがある。妻は同じく漫画家の伊藤実。 神奈川県立小田原高等学校の学生時代から漫画を描き始める。卒業後、漫画家のアシスタントをしながら漫画賞などに作品を投稿する。その中の1作が入選し、1984年に「あいつは絶好調」(『フレッシュマガジン』)でプロデビュー。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "真船 一雄(まふね かずお、1964年8月24日 - )は、男性。日本の漫画家。神奈川県南足柄市出身。O型。代表作に『スーパードクターK』、『Doctor K』、『K2』などがある。妻は同じく漫画家の伊藤実。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "神奈川県立小田原高等学校の学生時代から漫画を描き始める。卒業後、漫画家のアシスタントをしながら漫画賞などに作品を投稿する。その中の1作が入選し、1984年に「あいつは絶好調」(『フレッシュマガジン』)でプロデビュー。", "title": "来歴" } ]
真船 一雄は、男性。日本の漫画家。神奈川県南足柄市出身。O型。代表作に『スーパードクターK』、『Doctor K』、『K2』などがある。妻は同じく漫画家の伊藤実。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 真船 一雄 | ふりがな = まふね かずお | 生年 = {{生年月日と年齢|1964|08|24}} | 生地 = [[日本]]・[[神奈川県]][[南足柄市]] | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1984年]] - | ジャンル = [[ストーリー漫画]]{{Sfn|長谷邦夫|1994|p=317}} | 代表作 = 『[[スーパードクターK]]』<ref name="townnews_190047"/><br />『Doctor K』{{R|booklive}}<br />『[[K2 (漫画)|K2]]』{{R|booklive}} }} '''真船 一雄'''(まふね かずお、[[1964年]][[8月24日]]{{Sfn|長谷邦夫|1994|p=318}}<ref name="na">{{Cite book|和書|date=1997-04-21|editor=日外アソシエーツ編集部|title=漫画家・アニメ作家人名事典|publisher=[[日外アソシエーツ]]|page=400|isbn=4-8169-1423-4}}</ref> - )は、男性。[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]][[南足柄市]]出身<ref name="na"/><ref name="townnews_190047">{{Cite web|和書|date=2013-06-01|url=https://www.townnews.co.jp/0608/2013/06/01/190047.html|title=真船一雄さん|足柄|タウンニュース|publisher=[[タウンニュース社]]|accessdate=2017-05-01}}</ref>。[[ABO式血液型|O型]]{{Sfn|長谷邦夫|1994|p=318}}<ref name="na"/>。代表作に『スーパードクターK』<ref name="townnews_190047"/>、『Doctor K』{{R|booklive}}、『[[K2 (漫画)|K2]]』などがある<ref name="booklive">{{Cite web|和書|url=https://booklive.jp/focus/author/a_id/3699|title=真船一雄の一覧 プロフィール|website=BookLive!|publisher=凸版印刷グループ|accessdate=2023-02-28}}</ref>。妻は同じく漫画家の[[伊藤実_(漫画家)|伊藤実]]<ref>[https://manga-museum.com/eventphoto-2023gw/ 5/3(水・祝)トークイベント&真船一雄サイン会]([[横手市増田まんが美術館]])</ref>。 == 来歴 == [[神奈川県立小田原高等学校]]の学生時代から漫画を描き始める<ref name="townnews_190047"/>。卒業後、漫画家の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしながら漫画賞などに作品を投稿する<ref name="townnews_190047"/>。その中の1作が入選し、[[1984年]]に「あいつは絶好調」(『フレッシュマガジン』)でプロデビュー{{Sfn|長谷邦夫|1994|p=317}}<ref name="townnews_190047"/>。 == 作品リスト == === 連載作品 === * ぶっとび!潤二郎(『[[マガジンSPECIAL|少年マガジンスペシャル]]』、全4巻) * [[スーパードクターK]](『週刊少年マガジン』、全44巻、文庫版全22巻) ** DoctorK(『週刊少年マガジン』、全10巻、文庫版全5巻) * [[雷神〜RISING〜]](『週刊少年マガジン』、全4巻) * [[風の柔士]](『週刊少年マガジン』、全2巻) * [[ウルトラマンSTORY 0]](『[[月刊マガジンZ]]』→『[[テレまんがヒーローズ]]』→「[[MiChao!]]」、全16巻、文庫版全8巻) * [[K2 (漫画)|K2]](医療監修:[[原田知幸]]、『[[イブニング]]』→「[[コミックDAYS]]」<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/514631|title=イブニングが23年間の歴史に幕、最終号に「アザゼルさん。」「ギャングキング」読み切り|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-02-28|accessdate=2023-02-28}}</ref>、2004年 - ) === 読み切り === * あいつは絶好調(『フレッシュマガジン』) == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=長谷邦夫|authorlink=長谷邦夫|year=1994|title=ニッポン漫画家名鑑|publisher=[[データハウス]]|isbn=4-88718-196-5|ref=harv}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まふね かすお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:神奈川県立小田原高等学校出身の人物]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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望月峯太郎
望月 峯太郎(もちづき みねたろう、1964年1月29日 - )は、日本の漫画家。神奈川県横浜市出身。男性。『東京怪童』以降、ペンネームを望月 ミネタロウと表記。 東京デザイナー学院卒業後、グラフィックデザインの仕事を始める。 1985年に『週刊ヤングマガジン』で、望月峯太郎としてデビュー。同年、『バタアシ金魚』を連載。 この時期はニューウェーブ作家として注目される。その作風は後の漫画家にも大きな影響を与えた。『バタアシ金魚』、『ドラゴンヘッド』、『鮫肌男と桃尻女』は映画化され、「お茶の間」はテレビドラマ化されている。
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望月 峯太郎は、日本の漫画家。神奈川県横浜市出身。男性。『東京怪童』以降、ペンネームを望月 ミネタロウと表記。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 望月 峯太郎/望月ミネタロウ | 画像 = FIBD2016MinetaroMochizuki.jpg | 画像サイズ = | 本名 = 望月 峯太郎 | 生地 = {{JPN}} [[神奈川県]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1964|1|29}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | ジャンル = [[青年漫画]] | 活動期間 = [[1985年]] - | 代表作 = 『[[バタアシ金魚]]』全6巻<br />『[[座敷女]]』全1巻<br />『[[ドラゴンヘッド]]』全10巻 他 | 受賞 = 第21回[[講談社漫画賞]]<br />(『ドラゴンヘッド』)<br />第4回[[手塚治虫文化賞]]優秀賞<br />(『ドラゴンヘッド』)<br />第17回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞<br />(『[[ちいさこべ#漫画『ちいさこべえ』|ちいさこべえ]]』)<br />2016年(ACBD)2016ベストアジアBD受賞(『ちいさこべえ』)<br />2017年[[アングレーム国際漫画祭]] シリーズ賞 受賞(『ちいさこべえ』) }} '''望月 峯太郎'''(もちづき みねたろう、[[1964年]][[1月29日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]][[横浜市]]出身。男性。『'''東京怪童'''』以降、ペンネームを'''望月 ミネタロウ'''と表記。 == 略歴 == [[東京デザイナー学院]]卒業後、グラフィックデザインの仕事を始める。 [[1985年]]に『[[週刊ヤングマガジン]]』で、'''望月峯太郎'''としてデビュー。同年、『[[バタアシ金魚]]』を連載。 この時期は'''[[ニューウェーブ (漫画)|ニューウェーブ]]作家'''として注目される。その作風は後の漫画家にも大きな影響を与えた。『[[バタアシ金魚]]』、『[[ドラゴンヘッド]]』、『[[鮫肌男と桃尻女]]』は[[映画]]化され、「お茶の間」はテレビドラマ化されている。 == 受賞歴 == * [[1997年]]、第21回 '''[[講談社漫画賞]]'''受賞(『ドラゴンヘッド』) * [[2000年]]、第4回 '''[[手塚治虫文化賞]]''' マンガ優秀賞 受賞(『ドラゴンヘッド』) * [[2013年]]、第17回 '''[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]'''優秀賞 受賞(『[[ちいさこべ#漫画『ちいさこべえ』|ちいさこべえ]]』) * 2016年、フランスBD評論家協会(ACBD)「2016ベストアジアBD」受賞(『ちいさこべ』) * 2017年、'''[[アングレーム国際漫画祭]]''' シリーズ賞 受賞(『ちいさこべえ』) == 作品リスト == * あにまるたち(『[[リュウ (雑誌)|別冊アニメージュ SF COMICS リュウ]]』1981年5月号掲載) - 短編。高校時代の投稿作。'''望月みねたろう'''名義。 *GO-GO-キリング・マシーン(『別冊アニメージュ SF COMICS リュウ』1981年6月号掲載) - 短編。高校時代の投稿作。'''望月みねたろう'''名義。 *[[バタアシ金魚]](『[[週刊ヤングマガジン]]』、全6巻) * [[バイクメ〜ン]](『週刊ヤングマガジン』、全4巻) * [[お茶の間 (漫画)|お茶の間]](『[[ミスターマガジン]]』、全3巻) - 『バタアシ金魚』の続編に当たる。 * [[座敷女]](『週刊ヤングマガジン』、全1巻) * [[鮫肌男と桃尻女]](『ミスターマガジン』、全1巻) * [[ドラゴンヘッド]](1995年 - 2000年、『週刊ヤングマガジン』、全10巻) * [[ずっと先の話]](短編集) * 万祝(『週刊ヤングマガジン』、隔週連載、全11巻) * 東京怪童(『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』、隔週連載、全3巻)※連載途中<!--Capter1 その4-->より'''望月ミネタロウ'''名義。コミックスは全て'''望月ミネタロウ'''名義。 * ズベルバー(2011年、アンソロジー「青春ヤンマガ」掲載)- 短編。「ヤングマガジン創刊30周年記念本」というアンソロジーのテーマとは関係なく、高校時代の投稿作と似た趣向のSF作品。 * [[ちいさこべ#漫画『ちいさこべえ』|ちいさこべえ]](2013年 - 2015年、原作:[[山本周五郎]]、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』、全4巻)※'''望月ミネタロウ'''名義。 - 『[[ちいさこべ]]』を時代設定変更した翻案作品。 * ショート・ボム!(2018年8月出版、短編集・電子書籍、ビッグコミックスピリッツ) * [[犬ヶ島#漫画|犬ヶ島]] (2018年5月初出、『モーニング』) ※ウェス・アンダーソン監督によるストップモーション・アニメーション映画のコミカライズ。 * フレデリック(話:[[山川直人 (漫画家)|山川直人]]、『[[ビッグコミックオリジナル]]』2020年2号<ref name="natalie20200104">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/361992|title=望月ミネタロウ×山川直人、絵本「フレデリック」からインスパイアされた新連載|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-01-04|accessdate=2022-01-20}}</ref> - ) - 同名の絵本からのインスパイア作品{{R|natalie20200104}}。 * 没有漫画 没有人生 ノーコミック ノーライフ(『ビッグコミックオリジナル』2022年3号<ref name="natalie20220120">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/462392|title=「前科者」有村架純がBCオリジナルに登場、望月ミネタロウ初のエッセイマンガも|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-01-20|accessdate=2022-01-20}}</ref> - 2023年18号<ref>{{Cite journal|和書|date=2023-09-05|title=没有漫画 没有人生 ノーコミック ノーライフ 最終話「むぎ茶の"茶"」|journal=ビッグコミックオリジナル|volume=2023年18号|page=302|publisher=小学館|asin=B0CG6S7SXH}}</ref>、全2巻) - 初のエッセイ漫画{{R|natalie20220120}}。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://manba.co.jp/manba_magazines/2079 フランスで望月ミネタロウ『ちいさこべえ』が人気と聞いて] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もちつき みねたろう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:横浜市出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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地質学
地質学(ちしつがく、英: geology)とは、地面より下(生物起源の土壌を除く)の地層・岩石を研究する、地球科学の学問分野である。広義には地球化学を含める場合もある。 1603年、イタリア語でgeologiaという言葉がはじめてつかわれた。当時はまれにしか使用されていなかったが、1795年以降一般に受け入れられた。 地質学は一般地質学(英: physical geology)と地史学(英: historical geology)の2つに大別される。さらに以下の分野に細分される(これらの分野に含まれない、または複数の分野にまたがる境界領域もある)。 地球や山の成因に関しては、古代より多くの人々が考察を重ねてきた。1669年にはデンマークのニコラウス・ステノ(ニールス・ステンセン)が『固体の中に自然に含まれている固体についての論文への序文』を著し、この中で地層が水によって堆積したこと、このため地層は成立時は水平であり、横方向に連続しており、さらに下から上に向かって堆積する、いわゆる地層累重の法則を提唱した。これによりステノは層序学の祖とされている。18世紀後半には岩石や山岳の成因について、山岳は堆積によるものとする水成論と、アントン・モーロらが提唱した、山岳は火山活動によるものとする火成論の2つの説が生まれた。18世紀末にはアブラハム・ゴットロープ・ウェルナーらが水成論を、ジェームズ・ハットンらが火成論を提唱した。ハットンは過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろうという斉一説を唱えたものの、フランスではジョルジュ・キュヴィエによって、地層や化石の変遷を天変地異によるものとする天変地異説が唱えられ、一時有力な学説となった。また、地球の成立時期についてはそれまでヨーロッパにおいては聖書に拠るものが主流であったが、ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォンは1778年に『自然の諸時期 Les Epoques la Nature』を刊行し、この中で地球の年齢をおよそ75000年と推定した。1815年にはウィリアム・スミスがイギリス全土の地質図を完成させた。18世紀末から19世紀初頭にかけてはこうした優れた学者たちによって重要な発見が相次ぎ、近代地質学が確立された。1830年から1833年にかけてはチャールズ・ライエルが『地質学原理(英語版)』を発行し、このなかで斉一説が唱えられたことでこの説が主流となった。 地質学の基礎はこうして確立されたものの、造山運動の原因や古生物の分布などいくつかの部分で不可解な部分が残されていた。造山運動の説明としては地向斜説、生物分布としてはかつてその地域に陸地があって離れた2点間をつないでいたとする陸橋説が唱えられていたものの、いずれも不備が多いものだった。これを説明するため、ドイツのアルフレート・ヴェーゲナーが1912年に大陸が移動したという、いわゆる大陸移動説を発表したものの、大陸移動の原因が説明できなかったため彼の生存中は有力説とはならなかった。しかしその後、1944年にアーサー・ホームズが発表したマントル対流説によって大陸移動の原動力を地球内部の熱対流に求めることが可能となり、さらに1950年代に入ると古地磁気学の研究がによって磁北移動の軌跡が導き出され、それが大陸移動説と合致したため、大陸移動説は復活した。さらにその後、1962年にハリー・ハモンド・ヘスやロバート・ディーツが海洋底拡大説を唱えるなど理論が出そろい、これらの理論を統合する形で1968年にプレートテクトニクス理論が完成した。
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地質学とは、地面より下(生物起源の土壌を除く)の地層・岩石を研究する、地球科学の学問分野である。広義には地球化学を含める場合もある。 1603年、イタリア語でgeologiaという言葉がはじめてつかわれた。当時はまれにしか使用されていなかったが、1795年以降一般に受け入れられた。
[[ファイル:The Earth seen from Apollo 17.jpg|thumb|200px|地球の外観]] [[ファイル:Geological-time-spiral ja.png|thumb|200px|地質学時標図]] '''地質学'''(ちしつがく、{{Lang-en-short|geology}}<ref name="terms">{{Cite book |1 = 和書 |author = [[文部省]]編 |title = [[学術用語集]] 地学編 |url = http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi |year = 1984 |publisher = [[日本学術振興会]] |isbn = 4-8181-8401-2 |page = 162 }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>)とは、[[地面]]より下([[生物]]起源の[[土壌]]を除く)の[[地層]]・[[岩石]]を研究する、[[地球科学]]の[[学問]]分野である。広義には[[地球化学]]を含める場合もある。 1603年、イタリア語でgeologiaという言葉がはじめてつかわれた。当時はまれにしか使用されていなかったが、1795年以降一般に受け入れられた<ref>サイモン・ウィンチェスター著、野中邦子訳『世界を変えた地図 -ウィリアム・スミスと地質学の誕生-』早川書房 2004年 43ページ</ref>。 == 分野 == {{See also|地球科学#分野}} 地質学は[[一般地質学]]({{Lang-en-short|physical geology}})と[[地史学]]({{Lang-en-short|historical geology}})の2つに大別される<ref>{{Cite book |author1= Frederick K. Lutgens |author2= Edward J. Tarbuck |author3= Dennis Tasa |year= 2012 |title= Essentials of Geology |location= USA |publisher= Pearson Education, Inc |language= English |pages= 2-3 |isbn= 978-0-321-70995-0}}</ref>。さらに以下の分野に細分される(これらの分野に含まれない、または複数の分野にまたがる境界領域もある)。 ; [[層序学]](stratigraphy) : 地層のできた順序(新旧関係)を研究する分野。[[地層累重の法則]]に基づき、主に[[地質調査|野外調査]]と地質図学([[幾何学]])、場合によっては古生物学(例えばコノドント)や火山テフラによる時代や、年代測定(例えば、[[放射年代測定]])による年代の挿入をもちいて地層の重なりを復元する。 ; [[堆積学]](sedimentology) : [[泥]]・[[砂]]・[[礫]]・[[火山灰]]などの物質が運ばれて[[堆積]]する過程を研究する分野。[[流体力学]]などの[[物理学]]的手法を主に利用する。 ; [[構造地質学]](structural geology) : 地層や岩石の変形を研究する分野。鉱物を構成する分子の相転移から、[[褶曲]]や[[断層]]、[[プレートテクトニクス]]まで、さまざまな規模の変形、[[構造]]を扱う。層序学・幾何学・[[物理学]]の手法を主に利用する。 ; [[地史学]](historical geology) : 他の手法をすべて駆使して、ある[[地域]]、または[[地球]]全体の、地層がたどってきた[[歴史]]を研究する分野。 ; [[古生物学]](paleontology) : 過去の生物([[古生物]])を研究する分野。主に[[化石]]を調べることにより、過去の生物の[[形態]]・[[生物の分類|分類]]・[[生態]]・[[分布 (生物)|分布]]・[[進化]]を研究する。[[生物学]]にもまたがる分野である。化石の[[地質時代|時代]]や棲息[[環境]]などを知るために層序学・堆積学の手法も利用する。 ; [[岩石学]](petrology) : [[岩石]]そのものを研究する分野。岩石を構成する[[物質]]は何か、どうやって岩石になったのか、などを[[化学]]・物理学の手法で調べる。 ; [[鉱物学]](mineralogy) : [[鉱物]]を研究する分野。鉱物の[[成分]]や[[結晶構造]]、成因(できかた)などを、化学・物理学の手法で調べる。化学(地球化学)、物理学、[[結晶学]]、[[地球物理学]]、[[材料科学]]などと地質学との境界領域にある学問分野である。 ; [[鉱床学]](economic geology) : [[鉱床]]を研究する分野。主に鉱物学・岩石学の手法を用いるほか、構造地質学や地球化学、鉱床の種類によっては堆積学の手法を利用する。 ; [[火山学]](volcanology) : [[火山]]を研究する分野。層序学・堆積学・岩石学・鉱物学のほか、地球物理学・地球化学の手法も駆使するため、地質学とは独立に扱われる場合もある。 ; [[地質図学]](geological mapping) : 独立した分野として扱われることはあまりないが、[[地質図]]の描きかたや読み取りかたには一定のルールがある。基本は幾何学。 ; [[応用地質学]](applied geology、engineering geology) : 地質学の成果を[[工学]]的に応用する分野。かつての日本では[[鉱山]]に関する学問との関連が深かったが、現在では[[建築]]・[[土木]]などとの関連が深い。最近は[[環境学]]、[[林学]]、[[防災]]との親和性も強まってきている。 ; [[石油地質学]](petroleum geology) : 地質学の成果を工学的に応用するという点では応用地質学の範疇に入るが、特に[[石油]]探鉱や油ガス田の成因を扱う場合、石油地質学と称される。 == 歴史 == 地球や山の成因に関しては、古代より多くの人々が考察を重ねてきた。[[1669年]]には[[デンマーク]]の[[ニコラウス・ステノ]](ニールス・ステンセン)が『固体の中に自然に含まれている固体についての論文への序文』を著し、この中で地層が水によって堆積したこと、このため地層は成立時は水平であり、横方向に連続しており、さらに下から上に向かって堆積する、いわゆる[[地層累重の法則]]を提唱した<ref>「地質学の歴史」p92-93 ガブリエル・ゴオー著 菅谷暁訳 みすず書房 1997年6月6日発行</ref>。これによりステノは[[層序学]]の祖とされている。18世紀後半には岩石や山岳の成因について、山岳は堆積によるものとする[[水成論]]と、[[アントン・モーロ]]らが提唱した、山岳は[[火山]]活動によるものとする火成論の2つの説が生まれた<ref>「地質学の歴史」p114-117 ガブリエル・ゴオー著 菅谷暁訳 みすず書房 1997年6月6日発行</ref>。18世紀末には[[アブラハム・ゴットロープ・ウェルナー]]らが水成論を、[[ジェームズ・ハットン]]らが火成論を提唱した<ref>「地質学の歴史」p178-179 ガブリエル・ゴオー著 菅谷暁訳 みすず書房 1997年6月6日発行</ref>。ハットンは過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろうという[[斉一説]]を唱えた<ref>「科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱」p119-120 マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ著 久芳清彦訳 東京書籍 2011年8月22日第1刷</ref>ものの、フランスでは[[ジョルジュ・キュヴィエ]]によって、地層や化石の変遷を天変地異によるものとする[[天変地異説]]が唱えられ、一時有力な学説となった<ref>「科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱」p115 マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ著 久芳清彦訳 東京書籍 2011年8月22日第1刷</ref>。また、地球の成立時期についてはそれまでヨーロッパにおいては聖書に拠るものが主流であったが、[[ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン]]は1778年に『自然の諸時期 Les Epoques la Nature』を刊行し、この中で地球の年齢をおよそ75000年と推定した<ref>「地質学の歴史」p139 ガブリエル・ゴオー著 菅谷暁訳 みすず書房 1997年6月6日発行</ref>。1815年には[[ウィリアム・スミス (地質学者)|ウィリアム・スミス]]がイギリス全土の地質図を完成させた<ref>「科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱」p111 マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ著 久芳清彦訳 東京書籍 2011年8月22日第1刷</ref>。18世紀末から19世紀初頭にかけてはこうした優れた学者たちによって重要な発見が相次ぎ、近代地質学が確立された<ref>「はじめての地学・天文学史」p137 矢島道子・和田純夫編著 ベレ出版 2004年10月25日初版発行</ref>。1830年から1833年にかけては[[チャールズ・ライエル]]が『{{仮リンク|地質学原理|en|Principles of Geology}}』を発行し、このなかで斉一説が唱えられたことでこの説が主流となった<ref>「科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱」p121 マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ著 久芳清彦訳 東京書籍 2011年8月22日第1刷</ref>。 地質学の基礎はこうして確立されたものの、[[造山運動]]の原因や古生物の分布などいくつかの部分で不可解な部分が残されていた。造山運動の説明としては[[地向斜]]説、生物分布としてはかつてその地域に陸地があって離れた2点間をつないでいたとする[[陸橋説]]が唱えられていたものの、いずれも不備が多いものだった。これを説明するため、ドイツの[[アルフレート・ヴェーゲナー]]が[[1912年]]に大陸が移動したという、いわゆる[[大陸移動説]]を発表したものの、大陸移動の原因が説明できなかったため彼の生存中は有力説とはならなかった。しかしその後、1944年に[[アーサー・ホームズ]]が発表した[[マントル対流説]]によって大陸移動の原動力を地球内部の[[熱対流]]に求めることが可能となり<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p80-81 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>、さらに[[1950年代]]に入ると[[古地磁気学]]の研究がによって[[磁北]]移動の軌跡が導き出され、それが大陸移動説と合致したため、大陸移動説は復活した<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p82-84 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。さらにその後、1962年に[[ハリー・ハモンド・ヘス]]や[[ロバート・ディーツ]]が[[海洋底拡大説]]を唱えるなど理論が出そろい、これらの理論を統合する形で[[1968年]]に[[プレートテクトニクス]]理論が完成した<ref>「山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門」p97-99 藤岡換太郎 講談社 2012年1月20日第1刷</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} --> *[[サイモン・ウィンチェスター]]著、[[野中邦子]]訳『世界を変えた地図 -ウィリアム・スミスと地質学の誕生-』早川書房 2004年 ISBN 4-15-208579-7 C0044 *大久保雅弘著『地球の歴史を読みとく -ライエル「地質学原理」抄訳-』[[古今書院]] 2005年 ISBN 4-7722-5100-6 C3044 == 関連項目 == {{Wiktionarycat}} {{Commonscat|Geology}} * [[地質]]、[[地層]]、[[岩石]]、[[年縞]] * [[地球科学]] * [[地質調査総合センター]] * [[日本地質学会]] * [[日本鉱物科学会]] * [[資源地質学会]] * [[日本地球惑星科学連合]] * [[国際地質科学連合]](IUGS) * [[地質調査]]、[[地質図]]、[[ボーリング]] * [[ジオパーク]]、[[日本の地質百選]]、[[地質・鉱物天然記念物一覧]] <!-- * [[地球物理学]]、[[地震学]]、[[地球化学]]、[[生物地球化学]] * [[地球史]]、[[地球史年表]] * [[古地磁気学]] * [[第四紀学]]、[[人類学]]、[[考古学]] * [[地形学]] * [[洞穴学]] * [[土壌学]] * [[水文学]]、[[地下水学]] * [[気候学]]、[[海洋学]]、[[環境学]] * [[惑星科学]] - [[惑星地質学]] * [[土木工学]]、[[地球工学]] * [[博物学]] --> == 外部リンク == * [http://www.gsj.jp/ 産業技術総合研究所 地質調査総合センター] ** [https://www.gsj.jp/geology/index.html 地質を学ぶ、地球を知る] ** [http://gsj-seamless.jp/geonavi/gm/geonavi.php 地質図Navi] * [http://www.geosociety.jp/ 日本地質学会] ** [http://www.geosociety.jp/faq/index.php e-フェンスター](学習用ページ) * [http://www.jpgu.org/ 日本地球惑星科学連合] * {{Kotobank}} {{地球科学}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:ちしつかく}} [[Category:地球科学の分野]] [[Category:地質学|*]]
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携帯電話
携帯電話(けいたいでんわ、英: mobile phone、英: cell phone)とは、無線通信により、携帯することが可能となった電話機である。また、電話機を携帯する形の移動体通信システム、電気通信役務。端末を「携帯」(けいたい)あるいは「ケータイ」(この場合は、スマートフォンではなくフィーチャーフォンを指すことが多い)と略称することがある。 携帯電話は無線機の一種であるため、その設計は各国の電波法により規制されている。日本国内で一般に流通している携帯電話は、電波法令により規定されている技術基準に適合していることを示すマーク(技適マーク)が刻印されている。 本稿では説明しないが、鉄道設備や構内で使う(鉄道電話)携帯可能な端末を「携帯電話」と呼ぶ。技術的には固定電話と全く同じ構造であり、設備内のモジュラージャックやロゼットに接続して通話をする。 世界的に狭義の「携帯電話」の範疇に入るものとしては、iDENなどの第二世代携帯電話以降の規格を使っているデジタルMCA無線などの移動体通信携帯端末や、無線免許を要しないUnlicensed Personal Communications Services(UPCS)やPHS、DECTなどのいわゆる小電力無線局の携帯端末などがある。 携帯電話の構想は、電話機が考案されてまもないころからあった。電波を使用して無線で通信でき、かつ人間同士が音声にて会話することが夢として描かれていた。モールス符号を用いる無線電信機は携帯電話の元になる技術だが、実用化されても爆発的に普及するようになるものだとはこの時点では考えられていなかった。 また、携帯できる電話を開発する具体的な研究は古くから行われてきたが、電波のノイズの問題やバッテリーの問題、また通信速度などの多くの問題により電話機が非常に大型になってしまうため、実現は難しかった。 携帯電話の前身は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用した、モトローラ製のトランシーバー「Walkie Talkie」(SCR-536)である。 戦後1946年には、アメリカのベル・システム(AT&Tの子会社)は無線の電話回線サービスである移動電話サービス(英語版)を開始した。これは、トランシーバーなどの無線電話が専用の無線回線を用いるのに対し、公衆の電話回線を用いることで、無線通信を一般向けのサービスにまで広げた。こうして、民間でも固定通信に加えて移動体通信サービスが利用可能となった。ただし、当時は人が日常的に携帯できるサイズの電話は技術的に実用化されておらず、車載電話機として設置できるものが小型化の限界であった。アメリカに続いて、ヨーロッパ各国でも同様のサービスが次々と始まった。この無線電話回線サービスは後に、より新しい携帯電話回線サービス(1G - 5G)と対比して、0Gと呼ばれるようになった(レトロニム)。 接続が完全自動化された無線電話回線サービスは、スウェーデンのモバイルテレフォニーシステムD(英語版)と呼ばれるもので、1956年にサービスが開始された。これらのサービスは実用性の面で一般に広く普及することは難しかったが、1971年にフィンランドで開始されたオートラジオテレフォン(英語版)という0Gサービスは、移動体通信ネットワークをはりめぐらせ、電波のカバレッジに途切れなく国中で使用でき、ユーザーに広く利用された最初の成功例となった。 それ以前は車やバイク、その他の乗り物へ設置できるが、人が持ち運ぶには非実用的なサイズであった。1960年代になると、両手で持ちながら会話できる程度まで小さくすることが可能となったが、短時間の通話でも疲れてしまうほどに重かった。1970年代になると頑張れば片手で持てる程度の大きさまで小型化した。 1970年に大阪府で開催された日本万国博覧会では、ワイヤレスホンとして後年で言うところのコードレスフォンが出展された。これは数メートル程度しか電波が飛ばず、会場内で端末同士が通話できる機器であり、厳密には公衆の電話回線を利用する電話とは異なるものであった。 1973年4月3日、モトローラのエンジニアであるMartin Cooperは実際の無線電話回線につなげて電話をかけることのできる世界で初めての手持ち可能な携帯電話を試作し、デモンストレーションを行った。このとき、彼は携帯電話開発のライバルであったベル・システム社のen:Joel S. Engelへと電話をかけた。この電話はコードレスで、重さ1.1キロ、大きさ23×13×4.5センチであり、一度の充電で30分間会話ができたが、再充電には10時間が必要であった。 1979年には、日本において第1世代移動通信システム(1G)を採用したサービスが世界で初めて実用化された。これは上述の0Gよりも、速度やカバレッジが改良された新しい技術であった。ただし、これは0Gと同じく車載電話機を使った自動車電話サービスで、人が携帯するための携帯電話はまだ実現されていなかった。1981年にはバーレーンとスカンディナヴィア地域でもサービスを開始した。 なお、アメリカ合衆国では1978年にAT&Tとモトローラに対して1G実用化実験の許可が出ていたが、すぐには実現に至らなかった。遅れをとった同国はモトローラによる当時のロナルド・レーガン大統領への直訴も功を奏し、1981年に実用化がなされた。 1980年前後から事業として成立するようになり、一部の先進国で車載電話機(自動車電話)として携帯電話機の販売やサービスが開始された。当時は固定電話機と比較すると導入価格や通信費用はともに数十倍であるうえ、通信エリアも都市部に限定されていたため、ごく一部の限られたユーザーが導入するのみであった。 車載型ではないポータブルタイプとして、1983年にモトローラより発売されたMotorola DynaTACが世界初の市販の手持ちできる携帯電話である。 日本では、1985年にNTTが「ショルダーホン」を発売している。肩にかけて持ち運ぶもので、重量は3キロだった。携帯電話と称したものは1987年にNTTから発売されており、体積は500cc、重量は900グラムだった。 1990年代になると端末の普及が進み、本体に液晶ディスプレイが搭載され始めた。また、1991年にフィンランドを皮切りに、日本でも1990年代半ばより第2世代移動通信システム(2G)サービスが始まり、通信方式がアナログからデジタルへと移行した。通信規格として、ヨーロッパのGSMとアメリカのCDMAがあった。これによって、着信音に好みの音楽が設定できる着信メロディや、ポケットベルと連帯したメッセージサービスを利用できるようになった。 1999年にはiモードが日本でスタートし、インターネット網への接続が可能となり、通信速度が向上し、画像やJavaを使用したゲームなどの利用が可能となった。 2000年代に入ると第3世代携帯電話(3G)が登場する。2001年に世界に先駆け日本で3G(W-CDMA)の商用サービスが始まった。テレビ電話が可能となったほか、パソコンと接続して高速なデータ通信が行えるようになった。また、ラストワンマイルの問題が解決しやすいことから発展途上国でも爆発的に普及し始め、英調査会社 “Informa Telecoms & Media” の2007年11月29日(英国時間)の発表によれば、世界全体での普及率が5割に達した。ことアフリカにおいては、固定インフラの整備が停滞している一方で携帯電話の普及率や潜在市場は膨大なものが予測されており、市場の急成長が注目を集めているが、その一方で電力インフラの整備が追いついていない地域では、携帯電話の利用に必須な電源として自動車のバッテリーからや人力発電による「充電屋」のような商売も勃興している。 携帯電話は、その発展の歴史において、初期には小型化・軽量化に主眼が置かれていた。しかし、この頃にはある程度手軽な形状が実現したため、東アジアなどの地域では多機能化が進められた。こうした地域では、カメラやインターネット閲覧、モバイル決済、防水、太陽充電、ラジオ・テレビチューナーといった付加機能が製品差別化の要素となった(詳細については日本における携帯電話#端末も参照)。 携帯電話業界の競争激化とともに、ユーザーへの大きな吸引力となる端末のデザイン・機能開発について各メーカーがしのぎを削った。しかし、手に持つ・テンキーで電話をかけるといった機能を維持する共通条件のもとで、その差別化は容易ではなく、タッチパネルやジャイロセンサーの採用など現代最先端の技術を用いていった。こうした多機能化の動きは、後にスマートフォンに継承され世界的に一般化した。 フィーチャーフォンはおおむね「ストレート式」「折りたたみ式」「スライド式」の3種の形状に大別できる。主流ではないが、「フリップ式」「2軸ヒンジ式」「回転式」なども存在した。 2007年からは携帯情報端末(PDA)がさらに進化し、パソコンとの差異が処理能力などの差だけとなった、スマートフォンが普及している。 1999年の頃から、一定の処理機能を備えたPDAに移動体端末の機能を複合させた延長的な製品は散発的に発売されいくつか存在していた。そして2007年に発売されたiPhoneをきっかけに、スマートフォンに注目が集まった(日本では2008年発売のiPhone 3Gが初)。 その後、IPhone・iOSのApple、GoogleおよびOpen Handset Allianceが開発したAndroid系スマホメーカー各社、マイクロソフトが開発するWindows Mobile・Windows Phoneスマホメーカー各社、独自OSを採用するNokia等の勢力が一時入り乱れる。当初のスマートフォンは、通信費用がより多くかかり、バッテリーの持ちが悪い傾向にあったが、改良が進み、2010年代初頭からAndroidが世界的シェアを一気に広げ、スマホが世界中で急速に普及した。 2010年代には、3Gの発展形でさらに高速となった第4世代携帯電話(4G)サービスが始まった。WiMAX方式はアメリカで、LTE方式はスカンジナビアで最初に利用可能となった。 2018年から2019年には、第5世代携帯電話(5G)サービスの運用が局所的に始まった。 端末本体は、一般社会や日常生活では単に「携帯(けいたい)」と呼ばれることが多く、「携帯」の語は携帯電話の端末を総称するような言葉のように使われており、完全に定着している。一方で同様に携帯端末であるポケベルやPHS、PDAは「ケータイ」と区別されがちであった。 また通称として「ケータイ」「ケイタイ」と表記されることも多い。NTTドコモや「電電ファミリー」の制作した技術文書では移動機(いどうき)と書かれることもしばしばある。スマートフォン時代になるとスマホと呼ばれる機会も増えた。 初期からスマホまで共通する部品としては、アンテナ、スピーカー、マイクと、これらを制御する電子回路と、電源などがある。 2000年代以降の端末の多くではディスプレイを搭載しており、液晶や無機EL、有機EL、発光ダイオードなどさまざまな素材が利用されている。初期型の製品にはアンテナがほとんど露出していたが、2000年代中ごろに内蔵の機種が増え、現在のアンテナはほとんどが内蔵型である(ワンセグ対応機種はテレビアンテナがついているが、このアンテナのみ本体から出して使用する機種が多かった)。ガラケー時代は各社オリジナルの工夫をしたデザインが特徴で、独自機能の増加が相次いでパーツは増える傾向にあった。スマホ時代初期はiPhoneの影響を強く受けたものが多かったが、技術革新とともに再び様々なスタイルが登場している。 電源は初期には一次電池が使われていたが、二次電池の発達により1990年代にはニカド電池およびニッケル・水素蓄電池が、2000年代からはリチウムイオン電池が主流である。携帯電話端末本体が充電器の役割も兼ねており、二次電池の充電回路を搭載している。一般に携帯電話の「充電器」と呼ばれる機器は、正確には携帯電話に内蔵された充電器に電源を供給する外部電源としてのACアダプタである。そのため外部電源を接続することで本体から電池を取り出さなくとも充電が可能である。機種によっては専用の充電用簡易スタンドが付属する。 外部電源としてはACアダプタによる直流電源、USB給電、Qiなどが用いられる。直接電源では家庭用電源を電源とし、3.7 - 5V程度に電圧を落として供給される。 端末のデジタル化により、通信処理を司るベースバンドLSIを利用してコンピュータ化が進み、電話帳機能や発着信履歴の保存のためにフラッシュメモリによる不揮発記憶装置による補助記憶領域も備えるようになった。このことで着信音にバリエーションを持たせることが可能となった。 さらに携帯電話でモバイルブラウザを動かしたり、画像や音楽といったマルチメディアデータを扱うようになると、ベースバンドLSIとは独立したCPUが搭載されるようになった。補助記憶装置の必要性はさらに増し、内蔵の補助記憶装置のみでは容量不足となった。そのため2000年代に入ると外部にメモリーカードのスロットを設け、外部メモリへの記録も可能とした。初期ではSDカードやメモリースティックが用いられていたが、端末に占める容積が大きかったため、miniSDカードやmicroSDカード、メモリースティックDuoなどの携帯電話に特化したメモリーカードが開発された。 技術の進化で大容量通信が可能となると、クラウドストレージへの保管という手段も登場した。 通常の通話機能とSMS程度の単機能のみの古典的な機種から、パソコンに匹敵する高性能スマートフォンまで、さまざまな製品が存在する。回線契約と端末の分離により端末の価格が機能に比例することや、コンテンツサービスが必要でなければ高機能な端末が必要とされないことなどから、安価で基本的な機能の端末にも根強い人気がある。 日本では、高機能(高価)な機種でもインセンティブ(販売報奨金)により安価に流通させるビジネスモデルがとられたため、高機能ガラケー機種が広く普及した。また韓国の携帯電話も高機能機種が多いことで知られる。 カメラ付き携帯電話が登場し、カメラ機能を利用した画像解析機能によりQRコードやJANコードが読み取れるようになった。特にQRコードは大容量の文字データを格納することができるため普及した(参考:携帯機器)。 2000年代によく使われていたオペレーティングシステム(OS)としては、Symbian OS(シンビアン)、REX OS/BREW/Brew MP (クアルコム) 、ITRON/T-Kernel(TRONプロジェクト)がある。その他には、OS-9、Nucleus RTOS、China MobileSoft、MIZI、SavaJeがある。LinuxカーネルをベースとしたOS(MontaVista Linux、T-Linux)もある。 各メーカーがOS-9やNucleus RTOS、iTRONなどのRTOSから、Symbian OSやLinuxなど携帯電話向け汎用OSの採用に動いているのは、3Gの到来とともに、その開発コストが高騰しているからである。端末の高機能化が進み、ソフトウェア規模が巨大化してきているため、限られたハードウェアで動作させる組み込み用途を想定したRTOSでは、開発環境、ミドルウェア調達など、コスト面で不利な点が多くなってきている。「RTOSは通信制御を受け持ち、ユーザインターフェースやアプリケーションの動作は汎用OSが担当する」というハイブリッドOS実装もあるが、2つのOSを協調動作させることには難しい点も多く、リアルタイム性能を高めた汎用OSへ集約される傾向にある。 OSと、その上層のミドルウェアを端末メーカ各社で共通化したプラットフォームとして、NTTドコモは、MOAPやオペレータパックを開発した。OS部分にはSymbian OSかLinuxを用いる。それまで、端末メーカ各社が自社で携帯電話用のインターフェース、ミドルウェアなどを開発してきたが、共通プラットフォームによって開発コストの抑制、開発速度の向上が図れる。 同様にKDDIはクアルコムのREX OS、およびBREW、Brew MPをそれぞれ母体に、KCP(2005夏モデル - 2015年春モデルまで)、KCP+(2007年冬モデル - 2011年夏モデルまで)、KCP3.x(2010年夏モデル - 2014年冬モデルまで)という共通プラットフォームを開発した。 スマートフォン用OSとして、iOS、Android、BlackBerry、Windows Mobileなどがある。 特にGoogleのAndroidとAppleのiOSで市場シェアの98%が占められている(2019年現在、IDC調べ)。 携帯電話は限られたメモリ空間である一方で、多くの機能を搭載する高性能な電子デバイスであることから、専用のソフトウェアが搭載される。WindowsやmacOSのようなパソコン用OSのサブセットが搭載されている場合もあるが、パソコンのアプリケーションがそのまま動作することはなかったため、chromebookなどパソコンとの互換性を目指す動きもある。 2019年の世界スマートフォンおよび携帯電話の販売台数は16億8,721万5,000台であった。そのうち、スマートフォン販売台数は13億7,259万台となり、携帯電話販売台数の84%を占めた(米国調査会社ガートナー調べ)。 国際的に端末を供給しているのは以下の企業である。国名は本社所在地であり、2019年の端末販売台数順に並べてある(米国調査会社ガートナー調べ)。上位10社で約87%のシェアを持つ。 基地局の整備により、広いサービスエリアにおいて屋外で高速移動中でも安定した通話・通信が利用可能である。第三世代携帯電話は、高速パケット通信と高い周波数利用効率が特長である。なお、高速な無線アクセスとしても利用可能であるが、利用形態によっては高額な課金となり、この現象が俗にパケ死と呼ばれる。また、電話機端末単体による通話・通信の総トラフィック(データ量)に占める割合が高い傾向にある。また、デジタルツールとしての多機能化も関係している。 携帯電話での音声伝送方式は、当初はアナログ方式を採用しており途中からデジタル方式へと切り替えられた。当初サービスが開始された時点でのアナログ方式での通信は、暗号化されずにそのまま送信されていたため、ノイズが乗りやすいだけでなく、傍受が容易に行えるという欠点があった。そのため、強固な暗号化が可能なデジタル化が行われた。 国によってはそのころ、固定電話網もアナログ方式からデジタル方式(ISDN)への切り替えが進んでいたが、固定電話網のデジタル方式はパルス符号変調(PCM)であるのに対し、携帯電話網の方はより圧縮度の高い音声コーデック(おもにAMR形式)を使用している。両電話網の相互接続通話の際には、アナログ方式同士ならば単純だが、デジタル方式では(アナログ・デジタル併存の時期を含め)コーデック変換が、網関門交換機において必要である。 また、音声コーデックの方式は携帯電話事業者やサービス種別によって異なるため、事業者相互・方式相互の音声コーデック変換も必要となる。このため、コーデックの組み合わせによっては変換ロスにより、音声の品質が劣化してしまう。基本的には、同一事業者・同一方式の携帯電話同士の通話では変換によるロスは起こらないため、本来の通話品質を発揮できる。 当初の携帯電話には通話機能しかなかったが、音声通話のデジタル化により端末全体がデジタル化し、これによりパケット通信によるデジタルネットワークへの接続が可能となった。デジタルネットワークの中でも、世界的に普及しているインターネットへの接続が早くから行われ、携帯電話でインターネット網にアクセスできるようになった。クライアント化である。 これにより携帯電話を対象にしたウェブページ(モバイルサイト)が携帯電話会社から公式サイトとして設立されたり、また個人でインターネット上に携帯電話を対象にした勝手サイトと呼ばれるサイトが開設されるようになる。さらに携帯電話の高速通信化により、通信機能を利用して携帯電話で金銭の管理を行うモバイルバンキングやオンライントレードも行えるようになっただけでなく、動画コンテンツの閲覧も可能となった。 従来、携帯電話ではそれのみを対象にして作られた簡素なHTMLによるウェブページしか表示できなかったが、2000年代半ばからパソコン互換ブラウザを搭載した端末も実現し、パソコン向けに作成されたコンテンツの閲覧が可能となった。 各地域での携帯電話の通信規格(方式)はおおむね以下のようになっている。 第一世代携帯電話(1G)はアナログ方式。モトローラのTACSやNTTのHiCAPなどがある。 第二世代携帯電話(以下2G)はGSM方式が世界的に主流となっている。日本と韓国および北朝鮮では、GSMは採用されていない。日本では PDC(Personal Digital Cellular)という独自の方式が主流だったため、独自の端末やサービスが普及する一方、海外端末メーカーの参入や国際ローミングサービスが進まず鎖国的状態にあった。韓国では、アメリカのクアルコム(Qualcomm)社のcdmaOne(IS-95)という方式を全面的に採用し、サムスン電子やLG電子などが国際的に飛躍する基となった。北米はEUとは異なり、政府は携帯電話事業者に技術の選択について強制せず、各社の選択に委ねた。結果として、GSMとcdmaOneがほぼ拮抗しているのが現状である。 第三世代携帯電話(以下3G)は、2Gが各国・各地域で独自の方式、異なる周波数を採用し、全世界での同一方式の利用ができなかった反省を踏まえ、第三世代携帯電話の規格、IMT-2000の決定においては、携帯電話を全世界で利用できるようにするための指標が立てられた。しかし、規格策定の過程で、W-CDMAとCDMA2000が並行採用という形となり、GSM陣営はW-CDMAへ、cdmaOne陣営はCDMA2000へ移行することとなった(南北アメリカ・アジア地域の一部)。中国政府は、自己技術育成の観点から独自のTD-SCDMAを導入しようとしている。また3G技術の特許代に関し、「クアルコム」のライセンス価格が高すぎるとして、Qualcommと電話機ベンダー(販売会社)、チップセットベンダー数社の間で、現在係争中である。 日本ではNTTドコモ、ソフトバンクモバイルがW-CDMAを採用し、国際ローミングや海外メーカー参入が促進されている。KDDI(au)は2GはcdmaOne方式のためCDMA2000方式を採用している。ただし、日本のcdmaOneおよびCDMA2000は、UHFテレビ放送波との干渉回避のため、上りと下りの周波数が他国と逆転している。このためグローバルパスポートCDMA端末以外では国際ローミングができない。 先進国やcdmaOne陣営のほとんどは3Gの導入が済んでいるが、GSM陣営では、ユーザーがより安価なGSM端末を好む傾向もあるため、コストがかかるW-CDMAへの移行は進んでいない。安価なGSM端末は、高価なW-CDMA端末より人気がある。スマートフォンなどの高価なGSM端末でも、電池の軽量化を図って消費電力の多いW-CDMAやCDMA2000などの3Gには対応しない端末もある。またGSMでもEDGEやEDGE Evolutionを用いて3G並みの高速なデータ通信ができる。 このため、GSMのサービスの停止時期を打ち出しているGSM事業者は2008年現在、存在しない。 発展途上国では、固定電話網の未整備を補完し、低価格でデータ通信網込みで広域エリア化するために、最初からCDMA2000技術を400MHz帯に使ったCDMA450による3Gネットワークの導入なども行われている。 2006年の世界携帯電話販売台数における比率は、GSMがおおよそ7割弱、CDMA(cdmaOne + CDMA2000)がおおよそ2割強、W-CDMAは1割弱である。 第3.9世代移動通信システムでは、日本は4社ともLTE方式を採用する。 料金は音声通話の場合は通話時間、データ通信の場合は通信時間またはデータ量で算出されるのは国際的に共通である。プリペイド(前払い)、ネットワークを自前で持たない仮想移動体通信事業者(MVNO)によるサービスもある。 プリペイドの場合、基本料金はないが、最後に入金してからの経過日数によって有効期限が定められているため、使用頻度が低くても定期的に入金する必要はある。EUは、全般にプリペイド比率が高い。 アメリカなどでは、音声通話は一定時間まで定額であるのが一般的である。また、夜9時以降および週末の通話は無料になる契約が多い。その反面、一般的に、電話をかけた側だけでなく、受けた側も通話料が発生する。 技術的には、SIMカードを交換することにより、通信事業者を変えることが可能である。このため、端末メーカーは最初に世界共通モデルを開発して、必要な場合にだけ、小規模の特定事業者向けのカスタマイズをするのが主流である。 海外ではひとつの機種でもメーカーの出す業界標準の機能のみを搭載している「スタンダードバージョン」とキャリア独自のサービスを付加したものの2種類販売されている。前者はSIMロックがかかっていないため通信方式が同じなら世界中どこでも利用できる。後者はインセンティブ制度のもと、SIMロックがついて販売されている。この辺の事情は日本と同じであるが、インセンティブの額は、日本は突出して大きい。 マーケット規模の巨大な携帯電話は、世界規模での大量販売による価格競争が行われ、膨大な出荷台数を獲得している。 携帯電話の多機能性を活用して通信以外の用途へ使用する研究が進みつつある。満足な医療が受けられない地域では可搬式の診断装置としての応用が進められる。
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Engelへと電話をかけた。この電話はコードレスで、重さ1.1キロ、大きさ23×13×4.5センチであり、一度の充電で30分間会話ができたが、再充電には10時間が必要であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1979年には、日本において第1世代移動通信システム(1G)を採用したサービスが世界で初めて実用化された。これは上述の0Gよりも、速度やカバレッジが改良された新しい技術であった。ただし、これは0Gと同じく車載電話機を使った自動車電話サービスで、人が携帯するための携帯電話はまだ実現されていなかった。1981年にはバーレーンとスカンディナヴィア地域でもサービスを開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、アメリカ合衆国では1978年にAT&Tとモトローラに対して1G実用化実験の許可が出ていたが、すぐには実現に至らなかった。遅れをとった同国はモトローラによる当時のロナルド・レーガン大統領への直訴も功を奏し、1981年に実用化がなされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1980年前後から事業として成立するようになり、一部の先進国で車載電話機(自動車電話)として携帯電話機の販売やサービスが開始された。当時は固定電話機と比較すると導入価格や通信費用はともに数十倍であるうえ、通信エリアも都市部に限定されていたため、ごく一部の限られたユーザーが導入するのみであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "車載型ではないポータブルタイプとして、1983年にモトローラより発売されたMotorola DynaTACが世界初の市販の手持ちできる携帯電話である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本では、1985年にNTTが「ショルダーホン」を発売している。肩にかけて持ち運ぶもので、重量は3キロだった。携帯電話と称したものは1987年にNTTから発売されており、体積は500cc、重量は900グラムだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1990年代になると端末の普及が進み、本体に液晶ディスプレイが搭載され始めた。また、1991年にフィンランドを皮切りに、日本でも1990年代半ばより第2世代移動通信システム(2G)サービスが始まり、通信方式がアナログからデジタルへと移行した。通信規格として、ヨーロッパのGSMとアメリカのCDMAがあった。これによって、着信音に好みの音楽が設定できる着信メロディや、ポケットベルと連帯したメッセージサービスを利用できるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1999年にはiモードが日本でスタートし、インターネット網への接続が可能となり、通信速度が向上し、画像やJavaを使用したゲームなどの利用が可能となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると第3世代携帯電話(3G)が登場する。2001年に世界に先駆け日本で3G(W-CDMA)の商用サービスが始まった。テレビ電話が可能となったほか、パソコンと接続して高速なデータ通信が行えるようになった。また、ラストワンマイルの問題が解決しやすいことから発展途上国でも爆発的に普及し始め、英調査会社 “Informa Telecoms & Media” の2007年11月29日(英国時間)の発表によれば、世界全体での普及率が5割に達した。ことアフリカにおいては、固定インフラの整備が停滞している一方で携帯電話の普及率や潜在市場は膨大なものが予測されており、市場の急成長が注目を集めているが、その一方で電力インフラの整備が追いついていない地域では、携帯電話の利用に必須な電源として自動車のバッテリーからや人力発電による「充電屋」のような商売も勃興している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "携帯電話は、その発展の歴史において、初期には小型化・軽量化に主眼が置かれていた。しかし、この頃にはある程度手軽な形状が実現したため、東アジアなどの地域では多機能化が進められた。こうした地域では、カメラやインターネット閲覧、モバイル決済、防水、太陽充電、ラジオ・テレビチューナーといった付加機能が製品差別化の要素となった(詳細については日本における携帯電話#端末も参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "携帯電話業界の競争激化とともに、ユーザーへの大きな吸引力となる端末のデザイン・機能開発について各メーカーがしのぎを削った。しかし、手に持つ・テンキーで電話をかけるといった機能を維持する共通条件のもとで、その差別化は容易ではなく、タッチパネルやジャイロセンサーの採用など現代最先端の技術を用いていった。こうした多機能化の動きは、後にスマートフォンに継承され世界的に一般化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "フィーチャーフォンはおおむね「ストレート式」「折りたたみ式」「スライド式」の3種の形状に大別できる。主流ではないが、「フリップ式」「2軸ヒンジ式」「回転式」なども存在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2007年からは携帯情報端末(PDA)がさらに進化し、パソコンとの差異が処理能力などの差だけとなった、スマートフォンが普及している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1999年の頃から、一定の処理機能を備えたPDAに移動体端末の機能を複合させた延長的な製品は散発的に発売されいくつか存在していた。そして2007年に発売されたiPhoneをきっかけに、スマートフォンに注目が集まった(日本では2008年発売のiPhone 3Gが初)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その後、IPhone・iOSのApple、GoogleおよびOpen Handset Allianceが開発したAndroid系スマホメーカー各社、マイクロソフトが開発するWindows Mobile・Windows Phoneスマホメーカー各社、独自OSを採用するNokia等の勢力が一時入り乱れる。当初のスマートフォンは、通信費用がより多くかかり、バッテリーの持ちが悪い傾向にあったが、改良が進み、2010年代初頭からAndroidが世界的シェアを一気に広げ、スマホが世界中で急速に普及した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2010年代には、3Gの発展形でさらに高速となった第4世代携帯電話(4G)サービスが始まった。WiMAX方式はアメリカで、LTE方式はスカンジナビアで最初に利用可能となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2018年から2019年には、第5世代携帯電話(5G)サービスの運用が局所的に始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "端末本体は、一般社会や日常生活では単に「携帯(けいたい)」と呼ばれることが多く、「携帯」の語は携帯電話の端末を総称するような言葉のように使われており、完全に定着している。一方で同様に携帯端末であるポケベルやPHS、PDAは「ケータイ」と区別されがちであった。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また通称として「ケータイ」「ケイタイ」と表記されることも多い。NTTドコモや「電電ファミリー」の制作した技術文書では移動機(いどうき)と書かれることもしばしばある。スマートフォン時代になるとスマホと呼ばれる機会も増えた。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "初期からスマホまで共通する部品としては、アンテナ、スピーカー、マイクと、これらを制御する電子回路と、電源などがある。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2000年代以降の端末の多くではディスプレイを搭載しており、液晶や無機EL、有機EL、発光ダイオードなどさまざまな素材が利用されている。初期型の製品にはアンテナがほとんど露出していたが、2000年代中ごろに内蔵の機種が増え、現在のアンテナはほとんどが内蔵型である(ワンセグ対応機種はテレビアンテナがついているが、このアンテナのみ本体から出して使用する機種が多かった)。ガラケー時代は各社オリジナルの工夫をしたデザインが特徴で、独自機能の増加が相次いでパーツは増える傾向にあった。スマホ時代初期はiPhoneの影響を強く受けたものが多かったが、技術革新とともに再び様々なスタイルが登場している。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "電源は初期には一次電池が使われていたが、二次電池の発達により1990年代にはニカド電池およびニッケル・水素蓄電池が、2000年代からはリチウムイオン電池が主流である。携帯電話端末本体が充電器の役割も兼ねており、二次電池の充電回路を搭載している。一般に携帯電話の「充電器」と呼ばれる機器は、正確には携帯電話に内蔵された充電器に電源を供給する外部電源としてのACアダプタである。そのため外部電源を接続することで本体から電池を取り出さなくとも充電が可能である。機種によっては専用の充電用簡易スタンドが付属する。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "外部電源としてはACアダプタによる直流電源、USB給電、Qiなどが用いられる。直接電源では家庭用電源を電源とし、3.7 - 5V程度に電圧を落として供給される。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "端末のデジタル化により、通信処理を司るベースバンドLSIを利用してコンピュータ化が進み、電話帳機能や発着信履歴の保存のためにフラッシュメモリによる不揮発記憶装置による補助記憶領域も備えるようになった。このことで着信音にバリエーションを持たせることが可能となった。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "さらに携帯電話でモバイルブラウザを動かしたり、画像や音楽といったマルチメディアデータを扱うようになると、ベースバンドLSIとは独立したCPUが搭載されるようになった。補助記憶装置の必要性はさらに増し、内蔵の補助記憶装置のみでは容量不足となった。そのため2000年代に入ると外部にメモリーカードのスロットを設け、外部メモリへの記録も可能とした。初期ではSDカードやメモリースティックが用いられていたが、端末に占める容積が大きかったため、miniSDカードやmicroSDカード、メモリースティックDuoなどの携帯電話に特化したメモリーカードが開発された。 技術の進化で大容量通信が可能となると、クラウドストレージへの保管という手段も登場した。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "通常の通話機能とSMS程度の単機能のみの古典的な機種から、パソコンに匹敵する高性能スマートフォンまで、さまざまな製品が存在する。回線契約と端末の分離により端末の価格が機能に比例することや、コンテンツサービスが必要でなければ高機能な端末が必要とされないことなどから、安価で基本的な機能の端末にも根強い人気がある。 日本では、高機能(高価)な機種でもインセンティブ(販売報奨金)により安価に流通させるビジネスモデルがとられたため、高機能ガラケー機種が広く普及した。また韓国の携帯電話も高機能機種が多いことで知られる。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "カメラ付き携帯電話が登場し、カメラ機能を利用した画像解析機能によりQRコードやJANコードが読み取れるようになった。特にQRコードは大容量の文字データを格納することができるため普及した(参考:携帯機器)。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2000年代によく使われていたオペレーティングシステム(OS)としては、Symbian OS(シンビアン)、REX OS/BREW/Brew MP (クアルコム) 、ITRON/T-Kernel(TRONプロジェクト)がある。その他には、OS-9、Nucleus RTOS、China MobileSoft、MIZI、SavaJeがある。LinuxカーネルをベースとしたOS(MontaVista Linux、T-Linux)もある。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "各メーカーがOS-9やNucleus RTOS、iTRONなどのRTOSから、Symbian OSやLinuxなど携帯電話向け汎用OSの採用に動いているのは、3Gの到来とともに、その開発コストが高騰しているからである。端末の高機能化が進み、ソフトウェア規模が巨大化してきているため、限られたハードウェアで動作させる組み込み用途を想定したRTOSでは、開発環境、ミドルウェア調達など、コスト面で不利な点が多くなってきている。「RTOSは通信制御を受け持ち、ユーザインターフェースやアプリケーションの動作は汎用OSが担当する」というハイブリッドOS実装もあるが、2つのOSを協調動作させることには難しい点も多く、リアルタイム性能を高めた汎用OSへ集約される傾向にある。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "OSと、その上層のミドルウェアを端末メーカ各社で共通化したプラットフォームとして、NTTドコモは、MOAPやオペレータパックを開発した。OS部分にはSymbian OSかLinuxを用いる。それまで、端末メーカ各社が自社で携帯電話用のインターフェース、ミドルウェアなどを開発してきたが、共通プラットフォームによって開発コストの抑制、開発速度の向上が図れる。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "同様にKDDIはクアルコムのREX OS、およびBREW、Brew MPをそれぞれ母体に、KCP(2005夏モデル - 2015年春モデルまで)、KCP+(2007年冬モデル - 2011年夏モデルまで)、KCP3.x(2010年夏モデル - 2014年冬モデルまで)という共通プラットフォームを開発した。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "スマートフォン用OSとして、iOS、Android、BlackBerry、Windows Mobileなどがある。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "特にGoogleのAndroidとAppleのiOSで市場シェアの98%が占められている(2019年現在、IDC調べ)。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "携帯電話は限られたメモリ空間である一方で、多くの機能を搭載する高性能な電子デバイスであることから、専用のソフトウェアが搭載される。WindowsやmacOSのようなパソコン用OSのサブセットが搭載されている場合もあるが、パソコンのアプリケーションがそのまま動作することはなかったため、chromebookなどパソコンとの互換性を目指す動きもある。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2019年の世界スマートフォンおよび携帯電話の販売台数は16億8,721万5,000台であった。そのうち、スマートフォン販売台数は13億7,259万台となり、携帯電話販売台数の84%を占めた(米国調査会社ガートナー調べ)。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "国際的に端末を供給しているのは以下の企業である。国名は本社所在地であり、2019年の端末販売台数順に並べてある(米国調査会社ガートナー調べ)。上位10社で約87%のシェアを持つ。", "title": "携帯電話端末" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "基地局の整備により、広いサービスエリアにおいて屋外で高速移動中でも安定した通話・通信が利用可能である。第三世代携帯電話は、高速パケット通信と高い周波数利用効率が特長である。なお、高速な無線アクセスとしても利用可能であるが、利用形態によっては高額な課金となり、この現象が俗にパケ死と呼ばれる。また、電話機端末単体による通話・通信の総トラフィック(データ量)に占める割合が高い傾向にある。また、デジタルツールとしての多機能化も関係している。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "携帯電話での音声伝送方式は、当初はアナログ方式を採用しており途中からデジタル方式へと切り替えられた。当初サービスが開始された時点でのアナログ方式での通信は、暗号化されずにそのまま送信されていたため、ノイズが乗りやすいだけでなく、傍受が容易に行えるという欠点があった。そのため、強固な暗号化が可能なデジタル化が行われた。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "国によってはそのころ、固定電話網もアナログ方式からデジタル方式(ISDN)への切り替えが進んでいたが、固定電話網のデジタル方式はパルス符号変調(PCM)であるのに対し、携帯電話網の方はより圧縮度の高い音声コーデック(おもにAMR形式)を使用している。両電話網の相互接続通話の際には、アナログ方式同士ならば単純だが、デジタル方式では(アナログ・デジタル併存の時期を含め)コーデック変換が、網関門交換機において必要である。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、音声コーデックの方式は携帯電話事業者やサービス種別によって異なるため、事業者相互・方式相互の音声コーデック変換も必要となる。このため、コーデックの組み合わせによっては変換ロスにより、音声の品質が劣化してしまう。基本的には、同一事業者・同一方式の携帯電話同士の通話では変換によるロスは起こらないため、本来の通話品質を発揮できる。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "当初の携帯電話には通話機能しかなかったが、音声通話のデジタル化により端末全体がデジタル化し、これによりパケット通信によるデジタルネットワークへの接続が可能となった。デジタルネットワークの中でも、世界的に普及しているインターネットへの接続が早くから行われ、携帯電話でインターネット網にアクセスできるようになった。クライアント化である。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "これにより携帯電話を対象にしたウェブページ(モバイルサイト)が携帯電話会社から公式サイトとして設立されたり、また個人でインターネット上に携帯電話を対象にした勝手サイトと呼ばれるサイトが開設されるようになる。さらに携帯電話の高速通信化により、通信機能を利用して携帯電話で金銭の管理を行うモバイルバンキングやオンライントレードも行えるようになっただけでなく、動画コンテンツの閲覧も可能となった。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "従来、携帯電話ではそれのみを対象にして作られた簡素なHTMLによるウェブページしか表示できなかったが、2000年代半ばからパソコン互換ブラウザを搭載した端末も実現し、パソコン向けに作成されたコンテンツの閲覧が可能となった。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "各地域での携帯電話の通信規格(方式)はおおむね以下のようになっている。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "第一世代携帯電話(1G)はアナログ方式。モトローラのTACSやNTTのHiCAPなどがある。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "第二世代携帯電話(以下2G)はGSM方式が世界的に主流となっている。日本と韓国および北朝鮮では、GSMは採用されていない。日本では PDC(Personal Digital Cellular)という独自の方式が主流だったため、独自の端末やサービスが普及する一方、海外端末メーカーの参入や国際ローミングサービスが進まず鎖国的状態にあった。韓国では、アメリカのクアルコム(Qualcomm)社のcdmaOne(IS-95)という方式を全面的に採用し、サムスン電子やLG電子などが国際的に飛躍する基となった。北米はEUとは異なり、政府は携帯電話事業者に技術の選択について強制せず、各社の選択に委ねた。結果として、GSMとcdmaOneがほぼ拮抗しているのが現状である。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "第三世代携帯電話(以下3G)は、2Gが各国・各地域で独自の方式、異なる周波数を採用し、全世界での同一方式の利用ができなかった反省を踏まえ、第三世代携帯電話の規格、IMT-2000の決定においては、携帯電話を全世界で利用できるようにするための指標が立てられた。しかし、規格策定の過程で、W-CDMAとCDMA2000が並行採用という形となり、GSM陣営はW-CDMAへ、cdmaOne陣営はCDMA2000へ移行することとなった(南北アメリカ・アジア地域の一部)。中国政府は、自己技術育成の観点から独自のTD-SCDMAを導入しようとしている。また3G技術の特許代に関し、「クアルコム」のライセンス価格が高すぎるとして、Qualcommと電話機ベンダー(販売会社)、チップセットベンダー数社の間で、現在係争中である。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本ではNTTドコモ、ソフトバンクモバイルがW-CDMAを採用し、国際ローミングや海外メーカー参入が促進されている。KDDI(au)は2GはcdmaOne方式のためCDMA2000方式を採用している。ただし、日本のcdmaOneおよびCDMA2000は、UHFテレビ放送波との干渉回避のため、上りと下りの周波数が他国と逆転している。このためグローバルパスポートCDMA端末以外では国際ローミングができない。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "先進国やcdmaOne陣営のほとんどは3Gの導入が済んでいるが、GSM陣営では、ユーザーがより安価なGSM端末を好む傾向もあるため、コストがかかるW-CDMAへの移行は進んでいない。安価なGSM端末は、高価なW-CDMA端末より人気がある。スマートフォンなどの高価なGSM端末でも、電池の軽量化を図って消費電力の多いW-CDMAやCDMA2000などの3Gには対応しない端末もある。またGSMでもEDGEやEDGE Evolutionを用いて3G並みの高速なデータ通信ができる。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "このため、GSMのサービスの停止時期を打ち出しているGSM事業者は2008年現在、存在しない。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "発展途上国では、固定電話網の未整備を補完し、低価格でデータ通信網込みで広域エリア化するために、最初からCDMA2000技術を400MHz帯に使ったCDMA450による3Gネットワークの導入なども行われている。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2006年の世界携帯電話販売台数における比率は、GSMがおおよそ7割弱、CDMA(cdmaOne + CDMA2000)がおおよそ2割強、W-CDMAは1割弱である。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "第3.9世代移動通信システムでは、日本は4社ともLTE方式を採用する。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "料金は音声通話の場合は通話時間、データ通信の場合は通信時間またはデータ量で算出されるのは国際的に共通である。プリペイド(前払い)、ネットワークを自前で持たない仮想移動体通信事業者(MVNO)によるサービスもある。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "プリペイドの場合、基本料金はないが、最後に入金してからの経過日数によって有効期限が定められているため、使用頻度が低くても定期的に入金する必要はある。EUは、全般にプリペイド比率が高い。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "アメリカなどでは、音声通話は一定時間まで定額であるのが一般的である。また、夜9時以降および週末の通話は無料になる契約が多い。その反面、一般的に、電話をかけた側だけでなく、受けた側も通話料が発生する。", "title": "サービス" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "技術的には、SIMカードを交換することにより、通信事業者を変えることが可能である。このため、端末メーカーは最初に世界共通モデルを開発して、必要な場合にだけ、小規模の特定事業者向けのカスタマイズをするのが主流である。", "title": "ビジネスモデル" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "海外ではひとつの機種でもメーカーの出す業界標準の機能のみを搭載している「スタンダードバージョン」とキャリア独自のサービスを付加したものの2種類販売されている。前者はSIMロックがかかっていないため通信方式が同じなら世界中どこでも利用できる。後者はインセンティブ制度のもと、SIMロックがついて販売されている。この辺の事情は日本と同じであるが、インセンティブの額は、日本は突出して大きい。", "title": "ビジネスモデル" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "マーケット規模の巨大な携帯電話は、世界規模での大量販売による価格競争が行われ、膨大な出荷台数を獲得している。", "title": "ビジネスモデル" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "携帯電話の多機能性を活用して通信以外の用途へ使用する研究が進みつつある。満足な医療が受けられない地域では可搬式の診断装置としての応用が進められる。", "title": "その他の用途" } ]
携帯電話とは、無線通信により、携帯することが可能となった電話機である。また、電話機を携帯する形の移動体通信システム、電気通信役務。端末を「携帯」(けいたい)あるいは「ケータイ」(この場合は、スマートフォンではなくフィーチャーフォンを指すことが多い)と略称することがある。 携帯電話は無線機の一種であるため、その設計は各国の電波法により規制されている。日本国内で一般に流通している携帯電話は、電波法令により規定されている技術基準に適合していることを示すマーク(技適マーク)が刻印されている。 本稿では説明しないが、鉄道設備や構内で使う(鉄道電話)携帯可能な端末を「携帯電話」と呼ぶ。技術的には固定電話と全く同じ構造であり、設備内のモジュラージャックやロゼットに接続して通話をする。
{{出典の明記|date=2021年5月}} {{Otheruses||RADWIMPSの曲|携帯電話 (曲)}} <!--(画像)キャリア・メーカーを3枚重ならない様にしています--> [[ファイル:NTT DoCoMo FOMA P706imu open.jpg|thumb|200px|折りたたみ式の携帯電話]]<!--ドコモ・パナソニック--> [[File:Au W55SA INFOBAR2 20101109.jpg|thumb|200px|ストレート式の携帯電話]]<!--au・三洋--> [[ファイル:SoftBank 911T handset by Toshiba.jpg|thumb|200px|スライド式の携帯電話]]<!--ソフトバンク・東芝--> '''携帯電話'''(けいたいでんわ、{{lang-en-short|mobile phone}}、{{lang-en-short|cell phone}})とは、[[無線通信]]により、携帯することが可能となった[[電話機]]である<ref>{{Cite web|和書|title=携帯電話とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%90%BA%E5%B8%AF%E9%9B%BB%E8%A9%B1-3116|website=コトバンク|accessdate=2020-10-06|language=ja|first=[[ASCII.jp]]デジタル用語辞典,[[デジタル大辞泉]],百科事典[[マイペディア]],IT用語がわかる辞典,[[世界大百科事典]] 第2版,[[大辞林]] 第三版,[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典,[[日本大百科全書]](ニッポニカ),精選版|last=[[日本国語大辞典]],[[世界大百科事典]]内言及}}</ref>。また、[[電話機]]を携帯する形の[[移動体通信]]システム、[[電気通信役務]]。[[端末]]を「'''携帯'''」(けいたい)あるいは「'''ケータイ'''」(この場合は、[[スマートフォン]]ではなく[[フィーチャーフォン]]を指すことが多い)と略称することがある。 携帯電話は[[無線機]]の一種であるため、その設計は各国の[[電波法]]により規制されている。[[日本]]国内で一般に流通している携帯電話は、電波法令により規定されている技術基準に適合していることを示すマーク([[技適マーク]])が刻印されている。 本稿では説明しないが、[[鉄道]]設備や構内で使う([[鉄道電話]])携帯可能な端末を「携帯電話」と呼ぶ。技術的には固定電話と全く同じ構造であり、設備内の[[モジュラージャック]]やロゼットに接続して通話をする。 == 定義 == {{独自研究|date=2020年10月6日 (火) 13:48 (UTC)|section=1}} 世界的に狭義の「携帯電話」の範疇に入るものとしては、[[:en:Integrated Digital Enhanced Network|iDEN]]などの[[第二世代携帯電話]]以降の規格を使っている[[第三者無線#デジタル方式|デジタルMCA無線]]などの[[移動体通信]]携帯端末や、[[無線局免許状|無線免許]]を要しないUnlicensed Personal Communications Services(U[[Personal Communications Service|PCS]])や[[PHS]]、[[DECT]]などのいわゆる[[小電力無線局]]の携帯端末などがある。 == 歴史 == [[ファイル:Mobile phone evolution.jpg|thumb|200px|左上[[モトローラ]]携帯電話端末1機種、他は[[ノキア]]の歴代携帯電話端末]] === 構想時代 === 携帯電話の構想は、電話機が考案されてまもないころからあった。電波を使用して無線で通信でき、かつ人間同士が音声にて会話することが夢として描かれていた。[[モールス符号]]を用いる無線電信機は携帯電話の元になる技術だが、実用化されても爆発的に普及するようになるものだとはこの時点では考えられていなかった。 また、携帯できる電話を開発する具体的な研究は古くから行われてきたが、電波の[[ノイズ]]の問題や[[二次電池|バッテリー]]の問題、また通信速度などの多くの問題により電話機が非常に大型になってしまうため、実現は難しかった。 === トランシーバーから車載電話機 === 携帯電話の前身は、[[第二次世界大戦]]中に[[アメリカ軍]]が使用した、[[モトローラ]]製の[[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]「[[Walkie Talkie]]」([[SCR-536]])である。 戦後1946年には、アメリカの[[ベル・システム]]([[AT&T]]の子会社)は無線の電話回線サービスである{{仮リンク|移動電話サービス|en|Mobile Telephone Service}}を開始した。これは、トランシーバーなどの[[無線電話]]が専用の無線回線を用いるのに対し、公衆の電話回線を用いることで、無線通信を一般向けのサービスにまで広げた。こうして、民間でも固定通信に加えて移動体通信サービスが利用可能となった。ただし、当時は人が日常的に携帯できるサイズの電話は技術的に実用化されておらず、車載電話機として設置できるものが小型化の限界であった。アメリカに続いて、ヨーロッパ各国でも同様のサービスが次々と始まった。この無線電話回線サービスは後に、より新しい携帯電話回線サービス(1G - 5G)と対比して、[[:en:Mobile radio telephone|0G]]と呼ばれるようになった([[レトロニム]])。 接続が完全自動化された無線電話回線サービスは、スウェーデンの{{仮リンク|モバイルテレフォニーシステムD|en|MTD (mobile network)}}と呼ばれるもので、1956年にサービスが開始された。これらのサービスは実用性の面で一般に広く普及することは難しかったが、1971年にフィンランドで開始された{{仮リンク|オートラジオテレフォン|en|Autoradiopuhelin}}という0Gサービスは、[[移動体通信ネットワーク]]をはりめぐらせ、電波のカバレッジに途切れなく国中で使用でき、ユーザーに広く利用された最初の成功例となった。 === 1960年 - 1970年代:端末小型化への努力 === それ以前は車やバイク、その他の乗り物へ設置できるが、人が持ち運ぶには非実用的なサイズであった。[[1960年代]]になると、両手で持ちながら会話できる程度まで小さくすることが可能となったが、短時間の通話でも疲れてしまうほどに重かった。[[1970年代]]になると頑張れば片手で持てる程度の大きさまで小型化した。 [[1970年]]に[[大阪府]]で開催された[[日本万国博覧会]]では、'''ワイヤレスホン'''として後年で言うところのコードレスフォンが出展された<ref>[http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/digitalarchives/03.html NTT技術史料館 ワイヤレスフォン]</ref>。これは数メートル程度しか電波が飛ばず、会場内で端末同士が通話できる機器であり、厳密には公衆の電話回線を利用する電話とは異なるものであった<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20101021/353297/ カケホーダイだった、40年前の携帯電話機]</ref>。 [[1973年]]4月3日、モトローラのエンジニアである[[:en:Martin Cooper (inventor)|Martin Cooper]]は実際の無線電話回線につなげて電話をかけることのできる世界で初めての手持ち可能な携帯電話を試作し、デモンストレーションを行った。このとき、彼は携帯電話開発のライバルであったベル・システム社の[[:en:Joel S. Engel]]へと電話をかけた<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/2963619.stm A chat with the man behind mobiles]</ref>。この電話はコードレスで、重さ1.1キロ、大きさ23×13×4.5センチであり、一度の充電で30分間会話ができたが、再充電には10時間が必要であった<ref name="recharge">{{cite web|title=Martin Cooper-The Inventor of the Cell Phone|url=http://www.cellular.co.za/cellphone_inventor.htm|accessdate=23 March 2012}}</ref>。 === 1970年代後半 - 1980年代前半:実用化時代(車載電話) === [[1979年]]には、[[日本]]において[[第1世代移動通信システム]](1G)を採用したサービスが世界で初めて実用化された。これは上述の0Gよりも、速度やカバレッジが改良された新しい技術であった。ただし、これは0Gと同じく車載電話機を使った[[自動車電話]]サービスで、人が携帯するための携帯電話はまだ実現されていなかった。[[1981年]]には[[バーレーン]]と[[スカンディナヴィア]]地域でもサービスを開始した。 なお、[[アメリカ合衆国]]では[[1978年]]に[[AT&T]]と[[モトローラ]]に対して1G実用化実験の許可が出ていたが、すぐには実現に至らなかった。遅れをとった同国はモトローラによる当時の[[ロナルド・レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]への直訴も功を奏し、1981年に実用化がなされた。 1980年前後から事業として成立するようになり、一部の[[先進国]]で車載電話機(自動車電話)として携帯電話機の販売やサービスが開始された。当時は[[固定電話]]機と比較すると導入価格や通信費用はともに数十倍であるうえ、通信エリアも都市部に限定されていたため、ごく一部の限られたユーザーが導入するのみであった。 === 1980年代半ばごろ:実用化時代(ポータブルタイプ) === 車載型ではない[[ポータブル]]タイプとして、1983年にモトローラより発売された[[Motorola DynaTAC]]が世界初の市販の手持ちできる携帯電話である。 日本では、[[1985年]]にNTTが「[[ショルダーホン]]」を発売している。肩にかけて持ち運ぶもので、重量は3キロ<ref>http://history-s.nttdocomo.co.jp/list_shoulder.html</ref>だった。携帯電話と称したものは1987年にNTTから発売されており、体積は500cc、重量は900グラム<ref>http://history-s.nttdocomo.co.jp/list_mobile.html</ref><ref>『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p108</ref>だった。 === 1990年代:デジタル化・多機能化 === [[1990年代]]になると端末の普及が進み、本体に[[液晶ディスプレイ]]が搭載され始めた。また、1991年にフィンランドを皮切りに、日本でも1990年代半ばより[[第2世代移動通信システム]](2G)サービスが始まり、通信方式が[[アナログ]]から[[デジタル]]へと移行した。通信規格として、ヨーロッパの[[GSM]]とアメリカの[[CDMA]]があった。これによって、[[着信音]]に好みの音楽が設定できる[[着信メロディ]]や、[[無線呼び出し|ポケットベル]]と連帯した[[メッセージサービス]]を利用できるようになった。 1999年には[[iモード]]が日本でスタートし、[[インターネット]]網への接続が可能となり、通信速度が向上し、画像や[[Java言語|Java]]を使用した[[携帯電話ゲーム|ゲーム]]などの利用が可能となった。 === 2001年以降:3G時代(インターネットとの融合) === [[ファイル:SPRAZR open.jpg|thumb|150px|世界的に大ヒットした[[Motorola RAZR V3|Motorola RAZR]]]] [[2000年代]]に入ると[[第3世代移動通信システム|第3世代携帯電話]](3G)が登場する。[[2001年]]に世界に先駆け日本で3G(W-CDMA)の商用サービスが始まった。[[テレビ電話]]が可能となったほか、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]と接続して高速なデータ通信が行えるようになった。また、[[ラストワンマイル]]の問題が解決しやすいことから[[開発途上国|発展途上国]]でも爆発的に普及し始め、英調査会社 “Informa Telecoms & Media” の2007年11月29日(英国時間)の発表によれば、世界全体での普及率が5割に達した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/22/news006.html アジア太平洋地域の携帯電話市場、2008年には4億台超えへ――IDC調べ](「[[日経BP社]]」[http://itpro.nikkeibp.co.jp/index.html ITpro] 2007年11月29日閲覧)</ref>。こと[[アフリカ]]においては、固定インフラの整備が停滞している一方で携帯電話の普及率や[[潜在市場]]は膨大なものが予測されており、市場の急成長が注目を集めている<ref>[https://wirelesswire.jp/2011/01/34342/ アフリカ編(1)急成長するアフリカ携帯電話市場]([http://wirelesswire.jp WirelessWire News] 2017年10月7日閲覧)</ref>が、その一方で[[電力]]インフラの整備が追いついていない地域では、携帯電話の利用に必須な[[電源]]として[[自動車]]の[[鉛蓄電池|バッテリー]]からや[[人力発電]]による「充電屋」のような商売も勃興している。 携帯電話は、その発展の歴史において、初期には小型化・軽量化に主眼が置かれていた。しかし、この頃にはある程度手軽な形状が実現したため、東アジアなどの地域では多機能化が進められた。こうした地域では、[[カメラ]]やインターネット閲覧、[[モバイル決済]]、防水、太陽充電、ラジオ・テレビチューナーといった付加機能が製品差別化の要素となった(詳細については[[日本における携帯電話#端末]]も参照)。 携帯電話業界の競争激化とともに、ユーザーへの大きな吸引力となる端末のデザイン・機能開発について各メーカーがしのぎを削った。しかし、手に持つ・[[テンキー]]で電話をかけるといった機能を維持する共通条件のもとで、その差別化は容易ではなく、[[タッチパネル]]や[[ジャイロセンサー]]の採用など現代最先端の技術を用いていった。こうした多機能化の動きは、後にスマートフォンに継承され世界的に一般化した。 {{anchors|形状}}[[フィーチャーフォン]]はおおむね「ストレート式」「折りたたみ式」「スライド式」の3種の形状に大別できる。主流ではないが、「フリップ式」「2軸ヒンジ式」「回転式」なども存在した。 ; ストレート式 : 携帯電話の基本形。操作部と表示画面がひとかたまりの延べ棒状になっている。表示画面がそのまま外に露出しているため傷つきやすい。また、表示画面の大型化に伴って肥大化しつつあり、コンパクト化が難しい。 ; 折り畳み式 : 携帯電話が多機能化するに従い表示画面が大型化し、ストレート式では平面形も大きくなりがちであること、また、操作部と表示画面を未使用時に保護する観点から、本体中ほどにヒンジを設け二つ折りにできるようにしたものである。ストレート式より厚くなる傾向だったが、のちの技術革新により、二つ折りでも非常に薄い製品が登場した。 : 折り畳み式は画面や操作部を保護できる反面、ヒンジや折り畳みの支点で双方の情報をやり取りするケーブルがストレスを受けるため断線しやすく、折り畳みの可動範囲を超えて強く曲げると折れる可能性がある。また、閉じた状態だと電話やメールの着信時に発信者をひと目で確認できないことや、開閉動作が必要なため操作を素早く開始できない、短時間で頻繁に使用していると開閉が煩わしいなどの欠点がある。 : これらの欠点を改良するため、背面にサブディスプレイを備えた機種や、両手を使って液晶を開かなくても側面のボタンを押すとばねの力で液晶が開く機構を搭載した機種などが登場した。 ; スライド式 : レールによって直線状に水平スライドする開閉方式。本体が上層の液晶部と下層の操作部の二層に分かれており、液晶部をスライドさせることで操作部内側にある操作キーを露出させる。折り畳み式と違い表示部が表面に露出しており、スライドしなくても基本機能が使えるものが多い。 : ストレート式や折り畳み式よりも表示部が大きく設計できる、しかもコンパクトにできる、折り畳み式と異なり片手で容易に開閉できるなどの利点がある。反面、ストレート式と同様表示部が傷つきやすく、スライド機構のスペース分下層部のボタンが小さくなることが多い。また、スライドさせるときにボタンを押してしまい、意図しない動作をさせてしまうこともある。 : 十字キー/メニューキーなどが液晶部に、テンキーが操作部に別れて搭載されている機種と、下層の操作部にすべてのキーが搭載されている機種がある。 : 前者は、閉じていても基本操作ができる、折り畳み式と同じ大きさのキーにできる利点がある。反面、スライド時に意図しない動作を招きやすい。後者は、より薄型にできる、十字キー/メニューキーとテンキーが同一面に並んでいるため、十字キーとテンキーの間で指の行き来がしやすい利点がある。反面、スライド機構の分だけ操作部の面積が狭いためキーが小さく、正確なキー操作が必要になる欠点がある。 : きわめて少数ではあるが、横長で短辺が上下にスライドし、テンキーより文字入力に適している[[QWERTY配列]]のボタンを搭載した機種もあり、インターネット閲覧やメールなどのヘビーユーザをターゲットにしている。 ; フリップ式 : ストレート式の派生型として、操作キー部分だけが折りたたみ式カバーで覆われ、使用時にはカバーを開ける「フリップ式」と呼ばれるタイプもあるが、折り畳み式の普及以降、そうした製品は少ない。第2世代までの[[三菱電機]]製の端末に多く見られた。 ; 2軸ヒンジ式 : 折り畳み式の派生型として、回転軸を2軸にして、縦方向に開くだけでなく横方向への回転も可能にしたのが「2軸ヒンジ式」である。画面を横向きに回転できるのは、ワンセグや動画の視聴時の快適性や、カメラ撮影時にデジカメのような操作性の実現を狙ったものである。縦、横、利用シーンに適した開き方を選択できる。 ; 回転式 : スライド式同様に水平面内でスライドする。スライド式のような上下方向の直線的なスライドではなく、テンキー部上部の軸を中心に水平回転するのが「回転式」。[[SO505i]](docomo、SONY)や[[A5305K]](au、京セラ)などで採用されている。SONYでは、「180°スタイル(ワン・エイティ スタイル)」、京セラでは「リボルバースタイル」と呼称された。 ; スライド+回転式 : 回転式よりさらにマイナーな形状として、縦方向の直線的スライドと、水平回転を組み合わせた方式も存在した。docomo [[F-09A]]で採用されている。 === 2007年以降:スマートフォン時代 === {{main|スマートフォン}} {{Multiple image | align = right | direction = horizontal | caption_align = center | image1 = Foldable Smartphones.jpg | image2 = Foldable Phones.jpg | footer = 折りたたみ式スマートフォン | total_width = 350 }} 2007年からは[[携帯情報端末]](PDA)がさらに進化し、パソコンとの差異が処理能力などの差だけとなった、[[スマートフォン]]が普及している。 1999年の頃から、一定の処理機能を備えたPDAに移動体端末の機能を複合させた延長的な製品は散発的に発売されいくつか存在していた<ref>[http://wired.jp/2010/11/02/「スマートフォンの進化」ギャラリー/ 「スマートフォンの進化」ギャラリー] WIRED2010.11.2</ref>。そして2007年に発売された[[iPhone]]をきっかけに、スマートフォンに注目が集まった(日本では[[2008年]]発売の[[iPhone 3G]]が初)。 その後、[[IPhone]]・[[iOS]]の[[Apple]]、[[Google]]および[[Open Handset Alliance]]が開発した[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]系スマホメーカー各社、[[マイクロソフト]]が開発する[[Windows Mobile]]・[[Windows Phone]]スマホメーカー各社、独自OSを採用する[[ノキア|Nokia]]等の勢力が一時入り乱れる。当初のスマートフォンは、通信費用がより多くかかり、バッテリーの持ちが悪い傾向にあったが<ref>[https://www.rbbtoday.com/article/2015/05/16/131330.html 【木暮祐一のモバイルウォッチ】第75回 キーワードは「地方」!? ドコモとauが新発表した“ガラホ”の行方] RBB TODAY2015年5月16日</ref>、改良が進み、[[2010年代]]初頭からAndroidが世界的シェアを一気に広げ、スマホが世界中で急速に普及した。 2010年代には、3Gの発展形でさらに高速となった[[第4世代携帯電話]](4G)サービスが始まった。[[WiMAX]]方式はアメリカで、[[LTE]]方式はスカンジナビアで最初に利用可能となった。 2018年から2019年には、[[第5世代移動通信システム|第5世代携帯電話]](5G)サービスの運用が局所的に始まった。 == 携帯電話端末 == [[端末]]本体は、一般社会や日常生活では単に「'''携帯'''(けいたい)」と呼ばれることが多く、「携帯」の語は携帯電話の端末を総称するような言葉のように使われており、完全に定着している。一方で同様に携帯端末である[[無線呼び出し|ポケベル]]や[[PHS]]、[[携帯情報端末|PDA]]は「ケータイ」と区別されがちであった。 また通称として「'''ケータイ'''」「'''ケイタイ'''」と表記されることも多い。[[NTTドコモ]]や「[[電電ファミリー]]」の制作した技術文書では'''移動機'''(いどうき)と書かれることもしばしばある。スマートフォン時代になると'''スマホ'''と呼ばれる機会も増えた。 === 構成部位 === 初期からスマホまで共通する部品としては、[[アンテナ]]、[[スピーカー]]、[[マイクロフォン|マイク]]と、これらを制御する[[電子回路]]と、電源などがある。 2000年代以降の端末の多くでは[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]を搭載しており、[[液晶]]や[[無機EL]]、[[有機EL]]、[[発光ダイオード]]などさまざまな素材が利用されている。初期型の製品にはアンテナがほとんど露出していたが、2000年代中ごろに内蔵の機種が増え、現在のアンテナはほとんどが内蔵型である([[ワンセグ]]対応機種はテレビアンテナがついているが、このアンテナのみ本体から出して使用する機種が多かった)。ガラケー時代は各社オリジナルの工夫をしたデザインが特徴で、独自機能の増加が相次いでパーツは増える傾向にあった。スマホ時代初期はiPhoneの影響を強く受けたものが多かったが、技術革新とともに再び様々なスタイルが登場している。 === 電源 === 電源は初期には[[一次電池]]が使われていたが、[[二次電池]]の発達により1990年代には[[ニカド電池]]および[[ニッケル・水素蓄電池]]が、2000年代からは[[リチウムイオン電池]]が主流である。携帯電話端末本体が[[充電器]]の役割も兼ねており、二次電池の充電回路を搭載している。一般に携帯電話の「充電器」と呼ばれる機器は、正確には携帯電話に内蔵された充電器に電源を供給する外部電源としての[[ACアダプタ]]である。そのため外部電源を接続することで本体から電池を取り出さなくとも充電が可能である。機種によっては専用の充電用簡易スタンドが付属する。 外部電源としては[[ACアダプタ]]による[[直流電源]]、USB給電、[[Qi (ワイヤレス給電)|Qi]]などが用いられる。直接電源では家庭用電源を電源とし、3.7 - 5[[ボルト (単位)|V]]程度に電圧を落として供給される。 === 演算・記憶装置 === 端末のデジタル化により、通信処理を司るベースバンドLSIを利用してコンピュータ化が進み、電話帳機能や発着信履歴の保存のために[[フラッシュメモリ]]による不揮発記憶装置による補助記憶領域も備えるようになった。このことで着信音にバリエーションを持たせることが可能となった。 さらに携帯電話で[[モバイルブラウザ]]を動かしたり、画像や音楽といった[[マルチメディア]]データを扱うようになると、ベースバンドLSIとは独立した[[CPU]]が搭載されるようになった。補助記憶装置の必要性はさらに増し、内蔵の補助記憶装置のみでは容量不足となった。そのため2000年代に入ると外部に[[メモリーカード]]の[[拡張スロット|スロット]]を設け、外部メモリへの記録も可能とした。初期では[[SDメモリーカード|SDカード]]や[[メモリースティック]]が用いられていたが、端末に占める容積が大きかったため、[[miniSDカード]]や[[microSDカード]]、[[メモリースティックDuo]]などの携帯電話に特化したメモリーカードが開発された。 <!-- 古い内容 このような外部メモリのスロットはおもに端末の下部や側面部などに設けられていたが、近年発売されているmicroSD対応端末においては頻繁な交換を想定せず、バッテリスペースの内部に設けられている機種もある。 --> 技術の進化で大容量通信が可能となると、クラウドストレージへの保管という手段も登場した。 === 機能 === 通常の通話機能と[[ショートメッセージサービス|SMS]]程度の単機能のみの古典的な機種から、パソコンに匹敵する高性能スマートフォンまで、さまざまな製品が存在する。回線契約と端末の分離により端末の価格が機能に比例することや、[[コンテンツ]]サービスが必要でなければ高機能な端末が必要とされないことなどから、安価で基本的な機能の端末にも根強い人気がある。 <!--古い内容 高機能機種の中には、内蔵する[[オペレーティングシステム]]の機能を利用者に開放し、利用者自身で[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を追加したり開発したりできるものもあり、[[スマートフォン]]と呼ばれる。--> 日本では、高機能(高価)な機種でも[[インセンティブ (携帯電話)|インセンティブ]](販売報奨金)により安価に流通させるビジネスモデルがとられたため、高機能ガラケー機種が広く普及した。また[[大韓民国|韓国]]の携帯電話も高機能機種が多いことで知られる。 [[カメラ付き携帯電話]]が登場し、[[カメラ]]機能を利用した画像解析機能により[[QRコード]]や[[JANコード]]が読み取れるようになった。特にQRコードは大容量の文字データを格納することができるため普及した(参考:[[携帯機器]])。 === オペレーティングシステム === ==== 専用OS ==== 2000年代によく使われていた[[オペレーティングシステム]](OS)としては、[[Symbian OS]]([[シンビアン]])、[[REX OS]]/[[BREW]]/[[Brew MP]] ([[クアルコム]]) 、[[ITRON]]/[[T-Kernel]](TRONプロジェクト)がある。その他には、[[OS-9]]、[[Nucleus RTOS]]、China MobileSoft、MIZI、SavaJeがある。[[Linux]]カーネルをベースとしたOS([[MontaVista Linux]]、[[T-Linux]])もある。 各メーカーがOS-9やNucleus RTOS、iTRONなどの[[RTOS]]から、Symbian OSやLinuxなど[[モバイルオペレーティングシステム|携帯電話向け汎用OS]]の採用に動いているのは、3Gの到来とともに、その開発[[コスト]]が高騰しているからである。端末の高機能化が進み、ソフトウェア規模が巨大化してきているため、限られたハードウェアで動作させる組み込み用途を想定したRTOSでは、開発環境、ミドルウェア調達など、コスト面で不利な点が多くなってきている。「RTOSは通信制御を受け持ち、ユーザインターフェースやアプリケーションの動作は汎用OSが担当する」というハイブリッドOS実装もあるが、2つのOSを協調動作させることには難しい点も多く、リアルタイム性能を高めた汎用OSへ集約される傾向にある。 OSと、その上層のミドルウェアを端末メーカ各社で共通化したプラットフォームとして、NTTドコモは、[[MOAP]]や[[オペレータパック]]を開発した。OS部分にはSymbian OSかLinuxを用いる。それまで、端末メーカ各社が自社で携帯電話用のインターフェース、ミドルウェアなどを開発してきたが、共通プラットフォームによって開発コストの抑制、開発速度の向上が図れる。 同様にKDDIはクアルコムのREX OS、およびBREW、Brew MPをそれぞれ母体に、[[KCP]](2005夏モデル - 2015年春モデルまで)、[[KCP+]](2007年冬モデル - 2011年夏モデルまで)、[[KCP3.x]](2010年夏モデル - 2014年冬モデルまで)という共通プラットフォームを開発した。 ==== スマートフォン用OS ==== {{main|スマートフォン#オペレーティングシステム}} [[スマートフォン]]用OSとして、[[iOS]]、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]、[[BlackBerry]]、[[Pocket PC|Windows Mobile]]などがある。 特に[[Google]]のAndroidと[[Apple]]のiOSで市場シェアの98%が占められている(2019年現在、IDC調べ)。 === ソフトウェア === 携帯電話は限られたメモリ空間である一方で、多くの機能を搭載する高性能な電子デバイスであることから、専用のソフトウェアが搭載される。[[Microsoft Windows|Windows]]や[[macOS]]のようなパソコン用OSのサブセットが搭載されている場合もあるが、パソコンのアプリケーションがそのまま動作することはなかったため、[[chromebook]]などパソコンとの互換性を目指す動きもある。 === メーカー === {|style="float:right;" class="wikitable" style="text-align:right;" |+ 携帯電話の生産(万台) |- ! 国名 !! 1998年 !! 2000年 !! 2005年 !! 割合 (%) |- ! [[中華人民共和国]] | 1,026 || 4,100 || 26,687 || 35.0 |- ! [[大韓民国]] | 1,940 || 5,750 || 19,860 || 26.0 |- ! [[日本]] | 3,408 || 5,535 || 4,703 || 6.2 |- ! [[台湾]] | 5 || 350 || 4,560 || 6.0 |- ! [[マレーシア]] | 190 || 480 || 2,236 || 2.9 |- ! [[シンガポール]] | 160 || 5,500 || 1,600 || 2.1 |- ! '''世界合計''' | '''17,637.5''' || '''42,315''' || '''76,286''' || '''100.0''' |} 2019年の世界スマートフォンおよび携帯電話の販売台数は16億8,721万5,000台であった。そのうち、スマートフォン販売台数は13億7,259万台となり、携帯電話販売台数の84%を占めた(米国調査会社[[ガートナー]]調べ)。 国際的に端末を供給しているのは以下の企業である。国名は本社所在地であり、[[2019年]]の端末販売台数順に並べてある(米国調査会社[[ガートナー]]調べ)。上位10社で約87%のシェアを持つ。 {|style="float:right;" class="wikitable" style="text-align:right;" |+ 携帯電話の市場シェア |- ! メーカー !! シェア (%) |- ! [[サムスン電子]] | 27.92 |- ! [[Apple]] | 26.42 |- ! [[Xiaomi]] | 11.38 |- ! [[華為技術|ファーウェイ]] | 7.91 |- ! [[OPPO]] | 5.61 |- ! [[Vivo (中国の企業)|VIVO]] | 4.58 |- ! [[Realme]] | 2.83 |- ! [[モトローラ・モビリティ|Motorola]] | 2.78 |- ! [[LGエレクトロニクス|LG]] | 2.69 |- ! [[OnePlus]] | 2.00 |- ! [[その他]] | 13.42 |} == サービス == [[ファイル:Japan Mobile phone tower.jpg|thumb|right|180px|[[基地局|携帯電話基地局]]]] 基地局の整備により、広いサービスエリアにおいて屋外で高速移動中でも安定した通話・通信が利用可能である。[[第三世代携帯電話]]は、高速[[パケット通信]]と高い周波数利用効率が特長である。なお、高速な[[無線アクセス]]としても利用可能であるが、利用形態によっては高額な課金となり、この現象が俗に[[パケ死]]と呼ばれる。また、電話機端末単体による通話・通信の総トラフィック(データ量)に占める割合が高い傾向にある。また、デジタルツールとしての多機能化も関係している。 === 通話 === 携帯電話での音声伝送方式は、当初は[[アナログ]]方式を採用しており途中から[[デジタル方式]]へと切り替えられた。当初サービスが開始された時点でのアナログ方式での通信は、[[暗号]]化されずにそのまま送信されていたため、ノイズが乗りやすいだけでなく、傍受が容易に行えるという欠点があった。そのため、強固な暗号化が可能なデジタル化が行われた。 国によってはそのころ、[[固定電話]]網もアナログ方式からデジタル方式([[ISDN]])への切り替えが進んでいたが、固定電話網のデジタル方式は[[パルス符号変調]](PCM)であるのに対し、携帯電話網の方はより圧縮度の高い音声[[コーデック]](おもに[[Adaptive Multi-Rate|AMR]]形式)を使用している。両電話網の相互接続通話の際には、アナログ方式同士ならば単純だが、デジタル方式では(アナログ・デジタル併存の時期を含め)コーデック変換が、網関門交換機において必要である。 また、音声コーデックの方式は携帯電話事業者やサービス種別によって異なるため、事業者相互・方式相互の音声コーデック変換も必要となる。このため、コーデックの組み合わせによっては変換ロスにより、音声の品質が劣化してしまう。基本的には、同一事業者・同一方式の携帯電話同士の通話では変換によるロスは起こらないため、本来の通話品質を発揮できる。 === 通信 === 当初の携帯電話には通話機能しかなかったが、[[音声通話]]のデジタル化により端末全体がデジタル化し、これにより[[パケット通信]]によるデジタルネットワークへの接続が可能となった。デジタルネットワークの中でも、世界的に普及しているインターネットへの接続が早くから行われ、携帯電話でインターネット網にアクセスできるようになった。[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]化である。 これにより携帯電話を対象にした[[ウェブページ]]([[モバイルサイト]])が携帯電話会社から[[公式サイト (携帯電話)|公式サイト]]として設立されたり、また個人でインターネット上に携帯電話を対象にした[[勝手サイト]]と呼ばれるサイトが開設されるようになる。さらに携帯電話の高速通信化により、通信機能を利用して携帯電話で金銭の管理を行う[[モバイルバンキング]]や[[オンライントレード]]も行えるようになっただけでなく、[[動画]]コンテンツの閲覧も可能となった。 従来、携帯電話ではそれのみを対象にして作られた簡素な[[HyperText Markup Language|HTML]]によるウェブページしか表示できなかったが、2000年代半ばからパソコン互換[[ブラウザ]]を搭載した端末も実現し、パソコン向けに作成されたコンテンツの閲覧が可能となった。 === 通信規格 === 各地域での携帯電話の通信規格(方式)はおおむね以下のようになっている。 {| class="wikitable" !地域 !1G !2G !3G !3.9G !4G !5G |- |日本 |[[TACS]]、[[NTT大容量方式|HiCAP]] |[[PDC]]、[[cdmaOne]] |[[CDMA2000]]、[[W-CDMA]] |[[Long Term Evolution|LTE]]、[[モバイルWiMAX]]、[[AXGP]] |[[LTE-Advanced]]、[[WiMAX 2.1]]、AXGP(CA) |[[5G NR|NR (5G NR)]] |- |韓国 | |cdmaOne |CDMA2000、W-CDMA |LTE等 | |NR |- |北米 |[[AMPS]] |[[GSM]] (850/1900MHz)、cdmaOne、[[D-AMPS]]、[[iDEN]] |CDMA2000、W-CDMA |LTE等 | | |- |その他 |[[TACS]] |GSM (900/1800MHz)、cdmaOne、D-AMPS、iDEN |CDMA2000、W-CDMA |LTE等 | | |} [[第一世代携帯電話]](1G)はアナログ方式。モトローラの[[TACS]]や[[日本電信電話|NTT]]の[[NTT大容量方式|HiCAP]]などがある。 [[第二世代携帯電話]](以下2G)はGSM方式が世界的に主流となっている。日本と韓国および北朝鮮では、GSMは採用されていない。日本では [[PDC]](Personal Digital Cellular)という独自の方式が主流だったため、独自の端末やサービスが普及する一方、海外端末メーカーの参入や国際[[ローミング]]サービスが進まず[[鎖国]]的状態にあった。韓国では、アメリカの[[クアルコム]](Qualcomm)社の[[cdmaOne]](IS-95)という方式を全面的に採用し、[[サムスン電子]]や[[LG電子]]などが国際的に飛躍する基となった。北米は[[欧州連合|EU]]とは異なり、政府は携帯電話事業者に技術の選択について強制せず、各社の選択に委ねた。結果として、GSMとcdmaOneがほぼ拮抗しているのが現状である。 [[第三世代携帯電話]](以下3G)は、2Gが各国・各地域で独自の方式、異なる周波数を採用し、全世界での同一方式の利用ができなかった反省を踏まえ、第三世代携帯電話の規格、[[IMT-2000]]の決定においては、携帯電話を全世界で利用できるようにするための指標が立てられた。しかし、規格策定の過程で、[[W-CDMA]]と[[CDMA2000]]が並行採用という形となり、GSM陣営は[[W-CDMA]]へ、cdmaOne陣営は[[CDMA2000]]へ移行することとなった(南北アメリカ・[[アジア]]地域の一部)。[[中華人民共和国|中国]]政府は、自己技術育成の観点から独自の[[TD-CDMA#TD-SCDMA (MC)|TD-SCDMA]]を導入しようとしている。また3G技術の[[特許]]代に関し、「クアルコム」の[[ライセンス]]価格が高すぎるとして、Qualcommと電話機ベンダー(販売会社)、[[チップセット]]ベンダー数社の間で、現在係争中である。 日本では[[NTTドコモ]]、[[ソフトバンクモバイル]]がW-CDMAを採用し、国際ローミングや海外メーカー参入が促進されている。[[KDDI]]([[Au (携帯電話)|au]])は2GはcdmaOne方式のためCDMA2000方式を採用している。ただし、日本のcdmaOneおよび[[CDMA2000]]は、[[極超短波|UHF]]テレビ放送波との[[干渉 (物理学)|干渉]]回避のため、上りと下りの[[周波数]]が他国と逆転している。このため[[グローバルパスポート]]CDMA端末以外では国際ローミングができない。 先進国やcdmaOne陣営のほとんどは3Gの導入が済んでいるが、GSM陣営では、ユーザーがより安価なGSM端末を好む傾向もあるため、コストがかかるW-CDMAへの移行は進んでいない。安価なGSM端末は、高価なW-CDMA端末より人気がある。スマートフォンなどの高価なGSM端末でも、電池の軽量化を図って消費電力の多いW-CDMAやCDMA2000などの3Gには対応しない端末もある。またGSMでも[[EDGE]]や[[EDGE Evolution]]を用いて3G並みの高速なデータ通信ができる。 このため、GSMのサービスの停止時期を打ち出しているGSM事業者は2008年現在、存在しない。 発展途上国では、固定電話網の未整備を補完し、低価格でデータ通信網込みで広域エリア化するために、最初からCDMA2000技術を400MHz帯に使った[[CDMA450]]による3Gネットワークの導入なども行われている。 2006年の世界携帯電話販売台数における比率は、GSMがおおよそ7割弱、CDMA(cdmaOne + CDMA2000)がおおよそ2割強、W-CDMAは1割弱である。 [[第3.9世代移動通信システム]]では、日本は4社とも[[Long Term Evolution|LTE]]方式を採用する。 === 料金形態 === 料金は音声通話の場合は通話時間、データ通信の場合は通信時間またはデータ量で算出されるのは国際的に共通である。[[プリペイド]](前払い)、ネットワークを自前で持たない[[仮想移動体通信事業者]](MVNO)によるサービスもある。 プリペイドの場合、基本料金はないが、最後に入金してからの経過日数によって有効期限が定められているため、使用頻度が低くても定期的に入金する必要はある。EUは、全般にプリペイド比率が高い。 アメリカなどでは、音声通話は一定時間まで定額であるのが一般的である。また、夜9時以降および週末の通話は無料になる契約が多い。その反面、一般的に、電話をかけた側だけでなく、受けた側も通話料が発生する。 == ビジネスモデル == <!-- 2007年現在、世界の携帯電話で使用される通信方式は[[GSM]]が約7割を占めている。GSMでは、音声通話サービスはもとより、データ通信サービスの仕様までもが、ほぼ共通化されている。また、-->技術的には、[[SIMカード]]を交換することにより、通信事業者を変えることが可能である。このため、端末メーカーは最初に世界共通モデルを開発して、必要な場合にだけ、小規模の特定事業者向けのカスタマイズをするのが主流である。 海外ではひとつの機種でもメーカーの出す業界標準の機能のみを搭載している「スタンダードバージョン」とキャリア独自のサービスを付加したものの2種類販売されている。前者はSIMロックがかかっていないため通信方式が同じなら世界中どこでも利用できる。後者はインセンティブ制度のもと、SIMロックがついて販売されている。この辺の事情は日本と同じであるが、インセンティブの額は、日本は突出して大きい。 マーケット規模の巨大な携帯電話は、世界規模での大量販売による価格競争が行われ、膨大な出荷台数を獲得している。 == 使用上のトラブルと対策 == ;耐水性 [[File:Sony Xperia Z3 - Wasser in der Kamera.jpg|thumb|カメラレンズに水滴が生じた例]] :防水機能のない携帯電話は軽微な水濡れでも故障するので、利用者から「この程度の水濡れで故障するのは欠陥品ではないか」といった苦情が[[国民生活センター]]に寄せられている。国民生活センターでは、利用者に防水でない機種は水に濡らさないように注意し、水に濡れる使い方をする人は防水の機種を購入するように呼びかけている。携帯電話会社には消費者への周知徹底と日常の軽微な水濡れで故障しないような改善、修理をする場合は消費者に一方的な負担をさせないことを要望している<ref>[http://www.kokusen.go.jp/test/data/s_test/n-20080508_1.html 国民生活センター携帯電話機の水濡れによる不具合]</ref>。 ;異常過熱 :機器に内蔵するリチウムイオン電池が異常過熱により爆発してけがや火災の原因となる事例もある<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3046862 リチウムイオン電池の異常過熱、X線で仕組み解明 研究] AFP、2015年4月29日。</ref>。 ; 健康への影響 :[[WHO]](世界保健機関)の一部である[[国際がん研究機関|IARC]](国際がん研究機関)は2011年5月31日、発がん性リスクをランク分けする表([[IARC発がん性リスク一覧]])の中で、「携帯電話の使用」を、5段階中、上から3番目のGroup2Bのカテゴリーに入れたと発表した(Group2Bは、ヒトに対する発癌性が疑われるグループである)<ref>[http://www.iarc.fr/en/media-centre/pr/2011/pdfs/pr208_E.pdf IARC CLASSIFIES RADIOFREQUENCYELECTROMAGNETIC FIELDS ASPOSSIBLY CARCINOGENIC TO HUMANS] WHO</ref><ref>[http://www.carcinogenesis.com/article.asp?issn=1477-3163;year=2011;volume=10;issue=1;spage=18;epage=18;aulast=Kovvali Cell phones are as carcinogenic as coffee] Journal of Carcinogenesis  Gopala Kovvali</ref>。 ;電子機器への影響 *[[心臓ペースメーカー#電磁波・医療機器の影響|心臓ペースメーカー]]使用者への携帯電話、スマートフォンの発する電磁波による誤作動などの影響が警鐘されている。 ;通信遮断エリア :病院や飛行機内などでの利用は制限される。 * [[通信機能抑止装置]] : [[劇場]]等の着信音防止。[[特殊詐欺]]被害防止。 ;料金体系の混乱 :[[パケ死]] ;フィルタリング * [[フィルタリング (有害サイトアクセス制限)]] ;犯罪利用 :暗号化されたチャットアプリの使用があったが、いずれも捜査機関によって摘発され大規模な逮捕劇となっている。[[EncroChat]]、[[トロイの盾作戦|ANOM]] == その他の用途 == 携帯電話の多機能性を活用して通信以外の用途へ使用する研究が進みつつある。満足な医療が受けられない地域では可搬式の診断装置としての応用が進められる<ref>Zhu, Hongying, et al. "[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3263930/ Optofluidic fluorescent imaging cytometry on a cell phone.]" Analytical chemistry 83.17 (2011): 6641-6647.</ref><ref>Mobile phone-based biosensing: An emerging "diagnostic and communication" technology. </ref><ref>Wei, Qingshan, et al. "[https://pubs.acs.org/doi/full/10.1021/nn505821y Imaging and sizing of single DNA molecules on a mobile phone.]" ACS nano 8.12 (2014): 12725-12733.</ref><ref>Roda, Aldo, et al. "Integrating biochemiluminescence detection on smartphones: mobile chemistry platform for point-of-need analysis." Analytical chemistry 86.15 (2014): 7299-7304.</ref>。 == 国・地域における携帯電話 == * [[日本における携帯電話]] * [[日本の携帯電話文化]] * [[韓国における携帯電話]] * [[台湾における携帯電話]] * [[中国における携帯電話]] * [[アメリカ合衆国における携帯電話]] * [[ロシアにおける携帯電話]] * [[ウクライナにおける携帯電話]] ==携帯電話の文化== * [[絵文字]]、[[ギャル文字]] * [[着信メロディ]]、[[着信ボイス]]、[[着うた]] * [[写メール]] * [[自分撮り]](セルフィー) * [[デコレーション携帯電話]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Mobile phones}} {{ウィキプロジェクトリンク|携帯電話}} * [[マルチチャネルアクセス無線]] * [[ホットモック]] * [[モバイルブロードバンド]] {{Computer sizes}} {{携帯電話}} {{Telecommunications}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいたいてんわ}} [[Category:携帯電話|*]] [[Category:電話]] [[Category:通信機器]] [[Category:電気通信]] [[Category:AV機器]] [[Category:モバイルネットワーク]] [[Category:無線測位]]
2003-02-13T14:48:29Z
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日食
日食(にっしょく、solar eclipse)とは太陽が月によって覆われ、太陽が欠けて見えたり、あるいは全く見えなくなったりする現象である。 日蝕と表記する場合がある。 朔すなわち新月の時に起こる。 月と太陽の視直径はほとんど同じであるが、月の地球周回軌道および地球の公転軌道は楕円であるため、地上から見た太陽と月の視直径は常に変化する。月の視直径が太陽より大きく、太陽の全体が隠される場合を皆既日食(または皆既食。total eclipse)という。逆の場合は月の外側に太陽がはみ出して細い光輪状に見え、これを金環日食(または金環食。annular eclipse)と言う。場合によっては月と太陽の視直径が食の経路の途中でまったく同じになるため、正午に中心食となる付近で皆既日食、経路の両端では金環日食になることがあり、これを金環皆既日食(または金環皆既食。hybrid eclipse)と呼ぶが、頻度は少ない。皆既日食と金環日食および金環皆既日食を中心食と称する。 中心食では本影と金環食影が地球上に落ちて西から東に移動しその範囲内で中心食が見られ、そこから外れた地域では半影に入り太陽が部分的に隠される部分日食(または部分食)が見られる。半影だけが地球にかかって、地上のどこからも中心食が見られないこともある。 また日の出の際に太陽が欠けた状態で上る場合を特に日出帯食、逆に欠けた状態で日の入りを迎える場合を日入帯食(日没帯食)と呼ぶ。この場合、いずれも食の最大を迎える前と食の最大を過ぎた後に分類される。 直接の原因は、地球の周囲を公転する月が地球と太陽の間に来て、月の影が地球上に落ちる事による。月の影に入った地域では、太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる。 地上から見た太陽は、毎日昇っては沈む「日周運動」とは別に、黄道と呼ばれる仮想の軌道を1年で1周している。太陽は明るいので目で見たのではわからないが、星座の間でゆっくり位置を変え、365.2422日で元の点に戻る。すなわち1日に角度で約1度動く事になる。同じく月は、白道と呼ばれる仮想の軌道を27.3217日で1周する。地上から見ると、月の方がおよそ13倍も速く天球上を動く事になる。ただし、月が太陽を追い越す時が朔すなわち新月であり、地球を挟んで月が太陽と180度の位置に来た時が望すなわち満月であるが、朔から次の朔までの時間、つまり満ち欠けの周期は29.5306日である。月の公転周期27.3217日は朔望月の周期29.5306日と一致しないが、これは公転周期が宇宙空間(恒星)を基準に置いているためである。一方、地球は太陽の周囲を円に近い軌道を描いて公転しているため、月が朔の日から1周公転しても地上から見る太陽が黄道上を先行してしまっており、月が太陽に追いついて次の朔になるには2.2089日余分にかかる事になる。もし黄道と白道とが一致していれば、29.5306日ごとに起こる朔においては必ず月が太陽を覆い隠す、つまり月の影が地球上に達して日食が起こり、望には必ず月は地球の影に入って月食が起こるはずである。しかし実際には黄道と白道とは約5.1度の傾きでずれているため、朔の時(日月の合と言う)でも月が太陽の上や下を通過する場合や、望(日月の衝と呼ぶ)に際しても地球の影の外を通る場合が多い。日食が起こるのは、月が黄道・白道の交わる点つまり交点(月の昇交点・降交点)付近で朔となる時に限られ、月食も交点付近で望になる時に限られる。太陽を基準にすれば、太陽が交点付近にいる時に月が来て朔になれば日食が起こる事になる。 太陽が交点付近にある期間を食の季節と言い、日食はこの期間以外には発生しない。交点は2ヶ所ある、つまり昇交点と降交点が相対しているので、太陽が黄道を1周する間に日食が起こる機会が2度ある。ただし、交点は太陽による月への摂動のため、1年に19度ずつ後退しており、太陽が交点を出て再び戻って来る周期は346.6201日となる。これを「食年」と称するが、実際の日食や月食は約346日から347日周期(交点は2ヶ所あるので、起こるとすれば半分の約173日周期になる)では起こっていない。日食は朔の時にしか起こらないから、食年に最も近い日数となる12朔望月すなわちおよそ354日周期(交点は2ヶ所あるので、半分の6朔望月、およそ177日周期になる)で見られる。表は、21世紀初頭の日食の一覧であるが、桃色・水色で区分したそれぞれの日食は、ほぼ354日周期で発生している事がわかる。 ※表のデータは、主として『理科年表 平成26年』(丸善 2013年)によった。 食年(346.6201日)と12朔望月(354.3672日)には7〜8日もの差があるが、それでうまく日月が重なり、日食が起こるであろうか。太陽と月は共に30分前後の視直径であるから、ちょうど交点でなくとも、その前後の場所で出会えば食が起こり得る。その範囲は、条件により多少異なるが、交点の前後15度から18度程度である。仮に交点から15度もしくは18度近く離れた所で月と太陽が最接近(日月の合)すれば、月は太陽の一部を隠して北極もしくは南極付近で食が見られる。その約354日後には日月は更に交点の近くで合となり(最接近し)、低緯度で中心食となる。しかしその後は月と太陽は離れる一方となり、4回程度で食は起こらなくなる。上の表で、例えば桃色の場合は南極での中心食で始まり、急速に北上して北半球で周期を終えており、水色で示した食は、北極に近い高緯度での中心食に始まり、南下して南極での部分食として終わっているのがわかる。すなわち、太陽が交点から反対側の交点に行くには173.3101日弱かかり、元の交点に戻るのには346.6201日を要する一方、6朔望月は177.1836日、12朔望月は354.3672日である。従って、月と太陽の位置のずれは回数を重ねるごとに大きくなる。それは、ある時点で日食が起きた場合、いつまでもその状況は続かず、4回ほどで途切れてしまう事を意味する。回を重ねるたびに日月の距離が大きくなり、ついには食を起こさなくなるのである。むろん、新たな周期が始まっては繰り返され、よって日食が途絶える事はないのは、表を見ても明らかである。 通常は交点での日月の合は1回であるが、太陽の移動速度は1日に1度というゆっくりしたものであるため、交点から離れた手前で合となって食を起こした場合、29.536日後に再び月が巡って来た時にもまだ食の起こる範囲内にいる場合がある。従ってこのような場合には1ヶ月足らずの間隔で日食が見られる。ただし、日月の位置の隔たりが大きいので、起きる食は高緯度での部分食がほとんどで、表の2011年がそれに当たる。まれに中心食になっても極地で辛うじて見られる程度である。 さて、黄道と白道は天球を取り巻く円(正確には楕円)で表わされる。これらが傾きを持って交差しているから、交点は円の中心をはさんで2ヶ所ある事はすでに何度も述べたとおりで、従って食の季節は通常は年2回であり、日食は1年に最低2回は必ず起こる。しかし、食の季節が3回になる年もある。これは、既に述べた如く、交点が太陽の動く方向と逆向きに動いている(前進している)ためである。もし交点が固定されていれば太陽は平均およそ365日周期で元の交点に戻り、これが食年となるが、実際には346.6201日でしかない。食年は1年より19日ほど短いので、年の初めに食の季節があれば、年末に3度目の食の季節が巡って来る事になる。一方、前述の通り1朔望月は29.5306日であるから、これを12倍すると約354日になり、やはり1年よりおよそ11日短い。従ってある年の1月初めに日食があれば、その年半ばと12月末の3回日食が発生する機会が訪れる。前述のように、食の季節には日食が少なくとも1回、多い時には2回起こる。よって日食は年によっては3回ないし4回、まれには5回起こる(1935年)。 ただし、日食が連続して起こるにはどうしても1朔望月つまり約29.5306日を隔てなければならないから、仮に3回の食の季節に全て2回ずつ日食が起きたとしても、その期間は365日を越えるため、最も多い年でも日食の回数は5回が限度である。また、食の季節であっても月食は起きないこともある。月食が全くない年が数年に1度あり、発生頻度で見れば日食は月食より多い。詳しくは月食を参照。しかし日食は月の影に入った地域でしか観測できないため、地球全体で見れば日食は頻繁に起きていてもある地域に限定すると日食が観測される事は少ないが、月食は起きている時に月が見えている所では必ず観測できるので、一般には月食の方が見られる頻度が多い。 上記の例から、日食に周期性があり、予報できる可能性がある事がわかる。 前の章で記述した354日周期又は177日周期は、地球全体から見れば最も短く扱いやすい予報法であるが、古代人の予報手段には使えない。食が起こる地域が大きく変動する一方、古代の人々は自分たちの居住地から大きく移動する事はなかったし、遠く離れた地域からの情報を入手するのも不可能であったから、地球全体での食の発生を知る事はできず、日食を見る機会はもっぱら自分たちの住む地域とその周辺に限られる。そうした制限下では、日食はあたかも不規則に起こるように見えるため、現在のような天文学知識の無い古代の人々は、突然太陽が欠け、時には見えなくなる日食の発生を非常に恐れたが、やがてその発生に強い規則性があることが知られ、原因はわからないながらも予報できるようになった。 実際には、日食・月食は天球上の月と太陽の規則的な運行周期の一致により発生するもので、いわば日月の運行周期の公倍数として考え得る。その視点に立てば、地球上の1地点でも食はかなり規則的に起きるので、ある程度の期間にわたって食発生の統計が得られれば予報が可能となる。ただし、そうした周期は非常に長いので、人間の一生程度の時間では把握できない。食の予報は、人類が文字を発明して数百年もの長期にわたってデータを蓄積できるようになって初めて実現した。 日食や月食の予報は、まだ地動説はおろか地球が丸い事さえ知られていなかった時代に既に行われていた。長期にわたる記録を整理して、食の発生に周期性があるのを発見したためである。 古代において、日食は重大な関心を持たれていた。中国の日食予報として著名な逸話に、紀元前2000年頃の夏の時代に、羲氏と和氏という2名の司天官が酒に酔って日食の予報を怠ったため処刑された、と『書経』に記されている、いわゆる「仲康日食」がある。 事実であれば当時既に日食の予報が行われていた事になって、世界最古の日食予報になる。唐代以降、東西の多くの天文学者がこの日食の比定を試みたが、この記事に完全に符合するものは見つかっていない。 中国においては1994年に存在が確認された「上博楚簡」と呼ばれる竹簡の中に『競建内之』と称される物があり、斉の桓公が皆既日食を恐れて鮑叔の諫言を聞いたという故事が載せられている。『史記』においては専横を敷いていた前漢の最高権力者呂后が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『晋書』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。中国の日食予報は戦国時代から行われていたが、三国時代に編纂された景初暦において高度な予報が可能となった。 このため、日本の朝廷でも持統天皇の時代以後に暦博士が日食の予定日を計算し天文博士がこれを観測して密奏を行う規則が成立した。養老律令の儀制令・延喜式陰陽寮式には暦博士が毎年1月1日に陰陽寮に今年の日食の予想日を報告し、陰陽寮は予想日の8日前までに中務省に報告して当日は国家行事や一般政務を中止したとされている。六国史には多くの日食記事が掲載されているが、実際には起こらなかった日食も多い。ただしこれは日食が国政に重大な影響を与えるとする当時の為政者の考えから予め多めに予想したものがそのまま記事化されたためと考えられ、実際に日本の畿内(現在の近畿地方)で観測可能な日食(食分0.1以上)については比較的正確な暦が使われていた奈良時代・平安時代前期の日食予報とほぼ正確に合致している。 1183年の治承・寿永の乱の水島の戦いでは戦闘中に金環日食が発生し、源氏の兵が混乱して平氏が勝ったと源平盛衰記などの史料に記されている。当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある。 江戸時代の1839年(天保10年)には、金環食が発生した。幕府の役人は従来の中国式の予測時刻と伝来したばかりの西洋式の金環食の予測時刻、2種類の計算を行い、築地の海岸で観測を行った。西洋の方法での予測が的中し見える位置、時刻ともに正確であった。以降、西洋の天文学が日本で急速に広まっていった。 西洋においては、トルコから西アジアにかけて領土があったメディア王国とリディア王国が長期にわたり戦争を続けていた紀元前6世紀始め頃、ギリシャの哲学者タレスが予言していた日食が実際に起き、両国は和を結んだという話が、ギリシャの歴史学者ヘロドトスの『歴史(ヒストリア)』に書かれている(日食の戦い)。これも多くの天文学者の興味をそそり、その日食を特定する試みが為され、紀元前585年5月28日の皆既日食と推定された。この日食は南アメリカ北端から北大西洋を通り、ヨーロッパを経てトルコ北部からカスピ海の南に達したものであるが、異説もある。タレスは、古代バビロニアで考案された予報術を用いたとヘロドトスは記し、これは次に述べるサロスであるとの説もあるが、サロスは当時のギリシャでは知られていなかったというのが天文学史の主導的見解であり、タレスは、それまでに伝えられていた大雑把な法則に基づいて日食発生の年を予言したが、月日までは言及できなかったと考えられる(タレスの日食)。 最も古くから知られていたのは前述の「サロス」と呼ばれるもので、紀元前6世紀頃にバビロニアで発見されていたとされ、またギリシャでは紀元前443年に数学者のメトンにより「メトン周期」が発見された。 既に記したとおり、1朔望月は29.5306日であり、223朔望月は6585.3212日となる。月が交点を出て再び戻って来る(交点から始まる軌道を一周する)交点月は27.2122日であり、242交点月は6585.3575日で、前者にきわめて近い。また月が地球をめぐる公転軌道のうちで近地点に来た時を近点月と言うが、239近点月は6585.5375日で、やはり非常に近い。さらに1食年346.6201日を19倍する、すなわち19食年は6585.782日で、これも大差がない。そのため、223朔望月に当る18年と11日(閏年の配置によっては10日)と8時間ほどの周期でよく似た状況の日食(継続時間、食の種類等)が繰り返される。これがサロスと呼ばれる周期である。 ただ、余分の8時間が曲者で、次回の日食は経度でおよそ120度西にずれた所で起こる。その次はおよそ240度西方に動き、3回目で元の位置に戻る。そのため、実用上は3サロス、すなわち54年と約1ヶ月を用いるのがよい。下の表にサロスの実例を示す。3サロス毎にほぼ同じところで日食が起こっている事や、サロスは近点月や食年の倍数とよく一致しているので、毎回起こる食の状況も似ていることがわかる。 表を見ると、食により3サロスの間に経路が少し北上又は南下した事が分かる。サロスは不変ではなく、1000年程度の期間で、極地方の部分食から始まって少しずつ北上(あるいは南下)して赤道を越え、最後は反対側の極地方の部分食となって終わるという経過をたどる。また、サロス周期は約18年であるが、日食は毎年起こる。これは、複数のサロスが存在するためで、実際に18年間に40個ほどのサロスが食を繰り返しており、オランダの天文学者ゲオルグ・ファン・デン・ベルグがサロスに付けた通し番号が一般に使用されている。 1年は365.2422日であり、19年は6939.6018日となる。一方、235朔望月は6939.6675日で、非常に近い。さらに20食年(346.6201日×20=6932.402日)とも近似する。したがって、ある日食からちょうど19年後には再び日食が起こる。これをメトン周期と呼び、中国では「章」又は「章法」と言った。 ただし、19年及び235朔望月に対し20食年との差が7日余り出るのが問題で、回を重ねるごとにこれが大きくなるので、予報としては5 - 6回くらいで使えなくなる。下の表にメトンの例を示す。 他にも日食の周期性を用いた予報の種類は多い。 食の経過及び状況を示すために「食分」という数値が用いられる。 皆既食や金環食などの中心食は、多くの場合数分、時には数秒以下しか見られない。皆既食の場合、月が地球に近い所(近地点)にあって地球から見た際の視直径が大きく、地球が太陽から遠い所(遠日点)にあって地球から見た太陽の視直径が小さい時には、月が太陽を隠す時間が長くなり、継続時間も長くなる。また、月の影は地球上を西から東へ秒速1km(時速3600km余り)ほどで進んで行くが、赤道に近い低緯度地方で正午頃に見られるなら、地球の自転により月の影の移動速度が相対的に遅くなり、やはり継続時間が延びる。さらに、白道は黄道から5.1度ずれているので、地球に落ちる月の影も地表面を斜走するため、地球の自転方向が食の中心線と平行になる地域から見れば継続時間が伸びる。 そうした好条件が重なれば、皆既日食の継続時間は、稀ではあるが7分を越える。紀元前4000年から紀元6000年までの間では、紀元(西暦)2186年7月16日に起きる皆既日食が最も長く、7分29秒に及ぶ。この日食はサロス番号139番に属しており、このサロスは皆既継続時間が非常に長く、前後併せて5回も7分以上の皆既が起こる。21世紀中は7分を越える皆既日食はない。 金環食では、皆既食と逆の条件があれば長くなる。太陽と月の平均視直径を比較すると、太陽が32分、月が31分で、前者がわずかに大きく見える。仮に月と地球の公転軌道が完全な円であったなら金環食しか見られなくなる。軌道が楕円であるため視直径が変動し、皆既日食も金環日食も見られるのであるが、このような条件もあって、金環食の方が継続時間の長いものが多い。皆既食は最長でも7分30秒程度であるのに対し、金環食は稀に12分以上継続する事がある。 皆既日食の際、普段は光球の輝きに妨げられて見ることができないコロナや紅炎の観測が可能になり太陽の構造・物理的性質を調べる絶好の機会となり、太陽のみならず恒星一般の研究にも大きな役割を果たす。 第2接触直前または第3接触直前には、月の表面にある起伏の谷間から太陽の光が点々と連なって見える状態になることがある。これを、原理を解明したフランシス・ベイリーの名を取ってベイリー・ビーズ(ベイリーの数珠)といい、古くから月に起伏がある証拠とされてきた。 また皆既食にて太陽がすべて隠れる直前と皆既が終わった直後、又は北限界線や南限界線から食を見る場合には、太陽の光が一ヵ所だけ漏れ出て輝く瞬間があり、黒い太陽(実際は月)の周囲に細く内部コロナが輪状に見えるのと併せて宝石の着いた指輪に似た形状となる。これをダイヤモンドリングと言い、皆既日食の見所の一つである。これも、月面にある起伏による現象である。 皆既日食が起こると空がかなり暗くなり星の観測も可能な状態になる。そのわずかな時間を利用して1919年、一般相対性理論の検証がアーサー・エディントンによって行なわれた。皆既日食中に太陽周辺の星を観測すると、星からの光は太陽の重力場を通るため屈曲することになり、位置がわずかにずれる。一般相対性理論で予想される数値と実際に観測された数値とを比較することで、一般相対性理論の確かさが確認された。 太陽光は光量が大きく有害な紫外線なども含まれるため、部分食や金環食のように太陽の光球が完全に隠されない日食を肉眼で直接観測すると日食網膜症を引き起こし、網膜のやけどや後遺症、ひどい場合には失明を引き起こすことがあるため一定の性能を満たした観測機器が必要となる。 人類にとって太陽はすべての生命の根源であり、世界全体を照らす最も重要な天体である事は古くから周知されており、世界各地の神話や宗教などで最高神として崇められてきた。その太陽が陰り、時には完全に隠れ、明るかった空が暗くなるということは、科学的な説明が浸透する以前の人々にとっては重大な出来事として認識された。そのため、彗星と共に天変地異を予告する凶兆として恐れられた。 近代天文学が確立する以前、多くの文明で日食や月食を説明する神話が長い間語り継がれてきた。これらの神話の多くでは、日月食は複数の神秘的な力の間の対立や争いによって起こるとされた。例えばヒンドゥー教の神話では、食が起こる月の昇交点がラーフ、降交点がケートゥという2人の魔神として擬人化され、この二神の働きによって食が起こると考えられた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で「羅睺星」「計斗星」の名で七曜に付け加えられ、九曜の一員を成している。 また北京天文台には日食神話を描いた石の彫刻があり、以下のような説明が添えられている。 ここで金烏とは金色(太陽)の中にいるという三本足の烏(八咫烏を参照のこと)であり、ヒキガエルは月のクレーターの形に由来するものである。この解説文からは、当時の文化において天文現象としての事実の認識と現象に対する愉快な見立てとが両立していたことが窺える。 ヴァイキングたちの伝承を記した『スノッリのエッダ』ではスコルと呼ばれる狼が太陽を常に追いかけており、狼が太陽に追いつくと日食になるという記述がある。そして、世界の終わりの日に狼はついに太陽を完全に飲み込んでしまうという。 日本においては、計算上は邪馬台国の時代、卑弥呼が死んだとされる247年と248年に日本列島で日食が起きた可能性が推測されている。国立天文台では「特定された日食は『日本書紀』推古天皇36年3月2日(628年4月10日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」としている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日食(にっしょく、solar eclipse)とは太陽が月によって覆われ、太陽が欠けて見えたり、あるいは全く見えなくなったりする現象である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日蝕と表記する場合がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "朔すなわち新月の時に起こる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "月と太陽の視直径はほとんど同じであるが、月の地球周回軌道および地球の公転軌道は楕円であるため、地上から見た太陽と月の視直径は常に変化する。月の視直径が太陽より大きく、太陽の全体が隠される場合を皆既日食(または皆既食。total eclipse)という。逆の場合は月の外側に太陽がはみ出して細い光輪状に見え、これを金環日食(または金環食。annular eclipse)と言う。場合によっては月と太陽の視直径が食の経路の途中でまったく同じになるため、正午に中心食となる付近で皆既日食、経路の両端では金環日食になることがあり、これを金環皆既日食(または金環皆既食。hybrid eclipse)と呼ぶが、頻度は少ない。皆既日食と金環日食および金環皆既日食を中心食と称する。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中心食では本影と金環食影が地球上に落ちて西から東に移動しその範囲内で中心食が見られ、そこから外れた地域では半影に入り太陽が部分的に隠される部分日食(または部分食)が見られる。半影だけが地球にかかって、地上のどこからも中心食が見られないこともある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また日の出の際に太陽が欠けた状態で上る場合を特に日出帯食、逆に欠けた状態で日の入りを迎える場合を日入帯食(日没帯食)と呼ぶ。この場合、いずれも食の最大を迎える前と食の最大を過ぎた後に分類される。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "直接の原因は、地球の周囲を公転する月が地球と太陽の間に来て、月の影が地球上に落ちる事による。月の影に入った地域では、太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "地上から見た太陽は、毎日昇っては沈む「日周運動」とは別に、黄道と呼ばれる仮想の軌道を1年で1周している。太陽は明るいので目で見たのではわからないが、星座の間でゆっくり位置を変え、365.2422日で元の点に戻る。すなわち1日に角度で約1度動く事になる。同じく月は、白道と呼ばれる仮想の軌道を27.3217日で1周する。地上から見ると、月の方がおよそ13倍も速く天球上を動く事になる。ただし、月が太陽を追い越す時が朔すなわち新月であり、地球を挟んで月が太陽と180度の位置に来た時が望すなわち満月であるが、朔から次の朔までの時間、つまり満ち欠けの周期は29.5306日である。月の公転周期27.3217日は朔望月の周期29.5306日と一致しないが、これは公転周期が宇宙空間(恒星)を基準に置いているためである。一方、地球は太陽の周囲を円に近い軌道を描いて公転しているため、月が朔の日から1周公転しても地上から見る太陽が黄道上を先行してしまっており、月が太陽に追いついて次の朔になるには2.2089日余分にかかる事になる。もし黄道と白道とが一致していれば、29.5306日ごとに起こる朔においては必ず月が太陽を覆い隠す、つまり月の影が地球上に達して日食が起こり、望には必ず月は地球の影に入って月食が起こるはずである。しかし実際には黄道と白道とは約5.1度の傾きでずれているため、朔の時(日月の合と言う)でも月が太陽の上や下を通過する場合や、望(日月の衝と呼ぶ)に際しても地球の影の外を通る場合が多い。日食が起こるのは、月が黄道・白道の交わる点つまり交点(月の昇交点・降交点)付近で朔となる時に限られ、月食も交点付近で望になる時に限られる。太陽を基準にすれば、太陽が交点付近にいる時に月が来て朔になれば日食が起こる事になる。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "太陽が交点付近にある期間を食の季節と言い、日食はこの期間以外には発生しない。交点は2ヶ所ある、つまり昇交点と降交点が相対しているので、太陽が黄道を1周する間に日食が起こる機会が2度ある。ただし、交点は太陽による月への摂動のため、1年に19度ずつ後退しており、太陽が交点を出て再び戻って来る周期は346.6201日となる。これを「食年」と称するが、実際の日食や月食は約346日から347日周期(交点は2ヶ所あるので、起こるとすれば半分の約173日周期になる)では起こっていない。日食は朔の時にしか起こらないから、食年に最も近い日数となる12朔望月すなわちおよそ354日周期(交点は2ヶ所あるので、半分の6朔望月、およそ177日周期になる)で見られる。表は、21世紀初頭の日食の一覧であるが、桃色・水色で区分したそれぞれの日食は、ほぼ354日周期で発生している事がわかる。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "※表のデータは、主として『理科年表 平成26年』(丸善 2013年)によった。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "食年(346.6201日)と12朔望月(354.3672日)には7〜8日もの差があるが、それでうまく日月が重なり、日食が起こるであろうか。太陽と月は共に30分前後の視直径であるから、ちょうど交点でなくとも、その前後の場所で出会えば食が起こり得る。その範囲は、条件により多少異なるが、交点の前後15度から18度程度である。仮に交点から15度もしくは18度近く離れた所で月と太陽が最接近(日月の合)すれば、月は太陽の一部を隠して北極もしくは南極付近で食が見られる。その約354日後には日月は更に交点の近くで合となり(最接近し)、低緯度で中心食となる。しかしその後は月と太陽は離れる一方となり、4回程度で食は起こらなくなる。上の表で、例えば桃色の場合は南極での中心食で始まり、急速に北上して北半球で周期を終えており、水色で示した食は、北極に近い高緯度での中心食に始まり、南下して南極での部分食として終わっているのがわかる。すなわち、太陽が交点から反対側の交点に行くには173.3101日弱かかり、元の交点に戻るのには346.6201日を要する一方、6朔望月は177.1836日、12朔望月は354.3672日である。従って、月と太陽の位置のずれは回数を重ねるごとに大きくなる。それは、ある時点で日食が起きた場合、いつまでもその状況は続かず、4回ほどで途切れてしまう事を意味する。回を重ねるたびに日月の距離が大きくなり、ついには食を起こさなくなるのである。むろん、新たな周期が始まっては繰り返され、よって日食が途絶える事はないのは、表を見ても明らかである。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "通常は交点での日月の合は1回であるが、太陽の移動速度は1日に1度というゆっくりしたものであるため、交点から離れた手前で合となって食を起こした場合、29.536日後に再び月が巡って来た時にもまだ食の起こる範囲内にいる場合がある。従ってこのような場合には1ヶ月足らずの間隔で日食が見られる。ただし、日月の位置の隔たりが大きいので、起きる食は高緯度での部分食がほとんどで、表の2011年がそれに当たる。まれに中心食になっても極地で辛うじて見られる程度である。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "さて、黄道と白道は天球を取り巻く円(正確には楕円)で表わされる。これらが傾きを持って交差しているから、交点は円の中心をはさんで2ヶ所ある事はすでに何度も述べたとおりで、従って食の季節は通常は年2回であり、日食は1年に最低2回は必ず起こる。しかし、食の季節が3回になる年もある。これは、既に述べた如く、交点が太陽の動く方向と逆向きに動いている(前進している)ためである。もし交点が固定されていれば太陽は平均およそ365日周期で元の交点に戻り、これが食年となるが、実際には346.6201日でしかない。食年は1年より19日ほど短いので、年の初めに食の季節があれば、年末に3度目の食の季節が巡って来る事になる。一方、前述の通り1朔望月は29.5306日であるから、これを12倍すると約354日になり、やはり1年よりおよそ11日短い。従ってある年の1月初めに日食があれば、その年半ばと12月末の3回日食が発生する機会が訪れる。前述のように、食の季節には日食が少なくとも1回、多い時には2回起こる。よって日食は年によっては3回ないし4回、まれには5回起こる(1935年)。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ただし、日食が連続して起こるにはどうしても1朔望月つまり約29.5306日を隔てなければならないから、仮に3回の食の季節に全て2回ずつ日食が起きたとしても、その期間は365日を越えるため、最も多い年でも日食の回数は5回が限度である。また、食の季節であっても月食は起きないこともある。月食が全くない年が数年に1度あり、発生頻度で見れば日食は月食より多い。詳しくは月食を参照。しかし日食は月の影に入った地域でしか観測できないため、地球全体で見れば日食は頻繁に起きていてもある地域に限定すると日食が観測される事は少ないが、月食は起きている時に月が見えている所では必ず観測できるので、一般には月食の方が見られる頻度が多い。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "上記の例から、日食に周期性があり、予報できる可能性がある事がわかる。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前の章で記述した354日周期又は177日周期は、地球全体から見れば最も短く扱いやすい予報法であるが、古代人の予報手段には使えない。食が起こる地域が大きく変動する一方、古代の人々は自分たちの居住地から大きく移動する事はなかったし、遠く離れた地域からの情報を入手するのも不可能であったから、地球全体での食の発生を知る事はできず、日食を見る機会はもっぱら自分たちの住む地域とその周辺に限られる。そうした制限下では、日食はあたかも不規則に起こるように見えるため、現在のような天文学知識の無い古代の人々は、突然太陽が欠け、時には見えなくなる日食の発生を非常に恐れたが、やがてその発生に強い規則性があることが知られ、原因はわからないながらも予報できるようになった。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "実際には、日食・月食は天球上の月と太陽の規則的な運行周期の一致により発生するもので、いわば日月の運行周期の公倍数として考え得る。その視点に立てば、地球上の1地点でも食はかなり規則的に起きるので、ある程度の期間にわたって食発生の統計が得られれば予報が可能となる。ただし、そうした周期は非常に長いので、人間の一生程度の時間では把握できない。食の予報は、人類が文字を発明して数百年もの長期にわたってデータを蓄積できるようになって初めて実現した。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日食や月食の予報は、まだ地動説はおろか地球が丸い事さえ知られていなかった時代に既に行われていた。長期にわたる記録を整理して、食の発生に周期性があるのを発見したためである。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "古代において、日食は重大な関心を持たれていた。中国の日食予報として著名な逸話に、紀元前2000年頃の夏の時代に、羲氏と和氏という2名の司天官が酒に酔って日食の予報を怠ったため処刑された、と『書経』に記されている、いわゆる「仲康日食」がある。 事実であれば当時既に日食の予報が行われていた事になって、世界最古の日食予報になる。唐代以降、東西の多くの天文学者がこの日食の比定を試みたが、この記事に完全に符合するものは見つかっていない。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "中国においては1994年に存在が確認された「上博楚簡」と呼ばれる竹簡の中に『競建内之』と称される物があり、斉の桓公が皆既日食を恐れて鮑叔の諫言を聞いたという故事が載せられている。『史記』においては専横を敷いていた前漢の最高権力者呂后が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『晋書』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。中国の日食予報は戦国時代から行われていたが、三国時代に編纂された景初暦において高度な予報が可能となった。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "このため、日本の朝廷でも持統天皇の時代以後に暦博士が日食の予定日を計算し天文博士がこれを観測して密奏を行う規則が成立した。養老律令の儀制令・延喜式陰陽寮式には暦博士が毎年1月1日に陰陽寮に今年の日食の予想日を報告し、陰陽寮は予想日の8日前までに中務省に報告して当日は国家行事や一般政務を中止したとされている。六国史には多くの日食記事が掲載されているが、実際には起こらなかった日食も多い。ただしこれは日食が国政に重大な影響を与えるとする当時の為政者の考えから予め多めに予想したものがそのまま記事化されたためと考えられ、実際に日本の畿内(現在の近畿地方)で観測可能な日食(食分0.1以上)については比較的正確な暦が使われていた奈良時代・平安時代前期の日食予報とほぼ正確に合致している。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1183年の治承・寿永の乱の水島の戦いでは戦闘中に金環日食が発生し、源氏の兵が混乱して平氏が勝ったと源平盛衰記などの史料に記されている。当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "江戸時代の1839年(天保10年)には、金環食が発生した。幕府の役人は従来の中国式の予測時刻と伝来したばかりの西洋式の金環食の予測時刻、2種類の計算を行い、築地の海岸で観測を行った。西洋の方法での予測が的中し見える位置、時刻ともに正確であった。以降、西洋の天文学が日本で急速に広まっていった。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "西洋においては、トルコから西アジアにかけて領土があったメディア王国とリディア王国が長期にわたり戦争を続けていた紀元前6世紀始め頃、ギリシャの哲学者タレスが予言していた日食が実際に起き、両国は和を結んだという話が、ギリシャの歴史学者ヘロドトスの『歴史(ヒストリア)』に書かれている(日食の戦い)。これも多くの天文学者の興味をそそり、その日食を特定する試みが為され、紀元前585年5月28日の皆既日食と推定された。この日食は南アメリカ北端から北大西洋を通り、ヨーロッパを経てトルコ北部からカスピ海の南に達したものであるが、異説もある。タレスは、古代バビロニアで考案された予報術を用いたとヘロドトスは記し、これは次に述べるサロスであるとの説もあるが、サロスは当時のギリシャでは知られていなかったというのが天文学史の主導的見解であり、タレスは、それまでに伝えられていた大雑把な法則に基づいて日食発生の年を予言したが、月日までは言及できなかったと考えられる(タレスの日食)。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "最も古くから知られていたのは前述の「サロス」と呼ばれるもので、紀元前6世紀頃にバビロニアで発見されていたとされ、またギリシャでは紀元前443年に数学者のメトンにより「メトン周期」が発見された。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "既に記したとおり、1朔望月は29.5306日であり、223朔望月は6585.3212日となる。月が交点を出て再び戻って来る(交点から始まる軌道を一周する)交点月は27.2122日であり、242交点月は6585.3575日で、前者にきわめて近い。また月が地球をめぐる公転軌道のうちで近地点に来た時を近点月と言うが、239近点月は6585.5375日で、やはり非常に近い。さらに1食年346.6201日を19倍する、すなわち19食年は6585.782日で、これも大差がない。そのため、223朔望月に当る18年と11日(閏年の配置によっては10日)と8時間ほどの周期でよく似た状況の日食(継続時間、食の種類等)が繰り返される。これがサロスと呼ばれる周期である。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ただ、余分の8時間が曲者で、次回の日食は経度でおよそ120度西にずれた所で起こる。その次はおよそ240度西方に動き、3回目で元の位置に戻る。そのため、実用上は3サロス、すなわち54年と約1ヶ月を用いるのがよい。下の表にサロスの実例を示す。3サロス毎にほぼ同じところで日食が起こっている事や、サロスは近点月や食年の倍数とよく一致しているので、毎回起こる食の状況も似ていることがわかる。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "表を見ると、食により3サロスの間に経路が少し北上又は南下した事が分かる。サロスは不変ではなく、1000年程度の期間で、極地方の部分食から始まって少しずつ北上(あるいは南下)して赤道を越え、最後は反対側の極地方の部分食となって終わるという経過をたどる。また、サロス周期は約18年であるが、日食は毎年起こる。これは、複数のサロスが存在するためで、実際に18年間に40個ほどのサロスが食を繰り返しており、オランダの天文学者ゲオルグ・ファン・デン・ベルグがサロスに付けた通し番号が一般に使用されている。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1年は365.2422日であり、19年は6939.6018日となる。一方、235朔望月は6939.6675日で、非常に近い。さらに20食年(346.6201日×20=6932.402日)とも近似する。したがって、ある日食からちょうど19年後には再び日食が起こる。これをメトン周期と呼び、中国では「章」又は「章法」と言った。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ただし、19年及び235朔望月に対し20食年との差が7日余り出るのが問題で、回を重ねるごとにこれが大きくなるので、予報としては5 - 6回くらいで使えなくなる。下の表にメトンの例を示す。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "他にも日食の周期性を用いた予報の種類は多い。", "title": "日食の予報" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "食の経過及び状況を示すために「食分」という数値が用いられる。", "title": "日食の経過" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "皆既食や金環食などの中心食は、多くの場合数分、時には数秒以下しか見られない。皆既食の場合、月が地球に近い所(近地点)にあって地球から見た際の視直径が大きく、地球が太陽から遠い所(遠日点)にあって地球から見た太陽の視直径が小さい時には、月が太陽を隠す時間が長くなり、継続時間も長くなる。また、月の影は地球上を西から東へ秒速1km(時速3600km余り)ほどで進んで行くが、赤道に近い低緯度地方で正午頃に見られるなら、地球の自転により月の影の移動速度が相対的に遅くなり、やはり継続時間が延びる。さらに、白道は黄道から5.1度ずれているので、地球に落ちる月の影も地表面を斜走するため、地球の自転方向が食の中心線と平行になる地域から見れば継続時間が伸びる。", "title": "日食の経過" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "そうした好条件が重なれば、皆既日食の継続時間は、稀ではあるが7分を越える。紀元前4000年から紀元6000年までの間では、紀元(西暦)2186年7月16日に起きる皆既日食が最も長く、7分29秒に及ぶ。この日食はサロス番号139番に属しており、このサロスは皆既継続時間が非常に長く、前後併せて5回も7分以上の皆既が起こる。21世紀中は7分を越える皆既日食はない。", "title": "日食の経過" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "金環食では、皆既食と逆の条件があれば長くなる。太陽と月の平均視直径を比較すると、太陽が32分、月が31分で、前者がわずかに大きく見える。仮に月と地球の公転軌道が完全な円であったなら金環食しか見られなくなる。軌道が楕円であるため視直径が変動し、皆既日食も金環日食も見られるのであるが、このような条件もあって、金環食の方が継続時間の長いものが多い。皆既食は最長でも7分30秒程度であるのに対し、金環食は稀に12分以上継続する事がある。", "title": "日食の経過" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "皆既日食の際、普段は光球の輝きに妨げられて見ることができないコロナや紅炎の観測が可能になり太陽の構造・物理的性質を調べる絶好の機会となり、太陽のみならず恒星一般の研究にも大きな役割を果たす。", "title": "観測" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "第2接触直前または第3接触直前には、月の表面にある起伏の谷間から太陽の光が点々と連なって見える状態になることがある。これを、原理を解明したフランシス・ベイリーの名を取ってベイリー・ビーズ(ベイリーの数珠)といい、古くから月に起伏がある証拠とされてきた。", "title": "観測" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また皆既食にて太陽がすべて隠れる直前と皆既が終わった直後、又は北限界線や南限界線から食を見る場合には、太陽の光が一ヵ所だけ漏れ出て輝く瞬間があり、黒い太陽(実際は月)の周囲に細く内部コロナが輪状に見えるのと併せて宝石の着いた指輪に似た形状となる。これをダイヤモンドリングと言い、皆既日食の見所の一つである。これも、月面にある起伏による現象である。", "title": "観測" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "皆既日食が起こると空がかなり暗くなり星の観測も可能な状態になる。そのわずかな時間を利用して1919年、一般相対性理論の検証がアーサー・エディントンによって行なわれた。皆既日食中に太陽周辺の星を観測すると、星からの光は太陽の重力場を通るため屈曲することになり、位置がわずかにずれる。一般相対性理論で予想される数値と実際に観測された数値とを比較することで、一般相対性理論の確かさが確認された。", "title": "観測" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "太陽光は光量が大きく有害な紫外線なども含まれるため、部分食や金環食のように太陽の光球が完全に隠されない日食を肉眼で直接観測すると日食網膜症を引き起こし、網膜のやけどや後遺症、ひどい場合には失明を引き起こすことがあるため一定の性能を満たした観測機器が必要となる。", "title": "観測" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "人類にとって太陽はすべての生命の根源であり、世界全体を照らす最も重要な天体である事は古くから周知されており、世界各地の神話や宗教などで最高神として崇められてきた。その太陽が陰り、時には完全に隠れ、明るかった空が暗くなるということは、科学的な説明が浸透する以前の人々にとっては重大な出来事として認識された。そのため、彗星と共に天変地異を予告する凶兆として恐れられた。", "title": "日食観測の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "近代天文学が確立する以前、多くの文明で日食や月食を説明する神話が長い間語り継がれてきた。これらの神話の多くでは、日月食は複数の神秘的な力の間の対立や争いによって起こるとされた。例えばヒンドゥー教の神話では、食が起こる月の昇交点がラーフ、降交点がケートゥという2人の魔神として擬人化され、この二神の働きによって食が起こると考えられた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で「羅睺星」「計斗星」の名で七曜に付け加えられ、九曜の一員を成している。", "title": "日食観測の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また北京天文台には日食神話を描いた石の彫刻があり、以下のような説明が添えられている。", "title": "日食観測の歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ここで金烏とは金色(太陽)の中にいるという三本足の烏(八咫烏を参照のこと)であり、ヒキガエルは月のクレーターの形に由来するものである。この解説文からは、当時の文化において天文現象としての事実の認識と現象に対する愉快な見立てとが両立していたことが窺える。", "title": "日食観測の歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ヴァイキングたちの伝承を記した『スノッリのエッダ』ではスコルと呼ばれる狼が太陽を常に追いかけており、狼が太陽に追いつくと日食になるという記述がある。そして、世界の終わりの日に狼はついに太陽を完全に飲み込んでしまうという。", "title": "日食観測の歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本においては、計算上は邪馬台国の時代、卑弥呼が死んだとされる247年と248年に日本列島で日食が起きた可能性が推測されている。国立天文台では「特定された日食は『日本書紀』推古天皇36年3月2日(628年4月10日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」としている。", "title": "日食観測の歴史" } ]
日食とは太陽が月によって覆われ、太陽が欠けて見えたり、あるいは全く見えなくなったりする現象である。 日蝕と表記する場合がある。 朔すなわち新月の時に起こる。
{{Otheruses}} [[ファイル:EclipseMarch06.jpg|thumb|right|200px|[[2006年]][[3月29日]]の[[トルコ]]での皆既日食]] [[ファイル:Solar eclipse at kashima Japan May 21 2012.jpg|thumb|right|200px|[[2012年]][[5月21日]]に[[茨城県]][[鹿嶋市]]で観測された金環日食]] [[ファイル:Solar_eclipse.svg|thumb|right|200px|日食をかなり簡易に描いた図。陰の頂点に当たる地域では皆既日食という天文現象が見られる。頂点の周辺(灰色部分)は部分日食が見られる範囲である。]] '''日食'''<ref name="ox"/>(にっしょく、solar eclipse<ref name="ox"/>)とは[[太陽]]が[[月]]によって覆われ、太陽が欠けて見えたり、あるいは全く見えなくなったりする現象である。 '''日蝕'''と表記する場合がある。 {{Main|食 (天文)#表記}} [[朔]]すなわち'''新月'''の時に起こる。 == 種類 == [[ファイル:Eclipse fromISS 2006-03-29.jpg|thumb|皆既日食で[[月]]の影に入ったトルコと[[キプロス]]([[国際宇宙ステーション]]より、[[2006年]][[3月29日]])]] 月と太陽の視[[直径]]はほとんど同じであるが<ref group="注釈">実際には月の平均視直径は31分、太陽は32分で、太陽がわずかに大きいが、肉眼では判別できない。</ref>、月の[[地球]]周回[[軌道 (力学)|軌道]]および[[地球]]の[[公転]]軌道は[[楕円]]であるため、地上から見た太陽と月の視直径は常に変化する。月の視直径が太陽より大きく、太陽の全体が隠される場合を'''皆既日食'''(または'''皆既食'''。total eclipse)という。逆の場合は月の外側に太陽がはみ出して細い光輪状に見え、これを'''金環日食'''(または'''金環食'''。annular eclipse)と言う。場合によっては月と太陽の視直径が食の経路の途中でまったく同じになるため、正午に中心食となる付近で皆既日食、経路の両端では金環日食になることがあり、これを'''金環皆既日食'''(または'''金環皆既食'''。hybrid eclipse)と呼ぶが、頻度は少ない。皆既日食と金環日食および金環皆既日食を'''中心食'''と称する。 中心食では[[本影#本影|本影]]と金環食影が地球上に落ちて西から東に移動しその範囲内で中心食が見られ、そこから外れた地域では[[本影#半影|半影]]に入り太陽が部分的に隠される'''部分日食'''(または部分食)が見られる。半影だけが地球にかかって、地上のどこからも中心食が見られないこともある。 また日の出の際に太陽が欠けた状態で上る場合を特に'''日出帯食'''、逆に欠けた状態で日の入りを迎える場合を'''日入帯食'''(日没帯食)と呼ぶ。この場合、いずれも食の最大を迎える前と食の最大を過ぎた後に分類される。 == 原因 == [[Image:Lunar eclipse diagram-en.svg|300px|thumb|黄道(黄色線)・白道(灰色線)。図で両方の交わる部分が交点で、上を降交点(月が天の北極側から南極側に移る)、下を昇交点(同じく、南極側から北極側へ)と呼ぶ。日食は、月と太陽が同時に交点又はその付近に位置した場合に起こる。]] 直接の原因は、地球の周囲を公転する月が地球と太陽の間に来て、月の影が地球上に落ちる事による。月の影に入った地域では、太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる。 [[ファイル:Finsternis1.jpg|thumb|right|300px|日食が見られる場合と見られない場合を模式的に描いた図。左下と右上では、朔(新月)の時にちょうど地球と太陽の間に月が入っており、月の影が地球に達して日食となり、また逆に月が地球の影に入って月食になる。左上と右上では、朔になっても月が地球と太陽の間にないため、月の影は地球の上側(右上の図)や下側(左上の図)を通り、日食は起きない。月食も同様。]] 地上から見た太陽は、毎日昇っては沈む「日周運動」とは別に、[[黄道]]と呼ばれる仮想の軌道を1年で1周している<ref group="注釈">もちろん、実際は地球が太陽の周りを1年で公転しているのであるが、日食の原理を理解するためには、視点を変え、太陽が天球の上を動いていると考えるとわかりやすい。</ref>。太陽は明るいので目で見たのではわからないが、[[星座]]の間でゆっくり位置を変え、365.2422日で元の点に戻る。すなわち1日に角度で約1度動く事になる<ref group="注釈">360度÷365.2422日≒1度/日</ref>。同じく月は、[[白道]]と呼ばれる仮想の軌道を27.3217日で1周する。地上から見ると、月の方がおよそ13倍も速く天球上を動く事になる<ref group="注釈">360度÷27. 32日≒13度/日</ref>。ただし、月が太陽を追い越す時が朔すなわち新月であり、地球を挟んで月が太陽と180度の位置に来た時が[[望]]すなわち満月であるが、朔から次の朔までの時間、つまり満ち欠けの周期は29.5306日である。月の公転周期27.3217日は朔望月の周期29.5306日と一致しないが、これは公転周期が宇宙空間(恒星)を基準に置いているためである。一方、地球は太陽の周囲を円に近い軌道を描いて公転しているため、月が朔の日から1周公転しても地上から見る太陽が黄道上を先行してしまっており、月が太陽に追いついて次の朔になるには2.2089日余分にかかる事になる。もし黄道と白道とが一致していれば、29.5306日ごとに起こる朔においては必ず月が太陽を覆い隠す、つまり月の影が地球上に達して日食が起こり、望には必ず月は地球の影に入って[[月食]]が起こるはずである。しかし実際には黄道と白道とは約5.1度の傾きでずれているため、朔の時(日月の合と言う)でも月が太陽の上や下を通過する場合や、望(日月の衝と呼ぶ)に際しても地球の影の外を通る場合が多い。日食が起こるのは、月が黄道・白道の交わる点つまり交点([[月の交点|月の昇交点・降交点]])付近で朔となる時に限られ、月食も交点付近で望になる時に限られる。太陽を基準にすれば、太陽が交点付近にいる時に月が来て朔になれば日食が起こる事になる。 太陽が交点付近にある期間を'''食の季節'''と言い、日食はこの期間以外には発生しない。交点は2ヶ所ある、つまり昇交点と降交点が相対しているので、太陽が黄道を1周する間に日食が起こる機会が2度ある。ただし、交点は太陽による月への[[摂動]]のため、1年に19度ずつ後退しており、太陽が交点を出て再び戻って来る周期は346.6201日となる。これを「食年」と称するが、実際の日食や月食は約346日から347日周期(交点は2ヶ所あるので、起こるとすれば半分の約173日周期になる)では起こっていない。日食は朔の時にしか起こらないから、食年に最も近い日数となる12朔望月すなわちおよそ354日周期(交点は2ヶ所あるので、半分の6朔望月、およそ177日周期になる)で見られる<ref group="注釈">29.5306日×12≒354日</ref>。表は、21世紀初頭の日食の一覧であるが、桃色・水色で区分したそれぞれの日食は、ほぼ354日周期で発生している事がわかる。 {| class="wikitable sortable" style="text-align:center; font-size:small" !年月日<small>(世界時)</small>!!食の種類!!食の起こる地域!!備考 |- |2007年3月19日||部分食||ユーラシア中央・東部|| |- |2007年9月11日||部分食||南アメリカ中部・南部、南極|| |-style="background:pink" |2008年2月7日||金環食||南氷洋、南極半島|| |-style="background-color:#6cf" |2008年8月1日||皆既食||北アメリカ北端、北極、シベリア、中国西部|| |-style="background:pink" |2009年1月26日||金環食||南大西洋、南インド洋、インドネシア、フィリピン|| |-style="background-color:#6cf" |2009年7月22日||皆既食||インド、中国南部・中部、[[奄美群島]]、南太平洋中部|| |-style="background:pink" |2010年1月15日||金環食||中央アフリカ、インド洋、東南アジア、華北|| |-style="background-color:#6cf" |2010年7月11日||皆既食||ニュージーランド北島洋上、南太平洋、南アメリカ南端||日本時間では12日 |- |2011年1月4日||部分食||ヨーロッパ、北アフリカ、中央アジア|| |- |2011年6月1日||部分食||グリーンランド、東シベリア||日本時間では2日 |- |2011年7月1日||部分食||南氷洋|| |- |2011年11月25日||部分食||南大西洋、南氷洋、オーストラリア南方|| |-style="background:pink" |2012年5月20日||金環食||華南、日本、アリューシャン列島、北アメリカ||日本時間では21日 |-style="background-color:#6cf" |2012年11月13日||皆既食||オーストラリア北部、南太平洋、南アメリカ西沖|| |} ※表のデータは、主として『理科年表 平成26年』(丸善 2013年)によった。 食年(346.6201日)と12朔望月(354.3672日)には7〜8日もの差があるが、それでうまく日月が重なり、日食が起こるであろうか。太陽と月は共に30分前後の視直径であるから、ちょうど交点でなくとも、その前後の場所で出会えば食が起こり得る。その範囲は、条件により多少異なるが<ref group="注釈">月が近地点にあれば大きく見えて白道上を早く移動し、地球が遠日点にあれば太陽は小さく見えて黄道上をゆっくり動く、等。</ref>、交点の前後15度から18度程度である。仮に交点から15度もしくは18度近く離れた所で月と太陽が最接近(日月の合)すれば、月は太陽の一部を隠して北極もしくは南極付近で食が見られる。その約354日後には日月は更に交点の近くで合となり(最接近し)、低緯度で中心食となる。しかしその後は月と太陽は離れる一方となり、4回程度で食は起こらなくなる。上の表で、例えば桃色の場合は南極での中心食で始まり、急速に北上して北半球で周期を終えており、水色で示した食は、北極に近い高緯度での中心食に始まり、南下して南極での部分食として終わっているのがわかる。すなわち、太陽が交点から反対側の交点に行くには173.3101日弱かかり、元の交点に戻るのには346.6201日を要する一方、6朔望月は177.1836日、12朔望月は354.3672日である。従って、月と太陽の位置のずれは回数を重ねるごとに大きくなる。それは、ある時点で日食が起きた場合、いつまでもその状況は続かず、4回ほどで途切れてしまう事を意味する。回を重ねるたびに日月の距離が大きくなり、ついには食を起こさなくなるのである。むろん、新たな周期が始まっては繰り返され、よって日食が途絶える事はないのは、表を見ても明らかである。 通常は交点での日月の合は1回であるが、太陽の移動速度は1日に1度というゆっくりしたものであるため、交点から離れた手前で合となって食を起こした場合、29.536日後に再び月が巡って来た時にもまだ食の起こる範囲内にいる場合がある。従ってこのような場合には1ヶ月足らずの間隔で日食が見られる。ただし、日月の位置の隔たりが大きいので、起きる食は高緯度での部分食がほとんどで、表の2011年がそれに当たる。まれに中心食になっても極地で辛うじて見られる程度である。 さて、黄道と白道は天球を取り巻く円(正確には楕円)で表わされる。これらが傾きを持って交差しているから、交点は円の中心をはさんで2ヶ所ある事はすでに何度も述べたとおりで、従って食の季節は通常は年2回であり、日食は1年に最低2回は必ず起こる。しかし、食の季節が3回になる年もある。これは、既に述べた如く、交点が太陽の動く方向と逆向きに動いている(前進している)ためである。もし交点が固定されていれば太陽は平均およそ365日周期で元の交点に戻り、これが食年となるが、実際には346.6201日でしかない。食年は1年より19日ほど短いので、年の初めに食の季節があれば、年末に3度目の食の季節が巡って来る事になる。一方、前述の通り1朔望月は29.5306日であるから、これを12倍すると約354日になり、やはり1年よりおよそ11日短い。従ってある年の1月初めに日食があれば、その年半ばと12月末の3回日食が発生する機会が訪れる。前述のように、食の季節には日食が少なくとも1回、多い時には2回起こる。よって日食は年によっては3回ないし4回、まれには5回起こる([[1935年]])。 ただし、日食が連続して起こるにはどうしても1朔望月つまり約29.5306日を隔てなければならないから、仮に3回の食の季節に全て2回ずつ日食が起きたとしても、その期間は365日を越えるため、最も多い年でも日食の回数は5回が限度である。また、食の季節であっても月食は起きないこともある。月食が全くない年が数年に1度あり、発生頻度で見れば日食は月食より多い。詳しくは[[月食]]を参照。しかし日食は月の影に入った地域でしか観測できないため、地球全体で見れば日食は頻繁に起きていてもある地域に限定すると日食が観測される事は少ないが、月食は起きている時に月が見えている所では必ず観測できるので、一般には月食の方が見られる頻度が多い。 上記の例から、日食に周期性があり、予報できる可能性がある事がわかる。 == 日食の予報 == 前の章で記述した354日周期又は177日周期は、地球全体から見れば最も短く扱いやすい予報法であるが、古代人の予報手段には使えない。食が起こる地域が大きく変動する一方、古代の人々は自分たちの居住地から大きく移動する事はなかったし、遠く離れた地域からの情報を入手するのも不可能であったから、地球全体での食の発生を知る事はできず、日食を見る機会はもっぱら自分たちの住む地域とその周辺に限られる。そうした制限下では、日食はあたかも不規則に起こるように見えるため、現在のような天文学知識の無い古代の人々は、突然太陽が欠け、時には見えなくなる日食の発生を非常に恐れたが、やがてその発生に強い規則性があることが知られ、原因はわからないながらも予報できるようになった。 実際には、日食・月食は天球上の月と太陽の規則的な運行周期<ref group="注釈">現実には月や地球は他の惑星などの摂動を受け、運行は複雑なものになるが、ここでは考慮しない。</ref>の一致により発生するもので、いわば日月の運行周期の[[公倍数]]として考え得る。その視点に立てば、地球上の1地点でも食はかなり規則的に起きるので、ある程度の期間にわたって食発生の統計が得られれば予報が可能となる。ただし、そうした周期は非常に長いので、人間の一生程度の時間では把握できない。食の予報は、人類が文字を発明して数百年もの長期にわたってデータを蓄積できるようになって初めて実現した。 === 予報の歴史 === 日食や月食の予報は、まだ[[地動説]]はおろか地球が丸い事さえ知られていなかった時代に既に行われていた。長期にわたる記録を整理して、食の発生に周期性があるのを発見したためである。 古代において、日食は重大な関心を持たれていた。中国の日食予報として著名な逸話に、紀元前2000年頃の[[夏 (三代)|夏]]の時代に、[[羲和|羲氏]]と[[羲和|和氏]]という2名の司天官<ref group="注釈">「天文学者」と表記した書籍もあるが、当時の中国には現在のような天文学者という職種は無かった。実際には、暦の作成のために天体観測をする官僚である。</ref>が酒に酔って日食の予報を怠ったため処刑された、と『[[書経]]』に記されている、いわゆる「{{Interlang|zh|仲康日食}}」がある<ref>{{Cite wikisource|title=尚書/胤征|wslanguage=zh}}の「乃季秋月朔,「辰弗集于房,瞽奏鼓,嗇夫馳,庶人走。」羲和尸厥官,罔聞知,昏迷于天象,以干先王之誅。」を指す。{{Cite wikisource|title=史記/卷002#中康|wslanguage=zh}}に見える「帝[[中康]]時,羲、和湎淫,廢時亂日。胤往征之,作胤征。」、また{{Cite wikisource|title=今本竹書紀年/夏紀#五年_2|wslanguage=zh}}の「秋九月庚戌朔,日有食之。命胤侯帥師征羲和。」も同じ出来事を指すと考えられている。この他、{{Cite wikisource|title=春秋左氏傳/昭公#昭公十七年|wslanguage=zh}}に見える「故夏書曰.辰不集于房.瞽奏鼓.嗇夫馳.庶人走.此月朔之謂也.當夏四月.是謂孟夏.」は時期が異なるが関連すると考えられている。</ref>。 事実であれば当時既に日食の予報が行われていた事になって、世界最古の日食予報になる。唐代以降、東西の多くの天文学者がこの日食の比定を試みたが、この記事に完全に符合するものは見つかっていない<ref>[[斉田博]] 『おはなし天文学 3』地人書館 1975年 pp.19-31 「義と和が予報に失敗した日食」、[[斉藤国治]] 『星の古記録』 岩波新書 1982年 pp.44-47 「『書経』の日食」、その他による。従来の研究では[[三統暦]]などをもとに[[中康]]の在位を紀元前2100年頃と推測し、この時期の秋の日食から比定されたが、皆既日食が起きなかったもの、皆既日食は起きたが長安では見られなかったものなどであり、『書経』の記述に完全に一致するものは見つかっていない。「胤征」はいわゆる[[書経#偽古文尚書|偽古文尚書]]の一篇であるのでこの記述が信頼できないという見方もある。近年の研究では、斎藤国治と[[小沢賢二]]の共同研究のように、中康の在位期間を見直して紀元前1900年頃に比定するものがある(斎藤・小沢『中国古代の天文記録の検証 』(雄山閣、[[1992年]]) ISBN 4639011121 第1章)。</ref>。 中国においては[[1994年]]に存在が確認された「[[上博楚簡]]」と呼ばれる竹簡の中に『競建内之』と称される物があり、[[斉 (春秋)|斉]]の[[桓公 (斉)|桓公]]が皆既日食を恐れて[[鮑叔]]の諫言を聞いたという故事が載せられている<ref>『[[春秋左氏伝]]』に類似した内容の記事が[[昭公 (魯)|昭公]]26年([[516年]])の条に載せられているが、桓公ではなく[[景公 (斉)|景公]]のこととされ、かつ公が恐れたのは[[彗星]]とされている。だが、魯国の記録とされている『[[春秋]]』経本文には、対応する彗星に関する記事は無いこと(短時間かつ地域が限定される日食と違い、彗星ならば数日間にわたって地球上の広範な地域で観測可能である)、そもそも「彗星」という呼称は戦国時代以後に発生したもので当該記事以外の『左氏伝』の記事では[[春秋時代]]当時の呼称である「星孛」で統一されていることから、『左氏伝』の記事は元は桓公と日食の話であったものが戦国時代以後に景公と彗星の話として誤って混入された可能性が高いとされる。また、[[小沢賢二]]は戦国時代に日食予報が行われるようになったことで日食に対する見方が変化したことも日食→彗星への変化の一因としている。(小沢賢二「春秋の暦法と戦国の暦法」(初出:『中国研究集刊』45号(大阪大学、[[2007年]])/所収:小沢『中国天文学史研究』(汲古書院、[[2010年]]) ISBN 978-4-7629-2872-7 第4章))</ref>。『[[史記]]』においては専横を敷いていた[[前漢]]の最高権力者[[呂雉|呂后]]が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『[[晋書]]』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。中国の日食予報は[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]から行われていたが、[[三国時代 (中国)|三国時代]]に編纂された[[景初暦]]において高度な予報が可能となった。 このため、[[日本]]の[[朝廷 (日本)|朝廷]]でも[[持統天皇]]の時代以後に[[暦博士]]が日食の予定日を計算し[[天文博士]]がこれを観測して[[天文密奏|密奏]]を行う規則が成立した。[[養老律令]]の儀制令・[[延喜式]][[陰陽寮]]式には暦博士が毎年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]に陰陽寮に今年の日食の予想日を報告し、陰陽寮は予想日の8日前までに[[中務省]]に報告して当日は国家行事や一般政務を中止したとされている。[[六国史]]には多くの日食記事が掲載されているが、実際には起こらなかった日食も多い。ただしこれは日食が国政に重大な影響を与えるとする当時の為政者の考えから予め多めに予想したものがそのまま記事化されたためと考えられ、実際に日本の[[畿内]](現在の[[近畿地方]])で観測可能な日食(食分0.1以上)については比較的正確な暦が使われていた[[奈良時代]]・[[平安時代]]前期の日食予報とほぼ正確に合致している。<!-- 参照:細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4 --> [[1183年]]の[[治承・寿永の乱]]の[[水島の戦い]]では戦闘中に金環日食が発生し、[[源氏]]の兵が混乱して[[平氏]]が勝ったと[[源平盛衰記]]などの史料に記されている<ref>『源平盛衰記』には、「天にわかに曇り日の光も見えず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失って」とある。</ref>。当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある<ref>{{Cite news | url = http://mainichi.jp/area/okayama/news/20120519ddlk33040517000c.html | title = スコープ2012:21日に金環日食 源平水島合戦、勝敗分けた天文知識 日食予測、平家が勝利 /岡山 | newspaper = 毎日新聞 | date = 2012-05-19 }}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 [[江戸時代]]の[[1839年]]([[天保]]10年)には、金環食が発生した。幕府の役人は従来の中国式の予測時刻と伝来したばかりの西洋式の金環食の予測時刻、2種類の計算を行い、[[築地]]の海岸で観測を行った。西洋の方法での予測が的中し見える位置、時刻ともに正確であった。以降、西洋の天文学が日本で急速に広まっていった<ref>{{Cite news | url = http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120519/k10015242411000.html | title = 江戸時代の金環日食観測は | newspaper = NHK | date = 2012-05-19 }}</ref>。 西洋においては、トルコから西アジアにかけて領土があったメディア王国とリディア王国が長期にわたり戦争を続けていた紀元前6世紀始め頃、ギリシャの哲学者[[タレス]]が予言していた日食が実際に起き、両国は和を結んだという話が、ギリシャの歴史学者[[ヘロドトス]]の『歴史(ヒストリア)』に書かれている([[日食の戦い]])。これも多くの天文学者の興味をそそり、その日食を特定する試みが為され、紀元前585年5月28日の皆既日食と推定された。この日食は南アメリカ北端から北大西洋を通り、ヨーロッパを経てトルコ北部からカスピ海の南に達したものであるが、異説もある。タレスは、古代バビロニアで考案された予報術を用いたとヘロドトスは記し、これは次に述べる'''[[日食#サロス|サロス]]'''であるとの説もあるが、サロスは当時のギリシャでは知られていなかったというのが天文学史の主導的見解であり、タレスは、それまでに伝えられていた大雑把な法則に基づいて日食発生の年を予言したが、月日までは言及できなかったと考えられる([[タレスの日食]])。 最も古くから知られていたのは前述の「サロス」と呼ばれるもので、紀元前6世紀頃にバビロニアで発見されていたとされ、またギリシャでは紀元前443年に数学者のメトンにより「メトン周期」が発見された<ref>『理科年表 平成26年』 丸善 2013年 による。同じく理科年表によれば、中国ではメトン周期を「章法」と呼び、紀元前4世紀版頃に独立して発見した。</ref>。 === サロス === {{main|サロス周期}} 既に記したとおり、1朔望月は29.5306日であり、223朔望月は6585.3212日となる<ref>ここで扱っている数値は煩雑を避けるため丸めてあるので、ある数値とその倍数が細部で一致しない。一例として、1朔望月はより正確には29.530589日であり、その223倍は6585.321347日となる。(『理科年表 平成26年』)</ref>。月が交点を出て再び戻って来る(交点から始まる軌道を一周する)交点月は27.2122日であり、242交点月は6585.3575日で、前者にきわめて近い。また月が地球をめぐる公転軌道のうちで近地点に来た時を近点月と言うが、239近点月は6585.5375日で、やはり非常に近い。さらに1食年346.6201日を19倍する、すなわち19食年は6585.782日で、これも大差がない。そのため、223朔望月に当る18年と11日([[閏年]]の配置によっては10日)と8時間ほどの周期でよく似た状況の日食(継続時間、食の種類等)が繰り返される。これがサロスと呼ばれる周期である。 ただ、余分の8時間が曲者で、次回の日食は経度でおよそ120度西にずれた所で起こる。その次はおよそ240度西方に動き、3回目で元の位置に戻る。そのため、実用上は3サロス、すなわち54年と約1ヶ月を用いるのがよい<ref group="注釈">3サロス周期をギリシャ語でエクセリグモス(exeligmos)と呼ぶ。</ref>。下の表にサロスの実例を示す。3サロス毎にほぼ同じところで日食が起こっている事や、サロスは近点月や食年の倍数とよく一致しているので、毎回起こる食の状況も似ていることがわかる。 {| class="wikitable sortable" style="text-align:center; font-size:small" !年月日<small>(世界時)</small>!!食の種類!!食の起こる地域 |- |1958年4月19日|| rowspan="5" |金環食||アラビア海、インドシナ、沖縄諸島、日本南沖、北太平洋中部 |- |1976年4月29日||中部大西洋、北西アフリカ、地中海、ユーラシア南部 |- |1994年5月10日||北太平洋東部、北アメリカ、北大西洋、北アフリカ西端 |- |2012年5月20日||華南、日本、アリューシャン列島、北アメリカ |- |2030年6月1日||北アフリカ、地中海、中央アジア、沿海州、北海道 |} {| class="wikitable sortable" style="text-align:center; font-size:small" !年月日<small>(世界時)</small>!!食の種類!!食の起こる地域と食の概要 |- |1937年6月8日|| rowspan="5" |皆既食||南太平洋東部、南アメリカ西岸。皆既継続時間7分4秒。20世紀第2位の長さの皆既日食 |- |1955年6月20日||インド洋西部、東南アジア、南太平洋。皆既継続時間7分8秒。20世紀最長 |- |1973年6月30日||南アメリカ北部、北アフリカ、インド洋。皆既継続時間7分3秒。20世紀第3位 |- |1991年7月11日||中部太平洋、中央・南アメリカ。皆既継続時間6分53秒 |- |2009年7月22日||インド、華中、奄美群島、中部太平洋。皆既継続時間6分39秒。21世紀最長の皆既日食 |} {| class="wikitable sortable" style="text-align:center; font-size:small" !年月日<small>(世界時)</small>!!食の種類!!食の起こる地域と食の概要 |- |1995年10月24日||皆既食||西アジア、インド、東南アジア、西太平洋。最大継続時間2分10秒 |- |2013年11月3日|| rowspan="3" |金環皆既食||北アメリカ東沖、中部大西洋、アフリカ中央。皆既継続時間1分40秒 |- |2031年11月14日||北西太平洋、中部太平洋、パナマ。皆既継続時間1分8秒 |- |2049年11月25日||紅海、アラビア海、インドネシア、西太平洋。皆既継続時間38秒 |- |2067年12月6日||金環食||中央アメリカ、南アメリカ北岸、大西洋、アフリカ中部。皆既継続時間8秒 |} 表を見ると、食により3サロスの間に経路が少し北上又は南下した事が分かる。サロスは不変ではなく、1000年程度の期間で、極地方の部分食から始まって少しずつ北上(あるいは南下)して赤道を越え、最後は反対側の極地方の部分食となって終わるという経過をたどる。また、サロス周期は約18年であるが、日食は毎年起こる。これは、複数のサロスが存在するためで、実際に18年間に40個ほどのサロスが食を繰り返しており、オランダの天文学者ゲオルグ・ファン・デン・ベルグがサロスに付けた通し番号が一般に使用されている。 === メトン(章法) === {{main|メトン周期}} 1年は365.2422日であり、19年は6939.6018日となる。一方、235朔望月は6939.6675日で、非常に近い。さらに20食年(346.6201日×20=6932.402日)とも近似する。したがって、ある日食からちょうど19年後には再び日食が起こる。これを'''メトン周期'''と呼び、中国では「章」又は「章法」と言った。 ただし、19年及び235朔望月に対し20食年との差が7日余り出るのが問題で、回を重ねるごとにこれが大きくなるので、予報としては5 - 6回くらいで使えなくなる。下の表にメトンの例を示す。 {| class="wikitable sortable" style="text-align:center; font-size:small" !年月日<small>(世界時)</small>!!食の種類!!食の起こる地域 |- |1993年5月21日||部分食||北アメリカ、北極、ユーラシア北西部 |- |2012年5月20日|| rowspan="3" |金環食||華南、日本、アリューシャン列島、北アメリカ |- |2031年5月21日||アフリカ大陸、インド南端、インドネシア |- |2050年5月20日||ニュージーランド南東沖、南太平洋 |- |2069年5月20日||部分食||ドレーク海峡付近(南アメリカと南極の間) |} 他にも日食の周期性を用いた予報の種類は多い。 == 日食の経過 == === 影の移動に基づく日食の経過 === [[ファイル:Film_eclipse_soleil_1999.jpg|thumb|400px|right|[[1999年8月11日の日食|1999年8月11日]]の皆既日食の経過]] [[ファイル:Beleuchtung während Sofi.jpg|thumb|400px|日食の進行による地上の明るさ<br />日食が進めば進むほど暗くなることが分かる]] * 月の半影錐が地球を横切り始めると部分食が始まる。 * 月の本影錐が地球を横切り始めると皆既食または金環食が始まる。本影によって起こるこの2つの食を合わせて'''中心食'''と呼ぶ。 * 月の本影錐の軸が地球表面上を移動した軌跡を'''中心食線'''と呼び、この線上では太陽と月が同心円となる。 * 地球表面上での本影の面積が最大になる時点を'''食の最大'''または'''食甚'''と呼ぶ。 * 月の本影錐の軸が地球表面を横切り終わった所で中心食線は終わる。 * 月の本影錐が地球を横切り終わると皆既食または金環食が終わる。 * 月の半影錐が地球を横切り終わると部分食が終わる。 === 月と太陽の位置関係に基づく日食の経過 === * 月が太陽を隠し始めた瞬間を'''第1接触'''と呼ぶ。古い用語では'''初虧'''(しょき)と言う。 * 月縁が太陽の輪郭の内部に完全に含まれた瞬間(金環食の場合)、または月によって太陽が完全に隠された瞬間(皆既食の場合)を'''第2接触'''と呼ぶ。同じく'''食既'''(しょっき)と言う。 * 日月の中心が最も接近した時を'''食の最大'''又は'''食甚'''(しょくじん)と呼ぶ。 * 月が太陽の輪郭の外に出始めた瞬間(金環食の場合)、または太陽が月の背後から再び現れた瞬間(皆既食の場合)を'''第3接触'''と呼ぶ。同じく'''生光'''(せいこう)。 * 月縁が太陽から完全に離れた瞬間を'''第4接触'''と呼ぶ。同じく'''復円'''(ふくえん)。 食の経過及び状況を示すために「'''食分'''」という数値が用いられる。 === 日食の継続時間 === 皆既食や金環食などの中心食は、多くの場合数分、時には数秒以下しか見られない。皆既食の場合、月が地球に近い所(近地点)にあって地球から見た際の視直径が大きく、地球が太陽から遠い所(遠日点)にあって地球から見た太陽の視直径が小さい時には、月が太陽を隠す時間が長くなり、継続時間も長くなる。また、月の影は地球上を西から東へ秒速1km(時速3600km余り)ほどで進んで行くが、赤道に近い低緯度地方で正午頃に見られるなら、地球の自転により月の影の移動速度が相対的に遅くなり、やはり継続時間が延びる。さらに、白道は黄道から5.1度ずれているので、地球に落ちる月の影も地表面を斜走するため、地球の自転方向が食の中心線と平行になる地域から見れば継続時間が伸びる。 そうした好条件が重なれば、皆既日食の継続時間は、稀ではあるが7分を越える。紀元前4000年から紀元6000年までの間では、紀元(西暦)2186年7月16日に起きる皆既日食が最も長く、7分29秒に及ぶ。この日食はサロス番号139番に属しており、このサロスは皆既継続時間が非常に長く、前後併せて5回も7分以上の皆既が起こる<ref group="注釈">2150年、2168年、2186年、2204年、2222年の5回。</ref>。21世紀中は7分を越える皆既日食はない。 金環食では、皆既食と逆の条件があれば長くなる。太陽と月の平均視直径を比較すると、太陽が32分、月が31分で、前者がわずかに大きく見える。仮に月と地球の公転軌道が完全な円であったなら金環食しか見られなくなる。軌道が楕円であるため視直径が変動し、皆既日食も金環日食も見られるのであるが、このような条件もあって、金環食の方が継続時間の長いものが多い。皆既食は最長でも7分30秒程度であるのに対し、金環食は稀に12分以上継続する事がある。 == 観測 == [[ファイル:1851 07 28 Berkowski.jpg|thumb|right|200px|[[1851年]][[7月28日]]に観測された皆既日食の写真]] [[ファイル:Exit Diamond Ring Effect.jpg|thumb|right|200px|ダイヤモンドリング]] 皆既日食の際、普段は光球の輝きに妨げられて見ることができない[[コロナ]]や[[紅炎]]の観測が可能になり太陽の構造・物理的性質を調べる絶好の機会となり、太陽のみならず恒星一般の研究にも大きな役割を果たす。 第2接触直前または第3接触直前には、月の表面にある起伏の谷間から太陽の光が点々と連なって見える状態になることがある<ref group="注釈">皆既日食の場合のみでなく、金環日食の場合でも、減光フィルターなどを通して見られる。</ref>。これを、原理を解明した[[フランシス・ベイリー]]の名を取って'''[[ベイリー・ビーズ]]'''(ベイリーの数珠)といい、古くから月に起伏がある証拠とされてきた。 また皆既食にて太陽がすべて隠れる直前と皆既が終わった直後<!--(より正確には直後のみ:直前はリングにあたるコロナが見えないので)--><!--実際に皆既日食を観測した記録を読むと、皆既直前でも既に内部コロナが見え、ダイヤモンドリングが形成されるそうです。連続写真にも撮られています。-->、又は北限界線や南限界線から食を見る場合には、太陽の光が一ヵ所だけ漏れ出て輝く瞬間があり、黒い太陽(実際は月)の周囲に細く内部コロナが輪状に見えるのと併せて宝石の着いた指輪に似た形状となる。これを'''ダイヤモンドリング'''と言い、皆既日食の見所の一つである<ref>ダイヤモンドリングの語の初出は1925年1月24日に皆既中心食の南限界線がニューヨーク市を通った日食の時で、この食を見た市民が「ダイヤモンドの指輪(ダイヤモンドリング)のようだ」と言ったのが新聞に取り上げられたものである。(『金環日食2012』 株式会社アストロアーツ 2013年)</ref>。これも、月面にある起伏による現象である。 皆既日食が起こると空がかなり暗くなり星の観測も可能な状態になる。そのわずかな時間を利用して[[1919年]]、[[一般相対性理論]]の検証が[[アーサー・エディントン]]によって行なわれた。皆既日食中に太陽周辺の星を観測すると、星からの光は太陽の[[重力場]]を通るため屈曲することになり、位置がわずかにずれる。一般相対性理論で予想される数値と実際に観測された数値とを比較することで、一般相対性理論の確かさが確認された。 === 観測方法と注意点 === [[ファイル:Annular eclipse Pyramid Lake Nevada 052012.jpg|thumb|right|200px|2012年5月21日に[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[ネバダ州]]で観測された金環日食の時系列画像]] 太陽光は光量が大きく有害な[[紫外線]]なども含まれるため、部分食や金環食のように太陽の光球が完全に隠されない日食を肉眼で直接観測すると[[眼外傷#非機械的外傷|日食網膜症]]を引き起こし、[[網膜]]の[[やけど]]や[[後遺症]]、ひどい場合には[[失明]]を引き起こすことがあるため一定の性能を満たした観測機器が必要となる。 * 日食観察グラス(日食グラス)による観測 - 日食を日食観察グラス(日食グラス)で観測する場合、一旦太陽に背を向けてグラスを目に当ててから太陽に向かって振り向くという動作をしなければならない。日食観察グラスの品質や性能についても留意が必要であり、透過率は可視光線で0.003%以下、赤外線で3%以下とされ(いずれも目安)、室内の蛍光灯を見てかすかに確認できる程度の見え方であり、LEDライトなどの強い光にかざしたときにひび割れや穴等の損傷が無いものであることが必要となる<ref name="caa">[http://www.caa.go.jp/safety/pdf/120516kouhyou_1.pdf 日食観察用グラスの使用に当たっての注意喚起] 消費者庁</ref>。20世紀末頃まで一般に用いられてきた、すすを付着させたガラスや通常市販されている黒色の下敷き、カラーネガフィルムによる遮光では不十分である。また、上記のような適切な専用機器を使って正しい観測方法を行ったとしても、時間的な間隔を置かずに継続して観測することによって日食網膜症を引き起こすこともあり、1分観測するごとに2〜3分程度中断して目を休ませるべきだとされており、市販されている日食グラスにもその旨の警告がなされている。 * 減光フィルターを装着した天体望遠鏡・双眼鏡による観測 * 太陽投影板での観測 - 専用の機器がない場合でも、紙や薄い板などに針穴すなわちピンホールを開け、そこに日光を通して壁やスクリーンなどに投影すれば、欠けた太陽の形が安全に観測できる(右中央の写真)。 * [[太陽望遠鏡]]による観測 <gallery> Solar Eclipse Observation - Kolkata 1220425.JPG|溶接用の[[保護面|遮光面]]で観測する人。日食の観測にはこのような強力な遮光が必要 Solar Eclipse 15 Jan 2010 reflection on floor at pallipalayam.jpg|小さな穴を通した影は日食の形になる<ref name="mext120418">日本天文協議会、日本眼科学会、日本眼科医会、2012「[https://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2012/03/27/1319109_1_1.pdf 別紙 2012年5月21日(月曜日) 日食を安全に観察するために]」『[http://www.mext.go.jp/a_menu/kaihatu/space/urishitsu/detail/1319960.htm 平成24年5月21日の日食の観察における幼児・児童・生徒の安全確保に係る注意事項について(平成24年4月18日文部科学省研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付事務連絡)]』2012年2月</ref> Crescent Shadows from tree on wall May 20 2012 Partial Solar Eclipse .theora.ogv|[[木漏れ日]]も太陽像を呈する<ref name="mext120418" /> </gallery> == 日食観測の歴史 == [[File:Antoine Caron Astronomers Studying an Eclipse.jpg|thumb|200px|『日食について研究する天文学者たち』({{仮リンク|アントワーヌ・カロン|en|Antoine Caron}}画、[[1571年]])]] 人類にとって太陽はすべての生命の根源であり、世界全体を照らす最も重要な天体である事は古くから周知されており、世界各地の神話や宗教などで[[太陽神|最高神]]として崇められてきた。その太陽が陰り、時には完全に隠れ、明るかった空が暗くなるということは、科学的な説明が浸透する以前の人々にとっては重大な出来事として認識された。そのため、[[彗星]]と共に天変地異を予告する凶兆として恐れられた。 近代天文学が確立する以前、多くの文明で日食や月食を説明する[[神話]]が長い間語り継がれてきた。これらの神話の多くでは、日月食は複数の神秘的な力の間の対立や争いによって起こるとされた。例えば[[ヒンドゥー教]]の神話では、食が起こる月の昇交点が[[ラーフ]]、降交点が[[ケートゥ]]という2人の魔神として[[擬人観|擬人化]]され、この二神の働きによって食が起こると考えられた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で「[[羅睺星]]」「計斗星」の名で[[七曜]]に付け加えられ、[[九曜]]の一員を成している<ref group="注釈">ラーフは[[仏教]]の[[釈迦]]の息子の名・ラーフラ(''Rāhula''。漢訳、[[羅睺羅]]、らごら)にも用いられたことで知られる。ただし、ラーフラについては別の説もある。古代のインド語では「ラーフ」はナーガ(竜)の頭、「ケートゥ」は尻尾をも意味した。そしてシャカの一族のトーテムは、他ならぬナーガであった。このことからラーフラとは古代インドの言い回しで「竜の頭」を意味したと考えられ、「ナーガの頭になる者」が生まれたことを歓喜した釈迦が名づけたという説である。根拠は古来インドでは一族の跡継ぎがなければ出家することはできず出家を願っていた釈迦には息子の誕生はまたとない吉報であること、また釈迦の父・浄飯王もこの命名を喜んでいることである。</ref>。 また北京天文台には日食神話を描いた石の彫刻があり、以下のような説明が添えられている。 : 「この彫刻の絵は日食の原因を説明している。金烏(太陽の象徴)の中心が[[ヒキガエル科|ヒキガエル]](月の象徴)によって隠されている。[[漢]]時代の人々はこの現象を太陽と月の良い組み合わせと呼んでいた」 ここで金烏とは金色(太陽)の中にいるという三本足の[[カラス|烏]]([[八咫烏]]を参照のこと)であり、ヒキガエルは月の[[クレーター]]の形に由来するものである。この解説文からは、当時の文化において天文現象としての事実の認識と現象に対する愉快な見立てとが両立していたことが窺える。 [[ヴァイキング]]たちの伝承を記した『[[スノッリのエッダ]]』では[[スコル]]と呼ばれる狼が太陽を常に追いかけており、狼が太陽に追いつくと日食になるという記述がある。そして、世界の終わりの日に狼はついに太陽を完全に飲み込んでしまうという。 <!--他の文化圏では日月食は驚くべき、かつ恐ろしい現象とする場合も多かった。[[クリストファー・コロンブス]]が西インド諸島に航海した際、服従の意思を示さない原住民を罰するために日食を起こしてみせて(実際は日食の起こる日を知っていただけ)、パニックになった原住民が彼に服従したというエピソードは有名であるが、文献上の証拠は怪しい。--><!--コロンブスが原住民を服従させたのは日食ではなく、1504年2月29日の皆既月食です。--> <!--現在のところ過去の特定の日食現象には同定されていない。--><!--←文意が不明であるので、勝手ながらコメントアウトいたします。-->日本においては、計算上は[[邪馬台国]]の時代、[[卑弥呼]]が死んだとされる[[247年]]と[[248年]]に日本列島で日食が起きた可能性が推測されている。[[国立天文台]]では「特定された日食は『[[日本書紀]]』[[推古天皇]]36年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]([[628年]][[4月10日]])が最古であり、それより以前は途中の文献がないため[[地球]]の[[自転]]速度低下により特定できない」としている<ref>[http://th.nao.ac.jp/~tanikawa/eclps/moment.pdf 中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動]</ref>。 == 日食の一覧 == {{See|日食の一覧}} == 文化 == * [[天岩戸]] * {{ill2|天狗 (中国)|zh|天狗 (中國)}} - 月と太陽を食べて日食と月食を起こす、9つの太陽を撃ち落とした[[羿]]の飼ってた猟犬。嫦娥の残した薬を舐めて巨大化・狂暴化し嫦娥を追いかけて天に上った。天狗食日(月)を止めさせるため地上では爆竹や銅鑼や太鼓を打ち鳴らすこととしている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="ox">{{Cite book |和書 |author= |date= |title=オックスフォード天文学辞典 |edition=初版第1刷 |publisher=[[朝倉書店]] |page=304 |isbn=4-254-15017-2 }}</ref> }} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2019年12月26日}} {{ページ番号|section=1|date=2019年12月26日}}<!--※推奨されている出典の例:{{Sfn|小沢|2010|p=ページ番号}}--> *<!--おざわ-->{{Cite book |和書 |author=小沢賢二|authorlink=小沢賢二 |date=2010-02 |title=中国天文学史研究 |publisher=[[汲古書院]] |oclc=587064654 |ref={{SfnRef|小沢|2010}} }}ISBN 4-7629-2872-0、ISBN 978-4-7629-2872-7。 * <!--さいだ-->{{Cite book |和書 |author=斉田博|authorlink=斉田博 |date=1975 |title=おはなし天文学3 地球の雲状衛星 |publisher=[[地人書館]] |ref={{SfnRef|斉田博|1975}} }} *<!--さいとう-->{{Cite book |和書 |author=斉藤国治|authorlink=斉藤国治 |editor= |date=1982-10-20 |title=星の古記録 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] 黄版 207 |oclc=833378540 |ref={{SfnRef|斉藤|1982}} }}ISBN 4-00-420207-8、ISBN 978-4-00-420207-3。 *<!--Ridpath-->{{Cite book |和書 |editor=Ian Ridpath|editor-link=イアン・リドパス |translator=[[岡村定矩]] 監訳 |date=2003-11-28 |title=オックスフォード天文学辞典 |origdate= |edition=初版第1刷 |publisher=[[朝倉書店]] |series=オックスフォード辞典シリーズ |oclc=123053781 |page=304 |ref={{SfnRef|Ridpath & 岡村|2003}} }}ISBN 4-254-15017-2、ISBN 978-4-254-15017-9。 **<!--Ridpath-->原著の新装版:{{Cite book |last=Ridpath |first=Ian |author=Ian Ridpath |authorlink=イアン・リドパス |date=2018 |title=A dictionary of astronomy |location=[[オックスフォード|Oxford]] |publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] |language=en |oclc=1078186411 |ref={{SfnRef|Ridpath|2018}} }}ISBN 0-1918-5119-1, ISBN 978-0-1918-5119-3. 別題:''Oxford dictionary of astronomy''. <!--※以下は法人等。--> * <!--アストロアーツ-->{{Cite book |和書 |editor= |date=2013 |title=金環日食2012 |publisher=株式会社[[アストロアーツ]] |ref={{SfnRef|『金環日食2012』|2013}} }} * <!--おおさかだいがく-->{{Cite book |和書 |date=2007-12-28 |title=戦国楚簡研究2007 |edition=第45号 |url=https://hdl.handle.net/11094/61251 |publisher=大阪大学中国学会 |series=『中国研究集刊』別冊 |ncid=AN10163337 |ref={{SfnRef|『戦国楚簡研究2007』}} }}{{ISSN|09162232}}。 *<!--こくりつ-->{{Cite book |和書 |editor=国立天文台|editor-link=国立天文台 |date=2013-11-26 |title=[[理科年表]] 平成26年 |edition=第87冊 机上版 |publisher=[[丸善出版]] |series= |oclc=939447899 |ref={{SfnRef|国立天文台|2013}} }}ISBN 4-621-08739-8、ISBN 978-4-621-08739-8。 <!--その他多数。|※出典無効--> == 関連項目 == {{Col-begin}} {{Col-2}} * [[月食]] * [[食 (天文)]]([[エクリプス]]) * [[サロス周期]] * [[黄道]] * [[白道]] * [[朔]] * [[交点 (天文)]] * [[掩蔽]] * [[太陽面通過]] * [[太陽性網膜症]]([[:en:Solar retinopathy|Solar retinopathy]]) ** [[日食網膜症]](eclipse retinopathy) * [[冥王星の日食]] * [[アポロ・ソユーズテスト計画]]:米ソ宇宙船による人工日食の実験 {{Col-2}} * [[:en:Mursili's eclipse|Mursili's eclipse]]([[紀元前1308年]][[4月13日]] or [[紀元前1312年]][[6月24日]]) * [[:en:Assyrian eclipse|Assyrian eclipse]]([[紀元前763年]][[6月15日]]) * [[日食の戦い]](ハリュス川の戦い)([[紀元前585年]][[5月28日]]) * [[1919年5月29日の日食]] * [[1997年3月9日の日食]] * [[1999年8月11日の日食]] * [[2006年3月29日の日食]] * [[2008年8月1日の日食]] * [[2009年1月26日の日食]] * [[2009年7月22日の日食]] * [[2010年1月15日の日食]] * [[2010年7月11日の日食]] * [[2012年5月20日の日食|2012年5月21日の日食]] {{Col-end}} == 外部リンク == {{Commonscat|Solar eclipse}} * [https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/eclipsex_s.cgi 国立天文台 日食各地予報] * [https://eclipse.gsfc.nasa.gov/ Eclipse Home Page](NASA) * [http://www.live-eclipse.org/index.html Live Eclipse] * [http://eclipse.star.gs/index.htm 黒い太陽にロマンを求めて] * {{Wayback|url=http://www.h3.dion.ne.jp/~eclipse/eclipse.htm |title=21世紀に観測可能な日食情報 |date=20010502161322}} * [https://almus.iic.hokudai.ac.jp/databases/x10553/jp4.html 日食図(日本で観測できる日食)] * {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/turupura/nissyoku/future/kongo_near.html |title=2035年までに日本で見られる日食|date=20130427112539}}(つるちゃんのプラネタリウム) * [http://eclipse.star.gs/dic/hybrid.htm 将来の金環皆既日食](黒い太陽にロマンを求めて) * [http://eclipse.star.gs/english/ Pursue romance in the black sun] * [http://xjubier.free.fr/en/site_pages/Solar_Eclipses.html Solar Eclipse Resources] * [https://www.exploratorium.edu/eclipse Exploratorium] * [https://www.nicovideo.jp/watch/1263556387 ニコニコ動画 太陽 欠けながら沈む 佐賀でも部分日食(2010年1月15日)](佐賀新聞社提供) * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010697 番組エピソード NHKが伝えた日本で見られる金環日食 - NHKアーカイブス] * [https://science.srad.jp/story/19/06/06/180216/ 119年前に撮影された皆既日食の動画が公開される | スラド サイエンス] {{太陽}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:につしよく}} [[Category:日食|*]] [[Category:天文現象]] [[Category:太陽]] [[Category:天文学に関する記事]]
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プログラム
プログラム(英: program、programme、希: prographein(公示する)から)
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プログラム 計画されている催し物やパフォーマンス。→演目。予定。 公営競技における競走(レース)。→レース 長期目標のための一連の活動。 学習計画のこと。→カリキュラムを参照。 政党が有権者に提示する計画。→綱領、選挙公約、マニフェスト あるイベントやパフォーマンスにおけるアイテムや演者の詳細を記した紙や冊子。 演奏会、演劇、運動会、映画などの要素を示したチラシや小冊子のこと。(出演者の紹介や解説などが書かれる場合もある。)→プログラム (冊子)。小冊子、チラシ、演目表、番組表も参照。 ラジオやテレビなどであらかじめ言明されていた時刻に放送されるもの →ラジオ番組、テレビ番組、番組、放送 ある物事の進行についての順序・組み合わせ・筋などのこと。及び、それを書いたもの。 ⇒ 計画、予定、スキーム、スケジュール、デザイン、プラン、プロジェクト、プロットなども参照のこと。 コンピュータやその他の機械をコントロールするために組まれた一連の命令。→プログラム (コンピュータ) 電子楽器をコントロールするために、定められた形式に従って記述された一連の命令。→MIDI カメラのシャッター速度・絞りなどを総合的にコントロールするためにカメラにあらかじめ仕組まれている命令。→AEカメラ 工作機械を制御するための言語。→数値制御 ノミ・ダニの駆除を目的としたノバルティス・アニマルヘルス社の動物用医薬品の商品名。ニテンピラムが有効成分。→ ニテンピラム、ノバルティス
{{Wikt|プログラム}} '''プログラム'''({{lang-en-short|program、programme}}、{{lang-el-short|prographein}}([[公示]]する)から) ;一般概念 *計画されている催し物やパフォーマンス<ref name="oxford">{{Cite web|title=Programme {{!}} Definition of Programme by Lexico|url=https://www.lexico.com/en/definition/programme|website=Lexico Dictionaries {{!}} English|accessdate=2019-11-03|language=en}}</ref>。→[[演目]]。[[予定]]。 ** 公営競技における競走(レース)。→[[レース (曖昧さ回避)|レース]] * 長期目標のための一連の活動<ref name="oxford" />。 ** 学習計画のこと。→[[カリキュラム]]を参照。 ** 政党が有権者に提示する計画。→[[綱領]]、[[選挙公約]]、[[マニフェスト]] * あるイベントやパフォーマンスにおけるアイテムや演者の詳細を記した紙や冊子<ref name="oxford" />。 [[演奏会]]、[[演劇]]、[[運動会]]、[[映画]]などの要素を示したチラシや小冊子のこと。(出演者の紹介や解説などが書かれる場合もある。)→[[プログラム (冊子)]]。[[小冊子]]、[[チラシ]]、[[演目表]]、[[番組表]]も参照。 * ラジオやテレビなどであらかじめ言明されていた時刻に放送されるもの<ref name="oxford" /> →[[ラジオ番組]]、[[テレビ番組]]、[[番組]]、[[放送]] * ある物事の進行についての[[順序]]・[[組み合わせ]]・[[あらすじ|筋]]などのこと。及び、それを書いたもの。 *: ⇒ [[計画]]、[[予定]]、[[wikt:スキーム|スキーム]]、[[スケジュール]]、[[デザイン]]、[[プラン]]、[[プロジェクト]]、[[プロット (物語)|プロット]]なども参照のこと。 *コンピュータやその他の機械をコントロールするために組まれた一連の命令<ref name="oxford" />。→'''[[プログラム (コンピュータ)]]''' ** 電子楽器をコントロールするために、定められた形式に従って記述された一連の命令。→[[MIDI]] ** カメラのシャッター速度・絞りなどを総合的にコントロールするためにカメラにあらかじめ仕組まれている命令。→[[AEカメラ]] **[[工作機械]]を制御するための言語。→[[数値制御]] ;特定の商品名、固有名など * ノミ・ダニの駆除を目的としたノバルティス・アニマルヘルス社の動物用医薬品の商品名。ニテンピラムが有効成分。→ '''[[ニテンピラム]]'''、[[ノバルティス]] ==脚注== {{reflist}} == 関連項目 == * [[番組]] * [[特別:検索/intitle:プログラム|「プログラム」を含む記事名一覧]] * [[プログラムマネジメント]] - 複数のプロジェクトを統括的に管理すること。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:ふろくらむ}} [[Category:英語の語句]]
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コンパイラ
コンパイラ(英: compiler)は、高水準言語で書かれたコンピュータプログラムを、 コンピュータが実行や解釈できる形式に、一括して(※)変換するソフトウェア。 コンパイラの技術書のバイブルとされるAlfred V.Aho(アルフレッド・エイホ)著 Compilers, Principles, Techniques, and Tools(通称「ドラゴンブック」)の第1章1節の冒頭に、コンパイラとはそもそも何かということについて説明が掲載されており、そこには「簡潔に言うと、コンパイラとは、ある言語(プログラミング言語)で書かれたプログラム(ソースプログラム)を読み、それを別の言語で書かれた等価のプログラム(ターゲットプログラム)へと翻訳(translate)するプログラムである。」と書かれており、さらに続けて「コンパイラは、ソースプログラムに含まれるエラーをユーザに報告するという重要なことを翻訳の1プロセスとして行う。」という説明も加えている。 英語の動詞で、あるプログラム言語で書かれたコードを別の言語で書かれたコードに変換することを"compile"(コンパイル)といい、コンパイラとはその変換を一括して(※ )行なうコンピュータプログラムのことである。インタプリタとよく対比される。 (なお、上では「ソースプログラム」「ターゲットプログラム」という古典的用語を含む説明文を紹介したが、最近の技術用語では、変換される前のプログラムを「ソースコード」と呼び、変換後の機械語あるいは中間言語のプログラムなどを「オブジェクトコード」と呼ぶ傾向がある。また機械語は二進数で書かれているので近年では「バイナリコード」ということもある。) よくあるのは、高水準言語で書かれたプログラムを、コンピュータのプロセッサが直接実行できる機械語あるいはアセンブリ言語のような低水準言語あるいは元のプログラムよりも"低いレベル"のコード(例えばバイトコードなどの仮想機械向け中間言語あるいは中間表現)に変換するものである。 コンパイラを俯瞰してみると、この世には圧倒されるほど多種類のコンパイラがある。というのは、ソースコード(ソースプログラム)の記述に使われるプログラミング言語だけに着目しても、FORTRANなど歴史の古い言語から始まり近年勃興してきている言語まで含めると数千にもおよぶプログラミング言語があり、他方、オブジェクトコード(ターゲットプログラム)の記述に使われる言語のほうに着目しても、種類がやはり非常に多く、ソースコードの言語とは別の言語であるかも知れないし、(あるいは中間言語であるかも知れないし)、あるいは機械語であるかも知れないからであり、その機械語もマイクロプロセッサを用いたコンピュータのものからスーパーコンピュータのものまであり多種多様だからである。 またコンパイラの種類には、シングルパス(ワンパスとも。1回で変換作業を完了できるもの)、マルチパス(en:Multi-pass compiler。複数回の作業が必要だが、主記憶が少なくても動くもの)、ロード・アンド・ゴー(変換してすぐに実行を開始するもの)、デバッグ用、最適化用などの種類もある。 →#分類の節で説明 またコンパイルを使ったコンパイル作業は、ひとつのプログラムとして動作する全てのコードをいっぺんにコンパイルするのではなく、モジュール毎などに分けてコンパイルし(「分割コンパイル」)、ライブラリなどはあらかじめコンパイルされているものと合わせて、実行するようにすることも多い。この場合、コンパイラはリロケータブルバイナリを出力し、実行可能ファイルの生成にはリンケージエディタが必要であり、さらに動的リンクで実行する場合はダイナミックリンカ/ローダ(ローダの一種)も必要である。 なお、「コンパイラ(言語) / インタプリタ(言語)」という2分法的な分類は、Java登場以前では一般的で適切だったが、近年では適切でないことも増えている。開発環境などでは、コンパイルした後に実行するというような手続きを1コマンドで行えるものも増えている。そして、Java以降はインタプリタでも実行時コンパイラなどの技術の利用がさかんになってきており、古典的な意味での「コンパイラ」と「インタプリタ」の中間的な性質のツール(プログラム)も増えてきているからである。 なお英語の「compile」はもともと「編集する」「編纂する」という意味の英語であり、「compiler」というのは「編集者」という意味の英語である。 1940年代まで、コンピュータのプログラミングは機械語で直接行なわれていた。プログラムを指して「コード」(英語では暗号を意味する)と呼ぶのは、知らない人間には機械語は全く意味のわからない数値の羅列だからである。しかし、(人間にとって比較的理解のしやすい)十進法の数字で書かれたアドレスを内部表現の二進法に変換する、といったプログラムならばEDSAC(1940年代末に登場した、イギリスのマシン)において既に存在していた。(つまり、この段階で、アセンブラのごく一部の機能に限れば、実現していたことになる) 機械語でのプログラミングは言うに及ばず、アセンブリ言語を用いても、プログラミングというのは面倒な作業である。そういった低水準言語から、人間がより扱いやすい高水準言語が徐々に求められるようになった。また、機械の詳細が抽象化されることにより、高水準なプログラミング言語で書かれた同一のソースコードを元に、詳細仕様が異なる機械でも動くプログラムを生成できる、という利点もあった。1950年代末までに、プログラミング言語がいくつか提案され、実験的なコンパイラがいくつか開発された。 世界初のコンパイラについては、1952年にグレース・ホッパーが書いたA-0 Systemだとされることもある。だが一般的には1957年にIBMのジョン・バッカスのチームが開発したFORTRANコンパイラが世界初の完全なコンパイラであるとされている。一般的なコンパイラの開発では、まず動くものを作ってから最適化の機能が付け加えられるが、最初のFORTRANコンパイラでは、コンパイラが実用になることを示すために、最初から最適化に労力が向けられた。 1960年の、ホッパーらによるCOBOLは複数のアーキテクチャ上でコンパイル可能となった言語の最初期の1つである。 様々なアプリケーション領域で、高水準言語というアイデアは素早く浸透していった。機能が拡張されたプログラミング言語が次々と提案され、コンピュータのアーキテクチャそのものも複雑化していったため、コンパイラはどんどん複雑化していった。 初期のコンパイラはアセンブリ言語で書かれていた。世界初の「セルフホスティングコンパイラ」は、1962年にマサチューセッツ工科大学の Hart と Levin が開発したLISPである。1970年代には、特にPascalやC言語などにおいて、コンパイル対象言語でコンパイラを書くことが一般化した。さらにより高水準の言語のコンパイラは、PascalやC言語で実装することも多い。セルフホスティング・コンパイラの構築には、ブートストラップ問題がつきまとう。すなわち、コンパイル対象言語で書かれたコンパイラを最初にコンパイルするには、別の言語で書かれたコンパイラが必要になる。Hart と Levin の LISPコンパイラではコンパイラをインタプリタ上で動作させてコンパイルを行なった。 機械語にコンパイルするコンパイラもあれば、そうでないコンパイラ(後述)もある。機械語コードのことを、ハードウェアであるプロセッサの生のコード、というような意味でネイティブコードなどと言うことがあり、機械語にコンパイルするコンパイラのことをネイティブコンパイラと言うことがある。 コンパイラに限らず、入力と出力を持つあらゆる変換系は、入力の種類がm種類、出力の種類がn種類あるとすると、m×n種類があることになる。コンパイラの場合、プログラミング言語がm種類、コード生成の対象となる命令セットアーキテクチャがn種類、といったような感じになるわけであり、入力側をフロントエンド、出力側をバックエンドと言うが、中間表現の設計いかんでは、残りの中間処理の部分、特に重要な部分であるコンパイラ最適化を共有できるため、1980年代以降に基本設計が為されたGCCやCOINSやLLVMなどでは、そのようにして多言語・多ターゲットに対応している。 汎用OSなど、開発環境と同じ環境で目的プログラムも動作させるような開発を「セルフ開発」と言い、セルフ開発のコンパイラを「セルフコンパイラ」という。それに対し、開発環境とは別の環境で実行するような開発を「クロス開発」といい、そのためのコンパイラをクロスコンパイラという。OSカーネル自身のコンパイルなどは、カーネル自身の実行環境は、そのOSではなくベアメタルであるという意味ではある種のクロスコンパイルのようなものであるし、新しいコンピュータシステムのための環境を最初に作るにはクロス開発の必要がある。あるいは、組み込みシステムやPDAなど、それ自体が開発環境を動作させるだけの機能や性能を持たない場合、といったものもある。 いわゆるネイティブコードではなく中間コードを生成し、さらに別のコンパイラに処理を任せたり、別のインタプリタによって実行したりするものもある。これを中間コードコンパイラ、バイトコードコンパイラなどと呼ぶ。またそのバイトコードを解釈実行する処理系をバイトコードインタプリタなどと呼ぶ。 コンパイラは様々な処理の集合体であり、初期のコンピュータではメモリ容量が不十分であったため、一度に全ての処理を行うことができなかった。このためコンパイラを複数に分割し、ソースコードや何らかの中間的な表現に何度も処理を施すことで解析や変換を行っていた。 一回でコンパイルが可能なものをワンパスコンパイラと呼び、一般にマルチパスコンパイラよりも高速で扱いやすい。Pascalなど、多くの言語はワンパスでコンパイルできるよう意図して設計されている。 言語の設計によっては、コンパイラがソースコードを複数回読み込む必要がある。たとえば、20行目に出現する宣言文が10行目の文の変換に影響を与える場合がある。この場合、一回目のパス(読み込み)で影響を受ける文の後にある宣言に関する情報を集め、二回目のパスで実際の変換を行う。 ワンパスの欠点は、高品質のコードに欠かせない最適化を行いにくいという点が挙げられる。最適化コンパイラが何回読み込みを行うかというのは決まっていないが、最適化の各フェーズで同じ式や文を何度も解析することもあるし、一回しか解析しない箇所もある。 コンパイラを小さなプログラムに分割する手法は、研究レベルでよく行われる。プログラムの正当性の判定は、対象プログラムが小さいほど簡単なためである。 ネイティブコンパイラの他にも以下のような、「ネイティブの機械語」以外をターゲットとするコンパイラ(ないしトランスレータ)がある。 もっぱらその言語の処理系がコンパイラとして実装される言語を「コンパイラ言語」などと言い、インタプリタとして実装される言語を「インタプリタ言語」などと言うこともあるが、実験的な実装まで含めればどちらもある言語も多い。Microsoft Visual Studioに付属するF#/C# Interactiveのように、対話環境で入力したプログラムを、コンパイラで共通中間言語(中間表現)にコンパイルし、さらに共通言語ランタイム(仮想機械)上でネイティブコードにJITコンパイルしてインタプリタ的に実行する、というような処理系もある。JavaやMicrosoft Visual Basicのように、登場当初はインタプリタ方式だったが、のちにネイティブコードへのJITコンパイルやAOTコンパイルをサポートするようになった言語もある。 Common Lispなど言語によっては、実装にコンパイル機能を含むことを義務とする仕様もある(ただし、Common Lisp仕様は解釈実行の処理系を禁止しているのではない)。また、インタプリタの実装が容易でコンパイラの実装が困難な言語もある(APL、SNOBOL4など)。メタプログラミングの利用、特に文字列をevalすることは、インタプリタ方式では造作ないことだが、コンパイラ方式では実行環境にコンパイラ自体が必要となる(動的プログラミング言語も参照)。 ハードウェア記述言語の処理系(合成系)を、ハードウェアコンパイラとかシリコンコンパイラなどと呼ぶことがある。 コンパイルをアプリケーションの実行時に行うか、実行前に行うかで2つに分かれる。 コンパイラ構築とコンパイラ最適化は、大学での計算機科学や情報工学のカリキュラムの一部となっている。そのようなコースでは適当な言語のコンパイラを実際に作らせることが多い。文書が豊富な例としてはニクラウス・ヴィルトが1970年代に教育用に設計し、教科書中で示した PL/0 がある。PL/0 は単純だが、教育目的にかなった基本が学べるようになっている。PL/0 はPascalで書かれていた。ヴィルトによる教科書は何度か改訂されており、1996年の版ではOberonでOberonのサブセットOberon-0を実装している。 もともとは、コンパイラはしばしばインタプリタと対比されてきたものである。コンパイラは、生成された機械語プログラムなどの実行は行わないが、一度コンパイルすればコンパイラを使わずに何度も実行できるという利点がある。しかし、インタプリタは、バイナリの実行ファイルは生成せず、実行するときに常に必要だが、プログラムを作ったらすぐに実行できるという利点がある。 コンパイラは、概念的に言うと、一般に次のようなフェーズ(phase(s)、段階)に従い処理を行う 。 通常、次のような入・出力図で説明される。 太字で表記したものがコンパイラの中に含まれている部分(コンパイラの部品)である。つまり、まず字句解析器(字句解析部)がソースコードを読み込みトークンに分解し、次に構文解析器(構文解析部)がトークン列からプログラムの構文木を構築し、次にセマンティック解析器(意味解析器)が意味論的な解析を行い、次に中間コード作成器が中間コードを生成し、次に最適化器がコードの最適化を行い、最後にコード生成器が最終的なターゲットプログラム(オブジェクトコード)を生成する。 なお、コンパイラの作成に関することだが、字句規則から字句解析器を生成するlex、構文規則から構文解析器を生成するパーサジェネレータというプログラムがあり、広く実用的に使われている。つまりコンパイラのプログラムの一部分を自動的に書いてくれるようなプログラムがすでにあり、それのおかげで全部人力で書くようなことはしないで済む。(なお、コンパイラ全体を生成するコンパイラジェネレータも研究されているものの、広く実用に使われるには至っていない。) コンパイラ設計手法は処理の複雑さ、設計者の経験、利用可能なリソース(人間やツール)に影響される。 コンパイル処理の分割を採用したのはカーネギーメロン大学での Production Quality Compiler-Compiler Project であった。このプロジェクトでは、「フロントエンド」、「ミドルエンド」(今日では滅多に使われない)、「バックエンド」という用語が生み出された。 非常に小さなコンパイラ以外、今日では2段階(2フェーズ)以上に分割されている。しかし、どういったフェーズ分けをしようとも、それらフェーズはフロントエンドかバックエンドの一部と見なすことができる。フロントエンドとバックエンドの分割点はどこかというのは論争の種にもなっている。フロントエンドでは主に文法的な処理と意味論的な処理が行われ、ソースコードよりも低レベルな表現に変換する処理が行われる。 ミドルエンドはソースコードでも機械語でもない形式に対して最適化を施すフェーズとされる。ソースコードや機械語と独立しているため、汎用的な最適化が可能とされ、各種言語や各種プロセッサに共通の処理を行う。 バックエンドはミドルエンドの結果を受けて処理を行う。ここでさらなる解析・変換・最適化を特定のプラットフォーム向けに行う場合もある。そして、特定のプロセッサやOS向けにコードを生成する。 このフロントエンド/ミドルエンド/バックエンドという分割法を採用することにより、異なるプログラミング言語向けのフロントエンドを結合したり、異なるCPU向けのバックエンドを結合したりできる。この手法の具体例としてはGNUコンパイラコレクションや Amsterdam Compiler Kit、LLVM がある。これらは複数のフロントエンドと複数のバックエンドがあり、解析部を共有している。 フロントエンドはソースコードを分析して、中間表現または IR と呼ばれるプログラムの内部表現を構築する。また、シンボルテーブルを管理し、ソースコード内の各シンボルに対応したデータ構造に位置情報、型情報、スコープなどの情報を格納する。このような処理はいくつかのフェーズで実施される。たとえば以下のようなフェーズがある。 「バックエンド」という用語は「コード生成」という用語と混同されることが多い。アセンブリ言語コードを生成するという意味で機能的にも類似しているためである。書籍によっては、バックエンドの汎用解析フェーズと最適化フェーズを「ミドルエンド」と称してマシン依存のコード生成部と区別することがある。 バックエンドに含まれる主なフェーズは以下の通りである。 コンパイラ解析とは、コンパイラ最適化の前に行われる処理で、両者は密接な関係がある。たとえば依存関係解析はループ変換実施に重要な意味を持つ。 さらに、コンパイラ解析と最適化の範囲は様々であり、基本的なブロック単位の場合からプロシージャや関数レベル、さらにはプロシージャの垣根を超えてプログラム全体を対象とすることもある。広範囲を考慮するコンパイラほど最適化に用いることができる「ヒント」が増え、結果としてより良いコードを生成する可能性がある。しかし、広範囲を考慮する解析や最適化はコンパイル時間やメモリ消費のコストが大きい。これは特にプロシージャ間の解析や最適化を行う場合に顕著である。 最近の商用コンパイラはプロシージャ間解析/最適化を備えているのが普通である(IBM、SGI、インテル、マイクロソフト、サン・マイクロシステムズなど)。オープンソースのGCCはプロシージャ間最適化を持たない点が弱点だったが、これも改善されつつある。他のオープンソースのコンパイラで完全な最適化を行うものとしてOpen64がある。 コンパイラ解析と最適化には時間と空間が必要となるため、コンパイラによってはデフォルトでこれらのフェーズを省略するものもある。この場合、ユーザーはオプションを指定して明示的に最適化を指示しなければならない。 以下のプログラムは中置記法で入力された四則演算を逆ポーランド記法を経て、独自の中間表現にコンパイルするC言語で書かれた非常に単純なワンパス・コンパイラである。このコンパイラは中置記法を逆ポーランド記法にコンパイルすると共に、ある種のアセンブリ言語にもコンパイルする。再帰下降型の戦略を採用している。このため、各関数が文法における各非終端記号に対応している。 この単純なコンパイラの実行例を以下に示す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "コンパイラ(英: compiler)は、高水準言語で書かれたコンピュータプログラムを、 コンピュータが実行や解釈できる形式に、一括して(※)変換するソフトウェア。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "コンパイラの技術書のバイブルとされるAlfred V.Aho(アルフレッド・エイホ)著 Compilers, Principles, Techniques, and Tools(通称「ドラゴンブック」)の第1章1節の冒頭に、コンパイラとはそもそも何かということについて説明が掲載されており、そこには「簡潔に言うと、コンパイラとは、ある言語(プログラミング言語)で書かれたプログラム(ソースプログラム)を読み、それを別の言語で書かれた等価のプログラム(ターゲットプログラム)へと翻訳(translate)するプログラムである。」と書かれており、さらに続けて「コンパイラは、ソースプログラムに含まれるエラーをユーザに報告するという重要なことを翻訳の1プロセスとして行う。」という説明も加えている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "英語の動詞で、あるプログラム言語で書かれたコードを別の言語で書かれたコードに変換することを\"compile\"(コンパイル)といい、コンパイラとはその変換を一括して(※ )行なうコンピュータプログラムのことである。インタプリタとよく対比される。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "(なお、上では「ソースプログラム」「ターゲットプログラム」という古典的用語を含む説明文を紹介したが、最近の技術用語では、変換される前のプログラムを「ソースコード」と呼び、変換後の機械語あるいは中間言語のプログラムなどを「オブジェクトコード」と呼ぶ傾向がある。また機械語は二進数で書かれているので近年では「バイナリコード」ということもある。)", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "よくあるのは、高水準言語で書かれたプログラムを、コンピュータのプロセッサが直接実行できる機械語あるいはアセンブリ言語のような低水準言語あるいは元のプログラムよりも\"低いレベル\"のコード(例えばバイトコードなどの仮想機械向け中間言語あるいは中間表現)に変換するものである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "コンパイラを俯瞰してみると、この世には圧倒されるほど多種類のコンパイラがある。というのは、ソースコード(ソースプログラム)の記述に使われるプログラミング言語だけに着目しても、FORTRANなど歴史の古い言語から始まり近年勃興してきている言語まで含めると数千にもおよぶプログラミング言語があり、他方、オブジェクトコード(ターゲットプログラム)の記述に使われる言語のほうに着目しても、種類がやはり非常に多く、ソースコードの言語とは別の言語であるかも知れないし、(あるいは中間言語であるかも知れないし)、あるいは機械語であるかも知れないからであり、その機械語もマイクロプロセッサを用いたコンピュータのものからスーパーコンピュータのものまであり多種多様だからである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "またコンパイラの種類には、シングルパス(ワンパスとも。1回で変換作業を完了できるもの)、マルチパス(en:Multi-pass compiler。複数回の作業が必要だが、主記憶が少なくても動くもの)、ロード・アンド・ゴー(変換してすぐに実行を開始するもの)、デバッグ用、最適化用などの種類もある。 →#分類の節で説明", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "またコンパイルを使ったコンパイル作業は、ひとつのプログラムとして動作する全てのコードをいっぺんにコンパイルするのではなく、モジュール毎などに分けてコンパイルし(「分割コンパイル」)、ライブラリなどはあらかじめコンパイルされているものと合わせて、実行するようにすることも多い。この場合、コンパイラはリロケータブルバイナリを出力し、実行可能ファイルの生成にはリンケージエディタが必要であり、さらに動的リンクで実行する場合はダイナミックリンカ/ローダ(ローダの一種)も必要である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、「コンパイラ(言語) / インタプリタ(言語)」という2分法的な分類は、Java登場以前では一般的で適切だったが、近年では適切でないことも増えている。開発環境などでは、コンパイルした後に実行するというような手続きを1コマンドで行えるものも増えている。そして、Java以降はインタプリタでも実行時コンパイラなどの技術の利用がさかんになってきており、古典的な意味での「コンパイラ」と「インタプリタ」の中間的な性質のツール(プログラム)も増えてきているからである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお英語の「compile」はもともと「編集する」「編纂する」という意味の英語であり、「compiler」というのは「編集者」という意味の英語である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1940年代まで、コンピュータのプログラミングは機械語で直接行なわれていた。プログラムを指して「コード」(英語では暗号を意味する)と呼ぶのは、知らない人間には機械語は全く意味のわからない数値の羅列だからである。しかし、(人間にとって比較的理解のしやすい)十進法の数字で書かれたアドレスを内部表現の二進法に変換する、といったプログラムならばEDSAC(1940年代末に登場した、イギリスのマシン)において既に存在していた。(つまり、この段階で、アセンブラのごく一部の機能に限れば、実現していたことになる)", "title": "歴史" 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"もともとは、コンパイラはしばしばインタプリタと対比されてきたものである。コンパイラは、生成された機械語プログラムなどの実行は行わないが、一度コンパイルすればコンパイラを使わずに何度も実行できるという利点がある。しかし、インタプリタは、バイナリの実行ファイルは生成せず、実行するときに常に必要だが、プログラムを作ったらすぐに実行できるという利点がある。", "title": "インタプリタとの違い" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "コンパイラは、概念的に言うと、一般に次のようなフェーズ(phase(s)、段階)に従い処理を行う 。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "通常、次のような入・出力図で説明される。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "太字で表記したものがコンパイラの中に含まれている部分(コンパイラの部品)である。つまり、まず字句解析器(字句解析部)がソースコードを読み込みトークンに分解し、次に構文解析器(構文解析部)がトークン列からプログラムの構文木を構築し、次にセマンティック解析器(意味解析器)が意味論的な解析を行い、次に中間コード作成器が中間コードを生成し、次に最適化器がコードの最適化を行い、最後にコード生成器が最終的なターゲットプログラム(オブジェクトコード)を生成する。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、コンパイラの作成に関することだが、字句規則から字句解析器を生成するlex、構文規則から構文解析器を生成するパーサジェネレータというプログラムがあり、広く実用的に使われている。つまりコンパイラのプログラムの一部分を自動的に書いてくれるようなプログラムがすでにあり、それのおかげで全部人力で書くようなことはしないで済む。(なお、コンパイラ全体を生成するコンパイラジェネレータも研究されているものの、広く実用に使われるには至っていない。)", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "コンパイラ設計手法は処理の複雑さ、設計者の経験、利用可能なリソース(人間やツール)に影響される。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "コンパイル処理の分割を採用したのはカーネギーメロン大学での Production Quality Compiler-Compiler Project であった。このプロジェクトでは、「フロントエンド」、「ミドルエンド」(今日では滅多に使われない)、「バックエンド」という用語が生み出された。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "非常に小さなコンパイラ以外、今日では2段階(2フェーズ)以上に分割されている。しかし、どういったフェーズ分けをしようとも、それらフェーズはフロントエンドかバックエンドの一部と見なすことができる。フロントエンドとバックエンドの分割点はどこかというのは論争の種にもなっている。フロントエンドでは主に文法的な処理と意味論的な処理が行われ、ソースコードよりも低レベルな表現に変換する処理が行われる。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ミドルエンドはソースコードでも機械語でもない形式に対して最適化を施すフェーズとされる。ソースコードや機械語と独立しているため、汎用的な最適化が可能とされ、各種言語や各種プロセッサに共通の処理を行う。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "バックエンドはミドルエンドの結果を受けて処理を行う。ここでさらなる解析・変換・最適化を特定のプラットフォーム向けに行う場合もある。そして、特定のプロセッサやOS向けにコードを生成する。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このフロントエンド/ミドルエンド/バックエンドという分割法を採用することにより、異なるプログラミング言語向けのフロントエンドを結合したり、異なるCPU向けのバックエンドを結合したりできる。この手法の具体例としてはGNUコンパイラコレクションや Amsterdam Compiler Kit、LLVM がある。これらは複数のフロントエンドと複数のバックエンドがあり、解析部を共有している。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "フロントエンドはソースコードを分析して、中間表現または IR と呼ばれるプログラムの内部表現を構築する。また、シンボルテーブルを管理し、ソースコード内の各シンボルに対応したデータ構造に位置情報、型情報、スコープなどの情報を格納する。このような処理はいくつかのフェーズで実施される。たとえば以下のようなフェーズがある。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「バックエンド」という用語は「コード生成」という用語と混同されることが多い。アセンブリ言語コードを生成するという意味で機能的にも類似しているためである。書籍によっては、バックエンドの汎用解析フェーズと最適化フェーズを「ミドルエンド」と称してマシン依存のコード生成部と区別することがある。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "バックエンドに含まれる主なフェーズは以下の通りである。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "コンパイラ解析とは、コンパイラ最適化の前に行われる処理で、両者は密接な関係がある。たとえば依存関係解析はループ変換実施に重要な意味を持つ。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "さらに、コンパイラ解析と最適化の範囲は様々であり、基本的なブロック単位の場合からプロシージャや関数レベル、さらにはプロシージャの垣根を超えてプログラム全体を対象とすることもある。広範囲を考慮するコンパイラほど最適化に用いることができる「ヒント」が増え、結果としてより良いコードを生成する可能性がある。しかし、広範囲を考慮する解析や最適化はコンパイル時間やメモリ消費のコストが大きい。これは特にプロシージャ間の解析や最適化を行う場合に顕著である。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "最近の商用コンパイラはプロシージャ間解析/最適化を備えているのが普通である(IBM、SGI、インテル、マイクロソフト、サン・マイクロシステムズなど)。オープンソースのGCCはプロシージャ間最適化を持たない点が弱点だったが、これも改善されつつある。他のオープンソースのコンパイラで完全な最適化を行うものとしてOpen64がある。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "コンパイラ解析と最適化には時間と空間が必要となるため、コンパイラによってはデフォルトでこれらのフェーズを省略するものもある。この場合、ユーザーはオプションを指定して明示的に最適化を指示しなければならない。", "title": "しくみと設計" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "以下のプログラムは中置記法で入力された四則演算を逆ポーランド記法を経て、独自の中間表現にコンパイルするC言語で書かれた非常に単純なワンパス・コンパイラである。このコンパイラは中置記法を逆ポーランド記法にコンパイルすると共に、ある種のアセンブリ言語にもコンパイルする。再帰下降型の戦略を採用している。このため、各関数が文法における各非終端記号に対応している。", "title": "簡単な例" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "この単純なコンパイラの実行例を以下に示す。", "title": "簡単な例" } ]
コンパイラは、高水準言語で書かれたコンピュータプログラムを、 コンピュータが実行や解釈できる形式に、一括して(※)変換するソフトウェア。
{{Otheruses|コンピュータプログラムにおけるコンパイラ|麻宮騎亜作の漫画|Compiler}} {{脚注の不足|date=2018-10-20}}{{プログラムの実行}}{{ソフトウェア開発工程}} '''コンパイラ'''({{lang-en-short|compiler}})は、[[高水準言語]]で書かれた[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]を、 コンピュータが実行や解釈できる形式に、一括して(※<ref name="ikkatu">(※)コンパイラの定義文にわざわざ「一括して」という言葉を含めることが多いのは、[[インタプリタ]]と対比するためである。「一括して」を入れないとインタプリタまで含んでしまい、定義文としては落第点ものとなる。Merriam Websterの英文の定義文でも、やはり「translates <u>an entire set of instructions</u>」[https://www.merriam-webster.com/dictionary/compiler]と、「命令群(の一部分ではなく)全部を」と明記している。 </ref>)変換する[[ソフトウェア]]<ref>{{Cite web|和書|title=コンパイラとは - IT用語辞典|url=http://e-words.jp/w/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%A9.html|website=IT用語辞典 e-Words|accessdate=2023-02-22|language=ja}}</ref>。 <!--{{要出典範囲コンピュータ・[[プログラミング言語]]の[[処理系]](言語処理系)の一種 |date=2023年2月}}--> == 概説 == コンパイラの技術書のバイブルとされるAlfred V.Aho([[アルフレッド・エイホ]])著 ''Compilers, Principles, Techniques, and Tools''(通称「ドラゴンブック」{{Efn|この本の表紙には赤い[[ドラゴン]]の絵が描かれているのでドラゴンブックと呼ばれている。}})の第1章1節の冒頭に、コンパイラとはそもそも何かということについて説明が掲載されており、そこには「簡潔に言うと、コンパイラとは、ある言語(プログラミング言語)で書かれたプログラム(ソースプログラム)を読み、それを別の言語で書かれた等価のプログラム(ターゲットプログラム)へと翻訳(translate)するプログラムである。」と書かれており、さらに続けて「コンパイラは、ソースプログラムに含まれるエラーをユーザに報告するという重要なことを翻訳の1プロセスとして行う。」という説明も加えている<ref name="Alfred_Aho_Compilers">Alfred V. Aho, Compilers, Principles, Techniques, and Tools. Reprinted with corrections March, 1988.(Copyright 1986,Bell Telephone Laboratories, Incorporated), pp.1-2. (Chapter 1.1 "COMPILERS"の節の説明) </ref>。 英語の[[動詞]]で、あるプログラム言語で書かれたコードを別の言語で書かれたコードに変換することを"{{lang|en|[[:en:compile|compile]]}}"('''コンパイル''')といい、コンパイラとはその変換を一括して(※<ref name="ikkatu" /> )行なう[[コンピュータプログラム]]のことである。[[インタプリタ]]とよく対比される。 (なお、上では「ソースプログラム」「ターゲットプログラム」という古典的用語を含む説明文を紹介したが、最近の技術用語では、変換される前のプログラムを「[[ソースコード]]」と呼び、変換後の機械語あるいは中間言語のプログラムなどを「[[オブジェクトファイル|オブジェクトコード]]」と呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|title=オブジェクトコード(おぶじぇくとこーど)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%96%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89-2057|website=コトバンク|accessdate=2020-04-26|language=ja|last=ASCII.jpデジタル用語辞典,デジタル大辞泉,IT用語がわかる辞典}}</ref>傾向がある。また機械語は二進数で書かれているので近年では「[[バイナリ]]コード」ということもある。) よくあるのは、[[高水準言語]]で書かれたプログラムを、コンピュータの[[プロセッサ]]<ref>例えば[[CPU]]や[[Graphics Processing Unit|GPU]]など。</ref>が直接実行できる[[機械語]]あるいはアセンブリ言語のような[[低水準言語]]あるいは元のプログラムよりも"低いレベル"のコード(例えば[[バイトコード]]などの[[仮想機械]]向け[[中間言語]]あるいは[[中間表現]])に変換するものである。 コンパイラを俯瞰してみると、この世には圧倒されるほど多種類のコンパイラがある<ref name="Alfred_Aho_Compilers" />。というのは、ソースコード(ソースプログラム)の記述に使われるプログラミング言語だけに着目しても、[[FORTRAN]]など歴史の古い言語から始まり近年勃興してきている言語まで含めると数千にもおよぶプログラミング言語があり、他方、オブジェクトコード(ターゲットプログラム)の記述に使われる言語のほうに着目しても、種類がやはり非常に多く、ソースコードの言語とは別の言語であるかも知れないし{{Efn|オブジェクトコードの記述に使われる言語は、要は、その言語から最終的に機械語に翻訳する道筋が1筋(1本)でもあるものであればよい。理論上、機械語にたどり着くまでに途中で何種類もの言語にコンパイル(翻訳)する必要があっても、ともかく最終的に機械語に翻訳するまでの道筋が1本あれば良い。オブジェクトコードの記述に使われる言語は必ずしもアセンブリ言語や機械語でなくてもよい。たとえば[[C++]]で書かれたオブジェクトコードを出力するコンパイラや[[C言語]]で書かれたオブジェクトコードを出力するコンパイラもある。それぞれ、C++を機械語に、あるいはC言語を機械語に変換するコンパイラを別途用意すれば最終的にCPUが実行できる機械語に変換できる。よくあるのは[[アセンブリ言語]]で書かれたオブジェクトコードを出力するコンパイラである。アセンブリ言語で書かれたプログラムも通常そのままでは実行できないが、[[アセンブラ]]を使ってやはりCPUが実行できる機械語に変換できる。}}、(あるいは中間言語であるかも知れないし)、あるいは機械語であるかも知れないからであり、その機械語も[[マイクロプロセッサ]]を用いたコンピュータのものから[[スーパーコンピュータ]]のものまであり多種多様だからである<ref name="Alfred_Aho_Compilers" />。 <!--{{要出典|範囲=なお、開発環境や処理系によっては、変換することを[[ビルド (ソフトウェア)|ビルド]] ({{lang|en|build}})と呼んでいるものもある。|date=2020年6月16日 (火) 08:47 (UTC)}}ただし、厳密には「コンパイル」は「ビルド」の一工程である。--><!--(直接[[機械語]]、[[2進数]]で記述されたコード)--><!--「2進数で記述されたコード」って、"01001001011101" みたいなASCII文字列で記述されたコードってことですかねwを出力する場合もあるが、コンパイラ自体は[[アセンブリ言語]]によるコードを出力するにとどまり、該当アセンブリ言語を機械語に変換する作業(アセンブル)を[[アセンブラ]]に任せているものも多い。 --> またコンパイラの種類には、シングルパス(ワンパスとも。1回で変換作業を完了できるもの)、マルチパス([[:en:Multi-pass compiler]]。複数回の作業が必要だが、主記憶が少なくても動くもの)、ロード・アンド・ゴー(変換してすぐに実行を開始するもの)、[[デバッグ]]用、最適化用などの種類もある<ref name="Alfred_Aho_Compilers" />。 →[[#分類]]の節で説明 またコンパイルを使ったコンパイル作業は、ひとつのプログラムとして動作する全てのコードをいっぺんにコンパイルするのではなく、モジュール毎などに分けてコンパイルし(「分割コンパイル」)、[[ライブラリ]]などは[[静的リンク|あらかじめコンパイルされているものと合わせて]]、実行するようにすることも多い<ref>{{Cite web|和書|title=分割コンパイル|url=http://www3.nit.ac.jp/~tamura/ex2/compile.html|website=www3.nit.ac.jp|accessdate=2020-04-27}}</ref>。この場合、コンパイラは[[リロケータブルバイナリ]]を出力し、実行可能ファイルの生成には[[リンケージエディタ]]が必要であり、さらに[[動的リンク]]で実行する場合はダイナミックリンカ/ローダ([[ローダ]]の一種)も必要である。 なお、「コンパイラ(言語) / インタプリタ(言語)」という2分法的な分類は、[[Java]]登場以前では一般的で適切だったが、近年では適切でないことも増えている。開発環境などでは、コンパイルした後に実行するというような手続きを1コマンドで行えるものも増えている。そして、Java以降はインタプリタでも[[実行時コンパイラ]]などの技術の利用がさかんになってきており、古典的な意味での「コンパイラ」と「インタプリタ」の中間的な性質のツール(プログラム)も増えてきているからである。 なお英語の「compile」はもともと「[[編集]]する」「[[編纂]]する」という意味の英語であり<ref name="progressive">プログレッシブ英和中辞典「compile」</ref><ref name="Oxford_Dic_compile">Oxford Dictionary; ''Produce (a list or book) by assembling information collected from other sources'' 「何らかの情報源から集めた情報を元にして、一覧や本を作りだす」</ref>、「compiler」というのは「編集者」という意味の英語である<ref name="progressive_compliler">プログレッシブ英和中辞典「compiler」</ref><ref name="daijisen">大辞泉「コンパイラ」</ref><ref name="Oxford_Dic_compiler">Oxford Dictionary; ''compiler: A person who produces a list or book by assembling information or written material collected from other sources.''</ref><ref>{{Cite book|和書 | author= bit 編集部 |title= bit 単語帳 | year=1990 | date=1990-8-15 |page=82 |publisher=[[共立出版]]|isbn =4-320-02526-1 }}</ref>。 == 歴史 == 1940年代まで、コンピュータのプログラミングは機械語で直接行なわれていた。プログラムを指して「コード」(英語では暗号を意味する)と呼ぶのは、知らない人間には機械語は全く意味のわからない数値の羅列だからである。しかし、(人間にとって比較的理解のしやすい)[[十進法]]の数字で書かれたアドレスを内部表現の二進法に変換する、といったプログラムならば[[EDSAC]](1940年代末に登場した、イギリスのマシン)において既に存在していた。(つまり、この段階で、[[アセンブラ]]のごく一部の機能に限れば、実現していたことになる) 機械語でのプログラミングは言うに及ばず、アセンブリ言語を用いても、プログラミングというのは面倒な作業である。そういった[[低水準言語]]から、人間がより扱いやすい[[高水準言語]]が徐々に求められるようになった。また、機械の詳細が抽象化されることにより、高水準なプログラミング言語で書かれた同一のソースコードを元に、詳細仕様が異なる機械でも動くプログラムを生成できる、という利点もあった。1950年代末までに、プログラミング言語がいくつか提案され、実験的なコンパイラがいくつか開発された。 世界初のコンパイラについては、1952年に[[グレース・ホッパー]]が書いた[[A-0 System]]だとされることもある。だが一般的には<u>[[1957年]]に[[IBM]]の[[ジョン・バッカス]]のチームが開発した[[FORTRAN]]コンパイラ</u>が世界初の完全なコンパイラであるとされている。一般的なコンパイラの開発では、まず動くものを作ってから[[コンパイラ最適化|最適化]]の機能が付け加えられるが、最初のFORTRANコンパイラでは、コンパイラが実用になることを示すために、最初から最適化に労力が向けられた。 1960年の、ホッパーらによる[[COBOL]]は複数の[[アーキテクチャ]]上でコンパイル可能となった言語の最初期の1つである<!-- 関係のないタイのスロットサイトに転送される。 [http://www.interesting-people.org/archives/interesting-people/199706/msg00011.html]{{リンク切れ|date=2020年6月16日 (火) 08:47 (UTC)}} -->。 様々なアプリケーション領域で、高水準言語というアイデアは素早く浸透していった。機能が拡張されたプログラミング言語が次々と提案され、コンピュータの[[アーキテクチャ]]そのものも複雑化していったため、コンパイラはどんどん複雑化していった。 初期のコンパイラはアセンブリ言語で書かれていた。世界初の「[[セルフホスティング]]コンパイラ」は、1962年に[[マサチューセッツ工科大学]]の Hart と Levin が開発した[[LISP]]である<ref>{{Cite web |url=http://publications.csail.mit.edu/ai/browse/0000browse.shtml |title=CSAIL Publications |accessdate=2020-06-16 |website=publications.csail.mit.edu}}</ref>。1970年代には、特に[[Pascal]]や[[C言語]]などにおいて、コンパイル対象言語でコンパイラを書くことが一般化した。さらにより高水準の言語のコンパイラは、PascalやC言語で実装することも多い。セルフホスティング・コンパイラの構築には、[[ブートストラップ問題]]がつきまとう。すなわち、コンパイル対象言語で書かれたコンパイラを最初にコンパイルするには、別の言語で書かれたコンパイラが必要になる。Hart と Levin の LISPコンパイラではコンパイラをインタプリタ上で動作させてコンパイルを行なった。 == 分類 == [[機械語]]にコンパイルするコンパイラもあれば、そうでないコンパイラ(後述)もある。機械語コードのことを、ハードウェアである[[プロセッサ]]の生のコード、というような意味でネイティブコードなどと言うことがあり、機械語にコンパイルするコンパイラのことをネイティブコンパイラと言うことがある。 コンパイラに限らず、入力と出力を持つあらゆる変換系は、入力の種類がm種類、出力の種類がn種類あるとすると、m×n種類があることになる。コンパイラの場合、プログラミング言語がm種類、コード生成の対象となる命令セットアーキテクチャがn種類、といったような感じになるわけであり、入力側をフロントエンド、出力側をバックエンドと言うが、中間表現の設計いかんでは、残りの中間処理の部分、特に重要な部分である[[コンパイラ最適化]]を共有できるため、1980年代以降に基本設計が為されたGCCやCOINSやLLVMなどでは、そのようにして多言語・多ターゲットに対応している。 汎用OSなど、開発環境と同じ環境で目的プログラムも動作させるような開発を「セルフ開発」と言い、セルフ開発のコンパイラを「セルフコンパイラ」という。それに対し、開発環境とは別の環境で実行するような開発を「クロス開発」といい、そのためのコンパイラを[[クロスコンパイラ]]という。OSカーネル自身のコンパイルなどは、カーネル自身の実行環境は、そのOSではなくベアメタルであるという意味ではある種のクロスコンパイルのようなものであるし、新しいコンピュータシステムのための環境を最初に作るにはクロス開発の必要がある。あるいは、[[組み込みシステム]]や[[携帯情報端末|PDA]]など、それ自体が開発環境を動作させるだけの機能や性能を持たない場合、といったものもある。 いわゆるネイティブコードではなく[[中間コード]]を生成し、さらに別のコンパイラに処理を任せたり、別のインタプリタによって実行したりするものもある。これを中間コードコンパイラ、[[バイトコード]]コンパイラなどと呼ぶ。またそのバイトコードを解釈実行する処理系をバイトコードインタプリタなどと呼ぶ。 === ワンパスとマルチパス === コンパイラは様々な処理の集合体であり、初期のコンピュータではメモリ容量が不十分であったため、一度に全ての処理を行うことができなかった。このためコンパイラを複数に分割し、ソースコードや何らかの中間的な表現に何度も処理を施すことで解析や変換を行っていた。 一回でコンパイルが可能なものを'''ワンパスコンパイラ'''と呼び、一般に'''マルチパスコンパイラ'''よりも高速で扱いやすい。[[Pascal]]など、多くの言語はワンパスでコンパイルできるよう意図して設計されている。 言語の設計によっては、コンパイラがソースコードを複数回読み込む必要がある。たとえば、20行目に出現する宣言文が10行目の文の変換に影響を与える場合がある。この場合、一回目のパス(読み込み)で影響を受ける文の後にある宣言に関する情報を集め、二回目のパスで実際の変換を行う。 ワンパスの欠点は、高品質のコードに欠かせない最適化を行いにくいという点が挙げられる。最適化コンパイラが何回読み込みを行うかというのは決まっていないが、最適化の各フェーズで同じ式や文を何度も解析することもあるし、一回しか解析しない箇所もある。 コンパイラを小さなプログラムに分割する手法は、研究レベルでよく行われる。プログラムの[[正当性 (計算機科学)|正当性]]の判定は、対象プログラムが小さいほど簡単なためである。 ネイティブコンパイラの他にも以下のような、「ネイティブの機械語」以外をターゲットとするコンパイラ(ないしトランスレータ)がある。 * 何らかの高水準言語から、何らかの高水準言語に変換する「トランスレータ」。「[[トランスコンパイラ]]」などという語もある。たとえば、[[OpenMP]]などの自動並列化コンパイラは並列化が明示されていないプログラムを、並列化を明示したプログラムに変換する。または、FORTRANの <code>DOALL</code> 文など何らかの言語構文を変換する。 * ステージコンパイラ(Stage Compiler)は何らかの理論上のマシンのアセンブリ言語を出力する。たとえば、{{要出典範囲|一部の[[Prolog]]でそのような実装がなされている。|date=2020年6月16日 (火) 08:47 (UTC)}}[[Java]] や [[Python]] のバイトコードコンパイラもステージコンパイラの一種と言える。 * Java や [[Smalltalk]] やマイクロソフトの[[共通中間言語]]システムで使われている[[実行時コンパイラ|JITコンパイラ]]。コンパイラはいったん中間表現を生成し、実行時に中間表現がターゲットの機械語にコンパイルされる。 === コンパイラ言語 === もっぱらその言語の処理系がコンパイラとして実装される言語を「コンパイラ言語」などと言い、インタプリタとして実装される言語を「インタプリタ言語」などと言うこともあるが、実験的な実装まで含めればどちらもある言語も多い。[[Microsoft Visual Studio]]に付属する[[F Sharp|F#]]/[[C Sharp|C#]] Interactiveのように、[[REPL|対話環境]]で入力したプログラムを、コンパイラで[[共通中間言語]]([[中間表現]])にコンパイルし、さらに[[共通言語ランタイム]]([[仮想機械]])上でネイティブコードにJITコンパイルしてインタプリタ的に実行する、というような処理系もある。[[Java]]や[[Microsoft Visual Basic]]のように、登場当初はインタプリタ方式だったが、のちにネイティブコードへのJITコンパイルやAOTコンパイルをサポートするようになった言語もある。 [[Common Lisp]]など言語によっては、実装にコンパイル機能を含むことを義務とする仕様もある(ただし、Common Lisp仕様は解釈実行の処理系を禁止しているのではない)。また、インタプリタの実装が容易でコンパイラの実装が困難な言語もある([[APL]]、[[SNOBOL|SNOBOL4]]など)。メタプログラミングの利用、特に文字列を[[eval]]することは、インタプリタ方式では造作ないことだが、コンパイラ方式では実行環境にコンパイラ自体が必要となる([[動的プログラミング言語]]も参照)。 === ハードウェア・コンパイラ === [[ハードウェア記述言語]]の処理系(合成系)を、ハードウェアコンパイラとかシリコンコンパイラなどと呼ぶことがある。 === コンパイルのタイミング === コンパイルをアプリケーションの実行時に行うか、実行前に行うかで2つに分かれる。 * [[事前コンパイラ]] - 実行前に事前にコンパイルする。Ahead-Of-Timeコンパイラ (AOTコンパイラ)。 * [[実行時コンパイラ]] - 実行時にコンパイルする。Just-In-Timeコンパイラ (JITコンパイラ)。 === 教育用コンパイラ === コンパイラ構築と[[コンパイラ最適化]]は、大学での[[計算機科学]]や[[情報工学]]のカリキュラムの一部となっている。そのようなコースでは適当な言語のコンパイラを実際に作らせることが多い。文書が豊富な例としては[[ニクラウス・ヴィルト]]が1970年代に教育用に設計し、教科書中で示した [[PL/0]] がある<ref>{{Cite web |url=https://www.246.dk/ |title=https://www.246.dk/ |accessdate=2020-06-16 |language=da-DK}}</ref>。PL/0 は単純だが、教育目的にかなった基本が学べるようになっている。PL/0 はPascalで書かれていた。ヴィルトによる教科書は何度か改訂されており、1996年の版では[[Oberon]]でOberonのサブセットOberon-0を実装している。 # [http://www.acm.org/classics/dec95/ 段階的改良によるプログラム開発]{{リンク切れ|date=2020年6月16日 (火) 08:47 (UTC)}}の採用 # [[再帰下降構文解析]]の採用 # [[EBNF|拡張BNF記法]]による文法記述の採用 # [[Pコードマシン|Pコード]]の採用 # [[ブートストラップ問題]]をT図式([[:en:Tombstone diagram]])で形式的に記述 == インタプリタとの違い == もともとは、コンパイラはしばしば[[インタプリタ]]と対比されてきたものである。コンパイラは、生成された機械語プログラムなどの実行は行わないが、一度コンパイルすればコンパイラを使わずに何度も実行できるという利点がある。しかし、[[インタプリタ]]は、[[バイナリ]]の実行ファイルは生成せず、実行するときに常に必要だが、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を作ったらすぐに実行できるという利点がある<ref>{{Cite web|和書|title=コンパイラとインタプリタの違いは?言語の違いを分かりやすく解説!|url=https://jpazamu.com/interpreter-compiler/|website=じゃぱざむ|accessdate=2020-04-27|language=ja|last=2020年4月13日 8分}}</ref><!-- 出典無効: Qiitaは個人ブログ -- <ref>{{Cite web|title=インタプリタとコンパイラ|url=https://qiita.com/suzuki-koya/items/b78ef6f512993cbb0819|website=Qiita|accessdate=2020-04-27}}</ref> --><ref>{{Cite web|和書|title=インタプリタとコンパイラ|url=https://nyumon-info.com/program/bunrui.html|website=nyumon-info.com|accessdate=2020-04-27}}</ref>。 == しくみと設計 == コンパイラは、概念的に言うと、一般に次のようなフェーズ(phase(s)、段階)に従い処理を行う<ref name="Aho_Phases">Alfred V. Aho, Compilers, Principles, Techniques, and Tools. 1988., pp.10-15. 「1.3(1章3節) THE PHASES OF A COMPILER」 </ref> <ref>{{Cite web|和書|title=コンパイラの構造を解説 {{!}} Shinta's Site|url=https://www.gadgety.net/shin/tips/unix/compiler.html|website=www.gadgety.net|accessdate=2020-04-27}}</ref>。 通常、次のような入・出力図で説明される。<ref name="Aho_Phases" /> <small>ソースプログラム([[ソースコード]])</small> ↓ '''[[字句解析器]]''' ↓ '''[[構文解析器]]''' ↓ '''セマンティック解析器''' ↓ '''中間コード生成器''' ↓ '''コード最適化器''' ↓ '''コード生成器''' ↓ <small>ターゲットプログラム(オブジェクトコード)</small> 太字で表記したものがコンパイラの中に含まれている部分(コンパイラの部品)である。つまり、まず[[字句解析器]]([[字句解析]]部)がソースコードを読み込み[[字句解析#トークン|トークン]]に分解し、次に[[構文解析器]]([[構文解析]]部)がトークン列からプログラムの構文木を構築し、次にセマンティック解析器(意味解析器)が意味論的な解析を行い、次に中間コード作成器が中間コードを生成し、次に最適化器がコードの最適化を行い、最後に[[コード生成]]器が最終的なターゲットプログラム(オブジェクトコード){{Efn|最終的に出力されるターゲットプログラムは、機械語やアセンブリ言語で記述したものが多いが、それらに限るわけではなく、中間コードや高級言語のプログラムを出力するコンパイラもある。}}を生成する。 なお、コンパイラの作成に関することだが、字句規則から字句解析器を生成する[[lex]]<ref>{{Cite web|和書|title=コマンド:lex: UNIX/Linuxの部屋|url=http://x68000.q-e-d.net/~68user/unix/pickup?lex|website=x68000.q-e-d.net|accessdate=2020-04-27|language=ja}}</ref>、構文規則から構文解析器を生成する[[パーサジェネレータ]]<ref>{{Cite web|和書|title=パーサジェネレータとは - Weblio辞書|url=https://www.weblio.jp/content/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BF|website=www.weblio.jp|accessdate=2020-04-27}}</ref>というプログラムがあり、広く実用的に使われている。つまりコンパイラのプログラムの一部分を自動的に書いてくれるようなプログラムがすでにあり、それのおかげで全部人力で書くようなことはしないで済む。(なお、コンパイラ全体を生成する[[コンパイラジェネレータ]]も研究されているものの、広く実用に使われるには至っていない。) コンパイラ設計手法は処理の複雑さ、設計者の経験、利用可能なリソース(人間やツール)に影響される。 コンパイル処理の分割を採用したのは[[カーネギーメロン大学]]での [[PQCC|Production Quality Compiler-Compiler Project]] であった。このプロジェクトでは、「[[フロントエンド]]」、「ミドルエンド」(今日では滅多に使われない)、「バックエンド」という用語が生み出された。 非常に小さなコンパイラ以外、今日では2段階(2フェーズ)以上に分割されている。しかし、どういったフェーズ分けをしようとも、それらフェーズはフロントエンドかバックエンドの一部と見なすことができる。フロントエンドとバックエンドの分割点はどこかというのは論争の種にもなっている。フロントエンドでは主に文法的な処理と意味論的な処理が行われ、ソースコードよりも低レベルな表現に変換する処理が行われる。 ミドルエンドはソースコードでも機械語でもない形式に対して最適化を施すフェーズとされる。ソースコードや機械語と独立しているため、汎用的な最適化が可能とされ、各種言語や各種プロセッサに共通の処理を行う。 バックエンドはミドルエンドの結果を受けて処理を行う。ここでさらなる解析・変換・最適化を特定のプラットフォーム向けに行う場合もある。そして、特定の[[プロセッサ]]やOS向けにコードを生成する。 このフロントエンド/ミドルエンド/バックエンドという分割法を採用することにより、異なるプログラミング言語向けのフロントエンドを結合したり、異なるCPU向けのバックエンドを結合したりできる。この手法の具体例としては[[GNUコンパイラコレクション]]や [[Amsterdam Compiler Kit]]、[[LLVM]] がある。これらは複数のフロントエンドと複数のバックエンドがあり、解析部を共有している。 === フロントエンド === フロントエンドはソースコードを分析して、[[中間表現]]または ''IR'' と呼ばれるプログラムの内部表現を構築する。また、[[シンボルテーブル]]を管理し、ソースコード内の各シンボルに対応したデータ構造に位置情報、[[データ型|型]]情報、[[スコープ (プログラミング)|スコープ]]などの情報を格納する。このような処理はいくつかのフェーズで実施される。たとえば以下のようなフェーズがある。 # '''行再構築'''(Line reconstruction) - キーワードに{{仮リンク|ストロッピング|en|Stropping_(syntax)}}を施す場合や識別子に空白を挿入可能な場合、字句解析の前に入力文字列を「正規化」する必要がある。1960年代の一般的な[[トップダウン構文解析|トップダウン]]の[[再帰下降構文解析|再帰下降型の表駆動構文解析]]では、ソースコードを一度読み込むだけでトークン化のフェーズは不要だった。ストロッピングを行う言語としては、{{仮リンク|Atlas Autocode|en|Atlas Autocode}}、{{仮リンク|Edinburgh IMP|en|Edinburgh IMP}}、一部の[[ALGOL]]処理系などがあり、これらは「行再構築」フェーズを持っている。ストロッピングとは、キーワードに何らかの記号をつけることでキーワードとして使われている文字列を[[予約語]]とせず、同じ文字列を変数名やサブルーチン名に利用できるようにしたものである。たとえば、シングルクオートでキーワードを囲むとか、%記号を先頭につけるなどの記法がある。 # '''[[字句解析]]''' - ソースコードの文字列を、「トークン」と呼ばれる、言語的に意味のある最小単位に分割する。各トークンは最小構成要素であり、たとえばキーワード、[[識別子]]、シンボル名、「10」や「365」のような数、などである<ref>{{Cite web|和書|title=コンパイラの入り口、「字句解析」のための文字列操作 (1/3)|url=https://www.atmarkit.co.jp/ait/articles/0705/15/news135.html|website=@IT|accessdate=2020-04-27|language=ja}}</ref>。トークンは一般に[[正規言語]]に従うため、[[正規表現]]を解釈する[[有限オートマトン]]で認識できる<ref name=":0">{{Cite book|title=コンパイラの構成と最適化|url=https://www.worldcat.org/oclc/675837876|publisher=Asakurashoten|date=2009|location=Tōkyō|isbn=978-4-254-12177-3|oclc=675837876|others=Nakata, Ikuo, 1935-, 中田, 育男, 1935-|year=}}</ref>。字句解析を行うソフトウェアを[[字句解析器]](lexical analyzer)と呼ぶ。 # '''[[プリプロセッサ]]''' - コンパイル前の全処理を行うもの。[[マクロ (コンピュータ用語)|マクロ]]を実装や、定数の定義、ヘッダファイルの読み込みに使われる。一般にこのフェーズは構文解析や意味解析の前に行われる。プリプロセッサはトークンを操作するものであって、構文を考慮しない<ref>{{Cite web|和書|title=プリプロセッサとは - IT用語辞典|url=http://e-words.jp/w/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%B5.html|website=IT用語辞典 e-Words|accessdate=2020-04-27|language=ja}}</ref>。だから、C言語などでは、プリプロセッサでマクロを実装できるが、[[LISP]]のような言語では構文解析後に[[マクロ_(コンピュータ用語)#Lisp_のマクロ|マクロ]]を置き換える必要があり、プリプロセッサは使われない。 # '''[[構文解析]]''' - トークン列を解析し、プログラムの構造を明らかにする。このフェーズで[[構文木]]が構築され、単なるトークンの列だったプログラムにその言語の文法を定義した[[形式文法]]の規則を適用することで[[木構造 (データ構造)|木構造]]を生成する<ref>{{Cite web|title=抽象構文木|url=http://home.a00.itscom.net/hatada/c-tips/ast/ast01.html|website=home.a00.itscom.net|accessdate=2020-04-27}}</ref><ref>{{Cite web|title=VU - exp. - compiler-general|url=https://www.is.s.u-tokyo.ac.jp/vu/96/cad/compiler.html|website=www.is.s.u-tokyo.ac.jp|accessdate=2020-04-27}}</ref>。構文木は、この後の工程で解析され、強化され、変換される。 # '''{{仮リンク|意味解析|en|Semantic analysis (compilers)}}''' - [[構文木]]の要素に意味を追加し、シンボルテーブルを作成する。[[型システム|型チェック]](データ型などを間違っていないかのチェック)や、変数や関数の定義と参照箇所を結びつける処理、既定値代入(自動変数の初期化)、意味的に不正なプログラムを検出して通知するなどの処理が行われる。<ref name=":0" />意味解析には完全な構文木が必要であり、理論上[[構文解析]]と[[コード生成]]の間に行わなければならない。もちろんコンパイラの実装によってはこれらを一度に行うこともある。 === バックエンド === 「バックエンド」という用語は「[[コード生成]]」という用語と混同されることが多い。アセンブリ言語コードを生成するという意味で機能的にも類似しているためである。書籍によっては、バックエンドの汎用解析フェーズと最適化フェーズを「ミドルエンド」と称してマシン依存のコード生成部と区別することがある。 バックエンドに含まれる主なフェーズは以下の通りである。 # '''解析部''' - 入力から生成された中間表現を使って各種情報を収集する。主な解析としてUD連鎖を構築する[[データフロー解析]]、依存関係解析、エイリアス解析、ポインタ解析、エスケープ解析などがある。正確な解析によってコンパイラ最適化が可能となる。また、[[コールグラフ]]や[[制御フローグラフ]]がここで作られることが多い。 # '''[[最適化 (情報工学)|最適化]]''' - 中間表現を機能的には等価だがより「ベター」な形式に変換する。主な最適化手法として[[インライン展開]]、[[デッドコード削除]]、[[定数伝播]]、ループ変換、[[レジスタ割り当て]]、自動並列化などがある<ref>{{Cite web|和書|title=知っておいて損はない「コンパイラ最適化」の数々|url=https://marycore.jp/coding/compiler-optimizations/|website=MaryCore 言語知能総合研究所|accessdate=2020-04-27|language=ja|last=MaryCore}}</ref>。 # '''[[コード生成]]''' - 実際に出力する[[機械語]]やバイトコードを生成する。ここでリソースや記憶装置の割り当てが決定される。たとえば、どの変数をレジスタに格納し、どの変数をメモリに格納するか、どの命令をどういう順番で実行するかをアドレッシングモードなどを[[セシィ-ウルマン法]]などを用いて決定する。 コンパイラ解析とは、コンパイラ最適化の前に行われる処理で、両者は密接な関係がある。たとえば依存関係解析はループ変換実施に重要な意味を持つ。 さらに、コンパイラ解析と最適化の範囲は様々であり、基本的なブロック単位の場合からプロシージャや関数レベル、さらには[[プロシージャ間最適化|プロシージャの垣根を超えてプログラム全体を対象とすること]]もある。広範囲を考慮するコンパイラほど最適化に用いることができる「ヒント」が増え、結果としてより良いコードを生成する可能性がある。しかし、広範囲を考慮する解析や最適化はコンパイル時間やメモリ消費のコストが大きい。これは特にプロシージャ間の解析や最適化を行う場合に顕著である。 最近の商用コンパイラはプロシージャ間解析/最適化を備えているのが普通である(IBM、[[シリコングラフィックス|SGI]]、[[インテル]]、[[マイクロソフト]]、[[サン・マイクロシステムズ]]など)。オープンソースの[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]はプロシージャ間最適化を持たない点が弱点だったが、これも改善されつつある。他のオープンソースのコンパイラで完全な最適化を行うものとしてOpen64がある。 コンパイラ解析と最適化には時間と空間が必要となるため、コンパイラによってはデフォルトでこれらのフェーズを省略するものもある。この場合、ユーザーはオプションを指定して明示的に最適化を指示しなければならない。 == 簡単な例 == {{独自研究|section=1|date=2018年9月}} 以下のプログラムは[[中置記法]]で入力された四則演算を[[逆ポーランド記法]]を経て、独自の中間表現にコンパイルするC言語で書かれた非常に単純なワンパス・コンパイラである。このコンパイラは[[中置記法]]を[[逆ポーランド記法]]にコンパイルすると共に、ある種の[[アセンブリ言語]]にもコンパイルする。再帰下降型の戦略を採用している。このため、各関数が文法における各非終端記号に対応している。 <syntaxhighlight lang="c"> #include <stdlib.h> #include <stdio.h> #include <string.h> #define MODE_POSTFIX 0 #define MODE_ASSEMBLY 1 char lookahead; int pos; int compile_mode; char expression[20+1]; void error() { printf("Syntax error!\n"); } void match( char t ) { if( lookahead == t ) { pos++; lookahead = expression[pos]; } else error(); } void digit() { switch( lookahead ) { case '0': case '1': case '2': case '3': case '4': case '5': case '6': case '7': case '8': case '9': if( compile_mode == MODE_POSTFIX ) printf("%c", lookahead); else printf("\tPUSH %c\n", lookahead); match( lookahead ); break; default: error(); break; } } void term() { digit(); while(1) { switch( lookahead ) { case '*': match('*'); digit(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "*" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tMUL A, B\n\tPUSH A\n"); break; case '/': match('/'); digit(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "/" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tDIV A, B\n\tPUSH A\n"); break; default: return; } } } void expr() { term(); while(1) { switch( lookahead ) { case '+': match('+'); term(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "+" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tADD A, B\n\tPUSH A\n"); break; case '-': match('-'); term(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "-" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tSUB A, B\n\tPUSH A\n"); break; default: return; } } } int main ( int argc, char** argv ) { printf("Please enter an infix-notated expression with single digits:\n\n\t"); scanf("%20s", expression); printf("\nCompiling to postfix-notated expression:\n\n\t"); compile_mode = MODE_POSTFIX; pos = 0; lookahead = *expression; expr(); printf("\n\nCompiling to assembly-notated machine code:\n\n"); compile_mode = MODE_ASSEMBLY; pos = 0; lookahead = *expression; expr(); return 0; } </syntaxhighlight> この単純なコンパイラの実行例を以下に示す。 <pre>Please enter an infix-notated expression with single digits: 3-4*2+2 Compiling to postfix-notated expression: 342*-2+ Compiling to assembly-notated machine code: PUSH 3 PUSH 4 PUSH 2 POP B POP A MUL A, B PUSH A POP B POP A SUB A, B PUSH A PUSH 2 POP B POP A ADD A, B PUSH A</pre> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * [http://www.informatik.uni-trier.de/~ley/db/books/compiler/index.html Compiler textbook references] コンパイラ構成論の教科書(英語)のリスト * ''Compilers: Principles, Techniques and Tools'' by [[アルフレッド・エイホ|Alfred V. Aho]], Ravi Sethi, and Jeffrey D. Ullman (ISBN 0-201-10088-6) ** 原田賢一 訳、『コンパイラ&mdash;原理・技法・ツール&lt;1&gt;』サイエンス社、1990年。ISBN 4781905854 ** 原田賢一 訳、『コンパイラ&mdash;原理・技法・ツール&lt;2&gt;』サイエンス社、1990年。ISBN 4781905862 * ''Advanced Compiler Design and Implementation'' by Steven Muchnick (ISBN 1-55860-320-4). * '' Engineering a Compiler'' by Keith D. Cooper and Linda Torczon . Morgan Kaufmann 2004, ISBN 1-55860-699-8. * ''Understanding and Writing Compilers: A Do It Yourself Guide'' (ISBN 0-333-21732-2) by Richard Bornat - [[構文木]]からの[[機械語]]の再帰的生成を説明している貴重な書籍。古いメインフレームやミニコンピュータの経験に基づいており、最近の書籍が見落としがちな部分もカバーしている。[http://www.cs.mdx.ac.uk/staffpages/r_bornat/books/compiling.pdf 著者のサイトにあるPDF版] * ''An Overview of the Production Quality Compiler-Compiler Project'' by Leverett, Cattel, Hobbs, Newcomer, Reiner, Schatz and Wulf. Computer 13(8):38-49 (August 1980) * ''Compiler Construction'' by [[ニクラウス・ヴィルト|Niklaus Wirth]] (ISBN 0-201-40353-6) Addison-Wesley 1996, 176 pages, [http://www.oberon2005.ru/book/ccnw2005e.pdf PDF版]。[[再帰下降構文解析]]の解説。[[PL/0#Oberon-0|Oberon-0]]という小型の言語のコンパイラを題材にしている。 * "Programming Language Pragmatics" by Michael Scott (ISBN 0-12-633951-1) Morgan Kaufmann 2005, 2nd edition, 912 pages. [http://www.cs.rochester.edu/~scott/pragmatics/ 著者のサイト] * [http://www.research.ibm.com/journal/rd/255/ibmrd2505Q.pdf "A History of Language Processor Technology in IBM"], by F.E. Allen, IBM Journal of Research and Development, v.25, no.5, September 1981. * ニクラウス・ヴィルト(著)、滝沢徹(訳)、牧野裕子(訳):「ヴィルトのコンパイラ構成法」、星雲社、ISBN 4-7952-9706-1(1997年11月28日)。 <!-- * 渡邊担:「コンパイラの仕組み」、朝倉書店、ISBN 4-254-12708-1(1998年4月10日)。 --> * 中田育男:「コンパイラの構成と最適化」、朝倉書店、ISBN 978-4-254-12177-3(第2版)(1999年9月15日初版、2009年11月15日第2版)。 * A.V.エイホ、M.S.ラム、R.セシィ、J.D.ウルマン、原田賢一(訳):「コンパイラ[第2版]」、サイエンス社、ISBN 978-4-7819-1229-5(2009年5月25日第2版、1990年10月10日初版)。 * 五月女健治:「JavaCC:コンパイラコンパイラ for Java」、テクノプレス、ISBN 4-924998-64-8(2003年10月20日)。 * Andrew W. 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2003-02-13T14:56:46Z
2023-10-15T08:56:44Z
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[ "Template:ソフトウェア開発工程", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:Columns-list", "Template:プログラミング言語の関連項目", "Template:Normdaten", "Template:Otheruses", "Template:Lang", "Template:リンク切れ", "Template:独自研究", "Template:Reflist", "Template:Wikibooks", "Template:Commonscat", "Template:Lang-en-short", "Template:要出典範囲", "Template:仮リンク", "Template:コンピュータ科学", "Template:プログラムの実行", "Template:Efn", "Template:Cite web", "Template:脚注の不足" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%A9
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松本大洋
松本 大洋(まつもと たいよう、男性、1967年10月25日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。和光大学人文学部芸術学科中退。 代表作に『鉄コン筋クリート』『ピンポン』など。スポーツや闘いを題材に、男の持つ美学や世界観を独特のタッチで表現している。初期には講談社『モーニング』で活動するも人気が出ず、小学館『ビッグコミックスピリッツ』に移って以降評価を受けるようになった。 実母は詩人の工藤直子。妻は漫画家の冬野さほで、冬野はしばしば松本のアシスタントもしている。従弟の井上三太も漫画家。 小学校から高校までは、サッカー部に所属するスポーツ少年だった。小学校時代に、児童養護施設で過ごしている。高校2年のとき、漫画の愛読者だった母の勧めで大友克洋と吉田秋生を読み、特に大友の『童夢』に衝撃を受ける。大学から従弟の井上三太の影響もあり漫画研究会に所属し、18歳で初めて漫画を描く。当時『モーニング』に描いていた土田世紀に憧れ、2本目に描いた作品で講談社に持ち込みを行なう。 1987年、「それゆけファウルズ」が『モーニング パーティ増刊』に掲載。また、『STRAIGHT』が四季賞準入選を受賞し『月刊アフタヌーン』増刊号に掲載され、漫画家としてデビューを飾る。当時、自身を天才だと思っており、そのまま大学もバイトも辞めているが、後で自作品がほかと比べてお粗末なことに気付き、自分の勘違いを知ったという。 同時期のデビューで敵わないと思った漫画家に若林健次、山田芳裕、タナカカツキがいたという。受賞をきっかけにすぐに大学を辞め、『アフタヌーンシーズン増刊』他で短編作品を発表したのち、1988年より『モーニング』にて野球を題材にした作品『STRAIGHT』を連載。しかし単行本2巻までで打ち切りとなる。 その後、1年ほどの空白期間を経て小学館から声がかかり、担当編集者に話を通した後に移籍。『ビッグコミックスピリッツ』に1990年より『ZERO』、1991年より『花男』、1993年より『鉄コン筋クリート』、1997年より『ピンポン』を連載。また、『鉄コン筋クリート』終了後、劇団黒テントからの依頼で上演用の漫画作品「花」を執筆。2000年にも同劇団に戯曲「メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス」を提供、この作品は2001年の岸田國士戯曲賞候補となった。 『ピンポン』から3年を経た2001年、長編描き下ろし作品『GOGOモンスター』を刊行。1998年11月から2000年9月まで約2年を費やして450ページが描かれ、祖父江慎のデザインによる箱入りハードカバーで刊行された。この作品で2001年、第30回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。 2001年11月より、小学館からの新雑誌『スピリッツ増刊 IKKI』(後に独立して『月刊IKKI』となる)の看板作家として『ナンバーファイブ 吾』を連載。のちの『IKKI』編集長江上英樹は『IKKI』に松本を起用したことについて、「『ガロ』が白土三平、『COM』が手塚治虫を擁したのと同じ意味合いで、彼の存在は、この増刊号に不可欠なものと言えた」と振り返っている。 2006年、和光大学漫画研究会の先輩であり、デビュー以来しばしば松本のアシスタントもしていた永福一成を原作者とする時代劇作品『竹光侍』を『ビッグコミックスピリッツ』にて連載開始。同作品で2007年に第11回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を、2011年に第15回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。 2010年12月から、『月刊IKKI』にて最新作『Sunny』の連載が始まった。著者の実体験をベースに描かれており、「少年期の落とし前となるような大事な作品」と語られる1作である。 作品ではスポーツを扱った作品が多く、いずれゴルフ漫画を執筆したいと語っている。インタビュー以外でメディアに露出することは極めて稀であるが、『STRAIGHT』の帯や、画集『松本大洋+ニコラ・ド・クレシー』で本人の姿を確認することができ、谷川俊太郎との共作関連でテレビにも出演している。パソコンなどの電子機器は所有していないが、電子書籍には興味があると語っている。 絵柄は作品によって大胆に変えられており、初期の『STRAIGHT』や『点&面』では、顔を記号的に省略した人物が登場し、望月峯太郎に影響を受けたようなタッチが見られる。当時から線にはこだわりを持っていた。構図では魚眼レンズで写したような、空間の広がりを極端に強調したアングルが多かったが、『GOGOモンスター』以降の作品ではこのような手法は使われていない。 画面構成については、『ZERO』が明暗を強調しているのに対し、『花男』ではバンドデシネの影響を受けて明るいタッチのデフォルメされた絵柄が用いられ、『鉄コン筋クリート』では白黒のメリハリが利いたイラスト的なタッチ(フランク・ミラーの影響が強いという)、『ピンポン』では細い線を使った黒味の少ないタッチ、『花』ではトーンを使わない黒っぽいタッチ、『竹光侍』では時代劇の雰囲気に合わせて画用紙を使い、スクリーントーンの代わりに薄めた墨が用いられている。 なお、作品では女性キャラクターが登場することが極めて少ないが、これは女の子を描くことだけは苦手だからであり、それ以上の意味は特にないという。 しかしそれは過去の発言であって、Sunnyからは冬野さほの作画協力も得て多くの女性や少女が登場してる。 画材は一貫してミリペンを使用。絵は枠線などを除いてフリーハンドで描かれており、建物などを描く場合でも定規は使われていない。ただし、デビュー作の『STRAIGHT』の途中まではGペンで描かれている。ミリペンに替えた理由は使いこなせないからだったと話す。 『STRAIGHT』『点&面』を除き、漫画作品はすべてA5判で刊行されている。
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松本 大洋は、日本の漫画家。東京都出身。和光大学人文学部芸術学科中退。 代表作に『鉄コン筋クリート』『ピンポン』など。スポーツや闘いを題材に、男の持つ美学や世界観を独特のタッチで表現している。初期には講談社『モーニング』で活動するも人気が出ず、小学館『ビッグコミックスピリッツ』に移って以降評価を受けるようになった。 実母は詩人の工藤直子。妻は漫画家の冬野さほで、冬野はしばしば松本のアシスタントもしている。従弟の井上三太も漫画家。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 松本 大洋 | ふりがな = まつもと たいよう | 画像 = Taiyō Matsumoto - Lucca 2017 02.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = <small>ルッカ・コミック&ゲームズにて</small>([[2017年]]) | 本名 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1967|10|25}} | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]]・[[イラストレーター]] | 活動期間 = [[1987年]] - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = 『[[鉄コン筋クリート]]』<br />『[[ピンポン (漫画)|ピンポン]]』 | 受賞 = 第30回:[[日本漫画家協会賞]]特別賞(『GOGOモンスター』)<br />第11回:[[文化庁メディア芸術祭]]優秀賞(『[[竹光侍]]』<br />第15回:[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞(『竹光侍』)<br />第32回:[[アイズナー賞]]最優秀アジア作品賞(『ルーヴルの猫』) | 公式サイト = }} '''松本 大洋'''(まつもと たいよう、[[男性]]、[[1967年]][[10月25日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]]出身。[[和光大学]][[人文学部]]芸術学科中退。 代表作に『[[鉄コン筋クリート]]』『[[ピンポン (漫画)|ピンポン]]』など。スポーツや闘いを題材に、男の持つ美学や世界観を独特のタッチで表現している。初期には[[講談社]]『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』で活動するも人気が出ず、小学館『[[ビッグコミックスピリッツ]]』に移って以降評価を受けるようになった。 実母は詩人の[[工藤直子]]<ref>[https://www.1101.com/tanikawa_taiyo/2014-01-23.html ほぼ日刊イトイ新聞 2014年1月23日 谷川俊太郎・松本大洋対談]で本人の発言</ref>。妻は漫画家の[[冬野さほ]]で、冬野はしばしば松本の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]もしている。従弟の[[井上三太]]も漫画家。 == 経歴 == 小学校から高校までは、[[サッカー]]部に所属するスポーツ少年だった。小学校時代に、[[児童養護施設]]で過ごしている<ref>[https://web.archive.org/web/20130913052056/http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/7599 東京旅行ガイド TimeOut Tokyo「松本大洋インタビュー」](2013年9月13日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])における本人の発言。</ref>。高校2年のとき、漫画の愛読者だった母の勧めで[[大友克洋]]と[[吉田秋生]]を読み、特に大友の『[[童夢 (漫画)|童夢]]』に衝撃を受ける。大学から従弟の[[井上三太]]の影響もあり漫画研究会に所属し、18歳で初めて漫画を描く。当時『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』に描いていた[[土田世紀]]に憧れ、2本目に描いた作品で[[講談社]]に持ち込みを行なう。 1987年、「それゆけファウルズ」が『モーニング パーティ増刊』に掲載。また、『STRAIGHT』が[[四季賞]]準入選を受賞し『[[月刊アフタヌーン]]』増刊号に掲載され、漫画家としてデビューを飾る。当時、自身を天才だと思っており、そのまま大学もバイトも辞めているが、後で自作品がほかと比べてお粗末なことに気付き、自分の勘違いを知ったという<ref>美術手帖「マンガテクニック」季刊03号(本人の発言、p.57)</ref>。 同時期のデビューで敵わないと思った漫画家に[[若林健次]]、[[山田芳裕]]、[[タナカカツキ]]がいたという<ref>『[[アフタヌーン四季賞CHRONICLE]]』の本人インタビュー</ref>。受賞をきっかけにすぐに大学を辞め、『アフタヌーンシーズン増刊』他で短編作品を発表したのち、1988年より『モーニング』にて野球を題材にした作品『[[STRAIGHT (漫画)|STRAIGHT]]』を連載。しかし単行本2巻までで打ち切りとなる。 その後、1年ほどの空白期間を経て[[小学館]]から声がかかり、担当編集者に話を通した後に移籍。『[[ビッグコミックスピリッツ]]』に1990年より『[[ZERO (松本大洋の漫画)|ZERO]]』、1991年より『花男』、1993年より『[[鉄コン筋クリート]]』、1997年より『[[ピンポン (漫画)|ピンポン]]』を連載。また、『鉄コン筋クリート』終了後、[[劇団黒テント]]からの依頼で上演用の漫画作品「花」を執筆。2000年にも同劇団に戯曲「メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス」を提供、この作品は2001年の[[岸田國士戯曲賞]]候補となった。 『ピンポン』から3年を経た2001年、長編描き下ろし作品『GOGOモンスター』を刊行。1998年11月から2000年9月まで約2年を費やして450ページが描かれ、[[祖父江慎]]のデザインによる箱入りハードカバーで刊行された。この作品で2001年、第30回[[日本漫画家協会賞]]特別賞を受賞。 2001年11月より、小学館からの新雑誌『スピリッツ増刊 IKKI』(後に独立して『[[月刊IKKI]]』となる)の看板作家として『[[ナンバーファイブ 吾]]』を連載。のちの『IKKI』編集長[[江上英樹]]は『IKKI』に松本を起用したことについて、「『[[月刊漫画ガロ|ガロ]]』が[[白土三平]]、『[[COM (雑誌)|COM]]』が[[手塚治虫]]を擁したのと同じ意味合いで、彼の存在は、この増刊号に不可欠なものと言えた」<ref>『創』2003年6月号</ref>と振り返っている。 2006年、和光大学漫画研究会の先輩であり、デビュー以来しばしば松本のアシスタントもしていた[[永福一成]]を原作者とする時代劇作品『[[竹光侍]]』を『ビッグコミックスピリッツ』にて連載開始。同作品で2007年に第11回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞を、2011年に第15回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞を受賞した。 2010年12月から、『月刊IKKI』にて最新作『Sunny』の連載が始まった。著者の実体験をベースに描かれており、「少年期の落とし前となるような大事な作品」と語られる1作<ref>[https://natalie.mu/comic/pp/sunny コミックナタリー特集記事]における[[江上英樹]]の発言。</ref>である。 作品ではスポーツを扱った作品が多く、いずれ[[ゴルフ]]漫画を執筆したいと語っている<ref>『[[アフタヌーン四季賞CHRONICLE]]』本人インタビュー</ref>。インタビュー以外でメディアに露出することは極めて稀であるが、『STRAIGHT』の帯や、画集『松本大洋+ニコラ・ド・クレシー』で本人の姿を確認することができ、[[谷川俊太郎]]との共作関連でテレビにも出演している<ref>BS『[[宮崎美子のすずらん本屋堂]]』2014年7月11日</ref>。パソコンなどの電子機器は所有していないが、電子書籍には興味があると語っている。 == 絵柄 == 絵柄は作品によって大胆に変えられており、初期の『STRAIGHT』や『点&面』では、顔を記号的に省略した人物が登場し、[[望月峯太郎]]に影響を受けたようなタッチが見られる<ref name="名前なし-1">『アフタヌーン四季賞CHRONICLE』本人インタビュー</ref>。当時から線にはこだわりを持っていた<ref>『STRAIGHT』第1巻の帯の作者コメント</ref>。構図では[[魚眼レンズ]]で写したような、空間の広がりを極端に強調したアングルが多かったが、『GOGOモンスター』以降の作品ではこのような手法は使われていない。 画面構成については、『ZERO』が明暗を強調しているのに対し、『花男』では[[バンドデシネ]]の影響を受けて<ref>「松本大洋ロングインタビュー」『フリースタイル』2007年冬号、8頁</ref>明るいタッチのデフォルメされた絵柄が用いられ、『鉄コン筋クリート』では白黒のメリハリが利いたイラスト的なタッチ([[フランク・ミラー]]の影響が強いという)、『ピンポン』では細い線を使った黒味の少ないタッチ、『花』ではトーンを使わない黒っぽいタッチ、『竹光侍』では時代劇の雰囲気に合わせて画用紙を使い、[[スクリーントーン]]の代わりに薄めた墨が用いられている<ref>松本大洋・高野文子対談「ハードボイルドまんが道をゆく」『ユリイカ』2007年1月号、80頁</ref>。 なお、作品では女性キャラクターが登場することが極めて少ないが、これは女の子を描くことだけは苦手だからであり、それ以上の意味は特にないという<ref name="名前なし-1"/>。 しかしそれは過去の発言であって、Sunnyからは冬野さほの作画協力も得て多くの女性や少女が登場してる。 画材は一貫してミリペンを使用。絵は枠線などを除いてフリーハンドで描かれており、建物などを描く場合でも定規は使われていない。ただし、デビュー作の『STRAIGHT』の途中まではGペンで描かれている。ミリペンに替えた理由は使いこなせないからだったと話す。 == 作品リスト == 『STRAIGHT』『点&面』を除き、漫画作品はすべてA5判で刊行されている。 === 連載作品 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 題名 ! 開始 ! 終了 ! 出版社 ! 掲載誌 ! 刊行情報 |- | STRAIGHT(短期連載版) | rowspan="2"| [[1988年]] | 同年 | rowspan="3"| [[講談社]] | [[アフタヌーンシーズン増刊]] | 未刊行 |- | [[STRAIGHT (漫画)|STRAIGHT]] | [[1989年]] | rowspan="2"| [[コミックモーニング|週刊モーニング]] | 絶版 |- | [[点&面]](CAR&EARTH テントメン) | rowspan="2"| 1990 | 同年 | 未刊行 |- | [[ZERO (松本大洋の漫画)|ZERO]] | [[1991年]] | rowspan="11"|[[小学館]] | rowspan="4"| [[ビッグコミックスピリッツ]] | * A5判単行本全2巻 * B6判単行本全2巻 * 文庫版全1巻 |- | 花男 | 1991年 | [[1992年]] | * A5判単行本全3巻 * B6判単行本全3巻 * 文庫版全2巻 |- | [[鉄コン筋クリート]] | [[1993年]] | [[1994年]] | * A5判単行本全3巻 * B5判大型単行本全1巻 * 文庫版全3巻 |- | [[ピンポン (漫画)|ピンポン]] | [[1996年]] | [[1997年]] | * A5判単行本全5巻 * B5判大型単行本全2巻 * 文庫版全3巻 |- | GOGOモンスター | rowspan="2"| [[2000年]] | 同年 | 単行本書き下ろし | * 単行本全1巻 * 文庫版全1巻 |- | [[ナンバーファイブ 吾]] | [[2005年]] | [[スピリッツ増刊IKKI]]/[[月刊IKKI]] | * A5判単行本全4巻 * B5判大型単行本全8巻 * 文庫版全4巻 |- | [[竹光侍]] | [[2006年]] | [[2010年]] | ビッグコミックスピリッツ | * A5判単行本全8巻 * 文庫版全4巻 |- | Sunny | 2010年 | [[2015年]] | [[月刊IKKI]] | A5判単行本全6巻 |- | [[ルーヴルの猫]] | [[2016年]] | [[2017年]] | [[ビッグコミックオリジナル]] | A5判単行本全2巻 |- | 東京ヒゴロ | 2019年 | 2023年<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-06-12|journal =ビッグコミックオリジナル増刊|volume=2023年7月12日号|publisher = 小学館}}表紙より。</ref> | [[ビッグコミックオリジナル増刊]] | 単行本既刊3巻 |- | むかしのはなし | 2020年 | | [[ビッグコミックスペリオール]] | |} === 短編集 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 題名 ! 発売年 ! 出版社 ! 刊行情報 |- | 青い春 -松本大洋短編集- | 1993年 | 小学館 | * A5判単行本 * B6判単行本(品切れ) * 文庫版 |- | 日本の兄弟 | 1995年 | [[マガジンハウス]] | A5判単行本 |} === 画集 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 題名 ! 発売年 ! 出版社 |- | 100 | 1995年 | rowspan="3"| 小学館 |- | 101 | [[1999年]] |- | TAIYOU:自選画集 | [[2018年]] |} === その他 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 題名 ! 発売年 ! 出版社 |- | 花 | 2002年 | フリースタイル |} === 短編・コラボレーション作品 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! style="font-size: smaller;" rowspan="2"| 題名 ! style="font-size: smaller;" colspan="3"| 初出 ! style="font-size: smaller;" rowspan="2"| 収録 |- ! 年 ! 出版社 ! 掲載誌 |- | それゆけ! ファウルズ!! | rowspan="2"| [[1987年]] | rowspan="4"| 講談社 | モーニングパーティー増刊 | rowspan="8" | 単行本未収録 |- | STRAIGHT(1987年四季賞応募版) | rowspan="3"| [[アフタヌーンシーズン増刊]] |- | タイガース時代 | rowspan="3"| 1988年 |- | ベストポジション |- | 子供の頃に見た空は. | [[偕成社]] | [[コミック・モエ]] |- | オフロードチャンピオンシップを見たぞ | 1989年 | 講談社 | [[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]] |- | ドラえもん | 1996年 | [[イースト・プレス]] | [[COMIC CUE]] |- |あいさつ。 |1999年 |小学館 |トカイモン―トウキョウワカモノブック |- | m | 2001年 | プレビジョン | [[Spoon.]] | rowspan="2"| 日本の兄弟 |- | べんち | 2002年 | rowspan="2"| 小学館 | 青い春 ビジュアルシネブック |- | タムラ | 2003年 | 月刊IKKI | ピンポン フルゲームの1 |- | 三重県の少年。 | 2002年 | rowspan="2"| [[飛鳥新社]] | [[adidas MANGA FEVER]] | rowspan="5"| 単行本未収録 |- | 勘吉 | 2006年 | [[JAPON]] |- | 犬は何と鳴く | 2010年 | 小学館 | ビッグコミックスピリッツ |- | ささやかな旅 | 2014年 | [[玄光社]] | 松本大洋+ニコラ・ド・クレシー |- | 5時間目のブラックジャック | 2016年 | [[朝日新聞出版]] | マンガのDNA |- | 親父衆 | rowspan="4"| 2015年 | rowspan="2"| [[集英社]] | [[ジャンプ改]] | 親父衆 |- | MUJICA NOSTRA | [[グランドジャンプ]] | 単行本未収録 |- | アシロ | 小学館 | 月刊IKKI | ナンバー吾普及版第1巻 |- | エガミさん | フィルムアート | 漫画編集者 | rowspan="2" | 単行本未収録 |- |東京の青猫 |2021年 |小学館 |もしも、東京 |} === 絵本 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! style="font-size: smaller;" | 題名 ! style="font-size: smaller;" | 共同制作者 ! style="font-size: smaller;" | 発売年 ! style="font-size: smaller;" | リリース |- | かないくん | [[谷川俊太郎]] | 2014年 | [[東京糸井重里事務所]]、ほぼ日の絵本 |- | 「いる」じゃん | [[工藤直子]] | 2017年 | [[スイッチ・パブリッシング]] |- | こんとん | [[夢枕獏]] | 2019年 | 偕成社 |} === 装丁、挿絵 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! style="font-size: smaller;"| 作品 ! style="font-size: smaller;"| 著者 ! style="font-size: smaller;"| 年 ! style="font-size: smaller;"| リリース |- |八月の金貨 | [[山中恒]] | 1992年 | [[あかね書房]]、あかね創作文学シリーズ |- | こどものころにみた空は | 工藤直子 | 2001年 | [[理論社]] |- | 自棄っぱちオプティミスト | [[キリンジ]] | 2010年 | [[パルコ]] |- | ボールのようなことば。 | [[糸井重里]] | 2012年 | [[東京糸井重里事務所]]、ほぼ日文庫 |- | ふたつめのボールのようなことば。 | 糸井重里 | 2015年 | [[東京糸井重里事務所]]、ほぼ日文庫 |- | TRIBUTE TO OTOMO | 大友克洋 | 2017年 | 講談社 |- | ドエクル探検隊 | 草山万兎 | 2018年 | 福音館書店、福音館創作童話シリーズ |- | みっつめのボールのようなことば。 | 糸井重里 | 2018年 | [[東京糸井重里事務所]]、ほぼ日文庫 |- | 「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出 | [[角野栄子]] | 2019年 | [[KADOKAWA]] |- | スター・ウォーズ トリビュート画集 | | 2019年 | 講談社 |- | ひととき小説 | | 2021年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/455731|title=松本大洋がJTの小説イラストを担当、“ささやかな幸せ”がテーマの物語|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-12-01|accessdate=2021-12-01}}</ref> | [[日本たばこ産業]] |} === デザイン === * 劇場アニメ『[[犬王 (アニメ映画)|犬王]]』キャラクター原案 == 作品の映像化 == * [[ピンポン (漫画)|ピンポン]](2002年、実写映画。監督:[[曽利文彦]]、脚本:[[宮藤官九郎]]、主演:[[窪塚洋介]]) * [[青い春]](2002年、実写映画。監督:[[豊田利晃]]、主演:[[松田龍平]]) * [[リボルバー 青い春]](2003年、実写オリジナルビデオ、監督:渡辺武、主演:[[玉木宏]]) * [[鉄コン筋クリート]](2006年、アニメーション映画、監督:[[マイケル・アリアス]]、制作:[[STUDIO 4℃]]) * [[ピンポン (漫画)|ピンポン THE ANIMATION]](2014年、テレビアニメーション、監督:[[湯浅政明]]、制作:[[タツノコプロ]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 『[[アフタヌーン四季賞CHRONICLE]]』講談社、2005年 * 『マンガ夜話 松本大洋「花男」』キネマ旬報社、1998年 * 『フリースタイル』2007年冬号「特集 松本大洋」フリースタイル * 『ユリイカ』2007年1月号「特集・松本大洋」青土社 == 外部リンク == * [https://www.shogakukan.co.jp/search/site/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E6%B4%8B 小学館 松本大洋の本] * [https://www.1101.com/tanikawa_taiyo/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 谷川俊太郎☓松本大洋 詩人と漫画家と絵本。] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まつもと たいよう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:21世紀日本の劇作家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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ウサギ
ウサギ(兎、兔)は、最も広義には兎形目、狭義にはウサギ科、さらに狭義にはウサギ亜科もしくはノウサギ亜科 Leporinaeの総称である。 ここでは主にウサギ亜科について記述する。現在の分類では、ウサギ亜科には全ての現生ウサギ科を含めるが、かつては一部を含めない分類もあった。兎形目はウサギ科以外に、ナキウサギ科、サルデーニャウサギ科など。 他の獣と比しての特徴としては、耳介が大型なことが挙げられる。兎形目内では耳介があまり発達していない種でも、他の哺乳綱の分類群との比較においては耳介比率が大きいといえる。音や風のするほうへ耳の正面が向くよう、耳介を動かすことができる。また、毛細血管が透けて見えるこの大きな耳介を風にあてることで体温調節に役立てるともいう。 眼は頭部の上部側面にあり広い視野を確保することができ、夜間や薄明薄暮時の活動に適している。鼻には縦に割れ目があり、上部の皮膚を可動させることで鼻孔を開閉することができる。門歯は発達し、一生伸びつづける。かつてはこの門歯の特徴をもってネズミと同じ齧歯目の中に位置づけられていた。しかし、上顎の門歯の裏側に楔形の門歯があるものをウサギ目として独立した目分類がなされるようになった(齧歯目と近縁の仲間ではある)。歯列は 2 ⋅ 0 ⋅ 3 ⋅ 3 1 ⋅ 0 ⋅ 2 ⋅ 3 {\displaystyle {\tfrac {2\cdot 0\cdot 3\cdot 3}{1\cdot 0\cdot 2\cdot 3}}} (順に 門歯・犬歯・小臼歯・大臼歯、上下は上下顎)で、計28本の歯を持つ。 かつてネズミの仲間と分類されていたように、肉食であるネコやイヌとは異なる点が多く、多くの種のウサギの足の裏には肉球はなく、厚く柔らかい体毛が生えている。前肢よりも後肢が長く、跳躍走に適している。前肢の指は5本、後肢の趾は4本で、指趾には爪が発達する。体全体は丸みを帯び、尻尾は短い。ただ、盲腸は長い。 草原や半砂漠地帯、雪原、森林、湿原などに生息する。アナウサギは地中に複雑な巣穴を掘って集団で生活する。縄張り意識は比較的強く、顎下の臭腺をこすりつける事で臭いをつけてテリトリーを主張する。ノウサギは穴での生活はしない。 食性は植物食で、草や木の葉、樹皮、果実などを食べる。一部の野生種は昆虫なども食べるという。カイウサギであれば、屋外のアリなども舐めながら食べる。 胎生。ネコなどと同じく、交尾により排卵が誘発される交尾排卵動物。妊娠期間は最長がユキウサギの約50日で、多くの種は30・40日。一度の出産で1・6頭(ないしそれ以上)を出産する。 アナウサギは周年繁殖動物(繁殖期を持たない動物)に分類され、年中繁殖することが可能であり、多産で繁殖力が高い動物である。ノウサギは春先から秋まで、長期的なゆるい繁殖期を持っている。 天敵はヘビ、キツネ、カラスをはじめ小〜中型の肉食獣、猛禽類。 種類にもよるが、時速60-80kmで走ることができるという。 声帯を持たないため滅多に鳴く事はないが、代わりに非言語コミュニケーションを用いる。代表的なものは発達した後脚を地面に強く打ち付けるスタンピングで、その主な動機は天敵が接近した場合に仲間に警戒を促すためであるが、不快な感情を表す際にもこの行動をとる事がある。 ウサギの唾液には、衛生状態を保つ成分が含まれている。顔を前脚で覆うように撫でたり耳を撫でる仕草をみかけるが、前脚に予め付着させておいた自らの唾液を目的の部位全体に行き渡らせる事で衛生状態を保っているのである。 特徴的な長い耳に代表されるように秀でた聴力を持つ一方で、視力には劣り、食物を食べる時に安全性を確認する場合も、視覚より嗅覚を駆使する。 ストレスには非常に弱く、絶えず周囲を警戒している。 ニンジンなどの根菜を食べるイメージがあるが、糖分が高く自然界では食べない。飼育環境下で少量与えられる程度である。主に食べるのはチモシー、アルファルファなどの牧草であるが、チモシーにアレルギーを起こす人が居るので、時々飼育で問題になる。 時折、背を丸めて直接肛門に口を持っていき、口をモグモグとする行動を観察できるが、これは「食糞行動」といい、未消化になった植物繊維等を含んだ糞を再度食べて消化と栄養の再吸収を促す行為であり、異常行動ではない。 捕食される側である草食動物のため、家飼いする場合もその本能が残存しており、部屋の目立った場所に出ず、カーテンの裏側、机の下、部屋の隅っこなどに陣取る事が多い。 ウサギはデリケートな生き物でもあり、ペット飼育されているウサギにはストレスを感じた時に稀に自分の体毛を毟り取る行動が見られるが、ほかのペット動物でもありうる事である。 前歯が伸び続ける事も手伝い、家飼いする時、屋内のコードというコードを片っ端からかじってしまうことも多い。本、畳、木材家具に至ってはそのものを食べてしまうこともある。特に家電製品のコード類は感電の恐れもあるので、なるべく手の届かないところに設置すべきである。 排泄場所は、きれい好きのため、きちんとしつければ、特定の場所で排泄を行うようになる。隅で隠れられる場所に排泄場所を置くべきである。 寿命 南極大陸や一部の離島を除く世界中の陸地に分布している。ペットとして持ち込まれたものも多く、オーストラリア大陸やマダガスカル島には元々は生息していなかった。特に、オーストラリア大陸に広く分布するようになったウサギは、入植者のトーマス・オースティンが狩猟用に持ち込んだ24匹のウサギが、オーストラリアの環境に適応して爆発的に増えたものであることが知られている。 日本では、各地の縄文時代の貝塚からウサギの骨が出土することや、古事記の「因幡の白兎」などに登場することなどから、そのころには既にかなりの数が棲息していたものと考えられる。灰色や褐色等の毛色を有し、積雪地帯では冬には白毛に生え変わる在来種ニホンノウサギは、日本の固有種として知られている。また、絶滅危惧種であり国の特別天然記念物アマミノクロウサギは、世界でも奄美群島の一部のみに生息する。 野ウサギは昔から食料や毛皮、遊興などの目的で狩猟の対象とされている。特に欧米では、ウサギのハンティングは文化的なスポーツとして扱われている。 狩猟の際にウサギを追いかけるときは必ず斜面の上から追いかけると有利、逆に斜面を登る形で追いかけると不利とされている。なぜならウサギの身体的特徴として後ろ足が長く前足が短いため、ウサギは上り坂では体の傾き具合が水平になるため坂を上るのに強く、下り坂では前かがみのようになってしまうため坂を下るのは苦手だからである。 上野公園にある西郷隆盛像は、愛犬「ツン」をつれて趣味の兎狩りをしているときの姿である。 狩猟や養殖によって得られたウサギの肉は、食用として利用されてきた。古代、マンモスなどの大型の獲物が少なくなるにつれ、ウサギを始めとする小型ですばしっこい動物は、人類にとって重要な獲物となっていった。ネアンデルタール人は、このような小さな獲物を狩るための適応が出来なかったため、滅んだとの説がある。 ウサギは柔らかい食肉となる。ウサギのフィレ・ステーキという料理もあるが、1頭のフィレ部分はホタテ貝の貝柱程度の寸法しかなく数頭分のフィレ肉を使うことになる。挽肉にすると粘着性が高いので、ソーセージやプレスハムに結着剤として使われることがある。 日本でも、古来より狩猟対象であり、食用とされてきた。縄文時代の貝塚から骨が見つかることはそれを示唆するものであると考えられ、江戸時代徳川将軍家では、正月の三が日にウサギ汁を食べる風習があったという(日本の獣肉食の歴史#江戸時代および食のタブー#ウサギも参照)。秋田県の一部地域では「日の丸肉」と呼ばれ、旅館で料理として出されることがある。この日の丸肉という名称は、一説によると、明治期に日本で品種改良されて定着した白毛に赤目の日本白色種が、あたかも日の丸の色彩を具現化したような動物であったことによるともいわれる。明治期に入り、兎の輸入が始まる。兎の種類は肉用(ベルジアン、バタゴニアン)、毛用(アンゴラ)、毛皮用(ヒマラヤン、シベリヤン)、愛玩用(ロップイヤー、ポーリッシュ、ダッチ)がある。ロップイヤーの平均体重は9斤(5.4kg)である。また秋田県の一部のマタギには、ウサギの消化器を内容物と共に料理して食べる「スカ料理」が伝わっている。 20世紀に入り、一般消費者がスーパーマーケットなどで豚肉や牛肉が手軽に購入できるようになっても、ウサギ肉が単独で店頭に並ぶ例はほぼないが、1960年代には豚挽肉にウサギ肉を混入する事例が横行した。1969年には農林省が原材料を明記するよう業界を指導したことがある。 欧州各地でも古来より食用とされ、フランス料理では、伝統的に一般的な料理に使用するものは、カイウサギをラパン(Lapin)、ノウサギをリエーヴル(Lièvre)という区別で食肉として愛好されてきた。ラパンはしばしば鶏などと同様に家禽類として扱われる。背肉から腿肉までが主要部位で、内臓肉としては腎臓、レバーなどを食べる。 北米では、ウサギ肉はフライ用(fryer)、ロースト用(roaster)、内臓(giblets)の3等級に分類されている。生後9週まで、体重4.5-5ポンドの肉はフライ用。体重5-8ポンド、月齢8ヵ月までの肉をロースト用と定めている。ロースト用はフライ用よりも肉が硬いとされている。肝臓や心臓なども食用にする。 ユダヤ教では、ウサギは「清くない動物」、すなわち非カーシェール(כָּשֵׁר, Kāšēr)とされ、食べてはならない動物に定められている。日本でも一部の地域(埼玉県・群馬県など、後述)において、妊婦が兎肉を食べることを禁忌とする考え方がある。 狩猟や養殖によって得られたウサギの毛皮は、服飾品としても利用されてきた。 防寒用として世界各地でその毛皮が用いられてきたほか、一種の装飾用としても用いられる。 また、毛皮としてではなく毛足の長いウサギの毛を羊毛のように刈り取って織物用の繊維として利用することも行われてきた。アジア原産のアンゴラ山羊やアンゴラ兎をつかったモヘヤが知られているが、欧州ではアンゴラウサギ (Angora rabbit) という繊維利用専用の品種も作られた。日本でも、明治から太平洋戦争の時代にかけて軍需毛皮を生産する目的からウサギの飼育が盛んになり、日本アンゴラ種という品種が作られた。 西洋では、ウサギの足や尾は幸運のシンボルとして剥製化されて使用される。 ウサギの革を煮込んで得られる膠は、テンペラ画の地塗りに用いられてきた。アクリル絵具が発達した21世紀初頭でもなお、古い絵画の修復に欠くことのできない材料である。 家畜化されたアナウサギ(カイウサギ)が、実験動物として広く使われる(ドレイズ試験)。 「明治時代のウサギブーム」「ウサギバブル」も参照。 日本では明治時代に入り、ウサギの売買や飼育が盛んになったことから、1873年(明治6年)に東京府より「兎取締ノ儀」が布達された。ウサギ一頭につき、1円を科せられ、無許可で飼育すると2円の罰金を科せられた。 ウサギの一種であるアナウサギを家畜化したものはカイウサギと呼ばれ、広く利用されている。ペットとして人気の高いネザーランド・ドワーフやロップイヤー、毛皮用にも使われるレッキス、日本で実験用によく使われるジャパニーズホワイトなど多くの品種があるが、分類学的にはアナウサギと同種とみなされ、学名も同じOryctolagus cuniculusである。 利用目的は毛用・肉用・愛玩用など多岐にわたる。ペット用に品種改良されたものはしばしばイエウサギと呼ばれ、一般家庭での飼育も可能である。実験動物としては、薬品や化粧品の安全性試験や、医学研究のモデル生物として使われるが動物実験の結果をそのまま人間には適用できない事例もあるだけでなく、倫理上の観点からも問題視されており、徐々に動物実験を廃止する動きが広まりつつある。 日本の大久野島・前島やニュージーランド、オーストラリアでは逸出したカイウサギの野生化が起こっている。オーストラリアでは、野生化したカイウサギが生態系や農業に与える悪影響が問題視されている。 明治時代、その愛くるしさからウサギを飼う事が大流行し、ウサギの価格が高騰。闇取引することが多く政府が取り締まるほどの一大ムーブメントが起きていた。 ARBA (American Rabbit Breeders Association) は世界最大規模のウサギ協会。純血種を保護するため毎年ブリーダーや一般の飼い主が持ち寄ったウサギを品種ごとに基準を定め品評会を行っている。 ウサギは生息域が広く昼行性で繁殖率も高く人の目にふれやすいため、親しみやすく、擬人化されて童話や説話のモチーフとして使われている。漫画やマスコット等のキャラクターとして登場する。ピーター・ラビットの作者ビアトリクス・ポターは、自らが飼っていたウサギを詳細にデッサン、スケッチして解剖学的にも研究して描いている。 西洋東洋を問わず、子ども向け用品を扱う企業のマスコットやシンボルマークにウサギを使用している。 日本から見た月面の模様は古くから餅つきをするウサギに見えていた事から、日本には古来、ウサギが月に棲むという説話が仏教・道教説話あるいは民間説話として伝わっている。 たとえば、仏教的説話を多く題材にとる『今昔物語集』第五巻第十三話「三の獣、菩薩の道を行じ、兎身を焼く語」には、次のような捨身慈悲、滅私献身の象徴としてウサギが描かれる。 以上が、「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三(みつ)の獣ありて、共に誠の心を発(おこ)して菩薩の道(どう)を行ひけり」に始まり、「万(よろづ)の人、月を見むごとに此の兎の事思ひいづべし」で終わる説話のあらすじである。 平安時代末期ごろに原型が成立したとされ、江戸時代には広く読まれていた『今昔物語集』に採録されたこの仏教説話は、釈尊の前世エピソードを集めた古いインドの物語ジャータカや中国の『大唐西域記』などの影響をうけているとみられる。この仏教説話がいつごろ日本に伝わり各地に広まったかは定かではないが、奈良時代以前に作られた法隆寺玉虫厨子の台座絵背後の須弥山図では、帝釈天宮の右上に月(中におそらくウサギか蟾蜍(ひきがえる))と、左上に真っ赤な太陽(中に三本脚の烏)がすでに描かれている。また、そのころに作られたとされる中宮寺天寿国繍帳にも、月を意味する円の中に、不老不死の薬壺と月桂樹の枝とともにウサギが刺しゅうされている。なお、中国由来の道教の神仙思想において、月は西王母という仙女が治める世界であり、そこでは永久に枯れない木(月桂樹)のもとで不老不死の薬をウサギが作っているとされ、そこを訪れた美女が蟾蜍()に変えられ月にとどめられているという説話がある。 平安時代の『延喜式』には、「三本足の烏、日之精也。白兎、月之精也」という記述がすでにみられ、ウサギは月の象徴として為政者や日本の寺社でも認識されていたことがうかがえる。他にも、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」という言葉があるが、日本では江戸時代までは、太陽と月、すなわち全宇宙を天皇が統べるという意識のもと、朝廷のハレの儀式のときには日月を表す幟(のぼり)を必ず立てることとしていた。この幟には金烏と玉兎がそれぞれ太陽と月の象徴として描かれていたとされる。また、『続日本紀』天平4年(732年)正月の条に「御大極殿受朝。天皇始服冕服。」とある。この年の正月に聖武天皇は大極殿で朝賀を受けたが、天皇が「袞冕(こんべん)」という礼服を着用したのはこの時が初めてであるという内容であるが、以後、天皇の礼服となるこの袞冕(べん)には、赤地の衣の左肩の部分に金糸の円(その中に黒の烏)、右肩の部分に銀糸の円(その中にウサギと蟾蜍)を刺しゅうしてある。中国皇帝が黒地に左肩に月、右肩に太陽の礼服を用いていたことの影響と考えられる。 こうした月の象徴としてのウサギは、仏教・道教的背景を持つ意匠にとどまらず、日本の素朴な民間神事にもあらわれている。 日本、中国、インド、アイヌ、東南アジア、アフリカなど各地に伝わる「射日神話」と呼ばれるものがある。本来なら、一つであるはずの太陽の数が増えすぎて猛暑大旱魃となり、困った人間たちは知恵を絞り、増えすぎた偽の太陽を射落とすというものである。日本でも各地で奉射祭(オビシャ、オコナイなどともいう)と呼ばれる弓神事が民間で行われてきた。現在でも、滋賀県や利根川下流域の茨城南部から千葉県などで広く行われているが、太陽に擬した的と月に擬した的を用意し、太陽に擬した的だけを、弓矢で射抜く行事である。太陽の的には三本足の烏が描かれ、月の的にはウサギが描かれることが多い。 ウサギは月の化身であり神聖なシンボルとして広く用いられてきたのである。 ウサギを「山の神」と同一視、あるいは「山の神の使い(神使)」や乗り物とする伝承も日本各地に広くみられる。 滋賀県高島郡では、山の神の祭日には山の神は白いウサギに乗って山を巡る、山の神は白ウサギの姿をしているとされ、京都府愛宕郡では氏神三輪神社境内に祭られる山の神の2月の祭日には白ウサギが稲の種を蒔き、11月の祭日には白ウサギが稲の落穂を拾うというので、白ウサギは決して獲ってはならないとされている。また、福井県三方郡ではウサギは山の神の使いとされ山の神の祭日に山に入ることの戒めとともに伝わっている。 また、福島県では吾妻山の斜面の雪解け模様(溶け残った雪が白くある部分)を白いウサギの形に見立て、「雪うさぎ 」あるいは「種まきウサギ」と呼んで、これを苗代の種まきの合図とした。福島市には「吾妻小富士の下の残雪がうさぎ形に見られる頃になると晩霜の心配がない」という天気ことわざもあり、また、日照りの際にトンビにさらわれたウサギが山の神となったという説話が伝わっている。 こうしてウサギが各地で山の神と同一視されてきたのは、人間の暮らす里と神や動物のいる山とを身軽に行き来することからの境界を超えるものとしての崇拝、多産で繁殖力に富むことから豊穣をつかさどる意味、そして東日本のノウサギは冬には毛皮が真っ白に変化することから白い動物を神聖視する考え方(白鳥などを神聖視する古来の白への信仰)、西日本のノウサギは白くはないのであるが突然変異で白くなった動物を瑞兆とした考え方(白蛇、白鹿、白亀などが朝廷に献上された例などにも見られる希少な白への信仰)などさまざまな背景があると考えられる。 また、月読命(豊産祈願)や大己貴命(大国主命)、御食津神(五穀豊穣)などを祭神とする寺社ではその祭神の性格からウサギを神の使いとするところも多い。『古事記』には大国主命に助けられるウサギの話として「因幡の素兎」の話が伝わっている。 ウサギは道教・陰陽思想の影響を受けた十二支の生肖の1つでもあり、「卯(う)」として暦時方角をもあらわしてきた(ただし東南アジアではネコが取って代わる)。 アングロ・サクソンの多産と豊穣をつかさどる春の女神エオストレ(英語版)は、その化身あるいは使いがウサギである。 ウサギは、冬に失われた生命が復活し草木が芽吹き花々が咲く再生の春のシンボルである。卵は宇宙の根源のシンボルであり、宇宙は卵から生まれ、殻の上半分が天になり、下の部分が地になったことをあらわす。絵画等でも女神は必ずといっていいほどウサギを伴った姿で描かれ、このウサギが良い子に卵をもたらすとされる。卵のほうは絵画にはあらわれないが、ウサギと卵の関係について、このウサギは女神が冬に翼の凍ってしまった鳥をウサギに変えたものなので、特別に鳥のように卵を産めるのであるとする話や、ウサギが春色に塗り分けたきれいな卵をプレゼントしたところ女神が大変に喜び、皆にも配るよう命じたという話、ウサギが子どもたちを喜ばせるためにニワトリの卵を庭に隠して探させてみようとしたところ、そのうしろ姿を子どもたちにみられてしまった話などが伝わっている。欧米では現在も春の祭りの日の余興として、子供たちや招かれた客があらかじめ招待主の隠しておいた庭の卵探しをすることがあるという。 同様の話は、オスタラ (Ostera) アスタルテー (Astarte) イシュタル (Ischtar) イナンナ (Inanna) などの女神の名で欧州各地の神話伝説にあり、さかのぼれば、ギリシャのアフロディーテやローマのビーナスなどにも通じ、古代エジプト、ペルシャ、ローマなどでは春の祭りに卵に着色して食べる習慣が既にあったという。のちに、キリスト教が入ってきたときに、キリストの復活と春を祝う女神信仰が「生命への希望」という共通点で結びつき、エオストレ (Eostre) は復活祭 (Easter) の名前の由来となった。 こうした経緯から、キリスト教会で行われる復活祭(イースター)では、生命と復活の象徴を卵とウサギに求めて、イースターエッグやイースターバニーの名で行事にシンボルモチーフとして登場させる。ただし、正教会においてはイースターエッグのみであり、異教の女神と色濃く結びつくイースターバニーのほうは排除されてしまった。 こうした背景の中で、米英を中心とする西欧世界ではイソップ物語や不思議の国のアリスなどに登場するウサギのように、秩序からはずれた存在をあらわす役目をあてがわれ、あわて者、怠け者、異界へ誘う者、トリックスターとして描かれることも多い。 天敵の多いアナウサギは生き残りのために発情期をなくして年中生殖行為が可能である。 年中発情している獣はヒトとウサギ(アナウサギ)くらいであるというイメージから、性的誘惑のシンボルとしてウサギが選ばれ、大人の世界のディズニーランドというコンセプトを目指した米国の高級ナイトクラブであるプレイボーイクラブのウェイトレスの正式なコスチュームとして、「バニーガール」が、1960年に採用され、カジノやバーなどで女性コスチュームに広く採用されるようになった。成人誌『PLAYBOY』でも、連動して1960年からオスのウサギの頭をデザインした「ラビットヘッド」がキャラクターとして用いられている。 ラビットフット(兎の足)という魔除けのお守りが、1940-1960年代にアメリカのヒッチハイカーなどの間で局地的に流行したとされる。その起源はケルトの一族が身に付けていた幸運のお守りであり、ウサギの繁殖力を神聖視していた一族が、ウサギの男根を象徴しているウサギの足のミイラを身に付けて繁栄を願ったものであったとされている。 このように古来からウサギは多産豊穣・繁栄のシンボルとして、洋の東西を問わず女性や子どもと関わりの深い動物であり、1960年代ごろから男性成人向けのキャラクターとしても用いられるようになった。 今日の日本では、卯月が四月の春であること、月見をするのが現在は秋であることから、イメージとしては春とも秋とも結び付けられている。俳句においては、野兎や雪兔は冬の季語とされている。 動きの速いものの象徴として使われることもままある。 種類によっても違うが、ノウサギは、天敵から逃げ切るために時速60-80キロほどのスピードで走ることができる。人間の場合、100m走の世界記録保持者であっても時速にすれば40キロにも達しない(しかも最高速が出るのは一瞬だけ)ことを考えると、いかにウサギが俊足であるかが分かる(アナウサギの場合には、隠れる穴を用意してあるためそこまで早い速度で逃げる能力が発達しておらず、時速35キロほどいわれている)。 ウサギは、機械や設備の高速動作を表すシンボルとして用いられている。Henry Dreyfuss Symbols Sourcebook(1972年)の時点ですでに乗り物の変速機構のデザインとして確立されていることが指摘されている。設備類に用いられる図象を定める ISO 7000 にしたがえば、動作速度を速い順にウサギ、カメ、カタツムリのシルエットを用いて表すことになる。JIS規格も同様で、たとえば建設機械の変速機構操作にはウサギとカメの絵が描かれるほか、ミシンの速度調節としてもウサギとカメが用いられている。 また日産自動車のブランド「ダットサン」の「ダット」の部分に関して、関係者のイニシャルとともに速く走ることのたとえである「脱兎」が由来になっているとされる。 仏教世界においては献身のシンボルとされる。これは仏教説話集ジャータカ(jātaka)の中に、ウサギが身を火に投じて仙人に布施する物語(ササジャータカ:sasajātaka)があるためである。ちなみに日本におけるモチーフとしてのウサギのところで前述したように、月面の模様をウサギに見立てることも、ここからきている。 神道世界においては神の使いとされることがある。大阪の住吉大社・埼玉の調神社・京都の岡崎神社などの神使として知られている。調神社や岡崎神社には狛犬ではなく狛ウサギがある。 縁起の良い動物として、企業や団体のシンボルマークに用いられることも多い。 わらべうたとして「うさぎ うさぎ 何見て跳ねる 十五夜お月様 見て跳ねる」(成立年作詞作曲不詳)と古くから歌われてきたし、ウサギは昔話にもよく登場する身近な動物であった。日本の昔話としては、ウサギが機智を働かせて悪の象徴であるタヌキを懲らしめる「かちかち山」型の説話がよく知られており、そこではウサギは知恵のあるもの、あるいは悪を懲罰するものとして存在している。但し、ウサギの賢明さが時には狡猾と解されることもある。例えば「かちかち山」の後日譚というべき『親敵討腹皷』(おやのかたきうてやはらつづみ)(朋誠堂喜三二 作)では、ウサギはかつて己が手にかけたタヌキの子に仇としてつけ狙われている。 一方、「タヌキとウサギとキツネのぼた餅分け」という民話では、ウサギはタヌキとともに、狡猾なキツネに騙される役柄となっている。 西欧のイソップ物語を原型として明治以降に広められた「ウサギとカメ」の説話では、得意分野で相手を侮って敗れた愚か者として描かれる。 そのほか、月への民間信仰との関わりもあってか、その愛らしい姿をデザインしたものは古くから安産、女性や子供の守り神として広く受け入れられ、郷土玩具その他さまざまな道具の意匠に用いられてきた。他にも、謡曲(能)で『竹生島(ちくぶじま)』で「月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか 面白の島の景色や」と謡われたことなどから、江戸時代には波の上を跳ねるウサギが瑞祥文様として庶民の着物文様や建築意匠に使われている。 兎の異体字「兔」を表すShift_JISコードは0x995cであり、2バイトめが 0x5c、すなわち1バイト文字における「¥」(「円記号」あるいは「バックスラッシュ」)に該当する通称「ダメ文字」の一つである。1バイト文字0x5cには、しばしば特殊な機能が割り当てられているため、マルチバイト文字が入力されることを想定していない(または想定していても対応に不備がある)プログラムは、マルチバイト文字に含まれている0x5cを誤認識し適切に動作しない可能性がある。 ウサギの日本語における助数詞は、かつて1羽、2羽と鳥と同様の「羽(わ)」を使用していた。この由来には諸説あるが、おもに以下のようなものがある。 『羽』は哺乳類ではなく鳥類を数えるときの助数詞であり、『頭』は人間よりも大きな動物、『匹』は人間よりも小さな動物に使うという傾向からすれば、うさぎは『匹』と数えるのが自然であり、『NHK放送のことばハンドブック』では、(文学や食肉として扱う場合を除き)生きたウサギは「匹」を用いるのがふさわしいとしている。愛玩用のウサギは日常的には「匹」または「羽」であるが、商取引では「頭」が使われる場合もある。なお、自然科学の分野では、動物全般について、動物の大きさで区別せず画一的に頭を使用するのが原則であり(鳥類や小さな昆虫でも、一頭二頭と数える)、NHKのニュースにおいても生物学的な話題として報道する場合には、「奄美大島に生息するクロウサギは~現在ではわずか600頭が確認されているに過ぎない」のように表現する場合がある。 ウサギを連想するような、白くて丸い形をした動植物に、ウサギの名前が冠せられることがある。 たとえば、貝の中でも丸くて白っぽい貝はウミウサギガイ科と名付けられており、ウサギを含んだ名がつけられている。ウミウサギ、マメウサギ、ウサギアシカワボタンガイなど。これらの貝殻はその外観の美しさから海のジュエリーとしてダイバーや貝殻愛好家からの人気も高い。 月兎耳(つきとじ)(Kalanchoe tomentosa) という多肉植物の名は、白い毛で覆われた長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。 ウサギゴケという食虫植物の名は、その白い花が見事に耳をぴんとたてたウサギの形をしていることによる。ウサギギクの名は、長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。 また、兎馬(ウサギウマ)はロバを意味するが、これはロバの大きな耳がウサギを思わせることからきていると考えられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウサギ(兎、兔)は、最も広義には兎形目、狭義にはウサギ科、さらに狭義にはウサギ亜科もしくはノウサギ亜科 Leporinaeの総称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ここでは主にウサギ亜科について記述する。現在の分類では、ウサギ亜科には全ての現生ウサギ科を含めるが、かつては一部を含めない分類もあった。兎形目はウサギ科以外に、ナキウサギ科、サルデーニャウサギ科など。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "他の獣と比しての特徴としては、耳介が大型なことが挙げられる。兎形目内では耳介があまり発達していない種でも、他の哺乳綱の分類群との比較においては耳介比率が大きいといえる。音や風のするほうへ耳の正面が向くよう、耳介を動かすことができる。また、毛細血管が透けて見えるこの大きな耳介を風にあてることで体温調節に役立てるともいう。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "眼は頭部の上部側面にあり広い視野を確保することができ、夜間や薄明薄暮時の活動に適している。鼻には縦に割れ目があり、上部の皮膚を可動させることで鼻孔を開閉することができる。門歯は発達し、一生伸びつづける。かつてはこの門歯の特徴をもってネズミと同じ齧歯目の中に位置づけられていた。しかし、上顎の門歯の裏側に楔形の門歯があるものをウサギ目として独立した目分類がなされるようになった(齧歯目と近縁の仲間ではある)。歯列は 2 ⋅ 0 ⋅ 3 ⋅ 3 1 ⋅ 0 ⋅ 2 ⋅ 3 {\\displaystyle {\\tfrac {2\\cdot 0\\cdot 3\\cdot 3}{1\\cdot 0\\cdot 2\\cdot 3}}} (順に 門歯・犬歯・小臼歯・大臼歯、上下は上下顎)で、計28本の歯を持つ。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "かつてネズミの仲間と分類されていたように、肉食であるネコやイヌとは異なる点が多く、多くの種のウサギの足の裏には肉球はなく、厚く柔らかい体毛が生えている。前肢よりも後肢が長く、跳躍走に適している。前肢の指は5本、後肢の趾は4本で、指趾には爪が発達する。体全体は丸みを帯び、尻尾は短い。ただ、盲腸は長い。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "草原や半砂漠地帯、雪原、森林、湿原などに生息する。アナウサギは地中に複雑な巣穴を掘って集団で生活する。縄張り意識は比較的強く、顎下の臭腺をこすりつける事で臭いをつけてテリトリーを主張する。ノウサギは穴での生活はしない。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "食性は植物食で、草や木の葉、樹皮、果実などを食べる。一部の野生種は昆虫なども食べるという。カイウサギであれば、屋外のアリなども舐めながら食べる。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "胎生。ネコなどと同じく、交尾により排卵が誘発される交尾排卵動物。妊娠期間は最長がユキウサギの約50日で、多くの種は30・40日。一度の出産で1・6頭(ないしそれ以上)を出産する。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アナウサギは周年繁殖動物(繁殖期を持たない動物)に分類され、年中繁殖することが可能であり、多産で繁殖力が高い動物である。ノウサギは春先から秋まで、長期的なゆるい繁殖期を持っている。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "天敵はヘビ、キツネ、カラスをはじめ小〜中型の肉食獣、猛禽類。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "種類にもよるが、時速60-80kmで走ることができるという。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "声帯を持たないため滅多に鳴く事はないが、代わりに非言語コミュニケーションを用いる。代表的なものは発達した後脚を地面に強く打ち付けるスタンピングで、その主な動機は天敵が接近した場合に仲間に警戒を促すためであるが、不快な感情を表す際にもこの行動をとる事がある。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ウサギの唾液には、衛生状態を保つ成分が含まれている。顔を前脚で覆うように撫でたり耳を撫でる仕草をみかけるが、前脚に予め付着させておいた自らの唾液を目的の部位全体に行き渡らせる事で衛生状態を保っているのである。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "特徴的な長い耳に代表されるように秀でた聴力を持つ一方で、視力には劣り、食物を食べる時に安全性を確認する場合も、視覚より嗅覚を駆使する。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ストレスには非常に弱く、絶えず周囲を警戒している。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ニンジンなどの根菜を食べるイメージがあるが、糖分が高く自然界では食べない。飼育環境下で少量与えられる程度である。主に食べるのはチモシー、アルファルファなどの牧草であるが、チモシーにアレルギーを起こす人が居るので、時々飼育で問題になる。", "title": "餌" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "時折、背を丸めて直接肛門に口を持っていき、口をモグモグとする行動を観察できるが、これは「食糞行動」といい、未消化になった植物繊維等を含んだ糞を再度食べて消化と栄養の再吸収を促す行為であり、異常行動ではない。", "title": "餌" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "捕食される側である草食動物のため、家飼いする場合もその本能が残存しており、部屋の目立った場所に出ず、カーテンの裏側、机の下、部屋の隅っこなどに陣取る事が多い。", "title": "餌" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ウサギはデリケートな生き物でもあり、ペット飼育されているウサギにはストレスを感じた時に稀に自分の体毛を毟り取る行動が見られるが、ほかのペット動物でもありうる事である。", "title": "餌" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "前歯が伸び続ける事も手伝い、家飼いする時、屋内のコードというコードを片っ端からかじってしまうことも多い。本、畳、木材家具に至ってはそのものを食べてしまうこともある。特に家電製品のコード類は感電の恐れもあるので、なるべく手の届かないところに設置すべきである。", "title": "餌" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "排泄場所は、きれい好きのため、きちんとしつければ、特定の場所で排泄を行うようになる。隅で隠れられる場所に排泄場所を置くべきである。", "title": "餌" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "寿命", "title": "餌" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "南極大陸や一部の離島を除く世界中の陸地に分布している。ペットとして持ち込まれたものも多く、オーストラリア大陸やマダガスカル島には元々は生息していなかった。特に、オーストラリア大陸に広く分布するようになったウサギは、入植者のトーマス・オースティンが狩猟用に持ち込んだ24匹のウサギが、オーストラリアの環境に適応して爆発的に増えたものであることが知られている。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本では、各地の縄文時代の貝塚からウサギの骨が出土することや、古事記の「因幡の白兎」などに登場することなどから、そのころには既にかなりの数が棲息していたものと考えられる。灰色や褐色等の毛色を有し、積雪地帯では冬には白毛に生え変わる在来種ニホンノウサギは、日本の固有種として知られている。また、絶滅危惧種であり国の特別天然記念物アマミノクロウサギは、世界でも奄美群島の一部のみに生息する。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "野ウサギは昔から食料や毛皮、遊興などの目的で狩猟の対象とされている。特に欧米では、ウサギのハンティングは文化的なスポーツとして扱われている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "狩猟の際にウサギを追いかけるときは必ず斜面の上から追いかけると有利、逆に斜面を登る形で追いかけると不利とされている。なぜならウサギの身体的特徴として後ろ足が長く前足が短いため、ウサギは上り坂では体の傾き具合が水平になるため坂を上るのに強く、下り坂では前かがみのようになってしまうため坂を下るのは苦手だからである。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "上野公園にある西郷隆盛像は、愛犬「ツン」をつれて趣味の兎狩りをしているときの姿である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "狩猟や養殖によって得られたウサギの肉は、食用として利用されてきた。古代、マンモスなどの大型の獲物が少なくなるにつれ、ウサギを始めとする小型ですばしっこい動物は、人類にとって重要な獲物となっていった。ネアンデルタール人は、このような小さな獲物を狩るための適応が出来なかったため、滅んだとの説がある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ウサギは柔らかい食肉となる。ウサギのフィレ・ステーキという料理もあるが、1頭のフィレ部分はホタテ貝の貝柱程度の寸法しかなく数頭分のフィレ肉を使うことになる。挽肉にすると粘着性が高いので、ソーセージやプレスハムに結着剤として使われることがある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本でも、古来より狩猟対象であり、食用とされてきた。縄文時代の貝塚から骨が見つかることはそれを示唆するものであると考えられ、江戸時代徳川将軍家では、正月の三が日にウサギ汁を食べる風習があったという(日本の獣肉食の歴史#江戸時代および食のタブー#ウサギも参照)。秋田県の一部地域では「日の丸肉」と呼ばれ、旅館で料理として出されることがある。この日の丸肉という名称は、一説によると、明治期に日本で品種改良されて定着した白毛に赤目の日本白色種が、あたかも日の丸の色彩を具現化したような動物であったことによるともいわれる。明治期に入り、兎の輸入が始まる。兎の種類は肉用(ベルジアン、バタゴニアン)、毛用(アンゴラ)、毛皮用(ヒマラヤン、シベリヤン)、愛玩用(ロップイヤー、ポーリッシュ、ダッチ)がある。ロップイヤーの平均体重は9斤(5.4kg)である。また秋田県の一部のマタギには、ウサギの消化器を内容物と共に料理して食べる「スカ料理」が伝わっている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "20世紀に入り、一般消費者がスーパーマーケットなどで豚肉や牛肉が手軽に購入できるようになっても、ウサギ肉が単独で店頭に並ぶ例はほぼないが、1960年代には豚挽肉にウサギ肉を混入する事例が横行した。1969年には農林省が原材料を明記するよう業界を指導したことがある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "欧州各地でも古来より食用とされ、フランス料理では、伝統的に一般的な料理に使用するものは、カイウサギをラパン(Lapin)、ノウサギをリエーヴル(Lièvre)という区別で食肉として愛好されてきた。ラパンはしばしば鶏などと同様に家禽類として扱われる。背肉から腿肉までが主要部位で、内臓肉としては腎臓、レバーなどを食べる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "北米では、ウサギ肉はフライ用(fryer)、ロースト用(roaster)、内臓(giblets)の3等級に分類されている。生後9週まで、体重4.5-5ポンドの肉はフライ用。体重5-8ポンド、月齢8ヵ月までの肉をロースト用と定めている。ロースト用はフライ用よりも肉が硬いとされている。肝臓や心臓なども食用にする。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ユダヤ教では、ウサギは「清くない動物」、すなわち非カーシェール(כָּשֵׁר, Kāšēr)とされ、食べてはならない動物に定められている。日本でも一部の地域(埼玉県・群馬県など、後述)において、妊婦が兎肉を食べることを禁忌とする考え方がある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "狩猟や養殖によって得られたウサギの毛皮は、服飾品としても利用されてきた。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "防寒用として世界各地でその毛皮が用いられてきたほか、一種の装飾用としても用いられる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、毛皮としてではなく毛足の長いウサギの毛を羊毛のように刈り取って織物用の繊維として利用することも行われてきた。アジア原産のアンゴラ山羊やアンゴラ兎をつかったモヘヤが知られているが、欧州ではアンゴラウサギ (Angora rabbit) という繊維利用専用の品種も作られた。日本でも、明治から太平洋戦争の時代にかけて軍需毛皮を生産する目的からウサギの飼育が盛んになり、日本アンゴラ種という品種が作られた。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "西洋では、ウサギの足や尾は幸運のシンボルとして剥製化されて使用される。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ウサギの革を煮込んで得られる膠は、テンペラ画の地塗りに用いられてきた。アクリル絵具が発達した21世紀初頭でもなお、古い絵画の修復に欠くことのできない材料である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "家畜化されたアナウサギ(カイウサギ)が、実験動物として広く使われる(ドレイズ試験)。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "「明治時代のウサギブーム」「ウサギバブル」も参照。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本では明治時代に入り、ウサギの売買や飼育が盛んになったことから、1873年(明治6年)に東京府より「兎取締ノ儀」が布達された。ウサギ一頭につき、1円を科せられ、無許可で飼育すると2円の罰金を科せられた。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ウサギの一種であるアナウサギを家畜化したものはカイウサギと呼ばれ、広く利用されている。ペットとして人気の高いネザーランド・ドワーフやロップイヤー、毛皮用にも使われるレッキス、日本で実験用によく使われるジャパニーズホワイトなど多くの品種があるが、分類学的にはアナウサギと同種とみなされ、学名も同じOryctolagus cuniculusである。", "title": "家畜化" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "利用目的は毛用・肉用・愛玩用など多岐にわたる。ペット用に品種改良されたものはしばしばイエウサギと呼ばれ、一般家庭での飼育も可能である。実験動物としては、薬品や化粧品の安全性試験や、医学研究のモデル生物として使われるが動物実験の結果をそのまま人間には適用できない事例もあるだけでなく、倫理上の観点からも問題視されており、徐々に動物実験を廃止する動きが広まりつつある。", "title": "家畜化" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本の大久野島・前島やニュージーランド、オーストラリアでは逸出したカイウサギの野生化が起こっている。オーストラリアでは、野生化したカイウサギが生態系や農業に与える悪影響が問題視されている。", "title": "家畜化" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "明治時代、その愛くるしさからウサギを飼う事が大流行し、ウサギの価格が高騰。闇取引することが多く政府が取り締まるほどの一大ムーブメントが起きていた。", "title": "家畜化" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ARBA (American Rabbit Breeders Association) は世界最大規模のウサギ協会。純血種を保護するため毎年ブリーダーや一般の飼い主が持ち寄ったウサギを品種ごとに基準を定め品評会を行っている。", "title": "家畜化" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ウサギは生息域が広く昼行性で繁殖率も高く人の目にふれやすいため、親しみやすく、擬人化されて童話や説話のモチーフとして使われている。漫画やマスコット等のキャラクターとして登場する。ピーター・ラビットの作者ビアトリクス・ポターは、自らが飼っていたウサギを詳細にデッサン、スケッチして解剖学的にも研究して描いている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "西洋東洋を問わず、子ども向け用品を扱う企業のマスコットやシンボルマークにウサギを使用している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本から見た月面の模様は古くから餅つきをするウサギに見えていた事から、日本には古来、ウサギが月に棲むという説話が仏教・道教説話あるいは民間説話として伝わっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "たとえば、仏教的説話を多く題材にとる『今昔物語集』第五巻第十三話「三の獣、菩薩の道を行じ、兎身を焼く語」には、次のような捨身慈悲、滅私献身の象徴としてウサギが描かれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "以上が、「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三(みつ)の獣ありて、共に誠の心を発(おこ)して菩薩の道(どう)を行ひけり」に始まり、「万(よろづ)の人、月を見むごとに此の兎の事思ひいづべし」で終わる説話のあらすじである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "平安時代末期ごろに原型が成立したとされ、江戸時代には広く読まれていた『今昔物語集』に採録されたこの仏教説話は、釈尊の前世エピソードを集めた古いインドの物語ジャータカや中国の『大唐西域記』などの影響をうけているとみられる。この仏教説話がいつごろ日本に伝わり各地に広まったかは定かではないが、奈良時代以前に作られた法隆寺玉虫厨子の台座絵背後の須弥山図では、帝釈天宮の右上に月(中におそらくウサギか蟾蜍(ひきがえる))と、左上に真っ赤な太陽(中に三本脚の烏)がすでに描かれている。また、そのころに作られたとされる中宮寺天寿国繍帳にも、月を意味する円の中に、不老不死の薬壺と月桂樹の枝とともにウサギが刺しゅうされている。なお、中国由来の道教の神仙思想において、月は西王母という仙女が治める世界であり、そこでは永久に枯れない木(月桂樹)のもとで不老不死の薬をウサギが作っているとされ、そこを訪れた美女が蟾蜍()に変えられ月にとどめられているという説話がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "平安時代の『延喜式』には、「三本足の烏、日之精也。白兎、月之精也」という記述がすでにみられ、ウサギは月の象徴として為政者や日本の寺社でも認識されていたことがうかがえる。他にも、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」という言葉があるが、日本では江戸時代までは、太陽と月、すなわち全宇宙を天皇が統べるという意識のもと、朝廷のハレの儀式のときには日月を表す幟(のぼり)を必ず立てることとしていた。この幟には金烏と玉兎がそれぞれ太陽と月の象徴として描かれていたとされる。また、『続日本紀』天平4年(732年)正月の条に「御大極殿受朝。天皇始服冕服。」とある。この年の正月に聖武天皇は大極殿で朝賀を受けたが、天皇が「袞冕(こんべん)」という礼服を着用したのはこの時が初めてであるという内容であるが、以後、天皇の礼服となるこの袞冕(べん)には、赤地の衣の左肩の部分に金糸の円(その中に黒の烏)、右肩の部分に銀糸の円(その中にウサギと蟾蜍)を刺しゅうしてある。中国皇帝が黒地に左肩に月、右肩に太陽の礼服を用いていたことの影響と考えられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "こうした月の象徴としてのウサギは、仏教・道教的背景を持つ意匠にとどまらず、日本の素朴な民間神事にもあらわれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日本、中国、インド、アイヌ、東南アジア、アフリカなど各地に伝わる「射日神話」と呼ばれるものがある。本来なら、一つであるはずの太陽の数が増えすぎて猛暑大旱魃となり、困った人間たちは知恵を絞り、増えすぎた偽の太陽を射落とすというものである。日本でも各地で奉射祭(オビシャ、オコナイなどともいう)と呼ばれる弓神事が民間で行われてきた。現在でも、滋賀県や利根川下流域の茨城南部から千葉県などで広く行われているが、太陽に擬した的と月に擬した的を用意し、太陽に擬した的だけを、弓矢で射抜く行事である。太陽の的には三本足の烏が描かれ、月の的にはウサギが描かれることが多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ウサギは月の化身であり神聖なシンボルとして広く用いられてきたのである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ウサギを「山の神」と同一視、あるいは「山の神の使い(神使)」や乗り物とする伝承も日本各地に広くみられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "滋賀県高島郡では、山の神の祭日には山の神は白いウサギに乗って山を巡る、山の神は白ウサギの姿をしているとされ、京都府愛宕郡では氏神三輪神社境内に祭られる山の神の2月の祭日には白ウサギが稲の種を蒔き、11月の祭日には白ウサギが稲の落穂を拾うというので、白ウサギは決して獲ってはならないとされている。また、福井県三方郡ではウサギは山の神の使いとされ山の神の祭日に山に入ることの戒めとともに伝わっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、福島県では吾妻山の斜面の雪解け模様(溶け残った雪が白くある部分)を白いウサギの形に見立て、「雪うさぎ 」あるいは「種まきウサギ」と呼んで、これを苗代の種まきの合図とした。福島市には「吾妻小富士の下の残雪がうさぎ形に見られる頃になると晩霜の心配がない」という天気ことわざもあり、また、日照りの際にトンビにさらわれたウサギが山の神となったという説話が伝わっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "こうしてウサギが各地で山の神と同一視されてきたのは、人間の暮らす里と神や動物のいる山とを身軽に行き来することからの境界を超えるものとしての崇拝、多産で繁殖力に富むことから豊穣をつかさどる意味、そして東日本のノウサギは冬には毛皮が真っ白に変化することから白い動物を神聖視する考え方(白鳥などを神聖視する古来の白への信仰)、西日本のノウサギは白くはないのであるが突然変異で白くなった動物を瑞兆とした考え方(白蛇、白鹿、白亀などが朝廷に献上された例などにも見られる希少な白への信仰)などさまざまな背景があると考えられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また、月読命(豊産祈願)や大己貴命(大国主命)、御食津神(五穀豊穣)などを祭神とする寺社ではその祭神の性格からウサギを神の使いとするところも多い。『古事記』には大国主命に助けられるウサギの話として「因幡の素兎」の話が伝わっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ウサギは道教・陰陽思想の影響を受けた十二支の生肖の1つでもあり、「卯(う)」として暦時方角をもあらわしてきた(ただし東南アジアではネコが取って代わる)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "アングロ・サクソンの多産と豊穣をつかさどる春の女神エオストレ(英語版)は、その化身あるいは使いがウサギである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ウサギは、冬に失われた生命が復活し草木が芽吹き花々が咲く再生の春のシンボルである。卵は宇宙の根源のシンボルであり、宇宙は卵から生まれ、殻の上半分が天になり、下の部分が地になったことをあらわす。絵画等でも女神は必ずといっていいほどウサギを伴った姿で描かれ、このウサギが良い子に卵をもたらすとされる。卵のほうは絵画にはあらわれないが、ウサギと卵の関係について、このウサギは女神が冬に翼の凍ってしまった鳥をウサギに変えたものなので、特別に鳥のように卵を産めるのであるとする話や、ウサギが春色に塗り分けたきれいな卵をプレゼントしたところ女神が大変に喜び、皆にも配るよう命じたという話、ウサギが子どもたちを喜ばせるためにニワトリの卵を庭に隠して探させてみようとしたところ、そのうしろ姿を子どもたちにみられてしまった話などが伝わっている。欧米では現在も春の祭りの日の余興として、子供たちや招かれた客があらかじめ招待主の隠しておいた庭の卵探しをすることがあるという。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "同様の話は、オスタラ (Ostera) アスタルテー (Astarte) イシュタル (Ischtar) イナンナ (Inanna) などの女神の名で欧州各地の神話伝説にあり、さかのぼれば、ギリシャのアフロディーテやローマのビーナスなどにも通じ、古代エジプト、ペルシャ、ローマなどでは春の祭りに卵に着色して食べる習慣が既にあったという。のちに、キリスト教が入ってきたときに、キリストの復活と春を祝う女神信仰が「生命への希望」という共通点で結びつき、エオストレ (Eostre) は復活祭 (Easter) の名前の由来となった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "こうした経緯から、キリスト教会で行われる復活祭(イースター)では、生命と復活の象徴を卵とウサギに求めて、イースターエッグやイースターバニーの名で行事にシンボルモチーフとして登場させる。ただし、正教会においてはイースターエッグのみであり、異教の女神と色濃く結びつくイースターバニーのほうは排除されてしまった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "こうした背景の中で、米英を中心とする西欧世界ではイソップ物語や不思議の国のアリスなどに登場するウサギのように、秩序からはずれた存在をあらわす役目をあてがわれ、あわて者、怠け者、異界へ誘う者、トリックスターとして描かれることも多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "天敵の多いアナウサギは生き残りのために発情期をなくして年中生殖行為が可能である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "年中発情している獣はヒトとウサギ(アナウサギ)くらいであるというイメージから、性的誘惑のシンボルとしてウサギが選ばれ、大人の世界のディズニーランドというコンセプトを目指した米国の高級ナイトクラブであるプレイボーイクラブのウェイトレスの正式なコスチュームとして、「バニーガール」が、1960年に採用され、カジノやバーなどで女性コスチュームに広く採用されるようになった。成人誌『PLAYBOY』でも、連動して1960年からオスのウサギの頭をデザインした「ラビットヘッド」がキャラクターとして用いられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ラビットフット(兎の足)という魔除けのお守りが、1940-1960年代にアメリカのヒッチハイカーなどの間で局地的に流行したとされる。その起源はケルトの一族が身に付けていた幸運のお守りであり、ウサギの繁殖力を神聖視していた一族が、ウサギの男根を象徴しているウサギの足のミイラを身に付けて繁栄を願ったものであったとされている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "このように古来からウサギは多産豊穣・繁栄のシンボルとして、洋の東西を問わず女性や子どもと関わりの深い動物であり、1960年代ごろから男性成人向けのキャラクターとしても用いられるようになった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "今日の日本では、卯月が四月の春であること、月見をするのが現在は秋であることから、イメージとしては春とも秋とも結び付けられている。俳句においては、野兎や雪兔は冬の季語とされている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "動きの速いものの象徴として使われることもままある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "種類によっても違うが、ノウサギは、天敵から逃げ切るために時速60-80キロほどのスピードで走ることができる。人間の場合、100m走の世界記録保持者であっても時速にすれば40キロにも達しない(しかも最高速が出るのは一瞬だけ)ことを考えると、いかにウサギが俊足であるかが分かる(アナウサギの場合には、隠れる穴を用意してあるためそこまで早い速度で逃げる能力が発達しておらず、時速35キロほどいわれている)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ウサギは、機械や設備の高速動作を表すシンボルとして用いられている。Henry Dreyfuss Symbols Sourcebook(1972年)の時点ですでに乗り物の変速機構のデザインとして確立されていることが指摘されている。設備類に用いられる図象を定める ISO 7000 にしたがえば、動作速度を速い順にウサギ、カメ、カタツムリのシルエットを用いて表すことになる。JIS規格も同様で、たとえば建設機械の変速機構操作にはウサギとカメの絵が描かれるほか、ミシンの速度調節としてもウサギとカメが用いられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "また日産自動車のブランド「ダットサン」の「ダット」の部分に関して、関係者のイニシャルとともに速く走ることのたとえである「脱兎」が由来になっているとされる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "仏教世界においては献身のシンボルとされる。これは仏教説話集ジャータカ(jātaka)の中に、ウサギが身を火に投じて仙人に布施する物語(ササジャータカ:sasajātaka)があるためである。ちなみに日本におけるモチーフとしてのウサギのところで前述したように、月面の模様をウサギに見立てることも、ここからきている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "神道世界においては神の使いとされることがある。大阪の住吉大社・埼玉の調神社・京都の岡崎神社などの神使として知られている。調神社や岡崎神社には狛犬ではなく狛ウサギがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "縁起の良い動物として、企業や団体のシンボルマークに用いられることも多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "わらべうたとして「うさぎ うさぎ 何見て跳ねる 十五夜お月様 見て跳ねる」(成立年作詞作曲不詳)と古くから歌われてきたし、ウサギは昔話にもよく登場する身近な動物であった。日本の昔話としては、ウサギが機智を働かせて悪の象徴であるタヌキを懲らしめる「かちかち山」型の説話がよく知られており、そこではウサギは知恵のあるもの、あるいは悪を懲罰するものとして存在している。但し、ウサギの賢明さが時には狡猾と解されることもある。例えば「かちかち山」の後日譚というべき『親敵討腹皷』(おやのかたきうてやはらつづみ)(朋誠堂喜三二 作)では、ウサギはかつて己が手にかけたタヌキの子に仇としてつけ狙われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "一方、「タヌキとウサギとキツネのぼた餅分け」という民話では、ウサギはタヌキとともに、狡猾なキツネに騙される役柄となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "西欧のイソップ物語を原型として明治以降に広められた「ウサギとカメ」の説話では、得意分野で相手を侮って敗れた愚か者として描かれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "そのほか、月への民間信仰との関わりもあってか、その愛らしい姿をデザインしたものは古くから安産、女性や子供の守り神として広く受け入れられ、郷土玩具その他さまざまな道具の意匠に用いられてきた。他にも、謡曲(能)で『竹生島(ちくぶじま)』で「月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか 面白の島の景色や」と謡われたことなどから、江戸時代には波の上を跳ねるウサギが瑞祥文様として庶民の着物文様や建築意匠に使われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "兎の異体字「兔」を表すShift_JISコードは0x995cであり、2バイトめが 0x5c、すなわち1バイト文字における「¥」(「円記号」あるいは「バックスラッシュ」)に該当する通称「ダメ文字」の一つである。1バイト文字0x5cには、しばしば特殊な機能が割り当てられているため、マルチバイト文字が入力されることを想定していない(または想定していても対応に不備がある)プログラムは、マルチバイト文字に含まれている0x5cを誤認識し適切に動作しない可能性がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ウサギの日本語における助数詞は、かつて1羽、2羽と鳥と同様の「羽(わ)」を使用していた。この由来には諸説あるが、おもに以下のようなものがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "『羽』は哺乳類ではなく鳥類を数えるときの助数詞であり、『頭』は人間よりも大きな動物、『匹』は人間よりも小さな動物に使うという傾向からすれば、うさぎは『匹』と数えるのが自然であり、『NHK放送のことばハンドブック』では、(文学や食肉として扱う場合を除き)生きたウサギは「匹」を用いるのがふさわしいとしている。愛玩用のウサギは日常的には「匹」または「羽」であるが、商取引では「頭」が使われる場合もある。なお、自然科学の分野では、動物全般について、動物の大きさで区別せず画一的に頭を使用するのが原則であり(鳥類や小さな昆虫でも、一頭二頭と数える)、NHKのニュースにおいても生物学的な話題として報道する場合には、「奄美大島に生息するクロウサギは~現在ではわずか600頭が確認されているに過ぎない」のように表現する場合がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "ウサギを連想するような、白くて丸い形をした動植物に、ウサギの名前が冠せられることがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "たとえば、貝の中でも丸くて白っぽい貝はウミウサギガイ科と名付けられており、ウサギを含んだ名がつけられている。ウミウサギ、マメウサギ、ウサギアシカワボタンガイなど。これらの貝殻はその外観の美しさから海のジュエリーとしてダイバーや貝殻愛好家からの人気も高い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "月兎耳(つきとじ)(Kalanchoe tomentosa) という多肉植物の名は、白い毛で覆われた長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ウサギゴケという食虫植物の名は、その白い花が見事に耳をぴんとたてたウサギの形をしていることによる。ウサギギクの名は、長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "また、兎馬(ウサギウマ)はロバを意味するが、これはロバの大きな耳がウサギを思わせることからきていると考えられる。", "title": "文化" } ]
ウサギ(兎、兔)は、最も広義には兎形目、狭義にはウサギ科、さらに狭義にはウサギ亜科もしくはノウサギ亜科 Leporinaeの総称である。 ここでは主にウサギ亜科について記述する。現在の分類では、ウサギ亜科には全ての現生ウサギ科を含めるが、かつては一部を含めない分類もあった。兎形目はウサギ科以外に、ナキウサギ科、サルデーニャウサギ科など。
{{Redirect|うさぎ'''」、「'''兎|その他の用法|うさぎ (曖昧さ回避)|}} {{Redirect|野兎|ウサギ科のノウサギ|ノウサギ属}} {{出典の明記|date=2021年8月}} {{生物分類表 |省略 = 哺乳綱 |名称 = ウサギ亜科 |画像=[[ファイル:Oryctolagus cuniculus Tasmania.jpg|250px]] |画像キャプション = '''アナウサギ''' ''Oryctolagus cuniculus'' |目 = [[兎形目]] [[w:Lagomorpha|Lagomorpha]] |科 = [[ウサギ科]] [[w:Leporidae|Leporidae]] |亜科 = '''ウサギ亜科''' {{Sname||Leporinae}} |学名 = Leporinae [[w:Édouard Louis Trouessart|Trouessart]], [[1880年|1880]]<ref name="pbdb">{{Cite web|url=http://paleodb.org/cgi-bin/bridge.pl?action=checkTaxonInfo&taxon_name=Leporinae|title=subfamily Leporinae Trouessart 1880 (rabbit)|publisher=fossilworks|language=en|accessdate=2019-05-19}} - {{interlang|en|Paleobiology Database}}</ref> }} '''ウサギ'''(兎、兔)は、最も広義には[[兎形目]]<ref name="名前なし-1">{{cite | chapter=ウサギ | author=[[今泉吉晴]] | title=世界大百科事典 | year=2009 | version=2009年改定新版 | publisher=[[平凡社]] | editor=[[下中直人]] }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%8E%E3%83%BB%E5%85%94-208592|title=兎・兔(う)とは|accessdate=2017年10月25日|publisher=[[大辞林]] 第三版([[コトバンク]])}}{{出典無効|date=2021年8月}}<!-- 出典では兎形目ではなくウサギ科もしくはカイウサギの総称としており虚偽出典 --></ref>、狭義には[[ウサギ科]]<ref>{{cite | chapter=ウサギ | title=[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典 | year=1993 | version=第2版改訂版 | publisher=[[ティービーエス・ブリタニカ]] | editor=[[フランク・B・ギブニー]] }}</ref><ref>{{cite | author=[[山本脩]] | chapter=ウサギ | title=[[ブリタニカ国際大百科事典]] | year=1993 | version=第2版改訂版 | publisher=[[ティービーエス・ブリタニカ]] | editor=[[フランク・B・ギブニー]] }}</ref>、さらに狭義にはウサギ亜科もしくはノウサギ亜科 ''{{sname|Leporinae}}''<ref name="名前なし-1"/>の総称である。 ここでは主に'''ウサギ亜科'''について記述する。現在の分類では、ウサギ亜科には全ての現生ウサギ科を含めるが、かつては一部を含めない分類もあった。兎形目はウサギ科以外に、[[ナキウサギ科]]、[[サルデーニャウサギ科]]など。 ==形態== 他の獣と比しての特徴としては、[[耳介]]が大型なことが挙げられる。兎形目内では耳介があまり発達していない種でも、他の哺乳綱の分類群との比較においては耳介比率が大きいといえる。音や風のするほうへ耳の正面が向くよう、耳介を動かすことができる。また、毛細血管が透けて見えるこの大きな耳介を風にあてることで体温調節に役立てるともいう。 眼は頭部の上部側面にあり広い視野を確保することができ、夜間や薄明薄暮時の活動に適している。鼻には縦に割れ目があり、上部の皮膚を可動させることで鼻孔を開閉することができる。門歯は発達し、一生伸びつづける。かつてはこの門歯の特徴をもってネズミと同じ齧歯目の中に位置づけられていた。しかし、上顎の門歯の裏側に楔形の門歯があるものを[[ウサギ目]]として独立した目分類がなされるようになった(齧歯目と近縁の仲間ではある)。歯列は <math>\tfrac { 2 \cdot 0 \cdot 3 \cdot 3 }{ 1 \cdot 0 \cdot 2 \cdot 3 }</math>(順に 門歯・犬歯・小臼歯・大臼歯、上下は上下顎)で、計28本の歯を持つ。 かつて[[ネズミ]]の仲間と分類されていたように、肉食である[[ネコ]]や[[イヌ]]とは異なる点が多く、多くの種のウサギの足の裏には肉球はなく、厚く柔らかい体毛が生えている。前肢よりも後肢が長く、跳躍走に適している。<!--体毛に覆われた足裏は、跳躍する際に衝撃を和らげる働きがあると考えられている-->前肢の指は5本、後肢の趾は4本で、指趾には爪が発達する。体全体は丸みを帯び、尻尾は短い。ただ、盲腸は長い。 == 生態 == [[草原]]や半砂漠地帯、雪原、森林、湿原などに生息する。[[アナウサギ]]は地中に複雑な巣穴を掘って集団で生活する。縄張り意識は比較的強く、顎下の臭腺をこすりつける事で臭いをつけてテリトリーを主張する。[[ノウサギ]]は穴での生活はしない。 食性は植物食で、[[草本|草]]や木の葉、樹皮、果実などを食べる。一部の野生種は昆虫なども食べるという。カイウサギであれば、屋外のアリなども舐めながら食べる。 [[胎生]]。[[ネコ]]などと同じく、交尾により排卵が誘発される交尾排卵動物。妊娠期間は最長が[[ユキウサギ]]の約50日で、多くの種は30・40日。一度の出産で1・6頭(ないしそれ以上)を出産する。 アナウサギは[[周年繁殖動物]](繁殖期を持たない動物)に分類され、年中繁殖することが可能であり<ref>{{Cite web|和書|url=http://iwasakiah.com/animal/rabbit/breed.html|title=繁殖 ウサギについて|accessdate=2017年10月25日|publisher=岩崎動物病院}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://epc-vet.com/animal/rabbit/pdf/rabbit-2.pdf|title=2.ウサギの生理・解剖|accessdate=2017年10月25日|format=PDF|publisher=エキゾチックペットクリニック|page=7}}</ref>、多産で繁殖力が高い動物である。ノウサギは春先から秋まで、長期的なゆるい繁殖期を持っている。 天敵は[[ヘビ]]、[[キツネ]]、カラスをはじめ小〜中型の肉食獣、[[猛禽類]]。 種類にもよるが、時速60-80kmで走ることができるという。 声帯を持たないため滅多に鳴く事はないが、代わりに非言語コミュニケーションを用いる。代表的なものは発達した後脚を地面に強く打ち付けるスタンピングで、その主な動機は天敵が接近した場合に仲間に警戒を促すためであるが、不快な感情を表す際にもこの行動をとる事がある。 ウサギの唾液には、衛生状態を保つ成分が含まれている。顔を前脚で覆うように撫でたり耳を撫でる仕草をみかけるが、前脚に予め付着させておいた自らの唾液を目的の部位全体に行き渡らせる事で衛生状態を保っているのである。 特徴的な長い耳に代表されるように秀でた聴力を持つ一方で、視力には劣り、食物を食べる時に安全性を確認する場合も、視覚より嗅覚を駆使する。 [[ストレス (生体)|ストレス]]には非常に弱く、絶えず周囲を警戒している。 == 餌 == [[ニンジン]]などの根菜を食べるイメージがあるが、糖分が高く自然界では食べない。飼育環境下で少量与えられる程度である<ref name=bbc>[https://www.bbc.com/news/uk-47963324 Evidence of rabbits in UK in Roman times, say academics](BBC)</ref>。主に食べるのは[[オオアワガエリ|チモシー]]、[[ムラサキウマゴヤシ|アルファルファ]]などの[[牧草]]であるが、チモシーにアレルギーを起こす人が居るので、時々飼育で問題になる。 時折、背を丸めて直接肛門に口を持っていき、口をモグモグとする行動を観察できるが、これは「[[食糞]]行動」といい、未消化になった植物繊維等を含んだ糞を再度食べて消化と栄養の再吸収を促す行為であり、異常行動ではない。 === ペット飼育 === [[File:Rabbit-with-grass.jpg|thumb|right|ペットとしてのウサギ]] 捕食される側である[[草食動物]]のため、家飼いする場合もその[[本能]]が残存しており、部屋の目立った場所に出ず、[[カーテン]]の裏側、[[机]]の下、部屋の隅っこなどに陣取る事が多い。 ウサギはデリケートな生き物でもあり、ペット飼育されているウサギにはストレスを感じた時に稀に自分の[[抜毛症|体毛を毟り取る行動]]が見られるが、ほかのペット動物でもありうる事である。 前歯が伸び続ける事も手伝い、家飼いする時、屋内のコードというコードを片っ端からかじってしまうことも多い。本、畳、木材家具に至ってはそのものを食べてしまうこともある。特に家電製品のコード類は[[感電]]の恐れもあるので、なるべく手の届かないところに設置すべきである。 排泄場所は、きれい好きのため、きちんとしつければ、特定の場所で排泄を行うようになる。隅で隠れられる場所に排泄場所を置くべきである。 '''寿命''' : 5–11年(稀にそれ以上:ネザーランドドワーフで最高年齢13歳の記録がある。※[[ギネス世界記録|ギネス記録]]は18歳10か月) ; 体温 : ウサギの[[平均体温]]は38–40℃とかなり高温までが正常範囲。39℃台の体温を正常と判断し対処する必要がある。体温が上がりすぎる場合は耳を水で軽く湿らせタオルで全身を巻いた上からアイスボトルなどで冷やし、逆に体温が37.7℃以下の場合は温かい布で全身を包みカイロなどでその上から温める。 ; 心拍数 : 130–325/分 ; 呼吸数 : 32–60/分 ; 全血液量 : 57–65 mL/kg ; 血圧 : 90–130 / 60–90 mmHg ; 食物消費量 : 5–100 g/日(個体の大きさによる) ; 飲水消費量 : 5–10 ml/日・100 g/日(あるいはそれ以上) ; 胃腸管通過時間 : 4-5時間 == 分布 == {{節スタブ}} [[南極大陸]]や一部の離島を除く世界中の陸地に分布している。ペットとして持ち込まれたものも多く、[[オーストラリア大陸]]や[[マダガスカル島]]には元々は生息していなかった。特に、オーストラリア大陸に広く分布するようになったウサギは、入植者の[[トーマス・オースティン]]が狩猟用に持ち込んだ24匹のウサギが、オーストラリアの環境に適応して爆発的に増えたものであることが知られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/121100020/122000002/|title=24匹が8億匹に! ウサギで豪大陸を侵略した英国人|publisher=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本版|accessdate=2021-05-03}}</ref>。 日本では、各地の[[縄文時代]]の[[貝塚]]からウサギの骨が出土することや、[[古事記]]の「[[因幡の白兎]]」などに登場することなどから、そのころには既にかなりの数が棲息していたものと考えられる。灰色や褐色等の毛色を有し、積雪地帯では冬には白毛に生え変わる在来種[[ニホンノウサギ]]は、日本の固有種として知られている。また、絶滅危惧種であり国の特別天然記念物[[アマミノクロウサギ]]は、世界でも[[奄美群島]]の一部のみに生息する。 == 利用 == === 狩猟 === [[画像:A Hare and a Leg of Lamb (Oudry).jpg|left|thumb|130px|「野ウサギと子羊の脚」[[:en:Jean-Baptiste Oudry|ジャン=バティスト・ウードリー]]による油彩(1742年)[[クリーブランド美術館]]所蔵<ref>{{Cite web|author=Jean-Baptiste Oudry|date=1742|url=http://www.clevelandart.org/art/1969.53|title=A Hare and a Leg of Lamb|publisher=クリーブランド美術館|accessdate=2019-05-19}}</ref>]] 野ウサギは昔から食料や毛皮、遊興などの目的で[[狩猟]]の対象とされている。特に欧米では、ウサギのハンティングは文化的なスポーツとして扱われている。 狩猟の際にウサギを追いかけるときは必ず斜面の上から追いかけると有利、逆に斜面を登る形で追いかけると不利とされている。なぜならウサギの身体的特徴として後ろ足が長く前足が短いため、ウサギは上り坂では体の傾き具合が水平になるため坂を上るのに強く、下り坂では前かがみのようになってしまうため坂を下るのは苦手だからである。 [[上野恩賜公園|上野公園]]にある[[西郷隆盛]]像は、愛犬「ツン」をつれて趣味の兎狩りをしているときの姿である。{{-}}<!-- これより下は、上画像への回り込みを禁止 --> === 食肉 === {{節スタブ}} 狩猟や養殖によって得られたウサギの肉は、食用として利用されてきた。古代、[[マンモス]]などの大型の獲物が少なくなるにつれ、ウサギを始めとする小型ですばしっこい動物は、人類にとって重要な獲物となっていった。[[ネアンデルタール人]]は、このような小さな獲物を狩るための適応が出来なかったため、滅んだとの説がある<ref>{{cite news |title=ネアンデルタール人、兎が狩れず絶滅? |newspaper=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]] |date=2013-3-12 |url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7690/ |accessdate=2016-06-13}}</ref>。 [[画像:Flickr - cyclonebill - Grillet kanin med rissalat.jpg|thumb|200px|ウサギのソテーとリゾット]] ウサギは柔らかい食肉となる。ウサギのフィレ・ステーキという料理もあるが、1頭のフィレ部分はホタテ貝の貝柱程度の寸法しかなく数頭分のフィレ肉を使うことになる。挽肉にすると粘着性が高いので、[[ソーセージ]]や[[プレスハム]]に結着剤として使われることがある。 日本でも、古来より狩猟対象であり、食用とされてきた。[[縄文時代]]の[[貝塚]]から骨が見つかることはそれを示唆するものであると考えられ、[[江戸時代]][[徳川氏|徳川将軍家]]では、正月の[[三が日]]にウサギ汁を食べる風習があったという<ref>レファレンス事例詳細(Detail of reference example) ウサギを一羽、二羽と数えるのはなぜか。[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000029522]</ref><ref>探検コム ウサギ文化史[https://tanken.com/rabbit.html]</ref>([[日本の獣肉食の歴史#江戸時代]]および[[食のタブー#ウサギ]]も参照)。[[秋田県]]の一部地域では「[[日の丸]]肉」と呼ばれ、旅館で料理として出されることがある。この日の丸肉という名称は、一説によると、[[明治]]期に日本で品種改良されて定着した白毛に赤目の[[日本白色種]]が、あたかも日の丸の色彩を具現化したような動物であったことによるともいわれる。明治期に入り、兎の輸入が始まる。兎の種類は肉用(ベルジアン、バタゴニアン)、毛用(アンゴラ)、毛皮用(ヒマラヤン、シベリヤン)、愛玩用(ロップイヤー、ポーリッシュ、ダッチ)がある。ロップイヤーの平均体重は9[[斤]](5.4[[キログラム|kg]])である。また[[秋田県]]の一部の[[マタギ]]には、ウサギの[[消化器]]を内容物と共に料理して食べる「[[スカ料理]]」が伝わっている<ref>{{Cite book|和書|author=太田雄治|title=秋田たべもの民俗誌|date=1972|publisher=[[秋田魁新報|秋田魁新報社]]|ncid=BN11283886|pages=37-42}}</ref>。 20世紀に入り、一般消費者が[[スーパーマーケット]]などで豚肉や牛肉が手軽に購入できるようになっても、ウサギ肉が単独で店頭に並ぶ例はほぼないが、1960年代には豚挽肉にウサギ肉を混入する事例が横行した。1969年には農林省が原材料を明記するよう業界を指導したことがある<ref>「ヒキ肉に原料名を 農林省ウサギ入りで通達」『朝日新聞』昭和44年(1969年)9月5日朝刊、12版、15面</ref>。 欧州各地でも古来より食用とされ、[[フランス料理]]では、伝統的に一般的な料理に使用するものは、[[カイウサギ]]を'''ラパン({{lang|fr|Lapin}})'''、[[ノウサギ]]を'''リエーヴル({{lang|fr|Lièvre}})'''<ref group="注">更に雌雄を区別する場合には雄のノウサギをLièvre、雌のノウサギはアズ({{lang|fr|Hase}})と呼ぶ。</ref>という区別で食肉として愛好されてきた。ラパンはしばしば[[ニワトリ|鶏]]などと同様に[[家禽]]類として扱われる。背肉から腿肉までが主要部位で、内臓肉としては腎臓、レバーなどを食べる<ref>{{Harvnb|辻調グループ辻静雄料理教育研究所|2012|pp=153-156}}</ref>。 北米では、ウサギ肉はフライ用({{en|fryer}})、ロースト用({{en|roaster}})、内臓({{en|giblets}})の3等級に分類されている。生後9週まで、体重4.5-5ポンドの肉はフライ用。体重5-8ポンド、月齢8ヵ月までの肉をロースト用と定めている。ロースト用はフライ用よりも肉が硬いとされている。肝臓や心臓なども食用にする。 [[ユダヤ教]]では、ウサギは「清くない動物」、すなわち非[[カーシェール]]({{lang|he|כָּשֵׁר}}, {{ラテン翻字|he|ISO|Kāšēr}})とされ、[[食のタブー|食べてはならない]]動物に定められている。日本でも一部の地域([[埼玉県]]・[[群馬県]]など、後述)において、[[妊婦]]が兎肉を食べることを禁忌とする考え方がある<ref>[[倉林正次]] 『11日本の民俗 埼玉』 [[第一法規]] 1972年 p.158. [[武藤典]] 『群馬のたべもの』 [[みやま文庫]] 1979年 p.125.群馬県の俗信では、「妊婦が食すとミツ口=兎口の赤子が生まれる」とされ、食べさせない。</ref>。 === 毛皮 === {{節スタブ}} 狩猟や養殖によって得られたウサギの毛皮は、服飾品としても利用されてきた。 防寒用として世界各地でその毛皮が用いられてきたほか、一種の装飾用としても用いられる。 また、毛皮としてではなく毛足の長いウサギの毛を羊毛のように刈り取って織物用の繊維として利用することも行われてきた。アジア原産のアンゴラ山羊やアンゴラ兎をつかった[[モヘヤ]]が知られているが、欧州ではアンゴラウサギ{{Enlink|Angora rabbit}}という繊維利用専用の品種も作られた。日本でも、明治から太平洋戦争の時代にかけて軍需毛皮を生産する目的からウサギの飼育が盛んになり、[[日本アンゴラ種]]という品種が作られた。 西洋では、ウサギの足や尾は幸運のシンボルとして剥製化されて使用される。 === 膠 === {{節スタブ}} ウサギの革を煮込んで得られる[[ゼラチン|膠]]は、[[テンペラ|テンペラ画]]の[[地塗り]]に用いられてきた。アクリル絵具が発達した21世紀初頭でもなお、古い絵画の修復に欠くことのできない材料である。 === 実験動物 === {{main|カイウサギ#戦後}} 家畜化された[[アナウサギ]]([[カイウサギ]])が、実験動物として広く使われる([[ドレイズ試験]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.usagi-o-sukue.org/know1.html |title=化粧品の動物実験とは |trans-title= |accessdate=2020-09-18 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |year= |month= |format= |website= |work= |publisher= |page= |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hsi.org/news-media/blinded_rabbits_jp/?lang=ja |title=美しさのために失明させられるウサギたち |trans-title= |accessdate=2020-09-18 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |year= |month= |format= |website= |work= |publisher= |page= |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。 === 税金 === 「[[カイウサギ#日本の飼育史|明治時代のウサギブーム]]」「[[ウサギバブル]]」も参照。 日本では明治時代に入り、ウサギの売買や飼育が盛んになったことから、[[1873年]](明治6年)に[[東京府]]より「兎取締ノ儀」が布達された。ウサギ一頭につき、1円を科せられ、無許可で飼育すると2円の罰金を科せられた<ref>{{Cite journal|和書|url=https://www.agulin.aoyama.ac.jp/repo/repository/1000/13049/|title=明治の兎バブル(石井信之名誉教授記念特集号) |accessdate=2017年10月25日|author=高嶋修一|date=2013年3月|journal=青山經濟論集|volume=64|issue=4|pages=231-251|publisher=[[青山学院大学]]・[[青山学院女子短期大学|女子短期大学]]|page=13}}</ref>。 == 家畜化 == [[ファイル:Domestic-rabbit-Lilly-washing-0a.jpg|thumb|カイウサギの品種のひとつ、[[ネザーランド・ドワーフ]]]] {{main|カイウサギ}} {{seealso|養兎|en:Cuniculture}} ウサギの一種である[[アナウサギ]]を家畜化したものは[[カイウサギ]]と呼ばれ、広く利用されている。ペットとして人気の高い[[ネザーランド・ドワーフ]]や[[ロップイヤー]]、毛皮用にも使われる[[レッキス]]、日本で実験用によく使われる[[日本白色種|ジャパニーズホワイト]]など多くの[[品種]]があるが、[[分類学]]的にはアナウサギと同種とみなされ、学名も同じ{{snamei|Oryctolagus cuniculus}}である。 利用目的は毛用・肉用・愛玩用など多岐にわたる。ペット用に品種改良されたものはしばしばイエウサギと呼ばれ、一般家庭での飼育も可能である。[[実験動物]]としては、薬品や化粧品の安全性試験や、医学研究の[[モデル生物]]として使われるが[[動物実験]]の結果をそのまま人間には適用できない事例もあるだけでなく、倫理上の観点からも問題視されており、徐々に動物実験を廃止する動きが広まりつつある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.usagi-o-sukue.org/know3.html |title=動物を犠牲にしない代替法 |trans-title= |accessdate=2020-09-18 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |year= |month= |format= |website= |work= |publisher= |page= |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}{{リンク切れ|date=2023-06-09}}</ref>。 日本の[[大久野島]]・[[前島 (愛知県)|前島]]や[[ニュージーランド]]、[[オーストラリア]]では逸出したカイウサギの野生化が起こっている。オーストラリアでは、野生化したカイウサギが[[生態系]]や農業に与える悪影響が問題視されている。 明治時代、その愛くるしさからウサギを飼う事が大流行し、ウサギの価格が高騰。闇取引することが多く政府が取り締まるほどの一大ムーブメントが起きていた。 ARBA ([[:en:American Rabbit Breeders Association|American Rabbit Breeders Association]]) は世界最大規模のウサギ協会。純血種を保護するため毎年ブリーダーや一般の飼い主が持ち寄ったウサギを品種ごとに基準を定め品評会を行っている。 == 文化 == [[画像:White rabbit art color.png|thumb|left|150px|『[[不思議の国のアリス]]』に登場する[[白ウサギ (不思議の国のアリス)|白ウサギ]]のイラスト]] ウサギは生息域が広く昼行性で繁殖率も高く人の目にふれやすいため、親しみやすく、[[擬人化]]されて童話や説話のモチーフとして使われている。漫画やマスコット等のキャラクターとして登場する。[[ピーター・ラビット]]の作者ビアトリクス・ポターは、自らが飼っていたウサギを詳細にデッサン、スケッチして解剖学的にも研究して描いている。 西洋東洋を問わず、子ども向け用品を扱う企業のマスコットやシンボルマークにウサギを使用している<ref group="注">例えば、フランスのベビー&キッズ向け木製玩具メーカー[http://www.janod.com/ JANOD](ジャノー)や、日本のベビー&キッズ&マタニティ服飾雑貨販売メーカー[[西松屋]]など。</ref>。 {{main2|ウサギを主題とする音楽、文学など|ウサギを主題とする作品一覧}} === シンボルとしてのウサギ === ==== 昔から言われ続けて来た、月のシンボル ==== 日本から見た月面の模様は古くから餅つきをするウサギに見えていた事から、日本には古来、ウサギが月に棲むという[[説話]]が仏教・道教説話あるいは民間説話として伝わっている。 たとえば、[[仏教]]的説話を多く題材にとる『[[今昔物語集]]』第五巻第十三話「三の獣、菩薩の道を行じ、兎身を焼く語」には、次のような捨身慈悲、滅私献身の象徴としてウサギが描かれる。 {{Quotation|昔むかし、[[天竺]](現在の[[インド]])にウサギ・[[キツネ]]・[[サル]]の3匹の獣があり、ともに熱心に仏教の修行に励んでいた。そこに、今にも倒れそうな見るからにみすぼらしい老人が現れ、養ってくれる家族もなく貧しく食べるものもないと3匹に訴えた。そこで、サルは木に登って木の実をとってきたり、里に出て里人の果物や野菜をかすめてきて老人に与え、キツネは川原へ行って魚をとってきたり、墓に供えてあった餅や飯をかすめてきて老人に与えた。サルは枯れ枝を拾い集め、キツネがそれに火をつけて、食事の支度を始める。その一方で、ウサギは野を駆けずりまわり東西南北あちこちを探し求めたが、老人に与えるものは見つけられず、手ぶらで帰ってくるしかなかった。そんなウサギを見て、サルやキツネそして老人までもが、ウサギを嘲笑し、罵った。しかしウサギは言う。「確かに己には食べ物を奪って持ってくる力はなかった。ですから、この身を焼いてお食べください」と。そう言うがはやいか、ウサギは火の中にとびこんだ。この様子を見ていた老人は、たちまちにして本来の[[帝釈天]]の姿に戻り、すべての生き物たちにこのウサギの善行の姿を見せるために、月の中にウサギを移した。今でも月には煙のような雲影とウサギの姿があるのはそのためである。すべての人が、月を見るたびにこのウサギの行動を思い起こすように。}} 以上が、「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三(みつ)の獣ありて、共に誠の心を発(おこ)して菩薩の道(どう)を行ひけり」に始まり、「万(よろづ)の人、月を見むごとに此の兎の事思ひいづべし」で終わる説話のあらすじである。 [[平安時代]]末期ごろに原型が成立したとされ、[[江戸時代]]には広く読まれていた『今昔物語集』に採録されたこの仏教説話は、釈尊の前世エピソードを集めた古いインドの物語[[ジャータカ]]や中国の『[[大唐西域記]]』などの影響をうけているとみられる。この仏教説話がいつごろ日本に伝わり各地に広まったかは定かではないが、奈良時代以前に作られた[[法隆寺]]玉虫厨子の台座絵背後の[[須弥山]]図では、帝釈天宮の右上に月(中におそらくウサギか[[ヒキガエル|蟾蜍]](ひきがえる))と、左上に真っ赤な太陽(中に三本脚の烏)がすでに描かれている。また、そのころに作られたとされる中宮寺天寿国繍帳にも、月を意味する円の中に、不老不死の薬壺と月桂樹の枝とともにウサギが刺しゅうされている。なお、中国由来の[[道教]]の[[神仙思想]]において、月は[[西王母]]という[[仙人|仙女]]が治める世界であり、そこでは永久に枯れない木([[月桂樹]])のもとで[[不老不死]]の薬をウサギが作っているとされ、そこを訪れた美女が{{読み仮名|蟾蜍|せんじょ}}に変えられ月にとどめられているという説話がある<ref group="注">[[嫦娥]]を参照。</ref>。 [[平安時代]]の『[[延喜式]]』には、「[[三足烏|三本足の烏]]、日之精也。白兎、月之精也」という記述がすでにみられ、ウサギは月の象徴として為政者や日本の寺社でも認識されていたことがうかがえる。他にも、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」という言葉があるが、日本では[[江戸時代]]までは、太陽と月、すなわち全宇宙を天皇が統べるという意識のもと、朝廷のハレの儀式のときには日月を表す幟(のぼり)を必ず立てることとしていた。この幟には金烏と玉兎がそれぞれ太陽と月の象徴として描かれていたとされる<ref group="注">『[[続日本紀]]』[[大宝 (日本)|大宝]]元年(701年)正月乙亥朔の条に「天皇御大極殿受朝。其儀、於正門樹烏形幢。左 日像、青竜、朱雀幡。右 月像、玄武、白虎幡。」 とある。[[文武天皇]]は大極殿で朝賀の挨拶を受け、その儀式では、正門に烏の形をした幢(どう)を立て、左側に日像(じつぞう)、青龍、朱雀の幡(ばん)を立て、右側に月像(げつぞう)、玄武、白虎の幡を立てたというものであった。烏の形をした銅製の飾りのついた長い棒のようなものを立て、その左側に、太陽を表す円盤に三本足の鳥を描いたものをつけた長い棒のようなもの、青龍を描いた板をつけた長い棒のようなもの、朱雀を描いた板をつけた長い棒のようなものの計三本を立て、右側には、月を表す円盤にウサギを描いたものをつけた長い棒のようなもの、玄武を描いた板をつけた長い棒のようなもの、白虎を描いた板をつけた長い棒のようなものの計三本、全部で七本の棒を立てたのである。</ref>。また、『[[続日本紀]]』[[天平]]4年([[732年]])正月の条に「御大極殿受朝。天皇始服冕服。」とある。この年の正月に[[聖武天皇]]は[[大極殿]]で[[朝賀]]を受けたが、天皇が「[[袞衣|袞冕(こんべん)]]」という礼服を着用したのはこの時が初めてであるという内容であるが、以後、天皇の礼服となるこの[[袞衣|袞冕(べん)]]には、赤地の衣の左肩の部分に金糸の円(その中に黒の烏)、右肩の部分に銀糸の円(その中にウサギと蟾蜍)を刺しゅうしてある。中国[[皇帝]]が黒地に左肩に月、右肩に太陽の礼服を用いていたことの影響と考えられる。 こうした月の象徴としてのウサギは、仏教・道教的背景を持つ意匠にとどまらず、日本の素朴な民間神事にもあらわれている。 日本、中国、[[インド]]、[[アイヌ]]、[[東南アジア]]、[[アフリカ]]など各地に伝わる「射日神話」と呼ばれるものがある。本来なら、一つであるはずの太陽の数が増えすぎて猛暑大旱魃となり、困った人間たちは知恵を絞り、増えすぎた偽の太陽を射落とすというものである。日本でも各地で奉射祭(オビシャ、オコナイなどともいう)と呼ばれる弓神事が民間で行われてきた。現在でも、[[滋賀県]]や[[利根川]]下流域の[[茨城県|茨城]]南部から[[千葉県]]などで広く行われているが、太陽に擬した的と月に擬した的を用意し、太陽に擬した的だけを、弓矢で射抜く行事である。太陽の的には三本足の烏が描かれ、月の的にはウサギが描かれることが多い。 ウサギは月の化身であり神聖なシンボルとして広く用いられてきたのである。 ==== 山のシンボル ==== ウサギを「山の神」と同一視、あるいは「山の神の使い([[神使]])」や乗り物とする伝承も日本各地に広くみられる。 滋賀県[[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]では、山の神の祭日には山の神は白いウサギに乗って山を巡る、山の神は白ウサギの姿をしているとされ、[[京都府]][[愛宕郡]]では氏神三輪神社境内に祭られる山の神の2月の祭日には白ウサギが稲の種を蒔き、11月の祭日には白ウサギが稲の落穂を拾うというので、白ウサギは決して獲ってはならないとされている。また、[[福井県]][[三方郡]]ではウサギは山の神の使いとされ山の神の祭日に山に入ることの戒めとともに伝わっている。 [[ファイル:20090426吾妻の雪うさぎ.jpg|thumb|200px|吾妻の雪うさぎ]] また、[[福島県]]では[[吾妻小富士|吾妻山]]の斜面の雪解け模様(溶け残った雪が白くある部分)を白いウサギの形に見立て、「[[雪うさぎ (雪像)|雪うさぎ]] 」あるいは「種まきウサギ」と呼んで、これを苗代の種まきの合図とした。福島市には「[[吾妻小富士]]の下の残雪がうさぎ形に見られる頃になると晩霜の心配がない」という天気[[ことわざ]]もあり、また、日照りの際に[[トビ|トンビ]]にさらわれたウサギが山の神となったという説話が伝わっている。 こうしてウサギが各地で山の神と同一視されてきたのは、人間の暮らす里と神や動物のいる山とを身軽に行き来することからの境界を超えるものとしての崇拝、多産で繁殖力に富むことから豊穣をつかさどる意味、そして[[東日本]]のノウサギは冬には毛皮が真っ白に変化することから白い動物を神聖視する考え方(白鳥などを神聖視する古来の白への信仰)、[[西日本]]のノウサギは白くはないのであるが突然変異で白くなった動物を瑞兆とした考え方([[白蛇]]、白鹿、白亀などが朝廷に献上された例<!-- 『続日本紀』、白亀が献上され、元号を変えた記事(「アルビノ」の方も参照)。 -->などにも見られる希少な白への信仰)などさまざまな背景があると考えられる。 [[image:Daikoku&rabbit.jpg|150px|thumb|大黒と兎([[出雲大社大阪分祠|出雲大社]])]] また、月読命(豊産祈願)や大己貴命(大国主命)、御食津神(五穀豊穣)などを祭神とする寺社ではその祭神の性格からウサギを神の使いとするところも多い。『[[古事記]]』には大国主命に助けられるウサギの話として「[[因幡の素兎]]」の話が伝わっている。 ウサギは道教・陰陽思想の影響を受けた[[十二支]]の生肖の1つでもあり、「卯(う)」として暦時方角をもあらわしてきた(ただし東南アジアでは[[ネコ]]が取って代わる)。 ==== 多産・豊穣・性のシンボル ==== [[ゲルマン人|アングロ・サクソン]]の多産と豊穣をつかさどる春の女神{{仮リンク|エオストレ|en|Ēostre}}は、その化身あるいは使いがウサギである。 ウサギは、冬に失われた生命が復活し草木が芽吹き花々が咲く再生の春のシンボルである。卵は宇宙の根源のシンボルであり、宇宙は卵から生まれ、殻の上半分が天になり、下の部分が地になったことをあらわす。絵画等でも女神は必ずといっていいほどウサギを伴った姿で描かれ、このウサギが良い子に卵をもたらすとされる。卵のほうは絵画にはあらわれないが、ウサギと卵の関係について、このウサギは女神が冬に翼の凍ってしまった鳥をウサギに変えたものなので、特別に鳥のように卵を産めるのであるとする話や、ウサギが春色に塗り分けたきれいな卵をプレゼントしたところ女神が大変に喜び、皆にも配るよう命じたという話、ウサギが子どもたちを喜ばせるためにニワトリの卵を庭に隠して探させてみようとしたところ、そのうしろ姿を子どもたちにみられてしまった話などが伝わっている。欧米では現在も春の祭りの日の余興として、子供たちや招かれた客があらかじめ招待主の隠しておいた庭の卵探しをすることがあるという。 同様の話は、オスタラ (Ostera) アスタルテー (Astarte) イシュタル (Ischtar) イナンナ (Inanna) などの女神の名で欧州各地の神話伝説にあり、さかのぼれば、ギリシャのアフロディーテやローマのビーナスなどにも通じ、古代エジプト、ペルシャ、ローマなどでは春の祭りに卵に着色して食べる習慣が既にあったという。のちに、キリスト教が入ってきたときに、キリストの復活と春を祝う女神信仰が「生命への希望」という共通点で結びつき、エオストレ (Eostre) は[[復活祭]] (Easter) の名前の由来となった。 [[画像:Easter Bunny Egg 4-14-09 IMG 2445.jpg|right|150px|thumb|[[イースター・バニー]]と卵]] こうした経緯から、キリスト教会で行われる復活祭(イースター)では、生命と復活の象徴を卵とウサギに求めて、[[イースターエッグ]]や[[イースター・バニー|イースターバニー]]の名で行事にシンボルモチーフとして登場させる。ただし、[[正教会]]においてはイースターエッグのみであり、異教の女神と色濃く結びつくイースターバニーのほうは排除されてしまった。 こうした背景の中で、米英を中心とする西欧世界では[[イソップ寓話|イソップ物語]]や[[不思議の国のアリス]]などに登場するウサギのように、秩序からはずれた存在をあらわす役目をあてがわれ、あわて者、怠け者、異界へ誘う者、[[トリックスター]]として描かれることも多い。[[画像:Brazilian playmates at Campus Party Brasil 2009 (2).jpg|130px|right|thumb|[[バニーガール]]ズ]] 天敵の多いアナウサギは生き残りのために発情期をなくして年中生殖行為が可能である<ref group="注">一方ノウサギの発情期は春先から秋であり、発情の始まった3月頃のオスのウサギが落ち着かなくなる様を指して「[[三月ウサギ]]」というイギリスのことわざが生まれた。</ref>。 年中発情している獣はヒトとウサギ(アナウサギ)くらいであるというイメージから、性的誘惑のシンボルとしてウサギが選ばれ、大人の世界のディズニーランドというコンセプトを目指した米国の高級ナイトクラブであるプレイボーイクラブの[[ウェイトレス]]の正式な[[コスチューム]]として、「バニーガール」が、1960年に採用され、[[カジノ]]や[[バー (酒場)|バー]]などで女性コスチュームに広く採用されるようになった。成人誌『[[PLAYBOY]]』でも、連動して1960年からオスのウサギの頭をデザインした「ラビットヘッド」がキャラクターとして用いられている<ref group="注">ウサギには“快活で、遊び心や茶目っ気がある”というイメージから、「ユーモラスであり、セクシーさの象徴」としてウサギをマスコットに選んだと、マークをデザインしたデザイナーは語っている{{要出典|date=2017年10月}}。</ref>。{{See also|バニーガール}} [[ウサギの足|ラビットフット(兎の足)]]という魔除けのお守りが、1940-1960年代にアメリカの[[ヒッチハイカー]]などの間で局地的に流行したとされる。その起源は[[ケルト]]の一族が身に付けていた幸運のお守りであり、ウサギの繁殖力を神聖視していた一族が、ウサギの男根を象徴しているウサギの足の[[ミイラ]]を身に付けて繁栄を願ったものであったとされている。 このように古来からウサギは多産豊穣・繁栄のシンボルとして、洋の東西を問わず女性や子どもと関わりの深い動物であり、1960年代ごろから男性成人向けのキャラクターとしても用いられるようになった。 今日の日本では、[[卯]]月が四月の春であること、月見をするのが現在は秋であることから、イメージとしては春とも秋とも結び付けられている。俳句においては、野兎<!--野生の兎の意味の野兎ではなく、ノウサギ属の野兎のほう-->や雪兔は冬の季語とされている。 ==== 速さのシンボル ==== 動きの速いものの象徴として使われることもままある。 種類によっても違うが、ノウサギは、天敵から逃げ切るために時速60-80キロほどのスピードで走ることができる。人間の場合、100m走の世界記録保持者であっても時速にすれば40キロにも達しない(しかも最高速が出るのは一瞬だけ)ことを考えると、いかにウサギが俊足であるかが分かる([[アナウサギ]]の場合には、隠れる穴を用意してあるためそこまで早い速度で逃げる能力が発達しておらず、時速35キロほどいわれている)。 ウサギは、機械や設備の高速動作を表すシンボルとして用いられている。''[[ヘンリー・ドレイファス|Henry Dreyfuss Symbols Sourcebook]]''(1972年)の時点ですでに乗り物の変速機構のデザインとして確立されていることが指摘されている<ref>{{cite web|url=https://www.iso.org/obp/ui/#iso:grs:7000:2810|title=ISO 7000:2810|date=|accessdate=2023-06-09|publisher=The International Organization for Standardization}}</ref>。設備類に用いられる図象を定める [[ISO]] 7000 にしたがえば、動作速度を速い順にウサギ<ref>{{cite web|url=https://www.iso.org/obp/ui/#iso:grs:7000:2810|title=ISO 7000:2810|date=|accessdate=2023-06-09|publisher=The International Organization for Standardization}}</ref>、カメ<ref>{{cite web|url=https://www.iso.org/obp/ui/#iso:grs:7000:2811|title=ISO 7000:2811|date=|accessdate=2023-06-09|publisher=The International Organization for Standardization}}</ref>、カタツムリ<ref>{{cite web|url=https://www.iso.org/obp/ui/#iso:grs:7000:2812|title=ISO 7000:2812|date=|accessdate=2023-06-09|publisher=The International Organization for Standardization}}</ref>のシルエットを用いて表すことになる<ref>{{cite web|url=https://www.iso.org/obp/ui/#iso:pub:PUB400001:en|title=ISO 7000 Graphical symbols for use on equipment|date=|accessdate=2023-06-09|publisher=The International Organization for Standardization}}</ref>。[[JIS規格]]も同様で、たとえば[[建設機械]]の変速機構操作にはウサギとカメの絵が描かれる<ref>[[2014年]][[5月13日]]放送『[[有吉弘行のダレトク!?]]』</ref>ほか、ミシンの速度調節としてもウサギとカメが用いられている。 また[[日産自動車]]のブランド「[[ダットサン]]」の「ダット」の部分に関して、関係者のイニシャルとともに速く走ることのたとえである「脱兎」が由来になっているとされる。 ==== 献身のシンボル ==== [[仏教]]世界においては献身のシンボルとされる。これは仏教説話集[[ジャータカ]]({{lang|sa|jātaka}})の中に、ウサギが身を火に投じて仙人に布施する物語(ササジャータカ:{{lang|sa|sasajātaka}})があるためである。ちなみに日本におけるモチーフとしてのウサギのところで前述したように、[[月]]面の模様をウサギに見立てることも、ここからきている。 ==== 宗教のシンボル ==== [[File:Paderborner Dom Dreihasenfenster.jpg|thumb|250px|[[ドイツ]]、[[パーダーボルン大聖堂]]の{{ill2|三羽のウサギ|en|Three hares}}の窓( Dreihasenfenster )。三羽のウサギは、ユダヤ教やキリスト教等の聖なる場所で見かける三羽の兎が追いかけあっている図。[[月相]]と繁殖力の関係を指しているという説がある。]] [[神道]]世界においては神の使いとされることがある。大阪の[[住吉大社]]・埼玉の[[調神社]]・京都の[[岡崎神社]]などの[[神使]]として知られている。調神社や岡崎神社には[[狛犬]]ではなく狛ウサギがある。 ==== 組織のシンボル ==== 縁起の良い動物として、企業や団体のシンボルマークに用いられることも多い。 * [[エスエス製薬]]では、1952年(昭和27年)からウサギをシンボルマークとしている。これは、[[因幡の白兎]]の物語に出てくる治療が日本の文献上における初めての治療薬らしき描写であること、さらに「白い」という清潔感、「とび・跳ねる」という躍動感をもつこと等からである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ssp.co.jp/corporate/history/004/|title=昭和20年代/250余年のあゆみ(歴史)|accessdate=2017年10月25日|publisher=エスエス製薬}}</ref>。 * [[全日本不動産協会]]では、的確に情報をキャッチする耳、未来を見る眼、躍進するジャンプ力のある足をもつことから、ウサギを協会のシンボルマークとしている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zennichi.or.jp/about/|title=協会の活動・事業内容・組織図|accessdate=2017年10月25日|publisher=[[公益社団法人]] [[全日本不動産協会]]}}</ref>。 *[[ラビットスクーター|ラビット(Rabbit)]]は、終戦直後の1946年から1968年にかけて富士産業(のちの[[富士重工業]]→[[SUBARU]])が生産したスクーターのブランド名にもなった。そのボディデザインがウサギのイメージと重なり、また、スクーターという軽快な乗り物が、飛び跳ねるうさぎの姿を連想させるところから命名したものである。一部モデルは海外へも輸出された。車体につけられたブランドマークには、楕円の中に跳ねるようなウサギの全身が描かれている。 === 物語の中のウサギ === {{seealso|Category:ウサギを主人公にした物語}} [[童歌|わらべうた]]として「うさぎ うさぎ 何見て跳ねる 十五夜お月様 見て跳ねる」(成立年作詞作曲不詳)と古くから歌われてきたし、ウサギは昔話にもよく登場する身近な動物であった。日本の昔話としては、ウサギが機智を働かせて悪の象徴である[[タヌキ]]を懲らしめる「[[かちかち山]]」型の説話がよく知られており、そこではウサギは知恵のあるもの、あるいは悪を懲罰するものとして存在している。但し、ウサギの賢明さが時には狡猾と解されることもある。例えば「かちかち山」の後日譚というべき『親敵討腹皷』(おやのかたきうてやはらつづみ)([[朋誠堂喜三二]] 作)では、ウサギはかつて己が手にかけたタヌキの子に仇としてつけ狙われている。 一方、「タヌキとウサギとキツネのぼた餅分け」という民話では、ウサギは[[タヌキ]]とともに、狡猾な[[キツネ]]に騙される役柄となっている。 西欧の[[イソップ寓話|イソップ物語]]を原型として明治以降に広められた「[[ウサギとカメ]]」の説話では、得意分野で相手を侮って敗れた愚か者として描かれる。 そのほか、月への民間信仰との関わりもあってか、その愛らしい姿をデザインしたものは古くから安産、女性や子供の守り神として広く受け入れられ、[[郷土玩具]]その他さまざまな道具の意匠に用いられてきた。他にも、謡曲(能)で『[[竹生島]](ちくぶじま)』で「月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか 面白の島の景色や」と謡われたことなどから、[[江戸時代]]には波の上を跳ねるウサギが瑞祥文様として庶民の着物文様や建築意匠に使われている。 ====迷信==== ;うさぎとフランスの船 :フランスでは、「船に災いをもたらす」と言われており多くの船で立ち入り禁止である<ref>{{Harvnb|East|2007|p=66}}</ref><ref name=bbc/>。この迷信は17世紀にまで遡り、食用として運ばれたウサギが逃げ出すため船体に噛みついて穴を開け、沈没させるからだとされる。 ; ウサギは寂しいと死ぬ : 現代日本において「ウサギは寂しいと死ぬ」という迷信・[[都市伝説]]があるが、科学的には何の根拠もない。この迷信が広まった理由として、ウサギは草食であり胃腸は常に動いている必要があるため、12時間以上何も食べずにいると胃腸の動きが停滞することがあり、飼育中のウサギの世話を数日間怠ると死亡することや<ref>[https://woman.mynavi.jp/article/130917-058/ ウサギは寂しいと死んじゃうって本当?「ウソ。ただし12時間以上絶食で胃腸の動きが停滞」] - マイナビウーマン、2013年9月17日</ref>、飼育中に病気にかかっても飼い主にはわからず、飼い主の外出中に突然死亡することがあること<ref name="ddnavi20210103">[https://ddnavi.com/serial/624162/a/ うさぎは寂しいと死ぬって本当?なぜそう言われるようになったの?/毎日雑学] - [[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]ニュース、2021年1月3日</ref>、また、1993年に放送されたテレビドラマ『[[ひとつ屋根の下]]』のヒロイン・柏木小雪の「うさぎって寂しいと死んじゃうんだから」というセリフの影響などが指摘されている<ref name="ddnavi20210103" />。また、客に2羽以上購入させることを意図してウサギ販売業者が販売促進のために、作り出した迷信であるという説もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://fundo.jp/328414|title=ウサギは寂しいと死んじゃう・・・というのは都市伝説?!むしろ構われすぎる方が嫌い?|accessdate=2021-06-06}}</ref>。 ;伝説上の生物 * [[ジャッカロープ]] (ツノウサギ)- 未確認生物。頭部にシカの角が生えたウサギ。 * [[アルミラージ]] - 角の生えた、ウサギに似た生物。 * [[レプス・コルヌトゥス]] - 角の生えたウサギ。空想生物とされる。 * {{仮リンク|ヴォルパーティンガー|en|Wolpertinger}} - 伝説の生物。角の生えたウサギ。 * [[月の兎]](玉兔) - 月に住むとされるウサギ === 言語 === ==== 漢字コード ==== {{Wiktionarypar|兎}}{{Wiktionarypar|兔}} 兎の[[異体字]]「兔」を表す[[Shift_JIS]]コードは0x995cであり、2バイトめが 0x5c、すなわち1バイト文字における「¥」(「[[円記号]]」あるいは「[[バックスラッシュ]]」)に該当する通称「[[ダメ文字]]」の一つである。1バイト文字0x5cには、しばしば特殊な機能が割り当てられているため、マルチバイト文字が入力されることを想定していない(または想定していても対応に不備がある)プログラムは、マルチバイト文字に含まれている0x5cを誤認識し適切に動作しない可能性がある。 ==== 日本語の助数詞「羽」 ==== ウサギの[[日本語]]における[[助数詞]]は、かつて1羽、2羽と鳥と同様の「羽(わ)」を使用していた。この由来には諸説あるが、おもに以下のようなものがある。 * 獣肉食が禁止されていた時代、大きく長い耳の形状が鳥の羽を連想させることから「ウサギは獣ではなく鳥だ」と見なして食肉としていたとする説。 * 同じく獣肉食が禁止されていた時代、「ウサギは[[ウ]](鵜)と[[サギ]](鷺)に分けられるから鳥だ」とこじつけて食肉としていたとする説。 * 獲物は耳を束ねて持ち歩き、一掴みにすることを一把(いちわ)、二把(にわ)と数えたことから後の羽(わ)につながったとする説。 *[[千葉徳爾]]は『狩猟伝承』(1975)において、山裾に仕掛けた網にウサギを追い込む狩猟法が、鳥の狩猟と共通するために「羽」と数えたという説を紹介している。 『羽』は哺乳類ではなく鳥類を数えるときの助数詞であり、『頭』は人間よりも大きな動物、『匹』は人間よりも小さな動物に使うという傾向からすれば、うさぎは『匹』と数えるのが自然であり、『NHK放送のことばハンドブック』では、(文学や食肉として扱う場合を除き)生きたウサギは「匹」を用いるのがふさわしいとしている。愛玩用のウサギは日常的には「匹」または「羽」であるが、商取引では「頭」が使われる場合もある。なお、自然科学の分野では、動物全般について、動物の大きさで区別せず画一的に頭を使用するのが原則であり(鳥類や小さな昆虫でも、一頭二頭と数える)、NHKのニュースにおいても生物学的な話題として報道する場合には、「奄美大島に生息するクロウサギは~現在ではわずか600頭が確認されているに過ぎない」のように表現する場合がある。 ==== 慣用句、ことわざなど ==== {{Wikiquote|兎|ウサギ}} ===== 日本 ===== :; 脱兎(だっと)の勢い : 極めて迅速なさま。 :; 兎に角(とにかく)・兎も角(ともかく)・兎角(とかく)<ref>{{Cite web|和書|url=https://gogen-yurai.jp/tonikaku/|title=兎に角(とにかく)- 語源由来辞典|accessdate=2017年10月25日|publisher=Lookvise.Inc}}</ref> : 仏教用語「兎角亀毛(とかくきもう)」(後述)に由来する当て字。夏目漱石が使用して一般に定着したとされる。 :; 兎死すれば狐これを悲しむ : 明日は我が身。 :; 兎に祭文 : 何の効果もないこと。 :; 兎の糞 : 長続きしないことの形容。 :; 兎兵法 : 実用的でないこと。 :; 兎の股引 : 後が続かないこと。 :; 犬兎の争い : 当事者が争っている間に第三者に横取りされる。 :; 兎の登り坂 : 前足に比べて後ろ足が長い兎は、坂を登るのが得意である事から、よい状況に恵まれ、力を発揮することを指す。 ===== 中国 ===== :; 始めは[[処女]]の如く後は脱兎の如し : 出典は『[[孫子 (書物)|孫子]]』九地第11<ref>{{cite wikisource|title=孫子兵法#九地第十一|author=孫武|wslanguage=zh}}</ref>「<cite>{{Lang|zh-tw|是故始如處女 敵人開戶 後如脫兔 敵不及}}</cite>」(始めは処女の如く敵人の戸を開かせ、脱兎の如く素早く攻撃せよ、敵は防御も間に合わない)という兵法。脱兎のごとく、とは素早くの意味。 :; 兎角亀毛(とかくきもう) : 出典は『[[述異記]]』の「<cite>{{Lang|zh-tw|大亀生毛、而兎生角、是甲兵将興之兆}}</cite>(訳:大亀に毛が生えたり、兎に角が生えたりしたら、それは戦乱が起こる兆しである=意味:通常ならば、亀に毛が生えたり兎に角が生えたりすることはないので、戦争などというものは起こらない)」。『述異記』には、亀は千年生きると毛が生え、五千年で神亀、一万年で霊亀と呼ばれるようになるとも記されている。通常であれば亀は千年も生きないので、「兎角亀毛」は起こりうるはずのないことのたとえに使われる。とはいえ、仮にそのように毛の生えた亀がいるとすればそれは長寿・瑞兆の象徴ということであり、日本でも玄武神亀や鶴亀の瑞祥文様には毛の生えた亀の意匠が用いられる。もともとは仏教用語でもあり、現実にはないのにあると錯覚したり実体のないものを貴ぶことを戒める意として「人間は兎角亀毛のごときものである。」(『毘婆沙論(びばしゃろん)』)などのように用いられ、悟りに至る以前の迷いの現世を表す言葉となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000qal.html|title=兎角|生活の中の仏教用語|読むページ|accessdate=2017年10月25日|publisher=[[大谷大学]]}}</ref>。 :; 兎起鶻落 : 出典は[[蘇軾]]の『文与可の画きし篔簹谷の偃竹の記』。勢いがあるさま。 :; 獅子搏兎 : 出典は[[陸象山]]の『[[象山先生全集]]』。容易なことにも全力で努力する。 :; 狡兎三窟 : 出典は『[[戦国策]]』11巻齊策4齊人有馮諼者<ref>{{cite wikisource|title=戰國策/卷11|author=劉向|wslanguage=zh}}</ref>の「{{Lang|zh-tw|狡兔有三窟 僅得免其死耳}}」。狡賢い者は用心深く難を逃れるのが上手い。 :; 狡兎が死んで(猟)犬が烹られる :用が済んだ有能な部下は殺される。 :*「{{Lang|zh-tw|狡兎死走狗烹}}」:[[司馬遷]]『[[史記]]』「越王句踐世家」 :*「{{Lang|zh-tw|狡兔死 良狗烹}}」:司馬遷『史記』92巻淮陰侯列伝[[韓信]]<ref>{{cite wikisource|title=史記/卷092|author=司馬遷|wslanguage=zh}}</ref> :*「{{Lang|zh-tw|狡兔盡則良犬烹}}」:『[[韓非子]]』内儲説下<ref>{{cite wikisource|title=韓非子/內儲說下六微|author=韓非|wslanguage=zh}}</ref> : :; 守株(株を守る) : 出典は『韓非子』49巻五蠹<ref>{{cite wikisource|title=韓非子/五蠹|author=韓非|wslanguage=zh}}</ref>「{{Lang|zh-tw|宋人有耕田者 田中有株 兔走觸株 折頸而死 因釋其耒而守株 冀復得兔 兔不可復得 而身為宋國笑}}」という「守株待兔(しゅしゅたいと)」説話。木の切り株にウサギがぶつかって死んだのを見た宋人が、ひたすらウサギが再び切り株にぶつかるのを寝て待ったことから、旧慣にこだわる愚かしさを意味する。[[北原白秋]]作詞、[[山田耕筰]]作曲の[[童謡]]「[[待ちぼうけ]]」はこの故事を元にしている。 ===== イギリス ===== :; ウサギと逃げながら猟犬と狩りをする ({{Lang|en|run with the hare and hunt with hounds}}) : 両方の味方をする。信念節操のない人。 :; 三月ウサギのように気が狂っている ({{Lang|en|Mad as a March hare}}) : 落ち着きのない様子。イギリスにおいて春先のオスの野ウサギが狂ったようになる様から。 ===== スペイン ===== :; 魚は口がもとで死ぬ、ウサギは歯がもとで捕らえられる。({{Lang|es|Por la boca muere el pece, y la liebre tomanla a diente}}) : 「口は禍いの元」の意。 :; 思いもしなかった所からウサギが跳びだす ({{Lang|es|De donde no se piensa, salta la liebre}}) : 「灯台下暗し」の意。 ===== ローマ ===== :; 二兎を追うものは一兎をも得ず(二匹の兎ともいう) : 欲張って一度に2つのものを狙うとかえってどちらともの目的を果たせなくなってしまうこと。 ==== 動植物の名前にみるウサギ ==== ウサギを連想するような、白くて丸い形をした動植物に、ウサギの名前が冠せられることがある。 <gallery> File:Ovulidae.JPG|[[ウミウサギガイ]] {{snamei|Ovula ovum}}(手前)と[[ツマベニヒガイ]] {{snamei||Volva volva}}(奥) File:Ovula ovum.jpg|ウミウサギガイの生体。黒い部分は外套膜。 </gallery>たとえば、貝の中でも丸くて白っぽい貝は[[タカラガイ|ウミウサギガイ科]]と名付けられており、ウサギを含んだ名がつけられている。[[ウミウサギ]]、マメウサギ、ウサギアシカワボタンガイなど。これらの貝殻はその外観の美しさから海のジュエリーとしてダイバーや貝殻愛好家からの人気も高い<ref>{{Harvnb|飯野|2010}}</ref>。 月兎耳(つきとじ)({{Snamei|en|Kalanchoe tomentosa}}) という多肉植物の名は、白い毛で覆われた長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。<ref>{{Cite web|和書|author=山城智洋| date=|title= カランコエ 月兎耳|url=https://www.shuminoengei.jp/?m=pc&a=page_p_cactus_detail&target_cactus_code=12|access-date=2022-08-23|website=みんなの趣味の園芸|publisher=NHK出版}}</ref> [[ウサギゴケ]]という食虫植物の名は、その白い花が見事に耳をぴんとたてたウサギの形をしていることによる。[[ウサギギク]]の名は、長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。 また、兎馬(ウサギウマ)はロバを意味するが、これはロバの大きな耳がウサギを思わせることからきていると考えられる。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|128048|1F430|-|RABBIT FACE|font=Unicode}} {{CharCode|128007|1F407|-|RABBIT|font=Unicode}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=飯野剛|others=高田良二 監修|date=2010-02|title=ウミウサギ 生きている海のジュエリー 日本と世界のウミウサギ165種+生体写真53種|series=ネイチャーウォッチングガイドブック|publisher=[[誠文堂新光社]]|isbn=978-4-416-81016-3|ref={{Harvid|飯野|2010}}}} * {{Cite book | 和書 | author= 大野瑞絵|authorlink=大野瑞絵 | title = ザ・ウサギ 最新の品種・飼育・エサ・繁殖・医学がすべてわかる | series = ペット・ガイド・シリーズ | publisher = 誠文堂新光社 | date = 2004-08-20 | isbn = 978-4-416-70451-6 | ref = {{Harvid|大野|2004}}}} * {{Cite book|和書|author=辻調グループ辻静雄料理教育研究所 編著|date=2012-04|title=フランス料理ハンドブック|publisher=柴田書店|isbn=978-4-388-35340-8|ref={{Harvid|辻調グループ辻静雄料理教育研究所|2012}}}} * [[福井栄一]]『かわいいだけがウサギじゃない』2010年、技報堂出版、43-61頁、ISBN 978-4765542432 * {{Cite book | 和書 | editor=町田修 監修|editor-link=町田修 | title = うさぎ 長く、楽しく暮らすための本 | publisher = [[池田書店]] | series = もっとわかる 動物のことシリーズ | date = 2009-11-24 | isbn = 978-4-262-13126-9 | ref = {{Harvid|町田|2009}}}} * {{Citation|last=East|first=George|date=2007-11-01|title=French Lessons|publisher=La Puce Publications|series=Mill of the Flea|isbn=978-0-9523635-8-3}} == 外部リンク == * [https://jcrabbit.org/ 一般社団法人 日本コンパニオンラビット協会(JCRA)] {{Animal-stub}} {{食肉}} 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ひらまつつとむ
ひらまつ つとむ(1959年 - )は、日本の漫画家。滋賀県出身。 19歳の頃「汚された金庫」で第15回手塚賞佳作を受賞。21歳で「イダテン・ホーク」(平松梅造名義)が第19回手塚賞準入選を受賞し、週刊少年ジャンプ増刊号に掲載された。第20回手塚賞でも「闘士」が最終候補に残っている。 初の連載は武論尊原作の「マッド・ドッグ」(鷹沢圭名義)であったが、10回で打ち切りとなる。次作「飛ぶ教室」は、フレッシュジャンプ掲載の読み切りを経て、1985年に週刊少年ジャンプで連載された。連載自体は短期だったが、核と放射能という重いテーマを描いたことで当時の読者に強烈な印象を残した。デビューからこの頃までは、荒木飛呂彦やジョージ秋山など、異端の作家を多く担当していた椛島良介が担当編集者だった。 1986年の「ハッスル拳法つよし」、1991年の「ミアフィールドの少女アニー」を経て、集英社以外の出版社に活動の場を広げたが、単行本には恵まれず、2004年の「まぶちの右近」は掲載誌休刊により、1巻のみの発売で未完となった。 戦後70年の2015年に復刊ドットコムより「飛ぶ教室」が復刊され、また第2部が準備中であることが発表された。 2020年、潮出版社より既刊部分と新作第2部の180ページを合わせた「完全版 飛ぶ教室」が5月25日に発売されることが、作者のサイトで告知された。2022年12月20日には全編描きおろしの2巻も発売されている。 元々は劇画系のハードな絵柄だったが、ひらまつつとむ名義に変更した「飛ぶ教室」以降はラブコメやヒューマンドラマを意識した柔らかい絵柄と使い分けている。
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ひらまつ つとむは、日本の漫画家。滋賀県出身。
{{出典の明記|date=2020年5月14日}} '''ひらまつ つとむ'''([[1959年]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。滋賀県出身<ref>[https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784267022418 完全版 飛ぶ教室 ひらまつつとむ - 潮出版社] - 版元ドットコム(2020年5月14日閲覧)</ref>。 == 来歴 == 19歳の頃「汚された金庫」で第15回[[手塚賞]]佳作を受賞。21歳で「イダテン・ホーク」('''平松梅造'''名義)が第19回[[手塚賞]]準入選を受賞し、週刊少年ジャンプ増刊号に掲載された。第20回手塚賞でも「闘士」が最終候補に残っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://blog.livedoor.jp/jojolab/archives/34339145.html|title=【武装ポーカー】第20回手塚賞各審査員のコメント|accessdate=2020年5月8日|publisher=ジョジョの奇妙な研究所}}</ref>。 初の連載は[[武論尊]]原作の「[[マッド・ドッグ (漫画)|マッド・ドッグ]]」('''鷹沢圭'''名義)であったが、10回で打ち切りとなる。次作「[[飛ぶ教室 (漫画)|飛ぶ教室]]」は、フレッシュジャンプ掲載の読み切りを経て、1985年に[[週刊少年ジャンプ]]で連載された。連載自体は短期だったが、核と放射能という重いテーマを描いたことで当時の読者に強烈な印象を残した<ref>[https://konomanga.jp/guide/43849-2 『飛ぶ教室』第2巻 ひらまつつとむ 【日刊マンガガイド】] - このマンガがすごい!WEB(2015年9月29記事、2020年5月14日閲覧)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://tobukyoushitsu.com/tobukyoushitsu.html|title=ひらまつつとむ 公式ホームページ 飛ぶ教室のこと|accessdate=2018-08-18|website=tobukyoushitsu.com}}</ref>。デビューからこの頃までは、[[荒木飛呂彦]]や[[ジョージ秋山]]など、異端の作家を多く担当していた[[椛島良介]]が担当編集者だった。 1986年の「ハッスル拳法つよし」、1991年の「ミアフィールドの少女アニー」を経て、集英社以外の出版社に活動の場を広げたが、単行本には恵まれず、2004年の「まぶちの右近」は掲載誌休刊により、1巻のみの発売で未完となった。 戦後70年の2015年に[[復刊ドットコム]]より「飛ぶ教室」が復刊され<ref>[https://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68323877 『飛ぶ教室 全2巻』] - 復刊ドットコム</ref>、また第2部が準備中であることが発表された。 2020年、[[潮出版社]]より既刊部分と新作第2部の180ページを合わせた「完全版 飛ぶ教室」が5月25日に発売されることが、[https://tobukyoushitsu.com/secondseason.html 作者のサイト]で告知された。2022年12月20日には全編描きおろしの2巻も発売されている。 元々は劇画系のハードな絵柄だったが、ひらまつつとむ名義に変更した「[[飛ぶ教室 (漫画)|飛ぶ教室]]」以降はラブコメやヒューマンドラマを意識した柔らかい絵柄と使い分けている。 == 作品一覧 == * イダテン・ホーク(手塚賞準入選作) * マッド・ドッグ(鷹沢圭名義、原作武論尊、週刊少年ジャンプ、集英社、連載) * [[飛ぶ教室 (漫画)|飛ぶ教室]](週刊少年ジャンプ連載、1985年) * ハッスル拳法つよし(週刊少年ジャンプ連載、1986年) * ミアフィールドの少女アニー * ランナー(スーパージャンプ掲載) * ザ・Xデイ(スーパージャンプ掲載) * スネーク・ハンター * 血と夢(週刊アクション、双葉社、掲載) * ゴルバチョフ暗殺特急(週刊アクション掲載) * ミッドナイト・エンジェル([[週刊少年サンデーS|週刊少年サンデー増刊号]]、小学館、連載) * プルート〜賢者の石伝説〜(週刊少年サンデー増刊号) * コレクション・令嬢亜美の謎(コミックガイズ、学研、連載) * 怒涛のギャンブラー([[漫画サンデーフォアマン]]、[[実業之日本社]]、連載) * 氷のギャンブラー(ビジネスジャンプ増刊) * たたらの十蔵 -戦国刺客伝-(ビジネスジャンプ増刊、集英社、連載) * エイリアン・ティーチャー * 料理の王様 * 信玄暗殺 * 多摩川地獄麻雀 * まぶちの右近(月刊時代劇コミック 斬鬼、[[少年画報社]]、連載) * 大江戸万華鏡([[コミック乱TWINS]]、[[リイド社]]、不定期連載、2008-2012) == 単行本一覧 == * 『マッド・ドッグ』原作:武論尊、集英社、1983年(鷹沢圭名義) * 『飛ぶ教室』全2巻、集英社、1986年 ** 『飛ぶ教室』改訂版、全2巻、復刊ドットコム、2015年 ** 『完全版 飛ぶ教室』既刊2巻 潮出版社、2020年 * 『ハッスル拳法つよし』全2巻、集英社、1988年 * 『ミアフィールドの少女アニー』集英社、1991年(短編集) ** 「ミアフィールドの少女アニー」「ランナー」「ザ・Xデイ」「スネーク・ハンター」収録 * 『こちら葛飾区亀有公園前派出所両さんの宮本武蔵』キャラクター原作:[[秋本治]]、監修:[[大河内昭爾]]、集英社〈満点人物伝〉、2003年 * 『まぶちの右近』少年画報社、2004年 == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [https://tobukyoushitsu.com/ ひらまつつとむ 公式ホームページ] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:ひらまつ つとむ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:滋賀県出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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彗星
彗星(すいせい、英語: comet)は、太陽系小天体のうち、おもに氷や固体微粒子でできており、太陽に近づいた際に一時的な大気であるコマや、コマの物質である塵やガス、イオンの尾(テイル)を生じるものを指す。 彗星は、尾が伸びた姿から日本語では箒星(ほうきぼし、彗星、帚星)とも呼ばれる。英語ではコメット(comet)と呼ばれる。天体写真が似るため流星と混同されがちであるが、天体観望における見かけの移動速度は大きく異なり、肉眼による彗星の見かけ移動は日周運動にほぼ等しいため、流星と違い尾を引いたまま天空に留まって見える。 小惑星が太陽からおおよそ3AU(天文単位)以内の距離に近づいてから、コマや尾が観測され彗星として観測される。その位置は火星軌道と木星軌道のほぼ中間にあたる。 太陽に近づく周期(公転周期)は、約3年から数百万年以上まで大きな幅があり、中には二度と近づかないものもある。軌道による分類の節を参照のこと。 彗星が太陽に近づくと熱で氷が溶け、表面から放出されたガスや微粒子が太陽の光に反射し光って見える。流星の元となる塵の供給源となっている。彗星の中には肉眼でもはっきり見えるほど明るくなるものもあり、数日間~数か月ほど観察できる期間がある、尾の形や大きさが様々であることなどから視認しやすく、古くから観察の対象とされ不吉なことの前兆と考えられるなど、人類の関心の的となってきた。いくつかの明るい彗星の出現の記録は古文献や壁画などに残るほど古代から残されているが、ほとんどの周期が数十年以上であるために、周期的に観察されていることに気づかれたのは「彗星観察の歴史」からすれば最近であると言える。古代ギリシアの時代から長い間、彗星は大気圏内の現象だと考えられてきたが、16世紀になって、宇宙空間にあることが証明された。彗星の性質などにはいまだに不明な点も多く、また近年は太陽系生成論の方面からも大きな関心が寄せられ、彗星の核に探査機が送り込まれるなど、研究・観測が活発に続けられている。 彗星には、発見報告順に最大3人まで発見者(個人またはチーム、プロジェクト)の名前がつけられる。彗星を熱心に捜索する「コメットハンター」と呼ばれる天文家もいるが、20世紀末以降は多くの彗星が自動捜索プロジェクトによって発見されるようになっている。 2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合(IAU)総会での決議により、彗星は小惑星とともに small solar system bodies(SSSB)のカテゴリーに包括することが決定された。これを受け、日本学術会議は2007年4月9日の対外報告(第一報告)において、2007年現在使われている「彗星」「小惑星」などの用語との関係については将来的に整理されることを前提としたうえで、small solar system bodies の訳語として「太陽系小天体」の使用を推奨した。 彗星の本体は核と呼ばれる。核は純粋な氷ではなく、岩石質および有機質の塵を含んでいる。このことから、彗星の核はよく「汚れた雪玉」に例えられる。核の標準的な直径は1 - 10キロ程度で、小さく暗いものでは数十メートル、非常に大きいものでは稀に50キロほどに達する。質量は、大きさによってかなり異なってくるが、直径1キロ程度の彗星で数十億トン単位、10キロ程度の彗星で数兆トン単位であると考えられる。これは、地球の山1つ分ほどに相当する。自らの重力で球形になるには質量が足りないため、彗星の核は不規則な形をしている。 氷の構成成分を分子数で見ると、たとえばハレー彗星の場合、80%近くは水(H2O)で、以下量の多い順に一酸化炭素(CO)、二酸化炭素(CO2)、アンモニア(NH3)、メタン(CH4)と続き、微量成分としてメタノール(CH3OH)、シアン化水素(HCN)、ホルムアルデヒド(CH2O)、エタノール(C2H5OH)、エタン(C2H6)などが含まれる。さらに鎖の長い炭化水素やアミノ酸などのより複雑な分子が含まれる可能性もある。双眼鏡や望遠鏡で見たときに青緑色に見えるのは、これらの微量成分が太陽光で解離してできるC2(炭素が2つつながったもの)やCNなどのラジカルの輝線スペクトルが強いためである。2009年には、NASAの探査機スターダストによるミッションで回収された彗星の塵から、アミノ酸のグリシンが発見されたことが確認された。 塵の成分はケイ酸塩や有機物を始めとする炭素質である。ケイ酸塩は結晶質と非晶質の両方を含む。通常、ケイ酸塩が結晶化するには数百度の高温が必要であり、彗星は、低温でできる氷と高温でできるケイ酸塩結晶が混じり合っている点で珍しい。 彗星の核は、太陽系に存在する物体の中でもっとも黒い天体である。探査機ジオットは1986年にハレー彗星の核に接近し、核の光のアルベド(反射能)が4%しかないことを発見した。また探査機ディープ・スペース1号も2001年にボレリー彗星に接近して観測を行い、核の表面のアルベドが2.4%から3%程度しかないことを発見した。これは、月やアスファルトの光のアルベドが7%なのと比較するとかなり小さい値である。複雑な有機化合物がこのような暗い表面を構成していると考えられている。太陽によって表面が熱せられると揮発性の化合物が、特に黒っぽい傾向のある長鎖の化合物を残して蒸発して飛び去ってしまい、石炭や原油のように黒くなる。彗星の表面が非常に黒いため、熱を吸収して外層のガスが流出する。 太陽から遠いところでは、低温のため核はすべて凍りついており、地球上から見てもただの恒星状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。それにともなって発生したガスや塵は非常に大きく、きわめて希薄な大気となって核の周りを球状に覆う。これはコマと呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。コマの最外層は水素のガス雲となっており、水素コロナと呼ばれる。 そして、太陽からの放射圧と太陽風により、太陽と反対側の方向に尾が形成される。尾には、ダストテイル(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、イオンテイル(イオンの尾)またはプラズマテイルという、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる。これには、核から放出された塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けていたりするためなどの理由がある。2007年のマックノート彗星や歴史上の大彗星のいくつかでは、何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えた。これに対しイオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、尾の一部が見かけ上太陽の方向に伸びているように見えることがあり、アンチテイルと呼ばれる(アラン・ローラン彗星(C/1956 R1)のアンチテイルは殊に有名である)。実際には太陽に向かって尾が伸びているわけではなく、あくまでも視覚上の錯覚である。アンチテイルの観測は太陽風の発見に大きく貢献した。 コマや尾は、核に比べて非常に規模が大きくなる。コマは水素コロナを含めると、時には太陽(直径約139万キロ)よりも大きくなることがある。また、尾も1天文単位以上の長さになることがある。1996年春に明るくなり、観測史上もっとも尾が長く伸びた百武彗星では、尾の実長は実に3.8天文単位(5億7,000万キロ)にも達した。コマと尾はどちらも太陽に照らされ、太陽系の内側に入り込んでくると地球から肉眼で見えるようになることもある。塵は太陽の光を直接反射し、ガスはイオン化されるため明るく輝く。ほとんどの彗星は暗すぎて望遠鏡がなければ見ることができないが、10年に数個ほどは、肉眼でも充分見えるほどに明るくなる。 1996年、百武彗星の観測から彗星がX線を放射していることが初めて観測された。彗星がX線を放射していることはそれまで予測されていなかったため、この発見は研究者たちを驚かせた。このX線は彗星コマと太陽風との相互作用により生じると考えられている。イオンが急速に彗星の大気に突入すると、イオンと彗星の原子や分子が衝突する。この衝突により、イオンは1つか複数の電子を捕獲し、それがX線や遠紫外線の光子の放出につながると考えられている。 彗星は、太陽を焦点のひとつとする楕円、放物線あるいは双曲線の軌道をとり、軌道によって分類される。離心率が1より小さい楕円軌道を持つ彗星は、太陽を周期的に周回するもので、周期彗星と呼ばれる。周期彗星が太陽の近くへ戻ってくることを「回帰」という。離心率が1である放物線軌道、あるいは離心率が1より大きい双曲線軌道を持つ彗星は、二度と戻ってこないと考えられ、非周期彗星と呼ばれる。 ただ、惑星や近傍恒星の重力や、非重力効果により、実際の彗星の軌道は不安定である。特に、周期数百年以上の彗星の楕円軌道は、わずかな軌道の変化で周期が大きく変わるため、周期どおりに戻ってくるとは限らない。また後述する通り、起源や特性からも、周期の長い周期彗星は非周期彗星に近い。このような理由により、彗星を、周期彗星と非周期彗星ではなく、公転周期200年未満の短周期彗星と、200年以上の長周期彗星に分けることが多い。その場合、「周期彗星」という言葉は、短周期彗星と長周期彗星の両方を指す場合もあるが、特に短周期彗星のみを指して用いられる場合もある。周期彗星、長周期彗星、非周期彗星の3つに分けることもある。 21世紀初頭では別の種類として、小惑星帯上にありながら彗星として活動する彗星が発見されており、メインベルト彗星と呼ばれている。これは小惑星と彗星の分類に見直しを迫ることになるかもしれない。ほかにも、特徴的な軌道を持つ彗星として、近日点が太陽にきわめて近いサングレーザーがある(後述)。 短周期彗星はエッジワース・カイパーベルト、またはそれに隣接する散乱円盤天体を起源に持つと考えられ、ハレー彗星以外に大型の彗星は少ない。一方、長周期彗星の起源はオールトの雲にあると考えられ、大彗星になるものが多い。特に、以前の観測記録がない大型の彗星は、太陽系の起源を知る上で重要な手がかりとなると考えられている。 小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多い(軌道の離心率の値が大きい)。彗星がなぜ極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、さまざまな説が提唱されてきた。有名なものとして、銀河系の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲を含む太陽系外縁天体の軌道がかき乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説や、ネメシスという太陽の連星、あるいは未知の惑星Xの存在を仮定して、その重力的影響によるものだとする説などがある。 1950年、天文学者のヤン・オールトは、長周期彗星の軌道計算を行い、遠日点が太陽から1万天文単位 - 10万天文単位(約0.1光年 - 1光年)の距離のものが多いことを発見した。そこでオールトは、小天体が多く集まるオールトの雲と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱した。この仮説は広く受け入れられ、それ以後彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになった。オールトの雲に存在する天体は、ときどきお互いに重力的相互作用(摂動)を起こし、一部が太陽の引力にとらえられて極端な楕円軌道を描くようになり、太陽に非常に接近するようになる。 オールトの雲とエッジワース・カイパーベルトはいずれも、太陽系の形成と進化の過程において原始惑星系円盤で形成された微惑星、または微惑星が集まった原始惑星が残っていると考えられている領域である。太陽から3AU以遠では比較的凝固点の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回るため、微惑星の主成分は氷になる。オールトの雲は、主として木星や土星が形成される付近の軌道にあった氷小天体が、形成後の木星や土星に弾き飛ばされたものと考えられ、太陽系を球殻状に取り巻いている。エッジワース・カイパーベルトは太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものと考えられており、黄道面を取り巻くようにして環状に広がっている。したがって、オールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられている。 2009年11月の時点までで、3,648個の彗星が知られており、そのうち約1,500個がクロイツ群の彗星、約400個が短周期彗星である。この数は増え続けているが、本当に存在するはずの彗星のうちのごく一部である。太陽系外部に存在する彗星の元になる天体はおよそ1兆個存在するかもしれない。地上から肉眼で見えるようになる彗星の数はおおまかには1年に1個程度だが、その大部分は暗く目立たない。歴史上、非常に明るく肉眼でもはっきり見え、多くの人に目撃されたような彗星は大彗星と呼ばれることがある。 彗星は質量が小さく、軌道が楕円であるため、周期的に巨大な惑星に接近し、その度に彗星の軌道は摂動を受け変わる。短周期彗星は、遠日点までの距離が、巨大な惑星の軌道半径と同じになるような強い傾向が見られる。これらはその惑星の名を取って木星族、土星族、天王星族、海王星族の彗星などと呼ばれる。その中でも、木星の軌道付近に遠日点を持つ木星族の彗星が特に多い。オールトの雲からやってきた彗星は、しばしば巨大な惑星に接近し、重力の強い影響を受ける。特に木星は、ほかの惑星をすべて合計したより2倍以上大きな質量を持っているため、非常に大きな摂動を彗星に与える。なお、もし木星や土星のような巨大惑星がなければ、現実より多くの彗星が太陽系中心部に侵入し、一部は地球と衝突していただろうという説がある(惑星の居住可能性#グッド・ジュピターも参照)。 また、重力的な相互作用により軌道が変わったため、過去数十年や数世紀の間に発見された周期彗星のうち、その彗星が将来どこに現れるか予測できるほどよく軌道が定まっていなかったいくつかが見失われている。しかし時折、「新」彗星の過去の軌道をさかのぼることにより、古い「見失われた」彗星と同一だと判明することがある。その例として、テンペル・スイフト・LINEAR彗星(11P)が挙げられる。この彗星は1869年に発見され、「テンペル・スイフト彗星」と命名されたが、木星の摂動により軌道が変わり、1908年以降見失われていた。しかし2001年、LINEARが偶然発見した「LINEAR彗星(C/2001 X3)」が、発見後しばらくしてテンペル・スイフト彗星と同一の天体だと判明し、93年ぶりの再発見が認定されるとともに、名前がテンペル・スイフト・LINEAR彗星に変更されることとなった。 彗星の軌道に関する特徴のひとつとして、軌道面の傾き(軌道傾斜角)が非常に大きいものが多いということが挙げられる。太陽系の惑星は、軌道傾斜角はおおむね数度程度、大きくても10度以内に収まっている。また小惑星も、20度から30度程度まで傾いているものは多いが、軌道傾斜角がある程度小さいものが多い傾向はある。短周期彗星も、惑星の摂動により軌道を変えられた影響もあって、軌道傾斜角が小さいものが大半を占める。しかし、長周期彗星は、黄道面とほとんど垂直な軌道を持ったもの(軌道傾斜角が90度前後)や、惑星や大半の彗星、小惑星と逆向きに公転しているもの(軌道傾斜角が180度であるとも見なせる)も多く、ほとんどランダムに空のどこからでも現れるように見える。これは、オールトの雲の分布が球殻状であると推定する根拠になっている。 彗星の明るさ、すなわち光度は、恒星と同じように等級を単位として表される。しかし、彗星は恒星と違って核、コマ、尾などの構造があり、それぞれ明るさがあるため、すべての部分を含んだ明るさを全光度、核だけの明るさを核光度と呼び区別する。したがって、コマや尾がほとんど発達していない状態の彗星では全光度と核光度は等しく、逆に大きく発達している場合は核光度より全光度のほうが明るくなることになる。彗星には、中心核が特に明るい、すなわち中央集光が強いものも、逆に特に明るい部分がなく非常に拡散しているものもある。 彗星の明るさを測定するには、近くにある恒星と比較することになる。コマや尾が発達していない恒星状の彗星では、変光星や小惑星の場合と同じように、比例法と光階法という方法を用いる。しかし、コマや尾が発達している場合、同じ明るさでも点光源と面光源では明るさが違って見えてくるため、単純に比較することはできない。このため、彗星の明るさを憶えてからピントをずらして基準星が同じ大きさに見えるようにし、明るさを比較するシジウィック法(Sidgwick法、S法)、わざとピントをずらし、彗星と比較星が同じ大きさに見えるようにしてから明るさを比較するボブロフニコフ法(Bobrovnikoff法、B法)、彗星が均一な明るさに見える程度にピントをずらしてから明るさと大きさを憶え、基準星が同じ大きさに見えるまでぼかしてから覚えた彗星の明るさと比較するモーリス法(Morris法、M法)などの方法が用いられる。核光度も、全光度と同様に測定する。測定された彗星の光度は、観測者の熟練の程度やその日の体調、観測器材の状態、観測状況、基準星の明るさの誤差など、さまざまな要因により、観測者によって0.5等級以上ばらつく場合がほとんどである。また、CCDカメラなどで写真を撮影し、近くの基準星を用いて専用ソフトで明るさを測定することもできる。肉眼で見た光度(眼視光度)と、写真で測定した光度(写真光度)は数等級ずれることもある。 彗星の光度を正確に予測するのは非常に難しい。小惑星などの天体は通常、地球までの距離(地心距離)と太陽までの距離(日心距離)の2乗に反比例して明るくなるが、彗星の場合は太陽に近づくと塵やガスが噴出し、コマができたり尾が伸びたりするため、太陽までの距離の5乗から、場合によっては10乗以上に反比例して明るくなっていく。彗星の光度の予測には、一般に以下のような式(光度式)が使用される。 ここで、m は彗星の光度である。m0 は標準光度、または絶対光度と呼ばれ、彗星が太陽からも地球からも1天文単位の距離にある時の明るさを表す。また、Δ は地心距離、r は日心距離をそれぞれ天文単位で表したものである。また、k は光度係数と呼ばれる値で、この値が大きいと光度変化は激しくなり、小さいと光度変化は穏やかになる。観測期間が長くなり観測データが多数集まってくると、専用ソフトウェアなどを用い、最小二乗法などの方法で標準光度と光度係数を求めることができる。 発見からまもないなど、観測期間が短くデータも少ない場合は、光度係数を10と仮定して明るさを予測することが一般的である。標準光度は彗星の規模によって大きく違うが、光度係数は5.0から30程度の間に収まるものが大半である。しかし、核が分裂するなどの要因で活動が活発化し急激な増光(アウトバースト)が起こった場合は光度係数が100を越える場合もあるし、アウトバーストが終わるなどで活動が衰えた場合や核が崩壊して消滅していく場合などは、光度係数が大きく負の値を取る場合もある。ある1本の光度式に常によく当てはまる光度変化をする彗星もあるが、活動の規模が途中で変化すれば当てはまる標準光度や光度係数の値も変化する。しかし、いつどのように活動が変化するかを予測することは非常に難しい。何回か回帰している彗星は、以前の記録を基にある程度予測が可能だが、初出現の彗星についてはほぼ不可能である。また初出現の彗星は、しばらく観測しないとどんな光度式が当てはまるのかも分からない。彗星の光度予想が難しいと言われるのはこのような理由による。 彗星の軌道速度が速い場合、太陽系の内部に入ってきてそのまま太陽系の外部へ出ていく場合がある。大部分の非周期彗星がこの例にあたる。また、木星など太陽系内のほかの天体による重力的摂動によって加速され、太陽系の外へ放出される場合もある。 太陽への接近を繰り返すうちに徐々に揮発性の成分が脱落していくが、崩壊・消失に至ることなく小惑星のようになる場合があり、これを彗星・小惑星遷移天体や枯渇彗星核と呼ぶ。そのような過程を経たと思われる天体や、その過渡期にある天体もいくつか見つかっている。小惑星は彗星とは起源が異なり、太陽系の外側ではなく内側で形成されたと考えられているが、ヴィルト第2彗星からのサンプルリターンにより得られたサンプルが小惑星のものと似ていたことから、21世紀初頭では彗星と小惑星の境界はやや曖昧になっている。 もっとも早期に発見された周期彗星のひとつであるビエラ彗星(3D)は1846年の回帰時に2つに分裂し、次の回帰である1852年には双子の彗星となって現れたが、その後は二度と出現しなかった。その代わり、本来彗星が回帰するはずであった1872年と1885年に、1時間あたりの出現数が数万個にも達する壮大な流星雨が観測された。この流星群はアンドロメダ座流星群と呼ばれ、毎年11月5日前後に地球がビエラ彗星の軌道に突入するために起こる。21世紀初頭ではほとんど出現はないが、稀に突発的な1時間あたり数十個の出現が観測されることがある。ビエラ彗星以降も、太陽からの輻射熱や物理的作用により、分裂あるいは崩壊、消失した彗星は、多数観測されている。 彗星のさまざまな様相変化の予想は難しく、彗星核の崩壊や消失に関する理論的な研究はあまりなされていない。しかし、国立天文台の福島英雄らの観測・研究グループによれば、近日点通過前の彗星頭部の崩壊前にきわめて特異なコマ形状を共通して示していることや、光度観測により色指数(V-I)の変化が特異であることが報告された(2003年春季天文学会)。実際には彗星の頭部がY字やT字型からおむすびのような形に変化していき、集光も薄れ消失するのだという。このモデルに合致した彗星としては、たとえばSWAN彗星(C/2002 O6)が挙げられ、普通の彗星のコマと違い三角形の形状をしているという報告がなされた。また、ヘーニッヒ彗星(C/2002 O4)も同様な消滅過程だと報告された。また、2020年のアトラス彗星も3月下旬に分裂したと考えられる。分裂以前に考えられていた、月より明るい光度は、可能性としてはほぼ無に等しい。 彗星の中には、太陽に飛び込む、あるいは惑星やその他の天体に衝突するなど、より劇的な最後を迎えるものもある。彗星と惑星や衛星との衝突は太陽系の形成と進化の初期にはありふれた出来事だったと考えられている。たとえば地球の衛星である月の膨大なクレーターの一部は、彗星が衝突したことで形成されたと考えられている。 1993年に発見されたシューメーカー・レヴィ第9彗星は、1992年に木星に非常に接近した際にその重力に捕らえられ、木星の周りを回る軌道をとっていた。この接近ですでに彗星の核は分裂し、少なくとも21個の破片に分かれていた。そして分裂した核は1994年7月16日から7月22日までに相次いで木星の大気に突入、巨大な噴煙や衝突痕は地球からも観測された。2009年、2010年にも木星表面に彗星が衝突した痕跡らしきものが観測された。パリ天文台に残されているジョヴァンニ・カッシーニの観測記録によると、1690年にも木星に彗星が衝突した可能性が高い。さらに、2010年に土星と海王星の大気組成の分析が行われ、それぞれ約300年前と約200年前に彗星が衝突したことを示す結果が得られている。 地球にも約40億年前の後期重爆撃期には数多くの彗星や小惑星が衝突した。多くの科学者は、後期重爆撃期に地球に衝突した彗星によって、地球の海を満たしている膨大な量の水のほとんど、少なくともかなりの割合がもたらされたと考えている。しかし、その理論を疑う研究者もいる。彗星に含まれる有機分子を探すことで、彗星や隕石が生命の前駆物質、あるいは生命自体さえも運んできたのではないかと推測されてきた。 彗星の名前は、過去2世紀にわたって、いくつかの異なる慣習に従って決められてきた。系統的な慣習が採用されていなかった時代には、彗星の命名はさまざまな方法によってされていた。最初の周期彗星(1P)であるハレー彗星は、彗星の軌道を決定したエドモンド・ハレーの名前からとられた。同じように、2番目の周期彗星(2P)として知られているエンケ彗星は、最初の彗星の発見者ピエール・メシャンではなく、軌道を決定した天文学者であるヨハン・フランツ・エンケの名前がつけられている。クロンメリン彗星(27P)も、同様に軌道計算をしたアンドリュー・クロンメリンの名がつけられている。 18世紀末から20世紀初頭の明るい彗星の中には、3月の大彗星(Great March comet)などと名付けられたものもある。いくつかは単に大彗星(Great comet)で区別がつかないので、「1811年の大彗星」(トルストイの『戦争と平和』に登場する彗星)などとも呼ばれる。 20世紀初頭、彗星の命名として、発見者の名前をつけるという慣習が一般的になった。これは現在まで続いている。彗星にはその彗星を独立発見した人の名前が先着順で3名までつけられる。1990年代に入ると、人工衛星(IRASやSOHOなど)や、国際規模の彗星および小惑星の掃天プロジェクトチーム(LINEAR、NEATなど)による彗星の発見が相次ぐようになり、数多くの彗星に、これらの自動捜索プロジェクト名がつくようになった。たとえば、IRAS・荒貴・オルコック彗星は、赤外線衛星IRASと、日本のアマチュア天文家の荒貴源一、イギリスのジョージ・オルコックによって、独立に発見された。現在では、自動捜索プロジェクト名でない彗星のほうが少ない。 同じ発見者が複数の彗星を発見しても、名前で区別はされない。そのため、たとえば「SOHO彗星」という名前の彗星は1,000を超える。彗星を一意に示すには、後述する符号を使う必要がある。ただし、- 第1彗星、- 第2彗星などを末尾につけて区別することもある。 また、過去に出現した彗星が再発見された場合、彗星自体の発見が公表されたあとに過去の彗星と同定された場合には過去の彗星の名に再発見者の名前がつけられることもある。例としては、バーナード・ボアッティーニ彗星(206P = D/1892 T1 = P/2008 T3)などがある。なお、発見の公表前に過去の彗星と同定された場合には再発見者の名前はつかない。例としては、2008年に板垣公一と金田宏が再発見し、発見の公表前に同定されたジャコビニ彗星 (205P = D/1896 R2)(前述のようにジャコビニ彗星の名のある彗星は10個あり、そのうちのひとつ)がある。 なお、キロン(95P/2060)など少数の彗星が、小惑星として発見され、小惑星の命名規則に基づいて命名されたあとに彗星であることが判明している。逆に見失われていた彗星が小惑星として再発見された例もあり、彗星としての名前のまま小惑星としても登録されている(彗星・小惑星遷移天体を参照)。 1994年までの彗星の系統的な符号のつけ方としては、まず最初にその彗星が発見された年と、その年内の発見順を示す文字からなる仮符号が与えられた。たとえばベネット彗星の仮符号は「1969i」で、1969年の9番目に発見された彗星であることを意味する。彗星の軌道が確定すると、彗星には、近日点通過の年とローマ数字からなる確定符号が与えられた。ベネット彗星の確定符号は「1970 II」となる。確定符号は、日本語に訳して、1970年第2彗星などとも呼んだ。確定符号がつくと、仮符号は使われなくなった。 彗星の発見数が増加してくると、この方法の運用に綻びが生じてきた。観測技術の進歩により1年の発見数が25を超え、仮符号に使うアルファベットが足りなくなり、また近日点通過から1年以上経って発見されるものも出てきて、確定符号の近日点通過順という原則も崩れてきた。そこで1994年に国際天文学連合は新しい命名方法を採用し、1995年から実施された。 符号は発見が報告された年、月、発見報告順を元にしてつけられる。たとえば、ヘール・ボップ彗星の場合は「C/1995 O1」(シー/1995 オー1)と記載される。 なお、従来は発見者が発見した順に「テンペル第1彗星」「ヴィルト第2彗星」というように番号(接尾数字)がつけられていた(接尾数字と、公式通し番号の順とは一致しない)が、1995年頭より新発見の彗星には接尾数字がつけられなくなり、2000年には過去の彗星からも接尾数字が廃止された。 望遠鏡が発明される以前、彗星は夜空の何もないところから突然現れ、ゆっくりと消えていくように観測された。そのため、流星群や日食と同様に、君主の死や国の滅亡、災害、疫病といった出来事を予告する凶兆と信じられ、果ては地球の住人に対する天からの攻撃であると解釈されることすらあり、人々はその出現を恐れた。 世界各地で古代より彗星についての記録が残っている。紀元前2320年のバビロニアや、『ギルガメシュ叙事詩』、『ヨハネの黙示録』、『エノク書』といった書物で「落ちる星」として言及されているが、これらは彗星もしくは火球について言及したものだと解釈されている。中国では特に多くの記録が残っており、紀元前よりハレー彗星の回帰が4度記録されている。紀元前1059年ごろ、殷代末期の甲骨文に彗星と思われる記述が残されているが、確実な最古と言える記録は紀元前613年の『春秋』に記されたものとされている。ほか紀元前240年、秦の始皇帝がハレー彗星を見たとする記録が『史記』に残されている。ヨーロッパでは彗星は気象現象の一種だと考えられていたため、古い記録は中国ほど多くはないが、有名な例として1066年、イングランド王国のハロルド2世が即位して間もない頃に「火の星」が現れ、従臣たちを怯えさせたことが『アングロサクソン年代記』やバイユーのタペストリーに記録されており、その直後に戦役が発生、王は戦死し国は征服された。日本では、684年のハレー彗星の回帰に関する記述が『日本書紀』にみられる。13世紀に災厄が多発した際には、末法の時代に現れるという「星宿変怪難」として恐れられた。 アリストテレスは、彼が著した最初の気象学の本『気象論』(Meteorologica)で彗星に対する見解を示し、それが西洋の思想を2000年近くにわたって支配することになった。彼は、彗星は惑星であるか少なくとも惑星に関係する現象であるという、それまでの学者の説を否定し天文現象ではなく気象現象と考えた。その根拠は、惑星の動く範囲は黄道帯の中に限られるが、彗星は空のあらゆるところに現れるというものであった。その代わり、彼は彗星を大気の上層部で起こる現象だととらえ、そこは温度が高く、乾いた蒸気が集まり時々勢いよく炎が燃え上がるのだと考えた。彼はこの仕組みは彗星だけでなく、流星や、オーロラ、そして天の川の成因にさえなっていると考えた。 その後、この彗星に対する見方に反論する古代の学者が少数だがいた。ルキウス・アンナエウス・セネカは、彼の著書『自然研究』(Quaestiones naturales)において、彗星は空を規則的に動き、風に邪魔されることがなく、大気中の現象よりは天体に典型的な運動をすることを述べていた。彼はほかの惑星が黄道帯の外に現れることがないことを認めつつも、天球上のものに関する人間の知識は限られているため、惑星のような物体が空のあらゆるところに現れる可能性を否定する理由はないとした。しかし、アリストテレスの立場のほうが影響力が大きく、彗星が地球の大気圏外にあるということが証明されたのは16世紀のことであった。 1577年に明るい彗星が現れ、数か月間肉眼で観察できた。デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、彗星に測定可能な視差がないことを確かめるため、彗星の位置を自分で測定するとともに、遠く離れた場所の観測者にも測定させた。正確な測定をしたところ、その測定結果は、彗星が少なくとも月より4倍以上遠くにあるということを示していた。 18世紀にもなると、多くの天文学者たちが彗星の発見と研究を競ったが、中には彗星と紛らわしい天体があることも知られるようになった。1764年にロンドン王立協会の外国人会員になったフランスのシャルル・メシエは、自らも彗星の捜索を行うかたわら、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口していた。そこでメシエは彗星ではない天体のリストを作り始めた。これが天体カタログの『メシエカタログ』である。メシエ自身も1760年に最初の彗星を発見している(C/1760 B)。 彗星が宇宙空間にあるということは証明されたが、彗星がどうやって空を移動しているのかという疑問は、その後、数世紀にわたって議論の中心になるように思われた。ヨハネス・ケプラーが1609年に、惑星の軌道は楕円軌道であると決着をつけたあとでさえ、彼は惑星の運動を支配している法則(ケプラーの法則)がほかの天体にも影響を与えていると信じるのを躊躇した。彼は彗星は惑星の間を直線軌道で運行していると信じていた。ガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスの擁護者であったにもかかわらず、ティコによる彗星の視差の測定結果を受け入れず、彗星は地球大気の上層を直線状に動くというアリストテレスの考えを支持し続けた。ただし、ケプラーの師ミヒャエル・メストリンは彗星の軌道が直線からわずかにずれることを観測で確認しており、ケプラーも自身の説を発表するにあたって師のデータを改竄せず、その理由について「地球の運動のため」との(誤った)考察を与えている。 ケプラーの惑星の運動の法則が彗星にも適用されるべきだと初めて提案したのはウィリアム・ローワーで、1610年のことであった。その後、数十年間、ピエール・プティ、ジョヴァンニ・ボレリ、アドリアン・オーズー、ロバート・フック、そしてジョヴァンニ・カッシーニなどを含むほかの天文学者たちは、彗星は太陽の周りを曲線状の軌道、楕円軌道か放物線軌道を描いて運行しているという説を唱えたが、その一方、クリスティアーン・ホイヘンスやヨハネス・ヘヴェリウスは、彗星は直線運動をしているという説を支持した。 この問題は、1680年11月14日にゴットフリート・キルヒが発見したキルヒ彗星によって解決された。ヨーロッパのいたるところで、天文学者たちはこの彗星の位置を観測し続けた。1687年、アイザック・ニュートンは彼の著書『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)において、万有引力の逆2乗の法則の影響下で運動する物体は、軌道の形が円錐曲線の一種になるということを証明し、天空における彗星の運動が放物線軌道とどのように適合するかを、1680年の彗星を例にして具体的に説明した。 1705年、エドモンド・ハレーは、1337年から1698年までの24個の彗星の出現に対して、ニュートンの手法を応用した。するとハレーは、1531年、1607年、1682年に現れた3つの彗星の軌道要素が、きわめて似通っていることに気づいた。しかも、軌道要素のわずかな違いは、木星と土星による重力的な摂動によって説明することができた。彼はこの3つの彗星の出現は、同じ彗星が3回出現したものだと確信し、この彗星は1758年か1759年に再び戻ってくるだろうと予言した(ハレー以前に、ロバート・フックがすでに1664年に出現した彗星と1618年の彗星を同定し、また同じころカッシーニも1577年、1665年、1680年の彗星は同じものではないかと推測していたが、これらはどちらも間違っていた)。ハレーが予言した彗星の戻ってくる期日は、のちに3人のフランスの数学者によって改良された。アレクシス・クレロー、ジェローム・ラランド、ニコル=レーヌ・ルポートである。彼らは彗星の1759年の近日点通過日時を1か月以内の誤差で予言した。彗星は予言通りに回帰し、その彗星はハレー彗星として知られることとなった(公式な符号は1P/Halley)。 短い周期を持ち、歴史上の記録に何度も登場するような彗星の中で、ハレー彗星はどの出現でも肉眼で見えるほどの明るさになったという点で特異である。ハレー彗星の出現の周期性が確立して以降、数多くの周期彗星が望遠鏡を使って発見されてきた。2番目に発見された周期彗星はエンケ彗星(公式な符号は2P/Encke)である。1819年から1821年までの期間中、ドイツの数学者・物理学者のヨハン・フランツ・エンケは、1786年、1795年、1805年、1818年に観測された一連の彗星の出現から軌道を計算し、これらは同一の彗星であるという結論を下し、1822年の出現を予言するのに成功した。1900年までに、17個の彗星について1回以上の近日点通過が観測され、周期彗星として確認された。2010年までに、240個以上の彗星について周期彗星としての識別に成功しているが、そのうちのいくつかは消滅したり見失われたりしている。 アイザック・ニュートンは、彗星を固く締まった頑丈な固体だとした。つまり非常に長い楕円軌道を描き、その軌道と方向がかなり自由な惑星の一種であって、その尾は、太陽熱で着火または加熱された頭部、つまり彗星の核から放出された非常に希薄な蒸気だと考えていたのである。また、ニュートンにとっては彗星は、惑星の水分と湿気を維持するために不可欠なものだと思われた。つまり、彗星の蒸気と放出ガスが凝縮したものから、植物が生まれ腐敗し乾燥した土になるために使われるすべての水分が再供給、補充されるとした。ニュートンは、すべての植物は液体から増え、それが腐敗して土になると考えていたためである。だとすると乾いた土の量は絶えず増加するため、その惑星の水分は絶えず供給されていない限り絶えず減っていき、ついにはなくなるはずだと考えたのである。ニュートンは、われわれの空気のもっとも精妙で最上の部分を構成する、生命とすべての存在に絶対不可欠な精気が、彗星によってもたらされるのではないかと考えた。また、彼の推測によると、彗星は太陽に新しい燃料を補充しており、その発光体からすべての方向に絶えず送られる流れによって太陽の光を回復させているとした。 「巨いなる沸き立つ尾より振るえてはあまたの珠玉に潤いを甦らせるその長き楕円の風の吹くところ傾く太陽に新たな燃料を与える星界を照らすがため天空の火を養う」 18世紀以前に、彗星の物理的構造について正しい仮説を立てていた科学者もいた。1755年、イマヌエル・カントは、彗星は揮発性の物質で構成されており、それが蒸発することが原因で近日点付近で彗星が明るくなるのだという仮説を立てた。1836年には、ドイツの数学者フリードリッヒ・ベッセルが、1835年のハレー彗星の回帰で蒸気の流れを観察したことから、彗星から蒸発した物質の反動は、彗星の軌道に大きな影響を与えるのに十分なほど大きい可能性があると指摘し、エンケ彗星の非重力的な運動はこの仕組みによるという説を唱えた。 しかし、彗星に関連したほかの発見により、1世紀近くこれらの説はほとんど忘れ去られていた。1864年から1866年の期間中、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリはペルセウス座流星群の軌道を計算し、軌道の類似性から、スイフト・タットル彗星の塵がペルセウス座流星群の原因であるという仮説を立てた。彗星と流星群との関連は、1872年に劇的な形で示されることとなった。ビエラ彗星を原因とする、激しい流星群の活動が観察されたのである。ビエラ彗星は、1846年の回帰で2つに分裂したのが観察され、次の1852年の回帰以降はまったく観測されなくなっていた彗星である。これを基にして、彗星は表面を覆う氷の層と、緩く堆積した小さな岩石のような物体から構成されているとする、彗星の構成の「砂利の堆積」モデルが現れた。 20世紀半ばまで、このモデルは数々の欠点に悩まされてきた。特に、わずかな氷しか含んでいない物体が、何回かの近日点通過を経たあとも蒸気が蒸発することで明るく見え続けるということがなぜ可能なのかを説明できなかった。1950年、フレッド・ホイップルが、「彗星は氷と塵からなる」という「汚れた雪玉」を提唱した。岩石主体の天体にわずかに氷が混じっているのではなく、氷が主体の天体に塵や岩石が混じっているというのである。この「汚れた雪球」モデルはすぐに受け入れられた。 アメリカ航空宇宙局(NASA)の打ち上げたISEE-3は、当初のミッションを終えたあとにICEと改名されて地球の重力圏を離れ、1985年にジャコビニ・ツィナー彗星に接近し、彗星への近接探査を行った最初の宇宙探査機となった。翌1986年には、日本の宇宙科学研究所(ISAS)、欧州宇宙機関(ESA)、ソ連・東欧宇宙連合(IKI)が打ち上げた計5機の探査機にICEを加えた6機、通称ハレー艦隊が連携してハレー彗星の核を観測した。ESAのジオットが核を撮影したところ、蒸発する物質の流れが観測され、ハレー彗星は氷と塵の集まりであることが確かめられ、ホイップルの説が実証された。ジオットは1992年にもグリッグ・シェレルップ彗星に接近、観測を行った。 1998年に打ち上げられたNASAの工学実験探査機ディープ・スペース1号は、2001年7月21日にボレリー彗星の核に接近して詳細な写真を撮影し、ハレー彗星の特徴はほかの彗星にも同様に当てはまることを立証した。 その後の宇宙飛行ミッションは、彗星を構成している物質についての詳細を明らかにすることを目標に進められている。1999年2月7日に打ち上げられた探査機スターダストは、2004年1月2日にはヴィルト第2彗星に接近して核を撮影するとともにコマの粒子を採取し、2006年1月15日に標本を入れたカプセルを地球に投下した。標本の分析により、彗星を構成する主要元素の構成比から、彗星は太陽や惑星などの原材料物質であることを示すとともに、高温下で形成されるカンラン石などが発見された。高温下で形成される物質は従来の説で彗星が生まれたとされる領域で形成されたとは考えにくく、太陽に近い場所で形成された物質が彗星が形成された太陽系外縁部まで運ばれてきた可能性や、従来の説よりも彗星が形成された場所が太陽に近い場所であった可能性など、彗星の形成理論の再構築が必要となる可能性がある。 2005年1月12日に打ち上げられた探査機ディープ・インパクトは、同年7月4日に、核内部の構造の研究のためにテンペル第1彗星にインパクターを衝突させた。この結果、短周期彗星であるテンペル第1彗星の成分は長周期彗星のものとほぼ同じであることが判明した。さらに、塵の量が氷よりも多かったことから、彗星の核は「汚れた雪玉」というよりも「凍った泥団子」であると見られている。またテンペル第1彗星の内部物質からも、かつて高温下の条件を経験したと考えられる物質が検出されたため、ヴィルト第2彗星からの物質とともに彗星の形成理論や太陽系初期の状況を考える上で貴重な情報となった。 望遠鏡がなかった時代、彗星の発見はもっぱら肉眼によるものであった。1608年に望遠鏡が発明されると、それによって、肉眼では見えないような暗い彗星を発見することができるようになった。やがて、望遠鏡や双眼鏡を駆使して、彗星の捜索を精力的に行う、コメットハンター(comet hunter)と呼ばれる天文家が現れた。 後述のような自動探査プロジェクトが、電子機器の発達などによって、技術的に可能になった20世紀最末期に至るまで、彗星や小惑星の新発見はこうしたアマチュア天文家に深く依存していた。 20世紀以降に活躍したものを挙げる。より詳細や過去のコメットハンターについては当該項目を参照のこと。 1990年代後半になると、このような状況に劇的な変化が生じた。LINEARやNEATなどといった地球近傍小惑星の強力な自動捜索プロジェクトが相次いで始動し、冷却CCDカメラによって18等や20等などといったきわめて暗い彗星が根こそぎ発見されるようになったのである。北半球で太陽から比較的離れた区域の空は自動捜索プロジェクトによってほとんどの彗星が発見されるようになり、アマチュア天文家などが彗星を発見することは非常に困難になった。また、1996年には太陽観測衛星SOHOが観測を始め、その副産物として、クロイツ群に属する彗星がきわめて多数発見されるようになった。 地球近傍天体捜索プロジェクトなど。以下のプロジェクト名の中には定訳がないものもあるのに注意。 毎年数百個の小彗星が太陽系の内側を通過していくが、そのうち世間一般の話題となるような彗星はきわめて少数である。大体10年に1個前後、あまり夜空に関心がない人でも気づくほど明るくなるような彗星が現れる。そのような彗星はよく大彗星と呼ばれる。 過去には、明るい彗星はしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられた。20世紀に入ってからも、ハレー彗星の1910年の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まった。 この当時、すでにスペクトル分析によって(先述の通り)彗星の尾には猛毒の青酸が含まれていることが知られており、また天文学者でSF作家でもあったカミーユ・フラマリオンは、尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表した。これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾ひれがついて一般人がパニックに陥ったと言われる。日本では、空気がなくなっても大丈夫なようにと、自転車のタイヤのチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きたとされているが、世界の終わりを信じた人はごく一部だったと受け取れるような記録もある(いずれにせよ、実際には彗星の尾は地球の大気に影響を及ぼすにはあまりに希薄だった)。 その後も、1990年にはオウム真理教の麻原彰晃がオースチン彗星(C/1989 X1)の地球接近によって天変地異が起ると喧伝したり(石垣島セミナー)、1997年のヘール・ボップ彗星(C/1995 O1)の出現時にはカルト団体ヘヴンズ・ゲートが集団自殺事件を起こした。しかし、ほとんどの人にとっては、大彗星の出現は単に素晴らしい天体ショーである。 さまざまな要素により、彗星の明るさは予測から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予測するのは難しいということはよく知られている。大まかに言うと、もし彗星の核が大きく活発で、太陽の近くを通る軌道で、もっとも明るいときに地球から見て太陽により不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高い。しかし1973年のコホーテク彗星 (C/1973 E1) は、これらすべての条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにもかかわらず、実際はあまり明るくならなかった。その3年後に現れたウェスト彗星(C/1975 V1)は、ほとんど期待されていなかった(コホーテク彗星の予報が大きく外れたあとだったため、科学者が慎重になっていた可能性もある)が、実際は非常に印象的な大彗星となった。 20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間があったが、20世紀も終わりに近づいたころ、2つの彗星が相次いで大彗星となった。1996年に発見され明るくなった百武彗星 (C/1996 B2) と、1995年に発見され、1997年に最大光度となったヘール・ボップ彗星である。21世紀初頭には大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入った。2001年に発見されたNEAT彗星 (C/2001 Q4) と2002年に発見されたLINEAR彗星 (C/2002 T7) である。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはならなかった。2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過したマックノート彗星 (C/2006 P1) は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となった。近日点通過後は南半球でのみ観測されたが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せた。 知られている数千もの彗星の中には、とても変わったものもある。エンケ彗星は木星の内側から水星の内側にまで入る軌道を回っているし、シュワスマン・ワハマン第1彗星(29P)は木星と土星の軌道の間に収まった軌道を回っている。土星と天王星の間を不安定な軌道で回っているキロンは、最初は小惑星に分類されていたが、のちに希薄なコマが発見されたため、現在では彗星と小惑星の両方に分類されている。同様に、シューメーカー・レヴィ第2彗星(137P)も小惑星1990 UL3として発見された。近日点、遠日点がともに小惑星帯内にある彗星も複数見つかっており、メインベルト彗星と呼ばれている。 上記のキロンやシューメーカー・レヴィ第2彗星のように、最初は小惑星として発見された天体がのちに彗星だと判明する例が20世紀末以降は増えている。逆に、発見時はわずかながらコマや尾が観測されたが、のちの回帰の際は尾がまったく見られなくなっているアラン・リゴー彗星(49P)やウィルソン・ハリントン彗星(107P/4015)、彗星としての活動が観測されたことはまったくないが、流星群の母天体となっている小惑星ファエトンやオルヤトなどのような例もあり、これらは揮発成分を使い果たした枯渇彗星核だと見られている。その他の小惑星や、惑星の衛星の中にも、軌道や成分などから元は彗星だったと考えられるものがある。 彗星によっては、短時間の間に急激な増光(アウトバースト)を起こすことがある。特にホームズ彗星が2007年10月下旬に起こした大増光は印象深い。2日足らずの間に17等から2等級まで(約40万倍)明るくなり、肉眼でも「明るい星」として容易に見ることができた。その後、この増光で放出されたと思われるダストが球状に広がり、その直径は太陽よりも大きく広がった。ホームズ彗星は一時的に太陽系最大の天体となったのである。1986年に接近したハレー彗星も、後に突然増光が確認されている。これもアウトバーストが原因ではないかと言われている。 記録に残されたもの、残されていないもの問わず、多くの彗星の核が分裂するのが観測されてきた。1846年の回帰の際に2つに分裂し、のちに流星群だけを残して消滅したビエラ彗星(参照)が有名な例である。また、シュワスマン・ワハマン第3彗星(73P)は1995年の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂(いくつかは消滅)して2006年には30個以上の破片になっていた。このほかにもウェスト彗星、池谷・関彗星、ブルックス第2彗星(16P)など、彗星核の分裂が観測された彗星は数多い。 崩壊・消滅した彗星としては、1994年7月に木星に衝突したシューメーカー・レヴィ第9彗星も有名である(参照)。 1908年のツングースカ大爆発はエンケ彗星の破片が地球に衝突したのではないかとする仮説がある。隕石の落下によって生じるクレーターがまったく見られなかったことから、大気圏に突入した彗星の破片が上空で爆発、蒸発したことによって甚大な被害を及ぼしたのではという見解がある。 1979年、かつての大彗星から分裂したクロイツ群の彗星が太陽面に接近し、蒸発、雲散霧消する姿が太陽観測衛星P78-1のコロナグラフ:SOLWIND(ソルウィンド)によって観測された。この彗星(C/1979 Q1)は観測した天文学者らの名前からハワード・クーメン・ミッチェル彗星と命名されたが、同衛星がその後も彗星を発見したためソルウィンド第1彗星として広まる。このような事例は数多く起こっており、1995年に打ち上げられた太陽探査機SOHOは、毎年数十個の彗星が太陽に突入するのを観測している。十分に大きな彗星は、近日点通過後も生き延びるという予測があったが、初の事例となったのは2011年のラヴジョイ彗星 (C/2011 W3)である。 彗星自体が変わった性質を持っているものも多い。1961年に観測されたヒューメイソン彗星(C/1961 R1)は、近日点が約2天文単位と遠かったため、それほど明るい彗星ではなかったが、観測ではダストの尾がほとんど見られず、大部分がイオンの尾で構成されていたことが報告されている。また核の直径自体もおよそ30キロと、当時としてはかなり大きい部類に入る彗星でもあった。 彗星はSF作家や映画製作者には人気のある題材であるが、氷の天体と言うよりも燃えている天体のように誤って描写されることも多い。フィクションの中のハレー彗星については、「ハレー彗星」の項を参照。 また、彗星が地球へ衝突する(または衝突しそうになる)という状況を描いた作品も多数存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "彗星(すいせい、英語: comet)は、太陽系小天体のうち、おもに氷や固体微粒子でできており、太陽に近づいた際に一時的な大気であるコマや、コマの物質である塵やガス、イオンの尾(テイル)を生じるものを指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "彗星は、尾が伸びた姿から日本語では箒星(ほうきぼし、彗星、帚星)とも呼ばれる。英語ではコメット(comet)と呼ばれる。天体写真が似るため流星と混同されがちであるが、天体観望における見かけの移動速度は大きく異なり、肉眼による彗星の見かけ移動は日周運動にほぼ等しいため、流星と違い尾を引いたまま天空に留まって見える。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "小惑星が太陽からおおよそ3AU(天文単位)以内の距離に近づいてから、コマや尾が観測され彗星として観測される。その位置は火星軌道と木星軌道のほぼ中間にあたる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "太陽に近づく周期(公転周期)は、約3年から数百万年以上まで大きな幅があり、中には二度と近づかないものもある。軌道による分類の節を参照のこと。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "彗星が太陽に近づくと熱で氷が溶け、表面から放出されたガスや微粒子が太陽の光に反射し光って見える。流星の元となる塵の供給源となっている。彗星の中には肉眼でもはっきり見えるほど明るくなるものもあり、数日間~数か月ほど観察できる期間がある、尾の形や大きさが様々であることなどから視認しやすく、古くから観察の対象とされ不吉なことの前兆と考えられるなど、人類の関心の的となってきた。いくつかの明るい彗星の出現の記録は古文献や壁画などに残るほど古代から残されているが、ほとんどの周期が数十年以上であるために、周期的に観察されていることに気づかれたのは「彗星観察の歴史」からすれば最近であると言える。古代ギリシアの時代から長い間、彗星は大気圏内の現象だと考えられてきたが、16世紀になって、宇宙空間にあることが証明された。彗星の性質などにはいまだに不明な点も多く、また近年は太陽系生成論の方面からも大きな関心が寄せられ、彗星の核に探査機が送り込まれるなど、研究・観測が活発に続けられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "彗星には、発見報告順に最大3人まで発見者(個人またはチーム、プロジェクト)の名前がつけられる。彗星を熱心に捜索する「コメットハンター」と呼ばれる天文家もいるが、20世紀末以降は多くの彗星が自動捜索プロジェクトによって発見されるようになっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合(IAU)総会での決議により、彗星は小惑星とともに small solar system bodies(SSSB)のカテゴリーに包括することが決定された。これを受け、日本学術会議は2007年4月9日の対外報告(第一報告)において、2007年現在使われている「彗星」「小惑星」などの用語との関係については将来的に整理されることを前提としたうえで、small solar system bodies の訳語として「太陽系小天体」の使用を推奨した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "彗星の本体は核と呼ばれる。核は純粋な氷ではなく、岩石質および有機質の塵を含んでいる。このことから、彗星の核はよく「汚れた雪玉」に例えられる。核の標準的な直径は1 - 10キロ程度で、小さく暗いものでは数十メートル、非常に大きいものでは稀に50キロほどに達する。質量は、大きさによってかなり異なってくるが、直径1キロ程度の彗星で数十億トン単位、10キロ程度の彗星で数兆トン単位であると考えられる。これは、地球の山1つ分ほどに相当する。自らの重力で球形になるには質量が足りないため、彗星の核は不規則な形をしている。", "title": "物理的特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "氷の構成成分を分子数で見ると、たとえばハレー彗星の場合、80%近くは水(H2O)で、以下量の多い順に一酸化炭素(CO)、二酸化炭素(CO2)、アンモニア(NH3)、メタン(CH4)と続き、微量成分としてメタノール(CH3OH)、シアン化水素(HCN)、ホルムアルデヒド(CH2O)、エタノール(C2H5OH)、エタン(C2H6)などが含まれる。さらに鎖の長い炭化水素やアミノ酸などのより複雑な分子が含まれる可能性もある。双眼鏡や望遠鏡で見たときに青緑色に見えるのは、これらの微量成分が太陽光で解離してできるC2(炭素が2つつながったもの)やCNなどのラジカルの輝線スペクトルが強いためである。2009年には、NASAの探査機スターダストによるミッションで回収された彗星の塵から、アミノ酸のグリシンが発見されたことが確認された。", "title": "物理的特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "塵の成分はケイ酸塩や有機物を始めとする炭素質である。ケイ酸塩は結晶質と非晶質の両方を含む。通常、ケイ酸塩が結晶化するには数百度の高温が必要であり、彗星は、低温でできる氷と高温でできるケイ酸塩結晶が混じり合っている点で珍しい。", "title": "物理的特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "彗星の核は、太陽系に存在する物体の中でもっとも黒い天体である。探査機ジオットは1986年にハレー彗星の核に接近し、核の光のアルベド(反射能)が4%しかないことを発見した。また探査機ディープ・スペース1号も2001年にボレリー彗星に接近して観測を行い、核の表面のアルベドが2.4%から3%程度しかないことを発見した。これは、月やアスファルトの光のアルベドが7%なのと比較するとかなり小さい値である。複雑な有機化合物がこのような暗い表面を構成していると考えられている。太陽によって表面が熱せられると揮発性の化合物が、特に黒っぽい傾向のある長鎖の化合物を残して蒸発して飛び去ってしまい、石炭や原油のように黒くなる。彗星の表面が非常に黒いため、熱を吸収して外層のガスが流出する。", "title": "物理的特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "太陽から遠いところでは、低温のため核はすべて凍りついており、地球上から見てもただの恒星状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。それにともなって発生したガスや塵は非常に大きく、きわめて希薄な大気となって核の周りを球状に覆う。これはコマと呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。コマの最外層は水素のガス雲となっており、水素コロナと呼ばれる。", "title": "物理的特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "そして、太陽からの放射圧と太陽風により、太陽と反対側の方向に尾が形成される。尾には、ダストテイル(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、イオンテイル(イオンの尾)またはプラズマテイルという、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる。これには、核から放出された塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けていたりするためなどの理由がある。2007年のマックノート彗星や歴史上の大彗星のいくつかでは、何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えた。これに対しイオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、尾の一部が見かけ上太陽の方向に伸びているように見えることがあり、アンチテイルと呼ばれる(アラン・ローラン彗星(C/1956 R1)のアンチテイルは殊に有名である)。実際には太陽に向かって尾が伸びているわけではなく、あくまでも視覚上の錯覚である。アンチテイルの観測は太陽風の発見に大きく貢献した。", "title": "物理的特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "コマや尾は、核に比べて非常に規模が大きくなる。コマは水素コロナを含めると、時には太陽(直径約139万キロ)よりも大きくなることがある。また、尾も1天文単位以上の長さになることがある。1996年春に明るくなり、観測史上もっとも尾が長く伸びた百武彗星では、尾の実長は実に3.8天文単位(5億7,000万キロ)にも達した。コマと尾はどちらも太陽に照らされ、太陽系の内側に入り込んでくると地球から肉眼で見えるようになることもある。塵は太陽の光を直接反射し、ガスはイオン化されるため明るく輝く。ほとんどの彗星は暗すぎて望遠鏡がなければ見ることができないが、10年に数個ほどは、肉眼でも充分見えるほどに明るくなる。", "title": "物理的特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1996年、百武彗星の観測から彗星がX線を放射していることが初めて観測された。彗星がX線を放射していることはそれまで予測されていなかったため、この発見は研究者たちを驚かせた。このX線は彗星コマと太陽風との相互作用により生じると考えられている。イオンが急速に彗星の大気に突入すると、イオンと彗星の原子や分子が衝突する。この衝突により、イオンは1つか複数の電子を捕獲し、それがX線や遠紫外線の光子の放出につながると考えられている。", "title": "物理的特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "彗星は、太陽を焦点のひとつとする楕円、放物線あるいは双曲線の軌道をとり、軌道によって分類される。離心率が1より小さい楕円軌道を持つ彗星は、太陽を周期的に周回するもので、周期彗星と呼ばれる。周期彗星が太陽の近くへ戻ってくることを「回帰」という。離心率が1である放物線軌道、あるいは離心率が1より大きい双曲線軌道を持つ彗星は、二度と戻ってこないと考えられ、非周期彗星と呼ばれる。", "title": "軌道による分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ただ、惑星や近傍恒星の重力や、非重力効果により、実際の彗星の軌道は不安定である。特に、周期数百年以上の彗星の楕円軌道は、わずかな軌道の変化で周期が大きく変わるため、周期どおりに戻ってくるとは限らない。また後述する通り、起源や特性からも、周期の長い周期彗星は非周期彗星に近い。このような理由により、彗星を、周期彗星と非周期彗星ではなく、公転周期200年未満の短周期彗星と、200年以上の長周期彗星に分けることが多い。その場合、「周期彗星」という言葉は、短周期彗星と長周期彗星の両方を指す場合もあるが、特に短周期彗星のみを指して用いられる場合もある。周期彗星、長周期彗星、非周期彗星の3つに分けることもある。", "title": "軌道による分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "21世紀初頭では別の種類として、小惑星帯上にありながら彗星として活動する彗星が発見されており、メインベルト彗星と呼ばれている。これは小惑星と彗星の分類に見直しを迫ることになるかもしれない。ほかにも、特徴的な軌道を持つ彗星として、近日点が太陽にきわめて近いサングレーザーがある(後述)。", "title": "軌道による分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "短周期彗星はエッジワース・カイパーベルト、またはそれに隣接する散乱円盤天体を起源に持つと考えられ、ハレー彗星以外に大型の彗星は少ない。一方、長周期彗星の起源はオールトの雲にあると考えられ、大彗星になるものが多い。特に、以前の観測記録がない大型の彗星は、太陽系の起源を知る上で重要な手がかりとなると考えられている。", "title": "軌道の特徴と起源" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多い(軌道の離心率の値が大きい)。彗星がなぜ極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、さまざまな説が提唱されてきた。有名なものとして、銀河系の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲を含む太陽系外縁天体の軌道がかき乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説や、ネメシスという太陽の連星、あるいは未知の惑星Xの存在を仮定して、その重力的影響によるものだとする説などがある。", "title": "軌道の特徴と起源" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1950年、天文学者のヤン・オールトは、長周期彗星の軌道計算を行い、遠日点が太陽から1万天文単位 - 10万天文単位(約0.1光年 - 1光年)の距離のものが多いことを発見した。そこでオールトは、小天体が多く集まるオールトの雲と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱した。この仮説は広く受け入れられ、それ以後彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになった。オールトの雲に存在する天体は、ときどきお互いに重力的相互作用(摂動)を起こし、一部が太陽の引力にとらえられて極端な楕円軌道を描くようになり、太陽に非常に接近するようになる。", "title": "軌道の特徴と起源" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "オールトの雲とエッジワース・カイパーベルトはいずれも、太陽系の形成と進化の過程において原始惑星系円盤で形成された微惑星、または微惑星が集まった原始惑星が残っていると考えられている領域である。太陽から3AU以遠では比較的凝固点の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回るため、微惑星の主成分は氷になる。オールトの雲は、主として木星や土星が形成される付近の軌道にあった氷小天体が、形成後の木星や土星に弾き飛ばされたものと考えられ、太陽系を球殻状に取り巻いている。エッジワース・カイパーベルトは太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものと考えられており、黄道面を取り巻くようにして環状に広がっている。したがって、オールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられている。", "title": "軌道の特徴と起源" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2009年11月の時点までで、3,648個の彗星が知られており、そのうち約1,500個がクロイツ群の彗星、約400個が短周期彗星である。この数は増え続けているが、本当に存在するはずの彗星のうちのごく一部である。太陽系外部に存在する彗星の元になる天体はおよそ1兆個存在するかもしれない。地上から肉眼で見えるようになる彗星の数はおおまかには1年に1個程度だが、その大部分は暗く目立たない。歴史上、非常に明るく肉眼でもはっきり見え、多くの人に目撃されたような彗星は大彗星と呼ばれることがある。", "title": "軌道の特徴と起源" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "彗星は質量が小さく、軌道が楕円であるため、周期的に巨大な惑星に接近し、その度に彗星の軌道は摂動を受け変わる。短周期彗星は、遠日点までの距離が、巨大な惑星の軌道半径と同じになるような強い傾向が見られる。これらはその惑星の名を取って木星族、土星族、天王星族、海王星族の彗星などと呼ばれる。その中でも、木星の軌道付近に遠日点を持つ木星族の彗星が特に多い。オールトの雲からやってきた彗星は、しばしば巨大な惑星に接近し、重力の強い影響を受ける。特に木星は、ほかの惑星をすべて合計したより2倍以上大きな質量を持っているため、非常に大きな摂動を彗星に与える。なお、もし木星や土星のような巨大惑星がなければ、現実より多くの彗星が太陽系中心部に侵入し、一部は地球と衝突していただろうという説がある(惑星の居住可能性#グッド・ジュピターも参照)。", "title": "軌道の特徴と起源" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、重力的な相互作用により軌道が変わったため、過去数十年や数世紀の間に発見された周期彗星のうち、その彗星が将来どこに現れるか予測できるほどよく軌道が定まっていなかったいくつかが見失われている。しかし時折、「新」彗星の過去の軌道をさかのぼることにより、古い「見失われた」彗星と同一だと判明することがある。その例として、テンペル・スイフト・LINEAR彗星(11P)が挙げられる。この彗星は1869年に発見され、「テンペル・スイフト彗星」と命名されたが、木星の摂動により軌道が変わり、1908年以降見失われていた。しかし2001年、LINEARが偶然発見した「LINEAR彗星(C/2001 X3)」が、発見後しばらくしてテンペル・スイフト彗星と同一の天体だと判明し、93年ぶりの再発見が認定されるとともに、名前がテンペル・スイフト・LINEAR彗星に変更されることとなった。", "title": "軌道の特徴と起源" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "彗星の軌道に関する特徴のひとつとして、軌道面の傾き(軌道傾斜角)が非常に大きいものが多いということが挙げられる。太陽系の惑星は、軌道傾斜角はおおむね数度程度、大きくても10度以内に収まっている。また小惑星も、20度から30度程度まで傾いているものは多いが、軌道傾斜角がある程度小さいものが多い傾向はある。短周期彗星も、惑星の摂動により軌道を変えられた影響もあって、軌道傾斜角が小さいものが大半を占める。しかし、長周期彗星は、黄道面とほとんど垂直な軌道を持ったもの(軌道傾斜角が90度前後)や、惑星や大半の彗星、小惑星と逆向きに公転しているもの(軌道傾斜角が180度であるとも見なせる)も多く、ほとんどランダムに空のどこからでも現れるように見える。これは、オールトの雲の分布が球殻状であると推定する根拠になっている。", "title": "軌道の特徴と起源" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "彗星の明るさ、すなわち光度は、恒星と同じように等級を単位として表される。しかし、彗星は恒星と違って核、コマ、尾などの構造があり、それぞれ明るさがあるため、すべての部分を含んだ明るさを全光度、核だけの明るさを核光度と呼び区別する。したがって、コマや尾がほとんど発達していない状態の彗星では全光度と核光度は等しく、逆に大きく発達している場合は核光度より全光度のほうが明るくなることになる。彗星には、中心核が特に明るい、すなわち中央集光が強いものも、逆に特に明るい部分がなく非常に拡散しているものもある。", "title": "彗星の明るさとその予測" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "彗星の明るさを測定するには、近くにある恒星と比較することになる。コマや尾が発達していない恒星状の彗星では、変光星や小惑星の場合と同じように、比例法と光階法という方法を用いる。しかし、コマや尾が発達している場合、同じ明るさでも点光源と面光源では明るさが違って見えてくるため、単純に比較することはできない。このため、彗星の明るさを憶えてからピントをずらして基準星が同じ大きさに見えるようにし、明るさを比較するシジウィック法(Sidgwick法、S法)、わざとピントをずらし、彗星と比較星が同じ大きさに見えるようにしてから明るさを比較するボブロフニコフ法(Bobrovnikoff法、B法)、彗星が均一な明るさに見える程度にピントをずらしてから明るさと大きさを憶え、基準星が同じ大きさに見えるまでぼかしてから覚えた彗星の明るさと比較するモーリス法(Morris法、M法)などの方法が用いられる。核光度も、全光度と同様に測定する。測定された彗星の光度は、観測者の熟練の程度やその日の体調、観測器材の状態、観測状況、基準星の明るさの誤差など、さまざまな要因により、観測者によって0.5等級以上ばらつく場合がほとんどである。また、CCDカメラなどで写真を撮影し、近くの基準星を用いて専用ソフトで明るさを測定することもできる。肉眼で見た光度(眼視光度)と、写真で測定した光度(写真光度)は数等級ずれることもある。", "title": "彗星の明るさとその予測" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "彗星の光度を正確に予測するのは非常に難しい。小惑星などの天体は通常、地球までの距離(地心距離)と太陽までの距離(日心距離)の2乗に反比例して明るくなるが、彗星の場合は太陽に近づくと塵やガスが噴出し、コマができたり尾が伸びたりするため、太陽までの距離の5乗から、場合によっては10乗以上に反比例して明るくなっていく。彗星の光度の予測には、一般に以下のような式(光度式)が使用される。", "title": "彗星の明るさとその予測" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ここで、m は彗星の光度である。m0 は標準光度、または絶対光度と呼ばれ、彗星が太陽からも地球からも1天文単位の距離にある時の明るさを表す。また、Δ は地心距離、r は日心距離をそれぞれ天文単位で表したものである。また、k は光度係数と呼ばれる値で、この値が大きいと光度変化は激しくなり、小さいと光度変化は穏やかになる。観測期間が長くなり観測データが多数集まってくると、専用ソフトウェアなどを用い、最小二乗法などの方法で標準光度と光度係数を求めることができる。", "title": "彗星の明るさとその予測" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "発見からまもないなど、観測期間が短くデータも少ない場合は、光度係数を10と仮定して明るさを予測することが一般的である。標準光度は彗星の規模によって大きく違うが、光度係数は5.0から30程度の間に収まるものが大半である。しかし、核が分裂するなどの要因で活動が活発化し急激な増光(アウトバースト)が起こった場合は光度係数が100を越える場合もあるし、アウトバーストが終わるなどで活動が衰えた場合や核が崩壊して消滅していく場合などは、光度係数が大きく負の値を取る場合もある。ある1本の光度式に常によく当てはまる光度変化をする彗星もあるが、活動の規模が途中で変化すれば当てはまる標準光度や光度係数の値も変化する。しかし、いつどのように活動が変化するかを予測することは非常に難しい。何回か回帰している彗星は、以前の記録を基にある程度予測が可能だが、初出現の彗星についてはほぼ不可能である。また初出現の彗星は、しばらく観測しないとどんな光度式が当てはまるのかも分からない。彗星の光度予想が難しいと言われるのはこのような理由による。", "title": "彗星の明るさとその予測" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "彗星の軌道速度が速い場合、太陽系の内部に入ってきてそのまま太陽系の外部へ出ていく場合がある。大部分の非周期彗星がこの例にあたる。また、木星など太陽系内のほかの天体による重力的摂動によって加速され、太陽系の外へ放出される場合もある。", "title": "彗星の崩壊と消失" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "太陽への接近を繰り返すうちに徐々に揮発性の成分が脱落していくが、崩壊・消失に至ることなく小惑星のようになる場合があり、これを彗星・小惑星遷移天体や枯渇彗星核と呼ぶ。そのような過程を経たと思われる天体や、その過渡期にある天体もいくつか見つかっている。小惑星は彗星とは起源が異なり、太陽系の外側ではなく内側で形成されたと考えられているが、ヴィルト第2彗星からのサンプルリターンにより得られたサンプルが小惑星のものと似ていたことから、21世紀初頭では彗星と小惑星の境界はやや曖昧になっている。", "title": "彗星の崩壊と消失" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "もっとも早期に発見された周期彗星のひとつであるビエラ彗星(3D)は1846年の回帰時に2つに分裂し、次の回帰である1852年には双子の彗星となって現れたが、その後は二度と出現しなかった。その代わり、本来彗星が回帰するはずであった1872年と1885年に、1時間あたりの出現数が数万個にも達する壮大な流星雨が観測された。この流星群はアンドロメダ座流星群と呼ばれ、毎年11月5日前後に地球がビエラ彗星の軌道に突入するために起こる。21世紀初頭ではほとんど出現はないが、稀に突発的な1時間あたり数十個の出現が観測されることがある。ビエラ彗星以降も、太陽からの輻射熱や物理的作用により、分裂あるいは崩壊、消失した彗星は、多数観測されている。", "title": "彗星の崩壊と消失" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "彗星のさまざまな様相変化の予想は難しく、彗星核の崩壊や消失に関する理論的な研究はあまりなされていない。しかし、国立天文台の福島英雄らの観測・研究グループによれば、近日点通過前の彗星頭部の崩壊前にきわめて特異なコマ形状を共通して示していることや、光度観測により色指数(V-I)の変化が特異であることが報告された(2003年春季天文学会)。実際には彗星の頭部がY字やT字型からおむすびのような形に変化していき、集光も薄れ消失するのだという。このモデルに合致した彗星としては、たとえばSWAN彗星(C/2002 O6)が挙げられ、普通の彗星のコマと違い三角形の形状をしているという報告がなされた。また、ヘーニッヒ彗星(C/2002 O4)も同様な消滅過程だと報告された。また、2020年のアトラス彗星も3月下旬に分裂したと考えられる。分裂以前に考えられていた、月より明るい光度は、可能性としてはほぼ無に等しい。", "title": "彗星の崩壊と消失" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "彗星の中には、太陽に飛び込む、あるいは惑星やその他の天体に衝突するなど、より劇的な最後を迎えるものもある。彗星と惑星や衛星との衝突は太陽系の形成と進化の初期にはありふれた出来事だったと考えられている。たとえば地球の衛星である月の膨大なクレーターの一部は、彗星が衝突したことで形成されたと考えられている。", "title": "彗星の崩壊と消失" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1993年に発見されたシューメーカー・レヴィ第9彗星は、1992年に木星に非常に接近した際にその重力に捕らえられ、木星の周りを回る軌道をとっていた。この接近ですでに彗星の核は分裂し、少なくとも21個の破片に分かれていた。そして分裂した核は1994年7月16日から7月22日までに相次いで木星の大気に突入、巨大な噴煙や衝突痕は地球からも観測された。2009年、2010年にも木星表面に彗星が衝突した痕跡らしきものが観測された。パリ天文台に残されているジョヴァンニ・カッシーニの観測記録によると、1690年にも木星に彗星が衝突した可能性が高い。さらに、2010年に土星と海王星の大気組成の分析が行われ、それぞれ約300年前と約200年前に彗星が衝突したことを示す結果が得られている。", "title": "彗星の崩壊と消失" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "地球にも約40億年前の後期重爆撃期には数多くの彗星や小惑星が衝突した。多くの科学者は、後期重爆撃期に地球に衝突した彗星によって、地球の海を満たしている膨大な量の水のほとんど、少なくともかなりの割合がもたらされたと考えている。しかし、その理論を疑う研究者もいる。彗星に含まれる有機分子を探すことで、彗星や隕石が生命の前駆物質、あるいは生命自体さえも運んできたのではないかと推測されてきた。", "title": "彗星の崩壊と消失" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "彗星の名前は、過去2世紀にわたって、いくつかの異なる慣習に従って決められてきた。系統的な慣習が採用されていなかった時代には、彗星の命名はさまざまな方法によってされていた。最初の周期彗星(1P)であるハレー彗星は、彗星の軌道を決定したエドモンド・ハレーの名前からとられた。同じように、2番目の周期彗星(2P)として知られているエンケ彗星は、最初の彗星の発見者ピエール・メシャンではなく、軌道を決定した天文学者であるヨハン・フランツ・エンケの名前がつけられている。クロンメリン彗星(27P)も、同様に軌道計算をしたアンドリュー・クロンメリンの名がつけられている。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "18世紀末から20世紀初頭の明るい彗星の中には、3月の大彗星(Great March comet)などと名付けられたものもある。いくつかは単に大彗星(Great comet)で区別がつかないので、「1811年の大彗星」(トルストイの『戦争と平和』に登場する彗星)などとも呼ばれる。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "20世紀初頭、彗星の命名として、発見者の名前をつけるという慣習が一般的になった。これは現在まで続いている。彗星にはその彗星を独立発見した人の名前が先着順で3名までつけられる。1990年代に入ると、人工衛星(IRASやSOHOなど)や、国際規模の彗星および小惑星の掃天プロジェクトチーム(LINEAR、NEATなど)による彗星の発見が相次ぐようになり、数多くの彗星に、これらの自動捜索プロジェクト名がつくようになった。たとえば、IRAS・荒貴・オルコック彗星は、赤外線衛星IRASと、日本のアマチュア天文家の荒貴源一、イギリスのジョージ・オルコックによって、独立に発見された。現在では、自動捜索プロジェクト名でない彗星のほうが少ない。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "同じ発見者が複数の彗星を発見しても、名前で区別はされない。そのため、たとえば「SOHO彗星」という名前の彗星は1,000を超える。彗星を一意に示すには、後述する符号を使う必要がある。ただし、- 第1彗星、- 第2彗星などを末尾につけて区別することもある。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、過去に出現した彗星が再発見された場合、彗星自体の発見が公表されたあとに過去の彗星と同定された場合には過去の彗星の名に再発見者の名前がつけられることもある。例としては、バーナード・ボアッティーニ彗星(206P = D/1892 T1 = P/2008 T3)などがある。なお、発見の公表前に過去の彗星と同定された場合には再発見者の名前はつかない。例としては、2008年に板垣公一と金田宏が再発見し、発見の公表前に同定されたジャコビニ彗星 (205P = D/1896 R2)(前述のようにジャコビニ彗星の名のある彗星は10個あり、そのうちのひとつ)がある。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、キロン(95P/2060)など少数の彗星が、小惑星として発見され、小惑星の命名規則に基づいて命名されたあとに彗星であることが判明している。逆に見失われていた彗星が小惑星として再発見された例もあり、彗星としての名前のまま小惑星としても登録されている(彗星・小惑星遷移天体を参照)。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1994年までの彗星の系統的な符号のつけ方としては、まず最初にその彗星が発見された年と、その年内の発見順を示す文字からなる仮符号が与えられた。たとえばベネット彗星の仮符号は「1969i」で、1969年の9番目に発見された彗星であることを意味する。彗星の軌道が確定すると、彗星には、近日点通過の年とローマ数字からなる確定符号が与えられた。ベネット彗星の確定符号は「1970 II」となる。確定符号は、日本語に訳して、1970年第2彗星などとも呼んだ。確定符号がつくと、仮符号は使われなくなった。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "彗星の発見数が増加してくると、この方法の運用に綻びが生じてきた。観測技術の進歩により1年の発見数が25を超え、仮符号に使うアルファベットが足りなくなり、また近日点通過から1年以上経って発見されるものも出てきて、確定符号の近日点通過順という原則も崩れてきた。そこで1994年に国際天文学連合は新しい命名方法を採用し、1995年から実施された。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "符号は発見が報告された年、月、発見報告順を元にしてつけられる。たとえば、ヘール・ボップ彗星の場合は「C/1995 O1」(シー/1995 オー1)と記載される。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、従来は発見者が発見した順に「テンペル第1彗星」「ヴィルト第2彗星」というように番号(接尾数字)がつけられていた(接尾数字と、公式通し番号の順とは一致しない)が、1995年頭より新発見の彗星には接尾数字がつけられなくなり、2000年には過去の彗星からも接尾数字が廃止された。", "title": "彗星の名前と符号" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "望遠鏡が発明される以前、彗星は夜空の何もないところから突然現れ、ゆっくりと消えていくように観測された。そのため、流星群や日食と同様に、君主の死や国の滅亡、災害、疫病といった出来事を予告する凶兆と信じられ、果ては地球の住人に対する天からの攻撃であると解釈されることすらあり、人々はその出現を恐れた。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "世界各地で古代より彗星についての記録が残っている。紀元前2320年のバビロニアや、『ギルガメシュ叙事詩』、『ヨハネの黙示録』、『エノク書』といった書物で「落ちる星」として言及されているが、これらは彗星もしくは火球について言及したものだと解釈されている。中国では特に多くの記録が残っており、紀元前よりハレー彗星の回帰が4度記録されている。紀元前1059年ごろ、殷代末期の甲骨文に彗星と思われる記述が残されているが、確実な最古と言える記録は紀元前613年の『春秋』に記されたものとされている。ほか紀元前240年、秦の始皇帝がハレー彗星を見たとする記録が『史記』に残されている。ヨーロッパでは彗星は気象現象の一種だと考えられていたため、古い記録は中国ほど多くはないが、有名な例として1066年、イングランド王国のハロルド2世が即位して間もない頃に「火の星」が現れ、従臣たちを怯えさせたことが『アングロサクソン年代記』やバイユーのタペストリーに記録されており、その直後に戦役が発生、王は戦死し国は征服された。日本では、684年のハレー彗星の回帰に関する記述が『日本書紀』にみられる。13世紀に災厄が多発した際には、末法の時代に現れるという「星宿変怪難」として恐れられた。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アリストテレスは、彼が著した最初の気象学の本『気象論』(Meteorologica)で彗星に対する見解を示し、それが西洋の思想を2000年近くにわたって支配することになった。彼は、彗星は惑星であるか少なくとも惑星に関係する現象であるという、それまでの学者の説を否定し天文現象ではなく気象現象と考えた。その根拠は、惑星の動く範囲は黄道帯の中に限られるが、彗星は空のあらゆるところに現れるというものであった。その代わり、彼は彗星を大気の上層部で起こる現象だととらえ、そこは温度が高く、乾いた蒸気が集まり時々勢いよく炎が燃え上がるのだと考えた。彼はこの仕組みは彗星だけでなく、流星や、オーロラ、そして天の川の成因にさえなっていると考えた。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "その後、この彗星に対する見方に反論する古代の学者が少数だがいた。ルキウス・アンナエウス・セネカは、彼の著書『自然研究』(Quaestiones naturales)において、彗星は空を規則的に動き、風に邪魔されることがなく、大気中の現象よりは天体に典型的な運動をすることを述べていた。彼はほかの惑星が黄道帯の外に現れることがないことを認めつつも、天球上のものに関する人間の知識は限られているため、惑星のような物体が空のあらゆるところに現れる可能性を否定する理由はないとした。しかし、アリストテレスの立場のほうが影響力が大きく、彗星が地球の大気圏外にあるということが証明されたのは16世紀のことであった。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1577年に明るい彗星が現れ、数か月間肉眼で観察できた。デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、彗星に測定可能な視差がないことを確かめるため、彗星の位置を自分で測定するとともに、遠く離れた場所の観測者にも測定させた。正確な測定をしたところ、その測定結果は、彗星が少なくとも月より4倍以上遠くにあるということを示していた。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "18世紀にもなると、多くの天文学者たちが彗星の発見と研究を競ったが、中には彗星と紛らわしい天体があることも知られるようになった。1764年にロンドン王立協会の外国人会員になったフランスのシャルル・メシエは、自らも彗星の捜索を行うかたわら、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口していた。そこでメシエは彗星ではない天体のリストを作り始めた。これが天体カタログの『メシエカタログ』である。メシエ自身も1760年に最初の彗星を発見している(C/1760 B)。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "彗星が宇宙空間にあるということは証明されたが、彗星がどうやって空を移動しているのかという疑問は、その後、数世紀にわたって議論の中心になるように思われた。ヨハネス・ケプラーが1609年に、惑星の軌道は楕円軌道であると決着をつけたあとでさえ、彼は惑星の運動を支配している法則(ケプラーの法則)がほかの天体にも影響を与えていると信じるのを躊躇した。彼は彗星は惑星の間を直線軌道で運行していると信じていた。ガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスの擁護者であったにもかかわらず、ティコによる彗星の視差の測定結果を受け入れず、彗星は地球大気の上層を直線状に動くというアリストテレスの考えを支持し続けた。ただし、ケプラーの師ミヒャエル・メストリンは彗星の軌道が直線からわずかにずれることを観測で確認しており、ケプラーも自身の説を発表するにあたって師のデータを改竄せず、その理由について「地球の運動のため」との(誤った)考察を与えている。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ケプラーの惑星の運動の法則が彗星にも適用されるべきだと初めて提案したのはウィリアム・ローワーで、1610年のことであった。その後、数十年間、ピエール・プティ、ジョヴァンニ・ボレリ、アドリアン・オーズー、ロバート・フック、そしてジョヴァンニ・カッシーニなどを含むほかの天文学者たちは、彗星は太陽の周りを曲線状の軌道、楕円軌道か放物線軌道を描いて運行しているという説を唱えたが、その一方、クリスティアーン・ホイヘンスやヨハネス・ヘヴェリウスは、彗星は直線運動をしているという説を支持した。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "この問題は、1680年11月14日にゴットフリート・キルヒが発見したキルヒ彗星によって解決された。ヨーロッパのいたるところで、天文学者たちはこの彗星の位置を観測し続けた。1687年、アイザック・ニュートンは彼の著書『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)において、万有引力の逆2乗の法則の影響下で運動する物体は、軌道の形が円錐曲線の一種になるということを証明し、天空における彗星の運動が放物線軌道とどのように適合するかを、1680年の彗星を例にして具体的に説明した。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1705年、エドモンド・ハレーは、1337年から1698年までの24個の彗星の出現に対して、ニュートンの手法を応用した。するとハレーは、1531年、1607年、1682年に現れた3つの彗星の軌道要素が、きわめて似通っていることに気づいた。しかも、軌道要素のわずかな違いは、木星と土星による重力的な摂動によって説明することができた。彼はこの3つの彗星の出現は、同じ彗星が3回出現したものだと確信し、この彗星は1758年か1759年に再び戻ってくるだろうと予言した(ハレー以前に、ロバート・フックがすでに1664年に出現した彗星と1618年の彗星を同定し、また同じころカッシーニも1577年、1665年、1680年の彗星は同じものではないかと推測していたが、これらはどちらも間違っていた)。ハレーが予言した彗星の戻ってくる期日は、のちに3人のフランスの数学者によって改良された。アレクシス・クレロー、ジェローム・ラランド、ニコル=レーヌ・ルポートである。彼らは彗星の1759年の近日点通過日時を1か月以内の誤差で予言した。彗星は予言通りに回帰し、その彗星はハレー彗星として知られることとなった(公式な符号は1P/Halley)。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "短い周期を持ち、歴史上の記録に何度も登場するような彗星の中で、ハレー彗星はどの出現でも肉眼で見えるほどの明るさになったという点で特異である。ハレー彗星の出現の周期性が確立して以降、数多くの周期彗星が望遠鏡を使って発見されてきた。2番目に発見された周期彗星はエンケ彗星(公式な符号は2P/Encke)である。1819年から1821年までの期間中、ドイツの数学者・物理学者のヨハン・フランツ・エンケは、1786年、1795年、1805年、1818年に観測された一連の彗星の出現から軌道を計算し、これらは同一の彗星であるという結論を下し、1822年の出現を予言するのに成功した。1900年までに、17個の彗星について1回以上の近日点通過が観測され、周期彗星として確認された。2010年までに、240個以上の彗星について周期彗星としての識別に成功しているが、そのうちのいくつかは消滅したり見失われたりしている。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "アイザック・ニュートンは、彗星を固く締まった頑丈な固体だとした。つまり非常に長い楕円軌道を描き、その軌道と方向がかなり自由な惑星の一種であって、その尾は、太陽熱で着火または加熱された頭部、つまり彗星の核から放出された非常に希薄な蒸気だと考えていたのである。また、ニュートンにとっては彗星は、惑星の水分と湿気を維持するために不可欠なものだと思われた。つまり、彗星の蒸気と放出ガスが凝縮したものから、植物が生まれ腐敗し乾燥した土になるために使われるすべての水分が再供給、補充されるとした。ニュートンは、すべての植物は液体から増え、それが腐敗して土になると考えていたためである。だとすると乾いた土の量は絶えず増加するため、その惑星の水分は絶えず供給されていない限り絶えず減っていき、ついにはなくなるはずだと考えたのである。ニュートンは、われわれの空気のもっとも精妙で最上の部分を構成する、生命とすべての存在に絶対不可欠な精気が、彗星によってもたらされるのではないかと考えた。また、彼の推測によると、彗星は太陽に新しい燃料を補充しており、その発光体からすべての方向に絶えず送られる流れによって太陽の光を回復させているとした。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "「巨いなる沸き立つ尾より振るえてはあまたの珠玉に潤いを甦らせるその長き楕円の風の吹くところ傾く太陽に新たな燃料を与える星界を照らすがため天空の火を養う」", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "18世紀以前に、彗星の物理的構造について正しい仮説を立てていた科学者もいた。1755年、イマヌエル・カントは、彗星は揮発性の物質で構成されており、それが蒸発することが原因で近日点付近で彗星が明るくなるのだという仮説を立てた。1836年には、ドイツの数学者フリードリッヒ・ベッセルが、1835年のハレー彗星の回帰で蒸気の流れを観察したことから、彗星から蒸発した物質の反動は、彗星の軌道に大きな影響を与えるのに十分なほど大きい可能性があると指摘し、エンケ彗星の非重力的な運動はこの仕組みによるという説を唱えた。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "しかし、彗星に関連したほかの発見により、1世紀近くこれらの説はほとんど忘れ去られていた。1864年から1866年の期間中、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリはペルセウス座流星群の軌道を計算し、軌道の類似性から、スイフト・タットル彗星の塵がペルセウス座流星群の原因であるという仮説を立てた。彗星と流星群との関連は、1872年に劇的な形で示されることとなった。ビエラ彗星を原因とする、激しい流星群の活動が観察されたのである。ビエラ彗星は、1846年の回帰で2つに分裂したのが観察され、次の1852年の回帰以降はまったく観測されなくなっていた彗星である。これを基にして、彗星は表面を覆う氷の層と、緩く堆積した小さな岩石のような物体から構成されているとする、彗星の構成の「砂利の堆積」モデルが現れた。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "20世紀半ばまで、このモデルは数々の欠点に悩まされてきた。特に、わずかな氷しか含んでいない物体が、何回かの近日点通過を経たあとも蒸気が蒸発することで明るく見え続けるということがなぜ可能なのかを説明できなかった。1950年、フレッド・ホイップルが、「彗星は氷と塵からなる」という「汚れた雪玉」を提唱した。岩石主体の天体にわずかに氷が混じっているのではなく、氷が主体の天体に塵や岩石が混じっているというのである。この「汚れた雪球」モデルはすぐに受け入れられた。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アメリカ航空宇宙局(NASA)の打ち上げたISEE-3は、当初のミッションを終えたあとにICEと改名されて地球の重力圏を離れ、1985年にジャコビニ・ツィナー彗星に接近し、彗星への近接探査を行った最初の宇宙探査機となった。翌1986年には、日本の宇宙科学研究所(ISAS)、欧州宇宙機関(ESA)、ソ連・東欧宇宙連合(IKI)が打ち上げた計5機の探査機にICEを加えた6機、通称ハレー艦隊が連携してハレー彗星の核を観測した。ESAのジオットが核を撮影したところ、蒸発する物質の流れが観測され、ハレー彗星は氷と塵の集まりであることが確かめられ、ホイップルの説が実証された。ジオットは1992年にもグリッグ・シェレルップ彗星に接近、観測を行った。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1998年に打ち上げられたNASAの工学実験探査機ディープ・スペース1号は、2001年7月21日にボレリー彗星の核に接近して詳細な写真を撮影し、ハレー彗星の特徴はほかの彗星にも同様に当てはまることを立証した。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "その後の宇宙飛行ミッションは、彗星を構成している物質についての詳細を明らかにすることを目標に進められている。1999年2月7日に打ち上げられた探査機スターダストは、2004年1月2日にはヴィルト第2彗星に接近して核を撮影するとともにコマの粒子を採取し、2006年1月15日に標本を入れたカプセルを地球に投下した。標本の分析により、彗星を構成する主要元素の構成比から、彗星は太陽や惑星などの原材料物質であることを示すとともに、高温下で形成されるカンラン石などが発見された。高温下で形成される物質は従来の説で彗星が生まれたとされる領域で形成されたとは考えにくく、太陽に近い場所で形成された物質が彗星が形成された太陽系外縁部まで運ばれてきた可能性や、従来の説よりも彗星が形成された場所が太陽に近い場所であった可能性など、彗星の形成理論の再構築が必要となる可能性がある。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2005年1月12日に打ち上げられた探査機ディープ・インパクトは、同年7月4日に、核内部の構造の研究のためにテンペル第1彗星にインパクターを衝突させた。この結果、短周期彗星であるテンペル第1彗星の成分は長周期彗星のものとほぼ同じであることが判明した。さらに、塵の量が氷よりも多かったことから、彗星の核は「汚れた雪玉」というよりも「凍った泥団子」であると見られている。またテンペル第1彗星の内部物質からも、かつて高温下の条件を経験したと考えられる物質が検出されたため、ヴィルト第2彗星からの物質とともに彗星の形成理論や太陽系初期の状況を考える上で貴重な情報となった。", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "", "title": "彗星観測の歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "望遠鏡がなかった時代、彗星の発見はもっぱら肉眼によるものであった。1608年に望遠鏡が発明されると、それによって、肉眼では見えないような暗い彗星を発見することができるようになった。やがて、望遠鏡や双眼鏡を駆使して、彗星の捜索を精力的に行う、コメットハンター(comet hunter)と呼ばれる天文家が現れた。", "title": "彗星の探索と発見の歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "後述のような自動探査プロジェクトが、電子機器の発達などによって、技術的に可能になった20世紀最末期に至るまで、彗星や小惑星の新発見はこうしたアマチュア天文家に深く依存していた。", "title": "彗星の探索と発見の歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "20世紀以降に活躍したものを挙げる。より詳細や過去のコメットハンターについては当該項目を参照のこと。", "title": "彗星の探索と発見の歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1990年代後半になると、このような状況に劇的な変化が生じた。LINEARやNEATなどといった地球近傍小惑星の強力な自動捜索プロジェクトが相次いで始動し、冷却CCDカメラによって18等や20等などといったきわめて暗い彗星が根こそぎ発見されるようになったのである。北半球で太陽から比較的離れた区域の空は自動捜索プロジェクトによってほとんどの彗星が発見されるようになり、アマチュア天文家などが彗星を発見することは非常に困難になった。また、1996年には太陽観測衛星SOHOが観測を始め、その副産物として、クロイツ群に属する彗星がきわめて多数発見されるようになった。", "title": "彗星の探索と発見の歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "地球近傍天体捜索プロジェクトなど。以下のプロジェクト名の中には定訳がないものもあるのに注意。", "title": "彗星の探索と発見の歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "毎年数百個の小彗星が太陽系の内側を通過していくが、そのうち世間一般の話題となるような彗星はきわめて少数である。大体10年に1個前後、あまり夜空に関心がない人でも気づくほど明るくなるような彗星が現れる。そのような彗星はよく大彗星と呼ばれる。", "title": "大彗星" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "過去には、明るい彗星はしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられた。20世紀に入ってからも、ハレー彗星の1910年の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まった。", "title": "大彗星" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "この当時、すでにスペクトル分析によって(先述の通り)彗星の尾には猛毒の青酸が含まれていることが知られており、また天文学者でSF作家でもあったカミーユ・フラマリオンは、尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表した。これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾ひれがついて一般人がパニックに陥ったと言われる。日本では、空気がなくなっても大丈夫なようにと、自転車のタイヤのチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きたとされているが、世界の終わりを信じた人はごく一部だったと受け取れるような記録もある(いずれにせよ、実際には彗星の尾は地球の大気に影響を及ぼすにはあまりに希薄だった)。", "title": "大彗星" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "その後も、1990年にはオウム真理教の麻原彰晃がオースチン彗星(C/1989 X1)の地球接近によって天変地異が起ると喧伝したり(石垣島セミナー)、1997年のヘール・ボップ彗星(C/1995 O1)の出現時にはカルト団体ヘヴンズ・ゲートが集団自殺事件を起こした。しかし、ほとんどの人にとっては、大彗星の出現は単に素晴らしい天体ショーである。", "title": "大彗星" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "さまざまな要素により、彗星の明るさは予測から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予測するのは難しいということはよく知られている。大まかに言うと、もし彗星の核が大きく活発で、太陽の近くを通る軌道で、もっとも明るいときに地球から見て太陽により不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高い。しかし1973年のコホーテク彗星 (C/1973 E1) は、これらすべての条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにもかかわらず、実際はあまり明るくならなかった。その3年後に現れたウェスト彗星(C/1975 V1)は、ほとんど期待されていなかった(コホーテク彗星の予報が大きく外れたあとだったため、科学者が慎重になっていた可能性もある)が、実際は非常に印象的な大彗星となった。", "title": "大彗星" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間があったが、20世紀も終わりに近づいたころ、2つの彗星が相次いで大彗星となった。1996年に発見され明るくなった百武彗星 (C/1996 B2) と、1995年に発見され、1997年に最大光度となったヘール・ボップ彗星である。21世紀初頭には大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入った。2001年に発見されたNEAT彗星 (C/2001 Q4) と2002年に発見されたLINEAR彗星 (C/2002 T7) である。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはならなかった。2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過したマックノート彗星 (C/2006 P1) は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となった。近日点通過後は南半球でのみ観測されたが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せた。", "title": "大彗星" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "知られている数千もの彗星の中には、とても変わったものもある。エンケ彗星は木星の内側から水星の内側にまで入る軌道を回っているし、シュワスマン・ワハマン第1彗星(29P)は木星と土星の軌道の間に収まった軌道を回っている。土星と天王星の間を不安定な軌道で回っているキロンは、最初は小惑星に分類されていたが、のちに希薄なコマが発見されたため、現在では彗星と小惑星の両方に分類されている。同様に、シューメーカー・レヴィ第2彗星(137P)も小惑星1990 UL3として発見された。近日点、遠日点がともに小惑星帯内にある彗星も複数見つかっており、メインベルト彗星と呼ばれている。", "title": "変わった彗星" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "上記のキロンやシューメーカー・レヴィ第2彗星のように、最初は小惑星として発見された天体がのちに彗星だと判明する例が20世紀末以降は増えている。逆に、発見時はわずかながらコマや尾が観測されたが、のちの回帰の際は尾がまったく見られなくなっているアラン・リゴー彗星(49P)やウィルソン・ハリントン彗星(107P/4015)、彗星としての活動が観測されたことはまったくないが、流星群の母天体となっている小惑星ファエトンやオルヤトなどのような例もあり、これらは揮発成分を使い果たした枯渇彗星核だと見られている。その他の小惑星や、惑星の衛星の中にも、軌道や成分などから元は彗星だったと考えられるものがある。", "title": "変わった彗星" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "彗星によっては、短時間の間に急激な増光(アウトバースト)を起こすことがある。特にホームズ彗星が2007年10月下旬に起こした大増光は印象深い。2日足らずの間に17等から2等級まで(約40万倍)明るくなり、肉眼でも「明るい星」として容易に見ることができた。その後、この増光で放出されたと思われるダストが球状に広がり、その直径は太陽よりも大きく広がった。ホームズ彗星は一時的に太陽系最大の天体となったのである。1986年に接近したハレー彗星も、後に突然増光が確認されている。これもアウトバーストが原因ではないかと言われている。", "title": "変わった彗星" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "記録に残されたもの、残されていないもの問わず、多くの彗星の核が分裂するのが観測されてきた。1846年の回帰の際に2つに分裂し、のちに流星群だけを残して消滅したビエラ彗星(参照)が有名な例である。また、シュワスマン・ワハマン第3彗星(73P)は1995年の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂(いくつかは消滅)して2006年には30個以上の破片になっていた。このほかにもウェスト彗星、池谷・関彗星、ブルックス第2彗星(16P)など、彗星核の分裂が観測された彗星は数多い。", "title": "変わった彗星" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "崩壊・消滅した彗星としては、1994年7月に木星に衝突したシューメーカー・レヴィ第9彗星も有名である(参照)。", "title": "変わった彗星" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1908年のツングースカ大爆発はエンケ彗星の破片が地球に衝突したのではないかとする仮説がある。隕石の落下によって生じるクレーターがまったく見られなかったことから、大気圏に突入した彗星の破片が上空で爆発、蒸発したことによって甚大な被害を及ぼしたのではという見解がある。", "title": "変わった彗星" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1979年、かつての大彗星から分裂したクロイツ群の彗星が太陽面に接近し、蒸発、雲散霧消する姿が太陽観測衛星P78-1のコロナグラフ:SOLWIND(ソルウィンド)によって観測された。この彗星(C/1979 Q1)は観測した天文学者らの名前からハワード・クーメン・ミッチェル彗星と命名されたが、同衛星がその後も彗星を発見したためソルウィンド第1彗星として広まる。このような事例は数多く起こっており、1995年に打ち上げられた太陽探査機SOHOは、毎年数十個の彗星が太陽に突入するのを観測している。十分に大きな彗星は、近日点通過後も生き延びるという予測があったが、初の事例となったのは2011年のラヴジョイ彗星 (C/2011 W3)である。", "title": "変わった彗星" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "彗星自体が変わった性質を持っているものも多い。1961年に観測されたヒューメイソン彗星(C/1961 R1)は、近日点が約2天文単位と遠かったため、それほど明るい彗星ではなかったが、観測ではダストの尾がほとんど見られず、大部分がイオンの尾で構成されていたことが報告されている。また核の直径自体もおよそ30キロと、当時としてはかなり大きい部類に入る彗星でもあった。", "title": "変わった彗星" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "彗星はSF作家や映画製作者には人気のある題材であるが、氷の天体と言うよりも燃えている天体のように誤って描写されることも多い。フィクションの中のハレー彗星については、「ハレー彗星」の項を参照。", "title": "フィクションの中の彗星" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "また、彗星が地球へ衝突する(または衝突しそうになる)という状況を描いた作品も多数存在する。", "title": "フィクションの中の彗星" } ]
彗星は、太陽系小天体のうち、おもに氷や固体微粒子でできており、太陽に近づいた際に一時的な大気であるコマや、コマの物質である塵やガス、イオンの尾(テイル)を生じるものを指す。
{{Otheruses|[[天体]]}} {{redirect|ほうき星'''」、「'''帚星'''」、「'''箒星|その他|ほうき星 (曖昧さ回避)}} {{混同|水星}} {{導入部が短い|date=2017年6月}} [[ファイル:Comet Kohoutek (S74-17688).jpg|thumb|250px|[[アメリカ合衆国]][[アリゾナ州]]の[[カタリナ観測所|カタリナ天文台]]で[[1974年]][[11月1日]]に撮影された[[コホーテク彗星 (C/1973 E1)|コホーテク彗星]]]] [[ファイル:Comet-Hale-Bopp-29-03-1997 hires adj.jpg|thumb|250px|[[クロアチア]]の[[パジン]]で[[1997年]][[3月29日]]に撮影された[[ヘール・ボップ彗星]]]] '''彗星'''(すいせい、{{lang-en|comet}})は、[[太陽系小天体]]のうち、おもに[[氷]]や[[固体微粒子]]でできており、[[太陽]]に近づいた際に一時的な大気である'''[[コマ (彗星)|コマ]]'''や、コマの物質である塵やガス、[[イオン]]の'''尾'''(テイル)を生じるものを指す。 == 概要 == {{太陽系の天体の分類}} {{外縁天体の分類}} 彗星は、尾が伸びた姿から[[日本語]]では'''[[箒]]星'''(ほうきぼし、彗星、帚星)とも呼ばれる。[[英語]]では'''コメット'''(comet)と呼ばれる。[[天体写真]]が似るため[[流星]]と[[混同]]されがちであるが、[[天体観望]]における見かけの移動速度は大きく異なり、[[肉眼]]による彗星の見かけ移動は[[日周運動]]にほぼ等しいため、[[流星]]と違い尾を引いたまま[[空|天空]]に留まって見える<ref>{{cite book |last = Deiters |first = Stefan |last2 = Pailer |first2 = Dr. Norbert |last3 = Deverler |first3 = Susanne |title = Astronomie: Eine Einführung in das Universum der Sterne |pages = 140-149 |publisher = [[コメット|Komet]] |year = 2008 |isbn = 978-3-898365-98-7}}</ref>。 [[小惑星]]が太陽からおおよそ3AU([[天文単位]])以内の距離に近づいてから、コマや尾が観測され彗星として観測される。その位置は[[火星]]軌道と[[木星]]軌道のほぼ中間にあたる<ref>{{cite book |last = Pilz |first = Uwe |last2 = Leitner |first2 = Burkhard |title = Astro-Praxis: Kometen, Eine Einführung für Hobby-Astronomen |pages = 40-45 |publisher = [[オッカラム|Oculum]] |year = 2013 |isbn = 978-3-938469-60-6}}</ref>。 太陽に近づく[[周期]]([[公転周期]])は、約3年から数百万年以上まで大きな幅があり、中には二度と近づかないものもある。[[#軌道による分類|軌道による分類の節]]を参照のこと。 彗星が太陽に近づくと熱で氷が溶け、表面から放出されたガスや微粒子が太陽の光に反射し光って見える。[[流星]]の元となる塵の[[需要と供給|供給源]]となっている。<br>彗星の中には肉眼でもはっきり見えるほど明るくなるものもあり、数日間~数か月ほど観察できる期間がある、尾の形や大きさが様々であることなどから視認しやすく、古くから観察の対象とされ[[占い|不吉]]なことの[[前兆]]と考えられるなど、[[人類]]の[[関心]]の的となってきた<ref>{{cite web |last = Hirschler |first = Johannes |title = Kometen in der Geschichte |url = http://www.planet-wissen.de/natur_technik/weltall/kometen/kometen_in_der_geschichte.jsp |publisher = [[Planet Wissen]]、[[Westdeutscher Rundfunk Köln]]、[[Südwestrundfunk]]、[[Bayerischer Rundfunk]] |date = 01 June 2009 |accessdate = 2013-10-28 }}</ref>。いくつかの明るい彗星の[[出現]]の[[記録]]は[[古文書|古文献]]や[[壁画]]などに残るほど古代から残されているが、ほとんどの周期が数十年以上であるために、周期的に観察されていることに気づかれたのは「彗星観察の歴史」からすれば最近であると言える。[[古代ギリシア]]の時代から長い間、彗星は[[大気圏]]内の現象だと考えられてきたが、[[16世紀]]になって、宇宙空間にあることが証明された。彗星の性質などにはいまだに不明な点も多く、また近年は太陽系生成論の方面からも大きな関心が寄せられ、彗星の[[核 (天体)|核]]に[[宇宙探査機|探査機]]が送り込まれるなど、研究・観測が活発に続けられている。 彗星には、発見報告順に最大3人まで[[発見|発見者]](個人またはチーム、[[プロジェクト]])の名前がつけられる。彗星を熱心に[[捜索]]する「[[コメットハンター]]」と呼ばれる[[天文家]]もいるが、20世紀末以降は多くの彗星が自動捜索プロジェクトによって発見されるようになっている。 [[2006年]]8月に[[プラハ]]で開かれた[[国際天文学連合]](IAU)総会での決議により、彗星は小惑星とともに '''small solar system bodies(SSSB)'''のカテゴリーに包括することが決定された。これを受け、[[日本学術会議]]は2007年4月9日の対外報告(第一報告)<ref>{{Cite web|和書|title = 対外報告(第一報告:国際天文学連合における惑星の定義及び関連事項の取り扱いについて) |url = https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t35-1.pdf |format = PDF |publisher = [[日本学術会議]]物理学委員会IAU分科会及び天文学・宇宙物理学分科会 |date = 9 April 2007 |accessdate = 2010-01-31}}</ref>において、2007年現在使われている「彗星」「小惑星」などの[[用語]]との関係については将来的に整理されることを前提としたうえで、small solar system bodies の訳語として「[[太陽系小天体]]」の使用を推奨した。 == 物理的特徴 == === 核 === {{main|核 (彗星)}} [[ファイル:Tempel 1 (PIA02127).jpg|thumb|探査機[[ディープ・インパクト (探査機)|ディープ・インパクト]]の衝突体が撮影した[[テンペル第1彗星]]の核。核の大きさは差し渡し6キロほどである。]] 彗星の本体は'''核'''と呼ばれる。核は純粋な氷ではなく、岩石質および有機質の塵を含んでいる。このことから、彗星の核はよく「汚れた雪玉」に例えられる。核の標準的な直径は1 - 10キロ程度で{{Sfn|山本.中村(1984)}}、小さく暗いものでは数十メートル、非常に大きいものでは稀に50キロほどに達する。質量は、大きさによってかなり異なってくるが、直径1キロ程度の彗星で数十億トン単位、10キロ程度の彗星で数兆トン単位であると考えられる{{Sfn|山本.中村(1984)}}。これは、地球の山1つ分ほどに相当する。自らの重力で球形になるには質量が足りないため、彗星の核は不規則な形をしている。 氷の構成成分を分子数で見ると、たとえば[[ハレー彗星]]の場合、80%近くは水({{chem|H|2|O}})で、以下量の多い順に[[一酸化炭素]](CO)、[[二酸化炭素]]({{chem|CO|2}})、[[アンモニア]]({{chem|NH|3}})、[[メタン]]({{chem|CH|4}})と続き{{Sfn|彗星その本性と起源}}<!--p.58--><ref name="Yeoman">{{cite web |last = Yeomans |first = Donald K. |title = Comet |url = http://www.nasa.gov/worldbook/comet_worldbook.html |work = World Book Online Reference Center |publisher = [[ワールドブック百科事典|World Book]] |year = 2005 |accessdate = 2008-12-27 |language = 英語 |deadlinkdate = 2017年10月 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080118042626/http://www.nasa.gov/worldbookcomet_worldbook.html |archivedate = 2008年1月18日}}</ref>、微量成分として[[メタノール]]({{chem|CH|3|OH}})、[[シアン化水素]](HCN)、[[ホルムアルデヒド]]({{chem|CH|2|O}})、[[エタノール]]({{chem|C|2|H|5|OH}})、[[エタン]]({{chem|C|2|H|6}})などが含まれる。さらに鎖の長い[[炭化水素]]や[[アミノ酸]]などのより複雑な分子が含まれる可能性もある<ref>{{cite web |last = Meech |first = M. |title = 1997 Apparition of Comet Hale-Bopp: What We Can Learn from Bright Comets |url = http://www.psrd.hawaii.edu/Feb97/Bright.html |publisher = [[Planetary Science Research Discoveries]] |date = 14 February 1997 |accessdate = 2009-04-25}}</ref><ref name="cnnlife">{{cite web |last = Stenger |first = R. |title = Test boosts notion that comets brought life |url = http://archives.cnn.com/2001/TECH/space/04/06/comet.life/ |publisher = [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date = 6 April 2001 |accessdate = 2009-04-25 |language = 英語 |deadlinkdate = 2017年10月 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090127063759/http://archives.cnn.com/2001/TECH/space/04/06/comet.life/ |archivedate = 2009年1月27日 }}</ref><ref>{{cite web |title = Stardust Findings Suggest Comets More Complex Than Thought |url = http://stardust.jpl.nasa.gov/news/news110.html |publisher = [[アメリカ航空宇宙局|NASA]] |date = 14 December 2006 |accessdate = 2009-04-25 }}</ref>。[[双眼鏡]]や[[望遠鏡]]で見たときに青緑色に見えるのは、これらの微量成分が太陽光で解離してできる{{chem|C|2}}(炭素が2つつながったもの)やCNなどの[[ラジカル (化学)|ラジカル]]の[[スペクトル|輝線]]スペクトルが強いためである<ref>ぐんま天文台 [http://www.astron.pref.gunma.jp/news/040514comet.html ぐんま天文台で撮影・分光したニート彗星 (C/2001 Q4)]</ref>。2009年には、NASAの探査機[[スターダスト (探査機)|スターダスト]]によるミッションで回収された彗星の塵から、アミノ酸の[[グリシン]]が発見されたことが確認された<ref>[http://www.newscientist.com/article/dn17628-found-first-amino-acid-on-a-comet.html "Found: first amino acid on a comet"]、[[ニュー・サイエンティスト]]、17 August 2009</ref>。 塵の成分は[[ケイ酸塩]]や有機物を始めとする炭素質である。ケイ酸塩は結晶質と[[アモルファス|非晶質]]の両方を含む。通常、ケイ酸塩が結晶化するには数百度の高温が必要であり、彗星は、低温でできる氷と高温でできるケイ酸塩結晶が混じり合っている点で珍しい<ref name=ida>井田 (2009)。</ref>。 彗星の核は、太陽系に存在する物体の中でもっとも[[黒]]い天体である{{Sfn|彗星その本性と起源|p=54}}。[[宇宙探査機|探査機]][[ジオット (探査機)|ジオット]]は[[1986年]]にハレー彗星の核に接近し、核の光の[[アルベド]](反射能)が4%しかないことを発見した{{Sfn|彗星その本性と起源|p=54}}<ref name="dark">{{cite web |last = Britt |first = R. R. |title = Comet Borrelly Puzzle: Darkest Object in the Solar System |url = http://www.space.com/scienceastronomy/solarsystem/borrelly_dark_011129.html |publisher = [[Space.com]] |date = 29 November 2001 |accessdate = 2008-10-26}}</ref>。また探査機[[ディープ・スペース1号]]も[[2001年]]に[[ボレリー彗星]]に接近して観測を行い、核の表面のアルベドが2.4%から3%程度しかないことを発見した<ref name="dark" />。これは、[[月]]や[[アスファルト]]の光のアルベドが7%なのと比較するとかなり小さい値である。複雑な[[有機化合物]]がこのような暗い表面を構成していると考えられている。太陽によって表面が熱せられると揮発性の化合物が、特に黒っぽい傾向のある長鎖の化合物を残して蒸発して飛び去ってしまい、[[石炭]]や[[原油]]のように黒くなる。彗星の表面が非常に黒いため、熱を吸収して外層のガスが流出する。 === コマと尾 === [[ファイル:Hale-Bopp,_negative.jpg|thumb|200px|[[ヘール・ボップ彗星]]のネガ写真。弧を描いているダストテイル(写真下部)と真っ直ぐ伸びているイオンテイル(写真上部)。]] [[太陽]]から遠いところでは、低温のため核はすべて凍りついており、[[地球]]上から見てもただの[[恒星]]状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。それにともなって発生した<ref>広島大学宇宙科学センター {{Cite web|和書|url=http://www.hiroshima-u.ac.jp/hasc/kenkyuseika/p_6ccef2.html |title=約40万倍も明るくなったホームズ彗星の詳細な観測 |accessdate=2010年1月11日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130510133457/http://www.hiroshima-u.ac.jp/hasc/kenkyuseika/p_6ccef2.html |archivedate=2013年5月10日 }}</ref>ガスや塵は非常に大きく、きわめて希薄な[[大気圏|大気]]となって核の周りを球状に覆う。これは'''コマ'''と呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。コマの最外層は水素のガス雲となっており、'''水素コロナ'''と呼ばれる{{Sfn|彗星その本性と起源|p=56}}。 [[ファイル:Lulin antitail.PNG|thumb|left|200px|アンチテイルが見える仕組み。この図は[[鹿林彗星]]の軌道を示したもので、地球から見るとダストテイルが太陽の方向を向いているように見える。]] [[ファイル:Encke tail rip of.gif|thumb|left|200px|尾が引きちぎられる[[エンケ彗星]]]] そして、太陽からの[[放射圧]]と[[太陽風]]により、太陽と反対側の方向に'''尾'''が形成される。尾には、'''ダストテイル'''(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、'''イオンテイル'''(イオンの尾)または'''プラズマテイル'''という、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる{{Sfn|彗星その本性と起源|p=57}}。これには、核から放出された塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けていたりするためなどの理由がある。2007年の[[マックノート彗星 (C/2006 P1)|マックノート彗星]]や歴史上の[[大彗星]]のいくつかでは、何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えた。これに対しイオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、尾の一部が見かけ上太陽の方向に伸びているように見えることがあり、'''アンチテイル'''と呼ばれる{{Sfn|山本.中村(1984)|p=88}}([[アラン・ローラン彗星]](C/1956 R1)のアンチテイルは殊に有名である)。実際には太陽に向かって尾が伸びているわけではなく、あくまでも視覚上の錯覚である。アンチテイルの観測は太陽風の発見に大きく貢献した<ref>{{cite journal |last = Biermann |first = L. |title = The plasma tails of comets and the interplanetary plasma |journal = [[Space Science Reviews]] |volume = 1 |issue = 3 |page = 553 |year = 1963 |doi = 10.1007/BF00225271}}</ref>。 [[ファイル:Cometorbit_japanese.png|right|300px|thumb|'''彗星から出る尾の方向とその変化を描いた画像'''。<br />太陽に接近すると尾が生じる。イオンの尾はほぼ常に太陽と逆の方向を向いているが、塵の尾は曲線状になる。]] コマや尾は、核に比べて非常に規模が大きくなる。コマは水素コロナを含めると、時には太陽(直径約139万キロ)よりも大きくなることがある{{Sfn|彗星その本性と起源|p=57}}。また、尾も1[[天文単位]]以上の長さになることがある<ref name="Yeoman"/>。1996年春に明るくなり、観測史上もっとも尾が長く伸びた[[百武彗星 (C/1996 B2)|百武彗星]]では、尾の実長は実に3.8天文単位(5億7,000万キロ)にも達した。コマと尾はどちらも太陽に照らされ、太陽系の内側に入り込んでくると地球から肉眼で見えるようになることもある。塵は太陽の光を直接反射し、ガスはイオン化されるため明るく輝く。ほとんどの彗星は暗すぎて望遠鏡がなければ見ることができないが、10年に数個ほどは、肉眼でも充分見えるほどに明るくなる。 [[1996年]]、百武彗星の観測から彗星が[[X線]]を放射していることが初めて観測された<ref>{{Cite journal|title=Discovery of X-ray and Extreme Ultraviolet Emission from Comet C/Hyakutake 1996 B2 |author=C. M. Lisse, K. Dennerl, J. Englhauser, M. Harden, F. E. Marshall, M. J. Mumma, R. Petre, J. P. Pye, M. J. Ricketts, J. Schmitt, J. Trümper, R. G. West, others |journal=Science |volume=274 |issue=5285 |pages=205-209 |year=1996 |publisher=American Association for the Advancement of Science |doi=10.1126/science.274.5285.205 |url=https://doi.org/10.1126/science.274.5285.205}}</ref>。彗星がX線を放射していることはそれまで予測されていなかったため、この発見は研究者たちを驚かせた。このX線は彗星コマと[[太陽風]]との相互作用により生じると考えられている。[[イオン]]が急速に彗星の大気に突入すると、イオンと彗星の[[原子]]や[[分子]]が衝突する。この衝突により、イオンは1つか複数の電子を捕獲し、それがX線や遠[[紫外線]]の[[光子]]の放出につながると考えられている<ref>{{Cite journal|和書|author=石田卓也 |title=太陽風多価イオン衝突における電荷交換反応 |month=mar |year=2012 |url=https://hdl.handle.net/10748/5098 |issue=首都大学東京、修士論文(理学) |pages=1-84}}</ref>。 == 軌道による分類 == {{彗星の分類}} 彗星は、太陽を[[焦点 (幾何学)|焦点]]のひとつとする[[楕円]]、[[放物線]]あるいは[[双曲線]]の軌道をとり、軌道によって分類される。[[離心率]]が1より小さい楕円軌道を持つ彗星は、太陽を周期的に周回するもので、[[周期彗星]]と呼ばれる。周期彗星が太陽の近くへ戻ってくることを「回帰」という。離心率が1である放物線軌道、あるいは離心率が1より大きい双曲線軌道を持つ彗星は、二度と戻ってこないと考えられ、[[非周期彗星]]と呼ばれる<ref name="SBP">{{cite web |title = Small Bodies: Profile |url = http://pds.jpl.nasa.gov/planets/special/smbod.htm |publisher = [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]/[[ジェット推進研究所|JPL]] |date = 29 October 2008 |accessdate = 2009-04-26}}</ref>。 ただ、惑星や近傍恒星の重力や、[[非重力効果]]により、実際の彗星の軌道は不安定である。特に、周期数百年以上の彗星の楕円軌道は、わずかな軌道の変化で周期が大きく変わるため、周期どおりに戻ってくるとは限らない。また後述する通り、起源や特性からも、周期の長い周期彗星は非周期彗星に近い。このような理由により、彗星を、周期彗星と非周期彗星ではなく、公転周期200年未満の[[短周期彗星]]と、200年以上の[[長周期彗星]]に分けることが多い。その場合、「周期彗星」という言葉は、短周期彗星と長周期彗星の両方を指す場合もあるが<ref>{{cite web |title = Comet |url = http://www.britannica.com/eb/article-54344/comet |work = [[Encyclopedia Britannica Online]] |date = |accessdate = 2009-04-26 |language = 英語 |deadlinkdate = 2017年10月 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080616150306/http://www.britannica.com/eb/article-54344/comet |archivedate = 2008年6月16日 }}</ref>、特に短周期彗星のみを指して用いられる場合もある<ref name="SBP"/>。周期彗星、長周期彗星、非周期彗星の3つに分けることもある。 21世紀初頭では別の種類として、[[小惑星帯]]上にありながら彗星として活動する彗星が発見されており、[[メインベルト彗星]]と呼ばれている<ref>IAU bulletin IB74 <!--(link/more complete info please)--></ref><ref>{{cite web |last = Reddy |first = F. |title = New comet class in Earth's backyard |url = http://www.astronomy.com/asy/default.aspx?c=a&id=4100 |work = [[アストロノミー]] |date = 3 April 2006 |accessdate = 2009-04-29 |language = 英語 |deadlinkdate = 2017年10月 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090127035100/http://www.astronomy.com/asy/default.aspx?c=a&id=4100 |archivedate = 2009年1月27日 }}</ref>。これは小惑星と彗星の分類に見直しを迫ることになるかもしれない。ほかにも、特徴的な軌道を持つ彗星として、近日点が太陽にきわめて近い[[サングレーザー]]がある(後述)。 == 軌道の特徴と起源 == [[ファイル:Oort cloud Sedna orbit jp.svg|300px|right|thumb|'''惑星の軌道、カイパーベルト、オールトの雲の位置関係'''<br />左上図には内惑星と小惑星帯、オレンジ色の木星軌道が描かれている。右上図には紫色の冥王星軌道とカイパーベルトが見える。左下図にある空色に塗られたオールトの雲はこれらとは比較にならないほど遠方に広がっている。]] [[ファイル:Comet Kohoutek orbit p391.svg|thumb|250px|[[コホーテク彗星]](赤)と[[地球]](青)の軌道。彗星の軌道の[[離心率]]が大きく、太陽に近づいたときに軌道速度が速くなることが分かる。]] 短周期彗星は[[エッジワース・カイパーベルト]]、またはそれに隣接する[[散乱円盤天体]]を起源に持つと考えられ<ref name="Davidsson">{{cite web |last = Davidsson |first = B. |title = Comets - Relics from the birth of the Solar System |url = http://www.astro.uu.se/~bjorn/eng_comet.html |publisher = [[ウプサラ大学|Uppsala University]] |date = 2008 |accessdate = 2009-04-25 }}</ref>、ハレー彗星以外に大型の彗星は少ない。一方、長周期彗星の起源は[[オールトの雲]]にあると考えられ、大彗星になるものが多い。特に、以前の観測記録がない大型の彗星は、太陽系の起源を知る上で重要な手がかりとなると考えられている。 小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多い(軌道の[[離心率]]の値が大きい)。彗星がなぜ極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、さまざまな説が提唱されてきた。有名なものとして、[[銀河系]]の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲を含む[[太陽系外縁天体]]の軌道がかき乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説や、[[ネメシス (仮説上の恒星)|ネメシス]]という太陽の連星、あるいは未知の[[惑星X]]の存在を仮定して、その重力的影響によるものだとする説などがある。 [[1950年]]、[[天文学者の一覧|天文学者]]の[[ヤン・オールト]]は、長周期彗星の軌道計算を行い、遠日点が太陽から1万[[天文単位]] - 10万天文単位(約0.1[[光年]] - 1光年)の距離のものが多いことを発見した。そこでオールトは、小天体が多く集まる[[オールトの雲]]と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱した。この仮説は広く受け入れられ、それ以後彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになった。オールトの雲に存在する天体は、ときどきお互いに重力的相互作用([[摂動 (天文学)|摂動]])を起こし、一部が太陽の引力にとらえられて極端な楕円軌道を描くようになり、太陽に非常に接近するようになる。 オールトの雲とエッジワース・カイパーベルトはいずれも、[[太陽系の形成と進化]]の過程において[[原始惑星系円盤]]で形成された[[微惑星]]、または微惑星が集まった[[原始惑星]]が残っていると考えられている領域である。[[太陽]]から3AU以遠では比較的[[凝固点]]の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回るため、微惑星の主成分は氷になる。オールトの雲は、主として[[木星]]や[[土星]]が形成される付近の軌道にあった氷小天体が、形成後の木星や土星に弾き飛ばされたものと考えられ、太陽系を球殻状に取り巻いている。エッジワース・カイパーベルトは太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものと考えられており、[[黄道]]面を取り巻くようにして環状に広がっている。したがって、オールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられている。 2009年11月の時点までで、3,648個の彗星が知られており<ref>{{cite web |last = Johnston |first = R. |title = Known populations of solar system objects |url = http://www.johnstonsarchive.net/astro/sslist.html |date = 21 November 2009 |accessdate = 2010-01-30 }}</ref>、そのうち約1,500個が[[クロイツ群]]の彗星、約400個が短周期彗星である<ref>{{cite web |url = http://ssd.jpl.nasa.gov/dat/ELEMENTS.COMET |title = JPL comet orbital elements |publisher = [[ジェット推進研究所|Jet Propulsion Lab]] |date = |accessdate = 2008-12-27 }}</ref>。この数は増え続けているが、本当に存在するはずの彗星のうちのごく一部である。太陽系外部に存在する彗星の元になる天体はおよそ1兆個存在するかもしれない<ref>{{cite web |title = How Many Comets Are There? |url = http://www.esa.int/SPECIALS/Rosetta/SEMSCM474OD_0.html |work = Rosetta FAQ |publisher = [[欧州宇宙機関]] |date = 9 November 2007 |accessdate = 2009-12-16 }}</ref>。地上から[[肉眼]]で見えるようになる彗星の数はおおまかには1年に1個程度だが、その大部分は暗く目立たない<ref>{{cite journal |last = Licht |first = A. L. |title = The Rate of Naked-Eye Comets from 101 BC to 1970 AD |journal = [[イカルス (雑誌)|Icarus]] |publisher = Elsevier |volume = 137 |issue = 2 |page = 355 |year = 1999 |doi = 10.1006/icar.1998.6048 |url = https://doi.org/10.1006/icar.1998.6048 |issn = 0019-1035 }}</ref>。歴史上、非常に明るく肉眼でもはっきり見え、多くの人に目撃されたような彗星は[[大彗星]]と呼ばれることがある。 <!-- これらはリダイレクトのためのアンカーです。-->彗星は質量が小さく、軌道が楕円であるため、周期的に巨大な惑星に接近し、その度に彗星の軌道は摂動を受け変わる。短周期彗星は、遠日点までの距離が、巨大な惑星の軌道半径と同じになるような強い傾向が見られる。これらはその惑星の名を取って'''木星族'''、'''土星族'''、'''天王星族'''、'''海王星族'''の彗星などと呼ばれる。その中でも、木星の軌道付近に遠日点を持つ木星族の彗星が特に多い{{Sfn|彗星その本性と起源|p=33}}。オールトの雲からやってきた彗星は、しばしば巨大な惑星に接近し、重力の強い影響を受ける。特に木星は、ほかの惑星をすべて合計したより2倍以上大きな質量を持っているため、非常に大きな摂動を彗星に与える。なお、もし木星や土星のような巨大惑星がなければ、現実より多くの彗星が太陽系中心部に侵入し、一部は地球と衝突していただろうという説がある<ref>{{cite web |first = Henry |last = Bortman |url = http://www.astrobio.net/news/modules.php?op=modload&name=News&file=article&sid=1222 |title = Coming Soon: "Good" Jupiters |accessdate = 2007-08-05 |date = September 29, 2004 |publisher = Astrobiology Magazine }}</ref>([[惑星の居住可能性#グッド・ジュピター]]も参照)。 また、重力的な相互作用により軌道が変わったため、過去数十年や数世紀の間に発見された周期彗星のうち、その彗星が将来どこに現れるか予測できるほどよく軌道が定まっていなかったいくつかが見失われている。しかし時折、「新」彗星の過去の軌道をさかのぼることにより、古い「見失われた」彗星と同一だと判明することがある。その例として、[[テンペル・スイフト・LINEAR彗星]](11P)が挙げられる。この彗星は[[1869年]]に発見され、「テンペル・スイフト彗星」と命名されたが、木星の摂動により軌道が変わり、[[1908年]]以降見失われていた。しかし[[2001年]]、[[リンカーン地球近傍小惑星探査|LINEAR]]が偶然発見した「LINEAR彗星(C/2001 X3)」が、発見後しばらくしてテンペル・スイフト彗星と同一の天体だと判明し、93年ぶりの再発見が認定されるとともに、名前がテンペル・スイフト・LINEAR彗星に変更されることとなった<ref name="kronk">{{cite web |last = Kronk |first = Gary W. |title = 11P/Tempel-Swift-LINEAR |url = https://cometography.com/pcomets/011p.html |work = Gary W. Kronk's Cometography |accessdate = 2009-04-27 }}</ref>。 彗星の軌道に関する特徴のひとつとして、軌道面の傾き(軌道傾斜角)が非常に大きいものが多いということが挙げられる。太陽系の惑星は、軌道傾斜角はおおむね数度程度、大きくても10度以内に収まっている。また小惑星も、20度から30度程度まで傾いているものは多いが、軌道傾斜角がある程度小さいものが多い傾向はある。短周期彗星も、惑星の摂動により軌道を変えられた影響もあって、軌道傾斜角が小さいものが大半を占める。しかし、長周期彗星は、黄道面とほとんど垂直な軌道を持ったもの(軌道傾斜角が90度前後)や、惑星や大半の彗星、小惑星と逆向きに公転しているもの(軌道傾斜角が180度であるとも見なせる)も多く、ほとんどランダムに空のどこからでも現れるように見える。これは、オールトの雲の分布が球殻状であると推定する根拠になっている。 == 彗星の明るさとその予測 == 彗星の明るさ、すなわち[[光度 (天文学)|光度]]は、恒星と同じように[[等級 (天文)|等級]]を単位として表される。しかし、彗星は恒星と違って核、コマ、尾などの構造があり、それぞれ明るさがあるため、すべての部分を含んだ明るさを'''全光度'''、核だけの明るさを'''核光度'''と呼び区別する。したがって、コマや尾がほとんど発達していない状態の彗星では全光度と核光度は等しく、逆に大きく発達している場合は核光度より全光度のほうが明るくなることになる。彗星には、中心核が特に明るい、すなわち'''中央集光'''が強いものも、逆に特に明るい部分がなく非常に拡散しているものもある。 彗星の明るさを測定するには、近くにある恒星と比較することになる。コマや尾が発達していない恒星状の彗星では、[[変光星]]や小惑星の場合と同じように、'''比例法'''と'''光階法'''という方法を用いる。しかし、コマや尾が発達している場合、同じ明るさでも点光源と面光源では明るさが違って見えてくるため、単純に比較することはできない。このため、彗星の明るさを憶えてからピントをずらして基準星が同じ大きさに見えるようにし、明るさを比較する'''シジウィック法'''(Sidgwick法、S法)、わざとピントをずらし、彗星と比較星が同じ大きさに見えるようにしてから明るさを比較する'''ボブロフニコフ法'''(Bobrovnikoff法、B法)、彗星が均一な明るさに見える程度にピントをずらしてから明るさと大きさを憶え、基準星が同じ大きさに見えるまでぼかしてから覚えた彗星の明るさと比較する'''モーリス法'''(Morris法、M法)などの方法が用いられる<ref>{{cite web |last = John E. |first = Bortle |authorlink = ジョン・ボートル |title = Five Methods to Estimate a Comet's Brightness |url = http://www.skyandtelescope.com/observing/objects/comets/3304211.html?page=2&c=y |publisher |[[スカイ&テレスコープ|Sky & Telescope]] |accessdate = 2010-01-31 }}</ref>。核光度も、全光度と同様に測定する。測定された彗星の光度は、観測者の熟練の程度やその日の体調、観測器材の状態、観測状況、基準星の明るさの誤差など、さまざまな要因により、観測者によって0.5等級以上ばらつく場合がほとんどである。また、[[CCDイメージセンサ|CCDカメラ]]などで写真を撮影し、近くの基準星を用いて専用ソフトで明るさを測定することもできる。肉眼で見た光度(眼視光度)と、写真で測定した光度(写真光度)は数等級ずれることもある。 彗星の光度を正確に予測するのは非常に難しい。小惑星などの天体は通常、地球までの距離(地心距離)と太陽までの距離(日心距離)の2乗に反比例して明るくなるが、彗星の場合は太陽に近づくと塵やガスが噴出し、コマができたり尾が伸びたりするため、太陽までの距離の5乗から、場合によっては10乗以上に反比例して明るくなっていく。彗星の光度の予測には、一般に以下のような式(光度式)が使用される{{Sfn|山本.中村(1984)|p=115}}。 *''m'' = ''m''{{sub|0}} + 5 log Δ + ''k'' log ''r'' ここで、''m'' は彗星の光度である。''m''{{sub|0}} は'''標準光度'''、または'''絶対光度'''と呼ばれ、彗星が太陽からも地球からも1天文単位の距離にある時の明るさを表す。また、Δ は地心距離、''r'' は日心距離をそれぞれ天文単位で表したものである。また、''k'' は'''光度係数'''と呼ばれる値で、この値が大きいと光度変化は激しくなり、小さいと光度変化は穏やかになる。観測期間が長くなり観測データが多数集まってくると、専用ソフトウェア<ref>例として、[https://www.vector.co.jp/soft/win95/edu/se062292.html 彗星の光度変化を解析したり、彗星の観測を支援] Vector</ref>などを用い、[[最小二乗法]]などの方法で標準光度と光度係数を求めることができる。 発見からまもないなど、観測期間が短くデータも少ない場合は、光度係数を10と仮定して明るさを予測することが一般的である。標準光度は彗星の規模によって大きく違うが、光度係数は5.0から30程度の間に収まるものが大半である。しかし、核が分裂するなどの要因で活動が活発化し急激な増光(アウトバースト)が起こった場合は光度係数が100を越える場合もあるし、アウトバーストが終わるなどで活動が衰えた場合や核が崩壊して消滅していく場合などは、光度係数が大きく負の値を取る場合もある。ある1本の光度式に常によく当てはまる光度変化をする彗星もあるが、活動の規模が途中で変化すれば当てはまる標準光度や光度係数の値も変化する。しかし、いつどのように活動が変化するかを予測することは非常に難しい。何回か回帰している彗星は、以前の記録を基にある程度予測が可能だが、初出現の彗星についてはほぼ不可能である。また初出現の彗星は、しばらく観測しないとどんな光度式が当てはまるのかも分からない。彗星の光度予想が難しいと言われるのはこのような理由による。 == 彗星の崩壊と消失 == [[ファイル:Schwassmann-Wachmann3-B-HST.gif|thumb|1995年に分裂を始めた[[シュワスマン・ワハマン第3彗星]]のB核から放出される物質。[[ハッブル宇宙望遠鏡]]撮影。このアニメーションの期間は3日間。]] === 太陽系からの離脱 === 彗星の軌道速度が速い場合、太陽系の内部に入ってきてそのまま太陽系の外部へ出ていく場合がある。大部分の[[非周期彗星]]がこの例にあたる。また、木星など太陽系内のほかの天体による重力的[[摂動 (天文学)|摂動]]によって加速され、太陽系の外へ放出される場合もある。 === 揮発性物質の枯渇 === 太陽への接近を繰り返すうちに徐々に揮発性の成分が脱落していくが、崩壊・消失に至ることなく小惑星のようになる場合があり、これを[[彗星・小惑星遷移天体]]や枯渇彗星核と呼ぶ<ref>{{cite web |title = What is the difference between asteroids and comets? |url = http://www.esa.int/esaMI/Rosetta/SEMHBK2PGQD_0.html |work = Rosetta FAQ |publisher = [[欧州宇宙機関|European Space Agency]] |date = |accessdate = 2009-04-25}}</ref>。そのような過程を経たと思われる天体や、その過渡期にある天体もいくつか見つかっている。小惑星は彗星とは起源が異なり、太陽系の外側ではなく内側で形成されたと考えられているが<ref>{{cite web |title = What Are Asteroids And Comets? |url = http://neo.jpl.nasa.gov/faq/#ast |work = Near Earth Object Program FAQ |publisher = [[アメリカ航空宇宙局|NASA]] |date = |accessdate = 2009-04-25 }}</ref>、[[ヴィルト第2彗星]]からの[[サンプルリターン]]により得られたサンプルが小惑星のものと似ていたことから<ref>{{cite web |last = Shiga |first = D. |title = Comet samples are surprisingly asteroid-like |url = http://space.newscientist.com/channel/solar-system/comets-asteroids/dn13224-comet-samples-are-surprisingly-asteroidlike.html |publisher = [[ニュー・サイエンティスト]] |date = 24 January 2008 |accessdate = 2009-04-25}}</ref>、21世紀初頭では彗星と小惑星の境界はやや曖昧になっている。 === 分裂と崩壊 === もっとも早期に発見された周期彗星のひとつである[[ビエラ彗星]](3D)は[[1846年]]の回帰時に2つに分裂し、次の回帰である[[1852年]]には双子の彗星となって現れたが、その後は二度と出現しなかった{{Sfn|彗星その本性と起源|p=246}}。その代わり、本来彗星が回帰するはずであった[[1872年]]と[[1885年]]に、1時間あたりの出現数が数万個にも達する壮大な[[流星雨]]が観測された。この流星群は[[アンドロメダ座流星群]]と呼ばれ、毎年11月5日前後に地球がビエラ彗星の軌道に突入するために起こる。21世紀初頭ではほとんど出現はないが、稀に突発的な1時間あたり数十個の出現が観測されることがある。ビエラ彗星以降も、太陽からの輻射熱や物理的作用により、分裂あるいは崩壊、消失した彗星は、多数観測されている。 彗星のさまざまな様相変化の予想は難しく、彗星核の崩壊や消失に関する理論的な研究はあまりなされていない。しかし、[[国立天文台]]の[[福島英雄]]らの観測・研究グループ<ref>{{cite journal|author1=林 悟|author2= 柳澤 正久|author3= 佐藤 勲|author4= 長谷川 均|author5= 中島 崇|author6= 福島 英雄|title= P117 小惑星(201)Penelopeの形状(ポスターセッション口頭1)|journal= 日本惑星科学会秋期講演会予稿集|publisher= 日本惑星科学会|date= 2000年10月|volume= 2000|pages= 51|naid= 110009392487}}</ref>によれば、近日点通過前の彗星頭部の崩壊前にきわめて特異なコマ形状を共通して示していることや、光度観測により[[色指数 (天文)|色指数]](V-I)の変化が特異であることが報告された([[2003年]]春季[[日本天文学会|天文学会]])。実際には彗星の頭部がY字やT字型からおむすびのような形に変化していき、集光も薄れ消失するのだという。このモデルに合致した彗星としては、たとえばSWAN彗星(C/2002 O6)が挙げられ、普通の彗星のコマと違い三角形の形状をしているという報告がなされた。また、ヘーニッヒ彗星(C/2002 O4)も同様な消滅過程だと報告された。また、2020年のアトラス彗星も3月下旬に分裂したと考えられる<ref>{{Cite web |url=http://www.astronomerstelegram.org/?read=13620 |title=Possible Disintegration of Comet C/2019 Y4 (ATLAS) |date=2020-04-06 |author=Quanzhi Ye, Qicheng Zhang |publisher=The Astronomer's Telegram |accessdate=2020-04-10}}</ref>。分裂以前に考えられていた、月より明るい光度は、可能性としてはほぼ無に等しい。 === 衝突 === [[ファイル:Jupiter showing SL9 impact sites.jpg|250px|thumb|[[シューメーカー・レヴィ第9彗星]]が木星の南半球に衝突して形成された黒い衝突痕]] 彗星の中には、太陽に飛び込む<ref>{{cite web |title = SOHO analyes a kamikaze comet |url = http://www.esa.int/esaCP/ESA26YTM5JC_FeatureWeek_0.html |publisher = [[European Space Agency]] |date = 23 February 2001 |accessdate = 2009-04-26 }}</ref>、あるいは惑星やその他の天体に衝突するなど、より劇的な最後を迎えるものもある。彗星と惑星や衛星との衝突は[[太陽系の形成と進化]]の初期にはありふれた出来事だったと考えられている。たとえば地球の衛星である月の膨大なクレーターの一部は、彗星が衝突したことで形成されたと考えられている。 [[1993年]]に発見された[[シューメーカー・レヴィ第9彗星]]は、[[1992年]]に木星に非常に接近した際にその重力に捕らえられ、木星の周りを回る軌道をとっていた。この接近ですでに彗星の核は分裂し、少なくとも21個の破片に分かれていた。そして分裂した核は[[1994年]][[7月16日]]から[[7月22日]]までに相次いで木星の大気に突入、巨大な噴煙や衝突痕は地球からも観測された。2009年、2010年にも木星表面に彗星が衝突した痕跡らしきものが観測された。[[パリ天文台]]に残されている[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]の観測記録によると、1690年にも木星に彗星が衝突した可能性が高い。さらに、2010年に土星と海王星の大気組成の分析が行われ、それぞれ約300年前と約200年前に彗星が衝突したことを示す結果が得られている<ref>{{Cite web|和書|title = 200年前、海王星に彗星衝突 |url = http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/2940/?ST=m_news |publisher = [[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]] |date = 2010-07-26 |accessdate = 2016-05-22}}</ref>。 地球にも約40億年前の[[後期重爆撃期]]には数多くの彗星や小惑星が衝突した。多くの科学者は、後期重爆撃期に地球に衝突した彗星によって、地球の海を満たしている膨大な量の水のほとんど、少なくともかなりの割合がもたらされたと考えている。しかし、その理論を疑う研究者もいる<ref>{{cite web |last = Muir |first = H. |title = Earth's water brewed at home, not in space |url = http://space.newscientist.com/article/dn12693-earths-water-brewed-at-home-not-in-space.html |work = [[ニュー・サイエンティスト]] |date = 25 September 2007 |accessdate = 2009-04-26}}</ref>。彗星に含まれる有機分子を探すことで、彗星や[[隕石]]が生命の前駆物質、あるいは生命自体さえも運んできたのではないかと推測されてきた<ref name="cnnlife" />。 == 彗星の名前と符号 == === 彗星の名前 === 彗星の名前は、過去2世紀にわたって、いくつかの異なる慣習に従って決められてきた。系統的な慣習が採用されていなかった時代には、彗星の命名はさまざまな方法によってされていた。最初の周期彗星(1P)である[[ハレー彗星]]は、彗星の軌道を決定した[[エドモンド・ハレー]]の名前からとられた<ref name="ianridpath1">{{cite web |last = Ridpath |first = Ian |authorlink = イアン・リドパス |title = Halley and his Comet |url = http://www.ianridpath.com/halley/halley4.htm |work = A brief history of Halley's Comet |date = 3 July 2008 |accessdate = 2009-04-27 }}</ref>。同じように、2番目の周期彗星(2P)として知られている[[エンケ彗星]]は、最初の彗星の発見者[[ピエール・メシャン]]ではなく、軌道を決定した天文学者である[[ヨハン・フランツ・エンケ]]の名前がつけられている<ref name="KronkEncke">{{cite web |last = Kronk |first = Gary W. |title = 2P/Encke |url = https://cometography.com/pcomets/002p.html |work = Gary W. Kronk's Cometography |accessdate = 2009-04-27 }}</ref>。[[クロンメリン彗星]](27P)も、同様に軌道計算をした[[アンドリュー・クロンメリン]]の名がつけられている。 18世紀末から20世紀初頭の明るい彗星の中には、[[大彗星#過去の大彗星|3月の大彗星]](Great March comet)などと名付けられたものもある。いくつかは単に[[大彗星]](Great comet)で区別がつかないので、「[[大彗星#過去の大彗星|1811年の大彗星]]」([[レフ・トルストイ|トルストイ]]の『[[戦争と平和]]』に登場する彗星)などとも呼ばれる。 [[20世紀]]初頭、彗星の命名として、発見者の名前をつけるという慣習が一般的になった。これは現在まで続いている。彗星にはその彗星を独立発見した人の名前が先着順で3名までつけられる{{Sfn|山本.中村(1984)|p=18}}。[[1990年代]]に入ると、人工衛星([[IRAS]]や[[SOHO (探査機)|SOHO]]など)や、国際規模の彗星および小惑星の掃天プロジェクトチーム([[リンカーン地球近傍小惑星探査|LINEAR]]、[[地球近傍小惑星追跡|NEAT]]など)による彗星の発見が相次ぐようになり、数多くの彗星に、これらの自動捜索プロジェクト名がつくようになった。たとえば、[[IRAS・荒貴・オルコック彗星]]は、赤外線衛星IRASと、[[日本]]のアマチュア天文家の[[荒貴源一]]、[[イギリス]]の[[ジョージ・オルコック]]によって、独立に発見された。現在では、自動捜索プロジェクト名でない彗星のほうが少ない。 同じ発見者が複数の彗星を発見しても、名前で区別はされない。そのため、たとえば「[[SOHO彗星]]」という名前の彗星は1,000を超える。彗星を一意に示すには、後述する符号を使う必要がある。ただし、- 第1彗星、- 第2彗星などを末尾につけて区別することもある。 また、過去に出現した彗星が再発見された場合、彗星自体の発見が公表されたあとに過去の彗星と同定された場合には過去の彗星の名に再発見者の名前がつけられることもある{{Sfn|山本.中村(1984)|p=18}}。例としては、[[バーナード・ボアッティーニ彗星]](206P = D/1892 T1 = P/2008 T3)などがある。なお、発見の公表前に過去の彗星と同定された場合には再発見者の名前はつかない。例としては、[[2008年]]に[[板垣公一]]と[[金田宏]]が再発見し、発見の公表前に同定された[[ジャコビニ彗星 (205P)|ジャコビニ彗星 (205P = D/1896 R2)]](前述のようにジャコビニ彗星の名のある彗星は10個あり、そのうちのひとつ)がある。 なお、[[キロン (小惑星)|キロン]](95P/2060)など少数の彗星が、小惑星として発見され、[[小惑星#命名規則|小惑星の命名規則]]に基づいて命名されたあとに彗星であることが判明している。逆に見失われていた彗星が小惑星として再発見された例もあり、彗星としての名前のまま小惑星としても登録されている([[彗星・小惑星遷移天体]]を参照)。 === 旧方式符号 === 1994年までの彗星の系統的な符号のつけ方としては、まず最初にその彗星が発見された年と、その年内の発見順を示す文字からなる[[仮符号]]が与えられた。たとえば[[ベネット彗星 (C/1969 Y1)|ベネット彗星]]の仮符号は「1969i」で、1969年の9番目に発見された彗星であることを意味する{{Sfn|山本.中村(1984)|p=18}}<ref name="arnett">{{cite web |last = Arnett |first = B. |title = &thinsp;'Official' Astronomical Names |url = http://www.nineplanets.org/names.html |publisher = [[国際天文学連合|International Astronomical Union]] |date = 14 January 2000 |accessdate = 2006-03-05 }}</ref>。彗星の軌道が確定すると、彗星には、[[近点・遠点|近日点]]通過の年と[[ローマ数字]]からなる確定符号が与えられた{{Sfn|山本.中村(1984)|p=18}}<ref name="arnett"/>。ベネット彗星の確定符号は「1970 II」となる。確定符号は、日本語に訳して、1970年第2彗星などとも呼んだ。確定符号がつくと、仮符号は使われなくなった。 彗星の発見数が増加してくると、この方法の運用に綻びが生じてきた。観測技術の進歩により1年の発見数が25を超え、仮符号に使うアルファベットが足りなくなり、また近日点通過から1年以上経って発見されるものも出てきて、確定符号の近日点通過順という原則も崩れてきた。そこで1994年に[[国際天文学連合]]は新しい命名方法を採用し、1995年から実施された。 === 新方式符号 === 符号は発見が報告された年、月、発見報告順を元にしてつけられる。たとえば、[[ヘール・ボップ彗星]]の場合は「C/1995 O1」(シー/1995 オー1)と記載される。 #最初の「C/」は「Comet」を意味し、発見報告直後のすべての彗星にはこの符号がつけられる。発見報告後の観測により、周期彗星(なお、本節に限り、「周期彗星」を「公転周期200年以下または複数の近日点通過が観測された彗星」と定義する)だと分かった場合、記号は「P/」(Periodic)に変更される。周期彗星でない場合は「C/」のままである。また、消滅した、または、長期間観測されない周期彗星には「D/」、軌道を求めることができなかった彗星には「X/」をつける。2006年7月時点、「D/」がついた彗星は24個、「X/」がついた彗星は54個ある。<!--彗星と思われていた天体が小惑星だと分かった場合は「A/」、衛星だと分かった場合は「S/」を付ける。小惑星として発見された天体が過去の彗星と同定され「A/」が付いた例はあるが([[ブランペイン彗星]])、「S/」に変更された天体はまだ無い。--> #「1995」は、発見が報告された年を表す。 #「O」は発見が報告された時期を表す。1月前半(15日まで)が「A」、1月後半(16日から)が「B」、というように、1年を24に分けて表す。ただし、「I」は「J」や「1」と紛らわしいので飛ばし、「Z」は使わない。この規則は、小惑星と共通である。 #「1」は、その時期の中での発見報告順を表す。ヘール・ボップ彗星は、1995年7月後半に発見が報告された最初の彗星であることが分かる。 #彗星が分裂した場合、「-A」「-B」などが末尾につけられる。 #2回目の回帰が観測された彗星、または遠日点でも観測できる彗星、あるいは4回の[[衝]]が観測された[[ケンタウルス族 (小惑星)|ケンタウルス族]]彗星には、「P/」(または「D/」)の前に公式通し番号がつけられる。たとえば、[[スパール彗星 (171P)|スパール彗星]]が回帰して[[2005年]]に再発見されたときの符号は「171P/2005 R3」で、同時に、最初の発見は「P/1998 W1」から「171P/1998 W1」に変更された(再発見には別の符号がつくことに注意)。複数回の発見を区別する必要がないときは、「171P/Spahr」と表現される。[[2010年]]9月現在、[[スコッティ彗星 (244P)|244P/Scotti]] まで番号がつけられている。1994年以前の彗星にも、新方式符号がさかのぼってつけられる。たとえば、前述のベネット彗星の新方式符号は「C/1969 Y1」となる。つまり、1994年以前の彗星は、符号が3つあるということになる。 なお、従来は発見者が発見した順に「テンペル第1彗星」「ヴィルト第2彗星」というように番号(接尾数字)がつけられていた(接尾数字と、公式通し番号の順とは一致しない)が、1995年頭より新発見の彗星には接尾数字がつけられなくなり、2000年には過去の彗星からも接尾数字が廃止された<ref>[http://www.icq.eps.harvard.edu/cometnames.html Comet Names and Designations; Comet Naming and Nomenclature; Names of Comets] の[[2000年]]版・第3段落</ref>。 == 彗星観測の歴史 == === 古代・中世の記録と信仰 === [[Image:Mawangdui Astrology Comets Ms.JPG|thumb|[[馬王堆漢墓]]より発掘された『天文気象雑占』より彗星図。占文は、これらの彗星が現れると兵乱や疫病の流行が起こると記している。]] [[ファイル:Tapestry of bayeux10.jpg|right|thumb|[[バイユーのタペストリー]]に描かれたハレー彗星(右上)。上には[[ラテン語]]で「彼らは星を(驚き)見ている」と書かれており、[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]の従臣たちが彗星を指差して恐れる姿が描かれている。]] [[File:Book of Miracles.jpg|right|thumb|[[1506年]]に[[アウクスブルク]]で観測された彗星を描いた絵画]] 望遠鏡が発明される以前、彗星は夜空の何もないところから突然現れ、ゆっくりと消えていくように観測された。そのため、[[流星群]]や[[日食]]と同様に、君主の死や国の滅亡、災害、疫病といった出来事を予告する凶兆と信じられ、果ては地球の住人に対する天からの攻撃であると解釈されることすらあり、人々はその出現を恐れた。 世界各地で古代より彗星についての記録が残っている。[[紀元前3千年紀|紀元前2320年]]の[[バビロニア]]や、『[[ギルガメシュ叙事詩]]』、『[[ヨハネの黙示録]]』、『[[エノク書]]』といった書物で「落ちる星」として言及されているが、これらは彗星もしくは[[火球]]について言及したものだと解釈されている。中国では特に多くの記録が残っており、紀元前より[[ハレー彗星]]の回帰が4度記録されている。[[紀元前11世紀|紀元前1059年]]ごろ、[[殷]]代末期の[[甲骨文字|甲骨文]]に彗星と思われる記述が残されているが、確実な最古と言える記録は[[紀元前7世紀|紀元前613年]]の『[[春秋]]』に記されたものとされている。ほか[[紀元前3世紀|紀元前240年]]、[[秦]]の[[始皇帝]]がハレー彗星を見たとする記録が『[[史記]]』に残されている<ref name="sakka">[http://www.kcg.ac.jp/kcg/sakka/tenkyozai/comet.htm 京都コンピュータ学院]</ref>。[[ヨーロッパ]]では彗星は気象現象の一種だと考えられていたため、古い記録は中国ほど多くはないが、有名な例として[[1066年]]、[[イングランド王国]]の[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]が即位して間もない頃に「火の星」が現れ、従臣たちを怯えさせたことが『[[アングロサクソン年代記]]』や[[バイユーのタペストリー]]に記録されており<ref>{{cite web |title = Long Live the King - Scene 1 |url = http://www.bayeuxtapestry.org.uk/Bayeux14.htm |work = Bayeux tapestry |publisher = Museum of Reading |accessdate = 2009-04-17 }}</ref>、その直後に戦役が発生、王は戦死し[[ノルマン・コンクエスト|国は征服された]]。日本では、[[684年]]のハレー彗星の回帰に関する記述が『[[日本書紀]]』にみられる<ref name="sakka"/>。[[13世紀]]に災厄が多発した際には、[[末法]]の時代に現れるという「[[三災七難|星宿変怪難]]」として恐れられた<ref>{{Cite journal|和書|author=関戸堯海 |title=『立正安国論』と『吾妻鏡』 |journal=印度學佛教學研究 |issn=0019-4344 |publisher=日本印度学仏教学会 |year=1996 |volume=45 |issue=1 |pages=232-236 |naid=110002662725 |doi=10.4259/ibk.45.232 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.45.232}}</ref>。 === 観察と考察 === [[アリストテレス]]は、彼が著した最初の[[気象学]]の本『気象論』(''Meteorologica'')[http://classics.mit.edu/Aristotle/meteorology.1.i.html]で彗星に対する見解を示し、それが西洋の思想を2000年近くにわたって支配することになった。彼は、彗星は[[惑星]]であるか少なくとも惑星に関係する現象であるという、それまでの学者の説を否定し天文現象ではなく気象現象と考えた{{Sfn|彗星その本性と起源|p=226}}。その根拠は、惑星の動く範囲は[[黄道帯]]の中に限られるが、彗星は空のあらゆるところに現れるというものであった<ref>{{cite book |author = Aristotle |others = Webster, E. W. (trans.) |chapter = Book I, part 6 |chapterurl = http://classics.mit.edu/Aristotle/meteorology.1.i.html |title = [[気象論|Meteorologica]] |year = 350 BCE }}</ref>。その代わり、彼は彗星を[[大気圏|大気]]の上層部で起こる現象だととらえ、そこは温度が高く、乾いた蒸気が集まり時々勢いよく炎が燃え上がるのだと考えた。彼はこの仕組みは彗星だけでなく、[[流星]]や、[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]、そして[[天の川]]の成因にさえなっていると考えた<ref>{{cite book |author = Aristotle |others = Webster, E. W. (trans.) |chapter = Book I, part 7 |chapterurl = http://classics.mit.edu/Aristotle/meteorology.1.i.html |title = [[気象論|Meteorologica]] |year = 350 BCE }}</ref>。 その後、この彗星に対する見方に反論する古代の学者が少数だがいた。[[ルキウス・アンナエウス・セネカ]]は、彼の著書『自然研究』(''Quaestiones naturales'')において、彗星は空を規則的に動き、[[風]]に邪魔されることがなく、大気中の現象よりは天体に典型的な運動をすることを述べていた。彼はほかの惑星が黄道帯の外に現れることがないことを認めつつも、[[天球]]上のものに関する人間の知識は限られているため、惑星のような物体が空のあらゆるところに現れる可能性を否定する理由はないとした。しかし、アリストテレスの立場のほうが影響力が大きく、彗星が地球の大気圏外にあるということが証明されたのは[[16世紀]]のことであった。 [[1577年]]に明るい彗星が現れ、数か月間肉眼で観察できた。[[デンマーク]]の天文学者[[ティコ・ブラーエ]]は、彗星に測定可能な[[視差]]がないことを確かめるため、彗星の位置を自分で測定するとともに、遠く離れた場所の観測者にも測定させた。正確な測定をしたところ、その測定結果は、彗星が少なくとも月より4倍以上遠くにあるということを示していた<ref name="ESO part I">{{cite web |title = A Brief History of Comets I (until 1950) |url = http://www.eso.org/public/events/astro-evt/hale-bopp/comet-history-1.html<!--Archive of an old version of this page: https://web.archive.org/web/20060517025651/http://www.eso.org/outreach/info-events/hale-bopp/comet-history-1.html--> |publisher = [[ヨーロッパ南天天文台|European Southern Observatory]] |date = 17 October 2003 |accessdate = 2009-04-27 |archiveurl = https://archive.is/20121209043317/http://www.eso.org/public/events/astro-evt/hale-bopp/comet-history-1.html |archivedate = 2012年12月9日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref>。 18世紀にもなると、多くの天文学者たちが彗星の発見と研究を競ったが、中には彗星と紛らわしい天体があることも知られるようになった。[[1764年]]にロンドン王立協会の外国人会員になったフランスのシャルル・メシエは、自らも彗星の捜索を行うかたわら、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口していた。そこでメシエは彗星ではない天体のリストを作り始めた。これが天体カタログの『[[メシエカタログ]]』である。メシエ自身も1760年に最初の彗星を発見している(C/1760 B)<ref>{{cite web |url=http://www.comethunter.de/cat2002/com_disc.txt |title=Maik Meyer. Catalog of comet discoveries |accessdate=2008年5月15日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080716110006/http://www.comethunter.de/cat2002/com_disc.txt |archivedate=2008年7月16日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。 === 軌道の研究 === [[ファイル:Newton Comet1680.jpg|thumb|300px|[[アイザック・ニュートン]]の[[自然哲学の数学的諸原理|プリンキピア]]に示された、[[放物線]]に合わせた1680年の大彗星の軌道]] 彗星が宇宙空間にあるということは証明されたが、彗星がどうやって空を移動しているのかという疑問は、その後、数世紀にわたって議論の中心になるように思われた。[[ヨハネス・ケプラー]]が[[1609年]]に、惑星の軌道は[[楕円軌道]]であると決着をつけたあとでさえ、彼は惑星の運動を支配している法則([[ケプラーの法則]])がほかの天体にも影響を与えていると信じるのを躊躇した。彼は彗星は惑星の間を[[直線]]軌道で運行していると信じていた{{Sfn|彗星その本性と起源|p=231}}。[[ガリレオ・ガリレイ]]は、[[地動説]]を唱えた[[ニコラウス・コペルニクス]]の擁護者であったにもかかわらず、ティコによる彗星の視差の測定結果を受け入れず、彗星は地球大気の上層を直線状に動くというアリストテレスの考えを支持し続けた。ただし、ケプラーの師[[ミヒャエル・メストリン]]は彗星の軌道が直線からわずかにずれることを観測で確認しており、ケプラーも自身の説を発表するにあたって師のデータを改竄せず、その理由について「地球の運動のため」との(誤った)考察を与えている{{Sfn|彗星その本性と起源|p=231}}。 ケプラーの惑星の運動の法則が彗星にも適用されるべきだと初めて提案したのは[[ウィリアム・ローワー]]で、[[1610年]]のことであった<ref name="ESO part I"/>。その後、数十年間、[[ピエール・プティ (物理学者)|ピエール・プティ]]、[[ジョヴァンニ・ボレリ]]、[[アドリアン・オーズー]]、[[ロバート・フック]]、そして[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]などを含むほかの天文学者たちは、彗星は太陽の周りを曲線状の軌道、楕円軌道か[[放物線]]軌道を描いて運行しているという説を唱えたが、その一方、[[クリスティアーン・ホイヘンス]]や[[ヨハネス・ヘヴェリウス]]は、彗星は直線運動をしているという説を支持した。 この問題は、[[1680年]][[11月14日]]に[[ゴットフリート・キルヒ]]が発見した[[キルヒ彗星]]によって解決された。[[ヨーロッパ]]のいたるところで、天文学者たちはこの彗星の位置を観測し続けた。[[1687年]]、[[アイザック・ニュートン]]は彼の著書『[[自然哲学の数学的諸原理]]』(プリンキピア)において、[[万有引力]]の[[逆2乗の法則]]の影響下で運動する物体は、軌道の形が[[円錐曲線]]の一種になるということを証明し、天空における彗星の運動が放物線軌道とどのように適合するかを、1680年の彗星を例にして具体的に説明した<ref>{{cite book |last = Newton |first = Isaac |authorlink = アイザック・ニュートン |chapter = Lib. 3, Prop. 41 |title = [[自然哲学の数学的諸原理|Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica]] |publisher = [[Royal Society of London]] |year = 1687 }}</ref>。 [[1705年]]、[[エドモンド・ハレー]]は、[[1337年]]から[[1698年]]までの24個の彗星の出現に対して、ニュートンの手法を応用した。するとハレーは、1531年、1607年、1682年に現れた3つの彗星の[[軌道要素]]が、きわめて似通っていることに気づいた。しかも、軌道要素のわずかな違いは、木星と土星による重力的な摂動によって説明することができた。彼はこの3つの彗星の出現は、同じ彗星が3回出現したものだと確信し、この彗星は1758年か1759年に再び戻ってくるだろうと予言した<ref name="Halley">{{cite journal |last = Halleio |first = Edmundo |title = IV. Astronomiæ cometicæ synopsis, Autore Edmundo Halleio apud Oxonienses Geometriæ Professore Saviliano, & Reg. Soc. S |journal = Philosophical Transactions |volume = 24 |pages = 1882-1899 |year = 1705 |doi = 10.1098/rstl.1704.0064 |url = https://doi.org/10.1098/rstl.1704.0064 }}</ref>(ハレー以前に、ロバート・フックがすでに[[C/1664 W1|1664年に出現した彗星]]と1618年の彗星を同定し<ref>{{cite book |last = Pepys |first = Samuel |authorlink = サミュエル・ピープス |chapter = March 1st |chapterurl = http://en.wikisource.org/wiki/Diary_of_Samuel_Pepys/1665/March#March_1st |title = Diary of Samuel Pepys |year = 1665 }}</ref>、また同じころカッシーニも1577年、1665年、1680年の彗星は同じものではないかと推測していたが<ref>{{cite book |last = Sagan |first = Carl |last2 = Druyan |first2 = Ann |title = Comet |pages = 42-43 |publisher = [[ランダムハウス|Random House]] |year = 1985 |isbn = 0-394-54908-2 }}</ref>、これらはどちらも間違っていた)。ハレーが予言した彗星の戻ってくる期日は、のちに3人の[[フランス]]の[[数学者]]によって改良された。[[アレクシス・クレロー]]、[[ジェローム・ラランド]]、[[ニコル=レーヌ・ルポート]]<!--Nicole-Reine Lepaute-->である。彼らは彗星の1759年の近日点通過日時を1か月以内の誤差で予言した<ref>Sagan, Carl (1985).</ref>。彗星は予言通りに回帰し、その彗星は[[ハレー彗星]]として知られることとなった(公式な符号は'''1P/Halley''')<ref name="ianridpath1"/>。 短い周期を持ち、歴史上の記録に何度も登場するような彗星の中で、ハレー彗星はどの出現でも肉眼で見えるほどの明るさになったという点で特異である。ハレー彗星の出現の周期性が確立して以降、数多くの周期彗星が[[望遠鏡]]を使って発見されてきた。2番目に発見された周期彗星は[[エンケ彗星]](公式な符号は'''2P/Encke''')である<ref name="KronkEncke"/>。[[1819年]]から[[1821年]]までの期間中、[[ドイツ]]の数学者・[[物理学者]]の[[ヨハン・フランツ・エンケ]]は、1786年、1795年、1805年、1818年に観測された一連の彗星の出現から軌道を計算し、これらは同一の彗星であるという結論を下し、[[1822年]]の出現を予言するのに成功した<ref name="KronkEncke"/>。1900年までに、17個の彗星について1回以上の近日点通過が観測され、周期彗星として確認された。2010年までに、240個以上の彗星について周期彗星としての識別に成功しているが、そのうちのいくつかは消滅したり見失われたりしている。 === 物理的特徴の研究 === [[アイザック・ニュートン]]は、彗星を固く締まった頑丈な固体だとした。つまり非常に長い楕円軌道を描き、その軌道と方向がかなり自由な惑星の一種であって、その尾は、太陽熱で着火または加熱された頭部、つまり彗星の核から放出された非常に希薄な蒸気だと考えていたのである。また、ニュートンにとっては彗星は、惑星の水分と湿気を維持するために不可欠なものだと思われた。つまり、彗星の蒸気と放出ガスが凝縮したものから、植物が生まれ腐敗し乾燥した土になるために使われるすべての水分が再供給、補充されるとした。ニュートンは、すべての植物は液体から増え、それが腐敗して土になると考えていたためである。だとすると乾いた土の量は絶えず増加するため、その惑星の水分は絶えず供給されていない限り絶えず減っていき、ついにはなくなるはずだと考えたのである。ニュートンは、われわれの空気のもっとも精妙で最上の部分を構成する、生命とすべての存在に絶対不可欠な精気が、彗星によってもたらされるのではないかと考えた。また、彼の推測によると、彗星は太陽に新しい燃料を補充しており、その発光体からすべての方向に絶えず送られる流れによって太陽の光を回復させているとした。 {{blockquote| 「巨いなる沸き立つ尾より振るえては<br />あまたの珠玉に潤いを甦らせる<br />その長き楕円の風の吹くところ<br />傾く太陽に新たな燃料を与える<br />星界を照らすがため天空の火を養う」<ref>[[ジェームズ・トムソン (詩人)|ジェームズ・トムソン]]『四季』(1730年)</ref> }} 18世紀以前に、彗星の物理的構造について正しい仮説を立てていた科学者もいた。[[1755年]]、[[イマヌエル・カント]]は、彗星は揮発性の物質で構成されており、それが蒸発することが原因で近日点付近で彗星が明るくなるのだという仮説を立てた<ref>[[カール・セーガン]] / [[アン・ドルーヤン]]『ハレー彗星』(1985年)</ref>。1836年には、ドイツの数学者[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル|フリードリッヒ・ベッセル]]が、1835年のハレー彗星の回帰で蒸気の流れを観察したことから、彗星から蒸発した物質の反動は、彗星の軌道に大きな影響を与えるのに十分なほど大きい可能性があると指摘し、[[エンケ彗星]]の非重力的な運動はこの仕組みによるという説を唱えた<ref>Sagan, Carl (1985). 117</ref>。 しかし、彗星に関連したほかの発見により、1世紀近くこれらの説はほとんど忘れ去られていた。[[1864年]]から[[1866年]]の期間中、[[イタリア]]の天文学者[[ジョヴァンニ・スキアパレッリ]]は[[ペルセウス座流星群]]の軌道を計算し、軌道の類似性から、[[スイフト・タットル彗星]]の塵がペルセウス座流星群の原因であるという仮説を立てた。彗星と流星群との関連は、[[1872年]]に劇的な形で示されることとなった。[[ビエラ彗星]]を原因とする、激しい流星群の活動が観察されたのである。ビエラ彗星は、[[1846年]]の回帰で2つに分裂したのが観察され、次の[[1852年]]の回帰以降はまったく観測されなくなっていた彗星である<ref>{{cite web |last = Kronk |first = Gary W. |title = 3D/Biela|url=https://cometography.com/pcomets/003d.html |work = Gary W. Kronk's Cometography |accessdate = 2022-01-27 }}</ref>。これを基にして、彗星は表面を覆う氷の層と、緩く堆積した小さな岩石のような物体から構成されているとする、彗星の構成の「砂利の堆積」モデルが現れた。 20世紀半ばまで、このモデルは数々の欠点に悩まされてきた。特に、わずかな氷しか含んでいない物体が、何回かの近日点通過を経たあとも蒸気が蒸発することで明るく見え続けるということがなぜ可能なのかを説明できなかった。[[1950年]]、[[フレッド・ホイップル]]が、「彗星は氷と塵からなる」という「汚れた雪玉」を提唱した{{Sfn|彗星その本性と起源}}<ref name="Whipple">{{cite journal |last = Whipple |first = Fred L. |authorlink = フレッド・ホイップル |title = A comet model. I. The acceleration of Comet Encke |journal = [[アストロフィジカルジャーナル|Astrophysical Journal]] |volume = 111 |issue = |pages = 375-394 |year = 1950 |doi = 10.1086/145272 }}</ref>。岩石主体の天体にわずかに氷が混じっているのではなく、氷が主体の天体に塵や岩石が混じっているというのである。この「汚れた雪球」モデルはすぐに受け入れられた。 === 彗星探査機による観測 === [[アメリカ航空宇宙局]](NASA)の打ち上げた[[ISEE-3/ICE|ISEE-3]]は、当初のミッションを終えたあとにICEと改名されて地球の重力圏を離れ、[[1985年]]に[[ジャコビニ・ツィナー彗星]]に接近し、彗星への近接探査を行った最初の[[宇宙探査機]]となった。翌[[1986年]]には、日本の[[宇宙科学研究所]](ISAS)、[[欧州宇宙機関]](ESA)、[[ソビエト連邦|ソ連]]・東欧宇宙連合(IKI)が打ち上げた計5機の探査機にICEを加えた6機、通称[[ハレー艦隊]]が連携してハレー彗星の核を観測した。ESAのジオットが核を撮影したところ、蒸発する物質の流れが観測され、ハレー彗星は氷と塵の集まりであることが確かめられ、ホイップルの説が実証された。ジオットは1992年にも[[グリッグ・シェレルップ彗星]]に接近、観測を行った。 [[1998年]]に打ち上げられたNASAの工学実験探査機[[ディープ・スペース1号]]は、[[2001年]][[7月21日]]に[[ボレリー彗星]]の核に接近して詳細な写真を撮影し、ハレー彗星の特徴はほかの彗星にも同様に当てはまることを立証した。 [[ファイル:Comet wild 2.jpg|thumb|300px|探査機スターダストが撮影したヴィルト第2彗星。明るい面と暗い面からジェットが噴出しており、地形は荒涼としていて、乾燥していた。]] その後の宇宙飛行ミッションは、彗星を構成している物質についての詳細を明らかにすることを目標に進められている。[[1999年]][[2月7日]]に打ち上げられた探査機[[スターダスト (探査機)|スターダスト]]は、[[2004年]][[1月2日]]には[[ヴィルト第2彗星]]に接近して核を撮影するとともにコマの粒子を採取し、[[2006年]][[1月15日]]に標本を入れたカプセルを[[サンプルリターン|地球に投下した]]。標本の分析により、彗星を構成する主要元素の構成比から、彗星は太陽や惑星などの原材料物質であることを示すとともに、高温下で形成される[[カンラン石]]などが発見された。高温下で形成される物質は従来の説で彗星が生まれたとされる領域で形成されたとは考えにくく、太陽に近い場所で形成された物質が彗星が形成された太陽系外縁部まで運ばれてきた可能性や、従来の説よりも彗星が形成された場所が太陽に近い場所であった可能性など、彗星の形成理論の再構築が必要となる可能性がある<ref name="ApolloHayabusa">門野、中村、杉野『異星の踏査-「アポロ」から「はやぶさ」へ展図録』(2007) pp.179-188</ref>。 [[2005年]][[1月12日]]に打ち上げられた探査機[[ディープ・インパクト (探査機)|ディープ・インパクト]]は、同年[[7月4日]]に、核内部の構造の研究のために[[テンペル第1彗星]]にインパクターを衝突させた。この結果、短周期彗星であるテンペル第1彗星の成分は長周期彗星のものとほぼ同じであることが判明した。さらに、塵の量が氷よりも多かったことから、彗星の核は「汚れた雪玉」というよりも「凍った泥団子」であると見られている。またテンペル第1彗星の内部物質からも、かつて高温下の条件を経験したと考えられる物質が検出されたため、ヴィルト第2彗星からの物質とともに彗星の形成理論や太陽系初期の状況を考える上で貴重な情報となった<ref name="ApolloHayabusa"/>。 ==== これまでに行われた近接探査 ==== * [[ISEE-3/ICE|ICE]]…(21P)[[ジャコビニ・ツィナー彗星]]、(1P)[[ハレー彗星]] * [[さきがけ (探査機)|さきがけ]]、[[すいせい]]、[[ベガ1号]]、[[ベガ2号]]…(1P)ハレー彗星 * [[ジオット (探査機)|ジオット]]…(1P)ハレー彗星、(26P)[[グリッグ・シェレルップ彗星]] * [[ディープ・スペース1号]]…(19P)[[ボレリー彗星]] * [[スターダスト (探査機)|スターダスト]]…(81P)[[ヴィルト第2彗星]] * [[ディープ・インパクト (探査機)|ディープ・インパクト/エポキシ]]…(9P)[[テンペル第1彗星]]、(103P)[[ハートレー第2彗星]] * スターダスト…(9P)[[テンペル第1彗星]] * [[ロゼッタ (探査機)|ロゼッタ]]…(67P)[[チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星]] ==== 実現しなかった近接探査 ==== * さきがけ…(21P)ジャコビニ・ツィナー彗星 * ディープ・スペース1号…(107P/ 4015)[[ウィルソン・ハリントン彗星]] * [[CONTOUR]]…(2P)[[エンケ彗星]]、(73P)[[シュワスマン・ワハマン第3彗星]] * ロゼッタ…(46P)[[ワータネン彗星]] * ディープ・インパクト…(85P)[[ボーティン彗星]] == 彗星の探索と発見の歴史 == 望遠鏡がなかった時代、彗星の発見はもっぱら肉眼によるものであった。[[1608年]]に望遠鏡が発明されると、それによって、肉眼では見えないような暗い彗星を発見することができるようになった。やがて、望遠鏡や双眼鏡を駆使して、彗星の捜索を精力的に行う、'''[[コメットハンター]]'''(comet hunter)と呼ばれる天文家が現れた。 後述のような自動探査プロジェクトが、電子機器の発達などによって、技術的に可能になった20世紀最末期に至るまで、彗星や小惑星の新発見はこうしたアマチュア天文家に深く依存していた。 === 主なコメットハンター === 20世紀以降に活躍したものを挙げる。より詳細や過去の[[コメットハンター]]については当該項目を参照のこと。 * 日本 **[[本田実]] - 日本のコメットハンターの先駆け的存在。 ** [[池谷薫 (アマチュア天文家)|池谷薫]] - 1965年に大彗星になった[[池谷・関彗星 (C/1965 S1)|池谷・関彗星]]の第一発見者。 ** [[関勉]] - 池谷・関彗星の第二発見者。 ** [[百武裕司]] - 1996年に大彗星になった[[百武彗星 (C/1996 B2)|百武彗星]]の発見者。 * 日本以外 **[[ドナルド・マックホルツ]](Donald Machholz)- アメリカ ** [[ユージン・シューメーカー]](Eugene Merle Shoemaker)と[[キャロライン・シューメーカー]](Carolyn Spellman Shoemaker)夫妻 - アメリカ。小惑星を含め多数の発見記録がある。1994年の[[シューメーカー・レヴィ第9彗星]]は有名。 ** [[ウィリアム・ブラッドフィールド]](William Bradfield)- オーストラリア。彗星発見18個はアマチュアでは現役最高記録。 ** [[テリー・ラヴジョイ]](en:Terry Lovejoy)- オーストラリア。2011年に大彗星となったラヴジョイ彗星(C/2011 W3)を発見。 ** [[ロバート・マックノート]](Robert H. McNaught)- オーストラリア。2007年に大彗星となったマックノート彗星(C/2006 P1)を発見。彗星発見数は約50個。 1990年代後半になると、このような状況に劇的な変化が生じた。[[リンカーン地球近傍小惑星探査|LINEAR]]や[[地球近傍小惑星追跡|NEAT]]などといった[[地球近傍小惑星]]の強力な自動捜索プロジェクトが相次いで始動し、[[冷却CCDカメラ]]によって18等や20等などといったきわめて暗い彗星が根こそぎ発見されるようになったのである。北半球で太陽から比較的離れた区域の空は自動捜索プロジェクトによってほとんどの彗星が発見されるようになり、アマチュア天文家などが彗星を発見することは非常に困難になった。また、1996年には太陽観測衛星[[SOHO (探査機)|SOHO]]が観測を始め、その副産物として、[[クロイツ群]]に属する彗星がきわめて多数発見されるようになった。 === 自動捜索プロジェクトなど === [[地球近傍天体]]捜索プロジェクトなど。以下のプロジェクト名の中には定訳がないものもあるのに注意。<!-- 数え方が不明瞭なため、最新の数字への変更は断念。SOHOの1000突破のみ反映。- by U3002 --> * [[スペースウォッチ]] - Spacewatch。アメリカの[[アリゾナ大学]]。[[1991年]]から2005年7月までに短周期彗星1個を含む11個の彗星を発見。 * [[地球近傍小惑星追跡]] - '''N'''ear '''E'''arth '''A'''steroid '''T'''racking、NEAT、ニート。アメリカの[[ジェット推進研究所]]。[[1995年]]12月から2005年7月までに3個の短周期彗星を含む45個以上の彗星を発見。 * [[SOHO (探査機)|SOHO]] - '''So'''lar and '''H'''eliospheric '''O'''bservatory、ソーホー。太陽観測衛星。1996年1月から2006年8月までに1,000個以上の彗星を発見。 * [[ローウェル天文台地球近傍天体捜索]] - '''L'''owell '''O'''bservatory '''N'''ear-'''E'''arth-'''O'''bject '''S'''earch、LONEOS、ロニオスまたはロネオス。アメリカの[[ローウェル天文台]]。[[1997年]]12月から2005年7月までに短周期彗星2個を含む15個の彗星を発見。 * [[リンカーン地球近傍小惑星探査]] - '''Li'''ncoln '''N'''ear-'''E'''arth '''A'''steroid '''R'''esearch、LINEAR、リニア。アメリカの[[リンカーン研究所]]。[[1998年]]1月から2005年7月までに7個の短周期彗星を含む150個以上の彗星を発見。 * [[カタリナ・スカイサーベイ]] - Catalina Sky Survey、Catalina、カタリナ。アメリカのアリゾナ大学[[月惑星研究所]]。[[1999年]]から2005年7月までに14個の彗星を発見。 * [[バッターズ]] - '''B'''isei '''A'''steroid '''T'''racking '''Te'''lescope for '''R'''apid '''S'''urvey、BATTeRS。[[岡山県]]の[[美星天文台|美星スペースガードセンター]](日本[[スペースガード]]協会)。[[2001年]]に1個の彗星を発見。 * [[全天自動捜索システム]] - '''A'''ll '''S'''ky '''A'''utomated '''S'''urvey、ASAS、エーザス。チリの[[ラスカンパナス天文台]]。恒星の光度監視プロジェクト。[[2004年]]に1個の彗星を発見。 * [[サイディング・スプリングサーベイ]] - [[オーストラリア]]の[[サイディング・スプリング天文台]]。[[ロバート・マックノート]]が参加している。[[2006年]]までに3つの短周期彗星を含む5個の彗星を発見。 == 大彗星 == 毎年数百個の小彗星が太陽系の内側を通過していくが、そのうち世間一般の話題となるような彗星はきわめて少数である。大体10年に1個前後、あまり夜空に関心がない人でも気づくほど明るくなるような彗星が現れる。そのような彗星はよく[[大彗星]]と呼ばれる。 過去には、明るい彗星はしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられた。20世紀に入ってからも、ハレー彗星の1910年の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まった<ref>{{cite web |last = Ridpath |first = Ian |title = Awaiting the Comet |work = A brief history of Halley's Comet |url = http://www.ianridpath.com/halley/halley11.htm |date = 3 July 2008 |accessdate = 2008-08-11 }}</ref>。 この当時、すでに[[スペクトル]]分析によって([[#物理的特徴|先述の通り]])彗星の尾には猛毒の[[シアン化水素|青酸]]が含まれていることが知られており、また天文学者でSF作家でもあった[[カミーユ・フラマリオン]]は、尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表した。これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾ひれがついて一般人がパニックに陥ったと言われる。日本では、空気がなくなっても大丈夫なようにと、[[自転車]]の[[タイヤ]]のチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きたとされているが、世界の終わりを信じた人はごく一部だったと受け取れるような記録もある(いずれにせよ、実際には彗星の尾は地球の大気に影響を及ぼすにはあまりに希薄だった)。 その後も、[[1990年]]には[[オウム真理教]]の[[麻原彰晃]]が[[オースチン彗星]](C/1989 X1)の地球接近によって天変地異が起ると喧伝したり([[石垣島セミナー]])、[[1997年]]の[[ヘール・ボップ彗星]](C/1995 O1)の出現時には[[カルト]]団体[[ヘヴンズ・ゲート (宗教団体)|ヘヴンズ・ゲート]]が集団自殺事件を起こした<ref>{{cite news |first = |last = |authorlink = |coauthors = |title = Families Learning of 39 Cultists Who Died Willingly |url = http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9400E7DB133AF93AA15750C0A961958260&sec=health&spon=&pagewanted=all |quote = According to material the group posted on its Internet site, the timing of the suicides were probably related to the arrival of the Hale-Bopp comet, which members seemed to regard as a cosmic emissary beckoning them to another world. |work = New York Times |date = March 29, 1997 |accessdate = 2008-11-09 }}</ref>。しかし、ほとんどの人にとっては、大彗星の出現は単に素晴らしい天体ショーである。 さまざまな要素により、彗星の明るさは予測から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予測するのは難しいということはよく知られている。大まかに言うと、もし彗星の核が大きく活発で、太陽の近くを通る軌道で、もっとも明るいときに地球から見て太陽により不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高い。しかし[[1973年]]の[[コホーテク彗星 (C/1973 E1)]] は、これらすべての条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにもかかわらず、実際はあまり明るくならなかった。その3年後に現れた[[ウェスト彗星]](C/1975 V1)は、ほとんど期待されていなかった(コホーテク彗星の予報が大きく外れたあとだったため、科学者が慎重になっていた可能性もある)が、実際は非常に印象的な大彗星となった<ref>{{cite web |last = Kronk |first = Gary W. |title = C/1975 V1 (West) |url = https://cometography.com/lcomets/1975v1.html |work = Gary W. Kronk's Cometography |accessdate = 2006-03-05 }}</ref>。 20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間があったが、20世紀も終わりに近づいたころ、2つの彗星が相次いで大彗星となった。1996年に発見され明るくなった[[百武彗星 (C/1996 B2)]] と、1995年に発見され、[[1997年]]に最大光度となったヘール・ボップ彗星である。21世紀初頭には大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入った。2001年に発見された[[NEAT彗星 (C/2001 Q4)]] と2002年に発見された[[LINEAR彗星 (C/2002 T7)]] である。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはならなかった。2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過した[[マックノート彗星 (C/2006 P1)]] は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となった。近日点通過後は南半球でのみ観測されたが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せた。 == 変わった彗星 == [[ファイル:29P-orbit.png|thumb|left|450px|ほとんど真円の軌道を公転している29P/[[シュワスマン・ワハマン第1彗星]]と[[木星]]、[[土星]]の軌道の比較]] 知られている数千もの彗星の中には、とても変わったものもある。エンケ彗星は木星の内側から[[水星]]の内側にまで入る軌道を回っているし、[[シュワスマン・ワハマン第1彗星]](29P)は木星と土星の軌道の間に収まった軌道を回っている<ref>{{cite web |last = Kronk |first = Gary W. |title = 29P/Schwassmann-Wachmann 1 |url = https://cometography.com/pcomets/029p.html |work = Gary W. Kronk's Cometography |accessdate = 2009-04-27 }}</ref>。土星と[[天王星]]の間を不安定な軌道で回っている[[キロン (小惑星)|キロン]]は、最初は[[小惑星]]に分類されていたが、のちに希薄なコマが発見されたため、現在では彗星と小惑星の両方に分類されている<ref>{{cite web |last = Kronk |first = Gary W. |title = 95P/Chiron |url = https://cometography.com/pcomets/095p.html |work = Gary W. Kronk's Cometography |accessdate = 2009-04-27 }}</ref>。同様に、[[シューメーカー・レヴィ第2彗星]](137P)も小惑星{{mp|1990 UL|3}}として発見された<ref>{{cite web |last = Kronk |first = Gary W. |title = 137P/Shoemaker-Levy 2 |url = https://cometography.com/pcomets/137p.html |work = Gary W. Kronk's Cometography |accessdate = 2009-04-27 }}</ref>。近日点、遠日点がともに[[小惑星帯]]内にある彗星も複数見つかっており、[[メインベルト彗星]]と呼ばれている。 上記のキロンやシューメーカー・レヴィ第2彗星のように、最初は小惑星として発見された天体がのちに彗星だと判明する例が20世紀末以降は増えている。逆に、発見時はわずかながらコマや尾が観測されたが、のちの回帰の際は尾がまったく見られなくなっている[[アラン・リゴー彗星]](49P)や[[ウィルソン・ハリントン彗星]](107P/4015)、彗星としての活動が観測されたことはまったくないが、[[流星群]]の母天体となっている小惑星[[ファエトン (小惑星)|ファエトン]]や[[オルヤト (小惑星)|オルヤト]]などのような例もあり、これらは揮発成分を使い果たした枯渇彗星核だと見られている。その他の小惑星や、惑星の衛星の中にも、軌道や成分などから元は彗星だったと考えられるものがある。 [[ファイル:17pHolmes 071104 eder vga.jpg|thumb|250px|2007年に大バーストを起こした[[ホームズ彗星]]。中央やや左に明るいコマが、右に青いイオンテイルが見えている。]] 彗星によっては、短時間の間に急激な増光(アウトバースト)を起こすことがある。特に[[ホームズ彗星]]が2007年10月下旬に起こした大増光は印象深い。2日足らずの間に17等から2等級まで(約40万倍)明るくなり、肉眼でも「明るい星」として容易に見ることができた。その後、この増光で放出されたと思われるダストが球状に広がり、その直径は太陽よりも大きく広がった。ホームズ彗星は一時的に太陽系最大の天体となったのである。1986年に接近した[[ハレー彗星]]も、後に突然増光が確認されている。これもアウトバーストが原因ではないかと言われている。 記録に残されたもの、残されていないもの問わず、多くの彗星の核が分裂するのが観測されてきた。[[1846年]]の回帰の際に2つに分裂し、のちに流星群だけを残して消滅した[[ビエラ彗星]]([[#分裂と崩壊|参照]])が有名な例である。また、[[シュワスマン・ワハマン第3彗星]](73P)は[[1995年]]の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂(いくつかは消滅)して2006年には30個以上の破片になっていた。このほかにも[[ウェスト彗星]]、[[池谷・関彗星]]、ブルックス第2彗星(16P)など、彗星核の分裂が観測された彗星は数多い。 崩壊・消滅した彗星としては、1994年7月に木星に衝突した[[シューメーカー・レヴィ第9彗星]]も有名である([[#衝突|参照]])。 [[1908年]]の[[ツングースカ大爆発]]はエンケ彗星の破片が地球に衝突したのではないかとする仮説がある。[[隕石]]の落下によって生じる[[クレーター]]がまったく見られなかったことから、大気圏に突入した彗星の破片が上空で爆発、蒸発したことによって甚大な被害を及ぼしたのではという見解がある。 1979年、かつての[[大彗星]]から分裂した[[クロイツ群]]の彗星が[[太陽]]面に接近し、蒸発、雲散霧消する姿が[[:Category:太陽探査機|太陽観測衛星]][[:en:P78-1|P78-1]]の[[コロナグラフ]]:SOLWIND(ソルウィンド)によって観測された。この彗星(C/1979 Q1)は観測した天文学者らの名前からハワード・クーメン・ミッチェル彗星と命名されたが、同衛星がその後も彗星を発見したためソルウィンド第1彗星として広まる<ref>{{cite web |last = Kronk |first = Gary W. |title = C/1979Q1 SOLWIND1 |url = https://cometography.com/lcomets/1979q1.html |work = Cometography Home Page |accessdate = 2010-08-08 |language = 英語 |deadlinkdate = 2017年10月 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20100804221319/http://cometography.com/lcomets/1979q1.html |archivedate = 2010年8月4日 }}</ref>。このような事例は数多く起こっており、1995年に打ち上げられた太陽探査機[[SOHO (探査機)|SOHO]]は、毎年数十個の彗星が太陽に突入するのを観測している。十分に大きな彗星は、近日点通過後も生き延びるという予測があったが、初の事例となったのは[[2011年]]の[[ラヴジョイ彗星 (C/2011 W3)]]である。 彗星自体が変わった性質を持っているものも多い。1961年に観測されたヒューメイソン彗星(C/1961 R1)は、近日点が約2天文単位<ref name="Humason">[http://articles.adsabs.harvard.edu/cgi-bin/nph-iarticle_query?1964IrAJ....6Q.191. Irish Astronomical Journal, Vol. 6, p. 191]</ref>と遠かったため、それほど明るい彗星ではなかったが、{{要出典範囲|観測ではダストの尾がほとんど見られず、大部分がイオンの尾で構成されていたことが報告されている|date=2010年9月}}。また核の直径自体もおよそ30キロ<ref name="Humason"/>と、当時としてはかなり大きい部類に入る彗星でもあった。 == 有名な彗星・明るくなった彗星 == === 周期彗星 === * [[ハレー彗星]](1P)- 周期約76年。 * [[エンケ彗星]](2P)- 周期約3.3年で、周期彗星中最短。 * [[ホームズ彗星]](17P)- 周期約6.9年。2007年に2等級台にまで大増光、肉眼でも見えた。 * [[池谷・張彗星]](153P)- 周期約366年で、周期彗星中最長。 * [[ZTF彗星 (C/2022 E3)]] - 周期約51,500年。 === 非周期彗星 === * [[ドナティ彗星 (C/1858 L1)]] - 1858年秋に明るくなり、尾が3本に分かれて見え、世界中で観測された。 * [[テバット彗星]] - 幅広い尾が発達し、1861年の大彗星とも呼ばれた。日本にも記録が残っている。 * [[1882年の大彗星]] - 太陽表面からわずか46万キロを通過、太陽のすぐ脇でも別の明るい天体として認識できるほど明るくなった。 * [[池谷・関彗星 (C/1965 S1)]] - 1965年秋に明け方で長い尾が見られ、また太陽最接近時には-17[[等級 (天文)|等級]]に達した。 * [[ベネット彗星 (C/1969 Y1)]] - 1970年3月に近日点を通過し、核が非常に明るく明け方の空で-3等級に達した。 * [[コホーテク彗星 (C/1973 E1)]] - 1974年初頭にマイナス等級になると期待されたが、地上からでは3等止まりだった。 * [[ウェスト彗星]](C/1975 V1)- 1976年3月の明け方に見え、核が分裂したため尾が非常に明るくなった。 * [[IRAS・荒貴・オルコック彗星]](C/1983 H1)- 1983年5月に、地球から0.0312天文単位の至近距離を通過した。 * [[シューメーカー・レヴィ第9彗星]](D/1993 F2)- 1994年に木星に激突し、消滅。 * [[百武彗星 (C/1996 B2)]] - 1996年3月に地球に0.102天文単位まで接近、0等になり尾が60度以上に伸びた。 * [[ヘール・ボップ彗星]](C/1995 O1)- 1997年4月に-1等に達し、3等級以上だった時期が5か月間もあった。 * [[マックノート彗星 (C/2006 P1)]] - 2007年1月に近日点通過。日本からは西の空の低い位置にあったためにすぐに見えなくなったがオーストラリア方面で世紀の大彗星となって現れた。-4等星にまでなり昼間でも肉眼で確認できたという。 == 関連ドキュメンタリー作品 == * 『NHKスペシャル [[宇宙 未知への大紀行]]』 第一回『ふりそそぐ彗星が生命を育む』 == フィクションの中の彗星 == 彗星は[[SF作家]]や映画製作者には人気のある題材であるが、氷の天体と言うよりも燃えている天体のように誤って描写されることも多い。フィクションの中のハレー彗星については、「[[ハレー彗星]]」の項を参照。 * [[ジュール・ヴェルヌ]]の『[[彗星飛行]]』(1877年)は、手ごろな彗星によって太陽系を旅行する、[[ヴィクトリア朝|ビクトリア朝]]時代の想像による小説である。 * [[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]の『[[彗星時代]]』(1905年)は、彗星の尾の蒸気がどのようにして世界中にユートピアのような社会を作り出すかを描いた物語である。 * [[トーベ・ヤンソン]]の『[[楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星]]』は、[[ムーミン]]の世界が燃えるような彗星に驚く様子を描写している。 * [[アーサー・C・クラーク]]の小説『[[2061年宇宙の旅]]』は、ハレー彗星への有人ミッションの物語が詳しく書かれている。 * [[グレゴリー・ベンフォード]]と[[デイヴィッド・ブリン]]の合作小説『[[彗星の核へ]]』(1987年)の中では、多国籍のチームがハレー彗星の核を掘り抜いて氷に囲まれた[[スペースコロニー|居住地]]を作る。 * [[笹本祐一]]の『[[星のパイロット]]2 彗星狩り』では、彗星を地球の衛星軌道に乗せて宇宙開発に必要な水資源を確保しようという計画と、その主導権を賭けて彗星への到達を競う宇宙船レースが描かれる。 * [[野尻抱介]]の『[[クレギオン]]シリーズ アンクスの海賊』では、木星型惑星が形成されなかったために太陽系よりはるかに多数の彗星が存在する星系を舞台に、零細(恒星間宇宙船1隻)運送業者の冒険が描かれる。 また、彗星が地球へ衝突する(または衝突しそうになる)という状況を描いた作品も多数存在する。 ; 小説 * [[カミーユ・フラマリオン]]『此世は如何にして終わるか』<!--念の為記すと、ハレー彗星騒動とは直接関係ない--> * [[ラリー・ニーヴン]]と[[ジェリー・パーネル]]の合作『[[悪魔のハンマー]]』 * [[グレゴリー・ベンフォード]]と[[ウィリアム・ロツラー]]の合作『[[シヴァ神降臨]]』 * [[ビル・ネイピア]]の『[[天空の劫罰]]』 * アーサー・C・クラークの『[[神の鉄槌]]』 * [[岩倉政治]]の『[[空気のなくなる日]]』 ; 映画 * 『[[メテオ (映画)|メテオ]]』 * 『[[アステロイド (映画)|アステロイド]]』 * 『[[ディープ・インパクト (映画)|ディープ・インパクト]]』 * 『[[フィッシュストーリー]]』 * 『[[ドント・ルック・アップ]]』 ; テレビドラマ * 『[[ウルトラマン]]』第25話「怪彗星ツイフォン」 * 『[[ウルトラマンメビウス]]』第16話「宇宙の剣豪」 * 『[[暴れん坊将軍II]]』第131話「夜空燃ゆ! 呪いのほうき星」 * 『[[暴れん坊将軍#暴れん坊将軍(通称:IX)|暴れん坊将軍IX]]』第19話「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」<!--では[[徳川吉宗]]が天体望遠鏡で彗星を発見し、長崎から天文学者・[[西川如見]]を招聘、彗星は関東南西部の[[大和田村]]に落下。吉宗の避難勧告と町火消しの活躍で住民は全員避難。『[[空想科学読本]]3』と『[[空想歴史読本]]』で検証しており、2つの本で大和田村の現代位置が違っている。--> ; アニメ * 『[[君の名は。]]』架空の[[ティアマト]]彗星が1200年ぶりに地球に接近する中で、物語が展開されていく。 * 『[[Charlotte (アニメ)]]』架空の長周期彗星「シャーロット彗星」が少年少女にもたらす特殊能力をめぐる物語が描かれる。 * 『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』地球に対する新たな脅威として、宇宙を席巻し星々を侵略する[[白色彗星帝国]]が描かれる。 * 『[[スーパーマン]]』(アニメ、「磁気望遠鏡」) * 『[[ストラトス・フォー]]』 * 『[[タイムパトロール隊オタスケマン]]』(最終回) * 『[[機動戦士ガンダム]]』主人公のライバルである[[シャア・アズナブル]]の通称が「赤い彗星」である。 == 脚注 == {{ページ番号|date=2021年8月|section=1}} {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=桜井邦朋, 清水幹夫 |title=彗星 : その本性と起源 |publisher=朝倉書店 |year=1989 |NCID=BN03540655 |ISBN=4254150091 |id={{全国書誌番号|89046293}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001989648-00 |ref={{harvid|彗星その本性と起源}}}} * {{Cite book|和書|author=山本哲生, 中村士 |title=彗星 : 彗星科学の最前線 |publisher=恒星社厚生閣 |year=1984 |series=アストラルシリーズ ; 4 |NCID=BN0285947X |ISBN=4769905068 |id={{全国書誌番号|85015689}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001711568-00 |ref={{harvid|山本.中村(1984)}}}} *{{Cite book|和書 |author = 井田茂、中本泰史 |title = ここまでわかった新・太陽系 |year = 2009 |publisher = ソフトバンク クリエイティブ |ISBN = 978-4-7973-5070-8 }} {{参照方法|date=2021年8月|section=1}} *{{Cite book|和書 |author = 宮本英昭、橘省吾、平田成ら |title = 異星の踏査-「アポロ」から「はやぶさ」へ展図録 |year = 2007 |publisher = [[東京大学総合研究博物館]] |ISBN = }} == 関連項目 == {{sisterlinks|commons=Category:Comets}} * [[周期彗星の一覧]] * [[非周期彗星の一覧]] * [[彗星・小惑星遷移天体]] * [[大彗星]] * [[ハレー彗星]] * [[太陽系外彗星]] * [[カロライン・ハーシェル]] - 彗星を発見した最初の女性 == 外部リンク == * {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/suisei_2/index.html |title=理科ねっとわーく 太陽系図鑑(彗星) |date=20211210135912}} * [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/a-c-m/a-c-m00.html 国立科学博物館 宇宙の質問箱(小惑星・彗星・流星・隕石)] * [https://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/comets.html ザ・ナインプラネッツ 日本語版(彗星)] * [https://nineplanets.org/comets/ The Nine Planets Comet Facts] - ザ・ナインプラネッツ 原語版(彗星){{En icon}} * [http://www.aerith.net/index-j.html 吉田誠一のホームページ] * [https://minorplanetcenter.net//iau/lists/CometLists.html Lists and Plots: Comets] - IAU: Minor Planet Center * {{Kotobank}} ; 彗星の名前と符号 * by [https://minorplanetcenter.net//iau/mpc.html The International Astronomical Union: Minor Planet Center], retrieved on 2006‐08‐06Z. ** "[https://minorplanetcenter.net//iau/lists/CometResolution.html Cometary Designation System]" ** "{{Webarchive |url=https://archive.is/20100409065413/http://www.cfa.harvard.edu/iau/cometnameg.html |title=IAU Comet-naming Guidelines |date=2010年4月9日}}" ** "{{Webarchive |url=https://archive.is/20120729193809/http://www.icq.eps.harvard.edu/cometnames.html |title=Comet Names and Designations; Comet Naming and Nomenclature; Names of Comets |date=2012年7月29日}}" {{Comets}} {{太陽系}} {{Featured article}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すいせい}} [[Category:彗星|*]] [[Category:天体]] [[Category:天文学に関する記事]]
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自由ソフトウェア
自由ソフトウェア(じゆうソフトウェア、英語: free software、libre software)とは、ユーザーがどのような目的に対しても実行することを許可し、また、プログラムについて研究したり、変更したり、それを配布したりする自由も認めることを条件として配布されるコンピュータソフトウェアのことである。自由ソフトウェアには、プログラムの対価として支払った価格とは無関係に、ユーザーが(個人で、あるいは、コンピュータプログラマーと協力して)ソフトウェアのコピーを用いて、自身が望むことを(自由ソフトウェアを用いて利益を獲得することを含めて)する自由が存在するということである。コンピュータプログラムが自由であるとみなされる必要十分条件は、本質的には(開発者のみではなく)すべてのユーザーに第一にプログラムをコントロールする権利があるということであるとされる。したがって、ユーザーが所有する装置が「自由」であるためには、プログラムによって何が行われるのかを、ユーザーが本質的にはコントロールできなければならない。 コンピュータプログラムを研究したり変更したりする権利を保証するためには、ユーザーがプログラムのソースコード(これがプログラムの変更を行うために適した形式である)を読むことが可能である必要がある。このことは「ソースコードにアクセスできる」(access to source code)とか「パブリックに利用できる」(public availability)という言葉で言い表されることがよくあるが、フリーソフトウェア財団は、単純にこのような表現を使ってプログラムを考えることに反対している。その理由として、このような表現を使うと、プログラムのコピーを他者に与えなければならないという義務(義務とは権利とは正反対のものである)がユーザーにある、という印象を与える恐れがあることを挙げている。 free softwareという言葉は、自由ソフトウェアの概念が生まれる以前からゆるく使われていたが、リチャード・ストールマンは、彼がGNUプロジェクトを立ち上げたのと同じ1983年から、この言葉を上記で述べたような意味で使うことを促す自由ソフトウェア運動を開始した。GNUプロジェクトは、自由の精神を尊重したオペレーティングシステムを協力して製作するプロジェクトであり、コンピュータの黎明期にハッカーたちの間に存在していた、互いに協力する精神をよみがえらせることを目的としている。 フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの定義を提示している。ソフトウェアライセンスについては自由ソフトウェアライセンスを参照。 定義に照らして自由ではない、すなわち改造や再配布などに制限が掛かっていたり、ソースコードが開示されていない、無償で利用できるソフトウェアとは異なる概念であり、この場合はフリーウェアもしくは無料ソフトと呼ぶことが望ましいとフリーソフトウェア財団はしている。 逆に定義に従ったソフトウェアであれば、一次的な配布が有償であっても自由ソフトウェアと呼ぶことができる。ただし、前述したように配布が自由であるため、ほとんどの自由ソフトウェアは無償で配布されている。 また、現状強い影響力を持つ定義として、フリーソフトウェア財団の定義の他に、DebianフリーソフトウェアガイドラインとそれをベースにしたOpen Source Initiativeのオープンソースの定義がある。 そもそも、英単語であるフリー (free) は、「自由」と「無料」、双方の意味をもっていて、たんに"free"といっただけでは区別が付かない。これに対し、Free Softwareの概念においては、「自由」と「無料」の違いが大きな意味を持つ。このため、英語圏では、自由のfreeと、無料のfreeを区別するため、無料を示すのに「free as in "free beer"(無料のビール)」、また、自由であることを示すのに「free as in "free speech"(言論の自由)」などという表現がよく使われる。 熟語として記述する際には、"free software"、"Free Software"と区別している。前者がよく言われる"無料のソフトウェア"であり、後者は固有名詞で、リチャード・ストールマンが自由なソフトウェアに対して名づけた"自由なソフトウェア"のことである。最近では本来英語の単語でないものの、「自由」を意味する単語としてラテン語の "libre" を使い "Software libre" のように表すこともある。 フリーウェアを参照のこと。 コンパイルした成果物だけでなく、ソースコードが入手可能であり、さらに、その改変と再配付も自由である必要がある。 フリーソフトウェア財団(FSF)の創始者リチャード・ストールマン(RMS)が、自由に利用し、改変し、再配布することができるという意味でFree Softwareという語を1980年代初頭に作った。この場合、単に無料であるソフトウェアは、"フリーウェア"と呼んで区別する。 ソフトウェアが自由であることを重視するリチャード・ストールマンの立場からは「無料」との混同は避けたいところである。そのため、彼は折に触れてこの区別を強調し、また「日本語にはせっかく2つの意味を区別する言葉があるのだから、Free Softwareではなく自由なソフトウェアと呼んで欲しい」と述べている。 自由ソフトウェアは、著作権を放棄した「パブリックドメインソフトウェア」(PDS)とは異なる。一見矛盾しているように見えるかも知れないが、自由ソフトウェアは(自身が自由であるための手段として)著作権を明確に主張し、そのライセンスの文中で自由を規定するという方法を取っている。 このため、あるソフトウェアが、自由なソフトウェアである場合には、自由であることを、ライセンスで明確に示しており、確認することができる。ライセンスが、例えばGPL、LGPL、GFDL、BSDライセンス、X11ライセンスなどであれば、自由なソフトウェアである。 現在、GNU/Linuxとして知られる自由ソフトウェアのオペレーティングシステムのプロジェクト:GNUを始めるに当たって、作られるソフトウェアの自由を保証するために、自由ソフトウェアの概念を定義した。GNUは自由ソフトウェアのみで構成されるというわけである。 自由ソフトウェアとして認められるライセンスには、二通りある。 ソースコードが公開されなければ、自由なソフトウェアではない。ソフトウェアを自由に変更・配布することはソースコード無しには極めて困難だからである。 しかし、ソースコードが付属していても、ソースコードを改変したり配布したりする自由が制限されていれば自由なソフトウェアとは言えない。 自由なソフトウェアは、そのソフトウェアが仮に有料で取得されたとしても、それを無料でコピーすることを制限しない。また、同時に、自由なソフトウェアは、それを有料で販売することも制限していない。「自由」には有料で販売する自由、無料でコピーする自由が含まれている。したがって、「有料なので自由なソフトウェアではない」という判断は間違いである。例えばLinuxディストリビューションに有償のものも多いように、自由なソフトウェアを集めてそれらを有償で販売する製品形態は定着してきている。 自由なソフトウェアは、有用なものであれば大抵はそれを無料で配布しようとする者が現れる。勿論、無料で配布することは自由である。その意味では自由なソフトウェアには無料という意味でもフリーなものが多い。 自由なソフトウェアが、永続的に自由であるための概念としてコピーレフトがある。 コピーレフトとは、配布にあたって「配布される人にソースコードを自由に取得・変更・再配布する権利を提供せずにプログラムの再配布をしてはいけない」という制約をつけることで一旦自由ソフトウェアになったソフトウェアは他人の手を経て再配布されても自由ソフトウェアであり続けることを保証する。 この制約の有効性はプログラム著作者の著作権(コピーライト)によって保証されている。rightをleftに置き換えてコピーレフトという語が作られた。 日本においては、コピーレフトの観念を"永久に無料で更新され続ける"かのようなイメージで語られることがあるが、コピーレフトは、ソフトウェアを"永続的に使う機会を保証する"ために、そのソフトウェアのもとになるソースコードの利用の自由を保証する(させる)だけである。エンドユーザが常に改良されたソフトウェアを使えるかどうかとは無関係である点に注意が必要である。 要するに、私有ソフトウェアは、なんらかの事情で権利主が更新が停止した場合、そのソフトウェアの命脈は文字通りそれまでであるが、コピーレフトであれば、ソースコードを改良する人がいる限り、ソフトウェアの更新も継続される、ということである。逆にいえば、コピーレフトであっても、誰もメンテナンスしなければそのソフトウェアはそのままであるし、実際にそういうソフトウェアは多い。 コピーレフトもまたGNUを始めるに当たって、より自由なソフトウェアを定義するための概念である。GPL/LGPLは、コピーレフトを実現する法的に有効なライセンスで、弁護士の協力の元に作られた。 ソフトウェアに例えて言えば、コピーレフトは「アーキテクチャ」であり、GPLはその「実装」ということになる。つまり、コピーレフトを実現するライセンスにはGPL以外にもあり得る。 コピーレフトやGPL自身が、実社会で動作するコンピュータプログラムのようなもので、天才プログラマのストールマンならではの作品だと言える。自由な社会を作り出すプログラムである。「GPLをあなたのソフトウェア/作品に組み込めばそれは、自由な社会を作り出すために自動的に働き始めますよ」というわけだ。 GNUなどの考え方としては、コピーレフトなライセンスが「自由な世界のソフトウェアは自由を失うことが難しい」という意味で、より自由ということになる。 これに対して、BSDを始めとしたコピーレフトではないライセンスは、「自由なソフトウェアが将来自由を失う可能性があり得る」という意味で、コピーレフトに比べて自由さに欠けるとされる。例えば、BSDライセンスで公開されているソフトウェアを改良して公開するとき、必ずしもソースコードを公開しなくても良い。コピーレフトの考え方によれば、このとき「改良されたバージョンは自由が失われている」とされる。 一方、コピーレフトは「自由であること」が失われないために「自由でなければならない」という制約を付けていると見ることもできる。例えば、コピーレフトなソフトウェアを改造して公開する場合、ソースコードの公開を拒むことはできない。コピーレフトなソフトウェアをBSDライセンスで公開することもできない。この意味で、「コピーレフトは制約が強く、BSDライセンスなどに比べて自由でない」と考える人もいる。 詳しくはGNUプロジェクトの「さまざまなライセンスとそれらについての解説」に自由ソフトウェアとして認められるライセンスの一覧があり、必要に応じて更新されている(日本語版は英語版に比べて更新が遅れるので、最新の情報を得る必要があるときは、英語版を参照のこと)。 Free softwareという言葉は「無料」を連想させるため、一般企業には採用されにくい考えかたであった。この状況を改善させるため、エリック・レイモンドらによって近年オープンソースという語が提案され、広く使われるようになった。オープンソースという言葉には自由の思想が含まれておらず(前述の状況を回避するため意図的に避けられている)、あくまでビジネス上の企業戦略の一つとして紹介された。「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」が関心の中心である。 オープンソースはソースを取得、変更、再配布できることに注目し、ソフトウェアの自由を維持するためのコピーレフトの概念は含まれていない。 このような違いから、自由ソフトウェアとオープンソースの立場は別の物として扱われている。形としては、オープンソースは自由ソフトウェアの一部のように見えるが、意味としては全く違うと、リチャード・ストールマンは主張している。逆にオープンソースは、自由ソフトウェアをその一部として含む。 各ライセンスはオープンソースの概念を発表・定義し、推進する団体であるOpen Source Initiativeによる認証を受けることで「オープンソース・ライセンス」を名乗ることができる。しかしオープンソースは流行語になったため独自の解釈による自称オープンソースが複数存在するため問題となっている。 自由ソフトウェアが提唱された当初は批判意見もあり、利用者は研究者や個人に限られていた。 1990年代になると、インターネットの爆発的普及により、自由ソフトウェアに携わる技術者が世界的に増大した。また、ダウンサイジングとオープンシステムの普及により、情報システムにおける標準化とコストの劇的な低下が起こり、相対的にシステム構築や、保守運用のコストの比重が増加した。 このため、自由ソフトウェアを使用し、情報システムの構築、保守運用を行うことで利益を上げるベンチャービジネスが勃興した。 このような企業において独自に行われた、バク修正や機能の追加は、インターネットを通じ公開され、自由ソフトウェアの信頼性向上や高機能化に貢献した。企業も、社会貢献によるイメージアップと、技術力を示すことによる広告効果を期待することよりも、特定の高価な独占ソフトウェアでは利益が独占企業に集中するだけであり、対抗して作られてきた自由ソフトウェアに積極的に開発に携わることにより、利益確保の道を模索している。あるいは、開発、保守の費用負担ができなさそうなソフトウェアを自由ソフトウェアとしてソースコードを公開することより、固定的な費用負担を削減することを目的としている場合もある。 2000年代になると、自由ソフトウェア産業はエコシステムとして機能するようになり、多くの人から産業としての価値を認められるようになった。また、従来からの大企業が自由ソフトウェアに関わることも珍しくなくなった。 一方、現在でも自由ソフトウェア開発では、特許などの知的所有権の保護が十分検証されておらず、企業での利用にはリスクがあると批判されることがある。しかし、国際規格などの公開の規格類に適合していれば、特許・知的所有権は規格制定とその後の所定の期間で検証済みとなるため、企業での利用にリスクがあるとは限らない。保守運用で利益を上げることが難しい個人向けソフトウェアでは、有償の自由ソフトウェアの運用は進んでおらず、個人の自己責任での利用が広がっている。また、自由ソフトウェアが入っていることを知らずに利用している場合の方が多くなっている。
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softwareという言葉は、自由ソフトウェアの概念が生まれる以前からゆるく使われていたが、リチャード・ストールマンは、彼がGNUプロジェクトを立ち上げたのと同じ1983年から、この言葉を上記で述べたような意味で使うことを促す自由ソフトウェア運動を開始した。GNUプロジェクトは、自由の精神を尊重したオペレーティングシステムを協力して製作するプロジェクトであり、コンピュータの黎明期にハッカーたちの間に存在していた、互いに協力する精神をよみがえらせることを目的としている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの定義を提示している。ソフトウェアライセンスについては自由ソフトウェアライセンスを参照。", "title": "自由ソフトウェアの定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "定義に照らして自由ではない、すなわち改造や再配布などに制限が掛かっていたり、ソースコードが開示されていない、無償で利用できるソフトウェアとは異なる概念であり、この場合はフリーウェアもしくは無料ソフトと呼ぶことが望ましいとフリーソフトウェア財団はしている。", "title": "自由ソフトウェアの定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "逆に定義に従ったソフトウェアであれば、一次的な配布が有償であっても自由ソフトウェアと呼ぶことができる。ただし、前述したように配布が自由であるため、ほとんどの自由ソフトウェアは無償で配布されている。", "title": "自由ソフトウェアの定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、現状強い影響力を持つ定義として、フリーソフトウェア財団の定義の他に、DebianフリーソフトウェアガイドラインとそれをベースにしたOpen Source Initiativeのオープンソースの定義がある。", "title": "自由ソフトウェアの定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そもそも、英単語であるフリー (free) は、「自由」と「無料」、双方の意味をもっていて、たんに\"free\"といっただけでは区別が付かない。これに対し、Free Softwareの概念においては、「自由」と「無料」の違いが大きな意味を持つ。このため、英語圏では、自由のfreeと、無料のfreeを区別するため、無料を示すのに「free as in \"free beer\"(無料のビール)」、また、自由であることを示すのに「free as in \"free speech\"(言論の自由)」などという表現がよく使われる。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "熟語として記述する際には、\"free software\"、\"Free Software\"と区別している。前者がよく言われる\"無料のソフトウェア\"であり、後者は固有名詞で、リチャード・ストールマンが自由なソフトウェアに対して名づけた\"自由なソフトウェア\"のことである。最近では本来英語の単語でないものの、「自由」を意味する単語としてラテン語の \"libre\" を使い \"Software libre\" のように表すこともある。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "フリーウェアを参照のこと。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "コンパイルした成果物だけでなく、ソースコードが入手可能であり、さらに、その改変と再配付も自由である必要がある。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "フリーソフトウェア財団(FSF)の創始者リチャード・ストールマン(RMS)が、自由に利用し、改変し、再配布することができるという意味でFree Softwareという語を1980年代初頭に作った。この場合、単に無料であるソフトウェアは、\"フリーウェア\"と呼んで区別する。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ソフトウェアが自由であることを重視するリチャード・ストールマンの立場からは「無料」との混同は避けたいところである。そのため、彼は折に触れてこの区別を強調し、また「日本語にはせっかく2つの意味を区別する言葉があるのだから、Free Softwareではなく自由なソフトウェアと呼んで欲しい」と述べている。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "自由ソフトウェアは、著作権を放棄した「パブリックドメインソフトウェア」(PDS)とは異なる。一見矛盾しているように見えるかも知れないが、自由ソフトウェアは(自身が自由であるための手段として)著作権を明確に主張し、そのライセンスの文中で自由を規定するという方法を取っている。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "このため、あるソフトウェアが、自由なソフトウェアである場合には、自由であることを、ライセンスで明確に示しており、確認することができる。ライセンスが、例えばGPL、LGPL、GFDL、BSDライセンス、X11ライセンスなどであれば、自由なソフトウェアである。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現在、GNU/Linuxとして知られる自由ソフトウェアのオペレーティングシステムのプロジェクト:GNUを始めるに当たって、作られるソフトウェアの自由を保証するために、自由ソフトウェアの概念を定義した。GNUは自由ソフトウェアのみで構成されるというわけである。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "自由ソフトウェアとして認められるライセンスには、二通りある。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ソースコードが公開されなければ、自由なソフトウェアではない。ソフトウェアを自由に変更・配布することはソースコード無しには極めて困難だからである。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし、ソースコードが付属していても、ソースコードを改変したり配布したりする自由が制限されていれば自由なソフトウェアとは言えない。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "自由なソフトウェアは、そのソフトウェアが仮に有料で取得されたとしても、それを無料でコピーすることを制限しない。また、同時に、自由なソフトウェアは、それを有料で販売することも制限していない。「自由」には有料で販売する自由、無料でコピーする自由が含まれている。したがって、「有料なので自由なソフトウェアではない」という判断は間違いである。例えばLinuxディストリビューションに有償のものも多いように、自由なソフトウェアを集めてそれらを有償で販売する製品形態は定着してきている。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "自由なソフトウェアは、有用なものであれば大抵はそれを無料で配布しようとする者が現れる。勿論、無料で配布することは自由である。その意味では自由なソフトウェアには無料という意味でもフリーなものが多い。", "title": "自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "自由なソフトウェアが、永続的に自由であるための概念としてコピーレフトがある。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "コピーレフトとは、配布にあたって「配布される人にソースコードを自由に取得・変更・再配布する権利を提供せずにプログラムの再配布をしてはいけない」という制約をつけることで一旦自由ソフトウェアになったソフトウェアは他人の手を経て再配布されても自由ソフトウェアであり続けることを保証する。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この制約の有効性はプログラム著作者の著作権(コピーライト)によって保証されている。rightをleftに置き換えてコピーレフトという語が作られた。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日本においては、コピーレフトの観念を\"永久に無料で更新され続ける\"かのようなイメージで語られることがあるが、コピーレフトは、ソフトウェアを\"永続的に使う機会を保証する\"ために、そのソフトウェアのもとになるソースコードの利用の自由を保証する(させる)だけである。エンドユーザが常に改良されたソフトウェアを使えるかどうかとは無関係である点に注意が必要である。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "要するに、私有ソフトウェアは、なんらかの事情で権利主が更新が停止した場合、そのソフトウェアの命脈は文字通りそれまでであるが、コピーレフトであれば、ソースコードを改良する人がいる限り、ソフトウェアの更新も継続される、ということである。逆にいえば、コピーレフトであっても、誰もメンテナンスしなければそのソフトウェアはそのままであるし、実際にそういうソフトウェアは多い。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "コピーレフトもまたGNUを始めるに当たって、より自由なソフトウェアを定義するための概念である。GPL/LGPLは、コピーレフトを実現する法的に有効なライセンスで、弁護士の協力の元に作られた。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ソフトウェアに例えて言えば、コピーレフトは「アーキテクチャ」であり、GPLはその「実装」ということになる。つまり、コピーレフトを実現するライセンスにはGPL以外にもあり得る。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "コピーレフトやGPL自身が、実社会で動作するコンピュータプログラムのようなもので、天才プログラマのストールマンならではの作品だと言える。自由な社会を作り出すプログラムである。「GPLをあなたのソフトウェア/作品に組み込めばそれは、自由な社会を作り出すために自動的に働き始めますよ」というわけだ。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "GNUなどの考え方としては、コピーレフトなライセンスが「自由な世界のソフトウェアは自由を失うことが難しい」という意味で、より自由ということになる。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "これに対して、BSDを始めとしたコピーレフトではないライセンスは、「自由なソフトウェアが将来自由を失う可能性があり得る」という意味で、コピーレフトに比べて自由さに欠けるとされる。例えば、BSDライセンスで公開されているソフトウェアを改良して公開するとき、必ずしもソースコードを公開しなくても良い。コピーレフトの考え方によれば、このとき「改良されたバージョンは自由が失われている」とされる。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一方、コピーレフトは「自由であること」が失われないために「自由でなければならない」という制約を付けていると見ることもできる。例えば、コピーレフトなソフトウェアを改造して公開する場合、ソースコードの公開を拒むことはできない。コピーレフトなソフトウェアをBSDライセンスで公開することもできない。この意味で、「コピーレフトは制約が強く、BSDライセンスなどに比べて自由でない」と考える人もいる。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "詳しくはGNUプロジェクトの「さまざまなライセンスとそれらについての解説」に自由ソフトウェアとして認められるライセンスの一覧があり、必要に応じて更新されている(日本語版は英語版に比べて更新が遅れるので、最新の情報を得る必要があるときは、英語版を参照のこと)。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "Free softwareという言葉は「無料」を連想させるため、一般企業には採用されにくい考えかたであった。この状況を改善させるため、エリック・レイモンドらによって近年オープンソースという語が提案され、広く使われるようになった。オープンソースという言葉には自由の思想が含まれておらず(前述の状況を回避するため意図的に避けられている)、あくまでビジネス上の企業戦略の一つとして紹介された。「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」が関心の中心である。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "オープンソースはソースを取得、変更、再配布できることに注目し、ソフトウェアの自由を維持するためのコピーレフトの概念は含まれていない。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "このような違いから、自由ソフトウェアとオープンソースの立場は別の物として扱われている。形としては、オープンソースは自由ソフトウェアの一部のように見えるが、意味としては全く違うと、リチャード・ストールマンは主張している。逆にオープンソースは、自由ソフトウェアをその一部として含む。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "各ライセンスはオープンソースの概念を発表・定義し、推進する団体であるOpen Source Initiativeによる認証を受けることで「オープンソース・ライセンス」を名乗ることができる。しかしオープンソースは流行語になったため独自の解釈による自称オープンソースが複数存在するため問題となっている。", "title": "関連する概念" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "自由ソフトウェアが提唱された当初は批判意見もあり、利用者は研究者や個人に限られていた。", "title": "産業としての自由ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1990年代になると、インターネットの爆発的普及により、自由ソフトウェアに携わる技術者が世界的に増大した。また、ダウンサイジングとオープンシステムの普及により、情報システムにおける標準化とコストの劇的な低下が起こり、相対的にシステム構築や、保守運用のコストの比重が増加した。", "title": "産業としての自由ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "このため、自由ソフトウェアを使用し、情報システムの構築、保守運用を行うことで利益を上げるベンチャービジネスが勃興した。 このような企業において独自に行われた、バク修正や機能の追加は、インターネットを通じ公開され、自由ソフトウェアの信頼性向上や高機能化に貢献した。企業も、社会貢献によるイメージアップと、技術力を示すことによる広告効果を期待することよりも、特定の高価な独占ソフトウェアでは利益が独占企業に集中するだけであり、対抗して作られてきた自由ソフトウェアに積極的に開発に携わることにより、利益確保の道を模索している。あるいは、開発、保守の費用負担ができなさそうなソフトウェアを自由ソフトウェアとしてソースコードを公開することより、固定的な費用負担を削減することを目的としている場合もある。", "title": "産業としての自由ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2000年代になると、自由ソフトウェア産業はエコシステムとして機能するようになり、多くの人から産業としての価値を認められるようになった。また、従来からの大企業が自由ソフトウェアに関わることも珍しくなくなった。", "title": "産業としての自由ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一方、現在でも自由ソフトウェア開発では、特許などの知的所有権の保護が十分検証されておらず、企業での利用にはリスクがあると批判されることがある。しかし、国際規格などの公開の規格類に適合していれば、特許・知的所有権は規格制定とその後の所定の期間で検証済みとなるため、企業での利用にリスクがあるとは限らない。保守運用で利益を上げることが難しい個人向けソフトウェアでは、有償の自由ソフトウェアの運用は進んでおらず、個人の自己責任での利用が広がっている。また、自由ソフトウェアが入っていることを知らずに利用している場合の方が多くなっている。", "title": "産業としての自由ソフトウェア" } ]
自由ソフトウェアとは、ユーザーがどのような目的に対しても実行することを許可し、また、プログラムについて研究したり、変更したり、それを配布したりする自由も認めることを条件として配布されるコンピュータソフトウェアのことである。自由ソフトウェアには、プログラムの対価として支払った価格とは無関係に、ユーザーが(個人で、あるいは、コンピュータプログラマーと協力して)ソフトウェアのコピーを用いて、自身が望むことを(自由ソフトウェアを用いて利益を獲得することを含めて)する自由が存在するということである。コンピュータプログラムが自由であるとみなされる必要十分条件は、本質的には(開発者のみではなく)すべてのユーザーに第一にプログラムをコントロールする権利があるということであるとされる。したがって、ユーザーが所有する装置が「自由」であるためには、プログラムによって何が行われるのかを、ユーザーが本質的にはコントロールできなければならない。 コンピュータプログラムを研究したり変更したりする権利を保証するためには、ユーザーがプログラムのソースコード(これがプログラムの変更を行うために適した形式である)を読むことが可能である必要がある。このことは「ソースコードにアクセスできる」とか「パブリックに利用できる」という言葉で言い表されることがよくあるが、フリーソフトウェア財団は、単純にこのような表現を使ってプログラムを考えることに反対している。その理由として、このような表現を使うと、プログラムのコピーを他者に与えなければならないという義務(義務とは権利とは正反対のものである)がユーザーにある、という印象を与える恐れがあることを挙げている。 free softwareという言葉は、自由ソフトウェアの概念が生まれる以前からゆるく使われていたが、リチャード・ストールマンは、彼がGNUプロジェクトを立ち上げたのと同じ1983年から、この言葉を上記で述べたような意味で使うことを促す自由ソフトウェア運動を開始した。GNUプロジェクトは、自由の精神を尊重したオペレーティングシステムを協力して製作するプロジェクトであり、コンピュータの黎明期にハッカーたちの間に存在していた、互いに協力する精神をよみがえらせることを目的としている。
{{混同|フリーウェア|x1=「'''[[フリー]]ソフトウェア'''」はここに[[Wikipedia:リダイレクト|転送]]されてます。[[無償]](無料)提供の[[ソフトウェア]]を意味する別名}} {{観点|date = 2018年2月}} [[File:Desktop-Linux-Mint.png|thumb|300px|最近の自由ソフトウェアの[[オペレーティングシステム]]の例。いくつかの代表的な自由ソフトウェアを実行している。画面に表示されているのは、[[Xfce]] [[デスクトップ環境]]、[[Firefox]] [[ウェブブラウザ]]、[[Vim]] [[テキストエディタ]]、[[GIMP]] [[画像編集ソフト]]、[[VLC media player|VLC]] [[メディアプレイヤー]]などである。]] '''自由ソフトウェア'''(じゆうソフトウェア、{{Lang-en|free software、libre software}})<ref>See {{cite web|url=https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.en.html|title=What is Free Software|accessdate=2018-8-22|author=GNU Project|publisher=Free Software Foundation|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.ja.html|title=自由ソフトウェアとは?|accessdate=2019-08-13|author=GNU Project|publisher=Free Software Foundation|language=ja}}</ref><ref name=":0">{{cite web|url=http://www.internethalloffame.org/inductees/richard-stallman|title=Richard Stallman - Internet Hall of Fame|publisher=|accessdate=26 March 2017}}</ref>とは、ユーザーがどのような目的に対しても実行することを許可し、また、プログラムについて研究したり、変更したり、それを配布したりする自由も認めることを条件として配布されるコンピュータソフトウェアのことである<ref>[https://www.gnu.org/philosophy/free-software-intro.html Free Software Movement] (gnu.org)</ref><ref name="philo">[https://www.gnu.org/philosophy/philosophy.html Philosophy of the GNU Project] (gnu.org)</ref><ref name="def">[http://www.fsf.org/about/what-is-free-software What is free software] (fsf.org)</ref><ref>{{cite web|url=http://shop.fsf.org/product/free-software-free-society-2/|title=GNU Press - Free Software Foundation Online Shop - Buy GNU t-shirts, books, stickers and stuffed gnu toys|publisher=|accessdate=19 March 2015}}</ref><ref name="softwarefreedom2">{{cite web|url=http://www.softwarefreedom.org|title=Software Freedom Law Center|accessdate=2018-8-22|publisher=}}</ref>。自由ソフトウェアには、プログラムの対価として支払った価格とは無関係に、ユーザーが(個人で、あるいは、[[コンピュータプログラマ|コンピュータプログラマー]]と協力して)ソフトウェアのコピーを用いて、自身が望むことを(自由ソフトウェアを用いて利益を獲得することを含めて)する自由が存在するということである<ref name=":1">[https://www.gnu.org/philosophy/selling.html Selling Free Software] (gnu.org)</ref><ref name=":0" />。コンピュータプログラムが自由であるとみなされる必要十分条件は、本質的には(開発者のみではなく)すべてのユーザーに第一にプログラムをコントロールする権利があるということであるとされる。したがって、ユーザーが所有する装置が「自由」であるためには、プログラムによって何が行われるのかを、ユーザーが本質的にはコントロールできなければならない<ref name="def" /><ref name="initial-announcement2">{{cite web|url=https://www.gnu.org/gnu/initial-announcement.html|title=GNU project Initial Announcement|accessdate=2018-8-22|publisher=}}</ref>。 コンピュータプログラムを研究したり変更したりする権利を保証するためには、ユーザーがプログラムのソースコード(これがプログラムの変更を行うために適した形式である)を読むことが可能である必要がある。このことは「ソースコードにアクセスできる」(access to source code)とか「パブリックに利用できる」(public availability)という言葉で言い表されることがよくあるが、[[フリーソフトウェア財団]]は、単純にこのような表現を使ってプログラムを考えることに反対している<ref>{{Cite web|url=https://www.gnu.org/philosophy/words-to-avoid.en.html#Access|title=gnu.org|accessdate=2017-01-24|website=www.gnu.org|language=en}}</ref>。その理由として、このような表現を使うと、プログラムのコピーを他者に与えなければならないという義務(義務とは権利とは正反対のものである)がユーザーにある、という印象を与える恐れがあることを挙げている。 ''free software''という言葉は、自由ソフトウェアの概念が生まれる以前からゆるく使われていたが<ref name="infoworld19832">{{cite web|url=https://books.google.de/books?id=yy8EAAAAMBAJ&lpg=PA31&ots=IdSaFSmKVK&dq=us%20government%20public%20domain%20software&hl=de&pg=PA31#v=onepage&q=us%20government%20public%20domain%20software&f=false|title=Free software - Free software is a junkyard of software spare parts|accessdate=2016-02-10|last=Shea|first=Tom|date=1983-06-23|work=[[InfoWorld]]|publisher=|quote=''"In contrast to commercial software is a large and growing body of free software that exists in the public domain. Public-domain software is written by microcomputer hobbyists (also known as "hackers") many of whom are professional programmers in their work life. [...] Since everybody has access to source code, many routines have not only been used but dramatically improved by other programmers."''}}</ref>、[[リチャード・ストールマン]]は、彼が[[GNUプロジェクト]]を立ち上げたのと同じ1983年から、この言葉を上記で述べたような意味で使うことを促す[[自由ソフトウェア運動]]を開始した。GNUプロジェクトは、自由の精神を尊重したオペレーティングシステムを協力して製作するプロジェクトであり、コンピュータの黎明期に[[ハッカー]]たちの間に存在していた、互いに協力する精神をよみがえらせることを目的としている<ref>{{Cite news|url=https://www.cmpod.net/all-transcripts/history-open-source-free-software-text|title=Richard Stallman and The History of Free Software and Open Source|last=Levi|first=Ran|date=|work=Curious Minds Podcast|accessdate=2017-10-17|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://cs.stanford.edu/people/eroberts/cs181/projects/open-source/gnu.htm|title=GNU|last=|first=|authors=Amit Garg, Ryan Burdett, Ishaan Shastri, Evan Parker|date=|website=cs.stanford.edu|accessdate=2017-10-17}}</ref>。 == 自由ソフトウェアの定義 == {{出典の明記| date = 2018-08-22| section = 1}} フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの定義を提示している。[[ソフトウェアライセンス]]については自由ソフトウェアライセンスを参照。 定義に照らして自由ではない、すなわち改造や再配布などに制限が掛かっていたり、ソースコードが開示されていない、'''無償で利用できるソフトウェアとは異なる概念'''であり、この場合は[[フリーウェア]]もしくは無料ソフトと呼ぶことが望ましいとフリーソフトウェア財団はしている。 逆に定義に従ったソフトウェアであれば、一次的な配布が有償であっても自由ソフトウェアと呼ぶことができる。ただし、前述したように配布が自由であるため、ほとんどの自由ソフトウェアは無償で配布されている。 また、現状強い影響力を持つ定義として、フリーソフトウェア財団の定義の他に、[[Debianフリーソフトウェアガイドライン]]とそれをベースにした[[Open Source Initiative]]の[[オープンソースの定義]]がある。 == 自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア == {{出典の明記| date = 2018-08-22| section = 1}} そもそも、[[英語|英単語]]であるフリー (free) は、「[[自由]]」と「無料」、双方の意味をもっていて、たんに"free"といっただけでは区別が付かない。これに対し、Free Softwareの概念においては、「自由」と「無料」の違いが大きな意味を持つ。このため、英語圏では、'''自由'''のfreeと、'''無料'''のfreeを区別するため、'''無料'''を示すのに「free as in "free beer"(無料の[[ビール]])」、また、'''自由である'''ことを示すのに「free as in "free speech"([[言論の自由]])」などという表現がよく使われる<ref>{{cite web|url=https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.en.html|title=What is free software?|language=en|website=GNU Project - Free Software Foundation|date=2018-06-12|accessdate=2018-07-04|dead-url=no|archive-url=https://web.archive.org/web/20180704035918/https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.en.html|archive-date=2018-07-04}}</ref>。 熟語として記述する際には、"free software"、"Free Software"と区別している。前者がよく言われる"無料のソフトウェア"であり、後者は固有名詞で、[[リチャード・ストールマン]]が自由なソフトウェアに対して名づけた"自由なソフトウェア"のことである。最近では本来英語の単語でないものの、「自由」を意味する単語として[[ラテン語]]の "[[libre]]" を使い "Software libre" のように表すこともある。 === 無償のソフトウェア === {{see also|フリーウェア}} [[フリーウェア]]を参照のこと。 === 自由なソフトウェア === コンパイルした成果物だけでなく、[[ソースコード]]が入手可能であり、さらに、その改変と再配付も自由である必要がある。 [[フリーソフトウェア財団]](FSF)の創始者[[リチャード・ストールマン]](RMS)が、''自由に''利用し、改変し、再配布することができるという意味でFree Softwareという語を[[1980年代]]初頭に作った。この場合、単に無料であるソフトウェアは、"フリーウェア"と呼んで区別する。 ソフトウェアが自由であることを重視するリチャード・ストールマンの立場からは「無料」との混同は避けたいところである。そのため、彼は折に触れてこの区別を強調し、また「[[日本語]]にはせっかく2つの意味を区別する言葉があるのだから、Free Softwareではなく'''自由なソフトウェア'''と呼んで欲しい」と述べている<ref>{{cite web|url=https://www.rieti.go.jp/jp/events/03042101/speech.html|title=The Future of Jiyuna Software|author=[[リチャード・ストールマン]](Richard Stallman)|language=英語 |accessdate=2007年10月20日|publisher=[[経済産業研究所]]|date=2003-04-21|work=[https://www.rieti.go.jp/jp/events/03042101/info.html イベント「インターネット時代の著作権」]}}(本文以外は日本語です、和訳が同サイトの別ページ[https://www.rieti.go.jp/jp/events/03042101/speech_j.html]にあり)</ref>。 自由ソフトウェアは、著作権を放棄した「[[パブリックドメインソフトウェア]]」(PDS)とは異なる。一見[[矛盾]]しているように見えるかも知れないが、自由ソフトウェアは(自身が自由であるための手段として)著作権を明確に主張し、そのライセンスの文中で自由を規定するという方法を取っている。 このため、あるソフトウェアが、自由なソフトウェアである場合には、'''自由'''であることを、[[ライセンス]]で明確に示しており、確認することができる。ライセンスが、例えば[[GNU General Public License|GPL]]、[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]、[[GNU Free Documentation License|GFDL]]、[[BSDライセンス]]、[[X11 License|X11ライセンス]]などであれば、自由なソフトウェアである。 現在、GNU/Linuxとして知られる自由ソフトウェアのオペレーティングシステムのプロジェクト:GNUを始めるに当たって、作られるソフトウェアの自由を保証するために、自由ソフトウェアの概念を定義した。GNUは自由ソフトウェアのみで構成されるというわけである{{要出典|date=2018年2月}}。 自由ソフトウェアとして認められるライセンスには、二通りある。 *'''コピーレフトな'''自由ソフトウェアのライセンス **再配付/改変後のソフトウェアも自由ソフトウェアにする必要があるライセンス。 **[[GNU General Public License|GPL]]や[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]など。 *'''コピーレフトではない'''自由ソフトウェアのライセンス **再配付/改変後のソフトウェアを自由ソフトウェアにする必要のないライセンス。 **[[BSDライセンス]]など。 === 自由と無料の比較 === [[ソースコード]]が公開されなければ、自由なソフトウェアではない。ソフトウェアを自由に変更・配布することはソースコード無しには極めて困難だからである。 しかし、ソースコードが付属していても、ソースコードを改変したり配布したりする自由が制限されていれば自由なソフトウェアとは言えない。 自由なソフトウェアは、そのソフトウェアが仮に有料で取得されたとしても、それを無料でコピーすることを制限しない。また、同時に、自由なソフトウェアは、それを有料で販売することも制限していない。「自由」には有料で販売する自由、無料でコピーする自由が含まれている。したがって、「有料なので自由なソフトウェアではない」という判断は間違いである。例えば[[Linuxディストリビューション]]に有償のものも多いように、自由なソフトウェアを集めてそれらを有償で販売する製品形態は定着してきている。 自由なソフトウェアは、有用なものであれば大抵はそれを無料で配布しようとする者が現れる。勿論、無料で配布することは自由である。その意味では自由なソフトウェアには無料という意味でもフリーなものが多い{{要出典|date=2018年2月}}。 == 関連する概念 == {{出典の明記| date = 2018-08-22| section = 1}} === コピーレフト === {{Main|コピーレフト}} 自由なソフトウェアが、'''永続的に'''自由であるための概念として'''コピーレフト'''がある。 コピーレフトとは、配布にあたって「配布される人にソースコードを自由に取得・変更・再配布する権利を提供せずにプログラムの再配布をしてはいけない」という制約をつけることで一旦自由ソフトウェアになったソフトウェアは他人の手を経て再配布されても自由ソフトウェアであり続けることを保証する。 この制約の有効性はプログラム著作者の著作権(コピーライト)によって保証されている。rightをleftに置き換えてコピーレフトという語が作られた。 日本においては、コピーレフトの観念を"永久に無料で更新され続ける"かのようなイメージで語られることがあるが、コピーレフトは、ソフトウェアを"永続的に使う機会を保証する"ために、そのソフトウェアのもとになるソースコードの利用の自由を保証する(させる)だけである。エンドユーザが常に改良されたソフトウェアを使えるかどうかとは無関係である点に注意が必要である。 要するに、私有ソフトウェアは、なんらかの事情で権利主が更新が停止した場合、そのソフトウェアの命脈は文字通りそれまでであるが、コピーレフトであれば、ソースコードを改良する人がいる限り、ソフトウェアの更新も継続される、ということである。逆にいえば、コピーレフトであっても、誰もメンテナンスしなければそのソフトウェアはそのままであるし、実際にそういうソフトウェアは多い{{要出典|date=2018年2月}}。 コピーレフトもまたGNUを始めるに当たって、より自由なソフトウェアを定義するための概念である。GPL/LGPLは、コピーレフトを実現する法的に有効なライセンスで、弁護士の協力の元に作られた。 [[ソフトウェア]]に例えて言えば、コピーレフトは「[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]」であり、GPLはその「[[実装]]」ということになる。つまり、コピーレフトを実現するライセンスにはGPL以外にもあり得る。 コピーレフトやGPL自身が、実社会で動作するコンピュータプログラムのようなもので、天才プログラマのストールマンならではの作品だと言える{{要出典|date=2018年2月}}。自由な社会を作り出すプログラムである。「GPLをあなたのソフトウェア/作品に組み込めばそれは、自由な社会を作り出すために自動的に働き始めますよ」というわけだ。 GNUなどの考え方としては、コピーレフトなライセンスが「自由な世界のソフトウェアは自由を失うことが難しい」という意味で、より自由ということになる。 これに対して、BSDを始めとしたコピーレフトではないライセンスは、「自由なソフトウェアが将来自由を失う可能性があり得る」という意味で、コピーレフトに比べて自由さに欠けるとされる。例えば、BSDライセンスで公開されているソフトウェアを改良して公開するとき、必ずしもソースコードを公開しなくても良い。コピーレフトの考え方によれば、このとき「改良されたバージョンは自由が失われている」とされる。 一方、コピーレフトは「自由であること」が失われないために「自由でなければならない」という制約を付けていると見ることもできる。例えば、コピーレフトなソフトウェアを改造して公開する場合、ソースコードの公開を拒むことはできない。コピーレフトなソフトウェアをBSDライセンスで公開することもできない。この意味で、「コピーレフトは制約が強く、BSDライセンスなどに比べて自由でない」と考える人もいる。 詳しくは[[GNUプロジェクト]]の「さまざまなライセンスとそれらについての解説<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gnu.org/licenses/license-list.ja.html|title=さまざまなライセンスとそれらについての解説|author=フリーソフトウェア財団 (FSF) |accessdate=2007年10月20日 }}</ref>」に自由ソフトウェアとして認められるライセンスの一覧があり、必要に応じて更新されている(日本語版は英語版に比べて更新が遅れるので、最新の情報を得る必要があるときは、英語版を参照のこと)。 === オープンソース === {{Main|オープンソース}} Free softwareという言葉は「無料」を連想させるため、一般企業には採用されにくい考えかたであった。この状況を改善させるため、[[エリック・レイモンド]]らによって近年[[オープンソース]]という語が提案され、広く使われるようになった{{要出典|date=2018年2月}}。オープンソースという言葉には''自由''の思想が含まれておらず(前述の状況を回避するため意図的に避けられている)、あくまでビジネス上の企業戦略の一つとして紹介された。「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」が関心の中心である。 オープンソースはソースを取得、変更、再配布できることに注目し、ソフトウェアの自由を維持するためのコピーレフトの概念は含まれていない。 このような違いから、自由ソフトウェアとオープンソースの立場は別の物として扱われている{{要出典|date=2018年2月}}。形としては、オープンソースは自由ソフトウェアの一部のように見えるが、意味としては全く違うと、リチャード・ストールマンは主張している。逆にオープンソースは、自由ソフトウェアをその一部として含む。 各ライセンスはオープンソースの概念を発表・定義し、推進する団体である[[Open Source Initiative]]による認証を受けることで「オープンソース・ライセンス」を名乗ることができる。しかしオープンソースは流行語になったため独自の解釈による自称オープンソースが複数存在するため問題となっている。 == 産業としての自由ソフトウェア == {{出典の明記| date = 2018-08-22| section = 1}} 自由ソフトウェアが提唱された当初は批判意見もあり{{要出典|date=2018年2月}}、利用者は研究者や個人に限られていた{{要出典|date=2018年2月}}。 1990年代になると、インターネットの爆発的普及により、自由ソフトウェアに携わる技術者が世界的に増大した。また、[[ダウンサイジング]]と[[オープンシステム (コンピュータ)|オープンシステム]]の普及により、情報システムにおける標準化とコストの劇的な低下が起こり、相対的にシステム構築や、保守運用のコストの比重が増加した。 このため、自由ソフトウェアを使用し、情報システムの構築、保守運用を行うことで利益を上げる[[ベンチャービジネス]]が勃興した。 このような企業において独自に行われた、バク修正や機能の追加は、インターネットを通じ公開され、自由ソフトウェアの信頼性向上や高機能化に貢献した。企業も、社会貢献によるイメージアップと、技術力を示すことによる広告効果を期待することよりも、特定の高価な独占ソフトウェアでは利益が独占企業に集中するだけであり、対抗して作られてきた自由ソフトウェアに積極的に開発に携わることにより、利益確保の道を模索している。あるいは、開発、保守の費用負担ができなさそうなソフトウェアを自由ソフトウェアとしてソースコードを公開することより、固定的な費用負担を削減することを目的としている場合もある。 2000年代になると、自由ソフトウェア産業は[[エコシステム (バズワード)|エコシステム]]として機能するようになり、多くの人から産業としての価値を認められるようになった。また、従来からの大企業が自由ソフトウェアに関わることも珍しくなくなった{{要出典|date=2018年2月}}。 一方、現在でも自由ソフトウェア開発では、[[特許]]などの[[知的所有権]]の保護が十分検証されておらず、企業での利用にはリスクがあると批判されることがある{{要出典|date=2018年2月}}。しかし、国際規格などの公開の規格類に適合していれば、特許・知的所有権は規格制定とその後の所定の期間で検証済みとなるため、企業での利用にリスクがあるとは限らない{{要出典|date=2018年2月}}。保守運用で利益を上げることが難しい個人向けソフトウェアでは、有償の自由ソフトウェアの運用は進んでおらず、個人の自己責任での利用が広がっている。また、自由ソフトウェアが入っていることを知らずに利用している場合の方が多くなっている{{要出典|date=2018年2月}}。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|FLOSS}} *[[自由ソフトウェアの定義]] *[[フリーソフトウェアライセンス]] *[[フリーソフトウェア財団]] *[[FLOSS]](Free/Libre and Open Source Software) *[[デジタル権]] == 参考文献 == * リチャード・ストールマン『フリーソフトウェアと自由な社会 Richard M. Stallmanエッセイ集』アスキー ISBN 4-7561-4281-8 == 外部リンク == *[https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.ja.html 自由ソフトウェアとは?] *[https://www.gnu.org/gnu/gnu-history.ja.html GNU プロジェクトの概要] *[https://www.gnu.org/philosophy/philosophy.ja.html GNU プロジェクトの思想] *[https://www.yamdas.org/column/technique/fsffj.html 「フリーソフトウェア」が「オープンソース」より好ましい理由] *[https://www.debian.org/social_contract#guidelines Debian フリーソフトウェアガイドライン (DFSG)] - [[Debian]] プロジェクトによる、何をもってフリーソフトウェアと言えるのかの妥当な定義。 *[https://www.gnu.org/philosophy/fs-translations.ja.html “free software”という用語の各言語訳] - "フリーソフトウェア"の定義に大きく関わる[[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]]の主催する[[GNUプロジェクト]]における訳語のポリシーを示している。"Free Software"という語の日本語訳を'''"自由ソフトウェア"'''としている。 {{Software distribution}} {{FOSS}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆうふとうえあ}} [[Category:フリーソフトウェア|*]] [[Category:ソフトウェアの分類]]
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西洋美術史
西洋美術史(せいようびじゅつし)では、西洋における美術の歴史について概説する。 旧石器時代後期に入った頃より、実生活において有用に機能するとは考えにくい遺物・遺構が見られるようになり、これらを総称して一般的に原始美術/先史美術などと呼称し、西洋美術史においては洞窟絵画や岩陰彫刻(英語版)、丸彫彫刻(英語版)、獣骨などに刻まれた刻線画などがこれに該当する。また、実用品からも動物や魚の骨などを原材料とした器物や石器類などに動物や魚類、木の葉などを写実的に模様化したものが残されており、美術の目覚めを感じさせる。ただし、これらを原始美術と分類し、その地位が確立されたのは20世紀に入ってからである。 古いものはオーリニャック期に生み出されたとされ、フランスの クニャック洞窟(フランス語版)に描かれた山羊の洞窟絵画、スペインのラス・チメネアス洞窟(スペイン語版)に描かれた鹿の洞窟絵画などが知られている。 動産美術としてはブラッサンプイで出土した象牙彫りの女性頭部像がある。人間を表した作品はたいていの場合裸体女性であり、子孫繁殖を祈念した宗教的意味合いが込められていたと推察される。この時代の美術的特徴としては、単純な輪郭線による写実的な表現や生殖機能を強調した表現が挙げられる。ソリュトレ期の洞窟絵画は発見されていないが、マドレーヌ期 に入ると動物の体毛に応じた明暗の使い分けや、肥痩のある輪郭線を使用した表現力の増した洞窟絵画が出現するようになっている。有名なものとしてはラスコー洞窟やアルタミラ洞窟のものが挙げられる。これらの洞窟絵画では野牛、トナカイ、馬、マンモス、鹿などの狩猟対象となった動物のモチーフが主となっていた。 このため、これらの遺例はヨーロッパ大陸を拠点に生活を営んでいた狩猟採集民族の手によって作成されたものであり、彼らにとって重要・貴重なものを対象として造形的に再現したに過ぎず、後年の美術が獲得していった社会的機能は持っていなかったのではないか、あるいは誰かに見せるために描いたものでは無いのではないかと考えられている。 中石器時代には東スペインで興った様々な動物と人間を描いた岩陰絵画(レバント美術)やスカンジナビア半島からロシアにかけて発達した岩陰線刻画(極北美術)が登場した。初期のものには写実的な表現でもって実物大に近い大きさを有しているものも見られるが、時代を追うごとに形像は小型化し、簡略化・形式化が進んでいる。 新石器時代に入ると人類は土器の製作を始め、線状模様が土器表面に描かれるようになった。この時代に洞窟絵画に見られるような絵画的美術が創出されたのかどうかは今となっては不明であるが、『西洋美術史要説』では制作そのものが少なかったのではないかと推察している。また、土地土地によって建設されたであろう木造住居は残されておらず、美術史的な立場からこの時代の建築遺物としては、メンヒル、ドルメン、ストーンヘンジなどといった宗教的な意味を持っていたと考えられる石製構造物のみである。 後世、20世紀あたりになって、原始美術に影響され原始主義(英語版)に繋がる。 ティグリス・ユーフラテス川水域で開花したメソポタミア文明では、原始農耕社会の中で様々な器形とユーモアな装飾モチーフを特徴とする彩文土器の出現が見られた。特にサーマッラー期やハラフ期の彩文土器は従来の幾何学文様に加えて特徴を極端に誇張した動物文様や人物文様などが加わり、社会の広がりと異なる文化との交流を示している。地域的な事情から石材が乏しかったことから大型の彫刻は制作されず、建築文化も煉瓦の使用やアーチ式建築の技法発達が見られた。ここで誕生したメソポタミア美術は、エジプト美術と並んで西洋美術史における始祖とも言える。 紀元前4000年期に入る頃にはシュメール人たちによって神殿を中心とした都市が形成されるようになり、商業の活発化とともに絵文字などの伝達手段が登場するようになった。特にウルク期の中心的役割を担ったエアンナでは陶片によって壁面や柱がモザイク装飾された神殿が登場し、大理石を素材にした丸彫彫刻が数多く制作された。大理石が持つ白い肌触りと柔らかな質感は人間の肉感を表現するのにうってつけであり、素材に大理石を使用するという手段はギリシア美術へと継承された。 ジュムデト・ナスル期(英語版)に入ると礼拝者や聖職者を象ったと思われる立像が制作されるようになり、同時に、政治的指導者の出現によって都市国家としての発展が見られるようになった。制作される美術品は写実的な表現が大きく発達し、素材も多様化して金、銀、ラピスラズリ、貝殻などが用いられるようになった。また、叙述的な表現技法も見られ、戦争などの国家的な出来事も作品モチーフとして取り入れられるようになっている。この時代の彫刻は『エビー・イルの像』に代表されるように、強調された大きな目を有していることに特徴があり、エジプト美術にも影響を与えている。 セム人の侵攻によってアッカド王朝が樹立すると、自然主義的な傾向を有した作品が制作されるようになり、同時に、権力者を称えるような王権美術とでも形容すべき様式の確立がなされた。アッカド王朝滅亡後、ウルクによるシュメール都市国家の統合がなされた頃には都市の再建に伴ってジッグラト(聖塔)が各地に建設され、宗教観の発展とともに建築分野の美術が大きく発達した。ジッグラトは後に続くエジプト美術で建設されたピラミッドの原形となった。 一方、メソポタミア北部のアッシリアでは、バビロニアの占領支配によって固有の文化的発展を遂げ、美術作品においても他の地域にない独自性を有するようになった。トゥクルティ・ニヌルタ1世の時代に入った頃から丸彫彫刻や浮彫彫刻などが数多く制作されるようになり、躍動感のある表現が見られるようになった。 また、地理的な環境と版図の拡がりから不透明ながらもアッシリアの美術はフェニキア美術やギリシア美術に一定の影響を与えたと考えられている。アッシリア帝国滅亡後に誕生した新バビロニア帝国ではネブカドネザル2世の手によって都市整備が進展し、イシュタル門に代表される彩釉煉瓦で装飾された建造物が登場した。 その後、アカイメネス朝によって各地が統治されるようになるとメソポタミア、エジプト、ウラルトゥなどの美術様式を統合したアカイメネス朝美術(英語版)が開花した。特に工芸の分野でその特質は顕著で、金銀象嵌などを駆使した精微な作品が数多く制作されている。 ナイル川流域で興ったエジプト文明は肥沃な大地を背景に大いに発展し、初期王朝時代には古代エジプト美術の原型が誕生した。エジプト美術の初期は メソポタミア美術(英語版)の影響を受けたと考えられている。初期は蛇王の碑などに代表される浮彫彫刻や丸彫彫刻がさかんに制作され、既に技術、様式においてエジプト美術の独自性の原形が垣間見える。 ファラオの神権的権力が確立する古王国時代には葬祭複合体として古代史においても重要な建築物であるピラミッドがギザなどに建立された。なお、従来の墳墓(マスタバ)の概念を取り払い、ピラミッドとして確立を見たのはジェセル王の時代であり、宰相イムヘテプによってサッカラに建立された階段ピラミッドがその嚆矢とされている。壁画においてはメイドゥームの鴨(英語版)など、動植物には写実的で精微な表現を有したものが数多く制作されているのに対し、人像表現は極めて形式的かつ概念的で、上半身は正面向き、下半身は真横からといった形態で表現されていることが多い。 これは、魚や鳥は死者の食料としての役割を担っており、生きの良さが重要だったのに対し、表された人々は王侯に奉仕する労働力として永遠不動の形を要求するというエジプト独特の信仰から来る表現の違いであると推察されている。 中央集権が瓦解し、中王国時代に入るとアメンエムハト3世の時代に入るまで巨大建造物の造営は見られなくなり、代わってオシリス柱やハトホル柱など、独創的な形式を有する葬祭殿や神殿が出現した。彫刻においては第11王朝期ごろから個性を写実的に捉える傾向を持った新しいテーベ様式が出現し、従来の伝統的なメンフィス様式とともに二大潮流を形成した。しかしながら経済の停滞とともに制作傾向は大型石像彫刻から木製の小像へと変化している。 新王国時代に入ると王権の強化とともにエジプト美術は絶頂期を迎え、アモン大神殿やルクソール神殿など、テーベを中心に各地で大型の造営事業が推進された。とりわけ、第18王朝期には従来の二大潮流の中に豪華な装飾性と色彩主義が加えられ、宮廷美術の新境地を切り開いた。 また、アマルナの地に都を移したアメンホテプ4世が唯一神アトンへの信仰に没頭したことから、この時代に制作された美術作品は自然主義的な傾向が色濃く反映されており、エジプト美術のなかでは異彩を放っている。宮廷美術として型にはめられ、厳格な形式性から解放されたことから、リアリズム表現の技法が大いに伸張した。王女に口付けをするアメンホテプ4世の彫刻画など、人間の感情や情愛をモチーフとした構図が採用され、表情や姿態に誇張的な表現がとられた。 この時代の美術をそれ以外の時代のエジプト美術と区別し、アマルナ美術と呼称する。アマルナ美術は後世のエジプト美術にも大きな影響を与え、ツタンカーメンの黄金マスクなどにおいても、アマルナ美術の内観的な表現様式の名残が見て取れる。 エジプト美術の最大の特徴はその様式の不変性で、三千年に及ぶ悠久の時を経てもほぼ変わることなく一貫していることが挙げられる。こうして連綿と継承された技術はその洗練性を高め、後期には沈浮彫りなどの高度に発達した特殊な技法が誕生している。一方でこうした不変性は社会的・歴史的基盤があって初めて成立する特殊な美術であったこともまた事実であり、ギリシア美術のような影響力を他の美術に与えることはなかった。しかし、末期王朝時代に入ると王国の衰退とともにエジプト美術も因襲的な模倣に終始し、他国からの影響を受けながらその独自性すら失っていった。紀元前332年、アレクサンドロス3世によってエジプト征服がなされると、エジプト美術は形骸化し、ギリシア美術の影響の中に消えていった。 アーサー・エヴァンズのクノッソス発掘によって、地中海域で最初に開花したとされるクレタ美術(ミノス美術(英語版))の解明がなされた。新石器時代末期から青銅器時代初頭にかけて、キュクラデス諸島などで人体の特徴を簡潔に捉えた石偶や彩色土器、金属器などが制作されている。旧宮殿時代に入ると農業と海上貿易によって都市は経済的に大きく発展し、マリア、クノッソス、アヤ・トリアダなど各地に荘厳な宮殿が造営された。工芸品も数多く制作され、カマレス陶器のような豪華なものも出現している。 紀元前1700年頃に発生した大地震により一時は壊滅の危機に陥るが、新宮殿時代に入るとより複雑で豪華な装飾を持つ宮殿や離宮が建立された。自然と人類を見事に調和させ、自由闊達に描いた壁画が残されており、こうした作風はペロポネソス半島で隆昌したミュケナイ美術へ受容、継承された。紀元前1400年頃に入ってミュケナイ人がクレタ島を征服すると、ミュケナイ美術は最盛期を迎え、後のギリシア建築に大きな影響を与える建造物が複数建築された。 ミュケナイ美術は時代を経るに従って豊かな自然主義的作品から簡素化された装飾モチーフを用いた形式主義的作品へと変遷しており、その理由については明らかになっていない。その後、紀元前12世紀頃のドーリス人大移動を境に衰退期へと移行し、ミュケナイ美術はその幕を閉じることとなった。 紀元前11世紀中ごろ、アテネのケラメイコスからミュケナイ陶器とは異なる特徴を持った陶器が出現した。黒線や水平帯によって区分した装飾帯に波状線や同心円文を配した構築的な装飾を持ったこれらの様式は原幾何学様式と呼ばれ、ミュケナイ美術とは明確に区別されるようになった。 紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はメアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文、菱形文などを複雑に組み合わせた装飾が配されている。 こうした幾何学的な構想は陶器の文様に限らず、テラコッタや青銅小彫刻などにおいても同様の傾向が見られ、動物や人間などの各部位を幾何学的形態に置き換えた後に全体を再構築するという過程を経て制作されており、有機的形態の分析による認識法や、部分均衡と全体調和によるギリシア美術固有の造形理念が見られる。以上のような経緯を経てギリシア美術は確立に至るが、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが記した『古代美術史』に代表されるように、ギリシア美術こそが西洋美術のはじまりであるとする言説も存在している。 その後、エジプト、アッシリア、シリアの東方から持ち込まれた工芸品を通じて、ギリシア美術における装飾モチーフの表現領域が大きく拡大し、パメルット(英語版)、ロータス、ロゼットなどの植物文やスフィンクスなどの空想動物が用いられるようになった。プロト・コリントス式陶器やコリントス式陶器など、こうした装飾モチーフを利用して制作された作品はギリシア美術の中でも特に東方化様式と呼称し、区別されている。 一方、アテネでは叙事詩や物語への関心が高まったことによりこれらをモチーフとした陶器や彫刻が制作され、これらはやがて神話表現へと昇華していくこととなった。紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻の影響で大掛かりな彫刻が制作されるようになり、この頃作られた男性裸体像(クーロス(英語版))は既に両足を前後させて体重を均等に支えるポーズをとっており、ギリシア彫刻としての特徴が見て取れる。 ここまでに培われた表現基盤と技術的要素を背景として紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力に満ちたアルカイック美術が展開された。人体彫刻はより自然な骨格と筋肉をまとったものへと発展し、神殿建築分野ではこれまでの日干煉瓦や材木に代わって石材が使用されるようになり、アポロン神殿(ドイツ語版)に代表される周柱式神殿が誕生した。紀元前6世紀にはサモスのヘラ神殿やエフェソスのアルテミス神殿など、イオニア式オーダーによるより巨大な神殿が建立されるに至り、これに伴う建築装飾技法が大いに発達した。 浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間の静止を表現できるよう試行錯誤が繰り返されるようになり、その過程でアルカイックスマイルなどの立体表現が生み出された。なお、ギリシア美術で好んで使用された素材である大理石の色によってギリシア彫刻の特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが、制作当時はエジプトから輸入された顔料などを用いて鮮やかな彩色が施されていたことが近年の研究によって明らかになっている。 陶器画の分野ではアッティカがコリントス式陶器の技法を吸収して黒絵式技法を確立し、フランソワの壺に代表されるような、神々や英雄の神話的場面を描出した作品が制作された。アマシスやエクセキアスはこの技法をさらに洗練させ、前者は人間味溢れる神々の姿を、後者は重厚な筆致で崇高な神々の姿を描き出し、神人同形(アントロポモルフィズム)という観念を確かなものとしている。その後、黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部にこだわった絵画的な表現がなされるようになった。こうした技法発展の背景は、板絵や壁画といった新しい芸術表現に対する絵画的探究の表れだったのではないかと考えられている。 紀元前5世紀初頭に入ると、ポリュグノトス (en:Polygnotos (vase painter)) やミコン(英語版)といった画家によって「トロイアの陥落」「マラトンの戦い」などの神話歴史画が描かれ、大絵画というジャンルが確立するに至った。四色主義(テトラクロミズム)という制約の下、形像の重複や短縮法といった技法を駆使することによって絵画上に奥行きのある空間表現を試みており、絵画、彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性を示したという意味で特筆すべき存在となった。彫刻分野の作品においては、それまでの直立不動の姿態から支脚/遊脚の概念を取り入れたコントラポストへと変化しており、クリティオスの青年(英語版)やデルフォイの御者像(英語版)などが制作された。 この時代、ペルシアを撃退し、ギリシア世界の覇権を獲得したアテネは最盛期を迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代という新しい領域へと突入することとなった。ペリクレスによってアクロポリスの整備が推進され、オリンピアのゼウス神殿やパエストゥムのポセイドン神殿で培った技術にイオニア的な優美さを付加したパルテノン神殿が建立される。彫刻分野ではパルテノン神殿の造営を指揮したフェイディアスによってアテナ・パルテノスの黄金象牙像が制作された他、ポリュクレイトスによって体中線をS字に湾曲させるなどの技法が生み出され、コントラポストの極致が確立された。絵画の分野ではアポロドロスによって空間表現に不可欠な幾何学的遠近法、空気遠近法の融合化を図った作品が制作された。その他、明暗技法に優れた才能を発揮したゼウクシス、性格表現と寓意的表現に優れていたパラシオスなどがギリシア美術における絵画の発展を牽引している。 クラシック時代後期に入ると個人主義が台頭し、美術界においても多大な影響を与えた。彫刻分野ではプラクシテレス、スコパス、リュシッポスが静像に内面性を付加させた表現技法を生み出すとともに、裸体女性像の価値を大きく引き上げることに貢献した。アレクサンドロス3世の宮廷彫刻家としても知られるリュシッポスは肖像彫刻の分野でも優れた作品を残しており、後世ヘレニズム美術(英語版)やローマ美術の彫刻家達に大きな影響を与えた。同じく宮廷画家であったアペレスは明暗法、ハイライト、遠近法を駆使した大絵画を創出し、古代最大の画家と評価されている。 アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった。こうした現象についてローマ時代の文筆家大プリニウスは「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている。 一方、イタリア中部に定着したエトルリア人は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した。一般にエトルリア美術は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類されるが、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である。 都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことが伺える。紀元前7世紀から顕現したこうした兆候はヘレニズム期まで継続していた。彫刻分野も遺例が少ないものの、紀元前6世紀末に活躍したウルカ(英語版)はエトルリア人彫刻家として名が知られている特筆すべき人物で、ヴェイオから出土した「アポロン」など、イオニア彫刻の影響を強く受けたテラコッタ像を制作している。 紀元前5世紀初頭の古典期に突入すると政治、経済の衰退と共に美術的活動も新鮮味と活力が失われ、様式的にも停滞した。しかし、ヘレニズム期に入ると来世観に進展が見られ、ウァント(英語版)やカルン(英語版)といった魔神が墓室壁画のモチーフとして選択されることが多くなった。肖像彫刻においては写実性溢れる作品が好んで制作されるようになった。 紀元前509年、エトルリアに従属していた都市国家のひとつであったローマは、共和制を樹立し、周辺都市国家を征服しつつ紀元前4世紀にはエトルリアをもその支配下に置いた。その過程でエトルリア美術の影響は次第に薄れてはいったが、独自の美術を生み出すには至っていなかった。 紀元前3世紀に入るとサムニウム戦争や第一次ポエニ戦争などの影響により、戦利品として南イタリアのギリシア植民都市から大量の美術品が持ち込まれると、その成熟された美しさに魅了され、第二次ポエニ戦争以降、ローマ下においてギリシア美術ブームが起こった。これによりローマでは従来の伝統的なエトルリア美術と、「外来」のギリシア美術がそれぞれ潮流を成し、社会に氾濫することとなった。ローマ人の需要に応えるべく、創造性には欠けるが様々な様式の彫刻を注文に合わせて制作するネオ・アッテカ派(英語版)と呼ばれる一派が形成され、アウグストゥスの庇護を受けて伸張した。この影響で「アウグストゥスの平和の祭壇」や「プリマポルタのアウグストゥス」といった高度な写実性を有する、洗練された古典主義的な美術品が数多く制作されている。 建築分野では紀元前1世紀前半ごろより、ヘレニズム期のエトルリア美術を基盤としてローマ固有の建築様式を生み出していった。厳格な左右対称性やコリントス式柱頭の多用、内部空間の重視などがローマ建築の特徴として挙げられる。紀元前2世紀前半に建設されたバシリカや紀元前1世紀前半に建築されたコロッセウムなどは、新しい建築ジャンルとしてローマ美術における代表的な建造物としてしばしば取り上げられる。 また、建造物の壁面に描かれた装飾物についてもヘレニズム期の影響を受けるポンペイ第一様式からポンペイ第二様式と呼ばれる装飾法へ移行を果たし、神話的風景画などがさかんに制作された。帝政期に入ると歴代皇帝の事跡を誇示するかのような歴史浮彫が多数制作され、現代ではトラヤヌス帝の記念柱やコンスタンティヌス帝の凱旋門などがその遺構として知られている。 同時に神話的な情景を主たるモチーフとしていた古典主義は衰退し、現実の情景を記した写実主義がもてはやされるようになった。さらに、2世紀中ごろからは主要人物をより強調して表現する傾向が顕著となり、その影響は肖像彫刻などの他ジャンルへも波及した。こうした自然主義の放棄と表現主義の台頭という変遷は、この後のローマ美術がキリスト教美術へと変質化していく過程における重要な転換点として挙げられる。 紀元2世紀末から3世紀はじめにかけて地中海沿岸の各地にローマ美術の流れを汲んだキリスト教美術が誕生した。以降キリスト教美術は1500年以上に渡って東西ヨーロッパにおける美術の中核を担っていったが、キリスト教の誕生から5世紀後半までの美術を初期キリスト教美術と呼称している。313年に公布されたミラノ寛容令まではキリスト教に対して弾圧が繰り返されていたこともあり遺跡、遺品ともに残されているものが少ないが、カタコンベ(地下墓所)の壁画や石棺彫刻といった葬礼美術にその特徴を垣間見ることが出来る。火葬と土葬が併用されていた古代ローマ時代からヘレニズム文化の影響を受けて土葬へと急激に転換したことが、こうした葬礼美術が制作されるようになった要因の一つとされている。キリスト教では偶像崇拝が禁じられていたことから、死後の魂の救済を願って描かれた初期の壁画は、構図やモチーフに異教美術からの積極的な借用が見られるものの、十字架の形を象徴する物やイエス・キリストを意味する魚、よき羊飼いや祈る人といった寓意的な人物など、間接的または暗示的な信仰の表明が示されている。教義が出来上がり、教会体制が整うにつれて新約聖書や旧約聖書に語られている物語がモチーフとして選択されるようになった。 380年に、テオドシウス1世によってキリスト教が国教として定められると、帝都コンスタンティノポリス、ローマ、アンティオキアなどの各地で大規模な教会堂の建築が実施された。建築様式としてはローマ美術のバシリカから派生したもの(バシリカ式)、ヘレニズム美術の廟墓建築やユダヤ教の記念堂建築の流れを汲むもの(集中式)に大別されるが、いずれも煉瓦造りの質素な外観に対してモザイク装飾を用いた豪華な内観という特徴を持っており、現実的な地上世界と神秘的な死後世界の対照化を試みている。バシリカ式の教会堂としてはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が、集中式の教会堂ではラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂が、それぞれこの時代に建築された代表的な例として挙げられる。5世紀に入るとキリスト教美術はローマ美術の古典的な様式から豪華な金地や多様な装飾が施された東方的な荘厳美術へと傾倒していった。 330年、コンスタンティヌス1世により帝都がコンスタンティノポリス(現イスタンブール)へ移されたことがきっかけで美術活動の重心も東方へと移っていった。これによって初期キリスト教美術に古代アジアやサーサーン朝ペルシアの美術的要素が融合し、ビザンティン美術が確立された。ビザンティン美術は15世紀までの長きに渡り、大きな変質なく脈々と一貫性を保ち続け、その特徴は荘厳な様式の中に散りばめられた豪華絢爛な装飾性と、精神性や神秘性を追求した理知的な傾向が挙げられる。ユスティニアヌス1世の第一次黄金時代と呼ばれる時期に建築されたハギア・ソフィア大聖堂は、それまでのバシリカ式と集中式の建築様式を統合し、新しい建築類型を確立させた。また、近東の民族美術の影響で装飾モチーフにも変化が見られ、聖樹や獅子、幾何学文様などの象徴的あるいは抽象的な浮彫装飾が好んで選択されており、人像の表現は激減している。さらに、8世紀に入って聖像論争が勃発して聖像否定派が優勢に立ったことで、こうした傾向はますます顕著となり、造形美術分野は一時的な衰退を余儀なくされた。 9世紀後半に興ったマケドニア王朝はその版図を拡大し続け、11世紀にはイタリア南部からスラブ諸国にまで及ぶ大帝国となった。この時代に始まった美術界における栄華をビザンティン美術における第二次黄金時代と呼ぶ。ヘレニズム期の古典的な伝統美術が影響力を強め、教会堂建築もオシオス・ルカス修道院などに代表される、集中式を基盤とした装いへと立ち返っている。工芸美術の分野では「パリ詩篇(英語版)」や「ナジアンゾスのグレゴリウス説教集」といった擬古典的な様式を採用した写本装飾などが制作された。その後、マケドニア王朝の滅亡とともにコムネノス王朝が興ると華やかな宮廷美術と、人文主義的な伝統美術が融合した独特の美術が開花した。代表的な教会堂建築としてはダフニ修道院、ネレズィ修道院聖堂(英語版)などがある。13世紀前半には十字軍の略奪と占領などによって再び停滞期に突入するが、パレオロゴス王朝の時代に入るとコーラ修道院に代表される写実的で繊細典雅な様式が花開いた。 11世紀中葉以降、西方における帝国拠点都市を通じて、ビザンティン美術は西欧美術に大きな影響を与え続け、大構図モザイク装飾を採用した教会堂が各地に建立された。 476年の西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン諸族の国家が次々と誕生した。ガリアの地においてもゲルマン民族の手によってブルグント王国が成立したが、5世紀後半にクローヴィス1世率いるフランク王国によって滅ぼされた。クロヴィス1世は都をソワッソンへ移し、ローマ文化を積極的に取り入れ、ローマ帝国の継承者としてメロヴィング朝を興した。こうした経緯によって培われたメロヴィング朝の美術は工芸品分野において優れた技術を見せており、ゲルマン民族特有の豪華な装飾と、ガリア土着の伝統が融合した独特の様式を呈していた。また、近東の修道院制度がイタリアやアイルランドを経てもたらされ、大小様々な僧院が建立されている。写本装飾の分野ではメロヴィング朝特有のメロヴィング体(英語版)の書体とメロヴィング彩飾(英語版)の「鳥魚文」が多用されると同時に、花や鳥を幾何学的に組み合わせた文様なども確認でき、古代の自然主義的表現様式とは一線を画すものが制作されている。7世紀にはケルズの書に代表されるような、サクソン、オリエント、コプトからの影響を受けた複雑な装飾が施されるようになった。 カロリング朝の時代に入るとカール大帝の手によって学問や芸術の奨励が始まり、美術史的観点において大きな躍進を遂げた。特に彫刻分野においては、北イタリアを中心に発達した組紐文を象徴的に用いた浮彫が各地へ伝播し、後のロマネスク美術の基礎を築いた。写本装飾の分野においてはメロヴィング朝時代に一時衰退した古典的な人像表現が復活し、装飾モチーフとして積極的に使用された。その後、オットー1世によって神聖ローマ帝国が築かれると、西欧文化の主導権を掌握し、文化的傾向の方向性を確たるものとした。 9世紀から10世紀にかけて、ノルマン人やサラセン人などの異教徒の脅威により、カロリング朝はユーグ・カペーへその王権が引き継がれ、フランク王国は事実上の解体をみた。激動する社会情勢の影響を強く受けた西欧美術も同様に再び大きな変革を迫られることとなった。ロマネスク美術は、そうした社会的変動を背景として初期中世美術という基盤を発展させ開花した、11世紀後半から12世紀にかけての西欧美術を指す。 建築分野におけるロマネスク美術の特徴は、重厚な石壁と暗い内部空間に表され、古代バシリカ式建築を基本に添えつつ、東西への方向軸を持った建造物が増加した。これは、聖地巡礼を行う礼拝客の動線を配慮した結果発展した形態であると考えられている。こうした形態を保持する教会堂を巡礼路聖堂と呼び、トゥールーズのサン・セルナン大聖堂(英語版)などがその代表的建造物として挙げられる。この時代、修道院は学問と美術の中心的存在を担っており、各会派は信仰の普及手段として教会堂の建設を推進した。その表現手段は多様で、シトー会派が図像を否定し、質素な美術を奨励したのに対し、ベネディクト会派は豪華な素材を用いて美術の荘厳化に注力した。地方によって同じロマネスク美術建築でも特徴が大きく異なるのは、地域に対する会派の影響度の違いを示している。 また、後年のゴシック美術の建築と比較して壁面が多く、教会堂の天井や側壁には聖書や聖人伝を題材とした説話的な壁画が描かれた。地方によって細微な違いがあり、もっとも西方的な様式を確立したのはフランスで、その他の地域は大なり小なり東方的なビザンティン美術の要素を取り込んだ壁画が制作されている。イタリアではカロリング朝の伝統を継承しつつも、ビザンティン美術の範例を手本としながら力強い筆致で描かれているのが特徴で、イタロ=ビザンティン様式と呼ばれるこうした大構図壁画は、サン・クレメンテ聖堂(英語版)やサン・タンジェロ・イン・フォルミス聖堂(イタリア語版)などに残されている。スペインでは東方的な色彩とモサラベ美術(英語版)の影響によって、カタルーニャ地方に独特のロマネスク美術が開花した。また、オットー朝の写本工房の影響力がドイツ南部、オーストリア、スイス北部などではイタリア経由でもたらされたビザンティン美術の要素と融合を果たしたロマネスク美術が確立されている。 工芸分野では十字架、装幀板、燭台、聖遺物箱、祭具といった宗教用具がさかんに作成され、古代の浮彫や彫刻技法を復活させたことに大きな意義を見出すことが出来る。こうした丸彫像ではコンクの聖女フォワの遺物像がその先駆けとなった。その他オットー朝の伝統を汲むドイツや北イタリアの諸工房では、象牙や金を素材とした工芸細工が数多く制作され、フランスのリムーザン地方ではエマイユ工芸が発達し、聖遺物箱や装幀などが制作された。また、バイユーのタペストリーに代表される刺繍工芸が盛んになったのもロマネスク美術の特徴といえる。 ロマネスク美術の延長線上に位置付けられるゴシック美術は12世紀半ばごろより始まり、人間的・写実的な表現を特徴とし、ロマネスク美術の象徴的・抽象的な表現とは対照的な様相を呈している。この変革の背景には社会環境の変化が大きな影響を与えたと考えられている。前時代は修道士や聖職者など、限られた人々が文化の担い手であったのに対し、裕福な市民層や大学を拠点とする知識人などの台頭によってその範囲が拡大していったことが、美術の性格を変革させた一つの要因となっている。 こうした精神を如実に物語っているのが建築分野であり、その先鞭はシュジェールによって行われた1144年のサン=ドニ大聖堂改修工事である。シュジェールは信仰を導く手段として「光」の重要性を謳い、尖頭アーチを用いた肋骨交差穹窿とステンドグラスを嵌め込んだ大窓を組織的に活用することで、新しい建築意匠を創出した。この動きはすぐにサンス、サンリス、パリ、ランなどフランスの周辺都市へ伝播し、同様の意匠を保持する大聖堂が相次いで建立された。さらにはフランス人工匠の手によって国外へも波及し、イギリスのカンタベリー大聖堂など、新規建築や改修時にゴシック建築の様式を取り入れたものが登場している。また、ロマネスク建築の重厚な石造天井は重量的な問題から、自ずと「高さ」に対して限界が見えるようになり、これを解消することを目的とした建築方式が誕生し、広く受け入れられることは必然であったとも言える。 装飾彫刻もこうした動きと連動し、円柱人像などの新しい要素が誕生した。これによって古来以降途絶していた塑像性が復活し、自然な丸みを帯びた人像表現へと発展していく嚆矢となった。また、個々の彫像が採用したモチーフを連関させ、全体としての合理性を持たせるといったことも試行されている。こうした特徴もつ装飾彫刻の代表的なものとしては、シャルトル大聖堂の「王の扉口」(西側正門)などが挙げられる。連関思想は、次第に金属細工や彩色写本といった小型の美術品にも傾向として現出するようになった。 12世紀に入るとゴシック建築を採用した聖堂の建立が本格化しはじめ、内部空間構成と建造物の見事な調和が見られるようになった。ブルージュ、シャルトル、ランス、アミアン、ボーヴェといったフランス各地の大聖堂やイギリスのソールズベリー大聖堂、ケルンのザンクト・ペーター大聖堂など壮大な聖堂が各地に建設されている。特に、世界遺産にも指定されているアミアンのノートルダム大聖堂は、その全長が145メートルにも及ぶ巨大な聖堂である。また、物理的制約から解放されたことで、塔や穹窿は高さに対しても追求がなされるようになった。 並行して円柱人像の技法も発展し、13世紀に入ると扉口浮彫から丸彫像への移行が見られるようになった。同時にゴシック彫刻の特長とも言えるS字型に捻った姿態、柔和な相貌、流麗な衣襞といった表現が確立し、古典主義的な思想を孕んだ作品が数多く制作された。さらには14世紀初頭にドイツで制作されたピエタの彫像のような凄惨な場面を主題とした彫刻作品も登場し、表現領域の拡張に大きな足跡を残した。 また、色彩芸術の分野ではステンドグラスによる主題表現が代表的で、シャルトル大聖堂の「美しきステンドグラスの聖母」など、12世紀から13世紀にかけて制作された傑作が多数残されている。写本絵画では個人向けの聖書・詩篇集の制作がフランスやイギリスで活発化し、多くの写本画家がパリを拠点に活動を行っている。中でも『ベルヴィル家の聖務日課書』を制作したジャン・ピュセル(英語版)は、フランスの優雅な人物表現とイタリアの空間表現を融合させ、パリ派写本と呼ばれる写本の新しい基準様式を確立させたことで知られる。 イタリアではビザンティン美術の影響が根強く、ゴシック美術の浸透が遅れていたが、ヤコポ・トリーティ(英語版)やピエトロ・カヴァリーニといった大構図壁画家によってビザンティン美術からの脱却が図られるようになり、これを継承したチマブーエやジョット・ディ・ボンドーネ、シモーネ・マルティーニといった画家たちによって段階的に成し遂げられ、後世におけるルネサンスの礎が築かれた。こうした画家の登場した時代を切り出してプロト・ルネッサンス時代と呼称する場合もある。 14世紀に入ると教会の分裂や黒死病の大流行に加えて、百年戦争の影響によって大規模な建築造営が見られなくなった。取って代わるように王侯貴族の邸宅や都市の公共施設といった世俗的な実用建築が行われるようになり、用途や地域に即した分極化が進行した。14世紀後半には骨組の構造が複雑化し、装飾的に入り組んだ肋骨構造や曲線を絡み合わせた狭間造りといった特徴が見られるようになる。ルーアンのノートルダム大聖堂はこの時代の代表的な作例と言える。 また、絵画は14世紀の後半から芸術において主導的な立場へ昇華した。西欧各地の宮廷に展開された絵画芸術は国際ゴシック様式と呼ばれ、アヴィニョンで興ったシエナ派の流れを汲む、自然観察に基づく正確な細部の描写と豪奢な宮廷趣味を特徴としている。イタリアのピサネロは国際ゴシック様式の代表的な画家であり、『エステ家の姫君の肖像』など、幻想性豊かな作品を制作している。フランスではパリ、ブルージュ、アンジェ、ディジョンなどで国際ゴシック様式が開花し、1355年頃に描かれたとされる『フランス国王ジャン善良王の肖像』は俗人を描いた単身肖像画としては最古のものとして知られている。ディジョンにはフランドル出身の画家や工人が多く住み着き、メルキオール・ブルーデルラム、ジャン・マヌエル、アンリ・ベルショーズといった宮廷画家がフランコ=フラマン派の作品を数多く生み出した。 その他、装飾写本の分野ではネーデルラント出身で写実的な自然描写と精妙な装飾性を有した写本の制作を得意とするランブール兄弟が知られており、『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』はこの時代の写本芸術の最高峰とされている。ランブール兄弟の作品は15世紀のパリ派写本工房へ大きな影響を与えた。 ルネサンスは「再生」を意味するイタリア語 rinascita から派生した呼称であり、古典古代文化の復興という思想のもと、ギリシア美術やローマ美術の復活と自然の美や現実世界の価値が再発見され、人間の尊厳が再認識された時代を指す言葉となった。イタリアの建築家で人文主義者であったレオン・バッティスタ・アルベルティは「意思さえあれば人間は何事も為し得る」という、人間の可能性に絶大な信頼をよせた言葉を残しており、ルネサンス美術の根底に流れる人間中心主義という世界観を見事に表現している。こうした思想は15世紀前半、市民階級がいち早く台頭した都市フィレンツェで芽生えた。 建築分野ではサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋設計を手がけたフィリッポ・ブルネレスキの名が挙げられる。ブルネレスキの設計した聖堂は、ゴシック様式の建築からの明確な離脱を示し、バシリカ式聖堂のエッセンスを取り入れつつも調和と秩序を重要視した人間中心的世界観を体現しており、15世紀にフィレンツェで確立されたルネサンス建築の代表的な作例となった。こうした理念はアルベルティへ継承され、その理念を元に執筆された三大著作(『絵画論』『彫像論』『建築論』)は同時代を含む後世の芸術家たちに絶大な影響を与えることとなった。また、古代ローマ建築の実測を行うことで、科学的遠近法を発見したことでも後世に大きな影響を残している。 ブルネレスキの死後はアルベルティが台頭することとなる。フィレンツェから追放された商人の息子であったアルベルティはローマ教皇庁や諸侯の顧問として西欧各地を歴訪しており、こうしたルネサンス様式がヨーロッパ全土に伝播する間接的な貢献をしていたとも言える。15世紀半ばに入り、共和制の理想が鳴りを潜め、豪商が町の政治を取り仕切るようになると、大富豪の市内邸宅(パラッツォ)の建築が相次ぐようになった。ミケロッツォ・ミケロッツィが建設したメディチ家の市内邸宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は秩序と安定を志向するルネサンス建築の思想が表現されたパラッツォの代表的な作例である。 彫刻分野は古代思想の復活という理念が色濃く示された分野であり、ブルネレスキの『アブラハムの犠牲』など、優雅なゴシック彫刻の伝統を打破する力強い人体の把握や細微な写実性を有した作品が数多く登場した。この分野において、国際ゴシック様式からの脱却を試みた最初の彫刻家はオルサンミケーレ聖堂(英語版)の『4人の聖者』などで知られるナンニ・ディ・バンコ(英語版)であると言われている。古代ローマ以降で初めてコントラポストを採用し、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』を発表して頭角を現したドナテッロは、『預言者ハバクク』『ダヴィデ』など古代ローマの作風の復活に心血を注ぎ、ルネサンス彫刻の方向性を決定付けた。特に『ダヴィデ』は二本足で立つ孤立像というジャンルで裸体表現を取り入れたという点において特筆すべき作品となっている。ドナテッロの確立したルネサンス彫刻の様式はその後ヴェロッキオやミケランジェロへ受け継がれていくこととなる。その他、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリア』を制作したルカ・デッラ・ロッビア、後期ゴシック様式を学びながらも『天国の扉』に見られる透視図法を確立したロレンツォ・ギベルティ、墓碑彫刻や写実的な胸像で新境地を開拓したロッセリーノ兄弟(ベルナルド・ロッセリーノ、アントーニオ・ロッセリーノ(英語版))などが代表的な彫刻家として知られている。 建築や彫刻分野と比較して絵画分野における革新性の確立は若干遅く1420年代前半ごろであり、これは古典古代における手本とすべき遺品がこの当時ほとんど知られていなかったことが影響していると考えられている。1421年にフィレンツェへ移住してきた国際ゴシック様式の画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノが制作した『マギの礼拝』に僅かながらその片鱗を見ることができるものの、空間に対する配慮は乏しく、目新しさはあまり無い状態であった。しかし、マサッチオの登場により、情勢は一変した。ジョット・ディ・ボンドーネがかつて確立した僅かばかりの空間表現に、光の明暗によって量感を表現する手法が融合され、より奥深い空間を手に入れることに成功したのである。 さらに、ブルネレスキやアルベルティによって合理的な透視図法の理論が構築されると、多くの画家がその刺激を受けて次々と実験的な作品が誕生した。彩色や光の扱い方が拙いながらも透視図法の研究に没頭し、『ジョン・ホークウッド騎馬像』や『サン・ロマーノの戦い』などの作品を発表した国際ゴシック様式の画家パオロ・ウッチェロはその最たる例である。その後、修道僧画家のフィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコらによってマサッチオの様式が取り入れられる。リッピは日常的室内に聖母子を配置したネーデルラント風の絵画を制作した他、人間中心主義を根底に世俗的かつ官能的な聖母や肉感的なイエスなどを描き出している。『受胎告知』などの作品で知られるフラ・アンジェリコは1430年代以降においてマサッチオの空間表現や明暗描写を積極的に取り入れた宗教画を多数制作した。正確な一点透視図法を採用し、聖会話形式(サクラ・コンヴェルティオーネ)の表題を確立したドメニコ・ヴェネツィアーノもマサッチオの影響を受けた画家の一人である。 15世紀後半に入るとフィレンツェで熟成されたルネサンスはイタリアの各都市へ波及していくこととなった。そして、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロやイザベラ・デステといった人文主義的な君主の治世によって、各都市で豊かな文化活動が育まれた。南トスカーナのアレッツォ、およびトスカーナ公国で精力的に作品制作に没頭した数学者で画家のピエロ・デラ・フランチェスカは、15世紀中期における最大の巨匠として知られ、『聖十字架伝説』に代表されるフレスコ壁画の分野では、一切の無駄を排除し、幾何学的とも言える明晰で秩序立った画面を構築している。 一方、絵画・彫刻双方の主題に「動勢」が取り入れられるようになり、アントニオ・デル・ポッライオーロによる力を孕んだ写実的な筋肉の描写や、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』に代表される解剖学的知識を導入した生々しい人体表現を持った作品が登場するようになったのも15世紀後半の出来事であった。また、富の蓄積とこれに伴う趣味の贅沢化によって優美で装飾的な様式を持った作品が流行を来し、サンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』に代表される恥美的世界観を表現した作品が生まれている。その他、アンドレア・マンテーニャやジョヴァンニ・ベリーニもフィレンツェ以外に活動の拠点を置いた同時代の画家として知られ、ルネサンスの波及を象徴している。 15世紀末期には教皇分立時代以降沈滞していたローマにおいても、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノらによってシスティーナ礼拝堂の壁面装飾事業が行われるなど、ローマ法王主導の下、旺盛な芸術活動が展開された。1492年にロレンツォ・デ・メディチが没し、フィレンツェが禁欲的なジロラモ・サヴォナローラの支配下に置かれたことによってローマの芸術活動はさらに盛り上がりを見せ、16世紀にはイタリア美術の中心地へと発展していくこととなる。 ブルゴーニュ公国に属していた15世紀のネーデルラントでは、毛織物工業の発展と国際貿易の振興によって市民階級の台頭目覚しく、豊かな経済と文化が形成された。特に、フランドル地方で発祥した油彩技法は発色に優れ、精緻な質感描写や視覚的世界のリアルな再現を可能とし、西欧全土へと伝播して今日までの揺ぎ無い地位を確立した。ネーデルラントではこうした背景から初期の北方ルネサンスに該当するものは15世紀の絵画に限定され、建築分野や彫刻分野はあくまでゴシック美術の枠内に留まっていたと考えられている。 さて、この新しい油彩技法が採用された最初の作品として挙げられるのは、兄フーベルトが着手し、弟ヤンが完成させたファン・エイク兄弟による『ヘントの祭壇画』である。ヤンはフィリップ3世の宮廷画家としてその後も精力的な活動を続け、数々の宗教画や肖像画を制作している。中でも『ニコラ・ロランの聖母』は、室内に視点を設定しつつもテラスの向こう側に透視図法に従った精微な風景を描くことによって、不自然さを感じさせること無く室内と外景の統合に成功した画期的な作品として特筆される。ヤンの空気遠近法を駆使した奥行き感の描写は以後のネーデルラント画派へ受け継がれていき、北方ルネサンスの大きな特徴として取り上げられるまでになった。 同じ頃、トゥルネーで活躍していたロベルト・カンピンは写実的な技法で描かれた日用品の多くにキリスト教の象徴的意味を秘めさせた作品を制作し、こうしたテクニックがカンピンを師事したロヒール・ファン・デル・ウェイデンによって継承された。ウェイデンは肖像画においても卓越した手腕を見せ、1450年に訪れたイタリアでも賞賛を受けている。 その後はヤンやロヒールの技法様式に色濃く影響を受けたディルク・ボウツ、フーゴー・ファン・デル・グース、ハンス・メムリンクらがルーヴァン、ヘント、ブルッヘなどを中心に活躍した。特にファン・デル・グースが作成した羊飼いたちの写実的表現と細微な風景の装飾的な配置が施された『ポルティナーリ祭壇画』は、後にフィレンツェに持ち込まれ、フィレンツェの画家たちに大きな影響を与えた。一方、ヒエロニムス・ボスは同時代の異色の画家として知られ、人間の悪徳とその懲罰という中世的な思想背景をもとに生み出された数多くの怪物や地獄の描写は、やがて到来するシュールレアリスムを予告しているかのように見られている。 同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた。そのような中、シャルル7世の宮廷画家をしていたジャン・フーケが『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している。しかし、アンゲラン・カルトン(英語版)など、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた。 対してドイツの美術はネーデルラント絵画の影響下にあり、シュテファン・ロッホナーやコンラート・ヴィッツなどが活躍した。特に、ヴィッツの『奇蹟の漁獲』は特定可能な現実の景観を描いた最初の作例として良く知られている。15世紀後半に入ると、ミヒャエル・パッハー(英語版)によって雄渾な絵画や細微な彫刻祭壇が制作された。また、新しい分野として版画美術が伸張し、マルティン・ションガウアーの登場で技法はさらに洗練され、後世の巨匠アルブレヒト・デューラーの芸術を育んだ土壌を形成している。 イタリアルネサンスのうち、15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は特に盛期ルネサンスと呼称し、区別される。これは19世紀に定まった芸術観を背景として、この時代を古代ギリシア・ローマと並ぶ西洋美術の完成期と見做し、それ以前を完成に至る準備段階として軽視していた考え方が根付いたためである。しかし、今日では「初期ルネサンス」「盛期ルネサンス」を比較し、どちらが優れているかといった考え方は改められ、それぞれに特質や魅力が備わっている別個の美術として理解されてきており、その違いを区別するための名称として使用されるようになっている。主たる舞台はユリウス2世の庇護のもとで活気を取り戻したローマと、東方とヨーロッパ諸国を結ぶ貿易で巨万の富を築いたヴェネツィアである。 1470年代から活動をはじめたレオナルド・ダ・ヴィンチは、新しい芸術様式の創始者として活動当時から認識されており、巨匠と呼ぶにふさわしい功績を数多く獲得した。ヴェロッキオを師としてフィレンツェで修行を積んだ後、軍事技師、画家、彫刻家、建築家としてミラノ公の宮廷に仕えたレオナルドは、その多才ぶりを遺憾なく発揮し、多数の作品を後世に伝え、現代に至るまでの芸術家に大きなインパクトを残している。 絵画では『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などを制作しており、特に『モナ・リザ』に使用された新しい技法であるスフマート(ぼかし)は、画面に新たな統一感をもたらし、人物に精気と神秘的雰囲気を与える技法として西洋絵画の様相を一変させるほどの影響を与えた。また、自然科学の分野では、鋭い観察力と的確な描画力で解剖学や水力学などの研究に先駆的な業績を残したことも特筆すべき事項である。 一方、ギルランダイオに師事したミケランジェロ・ブオナローティは人体における新しい表現様式を確立させ、彫刻、絵画の分野において突出した作品を生み出した。ミケランジェロが制作した『ダヴィデ』はルネサンス全体を通して代表的な作品として知られている。ローマに赴いた後、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を手がけ、『創世記』の諸場面やキリストの祖先たちの姿を描き出している。特に『アダムの創造』では超越者と人間アダムの邂逅が印象的なタッチで描かれ、アダムの姿は盛期ルネサンスにおける理想的人間像として高い評価を獲得した。従来、ミケランジェロは色彩の乏しい画家との評価がなされてきたが、『アダムの創造』が洗浄され、その色使いが露になったことで、その評価を覆した作品としても名高い。 また、同じシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』では、悲劇的な装いの中にもヘレニズム彫刻的な逞しさを身に纏ったキリストらの肉体を描き出している。1546年にドナト・ブラマンテの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂建築の総監督に任じられるとブラマンテの構想を継承しつつ、新たに円蓋および建物後方部の設計を行っており、古代建築の本質を体現させた。 ペルジーノに師事したラファエロ・サンティは、レオナルドやミケランジェロの業績を巧みに取り入れ、20代半ばの若さで独自の人物表現と画面構成の形式美を確立させ、『アテナイの学堂』に代表されるバチカン宮殿の壁画を制作している。ラファエロが確立した形式美は盛期ルネサンス以降の代表的規範として17世紀から19世紀にかけての多くの画家に影響を与え続けた。 この時代、教会や公共施設による注文以外にも富裕層からの注文による美術品の制作が盛んに行われ、ジョルジョーネの『嵐』に代表されるような周知の物語主題から逸脱した、絵画の感覚的魅力を優先する作品が数多く登場したのも、盛期ルネサンスの特色のひとつと言える。 こうした市場ニーズに呼応してヴェネツィアでは色彩と絵具の塗り方が重要な地位を占めるようになり、デッサンに彩色するフィレンツェの技法に対して色彩で造形するという新しい技法が誕生した。レオナルドのスフマートを取り入れつつ、この技法を確立させたのがジョルジョーネであり、早世したジョルジョーネの後を受け継いで油彩技法のあらゆる可能性を探究したティツィアーノ・ヴェチェッリオであった。 宗教画家・肖像画家としても絶大な人気を誇っていたティツィアーノであるが、『芸術家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、ティツィアーノが描いた『エウロペの掠奪』について「近くから見るとわけがわからないが、離れて見ると完璧な絵が浮かび上がってくる」と評しており、近代油彩画の創始者としてしばしば名が挙げられるようになっている。同時に、静的な伝統を持つヴェネツィア絵画にダイナミズムを導入したこともティツィアーノの功績として知られている。 マニエリスムという言葉は「様式」や「手法」を意味するイタリア語 maniera から来た言葉で、ヴァザーリはこれを「自然を凌駕する高度の芸術的手法」と定義付けた。しかし、17世紀に入った頃より、生み出される芸術は創造性を失い、盛期ルネサンス時代の巨匠たちの模倣に過ぎないと見做されるようになり、否定的呼称として用いられるようになる。その後、21世紀に入って対比評価と切り離され、盛期ルネサンスの特徴であった自然らしさと自然ばなれの調和が崩れ、自然を超えた洗練、芸術的技巧、観念性が存在する作品が登場した盛期ルネサンス後の芸術的動向を指し示す時代様式名として用いられるようになった。 最初にマニエリスムの名が冠されたのは、ルネサンスの古典的調和への意識的反逆と解釈されたヤコポ・ダ・ポントルモやロッソ・フィオレンティーノの作品であった。しかしながら、ミケランジェロの後半期作品をマニエリスムに含める見方や、アーニョロ・ブロンズィーノ、ベンヴェヌート・チェッリーニ、ジャンボローニャのような社会に享受された奇想を指してマニエリスムと呼称する解釈もあり、その範囲や定義は今日なお流動的である。 16世紀初頭は盛期ルネサンスの様式とマニエリスム美術が混ざり合った混沌とした時代であったが、アルプス以北の諸国では比較的早くからマニエリスム美術が受容され、フォンテーヌブロー派による作品が複数残されている。ヴェネツィアでは盛期ルネサンスが他地域よりも持続するが、16世紀後半に入るとティントレットが登場し、その画風にマニエリスムの特徴が見て取れるようになる。その後、ティントレットの影響を受けたクレタ島出身のエル・グレコが、ローマでミケランジェロの芸術に感化され、スペインのトレドでマニエリスム的特徴とヴェネツィア絵画的筆致を融合させた宗教画を作成している。 一方、パルマではコレッジョがマンテーニャの試みを発展させた、感覚的魅力に溢れた作品を制作しており、その中で導入された明暗対比の強調や、天井画におけるダイナミックな上昇表現などは、後世のバロック美術の到来を予告しているかのような雰囲気を醸している。その他、盛期ルネサンスとバロック美術の橋渡し的な存在となった画家としてはパオロ・ヴェロネーゼがいる。ヴェロネーゼが制作した『レヴィ家の饗宴』は当初、『最後の晩餐』と題していたが、主題と無関係な人物を多数描き込んだ事で異端尋問にかけられ、「美しい絵を作る画家の自由」を主張し、タイトルの変更を余儀なくされた作品として知られている。 建築分野では『建築四書』を著したアンドレーア・パッラーディオの名が挙げられる。パッラーディオが設計したヴィラ・アルメリコ・カプラは古典主義建築の規範を示す作品として19世紀に至るまで国際的影響力を固持した。16世紀後半にはジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ、ジャコモ・デッラ・ポルタによってイエズス会の母教会『イル・ジェズ聖堂』が建てられ、外観正面のデザインや身廊と円蓋下の明暗対比などの構成要素が、バロック美術における聖堂建築の原形となった。 ドイツのデューラーは、15世紀末から16世紀初頭にかけて行った二度のイタリア旅行を通してルネサンス美術の様式と理念を習得し、人体表現、空間表現において理想とされる技法様式をドイツ絵画へ移入しようと試みた。この成果は木版画の分野において、ドイツの伝統的な表出性とイタリアの記念碑性を融合させて制作された『黙示録連作』で体現されている。銅版画の分野ではエングレービング技法を極め、『メランコリア I』や『アダムとエヴァ』といった人文主義的内容の作品、理想的裸体像を持った作品を制作し、ルネサンスの母国イタリアへも大きな影響を与えた。また、油彩画では『4人の使徒』が代表的な作品として知られている。その他、『人体均衡論』などの著述にも注力し、後世の芸術家に大きな影響を与えた。 線描主体であったデューラーとは対照的に、色彩表現に長けていたマティアス・グリューネヴァルトは『イーゼンハイム祭壇画』などを制作し、ゴシック末期美術の幻想性を継承した特徴を内包している。また、クラーナハ(父)はドイツの森を舞台として古代神話の主題を表現したことで知られている。『ドナウ風景』は西洋美術史上初めて具体的な実景を人間存在抜きで描いた画期的な作品として特筆される。 1517年、マルティン・ルターによって宗教改革の機運が高まると美術活動にも深刻な影響を与え、宗教美術が否定的に見られるようになる。ホルバイン(子)ら宗教画家として活動していた者は次第に肖像画家や宮廷画家へと転向していった。 フランスでは1494年のイタリア遠征でルネサンスの美術に触れたシャルル8世によって多くの建築家が招聘され、王室主導の下建築を中心としたフランスルネサンスが開花する。フランソワ1世の時代にはロワール川流域の城館改修が実施され、ゴシック建築の伝統とイタリアルネサンスの特色が融合された建築物が多数登場した。また、1520年代末にはフォンテーヌブロー城館の改装が始められ、ロッソ・フィオレンティーノ、フランチェスコ・プリマティッチオらを招いて内部装飾を手がけさせた。ここから誕生したイタリアのマニエリスムを体現したロッソらの作品は、フォンテーヌブロー派と呼ばれる宮廷美術様式を生み出す契機になった。その他、ドイツのホルバイン(子)に共通する精緻な様式を確立させたジャン・クルーエ(英語版)、フランソワ・クルーエ父子や、チェッリーニの影響を受けつつもフランス独自のルネサンス彫刻を誕生させたジャン・グージョンなどがいる。 他方、ネーデルラントの絵画美術は15世紀の段階で成熟し、油彩技法や写実的表現においてイタリアに影響を与える側であったが、盛期ルネサンスを迎えて以降は立場が逆転し、イタリアの美術や古典古代の美術を手本として仰ぐようになった。16世紀初頭に活動したクエンティン・マサイスの画風にはレオナルドのスフマートの影響が見て取れ、ヤン・ホッサールトは古代彫刻風裸体像を描き出している。また、ベルナールト・ファン・オルレイは数学的遠近法、短縮法、複雑な運動表現をネーデルラント美術に取り入れた画家として重要である。こうした、15世紀ネーデルラントの精緻な様式からの脱却と、ルネサンスの壮大な様式への推進を行う者を総じて「ロマニスト」と呼び、こうした傾向自体が16世紀ネーデルラント絵画の特徴のひとつとして挙げられる。 肖像画においてはアントニス・モルが国際的な活躍を果たしたと同時に、ネーデルラント北部の美術活動の活性化に大きく貢献した。デューラーの影響を受けつつも精緻な銅版画を制作したルーカス・ファン・レイデンなどは北部で活躍した代表的な美術家の一人である。さらに、1524年にローマからユトレヒトに戻ったヤン・ファン・スコーレルの影響によってロマニストの活動は北部へも浸透していった。16世紀後半にはプロテスタントの聖像破壊運動などによる宗教的、政治的騒乱が美術活動の発展を妨げたが、16世紀末に登場したコルネリス・ファン・ハールレム、ヘンドリック・ホルツィウスらの活躍により、プラハと並んでハールレムが国際マニエリスムの中心地として栄えた。 16世紀ネーデルラント絵画のもう一つの特徴としては風俗画、風景画、静物画の自立が挙げられる。カタリナ・ファン・ヘメッセンおよびピーテル・アールツェンを嚆矢とするこの傾向は、16世紀初頭のヨアヒム・パティニールによって大きく前進を見る。パティニールは観察と空想から合成された俯瞰図の中に宗教主題の人物を点景として描き表し、人物と背景の関係性の逆転に成功している。その後、ピーテル・ブリューゲルによってこの様式は完成され、後世に多大な影響を残した。『雪中の狩人』はその代表的な作品のひとつである。 異論はあるものの17世紀の西洋美術時代様式を一般にバロック美術と称する。バロックという言葉の意味については諸説あるが、「規範からの逸脱」を示す形容詞として18世紀末ごろより使用されはじめ、建築を中心とした17世紀の美術に対して否定的な意味で適用された。また、狭義には17世紀美術の傾向の一つという意味で使用され、劇的で奔放な特徴を持つ17世紀の作品に対してのみ適用される場合もある。 この時代、盛期ルネサンスの伝統を受け継ぎつつも、より現実に即した表現が強調されるようになり、時間の概念を取り入れた風俗画、風景画、静物画など、実社会により密着したテーマを選定する様式が確立する。活動の舞台はローマを中心に展開されていたが、18世紀初頭にかけてルイ14世の治世には、フランスが政治面とともに文化面でも中心的役割を果たすようになる。 16世紀後半、イタリアの美術活動はそのほとんどをヴェネツィアに依拠していたが、この状況を打破しようとアンニーバレ・カラッチによって1580年代のボローニャにアカデミア(画塾)が設立される。古代美術と盛期ルネサンス美術の理想性とモデルの写生素描という現実性の融合を試みた追究は広く支持され、ボローニャ派と呼ばれる新しい作風の体現に成功した。また、カラッチは理想化されたローマ近郊の風景の中に聖書の人物を描き込む「古典主義的風景画」を創始したことでも知られている。 カラッチの影響を受け、宗教画の人物を現実的な庶民の姿で描き出したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの作品は、その斬新な主題の描き方で大きな議論を巻き起こした。冒涜的とみなされ、『聖母の死』の例のように教会に引き取りを拒否される場合もあれば、カラヴァジェスキと呼ばれる狂信的な追従者を生み出す結果にも繋がっており、西欧絵画全体に大きな影響を及ぼした人物の一人であったことは疑いが無い。 彫刻および建築の分野ではジャン・ロレンツォ・ベルニーニがこの時代の代表的な美術家として名が挙げられる。若くして名声を確立したベリニーニは『聖テレジアの法悦』で現実の光を巧みに取り入れた彫刻と建築を組み合わせた作品を制作している。その他、多くの噴水彫刻の設計にも携わり、ローマの景観を作り変えたと言われるほどの影響を残した。ベルニーニに師事し、終生のライバルでもあったフランチェスコ・ボッロミーニも、独創的な建築表現で名を残した一人である。代表的な建築物としてはサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂があり、絵画や浮彫による装飾を必要最低限に抑え、波打つようなカーブや圧力で歪んでいる様な緊張を感じさせる、特異な壁面構成の効果を引き出すことに成功している。 フランドルではリュベンスの登場により新しい絵画の様式が確立される。10年近くの間イタリアに滞在し、盛期ルネサンスの美術を習得したリュベンスは、ネーデルラントに帰国した後に制作した『キリスト昇架』によって、ヘレニズム彫刻やミケランジェロを想起させる人体表現とカラヴァッジオに見られる明暗法を見事に融合させ、壮麗で活力漲る独自の方式を完成させた。リュベンスはカトリック復興の気運高まる当時の社会背景から多数の祭壇画を制作する一方で各国宮廷に向けた大規模な建築装飾画を創出し、国際的な評価を獲得した。また、晩年にはブリューゲルの伝統を発展させたフランドルの自然を描き出し、風景画の新たな局面を生み出した。 その他、フランドルを代表する画家としてはアンソニー・ヴァン・ダイク、ヤーコブ・ヨルダーンスなどがいる。リュベンスの助手として出発し、チャールズ1世の宮廷画家として半生をイングランドで全うしたヴァン・ダイクは、優雅で細線な自身の特徴を活かして肖像画の分野において独自性を発揮し、貴族的肖像画の規範を築き上げた。ヨルダーンスは宗教画や神話画を風俗画的観点で描き出すことを得意とし、庶民的な活力溢れる作品を残している。また、17世紀の美術愛好家の蒐集を描き出した「画廊画」という画種も、フランドルの特徴のひとつとして取り上げられる。 16世紀末にオランダ共和国として独立したネーデルラント北部では、国際貿易による経済発展を背景として市民層に向けた作品が大いに発達した。市場競争での勝ち残りをかけた熾烈な技巧発達が見られ、卓越した技術を持った画家を数多く輩出した点は特筆に価する。アムステルダムを活動の拠点においたレンブラント・ファン・レインはその最たる例である。その他集団肖像画や半身像の風俗画を得意としたフランス・ハルス、寓意や諺、民間行事を主題とした作品を描き続けたヤン・ステーン、日常行為に携わる人物を静物画のタッチで捉えて風俗画の新たな境地を開拓したヨハネス・フェルメールなどが代表的な画家として挙げられる。とりわけ、フェルメールは19世紀に入ってその近代性が大いに注目を集め、17世紀最大の画家として評価されるに至った。 他方、写実的傾向が強まった17世紀のスペインでは黄金時代と呼ばれるほどの美術繁栄がもたらされ、ディエゴ・ベラスケスやフランシスコ・デ・スルバラン、バルトロメ・エステバン・ムリーリョといった巨匠が登場した。ベラスケスはカラヴァッジオの影響著しい活動初期を経てヴェネツィア絵画やリュベンスとの接触によって自身の技法と様式を洗練させ、視覚的印象を的確に捉える新しい描法を編み出し、『ラス・メニーナス』を始めとする多くの作品を誕生させた。スルバランも同じくカラヴァッジオに強く影響を受けたセビーリャの画家であるが、素朴で神秘主義的な様式を確立させ、静物画や宗教画を厳格な筆致で描き上げた。ムリーリョはフランドル絵画に影響を受けた画家で、華麗な色彩で甘美な宗教画を制作するとともに、風俗画においても人気を博した。写実的傾向の推進は下地となったイスラム美術の影響と相俟ってバロック美術が内包する装飾性の強化に繋がり、この時代のスペイン美術の特徴として表されるようになった。スペイン黄金時代美術 フランス絵画では終生をローマで活動したニコラ・プッサン、クロード・ロランが代表的な画家として取り上げられる。ラファエロとカラッチの影響を強く受け、厳格な古典主義様式を確立させたプッサンは『アルカディアの牧人』を筆頭に、古典や神話、聖書の主題を考古学的時代考証を交えて描き出すという理知的な作品の創出に注力した。また、ロランは古典主義的風景画の展開に大きな足跡を残した人物として知られ、ローマ郊外の田園やナポリ湾の風景を理想化して古代の情景として登場させ、過去への郷愁を想起させる詩的風景画を誕生させた。両名の芸術はイタリア、フランスの上流階級層に広く受け入れられ、ルイ14世が設立した王立アカデミーにおいてはラファエロやカラッチとともに規範として仰がれるまでの影響を与えた。一方で建築分野においてはイタリア起源のバロック建築に対して古典主義建築がフランスの様式であるとする考えが広まり、クロード・ペローのルーヴル宮殿を筆頭に古代風様式に基づく建設が各地で行われた。また、ジュール・アルドゥアン=マンサール、ルイ・ル・ヴォー、アンドレ・ル・ノートルらによって造営されたヴェルサイユ宮殿は宮殿建築の範例として大きな影響を与えた。 1710年代から60年頃までのフランスの美術様式を中心とした時代様式を一般にロココ美術と呼称する。ロココという言葉は、後世の新古典主義時代にルイ15世時代の美術を軽視して呼び始めた事を嚆矢とし、バロック建築における庭園装飾で使用されたロカイユと呼ばれるデザインに端を発する。現代においては該当する時代の美術を判然とロココ美術と呼ぶようになったため、性質や指向の相反する文化現象が同様の名の下に冠されることが美術史的観点から問題となっている。 この時代の美術史を概観すると、建築、絵画において特徴的な発展が見られる。ガブリエル=ジェルマン・ボフラン(英語版)らによって建造されたオテル・ド・スービーズ(英語版)は、白地に金の装飾が施された壮麗な室内はロココ建築の特徴を現す代表的な作例である。17世紀後半にはギリシア美術、ローマ美術への関心が高まり、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって古代風の柱を採用した小トリアノン宮殿が建設された。その他、イタリアの建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージはローマ古代遺跡の壮大さを現し、後世新古典主義やロマン主義に大きな影響を与えたことで知られている。 工芸分野が黄金時代に達したのはロココ美術の大きな特徴で、家具、金工、服飾、陶器などの各分野で質の高い作品が生み出された。ドイツのマイセンが飛躍的進歩を遂げたのもこの時代である。彫刻分野ではジャン=バティスト・ピガール(英語版)、エティエンヌ=モーリス・ファルコネ(英語版)、ジャン=アントワーヌ・ウードンらが活躍したが、主要な領域たりえるには至らなかった。 絵画におけるロココ美術の始祖はアントワーヌ・ヴァトーであると言われている。フランドル地方出身のヴァトーは、パリでの修行過程において様々なテーマ、様式の美術と接触することで才能が開花した。中期の代表作『キュテラ島の巡礼』に示された戸外での男女の戯れを表現する画題は「雅な宴(フェート・ギャラント)」と呼ばれ、ロココ美術を語る際に不可欠な要素へと昇華し、ニコラ・ランクレやジャン=バティスト・パテルなどによって追随する形で同様の画題作品が発表されるなど、同年代を含む後世の画家に多大な影響を与えた。フェート・ギャラントはポンパドゥール夫人の庇護を受けたフランソワ・ブーシェによって官能性を帯びた雰囲気を醸し出すようになり、ヨーロッパ中へ広まった。こうした画風はロココ美術最期の画家とされたジャン・オノレ・フラゴナールへと受け継がれていくこととなる。一方で市民的な感性では家族的テーマが好まれる時代となり、ジャン・シメオン・シャルダンやジャン=バティスト・グルーズに代表されるような市井の人々の様子を描いた人物画や、中産階級の家庭の一端を描いた静物画などが数多く生み出された。 また、18世紀中ごろより定期的にサロンが開かれるようになり、芸術品が不特定多数の目に触れる機会を持つようになった。これによってドゥニ・ディドロに代表される美術批評の誕生、画商の増加といった社会的傾向が発生し、芸術家とパトロンの関係性に変化が見られるようになったのも時代の特徴を示す出来事として挙げられる。 一方、イタリアではアレッサンドロ・マニャスコ、ジュゼッペ・マリア・クレスピらによって新しい方向性を持った絵画が生み出された。18世紀に入るとジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロが登場し、白を基調とした明るい天井画や壁画を制作し、重量感を取り去った自由な装飾作品が生まれている。また、イギリスでは大陸美術の輸入により絵画技法が飛躍的に向上したのが18世紀で、19世紀に到来する黄金期の準備段階のような時代となった。代表的な画家としてはトマス・ゲインズバラ、ジョシュア・レノルズなどがいる。 フランス革命から第二帝政期に至る18世紀から19世紀にかけてのフランスを中心とした美術様式は、一般に新古典主義、ロマン主義、写実主義の3期に分けて考えられている。18世紀前半に火山噴火によって埋没したローマの古代都市ヘルクラネウム、ポンペイが発見されたことにより、古典・古代の美術を自身の規範としようという機運が高まり、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの思想的支柱を得たことでギリシア美術の模倣を尊ぶ志向がヨーロッパ中を席巻する。これは、享楽主義的なロココ美術に反感思想を持つ人々の運動であったとも言われている。その後、ナポレオンの帝政期を経ることでフランスでは帝国の栄光を誇示する美術様式へと変容していき、各国に対する影響力を衰退させる事となった。ナポレオンは絵画を重要なプロパガンダ手段として捉えていたこともあり、皇族の儀式を描いた作品や家族や側近の肖像がなどが大量に制作された。しかし、こうした動きは若い芸術家を中心に焦燥感をもたらす結果となり、主観的な激情に溢れ、社会的矛盾を糾弾するリアリスティックな作品が登場する素地を形成した。同時に、フランス美術の影響力から脱却した周辺各国は国々の歴史や風土に根ざした美術の開花を促進させ、普遍的な古典・古代美術の模倣から国々の特殊性へと関心が移行することとなった。これにより、古典的様式が最良とする考え方は捨て去られ、時と場合に応じた適切な美術様式が選択される折衷主義とも呼べる様式が到来することになった。19世紀中ごろには支配層への不満を募らせた市民社会に対応するかのごとく、社会の現実に目を向け、身の回りの自然を描いた風景画が制作されるようになり、フランス文学とも連動して近代芸術の基調を形成する一大潮流が形作られた。 建築分野では古代建築遺構の本格的な調査によって建築部位の比例や柱式の決定が討議され、18世紀後半に入ると古代建築を規範とした建物の造営が本格化した。パリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院を建設したジャック=ジェルマン・スフロ(英語版)は、コリント式の列柱廊を採用し、古代美術の端正で素朴な様式を取り込むことに成功している。また、古典古代建築への関心から幾何学的比例を重視し、ラ・ヴィレットの関門(フランス語版)やアル=ケ=スナンの王立製塩所を創出したクロード・ニコラ・ルドゥーやアイザック・ニュートン記念碑を設計したエティエンヌ・ルイ・ブーレーは、空想的建築という新境地を開拓した。考古学的関心が薄れ、帝国の威信表現が横行するようになると特定の建築様式が重視されることが無くなり、過去の様々な様式の応用によって建築がなされた。マドレーヌ聖堂 、カルーゼル凱旋門、マルメゾン城、ウェストミンスター宮殿などが代表的な建築物として知られている。 新古典主義時代の彫刻分野は規範とする古典古代の作例が充実していたこともあり、重要な美術分野として位置付けられた。イタリアのアントニオ・カノーヴァは代表的な彫刻家のひとりで、古代志向の特徴を忠実に再現した上で近代彫刻の複雑な構成を融合させることに成功し、『アモールとプシケー』などを制作した。カノーヴァと双璧をなしたデンマークのベルテル・トルバルセンはヘレニズム時代の彫刻に強い影響を受け、端正で典雅な作品を発表した。その他、イギリスのジョン・フラックスマンは形態把握と構成を古代彫刻に倣いつつもゴシック美術を彷彿とさせる流麗な作品を発表している。新古典主義以降は材質の変化があらわれ、大理石以外の石材や青銅が好んで用いられるようになった。また、表題も裸体に代わって時代考証を経た服装を纏うようになった。しかし、美術全体で見ると新古典主義以降は絵画の影響強く低調に推移し、エトワール凱旋門の浮彫装飾を制作したフランソワ・リュード、肖像彫刻を数多く制作したダヴィッド・ダンジェ、動物彫刻という異質性が話題となったアントワール・ルイ・バリーら若干名の活躍に留まった。 絵画分野において、フランスでは1760年代に登場したジョゼフ=マリー・ヴィアンがロココ風のテーマの絵に古代の構図やポーズを借用した作品を発表して人気を博し、新古典主義時代の口火を切った。その後、ドゥニ・ディドロの影響を受けたジャン=バティスト・グルーズによってローマ史を主題とした作品が制作され、1780年代に入るとヴィアンに師事したジャック=ルイ・ダヴィッドが登場して、新古典主義の栄華は頂点に達する。ナポレオン革命期において、「皇帝の主席画家」の称号を得たダヴィッドが残した数多くの作品は後世の多方面に大きな影響を与えた。『ホラティウス兄弟の誓い』『ソクラテスの死』といった物語画はプッサンの影響が強く表われた作品に仕上がっており、『テニスコートの誓い』『マラーの死』などは革命期の視覚的記録として重要な意味を持つ作品として位置付けられている。 次代には優美なタッチで古代の叙情を再現したピエール=ポール・プリュードン、劇的な表現描法を特徴としたピエール=ナルシス・ゲランらが登場し、新古典主義の作風に影響を受けつつもその変容を見ることが出来る。また、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの小説挿絵を担当したアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンは、古典的な形態に強い明暗を加えたことでロマン主義的な要素の萌芽を示した。一方、同時代のナポレオンの肖像画や遠征絵画を制作していたアントワーヌ=ジャン・グロ、ドミニク・アングルらは新古典主義の正当後継者として、色彩に対する線の優位性、静的な構図といった新古典主義の綱領を最後まで保持した画家として知られている。その他、アングルの弟子からはテオドール・シャセリオーが頭角を現し、東洋的主題の作品を制作してロマン主義的資質を示した。 1819年にはテオドール・ジェリコーが1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の難破事件という時事的テーマを取り上げて『メデューズ号の筏』を発表したことで大きな議論が巻き起こる。ジェリコーの作品は激しいタッチと運動感の描写によって表現され、その非古典主義的なテーマの開拓はロマン主義絵画の先駆者として名が上げられる一因となった。その後、『ダンテの小舟』を描いたウジェーヌ・ドラクロワによって粗いタッチによる動的表現、東洋的主題の採用、色彩の乱舞といったロマン主義絵画の作風が示され、近代絵画の成立に多大なる影響を残した。一方、同世代のポール・ドラローシュはロマン主義的主題を完璧な新古典主義様式で描き出すという移行期ならではの作風で一世を風靡した。エコール・デ・ボザールの講堂壁画はその代表的な作品のひとつである。 以上に挙げたように、19世紀前半のフランスでは文学的、歴史的テーマを描き出した作品が主流となっていたが、バルビゾン派の画家によって自然を的確に捉えた風景画作品が登場したのもこの時代であった。古典主義的端正さを保ちつつ、ロマン主義的な自然愛好的な心情に溢れたテオドール・ルソー、ジャン=バティスト・カミーユ・コローらの風景画は1830年代ごろより写実主義絵画として新たな局面を開くこととなった。1850年前後に入るとオノレ・ドーミエ、ジャン=フランソワ・ミレー、ギュスターヴ・クールベが登場し、写実主義絵画を代表する画家として知られるようになった。1855年、パリの万国博覧会において、私費で個展を開いたクールベは世間に対して攻撃的に写実主義絵画の存在を知らしめ、19世紀後半に誕生する印象主義への潮流を築いた。 他方、イギリスのロンドンでは、1760年代にベンジャミン・ウエストによって新古典主義的絵画が持ち込まれると、ロイヤル・アカデミーの設立やフラックスマンの活躍などもあり、ローマやパリと並ぶ新古典主義絵画の中心地として栄えた。しかし、古典絵画を規範としつつも伝統に縛られない表現は比較的早くから実践され、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ウィリアム・ブレイクといった、個性豊かな画家の輩出に成功している。そういった意味では、主題面における絵画の近代化はフランスに先駆けてイギリスで起こったと言って良い。19世紀前半に入るとジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの登場によってイギリス絵画は風景画黄金時代を迎えることとなった。18世紀に流行した地誌的水彩画から出発したターナーは光の表現を追究して油彩、水彩、素描を問わず多数の幻想的な風景画を世に送り出した。ターナーとは対照的に、空と雲の移り変わりを気象学に基づいた知識で精緻に描き出したジョン・コンスタブルの作品は風景画の進むべき方向性を決定的なものとし、19世紀後半の印象主義絵画に大きな影響を与えた。 ドイツにおける新古典主義は1761年、アントン・ラファエル・メングスによって制作された『パルナッソス』にその影響を見ることができるものの、その後は代表的といえる程の画家は輩出されなかった。19世紀初頭に入るとラテン的な形態把握とゲルマン的な内省性を融合させた作品が登場し、他国に無い特異な美術運動が展開された。この運動はカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲらによる風景画の発展とフランツ・プフォル、ヨハン・フリードリヒ・オーファーベックらによる人間表現の深化に大別することができる。特にローマに移住した後、ラファエロやデューラーを規範としてキリスト教的作品の創出に注力したオーファーベックらの活動はナザレ派と呼ばれ、後のラファエロ前派に大きな影響を与えた。 その他、スペインに登場したフランシスコ・デ・ゴヤもこの時代を代表する画家の一人である。1799年に主席宮廷画家の地位に着いたゴヤは、その卓越した画力で戦争や侵略への憎悪を訴えた作品を多数発表した。主観的な情熱を画題とし、作品に託したという点ではロマン主義美術の先駆者であると言える一方、人生の課題を作品に反映させたという点では近代芸術のあり方を示した最初の一人であると言える。 19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した時代でもあった。このため、美術活動も大きな変革を伴ったのは必然といえる。 建築分野では、シャルル・ガルニエによるパリのオペラ座に見られるような、古典主義を軸としながらも各種建築様式を折衷した建物の造営が主流となり、フランスを中心として高い芸術性を持った建物が各地に作られた。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクはこの奔流に抗い、機能主義理論を唱えたが、19世紀中には受け入れられず、アール・ヌーヴォーの建築分野において部分的に取り入れられたにすぎなかった。19世紀後半に入ると鉄、ガラス、コンクリート、鉄筋コンクリートといった新しい建材が柱や壁などに大掛かりに用いられるようになった。ジョセフ・パクストンの水晶宮は、初めて大量にガラスを用いた建造物として知られている。また、シカゴ派と呼ばれるアメリカ高層建築の流入も、西洋の建築に大きな影響を与えた。シカゴ派を代表する建築家としてはシュレジンガー・マイヤー百貨店などを設計したルイス・サリヴァンが挙げられる。 彫刻分野では19世紀後半に入り、民族統一や自由を称える記念碑が公共記念物という形で数多く制作された。特に有名なものとしてはフレデリク・バルトルディの『自由の女神像』、ジュール・ダルーの『共和国の勝利』、ポール・アルベール・バルトロメ(英語版)の『死者の記念碑』などが挙げられる。第二帝政期に入るとジャン=バティスト・カルポーが登場し、『ウゴリーノと息子』『ダンス』『フローラの勝利』など、ロココ美術から受け継いだ優雅な形態とカルポー独自の動態表現を見事に融合させた作品を多数制作し、近代彫刻の父と言われるオーギュスト・ロダンに大きな影響を与えた。アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズに師事したロダンは、イタリアでドナテッロやミケランジェロの作品に触れた後、1877年に『青銅時代』を発表した。『青銅時代』は発表当時、あまりの自然的形態から、モデルから直接型取りしたのではないかと批判を浴びるほどであった。注文彫刻として制作した『カレーの市民たち』では、注文という型にはめられた表現からの脱却を試みている。ロダンは写実表現と劇的な内面表現を融合させることを追究し、終生の大作として『地獄の門』を制作した。その他、19世紀末に活動したドイツのマックス・クリンガーは、1902年のウィーン分離派展で素材の多様性を追求した作品『ベートーヴェン』を発表して大きな成功を収めている。 19世紀に入ると絵画分野では、新古典主義の美学を維持しつつも社会情勢にあわせるかのように、新しい市民社会に適応する様々な表現の獲得をはじめた。ブルジョワジーの趣味を作品に反映させたアレクサンドル・カバネルは、1863年にサロンに出品した『ヴィーナスの誕生』によって絶大な人気を博し、ジャン=レオン・ジェロームは『カエサルの死』に代表されるような、迫真の細部描写と瞬間映像的な場面設定で古代の主題を描きあげた。また、ジュール・バスティアン=ルパージュは印象派の色彩や筆致を取り込んだ自然主義的傾向の作品『干し草』を創出し、第三共和国政府の支持を獲得している。 ドイツのアドルフ・フォン・メンツェルによって写実的に描かれた『圧延工場』はきわめて珍しい工場労働者を主題とした作品として知られている。メンツェルの例にあるように、農民や労働者といった現実的主題を優れた絵画才能によって描き出す画家が登場し始める。『草上の昼食』で一大騒動を巻き起こした後も、明るい色調と軽快なタッチで現代生活を主題にした数々の名作を生み出したエドゥアール・マネはそうした若い画家たちの中心的存在として躍動し、1865年にサロンへ出品した『オランピア』で、古典的伝統を近代絵画へリンクさせる役割を担った。こうしたマネの姿勢や表現方法は印象派の画家に重要な指針を与えることとなった。また、エドガー・ドガは、オペラ座に集う貴族から底辺社会で生活を営む洗濯女まであらゆる階層の人々の現代生活を深く広く探求して得た主題を、知的な構図と優れたデッサン力で描き出した。特に、引き締まった肉体を持つ女性たちが様々な姿態を提供してくれるバレエの世界に共感を覚え、バレエを主題とした多くの作品を残している。その他、日本の芸術がジャポニスムと呼ばれ、西洋絵画に影響を与えたのも19世紀の出来事のひとつであった。 19世紀後半に入ると、印象派と呼ばれる人々の描いた印象主義絵画が世を賑わすようになった。「印象派」という呼称が誕生したのは1874年のことで、展覧会に出品していたクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌ、ドガ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらのスケッチ的な作品の性格をジャーナリストらが揶揄してつけたものに端を発する。中でもモネは印象派グループを作り上げた最も偉大な画家として知られている。印象派の「印象」はモネの作品「印象・日の出」から批評家が揶揄したことから定着した。 印象派画家は、絵具を用いて光を表現することを追究し、筆触分割や視覚混合といった科学的技法を作品に導入し、日本の浮世絵や写真などからヒントを得た構図の切り取りや大胆な俯瞰といった斬新な発想を取り入れた。こうして制作された多くの作品は西洋絵画を新たな局面へ誘う重要な革新として後年高く評価される一因となった。また、印象派の活動を受けて、その理論をさらに発展させようと1880年代から1890年代にかけて活躍したポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホらは後期印象派と呼ばれ、こちらも美術史における重要な働きを残した。 他方、芸術の卑俗化を嫌悪した芸術家たちによって内的な思考や精神世界、夢の世界を表現することが追究されるようになり、印象主義と並んで19世紀後半における芸術の重要な流れを形作ったのが象徴主義であった。その嚆矢とも言えるのがイギリスで起こったラファエル前派の運動である。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハントらによって結成された「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以後の絵画を退廃芸術とみなし、それ以前の誠実で理想的な芸術への回帰を主張し、初期ルネサンス時代の絵画に倣った画風で神秘と象徴の世界を描き上げた。その他、象徴主義を代表する画家としてはアルノルト・ベックリン、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンなどが挙げられる。 こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、ユーゲント・シュティール、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった。 ベル・エポック(良き時代)とは、1900年から第一次世界大戦までの華やかで享楽的な時代を指すフランス語で、静かに忍び寄る戦乱の気配に耳を塞ぎ、束の間の繁栄と平和を享受した時代であった。芸術分野においてはアール・ヌーヴォー(新しい時代)、ユーゲント・シュティール(青春様式)、モダニズム・スタイル(近代様式)といった多彩な芸術運動がヨーロッパ中を席巻し、広い分野で相互交流による美術の追究が行われた。世紀末芸術運動とも称されるこの運動は広範囲に及び、それぞれが独自色を保ちつつも新しさを求めようという共通認識の下に活動を展開していた。代表的な活動グループとしてはウィリアム・モリスを中心としたアーツ・アンド・クラフツ運動、『ルヴュ・ブランシュ』を中心としたフランス芸術家たち、ベルギーの前衛芸術グループ自由美学、『ユーゲント』『パン』を舞台としたドイツ画家グループ、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンで相次いで結成された分離派グループなどが挙げられる。中でもグスタフ・クリムトを中心としたウィーン分離派の影響力は強く、オスカー・ココシュカ、エゴン・シーレといった表現主義的傾向を強烈に表した尖鋭画家や、アドルフ・ロースのような「装飾は犯罪である」といった思想を持った芸術家の誕生を促す結果となった。また、表現主義の原点とも言えるエドヴァルド・ムンクやジェームズ・アンソール、フェルディナント・ホドラーといった画家が躍動したのもこの時代である。現代美術のはじまりは、こうした豊かで多様な世紀末芸術の成果を受け継ぎ、乗り越えることによって展開されていった。 オーギュスト・ペレによる鉄筋コンクリートを用いた建築技法の導入は、構造体としての抵抗力の強さを獲得するとともに自由な造形性を得ることに成功し、20世紀の建築美術は新たな局面を迎えることとなった。新しい建材の特性理解が浸透していくとともに、コンクリートの持つ可能性を引き出した自由な造形性を持った建築物が誕生した。ゆるやかな局面と巨大な屋根を持ったル・コルビュジエのロンシャンの礼拝堂、何の支えも無い部屋が空中に突出しているかのようなフランク・ロイド・ライトの落水荘などは、その代表的な作例として取り上げられる。 建築家の社会的役割が変化したのも20世紀の特色のひとつで、建物の完成のみならず、都市社会における機能性や存在意義についてこれまで以上に配慮が必要となった。ヴァルター・グロピウスが幅広いデザイン教育の機関としてバウハウスを設立したのも、こうした社会的要請を背景にしたものであった。ル・コルビュジエはそうした機能主義を追究した建築家の一人でもあり、こうした流れがミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスといった機能主義を標榜する建築家の誕生を促した。機能主義建築は合理的形態、規格化、プレファブリケーションを推進し、大量生産と結びつくことで現代的な性格を持つに至った。一方でこうした機能主義建築に機械的な冷徹さを感じ取った建築家は有機的建築を推進した。先に挙げたサリヴァンやライトの他、世紀末建築の巨匠アントニ・ガウディなどもこの流れに含むことができる。 第二次世界大戦によって芸術活動は空白の時間を迎えるが、多くの芸術家がアメリカに亡命したこともあり、戦後はアメリカを中心とした建築活動が展開された。グロピウスやローエをはじめとするバウハウス系の建築家がアメリカで建築教育や設計活動に従事し、現代建築の実験場と揶揄されるほど様々な建築物がアメリカに誕生した。1950年代までは、画一的な建築の普及を目指すバウハウス系建築家がアメリカで大きく活動することによって、彼らの国際様式(モダニズム建築)が世界的なスタンダードとされていたが、次第にこれに反発する動向が見られるようになり、CIAM(近代建築国際会議)の解散も相俟って地域や用途、建築家の感性によってふさわしい造形を決定する個性化の流れが生まれ、大胆な形態の組み合わせを見せるポストモダン建築が登場した。 20世紀の彫刻は、ロダンの影響を甘受し、脱却するところから始めねばならなかった。画家から彫刻家へ転身し、ダルーのアトリエを通じてロダンと出会ったことでロダンに大きく影響を受けたメダルド・ロッソ(英語版)は、石材からの解放を目論み、素材に蝋や石膏といった伸びのあるものを採用した。蝋を素材とした『この子を見よ』では素材の流動性を生かした表現が見られ、その表面には印象派絵画にも似た光と影の絶妙なコントラストを生み出すことに成功している。ロダンの助手でもあったアントワーヌ・ブールデルは、ロダンの表現力と構想力を受け継ぎつつ、自己の様式確立を追及し、『弓を引くヘラクレス』によって男性的力強さを表現することに成功している。女性像をモチーフとし、健康的で調和の取れた作品を創出したアリスティド・マイヨールは、ブールデルを通じてロダンに高く評価された彫刻家のひとりであるが、その作風はロダンのそれとは明らかに異なった性格を持ち、地中海的伝統を作品に刻みつける事で自己の確立を試みている。初期の作品『地中海』は、古典主義的な落ち着きと調和が見られるマイヨールの代表作のひとつである。マイヨールの作品は後世の彫刻家にも影響を与え、マリノ・マリーニ、アメデオ・モディリアーニといった芸術家の登場を促した。 一方でキュビスムの彫刻は人体の統一性からの脱却を図り、自由奔放な新しい造形表現の獲得に成功している。代表的な彫刻家としてはパブロ・ピカソ、アンリ・ローランス(英語版)、ジャック・リプシッツ(英語版)、オシップ・ザッキンなどが挙げられる。こうした流れを受けてさらにダイナミックな形態のリズムを追究したレイモン・デュシャン=ヴィヨン、ウンベルト・ボッチョーニらが登場し、根源的な形態を追い求めたコンスタンティン・ブランクーシがその後に続いた。ブランクーシはロダンからその才能を見初められ、助手へと誘われた彫刻家のひとりであったが、自身の追い求める表現を実現させるため、あえてその誘いを断っている。 他方で、マックス・エルンスト、ジャン・アルプ、アルベルト・ジャコメッティらによって生み出された作品は、後のダダイスムやシュルレアリスムや幻想絵画(幻想的表現主義)へとつながっていくこととなった。ブールデルから彫刻を学んだジャコメッティはその後、自身もシュルレアリストのグループに参加し、『シュルレアリスム的なテーブル』などの作品を発表した。第二次大戦後、現実との乖離に挫折を覚えたジャコメッティはその作風を大きく変え、戦後のフランス彫刻界において、もっとも高い評価を受けた彫刻家のひとりとなった。 1905年、当時の批評家からフォーヴ(野獣)と呼称された、サロン・ドートンヌに出品された鮮烈な色彩表現を持った一連の作品を創出した画家たちが興した運動であるフォーヴィスムは、20世紀最初の絵画革命と言われている。『ジル・ブラス』紙でルイ・ヴォークセル(英語版)に「原色の狂宴の中にいる野獣たちの集まり」と批判されたように、フォービスムは酷評でもって迎えられたが、多くの画家が伝統に縛られない色彩の自立と感情の解放を求める態度に共感を覚え、この新しい様式に共鳴した。主要なメンバーとしてはアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アルベール・マルケ、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドラン、キース・ヴァン・ドンゲン、ラウル・デュフィ、ジョルジュ・ブラックらが挙げられる。スーラら後期印象主義絵画が持つ色彩理論や、ゴッホの原色表現の影響を受けた彼らの共通点は、独自の色彩表現を探究し、色彩の写実的役割からの解放を目指したことにある。しかしながらこの傾向は明確な声明に支えられていなかったこともあり大きな流行には至らず、1905年をピークとして減衰していくこととなった。フォーヴィスムを体現し、体験した画家たちはその後色調や技法を変えつつ、独自の美学を追究しそれぞれの方向性を見出していくこととなった。 フォーヴィスムが誕生した同じ年にエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、エーリッヒ・ヘッケル(英語版)、マックス・ペヒシュタイン、エミール・ノルデらを中心として前衛絵画グループブリュッケがドレスデンで結成された。ドイツ表現主義の第一波とされるこのグループは、強烈な色彩表現を特徴とする点においてはフォーヴィスムと共通していたが、より濃密な絵画を発表している。その他、1909年にミュンヘンで結成された新芸術家同盟は、初期メンバーのフランツ・マルク、アウグスト・マッケ、ワシリー・カンディンスキーらにパウル・クレーが加わることで青騎士へと発展を遂げ、戦後の抽象表現主義につながる大胆な絵画表現を試みる活動を実施している。 その後、ピカソやブラックによって形態と構成における絵画革命キュビスムが推進され、フアン・グリスを加えてモンマルトルを中心に活動を展開した。特にピカソは、90年に渡る長い生涯のなかで絶え間なく絵画の革新と実験を試み、20世紀芸術の方向性に大きな影響を与え続けた。1907年に発表したキュビスムの出発点とも言うべき『アビニヨンの娘たち』では、アフリカの仮面彫刻のようなプリミティブ芸術に影響を受けた大胆なデフォルメと、セザンヌに学んだ知的構成が融合し、それまでになかった新しい絵画世界の実現に成功している。キュビスムは対象を解体して、画面上で再構成するというピカソやブラックが推進した手法もさることながら、同時に創出された新聞などの実物を直接画面に貼付するコラージュという技法が生み出された点も、絵画のあり方を一変させたという点において、後世の芸術家に多大な影響を与えている。ピカソ、ブラック、グリスの他、キュビスムの代表的な画家としてはフェルナン・レジェ、ロベール・ドローネーらがいる。 キュビスムよりやや遅れて結成された未来派は、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティを中心に活動を展開し、機械文明におけるダイナミズムとスピード感を賛美し、積極的な運動表現を作品に取り入れることを探究した。主なメンバーとしてはジャコモ・バッラ、ジーノ・セヴェリーニ、カルロ・カッラなどがいる。未来派の活動は絵画のみならず、音楽、建築、彫刻など多方面に及び、先に紹介したボッチョーニもその影響を受けた彫刻家として知られている。また、マリネッティがロシアを訪れたことでロシアの前衛芸術の形成にも大きな影響を与えた。ミハイル・ラリオーノフ、ナタリア・ゴンチャロワらによるレイヨニスム、カジミール・マレーヴィチらによるシュプレマティスムといった抽象主義的絵画は、こうした影響の中で誕生していった。シュプレマティスムを推進していたウラディミール・タトリン、アントワーヌ・ペヴスネル、ナウム・ガボらはその後、シュプレマティスムが見出した幾何学的形態の極地から、さらに推し進めた構成主義を推進している。 オランダのピエト・モンドリアンが創始した新造形主義も幾何学的な抽象表現を極めた様式のひとつで、モンドリアンはキュビスムの影響を受け、自然風景を垂直と水平の要素にまで還元し、この単純な構図に色の三原色を組み合わせるという美学に到達せしめた。またモンドリアンは、テオ・ファン・ドースブルフとともにデ・ステイル運動を推進し、絵画にとどまらない幅広い芸術分野に新造形主義の様式を拡大していった。 他方、現代絵画のもうひとつの大きな流れとして、人間の心、未知の世界を探究し表現する幻想絵画がある。形而上絵画はその代表的様式で、中心的人物のジョルジョ・デ・キリコは、長く伸びた影や人気の無い町並みを主題として白昼夢のような郷愁を誘う神秘的かつ不気味な不安を感じさせる作品を生み出している。その不安が現実となるかのように第一次世界大戦が勃発すると、厄災を生み出す社会や文化に対して強い批判を表明する芸術運動が同時多発的に持ち上がった。こうした動きはやがてひとつの大きなうねりとなり、あらゆる既成価値を否定するダダイスムが誕生した。マルセル・デュシャンが展覧会に出品した『泉』と称する便器やひげのあるモナ・リザを描いた『L.H.O.O.Q.』はその最たる例である。彼らはあらゆる方法で価値の転換を試み、過去の芸術や文化の徹底的な破壊と否定を推し進めた。代表的なメンバーとしてはハンス・アルプ、フランシス・ピカビア、マン・レイなどがいる。 第一次世界大戦後にはシュルレアリスムが登場し、ダダイスムによる否定を受けて、非合理の世界を解放することによって新しい価値の創造を目論む動きが始まった。シュルレアリスム運動は詩人アンドレア・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表したことによって定義の明確化が図られた。芸術分野においてマックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギーらを中心として展開されたシュルレアリスム運動は、各々の想像力を糧に、夢と現実が矛盾無く世界を構築するような世界(超現実)の実現を目指した。作品制作にあたり、彼らはデペイズマン、オートマティスム、フロッタージュ、デカルコマニーといった新しい技法を次々と考案し、後世に無視できない多大な影響を残した。 こうした新しい芸術運動が様々に展開される一方で、アンリ・ルソー、ルイ・ヴィヴァン、アンドレ・ボーシャン、セラフィーヌ・ルイといったいわゆる素朴派と呼ばれる素人画家が多く登場してきたことも、現代絵画の変革を伝える重要な要素のひとつである。また、エコール・ド・パリ(例:シャガール、ユトリロ、キスリング、スーティン、藤田嗣治)に代表されるように、特定の運動に加わることなく、自己の世界を表現し続けた画家も数多く存在していたことは忘れてはならない。 1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響を強く伺わせるいわゆる戦後美術が登場した。作品としてはフランシス・ベーコンが描いた『風景の中の人物』、ジャン・フォートリエの『人質』に代表されるような、戦争の悲劇がもたらした人間そのものへの問いかけを含有する悲劇的な様相を表現する傾向にあった。アメーバのような不定形なフォルムと血を連想させる生々しい色彩を用いたヴォルスや、幼児や精神障害者の描く原生芸術を追求し、アールブリュットを提唱したジャン・デュビュッフェなども代表的な画家として挙げられる。フォートリエが表現した厚塗りの具象的な作品はその後、アンフォルメルと呼ばれる表現主義的抽象絵画として1950年以降もてはやされることとなる。こうした作品は、保守派ジャーナリズムや一般観衆から「子供の悪戯描き」と揶揄されながらも感覚に直接訴えかける新鮮な迫力を持った表現形式としてその地位を確立させた。他方で、こうした表現主義的抽象絵画が採った具象的モチーフの拒否を否定することで、現実への復帰を試みたネオダダやポップアートが誕生したのもこの時代であった。 1980年代以降、美術を表現する新しい方法が次々と生み出され、それらが互いに影響を及ぼしあうことにより複雑な美術体系が構築された。ナムジュン・パイクによるビデオ・アート、映画を含めた映像作品も美術作品として定義することが可能であり、現代美術の主要部分を占めるようになったと言って良い。また、シンディ・シャーマンやロバート・メイプルソープなどの写真美術作品や、マリーナ・アブラモヴィッチのような自身の身体を用いたパフォーマンス的な美術作品に代表されるように、様々なメディアを使用した表現形式(メディアアート)が誕生している。 1960年代後半から1970年代にかけて誕生したロバート・スミッソンを嚆矢とするアースワーク(ランドアート)も、そうした多様化した表現形式の帰結のひとつである。自然派と呼ばれた彼らは地球をキャンバスとし、訪れることさえ容易ではない地に作品を直接制作することで、限られた空間からの解放と美術の商業主義からの脱却を試みた。代表的なものとしてはすでにグレートソルト湖の湖中に水没したスミッソンの『螺旋状の突堤』、落雷を呼ぶ金属ポール400本を等間隔に設置し、落雷現象そのものを美術作品として発表したウォルター・デ・マリアの『ライトニング・フィールド』、ストーンヘンジやストーンサークルといった原初的な造形を追及したリチャード・ロングの環状列石作品群などがある。 【概説・入門書】 【画集・辞典】
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "西洋美術史(せいようびじゅつし)では、西洋における美術の歴史について概説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "旧石器時代後期に入った頃より、実生活において有用に機能するとは考えにくい遺物・遺構が見られるようになり、これらを総称して一般的に原始美術/先史美術などと呼称し、西洋美術史においては洞窟絵画や岩陰彫刻(英語版)、丸彫彫刻(英語版)、獣骨などに刻まれた刻線画などがこれに該当する。また、実用品からも動物や魚の骨などを原材料とした器物や石器類などに動物や魚類、木の葉などを写実的に模様化したものが残されており、美術の目覚めを感じさせる。ただし、これらを原始美術と分類し、その地位が確立されたのは20世紀に入ってからである。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古いものはオーリニャック期に生み出されたとされ、フランスの クニャック洞窟(フランス語版)に描かれた山羊の洞窟絵画、スペインのラス・チメネアス洞窟(スペイン語版)に描かれた鹿の洞窟絵画などが知られている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "動産美術としてはブラッサンプイで出土した象牙彫りの女性頭部像がある。人間を表した作品はたいていの場合裸体女性であり、子孫繁殖を祈念した宗教的意味合いが込められていたと推察される。この時代の美術的特徴としては、単純な輪郭線による写実的な表現や生殖機能を強調した表現が挙げられる。ソリュトレ期の洞窟絵画は発見されていないが、マドレーヌ期 に入ると動物の体毛に応じた明暗の使い分けや、肥痩のある輪郭線を使用した表現力の増した洞窟絵画が出現するようになっている。有名なものとしてはラスコー洞窟やアルタミラ洞窟のものが挙げられる。これらの洞窟絵画では野牛、トナカイ、馬、マンモス、鹿などの狩猟対象となった動物のモチーフが主となっていた。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "このため、これらの遺例はヨーロッパ大陸を拠点に生活を営んでいた狩猟採集民族の手によって作成されたものであり、彼らにとって重要・貴重なものを対象として造形的に再現したに過ぎず、後年の美術が獲得していった社会的機能は持っていなかったのではないか、あるいは誰かに見せるために描いたものでは無いのではないかと考えられている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "中石器時代には東スペインで興った様々な動物と人間を描いた岩陰絵画(レバント美術)やスカンジナビア半島からロシアにかけて発達した岩陰線刻画(極北美術)が登場した。初期のものには写実的な表現でもって実物大に近い大きさを有しているものも見られるが、時代を追うごとに形像は小型化し、簡略化・形式化が進んでいる。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "新石器時代に入ると人類は土器の製作を始め、線状模様が土器表面に描かれるようになった。この時代に洞窟絵画に見られるような絵画的美術が創出されたのかどうかは今となっては不明であるが、『西洋美術史要説』では制作そのものが少なかったのではないかと推察している。また、土地土地によって建設されたであろう木造住居は残されておらず、美術史的な立場からこの時代の建築遺物としては、メンヒル、ドルメン、ストーンヘンジなどといった宗教的な意味を持っていたと考えられる石製構造物のみである。 後世、20世紀あたりになって、原始美術に影響され原始主義(英語版)に繋がる。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ティグリス・ユーフラテス川水域で開花したメソポタミア文明では、原始農耕社会の中で様々な器形とユーモアな装飾モチーフを特徴とする彩文土器の出現が見られた。特にサーマッラー期やハラフ期の彩文土器は従来の幾何学文様に加えて特徴を極端に誇張した動物文様や人物文様などが加わり、社会の広がりと異なる文化との交流を示している。地域的な事情から石材が乏しかったことから大型の彫刻は制作されず、建築文化も煉瓦の使用やアーチ式建築の技法発達が見られた。ここで誕生したメソポタミア美術は、エジプト美術と並んで西洋美術史における始祖とも言える。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "紀元前4000年期に入る頃にはシュメール人たちによって神殿を中心とした都市が形成されるようになり、商業の活発化とともに絵文字などの伝達手段が登場するようになった。特にウルク期の中心的役割を担ったエアンナでは陶片によって壁面や柱がモザイク装飾された神殿が登場し、大理石を素材にした丸彫彫刻が数多く制作された。大理石が持つ白い肌触りと柔らかな質感は人間の肉感を表現するのにうってつけであり、素材に大理石を使用するという手段はギリシア美術へと継承された。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ジュムデト・ナスル期(英語版)に入ると礼拝者や聖職者を象ったと思われる立像が制作されるようになり、同時に、政治的指導者の出現によって都市国家としての発展が見られるようになった。制作される美術品は写実的な表現が大きく発達し、素材も多様化して金、銀、ラピスラズリ、貝殻などが用いられるようになった。また、叙述的な表現技法も見られ、戦争などの国家的な出来事も作品モチーフとして取り入れられるようになっている。この時代の彫刻は『エビー・イルの像』に代表されるように、強調された大きな目を有していることに特徴があり、エジプト美術にも影響を与えている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "セム人の侵攻によってアッカド王朝が樹立すると、自然主義的な傾向を有した作品が制作されるようになり、同時に、権力者を称えるような王権美術とでも形容すべき様式の確立がなされた。アッカド王朝滅亡後、ウルクによるシュメール都市国家の統合がなされた頃には都市の再建に伴ってジッグラト(聖塔)が各地に建設され、宗教観の発展とともに建築分野の美術が大きく発達した。ジッグラトは後に続くエジプト美術で建設されたピラミッドの原形となった。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一方、メソポタミア北部のアッシリアでは、バビロニアの占領支配によって固有の文化的発展を遂げ、美術作品においても他の地域にない独自性を有するようになった。トゥクルティ・ニヌルタ1世の時代に入った頃から丸彫彫刻や浮彫彫刻などが数多く制作されるようになり、躍動感のある表現が見られるようになった。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、地理的な環境と版図の拡がりから不透明ながらもアッシリアの美術はフェニキア美術やギリシア美術に一定の影響を与えたと考えられている。アッシリア帝国滅亡後に誕生した新バビロニア帝国ではネブカドネザル2世の手によって都市整備が進展し、イシュタル門に代表される彩釉煉瓦で装飾された建造物が登場した。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後、アカイメネス朝によって各地が統治されるようになるとメソポタミア、エジプト、ウラルトゥなどの美術様式を統合したアカイメネス朝美術(英語版)が開花した。特に工芸の分野でその特質は顕著で、金銀象嵌などを駆使した精微な作品が数多く制作されている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ナイル川流域で興ったエジプト文明は肥沃な大地を背景に大いに発展し、初期王朝時代には古代エジプト美術の原型が誕生した。エジプト美術の初期は メソポタミア美術(英語版)の影響を受けたと考えられている。初期は蛇王の碑などに代表される浮彫彫刻や丸彫彫刻がさかんに制作され、既に技術、様式においてエジプト美術の独自性の原形が垣間見える。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ファラオの神権的権力が確立する古王国時代には葬祭複合体として古代史においても重要な建築物であるピラミッドがギザなどに建立された。なお、従来の墳墓(マスタバ)の概念を取り払い、ピラミッドとして確立を見たのはジェセル王の時代であり、宰相イムヘテプによってサッカラに建立された階段ピラミッドがその嚆矢とされている。壁画においてはメイドゥームの鴨(英語版)など、動植物には写実的で精微な表現を有したものが数多く制作されているのに対し、人像表現は極めて形式的かつ概念的で、上半身は正面向き、下半身は真横からといった形態で表現されていることが多い。 これは、魚や鳥は死者の食料としての役割を担っており、生きの良さが重要だったのに対し、表された人々は王侯に奉仕する労働力として永遠不動の形を要求するというエジプト独特の信仰から来る表現の違いであると推察されている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "中央集権が瓦解し、中王国時代に入るとアメンエムハト3世の時代に入るまで巨大建造物の造営は見られなくなり、代わってオシリス柱やハトホル柱など、独創的な形式を有する葬祭殿や神殿が出現した。彫刻においては第11王朝期ごろから個性を写実的に捉える傾向を持った新しいテーベ様式が出現し、従来の伝統的なメンフィス様式とともに二大潮流を形成した。しかしながら経済の停滞とともに制作傾向は大型石像彫刻から木製の小像へと変化している。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "新王国時代に入ると王権の強化とともにエジプト美術は絶頂期を迎え、アモン大神殿やルクソール神殿など、テーベを中心に各地で大型の造営事業が推進された。とりわけ、第18王朝期には従来の二大潮流の中に豪華な装飾性と色彩主義が加えられ、宮廷美術の新境地を切り開いた。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、アマルナの地に都を移したアメンホテプ4世が唯一神アトンへの信仰に没頭したことから、この時代に制作された美術作品は自然主義的な傾向が色濃く反映されており、エジプト美術のなかでは異彩を放っている。宮廷美術として型にはめられ、厳格な形式性から解放されたことから、リアリズム表現の技法が大いに伸張した。王女に口付けをするアメンホテプ4世の彫刻画など、人間の感情や情愛をモチーフとした構図が採用され、表情や姿態に誇張的な表現がとられた。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この時代の美術をそれ以外の時代のエジプト美術と区別し、アマルナ美術と呼称する。アマルナ美術は後世のエジプト美術にも大きな影響を与え、ツタンカーメンの黄金マスクなどにおいても、アマルナ美術の内観的な表現様式の名残が見て取れる。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "エジプト美術の最大の特徴はその様式の不変性で、三千年に及ぶ悠久の時を経てもほぼ変わることなく一貫していることが挙げられる。こうして連綿と継承された技術はその洗練性を高め、後期には沈浮彫りなどの高度に発達した特殊な技法が誕生している。一方でこうした不変性は社会的・歴史的基盤があって初めて成立する特殊な美術であったこともまた事実であり、ギリシア美術のような影響力を他の美術に与えることはなかった。しかし、末期王朝時代に入ると王国の衰退とともにエジプト美術も因襲的な模倣に終始し、他国からの影響を受けながらその独自性すら失っていった。紀元前332年、アレクサンドロス3世によってエジプト征服がなされると、エジプト美術は形骸化し、ギリシア美術の影響の中に消えていった。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アーサー・エヴァンズのクノッソス発掘によって、地中海域で最初に開花したとされるクレタ美術(ミノス美術(英語版))の解明がなされた。新石器時代末期から青銅器時代初頭にかけて、キュクラデス諸島などで人体の特徴を簡潔に捉えた石偶や彩色土器、金属器などが制作されている。旧宮殿時代に入ると農業と海上貿易によって都市は経済的に大きく発展し、マリア、クノッソス、アヤ・トリアダなど各地に荘厳な宮殿が造営された。工芸品も数多く制作され、カマレス陶器のような豪華なものも出現している。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "紀元前1700年頃に発生した大地震により一時は壊滅の危機に陥るが、新宮殿時代に入るとより複雑で豪華な装飾を持つ宮殿や離宮が建立された。自然と人類を見事に調和させ、自由闊達に描いた壁画が残されており、こうした作風はペロポネソス半島で隆昌したミュケナイ美術へ受容、継承された。紀元前1400年頃に入ってミュケナイ人がクレタ島を征服すると、ミュケナイ美術は最盛期を迎え、後のギリシア建築に大きな影響を与える建造物が複数建築された。 ミュケナイ美術は時代を経るに従って豊かな自然主義的作品から簡素化された装飾モチーフを用いた形式主義的作品へと変遷しており、その理由については明らかになっていない。その後、紀元前12世紀頃のドーリス人大移動を境に衰退期へと移行し、ミュケナイ美術はその幕を閉じることとなった。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "紀元前11世紀中ごろ、アテネのケラメイコスからミュケナイ陶器とは異なる特徴を持った陶器が出現した。黒線や水平帯によって区分した装飾帯に波状線や同心円文を配した構築的な装飾を持ったこれらの様式は原幾何学様式と呼ばれ、ミュケナイ美術とは明確に区別されるようになった。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はメアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文、菱形文などを複雑に組み合わせた装飾が配されている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "こうした幾何学的な構想は陶器の文様に限らず、テラコッタや青銅小彫刻などにおいても同様の傾向が見られ、動物や人間などの各部位を幾何学的形態に置き換えた後に全体を再構築するという過程を経て制作されており、有機的形態の分析による認識法や、部分均衡と全体調和によるギリシア美術固有の造形理念が見られる。以上のような経緯を経てギリシア美術は確立に至るが、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが記した『古代美術史』に代表されるように、ギリシア美術こそが西洋美術のはじまりであるとする言説も存在している。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その後、エジプト、アッシリア、シリアの東方から持ち込まれた工芸品を通じて、ギリシア美術における装飾モチーフの表現領域が大きく拡大し、パメルット(英語版)、ロータス、ロゼットなどの植物文やスフィンクスなどの空想動物が用いられるようになった。プロト・コリントス式陶器やコリントス式陶器など、こうした装飾モチーフを利用して制作された作品はギリシア美術の中でも特に東方化様式と呼称し、区別されている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一方、アテネでは叙事詩や物語への関心が高まったことによりこれらをモチーフとした陶器や彫刻が制作され、これらはやがて神話表現へと昇華していくこととなった。紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻の影響で大掛かりな彫刻が制作されるようになり、この頃作られた男性裸体像(クーロス(英語版))は既に両足を前後させて体重を均等に支えるポーズをとっており、ギリシア彫刻としての特徴が見て取れる。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ここまでに培われた表現基盤と技術的要素を背景として紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力に満ちたアルカイック美術が展開された。人体彫刻はより自然な骨格と筋肉をまとったものへと発展し、神殿建築分野ではこれまでの日干煉瓦や材木に代わって石材が使用されるようになり、アポロン神殿(ドイツ語版)に代表される周柱式神殿が誕生した。紀元前6世紀にはサモスのヘラ神殿やエフェソスのアルテミス神殿など、イオニア式オーダーによるより巨大な神殿が建立されるに至り、これに伴う建築装飾技法が大いに発達した。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間の静止を表現できるよう試行錯誤が繰り返されるようになり、その過程でアルカイックスマイルなどの立体表現が生み出された。なお、ギリシア美術で好んで使用された素材である大理石の色によってギリシア彫刻の特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが、制作当時はエジプトから輸入された顔料などを用いて鮮やかな彩色が施されていたことが近年の研究によって明らかになっている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "陶器画の分野ではアッティカがコリントス式陶器の技法を吸収して黒絵式技法を確立し、フランソワの壺に代表されるような、神々や英雄の神話的場面を描出した作品が制作された。アマシスやエクセキアスはこの技法をさらに洗練させ、前者は人間味溢れる神々の姿を、後者は重厚な筆致で崇高な神々の姿を描き出し、神人同形(アントロポモルフィズム)という観念を確かなものとしている。その後、黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部にこだわった絵画的な表現がなされるようになった。こうした技法発展の背景は、板絵や壁画といった新しい芸術表現に対する絵画的探究の表れだったのではないかと考えられている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "紀元前5世紀初頭に入ると、ポリュグノトス (en:Polygnotos (vase painter)) やミコン(英語版)といった画家によって「トロイアの陥落」「マラトンの戦い」などの神話歴史画が描かれ、大絵画というジャンルが確立するに至った。四色主義(テトラクロミズム)という制約の下、形像の重複や短縮法といった技法を駆使することによって絵画上に奥行きのある空間表現を試みており、絵画、彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性を示したという意味で特筆すべき存在となった。彫刻分野の作品においては、それまでの直立不動の姿態から支脚/遊脚の概念を取り入れたコントラポストへと変化しており、クリティオスの青年(英語版)やデルフォイの御者像(英語版)などが制作された。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この時代、ペルシアを撃退し、ギリシア世界の覇権を獲得したアテネは最盛期を迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代という新しい領域へと突入することとなった。ペリクレスによってアクロポリスの整備が推進され、オリンピアのゼウス神殿やパエストゥムのポセイドン神殿で培った技術にイオニア的な優美さを付加したパルテノン神殿が建立される。彫刻分野ではパルテノン神殿の造営を指揮したフェイディアスによってアテナ・パルテノスの黄金象牙像が制作された他、ポリュクレイトスによって体中線をS字に湾曲させるなどの技法が生み出され、コントラポストの極致が確立された。絵画の分野ではアポロドロスによって空間表現に不可欠な幾何学的遠近法、空気遠近法の融合化を図った作品が制作された。その他、明暗技法に優れた才能を発揮したゼウクシス、性格表現と寓意的表現に優れていたパラシオスなどがギリシア美術における絵画の発展を牽引している。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "クラシック時代後期に入ると個人主義が台頭し、美術界においても多大な影響を与えた。彫刻分野ではプラクシテレス、スコパス、リュシッポスが静像に内面性を付加させた表現技法を生み出すとともに、裸体女性像の価値を大きく引き上げることに貢献した。アレクサンドロス3世の宮廷彫刻家としても知られるリュシッポスは肖像彫刻の分野でも優れた作品を残しており、後世ヘレニズム美術(英語版)やローマ美術の彫刻家達に大きな影響を与えた。同じく宮廷画家であったアペレスは明暗法、ハイライト、遠近法を駆使した大絵画を創出し、古代最大の画家と評価されている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった。こうした現象についてローマ時代の文筆家大プリニウスは「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一方、イタリア中部に定着したエトルリア人は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した。一般にエトルリア美術は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類されるが、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことが伺える。紀元前7世紀から顕現したこうした兆候はヘレニズム期まで継続していた。彫刻分野も遺例が少ないものの、紀元前6世紀末に活躍したウルカ(英語版)はエトルリア人彫刻家として名が知られている特筆すべき人物で、ヴェイオから出土した「アポロン」など、イオニア彫刻の影響を強く受けたテラコッタ像を制作している。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "紀元前5世紀初頭の古典期に突入すると政治、経済の衰退と共に美術的活動も新鮮味と活力が失われ、様式的にも停滞した。しかし、ヘレニズム期に入ると来世観に進展が見られ、ウァント(英語版)やカルン(英語版)といった魔神が墓室壁画のモチーフとして選択されることが多くなった。肖像彫刻においては写実性溢れる作品が好んで制作されるようになった。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "紀元前509年、エトルリアに従属していた都市国家のひとつであったローマは、共和制を樹立し、周辺都市国家を征服しつつ紀元前4世紀にはエトルリアをもその支配下に置いた。その過程でエトルリア美術の影響は次第に薄れてはいったが、独自の美術を生み出すには至っていなかった。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "紀元前3世紀に入るとサムニウム戦争や第一次ポエニ戦争などの影響により、戦利品として南イタリアのギリシア植民都市から大量の美術品が持ち込まれると、その成熟された美しさに魅了され、第二次ポエニ戦争以降、ローマ下においてギリシア美術ブームが起こった。これによりローマでは従来の伝統的なエトルリア美術と、「外来」のギリシア美術がそれぞれ潮流を成し、社会に氾濫することとなった。ローマ人の需要に応えるべく、創造性には欠けるが様々な様式の彫刻を注文に合わせて制作するネオ・アッテカ派(英語版)と呼ばれる一派が形成され、アウグストゥスの庇護を受けて伸張した。この影響で「アウグストゥスの平和の祭壇」や「プリマポルタのアウグストゥス」といった高度な写実性を有する、洗練された古典主義的な美術品が数多く制作されている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "建築分野では紀元前1世紀前半ごろより、ヘレニズム期のエトルリア美術を基盤としてローマ固有の建築様式を生み出していった。厳格な左右対称性やコリントス式柱頭の多用、内部空間の重視などがローマ建築の特徴として挙げられる。紀元前2世紀前半に建設されたバシリカや紀元前1世紀前半に建築されたコロッセウムなどは、新しい建築ジャンルとしてローマ美術における代表的な建造物としてしばしば取り上げられる。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、建造物の壁面に描かれた装飾物についてもヘレニズム期の影響を受けるポンペイ第一様式からポンペイ第二様式と呼ばれる装飾法へ移行を果たし、神話的風景画などがさかんに制作された。帝政期に入ると歴代皇帝の事跡を誇示するかのような歴史浮彫が多数制作され、現代ではトラヤヌス帝の記念柱やコンスタンティヌス帝の凱旋門などがその遺構として知られている。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "同時に神話的な情景を主たるモチーフとしていた古典主義は衰退し、現実の情景を記した写実主義がもてはやされるようになった。さらに、2世紀中ごろからは主要人物をより強調して表現する傾向が顕著となり、その影響は肖像彫刻などの他ジャンルへも波及した。こうした自然主義の放棄と表現主義の台頭という変遷は、この後のローマ美術がキリスト教美術へと変質化していく過程における重要な転換点として挙げられる。", "title": "古代" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "紀元2世紀末から3世紀はじめにかけて地中海沿岸の各地にローマ美術の流れを汲んだキリスト教美術が誕生した。以降キリスト教美術は1500年以上に渡って東西ヨーロッパにおける美術の中核を担っていったが、キリスト教の誕生から5世紀後半までの美術を初期キリスト教美術と呼称している。313年に公布されたミラノ寛容令まではキリスト教に対して弾圧が繰り返されていたこともあり遺跡、遺品ともに残されているものが少ないが、カタコンベ(地下墓所)の壁画や石棺彫刻といった葬礼美術にその特徴を垣間見ることが出来る。火葬と土葬が併用されていた古代ローマ時代からヘレニズム文化の影響を受けて土葬へと急激に転換したことが、こうした葬礼美術が制作されるようになった要因の一つとされている。キリスト教では偶像崇拝が禁じられていたことから、死後の魂の救済を願って描かれた初期の壁画は、構図やモチーフに異教美術からの積極的な借用が見られるものの、十字架の形を象徴する物やイエス・キリストを意味する魚、よき羊飼いや祈る人といった寓意的な人物など、間接的または暗示的な信仰の表明が示されている。教義が出来上がり、教会体制が整うにつれて新約聖書や旧約聖書に語られている物語がモチーフとして選択されるようになった。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "380年に、テオドシウス1世によってキリスト教が国教として定められると、帝都コンスタンティノポリス、ローマ、アンティオキアなどの各地で大規模な教会堂の建築が実施された。建築様式としてはローマ美術のバシリカから派生したもの(バシリカ式)、ヘレニズム美術の廟墓建築やユダヤ教の記念堂建築の流れを汲むもの(集中式)に大別されるが、いずれも煉瓦造りの質素な外観に対してモザイク装飾を用いた豪華な内観という特徴を持っており、現実的な地上世界と神秘的な死後世界の対照化を試みている。バシリカ式の教会堂としてはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が、集中式の教会堂ではラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂が、それぞれこの時代に建築された代表的な例として挙げられる。5世紀に入るとキリスト教美術はローマ美術の古典的な様式から豪華な金地や多様な装飾が施された東方的な荘厳美術へと傾倒していった。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "330年、コンスタンティヌス1世により帝都がコンスタンティノポリス(現イスタンブール)へ移されたことがきっかけで美術活動の重心も東方へと移っていった。これによって初期キリスト教美術に古代アジアやサーサーン朝ペルシアの美術的要素が融合し、ビザンティン美術が確立された。ビザンティン美術は15世紀までの長きに渡り、大きな変質なく脈々と一貫性を保ち続け、その特徴は荘厳な様式の中に散りばめられた豪華絢爛な装飾性と、精神性や神秘性を追求した理知的な傾向が挙げられる。ユスティニアヌス1世の第一次黄金時代と呼ばれる時期に建築されたハギア・ソフィア大聖堂は、それまでのバシリカ式と集中式の建築様式を統合し、新しい建築類型を確立させた。また、近東の民族美術の影響で装飾モチーフにも変化が見られ、聖樹や獅子、幾何学文様などの象徴的あるいは抽象的な浮彫装飾が好んで選択されており、人像の表現は激減している。さらに、8世紀に入って聖像論争が勃発して聖像否定派が優勢に立ったことで、こうした傾向はますます顕著となり、造形美術分野は一時的な衰退を余儀なくされた。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "9世紀後半に興ったマケドニア王朝はその版図を拡大し続け、11世紀にはイタリア南部からスラブ諸国にまで及ぶ大帝国となった。この時代に始まった美術界における栄華をビザンティン美術における第二次黄金時代と呼ぶ。ヘレニズム期の古典的な伝統美術が影響力を強め、教会堂建築もオシオス・ルカス修道院などに代表される、集中式を基盤とした装いへと立ち返っている。工芸美術の分野では「パリ詩篇(英語版)」や「ナジアンゾスのグレゴリウス説教集」といった擬古典的な様式を採用した写本装飾などが制作された。その後、マケドニア王朝の滅亡とともにコムネノス王朝が興ると華やかな宮廷美術と、人文主義的な伝統美術が融合した独特の美術が開花した。代表的な教会堂建築としてはダフニ修道院、ネレズィ修道院聖堂(英語版)などがある。13世紀前半には十字軍の略奪と占領などによって再び停滞期に突入するが、パレオロゴス王朝の時代に入るとコーラ修道院に代表される写実的で繊細典雅な様式が花開いた。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "11世紀中葉以降、西方における帝国拠点都市を通じて、ビザンティン美術は西欧美術に大きな影響を与え続け、大構図モザイク装飾を採用した教会堂が各地に建立された。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "476年の西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン諸族の国家が次々と誕生した。ガリアの地においてもゲルマン民族の手によってブルグント王国が成立したが、5世紀後半にクローヴィス1世率いるフランク王国によって滅ぼされた。クロヴィス1世は都をソワッソンへ移し、ローマ文化を積極的に取り入れ、ローマ帝国の継承者としてメロヴィング朝を興した。こうした経緯によって培われたメロヴィング朝の美術は工芸品分野において優れた技術を見せており、ゲルマン民族特有の豪華な装飾と、ガリア土着の伝統が融合した独特の様式を呈していた。また、近東の修道院制度がイタリアやアイルランドを経てもたらされ、大小様々な僧院が建立されている。写本装飾の分野ではメロヴィング朝特有のメロヴィング体(英語版)の書体とメロヴィング彩飾(英語版)の「鳥魚文」が多用されると同時に、花や鳥を幾何学的に組み合わせた文様なども確認でき、古代の自然主義的表現様式とは一線を画すものが制作されている。7世紀にはケルズの書に代表されるような、サクソン、オリエント、コプトからの影響を受けた複雑な装飾が施されるようになった。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "カロリング朝の時代に入るとカール大帝の手によって学問や芸術の奨励が始まり、美術史的観点において大きな躍進を遂げた。特に彫刻分野においては、北イタリアを中心に発達した組紐文を象徴的に用いた浮彫が各地へ伝播し、後のロマネスク美術の基礎を築いた。写本装飾の分野においてはメロヴィング朝時代に一時衰退した古典的な人像表現が復活し、装飾モチーフとして積極的に使用された。その後、オットー1世によって神聖ローマ帝国が築かれると、西欧文化の主導権を掌握し、文化的傾向の方向性を確たるものとした。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "9世紀から10世紀にかけて、ノルマン人やサラセン人などの異教徒の脅威により、カロリング朝はユーグ・カペーへその王権が引き継がれ、フランク王国は事実上の解体をみた。激動する社会情勢の影響を強く受けた西欧美術も同様に再び大きな変革を迫られることとなった。ロマネスク美術は、そうした社会的変動を背景として初期中世美術という基盤を発展させ開花した、11世紀後半から12世紀にかけての西欧美術を指す。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "建築分野におけるロマネスク美術の特徴は、重厚な石壁と暗い内部空間に表され、古代バシリカ式建築を基本に添えつつ、東西への方向軸を持った建造物が増加した。これは、聖地巡礼を行う礼拝客の動線を配慮した結果発展した形態であると考えられている。こうした形態を保持する教会堂を巡礼路聖堂と呼び、トゥールーズのサン・セルナン大聖堂(英語版)などがその代表的建造物として挙げられる。この時代、修道院は学問と美術の中心的存在を担っており、各会派は信仰の普及手段として教会堂の建設を推進した。その表現手段は多様で、シトー会派が図像を否定し、質素な美術を奨励したのに対し、ベネディクト会派は豪華な素材を用いて美術の荘厳化に注力した。地方によって同じロマネスク美術建築でも特徴が大きく異なるのは、地域に対する会派の影響度の違いを示している。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、後年のゴシック美術の建築と比較して壁面が多く、教会堂の天井や側壁には聖書や聖人伝を題材とした説話的な壁画が描かれた。地方によって細微な違いがあり、もっとも西方的な様式を確立したのはフランスで、その他の地域は大なり小なり東方的なビザンティン美術の要素を取り込んだ壁画が制作されている。イタリアではカロリング朝の伝統を継承しつつも、ビザンティン美術の範例を手本としながら力強い筆致で描かれているのが特徴で、イタロ=ビザンティン様式と呼ばれるこうした大構図壁画は、サン・クレメンテ聖堂(英語版)やサン・タンジェロ・イン・フォルミス聖堂(イタリア語版)などに残されている。スペインでは東方的な色彩とモサラベ美術(英語版)の影響によって、カタルーニャ地方に独特のロマネスク美術が開花した。また、オットー朝の写本工房の影響力がドイツ南部、オーストリア、スイス北部などではイタリア経由でもたらされたビザンティン美術の要素と融合を果たしたロマネスク美術が確立されている。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "工芸分野では十字架、装幀板、燭台、聖遺物箱、祭具といった宗教用具がさかんに作成され、古代の浮彫や彫刻技法を復活させたことに大きな意義を見出すことが出来る。こうした丸彫像ではコンクの聖女フォワの遺物像がその先駆けとなった。その他オットー朝の伝統を汲むドイツや北イタリアの諸工房では、象牙や金を素材とした工芸細工が数多く制作され、フランスのリムーザン地方ではエマイユ工芸が発達し、聖遺物箱や装幀などが制作された。また、バイユーのタペストリーに代表される刺繍工芸が盛んになったのもロマネスク美術の特徴といえる。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ロマネスク美術の延長線上に位置付けられるゴシック美術は12世紀半ばごろより始まり、人間的・写実的な表現を特徴とし、ロマネスク美術の象徴的・抽象的な表現とは対照的な様相を呈している。この変革の背景には社会環境の変化が大きな影響を与えたと考えられている。前時代は修道士や聖職者など、限られた人々が文化の担い手であったのに対し、裕福な市民層や大学を拠点とする知識人などの台頭によってその範囲が拡大していったことが、美術の性格を変革させた一つの要因となっている。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "こうした精神を如実に物語っているのが建築分野であり、その先鞭はシュジェールによって行われた1144年のサン=ドニ大聖堂改修工事である。シュジェールは信仰を導く手段として「光」の重要性を謳い、尖頭アーチを用いた肋骨交差穹窿とステンドグラスを嵌め込んだ大窓を組織的に活用することで、新しい建築意匠を創出した。この動きはすぐにサンス、サンリス、パリ、ランなどフランスの周辺都市へ伝播し、同様の意匠を保持する大聖堂が相次いで建立された。さらにはフランス人工匠の手によって国外へも波及し、イギリスのカンタベリー大聖堂など、新規建築や改修時にゴシック建築の様式を取り入れたものが登場している。また、ロマネスク建築の重厚な石造天井は重量的な問題から、自ずと「高さ」に対して限界が見えるようになり、これを解消することを目的とした建築方式が誕生し、広く受け入れられることは必然であったとも言える。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "装飾彫刻もこうした動きと連動し、円柱人像などの新しい要素が誕生した。これによって古来以降途絶していた塑像性が復活し、自然な丸みを帯びた人像表現へと発展していく嚆矢となった。また、個々の彫像が採用したモチーフを連関させ、全体としての合理性を持たせるといったことも試行されている。こうした特徴もつ装飾彫刻の代表的なものとしては、シャルトル大聖堂の「王の扉口」(西側正門)などが挙げられる。連関思想は、次第に金属細工や彩色写本といった小型の美術品にも傾向として現出するようになった。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "12世紀に入るとゴシック建築を採用した聖堂の建立が本格化しはじめ、内部空間構成と建造物の見事な調和が見られるようになった。ブルージュ、シャルトル、ランス、アミアン、ボーヴェといったフランス各地の大聖堂やイギリスのソールズベリー大聖堂、ケルンのザンクト・ペーター大聖堂など壮大な聖堂が各地に建設されている。特に、世界遺産にも指定されているアミアンのノートルダム大聖堂は、その全長が145メートルにも及ぶ巨大な聖堂である。また、物理的制約から解放されたことで、塔や穹窿は高さに対しても追求がなされるようになった。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "並行して円柱人像の技法も発展し、13世紀に入ると扉口浮彫から丸彫像への移行が見られるようになった。同時にゴシック彫刻の特長とも言えるS字型に捻った姿態、柔和な相貌、流麗な衣襞といった表現が確立し、古典主義的な思想を孕んだ作品が数多く制作された。さらには14世紀初頭にドイツで制作されたピエタの彫像のような凄惨な場面を主題とした彫刻作品も登場し、表現領域の拡張に大きな足跡を残した。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、色彩芸術の分野ではステンドグラスによる主題表現が代表的で、シャルトル大聖堂の「美しきステンドグラスの聖母」など、12世紀から13世紀にかけて制作された傑作が多数残されている。写本絵画では個人向けの聖書・詩篇集の制作がフランスやイギリスで活発化し、多くの写本画家がパリを拠点に活動を行っている。中でも『ベルヴィル家の聖務日課書』を制作したジャン・ピュセル(英語版)は、フランスの優雅な人物表現とイタリアの空間表現を融合させ、パリ派写本と呼ばれる写本の新しい基準様式を確立させたことで知られる。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "イタリアではビザンティン美術の影響が根強く、ゴシック美術の浸透が遅れていたが、ヤコポ・トリーティ(英語版)やピエトロ・カヴァリーニといった大構図壁画家によってビザンティン美術からの脱却が図られるようになり、これを継承したチマブーエやジョット・ディ・ボンドーネ、シモーネ・マルティーニといった画家たちによって段階的に成し遂げられ、後世におけるルネサンスの礎が築かれた。こうした画家の登場した時代を切り出してプロト・ルネッサンス時代と呼称する場合もある。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "14世紀に入ると教会の分裂や黒死病の大流行に加えて、百年戦争の影響によって大規模な建築造営が見られなくなった。取って代わるように王侯貴族の邸宅や都市の公共施設といった世俗的な実用建築が行われるようになり、用途や地域に即した分極化が進行した。14世紀後半には骨組の構造が複雑化し、装飾的に入り組んだ肋骨構造や曲線を絡み合わせた狭間造りといった特徴が見られるようになる。ルーアンのノートルダム大聖堂はこの時代の代表的な作例と言える。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、絵画は14世紀の後半から芸術において主導的な立場へ昇華した。西欧各地の宮廷に展開された絵画芸術は国際ゴシック様式と呼ばれ、アヴィニョンで興ったシエナ派の流れを汲む、自然観察に基づく正確な細部の描写と豪奢な宮廷趣味を特徴としている。イタリアのピサネロは国際ゴシック様式の代表的な画家であり、『エステ家の姫君の肖像』など、幻想性豊かな作品を制作している。フランスではパリ、ブルージュ、アンジェ、ディジョンなどで国際ゴシック様式が開花し、1355年頃に描かれたとされる『フランス国王ジャン善良王の肖像』は俗人を描いた単身肖像画としては最古のものとして知られている。ディジョンにはフランドル出身の画家や工人が多く住み着き、メルキオール・ブルーデルラム、ジャン・マヌエル、アンリ・ベルショーズといった宮廷画家がフランコ=フラマン派の作品を数多く生み出した。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "その他、装飾写本の分野ではネーデルラント出身で写実的な自然描写と精妙な装飾性を有した写本の制作を得意とするランブール兄弟が知られており、『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』はこの時代の写本芸術の最高峰とされている。ランブール兄弟の作品は15世紀のパリ派写本工房へ大きな影響を与えた。", "title": "中世" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ルネサンスは「再生」を意味するイタリア語 rinascita から派生した呼称であり、古典古代文化の復興という思想のもと、ギリシア美術やローマ美術の復活と自然の美や現実世界の価値が再発見され、人間の尊厳が再認識された時代を指す言葉となった。イタリアの建築家で人文主義者であったレオン・バッティスタ・アルベルティは「意思さえあれば人間は何事も為し得る」という、人間の可能性に絶大な信頼をよせた言葉を残しており、ルネサンス美術の根底に流れる人間中心主義という世界観を見事に表現している。こうした思想は15世紀前半、市民階級がいち早く台頭した都市フィレンツェで芽生えた。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "建築分野ではサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋設計を手がけたフィリッポ・ブルネレスキの名が挙げられる。ブルネレスキの設計した聖堂は、ゴシック様式の建築からの明確な離脱を示し、バシリカ式聖堂のエッセンスを取り入れつつも調和と秩序を重要視した人間中心的世界観を体現しており、15世紀にフィレンツェで確立されたルネサンス建築の代表的な作例となった。こうした理念はアルベルティへ継承され、その理念を元に執筆された三大著作(『絵画論』『彫像論』『建築論』)は同時代を含む後世の芸術家たちに絶大な影響を与えることとなった。また、古代ローマ建築の実測を行うことで、科学的遠近法を発見したことでも後世に大きな影響を残している。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ブルネレスキの死後はアルベルティが台頭することとなる。フィレンツェから追放された商人の息子であったアルベルティはローマ教皇庁や諸侯の顧問として西欧各地を歴訪しており、こうしたルネサンス様式がヨーロッパ全土に伝播する間接的な貢献をしていたとも言える。15世紀半ばに入り、共和制の理想が鳴りを潜め、豪商が町の政治を取り仕切るようになると、大富豪の市内邸宅(パラッツォ)の建築が相次ぐようになった。ミケロッツォ・ミケロッツィが建設したメディチ家の市内邸宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は秩序と安定を志向するルネサンス建築の思想が表現されたパラッツォの代表的な作例である。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "彫刻分野は古代思想の復活という理念が色濃く示された分野であり、ブルネレスキの『アブラハムの犠牲』など、優雅なゴシック彫刻の伝統を打破する力強い人体の把握や細微な写実性を有した作品が数多く登場した。この分野において、国際ゴシック様式からの脱却を試みた最初の彫刻家はオルサンミケーレ聖堂(英語版)の『4人の聖者』などで知られるナンニ・ディ・バンコ(英語版)であると言われている。古代ローマ以降で初めてコントラポストを採用し、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』を発表して頭角を現したドナテッロは、『預言者ハバクク』『ダヴィデ』など古代ローマの作風の復活に心血を注ぎ、ルネサンス彫刻の方向性を決定付けた。特に『ダヴィデ』は二本足で立つ孤立像というジャンルで裸体表現を取り入れたという点において特筆すべき作品となっている。ドナテッロの確立したルネサンス彫刻の様式はその後ヴェロッキオやミケランジェロへ受け継がれていくこととなる。その他、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリア』を制作したルカ・デッラ・ロッビア、後期ゴシック様式を学びながらも『天国の扉』に見られる透視図法を確立したロレンツォ・ギベルティ、墓碑彫刻や写実的な胸像で新境地を開拓したロッセリーノ兄弟(ベルナルド・ロッセリーノ、アントーニオ・ロッセリーノ(英語版))などが代表的な彫刻家として知られている。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "建築や彫刻分野と比較して絵画分野における革新性の確立は若干遅く1420年代前半ごろであり、これは古典古代における手本とすべき遺品がこの当時ほとんど知られていなかったことが影響していると考えられている。1421年にフィレンツェへ移住してきた国際ゴシック様式の画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノが制作した『マギの礼拝』に僅かながらその片鱗を見ることができるものの、空間に対する配慮は乏しく、目新しさはあまり無い状態であった。しかし、マサッチオの登場により、情勢は一変した。ジョット・ディ・ボンドーネがかつて確立した僅かばかりの空間表現に、光の明暗によって量感を表現する手法が融合され、より奥深い空間を手に入れることに成功したのである。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "さらに、ブルネレスキやアルベルティによって合理的な透視図法の理論が構築されると、多くの画家がその刺激を受けて次々と実験的な作品が誕生した。彩色や光の扱い方が拙いながらも透視図法の研究に没頭し、『ジョン・ホークウッド騎馬像』や『サン・ロマーノの戦い』などの作品を発表した国際ゴシック様式の画家パオロ・ウッチェロはその最たる例である。その後、修道僧画家のフィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコらによってマサッチオの様式が取り入れられる。リッピは日常的室内に聖母子を配置したネーデルラント風の絵画を制作した他、人間中心主義を根底に世俗的かつ官能的な聖母や肉感的なイエスなどを描き出している。『受胎告知』などの作品で知られるフラ・アンジェリコは1430年代以降においてマサッチオの空間表現や明暗描写を積極的に取り入れた宗教画を多数制作した。正確な一点透視図法を採用し、聖会話形式(サクラ・コンヴェルティオーネ)の表題を確立したドメニコ・ヴェネツィアーノもマサッチオの影響を受けた画家の一人である。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "15世紀後半に入るとフィレンツェで熟成されたルネサンスはイタリアの各都市へ波及していくこととなった。そして、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロやイザベラ・デステといった人文主義的な君主の治世によって、各都市で豊かな文化活動が育まれた。南トスカーナのアレッツォ、およびトスカーナ公国で精力的に作品制作に没頭した数学者で画家のピエロ・デラ・フランチェスカは、15世紀中期における最大の巨匠として知られ、『聖十字架伝説』に代表されるフレスコ壁画の分野では、一切の無駄を排除し、幾何学的とも言える明晰で秩序立った画面を構築している。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "一方、絵画・彫刻双方の主題に「動勢」が取り入れられるようになり、アントニオ・デル・ポッライオーロによる力を孕んだ写実的な筋肉の描写や、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』に代表される解剖学的知識を導入した生々しい人体表現を持った作品が登場するようになったのも15世紀後半の出来事であった。また、富の蓄積とこれに伴う趣味の贅沢化によって優美で装飾的な様式を持った作品が流行を来し、サンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』に代表される恥美的世界観を表現した作品が生まれている。その他、アンドレア・マンテーニャやジョヴァンニ・ベリーニもフィレンツェ以外に活動の拠点を置いた同時代の画家として知られ、ルネサンスの波及を象徴している。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "15世紀末期には教皇分立時代以降沈滞していたローマにおいても、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノらによってシスティーナ礼拝堂の壁面装飾事業が行われるなど、ローマ法王主導の下、旺盛な芸術活動が展開された。1492年にロレンツォ・デ・メディチが没し、フィレンツェが禁欲的なジロラモ・サヴォナローラの支配下に置かれたことによってローマの芸術活動はさらに盛り上がりを見せ、16世紀にはイタリア美術の中心地へと発展していくこととなる。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ブルゴーニュ公国に属していた15世紀のネーデルラントでは、毛織物工業の発展と国際貿易の振興によって市民階級の台頭目覚しく、豊かな経済と文化が形成された。特に、フランドル地方で発祥した油彩技法は発色に優れ、精緻な質感描写や視覚的世界のリアルな再現を可能とし、西欧全土へと伝播して今日までの揺ぎ無い地位を確立した。ネーデルラントではこうした背景から初期の北方ルネサンスに該当するものは15世紀の絵画に限定され、建築分野や彫刻分野はあくまでゴシック美術の枠内に留まっていたと考えられている。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "さて、この新しい油彩技法が採用された最初の作品として挙げられるのは、兄フーベルトが着手し、弟ヤンが完成させたファン・エイク兄弟による『ヘントの祭壇画』である。ヤンはフィリップ3世の宮廷画家としてその後も精力的な活動を続け、数々の宗教画や肖像画を制作している。中でも『ニコラ・ロランの聖母』は、室内に視点を設定しつつもテラスの向こう側に透視図法に従った精微な風景を描くことによって、不自然さを感じさせること無く室内と外景の統合に成功した画期的な作品として特筆される。ヤンの空気遠近法を駆使した奥行き感の描写は以後のネーデルラント画派へ受け継がれていき、北方ルネサンスの大きな特徴として取り上げられるまでになった。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "同じ頃、トゥルネーで活躍していたロベルト・カンピンは写実的な技法で描かれた日用品の多くにキリスト教の象徴的意味を秘めさせた作品を制作し、こうしたテクニックがカンピンを師事したロヒール・ファン・デル・ウェイデンによって継承された。ウェイデンは肖像画においても卓越した手腕を見せ、1450年に訪れたイタリアでも賞賛を受けている。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "その後はヤンやロヒールの技法様式に色濃く影響を受けたディルク・ボウツ、フーゴー・ファン・デル・グース、ハンス・メムリンクらがルーヴァン、ヘント、ブルッヘなどを中心に活躍した。特にファン・デル・グースが作成した羊飼いたちの写実的表現と細微な風景の装飾的な配置が施された『ポルティナーリ祭壇画』は、後にフィレンツェに持ち込まれ、フィレンツェの画家たちに大きな影響を与えた。一方、ヒエロニムス・ボスは同時代の異色の画家として知られ、人間の悪徳とその懲罰という中世的な思想背景をもとに生み出された数多くの怪物や地獄の描写は、やがて到来するシュールレアリスムを予告しているかのように見られている。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた。そのような中、シャルル7世の宮廷画家をしていたジャン・フーケが『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している。しかし、アンゲラン・カルトン(英語版)など、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "対してドイツの美術はネーデルラント絵画の影響下にあり、シュテファン・ロッホナーやコンラート・ヴィッツなどが活躍した。特に、ヴィッツの『奇蹟の漁獲』は特定可能な現実の景観を描いた最初の作例として良く知られている。15世紀後半に入ると、ミヒャエル・パッハー(英語版)によって雄渾な絵画や細微な彫刻祭壇が制作された。また、新しい分野として版画美術が伸張し、マルティン・ションガウアーの登場で技法はさらに洗練され、後世の巨匠アルブレヒト・デューラーの芸術を育んだ土壌を形成している。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "イタリアルネサンスのうち、15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は特に盛期ルネサンスと呼称し、区別される。これは19世紀に定まった芸術観を背景として、この時代を古代ギリシア・ローマと並ぶ西洋美術の完成期と見做し、それ以前を完成に至る準備段階として軽視していた考え方が根付いたためである。しかし、今日では「初期ルネサンス」「盛期ルネサンス」を比較し、どちらが優れているかといった考え方は改められ、それぞれに特質や魅力が備わっている別個の美術として理解されてきており、その違いを区別するための名称として使用されるようになっている。主たる舞台はユリウス2世の庇護のもとで活気を取り戻したローマと、東方とヨーロッパ諸国を結ぶ貿易で巨万の富を築いたヴェネツィアである。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1470年代から活動をはじめたレオナルド・ダ・ヴィンチは、新しい芸術様式の創始者として活動当時から認識されており、巨匠と呼ぶにふさわしい功績を数多く獲得した。ヴェロッキオを師としてフィレンツェで修行を積んだ後、軍事技師、画家、彫刻家、建築家としてミラノ公の宮廷に仕えたレオナルドは、その多才ぶりを遺憾なく発揮し、多数の作品を後世に伝え、現代に至るまでの芸術家に大きなインパクトを残している。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "絵画では『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などを制作しており、特に『モナ・リザ』に使用された新しい技法であるスフマート(ぼかし)は、画面に新たな統一感をもたらし、人物に精気と神秘的雰囲気を与える技法として西洋絵画の様相を一変させるほどの影響を与えた。また、自然科学の分野では、鋭い観察力と的確な描画力で解剖学や水力学などの研究に先駆的な業績を残したことも特筆すべき事項である。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "一方、ギルランダイオに師事したミケランジェロ・ブオナローティは人体における新しい表現様式を確立させ、彫刻、絵画の分野において突出した作品を生み出した。ミケランジェロが制作した『ダヴィデ』はルネサンス全体を通して代表的な作品として知られている。ローマに赴いた後、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を手がけ、『創世記』の諸場面やキリストの祖先たちの姿を描き出している。特に『アダムの創造』では超越者と人間アダムの邂逅が印象的なタッチで描かれ、アダムの姿は盛期ルネサンスにおける理想的人間像として高い評価を獲得した。従来、ミケランジェロは色彩の乏しい画家との評価がなされてきたが、『アダムの創造』が洗浄され、その色使いが露になったことで、その評価を覆した作品としても名高い。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "また、同じシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』では、悲劇的な装いの中にもヘレニズム彫刻的な逞しさを身に纏ったキリストらの肉体を描き出している。1546年にドナト・ブラマンテの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂建築の総監督に任じられるとブラマンテの構想を継承しつつ、新たに円蓋および建物後方部の設計を行っており、古代建築の本質を体現させた。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ペルジーノに師事したラファエロ・サンティは、レオナルドやミケランジェロの業績を巧みに取り入れ、20代半ばの若さで独自の人物表現と画面構成の形式美を確立させ、『アテナイの学堂』に代表されるバチカン宮殿の壁画を制作している。ラファエロが確立した形式美は盛期ルネサンス以降の代表的規範として17世紀から19世紀にかけての多くの画家に影響を与え続けた。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "この時代、教会や公共施設による注文以外にも富裕層からの注文による美術品の制作が盛んに行われ、ジョルジョーネの『嵐』に代表されるような周知の物語主題から逸脱した、絵画の感覚的魅力を優先する作品が数多く登場したのも、盛期ルネサンスの特色のひとつと言える。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "こうした市場ニーズに呼応してヴェネツィアでは色彩と絵具の塗り方が重要な地位を占めるようになり、デッサンに彩色するフィレンツェの技法に対して色彩で造形するという新しい技法が誕生した。レオナルドのスフマートを取り入れつつ、この技法を確立させたのがジョルジョーネであり、早世したジョルジョーネの後を受け継いで油彩技法のあらゆる可能性を探究したティツィアーノ・ヴェチェッリオであった。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "宗教画家・肖像画家としても絶大な人気を誇っていたティツィアーノであるが、『芸術家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、ティツィアーノが描いた『エウロペの掠奪』について「近くから見るとわけがわからないが、離れて見ると完璧な絵が浮かび上がってくる」と評しており、近代油彩画の創始者としてしばしば名が挙げられるようになっている。同時に、静的な伝統を持つヴェネツィア絵画にダイナミズムを導入したこともティツィアーノの功績として知られている。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "マニエリスムという言葉は「様式」や「手法」を意味するイタリア語 maniera から来た言葉で、ヴァザーリはこれを「自然を凌駕する高度の芸術的手法」と定義付けた。しかし、17世紀に入った頃より、生み出される芸術は創造性を失い、盛期ルネサンス時代の巨匠たちの模倣に過ぎないと見做されるようになり、否定的呼称として用いられるようになる。その後、21世紀に入って対比評価と切り離され、盛期ルネサンスの特徴であった自然らしさと自然ばなれの調和が崩れ、自然を超えた洗練、芸術的技巧、観念性が存在する作品が登場した盛期ルネサンス後の芸術的動向を指し示す時代様式名として用いられるようになった。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "最初にマニエリスムの名が冠されたのは、ルネサンスの古典的調和への意識的反逆と解釈されたヤコポ・ダ・ポントルモやロッソ・フィオレンティーノの作品であった。しかしながら、ミケランジェロの後半期作品をマニエリスムに含める見方や、アーニョロ・ブロンズィーノ、ベンヴェヌート・チェッリーニ、ジャンボローニャのような社会に享受された奇想を指してマニエリスムと呼称する解釈もあり、その範囲や定義は今日なお流動的である。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "16世紀初頭は盛期ルネサンスの様式とマニエリスム美術が混ざり合った混沌とした時代であったが、アルプス以北の諸国では比較的早くからマニエリスム美術が受容され、フォンテーヌブロー派による作品が複数残されている。ヴェネツィアでは盛期ルネサンスが他地域よりも持続するが、16世紀後半に入るとティントレットが登場し、その画風にマニエリスムの特徴が見て取れるようになる。その後、ティントレットの影響を受けたクレタ島出身のエル・グレコが、ローマでミケランジェロの芸術に感化され、スペインのトレドでマニエリスム的特徴とヴェネツィア絵画的筆致を融合させた宗教画を作成している。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "一方、パルマではコレッジョがマンテーニャの試みを発展させた、感覚的魅力に溢れた作品を制作しており、その中で導入された明暗対比の強調や、天井画におけるダイナミックな上昇表現などは、後世のバロック美術の到来を予告しているかのような雰囲気を醸している。その他、盛期ルネサンスとバロック美術の橋渡し的な存在となった画家としてはパオロ・ヴェロネーゼがいる。ヴェロネーゼが制作した『レヴィ家の饗宴』は当初、『最後の晩餐』と題していたが、主題と無関係な人物を多数描き込んだ事で異端尋問にかけられ、「美しい絵を作る画家の自由」を主張し、タイトルの変更を余儀なくされた作品として知られている。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "建築分野では『建築四書』を著したアンドレーア・パッラーディオの名が挙げられる。パッラーディオが設計したヴィラ・アルメリコ・カプラは古典主義建築の規範を示す作品として19世紀に至るまで国際的影響力を固持した。16世紀後半にはジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ、ジャコモ・デッラ・ポルタによってイエズス会の母教会『イル・ジェズ聖堂』が建てられ、外観正面のデザインや身廊と円蓋下の明暗対比などの構成要素が、バロック美術における聖堂建築の原形となった。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ドイツのデューラーは、15世紀末から16世紀初頭にかけて行った二度のイタリア旅行を通してルネサンス美術の様式と理念を習得し、人体表現、空間表現において理想とされる技法様式をドイツ絵画へ移入しようと試みた。この成果は木版画の分野において、ドイツの伝統的な表出性とイタリアの記念碑性を融合させて制作された『黙示録連作』で体現されている。銅版画の分野ではエングレービング技法を極め、『メランコリア I』や『アダムとエヴァ』といった人文主義的内容の作品、理想的裸体像を持った作品を制作し、ルネサンスの母国イタリアへも大きな影響を与えた。また、油彩画では『4人の使徒』が代表的な作品として知られている。その他、『人体均衡論』などの著述にも注力し、後世の芸術家に大きな影響を与えた。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "線描主体であったデューラーとは対照的に、色彩表現に長けていたマティアス・グリューネヴァルトは『イーゼンハイム祭壇画』などを制作し、ゴシック末期美術の幻想性を継承した特徴を内包している。また、クラーナハ(父)はドイツの森を舞台として古代神話の主題を表現したことで知られている。『ドナウ風景』は西洋美術史上初めて具体的な実景を人間存在抜きで描いた画期的な作品として特筆される。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1517年、マルティン・ルターによって宗教改革の機運が高まると美術活動にも深刻な影響を与え、宗教美術が否定的に見られるようになる。ホルバイン(子)ら宗教画家として活動していた者は次第に肖像画家や宮廷画家へと転向していった。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "フランスでは1494年のイタリア遠征でルネサンスの美術に触れたシャルル8世によって多くの建築家が招聘され、王室主導の下建築を中心としたフランスルネサンスが開花する。フランソワ1世の時代にはロワール川流域の城館改修が実施され、ゴシック建築の伝統とイタリアルネサンスの特色が融合された建築物が多数登場した。また、1520年代末にはフォンテーヌブロー城館の改装が始められ、ロッソ・フィオレンティーノ、フランチェスコ・プリマティッチオらを招いて内部装飾を手がけさせた。ここから誕生したイタリアのマニエリスムを体現したロッソらの作品は、フォンテーヌブロー派と呼ばれる宮廷美術様式を生み出す契機になった。その他、ドイツのホルバイン(子)に共通する精緻な様式を確立させたジャン・クルーエ(英語版)、フランソワ・クルーエ父子や、チェッリーニの影響を受けつつもフランス独自のルネサンス彫刻を誕生させたジャン・グージョンなどがいる。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "他方、ネーデルラントの絵画美術は15世紀の段階で成熟し、油彩技法や写実的表現においてイタリアに影響を与える側であったが、盛期ルネサンスを迎えて以降は立場が逆転し、イタリアの美術や古典古代の美術を手本として仰ぐようになった。16世紀初頭に活動したクエンティン・マサイスの画風にはレオナルドのスフマートの影響が見て取れ、ヤン・ホッサールトは古代彫刻風裸体像を描き出している。また、ベルナールト・ファン・オルレイは数学的遠近法、短縮法、複雑な運動表現をネーデルラント美術に取り入れた画家として重要である。こうした、15世紀ネーデルラントの精緻な様式からの脱却と、ルネサンスの壮大な様式への推進を行う者を総じて「ロマニスト」と呼び、こうした傾向自体が16世紀ネーデルラント絵画の特徴のひとつとして挙げられる。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "肖像画においてはアントニス・モルが国際的な活躍を果たしたと同時に、ネーデルラント北部の美術活動の活性化に大きく貢献した。デューラーの影響を受けつつも精緻な銅版画を制作したルーカス・ファン・レイデンなどは北部で活躍した代表的な美術家の一人である。さらに、1524年にローマからユトレヒトに戻ったヤン・ファン・スコーレルの影響によってロマニストの活動は北部へも浸透していった。16世紀後半にはプロテスタントの聖像破壊運動などによる宗教的、政治的騒乱が美術活動の発展を妨げたが、16世紀末に登場したコルネリス・ファン・ハールレム、ヘンドリック・ホルツィウスらの活躍により、プラハと並んでハールレムが国際マニエリスムの中心地として栄えた。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "16世紀ネーデルラント絵画のもう一つの特徴としては風俗画、風景画、静物画の自立が挙げられる。カタリナ・ファン・ヘメッセンおよびピーテル・アールツェンを嚆矢とするこの傾向は、16世紀初頭のヨアヒム・パティニールによって大きく前進を見る。パティニールは観察と空想から合成された俯瞰図の中に宗教主題の人物を点景として描き表し、人物と背景の関係性の逆転に成功している。その後、ピーテル・ブリューゲルによってこの様式は完成され、後世に多大な影響を残した。『雪中の狩人』はその代表的な作品のひとつである。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "異論はあるものの17世紀の西洋美術時代様式を一般にバロック美術と称する。バロックという言葉の意味については諸説あるが、「規範からの逸脱」を示す形容詞として18世紀末ごろより使用されはじめ、建築を中心とした17世紀の美術に対して否定的な意味で適用された。また、狭義には17世紀美術の傾向の一つという意味で使用され、劇的で奔放な特徴を持つ17世紀の作品に対してのみ適用される場合もある。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "この時代、盛期ルネサンスの伝統を受け継ぎつつも、より現実に即した表現が強調されるようになり、時間の概念を取り入れた風俗画、風景画、静物画など、実社会により密着したテーマを選定する様式が確立する。活動の舞台はローマを中心に展開されていたが、18世紀初頭にかけてルイ14世の治世には、フランスが政治面とともに文化面でも中心的役割を果たすようになる。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "16世紀後半、イタリアの美術活動はそのほとんどをヴェネツィアに依拠していたが、この状況を打破しようとアンニーバレ・カラッチによって1580年代のボローニャにアカデミア(画塾)が設立される。古代美術と盛期ルネサンス美術の理想性とモデルの写生素描という現実性の融合を試みた追究は広く支持され、ボローニャ派と呼ばれる新しい作風の体現に成功した。また、カラッチは理想化されたローマ近郊の風景の中に聖書の人物を描き込む「古典主義的風景画」を創始したことでも知られている。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "カラッチの影響を受け、宗教画の人物を現実的な庶民の姿で描き出したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの作品は、その斬新な主題の描き方で大きな議論を巻き起こした。冒涜的とみなされ、『聖母の死』の例のように教会に引き取りを拒否される場合もあれば、カラヴァジェスキと呼ばれる狂信的な追従者を生み出す結果にも繋がっており、西欧絵画全体に大きな影響を及ぼした人物の一人であったことは疑いが無い。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "彫刻および建築の分野ではジャン・ロレンツォ・ベルニーニがこの時代の代表的な美術家として名が挙げられる。若くして名声を確立したベリニーニは『聖テレジアの法悦』で現実の光を巧みに取り入れた彫刻と建築を組み合わせた作品を制作している。その他、多くの噴水彫刻の設計にも携わり、ローマの景観を作り変えたと言われるほどの影響を残した。ベルニーニに師事し、終生のライバルでもあったフランチェスコ・ボッロミーニも、独創的な建築表現で名を残した一人である。代表的な建築物としてはサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂があり、絵画や浮彫による装飾を必要最低限に抑え、波打つようなカーブや圧力で歪んでいる様な緊張を感じさせる、特異な壁面構成の効果を引き出すことに成功している。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "フランドルではリュベンスの登場により新しい絵画の様式が確立される。10年近くの間イタリアに滞在し、盛期ルネサンスの美術を習得したリュベンスは、ネーデルラントに帰国した後に制作した『キリスト昇架』によって、ヘレニズム彫刻やミケランジェロを想起させる人体表現とカラヴァッジオに見られる明暗法を見事に融合させ、壮麗で活力漲る独自の方式を完成させた。リュベンスはカトリック復興の気運高まる当時の社会背景から多数の祭壇画を制作する一方で各国宮廷に向けた大規模な建築装飾画を創出し、国際的な評価を獲得した。また、晩年にはブリューゲルの伝統を発展させたフランドルの自然を描き出し、風景画の新たな局面を生み出した。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "その他、フランドルを代表する画家としてはアンソニー・ヴァン・ダイク、ヤーコブ・ヨルダーンスなどがいる。リュベンスの助手として出発し、チャールズ1世の宮廷画家として半生をイングランドで全うしたヴァン・ダイクは、優雅で細線な自身の特徴を活かして肖像画の分野において独自性を発揮し、貴族的肖像画の規範を築き上げた。ヨルダーンスは宗教画や神話画を風俗画的観点で描き出すことを得意とし、庶民的な活力溢れる作品を残している。また、17世紀の美術愛好家の蒐集を描き出した「画廊画」という画種も、フランドルの特徴のひとつとして取り上げられる。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "16世紀末にオランダ共和国として独立したネーデルラント北部では、国際貿易による経済発展を背景として市民層に向けた作品が大いに発達した。市場競争での勝ち残りをかけた熾烈な技巧発達が見られ、卓越した技術を持った画家を数多く輩出した点は特筆に価する。アムステルダムを活動の拠点においたレンブラント・ファン・レインはその最たる例である。その他集団肖像画や半身像の風俗画を得意としたフランス・ハルス、寓意や諺、民間行事を主題とした作品を描き続けたヤン・ステーン、日常行為に携わる人物を静物画のタッチで捉えて風俗画の新たな境地を開拓したヨハネス・フェルメールなどが代表的な画家として挙げられる。とりわけ、フェルメールは19世紀に入ってその近代性が大いに注目を集め、17世紀最大の画家として評価されるに至った。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "他方、写実的傾向が強まった17世紀のスペインでは黄金時代と呼ばれるほどの美術繁栄がもたらされ、ディエゴ・ベラスケスやフランシスコ・デ・スルバラン、バルトロメ・エステバン・ムリーリョといった巨匠が登場した。ベラスケスはカラヴァッジオの影響著しい活動初期を経てヴェネツィア絵画やリュベンスとの接触によって自身の技法と様式を洗練させ、視覚的印象を的確に捉える新しい描法を編み出し、『ラス・メニーナス』を始めとする多くの作品を誕生させた。スルバランも同じくカラヴァッジオに強く影響を受けたセビーリャの画家であるが、素朴で神秘主義的な様式を確立させ、静物画や宗教画を厳格な筆致で描き上げた。ムリーリョはフランドル絵画に影響を受けた画家で、華麗な色彩で甘美な宗教画を制作するとともに、風俗画においても人気を博した。写実的傾向の推進は下地となったイスラム美術の影響と相俟ってバロック美術が内包する装飾性の強化に繋がり、この時代のスペイン美術の特徴として表されるようになった。スペイン黄金時代美術", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "フランス絵画では終生をローマで活動したニコラ・プッサン、クロード・ロランが代表的な画家として取り上げられる。ラファエロとカラッチの影響を強く受け、厳格な古典主義様式を確立させたプッサンは『アルカディアの牧人』を筆頭に、古典や神話、聖書の主題を考古学的時代考証を交えて描き出すという理知的な作品の創出に注力した。また、ロランは古典主義的風景画の展開に大きな足跡を残した人物として知られ、ローマ郊外の田園やナポリ湾の風景を理想化して古代の情景として登場させ、過去への郷愁を想起させる詩的風景画を誕生させた。両名の芸術はイタリア、フランスの上流階級層に広く受け入れられ、ルイ14世が設立した王立アカデミーにおいてはラファエロやカラッチとともに規範として仰がれるまでの影響を与えた。一方で建築分野においてはイタリア起源のバロック建築に対して古典主義建築がフランスの様式であるとする考えが広まり、クロード・ペローのルーヴル宮殿を筆頭に古代風様式に基づく建設が各地で行われた。また、ジュール・アルドゥアン=マンサール、ルイ・ル・ヴォー、アンドレ・ル・ノートルらによって造営されたヴェルサイユ宮殿は宮殿建築の範例として大きな影響を与えた。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "1710年代から60年頃までのフランスの美術様式を中心とした時代様式を一般にロココ美術と呼称する。ロココという言葉は、後世の新古典主義時代にルイ15世時代の美術を軽視して呼び始めた事を嚆矢とし、バロック建築における庭園装飾で使用されたロカイユと呼ばれるデザインに端を発する。現代においては該当する時代の美術を判然とロココ美術と呼ぶようになったため、性質や指向の相反する文化現象が同様の名の下に冠されることが美術史的観点から問題となっている。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "この時代の美術史を概観すると、建築、絵画において特徴的な発展が見られる。ガブリエル=ジェルマン・ボフラン(英語版)らによって建造されたオテル・ド・スービーズ(英語版)は、白地に金の装飾が施された壮麗な室内はロココ建築の特徴を現す代表的な作例である。17世紀後半にはギリシア美術、ローマ美術への関心が高まり、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって古代風の柱を採用した小トリアノン宮殿が建設された。その他、イタリアの建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージはローマ古代遺跡の壮大さを現し、後世新古典主義やロマン主義に大きな影響を与えたことで知られている。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "工芸分野が黄金時代に達したのはロココ美術の大きな特徴で、家具、金工、服飾、陶器などの各分野で質の高い作品が生み出された。ドイツのマイセンが飛躍的進歩を遂げたのもこの時代である。彫刻分野ではジャン=バティスト・ピガール(英語版)、エティエンヌ=モーリス・ファルコネ(英語版)、ジャン=アントワーヌ・ウードンらが活躍したが、主要な領域たりえるには至らなかった。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "絵画におけるロココ美術の始祖はアントワーヌ・ヴァトーであると言われている。フランドル地方出身のヴァトーは、パリでの修行過程において様々なテーマ、様式の美術と接触することで才能が開花した。中期の代表作『キュテラ島の巡礼』に示された戸外での男女の戯れを表現する画題は「雅な宴(フェート・ギャラント)」と呼ばれ、ロココ美術を語る際に不可欠な要素へと昇華し、ニコラ・ランクレやジャン=バティスト・パテルなどによって追随する形で同様の画題作品が発表されるなど、同年代を含む後世の画家に多大な影響を与えた。フェート・ギャラントはポンパドゥール夫人の庇護を受けたフランソワ・ブーシェによって官能性を帯びた雰囲気を醸し出すようになり、ヨーロッパ中へ広まった。こうした画風はロココ美術最期の画家とされたジャン・オノレ・フラゴナールへと受け継がれていくこととなる。一方で市民的な感性では家族的テーマが好まれる時代となり、ジャン・シメオン・シャルダンやジャン=バティスト・グルーズに代表されるような市井の人々の様子を描いた人物画や、中産階級の家庭の一端を描いた静物画などが数多く生み出された。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "また、18世紀中ごろより定期的にサロンが開かれるようになり、芸術品が不特定多数の目に触れる機会を持つようになった。これによってドゥニ・ディドロに代表される美術批評の誕生、画商の増加といった社会的傾向が発生し、芸術家とパトロンの関係性に変化が見られるようになったのも時代の特徴を示す出来事として挙げられる。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "一方、イタリアではアレッサンドロ・マニャスコ、ジュゼッペ・マリア・クレスピらによって新しい方向性を持った絵画が生み出された。18世紀に入るとジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロが登場し、白を基調とした明るい天井画や壁画を制作し、重量感を取り去った自由な装飾作品が生まれている。また、イギリスでは大陸美術の輸入により絵画技法が飛躍的に向上したのが18世紀で、19世紀に到来する黄金期の準備段階のような時代となった。代表的な画家としてはトマス・ゲインズバラ、ジョシュア・レノルズなどがいる。", "title": "近世" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "フランス革命から第二帝政期に至る18世紀から19世紀にかけてのフランスを中心とした美術様式は、一般に新古典主義、ロマン主義、写実主義の3期に分けて考えられている。18世紀前半に火山噴火によって埋没したローマの古代都市ヘルクラネウム、ポンペイが発見されたことにより、古典・古代の美術を自身の規範としようという機運が高まり、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの思想的支柱を得たことでギリシア美術の模倣を尊ぶ志向がヨーロッパ中を席巻する。これは、享楽主義的なロココ美術に反感思想を持つ人々の運動であったとも言われている。その後、ナポレオンの帝政期を経ることでフランスでは帝国の栄光を誇示する美術様式へと変容していき、各国に対する影響力を衰退させる事となった。ナポレオンは絵画を重要なプロパガンダ手段として捉えていたこともあり、皇族の儀式を描いた作品や家族や側近の肖像がなどが大量に制作された。しかし、こうした動きは若い芸術家を中心に焦燥感をもたらす結果となり、主観的な激情に溢れ、社会的矛盾を糾弾するリアリスティックな作品が登場する素地を形成した。同時に、フランス美術の影響力から脱却した周辺各国は国々の歴史や風土に根ざした美術の開花を促進させ、普遍的な古典・古代美術の模倣から国々の特殊性へと関心が移行することとなった。これにより、古典的様式が最良とする考え方は捨て去られ、時と場合に応じた適切な美術様式が選択される折衷主義とも呼べる様式が到来することになった。19世紀中ごろには支配層への不満を募らせた市民社会に対応するかのごとく、社会の現実に目を向け、身の回りの自然を描いた風景画が制作されるようになり、フランス文学とも連動して近代芸術の基調を形成する一大潮流が形作られた。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "建築分野では古代建築遺構の本格的な調査によって建築部位の比例や柱式の決定が討議され、18世紀後半に入ると古代建築を規範とした建物の造営が本格化した。パリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院を建設したジャック=ジェルマン・スフロ(英語版)は、コリント式の列柱廊を採用し、古代美術の端正で素朴な様式を取り込むことに成功している。また、古典古代建築への関心から幾何学的比例を重視し、ラ・ヴィレットの関門(フランス語版)やアル=ケ=スナンの王立製塩所を創出したクロード・ニコラ・ルドゥーやアイザック・ニュートン記念碑を設計したエティエンヌ・ルイ・ブーレーは、空想的建築という新境地を開拓した。考古学的関心が薄れ、帝国の威信表現が横行するようになると特定の建築様式が重視されることが無くなり、過去の様々な様式の応用によって建築がなされた。マドレーヌ聖堂 、カルーゼル凱旋門、マルメゾン城、ウェストミンスター宮殿などが代表的な建築物として知られている。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "新古典主義時代の彫刻分野は規範とする古典古代の作例が充実していたこともあり、重要な美術分野として位置付けられた。イタリアのアントニオ・カノーヴァは代表的な彫刻家のひとりで、古代志向の特徴を忠実に再現した上で近代彫刻の複雑な構成を融合させることに成功し、『アモールとプシケー』などを制作した。カノーヴァと双璧をなしたデンマークのベルテル・トルバルセンはヘレニズム時代の彫刻に強い影響を受け、端正で典雅な作品を発表した。その他、イギリスのジョン・フラックスマンは形態把握と構成を古代彫刻に倣いつつもゴシック美術を彷彿とさせる流麗な作品を発表している。新古典主義以降は材質の変化があらわれ、大理石以外の石材や青銅が好んで用いられるようになった。また、表題も裸体に代わって時代考証を経た服装を纏うようになった。しかし、美術全体で見ると新古典主義以降は絵画の影響強く低調に推移し、エトワール凱旋門の浮彫装飾を制作したフランソワ・リュード、肖像彫刻を数多く制作したダヴィッド・ダンジェ、動物彫刻という異質性が話題となったアントワール・ルイ・バリーら若干名の活躍に留まった。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "絵画分野において、フランスでは1760年代に登場したジョゼフ=マリー・ヴィアンがロココ風のテーマの絵に古代の構図やポーズを借用した作品を発表して人気を博し、新古典主義時代の口火を切った。その後、ドゥニ・ディドロの影響を受けたジャン=バティスト・グルーズによってローマ史を主題とした作品が制作され、1780年代に入るとヴィアンに師事したジャック=ルイ・ダヴィッドが登場して、新古典主義の栄華は頂点に達する。ナポレオン革命期において、「皇帝の主席画家」の称号を得たダヴィッドが残した数多くの作品は後世の多方面に大きな影響を与えた。『ホラティウス兄弟の誓い』『ソクラテスの死』といった物語画はプッサンの影響が強く表われた作品に仕上がっており、『テニスコートの誓い』『マラーの死』などは革命期の視覚的記録として重要な意味を持つ作品として位置付けられている。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "次代には優美なタッチで古代の叙情を再現したピエール=ポール・プリュードン、劇的な表現描法を特徴としたピエール=ナルシス・ゲランらが登場し、新古典主義の作風に影響を受けつつもその変容を見ることが出来る。また、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの小説挿絵を担当したアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンは、古典的な形態に強い明暗を加えたことでロマン主義的な要素の萌芽を示した。一方、同時代のナポレオンの肖像画や遠征絵画を制作していたアントワーヌ=ジャン・グロ、ドミニク・アングルらは新古典主義の正当後継者として、色彩に対する線の優位性、静的な構図といった新古典主義の綱領を最後まで保持した画家として知られている。その他、アングルの弟子からはテオドール・シャセリオーが頭角を現し、東洋的主題の作品を制作してロマン主義的資質を示した。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "1819年にはテオドール・ジェリコーが1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の難破事件という時事的テーマを取り上げて『メデューズ号の筏』を発表したことで大きな議論が巻き起こる。ジェリコーの作品は激しいタッチと運動感の描写によって表現され、その非古典主義的なテーマの開拓はロマン主義絵画の先駆者として名が上げられる一因となった。その後、『ダンテの小舟』を描いたウジェーヌ・ドラクロワによって粗いタッチによる動的表現、東洋的主題の採用、色彩の乱舞といったロマン主義絵画の作風が示され、近代絵画の成立に多大なる影響を残した。一方、同世代のポール・ドラローシュはロマン主義的主題を完璧な新古典主義様式で描き出すという移行期ならではの作風で一世を風靡した。エコール・デ・ボザールの講堂壁画はその代表的な作品のひとつである。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "以上に挙げたように、19世紀前半のフランスでは文学的、歴史的テーマを描き出した作品が主流となっていたが、バルビゾン派の画家によって自然を的確に捉えた風景画作品が登場したのもこの時代であった。古典主義的端正さを保ちつつ、ロマン主義的な自然愛好的な心情に溢れたテオドール・ルソー、ジャン=バティスト・カミーユ・コローらの風景画は1830年代ごろより写実主義絵画として新たな局面を開くこととなった。1850年前後に入るとオノレ・ドーミエ、ジャン=フランソワ・ミレー、ギュスターヴ・クールベが登場し、写実主義絵画を代表する画家として知られるようになった。1855年、パリの万国博覧会において、私費で個展を開いたクールベは世間に対して攻撃的に写実主義絵画の存在を知らしめ、19世紀後半に誕生する印象主義への潮流を築いた。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "他方、イギリスのロンドンでは、1760年代にベンジャミン・ウエストによって新古典主義的絵画が持ち込まれると、ロイヤル・アカデミーの設立やフラックスマンの活躍などもあり、ローマやパリと並ぶ新古典主義絵画の中心地として栄えた。しかし、古典絵画を規範としつつも伝統に縛られない表現は比較的早くから実践され、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ウィリアム・ブレイクといった、個性豊かな画家の輩出に成功している。そういった意味では、主題面における絵画の近代化はフランスに先駆けてイギリスで起こったと言って良い。19世紀前半に入るとジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの登場によってイギリス絵画は風景画黄金時代を迎えることとなった。18世紀に流行した地誌的水彩画から出発したターナーは光の表現を追究して油彩、水彩、素描を問わず多数の幻想的な風景画を世に送り出した。ターナーとは対照的に、空と雲の移り変わりを気象学に基づいた知識で精緻に描き出したジョン・コンスタブルの作品は風景画の進むべき方向性を決定的なものとし、19世紀後半の印象主義絵画に大きな影響を与えた。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "ドイツにおける新古典主義は1761年、アントン・ラファエル・メングスによって制作された『パルナッソス』にその影響を見ることができるものの、その後は代表的といえる程の画家は輩出されなかった。19世紀初頭に入るとラテン的な形態把握とゲルマン的な内省性を融合させた作品が登場し、他国に無い特異な美術運動が展開された。この運動はカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲらによる風景画の発展とフランツ・プフォル、ヨハン・フリードリヒ・オーファーベックらによる人間表現の深化に大別することができる。特にローマに移住した後、ラファエロやデューラーを規範としてキリスト教的作品の創出に注力したオーファーベックらの活動はナザレ派と呼ばれ、後のラファエロ前派に大きな影響を与えた。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "その他、スペインに登場したフランシスコ・デ・ゴヤもこの時代を代表する画家の一人である。1799年に主席宮廷画家の地位に着いたゴヤは、その卓越した画力で戦争や侵略への憎悪を訴えた作品を多数発表した。主観的な情熱を画題とし、作品に託したという点ではロマン主義美術の先駆者であると言える一方、人生の課題を作品に反映させたという点では近代芸術のあり方を示した最初の一人であると言える。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した時代でもあった。このため、美術活動も大きな変革を伴ったのは必然といえる。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "建築分野では、シャルル・ガルニエによるパリのオペラ座に見られるような、古典主義を軸としながらも各種建築様式を折衷した建物の造営が主流となり、フランスを中心として高い芸術性を持った建物が各地に作られた。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクはこの奔流に抗い、機能主義理論を唱えたが、19世紀中には受け入れられず、アール・ヌーヴォーの建築分野において部分的に取り入れられたにすぎなかった。19世紀後半に入ると鉄、ガラス、コンクリート、鉄筋コンクリートといった新しい建材が柱や壁などに大掛かりに用いられるようになった。ジョセフ・パクストンの水晶宮は、初めて大量にガラスを用いた建造物として知られている。また、シカゴ派と呼ばれるアメリカ高層建築の流入も、西洋の建築に大きな影響を与えた。シカゴ派を代表する建築家としてはシュレジンガー・マイヤー百貨店などを設計したルイス・サリヴァンが挙げられる。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "彫刻分野では19世紀後半に入り、民族統一や自由を称える記念碑が公共記念物という形で数多く制作された。特に有名なものとしてはフレデリク・バルトルディの『自由の女神像』、ジュール・ダルーの『共和国の勝利』、ポール・アルベール・バルトロメ(英語版)の『死者の記念碑』などが挙げられる。第二帝政期に入るとジャン=バティスト・カルポーが登場し、『ウゴリーノと息子』『ダンス』『フローラの勝利』など、ロココ美術から受け継いだ優雅な形態とカルポー独自の動態表現を見事に融合させた作品を多数制作し、近代彫刻の父と言われるオーギュスト・ロダンに大きな影響を与えた。アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズに師事したロダンは、イタリアでドナテッロやミケランジェロの作品に触れた後、1877年に『青銅時代』を発表した。『青銅時代』は発表当時、あまりの自然的形態から、モデルから直接型取りしたのではないかと批判を浴びるほどであった。注文彫刻として制作した『カレーの市民たち』では、注文という型にはめられた表現からの脱却を試みている。ロダンは写実表現と劇的な内面表現を融合させることを追究し、終生の大作として『地獄の門』を制作した。その他、19世紀末に活動したドイツのマックス・クリンガーは、1902年のウィーン分離派展で素材の多様性を追求した作品『ベートーヴェン』を発表して大きな成功を収めている。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "19世紀に入ると絵画分野では、新古典主義の美学を維持しつつも社会情勢にあわせるかのように、新しい市民社会に適応する様々な表現の獲得をはじめた。ブルジョワジーの趣味を作品に反映させたアレクサンドル・カバネルは、1863年にサロンに出品した『ヴィーナスの誕生』によって絶大な人気を博し、ジャン=レオン・ジェロームは『カエサルの死』に代表されるような、迫真の細部描写と瞬間映像的な場面設定で古代の主題を描きあげた。また、ジュール・バスティアン=ルパージュは印象派の色彩や筆致を取り込んだ自然主義的傾向の作品『干し草』を創出し、第三共和国政府の支持を獲得している。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "ドイツのアドルフ・フォン・メンツェルによって写実的に描かれた『圧延工場』はきわめて珍しい工場労働者を主題とした作品として知られている。メンツェルの例にあるように、農民や労働者といった現実的主題を優れた絵画才能によって描き出す画家が登場し始める。『草上の昼食』で一大騒動を巻き起こした後も、明るい色調と軽快なタッチで現代生活を主題にした数々の名作を生み出したエドゥアール・マネはそうした若い画家たちの中心的存在として躍動し、1865年にサロンへ出品した『オランピア』で、古典的伝統を近代絵画へリンクさせる役割を担った。こうしたマネの姿勢や表現方法は印象派の画家に重要な指針を与えることとなった。また、エドガー・ドガは、オペラ座に集う貴族から底辺社会で生活を営む洗濯女まであらゆる階層の人々の現代生活を深く広く探求して得た主題を、知的な構図と優れたデッサン力で描き出した。特に、引き締まった肉体を持つ女性たちが様々な姿態を提供してくれるバレエの世界に共感を覚え、バレエを主題とした多くの作品を残している。その他、日本の芸術がジャポニスムと呼ばれ、西洋絵画に影響を与えたのも19世紀の出来事のひとつであった。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "19世紀後半に入ると、印象派と呼ばれる人々の描いた印象主義絵画が世を賑わすようになった。「印象派」という呼称が誕生したのは1874年のことで、展覧会に出品していたクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌ、ドガ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらのスケッチ的な作品の性格をジャーナリストらが揶揄してつけたものに端を発する。中でもモネは印象派グループを作り上げた最も偉大な画家として知られている。印象派の「印象」はモネの作品「印象・日の出」から批評家が揶揄したことから定着した。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "印象派画家は、絵具を用いて光を表現することを追究し、筆触分割や視覚混合といった科学的技法を作品に導入し、日本の浮世絵や写真などからヒントを得た構図の切り取りや大胆な俯瞰といった斬新な発想を取り入れた。こうして制作された多くの作品は西洋絵画を新たな局面へ誘う重要な革新として後年高く評価される一因となった。また、印象派の活動を受けて、その理論をさらに発展させようと1880年代から1890年代にかけて活躍したポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホらは後期印象派と呼ばれ、こちらも美術史における重要な働きを残した。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "他方、芸術の卑俗化を嫌悪した芸術家たちによって内的な思考や精神世界、夢の世界を表現することが追究されるようになり、印象主義と並んで19世紀後半における芸術の重要な流れを形作ったのが象徴主義であった。その嚆矢とも言えるのがイギリスで起こったラファエル前派の運動である。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハントらによって結成された「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以後の絵画を退廃芸術とみなし、それ以前の誠実で理想的な芸術への回帰を主張し、初期ルネサンス時代の絵画に倣った画風で神秘と象徴の世界を描き上げた。その他、象徴主義を代表する画家としてはアルノルト・ベックリン、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンなどが挙げられる。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、ユーゲント・シュティール、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった。", "title": "近代" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "ベル・エポック(良き時代)とは、1900年から第一次世界大戦までの華やかで享楽的な時代を指すフランス語で、静かに忍び寄る戦乱の気配に耳を塞ぎ、束の間の繁栄と平和を享受した時代であった。芸術分野においてはアール・ヌーヴォー(新しい時代)、ユーゲント・シュティール(青春様式)、モダニズム・スタイル(近代様式)といった多彩な芸術運動がヨーロッパ中を席巻し、広い分野で相互交流による美術の追究が行われた。世紀末芸術運動とも称されるこの運動は広範囲に及び、それぞれが独自色を保ちつつも新しさを求めようという共通認識の下に活動を展開していた。代表的な活動グループとしてはウィリアム・モリスを中心としたアーツ・アンド・クラフツ運動、『ルヴュ・ブランシュ』を中心としたフランス芸術家たち、ベルギーの前衛芸術グループ自由美学、『ユーゲント』『パン』を舞台としたドイツ画家グループ、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンで相次いで結成された分離派グループなどが挙げられる。中でもグスタフ・クリムトを中心としたウィーン分離派の影響力は強く、オスカー・ココシュカ、エゴン・シーレといった表現主義的傾向を強烈に表した尖鋭画家や、アドルフ・ロースのような「装飾は犯罪である」といった思想を持った芸術家の誕生を促す結果となった。また、表現主義の原点とも言えるエドヴァルド・ムンクやジェームズ・アンソール、フェルディナント・ホドラーといった画家が躍動したのもこの時代である。現代美術のはじまりは、こうした豊かで多様な世紀末芸術の成果を受け継ぎ、乗り越えることによって展開されていった。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "オーギュスト・ペレによる鉄筋コンクリートを用いた建築技法の導入は、構造体としての抵抗力の強さを獲得するとともに自由な造形性を得ることに成功し、20世紀の建築美術は新たな局面を迎えることとなった。新しい建材の特性理解が浸透していくとともに、コンクリートの持つ可能性を引き出した自由な造形性を持った建築物が誕生した。ゆるやかな局面と巨大な屋根を持ったル・コルビュジエのロンシャンの礼拝堂、何の支えも無い部屋が空中に突出しているかのようなフランク・ロイド・ライトの落水荘などは、その代表的な作例として取り上げられる。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "建築家の社会的役割が変化したのも20世紀の特色のひとつで、建物の完成のみならず、都市社会における機能性や存在意義についてこれまで以上に配慮が必要となった。ヴァルター・グロピウスが幅広いデザイン教育の機関としてバウハウスを設立したのも、こうした社会的要請を背景にしたものであった。ル・コルビュジエはそうした機能主義を追究した建築家の一人でもあり、こうした流れがミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスといった機能主義を標榜する建築家の誕生を促した。機能主義建築は合理的形態、規格化、プレファブリケーションを推進し、大量生産と結びつくことで現代的な性格を持つに至った。一方でこうした機能主義建築に機械的な冷徹さを感じ取った建築家は有機的建築を推進した。先に挙げたサリヴァンやライトの他、世紀末建築の巨匠アントニ・ガウディなどもこの流れに含むことができる。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦によって芸術活動は空白の時間を迎えるが、多くの芸術家がアメリカに亡命したこともあり、戦後はアメリカを中心とした建築活動が展開された。グロピウスやローエをはじめとするバウハウス系の建築家がアメリカで建築教育や設計活動に従事し、現代建築の実験場と揶揄されるほど様々な建築物がアメリカに誕生した。1950年代までは、画一的な建築の普及を目指すバウハウス系建築家がアメリカで大きく活動することによって、彼らの国際様式(モダニズム建築)が世界的なスタンダードとされていたが、次第にこれに反発する動向が見られるようになり、CIAM(近代建築国際会議)の解散も相俟って地域や用途、建築家の感性によってふさわしい造形を決定する個性化の流れが生まれ、大胆な形態の組み合わせを見せるポストモダン建築が登場した。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "20世紀の彫刻は、ロダンの影響を甘受し、脱却するところから始めねばならなかった。画家から彫刻家へ転身し、ダルーのアトリエを通じてロダンと出会ったことでロダンに大きく影響を受けたメダルド・ロッソ(英語版)は、石材からの解放を目論み、素材に蝋や石膏といった伸びのあるものを採用した。蝋を素材とした『この子を見よ』では素材の流動性を生かした表現が見られ、その表面には印象派絵画にも似た光と影の絶妙なコントラストを生み出すことに成功している。ロダンの助手でもあったアントワーヌ・ブールデルは、ロダンの表現力と構想力を受け継ぎつつ、自己の様式確立を追及し、『弓を引くヘラクレス』によって男性的力強さを表現することに成功している。女性像をモチーフとし、健康的で調和の取れた作品を創出したアリスティド・マイヨールは、ブールデルを通じてロダンに高く評価された彫刻家のひとりであるが、その作風はロダンのそれとは明らかに異なった性格を持ち、地中海的伝統を作品に刻みつける事で自己の確立を試みている。初期の作品『地中海』は、古典主義的な落ち着きと調和が見られるマイヨールの代表作のひとつである。マイヨールの作品は後世の彫刻家にも影響を与え、マリノ・マリーニ、アメデオ・モディリアーニといった芸術家の登場を促した。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "一方でキュビスムの彫刻は人体の統一性からの脱却を図り、自由奔放な新しい造形表現の獲得に成功している。代表的な彫刻家としてはパブロ・ピカソ、アンリ・ローランス(英語版)、ジャック・リプシッツ(英語版)、オシップ・ザッキンなどが挙げられる。こうした流れを受けてさらにダイナミックな形態のリズムを追究したレイモン・デュシャン=ヴィヨン、ウンベルト・ボッチョーニらが登場し、根源的な形態を追い求めたコンスタンティン・ブランクーシがその後に続いた。ブランクーシはロダンからその才能を見初められ、助手へと誘われた彫刻家のひとりであったが、自身の追い求める表現を実現させるため、あえてその誘いを断っている。 他方で、マックス・エルンスト、ジャン・アルプ、アルベルト・ジャコメッティらによって生み出された作品は、後のダダイスムやシュルレアリスムや幻想絵画(幻想的表現主義)へとつながっていくこととなった。ブールデルから彫刻を学んだジャコメッティはその後、自身もシュルレアリストのグループに参加し、『シュルレアリスム的なテーブル』などの作品を発表した。第二次大戦後、現実との乖離に挫折を覚えたジャコメッティはその作風を大きく変え、戦後のフランス彫刻界において、もっとも高い評価を受けた彫刻家のひとりとなった。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "1905年、当時の批評家からフォーヴ(野獣)と呼称された、サロン・ドートンヌに出品された鮮烈な色彩表現を持った一連の作品を創出した画家たちが興した運動であるフォーヴィスムは、20世紀最初の絵画革命と言われている。『ジル・ブラス』紙でルイ・ヴォークセル(英語版)に「原色の狂宴の中にいる野獣たちの集まり」と批判されたように、フォービスムは酷評でもって迎えられたが、多くの画家が伝統に縛られない色彩の自立と感情の解放を求める態度に共感を覚え、この新しい様式に共鳴した。主要なメンバーとしてはアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アルベール・マルケ、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドラン、キース・ヴァン・ドンゲン、ラウル・デュフィ、ジョルジュ・ブラックらが挙げられる。スーラら後期印象主義絵画が持つ色彩理論や、ゴッホの原色表現の影響を受けた彼らの共通点は、独自の色彩表現を探究し、色彩の写実的役割からの解放を目指したことにある。しかしながらこの傾向は明確な声明に支えられていなかったこともあり大きな流行には至らず、1905年をピークとして減衰していくこととなった。フォーヴィスムを体現し、体験した画家たちはその後色調や技法を変えつつ、独自の美学を追究しそれぞれの方向性を見出していくこととなった。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "フォーヴィスムが誕生した同じ年にエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、エーリッヒ・ヘッケル(英語版)、マックス・ペヒシュタイン、エミール・ノルデらを中心として前衛絵画グループブリュッケがドレスデンで結成された。ドイツ表現主義の第一波とされるこのグループは、強烈な色彩表現を特徴とする点においてはフォーヴィスムと共通していたが、より濃密な絵画を発表している。その他、1909年にミュンヘンで結成された新芸術家同盟は、初期メンバーのフランツ・マルク、アウグスト・マッケ、ワシリー・カンディンスキーらにパウル・クレーが加わることで青騎士へと発展を遂げ、戦後の抽象表現主義につながる大胆な絵画表現を試みる活動を実施している。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "その後、ピカソやブラックによって形態と構成における絵画革命キュビスムが推進され、フアン・グリスを加えてモンマルトルを中心に活動を展開した。特にピカソは、90年に渡る長い生涯のなかで絶え間なく絵画の革新と実験を試み、20世紀芸術の方向性に大きな影響を与え続けた。1907年に発表したキュビスムの出発点とも言うべき『アビニヨンの娘たち』では、アフリカの仮面彫刻のようなプリミティブ芸術に影響を受けた大胆なデフォルメと、セザンヌに学んだ知的構成が融合し、それまでになかった新しい絵画世界の実現に成功している。キュビスムは対象を解体して、画面上で再構成するというピカソやブラックが推進した手法もさることながら、同時に創出された新聞などの実物を直接画面に貼付するコラージュという技法が生み出された点も、絵画のあり方を一変させたという点において、後世の芸術家に多大な影響を与えている。ピカソ、ブラック、グリスの他、キュビスムの代表的な画家としてはフェルナン・レジェ、ロベール・ドローネーらがいる。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "キュビスムよりやや遅れて結成された未来派は、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティを中心に活動を展開し、機械文明におけるダイナミズムとスピード感を賛美し、積極的な運動表現を作品に取り入れることを探究した。主なメンバーとしてはジャコモ・バッラ、ジーノ・セヴェリーニ、カルロ・カッラなどがいる。未来派の活動は絵画のみならず、音楽、建築、彫刻など多方面に及び、先に紹介したボッチョーニもその影響を受けた彫刻家として知られている。また、マリネッティがロシアを訪れたことでロシアの前衛芸術の形成にも大きな影響を与えた。ミハイル・ラリオーノフ、ナタリア・ゴンチャロワらによるレイヨニスム、カジミール・マレーヴィチらによるシュプレマティスムといった抽象主義的絵画は、こうした影響の中で誕生していった。シュプレマティスムを推進していたウラディミール・タトリン、アントワーヌ・ペヴスネル、ナウム・ガボらはその後、シュプレマティスムが見出した幾何学的形態の極地から、さらに推し進めた構成主義を推進している。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "オランダのピエト・モンドリアンが創始した新造形主義も幾何学的な抽象表現を極めた様式のひとつで、モンドリアンはキュビスムの影響を受け、自然風景を垂直と水平の要素にまで還元し、この単純な構図に色の三原色を組み合わせるという美学に到達せしめた。またモンドリアンは、テオ・ファン・ドースブルフとともにデ・ステイル運動を推進し、絵画にとどまらない幅広い芸術分野に新造形主義の様式を拡大していった。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "他方、現代絵画のもうひとつの大きな流れとして、人間の心、未知の世界を探究し表現する幻想絵画がある。形而上絵画はその代表的様式で、中心的人物のジョルジョ・デ・キリコは、長く伸びた影や人気の無い町並みを主題として白昼夢のような郷愁を誘う神秘的かつ不気味な不安を感じさせる作品を生み出している。その不安が現実となるかのように第一次世界大戦が勃発すると、厄災を生み出す社会や文化に対して強い批判を表明する芸術運動が同時多発的に持ち上がった。こうした動きはやがてひとつの大きなうねりとなり、あらゆる既成価値を否定するダダイスムが誕生した。マルセル・デュシャンが展覧会に出品した『泉』と称する便器やひげのあるモナ・リザを描いた『L.H.O.O.Q.』はその最たる例である。彼らはあらゆる方法で価値の転換を試み、過去の芸術や文化の徹底的な破壊と否定を推し進めた。代表的なメンバーとしてはハンス・アルプ、フランシス・ピカビア、マン・レイなどがいる。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後にはシュルレアリスムが登場し、ダダイスムによる否定を受けて、非合理の世界を解放することによって新しい価値の創造を目論む動きが始まった。シュルレアリスム運動は詩人アンドレア・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表したことによって定義の明確化が図られた。芸術分野においてマックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギーらを中心として展開されたシュルレアリスム運動は、各々の想像力を糧に、夢と現実が矛盾無く世界を構築するような世界(超現実)の実現を目指した。作品制作にあたり、彼らはデペイズマン、オートマティスム、フロッタージュ、デカルコマニーといった新しい技法を次々と考案し、後世に無視できない多大な影響を残した。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "こうした新しい芸術運動が様々に展開される一方で、アンリ・ルソー、ルイ・ヴィヴァン、アンドレ・ボーシャン、セラフィーヌ・ルイといったいわゆる素朴派と呼ばれる素人画家が多く登場してきたことも、現代絵画の変革を伝える重要な要素のひとつである。また、エコール・ド・パリ(例:シャガール、ユトリロ、キスリング、スーティン、藤田嗣治)に代表されるように、特定の運動に加わることなく、自己の世界を表現し続けた画家も数多く存在していたことは忘れてはならない。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響を強く伺わせるいわゆる戦後美術が登場した。作品としてはフランシス・ベーコンが描いた『風景の中の人物』、ジャン・フォートリエの『人質』に代表されるような、戦争の悲劇がもたらした人間そのものへの問いかけを含有する悲劇的な様相を表現する傾向にあった。アメーバのような不定形なフォルムと血を連想させる生々しい色彩を用いたヴォルスや、幼児や精神障害者の描く原生芸術を追求し、アールブリュットを提唱したジャン・デュビュッフェなども代表的な画家として挙げられる。フォートリエが表現した厚塗りの具象的な作品はその後、アンフォルメルと呼ばれる表現主義的抽象絵画として1950年以降もてはやされることとなる。こうした作品は、保守派ジャーナリズムや一般観衆から「子供の悪戯描き」と揶揄されながらも感覚に直接訴えかける新鮮な迫力を持った表現形式としてその地位を確立させた。他方で、こうした表現主義的抽象絵画が採った具象的モチーフの拒否を否定することで、現実への復帰を試みたネオダダやポップアートが誕生したのもこの時代であった。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "1980年代以降、美術を表現する新しい方法が次々と生み出され、それらが互いに影響を及ぼしあうことにより複雑な美術体系が構築された。ナムジュン・パイクによるビデオ・アート、映画を含めた映像作品も美術作品として定義することが可能であり、現代美術の主要部分を占めるようになったと言って良い。また、シンディ・シャーマンやロバート・メイプルソープなどの写真美術作品や、マリーナ・アブラモヴィッチのような自身の身体を用いたパフォーマンス的な美術作品に代表されるように、様々なメディアを使用した表現形式(メディアアート)が誕生している。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "1960年代後半から1970年代にかけて誕生したロバート・スミッソンを嚆矢とするアースワーク(ランドアート)も、そうした多様化した表現形式の帰結のひとつである。自然派と呼ばれた彼らは地球をキャンバスとし、訪れることさえ容易ではない地に作品を直接制作することで、限られた空間からの解放と美術の商業主義からの脱却を試みた。代表的なものとしてはすでにグレートソルト湖の湖中に水没したスミッソンの『螺旋状の突堤』、落雷を呼ぶ金属ポール400本を等間隔に設置し、落雷現象そのものを美術作品として発表したウォルター・デ・マリアの『ライトニング・フィールド』、ストーンヘンジやストーンサークルといった原初的な造形を追及したリチャード・ロングの環状列石作品群などがある。", "title": "現代" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "【概説・入門書】", "title": "関連文献(全体に関わるもの)" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "【画集・辞典】", "title": "関連文献(全体に関わるもの)" } ]
西洋美術史(せいようびじゅつし)では、西洋における美術の歴史について概説する。
'''西洋美術史'''(せいようびじゅつし)では、[[西洋]]における[[美術]]の[[歴史]]について概説する。 == 古代 == [[File:Lascaux2.jpg|thumb|200px|[[ラスコー洞窟]]の洞窟絵画。明暗を使い分けた体毛の表現などが見られる。]] ===原始美術=== {{main|先史美術}} [[旧石器時代]]後期に入った頃より、実生活において有用に機能するとは考えにくい遺物・遺構が見られるようになり、これらを総称して一般的に[[原始美術]]/[[先史美術]]などと呼称し、西洋美術史においては[[洞窟壁画|洞窟絵画]]や{{仮リンク|岩陰彫刻|en|Rock art}}、{{仮リンク|丸彫彫刻|en|Portable art}}、獣骨などに刻まれた[[ペトログリフ|刻線画]]などがこれに該当する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=6}}。また、実用品からも動物や魚の骨などを原材料とした器物や石器類などに動物や魚類、木の葉などを写実的に模様化したものが残されており、美術の目覚めを感じさせる{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|pp=4-5}}。ただし、これらを原始美術と分類し、その地位が確立されたのは20世紀に入ってからである{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=7}}。 古いものは[[オーリニャック文化|オーリニャック期]]に生み出されたとされ、フランスの {{仮リンク|クニャック洞窟|fr|Grottes de Cougnac}}に描かれた山羊の洞窟絵画、スペインの{{仮リンク|ラス・チメネアス洞窟|es|Cueva de Las Chimeneas}}に描かれた鹿の洞窟絵画などが知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=6}}。 動産美術としてはブラッサンプイで出土した象牙彫りの女性頭部像がある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=6}}。人間を表した作品はたいていの場合裸体女性であり、子孫繁殖を祈念した宗教的意味合いが込められていたと推察される{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=5}}。この時代の美術的特徴としては、単純な輪郭線による写実的な表現や生殖機能を強調した表現が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=6}}。[[ソリュトレ期]]<ref>(B.C25000〜20000年)</ref>の洞窟絵画は発見されていないが、[[マドレーヌ期]]<ref>(B.C20000〜10000年)</ref> に入ると動物の体毛に応じた明暗の使い分けや、肥痩のある輪郭線を使用した表現力の増した洞窟絵画が出現するようになっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=7}}。有名なものとしては[[ラスコー洞窟]]や[[アルタミラ洞窟]]のものが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=7}}。これらの洞窟絵画では野牛、トナカイ、馬、マンモス、鹿などの狩猟対象となった動物のモチーフが主となっていた{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=6}}。 このため、これらの遺例はヨーロッパ大陸を拠点に生活を営んでいた狩猟採集民族の手によって作成されたものであり、彼らにとって重要・貴重なものを対象として造形的に再現したに過ぎず、後年の美術が獲得していった社会的機能は持っていなかったのではないか、あるいは誰かに見せるために描いたものでは無いのではないかと考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=8}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=18}}。 [[中石器時代]]には東スペインで興った様々な動物と人間を描いた岩陰絵画([[イベリア半島の地中海沿岸の岩絵|レバント美術]])やスカンジナビア半島からロシアにかけて発達した岩陰線刻画([[極北美術]])が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=8}}。初期のものには写実的な表現でもって実物大に近い大きさを有しているものも見られるが、時代を追うごとに形像は小型化し、簡略化・形式化が進んでいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=8}}。 [[新石器時代]]に入ると人類は[[土器]]の製作を始め、線状模様が土器表面に描かれるようになった{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=10}}。この時代に洞窟絵画に見られるような絵画的美術が創出されたのかどうかは今となっては不明であるが、『西洋美術史要説』では制作そのものが少なかったのではないかと推察している{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=11}}。また、土地土地によって建設されたであろう木造住居は残されておらず、美術史的な立場からこの時代の建築遺物としては、[[メンヒル]]、[[ドルメン]]、[[ストーンヘンジ]]などといった宗教的な意味を持っていたと考えられる石製構造物のみである{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=9}}。 後世、20世紀あたりになって、原始美術に影響され{{仮リンク|原始主義|en|Primitivism}}に繋がる。 [[File:Ishtar Gate at Berlin Museum.jpg|thumb|left|180px|ロバート・コールドウェイによって復原された[[イシュタル門]]。]] ===メソポタミア美術=== {{main|{{仮リンク|メソポタミア美術|en|Art_of_Mesopotamia}} }} [[File:Raminathicket2.jpg|thumb|160px|[[ウル]]の王墓から出土した「聖樹と牡山羊」。素材の多様化と表現領域の拡大が見られる。]] ティグリス・ユーフラテス川水域で開花した[[メソポタミア文明]]では、原始農耕社会の中で様々な器形とユーモアな装飾モチーフを特徴とする[[テル・ハラフ#彩文土器|彩文土器]]の出現が見られた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=9}}。特に[[サーマッラー]]期や[[ハラフ期]]の彩文土器は従来の幾何学文様に加えて特徴を極端に誇張した動物文様や人物文様などが加わり、社会の広がりと異なる文化との交流を示している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=9}}。地域的な事情から石材が乏しかったことから大型の彫刻は制作されず、建築文化も煉瓦の使用やアーチ式建築の技法発達が見られた{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=30}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=27}}。ここで誕生したメソポタミア美術は、エジプト美術と並んで西洋美術史における始祖とも言える{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=146}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=26}}。 紀元前4000年期に入る頃には[[シュメール人]]たちによって神殿を中心とした都市が形成されるようになり、商業の活発化とともに絵文字などの伝達手段が登場するようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=9-10}}。特に[[ウルク期]]の中心的役割を担ったエアンナでは陶片によって壁面や柱がモザイク装飾された神殿が登場し、大理石を素材にした丸彫彫刻が数多く制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=10}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=27}}。大理石が持つ白い肌触りと柔らかな質感は人間の肉感を表現するのにうってつけであり、素材に大理石を使用するという手段はギリシア美術へと継承された{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|pp=27-28}}。 {{仮リンク|ジュムデト・ナスル期|en|Jemdet Nasr period}}に入ると礼拝者や聖職者を象ったと思われる立像が制作されるようになり、同時に、政治的指導者の出現によって都市国家としての発展が見られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=10}}。制作される美術品は写実的な表現が大きく発達し、素材も多様化して金、銀、ラピスラズリ、貝殻などが用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=10}}。また、叙述的な表現技法も見られ、戦争などの国家的な出来事も作品モチーフとして取り入れられるようになっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=10}}。この時代の彫刻は『エビー・イルの像』に代表されるように、強調された大きな目を有していることに特徴があり、エジプト美術にも影響を与えている{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=28}}。 [[セム人]]の侵攻によって[[アッカド王朝]]が樹立すると、自然主義的な傾向を有した作品が制作されるようになり、同時に、権力者を称えるような王権美術とでも形容すべき様式の確立がなされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=11}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|pp=31-32}}。アッカド王朝滅亡後、ウルクによるシュメール都市国家の統合がなされた頃には都市の再建に伴って[[ジッグラト]](聖塔)が各地に建設され、宗教観の発展とともに建築分野の美術が大きく発達した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=12}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=32}}。ジッグラトは後に続くエジプト美術で建設されたピラミッドの原形となった{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=27}}。 一方、メソポタミア北部の[[アッシリア]]では、[[バビロニア]]の占領支配によって固有の文化的発展を遂げ、美術作品においても他の地域にない独自性を有するようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=14}}。[[トゥクルティ・ニヌルタ1世]]の時代に入った頃から丸彫彫刻や浮彫彫刻などが数多く制作されるようになり、躍動感のある表現が見られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=14}}。 また、地理的な環境と版図の拡がりから不透明ながらもアッシリアの美術は[[フェニキア]]美術や[[ギリシア美術]]に一定の影響を与えたと考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=14}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=35}}。アッシリア帝国滅亡後に誕生した[[新バビロニア|新バビロニア帝国]]では[[ネブカドネザル2世]]の手によって都市整備が進展し、[[イシュタル門]]に代表される彩釉煉瓦で装飾された建造物が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=14}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=38}}。 その後、[[アカイメネス朝]]によって各地が統治されるようになるとメソポタミア、エジプト、[[ウラルトゥ]]などの美術様式を統合した{{仮リンク|アカイメネス朝美術|en|Achaemenid architecture}}が開花した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=15}}。特に工芸の分野でその特質は顕著で、金銀象嵌などを駆使した精微な作品が数多く制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=15}}。 [[File:Nefertiti bust2.jpg|thumb|150px|[[ネフェルティティの胸像]]はアマルナ美術を代表する彫刻。]] ===エジプト美術=== {{main|古代エジプト美術|[[アマルナ#アマルナ美術|アマルナ美術]]}} ナイル川流域で興った[[エジプト文明]]は肥沃な大地を背景に大いに発展し、[[エジプト初期王朝時代|初期王朝時代]]には[[古代エジプト美術]]の原型が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=14}}。エジプト美術の初期は {{仮リンク|メソポタミア美術|en|Art of Mesopotamia}}の影響を受けたと考えられている{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=22}}。初期は[[蛇王の碑]]などに代表される浮彫彫刻や丸彫彫刻がさかんに制作され、既に技術、様式においてエジプト美術の独自性の原形が垣間見える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=9}}。 [[ファラオ]]の神権的権力が確立する[[エジプト古王国|古王国時代]]には葬祭複合体として古代史においても重要な建築物である[[ピラミッド]]が[[ギーザ|ギザ]]などに建立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=45}}。なお、従来の墳墓([[マスタバ]])の概念を取り払い、ピラミッドとして確立を見たのは[[ジョセル|ジェセル王]]の時代であり、宰相[[イムヘテプ]]によって[[サッカラ]]に建立された階段ピラミッドがその嚆矢とされている{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=12}}{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=42}}。壁画においては{{仮リンク|メイドゥームの鴨|en|Nefermaat}}など、動植物には写実的で精微な表現を有したものが数多く制作されているのに対し、人像表現は極めて形式的かつ概念的で、上半身は正面向き、下半身は真横からといった形態で表現されていることが多い{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=19}}。 これは、魚や鳥は死者の食料としての役割を担っており、生きの良さが重要だったのに対し、表された人々は王侯に奉仕する労働力として永遠不動の形を要求するというエジプト独特の信仰から来る表現の違いであると推察されている{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|pp=19-20}}。 [[File:All Gizah Pyramids.jpg|thumb|left|200px|[[ギザの三大ピラミッド]]。]] 中央集権が瓦解し、[[中王国時代]]に入ると[[アメンエムハト3世]]の時代に入るまで巨大建造物の造営は見られなくなり、代わって[[オシリス|オシリス柱]]や[[ハトホル|ハトホル柱]]など、独創的な形式を有する葬祭殿や神殿が出現した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=112}}。彫刻においては第11王朝期ごろから個性を写実的に捉える傾向を持った新しい[[テーベ]]様式が出現し、従来の伝統的な[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]様式とともに二大潮流を形成した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=16-17}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|pp=21-22}}。しかしながら経済の停滞とともに制作傾向は大型石像彫刻から木製の小像へと変化している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=17}}。 [[エジプト新王国|新王国時代]]に入ると王権の強化とともにエジプト美術は絶頂期を迎え、[[カルナック神殿|アモン大神殿]]や[[ルクソール神殿]]など、テーベを中心に各地で大型の造営事業が推進された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=17}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=23}}。とりわけ、第18王朝期には従来の二大潮流の中に豪華な装飾性と色彩主義が加えられ、宮廷美術の新境地を切り開いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=17}}。 また、[[アマルナ]]の地に都を移した[[アメンホテプ4世]]が唯一神[[アトン]]への信仰に没頭したことから、この時代に制作された美術作品は自然主義的な傾向が色濃く反映されており、エジプト美術のなかでは異彩を放っている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=18}}{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=160}}。宮廷美術として型にはめられ、厳格な形式性から解放されたことから、リアリズム表現の技法が大いに伸張した{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=160}}。王女に口付けをするアメンホテプ4世の彫刻画など、人間の感情や情愛をモチーフとした構図が採用され、表情や姿態に誇張的な表現がとられた{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=88}}。 この時代の美術をそれ以外の時代のエジプト美術と区別し、[[アマルナ#アマルナ美術|アマルナ美術]]と呼称する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}。アマルナ美術は後世のエジプト美術にも大きな影響を与え、[[ツタンカーメン]]の黄金マスクなどにおいても、アマルナ美術の内観的な表現様式の名残が見て取れる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=26}}。 エジプト美術の最大の特徴はその様式の不変性で、三千年に及ぶ悠久の時を経てもほぼ変わることなく一貫していることが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}。こうして連綿と継承された技術はその洗練性を高め、後期には[[レリーフ|沈浮彫り]]などの高度に発達した特殊な技法が誕生している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}。一方でこうした不変性は社会的・歴史的基盤があって初めて成立する特殊な美術であったこともまた事実であり、ギリシア美術のような影響力を他の美術に与えることはなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}。しかし、[[エジプト末期王朝|末期王朝時代]]に入ると王国の衰退とともにエジプト美術も因襲的な模倣に終始し、他国からの影響を受けながらその独自性すら失っていった{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=96}}。紀元前332年、[[アレクサンドロス3世]]によってエジプト征服がなされると、エジプト美術は形骸化し、ギリシア美術の影響の中に消えていった{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=96}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=28}}。 [[File:Knossos - 05.jpg|thumb|220px|クノッソス宮殿の玉座の間に描かれたグリフォン]] ===ギリシア美術=== {{main|ギリシア美術}} [[アーサー・エヴァンズ]]のクノッソス発掘によって、地中海域で最初に開花したとされるクレタ美術({{仮リンク|ミノス美術|en|Minoan art}})の解明がなされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。新石器時代末期から青銅器時代初頭にかけて、キュクラデス諸島などで人体の特徴を簡潔に捉えた石偶や彩色土器、金属器などが制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}{{Sfn|『古代ギリシャ』|2012|p=15}}。旧宮殿時代に入ると農業と海上貿易によって都市は経済的に大きく発展し、マリア、クノッソス、[[アヤ・トリアダ (クレタ)|アヤ・トリアダ]]など各地に荘厳な宮殿が造営された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。工芸品も数多く制作され、[[カマレス陶器]]のような豪華なものも出現している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。 紀元前1700年頃に発生した大地震により一時は壊滅の危機に陥るが、新宮殿時代に入るとより複雑で豪華な装飾を持つ宮殿や離宮が建立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。自然と人類を見事に調和させ、自由闊達に描いた壁画が残されており、こうした作風はペロポネソス半島で隆昌した[[ミケーネ文明|ミュケナイ美術]]へ受容、継承された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。紀元前1400年頃に入ってミュケナイ人がクレタ島を征服すると、ミュケナイ美術は最盛期を迎え、後のギリシア建築に大きな影響を与える建造物が複数建築された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=23}}。 ミュケナイ美術は時代を経るに従って豊かな自然主義的作品から簡素化された装飾モチーフを用いた形式主義的作品へと変遷しており、その理由については明らかになっていない{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=23}}。その後、紀元前12世紀頃のドーリス人大移動を境に衰退期へと移行し、ミュケナイ美術はその幕を閉じることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=23}}。 [[File:Spätgeometrische attische Oinochoe Museum August Kestner.jpg|thumb|left|150px|複雑な幾何学文様と簡素化された装飾モチーフが配されたディピュロン式陶器。]] 紀元前11世紀中ごろ、アテネのケラメイコスからミュケナイ陶器とは異なる特徴を持った陶器が出現した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=23}}。黒線や水平帯によって区分した装飾帯に波状線や同心円文を配した構築的な装飾を持ったこれらの様式は原幾何学様式と呼ばれ、ミュケナイ美術とは明確に区別されるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。 紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はメアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文、菱形文などを複雑に組み合わせた装飾が配されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。 こうした幾何学的な構想は陶器の文様に限らず、[[テラコッタ]]や青銅小彫刻などにおいても同様の傾向が見られ、動物や人間などの各部位を幾何学的形態に置き換えた後に全体を再構築するという過程を経て制作されており、有機的形態の分析による認識法や、部分均衡と全体調和によるギリシア美術固有の造形理念が見られる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。以上のような経緯を経てギリシア美術は確立に至るが、[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]が記した『古代美術史』に代表されるように、ギリシア美術こそが西洋美術のはじまりであるとする言説も存在している{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=1}}。 その後、エジプト、アッシリア、シリアの東方から持ち込まれた工芸品を通じて、ギリシア美術における装飾モチーフの表現領域が大きく拡大し、{{仮リンク|パメルット|en|Palmette}}、[[ハス|ロータス]]、[[ロゼット]]などの植物文や[[スフィンクス]]などの空想動物が用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。プロト・コリントス式陶器やコリントス式陶器など、こうした装飾モチーフを利用して制作された作品はギリシア美術の中でも特に東方化様式と呼称し、区別されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。 [[File:Kouros of Tenea - 168 - Glyptothek Munich - DSC07368.jpg|thumb|150px|[[アルカイックスマイル]]を纏った{{仮リンク|テネアのアポロン像|en|Kouros of Tenea}}。]] 一方、アテネでは叙事詩や物語への関心が高まったことによりこれらをモチーフとした陶器や彫刻が制作され、これらはやがて神話表現へと昇華していくこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻の影響で大掛かりな彫刻が制作されるようになり、この頃作られた男性裸体像({{仮リンク|クーロス|en|Kouros}})は既に両足を前後させて体重を均等に支えるポーズをとっており、ギリシア彫刻としての特徴が見て取れる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=25}}。 ここまでに培われた表現基盤と技術的要素を背景として紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力に満ちた[[アルカイック期#美術|アルカイック美術]]が展開された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=25}}。人体彫刻はより自然な骨格と筋肉をまとったものへと発展し、神殿建築分野ではこれまでの日干煉瓦や材木に代わって石材が使用されるようになり、{{仮リンク|アポロン神殿|de|Apollontempel bei Bassae}}に代表される周柱式神殿が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=25}}。紀元前6世紀にはサモスの[[サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿|ヘラ神殿]]やエフェソスの[[アルテミス神殿]]など、イオニア式オーダーによるより巨大な神殿が建立されるに至り、これに伴う建築装飾技法が大いに発達した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=25}}。 浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間の静止を表現できるよう試行錯誤が繰り返されるようになり、その過程で[[アルカイックスマイル]]などの立体表現が生み出された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=26}}。なお、ギリシア美術で好んで使用された素材である大理石の色によってギリシア彫刻の特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが{{Sfn|『古代ギリシャ』|2012|p=36}}、制作当時はエジプトから輸入された顔料などを用いて鮮やかな彩色が施されていたことが近年の研究によって明らかになっている{{Sfn|『古代ギリシャ』|2012|p=53}}{{Sfn|『古代ギリシャ』|2012|p=57}}。 陶器画の分野ではアッティカがコリントス式陶器の技法を吸収して黒絵式技法を確立し、[[フランソワの壺]]に代表されるような、神々や英雄の神話的場面を描出した作品が制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=26}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=35}}。アマシスやエクセキアスはこの技法をさらに洗練させ、前者は人間味溢れる神々の姿を、後者は重厚な筆致で崇高な神々の姿を描き出し、神人同形([[アントロポモルフィズム]])という観念を確かなものとしている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=26}}。その後、黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部にこだわった絵画的な表現がなされるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=26}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=35}}。こうした技法発展の背景は、板絵や壁画といった新しい芸術表現に対する絵画的探究の表れだったのではないかと考えられている{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=35}}。 [[File:The Parthenon in Athens.jpg|thumb|left|200px|[[フェイディアス]]によって造営された[[パルテノン神殿]]。]] 紀元前5世紀初頭に入ると、ポリュグノトス ([[:en:Polygnotos (vase painter)]]) や{{仮リンク|ミコン|en|Micon}}といった画家によって「[[イーリオスの陥落|トロイアの陥落]]」「[[マラトンの戦い]]」などの神話歴史画が描かれ、大絵画というジャンルが確立するに至った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。[[四色定理|四色主義]](テトラクロミズム)という制約の下、形像の重複や短縮法といった技法を駆使することによって絵画上に奥行きのある空間表現を試みており、絵画、彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性を示したという意味で特筆すべき存在となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。彫刻分野の作品においては、それまでの直立不動の姿態から支脚/遊脚の概念を取り入れた[[コントラポスト]]へと変化しており、{{仮リンク|クリティオスの青年|en|Kritios Boy}}や{{仮リンク|デルフォイの御者像|en|Charioteer of Delphi}}などが制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=148}}。 [[File:Discophoros BM.jpg|thumb|150px|[[ポリュクレイトス]]の作品「ディスコポーロス」の複製彫刻。]] この時代、ペルシアを撃退し、ギリシア世界の覇権を獲得したアテネは最盛期を迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代という新しい領域へと突入することとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。[[ペリクレス]]によってアクロポリスの整備が推進され、オリンピアの[[ゼウス神殿]]やパエストゥムの[[ポセイドン神殿]]で培った技術にイオニア的な優美さを付加した[[パルテノン神殿]]が建立される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。彫刻分野ではパルテノン神殿の造営を指揮した[[フェイディアス]]によって[[オリンピアのゼウス像|アテナ・パルテノスの黄金象牙像]]が制作された他、[[ポリュクレイトス]]によって体中線をS字に湾曲させるなどの技法が生み出され、コントラポストの極致が確立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。絵画の分野では[[アポロドロス]]によって空間表現に不可欠な幾何学的遠近法、空気遠近法の融合化を図った作品が制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。その他、明暗技法に優れた才能を発揮した[[ゼウクシス]]、性格表現と寓意的表現に優れていた[[パラシオス]]などがギリシア美術における絵画の発展を牽引している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。 クラシック時代後期に入ると個人主義が台頭し、美術界においても多大な影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。彫刻分野では[[プラクシテレス]]、[[スコパス]]、[[リュシッポス]]が静像に内面性を付加させた表現技法を生み出すとともに、裸体女性像の価値を大きく引き上げることに貢献した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。[[アレクサンドロス3世]]の宮廷彫刻家としても知られるリュシッポスは肖像彫刻の分野でも優れた作品を残しており、後世{{仮リンク|ヘレニズム美術|en|Hellenistic art}}や[[ローマ美術]]の彫刻家達に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。同じく宮廷画家であった[[アペレス]]は明暗法、ハイライト、遠近法を駆使した大絵画を創出し、古代最大の画家と評価されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=29}}。 アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=29-30}}。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=30}}。こうした現象についてローマ時代の文筆家[[大プリニウス]]は「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=30}}。 [[File:Statue-Augustus.jpg|thumb|left|160px|ローマ美術の代表的作品「[[プリマポルタのアウグストゥス]]」。]] ===ローマ美術=== {{main|[[エトルリア美術]]|ローマ美術}} 一方、イタリア中部に定着した[[エトルリア]]人は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}{{Sfn|『イタリアを知るための55章』|1999|p=16}}。一般に[[エトルリア美術]]は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類される{{refnest|group=注釈|先エトルリア文化である[[ヴィッラノーヴァ文化]]の時代を加える場合もある{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=134}}。}}が、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|pp=134-135}}。 都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことが伺える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}{{Sfn|『イタリアを知るための55章』|1999|pp=15-16}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=150}}。紀元前7世紀から顕現したこうした兆候はヘレニズム期まで継続していた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}。彫刻分野も遺例が少ないものの、紀元前6世紀末に活躍した{{仮リンク|ウルカ|en|Vulca}}はエトルリア人彫刻家として名が知られている特筆すべき人物で、ヴェイオから出土した「アポロン」など、イオニア彫刻の影響を強く受けたテラコッタ像を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=136}}。 [[ファイル:Colosseo 2020.jpg|サムネイル|190x190ピクセル|ローマの代表的な観光地として知られる[[コロッセオ]]。]] [[File:Arch of Constantine (Rome) - South side, from Via triumphalis.jpg|thumb|190px|マクセンティウス帝に勝利したことを記念して建造された[[コンスタンティヌスの凱旋門]]。]] 紀元前5世紀初頭の古典期に突入すると政治、経済の衰退と共に美術的活動も新鮮味と活力が失われ、様式的にも停滞した{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=136}}。しかし、ヘレニズム期に入ると来世観に進展が見られ、{{仮リンク|ウァント|en|Vanth}}や{{仮リンク|カルン|en|Charun}}といった魔神が墓室壁画のモチーフとして選択されることが多くなった{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=136}}。肖像彫刻においては写実性溢れる作品が好んで制作されるようになった{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=136}}。 紀元前509年、エトルリアに従属していた都市国家のひとつであった[[ローマ]]は、共和制を樹立し、周辺都市国家を征服しつつ紀元前4世紀にはエトルリアをもその支配下に置いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=31-32}}{{Sfn|『イタリアを知るための55章』|1999|p=16}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=150}}。その過程でエトルリア美術の影響は次第に薄れてはいったが、独自の美術を生み出すには至っていなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=32}}{{Sfn|『ローマ人の世界』|1996|p=134}}。 紀元前3世紀に入ると[[サムニウム戦争]]や[[第一次ポエニ戦争]]などの影響により、戦利品として南イタリアのギリシア植民都市から大量の美術品が持ち込まれると、その成熟された美しさに魅了され、[[第二次ポエニ戦争]]以降、ローマ下においてギリシア美術ブームが起こった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=32}}{{Sfn|『ヨーロッパの中世美術』|2009|p=38}}。これによりローマでは従来の伝統的なエトルリア美術と、「外来」のギリシア美術がそれぞれ潮流を成し、社会に氾濫することとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=32}}。ローマ人の需要に応えるべく、創造性には欠けるが様々な様式の彫刻を注文に合わせて制作する{{仮リンク|ネオ・アッテカ派|en|Neo-Attic}}と呼ばれる一派が形成され、[[アウグストゥス]]の庇護を受けて伸張した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=32-33}}。この影響で「[[アラ・パキス|アウグストゥスの平和の祭壇]]」や「[[プリマポルタのアウグストゥス]]」といった高度な写実性を有する、洗練された古典主義的な美術品が数多く制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=33}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=150}}。 建築分野では紀元前1世紀前半ごろより、ヘレニズム期のエトルリア美術を基盤としてローマ固有の建築様式を生み出していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=33}}{{Sfn|『ローマ人の世界』|1996|p=135}}。厳格な左右対称性やコリントス式柱頭の多用、内部空間の重視などがローマ建築の特徴として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=33-35}}。紀元前2世紀前半に建設された[[バシリカ]]や紀元前1世紀前半に建築された[[コロッセウム]]などは、新しい建築ジャンルとしてローマ美術における代表的な建造物としてしばしば取り上げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=35}}。 また、建造物の壁面に描かれた装飾物についてもヘレニズム期の影響を受けるポンペイ第一様式からポンペイ第二様式と呼ばれる装飾法へ移行を果たし、神話的風景画などがさかんに制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=35}}。帝政期に入ると歴代皇帝の事跡を誇示するかのような歴史浮彫が多数制作され、現代では[[トラヤヌスの記念柱|トラヤヌス帝の記念柱]]や[[コンスタンティヌスの凱旋門|コンスタンティヌス帝の凱旋門]]などがその遺構として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=35-36}}。 同時に神話的な情景を主たるモチーフとしていた古典主義は衰退し、現実の情景を記した写実主義がもてはやされるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=36}}。さらに、2世紀中ごろからは主要人物をより強調して表現する傾向が顕著となり、その影響は肖像彫刻などの他ジャンルへも波及した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=36}}。こうした自然主義の放棄と表現主義の台頭という変遷は、この後のローマ美術が[[キリスト教美術史|キリスト教美術]]へと変質化していく過程における重要な転換点として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=36}}。 == 中世 == [[File:Santa maria maggiore 051218-01.JPG|thumb|200px|[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]]] [[File:GallaPlacidiaEle.jpg|thumb|200px|[[ガッラ・プラキディア廟堂]]]] ===初期キリスト教美術=== {{main|初期キリスト教美術}} 紀元2世紀末から3世紀はじめにかけて地中海沿岸の各地にローマ美術の流れを汲んだキリスト教美術が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=38}}。以降キリスト教美術は1500年以上に渡って東西ヨーロッパにおける美術の中核を担っていったが、キリスト教の誕生から5世紀後半までの美術を[[初期キリスト教美術]]と呼称している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=38}}。313年に公布された[[ミラノ勅令|ミラノ寛容令]]までは[[キリスト教]]に対して弾圧が繰り返されていたこともあり遺跡、遺品ともに残されているものが少ないが、[[カタコンベ]](地下墓所)の壁画や石棺彫刻といった葬礼美術にその特徴を垣間見ることが出来る{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=38}}{{Sfn|『ヨーロッパの中世美術』|2009|pp=15-17}}{{refnest|group=注釈|キリスト教を主題とした現存する最古の美術品は紀元2世紀から3世紀にかけてのもので、イエス時代を含めそれ以前のものについては発見されていない{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=37}}。}}。火葬と土葬が併用されていた古代ローマ時代からヘレニズム文化の影響を受けて土葬へと急激に転換したことが、こうした葬礼美術が制作されるようになった要因の一つとされている{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=38}}。キリスト教では偶像崇拝が禁じられていたことから、死後の魂の救済を願って描かれた初期の壁画は、構図やモチーフに異教美術からの積極的な借用が見られるものの、十字架の形を象徴する物や[[イエス・キリスト]]を意味する魚、よき羊飼いや祈る人といった寓意的な人物など、間接的または暗示的な信仰の表明が示されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=39}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=152}}。教義が出来上がり、教会体制が整うにつれて[[新約聖書]]や[[旧約聖書]]に語られている物語がモチーフとして選択されるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=39}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=152}}。 380年に、[[テオドシウス1世]]によってキリスト教が国教として定められると、帝都コンスタンティノポリス、ローマ、アンティオキアなどの各地で大規模な教会堂の建築が実施された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=39}}{{Sfn|『ヨーロッパの中世美術』|2009|p=17}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=37}}。建築様式としてはローマ美術のバシリカから派生したもの(バシリカ式)、ヘレニズム美術の廟墓建築やユダヤ教の記念堂建築の流れを汲むもの(集中式)に大別されるが、いずれも煉瓦造りの質素な外観に対して[[モザイク画|モザイク装飾]]を用いた豪華な内観という特徴を持っており、現実的な地上世界と神秘的な死後世界の対照化を試みている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=40}}。バシリカ式の教会堂としてはローマの[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]が、集中式の教会堂ではラヴェンナの[[ガッラ・プラキディア廟堂]]が、それぞれこの時代に建築された代表的な例として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=40}}。5世紀に入るとキリスト教美術はローマ美術の古典的な様式から豪華な金地や多様な装飾が施された東方的な荘厳美術へと傾倒していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=40}}。 [[File:Ayasofya-Innenansicht.jpg|thumb|left|150px|[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]の内部]] ===ビザンティン美術=== {{main|ビザンティン美術|イコン}} 330年、[[コンスタンティヌス1世]]により帝都がコンスタンティノポリス(現[[イスタンブール]])へ移されたことがきっかけで美術活動の重心も東方へと移っていった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=42}}。これによって初期キリスト教美術に古代アジアや[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]の美術的要素が融合し、[[ビザンティン美術]]が確立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=42}}。ビザンティン美術は15世紀までの長きに渡り、大きな変質なく脈々と一貫性を保ち続け、その特徴は荘厳な様式の中に散りばめられた豪華絢爛な装飾性と、精神性や神秘性を追求した理知的な傾向が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=42}}。[[ユスティニアヌス1世]]の第一次黄金時代と呼ばれる時期に建築された[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]は、それまでのバシリカ式と集中式の建築様式を統合し、新しい建築類型を確立させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=42}}。また、近東の民族美術の影響で装飾モチーフにも変化が見られ、聖樹や獅子、幾何学文様などの象徴的あるいは抽象的な浮彫装飾が好んで選択されており、人像の表現は激減している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=44}}。さらに、8世紀に入って[[イコノクラスム|聖像論争]]が勃発して聖像否定派が優勢に立ったことで、こうした傾向はますます顕著となり、造形美術分野は一時的な衰退を余儀なくされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=44}}。 [[File:Christ Pantokrator, Cathedral of Cefalù, Sicily.jpg|thumb|200px|[[パレルモのアラブ・ノルマン様式建造物群およびチェファル大聖堂、モンレアーレ大聖堂|チェファル大聖堂]]の大構図モザイク装飾。]] 9世紀後半に興った[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]はその版図を拡大し続け、11世紀にはイタリア南部からスラブ諸国にまで及ぶ大帝国となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=46}}。この時代に始まった美術界における栄華をビザンティン美術における第二次黄金時代と呼ぶ{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=46}}。ヘレニズム期の古典的な伝統美術が影響力を強め、教会堂建築も[[オシオス・ルカス修道院]]などに代表される、集中式を基盤とした装いへと立ち返っている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=46}}。工芸美術の分野では「{{仮リンク|パリ詩篇|en|Paris Psalter}}」や「[[ナジアンゾスのグレゴリオス|ナジアンゾスのグレゴリウス説教集]]」といった擬古典的な様式を採用した写本装飾などが制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=46}}。その後、マケドニア王朝の滅亡とともに[[コムネノス王朝]]が興ると華やかな宮廷美術と、人文主義的な伝統美術が融合した独特の美術が開花した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=47}}。代表的な教会堂建築としては[[ダフニ修道院]]、{{仮リンク|ネレズィ修道院聖堂|en|Church of Saint Panteleimon, Gorno Nerezi}}などがある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=47}}。13世紀前半には十字軍の略奪と占領などによって再び停滞期に突入するが、[[パレオロゴス王朝]]の時代に入ると[[コーラ修道院]]に代表される写実的で繊細典雅な様式が花開いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=47}}。 11世紀中葉以降、西方における帝国拠点都市を通じて、ビザンティン美術は西欧美術に大きな影響を与え続け、大構図モザイク装飾を採用した教会堂が各地に建立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=47}}。 ===初期中世美術=== {{main|{{仮リンク|メロヴィング朝美術|en|Merovingian art and architecture}} |{{仮リンク|カロリング朝美術|en|Carolingian art}}}} [[File:KellsFol292rIncipJohn.jpg|thumb|180px|[[ケルズの書]]はメロヴィング朝における[[装飾写本|写本装飾]]の代表的な作品。]] 476年の[[西ローマ帝国]]滅亡後、ゲルマン諸族の国家が次々と誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=48}}。ガリアの地においてもゲルマン民族の手によって[[ブルグント王国]]が成立したが、5世紀後半に[[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]率いる[[フランク王国]]によって滅ぼされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=48}}。クロヴィス1世は都をソワッソンへ移し、ローマ文化を積極的に取り入れ、ローマ帝国の継承者として[[メロヴィング朝]]を興した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=48}}{{Sfn|『ヨーロッパの中世美術』|2009|p=9}}。こうした経緯によって培われたメロヴィング朝の美術は工芸品分野において優れた技術を見せており、ゲルマン民族特有の豪華な装飾と、ガリア土着の伝統が融合した独特の様式を呈していた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=50}}。また、近東の修道院制度がイタリアやアイルランドを経てもたらされ、大小様々な僧院が建立されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=50}}。[[写本]]装飾の分野ではメロヴィング朝特有の{{仮リンク|メロヴィング体|en|Merovingian script}}の[[書体]]と{{仮リンク|メロヴィング彩飾|en|Merovingian illumination}}の「鳥魚文」が多用されると同時に、花や鳥を幾何学的に組み合わせた文様なども確認でき、古代の自然主義的表現様式とは一線を画すものが制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=50}}。7世紀には[[ケルズの書]]に代表されるような、サクソン、オリエント、コプトからの影響を受けた複雑な装飾が施されるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=50}}。 [[カロリング朝]]の時代に入ると[[カール大帝]]の手によって学問や芸術の奨励が始まり、美術史的観点において大きな躍進を遂げた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=51}}。特に彫刻分野においては、北イタリアを中心に発達した組紐文を象徴的に用いた浮彫が各地へ伝播し、後の[[ロマネスク美術]]の基礎を築いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=51}}。写本装飾の分野においてはメロヴィング朝時代に一時衰退した古典的な人像表現が復活し、装飾モチーフとして積極的に使用された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=52}}。その後、[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]によって[[神聖ローマ帝国]]が築かれると、西欧文化の主導権を掌握し、文化的傾向の方向性を確たるものとした{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=52}}。 ===ロマネスク美術=== {{main|ロマネスク美術}} 9世紀から10世紀にかけて、ノルマン人やサラセン人などの異教徒の脅威により、カロリング朝は[[ユーグ・カペー]]へその王権が引き継がれ、フランク王国は事実上の解体をみた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。激動する社会情勢の影響を強く受けた西欧美術も同様に再び大きな変革を迫られることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。ロマネスク美術は、そうした社会的変動を背景として初期中世美術という基盤を発展させ開花した、11世紀後半から12世紀にかけての西欧美術を指す{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。 建築分野におけるロマネスク美術の特徴は、重厚な石壁と暗い内部空間に表され、古代バシリカ式建築を基本に添えつつ、東西への方向軸を持った建造物が増加した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=65}}。これは、聖地巡礼を行う礼拝客の動線を配慮した結果発展した形態であると考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。こうした形態を保持する教会堂を巡礼路聖堂と呼び、トゥールーズの{{仮リンク|サン・セルナン大聖堂|en|Basilica of Saint-Sernin, Toulouse}}などがその代表的建造物として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。この時代、修道院は学問と美術の中心的存在を担っており、各会派は信仰の普及手段として教会堂の建設を推進した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=55}}。その表現手段は多様で、シトー会派が図像を否定し、質素な美術を奨励したのに対し、ベネディクト会派は豪華な素材を用いて美術の荘厳化に注力した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=55}}。地方によって同じロマネスク美術建築でも特徴が大きく異なるのは、地域に対する会派の影響度の違いを示している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=55-57}}。 [[File:Bayeux hawking.jpg|thumb|240px|70mに渡って[[ノルマン・コンクエスト]]を生き生きと描いた[[バイユーのタペストリー]]。]] また、後年のゴシック美術の建築と比較して壁面が多く、教会堂の天井や側壁には聖書や聖人伝を題材とした説話的な壁画が描かれた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=57}}。地方によって細微な違いがあり、もっとも西方的な様式を確立したのはフランスで、その他の地域は大なり小なり東方的なビザンティン美術の要素を取り込んだ壁画が制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=58}}。イタリアではカロリング朝の伝統を継承しつつも、ビザンティン美術の範例を手本としながら力強い筆致で描かれているのが特徴で、イタロ=ビザンティン様式と呼ばれるこうした大構図壁画は、{{仮リンク|サン・クレメンテ聖堂|en|San Clemente al Laterano}}や{{仮リンク|サン・タンジェロ・イン・フォルミス聖堂|it|Abbazia di Sant'Angelo in Formis}}などに残されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=57}}。スペインでは東方的な色彩と{{仮リンク|モサラベ美術|en|Mozarabic art and architecture}}の影響によって、カタルーニャ地方に独特のロマネスク美術が開花した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=57-58}}。また、オットー朝の写本工房の影響力がドイツ南部、オーストリア、スイス北部などではイタリア経由でもたらされたビザンティン美術の要素と融合を果たしたロマネスク美術が確立されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=58}}。 [[File:Reliquaire de sainte foy.jpg|thumb|left|150px|コンクの[[聖フィデス|聖女フォワ]]の遺物像]] 工芸分野では十字架、装幀板、燭台、聖遺物箱、祭具といった宗教用具がさかんに作成され、古代の浮彫や彫刻技法を復活させたことに大きな意義を見出すことが出来る{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=58}}。こうした丸彫像ではコンクの聖女フォワの遺物像がその先駆けとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=58-60}}。その他オットー朝の伝統を汲むドイツや北イタリアの諸工房では、象牙や金を素材とした工芸細工が数多く制作され、フランスのリムーザン地方では[[リモージュ|エマイユ]]工芸が発達し、聖遺物箱や装幀などが制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。また、[[バイユーのタペストリー]]に代表される刺繍工芸が盛んになったのもロマネスク美術の特徴といえる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。 ===ゴシック美術=== {{main|[[ゴシック美術]]}} {{See also|ゴシック|ゴシック建築|ゴシック様式}} ロマネスク美術の延長線上に位置付けられる[[ゴシック美術]]は12世紀半ばごろより始まり、人間的・写実的な表現を特徴とし、ロマネスク美術の象徴的・抽象的な表現とは対照的な様相を呈している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=154}}。この変革の背景には社会環境の変化が大きな影響を与えたと考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。前時代は修道士や聖職者など、限られた人々が文化の担い手であったのに対し、裕福な市民層や大学を拠点とする知識人などの台頭によってその範囲が拡大していったことが、美術の性格を変革させた一つの要因となっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。 [[File:SaintDenisInterior.jpg|thumb|150px|left|ゴシック建築の最も古い作例とされる[[サン=ドニ大聖堂]](内部)。]] こうした精神を如実に物語っているのが建築分野であり、その先鞭は[[シュジェール]]によって行われた1144年の[[サン=ドニ大聖堂]]改修工事である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。シュジェールは信仰を導く手段として「光」の重要性を謳い、尖頭アーチを用いた肋骨交差穹窿とステンドグラスを嵌め込んだ大窓を組織的に活用することで、新しい建築意匠を創出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=60-61}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=154}}。この動きはすぐにサンス、サンリス、パリ、ランなどフランスの周辺都市へ伝播し、同様の意匠を保持する大聖堂が相次いで建立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=60-61}}。さらにはフランス人工匠の手によって国外へも波及し、イギリスのカンタベリー大聖堂など、新規建築や改修時にゴシック建築の様式を取り入れたものが登場している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}。また、ロマネスク建築の重厚な石造天井は重量的な問題から、自ずと「高さ」に対して限界が見えるようになり、これを解消することを目的とした建築方式が誕生し、広く受け入れられることは必然であったとも言える{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=65}}。 [[File:Chartres - cathédrale - ND de la belle verrière.JPG|thumb|180px|[[シャルトル大聖堂]]の南周歩廊にある「美しきステンドグラスの聖母」。]] 装飾彫刻もこうした動きと連動し、円柱人像などの新しい要素が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}。これによって古来以降途絶していた塑像性が復活し、自然な丸みを帯びた人像表現へと発展していく嚆矢となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=3}}。また、個々の彫像が採用したモチーフを連関させ、全体としての合理性を持たせるといったことも試行されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}。こうした特徴もつ装飾彫刻の代表的なものとしては、[[シャルトル大聖堂]]の「王の扉口」(西側正門)などが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}。連関思想は、次第に金属細工や彩色写本といった小型の美術品にも傾向として現出するようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=62}}。 12世紀に入るとゴシック建築を採用した聖堂の建立が本格化しはじめ、内部空間構成と建造物の見事な調和が見られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=62}}。ブルージュ、シャルトル、ランス、アミアン、ボーヴェといったフランス各地の大聖堂やイギリスのソールズベリー大聖堂、ケルンのザンクト・ペーター大聖堂など壮大な聖堂が各地に建設されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=62}}。特に、世界遺産にも指定されているアミアンの[[ノートルダム大聖堂 (アミアン)|ノートルダム大聖堂]]は、その全長が145メートルにも及ぶ巨大な聖堂である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=62}}。また、物理的制約から解放されたことで、塔や穹窿は高さに対しても追求がなされるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=62-64}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=27}}。 並行して円柱人像の技法も発展し、13世紀に入ると扉口浮彫から丸彫像への移行が見られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。同時にゴシック彫刻の特長とも言えるS字型に捻った姿態、柔和な相貌、流麗な衣襞といった表現が確立し、古典主義的な思想を孕んだ作品が数多く制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。さらには14世紀初頭にドイツで制作された[[ピエタ]]の彫像のような凄惨な場面を主題とした彫刻作品も登場し、表現領域の拡張に大きな足跡を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。 [[File:Pisanello 016.jpg|thumb|150px|left|[[ピサネロ]]の『エステ家の姫君の肖像』は国際ゴシック様式の代表的な作品のひとつ。]] また、色彩芸術の分野では[[ステンドグラス]]による主題表現が代表的で、シャルトル大聖堂の「美しきステンドグラスの聖母」など、12世紀から13世紀にかけて制作された傑作が多数残されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。写本絵画では個人向けの聖書・詩篇集の制作がフランスやイギリスで活発化し、多くの写本画家がパリを拠点に活動を行っている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。中でも『ベルヴィル家の聖務日課書』を制作した{{仮リンク|ジャン・ピュセル|en|Jean Pucelle}}は、フランスの優雅な人物表現とイタリアの空間表現を融合させ、[[装飾写本|パリ派写本]]と呼ばれる写本の新しい基準様式を確立させたことで知られる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。 イタリアではビザンティン美術の影響が根強く、ゴシック美術の浸透が遅れていたが、{{仮リンク|ヤコポ・トリーティ|en|Jacopo Torriti}}や[[ピエトロ・カヴァリーニ]]といった大構図壁画家によってビザンティン美術からの脱却が図られるようになり、これを継承した[[チマブーエ]]や[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]、[[シモーネ・マルティーニ]]といった画家たちによって段階的に成し遂げられ、後世における[[ルネサンス]]の礎が築かれた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}{{Sfn|『西洋絵画史 WHO'S WHO』|2005|p=1、3、5}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=89-93}}。こうした画家の登場した時代を切り出してプロト・ルネッサンス時代と呼称する場合もある{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=156}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=56}}。 14世紀に入ると教会の分裂や黒死病の大流行に加えて、[[百年戦争 (1337-1368)|百年戦争]]の影響によって大規模な建築造営が見られなくなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。取って代わるように王侯貴族の邸宅や都市の公共施設といった世俗的な実用建築が行われるようになり、用途や地域に即した分極化が進行した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。14世紀後半には骨組の構造が複雑化し、装飾的に入り組んだ肋骨構造や曲線を絡み合わせた狭間造りといった特徴が見られるようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=64-67}}。ルーアンの[[ルーアン大聖堂|ノートルダム大聖堂]]はこの時代の代表的な作例と言える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}。 また、絵画は14世紀の後半から芸術において主導的な立場へ昇華した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}。西欧各地の宮廷に展開された絵画芸術は[[国際ゴシック様式]]と呼ばれ、アヴィニョンで興ったシエナ派の流れを汲む、自然観察に基づく正確な細部の描写と豪奢な宮廷趣味を特徴としている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}。イタリアの[[ピサネロ]]は国際ゴシック様式の代表的な画家であり、『エステ家の姫君の肖像』など、幻想性豊かな作品を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}{{Sfn|『西洋絵画史 WHO'S WHO』|2005|p=21}}。フランスではパリ、ブルージュ、アンジェ、ディジョンなどで国際ゴシック様式が開花し、1355年頃に描かれたとされる『フランス国王ジャン善良王の肖像』は俗人を描いた単身肖像画としては最古のものとして知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}。ディジョンにはフランドル出身の画家や工人が多く住み着き、[[メルキオール・ブルーデルラム]]、[[ジャン・マルエル|ジャン・マヌエル]]、[[アンリ・ベルショーズ]]といった宮廷画家がフランコ=フラマン派の作品を数多く生み出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=68}}。 その他、装飾写本の分野ではネーデルラント出身で写実的な自然描写と精妙な装飾性を有した写本の制作を得意とする[[リンブルク兄弟|ランブール兄弟]]が知られており、『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』はこの時代の写本芸術の最高峰とされている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=68}}{{Sfn|『西洋絵画史 WHO'S WHO』|2005|p=15}}。ランブール兄弟の作品は15世紀のパリ派写本工房へ大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=68}}。 == 近世 == [[File:View of the Duomo's dome, Florence.jpg|thumb|180px|[[フィリッポ・ブルネレスキ]]によって設計された独創的な二重殻構造を持つ[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]の円蓋。]] ===イタリア初期ルネサンス美術=== {{main|ルネサンス美術}} [[ルネサンス]]は「再生」を意味するイタリア語 ''rinascita'' から派生した呼称であり、古典古代文化の復興という思想のもと、ギリシア美術やローマ美術の復活と自然の美や現実世界の価値が再発見され、人間の尊厳が再認識された時代を指す言葉となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=70}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=70-76}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=20}}。イタリアの建築家で人文主義者であった[[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]は「意思さえあれば人間は何事も為し得る」という、人間の可能性に絶大な信頼をよせた言葉を残しており、ルネサンス美術の根底に流れる[[人間中心主義]]という世界観を見事に表現している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=70-71}}。こうした思想は15世紀前半、市民階級がいち早く台頭した都市[[フィレンツェ]]で芽生えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}。 建築分野では[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]の円蓋設計を手がけた[[フィリッポ・ブルネレスキ]]の名が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}。ブルネレスキの設計した聖堂は、ゴシック様式の建築からの明確な離脱を示し、バシリカ式聖堂のエッセンスを取り入れつつも調和と秩序を重要視した人間中心的世界観を体現しており、15世紀にフィレンツェで確立されたルネサンス建築の代表的な作例となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=255}}。こうした理念はアルベルティへ継承され、その理念を元に執筆された三大著作(『絵画論』『彫像論』『建築論』)は同時代を含む後世の芸術家たちに絶大な影響を与えることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=265}}。また、古代ローマ建築の実測を行うことで、科学的遠近法を発見したことでも後世に大きな影響を残している{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=225}}。 ブルネレスキの死後はアルベルティが台頭することとなる{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=227}}。フィレンツェから追放された商人の息子であったアルベルティはローマ教皇庁や諸侯の顧問として西欧各地を歴訪しており、こうしたルネサンス様式がヨーロッパ全土に伝播する間接的な貢献をしていたとも言える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}。15世紀半ばに入り、共和制の理想が鳴りを潜め、豪商が町の政治を取り仕切るようになると、大富豪の市内邸宅(パラッツォ)の建築が相次ぐようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}。[[ミケロッツォ・ミケロッツィ]]が建設した[[メディチ家]]の市内邸宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は秩序と安定を志向するルネサンス建築の思想が表現されたパラッツォの代表的な作例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}。 [[File:Donatello - David - Florença.jpg|thumb|left|150px|[[ドナテッロ]]制作の『[[ダヴィデ像 (ドナテッロ)|ダヴィデ]]』。]] 彫刻分野は古代思想の復活という理念が色濃く示された分野であり、ブルネレスキの『アブラハムの犠牲』など、優雅なゴシック彫刻の伝統を打破する力強い人体の把握や細微な写実性を有した作品が数多く登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=218}}。この分野において、国際ゴシック様式からの脱却を試みた最初の彫刻家は{{仮リンク|オルサンミケーレ聖堂|en|Orsanmichele}}の『4人の聖者』などで知られる{{仮リンク|ナンニ・ディ・バンコ|en|Nanni di Banco}}であると言われている{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=218}}。古代ローマ以降で初めてコントラポストを採用し、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』を発表して頭角を現した[[ドナテッロ]]は、『預言者ハバクク』『ダヴィデ』など古代ローマの作風の復活に心血を注ぎ、ルネサンス彫刻の方向性を決定付けた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=258}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=219}}。特に『ダヴィデ』は二本足で立つ孤立像というジャンルで裸体表現を取り入れたという点において特筆すべき作品となっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=220}}。ドナテッロの確立したルネサンス彫刻の様式はその後[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]や[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]へ受け継がれていくこととなる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}。その他、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリア』を制作した[[ルカ・デッラ・ロッビア]]、後期ゴシック様式を学びながらも『天国の扉』に見られる透視図法を確立した[[ロレンツォ・ギベルティ]]、墓碑彫刻や写実的な胸像で新境地を開拓したロッセリーノ兄弟([[ベルナルド・ロッセリーノ]]、{{仮リンク|アントーニオ・ロッセリーノ|en|Antonio Rossellino}})などが代表的な彫刻家として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=74}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=256}}。 [[File:Cappella brancacci, Resurrezione del figlio di Teofilo e San Pietro in cattedra (restaurato), Masaccio.jpg|thumb|250px|[[マサッチオ]]の『テオフィルスの息子の蘇生と教座のペテロ』(1425年-1428年頃)。]] [[File:Fra Angelico 043.jpg|thumb|250px|[[フラ・アンジェリコ]]の『受胎告知』(1438年-1445年頃)。]] 建築や彫刻分野と比較して絵画分野における革新性の確立は若干遅く1420年代前半ごろであり、これは古典古代における手本とすべき遺品がこの当時ほとんど知られていなかったことが影響していると考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=74-75}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=228}}{{refnest|group=注釈|15世紀のルネサンス時代に生きた画家が見ることが出来たローマ時代の壁画としては、[[トラヤヌス浴場]]の下から発掘された[[ドムス・アウレア]]ぐらいであったとされている{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=72-74}}。}}。1421年にフィレンツェへ移住してきた国際ゴシック様式の画家[[ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ]]が制作した『マギの礼拝』に僅かながらその片鱗を見ることができるものの、空間に対する配慮は乏しく、目新しさはあまり無い状態であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=75}}。しかし、[[マサッチオ]]の登場により、情勢は一変した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=75}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=228}}。[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]がかつて確立した僅かばかりの空間表現に、光の明暗によって量感を表現する手法が融合され、より奥深い空間を手に入れることに成功したのである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=76}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=264}}。 さらに、ブルネレスキやアルベルティによって合理的な透視図法の理論が構築されると、多くの画家がその刺激を受けて次々と実験的な作品が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。彩色や光の扱い方が拙いながらも透視図法の研究に没頭し、『ジョン・ホークウッド騎馬像』や『サン・ロマーノの戦い』などの作品を発表した国際ゴシック様式の画家[[パオロ・ウッチェロ]]はその最たる例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=259}}。その後、修道僧画家の[[フィリッポ・リッピ]]、[[フラ・アンジェリコ]]らによってマサッチオの様式が取り入れられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。リッピは日常的室内に聖母子を配置したネーデルラント風の絵画を制作した他、人間中心主義を根底に世俗的かつ官能的な聖母や肉感的なイエスなどを描き出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。『受胎告知』などの作品で知られるフラ・アンジェリコは1430年代以降においてマサッチオの空間表現や明暗描写を積極的に取り入れた宗教画を多数制作した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。正確な一点透視図法を採用し、聖会話形式(サクラ・コンヴェルティオーネ)の表題を確立した[[ドメニコ・ヴェネツィアーノ]]もマサッチオの影響を受けた画家の一人である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=231}}。 [[File:Sandro Botticelli - La nascita di Venere - Google Art Project - edited.jpg|thumb|left|250px|[[サンドロ・ボッティチェッリ]]の『[[ヴィーナスの誕生]]』(1483年頃)。]] 15世紀後半に入るとフィレンツェで熟成されたルネサンスはイタリアの各都市へ波及していくこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。そして、[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]や[[イザベラ・デステ]]といった人文主義的な君主の治世によって、各都市で豊かな文化活動が育まれた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=77-78}}。南トスカーナのアレッツォ、およびトスカーナ公国で精力的に作品制作に没頭した数学者で画家の[[ピエロ・デラ・フランチェスカ]]は、15世紀中期における最大の巨匠として知られ、『聖十字架伝説』に代表されるフレスコ壁画の分野では、一切の無駄を排除し、幾何学的とも言える明晰で秩序立った画面を構築している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=78}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=233}}。 一方、絵画・彫刻双方の主題に「動勢」が取り入れられるようになり、[[アントニオ・デル・ポッライオーロ]]による力を孕んだ写実的な筋肉の描写や、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』に代表される解剖学的知識を導入した生々しい人体表現を持った作品が登場するようになったのも15世紀後半の出来事であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=79}}。また、富の蓄積とこれに伴う趣味の贅沢化によって優美で装飾的な様式を持った作品が流行を来し、[[サンドロ・ボッティチェッリ]]の『[[ヴィーナスの誕生]]』に代表される恥美的世界観を表現した作品が生まれている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=79}}。その他、[[アンドレア・マンテーニャ]]や[[ジョヴァンニ・ベリーニ]]もフィレンツェ以外に活動の拠点を置いた同時代の画家として知られ、ルネサンスの波及を象徴している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=79-80}}。 15世紀末期には教皇分立時代以降沈滞していたローマにおいても、ボッティチェッリ、[[ドメニコ・ギルランダイオ|ギルランダイオ]]、[[ペルジーノ]]らによって[[システィーナ礼拝堂]]の壁面装飾事業が行われるなど、ローマ法王主導の下、旺盛な芸術活動が展開された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=80}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=149}}。1492年に[[ロレンツォ・デ・メディチ]]が没し、フィレンツェが禁欲的な[[ジロラモ・サヴォナローラ]]の支配下に置かれたことによってローマの芸術活動はさらに盛り上がりを見せ、16世紀にはイタリア美術の中心地へと発展していくこととなる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=80}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=124-125}}。 [[File:Jan van Eyck The Virgin of Chancellor Rolin.jpg|thumb|250px|[[ヤン・ファン・エイク]]の『[[宰相ロランの聖母|ニコラ・ロランの聖母]]』(1435年頃)。]] ===15世紀の北方美術=== {{main|北方美術}} [[ブルゴーニュ公国]]に属していた15世紀のネーデルラントでは、毛織物工業の発展と国際貿易の振興によって市民階級の台頭目覚しく、豊かな経済と文化が形成された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=81}}。特に、フランドル地方で発祥した油彩技法は発色に優れ、精緻な質感描写や視覚的世界のリアルな再現を可能とし、西欧全土へと伝播して今日までの揺ぎ無い地位を確立した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=81}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=32}}。ネーデルラントではこうした背景から初期の北方ルネサンスに該当するものは15世紀の絵画に限定され、建築分野や彫刻分野はあくまでゴシック美術の枠内に留まっていたと考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=81}}。 さて、この新しい油彩技法が採用された最初の作品として挙げられるのは、兄[[フーベルト・ファン・エイク|フーベルト]]が着手し、弟[[ヤン・ファン・エイク|ヤン]]が完成させたファン・エイク兄弟による『ヘントの祭壇画』である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=81}}{{refnest|group=注釈|両者の担当区分については議論が交わされてきたが、平面性を重視した構図を採用した部分がフーベルト、アダム、イヴの仰瞰像および現実的な奥行き感を表現した受胎告知の部分がヤンの手によるものであるとするのが今日の定説となっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=81-82}}。}}。ヤンは[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]]の宮廷画家としてその後も精力的な活動を続け、数々の宗教画や肖像画を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=82}}。中でも『ニコラ・ロランの聖母』は、室内に視点を設定しつつもテラスの向こう側に透視図法に従った精微な風景を描くことによって、不自然さを感じさせること無く室内と外景の統合に成功した画期的な作品として特筆される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=82}}。ヤンの空気遠近法を駆使した奥行き感の描写は以後のネーデルラント画派へ受け継がれていき、北方ルネサンスの大きな特徴として取り上げられるまでになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=82}}。 [[File:Robert Campin 010.jpg|thumb|left|250px|[[ロベルト・カンピン]]の『メロードの祭壇画』(1430年頃)。]] 同じ頃、トゥルネーで活躍していた[[ロベルト・カンピン]]は写実的な技法で描かれた日用品の多くにキリスト教の象徴的意味を秘めさせた作品を制作し、こうしたテクニックがカンピンを師事した[[ロヒール・ファン・デル・ウェイデン]]によって継承された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}。ウェイデンは肖像画においても卓越した手腕を見せ、1450年に訪れたイタリアでも賞賛を受けている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}。 その後はヤンやロヒールの技法様式に色濃く影響を受けた[[ディルク・ボウツ]]、[[フーゴー・ファン・デル・グース]]、[[ハンス・メムリンク]]らがルーヴァン、ヘント、ブルッヘなどを中心に活躍した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}。特にファン・デル・グースが作成した羊飼いたちの写実的表現と細微な風景の装飾的な配置が施された『ポルティナーリ祭壇画』は、後にフィレンツェに持ち込まれ、フィレンツェの画家たちに大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}。一方、[[ヒエロニムス・ボス]]は同時代の異色の画家として知られ、人間の悪徳とその懲罰という中世的な思想背景をもとに生み出された数多くの怪物や地獄の描写は、やがて到来するシュールレアリスムを予告しているかのように見られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=114}}。 同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=83-84}}。そのような中、[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の宮廷画家をしていた[[ジャン・フーケ]]が『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。しかし、{{仮リンク|アンゲラン・カルトン|en|Enguerrand Quarton}}など、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。 対してドイツの美術はネーデルラント絵画の影響下にあり、[[シュテファン・ロッホナー]]や[[コンラート・ヴィッツ]]などが活躍した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。特に、ヴィッツの『奇蹟の漁獲』は特定可能な現実の景観を描いた最初の作例として良く知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。15世紀後半に入ると、{{仮リンク|ミヒャエル・パッハー|en|Michael Pacher}}によって雄渾な絵画や細微な彫刻祭壇が制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。また、新しい分野として版画美術が伸張し、[[マルティン・ションガウアー]]の登場で技法はさらに洗練され、後世の巨匠[[アルブレヒト・デューラー]]の芸術を育んだ土壌を形成している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。 [[File:David von Michelangelo.jpg|thumb|150px|[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]の『[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダヴィデ]]』。]] ===イタリア盛期ルネサンス美術=== {{main|盛期ルネサンス}} イタリアルネサンスのうち、15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は特に盛期ルネサンスと呼称し、区別される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=86}}。これは19世紀に定まった芸術観を背景として、この時代を古代ギリシア・ローマと並ぶ西洋美術の完成期と見做し、それ以前を完成に至る準備段階として軽視していた考え方が根付いたためである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=86}}。しかし、今日では「初期ルネサンス」「盛期ルネサンス」を比較し、どちらが優れているかといった考え方は改められ、それぞれに特質や魅力が備わっている別個の美術として理解されてきており、その違いを区別するための名称として使用されるようになっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=86}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=241}}。主たる舞台は[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]の庇護のもとで活気を取り戻したローマと、東方とヨーロッパ諸国を結ぶ貿易で巨万の富を築いたヴェネツィアである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=87}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=216-218}}。 [[File:Mona Lisa, by Leonardo da Vinci, from C2RMF retouched.jpg|thumb|left|150px|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の『[[モナ・リザ]]』。]] 1470年代から活動をはじめた[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は、新しい芸術様式の創始者として活動当時から認識されており、巨匠と呼ぶにふさわしい功績を数多く獲得した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=87}}。ヴェロッキオを師としてフィレンツェで修行を積んだ後、軍事技師、画家、彫刻家、建築家としてミラノ公の宮廷に仕えたレオナルドは、その多才ぶりを遺憾なく発揮し、多数の作品を後世に伝え、現代に至るまでの芸術家に大きなインパクトを残している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=87}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=279}}。 絵画では『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』や『[[モナ・リザ]]』などを制作しており、特に『モナ・リザ』に使用された新しい技法であるスフマート(ぼかし)は、画面に新たな統一感をもたらし、人物に精気と神秘的雰囲気を与える技法として西洋絵画の様相を一変させるほどの影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=40}}{{refnest|group=注釈|スフマート自体はつたないながらも先に描いた『岩窟の聖母』で使用が試みられている{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|pp=242-244}}。}}。また、自然科学の分野では、鋭い観察力と的確な描画力で解剖学や水力学などの研究に先駆的な業績を残したことも特筆すべき事項である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=87}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=42}}。 一方、ギルランダイオに師事した[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]は人体における新しい表現様式を確立させ、彫刻、絵画の分野において突出した作品を生み出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=48}}。ミケランジェロが制作した『ダヴィデ』はルネサンス全体を通して代表的な作品として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=247}}。ローマに赴いた後、ミケランジェロは[[システィーナ礼拝堂]]の[[システィーナ礼拝堂天井画|天井画]]を手がけ、『創世記』の諸場面やキリストの祖先たちの姿を描き出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}。特に『アダムの創造』では超越者と人間アダムの邂逅が印象的なタッチで描かれ、アダムの姿は盛期ルネサンスにおける理想的人間像として高い評価を獲得した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}。従来、ミケランジェロは色彩の乏しい画家との評価がなされてきたが、『アダムの創造』が洗浄され、その色使いが露になったことで、その評価を覆した作品としても名高い{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=249}}。 また、同じシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』では、悲劇的な装いの中にもヘレニズム彫刻的な逞しさを身に纏ったキリストらの肉体を描き出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}。1546年に[[ドナト・ブラマンテ]]の後を継いで[[サン・ピエトロ大聖堂]]建築の総監督に任じられるとブラマンテの構想を継承しつつ、新たに円蓋および建物後方部の設計を行っており、古代建築の本質を体現させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=88-90}}。 [[File:Raffael 058.jpg|thumb|250px|[[ラファエロ・サンティ]]の『[[アテナイの学堂]]』。]] ペルジーノに師事した[[ラファエロ・サンティ]]は、レオナルドやミケランジェロの業績を巧みに取り入れ、20代半ばの若さで独自の人物表現と画面構成の形式美を確立させ、『[[アテナイの学堂]]』に代表される[[バチカン宮殿]]の壁画を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=90-92}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=292}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=253}}。ラファエロが確立した形式美は盛期ルネサンス以降の代表的規範として17世紀から19世紀にかけての多くの画家に影響を与え続けた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=92}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|pp=51-52}}。 [[File:Tizian 085.jpg|thumb|left|180px|[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]の『[[エウロペの略奪 (ティツィアーノ)|エウロペの掠奪]]』。]] この時代、教会や公共施設による注文以外にも富裕層からの注文による美術品の制作が盛んに行われ、[[ジョルジョーネ]]の『嵐』に代表されるような周知の物語主題から逸脱した、絵画の感覚的魅力を優先する作品が数多く登場したのも、盛期ルネサンスの特色のひとつと言える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=92}}。 こうした市場ニーズに呼応してヴェネツィアでは色彩と絵具の塗り方が重要な地位を占めるようになり、デッサンに彩色するフィレンツェの技法に対して色彩で造形するという新しい技法が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=92}}。レオナルドのスフマートを取り入れつつ、この技法を確立させたのがジョルジョーネであり、早世したジョルジョーネの後を受け継いで油彩技法のあらゆる可能性を探究した[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=92-93}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=232-233}}。 宗教画家・肖像画家としても絶大な人気を誇っていたティツィアーノであるが、『芸術家列伝』を著した[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]は、ティツィアーノが描いた『[[エウロペの略奪 (ティツィアーノ)|エウロペの掠奪]]』について「近くから見るとわけがわからないが、離れて見ると完璧な絵が浮かび上がってくる」と評しており、近代油彩画の創始者としてしばしば名が挙げられるようになっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=93}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=257}}。同時に、静的な伝統を持つヴェネツィア絵画にダイナミズムを導入したこともティツィアーノの功績として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=93}}。 [[File:Tintosoup.jpg|thumb|250px|極端な短縮法や奇抜な遠近法といったマニエリスム独特の技法が用いられている[[ティントレット]]の『最後の晩餐』。]] ===マニエリスム美術=== {{main|マニエリスム}} [[マニエリスム]]という言葉は「様式」や「手法」を意味するイタリア語 ''maniera'' から来た言葉で、ヴァザーリはこれを「自然を凌駕する高度の芸術的手法」と定義付けた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=93}}。しかし、17世紀に入った頃より、生み出される芸術は創造性を失い、盛期ルネサンス時代の巨匠たちの模倣に過ぎないと見做されるようになり、否定的呼称として用いられるようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=93-95}}。その後、21世紀に入って対比評価と切り離され、盛期ルネサンスの特徴であった自然らしさと自然ばなれの調和が崩れ、自然を超えた洗練、芸術的技巧、観念性が存在する作品が登場した盛期ルネサンス後の芸術的動向を指し示す時代様式名として用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。 最初にマニエリスムの名が冠されたのは、ルネサンスの古典的調和への意識的反逆と解釈された[[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]や[[ロッソ・フィオレンティーノ]]の作品であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。しかしながら、ミケランジェロの後半期作品をマニエリスムに含める見方や、[[アーニョロ・ブロンズィーノ]]、[[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]、[[ジャンボローニャ]]のような社会に享受された奇想を指してマニエリスムと呼称する解釈もあり、その範囲や定義は今日なお流動的である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。 [[File:Chiesa gesu facade.jpg|thumb|left|180px|イエズス会の母教会として建築された[[ジェズ教会|イル・ジェズ聖堂]]。]] 16世紀初頭は盛期ルネサンスの様式とマニエリスム美術が混ざり合った混沌とした時代であったが、アルプス以北の諸国では比較的早くからマニエリスム美術が受容され、[[フォンテーヌブロー派]]による作品が複数残されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。ヴェネツィアでは盛期ルネサンスが他地域よりも持続するが、16世紀後半に入ると[[ティントレット]]が登場し、その画風にマニエリスムの特徴が見て取れるようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。その後、ティントレットの影響を受けたクレタ島出身の[[エル・グレコ]]が、ローマでミケランジェロの芸術に感化され、スペインのトレドでマニエリスム的特徴とヴェネツィア絵画的筆致を融合させた宗教画を作成している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。 一方、パルマでは[[コレッジョ]]がマンテーニャの試みを発展させた、感覚的魅力に溢れた作品を制作しており、その中で導入された明暗対比の強調や、天井画におけるダイナミックな上昇表現などは、後世のバロック美術の到来を予告しているかのような雰囲気を醸している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。その他、盛期ルネサンスとバロック美術の橋渡し的な存在となった画家としては[[パオロ・ヴェロネーゼ]]がいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。ヴェロネーゼが制作した『[[レヴィ家の饗宴]]』は当初、『最後の晩餐』と題していたが、主題と無関係な人物を多数描き込んだ事で異端尋問にかけられ、「美しい絵を作る画家の自由」を主張し、タイトルの変更を余儀なくされた作品として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。 建築分野では『建築四書』を著した[[アンドレーア・パッラーディオ]]の名が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。パッラーディオが設計した[[ヴィラ・アルメリコ・カプラ]]は古典主義建築の規範を示す作品として19世紀に至るまで国際的影響力を固持した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。16世紀後半には[[ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ]]、[[ジャコモ・デッラ・ポルタ]]によってイエズス会の母教会『[[ジェズ教会|イル・ジェズ聖堂]]』が建てられ、外観正面のデザインや身廊と円蓋下の明暗対比などの構成要素が、バロック美術における聖堂建築の原形となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。 [[File:Dürer Melancholia I.jpg|thumb|180px|[[アルブレヒト・デューラー]]の銅版画『[[メランコリア I]]』。]] ===北方ルネサンス美術=== {{main|北方ルネサンス}} ドイツのデューラーは、15世紀末から16世紀初頭にかけて行った二度のイタリア旅行を通してルネサンス美術の様式と理念を習得し、人体表現、空間表現において理想とされる技法様式をドイツ絵画へ移入しようと試みた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=287}}。この成果は木版画の分野において、ドイツの伝統的な表出性とイタリアの記念碑性を融合させて制作された『黙示録連作』で体現されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。銅版画の分野では[[エングレービング]]技法を極め、『メランコリア I』や『アダムとエヴァ』といった人文主義的内容の作品、理想的裸体像を持った作品を制作し、ルネサンスの母国イタリアへも大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。また、油彩画では『4人の使徒』が代表的な作品として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。その他、『人体均衡論』などの著述にも注力し、後世の芸術家に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。 線描主体であったデューラーとは対照的に、色彩表現に長けていた[[マティアス・グリューネヴァルト]]は『イーゼンハイム祭壇画』などを制作し、ゴシック末期美術の幻想性を継承した特徴を内包している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。また、[[ルーカス・クラナッハ|クラーナハ(父)]]はドイツの森を舞台として古代神話の主題を表現したことで知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。『ドナウ風景』は西洋美術史上初めて具体的な実景を人間存在抜きで描いた画期的な作品として特筆される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。 [[File:Fontainebleau interior francois I gallery 01.JPG|thumb|left|200px|[[フォンテーヌブロー宮殿|フォンテーヌブロー城館]]の『フランソワ1世のギャラリー』。]] 1517年、[[マルティン・ルター]]によって[[宗教改革]]の機運が高まると美術活動にも深刻な影響を与え、宗教美術が否定的に見られるようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。[[ハンス・ホルバイン|ホルバイン(子)]]ら宗教画家として活動していた者は次第に肖像画家や宮廷画家へと転向していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。 フランスでは<span lang="ja" dir="ltr">1494年</span>のイタリア遠征でルネサンスの美術に触れた[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]によって多くの建築家が招聘され、王室主導の下建築を中心としたフランスルネサンスが開花する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の時代にはロワール川流域の城館改修が実施され、ゴシック建築の伝統とイタリアルネサンスの特色が融合された建築物が多数登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。また、1520年代末にはフォンテーヌブロー城館の改装が始められ、[[ロッソ・フィオレンティーノ]]、[[フランチェスコ・プリマティッチオ]]らを招いて内部装飾を手がけさせた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。ここから誕生したイタリアのマニエリスムを体現したロッソらの作品は、フォンテーヌブロー派と呼ばれる宮廷美術様式を生み出す契機になった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。その他、ドイツのホルバイン(子)に共通する精緻な様式を確立させた{{仮リンク|ジャン・クルーエ|en|Jean Clouet}}、[[フランソワ・クルーエ]]父子や、チェッリーニの影響を受けつつもフランス独自のルネサンス彫刻を誕生させた[[ジャン・グージョン]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。 [[File:Pieter Bruegel d. Ä. 106b.jpg|thumb|250px|[[ピーテル・ブリューゲル]]の『雪中の狩人』。]] 他方、ネーデルラントの絵画美術は15世紀の段階で成熟し、油彩技法や写実的表現においてイタリアに影響を与える側であったが、盛期ルネサンスを迎えて以降は立場が逆転し、イタリアの美術や古典古代の美術を手本として仰ぐようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=98-99}}。16世紀初頭に活動した[[クエンティン・マサイス]]の画風にはレオナルドのスフマートの影響が見て取れ、[[ヤン・ホッサールト]]は古代彫刻風裸体像を描き出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。また、[[ベルナールト・ファン・オルレイ]]は数学的遠近法、短縮法、複雑な運動表現をネーデルラント美術に取り入れた画家として重要である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。こうした、15世紀ネーデルラントの精緻な様式からの脱却と、ルネサンスの壮大な様式への推進を行う者を総じて「ロマニスト」と呼び、こうした傾向自体が16世紀ネーデルラント絵画の特徴のひとつとして挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。 肖像画においては[[アントニス・モル]]が国際的な活躍を果たしたと同時に、ネーデルラント北部の美術活動の活性化に大きく貢献した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。デューラーの影響を受けつつも精緻な銅版画を制作した[[ルーカス・ファン・レイデン]]などは北部で活躍した代表的な美術家の一人である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。さらに、1524年にローマからユトレヒトに戻った[[ヤン・ファン・スコーレル]]の影響によってロマニストの活動は北部へも浸透していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。16世紀後半にはプロテスタントの聖像破壊運動などによる宗教的、政治的騒乱が美術活動の発展を妨げたが、16世紀末に登場した[[コルネリス・ファン・ハールレム]]、[[ヘンドリック・ホルツィウス]]らの活躍により、プラハと並んでハールレムが国際マニエリスムの中心地として栄えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。 16世紀ネーデルラント絵画のもう一つの特徴としては風俗画、風景画、静物画の自立が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=99-100}}。[[カタリナ・ファン・ヘメッセン]]および[[ピーテル・アールツェン]]を嚆矢とするこの傾向は、16世紀初頭の[[ヨアヒム・パティニール]]によって大きく前進を見る{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=100}}。パティニールは観察と空想から合成された俯瞰図の中に宗教主題の人物を点景として描き表し、人物と背景の関係性の逆転に成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=100}}。その後、[[ピーテル・ブリューゲル]]によってこの様式は完成され、後世に多大な影響を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=100}}。『雪中の狩人』はその代表的な作品のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=100}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=177}}。 [[File:Michelangelo Caravaggio 069.jpg|thumb|180px|[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ]]による『聖母の死』。]] ===バロック美術=== {{main|バロック美術}} 異論はあるものの17世紀の西洋美術時代様式を一般に[[バロック美術]]と称する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=157}}。バロックという言葉の意味については諸説あるが、「規範からの逸脱」を示す形容詞として18世紀末ごろより使用されはじめ、建築を中心とした17世紀の美術に対して否定的な意味で適用された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|pp=158-159}}。また、狭義には17世紀美術の傾向の一つという意味で使用され、劇的で奔放な特徴を持つ17世紀の作品に対してのみ適用される場合もある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=157}}。 この時代、盛期ルネサンスの伝統を受け継ぎつつも、より現実に即した表現が強調されるようになり、時間の概念を取り入れた風俗画、風景画、静物画など、実社会により密着したテーマを選定する様式が確立する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。活動の舞台はローマを中心に展開されていたが、18世紀初頭にかけて[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の治世には、フランスが政治面とともに文化面でも中心的役割を果たすようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。 [[File:Rome Palazzo Farnese ceiling Carracci frescos 04.jpg|thumb|left|250px|[[アンニーバレ・カラッチ]]の『バッカスとアリアドネの勝利』。]] 16世紀後半、イタリアの美術活動はそのほとんどをヴェネツィアに依拠していたが、この状況を打破しようと[[アンニーバレ・カラッチ]]によって1580年代のボローニャにアカデミア(画塾)が設立される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。古代美術と盛期ルネサンス美術の理想性とモデルの写生素描という現実性の融合を試みた追究は広く支持され、[[ボローニャ派]]と呼ばれる新しい作風の体現に成功した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。また、カラッチは理想化されたローマ近郊の風景の中に聖書の人物を描き込む「古典主義的風景画」を創始したことでも知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。 カラッチの影響を受け、宗教画の人物を現実的な庶民の姿で描き出した[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ]]の作品は、その斬新な主題の描き方で大きな議論を巻き起こした{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=103}}。冒涜的とみなされ、『聖母の死』の例のように教会に引き取りを拒否される場合もあれば、カラヴァジェスキと呼ばれる狂信的な追従者を生み出す結果にも繋がっており、西欧絵画全体に大きな影響を及ぼした人物の一人であったことは疑いが無い{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=103}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=160}}。 彫刻および建築の分野では[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]がこの時代の代表的な美術家として名が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=103}}。若くして名声を確立したベリニーニは『聖テレジアの法悦』で現実の光を巧みに取り入れた彫刻と建築を組み合わせた作品を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=103-104}}。その他、多くの噴水彫刻の設計にも携わり、ローマの景観を作り変えたと言われるほどの影響を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=104}}。ベルニーニに師事し、終生のライバルでもあった[[フランチェスコ・ボッロミーニ]]も、独創的な建築表現で名を残した一人である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=104}}。代表的な建築物としては[[サン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂]]があり、絵画や浮彫による装飾を必要最低限に抑え、波打つようなカーブや圧力で歪んでいる様な緊張を感じさせる、特異な壁面構成の効果を引き出すことに成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=104}}。 [[File:Ecstasy St Theresa SM della Vittoria.jpg|thumb|180px|[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]による『[[聖テレジアの法悦]]』。]] フランドルでは[[ピーテル・パウル・ルーベンス|リュベンス]]の登場により新しい絵画の様式が確立される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=104-106}}。10年近くの間イタリアに滞在し、盛期ルネサンスの美術を習得したリュベンスは、ネーデルラントに帰国した後に制作した『キリスト昇架』によって、ヘレニズム彫刻やミケランジェロを想起させる人体表現とカラヴァッジオに見られる明暗法を見事に融合させ、壮麗で活力漲る独自の方式を完成させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=106-107}}。リュベンスはカトリック復興の気運高まる当時の社会背景から多数の祭壇画を制作する一方で各国宮廷に向けた大規模な建築装飾画を創出し、国際的な評価を獲得した。また、晩年にはブリューゲルの伝統を発展させたフランドルの自然を描き出し、風景画の新たな局面を生み出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。 [[File:Johannes Vermeer (1632-1675) - The Girl With The Pearl Earring (1665).jpg|thumb|left|150px|[[ヨハネス・フェルメール]]の『[[真珠の耳飾りの少女]]』。]] その他、フランドルを代表する画家としては[[アンソニー・ヴァン・ダイク]]、[[ヤーコブ・ヨルダーンス]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。リュベンスの助手として出発し、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の宮廷画家として半生をイングランドで全うしたヴァン・ダイクは、優雅で細線な自身の特徴を活かして肖像画の分野において独自性を発揮し、貴族的肖像画の規範を築き上げた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。ヨルダーンスは宗教画や神話画を風俗画的観点で描き出すことを得意とし、庶民的な活力溢れる作品を残している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。また、17世紀の美術愛好家の蒐集を描き出した「画廊画」という画種も、フランドルの特徴のひとつとして取り上げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。 16世紀末にオランダ共和国として独立したネーデルラント北部では、国際貿易による経済発展を背景として市民層に向けた作品が大いに発達した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=107-108}}。市場競争での勝ち残りをかけた熾烈な技巧発達が見られ、卓越した技術を持った画家を数多く輩出した点は特筆に価する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=108}}。アムステルダムを活動の拠点においた[[レンブラント・ファン・レイン]]はその最たる例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=108}}。その他集団肖像画や半身像の風俗画を得意とした[[フランス・ハルス]]、寓意や諺、民間行事を主題とした作品を描き続けた[[ヤン・ステーン]]、日常行為に携わる人物を静物画のタッチで捉えて風俗画の新たな境地を開拓した[[ヨハネス・フェルメール]]などが代表的な画家として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=109}}。とりわけ、フェルメールは19世紀に入ってその近代性が大いに注目を集め、17世紀最大の画家として評価されるに至った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=110}}。 他方、写実的傾向が強まった17世紀のスペインでは[[スペイン黄金世紀|黄金時代]]と呼ばれるほどの美術繁栄がもたらされ、[[ディエゴ・ベラスケス]]や[[フランシスコ・デ・スルバラン]]、[[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]]といった巨匠が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。ベラスケスはカラヴァッジオの影響著しい活動初期を経てヴェネツィア絵画やリュベンスとの接触によって自身の技法と様式を洗練させ、視覚的印象を的確に捉える新しい描法を編み出し、『ラス・メニーナス』を始めとする多くの作品を誕生させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。スルバランも同じくカラヴァッジオに強く影響を受けたセビーリャの画家であるが、素朴で[[神秘主義]]的な様式を確立させ、静物画や宗教画を厳格な筆致で描き上げた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。ムリーリョは[[フランドル絵画]]に影響を受けた画家で、華麗な色彩で甘美な宗教画を制作するとともに、風俗画においても人気を博した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。写実的傾向の推進は下地となったイスラム美術の影響と相俟ってバロック美術が内包する装飾性の強化に繋がり、この時代のスペイン美術の特徴として表されるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。[[スペイン黄金時代美術]] [[File:Rubens The Feast of Achelous 1615.JPG|thumb|250px|[[ピーテル・パウル・ルーベンス|リュベンス]]の『アケロオスの祝宴』。]] フランス絵画では終生をローマで活動した[[ニコラ・プッサン]]、[[クロード・ロラン]]が代表的な画家として取り上げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=112}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=196}}。ラファエロとカラッチの影響を強く受け、厳格な古典主義様式を確立させたプッサンは『アルカディアの牧人』を筆頭に、古典や神話、聖書の主題を考古学的時代考証を交えて描き出すという理知的な作品の創出に注力した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=112}}。また、ロランは古典主義的風景画の展開に大きな足跡を残した人物として知られ、ローマ郊外の田園やナポリ湾の風景を理想化して古代の情景として登場させ、過去への郷愁を想起させる詩的風景画を誕生させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=112}}。両名の芸術はイタリア、フランスの上流階級層に広く受け入れられ、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が設立した王立アカデミーにおいてはラファエロやカラッチとともに規範として仰がれるまでの影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=112}}。一方で建築分野においてはイタリア起源のバロック建築に対して古典主義建築がフランスの様式であるとする考えが広まり、[[クロード・ペロー]]の[[ルーヴル宮殿]]を筆頭に古代風様式に基づく建設が各地で行われた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=112-113}}。また、[[ジュール・アルドゥアン=マンサール]]、[[ルイ・ル・ヴォー]]、[[アンドレ・ル・ノートル]]らによって造営された[[ヴェルサイユ宮殿]]は宮殿建築の範例として大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=113}}。 ===ロココ美術=== {{main|ロココ美術}} 1710年代から60年頃までのフランスの美術様式を中心とした時代様式を一般にロココ美術と呼称する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。ロココという言葉は、後世の新古典主義時代に[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]時代の美術を軽視して呼び始めた事を嚆矢とし、バロック建築における庭園装飾で使用されたロカイユと呼ばれるデザインに端を発する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。現代においては該当する時代の美術を判然とロココ美術と呼ぶようになったため、性質や指向の相反する文化現象が同様の名の下に冠されることが美術史的観点から問題となっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。 [[File:L'Embarquement pour Cythère, by Antoine Watteau, from C2RMF retouched.jpg|thumb|250px|[[アントワーヌ・ヴァトー]]の『キュテラ島の巡礼』。]] この時代の美術史を概観すると、建築、絵画において特徴的な発展が見られる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。{{仮リンク|ガブリエル=ジェルマン・ボフラン|en|Germain Boffrand}}らによって建造された{{仮リンク|オテル・ド・スービーズ|en|Hôtel de Soubise}}は、白地に金の装飾が施された壮麗な室内はロココ建築の特徴を現す代表的な作例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。17世紀後半にはギリシア美術、ローマ美術への関心が高まり、[[アンジュ=ジャック・ガブリエル]]によって古代風の柱を採用した[[小トリアノン宮殿]]が建設された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。その他、イタリアの建築家[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ]]はローマ古代遺跡の壮大さを現し、後世[[新古典主義]]や[[ロマン主義]]に大きな影響を与えたことで知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=120}}。 工芸分野が黄金時代に達したのはロココ美術の大きな特徴で、家具、金工、服飾、陶器などの各分野で質の高い作品が生み出された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=115}}。ドイツの[[マイセン (陶磁器)|マイセン]]が飛躍的進歩を遂げたのもこの時代である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=115}}。彫刻分野では{{仮リンク|ジャン=バティスト・ピガール|en|Jean-Baptiste Pigalle}}、{{仮リンク|エティエンヌ=モーリス・ファルコネ|en|Étienne Maurice Falconet}}、[[ジャン=アントワーヌ・ウードン]]らが活躍したが、主要な領域たりえるには至らなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=115}}。 絵画におけるロココ美術の始祖は[[アントワーヌ・ヴァトー]]であると言われている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=115}}。フランドル地方出身のヴァトーは、パリでの修行過程において様々なテーマ、様式の美術と接触することで才能が開花した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=115-117}}。中期の代表作『キュテラ島の巡礼』に示された戸外での男女の戯れを表現する画題は「雅な宴(フェート・ギャラント)」と呼ばれ、ロココ美術を語る際に不可欠な要素へと昇華し、[[ニコラ・ランクレ]]や[[ジャン=バティスト・パテル]]などによって追随する形で同様の画題作品が発表されるなど、同年代を含む後世の画家に多大な影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=117}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|pp=210-212}}。フェート・ギャラントは[[ポンパドゥール夫人]]の庇護を受けた[[フランソワ・ブーシェ]]によって官能性を帯びた雰囲気を醸し出すようになり、ヨーロッパ中へ広まった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=117}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|pp=216-217}}。こうした画風はロココ美術最期の画家とされた[[ジャン・オノレ・フラゴナール]]へと受け継がれていくこととなる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=118}}。一方で市民的な感性では家族的テーマが好まれる時代となり、[[ジャン・シメオン・シャルダン]]や[[ジャン=バティスト・グルーズ]]に代表されるような市井の人々の様子を描いた人物画や、中産階級の家庭の一端を描いた静物画などが数多く生み出された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=118}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=217}}。 また、18世紀中ごろより定期的にサロンが開かれるようになり、芸術品が不特定多数の目に触れる機会を持つようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=119}}。これによって[[ドゥニ・ディドロ]]に代表される美術批評の誕生、画商の増加といった社会的傾向が発生し、芸術家とパトロンの関係性に変化が見られるようになったのも時代の特徴を示す出来事として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=119}}。 一方、イタリアでは[[アレッサンドロ・マニャスコ]]、[[ジュゼッペ・マリア・クレスピ]]らによって新しい方向性を持った絵画が生み出された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=120}}。18世紀に入ると[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]が登場し、白を基調とした明るい天井画や壁画を制作し、重量感を取り去った自由な装飾作品が生まれている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=120}}。また、イギリスでは大陸美術の輸入により絵画技法が飛躍的に向上したのが18世紀で、19世紀に到来する黄金期の準備段階のような時代となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=119}}。代表的な画家としては[[トマス・ゲインズバラ]]、[[ジョシュア・レノルズ]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=119}}。 == 近代 == [[File:Psyche revived Louvre MR1777.jpg|thumb|200px|[[アントニオ・カノーヴァ]]の『アモールとプシケー』。]] [[File:Église de la Madeleine 3753x3156.jpg|thumb|200px|[[マドレーヌ寺院]]<br>-[[1842年]]]] ===18世紀から19世紀の美術 === {{main|新古典主義|ロマン主義|写実主義}} フランス革命から第二帝政期に至る18世紀から19世紀にかけてのフランスを中心とした美術様式は、一般に新古典主義、ロマン主義、写実主義の3期に分けて考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。18世紀前半に火山噴火によって埋没したローマの古代都市[[ヘルクラネウム]]、[[ポンペイ]]が発見されたことにより、古典・古代の美術を自身の規範としようという機運が高まり、[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]の思想的支柱を得たことでギリシア美術の模倣を尊ぶ志向がヨーロッパ中を席巻する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=222}}。これは、享楽主義的なロココ美術に反感思想を持つ人々の運動であったとも言われている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。その後、ナポレオンの帝政期を経ることでフランスでは帝国の栄光を誇示する美術様式へと変容していき、各国に対する影響力を衰退させる事となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。ナポレオンは絵画を重要なプロパガンダ手段として捉えていたこともあり、皇族の儀式を描いた作品や家族や側近の肖像がなどが大量に制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。しかし、こうした動きは若い芸術家を中心に焦燥感をもたらす結果となり、主観的な激情に溢れ、社会的矛盾を糾弾するリアリスティックな作品が登場する素地を形成した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。同時に、フランス美術の影響力から脱却した周辺各国は国々の歴史や風土に根ざした美術の開花を促進させ、普遍的な古典・古代美術の模倣から国々の特殊性へと関心が移行することとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。これにより、古典的様式が最良とする考え方は捨て去られ、時と場合に応じた適切な美術様式が選択される折衷主義とも呼べる様式が到来することになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。19世紀中ごろには支配層への不満を募らせた市民社会に対応するかのごとく、社会の現実に目を向け、身の回りの自然を描いた風景画が制作されるようになり、フランス文学とも連動して近代芸術の基調を形成する一大潮流が形作られた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。 [[File:Jacques-Louis David 007.jpg|thumb|left|200px|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の『アルプスを越えるナポレオン』。]] 建築分野では古代建築遺構の本格的な調査によって建築部位の比例や柱式の決定が討議され、18世紀後半に入ると古代建築を規範とした建物の造営が本格化した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。パリの[[サント=ジュヌヴィエーヴ修道院]]を建設した{{仮リンク|ジャック=ジェルマン・スフロ|en|Jacques-Germain Soufflot}}は、コリント式の列柱廊を採用し、古代美術の端正で素朴な様式を取り込むことに成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。また、古典古代建築への関心から幾何学的比例を重視し、{{仮リンク|ラ・ヴィレットの関門|fr|Rotonde de la Villette}}や[[アル=ケ=スナンの王立製塩所]]を創出した[[クロード・ニコラ・ルドゥー]]や[[エティエンヌ・ルイ・ブーレー|アイザック・ニュートン記念碑]]を設計した[[エティエンヌ・ルイ・ブーレー]]は、空想的建築という新境地を開拓した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。考古学的関心が薄れ、帝国の威信表現が横行するようになると特定の建築様式が重視されることが無くなり、過去の様々な様式の応用によって建築がなされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。[[サント=マドレーヌ大聖堂 (ヴェズレー)|マドレーヌ聖堂]] 、[[カルーゼル凱旋門]]、[[マルメゾン城]]、[[ウェストミンスター宮殿]]などが代表的な建築物として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=123-124}}。 新古典主義時代の彫刻分野は規範とする古典古代の作例が充実していたこともあり、重要な美術分野として位置付けられた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=124}}。イタリアの[[アントニオ・カノーヴァ]]は代表的な彫刻家のひとりで、古代志向の特徴を忠実に再現した上で近代彫刻の複雑な構成を融合させることに成功し、『アモールとプシケー』などを制作した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=124}}。カノーヴァと双璧をなしたデンマークの[[ベルテル・トルバルセン]]はヘレニズム時代の彫刻に強い影響を受け、端正で典雅な作品を発表した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=124}}。その他、イギリスの[[ジョン・フラックスマン]]は形態把握と構成を古代彫刻に倣いつつもゴシック美術を彷彿とさせる流麗な作品を発表している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=124}}。新古典主義以降は材質の変化があらわれ、大理石以外の石材や青銅が好んで用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=124-125}}。また、表題も裸体に代わって時代考証を経た服装を纏うようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=125}}。しかし、美術全体で見ると新古典主義以降は絵画の影響強く低調に推移し、[[エトワール凱旋門]]の浮彫装飾を制作した[[フランソワ・リュード]]、肖像彫刻を数多く制作した[[ダヴィッド・ダンジェ]]、動物彫刻という異質性が話題となった{{仮リンク|アントワール・ルイ・バリー|en|Antoine-Louis Barye}}ら若干名の活躍に留まった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=125}}。 [[File:Theodore Gericault Raft of the Medusa-1.jpg|thumb|200px|政府への批判が込められた作品として大きな話題を巻き起こした[[テオドール・ジェリコー]]の『[[メデューズ号の筏]]』。]] 絵画分野において、フランスでは1760年代に登場した[[ジョゼフ=マリー・ヴィアン]]がロココ風のテーマの絵に古代の構図やポーズを借用した作品を発表して人気を博し、新古典主義時代の口火を切った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。その後、[[ドゥニ・ディドロ]]の影響を受けた[[ジャン=バティスト・グルーズ]]によってローマ史を主題とした作品が制作され、1780年代に入るとヴィアンに師事した[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]が登場して、新古典主義の栄華は頂点に達する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=220}}。ナポレオン革命期において、「皇帝の主席画家」の称号を得たダヴィッドが残した数多くの作品は後世の多方面に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。『[[ホラティウス兄弟の誓い]]』『[[ソクラテスの死]]』といった物語画はプッサンの影響が強く表われた作品に仕上がっており、『テニスコートの誓い』『マラーの死』などは革命期の視覚的記録として重要な意味を持つ作品として位置付けられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。 次代には優美なタッチで古代の叙情を再現した[[ピエール=ポール・プリュードン]]、劇的な表現描法を特徴とした[[ピエール=ナルシス・ゲラン]]らが登場し、新古典主義の作風に影響を受けつつもその変容を見ることが出来る{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。また、[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]の小説挿絵を担当した[[アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン]]は、古典的な形態に強い明暗を加えたことでロマン主義的な要素の萌芽を示した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。一方、同時代のナポレオンの肖像画や遠征絵画を制作していた[[アントワーヌ=ジャン・グロ]]、[[ドミニク・アングル]]らは新古典主義の正当後継者として、色彩に対する線の優位性、静的な構図といった新古典主義の綱領を最後まで保持した画家として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。その他、アングルの弟子からは[[テオドール・シャセリオー]]が頭角を現し、東洋的主題の作品を制作してロマン主義的資質を示した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=128}}。 [[File:Jean-François Millet (II) 002.jpg|thumb|left|200px|写実主義絵画を代表する作品として知られる[[ジャン=フランソワ・ミレー]]の『[[落穂拾い]]』。]] 1819年には[[テオドール・ジェリコー]]が1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の難破事件という時事的テーマを取り上げて『[[メデューズ号の筏]]』を発表したことで大きな議論が巻き起こる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=128}}。ジェリコーの作品は激しいタッチと運動感の描写によって表現され、その非古典主義的なテーマの開拓はロマン主義絵画の先駆者として名が上げられる一因となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=128}}。その後、『ダンテの小舟』を描いた[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]によって粗いタッチによる動的表現、東洋的主題の採用、色彩の乱舞といったロマン主義絵画の作風が示され、近代絵画の成立に多大なる影響を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=128}}。一方、同世代の[[ポール・ドラローシュ]]はロマン主義的主題を完璧な新古典主義様式で描き出すという移行期ならではの作風で一世を風靡した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=128-130}}。[[エコール・デ・ボザール]]の講堂壁画はその代表的な作品のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=130}}。 [[File:Rain Steam and Speed the Great Western Railway.jpg|thumb|200px|[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー]]の『雨、蒸気、速力 - グレート・ウェスタン鉄道』。]] 以上に挙げたように、19世紀前半のフランスでは文学的、歴史的テーマを描き出した作品が主流となっていたが、[[バルビゾン派]]の画家によって自然を的確に捉えた風景画作品が登場したのもこの時代であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=130-131}}。古典主義的端正さを保ちつつ、ロマン主義的な自然愛好的な心情に溢れた[[テオドール・ルソー]]、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]らの風景画は1830年代ごろより写実主義絵画として新たな局面を開くこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=130-131}}。1850年前後に入ると[[オノレ・ドーミエ]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]、[[ギュスターヴ・クールベ]]が登場し、写実主義絵画を代表する画家として知られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=131-132}}。1855年、パリの万国博覧会において、私費で個展を開いたクールベは世間に対して攻撃的に写実主義絵画の存在を知らしめ、19世紀後半に誕生する印象主義への潮流を築いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=132}}。 他方、イギリスのロンドンでは、1760年代に[[ベンジャミン・ウエスト]]によって新古典主義的絵画が持ち込まれると、ロイヤル・アカデミーの設立やフラックスマンの活躍などもあり、ローマやパリと並ぶ新古典主義絵画の中心地として栄えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=132}}。しかし、古典絵画を規範としつつも伝統に縛られない表現は比較的早くから実践され、[[ヨハン・ハインリヒ・フュースリー]]、[[ウィリアム・ブレイク]]といった、個性豊かな画家の輩出に成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=132}}。そういった意味では、主題面における絵画の近代化はフランスに先駆けてイギリスで起こったと言って良い{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=132-133}}。19世紀前半に入ると[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー]]の登場によってイギリス絵画は風景画黄金時代を迎えることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=133}}。18世紀に流行した地誌的水彩画から出発したターナーは光の表現を追究して油彩、水彩、素描を問わず多数の幻想的な風景画を世に送り出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=133-134}}。ターナーとは対照的に、空と雲の移り変わりを気象学に基づいた知識で精緻に描き出した[[ジョン・コンスタブル]]の作品は風景画の進むべき方向性を決定的なものとし、19世紀後半の印象主義絵画に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=134}}。 ドイツにおける新古典主義は1761年、[[アントン・ラファエル・メングス]]によって制作された『パルナッソス』にその影響を見ることができるものの、その後は代表的といえる程の画家は輩出されなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=134-135}}。19世紀初頭に入るとラテン的な形態把握とゲルマン的な内省性を融合させた作品が登場し、他国に無い特異な美術運動が展開された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=135}}。この運動は[[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]、[[フィリップ・オットー・ルンゲ]]らによる風景画の発展と[[フランツ・プフォル]]、[[ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック]]らによる人間表現の深化に大別することができる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=135}}。特にローマに移住した後、ラファエロやデューラーを規範としてキリスト教的作品の創出に注力したオーファーベックらの活動は[[ナザレ派]]と呼ばれ、後の[[ラファエロ前派]]に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=135-136}}。 その他、スペインに登場した[[フランシスコ・デ・ゴヤ]]もこの時代を代表する画家の一人である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=136}}。1799年に主席宮廷画家の地位に着いたゴヤは、その卓越した画力で戦争や侵略への憎悪を訴えた作品を多数発表した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=136}}。主観的な情熱を画題とし、作品に託したという点ではロマン主義美術の先駆者であると言える一方、人生の課題を作品に反映させたという点では近代芸術のあり方を示した最初の一人であると言える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=136}}。 [[File:Pari Opera outside.jpg|thumb|200px|[[シャルル・ガルニエ]]によるパリの[[ガルニエ宮|オペラ座]]。]] ===19世紀から20世紀の美術 === {{main|印象主義|象徴主義|後期印象主義}} 19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した時代でもあった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。このため、美術活動も大きな変革を伴ったのは必然といえる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。 建築分野では、[[シャルル・ガルニエ]]によるパリの[[ガルニエ宮|オペラ座]]に見られるような、古典主義を軸としながらも各種建築様式を折衷した建物の造営が主流となり、フランスを中心として高い芸術性を持った建物が各地に作られた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。[[ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク]]はこの奔流に抗い、機能主義理論を唱えたが、19世紀中には受け入れられず、[[アール・ヌーヴォー]]の建築分野において部分的に取り入れられたにすぎなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。19世紀後半に入ると鉄、ガラス、コンクリート、鉄筋コンクリートといった新しい建材が柱や壁などに大掛かりに用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。[[ジョセフ・パクストン]]の[[水晶宮]]は、初めて大量にガラスを用いた建造物として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=139}}{{refnest|group=注釈|水晶宮は1851年にロンドンで開かれた万国博覧会の会場として建設されたものであり、現在は解体されて残っていない{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=139}}。}}。また、[[シカゴ派]]と呼ばれるアメリカ高層建築の流入も、西洋の建築に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=139}}。シカゴ派を代表する建築家としてはシュレジンガー・マイヤー百貨店などを設計した[[ルイス・サリヴァン]]が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=139}}。 [[File:Hoellentor Detail gr.jpg|thumb|left|200px|単独作品としても評価されている[[オーギュスト・ロダン]]の『[[地獄の門]]』における『[[考える人 (ロダン)|考える人]]』。]] 彫刻分野では19世紀後半に入り、民族統一や自由を称える記念碑が公共記念物という形で数多く制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。特に有名なものとしては[[フレデリク・バルトルディ]]の『[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]』、[[ジュール・ダルー]]の『共和国の勝利』、{{仮リンク|ポール・アルベール・バルトロメ|en|Albert Bartholomé}}の『死者の記念碑』などが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。第二帝政期に入ると[[ジャン=バティスト・カルポー]]が登場し、『ウゴリーノと息子』『ダンス』『フローラの勝利』など、ロココ美術から受け継いだ優雅な形態とカルポー独自の動態表現を見事に融合させた作品を多数制作し、近代彫刻の父と言われる[[オーギュスト・ロダン]]に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。[[アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズ]]に師事したロダンは、イタリアでドナテッロやミケランジェロの作品に触れた後、1877年に『青銅時代』を発表した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。『青銅時代』は発表当時、あまりの自然的形態から、モデルから直接型取りしたのではないかと批判を浴びるほどであった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。注文彫刻として制作した『カレーの市民たち』では、注文という型にはめられた表現からの脱却を試みている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。ロダンは写実表現と劇的な内面表現を融合させることを追究し、終生の大作として『[[地獄の門]]』を制作した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。その他、19世紀末に活動したドイツの[[マックス・クリンガー]]は、1902年のウィーン分離派展で素材の多様性を追求した作品『ベートーヴェン』を発表して大きな成功を収めている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=141}}。 [[File:Edouard Manet 038.jpg|thumb|200px|[[エドゥアール・マネ]]の『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』。]] 19世紀に入ると絵画分野では、新古典主義の美学を維持しつつも社会情勢にあわせるかのように、新しい市民社会に適応する様々な表現の獲得をはじめた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=141}}。ブルジョワジーの趣味を作品に反映させた[[アレクサンドル・カバネル]]は、1863年にサロンに出品した『ヴィーナスの誕生』によって絶大な人気を博し、[[ジャン=レオン・ジェローム]]は『カエサルの死』に代表されるような、迫真の細部描写と瞬間映像的な場面設定で古代の主題を描きあげた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=141}}。また、[[ジュール・バスティアン=ルパージュ]]は印象派の色彩や筆致を取り込んだ自然主義的傾向の作品『干し草』を創出し、第三共和国政府の支持を獲得している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=142}}。 ドイツの[[アドルフ・フォン・メンツェル]]によって写実的に描かれた『圧延工場』はきわめて珍しい工場労働者を主題とした作品として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=142}}。メンツェルの例にあるように、農民や労働者といった現実的主題を優れた絵画才能によって描き出す画家が登場し始める{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=142}}。『草上の昼食』で一大騒動を巻き起こした後も、明るい色調と軽快なタッチで現代生活を主題にした数々の名作を生み出した[[エドゥアール・マネ]]はそうした若い画家たちの中心的存在として躍動し、1865年にサロンへ出品した『オランピア』で、古典的伝統を近代絵画へリンクさせる役割を担った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=143}}{{Sfn|『印象派の誕生』|2010|p=57}}{{refnest|group=注釈|『オランピア』はティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』に代表されるルネサンス以来の伝統的な横たわるヴィーナスの構図を借用しつつ現代パリの高級娼婦を描き出した作品である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=143}}。}}。こうしたマネの姿勢や表現方法は印象派の画家に重要な指針を与えることとなった{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=172}}。また、[[エドガー・ドガ]]は、オペラ座に集う貴族から底辺社会で生活を営む洗濯女まであらゆる階層の人々の現代生活を深く広く探求して得た主題を、知的な構図と優れたデッサン力で描き出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。特に、引き締まった肉体を持つ女性たちが様々な姿態を提供してくれるバレエの世界に共感を覚え、バレエを主題とした多くの作品を残している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。その他、日本の芸術が[[ジャポニスム]]と呼ばれ、西洋絵画に影響を与えたのも19世紀の出来事のひとつであった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。 [[File:Edgar Germain Hilaire Degas 009.jpg|thumb|left|200px|[[エドガー・ドガ]]の『舞台のバレエ稽古』。]] 19世紀後半に入ると、印象派と呼ばれる人々の描いた印象主義絵画が世を賑わすようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。「印象派」という呼称が誕生したのは1874年のことで、展覧会に出品していた[[クロード・モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[ポール・セザンヌ]]、ドガ、[[カミーユ・ピサロ]]、[[アルフレッド・シスレー]]らのスケッチ的な作品の性格をジャーナリストらが揶揄してつけたものに端を発する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。中でもモネは印象派グループを作り上げた最も偉大な画家として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=145}}{{Sfn|『印象派の誕生』|2010|p=155}}。印象派の「印象」はモネの作品「印象・日の出」から批評家が揶揄したことから定着した<ref>{{Cite web|和書|title=【超入門】西洋美術史・絵画史とは?年表順に解説|url=https://histo-graphy.com/12|website=Histography(ヒストグラフィー)|accessdate=2019-11-10|language=ja|last=2019/10/07 2019/11/06}}</ref>。 印象派画家は、絵具を用いて光を表現することを追究し、筆触分割や視覚混合といった科学的技法を作品に導入し、日本の浮世絵や写真などからヒントを得た構図の切り取りや大胆な俯瞰といった斬新な発想を取り入れた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=145}}。こうして制作された多くの作品は西洋絵画を新たな局面へ誘う重要な革新として後年高く評価される一因となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=145}}。また、印象派の活動を受けて、その理論をさらに発展させようと1880年代から1890年代にかけて活躍した[[ポール・ゴーギャン]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]らは後期印象派と呼ばれ、こちらも美術史における重要な働きを残した{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=174}}。 他方、芸術の卑俗化を嫌悪した芸術家たちによって内的な思考や精神世界、夢の世界を表現することが追究されるようになり、印象主義と並んで19世紀後半における芸術の重要な流れを形作ったのが[[象徴主義]]であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=147}}。その嚆矢とも言えるのがイギリスで起こった[[ラファエル前派]]の運動である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=147}}。[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]、[[ジョン・エヴァレット・ミレー]]、[[ウィリアム・ホルマン・ハント]]らによって結成された「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以後の絵画を退廃芸術とみなし、それ以前の誠実で理想的な芸術への回帰を主張し、初期ルネサンス時代の絵画に倣った画風で神秘と象徴の世界を描き上げた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=147}}。その他、象徴主義を代表する画家としては[[アルノルト・ベックリン]]、[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ]]、[[ギュスターヴ・モロー]]、[[オディロン・ルドン]]などが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=149}}。 こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、[[ユーゲント・シュティール]]、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=149}}。 == 現代 == [[File:Gustav Klimt 010.jpg|thumb|200px|[[グスタフ・クリムト]]の『[[ダナエ (クリムトの絵画)|ダナエ]]』。]] ===ベル・エポック=== [[ベル・エポック]](良き時代)とは、1900年から第一次世界大戦までの華やかで享楽的な時代を指すフランス語で、静かに忍び寄る戦乱の気配に耳を塞ぎ、束の間の繁栄と平和を享受した時代であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=154}}。芸術分野においては[[アール・ヌーヴォー]](新しい時代)、[[ユーゲント・シュティール]](青春様式)、[[モダニズム|モダニズム・スタイル]](近代様式)といった多彩な芸術運動がヨーロッパ中を席巻し、広い分野で相互交流による美術の追究が行われた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=154}}。[[世紀末芸術]]運動とも称されるこの運動は広範囲に及び、それぞれが独自色を保ちつつも新しさを求めようという共通認識の下に活動を展開していた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=154}}。代表的な活動グループとしては[[ウィリアム・モリス]]を中心とした[[アーツ・アンド・クラフツ|アーツ・アンド・クラフツ運動]]、『ルヴュ・ブランシュ』を中心としたフランス芸術家たち、ベルギーの前衛芸術グループ[[自由美学]]、『ユーゲント』『パン』を舞台としたドイツ画家グループ、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンで相次いで結成された[[ゼツェシオン|分離派]]グループなどが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=154-155}}。中でも[[グスタフ・クリムト]]を中心とした[[ウィーン分離派]]の影響力は強く、[[オスカー・ココシュカ]]、[[エゴン・シーレ]]といった表現主義的傾向を強烈に表した尖鋭画家や、[[アドルフ・ロース]]のような「装飾は犯罪である」といった思想を持った芸術家の誕生を促す結果となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=155}}。また、表現主義の原点とも言える[[エドヴァルド・ムンク]]や[[ジェームズ・アンソール]]、[[フェルディナント・ホドラー]]といった画家が躍動したのもこの時代である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=152}}。現代美術のはじまりは、こうした豊かで多様な世紀末芸術の成果を受け継ぎ、乗り越えることによって展開されていった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=155}}。 [[File:Wrightfallingwater.jpg|thumb|left|150px|[[フランク・ロイド・ライト]]の[[落水荘]]。]] ===現代建築=== {{main|モダニズム建築|ポストモダン建築}} [[オーギュスト・ペレ]]による鉄筋コンクリートを用いた建築技法の導入は、構造体としての抵抗力の強さを獲得するとともに自由な造形性を得ることに成功し、20世紀の建築美術は新たな局面を迎えることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=155}}。新しい建材の特性理解が浸透していくとともに、コンクリートの持つ可能性を引き出した自由な造形性を持った建築物が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。ゆるやかな局面と巨大な屋根を持った[[ル・コルビュジエ]]の[[ロンシャンの礼拝堂]]、何の支えも無い部屋が空中に突出しているかのような[[フランク・ロイド・ライト]]の[[落水荘]]などは、その代表的な作例として取り上げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。 建築家の社会的役割が変化したのも20世紀の特色のひとつで、建物の完成のみならず、都市社会における機能性や存在意義についてこれまで以上に配慮が必要となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。[[ヴァルター・グロピウス]]が幅広いデザイン教育の機関として[[バウハウス]]を設立したのも、こうした社会的要請を背景にしたものであった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。ル・コルビュジエはそうした機能主義を追究した建築家の一人でもあり、こうした流れが[[ミース・ファン・デル・ローエ]]や[[ヴァルター・グロピウス]]といった機能主義を標榜する建築家の誕生を促した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。機能主義建築は合理的形態、規格化、[[プレハブ工法|プレファブリケーション]]を推進し、大量生産と結びつくことで現代的な性格を持つに至った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。一方でこうした機能主義建築に機械的な冷徹さを感じ取った建築家は有機的建築を推進した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。先に挙げたサリヴァンやライトの他、世紀末建築の巨匠[[アントニ・ガウディ]]などもこの流れに含むことができる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。 第二次世界大戦によって芸術活動は空白の時間を迎えるが、多くの芸術家がアメリカに亡命したこともあり、戦後はアメリカを中心とした建築活動が展開された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=170}}。グロピウスやローエをはじめとするバウハウス系の建築家がアメリカで建築教育や設計活動に従事し、現代建築の実験場と揶揄されるほど様々な建築物がアメリカに誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=170}}。1950年代までは、画一的な建築の普及を目指すバウハウス系建築家がアメリカで大きく活動することによって、彼らの国際様式([[モダニズム建築]])が世界的なスタンダードとされていたが、次第にこれに反発する動向が見られるようになり、[[CIAM]](近代建築国際会議)の解散も相俟って地域や用途、建築家の感性によってふさわしい造形を決定する個性化の流れが生まれ、大胆な形態の組み合わせを見せる[[ポストモダン建築]]が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=171}}。 [[File:'Unique Forms of Continuity in Space', 1913 bronze by Umberto Boccioni.jpg|thumb|150px|[[ウンベルト・ボッチョーニ]]の『空間の中のユニークな連続の形態』。]] ===現代彫刻=== 20世紀の彫刻は、ロダンの影響を甘受し、脱却するところから始めねばならなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。画家から彫刻家へ転身し、ダルーのアトリエを通じてロダンと出会ったことでロダンに大きく影響を受けた{{仮リンク|メダルド・ロッソ|en|Medardo Rosso}}は、石材からの解放を目論み、素材に蝋や石膏といった伸びのあるものを採用した{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=86}}。蝋を素材とした『この子を見よ』では素材の流動性を生かした表現が見られ、その表面には印象派絵画にも似た光と影の絶妙なコントラストを生み出すことに成功している{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=86}}。ロダンの助手でもあった[[アントワーヌ・ブールデル]]は、ロダンの表現力と構想力を受け継ぎつつ、自己の様式確立を追及し、『弓を引くヘラクレス』によって男性的力強さを表現することに成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。女性像をモチーフとし、健康的で調和の取れた作品を創出した[[アリスティド・マイヨール]]は、ブールデルを通じてロダンに高く評価された彫刻家のひとりであるが、その作風はロダンのそれとは明らかに異なった性格を持ち、地中海的伝統を作品に刻みつける事で自己の確立を試みている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=86-87}}。初期の作品『地中海』は、古典主義的な落ち着きと調和が見られるマイヨールの代表作のひとつである{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=87}}。マイヨールの作品は後世の彫刻家にも影響を与え、[[マリノ・マリーニ]]、[[アメデオ・モディリアーニ]]といった芸術家の登場を促した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。 一方で[[キュビスム]]の彫刻は人体の統一性からの脱却を図り、自由奔放な新しい造形表現の獲得に成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=96}}。代表的な彫刻家としては[[パブロ・ピカソ]]、{{仮リンク|アンリ・ローランス|en|Henry Laurens (scholar)}}、{{仮リンク|ジャック・リプシッツ|en|Jacques Lipchitz}}、[[オシップ・ザッキン]]などが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}。こうした流れを受けてさらにダイナミックな形態のリズムを追究した[[レイモン・デュシャン=ヴィヨン]]、[[ウンベルト・ボッチョーニ]]らが登場し、根源的な形態を追い求めた[[コンスタンティン・ブランクーシ]]がその後に続いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}。ブランクーシはロダンからその才能を見初められ、助手へと誘われた彫刻家のひとりであったが、自身の追い求める表現を実現させるため、あえてその誘いを断っている{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=88}}。 他方で、[[マックス・エルンスト]]、[[ジャン・アルプ]]、[[アルベルト・ジャコメッティ]]らによって生み出された作品は、後の[[ダダイスム]]や[[シュルレアリスム]]や[[幻想絵画]](幻想的表現主義)へとつながっていくこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}。ブールデルから彫刻を学んだジャコメッティはその後、自身もシュルレアリストのグループに参加し、『シュルレアリスム的なテーブル』などの作品を発表した{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=99}}。第二次大戦後、現実との乖離に挫折を覚えたジャコメッティはその作風を大きく変え、戦後のフランス彫刻界において、もっとも高い評価を受けた彫刻家のひとりとなった{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=99}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=169}}。 ===現代絵画=== [[File:Marc-little blue horses.jpg|thumb|250px|[[フランツ・マルク]]の『小さな青い馬』。]] 1905年、当時の批評家からフォーヴ(野獣)と呼称された、[[サロン・ドートンヌ]]に出品された鮮烈な色彩表現を持った一連の作品を創出した画家たちが興した運動である[[フォーヴィスム]]は、20世紀最初の絵画革命と言われている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=6}}。『[[ジル・ブラス]]』紙で{{仮リンク|ルイ・ヴォークセル|en|Louis Vauxcelles}}に「原色の狂宴の中にいる野獣たちの集まり」と批判されたように、フォービスムは酷評でもって迎えられたが、多くの画家が伝統に縛られない色彩の自立と感情の解放を求める態度に共感を覚え、この新しい様式に共鳴した{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=6-7}}。主要なメンバーとしては[[アンリ・マティス]]、[[ジョルジュ・ルオー]]、[[アルベール・マルケ]]、[[モーリス・ド・ヴラマンク]]、[[アンドレ・ドラン]]、[[キース・ヴァン・ドンゲン]]、[[ラウル・デュフィ]]、[[ジョルジュ・ブラック]]らが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}。[[ジョルジュ・スーラ|スーラ]]ら[[ポスト印象派|後期印象主義]]絵画が持つ色彩理論や、ゴッホの原色表現の影響を受けた彼らの共通点は、独自の色彩表現を探究し、色彩の写実的役割からの解放を目指したことにある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=6-7}}。しかしながらこの傾向は明確な声明に支えられていなかったこともあり大きな流行には至らず、1905年をピークとして減衰していくこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=9}}。フォーヴィスムを体現し、体験した画家たちはその後色調や技法を変えつつ、独自の美学を追究しそれぞれの方向性を見出していくこととなった{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=9}}。 フォーヴィスムが誕生した同じ年に[[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]]、{{仮リンク|エーリッヒ・ヘッケル|en|Erich Heckel}}、[[マックス・ペヒシュタイン]]、[[エミール・ノルデ]]らを中心として前衛絵画グループ[[ブリュッケ]]がドレスデンで結成された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=160}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=11-13}}。[[ドイツ表現主義]]の第一波とされるこのグループは、強烈な色彩表現を特徴とする点においてはフォーヴィスムと共通していたが、より濃密な絵画を発表している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=160}}。その他、1909年にミュンヘンで結成された[[ミュンヘン新芸術家協会|新芸術家同盟]]は、初期メンバーの[[フランツ・マルク]]、[[アウグスト・マッケ]]、[[ワシリー・カンディンスキー]]らに[[パウル・クレー]]が加わることで[[青騎士]]へと発展を遂げ、戦後の[[抽象表現主義]]につながる大胆な絵画表現を試みる活動を実施している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=160}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=14-15}}。 [[File:Delaunay - Tour Eiffel.jpeg|thumb|left|200px|[[ロベール・ドローネー]]の『エッフェル塔』。]] その後、ピカソやブラックによって形態と構成における絵画革命[[キュビスム]]が推進され、[[フアン・グリス]]を加えてモンマルトルを中心に活動を展開した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=160}}。特にピカソは、90年に渡る長い生涯のなかで絶え間なく絵画の革新と実験を試み、20世紀芸術の方向性に大きな影響を与え続けた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=161}}。1907年に発表したキュビスムの出発点とも言うべき『[[アビニヨンの娘たち]]』では、アフリカの仮面彫刻のようなプリミティブ芸術に影響を受けた大胆なデフォルメと、セザンヌに学んだ知的構成が融合し、それまでになかった新しい絵画世界の実現に成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=161}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=23}}。キュビスムは対象を解体して、画面上で再構成するというピカソやブラックが推進した手法もさることながら、同時に創出された新聞などの実物を直接画面に貼付する[[コラージュ]]という技法が生み出された点も、絵画のあり方を一変させたという点において、後世の芸術家に多大な影響を与えている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=162}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=26}}。ピカソ、ブラック、グリスの他、キュビスムの代表的な画家としては[[フェルナン・レジェ]]、[[ロベール・ドローネー]]らがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=162}}。 [[File:Duchamp Fountaine.jpg|thumb|200px|[[マルセル・デュシャン]]の『泉』。]] キュビスムよりやや遅れて結成された[[未来派]]は、詩人[[フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ]]を中心に活動を展開し、機械文明におけるダイナミズムとスピード感を賛美し、積極的な運動表現を作品に取り入れることを探究した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=163}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=32-33}}。主なメンバーとしては[[ジャコモ・バッラ]]、[[ジーノ・セヴェリーニ]]、[[カルロ・カッラ]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=163}}。未来派の活動は絵画のみならず、音楽、建築、彫刻など多方面に及び、先に紹介したボッチョーニもその影響を受けた彫刻家として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=163}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=36}}。また、マリネッティがロシアを訪れたことでロシアの前衛芸術の形成にも大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=163}}。[[ミハイル・ラリオーノフ]]、[[ナタリア・ゴンチャロワ (画家)|ナタリア・ゴンチャロワ]]らによる[[レイヨニスム]]、[[カジミール・マレーヴィチ]]らによる[[シュプレマティスム]]といった抽象主義的絵画は、こうした影響の中で誕生していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=164}}。シュプレマティスムを推進していた[[ウラディミール・タトリン]]、[[アントワーヌ・ペヴスネル]]、[[ナウム・ガボ]]らはその後、シュプレマティスムが見出した幾何学的形態の極地から、さらに推し進めた[[構成主義]]を推進している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=164-165}}。 オランダの[[ピエト・モンドリアン]]が創始した[[新造形主義]]も幾何学的な抽象表現を極めた様式のひとつで、モンドリアンはキュビスムの影響を受け、自然風景を垂直と水平の要素にまで還元し、この単純な構図に色の三原色を組み合わせるという美学に到達せしめた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=165}}。またモンドリアンは、[[テオ・ファン・ドースブルフ]]とともに[[デ・ステイル]]運動を推進し、絵画にとどまらない幅広い芸術分野に新造形主義の様式を拡大していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=165}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=44}}。 他方、現代絵画のもうひとつの大きな流れとして、人間の心、未知の世界を探究し表現する幻想絵画がある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。[[形而上絵画]]はその代表的様式で、中心的人物の[[ジョルジョ・デ・キリコ]]は、長く伸びた影や人気の無い町並みを主題として白昼夢のような郷愁を誘う神秘的かつ不気味な不安を感じさせる作品を生み出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。その不安が現実となるかのように第一次世界大戦が勃発すると、厄災を生み出す社会や文化に対して強い批判を表明する芸術運動が同時多発的に持ち上がった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。こうした動きはやがてひとつの大きなうねりとなり、あらゆる既成価値を否定する[[ダダイスム]]が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。[[マルセル・デュシャン]]が展覧会に出品した『泉』と称する便器やひげのあるモナ・リザを描いた『L.H.O.O.Q.』はその最たる例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=166-167}}{{Sfn|『シュルレアリスム』|2011|pp=235-236}}。彼らはあらゆる方法で価値の転換を試み、過去の芸術や文化の徹底的な破壊と否定を推し進めた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=167}}。代表的なメンバーとしては[[ハンス・アルプ]]、[[フランシス・ピカビア]]、[[マン・レイ]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。 第一次世界大戦後には[[シュルレアリスム]]が登場し、ダダイスムによる否定を受けて、非合理の世界を解放することによって新しい価値の創造を目論む動きが始まった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=167}}。シュルレアリスム運動は詩人[[アンドレア・ブルトン]]が1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表したことによって定義の明確化が図られた{{Sfn|『シュルレアリスム』|2011|pp=7-8}}。芸術分野において[[マックス・エルンスト]]、[[サルバドール・ダリ]]、[[ルネ・マグリット]]、[[イヴ・タンギー]]らを中心として展開されたシュルレアリスム運動は、各々の想像力を糧に、夢と現実が矛盾無く世界を構築するような世界(超現実)の実現を目指した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=167}}。作品制作にあたり、彼らは[[デペイズマン]]、[[オートマティスム]]、[[フロッタージュ]]、[[デカルコマニー]]といった新しい技法を次々と考案し、後世に無視できない多大な影響を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=167-168}}{{Sfn|『シュルレアリスム』|2011|pp=233-234}}。 こうした新しい芸術運動が様々に展開される一方で、[[アンリ・ルソー]]、[[ルイ・ヴィヴァン]]、[[アンドレ・ボーシャン]]、[[セラフィーヌ・ルイ]]といったいわゆる[[素朴派]]と呼ばれる素人画家が多く登場してきたことも、現代絵画の変革を伝える重要な要素のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=168}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=68}}。また、[[エコール・ド・パリ]](例:[[マルク・シャガール|シャガール]]、[[モーリス・ユトリロ|ユトリロ]]、[[モイズ・キスリング|キスリング]]、[[シャイム・スーティン|スーティン]]、[[藤田嗣治]])に代表されるように、特定の運動に加わることなく、自己の世界を表現し続けた画家も数多く存在していたことは忘れてはならない{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=168}}{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=174}}。 1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響を強く伺わせるいわゆる戦後美術が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=172}}。作品としては[[フランシス・ベーコン (芸術家)|フランシス・ベーコン]]が描いた『風景の中の人物』、[[ジャン・フォートリエ]]の『人質』に代表されるような、戦争の悲劇がもたらした人間そのものへの問いかけを含有する悲劇的な様相を表現する傾向にあった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=172-173}}。アメーバのような不定形なフォルムと血を連想させる生々しい色彩を用いた[[ヴォルス]]や、幼児や精神障害者の描く原生芸術を追求し、[[アールブリュット]]を提唱した[[ジャン・デュビュッフェ]]なども代表的な画家として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=173}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=442}}。フォートリエが表現した厚塗りの具象的な作品はその後、[[アンフォルメル]]と呼ばれる表現主義的抽象絵画として1950年以降もてはやされることとなる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=174}}。こうした作品は、保守派ジャーナリズムや一般観衆から「子供の悪戯描き」と揶揄されながらも感覚に直接訴えかける新鮮な迫力を持った表現形式としてその地位を確立させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=174}}。他方で、こうした表現主義的抽象絵画が採った具象的モチーフの拒否を否定することで、現実への復帰を試みた[[ネオダダ]]や[[ポップアート]]が誕生したのもこの時代であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=175}}。 [[File:Spiral-jetty-from-rozel-point.png|thumb|200px|[[ロバート・スミッソン]]の『螺旋状の突堤』。]] ===多様化する表現形式=== [[1980年代]]以降、美術を表現する新しい方法が次々と生み出され、それらが互いに影響を及ぼしあうことにより複雑な美術体系が構築された。[[ナムジュン・パイク]]によるビデオ・アート、映画を含めた映像作品も美術作品として定義することが可能であり、現代美術の主要部分を占めるようになったと言って良い{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=195}}。また、[[シンディ・シャーマン]]や[[ロバート・メイプルソープ]]などの写真美術作品や、[[マリーナ・アブラモヴィッチ]]のような自身の身体を用いたパフォーマンス的な美術作品に代表されるように、様々なメディアを使用した表現形式([[メディアアート]])が誕生している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=196}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=191}}。 [[1960年代]]後半から[[1970年代]]にかけて誕生した[[ロバート・スミッソン]]を嚆矢とする[[アースワーク]](ランドアート)も、そうした多様化した表現形式の帰結のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=190}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=160}}。[[写実主義|自然派]]と呼ばれた彼らは地球をキャンバスとし、訪れることさえ容易ではない地に作品を直接制作することで、限られた空間からの解放と美術の商業主義からの脱却を試みた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=190}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=160}}。代表的なものとしてはすでに[[グレートソルト湖]]の湖中に水没したスミッソンの『螺旋状の突堤』、落雷を呼ぶ金属ポール400本を等間隔に設置し、落雷現象そのものを美術作品として発表した[[ウォルター・デ・マリア]]の『[[ライトニング・フィールド]]』、ストーンヘンジやストーンサークルといった原初的な造形を追及した[[リチャード・ロング]]の環状列石作品群などがある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=190-191}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=160-162}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=青柳正規、西野嘉章、高橋達史、高橋裕子、鈴木杜幾子、太田泰人、高階秀爾、建畠晢|editor=高階秀爾[監修]|title=増補新装 西洋美術史|edition=初版|year=2002|publisher=美術出版社|isbn=4-568-40064-3|ref={{SfnRef|『増補新装 西洋美術史』|2002}}}} * {{Cite book|和書|author=浅野和生|title=ヨーロッパの中世美術|edition=初版|year=2009|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102014-7|ref={{SfnRef|『ヨーロッパの中世美術』|2009}}}} * {{Cite book|和書|author=池上英洋|title=西洋美術史入門|edition=初版|year=2012|publisher=筑摩書房|series=ちくまプリマー新書|isbn=978-4-480-68876-7|ref={{SfnRef|『西洋美術史入門』|2012}}}} * {{Cite book|和書|author=池上英洋、今泉愛子、川口清香、青野尚子、荒井咲紀|editor=池上英洋[監修]|title=ルネサンスとは何か。|edition=初版|year=2012|publisher=阪急コミュニケーションズ|series=pen books|isbn=978-4-484-12231-1|ref={{SfnRef|『ルネサンスとは何か。』|2012}}}} * {{Cite book|和書|author=H・W・ジャンソン、アンソニー・F・ジャンソン|translator=木村重信、藤田治彦|title=西洋美術の歴史|edition=初版|year=2001|publisher=創元社|isbn=978-4-422-70007-6|ref={{SfnRef|『西洋美術の歴史』|2001}}}} * {{Cite book|和書|author=NHK「知られざる大英博物館」プロジェクト|title=古代ギリシャ|edition=初版|year=2012|publisher=NHK出版|series=NHKスペシャル 知られざる大英博物館|isbn=978-4-14-081548-9|ref={{SfnRef|『古代ギリシャ』|2012}}}} * {{Cite book|和書|author=加藤志織、杉山博昭、日塔理恵子、秦明子、河田淳、衣笠ヤヨイ、小松浩之|editor=岡田温司[監修]|title=聖書と神話の象徴図鑑|edition=初版|year=2011|publisher=ナツメ社|isbn=978-4-8163-5133-4|ref={{SfnRef|『聖書と神話の象徴図鑑』|2011}}}} * {{Cite book|和書|author1=嘉門安雄|author2=中山公男|author3=中森義宗|authorlink3=中森義宗|author4=野村久康|author5=友部直|editor=嘉門安雄[編]|title=西洋美術史要説|edition=18版|year=1981|publisher=吉川弘文館|ref={{SfnRef|『西洋美術史要説』|1981}}}} * {{Cite book|和書|author=神原正明|title=西洋の美術 視覚とその時代|edition=初版|year=2001|publisher=勁草書房|isbn=4-326-85171-6|ref={{SfnRef|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001}}}} * {{Cite book|和書|author=近藤不二|title=エジプト美術|edition=3版|year=1973|publisher=保育社|series=カラーブックス|ref={{SfnRef|『エジプト美術』|1973}}}} * {{Cite book|和書|author=酒井健|title=シュルレアリスム|edition=初版|year=2011|publisher=中央公論社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102094-9|ref={{SfnRef|『シュルレアリスム』|2011}}}} * {{Cite book|和書|author=澤柳大五郎|title=ギリシアの美術|edition=初版|year=1964|publisher=岩波書店|series=岩波新書|ref={{SfnRef|『ギリシアの美術』|1964}}}} <!---塩野七生の著作は[[WP:RS]]ではないのでコメントアウト。 * {{Cite 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木村三郎ほか編『西洋絵画作品名辞典』(三省堂、1994)<small>ISBN 4385154279</small> * ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典 新装版』(河出書房新社、2004)<small>ISBN 9784309267500</small> == 関連項目 == * [[美術史]] * [[美学]] * [[美術家]] * [[美術家の一覧]] * [[美術館]] * [[美術大学]] * [[近代美術と現代美術]] * [[おもな近代西洋絵画一覧]] * [[世界美術大全集西洋編]] * [[東洋美術史]] {{西洋の芸術運動}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいようひしゆつし}} [[Category:西洋美術史|*]] [[Category:西洋文化]] [[Category:ヨーロッパ史]]
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ピンポン (漫画)
『ピンポン』(英語: PingPong)は、松本大洋によるスポーツ漫画。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館刊)1996年第14号より連載が開始、1997年第29号の第55話を以て完結した。神奈川県藤沢市を舞台に、卓球に魅了された5人の高校生によるスポーツアクションや才能を巡る青春が描かれている。単行本は1996年9月に第1巻初版が発売、翌年10月までに全5巻が発売された。2002年に曽利文彦監督、窪塚洋介主演で劇場映画化、2014年に湯浅政明監督によるTVアニメが制作された。 松本大洋は1987年に講談社の『モーニング パーティ増刊』にて漫画家として商業デビューを果たし、1988年より『モーニング』で『STRAIGHT』を発表し、長編連載デビューした。『ピンポン』は松本が小学館へ移籍してから制作され、小学館誌上では『ZERO』『花男』『鉄コン筋クリート』に次ぐ4作目の連載作品である。当初、松本の編集を担当していた人物は非常にスポーツを愛好しており、松本もまた小学生から高校生までずっとサッカーに励むスポーツ少年であった。その点で意気投合していた両者はスポーツ漫画として『ZERO』『花男』を発表した。『ピンポン』の制作以前にはサッカー漫画の構想が立てられていたが、松本は自身が長期の連載をしない性質にあり、試合毎に最低22人が登場するサッカーを描くことは困難と判断し、個人競技を描く方向へ転換した。卓球が題材となったのは、取材のために数多のスポーツを観賞した松本が、競技自体の認知度の割に卓球選手個々に戦型があったり、ラケットやラケットに貼るラバーの種類が多いことなど知られていない面が多く、魅力を感じたためであった。 松本は作品によって絵柄を大胆に変える傾向があり、前作『鉄コン筋クリート』ではフランク・ミラーの様な、白黒でメリハリが強いイラストレーション色の強いタッチであったが、『ピンポン』ではこのタッチは鳴りを潜め、細線を多様した黒味の薄いタッチが採用された。 神奈川県藤沢市。星野裕(通称ペコ)と月本誠(通称スマイル)は、共にタムラ卓球場で小学生時代から卓球をやってきた幼馴染。ペコは確かな実力を持ちながら己の才能に自惚れ、誰に対しても不遜だった。一方のスマイルは、決して笑わず無愛想で、そんな態度からペコにスマイルと渾名されていた。共に片瀬高校の卓球部へ入ったふたりは、春、県内の辻堂学園学院卓球部へ、上海のジュニアチームから留学してきた孔文革(通称チャイナ)が留学生として雇われたと知る。ふたりは辻堂学院へ偵察に訪れ、チャイナとの対戦にこぎつける。しかしペコはチャイナ相手に1点も獲れず大敗した。続いてチャイナはスマイルへ勝負を持ちかけるが、スマイルはまるで興味を示さなかった。一見すると卓球で勝るのはペコであったが、チャイナはスマイルが抜群の素質を持っているのを見抜いていた。 スマイルの才覚を嗅ぎつけたのはチャイナだけではなかった。片瀬高校の卓球部顧問である小泉丈は、スマイルが才能とは裏腹に勝利への執念が全く無く、真剣勝負でも相手の心情を考慮し、特にペコと試合する際には無自覚に手を抜いていると看破し、彼をさらなる高みへと登らせるべく過酷な指導を試みる。同時期、県内最強と謳われる海王学園高校卓球部の風間竜一(通称ドラゴン)が片瀬へ偵察にやってくる。インターハイ優勝の実力者である風間ですらスマイルの実力を脅威に感じるほどであった。それでも、風間にとってスマイルはあくまでも脅威となりうる存在でしかなく、今度のインターハイでの優勝は確実であると公言する調子だった。 やがてインターハイ予選が開幕した。ペコ、スマイル、ドラゴン、チャイナ、それぞれ順当に勝ち上がっていく。3回戦でスマイルはチャイナと対戦した。留学生として注目を集めるチャイナの勝利が確実視される中、スマイルはチャイナの実力を初セットで見極め、次のセットからまるでロボットのように正確無比なプレーでチャイナを追い詰める。スマイルの勝利が目前になったところで、チャイナのコーチが「ここで負ければ中国代表への道は閉ざされる」と激昂した。その意味を察知したスマイルは途端に萎縮し、結局、チャイナが勝利を挙げた。その一方で、ペコは準々決勝まで順当に勝ち上がった。準々決勝の相手は、同じ道場出身のもうひとりの幼馴染、佐久間学(通称アクマ)であった。以前はアクマ相手に圧倒的な実力を見せつけていたペコだったが、この対戦では地道な努力を重ねたアクマに終始優勢を握られ、あえなく敗退した。さらに別の準々決勝戦では、チャイナとドラゴンが対戦する。実力者であるチャイナをもってしても、日本国内最高峰に立つドラゴンにはまったく歯が立たなかった。インターハイはベスト4をすべて海王の選手が独占してみせた。 インターハイ予選を終え、全国大会へ進出した海王学園は団体戦の序盤で敗退した。個人戦で優勝を果たした風間は、近年の海王の弱体化を憂い、インタビューにおいて「優勝には月本レベルの人間が必要だ」と失言するほどになっていた。そのスマイルは次の大会へ向けて小泉にさらなる指導を受け、練習試合で県内の実力者を次々倒して名を挙げていた。しかし小泉の過剰なスマイルへの入れ込み、スマイルの独善的な卓球への熱は他の卓球部員との軋轢を生んでいた。ペコはアクマに敗戦したのが堪え、すっかりやる気を失っていた。そんな中で、アクマはドラゴンの発言でスマイルへの敵意をむき出しにして単身片瀬へと乗り込み、スマイルへ試合を申し込む。かつてはアクマが常勝だったが、才能を開花させつつあるスマイルの前では為す術なく敗戦した。地道な努力と対戦相手の研究を重ねたアクマはそれらをもってしても勝てないことを嘆くが、スマイルに「それは卓球の才能がないからだ」と一蹴された。試合を終えて帰宅する途中、アクマは苛立ちから傷害事件を起こし、停学処分と、卓球部の強制退部を余儀なくされた。 一方で、スマイルの言葉はペコにも突き刺さり、ペコは学校の焼却炉で自身のラケットを燃やしてしまった。すっかり意気消沈した彼を、久々に道場へ訪れたアクマが激励した。ペコは誰よりも才能に恵まれ卓球を愛していると、才能に恵まれずも卓球を愛したアクマは知っていた。一念発起したペコは、道場で指導するオババへ懇願し再び卓球へ向き合う。オババもまた小泉と同時期に活躍していた卓球の名手であった。彼女の指導の元、堕落した基礎体力を取り戻したペコは、オババの息子が指導する大学の卓球部で指導を受ける。バックハンドの弱点をどうにも克服できなかったペコは、ペンラケットの裏へラバーを貼って繰り出す裏面打法を会得し、たちまち秘めていた才能を開花させ、誰もが驚く速度で進化した。 同時期、片瀬へ再びドラゴンがやってくる。今度は正式にスマイルを引き抜こうという魂胆であった。環境という意味では片瀬よりも海王が優れると踏んだ小泉は移籍を推奨した。精神を疲弊させたスマイルは普段のジョギングのコースを外れ途方も無い距離を走った。両親との距離が遠いスマイルが密かに他人との温もりを必要としていると理解した小泉、さらに卓球部の主将を務める大田は、スマイルへ卓球選手としてではなく、人間として歩み寄る。卓球部とスマイルとの間にあったわだかまりは一応は解消された。 そして、1年が経過し、再びインターハイの季節がやってきた。ペコの初戦の対戦相手は偶然にもチャイナであった。チャイナは1年間で日本に順応し、かつては馬鹿にしていたチームメイトとも打ち解け、実力も当然上昇していた。しかし、ペコは第1セットから前回の対戦との違いを見せつけ、接戦ながらストレート勝ちを決めた。一方、月本は2回戦で海王の副主将である真田と対戦する。ドラゴンには劣るものの国内でも規格外と評される実力者との対戦にもスマイルはまったく怯えず、圧勝してみせた。ドラゴンもまた元来の実力で順当に勝ち上がってゆく。そうしてベスト4へ勝ち上がったのはペコ、スマイル、ドラゴン、そして海王の猫田であった。準決勝で猫田と対戦したスマイルはこれまた圧倒的な結果で勝利して見せた。一方、ペコは急速な成長に比例したオーバーワークが災いし膝に爆弾を抱えていた。周囲から棄権を勧められながらも、ペコは「スマイルが上で呼んでいる」と言う。小学生のころから無愛想でいじめられっ子だったスマイルを助けたペコは、彼らの間でヒーローだった。ところが最近になって、ペコはすっかりやる気を失い、いつしかヒーローの存在感が消えてしまっていた。そのヒーローをスマイルがずっと待っていると、ペコは悟った。 準決勝。ペコはドラゴンにあえなく1セットを先取され、まったく打つ手がなく追い込まれる。しかし試合中、心中でスマイルと会話を交わしたのをきっかけに復活し、まるで遊ぶように大胆で自由な戦型へと変貌、セットを取り返して見せた。ペコのプレーは観客だけでなく、対戦相手であるドラゴンすら歓喜させる面白さだった。長らく強者の重圧、主将としての責任を背負い卓球を憎んですらいたドラゴンは、ペコとの対戦でやがて喜びをあらわにした。試合はペコが勝利した。 決勝戦はオババや小泉や道夫、アクマ・チャイナ・ドラゴンらがどこか嬉しそうに見守る中、共に片瀬高校同士、ペコとスマイルの対戦となった。膝を痛めたペコ相手にスマイルは一切手を抜かない。一方でペコも、傷をまるで感じさせない大胆なプレーで応戦した。その様はただ卓球を楽しむ少年でしかなかった。 5年が経過した。スマイルは小学校の教諭を目指しながら、道場でジュニアの指導をしていた。そこへ親しい仲となったドラゴンが顔を出し二人は昔を懐かしみながら語り合う。ドラゴンはプロの卓球選手となったが、日本代表から外れ、己を凡庸な選手で終わるかもしれないと憂いていた。アクマは高校生のころから交際していた女性と結婚を決めた。ペコは若くしてドイツのプロリーグへ進出し、人気を集めていた。 ※声の記述はアニメ版、演の記述は映画版である かつては東日本に辻堂ありといわれた強豪校だが、近年は弱体化の一途。中国から選手兼コーチとしてチャイナを招き、起死回生を図る。 その他に、『鉄コン筋クリート』の蛇が藤堂大学の卓球部員として、第32,34,36話でカメオ出演している。 「ピンポン」は1997年、1998年に手塚治虫文化賞の候補に挙げられ、受賞は逃したものの数多くの選考委員から高い評価を得た。 「ピンポン THE ANIMATION」を手がけた湯浅政明は連載当時から本作を愛好していたが、完成度の高さを見てアニメ化には当初後ろ向きだったとコメントしている。 中国出身の映画監督ビー・ガンはピンポンを始めとする松本の作品群から影響を受けたと公言している。 2010年にSANYOから発売されたパチスロ5号機。 ART+ボーナスタイプの機種で、ゲーム数によるゾーン抽選で発動するART「ピンポンボーナス」が特徴。 漫画の連載終了から4年以上が経過した2002年初頭に映画の制作が発表され、同年7月に劇場公開された。 片瀬高校一年の星野は、将来ヨーロッパに行って卓球で頂点を目指すという夢を持っている。その割には、卓球部の練習はさぼってばかりで、マイペースだ。星野の幼なじみの月本は、幼い頃虐められていたときに、いつも星野に助けてもらった。月本の中では、星野はヒーローであった。星野に卓球を習って、目立たないが卓球の才能を持っている月本は、インターハイチャンピオンの海王学園の風間や、中国のナショナルチームから落ちて日本で再起をはかる孔からも注目されている。しかし月本は卓球は人生の暇つぶしと考えてクールに取り組み、月本を鍛え上げようとする顧問の小泉にも反抗しがちだ。 そしてインターハイ県予選がはじまる。星野は、幼なじみで風間に憧れて海王学園に行った佐久間に破れる。月本は孔を追い詰めるが、情をかけ逆転負けをする。風間に認められたい佐久間は、月本に試合を挑むが完敗、退学し卓球を離れる。一方、卓球をやめようとしていた星野に会い、卓球を続けるように励ます。星野は再起を期して、タムラ卓球のオババのもとで鍛え直す。月本も、小泉と信頼関係を築いていき、特訓をはじめる。 そして翌年のインターハイ予選が始まる。月本は圧倒的な力で決勝に進んだ。星野は孔を下し準決勝に進む。そして膝痛のため、棄権をすすめるオババの忠告を蹴って、月本が待っているからと言って風間と戦う。風間は意地をかけて勝利を目指すが、星野は月本の友情に力を取り戻し風間を下す。死力を尽くした戦いに、風間は幸福を感じていた。月本はヒーローである星野との決勝に臨む。そして星野は月本に勝利し、優勝を果たした。 『ピンポン THE ANIMATION』(ピンポン ジ・アニメーション)のタイトルで、2014年4月より6月まで、フジテレビ『ノイタミナ』枠にて放送された。原作の絵をほぼそのまま再現し、アニメーション化させるという試みが行われている。また、作中では、松本が連載時に着想したものの、描写できなかったエピソードが湯浅の手によって多数映像化されている。 また、本作にはあらかじめ脚本はなく、監督の湯浅政明自ら絵コンテから描き始め、そこでセリフ等を決めている。 2015年、東京アニメアワードフェスティバル 2015でアニメ オブ ザ イヤー部門テレビ部門グランプリ受賞。 2014年8月27日にアニメの全11話とサウンドトラックを収録したBOX仕様で発売された。規格品番はANZX-6281(Blu-ray)、ANZB-6281(DVD・完全生産限定版)、ANSB-6281(DVD・通常版)。 『〜ピンポン THE ANIMATION〜 超高速!スマッシュパズル!!』というブラウザゲームが2014年4月11日から提供された。ジャンルは卓球パズル。基本プレイ無料のアイテム課金制。カルチャーによる制作で、Yahoo!モバゲーでの配信。
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"インターハイ予選を終え、全国大会へ進出した海王学園は団体戦の序盤で敗退した。個人戦で優勝を果たした風間は、近年の海王の弱体化を憂い、インタビューにおいて「優勝には月本レベルの人間が必要だ」と失言するほどになっていた。そのスマイルは次の大会へ向けて小泉にさらなる指導を受け、練習試合で県内の実力者を次々倒して名を挙げていた。しかし小泉の過剰なスマイルへの入れ込み、スマイルの独善的な卓球への熱は他の卓球部員との軋轢を生んでいた。ペコはアクマに敗戦したのが堪え、すっかりやる気を失っていた。そんな中で、アクマはドラゴンの発言でスマイルへの敵意をむき出しにして単身片瀬へと乗り込み、スマイルへ試合を申し込む。かつてはアクマが常勝だったが、才能を開花させつつあるスマイルの前では為す術なく敗戦した。地道な努力と対戦相手の研究を重ねたアクマはそれらをもってしても勝てないことを嘆くが、スマイルに「それは卓球の才能がないからだ」と一蹴された。試合を終えて帰宅する途中、アクマは苛立ちから傷害事件を起こし、停学処分と、卓球部の強制退部を余儀なくされた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一方で、スマイルの言葉はペコにも突き刺さり、ペコは学校の焼却炉で自身のラケットを燃やしてしまった。すっかり意気消沈した彼を、久々に道場へ訪れたアクマが激励した。ペコは誰よりも才能に恵まれ卓球を愛していると、才能に恵まれずも卓球を愛したアクマは知っていた。一念発起したペコは、道場で指導するオババへ懇願し再び卓球へ向き合う。オババもまた小泉と同時期に活躍していた卓球の名手であった。彼女の指導の元、堕落した基礎体力を取り戻したペコは、オババの息子が指導する大学の卓球部で指導を受ける。バックハンドの弱点をどうにも克服できなかったペコは、ペンラケットの裏へラバーを貼って繰り出す裏面打法を会得し、たちまち秘めていた才能を開花させ、誰もが驚く速度で進化した。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "同時期、片瀬へ再びドラゴンがやってくる。今度は正式にスマイルを引き抜こうという魂胆であった。環境という意味では片瀬よりも海王が優れると踏んだ小泉は移籍を推奨した。精神を疲弊させたスマイルは普段のジョギングのコースを外れ途方も無い距離を走った。両親との距離が遠いスマイルが密かに他人との温もりを必要としていると理解した小泉、さらに卓球部の主将を務める大田は、スマイルへ卓球選手としてではなく、人間として歩み寄る。卓球部とスマイルとの間にあったわだかまりは一応は解消された。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "そして、1年が経過し、再びインターハイの季節がやってきた。ペコの初戦の対戦相手は偶然にもチャイナであった。チャイナは1年間で日本に順応し、かつては馬鹿にしていたチームメイトとも打ち解け、実力も当然上昇していた。しかし、ペコは第1セットから前回の対戦との違いを見せつけ、接戦ながらストレート勝ちを決めた。一方、月本は2回戦で海王の副主将である真田と対戦する。ドラゴンには劣るものの国内でも規格外と評される実力者との対戦にもスマイルはまったく怯えず、圧勝してみせた。ドラゴンもまた元来の実力で順当に勝ち上がってゆく。そうしてベスト4へ勝ち上がったのはペコ、スマイル、ドラゴン、そして海王の猫田であった。準決勝で猫田と対戦したスマイルはこれまた圧倒的な結果で勝利して見せた。一方、ペコは急速な成長に比例したオーバーワークが災いし膝に爆弾を抱えていた。周囲から棄権を勧められながらも、ペコは「スマイルが上で呼んでいる」と言う。小学生のころから無愛想でいじめられっ子だったスマイルを助けたペコは、彼らの間でヒーローだった。ところが最近になって、ペコはすっかりやる気を失い、いつしかヒーローの存在感が消えてしまっていた。そのヒーローをスマイルがずっと待っていると、ペコは悟った。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "準決勝。ペコはドラゴンにあえなく1セットを先取され、まったく打つ手がなく追い込まれる。しかし試合中、心中でスマイルと会話を交わしたのをきっかけに復活し、まるで遊ぶように大胆で自由な戦型へと変貌、セットを取り返して見せた。ペコのプレーは観客だけでなく、対戦相手であるドラゴンすら歓喜させる面白さだった。長らく強者の重圧、主将としての責任を背負い卓球を憎んですらいたドラゴンは、ペコとの対戦でやがて喜びをあらわにした。試合はペコが勝利した。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "決勝戦はオババや小泉や道夫、アクマ・チャイナ・ドラゴンらがどこか嬉しそうに見守る中、共に片瀬高校同士、ペコとスマイルの対戦となった。膝を痛めたペコ相手にスマイルは一切手を抜かない。一方でペコも、傷をまるで感じさせない大胆なプレーで応戦した。その様はただ卓球を楽しむ少年でしかなかった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "5年が経過した。スマイルは小学校の教諭を目指しながら、道場でジュニアの指導をしていた。そこへ親しい仲となったドラゴンが顔を出し二人は昔を懐かしみながら語り合う。ドラゴンはプロの卓球選手となったが、日本代表から外れ、己を凡庸な選手で終わるかもしれないと憂いていた。アクマは高校生のころから交際していた女性と結婚を決めた。ペコは若くしてドイツのプロリーグへ進出し、人気を集めていた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "※声の記述はアニメ版、演の記述は映画版である", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "かつては東日本に辻堂ありといわれた強豪校だが、近年は弱体化の一途。中国から選手兼コーチとしてチャイナを招き、起死回生を図る。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "その他に、『鉄コン筋クリート』の蛇が藤堂大学の卓球部員として、第32,34,36話でカメオ出演している。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "「ピンポン」は1997年、1998年に手塚治虫文化賞の候補に挙げられ、受賞は逃したものの数多くの選考委員から高い評価を得た。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「ピンポン THE ANIMATION」を手がけた湯浅政明は連載当時から本作を愛好していたが、完成度の高さを見てアニメ化には当初後ろ向きだったとコメントしている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中国出身の映画監督ビー・ガンはピンポンを始めとする松本の作品群から影響を受けたと公言している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2010年にSANYOから発売されたパチスロ5号機。 ART+ボーナスタイプの機種で、ゲーム数によるゾーン抽選で発動するART「ピンポンボーナス」が特徴。", "title": "パチスロ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "漫画の連載終了から4年以上が経過した2002年初頭に映画の制作が発表され、同年7月に劇場公開された。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "片瀬高校一年の星野は、将来ヨーロッパに行って卓球で頂点を目指すという夢を持っている。その割には、卓球部の練習はさぼってばかりで、マイペースだ。星野の幼なじみの月本は、幼い頃虐められていたときに、いつも星野に助けてもらった。月本の中では、星野はヒーローであった。星野に卓球を習って、目立たないが卓球の才能を持っている月本は、インターハイチャンピオンの海王学園の風間や、中国のナショナルチームから落ちて日本で再起をはかる孔からも注目されている。しかし月本は卓球は人生の暇つぶしと考えてクールに取り組み、月本を鍛え上げようとする顧問の小泉にも反抗しがちだ。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "そしてインターハイ県予選がはじまる。星野は、幼なじみで風間に憧れて海王学園に行った佐久間に破れる。月本は孔を追い詰めるが、情をかけ逆転負けをする。風間に認められたい佐久間は、月本に試合を挑むが完敗、退学し卓球を離れる。一方、卓球をやめようとしていた星野に会い、卓球を続けるように励ます。星野は再起を期して、タムラ卓球のオババのもとで鍛え直す。月本も、小泉と信頼関係を築いていき、特訓をはじめる。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "そして翌年のインターハイ予選が始まる。月本は圧倒的な力で決勝に進んだ。星野は孔を下し準決勝に進む。そして膝痛のため、棄権をすすめるオババの忠告を蹴って、月本が待っているからと言って風間と戦う。風間は意地をかけて勝利を目指すが、星野は月本の友情に力を取り戻し風間を下す。死力を尽くした戦いに、風間は幸福を感じていた。月本はヒーローである星野との決勝に臨む。そして星野は月本に勝利し、優勝を果たした。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『ピンポン THE ANIMATION』(ピンポン ジ・アニメーション)のタイトルで、2014年4月より6月まで、フジテレビ『ノイタミナ』枠にて放送された。原作の絵をほぼそのまま再現し、アニメーション化させるという試みが行われている。また、作中では、松本が連載時に着想したものの、描写できなかったエピソードが湯浅の手によって多数映像化されている。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、本作にはあらかじめ脚本はなく、監督の湯浅政明自ら絵コンテから描き始め、そこでセリフ等を決めている。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2015年、東京アニメアワードフェスティバル 2015でアニメ オブ ザ イヤー部門テレビ部門グランプリ受賞。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2014年8月27日にアニメの全11話とサウンドトラックを収録したBOX仕様で発売された。規格品番はANZX-6281(Blu-ray)、ANZB-6281(DVD・完全生産限定版)、ANSB-6281(DVD・通常版)。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "『〜ピンポン THE ANIMATION〜 超高速!スマッシュパズル!!』というブラウザゲームが2014年4月11日から提供された。ジャンルは卓球パズル。基本プレイ無料のアイテム課金制。カルチャーによる制作で、Yahoo!モバゲーでの配信。", "title": "テレビアニメ" } ]
『ピンポン』は、松本大洋によるスポーツ漫画。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館刊)1996年第14号より連載が開始、1997年第29号の第55話を以て完結した。神奈川県藤沢市を舞台に、卓球に魅了された5人の高校生によるスポーツアクションや才能を巡る青春が描かれている。単行本は1996年9月に第1巻初版が発売、翌年10月までに全5巻が発売された。2002年に曽利文彦監督、窪塚洋介主演で劇場映画化、2014年に湯浅政明監督によるTVアニメが制作された。
{{出典の明記|date=2014年1月}} {{Infobox animanga/Header |タイトル= ピンポン |ジャンル= [[卓球]]、[[青春]] }} {{Infobox animanga/Manga |作者= [[松本大洋]] |出版社= [[小学館]] |他出版社= |掲載誌= [[ビッグコミックスピリッツ]] |レーベル= [[ビッグコミックス|ビッグコミックススペシャル]] |開始号= 1996年14号 |終了号= 1997年29号 |開始日= 1996年 |終了日= 1997年 |発表期間= |巻数= 全5巻 |話数= 全55話 }} {{Infobox animanga/Movie | 原作 = 松本大洋 | 監督 = [[曽利文彦]] | 脚本 = [[宮藤官九郎]] | 製作 = [[アスミック・エース]]、[[小学館]]<br />[[TBSテレビ]]、[[BS-TBS]]<br />[[日本出版販売]]、[[IMAGICA Lab.|IMAGICA]] | 配給 = アスミック・エース | 封切日 = 2002年7月20日 | 上映時間 = 114分 }} {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル= ピンポン THE ANIMATION |原作= 松本大洋 |監督= [[湯浅政明]] |シリーズ構成= 湯浅政明 |脚本= 湯浅政明 |キャラクターデザイン= [[伊東伸高]] |音楽= [[agraph|牛尾憲輔]] |アニメーション制作= [[タツノコプロ]] |製作= アニメ「ピンポン」製作委員会 |放送局= [[フジテレビジョン|フジテレビ]] |放送開始= [[2014年]]4月11日 |放送終了= 6月20日 |話数=全11話 }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:映画|映画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] |ウィキポータル= [[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:映画|映画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''ピンポン'''』({{lang-en|PingPong}})は、[[松本大洋]]による[[スポーツ漫画|スポーツ]][[漫画]]。『[[ビッグコミックスピリッツ|週刊ビッグコミックスピリッツ]]』([[小学館]]刊)[[1996年]]第14号より連載が開始、[[1997年]]第29号の第55話を以て完結した<ref>漫画家読本Vol.4 松本大洋本200ページ</ref>。[[神奈川県]][[藤沢市]]を舞台に、[[卓球]]に魅了された5人の[[在籍者 (学習者)|高校生]]による[[スポーツ]]アクションや才能を巡る[[青春]]が描かれている。[[単行本]]は1996年9月に第1巻初版が発売、翌年10月までに全5巻が発売された。[[2002年]]に[[曽利文彦]][[監督]]、[[窪塚洋介]]主演で劇場映画化、[[2014年]]に[[湯浅政明]]監督による[[テレビアニメ|TVアニメ]]が制作された。 == 制作背景 == 松本大洋は[[1987年]]に[[講談社]]の『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング パーティ増刊]]』にて漫画家として商業デビューを果たし、1988年より『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』で『[[STRAIGHT (漫画)|STRAIGHT]]』を発表し、長編[[デビュー|連載デビュー]]した。『ピンポン』は松本が[[小学館]]へ移籍してから制作され、小学館誌上では『[[ZERO (松本大洋の漫画)|ZERO]]』『花男』『[[鉄コン筋クリート]]』に次ぐ4作目の連載作品である。当初、松本の編集を担当していた人物は非常にスポーツを愛好しており、松本もまた[[小学生]]から[[高校生]]までずっと[[サッカー]]に励むスポーツ少年であった。その点で意気投合していた両者はスポーツ漫画として『ZERO』『花男』を発表した。『ピンポン』の制作以前には[[サッカー漫画]]の構想が立てられていたが、松本は自身が長期の連載をしない性質にあり、試合毎に最低22人が登場するサッカーを描くことは困難と判断し、個人競技を描く方向へ転換した。[[卓球]]が題材となったのは、取材のために数多のスポーツを観賞した松本が、競技自体の認知度の割に卓球選手個々に戦型があったり、[[ラケット]]やラケットに貼る[[ラバー]]の種類が多いことなど知られていない面が多く、魅力を感じたためであった<ref>{{Citenews|url=https://natalie.mu/comic/pp/pingpong_comic|title=TVアニメ「ピンポン」特集、松本大洋×湯浅政明監督対談|publisher=natasha|newspaper=コミックナタリー|accessdate=2019-12-1}}</ref>。 === 絵柄 === 松本は作品によって絵柄を大胆に変える傾向があり、前作『[[鉄コン筋クリート]]』では[[フランク・ミラー]]の様な、白黒でメリハリが強いイラストレーション色の強いタッチであったが、『ピンポン』ではこのタッチは鳴りを潜め、細線を多様した黒味の薄いタッチが採用された<ref>松本大洋・高野文子対談「ハードボイルドまんが道をゆく」『ユリイカ』2007年1月号、80頁</ref>。 == あらすじ == 神奈川県藤沢市。'''星野裕'''(通称'''ペコ''')と'''月本誠'''(通称'''スマイル''')は、共にタムラ卓球場で小学生時代から卓球をやってきた[[幼馴染]]。ペコは確かな実力を持ちながら己の才能に自惚れ、誰に対しても不遜だった。一方のスマイルは、決して笑わず無愛想で、そんな態度からペコにスマイルと渾名されていた。共に片瀬高校の卓球部へ入ったふたりは、春、県内の辻堂学園学院卓球部へ、[[上海市|上海]]の[[ジュニア]]チームから[[留学]]してきた'''孔文革'''(通称'''チャイナ''')が留学生として雇われたと知る。ふたりは辻堂学院へ偵察に訪れ、チャイナとの対戦にこぎつける。しかしペコはチャイナ相手に1点も獲れず大敗した。続いてチャイナはスマイルへ勝負を持ちかけるが、スマイルはまるで興味を示さなかった。一見すると[[卓球]]で勝るのはペコであったが、チャイナはスマイルが抜群の素質を持っているのを見抜いていた。 スマイルの才覚を嗅ぎつけたのはチャイナだけではなかった。片瀬高校の卓球部顧問である小泉丈は、スマイルが才能とは裏腹に勝利への執念が全く無く、真剣勝負でも相手の心情を考慮し、特にペコと試合する際には無自覚に手を抜いていると看破し、彼をさらなる高みへと登らせるべく過酷な指導を試みる。同時期、県内最強と謳われる海王学園高校卓球部の'''風間竜一'''(通称'''ドラゴン''')が片瀬へ[[偵察]]にやってくる。[[全国高等学校総合体育大会|インターハイ]]優勝の実力者である風間ですらスマイルの実力を脅威に感じるほどであった。それでも、風間にとってスマイルはあくまでも脅威となりうる存在でしかなく、今度のインターハイでの優勝は確実であると公言する調子だった。 やがてインターハイ予選が開幕した。ペコ、スマイル、ドラゴン、チャイナ、それぞれ順当に勝ち上がっていく。3回戦でスマイルはチャイナと対戦した。留学生として注目を集めるチャイナの勝利が確実視される中、スマイルはチャイナの実力を初セットで見極め、次のセットからまるで[[ロボット]]のように正確無比なプレーでチャイナを追い詰める。スマイルの勝利が目前になったところで、チャイナの[[コーチ]]が「ここで負ければ[[中国]]代表への道は閉ざされる」と激昂した。その意味を察知したスマイルは途端に萎縮し、結局、チャイナが勝利を挙げた。その一方で、ペコは準々決勝まで順当に勝ち上がった。準々決勝の相手は、同じ[[道場]]出身のもうひとりの幼馴染、'''佐久間学'''(通称'''アクマ''')であった。以前はアクマ相手に圧倒的な実力を見せつけていたペコだったが、この対戦では地道な努力を重ねたアクマに終始優勢を握られ、あえなく敗退した。さらに別の準々決勝戦では、チャイナとドラゴンが対戦する。実力者であるチャイナをもってしても、日本国内最高峰に立つドラゴンにはまったく歯が立たなかった。インターハイはベスト4をすべて海王の選手が独占してみせた。 インターハイ予選を終え、全国大会へ進出した海王学園は団体戦の序盤で敗退した。個人戦で優勝を果たした風間は、近年の海王の弱体化を憂い、[[インタビュー]]において「優勝には月本レベルの人間が必要だ」と失言するほどになっていた。そのスマイルは次の大会へ向けて小泉にさらなる指導を受け、練習試合で県内の実力者を次々倒して名を挙げていた。しかし小泉の過剰なスマイルへの入れ込み、スマイルの独善的な卓球への熱は他の卓球部員との軋轢を生んでいた。ペコはアクマに敗戦したのが堪え、すっかりやる気を失っていた。そんな中で、アクマはドラゴンの発言でスマイルへの敵意をむき出しにして単身片瀬へと乗り込み、スマイルへ試合を申し込む。かつてはアクマが常勝だったが、才能を開花させつつあるスマイルの前では為す術なく敗戦した。地道な努力と対戦相手の研究を重ねたアクマはそれらをもってしても勝てないことを嘆くが、スマイルに「それは卓球の才能がないからだ」と一蹴された。試合を終えて帰宅する途中、アクマは苛立ちから[[傷害]]事件を起こし、[[停学]]処分と、卓球部の強制退部を余儀なくされた。 一方で、スマイルの言葉はペコにも突き刺さり、ペコは学校の[[焼却炉]]で自身のラケットを燃やしてしまった。すっかり意気消沈した彼を、久々に道場へ訪れたアクマが激励した。ペコは誰よりも才能に恵まれ卓球を愛していると、才能に恵まれずも卓球を愛したアクマは知っていた。一念発起したペコは、道場で指導する'''オババ'''へ懇願し再び卓球へ向き合う。オババもまた小泉と同時期に活躍していた卓球の名手であった。彼女の指導の元、堕落した基礎体力を取り戻したペコは、オババの息子が指導する[[大学]]の卓球部で指導を受ける。[[卓球#フォアハンドとバックハンド|バックハンド]]の弱点をどうにも克服できなかったペコは、[[ペンホルダー|ペンラケット]]の裏へラバーを貼って繰り出す[[裏面打法]]を会得し、たちまち秘めていた才能を開花させ、誰もが驚く速度で進化した。 同時期、片瀬へ再びドラゴンがやってくる。今度は正式にスマイルを引き抜こうという魂胆であった。環境という意味では片瀬よりも海王が優れると踏んだ小泉は移籍を推奨した。精神を疲弊させたスマイルは普段の[[ジョギング]]のコースを外れ途方も無い距離を走った。両親との距離が遠いスマイルが密かに他人との温もりを必要としていると理解した小泉、さらに卓球部の主将を務める大田は、スマイルへ卓球選手としてではなく、人間として歩み寄る。卓球部とスマイルとの間にあったわだかまりは一応は解消された。 そして、1年が経過し、再び[[インターハイ]]の季節がやってきた。ペコの初戦の対戦相手は偶然にもチャイナであった。チャイナは1年間で日本に順応し、かつては馬鹿にしていたチームメイトとも打ち解け、実力も当然上昇していた。しかし、ペコは第1セットから前回の対戦との違いを見せつけ、接戦ながらストレート勝ちを決めた。一方、月本は2回戦で海王の副主将である'''真田'''と対戦する。ドラゴンには劣るものの国内でも規格外と評される実力者との対戦にもスマイルはまったく怯えず、圧勝してみせた。ドラゴンもまた元来の実力で順当に勝ち上がってゆく。そうしてベスト4へ勝ち上がったのはペコ、スマイル、ドラゴン、そして海王の猫田であった。準決勝で猫田と対戦したスマイルはこれまた圧倒的な結果で勝利して見せた。一方、ペコは急速な成長に比例した[[オーバーワーク]]が災いし膝に爆弾を抱えていた。周囲から棄権を勧められながらも、ペコは「スマイルが上で呼んでいる」と言う。小学生のころから無愛想でいじめられっ子だったスマイルを助けたペコは、彼らの間でヒーローだった。ところが最近になって、ペコはすっかりやる気を失い、いつしかヒーローの存在感が消えてしまっていた。そのヒーローをスマイルがずっと待っていると、ペコは悟った。 準決勝。ペコはドラゴンにあえなく1セットを先取され、まったく打つ手がなく追い込まれる。しかし試合中、心中でスマイルと会話を交わしたのをきっかけに復活し、まるで遊ぶように大胆で自由な戦型へと変貌、セットを取り返して見せた。ペコのプレーは観客だけでなく、対戦相手であるドラゴンすら歓喜させる面白さだった。長らく強者の重圧、主将としての責任を背負い卓球を憎んですらいたドラゴンは、ペコとの対戦でやがて喜びをあらわにした。試合はペコが勝利した。 決勝戦はオババや小泉や道夫、アクマ・チャイナ・ドラゴンらがどこか嬉しそうに見守る中、共に片瀬高校同士、ペコとスマイルの対戦となった。膝を痛めたペコ相手にスマイルは一切手を抜かない。一方でペコも、傷をまるで感じさせない大胆なプレーで応戦した。その様はただ卓球を楽しむ少年でしかなかった。 5年が経過した。スマイルは小学校の[[教諭]]を目指しながら、道場でジュニアの指導をしていた。そこへ親しい仲となったドラゴンが顔を出し二人は昔を懐かしみながら語り合う。ドラゴンは[[プロ]]の卓球選手となったが、日本代表から外れ、己を凡庸な選手で終わるかもしれないと憂いていた。アクマは高校生のころから交際していた女性と結婚を決めた。ペコは若くして[[ドイツ]]のプロリーグへ進出し、人気を集めていた。 == 各話リスト == {| class="wikitable" style="font-size:small" !話数!!サブタイトル!!収録巻 |- | 1 | スマイル | rowspan="11| 第1巻 |- | 2 | ペコ |- | 3 | 風の音がジャマをしている |- | 4 | 孔文革(コンウェンガ) |- | 5 | ヒーロー |- | 6 | 老人と少年 |- | 7 | ドラゴン |- | 8 | 若者たち |- | 9 | バタフライジョー |- | 10 | 男はど根性だかんよ!! |- | 11 | 性能 |- | 12 | 少年/老人 | rowspan="11"| 第2巻 |- | 13 | インハイ卓球競技予選会 男子シングルス |- | 14 | 少年怒る |- | 15 | 前で捌く |- | 16 | ヒーロー不在 |- | 17 | First Game |- | 18 | Second Game |- | 19 | Third Game |- | 20 | ペコVS.アクマ |- | 21 | 海 王 |- | 22 | 5人の卓球選手 |- | 23 | 秋 | rowspan="11"| 第3巻 |- | 24 | 不協和音 |- | 25 | 冬が近い |- | 26 | おいてけぼりブルース |- | 27 | スマイルロボ |- | 28 | 星に願いを |- | 29 | もがけ青春 |- | 30 | ヒーローになるための試練その1 |- | 31 | 問1・月本誠が今、必要としているもの |- | 32 | マイコーチ |- | 33 | 続、星に願いを |- | 34 | Do you understand? | rowspan="11"| 第4巻 |- | 35 | 裏 技 |- | 36 | 春。 |- | 37 | ヒーロー見参 |- | 38 | 卓球しましょう |- | 39 | We are ping pong players |- | 40 | 再 見 |- | 41 | モンスター |- | 42 | スマイルモンスター |- | 43 | 一葉落ちて天下の秋を知る |- | 44 | ベスト 4 |- | 45 | 學園熱血スポーツ根性物語 | rowspan="11"| 第5巻 |- | 46 | ヒーローになる為の試練その2 |- | 47 | カザマノココロ |- | 48 | 星と月と… |- | 49 | Play |- | 50 | Fly |- | 51 | High |- | 52 | PM3:30~4:00 |- | 53 | 復活劇 |- | 54 | ピンポン |- | 55 | 春が終わる。 |} == 登場人物 == ※声の記述はアニメ版、演の記述は映画版である === 主要人物 === ; ペコ / 星野裕(ほしの ゆたか) : [[声優|声]] - [[片山福十郎]]<ref name="ノイタミナクロニクル">『10th Anniversary ノイタミナクロニクル 完全保存版』KADOKAWA、2014年12月16日発行、111頁、{{ISBN2|978-4-04-102888-9}}</ref>、幼少 - 西田光貴 / 演 - [[窪塚洋介]]、幼少 - 小泉拓也 : 片瀬高校1→2年生 : [[主人公]]。通称ペコ<ref>単行本第1巻15ページ4コマ目</ref>。切り揃えた[[おかっぱ]]頭と、服装やラケットなどの星マークが[[トレードマーク]]の少年。自信過剰でフランクな性格。幼少からタムラ卓球場で腕を磨き、平日でも「出られる大会全部行く」と学校に行かずに試合を優先していたほどで、当時から卓球にかけて右に出るものはほとんどいなかった。 : 大柄ではないが身体能力に優れ、素手の喧嘩も強かったためスマイルに非道を働いていたいじめっ子達もペコの姿を見ると一斉に逃げ出していた。 : ちゃらけているようで決めるところは決める性分から、周囲からは尊敬され「[[ヒーロー]]」と称されていた。中学卒業後はスマイルと共に片瀬へ入学したが、授業も練習の質が低い部活動もさぼりがちで、タムラ卓球場で一般人を相手に賭け卓球で金を巻き上げる日々を過ごしている。 : 1年生次のインターハイでは1年生ながら8強まで進出するが、その準々決勝では同じ道場出身だが[[ライバル]]とも思っていなかったアクマに敗北し、大会後は失意のまま卓球から離れ、さらにスマイルが片瀬高校で決闘に挑んで敗北したアクマに対して放った「卓球の才能がない」という発言に激しいショックを受け、ラケットを焼却炉に捨ててしまうなど堕落した生活を送る。その後、ペコの才能を惜しむアクマから強く復帰を説得され、一念発起し再起を図り、タムラ卓球場のオババから猛特訓を受け、返り咲きを果たす。 : プロとなったラストでは、実況に「世界のエースに成長しつつあります」とまで評されていた。 : 無類の[[菓子]]好きで、日常生活や練習の合間、試合の直前でも様々な菓子を食べている。とりわけ[[飴]]や[[チョコレート]]など甘い菓子を好んでおり、卓球選手として名を挙げると同時に、[[カルビー]]の[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]への出演が夢であると公言している<ref name="akagi">単行本第4巻57ページ2コマ目</ref>。テレビアニメではこの描写が、カルビーではなく[[赤城乳業]]に変更された。 :; 戦型 :: ペコの卓球スタイルは漫画において「右[[ペンホルダー]]、表ソフト速攻型」、テレビアニメでは「右ペンホルダー、[[前陣速攻型]]」と称されている<ref>単行本第1巻9ページ2コマ目</ref>。使用器具は現代において使用人口の少ない[[日本式ペンホルダー]]で、表面が粒状で球離れがよく球速に優れる表ソフトラバーを使用している。 :: いずれも小回りと攻撃に向く道具であり、自身もスピードを活かして卓球台から離れず攻撃に比重を置くスタイルを取る。その実力はジュニア時代から図抜けており、攻守、技術すべての分野で高く賞賛される。しかし実力者や目の利く指導者からは「プレーが雑だ」と称され、スピードに優れる反面で隙が多く、バックハンドが致命的な弱点であると見抜かれる。このバックハンドの弱点を克服するため、日本式ペンホルダーの裏へラバーを貼って繰り出す裏面打法を会得した。当初は短期間での会得は無謀だと思われていたが、やがて誰もが目をみはるほどの成長速度、センスを見出され、才能だけならば全国優勝を経験したドラゴンを超えると称された。 :: テレビアニメ版では戦型の変遷が若干変更されており、裏面打法の会得と同時期に、[[卓球#フォアハンドとバックハンド|フォアハンド]]面の表ソフトラバーを、ドライブショットに優れる裏ソフトラバーへ変更し、戦型自体をドライブ主体へ変更した。しかしインターハイ準決勝のドラゴン戦を前にして、ペコの最大の長所であるスピードを活かすため表ソフトラバーへ戻し、ラケットを反転式ペンホルダーへ変更した。これによって試合中に表ソフトラバー、裏ソフトラバーの面を自在に切り替え、前陣速攻にも[[ドライブ]]にも囚われない派手なスタイルを確立した。実写映画ではラケットは[[タマス|Butterfly]]の「サイプレス-R」ラバーは同ブランドの「チャレンジャー·アタック」「カタパルト」が使用されている。 ; スマイル / 月本誠(つきもと まこと) : 声 - [[内山昂輝]]{{R|ノイタミナクロニクル}}、幼少 - [[里村洋]] / 演 - [[井浦新|ARATA]]、幼少 - 小沼蔵人 : 片瀬高校1→2年生 : 主人公。通称スマイル。[[眼鏡]]と服や卓球道具の月マークがトレードマーク。感情表現が苦手で無表情で、度々[[ロボット]]などと揶揄される事があったが、心根は人間らしい暖かさを帯びている。 : 小学校在学中にはその無表情を馬鹿にされいじめの対象にされていたが、同級生だったペコに助けられ、彼が通うタムラ卓球場で卓球を習い始めた。 : 表面上は物凄く冷めた性格をしており、「卓球なんて死ぬまでの暇つぶし」などと語る事もあるなど卓球においても勝利には関心が薄く、勝利よりも対戦相手や指導者など周囲へ気を配るのに注力し、わざと負けることも少なくないが、本心では初めてペコのプレーを間近で見た時から彼なりの卓球を愛している。 : 積極性が弱く卓球の実力でペコの陰に隠れがちだったが、密かに強大な才能を抱いている。片瀬高校で指導する小泉に才覚を見出されたのをきっかけに、彼の猛烈な指導を受けて実力を伸ばし、インターハイの優勝候補に名乗りを上げた。 : 海王から退部に追いやったアクマについては「才能がない」「遅かれ早かれ自分の限界を知る選手」と一蹴しているが、それでも彼を退部に追いやってしまった事に負い目は感じており、「張本人の僕が海王に行って他の連中とうまくやっていけると思いますか?」と小泉に吐露している。 : 暇を見つけると[[アマリリス (曖昧さ回避)|アマリリス]]の鼻歌を歌う癖があり、同時にひとり[[ルービックキューブ]]に興じる。テレビアニメでは時代背景の変更に伴い、ルービックキューブが携帯ゲームに変更された。 :; 戦型 :: スマイルの戦型は漫画において「右[[シェークハンド]]、両面裏ソフトカット主戦型」と称されている<ref>単行本第1巻7ページ1コマ目</ref>。使用器具は現代卓球において主流のシェークハンドラケットを使用し、ラケット両面にはそれぞれ異なる種類の裏ソフトラバーが貼られている。戦型は卓球台からやや離れて相手の攻撃を下回転中心のカットで返す[[カット主戦型]]を主としている。 :: 1年生次のインターハイでチャイナと対戦する直前、小泉によってラバーの片方を防御に優れる粒高ラバーへ変更している。防御を中心に攻撃の機会を窺うスタイルを確立しているものの、攻守共に優れた実力を持っており、攻撃に優れない器具を用いても速攻戦型で対応できるほどである。 ; ドラゴン / 風間竜一(かざま りゅういち) : 声 - [[咲野俊介]]{{R|ノイタミナクロニクル}}、幼少 - [[坂口湧久]] / 演 - [[中村獅童 (2代目)|中村獅童]] : 右シェークハンド(映画ピンポンでは左)[[オールラウンダー|オールラウンド]] : 海王学園高校2→3年生 : 海王学園卓球部部長兼主将。通称ドラゴン。高校最強の選手として知られており、インターハイでも2年連続個人優勝している<ref group = "注">作中で負けたのはペコとの対戦時のみ。</ref>。 : 大柄な体格から繰り出されるパワープレイもさる事ながら、チャイナのコーチの分析では「あの筋肉量では(チャイナレベルのボールでなら)左右に振れば素早い対応は難しいのでは」と考えられていたが、実際の対決ではドライブ攻撃にもそつなく対応して見せる素早さも持つ。 : [[ストイック#近代の用法|ストイック]]な性格だが、試合の前には無敗の[[プレッシャー]]に苦しみ便所に籠るなど繊細。チームの和よりも合理性や純粋な実力を追及するがゆえ薄情にみられる事もあるが、アクマの努力を賞賛し気にかけていた様な描写もあり、試合会場で選手に対する大勢の[[ヤジ]]を一喝して制するなど、実直な面もある。 : スマイルの実力に心底惚れ込んでおり、最後のインターハイ予選前は練習試合の対戦相手を全て[[カット主戦型|カットマン]]で揃えたらしいと言われていた、 : 低レベルな片瀬高校卓球部で彼が腐ってしまう事を心配し、顧問と共に片瀬高校を訪れ、海王学園への転校を熱烈に勧誘する。 <!--: 5年後、プロとして活動しているが、諸事情(アニメ版では骨折)で世界代表からは外される。また「タムラ卓球場」に時々出入りしているため、卓球場の子供達から慕われている。ヘアスタイルはオールバックにし、性格も以前より感情を表に出すようになり、月本とも親しげに話している。--> ; アクマ / 佐久間学(さくま まなぶ) : 声 - [[木村昴]]{{R|ノイタミナクロニクル}}、幼少 - [[池澤巧貢|池澤巧貴]] / 演 - [[大倉孝二]]、幼少 - 北山小次郎 : 右ペンホルダー 前陣速攻型 : 海王学園高校1→退部 : ペコとスマイルの幼馴染でタムラ卓球場出身。吊り上った目からサクマ転じてアクマと渾名されている。重度の[[乱視]]で、幼少時から分厚いメガネをかけている。ペコやスマイルを一方的にライバル視してはいるが、ペコやスマイルからは相手にされない。 : ドラゴンに憧れて海王学園に入学し、渋る顧問に懇願して卓球部に入部した。生まれ持った才能は無いが、十やれと言うと百でも千でもやる男であり、実力をつけレギュラーの座を獲得。部内での人望も厚い。 : 元々ペコに憧れ戦型も真似ていたが、海王卓球部入部と共に戦型を変えている。 : スマイルを海王に[[スカウト (勧誘)|スカウト]]する事を切望する風間に憤りを感じ、自らを認めて貰うために部の戒律を破ってまで片瀬高校に赴き非公式にスマイルに挑戦した事がきっかけで卓球部を退部。さらにスマイルへの敗北後に彼から「卓球の才能がない」と言われた事への苛立ちから傷害事件を起こし、停学処分を受けた。 : その後、自分に悔いを残さないために一時的にカット戦型を試しており、独学ながらもそれなりのレベルには達していたが、元来攻撃的な戦型が性に合っていたらしく、しっくり来る事は無かった様だ。 : ペコが挫折して卓球の道を諦めかけた際には、自分のペコに対する嫉妬と羨望の気持ちを吐露し、心から復帰を説得。以降のペコの卓球人生に多大な影響を与えた。 : 高校を[[中退]]してからは工事の[[アルバイト|バイト]]に励み、髪を伸ばして[[リーゼント]]([[ポンパドゥール (髪型)|ポンパドゥール]])にしている。ムー子とは恋人同士であり、一緒に風間達の試合を見に来ている。 <!--: 5年後、既に結婚し、子供も3人目が生まれる。「タムラ卓球場」にもコーチとして出入りしている。--> ; チャイナ / 孔文革(コン・ウェンガ) : 声 - [[文曄星]]{{R|ノイタミナクロニクル}} / 演 - [[サム・リー]] : 右中国式ペンホルダー ドライブ主戦型 : 中国からの雇われ選手。通称チャイナ。上海ジュニアユースの[[エリート]]選手だったが、敗れて日本に留学。卓球大国・中国で生まれ育ち、エリート意識を持っている。 : 球を打ち合う音だけでスマイルの実力を見抜き、当初はペコに[[wikt:スコンク|スコンク]]で圧勝。スマイルとの対戦を熱望する。 : プライドが高く傲慢で、日本の卓球を馬鹿にしていたため部員からも疎まれていたが、インターハイで接戦の末スマイルに実質の敗北を喫し、その寸前にコーチに「ここで這い上がれなければお前の卓球人生は終わりなんだぞ」「気取った卓球するんじゃねえ!」と一喝される。 : そしてドラゴンに敗れてからは日本の卓球を徐々に認めて部の指導にも熱を入れ、[[日本語]]も片言ながら話せるようになる。 : 最後のインターハイ予選でのペコについて、「プレーが型にはまっていない。卓球が好きで好きでたまらないという感じだ。そういう相手と打ち合えるという事は、少なくとも俺には・・・・・・(幸せだ)」と評した。 : アニメでは劇中でも特に出番が追加されている。8歳の時に工場勤めの母親(声 - 劉妍)の元を離れ、省のチームに入った生い立ちが判明しており、母親に対しては深い愛情を抱いている事が窺える一面も描かれた。チームメイトとの交流も非常に多く追加され、母親を招き全員で[[クリスマス]]を祝い[[カラオケ]]に行ったり、冗談を飛ばせる仲になり兄のように慕われており、本人も「結構強いチームになってきた」「団体戦ではきっといいところまでいく」と信頼を寄せている。本人も着実に実力を向上させ、最後のインターハイ予選の1回戦では海王のレギュラー相手に踊るように華麗なプレイで圧勝した。原作では不明であった5年後の動向も語られ、世界代表へ返り咲いたとの記事が出ており、スマイルとドラゴンがそれを読んで喜んでいる。 === 片瀬高等学校 === : ペコ、スマイルが入学した高校。劇中の記事では名門と称されていたものの、練習環境、選手層の面、選手の[[モチベーション]]を見る限り近年はすっかり落ちぶれてしまっており、選手の大半は大会の序盤で敗退している<ref>第1巻34ページ6コマ目</ref><ref>第1巻36ページ1コマ目</ref>。しかし高校卓球以前に実績のあるペコ、スマイルの台頭によって、彼らが1年生次のインターハイ以後、再び注目を集めた。 ; 小泉丈(こいずみ じょう) : 声 - [[屋良有作]]{{R|ノイタミナクロニクル}} / 演 - [[竹中直人]] : 右ペンホルダー [[ドライブ主戦型|両ハンド攻撃型]] : 片瀬高校の卓球部顧問であり[[英語]]教師。62歳(アニメ版では72歳)。オババとは昔なじみ。 : かつてはオババが賛美するほど優秀な選手であり、'''バタフライジョー'''と呼ばれていた。[[1950年]][[世界卓球選手権|世界選手権]]日本代表の最終選考まで残ったが、ライバル選手(風間竜)の膝の怪我につけ込む戦法をどうしても取れずに敗退、同時に選手生活を引退した。 : スマイルの才能を見抜き、スマイルの難しい性格に苦労しながらも一流の選手へと育て上げる。スマイルとの仲を深めるために2人きりで遊園地へ行き、盛り上げようと努力したが、自身が[[コーヒーカップ (遊具)|コーヒーカップ]]に乗って具合を悪くしただけだった。 : 老齢ながらかつての実力は健在で、小泉の本気のサービスを一本目にしただけでペコは戦慄した。 : また、スマイルとの対戦時にはスマイルを奮起させるべくダーティーな戦術も披露したが、最後は老齢ゆえスタミナがついていかず、スマイルに意趣返しをされる形で勝負には敗れている。 : 5年後も関係は続いており、ラストではスマイルの事を「誠」と呼んでおり、家で会食する間柄となっている様だ。 ; 大田(おおた) : 声 - [[星野貴紀]] / 演 - [[荒川良々]] : 片瀬高校2→3年生 : 卓球部キャプテン。特徴的な髪型をしている。顧問の小泉がスマイルのほぼ専任コーチとなってからは、スマイル以外の部員がないがしろにされている事に対して周りの部員と共に不満を漏らし、部への情熱も失っていたが徐々に和解。 : 他の部員との緩衝材の様な役割も果たし、長期不在であったペコも素直に応援し怪我も気遣っていた。 : 最後はスマイルに憧れの目を向け、面倒見の良いキャプテンとしてペコやスマイルの活躍を見守る。 : 劇場版と原作では性格・キャラクターが大幅に異なる。 : アニメ版では実家が個人経営の[[電化製品]]店を営んでおり、卒業後は家業を引き継ぐ。 ; 山田(やまだ) : 声 - [[嶋田翔平]] : 片瀬高校3年生 : 卓球部キャプテン。ペコとスマイルの実力を認めており、大田らをなだめていた。引退後、大田にキャプテンを引き継ぐ。 : 劇場版では既に大田がキャプテンになっており登場しない。 ; 高村(たかむら)、浜ちょん(はまちょん) : 声 - [[星光明]]、[[浜添伸也]] / 演 - [[近藤公園]]、[[平野貴大]] : 片瀬高校2→3年生 : 卓球部員。大田と行動を共にしていることが多く、ペコやスマイルに対して強く当たる。キャプテンとなった大田とは異なり、3年に上がってからも態度は変わらなかった。 : 劇場版では、'''多胡(たご)、五味(ごみ)'''という名前にそれぞれ変更されて登場している。 === 海王学園高校 === : 個人、団体とも無敗を誇る県内屈指の強豪校。卓球専門誌には特集が組まれ、卓球部専用の[[宿舎]]、[[トレーニングジム|ジム]]、[[送迎バス]]、[[ビデオ]]ルーム、[[サウナ]]まで完備するプロ顔負けの設備が備わっている。その一方で近年は選手層の弱体化に悩まされ、常勝軍団の名に陰りが見え始めている。 ; 真田昌幸(さなだ まさゆき) : 声 - [[浜田賢二]] / 演 - [[末満健一]] : 右シェークハンド : 海王学園高校2年→3年 : 海王学園卓球部副部長。太い眉毛が特徴で、[[九州弁]]で喋る。 : 全国でベスト16に入るほどの強豪で、「[[モンスター]]」の異名を持つ。 : ドラゴンに少なからず憧れているがゆえに、ドラゴンに執着されているスマイルに嫉妬するが、2年目のインターハイ予選でスマイルと戦い、かけ離れた実力を見せつけられて敗北。 : アクマとの語らいの中でドラゴンは「真田も優れた選手」と評しながらも、「だが、(月本相手では)1ゲーム獲る事すらも困難だろう」と語っている。 : 大学でも本格的に卓球を続けるつもりだった様だが、スマイルに敗北後は「その気も失せたわ」と消沈しており、「風間があれだけ惚れ込むのも分かる」と語った。 : 退部となったアクマに対するドラゴンの冷たい態度に激昂したり、ドラゴンに叱責された[[補欠選手|補欠]]部員を慰めたりするなど、無機質に勝利を求めるドラゴンとは対照的に和を重んじる人情家。 ; 猫田修二(ねこた しゅうじ) : 声 - [[大隈健太]] : 海王学園高校卓球部部員。[[関西弁]]で喋る。2年目のインターハイ予選ではベスト4まで残った。 : 自身の実力は真田に劣ると考えているらしく、スマイルとの試合中には「ワイの相手やない」「体力も削れないとは」と勝利はほぼ諦めている様な事を考えていた。 ; 毛利(もうり) : 声 - [[須田祐介]] : 海王学園高校卓球部部員。アニメ版オリジナルキャラクター。[[津軽弁]]で喋る。デビュー戦でチャイナと当たり大敗する。 ; 風間卓(かざま たく) : 声 - [[石住昭彦]] : 海王学園卓球部顧問及び監督。アニメ版では風間理事長の息子であるが、原作ではこの設定は付けられていない<ref group = "注">原作第32話で藤村と名乗る場面がある。</ref>。 : 卓球の指導は厳しいが作中の現役チームを含めた歴代の海王というチームを愛し、また部員個人には優しく接する事もあり、実力があるからと言って誰かを特別扱いもせず、部員たちのことを誰よりも理解している。 : 才能はないが努力を惜しまないアクマを高く評価している。 ; 風間竜(かざま りゅう) : 声 - [[小川真司]] : 海王学園[[理事長]]。ドラゴンの祖父。アニメ版オリジナルキャラクター。 : 学園の経営だけでなく「[[ポセイドン]]」という卓球用品ブランドを展開している。容赦ない勝利至上主義者で、その為に海王学園の卓球練習環境を過剰なまでに充実させている。 : あまり気が進まなかったであろうドラゴンを[[広告塔]]に使うなど、金儲けには容赦もない。 : ただ、人情や卓球への愛が全くないような人物ではないらしく、インターハイ予選終了時の会場で友二人と昔の様に語らう姿を見せていた。 : [[ユースオリンピック|オリンピックユース]]で優勝したドラゴンを[[コマーシャルメッセージ|CM]]に起用する。1950年世界選手権日本代表の最終選考にて、バタフライジョーを破っている。 === 辻堂学院高校 === かつては[[東日本]]に辻堂ありといわれた強豪校だが、近年は弱体化の一途。中国から選手兼コーチとしてチャイナを招き、起死回生を図る。 ; 孔のコーチ : 声 - 程波 / 演 - [[翁華栄]] : チャイナとはユースの頃からの間柄らしく、チャイナと共に来日し当初は[[通訳]]も務める。 : 傲慢になり手を焼いていたチャイナを、スマイルとの試合中に本気で𠮟りつけ初心を取り戻させた。 : 怒鳴り声を上げたのはこの時のみで、チャイナが風間に為す術もなく敗れ再起が絶望的となった際には「コーチとしてではなく孔をよく知る友人として」激励の言葉を贈るなど、普段は非常に穏やかな人格者である。 : 一度帰国するが、最後のインターハイ予選前に来日し、チャイナの試合からペコvsスマイルの決勝戦までを最後まで見届けた。 ; 木村(きむら)、小枝(こえだ)、飯田(いいだ) : 声 - [[野沢聡]]、[[中務貴幸]]、玉置祐也 : 卓球部の部員たち。チャイナの指導により、全員メキメキと実力をつけていく。名前はアニメ版より。 === タムラ卓球場 === ; オババ : 声 - [[野沢雅子]] / 演 - [[夏木マリ]] : タムラ卓球場を経営している老女。ペコ・スマイル・アクマを彼らが小学生の頃から指導してきた。ほぼ常に[[タバコ]]を銜えていたり、たまに場内で居眠りをしていたり、言葉遣いが荒く指導も厳しいが、誰よりも選手達を思い、かわいがっている。挫折からの再起を図ろうとするペコに手を差し伸べ、厳しい特訓を課す。 : 若い頃は選手としても優秀であったが膝の故障が原因で一線を退く。アニメ版において日本代表育成センターに彼女の[[銅像]]があることから相当な実力者だったことが伺える。 : 彼女が主役の短編「タムラ」ではタムラ卓球場の在りし日の一日が描かれる。 ; 田村道夫(たむら みちお) : 声 - [[島田岳洋]] : オババの息子。藤堂大学卓球部(アニメ版では日本代表育成センター)のコーチである。母親の頼みによりペコを指導し、彼のバックサイドの弱点を克服するために[[裏面打法]]に挑戦させた。愛称はカモネギ(しかし本人は気に入っていない) : 実写映画版には登場しない。 === その他 === ; 江上(えがみ) : 声 - [[津田健次郎]] : 大鵬高校3年生 : 1年のインターハイ予選のスマイルの対戦相手。3年最後の卓球で意気込んでいたが、スマイルの速攻戦法に敗北する。 : 原作では[[脇役]]だが、アニメ版ではその後のストーリーにも登場する。 ; 風間百合枝(かざま ゆりえ) : 声 - [[川澄綾子]] : 風間卓の娘。[[短大生]]。アニメ版オリジナルキャラクター。 : ドラゴンの[[従姉]]であり、彼とは[[プラトニック|「清い交際」]]の関係。卓球用品ブランド「ポセイドン」のCMにも出演している美人。 <!--: 自分の夢でもあるデザイナーを目指し単独留学。5年後にはパリを拠点にデザイナーとして活動している。--> ; ムー子(むーこ) : 声 - [[栗田エリナ]] / 演 - [[三輪明日美]] : アクマが卓球部を退部して以降、恋人として連れ添う少女。短気なアクマとは対照的に、極度に[[天然ボケ]]でおっとりした性格。アクマを「マー君」と呼んで慕う。アクマもそれなりに心を開いている様子である。 ; ドテチン : 声 - [[宮本崇弘]] / 演 - [[大浦龍宇一]] : タムラ卓球場に来た大学生。卓球歴10年の経験者だが、ペコにコテンパンにされた。 : 劇場版では、'''アッ君(あっくん)'''という名前に変更され、'''早苗'''(さなえ、演 - [[田中千絵]])という女子大生を連れていた。 ; 風間のりお(かざま のりお)、風間えみ子(かざま えみこ) : 声 - [[あべそういち]]、[[土門敬子]] : ドラゴンの親。回想に登場する。 その他に、『[[鉄コン筋クリート]]』の蛇が藤堂大学の卓球部員として、第32,34,36話で[[カメオ出演]]している。 == 評価 == 「ピンポン」は[[1997年]]、[[1998年]]に[[手塚治虫文化賞]]の候補に挙げられ、受賞は逃したものの数多くの選考委員から高い評価を得た。 「ピンポン THE ANIMATION」を手がけた[[湯浅政明]]は連載当時から本作を愛好していたが、完成度の高さを見てアニメ化には当初後ろ向きだったとコメントしている。 中国出身の映画監督ビー・ガンはピンポンを始めとする松本の作品群から影響を受けたと公言している<ref>{{Citenews|date=2019-11-23|url=|title=https://realsound.jp/movie/2019/11/post-450006.html|publisher=realsound|newspaper=Realsound映画部|accessdate=2019-12-2}}</ref>。 == 書誌情報 == * 単行本([[小学館]][[ビッグコミックススペシャル]] 全5巻) *# 1996年9月1日発行、{{ISBN2|4-09-184736-6}} *# 1997年1月1日発行、{{ISBN2|4-09-184737-4}} *# 1997年4月1日発行、{{ISBN2|4-09-184738-2}} *# 1997年8月1日発行、{{ISBN2|4-09-184739-0}} *# 1997年10月1日発行、{{ISBN2|4-09-184740-4}} * 新装版(小学館 ビッグコミックススペシャル 全3巻) *# 2002年7月1日発売、{{ISBN2|4-09-185735-3}} *# 2002年7月1日発売、{{ISBN2|4-09-185736-1}} *# 2002年7月1日発売、{{ISBN2|4-09-185737-X}} * 文庫版(小学館 小学館文庫 全3巻) *# 2012年7月14日発売、{{ISBN2|978-4-09-196241-6}} *# 2012年7月14日発売、{{ISBN2|978-4-09-196242-3}} *# 2012年7月14日発売、{{ISBN2|978-4-09-196243-0}} * ピンポン フルゲームの1、2(小学館 ビッグコミックススペシャル 全2巻) *# 2014年4月1日発売、{{ISBN2|978-4-09-186089-7}} *# 2014年4月1日発売、{{ISBN2|978-4-09-186090-3}} == パチスロ == 2010年に[[SANYO]]から発売されたパチスロ5号機。 ART+ボーナスタイプの機種で、ゲーム数によるゾーン抽選で発動するART「ピンポンボーナス」が特徴。 === 声の出演 === * ペコ - [[西墻由香]] * スマイル - [[神谷浩史]] * アクマ - [[鳥海浩輔]] * ドラゴン - [[安元洋貴]] {{節スタブ|section=1}} == 映画 == {{Infobox Film |作品名 = ピンポン |原題 = PING PONG |画像 = |画像サイズ = |画像解説 = |監督 = [[曽利文彦]] |脚本 = [[宮藤官九郎]] |製作 = [[小川真司 (プロデューサー)|小川真司]]<br />鈴木早苗<br />井上文雄 |製作総指揮 = [[椎名保]] |出演者 = [[窪塚洋介]]<br />[[井浦新|ARATA]]<br />[[中村獅童 (2代目)|中村獅童]]<br />[[サム・リー]]<br />[[大倉孝二]]<br />[[夏木マリ]]<br />[[竹中直人]] |音楽 = |主題歌 = [[SUPERCAR]]<br />「[[YUMEGIWA LAST BOY]]」 |撮影 = [[佐光朗]] |編集 = [[上野聡一]] |配給 = [[アスミック・エース]] |公開 = {{Flagicon|JPN}} [[2002年]][[7月20日]] |上映時間 = 114分 |製作国 = {{JPN}} |言語 = [[日本語]] |製作費 = |興行収入 = 14億円<ref>{{映連興行収入|2002}}</ref> |前作 = |次作 = }} 漫画の連載終了から4年以上が経過した[[2002年]]初頭に映画の制作が発表され、同年7月に劇場公開された。 === ストーリー === 片瀬高校一年の星野は、将来[[ヨーロッパ]]に行って卓球で頂点を目指すという夢を持っている。その割には、卓球部の練習はさぼってばかりで、マイペースだ。星野の幼なじみの月本は、幼い頃虐められていたときに、いつも星野に助けてもらった。月本の中では、星野はヒーローであった。星野に卓球を習って、目立たないが卓球の才能を持っている月本は、インターハイ[[チャンピオン]]の海王学園の風間や、中国の[[ナショナルチーム]]から落ちて日本で再起をはかる孔からも注目されている。しかし月本は卓球は人生の暇つぶしと考えてクールに取り組み、月本を鍛え上げようとする顧問の小泉にも反抗しがちだ。 そしてインターハイ県予選がはじまる。星野は、幼なじみで風間に憧れて海王学園に行った佐久間に破れる。月本は孔を追い詰めるが、情をかけ逆転負けをする。風間に認められたい佐久間は、月本に試合を挑むが完敗、退学し卓球を離れる。一方、卓球をやめようとしていた星野に会い、卓球を続けるように励ます。星野は再起を期して、タムラ卓球のオババのもとで鍛え直す。月本も、小泉と信頼関係を築いていき、特訓をはじめる。 そして翌年のインターハイ予選が始まる。月本は圧倒的な力で決勝に進んだ。星野は孔を下し準決勝に進む。そして膝痛のため、棄権をすすめるオババの忠告を蹴って、月本が待っているからと言って風間と戦う。風間は意地をかけて勝利を目指すが、星野は月本の友情に力を取り戻し風間を下す。死力を尽くした戦いに、風間は幸福を感じていた。月本はヒーローである星野との決勝に臨む。そして星野は月本に勝利し、優勝を果たした。 === 他出演 === * 橋の上の[[巡査]] - [[松尾スズキ]] * 選手Aの父 - [[山下真司]] * 選手Aの母 - [[石野真子]] * [[ゲームセンター]]のカップル - [[津田寛治]] * ゲームセンターのカップル - [[馬渕英里何]] * スタッフ - [[佐藤二朗]] * 服部まこ - [[水谷妃里]] * 片瀬高校女子生徒 - 加賀野泉 * 片瀬高校女子生徒 - [[原田夏希]] * 片瀬高校卓球部員 - 守山歩 * 片瀬高校卓球部員 - 西原亮 * 片瀬高校卓球部員 - 鈴木清貴 * 片瀬高校卓球部員 - 小山内勝 * 片瀬高校卓球部員 - 上地慶 * 片瀬高校卓球部員 - 大江聡 * 片瀬高校卓球部員 - 斉藤直行 * 片瀬高校卓球部員 - 樋田洋平 * 海王学園高校卓球部員 - [[虎牙光揮]] * 海王学園高校卓球部員 - 秋永裕司 * 海王学園高校卓球部員 - 中村郁雄 * 海王学園高校卓球部員 - 小川毅史 * 海王学園高校卓球部員 - 平多康朔 * 海王学園高校卓球部員 - 田村賢二 * 海王学園高校卓球部員 - 周防進 * 海王学園高校卓球部員 - 仲島武士 * 生徒 - [[富田翔|冨田翔]] * 生徒 - [[佐藤幹雄]] * 生徒 - 佐々木哲平 * 少年太郎 - [[小池城太朗]] * ラストの少年 - [[染谷将太]] * クラスメイト - 田代惇一 * クラスメイト - 吉川陸 * クラスメイト - 伊藤善博 * クラスメイト - 真貝晋史 === スタッフ === * 原作 - [[松本大洋]] * 監督・VFX - [[曽利文彦]] * 脚本 - [[宮藤官九郎]] * 音楽監督 - 二見裕志 * 主題歌 - [[SUPERCAR]]「[[YUMEGIWA LAST BOY]]」 * 挿入曲 - SUPERCAR、SUBTLE、[[石野卓球]]、DUB SQUAD、sugar plant、ma-o、GROUP、WORLD FAMOUS、[[砂原良徳]]、[[BOOM BOOM SATELLITES]]、[[cicada]]{{要曖昧さ回避|date=2022年12月}} * 音楽プロデューサー - 安井輝 * 音楽コーディネーター - [[小林弘幸]] * 撮影 - [[佐光朗]] * 照明 - 渡邊孝一 * 美術 - [[金勝浩一]] * 録音 - 山田均 * 編集 - [[上野聡一]] * 技斗 - [[二家本辰己]] * 音響効果 - [[岡瀬晶彦]] * ストーリーボード - [[荒牧伸志]] * 特殊造形 - [[松井祐一]]、三好史洋 * CG - TBS・CG部、[[デジタル・フロンティア]]、DML * 卓球アドバイザー - 坂井敏昭 * ウィッグ - [[アートネイチャー]] * ロケ協力 - [[茨城県]]、水海道市(現・[[常総市]]) ほか * 技術協力 - [[東通]]、[[ソニーマーケティング]] * スタジオ - [[東映東京撮影所]] * 現像 - [[IMAGICA Lab.|IMAGICA]] * エグゼクティブ・プロデューサー - 椎名保 * プロデューサー - [[小川真司 (プロデューサー)|小川真司]]、鈴木早苗、井上文雄 * 製作 - [[アスミック・エース]]、[[小学館]]、[[TBSテレビ]]、[[BS-TBS]]、[[日本出版販売]]、[[IMAGICA Lab.|IMAGICA]] * 配給 - アスミック・エース === 製作・エピソード === * 卓球の試合シーンは主にボール、コート共にフル[[コンピュータグラフィックス|CG]]で作られている。CGシーンを担当した[[荒牧伸志]]は監督の[[曽利文彦]]と共にフルCGによるテレビシリーズ作品を企画していた縁から本作品に参加しており、後に曽利のプロデュースによりフルCGアニメ映画『[[アップルシード#APPLESEED|APPLESEED]]』の監督を務めている<ref>{{Cite journal |和書|date=2004-05-01 |author=古城陽太 |title=トクサツ遺伝子研究所 |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.112 |issue=(2004年5月号) |page=111 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |id=雑誌コード:01843-05}}</ref>。 * 劇中音楽は、主題歌を担当した[[SUPERCAR]]を始めとして、[[石野卓球]]や[[BOOM BOOM SATELLITES]]などの[[ミュージシャン]]らがそれぞれ提供している。 * この映画の原作との最大の違いは、キャプテン大田のキャラクターである。[[荒川良々]]が演じており、原作とは異なる[[丸刈り|丸坊主]]の太っちょといったいでたちで、原作には無い[[コミカル]]なシーンが盛り込まれている。また、キャプテン大田主演の宮藤官九郎脚本・監督によるこの映画の[[サイドストーリー]]「ティンポン」が存在しており、こちらの内容は本編の[[パロディ]]となっている<ref group = "注">DVD2枚目に特典映像として収録されている。</ref>。 * 原作者の松本大洋本人が劇中にわずかではあるが出演している。 * 出演者の卓球の技術指導をした平岡義博が海王学園の監督役で出演している。また、当時平岡が監督をしていた明治大学の卓球部の選手たちが撮影協力している。 === 受賞歴 === * 第20回[[ゴールデングロス賞]]話題賞 * [[第26回日本アカデミー賞]]<ref>[https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=26 第26回日本アカデミー賞優秀作品]、日本アカデミー賞公式サイト、2018年1月30日閲覧。</ref> ** 優秀作品賞 ** 優秀監督賞(曽利文彦) ** 優秀脚本賞(宮藤官九郎) ** 優秀助演女優賞(夏木マリ) ** 優秀撮影賞(佐光朗) ** 優秀照明賞(渡邊孝一) ** 優秀編集賞(上野聡一) ** 新人俳優賞(中村獅童) === ソフト化 === * ピンポン [[DVD]]2枚組DTS特別版(初回限定生産2枚組、2003年2月14日発売、発売元・小学館、発売 / 販売元・アスミック・エース) ** ディスク1:本編DVD *** 音声特典 **** [[オーディオコメンタリー]](監督:曽利文彦×撮影:佐光朗) *** 音楽トラック *** 音楽チャプター ** ディスク2:特典DVD *** 短編作品「ティンポン」 *** メイキング・オブ・「ピンポン」 *** 主要キャスト5人映像集 *** CGシーン解説 *** [[デジタルシネマ]]について *** 絵コンテ&本編シーンの比較 *** 短編「カンフーマスター」 *** 未公開シーン *** 平岡コーチの卓球教室 *** 製作発表記者会見 *** 完成披露試写会舞台挨拶 *** 公開初日舞台挨拶 *** 予告編集 *** 劇中使用グッズ紹介 *** ポスターギャラリー * ピンポン メモリアルBOX(DVD2枚組、2003年2月14日発売、発売元・小学館、発売 / 販売元・アスミック・エース、15000セット限定生産) ** ディスク1:本編DVD(2枚組DTS特別版と同様) ** ディスク2:特典DVD(2枚組DTS特別版と同様) ** 封入特典 *** スペシャル・ヴィジュアル・ファイル *** 特製バインダーケース *** 未公開スチール約100点使用ピクチャーカード集 *** 松本大洋「ピンポン」両面ポスター *** ピンポン星人のペーパー・マスク *** 「ピンポン」型抜きステンシル *** 35 mm映画[[フィルム#映画用フィルム|フィルム]] *** 片瀬高校ゼッケン * 【TCE Blu-ray SELECTION】ピンポン ブルーレイ スペシャル・エディション(BD1枚組、2012年9月5日発売、発売元・アスミック・エース / 小学館、販売元・[[TCエンタテインメント]]) ** 映像特典 *** 短編作品「ティンポン」 *** メイキング・オブ・「ピンポン」 *** メインキャスト映像集 *** 平岡コーチの卓球教室 *** CGシーン解説 *** デジタルシネマについて *** 未使用シーン *** 製作発表記者会見 *** 完成披露試写会舞台挨拶 *** 公開初日舞台挨拶 *** 予告編集 ** 音声特典 *** オーディオコメンタリー(監督:曽利文彦×撮影:佐光朗) == テレビアニメ == 『'''ピンポン THE ANIMATION'''』(ピンポン ジ・アニメーション)のタイトルで、2014年4月より6月まで、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[ノイタミナ]]』枠にて放送された。原作の絵をほぼそのまま再現し、アニメーション化させるという試みが行われている。また、作中では、松本が連載時に着想したものの、描写できなかったエピソードが湯浅の手によって多数映像化されている<ref>[https://twitter.com/pingpong_anime/status/461902153204768768 公式twitterより]</ref>。 また、本作にはあらかじめ脚本はなく、監督の湯浅政明自ら絵コンテから描き始め、そこでセリフ等を決めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kai-you.net/article/2751 |title=アニメで蘇るヒーローの物語──湯浅政明が語る松本大洋の『ピンポン』 |publisher=KAI-YOU.net |accessdate = 2014-05-02}}(2ページ目)</ref>。 [[2015年]]、[[東京アニメアワード|東京アニメアワードフェスティバル 2015]]でアニメ オブ ザ イヤー部門テレビ部門グランプリ受賞。 === スタッフ(アニメ) === * 原作 - 松本大洋(小学館 [[ビッグコミックス|ビッグスピリッツコミックス]]刊){{R|ノイタミナクロニクル}} * 製作 - [[松崎容子]]、[[植田益朗]]、中尾勇一、石川豊 * 監督・シリーズ構成・脚本・絵コンテ - [[湯浅政明]] * 副監督 - [[EunYoung Choi]] * キャラクターデザイン・総作画監督 - [[伊東伸高]] * 美術監督 - Aymeric Kevin{{R|ノイタミナクロニクル}} * 色彩設計 - [[辻田邦夫]]{{R|ノイタミナクロニクル}} * 撮影監督 - 中村俊介{{R|ノイタミナクロニクル}} * 編集 - 木村佳史子{{R|ノイタミナクロニクル}} * 音響監督 - [[木村絵理子]]{{R|ノイタミナクロニクル}} * 音楽 - [[agraph|牛尾憲輔]]{{R|ノイタミナクロニクル}} * 音楽プロデューサー - [[佐野弘明]]、千葉悦子 * チーフプロデューサー - [[山本幸治 (プロデューサー)|山本幸治]] * プロデューサー - 岡安由夏、新宅洋平 * アニメーションプロデューサー - 藤尾勉 * アニメーション制作 - [[タツノコプロ]]{{R|ノイタミナクロニクル}} * 制作 - アニメ「ピンポン」製作委員会{{R|ノイタミナクロニクル}}([[フジテレビジョン]]、[[アニプレックス]]、[[京楽産業ホールディングス]]、[[電通]]) === 主題歌 === ; オープニングテーマ「唯一人」 : 作詞・作曲・編曲・歌 - [[爆弾ジョニー]] ; エンディングテーマ「僕らについて」 : 作詞・作曲 - [[クボケンジ]] / 歌 - [[メレンゲ (バンド)|メレンゲ]] ; 挿入歌「[[Wasted Tears|Midnight Flight -ひとりぼっちのクリスマス・イブ-]]」(第6話) : 作詞・作曲・歌 - [[浜田省吾]] === 各話リスト === {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" !話数!!サブタイトル!!演出!!作画監督 |- |#1||風の音がジャマをしている||久保田雄大||[[伊東伸高]] |- |#2||スマイルはロボット||colspan="2" style="text-align:center"|伊藤秀樹 |- |#3||卓球に人生かけるなんて気味が悪い||[[荒川眞嗣]]||伊東伸高、[[戸田さやか]] |- |#4||絶対に負けない唯一の方法は闘わないことだ||上野史博||阿部弘樹、服部憲治 |- |#5||どこで間違えた?||宇都宮正記||石丸賢一 |- |#6||おまえ誰より卓球好きじゃんよ!!||久保田雄大||[[浅野直之]]、戸田さやか<br />伊東伸高 |- |#7||イエス マイコーチ||伊藤良太||西垣庄子、柴田健児 |- |#8||ヒーロー見参||許平康||石丸賢一、戸田さやか<br />浅野直之 |- |#9||少し泣く||伊藤良太||戸田さやか、浅野直之<br />奥田佳子、柴田健児<br />西垣庄子 |- |#10||ヒーローなのだろうが!!||[[EunYoung Choi]]||rowspan="2"|伊東伸高、浅野直之<br />戸田さやか、西垣庄子 |- |#11||血は鉄の味がする||[[湯浅政明]] |} === 放送局 === {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送時間!!放送系列!!備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||[[フジテレビジョン|フジテレビ]]||rowspan="16"|[[2014年]][[4月11日]] - [[6月20日]]||rowspan="3"|金曜 0:50 - 1:20(木曜深夜)||rowspan="15"|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]||'''製作委員会参加''' |- |[[岩手県]]||[[岩手めんこいテレビ]]||rowspan="2"|同時ネット |- |[[山形県]]||[[さくらんぼテレビジョン|さくらんぼテレビ]] |- |[[愛媛県]]||[[テレビ愛媛]]||金曜 1:10 - 1:40(木曜深夜)|| |- |[[静岡県]]||[[テレビ静岡]]||金曜 1:20 - 1:50(木曜深夜)|| |- |[[秋田県]]||[[秋田テレビ]]||金曜 1:30 - 2:00(木曜深夜)|| |- |[[福島県]]||[[福島テレビ]]||金曜 1:35 - 2:05(木曜深夜)|| |- |[[新潟県]]||[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]||金曜 1:40 - 2:10(木曜深夜)|| |- |[[広島県]]||[[テレビ新広島]]||rowspan="2"|金曜 1:45 - 2:15(木曜深夜)|| |- |[[熊本県]]||[[テレビ熊本|テレビくまもと]]|| |- |[[広域放送|近畿広域圏]]||[[関西テレビ放送|関西テレビ]]||金曜 1:58 - 2:28(木曜深夜)|| |- |[[宮城県]]||[[仙台放送]]||金曜 2:00 - 2:30(木曜深夜)|| |- |[[福岡県]]||[[テレビ西日本]]||金曜 2:05 - 2:35(木曜深夜)|| |- |[[広域放送|中京広域圏]]||[[東海テレビ放送|東海テレビ]]||rowspan="2"|金曜 2:10 - 2:40(木曜深夜)|| |- |[[鹿児島県]]||[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]|| |- |[[全国放送|日本全域]]||[[フジテレビオンデマンド]]||金曜 12:00 更新||フジテレビ系列<br />[[インターネットテレビ|ネット配信]]|| |- |[[佐賀県]]||[[サガテレビ]]||2014年[[4月12日]] - [[6月21日]]||土曜 0:50 - 1:20(金曜深夜)||rowspan="2"|フジテレビ系列|| |- |[[北海道]]||[[北海道文化放送]]||2014年[[4月21日]] - [[6月29日]]||月曜 2:10 - 2:40(日曜深夜)|| |- |rowspan="4"|日本全域||[[バンダイチャンネル]]||2014年[[4月25日]] - [[6月25日]]||水曜 12:00 更新||ネット配信||<ref group="注">初回は4月25日に第1話・第2話連続配信。</ref> |- |[[フジテレビTWO]]||2014年[[10月25日]] - [[11月29日]]||土曜 2:00 - 3:00(金曜深夜)||フジテレビ系列<br />[[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CS放送]]||2話ずつ放送<br />リピート放送あり |- |[[BSフジ]]||2017年4月9日 - [[6月18日]]||月曜0:30 - 1:00 (日曜深夜)||BS放送|| |- |[[アニマックス]]||2019年[[7月8日]] - ||月曜 ~ 金曜0:00 - 0:30 || BS放送|| |} === BD-BOX / DVD-BOX === 2014年8月27日にアニメの全11話とサウンドトラックを収録した[[DVD-BOX|BOX]]仕様で発売された。規格品番はANZX-6281(Blu-ray)、ANZB-6281(DVD・完全生産限定版)、ANSB-6281(DVD・通常版)。 === ブラウザゲーム === 『'''〜ピンポン THE ANIMATION〜 超高速!スマッシュパズル!!'''』という[[ブラウザゲーム]]が[[2014年]][[4月11日]]から提供された。ジャンルは卓球パズル。基本プレイ無料の[[アイテム課金制]]。[[カルチャー]]による制作で、[[Yahoo!モバゲー]]での配信。 {{前後番組 |放送局= [[フジテレビジョン|フジテレビ]] |放送枠= [[ノイタミナ]] 第1部 |番組名= ピンポン THE ANIMATION |前番組= [[銀の匙 Silver Spoon]]<br />(第2期) |次番組= [[残響のテロル]] }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.asmik-ace.co.jp/lineup/1300 映画版公式サイト] * {{Allcinema title|237383|ピンポン}} * {{Kinejun title|32979|ピンポン}} * {{Amg movie|276156|ピンポン}} * {{IMDb title|0328258|ピンポン}} * [https://www.pingpong-anime.tv/ テレビアニメ版公式サイト] * {{Twitter|pingpong_anime|ピンポン}} * {{Facebook|pingpong.anime|アニメ『ピンポン』}} {{ノイタミナ}} {{タツノコプロ}} {{湯浅政明監督作品}} {{日本の卓球}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header= |redirect1= ピンポン (映画) |1-1= 2002年の映画 |1-2= 日本の青春映画 |1-3= TBS製作の映画 |1-4= 曽利文彦の監督映画 |1-5= 宮藤官九郎の脚本映画 |1-6= 漫画を原作とする映画作品 |1-7= 球技を題材とした映画 |1-8= 日本の高校スポーツを題材とした映画作品 |1-9= 常総市で製作された映画作品 |1-10= 鎌倉市で製作された映画作品 |1-11= 藤沢市で製作された映画作品 |redirect2= ピンポン THE ANIMATION |2-1= アニメ作品 ひ |2-2= 2014年のテレビアニメ |2-3= ノイタミナ |2-4= タツノコプロ |2-5= アニプレックスのアニメ作品 |2-6= ビッグコミックスのアニメ作品 |2-7= 球技を題材としたアニメ作品 |2-8= 日本の高校スポーツを題材としたアニメ作品 }} {{DEFAULTSORT:ひんほん}} [[Category:松本大洋の漫画作品]] [[Category:漫画作品 ひ|んほん]] [[Category:1996年の漫画]] [[Category:ビッグコミックスピリッツの漫画作品]] [[Category:卓球漫画]] [[Category:日本の高校スポーツを題材とした漫画作品]] [[Category:湘南を舞台とした漫画作品]] [[Category:藤沢市を舞台とした作品]]
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衛星
衛星(えいせい、英語: natural satellite)は、惑星や準惑星・小惑星の周りを公転する天然の天体。ただし、惑星の環などを構成する氷や岩石などの小天体は、普通は衛星とは呼ばれない。 地球の衛星である月が先史時代から存在を知られていた唯一の衛星であるが、コペルニクス以前の天動説では惑星の一つと考えられていた。ガリレオ・ガリレイが木星に発見した4つの衛星いわゆるガリレオ衛星が有史以後発見された最初の衛星である。そしてヨハネス・ケプラーによって地動説が優勢になるなり、ラテン語で従者を意味するsatellesから「衛星」と呼ばれるようになった。 国際天文学連合(IAU)では、2006年に太陽系の惑星の定義を決議したが、衛星の定義に関しては「今後、天文学連合で検討されて決定する見込み」とするにとどまった。ただ、惑星の定義を単純に衛星に転用することは適切でないと考えられており、例えば惑星の定義に含まれる「重力平衡形状(ほぼ球状)を持つ」を条件にすると、これまで衛星と呼ばれていた天体が定義から外れるケースを生じると指摘されている。土星の衛星のヒペリオン(ハイペリオン)は、長軸径が約360km、短軸径が約225km(比は1.6)の太陽系最大の非球形天体である。また、冥王星とカロンのようにサイズが近く、天体間の共通重心が母惑星の表面よりも外側にある場合を、従来のように準惑星-衛星系と考えるか二重天体(二重準惑星)と考えるかも議論になっている。 人間が作った人工天体の場合には天然の衛星(自然衛星)と区別するために「人工衛星」(英: Artificial Satellite) と呼ぶが、これを単に「衛星」と呼ぶことも少なくない。英語では、口語的に "moons" という言葉で、日本語でも「(惑星)の月」という呼び方で、月にかぎらず、各惑星等の衛星全般を指すこともある。 衛星の周りを公転する天体を孫衛星と呼ぶ。天然の孫衛星は現在のところ発見されておらず、一時的に存在できたとしても軌道が不安定であると考えられている。 また、衛星の形成原因は以下の4通りの説が出されている。 これらのうち惑星とともに形成された説は惑星に対し質量が相当大きな衛星も存在し得る(ガス惑星と地球サイズの衛星という組み合わせも可能)が、捕捉説は天体が大きくなると惑星の引力で捕捉が困難になるため成立しなくなる他、衝突説は岩石惑星の場合は良いが、ガス惑星の場合衝突で放出されるものの大半が水素やヘリウムといったガスなのですぐに散らばり、大きな衛星形成は困難になるといった違いがある。 また、逆行衛星の場合は捕捉説以外の成因はほぼ不可能で、海王星のトリトンはこうした逆行軌道であることから過去に海王星が捕捉した天体というのが定説となっている。 2023年5月現在、太陽系の惑星を周回する衛星は284個発見されている。また2007年末時点で、そのうち144個に名前がついている。 太陽系の衛星には地球の衛星である月のように主に岩石のみで構成された岩石衛星(岩石型衛星)と、木星以遠の領域にある大部分の衛星のように二酸化炭素主体の氷と岩石あるいは氷のみで構成された氷衛星に分けられる。ただ、氷衛星は太陽系にごくありふれた存在であり、太陽系の衛星で氷をまとっていないのは地球の月と火星の2つの小衛星、木星の衛星イオだけである。 地球はやや特殊なパターンで、衛星が極めて大きいものが1つだけあるという構造であり、月の質量は地球の81分の1に及ぶ。他の惑星の衛星の場合は質量比がはるかに小さく、大きくてもそれが属する惑星の1万分の3程度が普通で、次に大きい海王星に対するトリトンの質量比が約5000分の1である。 衛星の比喩として「衛星都市」、「衛星国家」などの表現も用いられる。
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衛星は、惑星や準惑星・小惑星の周りを公転する天然の天体。ただし、惑星の環などを構成する氷や岩石などの小天体は、普通は衛星とは呼ばれない。
{{Otheruses|衛星一般|人工衛星|人工衛星}} [[ファイル:Moons of solar system-ja.svg|thumb|400px|主要な衛星の大きさ比較]] '''衛星'''(えいせい、{{lang-en|natural satellite}})は、[[惑星]]や[[準惑星]]・[[小惑星]]の周りを[[公転]]する天然の[[天体]]。ただし、惑星の[[環 (天体)|環]]などを構成する[[氷]]や[[岩石]]などの小天体は、普通は衛星とは呼ばれない。<!--[[ロッシュの限界]]の内側にある環と違い、衛星はその外側に多く存在する。--> == 概要 == 地球の衛星である月が[[先史時代]]から存在を知られていた唯一の衛星であるが、[[コペルニクス]]以前の[[天動説]]では惑星の一つと考えられていた。[[ガリレオ・ガリレイ]]が木星に発見した4つの衛星いわゆる[[ガリレオ衛星]]が有史以後発見された最初の衛星である。そして[[ヨハネス・ケプラー]]によって[[地動説]]が優勢になるなり、ラテン語で従者を意味するsatellesから「衛星」と呼ばれるようになった。 [[国際天文学連合]](IAU)では、[[2006年]]に太陽系の惑星の定義を決議したが、衛星の定義に関しては「今後、天文学連合で検討されて決定する見込み」とするにとどまった<ref name="kimura" />。ただ、[[惑星の定義]]を単純に衛星に転用することは適切でないと考えられており、例えば惑星の定義に含まれる「重力平衡形状(ほぼ球状)を持つ」を条件にすると、これまで衛星と呼ばれていた天体が定義から外れるケースを生じると指摘されている<ref name="kimura" />。土星の衛星の[[ヒペリオン (衛星)|ヒペリオン]](ハイペリオン)は、長軸径が約360km、短軸径が約225km(比は1.6)の太陽系最大の非球形天体である<ref name="kimura" />。また、[[冥王星]]と[[カロン (衛星)|カロン]]のようにサイズが近く、天体間の共通重心が母惑星の表面よりも外側にある場合を、従来のように準惑星-衛星系と考えるか二重天体(二重準惑星)と考えるかも議論になっている<ref name="kimura" />。 人間が作った[[人工天体]]の場合には天然の衛星(自然衛星)と区別するために「[[人工衛星]]」({{lang-en-short|Artificial Satellite}}) と呼ぶが、これを単に「衛星」と呼ぶことも少なくない。英語では、口語的に "moons" という言葉で、日本語でも「(惑星)の月」という呼び方で、月にかぎらず、各惑星等の衛星全般を指すこともある。 衛星の周りを公転する天体を[[孫衛星]]と呼ぶ。天然の孫衛星は現在のところ発見されておらず、一時的に存在できたとしても軌道が不安定であると考えられている。 == 安定する条件 == ;惑星から[[ロシュ限界]]以上に離れている事 :惑星に近すぎると、惑星の重力が原料のデブリの凝集を防ぐので球状の衛星に成れない<ref>[[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.69-70]]</ref>。 ;[[同期軌道]]の外側に存在している事 :衛星が同期軌道より内側を公転していると潮汐力の影響で惑星の自転速度を上げるため、自身の運動エネルギーを失ってしまい軌道がどんどん降下して(同時に公転周期も短くなり)ロシュ限界に突入してしまう。<br>逆に同期軌道より遠い場合は惑星の自転速度から運動エネルギーをもらい徐々に軌道が上がっていき公転周期が長くなるが、惑星の自転速度も遅くなるので最終的にこれらが釣り合い、衛星の公転周期=惑星の自転周期になった所で止まるので安定する<ref>[[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.69-71]]</ref>。 ;[[逆行衛星]]でないこと :逆行衛星の場合、潮汐力で惑星の自転と自身の運動エネルギーが相殺し合って運動エネルギーを失うので、最初の軌道がいかに離れていても降下していき、最終的に衛星はロシュ限界に突入する<ref>[[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.128-135]]</ref>。 ;衛星が1つだけか、惑星が衛星よりはるかに大きく複数の衛星が[[軌道共鳴]]の関係にある事。 :基本的に複数の衛星は不安定で惑星との潮汐力の影響で軌道が変わっていく際に均一に移動していかず、最終的にくっついて1つになってしまう。<br>これを防ぐには木星のガリレオ衛星のようにそれぞれの衛星が軌道共鳴にあることで、これならばお互い運動エネルギーを得ては失うことを周期的に繰り返して行く必要があるが、これは惑星が衛星よりはるかに大きい場合にのみ成立し、月と地球のような衛星が惑星の質量に近い場合は不可能である<ref>[[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.337]]</ref>。 また、衛星の形成原因は以下の4通りの説が出されている<ref>[[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.31・117]]</ref>。 * 惑星とともに形成された * 惑星から分裂した(ただし極めて考えにくい<ref>[[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.338]]</ref>)<ref>小惑星、特にラブルパイル小惑星の場合は、自転が太陽光の影響による[[ヤルコフスキー・オキーフ・ラジエフスキー・パダック効果|YORP効果]]で加速されることによって赤道付近に膨らみが生じ、やがて分裂して衛星になる場合があるという説があるが、太陽系の地球型惑星のような大きな天体ではほぼ不可能と考えられる。</ref> * 衝突によって惑星から分離した * 惑星によって捕捉された これらのうち惑星とともに形成された説は惑星に対し質量が相当大きな衛星も存在し得る(ガス惑星と地球サイズの衛星という組み合わせも可能)が、捕捉説は天体が大きくなる<ref>地球と月の比率(81:1)ぐらいなら片方が既存の小さな衛星に運動エネルギーを与えて放り出し、自分の速度を落として捕獲されることも可能だが([[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.39-41]])、既知のガス惑星中最小の海王星と岩石惑星中最大の地球程度の質量比(17:1)になると捕捉がほぼ不可能になる。</ref>と惑星の引力で捕捉が困難になるため成立しなくなる他、衝突説は岩石惑星の場合は良いが、ガス惑星の場合衝突で放出されるものの大半が水素やヘリウムといったガスなのですぐに散らばり、大きな衛星形成は困難になるといった違いがある<ref>[[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.67-68]]</ref>。 また、逆行衛星の場合は捕捉説以外の成因はほぼ不可能で、海王星のトリトンはこうした逆行軌道であることから過去に海王星が捕捉した天体というのが定説となっている<ref>[[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.117-121]]</ref>。 == 太陽系の惑星と準惑星の衛星 == [[2023年]]5月現在、太陽系の惑星を周回する衛星は284個発見されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nao.ac.jp/new-info/satellite.html|title=惑星の衛星数・衛星一覧|publisher=[[国立天文台]]|date=2023-05-16|accessdate=2023-05-18}}</ref>。また[[2007年]]末時点で、そのうち144個に名前がついている<ref name="kimura" />。 === 組成 === 太陽系の衛星には地球の衛星である月のように主に岩石のみで構成された'''岩石衛星'''(岩石型衛星)と、木星以遠の領域にある大部分の衛星のように[[二酸化炭素]]主体の氷と岩石あるいは氷のみで構成された'''氷衛星'''に分けられる<ref name="kimura">{{Cite journal |和書 |author=木村 淳 |title=衛星の内部構造と分類学,準惑星への示唆 |journal=遊・星・人 |volume=17 |issue=1 |publisher=日本惑星科学会 |year=2008 |pages=29|url=https://www.wakusei.jp/book/pp/2008/2008-1/2008-1-07.pdf |format=PDF |CRID=1520572357853211008}}</ref>。ただ、氷衛星は太陽系にごくありふれた存在であり、太陽系の衛星で氷をまとっていないのは地球の月と火星の2つの小衛星、木星の衛星[[イオ (衛星)|イオ]]だけである<ref>{{Cite journal|和書|author=木村淳 |date=2008-03 |url=https://hdl.handle.net/2115/34723 |title=氷衛星の地質活動と氷殻のダイナミクス |journal=低温科学 |ISSN=1880-7593 |publisher=北海道大学低温科学研究所 |volume=66 |pages=149-157 |hdl=2115/34723 |CRID=1050564288950858880}}</ref>。 [[地球]]はやや特殊なパターンで、衛星が極めて大きいものが1つだけあるという構造であり、[[月]]の質量は地球の81分の1に及ぶ。他の惑星の衛星の場合は質量比がはるかに小さく、大きくてもそれが属する惑星の1万分の3程度が普通で、次に大きい[[海王星]]に対する[[トリトン (衛星)|トリトン]]の質量比が約5000分の1である<ref>[[#カミンズ(2010)|カミンズ(2010)p.30-31・67]]</ref>。 === 衛星の一覧 === {{See also|太陽系の衛星の一覧}} {| class="wikitable" style="font-size:80%" |+太陽系の主な衛星 ! 直径 (km) !! [[地球]] !! [[火星]] !! [[木星]] !! [[土星]] !! [[天王星]] !! [[海王星]] !! [[冥王星]] !! [[ハウメア (準惑星)|ハウメア]] !! [[マケマケ (準惑星)|マケマケ]] !! 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DAPS
DAPSとは、データウエストが有する商標である。以下の2つの意味がある。 CD-ROM黎明期の1990年に開発された。 それまでのFM TOWNS用ゲームでは、アニメーションや音楽再生中に同時並行でCD-ROMからのデータ読み込みが出来ない欠点があった。この欠点を克服することから開発された動画エンジンを核に、インタラクティブな機能を付け加えた独自のハイパーテキストのプレイヤーとその開発システム一式である。 割り込みの優先順位等が通常のTBIOSとは変更されたものが付加され、CD-ROMから実メモリ空間にバックグラウンドでDMA転送される様なシステムが構築されていた。また、音声再生や音楽再生もこのルーチン内で処理され、PCM楽器サウンドには非常に良質でコンパクトなデータが使われた。DAPSでは内蔵音源のみでBGMを実現していた。 同社制作の各種ゲームや学校教材で使用された。同社のゲーム『サイキック・ディティクティブ』シリーズや『第4のユニット』シリーズ等では、デジタルペイントされたセル画アニメーションが使用された。 同社独自のビデオキャプチャ機材も開発され、実写映像も利用可能となり、「平成一のファジイ男」という作品の制作を発表した。しかし諸般の事情で制作できず、NHKエデュケーショナル、トッパンが発売した銀河宇宙オデッセイの第2作目で使用された。その後石見銀山や大阪や神戸でロケハンを行ったミス・ディテクティブシリーズ2作品が制作された。 この動画エンジンは同社の手により、CD-ROMを搭載したSUPER CD-ROM・メガCD・PC-9821などの各機種にゲームとともに移植された。なお、他社のソフトで使われることはほとんどなかった。 Windows 3.1や次世代機の時代になると、「Windows時代を見据えての『DAPS For Windows』を完成させつつある(※要約)」とパソコン誌などで表明していたものの、AVIとCinepak、MPEGなどのコーデックの登場により、独自の動画圧縮システムを使用しなくなった。ただし、同社のインタラクティブなゲームには全てDAPSの記載がある。 PC-9821での作品展開では、同一CD-ROMをFM TOWNSとPC-9821のどちらでも読める仕様であり、「キーディスク」と呼ばれる起動用のフロッピーディスクをそれぞれの機種用に添付しハイブリッド化させた。 ポリゴン画像をリアルタイム表示する「ポリゴンDAPS」なども存在した。これはセルアニメエンジンの流用である。
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DAPSとは、データウエストが有する商標である。以下の2つの意味がある。 Datawest Active Picture Systemの略。データウエストが開発した商用の動画再生を利用したソフトウェア群に採用されたシステム。 Datawest Automotive Pro-comsumer Systemの略。データウエストが開発したカーナビゲーションシステム。上記の登録商標資源の有効活用のためにこの名称が付けられた。
'''DAPS'''とは、[[データウエスト]]が有する商標である。以下の2つの意味がある。 # '''''D'''atawest '''A'''ctive '''P'''icture '''S'''ystem''の略。[[データウエスト]]が開発した商用の動画再生を利用したソフトウェア群に採用されたシステム。 # '''''D'''atawest '''A'''utomotive '''P'''ro-comsumer '''S'''ystem''の略。データウエストが開発した[[カーナビゲーションシステム]]<ref>[http://www.datawest.co.th/jp/index.html]</ref>。上記の[[登録商標]]資源の有効活用のためにこの名称が付けられた。 == 概要 == [[CD-ROM]]黎明期の1990年に開発された。 それまでの[[FM TOWNS]]用ゲームでは、アニメーションや音楽再生中に同時並行で[[CD-ROM]]からのデータ読み込みが出来ない欠点があった。この欠点を克服することから開発された動画エンジンを核に、インタラクティブな機能を付け加えた独自の[[ハイパーテキスト]]のプレイヤーとその開発システム一式である。<!-- 当初はデジタルアニメペインティングシステムや、デジタルアニメプレーヤーシステムの略として考えられていた。--> 割り込みの優先順位等が通常のTBIOSとは変更されたものが付加され、CD-ROMから実メモリ空間にバックグラウンドでDMA転送される様なシステムが構築されていた。また、音声再生や音楽再生もこのルーチン内で処理され、PCM楽器サウンドには非常に良質でコンパクトなデータが使われた。DAPSでは内蔵音源のみでBGMを実現していた。 同社制作の各種ゲームや学校教材で使用された。同社のゲーム『サイキック・ディティクティブ』シリーズや『[[第4のユニット]]』シリーズ等では、デジタルペイントされたセル画アニメーションが使用された。 同社独自のビデオキャプチャ機材も開発され、実写映像も利用可能となり、「平成一のファジイ男」という作品の制作を発表した。しかし諸般の事情で制作できず、[[NHKエデュケーショナル]]、[[トッパン]]が発売した銀河宇宙オデッセイの第2作目で使用された。その後石見銀山や大阪や神戸でロケハンを行った[[ミス・ディテクティブシリーズ]]2作品が制作された。 この動画エンジンは同社の手により、CD-ROMを搭載した[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]・[[メガCD]]・[[PC-9821シリーズ|PC-9821]]などの各機種にゲームとともに移植された。なお、他社のソフトで使われることはほとんどなかった。 [[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]や次世代機の時代になると、「[[Windows]]時代を見据えての『DAPS For Windows』を完成させつつある(※要約)」とパソコン誌などで表明していたものの、[[Audio Video Interleave|AVI]]と[[Cinepak]]、[[Moving Picture Experts Group|MPEG]]などの[[コーデック]]の登場により、独自の動画圧縮システムを使用しなくなった。ただし、同社のインタラクティブなゲームには全てDAPSの記載がある。 PC-9821での作品展開では、同一CD-ROMをFM TOWNSとPC-9821のどちらでも読める仕様であり、「キーディスク」と呼ばれる起動用のフロッピーディスクをそれぞれの機種用に添付しハイブリッド化させた。 [[ポリゴン]]画像をリアルタイム表示する「ポリゴンDAPS」なども存在した。これはセルアニメエンジンの流用である。 == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:てえたうえすとあくていふひくちやあしすてむ}} [[Category:メディアプレーヤーソフト]] [[Category:コンピュータゲームの技術]]
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シャルル・メシエ
シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730年6月26日 - 1817年4月12日)は、フランスの天文学者。星雲・星団・銀河に番号を振り、『メシエカタログ』を作った。 ロレーヌのバドンヴィレに生まれる。11歳の頃に父を亡くした。 パリのフランス海軍天文台で、1751年から天文官ジョゼフ=ニコラ・ドリルの助手として働き、航海天文台の事務員となって彗星の発見に没頭。1758年冬から、過去の観測から出現が予報されていたハレー彗星の捜索を始め、翌1759年1月21日に発見、ドリル天文官から表彰を受ける。しかし、それはヨハン・ゲオルク・パリッチュによる発見(1758年12月25日)の1か月後だった。マスコミが未発達のこの時代、1か月遅れの独立発見は仕方がないことではあるが、パリッチュがヨーロッパ中に一躍名を知られるのと対照的に、この発見によっていわれのない誹謗中傷を受けたことからその名を知られることとなる。しかし、この出来事の屈辱をばねとして、彼はより一層彗星探索に没頭するようになっていった。 1760年、ドリルの退官に伴い天文官に就任。彗星発見者としての名声は高まっていき、1764年ロンドン王立協会の外国人会員となる。このころ彗星の捜索の際、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口したメシエは、1764年初めからこうした天体のリストを作り始めた。そして、同年末、18個の自ら発見した天体にそれまで知られていたものを加えた40個 (M1-M40) の天体リストを作成。このとき加えた40番目の天体は二重星だった。その後、1765年におおいぬ座にM41を発見したため、45個にしようと思い立ったメシエは、リストにM42やプレセペ、プレアデスなどの有名な天体を追加した(詳しくは後述)。 1769年、おひつじ座のはずれに大彗星 (C/1769P1) を発見し、プロイセン科学アカデミーの外国人会員の資格を得た。フランス学士院は一介の事務官に学士院会員資格を与えることを渋っていたが、メシエが翌1770年にも彗星(レクセル彗星 (D/1770 L1) )を発見するとさすがに無視できず、同年に科学アカデミーの会員資格を与えた。生涯に発見した彗星は13個に上る(うち一つは助手のピエール・メシャンとの共同発見)。ルイ15世はメシエを「彗星の狩人」と呼んだ。ナポレオンはメシエに勲章を与えた。 1774年に『メシエ天体カタログ』第1巻 (M1-M45)、1781年に第2巻 (M46-M68)、1784年に第3巻 (M69-M103) をそれぞれ発表。 このカタログに掲載された天体をメシエ天体と呼ぶ。たとえば、M31はアンドロメダ銀河を表す。メシエは、カタログの体裁を(末尾の数字を0か5に)整えるため、二重星(M40、現在欠番)や彗星と間違えるはずのない星団(M45など)も入れていた。 後の観測でこれらのメシエ天体には星雲以外に、星団・銀河も多く含むことが判明した。 メシエが使用していた望遠鏡には口径9cmアクロマート屈折望遠鏡や口径15.2cmグレゴリー式反射望遠鏡、および口径19cmグレゴリー式反射望遠鏡などがある。 彼の名誉を称えて月のクレーター(メシエ)、小惑星7359番(メシエ)に彼の名が付けられている。1775年、ジェローム・ラランドによってかんししゃメシエ座(監視者メシエ座)という星座が設定されたことがあるが、現在は用いられていない。 いずれも非周期彗星である。
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シャルル・メシエは、フランスの天文学者。星雲・星団・銀河に番号を振り、『メシエカタログ』を作った。
[[画像:Charles Messier.jpg|thumb|シャルル・メシエ]] '''シャルル・メシエ'''(''Charles Messier'' 、[[1730年]][[6月26日]] - [[1817年]][[4月12日]]{{R|FRS}})は、[[フランス]]の[[天文学者]]。[[星雲]]・[[星団]]・[[銀河]]に番号を振り、『[[メシエカタログ]]』を作った。 == 生涯 == [[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]の[[バドンヴィレ]]に生まれる。11歳の頃に父を亡くした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/hoshinavi/magazine/shokunin/062/index-j.shtml|title=星ナビ.com - 星職人 星のソムリエ、パリへ行く 第4回「シャルル・メシエ(前編)」|publisher=アストロアーツ|accessdate=2020-10-11}}</ref>。 [[パリ]]のフランス海軍天文台で、[[1751年]]から天文官[[ジョゼフ=ニコラ・ドリル]]の助手として働き、航海天文台の事務員となって[[彗星]]の発見に没頭。[[1758年]]冬から、過去の観測から出現が予報されていた[[ハレー彗星]]の捜索を始め、翌[[1759年]][[1月21日]]に発見、ドリル天文官から表彰を受ける。しかし、それは[[ヨハン・ゲオルク・パリッチュ]]による発見([[1758年]][[12月25日]])の1か月後だった。マスコミが未発達のこの時代、1か月遅れの独立発見は仕方がないことではあるが、パリッチュがヨーロッパ中に一躍名を知られるのと対照的に、この発見によっていわれのない誹謗中傷を受けたことからその名を知られることとなる。しかし、この出来事の屈辱をばねとして、彼はより一層彗星探索に没頭するようになっていった。 [[1760年]]、ドリルの退官に伴い天文官に就任。彗星発見者としての名声は高まっていき、[[1764年]]ロンドン[[王立協会]]の[[王立協会外国人会員|外国人会員]]となる<ref name="FRS">{{FRS |code = NA5568 |title = Messier; Charles (1730 - 1817) |accessdate = 2021-03-10 }}</ref>。このころ彗星の捜索の際、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口したメシエは、[[1764年]]初めからこうした天体のリストを作り始めた。そして、同年末、18個の自ら発見した天体にそれまで知られていたものを加えた40個 ([[かに星雲|M1]]-[[M40 (天体)|M40]]) の天体リストを作成。このとき加えた40番目の天体は[[二重星]]だった。その後、[[1765年]]に[[おおいぬ座]]に[[M41 (天体)|M41]]を発見したため、45個にしようと思い立ったメシエは、リストに[[オリオン大星雲|M42]]や[[プレセペ星団|プレセペ]]、[[プレアデス星団|プレアデス]]などの有名な天体を追加した(詳しくは後述)。 [[1769年]]、[[おひつじ座]]のはずれに'''大彗星''' (C/1769P1) を発見し、[[プロイセン科学アカデミー]]の外国人会員の資格を得た。[[フランス学士院]]は一介の事務官に学士院会員資格を与えることを渋っていたが、メシエが翌[[1770年]]にも彗星([[レクセル彗星]] (D/1770 L1) {{efn2|歴代で最も地球に接近 (0.0151 [[天文単位]]) した彗星。軌道計算を行った[[アンダース・レクセル]]の名が付けられている。}})を発見するとさすがに無視できず、同年に[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]の会員資格を与えた。生涯に発見した彗星は13個に上る(うち一つは助手の[[ピエール・メシャン]]との共同発見)。[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]はメシエを「彗星の狩人」と呼んだ。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]はメシエに勲章を与えた。 [[1774年]]に『メシエ天体カタログ』第1巻 (M1-M45)、[[1781年]]に第2巻 (M46-M68)、[[1784年]]に第3巻 (M69-M103) をそれぞれ発表。 このカタログに掲載された天体をメシエ天体と呼ぶ。たとえば、'''M31'''は[[アンドロメダ銀河]]を表す。メシエは、カタログの体裁を(末尾の数字を0か5に)整えるため、[[二重星]](M40、現在欠番)や彗星と間違えるはずのない[[星団]]([[プレアデス星団|M45]]など)も入れていた。 後の観測でこれらのメシエ天体には星雲以外に、星団・銀河も多く含むことが判明した。 メシエが使用していた[[望遠鏡]]には口径9cmアクロマート屈折望遠鏡や口径15.2cmグレゴリー式反射望遠鏡<ref>{{Cite book|title=天文アマチュアのための望遠鏡光学. 反射編|url=https://www.worldcat.org/oclc/674401333|publisher=誠文堂新光社|date=1988|isbn=4416288131|oclc=674401333|author=吉田正太郎}}</ref>、および口径19cmグレゴリー式反射望遠鏡<ref>{{Cite web|title=Messier's telescopes|url=http://www.messier.seds.org/xtra/history/m-scopes.html|website=www.messier.seds.org|accessdate=2019-09-15}}</ref>などがある。 彼の名誉を称えて[[月]]の[[クレーター]]([[メシエ (クレーター)|メシエ]])、小惑星7359番([[メシエ (小惑星)|メシエ]])に彼の名が付けられている。1775年、[[ジェローム・ラランド]]によって[[かんししゃメシエ座]](監視者メシエ座)という星座が設定されたことがあるが、現在は用いられていない。 == メシエが発見した彗星 == いずれも非周期彗星である。 * C/1760 B1 (Messier) * C/1763 S1 (Messier) * C/1764 A1 (Messier) * C/1766 E1 (Messier) * C/1769 P1 (Messier) * D/1770 L1 (Lexell) * C/1771 G1 (Messier) * C/1773 T1 (Messier) * C/1780 U2 (Messier) * C/1788 W1 (Messier) * C/1793 S2 (Messier) * C/1798 G1 (Messier) * C/1785 A1 (Messier-[[ピエール・メシャン|Mechain]]) == 注釈 == {{notelist2}} == 出典 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[メシエカタログ]] *[[メシエ天体の一覧]] * [[天文学者の一覧#18世紀生まれの天文学者|18世紀生まれの天文学者]] == 外部リンク == * [http://www.messier.seds.org/xtra/history/CMessier.html Charles Messier] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:めしえ しやるる}} [[Category:シャルル・メシエ|*]] [[Category:天文学に関する記事|しやるるめしえ]] [[Category:18世紀フランスの科学者]] [[Category:19世紀フランスの科学者]] [[Category:18世紀の天文学者]] [[Category:19世紀の天文学者]] [[Category:彗星発見者]] [[Category:プロイセン科学アカデミー会員]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:ロレーヌ公国の人物]] [[Category:ブルボン朝の人物]] [[Category:1730年生]] [[Category:1817年没]]
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ブランコ
ブランコは、座板を支柱や樹木から鎖や紐などで水平に吊るした構造の遊具。揺動系遊具に分類される。 ブランコはポピュラーな遊具の一つで、公園や小学校の運動場などに備え付けられていることが多い。 鞦韆(秋千、しゅうせん)ともいう。「鞦」「韆」はそれぞれ1文字でもブランコの意味を持つ。「鞦韆」は今でこそブランコの意味を持つが、古くは中国で宮女が使った遊び道具(性具)をさす。現代のブランコとは少し違い、飾りがたくさんついており、遊戯中、裾から足が見えて、皇帝が見ていて運よく夜伽に呼ばれる可能性から艶かしいイメージを持たれていた。北宋の文人、蘇軾の漢詩『春夜』にも鞦韆が出てくることから、性行為の過程を詠んだという解釈もある。唐の玄宗は、鞦韆に「半仙戯」の名を与えたという。 雅語は「ふらここ」。「ぶらんこ」の語源については擬態語「ぶらり」「ぶらん」などから来たとする説や、ポルトガル語の balanço (バランソ、英語のバランス、swing スイングの意もある)、もしくはBlanco(ブランコ、白色)から来たとする説などがある。なお、ポルトガル語版での対応項目タイトルは「Balanço」、フランス語版では「Balançoire」となっている。「ふらんど」「ゆさわり」ともいう。 日本へは古く中国から伝わったとされ、樹木や梁から吊り下げたものであった。嵯峨天皇の詩に詠まれ、『倭名類聚抄』にも記述がみられる。「ぶらんこ」と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからとされる。なお、「鞦韆」が古くは性具を指したことから、日本でも「鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す」(高浜虚子『五百句』)、「女優の鞦韆も下からのぞこう。沙翁劇も見よう。洋楽入りの長唄も聞こう。」(永井荷風「妾宅」)など、性的ニュアンスを込める場合などにあえてブランコではなく「鞦韆」が使用されている例が見られる。 サーカスなどの曲芸には空中ブランコという独特なブランコが使われる。非常に高い位置から2条の紐が降りていて、その先に細長い棒のようなものがあるだけである。一般のブランコの紐を長くし台を極限まで小さくしたものと解してよい。英語では、遊具のブランコは swing、空中ブランコは trapeze と呼ぶ。 座板を2本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つ最も一般的なもの。通常は単に「ブランコ」というが、関連文献などでは他の種類と区別するため「一方向ブランコ」として類型化されることがある。座板の材質・形状については、木製の板状のもの、金属製の椅子状のもの、ゴムやポリウレタン製で腰まですっぽり覆われるバケツ型のものなどがある。ただ、ブランコについては飛び降り時に他の遊具や安全柵と衝突するなどの原因による事故も報告されており、座面の改善や転落への対策等が必要という指摘がある。 ゴム製のタイヤを3本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つもの。「タイヤブランコ」もしくは「全方向ブランコ」と呼ばれる。 可動部に2人~3人が向かい合って座る構造の4人ないし6人乗りの大型のブランコ。「箱ブランコ」のほか「揺りかご型ブランコ」あるいは「丸ブランコ」などとも呼ばれる。 ただ、可動部の重さ、地面との隙間が狭いこと、指や足を挟む隙間が多いなどの問題点が指摘され、1960年代から頭蓋骨骨折や脳挫傷などによる死亡事故の報告例があった、このようなことから全国的に撤去される例が多くなっている。国土交通省管轄の公園においては、2001年には約13000台設置されていたが、2004年には約3600台にまで減少している。 長い座板の両端を鎖で支柱から水平に吊り下げた構造を持つ遊具。遊動円木についても事故の報告があり、座面の材質や可動部の重さが問題点として指摘されている。 2本の鎖やロープによってぶら下げられた椅子(踏み台)に乗り、振り子の原理を利用して前後に揺らし、踏み台を漕ぐことによって振幅を徐々に大きくすることで振り子運動を楽しんだり高度感を味わったりする。物理学的には、パラメータ励振で説明できる。具体的に言うと、立ち乗りで漕ぐ時には、最下点付近の遠心力が最も大きくなるあたりで立ち上がり、最上点付近の遠心力が小さなところでしゃがむ運動を繰り返している。 以下は一般的なブランコにおける乗り方の例である。 韓国ではブランコはクネ(그네)という。旧暦の5月5日に行われる韓国の端午(朝鮮語版)では、女性がブランコに乗る(クネティギ、그네뛰기)風習がある。
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ブランコは、座板を支柱や樹木から鎖や紐などで水平に吊るした構造の遊具。揺動系遊具に分類される。
{{otheruses}} [[ファイル:Swing seat at Ouji-jinja.jpg|thumb|皇子神社にあるブランコ]] [[ファイル:Unpenji 20201025 03.jpg|thumb|[[雲辺寺山頂公園]]にあるブランコ]] '''ブランコ'''は、座板を支柱や[[樹木]]から[[鎖]]や[[紐]]などで水平に吊るした構造の[[遊具]]。揺動系遊具に分類される<ref name="mext">{{Cite web|和書|date = 2002-11-11 |url = http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t20021111001/t20021111001.html |title = 学校に設置している遊具の安全確保について |publisher = [[文部科学省]] |accessdate = 2016-01-04 }}</ref>。 == 概説 == ブランコはポピュラーな遊具の一つで、[[公園]]や[[小学校]]の[[運動場]]などに備え付けられていることが多い。 '''鞦韆'''('''秋千'''、しゅうせん)ともいう。「鞦」「韆」はそれぞれ1文字でもブランコの意味を持つ。「鞦韆」は今でこそブランコの意味を持つが、古くは中国で宮女が使った遊び道具(性具)をさす。現代のブランコとは少し違い、飾りがたくさんついており、遊戯中、裾から足が見えて、皇帝が見ていて運よく夜伽に呼ばれる可能性から艶かしいイメージを持たれていた。[[北宋]]の文人、[[蘇軾]]の[[漢詩]]『春夜』にも鞦韆が出てくることから、性行為の過程を詠んだという解釈もある。[[唐]]の[[玄宗]]は、鞦韆に「半仙戯」の名を与えたという{{Sfn|角川学芸出版|2006|p=284}}。 雅語は「ふらここ」。「ぶらんこ」の語源については擬態語「ぶらり」「ぶらん」などから来たとする説や、[[ポルトガル語]]の balanço (バランソ、[[英語]]のバランス、swing スイングの意もある)、もしくはBlanco(ブランコ、[[白]]色)から来たとする説などがある。なお、ポルトガル語版での対応項目タイトルは「Balanço」、フランス語版では「Balançoire」となっている。「ふらんど」「ゆさわり」ともいう{{Sfn|角川学芸出版|2006|p=284}}。 日本へは古く中国から伝わったとされ、樹木や梁から吊り下げたものであった{{Sfn|笹間良彦|2005|p=201}}。[[嵯峨天皇]]の詩に詠まれ、『[[倭名類聚抄]]』にも記述がみられる{{Sfn|笹間良彦|2005|pp=201-202}}。「ぶらんこ」と呼ばれるようになったのは[[江戸時代]]になってからとされる{{Sfn|笹間良彦|2005|p=202}}。なお、「鞦韆」が古くは性具を指したことから、日本でも「鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す」([[高浜虚子]]『五百句』)、「女優の鞦韆も下からのぞこう。沙翁劇も見よう。洋楽入りの長唄も聞こう。」([[永井荷風]]「妾宅」)など、性的ニュアンスを込める場合などにあえてブランコではなく「鞦韆」が使用されている例が見られる。 [[サーカス]]などの曲芸には[[空中ブランコ]]という独特なブランコが使われる。非常に高い位置から2条の紐が降りていて、その先に細長い棒のようなものがあるだけである。一般のブランコの紐を長くし台を極限まで小さくしたものと解してよい。英語では、遊具のブランコは swing、空中ブランコは [[:en:Trapeze|trapeze]] と呼ぶ。 == 種類 == === 一方向ブランコ === 座板を2本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つ最も一般的なもの。通常は単に「ブランコ」というが、関連文献などでは他の種類と区別するため「'''一方向ブランコ'''」として類型化されることがある{{Sfn|松野敬子|山本恵梨|p=79}}。座板の材質・形状については、木製の板状のもの、金属製の椅子状のもの、ゴムや[[ポリウレタン]]製で腰まですっぽり覆われるバケツ型のものなどがある{{Sfn|松野敬子|山本恵梨|pp=80-84}}。ただ、ブランコについては飛び降り時に他の遊具や安全柵と衝突するなどの原因による事故も報告されており、座面の改善や転落への対策等が必要という指摘がある{{Sfn|松野敬子|山本恵梨|pp=79-89}}。 === 全方向ブランコ === [[File:Severe Tropical Storm Etau (2009) aftermath in Sayo 88.jpg|thumb|200px|タイヤブランコ。]] ゴム製の[[タイヤ]]を3本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つもの。「タイヤブランコ」もしくは「全方向ブランコ」と呼ばれる{{Sfn|松野敬子|山本恵梨|p=90}}。 {{clear}} === 箱ブランコ === [[File:箱ブランコ (4549797634).jpg|thumb|200px|箱ブランコ。]] {{main|箱ブランコ}} 可動部に2人~3人が向かい合って座る構造の4人ないし6人乗りの大型のブランコ。「箱ブランコ」のほか「揺りかご型ブランコ」あるいは「丸ブランコ」などとも呼ばれる{{Sfn|松野敬子|山本恵梨|p=62}}。 ただ、可動部の重さ、地面との隙間が狭いこと、指や足を挟む隙間が多いなどの問題点が指摘され、1960年代から頭蓋骨骨折や[[脳挫傷]]などによる死亡事故の報告例があった{{Sfn|松野敬子|山本恵梨|pp=63-76}}、このようなことから全国的に撤去される例が多くなっている。[[国土交通省]]管轄の公園においては、2001年には約13000台設置されていたが、2004年には約3600台にまで減少している{{Sfn|松野敬子|山本恵梨|p=62}}。 {{clear}} === 遊動円木 === {{main|遊動円木}} 長い座板の両端を鎖で支柱から水平に吊り下げた構造を持つ遊具{{Sfn|松野敬子|山本恵梨|p=77}}。遊動円木についても事故の報告があり、座面の材質や可動部の重さが問題点として指摘されている{{Sfn|松野敬子|山本恵梨|p=78}}。 == 遊び方 == {{出典の明記|section=1|date=2013年8月}} 2本の鎖やロープによってぶら下げられた椅子(踏み台)に乗り、[[振り子]]の原理を利用して前後に揺らし、踏み台を漕ぐことによって振幅を徐々に大きくすることで振り子運動を楽しんだり高度感を味わったりする。[[物理学]]的には、[[パラメータ励振]]で説明できる。具体的に言うと、立ち乗りで漕ぐ時には、最下点付近の[[遠心力]]が最も大きくなるあたりで立ち上がり、最上点付近の遠心力が小さなところでしゃがむ運動を繰り返している。 ===乗り方の例=== 以下は一般的なブランコにおける乗り方の例である。 ====1人乗り==== [[ファイル:Swing.jpg|right|200px|thumb|1人乗り(座り乗り)。]] [[File:Local Government in a Country Town- Life in Wotton-under-edge, Gloucestershire, England, C 1944 D22016.jpg|thumb|200px|1人乗り(立ち乗り)]] ;座り乗り :最も一般的な乗り方である。ブランコの台に座り、両足を揺り動かすことによりブランコを動かす。この方法だと後ろから誰かに押してもらうことが容易であるので、力のない者でもブランコを楽しむことが出来るし、また転倒などの危険性が少なく、安全性が増す。この方法の欠点は、足が疲れることと、足だけでは作り出す振幅に限りがあるため、すぐには高くまでこぐことが出来ないということである。また立ち乗りが盛んなブランコだと尻が[[泥]]で汚れることもある。 ;立ち乗り :ブランコの台に立ったまま乗り、体全体を揺り動かすことによりブランコを動かすというもので、小学校中学年くらいになってからこの方法を取る者が多い。転倒などのリスクはあるが、体全体を使うことで大きな振幅を生むことができるため、スリルや自分が高いところにいることを楽しむことが容易である。本来座るべきブランコの台に土足で立って乗るのは、座り乗りで前述したような迷惑につながるという批判もある。 ====2人乗り==== ;2人立ち乗り :乗る人をA・Bとすると、Aが大きく足を広げてブランコの台に立って乗りBがAとは逆の方向にAの股の間に足を置いて乗るという説明が出来る。この方法で高さなどを楽しむのはほぼ不可能である。親密な関係にあるもの([[カップル]]など)が好む傾向にある。なおこの方法では足場が極端に狭くなることから転落の可能性が大変高く、安全であるとは言いがたい。 ;1人座り1人立ち乗り :乗る人をA・Bとすると、Aが座り乗りをし、Bが立ち乗りをする。BはAと向かい合わせに立つことが多いが、同じ向きに立つことも可能である。Bの足の位置はAと鎖の間に滑り込ませることもあるし、鎖の外側に足を置くこともある。この方法も2人立ち乗りと同様に足場が狭くなることから転落の可能性が高く、振れの角度によっては座っている人が落下する可能性もあり、安全な乗り方ではない。 == 文化 == [[ファイル:Fragonard, The Swing.jpg|200px|right|thumb|[[ジャン・オノレ・フラゴナール]]『[[ぶらんこ (フラゴナール)|ぶらんこ]]』(1767-1768年頃)、[[ウォレス・コレクション]]蔵。]] *[[深夜]]の公園で一人でブランコに座っている若い女性あるいは中年男性は、寂しい人を象徴するシーンとして[[映画]]や[[テレビドラマ]]などでよく使われる。よく知られたものに[[黒澤明]]の『[[生きる (映画)|生きる]]』や[[増村保造]]の『[[暖流 (小説)|暖流]]』のシーンがある。 *一方、ブランコを性的文脈で使用した映画としては[[神代辰巳]]の『櫛の火』がある。作中には[[草刈正雄]]演ずる青年がブランコに揺られる[[ジャネット八田]]演ずる女のスカートの中をのぞき見るというシーンがある。 *[[俳句]]では[[春]]の[[季語]]である。 *[[朝松健]]の「[[東山殿御庭]]」ではブランコの古名である「鞦韆」が怪異の謎を解く鍵として使われている。作中では[[一休宗純]]が「やれやれ、[[応仁の乱]]の十年は都を焼尽いたしたのみならず、子供から〝しうせん〟の思い出まで取り上げた訳じゃ」と述べるなど、「鞦韆」は「しうせん」と表記されてそれが何を意味するのかも1つの謎となっている。 === ブランコをテーマにした音楽 === *『[[子供の遊び (ビゼー)|子供の遊び]]』[[作品番号|Op.]]22より第1曲「ぶらんこ」 - [[ジョルジュ・ビゼー]]作曲の[[ピアノ]][[連弾]]曲。 * [[ブランコ (童謡)|ブランコ]] - [[都築益世]]作詞、[[芥川也寸志]]作曲の童謡。 * [[ブランコ (みんなのうた)|ブランコ]]([[日野てる子]]、[[NHK東京児童合唱団|東京放送児童合唱団]]) - [[1973年]]6月に[[日本放送協会|NHK]]の『[[みんなのうた]]』で紹介された楽曲。作詞:[[水木かおる]]、作曲:[[一ノ瀬義孝]](なお映像に出て来たブランコは本項で紹介された物ではなく、遊園地の金属製ブランコ(別名:ウエーブ・スインガー)である)。 * [[白いブランコ]] - [[ビリー・バンバン]]の楽曲。 * [[空中ブランコ (Plastic Treeの曲)|空中ブランコ]] - [[Plastic Tree]]の楽曲。 * [[ツメタイヒカリ|ブランコから]] - Plastic Treeの楽曲。 * [[GATES OF HEAVEN|ブランコ]] - [[Do As Infinity]]の楽曲。 * [[ゆきしたたりほし|鞦韆]] - [[メガマソ]]の楽曲。 * [[MISS WAVES/VIPER|由佐波利]] - メガマソの楽曲。 == 韓国 == [[ファイル:Hyewon-Dano.pungjeong.jpg|サムネイル|[[蕙園伝神帖]]「端午風情」。]] [[ファイル:Korea-Andong-Dano Festival-Swinging-02.jpg|サムネイル|{{仮リンク|安東民俗博物館|ko|안동민속박물관}}の端午祭。]] 韓国ではブランコはクネ(그네)という。旧暦の5月5日に行われる{{仮リンク|韓国の端午|ko|한국의 단오}}では、女性がブランコに乗る(クネティギ、그네뛰기)風習がある<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%8D-1305370 ぶらんこ[朝鮮]] [[世界大百科事典]] [[平凡社]]</ref>。 {{clear}} == その他 == *世界最長のブランコとして、日本の[[福岡県]][[北九州市]]が[[グリーンパーク・響灘緑地|響灘緑地グリーンパーク]]に設置したブランコが2019年5月11日、[[ギネス世界記録]]認定された。100台のブランコと支柱などを全長約163mの環状につなげて、同日、ギネス認定員が立ち会って100台全てを同時に漕いで見せた。従来の世界最長ブランコは[[オランダ]]にあり、約133mだった<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44688540R10C19A5CZ8000/ 「世界最長163メートルのブランコ/北九州 環状に100台つなぐ」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2019年5月12日(社会面)2019年6月9日閲覧。</ref>。 *日本のテレビアニメ『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ) |アルプスの少女ハイジ]]』のオープニングには、非常に長い紐のブランコに乗るシーンがある。目視と計算によると、このブランコの最高速度は時速60 [[キロメートル毎時|km/h]]を超えるという([[柳田理科雄]]による説)。 *[[ヨーヨー]]の技の一つに、糸でブランコの骨組みを象り。ヨーヨー本体でブランコを表現する「ブランコ」という技がある。 *ブランコを漕ぎながら[[靴飛ばし]]をする遊び方もある。 *[[飲食店]]などで、[[衣紋掛け|ハンガー]]や[[椅子]]などにかけた[[洋服]]などから[[財布]]などを盗む手口をブランコ[[スリ]]という。 == 脚注・出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author = [[笹間良彦]] |title = 日本こどものあそび大図鑑 |year = 2005 |publisher = 遊子館 |isbn = 4946525645 |ref = harv }} * {{Cite book |和書 |author = 松野敬子 |author2 = 山本恵梨 |title = 楽しく遊ぶ 安全に遊ぶ 遊具事故防止マニュアル |year = 2006 |publisher = [[かもがわ出版]] |isbn = 4780300355 |ref = harv }} * {{Cite book |和書 |editor = 角川学芸出版 |title = 角川俳句大歳時記 春 |year = 2006 |publisher = 角川書店 |isbn = 4046210311 |ref = harv }} == 関連項目 == * [[回転ブランコ]] * [[キーキング]]([[エストニア]]のブランコに似たスポーツ) * [[ピエール=オーギュスト・ルノワール]] == 外部リンク == {{Wiktionary|ぶらんこ}} {{commonscat|Swings}} * {{青空文庫|001037|24387|旧字旧仮名|鞦韆考}}([[原勝郎 (歴史家)|原勝郎]]著) {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふらんこ}} [[Category:遊具]] [[Category:春の季語]] [[Category:振り子]] [[Category:ポルトガル語からの借用語]]
2003-02-13T15:43:49Z
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主要国首脳会議
主要国首脳会議(しゅようこくしゅのうかいぎ)もしくは先進国首脳会議(せんしんこくしゅのうかいぎ)は、7か国による国際会議である。 日本、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア及びEUで構成され、メンバーは世界最大の国際通貨基金(IMF)の先進国であり、“最も裕福な自由民主主義国であり、グループは多元主義と代議制政府という共通の価値観に基づいて公式に組織されている”(IMF談)。2018年の時点で、G7は世界の純資産(317兆ドル)の60%近くを占め、世界のGDPの32-46%を占める。また世界人口の10%に当たる約7億7000万人を占める。メンバーはいずれも世界的な大国であり、経済、軍事、外交面で緊密な関係を保っている。 法的・制度的な基盤を持たないものの、国際的に大きな影響力を持っていると考えられており、HIV/AIDS対策、途上国への資金援助、2015年のパリ協定による気候変動への対応など、いくつかの主要な世界的取り組みのきっかけとなったり、先導したりしている。一方で、古くて限られていることや、世界的な代表者が少ないこと、効果がないことなどが批判されている。また、反グローバリズム団体がサミットで抗議活動を行うこともある。 G7は、Group of Seven(グループ・オブ・セブン)の略で、主要7か国首脳会議、先進7か国首脳会議ともいう。 なお、主要国首脳会議(G7サミット)を単に「サミット」と表す場合があるが、英語でSummitは首脳会議のことを意味するため、必ずしも適切ではない。 1998年サミットから2014年のロシアによるクリミア併合までは主要国首脳会議の構成メンバーは以下の8か国であり、G8、主要8か国首脳会議などと呼ばれていた。 上記の8か国の政府の長および欧州連合の欧州理事会議長と欧州委員会委員長が年に1度集まり、国際的な政治的・経済的課題について議論する会合である(その他の国の首脳や国際機関の代表も例外的に出席することがある)。また、それに合わせて数多くの下部会議や政策検討も行われる。ただし、2014年以降、ロシアはその参加資格を停止されている(後述)。 カナダとイタリアが加わる以前は日本、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツの5か国が参加するG5と呼ばれていた。1975年にイタリアが参加し第1回先進国首脳会議が開催されG6となる。その後1976年にカナダが加わり第2回先進国首脳会議が開催されG7となった。現在では首脳や各閣僚による会合は全てG7の枠組みとなっている。カナダ以外の6か国は20世紀前半までの帝国主義時代における列強にあたる。中国はG7を北京に侵攻した八カ国連合軍と揶揄して批判した。 なおロシアの参加によって首脳会議や閣僚会合がG8という枠組みとなっていた時代においても、財務相・中央銀行総裁会議に関してはG7の枠組みで活動していた。そのため一時期は「G7=先進国財務相、中央銀行総裁会議」の略称として用いられていたとされる。 発足時の名称は「先進国首脳会議」。 冷戦下の1973年のオイルショックと、それに続く世界不況に起源を持つ。1973年3月25日、この不況を憂慮したアメリカ財務長官ジョージ・シュルツは、将来の経済的課題を討議する会議を模索するため、西ドイツ・フランス・イギリスからそれぞれ財務大臣(ヘルムート・シュミット、ヴァレリー・ジスカールデスタン、アンソニー・バーバー(英語版))を招集し、ワシントンD.C.で非公式の会合を行った。この時、アメリカ大統領ニクソンは会場としてホワイトハウスを提供し、会合が地階の図書室で開催されたことから、この4か国は「ライブラリーグループ」と呼ばれた。現在のG7財務相・中央銀行総裁会議の前身である。同年秋に開かれた国際通貨基金(IMF)と世界銀行の年次総会の際に行われた非公式会合の場で、シュルツは先の4か国に日本を加えることを提唱し、合意された。 1975年、フランスで大統領となったジスカールデスタンは、ライブラリーグループのメンバーに日本を加えた“工業化された4つの主要民主主義国”の首脳をフランスのランブイエに招待し、フランスを含めて5か国で初めての首脳会議を開き、定期的に首脳会議を持つことを提案した。このときの出席者は、主催国(議長国)を持ち回りで交代しつつ年に1回会議を持つことに合意した。こうしていわゆる「G5」が生まれた。しかし、これを不服としたイタリアの首相アルド・モロが第1回会議に乗り込んで来た為、その場でイタリアが追加されG6となる。 しかし、これではヨーロッパに偏る為、翌年のプエルトリコの首都サンフアンでのサミットで米国のジェラルド・フォード大統領の要請によりカナダが参加し「G7」となる。 冷戦の終結に続く1991年の第17回先進国首脳会議(ロンドン・サミット)終了後、旧東側諸国の盟主で、かつてはG7諸国と対立していたソ連(現・ロシア)とサミットの枠外で会合を行うようになった。ロシアは1994年のナポリ会合以降は首脳会議のうち政治討議に参加するようになり、1997年のデンバー会議以降は「世界経済」「金融」などの一部セッションを除き基本的に全ての日程に参加することになった。1998年のバーミンガム会議以降は従来の「G7サミット」に代わり「G8サミット」という呼称が用いられるようになった。さらに2003年のエビアン・サミット以降、ロシアは「世界経済」に関するセッションを含め完全に全ての日程に参加するようになった。一方ロシアは経済力が大きくないなどの理由により、7か国財務大臣・中央銀行総裁会議には完全参加していなかった。 ロシアの参加には米大統領ビル・クリントンの示唆などもあった。これは当時のロシア大統領ボリス・エリツィンに経済改革を進めさせ、また北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大政策に関して中立を保つようにさせるためのクリントンのジェスチャーだった。ロシアは加入当初は経済破綻で貧困状態であったために先進国とは言い難く、一人当たり名目GDPも1999年には1334ドルに過ぎない発展途上国状態であった。このころ、名称が「先進国首脳会議」から「主要国首脳会議」に変更された。 他方、2005年2月18日、米上院議員ジョー・リーバーマンとジョン・マケインがロシア大統領ウラジーミル・プーチンによって民主的、政治的自由が確保されるまではG8への参加を見合わせるようにロシアに呼びかけるなどの動きもあった。 当初においては様々な国際的な課題への強い影響力を有していたが、近年では新興諸国の政治的・経済的影響力の上昇に伴う相対的な影響力の低下とともに、形骸化や単なるセレモニー化が指摘されている。一方で、国連総会などの外交官レベルの会議に比べ、主要各国の首脳会議であるサミットは決断力・実行力に格段の優位性をもつほか、拒否権のような制度的問題がなく、国連を補完する意味で一定の役割を果たしているという指摘もある。 2014年3月25日にオランダのハーグで開かれた核セキュリティーサミットとあわせ、臨時のG7サミットが開かれた。その議場において、ロシアのウクライナに対する軍事介入やクリミア半島掌握などを非難したG7の首脳陣は、2014年6月にロシア・ソチで行われる予定だったG8サミットを中止し、会場をベルギーのブリュッセルに変更する決定をした。また同会議において、「ロシアが態度を改め、G8において意味ある議論を行う環境に戻るまで、G8への参加を停止する」という内容のハーグ宣言を発表した。これにより、G8としての活動は事実上停止し、冷戦当時のG7へと戻った。 国際連合や世界銀行のような国際機関とは異なり、条約に基づくものではなく、常設の事務局やオフィスはなく、議長国は加盟国の間で毎年交代し、議長国はグループの優先事項を決定し、主要国首脳会議(サミット)を開催する。サミットの新たなメンバー国を増やすには、全参加国の支持が必要となる。一方、招待国は議長国に権限が与えられている。またメンバー国の間で毎年順番にグループの議長国が回り、新しい議長国は1月1日から担当が始まると考えられている。議長国は一連の大臣級会議を主催し、続いて年の中頃に3日間の首脳によるサミットを行う。また、出席者の安全を確保するのも議長国の役割である。 大臣級会議は健康、法務、労働を担当する大臣が集まり、相互のまたは全地球的な問題について議論する。これらのうち最もよく知られたものはG8外務大臣会合、G8財務大臣会合などがある。1994年にはG7の後援の下で、情報化社会の実現に関する特別プログラムが設立された。 G8サミット国や招待国以外でも、特定の分野で参加することができる。例えば2005年6月には、G8は幼児性愛者に関する国際的データベースを立ち上げることに同意され設置されたが、G8以外の国もこのデータベースに参加することができる。またG8は、各国のプライバシーと保安にかかる法律の範囲内でテロリズムに関するデータを集積することにも同意した。同時にG8構成国、およびブラジル、中国、インド(発展途上国で最大の地球温暖化ガスの排出国)の国際科学アカデミーが気候変動に関する共同声明に署名した。この声明は気候変動についての科学的理解はいまや各国が即座に対策を執るには十分に明らかになっており、IPCCの統一見解を明示的に支持するということを強調している。 G8で扱われる課題は議論のある国際的問題であるためG8は非公式な「世界政府」であり、何の関係もない第三世界にまで決定事項が強制されているという非難がアルテルモンディアリストによりしばしばなされる。ちなみにG8の「決議」「決定」「宣言」その他諸々は、国際法上の根拠を何ら持たず、すなわち非参加国に対する拘束力のない“仲間内での取り決め”に過ぎない。 年1回のサミットは、しばしば反グローバリゼーション活動の反対活動の的になる。特に2001年にジェノバで開かれた第27回主要国首脳会議では大規模なデモが行われるなど顕著だった。 G8参加国は現在、地球規模で深刻な問題となっている地球温暖化や発展途上国での貧困の原因となっていると非難があり、また主要国として問題解決に向けて対処すべきという非難もある。このようにG8諸国が作り出していると非難されている問題について責任を取って闘うよう、G8指導者へさまざまな団体から圧力がかかっている。例えば、ボブ・ゲルドフは2005年7月2日と7日にグローバル・アウェアネス・コンサートであるLive 8を組織しG8指導者に「Make Poverty History(貧困を歴史としよう)」を奨励した。また組織関係者は、G8メンバー国に1992年のリオデジャネイロ地球サミットの「アジェンダ21」で概説されたとおり国家予算の0.7%を海外援助に回すよう提案した。このコンサートは第31回G8サミットと同時になるように計画された。 G7と対立を深める中華人民共和国のイラストレーターの烏合麒麟は、G7加盟国を、義和団の乱で混乱していた北京に軍事侵攻した八カ国連合軍の加盟国に準えて批判した(実際に参加国はほぼ同じ)。また、120年前の衰退し弱体化した中国と現在の中国は全く違う事、120が過ぎても強盗(侵略)の本性は捨て難いなどの批判コメントを記載した。 2005年7月7日、スコットランドでのサミットの初日に50人以上が命を落とし数百人が負傷したと言われるロンドン地下鉄およびロンドン2階建てバス同時多発爆破事件が起こった。この攻撃は、直ちに「ヨーロッパ在住のアルカーイダ秘密グループによるジハード」によるものとされた。この攻撃は西側国家に対し、アフガニスタンおよびイラクでの軍事活動をした場合攻撃を行うとイスラム原理主義者によって犯行の予告が先立ってされていた中で英国が軍事行動に参加したことと関係があるものとされた。G8サミットへ集まった国際的な注目は、おそらく最大限の象徴的な効果のためにテロリストによって増幅された。この打撃は、IOCがロンドンを2012年オリンピック大会の開催地に決定した告知をした直後でもあった。 近年はインドや中国などの新興国の急速な経済発展の反面G7の経済力と影響力低下に伴い、世界経済に関してはG7にEUとロシアおよび新興経済国11ヶ国を加えたG20の枠組みで議論される事が多くなっている。 2010年2月5日から6日まで2日間の日程でカナダのイカルイトで開幕したG7の財務相・中央銀行総裁会議では、世界経済の現状について意見交換する夕食会の後、膝詰めで話し合う「炉端対話」が行われ、仏財務相のクリスティーヌ・ラガルドからG7の今後のあり方が提案されたが結論は出ず、継続議論となった。日本からは財務大臣の菅直人と日銀総裁の白川方明が出席した。 現在では、中国の海洋進出やロシアによるクリミア併合などを受けて、法の支配や普遍的価値を共有するG7の結束は高まっている。だが、2017年、国益を重視するドナルド・トランプの米大統領就任により、2019年は初の首脳宣言見送りとなった。 2016年5月31日、外務大臣の岸田文雄(当時)は、記者会見で「G20の台頭」に対して、「G7は特に、自由、民主主義、法の支配、人権と言った基本的な価値観を共有する主要国の枠組みだと思います。」「国際社会が経済も含めて不透明化する中にあって、この枠組の意義、存在感は益々高まっていくのではないか、このように認識しております。」(一部抜粋)と語っている。 2020年6月、同年の開催国にあたる米大統領のドナルド・トランプは、G7の枠組みにオーストラリア、インド、ロシア、韓国を加えてG10またはG11に拡大する意向を示した。新型コロナウイルスの流行を背景に「対中包囲網」という意識もあると見られる。ただし、全G7諸国の承認が条件でありカナダとイギリスはロシアの参加に反対し、ロシアも中国排除の仕組みに意味がないと難色を示した。韓国に関しては中国政府系メディアから「韓国は大した力のない国」と批判され、日本政府からも北朝鮮問題を理由に参加を拒否された。また、EU外相のジョセップ・ボレルは「トランプにG7の枠組みを変える権限など一切ない。」と痛烈に批判している。7月27日には、ドイツもG7の拡大を批判した。2021年、日本政府はG7の拡大に反対すると正式に表明した。 2022年は、ロシアによるウクライナ侵略への対応を目的とし、ウクライナへの支援とロシアに対する経済制裁の議論が活発化した。 以前は、サミット参加7か国の間でフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ(旧西ドイツ)、日本、イタリア、カナダの順で毎年持ち回り開催されてきた。ロシアが参加するようになってからはイギリスの次にロシアが入り、8か国持ち回りになった。前半3か国が国際連合安全保障理事会の常任理事国であり、後半4か国はそうではない。 1990年代までは開催国の首都などの大都市での開催が多かったが、1990年代末になると反グローバリズム、アルテルモンディアリスム団体の抵抗運動によるデモ活動が頻発。特に2001年のジェノヴァでは大規模なデモに見舞われたことから、以降、警備のしやすい地方都市、保養地での開催が多くなっている。 第1回はフランス、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本、イタリアの6か国首脳によるG6、第2回から第23回までは6か国にカナダを加えたG7、第24回から第39回までは7か国にロシアを加えたG8。西ドイツは1990年にドイツ再統一が起こったため、第17回からは統一ドイツとして出席している。 1998年から2013年まで、G8は以下の8名で構成された。 2014年のクリミア侵攻によってロシア大統領が参加資格停止となったので、それ以降はG7に戻って今日に至っている。 なお第6回のみ日本からは外務大臣大来佐武郎が出席した。サミット直前に内閣総理大臣大平正芳が急死し、大平の後継総理は第36回衆議院議員総選挙、第12回参議院議員通常選挙の衆参同日選挙が終了するまで決定されなかったためである。 太字は議長。 近年では、G8メンバー以外にも様々な政治のリーダーが会合に参加している。どの国家を招待するかについては、基本的にはそのときの議長国の判断による。 例えば中国共産党総書記(中国国家主席)、大韓民国大統領、オーストラリア首相、インド首相、ブラジル大統領、メキシコ大統領、南アフリカ大統領などが招待されたことがある。しかし議長国の一存次第なので彼らは必ず呼ばれるとは限らない。 このうち韓国大統領、インド首相、オーストラリア首相についてはサミットのメンバーに加えるべきという意見がある。2020年にはこの年のサミット(中止となった)の議長国だったアメリカ大統領ドナルド・トランプが韓国、オーストラリア、インド、ロシアをメンバーに加える構想を打ち出したが、ドイツ、イギリス、カナダ、日本が反対した。2021年のコーンウォールサミットの議長国のイギリス首相ボリス・ジョンソンも韓国、オーストラリア、インドの首脳を同年のサミットに招待するとともに、この3国をメンバーに加えることを提案したが、日本が反対した。 また国際機関の長として、国際連合事務総長や欧州連合の欧州理事会議長および欧州委員会委員長が出席する。このうち欧州理事会議長と欧州委員会委員長はEUを代表してG8の本会合にも参加する。これ以外に経済分野では国際通貨基金専務理事が参加する。 2010年6月25日の拡大会合が行われた。その参加国は次の通りである。 側近達が集まって予備会合を持つことがあるが、こちらは「シェルパ会議」の別名で呼ばれる。サミットが首脳の地位を山頂にたとえることが発端となったことになぞらえ、同行者の意味で随員はシェルパと呼ばれる。シェルパは3名で構成されることが決まっており、日本においては首席シェルパは経済担当外務審議官が務める。 サミットにおいて恒例となった写真撮影では首脳の立ち位置は毎回変化しているが、この立ち位置にはルールがある。 中央に開催国(議長国)の首脳を配し、国家元首(大統領)か否(首相)かと在任期間の長い順に議長に近い順に左右に並ぶ(平成年間の日本は首相の交代が多かったため端に位置することが多い。一方で、比較的在任期間の長かった中曽根康弘や小泉純一郎、安倍晋三は中央付近に並ぶこともある)。また、アメリカ合衆国で開催される場合ではこのルールはあまりこだわることはなく、議長であるアメリカ大統領との関係で立ち位置が決まることもあった。 主要国首脳会議がサミットと呼ばれていることから、トップ同士の集まりのことを「サミット」と形容することがある(例:市町村サミット。首長会は普段は全国市長会と全国町村会に分かれている)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "主要国首脳会議(しゅようこくしゅのうかいぎ)もしくは先進国首脳会議(せんしんこくしゅのうかいぎ)は、7か国による国際会議である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア及びEUで構成され、メンバーは世界最大の国際通貨基金(IMF)の先進国であり、“最も裕福な自由民主主義国であり、グループは多元主義と代議制政府という共通の価値観に基づいて公式に組織されている”(IMF談)。2018年の時点で、G7は世界の純資産(317兆ドル)の60%近くを占め、世界のGDPの32-46%を占める。また世界人口の10%に当たる約7億7000万人を占める。メンバーはいずれも世界的な大国であり、経済、軍事、外交面で緊密な関係を保っている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "法的・制度的な基盤を持たないものの、国際的に大きな影響力を持っていると考えられており、HIV/AIDS対策、途上国への資金援助、2015年のパリ協定による気候変動への対応など、いくつかの主要な世界的取り組みのきっかけとなったり、先導したりしている。一方で、古くて限られていることや、世界的な代表者が少ないこと、効果がないことなどが批判されている。また、反グローバリズム団体がサミットで抗議活動を行うこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "G7は、Group of Seven(グループ・オブ・セブン)の略で、主要7か国首脳会議、先進7か国首脳会議ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、主要国首脳会議(G7サミット)を単に「サミット」と表す場合があるが、英語でSummitは首脳会議のことを意味するため、必ずしも適切ではない。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1998年サミットから2014年のロシアによるクリミア併合までは主要国首脳会議の構成メンバーは以下の8か国であり、G8、主要8か国首脳会議などと呼ばれていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "上記の8か国の政府の長および欧州連合の欧州理事会議長と欧州委員会委員長が年に1度集まり、国際的な政治的・経済的課題について議論する会合である(その他の国の首脳や国際機関の代表も例外的に出席することがある)。また、それに合わせて数多くの下部会議や政策検討も行われる。ただし、2014年以降、ロシアはその参加資格を停止されている(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "カナダとイタリアが加わる以前は日本、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツの5か国が参加するG5と呼ばれていた。1975年にイタリアが参加し第1回先進国首脳会議が開催されG6となる。その後1976年にカナダが加わり第2回先進国首脳会議が開催されG7となった。現在では首脳や各閣僚による会合は全てG7の枠組みとなっている。カナダ以外の6か国は20世紀前半までの帝国主義時代における列強にあたる。中国はG7を北京に侵攻した八カ国連合軍と揶揄して批判した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なおロシアの参加によって首脳会議や閣僚会合がG8という枠組みとなっていた時代においても、財務相・中央銀行総裁会議に関してはG7の枠組みで活動していた。そのため一時期は「G7=先進国財務相、中央銀行総裁会議」の略称として用いられていたとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "発足時の名称は「先進国首脳会議」。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "冷戦下の1973年のオイルショックと、それに続く世界不況に起源を持つ。1973年3月25日、この不況を憂慮したアメリカ財務長官ジョージ・シュルツは、将来の経済的課題を討議する会議を模索するため、西ドイツ・フランス・イギリスからそれぞれ財務大臣(ヘルムート・シュミット、ヴァレリー・ジスカールデスタン、アンソニー・バーバー(英語版))を招集し、ワシントンD.C.で非公式の会合を行った。この時、アメリカ大統領ニクソンは会場としてホワイトハウスを提供し、会合が地階の図書室で開催されたことから、この4か国は「ライブラリーグループ」と呼ばれた。現在のG7財務相・中央銀行総裁会議の前身である。同年秋に開かれた国際通貨基金(IMF)と世界銀行の年次総会の際に行われた非公式会合の場で、シュルツは先の4か国に日本を加えることを提唱し、合意された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1975年、フランスで大統領となったジスカールデスタンは、ライブラリーグループのメンバーに日本を加えた“工業化された4つの主要民主主義国”の首脳をフランスのランブイエに招待し、フランスを含めて5か国で初めての首脳会議を開き、定期的に首脳会議を持つことを提案した。このときの出席者は、主催国(議長国)を持ち回りで交代しつつ年に1回会議を持つことに合意した。こうしていわゆる「G5」が生まれた。しかし、これを不服としたイタリアの首相アルド・モロが第1回会議に乗り込んで来た為、その場でイタリアが追加されG6となる。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "しかし、これではヨーロッパに偏る為、翌年のプエルトリコの首都サンフアンでのサミットで米国のジェラルド・フォード大統領の要請によりカナダが参加し「G7」となる。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "冷戦の終結に続く1991年の第17回先進国首脳会議(ロンドン・サミット)終了後、旧東側諸国の盟主で、かつてはG7諸国と対立していたソ連(現・ロシア)とサミットの枠外で会合を行うようになった。ロシアは1994年のナポリ会合以降は首脳会議のうち政治討議に参加するようになり、1997年のデンバー会議以降は「世界経済」「金融」などの一部セッションを除き基本的に全ての日程に参加することになった。1998年のバーミンガム会議以降は従来の「G7サミット」に代わり「G8サミット」という呼称が用いられるようになった。さらに2003年のエビアン・サミット以降、ロシアは「世界経済」に関するセッションを含め完全に全ての日程に参加するようになった。一方ロシアは経済力が大きくないなどの理由により、7か国財務大臣・中央銀行総裁会議には完全参加していなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ロシアの参加には米大統領ビル・クリントンの示唆などもあった。これは当時のロシア大統領ボリス・エリツィンに経済改革を進めさせ、また北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大政策に関して中立を保つようにさせるためのクリントンのジェスチャーだった。ロシアは加入当初は経済破綻で貧困状態であったために先進国とは言い難く、一人当たり名目GDPも1999年には1334ドルに過ぎない発展途上国状態であった。このころ、名称が「先進国首脳会議」から「主要国首脳会議」に変更された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "他方、2005年2月18日、米上院議員ジョー・リーバーマンとジョン・マケインがロシア大統領ウラジーミル・プーチンによって民主的、政治的自由が確保されるまではG8への参加を見合わせるようにロシアに呼びかけるなどの動きもあった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": 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"G8参加国は現在、地球規模で深刻な問題となっている地球温暖化や発展途上国での貧困の原因となっていると非難があり、また主要国として問題解決に向けて対処すべきという非難もある。このようにG8諸国が作り出していると非難されている問題について責任を取って闘うよう、G8指導者へさまざまな団体から圧力がかかっている。例えば、ボブ・ゲルドフは2005年7月2日と7日にグローバル・アウェアネス・コンサートであるLive 8を組織しG8指導者に「Make Poverty History(貧困を歴史としよう)」を奨励した。また組織関係者は、G8メンバー国に1992年のリオデジャネイロ地球サミットの「アジェンダ21」で概説されたとおり国家予算の0.7%を海外援助に回すよう提案した。このコンサートは第31回G8サミットと同時になるように計画された。", "title": "G7(G8)への反発" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "G7と対立を深める中華人民共和国のイラストレーターの烏合麒麟は、G7加盟国を、義和団の乱で混乱していた北京に軍事侵攻した八カ国連合軍の加盟国に準えて批判した(実際に参加国はほぼ同じ)。また、120年前の衰退し弱体化した中国と現在の中国は全く違う事、120が過ぎても強盗(侵略)の本性は捨て難いなどの批判コメントを記載した。", "title": "G7(G8)への反発" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2005年7月7日、スコットランドでのサミットの初日に50人以上が命を落とし数百人が負傷したと言われるロンドン地下鉄およびロンドン2階建てバス同時多発爆破事件が起こった。この攻撃は、直ちに「ヨーロッパ在住のアルカーイダ秘密グループによるジハード」によるものとされた。この攻撃は西側国家に対し、アフガニスタンおよびイラクでの軍事活動をした場合攻撃を行うとイスラム原理主義者によって犯行の予告が先立ってされていた中で英国が軍事行動に参加したことと関係があるものとされた。G8サミットへ集まった国際的な注目は、おそらく最大限の象徴的な効果のためにテロリストによって増幅された。この打撃は、IOCがロンドンを2012年オリンピック大会の開催地に決定した告知をした直後でもあった。", "title": "G7(G8)への反発" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "近年はインドや中国などの新興国の急速な経済発展の反面G7の経済力と影響力低下に伴い、世界経済に関してはG7にEUとロシアおよび新興経済国11ヶ国を加えたG20の枠組みで議論される事が多くなっている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2010年2月5日から6日まで2日間の日程でカナダのイカルイトで開幕したG7の財務相・中央銀行総裁会議では、世界経済の現状について意見交換する夕食会の後、膝詰めで話し合う「炉端対話」が行われ、仏財務相のクリスティーヌ・ラガルドからG7の今後のあり方が提案されたが結論は出ず、継続議論となった。日本からは財務大臣の菅直人と日銀総裁の白川方明が出席した。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "現在では、中国の海洋進出やロシアによるクリミア併合などを受けて、法の支配や普遍的価値を共有するG7の結束は高まっている。だが、2017年、国益を重視するドナルド・トランプの米大統領就任により、2019年は初の首脳宣言見送りとなった。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2016年5月31日、外務大臣の岸田文雄(当時)は、記者会見で「G20の台頭」に対して、「G7は特に、自由、民主主義、法の支配、人権と言った基本的な価値観を共有する主要国の枠組みだと思います。」「国際社会が経済も含めて不透明化する中にあって、この枠組の意義、存在感は益々高まっていくのではないか、このように認識しております。」(一部抜粋)と語っている。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2020年6月、同年の開催国にあたる米大統領のドナルド・トランプは、G7の枠組みにオーストラリア、インド、ロシア、韓国を加えてG10またはG11に拡大する意向を示した。新型コロナウイルスの流行を背景に「対中包囲網」という意識もあると見られる。ただし、全G7諸国の承認が条件でありカナダとイギリスはロシアの参加に反対し、ロシアも中国排除の仕組みに意味がないと難色を示した。韓国に関しては中国政府系メディアから「韓国は大した力のない国」と批判され、日本政府からも北朝鮮問題を理由に参加を拒否された。また、EU外相のジョセップ・ボレルは「トランプにG7の枠組みを変える権限など一切ない。」と痛烈に批判している。7月27日には、ドイツもG7の拡大を批判した。2021年、日本政府はG7の拡大に反対すると正式に表明した。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2022年は、ロシアによるウクライナ侵略への対応を目的とし、ウクライナへの支援とロシアに対する経済制裁の議論が活発化した。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "以前は、サミット参加7か国の間でフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ(旧西ドイツ)、日本、イタリア、カナダの順で毎年持ち回り開催されてきた。ロシアが参加するようになってからはイギリスの次にロシアが入り、8か国持ち回りになった。前半3か国が国際連合安全保障理事会の常任理事国であり、後半4か国はそうではない。", "title": "先進国、主要国首脳会議の一覧" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1990年代までは開催国の首都などの大都市での開催が多かったが、1990年代末になると反グローバリズム、アルテルモンディアリスム団体の抵抗運動によるデモ活動が頻発。特に2001年のジェノヴァでは大規模なデモに見舞われたことから、以降、警備のしやすい地方都市、保養地での開催が多くなっている。", "title": "先進国、主要国首脳会議の一覧" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "第1回はフランス、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本、イタリアの6か国首脳によるG6、第2回から第23回までは6か国にカナダを加えたG7、第24回から第39回までは7か国にロシアを加えたG8。西ドイツは1990年にドイツ再統一が起こったため、第17回からは統一ドイツとして出席している。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1998年から2013年まで、G8は以下の8名で構成された。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2014年のクリミア侵攻によってロシア大統領が参加資格停止となったので、それ以降はG7に戻って今日に至っている。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお第6回のみ日本からは外務大臣大来佐武郎が出席した。サミット直前に内閣総理大臣大平正芳が急死し、大平の後継総理は第36回衆議院議員総選挙、第12回参議院議員通常選挙の衆参同日選挙が終了するまで決定されなかったためである。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "太字は議長。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "近年では、G8メンバー以外にも様々な政治のリーダーが会合に参加している。どの国家を招待するかについては、基本的にはそのときの議長国の判断による。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "例えば中国共産党総書記(中国国家主席)、大韓民国大統領、オーストラリア首相、インド首相、ブラジル大統領、メキシコ大統領、南アフリカ大統領などが招待されたことがある。しかし議長国の一存次第なので彼らは必ず呼ばれるとは限らない。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このうち韓国大統領、インド首相、オーストラリア首相についてはサミットのメンバーに加えるべきという意見がある。2020年にはこの年のサミット(中止となった)の議長国だったアメリカ大統領ドナルド・トランプが韓国、オーストラリア、インド、ロシアをメンバーに加える構想を打ち出したが、ドイツ、イギリス、カナダ、日本が反対した。2021年のコーンウォールサミットの議長国のイギリス首相ボリス・ジョンソンも韓国、オーストラリア、インドの首脳を同年のサミットに招待するとともに、この3国をメンバーに加えることを提案したが、日本が反対した。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また国際機関の長として、国際連合事務総長や欧州連合の欧州理事会議長および欧州委員会委員長が出席する。このうち欧州理事会議長と欧州委員会委員長はEUを代表してG8の本会合にも参加する。これ以外に経済分野では国際通貨基金専務理事が参加する。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2010年6月25日の拡大会合が行われた。その参加国は次の通りである。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "側近達が集まって予備会合を持つことがあるが、こちらは「シェルパ会議」の別名で呼ばれる。サミットが首脳の地位を山頂にたとえることが発端となったことになぞらえ、同行者の意味で随員はシェルパと呼ばれる。シェルパは3名で構成されることが決まっており、日本においては首席シェルパは経済担当外務審議官が務める。", "title": "出席者" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "サミットにおいて恒例となった写真撮影では首脳の立ち位置は毎回変化しているが、この立ち位置にはルールがある。", "title": "主要国首脳会議にまつわる事柄" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "中央に開催国(議長国)の首脳を配し、国家元首(大統領)か否(首相)かと在任期間の長い順に議長に近い順に左右に並ぶ(平成年間の日本は首相の交代が多かったため端に位置することが多い。一方で、比較的在任期間の長かった中曽根康弘や小泉純一郎、安倍晋三は中央付近に並ぶこともある)。また、アメリカ合衆国で開催される場合ではこのルールはあまりこだわることはなく、議長であるアメリカ大統領との関係で立ち位置が決まることもあった。", "title": "主要国首脳会議にまつわる事柄" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "主要国首脳会議がサミットと呼ばれていることから、トップ同士の集まりのことを「サミット」と形容することがある(例:市町村サミット。首長会は普段は全国市長会と全国町村会に分かれている)。", "title": "主要国首脳会議にまつわる事柄" } ]
主要国首脳会議(しゅようこくしゅのうかいぎ)もしくは先進国首脳会議(せんしんこくしゅのうかいぎ)は、7か国による国際会議である。 日本、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア及びEUで構成され、メンバーは世界最大の国際通貨基金(IMF)の先進国であり、“最も裕福な自由民主主義国であり、グループは多元主義と代議制政府という共通の価値観に基づいて公式に組織されている”(IMF談)。2018年の時点で、G7は世界の純資産(317兆ドル)の60%近くを占め、世界のGDPの32-46%を占める。また世界人口の10%に当たる約7億7000万人を占める。メンバーはいずれも世界的な大国であり、経済、軍事、外交面で緊密な関係を保っている。 法的・制度的な基盤を持たないものの、国際的に大きな影響力を持っていると考えられており、HIV/AIDS対策、途上国への資金援助、2015年のパリ協定による気候変動への対応など、いくつかの主要な世界的取り組みのきっかけとなったり、先導したりしている。一方で、古くて限られていることや、世界的な代表者が少ないこと、効果がないことなどが批判されている。また、反グローバリズム団体がサミットで抗議活動を行うこともある。 G7は、Group of Seven(グループ・オブ・セブン)の略で、主要7か国首脳会議、先進7か国首脳会議ともいう。 なお、主要国首脳会議(G7サミット)を単に「サミット」と表す場合があるが、英語でSummitは首脳会議のことを意味するため、必ずしも適切ではない。
{{Redirect|G7}} {{Redirect|サミット}} {| class="infobox" border="1" cellpadding="4" style="float:right; margin:0 0 1em 1em; width:25em; border-collapse:collapse; font-size:90%; clear:right" !主要7か国と欧州連合 |- |[[File:Group of Seven (G7) Countries.svg|280px|center|主要7か国と欧州連合]] |- |[[File:Prime Minister Rishi Sunak attends G7 Summit in Hiroshima Japan (52907950772).jpg|280px|center|2023年5月19日の[[第49回先進国首脳会議|広島サミット]]。 左から[[欧州理事会]][[欧州理事会議長|議長]]、[[イタリア]][[イタリアの首相|首相]]、[[カナダ]][[カナダ首相|首相]]、[[フランス]][[共和国大統領 (フランス)|大統領]]、[[日本]][[内閣総理大臣]]、[[アメリカ合衆国]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]、[[ドイツ]][[連邦首相 (ドイツ)|首相]]、[[イギリス]][[イギリスの首相|首相]]、[[欧州委員会]][[欧州委員会委員長|委員長]]。]] ---- ; {{FRA}} : [[共和国大統領 (フランス)|大統領]] [[エマニュエル・マクロン]] ; {{USA}} : [[アメリカ合衆国大統領|大統領]] [[ジョー・バイデン]] ; {{GBR}} : [[イギリスの首相|首相]] [[リシ・スナク]] ; {{GER}} : [[ドイツの首相|首相]] [[オラフ・ショルツ]] ; {{JPN}} : [[内閣総理大臣|首相]] [[岸田文雄]] ; {{ITA}} : [[イタリアの首相|首相]] [[ジョルジャ・メローニ]] ; {{CAN}} : [[カナダ首相|首相]] [[ジャスティン・トルドー]] ---- ; ---- ; {{EUR}} : [[欧州理事会議長]] [[シャルル・ミシェル]] : [[欧州委員会委員長]] [[ウルズラ・フォン・デア・ライエン]] |} '''主要国首脳会議'''(しゅようこくしゅのうかいぎ)もしくは'''先進国首脳会議'''(せんしんこくしゅのうかいぎ)は、7か国による国際会議である。 [[日本]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[カナダ]]、[[フランス]]、[[イギリス]]、[[ドイツ]]、[[イタリア]]及び[[欧州連合|EU]]で構成され<ref group="注釈">ドイツ・フランス・イタリアの3国は更にEU加盟国</ref>、<ref>{{Cite web|和書|title=「G7」と「G8」と「G20」の違いとは?意外と知らない成り立ちと加盟国|url=https://dime.jp/genre/1071380/?amp=1|website=dime.jp|accessdate=2021-08-17}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=G7サミット開かれる → 民主主義の先進7カ国を覚えよう{{!}}一色清の「このニュースって何?」{{!}}朝日新聞EduA|url=https://www.asahi.com/edua/article/14373889|website=www.asahi.com|accessdate=2021-08-17|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|last=McHugh|first=David|title=After 45 years, G-7 endures despite the Trump tweets|url=https://apnews.com/article/donald-trump-financial-markets-ap-top-news-financial-crisis-france-131ee4ca2e6e41909d871cfdef74020f|accessdate=4 June 2021|newspaper=AP|date=23 August 2019}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=G20とは何ですか? G7とは何ですか? : 日本銀行 Bank of Japan|url=https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/intl/g02.htm/|website=www.boj.or.jp|accessdate=2021-08-17}}</ref>メンバーは世界最大の[[国際通貨基金]](IMF)の[[先進国]]であり、“最も裕福な[[自由民主主義]]国であり、グループは[[文化多元主義|多元主義]]と[[間接民主主義|代議制政府]]という共通の価値観に基づいて公式に組織されている”(IMF談)<ref>{{Cite web|title=Report for Selected Countries and Subjects|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2018/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=34&pr.y=14&sy=2016&ey=2023&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=156,158,132,112,134,111,136&s=NGDPD,PPPGDP&grp=0&a=|website=[[国際通貨基金]]|accessdate=6/13/2021}}</ref><ref>{{Cite web|date=October 2017|title=World Economic Outlook Database|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2017/02/weodata/weoselco.aspx?g=119&sg=All+countries+%2f+Advanced+economies+%2f+Major+advanced+economies+(G7)|publisher=[[国際通貨基金]]|accessdate=6/13/2021}}</ref>。[[2018年]]の時点で、G7は世界の[[国富|純資産]](317兆ドル)の60%近くを占め<ref name="GWD2018">[http://publications.credit-suisse.com/tasks/render/file/index.cfm?fileid=777FDF0E-E060-F608-52DAF97E062CC35B Research Institute – Global Wealth Databook 2018]{{リンク切れ|date=January 2020}}</ref>、世界の[[国内総生産|GDP]]の32-46%を占める。また[[世界人口]]の10%に当たる約7億7000万人を占める<ref name="France Ministry">{{Cite web|title=The G7: Frequently Asked Questions|website=France Diplomacy – Ministry for Europe and Foreign Affairs|date=26 August 2019|url=https://www.diplomatie.gouv.fr/en/french-foreign-policy/french-g7-presidency-2019/the-g7-frequently-asked-questions/|accessdate=12 June 2021}}</ref>。メンバーはいずれも世界的な[[列強|大国]]であり、[[経済]]、[[軍事]]、外交面で緊密な関係を保っている<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=G7対中議論 日本期待もジレンマ|url=https://www.sankei.com/article/20210613-C44CREROX5KULEL6IIHJU5L7AM/?outputType=amp|website=[[産経新聞]]|accessdate=2021-08-17}}</ref>。 法的・制度的な基盤を持たないものの、国際的に大きな影響力を持っている<ref>{{Cite news|last=Shear|first=Michael D.|date=11 June 2021|title=G7 News: A Return to Face-to-Face Diplomacy|language=en-US|newspaper=The New York Times|url=https://www.nytimes.com/live/2021/06/11/world/g7-summit|accessdate=12 June 2021|issn=0362-4331}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=データで見る国際秩序(1) ~「G7の結束」は必然か、経済力と軍事力のパワー・シフト~ {{!}} 石附 賢実 {{!}} 第一生命経済研究所|url=https://www.dlri.co.jp/report/ld/155909.html|website=www.dlri.co.jp|accessdate=2021-08-17}}</ref>と考えられており、[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]/[[後天性免疫不全症候群|AIDS]]対策、[[途上国]]への資金援助、[[2015年]]の[[パリ協定 (気候変動)|パリ協定]]による気候変動<ref>{{Cite web|和書|title=生物多様性と気候変動の観点から見たG7コーンウォールサミット|url=https://www.wwf.or.jp/activities/opinion/4649.html|website=WWFジャパン|accessdate=2021-08-17|last=WWFジャパン}}</ref>への対応など、いくつかの主要な世界的取り組みのきっかけとなったり、先導したりしている<ref>{{Cite web|和書|title=G7サミット、途上国の経済活動再開を後押し 背後に中国への対抗心|url=https://mainichi.jp/articles/20210612/k00/00m/030/172000c|website=毎日新聞|accessdate=2021-08-17|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|last=Shear|first=Michael D.|date=11 June 2021|title=G7 News: A Return to Face-to-Face Diplomacy|language=en-US|newspaper=The New York Times|url=https://www.nytimes.com/live/2021/06/11/world/g7-summit|accessdate=12 June 2021|issn=0362-4331}}</ref><ref>{{Cite web|title=What is the G7?|url=https://www.g7uk.org/what-is-the-g7/|accessdate=12 June 2021|website=G7 UK Presidency 2021|language=en-GB}}</ref><ref>{{Cite web|title=What are the G7 and the G8?|url=http://www.g8.utoronto.ca/what_is_g8.html|accessdate=12 June 2021|website=www.g8.utoronto.ca}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=男女格差、日本は120位でG7で最下位 政治・経済分野の遅れが影響し最低水準に:東京新聞 TOKYO Web|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/94891|website=東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2021-08-17|language=ja}}</ref>。一方で、古くて限られていることや、世界的な代表者が少ないこと、効果がないことなどが批判されている<ref>{{Cite web|和書|title=G7サミットに象徴される帝国主義時代とたいして変わっていない統治の仕組み[橘玲の世界投資見聞録]|url=https://diamond.jp/articles/-/92775|website=橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方 {{!}} ザイオンライン|accessdate=2021-08-17|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|date=7 June 2015|title=Scrap the G7 and its summit – it is hopeless, divided and outdated {{!}} Larry Elliott|url=http://www.theguardian.com/business/2015/jun/07/scrap-g7-summit-hopeless-divided-outdated|accessdate=13 June 2021|website=the Guardian|language=en}}</ref>。また、[[反グローバリゼーション|反グローバリズム]]団体がサミットで抗議活動を行うこともある<ref>{{Cite web|和書|title=もはや民主主義国が少数派に転落した世界の現実 {{!}} アメリカ|url=https://toyokeizai.net/articles/-/437423|website=東洋経済オンライン|date=2021-06-30|accessdate=2021-08-17|language=ja}}</ref>。 '''G7<ref group="注釈">{{Cite web|和書|title=サミットとは {{!}} サミット情報 {{!}} 伊勢志摩サミット |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/ise-shima16/summit/about.html |website=www.mofa.go.jp |access-date=2023-02-06 |language=ja}}</ref>は、{{lang|en|Group of Seven}}(グループ・オブ・セブン)の略'''で、'''主要7か国首脳会議'''、'''先進7か国首脳会議'''ともいう。 なお、主要国首脳会議(G7サミット)を単に「サミット」と表す場合があるが、'''英語で[[:en:Summit (meeting)|Summit]]は[[首脳会議]]のことを意味する'''ため、必ずしも適切ではない。 {{-}} == 概要 == [[1998年]]サミットから2014年の[[ロシアによるクリミアの併合|ロシアによるクリミア併合]]までは主要国首脳会議の構成メンバーは以下の8か国であり、'''G8'''、'''主要8か国首脳会議'''などと呼ばれていた<ref>[http://www.sankeibiz.jp/express/news/140326/exd1403261011001-n2.htm G7首脳会談 「ロシアのG8参加停止」を採択 G7と対立 「新たな冷戦時代」に突入]2018-11-02閲覧</ref>。 * {{USA}} * {{GBR}} * {{FRA}} * {{GER}} * {{JPN}} * {{ITA}} * {{CAN}} * {{RUS}} 上記の8か国の[[政府の長]]および[[欧州連合]]の[[欧州理事会議長]]と[[欧州委員会委員長]]が年に1度集まり、国際的な政治的・経済的課題について議論する会合である(その他の国の首脳や国際機関の代表も例外的に出席することがある)。また、それに合わせて数多くの下部会議や政策検討も行われる。ただし、2014年以降、ロシアはその参加資格を停止<ref group="注釈">参加資格の停止であって、メンバーから除外ではない。</ref>されている(後述)。 [[File:G7 flags, Toronto.jpg|thumb|200px|[[第14回先進国首脳会議]]の際、開催地に選ばれた[[トロント]]にて掲揚されたG7各国の国旗。1988年7月]] カナダとイタリアが加わる以前は日本<ref>{{Cite web|和書|title=「日本こそがアジアで正真正銘の先進国」と言われるのは一体なぜか=中国報道 (2020年5月5日)|url=https://www.excite.co.jp/news/article-amp/Searchina_20200505009/|website=エキサイトニュース|accessdate=2020-06-20|language=ja}}</ref>、アメリカ、イギリス、フランス、[[西ドイツ]]の5か国が参加する'''[[五大国#G5|G5]]'''と呼ばれていた。[[1975年]]にイタリアが参加し[[第1回先進国首脳会議]]が開催され'''G6'''となる。その後[[1976年]]にカナダが加わり[[第2回先進国首脳会議]]が開催され'''G7'''となった。現在では首脳や各閣僚による会合は全てG7の枠組みとなっている。カナダ以外の6か国は20世紀前半までの[[帝国主義]]時代における[[列強]]にあたる<ref>{{Cite web|和書|title=サミットに注目! そもそもなぜこの7カ国? {{!}} 就活ニュースペーパーby朝日新聞 - 就職サイト あさがくナビ|url=https://asahi.gakujo.ne.jp/common_sense/morning_paper/detail/id=2184|website=asahi.gakujo.ne.jp|accessdate=2020-06-20|language=ja}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=G7サミットに象徴される帝国主義時代とたいして変わっていない統治の仕組み[橘玲の世界投資見聞録]|url=https://diamond.jp/articles/-/92775|website=橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方 {{!}} ザイオンライン|accessdate=2020-06-20|language=ja}}</ref>。[[中華人民共和国|中国]]はG7を[[義和団の乱|北京に侵攻]]した[[八カ国連合軍]]と揶揄して批判した<ref>{{Cite web|和書|title=中国「戦狼画家」、G7外相らを八カ国連合軍と揶揄 集合写真をパロディ化 |url=https://www.epochtimes.jp/2021/05/72683.html |website=www.epochtimes.jp |access-date=2023-02-06 |language=ja}}</ref>。 なおロシアの参加によって首脳会議や閣僚会合がG8という枠組みとなっていた時代においても、[[財務大臣・中央銀行総裁会議|財務相・中央銀行総裁会議]]に関してはG7の枠組みで活動していた。そのため一時期は「G7=先進国財務相、中央銀行総裁会議」の略称として用いられていたとされる。 == 経緯 == 発足時の名称は「'''[[先進国]]首脳会議'''」。 [[冷戦]]下の[[1973年]]の[[オイルショック]]と、それに続く世界[[不況]]に起源を持つ。1973年3月25日、この不況を憂慮したアメリカ財務長官[[ジョージ・シュルツ]]は、将来の経済的課題を討議する会議を模索するため、[[西ドイツ]]・フランス・イギリスからそれぞれ財務大臣([[ヘルムート・シュミット]]、[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン|ヴァレリー・ジスカールデスタン]]、{{仮リンク|アンソニー・バーバー|en|Anthony Barber}})を招集し、[[ワシントンD.C.]]で非公式の会合を行った<ref name="Schultz">Shultz, George P. (1993). ''Turmoil and Triumph: My Years as Secretary of State''. p. 148. {{ISBN2|0-684-19325-6}}.</ref>。この時、アメリカ大統領[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]は会場として[[ホワイトハウス]]を提供し、会合が[[ホワイトハウス#地階|地階の図書室]]で開催されたことから、この4か国は「ライブラリーグループ」と呼ばれた<ref>Bayne, Nicholas; Putnam, Robert D. (2000). ''Hanging in There''. Ashgate Pub Ltd. 230 pages. {{ISBN2|075461185X}}. p.&nbsp;20.</ref>。現在の[[財務大臣・中央銀行総裁会議#概要|G7財務相・中央銀行総裁会議]]の前身である。同年秋に開かれた[[国際通貨基金]](IMF)と[[世界銀行]]の年次総会の際に行われた非公式会合の場で、シュルツは先の4か国に[[日本]]を加えることを提唱し、合意された<ref name="Schultz"/>。 [[1975年]]、フランスで大統領となったジスカールデスタンは、ライブラリーグループのメンバーに日本を加えた“工業化された4つの主要[[民主主義]]国”の首脳をフランスの[[ランブイエ]]に招待し、フランスを含めて5か国で初めての首脳会議を開き、定期的に首脳会議を持つことを提案した。このときの出席者は、主催国(議長国)を持ち回りで交代しつつ年に1回会議を持つことに合意した。こうしていわゆる「'''[[五大国#G5|G5]]'''」が生まれた<ref>Farnsworth, Clyde H. (8 May 1977). "A Secret Society of Finance Ministers," ''New York Times''.</ref>。しかし、これを不服とした[[イタリア]]の首相[[アルド・モロ]]が第1回会議に乗り込んで来た為、その場でイタリアが追加され'''G6'''となる。{{See also|第1回先進国首脳会議}}しかし、これではヨーロッパに偏る為<ref>日本・アメリカ以外の全メンバー国が[[欧州共同体]]構成国。</ref>、翌年の[[プエルトリコ]]の首都[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]]でのサミットで米国の[[ジェラルド・R・フォード|ジェラルド・フォード]]大統領の要請によりカナダが参加し「'''[[G7]]'''」となる。{{see also|第2回先進国首脳会議}} 冷戦の終結に続く[[1991年]]の第17回先進国首脳会議(ロンドン・サミット)終了後、旧[[東側諸国]]の盟主で、かつてはG7諸国と対立していた[[ソビエト連邦|ソ連]](現・ロシア)とサミットの枠外で会合を行うようになった。ロシアは[[1994年]]のナポリ会合以降は首脳会議のうち政治討議に参加するようになり、[[1997年]]のデンバー会議以降は「世界経済」「金融」などの一部セッションを除き基本的に全ての日程に参加することになった。[[1998年]]のバーミンガム会議以降は従来の「G7サミット」に代わり「G8サミット」という呼称が用いられるようになった。さらに[[2003年]]の[[第29回主要国首脳会議|エビアン・サミット]]以降、ロシアは「世界経済」に関するセッションを含め完全に全ての日程に参加するようになった。一方ロシアは経済力が大きくないなどの理由により、[[G7|7か国]][[財務大臣・中央銀行総裁会議]]には完全参加していなかった。 ロシアの参加には米大統領[[ビル・クリントン]]の示唆などもあった。これは当時のロシア大統領[[ボリス・エリツィン]]に経済改革を進めさせ、また[[北大西洋条約機構]](NATO)の東方拡大政策に関して中立を保つようにさせるためのクリントンのジェスチャーだった。ロシアは加入当初は経済破綻で[[貧困]]状態であったために先進国とは言い難く、[[国内総生産#関連指標|一人当たり名目GDP]]も1999年には1334ドルに過ぎない[[開発途上国|発展途上国]]状態であった。このころ、名称が「先進国首脳会議」から「'''主要国首脳会議'''」に変更された。 他方、[[2005年]][[2月18日]]、米上院議員[[ジョー・リーバーマン]]と[[ジョン・マケイン]]がロシア大統領[[ウラジーミル・プーチン]]によって民主的、政治的[[自由]]が確保されるまではG8への参加を見合わせるようにロシアに呼びかけるなどの動きもあった。 当初においては様々な国際的な課題への強い影響力を有していたが、近年では新興諸国の政治的・経済的影響力の上昇に伴う相対的な影響力の低下とともに、形骸化や単なるセレモニー化が指摘されている。一方で、[[国際連合総会|国連総会]]などの外交官レベルの会議に比べ、主要各国の首脳会議であるサミットは決断力・実行力に格段の優位性をもつほか、[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]のような制度的問題がなく、国連を補完する意味で一定の役割を果たしているという指摘もある。 [[2014年]][[3月25日]]に[[オランダ]]の[[ハーグ]]で開かれた[[核セキュリティーサミット]]とあわせ、臨時のG7サミットが開かれた。その議場において、ロシアの[[ウクライナ]]に対する軍事介入や[[ロシアによるクリミアの併合|クリミア半島掌握]]などを非難したG7の首脳陣は、2014年6月にロシア・ソチで行われる予定だったG8サミットを中止し、会場を[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]に変更する決定をした。また同会議において、「'''ロシアが態度を改め、G8において意味ある議論を行う環境に戻るまで、G8への参加を停止する'''」という内容のハーグ宣言<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/ec/page24_000231.html 内容全文] 外務省</ref>を発表した。これにより、G8としての活動は事実上停止し、冷戦当時のG7へと戻った<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA2N09120140324 ロイター 2014年3月25日配信版]</ref>。 == メンバー国と招待国 == [[国際連合]]や[[世界銀行]]のような国際機関とは異なり、条約に基づくものではなく、常設の事務局やオフィスはなく、議長国は加盟国の間で毎年交代し、議長国はグループの優先事項を決定し、'''主要国首脳会議'''(サミット)を開催する。サミットの新たなメンバー国を増やすには、全参加国の支持が必要となる。一方、招待国は議長国に権限が与えられている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200602/k00/00m/010/197000c 「G7拡大を」トランプ発言に日本困惑 避けたい米中対立激化 守りたいアジア代表枠]</ref>。またメンバー国の間で毎年順番にグループの議長国が回り、新しい議長国は[[1月1日]]から担当が始まると考えられている。議長国は一連の大臣級会議を主催し、続いて年の中頃に3日間の首脳によるサミットを行う。また、出席者の安全を確保するのも議長国の役割である。 大臣級会議は健康、法務、労働を担当する大臣が集まり、相互のまたは全地球的な問題について議論する。これらのうち最もよく知られたものはG8外務大臣会合、G8財務大臣会合などがある。1994年にはG7の後援の下で、[[情報化社会]]の実現に関する特別プログラムが設立された。 G8サミット国や招待国以外でも、特定の分野で参加することができる。例えば2005年6月には、G8は[[幼児性愛]]者に関する国際的データベースを立ち上げることに同意され設置されたが、G8以外の国もこのデータベースに参加することができる。またG8は、各国の[[プライバシー]]と保安にかかる法律の範囲内で[[テロリズム]]に関するデータを集積することにも同意した。同時にG8構成国、および[[ブラジル]]、中国、[[インド]](発展途上国で最大の地球温暖化ガスの排出国)の国際科学アカデミーが気候変動に関する共同声明に署名した。この声明は気候変動についての科学的理解はいまや各国が即座に対策を執るには十分に明らかになっており、[[気候変動に関する政府間パネル|IPCC]]の統一見解を明示的に支持するということを強調している。 == G7(G8)への反発 == {{出典の明記| date = 2023年5月| section = 1}} === G8への非難 === G8で扱われる課題は議論のある国際的問題であるためG8は非公式な「世界政府」であり、何の関係もない[[第三世界]]にまで決定事項が強制されているという非難が[[アルテルモンディアリスム|アルテルモンディアリスト]]によりしばしばなされる。ちなみにG8の「決議」「決定」「宣言」その他諸々は、[[国際法]]上の根拠を何ら持たず、すなわち非参加国に対する拘束力のない“仲間内での取り決め”に過ぎない。 年1回のサミットは、しばしば[[反グローバリゼーション]]活動の反対活動の的になる。特に[[2001年]]に[[ジェノバ]]で開かれた[[第27回主要国首脳会議]]では大規模なデモが行われるなど顕著だった。 G8参加国は現在、地球規模で深刻な問題となっている[[地球温暖化]]や発展途上国での[[貧困]]の原因となっていると非難があり、また主要国として問題解決に向けて対処すべきという非難もある。このようにG8諸国が作り出していると非難されている問題について責任を取って闘うよう、G8指導者へさまざまな団体から圧力がかかっている。例えば、[[ボブ・ゲルドフ]]は2005年[[7月2日]]と[[7月7日|7日]]にグローバル・アウェアネス・コンサートである[[LIVE 8|Live 8]]を組織しG8指導者に「[[ホワイトバンドプロジェクト|Make Poverty History(貧困を歴史としよう)]]」を奨励した。また組織関係者は、G8メンバー国に[[1992年]]の[[リオデジャネイロ]]地球サミットの「[[アジェンダ21]]」で概説されたとおり国家予算の0.7%を海外援助に回すよう提案した。このコンサートは第31回G8サミットと同時になるように計画された。 G7と対立を深める[[中華人民共和国]]のイラストレーターの烏合麒麟は、G7加盟国を、[[義和団の乱]]で混乱していた[[国際公使館包囲戦|北京に軍事侵攻]]した[[八カ国連合軍]]の加盟国{{Efn|1900年に北京侵攻を行なった八カ国連合軍の加盟国は、[[アメリカ合衆国]]、[[大日本帝国]]、[[大英帝国]](イギリス帝国)、[[フランス第三共和政]]、[[ドイツ帝国]]、[[イタリア王国]]、[[ロシア帝国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]である。また、[[カナダ]]は当時、イギリス帝国の植民地であったため、イギリス帝国の一部の扱いである。}}に準えて批判した(実際に参加国はほぼ同じ)<ref>{{Cite web|和書|title=G7敵に回す戦狼外交と歴史改変、習近平氏の意外な目的 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK093HM0Z00C21A5000000/ |website=日本経済新聞 |date=2021-05-12 |access-date=2023-09-06 |language=ja}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=「G7は北京侵攻した8カ国連合」…中国、安保理招集し攻撃 |url=https://s.japanese.joins.com/JArticle/278476?sectcode=A00&servcode=A00 |website=中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします |access-date=2023-09-06 |language=ja}}</ref>。また、120年前の衰退し弱体化した中国と現在の中国は全く違う事、120が過ぎても強盗(侵略)の本性は捨て難いなどの批判コメントを記載した<ref name=":1" /><ref name=":2" />。 === G8とテロリズム === 2005年7月7日、[[スコットランド]]でのサミットの初日に50人以上が命を落とし数百人が負傷したと言われる[[ロンドン地下鉄]]およびロンドン2階建てバス[[ロンドン同時爆破事件|同時多発爆破事件]]が起こった。この攻撃は、直ちに「[[ヨーロッパ]]在住の[[アルカーイダ]]秘密グループによるジハード」によるものとされた。この攻撃は西側国家に対し、[[アフガニスタン]]および[[イラク]]での軍事活動をした場合攻撃を行うと[[イスラム原理主義]]者によって犯行の予告が先立ってされていた中で英国が軍事行動に参加したことと関係があるものとされた。G8サミットへ集まった国際的な注目は、おそらく最大限の象徴的な効果のためにテロリストによって増幅された。この打撃は、[[国際オリンピック委員会|IOC]]が[[ロンドン]]を[[2012年ロンドンオリンピック|2012年オリンピック大会]]の開催地に決定した告知をした直後でもあった。 == 議論 == [[ファイル:Leaders of the Group of Seven 20200416.jpg|thumb|200px|G7の[[ビデオ会議]]([[2020年]][[4月16日]]、[[内閣総理大臣官邸|総理官邸]]にて)]] 近年は[[インド]]や[[中華人民共和国|中国]]などの[[新興国]]の急速な経済発展の反面G7の経済力と影響力低下<ref>{{Cite web|和書|title=よくわかるG7 世界シェアと勢力|url=http://vdata.nikkei.com/newsgraphics/g7transition/|website=日本経済新聞社 〜ビジュアルデータ|accessdate=2020-06-20|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=G7の名目GDP(USドル)ランキング - 世界経済のネタ帳|url=https://ecodb.net/ranking/group/XB/imf_ngdpd.html|website=ecodb.net|accessdate=2020-06-20|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=イギリス経済、G7で唯一のマイナス成長見通し=IMF |url=https://www.bbc.com/japanese/64461923 |website=BBCニュース |date=2023-01-31 |access-date=2023-02-06 |language=ja}}</ref>に伴い、世界経済に関してはG7にEUとロシアおよび新興経済国11ヶ国を加えた[[G20]]の枠組みで議論される事が多くなっている<ref>{{Cite web|和書|title=開催迫るG20大阪サミット、G7とは何が違う? 坂東太郎のよく分かる時事用語(THE PAGE)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/dbebcd338c5140619324675922fe5abbbc33a786|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2020-06-20|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=形骸化が進むG7とG20機能強化の必要性 {{!}} 2019年 {{!}} 木内登英のGlobal Economy & Policy Insight {{!}} 野村総合研究所(NRI)|url=http://www.nri.com/jp/knowledge/blog/lst/2019/fis/kiuchi/0827|website=www.nri.com|accessdate=2020-06-20|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「G7サミット開幕 存在問われる会議に」(時論公論)|url=https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/406271.html|website=解説委員室ブログ|accessdate=2020-06-20|language=ja|last=日本放送協会}}</ref>。 [[2010年]][[2月5日]]から[[2月6日|6日]]まで2日間の日程でカナダの[[イカルイト]]で開幕したG7の財務相・中央銀行総裁会議では、世界経済の現状について意見交換する夕食会の後、膝詰めで話し合う「炉端対話」が行われ、仏財務相の[[クリスティーヌ・ラガルド]]からG7の今後のあり方が提案されたが結論は出ず、継続議論となった。日本からは財務大臣の[[菅直人]]と日銀総裁の[[白川方明]]が出席した<ref>{{Cite news | url = http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-13759420100207 | title = 情報BOX:イカルイトG7、景気刺激措置と出口戦略に関する要人発言 | work=トムソン・ロイター| date=2010-02-07 | accessdate=2010-12-24}}</ref>。 現在では、中国の海洋進出やロシアによるクリミア併合などを受けて、法の支配や普遍的価値を共有するG7の結束は高まっている<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS08H5T_Y5A600C1MM8000/ 中ロの領土変更を批判 G7結束、サミット閉幕] - 日本経済新聞、2015年6月8日版</ref>。だが、2017年、国益を重視する[[ドナルド・トランプ]]の米大統領就任により、[[2019年]]は初の首脳宣言見送りとなった。 2016年5月31日、外務大臣の[[岸田文雄]](当時)は、記者会見で「G20の台頭」に対して、「G7は特に、自由、民主主義、法の支配、人権と言った基本的な価値観を共有する主要国の枠組みだと思います。」「国際社会が経済も含めて不透明化する中にあって、この枠組の意義、存在感は益々高まっていくのではないか、このように認識しております。」(一部抜粋)と語っている<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20190825000514/https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/kaiken4_000356.html|title = 岸田外務大臣会見記録|website = www.mofa.go.jp|publisher = 外務省|date = |accessdate = 2020-02-19}}</ref>。 [[2020年]]6月、同年の開催国にあたる米大統領のドナルド・トランプは、G7の枠組みに[[オーストラリア]]、インド、ロシア、[[大韓民国|韓国]]を加えてG10またはG11に拡大する意向を示した。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの流行]]を背景に「対中包囲網」という意識もあると見られる。ただし、全G7諸国の承認が条件でありカナダとイギリスはロシアの参加に反対し、ロシアも中国排除の仕組みに意味がないと難色を示した<ref>{{Cite web|和書|title=欧州、トランプ氏の中国包囲網「わな」警戒-G7欠席は最終手段だが|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-06-14/QBSP1PT1UM0W01|website=Bloomberg.com|accessdate=2020-06-24|language=ja|publisher=|date=2020-06-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【主張】G7の延期 拡大より結束を優先せよ|url=https://www.sankei.com/article/20200602-DUI4ZRXTWJLZRDBUEMJ7BXGT3Y/|website=産経ニュース|date=2020-06-02|accessdate=2020-06-24|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トランプ氏、ロシアをG7に招待 英・カナダは…(写真=ロイター)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59857680S0A600C2000000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2020-06-24|language=ja|publisher=|date=2020/6/2}}</ref>。韓国に関しては中国政府系メディアから「韓国は大した力のない国」と批判<ref>{{Cite web|和書|title=中国メディア「韓国はたいしたことないのに、なぜG7参加? 」(WoW!Korea)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/f854f21edc6919b31a0657fbd8faec1728d347d3|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2020-06-28|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トランプ氏の韓国G7招待に中国が「その国は大した力もない。意味ない」と上から目線(西岡省二) - Yahoo!ニュース|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/nishiokashoji/20200608-00182374|website=Yahoo!ニュース 個人|accessdate=2020-06-28|language=ja}}</ref>され、日本政府からも[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]問題を理由に参加を拒否された<ref>{{Cite web|和書|title=日本、拡大G7の韓国参加に反対 対中、北朝鮮外交に懸念:東京新聞 TOKYO Web|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/38387|website=東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2020-06-28|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本が、拡大G7の韓国参加に反対|url=https://parstoday.com/ja/news/japan-i63175|website=Pars Today|date=2020-06-28|accessdate=2020-06-28|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本、拡大G7の韓国参加に反対 対中、北朝鮮外交に懸念 {{!}} 共同通信 ニュース|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/592101|website=沖縄タイムス+プラス|accessdate=2020-06-28|language=ja}}</ref>。また、EU外相の[[ジョセップ・ボレル]]は「トランプにG7の枠組みを変える権限など一切ない。」と痛烈に批判<ref>{{Cite web|和書|title=米はG7枠組み変える権限なし、EU外相が批判 - SankeiBiz(サンケイビズ)|url=https://www.sankeibiz.jp/macro/amp/200603/mcb2006031108012-a.htm|website=www.sankeibiz.jp|accessdate=2020-07-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トランプ氏にG7の枠組みを変える権限はない、EU外相|url=https://www.afpbb.com/articles/amp/3286317|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-07-06}}</ref>している。7月27日には、ドイツもG7の拡大を批判した<ref>{{Cite web|和書|title=日本に続きドイツも、韓国など含めるG7拡大に反対=韓国ネット落胆「外交力はゼロ」|ニフティニュース|url=https://news.nifty.com/article/world/china/12181-790753/|website=ニフティニュース|accessdate=2020-08-04}}</ref>。2021年、日本政府はG7の拡大に反対すると正式に表明した<ref>{{Cite web|和書|title=日本政府、G7の枠広げる英国の提案に反対-外交公電で懸念示す|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2021-01-27/QNLCXLT0AFBC01|website=Bloomberg.com|accessdate=2021-08-17|language=ja}}</ref>。 2022年は、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵略]]への対応を目的とし、[[ウクライナ]]への支援とロシアに対する経済制裁の議論が活発化した<ref>{{Cite web|和書|title=G7首脳 オンライン会合 ウクライナに防空システム供与へ調整 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221213/k10013921041000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2023-02-06 |language=ja}}</ref>。 == 先進国、主要国首脳会議の一覧 == 以前は、サミット参加7か国の間でフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ(旧西ドイツ)、日本、イタリア、カナダの順で毎年持ち回り開催されてきた。ロシアが参加するようになってからはイギリスの次にロシアが入り、8か国持ち回りになった。前半3か国が[[国際連合安全保障理事会常任理事国|国際連合安全保障理事会の常任理事国]]であり、後半4か国はそうではない。 1990年代までは開催国の首都などの大都市での開催が多かったが、1990年代末になると[[反グローバリゼーション|反グローバリズム]]、[[アルテルモンディアリスム]]団体の抵抗運動による[[デモ活動]]が頻発。特に2001年のジェノヴァでは大規模なデモに見舞われたことから、以降、[[警備]]のしやすい地方都市、保養地での開催が多くなっている。 {| class="sortable wikitable" style="font-size:small" !class="unsortable"|回 !style="width:9em"|年月日 !style="width:8em"|ホスト国 !style="width:9em"|開催地 !class="unsortable"|備考 |- ![[第1回先進国首脳会議|1]] |style="white-space:nowrap" |1975年11月15日 - 17日 |{{Flag|FRA}} |[[ランブイエ]] |カナダ・ロシア(当時は[[ソビエト連邦]])を除く6か国(ヨーロッパの[[西側諸国]]4国、アメリカ、日本)で開催。 |- ![[第2回先進国首脳会議|2]] |1976年6月27日・28日 |style="white-space:nowrap" |{{Flag|USA}} |[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]] |カナダが参加し「G7」形成。 |- ![[第3回先進国首脳会議|3]] |1977年5月7日・8日 |{{Flag|UK}} |[[ロンドン]] | |- ![[第4回先進国首脳会議|4]] |1978年7月16日・17日 |{{Flag|BRD}} |[[ボン]] | |- ![[第5回先進国首脳会議|5]] |1979年6月28日・29日 |{{Flag|JPN1947}} |[[東京都区部|東京]] | |- ![[第6回先進国首脳会議|6]] |1980年6月22日・23日 |{{Flag|ITA1946}} |[[ヴェネツィア]] |日本は[[大平正芳]]首相が[[衆参同日選挙]]中に急死したため、[[大来佐武郎]][[外務大臣 (日本)|外相]]が代理出席。 |- ![[第7回先進国首脳会議|7]] |1981年7月20日・21日 |{{Flag|CAN}} |[[オタワ]] | |- ![[第8回先進国首脳会議|8]] |1982年6月4日 - 6日 |{{Flagu|FRA1976}} |[[ヴェルサイユ]] | |- ![[第9回先進国首脳会議|9]] |1983年5月28日 - 30日 |{{Flagu|USA}} |[[ウィリアムズバーグ (バージニア州)|ウィリアムズバーグ]] | |- ![[第10回先進国首脳会議|10]] |1984年6月7日 - 9日 |{{Flagu|UK}} |ロンドン | |- ![[第11回先進国首脳会議|11]] |1985年5月2日 - 4日 |{{Flagu|BRD}} |ボン | |- ![[第12回先進国首脳会議|12]] |1986年5月4日 - 6日 |{{Flagu|JPN1947}} |東京 | |- ![[第13回先進国首脳会議|13]] |1987年6月8日 - 10日 |{{Flagu|ITA1946}} |ヴェネツィア | |- ![[第14回先進国首脳会議|14]] |1988年6月19日 - 21日 |{{Flagu|CAN}} |[[トロント]] | |- ![[第15回先進国首脳会議|15]] |1989年7月14日 - 16日 |{{Flagu|FRA1976}} |[[ラ・デファンス]] |「[[グランダルシュ|アルシュ]]・サミット」と呼ばれる。[[フランス革命]]200年祭([[パリ祭]])に合わせて開催。 |- ![[第16回先進国首脳会議|16]] |1990年7月9日 - 11日 |{{Flagu|USA}} |[[ヒューストン]] | |- ![[:en:17th G7 summit|17]] |1991年7月15日 - 17日 |{{Flagu|UK}} |ロンドン | |- !18 |1992年7月6日 - 8日 |{{Flag|GER}} |[[ミュンヘン]] | |- ![[第19回先進国首脳会議|19]] |1993年7月7日 - 9日 |{{Flagu|JPN1947}} |東京 | |- !20 |1994年7月8日 - 10日 |{{Flagu|ITA1946}} |[[ナポリ]] | |- !21 |1995年6月15日 - 17日 |{{Flagu|CAN}} |[[ハリファックス]] | |- ! - |1996年4月19日・20日 |{{Flag|RUS}} |[[モスクワ]] |核の安全のための特別サミット。※非公式 |- !22 |1996年6月27日 - 29日 |{{Flagu|FRA1976}} |[[リヨン]] | |- !23 |1997年6月20日 - 22日 |{{Flagu|USA}} |[[デンバー]] | |- !24 |1998年5月15日 - 17日 |{{Flagu|UK}} |[[バーミンガム]] |初のG8公式サミットかつ、英国初の地方開催サミット。先進国とは言い難い状態だったロシアが加わったため「先進国首脳会議」から「主要国首脳会議」に改称 |- ![[第25回主要国首脳会議|25]] |1999年6月18日 - 20日 |{{Flagu|GER}} |[[ケルン]] | |- ![[第26回主要国首脳会議|26]] |2000年7月21日 - 23日 |{{Flagu|JPN}} |[[名護市]] |通称「九州・沖縄サミット」。日本初の地方開催サミット |- ![[第27回主要国首脳会議|27]] |2001年7月20日 - 22日 |{{Flagu|ITA1946}} |[[ジェノヴァ]] | |- ![[第28回主要国首脳会議|28]] |2002年6月26日・27日 |{{Flagu|CAN}} |[[カナナスキス]] | |- ![[第29回主要国首脳会議|29]] |2003年6月2日・3日 |{{Flagu|FRA1976}} |[[エヴィアン=レ=バン|エビアン]] | |- ![[第30回主要国首脳会議|30]] |2004年6月8日 - 10日 |{{Flagu|USA}} |[[シーアイランド]] | |- ![[第31回主要国首脳会議|31]] |2005年7月6日 - 8日 |{{Flagu|UK}} |[[グレンイーグルズ]] |[[ロンドン同時爆破事件]]が起こり、予定が大幅変更に。 |- ![[第32回主要国首脳会議|32]] |2006年7月15日 - 17日 |{{Flagu|RUS}} |[[サンクトペテルブルク]] |ロシアで初開催。 |- ![[第33回主要国首脳会議|33]] |2007年6月6日 - 8日 |{{Flagu|GER}} |[[ハイリゲンダム]] | |- ![[第34回主要国首脳会議|34]] |2008年7月7日 - 9日 |{{Flagu|JPN}} |[[洞爺湖町]] |通称「北海道・洞爺湖サミット」 |- ![[第35回主要国首脳会議|35]] |2009年7月8日 - 10日 |{{Flagu|ITA}} |[[ラクイラ]] |2009年4月6日の[[ラクイラ地震]]で被災したため、国際的な被災地支援を狙い、開催地を[[ラ・マッダレーナ]]から急遽ラクイラに変更。 |- ![[第36回主要国首脳会議|36]] |2010年6月25日 - 27日 |{{Flagu|CAN}} |[[ハンツビル (オンタリオ州)|ハンツビル]] |G8に続き、[[G20]](20か国・地域首脳会議)も同地で開催された。ハンツビルのある地域にちなみ「[[マスコーカ地域|ムスコカ]]サミット」とも呼ばれる。 |- ![[第37回主要国首脳会議|37]] |2011年5月26日・27日 |{{Flagu|FRA1976}} |[[ドーヴィル]] | |- ![[第38回主要国首脳会議|38]] |2012年5月18日・19日 |{{Flagu|USA}} |[[キャンプデービッド]] | |- ![[第39回主要国首脳会議|39]] |2013年6月17日・18日 |{{Flagu|UK}} |[[アーン湖|ロック・アーン]] | |- ! - |2014年3月24日 |{{Flag|NED}} |[[デン・ハーグ]] |[[核セキュリティ・サミット]]開催と同時にクリミアのロシア編入に関しての緊急開催。ロシアの参加資格停止が決定。 |- ![[第40回先進国首脳会議|40]] |2014年6月4日・5日 |{{Flag|BEL}} |[[ブリュッセル]] |ロシア・[[ソチ]]で開催予定であったが、ロシアが参加資格停止となったので代替地で開催。G8からG7に戻った最初の公式サミット。 |- ![[第41回先進国首脳会議|41]] |2015年6月7日・8日 |{{Flagu|GER}} |{{仮リンク|シュロス・エルマウ|en|Schloss Elmau|label=エルマウ}} | |- ![[第42回先進国首脳会議|42]] |2016年5月26日・27日 |{{Flagu|JPN}} |[[志摩市]] |通称「伊勢志摩サミット」 |- ![[第43回先進国首脳会議|43]] |2017年5月26日・27日 |{{Flagu|ITA}} |[[タオルミーナ]] | |- ![[第44回先進国首脳会議|44]] |2018年6月8日・9日 |{{Flagu|CAN}} |{{仮リンク|シャルルボワ|en|Charlevoix|label=シャルルボワ}} |&nbsp; |- ![[第45回先進国首脳会議|45]] |2019年8月24日 - 26日 |{{Flagu|FRA1976}} |[[ビアリッツ]] |&nbsp; |- ![[第46回先進国首脳会議|46]] |2020年6月10日 - 12日(中止)<ref>[https://parstoday.com/ja/news/world-i57265 米議会、ロシアのG7復帰に反対] ParsToday2019年12月4日</ref> |{{Flagu|USA}} |[[キャンプデービッド]] |6月に行われるはずだったが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの世界的大流行]]のため延期となった<ref>[https://jp.reuters.com/article/health-coronavirus-g7-idJPKBN216476 トランプ米大統領、6月のG7首脳会議をテレビ会議で実施へ] ロイター2020年3月20日</ref>。その後、ワシントン近郊での開催を検討<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20200604034825/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/200521/mcb2005211035025-n1.htm|title=トランプ氏、G7サミットの通常開催検討 「正常化の象徴に」|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2020-05-21|accessdate=2020-05-27}}</ref>されたが実現出来ず、11月、アメリカの政権交代(ドナルド・トランプ→ジョー・バイデン)が確実となり、また新型コロナウイルスの蔓延も収まらず結局開催されなかった。これは1975年に「G6」として開催されて以来初の事態<ref>[https://web.archive.org/web/20201229080227/https://this.kiji.is/716562054834634752 G7サミット、通常開催せず 75年以来初、協調発信逃す] 共同通信2020年12月29日</ref>。 |- ![[第47回先進国首脳会議|47]] |2021年6月11日 - 13日<ref name="G72021">{{Cite web|url=https://www.gov.uk/government/news/uk-to-host-g7-summit-in-cornwall|title=UK to host G7 Summit in Cornwall|publisher=Prime Minister's Office, 10 Downing Street |accessdate=2021-01-25|date=2021-01-23}}</ref> |{{Flagu|GBR}} |[[コーンウォール]]・[[カービス湾]] |&nbsp; |- ! - |2022年3月24日 |{{Flagu|BEL}} |ブリュッセル |[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]に関しての緊急開催。 |- ![[第48回先進国首脳会議|48]] |2022年6月26日 - 28日 |{{Flagu|GER}} |エルマウ | |- ![[第49回先進国首脳会議|49]] |2023年5月19日 - 21日 |{{Flagu|JPN}} |[[広島市]] |通称「広島サミット」 |- !50 |''2024年'' |{{Flagu|ITA}} |[[プッリャ州]] | |} == 出席者 == === G7(G8)リーダー === [[ファイル:Blair G8 July7th05.jpg|thumb|300px|2005年のグレンイーグルズサミット。[[ロンドン同時爆破事件]]に対する声明を読み上げるイギリスのトニー・ブレア首相を囲む首脳ら。左から[[ブラジル連邦共和国大統領|ブラジル大統領]]、[[カナダ首相]]、[[連邦首相 (ドイツ)|ドイツ首相]]、[[欧州委員会委員長]]、[[中華人民共和国主席|中国国家主席]]、[[国際連合事務総長|国連事務総長]]、[[アメリカ合衆国大統領]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]]、[[フランスの大統領|フランス大統領]]、[[イタリアの首相|イタリア首相]]、[[インドの歴代首相|インド首相]]、[[南アフリカの大統領|南アフリカ大統領]]、[[ロシア連邦大統領]]、[[内閣総理大臣|日本内閣総理大臣]]、[[メキシコの大統領|メキシコ大統領]]、[[イギリス]]外相。このメンバーでの会合がサミットにおける経済分野以外での最大の拡大会合となる。イギリスは欧州連合理事会議長国の任期とバッティングしていたため、外相の[[ジャック・ストロー]]が欧州理事会代表として出席していた。]] 第1回はフランス、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本、イタリアの6か国首脳によるG6、第2回から第23回までは6か国にカナダを加えたG7<ref group="注釈">[[:en:17th G7 summit|1991年の第17回ロンドンサミット]]には[[ソビエト連邦]]の[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[ソビエト連邦大統領|大統領]]がゲスト参加した。</ref>、第24回から第39回までは7か国にロシアを加えたG8。西ドイツは1990年に[[ドイツ再統一]]が起こったため、第17回からは統一ドイツとして出席している。 1998年から2013年まで、G8は以下の8名で構成された。 * [[共和国大統領 (フランス)|フランス共和国大統領]] * [[アメリカ合衆国大統領]] * [[イギリスの首相|グレートブリテン及び北アイルランド連合王国首相]]兼[[第一大蔵卿]]兼[[国家公務員担当大臣]] * [[連邦首相 (ドイツ)|ドイツ連邦共和国連邦首相]] * [[内閣総理大臣|日本国内閣総理大臣]] * [[イタリアの首相|イタリア共和国閣僚評議会議長]] * [[カナダ首相]] * [[ロシア連邦大統領]](2014年参加資格停止) 2014年のクリミア侵攻によってロシア大統領が参加資格停止となったので、それ以降はG7に戻って今日に至っている。 なお第6回のみ日本からは外務大臣[[大来佐武郎]]が出席した。サミット直前に内閣総理大臣[[大平正芳]]が急死し、大平の後継総理は[[第36回衆議院議員総選挙]]、[[第12回参議院議員通常選挙]]の[[衆参同日選挙]]が終了するまで決定されなかったためである。 ==== 現在のG7首脳 ==== <gallery class="center" widths="145"> ファイル:Emmanuel Macron, en juin 2021.jpg|{{flagicon|France}} '''[[フランス]]''' <br />[[エマニュエル・マクロン]]([[共和国大統領 (フランス)|大統領]]) ファイル:Joe Biden presidential portrait (cropped).jpg|{{flagicon|USA}} '''[[アメリカ合衆国|アメリカ]]''' <br />[[ジョー・バイデン]]([[アメリカ合衆国大統領|大統領]]) ファイル:Rishi Sunak's first speech as Prime Minister (crop).jpg|{{flagicon|United Kingdom}} '''[[イギリス]]''' <br />[[リシ・スナク]]([[イギリスの首相|首相]]) ファイル:Olaf Scholz In March 2022.jpg|{{flagicon|Germany}} '''[[ドイツ]]''' <br />[[オラフ・ショルツ]]([[連邦首相 (ドイツ)|首相]]) ファイル:Fumio Kishida 20211004 (cropped).jpg|{{flagicon|Japan}} '''[[日本]]''' <br />[[岸田文雄]]([[内閣総理大臣]]) ファイル:Giorgia Meloni Official 2022 (cropped).jpg|{{flagicon|Italy}} '''[[イタリア]]''' <br />[[ジョルジャ・メローニ]]([[イタリアの首相|首相]]) ファイル:Trudeau visit White House for USMCA (cropped).jpg|{{flagicon|Canada}} '''[[カナダ]]''' <br />[[ジャスティン・トルドー]]([[カナダ首相|首相]]) ファイル:Charles Michel cropped.PNG|{{flagicon|European Union}} '''[[欧州連合]]''' <br />[[シャルル・ミシェル]]([[欧州理事会議長|大統領]]) ファイル:Ursula von der Leyen (49468709252).jpg|{{flagicon|European Union}} '''[[欧州連合]]''' <br />[[ウルズラ・フォン・デア・ライエン]]([[欧州委員会委員長|欧州委員長]]) </gallery> ==== 歴代出席者の一覧 ==== '''太字'''は議長。 <div style="height:auto; overflow: auto; text-align: left"> {| class="wikitable" style="font-size:small" !回 !開催年 !{{Flagicon|FRA}} 仏大統領 !{{Flagicon|USA}} 米大統領 !{{Nowrap|{{Flagicon|UK}} 英首相}} !{{Nowrap|{{Flagicon|GER}} 独首相}} !{{Nowrap|{{Flagicon|JPN}} 日首相}} !{{Flagicon|ITA}} 伊首相 !{{Nowrap|{{Flagicon|CAN}} 加首相}} !{{Flagicon|RUS}} 露大統領 |- !1 |style="white-space:nowrap"|1975年 |style="white-space:nowrap"|'''[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン|ジスカールデスタン]]''' |[[ジェラルド・R・フォード|フォード]] |[[ハロルド・ウィルソン|ウィルソン]] |[[ヘルムート・シュミット|シュミット]] |[[三木武夫|三木]] |[[アルド・モーロ|モロ]] |{{Nowiki|-}} |{{Nowiki|-}} |- !2 |1976年 |ジスカールデスタン |'''フォード''' |[[ジェームズ・キャラハン|キャラハン]] |シュミット |三木 |モロ |[[ピエール・トルドー|P・トルドー]] |{{Nowiki|-}} |- !3 |1977年 |ジスカールデスタン |[[ジミー・カーター|カーター]] |'''キャラハン''' |シュミット |[[福田赳夫|福田<small>赳</small>]] |style="white-space:nowrap"|[[ジュリオ・アンドレオッティ|アンドレオッティ]] |P・トルドー |{{Nowiki|-}} |- !4 |1978年 |ジスカールデスタン |カーター |キャラハン |'''シュミット''' |福田<small>赳</small> |style="white-space:nowrap"|アンドレオッティ |P・トルドー |{{Nowiki|-}} |- !5 |1979年 |ジスカールデスタン |カーター |[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]] |シュミット |'''[[大平正芳|大平]]''' |アンドレオッティ |[[ジョー・クラーク|クラーク]] |{{Nowiki|-}} |- !6 |1980年 |ジスカールデスタン |カーター |サッチャー |シュミット |style="white-space:nowrap"|[[大来佐武郎|大来]](外相) |'''[[フランチェスコ・コッシガ|コシガ]]''' |P・トルドー |{{Nowiki|-}} |- !7 |1981年 |[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]] |[[ロナルド・レーガン|レーガン]] |サッチャー |シュミット |[[鈴木善幸|鈴木]] |[[ジョヴァンニ・スパドリーニ|スパドリーニ]] |'''P・トルドー''' |{{Nowiki|-}} |- !8 |1982年 |'''ミッテラン''' |レーガン |サッチャー |シュミット |鈴木 |スパドリーニ |P・トルドー |{{Nowiki|-}} |- !9 |1983年 |ミッテラン |'''レーガン''' |サッチャー |[[ヘルムート・コール|コール]] |[[中曽根康弘|中曽根]] |[[アミントレ・ファンファーニ|ファンファーニ]] |P・トルドー |{{Nowiki|-}} |- !10 |1984年 |ミッテラン |レーガン |'''サッチャー''' |コール |中曽根 |[[ベッティーノ・クラクシ|クラクシ]] |P・トルドー |{{Nowiki|-}} |- !11 |1985年 |ミッテラン |レーガン |サッチャー |'''コール''' |中曽根 |クラクシ |[[ブライアン・マルルーニー|マルルーニー]] |{{Nowiki|-}} |- !12 |1986年 |ミッテラン |レーガン |サッチャー |コール |'''中曽根''' |クラクシ |マルルーニー |{{Nowiki|-}} |- !13 |1987年 |ミッテラン |レーガン |サッチャー |コール |中曽根 |'''ファンファーニ''' |マルルーニー |{{Nowiki|-}} |- !14 |1988年 |ミッテラン |レーガン |サッチャー |コール |[[竹下登|竹下]] |[[チリアーコ・デ・ミータ|デミータ]] |'''マルルーニー''' |{{Nowiki|-}} |- !15 |1989年 |'''ミッテラン''' |[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ<small>(41代)</small>]] |サッチャー |コール |[[宇野宗佑|宇野]] |デミータ |style="white-space:nowrap"|マルルーニー |{{Nowiki|-}} |- !16 |1990年 |ミッテラン |style="white-space:nowrap"|'''ブッシュ<small>(41代)</small>''' |サッチャー |コール |[[海部俊樹|海部]] |アンドレオッティ |マルルーニー |{{Nowiki|-}} |- !17 |1991年 |ミッテラン |ブッシュ<small>(41代)</small> |'''[[ジョン・メージャー|メージャー]]''' |コール |海部 |アンドレオッティ |マルルーニー |[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]([[ソ連]]<br/>[[大統領]]・ゲスト参加) |- !18 |1992年 |ミッテラン |ブッシュ<small>(41代)</small> |メージャー |'''コール''' |[[宮澤喜一|宮澤]] |[[ジュリアーノ・アマート|アマート]] |マルルーニー |{{Nowiki|-}} |- !19 |1993年 |ミッテラン |[[ビル・クリントン|クリントン]] |メージャー |コール |'''宮澤''' |[[カルロ・アツェリオ・チャンピ|チャンピ]] |[[キム・キャンベル|キャンベル]] |{{Nowiki|-}} |- !20 |1994年 |ミッテラン |クリントン |メージャー |コール |[[村山富市|村山]] |'''[[シルヴィオ・ベルルスコーニ|ベルルスコーニ]]''' |[[ジャン・クレティエン|クレティエン]] |{{Nowiki|-}} |- !21 |1995年 |[[ジャック・シラク|シラク]] |クリントン |メージャー |コール |村山 |[[ランベルト・ディーニ|ディーニ]] |'''クレティエン''' |{{Nowiki|-}} |- !22 |1996年 |'''シラク''' |クリントン |メージャー |コール |[[橋本龍太郎|橋本]] |[[ロマーノ・プローディ|プローディ]] |クレティエン |{{Nowiki|-}} |- !23 |1997年 |シラク |'''クリントン''' |[[トニー・ブレア|ブレア]] |コール |橋本 |プローディ |クレティエン |{{Nowiki|-}} |- !24 |1998年 |シラク |クリントン |'''ブレア''' |コール |橋本 |プローディ |クレティエン |[[ボリス・エリツィン|エリツィン]] |- !25 |1999年 |シラク |クリントン |ブレア |'''[[ゲルハルト・シュレーダー|シュレーダー]]''' |[[小渕恵三|小渕]] |[[マッシモ・ダレマ|ダレマ]] |クレティエン |エリツィン |- !26 |2000年 |シラク |クリントン |ブレア |シュレーダー |'''[[森喜朗|森]]''' |アマート |クレティエン |[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]] |- !27 |2001年 |シラク |[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ<small>(43代)</small>]] |ブレア |シュレーダー |[[小泉純一郎|小泉]] |'''ベルルスコーニ''' |クレティエン |プーチン |- !28 |2002年 |シラク |ブッシュ<small>(43代)</small> |ブレア |シュレーダー |小泉 |ベルルスコーニ |'''クレティエン''' |プーチン |- !29 |2003年 |'''シラク''' |ブッシュ<small>(43代)</small> |ブレア |シュレーダー |小泉 |ベルルスコーニ |クレティエン |プーチン |- !30 |2004年 |シラク |'''ブッシュ<small>(43代)</small>''' |ブレア |シュレーダー |小泉 |ベルルスコーニ |[[ポール・マーティン|マーティン]] |プーチン |- !31 |2005年 |シラク |ブッシュ<small>(43代)</small> |'''ブレア''' |シュレーダー |小泉 |ベルルスコーニ |マーティン |プーチン |- !32 |2006年 |シラク |ブッシュ<small>(43代)</small> |ブレア |[[アンゲラ・メルケル|メルケル]] |小泉 |プローディ |[[スティーヴン・ハーパー|ハーパー]] |'''プーチン''' |- !33 |2007年 |[[ニコラ・サルコジ|サルコジ]] |ブッシュ<small>(43代)</small> |ブレア |'''メルケル''' |[[安倍晋三|安倍]] |プローディ |ハーパー |プーチン |- !34 |2008年 |サルコジ |ブッシュ<small>(43代)</small> |[[ゴードン・ブラウン|ブラウン]] |メルケル |'''[[福田康夫|福田<small>康</small>]]''' |ベルルスコーニ |ハーパー |[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]] |- !35 |2009年 |サルコジ |[[バラク・オバマ|オバマ]] |ブラウン |メルケル |[[麻生太郎|麻生]] |'''ベルルスコーニ''' |ハーパー |メドヴェージェフ |- !36 |2010年 |サルコジ |オバマ |[[デーヴィッド・キャメロン|キャメロン]] |メルケル |[[菅直人|菅<small>直</small>]] |ベルルスコーニ |'''ハーパー''' |メドヴェージェフ |- !37 |2011年 |'''サルコジ''' |オバマ |キャメロン |メルケル |菅<small>直</small> |ベルルスコーニ |ハーパー |メドヴェージェフ |- !38 |2012年 |[[フランソワ・オランド|オランド]] |'''オバマ''' |キャメロン |メルケル |[[野田佳彦|野田]] |[[マリオ・モンティ|モンティ]] |ハーパー |style="white-space:nowrap"|メドヴェージェフ<br/>(首相) |- !39 |2013年 |オランド |オバマ |'''キャメロン''' |メルケル |安倍 |[[エンリコ・レッタ|レッタ]] |ハーパー |プーチン |- !40 |2014年 |オランド |オバマ |キャメロン |メルケル |安倍 |[[マッテオ・レンツィ|レンツィ]] |ハーパー |(参加資格停止) |- !41 |2015年 |オランド |オバマ |キャメロン |'''メルケル''' |安倍 |レンツィ |ハーパー |(参加資格停止) |- !42 |2016年 |オランド |オバマ |キャメロン |メルケル |'''安倍''' |レンツィ |[[ジャスティン・トルドー|J・トルドー]] |(参加資格停止) |- !43 |2017年 |[[エマニュエル・マクロン|マクロン]] |[[ドナルド・トランプ|トランプ]] |[[テリーザ・メイ|メイ]] |メルケル |安倍 |'''[[パオロ・ジェンティローニ|ジェンティローニ]]''' |J・トルドー |(参加資格停止) |- !44 |2018年 |マクロン |トランプ |メイ |メルケル |安倍 |[[ジュゼッペ・コンテ|コンテ]] |'''J・トルドー''' |(参加資格停止) |- !45 |2019年 |'''マクロン''' |トランプ |[[ボリス・ジョンソン|ジョンソン]] |メルケル |安倍 |コンテ |J・トルドー |(参加資格停止) |- !46 |2020年 |マクロン |'''トランプ''' |ジョンソン |メルケル |安倍 |コンテ |J・トルドー |(参加資格停止) |- !47 |2021年 |マクロン |[[ジョー・バイデン|バイデン]] |'''ジョンソン''' |メルケル |[[菅義偉|菅<small>義</small>]] |[[マリオ・ドラギ|ドラギ]] |J・トルドー |(参加資格停止) |- !48 |2022年 |マクロン |バイデン |ジョンソン |'''[[オーラフ・ショルツ|ショルツ]]''' |[[岸田文雄|岸田]] |ドラギ |J・トルドー |(参加資格停止) |- !49 |2023年 |マクロン |バイデン |[[リシ・スナク|スナク]] |ショルツ |'''岸田''' |[[ジョルジャ・メローニ|メローニ]] |J・トルドー |(参加資格停止) |} </div> ==== 記録 ==== * 最多出席回数 - 16回 [[ヘルムート・コール]]([[西ドイツ]]→[[ドイツ]])、[[アンゲラ・メルケル]](ドイツ) : コールは1983年から1998年にかけて出席、メルケルは2006年から2021年にかけて出席。 * 最多主催回数 - 3回 [[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]([[イタリア]]) : イタリアで開催された1994年、2001年、2009年サミットはいずれも議長を務めた。 * 連続年同一出席者 - 3年 : 2001年から2003年にかけて。2005年までの5年間を見ると、カナダ首相([[ジャン・クレティエン|クレティエン]]→[[ポール・マーティン|マーティン]])を除く全メンバーが不動であった。 === その他 === 近年では、G8メンバー以外にも様々な政治のリーダーが会合に参加している。どの[[国家]]を招待するかについては、基本的にはそのときの議長国の判断による。 例えば[[中国共産党中央委員会総書記|中国共産党総書記]]([[中華人民共和国主席|中国国家主席]])、[[大統領 (大韓民国)|大韓民国大統領]]、[[オーストラリア首相]]、[[インドの歴代首相|インド首相]]、[[ブラジル連邦共和国大統領|ブラジル大統領]]、[[メキシコの大統領|メキシコ大統領]]、[[南アフリカの大統領|南アフリカ大統領]]などが招待されたことがある。しかし議長国の一存次第なので彼らは必ず呼ばれるとは限らない。 このうち韓国大統領、インド首相、オーストラリア首相についてはサミットのメンバーに加えるべきという意見がある。2020年にはこの年のサミット(中止となった)の議長国だったアメリカ大統領ドナルド・トランプが韓国、オーストラリア、インド、ロシアをメンバーに加える構想を打ち出したが、ドイツ、イギリス、カナダ、日本が反対した<ref>[https://jp.yna.co.kr/view/AJP20200727004000882 ドイツがG7の拡大に反対「現状が合理的」 韓国「合意必要」] 聯合ニュース2020年7月27日</ref>。2021年のコーンウォールサミットの議長国のイギリス首相ボリス・ジョンソンも韓国、オーストラリア、インドの首脳を同年のサミットに招待するとともに、この3国をメンバーに加えることを提案したが、日本が反対した<ref>[https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2021-01-27/QNLCXLT0AFBC01 日本政府、G7の枠広げる英国の提案に反対-外交公電で懸念示す] Bloomberg 2021年1月27日</ref>。 また国際機関の長として、[[国際連合事務総長]]や[[欧州連合]]の[[欧州理事会議長]]および[[欧州委員会委員長]]が出席する。このうち欧州理事会議長と欧州委員会委員長はEUを代表してG8の本会合にも参加する。これ以外に経済分野では[[国際通貨基金|国際通貨基金専務理事]]が参加する。 === 拡大会合参加国 === [[2010年]][[6月25日]]の拡大会合が行われた。その参加国は次の通りである。 * '''アフリカ''' - アルジェリア・エチオピア・マラウイ・ナイジェリア・セネガル・南アフリカ共和国 * '''中南米''' - コロンビア・ハイチ・ジャマイカ === シェルパ === 側近達が集まって予備会合を持つことがあるが、こちらは「シェルパ会議」の別名で呼ばれる。サミットが首脳の地位を山頂にたとえることが発端となったことになぞらえ、同行者の意味で随員はシェルパと呼ばれる。シェルパは3名で構成されることが決まっており、日本においては首席シェルパは経済担当[[外務審議官]]が務める。 {{also|首脳個人代表}} == 主要国首脳会議にまつわる事柄 == === 首脳の写真撮影の立ち位置 === サミットにおいて恒例となった写真撮影では首脳の立ち位置は毎回変化しているが、この立ち位置にはルールがある。 中央に開催国(議長国)の首脳を配し、国家元首(大統領)か否(首相)かと在任期間の長い順に議長に近い順に左右に並ぶ(平成年間の日本は首相の交代が多かったため端に位置することが多い。一方で、比較的在任期間の長かった中曽根康弘や小泉純一郎、安倍晋三は中央付近に並ぶこともある)<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO02825540W6A520C1I00000/| title = サミット集合写真、実はシンプルな立ち位置ルール| publisher = 日本経済新聞| date = 2016-05-26| accessdate = 2017-11-07}}</ref>。また、アメリカ合衆国で開催される場合ではこのルールはあまりこだわることはなく、議長であるアメリカ大統領との関係で立ち位置が決まることもあった。 === 転語 === 主要国首脳会議がサミットと呼ばれていることから、トップ同士の集まりのことを「サミット」と形容することがある(例:[[市町村サミット]]。首長会は普段は[[全国市長会]]と[[全国町村会]]に分かれている)。 == ギャラリー == <gallery> ファイル:G7 leaders 1977.jpg|[[第3回先進国首脳会議|ロンドンサミット]]([[1977年]]) ファイル:G7 leaders 1978.jpg|[[第4回先進国首脳会議|ボンサミット]]([[1978年]]) ファイル:G-7 Economic Summit Leaders in Tokyo.jpg|[[第5回先進国首脳会議|東京サミット]]([[1979年]]) ファイル:G-7 Economic Summit Leaders at Venice.jpg|[[第6回先進国首脳会議|ヴェネチアサミット]]([[1980年]]) ファイル:G-7 Economic Summit Leaders at the Chateau Montebello (cropped).jpg|[[第7回先進国首脳会議|オタワサミット]]([[1981年]]) ファイル:G-7 Economic Summit Leaders at Grand Trianon Palace.jpg|[[第8回先進国首脳会議|ヴェルサイユサミット]]([[1982年]]) ファイル:G-7 Summit 1983.jpg|[[第9回先進国首脳会議|ウィリアムズバーグサミット]]([[1983年]]) ファイル:G-7 Economic Summit Leaders at the Palais Schaumburg.jpg|[[第11回先進国首脳会議|ボンサミット]]([[1985年]]) ファイル:G-7 Economic Summit Leaders at the Imperial Palace Gardens.jpg|[[第12回先進国首脳会議|東京サミット]]([[1986年]]) ファイル:G-7 Economic Summit Leaders at the Giorgio Cini Foundation.jpg|[[第13回先進国首脳会議|ヴェネチアサミット]]([[1987年]]) ファイル:14th G7 summit.jpg|[[第14回先進国首脳会議|トロントサミット]]([[1988年]]) ファイル:15th G7 Summit member 19890714 (cropped).jpg|[[第15回先進国首脳会議|アルシュサミット]]([[1989年]]) ファイル:16th G7 summit member 19900709.jpg|[[第16回先進国首脳会議|ヒューストンサミット]]([[1990年]]) ファイル:17th G7 summit member 19910715.jpg|[[第17回先進国首脳会議|ロンドンサミット]]([[1991年]]) ファイル:18th G7 summit member 19920706.jpg|[[第18回先進国首脳会議|ミュンヘンサミット]]([[1992年]]) ファイル:19th G7 summit member 19930709.jpg|[[第19回先進国首脳会議|東京サミット]]([[1993年]]) ファイル:20th G7 summit member 19940709.jpg|[[第20回先進国首脳会議|ナポリサミット]]([[1994年]]) ファイル:21st G7 summit member 19950616.jpg|[[第21回先進国首脳会議|ハリファックスサミット]]([[1995年]]) ファイル:G8 Summit 1997 Family photo (cropped).jpg|[[第23回先進国首脳会議|デンバーサミット]]([[1997年]]) ファイル:25th G8 family pictures 1.jpg|[[第25回主要国首脳会議|ケルンサミット]]([[1999年]]) ファイル:G8 Summit 2000 family photo.jpg|[[第26回主要国首脳会議|九州・沖縄サミット]]([[2000年]]) ファイル:Vladimir Putin 22 July 2001-1.jpg|[[第27回主要国首脳会議|ジェノヴァサミット]]([[2001年]]) ファイル:20030602_G8_summit_2.jpg|[[第29回主要国首脳会議|エヴィアンサミット]]([[2003年]]) ファイル:20040609_G8_summit_5.jpg|[[第30回主要国首脳会議|シーアイランドサミット]]([[2004年]]) ファイル:Blair G8 July7th05.jpg|[[第31回主要国首脳会議|グレンイーグルズサミット]]([[2005年]]) ファイル:World_leaders_at_the_32nd_G8_Summit,_Strelna,_Russia_-_20060716.jpg|[[第32回主要国首脳会議|サンクトペテルブルクサミット]]([[2006年]]) ファイル:33rdG8Leaders.jpg|[[第33回主要国首脳会議|ハイリゲンダムサミット]]([[2007年]]) ファイル:34th G8 summit member 20080708.jpg|[[第34回主要国首脳会議|北海道洞爺湖サミット]]([[2008年]]) ファイル:G8 Summit - 8 July 2009-9.jpg|[[第35回主要国首脳会議|ラクイラサミット]]([[2009年]]) ファイル:0626canada6.jpg|[[第36回主要国首脳会議|ハンツビルサミット]]([[2010年]]) ファイル:G8 Deauville 2011.jpg|[[第37回主要国首脳会議|ドーヴィルサミット]]([[2011年]]) ファイル:19G8summit1.jpg|[[第38回主要国首脳会議|キャンプデービッドサミット]]([[2012年]]) ファイル:Ten leaders at G8 summit, 2013.jpg|[[第39回主要国首脳会議|ロックアーンサミット]]([[2013年]]) ファイル:P032414PS-0811 (13898074209).jpg|ロシアによるクリミア併合をめぐる[[オランダ]]・[[デン・ハーグ]]での緊急会合([[2014年]]) ファイル:20140605_Second_Day_of_the_Brussels_G7_Summit_3.jpg|[[第40回先進国首脳会議|ブリュッセルサミット]](2014年) ファイル:G7 Summit Leaders 2015 (cropped).jpg|[[第41回先進国首脳会議|エルマウサミット]]([[2015年]]) ファイル:G7 leaders at summit in Ise-Shima, Japan 5.26.16.jpg|[[第42回先進国首脳会議|伊勢志摩サミット]]([[2016年]]) ファイル:G7 Taormina family photo 2017-05-26.jpg|[[第43回先進国首脳会議|タオルミーナサミット]]([[2017年]]) ファイル:44th G7 Summit Group Photo.jpg|[[第44回先進国首脳会議|シャルルボワサミット]]([[2018年]]) ファイル:-G7Biarritz (48616362963).jpg|[[第45回先進国首脳会議|ビアリッツサミット]]([[2019年]]) ファイル:P20210611AS-0528 (51269443335).jpg | [[第47回先進国首脳会議|コーンウォールサミット]]([[2021年]]) ファイル:G7 leaders met at the sideline of March 2022 special NATO meeting (2).jpg|ロシアのウクライナ侵攻をめぐるベルギー・[[ブリュッセル]]での緊急会合([[2022年]]) ファイル:Group photo of the G7 members under the Alps at the Scholss Elmau summit.jpg| [[第48回先進国首脳会議|エルマウサミット]](2022年) ファイル:President Joe Biden toured the 1,400-year-old Itsukushima Shrine in Hiroshima with G7 leaders (01).jpg| [[第49回先進国首脳会議|広島サミット]](2023年) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連書籍 == *{{Cite book|和書|author=蔦信彦|title=首脳外交 先進国サミットの裏面史|publisher=文春新書|year=2000|page=|isbn= 9784166600830 |ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=高瀬淳一|authorlink=高瀬淳一|title=サミット 主要国首脳会議|publisher=芦書房|year=2010|page=|isbn=9784755611520 |ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=高瀬淳一|title=サミットがわかれば世界が読める|publisher=名古屋外国語大出版会|year=2018|page=|isbn= 9784908523014 |ref=harv}} == 関連項目 == {{Commonscat|G8}} *[[資本主義]] *[[八カ国連合軍]] * [[G3]] / [[G4]] / [[G5]] / [[G10]] / [[G15]] / [[G20]] / {{仮リンク|G24|en|Group of 24}} / [[G77]] *[[インターアクション・カウンシル]] *[[民主主義サミット]] *[[アメリカ帝国]] *[[西側諸国]] *[[BRICs]] *[[UKUSA協定|ファイブアイズ]] *[[世界経済フォーラム|ダボス会議]] *[[ビルダーバーグ会議]] *[[日米合同委員会]] *[[三極委員会]] == 外部リンク == * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/g7g8.html G7 / G8 | 外務省] * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/ 首脳会議・外相会議 | 外務省] * [http://www.g7.utoronto.ca/ G7 Information Centre] - [https://www.utoronto.ca/ University of TORONTO] ** [http://www.g8.utoronto.ca/evaluations/2023hiroshima/kirton-performance-230531.html#fntA Appendix A: G7 Summit Performance, 1975–2023] {{サミット}} {{G8の首脳}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しゆようこくしゆのうかいき}} [[Category:サミット|*]] [[category:資本主義]] [[Category:国際会議]] [[Category:国の分類 (経済システム別)]] [[Category:新冷戦]] [[Category:戦後日本の外交]] [[Category:アメリカ合衆国の国際関係 (1945年-1989年)]] [[Category:アメリカ合衆国の国際関係 (1990年-)]] [[Category:カナダの国際関係]] [[Category:ドイツの国際関係]] [[Category:フランスの国際関係]] [[Category:イギリスの国際関係]] [[Category:イタリアの国際関係]] [[Category:ロシア連邦の国際関係]]
2003-02-13T15:45:37Z
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仮面ライダーV3
『仮面ライダーV3』(かめんライダーブイスリー)は、1973年2月17日から1974年2月9日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全52話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品。 「仮面ライダーシリーズ」の第2作で、前作『仮面ライダー』の直接的な続編。テレビシリーズのほか、劇場版が「東映まんがまつり」の中で公開された。仮面ライダー1号・2号の後を継ぐライダー3号・V3と、ショッカーやゲルショッカーに続く第3の組織・デストロンの戦いを描く。前作の勢いを受け継ぎ、頂点を迎えていた変身ヒーローブームの大きな牽引役を果たした作品であり、主人公の強いキャラクター性とも相まって歴代シリーズ中でも知名度が高い。視聴率も平均で関東20.2パーセント、関西27パーセントを記録したほか、制作局である関西圏の毎日放送ではシリーズ最高視聴率である38パーセントを記録し、その記録はいまだにシリーズでは破られていない。 仮面ライダー1号・2号の活躍によって悪の組織ゲルショッカーは壊滅し、世界に平和が戻ったかに見えた。しかし、生きていたゲルショッカー首領は密かに新組織・デストロンを結成して再び世界征服に乗り出すと、目撃者を容赦なく抹殺していた。 1号こと本郷猛の大学の後輩風見志郎はある夜、デストロンの悪事を目撃したため、命を狙われるようになる。また、そのアジトを見つけた珠純子を助けたため、怪人・ハサミジャガーが風見家を襲撃し、両親と妹は志郎の目の前で殺害される。怒りに燃えて復讐を誓った志郎はそのための力を得ようと1号・2号に自分の改造を願うが、改造人間の悲哀を誰よりも知る彼らに拒否される。しかしその後、志郎はデストロンの罠に落ちた1号・2号を助けようとして瀕死の重傷を負う。1号・2号は彼の命を救うために改造手術を施し、第3の仮面ライダー「V3」として復活させる。こうして、V3とデストロンとの死闘の幕が切って落とされた。 仮面ライダーとその協力者たち。個別に項目の存在するキャラクターの詳細は各項目を参照。 ゲルショッカー壊滅後にショッカー・ゲルショッカーを支配していた首領が新たに結成させた秘密結社。ショッカー、ゲルショッカー以上の戦力と科学力で世界征服を企む。怪人は機械と動植物を融合させた機械合成怪人となり、幾度となくV3を苦しめた。後半はキバ一族・ツバサ軍団・ヨロイ軍団といった世界各地の部族と手を結び、V3と死闘を繰り広げた。各部族が操る怪人たちはショッカー怪人同様に動植物の怪人たちで構成されており、機械合成怪人とともにショッカーやゲルショッカーの怪人はもちろん、(第1話・第2話・第33話・第34話の客演状況から)仮面ライダー1号・2号でさえも苦戦させる能力を持つ。組織のマークはサソリをモチーフにしている。 最終決戦でプルトンロケットによる日本壊滅をたくらむもライダーマンの捨て身の行動で阻止され、さらに最終作戦であるD作戦もV3に阻止される。そして、デストロン本部を急襲したV3により首領は倒されて本部が大爆発を起こし、デストロンは壊滅した。 機械合成怪人とは、ゲルショッカーの合成怪人をさらに発展・改良させた怪人である。生物と道具・武器を掛け合わせた能力を持ち、そのパワーは生物同士を掛け合わせた能力を持つゲルショッカー怪人を大幅に上回っている。体の中に機械があるため、動きが鈍いのが弱点。第13話以降は幹部であるドクトルGの指揮のもと、活動する。 「キバ族」とも。キバ男爵が率いる怪人軍団。全員がキバを持っているのが特徴で機械合成怪人を凌ぐパワーを持ち、V3や1号・2号を苦しめた。ドーブー教を行動原理としており、祈祷や魔術によって怪人たちに力を与える。 「ツバサ族」「ツバサ軍団」とも。ツバサ大僧正が率いる怪人軍団。ほぼ全員が飛行能力を持っているのが特徴であり、空中戦に慣れていないV3を大いに苦しめた。チベットに伝わる密教「まんじ教」が行動原理。 ヨロイ元帥が率いる怪人軍団。「ヨロイ族」や「ヨロイ軍団」とも称される。強固な防御力とパワーを併せ持った怪人が多いのが特徴であり、その多くが鎧のように硬い皮膚を持っている。これまでのデストロン怪人を上回る戦闘力を持ち、V3やライダーマンを苦しめた。 デストロンの主戦力である一般兵士。白いサソリ模様の黒い全身タイツ服と、ドクロをイメージした白い模様の黒いマスクを着用する。他人への変身能力もある。 3.0の視力、100メートルを9.8秒の走力、6倍のジャンプ力など常人の5倍の体力を持ち、ゲルショッカー戦闘員以上の戦力を誇る。 ショッカー時代と同様、デストロンバックルには自爆機能が内蔵されている。キバ男爵配下の戦闘員は上腕部に2本のキバが交差したマークが入っており、トーテムポールへの変身も可能。ツバサ大僧正配下の戦闘員はこの装束の袖に長いフリンジを装着しており、空を飛べる。 マスクの白い縁取りの目の部分が尖っていないタイプの戦闘員もいる。左肩の部分のデザインが通常と異なる戦闘員も存在する。腰にはカッターナイフなどや毒矢、銃などの飛び武器を装着している場合がある。 用済みとなった戦闘員は処刑されたり、怪人などの実験台にされたりする。年齢を問わず能力の高い者はごく普通の男性が改造され、デストロンに拉致された男性が戦闘員に改造・脳改造されるなどして洗脳されている。改造の際には改造液を体内に注射して戦闘員化させるほか、洗脳して戦闘員化させることでデストロンに服従させる。『仮面ライダーV3カード』では、悪の細胞を培養して作り上げた人造人間と記述している。 ※参考文献:『仮面ライダー大図鑑(3)』(バンダイ・1991年)、『仮面ライダーV3大全』(双葉社・2001年) V3役は中屋敷鉄也が主に担当したが、第1話・第2話のみ前作から引き続き1号を演じた。 ライダーマン役はアクション以外の多くを変身前と同じく山口が演じ、アクションでは数名が担当した。 トランポリンは前作ではJACが担当したが、本作品以降は大野剣友会がトランポリンも担当することとなった。 『V3』制作当時の生田スタジオは多数の作品を手がけるようになり、監督陣は流動的であった。メイン監督の山田稔は第31話・第32話と第41話・第42話も担当する予定であったが、実際には第27話・第28話を最後に『イナズマン』へと移動した。奥中惇夫は第3話・第4話を担当したのみで『ロボット刑事』へ、前半のローテーションを担った田口勝彦は『どっこい大作』へとそれぞれ移動している。後半は『ロボット刑事』を終えた内田一作と折田至がメインを務めた。 第9話・第10話の脚本は、映画『不良番長』シリーズの監督である内藤誠とその助監督である佐伯俊道が共同執筆した。内藤は息子が仮面ライダーのファンであったことや、テレビドラマ『ゴールドアイ』で宮内洋がゲスト出演した回の監督を務めていたことなどから、プロデューサーの平山亨や阿部征司に執筆を申し出た。 第49話の脚本は助監督の長石多可男が担当した。このストーリーは、長石が他の助監督らと生田スタジオに泊まりこんだ際に酒の席で挙がった話が基になっている。 オープニングとエンディング同様、作・編曲はすべて菊池俊輔。「デストロン讃歌」、「V3のマーチ」、「V3アクション」、「仮面ライダー讃歌」の冒頭には効果音とセリフが入っている。ライダーマンのテーマ「ぼくのライダーマン」は本作品の劇中でも使用されたが、『仮面ライダーV3』のLPレコード(KKS-4076)はすでに発売されていたため、次作『仮面ライダーX』のLPに収録された。 仮面ライダー3号の登場は元々、「少年仮面ライダー隊の発足」や「ショッカーに代わる新組織登場」と併せ、前作の2年目後半の番組強化策として検討されていたものであり、当初は前作で1号・2号に協力していたFBI捜査官・滝和也がライダー3号となる予定だった。だが、少年仮面ライダー隊が好評を得たことから3号登場案は温存され、次番組の主人公として違う人物がライダー3号として登場することとなり、次番組の第2話を『仮面ライダー』の第100話として捉えて前作を締めくくることとなった。 新番組として立ち上げられた『仮面ライダーV3』は、1号・2号の能力を併せ持つ仮面ライダーV3と動植物に機械を加えたデストロン怪人の対決という構図により番組の強化を体現し、「26の秘密」を巡る縦軸のストーリー展開や前後編形式の導入など、ドラマ性の拡大による前作との差別化にも重点が置かれた。その一方、前作に登場していた立花藤兵衛や少年仮面ライダー隊を継続して登場させることにより、前作からの連続性も維持している。 プロデューサーの平山亨による企画案では『マスクライダー』『ライダー仮面』『ライダーマン』、その後の制作会議では『仮面ライダー3』『仮面ライダーX』などのタイトルが検討されていた。 競合番組の多い4月の改編期より前に新ヒーローを登場させて視聴者の支持を獲得したいという毎日放送の戦略により、改編期とは関係のない2月半ばに番組が開始されることとなった。 風見志郎を演じた宮内洋が後年にインタビューで語ったところによれば、撮影で使用した火薬の量は彼の要望もあって前作の3倍に及んだうえ、四国のとある島で使用した際には「爆発で島にヒビが入った」と観光協会から、神奈川県の海中で使用した際には「爆発のせいで魚がいなくなる」と漁業組合から、それぞれクレームがあった。そのため、スタッフは年中謝っていた。 各キャラクターの詳細などについては、登場人物の節や各登場人物の項目(仮面ライダーV3 (キャラクター)やライダーマンなど)を参照。 いずれも東映ビデオより発売。 本作品が制作されていた時点で、原作者石森章太郎による漫画版『仮面ライダー』の連載はすでに終了しており、原作者自身による本作品のコミカライズ作品は存在しない。他方で、放送当時から石森プロ所属の漫画家を中心に、多くの作家によるコミカライズは行われている。 発売元は東映ビデオとバンダイナムコゲームス(旧バンダイレーベル、旧バンプレストレーベル)による。
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『仮面ライダーV3』(かめんライダーブイスリー)は、1973年2月17日から1974年2月9日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全52話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品。
{{半保護}} {{Otheruseslist|特撮ヒーロー番組「仮面ライダーシリーズ」の第2作|同作品の主人公が変身する同名のヒーロー|仮面ライダーV3 (キャラクター)|同名のPlayStation用ゲーム作品|仮面ライダー (プレイステーション版)}} {{Pathnav|仮面ライダーシリーズ|frame=1}} {|style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap" |- |colspan="3" style="background-color:#90ff90; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[仮面ライダーシリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第1作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[仮面ライダー]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1971年4月<br />- 1973年2月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第2作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''仮面ライダーV3''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1973年2月<br />- 1974年2月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第3作''' |style="border:1px solid black; 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第2作 }} 『'''仮面ライダーV3'''』(かめんライダーブイスリー)は、[[1973年]][[2月17日]]から[[1974年]][[2月9日]]まで、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|NET系列]]で毎週土曜19時30分から20時([[日本標準時|JST]])に全52話が放送された、[[毎日放送]]・[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]作品。 == 概要 == 「[[仮面ライダーシリーズ]]」の第2作で、前作『[[仮面ライダー]]』の直接的な続編。テレビシリーズのほか、劇場版が「東映まんがまつり」の中で公開された。仮面ライダー1号・2号の後を継ぐライダー3号・V3と、[[ショッカー]]や[[ゲルショッカー]]に続く第3の組織・デストロンの戦いを描く。前作の勢いを受け継ぎ、頂点を迎えていた変身ヒーローブームの大きな牽引役を果たした作品であり、主人公の強いキャラクター性とも相まって歴代シリーズ中でも知名度が高い{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=162|loc=「2章 シリーズ2「仮面ライダーV3」」}}。視聴率も平均で関東20.2パーセント、関西27パーセントを記録したほか、制作局である関西圏の毎日放送ではシリーズ最高[[視聴率]]である38パーセントを記録し、その記録はいまだにシリーズでは破られていない。 == ストーリー == 仮面ライダー1号・2号の活躍によって悪の組織[[ゲルショッカー]]は壊滅し、世界に平和が戻ったかに見えた。しかし、生きていたゲルショッカー首領は密かに新組織・デストロンを結成して再び世界征服に乗り出すと、目撃者を容赦なく抹殺していた。 1号こと[[仮面ライダー1号|本郷猛]]の大学の後輩'''風見志郎'''はある夜、デストロンの悪事を目撃したため、命を狙われるようになる。また、そのアジトを見つけた珠純子を助けたため、怪人・ハサミジャガーが風見家を襲撃し、両親と妹は志郎の目の前で殺害される。怒りに燃えて復讐を誓った志郎はそのための力を得ようと1号・2号に自分の改造を願うが、改造人間の悲哀を誰よりも知る彼らに拒否される。しかしその後、志郎はデストロンの罠に落ちた1号・2号を助けようとして瀕死の重傷を負う。1号・2号は彼の命を救うために改造手術を施し、第3の仮面ライダー「V3」として復活させる。こうして、V3とデストロンとの死闘の幕が切って落とされた。 == 登場人物 == 仮面ライダーとその協力者たち。個別に項目の存在するキャラクターの詳細は各項目を参照。 ; [[仮面ライダーV3 (キャラクター)|風見 志郎 / 仮面ライダーV3]] : 本作品の主人公。城南大学{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、「城北大学」と記載している{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=55}}。}}・生物学部の学生であり、本郷猛の後輩。 : ; [[ライダーマン|結城 丈二 / ライダーマン]] : デストロンの元科学者で幹部候補だった青年。ヨロイ元帥の裏切りに遭い、ライダーマンとなる。 : ; [[仮面ライダー1号|本郷 猛 / 仮面ライダー1号]]、[[仮面ライダー2号|一文字 隼人 / 仮面ライダー2号]] : [[仮面ライダー|前作]]の主人公。本郷は城南大学生化学研究室における志郎の先輩でもある。本作品より、オープニングタイトルで「仮面ライダー1号」「仮面ライダー2号」と表記されている。 : ゲルショッカーを壊滅させた後、本郷は城南大学の生化学研究室の研究者、一文字は[[カメラマン]]と、それぞれ日常生活に戻っていたが、志郎がデストロンによる殺人事件を目撃してから、彼が何度も命を狙われたことに不安を募らせる{{R|group="ep"|ep1}}。第2話でカメバズーカの自爆とともに行方不明となっていたが、第21話で[[オーストラリア]]にて生き延びていたことが判明する。その後、劇場版や第33話・第34話で帰国してV3と共闘した。 :* 児童誌では、映像での登場に先駆けてV3と1号・2号が共闘する特写が1973年6月号に掲載された{{R|OFM227|怪人大画報211}}。 : ; [[立花藤兵衛]] : 前作に引き続きライダーを支援し、特訓の補助や精神的なアドバイスをしている。本作品ではスポーツ用品店「セントラル・スポーツ」{{efn|第46話では「立花スポーツ店」。}}を経営する傍ら、引き続き少年ライダー隊の会長も務めており、日本を去った滝和也の代わりに隊長も兼任している。隊員たちからは「会長」と呼ばれている。 : ; {{読み仮名|珠 純子|たま じゅんこ}} : ハサミジャガーのアジトを偶然目撃してデストロン戦闘員に襲われていたところを志郎に助けられ、彼の家族を巻き込んで死なせたという自責の念から戦いに参加する。趣味はテニスと絵画。少年ライダー隊では通信係を担当しつつ、志郎に対する好意も垣間見せる。第11話・第12話では[[ストーカー]]の黒田雄二に狙われ、その事件の最中にV3の正体に疑惑を抱いたが、立花と志郎が一芝居打ったことで疑惑は消えた。それ以降も志郎=V3の戦いの支えとなって活躍した。 :* 毎日放送プロデューサーの左近洋一は、本作品放送時に誕生した次女に「純子」と名付けた{{Sfn|OFM4|2004|p=25|loc=「特集 ライダーガールズグラフィティー 美しきヒロインたちの肖像」}}<ref>{{Cite book|和書 |date = 2002-06-19|title = 仮面ライダーSPIRITS公式ファンブック 受け継がれる魂 |publisher = [[講談社]]|page= 174|isbn = 4-06-334551-3}}</ref>。 : ; {{読み仮名|珠 シゲル|たま シゲル}} : 第4話から登場した純子の弟で、少年ライダー隊の通信係。隊の中心的な存在であり、純子とともにV3の戦いをサポートする。 : ; 少年仮面ライダー隊 : 制服は赤いブレザーに変更され、ヘルメットやペンダントもV3をモチーフにして赤が多くを占めるデザインに一新された。旧本部は第2話でハサミジャガーに破壊されたため、第3話より「セントラル・スポーツ」の店裏に[[カモフラージュ]]した本部が再建された。本部に入る時は、[[ボウリング]]の球を所定の位置に変えてからペンダントを照射し、横の紐を引く{{R|group="ep"|ep2}}。 :* 公募による少年隊員の出演が行われ、四国ロケでは多数のエキストラが公募されるなど、視聴者参加の場としても活用された。放送前の第3回撮影会では、シゲル以外にも劇団ひまわりの子役が演じる少年仮面ライダー隊員が参加していたが、作中には登場しなかった{{R|怪人大画報211}}。 : ; {{読み仮名|佐久間 ケン|さくま ケン}} : 第29話から登場。[[国際刑事警察機構|インターポール]]パリ本部のデストロン専門捜査機関「デストロンハンター」の一員で、ナンバーは5号。第30話でデストロン改造人間製造工場の爆破に成功するが、ドクトルGに4人の仲間たちを殺され、唯一V3に救われて生き残った。志郎を「先輩」と呼び、彼の弟分的な存在となった。 :* 夏期以降の強化策として、当初は「不知火」という名で『仮面ライダー』の滝和也を目指して設定されて{{Sfn|超辞典|2011|p=340}}導入されたが{{R|71-84夏}}、あまり活躍はせず第37話以降は登場しなくなった。 :* 村枝賢一による漫画『[[仮面ライダーSPIRITS]]』では、『V3』に登場しなくなってから『[[仮面ライダーZX]]』までの作中時間の経過を反映して年齢を重ねた容姿となり、[[国際刑事警察機構|インターポール]]の本部長として10人ライダーの戦いをサポートする姿が描かれている。 == デストロン == [[ゲルショッカー]]壊滅後に[[ショッカー首領|ショッカー・ゲルショッカーを支配していた首領]]が新たに結成させた秘密結社。[[ショッカー]]、ゲルショッカー以上の戦力と科学力で世界征服を企む。怪人は機械と動植物を融合させた機械合成怪人となり、幾度となくV3を苦しめた。後半はキバ一族・ツバサ軍団・ヨロイ軍団といった世界各地の部族と手を結び、V3と死闘を繰り広げた{{efn|書籍『仮面ライダー大全集』では、結託部族への移行は、次作『[[仮面ライダーX]]』に登場するGOD機関結成のための時間稼ぎであったと解釈している{{R|大全集213}}。}}。各部族が操る怪人たちはショッカー怪人同様に動植物の怪人たちで構成されており、機械合成怪人とともにショッカーやゲルショッカーの怪人はもちろん、(第1話・第2話・第33話・第34話の客演状況から)仮面ライダー1号・2号でさえも苦戦させる能力を持つ。組織のマークは[[サソリ]]をモチーフにしている{{R|大全集213}}。 最終決戦でプルトンロケットによる日本壊滅をたくらむもライダーマンの捨て身の行動で阻止され、さらに最終作戦であるD作戦もV3に阻止される。そして、デストロン本部を急襲したV3により首領は倒されて本部が大爆発を起こし、デストロンは壊滅した。 * 名称は「破壊」を意味する「DESTROY」に由来し、プロデューサーの[[平山亨]]による企画案では「デストロイヤー」という名称であった{{R|71-84企画}}ほか、「デストロー」という案も存在した{{R|大全集140}}。 ; [[ショッカー首領#『仮面ライダーV3』|デストロン首領]] : 前作でショッカー、ゲルショッカーを支配していた首領と同一の存在。旧組織の時と同じく姿は見せず、サソリをかたどった像から声を送って幹部や怪人たちに命令を下すが、これには無線受信器が内蔵されていたため、V3にアジトを知られることとなる。 === 大幹部 === ; ドクトルG(怪人態:カニレーザー) : デストロン日本支部初代大幹部。 :{{Main|ドクトルG}} : ; キバ男爵 : 第31話-第35話に登場。アフリカの[[コンゴ川]]上流域に数百年栄えるという悪霊崇拝の邪教「ドーブー教」の大魔術師にして、ドーブーを信奉する「キバ一族」の長。ドクトルGの死後、日本支部2代目大幹部としてデストロンの第2次攻勢の指揮を執るべく来日した。1日1回は血を見ないと気が済まない残忍な性格の持ち主だが、部下の怪人の死を悲しんだりその葬式を立てたりするなど、非常に部下思いな慈悲深い性格でもある。 : 仮面ライダー1号・2号も一目置くほどの呪術の使い手でもあり、戦いの前には怪しげなドーブーの儀式を行なう。獣の皮から作られた衣を着て、頭には[[マンモス]]の頭骨をかたどった兜{{efn|飛行することで人間の頭部に噛み付く{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=99}}。}}{{efn|『仮面ライダーストロンガー』において、劇中の肝試し用の小道具{{R|group="ep"|Sep17}}や奇械人墓場{{R|group="ep"|Sep26}}に流用されている。}}を被り、マンモスの牙でつくられたダイヤよりも硬い槍を武器として戦う{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=99}}。儀式の際には、[[タキシード]]を着ることもあった{{R|group="ep"|ep32}}。 :* 雑誌掲載用の撮影会の時点では、兜に下顎がついており、青いアンダーウェアは着用していなかった{{R|OFM227|怪人大画報211}}。 ::{{キャラスペック |名称=吸血マンモス |身長=199{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=89{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地=ロシア・シベリア地方{{R|V3大全3}} }} :; 吸血マンモス :: 一族の怪人をV3と駆けつけた1号・2号によって次々倒されたため、第35話にて政治・経済・文化の各界要人を誘拐・洗脳してコントロールする'''日本頭脳改造作戦'''を成功させるべく、キバ男爵が変身した怪人。右手が人間の腕、左手がマンモスの足になっている。鼻から血を吸って相手を溶かすことができ、牙から火炎弾、小型ミサイル、鼻の穴から出す血の霧・猛毒、一撃で地震を引き起こすほどの怪力でV3に挑む。最後はV3回転三段キックによって元の姿に戻り、「キバ一族、ついに滅ぶ!」とキバ一族の滅亡を呟き、爆死した。 ::* キバ男爵以降の幹部怪人体は、当初は怪人として登場しつつ、最後の戦いで幹部の正体であるとの描写がされている。 ::* プロデューサーの[[平山亨]]の著作など{{Full|date=2014年2月}}では、以下のような劇中で語られないプロフィールが設定されている。 ::** 元は[[ロシア帝国]]の[[男爵]]{{efn|ただし、実際のロシア帝国の貴族の[[爵位]]は、[[公爵]]と[[伯爵]]のみで、男爵は存在しない。}}で、当時はシベリアに住んでいた(本名は特に設定されていない)。 ::** 同じ帝政ロシアの貴族出身の陸軍将校で、後にゲルショッカー大幹部となったブラック将軍とも当時から面識があり、ロシア革命以後共にアフリカ大陸に渡った仲でもあった。 ::** ブラックがゲルダム団に入った際に別行動をとり、ケニアで邪悪な呪術を研究。後に「ドーブー教」という暗黒宗教の[[魔術師]]となって、デストロンに招かれた。 : ; ツバサ大僧正 : 第36話-第40話に登場。キバ一族全滅直後に現れた[[チベット]]高原を発祥地とする邪宗[[密教]]「まんじ教」の教祖であり、飛行能力を持つ怪人によって構成された「ツバサ軍団」を率いる3代目大幹部。 : 黒い服を纏った老人で顔に翼を模した赤い仮面を着けている。呪術や自在に伸びる髪、袖の下から出す超音波が武器で風速60メートルの風も起こす{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=100}}。先端に水晶のついた杖を持ち、吸血コウモリを操る能力を持つ。冷酷無比な反面、戦闘員相手に実験が成功した際には笑いながら奇妙な踊りをする一面も持つ。 : 一族特有の飛行能力を過信したため、特訓を積んだV3の前に敗北を重ねてしまう。 :* 雑誌掲載用の撮影会の時点では、手袋はつけず、首飾りなどの装飾品も作中と異なるものであった{{R|OFM227|怪人大画報211}}。 ::{{キャラスペック |名称=死人コウモリ |身長=213{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=63{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地=地中海を見下ろす大寺院{{R|V3大全3}} |弱点=胸{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} :; 死人コウモリ :: 第40話にて、人間を操る'''ヒマラヤの悪魔'''という細菌で首都地区中の団地に住む人間を使い、暴動を引き起こすためにツバサ大僧正が変身した怪人。 :: 飛行能力を持ち、鉤爪が武器。また、腰にある無数の威嚇用吸血蝙蝠を操る。空中でV3を高速回転させて投げ飛ばす「V3キラー」で一度はV3を倒すが、V3の新必殺技「V3マッハキック」によって翼を折られ、その正体を現した後は死期を悟って棺の中に入り、デストロンの繁栄を願いつつ自爆した。 :: 最終話では、死人コウモリが再生怪人の1人として登場する。 ::* 平山の著作など{{Full|date=2014年2月}}では、以下のような劇中で語られないプロフィールが設定されている。 ::** 200年前のヨーロッパ生まれで、元は[[キリスト教]]の牧師だった(本名は特に設定されていない)が、極端な反思想を唱えたためにローマ正教から迫害され、[[地中海]]の断崖にある大寺院に200年近く幽閉された。その後、1万匹のコウモリと共に人間の生き血を啜りながら驚異的に生き延びたとされ、身に付けた超能力で脱出してチベット高原でまんじ教を開く。 ::* 最終話の脚本では、死人コウモリではなくワナゲクワガタが登場する予定であった{{R|OFM1023}}。 : ; ヨロイ元帥 : 第40話-第52話に登場。なお、初登場する第40話においては姿を見せるも、何者であるかは明かされない。ツバサ軍団壊滅後に現れた「ヨロイ一族」の長にして、デストロン最後の4代目大幹部。独特の口調で、デストロンのことを「デーストロン」と呼称する。「結果がすべて」という信条のもと、失敗を犯した者は配下の者ですら始末してきた。 : 猜疑心が異常に強く、デストロンの科学者・結城丈二のことを自分の地位を脅かすと見なして危険視しており、彼に反乱の濡れ衣を着せて抹殺をもくろむ。しかし、失敗したことで結城は造反者・ライダーマンになってしまう。 : 旅客機を墜落させるレーザー砲を装備した兜に加え、全身にはモンゴル特産の金属製{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=100}}で、血塗られたように赤い鎧を着用しており、そのエッジ部分は鋭利な刃物になっている。戦闘では左腕に持った、新幹線をも砕く硬度の鉄球を武器として戦う。 : 第47話では、ライダーマンをおびき寄せる目的で、結城に差出人住所を明記した[[年賀状]]を送った。 ::{{キャラスペック |名称=ザリガーナ |身長=179{{nbsp}}cm{{R|V3大全4}} |体重=87{{nbsp}}kg{{R|V3大全4}} |出身地=モンゴル奥地の砂漠{{R|V3大全4}} |弱点=目{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=366}} }} :; ザリガーナ :: 第51話・第52話に登場。ヨロイ元帥が変身した[[ザリガニ]]の怪人。 :: 発火性の泡と左手の鋏、背中の甲羅を割って相手に飛ばす「甲羅崩し」を使う。東京壊滅用のプルトンロケットの実験を目撃した人間を地中から出現し、殺害していたが、プルトンロケットを破壊されたため、最終話で邪魔なV3や少年ライダー隊を再生怪人を使って壊滅させる'''D作戦'''を決行する。 :: V3と戦って左腕の鋏を折られたうえ、V3フル回転キックに敗北して元の姿に戻る{{efn|その際に左腕を失ったかのような演出がされている。}}。逃走して首領に命乞いするも見限られ、通信機の爆発に巻き込まれる形で処刑された。ショッカーのゾル大佐から先代のツバサ大僧正までの歴代大幹部が、首領や組織に対する忠誠を活動の基本としていたのに対し、彼は常に自分の保身と組織内部での出世しか眼中になかった点が、大きく異なっている。 ::* 当初はキバ男爵やツバサ大僧正と同様、5話前後となる第46話での降板が予定されていた{{R|71-84部族}}。しかし、設定では結城との関わりが深いので降板させることができなくなり、最終話まで登場することになった{{R|71-84部族}}。オープニングでは「ヨロイ元'''師'''」とクレジットされていた。 ::* 結城との関わりが深いことから、他の3幹部と比較すると本作品を原案とした後年のメディア作品に登場することが多い。 ::* 平山の著作など{{Full|date=2014年2月}}では、以下のような劇中で語られないプロフィールが設定されている。 ::** モンゴルの英雄である[[チンギス・カン|ジンギスカン]]の子孫で{{R|怪人大全集74}}、祖先の夢だった世界征服を果たすために蒙古砂漠に独自の地下帝国を建設し、ヨロイ一族を組織するが、デストロンの力の前に屈する。 ::** 日々殺戮をせねば安眠できないという殺人嗜好者で、その残虐性と行動力から首領からの信任も厚かった。 ::* 石ノ森によるラフデザインでは名称は'''ヨロイ騎士(鬼士)'''となっており、鎧武者風のデザインであった{{Sfn|変身ヒーロー画集|2004|p=94}}。 :; 新生ザリガーナ :: 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの幹部として登場{{R|GOONDMM|GOON777}}。その姿は黄金色のザリガーナとなっていて{{R|GOON777}}、『[[仮面ライダーX]]』のジンギスカンコンドルの子孫として火炎能力や飛行能力も兼ね備えている{{R|GOON777}}。 === その他の要職人物 === ; 犬神博士 : 第11話・第12話に登場。ドクトルGが日本支部に着任する前、首領が全幅の信頼を置いていた科学者チーフ。純子に横恋慕する黒田雄二を怪人ドリルモグラに改造したうえ、司祭として呪いの指輪を通じての「デストロン結婚式」を執り行うオカルティストでもあった。V3との乱闘中、ドリルモグラと一緒に逃げようとしたところをV3に引きずり出され、殴られて倒された。 === 怪人 === {{節スタブ|1=二次作品の前に一次作品の加筆を|date=2015年10月}} ==== 機械合成怪人 ==== 機械合成怪人{{R|71-84D5}}とは、ゲルショッカーの合成怪人をさらに発展・改良させた怪人である。生物と道具・武器を掛け合わせた能力を持ち、そのパワーは生物同士を掛け合わせた能力を持つゲルショッカー怪人を大幅に上回っている。体の中に機械があるため、動きが鈍いのが弱点{{Sfn|カード図鑑|1997|p=202|loc=「No.117 マシンガン・スネークの弱点」}}。第13話以降は幹部である[[ドクトルG]]の指揮のもと、活動する。 * プロデューサーの[[平山亨]]による企画案では、[[チベット仏教|ラマ密教]]の秘法による外科手術が基になっていると記述されていた{{R|71-84企画}}。 * 派手な武器を持つ機械合成怪人は人気が高まっていったが、それに伴い怪人の武器や作戦が秘密結社らしからぬ過剰に派手なものに変化していき、これを危惧した平山は初期の[[ショッカー]]のようなシンプルなイメージに方向転換した{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=190|loc=「国会議事堂爆破作戦の意味」}}。 * テレビ番組『[[仮面ライダーアギト]]』に登場するジャガーロードとトータスロードは、ハサミジャガーとカメバズーカを踏襲してヒョウとカメがモチーフとなった{{R|完全超悪136}}。これはアギトの前作『[[仮面ライダークウガ]]』の最初の怪人が『仮面ライダー』を踏襲してクモとコウモリの怪人になったことから、平成2作目の『アギト』では『V3』を踏襲してヒョウとカメの怪人となったことによるものである{{R|完全超悪136}}。 :{{キャラスペック |名称=ハサミジャガー |身長=194{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=86{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=アタカマ砂漠{{R|V3大全1}} |弱点=ハサミの付け根{{Sfn|カード図鑑|1997|p=176|loc=「No.11 ハサミジャガー」}} }} ; ハサミジャガー : 第1・2話に登場。[[はさみ|ハサミ]]と[[ジャガー]]の機械合成怪人。組み合わせるとハサミのようになる両手の刃が武器{{R|怪人大全集56}}で、刺殺した人間を溶解させる{{R|V3大全1}}{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=96}}。 : カメバズーカと同時期に「東京都全滅作戦」{{R|SO140}}を実行。悪事の一部始終を目撃した志郎を何度も狙い、家族を本人の目の前で斬殺。V3のV3回転ダブルキックに倒される。2号とは顔を合わせていないと同時に戦っていない。 :* 石ノ森章太郎のラフデザインを高橋章が立体デザインになおした怪人{{R|THM64103}}。 :* 放送開始前の第1回撮影会ではブーツが黄色であった{{R|OFM227|怪人大画報211}}。たてがみもテレビシリーズよりも少なく、第3回撮影会で増量された{{R|怪人大画報211}}。 :* 劇場版の脚本では再生怪人の1体として登場が予定されていた{{R|映画大全集132|OFM1023}}。 :* 映画『[[仮面ライダー THE NEXT]]』に登場する'''シザーズジャガー'''は、ハサミジャガーをモチーフとしている。 :* ゲーム『[[スーパーヒーロー作戦 ダイダルの野望]]』ではショッカーの後、デストロンが出現することになっているため、ハサミジャガーによりショッカーライダーが処刑されるシーンが存在する。 :* パチンコ『仮面ライダーフルスロットル』では、闇のV3に変身する素体として登場<ref name="名前なし-1">[http://www.kyoraku.co.jp/product_site/2015/kamenrider_fullthrottle/#top ぱちんこ仮面ライダー フルスロットル] - KYORAKU</ref>。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=カメバズーカ |身長=175{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=63{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=太平洋の名もない島{{R|V3大全1}} |弱点=動きが鈍い{{Sfn|カード図鑑|1997|p=176|loc=「No.10 カメバズーカ」}} }} ; カメバズーカ : 第1・2話に登場。[[バズーカ|バズーカ砲]]と[[カメ]]の機械合成怪人。連続で千発発射が可能な{{Sfn|カード図鑑|1997|p=176|loc=「No.10 カメバズーカ」}}背中のバズーカ砲{{R|怪人大全集56}}と特殊金属製{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=96}}の堅固な甲羅が武器。頭と手足を収納することで隠密の活動が可能となる。 : ハサミジャガーと同時期に「東京都全滅作戦」{{R|SO140}}を実行。体内に内蔵された原子爆弾を新宿副都心で爆発させようとするが、ダブルライダーにより太平洋上で爆破した。V3とは顔を合わせているが戦っていない。 :* 石ノ森章太郎の原案ラフを高橋章が立体デザインになおした怪人{{R|SO104|THM64103}}。『冒険王』73年2月号では、バズーカトータスという名称で紹介されていた{{Sfn|V3大全|2001|p=27}}。 :* 鳴き声は演じ方に悩んだ[[峰恵研]]に相談を受けた[[沢りつお]]が考案した{{Sfn|OFM10|2004|p=31|loc=小川びい「仮面劇の主役たち ライダーを支えた10人の声優 第8回 峰恵研の巻」}}。 :* 劇場版の脚本では再生怪人の1体として登場が予定されていた{{R|OFM1023}}。 :; 映画『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』 :: ショッカーが活動している時期ではあるものの、ショッカーグリードとともに登場。背中のバズーカ砲でデンライナーを破壊する。 :; PV『[[KAMEN RIDER V3]]』 :: デストロン戦闘員とともに登場。 :; 映画『[[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊]]』 :: バダンの怪人として登場。[[仮面ライダーZO]]と戦った。 :; 映画『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号]]』 :: ブラック将軍を護衛する怪人としてシュバリアンやザンジオーとともに登場。 ::; テレビスペシャル『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号#テレビスペシャル|手裏剣戦隊ニンニンジャーVS仮面ライダードライブ 春休み合体1時間スペシャル]]』 ::: 声 - [[関智一]] ::: 『仮面ライダー3号』のプロローグ。ショッカーの怪人として登場。真実に近づいた[[仮面ライダードライブ|泊進ノ介]]と[[手裏剣戦隊ニンニンジャー|伊賀崎天晴たち]]を殺すべく現れ、最終決戦時にはショッカーブルブルに加勢する。仮面ライダーマッハが放ったヒットマッハーマゼールで背中のバズーカを暴発させられ、倒される。 :; ゲーム『[[SDザ・グレイトバトル 新たなる挑戦]]』 :: ショッカーステージの中ボスとして登場。 :; ゲーム『[[ヒーロー戦記 プロジェクト オリュンポス]]』 :: 海底都市で登場。強化型の'''カメバズーカ改'''も登場する。防御力が高く、通常攻撃では中々ダメージを与えられない。 :; 新生カメバズーカ :: 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの巨大怪人として登場{{R|GOONDMM|GOON777}}。トリプルライダーが戦う巨大怪人として描かれている{{R|GOONDMM|GOON777}}。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=テレビバエ |身長=174{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=50{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=アマゾン川{{R|V3大全1}} |弱点=太陽光線の下では、催眠光線の威力が半減する{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 71「こい! テレビ・バエめ」』より。}} }} ; テレビバエ : 第3話と第4話に登場。[[ハエ]]と[[テレビ受像機|テレビ]]の機械合成怪人。両目からの催眠光線と殺人電波が武器。顔にあるチャンネルを回すことで光線の強さを強化することが可能。また、目のテレビで写した映像を中継する機能を持つ{{R|V3大全1}}。 : イカファイアとともに作戦を実行。第一綜合病院の関院長に成りすまして催眠光線により東京中の人々を洗脳しようとするが、V3のライダー遠心キックを受けてイカファイアとともに爆死。 :* 石ノ森章太郎の原案ラフを高橋章が立体デザインになおした怪人{{R|SO104}}。 :* 『[[仮面ライダーディケイド#オリジナルDVD|仮面ライダーディケイド 超アドベンチャーDVD 守れ!〈てれびくんの世界〉]]』に登場するてれびバエくんはテレビバエをベースにしている{{Sfn|完全超悪|2020|p=155|loc=「DESIGNER INTERVIEW 青木哲也・篠原保・出渕裕・雨宮慶太[仮面ライダーディケイド]」}}。{{Main|仮面ライダーディケイド#オリジナルDVD}} :; ゲーム『SDザ・グレイトバトル 新たなる挑戦』 :: ブラックサタン戦闘員と共に第5話の溶岩地帯の雑魚敵として登場。 :; OVA『[[仮面ライダーSD]]』 :: [[蜘蛛男 (仮面ライダー)|蜘蛛男]]や[[仮面ライダーV3対デストロン怪人|タイホウバッファロー]]とともに蜘蛛の巣城でバトルライダーズと戦う。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=イカファイア |身長=210{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=75{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=沖縄周辺のサンゴ礁{{R|V3大全1}} |弱点=陸では弱い{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=105}} }} ; イカファイア : 第3話と第4話に登場。[[イカ]]と[[火炎放射器]]の機械合成怪人。V3の戦闘を見て生み出された改造人間で、口から吐くファイア墨{{efn|書籍によってはイカスミガスと記述している{{R|V3大全1}}。}}やエネルギーを消す砂{{Sfn|カード図鑑|1997|p=197|loc=「No.94 イカ・ファイアの使命と武器」}}、左腕の鞭が武器で、鞭を外すことで火炎放射器となる{{R|V3大全1}}{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=96}}。また、体の吸盤で相手のエネルギーを吸い取る{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=96}}{{R|SO140}}。声を自在に変えられる能力を持つ{{Sfn|カード図鑑|1997|p=192|loc=「No.76 V3必殺命令」}}。 : ダブルタイフーンを封じてV3を火刑に処そうとするが、その炎の風を吸収され復活したV3のライダー遠心キックを受けてテレビバエとともに爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=マシンガンスネーク |身長=165{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=53{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=与論島{{R|V3大全1}} |弱点=体には弾丸が詰まっているため、鈍重である{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=96}} }} ; マシンガンスネーク : 第5話に登場。ヘビ{{efn|『アマダ トレーディングコレクション 仮面ライダー V3・X編 005 マシンガンスネーク』では[[コブラ科|コブラ]]としている。}}と[[機関銃|マシンガン]]の機械合成怪人。コブラやマシンガンに変化する右手や猛毒を持つ牙や舌が武器であるほか、ヘビへの変身能力を持つ{{R|怪人大全集58}}。 : 村山博士の開発した新エネルギー理論の書類を奪うため、秘書の西崎を誘拐し、理論の解析を迫る。V3遠心キックを受けて敗北。 :* 石ノ森章太郎の原案ラフを高橋章が立体デザインになおした怪人{{R|SO104|THM64103}}。 :* 劇中ではマシンガンが3連装であるが、一部の写真{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=110}}では2連装になっている。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ハンマークラゲ |身長=178{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=94{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=若狭湾{{R|V3大全1}} |弱点={{Plainlist| * 体が重い{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=110}}。 * ハンマー・チェーンが伸びきった瞬間は破壊力が無くなる{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 131「ハンマー・クラゲの弱点をつけ!」』より。}}。 * ハンマー・チェーンの鎖が切れると、ハンマーを使えなくなる{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 128「ハンマー・クラゲ」』より。}}。 }} }} ; ハンマークラゲ : 第5話と第6話に登場。[[クラゲ]]と[[槌|ハンマー]]の機械合成怪人。左手からの電流、右手のハンマーと鋼鉄鎖分銅{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=96}}がついたチェーンハンマー{{efn|書籍によってはハンマー・チェーンと記述している{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=96}}{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=110}}。}}が武器。 : マシンガンスネークの後を継ぎ、秘書の西崎に理論の解析を迫る。V3スクリューキックを受けて敗北。 :* 石ノ森章太郎の原案ラフを高橋章が立体デザインになおした怪人{{R|THM64103}}。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ナイフアルマジロ |身長=159{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=51{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=ブラジル{{R|V3大全1}} }} ; ナイフアルマジロ : 第7話と第8話に登場。[[被甲目|アルマジロ]]と[[ナイフ]]の機械合成怪人。人工心臓学の権威である河井博士の人工心臓手術によって蘇生された被験者・山本が再改造手術を受けたことで変異した姿。堅固な皮膚と体を丸めた後、体当たりをする'''弾丸鋼鉄球'''{{R|怪人大全集58}}、右手の伸縮自在のナイフが武器。また、鼻からは発狂ガスを噴射する{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=96}}。 : 一度はV3ダブルアタックを受け敗れるが、博士の手術によって再生する。その後、V3ドリルアタックを受け、爆死する。 :* 劇場版の脚本では再生怪人の1体として登場が予定されていた{{R|OFM1023}}。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ノコギリトカゲ |身長=160{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=66{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=ブラジル{{R|V3大全1}} |弱点={{Plainlist| * ノコギリの付け根{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=111}} * 頭脳戦が苦手{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=97}} }} }} ; ノコギリトカゲ : 第7話と第8話に登場。[[トカゲ]]と[[電気丸のこ|電動ノコギリ]]の機械合成怪人。デストロン初の女性怪人である{{R|怪人大全集58}}。鋼鉄製の牙と右手の電動ノコギリが武器。また、頭にある角によって超能力を操る{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=97}}。 : 河井博士の死人の蘇生研究を利用するため、人工心臓手術を行う博士を誘拐。その後、ナイフアルマジロを再生し、V3ダブルアタックを受け、爆死。 :* [[八木功]]によると、ノコギリの[[市松模様]]は素材の[[風呂マット|バスマット(お風呂マット)]]の模様が浮き出たとのこと{{R|SO108}}だが、[[田﨑竜太]]と[[寺田克也]]は回転がわかるようにと予想していた{{R|SO115}}。 :* 映画『[[仮面ライダー THE NEXT]]』に登場する'''チェーンソーリザード'''は、ノコギリトカゲをモチーフとしている。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=レンズアリ |身長=170{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=59{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=アンデス山脈{{R|V3大全1}} |弱点=目をやられると動きが鈍る{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=114}} }} ; レンズアリ : 第9話と第10話に登場。[[アリ]]と[[レンズ]]の機械合成怪人。目から5,000℃の破壊熱線を放ち、左手の万力{{efn|書籍によってはハサミと記述している{{R|V3大全1}}。}}を武器に戦う。また、ドリル状の両足で地中を掘り進む{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=97}}。モトクロスレースの参加選手を誘拐し、デストロンレーサー地獄部隊に改造させ、人工衛星用の核物質を奪取させようとする。 : V3きりもみキックを受け、敗北。 :* 八木功によれば、目を開きフラッシュを焚くギミックには苦労させられたという{{R|SO108}}。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=カミソリヒトデ |身長=180{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=70{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=九州・佐伯湾{{R|V3大全1}} |弱点=胸{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=114}} }} ; カミソリヒトデ : 第9話と第10話に登場。[[ヒトデ]]と[[剃刀|カミソリ]]の機械合成怪人。右手の刃部分にデストロンマーク{{R|SO115}}があるカミソリが武器で、折られたとしてもすぐに復元が可能。また、胸から発火性の泡{{efn|書籍によっては、殺人粉末{{R|怪人大全集60}}、発火性の毒粉{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=97}}{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=114}}と記述している。}}を放つ。レンズアリとともに人工衛星用の核物質を奪取しようとする。 : V3きりもみキックを受け、爆死。 :; テレビスペシャル『[[10号誕生!仮面ライダー全員集合!!]]』 :: バダンのコピー怪人として登場。10人ライダーと闘うが、時空破断システムに巻き込まれる。 ::* スーツはアトラクション用のもので、偶然残っていたため、登場することとなった{{R|OFM1023}}。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ピッケルシャーク |身長=175{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=70{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=メキシコ湾{{R|V3大全1}} |弱点=陸上{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=115}} }} ; ピッケルシャーク : 第11話と第12話に登場。[[サメ]]{{efn|『アマダ トレーディングコレクション 仮面ライダー V3・X編 011 ピッケルシャーク』では[[ホホジロザメ|ホオジロザメ]]としている。}}と[[ピッケル]]の機械合成怪人。海洋生物学の中原博士によって改造された。右腕のピッケルが武器で、ここから強烈な光を伴った1万ボルトの電流を放つ'''ピッケルフラッシュ'''という技を持つ。 : その後、デストロンから脱走し、志郎にアジトの位置を教えた中原を殺害し、アジトに潜入したV3を抹殺しようとするが、V3反転キックを受けて爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ドリルモグラ |身長=200{{nbsp}}cm{{R|V3大全1}} |体重=79{{nbsp}}kg{{R|V3大全1}} |出身地=桜島{{R|V3大全1}} |弱点={{Plainlist| * 背中{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=97}} * 動きが鈍く、ドリルを抜くのに時間がかかる{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=115}} * 水中{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 225「ドリルモグラ」』より。}} }} }} ; ドリルモグラ : 第11話と第12話に登場。[[モグラ科|モグラ]]と[[ドリル (工具)|ドリル]]の機械合成怪人。正体は珠純子に付きまとっていた'''黒田雄二'''で、ピッケルシャークによって拉致され、犬神博士により作られた改造人間で、珠純子と結婚しようと企み、純子が恋心を抱く志郎を始末しようとし、その報酬に純子との結婚式を挙げる。頭部の回転するドリルが武器。 : V3反転キックを受け、爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ジシャクイノシシ |身長=185{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=50{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=アマゾン流域{{R|V3大全2}} |弱点=磁力の範囲外となる背中{{R|V3大全2}} }} ; ジシャクイノシシ : 第13話に登場。[[イノシシ]]{{efn|『アマダ トレーディングコレクション 仮面ライダー V3・X編 013 ジシャクイノシシ』では[[イボイノシシ]]としている。}}と[[磁石]]の機械合成怪人。左手の'''スーパー磁石'''はV3の電子頭脳をも狂わせるほど強い磁力を発生させることができ、磁力を利用した'''ジシャクバリアー'''を張って身を守る。時速300キロメートルで突進する'''イノシシダッシュ'''と呼ばれる突進攻撃を持つ{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 238 ジシャクイノシシ』より。}}。他人に化けることができるが、その状態でも体からは磁力が発せられている。 : スーパー磁石で新幹線破壊を企て、V3と応戦するが、逆ダブルタイフーンで死を偽装されていたV3に阻止される。その間にドクトルGを日本に上陸させる「G作戦」{{R|SO140}}を実行する。そして、再び変身が可能になったV3のV3電熱チョップでスーパー磁石を切断され、イノシシダッシュをかわされたことで崖から転落し自爆するものの、G作戦は成功した。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ガマボイラー |身長=135{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=79{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=九州・唐津湾{{R|V3大全2}} }} ; ガマボイラー : 第14話に登場。[[ニホンヒキガエル|ガマガエル]]と[[ボイラー]]の機械合成怪人。ボディにはデストロンマークが記されている{{R|SO115}}。胸からの溶解ガス{{efn|書籍『全怪獣怪人大辞典 上巻』では、蒸気{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=97}}と記述している。}}や、死に際に噴出する相手のエネルギーを奪う泡状の体液が武器。 : 1号と2号の遺したV3の秘密を奪おうと三浦海岸で国際警察官ジョージ・カマモトを襲うが失敗し、秩父山中でV3と戦闘になり、V3に体液を浴びせた後、自爆した。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=バーナーコウモリ |身長=167{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=48{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地={{Plainlist| * アマゾン河流域{{R|V3大全2}} * チベット{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 276「バーナーコウモリ」』より。}} }} |弱点={{Plainlist| * 力が弱い{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=117}} * 肩{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 276「バーナーコウモリ」』より。}} }} }} ; バーナーコウモリ : 第15話に登場。[[コウモリ]]と[[バーナー]]の機械合成怪人。口から7,000℃の火炎を吐く。また、翼によって風速3千メートルの風を起こす{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=97}}。 : ガマボイラーによってダメージを負ったV3を襲うが、逆ダブルタイフーンを受け、敗北。 :* 鳴き声は、関連書籍では「アームー」と表記されるが{{Sfn|画報|2001|p=65}}{{Sfn|怪人列伝|2011|p=204|loc=「バーナーコウモリ」}}、「あンぶりー」とする説もあり、『OFFICIAL FILE MAGAZINE 仮面ライダー』では後者がコウモリからコウモリ傘を発想しての「アンブレラ」に由来するものと推測している{{R|OFM八代}}。演じた八代駿は『仮面ライダー大全』112頁のインタビューで「傘の怪人で「あんぶれらー」と鳴いたものがある」と述べており、『OFFICIAL FILE MAGAZINE 仮面ライダー』ではこれはバーナーコウモリを指したものと推測している{{R|OFM八代}}。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ミサイルヤモリ |身長=180{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=80{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=アフリカ{{R|V3大全2}} |弱点=接近戦ではミサイルを使えない{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=117}} }} ; ミサイルヤモリ : 第16話に登場。[[ヤモリ科|ヤモリ]]と[[ミサイル]]の機械合成怪人。保護色で姿を消す能力や、人間を窒息させる吸盤を持つ。背中の大型ミサイルと左腕の3門の小型ミサイルが武器{{R|怪人大全集63}}。 : ミサイルを使い、京浜工業地帯の石油コンビナートを爆破する「D-18計画」{{R|SO140}}を実行しようとするが、V3回転フルキックの前に倒される。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=スプレーネズミ |身長=180{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=59{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=北アルプス山中{{R|V3大全2}} |弱点={{Plainlist| * 右手の付け根{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=120}} * 右胸のボンベ{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=363}} }} }} ; スプレーネズミ : 第17話と第18話に登場。[[ネズミ]]と[[スプレー]]の機械合成怪人。右腕の10メートルまで伸びる伸縮自在のパワーアームと、敵を食い千切るマウスカッターが武器で、ペストに酷似した新種の病原菌の'''デビルスプレー'''{{R|怪人大全集64|V3大全2}}をパワーアームから噴射する。 : 右腕をV3キックで折られ、爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=クサリガマテントウ |身長=211{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=77{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=志賀高原{{R|V3大全2}} |弱点={{Plainlist| * 腕{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=120}} * 背中{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 329「クサリガマテントウ」』より。}} }} }} ; クサリガマテントウ : 第17話と第18話に登場。[[テントウムシ]]{{efn|『アマダ トレーディングコレクション 仮面ライダー V3・X編 018 クサリガマテントウ』では[[ナナホシテントウ]]としている。}}と[[鎖鎌]]の機械合成怪人。腰から放つテントウミサイルと、左手にあるトゲ付き鉄球が付いた鎖鎌・'''スネークチェーン'''と脇腹にあるライフル・わきばら銃{{Sfn|カード図鑑|1997|p=256|loc=「No.329 クサリガマテントウ」}}が武器で、スネークチェーンを敵に巻き付けて3千ボルトの電流を流す。体内にスネークチェーンの予備を格納している。 : スプレーネズミの作戦のための陽動として、脱走者に化けたり、デストロンを裏切ったフリをしたが、全て志郎には見抜かれており、V3キックを受けて敗北。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ハリフグアパッチ |身長=168{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=58{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=フィジー海{{R|V3大全2}} |弱点={{Plainlist| * 肩{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=121}} * 両膝{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 389「ハリフグアパッチ」』より。}} }} }} ; ハリフグアパッチ : 第19話に登場。[[魚雷]]と[[ハリセンボン]]の機械合成怪人。全身に生えている爆破するトゲ・シビレトゲ、左肩から放つ'''フグ魚雷'''{{R|怪人大全集64}}と鼻から噴射する毒液{{efn|書籍によっては溶解液と記述している{{R|V3大全2}}。}}が武器。 : フグ魚雷によって船舶を爆破し、竜の子崎沖の支配権を掌握し、組織の領海にすることが使命。そして、そのフグ魚雷の製造のために必要な人間たちの誘拐が目的。V3きりもみキックを受け、敗北。 :* 元々は『仮面ライダー』で「凶悪!フグアパッチ!!ショッカー島の決斗」にショッカー怪人として登場予定だった<ref>『仮面ライダー OFFCIAL DATA FILE』No.34より{{要ページ番号|date=2015年7月}}</ref>{{Sfn|超辞典|2011|p=617}}。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ギロチンザウルス |身長=175{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=65{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=高知県{{R|V3大全2}} |弱点=遠距離戦{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=121}} }} ; ギロチンザウルス : 第20話と第21話に登場。[[恐竜]]と[[ギロチン]]の機械合成怪人。口から吐く火炎と右腕のギロチンが武器。また、左腹の首枷で敵の首を固定する{{R|V3大全2}}。 : ドクバリグモとともに、SS装置の催眠音波を使った「四国占領作戦」{{R|SO141}}実行のため、それを組み立てるのに必要な深沢博士を捕えようとし、V3の四国上陸を妨害する。V3回転キックを受け、爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ドクバリグモ |身長=165{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=53{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=群馬県{{R|V3大全2}} |弱点=激しく動くと注射針が折れる{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=124}} }} ; ドクバリグモ : 第20話と第21話に登場。[[クモ]]と[[注射器]]の機械合成怪人。右手にある、注入された人間を操るコントロールビールスが入った注射器が武器{{R|怪人大全集66}}だが、自分にも害がある。全身にしびれ毒が付いたトゲが生えている{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=98}}。また、毒蜘蛛への変身能力を持つ。ビールスの血清は左脇腹にある{{R|V3大全2}}。 : ギロチンザウルスとともに、SS装置の催眠音波を使った「四国占領作戦」{{R|SO141}}実行のため、それを組み立てるのに必要な深沢博士を捕えようとする。V3反転キックを受け、爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ウォーターガントド |身長=192{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=50{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地={{Plainlist| * 江ノ島海岸{{R|V3大全2}} * [[初島]]{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 415「ウォーターガントド」』より。}} }} |弱点={{Plainlist| * 地上での動きが鈍い{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=124}} * 牙{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 415「ウォーターガントド」』より。}} }} }} ; ウォーターガントド : 第22話に登場。[[トド]]と[[水中銃]]の機械合成怪人。口から吐くグロブタンガスを原料とした毒ガス{{R|V3大全2}}{{efn|書籍『全怪獣怪人大辞典 上巻』では、人間腐食白骨化ガス{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=98}}と記述している。}}と銛を撃ち出す{{Sfn|オールライダー&全怪人昭和|2013|p=30}}。水中銃が武器{{R|怪人大全集66}}。 : 関東一円に初島で製造した毒ガス入り気球を乱気流に乗せ、散布させようとした。だが、V3に追い駆けられたため阻止され、V3回転フルキックを受けて爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=プロペラカブト |身長=172{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=61{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地={{Plainlist| * ニューギニア{{R|V3大全2}} * [[山中湖]]{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 435「プロペラカブトムシ」』より。}} }} |弱点={{Plainlist| * 人間の心が残っている{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=124}} * 陸上戦{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 435「プロペラカブトムシ」』より。}} }} }} ; プロペラカブト : 第23話に登場。[[カブトムシ]]と[[プロペラ]]の機械合成怪人。正体は志郎の旧友'''黒田狂一'''。活動エネルギー源は女性の血液で{{R|V3大全2}}、右手のプロペラと左手のヘラ、口から吐く毒液が武器{{R|怪人大全集66}}{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=98}}。また、プロペラは投擲武器としても使用が可能{{R|V3大全2}}。水中を移動できる{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 435「プロペラカブトムシ」』より。}}。 : 戦闘員の素材となる人間を誘拐し、誘拐した女性は生き血を採取し、男性は戦闘員へと改造させる。V3反転キックを受け、敗北。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ゴキブリスパイク |身長=168{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=49{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地={{Plainlist| * 三浦海岸{{R|V3大全2}} * インドネシア{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 455「ゴキブリスパイク」』より。}} }} |弱点={{Plainlist| * 熱湯に弱い{{Sfn|7人ライダー復刻|2012|p=124}} * 口{{efn|『カルビー 仮面ライダーV3カード 455「ゴキブリスパイク」』より。}} }} }} ; ゴキブリスパイク : 第24話に登場。[[ゴキブリ]]と[[犬釘|スパイク]]の機械合成怪人。口から吐く1メートル以内の人間に高熱伝染病を起こす特殊細菌{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=98}}{{efn|書籍によっては殺人細菌ガスと記述している{{R|V3大全2}}。}}と右腕のスパイクが武器。 : 細菌ガスによる「細菌汚染作戦」を画策。大里細菌研究所の家事手伝い募集を申し込んだ女性たちを、細菌ガスの実験台とした。V3反転キックを受け、敗北。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=カマキリメラン |身長=170{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=62{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=千葉県・行川アイランド{{R|V3大全2}} |弱点=目{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=364}} }} ; カマキリメラン : 第25話に登場。[[カマキリ]]と[[ブーメラン]]の機械合成怪人。体にあるトゲと左手の鎌、10キロメートル先にいる人間の首を落とすことができる右肩の殺人ブーメランと触角のノコギリ{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=98}}が武器。鎌とブーメランをこすり、特殊な音を発することで、デストロンレインジャー部隊と交信する{{R|V3大全2}}。 : ミイラビールスを貯水タンクに撒き、都民のミイラ化をしようとする「ミイラ作戦」{{R|SO141}}に従事する。デストンレインジャー部隊の育成および陣頭指揮担当であったが、部隊とともに移動していたところを工藤俊一に目撃され、彼を殺害。その後、志郎と俊一の弟・健二を山小屋に追い詰めるが、第2部隊の作戦のための陽動であったことを漏らした後、V3回転フルキックを受けて爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ヒーターゼミ |身長=163{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=55{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=エジプト{{R|V3大全2}} |弱点=冷気{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=364}} }} ; ヒーターゼミ : 第26話に登場。[[セミ]]{{efn|『アマダ トレーディングコレクション 仮面ライダー V3・X編 026 ヒーターゼミ』では[[ミンミンゼミ]]としている。}}と[[暖房|ヒーター]]の機械合成怪人。喉を渇かせる特殊音波と全身の灼熱化、指先からの小型ミサイルが武器。セミへの変身能力を持つ。 : 東京都の浄水場にミイラビールスを混入して全滅させる「ミイラ作戦」{{R|SO141}}実行のため、ミイラビールスの血清を作ることができる田口博士の娘・田口晴美を名乗り、V3に近づく。V3回転フルキックを受けて爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=ワナゲクワガタ |身長=170{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=80{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=オーストラリア{{R|V3大全2}} |弱点=触角{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=364}} }} ; ワナゲクワガタ : 第27話と第28話に登場。[[クワガタムシ]]と[[輪投げ|鉄輪]]の機械合成怪人。相手の首にかけて絞殺する鉄輪「'''死巻'''」と左腕からの煙幕と、吸った人間を呼吸困難にさせる猛毒ガス・'''ギラードガンマー'''が内包されたガス弾が武器{{R|V3大全2}}。また、角からもギラードガンマーを吐く{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=98}}。 : 5大幹部が指揮する「日本全滅作戦」のサポートを任務することとなり、V3の妨害が目的。強化キックを受け、ペトンガラスに打ち付けられ、爆死。 :* 最終話の脚本では死人コウモリではなくワナゲクワガタが登場する予定であった{{R|OFM1023}}。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=カメラモスキート |身長=168{{nbsp}}cm{{R|V3大全2}} |体重=51{{nbsp}}kg{{R|V3大全2}} |出身地=ネバダ山脈{{R|V3大全2}} |弱点=カメラ{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=364}} }} ; カメラモスキート : 第29話に登場。[[カ|蚊]]と[[カメラ]]の機械合成怪人。左眼にあるカメラで撮影した人間への変身能力や虚像の投影能力を持つほか、ミニモスキートを操ることも可能。ドリルのように回転する手が武器{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=98}}。 : デストロンハンターが奪ったマイクロフィルムの奪還が使命。佐久間ケンのカバンにミニモスキートを仕込んで、フィルムの入ったカバンを奪うが、志郎によって中身がすり替えられたため、インターポールの田所局長に化け、志郎に近づくが、変身を見破られ、V3ボディアタックを受け、敗北。 ==== キバ一族 ==== 「キバ族{{R|71-84敵}}」とも。キバ男爵が率いる怪人軍団。全員がキバを持っているのが特徴で機械合成怪人を凌ぐパワーを持ち、V3や1号・2号を苦しめた。ドーブー教を行動原理としており、祈祷や魔術によって怪人たちに力を与える。 :{{キャラスペック |名称=ドクロイノシシ |身長=179{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=67{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地=ニューギニア{{R|V3大全3}} |弱点=悪魔の太鼓{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=364}} }} ; ドクロイノシシ : 第31話に登場。イノシシの改造人間。巨大な牙状の槍・猛毒牙、左手にあるダイヤモンドより硬い鉤爪、触れた相手を白骨化させる牙{{R|怪人大全集70}}が武器で、その相手を悪魔の太鼓の音で操る。また、時速500キロメートルで走ることも可能。 : 小渕沢の人々を襲い操ることで、V3と闘わせる。V3フライングキックを受け、爆死。 :{{clear}} :{{キャラスペック |名称=オニビセイウチ |身長=177{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=66{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地={{Plainlist| * 北アメリカ{{R|V3大全3}} * ソロモンの深海{{efn|『アマダ トレーディングコレクション 仮面ライダー V3・X編 031 オニビセイウチ』}} }} |弱点=陸上は苦手{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=99}} }} ; オニビセイウチ : 第32話に登場。セイウチの改造人間。生き血を飲んだ相手に変身する能力や、鬼火を操る能力、人間を腐らせる人魂ガスを口から吐く技がある。時速200キロメートルで泳ぐことが可能で、水中戦を得意とする。 : 藤兵衛の旧友・伊藤に成りすまし、鬼火沼の山荘でキャンプに来たライダー隊を待ち伏せ全滅させようとするが、戦闘員を捕まえたV3によって阻止され、V3回転フルキックを受けながらもアジトへとV3を誘導するが、そこで死亡する。 : 第43話以降のエンディング映像にも登場している{{R|怪人大全集182}}。 :* 名称は'''鬼火セイウチ'''と漢字表記される場合もある{{R|怪人大全集70}}{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=59}}。企画段階での名称は'''ヒトダマセイウチ'''であった{{R|怪人大画報211}}。 : :{{キャラスペック |名称=ユキオオカミ |身長=175{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=69{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地=北極{{R|V3大全3}} }} ; ユキオオカミ : 第33話に登場。オオカミの改造人間。噛んだ相手を狼人間(獣人{{Sfn|画報|2001|p=69}})に変える能力や、志郎をも凍らせた強力な冷気'''ウルトラブリザード'''が武器{{R|怪人大全集70}}。 : 人工光化学スモッグの研究者・寒川博士を脅迫し、殺人光化学スモッグにあてると爆発する光線を使った作戦を実行しようとする。V3きりもみチョップを受け、敗北。 :* 第43話以降のエンディング映像にも登場している{{R|怪人大全集182}}。 :* 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの怪人として登場{{R|GOONDMM}}。 : ; 魔女スミロドーン : 第34話に登場した、キバ一族の母なる魔女。キバ男爵の祈祷により100万年の眠りから目覚めた。姉小路と名乗る。人間態ではキバ男爵の知り合いと称して本郷に猛毒塗りの呪いの人形を贈り付けたり、彼の病院に行った藤兵衛を閉じ込めたりするなどの巧みな作戦をとった。バイカーの衣服を着て牙の形をしたバイク(牙型マシン)を乗りこなす。 ::{{キャラスペック |名称=原始タイガー |身長=185{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=65{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地=ケニア草原{{R|V3大全3}} }} :; 原始タイガー :: 魔女スミロドーンが変身する、[[剣歯虎|サーベルタイガー]]の怪人。 :: 怪人態での戦闘能力はライダー単体より上である。針金状の毛を持つ体での体当たりを得意とする{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=100}}。牙はミサイルになる{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=364}}。口から吐く炎と高熱性の猛毒を持つ牙や爪を駆使してライダーたちを苦しめたが、最後はライダートリプルパワーで倒された。 ::* 怪人態では男性の声質となり、人間態でも男性よりの口調である。『CR仮面ライダーV3』では一人称が「俺様」である。 ::* 第43話以降のエンディング映像にも登場している{{R|怪人大全集182}}。 ::* 脚本での名称は原始虎{{R|怪人大全集70}}。 ::* 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの怪人として登場{{R|GOONDMM}}。 ==== ツバサ一族 ==== 「ツバサ族{{R|71-84敵}}」「ツバサ軍団」とも。ツバサ大僧正が率いる怪人軍団。ほぼ全員が飛行能力を持っているのが特徴であり{{efn|ツバサ一族登場時の撮影会では、トランポリンを用いた撮影も行われ、飛行能力を強調していた{{R|怪人大画報211}}。}}、空中戦に慣れていないV3を大いに苦しめた。チベットに伝わる密教「まんじ教」が行動原理。 :{{キャラスペック |名称=火焔コンドル |身長=185{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=80{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地=浅間山火口{{R|V3大全3}} |弱点=羽{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} ; 火焔コンドル : 第36話に登場。南米ペルーのインカ帝国遺跡から飛来したコンドルの改造人間。口からインカの呪われた火を吐き、妨害電波を発することも可能。また、ミサイル弾となっている爪も武器である。 : 修行僧に化け、「日本乗っ取り作戦」{{Sfn|超辞典|2011|p=140}}のためにデストロンへの協力を拒む重要施設の責任者たちを襲っていたところ、駆けつけたV3を一度は倒すが、特訓によって取得したビッグスカイパンチとビッグスカイキックを受けて墜落し、爆死する。 :* 第43話以降のエンディング映像にも登場している{{R|怪人大全集182|怪人大画報211}}。 :* 名称は'''火炎コンドル'''と表記される場合もある{{Refnest|group="出典"|{{R|怪人大全集72|全怪獣60|怪人大画報211}}}}。 : :{{キャラスペック |名称=コダマムササビ |身長=156{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=65{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地=東北地方・寒村の山{{R|V3大全3}} |弱点=平地{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} ; コダマムササビ : 第37話に登場。ムササビの改造人間。牙や爪に仕込まれ、触れた人間をムササビに変えるムササビ毒を持つほか、手首から毒ミサイルを放つ。 : 毒を受けた人間をムササビ型の死骸に変えることができ、ムササビに化けて滑空する。 : 「ムササビ作戦」{{R|SO142}}により休火山の大雪山の噴火を装ってムササビ毒を都市に降り注ごうとした。ムササビの森でテストを行っていたところ、V3と一戦交え、道連れに自爆を図るが、逆ダブルタイフーンで阻止され、V3トリプルパンチを受け爆発し、白骨化した。 : 名称は'''木霊ムササビ'''と漢字表記される場合もある{{Refnest|group="出典"|{{R|怪人大全集72|全怪獣60|SO142}}}}。 : :{{キャラスペック |名称=ドクガーラ |身長=169{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=66{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地=ビルマ{{R|V3大全3}} |弱点=火に弱い{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} ; ドクガーラ : 第38話に登場。蛾(毒蛾)の改造人間。口からは仕込みナイフを伸ばし、羽根からは毒鱗粉を放つ。また、人を白骨化させる毒蛾{{R|V3大全3}}を操ることも可能。 : 山北のデストロンアジトの警護が使命で、近づく者たちを次々と殺害していった。ハリケーンラストダッシュを受けて地面に激突し、爆死。 :* 資料によっては、名称を'''殺人ドクガーラ'''と記載している{{R|怪人大全集72|全怪獣60}}。 : :{{キャラスペック |名称=バショウガン |身長=169{{nbsp}}cm{{R|V3大全3}} |体重=59{{nbsp}}kg{{R|V3大全3}} |出身地=ボルネオ{{R|V3大全3}} |弱点=熱に弱い{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} ; バショウガン : 第39話に登場。芭蕉の改造人間。伸縮自在のツル{{efn|書籍『全怪獣怪人大辞典 上巻』では、捕獲根{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=100}}と記述している。}}や溶解液が武器。また、カエンバショウへの変身能力もある。 : 「保存人間計画」{{R|SO142}}で改造人間用の素材となる人間を次々と地中に攫い、毒液を注射し、3万ボルトの電流を流して身体を小さくすることで保存する。V3スカイキックを受け、溶解する。 :* 飛行能力を持たない植物怪人であるが、これは登場する第39話が『仮面ライダー』第4話のリメイクであったため、ストーリーの都合から植物怪人が必要であったことによる{{R|71-84部族|SO116}}。平山による展開案では、フクロウをモチーフとした怪人の登場が予定されていた{{R|71-84部族}}。 :* 書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''人喰いバショウガン'''と記載している{{R|全怪獣60}}。 ==== ヨロイ一族 ==== ヨロイ元帥が率いる怪人軍団。「ヨロイ族{{R|71-84敵}}」や「ヨロイ軍団」とも称される。強固な防御力とパワーを併せ持った怪人が多いのが特徴であり、その多くが鎧のように硬い皮膚を持っている。これまでのデストロン怪人を上回る戦闘力を持ち、V3やライダーマンを苦しめた。 * ヨロイ一族の後はトゲ族の登場が予定されていたが、ヨロイ元帥の続投が決まり、最後までヨロイ一族が登場することとなった{{R|71-84部族}}。オニヒトデは軟体族、サイタンクはツノ一族、オニヒトデとシーラカンスキッドはヒレ一族、カメレオンはトゲ一族の怪人としてデザインされていた{{R|71-84D5}}{{Sfn|超辞典|2011|p=409}}。 :{{キャラスペック |名称=ガルマジロン |身長=215{{nbsp}}cm{{R|V3大全4}} |体重=87{{nbsp}}kg{{R|V3大全4}} |出身地=南米アマゾンのジャングル{{R|V3大全4}} |弱点=鱗{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} ; ガルマジロン : 第41話に登場。アルマジロの改造人間。正体は志郎の友人・高木裕介。鱗から放つ人間を溶かす毒液と右手の鉤爪、手足の付け根にある鋭い毛{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=101}}とボウガン{{Sfn|画報|2001|p=71}}が武器。鱗は本体から分離しての行動が可能。また、甲羅のトゲによる'''ガルマジロンバック攻撃'''と呼ばれる技を持つ{{R|V3大全4}}。体を丸めて突撃を行う{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}}。 : 志郎を騙して彼とともにアジトに潜入し、正体を明かした上で志郎にデストロンへの恭順を促すも聞き入れられず、V3回転フルキックを受けた後、高木の姿に戻り死亡。 : :{{キャラスペック |名称=カタツブラー |身長=165{{nbsp}}cm{{R|V3大全4}} |体重=87{{nbsp}}kg{{R|V3大全4}} |出身地=南ベトナム{{R|V3大全4}} |弱点=触角{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} ; カタツブラー : 第42話に登場。カタツムリの改造人間。口からは粘着液{{efn|書籍によっては'''粘性の蔦'''{{Sfn|画報|2001|p=71}}と記述している。}}を吐き、堅固な殻を使った'''渦巻き攻撃'''や、体内に卵を産みつけ、そこから孵ったカタツムリによって人間を操る能力を持ち、マンションに住む人間を操った。また、自己催眠能力や巨大なカタツムリへの変身能力を持つ。霧を使って自身の姿を消す{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}}。 : 胴体にV3キックを受け、溶解。 :{{Clear}} :{{キャラスペック |名称=カマクビガメ |身長=170{{nbsp}}cm{{R|V3大全4}} |体重=65{{nbsp}}kg{{R|V3大全4}} |出身地=カマクビ島{{R|V3大全4}} |弱点=腹{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} ; カマクビガメ : 第43話と第44話に登場。カメ([[ヘビクビガメ]]{{efn|『アマダ トレーディングコレクション 仮面ライダー V3・X編 042 カマクビガメ』}})の改造人間。口から毒ガス{{efn|書籍によっては'''デストロンガス'''{{R|V3大全4}}と記述している。}}を吐き{{R|怪人大全集74}}、子亀爆弾が武器。また、首を長く伸ばしたり、1トン近くまで体重を増加させることが可能。 : デストロンを脱走した結城やその助手を追い、助手たちを皆殺害した。V3とライダーマンとの戦闘では、V3を丸呑みして優勢に立つが、V3脱出パワーによって体内から破壊され、爆死する。 :{{Clear}} :{{キャラスペック |名称=サイタンク |身長=158{{nbsp}}cm{{R|V3大全4}} |体重=90{{nbsp}}kg{{R|V3大全4}} |出身地=ネパール{{R|V3大全4}} |弱点=角{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} ; サイタンク : 第45話と第46話に登場。サイの改造人間。500トンのものを持ち上げる怪力{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}}と、両肩の相手を消し去る角と発射することが可能な頭部の大角が武器。最新の必殺技「V3マッハキック」すらはね返す剛強怪人。 : ブラックサンタに化け、優秀な子どもたちを攫い、デストロンの幹部候補生の養成が使命。頭部の角をV3キックで折られ、ロープアームで身体を絡め取られたところにV3きりもみキックを受け、爆死。 :* パチンコ『仮面ライダーフルスロットル』では、闇のライダーマンに変身する素体として登場{{R|名前なし-1}}。 :* 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの怪人として登場{{R|GOONDMM}}。 : :{{キャラスペック |名称=シーラカンスキッド |身長=180{{nbsp}}cm{{R|V3大全4}} |体重=80{{nbsp}}kg{{R|V3大全4}} |出身地=アフリカ東海岸{{R|V3大全4}} |弱点=鰓{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}} }} ; シーラカンスキッド : 第47話に登場。シーラカンスの改造人間。口から風船状の泡爆弾を吐き、指先からは催眠ガスを放つ。シーラカンスへの変身能力を持つ。剛腕を活かした鯖折りで相手を絞め殺す{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=365}}。 : 結城を捕え、にせ結城丈二およびデストロンライダーマンに変身し、少年仮面ライダー隊の本部に時限爆弾を仕掛けようとした。必殺きりもみキックを受け、爆死。 :; デストロンライダーマン{{R|怪人大全集76}}(にせライダーマン{{Sfn|キャラクター大全昭和編|2011|p=80}}) :: シーラカンスキッドがライダーマンの姿に変化した姿。その後、にせ結城丈二に変身した。右手から毒ガスを噴射する{{Sfn|V3大全|2001|p=174}}。 : :{{キャラスペック |名称=オニヒトデ |身長=170{{nbsp}}cm{{R|V3大全4}} |体重=102{{nbsp}}kg{{R|V3大全4}} |出身地=与那国島{{R|V3大全4}} |弱点=口{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=366}} }} ; オニヒトデ : 第48話に登場。ヒトデの改造人間。分裂し、敵の攻撃を無効化する能力や溶解液を吐く吸血ヒトデを操る能力を持つ。また、腹部にある口の牙で敵に噛み付いたり、巨大なヒトデへの変身能力を持つ。 : 東京都皆殺し作戦を実行した。首領の身辺警護のため、彼の潜伏する東都中央病院周辺に吸血ヒトデをばら撒くが、V3に計画が露呈してしまい、首領のいる特別室への侵入を許してしまう。そして、ライダーマンのネットアームで分裂による無効化を封じられ、V3三段キックを受けてガス状となって消滅。 : :{{キャラスペック |名称=カメレオン |身長=180{{nbsp}}cm{{R|V3大全4}} |体重=89{{nbsp}}kg{{R|V3大全4}} |出身地=メキシコ{{R|V3大全4}} |2名称=吸血カメレオン |2身長=180{{nbsp}}cm{{R|V3大全4}} |2体重=89{{nbsp}}kg{{R|V3大全4}} |2出身地=メキシコ{{R|V3大全4}} |弱点=目{{Sfn|VS怪人軍団|2001|p=366}} }} ; カメレオン : 第49話に登場。カメレオンの改造人間。改造人間の制御能力を狂わせるバタル弾を発射するバタルガンや周囲に同化する能力が武器。 : 結城を庇った志郎にバタル弾が命中したため、ジュンを利用して志郎を倒そうとするが、結城の治療によって全快したV3のV3きりもみキックを受け退散する。 :; 吸血カメレオン :: 第50話に登場。カメレオンが強化改造された姿。血を吸われた人間を吸血鬼化する能力が加わり、伸縮自在の吸血舌が武器で、口から吸血鬼化させる毒ガスを吐く。 :: 多くの子供たちの生き血を集める「新改造人間製造計画」が使命。みどり学園の子供を吸血鬼化させる。舌を抜かれた後、V3フル回転キックを受け、白い泡となって溶解する。 === デストロン戦闘員 === デストロンの主戦力である一般兵士。白いサソリ模様の黒い全身タイツ服と、ドクロをイメージした白い模様の黒いマスクを着用する{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=176-177|loc=「鉛筆描きデザイン画」}}。他人への変身能力もある。 3.0の視力、100メートルを9.8秒の走力、6倍のジャンプ力など常人の5倍の体力を持ち{{Sfn|カード図鑑|1997|p=233|loc=「No.237 戦闘員の能力」}}、ゲルショッカー戦闘員以上の戦力を誇る。 ショッカー時代と同様、デストロンバックルには自爆機能が内蔵されている。キバ男爵配下の戦闘員は上腕部に2本のキバが交差したマークが入っており、[[トーテムポール]]への変身も可能。ツバサ大僧正配下の戦闘員はこの装束の袖に長い[[フリンジ]]を装着しており、空を飛べる。 マスクの白い縁取りの目の部分が尖っていないタイプの戦闘員もいる{{R|怪人大全集76}}。左肩の部分のデザインが通常と異なる戦闘員も存在する。腰にはカッターナイフなどや毒矢、銃などの飛び武器を装着している場合がある。 用済みとなった戦闘員は処刑されたり、怪人などの実験台にされたりする。年齢を問わず能力の高い者はごく普通の男性が改造され、デストロンに拉致された男性が戦闘員に改造・脳改造されるなどして洗脳されている。改造の際には改造液を体内に注射して戦闘員化させるほか、洗脳して戦闘員化させることでデストロンに服従させる<ref group="ep">第3話など</ref>。『仮面ライダーV3カード』では、悪の細胞を培養して作り上げた人造人間と記述している{{Sfn|カード図鑑|1997|p=181|loc=「No.29 デストロンの戦闘員」}}。 * 放送開始前の第1回撮影会では、手袋とブーツが黄色であった{{R|OFM227|怪人大画報211}}。 ; デストロンレインジャー部隊 : V3抹殺のために特別に訓練された戦闘員のエリート部隊。「人間ザル」の異名を持つ{{Sfn|仮面ライダー昭和3|2016|p=18}}。服装は通常戦闘員との差異は見られない。第2部隊も存在し、警察官に変身して風見を襲った。 ; 科学者班(白戦闘員{{R|怪人大全集76}}、科学者戦闘員{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=61}}) : 黒いサソリ模様の白い全身タイツ服、赤い模様の白マスク、すその長い診察衣(白衣)を着用している。しかし、診察衣を着用しない場合やデストロンベルトを着用しない場合がある。スカウト、人質脅迫、金銭報酬などで集められており、優秀な科学者やその助手で構成されている。組織の頭脳を担う彼らには能力の低下を懸念して洗脳手術は免除されている。そのため、組織の非道な行いを看過できずに造反する者も少なからず現れていた。 : 結城丈二はここの筆頭的存在であり、助手も何人かマスクを脱いで素顔で登場した。当時の児童書<ref>『[[テレビマガジン]]』1974年2月号、26 - 27頁の特写スチール。</ref>では、結城がタイホウバッファローを製造しているカットも存在する。 ; 女戦闘員 : 敵の陽動や拉致などの補助的な任務を遂行。第41話のみ戦闘に参加した。 : 第41話では黒のレオタード姿に赤い[[パレオ]]を着用していたが、第49話でデストロンに拉致された少女ジュンは、通常戦闘員と同様の黒タイツ姿で登場した後、風見に助け出される。 ; レーサー地獄部隊 : 一流のレーサーが改造液を注入され、戦闘員として洗脳されたオートバイ部隊。普段はレース・ウエアに身を包んでいるが、戦闘時に戦闘員の姿となる。人工衛星用の核物質を強奪する。還元液によって元の姿に戻る。 ; 首領親衛隊(親衛隊員{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=101}}) : 首領の身辺を警護するエリート部隊。軍服を着用、通常戦闘員と同じマスクの上に制帽をかぶる。第48、51、52話に登場。 ; 幹部 : 黒ずくめの三角頭巾に長衣を着用した一団。第1話での本郷の[[生前葬]]やデストロンパーティーに参加している。また、デストロン裁判での結城の処刑決議時には、同様の衣装を纏った最高幹部が登場している。 ; その他の作品での登場 :; 『[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]』 :: 大ショッカーの戦闘員として登場。同作品では[[ショッカー戦闘員]]も大ショッカーの戦闘員として登場している。 :; 『[[仮面ライダーオーズ/OOO]]』 :: 第28話(仮面ライダーシリーズ通算1,000回記念話)で、元ショッカー戦闘員・千堂院の欲望から生み出された戦闘員軍団に混じって登場している。正体はヤミー(『オーズ』の怪人)。 == キャスト == === レギュラー === * 風見志郎 / 仮面ライダーV3 - [[宮内洋]] * [[立花藤兵衛]] - [[小林昭二]] * 珠純子 - [[小野ひずる]] * 珠シゲル - [[川口英樹]](4話 - 52話) === 準レギュラー === * ドクトル・ゲー - [[千波丈太郎]](13話 − 30話) * キバ男爵 - [[郷えい治|郷鍈治]](31話 - 35話) * ツバサ大僧正 - [[富士野幸夫|富士乃幸夫]](35話 - 40話)<ref group = "C">第35話はノンクレジット。</ref> * ヨロイ元帥 - [[中村文弥]](40話 - 52話)<ref group = "C">第40話はヨロイ元帥役としてはノンクレジット(大野剣友会メンバーとしてのみクレジット)。</ref> * 佐久間ケン - [[川島健]](29話 - 32話、35話、36話)<ref group = "C">第30話までのオープニング表記は「佐久間健」。第33・34話にもクレジットされたが、登場なし。</ref> * [[仮面ライダー1号|本郷猛 / 仮面ライダー1号]] - [[藤岡弘、|藤岡弘]](1話、2話、33話、34話){{efn|name="12gou"|この他、第21話で声のみの出演。}} * [[仮面ライダー2号|一文字隼人 / 仮面ライダー2号]] - [[佐々木剛]](1話、2話、33話、34話){{efn|name="12gou"}} * 結城丈二 / [[ライダーマン]] - [[山口豪久|山口暁]](43話 - 51話) === 声の出演 === * ナレーター - [[中江真司]] * デストロン首領 - [[納谷悟朗]] === 主なゲスト出演者 === ※参考文献:『仮面ライダー大図鑑(3)』([[バンダイ]]・1991年)、『仮面ライダーV3大全』([[双葉社]]・2001年) * 風見達治{{efn|name="noname"|クレジットでは役名未表記。}} - [[加賀邦男]] (1話) * 風見綾{{efn|name="noname"}} - [[真咲美岐]] (1話) * 風見雪子{{efn|name="noname"}} - 関口英利子 (1話、50話) * 作業員{{efn|name="noname"}} - [[篠田薫|篠田敏夫]] (1話) * 敏夫 - 石井政幸 (4話) * 村山博士 - [[山岡徹也]] (5話) * 西崎道子 - [[前田通子]] (5話、6話) * 西崎ツトム - 小松陽太郎 (5話、6話) * 堀川守 - [[伍代参平|藤江喜幸]] (5話、6話) * 堀川節子 - 村井美恵 (6話) * 河井三郎 - [[池田忠夫]] (7話、8話) * 河井タダシ - 染谷利貴 (7話、8話) * 京子 - [[真木沙織]] (7話、8話) * 中原博士 - [[杉山俊夫]] (11話) * 犬神博士 - [[花巻五郎]] (11話、12話) * 陽子 - 田所陽子 (13話) * ドライバー - [[奥村公延]] (13話) * ジョージ・カマモト - [[団巌]] (14話) * 岡島博士 - [[有馬昌彦]] (15話) * 岡島珠美 - 泉陽子 (15話) * 井村耕作 - [[宇南山宏]] (16話) * 高瀬ユリ子 - [[堀越陽子|堀越光恵]] (17話、18話) * 市村明雄 - 堀部隆一 (17話、18話) * 佐々木 - 川上大輔 (17話、18話) * 中村有三 - [[長沢大]] (19話) * 深沢秀雄 - [[二瓶秀雄]] (20話、21話) * 塚本 - [[斉藤真]] (20話) * 健一 - 石井政幸 (20話、21話) * 健一の姉 - [[森桃江]] (20話、21話) * 早瀬タカオ - 皆川良光 (22話) * 黒田幸子 - [[丘野かおり|山田圭子]] (23話) * 老婆・しげ - [[田中筆子]] (24話) * 大里博士 - [[上田忠好]] (24話) * 工藤健二 - 奥野建明 (25話) * 工藤俊一 - [[高島稔]] (25話) * 登山パーティー - 山田貴光、[[川島一平|木下陽夫]]、[[新海丈夫]] (25話) * [[死神博士]] - [[天本英世]] (27話、28話) * [[ゲルショッカー#ブラック将軍|ブラック将軍]] - [[丹羽又三郎]] (27話、28話) * [[ゾル大佐]] - [[宮口二郎]] (27話、28話) * [[地獄大使]] - [[潮健児]] (27話、28話) * 伊藤正太郎 - 渡辺一矢 (27話) * 伊藤正一 - 鈴木志郎 (27話) * 医師 - [[河合絃司|河合弦司]] (27話) * 田所 - [[田島義文]] (29話、30話) * デストロンハンター - [[高田拓土彦|高田裕史]]〈4号〉(29話)、[[山西道広]]〈1号〉(30話) ほか * 宮田トシ子 - [[斉藤浩子]] (31話) * トシ子の両親 - 長沢大、[[上田みゆき (声優)|上田みゆき]] (31話) * 伊藤 - [[中井啓輔]] (32話) * 寒川博士 - [[三島耕]] (33話) * 寒川弓子 - [[早川絵美|菅沢恵美子]] (33話) * 魔女スミロドーン - 山崎知子 (34話) * 宮本経済長官 - 湊俊一 (35話) * 中田科学局長 - [[南川直]] (35話) * 井沢局長 - 河合弦司 (36話) * 田村昭景 - [[見明凡太朗]] (37話) * カヨ子 - 乗附登志子 (37話) * 学者 - 団巌 (37話) * 安藤 - 平凡太郎 (38話) * 安藤ツヨシ - 小塙謙士 (38話) * 山田正子 - 津々井和枝 (39話) * 山田修一 - [[松田洋治]]<ref group = "C">オープニング表記は「松田洋二」。</ref> (39話) * 小川辰夫 - [[松坂雅治]] (40話) * 小川清志 - 奥野建明 (40話) * 山下喜作 - [[綾川志剛|綾川香]] (41話) * 山下ヨウコ - [[小沢友誉|小沢かおる]] (41話) * 山下ミツコ - 宮原由美 (41話) * 川田亜沙子 - 佐々木順子 (42話) * 川田美沙子 - [[芦川よしみ|粟屋芳美]] (42話) * 須藤 - 高田裕史<ref group = "C">オープニング表記は「高田裕」。</ref> (42話) * 片桐二郎 - 平野康 (43話) * 片桐幸江 - 井上真彩子 (43話、44話) * 津村ひろし - [[高橋仁]] (45話、46話) * 津村めぐみ - [[東啓子]] (45話、46話) * 津村定吉 - [[徳大寺伸]] (45話、46話) * マサト - 久保木利貴 (48話) * エツ子 - 駒沢とよこ (48話) * ジュン - [[北原和美]](49話) * 須藤健一 - 半藤浩 (50話) * 木村先生 - 服部マリ (50話) * 西岡保 - [[打田康比古]] (51話) * デストロン医師 - [[小倉雄三]] (51話) === スーツアクター === V3役は中屋敷鉄也が主に担当したが、第1話・第2話のみ前作から引き続き1号を演じた{{R|大全集154}}。 ライダーマン役はアクション以外の多くを変身前と同じく山口が演じ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集154|OFMKR9大野}}{{Sfn|宇宙船SPECIAL|1998|p=47}}}}、アクションでは数名が担当した{{efn|ヨロイ元帥役の[[中村文弥]]は、「ライダーマンはしょっちゅう顎の形が変わった」と証言している{{Sfn|大全集|1986|pp=158-161|loc=「大野剣友会座談会 私達も仮面ライダーでした・・・」}}。}}。 トランポリンは前作では[[ジャパンアクションエンタープライズ|JAC]]が担当したが、本作品以降は[[大野剣友会]]がトランポリンも担当することとなった{{R|大全集154}}。 * 仮面ライダーV3(メイン){{Refnest|group="出典"|{{R|Ohno|大全集154|OFMKR9大野}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/user/program/browse3.asp?Command=Old&StrNum=28&SID=144|title=仮面ライダーアギト 第28話|accessdate=2011-05-06}}</ref>}}、仮面ライダー1号(第1話・第2話){{R|大全集154|Ohno}} - [[中屋敷哲也|中屋敷鉄也]] * 仮面ライダーV3(第1話・第2話){{R|Ohno|大全集154}}、ライダーマン(スタント){{R|Ohno|OFMKR9大野}} - 中村祐 * 仮面ライダーV3(トランポリン){{R|大全集154}} - 佐藤巧 * ライダーマン(アップ){{R|Ohno|大全集154}} - [[山口豪久|山口暁]] * ライダーマン(スタント){{Refnest|group="出典"|{{R|Ohno|大全集154|OFMKR9大野}}}}、仮面ライダー2号{{Sfn|大全集|1986|pp=44、160}} - [[河原崎洋央|河原崎洋夫]] * ライダーマン(スタント){{R|Ohno}} - [[千代田恵介]] * 仮面ライダー1号<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.redactionclub.com/member/KazuoNiibori.html|title=新堀和男|publisher=株式会社レッド・エンタテインメント・デリヴァー|accessdate=2011-04-27}}</ref>、ライダーマン(スタント){{Refnest|group="出典"|{{R|Ohno|大全集154|OFMKR9大野}}}}、怪人{{efn|ハリフグアパッチ{{R|怪人大全集64}}、ウォーターガントド{{efn|書籍『仮面ライダー怪人大全集』では、岡田勝と記述している{{R|怪人大全集66}}。}}}}{{R|Ohno}} - [[新堀和男]] * 怪人{{efn|カメバズーカ{{R|怪人大全集56}}、テレビバエ{{R|怪人大全集56}}、イカファイア{{efn|書籍『仮面ライダー怪人大全集』では、池田力也と記述している{{R|怪人大全集56}}。}}、マシンガンスネーク{{R|怪人大全集58}}、ハンマークラゲ{{R|怪人大全集58}}、ナイフアルマジロ{{R|怪人大全集58}}、レンズアリ{{R|怪人大全集60}}、ピッケルシャーク{{R|怪人大全集60}}、ジシャクイノシシ{{R|怪人大全集60}}、バーナーコウモリ{{R|怪人大全集63}}、ミサイルヤモリ{{R|怪人大全集63}}、クサリガマテントウ{{R|怪人大全集64}}、ギロチンザウルス{{R|怪人大全集64}}、ウォーターガントド{{R|怪人大全集66}}、プロペラカブト{{R|怪人大全集66}}、ゴキブリスパイク{{R|怪人大全集66}}、カマキリメラン{{R|怪人大全集66}}、ヒーターゼミ{{R|怪人大全集66}}、ワナゲクワガタ{{R|怪人大全集68}}、カメラモスキート{{R|怪人大全集68}}、カニレーザー{{R|怪人大全集68}}、ドクロイノシシ{{R|怪人大全集70}}、オニビセイウチ{{R|怪人大全集70}}、吸血マンモス{{R|怪人大全集70}}、火焔コンドル{{R|怪人大全集72}}、コダマムササビ{{R|怪人大全集72}}、ドクガーラ{{R|怪人大全集72}}、バショウガン{{R|怪人大全集72}}、死人コウモリ{{R|怪人大全集72}}、ガルマジロン{{R|怪人大全集74}}、カタツブラー{{R|怪人大全集74}}、カマクビガメ{{R|怪人大全集74}}、サイタンク{{R|怪人大全集74}}、シーラカンスキッド{{R|怪人大全集76}}、オニヒトデ{{R|怪人大全集76}}、カメレオン{{R|怪人大全集76}}、ザリガーナ{{R|怪人大全集76}}。}}{{R|Ohno|大全集154}} - [[岡田勝]] * ハサミジャガー{{R|怪人大全集56}} - 小林貞夫 * ライダーマン{{R|特撮全史}}、怪人{{Sfn|大全集|1986|p=60}}{{efn|イカファイア{{R|怪人大全集58}}、ノコギリトカゲ{{R|怪人大全集58}}、ドリルモグラ{{R|怪人大全集60}}、スプレーネズミ{{R|怪人大全集64}}、ドクバリグモ{{R|怪人大全集66}}。}} - 池田力也 * カミソリヒトデ{{R|怪人大全集60}} - 石塚信之 * ガマボイラー{{R|怪人大全集63}}、原始タイガー{{R|怪人大全集70}} - 中村文弥 * ユキオオカミ{{R|怪人大全集70}} - 渋谷秀美 == スタッフ == 『V3』制作当時の[[東映生田スタジオ|生田スタジオ]]は多数の作品を手がけるようになり、監督陣は流動的であった{{R|71-84生田}}。メイン監督の山田稔は第31話・第32話と第41話・第42話も担当する予定であったが、実際には第27話・第28話を最後に『[[イナズマン]]』へと移動した{{R|71-84生田}}。奥中惇夫は第3話・第4話を担当したのみで『[[ロボット刑事]]』へ、前半のローテーションを担った田口勝彦は『[[どっこい大作]]』へとそれぞれ移動している{{R|71-84生田}}。後半は『ロボット刑事』を終えた内田一作と折田至がメインを務めた{{R|71-84生田}}。 第9話・第10話の脚本は、映画『[[不良番長]]』シリーズの監督である内藤誠とその助監督である佐伯俊道が共同執筆した{{R|昭和3内藤}}。内藤は息子が仮面ライダーのファンであったことや、テレビドラマ『[[ゴールドアイ]]』で宮内洋がゲスト出演した回の監督を務めていたことなどから、プロデューサーの平山亨や阿部征司に執筆を申し出た{{R|昭和3内藤}}。 第49話の脚本は助監督の長石多可男が担当した{{R|OFMKR6長石}}。このストーリーは、長石が他の助監督らと生田スタジオに泊まりこんだ際に酒の席で挙がった話が基になっている{{R|OFMKR6長石}}。 * 原作 - [[石ノ森章太郎|石森章太郎]] * 連載 - [[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]]、[[テレビマガジン]]、[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]、[[おともだち]]、[[テレビランド]] * 企画 - [[平山亨]]、[[阿部征司]] * 脚本 - [[伊上勝]]、[[鈴木生朗]]、[[島田真之]]、[[内藤誠|内藤まこと]]、[[佐伯俊道]]、[[滝沢真理]]、[[塚田正熙]]、海堂肇{{efn|平山と阿部の共同筆名である。}}、[[長石多可男]]、平山公夫 * 音楽 - [[菊池俊輔]] * 監督 - [[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]、[[奥中惇夫]]、[[塚田正煕]]、[[田口勝彦 (監督)|田口勝彦]]、[[折田至]]、[[内田一作]] * 技斗 - [[高橋一俊]](大野剣友会) * 撮影 - 川崎龍治、原秀夫 * 照明 - 太田耕治 * 美術 - [[八木功]]・島田定信([[エキスプロダクション]]) * 仕上音響 - 映広音響 * 録音 - 太田克己 * 編集 - [[菅野順吉]]、池原文雄、武中昭世 * 選曲 - 武田正彦 * 効果 - 協立効果 * 記録 - 増田美代子、紀志一子 * 助監督 - 長石多可男、福島孔道、高橋正治、鈴木隆志、平山公夫、梅田味伸 * 進行主任 - 大里俊博、大竹昭男、伊藤隆造、斉藤正勝、古泉雅 * 制作担当 - 佐久間正光 * 衣裳 - 東京衣装 * 現像 - [[東映ラボ・テック|東映化学]] * トランポリン - 三隅修 (JAC)、佐藤巧(大野剣友会) * オートバイ協力 - [[スズキ (企業)|鈴木自動車]] * 制作 - [[毎日放送]]、[[東映]] == 音楽 == === 主題歌 === ==== オープニングテーマ ==== ; 「[[戦え! 仮面ライダーV3]]」<ref group="C">番組テロップでは「斗え! 仮面ライダーV3」。</ref> : 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:宮内洋、ザ・スウィンガーズ (SCS-192) : オープニング映像はライダーマン編となる第43話から全面変更されたが、結城丈二 / ライダーマンに関する描写はなかった{{Sfn|OFM8|2004|p=27|loc=「特集 OP&EDグラフィティー 90秒にこめられたシリーズの“顔”」}}。この他にも初期話数において、細かなマイナーチェンジが行われている。 ==== エンディングテーマ ==== ; 「[[戦え! 仮面ライダーV3#収録曲|少年仮面ライダー隊の歌]]」(第1話 - 第42話) : 作詞:[[八手三郎]] / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:[[水木一郎]]、[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]] (SCS-192) : ; 「走れハリケーン」(第43話 - 最終話)<ref group = "C">第43・44話までのクレジットは「少年仮面ライダー隊の歌」。</ref> : 作詞:能見佐雄 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:[[子門真人]]、コロムビアゆりかご会(KKS-4076) : 作詞の能見佐雄は、毎日放送プロデューサー左近洋一の変名である{{R|OFM430}}。原稿では石井照子との連名であった{{R|OFM430}}。 === 挿入歌 === オープニングとエンディング同様、作・編曲はすべて菊池俊輔。「デストロン讃歌」、「V3のマーチ」、「V3アクション」、「仮面ライダー讃歌」の冒頭には効果音とセリフが入っている。ライダーマンのテーマ「ぼくのライダーマン」は本作品の劇中でも使用されたが、『仮面ライダーV3』の[[LPレコード]](KKS-4076)はすでに発売されていたため、次作『[[仮面ライダーX]]』のLPに収録された。 ; 「仮面ライダー讃歌」 : 作詞:[[平山亨|田中守]]、[[丘灯至夫]] / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人 : ; 「不死身の男」 : 作詞:島田真之、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:水木一郎 : ; 「V3アクション」(第52話) : 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人 : ; 「V3の一人歌」 : 作詞:田中守、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:水木一郎 : ; 「V3のマーチ」 : 作詞:伊上勝、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:水木一郎、コロムビアゆりかご会 : ; 「デストロン讃歌」 : 作詞:土井信 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:日本合唱協会 : ; 「V3の子守唄」 : 作詞:中瀬当一{{efn|阿部征司の筆名である。}}、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:井上裕子 : ; 「ぼくらの仮面ライダーV3」 : 作詞:中瀬当一、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:コロムビアゆりかご会 : ; 「ぼくのライダーマン」(第51話) : 作詞:田中守 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:コロムビアゆりかご会 : 作詞は東映プロデューサー平山亨の変名である田中守名義となっているが、実際に作詞したのは平山の妻であった{{R|OFM430}}。平山の妻は作品はほとんど見ておらず、企画書からのインスピレーションで執筆したという{{R|OFM430}}。 == 制作 == === 企画経緯 === 仮面ライダー3号の登場は元々、「少年仮面ライダー隊の発足」や「ショッカーに代わる新組織登場」と併せ、前作の2年目後半の番組強化策として検討されていたものであり、当初は前作で1号・2号に協力していたFBI捜査官・滝和也がライダー3号となる予定だった{{R|3号1}}{{efn|プロデューサーの平山亨によるプロットでは、瀕死の重傷を負った滝を本郷猛が改造手術を行うというもので、本作品でのV3誕生経緯とほぼ同じものとなっている{{R|3号1}}。その他、3号は[[人造人間|アンドロイド]]とする案も存在した{{R|大全集138}}。3号登場案は本作品に先送りとなったが、この案を基にした仮面ライダー3号の登場する漫画が『[[たのしい幼稚園 (雑誌)|別冊たのしい幼稚園]]』1972年10月号に掲載された{{R|3号2}}。}}。だが、少年仮面ライダー隊が好評を得たことから3号登場案は温存され、次番組の主人公として違う人物がライダー3号として登場することとなり、次番組の第2話を『仮面ライダー』の第100話として捉えて前作を締めくくることとなった{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集138|特撮全史}}{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=125|loc=「新組織の出現」}}}}{{efn|本作品での4号ライダー登場案でも、平山は滝を4号として登場させる案を検討していた{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=127、193」}}。}}{{efn|お蔵入りになった「仮面ライダー3号」は、2015年に出自などの設定を大幅に変更し、映画『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号]]』に登場することとなった<ref>{{Cite web|和書|date=2014-12-14 |author=小松芙未 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0069062 |title=仮面ライダー3号が存在した!3・21ドライブと対面!- シネマトゥデイ |accessdate=2014-12-14}}</ref>。}}。 新番組として立ち上げられた『仮面ライダーV3』は、1号・2号の能力を併せ持つ仮面ライダーV3と動植物に機械を加えたデストロン怪人の対決という構図により番組の強化を体現し、「26の秘密」を巡る縦軸のストーリー展開や前後編形式の導入など、ドラマ性の拡大による前作との差別化にも重点が置かれた{{R|大全集140|71-84制作}}。その一方、前作に登場していた[[立花藤兵衛]]や少年仮面ライダー隊を継続して登場させることにより、前作からの連続性も維持している{{R|大全集140|71-84制作}}。 プロデューサーの[[平山亨]]による企画案では『マスクライダー』『ライダー仮面』『ライダーマン』{{R|71-84企画}}、その後の制作会議では『仮面ライダー3』『仮面ライダーX』{{R|大全集140}}{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=185|loc=「平山亨氏番組制作用ノート3」}}などのタイトルが検討されていた{{efn|このほか、『ウルトラライダー』『ライダーA』『新仮面ライダー』『ニュー仮面ライダー』『キングライダー』などの案が存在したとされる{{R|大全集140}}。}}。 競合番組の多い4月の改編期より前に新ヒーローを登場させて視聴者の支持を獲得したいという毎日放送の戦略により、改編期とは関係のない2月半ばに番組が開始されることとなった{{Sfn|怪人大画報|2016|pp=168-171|loc=「仮面ライダーを育てた三賢人II 運営の賢者 [[阿部征司]]」}}。 === 作品内容の変遷 === ; 第1話 - 第12話 : V3誕生編。「26の秘密」と呼ばれる必殺技や特殊能力を戦いの中で解き明かしていくという謎解きの展開、前作のゲルショッカーの「合成怪人」というコンセプトをさらに推し進めた機械と生物の合成による怪人との戦い、合成怪人が2体登場する前後編ストーリーが特徴{{Sfn|宇宙船SPECIAL|1998|pp=44、46}}{{R|71-84制作}}。 : しかし、V3の苦戦と「26の秘密」の解明につながるという展開が、'''V3は弱い'''というイメージを印象づけてしまうなどの問題が発生し、軌道修正が行われた{{R|大全集140}}{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=186、191}}。 : ; 第13話 - 第30話 : デストロン初代幹部・ドクトルGが登場する。合成怪人との戦いというコンセプトは変わらないが、「26の秘密」を解明する展開は削除され、2体の怪人が登場する前後編でのストーリー展開ではややテンポがダウンすることから、1体の怪人が登場する1話完結ストーリーが中心となる{{R|71-84夏|特撮全史}}{{efn|第17話・第18話、四国ロケ編の第20話・第21話は初期同様に2体の怪人による前後編である。}}。ドクトルGの存在感、劇場版と同時進行する第20話・第21話の[[四国]]ロケ、第19話と第22話の[[静岡県]]ロケ、劇場版での1号・2号との競演、第22話 - 第24話の怪談シリーズ、第27話・第28話での前作の大幹部たちの復活{{efn|本作品以降の仮面ライダーシリーズでも歴代ライダー客演はしばしばあるが、前作の大幹部たちが復活して勢揃いするのは、仮面ライダーシリーズでは本作品のみである。}}、志郎のパートナー・佐久間ケンの登場など、多くのイベントが盛り込まれた。 : ; 第31話 - 第40話 : 視聴率にもかげりが見えてきたことで怪奇性の強化を図るべく、デストロンと結託した怪人部族の長であるキバ男爵とツバサ大僧正を登場させた。それぞれ5話ずつ短期間の登場となったのは、タイアップしている月刊幼年誌向けに月1回話題を提供する意図による。これに伴い、怪人コンセプトも合成怪人から単一の生物怪人に戻しているが、各部族ごとに特徴を大きく取り上げると共に、呪術的な意味合いを加えていた。短期間内の幹部怪人との決戦、1号・2号・V3の共闘(第33話・第34話)、原点を見直す意図による前作エピソードのリメイク(第39話 - 第42話){{R|71-84部族}}など、様々な試みが行われた時期でもある。 : ; 第41話 - 第52話 : 怪人部族との結託は一段落し、最後の大幹部・ヨロイ元帥の登場によってデストロンのイメージは初期に近くなる。さらに、ヨロイ元帥の陰謀によってデストロンを追われた元科学者という過去を持つサブヒーロー・[[ライダーマン]]こと'''結城丈二'''の登場による三つ巴のドラマなど、最後まで多くの話題が提供され続けた。 === 撮影 === [[仮面ライダーV3 (キャラクター)|風見志郎]]を演じた[[宮内洋]]が後年にインタビューで語ったところによれば、撮影で使用した火薬の量は彼の要望もあって前作の3倍に及んだうえ、四国のとある島で使用した際には「爆発で島にヒビが入った」と観光協会から、神奈川県の海中で使用した際には「爆発のせいで魚がいなくなる」と漁業組合から、それぞれクレームがあった。そのため、スタッフは年中謝っていた<ref>[https://web.archive.org/web/20161116153219/https://news.walkerplus.com/article/92709/ 「仮面ライダーV3」秘話を宮内洋が激白!爆発で島にヒビが入った!!] - NewsWalker</ref>。 {{see also|仮面ライダーV3対デストロン怪人#概要}} == 放送日程 == {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:smaller;" border="1" |- !放送日!!放送回!!サブタイトル!!登場怪人およびゲスト仮面ライダー!!脚本!!監督 |- |style="text-align:right;"|1973年{{0}}2月17日 |1 |ライダー3号 その名はV3! |align="left" rowspan="2"| * ハサミジャガー(人間態(神父) - [[永井柳太郎 (俳優)|永井柳太郎]] / 声 - [[沢りつお]]) * カメバズーカ(声 - [[峰恵研]]) * 仮面ライダー1号 * 仮面ライダー2号 |rowspan="4"|伊上勝 |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align:right;"|2月24日 |2 |ダブルライダーの遺言状 |- |style="text-align:right;"|3月{{0}}3日 |3 |死刑台のV3 |align="left" rowspan="2"| * テレビバエ(人間体(関三郎) - 山田禅二 / 声 - 沢りつお) * イカファイア(声 - [[八代駿]]) |rowspan="2"|奥中惇夫 |- |style="text-align:right;"|3月10日 |4 |V3の26の秘密!? |- |style="text-align:right;"|3月17日 |5 |機関銃を持ったヘビ人間! |align="left" rowspan="2"| * マシンガンスネーク(声 - [[辻村真人]])<ref group="C">オープニング表記は'''辻真人'''。</ref>(第5話) * ハンマークラゲ(人間態 - 河合弦司 / 声 - 峰恵研) |rowspan="2"|鈴木生朗 |rowspan="2"|塚田正煕 |- |style="text-align:right;"|3月24日 |6 |ハンマークラゲ出現! 放て、V3の必殺わざ!! |- |style="text-align:right;"|3月31日 |7 |ライダーV3 怒りの特訓 |align="left" rowspan="2"| * ナイフアルマジロ(人間体(山本) - 内田嵐 / 声 - [[山下啓介]]) * ノコギリトカゲ(人間態(謎の女) - アイ・モニカ / 声 - [[沼波輝枝]]) |rowspan="2"|島田真之 |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align:right;"|4月{{0}}7日 |8 |危しV3! 迫る電気ノコギリの恐怖 |- |style="text-align:right;"|4月14日 |9 |デストロン地獄部隊とは何か!? |align="left" rowspan="2"| * レンズアリ(人間態(屋敷の主) - 北九州男 / 声 - 辻村真人) * カミソリヒトデ(声 - [[市川治]]{{efn|書籍『仮面ライダー怪人大全集』では、八代駿と記述している{{R|怪人大全集60}}。}}) |rowspan="2"|内藤まこと<br />佐伯俊道 |rowspan="2"|田口勝彦 |- |style="text-align:right;"|4月21日 |10 |ダブル・タイフーンの秘密 |- |style="text-align:right;"|4月28日 |11 |悪魔の爪がV3をねらう!! |align="left" rowspan="2"| * ピッケルシャーク(声 - 八代駿)<ref group="C">第11話のみオープニング表記なし。</ref> * ドリルモグラ(人間体(黒田雄二) - 高山彰 / 声 - [[西崎章治]]) |rowspan="2"|鈴木生朗 |rowspan="2"|塚田正煕 |- |style="text-align:right;"|5月{{0}}5日 |12 |純子が怪人の花嫁に!? |- |style="text-align:right;"|5月12日 |13 |恐怖の大幹部 ドクトル・ゲー!? |align="left"| * ジシャクイノシシ(人間態(吉村秀夫) - 練木二郎 / 声 - 峰恵研) |rowspan="3"|伊上勝 |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align:right;"|5月19日 |14 |ダブルライダー 秘密のかたみ |align="left"| * ガマボイラー(声 - 沢りつお) |- |style="text-align:right;"|5月26日 |15 |ライダーV3 死の弱点!! |align="left"| * バーナーコウモリ(人間態(怪しい男) - [[中田博久]] / 声 - 八代駿) |rowspan="2"|塚田正煕 |- |style="text-align:right;"|6月{{0}}2日 |16 |ミサイルを背おったヤモリ怪人! |align="left"| * ミサイルヤモリ(声 - 辻村真人) |鈴木生朗 |- |style="text-align:right;"|6月{{0}}9日 |17 |デビルスプレーは死神の武器 |align="left" rowspan="2"| * スプレーネズミ(人間態(神父) - 鈴木志郎 / 声 - 山下啓介) * クサリガマテントウ(人間態 - [[達純一]] / 声 - 沢りつお) |rowspan="2"|島田真之 |rowspan="2"|田口勝彦 |- |style="text-align:right;"|6月16日 |18 |悪魔の裏切り あやうしV3! |- |style="text-align:right;"|6月23日 |19 |ハリフグアパッチの魚雷作戦!! |align="left"| * ハリフグアパッチ(声 - 沢りつお){{refnest|group="C"|オープニング表記は八代駿で{{R|怪人大全集64}}、ウォーターガントドと出演回が入れ替わる形で登場。}} |滝沢真理 |塚田正煕 |- |style="text-align:right;"|6月30日 |20 |デストロン四国占領作戦 |align="left" rowspan="2"| * ギロチンザウルス(声 - 辻村真人) * ドクバリグモ(人間態 - [[中屋敷哲也|中屋敷鉄也]] / 声 - 西崎章治) |rowspan="2"|伊上勝 |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align:right;"|7月{{0}}7日 |21 |生きていたダブルライダー |- |style="text-align:right;"|7月14日 |22 |恐怖のキャンプ 地底運河のなぞ! |align="left"| * ウォーターガントド(声 - 八代駿){{refnest|group="C"|オープニング表記は沢りつお{{R|怪人大全集66}}。ハリフグアパッチと出演回が入れ替わる形で登場。}} |島田真之<br />塚田正煕 |塚田正煕 |- |style="text-align:right;"|7月21日 |23 |恐怖! 墓場から来た吸血男 |align="left"| * プロペラカブト(人間体(黒田狂一) - [[中山克己]] / 声 - 八代駿) |鈴木生朗 |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align:right;"|7月28日 |24 |怪奇! ゴキブリ屋敷!! |align="left"| * ゴキブリスパイク(人間態(伍木) - [[山下則夫]] / 声 - 辻村真人) |滝沢真理 |- |style="text-align:right;"|8月{{0}}4日 |25 |怪奇!! デストロンレインジャー部隊 |align="left"| * カマキリメラン(声 - 峰恵研) |rowspan="8"|伊上勝 |rowspan="2"|塚田正煕 |- |style="text-align:right;"|8月11日 |26 |怪人ヒーターゼミのミイラ作戦!! |align="left"| * ヒーターゼミ(人間態(田口晴美) - [[水木正子]] / 声 - 市川治) |- |style="text-align:right;"|8月18日 |27 |生きかえったゾル・死神・地獄・ブラック |align="left" rowspan="2"| * ワナゲクワガタ(人間態A - 稲川善一、人間態B - 中屋敷鉄也 / 声 - 八代駿) * 再生4大幹部{{efn|OPクレジット登場順に、死神博士・ブラック将軍・ゾル大佐・地獄大使。}} * 再生ショッカー怪人{{efn|再生ドクダリアン(声 - 沢りつお)、再生シオマネキング(声 - 西崎章治)、再生イモリゲス(声 - 峰恵研)、再生ウニドグマ(声 - 辻村真人)}}{{refnest|group="C"|ドクダリアンのクレジット表記はドクダリヤン。}} |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align:right;"|8月25日 |28 |5大幹部の総攻撃!! |- |style="text-align:right;"|9月{{0}}1日 |29 |ドクトル・ゲー 最後の挑戦! |align="left"| * カメラモスキート(声 - 八代駿){{refnest|group="C"|オープニング表記は山下敬介(山下啓介){{R|怪人大全集68}}。}} |rowspan="2"|塚田正煕 |- |style="text-align:right;"|9月{{0}}8日 |30 |ドクトル・ゲー! 悪魔の正体は? |align="left"| * カニレーザー(声 - 沢りつお) * ドクロイノシシ |- |style="text-align:right;"|9月15日 |31 |呪いの大幹部 キバ男爵出現!! |align="left"| * ドクロイノシシ(声 - 沢りつお) |rowspan="2"|折田至 |- |style="text-align:right;"|9月22日 |32 |鬼火沼の怪 ライダー隊全滅!? |align="left"| * オニビセイウチ(声 - 八代駿) |- |style="text-align:right;"|9月29日 |33 |V3危うし! 帰って来たライダー1号、2号!! |align="left"| * ユキオオカミ(声 - 沢りつお) * 仮面ライダー1号 * 仮面ライダー2号 |rowspan="2"|鈴木生朗 |rowspan="2"|塚田正煕 |- |style="text-align:right;"|10月{{0}}6日 |34 |危機一発! キバ男爵対三人ライダー!! |align="left"| * 原始タイガー{{refnest|group="C"|オープニング表記はスミロドーン。}}(声:山下啓介){{refnest|group="C"|オープニング表記は市川治{{R|怪人大全集70}}。}} * 仮面ライダー1号 * 仮面ライダー2号 |- |style="text-align:right;"|10月13日 |35 |キバ男爵 最後の変身 |align="left"| * 吸血マンモス(声 - 峰恵研) |rowspan="2"|伊上勝 |rowspan="2"|内田一作 |- |style="text-align:right;"|10月20日 |36 |空の魔人 ツバサ軍団 |align="left"| * 火焔コンドル(人間態(修行僧) - [[佐藤京一]] / 声 - [[倉口佳三]]) |- |style="text-align:right;"|10月27日 |37 |怪しの寺 ムササビ族の呪い! |align="left"| * コダマムササビ(声 - 沢りつお) |滝沢真理 |rowspan="2"|折田至 |- |style="text-align:right;"|11月{{0}}3日 |38 |子連れV3 死のスカイダイビング! |align="left"| * ドクガーラ{{refnest|group="C"|オープニング表記は殺人ドクガーラ。}}(声 - 辻村真人) |鈴木生朗 |- |style="text-align:right;"|11月10日 |39 |人喰い植物 バショウガンの恐怖!!{{efn|『仮面ライダー』第4話「人食いサラセニアン」のリメイク{{R|怪人大全集72}}。}} |align="left"| * バショウガン(声 - 山下啓介) |rowspan="4"|海堂肇 |rowspan="2"|内田一作 |- |style="text-align:right;"|11月17日 |40 |必殺! V3マッハキック!!{{efn|『仮面ライダー』第31話「死斗(しとう)!ありくい魔人アリガバリ」のリメイク{{R|怪人大全集72}}。}} |align="left"| * 死人コウモリ(声 - 辻村真人) |- |style="text-align:right;"|11月24日 |41 |あッ! 人間が溶ける! ヨロイ元帥登場{{efn|『仮面ライダー』第3話「怪人さそり男」のリメイク{{R|怪人大全集74}}。}}{{efn|サブタイトル画面で元帥を元師と誤記。}} |align="left"| * ガルマジロン(人間体(高木裕介) - [[三井恒]] / 声 - 西崎章治) |rowspan="2"|折田至 |- |style="text-align:right;"|12月{{0}}1日 |42 |カタツムリ人間の人体実験!{{efn|『仮面ライダー』第2話「恐怖蝙蝠男」のリメイク{{R|怪人大全集74}}。}} |align="left"| * カタツブラー(声 - 沢りつお){{refnest|group="C"|オープニング表記は辻村真人{{R|怪人大全集74}}。}} |- |style="text-align:right;"|12月{{0}}8日 |43 |敵か味方か? 謎のライダーマン |align="left" rowspan="2"| * カマクビガメ(人間態、怪人体の声 - [[槐柳二]]) |rowspan="2"|伊上勝 |rowspan="2"|内田一作 |- |style="text-align:right;"|12月15日 |44 |V3対ライダーマン |- |style="text-align:right;"|12月22日 |45 |デストロンのXマスプレゼント |align="left" rowspan="2"| * サイタンク(人間態(ブラックサンタ) - 藤沢陽二郎 / 声 - 西崎章治) |rowspan="2"|鈴木生朗 |rowspan="4"|折田至 |- |style="text-align:right;"|12月29日 |46 |ライダーマンよ どこへゆく? |- |style="text-align:right;"|1974年{{0}}1月{{0}}5日 |47 |待ち伏せ! デストロン首領!! |align="left"| * シーラカンスキッド(声 - 沢りつお) ** デストロンライダーマン(演 - [[山口豪久|山口暁]]) |伊上勝 |- |style="text-align:right;"|1月12日 |48 |見た! デストロン首領の顔!! |align="left"| * オニヒトデ(声 - 八代駿) |海堂肇 |- |style="text-align:right;"|1月19日 |49 |銃声一発! 風見志郎倒る!! |align="left"| * カメレオン(人間態(紳士風の男) - 石川敏 / 声 - 山下啓介) |長石多可男 |rowspan="4"|内田一作 |- |style="text-align:right;"|1月26日 |50 |小さな友情 |align="left"| * 吸血カメレオン{{refnest|group="C"|オープニング表記はカメレオン。}}(声 - 山下啓介) |平山公夫 |- |style="text-align:right;"|2月{{0}}2日 |51 |ライダー4号は君だ!! |align="left"| * ザリガーナ(声 - 沢りつお) |rowspan="2"|鈴木生朗 |- |style="text-align:right;"|2月{{0}}9日 |52 |デストロン最後の日 |align="left"| * ザリガーナ * デストロン首領 * 再生怪人{{efn|再生オニビセイウチ(声 - 八代駿)、再生バショウガン(声 - 西崎章治)、再生死人コウモリ(声 - 山下啓介)。}} |} == ネット局・放送時刻 == === 同時ネット局 === * [[毎日放送]]('''制作局''') * [[北海道テレビ放送|北海道テレビ]] * [[テレビ朝日|NETテレビ]] * [[名古屋テレビ放送|名古屋放送]](1973年4月から) * [[広島ホームテレビ]] * [[九州朝日放送]] === 時差ネット局 === * [[青森放送]]:金曜 18時 - 18時30分(1973年3月)→ 金曜 17時55分 - 18時25分(1973年4月から)<ref>『河北新報』1973年3月9日 - 9月7日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[IBC岩手放送|岩手放送]]:土曜 18時 - 18時30分(1974年4月6日まで)→ 水曜 18時 - 18時30分(1974年4月10日から)<ref>『河北新報』1973年9月29日 - 1974年4月24日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[秋田放送]]:金曜 19時 - 19時30分 → 日曜 18時00分 - 18時30分<ref>『河北新報』1973年7月20日 - 9月7日付朝刊、テレビ欄。『秋田魁新報』1974年7月7日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[山形放送]]:月曜 17時30分 - 18時<ref>『河北新報』1973年3月12日 - 9月3日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[東北放送]]:日曜 9時 - 9時30分<ref>『福島民報』1973年3月11日 - 1974年3月3日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[福島テレビ]]:木曜 19時 - 19時30分<ref>『福島民報』1973年5月24日 - 1974年5月16日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[山梨放送]]:土曜 18時 - 18時30分 * [[新潟放送]]:日曜 10時 - 10時30分<ref>『富山新聞』 1973年5月6日付朝刊テレビ欄より。</ref> * [[長野放送]]:水曜 18時 - 18時30分<ref>『[[信濃毎日新聞]]』1974年1月16日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[テレビ静岡]]:土曜 19時 - 19時30分 * [[石川テレビ放送]]:火曜 18時 - 18時30分<ref>『北國新聞』1973年6月5日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[北日本放送]]:月曜 - 金曜 17時50分 - 18時20分<ref>『北國新聞』 1974年3月4日 - 3月8日付朝刊テレビ欄より。</ref> * [[福井テレビジョン放送]]:月曜 18時 - 18時30分 * [[名古屋テレビ放送|名古屋放送]]:日曜 19時 - 19時30分(1973年3月まで) * [[山陰放送]]:火曜 18時 - 18時30分 * [[岡山放送]]:土曜 17時 - 17時30分 * [[山口放送]] :木曜 18時 - 18時30分 * [[四国放送]]:木曜 18時 - 18時30分 * [[瀬戸内海放送]]:金曜 19時 - 19時30分 * [[テレビ愛媛|愛媛放送]]:火曜 18時 - 18時30分 * [[高知放送]]:土曜 18時 - 18時30分 * [[長崎放送]]:火曜 18時 - 18時30分 * [[熊本放送]]:月曜 18時 - 18時30分 * [[テレビ大分]]:日曜 10時 - 10時30分 * [[宮崎放送]]:水曜 18時 - 18時30分 * [[南日本放送]]:月曜 18時 - 18時30分 * [[沖縄テレビ放送]]:火曜 19時30分 - 20時 == 関連商品 == {{節スタブ|date=2015年7月}} ; カルビースナック 仮面ライダーV3 :{{Main|仮面ライダースナック}} ; 仮面ライダーV3カレー : [[理研ビタミン]]から発売された[[レトルトカレー]]であり、初のテレビキャラクターを用いたカレー商品であるとされる{{R|71-84カレー}}。切手を模したシール'''V3切手'''が封入された{{R|71-84カレー}}。 == 他媒体展開 == 各キャラクターの詳細などについては、登場人物の節や各登場人物の項目([[仮面ライダーV3 (キャラクター)]]や[[ライダーマン]]など)を参照。 === 映像ソフト化 === いずれも[[東映ビデオ]]より発売。 * ビデオ([[VHS]]、セル・レンタル共通)は全14巻がリリースされた。全話収録だが、当初は傑作選の予定だったため、収録順は放送順と一致していない。 * [[1993年]][[8月25日]]に[[レーザーディスク|LD]]-BOXが発売された。 * [[2000年]][[5月21日]]から[[9月21日]]にかけて単品のLDが発売された{{R|宇宙船YB}}。全7巻の各2枚組で各巻8話(Vol.7のみ1枚・4話)収録{{R|宇宙船YB}}。 * [[2002年]][[12月6日]]に[[DVD]]-BOXが発売された。 * [[2007年]][[10月21日]]から[[12月7日]]にかけて2007年10月公開の『仮面ライダー THE NEXT』の公開を記念して単品のDVDが発売された。全9巻で各巻6話(Vol.8、Vol.9は5話)収録。1 - 3、4 - 6、7 - 9はそれぞれ同時リリースされた。 * [[2008年]][[7月21日]]発売の「石ノ森章太郎 生誕70周年 DVD-BOX」に第1話が収録されている。 * [[2018年]][[4月11日]]から[[8月8日]]にかけて[[Blu-ray Disc|Blu-ray]] BOXが発売。 === 他テレビシリーズ === ; 『[[仮面ライダーX]]』 : 第27・28・33・34話に風見志郎 / 仮面ライダーV3が登場。 ; 『[[仮面ライダーストロンガー]]』 : 風見志郎 / 仮面ライダーV3と結城丈二 / ライダーマンが登場。 ; 『[[仮面ライダー (スカイライダー)|仮面ライダー(スカイライダー)]]』 : 風見志郎 / 仮面ライダーV3と結城丈二 / ライダーマンが登場。 ; 『[[仮面ライダーBLACK RX]]』 : 『[[仮面ライダーBLACK]]』の続編。終盤に仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 ; 『[[仮面ライダーオーズ/OOO]]』 : 第28話にデストロン戦闘員が登場。 === テレビスペシャル === ; 『[[全員集合!7人の仮面ライダー!!]]』 : 『仮面ライダーストロンガー』のテレビスペシャル。風見志郎 / 仮面ライダーV3と結城丈二 / ライダーマンが登場。 ; 『[[10号誕生!仮面ライダー全員集合!!]]』 : 『[[仮面ライダーZX]]』のテレビスペシャル。風見志郎 / 仮面ライダーV3と結城丈二 / ライダーマンが登場。 ; 『[[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊#テレビスペシャル|烈車戦隊トッキュウジャーVS仮面ライダー鎧武 春休み合体スペシャル]]』 : 『[[烈車戦隊トッキュウジャー]]』と『[[仮面ライダー鎧武/ガイム]]』のテレビスペシャル。仮面ライダーV3が登場。 === 映画 === ; 『仮面ライダーV3』(1973年3月17日公開) : [[東映まんがまつり]]の一編として第2話を上映。 ; 『[[仮面ライダーV3対デストロン怪人]]』(1973年7月18日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。 : 同作品とテレビシリーズ第20話・第21話は同時進行で四国ロケが行われている{{Sfn|宇宙船SPECIAL|1998|p=48}}。テレビシリーズとの関係は特に設定されていない。 : 上記の2作品とも2003年12月5日発売の昭和の仮面ライダーシリーズの映画作品を収録した「仮面ライダー THE MOVIE BOX」および、単品では2006年発売の「仮面ライダー THE MOVIE VOL.2」に収録されている。 ; 『[[五人ライダー対キングダーク]]』(1974年7月25日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。『仮面ライダーX』の劇場版。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 ; 『[[ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー]]』(1978年3月18日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。『[[ジャッカー電撃隊]]』と『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』のクロスオーバー作品。V3がヨーロッパで鉄面男爵と戦っていたという設定で、写真とBGMが使われた。 ; 『[[仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王]]』(1980年3月15日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。『仮面ライダー(スカイライダー)』の劇場版。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 ; 『[[仮面ライダースーパー1]]』(1981年3月14日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。『仮面ライダースーパー1』の劇場版。仮面ライダーV3(声 - 宮内洋)とライダーマンが登場。 ; 『[[仮面ライダー THE NEXT]]』(2007年10月27日公開) : 『[[仮面ライダー THE FIRST]]』の続編。新解釈による作品。新解釈の仮面ライダーV3が登場。また、登場する怪人シザースジャガーとチェーンソーリザードは、それぞれハサミジャガーとノコギリトカゲの新解釈である。 ; 『[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]』(2009年8月8日公開) : 『[[仮面ライダーディケイド]]』の劇場作品。仮面ライダーV3とライダーマン、新解釈の結城丈二が登場。 ; 『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』(2011年4月1日公開) : 『仮面ライダーオーズ/OOO』と『[[仮面ライダー電王]]』をメインとしたクロスオーバー作品。仮面ライダーV3(声は宮内が担当)とライダーマン、カメバズーカが登場。 ; 『[[仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX]]』(2011年12月10日公開) : 『[[仮面ライダーフォーゼ]]』と『仮面ライダーオーズ/OOO』をメインとしたクロスオーバー作品。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 ; スーパーヒーロー大戦シリーズ : いずれも[[仮面ライダーシリーズ]]と[[スーパー戦隊シリーズ]]のクロスオーバー作品。 :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]』(2012年4月21日公開) :: 仮面ライダーV3とライダーマンとドクトルG / カニレーザーが登場。 :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z]]』(2013年4月27日公開) :: 先の2シリーズと[[メタルヒーローシリーズ]]のクロスオーバー作品。仮面ライダーV3が登場。 :; 『[[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊]]』(2014年3月29日公開) :: 平成ライダー15作品記念のクロスオーバー作品。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 :; 『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号]]』(2015年3月21日公開) :: 仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 ; 『[[仮面ライダー×仮面ライダー ウィザード&フォーゼ MOVIE大戦アルティメイタム]]』(2012年12月8日公開) : 『[[仮面ライダーウィザード]]』と『仮面ライダーフォーゼ』をメインとしたクロスオーバー作品。仮面ライダーV3が名前のみ登場。 ; 『[[セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記]]』(2021年7月22日公開) : 仮面ライダー50周年×スーパー戦隊45作品記念。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 === コミカライズ === 本作品が制作されていた時点で、原作者石森章太郎による漫画版『[[仮面ライダー (漫画)|仮面ライダー]]』の連載はすでに終了しており、原作者自身による本作品のコミカライズ作品は存在しない。他方で、放送当時から石森プロ所属の漫画家を中心に、多くの作家によるコミカライズは行われている。 ==== 放映当時の連載 ==== ; テレビマガジン掲載版([[すがやみつる]]、1973年3月号 - 1974年2月号) : 立花藤兵衛や珠純子など味方側のレギュラーは一切登場せず、V3とデストロンとの戦いにしぼって描かれた。オイルショックによる掲載誌のページ減により1974年2月号をもって連載が打ち切られ、V3とライダーマンが和解して共闘を誓い合うところで話は終了している。 ; 冒険王掲載版(すがやみつる、1973年3月号 - 1974年3月号) : テレビシリーズに準じた展開であるが、個々のエピソードや怪人の性格付けなどは独自のもの。幼年誌に比べてページ数に余裕があったため、レギュラーキャラクターや敵幹部もテレビ同様に活躍し、別冊付録では100ページを越える長編も執筆された。デストロンとの最終決戦まで描かれて終了した。 ; [[別冊冒険王]]掲載版(すがやみつる、1973年春季号・4月号 - 1974年2月号) : すがやによるスパナサンゴのほか、読者考案のノコギリトンボ、エイジェットなどのオリジナル怪人が登場。 :{| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人 |- ||1973年3月号 ||デストロン怪人とうじょうのまき ||ハサミジャガー、カメバズーカ、マシンガンスネーク、テレビバエ、ハンマークラゲ |- ||1979年4月号 ||怪人イカファイヤーのまき ||イカファイヤー |- ||1979年5月号 ||白骨のライダー……のまき ||ナイフアルマジロ、ノコギリトカゲ、ハチサーベル |- ||1979年6月号 ||変身不可能! V3のまき ||ピッケルシャーク、ドリルモグラ、マグネボタル |- ||1979年7月号 ||夜空にさいた恐怖にじのまき!! ||ミサイルヤモリ、バーナーコウモリ、プリズムバット |- ||1979年8月号 ||スパナサンゴのまき ||スパナサンゴ、ドクバリグモ |- ||1979年9月号 ||新怪人・かまきりメランの巻 ||カマキリメラン、ノコギリトンボ、ゼミライト |- ||1979年10月号 ||キバだんしゃくとうじょうのまき ||吸血マンモス、オニビセイウチ、ブーメラクワガタ、ナメクジレンズ、死人コウモリ |- ||1979年11月号 ||ツバサ大僧正登場の巻<前編> ||エイジェット、ゴキブリエレキ、火炎コンドル、木霊ムササビ |- ||1979年12月号 ||ツバサ大僧正登場の巻<後編> ||ラジオコンドル、タイヤタイガー、死人コウモリ |- ||1980年1月号 ||ライダーマンとうじょうのまき ||カマクビガメ、カブトガニアーチェリー、コブラペンチ |- ||1980年2月号 ||平和のために!!の巻 ||シーラカンスキッド |- |} ; テレビランド掲載版([[野口竜|久留米東]]、1973年3月号 - 5月号 → 暁俊二、1973年6月号 → [[尾瀬あきら|松本めぐむ]]、1973年7月号 - 1974年2月号) : テレビに準じた展開。立花藤兵衛らによる戦い以外のドラマも描かれている。松本版では、結城丈二が珠純子と幼馴染であるなどの独自設定が用いられた{{Sfn|OFM4|2004|p=30|loc=五十嵐浩司「石ノ森章太郎を継ぐ者 仮面ライダーマンガ家列伝 第6回 尾瀬あきら」}}。 : テレビマガジンと同様の事情で1974年2月号をもって打ち切りとなり、ライダーマンの誕生で話は終了。翌月の『仮面ライダーX』で立花藤兵衛がデストロンとの決戦を回想する形で物語に区切りをつけている。 :{| class="wikitable" style="text-align:left ; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年3月号 ||不明記 ||ハサミジャガー、他 | rowspan="3"|久留米東 |- ||1973年4月号 ||不明記 ||テレビバエ、他 |- ||1973年5月号 ||不明記 ||ナイフアルマジロ、他 |- ||1973年6月号 ||不明記 ||ピッケルシャーク、他 ||暁俊二 |- ||1973年7月号 ||不明記 ||ミサイルヤモリ | rowspan="8"|松本めぐむ |- ||1973年8月号 ||不明記 ||ウォーターガントド |- ||1973年9月号 ||不明記 ||ゴキブリスパイク |- ||1973年10月号 ||不明記 |align="left"|ワナガケクワガタ |- ||1973年11月号 ||不明記 ||吸血マンモス |- ||1973年12月号 ||不明記 ||死人コウモリ |- ||1974年1月号 ||不明記 || |- ||1974年2月号 ||不明記 || |- |} ; たのしい幼稚園掲載版([[石川森彦|石川巨人]]、1973年5月号,6月号,1974年3月号) :{| class="wikitable" style="text-align:left ; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年5月号 ||不明記 |align="left"|マシンガンスネーク、他 | rowspan="3"|石川巨人 |- ||1973年6月号 ||不明記 |align="left"|レンズアリ |- ||1974年3月号 ||不明記 |align="left"|ヨロイ元帥 |- |} ; 別冊たのしい幼稚園掲載版([[石川森彦|石川のりひこ]]、1973年3月号 - 9月号) :{| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年3月号 ||不明記 ||ハサミジャガー、他 | rowspan="6"|石川のりひこ |- ||1973年4月号 ||トリプルキックのまき || |- ||1973年5月号 ||不明記 ||ナイフアルマジロ |- ||1973年6月号 ||不明記 ||ピッケルシャーク |- ||1973年7月号 ||不明記 ||ガマボイラー |- ||1973年9月号 ||不明記 |align="left"|ゴキブリスパイク |- |} ; おともだち掲載版([[細井雄二]]、1973年3月号 - 1974年3月号) :{| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年3月号 ||不明記 ||マシンガンスネーク | rowspan="13"|細井雄二 |- ||1973年4月号 ||不明記 ||ハンマークラゲ |- ||1973年5月号 ||不明記 ||テレビバエ |- ||1973年6月号 ||不明記 ||イカファイヤー |- ||1973年7月号 ||不明記 ||ナイフアルマジロ |- ||1973年8月号 ||不明記 |align="left"|ドリルモグラ |- ||1973年9月号 ||不明記 ||クサリガマテントウ |- ||1973年10月号 ||不明記 ||ヒーターゼミ |- ||1973年11月号 ||不明記 ||キバ一族 |- ||1973年12月号 ||不明記 ||火炎コンドル、他 |- ||1974年1月号 ||不明記 ||ガルマジロン |- ||1974年2月号 ||不明記 ||カマクビガメ |- ||1974年3月号 ||不明記 ||カメレオン |- |} ; [[ディズニーランド (雑誌)|ディズニーランド]](石川巨人、1973年3月号 - 10月号 → すがやみつる、1973年11月号 → 石川巨人、1973年12月号 - 1974年3月号) :{| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年3月号 ||不明記 ||ハサミジャガー | rowspan="8"|石川巨人 |- ||1973年4月号 ||不明記 ||テレビバエ |- ||1973年5月号 ||かいじんマシンガンスネークのまき ||マシンガンスネーク |- ||1973年6月号 ||かいじんレンズアリのまき ||レンズアリ |- ||1973年7月号 ||かいじんガマボイラーのまき ||ガマボイラー |- ||1973年8月号 ||かいじんドクバリグモのまき ||ドクバリグモ |- ||1973年9月号 ||かいじんゴキブリスパイクのまき ||ゴキブリスパイク |- ||1973年10月号 ||不明記 ||ワナガケクワガタ |- ||1973年11月号 ||不明記 |align="left"|カニレーザー ||すがやみつる |- ||1973年12月号 ||かえんコンドルのまき ||かえんコンドル | rowspan="4"|石川巨人 |- ||1974年1月号 ||カタツブラーのまき ||カタツブラー |- ||1974年2月号 ||かいじんカマクビガメのまき |left"|カマクビガメ |- ||1974年3月号 ||かいじんカメレオンのまき ||カメレオン |- |} ; オリジナル怪人 :; イカファイヤージュニア :: すがやみつるの漫画作品に登場<ref>双葉社『仮面ライダーV3』 ISBN 457593559X P.139より。</ref>。イカファイヤーの息子で、少年の姿で登場しV3に救われるが、その背後をとり自分ごとイカファイヤーに焼かれる。イカファイヤーがV3により火口に落とされたことで自らも、火口の中へ入っていく。 :; 大巨人G :: すがやみつるの漫画作品の第7回に登場<ref>双葉社『仮面ライダー激闘ファイル』 ISBN 4575293172 P.66より。</ref>。「冒険王」1973年9月特大号ふろく「テレビコミック」収録。ドクトルGがニューヨーク・モスクワ・アフリカ・オーストラリアの各支部から怪人を呼び寄せ、それを合体した姿。 :: 『仮面ライダー 1号・2号・V3・ライダーマン総特集』では「合体改造人間」と呼ばれている{{R|SO85}}。 ==== 放映終了後の連載 ==== ; 『仮面ライダー』テレビランド掲載版([[山田ゴロ]]) : 1978年より徳間書店「テレビランド」誌で『仮面ライダー』から『仮面ライダーストロンガー』までのストーリーが新作漫画として連載された{{R|OFM6山田}}。『[[仮面ライダー (スカイライダー)]]』の制作決定に伴い連載されたもので、その後も『スカイライダー』から『仮面ライダーZX』まで連載が続いた{{R|OFM6山田}}。 : この連載は後に全9巻の単行本にまとめられているが、第1巻後半からライダーマン編を含む第3巻まで(ライダーマン編も含むと第4巻まで)がV3編となり、大きなウエイトを占めている。また、ライダーマン編は第4巻1冊分のページ数が費やされ、結城丈二の前半生について独自の物語が展開された{{R|OFM6山田}}。病母を抱えた貧しい少年・結城丈二がデストロンに見込まれ、やがて科学者として成功しながらもヨロイ元帥に裏切られライダーマンになるまでの物語が独特のテイストで描かれている。山田はラジオの身の上話コーナーを聴いて発想したと述べている{{R|OFM6山田}}。 ; 『[[仮面ライダーSPIRITS]]』・『新仮面ライダーSPIRITS』([[村枝賢一]]) : 風見志郎/仮面ライダーV3と結城丈二/ライダーマンが主役のメンバーとして登場。『新仮面ライダーSPIRITS』からは珠純子や珠シゲルなども登場。 === ゲーム === 発売元は[[東映ビデオ]]と[[バンダイナムコゲームス]](旧[[バンダイ]]レーベル、旧[[バンプレスト]]レーベル)による。 ; 『仮面ライダー作戦ファイル2』 : 1995年発売。PC用のCD-ROM。Windows、Macintosh両方で発売された。『仮面ライダー』のシミュレーションゲーム、『仮面ライダー作戦ファイル』の続編。本編の映像や画像が盛り込まれた図鑑と、新怪人の製作シミュレーション・ゲームが主な内容。風見志郎の声を[[宮内洋]]、大首領の声を[[納谷悟朗]]が務めている。 ; 『[[仮面ライダー (プレイステーション版)|仮面ライダーV3]]』 : [[2000年]][[9月18日]]に[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用の3D[[対戦型格闘ゲーム|格闘アクションゲーム]]として発売。製作は[[カゼ・ネット|KAZe]]。システムは[[1998年]]に発売された格闘ゲーム『仮面ライダー』(以下「前作」)に準じているが、キャラクター数や隠し要素は増えている。 : 前作の音声は主に以前収録された音声によるライブラリ出演であったが、同作品の音声は一部を除き新規に収録された。 : ストーリーモードは、番組の内容に沿ったストーリーの他、ライダーマンが主役の「ライダーマン編」、1号・2号が主役の「仮面ライダー編」もある。特別編は条件を満たさないとプレイできない隠し要素だが、前作のセーブデータが同じメモリーカードにあれば、最初からプレイできる。 ; 『[[仮面ライダー 正義の系譜]]』 : [[2003年]][[11月27日]]に[[PlayStation 2]]用の[[アクションアドベンチャー]]として発売。制作は[[バンプレスト]]。V3とライダーマンが登場し、V3/風見志郎は宮内が声を担当している。 ; [[仮面ライダー クライマックスヒーローズ|仮面ライダー クライマックスヒーローズ フォーゼ]] : [[2011年]][[12月1日]]に[[PlayStation Portable]]と[[Wii]]用のヒーローアクションとして発売。製作は[[エイティング]]。クライマックスヒーローズシリーズ第4弾より昭和シリーズと共に参加。V3(ライダーマンはアシスト系のみ)が登場。 ; [[コンパチヒーローシリーズ]] : [[1990年代]]から発売されている[[クロスオーバー作品]]シリーズ。ゲーム機種はそれぞれの作品による。『[[ウルトラシリーズ|ウルトラマン]]』や『[[SDガンダム|ガンダム]]』と共に共演。『グレイトバトル』シリーズやスポーツなどの作品に登場する。 === オリジナルDVD === ; 『[[仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX#超バトルDVD|仮面ライダーフォーゼ 超バトルDVD 友情のロケットドリルステイツ]]』 : [[小学館]]の幼児向け雑誌「[[てれびくん]]」の応募者全員サービスとして制作された、『仮面ライダーフォーゼ』の超バトルDVD(オリジナルDVD)。仮面ライダーV3とライダーマンとデストロン怪人が写真のみ登場。 === CS放送・ネット配信 === ; CS放送 * [[東映チャンネル]]…[[1999年]][[9月]] - [[2000年]][[3月]]、[[2001年]][[1月]] - [[5月]]、[[2004年]][[8月]] - [[2005年]][[2月]]、[[2010年]]9月 - [[2011年]]3月、[[2012年]]9月 - [[2013年]]3月、[[2018年]]1月 - ** 2001年の放送時のみ「ミッドナイトアンコール」枠にて、他はいずれも「石ノ森章太郎劇場」枠にて放送。 * 東映特撮 [[YouTube]] Official…[[2011年]][[8月1日]] - [[2012年]][[1月29日]]、[[2014年]][[11月29日]] - [[2015年]][[5月30日]]、[[2019年]][[3月30日]] - [[9月28日]]、[[2023年]][[5月10日]] - [[11月8日]] * 東映特撮[[ニコニコ動画|ニコニコ]]おふぃしゃる…[[2016年]][[1月31日]] - [[2017年]][[1月22日]] === パチンコ === * CRぱちんこ仮面ライダーV3([[京楽産業.]]、[[2013年]]) === 小説 === ; 『[[S.I.C.]] HERO SAGA』 :; 「MASKED RIDER V3 & RIDERMAN EDITION -RIDERMAN ANOTHER AFTER-」 :: 本作品の小説作品。 :; 「MASKED RIDER EDITION -仮面ライダー #99-」 :: 『仮面ライダー』の小説作品。『V3』の前日譚で、仮面ライダーV3やデストロン怪人が登場。 :; 「MASKED RIDER DEN-O EDITION -1971年4月3日-」 :: 『仮面ライダー電王』の小説作品。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 ; 『仮面ライダーEVE-MASKED RIDER GAIA-』 : 原作者の漫画作品『[[仮面ライダー (漫画)|仮面ライダー]]』の続編。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 ; 『[[KIKAIDER00]]』 : 『[[人造人間キカイダー]]』から派生した小説作品。V3がゲスト出演。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === クレジットに関する注釈 === {{Reflist|group="C"|2}} === 参照話数 === {{Reflist|group="ep" |refs= <ref name="ep1">第1話</ref> <ref name="ep2">第2話</ref> <ref name="ep32">第32話</ref> <ref name="Sep17">『ストロンガー』第17話</ref> <ref name="Sep26">『ストロンガー』第26話</ref> }} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="大全集138">{{Harvnb|大全集|1986|pp=138-139|loc=「仮面ライダー一号[再改造]」}}</ref> <ref name="大全集140">{{Harvnb|大全集|1986|pp=140-141|loc=「仮面ライダー作品展開 仮面ライダーV3・ライダーマン」}}</ref> <ref name="大全集154">{{Harvnb|大全集|1986|pp=154-157|loc=「仮面ライダーの影 大野剣友会」}}</ref> <ref name="大全集213">{{Harvnb|大全集|1986|p=213|loc=「悪の軍団 その系譜 デストロン」}}</ref> <ref name="怪人大全集56">{{Harvnb|怪人大全集|1986|pp=56-57|loc=「デストロン(第1話-第4話)」}}</ref> <ref name="怪人大全集58">{{Harvnb|怪人大全集|1986|pp=58-59|loc=「デストロン(第5話-第8話)」}}</ref> <ref name="怪人大全集60">{{Harvnb|怪人大全集|1986|pp=60-61|loc=「デストロン(第9話-第13話)」}}</ref> <ref name="怪人大全集63">{{Harvnb|怪人大全集|1986|p=63|loc=「デストロン(第13話-第16話)」}}</ref> <ref name="怪人大全集64">{{Harvnb|怪人大全集|1986|pp=64-65|loc=「デストロン(第17話-第20話)」}}</ref> <ref name="怪人大全集66">{{Harvnb|怪人大全集|1986|pp=66-67|loc=「デストロン(第20話-第26話)」}}</ref> <ref name="怪人大全集68">{{Harvnb|怪人大全集|1986|pp=68-69|loc=「デストロン(第27話-第30話)」}}</ref> <ref 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book|和書|date = 2012-9-28|title = カラー図鑑 7人ライダー 復刻版|publisher = [[秋田書店]]|isbn = 978-4-8354-4883-1|ref = {{SfnRef|7人ライダー復刻|2012}}}} * {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2014-11-20|title = 仮面ライダー1971-1984 <small>秘蔵写真と初公開資料で蘇る昭和ライダー10人</small>|publisher =講談社|isbn = 978-4-06-218566-0|ref = {{SfnRef|仮面ライダー1971-1984|2014}}}} * {{Cite journal|和書|title=仮面ライダー 1号・2号・V3・ライダーマン総特集|journal=別冊宝島|volume=2394|date=2015-10-28|isbn=978-4-8002-4622-6|ref={{SfnRef|仮面ライダー総特集|2015}}}} * {{Cite book|和書|date = 2016-01-02|title = 仮面ライダー昭和|volume=vol.3|volume-title=仮面ライダーV3|series=講談社シリーズMOOK|publisher =講談社|isbn = 978-4-06-353569-3|ref = {{SfnRef|仮面ライダー昭和3|2016}}}} * {{Cite book|和書|title=宇宙船別冊 仮面ライダー怪人大画報2016|date=2016-03-28|publisher=[[ホビージャパン]]|series=ホビージャパンMOOK|isbn=978-4-7986-1202-7|ref={{SfnRef|怪人大画報|2016}}}} * {{Cite book|和書|date = 2020-12-24<!--奥付表記-->|title = 平成仮面ライダー怪人デザイン大鑑 完全超悪|publisher = ホビージャパン|isbn = 978-4-7986-2338-2|ref = {{SfnRef|完全超悪|2020}}}} * 雑誌 ** {{Cite journal|和書|date=2022-02-15<!--奥付表記-->|journal=東映ヒーローMAX|volume=VOLUME 64|issue=(2022 SPRING)|publisher=辰巳出版|isbn=978-4-7778-2865-4|ref={{SfnRef|東映HM64|2022}}}} == 関連項目 == * [[さんふらわあ]] - [[日本高速フェリー]]時代、当時の[[東京港|東京]]-[[那智勝浦町|那智勝浦]]-[[高知港|高知]]航路で撮影に使われている。 * [[来島どっく]] - 撮影が行われた造船会社。 * [[仮面ノリダーV2]] - [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』にて放送された、本作品のパロディドラマ。 * [[風見しんご]] - 芸名の由来は風見志郎から。なお、当初の芸名は「風見慎吾」。 * [[登米市]] - 石ノ森章太郎の故郷である登米市中田町石森に新しくできた公園にV3の立像とベルトを模したモニュメント、そして除幕式直後にとった宮内の手形が設置されている。除幕式には宮内のほかに、石森プロと東映の関係者、そして数々の石森特撮番組を手がけた[[平山亨]]も参列した。 == 外部リンク == * [http://www.kamenrider.net/riderv3/ Kamen Rider V3 Home Page]{{En icon}} {{前後番組 | 放送局 = [[毎日放送]]制作・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|NET系列]] | 放送枠 = [[テレビ朝日土曜7時30分枠の連続ドラマ|土曜19:30 - 20:00]] [[仮面ライダーシリーズ|昭和仮面ライダーシリーズ]] | 番組名 = 仮面ライダーV3<br />(1973年2月17日 - 1974年2月9日) | 前番組 = [[仮面ライダー]]<br />(1971年4月3日 - 1973年2月10日) | 次番組 = [[仮面ライダーX]]<br />(1974年2月16日 - 10月12日) }} {{仮面ライダーシリーズ}} {{DEFAULTSORT:かめんらいたあふいすりい}} [[Category:仮面ライダーシリーズの特撮テレビドラマ|ふいすりい]] [[Category:テレビ朝日土曜7時30分枠の連続ドラマ]] [[Category:毎日放送の特撮番組]] [[Category:1970年代の特撮作品]] [[Category:1973年のテレビドラマ]] [[Category:伊上勝脚本のテレビドラマ]]
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バンダイナムコエンターテインメント
株式会社バンダイナムコエンターテインメント(英: Bandai Namco Entertainment Inc.)は、コンシューマーゲームなどのゲームソフトの制作および開発を行う日本の企業。株式会社バンダイナムコホールディングスの完全子会社で、バンダイナムコグループにおける中核企業の一つ。コンピュータエンターテインメント協会正会員。略称は「BNEI」「バンナム」。 旧ナムコを母体としており、2006年3月31日にアミューズメント施設事業を新たに設立した株式会社ナムコ(後の株式会社バンダイナムコアミューズメント)に譲渡し、株式会社バンダイのゲーム部門を統合しバンダイナムコゲームス(NAMCO BANDAI Games Inc.→2014年4月1日よりBANDAI NAMCO Games Inc.)に変更、そして2015年4月1日に現社名に変更した。 略称の「バンナム」は、バンダイナムコエンターテインメント発売のゲーム内にも登場している(一例として「ゲームセンターCX 有野の挑戦状2」内の「課長は名探偵」の「バンナムビル」など)。なお、過去にエンターブレインのゲーム雑誌『ファミ通PLAYSTATION+』内コーナーバンダイナムコスポーツにおいて、「バムコ」の名称が用いられていた。 1955年6月1日に中村雅哉が有限会社中村製作所(なかむらせいさくじょ)を設立。1971年に「NAkamura Manufacturing COmpany」の略としてnamcoブランドの使用を開始し、1977年6月1日には社名もナムコと改めた(当時の英語名は「NAMCO LIMITED」)。 2005年6月25日の第50回定時株主総会でナムコとバンダイの経営統合の議案が可決承認され、上場会社としてのナムコは9月29日に幕を下ろし、以降は株式会社バンダイナムコホールディングスの子会社となった。 2006年3月31日、バンダイのゲーム部門を統合し、社名をバンダイナムコゲームス(NAMCO BANDAI Games Inc.)に変更した。バンダイナムコホールディングスにおいてゲーム部門を受け持つ企業としての立場を明確にした。 2008年4月1日、バンプレストのゲーム事業の譲受と共にバンプレストレーベルを新設。 それまではナムコから引き継いだものしかモバイルコンテンツを扱っていなかったが、2009年4月1日にバンダイネットワークスを吸収合併したため、バンダイナムコグループにおけるモバイルコンテンツは完全に自社管轄となった。同日、ナムコ・バンダイ・バンプレストの各レーベルごとの公式サイトと全レーベルの総合サイトの4つに分散していた公式サイトを統合し、「バンダイナムコゲームス公式サイト」としてリニューアルされた。サイト統合後は、全レーベルのタイトルを一貫して掲載しサイトへのレーベル表示も行わなくなった。このため、バンダイとバンプレストの統合前のゲームコンテンツの知的財産権が自社に移行され、それまでのバンダイレーベルのゲームソフトのコマーシャルはバンダイ本体に委託されていたが、それ以降から自社の管轄に移動された。 サイト統合以降もレーベル自体を統合した訳ではなく、パッケージ表面およびゲーム起動時に表示するロゴマークについては、各レーベルのものが使い分けられていた(ゲーム起動時に表示されるロゴマークは、2014年1月現在家庭用ゲームではバンダイナムコゲームスのロゴ、各レーベルのロゴの順。ただし「機動戦士ガンダム 戦場の絆」等の一部アーケード作品ではバンダイナムコゲームスレーベルのみ)。2014年4月1日以降に発売されるソフトについては各レーベル表記を廃し、バンダイナムコゲームスレーベルに完全統合された。 2014年4月1日より英文社名をNAMCO BANDAI Games Inc.からBANDAI NAMCO Games Inc.に変更した。 2015年4月1日に、社名をバンダイナムコゲームスからバンダイナムコエンターテインメント(BANDAI NAMCO Entertainment Inc.)に変更した。 2018年4月1日に、アーケードゲーム事業を同日付でナムコから商号変更したバンダイナムコアミューズメントへ移管し、バンダイナムコエンターテインメントはコンシューマーゲーム、携帯電話コンテンツの開発、販売の開発に専念することになった。 バンダイナムコグループの再編とロゴマークの変更に伴い、2022年4月1日に社名の英文表記とロゴマークが変更された。 上記2つは最初期のCMで、1984-85年頃のパックマン、ゼビウス等といったファミコンソフト発売時に放映されたもの。CM曲には細野晴臣の「Non Standard Mixture」の一部が使われており、細野自身もCMに出演していた。 最後のキャッチコピー「遊びをクリエイトするナムコ」は、以後もナムコブランドのゲームのパッケージのロゴ付近にあしらわれ、2014年のBNGIへのブランド統合まで長く親しまれた。 バンダイ・ナムコ・バンプレストのゲーム部門を統合する前から各社でゲームソフトの開発が続けられていたため、2006年から2009年3月までは旧バンダイ・旧ナムコ・旧バンプレストのロゴをそれぞれバンダイレーベル、ナムコレーベル、バンプレストレーベルと称し、便宜的な名義(ブランド名)として使用していた。(アーケードゲームにおいては、2014年3月までナムコレーベル、およびバンダイナムコゲームスレーベルの二つが使用されていた)。公式サイトへのレーベル表示を廃止した、2009年4月以降も2013年までパッケージ表面・ゲームソフト起動時に表示するロゴマークについては、前述の戦場の絆等一部アーケード作品を除き、各レーベルのものを引き続き使い分けていたが、2014年以降は一部を除き家庭用作品も、バンダイナムコゲームスレーベル→2015年の社名変更以降はバンダイナムコエンターテインメントレーベルのみが用いられるようになった。 一部のゲームは、移植版や続編が登場する際、レーベルが変更される場合がある。以下がその一例である。 経営統合後の同社の各ゲーム作品の著作権表記は「©NBGI」(家庭用ゲーム機)または「©NAMCO BANDAI Games Inc.」(アーケードゲーム機)に統一されていた。また、2011年以降の旧ナムコレーベルの一部のゲームソフトでは、「©NAMCO BANDAI Games Inc.」が用いられることがあった(旧バンダイレーベル、旧バンプレストレーベルは引き続き「©NBGI」のまま用いられた)。2014年4月に社名表記が変更されてから「バンダイナムコエンターテインメント」に社名変更する前までは家庭用・アーケードを問わず「©BANDAI NAMCO Games Inc.」が用いられるようになり、「©BNGI」の方は省略形にとどまっている。 ただし、全ての『ガンダムシリーズ』系のゲーム作品には存在しない(『ガンダム』以外のサンライズ及びバンダイナムコピクチャーズ制作のゲーム作品を除く)。これは『コンパチヒーローシリーズ』、『スーパーロボット大戦シリーズ』、『Another Century's Episode』シリーズも同様であり、また、『IVY THE KIWI?』や3DS版『テトリス』、ディズニーのゲーム作品にも同様である。 同社が経営統合後の2008年4月以前は提供クレジットでは「バンダイ」と「ナムコ」であり、後者のレーベルのみ「バンダイナムコゲームス」の提供クレジットを使用することがあった。同年4月以降「バンプレスト」から移管され、正式に全てのレーベルで「バンダイナムコゲームス」の提供クレジットが表示されるようになった。なお、2009年3月まではバンダイナムコゲームスのロゴをCMで使用するのはごく稀であり、通常はバンダイ・ナムコ・バンプレストの各社のロゴで表示されていたが、同年4月以降はサイト統合により、前述の戦場の絆等一部のアーケード作品ではバンダイナムコゲームスレーベルを使用している。一部の雑誌やネット上などでは「バンダイナムコゲームズ」と誤植されることがある。また、作品に対する登録商標または商標のマーク表示は、旧ナムコが1990年代から行うようになった。 合併以降レーベル統合後の2014年現在においても、旧ナムコおよびナムコレーベルの流れを汲むオリジナルタイトルにのみ慣例的に行われている。ただ、任天堂製ハード向けの作品に対してのみ、パッケージ裏面に「Produced by 株式会社バンダイナムコゲームス」とメーカー名が記載されているにもかかわらず、表面の下部に「発売元:株式会社バンダイナムコゲームス」と二重に記載している。また、Amazon.co.jpにおけるメーカー名表記は、2010年半ばまでは当該レーベル毎であったが、同年以降バンダイナムコゲームスで統一された。 2007年から2016年2月1日まで入居していた旧本社ビルの元になった旧品川パナソニックビルは、1992年に松下電器産業によって建設されたもので、周辺にビルの日陰を作らないように配慮された結果、台形の外観となった。2006年3月に地元の不動産業者に売却された。旧本社ビルは旧本社における営業最終日当日から解体工事が開始され、跡地にはマンションが建設される予定となっている。 2014年になって、TVCMの最後にサウンドロゴを導入した。内容は白バックで画面中央にメーカーロゴを表示し、「バンダイナムコ」というナレーションが入る。このナレーションの担当は通常のものでは声優の高橋信だが、CMによってはそのゲームの登場キャラクターが担当するものも多い。2022年3月まではこのパターンを使用し、2022年4月のコーポレートロゴの変更からサウンドロゴも変更になった。複数の色の枠が中央に集まって「バンダイナムコ♪」とも聞こえる5つの単音と共に新しいバンダイナムコグループのロゴを形成する。サウンドはバンダイナムコスタジオのサウンドチームが手がけ、当社以外のバンダイナムコを社名に冠するグループ会社の商品・サービス関連のプロモーション映像やCMでも使用する。
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株式会社バンダイナムコエンターテインメントは、コンシューマーゲームなどのゲームソフトの制作および開発を行う日本の企業。株式会社バンダイナムコホールディングスの完全子会社で、バンダイナムコグループにおける中核企業の一つ。コンピュータエンターテインメント協会正会員。略称は「BNEI」「バンナム」。 旧ナムコを母体としており、2006年3月31日にアミューズメント施設事業を新たに設立した株式会社ナムコ(後の株式会社バンダイナムコアミューズメント)に譲渡し、株式会社バンダイのゲーム部門を統合しバンダイナムコゲームスに変更、そして2015年4月1日に現社名に変更した。 略称の「バンナム」は、バンダイナムコエンターテインメント発売のゲーム内にも登場している。なお、過去にエンターブレインのゲーム雑誌『ファミ通PLAYSTATION+』内コーナーバンダイナムコスポーツにおいて、「バムコ」の名称が用いられていた。
{{Pathnav|バンダイナムコホールディングス|frame=1}} {{出典の明記|date=2021年2月}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社バンダイナムコエンターテインメント | 英文社名 = Bandai Namco Entertainment Inc. | ロゴ = [[File:Bandai Namco Holdings logo (2022, with tagline).svg|200px]] | 画像 = [[File:Sumitomo-rd Mita Build. IMG 3594r 20160116.JPG|250px]] | 画像説明 = 本社が入居する住友不動産三田ビル<br />(バンダイナムコ未来研究所) | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = 非上場{{上場情報 | 東証二部 | 9752 | 1988年1月 | 1991年9月}}{{上場情報 | 東証一部 | 9752 | 1991年9月 | 2005年9月28日}} | 略称 = BNEI、バンナム<ref>Twitterプロフィールより。</ref> | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 108-0014 | 本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝 (東京都港区)|芝]]5丁目37番8号<br />バンダイナムコ未来研究所 | 本社緯度度 = 35 | 本社緯度分 = 38 | 本社緯度秒 = 40.1 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139 | 本社経度分 = 44 | 本社経度秒 = 40.2 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP-13 | 設立 = [[1955年]](昭和30年)[[6月1日]]<br />(有限会社中村製作所) | 業種 = 情報・通信業 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = コンシューマーゲーム、携帯電話コンテンツの開発、販売 | 代表者 = 代表取締役社長 宇田川南欧 | 資本金 = 100億円 | 売上高 = 2507億6500万円<br />(2021年3月期)<ref name="kessan">[https://www.bandainamcoent.co.jp/finance/doc/2021_3e_kokoku.pdf 2021年3月期貸借対照表]バンダイナムコエンターテインメント</ref> | 営業利益 = 428億2000万円<br />(2021年3月期)<ref name="kessan" /> | 純利益 = 332億2500万円<br />(2021年3月期)<ref name="kessan" /> | 純資産 = 1166億4000万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="kessan" /> | 総資産 = 1669億1000万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="kessan" /> | 従業員数 = 773名(2023年4月4日現在) | 決算期 = [[3月31日]] | 主要株主 = 株式会社[[バンダイナムコホールディングス]] 100% | 主要子会社 = 株式会社[[バンダイナムコスタジオ]] 100%<br />株式会社[[B.B.スタジオ]] 100%<br />株式会社[[島根スサノオマジック|バンダイナムコ島根スサノオマジック]] 56.5% | 関係する人物 = [[中村雅哉]](創業者) | 外部リンク = {{URL|https://www.bandainamcoent.co.jp/}} }} '''株式会社バンダイナムコエンターテインメント'''({{Lang-en-short|Bandai Namco Entertainment Inc.}})は、[[コンシューマーゲーム]]などの[[ゲームソフト]]の制作および開発を行う[[日本]]の[[企業]]。株式会社[[バンダイナムコホールディングス]]の完全子会社で、[[バンダイナムコグループ]]における中核企業の一つ。[[コンピュータエンターテインメント協会]]正会員。略称は「'''BNEI'''」「'''バンナム'''」。 旧ナムコを母体としており、2006年3月31日にアミューズメント施設事業を新たに設立した株式会社ナムコ(後の株式会社[[バンダイナムコアミューズメント]])に譲渡し、株式会社[[バンダイ]]のゲーム部門を統合しバンダイナムコゲームス({{Lang|en|NAMCO BANDAI Games Inc.}}→2014年4月1日より{{Lang|en|BANDAI NAMCO Games Inc.}})に変更、そして2015年4月1日に現社名に変更した。 略称の「'''バンナム'''」は、バンダイナムコエンターテインメント発売のゲーム内にも登場している(一例として「[[ゲームセンターCX 有野の挑戦状2]]」内の「課長は名探偵」の「バンナムビル」など)。なお、過去に[[エンターブレイン]]のゲーム雑誌『[[ファミ通PSP+PS3|ファミ通PLAYSTATION+]]』内コーナー[[ナムコスポーツ|バンダイナムコスポーツ]]において、「'''バムコ'''」の名称が用いられていた。 == 概要 == [[File:Bandai Namco Holdings logo.svg|thumb|240px|2005年から2022年まで使用されていた旧ロゴ]] 1955年6月1日に[[中村雅哉]]が'''有限会社中村製作所'''(なかむらせいさくじょ)を設立。1971年に「{{lang|en|'''NA'''kamura '''M'''anufacturing '''CO'''mpany}}」の略<ref>{{Cite book|last=前野|first=和久|title=超発想集団ナムコ|date=1984|publisher=PHP研究所|isbn=4-569-21327-8}}</ref>としてnamcoブランドの使用を開始し、1977年6月1日には社名も'''ナムコ'''と改めた<ref>アミューズメント通信社「ゲームマシン」1977年6月15日号</ref>(当時の英語名は「{{lang|en|NAMCO LIMITED}}」)。 2005年6月25日の第50回定時株主総会でナムコと[[バンダイ]]の経営統合の議案が可決承認され、上場会社としてのナムコは9月29日に幕を下ろし、以降は株式会社バンダイナムコホールディングスの子会社となった。 2006年3月31日、バンダイのゲーム部門を統合し、社名を'''バンダイナムコゲームス'''(NAMCO BANDAI Games Inc.)に変更した。バンダイナムコホールディングスにおいてゲーム部門を受け持つ企業としての立場を明確にした。 2008年4月1日、[[バンプレスト]]のゲーム事業の譲受と共にバンプレストレーベルを新設。 それまではナムコから引き継いだものしかモバイルコンテンツを扱っていなかったが、2009年4月1日にバンダイネットワークスを吸収合併したため、バンダイナムコグループにおけるモバイルコンテンツは完全に自社管轄となった。同日、ナムコ・バンダイ・バンプレストの各レーベルごとの公式サイトと全レーベルの総合サイトの4つに分散していた公式サイトを統合し、「バンダイナムコゲームス公式サイト」としてリニューアルされた。サイト統合後は、全レーベルのタイトルを一貫して掲載しサイトへのレーベル表示も行わなくなった。このため、バンダイとバンプレストの統合前のゲームコンテンツの[[知的財産権]]が自社に移行され、それまでのバンダイレーベルのゲームソフトのコマーシャルはバンダイ本体に委託されていたが、それ以降から自社の管轄に移動された。 サイト統合以降もレーベル自体を統合した訳ではなく、パッケージ表面およびゲーム起動時に表示するロゴマークについては、各レーベルのものが使い分けられていた(ゲーム起動時に表示されるロゴマークは、2014年1月現在家庭用ゲームではバンダイナムコゲームスのロゴ、各レーベルのロゴの順。ただし「[[機動戦士ガンダム 戦場の絆]]」等の一部アーケード作品ではバンダイナムコゲームスレーベルのみ)。2014年4月1日以降に発売されるソフトについては各レーベル表記を廃し、バンダイナムコゲームスレーベルに完全統合された。 2014年4月1日より英文社名をNAMCO BANDAI Games Inc.から'''BANDAI NAMCO Games Inc.'''に変更した<ref>{{Cite web|和書|date=2014-01-24|format=PDF|url=https://www.bandainamco.co.jp/files/E5AD90E4BC9AE7A4BEE381AEE88BB1E69687E8A1A8E8A898E5.pdf|title=子会社の社名・英文表記の変更に関するお知らせ|publisher=[[バンダイナムコホールディングス]]|accessdate=2014-04-21}}</ref>。 2015年4月1日に、社名をバンダイナムコゲームスから'''バンダイナムコエンターテインメント'''(BANDAI NAMCO Entertainment Inc.)に変更した<ref>[https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/press/release/60/pdf/20141217.pdf 社名変更のお知らせ] - バンダイナムコゲームス 2014年12月17日、2015年2月20日閲覧。</ref>。 2018年4月1日に、[[アーケードゲーム]]事業を同日付でナムコから商号変更した[[バンダイナムコアミューズメント]]へ移管し、バンダイナムコエンターテインメントは[[コンシューマーゲーム]]、携帯電話コンテンツの開発、販売の開発に専念することになった。 バンダイナムコグループの再編とロゴマークの変更に伴い、2022年4月1日に社名の英文表記とロゴマークが変更された。 == 沿革 == * [[1955年]][[6月1日]] - '''有限会社中村製作所'''として創業。横浜の百貨店の屋上に、木馬2台を設置<ref>[https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/history/namco/index.html 1950〜70年代 バンダイナムコゲームス公式サイト] 2012年9月23日閲覧。</ref><ref>2004-2006年まで用いられた「50周年シンボルマーク」には、木馬がデザインされていた([https://game.watch.impress.co.jp/docs/20040519/namco.htm ナムコ、木馬をデザインした「50周年シンボルマーク」を公開] 2012年9月23日閲覧)。</ref>。 * [[1959年]] - 株式会社に改組。 * [[1967年]] - 大阪事務所(後の関西支社)を開設<ref name="kansai">[https://www.banasupport.net/cms-files/E996A2E8A5BFE694AFE7A4BEE99689E98E96E6A188E58685E6_2.pdf 関西支社営業終了のご案内] バンダイナムコエンターテインメント 2016年1月</ref>。 * [[1971年]] - namcoブランドの使用を開始。 * [[1974年]] - [[アタリジャパン]]<ref group="注">2000年に設立された仏国インフォグラム社の日本法人とは別法人。</ref>を買収、[[アーケードゲーム]]に進出。 * [[1977年]][[6月1日]] - '''株式会社ナムコ'''に社名変更。 * [[1979年]] - 日米ゲームメーカーの関係が、これまではナムコとアタリ、またはミッドウェイ(今の[[ミッドウェイゲームズ]])とタイトーが親密だったが、各社の事情により『ギャラクシアン』から『パックマン』までは、ナムコとミッドウェイが親密になる。 * [[1984年]] - [[MSX]]パソコン用の『パックマン』を皮切りとした家庭用ゲームソフト用レーベルとして「'''namcot'''(ナムコット)」をスタートさせる。同年2月には[[任天堂]]と提携して[[ファミリーコンピュータ]]にもソフトを供給する<ref name="natsukashi">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『[http://diapress.jp/archives/6872.html 懐かしファミコン パーフェクトガイド]』 [http://www.magazinebox.co.jp/ マガジンボックス](M.B.ムック)、2016年。ISBN 9784906735891 p117</ref>。 * [[1986年]] - [[イタリアントマト]]を買収<ref group="注">[[ポッカクリエイト]]([[ポッカサッポロフード&ビバレッジ|ポッカコーポレーション]](現・ポッカサッポロフード&ビバレッジ)子会社)との折半出資だったが、バンダイとの経営統合時にナムコより株式を譲り受けた[[キーコーヒー]]が連結子会社化。決算対象からは外れている。</ref>。 * [[1988年]] - [[東京証券取引所]]2部に上場。その後、[[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]](現・[[都筑区]])に「横浜未来研究所」を開設(2008年閉鎖)<ref>[https://www.kentsu.co.jp/kanagawa/news/p04573.html 2008年8月2日建通新聞] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101203214620/http://www.kentsu.co.jp/kanagawa/news/p04573.html |date=2010年12月3日 }}。</ref>。 * [[1991年]] - 東京証券取引所1部に上場した。 * [[1992年]] - ナムコ・ワンダーエッグ開園(テーマパーク事業進出)。 * [[1994年]] - 神奈川県横浜市[[神奈川区]]に「横浜クリエイティブセンター」を開設。 * [[1995年]] - '''家庭用ゲームのレーベルnamcot廃止'''<ref group="注">[[3月31日]]発売の[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版『[[鉄拳 (ゲーム)|鉄拳]]』までの全ての家庭用ゲームタイトルで使用され、[[10月20日]]に発売された[[ゲームギア]]用ソフトの『[[ギアスタジアム]][[平成]]版』でも使用された。これは、1991年に発売されたギアスタジアムのデータをベースに登場する球団を[[プロ野球チーム一覧|実在の球団]]に書き替えただけのものであるため、namcotのデータが変更されずに使われている都合上、例外的にnamcotブランドが使われた。</ref>。業務用レーベルのnamcoに統合される。[[日本電気|NEC]]が[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]に対応した3DアクセラレータチップセットのPC用ボードを開発した。ナムコはボードの性能を活かし[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]ゲームソフトをPCへ移植することとなった。<ref>{{Cite book|title=週刊ファミコン通信 no.363 表紙 [[矢田亜希子]]|date=1995年12月1日|year=1995|publisher=株式会社アスキー|page=11}}</ref> * [[1997年]] - [[日活]]に出資、子会社化<ref group="注">2005年に株式を[[インデックス・ホールディングス|インデックス]]に譲渡し資本関係を解消。</ref> * [[1997年]] - パチンコ・パチスロの液晶基板と映像ソフトの制作を始める。 * [[2001年]] - [[エニックス]]、[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]、および[[セガ]]と業務提携。 * [[2005年]][[9月30日]] - [[バンダイ]]と共同[[持株会社]]・バンダイナムコホールディングスを設立し、同社の100%子会社になる。 * [[2006年]][[3月31日]] - バンダイの家庭用ゲーム事業を譲受し、'''株式会社バンダイナムコゲームス'''に商号変更。アミューズメント施設運営組織・新規事業部門の一部事業部門を新設会社「株式会社ナムコ」(2代)に移管。「ナムコ」の商号を受け継ぐ。 * [[2007年]] ** [[3月6日]] - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]と合弁会社「[[セリウス (企業) |セリウス]]」を設立。 ** [[5月]] - 子会社[[モノリスソフト]]の株式80%を[[任天堂]]へ譲渡。 ** [[6月]] - 本社および事業拠点を東京都[[品川区]]東品川4-5-15(旧・品川パナソニックビル)に移転。「[[バンダイナムコ未来研究所|未来研究所]]」と命名する(アミューズメント施設運営の〈新〉ナムコは移転せず)。 ** [[11月]] - [[2008年]][[4月1日]]より[[バンプレスト]]のゲーム事業を譲受予定と発表<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0711/08/news071.html バンプレストのゲーム事業を統合 バンダイナムコがグループ再編 - ITmedia News] 2012年9月23日閲覧。</ref>。 * [[2008年]] ** [[4月1日]] - バンプレストを吸収合併しゲーム事業を統合、その際に[[プライズゲーム]]用景品部門を母体とした新法人「バンプレスト」を設立。 ** [[8月6日]] - [[2009年]][[4月1日]]を目処に[[バンダイネットワークス]]を統合すると発表。 ** [[11月]] - 携帯電話コンテンツ事業部署を横浜クリエイティブセンターから本社近隣の品川シーサイドパークタワー(バンダイネットワークスの階上)に移転。 * [[2009年]] ** [[2月12日]] - [[ディースリー・パブリッシャー|ディースリー]]の完全子会社化を目的とした公開買い付けを開始。 ** [[3月24日]] - ディースリーを完全子会社化。 ** [[4月1日]] - バンダイネットワークスを吸収合併、同日よりバンダイ・ナムコ・バンプレストの各レーベルおよび総合サイトの4つに分散していた公式サイトを統合、「バンダイナムコゲームス公式サイト」としてリニューアル。石川祝男のバンダイナムコホールディングス社長就任に伴い、[[鵜之澤伸]]が社長に就任。 ** [[10月1日]] - インターネットを利用したオンラインゲームその他ソフトウェア、サービスの企画・開発・運営の子会社として、株式会社バンダイナムコオンラインを設立。 * [[2010年]] ** [[2月18日]] - 制作ユニット毎に売上責任を負わせることを発表。 ** [[4月1日]] - 統合後初のグループ連結赤字350億円の大半がゲーム部門であったため、鵜之澤が責任を取り副社長に降格。石川が出戻り、バンダイナムコホールディングス社長と兼務する。ディースリーが新ディースリー・パブリッシャーとして再編しバンダイナムコホールディングス傘下に。 * [[2011年]] ** [[3月14日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]を受け、バンダイナムコグループとして1億円とグループ社員からの募金を義援金として寄付すると発表。 ** 4月1日 - 子会社の[[ベック (ゲーム会社)|ベック]]とバンプレソフトを統合、新会社名を[[B.B.スタジオ]]とする。 ** [[DeNA]]の共同出資の「[[BDNA]]」(後にBNDeNA)を設立する<ref>{{cite news| language =| author =| url =https://dena.com/press/2011/08/post-91.php| title =バンダイナムコゲームスとディー・エヌ・エー共同出資による新会社設立のお知らせ| publisher =ディー・エヌ・エー| date =2011-8-22| accessdate =2011-8-22| archiveurl =https://web.archive.org/web/20111103102122/http://dena.jp/press/2011/08/post-91.php| archivedate =2011年11月3日| deadurldate =2017年9月}} </ref>。 * [[2012年]] ** 1月1日 - ナムコ・テイルズスタジオを吸収合併。 ** 2月29日 - セリウスを解散。 ** 4月2日 - 開発部門(約1000人)を新会社「[[バンダイナムコスタジオ]]」に分社。 * [[2014年]] ** 3月31日 - BNDeNAを解散。 ** 4月1日 - 英文社名を「{{lang|en|NAMCO BANDAI Games Inc.}}」から「{{lang|en|BANDAI NAMCO Games Inc.}}」に変更。 * [[2015年]]4月1日 - '''株式会社バンダイナムコエンターテインメント'''に商号変更。 * [[2016年]] ** [[2月2日]] - 本社を東京都港区芝5丁目37-8(バンダイナムコ未来研究所〈住友不動産三田ビル〉)へ移転<ref>[https://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/5162?entry_id=4722 バンダイナムコホールディングスなどグループ5社の本社機能を2016年1月より順次移転] バンダイナムコホールディングス 2015年12月25日</ref>。 ** [[2月29日]] - 関西支社を閉鎖。関西支社で行っていた業務は同年3月1日付で本社やテクニカルセンターへ移管<ref name="kansai" />。 ** [[10月17日]] - テクニカルセンターを東京都品川区勝島から神奈川県横浜市[[神奈川区]]へ移転<ref>[https://www.banasupport.net/cms-files/E38386E382AFE3838BE382ABE383ABE382BBE383B3E382BFE3.pdf テクニカルセンター移転のご案内] バンダイナムコエンターテインメント 2016年9月</ref>。 * [[2017年]] ** [[1月22日]] - [[中村雅哉]](バンダイナムコエンターテインメント[[名誉相談役]])が死去。満91歳没<ref>{{Cite web|和書|date=2017-01-30 |url=https://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/5616?entry_id=5145 |title=訃報 |format=PDF |publisher=バンダイナムコホールディングス |accessdate=2017-03-12}}</ref>。 ** [[4月3日]] - テクニカルセンターを新会社「[[バンダイナムコテクニカ]]」に分社<ref>[https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/press/release/62/pdf/20170111-1.pdf アミューズメント機器のサービス事業会社 株式会社バンダイナムコテクニカを設立] - バンダイナムコエンターテインメント 2017年1月11日</ref><ref>[https://www.bandainamcoent.co.jp/finance/pdf/20170130.pdf 新設分割公告] バンダイナムコエンターテインメント 2017年1月30日</ref>。 ** [[7月14日]] - 国内最大級となるVR体感施設『[[VR ZONE SHINJUKU]]』を新宿にオープン<ref>[https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/press/release/63/pdf/20170613-1.pdf 国内最大級! VRアクティビティ16種類の最新エンターテインメント施設『VR ZONE SHINJUKU』 新宿に7月14日(金)オープン!アミューズメント施設へのVRアクティビティ設置も拡大、VR事業本格化] - バンダイナムコエンターテインメント 2017年6月13日(2017年7月13日閲覧)</ref>。 ** [[8月3日]] - [[ドリコム]]との共同出資の新会社である「[[バンダイナムコネクサス|BXD]]」を設立<ref>[https://www.drecom.co.jp/ir/news/pdf/20170519_01.pdf 株式会社バンダイナムコエンターテインメントとの合弁会社設立を伴う業務提携に関するお知らせ] ドリコム 2017年5月19日</ref><ref>[https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/press/release/63/pdf/20170519-1.pdf バンダイナムコエンターテインメントとドリコム共同出資による新会社設立のお知らせ] バンダイナムコエンターテインメント、ドリコム 2017年5月19日</ref>。 * [[2018年]] ** [[2月9日]] - [[セガ・インタラクティブ]]、[[コナミアミューズメント]]との間で、アーケードゲーム用ICカードの仕様統一に合意<ref>[https://sega.jp/topics/180209_arcade_1/ セガ・インタラクティブ,コナミアミューズメント,バンダイナムコエンターテインメントの3社 アーケードゲーム用ICカードの仕様統一に向けて合意― 2018年夏の提供を予定 ―] セガ製品情報サイト 2018年2月9日</ref><ref>[https://www.konami.com/amusement/corporate/ja/news/release/20180209/?cm_sp=01-_-release-_-20180209 コナミアミューズメント、セガ・インタラクティブ、バンダイナムコエンターテインメントの3社 アーケードゲーム用ICカードの仕様統一に向けて合意― 2018年夏の提供を予定 ―] コナミアミューズメント 2018年2月9日</ref><ref>[https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/press/release/63/pdf/20180209-1.pdf バンダイナムコエンターテインメント、コナミアミューズメント、セガ・インタラクティブの3社 アーケードゲーム用ICカードの仕様統一に向けて合意― 2018年夏の提供を予定 ―] バンダイナムコエンターテインメント 2018年2月9日</ref>。 ** [[4月1日]] - アミューズメント機器事業部門を分割しナムコ(同日付で[[バンダイナムコアミューズメント]]に商号変更)に承継<ref>[https://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/6083?entry_id=5501 子会社の組織再編について] バンダイナムコホールディングス 2018年2月9日</ref><ref>[https://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/6081?entry_id=5499 バンダイナムコグループ中期計画(2018年4月~2021年3月) CHANGE for the NEXT 挑戦・成長・進化] バンダイナムコホールディングス 2018年2月9日</ref><ref>[https://gamebiz.jp/news/203770 バンナムHD、子会社再編を実施 ナムコがバンダイナムコアミューズメントに社名変更 バンダイビジュアルとランティス合併 BANDAI SPIRITSを設立]、Social Game Info、2018年2月9日</ref>。 ** [[10月1日]] - ゲームアプリなどネットワークサービス運営機能を分社し、「[[バンダイナムコネットワークサービス]]」を設立<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1805/14/news084.html バンダイナムコ、ゲームアプリなど運営機能を分社化]、ITmedia NEWS、2018年5月14日</ref>。 * [[2019年]] ** [[4月1日]] - 遊技機関連事業を「[[バンダイナムコセブンズ]]」へ分社<ref>[https://animeanime.jp/article/2019/01/23/42915.html 「バンダイナムコエンターテインメント」遊技関連事業を分社化 新たな商品・サービス提供目指す] アニメ!アニメ! 2019年1月23日</ref>。 ** [[8月27日]] - [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]]チーム「[[島根スサノオマジック]]」を運営する山陰スポーツネットワークの株式56.5%を取得し子会社化<ref>{{Cite web|和書|date=2019-8-27|title=「B.LEAGUE」所属 プロバスケットボールチーム「島根スサノオマジック」経営権獲得|url=https://www.bandainamcoent.co.jp/pdfs/%E3%80%8CB.LEAGUE%E3%80%8D%E6%89%80%E5%B1%9E%20%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%80%8C%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%80%8D%E7%B5%8C%E5%96%B6%E6%A8%A9%E7%8D%B2%E5%BE%97.pdf|publisher=バンダイナムコエンターテインメント|accessdate=2019-08-31}}</ref>。 * [[2020年]] ** [[3月31日]] - ドリコムよりBXDの全株式を譲受し同社を完全子会社とする<ref>{{Cite web|和書|url=https://gamebiz.jp/news/258934|title=【速報2】ドリコム内藤社長、BXD株式売却の経緯を明かす 「enza」にはパートナーとして引き続き「深く関与」|publisher=Social Game Info|date=2020-01-31|accessdate=2020-02-05}}</ref>。 ** [[6月25日]] - [[電通|電通グループ]]と協業し、インディーゲームパブリッシング事業やクリエイターマネジメント事業を行う[[Phoenixx]]と資本業務提携契約を締結する<ref>{{Cite web|和書|title=バンナム、インディーゲームパブリッシング事業やクリエイターマネジメント事業を行うPhoenixxと資本業務提携 電通グループとも協業|url=https://gamebiz.jp/news/269930|website=Social Game Info|accessdate=2021-01-15|language=ja}}</ref>。 * [[2022年]] ** 7月1日 - [[ILCA]]と共同でハイエンドゲームの企画・開発・運営を行う新会社「[[バンダイナムコエイセス]]」を設立<ref>[https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/press/top/single.html?q=edk4iyXsy バンダイナムコエンターテインメントとゲーム・映像制作会社イルカ 新会社「株式会社バンダイナムコエイセス」設立~フォトリアルな表現を追求したハイエンドなゲーム開発力を強化~] - バンダイナムコエンターテインメント・イルカ 2022年7月1日(2022年7月1日閲覧)</ref>。 == 旧ナムコのキャッチコピー == [[ファイル:Namco logo.svg|thumb|ナムコ時代のロゴ]] * 「オモいカルチャーをオモチャーと言う」 * 「自宅で遊べるナムコット」 上記2つは最初期のCMで、1984-85年頃のパックマン、ゼビウス等といったファミコンソフト発売時に放映されたもの。CM曲には[[細野晴臣]]の「Non Standard Mixture」<ref group="注">アルバム『[[Making of NON-STANDARD MUSIC/Making of MONAD MUSIC]]』収録。</ref>の一部が使われており、細野自身もCMに出演していた。 * 「クーソーは、頭のコヤシです」 * 「クーソーしてから、寝てください」 * 「遊びをクリエイトするナムコ」 最後のキャッチコピー「遊びをクリエイトするナムコ」は、以後もナムコブランドのゲームのパッケージのロゴ付近にあしらわれ、2014年のBNGIへのブランド統合まで長く親しまれた。 * 「2001年の大人(クリエイター)達へ」 * 「集まれ前科者」、「大学8年生に届いた採用通知<ref group="注">後の[[ナムコ]]代表取締役社長である橘正裕が旧ナムコに入社した時の実話に基づく。</ref>」、「『C』が多くてもいいじゃないか」、「■肉■食は、弱肉強食か、[[焼肉定食 (熟語)|焼肉定食]]か」(求職者向け会社案内より) == ゲームタイトル == {{main|バンダイナムコエンターテインメント発売のゲームタイトル一覧}} バンダイ・ナムコ・バンプレストのゲーム部門を統合する前から各社でゲームソフトの開発が続けられていたため、2006年から2009年3月までは旧バンダイ・旧ナムコ・旧バンプレストのロゴをそれぞれ'''バンダイレーベル'''、'''ナムコレーベル'''、'''バンプレストレーベル'''と称し、便宜的な名義(ブランド名)として使用していた。([[アーケードゲーム]]においては、2014年3月までナムコレーベル、およびバンダイナムコゲームスレーベルの二つが使用されていた)。公式サイトへのレーベル表示を廃止した、2009年4月以降も2013年までパッケージ表面・ゲームソフト起動時に表示するロゴマークについては、前述の戦場の絆等一部アーケード作品を除き、各レーベルのものを引き続き使い分けていたが、2014年以降は一部を除き家庭用作品も、'''バンダイナムコゲームスレーベル'''→2015年の社名変更以降は'''バンダイナムコエンターテインメントレーベル'''のみが用いられるようになった。 === レーベルの変更 === 一部のゲームは、移植版や続編が登場する際、レーベルが変更される場合がある。以下がその一例である。 * 『[[ゲームセンターCX 有野の挑戦状]]』(ナムコレーベル):続編『[[ゲームセンターCX 有野の挑戦状2]]』よりバンダイレーベルへ移行 * 『[[機動戦士ガンダム vs.シリーズ]]』(アーケードゲーム、旧バンプレスト・バンプレストレーベル、[[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス|エクストリームバーサス]]以降はバンダイナムコゲームスレーベル):家庭用版はバンダイレーベルで発売 * 『[[機動戦士ガンダム 戦場の絆]]』(アーケードゲーム、旧バンプレスト、Rev2.0よりバンダイナムコゲームスレーベル):[[PlayStation Portable|PSP]]版はバンダイレーベルで発売 * 『[[魔法少女リリカルなのはA's PORTABLE -THE BATTLE OF ACES-]]』(ナムコレーベル):続編『[[魔法少女リリカルなのはA's PORTABLE -THE GEARS OF DESTINY-]]』はバンプレストレーベルに変更 * 『[[魔法少女まどか☆マギカ ポータブル]]』(バンプレストレーベル):『[[劇場版 魔法少女まどか☆マギカ The Battle Pentagram]]』はナムコレーベルに変更 == 出身者 == {{Main|Category:ナムコの人物}} * [[岩谷徹 (ゲームクリエイター)|岩谷徹]]([[東京工芸大学]][[芸術学部]][[ゲーム学科]][[教授]]) * [[遠藤雅伸]](東京工芸大学芸術学部ゲーム学科教授、株式会社[[ゲームスタジオ]]相談役) * [[中潟憲雄]](有限会社デジフロイド代表取締役) * [[細江慎治]](株式会社[[スーパースィープ]]代表取締役) * [[佐宗綾子]](株式会社スーパースィープ取締役) * 大久保良一(株式会社[[トムキャットシステム]]代表取締役) * 高橋由紀夫(株式会社トムキャットシステム取締役) * 鈴木宏治(株式会社[[ノイズ (ゲーム会社)|ノイズ]]代表取締役) * [[岩崎拓矢]](株式会社[[ILCA]]代表取締役) == 関連会社 == * [[バンダイナムコグループ]] * [[バンダイナムコホールディングス]] * [[バンダイナムコスタジオ]] * [[バンダイナムコテクニカ]] * [[バンダイ]] * [[ナムコ・テイルズスタジオ]] * [[BANDAI SPIRITS]] * [[B.B.スタジオ]] * [[ベック (ゲーム会社)|ベック]] * [[バンダイナムコアミューズメント]] * [[ロケットスタジオ]] * [[島根スサノオマジック|バンダイナムコ島根スサノオマジック]] == 著作権表記 == 経営統合後の同社の各ゲーム作品の著作権表記は「©'''NBGI'''」(家庭用ゲーム機)または「©'''NAMCO BANDAI Games Inc.'''」(アーケードゲーム機)に統一されていた。また、2011年以降の旧ナムコレーベルの一部のゲームソフトでは、「©'''NAMCO BANDAI Games Inc.'''」が用いられることがあった(旧バンダイレーベル、旧バンプレストレーベルは引き続き「©'''NBGI'''」のまま用いられた)。2014年4月に社名表記が変更されてから「バンダイナムコエンターテインメント」に社名変更する前までは家庭用・アーケードを問わず「©'''BANDAI NAMCO Games Inc.'''」が用いられるようになり、「©'''BNGI'''」の方は省略形にとどまっている。 ただし、[[ガンダムシリーズゲーム作品一覧|全ての『ガンダムシリーズ』系のゲーム作品]]には存在しない(『ガンダム』以外の[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]及び[[バンダイナムコピクチャーズ]]制作のゲーム作品を除く)。これは『[[コンパチヒーローシリーズ]]』、『[[スーパーロボット大戦シリーズ]]<ref group="注">[[バンプレストオリジナル|オリジナル]]作品系では「SRWOG PROJECT」名記。OGシリーズに登場していないオリジナル機体のプラモデルにおいてもこの名記となっている。</ref>』、『[[Another Century's Episode]]』シリーズも同様であり、また、『[[IVY THE KIWI?]]』や3DS版『[[テトリス]]』、[[ディズニーのコンピュータゲーム作品|ディズニーのゲーム作品]]にも同様である。 == その他 == {{出典の明記|section=1|date=2018年3月}} 同社が経営統合後の2008年4月以前は提供クレジットでは「バンダイ」と「ナムコ」であり、後者のレーベルのみ「バンダイナムコゲームス」の提供クレジットを使用することがあった。同年4月以降「バンプレスト」から移管され、正式に全てのレーベルで「バンダイナムコゲームス」の提供クレジットが表示されるようになった。なお、2009年3月まではバンダイナムコゲームスのロゴを[[コマーシャルメッセージ|CM]]で使用するのはごく稀であり、通常はバンダイ・ナムコ・バンプレストの各社のロゴで表示されていたが、同年4月以降はサイト統合により、前述の戦場の絆等一部のアーケード作品ではバンダイナムコゲームスレーベルを使用している。{{要出典|一部の雑誌やネット上などでは「バンダイナムコゲーム'''ズ'''」と誤植されることがある。|date=2018年3月}}また、作品に対する[[登録商標マーク|登録商標または商標のマーク]]表示は、旧ナムコが1990年代から行うようになった。 合併以降レーベル統合後の2014年現在においても、旧ナムコおよびナムコレーベルの流れを汲むオリジナルタイトルにのみ慣例的に行われている<ref group="注">ただし、統合以前にはバンプレスト系の『[[アルトネリコ]]』シリーズ([[アルトネリコ2 世界に響く少女たちの創造詩|2]]の廉価版以降)のような例外もあった。</ref>。ただ、任天堂製ハード向けの作品に対してのみ、パッケージ裏面に「Produced by 株式会社バンダイナムコゲームス」とメーカー名が記載されているにもかかわらず、表面の下部に「発売元:株式会社バンダイナムコゲームス」と二重に記載している。また、[[Amazon.co.jp]]におけるメーカー名表記は、2010年半ばまでは当該レーベル毎であったが、同年以降バンダイナムコゲームスで統一された<ref group="注">バンプレストレーベルのみ、変更されるまでに時間がかかった。</ref>。 2007年から2016年2月1日まで入居していた旧本社ビルの元になった旧品川パナソニックビルは、1992年に[[松下電器産業]]によって建設されたもので、周辺にビルの日陰を作らないように配慮された結果、台形の外観となった。2006年3月に地元の不動産業者に売却された。旧本社ビルは旧本社における営業最終日当日から解体工事が開始され、跡地にはマンションが建設される予定となっている<ref>{{Cite news |date=2016年2月2日 |url=https://shinagawa.keizai.biz/headline/2510/ |title=東品川の「バンダイナムコ未来研究所」解体へ 三田に本社機能を移転 |publisher=有限会社ノオト |newspaper=品川経済新聞 |accessdate=2018年3月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160205081824/http://shinagawa.keizai.biz:80/headline/2510 |archivedate=2016年2月5日}}</ref>。 === サウンドロゴ === 2014年になって、TVCMの最後に[[サウンドロゴ]]を導入した。内容は白バックで画面中央にメーカーロゴを表示し、「バンダイナムコ」というナレーションが入る。このナレーションの担当は通常のものでは声優の[[高橋信]]だが、CMによってはそのゲームの登場キャラクターが担当するものも多い。2022年3月まではこのパターンを使用し、2022年4月のコーポレートロゴの変更からサウンドロゴも変更になった。複数の色の枠が中央に集まって「バンダイナムコ♪」とも聞こえる5つの単音と共に新しいバンダイナムコグループのロゴを形成する<ref>[https://www.bandainamco.co.jp/about/purpose.html Bandai Namco's Purpose|会社情報] - バンダイナムコホールディングス 2022年4月22日閲覧<br/>本ページのビデオの最後で新サウンドロゴが流れる。</ref>。サウンドはバンダイナムコスタジオのサウンドチームが手がけ<ref>[https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20220404063/ バンダイナムコグループが新ロゴとブランドムービー2作品を公開] - 4gamer.net 2022年4月4日(2022年4月22日閲覧)</ref>、当社以外のバンダイナムコを社名に冠するグループ会社の商品・サービス関連のプロモーション映像やCMでも使用する。 == 新規開発事業 == * Kid'sきずな事業 - [[絵本]]『みのりちゃんのすてきなおうち』の出版と『きずなstyle』<ref>[http://www.kids7.jp/ 『きずなstyle』] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060617025110/http://www.kids7.jp/ |date=2006年6月17日 }}。</ref>の運営。 * ハッスル倶楽部 - アーケードゲームをベースとしたリハビリテーション機器の開発・販売。(旧)ナムコの新規開発事業として開始され、2006年のNBGI設立時に一旦ナムコ(2代)へ移管されたが、2009年に再譲受したものの、2013年3月に撤退(修理などのサポートは継続)。「[http://www.talkingaid.net/ トーキングエイド]」シリーズはバンダイナムコの元社員が設立した[http://www.u-plus.co.jp/ 株式会社ユープラス]が継承<ref>[https://www.bandainamcoent.co.jp/corporate/130403/ 「トーキングエイド」シリーズ・リハビリテインメントマシン販売終了のお知らせ] バンダイナムコエンターテインメント</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[バンダイナムコエンターテインメントフェスティバル]] * [[ラジオはアメリカン]] - かってスポンサーをしていた[[ラジオ番組]] * [[超次元タイムボンバー]] - 筆頭提供[[テレビ番組]]で、最終アトラクション以外は全て当社の放送当時で最新の[[アーケードゲーム]]を使用していた。 * [[朝日放送テレビ制作日曜朝8時30分枠のアニメ]] - パーティシペーション(1996年10月から2005年3月まで) * [[NG (ゲーム情報誌)]] * [[Side-BN]] * [[大トロ倶楽部]] - [[ファミコン通信]]で連載されていた[[片山まさゆき]]の漫画。バンダイとナムコの社名を合わせて作られた番台菜夢子(ばんだい なむこ)というキャラクターが登場する。同漫画が復刻連載された際のキャラクター紹介で「作者が合併を予期していたかのような名前」と書かれていた。 === 同社出身者によって設立された会社 === {{dl2 | 現在 | * [[ゲームスタジオ]] - 出身の[[遠藤雅伸]]、[[大野木宜幸]]、[[黒須一雄]]が設立。旧社は2015年に解散。 * [[ノイズ (ゲーム会社)|ノイズ]] - ディレクターを務めた鈴木宏治(見城こうじ)が設立。 * スタジオカルナバル - 音楽を務めた[[相原隆行]]が[[アリカ]]を経て設立。 * [[スーパースィープ]] - 音楽を務めた[[細江慎治]]、[[佐宗綾子]]がアリカを経て設立。 * デジフロイド - シナリオ、音楽を務めた[[中潟憲雄]]が[[カゼ・ネット|KAZe]]を経て設立。 * [[MONACA|モナカ]](MONACA) - 音楽を務めた[[岡部啓一]]がフリーランスを経て設立。 * [[ビットスター]] - 出身の[[佐々木建仁]]が[[セガ]]を経て庄司久美子と共に設立。 * [[スタジオアールエフ]] - 出身の[[ロマのフ比嘉]]がフリーランスを経て設立。 * [[DETUNE]] - 音楽を務めた[[佐野信義]]が[[キャビア (企業)|キャビア]]を経て設立。 * [[ILCA|イルカ]](ILCA) - プランナー、ディレクターを務めた[[岩崎拓矢]]がキャビアを経て設立。 * ブッコロ - 出身の[[横尾太郎]]が[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]、[[キャビア (企業)|キャビア]]、フリーランスを経て設立。 | 過去 | * トムキャットシステム - 出身の大久保良一が設立。2017年解散。 }} == 外部リンク == {{Commonscat|Namco Bandai}} * {{officialsite|https://www.bandainamcoent.co.jp/}} * {{Mediaarts-db}} {{バンダイナムコグループ}} {{ナムコット}} {{Normdaten}} {{コンピュータエンターテインメント協会}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1= ナムコ (1955年設立の企業) |1-1= ナムコ }} {{デフォルトソート:はんたいなむこえんたあていんめんと}} [[Category:バンダイナムコエンターテインメント|*]] [[Category:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド]] [[Category:バンダイナムコグループ]] [[Category:東京都港区の企業]] [[Category:1955年設立の企業]] [[Category:1988年上場の企業]] [[Category:芝 (東京都港区)]]
2003-02-13T15:59:56Z
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芥川龍之介賞
芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称芥川賞()は、芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。掌編小説には授与されたことがない。 大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。 現在の選考委員は、小川洋子・奥泉光・川上弘美・島田雅彦・平野啓一郎・堀江敏幸・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一の9名(2020年上半期から)。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く東京會舘で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は帝国ホテルで行われている。 1934年、菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五、1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。 設立当時から正賞(賞牌)として記念時計が贈られるとされており、副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成、佐藤春夫、山本有三、瀧井孝作ら11名があたることになった。 芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている。1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており、1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健、1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。 上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ計12~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。 最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。 芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に野間宏、中村真一郎、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳 、三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることさえなかった。また島木健作や田宮虎彦、金達寿、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしばあった。第23回(1950年上半期)に田宮が候補となったとき、坂口安吾は「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でも(中略)かく云う私も、候補に入れてもらわなければならない」と述べて反対している。他方、第5回(1937年上半期)に受賞した尾崎一雄は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている。第38回(1957年下半期)に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにもかかわらず新人といえるかどうかが議論の的となった。現在では、芥川賞は原稿用紙300枚以内の小説という括り以外では、説明のできない賞になってきている。 芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している。また国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞はおろか直木賞すら受賞していないが村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、英語ほかに翻訳されて読まれることを想定した世界文学に移行したことが理由の一つに挙げられる。現在、芥川賞受賞作品が他国民のために翻訳されて読まれることは、決して多くはない。 なお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている。300枚未満で連作ではないもの、何らかの雑誌で掲載済みのものならノミネートの対象になる。 純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木三十五賞(直木賞)との境界があいまいになることがしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている。のちに社会派推理作家として一般に認知された松本清張は、「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。 芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代、島本理生などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。 賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりと商業的な性格があることを認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。 文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望、豊崎由美は現在の芥川賞の問題点として選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることなどを挙げている。また豊崎は改善策として選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の3分の1は文芸評論家にするなどの案を示している。 特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。 第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について、「例へば、佐藤春夫氏は『逆行』よりも『道化の華』によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」と言ったことに対し、太宰は『文藝通信』において以下のように反論した。 この批判に対し川端も翌月に、「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし、「さう分れば、私が〈世間〉や〈金銭関係〉のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう」と述べているが、プライベートに関して人格攻撃をしたこと自体は後に謝罪した。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出したり、選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった。川端はこの規定決定時に欠席しており、「この二つの条件には、多少問題がある」としている。佐藤はこれらの経緯を『小説 芥川賞』と題して詳しく描いている。また、このとき太宰は『新潮』の誌面で、あたかも佐藤との間で受賞の密約を交わしていたかのようなアピールをしているが、佐藤には即座に否定されている。 (第二次世界大戦のため中断) 各回ごとの出席状況などは別項芥川賞の受賞者一覧を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称芥川賞()は、芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。掌編小説には授与されたことがない。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現在の選考委員は、小川洋子・奥泉光・川上弘美・島田雅彦・平野啓一郎・堀江敏幸・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一の9名(2020年上半期から)。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く東京會舘で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は帝国ホテルで行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1934年、菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五、1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。 設立当時から正賞(賞牌)として記念時計が贈られるとされており、副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成、佐藤春夫、山本有三、瀧井孝作ら11名があたることになった。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている。1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており、1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健、1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ計12~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。", "title": "選考過程" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。", "title": "選考過程" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に野間宏、中村真一郎、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳 、三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることさえなかった。また島木健作や田宮虎彦、金達寿、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしばあった。第23回(1950年上半期)に田宮が候補となったとき、坂口安吾は「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でも(中略)かく云う私も、候補に入れてもらわなければならない」と述べて反対している。他方、第5回(1937年上半期)に受賞した尾崎一雄は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている。第38回(1957年下半期)に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにもかかわらず新人といえるかどうかが議論の的となった。現在では、芥川賞は原稿用紙300枚以内の小説という括り以外では、説明のできない賞になってきている。", "title": "選考基準" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している。また国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞はおろか直木賞すら受賞していないが村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、英語ほかに翻訳されて読まれることを想定した世界文学に移行したことが理由の一つに挙げられる。現在、芥川賞受賞作品が他国民のために翻訳されて読まれることは、決して多くはない。", "title": "選考基準" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている。300枚未満で連作ではないもの、何らかの雑誌で掲載済みのものならノミネートの対象になる。", "title": "選考基準" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木三十五賞(直木賞)との境界があいまいになることがしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている。のちに社会派推理作家として一般に認知された松本清張は、「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。", "title": "選考基準" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代、島本理生などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。", "title": "選考基準" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりと商業的な性格があることを認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望、豊崎由美は現在の芥川賞の問題点として選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることなどを挙げている。また豊崎は改善策として選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の3分の1は文芸評論家にするなどの案を示している。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。", "title": "最年少・最年長受賞記録" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について、「例へば、佐藤春夫氏は『逆行』よりも『道化の華』によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」と言ったことに対し、太宰は『文藝通信』において以下のように反論した。", "title": "太宰治の落選について" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この批判に対し川端も翌月に、「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし、「さう分れば、私が〈世間〉や〈金銭関係〉のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう」と述べているが、プライベートに関して人格攻撃をしたこと自体は後に謝罪した。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出したり、選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった。川端はこの規定決定時に欠席しており、「この二つの条件には、多少問題がある」としている。佐藤はこれらの経緯を『小説 芥川賞』と題して詳しく描いている。また、このとき太宰は『新潮』の誌面で、あたかも佐藤との間で受賞の密約を交わしていたかのようなアピールをしているが、佐藤には即座に否定されている。", "title": "太宰治の落選について" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "(第二次世界大戦のため中断)", "title": "受賞者一覧" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "各回ごとの出席状況などは別項芥川賞の受賞者一覧を参照。", "title": "歴代選考委員" } ]
芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称芥川賞は、芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。掌編小説には授与されたことがない。
{{redirect|芥川賞|音楽の賞|芥川作曲賞}} {{Infobox Award | name = 芥川龍之介賞 | current_awards = | image = | imagesize = | caption = | description = 各新聞・雑誌(同人雑誌を含む)に発表された[[純文学]]短編の無名もしくは新進作家 | presenter = [[日本文学振興会]](事実上[[文藝春秋]]社との共催) | country = {{JPN}} | location = [[東京會舘]] → [[帝国ホテル]] | year = [[1935年]]上半期 | year2 = [[2023年]]上半期 | holder = [[市川沙央]] | website = [https://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/akutagawa/ 公式サイト] }} '''芥川龍之介賞'''(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称{{読み仮名|'''芥川賞'''|あくたがわしょう}}は、芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編作品に与えられる[[文学賞]]である。[[文藝春秋]]社内の[[日本文学振興会]]によって選考が行われ、賞が授与される。[[掌編小説]]には授与されたことがない。 == 概要 == [[大正|大正時代]]を代表する小説家の一人・[[芥川龍之介]]の業績を記念して、友人であった[[菊池寛]]が[[1935年]]に[[直木三十五賞]](直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]から一時中断したが[[1949年]]に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として[[懐中時計]]、副賞として100万円が授与され、受賞作は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』に掲載される<ref>{{Cite news|url = http://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/|title = 各賞紹介 |work =公益財団法人日本文学振興会 |publisher=|date = |accessdate = 2018-1-18}}</ref>。 現在の選考委員は、[[小川洋子]]・[[奥泉光]]・[[川上弘美]]・[[島田雅彦]]・[[平野啓一郎]]・[[堀江敏幸]]・[[松浦寿輝]]・[[山田詠美]]・[[吉田修一]]の9名(2020年上半期から)。選考会は、[[料亭]]『[[新喜楽]]』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く[[東京會舘]]で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は[[帝国ホテル]]で行われている。 == 成立 == [[1934年]]、[[菊池寛]]は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した[[直木三十五]]、[[1927年]]に死去した[[芥川龍之介]]の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。[[1924年]]に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『[[文學界|文学界]]』の編集者であった[[川崎竹一]]の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎が[[ゴンクール賞]]や[[ノーベル賞]]など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」『創』[[1977年]]3月号初出、『芥川賞の研究』124-125頁</ref>。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や[[永井龍男]]らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。 設立当時から正賞(賞牌)として記念時計が贈られるとされており、副賞は500円であった<ref>第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業新報』1935年(昭和10年)8月11日</ref>。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として[[川端康成]]、[[佐藤春夫]]、[[山本有三]]、[[瀧井孝作]]ら11名があたることになった。 芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている<ref>永井龍男、佐佐木茂作「芥川賞の生まれるまで(対談)」『文学界』[[1959年]]3月号初出、『芥川賞の研究』10-11頁</ref>。[[1954年]]に受賞した[[吉行淳之介]]は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており<ref name="umeda1">梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁</ref>、[[1955年]]に受賞した[[遠藤周作]]も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している<ref>遠藤周作、開高健「対談 芥川賞」『文学界』[[1963年]]9月号初出、『芥川賞の研究』158-159頁</ref>。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは[[1956年]]の[[石原慎太郎]]「[[太陽の季節]]」の受賞である{{efn|ただし、石原の述懐によると受賞直後は「家に記者たちが押しかけているなどということもなかった」といい(小説『弟』の記述より)、授賞式の記念写真も15人程度のスタッフと撮影する(『我が人生の時の人々』に授賞式やその際の会食の写真が掲載されている)など前述の吉行や遠藤と大差ない状況であった。}}。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした<ref name="umeda1"/>。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり[[1957年]]下半期に[[開高健]]、[[1958年]]上半期に[[大江健三郎]]が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた<ref name="umeda2">梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁</ref>。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラー<ref>{{Cite web|和書|url = https://style.nikkei.com/article/DGXMZO94706240T01C15A2000000/|title = 大ヒットを生むのはどっち?|website = style.nikkei.com|publisher = style.nikkei.com|date = |accessdate = 2021-07-13}}</ref>となっている。 == 選考過程 == 上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは[[日本文学振興会]]から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ計12~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。 最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に[[築地]]の料亭・[[新喜楽]]1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×<ref>{{Cite web|和書|url = https://toyokeizai.net/articles/-/122377?page=2|title = 「芥川賞・直木賞」をどれだけ知っていますか|website = toyokeizai.net|publisher = 東洋経済|date = |accessdate = 2021-07-13}}</ref>による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる<ref group="注釈">『ダカーポ』[[2006年]][[7月19日]]号掲載の「芥川賞・直木賞はこうして決定する」による。日本文学振興会スタッフ菊池夏樹への取材に基づく。</ref>。 == 選考基準 == === 「新人」の基準 === 芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に[[野間宏]]、[[中村真一郎]]、[[椎名麟三]]、[[梅崎春生]]、[[武田泰淳]] 、[[三島由紀夫]]ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが[[1949年]]の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることさえなかった。また[[島木健作]]や[[田宮虎彦]]、[[金達寿]]、後述する[[井上光晴]]のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしばあった。第23回(1950年上半期)に田宮が候補となったとき、坂口安吾は「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でも(中略)かく云う私も、候補に入れてもらわなければならない」と述べて反対している。他方、第5回([[1937年]]上半期)に受賞した[[尾崎一雄]]は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』133頁</ref>。第38回(1957年下半期)に[[開高健]]と競って僅差で落選した[[大江健三郎]]はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにもかかわらず新人といえるかどうかが議論の的となった<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』147頁</ref>。現在では、芥川賞は原稿用紙300枚以内の小説という括り以外では、説明のできない賞になってきている。 === 作品の長さ === 芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた[[石川達三]]は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回([[1964年]]上半期)受賞の[[柴田翔]]「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』149頁</ref>。第50回([[1963年]]下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の[[石川淳]]は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している<ref name="umeda2"/>。また国際的にも評価の高い[[村上春樹]]は芥川賞はおろか直木賞すら受賞していないが村上の場合は中篇作品で2度候補<ref>「なぜ村上春樹は芥川賞をとれなかったのか?」『ダカーポ』[[2006年]][[7月19日]]号、28-29頁</ref>となった後、英語ほかに翻訳されて読まれることを想定した世界文学に移行したことが理由の一つに挙げられる。現在、芥川賞受賞作品が他国民のために翻訳されて読まれることは、決して多くはない。 なお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている<ref>「データでみる芥川賞・直木賞」『ダカーポ』2006年7月19日号、18-19頁</ref>。300枚未満で連作ではないもの、何らかの雑誌で掲載済みのものならノミネートの対象になる{{efn|短編を五つまとめた[[舞城王太郎]]の作品が過去にノミネートされたが、審査を棄権した人物がいたことや、その中の一つがノミネートの対象になると受け取った人物がいたことから、連作短編での受賞は規定外と考えられている。}}。 === 直木賞との境界 === [[純文学]]の新人賞として設けられている芥川賞であるが、[[大衆小説|大衆文学]]の賞として設けられている[[直木三十五賞]](直木賞)との境界があいまいになることがしばしばある。第6回([[1937年]]下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた[[井伏鱒二]]が受賞しており、直木賞選考委員の[[久米正雄]]は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている<ref>橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」『小説新潮』[[1964年]]1・2月号初出、『芥川賞の研究』117-118頁</ref>。のちに社会派推理作家として一般に認知された[[松本清張]]は、「或る『小倉日記』伝」で[[1952年]]下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』140頁</ref>。第46回([[1961年]]下半期)の両賞では[[宇能鴻一郎]]が芥川賞を、[[伊藤桂一]]が直木賞をとり、このとき文芸評論家の[[平野謙 (評論家)|平野謙]]は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている<ref>梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』148頁</ref>。同様の事態は第111回([[1998年]]上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった[[車谷長吉]]が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた[[花村萬月]]、ハードボイルド調の作品を書いていた[[藤沢周]]が芥川賞を取ったことで話題となった。 芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、[[檀一雄]]、[[柴田錬三郎]]、[[山田詠美]]、[[角田光代]]、[[島本理生]]などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。[[1950年代]]までは[[柴田錬三郎]]「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、[[北川荘平]]「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。 == 批判 == <!-- 出典・参考文献に基づかない加筆を行なわないこと --> 賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりと商業的な性格があることを認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため1937年に財団法人[[日本文学振興会]]を創設し両賞をまかなわせるようになったが同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)<ref>橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」、『芥川賞の研究』70頁</ref>。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)[[プロレタリア文学]]の傑作のためには、[[小林多喜二]]賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。 文学賞に対する批判本『[[文学賞メッタ斬り!]]』を著した[[大森望]]、[[豊崎由美]]は現在の芥川賞の問題点として選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることなどを挙げている。また豊崎は改善策として選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の3分の1は文芸評論家にするなどの案を示している<ref>「文学賞大国ニッポン―両賞の位置は?」『ダカーポ』2006年7月19日号、34-35頁</ref>。 == 最年少・最年長受賞記録 == 特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる<ref>{{Cite web|和書|url = https://dot.asahi.com/articles/-/78412?page=3|title = 芥川賞は現役大学生が受賞 芥川・直木賞歴代受賞者の出身大学ランキング|website = dot.asahi.com|publisher = AERA.dot|date = |accessdate = 2021-07-13}}</ref>。 {| class="wikitable" |+最年少受賞記録 !順位!!受賞者名!!受賞時期!!受賞時の年齢 |- !1 |[[綿矢りさ]]||[[2003年]]下半期(第130回)||{{center|19歳11か月}} |- !2 |[[金原ひとみ]]||2003年下半期(第130回)||{{center|20歳{{0}}5か月}} |- !3 |[[宇佐見りん]]|||[[2020年]]下半期(第164回)||{{center|21歳{{0}}8か月}} |- !4 |[[丸山健二]]||[[1966年]]下半期(第56回)||{{center|23歳{{0}}0か月}} |- !5 |[[石原慎太郎]]||[[1955年]]下半期(第34回)||{{center|23歳{{0}}3か月}} |- !6 |[[大江健三郎]]||[[1958年]]上半期(第39回)||{{center|23歳{{0}}5か月}} |- !7 |[[平野啓一郎]]||[[1998年]]下半期(第120回)||{{center|23歳{{0}}6か月}} |- !8 |[[青山七恵]]||[[2006年]]下半期(第136回)||{{center|23歳11か月}} |- !9 |[[村上龍]]||[[1976年]]上半期(第75回)||{{center|24歳{{0}}4か月}} |} {| class="wikitable" |+最年長受賞記録 !順位!!受賞者名!!受賞年!!受賞時の年齢 |- !1 |[[黒田夏子]]||[[2012年]]下半期(第148回){{0}}||{{center|75歳{{0}}9か月}} |- !2 |[[若竹千佐子]]||[[2017年]]下半期(第158回){{0}}||{{center|63歳{{0}}}} |- !3 |[[森敦]]||[[1973年]]下半期(第70回){{0}}||{{center|61歳11か月}} |- !4 |[[三浦清宏]]||[[1987年]]下半期(第98回){{0}}||{{center|57歳{{0}}4か月}} |- !5 |[[米谷ふみ子]]||[[1985年]]下半期(第94回){{0}}||{{center|55歳{{0}}2か月}} |} == 21世紀に発表されたベストセラーから == ;[[綿矢りさ]] 『[[蹴りたい背中]]』(第130回・[[2003年]]下半期) 127万部(単行本のみ) :綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で20歳の金原ひとみと同時受賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー<ref>{{Cite web|和書|url = https://mainichi.jp/premier/business/articles/20150729/biz/00m/010/019000c|title = ピース又吉「火花」は出版界の救世主か|website = mainichi.jp|publisher = 毎日新聞|date = |accessdate = 2021-07-13}}</ref>』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した[[三浦哲郎]]を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」([[池澤夏樹]])、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」([[高樹のぶ子]])と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10 - 20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた<ref>[http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309015705/ 蹴りたい背中 :綿矢 りさ|河出書房新社]</ref>。 ;[[又吉直樹]] 『[[火花 (小説)|火花]]』(第153回・[[2015年]]上半期) 229万部(単行本のみ) :[[羽田圭介]]「スクラップ・アンド・ビルド」と同時受賞。売れない芸人の主人公と天才肌の先輩芸人との交友を描いた作品。お笑い芸人では初の受賞。単行本の累計発行部数は229万部を突破し、芥川賞受賞作品として歴代1位の単行本部数となる<ref>[https://web.archive.org/web/20150805155335/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150804/k10010177921000.html 又吉さんの「火花」 発行部数209万部に].NHK NEWS(2015年8月5日).2015年8月5日閲覧。</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20150811-OYT8T50041.html 又吉さん「火花」20万部増刷、累計229万部 : ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)]</ref>。 ;[[村田沙耶香]] 『[[コンビニ人間]]』(第155回・[[2016年]]上半期) 102万部(単行本のみ) :2016年の発売から年内に50万部を超えてからもじわじわと売れ続け、2年を経て100万部に到達した<ref>[https://www.shinbunka.co.jp/news2018/10/181019-02.htm 村田沙耶香『コンビニ人間』、100万部突破]</ref>。 == 太宰治の落選について == 第1回芥川賞では、デビューしたばかりの[[太宰治]]も候補となった。太宰は当時[[オキシコドン|パビナール]]中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった[[川端康成]]は太宰について、「例へば、[[佐藤春夫]]氏は『逆行』よりも『道化の華』によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」と言ったことに対し<ref>川端康成「芥川龍之介賞選評第一回昭和十年上半期」(文藝春秋 1935年9月号に掲載)</ref>、太宰は『文藝通信』において以下のように反論した{{efn|この背景には、太宰治の友人・[[檀一雄]]が『道化の華』を推していて、川端ならきっと理解してくれると話していたため、審査過程で何か要らぬ力や圧力が作用したと太宰が考え、「お互ひに下手な嘘はつかないことにしよう」と言い、川端や、その背後にいる人たちを批判しているとされる<ref name="katayama">[[片山倫太郎]]・[[田村嘉勝]]「文豪をめぐる八人の作家たち」(『別冊太陽 川端康成』)(平凡社、2009年)</ref>。}}。 {{Quotation|事実、私は憤怒に燃えた。小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大[[悪党]]だと思つた。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのやうな、ひねこびた熱い強烈な愛情をずつと奥底に感じた。ちがふ。ちがふと首をふつたが、その、冷く装うてはゐるが、[[ドストエフスキー|ドストエフスキイ]]ふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかつかつとほてらせた。さうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。(中略)ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ。|[[太宰治]]「川端康成へ」<ref>[[太宰治]]「川端康成へ」(文藝通信 1935年10月号に掲載)</ref>}} この批判に対し川端も翌月に、「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁して、[[石川達三]]の『[[蒼氓]]』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし<ref name="dazaie">川端康成「太宰治氏へ 芥川賞に就いて」(文藝通信 1935年11月号に掲載)</ref>、「さう分れば、私が〈世間〉や〈金銭関係〉のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう」と述べている<ref name="dazaie"/>が、プライベートに関して人格攻撃をしたこと自体は後に謝罪した。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出したり<ref>太宰治「川端康成宛て書簡」(昭和11年6月29日付)</ref>、選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった<ref name="katayama"/>。川端はこの規定決定時に欠席しており、「この二つの条件には、多少問題がある」としている<ref>川端康成「芥川賞予選記」(文學界 1936年9月号に掲載)</ref><ref name="katayama"/>。佐藤はこれらの経緯を『小説 芥川賞』と題して詳しく描いている。また、このとき太宰は『新潮』の誌面で、あたかも佐藤との間で受賞の密約を交わしていたかのようなアピールをしているが、佐藤には即座に否定されている。 == 受賞者一覧 == {{Main|芥川賞の受賞者一覧}} === 1930年代 === * 第1回([[1935年]]上半期) - [[石川達三]]「[[蒼氓]]」 * 第2回(1935年下半期) - 該当作品なし([[二・二六事件]]のため審査中止) * 第3回([[1936年]]上半期) - [[小田嶽夫]]「城外」、[[鶴田知也]]「[[コシャマイン記]]」 * 第4回(1936年下半期) - [[石川淳]]「[[普賢 (小説)|普賢]]」、[[冨澤有爲男]]「地中海」 * 第5回([[1937年]]上半期) - [[尾崎一雄]]「暢気眼鏡」他 * 第6回(1937年下半期) - [[火野葦平]]「[[糞尿譚 (火野葦平の小説)|糞尿譚]]」 * 第7回([[1938年]]上半期) - [[中山義秀]]「厚物咲」 * 第8回(1938年下半期) - [[中里恒子]]「乗合馬車」他 * 第9回([[1939年]]上半期) - [[半田義之]]「鶏騒動」、[[長谷健]]「あさくさの子供」 * 第10回(1939年下半期) - [[寒川光太郎]]「密獵者」 === 1940年代 === * 第11回([[1940年]]上半期) - [[高木卓]]「歌と門の盾」(受賞辞退) * 第12回(1940年下半期) - [[櫻田常久]]「平賀源内」 * 第13回([[1941年]]上半期) - [[多田裕計]]「長江デルタ」 * 第14回(1941年下半期) - [[芝木好子]]「青果の市」 * 第15回([[1942年]]上半期) - 該当作品なし * 第16回(1942年下半期) - [[倉光俊夫]]「連絡員」 * 第17回([[1943年]]上半期) - [[石塚喜久三]]「纏足の頃」 * 第18回(1943年下半期) - [[東野辺薫|東野邊薫]]「和紙」 * 第19回([[1944年]]上半期) - [[八木義徳]]「劉廣福」、[[小尾十三]]「登攀」 * 第20回(1944年下半期) - [[清水基吉]]「雁立」 (第二次世界大戦のため中断) * 第21回([[1949年]]上半期) - [[由起しげ子]]「本の話」、[[小谷剛]]「確証」 * 第22回(1949年下半期) - [[井上靖]]「[[闘牛 (小説)|闘牛]]」 === 1950年代 === * 第23回([[1950年]]上半期) - [[辻亮一]]「[[異邦人 (辻亮一の小説)|異邦人]]」 * 第24回(1950年下半期) - 該当作品なし * 第25回([[1951年]]上半期) - [[安部公房]]「[[壁 (小説)|壁 S・カルマ氏の犯罪]]」、[[石川利光 (作家)|石川利光]]「春の草」他 * 第26回(1951年下半期) - [[堀田善衛]]「広場の孤独」「漢奸」その他 * 第27回([[1952年]]上半期) - 該当作品なし * 第28回(1952年下半期) - [[五味康祐]]「喪神」、[[松本清張]]「[[或る「小倉日記」伝|或る『小倉日記』伝]]」 * 第29回([[1953年]]上半期) - [[安岡章太郎]]「悪い仲間・陰気な愉しみ」 * 第30回(1953年下半期) - 該当作品なし * 第31回([[1954年]]上半期) - [[吉行淳之介]]「[[驟雨 (小説)|驟雨]]」その他 * 第32回(1954年下半期) - [[小島信夫]]「[[アメリカン・スクール (小説)|アメリカン・スクール]]」、[[庄野潤三]]「[[プールサイド小景]]」 * 第33回([[1955年]]上半期) - [[遠藤周作]]「白い人」 * 第34回(1955年下半期) - [[石原慎太郎]]「[[太陽の季節]]」 * 第35回([[1956年]]上半期) - [[近藤啓太郎]]「海人舟」 * 第36回(1956年下半期) - 該当作品なし * 第37回([[1957年]]上半期) - [[菊村到]]「硫黄島」 * 第38回(1957年下半期) - [[開高健]]「[[裸の王様 (小説)|裸の王様]]」 * 第39回([[1958年]]上半期) - [[大江健三郎]]「[[飼育 (小説)|飼育]]」 * 第40回(1958年下半期) - 該当作品なし * 第41回([[1959年]]上半期) - [[斯波四郎]]「山塔」 * 第42回(1959年下半期) - 該当作品なし === 1960年代 === * 第43回([[1960年]]上半期) - [[北杜夫]]「[[夜と霧の隅で]]」 * 第44回(1960年下半期) - [[三浦哲郎]]「[[忍ぶ川]]」 * 第45回([[1961年]]上半期) - 該当作品なし * 第46回(1961年下半期) - [[宇能鴻一郎]]「[[鯨神]]」 * 第47回([[1962年]]上半期) - [[川村晃]]「美談の出発」 * 第48回(1962年下半期) - 該当作品なし * 第49回([[1963年]]上半期) - [[後藤紀一]]「少年の橋」、[[河野多惠子]]「蟹」 * 第50回(1963年下半期) - [[田辺聖子]]「[[感傷旅行]] センチメンタル・ジャーニィ」 * 第51回([[1964年]]上半期) - [[柴田翔]]「[[されどわれらが日々|されどわれらが日々──]]」 * 第52回(1964年下半期) - 該当作品なし * 第53回([[1965年]]上半期) - [[津村節子]]「玩具」 * 第54回(1965年下半期) - [[高井有一]]「北の河」 * 第55回([[1966年]]上半期) - 該当作品なし * 第56回(1966年下半期) - [[丸山健二]]「夏の流れ」 * 第57回([[1967年]]上半期) - [[大城立裕]]「カクテル・パーティー」 * 第58回(1967年下半期) - [[柏原兵三]]「徳山道助の帰郷」 * 第59回([[1968年]]上半期) - [[丸谷才一]]「年の残り」、[[大庭みな子]]「三匹の蟹」 * 第60回(1968年下半期) - 該当作品なし * 第61回([[1969年]]上半期) - [[庄司薫]]「[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]」、[[田久保英夫]]「深い河」 * 第62回(1969年下半期) - [[清岡卓行]]「[[アカシヤの大連]]」 === 1970年代 === * 第63回([[1970年]]上半期) - [[吉田知子]]「無明長夜」、[[古山高麗雄]]「プレオー8の夜明け」 * 第64回(1970年下半期) - [[古井由吉]]「杳子」 * 第65回([[1971年]]上半期) - 該当作品なし * 第66回(1971年下半期) - [[李恢成]]「砧をうつ女」、[[東峰夫]]「オキナワの少年」 * 第67回([[1972年]]上半期) - [[畑山博]]「いつか汽笛を鳴らして」、[[宮原昭夫]]「誰かが触った」 * 第68回(1972年下半期) - [[山本道子 (作家)|山本道子]] 「ベティさんの庭」、[[郷静子]]「れくいえむ」 * 第69回([[1973年]]上半期) - [[三木卓]]「鶸」 * 第70回(1973年下半期) - [[野呂邦暢]]「草のつるぎ」、[[森敦]]「[[月山 (小説)|月山]]」 * 第71回([[1974年]]上半期) - 該当作品なし * 第72回(1974年下半期) - [[日野啓三]]「あの夕陽」、[[阪田寛夫]]「土の器」 * 第73回([[1975年]]上半期) - [[林京子]]「祭りの場」 * 第74回(1975年下半期) - [[中上健次]]「[[岬 (小説)|岬]]」、[[岡松和夫]]「志賀島」 * 第75回([[1976年]]上半期) - [[村上龍]]「[[限りなく透明に近いブルー]]」 * 第76回(1976年下半期) - 該当作品なし * 第77回([[1977年]]上半期) - [[三田誠広]]「僕って何」、[[池田満寿夫]]「[[エーゲ海に捧ぐ]]」 * 第78回(1977年下半期) - [[宮本輝]]「[[螢川]]」、[[高城修三]] 「榧の木祭り」 * 第79回([[1978年]]上半期) - [[高橋揆一郎]]「伸予」、[[高橋三千綱]]「九月の空」 * 第80回(1978年下半期) - 該当作品なし * 第81回([[1979年]]上半期) - [[重兼芳子]]「やまあいの煙」、[[青野聰]]「愚者の夜」 * 第82回(1979年下半期) - [[森禮子]]「モッキングバードのいる町」 === 1980年代 === * 第83回([[1980年]]上半期) - 該当作品なし * 第84回(1980年下半期) - [[赤瀬川原平|尾辻克彦]]「父が消えた」 * 第85回([[1981年]]上半期) - [[吉行理恵]]「小さな貴婦人」 * 第86回(1981年下半期) - 該当作品なし * 第87回([[1982年]]上半期) - 該当作品なし * 第88回(1982年下半期) - [[加藤幸子 (作家)|加藤幸子]] 「夢の壁」、[[唐十郎]]「佐川君からの手紙」 * 第89回([[1983年]]上半期) - 該当作品なし * 第90回(1983年下半期) - [[笠原淳]]「杢二の世界」、[[高樹のぶ子]]「光抱く友よ」 * 第91回([[1984年]]上半期) - 該当作品なし * 第92回(1984年下半期) - [[木崎さと子]]「青桐」 * 第93回([[1985年]]上半期) - 該当作品なし * 第94回(1985年下半期) - [[米谷ふみ子]]「過越しの祭」 * 第95回([[1986年]]上半期) - 該当作品なし * 第96回(1986年下半期) - 該当作品なし * 第97回([[1987年]]上半期) - [[村田喜代子]]「鍋の中」 * 第98回(1987年下半期) - [[池澤夏樹]]「[[スティル・ライフ (小説)|スティル・ライフ]]」、[[三浦清宏]]「長男の出家」 * 第99回([[1988年]]上半期) - [[新井満]] 「尋ね人の時間」 * 第100回(1988年下半期) - [[南木佳士]]「ダイヤモンドダスト」、[[李良枝]]「由煕」 * 第101回([[1989年]]上半期) - 該当作品なし * 第102回(1989年下半期) - [[大岡玲]]「表層生活」、[[瀧澤美恵子]]「ネコババのいる町で」 === 1990年代 === * 第103回([[1990年]]上半期) - [[辻原登]]「村の名前」 * 第104回(1990年下半期) - [[小川洋子]]「[[妊娠カレンダー]]」 * 第105回([[1991年]]上半期) - [[辺見庸]]「自動起床装置」、[[荻野アンナ]]「背負い水」 * 第106回(1991年下半期) - [[松村栄子]]「至高聖所アバトーン」<ref name="asahi1992117">{{Cite news | title = 芥川賞に松村栄子氏 直木賞 高橋義氏と高橋克氏 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 1992-01-17 | author = | publisher = 朝日新聞社 | page = 朝刊 30 }}</ref><ref name="asahi1992227">{{Cite news | title = 3氏が喜び語る 芥川・直木賞授賞式 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 1992-02-27 | author = | publisher = 朝日新聞社 | page = 夕刊 15 }}</ref> * 第107回([[1992年]]上半期) - [[藤原智美]]「運転士」 * 第108回(1992年下半期) - [[多和田葉子]]「犬婿入り」 * 第109回([[1993年]]上半期) - [[吉目木晴彦]]「寂寥郊野」 * 第110回(1993年下半期) - [[奥泉光]]「石の来歴」 * 第111回([[1994年]]上半期) - [[室井光広]]「おどるでく」、[[笙野頼子]]「[[タイムスリップ・コンビナート]]」 * 第112回(1994年下半期) - 該当作品なし * 第113回([[1995年]]上半期) - [[保坂和志]]「この人の閾」 * 第114回(1995年下半期) - [[又吉栄喜]]「豚の報い」 * 第115回([[1996年]]上半期) - [[川上弘美]]「[[蛇を踏む]]」 * 第116回(1996年下半期) - [[辻仁成]]「[[海峡の光]]」、[[柳美里]]「家族シネマ」 * 第117回([[1997年]]上半期) - [[目取真俊]]「水滴」 * 第118回(1997年下半期) - 該当作品なし * 第119回([[1998年]]上半期) - [[花村萬月]]「[[ゲルマニウムの夜]]」、[[藤沢周]]「ブエノスアイレス午前零時」 * 第120回(1998年下半期) - [[平野啓一郎]]「[[日蝕 (小説)|日蝕]]」 * 第121回([[1999年]]上半期) - 該当作品なし * 第122回(1999年下半期) - [[玄月]]「蔭の棲みか」、[[藤野千夜]]「夏の約束」 === 2000年代 === * 第123回([[2000年]]上半期) - [[町田康]]「きれぎれ」、[[松浦寿輝]]「[[花腐し]]」 * 第124回(2000年下半期) - [[青来有一]]「聖水」、[[堀江敏幸]]「熊の敷石」 * 第125回([[2001年]]上半期) - [[玄侑宗久]]「中陰の花」 * 第126回(2001年下半期) - [[長嶋有]]「猛スピードで母は」 * 第127回([[2002年]]上半期) - [[吉田修一]]「パーク・ライフ」 * 第128回(2002年下半期) - [[大道珠貴]]「しょっぱいドライブ」 * 第129回([[2003年]]上半期) - [[吉村萬壱]]「ハリガネムシ」 * [[第130回芥川龍之介賞|第130回]](2003年下半期) - [[金原ひとみ]]「[[蛇にピアス]]」、[[綿矢りさ]]「[[蹴りたい背中]]」(最年少受賞) * 第131回([[2004年]]上半期) - [[モブ・ノリオ]]「介護入門」 * 第132回(2004年下半期) - [[阿部和重]]「グランド・フィナーレ」 * 第133回([[2005年]]上半期) - [[中村文則]]「土の中の子供」 * 第134回(2005年下半期) - [[絲山秋子]]「[[沖で待つ]]」 * 第135回([[2006年]]上半期) - [[伊藤たかみ]]「八月の路上に捨てる」 * 第136回(2006年下半期) - [[青山七恵]]「ひとり日和」 * 第137回([[2007年]]上半期) - [[諏訪哲史]]「アサッテの人」 * 第138回(2007年下半期) - [[川上未映子]]「[[乳と卵]]」 * 第139回([[2008年]]上半期) - [[楊逸]]「[[時が滲む朝]]」 * 第140回(2008年下半期) - [[津村記久子]]「[[ポトスライムの舟]]」 * 第141回([[2009年]]上半期) - [[磯崎憲一郎]]「終の住処」 * 第142回(2009年下半期) - 該当作品なし === 2010年代 === * 第143回([[2010年]]上半期) - [[赤染晶子]]「[[乙女の密告]]」 * 第144回(2010年下半期) - [[朝吹真理子]]「きことわ」、[[西村賢太]]「[[苦役列車]]」 * 第145回([[2011年]]上半期) - 該当作品なし * 第146回(2011年下半期)- [[円城塔]]「道化師の蝶」、[[田中慎弥]]「[[共喰い (小説)|共喰い]]」 * 第147回([[2012年]]上半期)- [[鹿島田真希]]「冥土めぐり」 * 第148回(2012年下半期)- [[黒田夏子]]「[[abさんご]]」 * 第149回([[2013年]]上半期)- [[藤野可織]]「爪と目」 * 第150回(2013年下半期)- [[小山田浩子]]「穴」 * 第151回([[2014年]]上半期)- [[柴崎友香]]「[[春の庭]]」 * 第152回(2014年下半期)- [[小野正嗣]]「九年前の祈り」 * 第153回([[2015年]]上半期)- [[羽田圭介]]「[[スクラップ・アンド・ビルド]]」、[[又吉直樹]]「[[火花 (小説)|火花]]」 * 第154回(2015年下半期)- [[滝口悠生]]「死んでいない者」、[[本谷有希子]]「異類婚姻譚」 * 第155回([[2016年]]上半期)- [[村田沙耶香]]「[[コンビニ人間]]」 * 第156回(2016年下半期)- [[山下澄人]]「[[しんせかい]]」 * 第157回([[2017年]]上半期)- [[沼田真佑]]「[[影裏]]」 * 第158回(2017年下半期)- [[石井遊佳]]「百年泥」、[[若竹千佐子]]「[[おらおらでひとりいぐも]]」 * 第159回([[2018年]]上半期)- [[高橋弘希]]「送り火」 * 第160回(2018年下半期)- [[上田岳弘]]「[[ニムロッド (小説)|ニムロッド]]」、[[町屋良平]]「1R1分34秒」 * 第161回([[2019年]]上半期)- [[今村夏子]]「むらさきのスカートの女」 * 第162回(2019年下半期)- [[古川真人]]「背高泡立草」 === 2020年代 === * 第163回([[2020年]]上半期)- [[高山羽根子]]「首里の馬」、[[遠野遥]]「破局」 * 第164回(2020年下半期)- [[宇佐見りん]]「[[推し、燃ゆ]]」 * 第165回([[2021年]]上半期)- [[石沢麻依]]「貝に続く場所にて」、[[李琴峰]]「彼岸花が咲く島」 * 第166回(2021年下半期)- [[砂川文次]]「ブラックボックス」 * 第167回([[2022年]]上半期)- [[高瀬隼子]]「[[おいしいごはんが食べられますように]]」 * 第168回(2022年下半期)- [[井戸川射子]]「この世の喜びよ」、[[佐藤厚志]]「荒地の家族」 * 第169回([[2023年]]上半期)- [[市川沙央]]「ハンチバック」 == 歴代選考委員 == 各回ごとの出席状況などは別項[[芥川賞の受賞者一覧]]を参照。 {| |style="vertical-align:top"| * [[川端康成]] 第1回(1935年) - 第64回(1970年) * [[菊池寛]] 第1回(1935年) - 第16回(1942年) * [[久米正雄]] 第1回(1935年) - 第15回(1942年) * [[小島政二郎]] 第1回(1935年) - 第16回(1942年) * [[佐佐木茂索]] 第1回(1935年) - 第16回(1942年) * [[佐藤春夫]] 第1回(1935年) - 第46回(1961年)  * [[滝井孝作]] 第1回(1935年) - 第86回(1981年) * [[谷崎潤一郎]] 第1回(1935年) - 第16回(1942年) * [[室生犀星]] 第1回(1935年) - 第17回(1943年) * [[山本有三]] 第1回(1935年) - 第16回(1942年) * [[横光利一]] 第1回(1935年) - 第20回(1944年)  * [[宇野浩二]] 第6回(1937年) - 第45回(1961年)  * [[片岡鉄兵]] 第13回(1941年) - 第19回(1944年)  <!--* [[白井喬二]] 第13回(1941年) - --> * [[河上徹太郎]] 第17回(1943年) - 第20回(1944年) * [[岸田國士]] 第18回(1943年) - 第30回(1953年)  * [[火野葦平]] 第18回(1943年) - 第20回(1944年)  * [[石川達三]] 第21回(1949年) - 第65回(1971年) * [[坂口安吾]] 第21回(1949年) - 第30回(1953年) * [[丹羽文雄]] 第21回(1949年) - 第92回(1984年) * [[舟橋聖一]] 第21回(1949年) - 第73回(1975年) * [[井上靖]] 第32回(1954年) - 第89回(1983年)  * [[中村光夫]] 第34回(1955年) - 第94回(1985年) * [[井伏鱒二]] 第39回(1958年) - 第47回(1962年) * [[永井龍男]] 第39回(1958年) - 第77回(1977年) * [[石川淳]] 第47回(1962年) - 第65回(1971年) * [[高見順]] 第47回(1962年) - 第53回(1965年) * [[大岡昇平]] 第55回(1966年) - 第73回(1975年) * [[三島由紀夫]] 第55回(1966年) - 第63回(1970年) * [[安岡章太郎]] 第66回(1971年) - 第95回(1986年) * [[吉行淳之介]] 第66回(1971年) - 第110回(1993年) * [[遠藤周作]] 第76回(1976年) - 第95回(1986年) |style="vertical-align:top"| * [[大江健三郎]] ** 第76回(1976年) - 第91回(1984年) ** 第103回(1990年) - 第114回(1995年) * [[開高健]] 第79回(1978年) - 第101回(1989年)  * [[丸谷才一]] ** 第79回(1978年) - 第93回(1985年) ** 第103回(1990年) - 第118回(1997年)  * [[三浦哲郎]] 第91回(1984年) - 第130回(2003年) * [[田久保英夫]] 第94回(1985年) - 第124回(2000年) * [[古井由吉]] 第94回(1985年) - 第132回(2004年) * [[水上勉]] 第94回(1985年) - 第100回(1988年) * [[大庭みな子]] 第97回(1987年) - 第115回(1996年) * [[黒井千次]] 第97回(1987年) - 第146回(2012年) * [[河野多恵子]] 第97回(1987年) - 第136回(2006年) * [[日野啓三]] 第97回(1987年) - 第126回(2001年) * [[池澤夏樹]] 第114回(1995年) - 第145回(2011年) * [[石原慎太郎]] 第114回(1995年) - 第146回(2012年) * [[宮本輝]] 第114回(1995年) - 第162回(2019年) * [[村上龍]] 第123回(2000年) - 第158回(2017年)<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2018/07/06/0011420314.shtml|title=村上龍氏が芥川選考委員を退任 6月の候補作選考とは「関係ない」|newspaper=デイリースポーツ|date=2018-07-06|accessdate=2018-07-06}}</ref> * [[高樹のぶ子]] 第126回(2001年) - 第161回(2019年) * [[山田詠美]] 第129回(2003年) - * [[小川洋子]] 第137回(2007年) - * [[川上弘美]] 第137回(2007年) - * [[島田雅彦]] 第144回(2010年) - * [[奥泉光]] 第147回(2012年) - * [[堀江敏幸]] 第147回(2012年) - * [[吉田修一]] 第156回(2016年) - * [[松浦寿輝]] 第162回(2019年) - * [[平野啓一郎]] 第163回(2020年) - <ref>{{Cite news|url= https://www.asahi.com/articles/ASN344RL0N34UCVL007.html?iref=comtop_list_nat_n04|title=直木賞の委員に三浦しをんさん 芥川賞は平野啓一郎さん|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2020-03-04|accessdate=2020-03-04}}</ref> |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == 選評は『芥川賞全集』に収録されている。 * 永井龍男ほか『芥川賞の研究』みき書房、1979年 * 永井龍男『回想の芥川・直木賞』文藝春秋、1979年 * 川口則弘『芥川賞物語』[[バジリコ]]、2013年 文春文庫 2017年 * 『芥川賞全集』文藝春秋、1982年- * 『ダカーポ』2006年7月19日号「特集・芥川賞、直木賞を徹底的に楽しむ」マガジンハウス * 大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、PARCO出版、2004年- * 文藝春秋特別編集『芥川賞・直木賞150回全記録』文藝春秋、2014年 == 関連項目 == ;いずれも非公募の純文学新人賞。 * [[野間文芸新人賞]]([[講談社]]) * [[三島由紀夫賞]]([[新潮社]]) ;芥川賞になぞらえられる他業界の新人賞。 :新人作家の登竜門としての知名度の高さから、小説以外の新人賞で似た性質を持つものが「○○界の芥川賞」と紹介されることがある。有名作家を輩出しているという部分に重きを置かれている呼称であり、公募・非公募の別は重視されていない。 * [[H氏賞]](現代詩の芥川賞) * [[角川短歌賞]](短歌界の芥川賞) * [[角川俳句賞]](俳句界の芥川賞) * [[岸田國士戯曲賞]](演劇界の芥川賞) * [[城戸賞]](映画界の芥川賞) * [[木村伊兵衛写真賞]](写真界の芥川賞) :1997年まで続いた[[安井賞]]も画壇の芥川賞と呼ばれた。なお[[芥川作曲賞]]は[[芥川也寸志]]を記念。 == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|文学|[[File:N write.svg|35px]]}} {{ウィキポータルリンク|書物|[[File:N index.svg|35px]]}} * [https://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/akutagawa/ 芥川龍之介賞|公益財団法人日本文学振興会] * [https://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/akutagawa/list.html 芥川賞受賞者一覧|公益財団法人日本文学振興会] * [https://prizesworld.com/akutagawa/ 芥川賞のすべて・のようなもの] *{{Kotobank|芥川賞}} {{DEFAULTSORT:あくたかわりゆうのすけしよう}} {{芥川賞}} {{Normdaten}} [[Category:芥川龍之介賞|*]] [[Category:日本の文学賞]] [[Category:芥川龍之介]] [[Category:菊池寛]] [[Category:人名を冠した文学賞]] [[Category:1935年開始のイベント]]
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直木三十五賞
直木三十五賞(なおきさんじゅうごしょう)は、大衆性を押さえた長編小説作品あるいは短編集に与えられる文学賞である。通称は直木賞。 上半期は前年12月1日~5月31日までに発表された作品が対象。候補作発表は6月中旬、選考会は7月中旬、贈呈式は8月中旬。 下半期は6月1日~11月30日までに発表された作品が対象。候補作発表は12月中旬、選考会は翌年1月中旬、贈呈式は2月中旬。 かつては芥川賞と同じく無名・新人作家に対する賞であったといわれているが、1970年代あたりから中堅作家中心に移行、近年では長老クラスの大ベテランが受賞することも多々ある。(もっとも、直木賞は設定当初の時期も新人向けの賞であったとは言い難い面がある。第1回受賞の川口松太郎や第3回受賞の海音寺潮五郎からして既に新人とは言うには無理があったし、戦後1回目である第21回受賞の富田常雄は『姿三四郎』発表後の受賞であり、既に文壇長者番付上位の人気作家であった。その他にも、候補者・受賞者の中には新人とは言い難い人物が少なくない) 文藝春秋社社長の菊池寛が友人の直木三十五を記念して1935年に芥川龍之介賞(芥川賞)とともに創設し、以降年2回発表される。 授賞する作品は選考委員の合議によって決定される。第6回から、財団法人日本文学振興会により運営されている。第二次世界大戦中の1945年に紙の不足による出版点数の減少から一時中断したが、1949年に復活した。 2019年現在の選考委員は、浅田次郎、伊集院静、角田光代、京極夏彦、桐野夏生、高村薫、林真理子、三浦しをん、宮部みゆきの9名(2020年上半期から)。選考会は、料亭・新喜楽の2階で行われる(芥川賞選考会は1階)。芥川賞と直木賞の受賞者記者会見とその翌月の授賞式は、ともに東京會舘で行われてきたが、同館の建て替えにともない現在は帝国ホテルで行われている。 受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円が贈呈され、受賞作はオール讀物に掲載される。なお、複数の受賞者がいる場合でもそれぞれに賞品と100万円の賞金が贈呈され、分割授与にはならない。一方、受賞該当作なしとなった場合は次回受賞分に賞金を繰り越すキャリーオーバーは行われない。 発足当初の対象は新人による大衆小説であり、芥川賞とは密接不可分の関係にある。また、運営者である日本文学振興会の事務所が社内に置かれている文藝春秋から刊行、あるいは同社の雑誌に掲載された小説に対して多く授賞している傾向があり、文藝春秋とも事実上不可分の関係となっている。 創設時、選考の対象は「無名若しくは新進作家の大衆文芸」(直木賞規定)であったが、戦後になり回を重ねるごとに芥川賞と比べて若手新人が受賞しにくい傾向となった。これは1つには各回の選評にしばしばあるように大衆文学を対象とする賞の性質上、受賞後作家として一本立ちするだけの筆力があるかどうかを選考委員が重視したためであり、背景には「大衆小説は作品を売ることで作家として生計を立ててゆく必要がある」という考え方があったものと推測される。また創設時にはまだ新進のジャンルであった大衆文学の分野における実質唯一の新人賞であった直木賞が、戦後多くの出版社によって後発の大衆文学の賞が創設されていく中にあって、当該分野の中でもっとも長い歴史と権威を持つ、大衆文学の進むべき方向を明らかにする重要な賞として位置づけられるようになったこととも関係があるだろう。 現在ではこのような状態が長く続いたため選考基準に中堅作家という一項が新たに加えられ、実質的には既に一定のキャリアを持つ人気実力派作家のための賞という設定となり、直木賞が当初に持たされていた「文学界の有望新人を発掘する」という機能はおのずから他の新人賞に振られることとなった。結果としてすでに中堅・ベテランの著名作家として名を成している人物に対していわゆる「遅すぎたノミネート」「遅すぎた受賞」を行うケースが多く、さらに既に人気作家となっている者にあっては選考(候補)を辞退する事例も起きておりこの点で文芸界・各種マスコミの内外で数多くの議論が巻き起こってきたことも事実である。 選考対象の「大衆小説」にまつわる問題としては、推理小説を主たる活動分野とする作家が受賞しにくい傾向が長く続いた点がある。受賞したのは多岐川恭の『落ちる』(第40回)、生島治郎『追いつめる』(第57回)、中村正䡄『元首の謀叛』(第84回)くらいで、笹沢左保、真保裕一、貫井徳郎、湊かなえは4度、北方謙三、志水辰夫、西村寿行は3度候補となりながら受賞に至らず、赤川次郎、小杉健治、折原一、島田荘司、福井晴敏ら推理作家として大成した作家も届かず、三好徹、陳舜臣、結城昌治、連城三紀彦、皆川博子らも非ミステリー分野の作品で受賞していた。しかし逢坂剛が『カディスの赤い星』で受賞(第96回)して以後は認められるようになり、笹倉明(第101回)、原尞(第102回)、髙村薫(第109回)、大沢在昌(第110回)、小池真理子、藤原伊織(第114回)、乃南アサ(第115回)、宮部みゆき(第120回)とコンスタントに受賞者が出た1989年から1999年は「ミステリーの隆盛」とも呼ばれる。北方、髙村、宮部は桐野夏生(第121回)、東野圭吾(第134回)と共に選考委員を務めることになり、第150回現在で選考委員9人のうち5人がミステリー畑出身者で占められた(東野圭吾は161回を最後に選考委員を退任し、後任には角田光代が就任した。また第169回から北方謙三に代わって京極夏彦が委員になっている)。 同様に大衆小説内でも発展期以降の歴史が比較的浅いSFやファンタジーなども選考段階では幾度か候補に上げられてはいるが、実際に受賞したのは景山民夫『遠い海から来たCOO』(第99回)と小川哲『地図と拳』(第168回)の2例のみである(半村良はSF小説で2回候補になった後、人情小説で受賞している)。昭和末期に勃興したライトノベルのレーベルから刊行された作品の中にも広義にいえば若年層向けの大衆文学ともいえる要素を内含している作品が一部見られるが、日本文学振興会と密接な関係にある文藝春秋がこのジャンルに対するノウハウを持ち合わせていないためか、ほぼ目が向けられていないに等しい(ライトノベル出身の受賞作家としては桜庭一樹がいるが、受賞作は一般文芸誌に掲載された作品であった)。この様に現在でも空想性が極端に高いSF・ファンタジー等のジャンルに対する評価が総じて低いのも直木賞選考の特徴である。古くより選考委員の席の大半を過去の本賞受賞者が占めていることもあってか、毎回行われる選評での高評価も伝奇小説・時代小説・歴史小説・人情小説などといった多くの受賞者が属する従来型の大衆文学に属する作品に偏りがちで、新規に開拓された後発ジャンルや選考委員たちが専門知識を持たないか興味の薄いジャンルに対してはジャンルそのものへの理解が乏しい、言い換えれば守旧的な選考を行う傾向が根強い一面がある。この様な風潮によって受賞を逃した作家には小松左京・星新一・筒井康隆・広瀬正・万城目学などがおり、中でも不利とされるSFを専門範囲とし三度にわたり落選の憂き目を見た筒井は、後に別冊文藝春秋において、直木賞をもじった「直廾賞」の選考委員たちが皆殺しにされるという、直木賞選考を批判的に風刺した小説『大いなる助走』を発表している。 近年では、大衆文学の延長線上で生み出された音楽小説なるものにも受賞されることがある。 『ルポルタージュにっぽん』 直木賞の決まる日(NHK 1980年1月26日)
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直木三十五賞(なおきさんじゅうごしょう)は、大衆性を押さえた長編小説作品あるいは短編集に与えられる文学賞である。通称は直木賞。 上半期は前年12月1日~5月31日までに発表された作品が対象。候補作発表は6月中旬、選考会は7月中旬、贈呈式は8月中旬。 下半期は6月1日~11月30日までに発表された作品が対象。候補作発表は12月中旬、選考会は翌年1月中旬、贈呈式は2月中旬。
{{Infobox Award | name = 直木三十五賞 | current_awards = | image = | imagesize = | caption = | description = 各新聞・雑誌(同人雑誌を含む)・単行本として発表された短編集あるいは長編[[大衆小説|大衆文芸作品]]の作家 | presenter = [[日本文学振興会]](事実上[[文藝春秋]]社との共催) | country = {{JPN}} | location = [[東京會舘]] → [[帝国ホテル]] | year = [[1935年]]上半期 | year2 = [[2023年]]上半期 | holder = [[垣根涼介]]、[[永井紗耶子]] | website = [https://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/naoki/ 公式サイト] }} '''直木三十五賞'''(なおきさんじゅうごしょう)は、大衆性<ref>{{Cite web|和書|url = https://asahi.gakujo.ne.jp/common_sense/morning_paper/detail/id=2244|title = 直木賞は大衆文学の人気作家をさらに売れる流行作家にする役割があります|website = asahi.gakujo.ne.jp|publisher = asahi.gakujo.ne.jp|date = |accessdate = 2021-07-17}}</ref>を押さえた[[長編小説]]作品あるいは短編集に与えられる[[文学賞]]である。通称は'''直木賞'''。 上半期は前年12月1日~5月31日までに発表された作品が対象。候補作発表は6月中旬、選考会は7月中旬、贈呈式は8月中旬。 下半期は6月1日~11月30日までに発表された作品が対象。候補作発表は12月中旬、選考会は翌年1月中旬、贈呈式は2月中旬。 == 概要 == かつては[[芥川龍之介賞|芥川賞]]と同じく無名・新人作家に対する賞であったといわれているが、1970年代あたりから中堅作家中心に移行、近年では長老クラスの大ベテランが受賞することも多々ある{{Refnest|group="注釈"|第157回の佐藤正午はデビュー34年目、第97回の白石一郎は32年目、第142回の佐々木譲は30年目、第122回のなかにし礼は(小説でのデビュー後)29年目、第89回の胡桃沢耕史は28年目、第148回の安部龍太郎、第163回の馳星周はともに25年目の受賞である。}}。(もっとも、直木賞は設定当初の時期も新人向けの賞であったとは言い難い面がある。第1回受賞の[[川口松太郎]]や第3回受賞の[[海音寺潮五郎]]からして既に新人とは言うには無理があったし、戦後1回目である第21回受賞の[[富田常雄]]は『[[姿三四郎]]』発表後の受賞であり、既に文壇長者番付上位の人気作家であった。その他にも、候補者・受賞者の中には新人とは言い難い人物が少なくない{{Refnest|group="注釈"|いくつか例を挙げれば、第17回で受賞が決まった[[山本周五郎]]は、筆歴17年で著作もあり、「新人と新風とを紹介する点にこの種の賞の意味があるので、もちろん在来もそうであったとは思いますが、今後もなおそういうものが選まれてゆくことを希望したいと思います。」と述べて受賞を拒絶している。第26回受賞の[[久生十蘭]]や同回の候補者だった[[長谷川幸延]]、[[摂津茂和]]は、既に商業文芸誌に確固たる地位を築いていた人物である。第36回受賞の[[今東光]]に至っては、35年以上前に文壇に登場していた。また、今の他にも第6回受賞の[[井伏鱒二]]や第24回受賞の[[檀一雄]]などのように、純文芸(純文学)では既によく知られていた人物が受賞するケースもあった。その他にも、作品ではなくそれまでの業績から受賞するということが、当初から幾度となく行われてきた。むしろ戦後の一時期に、新人対象という当初の企図にたちかえったものの、長くは続かなかったという方が実態に近い。}}) == 沿革 == [[文藝春秋|文藝春秋社]]社長の[[菊池寛]]が友人の[[直木三十五]]を記念して[[1935年]]に[[芥川龍之介賞]](芥川賞)とともに創設し、以降年2回発表される。 授賞する作品は選考委員の[[合議]]によって決定される。第6回から、財団法人[[日本文学振興会]]により運営されている。[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]に紙の不足による出版点数の減少から一時中断したが、[[1949年]]に復活した。 2023年下半期時点の選考委員は、同年11月に[[伊集院静]]が死去した為、[[浅田次郎]]、[[角田光代]]、[[京極夏彦]]、[[桐野夏生]]、[[高村薫]]、[[林真理子]]、[[三浦しをん]]、[[宮部みゆき]]の8名<ref>{{Cite web |title=第170回「芥川賞・直木賞」候補作決定 NEWS・加藤シゲアキが2度目の候補に |url=https://www.oricon.co.jp/news/2306354/ |website=ORIKON |accessdate=2023-12-14 |date=2023-12-14 |language=ja}}</ref>(2020年上半期から)。選考会は、料亭・[[新喜楽]]の2階で行われる(芥川賞選考会は1階)。芥川賞と直木賞の受賞者記者会見とその翌月の授賞式は、ともに[[東京會舘]]で行われてきたが、同館の建て替えにともない現在は[[帝国ホテル]]で行われている。 受賞者には正賞として[[懐中時計]]、副賞として100万円が贈呈され、受賞作は[[オール讀物]]に掲載される。なお、複数の受賞者がいる場合でもそれぞれに賞品と100万円の賞金が贈呈され、分割授与にはならない。一方、受賞該当作なしとなった場合は次回受賞分に賞金を繰り越す[[キャリーオーバー]]は行われない。 == 傾向 == 発足当初の対象は'''新人による[[大衆小説]]'''であり、芥川賞とは密接不可分の関係にある。また、運営者である日本文学振興会の事務所が社内に置かれている[[文藝春秋]]から刊行、あるいは同社の雑誌に掲載された小説に対して多く授賞している傾向があり、文藝春秋とも事実上[[不可分]]の関係となっている。 創設時、選考の対象は「無名若しくは新進作家の大衆文芸」(直木賞規定)であったが、戦後になり回を重ねるごとに芥川賞と比べて若手新人が受賞しにくい傾向となった。これは1つには各回の選評にしばしばあるように大衆文学を対象とする賞の性質上、受賞後作家として一本立ちするだけの筆力があるかどうかを選考委員が重視したためであり、背景には「大衆小説は作品を売ることで作家として生計を立ててゆく必要がある」という考え方があったものと推測される。また創設時にはまだ新進のジャンルであった大衆文学の分野における実質唯一の新人賞であった直木賞が、戦後多くの出版社によって後発の大衆文学の賞が創設されていく中にあって、当該分野の中でもっとも長い歴史と権威を持つ、大衆文学の進むべき方向を明らかにする重要な賞として位置づけられるようになったこととも関係があるだろう。 現在ではこのような状態が長く続いたため選考基準に中堅作家という一項が新たに加えられ、実質的には既に一定のキャリアを持つ人気実力派作家のための賞という設定となり、直木賞が当初に持たされていた「文学界の有望新人を発掘する」という機能はおのずから他の新人賞に振られることとなった。結果としてすでに中堅・ベテランの著名作家として名を成している人物に対していわゆる「遅すぎたノミネート」「遅すぎた受賞」を行うケースが多く、さらに既に人気作家となっている者にあっては選考(候補)を辞退する事例も起きており{{Refnest|group="注釈"|2002年下半期(第128回)で、『[[半落ち]]』で3度目の候補に挙がるものの、選考委員からの「基本的な事実誤認がある」という批判から落選した[[横山秀夫]]と、2008年下半期(第140回)で、執筆活動に専念したいという理由から『[[ゴールデンスランバー]]』が候補になることを辞退した[[伊坂幸太郎]]が挙げられる。}}<ref>{{Cite web|和書|author=asahi.com|date=2008-07-08|url=http://book.asahi.com/clip/JJT200807080001.html|title=伊坂幸太郎さん、直木賞選考対象から辞退|accessdate=2011-02-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080804133832/http://book.asahi.com/clip/JJT200807080001.html|archivedate=2008-08-04}}</ref>この点で文芸界・各種マスコミの内外で数多くの議論が巻き起こってきたことも事実である。 選考対象の「大衆小説」にまつわる問題としては、[[推理小説]]を主たる活動分野とする作家が受賞しにくい傾向が長く続いた点がある。受賞したのは[[多岐川恭]]の『落ちる』(第40回)、[[生島治郎]]『追いつめる』(第57回)、[[中村正䡄]]『元首の謀叛』(第84回)くらいで、[[笹沢左保]]、[[真保裕一]]、[[貫井徳郎]]、[[湊かなえ]]は4度、[[北方謙三]]、[[志水辰夫]]、[[西村寿行]]は3度候補となりながら受賞に至らず、[[赤川次郎]]、[[小杉健治]]、[[折原一]]、[[島田荘司]]、[[福井晴敏]]ら推理作家として大成した作家も届かず、[[三好徹]]、[[陳舜臣]]、[[結城昌治]]、[[連城三紀彦]]、[[皆川博子]]らも非ミステリー分野の作品で受賞していた<ref>外部リンク『直木賞のすべて』の「候補作家たち」</ref>。しかし[[逢坂剛]]が『[[カディスの赤い星]]』で受賞(第96回)して以後は認められるようになり、[[笹倉明]](第101回)、[[原尞]](第102回)、[[髙村薫]](第109回)、[[大沢在昌]](第110回)、[[小池真理子]]、[[藤原伊織]](第114回)、[[乃南アサ]](第115回)、[[宮部みゆき]](第120回)とコンスタントに受賞者が出た[[1989年]]から[[1999年]]は「ミステリーの隆盛」とも呼ばれる<ref>川口則弘『直木賞物語』339-401頁</ref>。北方、髙村、宮部は[[桐野夏生]](第121回)、[[東野圭吾]](第134回)と共に選考委員を務めることになり、第150回現在で選考委員9人のうち5人がミステリー畑出身者で占められた<ref>文藝春秋特別編集『芥川賞・直木賞150回全記録』331頁</ref>(東野圭吾は161回を最後に選考委員を退任し<ref>[[オール讀物]]2019年9月号34頁</ref>、後任には[[角田光代]]が就任した<ref>日本文学振興会2019年9月18日付ツイッター</ref>。また第169回から北方謙三に代わって京極夏彦が委員になっている)。 同様に大衆小説内でも発展期以降の歴史が比較的浅い[[サイエンス・フィクション|SF]]や[[ファンタジー]]なども選考段階では幾度か候補に上げられてはいるが、実際に受賞したのは[[景山民夫]]『[[遠い海から来たCOO]]』(第99回)と小川哲『地図と拳』(第168回)の2例のみである([[半村良]]はSF小説で2回候補になった後、人情小説で受賞している)。昭和末期に勃興した[[ライトノベル]]のレーベルから刊行された作品の中にも広義にいえば若年層向けの大衆文学ともいえる要素を内含している作品が一部見られるが、日本文学振興会と密接な関係にある文藝春秋がこのジャンルに対するノウハウを持ち合わせていないためか、ほぼ目が向けられていないに等しい(ライトノベル出身の受賞作家としては[[桜庭一樹]]がいるが、受賞作は一般文芸誌に掲載された作品であった)。この様に現在でも空想性が極端に高いSF・ファンタジー等のジャンルに対する評価が総じて低いのも直木賞選考の特徴である。古くより選考委員の席の大半を過去の本賞受賞者が占めていることもあってか、毎回行われる選評での高評価も[[伝奇小説]]・[[時代小説]]・[[歴史小説]]・人情小説などといった多くの受賞者が属する従来型の大衆文学に属する作品に偏りがちで、新規に開拓された後発ジャンルや選考委員たちが専門知識を持たないか興味の薄いジャンルに対してはジャンルそのものへの理解が乏しい、言い換えれば守旧的な選考を行う傾向が根強い一面がある。この様な風潮によって受賞を逃した作家には[[小松左京]]・[[星新一]]・[[筒井康隆]]・[[広瀬正]]・[[万城目学]]などがおり、中でも不利とされるSFを専門範囲とし三度にわたり落選の憂き目を見た筒井は、後に[[別冊文藝春秋]]において、直木賞をもじった「直廾賞」の選考委員たちが皆殺しにされるという、直木賞選考を批判的に風刺した小説『[[大いなる助走]]』を発表している。 近年では、大衆文学の延長線上で生み出された[[音楽小説]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://movies.yahoo.co.jp/movie/367201/|title = 蜜蜂と遠雷|website = movies.yahoo.co.jp|publisher = movies.yahoo.co.jp|date = |accessdate = 2021-07-13}}</ref>なるものにも受賞されることがある。  == 最年少・最年長・最速受賞記録 == {| class="wikitable" |+最年少受賞記録 !順位!!受賞者名!!受賞時期!!受賞時の年齢 |- !1 |[[堤千代]]||[[1940年]]上半期(第11回)||<center>22歳10か月</center> |- !2 |[[朝井リョウ]]||[[2012年]]下半期(第148回)||<center>23歳{{0}}7か月</center> |- !3 |[[平岩弓枝]]||[[1959年]]上半期(第41回)||<center>27歳{{0}}4か月</center> |- !4 |[[山田詠美]]||[[1987年]]上半期(第97回)||<center>28歳{{0}}5か月</center> |- !5 |[[三浦しをん]]||[[2006年]]上半期(第135回)||<center>29歳{{0}}9か月</center> |- |} {| class="wikitable" |+最年長受賞記録 !順位!!受賞者名!!受賞年!!受賞時の年齢 |- !1 |[[星川清司]]||[[1989年]]下半期(第102回){{0}}||<center>68歳{{0}}2か月</center> |- !2 |[[青山文平]]||[[2015年]]下半期(第154回){{0}}||<center>67歳{{0}}1か月</center> |- !3 |[[古川薫]]||[[1990年]]下半期(第104回){{0}}||<center>65歳{{0}}7か月</center> |- !4 |[[黒川博行]]||[[2014年]]上半期(第151回){{0}}||<center>65歳{{0}}4か月</center> |- !5 |[[佐藤得二]]||[[1963年]]上半期(第49回){{0}}||<center>64歳{{0}}5か月</center> |- |} {| class="wikitable" |+最速受賞記録 !順位!!受賞者名!!受賞年!!デビューから |- !1 |[[中村正軌]]||[[1980年]]下半期(第84回){{0}}||デビュー作『元首の謀叛』 |- !2 |[[川越宗一]]||[[2019年]]下半期(第162回){{0}}||第1作『熱源』 |- !2 |[[藤原伊織]]||[[1995年]]下半期(第114回){{0}}||第1作『[[テロリストのパラソル]]』 |- !4 |[[多岐川恭]]||[[1958年]]下半期(第40回){{0}}||第2作『落ちる』 |- !参 |[[青島幸男]]||[[1981年]]上半期(第85回){{0}}||初小説『[[人間万事塞翁が丙午]]』 |- |} == 受賞者一覧 == :上半期は同年8月に、下半期は翌年2月に授賞式が行われる。 === 第1 - 10回 === * 第1回([[1935年]]上半期) - [[川口松太郎]]『鶴八鶴次郎』『風流深川唄』『明治一代女』 * 第2回(1935年下半期) - [[鷲尾雨工]]『[[吉野朝太平記]]』他 * 第3回([[1936年]]上半期) - [[海音寺潮五郎]]『天正女合戦』『武道傳來記』 * 第4回(1936年下半期) - [[木々高太郎]]『[[人生の阿呆]]』 * 第5回([[1937年]]上半期) - 該当作品なし * 第6回(1937年下半期) - [[井伏鱒二]]『[[ジョン万次郎漂流記|ジョン萬次郎漂流記]]』他 * 第7回([[1938年]]上半期) - [[橘外男]]『ナリン殿下への回想』 * 第8回(1938年下半期) - [[大池唯雄]]『兜首』『秋田口の兄弟』 * 第9回([[1939年]]上半期) - 該当作品なし * 第10回(1939年下半期) - 該当作品なし === 第11 - 20回 === * 第11回([[1940年]]上半期) - [[堤千代]]『小指』他、[[河内仙介]]『軍事郵便』 * 第12回(1940年下半期) - [[村上元三]]『上総風土記』他 * 第13回([[1941年]]上半期) - [[木村荘十]]『雲南守備兵』 * 第14回(1941年下半期) - 該当作品なし * 第15回([[1942年]]上半期) - 該当作品なし * 第16回(1942年下半期) - [[田岡典夫]]『強情いちご』他、[[神崎武雄]]『寛容』他 * 第17回([[1943年]]上半期) - [[山本周五郎]]『日本婦道記』(受賞辞退) * 第18回(1943年下半期) - [[森荘已池]]『山畠』『蛾と笹舟』 * 第19回([[1944年]]上半期) - [[岡田誠三]]『ニューギニヤ山岳戦』 * 第20回(1944年下半期) - 該当作品なし === 第21 - 30回 === * 第21回([[1949年]]上半期) - [[富田常雄]]『面』『刺青』 * 第22回(1949年下半期) - [[山田克郎]]『海の廃園』 * 第23回([[1950年]]上半期) - [[今日出海]]『天皇の帽子』、[[小山いと子]]『執行猶予』 * 第24回(1950年下半期) - [[檀一雄]]『真説石川五右衛門』『長恨歌』 * 第25回([[1951年]]上半期) - [[源氏鶏太]]『英語屋さん』『颱風さん』『御苦労さん』 * 第26回(1951年下半期) - [[久生十蘭]]『鈴木主水』、[[柴田錬三郎]]『イエスの裔』 * 第27回([[1952年]]上半期) - [[藤原審爾]]『罪な女』他 * 第28回(1952年下半期) - [[立野信之]]『叛乱』 * 第29回([[1953年]]上半期) - 該当作品なし * 第30回(1953年下半期) - 該当作品なし === 第31 - 40回 === * 第31回([[1954年]]上半期) - [[有馬頼義]]『終身未決囚』 * 第32回(1954年下半期) - [[梅崎春生]]『ボロ家の春秋』、[[戸川幸夫]]『[[高安犬物語]]』 * 第33回([[1955年]]上半期) - 該当作品なし * 第34回(1955年下半期) - [[邱永漢]]『香港』、[[新田次郎]]『強力伝』 * 第35回([[1956年]]上半期) - [[南條範夫]]『[[燈台鬼 (小説)|燈台鬼]]』、[[今官一]]『壁の花』 * 第36回(1956年下半期) - [[今東光]]『お吟さま』、[[穂積驚]]『勝烏』 * 第37回([[1957年]]上半期) - [[江崎誠致]]『ルソンの谷間』 * 第38回(1957年下半期) - 該当作品なし * 第39回([[1958年]]上半期) - [[山崎豊子]]『[[花のれん]]』、[[榛葉英治]]『赤い雪』 * 第40回(1958年下半期) - [[城山三郎]]『総会屋錦城』、[[多岐川恭]]『落ちる』 === 第41 - 50回 === * 第41回([[1959年]]上半期) - [[渡辺喜恵子]]『馬淵川』、[[平岩弓枝]]『鏨師』 * 第42回(1959年下半期) - [[司馬遼太郎]]『[[梟の城]]』、[[戸板康二]]『團十郎切腹事件』他 * 第43回([[1960年]]上半期) - [[池波正太郎]]『錯乱』 * 第44回(1960年下半期) - [[寺内大吉]]『はぐれ念仏』、[[黒岩重吾]]『背徳のメス』 * 第45回([[1961年]]上半期) - [[水上勉]]『[[雁の寺]]』 * 第46回(1961年下半期) - [[伊藤桂一]]『螢の河』 * 第47回([[1962年]]上半期) - [[杉森久英]]『天才と狂人の間』 * 第48回(1962年下半期) - [[山口瞳]]『[[江分利満氏の優雅な生活]]』、[[杉本苑子]]『孤愁の岸』 * 第49回([[1963年]]上半期) - [[佐藤得二]]『女のいくさ』 * 第50回(1963年下半期) - [[安藤鶴夫]]『巷談[[本牧亭]]』、[[和田芳恵]]『塵の中』 === 第51 - 60回 === * 第51回([[1964年]]上半期) - 該当作品なし * 第52回(1964年下半期) - [[永井路子]]『[[炎環]]』、[[安西篤子]]『張少子の話』 * 第53回([[1965年]]上半期) - [[藤井重夫]]『虹』 * 第54回(1965年下半期) - [[新橋遊吉]]『八百長』、[[千葉治平]]『虜愁記』 * 第55回([[1966年]]上半期) - [[立原正秋]]『白い罌粟』 * 第56回(1966年下半期) - [[五木寛之]]『[[蒼ざめた馬を見よ]]』 * 第57回([[1967年]]上半期) - [[生島治郎]]『追いつめる』 * 第58回(1967年下半期) - [[野坂昭如]]『[[アメリカひじき]]』『[[火垂るの墓]]』、[[三好徹]]『聖少女』 * 第59回([[1968年]]上半期) - 該当作品なし * 第60回(1968年下半期) - [[陳舜臣]]『青玉獅子香炉』、[[早乙女貢]]『僑人の檻』 === 第61 - 70回 === * 第61回([[1969年]]上半期) - [[佐藤愛子 (作家)|佐藤愛子]]『戦いすんで日が暮れて』 * 第62回(1969年下半期) - 該当作品なし * 第63回([[1970年]]上半期) - [[結城昌治]]『[[軍旗はためく下に]]』、[[渡辺淳一]]『光と影』 * 第64回(1970年下半期) - [[豊田穣]]『長良川』 * 第65回([[1971年]]上半期) - 該当作品なし * 第66回(1971年下半期) - 該当作品なし * 第67回([[1972年]]上半期) - [[綱淵謙錠]]『斬』、[[井上ひさし]]『手鎖心中』 * 第68回(1972年下半期) - 該当作品なし * 第69回([[1973年]]上半期) - [[長部日出雄]]『津軽世去れ節』『津軽じょんから節』、[[藤沢周平]]『暗殺の年輪』 * 第70回(1973年下半期) - 該当作品なし === 第71 - 80回 === * 第71回([[1974年]]上半期) - [[藤本義一 (作家)|藤本義一]]『鬼の詩』 * 第72回(1974年下半期) - [[半村良]]『雨やどり』、[[井出孫六]]『アトラス伝説』 * 第73回([[1975年]]上半期) - 該当作品なし * 第74回(1975年下半期) - [[佐木隆三]]『[[復讐するは我にあり]]』 * 第75回([[1976年]]上半期) - 該当作品なし * 第76回(1976年下半期) - [[三好京三]]『[[子育てごっこ]]』 * 第77回([[1977年]]上半期) - 該当作品なし * 第78回(1977年下半期) - 該当作品なし * 第79回([[1978年]]上半期) - [[津本陽]]『深重の海』、[[色川武大]]『離婚』 * 第80回(1978年下半期) - [[宮尾登美子]]『[[一絃の琴]]』、[[有明夏夫]]『大浪花諸人往来』 === 第81 - 90回 === * 第81回([[1979年]]上半期) - [[田中小実昌]]『浪曲師朝日丸の話』『ミミのこと』、[[阿刀田高]]『ナポレオン狂』 * 第82回(1979年下半期) - 該当作品なし * 第83回([[1980年]]上半期) - [[向田邦子]]『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』、[[志茂田景樹]]『黄色い牙』 * 第84回(1980年下半期) - [[中村正䡄]]『元首の謀叛』 * 第85回([[1981年]]上半期) - [[青島幸男]]『[[人間万事塞翁が丙午]]』 * 第86回(1981年下半期) - [[つかこうへい]]『[[蒲田行進曲]]』、[[光岡明]]『機雷』 * 第87回([[1982年]]上半期) - [[深田祐介]]『炎熱商人』、[[村松友視]]『[[時代屋の女房]]』 * 第88回(1982年下半期) - 該当作品なし * 第89回([[1983年]]上半期) - [[胡桃沢耕史]]『[[黒パン俘虜記]]』 * 第90回(1983年下半期) - [[神吉拓郎]]『私生活』、[[高橋治]]『秘伝』 === 第91 - 100回 === * 第91回([[1984年]]上半期) - [[連城三紀彦]]『恋文』、[[難波利三]]『てんのじ村』 * 第92回(1984年下半期) - 該当作品なし * 第93回([[1985年]]上半期) - [[山口洋子]]『演歌の虫』『老梅』 * 第94回(1985年下半期) - [[森田誠吾]]『[[魚河岸ものがたり]]』、[[林真理子]]『最終便に間に合えば』『京都まで』 * 第95回([[1986年]]上半期) - [[皆川博子]]『恋紅』 * 第96回(1986年下半期) - [[逢坂剛]]『[[カディスの赤い星]]』、[[常盤新平]]『遠いアメリカ』 * 第97回([[1987年]]上半期) - [[白石一郎]]『海狼伝』、[[山田詠美]]『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』 * 第98回(1987年下半期) - [[阿部牧郎]]『それぞれの終楽章』 * 第99回([[1988年]]上半期) - [[西木正明]]『凍れる瞳』『端島の女』、[[景山民夫]]『[[遠い海から来たCOO]]』 * 第100回(1988年下半期) - [[杉本章子]]『東京新大橋雨中図』、[[藤堂志津子]]『熟れてゆく夏』 === 第101 - 110回 === * 第101回([[1989年]]上半期) - [[ねじめ正一]]『[[高円寺純情商店街]]』、[[笹倉明]]『遠い国からの殺人者』 * 第102回(1989年下半期) - [[星川清司]]『小伝抄』、[[原尞]]『[[私が殺した少女]]』 * 第103回([[1990年]]上半期) - [[泡坂妻夫]]『蔭桔梗』 * 第104回(1990年下半期) - [[古川薫]]『漂泊者のアリア』 * 第105回([[1991年]]上半期) - [[宮城谷昌光]]『[[夏姫春秋]]』、[[芦原すなお]]『[[青春デンデケデケデケ]]』 * 第106回(1991年下半期) - [[高橋義夫]]『狼奉行』<ref name="asahi1992117">{{Cite news | title = 芥川賞に松村栄子氏 直木賞 高橋義氏と高橋克氏 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 1992-01-17 | author = | publisher = 朝日新聞社 | page = 朝刊 30 }}</ref><ref name="asahi1992227">{{Cite news | title = 3氏が喜び語る 芥川・直木賞授賞式 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 1992-02-27 | author = | publisher = 朝日新聞社 | page = 夕刊 15 }}</ref>、[[高橋克彦]]『緋い記憶』<ref name="asahi1992117"/><ref name="asahi1992227"/> * 第107回([[1992年]]上半期) - [[伊集院静]]『受け月』 * 第108回(1992年下半期) - [[出久根達郎]]『佃島ふたり書房』 * 第109回([[1993年]]上半期) - [[高村薫]]『[[マークスの山]]』、[[北原亞以子]]『恋忘れ草』 * 第110回(1993年下半期) - [[佐藤雅美]]『恵比寿屋喜兵衛手控え』、[[大沢在昌]]『[[新宿鮫シリーズ|新宿鮫 無間人形]]』 === 第111 - 120回 === * 第111回([[1994年]]上半期) - [[中村彰彦]]『二つの山河』、[[海老沢泰久]]『帰郷』 * 第112回(1994年下半期) - 該当作品なし * 第113回([[1995年]]上半期) - [[赤瀬川隼]]『白球残映』 * 第114回(1995年下半期) - [[小池真理子]]『[[恋 (小池真理子)|恋]]』、[[藤原伊織]]『[[テロリストのパラソル]]』 * 第115回([[1996年]]上半期) - [[乃南アサ]]『[[凍える牙]]』 * 第116回(1996年下半期) - [[坂東眞砂子]]『山妣』 * 第117回([[1997年]]上半期) - [[篠田節子]]『女たちのジハード』、[[浅田次郎]]『[[鉄道員 (小説)|鉄道員(ぽっぽや)]]』 * 第118回(1997年下半期) - 該当作品なし * 第119回([[1998年]]上半期) - [[車谷長吉]]『[[赤目四十八瀧心中未遂]]』 * 第120回(1998年下半期) - [[宮部みゆき]]『[[理由 (小説)|理由]]』 === 第121 - 130回 === * 第121回([[1999年]]上半期) - [[佐藤賢一]]『[[王妃の離婚]]』、[[桐野夏生]]『柔らかな頬』 * 第122回(1999年下半期) - [[なかにし礼]]『[[長崎ぶらぶら節]]』 * 第123回([[2000年]]上半期) - [[船戸与一]]『[[虹の谷の五月]]』、[[金城一紀]]『[[GO (小説)|GO]]』 * 第124回(2000年下半期) - [[山本文緒]]『プラナリア』、[[重松清]]『[[ビタミンF (小説)|ビタミンF]]』 * 第125回([[2001年]]上半期) - [[藤田宜永]]『愛の領分』 * 第126回(2001年下半期) - [[山本一力]]『あかね空』、[[唯川恵]]『[[肩ごしの恋人]]』 * 第127回([[2002年]]上半期) - [[乙川優三郎]]『生きる』 * 第128回(2002年下半期) - 該当作品なし * 第129回([[2003年]]上半期) - [[石田衣良]]『[[4TEEN|4TEEN フォーティーン]]』、[[村山由佳]]『[[星々の舟]]』 * 第130回(2003年下半期) - [[江國香織]]『号泣する準備はできていた』、[[京極夏彦]]『[[後巷説百物語]]』 === 第131 - 140回 === * 第131回([[2004年]]上半期) - [[奥田英朗]]『[[空中ブランコ (小説)|空中ブランコ]]』、[[熊谷達也]]『[[邂逅の森]]』 * 第132回(2004年下半期) - [[角田光代]]『[[対岸の彼女]]』 * 第133回([[2005年]]上半期) - [[朱川湊人]]『花まんま』 * 第134回(2005年下半期) - [[東野圭吾]]『[[容疑者Xの献身]]』 * 第135回([[2006年]]上半期) - [[三浦しをん]]『[[まほろ駅前多田便利軒]]』、[[森絵都]]『[[風に舞いあがるビニールシート]]』 * 第136回(2006年下半期) - 該当作品なし * 第137回([[2007年]]上半期) - [[松井今朝子]]『[[吉原手引草]]』 * 第138回(2007年下半期) - [[桜庭一樹]]『[[私の男]]』 * 第139回([[2008年]]上半期) - [[井上荒野]]『切羽へ』 * 第140回(2008年下半期) - [[天童荒太]]『[[悼む人]]』、[[山本兼一]]『[[利休にたずねよ]]』 === 第141 - 150回 === * 第141回([[2009年]]上半期) - [[北村薫]]『[[鷺と雪]]』 * 第142回(2009年下半期) - [[佐々木譲]]『廃墟に乞う』、[[白石一文]]『ほかならぬ人へ』 * 第143回([[2010年]]上半期) - [[中島京子 (作家)|中島京子]]『[[小さいおうち]]』 * 第144回(2010年下半期) - [[木内昇]]『漂砂のうたう』、[[道尾秀介]]『月と蟹』 * 第145回([[2011年]]上半期) - [[池井戸潤]]『[[下町ロケット]]』 * 第146回(2011年下半期) - [[葉室麟]]『[[蜩ノ記]]』 * 第147回([[2012年]]上半期) - [[辻村深月]]『[[鍵のない夢を見る]]』 * 第148回(2012年下半期) - [[朝井リョウ]]『[[何者 (朝井リョウ)|何者]]』、[[安部龍太郎]]『[[等伯]]』 * 第149回([[2013年]]上半期) - [[桜木紫乃]]『[[ホテルローヤル (桜木紫乃)|ホテルローヤル]]』 * 第150回(2013年下半期) - [[朝井まかて]]『恋歌』、[[姫野カオルコ]]『昭和の犬』 === 第151 - 160回 === * 第151回([[2014年]]上半期) - [[黒川博行]]『[[破門 (小説)|破門]]』 * 第152回(2014年下半期) - [[西加奈子]]『サラバ!』 * 第153回([[2015年]]上半期) - [[東山彰良]]『流』 * 第154回(2015年下半期) - [[青山文平]]『つまをめとらば』 * 第155回([[2016年]]上半期) - [[荻原浩]]『海の見える理髪店』 * 第156回(2016年下半期) - [[恩田陸]]『[[蜜蜂と遠雷]]』 * 第157回([[2017年]]上半期) - [[佐藤正午]]『[[月の満ち欠け (小説)|月の満ち欠け]]』 * 第158回(2017年下半期) - [[門井慶喜]]『[[銀河鉄道の父]]』 * 第159回([[2018年]]上半期) - [[島本理生]]『[[ファーストラヴ (小説)|ファーストラヴ]]』 * 第160回(2018年下半期) - [[真藤順丈]]『[[宝島 (真藤順丈の小説)|宝島]]』 === 第161回 - === * 第161回([[2019年]]上半期) - [[大島真寿美]]『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』 * 第162回(2019年下半期) - [[川越宗一]]『熱源』 * 第163回([[2020年]]上半期) - [[馳星周]]『[[少年と犬]]』 * 第164回(2020年下半期) - [[西條奈加]]『[[心淋し川]]』 * 第165回([[2021年]]上半期) - [[佐藤究]]『テスカトリポカ』、[[澤田瞳子]]『星落ちて、なお』 * 第166回(2021年下半期) - [[今村翔吾]]『塞王の楯』、[[米澤穂信]]『黒牢城』 * 第167回([[2022年]]上半期) - [[窪美澄]]『夜に星を放つ』 * 第168回(2022年下半期) - [[小川哲]]『地図と拳』、[[千早茜]]『しろがねの葉』 * 第169回([[2023年]]上半期) - [[垣根涼介]]『極楽征夷大将軍』、[[永井紗耶子]]『木挽町のあだ討ち』 == テレビ == 『[[ルポルタージュにっぽん]]』 直木賞の決まる日([[日本放送協会|NHK]] [[1980年]][[1月26日]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *『直木賞物語』川口則弘著、バジリコ、2014年 *『芥川賞・直木賞150回全記録』文藝春秋特別編集、文藝春秋、2014年 == 関連項目 == * [[高校生直木賞]] * [[山本周五郎賞]] == 外部リンク == *[https://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/naoki/ 直木三十五賞|公益財団法人日本文学振興会] *[https://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/naoki/list.html 直木賞受賞者一覧|公益財団法人日本文学振興会] *[https://naoki35.jimdofree.com/ 直木三十五記念館] *[https://topics.smt.docomo.ne.jp/feature/akutagawa_naoki 芥川賞・直木賞 特集] *[https://prizesworld.com/naoki/ 直木賞のすべて] *{{Wayback|url=http://homepage1.nifty.com/naokiaward/ |title=直木賞のすべて |date=20041013055912}} * {{Kotobank|直木賞}} {{直木賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なおきさんしゆうこしよう}} [[Category:直木三十五賞|*]] [[Category:日本の文学賞]] [[Category:菊池寛]] [[Category:日本の人名を冠した文学賞]] [[Category:1935年開始のイベント]]
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バオー来訪者
『バオー来訪者』(バオーらいほうしゃ)は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品、およびそれを原作とするOVA作品。集英社の少年向け漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』に1984年45号から1985年11号まで17話が連載された。単行本は全2巻。 主人公は、生物兵器「バオー」へと改造された青年「橋沢育朗」と予知能力を持つ少女「スミレ」の2人。バオーの超人的能力を狙う、政府系の秘密組織「ドレス」からの逃避行を中心に、2人の成長と相思を綴った物語。 「バオー(BAOH)」とは変身した育朗を指す言葉ではなく、正確には彼の体内に寄生する40mmほどの寄生虫の名称である。バオーの宿主はヒトである必要はなく、作中では育朗以外にもバオーが寄生したイヌが登場している。この生物を生み出した霞の目博士の弁によれば、バオーを自由に利用することが可能になれば核爆弾級の戦力に匹敵し、「ドレス」は医学および軍事的な面で世界的優位に立てるという。バオーという名前は、作者によると当時話題となっていたバイオテクノロジーなどの「バイオ」から来ている。バオーは宿主の肉体へ進入したのち脳(動脈の中)に寄生し、寄生した日数にしたがって宿主に対する影響力を強めていく。百数十日で成虫になると宿主に産卵、孵った幼虫は宿主の身体をつき破り、新たな宿主へ寄生する(この設定はOVAでは排除されている)。また宿主の肺呼吸が停止すると仮死状態となり、その場合宿主の肉体は再び目覚めるまで老化することはない。 宿主が生命の危機に瀕すると、体内に分泌されたアドレナリンをバオーが感知し、宿主の精神を無力化させてその支配下におく(ただし、劇中では育朗が戦っている自分を次第に知覚していくようになる描写がある)。次に、血管を使い宿主の全身に分泌液をめぐらせ、宿主の骨・筋肉・腱を何倍にも強化し、強靭な肉体とさまざまな特殊能力を付与する。「ドレス」では、この変身を「バオー武装現象(アームド・フェノメノン)」と称している(詳細は後述)。寄生している日数が進むに従って、段階を踏んで徐々に武装現象を発現させていく。 武装現象中のバオーは、宿主の頭部に独自の「触角」を発現させ、これにより視覚・聴覚・嗅覚などの全感覚をまかなう。バオーは対象をすべて「におい」で感知しており、自身が嫌悪する敵意や悪意などの負の感情が持つ「におい」を放つ者を攻撃対象として認識している。また、これにより攻撃目標として認識された者を無力化することはバオーにとって「においを止める」行為に過ぎない。またそのにおいもいくつかにわけ理解しており「生きることを止められた者の悲しいにおい」、「邪悪なにおい」などを嗅ぎわけ、とりわけバオーが嫌いなのはドレスの刺客たちの「邪悪なにおい」である。また戦闘を通じて敵味方の区別をにおいから学ぶ学習能力も備え、味方を守ったりなどの行動をとり、生物としての進化を遂げていく。 また、武装現象の発現中は「バル」「バルバルバルバル」「ウォォォーーム」といった鳴き声(作中では主に咆吼として表現されている)のみを発し、宿主本来の音声・言語を発音することは基本的に無い。 なお、寄生虫バオーは霞の目博士が作り出した生物兵器であるが、劇中後半に変身もせずにバオーの能力が使えたり、攻撃を受け傷ついてもいないのに宿主の意思でバオーに変身したり、変身後に育朗の意識で行動し、しゃべったりと、人間である宿主の育朗がバオーを自在に操作できている。 劇中のこの寄生虫の描写は、夢枕獏による単行本のあとがきの批評にて、その姿を描いた「絵」の持つ説得力が高く評価されている。 バオーは宿主の危険を察知すると、宿主の意識・肉体を一時的に支配し、危険から身を守るため宿主に武装現象(バオー・アームド・フェノメノン)を発現させる。武装現象の表記は劇中で一定していない。これらは「高い格調・強烈な描写・長くて覚えにくい名前」ということで、連載当時よく他のマンガなどのネタに使われた。主な能力は以下の通りで、放たれれば防御された事例がほぼない、正しく必殺技である。 OVAではこうした武装現象名を育朗が叫ぶことはなく、その多くは字幕で処理されている。 その他、治癒能力・代謝能力の活性化や体液の変質などにより、宿主の体の一部が切断されても貼り合わせるだけで元通りに接合したり、瀕死の生物に血を飲ませることでその命を救うことができるようになる。 声の項は特記ない限りOVA版のキャスト。 ドレスは作中に登場する秘密組織で、兵器として使える新生物を作り出すための人工進化などを研究している。もとは旧日本軍の化学細菌戦部隊であったが、第二次世界大戦後、その研究はアメリカ合衆国に引き継がれドレスが設立された。北上山地や三陸海岸に研究所を持つほか、独自の偵察衛星や特殊工作員や特殊部隊などの戦力を有し、国鉄に専用列車を自由に走らせる特権も有する。 霞の目による「人工進化」の実験を経て誕生した、過酷な環境にも適応した体を持った動物たちのこと。いずれも動物兵器として開発されたもので、寄生虫バオーやノッツォなどもドレスの新生物である。 ここでは、バオーの敵として登場した動物たちを挙げる。OVAにはいずれも未登場。 OVAにはいずれも未登場。 1989年に製作され、同年9月16日にテアトル池袋と大阪の2館のみであるが、OVAとして発売される前に東宝で劇場公開もされた。併映は『ザ・ボーグマン ラストバトル』。バオーの時限爆弾的な特性や育朗のトラウマなど、深く語られないで終わった設定は排除されている。 1989年10月11日に、OVAで使用されたBGM全19曲を収録した音楽集がCDとテープで発売されている。 作品単独としてのゲームは製作されていないが、PS3用ソフト『ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル』(2013年8月29日発売)にて、DLC追加キャラクターとして「橋沢育朗(バオー)」が配信されている。 担当声優はOVA版の堀秀行から内山昂輝に変更されている。OVA版では字幕で処理されていた技の名前は、ナレーションの大川透が叫び、育朗の心の声も同様にナレーションが担当している。
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『バオー来訪者』(バオーらいほうしゃ)は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品、およびそれを原作とするOVA作品。集英社の少年向け漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』に1984年45号から1985年11号まで17話が連載された。単行本は全2巻。 主人公は、生物兵器「バオー」へと改造された青年「橋沢育朗」と予知能力を持つ少女「スミレ」の2人。バオーの超人的能力を狙う、政府系の秘密組織「ドレス」からの逃避行を中心に、2人の成長と相思を綴った物語。
『'''バオー来訪者'''』(バオーらいほうしゃ)は、[[荒木飛呂彦]]による[[日本]]の[[漫画]]作品、およびそれを原作とする[[OVA]]作品。[[集英社]]の少年向け[[漫画雑誌]]『[[週刊少年ジャンプ]]』に[[1984年]]45号から[[1985年]]11号まで17話が連載された。単行本は全2巻<ref>1巻、2巻とも1985年発売。ISBN 978-4088510293、ISBN 978-4088510309。文庫版は2000年発売。ISBN 978-4086174862。</ref>。 主人公は、[[生物兵器]]「'''バオー'''」へと改造された青年「橋沢育朗」と予知能力を持つ少女「スミレ」の2人。バオーの超人的能力を狙う、政府系の秘密組織「ドレス」からの逃避行を中心に、2人の成長と相思を綴った物語。 == バオー == 「'''バオー(BAOH)'''」とは変身した育朗を指す言葉ではなく、正確には彼の体内に寄生する40mmほどの[[寄生虫]]の名称である。バオーの[[宿主]]はヒトである必要はなく、作中では育朗以外にもバオーが寄生した[[イヌ]]が登場している。この生物を生み出した霞の目博士の弁によれば、バオーを自由に利用することが可能になれば[[核爆弾]]級の戦力に匹敵し、「ドレス」は医学および軍事的な面で世界的優位に立てるという。バオーという名前は、作者によると当時話題となっていた[[バイオテクノロジー]]などの「バイオ」から来ている<ref name="interview">イラスト集「JOJO6251」荒木飛呂彦インタビューでの作者コメント(P.170)より。</ref>。<!--''Biological Armament On Help''(生物による武装援助)の略というのは『ファンロード』の一コーナーに載ったファンの創作である。-->バオーは宿主の肉体へ進入したのち脳(動脈の中)に寄生し、寄生した日数にしたがって宿主に対する影響力を強めていく。百数十日で成虫になると宿主に産卵、孵った幼虫は宿主の身体をつき破り、新たな宿主へ寄生する(この設定はOVAでは排除されている)。また宿主の肺呼吸が停止すると仮死状態となり、その場合宿主の肉体は再び目覚めるまで老化することはない。 宿主が生命の危機に瀕すると、体内に分泌された[[アドレナリン]]をバオーが感知し、宿主の精神を無力化させてその支配下におく(ただし、劇中では育朗が戦っている自分を次第に知覚していくようになる描写がある)。次に、血管を使い宿主の全身に分泌液をめぐらせ、宿主の骨・筋肉・腱を何倍にも強化し、強靭な肉体とさまざまな特殊能力を付与する。「ドレス」では、この変身を「バオー武装現象(アームド・フェノメノン)」と称している(詳細は後述)。寄生している日数が進むに従って、段階を踏んで徐々に武装現象を発現させていく。 武装現象中のバオーは、宿主の頭部に独自の「触角」を発現させ、これにより[[視覚]]・[[聴覚]]・[[嗅覚]]などの全感覚をまかなう<ref>この「触角」は、原作では毛のような物に覆われていたが、OVAでは「赤い複眼状の第三の眼」のような表現となっている。</ref>。バオーは対象をすべて「におい」で感知しており、自身が嫌悪する敵意や悪意などの負の感情が持つ「におい」を放つ者を攻撃対象として認識している。また、これにより攻撃目標として認識された者を無力化することはバオーにとって「においを止める」行為に過ぎない。またそのにおいもいくつかにわけ理解しており「生きることを止められた者の悲しいにおい」、「邪悪なにおい」などを嗅ぎわけ、とりわけバオーが嫌いなのはドレスの刺客たちの「邪悪なにおい」である。また戦闘を通じて敵味方の区別をにおいから学ぶ学習能力も備え、味方を守ったりなどの行動をとり、生物としての進化を遂げていく。 また、武装現象の発現中は「バル」「バルバルバルバル」「ウォォォーーム」といった鳴き声(作中では主に咆吼として表現されている)のみを発し、宿主本来の音声・言語を発音することは基本的に無い。<!--作中「バオーは泣くことが出来ない」といった旨の解説があることから、表情の変化や言葉による感情表現が武装現象の発現によって失われているものと思われる。ただし育朗がバオーの能力を自らの意思で制御できるようになった物語終盤には、武装現象発現中に瞳が現れたり、テレパシーのような言葉を発していると思しき描写がある。--> なお、寄生虫バオーは霞の目博士が作り出した生物兵器であるが、劇中後半に変身もせずにバオーの能力が使えたり、攻撃を受け傷ついてもいないのに宿主の意思でバオーに変身したり、変身後に育朗の意識で行動し、しゃべったりと、人間である宿主の育朗がバオーを自在に操作できている。 劇中のこの寄生虫の描写は、[[夢枕獏]]による単行本のあとがきの批評にて、その姿を描いた「絵」の持つ説得力が高く評価されている。 === バオー武装現象 === バオーは宿主の危険を察知すると、宿主の意識・肉体を一時的に支配し、危険から身を守るため宿主に武装現象(バオー・アームド・フェノメノン)を発現させる。武装現象の表記は劇中で一定していない。これらは「高い格調・強烈な描写・長くて覚えにくい名前」ということで、連載当時よく他のマンガなどのネタに使われた。主な能力は以下の通りで、放たれれば防御された事例がほぼない、正しく[[必殺技]]である。 OVAではこうした武装現象名を育朗が叫ぶことはなく、その多くは字幕で処理されている<ref>ただし、ウォーケンとの最後の戦いの時にバオー・ブレイク・ダーク・サンダー・フェノメノンを使ってレーザー砲を発射した際には霞の目博士が命令するような形で叫んでいる。</ref>。 ; バオー・メルテッディン・パルム・フェノメノン : 体外に排出されると強力な酸に変わる体液を、主に掌から放出して金属などを溶解することができる。 : 作中の解説では、強力な酸によって自らの体組織も溶解しているが、酸を出すと同時に特殊なカスを作り出しており、このカスが新たな皮膚となって溶解部分を再生するため、事実上ダメージは無いとされている。 : 育朗の力が増大してきた結果、武装現象への変化なしに発動させることに成功している。 ; バオー・リスキニハーデン・セイバー・フェノメノン : 前腕側部の皮膚組織を突出・硬質・鋭利化して刃物状にする。「セイバー オフ!」の掛け声で切り離して飛ばすことも可能。OVAでは掛け声なしで切り離している。 ; バオー・シューティングビースス・スティンガー・フェノメノン : 毛髪を硬質化して射出する。標的に刺さり、体温の伝導などで一定温度に達すると発火する。 ; バオー・ブレイク・ダーク・サンダー・フェノメノン : 体細胞から発生される電気を直列にして放出する。[[デンキウナギ]]と同様の原理だが、バオーの筋肉細胞は一つ一つが強力なため、60000ボルトの高圧電流となる。直接放電する以外にも、レーザーへの電力供給を行ったりしている。 その他、治癒能力・代謝能力の活性化や体液の変質などにより、宿主の体の一部が切断されても貼り合わせるだけで元通りに接合したり、瀕死の生物に血を飲ませることでその命を救うことができるようになる。 == 登場キャラクター == [[声優|声]]の項は特記ない限りOVA版のキャスト。 === 主要キャラクター === ; 橋沢 育朗(はしざわ いくろう) : 声:[[堀秀行]] / [[内山昂輝]]([[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル]]) : 研究機関ドレスの実験体としてバオーを寄生させられた少年。家族とともにドライブ旅行中に交通事故にあい、仮死体としてドレスに拉致され、仮死状態で研究所に移送される途中、偶然スミレによって目覚め、以降スミレと共に「ドレス」の刺客から追われることとなる。真面目で物静か。一人称は「ぼく」だったが、OVAでは「おれ」になっている。バイクには乗れる模様。 : 7歳の頃、氷の張った沼の上で友達と一緒にアイススケートを楽しんでいた時に沼の氷が割れて溺れかけた経験があり、バオーによる自分の体の異変に不気味さを感じた際にはその時の恐怖が甦るという描写があるが、OVAではカットされている。 : 最後はドレスの秘密研究所の自爆に巻き込まれ、海底で眠る。スミレは予知能力で彼女が彼と同じ17歳になった時に、再会するという映像を見ており希望を感じさせるラストを迎えている<ref>ただし、[[#バオー|バオー]]の節にあるように、原作ではバオーは百数十日で成虫になると宿主に産卵し、孵った幼虫は増殖して宿主の身体をつき破ることから育朗は依然として時限爆弾を抱えたような状態のままであり、彼は目覚めた後速やかに脳に寄生しているバオーを駆虫しなくてはならないという問題点を抱えていることになる。OVAでは先述の通りバオーが宿主の体内に産卵するという設定がないため、この心配はない。</ref>。 ; スミレ : 声:[[日髙のり子]] : 孤児院で育ち、[[予知能力]]の素質をドレスに認められた少女。性格はませていてとても口が悪い。序盤から育朗に好意を抱いている様子がある。その能力は微弱で[[自動書記]](作中ではこれを「心を滑らせる」と表現している)や[[コックリさん]]などの手段を用いるが、稀にはっきりとした映像(ヴィジョン)を見る。物語前半に逃亡中の資金を稼ぐため、予知能力を使い競馬場で大穴を当てている。育朗と同じ列車で移送中に車両を脱走し、育朗と出会う。物語後半で育朗をおびき寄せるためのおとりに使われ、ドレスの秘密基地で多数のレーザー砲で撃たれ致命傷を負うも救助に来たバオーの血液を飲み蘇生。生死不明となった育郎が地底湖の中で眠り続けている映像を遠感で察知し、さらに自分が17歳になった時に育朗と再会する予知の映像も見ており、その日を待ち続けるために六郎じいさん夫婦の養女になった。 : OVAでは、孤児院の花畑にスミレが咲いていたことからこの名前をつけられたと育朗に語る場面がある。また、エピローグでのスミレの容姿や服装などが、原作と大きく異なる。 ; サニー・ステフェン・ノッツォ : ドレスが作り出した新生物。第一話でスミレと一緒に登場し、マスコットキャラクターとなっている。スミレによくなついており、よく人の顔を舐める。[[リス]]のような格好をした夜行性の小動物で、人に慣れる。末端がふくらんだ尾を持ち、これを使ってタンポポの綿毛のように風に乗って飛行が可能。脚にある折りたたみ式のトゲを使って餌を取る。背中には[[有袋類|子育て用の袋があり]]、性別はメス。ジャンプ力は5メートル。ゴキブリが好物らしく、スミレは顔を舐められるのを嫌がっている。鳴き声は「キキー」「プーダ」「イーダ」など。にらめっこのような顔遊びをよくやる。名前の由来は仙台弁であてもなくふらつき歩く「放浪」、「能無し・怠け者」を意味する言葉「のっつぉ」<ref name="SJR">『集英社ジャンプリミックス 魔少年ビーティー対バオー来訪者』 P436 バオー来訪者ARCHIVES Part:7</ref>。 : OVAではゴキブリを食べる描写はカットされている。 === 秘密組織ドレス === '''ドレス'''は作中に登場する秘密組織で、兵器として使える新生物を作り出すための人工進化などを研究している。もとは[[日本軍|旧日本軍]]の化学細菌戦部隊であったが、[[第二次世界大戦]]後、その研究は[[アメリカ合衆国]]に引き継がれドレスが設立された。[[北上山地]]や[[三陸海岸]]に研究所を持つほか、独自の偵察衛星や特殊工作員や特殊部隊などの戦力を有し、[[日本国有鉄道|国鉄]]に専用列車を自由に走らせる特権も有する。 ; 霞の目(かすみのめ)博士 : 声:[[永井一郎]] : ドレスの研究者で、寄生虫バオーの生みの親。遺伝子操作を施した様々な動物たちを、過酷な環境を作り出す実験室で飼育するという実験を「人工進化」と称して行い、それを繰り返してバオーをはじめとする新生物を多数生み出した。橋沢育朗を逃した責任を某国政府関係者から問われ、名誉挽回のため育朗たちに刺客を差し向ける。原作版では寺の住職が表向きの職業のようだが、OVAではその設定は削除されている。科学者としては[[マッドサイエンティスト]]の側面が強く、自身の最期に及んでもバオーを「私が生み出した最高傑作」と絶賛していた。 : 「なぜならッ!」が口癖。名前の由来は[[宮城県]][[仙台市]][[若林区]]にある地区のひとつである「霞目」から<ref name="SJR"/><ref>『集英社ジャンプリミックス スターダストクルセイダースvol.1 星の白金-スタープラチナ-編』 P152 The Secret of JOJO Characters</ref>。 ; 女工作員(ソフィーヌ) : 声:[[井上瑤]] : 第1話でスミレを逃がし育朗が覚醒する切っ掛けを作り、粛清を受けたドレスの名もなき女工作員。任務失敗の責を負い、顔を潰された遺体として発見される。一見普通の美女に見えるが檻の中から飛び掛ってきた犬2頭を手刀と蹴りですかさず倒しており、格闘技術もかなりのものである。 : OVAでは設定が大きく異なり、ソフィーヌという名前を与えられている。また服装も赤のジャケットとミニスカートに変更され、ドレスの紅一点、霞の目博士の右腕として一際目立つ設定が加えられた。ラストシーンまで生き残り、霞の目博士と共に死亡した。 ; 第22の男 : 声:[[沢木郁也]] : ドレスが放った、一人目の刺客。鼻には横に走る一本の傷跡があり、丸眼鏡の形をしたサングラスと「SCARFACE」と書かれたジャンパーを着ている。24時間以内の育朗の抹殺(エリミネート)と、ガソリンによる死体の焼却を指示され、育朗にナイフで重傷を負わせる。育朗とスミレがガソリンの残りが少ないバイクを奪って逃走したため、車でガソリンスタンドに先回りして育朗を殺害しようとするが、第一の攻撃化態であるバオー・メルテッディン・パルム・フェノメノンにより顔を溶かされて死亡。 : OVAではジャンパーの文字はなく、またドルドの部下という設定になっている。 ; ドルド : 声:[[池田秀一]] : ドレス特殊工作部門の戦闘員で、組織内では「サイボーグ・ドルド中佐」と呼ばれている。本人の弁によれば戦場では2500人を殺したという。暗殺術と狙撃の達人であり、霞の目が生み出した生物兵器・芳香蝙蝠や催眠術を駆使して育朗を狙う。育朗の始末には失敗したものの、スミレを誘拐して[[三陸沖]]にあるドレスの施設へと連れ去った。現役中に爆弾で重傷を負ったのがもとで体の半分以上がサイボーグ化されている。 : サイボーグ化された体にさまざまな機能が装備されている。片腕が金属製の義手になっており、洗脳機械として変化し六助じいさんを催眠術にかけたり、超音波を発し芳香蝙蝠を操ることができるほか、仕込み銃として弾丸を発射できる。この義手は切り落とされても遠隔操作が可能で、内蔵された爆薬により爆弾としても使用できる。義手を外しライフルを装着&右目をスコープに連結して狙撃する、といったメカニカルな描写もあった。体から数本のパイプが伸びハングライダーに変化して遠距離飛行もできる。 : 失敗続きから来る焦りから、単独行動でバオーの遠距離狙撃を狙うが失敗し、最期は霞の目博士の命令を受けたウォーケンによって[[粛清]]される。 : OVAでは冷静なキャラクターとして振る舞い、登場時期や最期も原作と異なる。 ; ケイン、ブラッディ : スミレを救出するべく、ドレスの敷地内に進入した育郎の前に現れた2人組の刺客。ジャンプしながら2人で爆弾を投げつけるが空中で爆弾を停止させられ、新たに発現したバオーの武装現象「バオー・ブレイク・ダーク・サンダー・フェノメノン」の前に敗れ去った。バオーに瞬殺されたが、命令を無視したドルドを取り押さえ、連行できるほどの強さを持っている : OVAでは名前すら名乗る間もなく倒されている。 ; ウォーケン : 声:[[屋良有作]] : 架空のアメリカインディアンの部族・スクークム族の末裔で、誇り高き戦士。霞の目曰く「地上最強の超能力者」であり、物語における最強最後の敵としてバオーの前に立ちはだかる。戦いこそが全てであると語り、殺戮を生きがいとする男。敵であるバオーを自身と対等の力を持つ戦士と認め、命を賭した凄絶な戦いを繰り広げる。 : 分子を自在に振動させる超能力を持ち、液体を瞬時に沸騰させ、金属や岩石などあらゆる物体を振動させ粉砕できる。そのあまりにも強大な能力をセーブするために、普段は精神制御装置を組み込んだ特殊なヘッドホンを着用している。このヘッドフォンが外れると、味方の研究者なども容赦なく殺害するほどに暴走してしまう。必殺技はその能力を活かした分子空動波と分子地動波。またバオーのことをメインタイトルにもある「来訪者」と初めて呼んだのはウォーケンであり<ref>もっとも、それ以前に育郎自身が「僕はおまえらにとって脅威の来訪者となるだろう」とモノローグで述べている。</ref>、初対面の際にも強敵として敬意を表している。 : 名前の由来は『集英社ジャンプリミックス 魔少年ビーティー対バオー来訪者』にて、アメリカの俳優「[[クリストファー・ウォーケン|Christopher Walken]]」ではないかと推測されている<!-- 出典に推測の形で書かれています。編集の際には注意してください。 --><ref name="SJR"/>。外見は、[[永井豪]]の漫画並びに同作の主人公『[[バイオレンスジャック]]』に酷似しており、本作のOVAを紹介した「アニメビデオカタログ'90」([[玄光社]]MOOK)でもそれを指摘する記述がある。 : OVAでは部族の名称がスクーム族となり、パワーセーブのために着用しているヘッドホンがバンダナになっていて透視能力で育郎たちが廃墟に身を潜めているのを突き止めたりもした。 ==== ドレスの新生物 ==== 霞の目による「[[人工進化]]」の実験を経て誕生した、過酷な環境にも適応した体を持った動物たちのこと。いずれも[[動物兵器]]として開発されたもので、寄生虫バオーやノッツォなどもドレスの新生物である。 ここでは、バオーの敵として登場した動物たちを挙げる。OVAにはいずれも未登場。 ; マーチン : ドレスによって種の改良と戦闘用の訓練を施された、非常に大型の[[マンドリル]]。高度な知能と残忍な性格を併せ持ち、強靱な四肢から発揮される跳躍力はバオーを上回る。相手の動きを鈍らせる無臭の毒ガスや攻撃用のワイヤーなど様々な武器を体内に隠し持っている。包帯で顔を覆った専属の戦闘員により調教が行われ、彼が使用するムチの風を切る音による命令でバオーと戦う。このマーチンの主人ともいえる戦闘員が顔を包帯で覆っているのは、訓練中マーチンに「じゃれつかれ」重傷を負ったためである。 : 名前の由来は『集英社ジャンプリミックス 魔少年ビーティー対バオー来訪者』にて、アメリカの俳優「[[ディーン・マーティン|Dean Martin]]」ではないかと推測されている<!-- 出典に推測の形で書かれています。編集の際には注意してください。 --><ref name="SJR"/>。 : OVAには未登場。 ; 芳香蝙蝠(アロマ・バット) : ドルドが育朗を暗殺するために使用した[[コウモリ]]で、その名の通り特殊な芳香を放つ。ドルドの義手から出る超音波で操られている。その芳香でバオーに変身した育朗の触角を麻痺させ、劇中では体の自由を奪っている。 ; 液グモ : [[タランチュラ]]を巨大化させたような[[クモ]]。体内に特殊な酵素を持っているため、ドレスが開発した食虫植物が持つネペンテス液の消化酵素を強化した液体の中でも自由に動くことが可能。口から伸びた管を相手の体に突き刺しその体液を吸い尽くすとされていたが、バオーには通用しなかった模様。 === その他 === OVAにはいずれも未登場。 ; 六助じいさん : 育朗たちが逃避行中に立ち寄った民家の住人。山奥で猟師([[マタギ]])として生活している。息子がいるが都会に出て行ってしまったため、現在は妻と2人暮らし。はじめは育朗たちを怪しんでいたが、育朗の紳士的な態度を信頼し、先祖代々のマタギのしきたりに沿い、一夜の宿を貸す。後にスミレを引き取り面倒を見ている。 ; おばあさん : 六助じいさんの妻。逃避行中の育朗とスミレを怪しみ、育朗たちに冷たく接していた。六助じいさんがドルドによって負傷させられたことで育朗を責めるが、六助じいさんに諭され自分の行為を反省。スミレを取り戻そうとする育朗に、息子が残していったバイクと旅費を手渡す。 ; 綾 : 道を尋ねられた育朗に一目惚れする女性。線路に足を挟まれ列車事故に遭うところを育朗に命を助けられ、地図を探す道案内をする。彼女とのアクシデントがきっかけで、育朗は次第にバオーの潜在能力を意識的にコントロールできるようになってゆく。一緒に居続けることでドレスの刺客の追っ手の巻き添えにさせないため、育朗は彼女の前から姿を消した。 : 一緒に彼女に好意を抱く知り合いの男性がおり、話しかけてきた育朗に敵意むき出しの対応をしていたが、彼女の足が挟まれた際に何もせずにその場から逃げ出してしまった。 == 書誌情報 == ; 単行本 # 無敵の肉体バオーの巻 1985年9月9日発売、ISBN 4-08-851029-1 # 魔人ウォーケンの巻1985年11月8日発売、ISBN 4-08-851030-5 ; 文庫本 * 2000年6月16日発売、ISBN 4-08-617486-3 == 補足 == *本作は短期間で連載終了となったが、『集英社ジャンプリミックス 魔少年ビーティー対バオー来訪者』の記載では、ストーリーが纏まっていることから連載当初より物語構成が考えられており、2巻分程度の内容を想定して書かれていたと推測されている<!-- 出典に推測の形で書かれています。編集の際には注意してください。 --><ref>『集英社ジャンプリミックス 魔少年ビーティー対バオー来訪者』 P337 バオー来訪者ARCHIVES Part:4</ref>。 *荒木自身は本作について、単行本1巻表紙カバーでのコメント欄で「カッコイイけど悲しいお話」とコメントしている。 *本作品は[[ラポート]]株式会社発行の『月刊[[ファンロード]]』1986年5月号にて特集が組まれた。また表紙(普段は特集作品のイラストをファンが描く)や中折ポスターも荒木本人の描き下ろしであり、写真入りでファンとの対談記事も組まれている。なお、この特集が縁で『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』単行本第1巻末にファンロード編集長[[イニシャルビスケットのK|浜松克樹]]が推薦文を寄稿している。 *単行本巻末のコメントは、1巻が[[寺沢武一]]で2巻が[[夢枕獏]]。夢枕はこのコメントの最後で「続編は描かれなければならない」との言葉で締めくくっており、荒木自身も「続きを描かないのか」と時々言われることがあるそうだが、荒木は「自分の中では終わった話」としている<ref name="interview"/>。 *連載当時まだ荒木飛呂彦が無名だったにもかかわらず、そのインパクトから数人の著名マンガ家には強い印象を与えており、荒木の名がマンガ家の対談などに上がったことがある。 *漫画『198Xメモリーズ』([[井上和郎]])では、作中の登場人物たちが本作について盛り上がっている場面がある。 == OVA == [[1989年]]に製作され、同年9月16日にテアトル池袋と大阪の2館のみであるが、OVAとして発売される前に[[東宝]]で劇場公開もされた。併映は『[[超音戦士ボーグマン|ザ・ボーグマン ラストバトル]]』。バオーの時限爆弾的な特性や育朗のトラウマなど、深く語られないで終わった設定は排除されている。 === スタッフ === *原作 - 荒木飛呂彦 *総監修・絵コンテ - [[鳥海永行]] *キャラクターデザイン・作画監督 - [[摩砂雪|沙那芭美智]] *作画監督補佐 - [[大橋誉志光]]、高木弘樹、[[増尾昭一]] *メカニックデザイン - 田野雅祥 *脚本 - [[寺田憲史]] *企画 - 阿部高久、藤原正道 *制作 - [[中野和雄]]、斎春雄 *プロデューサー - 深草礼子 *音楽プロデューサー - 大場龍雄、藤田純二 *演出 - 横山広行 *撮影監督 - 金子仁 *美術監督 - 宮前光春 *音響監督 - 松浦典良 *音楽 - [[難波弘之]] *編集 - 掛須編集室 *制作協力 - [[ぴえろ|スタジオぴえろ]] === 主題歌 === ; エンディングテーマ「永遠のSoldier」 : 作曲:[[茂村泰彦]] / 作詞:安藤芳彦 / 編曲:[[難波弘之]] / 歌手:[[町田義人]] === ビデオ / LD / DVD === *[[磁気テープ|ビデオ]]、[[レーザーディスク|LD]] - 1989年に発売。ビデオは同年11月1日に[[VHS]]・[[ベータマックス]]の2種で発売、LDは同年12月21日発売。 *DVD - 2003年4月2日 東芝デジタルフロンティアから発売。販売元は[[ジェネオンエンタテインメント]]。 === サウンドトラック === 1989年10月11日に、OVAで使用されたBGM全19曲を収録した音楽集が[[コンパクトディスク|CD]]と[[コンパクトカセット|テープ]]で発売されている。 == ゲームへの登場 == 作品単独としてのゲームは製作されていないが、[[PlayStation 3|PS3]]用ソフト『[[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル]]』([[2013年]][[8月29日]]発売)にて、[[ダウンロードコンテンツ|DLC]]追加キャラクターとして「橋沢育朗(バオー)」が配信されている。 担当声優はOVA版の堀秀行から内山昂輝に変更されている。OVA版では字幕で処理されていた技の名前は、ナレーションの[[大川透]]が叫び、育朗の心の声も同様にナレーションが担当している。 == 立体物 == *メディコム・トイ REAL ACTION HEROES(リアルアクションヒーローズ)RAH No.367 バオー(ワンダーフェスティバル 2008 [冬] 開催記念限定商品) 2008年2月24日発売。 *バンダイ Manga Realization(マンガリアライゼーション)バオー来訪者 2010年3月20日発売。 *メディコム・トイ REAL ACTION HEROES(リアルアクションヒーローズ)RAH No.546 バオー(リニューアルver.) 2011年8月30日発売。 *メディコス・エンタテイメント 超像可動“バオー来訪者 ”【バオー】限定版 2017年2月19日発売。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:はおおらいほうしや}} [[Category:荒木飛呂彦の漫画作品]] [[Category:漫画作品 は|おおらいほうしや]] [[Category:週刊少年ジャンプの漫画作品]] [[Category:アニメ作品 は|おおらいほうしや]] [[Category:1989年のOVA]] [[Category:ユーメックスのアニメ作品]] [[Category:寄生生物を題材とした作品]] [[Category:変身ヒーロー]] [[Category:寄生生物を題材とした漫画作品]]
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野球
野球(、英: baseball)は、2つの(基本的には9人編成の)チームが攻撃と守備を交代しながら、各頂点に4つのベースを持つ菱形の区画において得点を競い合うバットとボールを使うスポーツ(英語版)である。「フィールド」や「野球場」、「スタジアム」と呼ばれる場所で行われる。アメリカ発祥のスポーツであり、1845年にアメリカで現在の形・ルールの基礎がつくられ、1869年には最初のプロチームが生まれ、アメリカで有数の人気スポーツとなり、国民的娯楽となった。。(もとはイギリスからの移民がアメリカに持ち込んだスポーツが元型・祖型になっている、とされる。#歴史) 野球は、2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して得点を取り合い、得点数の多いか少ないかに基づいて勝敗を競う競技である。点数の多いチームが勝利を手に入れる。 1チーム9人ずつ(DH制を採用する場合は10人)で構成された2チームが守備側と攻撃側に分かれ、守備側の投手が投げたボールを攻撃側の打者がバットで打ち、設置された4つのベース(塁)を反時計回りに進み、一周することで得点を得る。両チームは攻撃と守備をそれぞれ交互に9回ずつ(7回以下ずつの場合もある)行い、その間に挙げた得点の多さを競う。 4つのベースは、それぞれ一塁(ファースト・ベース)、二塁(セカンド・ベース)、三塁(サード・ベース)、本塁(ホーム・ベース)と言う。なお、大会やリーグによってルールの細部に相違点があり、たとえば予め定めた以上の一方的展開になった場合や気象条件等により途中で試合を打ち切るコールドゲームの規定、攻撃時に投手と呼ばれるポジションの選手の代わりに攻撃専門の選手を使う指名打者(DH)制度の有無、審判員の人数等細かな違いがあり、大会やリーグごとにそれぞれの環境に最適と考えられる制度を採用している。 アメリカが発祥の地および本場であり、アメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)が主導している。他の国で行われる野球のルールも、基本的にはアメリカのベースボールのルールを模倣したり、アメリカでルールの修正・変更があれば、たいていはアメリカを「後追い」する形で修正・変更されている。国際大会が開催される場合も、基本的にアメリカのルールが基準になっている。 「baseball(ベースボール)」という名称は、4つのbase(ベース)を使用するという特性を由来としている。なお、日本語の「野球」という名称は、明治期に日本で中馬庚が作った和製漢語である(後述)。 本記事では、ベースボール(野球)と、亜種とはしっかり区別して説明する。 発祥地であり、一番盛んな国であるアメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)によって行われているベースボールが世界の野球の基準になっている。 発祥地で本場のアメリカではボール(球)はあくまで硬式である。硬式以外のボールを使うものは「別物」、別種の競技とされている。 アメリカでの球が具体的どのようなものか説明すると、MLBは最高級のボールを使っている。最適な革でくるみ、縫い目もしっかり巻くように縫われている。MLBの選手は最高レベルの技術でプレーするからその質に合わせたボールが使われるのである。なお、MiLB(Minor League Baseball マイナーリーグベースボール)ではMLBと比べて少し材質が劣るボールが使われている。 アメリカの高校野球や大学野球ではMLBと同じサイズのボールを使うが、密度はわずかに低い(少しだけ軽い)。そこでは金属バットが使われるのでそれに合わせて設計されている。 本場アメリカでは少年野球の段階から硬式を使う。少年野球の段階から柔らかいボールは使用しない。少年野球でも革でくるんだボールを使うが、芯はウール巻のものを使う。 日本でも、プロ野球や社会人野球、大学野球、高校野球においては本来の硬式野球が行われているが、中学以下は軟式も多く、別競技になってしまっている。 野球の起源は明確にはされていないが、イギリスの球技である「タウンボール」がイギリス系移民によってアメリカに持ち込まれた後に変化し、野球として形成されたと考える研究者が多い。1830年代から1840年代に原型が成立した後、主にアメリカの北部で盛んとなり、南北戦争(1861年 - 1865年)を機に南部にも伝えられたことでアメリカ全土において人気を博するようになった。19世紀後半を通じてルールに大幅な改良が加えられ、現在の形となった。 1869年には世界初のプロ球団であるシンシナティ・レッドストッキングスが設立され、1871年には世界初のプロ野球リーグであるナショナル・アソシエーションが設立された。このリーグ自体は5年で破綻したものの、1876年にはこれを引き継ぐ形でナショナルリーグが設立され、MLBが成立した。この頃、日本を訪問したアメリカ人によって日本に野球が伝えられた。 2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して勝敗を競う。ルールは本場アメリカのMLBのOFFICIAL BASEBALL RULES(MLB公式ルール)が世界基準となっている。各国の国内ルールも原則それに沿った内容になるように整備されており、日本の公認野球規則も原則的にMLBルールに合致した内容になるようにMLB公式ルールを基本的には翻訳したものである。 攻撃側は、相手チームの投手が投げたボールを打って、一塁・二塁・三塁・本塁をまわることで得点を得る。守備側は相手チームの走者が本塁に到達しないように打者や走者をアウトにする。相手チームの選手を3人アウトにできれば、攻撃に移ることができる。攻撃と守備の一巡はイニングと呼ばれる。一試合は9イニングからなり、得点の合計が多いチームが勝者となる。両者の得点が等しい場合は、延長戦を行う、引き分けとするなどルール体系によって対応が分かれる。 各チームの目的は「より多くの得点を得て、勝つこと」であり、公認野球規則1.05には「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする。」と明記されている。規則書に「勝つことを目的とする」と明確に表記されていることは、野球のルールの際立った特徴の一つでもある。 1チームは選手9人(指名打者制を採る場合は10人)と監督、コーチなどで編成される。試合にはそれ以外にも控え選手がおり、日本のプロ野球では16人、日本の高校野球では11人まで控えとして途中からの試合出場ができる。しかし、一度交代により退いた選手は、その試合中は再び試合に出ることはできない。(交代させずに)守備位置を変えることは可能である。また、守備位置を交代しても再び交代する前の守備位置に戻ることは可能である。 野球を行うにあたっては、様々な用具が必要であるが、選手が野球を行う上で必要となる用具のうち、代表的なものについて述べる。詳しくは各項目を参照のこと。 バットは滑らかな円い棒であり、打者が投球を打ち返すための用具である。 グラブやミットは、投球、打球、送球を受けるための革で作られた用具である。形状によってミットは捕手用のキャッチャーミット・一塁手用のファーストミットの2種類があり、グラブには 投手用・二塁手用・三塁手用・遊撃手用・外野手用・満遍なく使えるオールラウンド向け等、数種類に分類することができる。そのそれぞれについて、右投げ用(左手に着用)・左投げ用(右手に着用)・両投げ用が存在する。グラブはどの形状でもすべてのポジションで使用できるが、ミットに関しては捕手と一塁手の使用についてのみ、公認野球規則の3.04、3.05にそれぞれ規定されている。投手が着用するグラブについては、グラブ全体が一色であり、商標・マーク類は白色・灰色以外であること、グラブにグラブの色と異なるものをつけてはならないことといった制限がある。 野球用の靴でスパイク部分は金属または樹脂を使用している。少年野球では危険なため、樹脂製スパイクを使用している場合が多い。スパイク部分が取り外し可能なものもある。また、ピッチャーが利き足のシューズの先端に、保護革(P革)をつけることがある。これは投球時、ピッチャーが後ろ足(利き手と同じ側の足)でマウンドを蹴りシューズがすり減る事を防ぐため。バッティングでも同じ現象が起きるためか、野手がこの保護革をつけることも多い。 滑り止めの白い粉が入った袋。主にピッチャーが用い、マウンドに置いてある。打者が使用する場合もあり、ネクストバッタースボックスにも置いてある。 同じチームの選手・監督・コーチなど競技に参加する者は、同色・同形・同意匠のユニフォームと野球帽を着用する。原則として全員(少なくとも選手)の背中には背番号をつける。アンダーシャツ、ストッキング、ベルトは同色での着用が必要。スパイクもユニフォームの一部に相当するため、チームで同色にそろえる必要がある。プロ野球においてはプレイングマネージャーやベースコーチに立つ場合を除き監督がユニフォームを着ない場合がある。ボールが胸部に当たると心臓に負担が掛かり倒れてしまう(死亡・重傷事故の例もある)ことがあるので、胸部の部分にパッドを付けることが推奨されている。 野球に使われるグラウンドと付帯設備は野球場もしくは球場と称される。4つのベースを結ぶ正方形内は内野と呼ばれ、またその形状から「ダイヤモンド」とも呼ばれる。内野とランナーコーチボックス、ネクストバッターサークルの距離は公認野球規則で決められているが、グラウンドの大きさについては球場によって異なる。「内野」は規則上は正方形内と定められているが、慣習的には内野手が普通の守備行為を行う守備範囲も含める。 野球における審判員は、試合の進行や、投手の投球、本塁における判定を主に担当する球審(英: umpire-in-chief; plate umpire)と、各塁における判定を行う塁審(英: base umpires)、必要に応じて外野に外審(英: outfield umpires)を配置する。 一般には球審1名と各塁の塁審3名の4人で審判団を作ることが多いが、重要な試合では外審2名を加えて6人で審判団を作ることもある。試合によっては塁審の人数が2名ないしは1名になることもあれば、球審だけ(塁審なし)で審判を行うこともある。 MLBでは2014年度より審判員に加え、ニューヨークにある映像センターでのインスタントビデオ判定を採用している。監督は審判員の判定に異議がある場合、1試合で1回まで(特別な試合では2回)要求することができる。もし、リクエストが成功すると、残りのリクエスト数は減らされない。7回以降は審判も要求することができる。またNPBでも、2018年度より各チーム1試合で2回までビデオ判定を行える「リクエスト制度」が導入されている。 野球には数多くの戦略と戦術が生み出された。その一部を以下に記す。詳細はそれぞれの項を参照のこと。 野球は、他のスポーツに比べて豊富な記録・統計が取られることから、数値化に適したスポーツであり、19世紀以来、有力選手の各種記録が試合結果と同様にファンに楽しみを提供してきた。 20世紀後半に入ると、それらの記録を統計学的見地から客観的に分析し、選手の評価やチームの運営・戦略を考察する「セイバーメトリクス」が提唱され、20世紀末以降、本格的に導入するチームが増加している。中でも、2000年代初め頃のオークランド・アスレチックスがビリー・ビーンGMの下でセイバーメトリクスを軸とした低予算でのチーム運営によって黄金期を築いたことで広く受け入れられるようになり、この際ビーンが提唱した画期的な戦術は、ビーンの活動の様子を描いたノンフィクション書籍の名をとって「マネー・ボール」として認知されている。 さらに、21世紀に入ると、軍事技術を応用したスタットキャストやトラックマンといった計測機材・システムが導入されたことにより、より詳細で精緻なデータ計測・分析の他、選手やボールの動きを数値化することで選手のプレーや能力そのものの改善に繋げることが可能となっており、特にMLBにおいてプレースタイルや戦術の傾向の変化に大きく影響を及ぼしている。 第二次世界大戦後、中堅の観客席から望遠鏡を用いて捕手のサインを盗み見し、それをバッターに伝達するという手法が定着した。その後、スコアボード(各チームの各得点などを表示する大きなボード)の裏に潜んだ職員がサインを盗み、何らかのシグナルを送り打者に伝える形が生まれ、1970年代のインディアンスでは球場に設置されたチームロゴである先住民の目が開けば直球、閉じればカーブ、という形で伝達が行われていた。MLB、NPB、日本の高校野球などでもサイン盗みでトラブルになることがしばしばある。最近では、メジャーリーグで、アストロズによるサイン盗みが大問題となっている。球団史上初の世界一に輝いた2017年から翌18年にかけてサイン盗みを行っていたとされており、すでにMLBが処分。球団はジェフ・ルーノー前GM(ゼネラルマネージャー)とAJ・ヒンチ前監督を解雇したものの、2021年もまだ不正行為を続けていたと他球団の選手が指摘するなど、騒動は収束する気配がない。 そのやっかいな問題を解決するために、MLBは、2021年夏には、キャッチャーがピッチャーへ指示を伝えるための電子機器(ピッチコム)のテストを開始し、2022年のシーズンからその電子機器を正式に導入した(それを使いたいバッテリーつまりキャッチャーとピッチャーが使う。従来通りのサインでいいと考えるバッテリーは使わなくてもよい)。キャッチャーの腕にボタンが多数配置された送信専用機を巻き、ピッチャーの帽子の中に小型受信機を配し帽子の小型スピーカーから小さな音量の音声が流れる(他の選手には聞こえないくらい、小さな音が流れる)。 捕手と走者の本塁突入をめぐるクロスプレーでは選手の安全のためコリジョンルールが採用されるようになった。 国際野球連盟(IBAF)を中心として、特に野球が盛んなアジア、アメリカを始め、 ヨーロッパやアフリカにも地域単位での連盟・協会が存在する。さらにその傘下に各国の連盟・協会が設置されており、各国内のリーグ運営や活動を統括している。 世界では主に北米のアメリカ合衆国・カナダ、欧州ではオランダ・イタリア、中南米のキューバ・ドミニカ共和国・ベネズエラ・メキシコ・プエルトリコ・ニカラグア・パナマ・オランダ領アンティル、コロンビア、東アジアの日本、大韓民国、台湾などで盛んである。とりわけパナマ、キューバ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、ニカラグア、台湾においては、事実上の国技として親しまれている。日本では、国技と呼ばれることは少ないものの非常に人気の高いスポーツであり、「日本の国民的スポーツ」のひとつである。 アメリカ野球学会によると、ジャッキー・ロビンソンがデビューした1947年、アフリカ系米国人選手の割合は全体のわずか0.9%。徐々に比率は増し、62年には10.1%と初めて1割を超えた。81年には過去最高の18.7%に上った。だが、その後は伸び悩み、2005年には9.1%と1割を切り、昨季は6.7%と過去60年で最低に並ぶ数字となった、メジャーリーグでは、有望選手でも多くは高校卒業後にマイナー契約からメジャー昇格を目指すのが基本線。低所得者層のアフリカ系も少なくない中で、「アメリカンドリーム」をつかむには、安月給で移動も過酷な下積みを経験する道のりが待っている。 韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている。1982年のKBOリーグは総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている。また、プロアマともに数々の国際大会で好成績を残している。その一方で、競技人口自体はさほど多くないのが特徴であり、それはアマチュア野球の段階で行われる少数精鋭化が要因である。 ヨーロッパではサッカーが最も人気のあるスポーツであるため、野球はマイナースポーツとされているが、欧州野球連盟には39か国が加盟しており、その中でイタリアとオランダ、ドイツの3か国ではプロリーグが存在している。 オランダ王立野球・ソフトボール協会は、野球の問題点を明らかにするためにアンケートを行い「他競技に比べ、運動量が少ない」「専用のグラウンドが必要である」「ルールが複雑である」「人数を集めるのが大変」など数多くの課題が上がり、これらの課題を解決するために野球をより簡略化したスポーツ「BeeBall」を考案した。 オーストラリアでは1850年代にアメリカ合衆国から金鉱に来た鉱夫により、野球がもたらされた。1989年に最初のオーストラリアン・ベースボールリーグ(en)が発足したが、11年で終了した。その後2010年からMLB機構も支援する形でオーストラリアン・ベースボールリーグが発足している。 アフリカでは、オーストラリアと類似した沿革を持つ南アフリカで比較的早く野球がある程度の広がりを見せたが、それ以外の地域については普及途上である。詳細はアフリカの野球を参照。 アメリカでの野球人気は中長期的に低落傾向にある。ギャラップの世論調査によると、1960年には最も人気のあるスポーツであったが、1972年にはアメリカンフットボールに抜かれ、2番人気に転落した。2013年には1番人気のアメリカンフットボールに対し、3倍近いポイント差をつけられている。伝統的に「国民的娯楽」と見なされていたが、2015年のブルームバーグの世論調査によると、アメリカ人の67%がアメリカンフットボールを国民的娯楽と見なしている一方、野球は28%に甘んじている。 ワールドシリーズの全米視聴率は2012年には史上最低の平均視聴率を記録したが、2016年は第1戦から高視聴率を記録。第7戦では視聴率25.2%、総視聴者数4000万人に達しており、ここ25年間で最高を記録している。また、視聴率調査大手のニールセンによると、2015年時点での野球の視聴者は、55歳以上の割合が50%であったが、その10年前の2005年は41%であったことからも高齢化は顕著である。MLBのポストシーズン・ゲームの視聴者の6歳から17歳の若年層が占める割合はここ10年で7%から4%まで落ち込んでいる。ESPNの「若者が好きなスポーツ選手トップ30」にも、初めて野球選手が1人もランクインしなかった。SFIAの調査によれば2009年の6歳から17歳までの野球人口は701万2000人であるのに対し、2014年では671万1000人となっている。また、この調査によるとアメリカンフットボールやバスケットボールと言ったメジャースポーツも競技人口が減少しており、ラグビーやラクロスといった、今までアメリカではマイナーとされてきた競技が競技人口を増やしている。 MLBでは観客動員が特定の球団では激減し、MLB関係者は危機感を募らせている。近年は「北米4大スポーツ」の他の競技の人気向上・競技人口増加によって市場占有率を奪われつつある。そんな中で、MLBは2017年には約7316万人(1試合あたり3万0132人)を動員。競争が厳しい中、何とか横ばいの数字を維持してきた。 日本プロ野球の観客動員数は2015年途中時点で読売ジャイアンツ以外の11球団が前年比で増加した。また同年オリックス・バファローズ、広島東洋カープはシーズン途中時点で史上最多の観客動員数を記録した他、同年シーズンの総観客数がセ・リーグが1351万900人と実数発表となった2005年以降で最多を記録。2016年にも交流戦の観客動員数において過去最多となる1試合平均2万9447人を記録する。以降もNPBでは観客動員数の増加が見受けられており、地元密着を主眼とした各球団の企業努力の成果とする向きもある一方で、その実態はあくまで「各フランチャイズ地域内でのリピーター増加を意味するものであり、『球団がない地域』を含む全国的な野球人気向上には繋がっていない」「新規のファンは増えていない」とする調査・分析もある。 2010年には史上初めて日本シリーズの地上波全国中継が3試合無くなった。日本テレビ副社長の舛方勝宏は「割り切っていえば、BSの普及のためにはいい。野球はBSのソフトとしては強力になってきた」と話し、「働き盛りの人は午後7時台に家に帰っていない。そういう状況で地上波では数字(視聴率)がとれなくなってきている。試合開始からじっくり見る団塊世代の人は、BSで見ている」と見解を示している。 台湾では1990年代後半から野球賭博や八百長が多発したことから、特にプロ野球(CPBL)の人気が大きく低下。チーム数も1997年の11球団をピークに減少し、2009年には創設時(1990年)と同じ4球団となったが、2019年6月24日に味全ドラゴンズが加盟し、5球団に拡大した。 韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている。1982年のKBOリーグは総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている。ただし、その人気・実力に対して国内の競技人口は比較的少なく、日本が高校硬式野球部加盟校4,021校、部員数168,898人であるのに対し、韓国の高校野球部は67校、部員数は約2,400人である。もっとも、この傾向は野球に限ったことではなく、韓国には日本のような趣味的要素を含む部活動がほぼ存在せず、アマチュアの段階で少数精鋭化が行われるのが要因であるとされる。少数精鋭によるエリート教育はいわば韓国の文化であり、実際にプロアマともに数々の国際大会で好成績を残しているなど一定の成果を上げていはいるものの、「裾野を狭める」「メダル至上主義である」といった批判もある。 試合はイニング制を採用している。サッカーやバスケットボールのような時間制ではないため、試合の展開により試合時間に大きな幅があるが、概ね1試合2時間 - 3時間程度である(MLBでは決着が付くまで無制限の延長する)。2010年までの日本のプロ野球においては12回で決着がつかなければ引き分けにしていた。しかし、2011年に東日本大震災が発生しその影響により試合開始から3時間30分以内で決着がつかない場合は引き分けとなりこのルールは2012年シーズン終了まで採用された。なお、2013年シーズンより元の「12回で決着がつかなければ引き分ける」のルールに戻った。MLBやNPBなどのプロリーグでは年間140試合を超える多数の公式戦を行うことで大きなビジネスとなっている。 アメリカでは、ファウルボールが観客に直撃するアクシデントが立て続けに起こっている。「ファウルボール訴訟」が多発しているが、「危険があることを予め承知してスタジアムに来る」として、観客がケガしても球団側は免責されるケースが大半である。観客席以外でファウルボールによって負傷した場合は訴えが認められることがあるが、基本的には裁判しても勝ち目はない。 野球観戦における日本独自の文化としては、応援団主導の楽器や応援歌を用いたいわゆる「鳴り物応援」がプロアマ問わず定着していることが挙げられる。起源については様々な説があるが、プロ野球においては1970年代の広島東洋カープが選手に対する個別応援歌を用いての応援を始めたとされる。ただし、日本独自の文化として肯定的に取り上げられる一方で、「妨害行為・迷惑行為である」など否定的な意見も少なくない。 日本における野球は、実際に参加するスポーツというよりは、観戦スポーツとして楽しむ人が多い傾向にある。レジャー白書2005によると、2004年時点の「野球・ソフトボール用品」に対する出費は、990億円である。「球技スポーツ用品」に対する出費6640億円の15%を占めている。 「クラブ・同好会」の形で楽しむスポーツとしては一定の地位を占めている。内閣府による「体力・スポーツに関する世論調査」(2007年2月調査)では、クラブ・同好会に加入している男性のうち、22.7%が野球クラブ・同好会に加入しており、2位のゴルフ、5位テニスよりも多い。ただし、女性は5位までに含まれていなかった。 文部科学省の「我が国の体育・スポーツ施設」(平成16年3月)によると、「職場スポーツ施設」(8286カ所)においては全8286施設のうち13%(第2位)を「野球場・ソフトボール場」が占め、内閣府の統計と合致する。 日本では伝統的に野球が盛んだが、中学生の野球チームに所属する少年の数は2009年から14年までに28%減少したことが、公式統計で明らかになった。全日本軟式野球連盟の小学生の軟式野球登録チーム数を見ても、2010年に1万4824チームから、2014年には1万2663チームまで減少し、高校野球においても、硬式野球の全国の野球部員数は1997年の14万201人を底に一旦は増加に転じ2014年には史上最多となる17万312人に達するも、同年を頂点に再び漸減傾向にある。軟式に至っては、1990年度の1万9915人を頂点に右肩下がりの減少を続け、2016年度の部員総数は1990年度のほぼ半数の人数にまで減少している。 1886年、アメリカではタバコのおまけとして野球選手の姿を画いたカード(シガレットカード)であるベースボールカードを付けることが流行した。以後、ベースボールカードはトレーディングカードの一分野として人気がある。 パチンコやスマートボールに野球の要素を取り入れたボードゲームに野球盤がある。日本ではエポック社が1958年より生産、販売し続けている。 1960年代の日本ではちばてつや『ちかいの魔球』や梶原一騎『巨人の星』が嚆矢となり、少年漫画の一ジャンルとして野球漫画が流行した。1970年代には水島新司『ドカベン』が、1980年代にはあだち充『タッチ』が、2000年代には森田まさのり『ROOKIES』などがそれぞれ人気を博し、アニメ化や実写映画化がなされている。女子が野球をする作品は、例えば『大正野球娘。』、『八月のシンデレラナイン』、『球詠』、『花鈴のマウンド』などがあり、少女の野球人口増加に一役買っている。 アメリカでは映画のジャンルとして野球映画が継続して制作されている。1942年公開の『打撃王』はアカデミー賞を受賞している。この他には1984年公開の『ナチュラル』と1989年公開の『フィールド・オブ・ドリームス』もそれぞれアカデミー賞にノミネートされている。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の一環として選定したスポーツ分野のアメリカ映画トップ10では『打撃王』が3位、『さよならゲーム』が5位にそれぞれランクインしている。また、『がんばれ!ベアーズ』や『メジャーリーグ』などは何度も続編やリメイクが制作されている。 1983年に任天堂からファミリーコンピュータが発売されると、同年の内に野球を題材としたゲームソフト「ベースボール」が発売され人気を博した。以後、日米で「プロ野球ファミリースタジアム」シリーズや「実況パワフルプロ野球」シリーズ、「MLB The Show」シリーズなどの野球ゲームが継続して生産、販売されている。 野球の試合結果を利用した(日本においては非合法な)賭博が一部の人間の間で行われている。そのほとんどは野球界とは無関係な人間によるものだが、野球界自身の人間も関わっていることが判明した事件もある。その一部を以下に記す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "野球(、英: baseball)は、2つの(基本的には9人編成の)チームが攻撃と守備を交代しながら、各頂点に4つのベースを持つ菱形の区画において得点を競い合うバットとボールを使うスポーツ(英語版)である。「フィールド」や「野球場」、「スタジアム」と呼ばれる場所で行われる。アメリカ発祥のスポーツであり、1845年にアメリカで現在の形・ルールの基礎がつくられ、1869年には最初のプロチームが生まれ、アメリカで有数の人気スポーツとなり、国民的娯楽となった。。(もとはイギリスからの移民がアメリカに持ち込んだスポーツが元型・祖型になっている、とされる。#歴史)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "野球は、2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して得点を取り合い、得点数の多いか少ないかに基づいて勝敗を競う競技である。点数の多いチームが勝利を手に入れる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1チーム9人ずつ(DH制を採用する場合は10人)で構成された2チームが守備側と攻撃側に分かれ、守備側の投手が投げたボールを攻撃側の打者がバットで打ち、設置された4つのベース(塁)を反時計回りに進み、一周することで得点を得る。両チームは攻撃と守備をそれぞれ交互に9回ずつ(7回以下ずつの場合もある)行い、その間に挙げた得点の多さを競う。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "4つのベースは、それぞれ一塁(ファースト・ベース)、二塁(セカンド・ベース)、三塁(サード・ベース)、本塁(ホーム・ベース)と言う。なお、大会やリーグによってルールの細部に相違点があり、たとえば予め定めた以上の一方的展開になった場合や気象条件等により途中で試合を打ち切るコールドゲームの規定、攻撃時に投手と呼ばれるポジションの選手の代わりに攻撃専門の選手を使う指名打者(DH)制度の有無、審判員の人数等細かな違いがあり、大会やリーグごとにそれぞれの環境に最適と考えられる制度を採用している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アメリカが発祥の地および本場であり、アメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)が主導している。他の国で行われる野球のルールも、基本的にはアメリカのベースボールのルールを模倣したり、アメリカでルールの修正・変更があれば、たいていはアメリカを「後追い」する形で修正・変更されている。国際大会が開催される場合も、基本的にアメリカのルールが基準になっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「baseball(ベースボール)」という名称は、4つのbase(ベース)を使用するという特性を由来としている。なお、日本語の「野球」という名称は、明治期に日本で中馬庚が作った和製漢語である(後述)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本記事では、ベースボール(野球)と、亜種とはしっかり区別して説明する。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "発祥地であり、一番盛んな国であるアメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)によって行われているベースボールが世界の野球の基準になっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "発祥地で本場のアメリカではボール(球)はあくまで硬式である。硬式以外のボールを使うものは「別物」、別種の競技とされている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "アメリカでの球が具体的どのようなものか説明すると、MLBは最高級のボールを使っている。最適な革でくるみ、縫い目もしっかり巻くように縫われている。MLBの選手は最高レベルの技術でプレーするからその質に合わせたボールが使われるのである。なお、MiLB(Minor League Baseball マイナーリーグベースボール)ではMLBと比べて少し材質が劣るボールが使われている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "アメリカの高校野球や大学野球ではMLBと同じサイズのボールを使うが、密度はわずかに低い(少しだけ軽い)。そこでは金属バットが使われるのでそれに合わせて設計されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "本場アメリカでは少年野球の段階から硬式を使う。少年野球の段階から柔らかいボールは使用しない。少年野球でも革でくるんだボールを使うが、芯はウール巻のものを使う。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本でも、プロ野球や社会人野球、大学野球、高校野球においては本来の硬式野球が行われているが、中学以下は軟式も多く、別競技になってしまっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "野球の起源は明確にはされていないが、イギリスの球技である「タウンボール」がイギリス系移民によってアメリカに持ち込まれた後に変化し、野球として形成されたと考える研究者が多い。1830年代から1840年代に原型が成立した後、主にアメリカの北部で盛んとなり、南北戦争(1861年 - 1865年)を機に南部にも伝えられたことでアメリカ全土において人気を博するようになった。19世紀後半を通じてルールに大幅な改良が加えられ、現在の形となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1869年には世界初のプロ球団であるシンシナティ・レッドストッキングスが設立され、1871年には世界初のプロ野球リーグであるナショナル・アソシエーションが設立された。このリーグ自体は5年で破綻したものの、1876年にはこれを引き継ぐ形でナショナルリーグが設立され、MLBが成立した。この頃、日本を訪問したアメリカ人によって日本に野球が伝えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して勝敗を競う。ルールは本場アメリカのMLBのOFFICIAL BASEBALL RULES(MLB公式ルール)が世界基準となっている。各国の国内ルールも原則それに沿った内容になるように整備されており、日本の公認野球規則も原則的にMLBルールに合致した内容になるようにMLB公式ルールを基本的には翻訳したものである。", "title": "規則" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "攻撃側は、相手チームの投手が投げたボールを打って、一塁・二塁・三塁・本塁をまわることで得点を得る。守備側は相手チームの走者が本塁に到達しないように打者や走者をアウトにする。相手チームの選手を3人アウトにできれば、攻撃に移ることができる。攻撃と守備の一巡はイニングと呼ばれる。一試合は9イニングからなり、得点の合計が多いチームが勝者となる。両者の得点が等しい場合は、延長戦を行う、引き分けとするなどルール体系によって対応が分かれる。", "title": "規則" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "各チームの目的は「より多くの得点を得て、勝つこと」であり、公認野球規則1.05には「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする。」と明記されている。規則書に「勝つことを目的とする」と明確に表記されていることは、野球のルールの際立った特徴の一つでもある。", "title": "規則" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1チームは選手9人(指名打者制を採る場合は10人)と監督、コーチなどで編成される。試合にはそれ以外にも控え選手がおり、日本のプロ野球では16人、日本の高校野球では11人まで控えとして途中からの試合出場ができる。しかし、一度交代により退いた選手は、その試合中は再び試合に出ることはできない。(交代させずに)守備位置を変えることは可能である。また、守備位置を交代しても再び交代する前の守備位置に戻ることは可能である。", "title": "規則" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "野球を行うにあたっては、様々な用具が必要であるが、選手が野球を行う上で必要となる用具のうち、代表的なものについて述べる。詳しくは各項目を参照のこと。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "バットは滑らかな円い棒であり、打者が投球を打ち返すための用具である。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "グラブやミットは、投球、打球、送球を受けるための革で作られた用具である。形状によってミットは捕手用のキャッチャーミット・一塁手用のファーストミットの2種類があり、グラブには 投手用・二塁手用・三塁手用・遊撃手用・外野手用・満遍なく使えるオールラウンド向け等、数種類に分類することができる。そのそれぞれについて、右投げ用(左手に着用)・左投げ用(右手に着用)・両投げ用が存在する。グラブはどの形状でもすべてのポジションで使用できるが、ミットに関しては捕手と一塁手の使用についてのみ、公認野球規則の3.04、3.05にそれぞれ規定されている。投手が着用するグラブについては、グラブ全体が一色であり、商標・マーク類は白色・灰色以外であること、グラブにグラブの色と異なるものをつけてはならないことといった制限がある。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "野球用の靴でスパイク部分は金属または樹脂を使用している。少年野球では危険なため、樹脂製スパイクを使用している場合が多い。スパイク部分が取り外し可能なものもある。また、ピッチャーが利き足のシューズの先端に、保護革(P革)をつけることがある。これは投球時、ピッチャーが後ろ足(利き手と同じ側の足)でマウンドを蹴りシューズがすり減る事を防ぐため。バッティングでも同じ現象が起きるためか、野手がこの保護革をつけることも多い。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "滑り止めの白い粉が入った袋。主にピッチャーが用い、マウンドに置いてある。打者が使用する場合もあり、ネクストバッタースボックスにも置いてある。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "同じチームの選手・監督・コーチなど競技に参加する者は、同色・同形・同意匠のユニフォームと野球帽を着用する。原則として全員(少なくとも選手)の背中には背番号をつける。アンダーシャツ、ストッキング、ベルトは同色での着用が必要。スパイクもユニフォームの一部に相当するため、チームで同色にそろえる必要がある。プロ野球においてはプレイングマネージャーやベースコーチに立つ場合を除き監督がユニフォームを着ない場合がある。ボールが胸部に当たると心臓に負担が掛かり倒れてしまう(死亡・重傷事故の例もある)ことがあるので、胸部の部分にパッドを付けることが推奨されている。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "野球に使われるグラウンドと付帯設備は野球場もしくは球場と称される。4つのベースを結ぶ正方形内は内野と呼ばれ、またその形状から「ダイヤモンド」とも呼ばれる。内野とランナーコーチボックス、ネクストバッターサークルの距離は公認野球規則で決められているが、グラウンドの大きさについては球場によって異なる。「内野」は規則上は正方形内と定められているが、慣習的には内野手が普通の守備行為を行う守備範囲も含める。", "title": "グラウンド" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "野球における審判員は、試合の進行や、投手の投球、本塁における判定を主に担当する球審(英: umpire-in-chief; plate umpire)と、各塁における判定を行う塁審(英: base umpires)、必要に応じて外野に外審(英: outfield umpires)を配置する。", "title": "審判員" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一般には球審1名と各塁の塁審3名の4人で審判団を作ることが多いが、重要な試合では外審2名を加えて6人で審判団を作ることもある。試合によっては塁審の人数が2名ないしは1名になることもあれば、球審だけ(塁審なし)で審判を行うこともある。", "title": "審判員" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "MLBでは2014年度より審判員に加え、ニューヨークにある映像センターでのインスタントビデオ判定を採用している。監督は審判員の判定に異議がある場合、1試合で1回まで(特別な試合では2回)要求することができる。もし、リクエストが成功すると、残りのリクエスト数は減らされない。7回以降は審判も要求することができる。またNPBでも、2018年度より各チーム1試合で2回までビデオ判定を行える「リクエスト制度」が導入されている。", "title": "審判員" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "野球には数多くの戦略と戦術が生み出された。その一部を以下に記す。詳細はそれぞれの項を参照のこと。", "title": "試合の展開" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "野球は、他のスポーツに比べて豊富な記録・統計が取られることから、数値化に適したスポーツであり、19世紀以来、有力選手の各種記録が試合結果と同様にファンに楽しみを提供してきた。", "title": "試合の展開" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "20世紀後半に入ると、それらの記録を統計学的見地から客観的に分析し、選手の評価やチームの運営・戦略を考察する「セイバーメトリクス」が提唱され、20世紀末以降、本格的に導入するチームが増加している。中でも、2000年代初め頃のオークランド・アスレチックスがビリー・ビーンGMの下でセイバーメトリクスを軸とした低予算でのチーム運営によって黄金期を築いたことで広く受け入れられるようになり、この際ビーンが提唱した画期的な戦術は、ビーンの活動の様子を描いたノンフィクション書籍の名をとって「マネー・ボール」として認知されている。", "title": "試合の展開" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "さらに、21世紀に入ると、軍事技術を応用したスタットキャストやトラックマンといった計測機材・システムが導入されたことにより、より詳細で精緻なデータ計測・分析の他、選手やボールの動きを数値化することで選手のプレーや能力そのものの改善に繋げることが可能となっており、特にMLBにおいてプレースタイルや戦術の傾向の変化に大きく影響を及ぼしている。", "title": "試合の展開" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、中堅の観客席から望遠鏡を用いて捕手のサインを盗み見し、それをバッターに伝達するという手法が定着した。その後、スコアボード(各チームの各得点などを表示する大きなボード)の裏に潜んだ職員がサインを盗み、何らかのシグナルを送り打者に伝える形が生まれ、1970年代のインディアンスでは球場に設置されたチームロゴである先住民の目が開けば直球、閉じればカーブ、という形で伝達が行われていた。MLB、NPB、日本の高校野球などでもサイン盗みでトラブルになることがしばしばある。最近では、メジャーリーグで、アストロズによるサイン盗みが大問題となっている。球団史上初の世界一に輝いた2017年から翌18年にかけてサイン盗みを行っていたとされており、すでにMLBが処分。球団はジェフ・ルーノー前GM(ゼネラルマネージャー)とAJ・ヒンチ前監督を解雇したものの、2021年もまだ不正行為を続けていたと他球団の選手が指摘するなど、騒動は収束する気配がない。", "title": "試合の展開" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "そのやっかいな問題を解決するために、MLBは、2021年夏には、キャッチャーがピッチャーへ指示を伝えるための電子機器(ピッチコム)のテストを開始し、2022年のシーズンからその電子機器を正式に導入した(それを使いたいバッテリーつまりキャッチャーとピッチャーが使う。従来通りのサインでいいと考えるバッテリーは使わなくてもよい)。キャッチャーの腕にボタンが多数配置された送信専用機を巻き、ピッチャーの帽子の中に小型受信機を配し帽子の小型スピーカーから小さな音量の音声が流れる(他の選手には聞こえないくらい、小さな音が流れる)。", "title": "試合の展開" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "捕手と走者の本塁突入をめぐるクロスプレーでは選手の安全のためコリジョンルールが採用されるようになった。", "title": "試合の展開" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "国際野球連盟(IBAF)を中心として、特に野球が盛んなアジア、アメリカを始め、 ヨーロッパやアフリカにも地域単位での連盟・協会が存在する。さらにその傘下に各国の連盟・協会が設置されており、各国内のリーグ運営や活動を統括している。", "title": "野球組織" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "世界では主に北米のアメリカ合衆国・カナダ、欧州ではオランダ・イタリア、中南米のキューバ・ドミニカ共和国・ベネズエラ・メキシコ・プエルトリコ・ニカラグア・パナマ・オランダ領アンティル、コロンビア、東アジアの日本、大韓民国、台湾などで盛んである。とりわけパナマ、キューバ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、ニカラグア、台湾においては、事実上の国技として親しまれている。日本では、国技と呼ばれることは少ないものの非常に人気の高いスポーツであり、「日本の国民的スポーツ」のひとつである。", "title": "各地域の野球" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アメリカ野球学会によると、ジャッキー・ロビンソンがデビューした1947年、アフリカ系米国人選手の割合は全体のわずか0.9%。徐々に比率は増し、62年には10.1%と初めて1割を超えた。81年には過去最高の18.7%に上った。だが、その後は伸び悩み、2005年には9.1%と1割を切り、昨季は6.7%と過去60年で最低に並ぶ数字となった、メジャーリーグでは、有望選手でも多くは高校卒業後にマイナー契約からメジャー昇格を目指すのが基本線。低所得者層のアフリカ系も少なくない中で、「アメリカンドリーム」をつかむには、安月給で移動も過酷な下積みを経験する道のりが待っている。", "title": "各地域の野球" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている。1982年のKBOリーグは総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている。また、プロアマともに数々の国際大会で好成績を残している。その一方で、競技人口自体はさほど多くないのが特徴であり、それはアマチュア野球の段階で行われる少数精鋭化が要因である。", "title": "各地域の野球" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ヨーロッパではサッカーが最も人気のあるスポーツであるため、野球はマイナースポーツとされているが、欧州野球連盟には39か国が加盟しており、その中でイタリアとオランダ、ドイツの3か国ではプロリーグが存在している。", "title": "各地域の野球" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "オランダ王立野球・ソフトボール協会は、野球の問題点を明らかにするためにアンケートを行い「他競技に比べ、運動量が少ない」「専用のグラウンドが必要である」「ルールが複雑である」「人数を集めるのが大変」など数多くの課題が上がり、これらの課題を解決するために野球をより簡略化したスポーツ「BeeBall」を考案した。", "title": "各地域の野球" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "オーストラリアでは1850年代にアメリカ合衆国から金鉱に来た鉱夫により、野球がもたらされた。1989年に最初のオーストラリアン・ベースボールリーグ(en)が発足したが、11年で終了した。その後2010年からMLB機構も支援する形でオーストラリアン・ベースボールリーグが発足している。", "title": "各地域の野球" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "アフリカでは、オーストラリアと類似した沿革を持つ南アフリカで比較的早く野球がある程度の広がりを見せたが、それ以外の地域については普及途上である。詳細はアフリカの野球を参照。", "title": "各地域の野球" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アメリカでの野球人気は中長期的に低落傾向にある。ギャラップの世論調査によると、1960年には最も人気のあるスポーツであったが、1972年にはアメリカンフットボールに抜かれ、2番人気に転落した。2013年には1番人気のアメリカンフットボールに対し、3倍近いポイント差をつけられている。伝統的に「国民的娯楽」と見なされていたが、2015年のブルームバーグの世論調査によると、アメリカ人の67%がアメリカンフットボールを国民的娯楽と見なしている一方、野球は28%に甘んじている。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ワールドシリーズの全米視聴率は2012年には史上最低の平均視聴率を記録したが、2016年は第1戦から高視聴率を記録。第7戦では視聴率25.2%、総視聴者数4000万人に達しており、ここ25年間で最高を記録している。また、視聴率調査大手のニールセンによると、2015年時点での野球の視聴者は、55歳以上の割合が50%であったが、その10年前の2005年は41%であったことからも高齢化は顕著である。MLBのポストシーズン・ゲームの視聴者の6歳から17歳の若年層が占める割合はここ10年で7%から4%まで落ち込んでいる。ESPNの「若者が好きなスポーツ選手トップ30」にも、初めて野球選手が1人もランクインしなかった。SFIAの調査によれば2009年の6歳から17歳までの野球人口は701万2000人であるのに対し、2014年では671万1000人となっている。また、この調査によるとアメリカンフットボールやバスケットボールと言ったメジャースポーツも競技人口が減少しており、ラグビーやラクロスといった、今までアメリカではマイナーとされてきた競技が競技人口を増やしている。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "MLBでは観客動員が特定の球団では激減し、MLB関係者は危機感を募らせている。近年は「北米4大スポーツ」の他の競技の人気向上・競技人口増加によって市場占有率を奪われつつある。そんな中で、MLBは2017年には約7316万人(1試合あたり3万0132人)を動員。競争が厳しい中、何とか横ばいの数字を維持してきた。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "日本プロ野球の観客動員数は2015年途中時点で読売ジャイアンツ以外の11球団が前年比で増加した。また同年オリックス・バファローズ、広島東洋カープはシーズン途中時点で史上最多の観客動員数を記録した他、同年シーズンの総観客数がセ・リーグが1351万900人と実数発表となった2005年以降で最多を記録。2016年にも交流戦の観客動員数において過去最多となる1試合平均2万9447人を記録する。以降もNPBでは観客動員数の増加が見受けられており、地元密着を主眼とした各球団の企業努力の成果とする向きもある一方で、その実態はあくまで「各フランチャイズ地域内でのリピーター増加を意味するものであり、『球団がない地域』を含む全国的な野球人気向上には繋がっていない」「新規のファンは増えていない」とする調査・分析もある。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2010年には史上初めて日本シリーズの地上波全国中継が3試合無くなった。日本テレビ副社長の舛方勝宏は「割り切っていえば、BSの普及のためにはいい。野球はBSのソフトとしては強力になってきた」と話し、「働き盛りの人は午後7時台に家に帰っていない。そういう状況で地上波では数字(視聴率)がとれなくなってきている。試合開始からじっくり見る団塊世代の人は、BSで見ている」と見解を示している。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "台湾では1990年代後半から野球賭博や八百長が多発したことから、特にプロ野球(CPBL)の人気が大きく低下。チーム数も1997年の11球団をピークに減少し、2009年には創設時(1990年)と同じ4球団となったが、2019年6月24日に味全ドラゴンズが加盟し、5球団に拡大した。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている。1982年のKBOリーグは総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている。ただし、その人気・実力に対して国内の競技人口は比較的少なく、日本が高校硬式野球部加盟校4,021校、部員数168,898人であるのに対し、韓国の高校野球部は67校、部員数は約2,400人である。もっとも、この傾向は野球に限ったことではなく、韓国には日本のような趣味的要素を含む部活動がほぼ存在せず、アマチュアの段階で少数精鋭化が行われるのが要因であるとされる。少数精鋭によるエリート教育はいわば韓国の文化であり、実際にプロアマともに数々の国際大会で好成績を残しているなど一定の成果を上げていはいるものの、「裾野を狭める」「メダル至上主義である」といった批判もある。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "試合はイニング制を採用している。サッカーやバスケットボールのような時間制ではないため、試合の展開により試合時間に大きな幅があるが、概ね1試合2時間 - 3時間程度である(MLBでは決着が付くまで無制限の延長する)。2010年までの日本のプロ野球においては12回で決着がつかなければ引き分けにしていた。しかし、2011年に東日本大震災が発生しその影響により試合開始から3時間30分以内で決着がつかない場合は引き分けとなりこのルールは2012年シーズン終了まで採用された。なお、2013年シーズンより元の「12回で決着がつかなければ引き分ける」のルールに戻った。MLBやNPBなどのプロリーグでは年間140試合を超える多数の公式戦を行うことで大きなビジネスとなっている。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アメリカでは、ファウルボールが観客に直撃するアクシデントが立て続けに起こっている。「ファウルボール訴訟」が多発しているが、「危険があることを予め承知してスタジアムに来る」として、観客がケガしても球団側は免責されるケースが大半である。観客席以外でファウルボールによって負傷した場合は訴えが認められることがあるが、基本的には裁判しても勝ち目はない。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "野球観戦における日本独自の文化としては、応援団主導の楽器や応援歌を用いたいわゆる「鳴り物応援」がプロアマ問わず定着していることが挙げられる。起源については様々な説があるが、プロ野球においては1970年代の広島東洋カープが選手に対する個別応援歌を用いての応援を始めたとされる。ただし、日本独自の文化として肯定的に取り上げられる一方で、「妨害行為・迷惑行為である」など否定的な意見も少なくない。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本における野球は、実際に参加するスポーツというよりは、観戦スポーツとして楽しむ人が多い傾向にある。レジャー白書2005によると、2004年時点の「野球・ソフトボール用品」に対する出費は、990億円である。「球技スポーツ用品」に対する出費6640億円の15%を占めている。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "「クラブ・同好会」の形で楽しむスポーツとしては一定の地位を占めている。内閣府による「体力・スポーツに関する世論調査」(2007年2月調査)では、クラブ・同好会に加入している男性のうち、22.7%が野球クラブ・同好会に加入しており、2位のゴルフ、5位テニスよりも多い。ただし、女性は5位までに含まれていなかった。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "文部科学省の「我が国の体育・スポーツ施設」(平成16年3月)によると、「職場スポーツ施設」(8286カ所)においては全8286施設のうち13%(第2位)を「野球場・ソフトボール場」が占め、内閣府の統計と合致する。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "日本では伝統的に野球が盛んだが、中学生の野球チームに所属する少年の数は2009年から14年までに28%減少したことが、公式統計で明らかになった。全日本軟式野球連盟の小学生の軟式野球登録チーム数を見ても、2010年に1万4824チームから、2014年には1万2663チームまで減少し、高校野球においても、硬式野球の全国の野球部員数は1997年の14万201人を底に一旦は増加に転じ2014年には史上最多となる17万312人に達するも、同年を頂点に再び漸減傾向にある。軟式に至っては、1990年度の1万9915人を頂点に右肩下がりの減少を続け、2016年度の部員総数は1990年度のほぼ半数の人数にまで減少している。", "title": "野球文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1886年、アメリカではタバコのおまけとして野球選手の姿を画いたカード(シガレットカード)であるベースボールカードを付けることが流行した。以後、ベースボールカードはトレーディングカードの一分野として人気がある。", "title": "野球を題材にした玩具と作品" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "パチンコやスマートボールに野球の要素を取り入れたボードゲームに野球盤がある。日本ではエポック社が1958年より生産、販売し続けている。", "title": "野球を題材にした玩具と作品" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1960年代の日本ではちばてつや『ちかいの魔球』や梶原一騎『巨人の星』が嚆矢となり、少年漫画の一ジャンルとして野球漫画が流行した。1970年代には水島新司『ドカベン』が、1980年代にはあだち充『タッチ』が、2000年代には森田まさのり『ROOKIES』などがそれぞれ人気を博し、アニメ化や実写映画化がなされている。女子が野球をする作品は、例えば『大正野球娘。』、『八月のシンデレラナイン』、『球詠』、『花鈴のマウンド』などがあり、少女の野球人口増加に一役買っている。", "title": "野球を題材にした玩具と作品" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "アメリカでは映画のジャンルとして野球映画が継続して制作されている。1942年公開の『打撃王』はアカデミー賞を受賞している。この他には1984年公開の『ナチュラル』と1989年公開の『フィールド・オブ・ドリームス』もそれぞれアカデミー賞にノミネートされている。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の一環として選定したスポーツ分野のアメリカ映画トップ10では『打撃王』が3位、『さよならゲーム』が5位にそれぞれランクインしている。また、『がんばれ!ベアーズ』や『メジャーリーグ』などは何度も続編やリメイクが制作されている。", "title": "野球を題材にした玩具と作品" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1983年に任天堂からファミリーコンピュータが発売されると、同年の内に野球を題材としたゲームソフト「ベースボール」が発売され人気を博した。以後、日米で「プロ野球ファミリースタジアム」シリーズや「実況パワフルプロ野球」シリーズ、「MLB The Show」シリーズなどの野球ゲームが継続して生産、販売されている。", "title": "野球を題材にした玩具と作品" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "野球の試合結果を利用した(日本においては非合法な)賭博が一部の人間の間で行われている。そのほとんどは野球界とは無関係な人間によるものだが、野球界自身の人間も関わっていることが判明した事件もある。その一部を以下に記す。", "title": "野球界を取り巻く問題" } ]
野球(やきゅう、は、2つのチームが攻撃と守備を交代しながら、各頂点に4つのベースを持つ菱形の区画において得点を競い合うバットとボールを使うスポーツである。「フィールド」や「野球場」、「スタジアム」と呼ばれる場所で行われる。アメリカ発祥のスポーツであり、1845年にアメリカで現在の形・ルールの基礎がつくられ、1869年には最初のプロチームが生まれ、アメリカで有数の人気スポーツとなり、国民的娯楽となった。。
{{告知|[[硬式野球]]の呼称について'''サッカー'''で扱うかの意見募集|date=2018-07-22}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2017年7月 | 独自研究 = 2019年1月 }} {{スポーツ | 画像 = [[ファイル:Bunt.jpg|300px]] | 見出し = 打撃を行う打者([[デビッド・オルティーズ]]、当時[[ボストン・レッドソックス|レッドソックス]]所属)と捕手および審判(アンパイア) | 競技統括団体 =[[国際野球連盟]] | 通称 = | 起源 =(18世紀中頃){{ENG}}<br/>(19世紀){{flagicon|USA}} [[米国]] (現代版) | 競技登録者 = | クラブ = | 身体接触 = 無 (本塁以外の身体接触は規則違反となることが多い) | 選手 = 9人([[指名打者|DH]]制を採用する場合10人) | 男女 = 無 | カテゴリ = 屋外・屋内競技 | ボール = [[ボール (野球)]] |オリンピック=バルセロナ大会(1992)、<br>アトランタ大会(1996)、<br>シドニー大会(2000)、<br>アテネ大会(2004)、<br>北京大会(2008)、<br>東京大会(2021)}} {{ウィキポータルリンク|野球|[[画像:Baseball (crop).jpg|35px|ウィキポータル 野球]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|野球}} {{読み仮名|'''野球'''|やきゅう|{{lang-en-short|baseball}}}}は、2つの(基本的には9人編成の)[[チーム]]が攻撃と守備を交代しながら、各頂点に4つの[[wikt:塁|ベース]]を持つ菱形の区画において得点を競い合う{{仮リンク|バット・アンド・ボール・ゲーム|en|Bat-and-ball games|label=バットとボールを使うスポーツ}}である<ref name="Oxford Dictionary">Oxford Dictionary. "A ball game played between two teams of nine on a diamond-shaped circuit of four bases." [https://en.oxforddictionaries.com/definition/baseball]</ref>。「フィールド」や「[[野球場]]」、「スタジアム」と呼ばれる場所で行われる。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]発祥のスポーツであり、1845年にアメリカで現在の形・ルールの基礎がつくられ、[[1869年]]には最初のプロチームが生まれ、アメリカで有数の人気スポーツとなり、国民的娯楽となった。<ref name="nipponica">スーパーニッポニカ「野球」、[[神田順治]]、[[森岡浩]] 執筆。</ref>。(もとはイギリスからの[[移民]]がアメリカに持ち込んだスポーツが元型・祖型になっている、とされる。[[#歴史]]) == 概説 == 野球は、2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して[[得点]]を取り合い、得点数の多いか少ないかに基づいて勝敗を競う[[競技]]である。点数の多いチームが勝利を手に入れる<ref name="nipponica" />。 1チーム9人ずつ([[指名打者|DH]]制を採用する場合は10人)で構成された2チームが守備側と攻撃側に分かれ、守備側の[[投手]]が投げたボールを攻撃側の[[打者]]が[[バット (野球)|バット]]で打ち、設置された4つのベース(塁)を[[反時計回り]]に進み、一周することで得点を得る。両チームは攻撃と守備をそれぞれ交互に9回ずつ(7回以下ずつの場合もある)行い、その間に挙げた得点の多さを競う<ref name="nipponica">スーパーニッポニカ「野球」、[[神田順治]]、[[森岡浩]] 執筆。</ref>。 4つのベースは、それぞれ一塁(ファースト・ベース)、二塁(セカンド・ベース)、三塁(サード・ベース)、本塁(ホーム・ベース)と言う。なお、大会やリーグによってルールの細部に相違点があり、たとえば予め定めた以上の一方的展開になった場合や気象条件等により途中で試合を打ち切る[[コールドゲーム]]の規定、攻撃時に[[投手]]と呼ばれるポジションの選手の代わりに攻撃専門の選手を使う[[指名打者|指名打者(DH)]]制度の有無、[[審判員 (野球)|審判員]]の人数等細かな違いがあり、大会やリーグごとにそれぞれの環境に最適と考えられる制度を採用している。 アメリカが発祥の地および本場であり、アメリカの[[メジャーリーグベースボール]](MLB)が主導している。他の国で行われる野球のルールも、基本的にはアメリカのベースボールのルールを模倣したり、アメリカでルールの修正・変更があれば、たいていはアメリカを「後追い」する形で修正・変更されている。国際大会が開催される場合も、基本的にアメリカのルールが基準になっている。 「baseball(ベースボール)」という名称は、4つのbase(ベース)を使用するという特性を由来としている<ref name="nipponica" />。なお、日本語の「野球」という名称は、[[明治]]期に[[日本]]で[[中馬庚]]が作った[[和製漢語]]である([[#日本|後述]])。 本記事では、ベースボール(野球)と、亜種とはしっかり区別して説明する。 ;本来のもの 発祥地であり、一番盛んな国であるアメリカの[[メジャーリーグベースボール]](MLB)によって行われているベースボールが世界の野球の基準になっている。 発祥地で本場のアメリカでは[[ボール (野球)|ボール(球)]]はあくまで硬式である。硬式以外のボールを使うものは「別物」、別種の競技とされている。 アメリカでの球が具体的どのようなものか説明すると、[[メジャーリーグ・ベースボール|MLB]]は最高級のボールを使っている<ref name="99baseballs">[https://99baseballs.com/equipment/baseballs/different-types-of-baseballs-for-different-ages/]</ref>。最適な革でくるみ、縫い目もしっかり巻くように縫われている<ref name="99baseballs" />。MLBの選手は最高レベルの技術でプレーするからその質に合わせたボールが使われるのである<ref name="99baseballs" />。なお、[[MiLB]]([[:en:Minor League Baseball|Minor League Baseball]] [[マイナーリーグベースボール]])ではMLBと比べて少し材質が劣るボールが使われている<ref name="99baseballs" />。 アメリカの高校野球や大学野球では[[メジャーリーグ・ベースボール|MLB]]と同じサイズのボールを使うが、密度はわずかに低い(少しだけ軽い)<ref name="99baseballs" />。そこでは[[金属バット]]が使われるのでそれに合わせて設計されている<ref name="99baseballs" />。 本場アメリカでは少年野球の段階から硬式を使う<ref name="99baseballs" />。少年野球の段階から柔らかいボールは使用しない<ref name="99baseballs" />。少年野球でも革でくるんだボールを使うが、芯はウール巻のものを使う<ref name="99baseballs" />。 日本でも、[[日本プロ野球|プロ野球]]や[[社会人野球]]、[[日本の大学野球|大学野球]]、[[日本の高校野球|高校野球]]においては本来の硬式野球が行われているが、中学以下は軟式も多く、別競技になってしまっている。 == 歴史 == {{Main|野球の歴史}} 野球の起源は明確にはされていないが、[[イギリス]]の球技である「{{仮リンク|タウンボール|en|Town ball}}」がイギリス系移民によってアメリカに持ち込まれた後に変化し、野球として形成されたと考える研究者が多い。1830年代から1840年代に原型が成立した後、主にアメリカの北部で盛んとなり、[[南北戦争]]([[1861年]] - [[1865年]])を機に[[アメリカ南部|南部]]にも伝えられたことでアメリカ全土において人気を博するようになった。19世紀後半を通じてルールに大幅な改良が加えられ、現在の形となった。 [[1869年]]には世界初のプロ球団である[[シンシナティ・レッドストッキングス]]が設立され、[[1871年]]には世界初のプロ野球リーグである[[全米プロ野球選手協会|ナショナル・アソシエーション]]が設立された。このリーグ自体は5年で破綻したものの、[[1876年]]にはこれを引き継ぐ形で[[ナショナルリーグ]]が設立され、MLBが成立した。この頃、日本を訪問したアメリカ人によって[[日本]]に野球が伝えられた。 == 規則 == [[ファイル:Tulsa vs Frisco.jpg|thumb|200px|[[投手]]と[[打者]]の対戦]] {{Main|野球の概要}} 2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して勝敗を競う。ルールは本場アメリカのMLBのOFFICIAL BASEBALL RULES(MLB公式ルール)[https://img.mlbstatic.com/mlb-images/image/upload/mlb/atcjzj9j7wrgvsm8wnjq.pdf]が世界基準となっている。各国の国内ルールも原則それに沿った内容になるように整備されており、日本の[[公認野球規則]]も原則的にMLBルールに合致した内容になるようにMLB公式ルールを基本的には[[翻訳]]したものである。 === 試合形式 === 攻撃側は、相手チームの[[投手]]が投げたボールを打って、一塁・二塁・三塁・本塁をまわることで得点を得る。守備側は相手チームの[[走者]]が本塁に到達しないように[[打者]]や[[走者]]を[[アウト (野球)|アウト]]にする。相手チームの選手を3人アウトにできれば、攻撃に移ることができる。攻撃と守備の一巡は[[イニング]]と呼ばれる。一試合は9イニングからなり{{efn|一試合におけるイニング数はルール体系によって異なることがあり、[[小学生]]、[[中学生]]などでは7イニングの場合もある。また、2020年より[[世界野球ソフトボール連盟]](WBSC)主催のアンダー世代の国際大会については原則7イニング制になったほか<ref>{{Cite web|title=Major changes coming to international baseball and softball, World Cups|url=https://www.wbsc.org/en/news/major-changes-international-baseball-softball-world-cups|website=WBSC|date=2019-01-25|accessdate=2022-04-17}}</ref>、メキシコの[[リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル]]も2022年より一部の試合で7イニングを導入した<ref>{{Cite web|title=Comunicado oficial: La LMB agilizará los juegos y tendrá enfrentamientos altamente competitivos|url=https://www.milb.com/mexican/news/lmb-comunicado-oficial-la-lmb-agilizara-los-juegos-y-tendra-enfrentamientos-alta|website=Liga Mexicana de Beisbol|date=2022-04-06|accessdate=2022-04-17|language=es}}</ref>。}}、得点の合計が多いチームが勝者となる。両者の得点が等しい場合は、[[延長戦]]を行う、[[引き分け]]とするなどルール体系によって対応が分かれる。 各チームの[[目的]]は「より多くの得点を得て、勝つこと」であり、公認野球規則1.05には「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする。」と明記されている。規則書に「'''勝つことを目的とする'''」と明確に表記されていることは、野球のルールの際立った特徴の一つでもある。 === チーム編成 === 1チームは選手9人([[指名打者]]制を採る場合は10人)と監督、コーチなどで編成される。試合にはそれ以外にも[[サブメンバー|控え選手]]がおり、日本のプロ野球では16人、日本の高校野球では11人まで控えとして途中からの試合出場ができる。しかし、一度交代により退いた選手は、その試合中は再び試合に出ることはできない。(交代させずに)守備位置を変えることは可能である<ref group="注釈">例えば、右翼手を退かせ、一塁手を右翼手に変更し、控え選手を一塁手として起用するということは規則上問題ない。この場合、控えだった選手の打順は、退いた右翼手の打順を引き継ぐ。</ref>。また、守備位置を交代しても再び交代する前の守備位置に戻ることは可能である。 == 用具 == 野球を行うにあたっては、様々な用具が必要であるが、選手が野球を行う上で必要となる用具のうち、代表的なものについて述べる。詳しくは各項目を参照のこと。 ===ボール=== {{Main|ボール (野球)#用具としてのボール}} ===バット=== {{Main|バット (野球)}} バットは滑らかな円い棒であり、打者が投球を打ち返すための用具である。 ===グラブ(グローブ)・ミット=== [[ファイル:Baseball glove front back.jpg|thumb|right|グラブ]] {{Main|グラブ (野球)|ミット}} グラブやミットは、投球、打球、[[送球]]を受けるための革で作られた用具である。形状によってミットは[[捕手]]用のキャッチャーミット・[[一塁手]]用のファーストミットの2種類があり、グラブには [[投手]]用・[[二塁手]]用・[[三塁手]]用・[[遊撃手]]用・[[外野手]]用・満遍なく使えるオールラウンド向け等、数種類に分類することができる。そのそれぞれについて、右投げ用(左手に着用)・左投げ用(右手に着用)・両投げ用が存在する。グラブはどの形状でもすべてのポジションで使用できるが、ミットに関しては捕手と一塁手の使用についてのみ、公認野球規則の3.04、3.05にそれぞれ規定されている。投手が着用するグラブについては、グラブ全体が一色であり、商標・マーク類は白色・灰色以外であること、グラブにグラブの色と異なるものをつけてはならないことといった制限がある。 ===スパイクシューズ=== {{Main|スパイクシューズ}} 野球用の靴でスパイク部分は金属または樹脂を使用している。少年野球では危険なため、樹脂製スパイクを使用している場合が多い。スパイク部分が取り外し可能なものもある。また、ピッチャーが利き足のシューズの先端に、保護革(P革)をつけることがある。これは投球時、ピッチャーが後ろ足(利き手と同じ側の足)でマウンドを蹴りシューズがすり減る事を防ぐため。バッティングでも同じ現象が起きるためか、野手がこの保護革をつけることも多い。 ===捕手の防具=== ; マスク(面):前頭部、顔面、喉を保護するために装着する。 ; プロテクター:肩、胸、腹を保護するために装着する。 ; [[ファウルカップ]]:股間周辺を保護するために装着する。 ; [[レガース]]: 膝から足首までを保護するために装着する。 ===ロージンバッグ(ロジンバッグ)=== {{Main|ロジンバッグ}} 滑り止めの白い粉が入った袋。主にピッチャーが用い、マウンドに置いてある。打者が使用する場合もあり、ネクストバッタースボックスにも置いてある。 ===ユニフォーム=== {{main|野球ユニフォーム}} 同じチームの選手・監督・コーチなど競技に参加する者は、同色・同形・同意匠の[[野球ユニフォーム|ユニフォーム]]と[[ベースボールキャップ|野球帽]]を着用する。原則として全員(少なくとも選手)の背中には[[野球の背番号|背番号]]をつける。アンダーシャツ、ストッキング、ベルトは同色での着用が必要。[[スパイクシューズ|スパイク]]もユニフォームの一部に相当するため、チームで同色にそろえる必要がある。プロ野球においては[[選手兼任監督|プレイングマネージャー]]やベースコーチに立つ場合を除き監督がユニフォームを着ない場合がある。ボールが胸部に当たると心臓に負担が掛かり倒れてしまう(死亡・重傷事故の例もある)ことがあるので、胸部の部分にパッドを付けることが推奨されている。 == グラウンド == {{Main|野球場}} 野球に使われるグラウンドと付帯設備は野球場もしくは球場と称される。4つのベースを結ぶ正方形内は内野と呼ばれ、またその形状から「ダイヤモンド」とも呼ばれる。内野とランナーコーチボックス、ネクストバッターサークルの距離は公認野球規則で決められているが、グラウンドの大きさについては球場によって異なる。「内野」は規則上は正方形内と定められているが、慣習的には内野手が[[普通の守備行為]]を行う守備範囲も含める。 == ポジション == {{野球ポジション画像|size=250px}} {| class="wikitable" style="font-size:small" !攻守!!colspan="2"|日本語での名称!!英語での名称!!英略字 |- |rowspan="12"|{{縦書き|守備}}||colspan="2"|バッテリー||{{lang|en|battery}}|| |- |1||style="text-align:left"|[[投手]](ピッチャー)||{{lang|en|pitcher}}||P |- |2||style="text-align:left"|[[捕手]](キャッチャー)||{{lang|en|catcher}}||C |- |colspan="2"|内野手||{{lang|en|infielder}}||IF |- |3||style="text-align:left"|[[一塁手]](ファースト)||{{lang|en|first baseman}}||1B |- |4||style="text-align:left"|[[二塁手]](セカンド)||{{lang|en|second baseman}}||2B |- |5||style="text-align:left"|[[三塁手]](サード)||{{lang|en|third baseman}}||3B |- |6||style="text-align:left"|[[遊撃手]](ショート)||{{lang|en|shortstop}}||SS |- |colspan="2"|[[外野手]]||Outfielder||OF |- |7||style="text-align:left"|[[左翼手]](レフト)||{{lang|en|left fielder}}||LF |- |8||style="text-align:left"|[[中堅手]](センター)||{{lang|en|center fielder}}||CF |- |9||style="text-align:left"|[[右翼手]](ライト)||{{lang|en|right fielder}}||RF |- |rowspan="5"|{{縦書き|攻撃}}||colspan="2"|[[打者]](バッター)||{{lang|en|hitter}}|| |- |||style="text-align:left"|[[指名打者]](DH)||{{lang|en|designated hitter}}||DH |- |||style="text-align:left"|[[代打]](ピンチヒッター)||{{lang|en|pinch hitter}}||PH |- |colspan="2"|[[走者]](ランナー)||{{lang|en|runner}}|| |- |||style="text-align:left"|[[代走]](ピンチランナー)||{{lang|en|pinch runner}}||PR |} * 表中の数字は[[守備番号]]を示す。 * バッテリー(投手と捕手)を内野手の一員とみなす場合もある。 == 審判員 == === 構成 === {{Main|審判員 (野球)}} 野球における審判員は、試合の進行や、投手の投球、本塁における判定を主に担当する球審(英: umpire-in-chief; plate umpire)と、各塁における判定を行う塁審(英: base umpires)、必要に応じて外野に外審(英: outfield umpires)を配置する。 一般には球審1名と各塁の塁審3名の4人で審判団を作ることが多いが、重要な試合では外審2名を加えて6人で審判団を作ることもある。試合によっては塁審の人数が2名ないしは1名になることもあれば、球審だけ(塁審なし)で審判を行うこともある。 === チャレンジシステム === {{Main|野球のビデオ判定}} MLBでは2014年度より審判員に加え、ニューヨークにある映像センターでのインスタントビデオ判定を採用している。監督は審判員の判定に異議がある場合、1試合で1回まで(特別な試合では2回)要求することができる。もし、リクエストが成功すると、残りのリクエスト数は減らされない。7回以降は審判も要求することができる<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2013/11/30/post760/ |title=野球にも「チャレンジ」!? メジャーのビデオ判定拡大とは |publisher=Full-Count |date=2013-11-30 |accessdate=2021-03-31}}</ref>。また[[日本のプロ野球|NPB]]でも、2018年度より各チーム1試合で2回までビデオ判定を行える「リクエスト制度」が導入されている。 == 試合の展開 == === 戦略と戦術 === {{seealso|Category:フィールディング}} 野球には数多くの戦略と戦術が生み出された。その一部を以下に記す。詳細はそれぞれの項を参照のこと。 * [[スモールボール]] - かつてドジャース戦法と呼ばれた * [[ビッグボール]] -出塁率、四球や長打力重視する戦略 * [[プラトーン・システム]] - 選手を使い分ける戦術 * [[スクイズプレイ]] - 攻撃側のプレイ * [[ヒットエンドラン]] - 進塁を狙う戦術 * [[ピッチアウト]] - 守備側のバッテリーが採る戦術 * [[タッグアップ]] - 走塁戦術 * [[オープナー (野球)|オープナー]] - 投手の起用法 === データと野球 === 野球は、他のスポーツに比べて豊富な記録・統計が取られることから、数値化に適したスポーツであり、19世紀以来、有力選手の各種記録が試合結果と同様にファンに楽しみを提供してきた。 20世紀後半に入ると、それらの記録を統計学的見地から客観的に分析し、選手の評価やチームの運営・戦略を考察する「[[セイバーメトリクス]]」が提唱され、20世紀末以降、本格的に導入するチームが増加している。中でも、2000年代初め頃の[[オークランド・アスレチックス]]が[[ビリー・ビーン]][[ゼネラルマネージャー#メジャーリーグにおけるGM|GM]]の下でセイバーメトリクスを軸とした低予算でのチーム運営によって黄金期を築いたことで広く受け入れられるようになり、この際ビーンが提唱した画期的な戦術は、ビーンの活動の様子を描いたノンフィクション書籍の名をとって「[[マネー・ボール]]」として認知されている。 さらに、21世紀に入ると、軍事技術を応用した[[スタットキャスト]]や[[トラックマン (ゴルフ用具)|トラックマン]]といった計測機材・システムが導入されたことにより、より詳細で精緻なデータ計測・分析の他、選手やボールの動きを数値化することで選手のプレーや能力そのものの改善に繋げることが可能となっており、特にMLBにおいてプレースタイルや戦術の傾向の変化に大きく影響を及ぼしている。 === 試合展開上の問題点 === ==== サイン盗み ==== [[第二次世界大戦]]後、中堅の観客席から望遠鏡を用いて捕手のサインを盗み見し、それをバッターに伝達するという手法が定着した。その後、スコアボード(各チームの各得点などを表示する大きなボード)の裏に潜んだ職員がサインを盗み、何らかのシグナルを送り打者に伝える形が生まれ、1970年代のインディアンスでは球場に設置されたチームロゴである先住民の目が開けば直球、閉じればカーブ、という形で伝達が行われていた<ref>{{cite news|url=|title=メジャーは「サイン盗み」も世界一? 歴史は50年以上、ハイテク化も進行。|newspaper=|publisher=|date=2019-04-10|accessdate=2019-07-08}}</ref>。MLB、NPB、日本の高校野球などでも[[サイン盗み]]でトラブルになることがしばしばある<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/841560 サイン盗みの歴史とアストロズ。手を替え品を替えた120年間。]</ref><ref>[https://www.huffingtonpost.jp/entry/sign-stealing_jp_5c9d96b0e4b0bc0daca57669 「サイン盗み」とは? センバツで疑惑浮上。習志野が「2塁走者がサイン伝達した」と星稜が抗議]</ref><ref>[https://diamond.jp/articles/-/198512 「サイン盗み」を抗議した監督が悪者に、崩れる高校野球への幻想]</ref><ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/838938 「あなたはサイン盗みをしていましたか?」プロ野球関係者30人への衝撃アンケート。]</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/column/baseballcountry/news/201905240000195.html 覚悟必要メジャー「やり得」日本/サイン盗み考える]</ref>。最近では、メジャーリーグで、アストロズによるサイン盗みが大問題となっている。球団史上初の世界一に輝いた2017年から翌18年にかけてサイン盗みを行っていたとされており、すでにMLBが処分。球団はジェフ・ルーノー前GM(ゼネラルマネージャー)とAJ・ヒンチ前監督を[[解雇]]したものの、2021年もまだ不正行為を続けていたと他球団の選手が指摘するなど、騒動は収束する気配がない。 そのやっかいな問題を解決するために、MLBは、2021年夏には、キャッチャーがピッチャーへ指示を伝えるための電子機器([[ピッチコム]])のテストを開始し<ref>[https://www.espn.com/mlb/story/_/id/31869009/mlb-test-electronic-device-catchers-give-signals-pitchers]</ref>、2022年のシーズンからその電子機器を正式に導入した<ref>[https://www.cbssports.com/mlb/news/mlb-to-allow-electronic-pitch-signaling-devices-in-2022-season-to-prevent-sign-stealing/ CBS, MLB to allow electronic pitch-signaling devices in 2022 season to prevent sign-stealing]</ref>(それを使いたいバッテリーつまりキャッチャーとピッチャーが使う。従来通りのサインでいいと考えるバッテリーは使わなくてもよい)。キャッチャーの腕にボタンが多数配置された[[送信機|送信専用機]]を巻き、ピッチャーの帽子の中に小型[[受信機]]を配し帽子の小型スピーカーから小さな音量の音声が流れる(他の選手には聞こえないくらい、小さな音が流れる)。 ==== 本塁でのクロスプレー ==== [[ファイル:Subway Series 2008.jpg|right|thumb|200px|本塁に突入する走者と阻もうとする[[捕手]]]] 捕手と走者の本塁突入をめぐるクロスプレーでは選手の安全のため[[コリジョンルール]]が採用されるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/column/baseballcountry/news/202002260000321.html|title=コリジョンルール採用でクロスプレー望ましい方向へ|publisher=日刊スポーツ|date=2020-02-27|accessdate=2020-05-07}}</ref>。 == 各種記録 == {{Main|野球の各種記録}} == 野球組織 == {{Main|野球組織一覧}} [[国際野球連盟]](IBAF)を中心として、特に野球が盛んなアジア、アメリカを始め、 ヨーロッパやアフリカにも地域単位での連盟・協会が存在する。さらにその傘下に各国の連盟・協会が設置されており、各国内のリーグ運営や活動を統括している。 == 各地域の野球 == 世界では主に[[北アメリカ|北米]]の[[アメリカ合衆国]]・[[カナダ]]、[[ヨーロッパ|欧州]]では[[オランダ]]・[[イタリア]]、[[ラテンアメリカ|中南米]]の[[キューバ]]・[[ドミニカ共和国]]・[[ベネズエラ]]・[[メキシコ]]・[[プエルトリコ]]・[[ニカラグア]]・[[パナマ]]・[[オランダ領アンティル]]、[[コロンビア]]、[[東アジア]]の[[日本]]、[[大韓民国]]、[[台湾]]などで盛んである。とりわけパナマ、キューバ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、ニカラグア、台湾においては、事実上の[[国技]]として親しまれている。{{anchors|日本}}日本では、国技と呼ばれることは少ないものの非常に人気の高いスポーツであり<ref>田口貞善『スポーツの百科事典』丸善、624ページ。</ref>、「日本の国民的スポーツ」のひとつである<ref>{{Cite web|和書| url =https://ddnavi.com/news/385979/a/ | title =ボヤキも意図があってのこと。組織に役立つノムさんの言葉。 「叱っていい人」と「そうでない人」の差は? | publisher =ダ・ヴィンチニュース| date =2017-07-06| accessdate =2017-11-19}}</ref>。 === 北米 === [[ファイル:Fenway at night.jpg|right|thumb|250px|[[フェンウェイ・パーク]]([[アメリカ合衆国]]、[[ボストン]])]] [[アメリカ野球学会]]によると、[[ジャッキー・ロビンソン]]がデビューした1947年、アフリカ系米国人選手の割合は全体のわずか0.9%。徐々に比率は増し、62年には10.1%と初めて1割を超えた。81年には過去最高の18.7%に上った。だが、その後は伸び悩み、2005年には9.1%と1割を切り、昨季は6.7%と過去60年で最低に並ぶ数字となった、メジャーリーグでは、有望選手でも多くは高校卒業後にマイナー契約からメジャー昇格を目指すのが基本線。低所得者層のアフリカ系も少なくない中で、「アメリカンドリーム」をつかむには、安月給で移動も過酷な下積みを経験する道のりが待っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/timeline/list/CK2017062102000195.html|title=アフリカ系米国人進む野球離れ 大リーグ80年代ピークに|publisher=|date=2017-06-21|accessdate=2017-12-31}}</ref>。  === 韓国 === ==== 歴史 ==== {{main|KBOリーグ#概要}} ==== 近況 ==== 韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている<ref name="wbsc">{{Cite web|和書|url=http://www.wbsc.org/ja/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%97%E3%83%AD%E9%87%8E%E7%90%83%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0%EF%BC%88kbo%E8%A6%B3%E5%AE%A2%E5%8B%95%E5%93%A1%E6%95%B0800%E4%B8%87%E4%BA%BA%E7%AA%81%E7%A0%B4/|title=韓国プロ野球リーグ(KBO)が国内スポーツ史上初の観客動員数を記録 累計数800万人突破|publisher=WBSC|date=2016-09-30|accessdate=2017-01-10}}</ref>。1982年の[[KBOリーグ]]は総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.joins.com/article/132/221132.html|title=<野球>KBOリーグ、韓国プロスポーツ初の観客800万人時代が目前に|publisher=中央日報|date=2016-09-27|accessdate=2017-01-10}}</ref>、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている<ref name="wbsc" />。また、プロアマともに数々の国際大会で好成績を残している。その一方で、競技人口自体はさほど多くないのが特徴であり、それはアマチュア野球の段階で行われる少数精鋭化が要因である。 === ヨーロッパ === ヨーロッパでは[[サッカー]]が最も人気のあるスポーツであるため、野球はマイナースポーツとされているが、[[欧州野球連盟]]には39か国が加盟しており、その中でイタリアとオランダ、ドイツの3か国ではプロリーグが存在している<ref>{{Cite web|和書| url =http://bb-nippon.com/column/1012-euro/7603-20130415no02euro | title =第2回 ヨーロッパの野球事情と、オランダ野球 | publisher =ベースボールドットコム| date =2013-07-01| accessdate =2017-11-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url =https://worldbaseballinfo.fandom.com/ja/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AC | title =野球ブンデスリーガ | publisher =国際野球情報wiki| date =| accessdate =2021-7-9}}</ref>。 オランダ王立野球・ソフトボール協会は、野球の問題点を明らかにするためにアンケートを行い「他競技に比べ、運動量が少ない」「専用のグラウンドが必要である」「ルールが複雑である」「人数を集めるのが大変」など数多くの課題が上がり、これらの課題を解決するために野球をより簡略化したスポーツ「BeeBall」を考案した<ref>{{cite news |url=https://full-count.jp/2017/12/12/post97620/|title=WBCで2大会連続ベスト4オランダ 競技人口減少の救世主「BeeBall」とは|date=2017-12-12|publisher= |accessdate=2019-01-01}}</ref>。 === その他の地域 === [[オーストラリア]]では1850年代にアメリカ合衆国から金鉱に来た鉱夫により、野球がもたらされた<ref name="au">[https://baseball.com.au/baseball-australia/history/ History] - BASEBALL Australia(英語)</ref>。1989年に最初のオーストラリアン・ベースボールリーグ([[:en:Australian Baseball League (1989–1999)|en]])が発足したが、11年で終了した。その後2010年からMLB機構も支援する形で[[オーストラリアン・ベースボールリーグ]]が発足している。 [[アフリカ]]では、オーストラリアと類似した沿革を持つ[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]で比較的早く野球がある程度の広がりを見せたが、それ以外の地域については普及途上である。詳細は[[アフリカの野球]]を参照。 == 国際大会 == {{Main|野球の大会一覧}} ; ワールドカップ (IBAF) : [[IBAFワールドカップ]](Baseball World Cup)は、[[1938年]]から[[2011年]]まで開催されていた野球の[[国際大会]]である。[[国際野球連盟]](IBAF)が主催した。 ; ワールド・ベースボール・クラシック(WBC) {{Main|ワールド・ベースボール・クラシック}} : 1990年代後半からアメリカのみならずメジャーリーグベースボールにおける東アジアや北中米カリブ海諸国出身の選手の増加が進むなど、世界各国で野球人気の拡大があり、これをうけて2005年5月にMLB機構が翌年3月に野球の世界大会を開催することを発表した<ref>Alan Schwarz,[http://sports.espn.go.com/mlb/news/story?id=2057633 World Cup announcement made],ESPN(英語),2005/05/10</ref>。[[2006年]][[3月]]に16か国・地域が参加し、[[ワールド・ベースボール・クラシック]]の第1回大会である[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック]]が開催された。その後、[[2009年]]に[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回大会]]を開催し、以後概ね3 - 4年に1回、[[2023年]]までに計5回の大会が開催されている。 ; WBSCプレミア12 {{Main|WBSCプレミア12}} : [[2015年]]11月、世界ランキング上位12か国が野球力No.1をかけて戦う[[WBSCプレミア12]]が日本・台湾で初開催された。その後、[[2019年]]には夏季オリンピック予選を兼ねて[[2019 WBSCプレミア12|第2回大会]]が開催され、以後4年に1回開催される。 ; 夏季オリンピック : [[夏季オリンピック]]では、野球は[[1904年セントルイスオリンピック]]で公開競技として採用されたものの、[[オリンピックの野球競技]]として正式競技になるのはそれから80年後の[[1992年バルセロナオリンピック]]からとなった([[1984年ロサンゼルスオリンピック]]、[[1988年ソウルオリンピック]]でも公開競技として実施されている)。だが、環太平洋地域以外で盛んではないという理由で[[国際オリンピック委員会|IOC]]は[[2012年]]の[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン五輪]]以降オリンピック競技から野球と[[ソフトボール]]を外すことを決定した<ref>[http://www.joc.or.jp/sports/baseball.html 公益財団法人日本オリンピック委員会「野球」]2014年2月28日閲覧</ref>。これに対し、日本野球機構など各種団体は2016年度以降の野球競技復活をめざしキャンペーンを行った<ref>[http://www.npb.or.jp/alljapan/2016_baseball_again.html 2016年オリンピック野球競技復活キャンペーン] 日本野球機構オフィシャルサイト 2014年2月28日閲覧</ref>ものの、[[2016年リオデジャネイロオリンピック]]においては復活は見送られた。しかし、[[2020年]]の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]では男子野球は同じ競技扱いとなった女子ソフトボールとともに追加種目としてだが2008年[[2008年北京オリンピック|北京大会]]以来の実施が決定した。そして、男子野球は女子ソフトボールとともに2017年にIOC総会で選出される[[2024年パリオリンピック|2024年夏季オリンピック]]の正式競技に立候補したが、2016年・2020年(追加種目除く)と同じ28の競技が実施されることが2017年6月9日のIOC理事会で決定したため、2024年夏季オリンピックでの正式種目での開催は無い。 == 野球文化 == [[File:The Pride of the Yankees1.jpg|right|200px|thumb|映画''『[[打撃王 (映画)|打撃王]]''』の広報用写真([[1942年]])]] [[File:HonusWagnerCard.jpg|thumb|200px|right|[[1909年]]に発売された[[ホーナス・ワグナー]]の[[ベースボールカード]]『{{仮リンク|T206 ホーナス・ワグナー|en|T206 Honus Wagner}}』)。入手が困難で希少価値が高く、[[2007年]]にベースボールカードとしては史上最高額の235万ドル(約2億8千万円)で落札された。]] === 野球の人気度 === ====アメリカ==== アメリカでの野球人気は中長期的に低落傾向にある。[[ギャラップ (企業)|ギャラップ]]の世論調査によると、[[1960年]]には最も人気のあるスポーツであったが、[[1972年]]には[[アメリカンフットボール]]に抜かれ、2番人気に転落した<ref name="Gallup">[http://www.gallup.com/poll/4735/sports.aspx Gallup Sports]Gallup 2015年11月17日閲覧。</ref>。[[2013年]]には1番人気のアメリカンフットボールに対し、3倍近いポイント差をつけられている<ref name="Gallup" />。伝統的に「国民的娯楽」と見なされていたが、[[2015年]]の[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]の世論調査によると、アメリカ人の67%がアメリカンフットボールを国民的娯楽と見なしている一方、野球は28%に甘んじている<ref>[http://www.bloomberg.com/politics/articles/2015-04-16/move-over-baseball-bloomberg-politics-poll-shows-67-of-americans-now-say-football-is-national-pastime Move Over, Baseball: Bloomberg Politics Poll Shows 67% of Americans Now Say Football Is National Pastime]Bloomberg.com 2015年11月17日閲覧。</ref>。 [[ワールドシリーズ]]の全米視聴率は[[2012年のワールドシリーズ|2012年]]には史上最低の平均視聴率を記録した<ref>[http://espn.go.com/mlb/playoffs/2012/story/_/id/8570950/world-series-finishes-record-low-rating World Series has record-low rating]AP通信 2015年11月17日閲覧。</ref>が、[[2016年]]は第1戦から高視聴率を記録。第7戦では視聴率25.2%、総視聴者数4000万人に達しており、ここ25年間で最高を記録している。<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/column/watanabe/news/1733567.html 白熱のワールドシリーズ 勝負の分かれ目は雨中断]日刊スポーツ 2016年12月16日閲覧。</ref>また、視聴率調査大手のニールセンによると、2015年時点での野球の視聴者は、55歳以上の割合が50%であったが、その10年前の[[2005年]]は41%であったことからも高齢化は顕著である<ref name="Washington Post">[https://www.washingtonpost.com/sports/nationals/baseballs-trouble-with-the-youth-curve--and-what-that-means-for-the-game/2015/04/05/2da36dca-d7e8-11e4-8103-fa84725dbf9d_story.html Baseball is struggling to hook kids — and risks losing fans to other sports]The Washington Post 2015年11月17日閲覧。</ref>。MLBのポストシーズン・ゲームの視聴者の6歳から17歳の若年層が占める割合はここ10年で7%から4%まで落ち込んでいる<ref name="Washington Post" />。ESPNの「若者が好きなスポーツ選手トップ30」にも、初めて野球選手が1人もランクインしなかった。SFIAの調査によれば2009年の6歳から17歳までの野球人口は701万2000人であるのに対し、2014年では671万1000人となっている。また、この調査によるとアメリカンフットボールやバスケットボールと言ったメジャースポーツも競技人口が減少しており、ラグビーやラクロスといった、今までアメリカではマイナーとされてきた競技が競技人口を増やしている<ref>{{Cite news|title=Youth Sports Participation Statistics and Trends:|url=http://www.engagesports.com/blog/post/1488/youth-sports-participation-statistics-and-trends|accessdate=2018-04-05|language=en-US}}</ref>。 MLBでは観客動員が特定の球団では激減し、MLB関係者は危機感を募らせている。近年{{いつ|date=2019年6月}}は「北米4大スポーツ」の他の競技の人気向上・競技人口増加によって市場占有率を奪われつつある。そんな中で、MLBは2017年には約7316万人(1試合あたり3万0132人)を動員。競争が厳しい中、何とか横ばいの数字を維持してきた<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2018/06/13/post137462/|title=アメリカでも「野球離れ」!? 昨年から見るMLB観客動員数の変化|publisher=|date=2018-06-13|accessdate=2018-08-19}}</ref>。 ====日本==== 日本プロ野球の観客動員数は2015年途中時点で[[読売ジャイアンツ]]以外の11球団が前年比で増加した<ref>{{cite news |language = | author = | url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/09/12/kiji/K20150912011112780.html| title =観客動員数 巨人以外の11球団が前年比増 DeNAは18・3%増| publisher =スポーツニッポン| date= 2015-09-12| accessdate =2015-10-03}}</ref>。また同年[[オリックス・バファローズ]]<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.jiji.com/jc/zc?k=201509/2015093001064&g=spo| title =オリックスが最多観客動員=プロ野球| publisher =時事ドットコム| date= 2015-09-30| accessdate =2015-10-03}}</ref>、[[広島東洋カープ]]<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20150927-OHT1T50110.html| title =【広島】最多観客動員、球団史上初200万人超え!| publisher =スポーツ報知| date= 2015-09-27| accessdate =2015-10-03}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>はシーズン途中時点で史上最多の観客動員数を記録した他、同年シーズンの総観客数がセ・リーグが1351万900人と実数発表となった2005年以降で最多を記録<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK31060_X01C15A0000000/ | title =セ・リーグ観客動員数、実数発表後で最多更新 | publisher =日本経済新聞| date= 2015-10-07| accessdate =2023-09-30}}</ref><ref>{{cite news |language = | author = | url =https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/07/kiji/K20151007011279970.html | title =セ・リーグ観客動員数 実数発表の最多更新 | publisher =スポーツニッポン| date= 2015-10-07| accessdate =2023-09-30}}</ref>。2016年にも交流戦の観客動員数において過去最多となる1試合平均2万9447人を記録する<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK20458_R20C16A6000000/ | title =観客動員数、1試合平均が過去最多に プロ野球交流戦 | publisher =日本経済新聞| date= 2016-06-21| accessdate =2016-06-23}}</ref><ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160621-OHT1T50199.html | title =交流戦の観客動員数は過去最多更新 1試合平均2万9447人 | publisher =スポーツ報知| date= 2016-06-22| accessdate =2016-06-23}}</ref><ref>{{cite news |language = | author = | url =https://mainichi.jp/articles/20160622/k00/00m/050/060000c | title =プロ野球交流戦 観客動員、平均最多2.9万人 | publisher =毎日新聞| date= 2016-06-21| accessdate =2016-06-23}}</ref><ref>{{cite news |language = | author = | url =https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/06/22/kiji/K20160622012823800.html | title =交流戦観客動員セ15・2%増、パ4・5%減…週末が“明暗” | publisher =スポーツニッポン| date= 2016-06-22| accessdate =2016-06-23}}</ref>。以降もNPBでは観客動員数の増加が見受けられており、地元密着を主眼とした各球団の企業努力の成果とする向きもある一方で、その実態はあくまで「各[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ地域]]内での[[リピーター#マーケティングや販売推進の用語として|リピーター]]増加を意味するものであり、『球団がない地域』を含む全国的な野球人気向上には繋がっていない」「新規のファンは増えていない」とする調査・分析もある<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/829758 プロ野球、最多観客動員の裏で……。「野球離れ」を裏付ける恐怖の数字。] Number Web 2018年1月26日</ref><ref>{{Cite news| title = 3月29日開幕!観客動員数が大幅に増えそうな予感の2019年プロ野球| newspaper =[[DIME (雑誌)|@DIME]]| date =2019-03-27| url = https://dime.jp/genre/683353/| accessdate =2019-04-05}}</ref>。 [[2010年]]には史上初めて[[2010年の日本シリーズ|日本シリーズ]]の地上波全国中継が3試合無くなった<ref group="注釈">第1・2・5戦。ただし、ローカル中継はされた。</ref><ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/column/article.aspx?id=20101025000064 日本シリーズの全国中継] 四国新聞社 香川のニュース 2010年10月25日付 2010年11月7日閲覧。</ref>。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]副社長の[[舛方勝宏]]は「割り切っていえば、[[BS放送|BS]]の普及のためにはいい。野球はBSのソフトとしては強力になってきた」と話し、「働き盛りの人は午後7時台に家に帰っていない。そういう状況で地上波では数字(視聴率)がとれなくなってきている。試合開始からじっくり見る[[団塊の世代|団塊世代]]の人は、BSで見ている」と見解を示している<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2010103002000070.html 日本シリーズ、3試合地上波全国放送なし] 東京新聞 2010年10月30日朝刊、2010年11月7日閲覧。</ref>。 ====台湾==== 台湾では1990年代後半から野球賭博や八百長が多発したことから、特にプロ野球(CPBL)の人気が大きく低下。チーム数も1997年の11球団をピークに減少し、2009年には創設時(1990年)と同じ4球団となったが<ref>{{cite web|url=http://japan.cna.com.tw/news/aart/201603190004.aspx|title=野球賭博防止の信託、資産約4.5億円に 没収制度で再発防ぐ/台湾|publisher=|date=2016-03-19|accessdate=2017-12-31}}</ref>、2019年6月24日に[[味全ドラゴンズ]]が加盟し、5球団に拡大した<ref>{{cite web|url=http://mjapan.cna.com.tw/news/aart/201906240006.aspx|title=味全ドラゴンズ、台湾プロ野球に加盟 19年半ぶり復帰|publisher=フォーカス台湾|date=2019-06-24|accessdate=2019-07-17}}</ref>。 ====韓国==== 韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている<ref name="wbsc" />。1982年の[[KBOリーグ]]は総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.joins.com/article/132/221132.html|title=<野球>KBOリーグ、韓国プロスポーツ初の観客800万人時代が目前に|publisher=中央日報|date=2016-09-27|accessdate=2017-01-10}}</ref>、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている<ref name="wbsc" />。ただし、その人気・実力に対して国内の競技人口は比較的少なく、日本が高校硬式野球部加盟校4,021校、部員数168,898人であるのに対し、韓国の高校野球部は67校、部員数は約2,400人である。もっとも、この傾向は野球に限ったことではなく、韓国には日本のような趣味的要素を含む部活動がほぼ存在せず、アマチュアの段階で少数精鋭化が行われるのが要因であるとされる。少数精鋭によるエリート教育はいわば韓国の文化であり、実際にプロアマともに数々の国際大会で好成績を残しているなど一定の成果を上げていはいるものの、「裾野を狭める」「メダル至上主義である」といった批判もある<ref>{{cite news|url=http://www.japan-baseball.jp/jp/news/press/20150827_11.html|title=U-18対戦国の野球/代表の大半がプロ入りの韓国。甲子園はエリート集団の憧れの地|newspaper=|publisher=|date=2015-08-27|accessdate=2019-09-08}}</ref><ref>[http://www.wowkorea.jp/section/interview/read.asp?narticleid=169430 <Wコラム>日本と違う韓国のビックリ~極端な少数精鋭主義の韓国スポーツ界] wowKorea 2016年7月4日</ref>。 === 試合観戦 === 試合はイニング制を採用している。[[サッカー]]や[[バスケットボール]]のような時間制ではないため、試合の展開により試合時間に大きな幅があるが、概ね1試合2時間 - 3時間程度である(MLBでは決着が付くまで無制限の延長する)。2010年までの日本のプロ野球においては12回で決着がつかなければ引き分けにしていた。しかし、2011年に[[東日本大震災]]が発生しその影響により試合開始から3時間30分以内で決着がつかない場合は引き分けとなりこのルールは2012年シーズン終了まで採用された。なお、2013年シーズンより元の「12回で決着がつかなければ引き分ける」のルールに戻った<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20130307-OYT1T01185.htm プロ野球、「3時間半ルール」を撤廃] YOMIURI ONLINE、2013年3月7日。</ref>。MLBやNPBなどのプロリーグでは年間140試合を超える多数の公式戦を行うことで大きなビジネスとなっている。 ====アメリカ==== アメリカでは、[[ファウルボール]]が観客に直撃するアクシデントが立て続けに起こっている。「ファウルボール訴訟」が多発しているが、「危険があることを予め承知してスタジアムに来る」として、観客がケガしても球団側は免責されるケースが大半である。観客席以外でファウルボールによって負傷した場合は訴えが認められることがあるが、基本的には裁判しても勝ち目はない<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://dailynewsonline.jp/article/993733/| title =ファウルボール直撃事故で再燃する「スポーツ観戦は自己責任」論 | publisher =| date= 2015-08-02| accessdate =2015-08-23}}</ref>。 ====日本==== [[ファイル:Balloons.jpg|right|thumb|250px|[[阪神ファン]]の風船を使用した応援([[阪神甲子園球場]])]] 野球観戦における日本独自の文化としては、[[私設応援団|応援団]]主導の楽器や[[応援歌]]を用いたいわゆる「鳴り物応援」がプロアマ問わず定着していることが挙げられる。起源については様々な説があるが<ref>[https://news.goo.ne.jp/article/yakyutaro/sports/yakyutaro-4008.html 高校野球のブラバン応援はいつ始まった? 観戦のお供にオススメ『ブラバン甲子園大研究』(週刊野球太郎)] goo ニュース 2016年8月8日</ref>、プロ野球においては1970年代の[[広島東洋カープ]]が選手に対する個別応援歌を用いての応援を始めたとされる<ref>[https://news.goo.ne.jp/article/yakyutaro/sports/yakyutaro-20140418020710431.html?page=1 あれもこれも発祥はカープ!?  好調・広島を支える熱狂応援文化の秘密(週刊野球太郎)] goo ニュース 2014年4月18日</ref>。ただし、日本独自の文化として肯定的に取り上げられる一方で<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2018/08/28/___split_75/index.php 強力助っ人のふたりは「鳴り物応援」が好き。期待、聞きたい、応えたい] web Sportiva 2018年8月28日</ref><ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2018/08/13/___split_71/ セ・リーグの強打者もノリノリで感謝。プロ野球を魅力的にする応援] web Sportiva 2018年8月13日</ref>、「妨害行為・迷惑行為である」など否定的な意見も少なくない<ref>[https://rocketnews24.com/2017/03/22/877758/ 【WBC】日本の「鳴り物応援」に国内外から賛否両論の声] ロケットニュース24 2017年3月22日</ref><ref>[https://npn.co.jp/article/detail/36487470 近隣住民からの苦情も 選抜高校野球決勝に進出の習志野高校、「応援がうるさい」と批判され物議] リアルライブ 2019年4月3日</ref>。 === 競技人口 === ====日本==== 日本における野球は、実際に参加するスポーツというよりは、観戦スポーツとして楽しむ人が多い傾向にある。[[レジャー白書]]2005によると、2004年時点の「野球・ソフトボール用品」に対する出費は、990億円である。「球技スポーツ用品」に対する出費6640億円の15%を占めている。 「クラブ・同好会」の形で楽しむスポーツとしては一定の地位を占めている。[[内閣府]]による「体力・スポーツに関する世論調査」(2007年2月調査)では、クラブ・同好会に加入している男性のうち、22.7%が野球クラブ・同好会に加入しており、2位のゴルフ、5位[[テニス]]よりも多い。ただし、女性は5位までに含まれていなかった。 [[文部科学省]]の「我が国の体育・スポーツ施設」(平成16年3月)によると、「職場スポーツ施設」(8286カ所)においては全8286施設のうち13%(第2位)を「野球場・ソフトボール場」が占め、内閣府の統計と合致する。 日本では伝統的に野球が盛んだが、中学生の野球チームに所属する少年の数は2009年から14年までに28%減少したことが、公式統計で明らかになった<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://jp.wsj.com/articles/SB11793851007525823752504581039283189586672| title =キューバでも進む野球離れ、世界に目を向ける若者| publisher =| date= 2015-06-10| accessdate =2015-06-13}}</ref>。全日本軟式野球連盟の小学生の軟式野球登録チーム数を見ても、2010年に1万4824チームから、2014年には1万2663チームまで減少し<ref>{{cite news |language =| author = | url =https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/04/15/kiji/K20160415012403750.html| title =4年で約2000チーム減 若年層の野球人口取り戻す妙案どこに…| publisher =| date= 2016-04-15| accessdate =2016-04-16}}</ref>、高校野球においても、硬式野球の全国の野球部員数は1997年の14万201人を底に一旦は増加に転じ2014年には史上最多となる17万312人に達するも<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://baseball.professional-view.com/blog/2014/07/03/post-2838/| title =高校球児が増加し初の17万人越え、その背景は?| publisher =プロフェッショナルビュー・ベースボール Professional-View Baseball| date= 2014-07-03| accessdate =2015-10-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|language = | author = | url =http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0809.htm| title =8月9日 野球の日| publisher =なるほど統計学園| date= | accessdate =2015-10-03}}</ref>、同年を頂点に再び漸減傾向にある<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.jhbf.or.jp/data/statistical/index_koushiki.html| title= 部員数統計(硬式、2016年5月末時点)| publisher= 日本高等学校野球連盟| accessdate=2017-06-10}}</ref>。軟式に至っては、1990年度の1万9915人を頂点に右肩下がりの減少を続け、2016年度の部員総数は1990年度のほぼ半数の人数にまで減少している<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.jhbf.or.jp/data/statistical/index_nanshiki.html| title= 部員数統計(軟式、2016年5月末時点)| publisher= 日本高等学校野球連盟| accessdate=2017-06-10}}</ref>。 == 野球を題材にした玩具と作品 == {{Seealso|野球を扱った作品一覧|Category:野球を題材とした作品}} 1886年、アメリカでは[[タバコ]]の[[おまけ]]として野球選手の姿を画いた[[カード]]([[シガレットカード]])である[[ベースボールカード]]を付けることが流行した。以後、ベースボールカードは[[トレーディングカード]]の一分野として人気がある。 [[パチンコ]]や[[スマートボール]]に野球の要素を取り入れた[[ボードゲーム]]に[[野球盤]]がある。日本では[[エポック社]]が1958年より生産、販売し続けている。 1960年代の日本では[[ちばてつや]]『[[ちかいの魔球]]』や[[梶原一騎]]『[[巨人の星]]』が嚆矢となり、[[少年漫画]]の一ジャンルとして'''[[野球漫画]]'''が流行した。1970年代には[[水島新司]]『[[ドカベン]]』が、1980年代には[[あだち充]]『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』が、2000年代には[[森田まさのり]]『[[ROOKIES]]』などがそれぞれ人気を博し、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化や[[実写映画]]化がなされている。[[女子]]が野球をする作品は、例えば『[[大正野球娘。]]』、『[[八月のシンデレラナイン]]』、『[[球詠]]』、『[[花鈴のマウンド]]』などがあり、少女の野球人口増加に一役買っている。 アメリカでは映画のジャンルとして野球映画が継続して制作されている。1942年公開の『[[打撃王 (映画)|打撃王]]』は[[アカデミー賞]]を受賞している<ref>{{Cite web|url=http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/15th-winners.html|title=The 15th Academy Awards (1943) Nominees and Winners|publisher=Oscars.org|language=英語|accessdate=2014-08-22}}</ref>。この他には1984年公開の『[[ナチュラル (映画)|ナチュラル]]』と1989年公開の『[[フィールド・オブ・ドリームス]]』もそれぞれアカデミー賞に[[ノミネート]]されている<ref>{{Cite web|url=http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/57th-winners.html|title=The 57th Academy Awards (1985) Nominees and Winners|publisher=Oscars.org|language=英語|accessdate=2014-08-22}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/62nd-winners.html|title=The 62nd Academy Awards (1990) Nominees and Winners|publisher=Oscars.org|language=英語|accessdate=2014-08-22}}</ref>。[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]](AFI)が「[[AFIアメリカ映画100年シリーズ]]」の一環として選定した[[10ジャンルのトップ10#スポーツ映画|スポーツ分野のアメリカ映画トップ10]]では『[[打撃王 (映画)|打撃王]]』が3位、『[[さよならゲーム]]』が5位にそれぞれランクインしている<ref>{{cite web|url=http://www.afi.com/10top10/category.aspx?cat=4|title=SPORTS - AFI: 10 Top 10|publisher=AFI.com|language=英語|accessdate=2014-07-17}}</ref>。また、『[[がんばれ!ベアーズ]]』や『[[メジャーリーグ (映画)|メジャーリーグ]]』などは何度も[[続編]]や[[リメイク]]が制作されている。 1983年に[[任天堂]]から[[ファミリーコンピュータ]]が発売されると、同年の内に野球を題材とした[[ゲームソフト]]「[[ベースボール (ファミコン)|ベースボール]]」が発売され人気を博した。以後、日米で「[[プロ野球ファミリースタジアム]]」シリーズや「[[実況パワフルプロ野球]]」シリーズ、「[[:en:MLB The Show|MLB The Show]]」シリーズなどの[[野球ゲーム]]が継続して生産、販売されている。 == 野球界を取り巻く問題 == === 賭博と八百長 === 野球の試合結果を利用した(日本においては非合法な)[[賭博]]が一部の人間の間で行われている。そのほとんどは野球界とは無関係な人間によるものだが、野球界自身の人間も関わっていることが判明した事件もある。その一部を以下に記す。 * 1919年 - [[メジャーリーグベースボール]]で[[ブラックソックス事件]]が起きた。 * 1969年〜1971年 [[日本プロ野球]]で[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]が起きた。 * 2009年 - [[中華職業棒球大聯盟|台湾プロ野球]]で[[台湾黒社会]]が取り仕切る賭博に伴う[[中華職業棒球大聯盟#八百長問題|八百長問題]]が発覚した。 * 2012年 - [[韓国野球委員会|韓国プロ野球]]で[[韓国プロ野球八百長事件]]が起きた。 * 2015年10月 - [[読売ジャイアンツ]]所属の現役選手3名([[福田聡志]]、[[笠原将生]]、[[松本竜也 (左投手)|松本竜也]])が、野球賭博([[読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題]])に関与していたことが、日本野球機構の発表で明らかとなった<ref>{{cite news|language = | author = | url =https://www.huffingtonpost.jp/2015/10/20/baseball-gamble_n_8343364.html| title=【野球賭博】またも巨人、笠原将生・松本竜也の2投手が関与| publisher =| date= 2015-10-21| accessdate =2015-10-25}}</ref>。 == 類似競技 == * 野球とは異なる起源を持つ競技 ** [[クリケット]] ** [[ラプター (競技)|ラプター]] ** [[ラウンダーズ]] ** [[スティックボール]] ** [[シュラークバル]] * 野球から派生した競技 ** [[ソフトボール]] ** [[ペサパッロ]] ** [[ティーボール]] ** [[キックベースボール]] ** [[ハンドベースボール]] ** [[ラケットベースボール]] ** [[ロングベースボール]] ** [[三角ベース]] ** [[ウィッフルボール]] ** [[カラーボール野球]] ** [[エクストリーム野球]] ** [[ヴィンテージベースボール]] ** [[BeeBall]] ** [[キャップ投げ|キャップ投げ野球]] ** [[ベースボール5]] * 障害者向けに考案された競技 ** [[グランドソフトボール]] ** 車いす野球 ** 身体障害者野球 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * レジャー白書2005 財団法人 社会経済生産性本部 ISBN 4-9902191-1-2 * スポーツ白書2010 笹川スポーツ財団 ISBN 4-915944-26-3 == 関連項目 == {{sisterlinks|commons=Baseball|wikinews=ポータル:野球|d=Q5369}} * [[軟式野球]]、[[準硬式野球]]、[[硬式野球]]、[[Kボール]] * [[日本のアマチュア野球|アマチュア野球]] * [[少年野球]] * [[日本の高校野球|高校野球]] * [[日本の大学野球|大学野球]] * [[社会人野球]] * [[女子野球]] * [[プロ野球]] ** [[日本プロ野球]] *** [[日本野球機構]] ** [[メジャーリーグベースボール]] ** [[独立リーグ]] ** [[プロ野球チーム一覧]] ** [[プロ野球選手]] * [[野球の各種記録]] * [[野球の歴史]] * [[野球評論家]] * [[野球リーグ一覧]] * [[野球くじ]] * [[野球拳]] * [[野球害毒論]] == 外部リンク == * 公式 ** [https://www.wbsc.org/ja/ WBSC] - [[世界野球ソフトボール連盟]] {{ja icon}} ** [https://npb.jp/ NPB] - [[日本野球機構]] {{ja icon}} ** [https://npb.jp/cl/ セントラル・リーグ] {{ja icon}} ** [https://npb.jp/pl/ パシフィック・リーグ] {{ja icon}} * その他 ** [{{NDLDC|898142/274}} 石井研堂『明治事物起原』]([https://www.ndl.go.jp/index.html 国立国会図書館]より) ** {{Kotobank}} {{野球}} {{スポーツ一覧}} {{チームスポーツ}} {{球技}} {{国際野球}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やきゆう}} [[Category:野球|*]] [[Category:オリンピック競技]] [[Category:野球に関する記事]]
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2月3日
2月3日(にがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から34日目に当たり、年末まであと331日(閏年では332日)ある。
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{{カレンダー 2月}} '''2月3日'''(にがつみっか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から34日目に当たり、年末まであと331日([[閏年]]では332日)ある。 == できごと == * [[1377年]] - [[イタリア]]・[[チェゼーナ]]に[[教皇領]]軍が侵攻し、市民2000人を虐殺(チェゼーナの血浴)。 * [[1451年]] - [[オスマン帝国]]の[[スルタン]]・[[ムラト2世|ムラッド2世]]が死去。子の[[メフメト2世]]がスルタンに即位。 * [[1488年]] - [[バルトロメウ・ディアス]]が[[アフリカ]]南端の[[喜望峰]]に到達し、アフリカ南端にたどり着いた最初のヨーロッパ人となる。 * [[1605年]]([[慶長]]9年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[慶長地震]]が発生、[[津波]]被害。 * [[1637年]] - [[オランダ]]の[[チューリップ]]相場が突然暴落し、[[チューリップ・バブル]]が崩壊<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/1199 |title=ご存知ですか? きょう2月3日はチューリップ相場暴落の日 380年前のチューリップバブル崩壊 その衝撃度とは? |access-date=11 Jul 2023 |publisher=[[文藝春秋]] |date=3 Feb 2017 |website=文春オンライン}}</ref>。 * [[1783年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[スペイン]]が[[アメリカ合衆国]]の[[独立]]を[[国家の承認|承認]]。 * [[1813年]] - [[アルゼンチン独立戦争]]: [[サン・ロレンソの戦い]]。 * [[1815年]] - [[スイス]]で最初の商業生産を目的とする[[チーズ]]工場が設立される<ref>{{Cite web |url=https://gratefulamericanfoundation.com/facts/where-was-the-worlds-first-commercial-cheese-factory-established/ |title=Where was the world’s first commercial cheese factory established? |work=GRATEFUL AMERICAN |publisher=David Bruce Smith’s Grateful American Foundation |accessdate=11 Jul 2023}}</ref>。 * [[1851年]]([[嘉永]]4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[ジョン万次郎]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から10年ぶりに帰国する。 * [[1870年]] - [[アメリカ合衆国憲法修正第15条]]の[[批准]]が成立。 * 1870年([[明治]]3年1月3日)- 日本で[[大教宣布]]が出され、[[祭政一致]]の方針が示される。 * [[1901年]] - 国家主義団体・黒龍会が内田良平らによって創立される。 * [[1913年]] - [[アメリカ合衆国憲法修正第16条]]の批准が成立。 * [[1917年]] - 米国がドイツと国交断絶。 * [[1922年]] - 現在の[[新潟県]][[糸魚川市]]勝山地区で雪崩が発生。列車が巻き込まれ死者90人、負傷者40名。([[北陸線列車雪崩直撃事故]]) * [[1930年]] - [[ホー・チ・ミン]]の指導で[[ベトナム共産党]]が創設される。 * [[1931年]] - [[ホークスベイ地震]]。[[ニュージーランド]]史上最大の被害を出す。258人が死亡。 * [[1946年]] - [[通化事件]]。[[通化]]で日本人が蜂起するが[[八路軍]]に鎮圧され数千名が虐殺される。 * 1946年 - [[ダグラス・マッカーサー ]]が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]][[民政局]]に[[日本国憲法|日本憲法]]草案の作成を指示。 * [[1952年]] - [[田口事件]]発生。 * [[1958年]] - [[若乃花幹士 (初代)|若乃花]]が第45代[[横綱]]に昇進。 * [[1959年]] - [[アイオワ州]]でロックンローラー・[[バディ・ホリー]]、[[リッチー・ヴァレンス]]、{{仮リンク|ビッグ・ボッパー|en|The Big Bopper}}が乗った小型飛行機が墜落し、パイロットを含めた全員が死亡。[[ドン・マクリーン]]が「[[アメリカン・パイ (曲)|アメリカン・パイ]]」の中でこの事故を「[[音楽が死んだ日]]」と歌う。 * [[1962年]] - [[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が[[キューバ]]との輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表。 * [[1966年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の無人宇宙探査機「[[ルナ9号]]」が史上初めて[[月|月面]]軟着陸に成功。 * [[1969年]] - [[カイロ]]で開かれたパレスチナ国民議会で[[ヤーセル・アラファート|ヤーセル・アラファト]]が[[パレスチナ解放機構]]議長に任命される。 * [[1970年]] - [[核拡散防止条約]]に日本が調印。 * [[1972年]] - [[1972年札幌オリンピック|第11回冬季オリンピック・札幌大会]]が開幕<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/634665 |title=<札幌アーカイブス 1922-2022>①アジア初の冬季五輪開幕(1972年2月3日) |access-date=11 Jul 2023 |publisher=[[北海道新聞]] |date=20 Jan 2022}}</ref>。[[2月13日]]まで。 * [[1984年]] - カリフォルニア大学ハーバー医療センターで世界初の[[体外受精|受精卵移植]]による出産が行われる。 * [[1984年]] - [[札幌中島体育センター]]で、[[藤原喜明]]が入場する[[長州力]]を花道で[[鉄パイプ]]で襲撃する。 * [[1986年]] - [[ピクサー・アニメーション・スタジオ]]創立 * [[1996年]] - [[中国]][[雲南省]]麗江でM7.0の[[麗江地震]]発生。死者309人、負傷者17,057人(内重傷者4,070人)、家を失った人18万人の被害<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/web_j/dprinews/news4/n4-10.html |title=1996年中国雲南省麗江地震とその被害に関する調査研究 |access-date=11 Jul 2023 |publisher=[[京都大学]]}}</ref>。 * [[1998年]] - [[アメリカ海兵隊]]のパイロットが[[イタリア]]・[[カヴァレーゼ]]のスキー場でリフトのケーブルをくぐりぬけて飛行しようとし、ケーブルを切断、20人を死亡させる。([[チェルミス・ロープウェイ切断事件]]) * 1998年 - [[Netscapeシリーズ|Netscapeブラウザ]]のソースコードの公開方法の会議の中で、初めて[[オープンソース]]という言葉が使われる。 * [[2005年]] - [[福岡市地下鉄七隈線]]の[[天神南駅]] - [[橋本駅 (福岡県)|橋本駅]]間が開業。 * [[2011年]] - [[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]が予約していた[[IPv4]][[IPアドレス|アドレス]]の中央在庫が[[地域インターネットレジストリ|RIR]]に分配され[[IPアドレス枯渇問題|枯渇]]<ref>{{Cite web|和書|title=IANAにおけるIPv4アドレス在庫枯渇、およびJPNICの今後のアドレス分配について - JPNIC |url=https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2011/20110204-01.html |access-date=11 Jul 2023 |publisher=社団法人日本ネットワークインフォメーションセンター |date=4 Feb 2011}}</ref>。 * [[2018年]] - [[内之浦宇宙空間観測所]]から[[SS-520ロケット|SS-520ロケット5号機]]から超小型衛星の[[TRICOM-1]]の打ち上げに成功<ref>{{Cite web|和書|url=https://qzss.go.jp/info/archive/fireant_180312.html |title=みちびき対応の超小型GNSS受信機、宇宙空間での安定動作を確認 |publisher=準天頂衛星システムサービス株式会社 |date=12 Mar 2018 |accessdate=11 Jul 2023}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1654年]] - [[ピエトロ・アントニオ・フィオッコ]]、[[作曲家]](+ [[1714年]]) * [[1669年]]([[寛文]]9年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[荷田春満]]、[[国学者]](+ [[1736年]]) * [[1683年]]([[天和 (日本)|天和]]3年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[立花鑑任]]、第4代[[柳河藩|柳河藩主]](+ [[1721年]]) * [[1687年]]([[貞享]]3年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[鍋島宗茂]]、第5代[[佐賀藩|佐賀藩主]](+ [[1755年]]) * [[1748年]] - [[サミュエル・オズグッド]]、第4代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1813年]]) * [[1790年]] - [[ギデオン・マンテル]]、[[医師]]、[[古生物学|古生物学者]](+ [[1852年]]) * [[1795年]] - [[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]、[[ボリビア]]独立の父(+ [[1830年]]) * [[1809年]] - [[フェリックス・メンデルスゾーン]]、作曲家(+ [[1847年]]) * [[1811年]] - [[ホレス・グリーリー]]、[[政治家]]、[[新聞]]人(+ [[1872年]]) * [[1826年]] - [[ウォルター・バジョット]]、[[評論家]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1877年]]) * [[1830年]] - [[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)]]、政治家、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1903年]]) * [[1844年]]([[天保]]14年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[仙石政固]]、第8代[[出石藩|出石藩主]]・[[子爵]](+ [[1917年]]) * [[1859年]] - [[ヒューゴー・ユンカース]]、[[ユンカース]]社創設者(+ [[1935年]]) * [[1865年]]([[元治]]2年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[郷誠之助]]、[[実業家]](+ [[1942年]]) * [[1869年]]([[慶応]]4年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[水野錬太郎]]、政治家(+ [[1949年]]) * [[1874年]] - [[ガートルード・スタイン]]、[[小説家]](+ [[1946年]]) * [[1878年]] - [[国分謙吉]]、政治家(+ [[1958年]]) * [[1881年]] - [[神保重吉]]、政治家、弁護士(+[[1957年]]) * [[1885年]] - [[田辺元]]、[[哲学者]](+ [[1962年]]) * [[1887年]] - [[ゲオルク・トラークル]]、[[詩人]](+ [[1914年]]) * [[1889年]] - [[カール・テオドア・ドライヤー]]、[[映画監督]](+ [[1968年]]) * [[1893年]] - [[ガストン・ジュリア]]、[[数学者]](+ [[1978年]]) * [[1894年]] - [[ノーマン・ロックウェル]]、[[画家]](+ 1978年) * [[1898年]] - [[アルヴァ・アールト]]、[[建築家]]、[[デザイナー]](+ [[1976年]]) * [[1899年]] - [[老舎]]、小説家、[[劇作家]](+ [[1966年]]) * [[1904年]] - [[目加田誠]]、[[中国文学者]](+ [[1994年]]) * 1904年 - [[ルイージ・ダッラピッコラ]]、作曲家(+ [[1975年]]) * [[1907年]] - [[ウォルト・モーレー]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[1992年]]) * [[1908年]] - [[永井隆 (医学博士)|永井隆]]、[[医学者]]、[[随筆家]](+ [[1951年]]) * [[1909年]] - [[宮島義勇]]、[[撮影監督]](+ [[1998年]]) * 1909年 - [[シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)|シモーヌ・ヴェイユ]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1943年]]) * [[1911年]] - [[ジャン・アラン]]、[[オルガニスト]]、作曲家(+ [[1940年]]) * [[1912年]] - [[檀一雄]]、小説家(+ [[1976年]]) * [[1921年]] - [[ラルフ・アルファー]]、[[物理学者]](+ [[2007年]]) * [[1924年]] - [[エドワード・P・トムスン]]、[[歴史家]]、[[社会主義]][[思想家]](+ [[1993年]]) * 1924年 - [[石本美由紀]]、[[作詞家]](+ [[2009年]]) * [[1925年]] - [[伊藤栄樹]]、[[検察官]](+ [[1988年]]) * [[1926年]] - [[高橋二三]]、[[脚本家]](+ [[2015年]]) * [[1927年]] - [[井口洋夫]]、[[化学者]](+ [[2014年]]) * [[1928年]] - [[鴨居玲]]、[[洋画家]](+ [[1985年]]) * [[1929年]] - [[カミロ・トーレス・レストレポ]]、[[コロンビア]]の[[カトリック]][[司祭]](+ [[1966年]]) * [[1930年]] - [[品田雄吉]]、[[映画評論家]](+ [[2014年]]) * [[1931年]] - [[雨宮敬子]]、[[彫刻家]](+ [[2019年]]) * 1931年 - [[舟橋元]]、俳優(+[[1974年]]) * [[1933年]] - [[濱田隆士]]、[[古生物学関連人物一覧|古生物学者]](+ [[2011年]]) * 1933年 - [[志賀節]]、[[政治家]](+[[2021年]]) * [[1934年]] - [[秋山登]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督]](+ [[2000年]]) * [[1935年]] - [[ジョニー・"ギター"・ワトソン]]、[[ブルース]][[ギタリスト]](+ [[1996年]]) * 1935年 - [[飯山平一]]、元プロ野球選手 * [[1936年]] - [[小沢さとる]]、[[漫画家]] * [[1939年]] - [[賀来弓月]]、外交官、評論家 * [[1940年]] - [[城之内邦雄]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[ドリー・ファンク・ジュニア]]、元[[プロレスラー]] * [[1942年]] - [[田中聡子]]、元[[水泳選手]]、コーチ * 1942年 - [[エフゲニー・シャポシニコフ]]、[[軍人]]、政治家(+ [[2020年]]) * [[1943年]] - [[福本清三]]、[[俳優]](+ [[2021年]]) * 1943年 - [[ブライス・ダナー]]、女優 * [[1944年]] - [[ヒサクニヒコ]]、漫画家 * 1944年 - [[千草宗一郎]]、テレビプロデューサー、実業家 * 1944年 - [[矢玉四郎]]、[[児童文学作家]]、[[画家]] * [[1946年]] - [[三宅幸夫 (音楽学者)|三宅幸夫]]、音楽学者(+[[2017年]]) * [[1947年]] - [[デイヴ・デイヴィス]]、[[ミュージシャン]]([[キンクス]]) * 1947年 - [[ポール・オースター]]、小説家、詩人 * [[1948年]] - [[小野寺正]]、実業家 * 1948年 - [[カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ]]、[[司教]]、[[ノーベル平和賞]]受賞 * 1948年 - [[ヘニング・マンケル]]、[[推理作家]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[2015年]]) * [[1949年]] - [[北村哲治]]、元プロ野球選手 * [[1950年]] - [[モーガン・フェアチャイルド]]、女優 * [[1952年]] - [[津雲むつみ]]、漫画家(+[[2017年]]) * [[1954年]] - [[根岸季衣]]、女優 * 1954年 - [[斎藤輝美]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[烏丸せつこ]]、女優 * [[1956年]] - [[福江純]]、[[日本の天文学者の一覧|天文学者]] * 1956年 - [[ネイサン・レイン]]、俳優 * [[1957年]] - [[国谷裕子]]、キャスター * 1957年 - [[みぶ真也]]、俳優、[[怪談]][[タレント]] * 1957年 - [[玉元光男]]、歌手([[フィンガー5]]) * 1957年 - [[山崎尋美]]、元騎手、調教師 * 1957年 - [[河瀬雅英]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[グレゴリー・マンキュー]]、[[経済学者]] * 1958年 - [[松下建夫]]、元プロ野球選手 * [[1959年]] - [[小西康陽]]、ミュージシャン * 1959年 - [[柴田まゆみ]]、[[シンガーソングライター]] * 1959年 - [[フェルザン・オズペテク]]、映画監督 * [[1960年]] - [[ケリー・フォン・エリック]]、[[プロレスラー]](+ [[1993年]]) * 1960年 - [[マーティ・ジャネッティ]]、プロレスラー * 1960年 - [[ヨアヒム・レーヴ]]、元[[サッカー選手]]、指導者 * [[1963年]] - [[川合俊一]]、タレント、元[[バレーボール]]選手 * 1963年 - [[松井秀]]、アナウンサー * [[1964年]] - [[片瀬清利]]、元プロ野球選手 * 1964年 - [[田亀源五郎]]、漫画家 * 1964年 - [[ミヒャエル・ルンメニゲ]]、元サッカー選手 * 1964年 - [[ENRIQUE]]、[[ベーシスト]] * [[1966年]] - [[伊藤毅 (ベーシスト)|伊藤毅]]、[[ミュージシャン]] * 1966年 - [[宮崎敦吉]]、俳優、[[声優]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/宮崎敦吉/ |title=宮崎敦吉 |accessdate=11 Jul 2023 |publisher=[[NTTドコモ|NTT DOCOMO]] |website=goo人名事典}}</ref> * 1966年 - [[松本小雪]]、タレント * [[1967年]] - [[谷瑞恵]]、小説家 * 1967年 - [[岡本麻弥]]、声優 * [[1968年]] - [[尾上龍太郎]]、漫画家 * [[1969年]] - [[彩花みん]]、漫画家<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/0000124770/ |title=彩花みん(あやはなみん) |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate=11 Jul 2023 |website=WEBザテレビジョン}}</ref> * 1969年 - [[小島英揮]]、実業家 * [[1970年]] - [[豊田道倫]]、歌手 * 1970年 - [[リッチー・コッツェン]]、[[ミュージシャン]] * 1970年 - [[中座真]]、[[将棋棋士]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/219.html |title=中座真 |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=11 Jul 2023}} </ref> * 1970年 - [[オスカル・コルドバ]]、元サッカー選手 * [[1971年]] - [[有田哲平]]、お笑い芸人([[くりぃむしちゅー]]) * [[1972年]] - [[三浦七緒子]]、声優 * [[1974年]] - [[宮島依里]]、声優 * 1974年 - [[平田治]]、放送作家 * [[1975年]] - [[牛川とこ]]、元[[レースクイーン]] * [[1976年]] - [[バート・ミアディッチ]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[イゴール・ルカニン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1976年 - [[アイラ・フィッシャー]]、女優 * 1976年 - [[椎名英姫]]、女優、モデル * 1976年 - [[ダディー・ヤンキー]]、[[ミュージシャン]] * [[1977年]] - [[ブルーノ・エベルトン・クアドロス]]、元サッカー選手 * 1977年 - [[小河正史]]、元声優 * [[1978年]] - [[増沢由貴子]]、元[[騎手]]、調教助手 * 1978年 - [[中屋大介]]、政治家 * [[1979年]] - [[川島明]]、お笑い芸人([[麒麟 (お笑いコンビ)|麒麟]]) * [[1980年]] - [[吉岡美穂]]、タレント、元[[グラビアアイドル]] * 1980年 - [[堤さやか]]、元[[AV女優]] * 1980年 - [[張力 (野球)|張力]]、元野球選手 * [[1981年]] - [[風野舞子]]、元グラビアアイドル * 1981年 - [[遠藤大智]]、声優 * [[1982年]] - [[松下亜吉]]、デザイナー、イラストレーター、ライター * 1982年 - [[清水ゆみ]]、女優 * [[1983年]] - [[古力]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]] * [[1984年]] - [[まぁこ]]、お笑い芸人 * 1984年 - [[東長濱秀作]]、ハンドボール選手 * [[1985年]] - [[中江翼]]、俳優 * 1985年 - [[八代みなせ]]、女優、タレント、モデル * [[1986年]] - [[柳原可奈子]] 、お笑い芸人 * [[1987年]] - [[田中里奈 (モデル)|田中里奈]]、モデル * [[1988年]] - [[宮崎麗香]]、実業家、タレント * 1988年 - [[須藤祐実]]、声優 * [[1989年]] - [[延江大輔]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[渡邉卓也 (ボクサー)|渡邉卓也]]、プロボクサー * [[1990年]] - [[石橋里紗]]、元バレーボール選手 * 1990年 - [[マイケル・ウチェボ]]、サッカー選手 * 1990年 - [[浦尾岳大]]、俳優、声優 * 1990年 - [[小原莉子]]、声優、[[ギタリスト]]([[RAISE A SUILEN]]、元[[The Sketchbook]]) * 1990年 - [[鈴木美咲]]、声優 * 1990年 - 岸大将、お笑い芸人([[きしたかの]]) * 1990年 - [[ショーン・キングストン]]、[[ラッパー]] * [[1991年]] - [[まえだくん]]、漫画家 * 1991年 - [[谷内亮太]]、プロ野球選手 * [[1992年]] - [[大野将平]]、[[柔道家]] * 1992年 - [[豊田宣広]]、競泳選手 * 1992年 - [[シュミット・ダニエル]]、サッカー選手 * 1992年 - [[オルランド・カリステ]]、プロ野球選手 * 1992年 - [[北みぃな]]、元グラビアアイドル * 1992年 - [[杉浦里穂]]、[[歌手]]、[[モデル (職業)|モデル]](元[[キャナァーリ倶楽部]]) * 1992年 - [[マイロ]]、ラッパー、音楽プロデューサー * [[1993年]] - [[池田晃信]]、俳優 * 1993年 - [[中村桃佳]]、[[競艇選手]] * [[1994年]] - [[ルーグネッド・オドーア]]、プロ野球選手 * 1994年 - [[ブルックス・クリスキー]]、プロ野球選手 * [[1995年]] - [[土屋太鳳]]、女優 * [[1996年]] - [[井阪郁巳]]、俳優 * 1996年 - [[熊谷知博]]、元[[子役]] * 1996年 - [[田村真子]]、[[TBSテレビのアナウンサー一覧|TBSアナウンサー]] * [[1997年]] - [[奥西亮太]]、元子役 * 1997年 - [[髙橋光成]]、プロ野球選手 * 1997年 - [[井桁弘恵]]、女優 * [[1998年]] - [[石原貴規]]、プロ野球選手 * 1998年 - [[成田翔]]、プロ野球選手 * [[1999年]] - [[橋本環奈]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/546890/ |title=橋本環奈 |access-date=11 Jul 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]]}}</ref>、女優、歌手 * 1999年 - [[弓木奈於]]、アイドル([[乃木坂46]]) * [[2000年]] - [[斎藤アリーナ]]、ミュージシャン * 2000年 - [[杉浦花菜]]、元子役 * 2000年 - [[伊藤康祐]]、プロ野球選手 * 2000年 - 谷口茉妃菜、アイドル([[STU48]]) * 2000年 - [[太田和さくら]]、アイドル(元[[KissBee]]、[[コレって恋ですか?]]) * 2000年 - [[熊田茜音]]、声優、歌手 * 2002年 - [[山邊歩夢]]、アイドル([[AKB48]]) * [[2003年]] - 久松由依、アイドル([[fishbowl]]) * [[2004年]] - [[レイ (アイドル)|レイ]]、アイドル([[IVE (音楽グループ)|IVE]]) * [[2005年]] - [[平野夢来]]、モデル * 生年不明 - [[あゆみゆい]]、漫画家 * 生年不明 - [[吉田羊]]、女優 * 生年不明 - [[中村徳也 (声優)|中村徳也]]、声優 * 生年不明 - [[東和良]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wingwave.jp/talent/2010man/kazuyoshi.html |title=東和良(あずまかずよし)(KAZUYOSHI AZUMA) |publisher=株式会社 ウィングウェーヴ |accessdate=11 Jul 2023}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[永見はるか]]、元声優 * 生年不明 - [[松永雪希]]、元声優 * 生年不明 - [[AKi]]、ミュージシャン([[シド (バンド)|シド]]) * 生年不明 - TAKUYA、ミュージシャン([[Qyoto]]) * 生年不明 - [[伊藤理恵]]、ラジオパーソナリティ == 忌日 == * [[619年]] - [[カンタベリーのラウレンティウス]]、[[カンタベリー大司教]] * [[853年]]([[仁寿]]2年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[小野篁]]、[[歌人]](* [[802年]]) * [[1014年]] - [[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]、[[デンマーク|デンマーク王]](* [[960年]]) * [[1116年]] - [[カールマーン (ハンガリー王)|カールマーン]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]](* [[1070年]]頃) * [[1117年]]([[永久 (元号)|永久]]4年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]])- [[源基綱]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1049年]]) * [[1239年]]([[暦仁]]元年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]])- [[九条任子]]、[[後鳥羽天皇]]の[[中宮]](* [[1173年]]) * [[1399年]] - [[ジョン・オブ・ゴーント]]、ランカスター公(* [[1340年]]) * [[1428年]]([[応永]]35年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]) - [[足利義持]]、[[室町幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1386年]]) * [[1451年]] - [[ムラト2世]]、第6代[[オスマン帝国]][[スルタン]](* [[1404年]]) * [[1468年]] - [[ヨハネス・グーテンベルク]]、[[金細工職人|金細工師]]、[[印刷]]業者(* 1390年代) * [[1573年]]([[元亀]]元年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]])- [[村上義清]]、[[戦国大名]](* [[1501年]]) * [[1751年]] - [[ムザッファル・ジャング]]、[[ニザーム藩王国|ニザーム藩王]] * [[1752年]]([[宝暦]]元年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[大岡忠相]]、[[幕臣]]、[[大名]]、[[大岡越前 (テレビドラマ)|大岡越前]]のモデル(* [[1677年]]) * [[1779年]] - [[ルイ・ド・ジョクール]]、[[医師]]、[[啓蒙思想家]]、著作家(* [[1704年]]) * [[1798年]]([[寛政]]9年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]) - [[宇田川玄随]]、[[医学|医学者]]、[[蘭学者]](* [[1756年]]) * [[1814年]] - [[ヤン・コジェルフ]]、[[作曲家]](* [[1738年]]) * [[1862年]] - [[ジャン=バティスト・ビオ]]、[[物理学者]](* [[1774年]]) * [[1887年]] - [[ベル・スター]]、 [[無法者]](山賊女王)(* [[1848年]]) * [[1900年]] - [[デイヴィッド・マッケンドリー・キー (郵政長官)|デイヴィッド・マッケンドリー・キー]]、第30代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1824年]]) * 1900年 - [[オトカル・ノヴァーチェク]]、[[ヴァイオリニスト]]、作曲家(* [[1866年]]) * [[1901年]] - [[福澤諭吉|福沢諭吉]]、[[思想家]]、[[慶應義塾]]創設者(* [[1835年]]) * [[1911年]] - [[島地黙雷]]、[[浄土真宗]]の僧侶(* [[1838年]]) * [[1919年]] - [[エドワード・ピッカリング]]、[[天文学者]](* [[1846年]]) * [[1923年]] - [[黒木為楨]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[大将]](* [[1844年]]) * [[1924年]] - [[ウッドロウ・ウィルソン]]<ref>{{Cite web |title=Woodrow Wilson {{!}} Biography, Presidency, & Accomplishments |url=https://www.britannica.com/biography/Woodrow-Wilson |access-date=11 Jul 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、第28代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1856年]]) * [[1925年]] - [[オリヴァー・ヘヴィサイド]]、[[技術者]]、[[数学者]](* [[1850年]]) * [[1935年]] - [[ヒューゴー・ユンカース]]、[[ユンカース]]社創設者(* [[1859年]]) * [[1936年]] - [[ゾフィー・フォン・シェーンブルク=ヴァルデンブルク]]、[[アルバニア公国|アルバニア公]][[ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート]]の妃(* [[1885年]]) * [[1945年]] - [[ローラント・フライスラー]]、[[ナチス・ドイツ]]人民法廷長官(* [[1893年]]) * [[1946年]] - [[エドワード・オッペンハイム]]、[[小説家]](* [[1866年]]) * [[1947年]] - [[マーク・ミッチャー]]、[[アメリカ海軍]]の[[大将]](* [[1887年]]) * [[1952年]] - [[蒲原有明]]、[[詩人]](* [[1876年]]) * [[1959年]] - [[岡田正平 (政治家)|岡田正平]]、[[新潟県知事一覧|新潟県知事]](* [[1878年]]) * 1959年 - [[バディ・ホリー]]、[[シンガーソングライター]](* [[1936年]]) * 1959年 - [[リッチー・ヴァレンス]]、ロックンロール歌手(* [[1941年]]) * 1959年 - [[加藤厚太郎]]、[[実業家]](* [[1895年]]) * [[1967年]] - [[泉谷祐勝]]、[[野球選手]](* [[1882年]]) * [[1975年]] - [[ウム・クルスーム]]、歌手(* [[1904年]]) * [[1978年]] - 置鮎与一、[[博多人形]]作家(* [[1896年]]) * [[1987年]] - [[高松宮宣仁親王]]、[[皇族]](* [[1905年]]) * [[1989年]] - [[ジョン・カサヴェテス]]、[[映画監督]](* [[1929年]]) * [[1994年]] - [[アラン・ヘルフリッチ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1900年]]) * [[1995年]] - [[古井喜実|古井喜實]]、[[内務省 (日本)|内務省]][[官僚]]、政治家(* [[1903年]]) * [[1997年]] - [[ボフミル・フラバル]]、[[小説家]](* [[1914年]]) * 1997年 - [[与田凖一]]、[[児童文学者]]、[[詩人]](* 1905年) * [[2000年]] - [[二階堂進]]、[[政治家]](* [[1909年]]) * [[2004年]] - [[ノラ・グルムリーコヴァー]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1930年]]) * [[2005年]] - [[エルンスト・マイヤー]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](* 1904年) * 2005年 - [[ズラブ・ジワニア]]、[[グルジア]]首相(* [[1963年]]) * [[2006年]] - [[ロマーノ・ムッソリーニ]]、[[ピアニスト]]、画家(* [[1927年]]) * [[2009年]] - [[泡坂妻夫]]、[[推理作家]](* [[1933年]]) * [[2012年]] - [[ベン・ギャザラ]]、俳優(* [[1930年]]) * 2013年 - [[市川團十郎 (12代目)|十二代目市川團十郎]]、[[歌舞伎俳優]]、[[演出家]](* [[1946年]]) * [[2014年]] - [[ジョーン・モンデール]]、[[セカンドレディ|アメリカ合衆国のセカンドレディ]](* [[1930年]]) * [[2016年]] - [[井上洋介]]、[[絵本作家]]、[[イラストレーター]](* [[1931年]]) * 2016年 - [[モーリス・ホワイト]]、[[ミュージシャン]]([[アース・ウィンド・アンド・ファイアー]])(* [[1941年]]) * [[2017年]] - [[三浦朱門]]、小説家(* [[1926年]]) * 2017年 - [[林義郎]]、[[政治家]](* [[1927年]]) == 記念日・年中行事 == * [[立春]]({{JPN}} 1897年、2021年以降4年ごと、2057年、2058年) * [[節分]]({{JPN}} 1985年 - 2020年)※立春の前日<ref>{{Cite web|和書|title=節分の日が動き出す - 国立天文台暦計算室 |url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2021_2.html |access-date=11 Jul 2023 |publisher=[[国立天文台]]}}</ref> * 光悦忌({{JPN}}) *: 寛永14年のこの日、刃剣の鑑定を生業にした江戸時代の芸術家[[本阿弥光悦]]が亡くなった。書は寛永の三筆の一人に挙げられ、作陶、漆芸に名品を残した光悦は、[[1615年]]に[[徳川家康]]から[[京都]]洛北の[[鷹峰]]を賜わり光悦村を形成。光悦没後、屋敷跡は[[光悦寺]]となり、光悦の墓も光悦寺にある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.leafkyoto.net/210612kouetsuji/ |title=江戸時代に芸術村が築かれた鷹峯の景勝地〔光悦寺〕 |access-date=11 Jul 2023 |publisher=Leaf |date=15 Nov 2022}}</ref>。 * 雪池忌(福沢諭吉忌){{JPN}}) *: [[慶應義塾]]の創設者である[[福澤諭吉]]は、[[1901年]](明治34年)2月3日没。墓は東京の麻布山[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]にある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tsushin.keio.ac.jp/column/category/entry/column-064670.html |title=雪池忌に想う |access-date=11 Jul 2023 |publisher=[[慶應義塾]]}}</ref>。 * [[大岡越前]]の日({{JPN}}) *: [[享保]]2年([[1717年]])[[2月3日 (旧暦)|旧暦2月3日]]に、[[大岡忠相]]が[[南町奉行]]に就任したことに由来している<ref name="saito1997">{{cite book|和書 |title=366日誕生石の本 |author=斉藤貴子 |publisher=日本ヴォーグ社 |year=1997 |page=72}}</ref>。 * [[海苔巻き|のり巻き]]の日({{JPN}})※節分と同日 *: 節分に食べる[[恵方巻]]にちなんで、全国海苔貝類漁業協同組合連合会が1987年に制定<ref name="kondo1999">{{cite book|和書 |title=今日はどんな日? 雑学366日 |author=近藤道郎 |publisher=展望社 |year=1999 |page=26}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書 |title=すぐに役立つ 366日記念日事典 |author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著 |publisher=創元社 |year=2009 |page=22-23}}</ref><ref name="kato2010-1">{{cite book|和書 |title=衣・食・住の記念日事典 |author=加藤迪男 |publisher=日本地域社会研究所 |year=2010 |page=45}}</ref>。 * [[大豆]]の日({{JPN}}) *: この日が豆撒きをする節分になることが多いことから。ニチモウバイオティックスが制定<ref name="kase2009" /><ref name=anniversary366>{{Cite book |和書|author=加瀬清志|editor=(一社)日本記念日協会|date=2020-07-30|title=366日記念日事典 第4版 上|page=33|publisher=[[創元社]]|isbn=978-4422021140}}</ref>。 *[[にじさんじ]]の日({{JPN}}) *:「にじさんじ」を運営するANYCOLOR株式会社が制定。多くの人に「にじさんじ」のメンバーを知ってもらうことが目的。日付は「に(2)じさん(3)じ」とグループ名に2と3の数字が入っていることから。また2月は「にじさんじ」が本格的に活動を始めた月であることから<ref name=anniversary366/>。 *鬼除け鬼まんじゅうの日({{JPN}}) *:[[岐阜県]][[瑞浪市]]の「美濃廣庵 満開堂」が制定。中部地方のソウルフードと呼ばれ、同店で人気の和菓子「鬼まんじゅう」を全国の人々に知ってもらうのが目的。日付は寒さがピークを迎える頃の節分に温かい蒸したての「鬼まんじゅう」を食べて、鬼が現れる夜までに厄除けをしてもらいたいとの思いから<ref name=anniversary366/>。 *ササミ巻きガムの日({{JPN}}) *:株式会社ペティオが制定。ワンちゃんのおやつとして2000年2月から発売をしている人気商品の「ササミ巻きガム」を、より多くの人に知ってもらうことが目的。日付は節分に食べると縁起が良いとされる恵方巻きに習い、2月3日に<ref name=anniversary366/>。 *乳酸菌の日({{JPN}}) *:毎月23日の「乳酸菌の日」と共に、1年の中でシンボル的な日として[[カゴメ|カゴメ株式会社]]が制定。日付は2と3で「乳酸」の語呂合わせから<ref name="kase2009" /><ref name="kato2010-2">{{cite book|和書 |title=衣・食・住の記念日事典 |author=加藤迪男 |publisher=日本地域社会研究所 |year=2010 |page=96}}</ref><ref name="N23">{{Cite book|和書 |editor=加瀬清志 |title=366日記念日事典 上 |publisher=[[創元社]] |year=2020 |page=34 |isbn=978-4422021140}}</ref>。 *絵手紙の日({{JPN}}) *:日本絵手紙協会が制定。「絵手紙」を書いて送ることを世界中に呼びかける日。日付は、2と3で「ふみ」と読む語呂合わせから<ref name=N23/>。 *[[4人のチャプレン]]の日({{USA}}) *: 1943年のこの日に、魚雷攻撃を受けた[[アメリカ陸軍]]の輸送艦ドーチェスターで救助活動を行って戦死した4名の[[従軍聖職者]]を賛える日。1948年に[[アメリカ合衆国議会]]が制定。 * {{仮リンク|英雄の日|en|Heroes'_Day}}({{MOZ}}) *: 1969年のこの日、モザンビークの独立指導者・[[エドゥアルド・モンドラーネ]]が、爆弾入りの荷物により暗殺された。 * 解放殉死者の日({{STP}}) * 退役軍人の日({{THA}}) * [[ベトナム共産党]]設立記念日({{VIE}}) *:[[1930年]]。ベトナムの都市によくある「2月3日通り」({{lang|vi|Đường 3 Tháng 2}})はこれに由来する<ref>{{Cite web|和書|title=ベトナム共産党創立記念日 |url=http://www.viet-jo.com/home/word_detail.php?cal=1&year=2015&id=595 |author=VIETJO ベトナムニュース |accessdate=2015年1月4日}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0203|date=Jul 2023}} === 誕生日(フィクション) === * [[2078年]] - フェイズ・シッファー・ベレス、ゲーム『[[スターオーシャン4 -THE LAST HOPE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=63|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - 江戸城本丸、漫画・アニメ『[[まじかる☆タルるートくん]]』に登場する主人公のひとり * 生年不明 - [[Fate/stay night#登場キャラクター|遠坂凛]]、ゲーム・アニメ『[[Fate/stay night]]』のヒロイン<ref>{{Twitter status|fate_sn_anime|959442384470736897}}</ref> * 生年不明 - 立花つぼみ、漫画・アニメ『[[ないしょのつぼみ]]』の主人公 * 生年不明 - Elmo([[エルモ (セサミストリート)|エルモ]])、『[[セサミストリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sesamejapan|562419644397395968}}</ref> * 生年不明 - チャドロス・ヒゲリゲス(茶ひげ)、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/brownbeard.html |title=茶ひげ |work=『ONE PIECE』 |accessdate= 11 Jul 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - ビザール、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Bizaaro.html |title=ビザール |work=『ONE PIECE』 |accessdate= 11 Jul 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - フザ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Fuza.html |title=フザ |work=『ONE PIECE』 |accessdate= 11 Jul 2023 |publisher=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 小石川健二郎、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1356619652537987080}}</ref> * 生年不明 - 矢胴丸リサ、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-bleach.com/chara/03/risa.html |title=矢胴丸 リサ |access-date= 11 Jul 2023 |publisher=[[久保帯人]]/[[集英社]] |work=『BLEACH』}}</ref> * 生年不明 - ジャン・ラッセル、漫画『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=星野桂|authorlink=星野桂|date=2008-06-04|title =D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃 (ジャンプコミックス) |page=111 |publisher=[[集英社]] |isbn=978-4088742489}}</ref> * 生年不明 - 昼神幸郎、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2019-09-04|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088820538|volume=39巻|page=26}}</ref> * 生年不明 - 13号、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group04/04-05/ |title=13号 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate= 11 Jul 2023 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - 九ノ瀬ミミ、漫画・アニメ『[[エルドライブ【ēlDLIVE】]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 夏油傑、漫画・アニメ『[[呪術廻戦]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|jujutsu_pr|1489138564327964673}}</ref> * 生年不明 - 保科美友、漫画・アニメ『[[君のいる町]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|seokouji|562572565558730753}}</ref> * 生年不明 - 有戸月、漫画『[[かけあうつきひ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=福井セイ|authorlink=福井セイ|date=2021-8-23|title=かけあうつきひ|volume=第1巻|page=59|publisher=[[小学館]]|series=[[少年サンデーコミックス]]|isbn=978-4098506392}}</ref> * 生年不明 - セルゲイ・ミハイロビッチ・マレンコフ、漫画・アニメ『[[爆走兄弟レッツ&ゴー!!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - シロモ、ストップモーションアニメ『[[PUI PUI モルカー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 八坂こう、漫画・アニメ『[[らき☆すた]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite journal|和書|date=2007-09|title=ら・ら・ら らき☆すた ファンブック|journal=[[月刊コンプエース]](付録)|pages=8|publisher=[[角川書店]]}} </ref> * 生年不明 - シリウス・ハシバ、漫画・アニメ『[[隠の王]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ギリシャ、漫画、アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=AXIS POWERSヘタリア2|date=2008-12-31|publisher=[[幻冬舎]]|page=20|isbn=978-4-344-81514-8|author=日丸屋秀和}}</ref> * 生年不明 - [[暁のヨナ#スウォン|スウォン]]、漫画・アニメ・舞台『[[暁のヨナ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 丸太町ちか、漫画・アニメ『[[いなり、こんこん、恋いろは。]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 白築ナナ、漫画 『[[咲-Saki-#シノハユ the dawn of age|シノハユ the dawn of age]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=小林立|authorlink=小林立|date=2015-07-25|title=咲-Saki-|volume=第14巻|page=134|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[ヤングガンガンコミックス]]|isbn=978-4757544901}}</ref> * 生年不明 - 鬼瓦輪、漫画・アニメ『[[武装少女マキャヴェリズム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://machiavellism-anime.jp/character/?mode=rin |title=鬼瓦 輪(Rin Onigawara) |access-date= 11 Jul 2023 |publisher=[[黒神遊夜]]・[[神崎かるな]]/[[KADOKAWA]]/「武装少女マキャヴェリズム」製作委員会 |work=アニメ『武装少女マキャヴェリズム』}}</ref> * 生年不明 - 木霊文花(こだまふみか)、アニメ『[[妖怪ウォッチ]]』に登場するキャラクター<ref>アニメ版の第62話より。</ref> * 生年不明 - 要瑞保、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=22 Aug 2019 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate= 11 Jul 2023}}</ref> * 生年不明 - ミミ・バルゲリー、小説・アニメ『[[ロウきゅーぶ!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 音無柘榴、小説・アニメ『[[クオリディア・コード]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 郡千景、小説・漫画・ドラマCD『[[乃木若葉は勇者である]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yuyuyui.jp/character/character12.html |title=郡 千景 |work=『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』 |accessdate= 11 Jul 2023 |publisher=Project 2H [[KADOKAWA]]}}</ref> * 生年不明 - 姫野二三、アニメ・漫画『[[舞-HiME]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sunrise-inc.co.jp/my-hime/web/character/chara/fumi.html |title=姫野 二三 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] |accessdate= 11 Jul 2023 |work=『[舞-HiME] 風華学園』}} </ref> * 生年不明 - 風花真白、アニメ・漫画『舞-HiME』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sunrise-inc.co.jp/my-hime/web/character/chara/mashiro.html |title=風花 真白 |publisher= [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] |accessdate= 11 Jul 2023 |work=『[舞-HiME] 風華学園』}} </ref> * 生年不明 - 如月未緒、ゲーム『[[ときめきメモリアル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |date=1996-04-01 |title =ときめきメモリアルオフィシャルイラスト集 (TIM MOOK)|page =22 |publisher = [[徳間書店インターメディア]] |isbn =978-4198251123}}</ref> * 生年不明 - 双海詩音、ゲーム『[[Memories Off]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://memoriesoff.jp/psp/1st/chara.html |title=キャラクター紹介 双海詩音(C.V:利田優子) |publisher=[[5pb.]]/[[サイバーフロント|CYBERFRONT]] |accessdate= 11 Jul 2023 |website=メモリーズオフ PSP 版}} </ref> * 生年不明 - オリビア、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|date=2006-01-06|title=任天堂公式GB おいでよ どうぶつの森 (ワンダーライフスペシャル―任天堂公式ガイドブック)|page=78|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4091062796}}</ref> * 生年不明 - 聖沙・B・クリステレス、ゲーム『[[ティンクル☆くるせいだーす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lillian.jp/kurukuru/chara_misa.html |title=聖沙・B・クリステレス(みさ・ブリジッタ) |accessdate=11 Jul 2023 |work=『ティンクル☆くるせいだーす』 |publisher=[[ぺんしる|Lillian]]}} </ref> * 生年不明 - 柊木綾子、ゲーム・アニメ『[[ワルキューレロマンツェ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#二宮飛鳥|二宮飛鳥]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20121 |title=二宮 飛鳥(にのみや あすか) |access-date=11 Jul 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 霧生院竜胆、ゲーム『ももいろ性癖開放宣言!』に登場するキャラクター * 生年不明 - 蓮見うらら、ゲーム『[[バトルガール ハイスクール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bgirl_colopl|1091894042122584065}}</ref> * 生年不明 - 猪瀬連十郎、ゲーム『[[ハナヒメ*アブソリュート!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mirai-soft.net/hanahime/chara_09.html#bg1 |title=猪瀬連十郎 |access-date=11 Jul 2023 |publisher=[[みなとそふと|mirai]] |work=『ハナヒメ*アブソリュート!』}}</ref> * 生年不明 - 瀬尾鳴海、ゲーム・アニメ『[[スタンドマイヒーローズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|myhero_info|1489169290116747271}}</ref> * 生年不明 - 春日ツバキ、ゲーム『[[ブルーアーカイブ -Blue Archive-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|blue_archivejp|1354625349259206657}}</ref> * 生年不明 - 天羽翼、メディアミックス『[[Starry☆Sky]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.honeybee-cd.com/starrysky/character/amaha.html |title=天羽 翼 |publisher=[[honeybee]] |accessdate=11 Jul 2023 |work=『Starry☆Sky』}} </ref> * 生年不明 - 高見沢アリサ、メディアミックス『[[告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://honeyworks.jp/special/#character |title=Character 高見沢アリサ |publisher=[[HoneyWorks]] |accessdate=11 Jul 2023 |work=告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜}}</ref> * 生年不明 - 城北玄刃、メディアミックス『[[Re:ステージ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://rst-anime.com/character/#/ |title=CHARACTER テトラルキア 城北玄刃 |access-date= 11 Jul 2023 |publisher=Re:ステージ! ドリームデイズ♪ 製作委員会 |work=TVアニメ『Re:ステージ! ドリームデイズ 』}}</ref> * 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#夢大路文|夢大路文]]、メディアミックス『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#アプリゲーム|少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1223984417171025920}}</ref> === 忌日(フィクション) === * [[2001年]] - 滝沢直人/タイムファイヤー、[[スーパー戦隊シリーズ]]『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』の登場人物 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons|Category:3 February}} {{新暦365日|2|2|2|4|[[1月3日]]|[[3月3日]]|[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]|0203|2|03}} {{1年の月と日}}
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オリンピック (曖昧さ回避)
オリンピック(Olympic)
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オリンピック(Olympic)
'''オリンピック'''(Olympic) <!-- 曖昧さ回避をする必要のある語にだけリンクを張ること --> <!-- 記事のあるものだけ記載すること --> == 競技会 == * [[古代オリンピック]] - 紀元前9世紀から紀元後4世紀にかけて、古代ギリシアで4年に1度行われた競技会。 * [[近代オリンピック]] - 西暦が偶数の隔々年に国際オリンピック委員会が開催する世界的なスポーツ大会。 ** [[夏季オリンピック]] ** [[冬季オリンピック]] * [[ユースオリンピック]] - ユース世代(14歳から18歳)を対象としたオリンピック。4年に1回、一般世代の五輪とは反対の季節(夏季五輪の年は冬季大会、冬季五輪の年は夏季大会)で行う。 * [[ジュニアオリンピック]] - 日本オリンピック委員会 (JOC) 後援の、学童・中学生をメインにして行われるスポーツ大会。 * 古代オリンピックや近代オリンピックを模して行われる競技会。 ** [[国際科学オリンピック]] - *** [[国際数学オリンピック]] *** [[国際物理オリンピック]] *** [[国際化学オリンピック]] *** [[国際情報オリンピック]] *** [[国際生物学オリンピック]] *** [[国際天文学オリンピック]] ** [[ユニバーシアード]] (学生のオリンピック) ** [[FISM]] (マジックのオリンピック) ** [[医療オリンピックC-1]] (柔道整復師、はり師、きゅう師、あん摩マッサージ指圧師のオリンピック) == 地名 == * [[オリンピック半島]] - アメリカ合衆国ワシントン州の半島。 ** [[オリンピック山脈]] - オリンピック半島に位置する山脈。 ** [[オリンピック国立公園]] - オリンピック半島に位置する国立公園。世界遺産(自然遺産)。 == 企業 == * [[Olympicグループ]] - 日本のスーパーマーケットチェーンと、その運営企業グループ。 * [[オリンピック航空]] - ギリシャの航空会社。 * [[オリムピック]] - 釣具メーカー。1992年にマミヤ光機と合併しその後は[[マミヤ・オーピー]]。釣具事業からは撤退したが、2000年に別メーカーとして復活。 * オリンピックスポーツ - 1996年に倒産した[[スポーツ用品店]]。※同名の別法人の店舗あり ** オリンピックスポーツクラブ - 以前存在した[[スポーツクラブ]]。上記企業から[[ダイエー]]が引き取り「ダイエーオリンピックスポーツクラブ」となった後、「コナミオリンピックスポーツクラブ」となりコナミ(後の[[コナミホールディングス]])の子会社となった。→[[コナミスポーツクラブ]] == サッカー == * [[オリンピック・リヨン]] - [[フランス]]のプロ[[サッカー]]クラブ * [[オリンピック・マルセイユ]] - フランスのプロサッカークラブ == その他 == * [[オリンピック作戦]] - 太平洋戦争中のアメリカ軍による九州南部への上陸作戦。実行されなかった。 * オリンピッククイズ - [[テレビ朝日]]系で放送された[[クイズ番組]]。 ** [[家族対抗オリンピッククイズ]] - 1979年に放送された番組 ** [[燃えろ!アトランタ王|オリンピッククイズ 燃えろ!アトランタ王]] - 1996年に放送された番組 * [[ハイパーオリンピック]] - 近代オリンピックをイメージして作られたコンピュータゲーム。 * [[グランド・オリンピック・オーディトリアム]] - [[アメリカ合衆国]]・[[ロサンゼルス]]に存在したインドアアリーナ * [[オリンピック (客船)]] - 北大西洋を航路としたクルーズ船。 * [[オリンピック (カクテル)]] - ブランデー・ベースのカクテル。 * [[OLYMPIC (アルバム)]] - [[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]のアルバム。 {{aimai}} {{デフォルトソート:おりんひつく}} [[Category:オリンピック|*]]
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近代オリンピック
近代オリンピック(、仏: Jeux olympiques(modernes)、英: Olympic Games)は、 フランスの教育学者クーベルタン男爵の「スポーツによる青少年教育の振興と世界平和実現のために古代オリンピックを復興しよう」という呼びかけに応じて開催されるようになった、オリンピズムに基づき行われる祭典であり、オリンピズムを人々に広めるための祭典である。オリンピズム(オリンピック哲学)が目指しているのは、平和な世界を実現し人間の尊厳を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである。近代オリンピックは平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。国際オリンピック委員会(略称: IOC)が開催する。各国語で短く「Olympics オリンピック」と呼ばれ、日本語ではオリンピックシンボルにちなんで五輪(ごりん)と呼ぶこともある。 スポーツが備えている力を活用し、良き手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などを人々に広め、人々の生き方を高めるための祭典であり、それによって平和な世界や人間の尊厳が護られた世界が実現することを目的としており、オリンピズムに基づいて開催され、そのオリンピズムを人々に広めるための祭典である。近代オリンピックの最重要の目的は人間の生き方を高め人類の平和や人間の尊厳を実現することであり、スポーツはそれのための手段である。 フランスのピエール・ド・クーベルタンが、古代ギリシアの人々の行動に着目して着想した。古代ギリシャ人たちも普段は互いに憎みあい、戦争を行い、殺しあっていたのだが、ゼウス神の聖地であるオリンピアの地でゼウス神にささげる祭典が開催される間だけは、考え方を一変させ、戦争を一時的に停止し(休戦。オリンピックの期間の停戦を特にオリンピック休戦と言う)、一か所に集い、「美にして善なること」を重んじ、つまり身体的な美しさだけでなく各人の心も道徳的であることを重んじた。クーベルタンは古代ギリシアの人々のようにスポーツの持つ力を活用することを着想し、19世紀末のパリ大学ソルボンヌ大における会議で提唱し、それが決議されたのである。 近代オリンピックは、人々の道徳性を高め世界平和や人間の尊厳を実現するためにオリンピズムを広めることが最重要の目的で開催される祭典であるので、それを明記したオリンピック憲章が制定されており、関係者が常に守るべき国際オリンピック委員会倫理規定も定めてある。 もともと近代オリンピックは夏季オリンピックと冬季オリンピックが同じ年に、4年ごとに行われており、このオリンピックによる4年間、4年ごとのピリオド(期間)はOlympiad オリンピアードと呼ばれている。1992年までは夏季と冬季が同じ年に行われていた(1992年バルセロナ夏季オリンピック、1992年アルベールビル冬季オリンピック)のであるが、IOCは1986年のローザンヌにおける総会で同じ年に開催するという点を変更することを決議し、その後も夏季オリンピックも冬季オリンピックもそれぞれ4年毎に開催されていることに変更は無いが、夏季オリンピックはオリンピアードの第一年に行い、冬季オリンピックはオリンピアードの第三年に行うようにされた。 夏季と冬季に大会があり、夏季オリンピック第1回は、1896年にアテネ(ギリシャ)で開催され、2度の世界大戦による中断を挟みながら継続されている。冬季オリンピックの第1回は、1924年にシャモニー・モンブラン(フランス)で開催された。 冬季オリンピックが始まった当初は夏季オリンピックの開催国の都市に優先的に開催権が与えられてきたが、降雪量の少ない国での開催に無理が生じることから1940年代前半に規約が改正され、同一開催の原則が廃止された(1928年アムステルダム大会時の際、オランダでは降雪量不足で雪山が無く、会場の確保困難であったことからこの年の冬季大会はサンモリッツ(スイス)で開催された)。 大会の公用語は、第一公用語がフランス語(近代オリンピック開催を提唱したピエール・ド・クーベルタンの母語がフランス語であった事に因む)、第二公用語が英語である。フランス語版と英語版の規定に相違がある場合はフランス語を優先する、としていることでフランス語を第1公用語とする事を明らかにしている。現在は、開催地の公用語のリストにフランス語も英語も含まれていない場合は、開閉会式等では開催地の公用語を第三の言語として加える場合がある。 1988年ソウル大会以降、パラリンピックとの連動が強化され、オリンピック終了後、同一国での開催がおこなわれている。 夏季オリンピックは開催されなかった場合も回数としてカウントされるが、冬季オリンピックは開催されなかった場合は回数としてカウントされない。 なお、夏季大会において第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリアの5か国のみである。ギリシャによる開催は、1896年と2004年が正規のものとされている。第1回大会の十年後、1906年アテネ中間大会が唯一、例外的に開催され、開催事実も記録も公式に認めてメダル授与も行っている。しかし、4年に1度のサイクルから外れた開催であったため、後にこれはキャンセルとされ現在では正規の開催数に計上されておらず優勝者もメダリスト名簿から外され登録されてはいない。 各期毎の概略は、以下を参照。 1896年、クーベルタンの提唱により、第1回オリンピックをギリシャ王国のアテネで開催することになった。資金集めに苦労し、会期も10日間と短かったが、バルカン半島の小国の一つという国際的地位をいっそう向上させたいというギリシャ王国の協力もあり大成功に終わった。しかし、1900年のパリ大会、1904年のセントルイス大会は同時期に開催された万国博覧会の附属大会に成り下がってしまい、賞金つきの競技(1900年)、キセルマラソンの発覚(1904年)など大会運営にも不手際が目立った。1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会から本来のオリンピック大会としての体制が整いだした。1908年のロンドン大会ではフルマラソンの走行距離は42.195kmであったがこれが1924年パリ大会以降固定され採用されている。この時期には古代オリンピックに倣いスポーツ部門と芸術部門のふたつ競技会が開催されており、クーベルタン自身は1900年パリ大会において芸術部門で金メダルを獲得している。 第一次世界大戦で1916年のベルリン大会は開催中止となったが、1920年のアントワープ大会から再開され初めてオリンピック旗が会場で披露された。この時期は、選手村・マイクロフォン(1924年)、冬季大会の開催(1924年)、16日前後の開催期間(1928年)、聖火リレー(1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。この時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安として国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。この様子は1924年のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』に詳しい。開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、1936年のベルリン大会では当時のナチス政権は巧みに国威発揚に利用した。聖火リレーやオリンピック記録映画の制作などの劇的な演出もこのとき始まった。その後、第二次世界大戦でオリンピックは2度も流会してしまうこととなる。 近代オリンピックで初めて女性の参加が認められた競技は、1900年の第2回パリ大会でのテニスとゴルフである。その後セントルイス大会ではアーチェリー、ロンドン大会ではアーチェリー・フィギュアスケート・テニス、ストックホルム大会ではダイビング・水泳・テニス、アントワープ大会ではダイビング・フィギュアスケート・水泳・テニスと変わったが、これらはいずれも大会を運営する中産階級の男性が許容できる「女性らしい」競技であった。クーベルタンは「体力の劣る女性の参加はオリンピックの品位を下げることにつながる。」と女性の男性的競技の参加に否定的だった。アリス・ミリアは1919年に女子の陸上競技の参加を国際オリンピック委員会に拒否されると、1921年に国際女子スポーツ連盟を組織し、1928年アムステルダムオリンピックで5種目ではあったが陸上競技が採用された。 第二次世界大戦が終結し、1948年にロンドンでオリンピックが再開されたが、敗戦国の日本とドイツは招待されなかった。また1948年のロンドン大会から芸術部門が廃止され、スポーツ部門のみとなった。これによりオリンピックは「古代ギリシャの権威を身にまとった世界屈指の国際的なスポーツ競技大会」としての性格を確立することになった。1952年のヘルシンキ大会よりソビエト連邦が初めて参加し、オリンピックは名実と共に「世界の大会」と呼ばれ、同時に東西冷戦を象徴する場としてアメリカとソ連のメダル争いは話題となった。それに伴って二つの中国問題(中国と台湾)やドイツ問題(東ドイツと西ドイツ)などといった新たな問題点も浮かび上がってくることとなる。航空機の発達は、欧米に限られていたオリンピックの開催を世界各国で可能にした。1956年メルボルン大会(オーストラリア)は南半球初、1964年東京大会(日本)はアジア初の開催地として、大会が行われた。 オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになると、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きた(ミュンヘンオリンピック事件)。1976年のモントリオール大会になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカの諸国22ヶ国がボイコットを行った。そして、1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行った。1984年ロサンゼルス大会ではソ連と東側諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはソ連と対立していた中国とルーマニアだけだった。中でも、イラン革命後のイラン・イスラム共和国はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックをボイコットしている。 オリンピックが巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題となり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続いた。 1984年のロサンゼルス大会は画期的な大会で、大会組織委員長に就任したピーター・ユベロスの指揮のもとオリンピックをショービジネス化した。結果として2億1500万ドルの黒字を計上した。スポンサーを「一業種一社」に絞ることにより、スポンサー料を吊り上げ聖火リレー走者からも参加費を徴収することなどにより黒字化を達成したのである。その後「オリンピックは儲かる」との認識が広まり立候補都市が激増し、各国のオリンピック委員会とスポーツ業界の競技レベル・政治力・経済力などが問われる総力戦の様相を呈するようになり、誘致運動だけですら途方もない金銭が投入されるようになってゆく。 1989年12月のマルタ会談を以て冷戦が終結してからオリンピックへの冷戦の影響は減り、共産圏と旧共産圏のステート・アマも減ったがその反面ドーピングの問題や過度の招致合戦によるIOC委員に対する接待や賄賂など、オリンピックに内外で関与する人物・組織の倫理面にまつわる問題が度々表面化するようになった。招致活動や関連団体への政治家の参入も増えている。 北京大会(+約10億元)やロンドン大会(+約3000万ポンド)は、黒字となり商業的には成功した。 一方でIOC加盟、非加盟にかかわらず、ほとんどの国際競技連盟主催の大会で会場広告は許されておりパラリンピックでも許されるようになったが、オリンピックではかたくなに禁止されている。広告収入がないだけでなく、オリンピック開催時の会場常設広告費の補償や撤去費、復元費は開催都市の負担を増している。 アマチュアリズムの根底には「スポーツは貴族のもの」という階級主義があると考える人も多くいて世界に反階級主義が広がる中、アマチュアリズムはだんだんと軽んじられてきた。アマチュアリズムを徹底するとオリンピックは働かないでもスポーツに専念できる資産家ほど活躍できる状況になってしまうのであった。 一方で共産圏、旧共産圏の国や日本がスポーツアスリートを公務員として雇ったり、日本ではスポーツに専念している実質のプロ選手を国・自治体・公共団体・企業が雇うステートアマチュア、企業アマチュアが横行しアマチュアリズムを進めるにはステートアマチュア、企業アマチュアをやっていない国からの不満が抑えられない状況になっていた。 1974年ウィーンでのIOC総会においてオリンピック憲章からアマチュア条項が削除されプロ選手の参加は各競技の国際競技連盟に任されることになった。 そののち、IOC内での「オリンピックを最高の選手が集う場にしたい」という意志と商業主義の台頭もあり、プロ選手の参加は促された。 21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。 オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。1984年のロサンゼルスが6,829人(221種目)だったが、2008年の北京では10,942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。 開催都市の多くが北半球の都市である。南半球では冬季大会の開催が1度もなく、夏季大会も1956年メルボルンオリンピック、2000年シドニーオリンピック、2016年リオデジャネイロオリンピックの3大会のみである(2032年にブリスベンオリンピックが開催される予定)。また、これまでアフリカや、東アジアを除くアジアで開催されたことはない。 開催を行うに際しては、各国・地域でオリンピックの開催を希望する自治体からの審査・ヒヤリングを各国・地域オリンピック委員会が行い、まずその国・地域内でのオリンピック開催候補地1箇所を選ぶ。その候補地を国際オリンピック委員会に推薦し正式に立候補を行い、国際オリンピック委員会総会において、委員会理事による投票で過半数を得ることが必要である。ただし投票の過半数を満たしていない場合、その回の投票における最下位の候補地を次の投票から除外する仕組みで繰り返し過半数が出るまで投票を繰り返す(最終的に2箇所になったところで決選投票となる)。 参考:“Olympic Games” (registration required). Encyclopædia Britannica. 2009年4月2日閲覧。 開会式では、オリンピック賛歌を演奏することやオリンピック旗掲揚、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた。しかし、聖火台で鳩を焼いてしまったソウル大会での一件や、外来生物への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。ロンドン大会では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人がワイヤーアクションで空中へ上昇した。 開会式の入場行進はオリンピックの発祥地であるギリシャの選手団が先導し、その後参加国は開催国の言語順に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。 開会宣言はオリンピック憲章55条3項により以下のとおり。 使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。2002年のソルトレークシティオリンピックではジョージ・W・ブッシュ大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(On behalf of a proud, determined and grateful nation)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である。 なお、2021年の東京オリンピックでは日本国天皇徳仁は「オリンピアードを祝し、」の代わりに「オリンピアードを記念する、」と述べ、開会宣言がなされた。これは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行を踏まえ、IOCが和訳の一部を祝祭色の薄い言葉に変えるという判断をしたためである。 また、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとのファンファーレが演奏されることが通例となっている。1984年のロサンゼルス大会のファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ作曲)は世界的に有名となった。なお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。 なお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。 大会の大規模化とともに開催に伴う開催都市と地元政府の経済的負担が問題となったが、ユベロスが組織委員長を務めた1984年のロサンゼルス大会では商業活動と民間の寄付を本格的に導入することによって、地元の財政的負担を軽減しオリンピック大会の開催を継続することが可能になった。それを契機とし、アディダスや電通などを始めとした企業から一大ビジネスチャンスとして注目されるようになった。 元々、オリンピックは発足当初からアマ選手のみに参加資格を限って来たが、旧共産圏(ソ連やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回IOC総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除した。さらに観客や視聴者の期待にも応える形で、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった(当初はテニスなど限られていたが、後にバスケットボール、サッカー、野球などに拡大)。 1984年ロサンゼルス大会の後、フアン・アントニオ・サマランチ主導で商業主義(利権の生成、放映権と提供料の高額化)が加速したと言われたことがあり、またかつて誘致活動としてIOC委員へ賄賂が提供された事などが問題になったことがある。さらには、年々巨大化する大会で開催費用負担が増額する傾向があったがジャック・ロゲ会長の代になり、これまで増え続けていた競技種目を減らし、大会規模を維持することで一定の理解を得るようになった。 なお、現在のIOCの収入構造は47%が世界各国での放送権料で、また45%がTOPスポンサーからの協賛金、5%が入場料収入、3%がオリンピックマークなどのライセンス収入となっており、このうち90%を大会組織委員会と各国オリンピック委員会、各競技団体に配布する形で大会の継続的運用を確保している。 (費用:アメリカ合衆国ドル) オリンピックは平和の祭典であるが、その本来の目的とは逆に、IOC側の意図や予想を超えて、戦争遂行のための国威発揚やプロパガンダに利用されてしまったり、民族と民族の争い事の場にされてしまうということが起きている。 特にナチスドイツのヒトラー政権下による1936年ベルリンオリンピックは、オリンピックの持つ大きな影響力が、ヒトラーによって巧妙に利用されてしまい、ドイツ国民の心理操作の道具のひとつとして使われてしまった。ヒトラーが雇った監督によって大会中にフィルム撮影が行われたが、その後編集され出来上がった映画作品『オリンピア』は、オリンピックを本来の平和の祭典として扱うのではなく、ヒトラー好みの意味内容になるように勝手に「民族の祭典」という意味に見えるように編集してしまっており、ドイツ人の民族主義的感情を高揚させ戦争へと駆り立てるための道具のひとつとして映画館で繰り返し上映されたのであり、オリンピックが平和目的ではなく、真反対の、戦争目的で使われてしまった。また皮肉なことに、聖火リレーのルートも、後日ドイツ国防軍がそのまま逆進したとされる。 またオリンピックの間は戦争を止めるというオリンピック休戦の意義が人々に理解されず、1972年にはオリンピックの場そのものが、ミュンヘン大会におけるテロ事件の事件現場になってしまった。1996年のアトランタ大会でもオリンピック公園を標的としたテロが発生した。 冷戦期におけるモスクワ大会、ロサンゼルス大会の西側諸国・東側諸国による大規模ボイコット合戦、冷戦下、1970年代後半から1980年代にかけてのアフガニスタン紛争が起きていた時期には、東西の「ボイコット合戦」という、形を変えてはいるが、東西陣営の醜い争い事がオリンピックの場で起きてしまった。 また国際オリンピック委員会は世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進する「オリンピックムーヴメント」を推進することをかかげているが、オリンピックムーヴメントの理念にそぐわない国が開催することに異議を唱える運動もしばしば起こり、2008年の北京大会では大会に反対するデモが相次いだ。また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」(en)に抗議してアメリカ、ドイツ、フランスなど欧米諸国の首脳が開会式を欠席した。このような政治問題を抱えてしまっているオリンピックは「平和の祭典」とは言えないとも指摘されている。 最初にオリンピックを政治的に利用し、国威の発揚、民族主義の高揚、戦争開始のためなどに悪用したのは1936年ベルリンオリンピックの際のアドルフ・ヒトラーであるが、戦後にオリンピックが世界的なイベントとして認知されると、国威発揚のために政治的に利用する国が多くなった。 オリンピック憲章ではオリンピックの政治的利用は禁止とされているが、金メダルをとった選手の表彰式の際、国歌が流れ、国旗が掲揚されてしまっている。オリンピックの場でこの儀式が行われてしまっていることに対して疑問を呈する人々はいる。1936年のベルリン大会のマラソン競技で日本統治時代の朝鮮から「日本代表」として出場し優勝した孫基禎も、強く疑問に思った。 共産主義時代のソ連や東欧諸国では国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成し(いわゆる「ステート・アマ」)、メダルを量産してきた。共産主義が崩壊した今でもその傾向は続いており、2016年のリオデジャネイロ大会の前にはロシアが国家主導で過去の大会においてドーピング行為を行ったことが判明した(ドーピング問題については後述)。政治利用を防ぐため1968年メキシコ五輪時のIOC総会で表彰式での国旗・国歌を廃止する案が提出されたが、(国威発揚のための利用しつづけている)共産圏の反対により否決された。 冷戦後でも同様で、中露ではもちろんのこと、アメリカ合衆国でも2002年の冬季ソルトレークシティ大会の開会式の際は前年の米国同時多発テロで崩壊したニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見された星条旗が入場させている。 1988年大会は有利と言われていた名古屋を抑えてソウルが開催地に選ばれたが、その裏ではソウル関係者のIOC委員への過剰な接待がなされていたとされる。1998年には、ソルトレークシティ大会の組織委員会が、カメルーンのIOC委員の子どもの奨学金を肩代わりしていた贈賄事件が発覚。翌1999年には、オーストラリア大会の招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことも発覚した。これを受け、複数のIOC委員が除名された。2017年には、ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長が、リオデジャネイロ大会招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕され、ブラジル検察によって起訴されている。またブラジル検察は、東京大会招致委員会からIOC関係者への送金についても明らかにし、買収目的だったと指摘している。ただし、開催費の高騰から、近年は立候補都市が減少している。 1976年のモントリオール大会では大幅な赤字を出し、モントリオールは2006年までの30年間にわたり特別税を徴収し、債務の返済を行った。また2004年のアテネ大会では施設建設費の多くを国債で賄った結果、2010年のギリシャ危機の一因ともなった。前述のとおり、こうした莫大な開催費用が敬遠され、近年は立候補都市が減少している。 1984年のロサンゼルス大会からは、商業主義を取り入れることとなった。この方式は成功したが、一方でIOCが、競技者よりも、金銭を提供するテレビ局やスポンサーを優遇する問題が生じている。2008年の北京大会ではアメリカのテレビ局NBCの意向で、アメリカでの視聴率が取りやすいように(北京の午前はアメリカの夜のゴールデンタイムになるため)一部の競技の決勝が午前中に開催された。2018年の平昌大会ではその傾向が顕著になり、スキージャンプ競技は深夜の風の強いコンディションで行われ、更に普通夕方~夜に行われるフィギュアスケートは午前から競技開始と異例の競技時間となった。2020年の東京大会でも、NBAやメジャーリーグベースボールなどアメリカ国内の他プロスポーツとの兼ね合いから開催時期を7~8月に設定した結果、後に猛暑から選手の健康を守るという観点で開催9ヵ月前にも関わらず、男女マラソンや競歩の開催地を東京から札幌市に移す一因にもなった。しかし、一方でアメリカの地上波テレビ局は視聴者が少なくなる7~8月には人気番組を放送したがらない。後述の#アンブッシュマーケティング規制の問題は、スポンサーにのみオリンピックへの言及を許し、一般企業がオリンピックを応援することを規制しようとする試みである。 大会の運営には、数万人のボランティアが動員される。IOCも大会ボランティアの必要性を認めており、開会式あるいは閉会式には、ボランティアへの謝意が示される。しかしボランティアは無給であり、さらに開催地への滞在費などは自己負担であり、長期にわたって拘束される。そのため、2016年リオデジャネイロオリンピックでは、5万人のボランティアのうち1万5000人が欠勤した。その理由は過酷な労働条件が「参加するに値しない」と判断されたためであった。 著述家の本間龍は、現在の商業五輪において、様々な労働条件を付帯した無償ボランティアを募集することは、自発性、非営利性、公共性が求められるボランティアの本来の趣旨に反していると指摘し、「善意で集まってくるボランティアを徹底的に使役しようとしている」、「五輪という美名のもとにあらゆる資格の価値を無視し、すべて無償で調達しよう」としているとして批判している。また、2020年東京五輪組織委員会のボランティア募集の呼びかけに応じた教育機関や医療関係団体が、学生や加盟者にボランティア参加要請することについては、「思慮がない」「無責任」と批評している。 1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。その後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発...といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。 国際オリンピック委員会は、無関係の会社や店舗などの組織が「オリンピックを応援する」などと言うことは、実際は応援では無くオリンピックの知名度等を不正に利用する「アンブッシュマーケティング」であると称し、禁止をしている。その理由としてオリンピックの公式スポンサー(ワールドワイドパートナー、ゴールドパートナー、オフィシャルパートナー、オフィシャルサポーター。#The Olympic Partners programme)のみが排他的な商業的利用権が与えられていると述べている。 日本広告審査機構(JARO)は、「いかなる文言を使用しようとも、商業広告で2020年のオリンピック東京大会を想起させる表現をすることは、アンブッシュ・マーケティング(いわゆる便乗広告)として不正競争行為に該当するおそれがあり、JOC(日本オリンピック委員会)やIOC(国際オリンピック委員会)から使用の差し止め要請や損害賠償請求を受ける可能性がある」との見解を出しており、「東京オリンピック・パラリンピックを応援しています」という直接的な表現以外に「祝・夢の祭典」「2020円キャンペーン」など間接的に連想できる物もアンブッシュマーケティングである可能性であることを示唆している。 ライターで1級知的財産管理技能士の友利昴はオリンピック委員会の規制には根拠がないことが明らかにしている。過去の裁判やトラブル事例から「キャンペーンや抗議行動の態度からうかがえる、非常に旺盛な権利保護方針の割には、実際にはなんでもかんでも訴えているわけではない」と指摘し、アンブッシュマーケティングをめぐり訴訟になった数少ない裁判では、IOC側が敗訴していることを挙げている(オーストラリア、カナダ)。また上記のJAROの見解はIOCやJOCへの忖度に過ぎないとして、(JAROが正しい法的検討をせずに)「逃げを打つのは、広告業界の指針となるべき団体として、適切な姿勢といえるだろうか」と批判している。 日本の商標権に関する規則では登録商標は同一又は類似した商品・役務の登録商標にのみ独占権があるとしており、オリンピックそのもの(大会や委員会)を示すために使うことは合法であるとしている。飲食店の屋号や商品の表示として権利者に許可無く「オリンピックレストラン」、「オリンピック公式レストラン」、「オリンピック公式テレビ」、「オリンピックテレビ」などと表示するのは違法だが、本物のオリンピックに対して「オリンピックを見ながら飲食しましょう」、「本テレビでオリンピックを観ましょう」と宣伝するのは問題無いとしている(商標としての独占であり、言葉の独占では無い)。 著作権法上では公式のロゴやマークを許可無く利用する事は一般的に禁止されており、オリンピックも同様である。店内でのオリンピック競技の放映をオリンピック委員会の許可無く行う事は禁止されているが、誰でも見られる放送をそのまま店内の民生用機器で再生する事は一般的な権利として認められる。このため、テレビ放映されているオリンピックの映像を店内で流すことに関しては問題が無い。この場合は放送局がオリンピック委員会に放送するという事で利用料を払っている。 開催に向けて土地を工面し巨額な建設費をかけて完成した競技会場及び関連施設が、大会終了後は維持管理先が決まらなかったり、再活用や運営が予定通りに進まず資金面などで維持管理が困難になる結果、レガシーとして残されずに撤去されたり廃墟化するケースがある。 英: The Olympic Partners(略してTOP)programmeとは、特定カテゴリーを一社で独占できるようなグローバルなスポンサーシップのことである。元々、オリンピックマークの商業使用権は各国の国内オリンピック委員会(NOC)が各々で管理をしていたが、サマランチ会長がIOCの一括管理にした事から1988年の冬季カルガリー大会と夏季ソウル大会から始まったプログラムで、オリンピックの中でも全世界的に設けられた最高位のスポンサーである。基本的には4年単位の契約で1業種1社に限定されており、毎回計9〜11社ほどが契約を結んでいる。なお、TOPにパナソニック、サムスンと同業種の企業が名を連ねているが、これはパナソニックが音響・映像機器、サムスンは無線通信機器と細分化されており、その他の製品など上記と重ならないカテゴリーのスポンサーとなっているからである。また2019年、ノンアルコール飲料で長らくスポンサー契約を続けてきたザ コカ・コーラ カンパニーが蒙牛乳業と共同で2021年以降のスポンサー契約を結んだ。IOCは特例としてこれを認めている。 この他にも、各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした「ゴールドスポンサー」(1社数十億円程度)、権利はゴールドスポンサーと同様だがTOPと競合しない事が条件の「オフィシャルサプライヤー/サポーター」(1社数億円程度)、グッズの商品化のみが可能な「オフィシャルライセンシー」がある。 2022年現在、 の14分野15社が名を連ねている。 The Olympic Partners(TOP)は指定された製品カテゴリーの中で独占的な世界規模でのマーケティング権利と機会を受ける事ができる。また、IOCやNOC、オリンピック組織委員会といった関係団体と共に商品開発などをする事も可能である。 なお、TOPはすべての大会の権利使用許可、大会放送での優先的な広告機会、大会への接待機会、便乗商法からの権利保護、大会会場周辺での商業活動、公式スポンサーとしての認知機会が与えられる。 2012年に開催されたロンドンオリンピックにおいて、同オリンピック組織委員会の会長がBBCのラジオ番組において、「(公式スポンサーであるコカ・コーラの同業他社の)ペプシのロゴ入りTシャツを着ている観戦者は競技場に入れないだろう」と発言したために問題となり、ロンドン市などが火消しに追われた。 2021年にはカシマサッカースタジアム(茨城県鹿嶋市)で行われる予定の東京オリンピックサッカー競技の観戦を巡り、一部の学校において、児童生徒がペットボトルをスタジアムに持ち込む際に出来るだけ(公式スポンサーである)コカ・コーラ社製とするように保護者に対して文書で通知していることがTwitter上で拡散し、批判が出る事態となった。鹿嶋市の教育委員会によると、実際は混乱防止の観点から、メーカーを問わず、飲料のラベルを一律で剥がすように指示していた。また選手村では(公式クレジットカードの)VISAカード以外は使用出来ない。 日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。 なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。 日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。 日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京で2度(1964年、2021年)、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。なお、世界で初めて夏季・冬季両方のオリンピックの開催地となった都市は、長野県の軽井沢町である。 日本オリンピック委員会は、1992年アルベールビルオリンピック以降のオリンピック金メダリストに300万円(2016年リオデジャネイロオリンピックからは500万円)、銀メダリストに200万円、銅メダリストに100万円の報奨金を贈っている。 五輪(ごりん)という訳語は、近代オリンピックのシンボルマークである5色で表現した5つの輪と宮本武蔵の『五輪書』の書名を由来として、読売新聞記者の川本信正が1936年に考案した。同1996年7月25日付の読売新聞夕刊に掲載された「五輪旗 伯林に着く」との見出しが、新聞紙面において「オリンピック」を「五輪」と紙面で初めて表記された例である。川本信正は後年のインタビューの中で『以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた』と述べている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "近代オリンピック(、仏: Jeux olympiques(modernes)、英: Olympic Games)は、 フランスの教育学者クーベルタン男爵の「スポーツによる青少年教育の振興と世界平和実現のために古代オリンピックを復興しよう」という呼びかけに応じて開催されるようになった、オリンピズムに基づき行われる祭典であり、オリンピズムを人々に広めるための祭典である。オリンピズム(オリンピック哲学)が目指しているのは、平和な世界を実現し人間の尊厳を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである。近代オリンピックは平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。国際オリンピック委員会(略称: IOC)が開催する。各国語で短く「Olympics オリンピック」と呼ばれ、日本語ではオリンピックシンボルにちなんで五輪(ごりん)と呼ぶこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "スポーツが備えている力を活用し、良き手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などを人々に広め、人々の生き方を高めるための祭典であり、それによって平和な世界や人間の尊厳が護られた世界が実現することを目的としており、オリンピズムに基づいて開催され、そのオリンピズムを人々に広めるための祭典である。近代オリンピックの最重要の目的は人間の生き方を高め人類の平和や人間の尊厳を実現することであり、スポーツはそれのための手段である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "フランスのピエール・ド・クーベルタンが、古代ギリシアの人々の行動に着目して着想した。古代ギリシャ人たちも普段は互いに憎みあい、戦争を行い、殺しあっていたのだが、ゼウス神の聖地であるオリンピアの地でゼウス神にささげる祭典が開催される間だけは、考え方を一変させ、戦争を一時的に停止し(休戦。オリンピックの期間の停戦を特にオリンピック休戦と言う)、一か所に集い、「美にして善なること」を重んじ、つまり身体的な美しさだけでなく各人の心も道徳的であることを重んじた。クーベルタンは古代ギリシアの人々のようにスポーツの持つ力を活用することを着想し、19世紀末のパリ大学ソルボンヌ大における会議で提唱し、それが決議されたのである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "近代オリンピックは、人々の道徳性を高め世界平和や人間の尊厳を実現するためにオリンピズムを広めることが最重要の目的で開催される祭典であるので、それを明記したオリンピック憲章が制定されており、関係者が常に守るべき国際オリンピック委員会倫理規定も定めてある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "もともと近代オリンピックは夏季オリンピックと冬季オリンピックが同じ年に、4年ごとに行われており、このオリンピックによる4年間、4年ごとのピリオド(期間)はOlympiad オリンピアードと呼ばれている。1992年までは夏季と冬季が同じ年に行われていた(1992年バルセロナ夏季オリンピック、1992年アルベールビル冬季オリンピック)のであるが、IOCは1986年のローザンヌにおける総会で同じ年に開催するという点を変更することを決議し、その後も夏季オリンピックも冬季オリンピックもそれぞれ4年毎に開催されていることに変更は無いが、夏季オリンピックはオリンピアードの第一年に行い、冬季オリンピックはオリンピアードの第三年に行うようにされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "夏季と冬季に大会があり、夏季オリンピック第1回は、1896年にアテネ(ギリシャ)で開催され、2度の世界大戦による中断を挟みながら継続されている。冬季オリンピックの第1回は、1924年にシャモニー・モンブラン(フランス)で開催された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "冬季オリンピックが始まった当初は夏季オリンピックの開催国の都市に優先的に開催権が与えられてきたが、降雪量の少ない国での開催に無理が生じることから1940年代前半に規約が改正され、同一開催の原則が廃止された(1928年アムステルダム大会時の際、オランダでは降雪量不足で雪山が無く、会場の確保困難であったことからこの年の冬季大会はサンモリッツ(スイス)で開催された)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大会の公用語は、第一公用語がフランス語(近代オリンピック開催を提唱したピエール・ド・クーベルタンの母語がフランス語であった事に因む)、第二公用語が英語である。フランス語版と英語版の規定に相違がある場合はフランス語を優先する、としていることでフランス語を第1公用語とする事を明らかにしている。現在は、開催地の公用語のリストにフランス語も英語も含まれていない場合は、開閉会式等では開催地の公用語を第三の言語として加える場合がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1988年ソウル大会以降、パラリンピックとの連動が強化され、オリンピック終了後、同一国での開催がおこなわれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "夏季オリンピックは開催されなかった場合も回数としてカウントされるが、冬季オリンピックは開催されなかった場合は回数としてカウントされない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、夏季大会において第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリアの5か国のみである。ギリシャによる開催は、1896年と2004年が正規のものとされている。第1回大会の十年後、1906年アテネ中間大会が唯一、例外的に開催され、開催事実も記録も公式に認めてメダル授与も行っている。しかし、4年に1度のサイクルから外れた開催であったため、後にこれはキャンセルとされ現在では正規の開催数に計上されておらず優勝者もメダリスト名簿から外され登録されてはいない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "各期毎の概略は、以下を参照。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1896年、クーベルタンの提唱により、第1回オリンピックをギリシャ王国のアテネで開催することになった。資金集めに苦労し、会期も10日間と短かったが、バルカン半島の小国の一つという国際的地位をいっそう向上させたいというギリシャ王国の協力もあり大成功に終わった。しかし、1900年のパリ大会、1904年のセントルイス大会は同時期に開催された万国博覧会の附属大会に成り下がってしまい、賞金つきの競技(1900年)、キセルマラソンの発覚(1904年)など大会運営にも不手際が目立った。1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会から本来のオリンピック大会としての体制が整いだした。1908年のロンドン大会ではフルマラソンの走行距離は42.195kmであったがこれが1924年パリ大会以降固定され採用されている。この時期には古代オリンピックに倣いスポーツ部門と芸術部門のふたつ競技会が開催されており、クーベルタン自身は1900年パリ大会において芸術部門で金メダルを獲得している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦で1916年のベルリン大会は開催中止となったが、1920年のアントワープ大会から再開され初めてオリンピック旗が会場で披露された。この時期は、選手村・マイクロフォン(1924年)、冬季大会の開催(1924年)、16日前後の開催期間(1928年)、聖火リレー(1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。この時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安として国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。この様子は1924年のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』に詳しい。開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、1936年のベルリン大会では当時のナチス政権は巧みに国威発揚に利用した。聖火リレーやオリンピック記録映画の制作などの劇的な演出もこのとき始まった。その後、第二次世界大戦でオリンピックは2度も流会してしまうこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "近代オリンピックで初めて女性の参加が認められた競技は、1900年の第2回パリ大会でのテニスとゴルフである。その後セントルイス大会ではアーチェリー、ロンドン大会ではアーチェリー・フィギュアスケート・テニス、ストックホルム大会ではダイビング・水泳・テニス、アントワープ大会ではダイビング・フィギュアスケート・水泳・テニスと変わったが、これらはいずれも大会を運営する中産階級の男性が許容できる「女性らしい」競技であった。クーベルタンは「体力の劣る女性の参加はオリンピックの品位を下げることにつながる。」と女性の男性的競技の参加に否定的だった。アリス・ミリアは1919年に女子の陸上競技の参加を国際オリンピック委員会に拒否されると、1921年に国際女子スポーツ連盟を組織し、1928年アムステルダムオリンピックで5種目ではあったが陸上競技が採用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が終結し、1948年にロンドンでオリンピックが再開されたが、敗戦国の日本とドイツは招待されなかった。また1948年のロンドン大会から芸術部門が廃止され、スポーツ部門のみとなった。これによりオリンピックは「古代ギリシャの権威を身にまとった世界屈指の国際的なスポーツ競技大会」としての性格を確立することになった。1952年のヘルシンキ大会よりソビエト連邦が初めて参加し、オリンピックは名実と共に「世界の大会」と呼ばれ、同時に東西冷戦を象徴する場としてアメリカとソ連のメダル争いは話題となった。それに伴って二つの中国問題(中国と台湾)やドイツ問題(東ドイツと西ドイツ)などといった新たな問題点も浮かび上がってくることとなる。航空機の発達は、欧米に限られていたオリンピックの開催を世界各国で可能にした。1956年メルボルン大会(オーストラリア)は南半球初、1964年東京大会(日本)はアジア初の開催地として、大会が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになると、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きた(ミュンヘンオリンピック事件)。1976年のモントリオール大会になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカの諸国22ヶ国がボイコットを行った。そして、1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行った。1984年ロサンゼルス大会ではソ連と東側諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはソ連と対立していた中国とルーマニアだけだった。中でも、イラン革命後のイラン・イスラム共和国はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックをボイコットしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "オリンピックが巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題となり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1984年のロサンゼルス大会は画期的な大会で、大会組織委員長に就任したピーター・ユベロスの指揮のもとオリンピックをショービジネス化した。結果として2億1500万ドルの黒字を計上した。スポンサーを「一業種一社」に絞ることにより、スポンサー料を吊り上げ聖火リレー走者からも参加費を徴収することなどにより黒字化を達成したのである。その後「オリンピックは儲かる」との認識が広まり立候補都市が激増し、各国のオリンピック委員会とスポーツ業界の競技レベル・政治力・経済力などが問われる総力戦の様相を呈するようになり、誘致運動だけですら途方もない金銭が投入されるようになってゆく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1989年12月のマルタ会談を以て冷戦が終結してからオリンピックへの冷戦の影響は減り、共産圏と旧共産圏のステート・アマも減ったがその反面ドーピングの問題や過度の招致合戦によるIOC委員に対する接待や賄賂など、オリンピックに内外で関与する人物・組織の倫理面にまつわる問題が度々表面化するようになった。招致活動や関連団体への政治家の参入も増えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "北京大会(+約10億元)やロンドン大会(+約3000万ポンド)は、黒字となり商業的には成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一方でIOC加盟、非加盟にかかわらず、ほとんどの国際競技連盟主催の大会で会場広告は許されておりパラリンピックでも許されるようになったが、オリンピックではかたくなに禁止されている。広告収入がないだけでなく、オリンピック開催時の会場常設広告費の補償や撤去費、復元費は開催都市の負担を増している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アマチュアリズムの根底には「スポーツは貴族のもの」という階級主義があると考える人も多くいて世界に反階級主義が広がる中、アマチュアリズムはだんだんと軽んじられてきた。アマチュアリズムを徹底するとオリンピックは働かないでもスポーツに専念できる資産家ほど活躍できる状況になってしまうのであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一方で共産圏、旧共産圏の国や日本がスポーツアスリートを公務員として雇ったり、日本ではスポーツに専念している実質のプロ選手を国・自治体・公共団体・企業が雇うステートアマチュア、企業アマチュアが横行しアマチュアリズムを進めるにはステートアマチュア、企業アマチュアをやっていない国からの不満が抑えられない状況になっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1974年ウィーンでのIOC総会においてオリンピック憲章からアマチュア条項が削除されプロ選手の参加は各競技の国際競技連盟に任されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そののち、IOC内での「オリンピックを最高の選手が集う場にしたい」という意志と商業主義の台頭もあり、プロ選手の参加は促された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。1984年のロサンゼルスが6,829人(221種目)だったが、2008年の北京では10,942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "開催都市の多くが北半球の都市である。南半球では冬季大会の開催が1度もなく、夏季大会も1956年メルボルンオリンピック、2000年シドニーオリンピック、2016年リオデジャネイロオリンピックの3大会のみである(2032年にブリスベンオリンピックが開催される予定)。また、これまでアフリカや、東アジアを除くアジアで開催されたことはない。", "title": "開催都市" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "開催を行うに際しては、各国・地域でオリンピックの開催を希望する自治体からの審査・ヒヤリングを各国・地域オリンピック委員会が行い、まずその国・地域内でのオリンピック開催候補地1箇所を選ぶ。その候補地を国際オリンピック委員会に推薦し正式に立候補を行い、国際オリンピック委員会総会において、委員会理事による投票で過半数を得ることが必要である。ただし投票の過半数を満たしていない場合、その回の投票における最下位の候補地を次の投票から除外する仕組みで繰り返し過半数が出るまで投票を繰り返す(最終的に2箇所になったところで決選投票となる)。", "title": "開催都市" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "参考:“Olympic Games” (registration required). Encyclopædia Britannica. 2009年4月2日閲覧。", "title": "開催都市" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "開会式では、オリンピック賛歌を演奏することやオリンピック旗掲揚、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた。しかし、聖火台で鳩を焼いてしまったソウル大会での一件や、外来生物への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。ロンドン大会では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人がワイヤーアクションで空中へ上昇した。", "title": "式典" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "開会式の入場行進はオリンピックの発祥地であるギリシャの選手団が先導し、その後参加国は開催国の言語順に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。", "title": "式典" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "開会宣言はオリンピック憲章55条3項により以下のとおり。", "title": "式典" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。2002年のソルトレークシティオリンピックではジョージ・W・ブッシュ大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(On behalf of a proud, determined and grateful nation)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である。 なお、2021年の東京オリンピックでは日本国天皇徳仁は「オリンピアードを祝し、」の代わりに「オリンピアードを記念する、」と述べ、開会宣言がなされた。これは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行を踏まえ、IOCが和訳の一部を祝祭色の薄い言葉に変えるという判断をしたためである。", "title": "式典" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとのファンファーレが演奏されることが通例となっている。1984年のロサンゼルス大会のファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ作曲)は世界的に有名となった。なお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。", "title": "式典" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "なお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。", "title": "式典" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "大会の大規模化とともに開催に伴う開催都市と地元政府の経済的負担が問題となったが、ユベロスが組織委員長を務めた1984年のロサンゼルス大会では商業活動と民間の寄付を本格的に導入することによって、地元の財政的負担を軽減しオリンピック大会の開催を継続することが可能になった。それを契機とし、アディダスや電通などを始めとした企業から一大ビジネスチャンスとして注目されるようになった。", "title": "大会の継続的運営と商業主義" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "元々、オリンピックは発足当初からアマ選手のみに参加資格を限って来たが、旧共産圏(ソ連やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回IOC総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除した。さらに観客や視聴者の期待にも応える形で、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった(当初はテニスなど限られていたが、後にバスケットボール、サッカー、野球などに拡大)。", "title": "大会の継続的運営と商業主義" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1984年ロサンゼルス大会の後、フアン・アントニオ・サマランチ主導で商業主義(利権の生成、放映権と提供料の高額化)が加速したと言われたことがあり、またかつて誘致活動としてIOC委員へ賄賂が提供された事などが問題になったことがある。さらには、年々巨大化する大会で開催費用負担が増額する傾向があったがジャック・ロゲ会長の代になり、これまで増え続けていた競技種目を減らし、大会規模を維持することで一定の理解を得るようになった。", "title": "大会の継続的運営と商業主義" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、現在のIOCの収入構造は47%が世界各国での放送権料で、また45%がTOPスポンサーからの協賛金、5%が入場料収入、3%がオリンピックマークなどのライセンス収入となっており、このうち90%を大会組織委員会と各国オリンピック委員会、各競技団体に配布する形で大会の継続的運用を確保している。", "title": "大会の継続的運営と商業主義" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "(費用:アメリカ合衆国ドル)", "title": "大会の継続的運営と商業主義" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "オリンピックは平和の祭典であるが、その本来の目的とは逆に、IOC側の意図や予想を超えて、戦争遂行のための国威発揚やプロパガンダに利用されてしまったり、民族と民族の争い事の場にされてしまうということが起きている。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "特にナチスドイツのヒトラー政権下による1936年ベルリンオリンピックは、オリンピックの持つ大きな影響力が、ヒトラーによって巧妙に利用されてしまい、ドイツ国民の心理操作の道具のひとつとして使われてしまった。ヒトラーが雇った監督によって大会中にフィルム撮影が行われたが、その後編集され出来上がった映画作品『オリンピア』は、オリンピックを本来の平和の祭典として扱うのではなく、ヒトラー好みの意味内容になるように勝手に「民族の祭典」という意味に見えるように編集してしまっており、ドイツ人の民族主義的感情を高揚させ戦争へと駆り立てるための道具のひとつとして映画館で繰り返し上映されたのであり、オリンピックが平和目的ではなく、真反対の、戦争目的で使われてしまった。また皮肉なことに、聖火リレーのルートも、後日ドイツ国防軍がそのまま逆進したとされる。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "またオリンピックの間は戦争を止めるというオリンピック休戦の意義が人々に理解されず、1972年にはオリンピックの場そのものが、ミュンヘン大会におけるテロ事件の事件現場になってしまった。1996年のアトランタ大会でもオリンピック公園を標的としたテロが発生した。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "冷戦期におけるモスクワ大会、ロサンゼルス大会の西側諸国・東側諸国による大規模ボイコット合戦、冷戦下、1970年代後半から1980年代にかけてのアフガニスタン紛争が起きていた時期には、東西の「ボイコット合戦」という、形を変えてはいるが、東西陣営の醜い争い事がオリンピックの場で起きてしまった。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また国際オリンピック委員会は世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進する「オリンピックムーヴメント」を推進することをかかげているが、オリンピックムーヴメントの理念にそぐわない国が開催することに異議を唱える運動もしばしば起こり、2008年の北京大会では大会に反対するデモが相次いだ。また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」(en)に抗議してアメリカ、ドイツ、フランスなど欧米諸国の首脳が開会式を欠席した。このような政治問題を抱えてしまっているオリンピックは「平和の祭典」とは言えないとも指摘されている。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "最初にオリンピックを政治的に利用し、国威の発揚、民族主義の高揚、戦争開始のためなどに悪用したのは1936年ベルリンオリンピックの際のアドルフ・ヒトラーであるが、戦後にオリンピックが世界的なイベントとして認知されると、国威発揚のために政治的に利用する国が多くなった。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "オリンピック憲章ではオリンピックの政治的利用は禁止とされているが、金メダルをとった選手の表彰式の際、国歌が流れ、国旗が掲揚されてしまっている。オリンピックの場でこの儀式が行われてしまっていることに対して疑問を呈する人々はいる。1936年のベルリン大会のマラソン競技で日本統治時代の朝鮮から「日本代表」として出場し優勝した孫基禎も、強く疑問に思った。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "共産主義時代のソ連や東欧諸国では国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成し(いわゆる「ステート・アマ」)、メダルを量産してきた。共産主義が崩壊した今でもその傾向は続いており、2016年のリオデジャネイロ大会の前にはロシアが国家主導で過去の大会においてドーピング行為を行ったことが判明した(ドーピング問題については後述)。政治利用を防ぐため1968年メキシコ五輪時のIOC総会で表彰式での国旗・国歌を廃止する案が提出されたが、(国威発揚のための利用しつづけている)共産圏の反対により否決された。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "冷戦後でも同様で、中露ではもちろんのこと、アメリカ合衆国でも2002年の冬季ソルトレークシティ大会の開会式の際は前年の米国同時多発テロで崩壊したニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見された星条旗が入場させている。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1988年大会は有利と言われていた名古屋を抑えてソウルが開催地に選ばれたが、その裏ではソウル関係者のIOC委員への過剰な接待がなされていたとされる。1998年には、ソルトレークシティ大会の組織委員会が、カメルーンのIOC委員の子どもの奨学金を肩代わりしていた贈賄事件が発覚。翌1999年には、オーストラリア大会の招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことも発覚した。これを受け、複数のIOC委員が除名された。2017年には、ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長が、リオデジャネイロ大会招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕され、ブラジル検察によって起訴されている。またブラジル検察は、東京大会招致委員会からIOC関係者への送金についても明らかにし、買収目的だったと指摘している。ただし、開催費の高騰から、近年は立候補都市が減少している。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1976年のモントリオール大会では大幅な赤字を出し、モントリオールは2006年までの30年間にわたり特別税を徴収し、債務の返済を行った。また2004年のアテネ大会では施設建設費の多くを国債で賄った結果、2010年のギリシャ危機の一因ともなった。前述のとおり、こうした莫大な開催費用が敬遠され、近年は立候補都市が減少している。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1984年のロサンゼルス大会からは、商業主義を取り入れることとなった。この方式は成功したが、一方でIOCが、競技者よりも、金銭を提供するテレビ局やスポンサーを優遇する問題が生じている。2008年の北京大会ではアメリカのテレビ局NBCの意向で、アメリカでの視聴率が取りやすいように(北京の午前はアメリカの夜のゴールデンタイムになるため)一部の競技の決勝が午前中に開催された。2018年の平昌大会ではその傾向が顕著になり、スキージャンプ競技は深夜の風の強いコンディションで行われ、更に普通夕方~夜に行われるフィギュアスケートは午前から競技開始と異例の競技時間となった。2020年の東京大会でも、NBAやメジャーリーグベースボールなどアメリカ国内の他プロスポーツとの兼ね合いから開催時期を7~8月に設定した結果、後に猛暑から選手の健康を守るという観点で開催9ヵ月前にも関わらず、男女マラソンや競歩の開催地を東京から札幌市に移す一因にもなった。しかし、一方でアメリカの地上波テレビ局は視聴者が少なくなる7~8月には人気番組を放送したがらない。後述の#アンブッシュマーケティング規制の問題は、スポンサーにのみオリンピックへの言及を許し、一般企業がオリンピックを応援することを規制しようとする試みである。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "大会の運営には、数万人のボランティアが動員される。IOCも大会ボランティアの必要性を認めており、開会式あるいは閉会式には、ボランティアへの謝意が示される。しかしボランティアは無給であり、さらに開催地への滞在費などは自己負担であり、長期にわたって拘束される。そのため、2016年リオデジャネイロオリンピックでは、5万人のボランティアのうち1万5000人が欠勤した。その理由は過酷な労働条件が「参加するに値しない」と判断されたためであった。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "著述家の本間龍は、現在の商業五輪において、様々な労働条件を付帯した無償ボランティアを募集することは、自発性、非営利性、公共性が求められるボランティアの本来の趣旨に反していると指摘し、「善意で集まってくるボランティアを徹底的に使役しようとしている」、「五輪という美名のもとにあらゆる資格の価値を無視し、すべて無償で調達しよう」としているとして批判している。また、2020年東京五輪組織委員会のボランティア募集の呼びかけに応じた教育機関や医療関係団体が、学生や加盟者にボランティア参加要請することについては、「思慮がない」「無責任」と批評している。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。その後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発...といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "国際オリンピック委員会は、無関係の会社や店舗などの組織が「オリンピックを応援する」などと言うことは、実際は応援では無くオリンピックの知名度等を不正に利用する「アンブッシュマーケティング」であると称し、禁止をしている。その理由としてオリンピックの公式スポンサー(ワールドワイドパートナー、ゴールドパートナー、オフィシャルパートナー、オフィシャルサポーター。#The Olympic Partners programme)のみが排他的な商業的利用権が与えられていると述べている。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本広告審査機構(JARO)は、「いかなる文言を使用しようとも、商業広告で2020年のオリンピック東京大会を想起させる表現をすることは、アンブッシュ・マーケティング(いわゆる便乗広告)として不正競争行為に該当するおそれがあり、JOC(日本オリンピック委員会)やIOC(国際オリンピック委員会)から使用の差し止め要請や損害賠償請求を受ける可能性がある」との見解を出しており、「東京オリンピック・パラリンピックを応援しています」という直接的な表現以外に「祝・夢の祭典」「2020円キャンペーン」など間接的に連想できる物もアンブッシュマーケティングである可能性であることを示唆している。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ライターで1級知的財産管理技能士の友利昴はオリンピック委員会の規制には根拠がないことが明らかにしている。過去の裁判やトラブル事例から「キャンペーンや抗議行動の態度からうかがえる、非常に旺盛な権利保護方針の割には、実際にはなんでもかんでも訴えているわけではない」と指摘し、アンブッシュマーケティングをめぐり訴訟になった数少ない裁判では、IOC側が敗訴していることを挙げている(オーストラリア、カナダ)。また上記のJAROの見解はIOCやJOCへの忖度に過ぎないとして、(JAROが正しい法的検討をせずに)「逃げを打つのは、広告業界の指針となるべき団体として、適切な姿勢といえるだろうか」と批判している。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "日本の商標権に関する規則では登録商標は同一又は類似した商品・役務の登録商標にのみ独占権があるとしており、オリンピックそのもの(大会や委員会)を示すために使うことは合法であるとしている。飲食店の屋号や商品の表示として権利者に許可無く「オリンピックレストラン」、「オリンピック公式レストラン」、「オリンピック公式テレビ」、「オリンピックテレビ」などと表示するのは違法だが、本物のオリンピックに対して「オリンピックを見ながら飲食しましょう」、「本テレビでオリンピックを観ましょう」と宣伝するのは問題無いとしている(商標としての独占であり、言葉の独占では無い)。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "著作権法上では公式のロゴやマークを許可無く利用する事は一般的に禁止されており、オリンピックも同様である。店内でのオリンピック競技の放映をオリンピック委員会の許可無く行う事は禁止されているが、誰でも見られる放送をそのまま店内の民生用機器で再生する事は一般的な権利として認められる。このため、テレビ放映されているオリンピックの映像を店内で流すことに関しては問題が無い。この場合は放送局がオリンピック委員会に放送するという事で利用料を払っている。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "開催に向けて土地を工面し巨額な建設費をかけて完成した競技会場及び関連施設が、大会終了後は維持管理先が決まらなかったり、再活用や運営が予定通りに進まず資金面などで維持管理が困難になる結果、レガシーとして残されずに撤去されたり廃墟化するケースがある。", "title": "問題点" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "英: The Olympic Partners(略してTOP)programmeとは、特定カテゴリーを一社で独占できるようなグローバルなスポンサーシップのことである。元々、オリンピックマークの商業使用権は各国の国内オリンピック委員会(NOC)が各々で管理をしていたが、サマランチ会長がIOCの一括管理にした事から1988年の冬季カルガリー大会と夏季ソウル大会から始まったプログラムで、オリンピックの中でも全世界的に設けられた最高位のスポンサーである。基本的には4年単位の契約で1業種1社に限定されており、毎回計9〜11社ほどが契約を結んでいる。なお、TOPにパナソニック、サムスンと同業種の企業が名を連ねているが、これはパナソニックが音響・映像機器、サムスンは無線通信機器と細分化されており、その他の製品など上記と重ならないカテゴリーのスポンサーとなっているからである。また2019年、ノンアルコール飲料で長らくスポンサー契約を続けてきたザ コカ・コーラ カンパニーが蒙牛乳業と共同で2021年以降のスポンサー契約を結んだ。IOCは特例としてこれを認めている。", "title": "The Olympic Partners programme" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "この他にも、各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした「ゴールドスポンサー」(1社数十億円程度)、権利はゴールドスポンサーと同様だがTOPと競合しない事が条件の「オフィシャルサプライヤー/サポーター」(1社数億円程度)、グッズの商品化のみが可能な「オフィシャルライセンシー」がある。", "title": "The Olympic Partners programme" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2022年現在、", "title": "The Olympic Partners programme" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "の14分野15社が名を連ねている。", "title": "The Olympic Partners programme" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "The Olympic Partners(TOP)は指定された製品カテゴリーの中で独占的な世界規模でのマーケティング権利と機会を受ける事ができる。また、IOCやNOC、オリンピック組織委員会といった関係団体と共に商品開発などをする事も可能である。", "title": "The Olympic Partners programme" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "なお、TOPはすべての大会の権利使用許可、大会放送での優先的な広告機会、大会への接待機会、便乗商法からの権利保護、大会会場周辺での商業活動、公式スポンサーとしての認知機会が与えられる。", "title": "The Olympic Partners programme" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2012年に開催されたロンドンオリンピックにおいて、同オリンピック組織委員会の会長がBBCのラジオ番組において、「(公式スポンサーであるコカ・コーラの同業他社の)ペプシのロゴ入りTシャツを着ている観戦者は競技場に入れないだろう」と発言したために問題となり、ロンドン市などが火消しに追われた。", "title": "The Olympic Partners programme" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2021年にはカシマサッカースタジアム(茨城県鹿嶋市)で行われる予定の東京オリンピックサッカー競技の観戦を巡り、一部の学校において、児童生徒がペットボトルをスタジアムに持ち込む際に出来るだけ(公式スポンサーである)コカ・コーラ社製とするように保護者に対して文書で通知していることがTwitter上で拡散し、批判が出る事態となった。鹿嶋市の教育委員会によると、実際は混乱防止の観点から、メーカーを問わず、飲料のラベルを一律で剥がすように指示していた。また選手村では(公式クレジットカードの)VISAカード以外は使用出来ない。", "title": "The Olympic Partners programme" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。", "title": "日本との関わり" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。", "title": "日本との関わり" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。", "title": "日本との関わり" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京で2度(1964年、2021年)、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。なお、世界で初めて夏季・冬季両方のオリンピックの開催地となった都市は、長野県の軽井沢町である。", "title": "日本との関わり" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "日本オリンピック委員会は、1992年アルベールビルオリンピック以降のオリンピック金メダリストに300万円(2016年リオデジャネイロオリンピックからは500万円)、銀メダリストに200万円、銅メダリストに100万円の報奨金を贈っている。", "title": "日本との関わり" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "五輪(ごりん)という訳語は、近代オリンピックのシンボルマークである5色で表現した5つの輪と宮本武蔵の『五輪書』の書名を由来として、読売新聞記者の川本信正が1936年に考案した。同1996年7月25日付の読売新聞夕刊に掲載された「五輪旗 伯林に着く」との見出しが、新聞紙面において「オリンピック」を「五輪」と紙面で初めて表記された例である。川本信正は後年のインタビューの中で『以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた』と述べている。", "title": "五輪という訳語" } ]
近代オリンピック(きんだいオリンピック、は、 フランスの教育学者クーベルタン男爵の「スポーツによる青少年教育の振興と世界平和実現のために古代オリンピックを復興しよう」という呼びかけに応じて開催されるようになった、オリンピズムに基づき行われる祭典であり、オリンピズムを人々に広めるための祭典である。オリンピズムが目指しているのは、平和な世界を実現し人間の尊厳を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである。近代オリンピックは平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。国際オリンピック委員会が開催する。各国語で短く「Olympics オリンピック」と呼ばれ、日本語ではオリンピックシンボルにちなんで五輪と呼ぶこともある。
{{Redirect|オリンピック}} {{独自研究|date=2022年7月}} {{スポーツ大会シリーズ |大会名=近代オリンピック |画像=Olympic flag.svg |開始年=[[夏季オリンピック]]:<br>[[1896年]]([[1896年アテネオリンピック|アテネ]])<br />[[冬季オリンピック]]:<br>[[1924年]]([[1924年シャモニー・モンブランオリンピック|シャモニー・モンブラン]]) |終了年= |主催=[[国際オリンピック委員会]] |参加チーム数= |加盟組織=205ヶ国・地域の[[国内オリンピック委員会|NOC]] |前回優勝=対応 |最多優勝= |サイト=[https://olympics.com/ 国際オリンピック委員会] |備考=本部は{{SUI}}、[[ローザンヌ]]<br />第1公用語は[[フランス語]]、次に[[英語]]<br />[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン大会(2012年)]]では、204のNOCおよび[[2012年ロンドンオリンピックの独立参加選手団|独立参加選手団]]が参加。 }} {{読み仮名|'''近代オリンピック'''|きんだいオリンピック|{{Lang-fr-short|Jeux olympiques(modernes)}}、{{Lang-en-short|Olympic Games}}}}は、 [[フランス]]の[[教育学#著名な教育学者|教育学者]][[ピエール・ド・クーベルタン|クーベルタン男爵]]の「[[スポーツ]]による青少年[[教育]]の振興と[[平和|世界平和]]実現のために[[古代オリンピック]]を復興しよう」という呼びかけに応じて開催されるようになった、[[オリンピズム]]に基づき行われる[[祭典]]であり、オリンピズムを人々に広めるための祭典である<ref name="OSCkennkyuujo">[https://www.nittai.ac.jp/sports/basic/index.html オリンピックスポーツ文化研究所]</ref>。オリンピズム(オリンピック哲学)が目指しているのは、[[平和]]な世界を実現し[[人間]]の[[尊厳]]を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである<ref>[https://olympics.com/ioc/news/what-is-olympism/ International Olympic Comitee, "What is Olympism?"]</ref>。近代オリンピックは'''平和の祭典'''であり<ref name="OSCkennkyuujo" /><ref name='masumoto'>舛本直文『オリンピックは平和の祭典 』大修館書店、2019年</ref><ref >『オリンピックの事典―平和と青春の祭典』三省堂、1984年</ref>、単なる総合スポーツ大会ではない<ref name="OSCkennkyuujo" /><ref>[http://www.tamakimasayuki.com/nongenre/bn_97.html]</ref>。[[国際オリンピック委員会]](略称: IOC)が開催する。各国語で短く「'''Olympics オリンピック'''」と呼ばれ、日本語では[[オリンピックシンボル]]にちなんで'''[[五輪]]'''(ごりん)と呼ぶこともある。 == 概要 == スポーツが備えている力を活用し、良き手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などを人々に広め、人々の生き方を高めるための祭典であり<ref name="OSCkennkyuujo" />、それによって平和な世界や人間の尊厳が護られた世界が実現することを目的としており<ref name="OSCkennkyuujo" />、オリンピズムに基づいて開催され<ref name="OSCkennkyuujo" />、そのオリンピズムを人々に広めるための祭典である<ref name="OSCkennkyuujo" />。近代オリンピックの最重要の[[目的]]は人間の生き方を高め人類の平和や人間の尊厳を実現することであり、スポーツはそれのための手段である<ref name="OSCkennkyuujo" />。<!--そのような祭典であるため、{{要出典範囲|国際オリンピック委員会は、単に種目別競技会を行うだけでは良しとせず、人々にオリンピズムを感じさせ人間性を高めるきっかけとなる教育的なイベントを開会式で行うことも重視している|date=2021年7月}}。--> ; クーベルタンによる提唱、開催の目的、目的を明記した憲章 [[フランス]]の[[ピエール・ド・クーベルタン]]が、古代ギリシアの人々の行動に着目して着想した。[[古代ギリシア|古代ギリシャ]]人たちも普段は互いに憎みあい、[[戦争]]を行い、殺しあっていたのだが、[[古代オリンピック|ゼウス神の聖地であるオリンピアの地でゼウス神にささげる祭典]]が開催される間だけは、考え方を一変させ、戦争を一時的に停止し([[休戦]]。オリンピックの期間の停戦を特に[[オリンピック休戦]]と言う)、一か所に集い、「美にして善なること」を重んじ、つまり身体的な美しさだけでなく各人の心も道徳的であることを重んじた<ref name="OSCkennkyuujo" />。<!--{{要出典範囲|互いを尊重し、正々堂々と身体的な技を競い合っていたことに着目し、近・現代の人類があいもかわらず戦争や殺しあいを続け、互いを軽視し尊厳を踏みにじり続けて陥ってしまっている悲惨な状態を改善するために|date=2021年7月}}-->クーベルタンは古代ギリシアの人々のようにスポーツの持つ力を活用することを着想し、19世紀末の[[パリ大学]]ソルボンヌ大における会議で提唱し、それが決議されたのである。 近代オリンピックは、人々の道徳性を高め世界平和や人間の尊厳を実現するためにオリンピズムを広めることが最重要の目的で開催される祭典であるので、それを明記した[[オリンピック憲章]]が制定されており、関係者が常に守るべき国際オリンピック委員会倫理規定も定めてある。<!--{{要出典範囲|国際オリンピック委員会は、オリンピック参加者が(アスリートもスタッフも)民族間や異人種間の対立を煽り人類を戦争へと駆り立ててしまうような言動や、人権を抑圧したり軽視するような言動をしてしまうことを許さずそのようなことをしでかす者に関しては、その参加資格を剥奪することも辞さないとしている|date=2021年7月}}。--> ; 開催周期 もともと近代オリンピックは夏季オリンピックと冬季オリンピックが同じ年に、4年ごとに行われており<ref name="IOC_FAQ_Since_when">、[https://olympics.com/ioc/faq/history-and-origin-of-the-games/since-when-have-the-summer-and-winter-games-no-longer-been-held-in-the-same-year 国際オリンピック委員会公式ページ、Since when have the Summer and Winter Games no longer been held in the same year?(英語)]</ref>、このオリンピックによる4年間、4年ごとのピリオド(期間)は'''Olympiad [[オリンピアード]]'''と呼ばれている<ref name="IOC_FAQ_Since_when" />。1992年までは夏季と冬季が同じ年に行われていた(1992年バルセロナ夏季オリンピック、1992年アルベールビル冬季オリンピック)のであるが<ref name="IOC_FAQ_Since_when" />、IOCは1986年のローザンヌにおける総会で同じ年に開催するという点を変更することを決議し<ref name="IOC_FAQ_Since_when" />、その後も夏季オリンピックも冬季オリンピックもそれぞれ4年毎に開催されていることに変更は無いが、夏季オリンピックはオリンピアードの第一年に行い、冬季オリンピックはオリンピアードの第三年に行うようにされた<ref name="IOC_FAQ_Since_when" />。 <!--NOR 独自研究禁止。世界各国から集まった数千人の選手が参加し、夏と冬にスポーツ競技を行う国際的な大会である。 [[夏季オリンピック]]と[[冬季オリンピック]]が交互に開かれ、国際オリンピック委員会(IOC)が監督している。--> <!--もともと4年に1度大会が行われていたが、{{要出典範囲|[[1994年]]から[[夏季オリンピック|夏季大会]]は[[西暦]]で4の倍数の年、[[冬季オリンピック|冬季大会]]は[[単偶数|4の倍数でない偶数]]の年で、2年ずらして開催されるようになった。|date=2021年7月24日}}--> 夏季と冬季に大会があり、[[夏季オリンピック]]第1回は、[[1896年アテネオリンピック|1896年にアテネ]]([[ギリシャ]])で開催され、2度の[[世界大戦]]による中断を挟みながら継続されている。[[冬季オリンピック]]の第1回は、[[1924年シャモニー・モンブランオリンピック|1924年にシャモニー・モンブラン]](フランス)で開催された。<!--1994年以降は、{{要出典範囲|西暦が4で割り切れる年に夏季オリンピックが、4で割って2が余る年に冬季オリンピックが開催される|date=2021年7月}}。[[1994年リレハンメルオリンピック|1994年のリレハンメル大会]]より、「{{要出典範囲|夏季大会と冬季大会が2年おきに交互開催するようになった。|date=2021年7月24日}}」--> 冬季オリンピックが始まった当初は夏季オリンピックの開催国の都市に優先的に開催権が与えられてきたが、降雪量の少ない国での開催に無理が生じることから1940年代前半に規約が改正され、同一開催の原則が廃止された([[1928年アムステルダムオリンピック|1928年アムステルダム大会]]時の際、[[オランダ]]では降雪量不足で雪山が無く、会場の確保困難であったことからこの年の冬季大会は[[サンモリッツ]]([[スイス]])で開催された)。 大会の[[公用語]]は、第一公用語が[[フランス語]](近代オリンピック開催を提唱したピエール・ド・クーベルタンの母語がフランス語であった事に因む)、第二公用語が[[英語]]である。フランス語版と英語版の規定に相違がある場合はフランス語を優先する、としていることでフランス語を第1公用語とする事を明らかにしている。現在は、開催地の公用語のリストにフランス語も英語も含まれていない場合は、開閉会式等では開催地の公用語を第三の言語として加える場合がある。 [[1988年ソウルオリンピック|1988年ソウル大会]]以降、[[パラリンピック]]との連動が強化され、オリンピック終了後、同一国での開催<ref group="注">冬季大会は[[1992年アルベールビルオリンピック|1992年アルベールビル大会]]から。なお、初の同一国開催は[[1964年東京オリンピック|1964年東京大会]]であったが、この時はこの方式の定着はならなかった。</ref>がおこなわれている。 夏季オリンピックは開催されなかった場合も回数としてカウントされるが、冬季オリンピックは開催されなかった場合は回数としてカウントされない。 なお、夏季大会において第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・[[イギリス]]・フランス・[[スイス]]・[[オーストラリア]]<ref group="注">1908年・1912年のオリンピックでは、[[オーストララシア]]として参加。</ref>の5か国のみである。ギリシャによる開催は、1896年と2004年が正規のものとされている。第1回大会の十年後、1906年アテネ中間大会が唯一、例外的に開催され、開催事実も記録も公式に認めてメダル授与も行っている。しかし、4年に1度のサイクルから外れた開催であったため、後にこれはキャンセルとされ現在では正規の開催数に計上されておらず優勝者もメダリスト名簿から外され登録されてはいない。 == 歴史 == {{See also|オリンピック関連年表}} [[ファイル:OlympicRaceTrackOlympia.JPG|thumb|220px|right|オリンポスの古代競技場]] 各期毎の概略は、以下を参照。 === 黎明期 === [[ファイル:Stamp of Azerbaijan 281.jpg|thumb|right|250px|クーベルタンを描いた切手(1994年、アゼルバイジャン)。]] 1896年、[[ピエール・ド・クーベルタン|クーベルタン]]の提唱により、[[1896年アテネオリンピック|第1回オリンピック]]を[[ギリシャ王国]]のアテネで開催することになった。資金集めに苦労し、会期も10日間と短かったが、[[バルカン半島]]の小国の一つという国際的地位をいっそう向上させたいというギリシャ王国の協力もあり大成功に終わった。しかし、[[1900年パリオリンピック|1900年のパリ大会]]、[[1904年セントルイスオリンピック|1904年のセントルイス大会]]は同時期に開催された[[国際博覧会|万国博覧会]]の附属大会に成り下がってしまい、賞金つきの競技(1900年)、[[キセルマラソン]]の発覚(1904年)など大会運営にも不手際が目立った。[[1908年ロンドンオリンピック|1908年のロンドン大会]]、[[1912年ストックホルムオリンピック|1912年のストックホルム大会]]から本来のオリンピック大会としての体制が整いだした。1908年のロンドン大会ではフル[[マラソン]]の走行距離は42.195kmであったがこれが[[1924年パリオリンピック|1924年パリ大会]]以降固定され採用されている。この時期には古代オリンピックに倣いスポーツ部門と[[芸術競技|芸術部門]]のふたつ競技会が開催されており、クーベルタン自身は1900年パリ大会において芸術部門で金メダルを獲得している。 === 発展期 === [[ファイル:Berlin36-2.jpg|thumb|right|220px|ベルリンオリンピック時の[[ベルリン・オリンピアシュタディオン]]。右側の柱には[[ナチス・ドイツ]]の[[ハーケンクロイツ]]が描かれている。]] [[第一次世界大戦]]で[[1916年ベルリンオリンピック|1916年のベルリン大会]]は開催中止となったが、[[1920年アントワープオリンピック|1920年のアントワープ大会]]から再開され初めて[[オリンピックシンボル|オリンピック旗]]が会場で披露された。この時期は、[[選手村]]・[[マイクロフォン]](1924年)、冬季大会の開催(1924年)、16日前後の開催期間(1928年)、[[オリンピック聖火|聖火リレー]](1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。この時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安として国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。この様子は[[1924年パリオリンピック|1924年のパリ大会]]を描いたイギリス映画『[[炎のランナー]]』に詳しい。開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、[[1936年ベルリンオリンピック|1936年のベルリン大会]]では当時の[[ナチス・ドイツ|ナチス政権]]は巧みに国威発揚に利用した。聖火リレーやオリンピック記録映画の制作などの劇的な演出もこのとき始まった。その後、[[第二次世界大戦]]でオリンピックは2度も流会してしまうこととなる。 === 女性の参加 === 近代オリンピックで初めて女性の参加が認められた競技は、[[1900年]]の第2回[[パリオリンピック (1900年)|パリ大会]]での[[テニス]]と[[ゴルフ]]である。その後[[セントルイスオリンピック|セントルイス大会]]では[[アーチェリー]]、[[ロンドンオリンピック (1908年)|ロンドン大会]]ではアーチェリー・[[フィギュアスケート]]・テニス、[[ストックホルムオリンピック|ストックホルム大会]]では[[飛込競技|ダイビング]]・[[水泳]]・テニス、[[アントワープオリンピック|アントワープ大会]]ではダイビング・フィギュアスケート・水泳・テニスと変わったが、これらはいずれも大会を運営する[[中産階級]]の男性が許容できる「女性らしい」競技であった。[[ピエール・ド・クーベルタン|クーベルタン]]は「体力の劣る女性の参加はオリンピックの品位を下げることにつながる。」と女性の男性的競技の参加に否定的だった。[[アリス・ミリア]]は[[1919年]]に女子の陸上競技の参加を国際オリンピック委員会に拒否されると、[[1921年]]に[[国際女子スポーツ連盟]]を組織し、[[1928年アムステルダムオリンピック]]で5種目ではあったが陸上競技が採用された。 {{節スタブ}} === 拡大期 === [[第二次世界大戦]]が終結し、1948年に[[1948年ロンドンオリンピック|ロンドン]]でオリンピックが再開されたが、敗戦国の日本とドイツは招待されなかった。また1948年のロンドン大会から芸術部門が廃止され、スポーツ部門のみとなった。これによりオリンピックは「[[古代ギリシア|古代ギリシャ]]の権威を身にまとった世界屈指の国際的なスポーツ競技大会」としての性格を確立することになった。[[1952年ヘルシンキオリンピック|1952年のヘルシンキ大会]]より[[ソビエト連邦]]が初めて参加し、オリンピックは名実と共に「世界の大会」と呼ばれ、同時に[[冷戦|東西冷戦]]を象徴する場としてアメリカとソ連のメダル争いは話題となった。それに伴って[[二つの中国|二つの中国問題]]([[中華人民共和国|中国]]と[[中華民国|台湾]])やドイツ問題([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]と[[西ドイツ]])などといった新たな問題点も浮かび上がってくることとなる。[[航空機]]の発達は、欧米に限られていたオリンピックの開催を世界各国で可能にした。[[1956年メルボルンオリンピック|1956年メルボルン大会]]([[オーストラリア]])は[[南半球]]初、[[1964年東京オリンピック|1964年東京大会]]([[日本]])は[[アジア]]初の開催地として、大会が行われた。 === オリンピック冬の時代 === [[ファイル:München 1972 Gedenkstein.jpg|thumb|right|[[:en:Olympiapark, Munich|ミュンヘンオリンピック公園]]に設置された犠牲者の慰霊プレート。]] オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになると、[[1968年メキシコシティーオリンピック|1968年のメキシコシティ大会]]では黒人差別を訴える場と化し、[[1972年ミュンヘンオリンピック|1972年のミュンヘン大会]]ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対する[[テロリズム|テロ]]事件まで起きた([[ミュンヘンオリンピック事件]])。[[1976年モントリオールオリンピック|1976年のモントリオール大会]]になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカの諸国22ヶ国がボイコットを行った。そして、[[1980年モスクワオリンピック|1980年のモスクワ大会]]ではソ連の[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]]に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの[[西側諸国]]が相次いでボイコットを行った。[[1984年ロサンゼルスオリンピック|1984年ロサンゼルス大会]]ではソ連と[[東側諸国]]が報復ボイコットを行ない、参加したのはソ連と対立していた[[中華人民共和国|中国]]と[[ルーマニア]]だけだった。中でも、[[イラン革命]]後の[[イラン・イスラム共和国]]はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックをボイコットしている。 オリンピックが巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題となり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続いた。 === 商業主義 === 1984年のロサンゼルス大会は画期的な大会で、大会組織委員長に就任した[[ピーター・ユベロス]]の指揮のもとオリンピックをショービジネス化した。結果として2億1500万ドルの黒字を計上した。スポンサーを「一業種一社」に絞ることにより、スポンサー料を吊り上げ聖火リレー走者からも参加費を徴収することなどにより黒字化を達成したのである。その後「オリンピックは儲かる」との認識が広まり立候補都市が激増し、各国のオリンピック委員会とスポーツ業界の競技レベル・政治力・経済力などが問われる総力戦の様相を呈するようになり、誘致運動だけですら途方もない金銭が投入されるようになってゆく。 1989年12月の[[マルタ会談]]を以て[[冷戦]]が終結してからオリンピックへの冷戦の影響は減り、共産圏と旧共産圏の[[ステート・アマ]]も減ったがその反面[[ドーピング]]の問題や過度の招致合戦によるIOC委員に対する接待や賄賂など、オリンピックに内外で関与する人物・組織の[[倫理学|倫理]]面にまつわる問題が度々表面化するようになった。招致活動や関連団体への政治家の参入も増えている。 [[2008年北京オリンピック|北京大会]](+約10億元)<ref>[https://www.recordchina.co.jp/b32615-s0-c50-d0000.html <北京五輪>しめて140億円の黒字に=収入は予算以上、支出は...] - Record China</ref><ref>[https://www.mfa.gov.cn/ce/cejp//jpn/zgyw/t568862.htm 北京オリンピックの黒字 10億元超] - 中華人民共和国駐日本国大使館</ref>や[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン大会]](+約3000万ポンド)<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/news/f-sp-tp0-20130531-1135487.html ロンドン五輪最終決算は46億の黒字] - 日刊スポーツ、2013年5月31日</ref><ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/426394d3ba80fb8b2ba8e38702a7287f8aacd8aa ロンドンから見た新国立競技場の騒動 「カブトムシ」と「100円ショップ」化する日本] - Yahoo!ニュース(木村正人)2015年7月16日</ref>は、黒字となり商業的には成功した。 一方でIOC加盟、非加盟にかかわらず、ほとんどの[[国際競技連盟]]主催の大会で会場広告は許されており[[パラリンピック]]でも許されるようになったが、オリンピックではかたくなに禁止されている。広告収入がないだけでなく、オリンピック開催時の会場常設広告費の補償や撤去費、復元費は開催都市の負担を増している。 === アマチュアリズムの崩壊とプロ化 === [[アマチュアリズム]]の根底には「スポーツは貴族のもの」という階級主義があると考える人も多くいて世界に反階級主義が広がる中、アマチュアリズムはだんだんと軽んじられてきた。アマチュアリズムを徹底するとオリンピックは働かないでもスポーツに専念できる資産家ほど活躍できる状況になってしまうのであった。 一方で共産圏、旧共産圏の国や日本がスポーツアスリートを公務員として雇ったり、日本ではスポーツに専念している実質のプロ選手を国・自治体・公共団体・企業が雇うステートアマチュア、企業アマチュアが横行しアマチュアリズムを進めるにはステートアマチュア、企業アマチュアをやっていない国からの不満が抑えられない状況になっていた。 [[1974年]][[ウィーン]]での[[IOC総会]]において[[オリンピック憲章]]からアマチュア条項が削除されプロ選手の参加は各競技の[[国際競技連盟]]に任されることになった。 そののち、IOC内での「オリンピックを最高の選手が集う場にしたい」という意志と商業主義の台頭もあり、プロ選手の参加は促された{{要出典|date=2021年7月24日}}。 === アジェンダ2020 === {{See also|トーマス・バッハ#功績}} 21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が[[2008年北京オリンピック|北京]](中華人民共和国)、2016年が南米初の[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロ]](ブラジル)といった[[BRICs]]各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。 オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、[[トーマス・バッハ]]第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月の[[国際オリンピック委員会総会|IOC臨時総会]]で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)<ref>[https://www.sankei.com/premium/print/150304/prm1503040008-c.html 【未来へつなぐ】第5部「追加種目」選定のゆくえ(2)「肥大化抑制」のジレンマ 東京はモデル示せるか] - 産経ニュース、2015年3月4日</ref><ref>[https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sportiva/sports/sportiva-0000057912 <!-- https://news.livedoor.com/article/detail/11563577/ -->セッター宮下、リベロ佐藤。2人がメダル獲りの軸になる] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160601222843/http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/sportiva/sports/sportiva-0000057912 |date=2016年6月1日 }} - webスポルティーバ、2016年5月25日</ref>。1984年のロサンゼルスが6,829人(221種目)だったが、2008年の北京では10,942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすこと<ref>[https://japanese.joins.com/JArticle/203805 【寄稿】「最初」で「最後」の五輪をつくるIOC総会(2)] - 中央日報</ref>や、[[八百長]]防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた<ref>[https://kotobank.jp/word/アジェンダ2020-1725672 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 アジェンダ2020(あじぇんだにせんにじゅう)とは] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130817053914/https://kotobank.jp/word/ |date=2013年8月17日 }} - コトバンク</ref>。 == 開催都市 == {{See also|オリンピックの開催地選考}} [[ファイル:Summer olympics all cities.PNG|thumb|250px|right|夏季大会の開催(予定)状況<br/>都市(開催年、●は位置と回数:黒色は1回開催、橙色は2回開催、赤色は3回以上開催)但し、開催予定を含む。<br/>国別(緑色は1回開催、青色は2回以上開催)。]] [[ファイル:Winter olympics all cities.svg|thumb|250px|right|冬季大会の開催状況<br/>夏季の説明を参照のこと。]] 開催都市の多くが[[北半球]]の都市である。[[南半球]]では冬季大会の開催が1度もなく、夏季大会も[[1956年メルボルンオリンピック]]、[[2000年シドニーオリンピック]]、[[2016年リオデジャネイロオリンピック]]の3大会のみである(2032年に[[2032年ブリスベンオリンピック|ブリスベンオリンピック]]が開催される予定)。また、これまで[[アフリカ]]や、[[東アジア]]を除く[[アジア]]で開催されたことはない。 開催を行うに際しては、各国・地域でオリンピックの開催を希望する自治体からの審査・ヒヤリングを各国・地域オリンピック委員会が行い、まずその国・地域内でのオリンピック開催候補地1箇所を選ぶ。その候補地を国際オリンピック委員会に推薦し正式に立候補を行い、国際オリンピック委員会総会において、委員会理事による投票で過半数を得ることが必要である。ただし投票の過半数を満たしていない場合、その回の投票における最下位の候補地を次の投票から除外する仕組みで繰り返し過半数が出るまで投票を繰り返す(最終的に2箇所になったところで決選投票となる)。 === 開催都市一覧 === 参考:{{Cite web|title=Olympic Games|publisher=Encyclopædia Britannica|format=registration required|url=https://www.britannica.com/sports/Olympic-Games#ref=ref858167|accessdate=2009-04-02}} {|class="wikitable" |+'''開催都市一覧(濃い色の背景は中止になった大会)''' !rowspan="2"|開催年!!colspan="3"|[[夏季オリンピック]]!!colspan="3"|[[冬季オリンピック]]!!rowspan="2"|脚注 |- ![[オリンピアード]]<br />回!!開催国!!写真!!オリンピアード<br />次!!開催国!!写真 |-style="background-color:#EFEFEF" |1896||[[1896年アテネオリンピック|I]]||{{Flagicon2|Greece|old}} [[アテネ]]([[ギリシャ王国|ギリシャ]])||[[File:1896 Olympic opening ceremony.jpg|151x151ピクセル]] |rowspan="8" colspan="3" style="background:#f9f9f9"|&nbsp;||rowspan="2" style="background:#f9f9f9"|&nbsp; |- |1900||[[1900年パリオリンピック|II]]||{{Flagicon2|France|1794}} [[パリ]]([[フランス第三共和政|フランス]])|| |-style="background-color:#EFEFEF" |1904||[[1904年セントルイスオリンピック|III]]||{{Flagicon2|United States|1896}} [[セントルイス]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])||||<ref group="注">当初、[[シカゴ]]で開催と決定していたが、[[セントルイス万国博覧会]]との共催のため、[[セントルイス]]へ譲渡された。</ref> |- |1906||[[1906年アテネオリンピック|III]]||{{Flagicon2|Greece|old}} アテネ(ギリシャ)||||<ref group="注">この大会の後、4年ごとに開催された大会だけをオリンピックと呼ぶことになり、[[国際オリンピック委員会]]は、この大会を認めていない。特別大会或いは、中間大会と呼ばれる。</ref> |-style="background-color:#EFEFEF" |1908||[[1908年ロンドンオリンピック|IV]]||{{Flagicon|ITA1861}} [[ローマ]]([[イタリア王国|イタリア]])→<br />{{Flagicon2|United Kingdom}} [[ロンドン]]([[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]])||||rowspan="2" style="background:#f9f9f9"|&nbsp; |- |1912||[[1912年ストックホルムオリンピック|V]]||{{Flagicon2|Sweden}} [[ストックホルム]]([[スウェーデン]])|| |-style="background-color:#cccccc" |1916||[[1916年ベルリンオリンピック|VI]]||{{Flagicon2|German Empire}} [[ベルリン]]([[ドイツ帝国|ドイツ]])||||<ref group="注">[[第一次世界大戦]]のため開催中止。</ref> |- |1920||[[1920年アントワープオリンピック|VII]]||{{Flagicon2|Belgium}} [[アントウェルペン|アントワープ]]([[ベルギー]])||||rowspan="5"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |1924||[[1924年パリオリンピック|VIII]]||{{Flagicon2|France|1794}} パリ(フランス)|| [[File:ETH-BIB-Lausanne, La, Pontaise, Stade, olympique-LBS H1-016165 crop.tif|151x151ピクセル]] ||[[1924年シャモニー・モンブランオリンピック|I]]||{{Flagicon2|France|1794}} [[シャモニー=モン=ブラン]](フランス)||[[File:1924WOlympicPoster.jpg|209x209ピクセル]] |- |1928||[[1928年アムステルダムオリンピック|IX]]||{{Flagicon2|Netherlands}} [[アムステルダム]]([[オランダ]])||||[[1928年サンモリッツオリンピック|II]]||{{Flagicon2|Switzerland}} [[サンモリッツ]]([[スイス]])|| |-style="background-color:#EFEFEF" |1932||[[1932年ロサンゼルスオリンピック|X]]||{{Flagicon2|United States|1912}} [[ロサンゼルス]](アメリカ)|| [[File:The Australian Olympic Team at the Olympic Stadium, Los Angeles, 1932 - photographer unknown.jpg|151x151ピクセル]] ||[[1932年レークプラシッドオリンピック|III]]||{{Flagicon2|United States|1912}} [[レークプラシッド (ニューヨーク州)|レークプラシッド]](アメリカ)|| |- |1936||[[1936年ベルリンオリンピック|XI]]||{{Flagicon2|Nazi Germany}} ベルリン([[ナチス・ドイツ|ドイツ]])||[[File:Berlin Olympic Stadium 2.JPG|151x151ピクセル]]||[[1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック|IV]]||{{Flagicon2|Nazi Germany}} [[ガルミッシュ=パルテンキルヒェン]](ドイツ)|| |-style="background-color:#cccccc" |1940||[[1940年東京オリンピック|XII]]||{{Flagicon2|Japan}} [[東京市|東京]]([[日本]])→<br />{{Flagicon2|Finland}} [[ヘルシンキ]]([[フィンランド]])||||[[1940年札幌オリンピック|V]]||{{Flagicon2|Japan|1889}} [[札幌市|札幌]](日本)→<br />{{Flagicon2|Switzerland}} サンモリッツ(スイス)→<br />{{Flagicon2|Nazi Germany}} ガルミッシュ=パルテンキルヒェン(ドイツ)||||<ref group="注" name="ww2">[[日中戦争]]・[[第二次世界大戦]]のため開催中止。</ref> |-style="background-color:#cccccc" |1944||[[1944年ロンドンオリンピック|XIII]]||{{Flagicon2|United Kingdom}} ロンドン([[イギリス]])||||[[1944年コルチナ・ダンペッツオオリンピック|V]]||{{Flagicon|ITA1861}} [[コルティーナ・ダンペッツォ]](イタリア)||||<ref group="注">第二次世界大戦のため開催中止。</ref> |-style="background-color:#EFEFEF" |1948||[[1948年ロンドンオリンピック|XIV]]||{{Flagicon2|United Kingdom}} ロンドン(イギリス)||[[File:Olympic flame (1948 Summer Olympics).jpg|260x260ピクセル]] ||[[1948年サンモリッツオリンピック|V]]||{{Flagicon2|Switzerland}} サンモリッツ(スイス)||||rowspan="2" style="background:#f9f9f9"|&nbsp; |- |1952||[[1952年ヘルシンキオリンピック|XV]]||{{Flagicon2|Finland}} ヘルシンキ(フィンランド)|| [[File:Olympiastadionin torni2.jpg|201x201ピクセル]] ||[[1952年オスロオリンピック|VI]]||{{Flagicon2|Norway}} [[オスロ]]([[ノルウェー]])|| |-style="background-color:#EFEFEF" |1956||[[1956年メルボルンオリンピック|XVI]]||{{Flagicon2|Australia}} [[メルボルン]]([[オーストラリア]])<br />{{Flagicon2|Sweden}} ストックホルム(スウェーデン)||||[[1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピック|VII]]||{{Flagicon2|Italy}} コルティーナ・ダンペッツォ(イタリア)||||<ref group="注">メルボルンオリンピック→馬術競技のみ、検疫の関係で1956年6月10日から6月17日まで、スウェーデンのストックホルムで開催。</ref> |- |1960||[[1960年ローマオリンピック|XVII]]||{{Flagicon2|Italy}} ローマ([[イタリア]])|| [[File:Rome, Olympic Velodrome 1960.jpg|151x151px]] ||[[1960年スコーバレーオリンピック|VIII]]||{{Flagicon2|United States|1959}} [[スコーバレー]](アメリカ)||||rowspan="16"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |1964||[[1964年東京オリンピック|XVIII]]||{{Flagicon2|Japan|1947}} [[東京都|東京]]([[日本]])|| [[File:Tokyo Olympic Closing Ceremony 19641024.jpg|151ピクセル]] ||[[1964年インスブルックオリンピック|IX]]||{{Flagicon2|Austria}} [[インスブルック]]([[オーストリア]])|| |- |1968||[[1968年メキシコシティーオリンピック|XIX]]||{{Flagicon2|Mexico}} [[メキシコシティ]]([[メキシコ]])|| [[File:Stamp of Albania - 1968 - Colnect 334820 - Olympic Stadium Mexico City.jpeg|151ピクセル]] ||[[1968年グルノーブルオリンピック|X]]||{{Flagicon2|France}} [[グルノーブル]]([[フランス]])|| |-style="background-color:#EFEFEF" |1972||[[1972年ミュンヘンオリンピック|XX]]||{{Flagicon2|West Germany}} [[ミュンヘン]]([[西ドイツ]])|| [[File:2014 Olympic Stadium Munich.JPG|151x151ピクセル]] ||[[1972年札幌オリンピック|XI]]||{{Flagicon2|Japan|1947}} 札幌(日本)|| [[File:Sapporo Ski Jumping Tower Feb07 (edit).jpg|151ピクセル]] |- |1976||[[1976年モントリオールオリンピック|XXI]]||{{Flagicon2|Canada}} [[モントリオール]]([[カナダ]])||[[File:Montreal Olympic Stadium aerial view.jpg|151ピクセル]]||[[1976年インスブルックオリンピック|XII]]||{{Flagicon2|United States}} [[デンバー]](アメリカ)→<br />{{Flagicon2|Austria}} インスブルック(オーストリア)|| |-style="background-color:#EFEFEF" |1980||[[1980年モスクワオリンピック|XXII]]||{{Flagicon2|Soviet Union|1955}} [[モスクワ]]([[ソビエト連邦]])||[[File:RIAN archive 487025 Opening ceremony of the 1980 Olympic Games.jpg|151ピクセル]]||[[1980年レークプラシッドオリンピック|XIII]]||{{Flagicon2|United States}} レークプラシッド(アメリカ)|| |- |1984||[[1984年ロサンゼルスオリンピック|XXIII]]||{{Flagicon2|United States}} ロサンゼルス(アメリカ)|| [[File:Olympic Torch Tower of the Los Angeles Coliseum.jpg|151x151ピクセル]] ||[[1984年サラエボオリンピック|XIV]]||{{Flagicon2|Yugoslavia}} [[サラエヴォ]]([[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]])|| [[File:1984 Winter Olympics opening ceremony at Koševo Stadium, Sarajevo.jpg|151x151ピクセル]] |-style="background-color:#EFEFEF" |1988||[[1988年ソウルオリンピック|XXIV]]||{{Flagicon2|South Korea}} [[ソウル特別市|ソウル]]([[大韓民国|韓国]])|| [[File:서울올림픽 주경기장 (레울파크).jpg|151ピクセル]] ||[[1988年カルガリーオリンピック|XV]]||{{Flagicon2|Canada}} [[カルガリー]](カナダ)|| [[File:Pengrowth Saddledome.jpg|151x151ピクセル]] |- |1992||[[1992年バルセロナオリンピック|XXV]]||{{Flagicon2|Spain}} [[バルセロナ]]([[スペイン]])||||[[1992年アルベールビルオリンピック|XVI]]||{{Flagicon2|France}} [[アルベールヴィル]](フランス)|| [[File:1992 Winter Olympics Albertville halle olympique 02.JPG|151x151ピクセル]] |-style="background-color:#EFEFEF" |1994||colspan="3"|&nbsp;||[[1994年リレハンメルオリンピック|XVII]]||{{Flagicon2|Norway}} [[リレハンメル]]([[ノルウェー]])|| |- |1996||[[1996年アトランタオリンピック|XXVI]]||{{Flagicon2|United States}} [[アトランタ]](アメリカ)||[[File:JO Atlanta 1996 - Stade.jpg|151x151ピクセル]]||colspan="3"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |1998||colspan="3"|&nbsp;||[[1998年長野オリンピック|XVIII]] ||{{Flagicon2|Japan|1947}} [[長野市|長野]](日本)||[[File:長野オリンピックスタジアム - panoramio.jpg|151x151ピクセル]] |- |2000||[[2000年シドニーオリンピック|XXVII]]||{{Flagicon2|Australia}} [[シドニー]](オーストラリア)||[[File:2000 Sydney Women's long jump final.jpg|151x151ピクセル]]||colspan="3"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |2002||colspan="3"|&nbsp;||[[2002年ソルトレークシティオリンピック|XIX]]||{{Flagicon2|United States}} [[ソルトレイクシティ]](アメリカ)||[[File:2002 Olympic Cauldron (16031498717).jpg|151ピクセル]] |- |2004||[[2004年アテネオリンピック|XXVIII]]||{{Flagicon2|Greece}} アテネ([[ギリシャ]])||[[File:Olympic flame at opening ceremony.jpg|151x151ピクセル]]||colspan="3"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |2006||colspan="3"|&nbsp;||[[2006年トリノオリンピック|XX]]||{{Flagicon2|Italy}} [[トリノ]](イタリア)|| |- |2008||[[2008年北京オリンピック|XXIX]]||{{Flagicon2|China}} [[北京市|北京]]([[中華人民共和国|中国]])||[[File:Beijing national stadium.jpg|151x151ピクセル]]|| colspan="3" |&nbsp;|| |-style="background-color:#EFEFEF" |2010||colspan="3"|&nbsp;||[[2010年バンクーバーオリンピック|XXI]]||{{Flagicon2|Canada}} [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]](カナダ)||||rowspan="5" style="background:#f9f9f9"|&nbsp; |- |2012||[[2012年ロンドンオリンピック|XXX]]||{{Flagicon2|United Kingdom}} ロンドン(イギリス)||[[File:Olympic Stadium (London) illuminated, 3 August 2012.jpg|151x151ピクセル]]||colspan="3"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |2014||colspan="3"|&nbsp;||[[2014年ソチオリンピック|XXII]]||{{Flagicon2|Russia}} [[ソチ]]([[ロシア]])|| [[File:Fisht Olympic Stadium.jpg|151x151ピクセル]] |- |2016||[[2016年リオデジャネイロオリンピック|XXXI]]||{{Flagicon2|Brazil}} [[リオデジャネイロ]]([[ブラジル]])||[[File:Rio 2016 - Olimpíadas-Olympic games - Rio 2016 - Brasil (28688253821).jpg|151x151ピクセル]]||colspan="3"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |2018||colspan="3"|&nbsp;||[[2018年平昌オリンピック|XXIII]]||{{Flagicon2|South Korea}} [[平昌郡|平昌]](韓国)|| [[File:Alpensia 20170202 11 (32506753702).jpg|210x210ピクセル]] |- |2021<ref>{{Cite web|title=IOC member says 2020 Tokyo Olympics will be postponed because of coronavirus pandemic|url=https://www.usatoday.com/story/sports/olympics/2020/03/23/olympics-2020-ioc-member-tokyo-games-postponed-dick-pound-coronavirus/2899848001/|website=USA TODAY|accessdate=2020-03-23|language=en-US|first=Christine|last=Brennan}}</ref>||[[2020年東京オリンピック|XXXII]]||{{Flagicon2|Japan}} 東京(日本)||[[File:Fogos durante a abertura de Tóquio 2020.jpg|151ピクセル]]||colspan="3"|&nbsp;||<ref group="注">当初2020年に開催予定だったが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行]]の影響で、近代オリンピック史上初の延期となった。</ref> |-style="background-color:#EFEFEF" |2022||colspan="3"|&nbsp;||[[2022年北京オリンピック|XXIV]]||{{Flagicon2|China}} 北京(中国)||||rowspan="8" style="background:#f9f9f9"|&nbsp; |- |2024||[[2024年パリオリンピック|XXXIII]]||{{Flagicon2|France}} パリ(フランス)||||colspan="3"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |2026||colspan="3"|&nbsp;||[[2026年ミラノ・コルティナダンペッツォオリンピック|XXV]]||{{Flagicon2|Italy}} [[ミラノ]]/[[コルティーナ・ダンペッツォ]](イタリア)|| |- |2028||[[2028年ロサンゼルスオリンピック|XXXIV]]||{{Flagicon2|United States}} ロサンゼルス(アメリカ)||||colspan="3"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |2030||colspan="3"|&nbsp;||[[2030年冬季オリンピック|XXVI]]||[[File:Flag of None.svg|30px]]開催地未定|| |- |2032||[[2032年ブリスベンオリンピック|XXXV]]||{{Flagicon2|Australia}} [[ブリスベン]](オーストラリア)||||colspan="3"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |2034||colspan="3"|&nbsp;||XXVII||[[File:Flag of None.svg|30px]]開催地未定|| |- |2036||XXXVI||[[File:Flag of None.svg|30px]]開催地未定||||colspan="3"|&nbsp; |-style="background-color:#EFEFEF" |} == シンボル == [[ファイル:Lau1.jpg|right|thumb|250px|ローザンヌの本部前の記念碑。]]{{main|オリンピックシンボル}} == 式典 == {{Main|オリンピックの式典}} [[ファイル:Opening of XXII Winter Olympic Games (2338-07).jpg|200px|サムネイル|右|平和の象徴、鳩を表す群舞(2014年ソチ冬季オリンピックにて)。]] === 開会式 === {{See also|オリンピックの式典|Category:オリンピック開会式}} 開会式では、[[オリンピック賛歌]]を演奏することや[[オリンピックシンボル#オリンピック旗|オリンピック旗]]掲揚、開催国の[[国歌]]斉唱または演奏、走者達のリレーによる[[オリンピック聖火|聖火]]点火、そして平和の象徴の[[鳩]]が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた<ref>[[オリンピック憲章]] Olympic Charter 2003年版・日本語 [https://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter200300j.pdf] </ref>。しかし、[[オリンピック聖火#聖火台|聖火台]]で鳩を焼いてしまった[[1988年ソウルオリンピック|ソウル大会]]での一件<ref>THE SYMBOLIC RELEASE OF PIGEONS (FACTSHEET OPENING CEREMONY OF THE GAMES OF THE OLYMPIAD UPDATE - OCTOBER 2014) [http://www.olympic.org/Documents/Reference_documents_Factsheets/Opening_ceremony_of_the_Games_of_the_Olympiad.pdf]にソウルでの件が象徴的な(実際の生き物ではない)鳩の使用に置き換えられた理由として挙げられている。</ref><ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0728&f=national_0728_043.shtml サーチナ - 米紙、史上最悪の開幕式に「ソウルオリンピック」を選定=韓国 2012-07-28(土) 170001]</ref>や、[[外来種|外来生物]]への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から[[動物愛護団体|動物愛護協会]]の反対もあり、1998年の[[1998年長野オリンピック|長野大会]]からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。[[2012年ロンドンオリンピックの開会式|ロンドン大会]]では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し<ref>[http://london.yahoo.co.jp/live/text?id=818 ロンドンオリンピック Yahoo!スポーツ×スポーツナビ - その他ロンドン五輪 開会式 テキスト速報] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120727233711/http://london.yahoo.co.jp/live/text?id=818 |date=2012年7月27日 }}</ref>、そのうちの一人が[[ワイヤーアクション]]で空中へ上昇した<ref>[https://www.telegraph.co.uk/sport/olympics/london-2012/9434411/Opening-Ceremony-The-secrets-behind-the-dove-bikes-a-speedometer-and-a-blackout-zone-for-any-breakdowns.html Opening Ceremony The secrets behind the 'dove bikes' - a speedometer and a blackout zone for any breakdowns - Telegraph] <!-- [https://megalodon.jp/2012-0729-0921-50/ceciliobenito.blogspot.jp/2012/07/bike-olimpics-doves.html (cache)yo y mis circunstancias Bike olimpics doves] --></ref>。 開会式の入場行進はオリンピックの発祥地である[[ギリシャ]]の選手団が先導し、その後参加国は開催国の[[言語]]順<ref>[[アルファベット順]]など。一部例外あり。</ref>に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。 開会宣言はオリンピック憲章55条3項により以下のとおり。 * 夏季オリンピック : 私は、第○回(次)近代[[オリンピアード]]を祝し、オリンピック(開催都市名)大会の開会を宣言します。 * 冬季オリンピック : 私は、第○回オリンピック冬季競技大会(開催都市名)大会の開会を宣言します。 使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。[[2002年]]の[[2002年ソルトレークシティオリンピック|ソルトレークシティオリンピック]]では[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(On behalf of a proud, determined and grateful nation)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である<ref name="nikkeiioc"/>。 なお、[[2021年]]の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]では日本国天皇[[徳仁]]は「オリンピアードを祝し、」の代わりに「オリンピアードを記念する、」と述べ、開会宣言がなされた。これは、[[新型コロナウイルス感染症_(2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の世界的流行を踏まえ、IOCが和訳の一部を祝祭色の薄い言葉に変えるという判断をしたためである<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP7R76C4P7RUTIL01P.html 「陛下の開会宣言文言変更、割れる見方 IOCは承諾」]『[[朝日新聞デジタル]]』2021年7月23日 23時17分、同月26日閲覧。</ref>。 また、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとの[[ファンファーレ]]が演奏されることが通例となっている<ref group="注">2020年東京大会では演奏されなかった。</ref>。1984年の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス大会]]のファンファーレ([[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]作曲)は世界的に有名となった。なお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。 なお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。 === 閉会式 === {{See also|オリンピックの式典|Category:オリンピックの閉会式}} ; 表彰式 {{See also|オリンピックの式典}} == 競技種目 == {{Main|オリンピック競技}} == 大会の継続的運営と商業主義 == 大会の大規模化とともに開催に伴う開催都市と地元政府の経済的負担が問題となったが、ユベロスが組織委員長を務めた1984年のロサンゼルス大会では商業活動と民間の寄付を本格的に導入することによって、地元の財政的負担を軽減しオリンピック大会の開催を継続することが可能になった。それを契機とし、[[アディダス]]や[[電通]]などを始めとした企業から一大ビジネスチャンスとして注目されるようになった。 元々、オリンピックは発足当初からアマ選手のみに参加資格を限って来たが、旧共産圏(ソ連や[[キューバ]]など)の[[ステート・アマ|ステートアマ問題]]などもあり、1974年に[[オーストリア]]首都[[ウィーン]]で開催された第75回[[国際オリンピック委員会総会|IOC総会]]で、[[オリンピック憲章]]から[[アマチュア]]条項を削除した<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/athe2004/special/monogatari/mo2004012401.htm オリンピック物語第五部 アマとプロ〈4〉読売新聞 - 2004年1月24日付]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。さらに観客や視聴者の期待にも応える形で、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった(当初は[[テニス]]など限られていたが、後に[[バスケットボール]]、[[サッカー]]、[[野球]]などに拡大)。 1984年ロサンゼルス大会の後、[[フアン・アントニオ・サマランチ]]主導で商業主義([[利権]]の生成、放映権と提供料の高額化)が加速したと言われたことがあり、またかつて誘致活動としてIOC委員へ[[賄賂]]が提供された事などが問題になったことがある。さらには、年々巨大化する大会で開催費用負担が増額する傾向があったが[[ジャック・ロゲ]]会長の代になり、これまで増え続けていた競技種目を減らし、大会規模を維持することで一定の理解を得るようになった。 なお、現在のIOCの収入構造は47%が世界各国での放送権料で、また45%がTOPスポンサーからの協賛金、5%が入場料収入、3%がオリンピックマークなどのライセンス収入<ref>IOC REVENUE SOURCES AND DISTRIBUTION [http://www.olympic.org/ioc-financing-revenue-sources-distribution?tab=1]</ref>となっており、このうち90%を大会組織委員会と各国オリンピック委員会、各競技団体に配布する形で大会の継続的運用を確保している<ref>REVENUE SOURCES AND DISTRIBUTION [http://www.olympic.org/ioc-financing-revenue-sources-distribution?tab=0]</ref>。 === 開催費用 === (費用:[[アメリカ合衆国ドル]])<ref>[https://gigazine.net/news/20120716-the-bucks-behind-the-olympics/ オリンピックが開催されることで一体どれほどのお金が動いているのか 2012年07月16日]</ref> {|class="wikitable" !style="white-space:nowrap"|開催年!!開催都市!!style="white-space:nowrap"|税金からの出資!!総原価!!当初予算!!style="white-space:nowrap"|収益/損失!!style="white-space:nowrap"|負債支払終了年!!特記事項 |- |1976||モントリオール||||||||9億9000万ドル<br />(約2900億円:1ドル=293円換算)損失{{Sfn|小川(2012)|p=110}}||2016年11月{{Sfn|小川(2012)|p=111}}|| |- |1984||ロサンゼルス||||||||2.5億ドル収益<ref name="CIIC">{{Cite web|url=http://www.china.org.cn/english/sports/111340.htm|title=Beijing Olympiad: Profit or Loss?|accessdate=2008-08-17|publisher=China Internet Information Center}}</ref>||1984年||近代オリンピックで最も商業的に成功した大会と看做されている |- |1988||ソウル||||||||3億ドル<ref name="CIIC" />||1988年||政府が運営した大会としての最高収益記録である。 |- |1992||バルセロナ||||||||5億ドル利益<ref name="CIIC" />||1992年|| |- |1994||リレハンメル|||||||||||| |- |1996||アトランタ||5億ドル<ref>{{Cite web|title=The Olympic Legacy in Atlanta - <nowiki>[</nowiki>1999<nowiki>]</nowiki> UNSWLJ 38;(1999) 22(3) University of New South Wales Law Journal 902<!-- BOT GENERATED TITLE -->|url=http://www8.austlii.edu.au/cgi-bin/viewdoc/au/journals/UNSWLJ/1999/38.html#Heading21|work=|archiveurl=https://webcitation.org/5heLTjqoP?url=http://www.austlii.edu.au/au/journals/UNSWLJ/1999/38.html#Heading21|archivedate=2009年6月19日|deadurl=no|accessdate=2009-06-16|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>||18億ドル||||1000万ドル||1996年||収益は生んだものの、アトランタ大会での企業後援への大きな依存はオリンピックが過度に商業化されているとの批判を引き起こした。 |- |1998||長野|||||||||||| |- |2000||シドニー||||||||17億ドル<ref name="CIIC" />|||| |- |2002||style="white-space:nowrap"|ソルトレイクシティ||||12億ドル<ref>{{Cite news|title=IOC's Rogge Steps into the Cold - Feb 4, 2002 - The New York Times|url=https://www.nytimes.com/2002/02/04/sports/olympics-notebook-ioc-s-rogge-steps-into-the-cold.html?partner=rssnyt&emc=rss|accessdate=2010-02-13|first=Selena|last=Roberts|date=2002-02-04}}</ref>||||1億ドル<ref>{{cite news|title=Salt Lake Tops Forecast - 2002-09-18 - The New York Times|url=https://www.nytimes.com/2002/09/18/sports/salt-lake-profit-tops-forecast.html?pagewanted=1|accessdate=2010-02-13|date=2002-09-18}}</ref>||2002年||大会の5ヶ月前に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]の影響により、追加の警備費用が発生した。 |- |2004||アテネ||||style="white-space:nowrap"|150億ドル<ref>{{Cite web|title=As Olympic glow fades, Athens Questions $15 Billion Cost - 2008-07-21 - The Christan Science Monitor|url=https://www.csmonitor.com/World/2008/0721/p04s01-wogn.html|accessdate=2010-02-13}}</ref>||6億ドル||||||大会後から2008年まで、ヴェロドローム、ソフトボールスタジアムは未使用 |- |2006||トリノ||||36億ドル|||||||| |- |2008||北京||||430億ドル<ref>{{Cite news|title=Sparkling Display: Success Comes at a Price - 2008-08-09 - The Boston Globe|url=http://archive.boston.com/sports/articles/2008/08/09/sparkling_display/?page=2|accessdate=2010-02-13|first=Bob|last=Ryan|date=2008-08-09}}</ref>|||||||| |- |2010||バンクーバー||||||style="white-space:nowrap"|1.6億ドル<ref>{{Cite web|title=IOC head Rogge happy that 2010 Vancouver Games are on track - 2009-02-12 - TSN.com|url=https://www.tsn.ca/olympics/story/?id=266706|accessdate=2010-02-13}}</ref>||||||推測総費用:10億ドル |- |2012||ロンドン||||190億ドル<ref>[https://news.sky.com/story/920409/sky-investigation-olympics-bill-tops-12bn]</ref>|| |||||| |- |2014||ソチ||||約500億ドル<ref>https://www.cnn.co.jp/business/35042900.html</ref>|||||||| |- |2016||リオデジャネイロ|||||||||||| |- |2020||東京||||||3013億円<ref>https://biz-journal.jp/2016/09/post_16743.html</ref>|||||| |} == 問題点 == === 平和の祭典という根本目的に反する出来事 === オリンピックは平和の祭典であるが、その本来の目的とは逆に、IOC側の意図や予想を超えて、戦争遂行のための国威発揚やプロパガンダに利用されてしまったり、民族と民族の争い事の場にされてしまうということが起きている。 特に[[ナチス]]ドイツの[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]政権下による[[1936年ベルリンオリンピック]]は、オリンピックの持つ大きな影響力が、ヒトラーによって巧妙に利用されてしまい、ドイツ国民の心理操作の道具のひとつとして使われてしまった。<!--[[ナチズム]]に対する批判をかわすために一時的にユダヤ人政策を緩和した。-->ヒトラーが雇った監督によって大会中にフィルム撮影が行われたが、その後編集され出来上がった映画作品『[[オリンピア (映画)|オリンピア]]』は、オリンピックを本来の平和の祭典として扱うのではなく、ヒトラー好みの意味内容になるように勝手に「民族の祭典」という意味に見えるように編集してしまっており、ドイツ人の民族主義的感情を高揚させ戦争へと駆り立てるための道具のひとつとして映画館で繰り返し上映されたのであり、オリンピックが平和目的ではなく、真反対の、戦争目的で使われてしまった。また皮肉なことに、[[オリンピック聖火|聖火リレー]]のルートも、後日[[ドイツ国防軍]]がそのまま逆進したとされる。 またオリンピックの間は戦争を止めるというオリンピック休戦の意義が人々に理解されず、1972年にはオリンピックの場そのものが、[[ミュンヘンオリンピック事件|ミュンヘン大会におけるテロ事件]]の事件現場になってしまった。1996年のアトランタ大会でもオリンピック公園を標的としたテロが発生した。 冷戦期におけるモスクワ大会、ロサンゼルス大会の[[西側諸国]]・[[東側諸国]]による大規模ボイコット合戦<ref group="注">[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年) ]]を西側が非難しモスクワをボイコット。報復として東側もロサンゼルスをボイコット</ref>、冷戦下、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|1970年代後半から1980年代にかけてのアフガニスタン紛争]]が起きていた時期には、東西の「ボイコット合戦」という、形を変えてはいるが、東西陣営の醜い争い事がオリンピックの場で起きてしまった。 また国際オリンピック委員会は世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進する「オリンピックムーヴメント」を推進することをかかげているが、オリンピックムーヴメントの理念にそぐわない国が開催することに異議を唱える運動もしばしば起こり、2008年の北京大会では大会に反対する[[デモ]]が相次いだ。また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」([[:en:Russian gay propaganda law|en]])に抗議してアメリカ、ドイツ、フランスなど欧米諸国の首脳が開会式を欠席した<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/30930 反LGBT法で世界中から非難を受けるロシア] - 東洋経済オンライン</ref>。このような政治問題を抱えてしまっているオリンピックは「平和の祭典」とは言えないとも指摘されている。<ref>{{Cite web|和書|title=平和の祭典?オリンピックの真の姿と報道|url=https://globalnewsview.org/archives/14807|website=GNV|date=2021-05-20|accessdate=2021-07-19|language=ja}}</ref> === 国威発揚のための悪用 === 最初にオリンピックを政治的に利用し、国威の発揚、民族主義の高揚、戦争開始のためなどに悪用したのは[[1936年ベルリンオリンピック]]の際の[[アドルフ・ヒトラー]]であるが、[[戦後]]にオリンピックが世界的なイベントとして認知されると、国威発揚のために政治的に利用する国が多くなった。 オリンピック憲章ではオリンピックの政治的利用は禁止とされている<ref name="nikkeiioc">日本経済新聞朝刊2016年6月9日付</ref>が、金メダルをとった選手の表彰式の際、国歌が流れ、国旗が掲揚されてしまっている。オリンピックの場でこの[[儀式]]が行われてしまっていることに対して疑問を呈する人々はいる。1936年のベルリン大会のマラソン競技で[[日本統治時代の朝鮮]]から「日本代表」として出場し優勝した[[孫基禎]]も、強く疑問に思った{{Sfn|池井(1992)}}。 [[共産主義]]時代の[[ソビエト連邦|ソ連]]や[[東ヨーロッパ|東欧諸国]]では国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成し(いわゆる「[[ステート・アマ]]」)、メダルを量産してきた。共産主義が崩壊した今でもその傾向は続いており、2016年のリオデジャネイロ大会の前には[[ロシア]]が国家主導で過去の大会においてドーピング行為を行ったことが判明した(ドーピング問題については後述)。'''政治利用を防ぐため1968年メキシコ五輪時のIOC総会で表彰式での国旗・国歌を廃止する案が提出された'''が、(国威発揚のための利用しつづけている)'''共産圏の反対により否決された'''<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210724/ddm/001/070/103000c 余録:「表彰式における国旗と国歌を… | 毎日新聞]</ref>。 冷戦後でも同様で、中露ではもちろんのこと、アメリカ合衆国でも2002年の冬季ソルトレークシティ大会の開会式の際は前年の[[アメリカ同時多発テロ事件|米国同時多発テロ]]で崩壊した[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ニューヨーク世界貿易センタービル]]の跡地から発見された[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]が入場させている。 === 過熱化する招致合戦と賄賂問題 === 1988年大会は有利と言われていた名古屋を抑えてソウルが開催地に選ばれたが、その裏ではソウル関係者のIOC委員への過剰な接待がなされていたとされる{{Sfn|池井(1992)}}。1998年には、ソルトレークシティ大会の組織委員会が、カメルーンのIOC委員の子どもの奨学金を肩代わりしていた贈賄事件が発覚。翌1999年には、オーストラリア大会の招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことも発覚した。これを受け、複数のIOC委員が除名された。2017年には、ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長が、リオデジャネイロ大会招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕され、ブラジル検察によって起訴されている。またブラジル検察は、東京大会招致委員会からIOC関係者への送金についても明らかにし、買収目的だったと指摘している。ただし、開催費の高騰から、近年は立候補都市が減少している。 === 莫大な開催費 === 1976年のモントリオール大会では大幅な赤字を出し、[[モントリオール]]は2006年までの30年間にわたり特別税を徴収し、[[債務]]の返済を行った<ref>[https://japanese.joins.com/JArticle/191008 国際大会後はほとんどが「勝者の呪い」…仁川は例外になれるか(1)] - 中央日報</ref>。また2004年のアテネ大会では施設建設費の多くを[[国債]]で賄った結果、2010年の[[ギリシャの経済#ギリシャ経済危機 (2010年-)|ギリシャ危機]]の一因ともなった<ref>[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/161510 「ギリシャ危機」の原因はアテネ五輪 東京も無策で“二の舞”に] - 日刊ゲンダイ</ref>。前述のとおり、こうした莫大な開催費用が敬遠され、近年は立候補都市が減少している。 === スポンサーやテレビ局への優遇 === 1984年のロサンゼルス大会からは、商業主義を取り入れることとなった。この方式は成功したが、一方でIOCが、競技者よりも、金銭を提供するテレビ局やスポンサーを優遇する問題が生じている。2008年の北京大会ではアメリカのテレビ局[[NBC]]の意向で、アメリカでの[[視聴率]]が取りやすいように(北京の午前はアメリカの夜の[[ゴールデンタイム]]になるため)一部の競技の決勝が午前中に開催された。2018年の平昌大会ではその傾向が顕著になり、[[スキージャンプ]]競技は深夜の風の強いコンディションで行われ、更に普通夕方~夜に行われる[[フィギュアスケート]]は午前から競技開始と異例の競技時間となった<ref>[https://www.sankei.com/article/20180209-TSLU5FVKPRMKNMLON26ETL7FXY/ 競技時間は「マネー第一」運営 朝型?夜型? 日本人選手が苦心] [[産経新聞]]2018年2月9日(2018年3月11日閲覧)</ref>。2020年の[[2020年東京オリンピック|東京大会]]でも、NBAや[[メジャーリーグベースボール]]などアメリカ国内の他プロスポーツとの兼ね合いから開催時期を7~8月に設定した結果<ref group="注">[[NBAファイナル]]が6月、[[ワールドシリーズ]]が10月。シーズン中でバッティングしない時期がこの2か月間のみとなる。</ref>、後に猛暑から選手の健康を守るという観点で開催9ヵ月前にも関わらず、男女マラソンや[[競歩]]の開催地を東京から[[札幌市]]に移す一因にもなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kahoku.co.jp/editorial/20191025_01.html|title=五輪マラソンの札幌案/真の「選手ファースト」とは|accessdate=2019年11月8日|publisher=河北新報(2019年10月25日作成)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20191105034311/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019110101008&g=spo|title=強権振りかざしたIOC=物言わぬ日本、残ったしこり-東京五輪マラソン|accessdate=2019年11月8日|publisher=時事通信(2019年11月1日作成)}}</ref>。しかし、一方でアメリカの地上波テレビ局は視聴者が少なくなる7~8月には人気番組を放送したがらない。後述の[[#アンブッシュマーケティング規制の問題]]は、スポンサーにのみオリンピックへの言及を許し、一般企業がオリンピックを応援することを規制しようとする試みである。 === ボランティアという無給労働 === 大会の運営には、数万人の[[ボランティア]]が動員される。IOCも大会ボランティアの必要性を認めており、開会式あるいは閉会式には、ボランティアへの謝意が示される。しかしボランティアは無給であり、さらに開催地への滞在費などは自己負担であり、長期にわたって拘束される。そのため、2016年リオデジャネイロオリンピックでは、5万人のボランティアのうち1万5000人が欠勤した。その理由は過酷な労働条件が「参加するに値しない」と判断されたためであった。 著述家の[[本間龍]]は、現在の商業五輪において、様々な労働条件を付帯した無償ボランティアを募集することは、自発性、非営利性、公共性が求められるボランティアの本来の趣旨に反していると指摘し、「善意で集まってくるボランティアを徹底的に使役しようとしている」{{Sfn|本間(2018)|p=27}}、「五輪という美名のもとにあらゆる資格の価値を無視し、すべて無償で調達しよう」{{Sfn|本間(2018)|p=36}}としているとして批判している。また、2020年東京五輪組織委員会のボランティア募集の呼びかけに応じた教育機関や医療関係団体が、学生や加盟者にボランティア参加要請することについては、「思慮がない」「無責任」と批評している。 === ドーピング問題 === 1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤の[[アンフェタミン]]を投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCは[[ドーピング]]対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会で[[ベン・ジョンソン (陸上選手)|ベン・ジョンソン]]が100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物の[[スタノゾロール]]が発見されて失格になってからである。その後1999年には[[世界アンチ・ドーピング機関]](WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発…といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前には[[ロシア]]が国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった<ref>[https://www.bbc.com/japanese/36983373 ロシア選手271人がリオ五輪出場へ] – BBC NEWS Japan 2016年8月5日発信</ref>。 === アンブッシュマーケティング規制の問題 === ==== オリンピック委員会側が主張する問題 ==== [[国際オリンピック委員会]]は、無関係の会社や店舗などの組織が「オリンピックを応援する」などと言うことは、実際は応援では無くオリンピックの知名度等を不正に利用する「[[アンブッシュマーケティング]]」であると称し、禁止をしている。その理由としてオリンピックの公式スポンサー([[:Category:IOCワールドワイドパートナー|ワールドワイドパートナー]]、ゴールドパートナー、オフィシャルパートナー、オフィシャルサポーター。[[#The Olympic Partners programme]])のみが排他的な商業的利用権が与えられていると述べている<ref>{{PDFlink|[https://tokyo2020.org/jp/copyright/data/brand-protection-JP.pdf 大会ブランド保護基準]}}</ref>。 ==== 他組織の見解主張 ==== [[日本広告審査機構]](JARO)は、「いかなる文言を使用しようとも、商業広告で2020年のオリンピック東京大会を想起させる表現をすることは、アンブッシュ・マーケティング(いわゆる便乗広告)として不正競争行為に該当するおそれがあり、JOC([[日本オリンピック委員会]])やIOC(国際オリンピック委員会)から使用の差し止め要請や損害賠償請求を受ける可能性がある」<ref>NGの恐れのあるオリンピック広告の表現例 日本広告審査機構 [https://www.jaro.or.jp/ippan/saikin_shinsa/20130913.html]</ref>との見解を出しており、「東京オリンピック・パラリンピックを応援しています」という直接的な表現以外に「祝・夢の祭典」「2020円キャンペーン」など間接的に連想できる物もアンブッシュマーケティングである可能性であることを示唆している。 ライターで1級[[知的財産管理技能士]]の友利昴はオリンピック委員会の規制には根拠がないことが明らかにしている。過去の裁判やトラブル事例から「キャンペーンや抗議行動の態度からうかがえる、非常に旺盛な権利保護方針の割には、実際にはなんでもかんでも訴えているわけではない」{{Sfn|友利(2018)|p=151}}と指摘し、アンブッシュマーケティングをめぐり訴訟になった数少ない裁判では、IOC側が敗訴していることを挙げている(オーストラリア、カナダ)。また上記のJAROの見解はIOCやJOCへの忖度に過ぎないとして、(JAROが正しい法的検討をせずに)「逃げを打つのは、広告業界の指針となるべき団体として、適切な姿勢といえるだろうか」{{Sfn|友利(2018)|p=181}}と批判している。 日本の商標権に関する規則では登録商標は同一又は類似した商品・役務の登録商標にのみ独占権があるとしており、オリンピックそのもの(大会や委員会)を示すために使うことは合法であるとしている。飲食店の屋号や商品の表示として権利者に許可無く「オリンピックレストラン」、「オリンピック公式レストラン」、「オリンピック公式テレビ」、「オリンピックテレビ」などと表示するのは違法だが{{Efn2|[[首都圏 (日本)|首都圏]]で[[スーパーマーケット]]や[[ホームセンター]]を展開している[[Olympicグループ]]はIOCによる商業主義路線が本格化する前に創業した歴史的経緯があるため、JOCとの協議を経て、現状維持となっている<ref>{{Cite web|和書|title=五輪商戦、商標に注意|url=https://www.nikkei.com/article/DGKDZO60352250Y3A920C1TCJ000/|website=日本経済新聞|date=2013-09-30|accessdate=2021-07-26}}</ref>。}}、本物のオリンピックに対して「オリンピックを見ながら飲食しましょう」、「本テレビでオリンピックを観ましょう」と宣伝するのは問題無いとしている(商標としての独占であり、言葉の独占では無い)。 著作権法上では公式のロゴやマークを許可無く利用する事は一般的に禁止されており、オリンピックも同様である。店内でのオリンピック競技の放映をオリンピック委員会の許可無く行う事は禁止されているが、誰でも見られる放送をそのまま店内の民生用機器で再生する事は一般的な権利として認められる。このため、テレビ放映されているオリンピックの映像を店内で流すことに関しては問題が無い。この場合は放送局がオリンピック委員会に放送するという事で利用料を払っている。 === 設備の維持管理 === 開催に向けて土地を工面し巨額な建設費をかけて完成した競技会場及び関連施設が、大会終了後は維持管理先が決まらなかったり、再活用や運営が予定通りに進まず資金面などで維持管理が困難になる結果、レガシーとして残されずに撤去されたり廃墟化するケースがある<ref>{{Cite web|和書|title=まるでゴーストタウン、廃墟と化した世界の五輪開催地10選|url=https://www.msn.com/ja-jp/sports/news/まるでゴーストタウン、廃墟と化した世界の五輪開催地10選/ss-BBIn8ei#image=1|publisher=[[マイクロソフト]]|date=2018-04-01|accessdate=2019-01-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=北京五輪の「レガシー」はいま 開幕から10年、一部は廃墟化|url=https://www.sankei.com/article/20180807-4UAZ4E35FBPWLGBA2FGPV5SUSA/|publisher=[[産経新聞]]|date=2018-08-07|accessdate=2019-01-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=長野五輪の負の遺産 ボブスレー会場、競技使用を停止 |url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO14459700U7A320C1ML0000?channel=DF220420167266|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2017-04-15|accessdate=2019-01-02}}</ref><ref>{{Cite news|newspaper=[[毎日新聞]]|url=http://mainichi.jp/select/news/20131128k0000m040159000c.html|title=ボブスレーハウス:大雪と老朽化で倒壊…札幌五輪で建設|date=2013-11-28|access=2019-01-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131201023009/http://mainichi.jp/select/news/20131128k0000m040159000c.html|archivedate=2013-12-01}}</ref>。 == The Olympic Partners programme == {{Lang-en-short|The Olympic Partners}}(略してTOP)programmeとは、特定カテゴリーを一社で独占できるようなグローバルな[[スポンサーシップ]]のことである<ref>[http://www.olympic.org/sponsors Olympic Sponsorship - The Olympic Partner (TOP) Programme]</ref>。元々、オリンピックマークの商業使用権は各国の[[国内オリンピック委員会]](NOC)が各々で管理をしていたが、サマランチ会長がIOCの一括管理にした事から1988年の冬季カルガリー大会と夏季ソウル大会から始まったプログラムで、オリンピックの中でも全世界的に設けられた最高位のスポンサーである。基本的には4年単位の契約で1業種1社に限定されており、毎回計9〜11社ほどが契約を結んでいる<ref>『黒い輪』 V・シムソン、A・ジェニングス 光文社</ref>。なお、TOPに[[パナソニック]]、[[サムスン電子|サムスン]]と同業種の企業が名を連ねているが、これはパナソニックが音響・映像機器、サムスンは無線通信機器と細分化されており、その他の製品など上記と重ならないカテゴリーのスポンサーとなっているからである。また2019年、ノンアルコール飲料で長らくスポンサー契約を続けてきた[[ザ コカ・コーラ カンパニー]]が[[蒙牛乳業]]と共同で2021年以降のスポンサー契約を結んだ。IOCは特例としてこれを認めている。 この他にも、各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした「ゴールドスポンサー」(1社数十億円程度)、権利はゴールドスポンサーと同様だがTOPと競合しない事が条件の「オフィシャルサプライヤー/サポーター」(1社数億円程度)、グッズの商品化のみが可能な「オフィシャルライセンシー」がある。 2022年現在、 * [[airbnb]](SNS)<ref>[https://twitter.com/Airbnb_jp/status/1196382552447242240?s=20 Airbnb Japan(@Airbnb_jp)さんがツイートしました: AirbnbはIOCのパートナーとなりました。]</ref> * [[アリババグループ]](ECサービス、情報技術) * [[アリアンツ]](保険) * [[アトス (企業)|アトス]](情報技術)[https://www.olympic.org/sponsors/atos] * [[ブリヂストン]](タイヤ、免震ゴム、自転車)<ref>{{Cite web|和書|date=2014-06-13|url=https://www.bridgestone.co.jp/20140613/|title=ブリヂストン、オリンピックの公式パートナーに決定|publisher=ブリヂストン|accessdate=2015-03-13}}</ref> * [[コカ・コーラ・カンパニー|コカ・コーラ]]/ [[蒙牛乳業]](ノンアルコール飲料、乳製品) * [[デロイト トウシュ トーマツ]](会計事務所) * [[インテル]](情報機器) * [[オメガ]](時計、計時、採点システム) * [[パナソニック]](音響・映像機器) * [[プロクター・アンド・ギャンブル|P&G]](家庭用品) * [[サムスン電子|サムスン]](無線通信機器) * [[トヨタ自動車]](モビリティ)<ref>{{Cite web|和書|date=2015-03-13|url=https://global.toyota/jp/detail/6913459/|title=トヨタ自動車、IOC TOPパートナーに決定|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2015-03-13}}</ref> * [[Visa]](クレジットカード他決済システム) の14分野15社が名を連ねている。 The Olympic Partners(TOP)は指定された製品カテゴリーの中で独占的な世界規模でのマーケティング権利と機会を受ける事ができる。また、IOCやNOC、オリンピック組織委員会といった関係団体と共に商品開発などをする事も可能である{{要出典|date=2021年7月24日}}。 {{要出典範囲|なお、TOPはすべての大会の権利使用許可、大会放送での優先的な広告機会、大会への接待機会、便乗商法からの権利保護、大会会場周辺での商業活動、公式スポンサーとしての認知機会が与えられる。|date=2021年7月24日}} === スポンサーを巡るトラブル === 2012年に開催された[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]において、同オリンピック組織委員会の会長が[[英国放送協会|BBC]]のラジオ番組において、「(公式スポンサーである[[ザ コカ・コーラ カンパニー|コカ・コーラ]]の同業他社の)[[ペプシコーラ|ペプシ]]のロゴ入り[[Tシャツ]]を着ている観戦者は競技場に入れないだろう」と発言したために問題となり、[[ロンドン|ロンドン市]]などが火消しに追われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2012/news/topic/1/20120721-OYT1T00693.htm|title=ペプシTシャツお断り?五輪スポンサー巡り論争|accessdate=2021-07-19|date=2012-07-22|website=読売新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120724174729/http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2012/news/topic/1/20120721-OYT1T00693.htm|archivedate=2012-07-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ペプシのTシャツは禁止? 「商業五輪」過熱で論争|url=http://www.asahi.com/olympics/news/TKY201207240113.html|website=朝日新聞|accessdate=2021-07-19|date=2012-07-25}}</ref>。 2021年には[[茨城県立カシマサッカースタジアム|カシマサッカースタジアム]]([[茨城県]][[鹿嶋市]])で行われる予定の東京オリンピック[[オリンピックのサッカー競技|サッカー競技]]の観戦を巡り、一部の学校において、児童生徒がペットボトルをスタジアムに持ち込む際に出来るだけ(公式スポンサーである)コカ・コーラ社製とするように保護者に対して文書で通知していることが[[Twitter]]上で拡散し、批判が出る事態となった。鹿嶋市の[[教育委員会]]によると、実際は混乱防止の観点から、メーカーを問わず、飲料のラベルを一律で剥がすように指示していた<ref>{{Cite web|和書|title=五輪の学校観戦「飲料はコカ・コーラ製で」 保護者への通知が物議も...市教委「案内したことと違う」|url=https://www.j-cast.com/2021/07/19416513.html?p=all|website=J-CASTニュース|date=2021-07-19|accessdate=2021-07-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=五輪観戦にはコカ・コーラ社製を 鹿嶋市の小学校が通知|url=https://www.asahi.com/articles/ASP7M6RSPP7MUJHB00C.html|website=朝日新聞|accessdate=2021-07-20|date=2021-07-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=飲料メーカー「指定」依頼 学校応援で茨城・鹿嶋の一部学校 扱い巡り市に苦情|url=https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16267029501176|website=茨城新聞|accessdate=2021-07-20|date=2021-07-20}}</ref>。また選手村では(公式クレジットカードの)VISAカード以外は使用出来ない<ref>{{twitter status|TristanAJE|1417351857337376768|アルジャジーラのレッドマン記者の情報。2021年7月20日14時15分}}</ref>。 == 日本との関わり == 日本が初めて参加したのは、1912年に開催された[[1912年ストックホルムオリンピック|ストックホルム大会]]である。これはオリンピックの普及に腐心した[[ピエール・ド・クーベルタン|クーベルタン男爵]]の強い勧めによるものであるが、[[嘉納治五郎]]を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダム大会]]からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。 なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の[[三島弥彦]]とマラソン選手の[[金栗四三]]で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。 日本選手のメダル獲得、[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリン大会]]から始まったラジオ実況中継<ref group="注">ラジオでの報道はその前のロサンゼルス大会からおこなわれたが、このときは権利を持つアメリカの放送局との放送権料の交渉が決裂したため、アナウンサーが会場で見た光景を、放送局のマイクで再現して話す「実感放送」だった。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150927095703/https://www.nhk.or.jp/archives/search/special/comic/?movie#vol02 実感放送 そして、前畑ガンバレ! - マンガで読むNHKヒストリー]</ref>、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、[[1940年東京オリンピック|1940年の夏の大会]]を東京に、[[1940年札幌オリンピック|1940年の冬の大会]]を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は[[日中戦争]]([[支那事変]])の激化もあり自ら開催権を返上した<ref group="注">代替開催地としてヘルシンキが選定されたが、これも第二次世界大戦の勃発で中止となった。</ref>。戦後の[[1948年ロンドンオリンピック|ロンドン大会]]には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、[[1952年ヘルシンキオリンピック|ヘルシンキ大会]]より復帰している。 日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京で2度([[1964年東京オリンピック|1964年]]、[[2020年東京オリンピック|2021年]])、冬季オリンピックを[[1972年札幌オリンピック|札幌]](これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および[[1998年長野オリンピック|長野]]で行っている。なお、世界で初めて夏季・冬季両方のオリンピックの開催地となった都市は、[[長野県]]の[[軽井沢町]]である<ref group ="注">1964年の夏季オリンピックでは[[1964年東京オリンピックの馬術競技|総合馬術競技]]、1998年の冬季オリンピックでは[[1998年長野オリンピックのカーリング競技|カーリング競技]]が行われた。</ref><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=CGZYAAAAYAAJ&q=karuizawa+summer+winter+olympics&dq=karuizawa+summer+winter+olympics&hl=ja&newbks=1&newbks_redir=0&source=gb_mobile_search&sa=X&ved=2ahUKEwjU_72qjuv8AhWMdHAKHQDSDpcQ6AF6BAgEEAM#karuizawa The Olympian 第24巻], [[アメリカオリンピック・パラリンピック委員会|United States Olympic Committee]], 1998, p.29.</ref>。 === 報奨金 === [[日本オリンピック委員会]]は、[[1992年アルベールビルオリンピック]]以降のオリンピック金メダリストに300万円([[2016年リオデジャネイロオリンピック]]からは500万円)、銀メダリストに200万円、銅メダリストに100万円の報奨金を贈っている。 == 五輪という訳語 == 五輪(ごりん)という訳語は、近代オリンピックのシンボルマークである5色で表現した5つの輪と[[宮本武蔵]]の『[[五輪書]]』の書名を由来として、[[読売新聞]]記者の[[川本信正]]が[[1936年]]に考案<ref>{{リスト|[https://web.archive.org/web/20160306212701/https://info.yomiuri.co.jp/group/history/img/index_img_09.jpg 「五輪旗 伯林に着く」(1996年7月25日付読売新聞夕刊)]|東京オリンピックを前に、「五輪」誕生のいきさつを語る川本信正さん(1964年8月16日付読売新聞朝刊社会面)<br/>『あれは、ベルリン大会のあと、やたらにオリンピックということばが、使われだしましてね。長ったらしい外国語なので、万国運動大会とか、いろいろ略語を考えていたんですが、菊池寛の随筆のなかに、宮本武蔵の極意"五輪の書"というのが出てきた。五つの輪、それにゴリンはオリンピックに音も似てるというので、読売新聞の紙面で、使い始めたんです。はじめは五厘なんて安っぽいとかいわれましたが、戦後は、すっかり、通用するようになったですね』 (1964年8月16日付 読売新聞朝刊社会面より)|{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qaetc/20130911-OYT8T00950.htm |title=オリンピックを「五輪」と呼ぶのはなぜですか。また、「パラリンピック」とはどういう意味ですか。 : COME ON ギモン:その他 : Biz活 : ジョブサーチ : YOMIURI ONLINE(読売新聞) |archive-url=https://web.archive.org/web/20130916014403/http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qaetc/20130911-OYT8T00950.htm |date=2013-09-12 |access-date=2013-09-16 |archive-date=2013-09-16|deadlin=20180301 |author=保高芳昭}}|{{Cite web|和書|url=https://info.yomiuri.co.jp/group/history/index.html#history-01-09 |title=読売新聞小史:会社案内サイト「読売新聞へようこそ」 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160302031237/https://info.yomiuri.co.jp/group/history/index.html#history-01-09 |date=2013-09-12 |access-date=2013-09-16 |archive-date=2013-09-16|deadlin=20180301 |author=保高芳昭}}|保高芳昭「[https://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qaetc/20130911-OYT8T00950.htm オリンピックを「五輪」と呼ぶのはなぜですか。また、「パラリンピック」とはどういう意味ですか。]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}」 [[読売新聞]] 2013年9月12日}}</ref>した。同1996年7月25日付の読売新聞夕刊に掲載された「五輪旗 [[ベルリン|伯林]]に着く」との見出しが、新聞紙面において「オリンピック」を「五輪」と紙面で初めて表記された例である。川本信正は後年のインタビューの中で『以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた』と述べている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=日本オリンピック協会(監修) |title=近代オリンピック100年の歩み |date=1994年 |publisher=ベースボール・マガジン |isbn=4-583-03135-1}} * {{Cite book |和書 |author=池井優 |title=オリンピックの政治学 |date=1992年 |publisher=丸善 |isbn=4-621-05053-2 |ref={{SfnRef|池井(1992)}} }} * {{Cite book |和書 |author=小川勝 |title=オリンピックと商業主義 |date=2012年 |publisher=集英社 |isbn=978-4-08-720645-6 |ref={{SfnRef|小川(2012)}} }} * {{Cite book |和書 |author=本間龍 |title=ブラックボランティア |date=2018年 |publisher=KADOKAWA |isbn=978-4-04-082192-4 |ref={{SfnRef|本間(2018)}} }} * {{Cite book |和書 |author=友利昴 |title=オリンピックVS便乗商法:まやかしの知的財産に忖度する社会への警鐘 |date=2018年 |publisher=作品社 |isbn=978-4-86182-726-6 |ref={{SfnRef|友利(2018)}} }} * 「[https://globalnewsview.org/archives/14807 平和の祭典?オリンピックの真の姿と報道]」Global News View (GNV). 2021年5月20日. Kyoka Maeda. == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|オリンピック}} {{Portal オリンピック}} * [[オリンピック関連用語一覧]] * [[オリンピック関連年表]] * [[オリンピック競技]] * [[近代オリンピックでの国・地域別メダル総獲得数一覧]] * [[日本オリンピック委員会]] * [[ワールドゲームズ]] * [[パラリンピック]] * [[スペシャルオリンピックス]] * [[デフリンピック]] * [[プレオリンピック]] * [[ユースオリンピック]] * [[ユニバーシアード]] * [[ジャパンコンソーシアム]] - 日本でのオリンピックや[[FIFAワールドカップ]]の放送に際する[[日本放送協会|NHK]]・[[民間放送]]の合同組織 * [[オリンピック景気]] * [[オリンピック・レガシー]] * [[オリンピアード]] * [[古代オリンピック]] * [[オリンピック・バーチャルシリーズ]] * [[総合競技大会]] - 国際的に「競技大会」といえばこの単語が先に上がる。'''マルチスポーツイベント''' とも称される。オリンピックはこれらの中で最も重要なポジションを占めている * [[:Category:オリンピックを題材とした作品]] == 外部リンク == {{Wikiquote|オリンピック}} * 公式 ** 国際オリンピック委員会{{En icon}} ** アジア・オリンピック評議会{{En icon}} ** 日本オリンピック委員会{{Ja icon}} ** 五輪|NHKアーカイブス ** [https://www.jiji.com/jc/v2?id=20091002olympic_games_history&rel=j&g=phl 近代オリンピックとその時代] - [[時事通信]] * 大会 ** 夏季ロンドンオリンピック2012{{En icon}} ** 冬季ソチオリンピック2014 {{En icon}} ** 夏季リオオリンピック2016 {{En icon}} ** 冬季平昌オリンピック2018 {{En icon}} ** [https://olympics.com/ioc/tokyo-2020 夏季東京オリンピック2020] {{En icon}} {{オリンピック}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きんたいおりんひつく}} [[Category:オリンピック|*きんたい]]
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オープンソース
オープンソース(英: open source)は、専らオープンコラボレーション(英語版)を促進する目的で、コンピュータプログラムの著作権の一部を放棄し、ソースコードの自由な利用および頒布を万人に許可するソフトウェア開発モデル。この開発モデルでは、コンピュータで実行できるが人間が容易に理解・変更できないオブジェクトコードだけでなく、ソースコードも含めて自由な再頒布を許可するライセンスのもとで公開する。 オープンソースを推進するために設立されたオープンソース・イニシアティブは、ソフトウェアがオープンソースであるための要件を定めた「オープンソースの定義」を策定した。 「オープンソース」という用語が作られる前年、1997年当時、「フリーソフトウェア」というものに対する経営者や投資家の印象は必ずしも良いものではなかった。1つには、「自由なソフトウェア」を意味する「フリーソフトウェア」という言葉が多くの場合に使われていた「無償のソフトウェア」という意味と紛らわしく、無償という考え方は営利目的主体のビジネスには馴染まなかったことがある。また1つには、フリーソフトウェア運動を進める中心的な存在であるフリーソフトウェア財団がフリー(自由)ではないソフトウェア(プロプライエタリソフトウェア)に対して攻撃的であったことがある。さらに1つには、フリーソフトウェア財団の「フリーソフトウェア」が掲げていた「コンピュータのプログラマとユーザは、何の制約も受けずにソフトウェア(のソースコード)を他人と共有できるべきなのである」という主張が共産主義的だとされた。そのような背景から、「フリーソフトウェア」は営利目的の企業としては関わりたくない対象であった。 1998年2月3日、パロアルトにおいて、マイクロソフトのInternet Explorerとの競争でシェアが低下したネットスケープコミュニケーションズのブラウザNetscape Navigatorの建て直しの戦略会議が開かれた。会議では製品の機能と品質の向上とシェア回復のために、技術者の参加を募集する方法、誰でも開発および供給に参加できる理念について議論していた。そこでソースコードの公開は有意義であるが、フリーソフトウェア運動の急進的な思想は非現実的であり、その極端な思想がビジネスの世界からは拒否されていると考えた人々は、「free software」に代わる用語と理念を検討した。そこで「オープンソース」という用語をクリスティン・ピーターソン(英語版)が提案した。また、「オープンソース」では敢えて自由という点を強調はせず、むしろ「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」を関心の中心とした。 「オープンソース」はフリーソフトウェア運動をしているラリー・オーガスティン(英語版)、ジョン・ホール、サム・オックマン、マイケル・ティーマン、エリック・レイモンドなどの会議の参加者に受け入れられた。翌週、エリック・レイモンドたちは用語の展開を働きはじめた。リーナス・トーバルズは翌日、全ての重要な承認を実施した。フィル・ヒューズはLinux Journalへの投稿を提案した。フリーソフトウェア運動の先駆者であるリチャード・ストールマンはこの用語を受け入れることを考えたが、後に考えを改めている。 1998年4月7日、ティム・オライリーが開催した多くのフリーソフトウェアとオープンソースのプロジェクトリーダーが参加するフリーウェアサミット(後にオープンソースサミットに名称を変更)で大きく躍進を遂げた。会議には、リーナス・トーバルズ、ラリー・ウォール、ブライアン・ベエレンドルフ(英語版)、エリック・オールマン、グイド・ヴァンロッサム、マイケル・ティーマン、エリック・レイモンド、ポール・ヴィクシー、そしてネットスケープコミュニケーションズのジェイミー・ザウィンスキー(英語版)が参加した。その会議では名称について混乱を引き起こし、マイケル・ティーマンは新しく「sourceware」を主張し、エリック・レイモンドは「open source」を主張した。集まった開発者たちは投票を行い、同日午後に勝者である「open source」が記者会見で公表された。5日後の4月12日、エリック・レイモンドはフリーソフトウェアコミュニティへ新しい用語の「open source」の受け入れの発表をした。その後すぐ、同月末にオープンソース・イニシアティブが設立された。 1999年6月、アメリカでオープンソース・イニシアティブが「Open Source」の商標登録を求めたが、「Open Source」は一般的な用語であり特定団体が権利を持つ商標にはならないと判断されている。これについて、オープンソース・イニシアティブは「Open Source」が一般的な用語として周知されたことを歓迎する立場を取っている。 2002年3月、日本ではオープンソースグループ・ジャパンが「オープンソース/Open Source」を商標登録(第4553488号)している。日本での用語の利用に際しては特に許諾や制限は求められないが、オープンソースの定義と同等の扱いで利用されることが望まれている。 オープンソース・イニシアティブ(OSI)はオープンソース・ソフトウェア(英: open-source software)の要件として、「オープンソースの定義」を掲げている。オープンソースの定義は、ソフトウェアのソースコードへのアクセスが開かれている(ソースコードが公開されている)ことを示すのではなく、オープンソース・ソフトウェアの配布条件として完全に従うべき事項を示している。オープンソースの定義では、ソースコードを商用、非商用の目的を問わず利用、修正、頒布することを許し、それを利用する個人や団体の努力や利益を遮ることがないことが求められている。 オープンソース・イニシアティブは、「Open Source」という用語の利用は、オープンソースの定義に準拠したものにおいて使用されることを求めている。2007年にはSugarCRMが自社のことを「Commercial Open Source」と表現して、オープンソースの定義に準拠していないソフトウェアライセンスをソフトウェアに課していたことを非難した。 オープンソース・ソフトウェア(英: open-source software)とは、オープンソース・イニシアティブの掲げるオープンソースの定義に準拠したソフトウェアである。 オープンソース・イニシアティブはオープンソースライセンスというライセンスカテゴリを管理しており、そのオープンソースの定義に準拠したライセンスのみをオープンソースライセンスとして承認している。オープンソース・ソフトウェアはオープンソースライセンスが課せられたソフトウェアであると言い換えることが出来る。オープンソースライセンスはライセンスの氾濫を防ぐために虚栄心による独自ライセンスや複製ライセンスを承認していないため、オープンソースの定義に準拠しているがオープンソースライセンスと承認されていないライセンス、およびそのライセンスが課せられたオープンソース・ソフトウェアは存在している。基準はオープンソースの定義であり、その定義に準拠したソフトウェアはオープンソース・ソフトウェアである。 オープンソースの概念はソフトウェアにとどまらず、集積回路やプリント基板、CADデータなどの設計情報を公開し共有するものはオープンソース・ハードウェアと呼ばれる。 その種類は多肢にわたり、ワンボードマイコン (Arduino)、CPU (OpenRISC、OpenSPARC)、3Dプリンター (RepRap、OpenSLS)、人型ロボット (iCub)、電気自動車 (Open Motors)などがある。 ライセンスはソフトウェア用のものやクリエイティブ・コモンズ・ライセンスも使用されるが、ハードウェア用としてはTAPR Open Hardware LicenseやCERN Open Hardware Licenceがある。 オープンソースライセンスは、一定の条件の下でソフトウェアの使用、複製、改変、(複製物または二次的著作物の)再頒布を認めている。次の2つの条件はほぼ共通している。 次の条件は、採用しているライセンスと、そうでないライセンスがある。 オープンソースの概念は一定の成功を収め、オープンソースのソフトウェア開発の手法と意義の浸透をもたらしたが、自由を強調しないという点はフリーソフトウェア運動の支持者からの攻撃の標的となることがある。 1999年2月17日、オープンソース・イニシアティブの創始者の1人ブルース・ペレンスはオープンソースが既に成功を収めたこと、そしてオープンソースがフリーソフトウェアから離れすぎていることを挙げて「今こそフリーソフトウェアについて再び語るべきときだ」と述べた。 2007年、フリーソフトウェア財団の代表リチャード・ストールマンはオープンソースの概念はフリーソフトウェアが主な目的としている利用者にとって重要な自由を守るに足りえないとして、オープンソースはフリーソフトウェアの的を外していると批判した。 またストールマンは2013年に、フリーソフトウェア運動が問題視している利用者の自由に対する制限の不当性をオープンソースは問題視していないと述べ、フリーソフトウェアの理念を正しく伝えるため「OSS(Open Source Software)」ではなく、フリーソフトウェアとオープンソースを複合した用語の「FLOSS(Free/Libre and Open Source Software)」の利用を推奨した。
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"またストールマンは2013年に、フリーソフトウェア運動が問題視している利用者の自由に対する制限の不当性をオープンソースは問題視していないと述べ、フリーソフトウェアの理念を正しく伝えるため「OSS(Open Source Software)」ではなく、フリーソフトウェアとオープンソースを複合した用語の「FLOSS(Free/Libre and Open Source Software)」の利用を推奨した。", "title": "用語と概念への批判" } ]
オープンソースは、専らオープンコラボレーションを促進する目的で、コンピュータプログラムの著作権の一部を放棄し、ソースコードの自由な利用および頒布を万人に許可するソフトウェア開発モデル。この開発モデルでは、コンピュータで実行できるが人間が容易に理解・変更できないオブジェクトコードだけでなく、ソースコードも含めて自由な再頒布を許可するライセンスのもとで公開する。 オープンソースを推進するために設立されたオープンソース・イニシアティブは、ソフトウェアがオープンソースであるための要件を定めた「オープンソースの定義」を策定した。
{{出典の明記|date=2021年3月}} [[File:Firefox2.png|thumb|[[Netscapeシリーズ|Netscape]]のオープンソース化を経て生まれ変わったウェブブラウザの[[Mozilla Firefox]]は、オープンソースソフトウェアの代表的な成果物の1つである]] '''オープンソース'''({{lang-en-short|open source}})は、専ら{{Ill|オープンコラボレーション|en|Open collaboration}}を促進する目的で<ref>{{Cite web |title=Open source, not just software anymore |url=https://ben.balter.com/2014/01/27/open-collaboration/ |website= |date=2014-01-27 |access-date=2023-03-06 |language=en-US |first=Ben |last=Balter}}</ref>、[[コンピュータプログラム]]の著作権の一部を放棄し、[[ソースコード]]の自由な利用および頒布を万人に許可する[[ソフトウェア開発方法論|ソフトウェア開発]]モデル<ref>{{Cite web |title=Open source and proprietary software |url=https://www.bbc.co.uk/bitesize/guides/zhx26yc/revision/11 |website=BBC Bitesize |access-date=2023-03-06 |language=en-GB |work=Ethical, legal, cultural and environmental concerns}}</ref>。この開発モデルでは、コンピュータで実行できるが人間が容易に理解・変更できない[[オブジェクトコード]]だけでなく、ソースコードも含めて自由な再頒布を許可するライセンスのもとで公開する<ref>{{Cite web |title=Open source |url=https://www.britannica.com/topic/open-source |access-date=2023-03-06 |language=en |publisher=Encyclopedia Britannica}}</ref>。 オープンソースを推進するために設立された[[オープンソース・イニシアティブ]]は、ソフトウェアがオープンソースであるための要件を定めた「[[オープンソースの定義]]」を策定した<ref>{{Cite web |title=Open source certification: press releases |url=https://opensource.org/pressreleases/certified-open-source-php/ |date=1999-06-16 |access-date=2023-03-06 |language=en-US |publisher=Open Source Initiative}}</ref>。 == 歴史 == 「オープンソース」という用語が作られる前年、[[1997年]]当時、「[[フリーソフトウェア]]」というものに対する経営者や投資家の印象は必ずしも良いものではなかった。1つには、「自由なソフトウェア」を意味する「フリーソフトウェア」という言葉が多くの場合に使われていた「無償のソフトウェア」という意味と紛らわしく、無償という考え方は営利目的主体のビジネスには馴染まなかったことがある。また1つには、[[フリーソフトウェア運動]]を進める中心的な存在である[[フリーソフトウェア財団]]がフリー(自由)ではないソフトウェア([[プロプライエタリソフトウェア]])に対して攻撃的であったことがある。さらに1つには、フリーソフトウェア財団の「フリーソフトウェア」が掲げていた「コンピュータのプログラマとユーザは、何の制約も受けずにソフトウェア(のソースコード)を他人と共有できるべきなのである」<ref name="oreilly-opensource">{{Cite web|和書|author=Richard Stallman|authorlink=リチャード・ストールマン|url=http://www.oreilly.co.jp/BOOK/osp/OpenSource_Web_Version/chapter05/chapter05.html|title=GNUシステムとフリーソフトウェア運動|accessdate=2018-03-01}}</ref>という主張が[[共産主義]]的だとされた。そのような背景から、「フリーソフトウェア」は営利目的の企業としては関わりたくない対象であった<ref name="yoshidatomoko200709p135">{{Cite book|和書|title=ネット社会を変える! オープンソースの逆襲|author=吉田智子|publisher=出版文化社|date=2007-09-10|edition=初版|chapter=第3章 インターネット文化と商業主義のバトルの歴史|page=135}}</ref>。 [[1998年]][[2月3日]]、[[パロアルト (カリフォルニア州)|パロアルト]]において、[[マイクロソフト]]の[[Internet Explorer]]との競争でシェアが低下した[[ネットスケープコミュニケーションズ]]のブラウザ[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]]の建て直しの戦略会議が開かれた<ref name=osihistory>{{cite web |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021001164015/http://www.opensource.org/docs/history.php|archivedate=2002-10-01|url=http://www.opensource.org/history |title=History of the OSI |date=19 September 2006 |first=Michael |last=Tiemann |authorlink=マイケル・ティーマン|publisher=[[Open Source Initiative]] |accessdate=23 August 2008}}</ref>。会議では製品の機能と品質の向上とシェア回復のために、技術者の参加を募集する方法、誰でも開発および供給に参加できる理念について議論していた。そこでソースコードの公開は有意義であるが、フリーソフトウェア運動の急進的な思想は非現実的であり、その極端な思想がビジネスの世界からは拒否されていると考えた人々は<ref name="karlfogel">{{cite web|url=http://producingoss.com/en/introduction.html#free-vs-open-source |title=Producing Open Source Software - How to Run a Successful Free Software Project |author=Karl Fogel |publisher=O'Reilly Media|year=2016|accessdate=2016-04-11}}</ref>、「free software」に代わる用語と理念を検討した。そこで「オープンソース」という用語を{{仮リンク|クリスティン・ピーターソン|en|Christine Peterson}}が提案した<ref>[http://opensource.org/history History of the Open Source Initiative]</ref><ref>{{cite book|title=Technology In Government, 1/e|url=https://books.google.com/books?id=0BIJ69iZyZ0C&pg=PA25|year=2006|publisher=Jaijit Bhattacharya|isbn=978-81-903397-4-2|page=25}}</ref>。また、「オープンソース」では敢えて自由という点を強調はせず、むしろ「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」を関心の中心とした。 「オープンソース」はフリーソフトウェア運動をしている{{仮リンク|ラリー・オーガスティン|en|Larry Augustin}}、[[ジョン・ホール (プログラマ)|ジョン・ホール]]、サム・オックマン、[[マイケル・ティーマン]]、[[エリック・レイモンド]]などの会議の参加者に受け入れられた。翌週、エリック・レイモンドたちは用語の展開を働きはじめた<ref name=osihistory />。[[リーナス・トーバルズ]]は翌日、全ての重要な承認を実施した。フィル・ヒューズは[[Linux Journal]]への投稿を提案した。フリーソフトウェア運動の先駆者である[[リチャード・ストールマン]]はこの用語を受け入れることを考えたが、後に考えを改めている。 [[1998年]][[4月7日]]、[[ティム・オライリー]]が開催した多くのフリーソフトウェアとオープンソースのプロジェクトリーダーが参加するフリーウェアサミット(後にオープンソースサミットに名称を変更)で大きく躍進を遂げた<ref name=opensourcesummit>{{citeweb|url=http://linuxgazette.net/issue28/rossum.html|title=Open Source Summit|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131229053622/http://linuxgazette.net/issue28/rossum.html |archivedate=2013-12-29 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。会議には、リーナス・トーバルズ、[[ラリー・ウォール]]、{{仮リンク|ブライアン・ベエレンドルフ|en|Brian Behlendorf}}、[[エリック・オールマン]]、[[グイド・ヴァンロッサム]]、マイケル・ティーマン、エリック・レイモンド、[[ポール・ヴィクシー]]、そしてネットスケープコミュニケーションズの{{仮リンク|ジェイミー・ザウィンスキー|en|Jamie Zawinski}}が参加した。その会議では名称について混乱を引き起こし、マイケル・ティーマンは新しく「sourceware」を主張し、エリック・レイモンドは「open source」を主張した。集まった開発者たちは投票を行い、同日午後に勝者である「open source」が記者会見で公表された。5日後の[[4月12日]]、エリック・レイモンドはフリーソフトウェアコミュニティへ新しい用語の「open source」の受け入れの発表をした<ref name="raymondCall">{{cite web|url=http://www.catb.org/~esr/open-source.html|title=Goodbye, "free software"; hello, "open source" |publisher= catb.org|accessdate=11 August 2015|author = Eric S. Raymond|authorlinkエリック・レイモンド}}</ref>。その後すぐ、同月末にオープンソース・イニシアティブが設立された。 [[1999年]]6月、アメリカでオープンソース・イニシアティブが「Open Source」の商標登録を求めたが、「Open Source」は一般的な用語であり特定団体が権利を持つ商標にはならないと判断されている<ref>{{citeweb|author=Open Source Initiative|date=1999-06|url=https://opensource.org/pressreleases/certified-open-source.php|title=Open Source Certification:Press Releases|accessdate=2018-03-01}}</ref>。これについて、オープンソース・イニシアティブは「Open Source」が一般的な用語として周知されたことを歓迎する立場を取っている。 [[2002年]]3月、日本では[[オープンソースグループ・ジャパン]]が「オープンソース/Open Source」を商標登録(第4553488号)している<ref>{{Cite web|和書|author=オープンソースグループ・ジャパン|date=2003|url=http://www.opensource.jp/osg/trademark.html|title=オープンソース商標について|accessdate=2018-03-01}}</ref>。日本での用語の利用に際しては特に許諾や制限は求められないが、オープンソースの定義と同等の扱いで利用されることが望まれている。 == オープンソースの定義 == {{main|オープンソースの定義}} オープンソース・イニシアティブ(OSI)はオープンソース・ソフトウェア({{lang-en-short|open-source software}})の要件として、「オープンソースの定義」を掲げている<ref name="osi-osd">{{citeweb|author=Open Source Initiative|authorlink=オープンソース・イニシアティブ|date=2007-03-22|url=https://opensource.org/osd|title=The Open Source Definition|accessdate=2018-02-09}}</ref><ref>{{citeweb|author=annr|date=2017-05-16|url=https://kb.iu.edu/d/annr|title=What is open source, and what is the Open Source Initiative?|accessdate=2018-02-09}}</ref>。オープンソースの定義は、ソフトウェアのソースコードへのアクセスが開かれている(ソースコードが公開されている)ことを示すのではなく、オープンソース・ソフトウェアの配布条件として完全に従うべき事項を示している。オープンソースの定義では、ソースコードを商用、非商用の目的を問わず利用、修正、頒布することを許し、それを利用する個人や団体の努力や利益を遮ることがないことが求められている。 オープンソース・イニシアティブは、「Open Source」という用語の利用は、オープンソースの定義に準拠したものにおいて使用されることを求めている。2007年には[[SugarCRM]]が自社のことを「Commercial Open Source」と表現して、オープンソースの定義に準拠していない[[ソフトウェアライセンス]]を[[ソフトウェア]]に課していたことを非難した<ref>{{citeweb|author=Dana Blankenhorn|date=2006-12-07|url=http://www.zdnet.com/article/is-sugarcrm-open-source/|title=Is SugarCRM open source?|accessdate=2018-02-15}}</ref><ref>{{cite web | url=http://www.opensource.org/node/163 | title=Will The Real Open Source CRM Please Stand Up? | first=Michael | last=Tiemann | authorlink=マイケル・ティーマン | date=2007-06-21 | publisher=[[Open Source Initiative]] | accessdate=2008-01-04 }}</ref>。 == オープンソース・ソフトウェア == オープンソース・ソフトウェア({{lang-en-short|open-source software}})とは、オープンソース・イニシアティブの掲げるオープンソースの定義に準拠したソフトウェアである<ref name="osi-osd"/>。 オープンソース・イニシアティブは[[オープンソースライセンス]]というライセンスカテゴリを管理しており、そのオープンソースの定義に準拠した[[ライセンス]]のみをオープンソースライセンスとして承認している。オープンソース・ソフトウェアはオープンソースライセンスが課せられたソフトウェアであると言い換えることが出来る。オープンソースライセンスは[[ライセンスの氾濫]]を防ぐために虚栄心による独自ライセンスや複製ライセンスを承認していないため、オープンソースの定義に準拠しているがオープンソースライセンスと承認されていないライセンス、およびそのライセンスが課せられたオープンソース・ソフトウェアは存在している。基準はオープンソースの定義であり、その定義に準拠したソフトウェアはオープンソース・ソフトウェアである。 == オープンソース・ハードウェア == {{See also|オープンソースハードウェア}} [[ファイル:Arduino Uno - R3.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|オープンソース・ハードウェアのひとつである[[Arduino]] Uno|代替文=]] オープンソースの概念はソフトウェアにとどまらず、[[集積回路]]や[[プリント基板]]、[[CAD]]データなどの設計情報を公開し共有するものはオープンソース・ハードウェアと呼ばれる。 その種類は多肢にわたり、[[ワンボードマイコン]] ([[Arduino]])、[[CPU]] ([[OpenRISC]]、[[OpenSPARC]])、3Dプリンター ([[RepRap プロジェクト|RepRap]]、[[OpenSLS]])、人型ロボット (iCub)<ref>{{Cite web|和書|url=https://eetimes.jp/ee/articles/1411/20/news033.html|title=見て、聞いて、触って学ぶ! 人型ロボット「iCub」を公開――STマイクロ (1/3)|accessdate=2019-04-12|publisher=|date=2014-11-19}}</ref>、電気自動車 (Open Motors)<ref>{{Cite web|url=https://www.openmotors.co/homepage/|title=Open Motors|accessdate=2019-04-12|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/000/857/857000/|title=世界初のオープンソース自動車「OSVehicle」|accessdate=2019-04-12|publisher=ASCII.jp|date=2014-01-10}}</ref>などがある。 ライセンスはソフトウェア用のものや[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]も使用されるが、ハードウェア用としてはTAPR Open Hardware LicenseやCERN Open Hardware Licenceがある。 == オープンソースライセンス == [[File:Open Source Initiative keyhole.svg|thumb|[[Open Source Initiative|OSI]]公認ライセンスのロゴ]] {{main|オープンソースライセンス}} オープンソースライセンスは、一定の条件の下でソフトウェアの使用、複製、改変、(複製物または二次的著作物の)再頒布を認めている。次の2つの条件はほぼ共通している。 ; 無保証であること : オープンソースの性質上、ソフトウェアやその二次的著作物は元の著作者でも制御しきれない形で流通し、元の著作者がそこから直接に利益を得ることは難しい。したがって、ソフトウェアは「有用であるとは思うが無保証である」と謳っている。つまり、著作者は、そのソフトウェアについて、予期した動作をする/しないの保証をしない。また、その動作の結果何らかの損害をもたらしたとしても、それを保障しないと定めている。 ; [[著作権]]表示を保持すること : オープンソースは一定の条件内で自由な利用を認めるものであって、著作権を放棄するものではない。むしろ、「一定の条件」を守らせるための法的根拠は原著作者の著作権に求められる。したがって、多くのライセンスは適切な形でソースコードや付属文書に含まれる[[著作権表示]]を保持し、つまり二次的著作物を作った者が自分で0から作ったように偽らないことを定めている。 : ソースコードを伴わないバイナリ形式だけでの配布を認めているライセンスでは、その際にも付属文書に著作権表示を記載するように定めているものもある。 次の条件は、採用しているライセンスと、そうでないライセンスがある。 ; 同一ライセンスの適用 : 複製や改変物を頒布する際には、必ず元と同じライセンスでの利用を認めるように定めているものがある。[[GNU General Public License]] (GPL) が代表的である。例えば、GPLのソースコードを BSD ライセンスのソースコードと組み合わせて新しいソースコードを作った場合、GPL の規定によって、このソースコードを頒布する際には GPL での利用を認めなければならない(詳細は'''[[コピーレフト]]'''を参照)。このようなソースコードを利用して、ソースコードを独占する(プロプライエタリな)ソフトウェアを作成することは難しい。 ; 原著作者の特別な権利 : この種の条件は、現在ソースコードを独占的に所有している企業がそれをオープンソース化するに当たって考慮する余地のあるものである。例えば[[Mozilla]]のためのライセンスとして作成された[[Mozilla Public License|MPL]]では、二次的著作物を頒布する際にはソースコードを公開しなくてはならないが、元々のMozillaの著作権を有していたネットスケープコミュニケーションズだけは特別であって、二次的著作物のソースコードを公開しなくてもよい権利をもっている。 == 用語と概念への批判 == オープンソースの概念は一定の成功を収め、オープンソースのソフトウェア開発の手法と意義の浸透をもたらしたが、自由を強調しないという点はフリーソフトウェア運動の支持者からの攻撃の標的となることがある。 [[1999年]][[2月17日]]、オープンソース・イニシアティブの創始者の1人[[ブルース・ペレンス]]はオープンソースが既に成功を収めたこと、そしてオープンソースがフリーソフトウェアから離れすぎていることを挙げて「今こそフリーソフトウェアについて再び語るべきときだ」と述べた<ref>{{citeweb|author=Bruce Perens|authorlink=ブルース・ペレンズ|date=1999-02-17|url=http://www.yamdas.org/column/technique/ITTTAFSj.html|title=It's Time to Talk about Free Software Again|accessdate=2018-03-01}}</ref>。 [[2007年]]、フリーソフトウェア財団の代表[[リチャード・ストールマン]]はオープンソースの概念はフリーソフトウェアが主な目的としている利用者にとって重要な自由を守るに足りえないとして、オープンソースはフリーソフトウェアの的を外していると批判した<ref name="gnu-oss-misses">{{citeweb|author=Richard Stallman|authorlink=リチャード・ストールマン|date=2016-11-18|url=https://www.gnu.org/philosophy/open-source-misses-the-point.html|title=Why Open Source misses the point of Free Software|accessdate=2018-02-09}}</ref>。 またストールマンは[[2013年]]に、フリーソフトウェア運動が問題視している利用者の自由に対する制限の不当性をオープンソースは問題視していないと述べ、フリーソフトウェアの理念を正しく伝えるため「[[オープンソースソフトウェア|OSS]](Open Source Software)」ではなく、フリーソフトウェアとオープンソースを複合した用語の「[[FLOSS]](Free/Libre and Open Source Software)」の利用を推奨した<ref name="gnu-floss">{{citeweb|author=Richard Stallman|authorlink=リチャード・ストールマン|date=2016-11-18|url=https://www.gnu.org/philosophy/floss-and-foss.html|title=FLOSS and FOSS|accessdate=2018-02-09}}</ref>。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|36px]]}} {{Commonscat|Free software}} {{Wikibookslang|en|Open Source}} * [[オープンソースの定義]] * [[オープンソース・イニシアティブ]] * [[オープンソースソフトウェア]] * [[オープンソースソフトウェアの歴史]] * [[オープンソースハードウェア]] * [[フリーソフトウェア]] == 外部リンク == * {{Cite web|和書|url= https://note.com/masayamori/n/n31daf728bbab |title=Linuxを中心としたオープンソースの開発モデル|accessdate=2021-03-22}} {{FOSS}} {{著作権 (法学)}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おおふんそおす}} [[Category:オープンソース|*]] [[Category:ソフトウェアの分類]] [[Category:ソフトウェア]]
2003-02-13T16:45:59Z
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龍安寺
龍安寺(りょうあんじ)は、京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。大本山妙心寺の境外塔頭。山号は大雲山。本尊は釈迦如来。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。有名な石庭で知られる。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。 もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。 この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450年)敷地内に龍安寺を建立した。初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。 細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468年)に焼失した。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、旧地(現在地)に戻すが、勝元は文明5年(1473年)に没す。 長享2年(1488年)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興された。寺では特芳を中興開山と称している。明応8年(1499年)には方丈が上棟された。その後、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。 『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)によると、当時は龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として紹介されており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようである。 寛政9年(1797年)に京都町奉行へ提出された図面には23か寺の塔頭があったが、同年に起こった火災で食堂、方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失した。そのため、塔頭の西源院(せいげんいん、現在は妙心寺の塔頭)の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。 その後、明治時代初期の廃仏毀釈によって衰退し、1895年(明治28年)には狩野派の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却されている。 1929年(昭和4年)に火災により一部を焼失した。 1951年(昭和26年)7月11日、京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊。濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出た。 1975年(昭和50年)にイギリスの女王エリザベス2世とエディンバラ公フィリップが日本を公式訪問した折、5月10日午後、方丈庭園(石庭)に立ち寄った。 1994年(平成6年)ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」に登録された。 上記にある狩野派による方丈の襖絵90面であるが、他寺に売却された後、再び売りに出され、九州の炭坑王・伊藤伝右衛門により買い取られている。その後、第二次世界大戦後に流出してしまい、その多くは所在が分からなくなっている。現在はアメリカのメトロポリタン美術館やシアトル美術館に襖絵の一部が所蔵されているのが分かっている。 そんな中、所在不明となっていた襖絵のうち2010年(平成22年)に「群仙図」4面と「琴棋書画図」2面がアメリカのニューヨークでオークションに出品され、龍安寺が買い戻している。また、2018年(平成30年)には「芭蕉図」9面が、静岡県のコレクターを経て、龍安寺が買い戻している。 なお、鏡容池の周囲には西源院以外にもいくつか塔頭寺院があるが、それらは現在は龍安寺の塔頭ではなく、妙心寺の境外塔頭となっている。 方丈庭園(国の史跡・特別名勝)、いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を有する。 幅25メートル、奥行10メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。 寺伝では、室町時代末期(1500年頃)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。塀ぎわの細長い石には「小太郎・□二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが、詳細は不明である。 この庭は石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称がある。「虎の子渡し」とは、虎は、3匹の子供がいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る、という中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づくものである。 また、「七五三の庭」とは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群とも見られることによる。古来より奇数は陽数、すなわちおめでたい数とされ、その真ん中の数字をとったものである。 この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている。 寺の南側には広大な鏡容池があり、周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。境内北側には庫裡、方丈、仏殿などが建ち、これらの西側には「西の庭」がある。有名な石庭は方丈南側にある。
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龍安寺(りょうあんじ)は、京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。大本山妙心寺の境外塔頭。山号は大雲山。本尊は釈迦如来。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。有名な石庭で知られる。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
{{otheruses|京都市にある龍安寺(りょうあんじ)|岐阜県美濃加茂市にある龍安寺(りゅうあんじ)|龍安寺 (美濃加茂市)}} {{日本の寺院 |名称 = 龍安寺 |画像 = [[ファイル:RyoanJi-Dry garden.jpg|260px]] |画像説明 =方丈庭園(石庭) |所在地 = [[京都府]][[京都市]][[右京区]]龍安寺御陵下町13 |位置 = {{coord|35|2|4.18|N|135|43|5.71|E|region:JP-26_scale:20000|display=inline,title}} |地図 = Japan Kyoto city2 |山号 = 大雲山 |宗派 = [[臨済宗#妙心寺派|臨済宗妙心寺派]] |寺格 = [[妙心寺]]境外[[塔頭]] |本尊 = [[釈迦如来]] |創建年 = [[宝徳]]2年({{Start date and age|1450}}) |開山 = [[義天玄承]] |開基 = [[細川勝元]] |別称 = |文化財 = 方丈、[[太平記]]12冊([[重要文化財]])<br/>方丈庭園(国の[[史跡]]・[[名勝#特別名勝|特別名勝]])<br/>庭園(国の名勝)<br/>[[世界遺産]] |公式HP = http://www.ryoanji.jp/ |公式HP名 = 大雲山 龍安寺 }} {{osm box|w|98103477}} [[ファイル:RyoanJi-Sanmon.jpg|thumb|220px|山門]] '''龍安寺'''(りょうあんじ)は、[[京都市]][[右京区]]龍安寺御陵ノ下町にある[[臨済宗#妙心寺派|臨済宗妙心寺派]]の[[寺院]]。[[本山|大本山]][[妙心寺]]の境外[[塔頭]]<ref>川上貢「妙心寺の寺域景観と建築」『妙心寺』(日本古寺美術全集24巻、集英社、1982)、p.98</ref><ref>2009年に東京国立博物館等で開催された特別展「妙心寺」の図録には塔頭として48か院を挙げ、その中に龍安寺も含まれている。妙心寺の公式サイトにある「妙心寺山内図」には他の塔頭とともに龍安寺も掲載されている。(参照:[https://www.myoshinji.or.jp/application/files/8915/1614/9678/myoshinji_map.pdf])</ref>。[[山号]]は大雲山。[[本尊]]は[[釈迦如来]]。開基(創建者)は[[細川勝元]]、[[開山 (仏教)|開山]](初代住職)は[[義天玄承]]である。有名な[[枯山水|石庭]]で知られる<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJE22ELD0S2A221C2000000/|title=スティーブ・ジョブズ氏が旅した京都は? 関西巡るQ5問|publisher=日本経済新聞社|date=2023-01-01|accessdate=2023-01-02}}</ref>。「[[古都京都の文化財]]」として[[世界遺産]]に登録されている。 == 歴史 == もともと[[衣笠山 (京都府)|衣笠山]]山麓に位置する龍安寺一帯は、[[永観]]元年([[984年]])に建立された[[円融天皇]]の御願寺である[[円融寺 (勅願寺)|円融寺]]の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、[[平安時代]]末には[[藤原北家]]の流れを汲む[[徳大寺実能]]が同地を山荘とした。 この山荘を細川勝元が譲り受け、[[宝徳]]2年([[1450年]])敷地内に龍安寺を建立した。初代住職として[[妙心寺]]8世(5祖)住持の[[義天玄承]](玄詔)を迎えた。義天玄承は師の[[日峰宗舜]]を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、[[京福電気鉄道|京福電鉄]]の線路の辺りまでが境内であったという。 細川勝元らと[[山名宗全]]らが争った[[応仁の乱]]の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、[[応仁]]2年([[1468年]])に焼失した。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、旧地(現在地)に戻すが、勝元は[[文明 (日本)|文明]]5年(1473年)に没す。 [[長享]]2年(1488年)勝元の子・[[細川政元]]が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・[[特芳禅傑]]によって再興された。寺では特芳を中興開山と称している。[[明応]]8年([[1499年]])には方丈が上棟された。その後、[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]らが寺領を寄進している。 『[[都名所図会]]』([[安永]]9年([[1780年]])刊行)によると、当時は龍安寺の鏡容池は[[オシドリ]]の名所として紹介されており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようである。 [[寛政]]9年([[1797年]])に[[京都町奉行]]へ提出された図面には23か寺の塔頭があったが、同年に起こった火災で食堂、方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失した。そのため、塔頭の西源院(せいげんいん、現在は[[妙心寺]]の塔頭)の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。 その後、[[明治]]時代初期の[[廃仏毀釈]]によって衰退し、[[1895年]](明治28年)には[[狩野派]]の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却されている。 [[1929年]]([[昭和]]4年)に火災により一部を焼失した。 [[1951年]](昭和26年)7月11日、京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊。濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出た<ref>京都のお寺台なし『日本経済新聞』昭和26年7月18日3面</ref>。 [[1975年]](昭和50年)に[[イギリス]]の女王[[エリザベス2世]]と[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公フィリップ]]が日本を公式訪問した折、5月10日午後、方丈庭園(石庭)に立ち寄った。 [[1994年]]([[平成]]6年)ユネスコの[[文化遺産 (世界遺産)|世界遺産]]「[[古都京都の文化財]]」に登録された。 上記にある狩野派による方丈の襖絵90面であるが、他寺に売却された後、再び売りに出され、[[九州]]の炭坑王・[[伊藤伝右衛門]]により買い取られている。その後、第二次世界大戦後に流出してしまい、その多くは所在が分からなくなっている。現在は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[メトロポリタン美術館]]や[[シアトル美術館]]に襖絵の一部が所蔵されているのが分かっている。 そんな中、所在不明となっていた襖絵のうち[[2010年]](平成22年)に「群仙図」4面と「琴棋書画図」2面がアメリカの[[ニューヨーク]]で[[競売|オークション]]に出品され、龍安寺が買い戻している。また、[[2018年]](平成30年)には「芭蕉図」9面が、[[静岡県]]のコレクターを経て、龍安寺が買い戻している。 なお、鏡容池の周囲には西源院以外にもいくつか塔頭寺院があるが、それらは現在は龍安寺の塔頭ではなく、[[妙心寺]]の境外塔頭となっている。 == 石庭 == [[ファイル:Ryoan-ji 3.JPG|thumb|220px|方丈庭園(石庭)]] [[ファイル:Kyoto-Ryoan-Ji_MG_4512.jpg|サムネイル|[[サクラ|桜]]と方丈庭園(石庭)全景]] 方丈庭園(国の[[史跡]]・[[名勝#特別名勝|特別名勝]])、いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で[[波]]の重なりを表す[[枯山水]]庭園の特徴を有する<ref name="ishii" />。 幅25メートル、奥行10メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石は[[チャート (岩石)|チャート]]と呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は[[三波川変成帯]]で見られる[[緑色片岩]]である。 寺伝では、[[室町時代]]末期([[1500年]]頃)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。塀ぎわの細長い石には「小太郎・□二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが、詳細は不明である<ref>[http://www.ryoanji.jp/smph/garden/marking.html 刻印の謎(龍安寺公式ホームページ)]</ref>。 この庭は石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称がある。「[[虎#言葉|虎の子渡し]]」とは、虎は、3匹の子供がいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る、という[[中国]]の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づくものである。 また、「七五三の庭」とは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群とも見られることによる。古来より奇数は陽数、すなわちおめでたい数とされ、その真ん中の数字をとったものである。 この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている<ref name="ishii">{{Cite web|和書|author=石井隆之 |url=http://language-culture.info/download/vol.33-1.pdf |title=「重なり志向」の日本文化 |publisher=言語文化学会 |accessdate=2019-11-03}}</ref>。 <gallery> File:Ryoanji Temple mars 2009 028.jpg|庭園(鏡容池) File:Ryoanji Temple - Kuri Main Building Interior.jpg|方丈内部 File:龍安寺庭園鳥居.jpg|龍安寺庭園鳥居 </gallery> == 知足の蹲踞 == * [[知足]]の蹲踞(つくばい) - [[つくばい|蹲踞]]は茶室に入る前に手や口を清めるための手水鉢のこと。茶室「蔵六庵」の露地にあり、[[水戸藩]]主[[徳川光圀]]の寄進によるものと伝えられている。見学コースで方丈北側にある蹲踞は精密な複製である。蹲踞の上部にある文字は一見「五・隹・疋(但し、上の横棒がない)・矢」と読めるが、水溜めに穿った中心の正方形を漢字部首の「口」と見て「'''吾'''れ'''唯'''だ'''足'''るを'''知'''る」となる。「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解き風に図案化したものである。 == 境内 == [[ファイル:Ryoan-ji.JPG|thumb|220px|鏡容池]] [[ファイル:Ryoanjitemple.JPG|thumb|180px|知足(ちそく)の蹲踞(ただし、この画像は複製の蹲踞)]] 寺の南側には広大な鏡容池があり、周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。境内北側には庫裡、方丈、仏殿などが建ち、これらの西側には「西の庭」がある。有名な石庭は方丈南側にある。 * 仏殿 - [[1981年]]([[昭和]]56年)再建。[[寛政]]9年([[1797年]])に焼失後、約200年ぶりに再建された。[[入母屋造]]、屋根は銅板葺きの禅宗建築で、建材は樹齢1,000年から1,200年の台湾桧が使用されている<ref name=":0" />。 * 昭堂(開山堂) - [[1977年]](昭和52年)建立。 * 鐘楼 * 方丈([[重要文化財]]) - 元の方丈が寛政9年(1797年)の火災で失われた後、塔頭の西源院方丈を移築したもの。[[慶長]]11年([[1606年]])、[[織田信包]]による建立である。本来ここには[[狩野派]]の手による襖絵があったが、それらは[[明治]]初期の[[廃仏毀釈]]の影響により寺から出て散逸してしまった。現在の襖絵は、龍と[[北朝鮮]]の[[金剛山 (朝鮮)|金剛山]]が題材で、[[1953年]](昭和28年)から5年がかりで皐月鶴翁によって描かれたものである<ref name=":0" />。北側には「吾唯知足(われただたるをしる)」の蹲踞〔いわゆる「知足の蹲踞」〕の複製が置かれている。 * 方丈庭園「石庭」(国の[[史跡]]・[[名勝#特別名勝|特別名勝]]) - [[枯山水]]庭園。解説は既出。 * 勅使門(重要文化財) - 寛政9年(1797年)に火災で焼失した後、西源院唐門を移築したもの。 * 庫裡 - 寛政9年(1797年)に火災で焼失し、その後再建される<ref name=":0" />。 * 茶室「蔵六庵」 - [[江戸時代]]初期に建てられた後、明治時代中期と[[1996年]]([[平成]]8年)に移築が行われた。[[徳川光圀]]が寄進した「吾唯知足」の蹲踞が置かれている。 * [[細川勝元]]の墓 * 春林寺殿の墓 - 細川勝元の正室で、[[山名宗全]]の養女([[山名熙貴]]の娘)。 * [[細川政元]]の墓 * [[細川高国]]の墓 * [[細川稙国]]の墓 * [[細川氏綱]]の墓 * 西の庭 - [[1982年]](昭和57年)に[[室町時代]]風の庭園として復元された。 * 細川廟 - [[明暦]]4年([[1658年]])、藤原種久作の細川勝元像と[[細川氏|細川管領家]]歴代の位牌が祀られている。西の庭の中にある。 * [[パゴダ]] - [[緬甸方面軍|ビルマ方面軍]]自動車廠戦没者の慰霊塔。[[1970年]](昭和45年)8月建立。 * 涅槃堂(納骨堂) * 桜苑 * 梅枝庵 * 玄々庵 * 西源院 - 妙心寺塔頭。湯豆腐と精進料理を提供している。かつては龍安寺の塔頭であった。 * 大珠院 - 妙心寺塔頭。 ** [[真田信繁]](真田幸村)の墓 * 霊光院 - 妙心寺塔頭。 ** [[お犬の方]]の墓 ** [[佐治一成]]の墓 * 鏡容池(国の[[名勝]]) - 一帯は鏡容池を中心とする庭園となっている。この池はこの地に[[円融天皇]]の御願寺である[[円融寺 (勅願寺)|円融寺]]があった頃からのものである。 * [[弁才天|大弁財尊天]] - 鏡容池にある弁天島に祀られている。 * 山門 - 江戸時代中期再建。[[宝暦]]5年([[1755年]])洪水により破損し再建<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.ryoanji.jp/smph/guide/grounds.html|title=境内のご案内|accessdate=2020.01.19|publisher=龍安寺}}</ref>される。 * 方丈の真裏で、背後の朱山の麓に当たる地には[[後三条天皇]]圓宗寺陵、[[後冷泉天皇]]圓教寺陵と[[後朱雀天皇]]圓乘寺陵があり、その東方の石段を登り切った山上には[[一条天皇]]圓融寺北陵と[[堀河天皇]]後圓教寺陵がある。いずれも現在は[[宮内庁]]の管理下にある。 == 文化財 == === 重要文化財 === [[ファイル:Ryoanji-temple-fusumapictur04.jpg|thumb|180px|襖絵(群仙図)]] * 方丈 附:勅使門 - 慶長11年(1606年)建立の旧西源院方丈。重要文化財指定名称は「龍安寺本堂 附 玄関」。 * 太平記12冊 - 『[[太平記]]』の古写本の代表的なもの。[[徳川光圀]]が本書を借用したことでも知られる。[[1929年]](昭和4年)に火災に遭い、全13冊のうちの1冊を焼失。残りの12冊も焼損痕が残っている。 === 国の史跡・特別名勝 === * 龍安寺方丈庭園 === 国の名勝 === * 龍安寺庭園 === 京都府指定有形文化財 === * 九条袈裟 義天玄承所用 1肩(工芸品) - [[2016年]](平成28年)3月18日指定<ref>[http://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?page_id=200 京都府指定・登録等文化財](京都府教育庁指導部文化財保護課)。</ref>。 === 京都市指定有形文化財 === * 絹本著色細川昭元夫人像(絵画) - 天正十年月航宗津の賛がある。京都国立博物館寄託。1993年(平成5年)4月1日指定。 * 紙本墨画潙山倒瓶図 狩野元信筆(絵画) - 京都国立博物館寄託。2000年(平成12年)4月1日指定。 * 絹本著色鄧林宗棟像 狩野元信筆(絵画) - 永正十八年の自賛がある。2022年(令和4年)3月31日指定<ref>令和4年3月31日京都市公報より{{PDFlink|[https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/bunsyo/kouhou/r0403/0331/0331_110.pdf 京都市教育委員会告示第13号]}}(リンクは京都市ホームページ)。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[盆石]] == 外部リンク == * [http://www.ryoanji.jp/ 大雲山 龍安寺] {{古都京都の文化財}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りようあんし}} [[Category:臨済宗妙心寺派の寺院]] [[Category:京都市右京区の寺]] [[Category:世界遺産 ら行]] [[Category:特別名勝]] [[Category:京都府にある国指定の名勝]] [[Category:重要文化財 (建造物)]] [[Category:京都市の重要文化財]] [[Category:京都にある日本庭園]] [[Category:京都府にある国指定の史跡]] [[Category:古都京都の文化財]] [[Category:日本の陵墓]] [[Category:江戸時代の建築]] [[Category:禅の芸術と文化]] [[Category:釈迦如来を本尊とする寺]]
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マジックナンバー
マジックナンバー(magic number)
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マジックナンバー マジックナンバー (野球) - 「何勝すれば優勝が決定する」と言える勝ち数を意味する。米国では野球以外でも使われる。 ザ・マジック・ナンバーズ - イギリスのロック・バンド。 ザ・マジック・ナンバーズ (アルバム) - 上記バンドのアルバム。 マジックナンバー (坂本真綾の曲) magic number MAGIC NUMBER - 日本のストリート、サーフ系ファッションブランド。ディレクターは中村竜。 マジックナンバー (プログラム) - プログラム中に直接埋め込まれた数値。 マジックナンバー (フォーマット識別子) マジックナンバー (メッセージ) - 内部状態を利用者に通知するメッセージ。 魔法数 - 原子核の安定性。 マジカルナンバー - ジョージ・ミラーが提唱した、短期的記憶の上限数。 荒井チェリーの漫画作品。
'''マジックナンバー'''({{lang|en|magic number}})<!--は、「[[魔法]]の[[数字]]」「[[魔術]]に関わる数字」およびそれに派生する様々な言葉である。--> ; スポーツ *[[マジックナンバー (野球)]] - 「何勝すれば優勝が決定する」と言える勝ち数を意味する。米国では[[野球]]以外でも使われる。 ; 音楽 *[[ザ・マジック・ナンバーズ]] - イギリスのロック・バンド。 **[[ザ・マジック・ナンバーズ (アルバム)]] - 上記バンドのアルバム。 *[[マジックナンバー (坂本真綾の曲)]] *[[magic number (KICK THE CAN CREWのアルバム)]] ; ファッションブランド *[[MAGIC NUMBER]] - 日本のストリート、サーフ系ファッションブランド。ディレクターは[[中村竜]]。 ; コンピュータ用語 <!--コンピュータ業界では、一見意味不明に見える情報を意味する言葉として、以下のような様々な場面で用いられている。--> *[[マジックナンバー (プログラム)]] - プログラム中に直接埋め込まれた数値。 *[[マジックナンバー (フォーマット識別子)]] *[[マジックナンバー (メッセージ)]] - 内部状態を利用者に通知するメッセージ。 ; その他 <!--*「良く分からないけど、この数字を使うと物事がうまくいく」または「良く分からないけど、ある事項でこの数字が頻出する」、そのような数字。--> *[[魔法数]] - 原子核の安定性。 *マジカルナンバー - [[ジョージ・ミラー (心理学者)|ジョージ・ミラー]]が提唱した、短期的記憶の上限数。 *[[荒井チェリー]]の漫画作品。 <!-- 近い将来にある物事が起きるか起きないか注目されている時、特に一部の人達にとって起きて欲しい事柄である時、その言葉がまるで呪文(magic word)のように唱えられ、あるいは連呼される。このような言葉を「magic word」と言うことがある。それが数字である場合には「magic number」と呼ぶ。[[ビンゴ]]で使われたのが始まりとされる。日本で言う「リーチ」状態の時、ビンゴ完成のために必要な数字をマジックナンバーという。現在では様々なジャンルで使われている。たとえば[[アメリカ合衆国上院|米国上院]](2年ごとに定数の3分の1を改選)の選挙において、ある政党が議会過半数を得るのに必要な、その選挙での最小獲得議席数をマジックナンバーと呼ぶ事がある。また、国家[[財政]]を[[原油]][[輸出]]に依存している国にとって、財政が黒字になるか赤字になるかの分岐点となる原油価格をマジックナンバーと呼ぶ事がある([[:en:Magic number (oil)]])。 --> == 関連項目 == *[[マジック]] {{aimai}} {{デフォルトソート:ましつくなんはあ}} [[Category:同名の作品]]
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魔少年ビーティー
『魔少年ビーティー』(ましょうねんビーティー)、サブタイトル「COOL SHOCK B.T.」は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品。集英社の少年向け漫画雑誌『フレッシュジャンプ』1982年3号に読切として掲載された後、『週刊少年ジャンプ』1983年42号から51号に連載された。サブタイトルは「少年ピカレスク(悪漢小説)ロマン」。 荒木の連載作品としてのデビュー作。手品やトリックに長けた少年ビーティーと友人の公一が怪事件と遭遇する物語を展開する。 平凡な少年の麦刈公一を語り手として物語は進む。転校生として現れ、公一の親友となったビーティーに関するエピソードが、一話完結形式で綴られていく。全5話でコミックスは全1巻完結である。読切版は単行本『荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン』に収録されている(#既刊一覧参照)。 正義や熱血を重んじる当時の少年漫画界において、「魔少年」というタイトルと悪行を繰り返す主人公は、異色の存在であった。しかしながら一方で、主人公の精神的高潔さを貫く姿勢や、彼なりの正義に対する考え方、友情を重んじる精神なども、同時に描かれている。 平凡な少年麦刈公一は、ある日、転校生のビーティーと出会う。科学や心理学などを巧みに使った奇術やトリックが得意なビーティーは、その好奇心から様々な悪事(単なる悪戯から犯罪まで)を実行していく。学校のキャンプでビーティーが不良達に絡まれた際、ただ一人彼を助けようとした公一は、やがてビーティーと親友になる(もちろん、後でビーティーは、その不良達には持ち前のトリックで制裁を与えた)。ビーティーと公一のコンビは、あるときは様々な事件に巻き込まれ、またあるときは積極的に悪事をはたらいていく。事件や悪事を通じて、2人は様々な悪漢達と対峙し、その中で彼らなりの正義を貫いていく。 荒木は当初連載を目指して読切を発表したが、作品のコンセプトが編集部に理解されず、理解のあった担当編集者椛島良介が根気強く説得し2年を経て連載を開始した。雑誌連載がスタートしたものの人気は低迷し、第3回の掲載後のアンケートを見た担当編集者は既に打ち切りを予想しており、結局10回の連載で終了することになった。しかし最終回のアンケート結果だけが好評だった理由を担当編集者と検討した際、最終回だけにあった主人公と敵の頭脳戦が理由ではないかと推測し、自身が目指す『漫画の王道』や、後に連載するヒット作『ジョジョの奇妙な冒険』で注目された『頭脳バトル』についての理解が深まったという。 当時、荒木は故郷の仙台市に在住していたが、本作の連載終了を機に本格的な作家活動に入るため上京している。 2021年10月19日発売の『ウルトラジャンプ』11月号にて、本作の60年後の世界を舞台とする読切『魔老紳士ビーティー』が掲載。原作は西尾維新、作画は出水ぽすかによる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『魔少年ビーティー』(ましょうねんビーティー)、サブタイトル「COOL SHOCK B.T.」は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品。集英社の少年向け漫画雑誌『フレッシュジャンプ』1982年3号に読切として掲載された後、『週刊少年ジャンプ』1983年42号から51号に連載された。サブタイトルは「少年ピカレスク(悪漢小説)ロマン」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "荒木の連載作品としてのデビュー作。手品やトリックに長けた少年ビーティーと友人の公一が怪事件と遭遇する物語を展開する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "平凡な少年の麦刈公一を語り手として物語は進む。転校生として現れ、公一の親友となったビーティーに関するエピソードが、一話完結形式で綴られていく。全5話でコミックスは全1巻完結である。読切版は単行本『荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン』に収録されている(#既刊一覧参照)。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正義や熱血を重んじる当時の少年漫画界において、「魔少年」というタイトルと悪行を繰り返す主人公は、異色の存在であった。しかしながら一方で、主人公の精神的高潔さを貫く姿勢や、彼なりの正義に対する考え方、友情を重んじる精神なども、同時に描かれている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "平凡な少年麦刈公一は、ある日、転校生のビーティーと出会う。科学や心理学などを巧みに使った奇術やトリックが得意なビーティーは、その好奇心から様々な悪事(単なる悪戯から犯罪まで)を実行していく。学校のキャンプでビーティーが不良達に絡まれた際、ただ一人彼を助けようとした公一は、やがてビーティーと親友になる(もちろん、後でビーティーは、その不良達には持ち前のトリックで制裁を与えた)。ビーティーと公一のコンビは、あるときは様々な事件に巻き込まれ、またあるときは積極的に悪事をはたらいていく。事件や悪事を通じて、2人は様々な悪漢達と対峙し、その中で彼らなりの正義を貫いていく。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "荒木は当初連載を目指して読切を発表したが、作品のコンセプトが編集部に理解されず、理解のあった担当編集者椛島良介が根気強く説得し2年を経て連載を開始した。雑誌連載がスタートしたものの人気は低迷し、第3回の掲載後のアンケートを見た担当編集者は既に打ち切りを予想しており、結局10回の連載で終了することになった。しかし最終回のアンケート結果だけが好評だった理由を担当編集者と検討した際、最終回だけにあった主人公と敵の頭脳戦が理由ではないかと推測し、自身が目指す『漫画の王道』や、後に連載するヒット作『ジョジョの奇妙な冒険』で注目された『頭脳バトル』についての理解が深まったという。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当時、荒木は故郷の仙台市に在住していたが、本作の連載終了を機に本格的な作家活動に入るため上京している。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2021年10月19日発売の『ウルトラジャンプ』11月号にて、本作の60年後の世界を舞台とする読切『魔老紳士ビーティー』が掲載。原作は西尾維新、作画は出水ぽすかによる。", "title": "制作" } ]
『魔少年ビーティー』(ましょうねんビーティー)、サブタイトル「COOL SHOCK B.T.」は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品。集英社の少年向け漫画雑誌『フレッシュジャンプ』1982年3号に読切として掲載された後、『週刊少年ジャンプ』1983年42号から51号に連載された。サブタイトルは「少年ピカレスク(悪漢小説)ロマン」。 荒木の連載作品としてのデビュー作。手品やトリックに長けた少年ビーティーと友人の公一が怪事件と遭遇する物語を展開する。
『'''魔少年ビーティー'''』(ましょうねんビーティー)、サブタイトル「COOL SHOCK B.T.」は、[[荒木飛呂彦]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。[[集英社]]の少年向け[[漫画雑誌]]『[[フレッシュジャンプ]]』[[1982年]]3号に読切として掲載された後、『[[週刊少年ジャンプ]]』[[1983年]]42号から51号に連載された。サブタイトルは「少年[[ピカレスク]](悪漢小説)ロマン」。 荒木の連載作品としてのデビュー作。[[手品]]やトリックに長けた少年'''ビーティー'''と友人の'''公一'''が怪事件と遭遇する物語を展開する<ref name=ナタリー/>。 == 作風 == 平凡な少年の麦刈公一を語り手として物語は進む。転校生として現れ、公一の親友となったビーティーに関するエピソードが、一話完結形式で綴られていく。全5話でコミックスは全1巻完結である。読切版は単行本『[[荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン]]』に収録されている([[#既刊一覧]]参照)。 正義や熱血を重んじる当時の少年漫画界において、「'''魔'''少年」というタイトルと悪行を繰り返す主人公は、異色の存在であった<ref>集英社文庫版作者あとがきより</ref>。しかしながら一方で、主人公の精神的高潔さを貫く姿勢や、彼なりの正義に対する考え方、友情を重んじる精神なども、同時に描かれている。 == あらすじ == 平凡な少年麦刈公一は、ある日、転校生のビーティーと出会う。科学や心理学などを巧みに使った奇術やトリックが得意なビーティーは、その好奇心から様々な悪事(単なる悪戯から犯罪まで)を実行していく。学校のキャンプでビーティーが不良達に絡まれた際、ただ一人彼を助けようとした公一は、やがてビーティーと親友になる(もちろん、後でビーティーは、その不良達には持ち前のトリックで制裁を与えた)。ビーティーと公一のコンビは、あるときは様々な事件に巻き込まれ、またあるときは積極的に悪事をはたらいていく<ref>もっとも、善良な少年である公一は、ビーティーに巻き込まれて悪事に関与することがほとんどである</ref>。事件や悪事を通じて、2人は様々な悪漢達と対峙し、その中で彼らなりの正義を貫いていく。 == 制作 == 荒木は当初連載を目指して読切を発表したが、作品のコンセプトが編集部に理解されず、理解のあった担当編集者[[椛島良介]]が根気強く説得し2年を経て連載を開始した<ref>https://manba.co.jp/manba_magazines/21999</ref>。雑誌連載がスタートしたものの人気は低迷し、第3回の掲載後のアンケートを見た担当編集者は既に打ち切りを予想しており、結局10回の連載で終了することになった。しかし最終回のアンケート結果だけが好評だった理由を担当編集者と検討した際、最終回だけにあった主人公と敵の頭脳戦が理由ではないかと推測し、自身が目指す『漫画の王道』や、後に連載するヒット作『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』で注目された『頭脳バトル』についての理解が深まったという<ref>荒木飛呂彦著 『荒木飛呂彦の漫画術』p99-p102</ref>。 当時、荒木は故郷の[[仙台市]]に在住していたが、本作の連載終了を機に本格的な作家活動に入るため上京している。 2021年10月19日発売の『[[ウルトラジャンプ]]』11月号にて、本作の60年後の世界を舞台とする[[読切]]『魔老紳士ビーティー』が掲載。原作は[[西尾維新]]、作画は[[出水ぽすか]]による<ref name=ナタリー>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/445627 |title=西尾維新×出水ぽすかが「魔少年ビーティー」の60年後描く「魔老紳士ビーティー」 |date=2021-09-17 |accessdate=2021-09-17 |publisher=[[ナターシャ (企業)|ナターシャ]] |website=コミックナタリー}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/449909|title=西尾維新×出水ぽすか「魔老紳士ビーティー」がUJに、「岸辺露伴」小説集も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-10-19|accessdate=2021-10-19}}</ref>。 == 登場人物 == ; ビーティー : 本作の主人公。「13日の金曜日、13時13分」に麦刈公一が学校にて出会った、謎多き少年である。非常に気高い精神と、自らの行動に罪悪感を一切感じない悪魔的精神を併せ持つ。本名・来歴などは一切明かされていない。非常に気転の利くトリックスターであり、臨機応変に手品やトリック技、心理話術をこなしては、様々な相手にスリリングに打ち勝っていく。自身が「[[:en:Caper (disambiguation)|ケイパー]]」と呼ぶ(無邪気な)悪巧みを実行することに興味を持っており、連載では語られない部分でも、しばしば公一を巻き添えにしている。しかし、彼にとって公一は、何物にも代えられない大切な友人であることは確かで、彼のためにわざと自分を窮地におくこともある。化石や標本といったアイテムを収集する趣味を持っている。本人は明言していないが「ケイパー」によって盗んだものと覚しきもの<ref>実際に、『恐竜化石泥棒事件の巻』にて、[[スピノサウルス]]の頭骨化石をデパートから盗んでいる。</ref>が多数コレクションされている。考え事をしたり何か企んでいる時などに耳を触る癖がある。相手に向けて放つ「(要求を呑め!)'''さもなくば! 然るべき報いを食らわせてやる!'''」が決め台詞。普段は冷静沈着かつ大胆で、上級生や大人さえも手玉に取るが、恋愛方面の経験は少ないらしく、憧れの女性に関することでは動揺したりムキになったりする年齢相応の少年らしいところも見せる。 : 「ビーティー」のネーミングは、彼のイニシャル(B.T.)である。物語の語り手の公一が「仮にそう呼ぶ」としており、本当の名前は作中では明かされていない。また、これが彼の本名にちなむものなのかどうかさえも不明である。荒木飛呂彦によると、BTというイニシャルは、『[[コブラ (漫画)|コブラ]]』作者の[[寺沢武一]]からとったものであるとのことである<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20060913/jojo.htm |title=「ジョジョの奇妙な冒険 ファントムブラッド共同プロジェクト」記者発表会|website=[[Impress Watch|GAME Watch]]|publisher=インプレス|date=2006-09-13|accessdate=2023-06-10}}</ref>。なお、荒木は、それ以前には、『[[ファンロード]]』の『[[バオー来訪者]]』特集で「特定の人とか名前から取ったというわけではありません。T(ティー)で終わるイニシャルが格好いいなと、以前から思っていたんです。で、そこにアルファベットを順番に付けていくと、エーティー…ではいまいち。ビーティー…なんか良い感じだな。で決めました。」と語っている。 ; 麦刈公一(むぎかりこういち) : ビーティーと出会った事で彼の起こす事件に巻き込まれる、いたって平凡な少年である。正義感に強く、友情を大切にする一面もある。また、それゆえにビーティーと親友になる。前述の通り、この作品は彼の独白という形を取っており、登場人物全員が主人公を作中で「B.T(ビーティー)」と呼んでいるのも、関係者からの怒りと復讐を避けるための公一の「措置」である。人がよく、物事を断れない性格であり、強引なビーティーに連れ回されては事件に巻き込まれる役どころである。しかし、芯は強く、自身が危機に陥ってもビーティーとの友情を貫こうとする。 ; おばあちゃん : ビーティーの祖母であり、彼と共に屋敷で暮らしている。ビーティーの両親は離れて暮らしており、おばあちゃんは彼の唯一の家族である。ビーティー以上に謎多き老婆であり、本名なども不明である。屋敷には来客が多いらしく(ビーティー曰く「顔が広い」)、きな臭い組織とも関わりを持っている。祖母がどういう人物なのかは、孫のビーティーすらよく知らない。ビーティーの「ケイパー」を咎めておらず、むしろ推奨している節がある<ref>ビーティーが行うことなら「子供のイタズラ」で済まされることが多いため、それを利用して、裏で別の計画を進めることもある。</ref>。 === エピソードのゲスト === ==== サマーキャンプ事件の巻 ==== ; 黒山(くろやま) : 「サマーキャンプ事件の巻」に登場した生徒。身体の大きく短気な典型的いじめっ子であり、転校してきたばかりで言う事を聞かないビーティーに暴力や嫌がらせを仕掛けた。 ; 赤川(あかがわ) : 同話に登場した、細身で眼鏡をかけた生徒。黒山とつるんでビーティーに嫌がらせをするが、彼自身もまた黒山の抑圧の対象であり、黒山から脅しやイタズラを受けていた。飛び出しナイフを隠し持っている。ビーティーは赤川の性格・所持品と彼と黒山との関係を見抜いたうえで、黒山・赤川両人に巧妙な報復を仕掛けた。 ==== イタズラ死体事件の巻 ==== ; 伊達(だて) : ビーティー達の先輩。成績優秀で剣道部の主将も務め、ハンサムで人気者であり、(すごくつまらない)ユーモアのセンスもあり、絵に描いたような模範生徒である。しかし一方で、演劇部に入ったビーティーのメイクを見て、ビーティーを小馬鹿にするといった陰湿な一面を持つ。ビーティーの怒りを買い、彼の計略によって、下記の天妃子を含む生徒達の前で恥をかかされてしまった。 ; 天妃子(あいこ) : ビーティー憧れの先輩。彼女と伊達が懇意にしているのをビーティーが見て、今回のイタズラの決行に踏み切った。 ; ニの森(にのもり) : 伊達と同じ剣道部の一員である。剣道の腕前は伊達に一歩及ばず、皆に慕われる彼を嫌っている。その感情をビーティーに利用されて、伊達をハメるための「イタズラ死体」役に挑むが、思わぬアクシデントに見舞われた。ビーティーの計略は失敗かに思われたが、ビーティーはそれも切り抜けた。口癖は「ムカドタマー」。 ==== おじさんX事件の巻 ==== ; 所長(しょちょう) : ビーティー達のサイクリングで訪れた先に現れた本名不詳の変人。「強制捕虜収容所の所長」になりきっており、鷲の意匠や[[黒十字]]、[[トーテンコップ]]、[[ルーン文字]]のSSなどのシンボルをあしらった軍服を身につけている<ref>参考記事。[[強制収容所]]、[[国家社会主義ドイツ労働者党#党のシンボル]]、[[親衛隊 (ナチス)]]</ref>。下記の曹長と一緒に、それまでは犬猫を虐待して遊んでいたが、ビーティー達を見つけて、虐待行為の対象の手を人間に伸ばそうとした。しかし最終的には、曹長ともどもビーティーのトリックでやっつけられ、ビーティーに有り金を巻き上げられてしまった。 ; 曹長(そうちょう) : 所長の部下役になりきる大男である。少々ニブいが、怪力でビーティーと公一を追い詰めた。 ==== 恐竜化石泥棒事件の巻 ==== ; 西戸(さいこ) : デパートの警備員。『デパートの影の支配者』になりきる妄想に取り憑かれており<ref>実際は、デパートの支店長には頭が上がらない。</ref>、脈絡の無い脅しで、ビーティーたちに絡んだ。深夜のデパートに化石を盗みに侵入したビーティーと公一を、チェーンを振り回して追いかけ回したが、ビーティーによるハッタリの化学トリックの前に敗北した。 ; 女スパイ(おんなスパイ) : ビーティー達の化石泥棒に乗じて、盗品疑惑のかけられた支店長の金庫を探っていた。彼女は、ビーティーのおばあちゃんの差金であった。 ==== そばかすの不気味少年事件の巻 ==== ; そばかすの少年(そばかすのしょうねん) : 素性の知れない子供。公一のパパの車と接触事故を起こすが、それは[[当たり屋]]行為であり、麦刈家に上がりこむための作戦だった。とてもずる賢く、ビーティーに賭けごとを挑み、勝負巧者のビーティーを一度は打ち負かした。しかし、その賭けで奪った公一の犬(タロー)をビーティーに利用され、敗北した。悪役ではあるが、その敗北を潔く認め、ビーティーを称賛するなどの一面ももっていた。 : 家族からは「マナブ」と呼ばれている。 ; 少年の家族(しょうねんのかぞく) : そばかすの少年を使ってターゲットに弱みを握らせてから、そのターゲットの家庭内に上がり込み寄生する、という悪辣な手段を用いて生活してきた一家である。今回は麦刈家を標的にした。ビーティーに一服盛られて病院送りにされ、そのことをそばかすの少年を計略にはめるのに利用された。 ==== 読み切り版 ==== ; 中川冬子(なかがわふゆこ) : 読み切り版(有罪くずし事件)に登場したビーティーの憧れの上級生。ルポライターに落とした生徒手帳をネタに呼び出され、乱暴されそうになったので抵抗した際にルポライターを誤ってハサミを突き立て殺害した、という事を自供して逮捕・連行された。 :ビーティーの活躍で無罪放免となったが、後に公一はルポライターが撮った彼女が万引き行為をしている写真を見つけており、彼女の「自供」に疑問を感じながら幕は閉じる。 ; ルポライター : 冬子に乱暴しようとしたところ、冬子の抵抗にあい、背中にハサミを刺されて殺害された…とされる男性である。実は、様々な相手に[[盗撮]]によるゆすり行為を行っていた。 ; 警部補(けいぶほ) : 今回の殺人事件を担当した警部補である。冬子をルポライター殺害容疑で逮捕した。実は、暴力団から賄賂を受け取っていたところをルポライターに撮影され、それをネタにゆすられていた。その事を知ったビーティーは真犯人は警部補であり冬子に罪をなすりつけたという巧妙なストーリーを組み立てた。 :本当にその通りだったかは真実は不明だが、賄賂行為を暴かれ立場が悪くなった警部補は言葉巧みにビーティーによって拳銃を抜くよう誘導させられた上に、拳銃を抜いた場面を下記の記者に押さえられ、結果破滅した。 ; 新聞記者(しんぶんきしゃ) : 公一の叔父の新聞記者で、警部補から聞いた今回の事件の概要をビーティーと公一に話した。冬子がルポライターを殺害した経緯に疑問を持ち、取材を進め、ビーティーが用意した決定的場面を押さえることに成功した。 == 既刊一覧 == * 魔少年ビーティー ([[ジャンプ・コミックス]]) - [[1984年]]発売。ISBN 978-4088510187 * 魔少年ビーティー ([[集英社文庫]]) - [[2000年]]発売。上記ジャンプ・コミックスの装幀をリニューアルし、2000年時点での作者のあとがきなどを新たに付したもの。ISBN 978-4086174855 * [[ゴージャス☆アイリン]] (集英社文庫) - [[2011年]]発売の荒木飛呂彦の短編集。読み切り版の「魔少年ビーティー」を収録している。ISBN 978-4086193092 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[蒔野靖弘]] - アシスタントとして参加 {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:ましようねんひいてい}} [[Category:漫画作品 ま|しようねんひいてい]] [[Category:フレッシュジャンプ]] [[Category:週刊少年ジャンプの漫画作品]] [[Category:奇術を題材とした漫画作品]] [[Category:荒木飛呂彦の漫画作品]]
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老子
老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。 史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。 老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。 これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」、字は「聃」(または「伯陽」)。楚の苦県(現在の河南省周口市鹿邑県)、厲郷の曲仁里という場所の出身で、周の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる)に着くと、関所の役人である尹喜(中国語版)が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知らない。(「老子」『列仙伝』においては大秦国すなわちローマへ向かった。) 「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える。 出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の江蘇省徐州市沛県)に老子を訪ねている。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う。 『史記』には続けて、 とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると)または「ある人曰く」(ある人物によると)で始められている通り、前説とは別な話として書かれている。 さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。 ここでは、老子は周の「太史儋(太史聸)」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(聸)」と老子の字「聃」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う。 これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないためこれらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す。 『史記』は老子の子孫についても言及する。 老子の子は「宗」と言い、魏の将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、注の子は「宮」、宮の玄孫(老子の七世の孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。 この膠西王卬(劉卬)とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している。 荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」や外雑篇)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる。荀子(紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている。さらに秦の呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編で「老耽貴柔」(老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている。貴公編では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。 このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? - 312年)が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない。 このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩(381年 - 450年)だった。唐の韓愈(768年 - 824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の宋代には陳師道、葉適、黄震らが老子の伝記を検証し、清代の汪中(『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と崔述(『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した。 20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「疑古」とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適(『中国哲学史』、1926年)、唐蘭(『老聃的生命和時代考』)、郭沫若(『老聃・関尹・環淵』)、黄方剛(『老子年代之考察』)、馬叙倫(中国語版)(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、高亨(中国語版)(『重訂老子正詁』、1957年)、詹剣峰(『老子其人書及其道論』、1982年)、陳鼓応(中国語版)(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、梁啓超(1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、銭穆(『関干老子成書年代之一種考察』)、羅根澤(中国語版)(『老子及老子書的問題』)、譚戒甫(中国語版)(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した。老子の存在を否定する派では、孫次舟(『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し、1957年に刊行された杜国庠(中国語版)の『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・荀子・韓非子など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている。 一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている。 『神仙伝』など民間の伝承では、周の定王3年(紀元前603年)に母親(「玄妙玉女」または「真妙玉女」)が流星を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき)に老子を懐妊したが62年間(80年間? 、81年間? 、72年間または3700年間などの説も)も胎内におり、彼女が梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産したという。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)もある。 中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる。 現代に伝わる『史記』には記載されていないが、老子には「伯陽」という字があったとされる。伯陽とは元々西周第12代・幽王の時代に周が滅亡することを預言した人物の事である。これは『史記』に言う太史儋の覇王出現の預言が影響し、後漢の時代に「聃」を諡に変えて「伯陽」を字とする改竄が加えられた事の名残である。 老子など多くの歴史的人物を仙人視する風潮は前漢時代に起こり、これを批判し王充は『論衡』という書の「道虚篇」で老子不老不死説を取り上げ否定した。伯陽と老子を同一視する説は、このような時代の流行を反映したもので、逆にそれが『史記』の改竄にまで及んだことを示す。 伝統的記述では、老子は都市生活におけるモラルの低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。 この尹喜は、『荘子』「天下篇」などで登場する「関尹(關尹)」ではないかとする説がある。「天下篇」で荘子は関尹を老子(老聃)と同じ道家の一派と分類している。「関」は文字通り関所であり、「尹」は役所の長官という意味を持つ。そのため、元々は役職名から転じた通称「関尹」なる人物が、尊敬する老子と出会い喜んだ様が『史記』に見られる「關令尹喜」という表現となり、人物名「尹喜」へ転じたという説がある。 郭沫若は、この関尹とは斉の稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。これに基づけば、環淵の黄老思想が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる。 老子が著したと伝わる『老子道徳経』は、『老子』『道徳経』『道経』『徳道経』『五千言』など、様々な名称でも呼ばれる。この書籍の真偽、元々の形についても老子の実在や時代の判断に直結する事もあり、数多くの主張や議論が行われてきた。この『老子道徳経』成立期が判明すれば、それは老子が生きた時代の下限と考えられる。 『老子道徳経』(『老子』)がその書籍名を明示して引用された最初の例は、前漢の武帝代に淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が編纂した『淮南子』である。ここに注目し、『老子道徳経』は先人の金言が徐々に集積され、武帝の時代に形式が整えられて書名が与えられたという説がある。 「晩期説」を唱えた梁啓超は、1922年に新聞紙上に短い論説を発表し、『老子道徳経』は戦国末期に出来たものと唱え、4年後に武内義雄が『老子原始』にて独自にほぼ同じ説を述べた。梁啓超は自説を纏め、6項目の根拠を示した。 馮友蘭は文体論から『老子道徳経』を考察し、経典の形式である点は戦国時代の特徴で、春秋時代の対話形式ではない点から戦国期成立を主張。他にも、老子の「不尚賢」という概念は墨子の「尚賢」を否定したもので、それ故に老子は墨子以降の人という説も唱えられた。 一方で、春秋時代の成立とみなす学者も多く、例えば呂思勉(『先秦学術概論』)は『老子道徳経』内で用いられる語義が非常に古い点、その思想は女権優位が軸を成す点、また「男・女」ではなく「牡・牝」という後代とは異なる漢字が使われる点を根拠に挙げている。戦国期成立説への反証も行われ、時代考察の一派を占める。 また、もっと後世の作という説もあり、『呂氏春秋』と共通する箇所は引用ではないと主張した。顧頡剛らは呂不韋と同じ秦代、劉節は前漢の景帝時代という見解を述べた。 このような議論を通じ、少なくとも老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、同書は『孔子』(『論語』)や『墨子』同様にその系譜に当たる弟子が後年に纏めたものという考えが主流となり、「疑古」派もしくはこれに民俗学や文献学などを取り入れる「釈古」派の考えが定説として固まりつつあった。 このような『老子道徳経』の成立に関わる考古学的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、湖南省長沙市で漢代の紀元前168年に造営された馬王堆3号墓から帛書の写本(馬王堆帛書)が出土したが、これには二種の『老子道徳経』が含まれていた。さらに1993年、今度は湖北省荊門市郭店で、戦国時代の楚国の墓(郭店一号楚墓)から730枚の竹簡(郭店楚簡)が発見された。この中には三種類の『老子道徳経』が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる『老子道徳経』とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった。 1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種は、現在に伝わる『老子道徳経』とほぼ同じ内容ながら、二種共上・下篇の順序が逆転し、下篇が前上篇が後になっている。「甲本」「乙本」という名は、便宜上つけられたものである。甲本の字体は秦の小篆の流れを汲む隷書体であり、乙本は同じ隷書でも漢代の字体を持っていた。さらに、乙本では「邦」の字がすべて「国」に置き換えられていたのに対し、甲本は「邦」を使用している。これは、乙本には前漢の劉邦死(紀元前195年)後にこの字を避諱したことが反映され、甲本はそれ以前に写本制作されたことを示す。これによって、現本『老子道徳経』は少なくとも前漢・高祖時代には現在の形で完成していたと証明される。 さらに郭店一号楚墓は、副葬品の特徴を分析した結果などから戦国時代中期の紀元前300年頃のものと推定された。その中には君主が老齢の臣下に賜る鳩杖があったことから、正式発表は無いが被葬者は70歳以上で死亡したと考えられる。この墓から発見された竹簡は16種類あり、さらに『老子道徳経』に相当するものは「甲本」「乙本」「丙本」の3種類に分けられた。この甲・乙・丙本に共通する文章はわずかに甲と丙の一部にのみあるが、細かな文言などに差異があった。そして三本を合わせても31章にしかならず、現在の『老子道徳経』81章の 1⁄3 にしか相当しない。 浅野裕一は郭店楚簡甲・乙・丙本について、『老子道徳経』に相当する原本が存在し、被葬者もしくは写本製作者が何らかの意図を持ってその都度部分的に写し取った三つの竹簡と推測した。その根拠は三本に共通部分がほとんど無い点を挙げ、これらが『老子道徳経』が形成される途上の3過程とは解釈できないとした。その一方で思想内容には整合性があることから、別々の作者とも考えにくいと述べた。さらに、甲・丙本の共通部分(現行本第64章後半に相当)にある差異は、原本『老子道徳経』には写本を繰り返す中で既に複数の系統に分かれたものが存在していたと推定した。 当時、書籍は簡単に作成・流通できるものではなく、郭店一号楚墓の被葬者も長命な人生の中で機会を得て郭店楚簡を得たと考えられ、もしそれが若い時分ならばそれだけで原本は紀元前300年から数十年単位で遡り存在したことになる。さらに甲・丙本の差に見られる複数の写本系統を考慮すれば、その時代はさらに古くなり、『老子道徳経』原本は戦国前期の紀元前403年 - 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてくる。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は全容が公表されていないが、それ如何によっては『老子道徳経』成立時期がさらに明らかになる可能性がある。 中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記編集されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである。老子道徳経に編纂されている思想についても、多数の著者によって、いくつかの思想が述べられており、それを後代の人が書物としてまとめたものであるとみることができる。 老子道徳経に述べられている「道」の区分については、1普遍的法則としての道、2根元的実在としての道、3処世術としての道、4政治思想としての道、の四通りの「道」の区分があると見ることができる。このうち、2根元的実在としての道について述べられた部分が、古い老子の思想であると見ることができる。 「建言」というのは、下編の最初のほうに出てくる『老子道徳経』よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、「老子下編」を編集した人物にとっての、最古の老子の伝説の書のようなものであったということができる。「建言」とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。。 「建言」によると、実在としての道は、循環運動を永遠に続けている。あらゆる存在は、「有」として、「無」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。 「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。 「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。 政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた。このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める。 しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる。 柄谷行人によると、人間社会は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬(贈与とお返し)」。人類史で見れば、原始社会や氏族社会は交換様式Aの原理から成り立つ。二つ目は、被支配者は支配者に対して税や年貢を支払い、その見返りとして、生命財産の保護を受け、公共事業や福祉などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」。三つ目の交換様式Cは、資本主義社会で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指す。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、中国における老子もまた交換様式Dを開示したとみられる。 老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。 老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、今のままでもその食物を美味と思い、服装も立派だと考え、住まいに満足し、それらを自給自足で賄い、その素朴な習俗を楽しむという。隣の国との関係は、互いに望み合えてせいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するように上からの干渉を極力抑えて、民のあるがままにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭し(9章)、民に対する為政者へりくだりこそが天下に歓迎され、長期にわたり安泰を維持出来るとある(66章)。権力政治に対して、民が君主の圧政と重罰に慣れると、上の権力をものともしない状態になり(72章)、民が圧政に苦しみ、死を恐れなくなれば死罪による脅しも効かなくなり民の反乱、国家の崩壊を招くと警告している(74章)。また、法令をどんなに整備しても必ず法網をくぐる者が現れ、さらに犯罪者が増えるという趣旨から法律・政令の簡素化を説いている(57章)。 中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義の呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない。 伝統的に老子は道教を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられる。一般的な宗教である道教では最高の神格(en)を玉皇大帝としているが、五斗米道など道教の知的集団では、老子は神名・太上老君にて神位の中でも最上位を占める三清の一柱とみなしている。 漢王朝以降、老子の伝記は強い宗教的意味合いを持ち、道教が一般に根付くとともに老子は神の一員に加わった。神聖なる老子が「道」を明らかにしたという信仰が、五斗米道という道教初となる教団の組織に繋がった。さらに後年の道教信奉者たちは老子こそ「道」が実態化した存在と考えるようになった。道教には、『老子道徳経』を執筆した後も老子は行方をくらまさず「老君」になったと考える一派もいるが、多くは「道」の深淵を明らかにするためにインドへ向かったと考える者が多い。 西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。『老子道徳経』の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいという懇願に応えたものが発端と言われる。民俗学的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な師と弟子の関係を表したものと受け止められた。 7世紀の書『三洞珠嚢』は、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に農民のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請いた。老子はただちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は試験を受けなければならないという道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、求めを明瞭に説明し、「道」を理解するために進む意思を示さなければならない。 『三洞珠嚢』によると師弟のやりとりは続く。老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が受けるべき数々の論理的手法、学説、聖典など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い羊(青い羊?)を連れ、市場で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む宇宙を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へ出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる。 太上老君は、歴史の中で多くの「化身」または様々な受肉を経て多様な外観を備え、道の本質を説いたという。 これは、元の時代に再解釈され、仏教に対する道教の優位性を論拠付けるために『老子八十一化図』が作成された。老子の生涯を図で示し、その偉大さを示そうとした全眞教の道士・李志常が指示し令狐璋と史志経が作成した同書は、憲宗の近臣を通じて広く流布させようと画策された。 しかし、本書は一部を除き仏陀の伝承を剽窃したもので、これを祥邁は「採釋瑞而爲老瑞、(中略)改迦祥而作老祥」(仏陀の吉祥を書き換えて、老子の吉祥に仕立て直している)と批判した。事実これは、全真道の丘長春(長春真人)がチンギス・カンと面会して以来発展を続ける道教の宣伝活動に加えて「化胡説」を強調して仏教の相対的地位低下も狙っていた。仏教界の反発は強く、1255年8月には皇帝を前に仏教界と道教界の直接論争が行われた。その後同様の論争が開かれ、『老子八十一化図』が偽作と認定されるなど最終的に道教側が破れ、古典以外の道教の書や経は焚書された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」、字は「聃」(または「伯陽」)。楚の苦県(現在の河南省周口市鹿邑県)、厲郷の曲仁里という場所の出身で、周の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる)に着くと、関所の役人である尹喜(中国語版)が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知らない。(「老子」『列仙伝』においては大秦国すなわちローマへ向かった。)", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の江蘇省徐州市沛県)に老子を訪ねている。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『史記』には続けて、", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると)または「ある人曰く」(ある人物によると)で始められている通り、前説とは別な話として書かれている。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ここでは、老子は周の「太史儋(太史聸)」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(聸)」と老子の字「聃」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないためこれらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "『史記』は老子の子孫についても言及する。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "老子の子は「宗」と言い、魏の将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、注の子は「宮」、宮の玄孫(老子の七世の孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この膠西王卬(劉卬)とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」や外雑篇)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる。荀子(紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている。さらに秦の呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編で「老耽貴柔」(老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている。貴公編では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? - 312年)が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩(381年 - 450年)だった。唐の韓愈(768年 - 824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の宋代には陳師道、葉適、黄震らが老子の伝記を検証し、清代の汪中(『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と崔述(『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「疑古」とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適(『中国哲学史』、1926年)、唐蘭(『老聃的生命和時代考』)、郭沫若(『老聃・関尹・環淵』)、黄方剛(『老子年代之考察』)、馬叙倫(中国語版)(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、高亨(中国語版)(『重訂老子正詁』、1957年)、詹剣峰(『老子其人書及其道論』、1982年)、陳鼓応(中国語版)(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、梁啓超(1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、銭穆(『関干老子成書年代之一種考察』)、羅根澤(中国語版)(『老子及老子書的問題』)、譚戒甫(中国語版)(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した。老子の存在を否定する派では、孫次舟(『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し、1957年に刊行された杜国庠(中国語版)の『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・荀子・韓非子など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている。", "title": "老子の履歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている。", "title": "伝承" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『神仙伝』など民間の伝承では、周の定王3年(紀元前603年)に母親(「玄妙玉女」または「真妙玉女」)が流星を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき)に老子を懐妊したが62年間(80年間? 、81年間? 、72年間または3700年間などの説も)も胎内におり、彼女が梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産したという。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)もある。", "title": "伝承" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる。", "title": "伝承" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "現代に伝わる『史記』には記載されていないが、老子には「伯陽」という字があったとされる。伯陽とは元々西周第12代・幽王の時代に周が滅亡することを預言した人物の事である。これは『史記』に言う太史儋の覇王出現の預言が影響し、後漢の時代に「聃」を諡に変えて「伯陽」を字とする改竄が加えられた事の名残である。", "title": "伝承" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "老子など多くの歴史的人物を仙人視する風潮は前漢時代に起こり、これを批判し王充は『論衡』という書の「道虚篇」で老子不老不死説を取り上げ否定した。伯陽と老子を同一視する説は、このような時代の流行を反映したもので、逆にそれが『史記』の改竄にまで及んだことを示す。", "title": "伝承" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "伝統的記述では、老子は都市生活におけるモラルの低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。", "title": "伝承" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "この尹喜は、『荘子』「天下篇」などで登場する「関尹(關尹)」ではないかとする説がある。「天下篇」で荘子は関尹を老子(老聃)と同じ道家の一派と分類している。「関」は文字通り関所であり、「尹」は役所の長官という意味を持つ。そのため、元々は役職名から転じた通称「関尹」なる人物が、尊敬する老子と出会い喜んだ様が『史記』に見られる「關令尹喜」という表現となり、人物名「尹喜」へ転じたという説がある。", "title": "伝承" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "郭沫若は、この関尹とは斉の稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。これに基づけば、環淵の黄老思想が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる。", "title": "伝承" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "老子が著したと伝わる『老子道徳経』は、『老子』『道徳経』『道経』『徳道経』『五千言』など、様々な名称でも呼ばれる。この書籍の真偽、元々の形についても老子の実在や時代の判断に直結する事もあり、数多くの主張や議論が行われてきた。この『老子道徳経』成立期が判明すれば、それは老子が生きた時代の下限と考えられる。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "『老子道徳経』(『老子』)がその書籍名を明示して引用された最初の例は、前漢の武帝代に淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が編纂した『淮南子』である。ここに注目し、『老子道徳経』は先人の金言が徐々に集積され、武帝の時代に形式が整えられて書名が与えられたという説がある。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "「晩期説」を唱えた梁啓超は、1922年に新聞紙上に短い論説を発表し、『老子道徳経』は戦国末期に出来たものと唱え、4年後に武内義雄が『老子原始』にて独自にほぼ同じ説を述べた。梁啓超は自説を纏め、6項目の根拠を示した。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "馮友蘭は文体論から『老子道徳経』を考察し、経典の形式である点は戦国時代の特徴で、春秋時代の対話形式ではない点から戦国期成立を主張。他にも、老子の「不尚賢」という概念は墨子の「尚賢」を否定したもので、それ故に老子は墨子以降の人という説も唱えられた。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一方で、春秋時代の成立とみなす学者も多く、例えば呂思勉(『先秦学術概論』)は『老子道徳経』内で用いられる語義が非常に古い点、その思想は女権優位が軸を成す点、また「男・女」ではなく「牡・牝」という後代とは異なる漢字が使われる点を根拠に挙げている。戦国期成立説への反証も行われ、時代考察の一派を占める。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、もっと後世の作という説もあり、『呂氏春秋』と共通する箇所は引用ではないと主張した。顧頡剛らは呂不韋と同じ秦代、劉節は前漢の景帝時代という見解を述べた。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "このような議論を通じ、少なくとも老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、同書は『孔子』(『論語』)や『墨子』同様にその系譜に当たる弟子が後年に纏めたものという考えが主流となり、「疑古」派もしくはこれに民俗学や文献学などを取り入れる「釈古」派の考えが定説として固まりつつあった。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "このような『老子道徳経』の成立に関わる考古学的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、湖南省長沙市で漢代の紀元前168年に造営された馬王堆3号墓から帛書の写本(馬王堆帛書)が出土したが、これには二種の『老子道徳経』が含まれていた。さらに1993年、今度は湖北省荊門市郭店で、戦国時代の楚国の墓(郭店一号楚墓)から730枚の竹簡(郭店楚簡)が発見された。この中には三種類の『老子道徳経』が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる『老子道徳経』とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種は、現在に伝わる『老子道徳経』とほぼ同じ内容ながら、二種共上・下篇の順序が逆転し、下篇が前上篇が後になっている。「甲本」「乙本」という名は、便宜上つけられたものである。甲本の字体は秦の小篆の流れを汲む隷書体であり、乙本は同じ隷書でも漢代の字体を持っていた。さらに、乙本では「邦」の字がすべて「国」に置き換えられていたのに対し、甲本は「邦」を使用している。これは、乙本には前漢の劉邦死(紀元前195年)後にこの字を避諱したことが反映され、甲本はそれ以前に写本制作されたことを示す。これによって、現本『老子道徳経』は少なくとも前漢・高祖時代には現在の形で完成していたと証明される。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "さらに郭店一号楚墓は、副葬品の特徴を分析した結果などから戦国時代中期の紀元前300年頃のものと推定された。その中には君主が老齢の臣下に賜る鳩杖があったことから、正式発表は無いが被葬者は70歳以上で死亡したと考えられる。この墓から発見された竹簡は16種類あり、さらに『老子道徳経』に相当するものは「甲本」「乙本」「丙本」の3種類に分けられた。この甲・乙・丙本に共通する文章はわずかに甲と丙の一部にのみあるが、細かな文言などに差異があった。そして三本を合わせても31章にしかならず、現在の『老子道徳経』81章の 1⁄3 にしか相当しない。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "浅野裕一は郭店楚簡甲・乙・丙本について、『老子道徳経』に相当する原本が存在し、被葬者もしくは写本製作者が何らかの意図を持ってその都度部分的に写し取った三つの竹簡と推測した。その根拠は三本に共通部分がほとんど無い点を挙げ、これらが『老子道徳経』が形成される途上の3過程とは解釈できないとした。その一方で思想内容には整合性があることから、別々の作者とも考えにくいと述べた。さらに、甲・丙本の共通部分(現行本第64章後半に相当)にある差異は、原本『老子道徳経』には写本を繰り返す中で既に複数の系統に分かれたものが存在していたと推定した。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "当時、書籍は簡単に作成・流通できるものではなく、郭店一号楚墓の被葬者も長命な人生の中で機会を得て郭店楚簡を得たと考えられ、もしそれが若い時分ならばそれだけで原本は紀元前300年から数十年単位で遡り存在したことになる。さらに甲・丙本の差に見られる複数の写本系統を考慮すれば、その時代はさらに古くなり、『老子道徳経』原本は戦国前期の紀元前403年 - 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてくる。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は全容が公表されていないが、それ如何によっては『老子道徳経』成立時期がさらに明らかになる可能性がある。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記編集されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである。老子道徳経に編纂されている思想についても、多数の著者によって、いくつかの思想が述べられており、それを後代の人が書物としてまとめたものであるとみることができる。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "老子道徳経に述べられている「道」の区分については、1普遍的法則としての道、2根元的実在としての道、3処世術としての道、4政治思想としての道、の四通りの「道」の区分があると見ることができる。このうち、2根元的実在としての道について述べられた部分が、古い老子の思想であると見ることができる。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "「建言」というのは、下編の最初のほうに出てくる『老子道徳経』よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、「老子下編」を編集した人物にとっての、最古の老子の伝説の書のようなものであったということができる。「建言」とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "「建言」によると、実在としての道は、循環運動を永遠に続けている。あらゆる存在は、「有」として、「無」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。", "title": "『老子道徳経』から推測される老子" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた。このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める。", "title": "思想から見る老子" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる。", "title": "思想から見る老子" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "柄谷行人によると、人間社会は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬(贈与とお返し)」。人類史で見れば、原始社会や氏族社会は交換様式Aの原理から成り立つ。二つ目は、被支配者は支配者に対して税や年貢を支払い、その見返りとして、生命財産の保護を受け、公共事業や福祉などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」。三つ目の交換様式Cは、資本主義社会で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指す。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、中国における老子もまた交換様式Dを開示したとみられる。", "title": "思想から見る老子" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。", "title": "思想から見る老子" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、今のままでもその食物を美味と思い、服装も立派だと考え、住まいに満足し、それらを自給自足で賄い、その素朴な習俗を楽しむという。隣の国との関係は、互いに望み合えてせいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するように上からの干渉を極力抑えて、民のあるがままにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭し(9章)、民に対する為政者へりくだりこそが天下に歓迎され、長期にわたり安泰を維持出来るとある(66章)。権力政治に対して、民が君主の圧政と重罰に慣れると、上の権力をものともしない状態になり(72章)、民が圧政に苦しみ、死を恐れなくなれば死罪による脅しも効かなくなり民の反乱、国家の崩壊を招くと警告している(74章)。また、法令をどんなに整備しても必ず法網をくぐる者が現れ、さらに犯罪者が増えるという趣旨から法律・政令の簡素化を説いている(57章)。", "title": "思想から見る老子" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義の呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない。", "title": "思想から見る老子" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "伝統的に老子は道教を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられる。一般的な宗教である道教では最高の神格(en)を玉皇大帝としているが、五斗米道など道教の知的集団では、老子は神名・太上老君にて神位の中でも最上位を占める三清の一柱とみなしている。", "title": "道教における老子" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "漢王朝以降、老子の伝記は強い宗教的意味合いを持ち、道教が一般に根付くとともに老子は神の一員に加わった。神聖なる老子が「道」を明らかにしたという信仰が、五斗米道という道教初となる教団の組織に繋がった。さらに後年の道教信奉者たちは老子こそ「道」が実態化した存在と考えるようになった。道教には、『老子道徳経』を執筆した後も老子は行方をくらまさず「老君」になったと考える一派もいるが、多くは「道」の深淵を明らかにするためにインドへ向かったと考える者が多い。", "title": "道教における老子" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。『老子道徳経』の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいという懇願に応えたものが発端と言われる。民俗学的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な師と弟子の関係を表したものと受け止められた。", "title": "道教における老子" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "7世紀の書『三洞珠嚢』は、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に農民のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請いた。老子はただちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は試験を受けなければならないという道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、求めを明瞭に説明し、「道」を理解するために進む意思を示さなければならない。", "title": "道教における老子" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "『三洞珠嚢』によると師弟のやりとりは続く。老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が受けるべき数々の論理的手法、学説、聖典など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い羊(青い羊?)を連れ、市場で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む宇宙を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へ出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる。", "title": "道教における老子" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "太上老君は、歴史の中で多くの「化身」または様々な受肉を経て多様な外観を備え、道の本質を説いたという。", "title": "道教における老子" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "これは、元の時代に再解釈され、仏教に対する道教の優位性を論拠付けるために『老子八十一化図』が作成された。老子の生涯を図で示し、その偉大さを示そうとした全眞教の道士・李志常が指示し令狐璋と史志経が作成した同書は、憲宗の近臣を通じて広く流布させようと画策された。", "title": "道教における老子" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "しかし、本書は一部を除き仏陀の伝承を剽窃したもので、これを祥邁は「採釋瑞而爲老瑞、(中略)改迦祥而作老祥」(仏陀の吉祥を書き換えて、老子の吉祥に仕立て直している)と批判した。事実これは、全真道の丘長春(長春真人)がチンギス・カンと面会して以来発展を続ける道教の宣伝活動に加えて「化胡説」を強調して仏教の相対的地位低下も狙っていた。仏教界の反発は強く、1255年8月には皇帝を前に仏教界と道教界の直接論争が行われた。その後同様の論争が開かれ、『老子八十一化図』が偽作と認定されるなど最終的に道教側が破れ、古典以外の道教の書や経は焚書された。", "title": "道教における老子" } ]
老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。 史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。
{{Otheruses|人物|書物としての『老子』|老子道徳経|}} {{Infobox_哲学者 |地域 =東洋哲学 |時代 =中国・春秋時代(諸説あり) |color = #B0C4DE |image_name = Lao-Tzu on his buffalo, followed by a disciple.jpg |image_caption = |名前 = |没年月日 =[[紀元前471年]]? |学派 = [[老荘思想]]、[[道家]] |研究分野 = |影響を受けた人物 = |影響を与えた人物 =[[荘子]]など多数 |特記すべき概念 =[[道 (哲学)|道]]、無為自然 |生年月日=[[紀元前571年]]?}} {{中華圏の人物 | 名前=老子 | 画像= | 画像の説明= | 簡体字=老子 | 繁体字=老子 | ピン音=Lǎozǐ | 注音=ㄌㄠˇㄗˇ | 発音=ラオズー | ラテン字=Lao<sup>3</sup>-tzu<sup>3</sup> | 英語名=Laozi }} {{道教}} '''老子'''(ろうし)は、[[中国]][[春秋時代]]における[[哲学者]]である。[[諸子百家]]のうちの[[道家]]は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた[[道教]]は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『[[老子道徳経]]』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい[[議論]]が行われたりする<ref name="Kanazawa">{{Cite web|和書|url= http://web.kanazawa-u.ac.jp/~chinese/jiaoshi/shangtian/gongzuo/laozi112901.PDF|format=PDF |language=日本語|title=老子‐中華思想の智慧への門(『老子:中華思想智慧之門』訳出)|publisher=[[金沢大学]]中国語学中国文学コース|author=王岳川、訳:上田望|accessdate=2010-10-09}}</ref>。道教のほとんどの[[宗派]]にて老子は[[神性|神格]]として崇拝され、[[三清]]の一人である[[太上老君]]の神名を持つ。 [[史記]]の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は[[神話]]上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[諸子百家]]と時期を同じくするという考えなど多様にある<ref>[[#Kohn|Kohn (2000). Pg 4.]]</ref>。 老子は[[中国文化]]の中心を為す人物のひとりで、[[貴族]]から[[平民]]まで彼の血筋を主張する者は多く[[李氏]]の多くが彼の末裔を称する<ref>[[唐]]の王室もその一つであるが、唐王室はもともと[[八柱国]]の一つであり非漢民族であるため、僭称である。</ref>。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている<ref>[[#Bellamy|Bellamy (1993). Pp 64, 67.]]</ref><ref>[[#Roberts|Roberts (2001). Pp 1-2.]]</ref>。 == 老子の履歴 == === 史記の記述 === 老子の履歴について論じられた最も古い言及は、[[歴史家]]・[[司馬遷]]([[紀元前145年]] - [[紀元前86年]])が紀元前100年頃に著した『[[史記]]』「老子韓非列伝<ref name="wsShiki063">{{cite wikisource|title=史記/卷063|author=司馬遷|wslanguage=zh}}</ref><ref name="Shiki063">{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/lao-zi-han-fei-lie-zhuan/zh |language=漢文|title=諸子百家、『史記』老子韓非列傳|publisher=中國哲學書電子化計劃|accessdate=2010-10-09}}</ref>」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。 {{Quotation|{{Lang|zh-tw|1.老子者,楚苦縣厲郷曲仁里人也,姓李氏,名耳,字聃,周守藏室之史也。<br/>2.孔子適周,將問禮於老子。(以下略)<br/>3.老子脩道德,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰:「子將隱矣,彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道德之意五千餘言而去,莫知其所終。}}|史記 卷六十三 老子韓非列傳<ref name="wsShiki063" /><ref name="Shiki063" />}} [[File:Laozi.jpg|thumb|left|200px|upright|伝説では、老子は周を去る際、[[水牛]]に乗っていたという<ref>[[#Renard|Renard, (2002), p.16]]</ref>]] これによると老子は、[[姓]]は「李」、[[名]]は「耳」、[[字]]は「聃」(または「伯陽」<ref group="注">[[竹林の七賢]]のひとり[[嵆康]]の著『聖賢高士伝賛』など[http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-shasetu/08/0803/shasetu080318.html 中外日報社説]</ref>)。[[楚 (春秋)|楚]]の苦県<ref name="Kanazawa" />(現在の[[河南省]][[周口市]][[鹿邑県]]<ref name="Kusuyama230-239">[[#楠山|楠山、p230-239、七、謎の人老子 1.『史記』「老子伝」の批判(1)]]</ref>)、厲郷の曲仁里という場所の出身で、[[周]]の守藏室之史(書庫の記録官<ref name="Kanazawa" />)を勤めていた。[[孔子]]([[紀元前551年]] - [[紀元前479年]])が[[礼]]の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は[[道徳]]を修め、その[[思想]]から名が知られることを避けていた<ref name="Kanazawa" />。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の[[関所]]([[函谷関]]とも散関とも呼ばれる<ref name="Kanazawa" />)に着くと、関所の役人である{{仮リンク|尹喜|zh|尹喜}}が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい<ref>[[#貝塚|貝塚、p87-89]]</ref><ref name="Asano50-56">[[#浅野|浅野、p50-56、一、『老子』の謎 『老子』の成立時期]]</ref><ref name="Fowler2005, 96">[[#Fowler|Fowler (2005). Pg 96.]]</ref><ref name="Robinet1997, 26">[[#Robinet|Robinet (1997). Pg 26.]]</ref>、その後の事は誰も知らない<ref name="Kanazawa" />。(「老子」『[[列仙伝]]』においては[[大秦|大秦国]]すなわち[[古代ローマ|ローマ]]へ向かった。) 「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる<ref name="Kusuyama7-10">[[#楠山|楠山、p7-10、はじめに]]</ref><ref>[[#Luo|Luo (2004). Pg 118.]]</ref><ref>[[#Kramer|Kramer (1986). Pg 118.]]</ref><ref>[[#Kohn|Kohn (2000). Pg 2.]]</ref>。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や[[孟子]]のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える<ref name="Kusuyama7-10" /><ref>[[#貝塚|貝塚、p86-87]]</ref><ref group="注">氏族の姓「老」は実在し、[[宋 (春秋)|宋]]には老氏という貴族がいた。しかしこの一族と老子を結び付ける証拠は無い。[[#貝塚|貝塚、p87]]</ref><ref group="注">[[墨子]]の「墨」も姓ではないという説がある。しかしこれは元々姓を持たない階層の人物「翟」が[[入れ墨]]を入れられた[[囚人]]階級出身だったとか、または同音である宋の「目夷」氏の姓が転じたという説などがあり([[#貝塚|貝塚、p34-35 第二章 人類愛と平和についての対話]])、老子の名づけとは性質が異なる。</ref>。 出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の[[江蘇省]][[徐州市]][[沛県]]<ref name="Kusuyama230-239" />)に老子を訪ねている<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/zhuangzi/revolution-of-heaven/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荘子』天運篇5|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>。また「苦い」県、「厲(癩=[[ハンセン病|らい病]])」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる<ref name="Kusuyama230-239" />。曲仁についても、一説には「仁([[儒教]]の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と[[唐]]代の[[道家]]が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった[[陳 (春秋)|陳]]の相というところが出身と書かれていたとも言う<ref name="Kusuyama230-239" /><ref>[[#貝塚|貝塚、p87]]</ref>。 『史記』には続けて、 {{Quotation|{{Lang|zh-tw|4.或曰:老來子亦楚人也,著書十五篇,言道家之用,與孔子同時云。}}|史記 卷六十三 老子韓非列傳<ref name="wsShiki063" /><ref name="Shiki063" />}} とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える<ref name="Fowler2005, 96" /><ref name="Robinet1997, 26" /><ref name="Kaizuka89">[[#貝塚|貝塚、p89]]</ref>。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると<ref name="Kaizuka89" />)または「ある人曰く」(ある人物によると<ref name="Kanazawa" />)で始められている通り、前説とは別な話として書かれている<ref name="Kaizuka89-90">[[#貝塚|貝塚、p89-90]]</ref>。 さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。 {{Quotation|{{Lang|zh-tw|5.蓋老子百有六十餘歲,或言二百餘歲,以其脩道而養壽也。<br/>6.自孔子死之後百二十九年,而史記周太史儋見秦獻公曰:「始秦與周合,合五百歲而離,離七十歲而霸王者出焉。」或曰儋即老子,或曰非也,世莫知其然否。老子,隱君子也。}}|史記 卷六十三 老子韓非列傳<ref name="wsShiki063" /><ref name="wsShiki063" /><ref name="Shiki063" />}} ここでは、老子は周の「太史儋(太史聸<ref name="Kaizuka89" />)」という名の偉大な歴史家であり[[占星]]家とされ、[[秦]]の[[献公 (秦)|献公]]在位時([[紀元前384年]] - [[紀元前362年]])に生きていたとしている<ref name="Fowler2005, 96" /><ref name="Robinet1997, 26" />。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から[[覇者]]が出現すると預言したと司馬遷は述べ<ref name="Kanazawa" />、それは[[不老長寿]]の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(聸)」と老子の字「聃」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う<ref name="Kaizuka89" />。 これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている<ref name="Asano50-56" />。合理主義者であった歴史家・[[司馬遷]]自身も断定して述べていないため<ref name="Kanazawa" />これらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である<ref name="Kaizuka89-90" />。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す<ref name="Kaizuka90">[[#貝塚|貝塚、p90]]</ref>。 『史記』は老子の子孫についても言及する。 {{Quotation|{{Lang|zh-tw|7.老子之子名宗,宗為魏將,封於段干。宗子注,注子宮,宮玄孫假,假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅,因家於齊焉。}}|史記 卷六十三 老子韓非列傳<ref name="Shiki063" />}} 老子の子は「宗」と言い、[[魏 (戦国)|魏]]の[[将校]]となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、注の子は「宮」、宮の玄孫(老子の七世の孫)「假」は[[文帝 (漢)|漢の孝文帝]]に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。 この膠西王卬(劉卬)とは、[[呉楚七国の乱]](紀元前154年)で呉王・[[劉濞]]に連座し[[恵帝 (漢)|恵帝]]3年(紀元前154年)に殺害された。[[武内義雄]](『老子の研究』)や[[小川環樹]](『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、[[津田左右吉]](『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している<ref name="Kusuyama239-247">[[#楠山|楠山、p239-247、七、謎の人老子 2.『史記』「老子伝」の批判(2)]]</ref>。 === 諸子百家の著述 === [[荘子]]([[紀元前369年]] - [[紀元前286年]]と推定される)が著したという『[[荘子 (書物)|荘子]]』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/zhuangzi/seal-of-virtue-complete/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荘子』内篇、徳充符篇3|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>や外雑篇<ref name="Asano56-58" />)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる<ref name="Asano56-58">[[#浅野|浅野、p56-58、一、『老子』の謎 老聃なる人物]]</ref>。[[荀子]]([[紀元前313年]]? - [[紀元前238年]]?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」<ref>{{cite web|url= http://ctext.org/xunzi/tian-lun/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荀子』|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている<ref name="Asano56-58" />。さらに[[秦]]の[[呂不韋]](? - [[紀元前235年]])が編纂した『[[呂氏春秋]]』不二編で「老耽貴柔」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/lv-shi-chun-qiu/bu-er/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『呂氏春秋』|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>(老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている<ref name="Asano56-58" />。貴公編では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。 このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]末期には存在し、[[諸子百家]]内に知られていた可能性が大きい<ref name="Asano56-58" />。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは[[晋 (王朝)|晋]]代の[[郭象]]([[252年]]? - [[312年]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://kotobank.jp/word/%E9%83%AD%E8%B1%A1|language=日本語|title=【郭象】|publisher=デジタル大辞泉|accessdate=2010-10-09}}</ref>)が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない<ref>[[#浅野|浅野、p75-76、第二章 混沌の魔術師・荘子 一、生涯とテキスト 『荘子』三十三篇]]</ref>。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない<ref name="Kaizuka91">[[#貝塚|貝塚、p91]]</ref>。 === 定まらない評価 === このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く<ref name="Asano49-50">[[#浅野|浅野、p49-50、一、『老子』の謎 老子は実在したのか]]</ref>、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、[[北魏]]の宰相・[[崔浩]]([[381年]] - [[450年]])だった。[[唐]]の[[韓愈]]([[768年]] - [[824年]])は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の[[宋 (王朝)|宋]]代には[[陳師道]]、[[葉適]]、[[黄震]]らが老子の伝記を検証し、[[清]]代の[[汪中]](『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と[[崔述]](『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した<ref name="Kanazawa" />。 20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「[[疑古]]」<ref name="IwateYabu">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.15113/00011436 |author=藪敏裕 |date=2002-02 |title=『郭店楚墓竹簡』から見た『毛序』の成立 : 小雅・都人士篇を中心として |journal=岩手大学教育学部研究年報 |ISSN=0367-7370 |publisher=岩手大学教育学部 |volume=61 |issue=2 |pages=141-148 |naid=120001123842 |doi=10.15113/00011436 |accessdate=2022-03-03}}</ref>とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、[[胡適]](『中国哲学史』、1926年)、[[唐蘭]](『老聃的生命和時代考』)、[[郭沫若]](『老聃・関尹・環淵』)、[[黄方剛]](『老子年代之考察』)、{{仮リンク|馬叙倫|zh|马叙伦}}(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、{{仮リンク|高亨|zh|高亨}}(『重訂老子正詁』、1957年)、[[詹剣峰]](『老子其人書及其道論』、1982年)、{{仮リンク|陳鼓応|zh|陳鼓應}}(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、[[梁啓超]](1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、[[銭穆]](『関干老子成書年代之一種考察』)、{{仮リンク|羅根澤|zh|罗根泽}}(『老子及老子書的問題』)、{{仮リンク|譚戒甫|zh|谭戒甫}}(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した<ref name="Kanazawa" />。老子の存在を否定する派では、[[孫次舟]](『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し<ref name="Kanazawa" />、1957年に刊行された<ref>{{cite web|url=http://www.city-nakatsu.jp/tosho/big/fukunaga_03.pdf |format=PDF|language=日本語|title=福永光司蔵書目録(中国語の部) |publisher=[[中津市]]立図書館|edition=中‐178|accessdate=2010-10-09}}</ref>{{仮リンク|杜国庠|zh|杜国庠}}の『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・[[荀子]]・[[韓非子]]など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている<ref>[[#貝塚|貝塚、p86]]</ref>。 == 伝承 == [[ファイル:Baby Laozi Qingyanggong Chengdu.jpg|thumb|200px|right|老子誕生の図<ref>Gray Goat Temple (Qingyanggong), Chengdu, Sichuan, China.</ref>。]] === 生涯にまつわる伝説 === 一般に知られた伝来の[[伝記]]では、老子は[[周]]王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は[[黄帝]]などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、[[儀礼]]に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている<ref name="Simpkins 1999 Pp 12-13">[[#Simpkins|Simpkins & Simpkins (1999). Pp 12-13.]]</ref><ref>[[#Morgan|Morgan (2001). Pp 223-224.]]</ref>。 『[[神仙伝]]』など<ref name=AichiGakuin>{{Cite web|和書|url=http://www.aichi-gakuin.ac.jp/~kamiyama/ha.htm |language=日本語|title=物語要素辞典2010年秋季版|author= |pages=【白髪】|date=2010年|publisher=[[愛知学院大学]]|accessdate=2010-10-09}}</ref>民間の伝承では、周の[[定王 (周)|定王]]3年<ref name=Otaru23>{{Cite web|和書|url=http://archives2.ih.otaru-uc.ac.jp/Lightbox/kanseki/KR009010-00.pdf|format=PDF |language=漢文|title=老子道徳経解 二巻観老荘影響論一巻巻首一巻、序・老子伝|author=明・釈徳清|pages=23|date=1886年(清光緒12年)|publisher=[[小樽商科大学]]付属図書館|accessdate=2010-10-09}}</ref>(紀元前603年)に母親(「[[玄妙玉女]]」または「真妙玉女」<ref name=OtaniSato01>{{Cite web|和書|url=http://www2.otani.ac.jp/~gikan/12_1_1new.html|language=日本語|title=第十二房第二資料庫 老子八十一化図解読|author=佐藤義寛|publisher=[[大谷大学]]|accessdate=2010-10-09}}</ref>)が[[流星]]を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき<ref name="Kusuyama265-274">[[#楠山|楠山、p265-274、七、謎の人老子 5.神となった老子]]</ref>)に老子を[[懐妊]]したが62年間(80年間? <ref name=Otaru23 />、81年間? <ref name=OtaniSato01 /><ref name="Kusuyama265-274" />、72年間または3700年間<ref group="2-" >『酉陽雑俎』巻2-59</ref>などの説も<ref name=AichiGakuin />)も胎内におり、彼女が[[梅]]の木にもたれかかった時に左の脇から[[出産]]した<ref name=OtaniSato01 />という。それゆえ、老子は[[知恵]]の象徴である[[白髪]]混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ[[大人]]の姿で産まれたという<ref>[[#Simpkins|Simpkins & Simpkins (1999). Pp 11-12.]]</ref><ref>[[#Morgan|Morgan (2001). Pg 303.]]</ref><ref name="Kusuyama265-274" />。他の伝承では、老子は[[伏羲]]の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するために[[インド]]へ向かったと言われる<ref name="Kusuyama7-10" /><ref name="AsanoYuasa175-176">[[#浅野・湯浅|浅野・湯浅、p175-176、六、老子と道家 老子の謎]]</ref><ref name="Kohn 2000. Pp 3-4">[[#Kohn|Kohn (2000). Pp 3-4]]</ref>。伝説の中にはさらに老子が[[仏陀]]に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)<ref name="Kusuyama7-10" /><ref name="AsanoYuasa175-176" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-shasetu/08/0803/shasetu080318.html|language=日本語|title=社説:道教と仏教の老子像|author=】|date=2008年3月18日|publisher=中外日報|accessdate=2010-10-09}}</ref>もある<ref name="Simpkins 1999 Pp 12-13"/><ref>[[#Morgan|Morgan (2001). Pp 224-225.]]</ref>。 中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。[[唐]]朝帝室の[[李氏]]は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた<ref>[[#Kohn|Kohn (2000). Pg 720.]]</ref><ref>[[#Drompp|Drompp (2004). Pg. 254.]]</ref><ref>[[#Fowler|Fowler (2005). Pg. 153]]</ref><ref name="AsanoYuasa175-176" />。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる<ref>[[#Simpkins|Simpkins & Simpkins (1999). Pg 12.]]</ref>。 === 字・伯陽 === 現代に伝わる『史記』には記載されていないが、老子には「伯陽」という字があったとされる。伯陽とは元々[[周|西周]]第12代・[[幽王 (周)|幽王]]の時代に周が滅亡することを預言した人物の事である。これは『史記』に言う太史儋の覇王出現の預言が影響し、[[後漢]]の時代に「聃」を[[諡]]に変えて「伯陽」を字とする[[改竄]]が加えられた事の名残である<ref name="Kusuyama258-264">[[#楠山|楠山、p258-264、七、謎の人老子 4.仙人となった老子]]</ref>。 老子など多くの歴史的人物を[[仙人]]視する風潮は[[前漢]]時代に起こり、これを批判し[[王充]]は『[[論衡]]』という書の「道虚篇」で老子不老不死説を取り上げ否定した。伯陽と老子を同一視する説は、このような時代の流行を反映したもので、逆にそれが『史記』の改竄にまで及んだことを示す<ref name="Kusuyama258-264" />。 === 尹喜 === 伝統的記述では、老子は[[都市]]生活における[[道徳|モラル]]の低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の[[衛兵]]・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った<ref name="Kusuyama230-239" />。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。 この尹喜は、『荘子』「天下篇」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/zhuangzi/tian-xia/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荘子』雑篇、天下篇5|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>などで登場する「関尹(關尹)」ではないかとする説がある。「天下篇」で荘子は関尹を老子(老聃)と同じ道家の一派と分類している<ref name="Kaizuka94-96">[[#貝塚|貝塚、p94-96]]</ref>。「関」は文字通り関所であり、「尹」は役所の長官という意味を持つ。そのため、元々は役職名から転じた通称「関尹」なる人物が、尊敬する老子と出会い喜んだ様が『史記』に見られる「關令尹喜」という表現となり、人物名「尹喜」へ転じたという説がある<ref name="Kaizuka94-96" /><ref name="Kusuyama247-258">[[#楠山|楠山、p247-258、七、謎の人老子 3.虚像、老子の形成]]</ref>。 郭沫若は、この関尹とは[[斉 (春秋)|斉]]の[[稷下]]の学者の一人である「[[環淵]]」が訛ったものという説を述べた。これに基づけば、環淵の[[黄老思想]]が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる<ref name="Kaizuka94-96" />。 == 『老子道徳経』から推測される老子 == {{See also|老子道徳経}} === 議論 === 老子が著したと伝わる『[[老子道徳経]]』は、『老子』『道徳経』『道経』『徳道経』『五千言』など、様々な名称でも呼ばれる<ref name="Kanazawa" />。この書籍の真偽、元々の形についても老子の実在や時代の判断に直結する事もあり、数多くの主張や議論が行われてきた<ref name="Kanazawa" /><ref>[[#Simpkins|Simpkins & Simpkins (1999). Pp 11-13.]]</ref><ref>[[#Morgan|Morgan (2001). Pg 223.]]</ref>。この『老子道徳経』成立期が判明すれば、それは老子が生きた時代の下限と考えられる<ref name="Asano50-56" />。 『老子道徳経』(『老子』)がその書籍名を明示して引用された最初の例は、[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]代に[[淮南]]王[[劉安]]([[紀元前179年]] - [[紀元前122年]])が編纂した『[[淮南子]]』である<ref name="Asano50-56" />。ここに注目し、『老子道徳経』は先人の金言が徐々に集積され、武帝の時代に形式が整えられて書名が与えられたという説がある<ref name="Asano50-56" />。 「晩期説」を唱えた[[梁啓超]]は、1922年に新聞紙上に短い論説を発表し、『老子道徳経』は戦国末期に出来たものと唱え、4年後に武内義雄が『老子原始』にて独自に<ref group="注">貝塚は、当時の通信事情から、中国の新聞を武内義雄が見る機会はまず有り得ないと述べている。[[#貝塚|貝塚、p90]]</ref>ほぼ同じ説を述べた。梁啓超は自説を纏め、6項目の根拠を示した<ref name="Kanazawa" /><ref group="2-" >[[梁啓超]]「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』中華諸局、第38巻所蔵、1936年、p50-68</ref>。 * 老子の8代目子孫と孔子の13代目子孫が同じ時代に生きていたと言われ、5代分の開きがある。 * 墨子や孟子の著作には、老子について触れた部分が全く無い。 * 礼を守ったと伝わる老子と、その著作『老子道徳経』の内容には、大きな隔たりがある。 * (老子について述べた箇所がある)『荘子』にある多くの説話のほとんどは[[寓話]]であり、事実とはみなされない。 * 老子の言動(『老子道徳経』の内容)は、春秋時代の雰囲気からすると異質すぎる。 * 『老子道徳経』には、戦国時代に使われた用語(例えば「王侯」「万乗之君」「仁義」など)が含まれる。 [[馮友蘭]]は文体論から『老子道徳経』を考察し、経典の形式である点は戦国時代の特徴で、春秋時代の対話形式ではない点から戦国期成立を主張。他にも、老子の「不尚賢」という概念は墨子の「尚賢」を否定したもので、それ故に老子は墨子以降の人という説も唱えられた<ref name="Kanazawa" />。 一方で、春秋時代の成立とみなす学者も多く、例えば[[呂思勉]](『先秦学術概論』)は『老子道徳経』内で用いられる語義が非常に古い点、その思想は女権優位が軸を成す点、また「男・女」ではなく「牡・牝」という後代とは異なる漢字が使われる点を根拠に挙げている。戦国期成立説への反証も行われ、時代考察の一派を占める<ref name="Kanazawa" />。 また、もっと後世の作という説もあり、『呂氏春秋』と共通する箇所は引用ではないと主張した<ref name="AsanoYuasa30-34">[[#浅野・湯浅|浅野・湯浅、p30-34、一、諸子百家と新出土資料 馬王堆漢墓帛書の発見]]</ref>。[[顧頡剛]]らは呂不韋と同じ秦代、[[劉節]]は前漢の[[景帝 (漢)|景帝]]時代という見解を述べた<ref name="Kanazawa" />。 このような議論を通じ、少なくとも老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、同書は『孔子』(『[[論語]]』)や『墨子』同様にその系譜に当たる弟子が後年に纏めたものという考えが主流となり<ref name="Kaizuka91" />、「[[疑古]]」派もしくはこれに民俗学や文献学などを取り入れる「釈古」派の考えが定説として固まりつつあった<ref name="AsanoYuasa30-34" />。 === 馬王堆・郭店の発掘書 === このような『老子道徳経』の成立に関わる[[考古学]]的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、[[湖南省]][[長沙市]]で漢代の紀元前168年に造営された<ref name="Asano49-50" /><ref group="注">出土した本牘に書かれた紀年から判明。[[老子#浅野・湯浅|浅野・湯浅、p30]]</ref>[[馬王堆漢墓|馬王堆3号]]墓から[[帛書]]の写本([[馬王堆帛書]])が出土したが、これには二種の『老子道徳経』が含まれていた。さらに1993年、今度は[[湖北省]][[荊門市]]郭店<ref name="Asano49-50" />で、戦国時代の楚国の墓([[郭店一号楚墓]])から730枚の竹簡([[郭店楚簡]])が発見された。この中には三種類の『老子道徳経』が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる『老子道徳経』とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった<ref name="Kanazawa" />。 1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種は、現在に伝わる『老子道徳経』とほぼ同じ内容ながら、二種共上・下篇の順序が逆転し、下篇が前上篇が後になっている。「甲本」「乙本」という名は、便宜上つけられたものである。甲本の[[字体]]は秦の[[小篆]]の流れを汲む[[隷書体]]であり、乙本は同じ隷書でも漢代の字体を持っていた。さらに、乙本では「邦」の字がすべて「国」に置き換えられていたのに対し、甲本は「邦」を使用している。これは、乙本には[[前漢]]の[[劉邦]]死(紀元前195年)後にこの字を[[避諱]]したことが反映され、甲本はそれ以前に写本制作されたことを示す。これによって、現本『老子道徳経』は少なくとも前漢・高祖時代には現在の形で完成していたと証明される<ref name="Asano50-56" />。 さらに郭店一号楚墓は、副葬品の特徴を分析した結果などから戦国時代中期の紀元前300年頃のものと推定された。その中には君主が老齢の臣下に賜る[[鳩杖]]があったことから、正式発表は無いが被葬者は70歳以上で死亡したと考えられる。この墓から発見された竹簡は16種類あり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.let.osaka-u.ac.jp/chutetsu/sokankenkyukai/kakuten.html |language=日本語|title=郭店楚簡紹介|publisher=[[大阪大学]]中国哲学研究所内 戦国楚簡研究会|accessdate=2010-10-09}}</ref>、さらに『老子道徳経』に相当するものは「甲本」「乙本」「丙本」の3種類に分けられた。この甲・乙・丙本に共通する文章はわずかに甲と丙の一部にのみあるが、細かな文言などに差異があった。そして三本を合わせても31章にしかならず、現在の『老子道徳経』81章の {{分数|1|3}} にしか相当しない<ref name="Asano50-56" />。 [[浅野裕一]]は郭店楚簡甲・乙・丙本について、『老子道徳経』に相当する原本が存在し、被葬者もしくは写本製作者が何らかの意図を持ってその都度部分的に写し取った三つの竹簡と推測した。その根拠は三本に共通部分がほとんど無い点を挙げ、これらが『老子道徳経』が形成される途上の3過程とは解釈できないとした。その一方で思想内容には整合性があることから、別々の作者とも考えにくいと述べた。さらに、甲・丙本の共通部分(現行本第64章後半に相当)にある差異は、原本『老子道徳経』には写本を繰り返す中で既に複数の系統に分かれたものが存在していたと推定した<ref name="Asano50-56" />。 当時、書籍は簡単に作成・流通できるものではなく、郭店一号楚墓の被葬者も長命な人生の中で機会を得て郭店楚簡を得たと考えられ、もしそれが若い時分ならばそれだけで原本は紀元前300年から数十年単位で遡り存在したことになる。さらに甲・丙本の差に見られる複数の写本系統を考慮すれば、その時代はさらに古くなり、『老子道徳経』原本は戦国前期の紀元前403年 - 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてくる。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は全容が公表されていないが、それ如何によっては『老子道徳経』成立時期がさらに明らかになる可能性がある<ref name="Asano50-56" />。 === 老子の思想の形成について === 中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記[[編集]]されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである<ref>『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P165森三樹三郎</ref>。老子道徳経に編纂されている思想についても、多数の著者によって、いくつかの思想が述べられており、それを後代の人が書物としてまとめたものであるとみることができる。 ==== 老子の「道」について ==== 老子道徳経に述べられている「道」の区分については、①普遍的法則としての道、②根元的実在としての道、③処世術としての道、④政治思想としての道、の四通りの「道」の区分があると見ることができる。このうち、②根元的実在としての道について述べられた部分が、古い老子の思想であると見ることができる。 「建言」というのは、下編の最初のほうに出てくる『老子道徳経』よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、「老子下編」を編集した人物にとっての、最古の老子の[[伝説]]の書のようなものであったということができる。「建言」とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。<ref>『世界の名著 4 老子 荘子』中央公論社 1978年P117の注 小川環樹</ref>{{efn2|「建言」による引用はどこまでを指すのかは不確実である(出典『中国古典文学大系4』1973年P22 注2金谷治)。内容からすると、43章くらいまでが名言集であるように見える。}}。 ==== 「建言」に見る、実在としての道 ==== 「建言」によると、実在としての道は、循環運動を永遠に続けている<ref>『老荘を読む』講談社 1987年 P114 蜂屋邦夫</ref>。あらゆる[[存在]]は、「[[有]]」として、「[[無]]」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。 「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和([[均衡]])の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。 「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである<ref>『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社1978年P114 小川環樹</ref>{{efn2|老子が「道(タオ)と呼んできたものは、人間がこれまで神とか仏とか宇宙意識とか呼んでいた、万生万物の根源としての「一なるもの」であるとする見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)}}。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。 == 思想から見る老子 == {{See also|老荘思想}} === 政治思想の源流 === {{See also|黄老思想}} 政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた<ref name="Kaizuka96-97">[[#貝塚|貝塚、p96-97]]</ref><ref name="Asano61-64">[[#浅野|浅野、p61-64二、「道」の思想 君主は「無為の治」を道とすべし]]</ref>。このような考えは大国を志向した[[儒家]]や[[墨家]]とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める<ref name="Kaizuka96-97" />。 しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が[[子路]]を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う<ref name=RongoBishi>{{cite web|url=http://ctext.org/analects/wei-zi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『論語』|chapter=微子|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある<ref name=RongoBishi />。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には[[中原]]諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した<ref name="Kaizuka96-97" />。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる<ref>[[#貝塚|貝塚、p94]]</ref>。 [[柄谷行人]]によると、[[人間社会]]は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬([[贈与]]とお返し)」。人類史で見れば、[[原始|原始社会]]や[[氏族|氏族社会]]は交換様式Aの原理から成り立つ<ref name="柄谷行人"/>。二つ目は、被支配者は支配者に対して[[租税|税]]や[[年貢]]を支払い、その見返りとして、[[生命]][[財産]]の保護を受け、[[公共事業]]や[[福祉]]などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」<ref name="柄谷行人"/>。三つ目の交換様式Cは、[[市民社会|資本主義社会]]で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である<ref name="柄谷行人"/>。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す[[社会運動]]が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する<ref name="柄谷行人"/>。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた[[自由]]な[[個人]]の[[アソシエーショニズム|アソシエーション]]として[[相互扶助|相互扶助的]]な共同体を創り出すことを目指す<ref name="柄谷行人"/>。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や[[国家]]が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、[[階級分化]]と[[経済的不平等|貧富の格差]]を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、中国における老子もまた交換様式Dを開示したとみられる<ref name="柄谷行人">{{Cite book|和書|author=[[柄谷行人]]|date=2016|title=普遍宗教は甦る|series=文藝春秋special 10(1)|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=|page=131-140}}</ref>。 === 老子の社会階級 === 老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。 {{Quotation|{{Lang|zh-tw|小國寡民。使有什伯之器而不用;使民重死而不遠徙。雖有舟輿,無所乘之,雖有甲兵,無所陳之。使民復結繩而用之,甘其食,美其服,安其居,樂其俗。鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來}}|道德經80<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/dao-de-jing/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『道徳経』|chapter=老子|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref> }} 老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、今のままでもその食物を美味と思い、服装も立派だと考え、住まいに満足し、それらを自給自足で賄い、その素朴な習俗を楽しむという。隣の国との関係は、互いに望み合えてせいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するように上からの干渉を極力抑えて、民のあるがままにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭し(9章)、民に対する為政者へりくだりこそが天下に歓迎され、長期にわたり安泰を維持出来るとある(66章)。権力政治に対して、民が君主の圧政と重罰に慣れると、上の権力をものともしない状態になり(72章)、民が圧政に苦しみ、死を恐れなくなれば死罪による脅しも効かなくなり民の反乱、国家の崩壊を招くと警告している(74章)。また、法令をどんなに整備しても必ず法網をくぐる者が現れ、さらに犯罪者が増えるという趣旨から法律・政令の簡素化を説いている(57章)。 [[国共内戦|中国の共産主義革命]]以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、[[范文瀾]]は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。[[マルクス主義]]の[[呂振羽]]は、[[都市]]商人に対する[[農村]]の新興地主らの闘争理論だと述べた。[[侯外廬]]は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない<ref>[[#貝塚|貝塚、p98-100]]</ref>。 == 道教における老子 == {{See also|道教}} [[ファイル:Laozi 002.jpg|thumb|left|老子像]] 伝統的に老子は[[道教]]を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられる。一般的な宗教である道教では最高の神格[[:en:deity|(en)]]を[[玉皇大帝]]としているが、[[五斗米道]]など道教の知的集団では、老子は神名・[[太上老君]]にて神位の中でも最上位を占める[[三清]]の一柱とみなしている<ref>[[#Maspero|Maspero (1981). Pg 41.]]</ref><ref>[[#Robinet|Robinet (1997). Pg 63.]]</ref>。 [[漢]]王朝以降、老子の伝記は強い宗教的意味合いを持ち、道教が一般に根付くとともに老子は神の一員に加わった。神聖なる老子が「道」を明らかにしたという信仰が、五斗米道という道教初となる教団の組織に繋がった。さらに後年の道教信奉者たちは老子こそ「道」が実態化した存在と考えるようになった。道教には、『老子道徳経』を執筆した後も老子は行方をくらまさず「老君」になったと考える一派もいるが、多くは「道」の深淵を明らかにするためにインドへ向かったと考える者が多い<ref name="Kohn 2000. Pp 3-4"/>。 === 理想の師弟 === 西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。『老子道徳経』の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいという懇願に応えたものが発端と言われる。[[民俗学]]的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な[[教師|師]]と[[弟子]]の関係を表したものと受け止められた<ref>[[#Kohn&Lafa|Kohn & Lafargue (1998). Pp 14, 17, 54.]]</ref>。 [[ファイル:Laozi meets Yin Xi.PNG|thumb|right|老子と尹喜の出逢い]] 7世紀の書『三洞珠嚢』は、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に[[農民]]のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請いた。老子はただちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は[[試験]]を受けなければならないという道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、求めを明瞭に説明し、「道」を理解するために進む[[意思]]を示さなければならない<ref>[[#Kohn&Lafa|Kohn & Lafargue (1998). Pg 55.]]</ref>。 『三洞珠嚢』によると師弟のやりとりは続く。老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が受けるべき数々の論理的手法、[[学説]]、[[聖典]]など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い[[羊]](青い羊?<ref>{{cite web|url= http://big5.soundofhope.org/programs/251/4106-1.asp |language=漢文|title=第26集‐道家真人尹喜的故事|author= |publisher=希望之聲國際廣播電台|accessdate=2010-10-09}} []</ref>)を連れ、[[市場]]で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む[[宇宙]]を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へ出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる<ref>[[#Kohn&Lafa|Kohn & Lafargue (1998). Pp 55-56.]]</ref>。 === 老子八十一化説 === 太上老君は、歴史の中で多くの「化身」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/xuandi.html|language=日本語|title=玄天上帝の変容 ‐数種の経典間の相互関係をめぐって‐|author=二階堂善弘|publisher=[[関西大学]] |accessdate=2010-10-09}}</ref>または様々な受肉を経て多様な外観を備え、道の本質を説いたという<ref name="Kohn 2000. Pp 3-4"/>。 これは、[[元 (王朝)|元]]の時代に再解釈され、仏教に対する道教の優位性を論拠付けるために『老子八十一化図』が作成された。老子の生涯を図で示し、その偉大さを示そうとした全眞教の[[道士]]・李志常が指示し令狐璋と史志経が作成した同書は、[[モンケ|憲宗]]の近臣を通じて広く流布させようと画策された{{Sfn|佐藤義寛|2001|p=1}}。 しかし、本書は一部を除き仏陀の伝承を剽窃したもので、これを祥邁は「採釋瑞而爲老瑞、(中略)改迦祥而作老祥」(仏陀の吉祥を書き換えて、老子の吉祥に仕立て直している)と批判した{{Sfn|佐藤義寛|2001|p=4}}。事実これは、[[全真教|全真道]]の丘長春(長春真人)が[[チンギス・カン]]と面会して以来発展を続ける<ref name=Mongol>{{Cite journal|和書url=https://hdl.handle.net/10086/17506 |author=烏雲畢力格 |title=歴史と民族の創生 : 17世紀モンゴル編年史における民族的アイデンティティの形成 |issue=一橋大学 博士論文 (学術), 甲第514号 |date=2009 |naid=500000521924 |page=168、註23 |accessdate=2022-03-03}}</ref>道教の宣伝活動に加えて「化胡説」を強調して仏教の相対的地位低下も狙っていた{{Sfn|佐藤義寛|2001|p=4}}。仏教界の反発は強く{{Sfn|佐藤義寛|2001|p=5}}、1255年8月には皇帝を前に仏教界と道教界の直接論争が行われた<ref name=Mongol />。その後同様の論争が開かれ、『老子八十一化図』が偽作と認定されるなど最終的に道教側が破れ、古典以外の道教の書や経は[[焚書]]された{{Sfn|佐藤義寛|2001|p=1}}<ref name=Mongol />。 == 参考文献 == * {{cite book |和書|author=[[貝塚茂樹]]|title=[[諸子百家]]|publisher=[[岩波新書]]|edition=初版1961年|chapter=第四章 有と無の超越 ‐老子の哲学‐ (p86-105)|isbn=4-00-413047-6|ref=貝塚}} * {{cite book |和書|author=浅野裕一|title=諸子百家|publisher=[[講談社学術文庫]]|date=2006年(初版2004年)|edition=第8刷|chapter=第一章 無為の哲人・老子 (p49-71)|isbn=4-06-159684-5|ref=浅野}} * {{cite book |和書|author=[[浅野裕一]]・[[湯浅邦弘]]編|title=諸子百家〈再発見〉 <small>掘り起こされる古代中国思想</small>|publisher=[[岩波書店]]|date=2004年|edition=第1刷|isbn=4-00-023399-8|ref=浅野・湯浅}} * {{cite book |和書|author=[[楠山春樹]]|title=老子 <small>柔よく剛を制す</small>|publisher=[[集英社]]〈中国の人と思想4〉|date=1987年(初版1984年)|edition=第3刷|isbn=4-08-185004-6|ref=楠山}} * {{cite book |author= Bellamy, James A.B. |title= Some Proposed Emendations to the Text of the Koran|publisher= The Journal of the American Oriental Society|edition=113.4 citing work by Aad Vervoorn |date=1993年 |ref= Bellamy}} * {{cite book |author=Boaz, David |title=The libertarian reader: classic and contemporary readings from Lao-tzu to Milton Friedman |publisher=Free Press |location=[[ニューヨーク]] |date=1998年 |pages= |isbn=0-684-84767-1 |oclc= |doi=}} * {{cite book |author=Creel, Herrlee G. |title=What Is Taoism?: and Other Studies in Chinese Cultural History |publisher=[[シカゴ大学]]出版局|location=[[シカゴ]] |date= 1982年|pages= |isbn=0-226-12047-3 |oclc= |doi=}} * {{cite book |author=Dumoulin, Heinrich | date =2005年 | title =Zen Buddhism: A History |location =Bloomington, IN | publisher =World Wisdom | edition =Volume 1: India and China|isbn=0941532895}} * {{cite book | url=https://books.google.co.jp/books?id=yxNgXs3TkJYC&pg=PT320&lpg=PT320&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false | title=The Encyclopedia of Libertarianism | author=Dorn, James A. | editor=Hamowy, Ronald | page=282 | date=2008年 | accessdate=May 12, 2010 | isbn=1412965802}} * {{cite book |author=Drompp, Michael Robert |title=Tang China And The Collapse Of The Uighur Empire: A Documentary History |publisher=Brill Academic Publishers |location= |date=2004年 |pages= |isbn=9004140964 |ref=Drompp}} * {{cite book |author= Fowler, Jeaneane|title=An Introduction To The Philosophy And Religion Of Taoism: Pathways To Immortality |publisher=Sussex Academic Press |location=[[ブライトン]] |date= 2005年|pages= |isbn=1-84519-085-8 |ref=Fowler}} * {{cite book |author=Kohn, Livia |title=Daoism Handbook (Handbook of Oriental Studies / Handbuch der Orientalisk&nbsp;? 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A New Translation Based on the Recently Discovered Ma-wang-tui Texts (Classics of Ancient China) |publisher=Ballantine Books |location=ニューヨーク|date= 1992年|pages= |isbn=0-345-37099-6 |oclc= |doi=}} * {{cite book |author=Kaltenmark, Max |title=Lao Tzu and Taoism |publisher=スタンフォード大学出版局|location=スタンフォード|isbn=0-8047-0689-1 |oclc= |doi=}} * {{cite book |author=Waley, Arthur |title=The Way and Its Power: Lao Tzu's Tao Te Ching and Its Place in Chinese Thought (UNESCO Collection of Representative Works) |publisher=Grove Press |location=ニューヨーク|date= 1958年|pages= |isbn=0-8021-5085-3 |oclc= |doi=}} * {{cite book |author=Moeller, Hans-Georg |title=The philosophy of the Daodejing |publisher=[[コロンビア大学出版局]]|location=ニューヨーク|date=2006年 |pages= |isbn=0-231-13678-1 |oclc= |doi=}} * {{cite book |author=Peerenboom, R. P. |title=Law and morality in ancient China: the silk manuscripts of Huang-Lao |publisher=ニューヨーク州立大学出版局|location=オールバニ|date=1993年 |pages= |isbn=0-7914-1237-7 |oclc= |doi=}} * {{cite book |author=Klaus, Hilmar |title=Das Tao der Weisheit. 3 German translations, English Introduction, many English + German sources (140 pp.) |publisher=Hochschulverlag |location=[[アーヘン]]/[[ドイツ]] |date=2008年 |pages=548 |id={{ISBN2|978-3-8107-0032-2}} & {{ISBN2| 978-3-8107-0041-4}} |oclc= |doi=}} * {{cite book |author=Klaus, Hilmar |title=The Tao of Wisdom. Laozi&nbsp;? Daodejing. Chinese-English-German. Aachen: Hochschulverlag) |publisher=Hochschulverlag |location=アーヘン/ドイツ|date=2009年 |pages=600 |isbn=978-3-8107-0055-1 |oclc= |doi=}} == 外部リンク == * {{gutenberg author| id=Laozi | name=老子}} * [https://plato.stanford.edu/entries/laozi/ Stanford Encyclopedia of Philosophy: Laozi] * [https://www.iep.utm.edu/laozi/ Internet Encyclopedia of Philosophy: Laozi] * [http://www.tao-te-king.org Lǎozǐ Dàodéjīng Chinese + English + German, verbatim + analogous] * [http://www2.otani.ac.jp/~gikan/6_2situ_main.html 老子八十一化図 図像][[大谷大学]]所蔵 * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{春秋戦国時代}} {{DEFAULTSORT:ろうし}} [[Category:老子|*]] [[Category:紀元前6世紀中国の哲学者]] [[Category:中国の論理学者]] [[Category:神秘思想家]] [[Category:道家の人物]] [[Category:道教に関連する人物]] [[Category:諸子百家の人物]] [[Category:生没年不詳]]
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プロトコル
プロトコルまたはプロトコール(英語: protocol 英語発音: [ˈproutəˌkɔːl], [ˈproutəˌkɔl]、フランス語: protocole フランス語発音: [prɔtɔkɔl])とは、複数の者が対象となる事項を確実に実行するための手順について定めたもの。 近年では、手順という意味だけにとどまらず,複数間における、コミュニケーション言語、ルール、考え方、などをまとめて示す言葉でもあり、ある特定のグループの中で、これらが一致すること、すなわち「プロトコルの一致」がいかなる場面でも重要視される。 もともとは「人間同士のやりとり」だけに関する用語であった。戦間期の学術的批判を経て、情報工学分野でマシンやソフトウェア同士のやりとりに関する取り決め(通信規約)を指すためにも用いられるようになった。 日本語に意訳した語としては、「仕様」「規定」「議定書」「儀典」などがある。 古代ギリシアでパピルスで作られた巻物の最初の1枚目を英: protokollon(古希: πρωτόκολλον)と呼び、巻物の内容などを記すためのページとして使われていた。その後、草稿、議事録という意味を経て議定書、外交儀礼といった意味へと発展した。 プロトコルの「プロト」は「最初の」、「コル」は「糊」という意味で、表紙に糊付けした紙を表している。 ウィーン学団の一人、オットー・ノイラートの1932年の論文「プロトコル命題」において、「プロトコル」を含む用語が用いられている。 1968年に大型コンピュータを共有するために世界で最初に作られたインターネットであるARPANETが稼働し、これが「プロトコル」という用語および手順がインターネットで使われた最初となった。 その後、最初期のパケット交換技術の方式のひとつであるX.25が登場し、研究者のみの利用であったARPANETから成長し一般ユーザも利用出来るものを目指し作成された結果、世界中のパケット交換技術者間でプロトコルという用語が定着し、共通語となった。 政治、その中でも特に外交の用語として、複数の用法が存在する。プロトコルの成立当初よりも排他的な用語である。 外交儀礼としてのプロトコルとは、外交の場や国際的催しで、その実務や交流の場における公式な規則や手順などを、ひとつの典拠として利用できるようまとめた基本原則ともなるもの。歴史的外交事例に基づいた慣行や慣習を整理し成文化したものであり、法的な拘束力はもたない。 具体例としては、列席者の序列、国旗の取扱い、式例の進行手順、参列者の服装、物事の言い表し方などについて、その一般的な運用法をあらかじめ決めて明示するものだが、そもそも成文化されていない純粋な慣例も多く、その内容は時と必要に応じてさまざまに変化する。 また国際的に尊重されるべき大枠での合意ではあるものの、運用国の実情や慣習に応じてその内容が変化する場合もある。例えば国旗の取扱いでは、国際的には自国旗を他国旗よりも上位(左側)に掲揚または配置するのが一般的なプロトコルだが、日本では相手国に敬意を表する意味で逆に他国旗を日章旗の上位に持ってくる場合も多い。 日本の外務省のホームページでは、基本ルールとして、「先任者優先(先着順)」、「原則として右上位(国旗の並び順,自動車の座席等)」を紹介している。 なお、外交関係者の中には、この外交儀礼の「プロトコル」を「プロトコール」と延ばして表記・呼称する者もいる(日本の外務省も後者の表記を用いている)。これはかつてのいわゆる「外交共通語」が英語ではなくフランス語だった時代の名残でもある。 世界共通の一般的マナーとして活用されることもあるが誤りであり、あくまでも国家間の儀礼上のルールである。 外交上用いられる他国への批判表現は批判の度合いにより8段階が規定されており、レベルが上になるほど批判の度合いが強くなる。 国際法における条約の一種である議定書は、英語の protocol の訳語であることから、外交関係者の間ではこれをプロトコルと呼ぶこともある。 コンピュータにおける「プロトコル」とは通信規約を意味する。たとえ異なる企業どうしの装置であっても通信が行えるよう、用語を含めて厳密に規定されている。一度定められたプロトコルを変更することは容易ではないため、情報通信技術が今後どのように開発されるかを見据えながらプロトコルの作成が行われる。工学におけるシステムの設計は階層によって行われることが多く、コンピュータにおけるプロトコルも厳密な階層的設計が行われる。 国際標準化機構と国際電気通信連合がOSI基本参照モデルを定めていて、多くのプロトコルがこれをモデルとして作られている。インターネットにおけるプロトコルは RFC で技術仕様が公開されている。 実験プロトコルは分子生物学や生化学などの実験において、実験の手順、及び条件等について記述したものである。
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プロトコルまたはプロトコールとは、複数の者が対象となる事項を確実に実行するための手順について定めたもの。 近年では、手順という意味だけにとどまらず,複数間における、コミュニケーション言語、ルール、考え方、などをまとめて示す言葉でもあり、ある特定のグループの中で、これらが一致すること、すなわち「プロトコルの一致」がいかなる場面でも重要視される。 もともとは「人間同士のやりとり」だけに関する用語であった。戦間期の学術的批判を経て、情報工学分野でマシンやソフトウェア同士のやりとりに関する取り決め(通信規約)を指すためにも用いられるようになった。 日本語に意訳した語としては、「仕様」「規定」「議定書」「儀典」などがある。
'''プロトコル'''または'''プロトコール'''({{lang-en|protocol}} {{IPA-en|ˈproutəˌkɔːl}}, {{IPA-en|ˈproutəˌkɔl|}}、{{lang-fr|protocole}} {{IPA-fr|prɔtɔkɔl}})とは、複数の者が対象となる事項を確実に実行するための手順について定めたもの。 近年では、手順という意味だけにとどまらず,複数間における、コミュニケーション言語、ルール、考え方、などをまとめて示す言葉でもあり、ある特定のグループの中で、これらが一致すること、すなわち「プロトコルの一致」がいかなる場面でも重要視される。 もともとは「人間同士のやりとり」だけに関する用語であった。[[戦間期]]の学術的批判を経て、[[情報工学]]分野でマシンや[[ソフトウェア]]同士のやりとりに関する取り決め([[通信規約]])を指すためにも用いられるようになった。 [[日本語]]に[[意訳]]した語としては、「仕様」「規定」「議定書」「儀典」などがある。 == 歴史と語源 == [[古代ギリシア]]で[[パピルス]]で作られた巻物の最初の1枚目を'''{{Lang-en-short|protokollon}}({{Lang-grc-short|πρωτόκολλον}})'''と呼び、巻物の内容などを記すためのページとして使われていた<ref name="nikkei20040621">{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/free/ITPro/OPINION/20040618/146055/|title=プロトコルという通信用語はどこから来たのか|publisher=[[日本経済新聞社|日経コンピュータ]]|author=三輪芳久=[[日経BP#直販誌|日経NETWORK]]|date=2004年6月21日|accessdate=2014年3月4日}}</ref>。その後、草稿、議事録という意味を経て議定書<ref name="mizuno20030920" />、外交儀礼といった意味へと発展した<ref name="nikkei20040621" />。 プロトコルの「プロト」は「最初の」、「コル」は「[[糊]]」という意味で、表紙に糊付けした紙を表している<ref name="mizuno20030920">{{Cite web|和書|url=http://ponto.cs.kyoto-wu.ac.jp/~mizuno/mizuno-daigaku-tsushin-2.html|title=「京都女子大学通信」寄稿「パソコンについて」 第2回「インターネットは通信プロトコル」|publisher=[[京都女子大学]]|author=[[水野義之]]|date=2003年9月20日|accessdate=2014年3月4日}}</ref>。 [[ウィーン学団]]の一人、[[オットー・ノイラート]]の1932年の論文「プロトコル命題」において、「プロトコル」を含む用語が用いられている。 1968年に大型コンピュータを共有するために世界で最初に作られたインターネットである[[ARPANET]]が稼働し、これが「プロトコル」という用語および手順がインターネットで使われた最初となった<ref name="nikkei20040621" />。 その後、最初期のパケット交換技術の方式のひとつである[[X.25]]が登場し、研究者のみの利用であったARPANETから成長し一般ユーザも利用出来るものを目指し作成された結果、世界中のパケット交換技術者間でプロトコルという用語が定着し、共通語となった<ref name="nikkei20040621" />。 == 政治 == [[政治]]、その中でも特に[[外交]]の用語として、'''複数の'''用法が存在する。プロトコルの成立当初よりも排他的な用語である。 === 外交儀礼 === '''[[外交儀礼]]としてのプロトコル'''とは、[[外交]]の場や国際的催しで、その実務や[[国際交流|交流]]の場における公式な[[規則]]や手順などを、ひとつの典拠として利用できるようまとめた基本原則ともなるもの。歴史的外交事例に基づいた慣行や[[慣習]]を整理し成文化したものであり、法的な拘束力はもたない<ref>「[http://www.e-manner.info/ 日本マナー・プロトコール協会]」日本マナー・プロトコール協会WEBサイト</ref>。 具体例としては、列席者の序列、[[国旗]]の取扱い、式例の進行手順、参列者の服装、物事の言い表し方などについて、その一般的な運用法をあらかじめ決めて明示するものだが、そもそも成文化されていない純粋な慣例も多く、その内容は時と必要に応じてさまざまに変化する。 また国際的に尊重されるべき[[大枠の合意|大枠での合意]]ではあるものの、運用国の実情や慣習に応じてその内容が変化する場合もある。例えば国旗の取扱いでは、国際的には自国旗を他国旗よりも上位(左側)に掲揚または配置するのが一般的なプロトコルだが、[[日本]]では相手国に敬意を表する意味で逆に他国旗を[[日章旗]]の上位に持ってくる場合も多い<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/po/page25_001892.html |title=プロトコールの基本 |access-date=2023-11-05 |publisher=外務省}}</ref>。 日本の外務省のホームページでは、基本ルールとして、「先任者優先(先着順)」、「原則として右上位(国旗の並び順,自動車の座席等)」を紹介している<ref name=":0" />。 なお、外交関係者の中には、この外交儀礼の「プロトコル」を「プロトコール」と延ばして表記・呼称する者もいる(日本の外務省も後者の表記を用いている<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/protocol/index.html |title=国際儀礼(プロトコール) |access-date=2023-11-05 |publisher=外務省}}</ref>)。これはかつてのいわゆる「外交共通語」が[[英語]]ではなく[[フランス語]]だった時代の名残でもある。 世界共通の一般的マナーとして活用されることもあるが|、あくまでも国家間の儀礼上のルールである<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/local/inspection/protocol.html 外務省WEBサイト]</ref>。 ==== 批判表現のプロトコル ==== 外交上用いられる他国への[[批判]]表現は批判の度合いにより8段階が規定されており、レベルが上になるほど批判の度合いが強くなる<ref>[https://special.sankei.com/a/politics/article/20210316/0001.html 中国海警法「深刻な懸念」慰安婦判決「極めて遺憾」8段階の外交表現の強弱]産経新聞</ref><ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Mycom_freshers__gmd_articles_7842/ 政府の言う「遺憾」はどこまで強い非難なのか?「上から4番目」]exciteニュース</ref>。 *レベル8 - 断固非難 *レベル7 - 非難 *レベル6 - 極めて[[遺憾]] *レベル5 - 遺憾 *レベル4 - 深く[[憂慮]] *レベル3 - 憂慮 *レベル2 - 強く[[懸念]] *レベル1 - 懸念 === 国際法 === 国際法における[[条約]]の一種である[[議定書]]は、英語の protocol の訳語であることから、外交関係者の間ではこれを'''プロトコル'''と呼ぶこともある。 == 情報工学 == {{main|通信プロトコル|ルーティングプロトコル}} {{see also|アルゴリズム|インタフェース (情報技術)}} コンピュータにおける「プロトコル」とは通信規約を意味する{{Sfn|稲垣耕作|2006|p=44}}。たとえ異なる企業どうしの装置であっても通信が行えるよう、用語を含めて厳密に規定されている{{Sfn|稲垣耕作|2006|p=44}}。一度定められたプロトコルを変更することは容易ではないため、情報通信技術が今後どのように開発されるかを見据えながらプロトコルの作成が行われる{{Sfn|稲垣耕作|2006|p=45}}。工学におけるシステムの設計は階層によって行われることが多く、コンピュータにおけるプロトコルも厳密な階層的設計が行われる{{Sfn|稲垣耕作|2006|p=45}}。 [[国際標準化機構]]と[[国際電気通信連合]]が[[OSI基本参照モデル]]を定めていて、多くのプロトコルがこれをモデルとして作られている{{Sfn|稲垣耕作|2006|pp=45-46}}。[[インターネット]]におけるプロトコルは [[Request for Comments|RFC]] で技術仕様が公開されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.otsuka-shokai.co.jp/words/protocol.html |title=プロトコル |access-date=2020-04-30 |work=IT用語辞典 |publisher=大塚商会}}</ref>。 == 実験プロトコル == '''実験プロトコル'''は分子生物学や生化学などの実験において、実験の手順、及び条件等について記述したものである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=理工系のコンピュータ基礎学|date=2006-03-20|year=2006|publisher=コロナ社|ref=harv|author=稲垣耕作|edition=初版|isbn=978-4-339-02413-5}} == 関連項目 == {{Wiktionary pipe|プロトコル}} * [[マナー・プロトコール検定]] * [[日本マナー・プロトコール協会]] * [[シオン賢者の議定書]] == 外部リンク == * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/protocol/index.html 国際儀礼(プロトコール)] - 外務省 {{デフォルトソート:ふろとこる}} [[Category:外交]] [[Category:国際法]] [[Category:通信]] [[Category:儀礼]] [[Category:インタフェース]]
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絵画
絵画(かいが、英: painting)は、物体の形象を平面に描き出したもの。フランス語では peinture(パンチュール)、英語では painting(ペインティング)。子供の表現(幼児語)では単に「絵(え)」とも。 絵画は、基本的には、線や色彩を用いて、物の形や姿を平面上に描き出したものである。その起源は先史時代に遡り、スペインで6万5000年以上前にネアンデルタール人が描いたと推定される洞窟壁画が発見されている。また、「絵画は, ある物質の表面に故意に色をつけてつくり上げた「もの」にすぎない」との定義もある。 さまざまな分類法がある。 ひとつの分類法は絵の具や鉛筆で分類する方法であり次のように分類する。 描く対象で分類する方法もあり、次のように分類する。 西洋美術の世界では、17〜18世紀ころの古典的な(そして、やや硬直した)分類としては次の3つの分類(絵画ジャンル)が主に扱われた。 また 聖書の物語をテーマにした宗教画 / 歴史画 も西洋絵画の主要なテーマであり(主要な分類であり)、 歴史上の戦争を描いた戦争画も主要なテーマであり分類であった。 近代・現代では次のようなジャンル(分類)も加わり多様化した。 ここ数十年ではイラストレーションやトリックアートなどもあり種類は多様である。 西洋美術の世界では絵画に使う材料を、フランス語を使い「マチエール」と言う。 20世紀以降において、絵画の概念の設定にも困難がつきまとう。理由の一つは新しい素材や技法の登場による。切り絵や貼り絵、コラージュ等である。例えばパブロ・ピカソの1912年の作品『籘張りの椅子のある静物』には籘張り糢様の布が画布に直接貼り付けられている。また、イタリアのルーチョ・フォンタナの『空間概念』(1950年代)がある。これは画布に切り目が入った作品である。 彫刻に対比される絵画ではなく、「立体作品」に対比される「平面作品」という語が登場した。しかし、絵画、版画、イラストレーション、印刷物、映画、写真、2次元コンピュータグラフィックス(2DCG)等が「平面作品」であるかどうか判然とせず、曖昧である。加えて、絵画も立体であるという批判もある。 芸術認知科学を専門とする齋藤亜矢京都芸術大学教授は、実験で、顔の輪郭だけを描いた下絵と筆を与えても、高度な知能を持つチンパンジーは顔の絵を描けなかったのに対して、人間の幼児は2歳後半から眼や口を描き込めるようになる、という結果を得て、それを根拠にして「言語能力と密接に関連していると推定される」と齋藤亜矢は述べた。 図画(ずが)は、小学校の教科に図画工作があり、「絵画」と同様の意味で使われることもあるが、絵画のほかに素描(デッサン、ドローイング)、イラスト、版画などを含んでいる。法律文書では「文書図画」のように文書と組み合わせて使われる。
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絵画は、物体の形象を平面に描き出したもの。フランス語では peinture(パンチュール)、英語では painting(ペインティング)。子供の表現(幼児語)では単に「絵(え)」とも。
{{Redirect|ペインター}} [[File:Jan Vermeer - The Art of Painting - Google Art Project.jpg|thumb|180px|right|『[[絵画美術 (フェルメールの絵画)|絵画芸術]]』<br />[[ヨハネス・フェルメール]]<br />1666-1667年<br />[[画布]]、[[油彩]]<br />120 × 100 cm<br />[[ウィーン美術史美術館]]]] '''絵画'''(かいが、{{Lang-en-short|painting}})は、[[物体]]の[[形象]]を[[平面]]に描き出したもの<ref name="kouzien">『[[広辞苑]]』</ref>。[[フランス語]]では ''peinture''(パンチュール)、英語では ''painting''(ペインティング)。子供の表現(幼児語)では単に「絵(え)」とも言う。 == 概説 == 絵画は、基本的には、[[線]]や[[色彩]]を用いて、物の形や姿を[[平面]]上に描き出したものである。その起源は[[先史時代]]に遡り、[[スペイン]]で6万5000年以上前に[[ネアンデルタール人]]が描いたと推定される[[洞窟壁画]]が発見されている<ref>{{cite journal |title=U-Th dating of carbonate crusts reveals Neandertal origin of Iberian cave art |author=D. L. Hoffmann |author2=C. D. Standish |author3=M. García-Diez |author4=P. B. Pettitt |author5=J. A. Milton |author6=J. Zilhão |author7=J. J. Alcolea-González |author8=P. Cantalejo-Duarte |author9=H. Collado |journal=Science |volume=359 |number=6378 |pages=912-915 |year=2018 |doi=10.1126/science.aap7778 }}</ref>。また、「絵画は, ある物質の表面に故意に色をつけてつくり上げた「もの」にすぎない」{{Sfn|森田|2000}}との定義もある。 == 種類 == さまざまな分類法がある。 ひとつの分類法は絵の具や鉛筆で分類する方法であり次のように分類する。 * [[油絵]] / [[水彩画]] / [[クロッキー]] / [[水墨画]] / [[鉛筆画]] ... 描く対象で分類する方法もあり、次のように分類する。 西洋美術の世界では、17〜18世紀ころの古典的な(そして、やや硬直した)分類としては次の3つの分類(絵画ジャンル)が主に扱われた。 * [[静物画]] / [[風景画]] / [[人物画]]([[肖像画]]や[[自画像]]も含む) また 聖書の物語をテーマにした[[宗教画]] / [[歴史画]] も西洋絵画の主要なテーマであり(主要な分類であり)、 歴史上の戦争を描いた[[戦争画]]も主要なテーマであり分類であった。 近代・現代では次のようなジャンル(分類)も加わり多様化した。 * [[抽象画]] * [[植物画]] / [[動物画]] / [[博物画]] * [[風俗画]] / [[風刺画]] ここ数十年では[[イラストレーション]]や[[トリックアート]]などもあり種類は多様である。 == マチエール == 西洋美術の世界では絵画に使う材料を、フランス語を使い「マチエール」と言う。 * [[支持体]] ** [[板]] / [[布]](特に[[帆布]]、[[亜麻]]布、[[絹]]) / パピルス / [[紙]] / [[段ボール]] / [[皮革]] / [[鉄板]] / [[ガラス]]... ** 建造物などの[[壁]]面や[[天井]] / [[食器]]などの[[工芸品]]... * [[絵具]] ** [[木炭]] / [[鉛筆]] / [[油絵具]] / [[水彩絵具]] / [[パステル]] / [[クレヨン]] / [[墨]] / [[インク]] ... == 主な技法 == {{要出典|date=2013年9月}} * [[油彩]] * [[水彩]] * [[ガッシュ]] * [[フレスコ]] * [[テンペラ]]<ref>{{Cite web|url=https://www.merriam-webster.com/dictionary/tempera|title=Tempera|work=Merriam-Webster.com Dictionary|publisher=Merriam-Webster|accessdate=2020-7-18}}</ref> * [[ディステンパー]] * 洋画 / [[水墨画]] / [[日本画]]... * [[パステル]] * [[チョークアート]] * [[ペン画]] * [[ドローイング]] * [[クロッキー]] * [[版画]] * [[合成樹脂]][[塗料]] * [[切り絵]] * [[ちぎり絵]] * [[コラージュ]] == 定義の問題 == {{出典の明記|section=1|date=2020年3月}} <!-- {{未検証|section=1|date=2010年3月}} {{独自研究|section=1|date=2010年3月}} [[油彩画]]の初期には板に描かれ、油彩画の以前には[[テンペラ画]]もあった。また[[額縁|額]]に掛けて壁に飾るのは新しい様態であって、古くは壁に直接描く技法([[壁画]])があった。そういった古いものも絵画として認識するためには、たとえば「{{要出典範囲|支持体の上に、[[絵具]]、すなわち[[顔料]]と[[絵具#組成|バインダー]]を練成したものを筆などにより塗布して構成されたもの|date=2013年9月}}」という定義が考えられる。 --> 20世紀以降において、絵画の概念の設定にも困難がつきまとう。理由の一つは新しい素材や技法の登場による。[[切り絵]]や[[貼り絵]]、[[コラージュ]]等である。例えば[[パブロ・ピカソ]]の[[1912年]]の作品『籘張りの椅子のある静物』[http://www.musee-picasso.fr/pages/page_id18547_u1l2.htm]には籘張り糢様の布が画布に直接貼り付けられている。また、[[イタリア]]の[[ルーチョ・フォンタナ]]の『空間概念』([[1950年代]])がある。これは画布に切り目が入った作品である<ref> [http://www.fondazioneluciofontana.it Fondazione Lucio Fontana - Home]</ref>。 [[彫刻]]に対比される絵画ではなく、「立体作品」に対比される「平面作品」という語が登場した。しかし、絵画、[[版画]]、[[イラストレーション]]、[[印刷物]]、[[映画]]、[[写真]]、[[2次元コンピュータグラフィックス]](2DCG)等が「平面作品」であるかどうか判然とせず、曖昧である。加えて、絵画も立体であるという批判もある。 <!-- {{要出典範囲|技法的観点、素材的観点は伝統的には組成などと通称された経緯がある。|date=2023年3月}}網羅的ではないが体系的範疇が蓋然的にであれ存在し、[[大学]]などの[[教育機関]]にあっても一定の認識が存在する{{要検証|date=2020年3月}}。 --> == ギャラリー == <gallery perrow="8"> ファイル:Chauvet cave, paintings.JPG|{{small|[[ショーヴェ洞窟壁画]]}} ファイル:Lascaux painting.jpg|{{small|[[ラスコー洞窟壁画]]}} ファイル:Una pintura rupestre de la cueva de Toquepala.JPG|{{small|[[トケパラ洞窟壁画]]}} ファイル:Portrait of the Boy Eutyches - Metmuseum 18.9.2.jpg|{{small|ローマ帝国治下のエジプトの少年の葬儀用の肖像画}} ファイル:Sigiriya ladies 01.jpg|{{small|[[シーギリヤ]]<br />500年頃}} ファイル:Stroll About InSpring.jpg|{{small|『遊春図』<br />[[:zh:展子虔|展子虔]] (zh)<br />600年頃}} ファイル:Guo Xi - Early Spring (large).jpg|{{small|『早春図』<br />[[郭煕]]<br />[[北宋]]}} ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|{{small|『伝源頼朝像』}} ファイル:Robert campin - de mérode altaarstuk.jpg|{{small|『受胎告知』<br />[[ロベルト・カンピン]]<br />1425-1430頃<br />板、油彩<br />64.1 × 63,.2 cm<br />[[メトロポリタン美術館]]}} ファイル:Van Eyck - Arnolfini Portrait.jpg|{{small|『[[アルノルフィーニ夫妻像|アルノルフィーニ夫妻]]』<br />[[ヤン・ファン・エイク]]<br />1434<br />板、油彩<br />81.8 × 59.7 cm<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル ギャラリー(ロンドン)]]}} ファイル:La batalla de San Romano, por Paolo Uccello.jpg|{{small|『サン・ロマーノの戦い』<br />[[パオロ・ウッチェロ]]<br />1438<br />板、テンペラ<br />182cm×323cm<br />[[ウフィツィ美術館]]}} ファイル:ANGELICO, Fra Annunciation, 1437-46 (2236990916).jpg|{{small|『受胎告知』<br />[[フラ・アンジェリコ]]<br />1437-46頃<br />フレスコ<br />214cm×318cm<br />[[サン・マルコ美術館]]}} ファイル:Pieta Bellini.jpg|{{small|『[[ピエタ]]』<br />[[ジョヴァンニ・ベリーニ]]<br />1460<br />板、テンペラ<br />86 × 107 cm<br />[[ブレラ絵画館]]}} <!-- ファイル:Paolo Uccello 052.jpg|{{small|『狩猟』<br />[[パオロ・ウッチェロ]]<br />1460代<br />板、テンペラ<br />65 × 165 cm<br />[[アシュモリアン美術館]]}} --> ファイル:Botticelli-primavera.jpg|{{small|『[[プリマヴェーラ|春 (プリマヴェーラ)]]』<br />[[サンドロ・ボッティチェッリ]]<br />1477 - 1478頃<br />板、テンペラ<br />203 x 314 cm<br />[[ウフィツィ美術館]]}} ファイル:Giovanni Bellini - Ritratto del Doge Leonardo Loredan.jpg|{{small|『[[レオナルド・ロレダン]] 』<br />[[ジョヴァンニ・ベリーニ]]<br />1501頃<br />板、油彩<br />61.5 × 45 cm<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル ギャラリー(ロンドン)]]}} ファイル:Raffael 058.jpg|{{small|『[[アテナイの学堂]]』<br />[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]<br />1509-1510<br />フレスコ<br />500 × 770 cm<br />[[バチカン市国]]}} ファイル:Michelangelo - Fresco of the Last Judgement.jpg|{{small|『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』<br />[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]<br />1535-1541<br />フレスコ<br />[[システィーナ礼拝堂]]}} <!-- ファイル:Hasegawa Tohaku, Hasegawa Tohaku - Pine Trees (Shōrin-zu byōbu) - right hand screen.jpg|{{small|『[[松林図]]』左隻 (六曲一双)<br />[[長谷川等伯]]<br />16世紀<br /><br />[[東京国立博物館]]}} --> ファイル:Hasegawa Tohaku - Pine Trees (Shōrin-zu byōbu) - right hand screen.jpg|{{small|『[[松林図屏風]]』右隻 (六曲一双)<br />[[長谷川等伯]]<br />16世紀<br /><br />[[東京国立博物館]]}} ファイル:Wind-God-Fujin-and-Thunder-God-Raijin-by-Tawaraya-Sotatsu.png|{{small|『[[風神雷神図]]』<br />[[俵屋宗達]]<br />1600年頃<br /><br />[[建仁寺]]、京都}} <!-- ファイル:Caravaggio - La vocazione di San Matteo.jpg|{{small|『聖マタイの召命』<br />[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラバッジオ]]<br />1599 - 1600<br />画布、油彩<br />322 cm × 340 cm<br />[[サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂]]}} --> ファイル:Fra Juan Sánchez Cotán 001.jpg|{{small|『マルメロ、キャベツ、メロン、胡瓜の実』<br />[[フアン・サンチェス・コターン]]<br />1602<br />画布、油彩<br />65,5 × 81 cm<br />[[サンディエゴ美術館]]}} ファイル:The Deposition by Caravaggio.jpg|{{small|『キリストの埋葬』<br />[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラバッジオ]]<br />1602<br />画布、油彩<br />300 × 203 cm<br />[[バチカン美術館]]}} ファイル:Heda, Willem Claeszoon - Breakfast Table with Blackberry Pie - WGA.jpg|{{small|『ブラックベリーパイの朝食』<br />[[ウィレム・クラースゾーン・ヘーダ]]<br />1631<br />板、油彩<br />54 x 82 cm<br />[[ドレスデン美術館]]}} image:The Anatomy Lesson.jpg|{{small|『[[テュルプ博士の解剖学講義]]』<br />[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]<br />1632<br />画布、油彩<br />216.5 cm × 169.5 cm<br />[[マウリッツハイス美術館]]}} <!-- ファイル:Meindert Hobbema 001.jpg|{{small|『ミッデルハルニスの並木道』<br />[[メインデルト・ホッベマ]]<br />1689}} --> ファイル:Jean-Auguste-Dominique Ingres - La Baigneuse Valpinçon.jpg|{{small|『浴女』<br />[[ドミニク・アングル]]<br />1808<br />画布、油彩<br />146×97.5cm<br />[[ルーヴル美術館]]}} ファイル:Monk by the Sea.jpg|{{small|『海辺の僧侶』<br />[[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]<br />1808-1810<br />画布、油彩<br />110 × 171.5cm<br />[[ベルリン美術館]]}} ファイル:Natu-aki kusa zu byoubu.jpg|{{small|『[[夏秋草図屏風|風雨草花図]]』 右隻 (二曲一双)<br />[[酒井抱一]]<br />19世紀前半<br />[[東京国立博物館]]}} ファイル:The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg|{{small|『[[富嶽三十六景]] [[神奈川沖浪裏]]』<br />[[葛飾北斎]]<br />1830年代}} ファイル:Turner, J. M. W. - The Grand Canal - Venice.jpg|{{small|『ヴェネツィアの大運河』<br />[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]<br />1850<br />画布、油彩<br />91 x 122 cm<br />[[メトロポリタン美術館]]}} <!--ファイル:Jean auguste dominique ingres madame paul-sigisbert moitessier.jpg|{{small|『モワテシエ夫人』<br />[[ドミニク・アングル]]<br />1856<br />画布、油彩<br />120 × 92 cm<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル ギャラリー(ロンドン)]]}} --> ファイル:Edouard_Manet_016.jpg|{{small|『バルコニー』<br />[[エドゥアール・マネ]]<br />1868-1869<br />画布、油彩<br />169 × 125 cm<br />[[オルセー美術館]]}} ファイル:James Abbot McNeill Whistler 012.jpg|{{small|『黒と金のノクターン-落下する花火』<br />[[ジェームズ・マクニール・ホイッスラー|ジェームズ・ホイッスラー]]<br />1875<br />画布、油彩<br />60.3 × 46.6cm<br />[[デトロイト美術館]]}} ファイル:Georges Seurat - Un dimanche après-midi à l'Île de la Grande Jatte.jpg|{{small|『[[グランド・ジャット島の日曜日の午後]]』<br />[[ジョルジュ・スーラ]]<br />1884-86<br />画布、油彩<br />205.7×305.8cm<br />[[シカゴ美術館|シカゴ美術研究所]]}} </gallery> == 芸術認知科学的考察 == [[芸術認知科学]]を専門とする齋藤亜矢[[京都芸術大学]]教授は、実験で、[[顔]]の輪郭だけを描いた下絵と[[筆]]を与えても、高度な[[知能]]を持つ[[チンパンジー]]は顔の絵を描けなかったのに対して、人間の[[幼児]]は2歳後半から眼や口を描き込めるようになる、という結果を得て、それを根拠にして「[[言語]]能力と密接に関連していると推定される」と齋藤亜矢は述べた<ref>芸術認知科学を専門とする齋藤亜矢[[京都芸術大学]]教授による実験。『[[産経新聞]]』朝刊2022年5月28日オピニオン面【テクノロジーと人類】(11)芸術誕生の謎 世界を記号で表現 言語を使い描かれる絵画/長内洋介(科学部編集委員)</ref>。 <!--テーマ違いの文章。独自の研究。[[文字]]などを「[[書く]]」ことより早く、絵画を「描く」行動は[[幼少期]]から見られる行動である{{要出典|date=2020年3月}}。[[発達心理学]]などの分野では、14歳から18歳程度で完成期と呼ばれる時期を迎え、多くの人はその頃から、ほとんど描かなくなる。子どもの絵に関する社会科学的研究は豊富だが、大人の絵に関する同様の研究は少ない。その一方で、多くの人が描かなくなる年齢を過ぎても活動的に絵を描く人々が居る。[[歴史]]的に代表的なのは[[画家]]であると言えるが、[[現代 (時代区分)|現代]]ではより多くの[[業種]]に見出される傾向である{{要出典|date=2020年3月}}。なお、人間の発達には個人差があり、柔軟な姿勢が必要<ref>[http://allabout.co.jp/gm/gc/184285/4/ 心身の発達と深いかかわりをもつ子どもの絵の発達 子どもの絵の発達の道筋を探る {{Bracket|子供のしつけ}} All About]</ref>{{要検証|date=2020年3月}}である。--> == 他 == ;日本の初等・中等教育での科目の用語など 図画(ずが)は、小学校の[[教科]]に図画工作<ref group="注釈">中学校以上では[[美術 (教科)|美術]]</ref>があり、「絵画」と同様の意味で使われることもあるが、絵画のほかに素描([[デッサン]]、[[ドローイング]])、[[イラストレーション|イラスト]]、[[版画]]などを含んでいる。[[法律]]文書では「文書図画」のように文書と組み合わせて使われる。 == 注釈 == {{Notelist}} == 出典 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{精度|date=2020年3月}} *{{Cite book|和書|last=岩田|first=誠|title=見る脳・描く脳―絵画のニューロサイエンス|publisher=[[東京大学出版会]]|year=1997|ref=harv}} *{{Cite book|和書|last=森田|first=恒之監修|authorlink=森田恒之|title=カラー版絵画表現のしくみ―技法と画材の小百科|publisher=[[美術出版社]]|year=2000|ref=harv}} *{{Cite book|和書|last=ゼキ|first=セミール|translator=河内十郎|title=脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界|publisher=[[日本経済新聞社]]|year=2002|ref=harv}} == 関連項目 == {{Commons category|Paintings}} {{Wiktionary|絵画}} === 絵画関連の展覧会や会派 === * [[日展]] - 日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書からなる総合美術展<ref>[https://nitten.or.jp/ 公益社団法人日展]</ref> * [[二科会|二科展]] - 絵画・彫刻・デザイン・写真からなる総合美術展<ref>[https://www.nika.or.jp/ 公益社団法人二科会 公式ホームページ]</ref> * [[創画会|創画展]] - 日本画のみを対象とした公募展<ref>[https://www.sogakai.or.jp/ 一般社団法人創画会]</ref> * [[日本美術院|院展]] - 日本画のみを対象とした公募展<ref>[https://nihonbijutsuin.or.jp/ 公益財団法人 日本美術院]</ref> {{Reflist}} === 絵画に関連する概念 === * [[美術]] * [[美術史]] * [[西洋美術史]] * [[東洋美術史]] * [[画家]] * [[タブロー]] * [[イラストレーション]] * [[壁紙]] * [[インテリア]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * {{CRD|2000027299|絵画について調べるには(市川市中央図書館調べ方案内)}} {{西洋の芸術運動}} {{美術}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かいか}} [[Category:絵画|*]] [[Category:美術のジャンル]] [[Category:媒体]]
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OSI参照モデル
OSI参照モデル(OSIさんしょうモデル、英: OSI reference model)は、コンピュータネットワークで利用されている多数のプロトコルについて、それぞれの役割を分類し、明確化するためのモデルである。国際標準化機構(ISO)によって策定された。OSI基本参照モデル、OSIモデルなどとも呼ばれ、通信機能(通信プロトコル)を7つの階層に分けて定義している。 いくつかの教科書や、以下の「#例」の節で「理解を助けるための参考資料」などとして、SNAの7階層や、TCP/IPモデルに沿っているプロトコルなどを、このOSIのモデルに対応付けした表などが見られる。これについてはIETFなどが、インターネット・プロトコル・スイートの開発はOSIに準拠する意図はないとしている。しかしながら、対応づけをすることはWTO/TBT協定の趣旨に沿って非関税障壁をなくすための行為である。 OSI参照モデルは、1977年から1984年にかけて定義されたOSIのために策定された。OSI自体は普及せず、OSI参照モデルだけがネットワークの基礎知識として広まったものである。現在幅広くに利用されているEthernet、TCP/IPとは適合していないという主張や、ネットワークを理解するためのモデルとして不適切であるという意見がある。タネンバウムは、OSI参照モデルは参照モデルとしては仕様と実装の区別をしている点で有用だが、プレゼンテーション層とセッション層は不要だったとしている。 OSI参照モデルは ISO 7498 として規格化され、後にITU-Tでは X.200、JISでは JIS X5003 として、同一内容を定義している。ITU, JISともにネットで規格文書を公開しており、通信規約を規定する技術仕様を記述する上での出発点として用いることができる。 国際標準化機構 (ISO) によって制定された、異機種間のデータ通信を実現するためのネットワーク構造の設計方針「開放型システム間相互接続 (Open Systems Interconnection、OSI)」に基づいて通信機能を以下の7階層(レイヤ)に分割する。 下記は、OSIモデルの各層ごとのプロトコルやサービスの例である。ただし上述のようにOSIモデルはOSI準拠プロトコルのための参照モデルであり、OSIスイート以外はOSIモデルに沿って設計・開発される訳ではない。このため、下の例はあくまで「仮にOSIで言えばどの層に相当すると思われる」程度の参考である。 実際には、一部のプロトコルやサービスは、OSIモデルのどの層に属するかについて、いくつかの異なる見解が存在する。また複数層に跨っている物もある。図示の例はあくまでも一見解に過ぎない。 1970年代中ごろ、ネットワーク機器各社独自のネットワークアーキテクチャーが次々に発表され始めた。IBMのSNA、DECのDNA、富士通のFNA、日立製作所のHNA、日本電気(NEC)のDINA、電電公社のDCNAなどである。機器を一つのメーカー製で揃えられるのであれば問題は無いが現実的には難しく、異なる機種同士を接続するための標準化が急がれていた。 ISO(国際標準化機構)の情報処理システム技術委員会は1977年3月にSC 16を設置、OSIの国際標準化を開始する。 しかし、CCITT(国際電信電話諮問委員会)がOSI参照モデル案を参考として独自の検討を開始。CCITTとSC 16での意見のすり合わせを行い、基本的な意見を合意。1982年にトランスポート層の標準、1983年にセッション層の標準の草稿が完成。 1984年、情報処理システム技術委員会はSC 16からSC 21にOSIの標準化を引き継がせ、1985年に応用層の新プロトコルを標準化項目に追加した。その後現在まで、拡張や新たなプロトコルの制定が続けられている。 その後、当初の予定では、OSI参照モデルを基に、準拠した通信機器やソフトウェアが開発・製品化していくはずであった。TCP/IPが1990年代中ごろから急速に普及したため、OSI準拠製品は普及しないまま、現在に至る。 ISDNやADSLやIEEE 802.3などで表記される回線速度は第2層のことであり、例えばファイル転送で計測する通信速度とは異なる。ファイル転送で計測する速度は実アプリケーションから見た速度であって、通常は第3層以上の各種制御情報が付記されるため、回線事業者の謳う回線速度より若干低い値となる。 米国では、OSI参照モデルの7階層モデルを拡張して技術的でないことまで指し示してしまう、というジョークもある。良く知られているのは10階層モデルであり、「第8層ユーザ層」「第9層財務層」「第10層政治層」あるいは「第8層お金層」「第9層政治層」「第10層宗教層」などとなっている。 ネットワーク技術者が「第8層問題だよ」と言っていれば、それは「ネットワーク自体には問題は無くて、エンドユーザに問題があるんだよ」という意味である。同様に、財務層に問題があるとはコストの面で問題があるということ。お金で解決できることは決して少なくない。政治層は、社内政治や導入に関連するSI同士の競合によって導入できる技術仕様に制限がかかる、といった状況を指す。宗教層は「信ずるもの」の意味である。導入責任者の技術志向性や信念などに相当する。 OSIモデルをタコベルモデル(7段重ねのブリートで有名)と比喩することもある。 「第0層土建層」(有線ネットワークを敷設する建物の構造)という比喩もある。 OSIモデルを”あぷせとねでぶ”と頭文字を取って学習することがある。
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OSI参照モデルは、コンピュータネットワークで利用されている多数のプロトコルについて、それぞれの役割を分類し、明確化するためのモデルである。国際標準化機構(ISO)によって策定された。OSI基本参照モデル、OSIモデルなどとも呼ばれ、通信機能(通信プロトコル)を7つの階層に分けて定義している。 いくつかの教科書や、以下の「#例」の節で「理解を助けるための参考資料」などとして、SNAの7階層や、TCP/IPモデルに沿っているプロトコルなどを、このOSIのモデルに対応付けした表などが見られる。これについてはIETFなどが、インターネット・プロトコル・スイートの開発はOSIに準拠する意図はないとしている。しかしながら、対応づけをすることはWTO/TBT協定の趣旨に沿って非関税障壁をなくすための行為である。
{{OSIModel}} '''OSI参照モデル'''(OSIさんしょうモデル、{{lang-en-short|OSI reference model}})は、[[コンピュータネットワーク]]で利用されている多数の[[通信プロトコル|プロトコル]]について、それぞれの役割を分類し、明確化するための[[モデル (自然科学)|モデル]]である<ref>{{Cite Kotobank |word=OSI参照モデル |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)、ASCII.jpデジタル用語辞典 |access-date=2021-06-17}}</ref>。[[国際標準化機構|国際標準化機構(ISO)]]によって策定された。'''OSI基本参照モデル'''、'''OSIモデル'''などとも呼ばれ、通信機能([[通信プロトコル]])を7つの階層に分けて定義している。 いくつかの教科書や、以下の「[[#例]]」の節で「理解を助けるための参考資料」などとして、[[Systems Network Architecture|SNA]]の7階層や、[[TCP/IPモデル]]に沿っているプロトコルなどを、このOSIのモデルに対応付けした表などが見られる。これについては[[Internet Engineering Task Force|IETF]]などが、[[インターネット・プロトコル・スイート]]の開発はOSIに準拠する意図はないとしている。しかしながら、{{要出典範囲|対応づけをすることは[[貿易の技術的障害に関する協定|WTO/TBT協定]]の趣旨に沿って非関税障壁をなくすための行為である|date=2023年10月}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jisc.go.jp/cooperation/wto-tbt-guide.html |title=TBT協定について |access-date=2022年1月8日 |website=www.jisc.go.jp |work=国際協議・協力 |publisher=日本産業標準調査会}}</ref>{{出典無効|date=2023-10-28}}{{要説明|date=2022年12月|title=そもそも非関税障壁になってるという説明が必要。}}。 == 概要 == [[File:OSI-model-Communication.svg|thumb|400px|OSI参照モデル間の通信(例:第3層から第5層)]] OSI参照モデルは、[[1977年]]から[[1984年]]にかけて定義された[[開放型システム間相互接続|OSI]]のために策定された。OSI自体は普及せず、OSI参照モデルだけがネットワークの基礎知識として広まったものである。現在幅広くに利用されている[[Ethernet]]、[[Transmission Control Protocol|TCP]]/[[Internet Protocol|IP]]とは適合していないという主張や<ref>{{Cite web|title=Why it's time to let the OSI model die|url=https://www.networkworld.com/article/2276158/why-it-s-time-to-let-the-osi-model-die.html|website=Network World|date=2008-09-23|accessdate=2021-08-28|language=en|first=Steve Taylor and Jim|last=Metzler}}</ref>、ネットワークを理解するためのモデルとして不適切であるという意見がある<ref>{{Cite web|title=Computers Are Bad|url=https://computer.rip/2021-03-27-the-actual-osi-model.html|website=computer.rip|accessdate=2021-08-28}}</ref>。[[アンドリュー・タネンバウム|タネンバウム]]は、OSI参照モデルは[[参照モデル]]としては仕様と実装の区別をしている点で有用だが、プレゼンテーション層とセッション層は不要だったとしている<ref>{{Cite book |和書 |author=アンドリュー・S・タネンバウム |author-link=アンドリュー・タネンバウム |title=コンピュータネットワーク |edition=第5版 |date=2013-09-12 |publisher=日経BP社 |language=ja |isbn=9784822284763 |pages=106,115 |author2=デイビッド・J・ウエザロール}}</ref>。 OSI参照モデルは ISO 7498 として規格化され、後に[[ITU-T]]では X.200<ref>ITU X.200-1988 https://www.itu.int/rec/dologin_pub.asp?lang=e&id=T-REC-X.200-198811-S!!PDF-E&type=items</ref>、[[日本産業規格|JIS]]では JIS X5003 として、同一内容を定義している。ITU, JISともにネットで規格文書を公開しており、通信規約を規定する技術仕様を記述する上での出発点として用いることができる。 === レイヤー構成 === [[国際標準化機構]] (ISO) によって制定された、異機種間の[[データ通信]]を実現するための[[ネットワーク構成|ネットワーク構造]]の設計方針「[[開放型システム間相互接続]] ({{lang|en|Open Systems Interconnection}}、OSI)」に基づいて通信機能を以下の7階層('''レイヤ''')に分割する。 {{OSIModel}} ;第7層 - [[アプリケーション層]]<ref group="注釈">OSI参照モデルの第7層における「アプリケーション」とは、あくまでHTTPやFTPなどの'''通信サービス'''のことであり、いわゆる「アプリケーションソフト」の意味では'''ない'''。また "ユーザーが操作するインターフェース" (UI) のことでも'''ない'''。これは頻繁に誤解されている{{要出典|date=2021年8月}}ことなので注意が必要である。第7層も一般ユーザーには直接には全く見えない形で、メーリングソフトやホームページ作成公開ソフトなどのアプリケーションソフトの'''背後で'''動作しているものである。</ref> :具体的な通信サービス(例えばファイル・[[電子メール|メール]]の転送、遠隔データベースアクセスなど)を提供。[[HTTP]]や[[File Transfer Protocol|FTP]]などの通信サービス。 ;第6層 - [[プレゼンテーション層]] :データの表現方法(例えば[[EBCDIC|EBCDICコード]]の[[テキストファイル]]を[[ASCIIコード]]のファイルへ変換する)。 ;第5層 - [[セッション層]] :通信プログラム間の通信の開始から終了までの手順(例えば接続が途切れた場合、接続の回復を試みる)。 ;第4層 - [[トランスポート層]] :ネットワークの端から端までの通信管理([[エラー訂正]]、再送制御など)。 ;第3層 - [[ネットワーク層]] :ネットワークにおける通信経路の選択([[ルーティング]])。データ中継。 ;第2層 - [[データリンク層]] :直接的(隣接的)に接続されている通信機器間の信号の受け渡し。 ;第1層 - [[物理層]] :物理的な接続。コネクタのピンの数、コネクタ形状の規定など。銅線–[[光ファイバ]]間の電気信号の変換など。 == 例 == 下記は、OSIモデルの各層ごとのプロトコルやサービスの例である。ただし上述のようにOSIモデルはOSI準拠プロトコルのための参照モデルであり、OSIスイート以外はOSIモデルに沿って設計・開発される訳ではない。このため、下の例はあくまで「仮にOSIで言えばどの層に相当すると思われる」程度の参考である。 実際には、一部のプロトコルやサービスは、OSIモデルのどの層に属するかについて、いくつかの異なる見解が存在する。また複数層に跨っている物もある。図示の例はあくまでも一見解に過ぎない。 === 層別の例 === {{OSI}} === 層別・プロトコルスイート別の例 === {|class=wikitable |- !colspan="2"| 層 !rowspan="2"| 例・その他 !rowspan="2"| [[インターネット・プロトコル・スイート|IP suite、TCP/IP]] !rowspan="2"| [[共通線信号No.7|SS7]]<ref>[http://www.itu.int/rec/T-REC-Q.1400/en/ ITU-T Recommendation Q.1400 (03/1993)], ''Architecture framework for the development of signalling and OA&M protocols using OSI concepts'', pp 4, 7.</ref> !rowspan="2"| [[AppleTalk]] suite !rowspan="2"| [[開放型システム間相互接続|OSI]] suite !rowspan="2"| [[IPX/SPX]] !rowspan="2"| [[Systems Network Architecture|SNA]] !rowspan="2"| [[W-CDMA|UMTS]] |- ! # ! 名称 |- | 7 | [[アプリケーション層]] | [[HL7]], [[Modbus]] | [[Network News Transfer Protocol|NNTP]], [[Session Initiation Protocol|SIP]], [[Simple Sensor Interface protocol|SSI]], [[Domain Name System|DNS]], [[File Transfer Protocol|FTP]], [[Gopher (protocol)|Gopher]], [[HTTP]], [[Network File System|NFS]], [[Network Time Protocol|NTP]], [[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]], [[Short Message Peer-to-Peer Protocol|SMPP]], [[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]], [[Simple Network Management Protocol|SNMP]], [[Telnet]], [[Routing Information Protocol|RIP]], [[Border Gateway Protocol|BGP]] | [[INAP]], [[Mobile Application Part|MAP]], [[Transaction Capabilities Application Part|TCAP]], [[ISDN User Part|ISUP]], [[Telephone User Part|TUP]] | [[Apple Filing Protocol|AFP]], [[Zone Information Protocol|ZIP]], [[Routing Table Maintenance Protocol|RTMP]], [[AppleTalk|NBP]] | [[FTAM]], [[X.400]], [[X.500]], [[Directory Access Protocol|DAP]], [[ROSE]], [[RTSE]], [[ACSE]] | RIP, [[Service Advertising Protocol|SAP]] | [[Advanced Program to Program Communication|APPC]] | |- | 6 | [[プレゼンテーション層]] | [[Tabbed Document Interface|TDI]], [[ASCII]], [[EBCDIC]], [[MIDI]], [[MPEG]] | [[MIME]], [[External Data Representation|XDR]], SSL, [[Transport Layer Security|TLS]] (Not a separate layer) | | [[Apple Filing Protocol|AFP]] | ISO/IEC&nbsp;8823, X.226, ISO/IEC&nbsp;9576-1, X.236 | | | |- | 5 | [[セッション層]] | [[名前付きパイプ]], [[NetBIOS]], [[Session Announcement Protocol|SAP]], [[複信|Half Duplex]], [[複信|Full Duplex]], [[Simplex]], [[Session Description Protocol|SDP]] | Sockets. Session establishment in [[Transmission Control Protocol|TCP]]. [[Session Initiation Protocol|SIP]]. (Not a separate layer with standardized API.), [[Real-time Transport Protocol|RTP]] | | [[AppleTalk|ASP]], [[AppleTalk|ADSP]], [[Printer Access Protocol|PAP]] | ISO/IEC&nbsp;8327, X.225, ISO/IEC&nbsp;9548-1, X.235 | [[NWLink]] | [[Data Link Control|DLC]]? | |- | 4 | [[トランスポート層]] | [[NetBIOS Frames protocol|NBF]] | [[Transmission Control Protocol|TCP]], [[User Datagram Protocol|UDP]], [[Stream Control Transmission Protocol|SCTP]] | | [[Datagram Delivery Protocol|DDP]] | ISO/IEC&nbsp;8073, TP0, TP1, TP2, TP3, TP4 (X.224), ISO/IEC&nbsp;8602, X.234 | [[Sequenced packet exchange|SPX]] | | |- | 3 | [[ネットワーク層]] | [[NetBIOS Frames protocol|NBF]], [[Q.931]], [[IS-IS]] | [[インターネット層]],[[Internet Protocol|IP]], [[IPv4]],[[IPv6]],[[IPsec]], [[Internet Control Message Protocol|ICMP]], [[Internet Group Management Protocol|IGMP]], [[Open Shortest Path First|OSPF]] | [[Signalling Connection Control Part|SCCP]], [[Message Transfer Part|MTP]] | [[AppleTalk|ATP]] ([[TokenTalk]] or [[EtherTalk]]) | ISO/IEC&nbsp;8208, [[X.25]] ([[Packet-Layer Protocol|PLP]]), ISO/IEC&nbsp;8878, [[CONS|X.223]], ISO/IEC&nbsp;8473-1, [[CLNS|CLNP]] X.233. | [[Internetwork Packet Exchange|IPX]] | | [[Radio Resource Control|RRC]] [[PDCP]] and [[Broadcast/Multicast Control|BMC]] |- | 2 | [[データリンク層]] | [[Ethernet|802.3 (Ethernet)]], [[IEEE 802.11|802.11a/b/g/n MAC/LLC]], [[IEEE 802.1Q|802.1Q (VLAN)]], [[Asynchronous Transfer Mode|ATM]], [[Hopling Discovery Protocol|HDP]], [[FDDI]], [[Fibre Channel]], [[フレームリレー]], [[High-Level Data Link Control|HDLC]], [[Cisco Inter-Switch Link|ISL]], [[Point-to-Point Protocol|PPP]], [[Q.921]], [[トークンリング]], [[Cisco Discovery Protocol|CDP]], [[Address Resolution Protocol|ARP]] (maps layer 3 to layer 2 address), [[G.hn|ITU-T G.hn DLL]] | [[リンク層]],[[Point-to-Point Protocol|PPP]],[[媒体アクセス制御]],[[イーサネット]], [[SLIP]], [[PPTP]], [[L2TP]] | [[Message Transfer Part|MTP]], [[Message Transfer Part|Q.710]] | [[LocalTalk]], [[AppleTalk Remote Access]], [[Point-to-Point Protocol|PPP]] | ISO/IEC&nbsp;7666, [[X.25]] ([[LAPB]]), [[トークンバス]], X.222, ISO/IEC&nbsp;8802-2 [[IEEE 802.2|LLC]] Type 1 and 2 | [[IEEE 802.3]] framing, [[Ethernet II framing]] | [[Synchronous Data Link Control|SDLC]] | [[Logical Link Control|LLC]] , [[Media Access Control|MAC]] |- | 1 | [[物理層]] | [[RS-232]], [[V.35]], [[V.34]], [[I.430]], [[I.431]], [[T-carrier|T1]], [[E-carrier|E1]], [[10BASE-T]], [[100BASE-TX]], [[Plain Old Telephone Service|POTS]], [[Synchronous Optical Network|SONET]], [[Synchronous Digital Hierarchy|SDH]], [[デジタル加入者線|DSL]], [[IEEE 802.11|802.11a/b/g/n PHY]], [[G.hn|ITU-T G.hn PHY]] | | [[Message Transfer Part|MTP]], [[Message Transfer Part|Q.710]] | [[RS-232]], [[RS-422]], [[Twisted pair#Shielded Twisted Pair (STP)|STP]], [[PhoneNet]] | [[X.25]] ([[X.21bis]], [[EIA/TIA-232]], [[EIA/TIA-449]], [[EIA-530]], [[G.703]]) | | [[同軸ケーブル|Twinax]] | [[UMTS Physical Layer|UMTS L1]] |} == 歴史 == 1970年代中ごろ、ネットワーク機器各社独自の[[ネットワークアーキテクチャー]]が次々に発表され始めた。[[IBM]]の[[Systems Network Architecture|SNA]]、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]のDNA、[[富士通]]の[[FNA]]、[[日立製作所]]のHNA、[[日本電気]](NEC)の[[DINA]]、[[電電公社]]の[[DCNA]]などである。機器を一つのメーカー製で揃えられるのであれば問題は無いが現実的には難しく、異なる機種同士を接続するための標準化が急がれていた。 ISO(国際標準化機構)の情報処理システム技術委員会は[[1977年]][[3月]]にSC 16を設置、OSIの国際標準化を開始する。 しかし、[[ITU-T|CCITT]]<ref group="注釈">現在はITU-Tと呼ばれている。</ref>(国際電信電話諮問委員会)がOSI参照モデル案を参考として独自の検討を開始。CCITTとSC 16での意見のすり合わせを行い、基本的な意見を合意。[[1982年]]にトランスポート層の標準、[[1983年]]にセッション層の標準の草稿が完成。 [[1984年]]、情報処理システム技術委員会はSC 16からSC 21にOSIの標準化を引き継がせ、[[1985年]]に応用層の新プロトコルを標準化項目に追加した。{{要出典範囲|その後現在まで、拡張や新たなプロトコルの制定が続けられている。|date=2021年8月}} その後、当初の予定では、OSI参照モデルを基に、準拠した通信機器やソフトウェアが開発・製品化していくはずであった。TCP/IPが[[1990年]]代中ごろから急速に普及したため、OSI準拠製品は普及しないまま、現在に至る。 == 回線速度と通信速度 == [[ISDN]]や[[ADSL]]やIEEE 802.3などで表記される回線速度は第2層のことであり、例えばファイル転送で計測する通信速度とは異なる。ファイル転送で計測する速度は実アプリケーションから見た速度であって、通常は第3層以上の各種制御情報が付記されるため、回線事業者の謳う回線速度より若干低い値となる。 == 比喩 == {{main|en:Layer 8}} [[アメリカ合衆国|米国]]では、OSI参照モデルの7階層モデルを拡張して技術的でないことまで指し示してしまう、というジョークもある。良く知られているのは10階層モデルであり、「第8層ユーザ層」「第9層財務層」「第10層政治層」あるいは「第8層お金層」「第9層政治層」「第10層宗教層」などとなっている。 ネットワーク技術者が「第8層問題だよ」と言っていれば、それは「ネットワーク自体には問題は無くて、[[エンドユーザ]]に問題があるんだよ」という意味である。同様に、財務層に問題があるとはコストの面で問題があるということ。お金で解決できることは決して少なくない。政治層は、社内政治や導入に関連するSI同士の競合によって導入できる技術仕様に制限がかかる、といった状況を指す。宗教層は「信ずるもの」の意味である。導入責任者の技術志向性や信念などに相当する。 OSIモデルを[[タコベル]]モデル(7段重ねの[[ブリート]]で有名)と比喩することもある。 「第0層土建層」(有線ネットワークを敷設する建物の構造)という比喩もある。 OSIモデルを”あぷせとねでぶ”と頭文字を取って学習することがある。 ==関連書籍== *『OSIプロトコル絵とき読本』(初版)オーム社(1987年発行) ISBN 4-274-07379-3 *『OSIプロトコル絵とき読本』(改版)オーム社(1989年発行) ISBN 4-274-07530-3 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == *[[DARPAモデル|DAPRAモデル]] *[[開放型システム間相互接続]](OSI) *[[プロトコルスタック]] *[[Open Data-Link Interface]] *[[Network Driver Interface Specification]] *[[カプセル化 (通信)|カプセル化]] {{OSI}} {{Telecommunications}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:OSIさんしようもてる}} [[Category:OSI参照モデル|*]] [[Category:通信プロトコル]] [[Category:ISO標準]] [[Category:ISO/IEC標準]] [[Category:JIS]] [[Category:種類別のモデル]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/OSI%E5%8F%82%E7%85%A7%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB
1,437
ISO 9660
ISO 9660:1988は、1988年にISOで標準化されたCD-ROMのファイルシステムである。ハイシエラフォーマット(英語版) (High Sierra Format, HSF) が元になっている。Ecma InternationalのECMA-119に対応する。JISではJIS X 0606に対応する。ISO 9660に準拠することで、様々なオペレーティングシステム (OS) で同じCD-ROMを読み込むことができる。 ファイル名に制限が多かったため、後に様々な拡張フォーマットが登場した。 もともとはCD-ROM用であるが、DVDやBDでも用いられることがある。 ファイル名やディレクトリ名に使える文字は数字、英大文字、“_”(アンダースコア)の37種類(規格ではこの文字群を d文字 または d1文字 と呼ぶ) ファイル名は以下の規則を持つ。 ディレクトリ名は31文字まで ディレクトリは8階層まで 「ファイル名の文字数 + そのファイルに関連するルートディレクトリまでの各親ディレクトリ名の文字数の総和 + 同親ディレクトリの数(ディレクトリ区切り)」は255まで 制限の厳しいシステムとのやり取りの為3つのレベルが規定され、上記に加えて制限がかかる。 ISO 9660:1988/Amd.1:2013は、ISO 9660規格の最新の追補である。JISでは、ISOより先にJIS X 0606:1998として取り入れられている。 次のような特徴がある。 また、Joliet拡張(後述)と本規格の差異に関する情報がAnnex B.2に追加されている。 El Toritoは、1995年にIBMとフェニックス・テクノロジーズ(英語版)が提唱した規格である。CD-ROM上からのブートがサポートされている。 El Toritoの名は、日本でもつくば市・東京都などで展開しているココス系列のメキシカンレストランエルトリートから取られている。 Rock Ridge(ロックリッジ)は、IEEEによってIEEE P1282として制定されたISO 9660の拡張規格である。おもにUnix系OSで利用される。 次の機能をサポートしている。 ISO 9660と上位互換であり、Rock Ridgeを利用できないシステムでもISO 9660 Level 1として読み込めるようになっている。 Joliet(ジョリエット)は、マイクロソフトが設計したISO 9660の拡張規格である。 次の機能をサポートしている。 ISO 9660と上位互換であり、Jolietを利用できないシステムでもISO 9660 Level 1として読み込めるようになっている。Windows 95から現在に至るまでのWindowsやその他のOSでもサポートされている。UCS-2の利用により、仮名や漢字、アラビア文字なども使用することができる。 Apple ISO 9660 Extensionsは、AppleがISO 9660を拡張するために設計されたいくつかの規格である。CD-ROM上でのHFS (HFS+) を利用出来るように設計されてあるものもあり、HFSのメリットを利用することができる。 ほぼClassic Mac OSおよびmacOS専用の拡張規格であり、利用できないシステムではISO 9660 Level 2として読み込めるようになっている。 Romeoは、アダプテックが設計したISO 9660の拡張規格である。 次の機能をサポートしている。 ISO 9660のディスクフォーマットを拡張しており、ISO 9660との互換性は無い。 他の拡張規格のように規格化されたものではないが、多くのOSの実装において多少の規格違反は許容されており、それを逆手に取った意図的な規格違反をすることでISO 9660の厳しい制限を回避することができる。しかし互換性は下がることになる。 以下のようなものが存在する。
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ISO 9660:1988は、1988年にISOで標準化されたCD-ROMのファイルシステムである。ハイシエラフォーマット が元になっている。Ecma InternationalのECMA-119に対応する。JISではJIS X 0606に対応する。ISO 9660に準拠することで、様々なオペレーティングシステム (OS) で同じCD-ROMを読み込むことができる。 ファイル名に制限が多かったため、後に様々な拡張フォーマットが登場した。 もともとはCD-ROM用であるが、DVDやBDでも用いられることがある。
{{Infobox filesystem |name = ISO 9660 |developer = |full_name = |introduction_date = [[1988年]] |introduction_os = |partition_id = |directory_struct = テーブル |file_struct = エクステント |bad_blocks_struct = |max_file_size = 4[[ギビバイト|GiB]](シングルエクステント)<br />8[[テビバイト|TiB]](マルチエクステント) |max_files_no = |max_filename_size = 8.3形式 (Level 1)<br />31文字 (Level 2/3)<br />207文字 (9660:1999) |max_volume_size = |filename_character_set = d1文字([A-Z]、[0-9]、_) |dates_recorded = 作成、更新、失効、発効 |date_range = [[1900年]][[1月1日]] - [[2155年]][[12月31日]] |date_resolution = 1秒 |forks_streams = 可能 |attributes = 可視、読み取り、実行、保護 |file_system_permissions = [[POSIX]] |compression = なし |encryption = なし |single_instance_storage = 可能 |OS = }} '''ISO 9660:1988'''<!--'''JIS X 0606''' '''情報交換用CD-ROMのボリューム構造およびファイル構造'''-->は、[[1988年]]に[[国際標準化機構|ISO]]で標準化された[[CD-ROM]]の[[ファイルシステム]]である。{{仮リンク|ハイシエラフォーマット|en|High Sierra Format}} (High Sierra Format, HSF) が元になっている。[[Ecma International]]の'''ECMA-119'''に対応する。[[日本工業規格|JIS]]では'''JIS X 0606'''<ref>{{Cite jis|X|0606}}</ref>に対応する。ISO 9660に準拠することで、様々な[[オペレーティングシステム]] (OS) で同じCD-ROMを読み込むことができる。 ファイル名に制限が多かったため、後に様々な拡張フォーマットが登場した。 もともとはCD-ROM用であるが、[[DVD]]や[[Blu-ray Disc|BD]]でも用いられることがある。 == 水準 == [[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]名や[[ディレクトリ]]名に使える文字は数字、英大文字、“_”([[アンダースコア]])の37種類(規格ではこの文字群を d文字 または d1文字 と呼ぶ) ファイル名は以下の規則を持つ。 #「0文字以上 + “.” + 0文字以上 + “;” + 1から32767までのバージョン番号」で表される #「0文字以上 + “.” + 0文字以上」は合わせて31文字まで #“.”の前後どちらかは1文字以上なければならない ディレクトリ名は31文字まで ディレクトリは8階層まで 「ファイル名の文字数 + そのファイルに関連するルートディレクトリまでの各親ディレクトリ名の文字数の総和 + 同親ディレクトリの数(ディレクトリ区切り)」は255まで 制限の厳しいシステムとのやり取りの為3つのレベルが規定され、上記に加えて制限がかかる。 *ISO 9660 Level 1: **ファイル名は「8文字以下 + “.” + 3文字以下 + “;” + 1から32767までのバージョン番号」まで **ディレクトリ名は8文字まで **ファイルデータは単一の{{仮リンク|エクステント|en|Extent (file systems)}}しか持てない *ISO 9660 Level 2: **ファイルデータは単一のエクステントしか持てない *ISO 9660 Level 3: **追加の制約は課さない == ISO 9660:1988/Amd.1:2013 == '''ISO 9660:1988/Amd.1:2013'''は、ISO 9660規格の最新の追補である。[[日本工業規格|JIS]]では、ISOより先にJIS X 0606:1998として取り入れられている。 次のような特徴がある。 *ファイル名、ディレクトリ名は207文字まで *拡張子の必要性が無い(ファイル名に “.” を含める必要が無い) *バージョン番号の必要性が無い *8階層までというディレクトリの階層の制限を取り払って無制限になった また、Joliet拡張(後述)と本規格の差異に関する情報がAnnex B.2に追加されている。 == 拡張規格 == === El Torito === '''El Torito'''は、[[1995年]]に[[IBM]]と{{仮リンク|フェニックス・テクノロジーズ|en|Phoenix Technologies}}が提唱した規格である。CD-ROM上からの[[ブート]]がサポートされている。 El Toritoの名は、日本でも[[つくば市]]・[[東京都]]などで展開している[[ココスジャパン|ココス]]系列のメキシカンレストラン[[エルトリート]]から取られている。 === Rock Ridge === '''Rock Ridge'''(ロックリッジ)は、[[IEEE]]によって'''IEEE P1282'''として制定されたISO 9660の拡張規格である。おもに[[Unix系]]OSで利用される。 次の機能をサポートしている。 *[[UNIX]]式のアクセス権の設定(ISO 9660でも拡張属性レコードに[[POSIX]]パーミッションがあるが、レコードは列挙に対し非効率的に配置される) *[[ソフトリンク|シンボリックリンク]] *デバイスファイル *大文字・小文字の区別 *最大255文字のファイル名 *8階層以上(ISO 9660の仕様)のディレクトリの作成(ISO 9660上ではルート直下にRR_MOVEDまたは.rr_movedディレクトリとして配置される) ISO 9660と[[上位互換]]であり、Rock Ridgeを利用できないシステムでもISO 9660 Level 1として読み込めるようになっている。 === Joliet === '''Joliet'''(ジョリエット)は、[[マイクロソフト]]が設計したISO 9660の拡張規格である。 次の機能をサポートしている。 *[[ISO/IEC 10646|UCS-2]]の利用 *最大64文字までのファイル名 *8階層以上(ISO 9660の仕様)のディレクトリの作成 ISO 9660と[[上位互換]]であり、Jolietを利用できないシステムでもISO 9660 Level 1として読み込めるようになっている。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]から現在に至るまでの[[Microsoft Windows|Windows]]やその他のOSでもサポートされている。UCS-2の利用により、[[仮名 (文字)|仮名]]や[[漢字]]、[[アラビア文字]]なども使用することができる。 === Apple ISO 9660 Extensions === Apple ISO 9660 Extensionsは、[[Apple]]がISO 9660を拡張するために設計されたいくつかの規格である。CD-ROM上での[[Hierarchical File System|HFS]] ([[HFS_Plus|HFS+]]) を利用出来るように設計されてあるものもあり、HFSのメリットを利用することができる。 ほぼ[[Classic Mac OS]]および[[macOS]]専用の拡張規格であり、利用できないシステムではISO 9660 Level 2として読み込めるようになっている。 === Romeo === '''Romeo'''は、[[アダプテック]]が設計したISO 9660の拡張規格である。 次の機能をサポートしている。 *最大128文字までのファイル名 ISO 9660のディスクフォーマットを拡張しており、ISO 9660との互換性は無い。 === 規格の逸脱 === 他の拡張規格のように規格化されたものではないが、多くのOSの実装において多少の規格違反は許容されており、それを逆手に取った意図的な規格違反をすることでISO 9660の厳しい制限を回避することができる。しかし互換性は下がることになる。 以下のようなものが存在する。 *ファイル名にd1文字以外の使用 *ファイル名に複数の“.”の使用 *ファイル名に“.”の非使用 :9660:1999では規格合致。 *8階層を超えるディレクトリ :9660:1999では規格合致。 *“;”およびバージョン番号の省略 :9660:1999では規格合致。多くのOSでは“;”とバージョン番号はユーザーから見えないようになっているが、それらを隠してくれない環境では有用となる。 *ファイル名に37文字までの使用 :“;”とバージョン番号用の領域をファイル名に使用する。必然的にバージョン番号は省略される。 *(Joliet拡張)110文字までのファイル名の使用。 :ディスクフォーマット上はファイル名に使用できる領域は64文字分より大きく確保可能である。<ref>{{cite web |title= 5 Appendix A: Product Behavior |url= http://msdn.microsoft.com/en-us/library/ff469400.aspx |accessdate= April 13, 2014 |quote= 110 if Joliet Format }}</ref> == OSのISO 9660サポート == {| class="wikitable" ! !! ISO 9660 Level 1 !!ISO 9660 Level 2 !! ISO 9660 Level 3 !! ISO/IEC 9660:1999 !! Joliet !! Rock Ridge !! Apple ISO 9660 Extensions !! Romeo !! 備考 |- ! [[MS-DOS]] | {{yes}} || {{no}} || {{no}} || {{no}} || {{no}} || {{no}} || {{no}} || {{no}} || MSCDEX.EXE (Microsoft CD-ROM Extension) というプログラムを組み込むことで、ISO 9660フォーマットのCD-ROMを認識することができる。 |- ! Windows [[Microsoft Windows 95|95]], [[Microsoft Windows 98|98]], [[Microsoft Windows Millennium Edition|Me]] | {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{no}} || {{yes}} || {{no}} || {{no}} || {{yes}} || |- ! Windows [[Microsoft Windows NT|NT 3.51]] | {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{no}} || {{no}} || {{no}} || {{no}} || {{yes}} || |- ! Windows [[Microsoft Windows NT|NT 4.0]], [[Microsoft Windows 2000|2000]] | {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{no}} || {{yes}} || {{no}} || {{no}} || {{yes}} || |- ! Windows [[Microsoft Windows XP|XP]]およびそれ以降 | {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{no}} || {{no}} || {{yes}} || |- ! [[Linux]]および[[BSDの子孫|BSD系OS]] | {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{no}} || {{no}} || |- ! Mac OS 7〜9 | {{yes}} || {{yes}} || {{no}} || {{no}} || {{no}} || {{no}} || {{yes}} || {{no}} || |- ! macOS | {{yes}} || {{yes}} || {{no}} || {{no}} || {{yes}} || {{yes}} || {{yes}} || {{no}} || |} == 関連項目 == *[[ユニバーサルディスクフォーマット]] *[[ディスクドライブ仮想化ソフト]] *[[ISOイメージ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <div class="references-small"> <references/> </div> == 外部リンク == *[http://www.pismotechnic.com/cfs/jolspec.html Joliet Specification](Jolietの仕様) <!-- ftp://ftp.microsoft.com/developr/drg/Multimedia/Joliet/Joliet-RTF.rtf --> *[http://www.pismotechnic.com/cfs/iso9660-1999.html Information technology - Volume and file structure of CD-ROM for information interchange](ISO/IEC 9660:1999の仕様) {{ISO}} {{ファイルシステム}} {{Computer-stub}} [[Category:ISO標準|09660]] [[Category:OSのファイルシステム]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ISO_9660
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白倉由美
白倉 由美(しらくら ゆみ、1965年3月8日 - )は、日本の小説家、漫画家、ラジオ番組などのプロデューサー。千葉県出身。武蔵野女子大学文学部日本語・日本文学科卒業。夫は作家、漫画原作者の大塚英志。作品によっていくつかのペンネームが存在する。 その後は小説『夢から、さめない』に漫画を描き下ろしたり、2001年に復刊された『白倉由美コレクション1 セーラー服物語』にて単行本未収録だった『短距離走者』を新たに書き下している。 白倉由美は『グレーテルの記憶』の執筆を開始する前後に、自身の単行本を全て絶版にした。しかし、1996年にリーディングストーリィ『東京星に、いこう』のCD発売を契機に、少しずつ自身の作品を出版社は変えつつ復刊している。 1995年10月、マダラプロジェクト(後の大塚英志事務所/物語環境開発)制作のラジオ番組「マダラプロジェクトアワー」がTBSラジオより放送を開始し、白倉はそのプロデューサーを務める。 白倉がプロデュースしたCDは発売後ほとんどが廃盤となっていたが、2003年12月より『白倉由美ベストセレクションシリーズ』として復刻し始めている。2005年8月現在までに復活したのは、リーディングストーリー『東京星に、いこう』、音楽CD(白倉のラジオ番組のパーソナリティ、または一般の声優によるヴォーカル)である。また、併せて新作『グレーテルの記憶』も発売されている。 白倉は2004年に武蔵野大学を卒業し、2005年7月3日より始まったラジオ関西の「改め!ラジオ新現実」にて、再びリーディングストーリーを始めた。番組は同年12月25日に終了した。 白倉は元々大の文学好きで、文学者への憧れが昔からあったらしい。既に漫画家時代から大江健三郎などの小説家の影響が随所に見受けられた。1989年には既に『卒業、最後のセーラー服。』の3巻で『今はもう、いない』という、夕やけニャンニャンを題材にした短編小説を掲載していた。 2002年に創刊された、大塚英志が編集を務める思想誌『新現実』(角川書店)より『しっぽでごめんね』の連載を始めた。また2004年に『新現実』の姉妹誌として漫画専門誌『Comic 新現実』が創刊されると、同時に『しっぽでごめんね』の連載も移行した。同誌では新作『海の境界』も執筆している。 (絶版となった後で復刊された作品は、復刊された方のみ記述)
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白倉 由美は、日本の小説家、漫画家、ラジオ番組などのプロデューサー。千葉県出身。武蔵野女子大学文学部日本語・日本文学科卒業。夫は作家、漫画原作者の大塚英志。作品によっていくつかのペンネームが存在する。
{{存命人物の出典明記|date=2023年2月25日 (土) 12:35 (UTC)}} {{Portal|文学}} '''白倉 由美'''(しらくら ゆみ、[[1965年]][[3月8日]] - )は、[[日本]]の[[小説家]]、[[漫画家]]、[[ラジオ]]番組などのプロデューサー。[[千葉県]]出身。[[武蔵野大学|武蔵野女子大学]]文学部日本語・日本文学科卒業。夫は[[作家]]、[[漫画原作者]]の[[大塚英志]]。作品によっていくつかのペンネームが存在する。 == 漫画家としての経歴 == === 漫画家時代 === * 1983年 - 漫画雑誌『プチアップル・パイ』([[徳間書店]])3号に掲載された『魚座生まれのロンリーキャット』でデビュー。 * 以降、3年ほど『プチアップル・パイ』や『漫画ブリッコ』(発行:[[白夜書房]]、発売:日正堂)にて執筆活動を続ける。夫である大塚英志は当時『漫画ブリッコ』の[[編集者]]だった。 * 1986年 雑誌『リュウ』(徳間書店)にて『恋するスパークリングフラッシュ』を、『[[週刊少年チャンピオン]]』にて『セーラー服で一晩中』を連載。 * 1988年 - [[1990年]] 『[[ヤングチャンピオン]]』にて『卒業、最後のセーラー服。』を連載。 * 1989年 - 『サクリファイス』を単行本書下ろしで発表。 * 1991年 - 『[[贖いの聖者]]』を単行本書下ろしで発表。 * 1991年 - 『週刊少年チャンピオン』にて『東京星に、いこう』の連載を開始(-[[1992年]])。 * 1992年 - [[尾崎豊]]の急死に伴い、『卒業、最後のセーラー服。』の後半部分のみを改訂して書き下ろした単行本『懐かしい年への手紙』を出版社を変えて刊行。 * 1992年 - 同年より『季刊仏教』([[法藏館]])にて『グレーテルの記憶』の連載を始める。 * 1996年 - 『グレーテルの記憶』連載を中断。 その後は小説『夢から、さめない』に漫画を描き下ろしたり、[[2001年]]に復刊された『白倉由美コレクション1 セーラー服物語』にて単行本未収録だった『短距離走者』を新たに書き下している。 === 漫画作品の復刊 === 白倉由美は『グレーテルの記憶』の執筆を開始する前後に、自身の単行本を全て絶版にした。しかし、1996年にリーディングストーリィ『東京星に、いこう』のCD発売を契機に、少しずつ自身の作品を出版社は変えつつ復刊している。 * 1996年 - 東京星に、いこう * 2001年 - 白倉由美コレクション(1巻が『セーラー服物語』、2・3巻が『セーラー服で一晩中』) * 2002年 - 贖いの聖者 * 2003年 - グレーテルの記憶(前半の一部分のみ。これ以前は単行本未収録だった。) === 漫画原作者としての活動 === * 1996年 - 1997年 - 『少年王』([[光文社]])で連載された『Dream Girl 声優物語』の原作を担当。 * 1997年 - 1998年 - 『[[月刊ASUKAファンタジーDX]]』で連載された『イイナ 〜Feel for Love〜』の原作を「[[S-nery Angel]]」名義で担当。 * 2001年 - 2002年 - 『[[月刊少年エース]]』にて掲載された『雨の音が聞こえる』の原作を「大塚麻巳子」名義で担当。 == プロデューサーとして == === ラジオ番組の内容 === {{出典の明記|section=1|date=2011年2月}} 1995年10月、マダラプロジェクト(後の大塚英志事務所/物語環境開発)制作の[[ラジオ番組]]「マダラプロジェクトアワー」が[[TBSラジオ]]より放送を開始し、白倉はそのプロデューサーを務める。 * この番組には3つの特徴があった。当時新人の[[声優]]だった[[桑島法子]]、[[桂川千絵]]、[[前田このみ (声優)|前田このみ]]を[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]として起用したこと、3人で「[[S-nery]]」(サナリィ)という名のグループを結成させて[[アイドル]]のように演出したこと、短編の物語を朗読する「リーディングストーリー」(「リーディングストーリィ」とも表記される)というコーナーがあったことである。リーディングストーリーとは、静かなピアノの曲などを背景に静かな口調で朗読するもので、派手な効果音が無い点で[[ラジオドラマ]]とは異なる。最初のリーディングストーリー『[[夢から、さめない]]』はS-neryによって演じられた。 * 当初は半年で終了する予定だったが、1週間に1,000通以上の葉書が来ることもある人気番組となったこと、白倉も最初のリーディングストーリー『夢から、さめない』の続編を制作することを強く希望したため、番組の続行が決定した。リーディングストーリー『夢から、さめない』は2ヶ月オーバーの33話で終わる。ラジオは聴取率上がると別の会社がもっとスポンサー料出し枠をもっていくということがあり新しいスポンサーのゲームメーカーが100%スポンサー料を出せばTBSに残れたが、パーソナリティーを変えリーディングが流さないことが条件になったため、その後は、キー・ステーションを[[ラジオ関西|AM KOBE]]に変更し、番組名やパーソナリティを頻繁に変更・交替しつつ、最終的には[[2000年]]3月まで番組は続いた。その間に、『夢から、さめない』の続編である『[[東京星に、いこう]]』など多数のリーディングストーリーが制作され、その内のいくつかはCDに収録されて発売された。また、白倉により作詞・プロデュースされた楽曲も多くがCD化された。番組からはパーソナリティを務めた多くの新人女性声優が巣立っていったが、中には卒業後声優として成功を収めたものも何人か現れた。なお、白倉は全てのリーディングストーリーの脚本を担当し、またパーソナリティの人選も全て彼女が決定した。 * 白倉がプロデュースした番組は、パーソナリティが自由気ままに喋っているように放送されていたが、実際にはフリートークでさえも白倉が用意した台本を一字一句に至るまで読まされていた{{Efn|放送時の番組台本的発行物である光文社出版「夢さめ戦隊S-neryサナリー」P227にそれを陰喩する注釈があり、後日、太田出版『[[新現実]] vol.4』13P・60Pで白倉がその旨を記している。}}。 === 番組終了後 === 白倉がプロデュースしたCDは発売後ほとんどが廃盤となっていたが、2003年12月より『白倉由美ベストセレクションシリーズ』として復刻し始めている。2005年8月現在までに復活したのは、リーディングストーリー『東京星に、いこう』、音楽CD(白倉のラジオ番組のパーソナリティ、または一般の声優によるヴォーカル)である。また、併せて新作『グレーテルの記憶』も発売されている。 白倉は2004年に武蔵野大学を卒業し、2005年7月3日より始まったラジオ関西の「改め!ラジオ新現実」にて、再びリーディングストーリーを始めた。番組は同年12月25日に終了した。 === ラジオ番組 === * マダラプロジェクトアワー 声優育成シミュレーション学園少女 * マダラプロジェクトアワー2 S-neryのジョカ・ラジ * マダラプロジェクトアワー3 夢さめ戦隊S-nery * 夢さめ学園 イイナ向上委員会 * 声優志願の英雄志願 * 超時空学園 SORANE * 夢さめ戦隊 また西へ * 秘密結社 くらげ会 * アリスの憂鬱 * ヴァニラの秘密 === 番組に出演した主な人物 === * [[大塚英志]](番組プロデューサー) * [[桑島法子]] * [[前田このみ (声優)|前田このみ]] * [[桂川千絵]] * 竹田ともよ * [[千葉千恵巳]] * [[豊嶋真千子]] * [[前田愛 (声優)|前田愛]] * [[前田千亜紀]] * ジョディ(モデル) * [[浅川悠]] * [[小島幸子]] * [[菊地由美]] * [[成田紗矢香]] * 吉本桂子([[モデル (職業)|モデル]]・[[タレント]]) * [[真田アサミ]] * 那須野雅美 * 八巻千紘 * [[大塚ギチ]](ライター・編集者) * 白倉由美 == 小説家として == 白倉は元々大の文学好きで、文学者への憧れが昔からあったらしい。既に漫画家時代から[[大江健三郎]]などの小説家の影響が随所に見受けられた。1989年には既に『卒業、最後のセーラー服。』の3巻で『今はもう、いない』という、夕やけニャンニャンを題材にした短編小説を掲載していた。 * 1997年 - ラジオで放送されたリーディングストーリィ『夢から、さめない』の内容を一部改訂した小説『夢から、さめない』を刊行。 * 1998年 - 1999年 - 『[[ザ・スニーカー]]』にて『ミルナの禁忌』を連載。 * 2000年 - 『[[月刊ニュータイプ]]』において『多重人格探偵サイコ -雨宮一彦の帰還- ロリータの温度』を連載。 * 2000年 - 単行本『ロリータの温度』を書き下ろす。『月刊ニュータイプ』に連載されていたものとは別物である。 * 2001年 - 『[[小説現代]]増刊号[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』([[講談社]])にて、私小説『おおきくなりません』の掲載を開始。続編の『やっぱりおおきくなりません』を含めれば2003年まで続く。 * 2003年 - 初めて児童文学に挑戦した『きみを守るためにぼくは夢をみる』(講談社)を刊行。 2002年に創刊された、大塚英志が編集を務める思想誌『[[新現実]]』(角川書店)より『しっぽでごめんね』の連載を始めた。また2004年に『新現実』の姉妹誌として漫画専門誌『Comic 新現実』が創刊されると、同時に『しっぽでごめんね』の連載も移行した。同誌では新作『海の境界』も執筆している。 == 備考 == * 自身の今までの作品について、白倉由美自身は「大きな[[イニシエーション]]みたいなのがなくなって、いつまでもコドモのままでオトナになれない主人公たちを、どうやって大人にならせてあげようか」というのがテーマであると語っている<ref>『comic新現実 vol.4』10P - 11P</ref>。 * [[芸能界]]を舞台や背景にした作品がいくつもあるが、それらは白倉が[[おニャン子クラブ]]のファンだったことに由来する(単行本『セーラー服で一晩中』でのコメントなど)。また、[[岡田有希子]]の自殺を『サクリファイス』や『イイナ 〜Feel for Love〜』の題材に取り上げ、またその他の作品でも断片的にこの事件に言及している。『夢から、さめない』の第3話『水の影を踏む』の後半部分では、『ノルウェイの森』の第一章後半の記述をほぼそのまま転載している。 * 白倉由美がプロデューサーを担当したラジオ番組には、2011年現在も声優として活動している者や、当時その卵だった者が中心に出演していた。ラジオ番組担当ではないが、[[平野綾]]もデビュー間もない頃にCD・書籍の「ロリータの温度」に出演している。また作家・[[佐藤友哉]]もこの番組に影響を受けた一人である<ref name="snery">『S-neryベスト盤 夢からさめない』の解説より。</ref>。 * 『贖いの聖者』は、原作は大塚英志というクレジットがつけられているが、これは版元の要求によりつけられたものであり、実際には白倉のオリジナル作品である<ref>『comic新現実 vol.4』33P</ref>。逆に、『イイナ 〜Feel for Love〜』は白倉が原作者であるようにクレジットがつけられているが、実際には大塚が原作を担当していた<ref name="snery"/>。ただしCDドラマの方は白倉が原作担当のようである。 * 小説『夢から、さめない』には、「なんだかこの仕事は、私のやりたいこととちがうかも…」と思って漫画を描くことをやめたという記述がある{{Efn|『comic新現実 vol.4』にはより詳細な理由が記載されていて、自身の絵柄の印象と実際に作者が志向する主題との格差に苛まれたためであるという。}}。 == 作品リスト == === 漫画・画集 === (絶版となった後で復刊された作品は、復刊された方のみ記述) * スゥエード・キルシュ(白夜書房) 絶版 * ソロモンの指環(徳間書店) 絶版 * 恋するスパーリングフラッシュ(徳間書店) 絶版 * 学園少女 / 砂緒(白夜書房) 絶版 * セーラー服物語2巻(バナナムーンで会いましょう 収録)絶版 * セーラー服物語3巻(彼女の海岸線 収録) 絶版 * 卒業、最後のセーラー服。(秋田書店) 絶版 * サクリファイス(発行:スケール、発売:[[弓立社]]) 絶版 * 懐かしい年への手紙(秋田書店) 絶版 * 東京星に、いこう(発行:オプトコミュニケーションズ、発売:[[主婦の友社]]) 絶版 * 白倉由美コレクション(セーラー服物語・セーラー服で一晩中) (角川書店) * [[贖いの聖者]](角川書店) * グレーテルの記憶(講談社) === 漫画原作 === * Dream Girl 声優物語(作画:内村かなめ) (光文社) * イイナ 〜Feel for Love〜(原作:[[S-nery Angel]]、作画:成瀬かおり) (角川書店) * 雨の音が聞こえる(原作:大塚麻巳子 作画:やまさきもへじ) (角川書店) === CD === *『夢さめ戦隊ラジオ・イイナ』([[インターチャネル|NECアベニュー]]、Vol.1リリース:1996年12月21日、Vol.2リリース:1997年3月20日) 廃盤 *『Baby Baby』(レーベル:(東芝EMI(現[[EMIミュージック・ジャパン]])、リリース:1996年12月18日) 廃盤 **原作:[[田島昭宇]]、プロデューサー:[[大塚英志]]、演出・脚本:白倉由美、リーディング:[[中川亜紀子]]、音楽:[[吉川清之]] *『[[冬の教室]]』(レーベル:東芝EMI、リリース:1997年3月19日) 廃盤 **原作・プロデューサー:大塚英志、演出・脚本:白倉由美、リーディング:[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]、音楽:[[吉川清之]]、キャラクターイメージ:田島昭宇 *『[[飛ぶ教室、その他の短編]]』(発売:[[マリン・エンタテインメント]]、販売:[[バンダイグループ|バンダイ・ミュージックエンタテインメント]]、リリース:1997年4月21日) 廃盤 **演出・脚本:白倉由美、プロデューサー:大塚英志、リーディング:[[桑島法子]]、[[飯塚雅弓]]、[[中川亜紀子]]、宮村優子他 *『リーディングストーリー MADARA天使編―麒麟』(レーベル:[[キングレコード]]、リリース:1997年12月3日) **原作・プロデュース:大塚英志、演出・脚本:白倉由美、朗読:飯塚雅弓、音楽:[[岸本友彦]]、イラストレーション:田島昭宇 *『Angel Voice Memorial ポケットラブ』(発売:ファーストスマイル・エンタテインメント、販売:[[ポニーキャニオン]]、Vol.1リリース:1998年1月21日、Vol.2リリース:1998年2月28日、Vol.3リリース:1998年3月18日) 廃盤 *『MPD-PSYCHO サイコ サウンド・ストーリー』(レーベル:[[ソニーレコード]]、リリース:1998年5月30日、[[規格品番]]はSVWC-7001。) **監督:白倉由美、脚本:白倉由美・大塚英志、音楽制作:ファースト・スマイルエンターテイメント、イラストレーション:田島昭宇 *『声優物語 All in the golden afternoon』([[日本コロムビア]]、Vol.1リリース:1998年6月20日、Vol.2リリース:1998年7月18日) 廃盤 *『サウンド・ストーリー ミルナの禁忌』(SPEビジュアルワークス、リリース:1998年11月21日) **原作・演出・脚本:白倉由美、プロデューサー:大塚英志、キャラクターデザイン:[[内藤泰弘]]、出演:[[成田紗矢香]]他 *『[[超鉄大帝テスラ]] Audio Drama』(リリース:1999年06月21日、発売:[[エアーズ (音楽出版会社)|エアーズ]]・販売:[[バンダイ・ミュージックエンタテインメント]] ** 原作:大塚英志・大野安之、脚本:白倉由美/中村美穂、出演:[[南央美]]・[[成田紗矢香]]・[[中川亜紀子]]他 ** 主題歌 アイリスのkiss(歌/[[南央美]]&[[中川亜紀子]] 作詞/白倉由美 作曲/[[松尾洋一]]) * 『[[ロリータの温度]]』(『[[多重人格探偵サイコ]]/雨宮一彦の帰還』サウンドトラック) (レーベル:[[キングレコード]]、リリース:2001年8月29日) **ボーカル:[[平野綾]]、企画:大塚英志、作詞:白倉由美、作曲:[[後藤次利]]) * 白倉由美ベストセレクションシリーズ(発売:アブソードミュージックジャパン/モモアンドグレープスカンパニー、販売:キングレコード) ** VOL.1 S-neryベスト盤『夢からさめない』(リリース:2003年12月26日) ** VOL.3 S-neryリーディングストーリー『東京星に、いこう』総集編(リリース:2004年1月21日) ** VOL.4 『声優ボーカル集』(リリース:2004年2月25日) ***企画:物語環境開発、全作詞・挿絵:白倉由美、プロデューサー:大塚英志、ジャケットデザイン:[[大塚ギチ]] ** VOL.5 リーディングストーリー『グレーテルの記憶』(リリース:2004年6月23日) ***プロデューサー・ディレクター・脚本・朗読:白倉由美、サウンドプロデューサー:[[大川正義]]、ジャケットデザイン:大塚ギチ === 小説 === * 夢から、さめない ([[角川書店]] 〈[[角川スニーカー文庫]]〉、1997年) ** 夢から、さめない ([[角川グループパブリッシング]] 〈文庫〉、2009年) * ミルナの禁忌 (角川書店 〈単行本〉、2000年) * ロリータの温度 (角川書店 〈単行本〉、2000年) * 終わらない夏休み〜セーラー服で一晩中〜 (角川書店 〈角川スニーカー文庫〉、2001年) * おおきくなりません ([[講談社]] 〈単行本〉、2002年) ** おおきくなりません ([[徳間書店]] 〈[[徳間デュアル文庫]]〉、2007年) * きみを守るためにぼくは夢をみる (講談社 〈単行本〉、2003年) **きみを守るためにぼくは夢をみる ([[星海社]] 〈[[星海社文庫]]〉、2011年) ***II巻(2011年)、III巻(2012年)、IV巻(2013年) * ラジオ・キス (講談社 〈単行本〉、2007年) * やっぱりおおきくなりません (徳間書店 〈徳間デュアル文庫〉、2008年) * しっぽでごめんね (角川書店 〈単行本〉、2005年) * [[のろい屋しまい|ネネとヨヨのもしもの魔法]](徳間書店、2014年) *僕らの惜春(星海社、2016年) == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しらくら ゆみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の小説家]] [[Category:武蔵野大学出身の人物]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:大塚英志]]
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ダイヤモンド
ダイヤモンド(英: diamond [ˈdaɪəmənd])は、炭素のみからなる鉱物。炭素の同素体の一種でもある。モース硬度は10であり、鉱物中で最大の値を示す。一般的に無色透明で美しい光沢をもつ。ダイヤとも略される。和名は「金剛石(こんごうせき)」また、四月の誕生石。 採掘によって得られるもの(「天然ダイヤモンド」)と、合成によって得られるもの(「合成ダイヤモンド」)がある。 ダイヤモンドの結晶は、等軸晶系であり、多くが八面体や十二面体をしている。地球内部の非常に高温高圧な環境で生成されるダイヤモンドは定まった形では産出されず、必ずしも角張っているわけではない。 炭素の同素体にはダイヤモンド、グラファイト(黒鉛)、フラーレンなどがあり、それぞれ結合に使われている価電子の数が異なっている。その中でダイヤモンドはダイヤモンド結晶構造(英語版)と呼ばれる、炭素Cの価電子4個が全て結合に使われている構造の物質である。 ダイヤモンドの屈折率は2.42と高く、内部での全反射が起こりやすい。またダイヤモンドのカットとしてよく用いられるブリリアントカットでは、光を当ててその反射を見る時、次の3種類の輝きの相乗効果となり、美しく見える。 ダイヤモンドの硬さは古くからよく知られ、工業的にも研磨や切削など多くの用途に利用されている。ダイヤモンドは「天然の物質の中」では最高クラスのモース硬度(摩擦やひっかき傷に対する強さ)10、ヌープ硬度でも飛び抜けて硬いことが知られている。ビッカース硬度は種類によって異なり、70 – 150 GPaである。ただし、ダイヤモンドより硬い物質はいくつか知られている。他の宝石や貴金属類と触れ合うような状態で持ち運んでいると、それらを傷つけてしまう事があるので配慮が必要となる。 宝石の耐久性の表し方は他にも靱性という割れや欠けに対する抵抗力などがある。靱性は水晶と同じ7.5であり、ルビーやサファイアの8よりも低い。ダイヤモンドの靱性は大きくないので、瞬時に与えられる力に対しては弱く、金鎚(ハンマー)で上から叩けば粉々に割れてしまう。 ここで言う安定性とは薬品や光線などによる変化に対する強さの事である。ダイヤモンドは硫酸や塩酸などにも変化せず、日光に長年さらされても変化は起きない。熱力学的には25 °C、10 Paの下でエンタルピーで1.895 kJ/mol、ギブス自由エネルギーで2.900 kJ/molそれぞれグラファイトより高く不安定であり、27 °Cでは約15,000気圧以上の高圧下で安定となる。ただし常温常圧において相互の転移速度は観測不能であるほど充分に遅く、常温常圧では準安定状態とされる。 また、3次元性の結晶構造なのでグラファイトなどに備わっている自己潤滑性はない。 ダイヤモンドの炭素原子が一部窒素原子に置換された立方晶窒化炭素は、ダイヤモンド以上の硬度を持つ可能性があると予測されている。さらに、六方晶ダイヤモンドとの別名を持つロンズデーライトは、ダイヤモンドよりも58 %高い硬度を持つことが計算により予想されている。人工素材と含めると、2009年時点で存在するダイヤモンドより硬い物質は、ハイパーダイヤモンドで市販の多結晶質ダイヤモンドの3倍程度の硬さ。また同程度の硬さの物質は超硬度ナノチューブがある。 ダイヤモンドの硬さは、炭素原子同士が作る共有結合に由来する。ダイヤモンドでは1つの炭素原子が正四面体の中心にあるとすると、最近接の炭素原子はその四面体の頂点上に存在する。頂点上の炭素原子それぞれがsp混成軌道によって結合しており、幾何的に理想的な角度であるため全く歪みが無い。その結合長は0.154 nmである。この結晶構造を持つダイヤを立方晶ダイヤとよぶ。一方で、炭素の同素体であるグラファイト(石墨)は、層状の六方晶構造で、層内の炭素同士の結合はsp混成軌道を形成している。この層内では共有結合を有し結合力は比較的強いが、層間はファンデルワールス結合であるため弱い。六方晶の構造を持つダイヤ(ロンズデーライト)も存在するが、不安定で地球上には隕石痕など非常に限られた場所でしかみつかっておらず、0.1 mmを超える大きさの単結晶は存在しない。純粋なものはダイヤモンドよりも硬いことが予想されるが、その性質はまだ分かっていないことも多い。 ダイヤモンドには一定の面に沿って割れやすい性質(劈開性)がある(4方向に完全)。ダイヤモンドは、普通の物質や道具では傷つけられないと思われているが、「結晶方向に対する角度を考慮して瞬間的に大きな力を加える」「燃焼などの化学反応を人為的に促進する」などの方法で容易に壊すことができる。また傷があれば、カッターナイフを当てて軽く手で叩くだけで割れてしまう(ダイヤの原石のカットはこの手法で行われる)。 ダイヤモンドは熱伝導性が非常に高い。これは原子の熱振動がフォノンとなって結晶中を伝わりやすいことによる。触ると冷たく感じるのはこのためである。ダイヤモンドテスターはこの性質を利用して考案され、ダイヤモンドの類似石から識別できる道具だが、合成モアッサナイトだけは識別できない。CとCではフォノンの振動数が異なり混在はフォノンを散乱させて熱伝導の妨げとなるため、Cだけで合成された人工ダイヤモンドは天然ダイヤモンドより熱伝導が高くなる。 CVD人工ダイヤモンドの薄板を手で持って氷を切ると、すぱすぱと切れる。それほどダイヤモンドが熱伝導性に優れるという。 バンドギャップは室温で5.47 eVであり、真性半導体として絶縁体だが、不純物を添加することによる不純物半導体化の試みがなされ、ホウ素添加によりp形、リン添加によりn形が得られている。その物性により、現在よりもはるかに高周波・高出力で動作する半導体素子や、バンドギャップを反映した深紫外線LEDが実現できるのではないかと期待されてきた。現在、自由励起子による波長235 nmの発光がダイヤモンドpn接合LEDにより、物質・材料研究機構と産業技術総合研究所から報告されている。バンドギャップの温度依存性については報告があるが、半経験則による計算式で用いられているデバイ温度については、負の値があてがわれたり、式自体を意味のあるデバイ温度を用いるために修正したりして報告されており、未解決になっている。p形半導体ダイヤモンドでは、ホウ素添加濃度が10 cm以上で極低温で超伝導となることが報告され、半導体による超伝導現象として現在盛んに研究されている。また、10 cm以上では電気伝導がバンド伝導からホッピング伝導、そして濃度の上昇とともに活性化エネルギーがほとんどない金属的伝導になることが知られている。この不純物濃度と不純物準位との相関についても、不純物バンドやモットの金属・非金属転移と絡めて研究が進んでいる。このような半導体としての基礎的な議論が可能となってきた現在のダイヤモンドの半導体としての品質はシリコンと互角であると言えるが、制御性は今後の研究開発がさらに必要である。 ダイヤモンドは油になじみやすい性質(親油性)があり、この性質を利用してダイヤモンド原石とそうでないものを分ける作業もある。ジュエリーとして身に付けているうちに皮脂などの汚れがつくと、油の膜によって光がダイヤモンド内部に入らなくなり、輝きが鈍くなる。中性洗剤や洗顔料などで洗うと油が取れて、輝きが戻る。逆に水には全くなじまず、はじいてしまう。 ダイヤモンドは無色透明のものよりも、黄色みを帯びたものや褐色の場合が多い。結晶構造の歪みや、窒素 (N)、ホウ素 (B) などの元素によって着色する場合もある。無色透明のものほど価値が高く、黄色や茶色など色のついたものは価値が落ちるとされるが、ブルー・ダイヤモンド(英語版)やピンク・ダイヤモンド(英語版)、レッド・ダイヤモンド(英語版)、グリーン などは稀少であり、無色のものよりも高価で取引される(緑はドレスデン・グリーンのように、放射線を長期にわたって受けたためである事が分かっている。ピンクは結晶構造のひずみによる)。また、低級とされるイエロー・ダイヤモンドでも、綺麗な黄色(カナリー・イエローと呼ばれる物など)であれば価値が高い。2010年に南アフリカで発見され、『サンドロップ (Sun-Drop)』と名付けられた110.03カラットのイエロー・ダイヤモンドに、サザビーズは「セイヨウナシの形をしており、装飾的で、光り輝くイエローダイヤとしては世界最大」と賞賛、最も希少で最も魅力的な「ファンシー・イエロー」の鑑定書を付けた。このダイヤは2011年11月、ジュネーブで行なわれた競売において、1000万スイス・フラン(約8億4000万円)で落札された。 20世紀末頃から、内包するグラファイトなどにより黒色不透明となったブラック・ダイヤモンド(ボルツ・ダイヤモンドとも呼ばれる)がアクセサリーとして評価され、高級宝飾店ティファニーなどの宝飾品に使用されている。 放射線処理により青や黒い色をつけた処理石も多い。最近ではアップルグリーン色のダイヤもあるがこれも高温高圧によって着色された処理石である。また、無色の(目立った色のない)ダイヤモンドに別の物質を蒸着することでコーティング処理した、安価な処理石もある。 採掘によって産出されるダイヤモンド。 ダイヤモンドはマントル起源の火成岩であるキンバーライトに含まれる。キンバーライトの貫入とともにマントルにおける高温・高圧状態の炭素(ダイヤモンド)が地表近くまで一気に移動することでグラファイトへの相転移を起こさなかったと考えられている。このため、ダイヤモンドの産出地はキンバーライトの認められる地域、すなわち安定陸塊に偏っている。 ダイヤモンドの母岩であるキンバーライトは古い地質構造が保存されている場所にしか存在せず、地質構造の新しい日本においてダイヤモンドは産出されないというのが定説とされてきた。しかし2007年、1μm程度の極めて微小な結晶が日本の愛媛県四国中央市産出のかんらん岩から発見された。 2004年時点の総産出量は1億5600万カラット(以下、USGS Minerals Yearbook 2004)であった。国別の生産量(単位カラット)を以下に示す(カラットは宝石の質量を表すのに良く用いられる単位で、1カラットは0.2グラムに等しい)。 上位6カ国、すなわちロシア (22.8 %)、ボツワナ (19.9 %)、コンゴ民主共和国 (18.0 %)、オーストラリア (13.2 %)、南アフリカ共和国 (9.3 %)、カナダ (8.1 %) だけで、世界シェアの90 %を占める。 ダイヤモンドの採掘は、古くは鉱床の近くの河原などの二次鉱床で母岩から流れ出した鉱石を探し出す方式が主流であった。1867年にオレンジ自由国と英領ケープ植民地との国境付近でダイヤモンドが発見され、その東隣にダイヤモンドの鉱床たる母岩があると地質学者が突き止めたことで方式が変わった。その母岩のある地域はキンバリーと名付けられ、母岩を粉砕して大量の岩石を処理し、その中からダイヤモンドの鉱石を探し出す方式が以後主流となった。キンバリーの最初の鉱床には、現在ビッグ・ホールと呼ばれる大穴が開いており、観光地となっている。このキンバリーの鉱床の中からデ・ビアス社が産声を上げ、ダイヤモンドの世界市場を支配することとなった。1967年には独立したばかりのボツワナ共和国北部のオラパ鉱山において大鉱床が発見され、その後も次々と鉱床が発見されたことでボツワナが世界2位のダイヤモンド生産国となり、その利益によってボツワナは「アフリカの奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げることに成功した。 19世紀末のアンリ・モアッサンの実験など、ダイヤモンドを人工的に作ることは古くから試みられてきたが、実際に成功したのは20世紀後半になってからである。1955年3月に米国のゼネラルエレクトリック社(現ダイヤモンド・イノベーションズ社)が高温高圧合成により初めてダイヤモンド合成に成功した。上述の発表後、スウェーデンのASEA社がゼネラル・エレクトリック社よりも数年前にダイヤモンド合成に成功していたという発表がされたが、ASEA社では宝飾用ダイヤモンドの合成を狙っていたため、ダイヤモンドの小さな粒子が合成されていたことに気づいていなかった。現在では、ダイヤモンドを人工的に作成する方法は複数が存在する。 高温高圧法(High Pressure High Temperature, HPHT。静的高温高圧法と動的高圧高温法がある)は、炭素に1200 – 2400 °C、55,000 – 100,000気圧の高温高圧をかけてダイヤモンドを合成する。静的高温高圧法では、鉄、ニッケル、マンガン、コバルト、塩化ナトリウムなどの触媒や窒素などの不純物 の混入などで黄、緑、黒やこれらの混合した色等の結晶として生成され、主に工業用ダイヤモンドとして研磨や切削加工(ルータービットやヤスリ、ガラス切り)に利用されている。高温高圧法は1日程度の加圧加温で合成されるが、1週間程度に加圧加温を延長して結晶の成長を促せば、宝飾品レベルのダイヤモンドは人工的に合成可能である。技術的な面では何も問題は無く、単純な採算性の問題となっている。 大気圧近傍で合成が可能な化学気相成長法(Chemical Vapor Deposition, CVD。熱CVD法、プラズマCVD法、光CVD法、燃焼炎法などがある)によりプラズマ状にしたガス(例えば、メタンと水素を混合させたもの、その他にメタン-酸素やアセチレン-酸素などがある)から結晶を基板上で成長させる方法などが知られている。化学気相成長法(CVD法)によって0.1 – 10 μm/hという低速度での人工ダイヤモンド合成が1990年代に行なわれていたが、1999年頃に米カーネギー研究所が開発した、窒素を加える方法で150 μm/hの速度になってからは、ボストンのアポロ社で宝飾用のダイヤモンドを製造して販売している。紫外線によるオレンジ色の発光や、レーザーを使用したフォトルミネッセンスによるCVD独特の吸収線、カソードルミネッセンスにおける成長模様などによってCVDと天然ダイヤモンドの違いが検出できるようになってきている。プラズマCVDなどの気相合成法により他物質へのダイヤモンドのコーティングは可能であり、一部のドリルや音響機器で実用化されている。 上述の高温高圧合成などによって合成された工業用ダイヤモンドはもはや高価な材料ではない。工業用ダイヤモンドにも多種あるが、金の10分の1程度の価格で取引されているものが多い。ダイヤモンドを工業用途として使用する最大の特徴はその硬さである。工業用ダイヤモンドや宝飾用途に適さない色の天然の結晶を用いることで、電子材料、超硬合金、セラミック・アルミニウム系合金・ガラスなどの高硬度材料・難削材料の研削(ダイヤモンドカッター)・研磨(ダイヤモンドやすり、ダイヤモンドペースト)をはじめとして、切削用バイト、木材加工などオールラウンドな加工が可能である。 工業用ダイヤモンドには用途により、数ナノメートルから数ミリメートルまでの粒径、形状、破砕性、表面状態などによる多くの品種がある。また、前述のバイトは超硬合金を基板にダイヤモンドをコバルトなどと共に焼結することによって得られるダイヤモンド焼結体を指すこともある。しかしながら、ダイヤモンドは高温下で鉄 (Fe)、コバルト (Co)、ニッケル (Ni) と容易に化学反応を起こす、などの性質のために、鋼など鉄基合金や耐熱合金の切削には適さない。ダイヤモンドが使用できない分野では、代わりに立方晶窒化ホウ素 (cubic Boron Nitride, cBN) の焼結体(「ボラゾン」)を用いる。 大部分のダイヤモンドは不導体であるが、ホウ素が微量含まれたIIb型のダイヤモンド結晶はp型半導体の特性を持ち、燐が微量含まれるとn型半導体となる。これらを使用したMES(金属-半導体結合)型やMIS(金属-半導体の間に絶縁体を挟む結合)型のFET(電界効果トランジスタ)半導体素子が研究されている。 窒化ケイ素の基板上に微量ホウ素を含むp型半導体のダイヤモンドを作ると、−70 – 600 °Cの広い温度範囲に対して直線的に抵抗値が変化する高精度の温度センサーができる。これは圧力センサーとしての利用も検討されている。 ダイヤモンドアンビルセル (diamond anvil cell, DAC) は、天然または人工合成のダイヤモンドを使って超高圧を実現するための機械。小さなダイヤモンドを2つ用意し、その間に試料を挟み込んで圧縮する。小型(手のひらサイズ)で透明(リアルタイムで光学的な観測が可能)であり、サブテラパスカル(数百万気圧、数百GPa)までの加圧が可能である。鉱物学や物性物理学などで用いられる。一方、ダイヤモンドそのものが大型化できないので、試料は大変小さなものにしなければならない。ダイヤモンド以外に、サファイヤ、炭化ケイ素を使ったアンビルセルもあるが、加圧できる圧力はダイヤモンドよりも劣る。なお、アンビルとは金床のことである。 レコードプレーヤーのレコード針に使われる他、スピーカーの高域ユニットの振動板としても使用される。チタンなどの軽金属で形成されたベースに化学気相成長法でダイヤモンドをコーティングした製品が多い。樹脂のベースに厚くダイヤ皮膜を形成し、その後ベースを熔解除去し、ダイヤモンドだけで形成される振動板も登場した。 宝石用の人工ダイヤモンドも製造可能である。天然では貴重なカラーダイヤモンドも作製可能であるが、その鑑定書を作成する公的機関では、決められた手順に沿って評価され、その過程で天然・人工の区別も行われている。評価方法は、目視・顕微鏡観察から、赤外線および紫外線の吸収・反射・透過による測定、レーザーによるフォトルミネッセンス、ラマン分光法、電気伝導度測定などあらゆる角度で進められる。 天然ダイヤモンドを取扱う業界にとって、合成ダイヤモンドの宝石市場への進出は脅威になりつつある。天然ダイヤの流通企業らは、彼らが取得した全ての特許情報を開示し、宝石にシリアルナンバーをレーザーで刻む方法を行った。米国フロリダ州に本社を置くジェムシス社の公式サイトには、シリアルナンバー付きの宝石が紹介され、これらには "Gemesis created" とシリアルナンバーの前に "LG (Laboratory grown)" という文字を付け加えている。 2012年3月時点、ジェムシス社は自社が開発した1.0 - 1.5カラットの無色や黄色の合成ダイヤモンド宝石を販売し、合成ダイヤモンドアクセサリーは、天然ダイヤモンドよりも低価格でウェブサイトで一般向けに販売している。 2018年、世界的ダイヤ大手企業のデビアスが合成ダイヤモンド専門ブランドを立ち上げた。合成ダイヤモンドの独自ブランドを設けた日本企業もある。価格が安いことと、紛争とは無縁であることが利点として挙げられる一方、天然ダイヤモンドと誤認して売買されるトラブルが起きている。日本ジュエリー協会は、希少性がないという理由で「宝石」と看做すことに否定的である。 ダイヤモンドの品質を知るための指標としてGIA(アメリカ宝石学協会)が考案したもの。色(Color)、透明度(Clarity(クラリティ))、重さ(Carat(カラット))、研磨(Cut)(en)によって品質を評価する。ラウンドブリリアントカット(58面体)に対してカット評価がされるので、他のカットの場合、カットの種類しか鑑定書に記載されない。詳しくは4Cを参照。 近年はダイヤモンド自体のスペックを測る4Cではなく、見た目の美しさによって価値を見出す指標を考えるなど、その存在価値が見直されている。(例:O.E.カット、Crown-K-Cut) 0.17カラット以下の小粒なダイヤモンド。宝飾品においては中石を引き立てるために周囲に散りばめられるなどの利用をされる。 カリナンは1905年に南アフリカで発見され、カット前の原石は3106カラットもあり、これをカットすることで合計1063カラットの105個の宝石が得られた。これらは当時のイギリス国王であるエドワード7世に献上されている。105個のなかで最大のカリナンIは530.20カラットで「偉大なアフリカの星 (The Great Star of Africa)」の別名を持ち、カットされたダイヤモンドとしては長らく世界最大の大きさを誇っていた。カリナンIはロンドン塔内に展示されており、見学することができる。 現在、世界最大の研磨済みダイヤモンドは、ザ・ゴールデン・ジュビリーである。この石は545.67カラットあり、国王ラーマ9世の治世50周年を記念して1997年にタイ王室に献上された。 その他、写真に示す有名なダイヤモンドについて記す。 さらには有名な宝石の一覧#ダイヤモンドも参照。 紛争ダイヤモンドは、紛争地で採掘され密売されるダイヤモンド。1990年代に冷戦構造の崩壊とともに各地の反政府組織への東西両陣営からの武器援助が途絶え、新たな財源を求めた反政府組織がダイヤモンド利権に目を付けたことから大きな問題となった。反政府組織の財源となり紛争の拡大、長期化の原因となる。シエラレオネ、リベリア、アンゴラ、コンゴ民主共和国などで採掘されたものが特に問題となった。これらの国で悲惨な内戦が激化するにしたがって国際的に取引を禁止する動きが起き、1998年のアンゴラからのダイヤモンド輸出を禁じる国連決議などを受け、2000年7月19日にはアントウェルペンで開催された世界ダイヤモンド会議によってダイヤモンド輸出入の認証制度が提案され、2001年1月17日から1月18日にはそのための新組織ワールド・ダイヤモンド・カウンシルが結成された。そして、2002年11月に、紛争地からのダイヤモンド輸出入の禁止を目的としたキンバリープロセス認証制度が制定された。 宝飾用のダイヤモンドの代用品(イミテーション)としては、ジルコニア(二酸化ジルコニウムの結晶)やガラスが用いられる。ダイヤモンドとそのイミテーション、模造ダイヤモンドの見分け方として、フェルトペンで結晶の上に線を書くというものがある。ダイヤモンドは親油性の物体であり、油脂を弾かない。一方、ジルコニアなどのイミテーションや模造ダイヤモンドは油を弾く性質を持っている。したがって、油性フェルトペンの筆跡が残らなければ偽物だと見分けることができる。その他の方法としてはラインテストがある。黒い線の上にダイヤモンドをテーブル面を下にして乗せると、下の黒い線は見えないが、キュービックジルコニアでは下の黒い線が透けて見える。また、本物のダイヤより硬度に劣るため磨耗しやすい。宝石商などがルーペでダイヤを見て真贋を判定するシーンが映画、ドラマ等でよく見られるが、あれはカットされた角の磨耗を見ており、本物のダイヤは当然磨耗で角が丸まることがない。 また水晶などダイヤモンドとは全く組成が異なる鉱物を指して「○○ダイヤモンド」(○○には産地名などが入る)などと呼ぶことがある。こうした名称はフォールス・ネーム (false name) またはフェイク・ジェムストーン (fake gemstone) といい、販売業者が値を吊り上げるなど、手前の都合良いよう勝手にこじつけただけのものである。紛らわしいので、現在はまともな宝石店、ジュエリー・ショップではその使用を避けている。 ナノダイヤモンド(ND)は毒性がないので化粧品、口腔内用品に利用可能である。例えばローション、フェイスマスク、乳液、シャンプー、保湿クリーム、歯磨き粉、マウスウォッシュ液、皮膚の老廃細胞削剥、皮膚接合用テープ等。 ダイヤモンドは、その堅さと煌びやかさから、「貴重なもの」「高価なもの」「お金になるもの」の比喩としてよく使われる。また、色を冠して特定の商品を表すこともある。「野球場のダイヤモンド」など、単に菱形の物に対しても使われる。 記念祭では、60周年または75周年のシンボルをダイヤモンドとする。例えば、「ダイヤモンド婚式」は結婚60周年、「ダイヤモンド・ジュビリー」は60周年または75周年の記念祭を意味する語である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ダイヤモンド(英: diamond [ˈdaɪəmənd])は、炭素のみからなる鉱物。炭素の同素体の一種でもある。モース硬度は10であり、鉱物中で最大の値を示す。一般的に無色透明で美しい光沢をもつ。ダイヤとも略される。和名は「金剛石(こんごうせき)」また、四月の誕生石。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "採掘によって得られるもの(「天然ダイヤモンド」)と、合成によって得られるもの(「合成ダイヤモンド」)がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドの結晶は、等軸晶系であり、多くが八面体や十二面体をしている。地球内部の非常に高温高圧な環境で生成されるダイヤモンドは定まった形では産出されず、必ずしも角張っているわけではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "炭素の同素体にはダイヤモンド、グラファイト(黒鉛)、フラーレンなどがあり、それぞれ結合に使われている価電子の数が異なっている。その中でダイヤモンドはダイヤモンド結晶構造(英語版)と呼ばれる、炭素Cの価電子4個が全て結合に使われている構造の物質である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドの屈折率は2.42と高く、内部での全反射が起こりやすい。またダイヤモンドのカットとしてよく用いられるブリリアントカットでは、光を当ててその反射を見る時、次の3種類の輝きの相乗効果となり、美しく見える。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドの硬さは古くからよく知られ、工業的にも研磨や切削など多くの用途に利用されている。ダイヤモンドは「天然の物質の中」では最高クラスのモース硬度(摩擦やひっかき傷に対する強さ)10、ヌープ硬度でも飛び抜けて硬いことが知られている。ビッカース硬度は種類によって異なり、70 – 150 GPaである。ただし、ダイヤモンドより硬い物質はいくつか知られている。他の宝石や貴金属類と触れ合うような状態で持ち運んでいると、それらを傷つけてしまう事があるので配慮が必要となる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "宝石の耐久性の表し方は他にも靱性という割れや欠けに対する抵抗力などがある。靱性は水晶と同じ7.5であり、ルビーやサファイアの8よりも低い。ダイヤモンドの靱性は大きくないので、瞬時に与えられる力に対しては弱く、金鎚(ハンマー)で上から叩けば粉々に割れてしまう。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ここで言う安定性とは薬品や光線などによる変化に対する強さの事である。ダイヤモンドは硫酸や塩酸などにも変化せず、日光に長年さらされても変化は起きない。熱力学的には25 °C、10 Paの下でエンタルピーで1.895 kJ/mol、ギブス自由エネルギーで2.900 kJ/molそれぞれグラファイトより高く不安定であり、27 °Cでは約15,000気圧以上の高圧下で安定となる。ただし常温常圧において相互の転移速度は観測不能であるほど充分に遅く、常温常圧では準安定状態とされる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、3次元性の結晶構造なのでグラファイトなどに備わっている自己潤滑性はない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドの炭素原子が一部窒素原子に置換された立方晶窒化炭素は、ダイヤモンド以上の硬度を持つ可能性があると予測されている。さらに、六方晶ダイヤモンドとの別名を持つロンズデーライトは、ダイヤモンドよりも58 %高い硬度を持つことが計算により予想されている。人工素材と含めると、2009年時点で存在するダイヤモンドより硬い物質は、ハイパーダイヤモンドで市販の多結晶質ダイヤモンドの3倍程度の硬さ。また同程度の硬さの物質は超硬度ナノチューブがある。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドの硬さは、炭素原子同士が作る共有結合に由来する。ダイヤモンドでは1つの炭素原子が正四面体の中心にあるとすると、最近接の炭素原子はその四面体の頂点上に存在する。頂点上の炭素原子それぞれがsp混成軌道によって結合しており、幾何的に理想的な角度であるため全く歪みが無い。その結合長は0.154 nmである。この結晶構造を持つダイヤを立方晶ダイヤとよぶ。一方で、炭素の同素体であるグラファイト(石墨)は、層状の六方晶構造で、層内の炭素同士の結合はsp混成軌道を形成している。この層内では共有結合を有し結合力は比較的強いが、層間はファンデルワールス結合であるため弱い。六方晶の構造を持つダイヤ(ロンズデーライト)も存在するが、不安定で地球上には隕石痕など非常に限られた場所でしかみつかっておらず、0.1 mmを超える大きさの単結晶は存在しない。純粋なものはダイヤモンドよりも硬いことが予想されるが、その性質はまだ分かっていないことも多い。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドには一定の面に沿って割れやすい性質(劈開性)がある(4方向に完全)。ダイヤモンドは、普通の物質や道具では傷つけられないと思われているが、「結晶方向に対する角度を考慮して瞬間的に大きな力を加える」「燃焼などの化学反応を人為的に促進する」などの方法で容易に壊すことができる。また傷があれば、カッターナイフを当てて軽く手で叩くだけで割れてしまう(ダイヤの原石のカットはこの手法で行われる)。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドは熱伝導性が非常に高い。これは原子の熱振動がフォノンとなって結晶中を伝わりやすいことによる。触ると冷たく感じるのはこのためである。ダイヤモンドテスターはこの性質を利用して考案され、ダイヤモンドの類似石から識別できる道具だが、合成モアッサナイトだけは識別できない。CとCではフォノンの振動数が異なり混在はフォノンを散乱させて熱伝導の妨げとなるため、Cだけで合成された人工ダイヤモンドは天然ダイヤモンドより熱伝導が高くなる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "CVD人工ダイヤモンドの薄板を手で持って氷を切ると、すぱすぱと切れる。それほどダイヤモンドが熱伝導性に優れるという。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "バンドギャップは室温で5.47 eVであり、真性半導体として絶縁体だが、不純物を添加することによる不純物半導体化の試みがなされ、ホウ素添加によりp形、リン添加によりn形が得られている。その物性により、現在よりもはるかに高周波・高出力で動作する半導体素子や、バンドギャップを反映した深紫外線LEDが実現できるのではないかと期待されてきた。現在、自由励起子による波長235 nmの発光がダイヤモンドpn接合LEDにより、物質・材料研究機構と産業技術総合研究所から報告されている。バンドギャップの温度依存性については報告があるが、半経験則による計算式で用いられているデバイ温度については、負の値があてがわれたり、式自体を意味のあるデバイ温度を用いるために修正したりして報告されており、未解決になっている。p形半導体ダイヤモンドでは、ホウ素添加濃度が10 cm以上で極低温で超伝導となることが報告され、半導体による超伝導現象として現在盛んに研究されている。また、10 cm以上では電気伝導がバンド伝導からホッピング伝導、そして濃度の上昇とともに活性化エネルギーがほとんどない金属的伝導になることが知られている。この不純物濃度と不純物準位との相関についても、不純物バンドやモットの金属・非金属転移と絡めて研究が進んでいる。このような半導体としての基礎的な議論が可能となってきた現在のダイヤモンドの半導体としての品質はシリコンと互角であると言えるが、制御性は今後の研究開発がさらに必要である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドは油になじみやすい性質(親油性)があり、この性質を利用してダイヤモンド原石とそうでないものを分ける作業もある。ジュエリーとして身に付けているうちに皮脂などの汚れがつくと、油の膜によって光がダイヤモンド内部に入らなくなり、輝きが鈍くなる。中性洗剤や洗顔料などで洗うと油が取れて、輝きが戻る。逆に水には全くなじまず、はじいてしまう。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドは無色透明のものよりも、黄色みを帯びたものや褐色の場合が多い。結晶構造の歪みや、窒素 (N)、ホウ素 (B) などの元素によって着色する場合もある。無色透明のものほど価値が高く、黄色や茶色など色のついたものは価値が落ちるとされるが、ブルー・ダイヤモンド(英語版)やピンク・ダイヤモンド(英語版)、レッド・ダイヤモンド(英語版)、グリーン などは稀少であり、無色のものよりも高価で取引される(緑はドレスデン・グリーンのように、放射線を長期にわたって受けたためである事が分かっている。ピンクは結晶構造のひずみによる)。また、低級とされるイエロー・ダイヤモンドでも、綺麗な黄色(カナリー・イエローと呼ばれる物など)であれば価値が高い。2010年に南アフリカで発見され、『サンドロップ (Sun-Drop)』と名付けられた110.03カラットのイエロー・ダイヤモンドに、サザビーズは「セイヨウナシの形をしており、装飾的で、光り輝くイエローダイヤとしては世界最大」と賞賛、最も希少で最も魅力的な「ファンシー・イエロー」の鑑定書を付けた。このダイヤは2011年11月、ジュネーブで行なわれた競売において、1000万スイス・フラン(約8億4000万円)で落札された。 20世紀末頃から、内包するグラファイトなどにより黒色不透明となったブラック・ダイヤモンド(ボルツ・ダイヤモンドとも呼ばれる)がアクセサリーとして評価され、高級宝飾店ティファニーなどの宝飾品に使用されている。", "title": "カラーダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "放射線処理により青や黒い色をつけた処理石も多い。最近ではアップルグリーン色のダイヤもあるがこれも高温高圧によって着色された処理石である。また、無色の(目立った色のない)ダイヤモンドに別の物質を蒸着することでコーティング処理した、安価な処理石もある。", "title": "カラーダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "採掘によって産出されるダイヤモンド。", "title": "天然ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドはマントル起源の火成岩であるキンバーライトに含まれる。キンバーライトの貫入とともにマントルにおける高温・高圧状態の炭素(ダイヤモンド)が地表近くまで一気に移動することでグラファイトへの相転移を起こさなかったと考えられている。このため、ダイヤモンドの産出地はキンバーライトの認められる地域、すなわち安定陸塊に偏っている。", "title": "天然ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": 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"ダイヤモンドの採掘は、古くは鉱床の近くの河原などの二次鉱床で母岩から流れ出した鉱石を探し出す方式が主流であった。1867年にオレンジ自由国と英領ケープ植民地との国境付近でダイヤモンドが発見され、その東隣にダイヤモンドの鉱床たる母岩があると地質学者が突き止めたことで方式が変わった。その母岩のある地域はキンバリーと名付けられ、母岩を粉砕して大量の岩石を処理し、その中からダイヤモンドの鉱石を探し出す方式が以後主流となった。キンバリーの最初の鉱床には、現在ビッグ・ホールと呼ばれる大穴が開いており、観光地となっている。このキンバリーの鉱床の中からデ・ビアス社が産声を上げ、ダイヤモンドの世界市場を支配することとなった。1967年には独立したばかりのボツワナ共和国北部のオラパ鉱山において大鉱床が発見され、その後も次々と鉱床が発見されたことでボツワナが世界2位のダイヤモンド生産国となり、その利益によってボツワナは「アフリカの奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げることに成功した。", "title": "天然ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "19世紀末のアンリ・モアッサンの実験など、ダイヤモンドを人工的に作ることは古くから試みられてきたが、実際に成功したのは20世紀後半になってからである。1955年3月に米国のゼネラルエレクトリック社(現ダイヤモンド・イノベーションズ社)が高温高圧合成により初めてダイヤモンド合成に成功した。上述の発表後、スウェーデンのASEA社がゼネラル・エレクトリック社よりも数年前にダイヤモンド合成に成功していたという発表がされたが、ASEA社では宝飾用ダイヤモンドの合成を狙っていたため、ダイヤモンドの小さな粒子が合成されていたことに気づいていなかった。現在では、ダイヤモンドを人工的に作成する方法は複数が存在する。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "高温高圧法(High Pressure High Temperature, HPHT。静的高温高圧法と動的高圧高温法がある)は、炭素に1200 – 2400 °C、55,000 – 100,000気圧の高温高圧をかけてダイヤモンドを合成する。静的高温高圧法では、鉄、ニッケル、マンガン、コバルト、塩化ナトリウムなどの触媒や窒素などの不純物 の混入などで黄、緑、黒やこれらの混合した色等の結晶として生成され、主に工業用ダイヤモンドとして研磨や切削加工(ルータービットやヤスリ、ガラス切り)に利用されている。高温高圧法は1日程度の加圧加温で合成されるが、1週間程度に加圧加温を延長して結晶の成長を促せば、宝飾品レベルのダイヤモンドは人工的に合成可能である。技術的な面では何も問題は無く、単純な採算性の問題となっている。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大気圧近傍で合成が可能な化学気相成長法(Chemical Vapor Deposition, CVD。熱CVD法、プラズマCVD法、光CVD法、燃焼炎法などがある)によりプラズマ状にしたガス(例えば、メタンと水素を混合させたもの、その他にメタン-酸素やアセチレン-酸素などがある)から結晶を基板上で成長させる方法などが知られている。化学気相成長法(CVD法)によって0.1 – 10 μm/hという低速度での人工ダイヤモンド合成が1990年代に行なわれていたが、1999年頃に米カーネギー研究所が開発した、窒素を加える方法で150 μm/hの速度になってからは、ボストンのアポロ社で宝飾用のダイヤモンドを製造して販売している。紫外線によるオレンジ色の発光や、レーザーを使用したフォトルミネッセンスによるCVD独特の吸収線、カソードルミネッセンスにおける成長模様などによってCVDと天然ダイヤモンドの違いが検出できるようになってきている。プラズマCVDなどの気相合成法により他物質へのダイヤモンドのコーティングは可能であり、一部のドリルや音響機器で実用化されている。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "上述の高温高圧合成などによって合成された工業用ダイヤモンドはもはや高価な材料ではない。工業用ダイヤモンドにも多種あるが、金の10分の1程度の価格で取引されているものが多い。ダイヤモンドを工業用途として使用する最大の特徴はその硬さである。工業用ダイヤモンドや宝飾用途に適さない色の天然の結晶を用いることで、電子材料、超硬合金、セラミック・アルミニウム系合金・ガラスなどの高硬度材料・難削材料の研削(ダイヤモンドカッター)・研磨(ダイヤモンドやすり、ダイヤモンドペースト)をはじめとして、切削用バイト、木材加工などオールラウンドな加工が可能である。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "工業用ダイヤモンドには用途により、数ナノメートルから数ミリメートルまでの粒径、形状、破砕性、表面状態などによる多くの品種がある。また、前述のバイトは超硬合金を基板にダイヤモンドをコバルトなどと共に焼結することによって得られるダイヤモンド焼結体を指すこともある。しかしながら、ダイヤモンドは高温下で鉄 (Fe)、コバルト (Co)、ニッケル (Ni) と容易に化学反応を起こす、などの性質のために、鋼など鉄基合金や耐熱合金の切削には適さない。ダイヤモンドが使用できない分野では、代わりに立方晶窒化ホウ素 (cubic Boron Nitride, cBN) の焼結体(「ボラゾン」)を用いる。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "大部分のダイヤモンドは不導体であるが、ホウ素が微量含まれたIIb型のダイヤモンド結晶はp型半導体の特性を持ち、燐が微量含まれるとn型半導体となる。これらを使用したMES(金属-半導体結合)型やMIS(金属-半導体の間に絶縁体を挟む結合)型のFET(電界効果トランジスタ)半導体素子が研究されている。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "窒化ケイ素の基板上に微量ホウ素を含むp型半導体のダイヤモンドを作ると、−70 – 600 °Cの広い温度範囲に対して直線的に抵抗値が変化する高精度の温度センサーができる。これは圧力センサーとしての利用も検討されている。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドアンビルセル (diamond anvil cell, DAC) は、天然または人工合成のダイヤモンドを使って超高圧を実現するための機械。小さなダイヤモンドを2つ用意し、その間に試料を挟み込んで圧縮する。小型(手のひらサイズ)で透明(リアルタイムで光学的な観測が可能)であり、サブテラパスカル(数百万気圧、数百GPa)までの加圧が可能である。鉱物学や物性物理学などで用いられる。一方、ダイヤモンドそのものが大型化できないので、試料は大変小さなものにしなければならない。ダイヤモンド以外に、サファイヤ、炭化ケイ素を使ったアンビルセルもあるが、加圧できる圧力はダイヤモンドよりも劣る。なお、アンビルとは金床のことである。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "レコードプレーヤーのレコード針に使われる他、スピーカーの高域ユニットの振動板としても使用される。チタンなどの軽金属で形成されたベースに化学気相成長法でダイヤモンドをコーティングした製品が多い。樹脂のベースに厚くダイヤ皮膜を形成し、その後ベースを熔解除去し、ダイヤモンドだけで形成される振動板も登場した。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "宝石用の人工ダイヤモンドも製造可能である。天然では貴重なカラーダイヤモンドも作製可能であるが、その鑑定書を作成する公的機関では、決められた手順に沿って評価され、その過程で天然・人工の区別も行われている。評価方法は、目視・顕微鏡観察から、赤外線および紫外線の吸収・反射・透過による測定、レーザーによるフォトルミネッセンス、ラマン分光法、電気伝導度測定などあらゆる角度で進められる。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "天然ダイヤモンドを取扱う業界にとって、合成ダイヤモンドの宝石市場への進出は脅威になりつつある。天然ダイヤの流通企業らは、彼らが取得した全ての特許情報を開示し、宝石にシリアルナンバーをレーザーで刻む方法を行った。米国フロリダ州に本社を置くジェムシス社の公式サイトには、シリアルナンバー付きの宝石が紹介され、これらには \"Gemesis created\" とシリアルナンバーの前に \"LG (Laboratory grown)\" という文字を付け加えている。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2012年3月時点、ジェムシス社は自社が開発した1.0 - 1.5カラットの無色や黄色の合成ダイヤモンド宝石を販売し、合成ダイヤモンドアクセサリーは、天然ダイヤモンドよりも低価格でウェブサイトで一般向けに販売している。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2018年、世界的ダイヤ大手企業のデビアスが合成ダイヤモンド専門ブランドを立ち上げた。合成ダイヤモンドの独自ブランドを設けた日本企業もある。価格が安いことと、紛争とは無縁であることが利点として挙げられる一方、天然ダイヤモンドと誤認して売買されるトラブルが起きている。日本ジュエリー協会は、希少性がないという理由で「宝石」と看做すことに否定的である。", "title": "合成ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドの品質を知るための指標としてGIA(アメリカ宝石学協会)が考案したもの。色(Color)、透明度(Clarity(クラリティ))、重さ(Carat(カラット))、研磨(Cut)(en)によって品質を評価する。ラウンドブリリアントカット(58面体)に対してカット評価がされるので、他のカットの場合、カットの種類しか鑑定書に記載されない。詳しくは4Cを参照。", "title": "宝飾用ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "近年はダイヤモンド自体のスペックを測る4Cではなく、見た目の美しさによって価値を見出す指標を考えるなど、その存在価値が見直されている。(例:O.E.カット、Crown-K-Cut)", "title": "宝飾用ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "0.17カラット以下の小粒なダイヤモンド。宝飾品においては中石を引き立てるために周囲に散りばめられるなどの利用をされる。", "title": "宝飾用ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "カリナンは1905年に南アフリカで発見され、カット前の原石は3106カラットもあり、これをカットすることで合計1063カラットの105個の宝石が得られた。これらは当時のイギリス国王であるエドワード7世に献上されている。105個のなかで最大のカリナンIは530.20カラットで「偉大なアフリカの星 (The Great Star of Africa)」の別名を持ち、カットされたダイヤモンドとしては長らく世界最大の大きさを誇っていた。カリナンIはロンドン塔内に展示されており、見学することができる。", "title": "宝飾用ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "現在、世界最大の研磨済みダイヤモンドは、ザ・ゴールデン・ジュビリーである。この石は545.67カラットあり、国王ラーマ9世の治世50周年を記念して1997年にタイ王室に献上された。", "title": "宝飾用ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その他、写真に示す有名なダイヤモンドについて記す。", "title": "宝飾用ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "さらには有名な宝石の一覧#ダイヤモンドも参照。", "title": "宝飾用ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "紛争ダイヤモンドは、紛争地で採掘され密売されるダイヤモンド。1990年代に冷戦構造の崩壊とともに各地の反政府組織への東西両陣営からの武器援助が途絶え、新たな財源を求めた反政府組織がダイヤモンド利権に目を付けたことから大きな問題となった。反政府組織の財源となり紛争の拡大、長期化の原因となる。シエラレオネ、リベリア、アンゴラ、コンゴ民主共和国などで採掘されたものが特に問題となった。これらの国で悲惨な内戦が激化するにしたがって国際的に取引を禁止する動きが起き、1998年のアンゴラからのダイヤモンド輸出を禁じる国連決議などを受け、2000年7月19日にはアントウェルペンで開催された世界ダイヤモンド会議によってダイヤモンド輸出入の認証制度が提案され、2001年1月17日から1月18日にはそのための新組織ワールド・ダイヤモンド・カウンシルが結成された。そして、2002年11月に、紛争地からのダイヤモンド輸出入の禁止を目的としたキンバリープロセス認証制度が制定された。", "title": "宝飾用ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "宝飾用のダイヤモンドの代用品(イミテーション)としては、ジルコニア(二酸化ジルコニウムの結晶)やガラスが用いられる。ダイヤモンドとそのイミテーション、模造ダイヤモンドの見分け方として、フェルトペンで結晶の上に線を書くというものがある。ダイヤモンドは親油性の物体であり、油脂を弾かない。一方、ジルコニアなどのイミテーションや模造ダイヤモンドは油を弾く性質を持っている。したがって、油性フェルトペンの筆跡が残らなければ偽物だと見分けることができる。その他の方法としてはラインテストがある。黒い線の上にダイヤモンドをテーブル面を下にして乗せると、下の黒い線は見えないが、キュービックジルコニアでは下の黒い線が透けて見える。また、本物のダイヤより硬度に劣るため磨耗しやすい。宝石商などがルーペでダイヤを見て真贋を判定するシーンが映画、ドラマ等でよく見られるが、あれはカットされた角の磨耗を見ており、本物のダイヤは当然磨耗で角が丸まることがない。", "title": "模造ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また水晶などダイヤモンドとは全く組成が異なる鉱物を指して「○○ダイヤモンド」(○○には産地名などが入る)などと呼ぶことがある。こうした名称はフォールス・ネーム (false name) またはフェイク・ジェムストーン (fake gemstone) といい、販売業者が値を吊り上げるなど、手前の都合良いよう勝手にこじつけただけのものである。紛らわしいので、現在はまともな宝石店、ジュエリー・ショップではその使用を避けている。", "title": "模造ダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ナノダイヤモンド(ND)は毒性がないので化粧品、口腔内用品に利用可能である。例えばローション、フェイスマスク、乳液、シャンプー、保湿クリーム、歯磨き粉、マウスウォッシュ液、皮膚の老廃細胞削剥、皮膚接合用テープ等。", "title": "ナノダイヤモンド" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ダイヤモンドは、その堅さと煌びやかさから、「貴重なもの」「高価なもの」「お金になるもの」の比喩としてよく使われる。また、色を冠して特定の商品を表すこともある。「野球場のダイヤモンド」など、単に菱形の物に対しても使われる。", "title": "比喩" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "記念祭では、60周年または75周年のシンボルをダイヤモンドとする。例えば、「ダイヤモンド婚式」は結婚60周年、「ダイヤモンド・ジュビリー」は60周年または75周年の記念祭を意味する語である。", "title": "比喩" } ]
ダイヤモンドは、炭素のみからなる鉱物。炭素の同素体の一種でもある。モース硬度は10であり、鉱物中で最大の値を示す。一般的に無色透明で美しい光沢をもつ。ダイヤとも略される。和名は「金剛石(こんごうせき)」また、四月の誕生石。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2023年5月}} {{Infobox 鉱物 | 鉱物名= ダイヤモンド(金剛石) | 画像= [[ファイル:Rough diamond.jpg|250px]] | 画像キャプション= 天然のダイヤモンド結晶の例(母岩に囲まれた状態の八面体タイプ) | 分類= [[元素鉱物]] | 組成= [[炭素|C]] | 晶系= [[等軸晶系]] | 色= [[無色]]から[[黒色]]まで様々 | 条痕= [[白色]] | 光沢= [[金剛光沢]] | 蛍光= [[紫外線]][[蛍光]]検査において[[長波]]紫外線 (365 nm) では不活性の[[無色]]から強くやや[[黄色]]を帯びるまで様々、典型的には[[青|青色]]。[[短波]]紫外線 (253.6 nm) では蛍光はより弱い。 | 硬度= '''10''' | 比重= 3.52 (± .01) | 劈開= 4方向に完全 | 断口= }} '''ダイヤモンド'''({{lang-en-short|diamond}} {{IPA-en|ˈdaɪ''ə''mənd|}})は、[[炭素]]のみからなる鉱物。炭素の同素体の一種でもある。[[モース硬度]]は10であり、鉱物中で最大の値を示す<ref>岩波理化学辞典 第5版 『ダイヤモンド』</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/ダイヤモンド-92113 化学辞典 第2版 『ダイヤモンド』]</ref>。一般的に無色透明で美しい光沢をもつ。'''ダイヤ'''とも略される。和名は「'''金剛石'''(こんごうせき)」また、四月の誕生石<ref>{{Cite book|和書|author=文部省編|authorlink=文部省|title=[[学術用語集]] 地学編|year=1984|publisher=[[日本学術振興会]]|isbn=4-8181-8401-2|page=237}}</ref><ref name="lexico">{{Cite web |title=DIAMOND {{!}} Meaning & Definition for UK English {{!}} Lexico.com |url=https://www.lexico.com/definition/diamond |website=Lexico Dictionaries {{!}} English |accessdate=2022-02-14 |language=en}}</ref><ref name="kojien">広辞苑</ref>。 ==概要== 採掘によって得られるもの(「天然ダイヤモンド」)と、合成によって得られるもの(「合成ダイヤモンド」)がある。 ダイヤモンドの[[結晶]]は、[[等軸晶]]系であり、多くが[[八面体]]や[[十二面体]]をしている<ref name="kojien" />。[[地球]]内部の非常に高温高圧な環境で生成されるダイヤモンドは定まった形では産出されず、必ずしも角張っているわけではない。 炭素の同素体にはダイヤモンド、[[グラファイト]](黒鉛)、[[フラーレン]]などがあり、それぞれ結合に使われている[[価電子]]の数が異なっている。その中でダイヤモンドは{{仮リンク|ダイヤモンド結晶構造|en|Diamond cubic}}と呼ばれる、炭素Cの価電子4個が全て結合に使われている構造の物質である<ref name="brain">{{Cite web|和書|title=黒鉛(グラファイト)とダイヤモンドの違いと性質 {{!}} ViCOLLA Magazine |url=https://brain.vicolla.jp/2018/10/06/graphite-diamond/ |website=brain.vicolla.jp |date=2018-10-06 |accessdate=2022-02-14 |language=ja |last=ViCOLLA}}</ref>。 ; 性質 : 実験で確かめられている中では天然で最も硬い[[物質]]である。光を透過する([[透明]])。[[熱伝導率]]が非常に高い。[[電気]]を通さない(ダイヤモンド結晶の原子には[[不対電子]]が存在しないため)。→[[#性質]] ; 用途 : 主な用途は、宝飾目的([[宝石]])や[[工業]]目的である。 : 工業目的としては、ダイヤモンドの諸性質を活かして、[[研磨材]]、[[金属加工]]の超精密加工用[[バイト (工具)|バイト]]、線引き用のダイス、超高圧アンビル([[#ダイヤモンドアンビルセル]])などの加工工具や耐摩工具、また医療用ナイフ<ref>[http://www.surgicalmedsupplies.com/products/diamond-knives/]</ref>、[[ヒートシンク]]<ref>[https://www.powerwaywafer.com/diamond-heat-sink.html]</ref>など。 ; 各国語の呼び方 : ダイヤモンドという名前は、[[古代ギリシア語]]の {{Lang|el|αδάμας}}(adámas 征服できない、屈しない)に由来する。それが古代ローマの[[ラテン語]]でadamansとなり<ref name="lexico" />、[[中世ラテン語]]では変化形のdiamasも使われて<ref name="lexico" />、それが[[古フランス語]]へ入り<ref name="lexico" />、古フランス語から[[中英語]]へと入り英語ではdiamondとなった<ref name="lexico" />。 : 現在、[[イタリア語]]・[[スペイン語]]・[[ポルトガル語]]では diamánte([[ディアマンテ]])、[[フランス語]]では {{Lang|fr|diamant}}(ディアマン)、[[ポーランド語]]では {{Lang|pl|diáment}}(ディヤメント)、[[漢語]]表現では金剛石という。[[ロシア語]]では {{Lang|ru|диама́нт}}(ヂヤマント)というよりは {{Lang|ru|алма́з}}([[アルマース]])という方が普通であるが、これは特に磨かれていないダイヤモンド原石のことを指す場合がある。磨かれたものについては {{Lang|ru|бриллиа́нт}}(ブリリヤント)で総称されるのが普通。 == 性質 == {{Main|ダイヤモンドの物質特性}} === 屈折率 === ダイヤモンドの[[屈折率]]は2.42と高く、内部での全反射が起こりやすい。またダイヤモンドのカットとしてよく用いられる[[ブリリアントカット]]では、光を当ててその反射を見る時、次の3種類の輝きの[[相乗効果]]となり、美しく見える。 ; シンチレーション: チカチカとした輝き。表面反射によるもの。 ; ブリリアンシー: 白く強いきらめき。ダイヤモンド内部に入った光が比較的少ない回数の反射をして戻ったもの。 ; ディスパーション: [[虹]]色の輝き。ダイヤモンド内部に入った光が反射を繰り返し、[[プリズム]]効果によって虹色となったもの。 === 硬度、割れる性質、安定性 === ダイヤモンドの硬さは古くからよく知られ、工業的にも[[研磨]]や[[切削加工|切削]]など多くの用途に利用されている。ダイヤモンドは「天然の物質の中」では最高クラスの[[モース硬度]]([[摩擦]]やひっかき傷に対する強さ)10、[[ヌープ硬度]]でも飛び抜けて硬いことが知られている。[[ビッカース硬度]]は種類によって異なり、70 – 150 GPaである<ref>R. H. Wentorf, R. C. DeVries, and F. P. Bundy "Sintered Superhard Materials" [http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/208/4446/873 Science 208 (1980) 873]</ref>。ただし、ダイヤモンドより硬い物質はいくつか知られている。他の宝石や[[貴金属]]類と触れ合うような状態で持ち運んでいると、それらを傷つけてしまう事があるので配慮が必要となる。 [[宝石]]の耐久性の表し方は他にも[[靱性]]という割れや欠けに対する抵抗力などがある。靱性は[[水晶]]と同じ7.5であり、[[ルビー]]や[[サファイア]]の8よりも低い<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 6 |publisher=講談社 }}</ref>。<!-- よくダイヤモンドは耐衝撃性に優れているような印象があるが--><!--緩やかに加重されていく圧力に対しては高い強度を持つが-->ダイヤモンドの靱性は大きくないので、瞬時に与えられる力に対しては弱く、[[金鎚]](ハンマー)で上から叩けば粉々に割れてしまう<ref name="trivia" />。 ここで言う[[安定性]]とは[[薬品]]や[[光線]]などによる変化に対する強さの事である。ダイヤモンドは[[硫酸]]や[[塩酸]]などにも変化せず、[[太陽光|日光]]に長年さらされても変化は起きない。[[熱力学|熱力学的]]には25 {{℃}}、10<sup>5</sup> [[パスカル (単位)|Pa]]の下で[[エンタルピー]]で1.895 kJ/mol、[[ギブス自由エネルギー]]で2.900 kJ/molそれぞれグラファイトより高く不安定であり<ref name=Parker>D.D. Wagman, W.H. Evans, V.B. Parker, R.H. Schumm, I. Halow, S.M. Bailey, K.L. Churney, R.I. Nuttal, K.L. Churney and R.I. Nuttal, The NBS tables of chemical thermodynamics properties, ''J. Phys. Chem.'' Ref. Data 11 Suppl. 2 (1982).</ref>、27 {{℃}}では約15,000[[気圧]]以上の高圧下で安定となる。ただし常温常圧において相互の転移速度は観測不能であるほど充分に遅く、常温常圧では[[準安定状態]]とされる<ref name=Cotton>F.A. コットン, G. ウィルキンソン著, 中原 勝儼訳 『コットン・ウィルキンソン無機化学』 培風館、1987年</ref>。 また、[[3次元]]性の結晶構造なので[[グラファイト]]などに備わっている自己潤滑性はない。 ==== ダイヤモンドより硬い物質 ==== ダイヤモンドの炭素原子が一部[[窒素]]原子に置換された[[立方晶窒化炭素]]は、ダイヤモンド以上の硬度を持つ可能性があると予測されている<ref>藤原修三・古賀義紀 「[http://www.nimc.go.jp/recent/r96-7-1.html ダイヤモンドの硬さを凌ぐか-立方晶窒化炭素の世界初の合成-]」([[産業技術総合研究所|工業技術院]]物質工学工業技術研究所)</ref>。さらに、六方晶ダイヤモンドとの別名を持つ[[ロンズデーライト]]は、ダイヤモンドよりも58 %高い硬度を持つことが計算により予想されている<ref>Pan, Z.; Sun, H.; Zhang, Y.; Chen, C. "Harder than Diamond: Superior Indentation Strength of Wurtzite BN and Lonsdaleite" ''Phys. Rev. Lett.'' '''2009''', ''102'', 055503. DOI: [https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.102.055503 10.1103/PhysRevLett.102.055503]</ref>。人工素材と含めると、2009年時点で存在するダイヤモンドより硬い物質は、[[ハイパーダイヤモンド]]で市販の多結晶質ダイヤモンドの3倍程度の硬さ<ref>{{cite journal |author=Natalia Dubrovinskaia ''et al.'' |title=Superior Wear Resistance of Aggregated Diamond Nanorods |journal=Nano Letters |volume=6 |pages=824–864 |year=2006 |doi=10.1021/nl0602084 }}</ref><ref>[https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902209806805848 ダイヤモンド・ナノロッド凝集体の優れた磨耗抵抗性]</ref>。また同程度の硬さの物質は[[超硬度ナノチューブ]]がある。{{main|超硬度材料}} [[ファイル:Diamonds glitter.png|250px|thumb|ダイヤモンドの結晶構造]] [[ファイル:Diamond animation.gif|250px|thumb|ダイヤモンドの結晶を回転したところ]] === 硬い理由 === ダイヤモンドの硬さは、炭素原子同士が作る[[共有結合]]に由来する。ダイヤモンドでは1つの炭素原子が[[正四面体]]の中心にあるとすると、最近接の炭素原子はその四面体の頂点上に存在する。頂点上の炭素原子それぞれがsp<sup>3</sup>[[混成軌道]]によって結合しており、幾何的に理想的な角度であるため全く歪みが無い。その結合長は0.154 nmである。この結晶構造を持つダイヤを[[立方晶]]ダイヤとよぶ。一方で、炭素の同素体である[[グラファイト]](石墨)は、層状の[[結晶構造|六方晶]]構造で、層内の炭素同士の結合はsp<sup>2</sup>[[混成軌道]]を形成している。この層内では[[共有結合]]を有し結合力は比較的強いが、層間は[[ファンデルワールス力#ファンデルワールス結合|ファンデルワールス結合]]であるため弱い。六方晶の構造を持つダイヤ([[ロンズデーライト]])も存在するが、不安定で地球上には[[隕石]]痕など非常に限られた場所でしかみつかっておらず、0.1 mmを超える大きさの[[単結晶]]は存在しない。純粋なものはダイヤモンドよりも硬いことが予想されるが、その性質はまだ分かっていないことも多い。 === 劈開性 === ダイヤモンドには一定の面に沿って割れやすい性質([[劈開]]性)がある(4方向に完全)。ダイヤモンドは、普通の物質や道具では傷つけられないと思われているが、「結晶方向に対する角度を考慮して瞬間的に大きな力を加える」「燃焼などの[[化学反応]]を人為的に促進する」などの方法で容易に壊すことができる。また傷があれば、[[カッターナイフ]]を当てて軽く手で叩くだけで割れてしまう(ダイヤの原石のカットはこの手法で行われる)。 === 熱伝導 === {{see also|合成ダイヤモンド#熱伝導性}} ダイヤモンドは[[熱伝導]]性が非常に高い。これは原子の[[熱振動]]が[[フォノン]]となって結晶中を伝わりやすいことによる。触ると冷たく感じるのはこのためである。ダイヤモンドテスターはこの性質を利用して考案され、ダイヤモンドの類似石から識別できる道具だが、合成[[炭化ケイ素|モアッサナイト]]だけは識別できない。<sup>12</sup>Cと<sup>13</sup>Cでは[[フォノン]]の振動数が異なり混在はフォノンを散乱させて熱伝導の妨げとなるため、<sup>12</sup>Cだけで合成された人工ダイヤモンドは天然ダイヤモンドより熱伝導が高くなる。 [[化学気相成長|CVD]]人工ダイヤモンドの薄板を手で持って[[氷]]を切ると、すぱすぱと切れる。それほどダイヤモンドが熱伝導性に優れるという<ref name="ダイヤモンドの科学"/>。 === 電気伝導 === [[バンドギャップ]]は室温で5.47 [[電子ボルト|eV]]であり、[[真性半導体]]として絶縁体だが、不純物を添加することによる[[不純物半導体]]化の試みがなされ、[[ホウ素]]添加によりp形、[[リン]]添加によりn形が得られている。その物性により、現在よりもはるかに高周波・高出力で動作する[[半導体素子]]や、[[バンドギャップ]]を反映した深紫外線[[発光ダイオード|LED]]が実現できるのではないかと期待されてきた。現在、自由[[励起子]]による波長235 nmの発光がダイヤモンド[[pn接合]]LEDにより、[[物質・材料研究機構]]と[[産業技術総合研究所]]から報告されている。[[バンドギャップ]]の[[温度]]依存性については報告があるが、[[半経験則]]による計算式で用いられている[[デバイ温度]]については、負の値があてがわれたり、式自体を意味のあるデバイ温度を用いるために修正したりして報告されており、未解決になっている。p形[[半導体]]ダイヤモンドでは、[[ホウ素]]添加濃度が10<sup>21</sup> cm<sup>−3</sup>以上で極低温で[[超伝導]]となることが報告され、半導体による超伝導現象として現在盛んに研究されている。また、10<sup>19</sup> cm<sup>−3</sup>以上では[[電気伝導]]が[[バンド伝導]]から[[ホッピング伝導]]、そして濃度の上昇とともに[[活性化エネルギー]]がほとんどない[[金属的伝導]]になることが知られている。この[[不純物]]濃度と不純物[[準位]]との相関についても、[[不純物バンド]]や[[モット]]の[[金属・非金属転移]]と絡めて研究が進んでいる。このような半導体としての基礎的な議論が可能となってきた現在のダイヤモンドの[[半導体]]としての品質は[[シリコン]]と互角であると言えるが、制御性は今後の研究開発がさらに必要である。 === 親油性 === ダイヤモンドは油になじみやすい性質([[親油性]])があり、この性質を利用してダイヤモンド原石とそうでないものを分ける作業もある。ジュエリーとして身に付けているうちに[[皮脂]]などの汚れがつくと、油の膜によって光がダイヤモンド内部に入らなくなり、輝きが鈍くなる。中性洗剤や洗顔料などで洗うと油が取れて、輝きが戻る。逆に水には全くなじまず、はじいてしまう<ref name="ダイヤモンドの科学"/>。 == カラーダイヤモンド == {{see also|en:Diamond color}} [[ファイル:DiamanteEZ.jpg|thumb|150px|イエロー・ダイヤモンド]] ダイヤモンドは無色透明のものよりも、黄色みを帯びたものや褐色の場合が多い。結晶構造の歪みや、[[窒素]] (N)、[[ホウ素]] (B) などの[[元素]]によって着色する場合もある。無色透明のものほど価値が高く、黄色や茶色など色のついたものは価値が落ちるとされるが、{{ill2|ブルー・ダイヤモンド(宝石)|en|Blue diamond|label =ブルー・ダイヤモンド}}や{{ill2|ピンク・ダイヤモンド|en|Pink diamond}}、{{ill2|レッド・ダイヤモンド|en|Red diamond}}、グリーン などは稀少であり、無色のものよりも高価で取引される(緑は[[ドレスデン・グリーン]]のように、[[放射線]]を長期にわたって受けたためである事が分かっている。ピンクは結晶構造のひずみによる)。また、低級とされるイエロー・ダイヤモンドでも、綺麗な黄色(カナリー・イエローと呼ばれる物など)であれば価値が高い。2010年に南アフリカで発見され、『サンドロップ (Sun-Drop)』と名付けられた110.03カラットのイエロー・ダイヤモンドに、[[サザビーズ]]は「[[セイヨウナシ]]の形をしており、装飾的で、光り輝くイエローダイヤとしては世界最大」と賞賛、最も希少で最も魅力的な「ファンシー・イエロー」の[[鑑定]]書を付けた。このダイヤは[[2011年]]11月、[[ジュネーヴ|ジュネーブ]]で行なわれた競売において、1000万[[スイス・フラン]](約8億4000万[[円 (通貨)|円]])で落札された。 [[20世紀]]末頃から、内包するグラファイトなどにより黒色不透明となった[[カーボナード|ブラック・ダイヤモンド]](ボルツ・ダイヤモンドとも呼ばれる)がアクセサリーとして評価され、高級宝飾店[[ティファニー]]などの宝飾品に使用されている。 [[宝石放射線照射|放射線処理]]により青や黒い色をつけた処理石も多い。最近ではアップルグリーン色のダイヤもあるがこれも高温高圧によって着色された処理石である。また、無色の(目立った色のない)ダイヤモンドに別の物質を[[蒸着]]することで[[コーティング]]処理した、安価な処理石もある。 == 天然ダイヤモンド == [[ファイル:Udachnaya pipe.JPG|250px|thumb|ロシア連邦[[サハ共和国]][[ウダーチナヤ・パイプ|ウダチナヤ鉱山]]]] [[採掘]]によって産出されるダイヤモンド。 === 産出地と地質構造 === ダイヤモンドは[[マントル]]起源の[[火成岩]]である[[キンバーライト]]に含まれる。キンバーライトの貫入とともにマントルにおける高温・高圧状態の炭素(ダイヤモンド)が地表近くまで一気に移動することで[[グラファイト]]への[[相転移]]を起こさなかったと考えられている。このため、ダイヤモンドの産出地はキンバーライトの認められる地域、すなわち[[クラトン|安定陸塊]]に偏っている。 ダイヤモンドの[[母岩]]であるキンバーライトは古い地質構造が保存されている場所にしか存在せず、地質構造の新しい日本においてダイヤモンドは産出されないというのが定説とされてきた。しかし2007年、1μm程度の極めて微小な結晶が[[日本]]の[[愛媛県]][[四国中央市]]産出の[[かんらん岩]]から発見された<ref>[https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2007/16.html 日本で初めての天然ダイアモンド発見] [[東京大学]] 大学院理学系研究科・理学部</ref>。 === 産出量 === [[ファイル:Diamantenvorkommen.png|250px|thumb|ダイヤモンドの産出量が多い国(2011年)]] 2004年時点の総産出量は1億5600万[[カラット]](以下、[[アメリカ地質調査所|USGS]] Minerals Yearbook 2004)であった。国別の生産量(単位カラット)を以下に示す(カラットは宝石の質量を表すのに良く用いられる単位で、1カラットは0.2グラムに等しい)。 # [[ロシア]] 3560万 # [[ボツワナ]] 3110万 # [[コンゴ民主共和国]] 2800万 # [[オーストラリア]] 2062万 # [[南アフリカ共和国]] 1445万 # [[カナダ]] 1262万 # [[アンゴラ]] 600万 # [[ナミビア]] 200万 # [[中華人民共和国]] 121万 # [[ガーナ]] 100万 上位6カ国、すなわちロシア (22.8 %)、ボツワナ (19.9 %)、コンゴ民主共和国 (18.0 %)、オーストラリア (13.2 %)、南アフリカ共和国 (9.3 %)、カナダ (8.1 %) だけで、世界シェアの90 %を占める。 === 採掘 === ダイヤモンドの[[採掘]]は、古くは[[鉱床]]の近くの[[河原]]などの二次鉱床で母岩から流れ出した鉱石を探し出す方式が主流であった。[[1867年]]に[[オレンジ自由国]]と英領[[ケープ植民地]]との国境付近でダイヤモンドが発見され、その東隣にダイヤモンドの鉱床たる母岩があると地質学者が突き止めたことで方式が変わった。その母岩のある地域は[[キンバリー]]と名付けられ、母岩を粉砕して大量の岩石を処理し、その中からダイヤモンドの鉱石を探し出す方式が以後主流となった<ref>キャリー・ホール 著 『宝石の写真図鑑』 [[ヴォーグ (雑誌)|日本ヴォーグ社]]、1996年3月1日第1刷、54頁。</ref>。キンバリーの最初の鉱床には、現在[[ビッグ・ホール]]と呼ばれる大穴が開いており、観光地となっている。このキンバリーの鉱床の中から[[デ・ビアス]]社が産声を上げ、ダイヤモンドの世界市場を支配することとなった<ref>レナード・トンプソン 著、宮本&thinsp;正興・峯&thinsp;陽一・吉国&thinsp;恒雄 訳 『南アフリカの歴史』 [[明石書店]]、1995年、216&ndash;218頁、{{ISBN2|4-7503-0699-1}}。</ref>。[[1967年]]には独立したばかりの[[ボツワナ]]共和国北部の[[オラパ鉱山]]において大鉱床が発見され、その後も次々と鉱床が発見されたことでボツワナが世界2位のダイヤモンド生産国となり、その利益によってボツワナは「アフリカの奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げることに成功した。 == 合成ダイヤモンド == {{Main|合成ダイヤモンド}} [[19世紀]]末の[[アンリ・モアッサン]]の実験など、ダイヤモンドを人工的に作ることは古くから試みられてきたが、実際に成功したのは[[20世紀]]後半になってからである。1955年3月に米国の[[ゼネラル・エレクトリック|ゼネラルエレクトリック社]]([http://www.abrasivesnet.com 現ダイヤモンド・イノベーションズ社])が高温高圧合成により初めてダイヤモンド合成に成功した<ref>{{Cite journal|last=Bundy|first=F. P.|last2=Hall|first2=H. T.|last3=Strong|first3=H. M.|last4=Wentorfjun.|first4=R. H.|date=1955-07|title=Man-Made Diamonds|url=https://www.nature.com/articles/176051a0|journal=Nature|volume=176|issue=4471|pages=51–55|language=en|doi=10.1038/176051a0|issn=1476-4687}}</ref>。上述の発表後、[[スウェーデン]]のASEA社がゼネラル・エレクトリック社よりも数年前にダイヤモンド合成に成功していたという発表がされたが、ASEA社では宝飾用ダイヤモンドの合成を狙っていたため、ダイヤモンドの小さな粒子が合成されていたことに気づいていなかった。現在では、ダイヤモンドを人工的に作成する方法は複数が存在する。 === 製造方法 === ==== 高温高圧法 ==== 高温高圧法(High Pressure High Temperature, HPHT。静的高温高圧法と動的高圧高温法がある)は、炭素に1200 – 2400 {{℃}}、55,000 – 100,000気圧の高温高圧をかけてダイヤモンドを合成する。静的高温高圧法では、[[鉄]]、[[ニッケル]]、[[マンガン]]、[[コバルト]]、[[塩化ナトリウム]]などの[[触媒]]や[[窒素]]などの[[不純物]]<ref>{{cite journal|last1=Assali|first1=L. V. C.|last2=Machado|first2=W. V. M.|last3=Justo|first3=J. F.|title=3d transition metal impurities in diamond: electronic properties and chemical trends|journal=Phys. Rev. B|date=2011|volume=84|page=155205|doi=10.1103/PhysRevB.84.155205}}</ref> の混入などで黄、緑、黒やこれらの混合した色等の結晶として生成され、主に工業用ダイヤモンドとして研磨や切削加工(ルータービットやヤスリ、ガラス切り)に利用されている。高温高圧法は1日程度の加圧加温で合成されるが、1週間程度に加圧加温を延長して結晶の成長を促せば、宝飾品レベルのダイヤモンドは人工的に合成可能である。技術的な面では何も問題は無く、単純な採算性の問題となっている。 ==== 化学気相成長法 ==== 大気圧近傍で合成が可能な化学気相成長法(Chemical Vapor Deposition, [[化学気相成長|CVD]]。[[熱CVD]]法、プラズマCVD法、光CVD法、燃焼炎法などがある)によりプラズマ状にしたガス(例えば、[[メタン]]と[[水素]]を混合させたもの、その他にメタン-[[酸素]]や[[アセチレン]]-酸素などがある)から結晶を基板上で成長させる方法などが知られている<ref>難波義捷「[http://www.hi-ho.ne.jp/ynamba/sub1.html 日本におけるダイヤモンド状薄膜の開発経過]」</ref>。化学気相成長法(CVD法)によって0.1 – 10 [[マイクロメートル|μm]]/[[時間 (単位)|h]]という低速度での人工ダイヤモンド合成が[[1990年代]]に行なわれていたが、[[1999年]]頃に[[カーネギー研究所|米カーネギー研究所]]が開発した、窒素を加える方法で150 μm/hの速度になってからは、ボストンのアポロ社で宝飾用のダイヤモンドを製造して販売している。紫外線によるオレンジ色の発光や、レーザーを使用したフォトルミネッセンスによるCVD独特の吸収線、[[カソードルミネッセンス]]における成長模様などによってCVDと天然ダイヤモンドの違いが検出できるようになってきている<ref name="ダイヤモンドの科学"/>。プラズマCVDなどの気相合成法により他物質へのダイヤモンドのコーティングは可能であり、一部のドリルや音響機器で実用化されている。 === 用途 === ==== 工業用途 ==== {{redirect|ダイヤモンドカッター|プロレス技|ダイヤモンド・カッター}} 上述の高温高圧合成などによって合成された工業用ダイヤモンドはもはや高価な材料ではない。工業用ダイヤモンドにも多種あるが、[[金]]の10分の1程度の価格で取引されているものが多い。ダイヤモンドを工業用途として使用する最大の特徴はその硬さである。工業用ダイヤモンドや宝飾用途に適さない色の天然の結晶を用いることで、電子材料、[[超硬合金]]、[[セラミック]]・[[アルミニウム]]系合金・ガラスなどの高硬度材料・難削材料の研削(ダイヤモンドカッター)・研磨([[ダイヤモンドやすり]]、[[ダイヤモンドペースト]])をはじめとして、切削用[[バイト (工具)|バイト]]、木材加工などオールラウンドな加工が可能である。 工業用ダイヤモンドには用途により、数[[ナノメートル]]から数[[ミリメートル]]までの粒径、形状、破砕性、表面状態などによる多くの品種がある。また、前述のバイトは超硬合金を基板にダイヤモンドを[[コバルト]]などと共に[[焼結]]することによって得られるダイヤモンド焼結体を指すこともある。しかしながら、ダイヤモンドは高温下で[[鉄]] (Fe)、[[コバルト]] (Co)、[[ニッケル]] (Ni) と容易に化学反応を起こす、などの性質のために、[[鋼]]など鉄基合金や[[耐熱合金]]の切削には適さない。ダイヤモンドが使用できない分野では、代わりに[[立方晶窒化ホウ素]] (cubic Boron Nitride, cBN) の焼結体(「ボラゾン」)を用いる。 ===== 半導体 ===== {{Main|ダイヤモンド半導体}} 大部分のダイヤモンドは[[不導体]]であるが、[[ホウ素]]が微量含まれた[[ダイヤモンドのタイプ#IIb型|IIb型]]のダイヤモンド結晶は[[p型半導体]]の特性を持ち、燐が微量含まれると[[n型半導体]]となる。これらを使用したMES(金属-半導体結合)型やMIS(金属-半導体の間に絶縁体を挟む結合)型のFET([[電界効果トランジスタ]])半導体素子が研究されている。 [[窒化ケイ素]]の基板上に微量ホウ素を含むp型半導体のダイヤモンドを作ると、−70 – 600 {{℃}}の広い温度範囲に対して直線的に抵抗値が変化する高精度の温度センサーができる。これは圧力センサーとしての利用も検討されている<ref name="ダイヤモンドの科学">松原聡著 [[ブルーバックス|BLUE BACKS]] 『ダイヤモンドの科学』 2006年5月20日第1版発行 ISBN 4-06-257517-5</ref>。 ===== ダイヤモンドアンビルセル ===== [[ダイヤモンドアンビルセル]] (diamond anvil cell, DAC) は、天然または人工合成のダイヤモンドを使って超高圧を実現するための機械。小さなダイヤモンドを2つ用意し、その間に試料を挟み込んで圧縮する。小型(手のひらサイズ)で透明(リアルタイムで光学的な観測が可能)であり、サブテラパスカル(数百万[[気圧]]、数百[[ギガ|G]][[パスカル (単位)|Pa]])までの加圧が可能である。[[鉱物学]]や[[物性物理学]]などで用いられる。一方、ダイヤモンドそのものが大型化できないので、試料は大変小さなものにしなければならない。ダイヤモンド以外に、[[サファイヤ]]、[[炭化ケイ素]]を使ったアンビルセルもあるが、加圧できる圧力はダイヤモンドよりも劣る。なお、アンビルとは[[金床]]のことである。 ===== 音響機器 ===== [[レコードプレーヤー]]のレコード針に使われる他、[[スピーカー]]の高域ユニットの[[振動板]]としても使用される。[[チタン]]などの[[軽金属]]で形成されたベースに[[化学気相成長]]法でダイヤモンドをコーティングした製品が多い。[[合成樹脂|樹脂]]のベースに厚くダイヤ皮膜を形成し、その後ベースを熔解除去し、ダイヤモンドだけで形成される振動板も登場した。 ==== 宝石用の人工ダイヤモンド ==== 宝石用の人工ダイヤモンドも製造可能である。天然では貴重なカラーダイヤモンドも作製可能であるが、その鑑定書を作成する公的機関では、決められた手順に沿って評価され、その過程で天然・人工の区別も行われている。評価方法は、目視・顕微鏡観察から、[[赤外線]]および[[紫外線]]の[[吸光|吸収]]・[[反射 (物理学)|反射]]・[[透過]]による測定、[[レーザー]]による[[フォトルミネッセンス]]、[[ラマン分光法]]、[[電気伝導度]]測定などあらゆる角度で進められる。 天然ダイヤモンドを取扱う業界にとって、合成ダイヤモンドの宝石市場への進出は脅威になりつつある。天然ダイヤの流通企業らは、彼らが取得した全ての[[特許]]情報を開示し、宝石に[[シリアルナンバー]]をレーザーで刻む方法を行った<ref name=yarnell>{{cite journal |last1= Yarnell|first1=Amanda|date=2 February 2004|title= The Many Facets of Man-Made Diamonds|journal= Chemical & Engineering News|publisher= American Chemical Society|volume= 82|issue= 5|pages= 26–31|url= http://pubs.acs.org/cen/coverstory/8205/8205diamonds.html|issn= 0009-2347}}</ref>。米国[[フロリダ州]]に本社を置くジェムシス社の公式サイトには、[[シリアル番号|シリアルナンバー]]付きの宝石が紹介され、これらには "''Gemesis created''" とシリアルナンバーの前に "LG (''Laboratory grown'')" という文字を付け加えている<ref>[http://gemesis.com/media/wysiwyg/ExDiamondCert.pdf Laboratory Grown Diamond Report] for Gemesis diamond, International Gemological Institute, 2007.</ref>。 2012年3月時点、ジェムシス社は自社が開発した1.0 - 1.5カラットの無色や黄色の合成ダイヤモンド宝石を販売し、合成ダイヤモンド[[装身具|アクセサリー]]は、天然ダイヤモンドよりも低価格でウェブサイトで一般向けに販売している<ref>[http://www.nationaljeweler.com/nj/diamonds/a/~28072-Gemesis-labgrown-diamond-site-goes Gemesis lab-grown diamond site goes live], ''National Jeweler'', March 19, 2012.</ref><ref>DeMarco, A. [http://www.forbes.com/sites/anthonydemarco/2012/03/14/gem-quality-white-diamonds-created-in-laboratory/ Gem-Quality White Diamonds Created in Laboratory], ''[[フォーブス (雑誌)|Forbes]]'', March 14, 2012.</ref>。 2018年、世界的ダイヤ大手企業の[[デビアス]]が合成ダイヤモンド専門ブランドを立ち上げた。合成ダイヤモンドの独自ブランドを設けた日本企業もある。価格が安いことと、紛争とは無縁であることが利点として挙げられる一方、天然ダイヤモンドと誤認して売買されるトラブルが起きている。日本ジュエリー協会は、希少性がないという理由で「宝石」と看做すことに否定的である<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM1Y4D42M1YUTIL019.html 合成ダイヤ「天然」の輝き/日本でも本格的に流通始まる/以前は研磨材 格安で店頭に]『[[朝日新聞]]』夕刊2019年1月31日(社会面)2019年2月2日閲覧。</ref>。 == 宝飾用ダイヤモンド == [[ファイル:Brillanten.jpg|thumb|250px|宝飾用ダイヤモンドの例。宝飾用ダイヤモンドは、見た目のためにカットに工夫がほどこしてある。]] === 4C === ダイヤモンドの品質を知るための指標として[[ジェモロジカル・インスティテュート・オブ・アメリカ|GIA]](アメリカ宝石学協会)が考案したもの。色('''C'''olor)、透明度('''C'''larity(クラリティ))、重さ('''C'''arat(カラット))、研磨('''C'''ut)([[:en:Diamond cut|en]])によって品質を評価する。ラウンド[[ブリリアントカット]](58面体)に対してカット評価がされるので、他のカットの場合、カットの種類しか鑑定書に記載されない。詳しくは[[4C (ダイヤモンド)|4C]]を参照。 近年はダイヤモンド自体のスペックを測る4Cではなく、見た目の美しさによって価値を見出す指標を考えるなど、その存在価値が見直されている。(例:O.E.カット、Crown-K-Cut) === メレダイヤモンド === 0.17カラット以下の小粒なダイヤモンド。宝飾品においては中石を引き立てるために周囲に散りばめられるなどの利用をされる。 === 有名なダイヤモンド === '''[[カリナン]]'''は[[1905年]]に南アフリカで発見され、カット前の原石は3106カラットもあり、これをカットすることで合計1063カラットの105個の宝石が得られた。これらは当時の[[イギリス]]国王である[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]に献上されている。105個のなかで最大の'''[[カリナン|カリナンI]]'''は530.20カラットで「偉大なアフリカの星 (The Great Star of Africa)」の別名を持ち、カットされたダイヤモンドとしては長らく世界最大の大きさを誇っていた。カリナンIは[[ロンドン塔]]内に展示されており、見学することができる。 現在、世界最大の研磨済みダイヤモンドは、'''[[ザ・ゴールデン・ジュビリー]]'''である。この石は545.67カラットあり、国王[[ラーマ9世]]の治世50周年を記念して[[1997年]]に[[タイ王国|タイ]]王室に献上された。 [[画像:Diamanter, Några stora och ryktbara diamanter, Nordisk familjebok.png|thumb|right|300px]] その他、写真に示す有名なダイヤモンドについて記す。 # '''{{仮リンク|グレート・ムガル|en|Great Mogul Diamond}}''':フランスの宝石商タヴェルニエの旅行記に記された伝説のダイヤモンド。原石の状態では787.50カラットあったとされ、事実とすればその当時世界最大だが、わざわざ[[ヴェネツィア]]から呼んだカット職人がカットに失敗し280カラット余りに。その後の行方は不明。卵を半分に切ったような形、といった記述から'''{{仮リンク|オルロフ (ダイアモンド)|label=オルロフ|en|Orlov (diamond)}}'''と同じではないかと考える研究家もいる。 # '''{{仮リンク|リージェント|en|Regent Diamond}}'''(上面):[[インド]]産。わずかに青みを帯びる。グレート・ムガルから切り出されたのではないかと考えられている。140.64カラット。[[ルーヴル美術館]]蔵。 # '''{{仮リンク|フロレンティン|en|Florentine Diamond}}'''(上面):インド産のイエロー・ダイヤモンド。137.27カラット。長年[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]]家に所蔵されていたが、その後、所有権が[[ハプスブルク家]]へ移る。[[カール1世 (オーストリア皇帝)|ハプスブルク最期の皇帝]]が[[オーストリア革命|帝政崩壊時]]に持ち逃げした後、現在まで行方不明。 # '''{{仮リンク|南の星 (ダイヤモンド)|label=南の星|en|Star of the South}}''':[[ブラジル]]産。128.48カラット。2002年に著名な[[フランス]]のブランド、[[カルティエ]]社が購入した。その後、さるインド人の個人所有物になったらしいが、真相は不明。 # フロレンティン(側面) # '''{{仮リンク|サンシー (ダイヤモンド)|label=サンシー|en|Sancy}}''':インド産、微かに黄ばんだダイヤモンド。55.23カラット。[[ルーブル美術館]]蔵。 # '''[[ドレスデン・グリーン]]''':おそらくインド産のグリーン・ダイヤモンド。41カラット。ドレスデン美術館蔵。 # '''[[コ・イ・ヌール]]'''(1852年以前):[[ムガル帝国の君主|ムガル帝室]]に伝来した、歴史的に最も古い有名なダイヤモンド。186.0125カラット。 # '''[[ホープダイヤモンド|ホープ]]''':おそらくインド産。サファイアのような濃青のダイヤモンド。所有者が次々に不慮の事故で死亡すると云う'''呪いの宝石'''の都市伝説で有名。45.52カラット。[[アメリカ自然史博物館|アメリカ合衆国国立自然史博物館]]蔵。 # コ・イ・ヌール(ブリリアント・カット上面、1852年以後):インドの[[マハラジャ]]から[[イギリス東インド会社]]を経て、イギリスの[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]へ献上された後、夫の[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公]]が[[オランダ]]の研磨業者にブリリアント・カットに仕立て直しを命じ、重量が105.602カラットに減少。現在も[[イギリス王室]]が所蔵しており、ロンドン塔に展示されている。 # リージェント(側面) # コ・イ・ヌール(ブリリアント・カット側面、1852年以後) <!--その外の著名なダイヤモンドとしては、以下のようなものがある。 ;[[テーラー・バートン]]: 有名なハリウッドスター夫妻にまつわるダイヤモンド。--> さらには[[有名な宝石の一覧#ダイヤモンド]]も参照。 === 紛争ダイヤモンド === {{Main|紛争ダイヤモンド}} [[紛争ダイヤモンド]]は、紛争地で採掘され密売されるダイヤモンド。[[1990年代]]に[[冷戦]]構造の崩壊とともに各地の反政府組織への東西両陣営からの武器援助が途絶え、新たな財源を求めた反政府組織がダイヤモンド利権に目を付けたことから大きな問題となった。反政府組織の財源となり紛争の拡大、長期化の原因となる。[[シエラレオネ]]、[[リベリア]]、[[アンゴラ]]、[[コンゴ民主共和国]]などで採掘されたものが特に問題となった。これらの国で悲惨な内戦が激化するにしたがって国際的に取引を禁止する動きが起き、1998年のアンゴラからのダイヤモンド輸出を禁じる[[国連決議]]などを受け、2000年7月19日には[[アントウェルペン]]で開催された世界ダイヤモンド会議によってダイヤモンド輸出入の認証制度が提案され、2001年1月17日から1月18日にはそのための新組織[[ワールド・ダイヤモンド・カウンシル]]が結成された。そして、2002年11月に、紛争地からのダイヤモンド輸出入の禁止を目的とした[[キンバリープロセス]]認証制度が制定された。 == 模造ダイヤモンド == {{Main2|ダイヤモンドのイミテーション|ダイヤモンド類似石}} {{Main2|模造ダイヤモンド|模倣宝石#模造宝石}} {{Main2|フォールス・ネーム|ダイヤモンド類似石#ダイヤモンドで終わるフォールス・ネーム}} 宝飾用のダイヤモンドの代用品(イミテーション)としては、[[ジルコニア]]([[二酸化ジルコニウム]]の結晶)やガラスが用いられる。ダイヤモンドとそのイミテーション、模造ダイヤモンドの見分け方として、[[油性ペン|フェルトペン]]で結晶の上に線を書くというものがある。ダイヤモンドは親油性の物体であり、油脂を弾かない。一方、ジルコニアなどのイミテーションや模造ダイヤモンドは油を弾く性質を持っている。したがって、油性フェルトペンの筆跡が残らなければ偽物だと見分けることができる。その他の方法としてはラインテストがある。黒い線の上にダイヤモンドをテーブル面を下にして乗せると、下の黒い線は見えないが、キュービックジルコニアでは下の黒い線が透けて見える。また、本物のダイヤより硬度に劣るため磨耗しやすい。宝石商などが[[ルーペ]]でダイヤを見て真贋を判定するシーンが映画、ドラマ等でよく見られるが、あれはカットされた角の磨耗を見ており、本物のダイヤは当然磨耗で角が丸まることがない{{要出典|date=2023年5月}}。 また[[石英|水晶]]などダイヤモンドとは全く組成が異なる鉱物を指して「○○ダイヤモンド」(○○には産地名などが入る)などと呼ぶことがある。こうした名称はフォールス・ネーム (false name) またはフェイク・ジェムストーン (fake gemstone) といい、販売業者が値を吊り上げるなど、手前の都合良いよう勝手にこじつけただけのものである。紛らわしいので、現在はまともな宝石店、ジュエリー・ショップではその使用を避けている。 ==ナノダイヤモンド== {{Main|ナノダイヤモンド}} ===化粧品・口腔内用品での利用=== ナノダイヤモンド(ND)は毒性がないので化粧品、口腔内用品に利用可能である。例えばローション、フェイスマスク、乳液、シャンプー、保湿クリーム、歯磨き粉、マウスウォッシュ液、皮膚の老廃細胞削剥、皮膚接合用テープ等<ref>{{Cite book|author=Roshanak Namdar|author2=Shohreh Nafisi|year=2018|title=Nanodiamond applications in skin preparations|url=https://doi.org/10.1016/j.drudis.2018.04.006|journal=Drug Discovery Today|volume=23|issue=5|pages=1152-1158|publisher=Elsevier}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Khalid Mohamed El-Say|year=2011|title=Nanodiamond as a drug delivery system: Applications and prospective|url=https://www.japsonline.com/admin/php/uploads/120_pdf.pdf|format=PDF||journal=Journal of Applied Pharmaceutical Science|volume=1|issue=6|page=29-39}}</ref>。 == 比喩 == ダイヤモンドは、その堅さと煌びやかさから、「貴重なもの」「高価なもの」「お金になるもの」の[[比喩]]としてよく使われる。また、色を冠して特定の商品を表すこともある。「野球場のダイヤモンド」など、単に[[菱形]]の物に対しても使われる。 記念祭では、60周年または75周年のシンボルをダイヤモンドとする。例えば、「[[結婚記念日|ダイヤモンド婚式]]」は結婚60周年、「[[ダイヤモンド・ジュビリー]]」は60周年または75周年の記念祭を意味する語である。 === 高価な物の例え === * [[黒いダイヤ]] - [[石炭]]、[[マグロ]]、[[セイヨウショウロ|トリュフ]]、[[オオクワガタ]] * [[赤いダイヤ]] - [[梶山季之]]の小説の題名で、[[アズキ|小豆]]を指す([[商品先物取引]]で時に大儲けできることから)。 * 白いダイヤ - シラスウナギ([[ウナギ]]の稚魚)、吉野葛([[クズ#食用|本葛]]) * 黄色いダイヤ - [[数の子]]、[[硫黄]] * ダイヤの原石 - 今は価値が低いが、その後の扱いにより、磨けば価値の出る(可能性のある)人・物のこと。 * 山のダイヤ、森林のダイヤ - [[マツタケ|松茸]] === 形状が菱形の物の例え === * カットされた[[宝飾品]]のダイヤモンドの形から、'''[[四角形|菱形]]'''、記号('''◇''')、[[トランプ]]の絵柄([[スート]])のひとつ、[[野球]]の[[内野]]([[野球場]]の塁に囲まれた領域)などを指してダイヤモンドとも言われている。 :(→[[ダイヤ (シンボル)]]) == ダイヤモンドと映画作品や漫画作品 == ; ダイヤモンド産業の暗い裏側を描いた作品 : 宝石として登場する多くの作品以外に、以下ではダイヤモンドが世界の資金移動や資金調達にどのように作用しているか扱っている。 :* [[映画作品|映画]]『[[ブラッド・ダイヤモンド]]』: 武器の資金調達のため、不法に取引される紛争ダイヤモンドについて、リアルに描写。 :* 映画『[[ロード・オブ・ウォー]]』: 武器取引の代金として紛争ダイヤが登場する。 : ; ダイヤモンドを機能素材として扱ったSF作品 : このほかダイヤモンドを[[サイエンス・フィクション|SF]]的な機能性素材として扱っている作品としては、地球攻撃用の[[レーザー]][[軍事衛星]](映画『[[007 ダイヤモンドは永遠に]]』)や[[雹]]の核(『[[パタリロ!]] スターダスト計画』)、熱線の反射ミラー(『[[ゴジラvsビオランテ]]』に登場する[[スーパーX (ゴジラシリーズ)#スーパーX2|スーパーX2]])などがある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 砂川 一郎 『ダイヤモンドの話』 [[岩波新書]]、1964年。 * 砂川 一郎 『宝石は語る―地下からの手紙』 岩波新書、1983年。 * 砂川 一郎 『結晶―成長、形、完全性』 共立出版、2003年。 * {{Cite journal|和書 |author = [[砂川一郎]] |year = 1971 |month = 1 |title = 宝石用人工ダイヤモンド |journal = [[地質ニュース]] |issue = 197 |pages = 1-5頁 |url = http://www.gsj.jp/Pub/News/n_index/cn71/7101.html |format = PDF }} * {{Cite journal|和書 |author = [[左巻健男]] |year = 1998 |month = 12 |title = ダイヤモンドの燃焼の教材化 |journal = 化学教育ジャーナル (CEJ) |volume = 2 |issue = 2 |issn = 1344-7963 |url = http://chem.sci.utsunomiya-u.ac.jp/v2n2/samaki/ }} * {{Cite book|和書 |author=国立天文台編|authorlink=国立天文台|title = [[理科年表]] 平成20年 |url = http://www.rikanenpyo.jp/ |year = 2007 |publisher = [[丸善雄松堂|丸善]] |isbn = 978-4-621-07902-7 |page = 637 }} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|鉱物・宝石|[[画像:HVBriljant.PNG|34px|Portal:鉱物・宝石]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|鉱物|[[ファイル:Spinel-4mb4c.jpg|34px]]}} * [[鉱物]] - [[元素鉱物]] * [[鉱物の一覧]] *[[宝石]]、[[宝石の一覧]] *[[誕生石]] * [[炭素]]、[[石墨]](グラファイト)、[[フラーレン]]、[[カーボンナノチューブ]]、[[ロンズデーライト]]、[[チャオ石]] * [[キンバーライト]] * [[モアッサン石]] - ダイヤモンドと同じ結晶構造を持ち、性質も似ている鉱物。 * [[立方晶窒化ホウ素]] - ダイヤモンドと同じ結晶構造の化合物。 * [[遺灰ダイヤモンド]] * [[デビアス]] - ダイヤモンド採掘・流通会社。 * [[アントウェルペン|アントウェルペン(アントワープ)]] - ダイヤモンドの取引、研磨の中心地で有名な[[ベルギー]]の都市。 * [[カルテル]] * [[紛争ダイヤモンド]] * [[ディアナサンダイヤモンド]] * [[アダマント]] *[[かに座55番星e]] - 内部に地球の3倍もの質量のダイヤモンド層があると推測されている[[太陽系外惑星|系外惑星]]。ダイヤモンド星の1つ。 *[[ケンタウルス座V886星]] - 内部に炭素の結晶構造を持つと推測されている[[白色矮星]]。ダイヤモンド星の1つ。 == 外部リンク == {{Sisterlinks|wikt=ダイヤモンド}} * {{Kotobank}} * [http://www.mindat.org/min-1282.html Diamond: Diamond mineral information and data.] - mindat.org {{モース硬度}} {{炭素の同素体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たいやもんと}} [[Category:ダイヤモンド|*]] [[Category:炭素の単体]] [[Category:元素鉱物]] [[Category:宝石]] [[Category:同素体]] [[Category:立方晶系鉱物]] [[Category:研磨材]] [[Category:発光鉱物]]
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Hypertext Transfer Protocol
Hypertext Transfer Protocol(ハイパーテキスト・トランスファー・プロトコル、HTTP)はアプリ間コネクション上のリクエスト/レスポンス型・ステートレス・メッセージ指向通信プロトコルである。 TCPやQUICはアプリケーション間のコネクション型通信を提供する。HTTPはこのコネクション上を、リソース要望と返答が、メッセージ単位で、1往復のクライアントリクエスト&サーバーレスポンスという形で通信される、と定めたプロトコルである。 HTTPの発明により、インターネット上でのリソース公開とアクセスが容易になった。クライアントがサーバーとコネクションを確立し1つのHTTPメッセージを書いて送るだけで、サーバー上のリソースがHTTPメッセージとして帰ってくる。ゆえにHTTPで公開されるあらゆるリソースにHTTPという単一の手法でアクセスできるようになった。 HTTPを開発した理由でありかつ現在も広く利用される用途はWorld Wide Webである。WebサーバとWebブラウザはHTTPで主に通信しており、ブラウザからのHTTPメッセージに応答してサーバーがHTMLテキストやJavaScriptコードを送り返し、これをブラウザで表示することでウェブが成立している。 またHTTPはメッセージ形式を定める。基本的な考え方は単純で「何を」「どうして」欲しいのかを伝える。例えばリクエストメッセージ GET /apple.jpg は「apple.jpg 画像を、手に入れたい」を意味する。URLが「何を」に、メソッドが「どうして」に当たる。 World Wide WebにおけるWebページなどのリソースは、Uniform Resource Identifierによって指定される。HTTP を使用してリソースにアクセスするときは、http: が先頭についた URL を使用する。下にURL の例を挙げる。 最初の HTTP/0.9 ではURLを指定してコンテントをダウンロードするのみの簡単なやりとりだったが、HTTP/1.0 で改良された。 HTTP/1.1 では複数データを効率よく転送するための持続的接続や、プロキシの利用なども想定した仕様になった。さらに HTTP/2やHTTP/3が策定された。現在ではHTTPセマンティクスと各バージョンの手続きが分離して定義されている(#規格を参照)。 このほかの点を箇条書きで示す。 イギリスの物理学者ティム・バーナーズ=リーは1990年末、ロバート・カイリューと共に初のWebブラウザとWebサーバを作成した。ブラウザには通信をするためのプロトコルが必要だったので、二人はHTTPの最初期のバージョンを設計した。 以来インターネットの大部分をHTTP通信が占めるようになり、1998年にはインターネット上の通信の75%がHTTPによるものになった。 最初期のHTTP/0.9の仕様書は紙に印刷すれば1枚で済むような非常に簡素なドキュメントだったが、2度のバージョンアップを経たHTTP/1.1の仕様書は実に176ページ近くの分量に膨れあがった。 1991年に最初にドキュメント化されたバージョン。メソッドは GET しかなかった。レスポンスは単純にドキュメントの内容を返してコネクションを切断するだけで、レスポンスコードの規定もない。下記は、HTTP/0.9 のリクエストの例。 1996年5月に RFC 1945 として発表された。仕様が RFC で扱われるようになった。メソッドに POST など GET 以外のものが増えた。レスポンスはヘッダーがつくようになり、ステータスコードを含めるようになった。HTTP/0.9 と区別するため、リクエストプロトコルにバージョンを含めることになった。 1997年1月に RFC 2068 として初版が発表された。その後、3回改訂され、現在はセマンティクス・キャッシングを除く部分がRFC 9112で規定されている。 名前ベースバーチャルホストのため、Hostヘッダーフィールドの規定が追加された。 HTTP/2の目標はHTTP/1.1のトランザクション・セマンティクスとの完全な後方互換性を維持したまま非同期な接続の多重化、ヘッダ圧縮、リクエストとレスポンスのパイプライン化を実現することである。Googleによって立ち上げられ、GoogleのブラウザーであるChromeだけではなく、他にも、Opera、Firefox、Amazon Silkなどが対応しているHTTP互換のプロトコルSPDYの人気が高まっていることに対応するために開発された。 HTTP-over-QUIC(hq)としてIETFが開発していた新たな通信プロトコルが、HTTP/3へと改名される。 IETFが策定を進めているQUICはトランスポート層におけるプロトコルの名称であり、アプリケーション層プロトコルであるHTTP-over-QUICとの区別を明確にするため、このような名称変更に至った。 HTTP/2と比べ、多重化するストリームの取り扱いが下位層のQUICへ移行したこと、ヘッドオブラインブロッキング(英語版)を回避するためのヘッダ圧縮の変更(HTTP/3用にQPACKが開発されている)などの差異がある。 他のプロトコル同様、クライアント側とサーバ側では役割が大きく異なる。HTTP通信を開始できるのはクライアント側のみである。 クライアント側がサーバにリクエストを送り、サーバがクライアントにレスポンスを返すのが最も典型的なHTTPのやりとりである。 システム間でメッセージをやりとりするには接続を確立させる必要がある。HTTP/0.9~HTTP/1.1およびHTTP/2ではTCPを使用する。 HTTP/0.9ではクライアントのリクエストごとにTCP接続を確立させる必要があった。これは当時のWebサイトがシンプルなテキストベースであることが多かったためである。近年ではJavaScriptやアニメーション画像など、多数のオブジェクトが埋め込まれたWebサイトが一般的となってきており、これらのオブジェクトを取得するたびにTCP接続を確立するのはサーバやネットワークに大きな負担を強いるため、1回のTCP接続で、複数のHTTPリクエスト・レスポンスをやり取りする持続的接続がHTTP/1.0の拡張として導入された。その後、HTTP/1.1では、持続的接続がデフォルトとなった。すなわち、何も指定しなければ持続的接続となり、持続的接続を望まなければヘッダーフィールドにConnection: closeを追加する仕様となっている。 クライアントは前のリクエストに対するサーバの応答を待たずに別のリクエストを発行できる。 HTTPでは8つのメソッドが定義されている。ただし、実際のHTTP通信ではGETとPOSTメソッドが大部分を占める。 HTTPの仕様以外で定義しているメソッドは、IANAのHypertext Transfer Protocol (HTTP) Method Registryで管理されている。WebDavで使用するものや、 RFC 5789 のPATCHメソッド(英語版)などがある。 1つのサーバーで複数のホスト名に対するHTTPリクエストを受け付ける機能である。 インターネット人気に伴い多くの企業がWebサイトを持ち始めたが、当時はまだまだ企業が自前のWebサーバを運用するのは人員、効率の問題で難しく、ISPのサーバでホスティングをしていた。また、1社ごとに専用サーバを用意するほどのことでもないため、1台のサーバで複数のWebサイトを運用していた。 しかし、IPアドレスのみで相手を特定するHTTP/1.0はこれに対応できなかった。例えば、ある1台のサーバに foo.example.com と bar.example.com という2つの仮想Webサーバがあり、クライアントは http://foo.example.com/index.html にアクセスしたいとする。この場合はDNSサーバに foo.example.com のIPアドレスを問い合わせ、次にそのIPアドレスを使って該当サーバにアクセスし、GET index.html を要求することになる。しかし同じサーバ上にある bar.example.comもIPアドレスは同じであり、もし両方の仮想サーバに index.html というファイルが存在すれば、クライアントがどちらにアクセスしようとしているのか、判別できない。 対策としてはそれぞれにIPアドレスを付与する方法もあるが、IPv4の資源を無駄にすることになる。この問題を解決するため、HTTP/1.1でHostヘッダーフィールドが追加され、名前ベースバーチャルホストが用いられるようになった。 名前ベースバーチャルホストのため、以下のようにHTTPリクエストでホスト名を指定する。 別のURIに対して再度のメソッド実行を要求する機能である。301 Movedや303 See Otherなどのリダイレクトを指示するステータスコードとURIを受け取り、クライアントはこのURIに再度メソッドを実行する。 リクエストとレスポンスでやり取りされるデータは、HTTPメッセージと呼ばれる。クライアントからリクエストHTTPメッセージを送り、サーバーからレスポンスHTTPメッセージを返す。 HTTPメッセージは以下で構成される。 なおHTTP/1.1では、コントロールデータをリクエスト行・ステータス行として表現し、コンテントを格納する部分をメッセージボディまたは単にボディと呼ぶ。 ヘッダー・コンテント・トレイラーは空となる場合もある。 下にもっとも単純なクライアントとサーバ(www.google.co.jp:80)とのやり取りの例を挙げる。 クライアントのリクエスト: この例では、リクエスト行とヘッダーにフィールドが1項目あるのみで、ボディは空でトレーラーも無い。 リクエスト行はメソッド、リクエストターゲット、HTTPバージョンの3つの要素から構成され、それぞれスペースで区切られる。 メソッドはGET、リクエストターゲットは「/」、HTTPバージョンは1.1である。 GETはリソースを取得するためのメソッドであり、リクエストターゲットの「/」はURIのパス部分であってルートリソースを対象にしたリクエストであることを示している。 サーバのレスポンス: 先頭のステータス行はHTTPバージョン、ステータスコード、ステータスメッセージから構成される。 ステータスコードの「200」は処理の成功を表し、これを補足するメッセージが「OK」である。 2行目以降にヘッダフィールドが続く。 さらに空行を挟んで、レスポンスボディとなる。 このレスポンスにもトレーラーは無い。 ヘッダの各要素は のペアで構成される。 ブラウザの情報を表すUser-Agent、使用候補言語を表すAccept-Language、他ページへのリンクを辿った場合にそのリンク元ページのURLを表すRefererなどが代表的なフィールドである。 なお、リクエスト時のHostヘッダはHTTP/1.1では必須であるが、HTTP/1.0ではなくてもよい。 ただし、サーバがバーチャルホストを利用している場合は、Hostヘッダがないとリソース取得に失敗するので、たとえHTTP/1.0を使用していてもHostヘッダを付加しなければならない。 ステータスコードはサーバからのレスポンスで、リクエストの結果を通知する。3桁の数字から成り、おおまかな分類として、1xxは「情報」、2xxは「成功」、3xxは「リダイレクト」、4xxは「クライアントエラー」、5xxは「サーバエラー」を示す。 いくつかの観点でセキュリティに関する追加機能が存在する。 セキュアな通信路でHTTP通信を行うことを通常HTTPSと言う。 HTTPの中で認証を行う仕組みが用意されている。 HTTP/1.1で定義されている最も単純なセキュリティ技術である。「基本認証を用いるくらいならなにも使わない方がまし」と主張する人もいる。平文で認証情報を送信する仕組みであるため、TLS (HTTPS)など安全を確保した通信路での利用が望ましい。通常サーバはステータスコード401で応答する。 HTTPはIETFを始めとした標準化団体により規格化されている。以下はその一部である。 歴史的には各バージョンが独立して規格化されてきた。しかし現行の3バージョン(v1.1, v2, v3)が共通のセマンティクスを維持していたことから、これを独立した規格とする活動が推進され現在の形になっている。 HTTPSのほか、以下のようなHTTPのセマンティクスを利用するプロトコル、HTTPの構文を元とするプロトコルなどが存在する。以下はその一例である。 なお、このようなHTTPの利用に関する文書として RFC 9205 Building Protocols with HTTP (BCP 56)が存在する。
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"paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "World Wide WebにおけるWebページなどのリソースは、Uniform Resource Identifierによって指定される。HTTP を使用してリソースにアクセスするときは、http: が先頭についた URL を使用する。下にURL の例を挙げる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "最初の HTTP/0.9 ではURLを指定してコンテントをダウンロードするのみの簡単なやりとりだったが、HTTP/1.0 で改良された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "HTTP/1.1 では複数データを効率よく転送するための持続的接続や、プロキシの利用なども想定した仕様になった。さらに HTTP/2やHTTP/3が策定された。現在ではHTTPセマンティクスと各バージョンの手続きが分離して定義されている(#規格を参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このほかの点を箇条書きで示す。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イギリスの物理学者ティム・バーナーズ=リーは1990年末、ロバート・カイリューと共に初のWebブラウザとWebサーバを作成した。ブラウザには通信をするためのプロトコルが必要だったので、二人はHTTPの最初期のバージョンを設計した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "以来インターネットの大部分をHTTP通信が占めるようになり、1998年にはインターネット上の通信の75%がHTTPによるものになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": 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Silkなどが対応しているHTTP互換のプロトコルSPDYの人気が高まっていることに対応するために開発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "HTTP-over-QUIC(hq)としてIETFが開発していた新たな通信プロトコルが、HTTP/3へと改名される。 IETFが策定を進めているQUICはトランスポート層におけるプロトコルの名称であり、アプリケーション層プロトコルであるHTTP-over-QUICとの区別を明確にするため、このような名称変更に至った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "HTTP/2と比べ、多重化するストリームの取り扱いが下位層のQUICへ移行したこと、ヘッドオブラインブロッキング(英語版)を回避するためのヘッダ圧縮の変更(HTTP/3用にQPACKが開発されている)などの差異がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "他のプロトコル同様、クライアント側とサーバ側では役割が大きく異なる。HTTP通信を開始できるのはクライアント側のみである。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "クライアント側がサーバにリクエストを送り、サーバがクライアントにレスポンスを返すのが最も典型的なHTTPのやりとりである。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "システム間でメッセージをやりとりするには接続を確立させる必要がある。HTTP/0.9~HTTP/1.1およびHTTP/2ではTCPを使用する。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "HTTP/0.9ではクライアントのリクエストごとにTCP接続を確立させる必要があった。これは当時のWebサイトがシンプルなテキストベースであることが多かったためである。近年ではJavaScriptやアニメーション画像など、多数のオブジェクトが埋め込まれたWebサイトが一般的となってきており、これらのオブジェクトを取得するたびにTCP接続を確立するのはサーバやネットワークに大きな負担を強いるため、1回のTCP接続で、複数のHTTPリクエスト・レスポンスをやり取りする持続的接続がHTTP/1.0の拡張として導入された。その後、HTTP/1.1では、持続的接続がデフォルトとなった。すなわち、何も指定しなければ持続的接続となり、持続的接続を望まなければヘッダーフィールドにConnection: closeを追加する仕様となっている。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "クライアントは前のリクエストに対するサーバの応答を待たずに別のリクエストを発行できる。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "HTTPでは8つのメソッドが定義されている。ただし、実際のHTTP通信ではGETとPOSTメソッドが大部分を占める。", "title": "リクエストメソッド" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "HTTPの仕様以外で定義しているメソッドは、IANAのHypertext Transfer Protocol (HTTP) Method Registryで管理されている。WebDavで使用するものや、 RFC 5789 のPATCHメソッド(英語版)などがある。", "title": "リクエストメソッド" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1つのサーバーで複数のホスト名に対するHTTPリクエストを受け付ける機能である。", "title": "サーバの連携" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "インターネット人気に伴い多くの企業がWebサイトを持ち始めたが、当時はまだまだ企業が自前のWebサーバを運用するのは人員、効率の問題で難しく、ISPのサーバでホスティングをしていた。また、1社ごとに専用サーバを用意するほどのことでもないため、1台のサーバで複数のWebサイトを運用していた。", "title": "サーバの連携" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし、IPアドレスのみで相手を特定するHTTP/1.0はこれに対応できなかった。例えば、ある1台のサーバに foo.example.com と bar.example.com という2つの仮想Webサーバがあり、クライアントは http://foo.example.com/index.html にアクセスしたいとする。この場合はDNSサーバに foo.example.com のIPアドレスを問い合わせ、次にそのIPアドレスを使って該当サーバにアクセスし、GET index.html を要求することになる。しかし同じサーバ上にある bar.example.comもIPアドレスは同じであり、もし両方の仮想サーバに index.html というファイルが存在すれば、クライアントがどちらにアクセスしようとしているのか、判別できない。", "title": "サーバの連携" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "対策としてはそれぞれにIPアドレスを付与する方法もあるが、IPv4の資源を無駄にすることになる。この問題を解決するため、HTTP/1.1でHostヘッダーフィールドが追加され、名前ベースバーチャルホストが用いられるようになった。", "title": "サーバの連携" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "名前ベースバーチャルホストのため、以下のようにHTTPリクエストでホスト名を指定する。", "title": "サーバの連携" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "別のURIに対して再度のメソッド実行を要求する機能である。301 Movedや303 See Otherなどのリダイレクトを指示するステータスコードとURIを受け取り、クライアントはこのURIに再度メソッドを実行する。", "title": "サーバの連携" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "リクエストとレスポンスでやり取りされるデータは、HTTPメッセージと呼ばれる。クライアントからリクエストHTTPメッセージを送り、サーバーからレスポンスHTTPメッセージを返す。", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "HTTPメッセージは以下で構成される。", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なおHTTP/1.1では、コントロールデータをリクエスト行・ステータス行として表現し、コンテントを格納する部分をメッセージボディまたは単にボディと呼ぶ。", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ヘッダー・コンテント・トレイラーは空となる場合もある。", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "下にもっとも単純なクライアントとサーバ(www.google.co.jp:80)とのやり取りの例を挙げる。", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "クライアントのリクエスト:", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この例では、リクエスト行とヘッダーにフィールドが1項目あるのみで、ボディは空でトレーラーも無い。 リクエスト行はメソッド、リクエストターゲット、HTTPバージョンの3つの要素から構成され、それぞれスペースで区切られる。 メソッドはGET、リクエストターゲットは「/」、HTTPバージョンは1.1である。", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "GETはリソースを取得するためのメソッドであり、リクエストターゲットの「/」はURIのパス部分であってルートリソースを対象にしたリクエストであることを示している。", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "サーバのレスポンス:", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "先頭のステータス行はHTTPバージョン、ステータスコード、ステータスメッセージから構成される。 ステータスコードの「200」は処理の成功を表し、これを補足するメッセージが「OK」である。", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2行目以降にヘッダフィールドが続く。 さらに空行を挟んで、レスポンスボディとなる。 このレスポンスにもトレーラーは無い。", "title": "HTTPメッセージ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ヘッダの各要素は", "title": "HTTPヘッダフィールド" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "のペアで構成される。", "title": "HTTPヘッダフィールド" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ブラウザの情報を表すUser-Agent、使用候補言語を表すAccept-Language、他ページへのリンクを辿った場合にそのリンク元ページのURLを表すRefererなどが代表的なフィールドである。", "title": "HTTPヘッダフィールド" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお、リクエスト時のHostヘッダはHTTP/1.1では必須であるが、HTTP/1.0ではなくてもよい。 ただし、サーバがバーチャルホストを利用している場合は、Hostヘッダがないとリソース取得に失敗するので、たとえHTTP/1.0を使用していてもHostヘッダを付加しなければならない。", "title": "HTTPヘッダフィールド" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ステータスコードはサーバからのレスポンスで、リクエストの結果を通知する。3桁の数字から成り、おおまかな分類として、1xxは「情報」、2xxは「成功」、3xxは「リダイレクト」、4xxは「クライアントエラー」、5xxは「サーバエラー」を示す。", "title": "HTTPステータスコード" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "いくつかの観点でセキュリティに関する追加機能が存在する。", "title": "セキュリティ技術" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "セキュアな通信路でHTTP通信を行うことを通常HTTPSと言う。", "title": "セキュリティ技術" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "HTTPの中で認証を行う仕組みが用意されている。", "title": "セキュリティ技術" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "HTTP/1.1で定義されている最も単純なセキュリティ技術である。「基本認証を用いるくらいならなにも使わない方がまし」と主張する人もいる。平文で認証情報を送信する仕組みであるため、TLS (HTTPS)など安全を確保した通信路での利用が望ましい。通常サーバはステータスコード401で応答する。", "title": "セキュリティ技術" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "HTTPはIETFを始めとした標準化団体により規格化されている。以下はその一部である。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "歴史的には各バージョンが独立して規格化されてきた。しかし現行の3バージョン(v1.1, v2, v3)が共通のセマンティクスを維持していたことから、これを独立した規格とする活動が推進され現在の形になっている。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "HTTPSのほか、以下のようなHTTPのセマンティクスを利用するプロトコル、HTTPの構文を元とするプロトコルなどが存在する。以下はその一例である。", "title": "派生・拡張プロトコル" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なお、このようなHTTPの利用に関する文書として RFC 9205 Building Protocols with HTTP (BCP 56)が存在する。", "title": "派生・拡張プロトコル" } ]
Hypertext Transfer Protocol(ハイパーテキスト・トランスファー・プロトコル、HTTP)はアプリ間コネクション上のリクエスト/レスポンス型・ステートレス・メッセージ指向通信プロトコルである。
{{Infobox networking protocol |title = Hypertext Transfer Protocol |is stack = no |logo = HTTP logo.svg |logo size = 200px |purpose = [[ハイパーテキスト]]などの転送 |developer = {{unbulleted list | [[ティム・バーナーズ=リー]] | [[Internet Engineering Task Force]] (IETF) | [[World Wide Web Consortium]] (W3C) }} |date = {{Start date and age|1991}} |based on = |influenced = [[HTTP/2]]、[[HTTP/3]]、[[WebDAV]] |osilayer = [[アプリケーション層]] |ports = 80 |rfcs = * 共通: {{IETF RFC|9110}}, {{IETF RFC|9111}} * HTTP/1.1: {{IETF RFC|9112}} * HTTP/2: {{IETF RFC|9113}} * HTTP/3: {{IETF RFC|9114}} }} {{HTTP}}{{IPstack}} '''Hypertext Transfer Protocol'''([[ハイパーテキスト]]・トランスファー・プロトコル、'''HTTP''')はアプリ間コネクション上のリクエスト/レスポンス型・[[ステートレス・プロトコル|ステートレス]]・メッセージ指向[[通信プロトコル]]である<ref name=":0">"The Hypertext Transfer Protocol (HTTP) is a family of stateless, application-level, request/response protocols ... HTTP is a stateless request/response protocol for exchanging 'messages' across a connection." {{IETF RFC|9110}}.</ref>。 == 概要 == [[Transmission Control Protocol|TCP]]や[[QUIC]]はアプリケーション間のコネクション型通信を提供する。HTTPはこのコネクション上を、リソース要望と返答が、メッセージ単位で、1往復のクライアントリクエスト&サーバーレスポンスという形で通信される、と定めたプロトコルである<ref name=":0" />。 HTTPの発明により、[[インターネット]]上でのリソース公開とアクセスが容易になった。クライアントがサーバーとコネクションを確立し1つのHTTPメッセージを書いて送るだけで、サーバー上のリソースがHTTPメッセージとして帰ってくる。ゆえにHTTPで公開されるあらゆるリソースにHTTPという単一の手法でアクセスできるようになった。 HTTPを開発した理由でありかつ現在も広く利用される用途は[[World Wide Web]]である。[[Webサーバ]]と[[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]はHTTPで主に通信しており、ブラウザからのHTTPメッセージに応答してサーバーが[[HyperText Markup Language|HTML]]テキストや[[JavaScript]]コードを送り返し、これをブラウザで表示することでウェブが成立している。 またHTTPはメッセージ形式を定める。基本的な考え方は単純で「何を」「どうして」欲しいのかを伝える。例えばリクエストメッセージ <code>GET /apple.jpg</code> は「apple.jpg 画像を、手に入れたい」を意味する。[[URL]]が「何を」に、メソッドが「どうして」に当たる。 [[World Wide Web]]におけるWebページなどの[[リソース (WWW)|リソース]]は、[[Uniform Resource Identifier]]によって指定される。HTTP を使用してリソースにアクセスするときは、http: が先頭についた URL を使用する。下にURL の例を挙げる。 http://www.example.co.jp/~test/samples/index.html 最初の HTTP/0.9 ではURLを指定してコンテントをダウンロードするのみの簡単なやりとりだったが、HTTP/1.0 で改良された。 *リクエストのセマンティクスを指定する、様々なリクエストメソッドが追加された。POSTを使って、アップロード(クライアントからサーバへのデータの転送)が可能になった。 *[[Network News Transfer Protocol|NNTP]]や[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]のような各種ヘッダが定義され、[[HTTP cookie]]などの利用が可能になった。 HTTP/1.1 では複数データを効率よく転送するための持続的接続や、[[プロキシ]]の利用なども想定した仕様になった。さらに [[HTTP/2]]や[[HTTP/3]]が策定された。現在ではHTTPセマンティクスと各バージョンの手続きが分離して定義されている([[Hypertext Transfer Protocol#%E8%A6%8F%E6%A0%BC|#規格]]を参照)。 このほかの点を箇条書きで示す。 *[[Transmission Control Protocol|TCP]]の[[ポート番号]]80を[[デフォルト (コンピュータ)|デフォルト]]として使用する(HTTP/0.9〜1.1とHTTP/2の場合)。 *[[Transport Layer Security|TLS]]で暗号化され、セキュリティを確保したHTTPは、'''[[HTTPS]]'''と呼ばれる(httpsは実際には[[Uniform Resource Identifier|URI]]スキームの1つであり、実際のプロトコルには'''HTTP over SSL/TLS'''またはHTTP/3が用いられる)。 *HTTP は基本的にサーバが状態を保持しない (stateless) プロトコルだが、[[データベース]]などを使用する[[ウェブアプリケーション|Webアプリケーション]]においては状態保持が必要だったため、いわゆる [[HTTP cookie|Cookie]](クッキー)とよばれる機構が [[ネットスケープコミュニケーションズ|Netscape Communications Corporation]] によって導入された。Cookie を使用することによって状態を管理し、[[セッション (コンピュータ)|セッション]]を維持することが可能になる。 *行末文字はCRLFで、[[インターネット・プロトコル・スイート]]において[[アプリケーション層]]に属する他の多くのプロトコルと同じである(HTTP/0.9〜1.1の場合)。 ==歴史== [[イギリス]]の物理学者[[ティム・バーナーズ=リー]]は[[1990年]]末、[[ロバート・カイリュー]]と共に初のWebブラウザとWebサーバを作成した。ブラウザには通信をするためのプロトコルが必要だったので、二人はHTTPの最初期のバージョンを設計した。 以来インターネットの大部分をHTTP通信が占めるようになり、[[1998年]]にはインターネット上の通信の75%がHTTPによるものになった。 最初期のHTTP/0.9の仕様書は紙に印刷すれば1枚で済むような非常に簡素なドキュメントだったが、2度のバージョンアップを経たHTTP/1.1の仕様書は実に176ページ近くの分量に膨れあがった。 === HTTP/0.9 === [[1991年]]に最初にドキュメント化されたバージョン<ref>[https://www.w3.org/Protocols/HTTP/AsImplemented.html The HTTP Protocol As Implemented In W3]</ref>。メソッドは GET しかなかった。レスポンスは単純にドキュメントの内容を返してコネクションを切断するだけで、レスポンスコードの規定もない。下記は、HTTP/0.9 のリクエストの例。 GET /index.html === HTTP/1.0 === [[1996年]][[5月]]に {{IETF RFC|1945}} として発表された。仕様が RFC で扱われるようになった。メソッドに POST など GET 以外のものが増えた。レスポンスはヘッダーがつくようになり、ステータスコードを含めるようになった。HTTP/0.9 と区別するため、リクエストプロトコルにバージョンを含めることになった。 <dl> <dt>HTTP/1.0のリクエスト</dt> <dd> <syntaxhighlight lang="http"> GET /index.html HTTP/1.0 </syntaxhighlight> </dd> ===HTTP/1.1=== [[1997年]][[1月]]に {{IETF RFC|2068}} として初版が発表された。その後、3回改訂され、現在はセマンティクス・キャッシングを除く部分が<nowiki/>{{IETF RFC|9112}}<nowiki/>で規定されている。 [[バーチャルホスト|名前ベースバーチャルホスト]]のため、Hostヘッダーフィールドの規定が追加された。 <dt>HTTP/1.1のリクエスト</dt> <dd> <syntaxhighlight lang="http"> GET /index.html HTTP/1.1 Host: foo.example.com </syntaxhighlight> </dd> </dl> ===HTTP/2=== {{Main|HTTP/2}} HTTP/2の目標はHTTP/1.1のトランザクション・セマンティクスとの完全な後方互換性を維持したまま非同期な接続の[[多重化]]、ヘッダ[[データ圧縮|圧縮]]、リクエストとレスポンスの[[HTTPパイプライン|パイプライン化]]を実現することである。[[Google]]によって立ち上げられ<ref name="Sebastian">{{cite web|url=http://www.extremetech.com/computing/124153-sm-vs-spdy-microsoft-and-google-battle-over-the-future-of-http-2-0|title=S&M vs. SPDY: Microsoft and Google battle over the future of HTTP 2.0|date=2012-03-28|publisher=ExtremeTech|author=Sebastian Anthony|accessdate=2014-09-23}}</ref>、Googleのブラウザーである[[Google Chrome|Chrome]]だけではなく、他にも、[[Opera]]、[[Firefox]]、[[Amazon Silk]]などが対応しているHTTP互換のプロトコル[[SPDY]]の人気が高まっていることに対応するために開発された<ref>{{cite web|url=http://blog.restlet.com/2011/10/06/can-the-rise-of-spdy-threaten-http/|title=Can the rise of SPDY threaten HTTP?|date=2011-10-06|publisher=Restlet|author=Jerome Louvel|accessdate=2014-09-23}}</ref>。 ===HTTP/3=== {{Main|HTTP/3}} HTTP-over-QUIC(hq)として[[Internet Engineering Task Force|IETF]]が開発していた新たな[[通信プロトコル]]が、HTTP/3へと改名される。<ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20181113-http-3-quic/|title=Gigazine『UDPベースの「HTTP-over-QUIC」が新HTTPバージョン「HTTP/3」に名称変更される』|date=2018-11-14|publisher=GIGAZINE|accessdate=2018-11-14}}</ref> IETFが策定を進めている[[QUIC]]は[[トランスポート層]]におけるプロトコルの名称であり、アプリケーション層プロトコルであるHTTP-over-QUICとの区別を明確にするため、このような名称変更に至った。<ref>[https://github.com/quicwg/wg-materials/tree/master/ietf103 IETF Meetingの資料スライド]</ref> HTTP/2と比べ、多重化するストリームの取り扱いが下位層のQUICへ移行したこと<ref>{{Cite web|和書|date=2018-10-31 |url=https://asnokaze.hatenablog.com/entry/2018/10/31/020215 |title=QUICの話 (QUICプロトコルの簡単なまとめ) |website=ASnoKaze blog |accessdate=2019-05-12 |quote=後述のストリームの管理がQUICレイヤに移り、それにあわせフレームの変更やQUICストリームの利用方法の定義}}</ref>、{{仮リンク|ヘッドオブラインブロッキング|en|Head-of-line blocking}}を回避するためのヘッダ圧縮の変更(HTTP/3用にQPACKが開発されている)<ref>{{Cite web|和書|date=2018-10-31 |url=https://asnokaze.hatenablog.com/entry/2018/10/31/020215 |title=QUICの話 (QUICプロトコルの簡単なまとめ) |website=ASnoKaze blog |accessdate=2019-05-12 |quote=ヘッドオブラインブロッキング避けるために、HPACKをQUIC用に改良したQPACKを用いる}}</ref>などの差異がある。 {{Main2|[[Google]]が試験的に開発していたプロトコルについては「[[QUIC]]」を}} ==動作== ===通信の開始=== 他のプロトコル同様、クライアント側とサーバ側では役割が大きく異なる。HTTP通信を開始できるのはクライアント側のみである。 クライアント側がサーバにリクエストを送り、サーバがクライアントにレスポンスを返すのが最も典型的なHTTPのやりとりである。 ===接続=== システム間でメッセージをやりとりするには接続を確立させる必要がある。HTTP/0.9~HTTP/1.1およびHTTP/2ではTCPを使用する。 HTTP/0.9ではクライアントのリクエストごとにTCP接続を確立させる必要があった。これは当時のWebサイトがシンプルなテキストベースであることが多かったためである。近年ではJavaScriptやアニメーション画像など、多数のオブジェクトが埋め込まれたWebサイトが一般的となってきており、これらのオブジェクトを取得するたびにTCP接続を確立するのはサーバやネットワークに大きな負担を強いるため、1回のTCP接続で、複数のHTTPリクエスト・レスポンスをやり取りする持続的接続がHTTP/1.0の拡張として導入された。その後、HTTP/1.1では、持続的接続がデフォルトとなった。すなわち、何も指定しなければ持続的接続となり、持続的接続を望まなければヘッダーフィールドにConnection: closeを追加する仕様となっている。 {{main|HTTPの持続的接続}} ===パイプライン=== クライアントは前のリクエストに対するサーバの応答を待たずに別のリクエストを発行できる。 {{main|HTTPパイプライン}} ==リクエストメソッド== HTTPでは8つのメソッドが定義されている。ただし、実際のHTTP通信ではGETとPOSTメソッドが大部分を占める。 {|class="wikitable" |+ HTTPメソッドの一覧 !メソッド!!HTTP/0.9!!HTTP/1.0!!HTTP/1.1 |- |GET||○||○||○ |- |POST||||○||○ |- |PUT||||△||○ |- |HEAD||||○||○ |- |DELETE||||△||○ |- |OPTIONS||||||○ |- |TRACE||||||○ |- |CONNECT||||||○ |} ;GET :指定されたURIのリソースを取り出す。HTTPの最も基本的な動作で、HTTP/0.9では唯一のメソッド。 ;POST :{{See also|{{ill|POST (HTTP)|en|POST (HTTP)}}}} :GETとは反対にクライアントがサーバにデータを送信する。Webフォームや[[電子掲示板]]への投稿などで使用される。GETの場合と同じく、サーバはクライアントにデータを返すことができる。 ;PUT :指定したURIにリソースを保存する。URIが指し示すリソースが存在しない場合は、サーバはそのURIにリソースを作成する。画像のアップロードなどが代表的。 ;DELETE :指定したURIのリソースを削除する。 ;OPTIONS :サーバを調査する。例えば、サーバがサポートしているHTTPバージョンなどを知ることができる。 ;HEAD :GETと似ているが、サーバはHTTPヘッダのみ返す。クライアントはWebページを取得せずともそのWebページが存在するかどうかを知ることができる。例えばWebページのリンク先が生きているか、データを全て取得することなく検証することができる。 ;TRACE :サーバまでのネットワーク経路をチェックする。サーバは受け取ったメッセージのそれ自体をレスポンスのデータにコピーして応答する。WindowsのTracertやUNIXのTracerouteとよく似た動作。 ;CONNECT :TCPトンネルを接続する。暗号化したメッセージをプロキシサーバを経由して転送する際に用いる。当初、[[ネットスケープコミュニケーションズ]]によって考案されたものがIETFドラフト[https://tools.ietf.org/html/draft-luotonen-web-proxy-tunneling-01 Tunneling TCP based protocols through Web proxy servers]として公開され<ref>{{Cite web |year=2000 |month=5 |url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2817 |title={{IETF RFC|2817}} Upgrading to TLS Within HTTP/1.1 |accessdate=2019-04-26 |quote=The CONNECT method was originally described in a Work in Progress titled, "Tunneling TCP based protocols through Web proxy servers", by Ari Luotonen of Netscape Communications Corporation.}}</ref>、{{IETF RFC|2817}} に取り込まれた。その後、{{IETF RFC|7230}} で定義が更新されている<ref>{{Cite web |year=2014 |month=6 |url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc7230 |title={{IETF RFC|7230}} Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Message Syntax and Routing |accessdate=2019-04-26 |quote=This specification also updates the use of CONNECT to establish a tunnel, previously defined in {{IETF RFC|2817}}, and defines the "https" URI scheme that was described informally in {{IETF RFC|2818}}.}}</ref>。 HTTPの仕様以外で定義しているメソッドは、IANAのHypertext Transfer Protocol (HTTP) Method Registry<ref>[https://www.iana.org/assignments/http-methods/http-methods.xhtml Hypertext Transfer Protocol (HTTP) Method Registry]</ref>で管理されている。WebDavで使用するものや、 {{IETF RFC|5789}} の{{仮リンク|PATCHメソッド|en|Patch verb}}などがある。 ==サーバの連携== ===バーチャルホスト=== 1つのサーバーで複数のホスト名に対するHTTPリクエストを受け付ける機能である。 インターネット人気に伴い多くの企業がWebサイトを持ち始めたが、当時はまだまだ企業が自前のWebサーバを運用するのは人員、効率の問題で難しく、[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]のサーバでホスティングをしていた。また、1社ごとに専用サーバを用意するほどのことでもないため、1台のサーバで複数のWebサイトを運用していた。 しかし、IPアドレスのみで相手を特定するHTTP/1.0はこれに対応できなかった。例えば、ある1台のサーバに foo.example.com と bar.example.com という2つの[[バーチャルホスト|仮想Webサーバ]]があり、クライアントは <nowiki>http://foo.example.com/index.html</nowiki> にアクセスしたいとする。この場合はDNSサーバに foo.example.com のIPアドレスを問い合わせ、次にそのIPアドレスを使って該当サーバにアクセスし、GET index.html を要求することになる。しかし同じサーバ上にある bar.example.comもIPアドレスは同じであり、もし両方の仮想サーバに index.html というファイルが存在すれば、クライアントがどちらにアクセスしようとしているのか、判別できない。 対策としてはそれぞれにIPアドレスを付与する方法もあるが、IPv4の資源を無駄にすることになる。この問題を解決するため、HTTP/1.1でHostヘッダーフィールドが追加され、名前ベースバーチャルホストが用いられるようになった。 名前ベースバーチャルホストのため、以下のようにHTTPリクエストでホスト名を指定する。 * HTTP/1.1: Hostヘッダーフィールドでホスト名を指定する。 * HTTP/2およびHTTP/3: :authority疑似ヘッダーフィールドでホスト名を指定する。 ===リダイレクト=== {{See also|リダイレクト (HTTP)#HTTPリダイレクト}} 別のURIに対して再度のメソッド実行を要求する機能である。301 Movedや303 See Otherなどのリダイレクトを指示するステータスコードとURIを受け取り、クライアントはこのURIに再度メソッドを実行する。 ===クッキー=== {{Main|HTTP cookie}} ==HTTPメッセージ== リクエストとレスポンスでやり取りされるデータは、HTTPメッセージと呼ばれる。クライアントからリクエストHTTPメッセージを送り、サーバーからレスポンスHTTPメッセージを返す。 HTTPメッセージは以下で構成される<ref>{{IETF RFC|9110}}, 6. Message Abstraction</ref>。 * コントロールデータ * ヘッダー * コンテント * トレイラー なおHTTP/1.1では、コントロールデータをリクエスト行・ステータス行として表現し、コンテントを格納する部分をメッセージボディまたは単にボディと呼ぶ。 ヘッダー・コンテント・トレイラーは空となる場合もある。 下にもっとも単純なクライアントとサーバ(www.google.co.jp:80)とのやり取りの例を挙げる。 '''クライアントのリクエスト''': <syntaxhighlight lang="http"> GET / HTTP/1.1 Host: www.google.co.jp </syntaxhighlight> この例では、リクエスト行とヘッダーにフィールドが1項目あるのみで、ボディは空でトレーラーも無い。 リクエスト行はメソッド、リクエストターゲット、HTTPバージョンの3つの要素から構成され、それぞれスペースで区切られる。 メソッドは<code>GET</code>、リクエストターゲットは「/」、HTTPバージョンは1.1である。 <code>GET</code>はリソースを取得するためのメソッドであり、リクエストターゲットの「/」はURIのパス部分であってルートリソースを対象にしたリクエストであることを示している。 '''サーバのレスポンス''': <syntaxhighlight lang="http"> HTTP/1.1 200 OK Cache-Control: private Content-Type: text/html Set-Cookie: PREF=ID=72c1ca72230dea65:LD=ja:TM=1113132863:LM=1113132863:S=nNO7MIp W2o7Cqeu_; expires=Sun, 17-Jan-2038 19:14:07 GMT; path=/; domain=.google.co.jp Server: GWS/2.1 Date: Sun, 10 Apr 2005 11:34:23 GMT Connection: Close <html><head><meta http-equiv="content-type" content="text/html; charset=Shift_JI S"><title>Google</title><style><!--  ……以下省略 --> </syntaxhighlight> 先頭のステータス行はHTTPバージョン、ステータスコード、ステータスメッセージから構成される。 ステータスコードの「200」は処理の成功を表し、これを補足するメッセージが「OK」である。 2行目以降にヘッダフィールドが続く。 さらに空行を挟んで、レスポンスボディとなる。 このレスポンスにもトレーラーは無い。 ==HTTPヘッダフィールド== ヘッダの各要素は<pre>フィールド名: 内容</pre>のペアで構成される。 ブラウザの情報を表す<code>User-Agent</code>、使用候補言語を表す<code>Accept-Language</code>、他ページへのリンクを辿った場合にそのリンク元ページの[[Uniform Resource Locator|URL]]を表す<code>Referer</code>などが代表的なフィールドである。 なお、リクエスト時の<code>Host</code>ヘッダはHTTP/1.1では必須であるが、HTTP/1.0ではなくてもよい。 ただし、サーバが[[バーチャルホスト]]を利用している場合は、<code>Host</code>ヘッダがないとリソース取得に失敗するので、たとえHTTP/1.0を使用していても<code>Host</code>ヘッダを付加しなければならない。 ===HTTPヘッダフィールドの一覧=== {|class="wikitable" |+ リクエストヘッダ !ヘッダ!!概要!!HTTP/0.9!!HTTP/1.0!!HTTP/1.1 |- |Accept||クライアントの受け入れ可能コンテンツタイプを示す||||○||○ |- |Accept-Charset||クライアントの受け入れ可能文字セットを示す||||○||○ |- |Accept-Encoding||クライアントの受け入れ可能文字エンコーディングを示す||||○||○ |- |Accept-Language||クライアントの受け入れ可能言語を示す||||○||○ |- |Authorization||クライアントの認証情報を示す||||○||○ |- |[[HTTP cookie|Cookie]]||クライアントの状態管理情報をサーバに返す|||||| |- |Cookie2||HTTP/1.1のSet-Cookie2ヘッダの受け入れ可能をサーバに知らせる|||||| |- |Expect||クライアントがサーバに期待する動作を示す||||||○ |- |From||リクエスト発行者個人の情報を示す。一般的に電子メールアドレスを使用する||||○||○ |- |Host||要求しているオブジェクトがあるホストを示す||||||○ |- |If-Match||[[if文]]を用い条件が真の場合のみリクエストを処理するようサーバに要求する||||||○ |- |If-None-Match||If-Matchの逆で条件が真でない場合のみリクエストを処理する要求||||||○ |- |If-Range||条件が真の場合のみ指定したオブジェクトの範囲を返すようサーバに要求する||||||○ |- |If-Modified-Since||指定日時以降にオブジェクトが変更されている場合のみリクエストを処理するよう要求する||||○||○ |- |If-Unmodified-Since||If-Modified-Sinceの逆で真でないときのみ実行する||||||○ |- |Max-Forwards||リクエストの中間システム経由数を最大いくつまでかを指定する||||||○ |- |Proxy-Authorization||クライアントがプロキシサーバに対して自身の認証を行う||||||○ |- |Range||オブジェクト全体でなくリソースの一部を要求する||||||○ |- |[[HTTPリファラ|Referer]]||リクエストの出所を示す。一般的にはユーザの辿ったWebページのURLが用いられる||||○||○ |- |TE||レスポンスの受け入れ可能転送エンコーディングを示す||||||○ |- |[[ユーザーエージェント|User-Agent]]||クライアントのWebブラウザなどの情報を示す||||○||○ |} {|class="wikitable" |+ レスポンスヘッダ !ヘッダ!!概要!!HTTP/0.9!!HTTP/1.0!!HTTP/1.1 |- |Accept-Ranges||オブジェクトの一部に対するリクエストをサーバが受け入れ可能か示す||||||○ |- |Age||オブジェクトの経過時間を秒単位で返す||||||○ |- |[[HTTP ETag|ETag]]||オブジェクトのエンティティタグ値を示す||||||○ |- |Location||オブジェクトの場所を示す||||○||○ |- |Proxy-Authenticate||プロキシサーバがクライアントに認証を要求するときに用いる||||||○ |- |Retry-After||リクエストの再試行をいつ行うかをクライアントに通知する||||○||○ |- |Server||サーバのベンダー名、バージョン番号を示す||||○||○ |- |Set-Cookie2||サーバがクライアントにCookieを送信するときに用いる|||||| |- |Vary||サーバがレスポンス内容を決定する際にリクエストURI以外に用いたヘッダのリストを示す||||||○ |- |WWW-Authenticate||クライアントに対してリクエストの再発行を要求する。認証情報も含まれる||||○||○ |} {|class="wikitable" |+ 一般ヘッダ !ヘッダ!!概要!!HTTP/0.9!!HTTP/1.0!!HTTP/1.1 |- |Cache-Control||メッセージの経由する中間キャッシュの動作を指示する||||||○ |- |Connection||当該の接続に対するオプションを指示する||||||○ |- |Date||メッセージの作成日時を示す||||○||○ |- |Pragma||メッセージに関する追加情報を示す||||○||○ |- |Trailer||メッセージボディの後に追加のヘッダーが表れることを示す||||||○ |- |Transfer-Encoding||クライアントの転送を目的としたオブジェクトのエンコーディングを示す||||||○ |- |Upgrade||通信相手に別のプロトコルにアップデートするよう要求する||||||○ |- |Via||プロキシサーバなど中継地点を示す。||||||○ |- |Warning||メッセージに関する追加情報を示す。通常はキャッシュの問題を警告するときに使われる||||||○ |} {|class="wikitable" |+ エンティティヘッダ !ヘッダ!!概要!!HTTP/0.9!!HTTP/1.0!!HTTP/1.1 |- |Allow||オブジェクトがサポートするHTTPメソッドを示す||||○||○ |- |Content-Encoding||オブジェクトのエンコーディングを示す||||○||○ |- |Content-Language||オブジェクトの言語(人間の言語)を示す||||○||○ |- |Content-Length||オブジェクトのサイズをバイト単位で示す||||○||○ |- |Content-Location||オブジェクトの場所を示す||||||○ |- |Content-MD5||オブジェクトのメッセージダイジェストを運ぶ||||||△ |- |Content-Range||メッセージボディで運ばれるオブジェクトの範囲を示す||||||○ |- |Content-Type||オブジェクトのタイプを示す||||○||○ |- |Expires||オブジェクトの有効期限の日時を示す||||○||○ |- |Last-Modified||オブジェクトが最後に変更された日時を示す||||○||○ |} ;Accept :サーバのレスポンスに含まれるメッセージボディで受け入れることが出来る[[メディアタイプ|コンテンツタイプ]]と各コンテンツタイプの相対的な優先度を指定するリクエストヘッダ。指定できるコンテンツタイプは[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]によって定義されている。 <syntaxhighlight lang="http"> Accept: text/plain; q=0.5, text/html, text/x-dvi; q=0.8, text/x-c </syntaxhighlight> :上記のようにAcceptヘッダには行をわけて複数のコンテンツタイプを指定できる。上記の例はいずれの4のコンテンツタイプのいずれも受け入れ可能であることを示す。0.5や0.8といった数字は品質係数で0〜1の範囲の数値である。数値の指定がなければ1.0となる。 :*text/plain; q=0.5 :*text/html :*text/x-dvi; q=0.8 :*text/x-c ;Accept-Charset :レスポンスで返されるメッセージボディの[[文字コード]]を指定するリクエストヘッダ。Acceptと同じく複数指定でき品質係数も設定できる。定義済み文字セットはIANAが管理している。 <pre> Accept-Charset: UTF-8, *; q=0.8 </pre> :この例だとクライアントは[[UTF-8]]を優先的に希望しているが他の文字セットとの相対優先度0.8で受け入れている。ただしサーバからのレスポンスのHTTPヘッダそのものの文字コードは常にISO-8859-1である。 ;Accept-Encoding :クライアントが受信できるメッセージボディのエンコーディングを指定する。 <pre> Accept-Encoding: gzip, deflate </pre> :この例ではクライアントは[[gzip]]、または[[zlib]]フォーマットに対応している。ただし必ずしもここで指定されたエンコーディングでメッセージボディが返ってくるとは限らない。 :Accept-Encodingで指定可能なエンコーディングは、IANAがHTTP Content Coding Registryとして管理されている<ref>[https://www.iana.org/assignments/http-parameters/http-parameters.xhtml#content-coding HTTP Content Coding Registry]</ref>。 ;Accept-Language :レスポンスの言語(人間の言語)に対する優先度を指定する。言語の指定には[[IETF言語タグ]]を用いる。書き方は他のAccept-群と変わらず。 <pre> Accept-Language: en-gb, en; q=0.8 </pre> :上記の例はまず[[イギリス英語]]を要求し、利用できない場合はその他の英語を要求する。 ;Accept-Ranges :Acceptで始まる他のヘッダフィールドと違いレスポンスヘッダである。現在の仕様では2つの指定方法しかない。 ;Age :リソースの推定経過時間を表示するレスポンスヘッダ。キャッシュサーバーはAgeヘッダの値からキャッシュしたリソースが有効かどうかを判定する。 ;Allow : ;Authentication-info :ユーザ認証のやりとりの最後で用いられる、成功したレスポンスのサーバが含めることの出来るレスポンスヘッダ。 ;Authorization :サーバに対するクライアント自身の認証を行うことが出来る。 ;Cache-Control :キャッシングの動作を指定するためのマスターヘッダ。 ;Connection :接続に対するオプションを指定する。その値には以下が使用される。 :;keep-alive ::[[HTTPの持続的接続|持続的接続]]を行う。 :;close ::持続的接続を行わない。 :;upgrade ::他のプロトコルへのアップグレードを希望する。 ;Content-Encoding : ;Content-Language :リソースの表現に用いられる言語の明示に使われる。言語の指定はAccept-Languageヘッダと同じ。 ;Content-Length : ;Content-Location : ;Content-MD5 :メッセージボディが変更されず宛先に届いたことの保証に用いる。[[MD5]]によるハッシュ値をヘッダー値に記載する。ただし悪意の改ざんに対しては当然MD5も改ざんされるのであまり機能はしない。どちらかといえば偶発的な変化が生じていないことの保証をしている<ref>{{Cite web |author= |date=October 1995 |url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc1864 |title={{IETF RFC|1864}} The Content-MD5 Header Field |publisher=[[Internet Engineering Task Force]] |accessdate=2021-01-30 |language=en |quote=This document specifies a data integrity service that protects data from accidental modification while in transit from the sender to the recipient.}}</ref>。{{IETF RFC|7231}}<nowiki></nowiki>で廃止された<ref>{{Cite web |author= |date=June 2014 |url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc7231 |title={{IETF RFC|7231}} Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Semantics and Content |publisher=[[Internet Engineering Task Force]] |accessdate=2021-01-30 |language=en |quote=The Content-MD5 header field has been removed because it was inconsistently implemented with respect to partial responses.}}</ref>。 ;Content-Range :ダウンロードの再開に用いられる。 ;Content-Type {{See also|メディアタイプ}} :メッセージボディに含まれるオブジェクトタイプを示す。次の例はリソースがテキストファイル、文字セットはISO-8859-4を使用していることを示している。 <pre> Content-Type: text/plain; Charset=ISO-8859-4 </pre> ;Cookie :{{Main|HTTP cookie}} :クライアントがHTTP状態管理を望む場合にサーバから受け取ったクッキーを以後のリクエストに次の例のようなヘッダを付加する。 <pre> Cookie: $Version="1"; NAME="VALUE"; $Path="/shopping"; $domain="www.shop.com"+ $Port="80" </pre> :$VersionはHTTPのバージョン、NAMEはクッキーの名前である。$から始まるクッキー名は使用が禁止されている。 ;Cookie2 :基本的にCookieヘッダとCookie2ヘッダは別物である。 ;Date :サーバがメッセージを生成した日時を示す。リソースの更新日時を示すLast-Modifiedヘッダとは別である。 :HTTP/1.1では次のような形式を用いる。これは{{IETF RFC|7231}}の7.1.1.1. Date/Time Formatsで定義されている。HTTP/1.1の以前の版である{{IETF RFC|2616}}では、日時の形式の定義に{{IETF RFC|1123}}を参照していた(内容は同等である)。 <pre> Date: Sun, 06, Nov 1994 08:49:37 GMT </pre> :HTTP仕様ではレスポンスに<code>Date</code>ヘッダを含めることを求めている。ただしレスポンスのステータスがサーバエラーの場合には<code>Date</code>ヘッダは返らない。 ;[[HTTP ETag|ETag]] :主にキャッシングのパフォーマンスを向上する目的で使われる。 ;Expect :サーバに対して特定の動作の期待を知らせる。用途としてはクライアントがサーバに対して''100 Continue''ステータスを返すことを期待する場合に使われる。 <pre> Expect: 100-continue </pre> :サーバが期待に応じられない場合は''417 Expectation Failed''を返す。クライアントがいくつかのプロキシ経由で通信している場合、各プロキシサーバはExpectヘッダの一切の修正を許されない。 ;Expires :オブジェクトの有効期限を示す。このヘッダで指定された日時までキャッシュはレスポンスのコピーを保持し、リクエストに対するレスポンスとして返すことができる。サーバがオブジェクトのキャッシュを望まない場合には<code>Expires</code>ヘッダに過去の日時を設定することが多い。仕様では1年以上先の日時は設定できない。 <pre> Expires: Thu, 28 Aug 2010 16:00:00 GMT </pre> :<code>Cache-Control</code>ヘッダの<code>max-age</code>ディレクティブは<code>Expires</code>ヘッダより優先されるため注意が必要である。 ;From :リクエストを発行したユーザを特定することが出来る。1990年代では電子メールアドレスを設定することが多かったが、[[スパム (メール)|迷惑メール]]の問題もあり現在では殆ど使われていない。 <pre> From: [email protected] </pre> ;Host :主にレンタルサーバのサポートを目的としてHTTP/1.1で導入された。現在ではHostヘッダを利用できない場合、レンタルサーバのWebサイトとまともな通信ができないと言ってよい(詳細は[[HTTP#HTTP.2F1.1|HTTP#歴史]]を参照)。 ;If-Match :ETagが一致した場合のみ、メソッドを実行するようにサーバに要求する。例えばウィキペディアを編集する際、記事のソースを取得し、書き換える際の間に別のユーザが既に編集していないかを判断するときなどに用いられる。{{See also|if文}} #利用者:AがHTTPの記事を取得。<code>ETag</code>は1234。 #利用者:BがHTTPの記事を取得。<code>ETag</code>は1234。 #利用者:AがHTTPの<code>ETag</code>を再度取得。先ほど取得した<code>ETag: 1234</code>と現在の<code>ETag: 1234</code>が一致。 #利用者:AがHTTPの記事を編集。<code>ETag</code>は1256になる。 #利用者:BがHTTPのETagを再度取得。先ほど取得した<code>ETag</code>と現在のETagはマッチせず。 #サーバは利用者:Bの書き込みを拒否。 ;If-Modified-Since :指定日時以降にオブジェクトが変更されている場合のみ、メソッドを実行するようにサーバに要求する。通信量の削減に効果がある。 ;If-None-Match :<code>If-Match</code>の逆で、ETagが一致しない場合のみの実行を要求する。 ;If-Range :クライアントがキャッシュにオブジェクトの一部分を持っている場合にパフォーマンスを向上できる。 ;If-Unmodified-Since :<code>If-Modified-Since</code>の逆で、指定時刻以降に変更がない場合のみの実行を要求する。 ;Last-Modified :レスポンスでオブジェクトの最終更新日時を示す。リクエスト時の<code>If-Modified-Since</code>ヘッダと組み合わせることで、効率的な通信が可能になる。 ;Location :サーバがクライアントにリダイレクト先URLを知らせる際に用いられる。一般的にステータスコードが3xx代のレスポンスと共に使われるが''201 Created''のレスポンスでも使うことができる。<code>Content-Location</code>ヘッダと名前が似ているが全く関係のない別のヘッダであるため注意。 ;Max-Forwards :プロキシサーバなどを経由する際の最大ホップ数を指定する。二重ループなどでサーバから応答が得られない場合の問題解決の際、<code>OPTION</code>メソッドや<code>TRACE</code>メソッドと共に用いられる。 ==HTTPステータスコード== ステータスコードはサーバからのレスポンスで、リクエストの結果を通知する。3桁の数字から成り、おおまかな分類として、1xxは「情報」、2xxは「成功」、3xxは「リダイレクト」、4xxは「クライアントエラー」、5xxは「サーバエラー」を示す。 {{Main|HTTPステータスコード}} ==セキュリティ技術== いくつかの観点でセキュリティに関する追加機能が存在する。 ===HTTPS=== {{Main|HTTPS}} セキュアな通信路でHTTP通信を行うことを通常HTTPSと言う。 ===HTTP認証=== {{Main|HTTP認証}} HTTPの中で認証を行う仕組みが用意されている。 ====Basic認証==== HTTP/1.1で定義されている最も単純なセキュリティ技術である。「基本認証を用いるくらいならなにも使わない方がまし」と主張する人もいる<ref>『HTTPプロトコル―セキュア&スケーラブルなWeb開発』 Stephen Thomas 著、葛西 重夫 訳、ソフトバンクパブリッシング{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref>。[[平文]]で認証情報を送信する仕組みであるため、TLS (HTTPS)など安全を確保した通信路での利用が望ましい。通常サーバはステータスコード401で応答する。 {{Main|Basic認証}} ====Digest認証==== {{Main|Digest認証}} == 規格 == HTTPは[[IETF]]を始めとした標準化団体により規格化されている。以下はその一部である。 {| class="wikitable" |+ ! !セマンティクス !キャッシュ !手続き |- |HTTP/1.1 | rowspan="3" |{{IETF RFC|9110}} | rowspan="3" |{{IETF RFC|9111}} |{{IETF RFC|9112}} |- |HTTP/2 |{{IETF RFC|9113}} |- |HTTP/3 |{{IETF RFC|9114}} |} 歴史的には各バージョンが独立して規格化されてきた。しかし現行の3バージョン(v1.1, v2, v3)が共通のセマンティクスを維持していたことから、これを独立した規格とする活動が推進され現在の形になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nic.ad.jp/ja/mailmagazine/backnumber/2018/vol1647.html |title=<nowiki>JPNIC News & Views vol.1647【臨時号】第103回IETF報告 [第4弾] トランスポートエリア関連報告 ~HTTP over QUICからHTTP/3への改称~</nowiki> |website=[[日本ネットワークインフォメーションセンター]] |date=2018-12-13 |accessdate=2021-06-28}}</ref>。 == 派生・拡張プロトコル == HTTPSのほか、以下のようなHTTPのセマンティクスを利用するプロトコル、HTTPの構文を元とするプロトコルなどが存在する。以下はその一例である。 *[[WebDAV]]: HTTP上でファイル転送を実現するプロトコル。 *[[WebSocket]]: 双方向通信プロトコル。 *[[Internet Printing Protocol]] (IPP): プリンタの制御と印刷データの伝送を行うプロトコル。 *[[Universal Plug and Play|UPnP]]では、HTTPをUDP上で使用するHTTPUや、[[マルチキャスト]]で使用する'''HTTPMU'''が規定された。 *[[Hyper Text Coffee Pot Control Protocol]] (HTCPCP): エイプリルフールのジョーク。コーヒーポットの制御機能を有するプロトコル。 なお、このようなHTTPの利用に関する文書として {{IETF RFC|9205}} Building Protocols with HTTP (BCP 56)が存在する。 == 関連項目 == {{Wiktionary pipe|HTTP}} * [[HTTP/2]] * [[HTTPステータスコード]] * [[File Transfer Protocol|FTP]] * [[WebDAV]] * [[Webサーバ]] * [[ウェブブラウザ]] * [[アプリケーションサーバ]] * [[Representational State Transfer]] (REST) * [[HTTPヘッダ・インジェクション]] * [[Hyper Text Coffee Pot Control Protocol]] * [[バーチャルホスト]] == 参照 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * {{IETF RFC|9110}} - HTTP Semantics * {{IETF RFC|9111}} - HTTP Caching * {{IETF RFC|9112}} - HTTP/1.1 * {{IETF RFC|9113}} - HTTP/2 * {{IETF RFC|9114}} - HTTP/3 * {{IETF RFC|9205}} - Building Protocols with HTTP ** [https://triple-underscore.github.io/http-app-bcp-ja.html HTTP に基づくプロトコルの築き方](非公式な日本語訳) 以下は旧式であり非推奨となった仕様 * {{IETF RFC|7540}} - Hypertext Transfer Protocol Version 2 (HTTP/2) ** [https://summerwind.jp/docs/rfc7540/ RFC7540 日本語訳](非公式) * {{IETF RFC|7230}} - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Message Syntax and Routing ** [https://triple-underscore.github.io/RFC7230-ja.html RFC 7230 — HTTP/1.1: Message Syntax and Routing (日本語訳)](非公式) * {{IETF RFC|7231}} - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Semantics and Content ** [https://triple-underscore.github.io/RFC7231-ja.html RFC 7231 — HTTP/1.1: Semantics and Content (日本語訳)](非公式) * {{IETF RFC|7232}} - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Conditional Requests ** [https://triple-underscore.github.io/RFC7232-ja.html RFC 7232 — HTTP/1.1: Conditional Requests(日本語訳)](非公式) * {{IETF RFC|7233}} - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Range Requests ** [https://triple-underscore.github.io/RFC7233-ja.html RFC 7233 — HTTP/1.1: Range Requests (日本語訳)](非公式) * {{IETF RFC|7234}} - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Caching ** [https://triple-underscore.github.io/RFC7234-ja.html RFC 7234 — HTTP/1.1: Caching (日本語訳)](非公式) * {{IETF RFC|7235}} - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Authentication ** [https://triple-underscore.github.io/RFC7235-ja.html RFC 7235 — HTTP/1.1: Authentication (日本語訳)](非公式) * {{IETF RFC|2818}} - HTTP Over TLS ** [https://www.nic.ad.jp/ja/tech/ipa/RFC2818JA.html HTTP Over TLS]([[情報処理推進機構|IPA]]による非公式な日本語訳) * {{IETF RFC|2817}} - Upgrading to TLS Within HTTP/1.1 * {{IETF RFC|2616}} - HTTP/1.1({{IETF RFC|2068}}<nowiki/>の改訂版,{{IETF RFC|7230}} から {{IETF RFC|7235}} によって obsolete) ** [https://triple-underscore.github.io/RFC2616-ja.html ハイパーテキスト転送プロトコル -- HTTP/1.1] * {{IETF RFC|2068}} - HTTP/1.1(初版,{{IETF RFC|2616}} によって obsolete) ** [http://www.y-adagio.com/public/standards/tr_http11_2068/toc.htm TS X 0085:2004] - ハイパテキスト転送プロトコル HTTP/1.1 日本標準仕様書(TS X 0085:2004) * {{IETF RFC|1945}} - HTTP/1.0 * [https://www.w3.org/Protocols/HTTP/AsImplemented.html The HTTP Protocol As Implemented In W3] - HTTP/0.9 その他 * {{Kotobank|HTTP}} {{Semantic Web}} {{URI scheme}} {{Web interfaces}} {{Normdaten}} [[Category:RFC|7230]] [[Category:Hypertext Transfer Protocol|*]] [[Category:ティム・バーナーズ=リー]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Hypertext_Transfer_Protocol
1,445
File Transfer Protocol
File Transfer Protocol(ファイル・トランスファー・プロトコル、FTP、ファイル転送プロトコル)は、コンピュータネットワーク上のクライアントとサーバの間でファイル転送を行うための通信プロトコルの一つである。 インターネットでSSL/TLSプロトコルを用いたHTTPS通信が主流になるまで使用されていた通信プロトコルの1つである。FTPはクライアントサーバモデルのアーキテクチャとして設計されており、クライアントとサーバの間で制御用とデータ転送用の2つの別のコネクションを使用する。 FTPでは、認証のためのユーザ名・パスワードや転送データは暗号化されず、平文でやり取りされる。そのため現在では、FTPの通信をSSL/TLSにより保護したFTPSや、SSHの仕組みを利用したSSH File Transfer Protocol(SFTP)などの代替のプロトコルに置き換えられている。 用途としては アップロードやダウンロードについては「FTPクライアントソフト」と呼ばれるソフトウェアで行う。多くのOSにはCUIコマンドで操作するクライアントが付属している。また、GUIで操作できるソフトウェアやホームページ作成ソフトに内蔵されている。 ダウンロードについては、かつて多くのブラウザソフトにダウンロードに特化したFTPクライアントソフトの機能が実装されていたが、2020年代初頭に多くのブラウザがサポートを打ち切った 。 初期のFTPクライアントは、OSがGUIを持っていなかった時期に開発されたコマンドラインプログラムであり、今でもほとんどのOSに同梱されている。多くのFTPクライアントや自動化ユーティリティが開発されており、また、HTMLエディタなどの生産性アプリケーションにも組み込まれてきた。 FTPの元の仕様はアバイ・ブーシャンによって書かれ、1971年4月16日にRFC 114として公開された。1980年まで、FTPはTCP/IPの前身であるNCPで実行されていた。RFC 765(1980年6月)とRFC 959(1985年10月)によりFTPはTCP/IP上で動くバージョンに修正され、これが現行のFTPの仕様の元となっている。その後、RFC 1579(1994年2月)でファイアウォール内からでも使用できるパッシブモードが追加され、RFC 2228(1997年6月)ではセキュリティ拡張が提案された。RFC 2428(1998年9月)ではIPv6に対応し、新しい種類のパッシブモードが定義された。 FTPの動作モードには、データ転送用コネクションの確立方法の違いによりアクティブモード(active mode)とパッシブモード(passive mode)がある。どちらの場合でも、データ転送用コネクションとは別に制御用コネクションを使用する。制御用コネクションは、クライアント側が、特権付きでないランダムなポート番号Nから、サーバのポート21へのTCPのコネクションとして確立する。 1998年9月に、両方のモードはIPv6に対応するために更新され、パッシブモードには変更が加えられて拡張パッシブモード(extended passive mode)となった。 サーバは、制御用コネクションを介してASCIIの3桁の数字のステータスコードで応答する。ステータスコードにはテキストによるメッセージがつくことがある。例えば、"200"(または "200 OK")は、最後のコマンドが成功したことを意味する。数字は応答のコードを表し、追加のテキストは人間が読める説明または要求を表す。データ転送用コネクションを介したファイルデータの転送中、制御用コネクションを介して割り込みメッセージを送信することによって転送を中止することができる。 データ転送には以下の4つのデータ表現が利用できる。 データ転送は以下の3つのモードのいずれかで行うことができる。 FTPソフトウェアの中には、「モードZ」と呼ばれるDeflateを使用した圧縮モードを実装しているものがある。このモードはインターネットドラフトに記載されているが、標準化はされていない。 FTPログインは、アクセスを許可するために通常のユーザ名とパスワードのスキームを使用する。ユーザ名はUSERコマンドを使用してサーバに送信され、パスワードはPASSコマンドを使用して送信される。この一連のやり取りは暗号化されていないため、盗聴攻撃(英語版)に対して脆弱である。クライアントから提供された情報がサーバによって受け入れられた場合、サーバはクライアントにグリーティングを送信し、セッションが開始される。 FTPサービスを提供するホストは、専らファイル(主に無償のフリーソフトなど)を配布する目的で、匿名でアクセスできるAnonymousアクセスを提供することができる。この場合でも形式上認証が必要であり、ユーザ名として"anonymous"または"ftp"を指定する。パスワードは通常何でもよいが、配布したソフトに瑕疵があった場合などにサーバ管理者が連絡をとることができるよう、ユーザの電子メールアドレスを指定するのがマナー(ネチケット)とされてきた(メールアドレスのドメインがクライアントのIPアドレスの逆引きなどから明らかな場合は、"foo@"のようにドメインを省略することも多い)。サーバによっては、パスワードがメールアドレスの形式を満たさないと利用できないこともある。しかし、近年ではスパム(迷惑メール)などの問題により、むやみにメールアドレスを公開しない風潮が高まっていることから、このマナーは廃れつつある。 FTPは通常、クライアントがPORTコマンドを送信し、サーバがクライアントの通知されたポートに接続することによってデータを転送する。これは、インターネット側から内部ホストへの接続を許可しないNATやファイアウォールにおいて問題となる。NATの場合、PORTコマンドで通知するIPアドレスとポート番号は、NATによる変換後のものではなく、変換前のものとなる。 この問題を解決するには2つの方法がある。1つは、PASVコマンドを使用してパッシブモードに移行する方法である。これにより、FTPクライアント側からサーバへデータ転送用コネクションが確立される。これは現代のFTPクライアントにおいて広く使われている。もう1つは、NATがアプリケーション・ゲートウェイ(英語版)を使用してPORTコマンドの値を書き換える方法である。 FTPでは、Webページでよく見られるような多くの小さな一時的な転送に使用するのが不便であり、HTTPではそれを修正している。 FTPには、現在の作業ディレクトリと他のフラグを保持するステートフルな制御用コネクションがあり、転送するファイルごとに、データを転送するための別のコネクションを必要とする。パッシブモードでは、この別のコネクションはクライアントからサーバへの接続であるが、デフォルトのアクティブモードでは、このコネクションはサーバからクライアントへの接続である。アクティブモードにおけるこの役割の逆転、および全ての転送において使用されるポート番号がランダムであることが、ファイアウォールやNATゲートウェイを通してFTPを使用することを困難にしている。HTTPはステートレスであり、クライアントからサーバへの、Well-knownなポート番号による単一のコネクションを介して、制御とデータを多重化する。これにより、NATゲートウェイやファイアウォールの通過が簡単になる。 FTPの制御用コネクションの設定は、必要な全てのコマンドを送信して応答を待つまでに往復遅延があるため、非常に遅くなる。そのため、毎回セッションを破棄して再確立するのではなく、制御用コネクションを確立した後、それを複数のファイル転送のために開いたままにするのが一般的である。これとは対照的に、HTTPはその方が安価であるため、元々転送ごとにコネクションを切断していた。その後、HTTPには複数の転送に1つのTCP接続を再利用する機能が追加されたが、概念モデルとしてはセッションではなく独立した要求である。 FTPがデータ用コネクションを介して転送している間、制御用コネクションはアイドル状態である。転送に時間がかかりすぎると、ファイアウォールやNATは制御用コネクションが無効であると判断してそれを追跡しなくなり、事実上接続が切断されてしまう。HTTP接続においてはアイドル状態となるのは要求と要求の間のみであり、タイムアウトした後にコネクションがドロップされるのは正常で、予期されたものである。 かつてはほとんどの一般的なWebブラウザは、FTPサーバに格納されているファイルを取得することができた。しかし2020年以降主要ブラウザはあいついでFTPサポートを廃止した。 FTPは、インターネット初期から存在する古いプロトコルであり、セキュア(安全)なプロトコルとして設計されていない。ユーザ名やパスワードなどの認証情報を含むすべての通信内容を暗号化せずに転送するなどの問題の他、数多くのセキュリティ脆弱性が指摘されている。RFC 2577(1999年5月)では、以下の脆弱性が列挙されている。 FTPは通信内容を暗号化できない。全ての送信は平文で行われるため、通信経路上でパケットをキャプチャすることで、ユーザ名・パスワード・コマンド・データといった情報を容易に盗聴できる。この問題は、TLS/SSLなどの暗号化メカニズムが開発される前に設計された他のインターネットプロトコル仕様(SMTP、Telnet、POP、IMAPなど)でも同様である。 この問題に対する一般的な解決策は、次の通りである。 FTPは、Gumblarなどのコンピュータウイルスの標的にもされた。そのため、現在では、FTPではなく前述の FTPS (SSL/TLSを使ったFTP) や SFTP (SSH File Transfer Protocol)、SCP、SSH上でのrsync、など暗号化された手法を用いることが強く推奨される。 FTP over SSHは、Secure Shell接続を介して通常のFTPセッションをトンネリングする方法である。FTPは複数のTCP接続を使用するため、SSHを介してトンネリングすることは特に困難である。多くのSSHクライアントでは、制御チャネル(ポート21による最初のクライアントとサーバの間の接続)用にトンネルを設定しようとすると、そのチャネルだけが保護される。データを転送するときは新しいTCP接続(データチャネル)を確立するため、機密性や完全性の保護はない。 そのため、SSHクライアントソフトウェアがFTPプロトコルの情報を持ち、FTP制御チャネルのメッセージを監視して書き換え、FTPデータチャネルのための新しいパケット転送を自律的に開く必要がある。 明示的FTPS(Explicit FTPS)は、クライアントがFTPセッションの暗号化を要求できるようにするFTP標準の拡張である。これは、"AUTH TLS"コマンドを送ることによって行われる。サーバには、TLSを使用しない接続の許可・拒否のオプションがある。このプロトコル拡張は、RFC 4217で定義されている。 暗黙的FTPS(Implicit FTPS)は、SSL/TLS接続の使用を必要するFTPの古い標準であり、通常のFTPとは異なるポートを使用するように指定されていた。 SSH File Transfer Protocol(SFTP)は、ファイル転送にSecure Shell(SSH)プロトコルを使用する。FTPとは異なり、コマンドとデータの両方を暗号化し、パスワードや機密情報がネットワークを介して公に送信されるのを防ぐ。FTPサーバやクライアントとは相互運用できない。 Trivial File Transfer Protocol(TFTP)は、クライアントがリモートホストからファイルを取得したり、リモートホストにファイルを保存したりすることを可能にする単純なロックステップのFTPである。TFTPは認証を行わないため実装が非常に簡単であり、主にネットワークブートの初期段階で使用される。TFTPは1981年に最初に標準化された。TFTPの現在の仕様はRFC 1350である。 Simple File Transfer Protocolは、TFTPとFTPの中間的なレベルの複雑さを持つ(セキュアではない)FTPとして提案された。RFC 913で定義されている。このプロトコルもSSH File Transfer Protocolと同様"SFTP"と略称されるが、この略称を持つプロトコルの中ではSimple File Transfer Protocolの方が先に標準化されている。このプロトコルはインターネットで広く受け入れられず、このRFCはIETFによって"Historic"(歴史的文書)の状態とされている。 ポート115を介して実行され、多くの場合SFTPの初期設定を受信する。11のコマンドと、ASCII・バイナリ・連続の3つのデータ転送を持つ。 ワードサイズが8ビットの倍数であるシステムでは、バイナリモードと連続モードの実装は同じである。このプロトコルは、ユーザーIDとパスワードによるログイン、階層フォルダーとファイル管理(名前の変更、削除、アップロード、ダウンロード、上書きダウンロード、追加ダウンロード)に対応する。 FTPサーバから返されるリターンコードはRFC 959で標準化されている。リターンコードは3桁の数値である。 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"ポート115を介して実行され、多くの場合SFTPの初期設定を受信する。11のコマンドと、ASCII・バイナリ・連続の3つのデータ転送を持つ。 ワードサイズが8ビットの倍数であるシステムでは、バイナリモードと連続モードの実装は同じである。このプロトコルは、ユーザーIDとパスワードによるログイン、階層フォルダーとファイル管理(名前の変更、削除、アップロード、ダウンロード、上書きダウンロード、追加ダウンロード)に対応する。", "title": "派生プロトコル" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "FTPサーバから返されるリターンコードはRFC 959で標準化されている。リターンコードは3桁の数値である。", "title": "FTPリターンコード" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1桁目は、成功、失敗、エラー・不完全な応答のいずれかを示す。", "title": "FTPリターンコード" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2桁目は、エラーの種類を表す。", "title": "FTPリターンコード" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "3桁目は、2桁目で定義されている各カテゴリの詳細情報を提供するために使用される。", "title": "FTPリターンコード" } ]
File Transfer Protocol(ファイル・トランスファー・プロトコル、FTP、ファイル転送プロトコル)は、コンピュータネットワーク上のクライアントとサーバの間でファイル転送を行うための通信プロトコルの一つである。
{{Infobox networking protocol | title = File Transfer Protocol | logo = | logo alt = | image = | image alt = | caption = | is stack = no | purpose = [[ファイル転送]] | developer = [[アバイ・ブーシャン]] | date = {{Start date and age|1971|04|16}} | based on = | influenced = | osilayer = | ports = 20, 21 | rfcs = {{IETF RFC|959}} | hardware = }} {{IPstack}} '''File Transfer Protocol'''(ファイル・トランスファー・プロトコル、'''FTP'''、ファイル転送プロトコル)は、[[コンピュータネットワーク]]上の[[クライアントサーバモデル|クライアントとサーバ]]の間で[[ファイル転送]]を行うための[[通信プロトコル]]の一つである。 == 概説 == [[インターネット]]で[[Transport Layer Security|SSL/TLSプロトコル]]を用いた[[HTTPS]]通信が主流になるまで使用されていた[[通信プロトコル]]の1つである。FTPは[[クライアントサーバモデル]]のアーキテクチャとして設計されており、クライアントとサーバの間で制御用とデータ転送用の2つの別のコネクションを使用する<ref name="for">{{cite book |last=Forouzan |first=B.A. |year=2000 |title=TCP/IP: Protocol Suite |edition=1st |location=New Delhi, India |publisher=Tata McGraw-Hill Publishing Company Limited}}</ref>。 FTPでは、[[認証]]のためのユーザ名・パスワードや転送データは[[暗号化]]されず、[[平文]]でやり取りされる。そのため現在では、FTPの通信を[[Transport Layer Security|SSL/TLS]]により保護した[[FTPS]]や、[[Secure Shell|SSH]]の仕組みを利用した[[SSH File Transfer Protocol]](SFTP)などの代替のプロトコルに置き換えられている。 用途としては * ウェブページ用各種データファイル([[HyperText Markup Language|HTMLソース]]、[[画像]]など)のクライアントのパソコンから[[Webサーバ|ウェブサーバ]]へのアップロード * パソコンソフト配布サイトや、データが入っているFTPファイルサーバからクライアントへのファイルのダウンロード * [[Local area network|LAN]]におけるファイルの転送などに使われる。 [[アップロード]]やダウンロードについては「FTPクライアントソフト」と呼ばれるソフトウェアで行う。多くのOSには[[キャラクタユーザインタフェース|CUI]]コマンドで操作するクライアントが付属している。また、GUIで操作できるソフトウェアやホームページ作成ソフトに内蔵されている。 ダウンロードについては、かつて多くの[[ウェブブラウザ|ブラウザ]]ソフトにダウンロードに特化したFTPクライアントソフトの機能が実装されていたが、2020年代初頭に多くのブラウザがサポートを打ち切った <ref>{{Cite web|和書|url= https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1319242.html |title=「Firefox」でもFTP対応が廃止へ ~「Google Chrome」「Microsoft Edge」に続く |publisher=窓の杜 |date=2021-04-16 |access-date=2023-05-06}}</ref> 。 初期の[[FTPクライアント]]は、[[オペレーティングシステム|OS]]が[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を持っていなかった時期に開発された[[キャラクタユーザインタフェース|コマンドラインプログラム]]であり、今でもほとんどのOSに同梱されている<ref name="tcpip">{{cite web |last=Kozierok |first=Charles M. |year=2005 |title=The TCP/IP Guide v3.0 |url=http://www.tcpipguide.com/free/t_FTPOverviewHistoryandStandards.htm |publisher=Tcpipguide.com|access-date=2019-06-12}}</ref><ref name="net+"/>。多くのFTPクライアントや自動化ユーティリティが開発されており、また、[[HTMLエディタ]]などの生産性アプリケーションにも組み込まれてきた。 == 歴史 == FTPの元の仕様は[[アバイ・ブーシャン]]によって書かれ、1971年4月16日に{{IETF RFC|114}}として公開された。1980年まで、FTPは[[TCP/IP]]の前身である[[Network Control Program|NCP]]で実行されていた<ref name="tcpip" />。{{IETF RFC|765}}(1980年6月)と{{IETF RFC|959}}(1985年10月)によりFTPはTCP/IP上で動くバージョンに修正され、これが現行のFTPの仕様の元となっている。その後、{{IETF RFC|1579}}(1994年2月)で[[ファイアウォール]]内からでも使用できるパッシブモードが追加され、{{IETF RFC|2228}}(1997年6月)ではセキュリティ拡張が提案された。{{IETF RFC|2428}}(1998年9月)では[[IPv6]]に対応し、新しい種類のパッシブモードが定義された<ref name="clark">{{cite book |last=Clark |first=M.P. |year=2003 |title=Data Networks IP and the Internet |edition=1st |location=West Sussex, England |publisher=John Wiley & Sons Ltd.}}</ref>。 == プロトコルの概要 == === 通信とデータ転送 === [[File:Passive FTP Verbindung.svg|thumb|ポート21を使用してパッシブ接続を開始する図]] FTPの動作モードには、データ転送用コネクションの確立方法の違いにより'''アクティブモード'''(active mode)と'''パッシブモード'''(passive mode)がある<ref name="slack">{{cite web |title=Active FTP vs. Passive FTP, a Definitive Explanation |url=http://slacksite.com/other/ftp.html |publisher=Slacksite.com|access-date=2019-06-12}}</ref>。どちらの場合でも、データ転送用コネクションとは別に制御用コネクションを使用する。制御用コネクションは、クライアント側が、特権付きでないランダムな[[ポート (コンピュータネットワーク)|ポート番号]]Nから、サーバのポート21へのTCPのコネクションとして確立する。 * アクティブモード(ポートモードとも言う)では、クライアントが制御用コネクションでFTPコマンド"PORT M"(Mはポート番号)をサーバに送信してポート番号を通知し、通知したポートMでサーバからのデータ転送用コネクションの接続を待ち受ける。サーバはポート20(FTPサーバのデータポート)からクライアントへのデータ転送用コネクションを確立する。 * [[ファイアウォール]]や[[ネットワークアドレス変換|NAT]]([[IPマスカレード]])などを使った環境では場合によってはアクティブモードでは接続できないこともある。この場合はパッシブモードを使用する。このモードでは、クライアントは制御用コネクションで"PASV"コマンドをサーバに送信してパッシブモードを利用することを通知し、サーバはクライアントにサーバ側のIPアドレスとポート番号を通知する<ref name="slack"/>。クライアントはサーバから通知されたIPアドレスとポート番号へデータ転送用コネクションを確立する<ref name="postel">{{IETF RFC|959}} (Standard) File Transfer Protocol (FTP). Postel, J. & Reynolds, J. (October 1985).</ref>。 1998年9月に、両方のモードは[[IPv6]]に対応するために更新され、パッシブモードには変更が加えられて拡張パッシブモード(extended passive mode)となった<ref>{{IETF RFC|2428}} (Proposed Standard) Extensions for IPv6, NAT, and Extended Passive Mode. Allman, M. & Metz, C. & Ostermann, S. (September 1998).</ref>。 サーバは、制御用コネクションを介してASCIIの3桁の数字のステータスコードで応答する。ステータスコードにはテキストによるメッセージがつくことがある。例えば、"200"(または "200 OK")は、最後のコマンドが成功したことを意味する。数字は応答のコードを表し、追加のテキストは人間が読める説明または要求を表す<ref name="for" />。データ転送用コネクションを介したファイルデータの転送中、制御用コネクションを介して割り込みメッセージを送信することによって転送を中止することができる。 データ転送には以下の4つのデータ表現が利用できる<ref name="tcpip" /><ref name="net+" /><ref name="clark" />。 * [[ASCII]]モード: テキストデータに使用される。必要に応じて、送信側で送信ホストの文字表現から[[拡張ASCII]]に変換され、受信側では受信ホストの文字表現に変換される。そのため、このモードはプレーンテキスト以外のデータを含むファイルには不適切である。 * [[バイナリ]]モード(イメージモードとも言う): 送信側のマシンは各ファイルを[[バイト (情報)|バイト]]単位で送信し、受信側は{{仮リンク|ビットストリーム (伝送方式)|en|Bitstream|label=バイトストリーム}}を保存する。送信側・受信側ともデータの変換を行わない。FTPの全ての実装に対してバイナリモードの対応が推奨されている。 * [[EBCDIC]]モード: EBCDIC文字セットを使用しているホスト間のプレーンテキストに使用される。 * ローカルモード: 同じ設定の2台のコンピュータが独自のフォーマットでデータを[[ASCII]]に変換することなく送信できるようにする。 データ転送は以下の3つのモードのいずれかで行うことができる<ref name="for" /><ref name="tcpip" />。 * ストリームモード: データは連続したストリームとして送信される。FTPとしては処理は行わず、全ての処理を[[Transmission Control Protocol|TCP]]に任せる。 データがレコードに分割されていない限り、[[End-of-file]]標識は必要ない。 * ブロックモード: FTPはデータをいくつかのブロック(ブロックヘッダ、バイト数、データフィールドから構成される)に分割してからTCPに渡す<ref name="clark" />。 * 圧縮モード: 単純なアルゴリズム(通常は[[連長圧縮]])でデータを圧縮してからTCPに渡す。 FTPソフトウェアの中には、「モードZ」と呼ばれる[[Deflate]]を使用した圧縮モードを実装しているものがある。このモードは[[インターネットドラフト]]に記載されているが、標準化はされていない<ref>{{cite IETF |title=Deflate transmission mode for FTP |draft=draft-preston-ftpext-deflate-03.txt |first=J. |last=Preston |date=January 2005 |publisher=[[Internet Engineering Task Force|IETF]] |accessdate=27 January 2016}}</ref>。 ===ログイン=== FTPログインは、アクセスを許可するために通常のユーザ名とパスワードのスキームを使用する<ref name="tcpip" />。ユーザ名はUSERコマンドを使用してサーバに送信され、パスワードはPASSコマンドを使用して送信される<ref name="tcpip" />。この一連のやり取りは[[暗号化]]されていないため、{{仮リンク|盗聴攻撃|en|Sniffing attack}}に対して脆弱である<ref>{{cite web|last1=Prince|first1=Brian|title=Should Organizations Retire FTP for Security?|url=http://www.securityweek.com/should-organizations-retire-ftp-security|website=Security Week|publisher=Security Week|accessdate=14 September 2017}}</ref>。クライアントから提供された情報がサーバによって受け入れられた場合、サーバはクライアントにグリーティングを送信し、セッションが開始される<ref name="tcpip" />。 ===Anonymous FTP=== FTPサービスを提供するホストは、専らファイル(主に無償の[[フリーウェア|フリーソフト]]など)を配布する目的で<ref name="net+" />、[[匿名]]でアクセスできるAnonymousアクセスを提供することができる<ref name="tcpip" />。この場合でも形式上認証が必要であり、ユーザ名として"anonymous"または"ftp"を指定する。パスワードは通常何でもよいが、配布したソフトに瑕疵があった場合などにサーバ管理者が連絡をとることができるよう、ユーザの[[メールアドレス|電子メールアドレス]]を指定するのがマナー([[ネチケット]])とされてきた(メールアドレスの[[ドメイン名|ドメイン]]がクライアントの[[IPアドレス]]の逆引きなどから明らかな場合は、"foo@"のようにドメインを省略することも多い)<ref name="net+">{{cite book |last=Dean |first=Tamara |title=Network+ Guide to Networks |publisher=Delmar |year=2010 |location= |pages=168–171}}</ref>。サーバによっては、パスワードがメールアドレスの形式を満たさないと利用できないこともある。しかし、近年では[[スパム (メール)|スパム(迷惑メール)]]などの問題により、むやみにメールアドレスを公開しない風潮が高まっていることから、このマナーは廃れつつある。 ===NATやファイアウォールの通過=== FTPは通常、クライアントがPORTコマンドを送信し、サーバがクライアントの通知されたポートに接続することによってデータを転送する。これは、インターネット側から内部ホストへの接続を許可しない[[ネットワークアドレス変換|NAT]]や[[ファイアウォール]]において問題となる<ref name="ncftp">{{cite web |last=Gleason |first=Mike |year=2005 |title=The File Transfer Protocol and Your Firewall/NAT |url=https://www.ncftp.com/ncftpd/doc/misc/ftp_and_firewalls.html |publisher=Ncftp.com|access-date=2019-06-12}}</ref>。NATの場合、PORTコマンドで通知するIPアドレスとポート番号は、NATによる変換後のものではなく、変換前のものとなる。 この問題を解決するには2つの方法がある。1つは、PASVコマンドを使用してパッシブモードに移行する方法である。これにより、FTPクライアント側からサーバへデータ転送用コネクションが確立される<ref name="ncftp" />。これは現代のFTPクライアントにおいて広く使われている。もう1つは、NATが{{仮リンク|アプリケーション・ゲートウェイ|en|Application-level gateway}}を使用してPORTコマンドの値を書き換える方法である<ref name="ncftp" />。 ===HTTPとの違い=== FTPでは、Webページでよく見られるような多くの小さな一時的な転送に使用するのが不便であり、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]ではそれを修正している。 FTPには、現在の作業ディレクトリと他のフラグを保持するステートフルな制御用コネクションがあり、転送するファイルごとに、データを転送するための別のコネクションを必要とする。パッシブモードでは、この別のコネクションはクライアントからサーバへの接続であるが、デフォルトのアクティブモードでは、このコネクションはサーバからクライアントへの接続である。アクティブモードにおけるこの役割の逆転、および全ての転送において使用されるポート番号がランダムであることが、ファイアウォールやNATゲートウェイを通してFTPを使用することを困難にしている。HTTPはステートレスであり、クライアントからサーバへの、Well-knownなポート番号による単一のコネクションを介して、制御とデータを多重化する。これにより、NATゲートウェイやファイアウォールの通過が簡単になる。 FTPの制御用コネクションの設定は、必要な全てのコマンドを送信して応答を待つまでに往復遅延があるため、非常に遅くなる。そのため、毎回セッションを破棄して再確立するのではなく、制御用コネクションを確立した後、それを複数のファイル転送のために開いたままにするのが一般的である。これとは対照的に、HTTPはその方が安価であるため、元々転送ごとにコネクションを切断していた。その後、HTTPには複数の転送に1つのTCP接続を再利用する機能が追加されたが、概念モデルとしてはセッションではなく独立した要求である。 FTPがデータ用コネクションを介して転送している間、制御用コネクションはアイドル状態である。転送に時間がかかりすぎると、ファイアウォールやNATは制御用コネクションが無効であると判断してそれを追跡しなくなり、事実上接続が切断されてしまう。HTTP接続においてはアイドル状態となるのは要求と要求の間のみであり、タイムアウトした後にコネクションがドロップされるのは正常で、予期されたものである。 ==Webブラウザの対応== かつてはほとんどの一般的な[[Webブラウザ]]は、FTPサーバに格納されているファイルを取得することができた。しかし2020年以降主要ブラウザはあいついでFTPサポートを廃止した。 ==セキュリティ== FTPは、インターネット初期から存在する古いプロトコルであり、[[情報セキュリティ|セキュア]](安全)なプロトコルとして設計されていない。ユーザ名やパスワードなどの認証情報を含むすべての通信内容を暗号化せずに転送するなどの問題の他、数多くのセキュリティ脆弱性が指摘されている<ref name="nurdle">{{cite web |title=Securing FTP using SSH |url=https://nurdletech.com/linux-notes/ftp/ssh.html |publisher=Nurdletech.com|access-date=2019-06-12}}</ref>。{{IETF RFC|2577}}(1999年5月)では、以下の脆弱性が列挙されている。 *[[総当たり攻撃]] *{{仮リンク|FTPバウンス攻撃|en|FTP bounce attack}} *[[パケットキャプチャ]] *Port stealing(次に開いているポートを推測して正当なコネクションを奪う) *[[スプーフィング攻撃]] *ユーザ名保護 *[[DoS攻撃]] FTPは通信内容を暗号化できない。全ての送信は平文で行われるため、通信経路上でパケットを[[パケットキャプチャ|キャプチャ]]することで、ユーザ名・パスワード・コマンド・データといった情報を容易に盗聴できる<ref name="tcpip" /><ref name="nurdle" />。この問題は、[[Transport Layer Security|TLS/SSL]]などの暗号化メカニズムが開発される前に設計された他のインターネットプロトコル仕様([[SMTP]]、[[Telnet]]、[[Post Office Protocol|POP]]、[[IMAP]]など)でも同様である<ref name="clark" />。 この問題に対する一般的な解決策は、次の通りである。 # 安全なバージョンのプロトコルを使用する。例えば、FTPの代わりに[[FTPS]]、Telnetの代わりにTelnetSを使用する。 # [[SSH File Transfer Protocol]](SFTP)や[[Secure Copy Protocol]](SCP)など、ジョブを処理できるより安全なプロトコルを使用する。 # [[Secure Shell]](SSH)や[[Virtual Private Network|VPN]]などのセキュアトンネルを使用する。 FTPは、[[Gumblar]]などのコンピュータウイルスの標的にもされた。そのため、現在では、FTPではなく前述の [[FTPS]] (SSL/TLSを使ったFTP) や [[SFTP]] ([[Secure Shell|SSH]] File Transfer Protocol)、[[Secure copy|SCP]]、[[Secure Shell|SSH]]上での[[rsync]]、など暗号化された手法を用いることが強く推奨される。 ===FTP over SSH=== FTP over SSHは、[[Secure Shell]]接続を介して通常のFTPセッションをトンネリングする方法である<ref name="nurdle"/>。FTPは複数のTCP接続を使用するため、SSHを介してトンネリングすることは特に困難である。多くのSSHクライアントでは、制御チャネル(ポート21による最初のクライアントとサーバの間の接続)用にトンネルを設定しようとすると、そのチャネルだけが保護される。データを転送するときは新しいTCP接続(データチャネル)を確立するため、[[機密性]]や[[データ完全性|完全性]]の保護はない。 そのため、SSHクライアントソフトウェアがFTPプロトコルの情報を持ち、FTP制御チャネルのメッセージを監視して書き換え、FTPデータチャネルのための新しいパケット転送を自律的に開く必要がある。 == 派生プロトコル == === FTPS === {{Main article|FTPS}} 明示的FTPS(Explicit FTPS)は、クライアントがFTPセッションの暗号化を要求できるようにするFTP標準の拡張である。これは、"AUTH TLS"コマンドを送ることによって行われる。サーバには、TLSを使用しない接続の許可・拒否のオプションがある。このプロトコル拡張は、{{IETF RFC|4217}}で定義されている。 暗黙的FTPS(Implicit FTPS)は、SSL/TLS接続の使用を必要するFTPの古い標準であり、通常のFTPとは異なるポートを使用するように指定されていた。 === SFTP === {{Main article|SSH File Transfer Protocol}} SSH File Transfer Protocol(SFTP)は、ファイル転送に[[Secure Shell]](SSH)プロトコルを使用する。FTPとは異なり、コマンドとデータの両方を暗号化し、パスワードや機密情報がネットワークを介して公に送信されるのを防ぐ。FTPサーバやクライアントとは相互運用できない。 === TFTP === {{Main article|Trivial File Transfer Protocol}} Trivial File Transfer Protocol(TFTP)は、クライアントがリモートホストからファイルを取得したり、リモートホストにファイルを保存したりすることを可能にする単純なロックステップのFTPである。TFTPは認証を行わないため実装が非常に簡単であり、主に[[ネットワークブート]]の初期段階で使用される。TFTPは1981年に最初に標準化された。TFTPの現在の仕様は{{IETF RFC|1350}}である。 ===Simple File Transfer Protocol=== <!--Simple File Transfer Protocol redirects here--> Simple File Transfer Protocolは、TFTPとFTPの中間的なレベルの複雑さを持つ(セキュアではない)FTPとして提案された。{{IETF RFC|913}}で定義されている。このプロトコルもSSH File Transfer Protocolと同様"SFTP"と略称されるが、この略称を持つプロトコルの中ではSimple File Transfer Protocolの方が先に標準化されている。このプロトコルはインターネットで広く受け入れられず、このRFCは[[Internet Engineering Task Force|IETF]]によって"Historic"(歴史的文書)の状態とされている。 ポート115を介して実行され、多くの場合SFTPの初期設定を受信する。11のコマンドと、ASCII・バイナリ・連続の3つのデータ転送を持つ。 ワードサイズが8ビットの倍数であるシステムでは、バイナリモードと連続モードの実装は同じである。このプロトコルは、ユーザーIDとパスワードによるログイン、階層フォルダーとファイル管理(名前の変更、削除、アップロード、ダウンロード、上書きダウンロード、追加ダウンロード)に対応する。 == その他の同様の目的に使えるプロトコル == * [[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]/[[WebDAV]] * [[Secure copy]](SCP) * [[Rcp]] * [[rsync]] * [[Network File System]](NFS) * [[Server Message Block]](SMB)/[[Server Message Block|CIFS]] ([[Samba]]) ==FTPコマンド== {{main article|FTPコマンドの一覧}} ==FTPリターンコード== {{main article|FTPサーバリターンコードの一覧}} FTPサーバから返されるリターンコードは{{IETF RFC|959}}で標準化されている。リターンコードは3桁の数値である。 1桁目は、成功、失敗、エラー・不完全な応答のいずれかを示す。 * 2yz&nbsp;&ndash; 成功応答 * 4yz, 5yz &ndash; 失敗応答 * 1yz, 3yz &ndash; エラー・不完全な応答 2桁目は、エラーの種類を表す。 * x0z &ndash; 構文。構文エラーを表す。 * x1z &ndash; 情報。情報の要求に応答する。 * x2z &ndash; コネクション。制御用コネクションやデータ用コネクションに関するエラーを表す。 * x3z &ndash; 認証とアカウント。ログインプロセスとアカウントに関するエラーを表す。 * x4z &ndash; 未定義。 * x5z &ndash; ファイルシステム。サーバのファイルシステムからのステータスコードを中継する。 3桁目は、2桁目で定義されている各カテゴリの詳細情報を提供するために使用される。 == 関連項目 == * [[FTPサーバ]] * [[FTPクライアント]] * {{仮リンク|ファイル転送プロトコルの比較|en|Comparison of file transfer protocols}} * [[File eXchange Protocol]] (FXP) * {{仮リンク|File Service Protocol|en|File Service Protocol}} (FSP) * [[FTAM]] * {{仮リンク|FTPFS|en|FTPFS}} * [[Archie]] * {{仮リンク|Managed File Transfer|en|Managed file transfer}} * [[OBEX]] * [[共有資源]] * [[TCP Wrapper]] == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{IETF RFC|697}} – CWD Command of FTP. July 1975. * {{IETF RFC|959}} – (Standard) File Transfer Protocol (FTP). J. Postel, J. Reynolds. October 1985. * {{IETF RFC|1579}} – (Informational) Firewall-Friendly FTP. February 1994. * {{IETF RFC|1635}} – (Informational) How to Use Anonymous FTP. May 1994. * {{IETF RFC|1639}} – FTP Operation Over Big Address Records (FOOBAR). June 1994. * {{IETF RFC|1738}} – Uniform Resource Locators (URL). December 1994. * {{IETF RFC|2228}} – (Proposed Standard) FTP Security Extensions. October 1997. * {{IETF RFC|2389}} – (Proposed Standard) Feature negotiation mechanism for the File Transfer Protocol. August 1998. * {{IETF RFC|2428}} – (Proposed Standard) Extensions for IPv6, NAT, and Extended passive mode. September 1998. * {{IETF RFC|2577}} – (Informational) FTP Security Considerations. May 1999. * {{IETF RFC|2640}} – (Proposed Standard) Internationalization of the File Transfer Protocol. July 1999. * {{IETF RFC|3659}} – (Proposed Standard) Extensions to FTP. P. Hethmon. March 2007. * {{IETF RFC|5797}} – (Proposed Standard) FTP Command and Extension Registry. March 2010. * {{IETF RFC|7151}} – (Proposed Standard) File Transfer Protocol HOST Command for Virtual Hosts. March 2014. * [https://www.iana.org/assignments/ftp-commands-extensions/ftp-commands-extensions.xhtml IANA FTP Commands and Extensions registry] &ndash; The official registry of FTP Commands and Extensions == 外部リンク == * {{Wikibooks-inline|Communication Networks/File Transfer Protocol}} * [//servertest.online/ftp FTP Server Online Tester] Authentication, encryption, mode and connectivity. {{OSI}} {{URI scheme}} {{Normdaten}} [[Category:File Transfer Protocol|*]] [[Category:アプリケーション層プロトコル]] [[Category:インターネット標準]] [[Category:RFC|0959]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/File_Transfer_Protocol
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常用漢字
常用漢字()とは、「法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」として、内閣告示「常用漢字表」で示された現代日本における日本語の漢字である。現行の常用漢字表は、2010年(平成22年)11月30日に平成22年内閣告示第2号として告示され、2,136字、4,388音訓(2,352音、2,036訓)から成る(一覧)。 常用漢字は、漢字使用の目安であって制限ではない。一方、日本の学習指導要領では、義務教育の国語で習う漢字は常用漢字のみと規定している。日本の主な報道機関は、日本新聞協会が発行する『新聞用語集』(新聞用語懇談会編)に掲載される新聞常用漢字表や共同通信社が発行する『記者ハンドブック』に基づき、各社で多少の手を加えて漢字使用の基準としている場合が多い。 なお、このページでは5.および6.について解説する。 昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」(1,945字/4,087音訓[2,187音・1,900訓])では、当用漢字表と比べて字数の上では、以下の95字が増加した。削除された字種はなかった。 文化審議会は2010年6月7日、改定常用漢字表(2,136字/4,388音訓[2,352音・2,036訓])を答申した。これは同年11月30日に平成22年内閣告示第2号「常用漢字表」として内閣告示された。その際、昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」は廃止された。 また音訓が以下の通り追加、変更、削除された。 備考欄などについて以下の通り変更された。 付表は以下の通り追加、変更された。 2005年(平成17年)2月2日に国語分科会が「情報化時代に対応する漢字政策の在り方を検討することが必要」であるとした報告書を文化審議会に提出した。これを受けて、同年3月30日、中山成彬文部科学大臣は常用漢字表の見直しの検討などを文化審議会に諮問した。同年9月から文化審議会国語分科会の漢字小委員会が常用漢字見直しの審議に入った。 その後、第6回漢字小委員会では、「『常用漢字』と『準常用漢字(読めるだけでいい漢字)』に分けることの是非」という文言を含む資料が配付された。また答申時期については、第15回漢字小委員会で2010年2月の新常用漢字表答申を目指すと述べられている。なお、その後の漢字小委員会で表の煩雑化に疑問の声があり、「準常用漢字」などの区分は最終的に行われなかった。2008年(平成20年)1月9日、都道府県名に使われている漢字で常用漢字に現在含まれていない「阪・鹿・奈・岡・熊・梨・阜・埼・茨・栃・媛」の11字を常用漢字に含めることを決めた。これは固有名詞については常用漢字表の対象としないのが原則であり、今後も維持するが、特に公共性が高い都道府県名について例外として扱ったものである。またその後、「韓・畿」が追加候補に入ったが、これは都道府県名に準じる漢字としての位置付けである。 2008年(平成20年)5月12日の第21回漢字小委員会で、第1次字種候補素案218字が発表された(220字と明記され、主要新聞社もそのように発表したが、実際には「闇」がデザイン差で重複しており、また既に常用漢字表に入っている「靴」が誤って入っていたため218字が正しい)。この時点では特定の語に限って常用漢字と同様に認める熟語が「別表」として付記されていたが、「なるべく単純明快な漢字表を作成する」という考え方に基づき、その後の6月16日の第23回漢字小委員会では第2次字種候補案が「別表」を統合した形で発表され、同日の審議でもその旨了承された。なお、第2次字種候補案では「本表に入れる可能性のある候補漢字」は188字とされた。また「斤」が削除候補から外された。 同年7月15日の第24回漢字小委員会では、7月31日の第39回国語分科会に提出する資料について「最終的な扱いについては前田主査に一任する」ことが了承された。また、国語分科会で字種候補案が了承されたとしても、今後、行われる音訓の検討過程で字種の出し入れの可能性があることも確認された。実際にその後の9月22日の第25回漢字小委員会では、追加候補に「刹・椎・賭・遡」の4字が追加され、「蒙」が削除された。これにより追加候補は191字となった。2009年(平成21年)10月23日の第37回漢字小委員会および11月10日の第42回国語分科会で了承された修正案では「柿・哺・楷・睦・釜・錮・賂・勾・毀」の9字が追加、「聘・憚・哨・諜」の4字が削除され、追加候補は196字となった。なお、漢字表の名称は現行と同じ「常用漢字表(改定常用漢字表)」とすることが確定した。 文化審議会は2010年6月7日の第51回文化審議会総会で、改定常用漢字表を答申した。 また、文化庁は「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」を公開、パブリックコメント募集を行い、2009年(平成21年)3月16日から行われたものの結果がニュースなどで報道された。これは第31回漢字小委員会以降で配付された資料に基づくものである。それによると、新たに302字の追加希望があったという。 最も追加要望が多かったのは「鷹」の22件である。三鷹市、鷹栖町、白鷹町など名称に「鷹」を含む自治体が意見書を出していた。三鷹市によれば、「鷹」は「都道府県名や動植物名等の固有名詞を中心とした使用例が多い」との理由で追加字種候補から除外されたが、市はこれに反論して四字熟語を含む熟語や故事・諺など多数の用例を挙げ「社会生活や日本の伝統文化を表す語が多数存在する」と主張した。またもう一つの根拠として和文書体データのフォント作成の際に、全ての漢字の構成要素が凝縮されているとして「鷹・東・永・国・室・道・機・識・闘・愛・警・酬」の12文字を基準に作成されていることを挙げて「鷹」の追加を強く要望した。この三鷹市の取り組みに対しては全国から多くの反響が寄せられたという。 続いて「碍」の20件は、一部の障害者団体が「障害」を「障碍」と表記するよう主張していることが関係している。その他、6件以上意見があったのは「睦・柿・迂・哺・蘇・棲・疹・楷・揃・叩・濡・吊・悶・牽・挽・捏・膿・噓・禄」であった。 一方、削除希望の漢字も挙げられ、最も多かったのは「鬱」、次いで「顎」であった。そのほか「聘・憚・憬」などが挙がっており、「埼・阪・阜」など都道府県に用いられる漢字に対しても削除の要望があった。今回のパブリックコメントでは約220件の意見が寄せられ「敬語の指針(報告案)」の際の5倍に上った。文化庁は、このパブリックコメントを加味した上で、再度指針案を練り直すとしていた。 その後、2009年(平成21年)11月25日から12月24日まで再度、修正案を対象にしたパブリックコメントが実施され、272件の意見が寄せられた。追加希望が最も多かった字は「玻」の95件で、この字が人名用漢字でないことを理由に子供の出生届を不受理とされた処分の無効を求めていた愛知県在住の夫婦とその支援者による組織票により、前回の0件から一転して95件の追加希望が寄せられた。また、前回のパブリックコメントでは20件であった「碍」は86件と大幅に追加希望が増加。「鷹」は前回より2件増の24件であった。 この結果に基づいて審議が行われた結果、2010年(平成22年)4月13日に開催された第41回漢字小委員会は「玻・碍・鷹」のいずれも追加を見送り、2009年11月の試案通り字種を「196増5減」とする案が了承された。ただし「碍」については内閣府の障がい者制度改革推進本部で「障害」の表記の在り方について検討しているため、その結果によっては改めて検討することとした。 「改定常用漢字表」(文化審議会答申)では「現行の常用漢字表制定時に追加した95字については、表内の字体に合わせ、一部の字体を簡略化したが、今回は追加字種における字体が既に『印刷標準字体』及び『人名用漢字字体』として示され、社会的に極めて安定しつつある状況を重視し、そのような方針は採らなかった」ため、「現行の常用漢字表で示す『通用字体』と異なるものが一部採用される」ことになった。 「改定常用漢字表」(文化審議会答申)では「固有名詞を対象とするものではない。ただし、固有名詞の中でも特に公共性の高い都道府県名に用いる漢字及びそれに準じる漢字は例外として扱う。」とした。これにより、都道府県名に用いる漢字で常用漢字表になかった11字と、近畿の「畿」・韓国の「韓」の2字が常用漢字になった。この13字について整理すると以下の通り。 「都道府県名専用」および「地名専用」で示した8字が、固有名詞の例外として追加された「都道府県名に用いる漢字及びそれに準じる漢字」に該当する。 ※「都道府県名専用」は「1字下げで示した音訓のうち、備考欄に都道府県名を注記したものは、原則として、その都道府県名にのみ用いる音訓であることを示す」という記述に基づくものである。 なお、日本新聞協会新聞用語懇談会では「岡」は「都道府県名専用」とはせず、限定的な熟語(岡っ引き、岡目八目、岡持ち)には使用するよう決めている。 法令では常用漢字のみを使用することを原則として、常用漢字外の字は、語そのものの言い換えが行われるか、その字のみ平仮名書きするか、常用漢字外の字を使用しつつ初出の箇所にのみ振り仮名(ルビ)をつける運用がなされる。 同音の漢字による書きかえは、第二次世界大戦後、当用漢字告示後から多用されている。「慰藉料」を「慰謝料」と表記するなどである。 平仮名書きは、機械的に行えるために多く使用されてきたが、同音異義語がある場合や、「だ捕」(拿捕)「改ざん」(改竄)など語の一部のみ平仮名書き(交ぜ書き)される不自然さがあり、次第に避けられるようになりつつある。 初出箇所にのみ振り仮名を振る方式は、常用漢字使用の原則に沿いつつ、自然な記載をなしうるため、法令の条文の記載において、多く用いられるようになりつつある。平成に入って口語化された刑法・民事訴訟法などはいずれもこの方式によっている例である。 法令以外の公用文においても、「公用文作成の考え方」により、常用漢字のみを使用することを原則とするように定められている。 日本国憲法に用いられている漢字は全て当用漢字表に採られ、常用漢字表にも引き継がれている。一般的に用いられない漢字が常用漢字である一因はこのためである。 近年、手書き文字と印刷文字の表し方に習慣に基づく違いがあることが理解されにくくなっている。また、文字の細部に必要以上の注意が向けられ、正誤が決められる傾向が生じている。 文化庁では、平成26年度から文化審議会国語分科会漢字小委員会において、「手書き文字の字形」と「印刷文字の字形」に関する指針の作成」に関して検討を進めていたが、その検討結果が国語分科会で「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」(案)として示された。
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常用漢字とは、「法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」として、内閣告示「常用漢字表」で示された現代日本における日本語の漢字である。現行の常用漢字表は、2010年(平成22年)11月30日に平成22年内閣告示第2号として告示され、2,136字、4,388音訓(2,352音、2,036訓)から成る(一覧)。 常用漢字は、漢字使用の目安であって制限ではない。一方、日本の学習指導要領では、義務教育の国語で習う漢字は常用漢字のみと規定している。日本の主な報道機関は、日本新聞協会が発行する『新聞用語集』(新聞用語懇談会編)に掲載される新聞常用漢字表や共同通信社が発行する『記者ハンドブック』に基づき、各社で多少の手を加えて漢字使用の基準としている場合が多い。
{{JIS2004}} {{漢字}} {{読み仮名|'''常用漢字'''|じょうようかんじ}}とは、「[[法令]]、公用文書、[[新聞]]、[[雑誌]]、[[放送]]など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」<ref>常用漢字表(2010年)まえがき</ref>として、内閣[[告示]]「常用漢字表」で示された現代日本における[[日本語]]の[[漢字]]である。現行の常用漢字表は、[[2010年]](平成22年)[[11月30日]]に平成22年内閣告示第2号として告示され、2,136字、4,388音訓(2,352音、2,036訓)から成る([[常用漢字一覧|一覧]])。 常用漢字は、漢字使用の目安であって制限ではない。一方、日本の[[学習指導要領]]では、[[義務教育]]の[[国語 (教科)|国語]]で習う漢字は常用漢字のみと規定している{{Efn2|さらに漢字を適切に使うことに関しては、[[義務教育]]では[[学年別漢字配当表]]に示されている漢字にとどまる。}}。日本の主な[[報道機関]]は、[[日本新聞協会]]が発行する『新聞用語集』(新聞用語懇談会編)に掲載される[[新聞常用漢字表]]や[[共同通信社]]が発行する『記者ハンドブック』に基づき<ref>{{Cite web|和書|title=「空揚げ→唐揚げ」 新聞用語のバイブル『記者ハンドブック』改訂の背景とは 共同通信校閲部に聞く:中日新聞Web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/615077 |website=中日新聞Web |access-date=2023-02-11 |language=ja}}</ref>、各社で多少の手を加えて漢字使用の基準としている場合が多い。 == 一覧 == {{main|常用漢字一覧}} == 歴史 == # [[1923年]]([[大正]]12年)、[[文部省]]臨時国語調査会が発表した常用漢字表、漢字1,962字とその[[略字]]154字。一部資料に1,960字とあるのは略字によって2組が同字となるため。同年[[9月1日]]実施予定であったが、同日発生した[[関東大震災]]により頓挫した。 # [[1931年]]([[昭和]]6年)、「常用漢字表及仮名遣改定案に関する修正」にて上記常用漢字表中の147字を減らし45字を増やして修正した1,858字。 # [[1942年]](昭和17年)、[[国語審議会]]が作成した標準漢字表2,528字のうちの常用漢字1,134字<ref>{{PDFlink|[http://kokugo.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/kakuki/hosoku/pdf/11_big_05.pdf#search&#61;'%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%BC%A2%E5%AD%97%E8%A1%A8' 標準漢字表、1942年(文化庁ホームページ)]}}</ref>。ほかに準常用漢字1,320字、特別漢字74字。簡易字体(略字)の本体78字、許容64字があった。 # [[1946年]](昭和21年)、国語審議会が上記標準漢字表の中の常用漢字から88字を削り249字を加えた常用漢字表1,295字案。この案は採択されず、同年、これを修正した1,850字が'''[[当用漢字]]'''として公布された。 # [[1981年]](昭和56年)[[3月23日]]に国語審議会が答申し、同年[[10月1日]]に昭和56年内閣[[告示]]第1号として告示された'''常用漢字表'''。当用漢字の後継であり、1,945字/4,087音訓[2,187音・1,900訓]から成る。 # [[2010年]](平成22年)[[6月7日]]に文化審議会が'''改定常用漢字表'''として答申し、同年[[11月30日]]に[https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/kanji/ 平成22年内閣告示第2号]として告示された常用漢字表。告示の際、昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」は廃止された。2,136字/4,388音訓[2,352音・2,036訓]から成る。 なお、このページでは5.および6.について解説する。 == 1981年の制定時(当用漢字との違い) == 昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」(1,945字/4,087音訓[2,187音・1,900訓])では、当用漢字表と比べて字数の上では、以下の95字が増加した。削除された字種はなかった。 ; 追加された字 : {{JIS2004フォント|猿 凹 渦 靴 稼 拐 涯 垣 殻 潟 喝 褐 缶 頑 挟 矯 襟 隅 渓 蛍 嫌 洪 溝 昆 崎 皿 桟 傘 肢 遮 蛇 酌 汁 塾 尚 宵 縄 壌 唇 甚 据 杉 斉 逝 仙 栓 挿 曹 槽 藻 駄 濯 棚 挑 眺 釣 塚 漬 亭 偵 泥 搭 棟 洞 凸 屯 把 覇 漠 肌 鉢 披 扉 猫 頻 瓶 雰 塀 泡 俸 褒 朴 僕 堀 磨 抹 岬 妄 厄 癒 悠 羅 竜 戻 枠}} ; 字体を改めた字 : 当用漢字字体表の「{{JIS2004フォント|燈}}」が「{{JIS2004フォント|灯}}」に改められた。 ; 音訓が加わった字 : {{JIS2004フォント|栄}}(はえる)、{{JIS2004フォント|危}}(あやぶむ)、{{JIS2004フォント|憩}}(いこう)、{{JIS2004フォント|香}}(かおる)、{{JIS2004フォント|愁}}(うれえる)、{{JIS2004フォント|謡}}(うたう)、{{JIS2004フォント|露}}(ロウ)、{{JIS2004フォント|和}}(オ) ; 付表に加わったもの : {{JIS2004フォント|叔父}}・{{JIS2004フォント|伯父}}(おじ)、{{JIS2004フォント|叔母}}・{{JIS2004フォント|伯母}}(おば)、{{JIS2004フォント|桟敷}}(さじき)、{{JIS2004フォント|凸凹}}(でこぼこ) ; 音訓が削られた字 : {{JIS2004フォント|膚}}(はだ)、{{JIS2004フォント|盲}}(めくら) == 2010年の改定 == 文化審議会は2010年6月7日、'''改定常用漢字表'''(2,136字/4,388音訓[2,352音・2,036訓])を答申した。これは同年11月30日に平成22年内閣告示第2号「常用漢字表」として内閣告示された。その際、昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」は廃止された。 ; 追加(196字) : {{JIS2004フォント|挨 曖 宛 嵐 畏 萎 椅 彙 茨 咽 淫 唄 鬱 怨 媛 艶 旺 岡 臆 俺 苛 牙 瓦 楷 潰 諧 崖 蓋 骸 柿 顎 葛 釜 鎌 韓 玩 伎 亀 毀 畿 臼 嗅 巾 僅 錦 惧 串 窟 熊 詣 憬 稽 隙 桁 拳 鍵 舷 股 虎 錮 勾 梗 喉 乞 傲 駒 頃 痕 沙 挫 采 塞 埼{{Efn2|「崎」の異体字だが改定常用漢字の「埼」は訓読みの「さき」ではなく「さい」である。}} 柵 刹 拶 斬 恣 摯 餌 鹿 𠮟 嫉 腫 呪 袖 羞 蹴 憧 拭 尻 芯 腎 須 裾 凄 醒 脊 戚 煎 羨 腺 詮 箋 膳 狙 遡 曽{{Efn2|name="A"|改定常用漢字表では「曽・痩・麺」について「頻度数に優先して、生活漢字としての側面を重視し」て、印刷標準字体「曾・瘦・麵」ではなく簡易慣用字体「曽・痩・麺」を採用した。}} 爽 痩{{Efn2|name="A"}} 踪 捉 遜 汰 唾 堆 戴 誰 旦 綻 緻 酎 貼 嘲 捗 椎 爪 鶴 諦 溺 塡 妬 賭 藤 瞳 栃 頓 貪 丼 那 奈 梨 謎 鍋 匂 虹 捻 罵 剝 箸 氾 汎 阪{{Efn2|「坂」の異体字。}} 斑 眉 膝 肘 訃 阜 蔽 餅 璧 蔑 哺 蜂 貌 頰 睦 勃 昧 枕 蜜 冥 麺{{Efn2|name="A"}} 冶 弥 闇 喩 湧 妖 瘍 沃 拉 辣 藍 璃 慄 侶 瞭 瑠 呂 賂 弄 籠 麓 脇}} ; 削除(5字) : 勺 錘 銑 脹 匁<br>同時に新[[人名用漢字]]に取り入れられているため、新生児の命名には引き続き使用可能である。 また音訓が以下の通り追加、変更、削除された。 ; 追加(29音訓) : {{JIS2004フォント|委}}(ゆだねる)、{{JIS2004フォント|育}}(はぐくむ)、{{JIS2004フォント|応}}(こたえる)、{{JIS2004フォント|滑}}(コツ)、{{JIS2004フォント|関}}(かかわる)、{{JIS2004フォント|館}}(やかた)、{{JIS2004フォント|鑑}}(かんがみる)、{{JIS2004フォント|混}}(こむ)、{{JIS2004フォント|私}}(わたし)、{{JIS2004フォント|臭}}(におう)、{{JIS2004フォント|旬}}(シュン)、{{JIS2004フォント|伸}}(のべる)、{{JIS2004フォント|振}}(ふれる)、{{JIS2004フォント|粋}}(いき)、{{JIS2004フォント|逝}}(いく)、{{JIS2004フォント|拙}}(つたない)、{{JIS2004フォント|全}}(すべて)、{{JIS2004フォント|創}}(つくる)、{{JIS2004フォント|速}}(はやまる)、{{JIS2004フォント|他}}(ほか)、{{JIS2004フォント|中}}(ジュウ)、{{JIS2004フォント|描}}(かく)、{{JIS2004フォント|放}}(ほうる)、{{JIS2004フォント|務}}(つとまる)、{{JIS2004フォント|癒}}(いえる・いやす)、{{JIS2004フォント|要}}(かなめ)、{{JIS2004フォント|絡}}(からめる)、{{JIS2004フォント|類}}(たぐい) ; 変更(1訓) : {{JIS2004フォント|側}}(かわ) - 訓「かわ」を「がわ」に変更<ref group="注">「{{JIS2004フォント|側}}」には〈「かわ」とも。〉と注記された。</ref>。 ; 削除(3音訓) : {{JIS2004フォント|畝}}(せ)、{{JIS2004フォント|疲}}(つからす)、{{JIS2004フォント|浦}}(ホ) 備考欄などについて以下の通り変更された。 ; 変更 : {{JIS2004フォント|愛・岐・児・滋・城・神・鳥・富・分・良}} - 備考欄に都道府県名を注記。 : {{JIS2004フォント|音}} - 語例「{{JIS2004フォント|音信不通}}」を「{{JIS2004フォント|母音}}」に変更。備考欄「{{JIS2004フォント|音信不通}}」の注記を削除。 : {{JIS2004フォント|堪}} - 語例「{{JIS2004フォント|堪能}}」を追加。備考欄に〈「{{JIS2004フォント|堪能}}」は、「タンノウ」とも。〉と注記。 : {{JIS2004フォント|屈}} - 語例「{{JIS2004フォント|理屈}}」を追加。 : {{JIS2004フォント|十}} - 備考欄に〈「ジュッ」とも。〉と注記。 : {{JIS2004フォント|従}} - 語例「{{JIS2004フォント|従って〔接〕}}」を削除。 : {{JIS2004フォント|昭}} - 語例「{{JIS2004フォント|昭和}}」を追加。 : {{JIS2004フォント|側}} - 備考欄に〈「かわ」とも。〉と注記。 : {{JIS2004フォント|透}} - 語例「{{JIS2004フォント|透き間}}」を削除{{Efn2|追加された「{{JIS2004フォント|隙}}」には〈「{{JIS2004フォント|隙間}}」は、「{{JIS2004フォント|透き間}}」とも書く。〉と注記された。}}。 : {{JIS2004フォント|破}} - 語例「{{JIS2004フォント|破棄}}」を追加。 : {{JIS2004フォント|力}} - 凡例に注記{{Efn2|「表の見方」に「字音を動詞として用いることのできるもの」として「{{JIS2004フォント|力む}}」が「{{JIS2004フォント|案じる}}」・「{{JIS2004フォント|信じる}}」とともに例示されている。}}。 付表は以下の通り追加、変更された。 ; 追加(6語) : {{JIS2004フォント|鍛冶}}(かじ)、{{JIS2004フォント|固唾}}(かたず)、{{JIS2004フォント|尻尾}}(しっぽ)、{{JIS2004フォント|老舗}}(しにせ)、{{JIS2004フォント|真面目}}(まじめ)、{{JIS2004フォント|弥生}}(やよい) ; 変更(5語) : {{JIS2004フォント|居士}}(こじ) - 「{{JIS2004フォント|一言居士}}」を「{{JIS2004フォント|居士}}」に変更。 : {{JIS2004フォント|五月}}(さつき) - 「{{JIS2004フォント|五月晴れ}}」を「{{JIS2004フォント|五月}}」に変更。 : {{JIS2004フォント|お母さん}}(おかあさん) - 「{{JIS2004フォント|お母さん}}」を「{{JIS2004フォント|母さん}}」に変更。 : {{JIS2004フォント|お父さん}}(おとうさん) - 「{{JIS2004フォント|お父さん}}」を「{{JIS2004フォント|父さん}}」に変更。 : {{JIS2004フォント|海女}}(あま) - 「{{JIS2004フォント|海女}}」を「{{JIS2004フォント|海女・海士}}」に変更。 === 経緯 === [[2005年]](平成17年)[[2月2日]]に国語分科会が「情報化時代に対応する漢字政策の在り方を検討することが必要」であるとした報告書<ref>文化審議会国語分科会報告 {{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286898/www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/pdf/20050202.pdf 国語分科会で今後取り組むべき課題について]}}</ref>を[[文化審議会]]に提出した。これを受けて、同年[[3月30日]]、[[中山成彬]][[文部科学大臣]]は常用漢字表の見直しの検討などを文化審議会に諮問した<ref>第39回文化審議会総会 [https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9287048/www.bunka.go.jp/bunkashingikai/soukai/39/shiryo_2.html 情報化時代に対応する漢字政策の在り方について]</ref>。同年9月から文化審議会国語分科会の漢字小委員会が常用漢字見直しの審議に入った。 その後、第6回漢字小委員会では、「『常用漢字』と『準常用漢字(読めるだけでいい漢字)』に分けることの是非」という文言<ref>[http://www.bunka.go.jp/1kokugo/kanji_shouiinkai180424.html 第6回漢字小委員会]で配付された{{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286898/www.bunka.go.jp/1kokugo/pdf/kanji_shouiinkai180424_siryou3.pdf 資料3]}} P.3参照。</ref>を含む資料が配付された。また答申時期については、第15回漢字小委員会で[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9287048/www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_15/gijiroku.html 2010年2月の新常用漢字表答申を目指す]と述べられている。なお、その後の漢字小委員会で表の煩雑化に疑問の声があり、「準常用漢字」などの区分は最終的に行われなかった。[[2008年]](平成20年)[[1月9日]]、[[都道府県]]名に使われている漢字で常用漢字に現在含まれていない「{{JIS2004フォント|阪・鹿・奈・岡・熊・梨・阜・埼・茨・栃・媛}}」の11字を常用漢字に含めることを決めた{{Efn2|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9287048/www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_20/index.html 第20回漢字小委員会]で配付された{{PDFlink|[http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_20/pdf/siryou_2.pdf 資料2]}} P.4参照。}}。これは[[固有名詞]]については常用漢字表の対象としないのが原則であり、今後も維持するが、特に公共性が高い都道府県名について例外として扱ったものである。またその後、「{{JIS2004フォント|韓・畿}}」が追加候補に入ったが、これは都道府県名に準じる漢字としての位置付けである。 2008年(平成20年)[[5月12日]]の第21回漢字小委員会で、第1次字種候補素案<ref>{{PDFlink|[http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_21/pdf/shiryo_4.pdf 第1次字種候補素案]}}</ref>218字が発表された(220字と明記され、主要新聞社もそのように発表したが、実際には「{{JIS2004フォント|闇}}」がデザイン差で重複しており、また既に常用漢字表に入っている「{{JIS2004フォント|靴}}」が誤って入っていたため218字が正しい{{Efn2|この2点のほか、P.2 6行目 候補漢字Aの「{{JIS2004フォント|樋}}」は「{{JIS2004フォント|桶}}」の誤りである。}})。この時点では特定の語に限って常用漢字と同様に認める熟語が「別表」として付記されていたが、「なるべく単純明快な漢字表を作成する」という考え方に基づき、その後の[[6月16日]]の第23回漢字小委員会では第2次字種候補案<ref name="2jian">{{PDFlink|[http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_23/pdf/shiryo_2.pdf 第2次字種候補案]}}</ref>が「別表」を統合した形で発表され、同日の審議でもその旨了承された。なお、第2次字種候補案では「本表に入れる可能性のある候補漢字」は188字とされた。また「{{JIS2004フォント|斤}}」が削除候補から外された。 同年[[7月15日]]の第24回漢字小委員会では、[[7月31日]]の第39回国語分科会に提出する資料について「最終的な扱いについては[[前田富祺|前田]][[主査]]に一任する」ことが了承された{{Efn2|第2次字種候補案<ref name="2jian" />と国語分科会提出資料<ref>{{PDFlink|[http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kokugo_39/pdf/shiryo_3.pdf 国語分科会提出資料]}}</ref>では表現が若干変わったが、実質的な内容に変わりはない。なお、国語分科会提出資料は第39回国語分科会で了承された。}}。また、国語分科会で字種候補案が了承されたとしても、今後、行われる音訓の検討過程で字種の出し入れの可能性があることも確認された。実際にその後の[[9月22日]]の第25回漢字小委員会では、追加候補に「{{JIS2004フォント|刹・椎・賭・遡}}」の4字が追加され、「{{JIS2004フォント|蒙}}」が削除された。これにより追加候補は191字となった。[[2009年]](平成21年)[[10月23日]]の第37回漢字小委員会および[[11月10日]]の第42回国語分科会で了承された修正案では「{{JIS2004フォント|柿・哺・楷・睦・釜・錮・賂・勾・毀}}」の9字が追加、「{{JIS2004フォント|聘・憚・哨・諜}}」の4字が削除され、追加候補は196字となった。なお、漢字表の名称は現行と同じ「常用漢字表(改定常用漢字表)」とすることが確定した。 文化審議会は2010年6月7日の第51回文化審議会総会で、'''改定常用漢字表'''を答申した。 ; (参考)一度は追加候補漢字に入りながら、その後外された漢字(85字) : {{JIS2004フォント|叩 噓 噂 濡 笠 嬉 朋 覗 撫 溜 鷹 揃 頷 摑 翔 喋 嚙 洩 禄 栗 馴 駕 鴨 淵 駿 蘭 胡 蘇 狼 蝶 搔 惚 蒼 腿 菩 吊 雀 樽 壺 祀 卿 歪 棲 磯 桶 鷲 媚 寵 秤 套 醬 疼 賤 顚 糊 誼 截 綬 庄 毅 揆 躇 躊 憐 狽 萌 撥 謳 蔓 捏 饉 倦 屛 恍 斡 膠 疇 謗 乖 誹 蒙 聘 憚 哨 諜}} また、文化庁は「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」を公開、[[パブリックコメント]]募集を行い、2009年(平成21年)[[3月16日]]から行われたものの結果がニュースなどで報道された。これは第31回漢字小委員会以降で配付された資料に基づくものである。それによると、新たに302字{{Efn2|[http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_32/index.html 第32回漢字小委員会]で配付された{{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286898/www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_32/pdf/shiryo3.pdf 資料3]}}による。ただし、「{{JIS2004フォント|䑓}}(「{{JIS2004フォント|臺(台)}}」の異体字)・ヶ・々」などの文字についても除外せずに記載されている。}}の追加希望があったという。 最も追加要望が多かったのは「{{JIS2004フォント|鷹}}」の22件である。[[三鷹市]]<ref name="mitaka">[https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/017/017055.html 改定常用漢字表試案への意見(H21.12.11)] 三鷹市、2009年12月11日公開、2010年11月25日更新。</ref>、[[鷹栖町]]、[[白鷹町]]など名称に「{{JIS2004フォント|鷹}}」を含む[[地方公共団体|自治体]]が意見書を出していた。三鷹市によれば、「鷹」は「都道府県名や動植物名等の固有名詞を中心とした使用例が多い」との理由で追加字種候補から除外されたが、市はこれに反論して[[四字熟語]]を含む[[熟語]]や[[故事]]・[[諺]]など多数の用例を挙げ「社会生活や日本の伝統文化を表す語が多数存在する」と主張した<ref name="mitaka"/>。またもう一つの根拠として和文[[書体]]データの[[フォント]]作成の際に、全ての漢字の構成要素が凝縮されているとして「鷹・東・永・国・室・道・機・識・闘・愛・警・酬」の12文字を基準に作成されていることを挙げて「鷹」の追加を強く要望した<ref name="mitaka"/>。この三鷹市の取り組みに対しては全国から多くの反響が寄せられたという<ref name="mitaka"/>。 続いて「{{JIS2004フォント|碍}}」の20件は、一部の[[障害者]]団体が「{{JIS2004フォント|障害}}」を「{{JIS2004フォント|障碍}}」と表記するよう主張していることが関係している。その他、6件以上意見があったのは「{{JIS2004フォント|睦・柿・迂・哺・蘇・棲・疹・楷・揃・叩・濡・吊・悶・牽・挽・捏・膿・噓・禄}}」であった。 一方、削除希望の漢字も挙げられ、最も多かったのは「{{JIS2004フォント|鬱}}」、次いで「{{JIS2004フォント|顎}}」であった。そのほか「{{JIS2004フォント|聘・憚・憬}}」などが挙がっており、「{{JIS2004フォント|埼・阪・阜}}」など都道府県に用いられる漢字に対しても削除の要望があった。今回のパブリックコメントでは約220件の意見が寄せられ「敬語の指針(報告案)」の際の5倍に上った。文化庁は、このパブリックコメントを加味した上で、再度指針案を練り直すとしていた。 その後、2009年(平成21年)[[11月25日]]から[[12月24日]]まで再度、修正案を対象にしたパブリックコメントが実施され、272件の意見が寄せられた。追加希望が最も多かった字は「玻」の95件で、この字が[[人名用漢字]]でないことを理由に子供の[[出生届]]を不受理とされた処分の無効を求めていた[[愛知県]]在住の夫婦{{Efn2|2010年(平成22年)[[4月7日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で敗訴確定。}}とその支援者による組織票により、前回の0件から一転して95件の追加希望が寄せられた。また、前回のパブリックコメントでは20件であった「{{JIS2004フォント|碍}}」は86件と大幅に追加希望が増加。「{{JIS2004フォント|鷹}}」は前回より2件増の24件であった。 この結果に基づいて審議が行われた結果、2010年(平成22年)[[4月13日]]に開催された第41回漢字小委員会は「{{JIS2004フォント|玻・碍・鷹}}」のいずれも追加を見送り<ref>{{PDFlink|[http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_41/pdf/shiryo4.pdf 要望の多かった「{{JIS2004フォント|玻・碍・鷹}}」の扱いについて]}}参照。</ref>、2009年11月の試案通り字種を「196増5減」とする案が了承された。ただし「碍」については[[内閣府]]の[[障がい者制度改革推進本部]]で「障害」の表記の在り方について検討しているため、その結果によっては改めて検討することとした<ref>{{PDFlink|[http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/soukai/pdf/kaitei_kanji_toushin.pdf 「改定常用漢字表(答申)」]}} P.(12)参照。</ref>。 === 字体 === 「改定常用漢字表」(文化審議会答申)では「現行の常用漢字表制定時に追加した95字については、表内の字体に合わせ、一部の字体を簡略化したが{{Efn2|「常用漢字表」(国語審議会答申)前文には「新しく加わった漢字については、同表に掲げたものに準じて整理を加えた」とある。(注)「同表」は「当用漢字字体表」のこと。}}、今回は追加字種における字体が既に[[国語国字問題#表外漢字字体表|『印刷標準字体』]]及び『人名用漢字字体』{{Efn2|人名用漢字として「昭和26年以降平成9年までに示された字体」のこと。}}として示され、社会的に極めて安定しつつある状況を重視し、そのような方針は採らなかった」ため、「現行の常用漢字表で示す『通用字体』と異なるものが一部採用される」ことになった。 ; 印刷文字 :* 「{{JIS2004フォント|餌・遡・遜・謎・餅}}」の5字には「『[[辵部|しんにょう]]/[[食部|しょくへん]]』にかかわる字のうち、『{{JIS2004フォント|辶/𩙿}}』の字形が通用字体であるものについては、『{{JIS2004フォント|&#xFA66;/飠}}』の字形を角括弧に入れて許容字体として併せ示した。当該の字に関して、現に印刷文字として許容字体を用いている場合、通用字体である『{{JIS2004フォント|辶/𩙿}}』の字形に改める必要はない。」という「字体の許容」が適用される。 :* 「{{JIS2004フォント|茨・牙・韓・𠮟・栃}}」の5字には「特定の字種に適用されるデザイン差」(個別デザイン差)が認められている。 :* 「情報機器に搭載されている印刷文字字体の関係で、本表の掲出字体とは異なる字体(掲出字体の『{{JIS2004フォント|頰・賭・剝}}』に対する『{{JIS90フォント|頬}}・{{JIS90フォント|賭}}・{{JIS90フォント|剥}}』など)を使用することは差し支えない」とされている。これを適用する具体的な字種は明記されていないが、「{{JIS2004フォント|淫・葛・僅・煎・詮・嘲・捗・溺・塡・賭・剝・箸・蔽・頰}}」の14字が該当すると考えられる。 :* 「{{JIS2004フォント|臆・骸・惧・稽・柵・恣・煎・嘲・諦・汎・闇・籠}}」の12字は[[国語国字問題#表外漢字字体表|表外漢字字体表]]で「漢字使用の実態への配慮から、字体の差と考えなくてもよいと判断」された字形差が、改定常用漢字表ではデザインの差ではなく字体の差とされる。 ; 手書き(筆写の楷書) : 「印刷文字字形と手書き字形との関係について、現行常用漢字表にある『(付)字体についての解説』、表外漢字字体表にある『印刷文字字形(明朝体字形)と筆写の楷書字形との関係』を踏襲しながら、実際に手書きをする際の参考となるよう、更に具体例を増やして記述した。」 :* 「備考欄にある『*』は、『(付)字体についての解説』『第2 明朝体と筆写の楷書との関係について』の『3 筆写の楷書字形と印刷文字字形の違いが、字体の違いに及ぶもの』の中に参照すべき具体例があることを示す。」 :* 備考欄に「*」が付いているのは「{{JIS2004フォント|彙・淫・葛・嗅・僅・惧・稽・恣・餌・煎・詮・箋・遡・遜・嘲・捗・溺・塡・賭・謎・剝・箸・蔽・餅・頰・喩}}」の26字である。 :* 「『*』の付いた字の多くは、昭和56年の制定当初から常用漢字表に入っていた字体とは、『{{JIS2004フォント|臭}}⇔{{JIS2004フォント|嗅}}』『{{JIS2004フォント|歩}}⇔{{JIS2004フォント|捗}}』『{{JIS2004フォント|狭}}⇔{{JIS2004フォント|頰}}』『{{JIS2004フォント|道}}⇔{{JIS2004フォント|遡}}』『{{JIS2004フォント|幣}}⇔{{JIS2004フォント|蔽}}』などのように、同じ構成要素を持ちながら、通用字体の扱いに字体上の差異があるものである。」 :* 「『しんにゅう』の印刷文字字形である『{{JIS2004フォント|&#xFA66;/辶}}』に関して付言すれば、どちらの印刷文字字形であっても、手書き字形としては同じ『[[ファイル:U+8FB6 regular.svg|16px]]』の形で書くことが一般的である、という認識を社会全般に普及していく必要がある。」 :* 「しんにゅうの字、及びしんにゅうを構成要素として含む字のうち通用字体が『{{JIS2004フォント|辶}}』で示されている字については、上記『第2 明朝体と筆写の楷書との関係について』の『1 明朝体に特徴的な表現の仕方があるもの』の中に『{{JIS2004フォント|&#xFA66;・辶}}-[[ファイル:U+8FB6 regular.svg|16px]]』が示され、『{{JIS2004フォント|辶}}』も筆写では『{{JIS2004フォント|&#xFA66;}}』と同様に『[[ファイル:U+8FB6 regular.svg|16px]]』と書くことから、備考欄に『*』を付した。」 === 都道府県名など === 「改定常用漢字表」(文化審議会答申)では「固有名詞を対象とするものではない。ただし、固有名詞の中でも特に公共性の高い都道府県名に用いる漢字及びそれに準じる漢字は例外として扱う。」とした。これにより、都道府県名に用いる漢字で常用漢字表になかった11字と、近畿の「{{JIS2004フォント|畿}}」・韓国の「{{JIS2004フォント|韓}}」の2字が常用漢字になった。この13字について整理すると以下の通り。 {| class="wikitable" |- ! 字種 !! 音訓 !! 専用 !! 1字下げ !! 備考欄 !! 表内 !! 表外 |- | {{JIS2004フォント|茨}} || いばら || 都道府県名専用 || 1字下げ || 注記あり || {{JIS2004フォント|茨城県}}のみ || {{JIS2004フォント|茨の道}}、{{JIS2004フォント|茨姫}}など |- | rowspan="2" | {{JIS2004フォント|媛}} || rowspan="2" | エン || rowspan="2" | 一般使用可 || rowspan="2" | - || rowspan="2" | 注記あり || {{JIS2004フォント|才媛}}など || - |- | {{JIS2004フォント|愛媛県のみ}} || {{JIS2004フォント|媛}}(ひめ) |- | {{JIS2004フォント|岡}} || おか || 都道府県名専用 || 1字下げ || 注記あり || {{JIS2004フォント|岡山県}}、{{JIS2004フォント|静岡県}}、{{JIS2004フォント|福岡県}}のみ || {{JIS2004フォント|岡っ引き}}、{{JIS2004フォント|岡持ち}}、{{JIS2004フォント|岡目八目}}など |- | {{JIS2004フォント|韓}} || カン || 地名専用 || - || - || {{JIS2004フォント|韓国}}など || (その他) |- | {{JIS2004フォント|畿}} || キ || 地名専用 || - || - || {{JIS2004フォント|畿内}}、{{JIS2004フォント|近畿}}など || (その他) |- | {{JIS2004フォント|熊}} || くま || 一般使用可 || - || - || {{JIS2004フォント|熊}}、{{JIS2004フォント|白熊}}など || - |- | {{JIS2004フォント|埼}} || さい || 都道府県名専用 || 1字下げ || 注記あり || {{JIS2004フォント|埼玉県}}のみ || (その他) |- | rowspan="2" | {{JIS2004フォント|鹿}} || しか || rowspan="2" | 一般使用可 || - || - || {{JIS2004フォント|鹿}} || - |- | か || 1字下げ || - || {{JIS2004フォント|鹿の子}}など || - |- | {{JIS2004フォント|栃}} || とち || 都道府県名専用 || 1字下げ || 注記あり || {{JIS2004フォント|栃木県}}のみ || {{JIS2004フォント|栃の木}}、{{JIS2004フォント|栃餅}}、{{JIS2004フォント|栃麺棒}}など |- | {{JIS2004フォント|奈}} || ナ || 一般使用可 || - || - || {{JIS2004フォント|奈落}}など || - |- | {{JIS2004フォント|梨}} || なし || 一般使用可 || - || - || {{JIS2004フォント|梨}}、{{JIS2004フォント|洋梨}}など || - |- | rowspan="2" | {{JIS2004フォント|阪}} || rowspan="2" | ハン || rowspan="2" | 地名専用 || rowspan="2" | - || rowspan="2" | 注記あり || {{JIS2004フォント|阪神}}、{{JIS2004フォント|京阪}}など || {{JIS2004フォント|阪路}}など |- | {{JIS2004フォント|大阪府}}のみ || {{JIS2004フォント|阪}}(さか) |- | {{JIS2004フォント|阜}} || フ || 都道府県名専用 || 1字下げ || 注記あり || {{JIS2004フォント|岐阜県}}のみ || {{JIS2004フォント|陰阜}}など |} 「都道府県名専用」および「地名専用」で示した8字が、固有名詞の例外として追加された「都道府県名に用いる漢字及びそれに準じる漢字」に該当する。 ※「都道府県名専用」は「1字下げで示した音訓のうち、備考欄に都道府県名を注記したものは、原則として、その都道府県名にのみ用いる音訓であることを示す」という記述に基づくものである。[[茨木市]]の場合、茨城県ではないため都道府県専用に当てはまらない。 なお、日本新聞協会新聞用語懇談会では「{{JIS2004フォント|岡}}」は「都道府県名専用」とはせず、限定的な熟語({{JIS2004フォント|岡っ引き}}、{{JIS2004フォント|岡目八目}}、{{JIS2004フォント|岡持ち}})には使用するよう決めている{{Sfn|新聞用語集|p=24}}。 == 法令における使用 == [[法令]]では常用漢字のみを使用することを原則として<ref>{{PDFlink|[http://www.clb.go.jp/info/other/houreiniokerukanji.pdf 法令における漢字使用等について]}}</ref>、常用漢字外の字は、語そのものの言い換えが行われるか、その字のみ[[平仮名]]書きするか、常用漢字外の字を使用しつつ初出の箇所にのみ[[振り仮名]]([[ルビ]])をつける運用がなされる。 [[同音の漢字による書きかえ]]は、[[戦後#第二次世界大戦後|第二次世界大戦後]]、当用漢字告示後から多用されている。「{{JIS2004フォント|慰藉料}}」を「{{JIS2004フォント|慰謝料}}」と表記するなどである。 平仮名書きは、機械的に行えるために多く使用されてきたが、[[同音異義語]]がある場合や、「{{JIS2004フォント|だ捕}}」({{JIS2004フォント|拿捕}})「{{JIS2004フォント|改ざん}}」({{JIS2004フォント|改竄}})など語の一部のみ平仮名書き([[当用漢字#交ぜ書き|交ぜ書き]])される不自然さがあり、次第に避けられるようになりつつある。 初出箇所にのみ振り仮名を振る方式は、常用漢字使用の原則に沿いつつ、自然な記載をなしうるため、法令の条文の記載において、多く用いられるようになりつつある。平成に入って[[口語]]化された[[刑法 (日本)|刑法]]・[[民事訴訟法]]などはいずれもこの方式によっている例である。 法令以外の公用文においても、「公用文作成の考え方」<ref>[https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/hokoku/93650001_01.html 「公用文作成の考え方」について(建議)](令和4年(2022年)1月7日、文化審議会会長、文化審議会国語分科会長から文部科学大臣宛て)</ref>により、常用漢字のみを使用することを原則とするように定められている。 <!-- == 実際の漢字使用との隔たり == 言葉は生きた人間が使うものであるから、それ相応に時代に即して[[日本語の乱れ|変化]]するものである。常用漢字表は、「一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」であるが、現実の社会生活においてはこれ以上の漢字の知識を要することがある。 === 常用漢字表にない字や音訓=== * 表外音訓の例('''太字'''の読みは、改定常用漢字表で読みに採られた) ; 名詞の例 : {{JIS2004フォント|主(あるじ)、'''粋(いき)'''、古(いにしえ)、家(うち)、宴(うたげ)、鑑(かがみ)、'''要(かなめ)'''、毎(ごと)、直(じか)、'''旬(シュン)'''、'''類い(たぐい)'''、匠(たくみ)、為(ため)、屯(たむろ)、歳(とし)、鶏(とり)、虜(とりこ)、等(など・ら)、斜(はす)、'''他(ほか)'''、薪(まき)、雅(みやび)、刃(やいば)、'''館(やかた)'''、輩(やから)、奴(やつ)、齢(よわい)、'''私(わたし)'''}} ; 動詞の例 : {{JIS2004フォント|崇める(あがめる)、論う(あげつらう)、与る(あずかる)、肖る(あやかる)、'''癒える・癒やす(いえる・いやす)'''、活きる・活ける・活かす(いきる・いける・いかす)、'''逝く(いく)'''、失せる(うせる)、疑る(うたぐる)、圧す(おす)、憶える(おぼえる)、想う(おもう)、屈む(かがむ)、'''関わる(かかわる)'''、'''描く(かく)'''、匿う(かくまう)、象る(かたどる)、敵う(かなう)、適う(かなう)、被る・被せる(かぶる・かぶせる)、'''鑑みる(かんがみる)'''、括る・括れる(くくる・くびれる)、降る・降す(くだる・くだす)、寛ぐ(くつろぐ)、'''応える(こたえる)'''、堪える(こたえる・こらえる)、拘る(こだわる)、零れる(こぼれる)、'''混む(こむ)'''、射す(さす)、焦れる・焦らす(じれる・じらす)、雪ぐ(すすぐ・そそぐ)、奨める(すすめる)、逸れる・逸らす(それる・そらす)、企む(たくらむ)、貯える(たくわえる)、称える(たたえる)、発つ(たつ)、司る・掌る(つかさどる)、衝く(つく)、'''創る(つくる)'''、灯す(ともす)、点る(ともる)、囚われる(とらわれる)、摂る(とる)、執る(とる)、準える(なぞらえる)、均す(ならす)、'''臭う(におう)'''、遺す(のこす)、'''育む(はぐくむ)'''、弾く(はじく)、逸る(はやる)、凹む・凹ます(へこむ・へこます)、'''放る(ほうる)'''、愛でる(めでる)、止む・止める(やむ・やめる)、'''委ねる(ゆだねる)'''、赦す(ゆるす)、過ぎる(よぎる)、避ける(よける)、除ける(よける)、慶ぶ(よろこぶ)、解る・判る(わかる)、弁える(わきまえる)}} ; 形容詞・形容動詞の例 : {{JIS2004フォント|篤い(あつい)、愛しい(いとしい)、空ろ・虚ろ(うつろ)、旨い・美味い(うまい)、巧い・上手い(うまい)、疎か(おろそか)、微か(かすか)、頑(かたくな)、淑やか(しとやか)、'''拙い(つたない)'''、詳らか・審らか(つまびらか)、辛い(つらい)、温い(ぬるい)、惨い・酷い(むごい)、空しい・虚しい(むなしい)、易い(やすい)、邪(よこしま)、宜しい(よろしい)}} ; その他の品詞の例 : {{JIS2004フォント|敢えて(あえて)、予め(あらかじめ)、未だ(いまだ)、概ね(おおむね)、却って(かえって)、如し(ごとし)、頻りに(しきりに)、暫く(しばらく)、即ち・則ち(すなわち)、'''全て(すべて)'''、因みに(ちなみに)、遂に・終に(ついに)、序でに(ついでに)、尚(なお)、密かに(ひそかに)、先ず(まず)、妄りに・濫りに(みだりに)、寧ろ(むしろ)、以て(もって)、漸く(ようやく)}} ; 音読みの例 : {{JIS2004フォント|衣紋(「エ」モン)、壊死(「エ」シ)、隠密(「オン」ミツ)、公家(「ク」ゲ)、怪我(「ケ」ガ)、荘園(「ショウ」エン)、寿司(「ス」シ)、一途(イチ「ズ」)、下駄(ゲ「タ」)、'''堪能(「タン」ノウ)'''<ref>「堪」の音「カン」の備考欄に記されている。「堪」に音「タン」を追加したのではない。</ref>、刃傷(「ニン」ジョウ)、苗字(「ミョウ」ジ)、明朝体(「ミン」チョウタイ)}} ; 訓読みのその他の例 : {{JIS2004フォント|私達(わたし「たち」)、外様(「と」ざま)、愛娘(「まな」むすめ)}} ; 表外漢字の例 : だれ :「{{JIS2004フォント|誰}}(だれ)」文化庁の平成18年度[[世論調査]]により96.6%{{Efn2|name="C"|「よく使われていると思う」と「時々使われていると思う」の合計。}}が日常で用いると答えた漢字である<ref>[http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h18/kekka.html 平成18年度「国語に関する世論調査」の結果について]より。</ref>。 : ころ :「{{JIS2004フォント|頃}}(ころ)」同調査により、「{{JIS2004フォント|誰}}」と並んで高率(96.6%{{Efn2|name="C"}})を記録した漢字である。 その他、名詞、動詞、形容詞、あるいは地名などで頻繁に常用される漢字があり、一部は改定常用漢字表で追加された。しかし、同表は造語力(熟語の構成能力)に重点を置いているため、日常的に用いられるものでも「{{JIS2004フォント|噓}}」「{{JIS2004フォント|噂}}」「{{JIS2004フォント|叩く}}」「{{JIS2004フォント|嬉しい}}」などは追加しないと判断された。対して、造語力(熟語の構成能力)・読み取りの効率性という観点から、以下に挙げるような構成熟語を持つ漢字が追加された。 ; 表外漢字を用いた熟語で、改定常用漢字表で追加されたもの('''太字'''の漢字が該当。漢字は重複する場合もある。また[ ]でくくった熟語は字種は追加されたが、音訓は採られなかった。) : {{JIS2004フォント|'''藍'''色(あいいろ)、愛'''玩'''(あいがん)、'''挨拶'''(あいさつ)、'''曖昧'''(あいまい)、'''宛'''先(あてさき)、遺'''骸'''(いがい)、'''畏'''敬(いけい)、'''萎'''縮(いしゅく)、'''椅'''子(いす)、一目'''瞭'''然(いちもくりょうぜん)、一'''蹴'''(いっしゅう)、一'''旦'''(いったん)、'''畏'''怖(いふ)、'''咽喉'''(いんこう)、'''淫'''行(いんこう)、隠'''蔽'''(いんぺい)、右'''舷'''(うげん)、'''鬱'''積(うっせき)、'''鬱'''憤(うっぷん)、'''餌'''食(えじき)、'''怨'''恨(えんこん)、'''旺'''盛(おうせい)、'''臆'''病(おくびょう)、'''怨'''念(おんねん)、'''怨'''霊(おんりょう)、'''骸'''骨(がいこつ)、'''楷'''書(かいしょ)、'''潰瘍'''(かいよう)、'''瓦'''解(がかい)、['''鶴'''首(かくしゅ)]、覚'''醒'''(かくせい)、'''苛'''酷(かこく)、'''牙'''城(がじょう)、喝'''采'''(かっさい)、'''葛藤'''(かっとう)、歌舞'''伎'''(かぶき)、'''鎌'''倉(かまくら)、'''釜'''飯(かまめし)、'''苛'''烈(かれつ)、'''玩'''具(がんぐ)、間'''隙'''(かんげき)、元'''旦'''(がんたん)、完'''璧'''(かんぺき)、['''伎'''楽(ぎがく)]、危'''惧'''(きぐ)、'''毀'''損(きそん)、'''嗅'''覚(きゅうかく)、牛'''丼'''(ぎゅうどん)、'''亀'''裂(きれつ)、禁'''錮'''(きんこ)、'''僅'''差(きんさ)、'''錦'''糸(きんし)、'''巾'''着(きんちゃく)、暗'''闇'''(くらやみ)、愚'''弄'''(ぐろう)、形'''骸'''(けいがい)、'''稽'''古(けいこ)、軽'''蔑'''(けいべつ)、血'''痕'''(けっこん)、['''拳'''骨(げんこつ)]、'''拳'''銃(けんじゅう)、謙'''遜'''(けんそん)、'''鍵'''盤(けんばん)、'''拳'''法(けんぽう)、語'''彙'''(ごい)、口'''蓋'''(こうがい)、'''梗'''概(こうがい)、['''虹'''彩(こうさい)]、'''梗塞'''(こうそく)、小'''唄'''(こうた)、'''勾'''配(こうばい)、'''傲'''慢(ごうまん)、'''股'''間(こかん)、滑'''稽'''(こっけい)、語'''呂'''(ごろ)、'''痕'''跡(こんせき)、才'''媛'''(さいえん)、'''采'''配(さいはい)、菜'''箸'''(さいばし)、'''挫'''傷(ざしょう)、'''挫'''折(ざせつ)、'''沙汰'''(さた)、残'''骸'''(ざんがい)、三角'''巾'''(さんかくきん)、参'''詣'''(さんけい)、'''斬'''新(ざんしん)、三'''昧'''(さんまい)、山'''麓'''(さんろく)、'''恣'''意的(しいてき)、私'''怨'''(しえん)、死'''骸'''(しがい)、自'''嘲'''(じちょう)、['''膝'''下(しっか)]、'''𠮟''責(しっせき)、失'''踪'''(しっそう)、'''嫉妬'''(しっと)、遮'''蔽'''(しゃへい)、'''羞'''恥(しゅうち)、充'''塡 '''(じゅうてん)、[熟'''柿'''(じゅくし)]、'''呪'''縛(じゅばく)、'''呪'''文(じゅもん)、'''腫瘍'''(しゅよう)、上'''顎'''(じょうがく)、'''憧憬'''(しょうけい)、焼'''酎'''(しょうちゅう)、浄'''瑠璃'''(じょうるり)、食'''膳'''(しょくぜん)、所'''詮'''(しょせん)、処方'''箋'''(しょほうせん)、真'''摯'''(しんし)、親'''戚'''(しんせき)、'''腎'''臓(じんぞう)、進'''捗'''(しんちょく)、親'''睦'''(しんぼく)、辛'''辣'''(しんらつ)、推'''戴'''(すいたい))、['''誰'''何(すいか)]、頭'''蓋'''(ずがい)、頭'''巾'''(ずきん)、砂'''嵐'''(すなあらし)、'''凄'''惨(せいさん)、[清'''拭'''(せいしき)]、精'''緻'''(せいち)、整'''頓'''(せいとん)、[青'''嵐'''(せいらん)]、'''脊'''髄(せきずい)、'''脊椎'''(せきつい)、'''刹那'''(せつな)、'''詮'''索(せんさく)、'''煎'''茶(せんちゃ)、'''煎餅'''(せんべい)、'''羨'''望(せんぼう)、全'''貌'''(ぜんぼう)、戦'''慄'''(せんりつ)、['''爪牙'''(そうが)]、'''爽'''快(そうかい)、雑'''巾'''(ぞうきん)、巣'''窟'''(そうくつ)、象'''牙'''(ぞうげ)、造'''詣'''(ぞうけい)、'''痩'''身(そうしん)、装'''塡'''(そうてん)、双'''璧'''(そうへき)、僧'''侶'''(そうりょ)、'''遡'''及(そきゅう)、'''狙'''撃(そげき)、'''遡'''行(そこう)、'''遜'''色(そんしょく)、'''戴'''冠(たいかん)、'''堆'''積(たいせき)、'''堆'''肥(たいひ)、'''唾'''液(だえき)、'''唾'''棄(だき)、竹'''串'''(たけぐし)、脱'''臼'''(だっきゅう)、断'''崖'''(だんがい)、'''旦那'''(だんな)、'''緻'''密(ちみつ)、'''嘲'''笑(ちょうしょう)、頂'''戴'''(ちょうだい)、'''貼'''付(ちょうふ)、'''諦'''観(ていかん)、'''溺'''愛(できあい)、'''溺'''死(できし)、洞'''窟'''(どうくつ)、'''瞳'''孔(どうこう)、陶'''冶'''(とうや)、灯'''籠'''(とうろう)、毒'''牙'''(どくが)、'''賭'''博(とばく)、'''頓挫'''(とんざ)、'''貪'''欲(どんよく)、'''奈'''落(ならく)、'''捻挫'''(ねんざ)、'''捻'''出(ねんしゅつ)、俳'''諧'''(はいかい)、配'''膳'''(はいぜん)、'''剝'''製(はくせい)、'''剝'''奪(はくだつ)、'''剝'''落(はくらく)、'''剝'''離(はくり)、橋'''桁'''(はしげた)、'''罵'''声(ばせい)、破'''綻'''(はたん)、'''罵'''倒(ばとう)、'''斑'''点(はんてん)、'''汎'''用(はんよう)、'''氾'''濫(はんらん)、伴'''侶'''(はんりょ)、必'''須'''(ひっす)、美'''貌'''(びぼう)、白'''虎'''(びゃっこ)、比'''喩'''(ひゆ)、肥'''沃'''(ひよく)、便'''箋'''(びんせん)、風'''貌'''(ふうぼう)、布'''巾'''(ふきん)、浮'''腫'''(ふしゅ)、付'''箋'''(ふせん)、払'''拭'''(ふっしょく)、'''訃'''報(ふほう)、風'''呂'''(ふろ)、閉'''塞'''(へいそく)、'''蔑'''視(べっし)、変'''貌'''(へんぼう)、'''蜂'''起(ほうき)、捕'''捉'''(ほそく)、'''勃'''起(ぼっき)、'''勃'''興(ぼっこう)、'''勃'''発(ぼっぱつ)、補'''塡'''(ほてん)、'''哺'''乳(ほにゅう)、翻'''弄'''(ほんろう)、'''枕'''木(まくらぎ)、'''眉'''間(みけん)、未'''曽'''有(みぞう)、'''蜜'''月(みつげつ)、'''冥'''利(みょうり)、名'''刹'''(めいさつ)、'''冥'''土(めいど)、'''冥'''福(めいふく)、明'''瞭'''(めいりょう)、'''麺'''類(めんるい)、'''冶'''金(やきん)、憂'''鬱'''(ゆううつ)、'''湧'''水(ゆうすい)、'''妖艶'''(ようえん)、'''妖'''怪(ようかい)、要'''塞'''(ようさい)、'''妖'''精(ようせい)、容'''貌'''(ようぼう)、'''拉'''致(らち)、'''辣'''腕(らつわん)、['''梨'''園(りえん)]、領'''袖'''(りょうしゅう)、涙'''腺'''(るいせん)、'''籠'''城(ろうじょう)、賄'''賂'''(わいろ)、'''脇'''腹(わきばら)、和'''睦'''(わぼく)など}} * ただし、今回の改定では熟語の交ぜ書きや平仮名書きが完全に解消されるわけではない。 ; 表外漢字を用いた熟語で、改定常用漢字表で追加されなかったもの('''太字'''の漢字が該当。改定常用漢字表で追加された漢字は太字にしていない) : {{JIS2004フォント|愛'''嬌'''(あいきょう)、相'''槌'''(あいづち)、愛'''撫'''(あいぶ)、'''阿吽'''(あうん)、'''啞'''然(あぜん)、'''斡'''旋(あっせん)、'''軋轢'''(あつれき)、'''阿呆'''(あほう)、安'''堵'''(あんど)、'''鞍'''馬(あんば)、一'''縷'''(いちる)、一'''揆'''(いっき)、'''溢'''血(いっけつ)、位'''牌'''(いはい)、隠'''棲'''(いんせい)、'''隕'''石(いんせき)、'''迂'''回(うかい)、'''迂闊'''(うかつ)、'''烏'''合(うごう)、'''胡'''散(うさん)、'''卯'''月(うづき)、'''蘊'''蓄(うんちく)、'''曳'''航(えいこう)、'''婉'''曲(えんきょく)、'''淵'''源(えんげん)、'''冤'''罪(えんざい)、'''厭'''世(えんせい)、'''謳'''歌(おうか)、'''嘔'''吐(おうと)、'''桶'''屋(おけや)、'''邂逅'''(かいこう)、改'''竄'''(かいざん)、'''凱'''旋(がいせん)、'''乖'''離(かいり)、界'''隈'''(かいわい)、花'''卉'''(かき)、'''愕'''然(がくぜん)、'''攪拌'''(かくはん)、'''攪'''乱(かくらん)、'''恰'''幅(かっぷく)、'''闊'''歩(かっぽ)、割'''烹'''(かっぽう)、'''刮'''目(かつもく)、化'''膿'''(かのう)、'''蒲鉾'''(かまぼこ)、'''顆'''粒(かりゅう)、瓦'''礫'''(がれき)、可'''憐'''(かれん)、'''柑橘'''(かんきつ)、'''贋'''作(がんさく)、貫'''禄'''(かんろく)、義'''侠'''心(ぎきょうしん)、飢'''饉'''(ききん)、揮'''毫'''(きごう)、'''毅'''然(きぜん)、'''艤'''装(ぎそう)、忌'''憚'''(きたん)、'''几'''帳面(きちょうめん)、'''拮'''抗(きっこう)、祈'''禱'''(きとう)、'''杵'''柄(きねづか)、欺'''瞞'''(ぎまん)、急'''遽'''(きゅうきょ)、'''厩'''舎(きゅうしゃ)、急'''峻'''(きゅうしゅん)、'''仇'''敵(きゅうてき)、狭'''隘'''(きょうあい)、驚'''愕'''(きょうがく)、'''筐'''体または'''筺'''体(きょうたい)、強'''靱'''(きょうじん)、教'''鞭'''(きょうべん)、橋'''梁'''(きょうりょう)、'''綺'''麗(きれい)、金'''箔'''(きんぱく)、'''寓'''話(ぐうわ)、'''矩'''形(くけい)、苦'''悶'''(くもん)、'''燻'''製(くんせい)、'''慧'''眼(けいがん)、敬'''虔'''(けいけん)、'''罫'''線(けいせん)、啓'''蒙'''(けいもう)、'''痙攣'''(けいれん)、'''稀'''有(けう)、逆'''鱗'''(げきりん)、'''牽'''引(けんいん)、'''喧嘩'''(けんか)、研'''鑽'''(けんさん)、'''牽'''制(けんせい)、'''喧'''騒または'''喧噪'''(けんそう)、'''倦'''怠(けんたい)、'''喧'''伝(けんでん)、'''絢爛'''(けんらん)、堅'''牢'''(けんろう)、'''轟'''音(ごうおん)、'''狡猾'''(こうかつ)、強'''姦'''(ごうかん)、好々'''爺'''(こうこうや)、'''恍惚'''(こうこつ)、合'''祀'''(ごうし)、'''膠'''着(こうちゃく)、口'''蹄'''疫(こうていえき)、五臓六'''腑'''(ごぞうろっぷ)、'''姑'''息(こそく)、'''忽'''然(こつぜん)、骨'''董'''(こっとう)、誤'''謬'''(ごびゅう)、'''胡'''麻(ごま)、'''渾'''身(こんしん)、'''昏'''睡(こんすい)、混'''沌'''(こんとん)、紺'''碧'''(こんぺき)、'''梱'''包(こんぽう)、祭'''祀'''(さいし)、'''賽'''銭(さいせん)、錯'''綜'''(さくそう)、'''炸'''裂(さくれつ)、'''些'''細(ささい)、'''些'''事(さじ)、砂'''塵'''(さじん)、'''皐'''月(さつき)、殺'''戮'''(さつりく)、'''珊瑚'''(さんご)、'''弛'''緩(しかん)、歯'''垢'''(しこう)、'''嗜'''好(しこう)、'''獅'''子(しし)、刺'''繡'''(ししゅう)、湿'''疹'''(しっしん)、執'''拗'''(しつよう)、'''柴'''犬(しばいぬ)、'''灼'''熱(しゃくねつ)、'''惹'''起(じゃっき)、終'''焉'''(しゅうえん)、'''什'''器(じゅうき)、手'''榴'''弾(しゅりゅうだん、てりゅうだん)、'''竣'''工(しゅんこう)、'''浚渫'''(しゅんせつ)、'''哨'''戒(しょうかい)、上'''梓'''(じょうし)、'''瀟洒'''(しょうしゃ)、'''憔悴'''(しょうすい)、'''饒'''舌(じょうぜつ)、常'''套'''(じょうとう)、招'''聘'''(しょうへい)、'''醬'''油(しょうゆ)、'''擾'''乱(じょうらん)、'''熾'''烈(しれつ)、震'''撼'''(しんかん)、'''蜃'''気楼(しんきろう)、'''靱'''帯(じんたい)、信'''憑'''性(しんぴょうせい)、推'''敲'''(すいこう)、'''彗'''星(すいせい)、枢機'''卿'''(すうききょう)、'''趨'''勢(すうせい)、精'''悍'''(せいかん)、'''脆'''弱(ぜいじゃく)、清'''楚'''(せいそ)、'''棲'''息(せいそく)、'''贅'''沢(ぜいたく)、石'''鹸'''(せっけん)、'''僭'''越(せんえつ)、'''閃'''光(せんこう)、前'''哨'''(ぜんしょう)、'''剪'''定(せんてい)、'''尖'''兵(せんぺい)、'''餞'''別(せんべつ)、先'''鞭'''(せんべん)、'''殲'''滅(せんめつ)、'''蒼穹'''(そうきゅう)、操'''舵'''(そうだ)、'''蒼'''白(そうはく)、'''聡'''明(そうめい)、'''搔痒'''(そうよう)、'''齟齬'''(そご)、'''蘇'''生(そせい)、対'''峙'''(たいじ)、'''楕'''円(だえん)、'''托'''鉢(たくはつ)、脱'''兎'''(だっと)、'''竪'''穴(たてあな)、'''拿'''捕(だほ)、玉'''葱'''(たまねぎ)、'''箪笥'''(たんす)、'''蛋'''白(たんぱく)、'''耽'''美(たんび)、団'''欒'''(だんらん)、痴'''呆'''(ちほう)、茶'''碗'''(ちゃわん)、'''躊躇'''(ちゅうちょ)、'''厨'''房(ちゅうぼう)、'''寵'''愛(ちょうあい)、'''寵'''児(ちょうじ)、'''諜'''報(ちょうほう)、'''凋'''落(ちょうらく)、'''猪'''突(ちょとつ)、天'''狗'''(てんぐ)、伝書'''鳩'''(でんしょばと)、伝'''播'''(でんぱ)、天'''秤'''(てんびん)、'''澱'''粉(でんぷん)、'''顚'''末(てんまつ)、'''砥'''石(といし)、投'''函'''(とうかん)、動'''悸'''(どうき)、島'''嶼'''(とうしょ)、同'''棲'''(どうせい)、'''淘'''汰(とうた)、投'''擲'''(とうてき)、'''獰'''猛(どうもう)、'''逗'''留(とうりゅう)、棟'''梁'''(とうりょう)、怒'''濤'''(どとう)、土'''嚢'''(どのう)、'''捺'''印(なついん)、軟'''膏'''(なんこう)、任'''侠'''(にんきょう)、'''捏'''造(ねつぞう)、'''胚'''芽(はいが)、'''徘徊'''(はいかい)、廃'''墟'''(はいきょ)、排'''泄'''(はいせつ)、'''莫'''大(ばくだい)、'''播'''種(はしゅ)、'''爬'''虫類(はちゅうるい)、発'''疹'''(はっしん)、'''撥'''水(はっすい)、抜'''擢'''(ばってき)、馬鈴'''薯'''(ばれいしょ)、'''挽'''回(ばんかい)、晩'''餐'''(ばんさん)、反'''芻'''(はんすう)、'''絆'''創'''膏'''(ばんそうこう)、範'''疇'''(はんちゅう)、反'''駁'''(はんばく)、'''贔屓'''(ひいき)、卑'''怯'''(ひきょう)、秘'''訣'''(ひけつ)、'''庇'''護(ひご)、'''彦'''星(ひこぼし)、飛'''翔'''(ひしょう)、悲'''愴'''感(ひそうかん)、'''逼'''迫(ひっぱく)、被'''曝'''(ひばく)、'''誹謗'''(ひぼう)、飛'''沫'''(ひまつ)、'''媚'''薬(びやく)、'''瓢箪'''(ひょうたん)、'''豹'''変(ひょうへん)、標'''榜'''(ひょうぼう)、披'''瀝'''(ひれき)、疲労困'''憊'''(ひろうこんぱい)、卑'''猥'''(ひわい)、'''瀕'''死(ひんし)、敏'''捷'''(びんしょう)、封'''緘'''(ふうかん)、風光明'''媚'''(ふうこうめいび)、風'''靡'''(ふうび)、'''孵'''化(ふか)、'''俯瞰'''(ふかん)、復'''讐'''(ふくしゅう)、'''埠'''頭(ふとう)、不'''憫'''(ふびん)、'''焚'''書(ふんしょ)、粉'''塵'''(ふんじん)、'''扮'''装(ふんそう)、'''糞'''尿(ふんにょう)、分'''娩'''(ぶんべん)、憤'''懣'''(ふんまん)、平'''坦'''(へいたん)、'''僻'''地(へきち)、'''扁'''額(へんがく)、編'''纂'''(へんさん)、'''鞭撻'''(べんたつ)、辺'''鄙'''(へんぴ)、片'''鱗'''(へんりん)、'''萌'''芽(ほうが)、'''幇'''助(ほうじょ)、豊'''饒'''(ほうじょう)、豊'''穣'''(ほうじょう)、芳'''醇'''(ほうじゅん)、防'''錆'''(ぼうせい)、'''茫'''然(ぼうぜん)、放'''蕩'''(ほうとう)、冒'''瀆'''(ぼうとく)、'''彷彿'''または'''髣髴'''(ほうふつ)、歩'''哨'''(ほしょう)、'''菩'''提(ぼだい)、'''邁'''進(まいしん)、末'''裔'''(まつえい)、末'''梢'''(まっしょう)、麻'''痺'''(まひ)、'''蔓'''延(まんえん)、'''曼荼'''羅(まんだら)、微'''塵'''(みじん)、水'''飴'''(みずあめ)、味'''噌'''(みそ)、無'''垢'''(むく)、明'''晰'''(めいせき)、'''瞑'''想(めいそう)、'''蒙'''昧(もうまい)、'''朦朧'''(もうろう)、黙'''禱'''(もくとう)、'''勿'''論(もちろん)、'''悶'''絶(もんぜつ)、'''悶'''着(もんちゃく)、'''揶揄'''(やゆ)、羊'''羹'''(ようかん)、'''傭'''兵(ようへい)、横'''槍'''(よこやり)、'''烙'''印(らくいん)、'''螺'''旋(らせん)、'''爛'''熟(らんじゅく)、'''爛'''漫(らんまん)、'''罹'''災(りさい)、'''溜'''飲(りゅういん)、流'''暢'''(りゅうちょう)、'''凌駕'''(りょうが)、'''黎'''明(れいめい)、漏'''洩'''(ろうえい)、'''狼藉'''(ろうぜき)、'''狼狽'''(ろうばい)、'''濾'''過(ろか)、'''肋'''骨(ろっこつ)、'''歪'''曲(わいきょく)、'''矮'''小(わいしょう)}}など --> == 実際には使用されないもの == [[日本国憲法]]に用いられている漢字は全て当用漢字表に採られ、常用漢字表にも引き継がれている{{Efn2|ただし上諭に用いられている「詢」は当用漢字・常用漢字ではない。}}。一般的に用いられない漢字が常用漢字である一因はこのためである。 ; 『[[公用文作成の要領]]』において「常用漢字表にあるものであっても,仮名で表記するもの」とされているもの{{Efn2|『法令における漢字使用等について(平成22年11月30日内閣法制局長官決定)』「1 漢字使用について(4)」。なお本決定以前は『法令用語改正要領』「第五 常用漢字表にあっても、かなで書くもの」において同旨が定められていた。}} :* {{JIS2004フォント|虞}}、 {{JIS2004フォント|恐}}れ:「おそれ」 :* {{JIS2004フォント|且}}:「かつ」 :* {{JIS2004フォント|従って}}(接続詞):「したがって」、動詞「したがう」の活用として用いる場合は「従って」と表記。 :* {{JIS2004フォント|但し}}:「ただし」 :* {{JIS2004フォント|但書}}:「ただし書」 :* {{JIS2004フォント|外}}、{{JIS2004フォント|他}}:「ほか」 :* {{JIS2004フォント|又}}:「また」(ただし,「'''または'''」は「又は」と表記する。) :* {{JIS2004フォント|因る}}:「よる」 ; 常用漢字表にある字種だが、日本新聞協会新聞用語懇談会が使用しないことを決めた7字{{Sfn|新聞用語集|p=4}}{{Sfn|NHK漢字表記辞典|p=14}} :* {{JIS2004フォント|虞}}(おそれ):『新聞用語集』「用字用語集」では「恐れ」の表記が示され、『NHK漢字表記辞典』では「おそれ」の表記が採られている。常用漢字表外の音に「グ」があり、熟語として虞美人、虞犯などがある。報道関係では「虞犯」は「犯罪予備軍」「非行少年」などに言い換えている。 :* {{JIS2004フォント|且}}(かつ):「かつ」は副詞で「同時に」、接続詞で「それに加えて」という意味があるが、仮名書きが一般的であるとして、新聞社などマスメディアでは漢字を用いない。 :* {{JIS2004フォント|遵}}(ジュン):「決められた規則などに従う」という意味。遵守、遵法などの熟語があるが、『新聞用語集』『NHK漢字表記辞典』共に{{JIS2004フォント|順守}}、{{JIS2004フォント|順法}}など、同音の「順」とする表記を採る。 :* {{JIS2004フォント|朕}}(チン):かつての天皇の一人称。使用頻度が低いとして使用しないこととされている。『新聞用語集』「用字用語集」に表記例は示されず、『NHK漢字表記辞典』では仮名書きすることが示されている。 :* {{JIS2004フォント|但}}(ただし):仮名書きが一般的であるとして漢字を使用しないこととされている。 :* {{JIS2004フォント|附}}(フ):同音の「付」に書き換える。新聞では学校名や病院名など固有名詞に含まれる「附属」も「付属」とする表記が行われる{{Sfn|記者ハンドブック|p=415}}{{Sfn|最新用字用語ブック|p=415}}{{Sfn|読売新聞用字用語の手引|p=323}}。『NHK漢字表記辞典』では固有名詞では「附属」の表記も認めている{{Sfn|NHK漢字表記辞典|p=493}}。 :* {{JIS2004フォント|又}}(また):仮名書きが一般的であるとして漢字を使用しないこととされている。公用文とは違い「または」も仮名書きにする。 ; 用途が限られる常用漢字 :* {{JIS2004フォント|畝}}(うね・せ):「{{JIS2004フォント|畝}}」(せ)は尺貫法の面積の単位で、反の十分の一。2010年の改定で「せ」の読みが常用漢字表から削除された。「うね」は畑の土盛りの部分。農業関係者を除き用いる機会はまれである。 :* {{JIS2004フォント|璽}}(ジ):「{{JIS2004フォント|璽}}」とは天子(皇族)の印のこと。{{JIS2004フォント|国璽}}、{{JIS2004フォント|御璽}}、{{JIS2004フォント|印璽}}などといった熟語があるが、日常で用いられることは極めて少ない。 :* {{JIS2004フォント|朕}}(チン):「{{JIS2004フォント|朕}}」は天皇の旧一人称。現在は「{{JIS2004フォント|私}}」(わたくし)を用いているが、日本国憲法の[[上諭#日本国憲法における上諭|上諭]]で使われている。他は[[西洋史]]において「朕は国家なり」という諺が使用される程度で、日常で用いることは極めてまれである。 ; 尺貫法で用いられる常用漢字 :* {{JIS2004フォント|斤}}(キン):「{{JIS2004フォント|斤}}」は[[尺貫法]]で用いられる質量の単位であり、江戸時代は貨幣の単位にも用いられた。削除が検討され、[[人名用漢字]]になる予定だったが、慣習的に[[食パン]]を数える単位として用いられるため常用漢字に残された。熟語として斤量などがあるが、[[競馬]]において頻用されるほかはあまり用いられていない。 ; 世論調査によって、あまり使用しないと回答された漢字 :* {{JIS2004フォント|逓}}(テイ):「{{JIS2004フォント|逓}}」は「一定の数だけ〜していく」という意味。熟語として{{JIS2004フォント|逓信}}、{{JIS2004フォント|逓増}}、{{JIS2004フォント|逓減}}があり、かつて日本では1946年まで[[逓信省]]という[[日本の行政機関|行政機関]]が存在し、また現在の[[日本郵政グループ労働組合]]の前身の一つとなる[[労働組合]]は2004年まで「[[全逓信労働組合]](全逓)」を名乗っていた。世論調査によって、6割以上の人があまり使用しないと回答した漢字の一つである{{Efn2|name="h18chosa"|[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/h18/ 平成18年度「国語に関する世論調査」の結果について]によると「あまり使われていないと思う」と「全く使われていないと思う」の合計で「逓」は60.5%、「遵」は60.1%となる。このほかには「{{JIS2004フォント|謄}}」「{{JIS2004フォント|弐}}」「{{JIS2004フォント|厘}}」も調査されたが、「あまり使われていないと思う」と「全く使われていないと思う」の合計は約3割程度である。}}。 :* {{JIS2004フォント|遵}}(ジュン):「{{JIS2004フォント|逓}}」同様に、世論調査によって、6割以上の人があまり使用しないと回答した漢字の一つである{{Efn2|name="h18chosa"}}。 == 字体・字形に関する指針(報告) == 近年、手書き文字と印刷文字の表し方に習慣に基づく違いがあることが理解されにくくなっている。また、文字の細部に必要以上の注意が向けられ、正誤が決められる傾向が生じている。 [[文化庁]]では、平成26年度から[[文化審議会]][[文化審議会#国語分科会|国語分科会]]漢字小委員会において、「手書き文字の字形」と「印刷文字の字形」に関する指針の作成」に関して検討を進めていたが、その検討結果が国語分科会で「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」(案)として示された<ref>[https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/joyokanjihyo_sakuin/index.html 文化庁:「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」の代表音訓索引]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = 新聞用語懇談会編 |year = 2010 |title = 2010年「改定常用漢字表」対応 新聞用語集 追補版 |publisher = 日本新聞協会 |url = http://www.pressnet.or.jp/publication/book/pdf/shimbun_yogo.pdf |ref = {{SfnRef|新聞用語集}} |format = PDF }} *{{Cite book|和書 |author = [[NHK放送文化研究所]]編 |year = 2011 |title = NHK漢字表記辞典 |publisher = [[NHK出版]] |isbn = 978-4140112991 |ref = {{SfnRef|NHK漢字表記辞典}} }} *{{Cite book|和書 |year = 2016 |title = 記者ハンドブック |edition = 第13版 |publisher = [[共同通信社]] |isbn = 978-4764106871 |ref = {{SfnRef|記者ハンドブック}} }} *{{Cite book|和書 |year = 2016 |title = 最新用字用語ブック |edition = 第7版 |publisher = [[時事通信社]] |isbn = 978-4788714502 |ref = {{SfnRef|最新用字用語ブック}} }} *{{Cite book|和書 |year = 2017 |title = 読売新聞用字用語の手引 |edition = 第5版 |publisher = [[中央公論新社]] |isbn = 978-4120049712 |ref = {{SfnRef|読売新聞用字用語の手引}} }} == 関連項目 == {{Wiktionary|Wiktionary:常用漢字の一覧}} * [[常用漢字一覧]] * [[教育漢字]] * [[人名用漢字]] * [[表外漢字字体表]]([[印刷標準字体]]) - [[表外漢字字体表の漢字一覧]] * [[当用漢字]] * [[国語国字問題]] * [[学習指導要領]] * [[新聞常用漢字表]] * [[JIS漢字コード]] == 外部リンク == *[https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/kanji/ 内閣告示・内閣訓令 | 常用漢字表(平成22年内閣告示第2号)] - [[文化庁]] * [https://www.aozora.gr.jp/kanji_table/ 漢字表一覧] - [[青空文庫]] * [https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/shoiinkai/ 漢字小委員会] - [[文化庁]] * [https://internet.watch.impress.co.jp/cda/jouyou/2008/06/19/19998.html INTERNET Watch “情報化時代”に追いつけるか? 審議が進む「新常用漢字表(仮)」] * [{{NDLDC|933056}} 誤れる文字文章と正しき用字法 (近代デジタルライブラリー)] 大町桂月 1918年 * [https://books.google.co.jp/books?id=gRIjCULboygC&pg=frontcover 誤れる文字文章 第八版 (Google Books)] 大町桂月 1918年 * {{PDFlink|[http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/publications/UAKIS2017.pdf 日本・中国・台湾・香港・韓国の 常用漢字と漢字コード]}} * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようようかんし}} [[Category:日本の漢字]] [[Category:日本の言語政策]]
2003-02-13T19:07:22Z
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ノーベル賞
ノーベル賞()は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。 ただし経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環として、ノーベルの死後70年後にあたる1968年に設立されたものである。ノーベル財団は経済学賞(アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)を「ノーベル賞ではない」としている。 ノーベル賞は、スウェーデン語では Nobelpris(et)(ノベルプリース/ノベルプリーセット)、ノルウェー語ではNobelpris(en)(ノベルプリース(ン))という。1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行われた。一方、ノーベル経済学賞は1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われた。 賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベル(1833年10月21日 - 1896年12月10日)は、スウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをはじめとするさまざまな爆薬の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし、爆薬や兵器を元に富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄のルードヴィがカンヌにて死去するが、このときフランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道した。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去するが、遺言は死の1年以上前の1895年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されていた。 この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94パーセント、3100万スウェーデン・クローナに及んだ。周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されなかった。その後、彼の遺志を継ぐためにラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストがノーベル財団設立委員会を結成し、賞設立の準備を行った。賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされた。1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、6月7日にはカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて選考体制は整った。賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令がスウェーデン国王オスカル2世(1905年まで兼ノルウェー国王)によって公布された。同年、科学者のスヴァンテ・アレニウスもノーベル賞の創設に関わり、1901年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれたが、これには反対の声もあった。その後はノーベル委員会の物理学部門の委員となり、化学部門でも事実上の委員として活動した。彼はその立場を利用して友人(ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ、ヴィルヘルム・オストヴァルト、セオドア・リチャーズ)にノーベル賞を受賞させるよう誘導し、敵対する科学者(パウル・エールリヒ、ヴァルター・ネルンスト)には受賞させないよう画策した(画策は成功しなかった)。1903年、アレニウス自身もスウェーデン人初のノーベル化学賞を受賞した。1905年にノルウェーとスウェーデンは同君連合を解消したが、両国分離後も授与機関は変更されなかった。 ノーベル賞はその歴史と伝統などから権威が高く、ノーベル賞に部門のない分野における権威のある賞が「〇〇のノーベル賞」と呼ばれたり(ある分野のノーベル賞として知られる賞の一覧を参照)、不可能に近いことやきわめて困難なことの例えに比喩的にノーベル賞が使われたりする(「それができたらノーベル賞を取れる」など)。 賞は「生理学・医学賞」「物理学賞」「化学賞」「文学賞」「平和賞」および経済学賞の各部門からなる。 特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門における受賞は、科学分野における世界最高の栄誉であると考えられている。近年は生理学・医学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきている。また世界的に関心の高い分野への受賞など社会的なメッセージともとれる例がある。 経済学賞について、ノーベル財団は同賞をノーベル賞とは認めておらず、この賞を正式名称(「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」)または「ノーベル」を冠しない「経済学賞」と呼ぶ。なお、経済学賞の創設後、環境、数学、建築、音楽など様々な分野の関係者から経済学賞と同様に費用を負担するので「ノーベル記念賞」を創設してほしいとの申し出があったが、新設されていない。 複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができる。ただし、同時受賞者の立場は対等とは限らず、受賞者の貢献度(Prize share)に応じて賞金が分割される。なお、性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められている。また、基本的に個人にのみ与えられる賞であるが、平和賞のみ団体の受賞が認められており、過去に国境なき医師団やICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)などが受賞している。 選考は「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。 ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表される。よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになるが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実である。トムソン・ロイター社は旧トムソン時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表しており、2017年以降は同事業を引き継いだクラリベイト・アナリティクスがクラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞としてノーベル賞候補を選定発表している。これは近年の論文の引用数などから算出したものである。ただし、ノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いため、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではない。最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっており、マスコミの事前予測が難しい所以である。 1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例としては、1931年の文学賞を受賞したエリク・アクセル・カールフェルト、1961年の平和賞を受賞したダグ・ハマーショルドが授賞決定発表時に故人であった。 1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされている。2011年には、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明し、問題となった。ただし、授賞決定発表のあとに本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはない。スタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まった。 授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる。 2020・21年は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響により、授賞式は招待を行わずオンライン形式で実施し、受賞者は自国でメダルと賞状を授与する方式に変更された。 2022年、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、同年の授賞式にロシアやロシアを支持するベラルーシ、さらに人権問題と反政府デモ抑圧などを理由にイランの駐在大使を招待しなかったが、翌2023年の授賞式にノーベル財団は同年8月31日、「世界がどんどん分断され、異なる意見を持つ者の対話が減っている。こうした傾向に対抗したい」としてロシア、ベラルーシ、イランを含むノルウェー、スウェーデンに駐在するすべての大使を招待することを声明で発表していた。しかし、この決定にスウェーデンやウクライナを中心に世界各国から反発の意見が上がったこともあり、2日後の同年9月2日、財団は「スウェーデンでの強い反応が、(財団の)メッセージを覆い隠してしまった」として、ロシア、ベラルーシ、イランの授賞式招待を撤回した。一方、オスロで行われる平和賞の授賞式は「すべての大使を招待することになる」とした。 授賞式終了後、平和賞以外はストックホルム市庁舎(1930年まではストックホルムのグランドホテルの舞踏室)で、スウェーデン王室および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われる。王室、受賞者などが階段を上がり、2階の別室へと退場したあと晩餐会は散会となり、そのまま2階のゴールデンホールという大きな部屋で舞踏会が始まる。平和賞の晩餐会はオスロのグランドホテルで行われ、こちらにはノルウェーの国会、首相および2006年以降はノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれている。1979年の平和賞の晩餐会は、受賞者のマザー・テレサが「貧しい人にお金を使ってください」として出席を辞退、開催を中止させ、晩餐会に使うはずだった7,000USドルの費用はインドのコルカタ(旧名:カルカッタ)の2,000人のホームレスへのクリスマスの夕食に使われた。晩餐会が中止になった最初の例で、前述の通り2020・21年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響により、晩餐会などの関連行事も中止となった。 1991年にノーベル賞90周年事業の一環として、晩餐会に使う食器類をすべてスウェーデン製に置き換えようとしたが、カトラリーだけはその複雑なデザインゆえに仕上げ研磨ができる技術が国内になく、カトラリーのデザインを担当したゴナ・セリンが懇意にしていた新潟県燕市の山崎金属工業に依頼した。食器類など授賞式に使う調度品は、普段は厳重に鍵のかかった倉庫に保管されており、ノーベル賞の晩餐会にのみ使用される。晩餐会で使用されるカトラリーセットは「ノーベルデザインカトラリー」として一般向けにも販売されている。 ドレスコードは燕尾服もしくはナショナルドレス(民族衣装)であるため、川端康成や本庶佑は紋付羽織袴で出席している。 受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっている。その後、受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願って一斉に「蛙跳び」をするのが慣例となっている。 受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられる。受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としている。ただし「経済学賞」は1968年に創設され1969年から授与されたが、その原資はスウェーデン国立銀行の基金による。 ノーベル賞の賞金は、過去幾度も変動してきた。ノーベルは遺産を安全な有価証券にすることを指定しており、このため得られる利子額は長年にわたって低いものであり、賞金もそれに連動して設立当初より相対的に低い額にとどまっていた。こうした状況は1946年にノーベル財団が免税となったことと、1950年代に株式への投資が解禁されたことによって改善され、1990年代には設立当初の賞金レベルを回復した。2001年から現在まで賞金額は1000万スウェーデン・クローナ(約1億円)である。しかしスウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったことなどを理由として、2012年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8900万円)とすることを決めた。 なお、日本においてはノーベル賞の賞金は所得税法第9条第1項第13号ホにあるように、所得税は非課税となっている。これは、1949年に湯川秀樹が日本人として初のノーベル賞を受賞した際に、賞金への課税について論争が起こったのを受けて改正されたものである。 受賞時に渡されるメダルは1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されている。1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回からの授与となっている。 メダルには表面にアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されている。表面のデザインは物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞では同じであるが、平和賞と経済学賞では若干異なる。裏面のデザインは賞によって異なるが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっている。1980年以前のメダルは24Kの純金であったが、落としただけで曲がってしまったり、傷がつきやすいということもあり、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されている。重量は約200グラム、直径約6.6センチ。 メダルのレプリカは、受賞者本人が上限を3個として作成してもらうことが許可されている。 2010年までは、スウェーデン政府の機関が制作していたが、予算削減のため2011年からノルウェーの企業に委託されることになった。しかし国内での製造を望む国民の要望が多かったため、2012年からスウェーデンの民間企業で製造されることが決定した。 ガムラスタンにあるノーベル博物館には、ノーベル賞のメダルを模した「メダルチョコ」が売られており、観光客だけではなく授賞式に訪れた受賞者本人も土産として購入するという。益川敏英はこのチョコレートを600個も買い込んで話題となった。 受賞者がメダルを売却する事例もあり、1962年に生理学・医学賞を受賞しフランシス・クリックは死後の2013年、共同受賞者のジェームズ・ワトソンは経済的な理由から2014年、2021年に平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフ所有のメダルが2022年、それぞれオークションを通じて第三者に譲渡された。 前述のようにノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、1920年代に日本人の山極勝三郎がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明らかになっている。また、元国連大使の松平康東は、1930年代に呉建がノミネートされた際には日本が枢軸国であったことで受賞に至らなかったとしている。欧米以外の国で研究活動を行った非欧米人では、1930年にインド人のチャンドラセカール・ラマンが物理学賞を受賞したのが最初である。日本人である湯川秀樹(1949年受賞)、朝永振一郎(1965年受賞)らがやはり物理学賞で受賞している。 ノーベル賞は受賞者が自然人の場合、「本人が生存中」が受賞条件だが、かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、そのケースに当てはまる受賞者には、1931年文学賞のエリク・アクセル・カールフェルトと、1961年平和賞のダグ・ハマーショルドがいる。1973年から、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要があるが、その後死亡しても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されなかった。2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人が3日前に死亡していたことが判明したが、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになった。 これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、以下のとおりである。 ドーマクは戦後の1947年、クーン、ブーテナントは1949年、パステルナークは没後に遺族が賞を受け取ったとされているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。 ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、そして当時のノルウェーには自主的外交権がなかったために平和賞の選考には常に中立性が期待できたことなどが理由と考えられている。 1929年の生理学・医学賞はビタミンB1の発見によりオランダのクリスティアーン・エイクマンに贈られているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素(ビタミン)が存在することを示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニンとして分離・抽出したのは日本の鈴木梅太郎である。 1926年の生理学・医学賞は寄生虫によるガン発生を唱えたデンマークのヨハネス・フィビゲルに贈られ、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎が受賞を逃している。後年、フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆されている。 ポルトガルのエガス・モニスはロボトミー手術を確立したことで1949年の生理学・医学賞を受賞しているが、ロボトミーは効果が限定的であるにもかかわらず副作用や事故が多く、またその後向精神薬が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいなかった。 文学賞は、過去には歴史書や哲学書の著者にも贈られたことがあったが、1953年にイギリス首相のウィンストン・チャーチルが自著『第二次世界大戦回顧録』を理由に文学賞を受賞したことで選考対象の定義をめぐる論争が起こった。結局これ以降、2016年にアメリカのシンガーソングライター・ミュージシャンのボブ・ディランが受賞するまで純文学の著者による受賞が続くことになる。 戦争を起こした当事者が平和賞を受賞したこともある。キャンプ・デービッド合意によりエジプトとイスラエルの間に和平をもたらしたことが評価され、1978年の平和賞はエジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエル首相のメナヘム・ベギン首相に贈られたが、そもそもその仲介役としてアメリカの重い腰を上げさせるために第四次中東戦争を企画し、イスラエルへの奇襲作戦を主導したのはそのサダト自身だった。結果的にサダトの狙いは的中したが、これは外交手段の一環として引き起こした戦争を恒久的平和にまで持ち込むことに成功した稀な例となった。一方、サダトとベギン両首脳に実に12日間にもわたってワシントンD.C.郊外の大統領保養地キャンプ・デービッドを自由に使わせ、難航する和平会談の成功に奔走したアメリカのジミー・カーター大統領が、この両首脳とともに平和賞を受賞しなかったことに対しては疑問を唱える声が各方面から上がった。そのカーターには2002年になって「数十年間にわたり国際紛争の平和的解決への努力を続けた」ことなどを理由に、遅ればせながらの平和賞が贈られている。 平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがあることから、受賞者の国の政府から反発を受けることがよくある。その例として、ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキー、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフ、中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世、ポーランド民主化運動を主導した「連帯」のレフ・ワレサ、南アフリカの人種隔離政策を批判したデズモンド・ツツ主教、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチー、中国の人権侵害を批判し民主化を訴えた劉暁波などが挙げられる。 1958年に文学賞を受賞したボリス・パステルナークは、ソ連政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされた。それでもノーベル委員会は彼に一方的に賞を贈っている。 1925年に文学賞を受賞したバーナード・ショーは、ノーベル賞について「ダイナマイトを発明したのは、まだ許せるとしても、ノーベル文学賞を考え出すなんて言語道断だ」「殺生と破壊の手段であるダイナマイトを発明して金を儲けたノーベルの罪も大きいが、世界の人材を序列化するノーベル賞を作ったのは最もゆるせない罪だ」などと皮肉し、受賞するまでに何度も受賞を拒んだことがある。 ノーベルの遺言は3通ある。書かれた年次は、順に1889年、1893年、1895年である。1889年の初めて書かれた遺言は破棄されている。 1893年に書かれた2通目は、もっとも形式が整ったものである。具体的な金額が盛り込まれておらず、遺産分配の割合が記されていた。親類・仕事仲間・友人らへ20パーセントを与え、協会や研究所などに16パーセントを寄付し、残りの64パーセントを基金の設立のためにストックホルムの科学アカデミーに移譲するという内容であった。 1895年に書かれた3通目は、ノーベルが翌年夏、ストックホルム・エンシルダ銀行に保管した。2通目以前を無効とする旨が明記されているが、2通目との違いは大きく分けて2点ある。1つは個人相続分が具体的な金額で示され、結果として2通目と比べた総額は実質的に3分の1程度に縮小された点である。内訳は次の通り。なお、兄ロベルトの子供たち4人その他には生前にそれぞれ2万クローナが振り込まれた。 2通目との相違における第2点は、文学賞、医学賞、平和賞の選考主体を新たに指定した点である。これらの選考がスウェーデン王立科学アカデミーには難しいとノーベルが考えていたことが推測されている。 なお、3通目の終わりで指名された遺言執行人は、ラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストの2人である。 2017年以降、クラリベイト・アナリテイクスは、同社が運営する代表的なサイテーションインデックス(学術文献引用データベース)のWeb of Scienceの情報に基づいて、ノーベル賞の有力候補者の予想としてクラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞を発表している。2011年のノーベル賞においては、自然科学系の3賞と経済学賞の受賞者9人全員が、過去にトムソン・ロイター引用栄誉賞(現・クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞)で候補に挙げられていた。 ノーベル賞に数学部門が存在しない理由として、スウェーデンの著名な数学者ヨースタ・ミッタク=レフラーがノーベルの妻を奪ったことを根に持ったためだとする俗説があるが、そもそもノーベルは生涯独身であった。 しかし、数学賞がない原因がミッタク=レフラーとの確執にあるという噂は、文献による証拠がないものの事実である可能性がある。 実際、1890年にミッタク=レフラーがソーニャ・コワレフスカヤへの資金的援助をノーベルに頼んだとき、ノーベルはこれを断っている。またノーベルの1883年の遺書には自身の遺産の一部をミッタク=レフラーのいたStockholms Högskola(のちのストックホルム大学)にも渡すように書いていたが、1896年に最終版の遺書を書いたときにはこの記述を削除した。Högskolaの学長を勤めたオットー・ペテルソンとスヴァンテ・アレニウスの推測によれば、ノーベルの遺書からこの記述が削除されたのは、ノーベルがミッタク=レフラーを嫌っていたためである。 当時の人々によるミッタク=レフラーの性格に関する評価は肯定的なものではない。 数学者のフィールズも2人の確執はありそうな話だとしているが、フィールズ自身はミッタク=レフラーと親しく、このことがフィールズ賞の設立につながったのではないかとする意見もある。 このような経緯があったにもかかわらず、ミッタク=レフラーはマリ・キュリーのノーベル物理学賞受賞に貢献している。女性への偏見が強かったフランス科学アカデミーは彼女のノーベル賞への推薦を意図的に削除したが、ミッタク=レフラーが彼女を強く推したため、彼女はノーベル賞を受賞する運びとなったのである。詳細はマリ・キュリー#女性としてを参照。
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"この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94パーセント、3100万スウェーデン・クローナに及んだ。周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されなかった。その後、彼の遺志を継ぐためにラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストがノーベル財団設立委員会を結成し、賞設立の準備を行った。賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされた。1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、6月7日にはカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて選考体制は整った。賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令がスウェーデン国王オスカル2世(1905年まで兼ノルウェー国王)によって公布された。同年、科学者のスヴァンテ・アレニウスもノーベル賞の創設に関わり、1901年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれたが、これには反対の声もあった。その後はノーベル委員会の物理学部門の委員となり、化学部門でも事実上の委員として活動した。彼はその立場を利用して友人(ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ、ヴィルヘルム・オストヴァルト、セオドア・リチャーズ)にノーベル賞を受賞させるよう誘導し、敵対する科学者(パウル・エールリヒ、ヴァルター・ネルンスト)には受賞させないよう画策した(画策は成功しなかった)。1903年、アレニウス自身もスウェーデン人初のノーベル化学賞を受賞した。1905年にノルウェーとスウェーデンは同君連合を解消したが、両国分離後も授与機関は変更されなかった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ノーベル賞はその歴史と伝統などから権威が高く、ノーベル賞に部門のない分野における権威のある賞が「〇〇のノーベル賞」と呼ばれたり(ある分野のノーベル賞として知られる賞の一覧を参照)、不可能に近いことやきわめて困難なことの例えに比喩的にノーベル賞が使われたりする(「それができたらノーベル賞を取れる」など)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "賞は「生理学・医学賞」「物理学賞」「化学賞」「文学賞」「平和賞」および経済学賞の各部門からなる。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門における受賞は、科学分野における世界最高の栄誉であると考えられている。近年は生理学・医学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきている。また世界的に関心の高い分野への受賞など社会的なメッセージともとれる例がある。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "経済学賞について、ノーベル財団は同賞をノーベル賞とは認めておらず、この賞を正式名称(「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」)または「ノーベル」を冠しない「経済学賞」と呼ぶ。なお、経済学賞の創設後、環境、数学、建築、音楽など様々な分野の関係者から経済学賞と同様に費用を負担するので「ノーベル記念賞」を創設してほしいとの申し出があったが、新設されていない。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができる。ただし、同時受賞者の立場は対等とは限らず、受賞者の貢献度(Prize share)に応じて賞金が分割される。なお、性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められている。また、基本的に個人にのみ与えられる賞であるが、平和賞のみ団体の受賞が認められており、過去に国境なき医師団やICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)などが受賞している。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "選考は「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。", "title": "選考" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表される。よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになるが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実である。トムソン・ロイター社は旧トムソン時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表しており、2017年以降は同事業を引き継いだクラリベイト・アナリティクスがクラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞としてノーベル賞候補を選定発表している。これは近年の論文の引用数などから算出したものである。ただし、ノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いため、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではない。最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっており、マスコミの事前予測が難しい所以である。", "title": "選考" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例としては、1931年の文学賞を受賞したエリク・アクセル・カールフェルト、1961年の平和賞を受賞したダグ・ハマーショルドが授賞決定発表時に故人であった。", "title": "資格" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされている。2011年には、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明し、問題となった。ただし、授賞決定発表のあとに本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはない。スタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まった。", "title": "資格" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2020・21年は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響により、授賞式は招待を行わずオンライン形式で実施し、受賞者は自国でメダルと賞状を授与する方式に変更された。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2022年、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、同年の授賞式にロシアやロシアを支持するベラルーシ、さらに人権問題と反政府デモ抑圧などを理由にイランの駐在大使を招待しなかったが、翌2023年の授賞式にノーベル財団は同年8月31日、「世界がどんどん分断され、異なる意見を持つ者の対話が減っている。こうした傾向に対抗したい」としてロシア、ベラルーシ、イランを含むノルウェー、スウェーデンに駐在するすべての大使を招待することを声明で発表していた。しかし、この決定にスウェーデンやウクライナを中心に世界各国から反発の意見が上がったこともあり、2日後の同年9月2日、財団は「スウェーデンでの強い反応が、(財団の)メッセージを覆い隠してしまった」として、ロシア、ベラルーシ、イランの授賞式招待を撤回した。一方、オスロで行われる平和賞の授賞式は「すべての大使を招待することになる」とした。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "授賞式終了後、平和賞以外はストックホルム市庁舎(1930年まではストックホルムのグランドホテルの舞踏室)で、スウェーデン王室および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われる。王室、受賞者などが階段を上がり、2階の別室へと退場したあと晩餐会は散会となり、そのまま2階のゴールデンホールという大きな部屋で舞踏会が始まる。平和賞の晩餐会はオスロのグランドホテルで行われ、こちらにはノルウェーの国会、首相および2006年以降はノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれている。1979年の平和賞の晩餐会は、受賞者のマザー・テレサが「貧しい人にお金を使ってください」として出席を辞退、開催を中止させ、晩餐会に使うはずだった7,000USドルの費用はインドのコルカタ(旧名:カルカッタ)の2,000人のホームレスへのクリスマスの夕食に使われた。晩餐会が中止になった最初の例で、前述の通り2020・21年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響により、晩餐会などの関連行事も中止となった。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1991年にノーベル賞90周年事業の一環として、晩餐会に使う食器類をすべてスウェーデン製に置き換えようとしたが、カトラリーだけはその複雑なデザインゆえに仕上げ研磨ができる技術が国内になく、カトラリーのデザインを担当したゴナ・セリンが懇意にしていた新潟県燕市の山崎金属工業に依頼した。食器類など授賞式に使う調度品は、普段は厳重に鍵のかかった倉庫に保管されており、ノーベル賞の晩餐会にのみ使用される。晩餐会で使用されるカトラリーセットは「ノーベルデザインカトラリー」として一般向けにも販売されている。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ドレスコードは燕尾服もしくはナショナルドレス(民族衣装)であるため、川端康成や本庶佑は紋付羽織袴で出席している。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっている。その後、受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願って一斉に「蛙跳び」をするのが慣例となっている。", "title": "授賞式" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられる。受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としている。ただし「経済学賞」は1968年に創設され1969年から授与されたが、その原資はスウェーデン国立銀行の基金による。", "title": "授与" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ノーベル賞の賞金は、過去幾度も変動してきた。ノーベルは遺産を安全な有価証券にすることを指定しており、このため得られる利子額は長年にわたって低いものであり、賞金もそれに連動して設立当初より相対的に低い額にとどまっていた。こうした状況は1946年にノーベル財団が免税となったことと、1950年代に株式への投資が解禁されたことによって改善され、1990年代には設立当初の賞金レベルを回復した。2001年から現在まで賞金額は1000万スウェーデン・クローナ(約1億円)である。しかしスウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったことなどを理由として、2012年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8900万円)とすることを決めた。", "title": "授与" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、日本においてはノーベル賞の賞金は所得税法第9条第1項第13号ホにあるように、所得税は非課税となっている。これは、1949年に湯川秀樹が日本人として初のノーベル賞を受賞した際に、賞金への課税について論争が起こったのを受けて改正されたものである。", "title": "授与" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "受賞時に渡されるメダルは1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されている。1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回からの授与となっている。", "title": "メダル" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "メダルには表面にアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されている。表面のデザインは物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞では同じであるが、平和賞と経済学賞では若干異なる。裏面のデザインは賞によって異なるが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっている。1980年以前のメダルは24Kの純金であったが、落としただけで曲がってしまったり、傷がつきやすいということもあり、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されている。重量は約200グラム、直径約6.6センチ。", "title": "メダル" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "メダルのレプリカは、受賞者本人が上限を3個として作成してもらうことが許可されている。", "title": "メダル" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2010年までは、スウェーデン政府の機関が制作していたが、予算削減のため2011年からノルウェーの企業に委託されることになった。しかし国内での製造を望む国民の要望が多かったため、2012年からスウェーデンの民間企業で製造されることが決定した。", "title": "メダル" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ガムラスタンにあるノーベル博物館には、ノーベル賞のメダルを模した「メダルチョコ」が売られており、観光客だけではなく授賞式に訪れた受賞者本人も土産として購入するという。益川敏英はこのチョコレートを600個も買い込んで話題となった。", "title": "メダル" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "受賞者がメダルを売却する事例もあり、1962年に生理学・医学賞を受賞しフランシス・クリックは死後の2013年、共同受賞者のジェームズ・ワトソンは経済的な理由から2014年、2021年に平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフ所有のメダルが2022年、それぞれオークションを通じて第三者に譲渡された。", "title": "メダル" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "前述のようにノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、1920年代に日本人の山極勝三郎がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明らかになっている。また、元国連大使の松平康東は、1930年代に呉建がノミネートされた際には日本が枢軸国であったことで受賞に至らなかったとしている。欧米以外の国で研究活動を行った非欧米人では、1930年にインド人のチャンドラセカール・ラマンが物理学賞を受賞したのが最初である。日本人である湯川秀樹(1949年受賞)、朝永振一郎(1965年受賞)らがやはり物理学賞で受賞している。", "title": "科学史としてのノーベル賞" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ノーベル賞は受賞者が自然人の場合、「本人が生存中」が受賞条件だが、かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、そのケースに当てはまる受賞者には、1931年文学賞のエリク・アクセル・カールフェルトと、1961年平和賞のダグ・ハマーショルドがいる。1973年から、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要があるが、その後死亡しても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されなかった。2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人が3日前に死亡していたことが判明したが、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになった。", "title": "受賞条件と辞退" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、以下のとおりである。", "title": "受賞条件と辞退" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ドーマクは戦後の1947年、クーン、ブーテナントは1949年、パステルナークは没後に遺族が賞を受け取ったとされているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。", "title": "受賞条件と辞退" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、そして当時のノルウェーには自主的外交権がなかったために平和賞の選考には常に中立性が期待できたことなどが理由と考えられている。", "title": "評価と論争" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1929年の生理学・医学賞はビタミンB1の発見によりオランダのクリスティアーン・エイクマンに贈られているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素(ビタミン)が存在することを示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニンとして分離・抽出したのは日本の鈴木梅太郎である。", "title": "評価と論争" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1926年の生理学・医学賞は寄生虫によるガン発生を唱えたデンマークのヨハネス・フィビゲルに贈られ、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎が受賞を逃している。後年、フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆されている。", "title": "評価と論争" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ポルトガルのエガス・モニスはロボトミー手術を確立したことで1949年の生理学・医学賞を受賞しているが、ロボトミーは効果が限定的であるにもかかわらず副作用や事故が多く、またその後向精神薬が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいなかった。", "title": "評価と論争" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "文学賞は、過去には歴史書や哲学書の著者にも贈られたことがあったが、1953年にイギリス首相のウィンストン・チャーチルが自著『第二次世界大戦回顧録』を理由に文学賞を受賞したことで選考対象の定義をめぐる論争が起こった。結局これ以降、2016年にアメリカのシンガーソングライター・ミュージシャンのボブ・ディランが受賞するまで純文学の著者による受賞が続くことになる。", "title": "評価と論争" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "戦争を起こした当事者が平和賞を受賞したこともある。キャンプ・デービッド合意によりエジプトとイスラエルの間に和平をもたらしたことが評価され、1978年の平和賞はエジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエル首相のメナヘム・ベギン首相に贈られたが、そもそもその仲介役としてアメリカの重い腰を上げさせるために第四次中東戦争を企画し、イスラエルへの奇襲作戦を主導したのはそのサダト自身だった。結果的にサダトの狙いは的中したが、これは外交手段の一環として引き起こした戦争を恒久的平和にまで持ち込むことに成功した稀な例となった。一方、サダトとベギン両首脳に実に12日間にもわたってワシントンD.C.郊外の大統領保養地キャンプ・デービッドを自由に使わせ、難航する和平会談の成功に奔走したアメリカのジミー・カーター大統領が、この両首脳とともに平和賞を受賞しなかったことに対しては疑問を唱える声が各方面から上がった。そのカーターには2002年になって「数十年間にわたり国際紛争の平和的解決への努力を続けた」ことなどを理由に、遅ればせながらの平和賞が贈られている。", "title": "評価と論争" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがあることから、受賞者の国の政府から反発を受けることがよくある。その例として、ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキー、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフ、中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世、ポーランド民主化運動を主導した「連帯」のレフ・ワレサ、南アフリカの人種隔離政策を批判したデズモンド・ツツ主教、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチー、中国の人権侵害を批判し民主化を訴えた劉暁波などが挙げられる。", "title": "評価と論争" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1958年に文学賞を受賞したボリス・パステルナークは、ソ連政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされた。それでもノーベル委員会は彼に一方的に賞を贈っている。", "title": "評価と論争" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1925年に文学賞を受賞したバーナード・ショーは、ノーベル賞について「ダイナマイトを発明したのは、まだ許せるとしても、ノーベル文学賞を考え出すなんて言語道断だ」「殺生と破壊の手段であるダイナマイトを発明して金を儲けたノーベルの罪も大きいが、世界の人材を序列化するノーベル賞を作ったのは最もゆるせない罪だ」などと皮肉し、受賞するまでに何度も受賞を拒んだことがある。", "title": "評価と論争" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ノーベルの遺言は3通ある。書かれた年次は、順に1889年、1893年、1895年である。1889年の初めて書かれた遺言は破棄されている。", "title": "3通の遺言" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1893年に書かれた2通目は、もっとも形式が整ったものである。具体的な金額が盛り込まれておらず、遺産分配の割合が記されていた。親類・仕事仲間・友人らへ20パーセントを与え、協会や研究所などに16パーセントを寄付し、残りの64パーセントを基金の設立のためにストックホルムの科学アカデミーに移譲するという内容であった。", "title": "3通の遺言" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1895年に書かれた3通目は、ノーベルが翌年夏、ストックホルム・エンシルダ銀行に保管した。2通目以前を無効とする旨が明記されているが、2通目との違いは大きく分けて2点ある。1つは個人相続分が具体的な金額で示され、結果として2通目と比べた総額は実質的に3分の1程度に縮小された点である。内訳は次の通り。なお、兄ロベルトの子供たち4人その他には生前にそれぞれ2万クローナが振り込まれた。", "title": "3通の遺言" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2通目との相違における第2点は、文学賞、医学賞、平和賞の選考主体を新たに指定した点である。これらの選考がスウェーデン王立科学アカデミーには難しいとノーベルが考えていたことが推測されている。", "title": "3通の遺言" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、3通目の終わりで指名された遺言執行人は、ラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストの2人である。", "title": "3通の遺言" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2017年以降、クラリベイト・アナリテイクスは、同社が運営する代表的なサイテーションインデックス(学術文献引用データベース)のWeb of Scienceの情報に基づいて、ノーベル賞の有力候補者の予想としてクラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞を発表している。2011年のノーベル賞においては、自然科学系の3賞と経済学賞の受賞者9人全員が、過去にトムソン・ロイター引用栄誉賞(現・クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞)で候補に挙げられていた。", "title": "候補者の予想" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ノーベル賞に数学部門が存在しない理由として、スウェーデンの著名な数学者ヨースタ・ミッタク=レフラーがノーベルの妻を奪ったことを根に持ったためだとする俗説があるが、そもそもノーベルは生涯独身であった。", "title": "ノーベル数学賞がない理由" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "しかし、数学賞がない原因がミッタク=レフラーとの確執にあるという噂は、文献による証拠がないものの事実である可能性がある。", "title": "ノーベル数学賞がない理由" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "実際、1890年にミッタク=レフラーがソーニャ・コワレフスカヤへの資金的援助をノーベルに頼んだとき、ノーベルはこれを断っている。またノーベルの1883年の遺書には自身の遺産の一部をミッタク=レフラーのいたStockholms Högskola(のちのストックホルム大学)にも渡すように書いていたが、1896年に最終版の遺書を書いたときにはこの記述を削除した。Högskolaの学長を勤めたオットー・ペテルソンとスヴァンテ・アレニウスの推測によれば、ノーベルの遺書からこの記述が削除されたのは、ノーベルがミッタク=レフラーを嫌っていたためである。", "title": "ノーベル数学賞がない理由" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "当時の人々によるミッタク=レフラーの性格に関する評価は肯定的なものではない。", "title": "ノーベル数学賞がない理由" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "数学者のフィールズも2人の確執はありそうな話だとしているが、フィールズ自身はミッタク=レフラーと親しく、このことがフィールズ賞の設立につながったのではないかとする意見もある。", "title": "ノーベル数学賞がない理由" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "このような経緯があったにもかかわらず、ミッタク=レフラーはマリ・キュリーのノーベル物理学賞受賞に貢献している。女性への偏見が強かったフランス科学アカデミーは彼女のノーベル賞への推薦を意図的に削除したが、ミッタク=レフラーが彼女を強く推したため、彼女はノーベル賞を受賞する運びとなったのである。詳細はマリ・キュリー#女性としてを参照。", "title": "ノーベル数学賞がない理由" } ]
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。 ただし経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環として、ノーベルの死後70年後にあたる1968年に設立されたものである。ノーベル財団は経済学賞(アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)を「ノーベル賞ではない」としている。
{{Infobox Award |name = ノーベル賞<br>the Nobel Prize |current_awards = |image = NobelP2.png |imagesize = |caption = |description = [[ノーベル物理学賞|物理学]]への貢献<br>[[ノーベル化学賞|化学]]への貢献<br>[[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学]]への貢献<br>[[ノーベル文学賞|文学]]への貢献<br>[[ノーベル平和賞|平和]]への貢献<br>([[ノーベル経済学賞|経済学]]への貢献) |presenter = [[スウェーデン・アカデミー]]<br>[[スウェーデン王立科学アカデミー]]<br>[[カロリンスカ研究所]](スウェーデン)<br>[[ノルウェー・ノーベル委員会]] |country = [[スウェーデン]]、[[ノルウェー]] |location = |year = 1901年 |year2 = |holder = |website = {{Official URL|https://www.nobelprize.org/}} }} {{読み仮名|'''ノーベル賞'''|ノーベルしょう}}は、[[ダイナマイト]]の発明者として知られる[[アルフレッド・ノーベル]]の[[遺言]]に従って[[1901年]]から始まった世界的な賞である<ref>{{Cite web|和書|title=ノーベル賞 オフィシャルサイト|url=https://www.nobelprize.org/|website=NobelPrize.org|accessdate=2020-10-09|language=en-US}}</ref>。[[物理学]]、[[化学]]、[[生理学]]・[[医学]]、[[文学]]、平和および[[経済学]]の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。 ただし経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、[[スウェーデン国立銀行]]の設立300周年祝賀の一環として、ノーベルの死後70年後にあたる[[1968年]]に設立されたものである<ref>{{Cite web |url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/ |title=The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel |accessdate=2016-05-05}}</ref>。[[ノーベル財団]]は経済学賞([[ノーベル経済学賞|アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞]])を「ノーベル賞ではない」としている<ref>{{Cite |url=http://www.nobelprize.org/nomination/economic-sciences/ |title=Nomination and Selection of Laureates in Economic Sciences |chapter=Not a Nobel Prize |work=Nobelprize.org |date= |accessdate=2016-10-16}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「ノーベル経済学賞」は「ノーベル賞」ではない!? - ことばマガジン:朝日新聞デジタル|url=http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2013093000001.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-04-15|language=|first=|last=|publisher=朝日新聞}}</ref>。 == 沿革 == [[画像:Alfred Nobels will-November 25th, 1895.jpg|thumb|ノーベルの遺言]] ノーベル賞は、[[スウェーデン語]]では {{lang|sv|'''Nobelpris'''('''et''')}}(ノベルプリース/ノベルプリーセット)、[[ノルウェー語]]では{{lang|no|'''Nobelpris'''('''en''')}}(ノベルプリース(ン))という。[[1895年]]に創設され、1901年に初めて授与式が行われた。一方、ノーベル経済学賞は1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われた。 賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベル([[1833年]]10月21日 - [[1896年]]12月10日)は、スウェーデンの[[発明家]]・[[企業家]]であり、ダイナマイトをはじめとするさまざまな[[爆薬]]の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし、爆薬や兵器を元に富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。[[1888年]]、兄のルードヴィが[[カンヌ]]にて死去するが、このとき[[フランス]]のある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「[[死の商人]]、死す」との見出しとともに報道した。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった<ref name="Time">{{Cite news |first=Frederic |last=Golden |title=The Worst And The Brightest |date=2000-10-16 |publisher=Time Warner |url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,998209,00.html |work=[[Time (magazine)|Time]]|2010-04-09}}</ref>{{Efn2|また、平和運動についても、考えるようになった。ノーベルは本来は土木工事の安全性向上を目的としてダイナマイトを発明したのであり、それが戦争に用いられたのはその意志に反していたという風聞があるが、実際にはノーベルにとってダイナマイトが戦争目的で使われることは想定内であった。むしろノーベルは、ダイナマイトのような破壊力の大きい兵器が使われること自体が戦争抑止力となることを期待した。死の商人として糾弾されたことは、ノーベルにとってダイナマイトが戦争抑止力として機能しなかったことに対しての衝撃であった<ref>『当った予言、外れた予言』ジョン・マローン著 [[文春文庫]] ISBN 4167308967{{要ページ番号|date=2023年2月}}</ref>。}}。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去する{{Sfn|Sohlman|1983|p=13}}が、遺言は死の1年以上前の[[1895年]]11月27日に[[パリ]]のスウェーデン人・[[ノルウェー人]]クラブにおいて署名されていた{{Sfn|Sohlman|1983|p=7}}<ref>{{Cite news |last=von Euler |first=U. S. |title=The Nobel Foundation and its Role for Modern Day Science |url=http://resources.metapress.com/pdf-preview.axd?code=xu7j67w616m06488&size=largest |format=PDF |publisher=[[Springer Science+Business Media|Springer-Verlag]] |work=Die Naturwissenschaften |date=1981-06-06 |accessdate=2010-01-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110714080803/http://resources.metapress.com/pdf-preview.axd?code=xu7j67w616m06488&size=largest |archivedate=2011-07月14 |deadurldate=2017-09}}</ref>。 この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94パーセント、3100万[[スウェーデン・クローナ]]に及んだ{{Sfn|Abrams|2001|p=7}}。周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、[[1897年]]4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されなかった{{Sfn|Levinovitz|2001|pp=13-25}}。その後、彼の遺志を継ぐためにラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストが[[ノーベル財団]]設立委員会を結成し、賞設立の準備を行った{{Sfn|Abrams|2001|pp=7-8}}。賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされた。1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、6月7日にはカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて{{Sfn|Crawford|1984|p=1}}選考体制は整った。賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令が[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン国王]][[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]](1905年まで兼[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー国王]])によって公布された。同年、[[科学者]]の[[スヴァンテ・アレニウス]]もノーベル賞の創設に関わり、1901年、[[スウェーデン王立科学アカデミー]]の会員に選ばれたが、これには反対の声もあった。その後は[[ノーベル委員会]]の物理学部門の委員となり、化学部門でも事実上の委員として活動した。彼はその立場を利用して友人([[ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ]]、[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]、[[セオドア・リチャーズ]])にノーベル賞を受賞させるよう誘導し、敵対する科学者([[パウル・エールリヒ]]、[[ヴァルター・ネルンスト]])には受賞させないよう画策した(画策は成功しなかった){{Sfn|Coffey|2008|p={{要ページ番号|date=2023年2月}}}}。1903年、アレニウス自身も[[スウェーデン人]]初の[[ノーベル化学賞]]を受賞した。1905年にノルウェーとスウェーデンは[[同君連合]]を解消したが、両国分離後も授与機関は変更されなかった{{Sfn|Levinovitz|2001|pp=13-25}}。 ノーベル賞はその歴史と伝統などから権威が高く、ノーベル賞に部門のない分野における権威のある賞が「○○のノーベル賞」と呼ばれたり([[ある分野のノーベル賞として知られる賞の一覧]]を参照)、不可能に近いことやきわめて困難なことの例えに比喩的にノーベル賞が使われたりする(「それができたらノーベル賞を取れる」など)。 == 部門 == 賞は「[[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]]」「[[ノーベル物理学賞|物理学賞]]」「[[ノーベル化学賞|化学賞]]」「[[ノーベル文学賞|文学賞]]」「[[ノーベル平和賞|平和賞]]」および[[ノーベル経済学賞|経済学賞]]の各部門からなる。 特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門における受賞は、科学分野における世界最高の栄誉であると考えられている<ref>{{Cite web|和書|title=記録で見るノーベル賞|まるわかりノーベル賞2018|NHK NEWS WEB |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize/2018/table.html |website=www3.nhk.or.jp |access-date=2023-10-17 |publisher=[[日本放送協会]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20231003180046/https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize/2018/table.html |archive-date=2023-10-03}}</ref>。近年は生理学・医学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきている。また世界的に関心の高い分野への受賞など社会的なメッセージともとれる例がある<ref>{{Cite web|和書|title=ノーベル物理学賞に真鍋淑郎氏 二酸化炭素の温暖化影響を予測 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211005/k10013292011000.html |website=NHKニュース |accessdate=2021-10-05 |last=日本放送協会 |deadlinkdate=2023-10-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220731163331/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211005/k10013292011000.html |archive-date=2022-07-31}}</ref>。 経済学賞について、ノーベル財団は同賞をノーベル賞とは認めておらず<ref name=":0" />、この賞を正式名称(「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」)または「ノーベル」を冠しない「経済学賞」と呼ぶ。なお、経済学賞の創設後、環境、数学、建築、音楽など様々な分野の関係者から経済学賞と同様に費用を負担するので「ノーベル記念賞」を創設してほしいとの申し出があったが、新設されていない<ref name=":0" />。 複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができる{{Sfn|ウルフ|2002|pp=29-30}}。ただし、同時受賞者の立場は対等とは限らず、受賞者の貢献度('''Prize share''')に応じて賞金が分割される。なお、性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められている。また、基本的に個人にのみ与えられる賞であるが、平和賞のみ団体の受賞が認められており{{Sfn|ウルフ|2002|pp=29-30}}、過去に[[国境なき医師団]]やICAN([[核兵器廃絶国際キャンペーン]])などが受賞している。 == 選考 == [[画像:Svenskaakademien.JPG|thumb|[[ノーベル文学賞]]の決定機関であるスウェーデン・アカデミー(2005年8月)]] 選考は「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会<ref>[http://www.norway.or.jp/about/foreign-policy/organizations/prize/ ノーベル平和賞 (Norway - the official site in Japan)]</ref>が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。 ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表される。よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになるが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実である。[[トムソン・ロイター]]社は旧[[トムソン (情報サービス業)|トムソン]]時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表しており、2017年以降は同事業を引き継いだ[[クラリベイト・アナリティクス]]が[[クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞]]としてノーベル賞候補を選定発表している。これは近年の論文の引用数などから算出したものである。ただし、ノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いため、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではない。最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっており、マスコミの事前予測が難しい所以である。 == 資格 == 1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例としては、1931年の文学賞を受賞した[[エリク・アクセル・カールフェルト]]、1961年の平和賞を受賞した[[ダグ・ハマーショルド]]が授賞決定発表時に故人であった。 1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされている。2011年には、医学生理学賞に選ばれた[[ラルフ・スタインマン]]が授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明し、問題となった<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20111003-OYT1T01344.htm |title=ノーベル賞受賞のスタインマン氏、死去していた |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=[[読売新聞社]] |date=2011-10-03 |accessdate=2011-10-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111005025751/http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20111003-OYT1T01344.htm |archivedate=2011-10-05 |deadurldate=2017-09}}</ref>。ただし、授賞決定発表のあとに本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはない。スタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まった。 == 授賞式 == [[画像:Nobelprize Award Ceremony 2010.jpg|thumb|ストックホルム・コンサートホールでの授賞式(2010年)]] 授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門は[[ストックホルム]](スウェーデン)の[[ストックホルム・コンサートホール|コンサートホール]]、「平和賞」は[[オスロ]](ノルウェー)の[[オスロ市庁舎|市庁舎]]で行われ(古くは[[オスロ大学]]の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の[[小切手]]、[[賞状]]、[[メダル]]がそれぞれ贈られる<ref>{{Cite news |title=DNA構造発見のノーベル賞メダルが競売に、米NYで4月 |author=AFP |newspaper=AFPBB News |date=2013-02-26 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2931095?pid=10352120 |accessdate=2013-06-15}}</ref><ref>{{Cite web |date=2013-01-15 |url=http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/about/ |title=About the Nobel Prizes |publisher=Nobelprize.org |accessdate=2013-06-15}}</ref>。 2020・21年は、[[新型コロナウイルス感染症_(2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の世界的流行の影響により、授賞式は招待を行わずオンライン形式で実施し、受賞者は自国でメダルと賞状を授与する方式に変更された<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201127/k10012733291000.html ノーベル賞 来月行われる授賞式はオンラインで コロナ影響] - NHK NEWS WEB 2020年11月27日</ref><ref name="reuter">[https://jp.reuters.com/article/nobel-prize-banquet-idJPKBN2GK0BA ノーベル賞授賞式、今年も受賞者招待せず コロナ影響で] - ロイター 2021年9月24日</ref>。 2022年、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]を受けて、同年の授賞式にロシアやロシアを支持する[[ベラルーシ]]、さらに人権問題と反政府デモ抑圧などを理由に[[イラン]]の駐在大使を招待しなかったが、翌2023年の授賞式にノーベル財団は同年8月31日、「世界がどんどん分断され、異なる意見を持つ者の対話が減っている。こうした傾向に対抗したい」としてロシア、ベラルーシ、イランを含むノルウェー、スウェーデンに駐在するすべての大使を招待することを声明で発表していた<ref>[https://jp.reuters.com/article/idJPKBN30625F ノーベル賞授賞式、今年はロシアとベラルーシの大使を招待] - ロイター 2023年9月1日</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASR916S47R91UHBI02T.html ノーベル賞式典、ロシア大使も招待 スウェーデン首相「困惑させる」] - 朝日新聞デジタル 2023年9月1日</ref>。しかし、この決定にスウェーデンやウクライナを中心に世界各国から反発の意見が上がったこともあり、2日後の同年9月2日、財団は「スウェーデンでの強い反応が、(財団の)メッセージを覆い隠してしまった」として、ロシア、ベラルーシ、イランの授賞式招待を撤回した。一方、オスロで行われる平和賞の授賞式は「すべての大使を招待することになる」とした<ref>[https://www.bbc.com/japanese/66693594 ノーベル財団、ロシアやベラルーシ、イランの招待撤回 スウェーデンなどの批判受け] - BBCニュース 2023年9月3日</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20230903/k00/00m/030/009000c ノーベル賞式典にロシア招待せず 財団、スウェーデン国内の反発受け] - 毎日新聞 2023年9月3日</ref>。 === 晩餐会・舞踏会 === 授賞式終了後、平和賞以外は[[ストックホルム市庁舎]](1930年までは[[グランドホテル (ストックホルム)|ストックホルムのグランドホテル]]の舞踏室)で、[[スウェーデン王室]]および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われる。王室、受賞者などが階段を上がり、2階の別室へと退場したあと晩餐会は散会となり、そのまま2階のゴールデンホールという大きな部屋で舞踏会が始まる<ref>[https://www.titech.ac.jp/news/2016/036924.html <nowiki>大隅良典栄誉教授がノーベル賞授賞式・晩餐会に出席 | 東工大ニュース | 東京工業大学</nowiki>]</ref>。平和賞の晩餐会はオスロのグランドホテルで行われ、こちらにはノルウェーの国会、首相および2006年以降はノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれている。1979年の平和賞の晩餐会は、受賞者の[[マザー・テレサ]]が「貧しい人にお金を使ってください」として出席を辞退、開催を中止させ、晩餐会に使うはずだった7,000[[USドル]]の費用は[[インド]]の[[コルカタ]](旧名:カルカッタ)の2,000人の[[ホームレス]]への[[クリスマス]]の夕食に使われた。晩餐会が中止になった最初の例で、前述の通り2020・21年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響により、晩餐会などの関連行事も中止となった<ref name="reuter"/>。 1991年にノーベル賞90周年事業の一環として、晩餐会に使う食器類をすべてスウェーデン製に置き換えようとしたが、[[カトラリー]]だけはその複雑なデザインゆえに仕上げ[[研磨]]ができる技術が国内になく、カトラリーのデザインを担当した[[ゴナ・セリン]]が懇意にしていた[[新潟県]][[燕市]]の[[山崎金属工業]]に依頼した<ref>[http://www.yamazakitableware.co.jp/mind/ カトラリーにかける思い - 山崎金属工業株式会社]</ref>。食器類など授賞式に使う調度品は、普段は厳重に鍵のかかった倉庫に保管されており、ノーベル賞の晩餐会にのみ使用される。晩餐会で使用されるカトラリーセットは「ノーベルデザインカトラリー」として一般向けにも販売されている。 ドレスコードは[[燕尾服]]もしくはナショナルドレス([[民族衣装]])であるため、[[川端康成]]や[[本庶佑]]は[[紋付羽織袴]]で出席している。 === その他のイベント === 受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっている。その後、受賞者は[[ストックホルム大学]]やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願って一斉に「[[蛙跳び]]」をするのが慣例となっている。 == 授与 == 受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられる。受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としている。ただし「経済学賞」は1968年に創設され1969年から授与されたが、その原資はスウェーデン国立銀行の基金による<ref name=":0" />。 ノーベル賞の賞金は、過去幾度も変動してきた。ノーベルは遺産を安全な[[有価証券]]にすることを指定しており、このため得られる利子額は長年にわたって低いものであり、賞金もそれに連動して設立当初より相対的に低い額にとどまっていた。こうした状況は1946年にノーベル財団が免税となったことと、1950年代に株式への投資が解禁されたことによって改善され、1990年代には設立当初の賞金レベルを回復した{{Sfn|ウルフ|2002|pp=29-30}}。2001年から現在まで賞金額は1000万スウェーデン・クローナ(約1億円)である。しかしスウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったことなどを理由として、2012年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8900万円)とすることを決めた<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120612-OYT1T00318.htm |title=ノーベル賞の賞金、2割減らします…運用益低迷 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2012-06-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120615234752/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120612-OYT1T00318.htm |archivedate=2012-06-15 |deadurldate=2017-09}}</ref>。 なお、日本においてはノーベル賞の賞金は[[所得税法]]第9条第1項第13号ホにあるように、[[所得税]]は非課税となっている。これは、1949年に[[湯川秀樹]]が日本人として初のノーベル賞を受賞した際に、賞金への課税について論争が起こったのを受けて改正されたものである<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121012/wlf12101213030015-n1.htm 賞金に税金かかる?湯川博士受賞を機に非課税に 五輪メダリストの報奨金も]MSN産経ニュース、2014年10月8日閲覧。</ref>。 == メダル == [[画像:1974 Nobel Peace Prize awarded to Eisaku Satō.jpg|250px|thumb|1974年のノーベル平和賞の金メダル]] 受賞時に渡される[[メダル]]は1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されている。1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回からの授与となっている。 メダルには表面にアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されている。表面のデザインは物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞では同じであるが、平和賞と経済学賞では若干異なる。裏面のデザインは賞によって異なるが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっている。1980年以前のメダルは24Kの純金であったが、落としただけで曲がってしまったり、傷がつきやすいということもあり、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されている。重量は約200グラム、直径約6.6センチ。 メダルの[[レプリカ]]は、受賞者本人が上限を3個として作成してもらうことが許可されている。 2010年までは、スウェーデン政府の機関が制作していたが、予算削減のため2011年からノルウェーの企業に委託されることになった。しかし国内での製造を望む国民の要望が多かったため、2012年からスウェーデンの民間企業で製造されることが決定した。 [[ガムラスタン]]にあるノーベル博物館には、ノーベル賞のメダルを模した「メダルチョコ」が売られており、観光客だけではなく授賞式に訪れた受賞者本人も土産として購入するという。[[益川敏英]]はこの[[チョコレート]]を600個も買い込んで話題となった<ref>[http://www.asahi.com/special/08015/TKY200812090064.html 益川教授「土産はこれだ」 メダルチョコ600個も購入] - [[朝日新聞|asahi.com]] 2008年12月9日</ref>。 受賞者がメダルを売却する事例もあり、1962年に生理学・医学賞を受賞し[[フランシス・クリック]]は死後の[[2013年]]<ref>{{cite news|title=Crick's DNA Nobel medal gets $2 million at auction|url=http://www.nature.com/news/crick-s-dna-nobel-medal-gets-2-million-at-auction-1.12790|publisher=[[ネイチャー]]|date=2013-04-11|accessdate=2017-11-19}}</ref>、共同受賞者の[[ジェームズ・ワトソン]]は経済的な理由から2014年、2021年に平和賞を受賞した[[ドミトリー・ムラトフ]]所有のメダルが2022年、それぞれ[[競売|オークション]]を通じて第三者に譲渡された{{Efn2|但し、ワトソンが売却したメダルは後に落札者である[[アリシェル・ウスマノフ]]の意向により、返還された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014121100064 |title=ノーベル賞メダル「お返しします」=落札のロシア富豪-ワトソン博士の元へ |access-date=2022-06-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20141211145635/http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014121100064 |archive-date=2014-12-11 |website=時事通信 |date=2014-12-11}}</ref>。}}<ref>{{Cite web|和書|title=露紙編集長のノーベル平和賞メダル、140億円で落札…全額をウクライナの子ども支援に |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20220621-OYT1T50080/ |website=読売新聞 |date=2022-06-21 |access-date=2022-06-21}}</ref><ref name="nishinihon20141206">{{cite news|title=ノーベル賞メダル5億4700万円|url=http://www.nishinippon.co.jp/wordbox/word/7943/10825|publisher=[[西日本新聞]]|date=2014-12-06|accessdate=2014-12-07}}</ref>。 == 科学史としてのノーベル賞 == 前述のようにノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、1920年代に日本人の[[山極勝三郎]]がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明らかになっている<ref group="注">朝日新聞社編 『100人の20世紀(上)』 朝日文庫 p237-「山極勝三郎」。ただし、科学ジャーナリストの[[馬場錬成]]はその著書『ノーベル賞の100年』(中公新書)の中で、3回にわたるノーベル財団への取材経験から、ノーベル賞選考における日本人差別は「100パーセントないだろう。」と指摘している。また、2004年に(山極が候補となった)1926年の医学生理学賞の選考書類を再調査した文献でもそのような指摘はない(山極の項目を参照)。また、この時すでにインドのタゴールがノーベル文学賞を受賞している。</ref>。また、元[[国連大使]]の[[松平康東]]は、1930年代に[[呉建]]がノミネートされた際には[[日本]]が[[枢軸国]]であったことで受賞に至らなかったとしている<ref>[[冲中重雄]]「[http://okiken.tokyo/history/book1/index04.php 4. 呉先生のシゴキ ― 国際神経学会へ随行]」『[[私の履歴書]] 第44集』日本経済新聞社、1971</ref>。欧米以外の国で研究活動を行った非欧米人では、1930年にインド人の[[チャンドラセカール・ラマン]]が物理学賞を受賞したのが最初である。日本人である[[湯川秀樹]](1949年受賞)、[[朝永振一郎]](1965年受賞)らがやはり物理学賞で受賞している。 == 受賞条件と辞退 == ノーベル賞は受賞者が[[自然人]]の場合、「本人が生存中」が受賞条件だが、かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、そのケースに当てはまる受賞者には、1931年文学賞のエリク・アクセル・カールフェルトと、1961年平和賞のダグ・ハマーショルドがいる。1973年から、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要があるが、その後死亡しても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞の[[ウィリアム・ヴィックリー]]は授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されなかった。2011年生理学・医学賞の[[ラルフ・スタインマン]]は受賞者発表の直後に当人が3日前に死亡していたことが判明したが、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになった。 ;辞退 これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、以下のとおりである。 * [[ジャン=ポール・サルトル]](1964年文学賞辞退) - 公的な賞はどれも辞退してきた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3035638 サルトルのノーベル賞辞退の背景、書簡間に合わず 新資料で判明] サイト:AFP通信 更新日:2015年1月5日</ref>。 * [[レ・ドゥク・ト]](1973年平和賞辞退)- ベトナムにまだ平和が訪れていないからという理由で辞退 * [[ゲルハルト・ドーマク]](1939年生理学・医学賞辞退) - ナチス政府の圧力 * [[リヒャルト・クーン]](1938年化学賞辞退) - ナチス政府の圧力 * [[アドルフ・ブーテナント]](1939年化学賞辞退) - ナチス政府の圧力 * [[ボリス・パステルナーク]](1958年文学賞辞退) - ソ連政府の圧力 ドーマクは戦後の1947年、クーン、ブーテナントは1949年、パステルナークは没後に遺族が賞を受け取ったとされているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。 == 評価と論争 == {{main|ノーベル賞を巡る論争}}<!-- {{要出典|範囲=ノーベル数学賞有無については、ノーベルは数学も好み、友人の数学者についても好意的だったのだが、ノーベルの死後そのことについては有耶無耶になったためと言われている|date=2013-10}}--> ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、そして当時のノルウェーには自主的外交権がなかったために平和賞の選考には常に中立性が期待できたことなどが理由と考えられている<ref>[http://www.norway.or.jp/about/foreign-policy/organizations/prize/ ノーベル平和賞(Norway - The official site in Japan)]</ref>。 1929年の生理学・医学賞は[[チアミン|ビタミンB{{sub|1}}]]の発見により[[オランダ]]の[[クリスティアーン・エイクマン]]に贈られているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素([[ビタミン]])が存在することを示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニンとして分離・抽出したのは日本の[[鈴木梅太郎]]である。 1926年の生理学・医学賞は[[寄生虫]]によるガン発生を唱えた[[デンマーク]]の[[ヨハネス・フィビゲル]]に贈られ、同時期に刺激説を唱えていた[[山極勝三郎]]が受賞を逃している。後年、フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆されている。 [[ポルトガル]]の[[エガス・モニス]]は[[精神外科#ロボトミー|ロボトミー手術]]を確立したことで1949年の生理学・医学賞を受賞しているが、ロボトミーは効果が限定的であるにもかかわらず副作用や事故が多く、またその後[[向精神薬]]が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいなかった。 文学賞は、過去には歴史書や哲学書の著者にも贈られたことがあったが、1953年に[[イギリス]]首相の[[ウィンストン・チャーチル]]が自著『第二次世界大戦回顧録』を理由に文学賞を受賞したことで選考対象の定義をめぐる論争が起こった。結局これ以降、2016年にアメリカのシンガーソングライター・ミュージシャンの[[ボブ・ディラン]]が受賞するまで純文学の著者による受賞が続くことになる。 戦争を起こした当事者が平和賞を受賞したこともある。[[キャンプ・デービッド合意]]により[[エジプト]]と[[イスラエル]]の間に和平をもたらしたことが評価され、1978年の平和賞はエジプトの[[アンワル・アッ=サーダート|アンワル・サダト]]大統領とイスラエル首相の[[メナヘム・ベギン]]首相に贈られたが、そもそもその仲介役としてアメリカの重い腰を上げさせるために[[第四次中東戦争]]を企画し、イスラエルへの奇襲作戦を主導したのはそのサダト自身だった。結果的にサダトの狙いは的中したが、これは外交手段の一環として引き起こした戦争を恒久的平和にまで持ち込むことに成功した稀な例となった。一方、サダトとベギン両首脳に実に12日間にもわたって[[ワシントンD.C.]]郊外の大統領保養地[[キャンプ・デービッド]]を自由に使わせ、難航する和平会談の成功に奔走したアメリカの[[ジミー・カーター]]大統領が、この両首脳とともに平和賞を受賞しなかったことに対しては疑問を唱える声が各方面から上がった。そのカーターには2002年になって「数十年間にわたり国際紛争の平和的解決への努力を続けた」ことなどを理由に、遅ればせながらの平和賞が贈られている。 平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがあることから、受賞者の国の政府から反発を受けることがよくある。その例として、[[ナチス・ドイツ]]の再軍備を批判した[[カール・フォン・オシエツキー]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]の際限ない核武装を批判した[[アンドレイ・サハロフ]]、[[ガンデンポタン|中国に軍事占領されたチベットの亡命政権]]を代表する[[ダライ・ラマ14世]]、[[ポーランド民主化運動]]を主導した「[[独立自主管理労働組合「連帯」|連帯]]」の[[レフ・ヴァウェンサ|レフ・ワレサ]]、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[アパルトヘイト|人種隔離政策]]を批判した[[デズモンド・ムピロ・ツツ|デズモンド・ツツ]]主教、[[ミャンマー|ミャンマー軍事政権]]の圧政と[[ビルマ]]民主化を訴えた[[アウンサンスーチー]]、[[中華人民共和国|中国]]の[[人権侵害]]を批判し[[民主主義|民主化]]を訴えた[[劉暁波]]などが挙げられる。 1958年に文学賞を受賞した[[ボリス・パステルナーク]]は、ソ連政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされた。それでもノーベル委員会は彼に一方的に賞を贈っている。 1925年に文学賞を受賞した[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]は、ノーベル賞について「ダイナマイトを発明したのは、まだ許せるとしても、ノーベル文学賞を考え出すなんて言語道断だ」「殺生と破壊の手段であるダイナマイトを発明して金を儲けたノーベルの罪も大きいが、世界の人材を序列化するノーベル賞を作ったのは最もゆるせない罪だ」などと皮肉し、受賞するまでに何度も受賞を拒んだことがある<ref>{{Cite web|和書|title=小社会 ノーベル文学賞|url=https://www.kochinews.co.jp/article/detail/315472|website=高知新聞|accessdate=2020-10-07|language=ja|publisher=|date=2019.10.11}}</ref><ref>{{Cite news|title=[寄稿]英語熱が広がる中での韓国文学|newspaper=[[ハンギョレ]]|date=2016-05-27|url=http://japan.hani.co.kr/arti/culture/24252.html|accessdate=2016-12-03}}</ref>。 == 3通の遺言 == ノーベルの遺言は3通ある<ref>ケンネ・ファント 服部まこと訳 『アルフレッド・ノーベル伝』 新評論 1996年 68章</ref>。書かれた年次は、順に1889年、1893年、1895年である。1889年の初めて書かれた遺言は破棄されている。 1893年に書かれた2通目は、もっとも形式が整ったものである。具体的な金額が盛り込まれておらず、遺産分配の割合が記されていた。親類・仕事仲間・友人らへ20パーセントを与え、協会や研究所などに16パーセントを寄付し、残りの64パーセントを基金の設立のためにストックホルムの科学アカデミーに移譲するという内容であった。 *16パーセント枠に[[オーストリア平和協会]]が入っており、「平和運動推進のため」使うよう明記されていた。[[ベルタ・フォン・ズットナー]]に宛てた言葉と考えられている。 *64パーセント枠について、(生理学と医学を除く分野で)業績を残した者に利子を与えること、そして、受賞要件とはしないが、欧州平和裁判所の設立に関して、政府や国家の偏見と、著作や行動で果敢に戦う者は、候補として推挙すること、なお、選考で国籍や性別を問わないことが記されている。 1895年に書かれた3通目は、ノーベルが翌年夏、ストックホルム・エンシルダ銀行に保管した。2通目以前を無効とする旨が明記されているが、2通目との違いは大きく分けて2点ある。1つは個人相続分が具体的な金額で示され、結果として2通目と比べた総額は実質的に3分の1程度に縮小された点である。内訳は次の通り。なお、兄ロベルトの子供たち4人その他には生前にそれぞれ2万クローナが振り込まれた。 *甥ヤルマル:20万クローナ *甥ルードヴィ:20万クローナ *甥エマヌエル:30万クローナ *ゾフィー・ヘス:年金として26000フローリン *オルガ・ボットゲァー嬢(ゾフィーの妹):10万クローナ *アラリック・リードベック:10万クローナ *エリーセ・アンツン嬢:年金として2500フラン *アルフレッド・ハモンド:1万ドル *エミー・ウィンケルマン嬢:15万マルク *マリエ・ウィンケルマン嬢:15万マルク *家政婦のゴーシャー婦人:10万フラン *召使アウグスト・オスワルド:年金として1,000フラン *アウグストの妻アルフォンセ・オスワルド:1,000フラン *元庭師ジャン・レコツ:年金として300フラン *郵便局員デッソル夫人:年金として300フラン *ジョルジュ・ファーレンバック:1899年1月まで毎年5,000フラン 2通目との相違における第2点は、文学賞、医学賞、平和賞の選考主体を新たに指定した点である。これらの選考がスウェーデン王立科学アカデミーには難しいとノーベルが考えていたことが推測されている。 なお、3通目の終わりで指名された遺言執行人は、ラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストの2人である。 == 候補者の予想 == 2017年以降、クラリベイト・アナリテイクスは、同社が運営する代表的な[[サイテーションインデックス]](学術文献引用データベース)の[[Web of Science]]の情報に基づいて、ノーベル賞の有力候補者の予想として[[クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞]]を発表している。2011年のノーベル賞においては、自然科学系の3賞と経済学賞の受賞者9人全員が、過去にトムソン・ロイター引用栄誉賞(現・クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞)で候補に挙げられていた<ref>[http://science.thomsonreuters.jp/press/release/2011/Nobel-Success/ トムソン・ロイターのノーベル賞予測:今年のノーベル賞受賞者9名すべてを過去に予測、2011年10月]</ref>。 == 賞に関する記録 == *ノーベル賞を2度受賞した人・団体 **[[マリ・キュリー]](1903年に物理学賞、1911年に化学賞) **[[ライナス・ポーリング]](1954年に化学賞、1962年に平和賞) **[[ジョン・バーディーン]](1956年と1972年に物理学賞) **[[フレデリック・サンガー]](1958年と1980年に化学賞) **[[国際連合難民高等弁務官事務所]](1954年と1981年に平和賞) **[[バリー・シャープレス]](2001年と2022年に化学賞) *ノーベル平和賞を3度受賞した団体 **[[赤十字国際委員会]](1917年、1944年、および1963年) *夫婦でノーベル賞を受賞した組 **[[ピエール・キュリー]]とマリ・キュリー **[[フレデリック・ジョリオ=キュリー]]と[[イレーヌ・ジョリオ=キュリー]] **[[カール・コリ]]と[[ゲルティー・コリ]] **[[グンナー・ミュルダール]]と[[アルバ・ライマル・ミュルダール]] **[[マイブリット・モーセル]]と[[エドバルド・モーセル]](受賞後に離婚) **[[アビジット・V・バナジー]]と[[エスター・デュフロ]] *夫婦で共同受賞した組 **ピエール・キュリーとマリ・キュリー(1903年物理学賞) **フレデリック・ジョリオ=キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリー(1935年化学賞) **カール・コリとゲルティー・コリ(1947年生理学・医学賞) **マイブリット・モーセルとエドバルド・モーセル(2014年生理学・医学賞) **アビジット・V・バナジーとエスター・デュフロ(2019年経済学賞) *親子でノーベル賞を受賞した組 **ピエール・キュリー、マリ・キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリーの親子 **[[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]と[[ジョージ・パジェット・トムソン]]の父子 **[[ヘンリー・ブラッグ]]と[[ローレンス・ブラッグ]]の父子 **[[ニールス・ボーア]]と[[オーゲ・ニールス・ボーア]]の父子 **[[マンネ・シーグバーン]]と[[カイ・シーグバーン]]の父子 **[[アーサー・コーンバーグ]]と[[ロジャー・コーンバーグ]]の父子 **[[ハンス・フォン・オイラー=ケルピン]]と[[ウルフ・スファンテ・フォン・オイラー]]の父子 **[[スネ・ベリストローム]]と[[スバンテ・ペーボ]]の父子 *親子で共同受賞した組 **ヘンリー・ブラッグとローレンス・ブラッグ(1915年物理学賞) *兄弟でのノーベル賞を受賞した組 **[[ヤン・ティンバーゲン]]と[[ニコ・ティンバーゲン]]の兄弟 *叔父-甥の関係でノーベル賞受賞 **チャンドラセカール・ラマンと[[スブラマニアン・チャンドラセカール]] *最年少ノーベル賞受賞者 **[[マララ・ユスフザイ]](2014年に17歳で平和賞受賞) **[[ローレンス・ブラッグ]](1915年に25歳で物理学賞受賞) **[[フレデリック・バンティング]](1923年に32歳で生理学・医学賞受賞) **[[フレデリック・ジョリオ=キュリー]](1935年に35歳で化学賞受賞) **[[ラドヤード・キップリング]](1907年に42歳で文学賞受賞) **[[エスター・デュフロ]](2019年に46歳で経済学賞受賞) *最年長ノーベル賞受賞者 **[[ジョン・グッドイナフ]](2019年に97歳で化学賞受賞) **[[アーサー・アシュキン]](2018年に96歳で物理学賞受賞) **[[レオニード・ハーヴィッツ]](2007年に90歳で経済学賞受賞) **[[ドリス・レッシング]](2007年に88歳で文学賞受賞) **[[ペイトン・ラウス]](1966年に87歳で生理学・医学賞受賞) ***[[カール・フォン・フリッシュ]](1973年に87歳で生理学・医学賞受賞{{Efn2|それぞれが受賞した年の授賞式の日(毎年12月10日)時点で比較すると、ラウスのほうが約1ヶ月年長。}}) **[[ジョセフ・ロートブラット]](1995年に87歳で平和賞受賞) *(受賞の決め手となる功績から)最短記録 **[[バラク・オバマ]] - 2009年4月に[[プラハ]]で行った「核のない世界」への包括的構想の発表から約半年後の2009年に受賞<ref group="注">自然科学分野では、[[ヨハネス・ベドノルツ]]と[[カール・アレクサンダー・ミュラー]]が、酸化物高温超伝導体の発見の論文発表から約1年後の1987年に受賞したのが最短記録。</ref> *(受賞の決め手となる功績から)最長記録 **[[ペイトン・ラウス]] - 発がん性ウイルスの発見の約55年後の1966年に受賞 **[[エルンスト・ルスカ]] - 電子顕微鏡の開発の約55年後の1986年に受賞 *ノーベル賞と[[オリンピック]]のメダルを両方受賞した人 **[[フィリップ・ノエル=ベーカー]](1920年[[アントワープオリンピック]]の[[陸上競技]]1500m走で銀メダル受賞、1959年平和賞受賞) *ノーベル賞と[[イグノーベル賞]]を両方受賞した人 **[[アンドレ・ガイム]](2000年イグノーベル物理学賞受賞、2010年ノーベル物理学賞受賞) == ノーベル数学賞がない理由 == {{単一の出典|date=2016年5月|section=1}} ノーベル賞に数学部門が存在しない理由として、スウェーデンの著名な数学者[[ヨースタ・ミッタク=レフラー]]がノーベルの妻を奪ったことを根に持ったためだとする俗説があるが<ref name="fie">[https://www.fields.utoronto.ca/aboutus/jcfields/fieldsnobel.html Fields Institute "Mittag-Leffler and Nobel"]</ref>、そもそもノーベルは生涯独身であった。 しかし、数学賞がない原因がミッタク=レフラーとの確執にあるという噂は、文献による証拠がないものの事実である可能性がある<ref name="fie" />。 実際、1890年にミッタク=レフラーが[[ソーニャ・コワレフスカヤ]]への資金的援助をノーベルに頼んだとき、ノーベルはこれを断っている<ref name="fie" />。またノーベルの1883年の遺書には自身の遺産の一部をミッタク=レフラーのいたStockholms Högskola(のちの[[ストックホルム大学]])にも渡すように書いていたが、1896年に最終版の遺書を書いたときにはこの記述を削除した<ref name="fie" />。Högskolaの学長を勤めた[[オットー・ペテルソン]]と[[スヴァンテ・アレニウス]]の推測によれば、ノーベルの遺書からこの記述が削除されたのは、ノーベルがミッタク=レフラーを嫌っていたためである<ref name="fie" />。 当時の人々によるミッタク=レフラーの性格に関する評価は肯定的なものではない<ref name="fie" />。 数学者の[[ジョン・チャールズ・フィールズ|フィールズ]]も2人の確執はありそうな話だとしている<ref name="fie" />が、フィールズ自身はミッタク=レフラーと親しく、このことが[[フィールズ賞]]の設立につながったのではないかとする意見もある<ref name="fie" />。 このような経緯があったにもかかわらず、ミッタク=レフラーはマリ・キュリーのノーベル物理学賞受賞に貢献している。女性への偏見が強かったフランス科学アカデミーは彼女のノーベル賞への推薦を意図的に削除したが、ミッタク=レフラーが彼女を強く推したため、彼女はノーベル賞を受賞する運びとなったのである。詳細は[[マリ・キュリー#女性として]]を参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == *{{Cite book |last=Abrams |first=Irwin |title=The Nobel Peace Prize and the Laureates |url=https://books.google.com/?id=ny77bPwKxaUC&printsec=frontcover |year=2001 |publisher=Watson Publishing International |isbn=0-88135-388-4 |ref=harv}} *{{Cite book |last=Crawford |first=Elizabeth T |title=The Beginnings of the Nobel Institution – The Science Prizes, 1901–1915 |url=https://books.google.com/?id=EGfhs_tvjVYC |year=1984 |publisher=Maison des Sciences de l'Homme & [[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]] |edition=First |isbn=0-521-26584-3 |ref=harv}} *{{Cite book |last=Levinovitz |first=Agneta Wallin |title=The Nobel Prize:The First 100 Years |url=https://books.google.com/?id=QMSg5mRJiukC&printsec=frontcover |editor=Nils Ringertz |year=2001 |publisher=Imperial College Press and World Scientific Publishing |isbn=981-02-4664-1 |ref=harv}} *{{Cite book |last=Sohlman |first=Ragnar |title=The Legacy of Alfred Nobel – The Story Behind the Nobel Prizes |year=1983 |publisher=The Nobel Foundation |authorlink=:en:Ragnar Sohlman |ref=harv}} *{{Cite book|和書 |title=ノーベル賞の百年 創造性の素顔 |author=ウルフ・ラーショーン編 |editor=津金・レイニウス・豊子訳 |publisher=株式会社ユニバーサル・アカデミー・プレス |date=2002-03-19 |isbn=4946443681 |ref={{Sfnref|ウルフ|2002}}}} *{{Cite book |author=Patrick Coffey |title=Cathedrals of Science: The Personalities and Rivalries That Made Modern Chemistry |publisher=Oxford University Press |year=2008 |isbn=978-0-19-532134-0 |language=en |ref={{SfnRef|Coffey|2008}}}} == 関連項目 == {{Commonscat|Nobel Prize}} {{wikinewscat}} * [[ノーベル賞受賞者の一覧]] * [[国別のノーベル賞受賞者]] ** [[日本人のノーベル賞受賞者]] ** [[中国人・華人のノーベル賞受賞者]] ** [[ハンガリー人のノーベル賞受賞者]] ** [[ユダヤ人のノーベル賞受賞者]] * [[ノーベル賞受賞者の大学別ランキング]] * [[:en:Nobel laureates by university affiliation]] - 出身大学別の受賞者一覧 * [[ノーベル財団]] * [[ノーベル博物館]] * [[ストックホルム国際青年科学セミナー]] * [[:リンダウ・ノーベル賞受賞者会議]] - ドイツの[[リンダウ]]で毎年催されるノーベル賞受賞者による会議。 * [[ノーベル物理学賞への第一歩]] - ポーランド発祥で、世界中の高校生を対象とした教育シンポジウム。 * [[ある分野のノーベル賞として知られる賞の一覧]] * [[イグノーベル賞]] - ノーベル賞のパロディ版。 * [[京都賞]](先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門) - ノーベル賞を相補するような選出がなされている。稲盛財団主催。 * [[クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞]] - ノーベル賞受賞の可能性が高い人にクラリベイト・アナリティクス社が授与している賞(旧トムソン・ロイター引用栄誉賞)。 * [[孔子平和賞]] - [[劉暁波]]への平和賞授与に反発した中国によって創設された賞。 * [[スターリン平和賞]] - ソビエト連邦がノーベル平和賞に対抗して創設した賞。後に[[レーニン平和賞]]と改められる。 * [[ドイツ芸術科学国家賞]] - [[カール・フォン・オシエツキー]]への平和賞授与に反発した[[ナチス・ドイツ]]によって創設された賞。 * [[ルードヴィ・ノーベル賞]] - アルフレッド・ノーベルの兄である[[:en:Ludvig_Nobel|ルードヴィ]]の名を冠したロシアの賞。歴史はノーベル賞よりも古く帝政ロシア時代の1888年創設。 * [[ノーベル症]] - ノーベル賞を受賞した(一部の)人が、奇妙であったり科学的に不合理な説を抱くこと。 * [[匿名Aによる論文大量不正疑義事件]] - 日本の生理学・医学賞受賞者の大半は受賞後に匿名Aから疑義を指摘されている。 * [[科学における不正行為]] - 受賞の1年後に60報近い論文の疑義がPubPeerで告発される例も近年ある。研究不正問題はノーベル賞受賞者にも無縁ではない。 * [[スウェーデン王立科学アカデミー]] * [[カロリンスカ研究所]] * [[スウェーデン・アカデミー]] * [[ノルウェー・ノーベル委員会]] == 外部リンク == * {{Official website|https://www.nobelprize.org/}}{{en icon}} * {{Kotobank}} {{NobelPrizes}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:のおへるしよう}} [[Category:ノーベル賞|*]] [[Category:スウェーデンの賞]] [[Category:北欧の文化]] [[Category:アルフレッド・ノーベル]] [[Category:スウェーデン=ノルウェー連合王国]] [[Category:人名を冠した賞]] [[Category:オスカル2世]] [[Category:スヴァンテ・アレニウス]]
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小柴昌俊
小柴 昌俊(こしば まさとし、1926年〈大正15年〉9月19日 - 2020年〈令和2年〉11月12日)は、日本の物理学者、天文学者。 勲等は勲一等。正三位。学位はDoctor of Philosophy(ロチェスター大学・1955年)、理学博士(東京大学・1967年)。東京大学特別栄誉教授・名誉教授、東海大学特別栄誉教授、杉並区立桃井第五小学校名誉校長、日本学術会議栄誉会員、日本学士院会員、文化功労者。 血液型はA型。 シカゴ大学研究員、東京大学原子核研究所助教授、東京大学理学部教授、東京大学高エネルギー物理学実験施設施設長、東海大学理学部教授、財団法人平成基礎科学財団理事長などを歴任した。 愛知県生まれの物理学者であり、ニュートリノ天文学を開拓した天文学者でもある。東京大学や東海大学において教鞭を執った。 1987年、自らが設計を指導・監督したカミオカンデによって史上初めて太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功した。この業績により、1989年に日本学士院賞を受賞し、2002年にはノーベル物理学賞を受賞した。 1997年には文化勲章を受章しており、日本学士院会員にも選任されている。 晩年は、ノーベル物理学賞の賞金などを基にして平成基礎科学財団を設立し、科学の啓蒙活動に取り組んだ。 財団法人高エネルギー加速器科学研究会では、小柴の業績を記念してその「奨励賞」に2003年度から「小柴賞」を設けた。 幼少期は軍人か音楽家を目指していた。12歳の時に罹患した小児麻痺により、二つの夢を諦めることになったが、その入院中に担任から贈られたアインシュタインの本が物理学者を目指すきっかけとなった。 一高時代は落ちこぼれで成績が悪かった。寮(当時の旧制高校は全寮制)の風呂場裏で彼を貶める教師の雑談を聞いてしまい一念発起、寮の同室の同級生(朽津耕三(現・東京大学化学科名誉教授))を家庭教師に物理の猛勉強を始め東大物理学科へ入学。小柴が「やれば、できる」と言う由縁は自らの体験から生まれたものである。 天体力学を専門とする天文学者の古在由秀は大学時代からの友人である。そのためSN 1987Aからのニュートリノの検出に成功した時古在が編集委員を務めていた天文雑誌『星の手帖』編集長の阿部昭と『星の手帖』編集委員で天体写真家の藤井旭が小柴と古在の対談を企画した。この対談はニュートリノ検出の翌年である1988年に実現したが、結果的には、ニュートリノ検出の話よりも小柴と古在の学生時代の思い出話で盛り上がった。 自らを「変人学者」「東大物理学科をビリで卒業した落ちこぼれ」と称し、「現場主義の研究者」としての立場を貫いている。東京大学卒業時の成績証明書を公開したことがあり、16教科のうち「優」は2(物理学実験第1と第2のみ)、「良」は10、「可」は4(原子物理学ほか)であった。また、後進の教育・指導にも当たり、「私の研究を受け継いだ者の中からノーベル賞を受賞する研究を成し遂げる者があと2人は出るであろう」と発言した。実際にも彼の愛弟子の一人であった戸塚洋二はノーベル物理学賞の有力候補として注目されていたが、戸塚は2008年にがんで亡くなり、受賞は叶わなかった。しかし、同じく愛弟子の一人である梶田隆章が2015年にノーベル物理学賞を受賞し、戸塚が果たせなかった悲願を実現させている。 東大物理学科でも成績は悪かったが朝永振一郎に推薦状を書いてもらい、フルブライト奨学生としてアメリカ合衆国・ロチェスター大学博士課程へ留学。ロチェスター大学では留学生手当てが少なく生活が苦しかったが、博士号 (Ph.D.) を取得し博士研究員として大学に在籍すると給与が倍増されると聞き、1年8ヵ月で博士号を取得した。1年8ヵ月での博士号取得はロチェスター大学での最短記録であり、この記録は現在でも破られていない。 大学院生時代に、当時、神奈川県横須賀市にあった栄光学園にて物理の臨時講師を担当した。「この世に摩擦がなければどうなるのか」との質問を生徒に出題。摩擦がないと鉛筆の先が滑って答案は書けない、それ故に正答は「白紙答案」。解答を記入すると不正解になる奇問・難問を出題した。 アメリカでの研究生活が長く、アメリカと日本の大学における研究の環境について「アメリカでは偉い先生が間違ったことを言っても、それはおかしいと言える環境がある。しかし日本では偉い先生が間違ったこと言っても、学生は萎縮してしまい何も言えない。」と答えている。 東京大学本郷キャンパスの理学部1号館には小柴昌俊のノーベル賞受賞を記念して「小柴ホール」が設置された。 研究室の学生たちからは、『親分』と呼ばれる。 趣味はクラシック音楽で、モーツァルト愛好家である。また、ゲームソフトの『ファイナルファンタジー』を好んでプレイしている。
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小柴 昌俊は、日本の物理学者、天文学者。 勲等は勲一等。正三位。学位はDoctor of Philosophy(ロチェスター大学・1955年)、理学博士(東京大学・1967年)。東京大学特別栄誉教授・名誉教授、東海大学特別栄誉教授、杉並区立桃井第五小学校名誉校長、日本学術会議栄誉会員、日本学士院会員、文化功労者。 血液型はA型。 シカゴ大学研究員、東京大学原子核研究所助教授、東京大学理学部教授、東京大学高エネルギー物理学実験施設施設長、東海大学理学部教授、財団法人平成基礎科学財団理事長などを歴任した。
{{脚注の不足|date=2018年4月}} {{Infobox Scientist |name = 小柴 昌俊 |image = Masatoshi Koshiba 2002.jpg |image_width = 200px |alt = |caption = 『[[小泉内閣メールマガジン]]』寄稿に際して<br>公表された肖像写真 |birth_date = {{生年月日|1926|9|19}} |birth_place = {{JPN}} [[愛知県]][[豊橋市]] |death_date = 2020年11月12日(94歳) |death_place ={{JPN}} [[東京都]] |residence = {{JPN}} |nationality = {{JPN}} |field = [[素粒子物理学]]<br>[[宇宙線物理学]]<br>[[天体物理学]] | workplaces = |alma_mater = [[東京大学]] |doctoral_advisor = <!--博士課程指導教官--> |doctoral_students = <!--博士課程指導学生--> |known_for = [[ニュートリノ天文学]]の開拓<br>[[超新星]]からの[[ニュートリノ]]の検出 |footnotes = |work_institution = 東京大学<br>[[東海大学]] |prizes = [[仁科記念賞]](1987年)<br>[[日本学士院賞]](1989年)<br>[[フンボルト賞]](1997年)<br>[[ウルフ賞物理学部門]](2000年)<br>[[ノーベル物理学賞]](2002年)<br>[[ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)|ベンジャミン・フランクリン・メダル]](2003年) }} {{thumbnail:begin}} {{thumbnail:ノーベル賞受賞者|2002年|ノーベル物理学賞|天体物理学とくに宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献}} {{thumbnail:end}} '''小柴 昌俊'''(こしば まさとし、[[1926年]]〈[[大正]]15年〉[[9月19日]] - [[2020年]]〈[[令和]]2年〉[[11月12日]])は、[[日本]]の[[物理学者]]、[[天文学者]]。 [[勲等]]は[[勲一等]]。[[正三位]]。[[学位]]は[[Doctor of Philosophy]]([[ロチェスター大学]]・[[1955年]])、[[博士(理学)|理学博士]]([[東京大学]]・[[1967年]])。東京大学[[特別栄誉教授]]・[[名誉教授]]、[[東海大学]]特別栄誉教授、杉並区立桃井第五小学校[[名誉校長]]、[[日本学術会議]][[栄誉会員]]、[[日本学士院会員]]、[[文化功労者]]。 血液型はA型。 [[シカゴ大学]][[研究員]]、東京大学[[東京大学原子核研究所|原子核研究所]][[助教授]]、東京大学[[東京大学理学部|理学部]][[教授]]、東京大学高エネルギー物理学実験施設施設長、東海大学[[理学部]]教授、[[平成基礎科学財団|財団法人平成基礎科学財団]][[理事長]]などを歴任した。 == 生涯 == [[愛知県]]生まれの[[物理学者]]であり、[[ニュートリノ天文学]]を開拓した[[天文学者]]でもある。[[東京大学]]や[[東海大学]]において教鞭を執った。 [[1987年]]、自らが設計を指導・監督した[[カミオカンデ]]によって史上初めて[[太陽系]]外で発生した[[ニュートリノ]]の観測に成功した。この業績により、[[1989年]]に[[日本学士院賞]]を受賞し、[[2002年]]には[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。 [[1997年]]には[[文化勲章]]を受章しており、[[日本学士院会員]]にも選任されている。 晩年は、ノーベル物理学賞の賞金などを基にして[[平成基礎科学財団]]を設立し、[[科学]]の啓蒙活動に取り組んだ。 === 経歴 === * [[愛知県]][[豊橋市]]で、父親である[[大日本帝国陸軍|陸軍]]歩兵[[大佐]][[小柴俊男]]([[千葉県]][[館山市]]出身)と、農家の末娘はや(同県[[木更津市]]出身)の間に生を受ける。1歳の頃、[[東京府]][[豊多摩郡]][[大久保町 (東京府)|大久保町]]西大久保に転居 * 1933年 - 東京市立大久保尋常高等小学校(新宿区立大久保小学校)入学 *1939年3月 - [[横須賀市立諏訪小学校|横須賀市立諏訪尋常高等小学校]]卒業 * 1939年 - 神奈川県立横須賀中学校(現・[[神奈川県立横須賀高等学校]])1年生のときに[[急性灰白髄炎|小児麻痺]]に罹患する * 1944年 ** 3月 - 同中学校卒業 ** 4月 - 東京明治工業専門学校(現・[[明治大学理工学部]])に入学(1945年1月に退学) * 1945年4月 - [[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]](現・[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]])入学 * 1948年4月 - [[東京大学理学部物理学科]]入学 * 1951年 ** 3月 - 東京大学理学部物理学科卒業 ** 4月 - 東京大学大学院(旧制大学院)入学。理学修士。研究テーマは「原子核乾板による素粒子実験学」。 * 1953年9月 - 米国[[ロチェスター大学]]に留学 * 1955年6月 - ロチェスター大学で[[Doctor of Philosophy|Ph.D.]]を取得し、[[シカゴ大学]]研究員に就任 * 1959年 - 一時帰国し慶子と結婚(媒酌は[[朝永振一郎]]夫妻)し再び渡米、後に1男1女(俊と眞理)を儲ける * 1962年 - アメリカから帰国し、[[東京大学原子核研究所]]助教授に就任 * 1963年 - 東京大学理学部物理学科助教授に就任 * 1967年 - 東京大学[[博士(理学)|理学博士]]。論文の題は「超高エネルギー現象の統一的解釈」 * 1970年3月 - 東京大学理学部教授に就任 * 1974年 - 東京大学理学部内に[[高エネルギー物理学実験施設]](現・東京大学素粒子物理国際研究センター(ICEPP、全学センター))を設立、施設長・センター長を務める * 1979年 - [[陽子崩壊]]の検出を主目的に岐阜県[[神岡鉱山]]跡に「[[カミオカンデ]]」の建設を開始 * 1983年 - 「カミオカンデ」が完成し観測を開始 *1987年 - [[東海大学理学部]]教授に就任 *1996年 - 「スーパーカミオカンデ」の登場により「カミオカンデ」稼働を停止 * 1997年3月 - 東海大学を退職 *2002年1月23日− 「カミオカンデ」稼働再開 * 2003年 - [[平成基礎科学財団]]を設立し理事長に就任 *2020年11月12日 老衰のため死去<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201113/k10012709941000.html?utm_int=news_contents_news-main_001 ノーベル物理学賞受賞の小柴昌俊さん死去 94歳] - NHK NEWS WEB 2020年11月13日</ref>、94歳。死没日をもって[[正三位]]に叙される<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2020121100886 故小柴昌俊さんに正三位 故坂田藤十郎さんは従三位] - 時事ドットコム 2020年12月11日</ref>。 === その他役職 === * 財団法人[[高エネルギー加速器科学研究奨励会]]評議員 * 財団法人[[日本宇宙少年団]]顧問 * 社団法人[[国際経済政策調査会]]理事 * 財団法人[[高松宮妃癌研究基金]]評議員 * 財団法人[[関信越音楽協会]]理事 == 学術賞 == [[画像:Masatoshi Koshiba Koichi Tanaka and Junichiro Koizumi 20030207.jpg|200px|thumb|2003年2月7日、[[総理大臣官邸]]にて[[島津製作所]][[フェロー]][[田中耕一]](中央)と共に[[内閣総理大臣]][[小泉純一郎]](右)から内閣総理大臣感謝状を受領]] * 1987年 - 『[[超新星爆発]]に伴うニュートリノの検出』により、[[戸塚洋二]](東京大学理学部)、[[須田英博]]([[東京大学宇宙線研究所]])と共に[[仁科記念賞]]を受賞。また、同業績に対し「神岡観測グループ(代表者 小柴昌俊)」に[[朝日賞]]が授与される。 * 1989年 - [[日本学士院賞]]を受賞。 * 1997年 - [[フンボルト賞]]を受賞。 * 2000年 - [[レイモンド・デイビス|レイモンド・デイヴィス]]と共に[[ウルフ賞物理学部門]]を受賞。 * 2002年 - 「天体物理学とくに宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」により、レイモンド・デイヴィスと共に[[ノーベル物理学賞]]を受賞。[[ニュートリノ天文学]]という新しい学問分野を開拓した。 * 2003年 - レイモンド・デイヴィスと共に[[ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)|ベンジャミン・フランクリン・メダル]]を受賞。 == 栄誉 == * 1985年 - [[ドイツ電子シンクロトロン研究所]] (DESY) における国際共同研究の業績により、[[ドイツ連邦共和国功労勲章]]大功労十字章 * 1997年 - [[文化勲章]] * 2002年 - 杉並区名誉区民、明治大学名誉博士<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meiji.ac.jp/koho/information/pr/topics/topic040401.html |title=明治大学の生涯教育の新拠点「アカデミーコモン」オープン! |publisher=明治大学 |accessdate=2012-04-09}}</ref> * 2003年 - [[勲一等旭日大綬章]]、東京都[[名誉都民]] * 2005年 - [[東京大学#特別栄誉教授|東京大学特別栄誉教授]] * 2019年 - 東海大学[[特別栄誉教授]]<ref>[https://www.u-tokai.ac.jp/about/campus/shonan/news/detail/post_1327.html 特別栄誉教授授与式を挙行しました]東海大学ウェブサイト 2019年01月26日</ref> * 2020年 - 叙[[正三位]] == 小柴賞 == [[財団法人]][[高エネルギー加速器科学研究会]]では、小柴の業績を記念してその「奨励賞」に2003年度から「[[小柴賞]]」を設けた。 == 人物 == [[画像:Masatoshi Koshiba Junichiro Koizumi and Koichi Tanaka 20021011.jpg|200px|thumb|2002年10月11日、[[総理大臣官邸]]にて内閣総理大臣小泉純一郎(中央)、島津製作所分析計測事業部ライフサイエンスビジネスユニットライフサイエンス研究所主任田中耕一(右)と]] [[画像:Masatoshi Koshiba and Junichiro Koizumi 20030827.jpg|200px|thumb|2003年8月27日、[[東京大学宇宙線研究所]]神岡宇宙素粒子研究施設にて内閣総理大臣小泉純一郎(右端)らと]] 幼少期は軍人か音楽家を目指していた。12歳の時に罹患した小児麻痺により、二つの夢を諦めることになったが、その入院中に担任から贈られた[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の本が物理学者を目指すきっかけとなった。 一高時代は落ちこぼれで成績が悪かった。寮(当時の旧制高校は全寮制)の風呂場裏で彼を貶める教師の雑談を聞いてしまい一念発起、寮の同室の同級生([[朽津耕三]](現・東京大学化学科名誉教授))を家庭教師に物理の猛勉強を始め東大物理学科へ入学。小柴が「やれば、できる」と言う由縁は自らの体験から生まれたものである。 [[天体力学]]を専門とする天文学者の[[古在由秀]]は大学時代からの友人である<ref name="白河天体観測所261-262">藤井旭『白河天体観測所』、261-262頁。</ref>。そのためSN 1987Aからのニュートリノの検出に成功した時古在が編集委員を務めていた[[天文雑誌]]『星の手帖』編集長の阿部昭と『星の手帖』編集委員で[[天体写真]]家の[[藤井旭]]が小柴と古在の対談を企画した<ref>藤井旭『白河天体観測所』、262頁。</ref>。この対談はニュートリノ検出の翌年である1988年に実現したが<ref name="白河天体観測所261-262"/>、結果的には、ニュートリノ検出の話よりも小柴と古在の学生時代の思い出話で盛り上がった<ref>藤井旭『白河天体観測所』、261頁。</ref>。 自らを「変人学者」「東大物理学科をビリで卒業した落ちこぼれ」と称し、「現場主義の研究者」としての立場を貫いている。東京大学卒業時の成績証明書を公開したことがあり、16教科のうち「優」は2(物理学実験第1と第2のみ)、「良」は10、「可」は4(原子物理学ほか)であった。また、後進の[[教育]]・[[指導]]にも当たり、「私の研究を受け継いだ者の中からノーベル賞を受賞する研究を成し遂げる者があと2人は出るであろう」と発言した。実際にも彼の愛弟子の一人であった[[戸塚洋二]]はノーベル物理学賞の有力候補として注目されていたが、戸塚は2008年に[[悪性腫瘍|がん]]で亡くなり、受賞は叶わなかった。しかし、同じく愛弟子の一人である[[梶田隆章]]が2015年にノーベル物理学賞を受賞し、戸塚が果たせなかった悲願を実現させている。 東大物理学科でも成績は悪かったが[[朝永振一郎]]に推薦状を書いてもらい、[[フルブライト・プログラム|フルブライト奨学生]]としてアメリカ合衆国・[[ロチェスター大学]]博士課程へ留学。[[ロチェスター大学]]では留学生手当てが少なく生活が苦しかったが、[[博士]]号 ([[Doctor of Philosophy|Ph.D.]]) を取得し[[博士研究員]]として大学に在籍すると給与が倍増されると聞き、1年8ヵ月で博士号を取得した。1年8ヵ月での博士号取得は[[ロチェスター大学]]での最短記録であり、この記録は現在でも破られていない。 大学院生時代に、当時、神奈川県[[横須賀市]]にあった[[栄光学園中学校・高等学校|栄光学園]]にて物理の臨時講師を担当した。「この世に[[摩擦]]がなければどうなるのか」との質問を生徒に出題。摩擦がないと鉛筆の先が滑って答案は書けない、それ故に正答は「白紙答案」。解答を記入すると不正解になる奇問・難問を出題した<ref>小柴昌俊『やれば、できる。』{{要ページ番号|date=2012-10-13}}</ref>。 === 逸話 === アメリカでの研究生活が長く、アメリカと日本の大学における研究の環境について「アメリカでは偉い先生が間違ったことを言っても、それはおかしいと言える環境がある。しかし日本では偉い先生が間違ったこと言っても、学生は萎縮してしまい何も言えない。」と答えている。 [[東京大学本郷地区キャンパス|東京大学本郷キャンパス]]の理学部1号館には小柴昌俊のノーベル賞受賞を記念して「[[小柴ホール]]」が設置された。 研究室の学生たちからは、『親分』と呼ばれる<ref>{{Cite web|和書 |url = http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=265 |title = 【嬉しい便り】中村 實さんからの寄稿。 |author = 私たちの40年!! |accessdate = 2008-09-14 }}</ref>。 === 趣味・嗜好 === 趣味は[[クラシック音楽]]で、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]愛好家である<ref>[http://www.camerata.co.jp/ カメラータ・トウキョウ]の[http://www.camerata.co.jp/J/cd/cmcd28/28020.html CD紹介ページ]より</ref>。また、ゲームソフトの『[[ファイナルファンタジーシリーズ|ファイナルファンタジー]]』を好んでプレイしている<ref>2002年10月9日、朝日新聞朝刊</ref>。 === 家族・親族 === * 妻は社会福祉法人仁生社江戸川病院創立者である加藤峰三郎の長女慶子(きょうこ)。 * 長男は[[香川大学]]工学部教授で材料物理工学者の[[小柴俊]]<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASNCF64FJNCFULBJ011.html|author=石倉徹也|title=小柴昌俊さん、入院食より甘いもの 長男の俊さん明かす|newspaper=朝日新聞デジタル|agency=朝日新聞社|date=2020-11-14|accessdate=2022-08-12}}</ref>。 * 長女は藤井眞理、孫の藤井亜美は整形外科医。 * 遠縁の親戚には[[石原慎太郎]](政治家)、[[石原裕次郎]](俳優)、[[石原伸晃]](政治家)、[[石原良純]](俳優)、[[斎藤友佳理]]([[バレリーナ]])がいる<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/08/10/kiji/20220810s00041000633000c.html|title=石原良純 新幹線の父・元首相・ノーベル賞受賞者…“大物親戚”続々判明に「ちゃんと生きないと」|newspaper=Sponichi Annex|agency=スポーツニッポン新聞社|date=2022-08-10|accessdate=2022-08-12}}</ref>。 == 主要論文 == * [https://doi.org/10.24532/soken.30.3_280_1 νの実験(「Neutrino Astronomy」研究会報告)] 素粒子論研究 1964年 30巻 3号 p.280-, {{doi|10.24532/soken.30.3_280_1}} * [https://doi.org/10.24532/soken.32.6_F7 Brawley stack] 素粒子論研究 1966年 32巻 6号 p.F7- , {{doi|10.24532/soken.32.6_F7}} * [https://doi.org/10.24532/soken.35.3_C25 χ-baryon] 1967年 35巻 3号 p.C25-, {{doi|10.24532/soken.35.3_C25}} * [https://doi.org/10.24532/soken.47.6_764 高エネルギ反応について(O(4)対称性などの研究会(第2回)報告)] 素粒子論研究 1973年 47巻 6号 p.764-765, {{doi|10.24532/soken.47.6_764}} * [https://hdl.handle.net/2261/27053 陰・陽電子コライディングビーム] 東京大学理学部弘報 1973年 5巻 4号 p.5-7, {{hdl|2261/27053}} * [https://hdl.handle.net/2261/27344 素粒子物理学国際協力施設] 東京大学理学部弘報 1977年 9巻 2号 p.2-6, {{hdl|2261/27344}} * [https://hdl.handle.net/2261/27580 素粒子物理国際センターの発足] 東京大学理学部弘報 1984年 16巻 1号 p.2-2, {{hdl|2261/27580}} * [https://hdl.handle.net/2261/27721 老いのくりごと] 東京大学理学部弘報 1987年 18巻 4号 p.16-17, {{hdl|2261/27721}} * [https://doi.org/10.14935/jssep.27.0_1 科学する楽しさ] 日本科学教育学会年会論文集(会議録・要旨集)27 巻 (2003) p.1-2, {{doi|10.14935/jssep.27.0_1}} == 著書 == *『ニュートリノ天文学の誕生 素粒子で宇宙をみる』[[講談社]]〈[[ブルーバックス]] B-792〉、1989年9月。ISBN 9784061327924。 **『ニュートリノ天体物理学入門 知られざる宇宙の姿を透視する』(改訂版)講談社〈ブルーバックス B-1394〉、2002年11月。ISBN 9784062573948。 *『ようこそニュートリノ天体物理学へ』[[海鳴社]]、2002年11月。ISBN 9784875252115。 *『心に夢のタマゴを持とう』講談社〈[[講談社文庫]]〉、2002年11月。ISBN 9784062736336。 *『物理屋になりたかったんだよ ノーベル物理学賞への軌跡』[[朝日新聞社]]〈[[朝日選書]] 719〉、2002年12月。ISBN 9784022598196。 *『やれば、できる。』[[新潮社]]、2003年1月。ISBN 9784104581016。 *『やれば、できる。』新潮社〈[[新潮文庫]] こ-33-1〉、2004年8月。ISBN 9784101070216。 *『「本気」になって自分をぶつけてみよう』[[三笠書房]]、2006年12月。ISBN 9784837922186。 *『ニュートリノの夢』[[岩波書店]]〈[[岩波ジュニア新書]] 646〉、2010年1月。ISBN 9784005006465。 *『ニュートリノと私 not a miracle at all』[[PHP研究所]]、2014年8月。ISBN 9784569784083。 == 英訳書 == * Tomonaga, Shin-ichiro『Quantum Mechanics』 [[Interscience Publishers]](1962年、朝永振一郎 『量子力学 I、II』([[みすず書房]])の英訳本。現在入手不能) == 注釈・出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * 藤井旭 著 『白河天体観測所』 [[誠文堂新光社]]、2015年10月15日発行、ISBN 978-4-416-11537-4 == 関連項目 == * [[カミオカンデ]] * [[スーパーカミオカンデ]] * [[カムランド]] * [[戸塚洋二]] * [[駒宮幸男]] * [[梶田隆章]] == 外部リンク == * [https://www.nobelprize.org/prizes/physics/2002/summary/ The Nobel Prize in Physics 2002] - 授賞式や受賞記念講演の動画など * [https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/research/alumni/koshiba.html 東京大学理学系研究科・理学部 代表的な卒業生] - 小柴特別栄誉教授の略歴、業績など * {{NHK人物録|D0009072642_00000}} * {{NHK放送史|D0009030312_00000|小柴さん・田中さんノーベル賞受賞}} * [https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20211126_e01/index.html 情熱と鋭い感性 小柴昌俊さんをしのぶ会、教え子ら数々の名言で振り返る (サイエンスポータル2021年11月26日掲載)] * [https://web.archive.org/web/20071014024351fw_/http://www.hoyu-kai.com/renewal/atsumare/human/h005_kosiba/human_005_kosiba.htm ようこそ同窓生 小柴昌俊さん(中32期) - 神奈川県立横須賀高校ホームページ] {{日本人のノーベル賞受賞者}} {{ノーベル物理学賞受賞者 (2001年-2025年)}} {{ウルフ賞物理学部門}} {{典拠管理}} {{DEFAULTSORT:こしは まさとし}} [[Category:小柴昌俊|*]] [[Category:20世紀日本の物理学者]] [[Category:21世紀日本の物理学者]] [[Category:20世紀日本の天文学者]] [[Category:21世紀日本の天文学者]] [[Category:日本の天体物理学者]] [[Category:日本のノーベル賞受賞者]] [[Category:ノーベル物理学賞受賞者]] [[Category:ウルフ賞物理学部門受賞者]] [[Category:藤原科学財団の藤原賞の受賞者]] [[Category:朝日賞受賞者]] [[Category:仁科記念賞の受賞者]] [[Category:フンボルト賞の受賞者]] [[Category:パノフスキー賞の受賞者]] [[Category:ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会) 受賞者]] [[Category:正三位受位者]] [[Category:勲一等旭日大綬章受章者]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:理学博士取得者]] [[Category:Doctor of Philosophy取得者]] [[Category:理学修士取得者]] [[Category:理学士取得者]] [[Category:名誉都民]] [[Category:米国科学アカデミー外国人会員]] [[Category:ロシア科学アカデミー外国人会員]] [[Category:アメリカ物理学会フェロー]] [[Category:日本学士院会員]] [[Category:日本学術会議会員]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:東海大学の教員]] [[Category:急性灰白髄炎の人物]] [[Category:東京大学素粒子物理国際研究センターの人物]] [[Category:高エネルギー加速器研究機構の人物]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:私の履歴書の登場人物]] [[Category:フルブライト奨学生]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:旧制第一高等学校出身の人物]] [[Category:神奈川県立横須賀高等学校出身の人物]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:1926年生]] [[Category:2020年没]]
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徳田ザウルス
徳田 ザウルス(とくだ ザウルス、本名: 徳田 肇(とくだ はじめ)、1958年12月1日 - 2006年3月23日)は、日本の漫画家、3DCGイラストレーター。神奈川県横浜市出身。J-Mac理事。 大のマシン好きが高じて自動車販売業者に勤務していたが、漫画家を志し退職。愛車もチョッパーバイクやシボレーのコルベット、フリートラインなどを好んで乗っていた。 1980年代、桜多吾作のアシスタントを務めた後、当時の月刊コロコロコミック編集部が用意した漫画家用執筆室を利用する常連漫画家志望者の1人として、様々な作家の原稿を手伝っていた。またコロコロ内の特集記事ページでイラストカットを手掛けることもあった。 1987年には以下の出来事が集中する。 1992年1月28日に急病で倒れ、35日間の意識不明、20日間の危篤状態になり、左足に麻痺が残る。連載中だった『四駆郎』も休載。同年5月5日に復帰。発病前は野菜嫌いの偏食家で、牛丼の具のタマネギすら残すほどだったという。 その後も通院や養生をしながら様々な漫画やイラストを執筆し続けていたが、2006年3月23日未明に再び倒れ、同日午前3時5分、急性心不全のため横浜市内の病院で死去。享年47。葬儀は日本キリスト教会鶴見教会で行われた。 妻はイラストレーターの徳田じざべ。
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徳田 ザウルスは、日本の漫画家、3DCGイラストレーター。神奈川県横浜市出身。J-Mac理事。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 徳田ザウルス | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 徳田 肇<br />とくだ はじめ | 生地 = {{flagicon|Japan}} [[神奈川県]][[横浜市]] | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日と年齢|1958|12|1|死去}} | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1958|12|1|2006|3|23}} | 没地 = {{flagicon|Japan}}[[神奈川県]][[横浜市]] | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = 1987年 - 2006年 | ジャンル = [[少年漫画]] | 公式サイト = | 代表作 = 『[[ダッシュ四駆郎]]』<br />『[[風のレーサー侠]]』<br />『[[ダッシュボーイ天]]』 | 受賞 = }} '''徳田 ザウルス'''(とくだ ザウルス、本名: '''徳田 肇'''(とくだ はじめ)、[[1958年]][[12月1日]] - [[2006年]][[3月23日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]、3DCG[[イラストレーター]]。[[神奈川県]][[横浜市]]出身。J-Mac理事。 == 人物・略歴 == 大のマシン好きが高じて自動車販売業者に勤務<ref>『コロコロ創刊伝説』5巻133ページ。それ以前の回で本人の「ホンダに勤めていた」とのセリフもあるが、勤務している業者が描かれたコマの看板の一部に「HOND」とあるので、ホンダの系列自動車販売会社だった模様。</ref>していたが、漫画家を志し退職。愛車もチョッパーバイクや[[シボレー]]の[[コルベット]]、フリートラインなどを好んで乗っていた。 [[1980年代]]、[[桜多吾作]]のアシスタントを務めた後、当時の[[月刊コロコロコミック]]編集部が用意した漫画家用執筆室を利用する常連漫画家志望者の1人として、様々な作家の原稿を手伝っていた<ref name="コロコロ執筆突撃隊">{{Cite book|和書|author=たかや健二|authorlink=たかや健二|editor=塚原正寛・荒木淳・関俊行|title=[[熱血!!コロコロ伝説]]|year=2007|publisher=小学館|series=ワンダーライフスペシャル コロコロ30周年シリーズ|volume=Vol.2|isbn=978-4-09-106343-4|pages=221-227|chapter=コロコロ執筆突撃隊}}</ref>。またコロコロ内の特集記事ページでイラストカットを手掛けることもあった<ref>1987年頃の[[ビックリマン]]特集ページなどで確認できる。</ref>。 [[1987年]]には以下の出来事が集中する。 *コロコロ本誌の[[ラジコン模型自動車|RCカー]]技術解説ページ『前ちゃん<ref>前田靖幸。当時の[[タミヤ]]の開発スタッフの1人で、雑誌やテレビでの製品紹介やイベント司会など広報としても活躍していた。</ref>のラジコンスクール』のイラストカットを4月号から翌年3月号まで毎号担当。 *夏休み増刊号の読み切り『走れ!前ちゃん<ref>『ダッシュ!四駆郎』14巻に収録。</ref>』で漫画家デビュー。 *本誌11月号の読み切り『前ちゃんの[[ミニ四駆]]大作戦<ref>『ダッシュ!四駆郎』1巻に収録。</ref>』を経て、翌12月号から初連載作品『[[ダッシュ!四駆郎]]』がスタートする。 [[1992年]][[1月28日]]に急病で倒れ、35日間の意識不明、20日間の危篤状態になり、左足に麻痺が残る。連載中だった『四駆郎』も休載。同年[[5月5日]]に復帰<ref>「ダッシュ!四駆郎」14巻あとがきより。</ref>。発病前は野菜嫌いの偏食家で、牛丼の具のタマネギすら残すほどだったという<ref>『コロコロ創刊伝説』5巻82ページ。</ref>。 その後も通院や養生をしながら様々な漫画やイラストを執筆し続けていたが、[[2006年]]3月23日未明に再び倒れ、同日午前3時5分、[[心不全|急性心不全]]のため[[横浜市]]内の病院で死去。享年47。葬儀は[[日本キリスト教会]]鶴見教会で行われた。 妻はイラストレーターの[[徳田じざべ]]。 == 作品リスト == * ダッシュ!四駆郎 単行本 小学館 てんとう虫コミックス 全14巻 - TVアニメ化もされ、アニメ版では自身をモデルとした登場人物の声も担当していた。 ** [[真ダッシュ!四駆郎]] - ポスターとチラシのみ。未完。 * [[風のレーサー侠]] 単行本 小学館 てんとう虫コミックス 全1巻 ** 風のレーサー侠 外伝 - ポスターとチラシの み。 * [[ダッシュボーイ天]] 単行本 小学館 てんとう虫コミックススペシャル 全2巻 * [[一着!70キ]](いっちゃく!ななまるき)- 別冊コロコロコミックスペシャル 1994年12月号(64号)に前編と1995年2月号(65号)に後編が掲載。世界初のCGミニ四駆漫画。掲載誌には爆走兄弟レッツ&ゴーやGO!GO!ミニ四ファイターなどミニ四駆漫画が並んでおり、徳田のキャッチフレーズは「元祖ミニ四恐竜」となっている。 == アシスタント == * [[樫本学ヴ]] * [[青木たかお]] * [[今賀俊]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[コロコロ創刊伝説]]([[のむらしんぼ]]) - 5巻(第28話から第32話)で第1次ミニ四駆ブーム時を描いており徳田が主要人物として登場。特に第32話は「漫画家・徳田ザウルス伝説」として彼の漫画家人生を描いている。 {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:とくた さうるす}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:横浜市出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:2006年没]]
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アントシアニン
アントシアニン(英語: anthocyanin)は、植物界において広く存在する色素である。果実や花に見られる、赤や青や紫などを呈する水溶性の色素群として知られるアントシアン(英語: anthocyan)に分類される化合物の中で、アントシアニジン(英語: anthocyanidin)がアグリコンとして糖や糖鎖と結びついた配糖体が、アントシアニンである。植物の抗酸化物質としても知られる。 植物の代表的な色素としては、比較的水溶性の高いフラボノイドとベタレイン、逆に親油性のカロチノイドとクロロフィル、合わせて4つの化合物群が挙げられる。これらの中でフラボノイドの中に、アントシアニンは分類される。高等植物では普遍的に見られる物質であり、花や果実の色の表現に役立っている。 アグリコンであるアントシアニジン部位の B環(構造式右側のベンゼン環部分)のヒドロキシ基の数によりペラルゴジニン、シアニジン、デルフィニジンの3系統(表参照)に分類され、糖鎖の構成により様々な種類がある。B環上のヒドロキシ基がメトキシ化 (−OCH3) された物(ペオニジン、マルビジン、ペチュニジンなど)も存在する。糖鎖の結合位置は、A 環(構造式左側の二環構造)の3位(荷電酸素原子から時計回りで数える。B環結合部位の下)と5位(同じくA環左半下側)のヒドロキシ基が主である。 発色団とは、分子の化学構造の中で、光が当たった際に、特定の波長を強く吸収して、色を出す部分を指す。アントシアニンの発色団は、共役系が広がるアントシアニジンの部分であり、ここがヒトの可視光線の波長域の一部を吸収するため、ヒトの視覚では色が付いて見える。 アントシアニンの色はpH によって著しく変化し、一般に、酸性では赤っぽくなり、塩基性では青っぽくなる。したがって、ある種の酸塩基指示薬として機能する。中性溶液の色はペラルゴニジンは鮮赤色、シアニジンは紫色、デルフィニジンは紫赤色である。これが、例えばシアニジンの場合は、酸性条件下で赤色に変化し、塩基性条件下で青色ないしは青緑色に変化する。また、pH 11を超えた場合には、カルコン型への開環が起こる。 アントシアニンの発色団は、基本的にアントシアニジンの部分である。しかし、それに結合した糖鎖も色に影響を与える場合がある。例えば、アグリコンであるアントシアニジンの、3位のみに糖鎖が付いた物よりも、3位と5位の両方に糖鎖の付いた物の方が、色の濃い傾向が見られる。 また、これはキキョウやトリカブトなどの花の例だが、これらの青や青紫の色は、アントシアニジンに結合している糖に、フェノール性の有機酸などが結合しており、この結合した有機酸が自身の色調を調整して出している色である。 アントシアニンの色は、共存する金属イオンの影響も受ける。これは、アルミニウム、マグネシウム、鉄などの様々な金属イオンとキレート錯体を形成し、その色調が変化するためである。 これはアジサイの例だが、アジサイの花はアントシアニンの色だけでなく、植物体中のアルミニウムの量によって影響を受ける事が知られている。酸性の土壌では、土壌中のアルミニウムが溶出し易く、結果として植物中のアルミニウムイオンの濃度が増すため、花は青味が強くなる傾向にあるのに対して、植物中のアルミニウムの濃度が低いと赤味が強くなる傾向が見られる。 アントシアニジンは、複数の段階を経て植物体内において生合成される。チロシンおよびフェニルアラニンを原料として、4-ヒドロキシケイヒ酸(4-クマル酸)を作る。つまり、ここまでは植物で行われるフェニルプロパノイドの生合成経路である。なお、4-ヒドロキシケイヒ酸が持つベンゼン環の部分が、アントシアニジンのB環である。4-ヒドロキシケイヒ酸にCoAを結合させて4-クマロイルCoAを作る。 これとは別に、マロニルCoAを3分子も併せて、フラバノン(ナリンゲニン)を合成する。ここで、アントシアニンの生合成経路は、他のフラボノイドの分岐する。ここからは、ロイコアントシアニジンを経由して、アントシアニジンは生合成される。さらに、必要に応じて、糖が結合される。 色を利用して(主に布の)染料や食品の着色料として利用されてきた。アントシアニンは食用植物に普遍的に存在する物質であり、飲食した場合でも比較的安全性は高いと考えられる。 アントシアニン類を研究する上で、分離には主に高速液体クロマトグラフィーが用いられ、個々のアントシアニン類の特定には主に分光光度計が用いられる。 フレンチパラドックスにより赤ワイン中のプロシアニジンが注目され、幾つかの研究が実施された。その1つ、有賀ら(2000)の報告によると、動物実験では抗酸化性に由来すると考えられる薬理作用が見出され、ヒトでは筋疲労を抑制し、運動による過酸化脂質の増加を抑制したとの実験結果が得られた。薬理作用は完全には解明されておらず、日本ではアントシアニンを薬効成分とした医薬品も認可されていない。ただし、欧米では代替医療が伝統的に認められているという社会背景から、医薬品として利用される物もある。 国立健康・栄養研究所によれば、俗に「視力回復に良い」「動脈硬化や老化を防ぐ」「炎症を抑える」などと言われているが、ヒトでの有効性・安全性については、信頼できるデータが十分ではない」とされている。その内訳は、血圧に影響がなしとの2016年のメタ分析、コレステロール値を改善するとの2016年のメタ分析、心血管リスク低下との2014年のメタ分析、食事由来の場合食道がんリスク低下との2017年のメタ分析、食事由来で上気道消化管がんと大腸がんのリスク低下したものの、その他は関連なしとの2017年のメタ分析、乳がんとの関連がないという2013年のメタ分析、その他個別のランダム化比較試験である。 72人と59人での偽薬対照クロスオーバー試験2研究では、暗順応と夜間視力の改善は見られず、光退縮後の視力の回復は早くなっていた。 2018年のメタ分析は、サプリメントでインスリン抵抗性の指標(糖尿病の指標)を改善することを発見した。2018年のメタ分析は、サプリメントで脂質プロファイル(脂質異常症の指標)を改善することを発見した。 ブルーベリー中のアントシアニンは、微生物を利用した醗酵処理を行うと29パーセント減少し、殺菌処理を行うと46パーセント減少した。 植物育種学において、これまで存在していなかった花色の品種を育成する目的の基礎研究としてアントシアニンが研究されている。これらの研究の応用では、青いキクや青いバラや青いカーネーションが作出された。これらはデルフィニジン生合成に関与する酵素 flavonoid 3',5'-hydroxylase の cDNA をカンパニュラやペチュニアやパンジーから単離して、遺伝子組換えによって組み込み、発現させて達成された。
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アントシアニンは、植物界において広く存在する色素である。果実や花に見られる、赤や青や紫などを呈する水溶性の色素群として知られるアントシアンに分類される化合物の中で、アントシアニジンがアグリコンとして糖や糖鎖と結びついた配糖体が、アントシアニンである。植物の抗酸化物質としても知られる。
{| class="wikitable" style="float: right; margin: 0 0 0.5em 0.5em" | colspan="8" style="text-align: center; background: #ffffff" | [[Image:Anthocyanidines with numbers.svg|220px|構造式]] |- ! アントシアニジン ! style="color:#ff0000" | '''R<sup>1</sup>''' ! style="color:#0000ff" | '''R<sup>2</sup>''' ! style="color:#008000" | '''R<sup>3</sup>''' ! style="color:#ff8c00" | '''R<sup>4</sup>''' ! style="color:#800080" | '''R<sup>5</sup>''' ! style="color:#008bff" | '''R<sup>6</sup>''' ! style="color:#808000" | '''R<sup>7</sup>''' |- | [[ペラルゴニジン]] || H || OH || H || OH || OH || H || OH |- | [[シアニジン]] || OH || OH || H || OH || OH || H || OH |- | [[デルフィニジン]] || OH || OH || OH || OH || OH || H || OH |- | [[オーランチニジン]] || H || OH || H || OH || OH || OH || OH |- | [[ルテオリニジン]] || OH || OH || H || H || OH || H || OH |- | [[ペオニジン]] || {{chem|OCH|3}} || OH || H || OH || OH || H || OH |- | [[マルビジン]] || {{chem|OCH|3}} || OH || {{chem|OCH|3}} || OH || OH || H || OH |- | [[ペチュニジン]] || OH || OH || {{chem|OCH|3}} || OH || OH || H || OH |- | [[ヨーロピニジン]] || {{chem|OCH|3}} || OH || OH || OH || {{chem|OCH|3}} || H || OH |- | [[ロシニジン]] || {{chem|OCH|3}} || OH || H || OH || OH || H || {{chem|OCH|3}} |- |} '''アントシアニン'''({{Lang-en|anthocyanin}})は、[[植物界]]において広く存在する[[色素]]である。果実や花に見られる、赤や青や紫などを呈する水溶性の色素群として知られる'''アントシアン'''({{Lang-en|anthocyan}})に分類される化合物の中で、'''[[アントシアニジン]]'''({{Lang-en|anthocyanidin}})が[[アグリコン]]として[[糖]]や[[糖鎖]]と結びついた[[配糖体]]が、アントシアニンである。植物の[[抗酸化物質]]としても知られる。 == 色素 == 植物の代表的な色素としては、比較的水溶性の高い[[フラボノイド]]と[[ベタレイン]]、逆に親油性の[[カロチノイド]]と[[クロロフィル]]、合わせて4つの化合物群が挙げられる<ref name="S_M_plant_physiology_p155">幸田 泰則・桃木 芳枝(編著)『植物生理学 - 分子から個体へ』 p.155 三共出版 2003年10月25日発行 ISBN 4-7827-0469-0</ref>。これらの中でフラボノイドの中に、アントシアニンは分類される。[[高等植物]]では普遍的に見られる物質であり、花や果実の色の表現に役立っている。 === 構造 === アグリコンであるアントシアニジン部位の B環(構造式右側のベンゼン環部分)の[[ヒドロキシ基]]の数により'''ペラルゴジニン'''、'''シアニジン'''、'''デルフィニジン'''の3系統(表参照)に分類され、糖鎖の構成により様々な種類がある。B環上のヒドロキシ基が[[メトキシ化]] (&minus;OCH<sub>3</sub>) された物('''ペオニジン'''、'''マルビジン'''、'''ペチュニジン'''など)も存在する。糖鎖の結合位置は、A 環(構造式左側の二環構造)の3位(荷電酸素原子から時計回りで数える。B環結合部位の下)と5位(同じくA環左半下側)のヒドロキシ基が主である。 === 発色団 === [[File:Cyanidin - Farbstoff pH-Abhaengigkeit.png|555px|center|pHによるシアニジンの構造変化。]] [[発色団]]とは、分子の化学構造の中で、光が当たった際に、特定の波長を強く吸収して、色を出す部分を指す。アントシアニンの発色団は、[[共役系]]が広がるアントシアニジンの部分であり、ここがヒトの可視光線の波長域の一部を吸収するため、ヒトの視覚では色が付いて見える<ref group="注釈">発色団と言っても、ヒトの可視光以外の波長の光を吸収する発色団も含める場合がある。このため、敢えて「ヒトの」と断りを入れてある。参考までに、共役系の広がった構造の場所、つまり、発色団に直接結合した孤立電子対を有した置換基は、[[助色団]]と総称され、これは発色団の[[吸光度]]を増やす傾向が出る。本稿で関係する助色団は、[[水酸基]]や[[メトキシ基]]である。なお、結合した原子団によっては、逆に発色団の吸光度を減らす場合もある。他に、発色団が吸収する波長域を、動かす原子団も存在する。</ref>。 ==== pHの影響 ==== アントシアニンの色はpH によって著しく変化し、一般に、酸性では赤っぽくなり、塩基性では青っぽくなる<ref name="S_M_plant_physiology_p155">幸田 泰則・桃木 芳枝(編著)『植物生理学 - 分子から個体へ』 p.155 三共出版 2003年10月25日発行 ISBN 4-7827-0469-0</ref>。したがって、ある種の[[酸塩基指示薬]]として機能する。中性溶液の色はペラルゴニジンは鮮赤色、シアニジンは紫色、デルフィニジンは紫赤色である。これが、例えばシアニジンの場合は、酸性条件下で赤色に変化し、塩基性条件下で青色ないしは青緑色に変化する。また、pH 11を超えた場合には、[[カルコン|カルコン型]]への開環が起こる。 ==== 糖鎖の影響 ==== アントシアニンの発色団は、基本的にアントシアニジンの部分である。しかし、それに結合した糖鎖も色に影響を与える場合がある。例えば、アグリコンであるアントシアニジンの、3位のみに糖鎖が付いた物よりも、3位と5位の両方に糖鎖の付いた物の方が、色の濃い傾向が見られる。 また、これはキキョウやトリカブトなどの花の例だが、これらの青や青紫の色は、アントシアニジンに結合している糖に、フェノール性の有機酸などが結合しており、この結合した有機酸が自身の色調を調整して出している色である<ref>幸田 泰則・桃木 芳枝(編著)『植物生理学 - 分子から個体へ』 p.156 三共出版 2003年10月25日発行 ISBN 4-7827-0469-0</ref>。 ==== 共存する金属イオンの影響 ==== アントシアニンの色は、共存する金属イオンの影響も受ける<ref>幸田 泰則・桃木 芳枝(編著)『植物生理学 - 分子から個体へ』 p.157 三共出版 2003年10月25日発行 ISBN 4-7827-0469-0</ref>。これは、[[アルミニウム]]、[[マグネシウム]]、[[鉄]]などの[[キレート|様々な金属イオンとキレート錯体]]を形成し、その色調が変化するためである。 これはアジサイの例だが、アジサイの花はアントシアニンの色だけでなく、植物体中のアルミニウムの量によって影響を受ける事が知られている。酸性の土壌では、土壌中のアルミニウムが溶出し易く、結果として植物中のアルミニウムイオンの濃度が増すため、花は青味が強くなる傾向にあるのに対して、植物中のアルミニウムの濃度が低いと赤味が強くなる傾向が見られる<ref name="S_M_plant_physiology_p155">幸田 泰則・桃木 芳枝(編著)『植物生理学 - 分子から個体へ』 p.155 三共出版 2003年10月25日発行 ISBN 4-7827-0469-0</ref>。 [[File:Delphinidin iron complex.svg|300px|thumb|right|デルフィニジン-3-グルコシドの鉄(III)錯体]] == 生合成 == アントシアニジンは、複数の段階を経て植物体内において生合成される。[[チロシン]]および[[フェニルアラニン]]を原料として、[[4-ヒドロキシケイヒ酸]](4-クマル酸)を作る<ref>幸田 泰則・桃木 芳枝(編著)『植物生理学 - 分子から個体へ』 p.147 三共出版 2003年10月25日発行 ISBN 4-7827-0469-0</ref>。つまり、ここまでは植物で行われる[[フェニルプロパノイド]]の生合成経路である。なお、4-ヒドロキシケイヒ酸が持つベンゼン環の部分が、アントシアニジンのB環である<ref name="S_M_plant_physiology_p148">幸田 泰則・桃木 芳枝(編著)『植物生理学 - 分子から個体へ』 p.148 三共出版 2003年10月25日発行 ISBN 4-7827-0469-0</ref>。4-ヒドロキシケイヒ酸にCoAを結合させて[[4-クマロイルCoA]]を作る。 これとは別に、[[マロニルCoA]]を3分子も併せて、[[フラバノン]](ナリンゲニン)を合成する。ここで、アントシアニンの生合成経路は、他のフラボノイドの分岐する<ref name="S_M_plant_physiology_p148">幸田 泰則・桃木 芳枝(編著)『植物生理学 - 分子から個体へ』 p.148 三共出版 2003年10月25日発行 ISBN 4-7827-0469-0</ref>。ここからは、ロイコアントシアニジンを経由して、アントシアニジンは生合成される。さらに、必要に応じて、糖が結合される。 == 利用 == [[File:Viola mandshurica 1-1.jpg|300px|thumb|right|「[[菫色|すみれ色]]」はアントシアニン類の色である。]] 色を利用して(主に布の)[[染料]]や食品の[[着色料]]として利用されてきた<ref>{{Cite web|和書 |author = 三菱化学フーズ |date = |url = http://www.mfc.co.jp/product/tyakusyoku/red/ |title = 赤色系 |work = 着色料 |accessdate = 2012-06-28 }}</ref>。アントシアニンは[[食用植物]]に普遍的に存在する物質であり、飲食した場合でも比較的安全性は高いと考えられる。 アントシアニン類を研究する上で、分離には主に[[高速液体クロマトグラフィー]]が用いられ、個々のアントシアニン類の特定には主に[[分光光度計]]が用いられる。 === 健康食品 === {{See also|ブルーベリー#食用}} [[フレンチパラドックス]]により赤ワイン中の[[プロシアニジン]]が注目され<ref>片岡茂博、有賀敏明、[https://doi.org/10.14894/faruawpsj.34.10_998 赤ワインの有効成分プロアントシアニジン : なぜ赤ワインが体に良いのか] ファルマシア 1998年 34巻 10号 p.998-1002, {{doi|10.14894/faruawpsj.34.10_998}}</ref>、幾つかの研究が実施された。その1つ、有賀ら(2000)の報告<ref name=nogeikagaku1924.74.1 />によると、動物実験では抗酸化性に由来すると考えられる薬理作用が見出され、ヒトでは筋疲労を抑制し、運動による過酸化脂質の増加を抑制したとの実験結果が得られた<ref name=nogeikagaku1924.74.1>有賀敏明、細山浩、徳武昌一、山越純、[https://doi.org/10.1271/nogeikagaku1924.74.1 プロアントシアニジンの機能性解明と開発] 日本農芸化学会誌 2000年 74巻 1号 p.1-8, {{doi|10.1271/nogeikagaku1924.74.1}}</ref>。薬理作用は完全には解明されておらず、日本ではアントシアニンを薬効成分とした[[医薬品]]も認可されていない。ただし、欧米では[[代替医療]]が伝統的に認められているという社会背景から、医薬品として利用される物もある。 国立健康・栄養研究所によれば、俗に「視力回復に良い」「動脈硬化や老化を防ぐ」「炎症を抑える」などと言われているが、ヒトでの有効性・安全性については、信頼できるデータが十分ではない」とされている<ref name="hfnet711">{{Hfnet|711|アントシアニン}} 更新2018/05/28。2018年9月24日閲覧.</ref>。その内訳は、血圧に影響がなしとの2016年のメタ分析、コレステロール値を改善するとの2016年の[[メタアナリシス|メタ分析]]、心血管リスク低下との2014年のメタ分析、食事由来の場合食道がんリスク低下との2017年のメタ分析、食事由来で上気道消化管がんと大腸がんのリスク低下したものの、その他は関連なしとの2017年のメタ分析、乳がんとの関連がないという2013年のメタ分析、その他個別のランダム化比較試験である<ref name="hfnet711"/>。 72人と59人での偽薬対照クロスオーバー試験2研究では、暗順応と夜間視力の改善は見られず、光退縮後の視力の回復は早くなっていた<ref name="pmid25335781">{{cite journal |authors=Kalt W, McDonald JE, Fillmore SA, Tremblay F |title=Blueberry effects on dark vision and recovery after photobleaching: placebo-controlled crossover studies |journal=J. Agric. Food Chem. |volume=62 |issue=46 |pages=11180–11189 |date=November 2014 |pmid=25335781 |doi=10.1021/jf503689c |url=}}</ref>。 2018年のメタ分析は、サプリメントで[[インスリン抵抗性]]の指標(糖尿病の指標)を改善することを発見した<ref name="pmid30007479">{{cite journal |authors=Daneshzad E, Shab-Bidar S, Mohammadpour Z, Djafarian K |title=Effect of anthocyanin supplementation on cardio-metabolic biomarkers: A systematic review and meta-analysis of randomized controlled trials |journal=Clin Nutr |volume= |issue= |pages= |date=July 2018 |pmid=30007479 |doi=10.1016/j.clnu.2018.06.979 |url=}}</ref>。2018年のメタ分析は、サプリメントで脂質プロファイル(脂質異常症の指標)を改善することを発見した<ref name="pmid29850238">{{cite journal |authors=Shah K, Shah P |title=Effect of Anthocyanin Supplementations on Lipid Profile and Inflammatory Markers: A Systematic Review and Meta-Analysis of Randomized Controlled Trials |journal=Cholesterol |volume=2018 |issue= |pages=8450793 |date=2018 |pmid=29850238 |pmc=5937577 |doi=10.1155/2018/8450793 |url=}}</ref>。 ブルーベリー中のアントシアニンは、微生物を利用した醗酵処理を行うと29パーセント減少し、殺菌処理を行うと46パーセント減少した<ref name="pmid27384605">{{cite journal |authors=Nie Q, Feng L, Hu J, Wang S, Chen H, Huang X, Nie S, Xiong T, Xie M |title=Effect of fermentation and sterilization on anthocyanins in blueberry |journal=J. Sci. Food Agric. |volume=97 |issue=5 |pages=1459–1466 |date=March 2017 |pmid=27384605 |doi=10.1002/jsfa.7885 |url=}}</ref>。 === 育種的利用 === {{出典の明記|date=2023年12月|section=1}} [[植物育種学]]において、これまで存在していなかった花色の品種を育成する目的の基礎研究としてアントシアニンが研究されている。これらの研究の応用では、[[青いキク (農研機構・サントリーグローバルイノベーションセンター)|青いキク]]や[[青いバラ (サントリーフラワーズ)|青いバラ]]や[[ムーンダスト|青いカーネーション]]が作出された。これらはデルフィニジン生合成に関与する酵素 flavonoid 3',5'-hydroxylase の cDNA を[[カンパニュラ]]や[[ペチュニア]]や[[パンジー]]から単離して、[[遺伝子組換え]]によって組み込み、発現させて達成された。 == アントシアニンを含む植物の例 == {{columns-list|3| * [[クワ]] * [[クランベリー]](苔桃) * [[ボイセンベリー]] * [[スグリ]](ベリーの一種、別名[[カシス]]) * [[ハスカップ]] * [[ブルーベリー]] * [[ブラックベリー]] * [[プルーン]] * [[ビルベリー]] * [[アサイー]] * [[ブドウ]] * [[ラズベリー]] * [[リンゴ]](赤)<ref>[http://www.am.zennoh.or.jp/faq-apple.html よくある質問 りんご編 |JA全農あおもり] 2015年12月9日閲覧</ref> * [[イチゴ]] * [[ムラサキキャベツ]](赤キャベツ) * [[ナス]] * {{仮リンク|ムラサキトウモロコシ|en|Purple corn}} * [[黒米]] * 黒大豆([[黒豆]]) * [[ゴマ|黒ゴマ]] * 有色[[サツマイモ]](特にムラサキイモ) * [[ダイショ]](ベニイモ) * [[アナスタシアブラック]]([[ピーマン]]の一種) * [[ツバキ]] * [[小豆]] * [[赤たまねぎ]] * [[紅蓼]] * [[シソ|赤シソ]] * [[イワキベリー]] * [[ウスベニアオイ]](ブルーマロウ) }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === <references/> == 関連項目 == {{Commonscat|Anthocyanins}} * [[アントシアニジン]] * [[金属錯体型アントシアニン]] * [[ピリリウム]] * [[ポリフェノール]] == 外部リンク == * {{hfnet|711|アントシアニン}} * {{Cite web|和書 |author = Flavon (フラボン) |date = 2003-10-17 |url = http://www.alpine-plants-jp.com/himitunohanazono/kiebine_himitu_1.htm |title = Calanthe sieboldii, Lip : Pigment フラボンの秘密の花園 : キエビネ:唇弁基部着色部の細胞 |work = Flavon's Wild herb and Alpine plants フラボンの山野草と高山植物の世界 |accessdate = 2012-06-28 }} {{フラボノイド}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あんとしあにん}} [[Category:ポリフェノール]] [[Category:フラボノイド配糖体]] [[Category:生体色素]] [[Category:酸塩基指示薬]] [[Category:アントシアニジン]] [[Category:着色料]]
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近鉄
近鉄
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近鉄 鉄道会社の略称・通称。 (きんてつ) - 近畿日本鉄道の略称。近鉄グループホールディングス(近鉄GHD)。 上記鉄道会社傘下のプロ野球球団「近鉄パールス」→「近鉄バファロー」→「近鉄バファローズ」→「大阪近鉄バファローズ」の通称。 上記鉄道会社のラグビー部「花園近鉄ライナーズ」の通称。JAPAN RUGBY LEAGUE ONEに移行後は、地名の「花園」表記が多くなっている。 デパートの近鉄百貨店や不動産販売会社の近鉄不動産など、上記近鉄グループホールディングスが率いる近鉄グループ傘下企業の各業種における通称。 (おうてつ、きんてつ) - 近江鉄道の略称。20世紀後半以後は、近畿日本鉄道との混同を避けるため用いられることは少なくなった。 (こんてつ) - 近藤鉄太郎(九州のアナウンサー)の愛称。
'''近鉄''' * [[鉄道事業者|鉄道会社]]の[[略語|略称]]・[[通称]]。 ** (きんてつ) - [[近畿日本鉄道]]の略称。[[近鉄グループホールディングス]](近鉄GHD)。 *** 上記鉄道会社傘下の[[プロ野球]]球団「近鉄パールス」→「近鉄バファロー」→「近鉄バファローズ」→「[[大阪近鉄バファローズ]]」([[1950年]] - [[2004年]])の通称。 *** 上記鉄道会社の[[ラグビーフットボール|ラグビー]]部「[[花園近鉄ライナーズ]]」の通称。[[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]]に移行後は、地名の「花園」表記が多くなっている。 *** [[百貨店|デパート]]の[[近鉄百貨店]]や[[不動産]]販売会社の[[近鉄不動産]]など、上記近鉄グループホールディングスが率いる近鉄グループ傘下企業の各業種における通称。 ** (おうてつ、きんてつ) - [[近江鉄道]]の略称。20世紀後半以後は、近畿日本鉄道との混同を避けるため用いられることは少なくなった。 * (こんてつ) - [[近藤鉄太郎]]([[九州]]の[[アナウンサー]])の[[愛称]]。 {{aimai}}
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池澤夏樹
池澤 夏樹(いけざわ なつき、1945年7月7日 - )は、日本の小説家・詩人。翻訳、書評も手がける。日本芸術院会員。 文明や日本についての考察を基調にした小説や随筆を発表している。翻訳は、ギリシア現代詩からアメリカ現代小説など幅広く手がけている。 各地へ旅をしたことが大学時代に専攻した物理学と併せて、池澤の作品の特徴となる。また、詩が小説に先行していることも、その文章に大きな影響を与えている。 声優の池澤春菜は娘。 北海道帯広市出身。マチネ・ポエティクで同人だった原條あき子(山下澄、1923年 - 2004年)と福永武彦の間に、疎開先の帯広で誕生した。1950年、両親が離婚し、1951年母に連れられて東京に移る。母はその後再婚して池澤姓を名乗ったため、池澤は実父について高校時代まで知らなかったという。父方の大伯父に天文学者で理学博士でもあった海軍少将(水路部員)の秋吉利雄、又従兄に立教大学名誉教授の秋吉輝雄がいる。 都立富士高校卒業後、1964年に埼玉大学理工学部物理学科に入学。1968年中退。ハヤカワミステリの短編やテレビ台本、『リーダーズダイジェスト』の記事などを翻訳。 ロレンス・ダレルの弟のナチュラリストであるジェラルド・ダレルが少年時代を回顧した、ギリシアを舞台にした『虫とけものと家族たち』『鳥とけものと親類たち』『風とけものと友人たち』を1974年から翻訳。これがきっかけで、1975年にギリシアに移住、3年間同地で過ごす。 『ユリイカ』の当時の編集長・三浦雅士の誘いがきっかけで、『ユリイカ』に詩を掲載。帰国後、初の詩集『塩の道』を出版。1979年より『旅芸人の記録』(監督テオ・アンゲロプロス)の字幕を担当、これがきっかけでアンゲロプロスの作品の字幕を担当する。 1984年5月号『海』に長編小説「夏の朝の成層圏」を発表、1987年中央公論新人賞を受賞した小説「スティル・ライフ」で、1988年に第98回芥川賞を受賞。 1993年に沖縄に移住。2005年にフランスのフォンテヌブローに移住。2009年に北海道札幌に移住。「ぼくが生まれて育ったのは北海道である。梅雨がないことで知られるとおり、最も乾燥した土地だ。フランスを離れて日本に帰ろうかと思った時、同じ空気の中に住みたいと思って、札幌に決めた。ここの今日の湿度は六八パーセント。やっぱり乾いている。」と『週刊文春』にて述べている。 小説では『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞、『花を運ぶ妹』で毎日出版文化賞、『すばらしい新世界』で芸術選奨、『静かな大地』で親鸞賞などを受賞。また、随筆では『母なる自然のおっぱい』で読売文学賞(随筆・紀行部門)、評論では『楽しい終末』で伊藤整文学賞(評論部門)を受賞。2007年紫綬褒章受章。 『むくどり通信』シリーズなどの随筆もある。2010年、北海道新聞や中日新聞、東京新聞、北陸中日新聞、西日本新聞及び中国新聞に、小説「氷山の南」を連載。 2001年9月11日アメリカでのアメリカ同時多発テロ事件の直後から『新世紀へようこそ』というメールコラムを100回にわたって発信し、その後メールコラムは『パンドラの時代』、『異国の客』へと移っている。2002年11月にはイラクを訪れ、現地の普通の人々の暮らしを伝える『イラクの小さな橋を渡って』(写真・本橋成一)を緊急出版した。 池澤の個人編集の河出書房新社の『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』全30巻が2007年11月より刊行された。 小説や評論が国語の教科書など教育現場において採用されることも多く、『スティル・ライフ』は2002年度の大学入試センター試験国語I・国語IIの追試験問題で出題された(過去問題集では池澤の意向で文章は省略されている)。 2011年第145回をもって、1995年第114回から務めた芥川賞の選考委員を辞任。 2012年現在、谷崎潤一郎賞、読売文学賞選考委員。 2014年8月1日より、北海道立文学館館長に就任。同年10月、過去に元従軍慰安婦の偽証言を報じた北星学園大学非常勤講師植村隆の解雇に反対する「負けるな北星!の会(マケルナ会)」を結成。「たくさんの人が一人の人を非難している。その非難に根拠がないとしたら、もっとたくさんの人が立ち上がってその人を守らなければならない。」と発言した。 2020年8月から2022年1月まで、大伯父・秋吉利雄の伝記小説『また会う日まで』を朝日新聞に連載。 2018年6月、、北海道立文学館館長を辞任。 ギリシャ、フランス、沖縄などさまざま転居し、札幌には13年ほど住んでいたが、2022年秋、長野県安曇野に転居。(北海道新聞2023年1月7日 連載「天はあおあお 野はひろびろ」より) 『現代世界の十大小説』(NHK出版新書 2014年)でサマセット・モームの『世界の十大小説』から60年後に、十作を選んでいる。
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池澤 夏樹は、日本の小説家・詩人。翻訳、書評も手がける。日本芸術院会員。 文明や日本についての考察を基調にした小説や随筆を発表している。翻訳は、ギリシア現代詩からアメリカ現代小説など幅広く手がけている。 各地へ旅をしたことが大学時代に専攻した物理学と併せて、池澤の作品の特徴となる。また、詩が小説に先行していることも、その文章に大きな影響を与えている。 声優の池澤春菜は娘。
{{Infobox 作家 | name = 池澤 夏樹<br />(いけざわ なつき) | birth_name = 福永 夏樹(ふくなが なつき) | birth_date = {{生年月日と年齢|1945|7|7}} | birth_place = {{JPN}}・[[北海道]][[帯広市]] | death_date = | death_place = | resting_place = | occupation = [[小説家]]・[[詩人]] | language = [[日本語]] | nationality = {{JPN}} | education = | alma_mater = [[埼玉大学]][[理工学部]]中退 | period = [[1984年]] - (作家として) | genre = [[小説]]・[[詩]]・[[随筆]] | subject = | movement = | notable_works = 『[[スティル・ライフ (小説)|スティル・ライフ]]』(1987年)<br />『南の島のティオ』(1992年)<br />『[[マシアス・ギリの失脚]]』(1993年)<br />『花を運ぶ妹』(2000年)<br />『静かな大地』(2004年)<br />『また会う日まで』(2023年) | awards = [[中央公論新人賞]](1987年)<br />[[芥川龍之介賞]](1988年)<br />[[小学館文学賞]](1992年)<br />[[読売文学賞]](1993年)<br />[[谷崎潤一郎賞]](1993年)<br />[[伊藤整文学賞]](1994年)<br />[[毎日出版文化賞]](2000年・2010年・2020年)<br />[[芸術選奨]](2001年)<br />[[司馬遼太郎賞]](2003年)<br />[[親鸞賞]](2004年)<br />[[桑原武夫学芸賞]](2005年)<br />[[紫綬褒章]](2007年)<br />[[朝日賞]](2011年)<br />[[芸術文化勲章|フランス芸術文化勲章]]オフィシエ(2021年)<br />[[早稲田大学坪内逍遥大賞]](2023年) | debut_works = 『夏の朝の成層圏』(1984年) | children = 4人<br />[[池澤春菜]] | relations = [[福永武彦]](父)<br />[[原條あき子]](母) | influences = クロード・レヴィ=ストロース | influenced = | website = {{Official website|http://www.impala.jp/}} <!--| footnotes =--> }} '''池澤 夏樹'''(いけざわ なつき、[[1945年]][[7月7日]] - )は、[[日本]]の[[小説家]]・[[詩人]]。[[翻訳]]、[[書評]]も手がける。[[日本芸術院]]会員。 文明や日本についての考察を基調にした[[小説]]や[[随筆]]を発表している。[[翻訳]]は、ギリシア現代詩からアメリカ現代小説など幅広く手がけている。 各地へ旅をしたことが大学時代に専攻した[[物理学]]と併せて、池澤の作品の特徴となる<ref>[[結城正美]] 「狩猟民を横目で見ながら 言葉の海で舵を取る」『[[文芸]]』第50巻第1号(2011年2月1日発行)、[[河出書房新社]]、2011年。</ref><ref>「【Q&A】読者から池澤夏樹への50の質問」P.94 Q26への回答、「プラスかマイナスかわかりませんが、理科を勉強したことはぼくの一部です。嫌でも書くものに出てきます」。 『[[文芸]]』第50巻第1号(2011年2月1日発行)、[[河出書房新社]]、2011年。</ref>。また、詩が小説に先行していることも、その文章に大きな影響を与えている<ref>[[小池昌代]] 「かたまりの塩」『[[文芸]]』第50巻第1号(2011年2月1日発行)、[[河出書房新社]]、2011年。「池澤夏樹は毒が回る前に、詩を呼吸する方法を残しながら、しなやかに小説へと移行した。」</ref>。 声優の[[池澤春菜]]は娘。 == 来歴 == [[北海道]][[帯広市]]出身。[[マチネ・ポエティク]]で同人だった[[原條あき子]](山下澄、[[1923年]] - [[2004年]])と[[福永武彦]]の間に、疎開先の帯広で誕生した。[[1950年]]、両親が離婚し、[[1951年]]母に連れられて東京に移る。母はその後再婚して池澤姓を名乗ったため、池澤は実父について高校時代まで知らなかったという。父方の大伯父に天文学者で理学博士でもあった海軍少将([[水路部 (日本海軍)|水路部]]員)の秋吉利雄、又従兄に立教大学名誉教授の秋吉輝雄がいる。 [[東京都立富士高等学校|都立富士高校]]卒業後、[[1964年]]に[[埼玉大学]]理工学部物理学科に入学。[[1968年]]中退。[[ハヤカワミステリマガジン|ハヤカワミステリ]]の[[短編]]やテレビ台本、『[[リーダーズダイジェスト]]』の記事などを翻訳。 [[ロレンス・ダレル]]の弟のナチュラリストである[[ジェラルド・ダレル]]が少年時代を回顧した、ギリシアを舞台にした『虫とけものと家族たち』『鳥とけものと親類たち』『風とけものと友人たち』を1974年から翻訳。これがきっかけで、[[1975年]]に[[ギリシア]]に移住、3年間同地で過ごす。 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』の当時の編集長・[[三浦雅士]]の誘いがきっかけで、『ユリイカ』に詩を掲載<ref>南里空海 「ぼくはこんな旅をしてきた」『池澤夏樹の旅地図』池澤夏樹、世界文化社、2007年</ref>。帰国後、初の詩集『塩の道』を出版。1979年より『旅芸人の記録』(監督[[テオ・アンゲロプロス]])の字幕を担当、これがきっかけでアンゲロプロスの作品の字幕を担当する。 [[1984年]]5月号『[[海 (雑誌)|海]]』に長編小説「夏の朝の成層圏」を発表、1987年[[中央公論新人賞]]を受賞した小説「[[スティル・ライフ (小説)|スティル・ライフ]]」で、1988年に第98回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞。 [[1993年]]に[[沖縄県|沖縄]]に移住。[[2005年]]に[[フランス]]の[[フォンテヌブロー]]に移住。[[2009年]]に[[北海道]][[札幌市|札幌]]に移住。「ぼくが生まれて育ったのは北海道である。梅雨がないことで知られるとおり、最も乾燥した土地だ。フランスを離れて日本に帰ろうかと思った時、同じ空気の中に住みたいと思って、札幌に決めた。ここの今日の湿度は六八パーセント。やっぱり乾いている。」と『週刊文春』にて述べている<ref>{{Cite web|和書| date=2009-11-3| author=impala| accessdate=2015-10-3| url=http://www.impala.jp/bookclub_wp/?m=20091103| title=Cool Book Review : 豚を飼う、詩の束、哈爾濱|work=本棚 Impala| publisher=Cafe Impala(ixtan)}}</ref>。 小説では『マシアス・ギリの失脚』で[[谷崎潤一郎賞]]、『花を運ぶ妹』で[[毎日出版文化賞]]、『すばらしい新世界』で[[芸術選奨]]、『静かな大地』で[[親鸞賞]]などを受賞。また、随筆では『母なる自然のおっぱい』で[[読売文学賞]](随筆・紀行部門)、評論では『楽しい終末』で[[伊藤整文学賞]](評論部門)を受賞。2007年[[紫綬褒章]]受章。 『むくどり通信』シリーズなどの随筆もある。[[2010年]]、[[北海道新聞]]や[[中日新聞]]、[[東京新聞]]、[[北陸中日新聞]]、[[西日本新聞]]及び[[中国新聞]]に、小説「氷山の南」を連載。 [[2001年]][[9月11日]][[アメリカ合衆国|アメリカ]]での[[アメリカ同時多発テロ事件]]の直後から『新世紀へようこそ』という[[メールコラム]]を100回にわたって発信し、その後メールコラムは『パンドラの時代』、『異国の客』へと移っている。2002年11月には[[イラク]]を訪れ、現地の普通の人々の暮らしを伝える『イラクの小さな橋を渡って』(写真・[[本橋成一]])を緊急出版した。 池澤の個人編集の[[河出書房新社]]の『[[池澤夏樹=個人編集 世界文学全集]]』全30巻が2007年11月より刊行された。 小説や評論が国語の教科書など教育現場において採用されることも多く、『スティル・ライフ』は[[2002年]]度の[[大学入試センター試験]]国語I・国語IIの追試験問題で出題された(過去問題集では池澤の意向で文章は省略されている)。 [[2011年]]第145回をもって、[[1995年]]第114回から務めた芥川賞の選考委員を辞任。 [[2012年]]現在、谷崎潤一郎賞、読売文学賞選考委員。 2014年8月1日より、[[北海道立文学館]]館長に就任<ref>{{cite news| archivedate=2014-10-1| archiveurl=https://web.archive.org/web/20141001022450/http://www.sankei.com/life/news/140711/lif1407110006-n1.html| url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/140711/trd14071114550014-n1.htm| date=2014-7-11| title=作家の池澤夏樹さんが館長就任へ 北海道立文学館| newspaper=産経ニュース| publisher=[[産経新聞]]| deadlinkdate=2015-10-3}}</ref>。同年10月、過去に元[[従軍慰安婦]]の偽証言を報じた[[北星学園大学]]非常勤講師[[植村隆]]の解雇に反対する「負けるな北星!の会(マケルナ会)」を結成<ref>{{cite news| author=山下智恵| archivedate=2014-10-4| archiveurl=https://archive.is/zDlOv| url=http://mainichi.jp/select/news/20141003k0000m040135000c.html| title=慰安婦:元朝日記者に応援団「脅迫文で講師辞めないで」| publisher=[[毎日新聞]]| date=2014年10月3日| deadlinkdate=2015-10-3}}</ref>。「たくさんの人が一人の人を非難している。その非難に根拠がないとしたら、もっとたくさんの人が立ち上がってその人を守らなければならない。」と発言した<ref>{{cite news| archivedate=2015-7-4| archiveurl=https://web.archive.org/web/20150704232426/http://www.asahi.com/articles/ASGB67JQTGB6PTIL03H.html| url=http://www.asahi.com/articles/ASGB67JQTGB6PTIL03H.html| title=学者や弁護士ら、脅迫状届いた大学を支援する会| date=2014年10月7日| newspaper=asahi.com| publisher=[[朝日新聞]]| deadlinkdate=2015-10-3}}</ref>。 [[2020年]]8月から[[2022年]]1月まで、大伯父・秋吉利雄の伝記小説『また会う日まで』を[[朝日新聞]]に連載。 2018年6月、、[[北海道立文学館]]館長を辞任。 ギリシャ、フランス、沖縄などさまざま転居し、札幌には13年ほど住んでいたが、2022年秋、長野県安曇野に転居。(北海道新聞2023年1月7日 連載「天はあおあお 野はひろびろ」より) == 現代世界の十大小説 == 『現代世界の十大小説』([[NHK出版新書]] [[2014年]])で[[サマセット・モーム]]の『[[世界の十大小説]]』から60年後に、十作を選んでいる。 * [[ガルシア=マルケス]]『[[百年の孤独]]』 * [[アゴタ・クリストフ]]『[[悪童日記]]』 * [[ミルチャ・エリアーデ]]『[[マイトレイ]]』(Maitreyi) * [[ジーン・リース]]『[[サルガッソーの広い海]]』[[:en:Wide Sargasso Sea|(Wide Sargasso Sea)]] * [[ミシェル・トゥルニエ]]『[[フライデーあるいは太平洋の冥界]]』[[:en:Friday, or, The Other Island|(Vendredi ou les Limbes du Pacifique)]] * [[カルロス・フエンテス]]『[[老いぼれグリンゴ]]』[[:en:The Old Gringo|(Gringo viejo)]] * [[ジョン・アップダイク]]『[[クーデタ]]』[[:en:The Coup (Updike novel)|(The Coup)]] * [[メアリー・マッカーシー]]『[[アメリカの鳥]]』[[:en:Birds of America|(Birds of America)]] * [[バオ・ニン]]『[[戦争の悲しみ]]』[[:en:The Sorrow of War|(The Sorrow of War)]] * [[石牟礼道子]]『[[苦海浄土]]』 == 受賞・栄典 == * 1987年 - [[中央公論新人賞]](「スティル・ライフ」 ) * 1988年 - [[芥川龍之介賞]](「スティル・ライフ」)<ref name="jlpp"/> * 1992年 - [[小学館文学賞]](『南の島のティオ』) * 1993年 - [[読売文学賞]] 随筆・紀行賞(『母なる自然のおっぱい』)<ref name="jlpp"/> * 1993年 - [[谷崎潤一郎賞]](『マシアス・ギリの失脚』)<ref name="jlpp"/> * 1994年 - [[伊藤整文学賞]](『楽しい終末』) * 1996年 - [[JTB出版文化賞]](『ハワイイ紀行』) * 2000年 - [[毎日出版文化賞]] 文学・芸術部門(『花を運ぶ妹』)<ref name="jlpp"/> * 2001年 - [[芸術選奨文部科学大臣賞]](『すばらしい新世界』)<ref name="jlpp"/> * 2003年 - [[宮沢賢治賞]](『言葉の流星群』)、[[司馬遼太郎賞]](『イラクの小さな橋を渡って』『憲法なんて知らないよ』『静かな大地』などの著作活動全般) * 2004年 - [[親鸞賞]](『世界文学を読みほどく』『静かな大地』) * 2005年 - [[桑原武夫学芸賞]](『パレオマニア』) * 2007年 - [[紫綬褒章]]<ref name="jlpp">{{Cite web|和書|url=https://www.jlpp.go.jp/jp/works/author05_02.html|title=作家紹介 池澤夏樹|publisher=JLPP事務局/文化庁|accessdate=2023-07-03}}</ref> * 2010年 - 毎日出版文化賞 企画部門(河出書房新社『世界文学全集』の編纂) * 2011年 - [[朝日賞]](2010年度)<ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 2001-2018年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738075 |accessdate=2023-01-05}}</ref> * 2020年 - 毎日出版文化賞 企画部門(河出書房新社『日本文学全集』の編纂) * 2021年 - [[芸術文化勲章|フランス芸術文化勲章]]オフィシエ<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.ambafrance.org/article16897 |title=池澤夏樹氏が芸術文化勲章を受章|publisher=[[駐日フランス大使館]]|date=2021-05-31|accessdate=2021-06-13}}</ref> * 2023年 - [[早稲田大学坪内逍遥大賞]] == 親交のある人々 == * [[丸谷才一]] * [[須賀敦子]] * [[石牟礼道子]] * [[日野啓三]] * [[星野道夫]] * [[ジャック・マイヨール]] * [[テオ・アンゲロプロス]] * [[渡辺京二]] == 作品一覧 == === 詩 === *『塩の道』([[書肆山田]]、1978) *『もっとも長い河に関する考察』(書肆山田、1982) *『池澤夏樹詩集成』(書肆山田、1996) *『メランコリア』(光琳社出版、1998) *『この世界のぜんぶ』([[中央公論新社]]、2001)のち文庫 === 小説 === *『夏の朝の成層圏』([[中央公論社]]、1984)のち文庫 *『スティル・ライフ』(中央公論社、1988)のち文庫 ** {{lang|fr|''La Vie immobile'' (tr. V&#233;ronique Brindeau et Dominique Palm&#233;, Arles: Philippe Picquier, 1995)}} ** {{lang|en|''Still Lives'' (tr. Dennis Keene, Tokyo: Kodansha International, 1997)}} ** {{lang|it|''L'uomo che fece ritorno'' (tr. Antonietta Pastore, ''L'arcipelago Einaudi''; 21, Torino: Einaudi, 2003)}} *『真昼のプリニウス』(中央公論社、1989)のち文庫 *『バビロンに行きて歌え』([[新潮社]]、1990)のち文庫 *『マリコ / マリキータ』([[文藝春秋]]、1990)のち文庫、[[角川文庫]] *『タマリンドの木』(文藝春秋、1991)のち文庫 *『南の島のティオ』(楡出版、1992)のち文春文庫、講談社[[青い鳥文庫]] **『TIO'S ISLAND』([[小学館]]、2010、写真:竹沢うるま) ** {{lang|fr|''Tio du Pacifique : les histoires que me racontait'' (tr. Corinne Quentin, Arles: Philippe Picquier, 2001)}} *『きみが住む星』([[文化出版局]]、1992、写真:エルンスト・ハース)のち角川文庫 *『[[マシアス・ギリの失脚]]』(新潮社、1993)のち文庫 ** {{lang|de|''Aufstieg und Fall des Macias Guili'' (tr. Otto Putz, Berlin: edition Q, 2002)}} ** {{lang|en|''The Navidad Incident: The Downfall of Matías Guili'' ([[Haikasoru]], 2012)}} *『骨は珊瑚、眼は真珠』(文藝春秋、1995)のち文庫 ** {{lang|fr|''Des os de corail, des yeux de perle'' (tr. V&#233;ronique Brindeau et Corinne Quentin, Arles: Philippe Picquier, 1997)}} *『やがてヒトに与えられたときが満ちて……』([[河出書房新社]]、1996)のち角川文庫 *『世界一しあわせなタバコの木。』([[絵本館]]、1997、絵:渡邉良重)絵本 *『花を運ぶ妹』(文藝春秋、2000)のち文庫 ** {{lang|en|''A burden of flowers'' (tr. Alfred Birnbaum, Tokyo: Kodansha International, 2001)}} ** {{lang|fr|''La s&#339;ur qui portait des fleurs'' (tr. Corinne Atlan et Corinne Quentin, Arles: Philippe Picquier, 2004)}} ** <span lang="de">''Schwere Blumen'' (tr. Sabine Mangold, Hamburg: Abera, 2014)</span> *『すばらしい新世界』(中央公論新社、2000)のち文庫 *『カイマナヒラの家』([[ホーム社]]、2001)のち[[集英社文庫]] *『静かな大地』([[朝日新聞社]]、2004)のち文庫 *『キップをなくして』([[角川書店]]、2005)のち文庫 *『きみのためのバラ』(新潮社、2007)のち文庫 *『光の指で触れよ』(中央公論新社、2008)のち文庫 *『星に降る雪 修道院』(角川書店、2008)のち改題「星に降る雪」[[角川文庫]] *『熊になった少年』(スイッチパブリッシング、2009) *『カデナ』(新潮社、2009)のち文庫 *『氷山の南』(文藝春秋、2012)のち文庫 *『双頭の船』(新潮社 2013)のち文庫 *『アトミック・ボックス』([[毎日新聞社]]、2014)のち角川文庫 *『砂浜に坐り込んだ船』(新潮社 2015)のち文庫 *『キトラ・ボックス』([[KADOKAWA]]、2017)のち文庫 *『ワカタケル』([[日経BP|日本経済新聞出版]]、2020) *『また会う日まで』(朝日新聞出版 2023)朝日新聞朝刊に2022年1月31日まで連載 === 随筆・評論など === *『サーカムナヴィゲイション』(イザラ書房、1980) *『見えない博物館』([[小沢書店]]、1986)のち[[平凡社ライブラリー]] *『ギリシアの誘惑』(書肆山田、1987、増補版2017) *『ブッキッシュな世界像』([[白水社]]、1988、新版1993)のち[[白水Uブックス]] *『シネ・シティー鳥瞰図』([[中公文庫]]、1988) *『都市の書物』([[太田出版]]、1990) *『インパラは転ばない』([[光文社]]、1990、イラスト:[[飯野和好]])のち新潮文庫 *『読書癖』(全4巻、[[みすず書房]]、1991-1999) *『エデンを遠く離れて』(朝日新聞社、1991)のち文庫 *『南鳥島特別航路』([[JTB|日本交通公社]]、1991)のち新潮文庫 *『母なる自然のおっぱい』(新潮社、1992)のち文庫 *『宇宙のつくりかた』([[福音館書店]]、[[たくさんのふしぎ]]、1992)小学3・4年生以上向け *『楽しい終末』(文藝春秋、1993)のち文庫 *『むくどり通信』(朝日新聞社、1994)のち文庫 *『小説の羅針盤』(新潮社、1995) *『星界からの報告』(書肆山田、1995) *『むくどりは飛んでゆく』(朝日新聞社、1995) *『海図と航海日誌』(スイッチ・パブリッシング、1995) *『むくどりは千羽に一羽……』(朝日新聞社、1996) *『ハワイイ紀行』(新潮社、1996)のち文庫 *『むくどりの巣ごもり』(朝日新聞社、1997)「むくどり通信 雄飛編」文庫 *『沖縄式風力発言』(ボーダーインク、1997) *『明るい旅情』(新潮社、1997)のち文庫 *『室内旅行 池澤夏樹の読書日記』(文藝春秋、1998) *『むくどりとしゃっきん鳥』(朝日新聞社、1998) *『むくどり最終便』(朝日新聞社、1999)「むくどり通信・雌伏編」文庫 *『旅をした人 [[星野道夫]]の生と死』(スイッチ・パブリッシング、2000) *『新世紀へようこそ』(光文社、2002) *『言葉の流星群』(角川書店、2003)のち文庫 *『イラクの小さな橋を渡って』(光文社、2003)のち文庫 ** {{lang|en|''On a Small Bridge in Iraq'' (tr. Alfred Birnbaum, Okinawa: Impala, 2003)}} ** {{lang|fr|''SUR UN PETIT PONT EN IRAK'' (tr. Corinne Quentin, Okinawa: Impala, 2003)}} ** {{lang|de|''AUF EINER KLEINEN BR&#220;CKE IM IRAK'' (tr. Otto Putz, Okinawa: Impala, 2003)}} *『憲法なんて知らないよ というキミのための「日本の憲法」』(ホーム社、2003)のち集英社文庫 *『世界のために涙せよ 新世紀へようこそ2』(光文社、2003) *『神々の食』(文藝春秋、2003)のち文庫 *『風がページを・・・・ 池澤夏樹の読書日記』(文藝春秋、2003) *『パレオマニア [[大英博物館]]からの13の旅』([[集英社インターナショナル]]、2004)のち文庫 *『アマバルの自然誌 沖縄の田舎で暮らす』(光文社、2004)のち文庫 *『異国の客』(集英社、2005)のち文庫 *『世界文学を読みほどく [[スタンダール]]から[[ピンチョン]]まで』([[新潮選書]]、2005、増補版2017) *『池澤夏樹の旅地図 Along the footsteps of a lay pilgrim』(世界文化社、2007) *『虹の彼方に 池澤夏樹の同時代コラム』([[講談社]]、2007)のち文庫 *『叡智の断片』(集英社インターナショナル、2007)のち文庫 *『セーヌの川辺』(集英社、2008)のち文庫 *『風神帖―エッセー集成1』(みすず書房、2008) *『雷神帖―エッセー集成2』(みすず書房、2008) *『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』(小学館、2009)のち文庫 *『嵐の夜の読書』(みすず書房、2010) *『池澤夏樹の世界文学リミックス』(河出書房新社、2011)のち文庫 *『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』(中央公論新社、2011)のち文庫 *『終わりと始まり』(朝日新聞出版、2013)のち文庫 *『文明の渚』([[岩波ブックレット]]、2013) *『現代[[世界の十大小説]]』([[NHK出版新書]]、2014) *『うつくしい列島 地理学的名所紀行』(河出書房新社、2015)のち文庫 *『詩のなぐさめ』(岩波書店、2015) *『沖縄への短い帰還』(ボーダーインク、2016) *『知の仕事術』(集英社インターナショナル新書、2017) *『のりものづくし』([[中公文庫]]、2018) *『詩のきらめき』(岩波書店、2018) *『科学する心』(集英社インターナショナル、2019) *『[[いつだって読むのは目の前の一冊なのだ]]』(作品社、2019) *『されく魂 わが石牟礼道子抄』(河出書房新社、2021) ===共著=== *『新潮古典文学アルバム [[上田秋成]]』[[長島弘明]]共著 新潮社 1991 *『沖縄いろいろ事典』(編)(新潮社、1992)「オキナワなんでも事典」文庫 *『イスタンブール歴史散歩 [[とんぼの本]]』[[澁澤幸子]]共著 新潮社 1994 *『沖にむかって泳ぐ 池澤夏樹ロング・インタヴュー』[[新井敏記]]著 文藝春秋 1994 *『クジラが見る夢 [[ジャック・マイヨール]]との海の日々』(テレコムスタッフ、1994、写真:[[高砂淳二]]・[[垂見健吾]])のち新潮文庫 *『沖縄からはじまる』[[大田昌秀]]共著 集英社 1998 *『池澤夏樹アジアの感情 Long interview』新井敏記著 スイッチ・パブリッシング 2002 *『池澤夏樹の世界文学ワンダーランド』(NHK出版「NHK知る楽」、2009年10-11月)、放送テキスト *『ぜんぶ本の話』[[池澤春菜]]共著 [[毎日新聞出版]] 2020 *『みっちんの声』[[石牟礼道子]]共著 河出書房新社 2021 ==== 編著 ==== *『[[日本の名随筆]] 別巻 50 本屋』編 [[作品社]] 1995 *『ことばのたくらみ 実作集』編 [[岩波書店]] 21世紀文学の創造 2003 *『やがて麗しい五月が訪れ 原條あき子全詩集』編 書肆山田 2004 *『歩く学問ナマコの思想』[[鶴見俊輔]],[[内海愛子]],[[中村尚司]],[[熊岡路矢]]共著 [[埼玉大学]]共生社会研究センター編 コモンズ 2005 *『本は、これから』編 [[岩波新書]] 2010 *『怖い本と楽しい本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選 1998~2004』[[丸谷才一]]共編 [[毎日新聞社]] 2012 *『分厚い本と熱い本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選2005~2011』丸谷才一共編 毎日新聞社 2012 *『愉快な本と立派な本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選. 1992~1997』丸谷才一共編 毎日新聞社 2012 *『丸谷才一全集』全12巻 [[辻原登]]・[[三浦雅士]]・[[湯川豊]]と編纂委員 文藝春秋 2013-2014 * [[池澤夏樹=個人編集 世界文学全集]](全30巻)河出書房新社 2007-2011年 * [[池澤夏樹=個人編集 日本文学全集]](全30巻)河出書房新社、2014-2017年 * 監修 『[[須賀敦子]]の本棚』河出書房新社 ** [[ダンテ]]『[[神曲]] 地獄篇 第1歌-第17歌』須賀敦子・藤谷道夫訳、2018年6月 ** [[ウィラ・キャザー]]『大司教に死来る』著、 須賀敦子訳、2018年8月 ** [[ナタリア・ギンズブルグ]]『小さな徳』[[白崎容子]]訳、2018年10月 ** [[エルサ・モランテ]]『嘘と魔法』上下 [[北代美和子]]訳、2018年12月 ** [[シャルル・ペギー]]『クリオ 歴史と異教的魂の対話』[[宮林寛]]訳、2019年2月 ** [[メアリー・マッカーシー]]『私のカトリック少女時代』[[若島正]]訳著、2019年4月 === 翻訳 === * [[カート・ヴォネガット]]『母なる夜』(白水社 1973年、[[白水Uブックス]]、1984年) * [[ジェラルド・ダレル]]『虫とけものと家族たち』(集英社 1974年、集英社文庫、1983年、中公文庫、2014年) * ジェラルド・ダレル『鳥とけものと親類たち』(集英社 1977年、集英社文庫、1985年) * ジェラルド・ダレル『風とけものと友人たち』(集英社 1984年) * [[リチャード・ブローティガン]]『チャイナタウンからの葉書』([[サンリオ]]、1977年、ちくま文庫、2011年) * アル・ラムラス、ジョン・シェイナー『戦艦奪取大作戦』(集英社、1980年、集英社文庫、1983年) * [[ジェイムズ・ヘリオット]]『Dr.ヘリオットのおかしな体験』(集英社、1981年、集英社文庫、1997年) * [[ジョン・アップダイク]]『クーデタ』(講談社、1981年) * ピーター・グッドチャイルド『ヒロシマを壊滅させた男[[ロバート・オッペンハイマー|オッペンハイマー]]』(白水社 1982、新版1995) * 『世界のライト・ヴァース 太陽の半分と月の全部と』([[藤井昇 (文学研究者)|藤井昇]]、[[桑名一博]]、[[米川良夫]]共編・訳 森本清彦絵 書肆山田 1982) *『王さまのリンゴの木 ギリシャの民話』(ソフィア・ザランボウカ再話 ほるぷ出版 1982) *『[[ジャック・ケルアック]]詩集』(高橋雄一郎共訳 思潮社 1991年) * [[E・M・フォースター]]『ファロスとファリロン』「著作集 7」みすず書房 1994年 *『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』([[ジョン・レノン]]、[[オノ・ヨーコ]]、中公文庫 2001年) *『テオ・アンゲロプロス シナリオ全集』(愛育社 2004年) * [[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]]『[[星の王子さま]]』(集英社文庫、2005年) *『[[古事記]]』(河出書房新社、2014年)- 池澤夏樹 個人編集「日本文学全集」収録 *『カヴァフィス全詩』(書肆山田、2018年) * [[ウィリアム・ブレイク]]『無垢の歌』(池澤春菜共訳 毎日新聞出版 2021年) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.impala.jp/ Cafe Impala] - 公式サイト * 新聞連載「氷山の南」 http://www.impala.jp/hyozan/index.html {{deadlink|date=2015-10-3}} * {{Facebook|NatsukiIkezawa|NATSUKI IKEZAWA/池澤夏樹}} * [http://bookshorts.jp/ikezawanatsuki/ 池澤夏樹さんインタビュー] - ブックショート * {{NHK人物録|D0009072080_00000}} {{芥川賞|第98回}} {{谷崎潤一郎賞|第29回}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いけさわ なつき}} [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の詩人]] [[Category:21世紀日本の詩人]] [[Category:20世紀日本の翻訳家]] [[Category:21世紀日本の翻訳家]] [[Category:朝日賞受賞者]] [[Category:芥川賞受賞者]] [[Category:谷崎潤一郎賞受賞者]] [[Category:読売文学賞受賞者]] [[Category:日本藝術院会員]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:東京都立富士高等学校出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1945年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:福永武彦|+いけさわ なつき]]
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GC
GC
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GC
'''GC''' == 学術的な単位・記号 == *'''Gc''' - [[非SI接頭辞]] グルーチ ({{en|grouchi}}) 。10<sup>30</sup>。Morgan Burkeの提案 *'''gc''' - [[非SI接頭辞]] グルーチョ ({{en|groucho}}) 。10<sup>-30</sup>。Morgan Burkeの提案 == 正式名称 == * [[ジーシー]] - [[歯科]]材料を扱う日本の企業。 *ジーシー - かつて存在した日本のクレジットカード会社。「GCカード」を発行していた。⇒ [[新生フィナンシャル]] == 略語・略称 == === 一般名詞・術語 === * [[ゴルフ場|ゴルフクラブ]] ({{en|golf club}}) * [[ゴールデンクロス]] - 投資のテクニカル分析手法の一つ[[グランビルの法則]]において上昇(買い)シグナルとされる現象。 * [[国連グローバル・コンパクト]] ({{en|global compact}}) - 自発的な企業市民のイニシアチブ。 * [[グリーンカード]] ({{en|green card}}) - 「緑色のカード」の意。 * [[ガベージコレクション]] ({{en|garbage collection}}) - プログラム上で不要となったメモリをまとめる動作。 * [[ガスクロマトグラフィー]] ({{en|gas chromatography}}) * [[群局]] ({{en|group unit center}}) - 加入者線[[交換機]]が設置されているセンター。 * [[ゴーイングコンサーン]] ({{en|going concern}}) - 継続企業の前提/継続企業 * [[グアニル酸シクラーゼ]] ({{en|guanylate cyclase}}) - [[グアノシン三リン酸]] (GTP) を[[環状グアノシン一リン酸]] (cGMP) に変換する酵素。 * [[グルココルチコイド]] ({{en|glucocorticoid}}) - 副腎皮質ホルモン・医薬品 * ガソリンカー ({{en|gasoline car}}) ⇒ [[気動車]] === 固有名詞 === ==== 企業・組織 ==== * [[Google Chrome]] - [[Google]]社の[[ウェブブラウザ]] * [[グリーンチャンネル]] - 日本の[[競馬]]専門[[CS放送]]局。 * [[グリーンコープ連合|グリーンコープ生活協同組合連合会]] - [[福岡県]]を本拠地とし西日本で展開している[[生活協同組合]]。 ==== イベント ==== * [[富士グランチャンピオンレース]] - 過去に日本で開催されていた自動車レースシリーズ。 * [[ゲームズ・コンベンション]] ({{en|Games Convention}}) - [[ドイツ]][[ライプツィヒ]]で2002年–2008年に開催されたゲーム見本市。 * [[ゲームズコム]] ({{interlang|en|Gamescom}}) - ドイツ[[ケルン]]で2009年から開催されているゲーム見本市。 ==== 人のユニット ==== * [[GARNET CROW]] - 日本の音楽グループ。 ==== 商品名 ==== * [[ニンテンドーゲームキューブ]] - [[任天堂]]が発売した[[ゲーム機|据え置き型ゲーム機]]。 * [[月刊少年ガンガン#ガンガンコミックス|ガンガンコミックス]] - [[スクウェア・エニックス]]刊の漫画単行本レーベル。 * [[GCノベルズ]] - [[マイクロマガジン社]]が刊行している[[ライトノベル]]系レーベル。 * [[スーパーロボット大戦GC]] * [[グルーヴコースター]] - [[タイトー]]が開発した音楽ゲーム == コード・形式名 == * [[スバル・インプレッサ]] - 初代[[セダン]]モデルの型式名が「GC」である。 == 関連項目 == * [[ラテン文字のアルファベット二文字組み合わせの一覧]] * [[特別:Prefixindex/GC|GCで始まる記事の一覧]] * [[特別:Prefixindex/Gc|Gc,gcで始まる記事の一覧]] {{aimai}}
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FTP
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FTP
'''FTP''' ==一般== * [[Free-to-play]] - ビデオゲームのビジネスモデルの一つ。「基本プレイ無料」のこと。 * Functional Threshold Power - 一時間に出力を維持できる力の量のこと。フィットネスではワットで示される。 ==技術== * [[File Transfer Protocol]] - インターネットのプロトコル。ファイル転送プロトコル。 * [[File Transfer Profile]] - [[Bluetoothプロファイルの一覧|Bluetoothプロファイル]]の一つ * 金属箔被覆ツイストペア (foiled twisted pair) - 金属箔のシールドで囲まれた[[ツイストペアケーブル]] * [[DTP]]においてフィルムから刷版を作成する方法(Film To Plate)。これに対し[[コンピュータ]]から直接刷版を作成するのは[[コンピューター・トゥ・プレート|CTP]](Computer to Plate)。 ==組織== * {{仮リンク|FTPソフトウェア|en|FTP Software}} - アメリカ合衆国にかつてあったソフトウェア会社 * [[フォスター・ザ・ピープル]] (Foster the People) - アメリカ合衆国のインディー・ポップバンド ==その他== * {{仮リンク|フォークス・テレスコープ・プロジェクト|en|Faulkes Telescope Project}} (Faulkes Telescope Project) - イギリスの実業家・ディル・フォークスが支援する天文学教育プロジェクト * [[連邦劇場計画]] (Federal Theatre Project) {{aimai}}
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12月6日
12月6日(じゅうにがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から340日目(閏年では341日目)にあたり、年末まであと25日ある。
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12月6日(じゅうにがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から340日目(閏年では341日目)にあたり、年末まであと25日ある。
{{カレンダー 12月}} '''12月6日'''(じゅうにがつむいか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から340日目([[閏年]]では341日目)にあたり、年末まであと25日ある。 == できごと == [[ファイル:Senate1917.jpg|thumb|180px|1917年の[[フィンランド]]上[[元老院]]。最初の議長である[[ペール・スヴィンヒュー]](写真中央)が首相の座についた。]] * [[1240年]] - [[モンゴルのルーシ侵攻]]: [[バトゥ]]率いる[[モンゴル]]軍により[[キーウ]]が陥落し、[[キエフ大公国]]が滅亡。 * [[1648年]] - [[イングランド王国|イングランド]]で[[クーデター]]([[プライドのパージ]])が起こる。[[ニューモデル軍]]と[[独立派 (宗教)|独立派]]が[[長期議会]]内部の[[長老派教会|長老派]]議員を大勢追放、残りの議員で[[ランプ議会 (イングランド内戦)|ランプ議会]]を構成。 * [[1768年]] - 『[[ブリタニカ百科事典]]』第1版が発行。 * [[1865年]] - 公式に[[奴隷制]]を廃止する[[アメリカ合衆国憲法修正第13条]]が27州の批准により成立。 * [[1877年]] - [[トーマス・エジソン]]が、自身が発明した[[蓄音機]]で初めて人の声を録音する。 * 1877年 - 『[[ワシントン・ポスト]]』が創刊。 * [[1914年]] - [[山田耕筰]]作曲「[[勝鬨と平和]]」初演。日本人が作曲した交響曲が初めて上演された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kaigoshoku.mynavi.jp/contents/kaigonomirailab/news/today/20221206_00/ |title=【今日は何の日?】12月6日=日本人作曲による初の交響曲『勝鬨と平和』が初上演される(1904年) / 雑学ネタ帳 |access-date=19 Jul 2023 |publisher=[[マイナビ]] |date=6 Dec 2022}}</ref>。 * [[1917年]] - [[フィンランド]]が[[ロシア]]からの独立を宣言。 * 1917年 - [[ハリファックス大爆発]]。 * [[1918年]] - [[大学令]]・[[高等学校令]]公布。単科大学・私立公立の大学・高校を認可。 * [[1921年]] - [[英愛条約]]締結。[[大英帝国]]内の自治国として[[アイルランド自由国]]の建国が決定。 * [[1922年]] - 英愛条約に基づきアイルランド自由国が建国。 * [[1927年]] - 『[[労農]]』が創刊、[[労農派]]が誕生。 * [[1932年]] - [[日豊本線]]が全通。 * [[1940年]] - 各省・軍の情報部門を統合して[[情報局|内閣情報局]]を設置。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: イギリスが[[フィンランド]]に宣戦布告。 * [[1950年]] - [[朝鮮戦争]]: [[中国人民志願軍]][[第39集団軍|39軍]]の[[第116機械化師団 (人民解放軍陸軍)|116師]](師長:{{仮リンク|汪洋 (将軍)|label=汪洋|zh|汪洋 (将军)}})と[[朝鮮人民軍]]1軍団(軍団長:[[李権武]])が[[平壌直轄市|平壌]]を占領する。 * [[1951年]] - [[国際柔道連盟]]結成。 * [[1956年]] - [[メルボルンオリンピック]]: [[メルボルンの流血戦]]。 * [[1957年]] - アメリカ初の人工衛星「[[ヴァンガードTV3]]」を打ち上げようとするが、打ち上げ直後に発射台で爆発。 * [[1969年]] - [[Osaka Metro堺筋線|大阪市営地下鉄堺筋線]]・[[天神橋筋六丁目駅]] - [[動物園前駅]]間が開業。またこの時既存の大阪市営地下鉄線(1号線 - 5号線)に愛称が付けられる。 * [[1978年]] - [[スペイン]]で現行の[[スペイン1978年憲法]]が成立。(スペインの[[憲法記念日]]) * [[1979年]] - [[崔圭夏]]が第10代[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]]に就任。 * [[1982年]] - [[東京地方裁判所|東京地裁]]が「コンピュータの[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]は[[著作物]]に該当」という初の判断。 * [[1984年]] - [[三笠宮|三笠宮家]]の第三男子・[[高円宮憲仁親王|憲仁親王]]と[[憲仁親王妃久子|鳥取久子]]の[[結婚|結婚の儀]]。同日、[[高円宮|高円宮家]]を創設。 * [[1985年]] - [[新日本プロレス]][[両国国技館]]大会に[[UWF]]の[[前田日明]]、[[藤原喜明]]、[[木戸修]]、[[高田伸彦]]、[[山崎一夫 (プロレスラー)|山崎一夫]]が乗り込み宣戦布告する。 * [[1988年]] - [[リクルート事件]]: [[参議院]]で[[江副浩正]]リクルート前会長の証人喚問。[[宮澤喜一]]蔵相の証言との食い違いが判明し、[[12月9日|9日]]に宮澤が蔵相を辞任。 * [[1989年]] - [[モントリオール理工科大学虐殺事件]] * [[1990年]] - [[広島港]]東部の円滑な物流と交通緩和を図るために建設された長大橋、[[海田大橋]]が開通<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.h-port.co.jp/bridge/ |title=海田大橋・はつかいち大橋 |access-date=19 Jul 2023 |publisher=株式会社ひろしま港湾管理センター}}</ref>。 * [[1992年]] - [[ヒンドゥー教]]原理主義者により[[インド]]・[[アヨーディヤー]]の[[モスク]]・[[バーブリー・マスジド]]が完全に破壊。 * 1992年 - 新東京国際空港(現在の[[成田国際空港]])第2旅客ターミナルビルの供用開始。第1旅客ターミナルビル北ウイング、第1及び第2サテライトが閉鎖。 * [[1998年]] - [[ウゴ・チャベス]]が[[ベネズエラ]]大統領に選出。 * [[2005年]] - 韓国海上警察が日本の[[海上保安庁]]に対し、日本領海の捜査権の譲渡を要求するが、海上保安庁は「主権侵害にあたる」としてこれを拒否。 * [[2008年]] - [[ギリシャ]]・[[アテネ]]で15歳の少年が警察官に射殺される。抗議行動がギリシャ全土に広まり、一部が暴動化。([[2008年ギリシャの暴動]]) * 2008年 - [[マウイ島]][[ハレアカラ国立公園|ハレアカラ山頂]]にて、[[地球近傍天体]]観測プロジェクト・[[パンスターズ]]が活動開始。 * [[2015年]] - [[仙台市地下鉄東西線]]([[八木山動物公園駅|八木山動物公園]] - [[荒井駅 (宮城県)|荒井]])が開業<ref>{{Cite web|和書|title=仙台市の地下鉄東西線が開業 沿線開発で震災復興 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=6 Dec 2015 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK06H04_W5A201C1000000/ |accessdate=19 Jul 2023}}</ref>。 * [[2017年]] - [[日本放送協会]]の[[NHK受信料|受信料]]徴収をめぐる最高裁判決が行われ、合憲と判断される<ref>{{Cite web|和書 |date=6 Dec 2017 |url=https://www.sankei.com/article/20171206-QKKT47VXAJJ57GAIWNPXCOMAME/ |title=NHK受信料制度「合憲」 最高裁が初判断 携帯視聴では論点残る |publisher=[[産経新聞]] |accessdate=19 Jul 2023}}</ref>。 * [[2020年]] - [[宇宙探査機|小惑星探査機]]「[[はやぶさ2]]」の回収カプセルが地球に帰還<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bbc.com/japanese/55204330 |title=探査機「はやぶさ2」のカプセルが着地 小惑星「リュウグウ」のサンプルが地球に帰還 |access-date=19 Jul 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |date=6 Dec 2020}}</ref>。 * [[2021年]] - 同年2月のクーデターで軍事政権が誕生した[[ミャンマー]]で、11件の罪状で訴追された民主化指導者の[[アウンサンスーチー]]に対し、禁錮4年の有罪判決が出される<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bbc.com/japanese/59545736 |title=アウンサンスーチー氏に禁錮4年の有罪判決 ミャンマー |access-date=19 Jul 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |date=6 Dec 2021}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1421年]] - [[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]、[[イングランド王国|イングランド]]国王(+ [[1471年]]) * [[1644年]]([[寛永]]21年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]])- [[藤堂高通]]、初代[[久居藩|久居藩主]](+ [[1697年]]) * [[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]])- [[伊達村豊]]、第3代[[伊予吉田藩|吉田藩主]](+ [[1737年]]) * [[1778年]] - [[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック]]<ref>{{Cite web |title=Joseph-Louis Gay-Lussac {{!}} French scientist |url=https://www.britannica.com/biography/Joseph-Louis-Gay-Lussac |access-date=19 Jul 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[化学者]]、[[物理学者]](+ [[1850年]]) * [[1823年]] - [[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]、[[東洋学|東洋学者]](+ [[1900年]]) * [[1829年]]([[文政]]12年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[由利公正]]、[[政治家]](+ [[1909年]]) * [[1848年]]([[嘉永]]元年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[川上操六]]、[[陸軍軍人]](+ [[1899年]]) * [[1856年]] - [[ハンス・モーリッシュ]]、[[植物学者]](+ [[1937年]]) * [[1875年]] - [[松平基則]]、[[伯爵]](+ [[1930年]]) * [[1878年]] - [[安藤幸]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1963年]]) * 1878年 - [[松平保男]]、[[大日本帝国海軍|海軍軍人]]、[[子爵]](+ [[1944年]]) * [[1886年]] - [[大川周明]]、[[思想家]] (+[[1957年]]) * [[1890年]] - [[仁科芳雄]]、[[物理学者]](+ [[1951年]]) * [[1891年]] - [[木村昌福]]、海軍軍人(+ [[1960年]]) * [[1899年]] - [[ジョッコ・コンラン]]、[[メジャーリーグ]]審判(+ [[1989年]]) * [[1903年]] - [[トニー・ラゼリ]]、プロ野球選手(+ [[1946年]]) * [[1919年]] - [[ギデオン・クライン]]、[[作曲家]](+ [[1945年]]) * 1919年 - [[ポール・ド・マン]]、[[文学理論]]家(+ [[1983年]]) * [[1920年]] - [[ジョージ・ポーター]]、[[化学者]](+ [[2002年]]) * [[1924年]] - [[鶴田浩二]]、[[俳優]](+ [[1987年]]) * [[1925年]] - [[東久邇成子]]、[[皇族]](+ [[1961年]]) * [[1927年]] - [[宮沢昭]]、[[ジャズ]]テナー[[サクソフォーン]]奏者(+ [[2000年]]) * [[1929年]] - [[ニコラウス・アーノンクール]]、[[指揮者]](+ [[2016年]]) * [[1930年]] - [[キダ・タロー]]、作曲家 * 1930年 - [[井上隆明]]、[[文芸評論家]] (+ [[2021年]]) * [[1933年]] - [[ヘンリク・ミコワイ・グレツキ]]、作曲家(+ [[2010年]]) * 1933年 - [[宍戸錠]]、俳優(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=宍戸錠さん死因は虚血性心疾患、本人希望すでに密葬|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202001230000574.html|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=23 Jan 2020|accessdate=19 Jul 2023}}</ref>) * 1933年 - [[鎮西清高]]、[[地質学|地質学者]] * [[1934年]] - [[ニック・ボックウィンクル]]、[[プロレスラー]](+ [[2015年]]) * 1934年 - [[荻孝雄]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2014年]]) * [[1935年]] - [[木原正二郎]]、[[声優]] * [[1937年]] - [[レジナルド・ゴリッジ]]、[[地理学者]](+ [[2009年]]) * [[1938年]] - [[浅田満]]、[[ハンナン]]会長 * [[1940年]] - [[露木茂]]、[[ニュースキャスター]]、[[アナウンサー]] * [[1941年]] - [[ブルース・ナウマン]]、[[現代美術家]] * [[1942年]] - [[ペーター・ハントケ]]、[[作家]] * 1942年 - [[斎藤功 (地理学者)|斎藤功]]、[[地理学者]](+ [[2014年]]) * [[1943年]] - [[車だん吉]]、[[タレント]] * 1943年 - [[星由里子]]、[[俳優|女優]](+ [[2018年]]) * [[1946年]] - [[中尾幸男]]、[[実業家]](+ [[2021年]]) * [[1947年]] - [[冨松彰]]、[[天体物理学|宇宙物理学者]] * [[1948年]] - [[ケケ・ロズベルグ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * 1948年 - [[菅義偉]] 、政治家、第99代[[内閣総理大臣]] * [[1949年]] - [[三田純義]]、[[工学者]] * [[1950年]] - [[久石譲]]、[[作曲家]] * 1950年 - [[ウーベ・カゲルマン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1950年 - [[松屋健治]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[ダニエル・アドニ]]、[[ピアニスト]] * [[1952年]] - [[佐藤史生]]、[[漫画家]](+ [[2010年]]) * [[1953年]] - [[車田正美]]、漫画家 * 1953年 - [[山下雄三]]、[[歌手]] * [[1954年]] - [[アンドレイ・ミネンコフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1956年]] - [[雷門ケン坊]]、[[声優]] * 1956年 - [[ランディ・ローズ]]、[[ギタリスト]](+ [[1982年]]) * 1956年 - [[若狭勝]]、政治家、検事 * [[1957年]] - [[立石充男]]、元プロ野球選手 * 1957年 - [[スティーブ・ベドローシアン]]、元プロ野球選手 * 1957年 - [[アンドリュー・クオモ]] 、政治家、弁護士、[[ニューヨーク州知事]] * [[1958年]] - [[守村大]]、漫画家 * [[1959年]] - [[福崎文吾]]、[[棋士 (将棋)|棋士]] * 1959年 - [[吉良知彦]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ZABADAK]])(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=重要なお知らせ |publisher=Penelope |date=6 Jul 2016 |url=http://www.zabadak.net/information/2016/0402_20160706_notice.html |accessdate=19 Jul 2023 |website=[[ZABADAK]]}}</ref>) * 1959年 - [[岩田聡]] 、実業家、[[任天堂]]第4代[[社長]](+ [[2015]]年) * 1959年 - [[ラリー・シーツ]]、元プロ野球選手 * 1959年 - [[吉田紀子]]、[[脚本家]] * [[1960年]] - [[勝谷誠彦]]、[[コラムニスト]]、[[写真家]](+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=コラムニスト勝谷誠彦さん、肝不全で死去 57歳 - 芸能 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201811280000165.html |access-date=19 Jul 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=28 Nov 2018}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/11/29/kiji/20181128s00041000287000c.html |title=コラムニストの勝谷誠彦さん死去 57歳、肝不全 医師の弟「好きなことやった」 |access-date=19 Jul 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=29 Nov 2018}}</ref>) * 1960年 - [[琴椿克之]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄14代・16代[[白玉 (相撲)|白玉]] * [[1960年]] - [[橋爪紳也]]、建築史家 * [[1961年]] - [[西川慶二]]、[[棋士 (将棋)|棋士]](+[[2022年]]) * 1961年 - [[福田央]]、研究者 * [[1962年]] - [[安藤大将]]、[[競艇選手]] * [[1964年]] - [[林家たい平]]、[[落語家]] * [[1965年]] - [[ホイラー・グレイシー]]、[[柔術家]] * 1965年 - [[水島努]]、[[アニメーション]]監督 * 1965年 - [[古川元久]]、政治家 * 1965年 - [[若松俊秀]]、俳優 * [[1966年]] - [[中尾秀正]]、[[調教師]] * 1966年 - 渡辺俊美、ミュージシャン([[TOKYO No.1 SOUL SET]]) * [[1967年]] - [[遠藤遼一]]、ミュージシャン([[ENDS]]、元[[SOFT BALLET]]) * [[1968年]] - [[矢野燿大]]、元プロ野球選手、監督 * [[1971年]] - [[アダム・ハイズデュ]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[影木栄貴]]、漫画家 * 1971年 - [[高橋直純]]、ミュージシャン、声優 * 1971年 - [[ホセ・コントレラス]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[リック・ショート]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[武藤幸司]] 、元[[野球選手]] * [[1974年]] - [[宮田仁]]、元野球選手 * [[1975年]] - [[朝見優香]]、女優 * 1975年 - [[笠原健治]] 、実業家 * 1975年 - [[大原さやか]]、声優 * [[1976年]] - [[満仲由紀子]]、声優 * [[1977年]] - 13代目[[市川團十郎 (13代目)|市川團十郎]]、歌舞伎俳優 * [[1978年]] - [[ミドリカワ書房]]、歌手 * 1978年 - [[マルシオ・エメルソン・パッソス|エメルソン]]、元サッカー選手 * [[1979年]] - [[滝沢和典]]、[[麻雀#プロ雀士|プロ雀士]] * 1979年 - [[橋本義隆]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[森直史]]、トラスパレンテオーナー * 1979年 - [[アレックス・ムンブル]]、[[バスケットボール選手]] * 1979年 - [[ティム・ケーヒル]]、元サッカー選手 * [[1980年]] - [[保田圭]]、タレント、[[アイドル]](元[[モーニング娘。]]) * 1980年 - [[金森正晃]]、映画監督 * [[1981年]] - [[辻隼]]、[[陸上競技選手]] * 1981年 - [[牛田成樹]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[佐藤賢]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[管家修一]]、元野球選手 * [[1982年]] - [[アルベルト・コンタドール]]、[[自転車競技]][[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手 * 1982年 - [[エレク・アティッラ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1983年]] - [[ティファニー・タン]]、女優 * [[1984年]] - [[宇佐美友紀]]、タレント、元アイドル(元[[AKB48]]) * 1984年 - [[岡田晃 (陸上選手)|岡田晃]]、陸上競技選手 * 1984年 - [[長野久義]]、プロ野球選手 * [[1986年]] - [[冨岡真理央]]、女優 * 1986年 - [[梅本由紀]]、元野球選手 * [[1987年]] - [[西平せれな]]、[[シンガーソングライター]]、[[パーカッション|パーカッショニスト]]、[[杜氏]] * [[1988年]] - [[石井琴里]]、元タレント * 1988年 - [[島﨑信長]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://profile.ameba.jp/ameba/nobunagashimazaki/ |title=島﨑信長(島崎信長)のプロフィール |work=信長の野望【島﨑信長(島崎信長)のブログ】 |accessdate=19 Jul 2023}}</ref>、声優 * [[1989年]] - [[斉藤愛璃]]、プロゴルファー * 1989年 - [[榊原徹士]]、俳優(元[[新選組リアン]]) * [[1990年]] - [[林遣都]]、俳優 * 1990年 - [[志田達哉]]、囲碁棋士 * 1990年 - [[タミラ・パシェク]]、テニスプレーヤー * [[1991年]] - [[ココ・バンダウェイ]]、テニス選手 * [[1992年]] - 細貝柊、ピアニスト * [[1993年]] - [[高野祐衣]]、元歌手、元アイドル(元[[吉本坂46]]、元[[NMB48]]) * [[1994年]] - [[栗原類]]、[[ファッションモデル]] * 1994年 - [[村上聡]]、声優 * 1994年 - [[島袋美由利]]、声優 * 1994年 - [[若隆景渥]]、大相撲力士 * [[1996年]] - [[ステファニー・スコット]]、女優、歌手 * 1996年 - [[井田明宏]]、棋士 * [[1997年]] - [[原嵩]]、元プロ野球選手 * 1997年 - [[木村泰斗]]、俳優 * [[1998年]] - [[アンゲリーナ・クチヴァルスカ]]、フィギュアスケート選手 * 1998年 - [[幸村恵理]]、声優 * 1998年 - [[本髙克樹]]、アイドル([[7 MEN 侍]]) * [[1999年]] - [[高木渉 (野球)|高木渉]]、プロ野球選手 * [[2002年]] - [[西川大和]]、[[総合格闘家]] * [[2003年]] - [[川名凜]]、歌手、アイドル([[アンジュルム]]) * [[2004年]] - [[大瀧沙羅]]、グラビアアイドル * 生年不明 - [[海保えりか]]、声優 * 生年不明 - [[高見まこ]]、漫画家 * 生年不明 - 水科葵、アイドル([[GEMS COMPANY]])、Vtuber == 忌日 == * [[350年]]ごろ - [[ミラのニコラオス]](聖ニコラウス)、[[キリスト教]]の[[聖人]]、[[サンタクロース]]のモデル(* [[270年]]ごろ) * [[735年]]([[天平]]7年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - [[舎人親王]]、[[奈良時代]]の[[皇族]]、[[淳仁天皇]]の父(* [[676年]]) * [[805年]]([[延暦]]24年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - [[壱志濃王]]、皇族(* [[733年]]) * [[1185年]] - [[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]、[[ブルゴーニュ王朝]]初代[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(* [[1109年]]) * [[1311年]]([[応長]]元年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]) - [[北条貞時]]、[[鎌倉幕府]]第9代[[執権]](* [[1272年]]) * [[1352年]] - [[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]、第198代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1291年]]) * [[1562年]] - [[ヤン・ファン・スコーレル]]、[[画家]](* [[1495年]]) * [[1613年]] - [[アントン・プレトリウス]]、[[牧師]](* [[1560年]]) * [[1672年]] - [[ヤン2世 (ポーランド王)|ヤン2世]]、[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王(* [[1609年]]) * [[1679年]]([[延宝]]7年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]])- [[伊達宗勝]]、初代[[一関藩|一関藩主]](* [[1621年]]) * [[1779年]] - [[ジャン・シメオン・シャルダン]]<ref>{{Cite web |title=Jean-Baptiste-Simeon Chardin {{!}} French painter |url=https://www.britannica.com/biography/Jean-Baptiste-Simeon-Chardin |access-date=19 Jul 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、画家(* [[1699年]]) * 1779年([[安永 (元号)|安永]]8年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[後桃園天皇]] 、第118代[[天皇]](* [[1758年]]) * [[1841年]]([[天保]]12年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[島津斉宣]]、第9代[[薩摩藩|薩摩藩主]](* [[1774年]]) * [[1867年]] - [[ジョヴァンニ・パチーニ]]、[[作曲家]](* [[1796年]]) * [[1882年]] - [[ルイ・ブラン]]、政治家(* [[1811年]]) * [[1887年]] - [[島津久光]]、薩摩藩の指導者(* [[1817年]]) * [[1889年]] - [[ジェファーソン・デイヴィス]]、[[アメリカ南部連邦]]の[[アメリカ連合国大統領|大統領]](* [[1808年]]) * [[1892年]] - [[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]、電気技術者(* [[1816年]]) * [[1893年]] - [[ルドルフ・ウォルフ]]、[[天文学者]](* [[1816年]]) * [[1910年]] - [[重野安繹]]、[[歴史学者]](* [[1827年]]) * [[1920年]] - [[ロザリア・ロンバルド]]、ミイラ保存された少女(* [[1918年]]) * [[1922年]] - [[宮崎滔天]]、[[革命家]](* [[1871年]]) * [[1925年]] - [[リヒャルト・アイレンベルク]]、[[作曲家]](* [[1848年]]) * [[1940年]] - [[田中隆三 (政治家)|田中隆三]]、[[政治家]](*[[1864年]]) * [[1942年]] - [[エイモス・ルーシー]] 、プロ野球選手(* [[1871年]]) * [[1946年]] - [[マクシミリアン・シテインベルク]]、作曲家(* [[1883年]]) * [[1947年]] - [[醍醐忠重]]、軍人(* [[1891年]]) * [[1949年]] - [[レッドベリー]]、[[ブルース]][[ギタリスト]](* [[1888年]]) * [[1954年]] - [[ルシアン・テニエール]]、[[言語学者]](* [[1954年]]) * [[1955年]] - [[ホーナス・ワグナー]] 、プロ野球選手(* [[1874年]]) * 1955年 - [[ジョージ・プラット・ラインス]]、[[写真家]](* [[1907年]]) * [[1956年]] - [[ビームラーオ・アンベードカル]]、[[政治家]]、[[思想家]](* [[1891年]]) * [[1957年]] - [[ロベール・エスノー=ペルトリ]]、[[飛行機]]設計者(* [[1881年]]) * [[1959年]] - [[筒井敬三]]、[[プロ野球選手]](* [[1925年]]) * [[1961年]] - [[フランツ・ファノン]]、思想家(* [[1925年]]) * [[1975年]] - [[正木ひろし]]、[[弁護士]](* [[1896年]]) * [[1985年]] - [[バーリー・グライムス]] 、プロ野球選手(* [[1893年]]) * [[1988年]] - [[ロイ・オービソン]]、[[歌手]](* [[1936年]]) * [[1989年]] - [[ジョン・ペイン]]、[[俳優]](* [[1912年]]) * [[1990年]] - [[トゥンク・アブドゥル・ラーマン]]、[[マレーシア]]初代[[マレーシアの首相|首相]](* [[1903年]]) * [[1991年]] - [[リチャード・ストーン]]、[[経済学者]](* [[1913年]]) * 1991年 - [[小林恒夫 (映画監督)|小林恒夫]]、映画監督(* [[1911年]]) * [[1998年]] - [[セザール・バルダッチーニ]]、[[彫刻家]](* [[1921年]]) * 1998年 - [[山下耕作]]、[[映画監督]](* [[1930年]]) * [[2003年]] - [[ハンス・ホッター]]、[[バリトン|バスバリトン]]歌手(* [[1909年]]) * [[2006年]] - [[阿部文男]]、[[政治家]](* [[1922年]]) * [[2008年]] - [[遠藤実]]、[[作曲家]](* [[1932年]]) * [[2012年]] - [[佐藤允]]、俳優(* [[1934年]]) * [[2014年]] - [[ラルフ・ベア]]、[[発明家]](* [[1922年]]) * [[2015年]] - [[平良とみ]]、女優(* [[1928年]]) * 2015年 - [[フランツル・ラング]]、ヨーデル歌手(* [[1930年]]) * [[2017年]] - [[海老一染之助]]<ref>{{Cite web|和書 |date=7 Dec 2017 |url=https://www.sankei.com/article/20171207-Q33OEEANLRMOBP4OJQRYGK7NHY/ |title=海老一染之助さん、急性肺炎で死去 日本のお正月を彩り続けた傘回し芸 |publisher=[[産経新聞]] |accessdate=19 Jul 2023}}</ref>、[[太神楽]]師(* [[1934年]]) * [[2020年]] - [[タバレ・バスケス]]、[[政治家]]、[[医師]](* [[1940年]]) * 2020年 - [[デニス・ラルストン]]、[[テニス]]選手(* [[1942年]]) * [[2021年]] - [[荒木浩 (東京電力)|荒木浩]]、実業家、元[[東京電力]]社長(* [[1931年]]) * 2021年 - 柴田祐作<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/147739 |title=柴田祐作さん死去 洋画家 |access-date=19 Jul 2023 |publisher=[[東京新聞]] |date=9 Dec 2021}}</ref>、洋画家(*[[1925年]]) * 2021年 - 中尾幸男、実業家(* [[1946年]]) * [[2022年]] - [[水木一郎]]、歌手(* [[1948年]]) * 2022年 - [[山田兼士]]、仏文学者、評論家、詩人(* [[1953年]]) * [[2023年]] - [[島崎俊郎]]、[[お笑いタレント]](* [[1955年]]) == 記念日・年中行事 == *ハタハタの日({{JPN}}) *: 2008年、[[秋田県]][[男鹿市]]の男鹿市商工会が、沿岸で季節ハタハタ漁の初漁を迎えることが多いこの日を「ハタハタの日」に制定。その年の豊漁と関連産業も含めた商売繁盛を祈願する<ref>{{Cite web |url=https://www.aab-tv.co.jp/news/aabnews-23120615280004/ |title=季節ハタハタはいつやってくる? 男鹿市では「ハタハタの日」に合わせ豊漁を祈願 秋田 |access-date=6 Dec 2023 |publisher=[[秋田朝日放送|AAB 秋田朝日放送]] |date=6 Dec 2023}}</ref>。 * [[音の日]]({{JPN}}) *:[[日本オーディオ協会]]が[[1994年]]に制定。[[1877年]]のこの日、[[トーマス・エジソン]]が自身が発明した[[蓄音機]]で音を録音・再生することに成功したことを記念。 *姉の日({{JPN}}) *:姉妹型・兄弟型研究の第一人者、[[畑田国男]]が[[6月6日]]の「兄の日」、[[9月6日]]の「妹の日」に次いで1992年に提唱。この日が祝日である聖ニコラウスにまつわる三姉妹伝説がその日付の由来になっている。 *黄門忌({{JPN}}) *: 「水戸黄門」で知られる水戸藩主[[徳川光圀]]の命日。死因は食道癌で、元禄13年12月6日に亡くなった。なお、「黄門」とは、中納言という古代日本の官職を、中国風に言い換えた名称のこと<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/218171 |title=きょうは何の日 12月6日 黄門忌 |access-date=19 Jul 2023 |publisher=[[東京新聞]] |date=6 Dec 2022}}</ref>。 *[[憲法記念日]]({{ESP}}) *: [[1978年]]のこの日、[[スペイン]]で現行の[[スペイン1978年憲法]]が成立した。 * [[独立記念日]]({{FIN}}) *:[[1917年]]のこの日、フィンランドが[[ロシア帝国]]から独立した。 * 聖ニコラウスの日 *:[[ミラのニコラオス|ミラのニコラウス]]は、多くの財産を教会に寄付し、生涯を通して貧しい人々に献身した3~4世紀の聖職者。大変優しく、子供・結婚前の若い女性・商人・質屋・薬剤師・ロシアの守護聖人とされる。聖ニコラウスの命日であるこの日は、彼の数々の施しの逸話から、現代では「子どもたちにプレゼントを渡す日」になった。サンタクロースに似た風習だが、一部地域では、クリスマス以上に重んじられている<ref>{{Cite web |url=https://transit.ne.jp/2022/12/001962.html |title=#今日は何の日? 聖ニコラウスの日! 12月6日 |access-date=6 Dec 2023 |publisher=euphoria-factory |website=TRANSIT |date=6 Dec 2022}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1112/24/news002.html |title=ちょ、ちょっと怖いよ……海外で行っている「聖ニコラウスの日」 |access-date=6 Dec 2023 |publisher=アイティメディア株式会社 |date=24 Dec 2011 |website=ITmediaビジネスONLiNE}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1206|date=Jul 2023}} * [[1945年]](照和20年) - 日本本土にドイツ第3帝国超重爆撃機「ヨルムンガンド」が来襲するも、日本側の迎撃機によりこれをほぼ殲滅。([[荒巻義雄]]原作『[[紺碧の艦隊]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1988年]] - 鳴滝風香、漫画・アニメ『[[魔法先生ネギま!]]』に登場するキャラクター<ref name="Negima">{{Cite book|和書|author=赤松健|authorlink=赤松健|title=魔法先生ネギま!|volume=2巻|publisher=[[講談社]]|year=2003|page=118|isbn=978-4-06-363276-7}}</ref> * 1988年 - 鳴滝史伽、漫画・アニメ『魔法先生ネギま!』に登場するキャラクター<ref name="Negima"/> * 生年不明 - 椎名真昼、小説・アニメ『[[お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件]]』のヒロイン<ref>{{Twitter status|tenshisama_pr|1600098150068338689}}</ref> * 生年不明 - アルマ、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=[[集英社]]|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|page=158|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref> * 生年不明 - フィンランド(ティノ・ヴァイナマイネン)、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=AXIS POWERSヘタリア2|date=2008-12-31|publisher=[[幻冬舎]]|page=19|author=[[日丸屋秀和]]|isbn=978-4-344-81514-8}}</ref> * 生年不明 - [[りぶねす#西条飛鳥|西条飛鳥]]、漫画『[[りぶねす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=堂本裕貴|authorlink=堂本裕貴|year=2015|title=りぶねす|volume=3巻|page=138|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社コミックス]]|isbn=978-4-06-395542-2}}</ref> * 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#朝宮龍斗|朝宮龍斗]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=松江名俊|authorlink=松江名俊|year=2014|title=史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書|page=132|publisher=[[小学館]]|series=[[少年サンデーコミックス]]|isbn=978-4-09-125016-2}}</ref> * 生年不明 - 飯島ゆん、漫画・アニメ『[[NEW GAME!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=『NEW GAME!』 |url=http://newgame-anime.com/character/ |title=CHARACTER 飯島ゆん |accessdate=19 Jul 2023 |publisher=[[得能正太郎]]・[[芳文社]]/NEW GAME!製作委員会}}</ref> * 生年不明 - ツバキ、漫画・アニメ『[[ラピスリライツ 〜この世界のアイドルは魔法が使える〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|lapisrelights|1467509068503867396}}</ref> * 生年不明 - 原田千絵、アニメ『[[舞-HiME]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sunrise-inc.co.jp/my-hime/web/character/chara/chie.html |title=原田千絵 |access-date= 19 Jul 2023 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]] |work=『[舞-HiME] 風華学園』}}</ref> * 生年不明 - 澤梓、アニメ・ゲーム『[[ガールズ&パンツァー|ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan|1599780644732764164}}</ref> * 生年不明 - 上井つる公、アニメ『[[あはれ!名作くん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aware_meisaku|1467692627193909248}}</ref> * 生年不明 - 牧穂乃果、アニメ『[[キズナイーバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kiznaiver.jp/character/maki.html |title=牧穂乃香 |access-date= 19 Jul 2023 |publisher=[[トリガー (アニメ制作会社)|TRIGGER]]・[[岡田麿里]]/キズナイーバー製作委員会 |work=「キズナイーバー」}}</ref> * 生年不明 - 内田まゆみ、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.hai-furi.com/character/03_03/ |title=内田 まゆみ |access-date=19 Jul 2023 |publisher=AAS/海上安全整備局 AAS/新海上安全整備局 |work=『ハイスクールフリート』}}</ref> * 生年不明 - 天野美汐、ゲーム『[[Kanon (ゲーム)|Kanon]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://key.visualarts.gr.jp/product/kanon/character/ |title=Character 天野 美汐<あまの みしお> |access-date= 19 Jul 2023 |publisher= [[Key (ゲームブランド)|Key]] |work=『Kanon』}}</ref> * 生年不明 - アイシア、ゲーム『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://circus-co.jp/product/dc12-p/dc2_heroine_details.html#ais |title=アイシア |access-date= 19 Jul 2023 |publisher= [[CIRCUS (ブランド)|CIRCUS]] |work=『D.C.I&II P.S.P. ~ダ・カーポ I&II~ プラスシチュエーション』}}</ref> * 生年不明 - 亥清悠、ゲーム『[[アイドリッシュセブン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|id7mng_ogami|1467509174942965760}}</ref> * 生年不明 - 大咲みよ、ゲーム『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/osaki |publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]] |title=大咲 みよ |accessdate= 19 Jul 2023 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref> * 生年不明 - 月城愛弓、ゲーム・アニメ『[[アイカツプラネット!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aikatsu_dcd|1467727472133545984}}</ref> * 生年不明 - ミア・テイラー、メディアミックス『[[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://lovelive-as.bushimo.jp/member/mia/ |title=ミア・テイラー |access-date=19 Jul 2023 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]] [[ブシロード|bushiroad]] |work=『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』}}</ref> * 生年不明 - 赤崎こころ、メディアミックス『[[IDOLY PRIDE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=赤崎こころ |url=https://idolypride.jp/character/kokoro-akazaki/ |accessdate= 19 Jul 2023 |publisher=Project IDOLY PRIDE |work=『IDOLY PRIDE』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|6 December}} {{新暦365日|12|5|12|7|[[11月6日]]|[[1月6日]]|[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]|1206|12|06}} {{1年の月と日}}
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2チャンネル
2チャンネル(英語:2 (two) channel/2ch、にチャンネル、ツーチャンネル)
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2チャンネル NHK教育テレビジョンの全国共通のリモコン番号。 2ちゃんねる - インターネット上の電子掲示板。 2ちゃんねる (2ch.net) - 1999年に西村博之によって開設されたインターネット上の電子掲示板。2017年10月1日に「5ちゃんねる」に改名。 2ちゃんねる (2ch.sc) - 2014年4月に西村博之によって開設されたインターネット上の電子掲示板。 おーぷん2ちゃんねる - 2012年6月開設のインターネット上の電子掲示板。2ちゃんねるのパロディ掲示板として開設され、本家とは異なる独自の発展を遂げる。 ステレオ - ステレオの一種である2chステレオのこと。
'''2チャンネル'''([[英語]]:2 (two) channel/2ch、にチャンネル、ツーチャンネル) * [[NHK教育テレビジョン]]の全国共通のリモコン番号<ref>{{Cite web|和書|title=NHKのリモコン番号は全国共通|url=https://web.archive.org/web/20201206110913/https://www.nhk.or.jp/info/digital/broadcast/remote.html|website=www.nhk.or.jp|accessdate=2020-11-24}}</ref>。 * 2ちゃんねる - インターネット上の電子掲示板。 ** [[2ちゃんねる]] (2ch.net) - 1999年に[[西村博之]]によって開設されたインターネット上の電子掲示板。2017年10月1日に「5ちゃんねる」に改名。 ** [[2ちゃんねる (2ch.sc)]] - 2014年4月に西村博之によって開設されたインターネット上の電子掲示板。 ** [[おーぷん2ちゃんねる]] - [[2012年]][[6月]]開設のインターネット上の電子掲示板。2ちゃんねるのパロディ掲示板として開設され、本家とは異なる独自の発展を遂げる。 * [[ステレオ]] - ステレオの一種である2chステレオのこと。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{Aimai}} {{デフォルトソート:2ちやんねる}}
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1877年
1877年(1877 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。明治10年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1877年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。明治10年。
{{年代ナビ|1877}} {{year-definition|1877}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[丁丑]] * [[日本]](月日は一致) ** [[明治]]10年 ** [[皇紀]]2537年 * [[清]]:[[光緒]]2年11月17日 - 光緒3年11月27日 * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]14年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4210年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[嗣徳]]29年11月17日 - 嗣徳30年11月27日 * [[仏滅紀元]]:2419年 - 2420年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1293年12月15日 - 1294年12月25日 * [[ユダヤ暦]]:5637年4月16日 - 5638年4月25日 * [[修正ユリウス日]](MJD):6620 - 6984 * [[リリウス日]](LD):107461 - 107825 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1877}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - 英[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王が[[インド皇帝|インド女帝]]に即位 * [[1月29日]] - 米国議会が[[1876年アメリカ合衆国大統領選挙#選挙人論争|大統領選問題]]解決のため選挙委員会を設置 * [[1月30日]] - [[オランダ]]沿岸部が暴風雨により洪水 === 2月 === * [[2月6日]] - [[東海道本線]]大阪 - 京都間開通開業 * [[2月15日]] - [[西南戦争]]( - [[9月24日]]) * [[2月19日]] - 日本で毒薬劇薬取締規則施行 * [[2月20日]] - [[インターナショナル・アソシエーション (野球)|インターナショナル・アソシエーション]]創設(最古の[[マイナーリーグ]]) * [[2月27日]] - 米選挙委員会が[[ラザフォード・ヘイズ]]の大統領選勝利を決定 === 3月 === * [[3月4日]] ** [[西南戦争]]: 田原坂の戦い( - 3月20日) ** [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]バレエ「[[白鳥の湖]]」初演([[ボリショイ劇場]]) ** [[ラザフォード・ヘイズ]]が米大統領に就任 * [[3月18日]] - 米ヘイズ大統領が[[フレデリック・ダグラス]]をワシントンの[[連邦保安官]]に任命 * [[3月24日]] - [[團團珍聞]]創刊 === 4月 === * [[4月12日]] ** [[東京大学]](旧制)設立([[開成学校]]と[[東京医学校]]を合併、近代的な高等教育機関として日本初の大学) ** 英国が[[トランスヴァール共和国|トランスヴァール]]を併合 * [[4月24日]] - [[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]: [[ロシア帝国]]が[[オスマン帝国]]に宣戦布告 === 5月 === * [[5月1日]] - 博愛社(後の[[日本赤十字社]])設立 * [[5月21日]] - [[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]において自治公国[[ルーマニア公国]]が[[オスマン帝国]]からの完全独立を宣言(承認[[1878年]]) * [[クラーク博士]]離日 === 6月 === * [[6月1日]] - [[米国芸術家協会]]([[:en:Society of American Artists|Society of American Artists]])創立 * [[6月19日]] - [[エドワード・S・モース]]が[[大森貝塚]]を発見 * [[6月26日]] - [[エクアドル]]で[[コトパクシ山]]が噴火(死者千名) * [[6月29日]] - 日本が[[万国郵便連合]]に加盟<!-- 2月19日説もあり? --> === 7月 === * [[7月9日]] - 第1回[[ウィンブルドン選手権]]( - 7月19日) * [[7月14日]] - 米国で[[1877年の鉄道大ストライキ|大規模鉄道ストライキ]] * [[7月19日]] - [[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]: [[プレヴェン包囲戦]]([[:en:Siege of Pleven|Siege of Pleven]])始まる( - 12月10日) === 8月 === * [[8月12日]] - [[アサフ・ホール]]が火星の衛星[[ダイモス (衛星)|ダイモス]]を発見 * [[8月18日]] - アサフ・ホールが火星の衛星[[フォボス (衛星)|フォボス]]を発見 * [[8月21日]] - 第1回[[内国勧業博覧会]]開催([[上野恩賜公園|上野公園]] - 11月30日) === 9月 === *[[9月16日]] - モースが、初めての大森貝塚の調査を学生たちと開始した。 *[[9月24日]] - 西南戦争で[[城山の戦い]]が起こった。 === 10月 === * [[10月1日]] - [[東海道本線|東海道線]][[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|住吉駅]]-[[西ノ宮駅]]間で列車が正面衝突し、乗務員3人が死亡。[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#東海道線西ノ宮列車正面衝突事故 |日本初の鉄道死亡事故]]。 * [[10月8日]] - [[東京一致神学校]](後の[[明治学院大学]])開校 * [[10月9日]] - [[米国人道協会]]([[:en:American Humane Association|American Humane Association]])創立 * [[10月10日]]-[[三島中洲]]が漢学塾[[二松學舍]]を創立 * [[10月17日]] - [[学習院]]開業式 * 日本各地で[[コレラ]]が流行し始める([[1879年]]まで) === 11月 === * [[11月13日]] - 西南戦役戦死者招魂祭([[招魂社]]) * [[11月29日]] - [[トーマス・エジソン]]が手回し[[蓄音機]]を実演 === 12月 === * [[12月2日]] - [[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]歌劇「[[サムソンとデリラ (オペラ)|サムソンとデリラ]]」初演([[ヴァイマル]]) * [[12月6日]] - [[ワシントン・ポスト]]創刊 * 12月6日 - トーマス・エジソンが、自身が発明した蓄音機で初めて人の声を録音する=エジソンが蓄音機を完成する * [[12月16日]] - [[アントン・ブルックナー|ブルックナー]][[交響曲第3番 (ブルックナー)|交響曲第3番]]初演([[ウィーン]]) * [[12月28日]] - 一円[[国立銀行紙幣|紙幣]]発行(不換紙幣)  * [[12月30日]] - [[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]][[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]]初演([[ウィーン]]) * [[12月]] - 大森貝塚遺物の天覧が実現 === 不明 === * [[日本初]]の[[海洋生物学]] - [[発祥]]の地は[[神奈川県]][[藤沢市]]にある[[湘南]]の[[江の島]] == 誕生 == {{see also|Category:1877年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月20日]] - [[レーモン・ルーセル]]、[[小説家]]・[[詩人]](+ [[1933年]]) * [[2月25日]] - [[ノルベルト・ヨークル]]、[[アルバニア語]]学者(+ [[1942年]]) * [[3月1日]] - [[中田薫 (法学者)|中田薫]]、[[法学者]](+ [[1967年]]) * [[3月6日]] - [[ハロルド・E・パーマー]]、言語教育・[[音声学]]者(+ [[1949年]]) * [[3月11日]] - [[モーリス・アルブヴァクス]]、[[社会学者]](+ [[1945年]]) * [[3月18日]] - [[エドガー・ケイシー]]、予言者(+ [[1945年]]) * [[4月5日]] - [[ウォルター・S・サットン]]、[[生物学者]]・[[医学者]](+ [[1916年]]) * [[4月15日]] - [[辻善之助]]、歴史学者(+ [[1955年]]) * [[4月15日]] - [[エド・アッバティッチオ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1957年]]) * [[4月17日]] - [[松平恒雄]]、[[外交官]]・[[政治家]](+ [[1949年]]) * [[5月19日]] - [[薄田泣菫]]、詩人(+ [[1945年]]) * [[5月26日]] - [[荒木貞夫]]、陸軍軍人・政治家(+ [[1966年]]) * [[5月26日]] - [[イサドラ・ダンカン]]、舞踊家(+ [[1927年]]) * [[6月3日]] - [[ラウル・デュフィ]]、[[画家]](+ [[1953年]]) * [[6月8日]] - [[窪田空穂]]、歌人・国文学者(+ [[1967年]]) * [[6月18日]] - [[島田俊雄]]、政治家・第36代[[衆議院議長]](+ [[1947年]]) * [[6月19日]] - [[秋山愛二郎]]、陸軍軍人(+ 没年不詳) * 6月18日 - [[ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ]]、[[画家]]・[[イラストレーター]](+ [[1960年]]) * [[6月30日]] - [[東くめ]]、[[童謡]][[作詞家]](+ [[1969年]]) * [[7月2日]] - [[ヘルマン・ヘッセ]]、作家(+ 1962年) * [[7月12日]] - [[暁烏敏]]、[[真宗大谷派]]の[[僧侶]](+ [[1954年]]) * [[7月21日]] - [[波多野精一]]、[[哲学者]](+ [[1950年]]) * [[7月26日]] - [[ジェシー・リバモア]]、[[投機家]](+ [[1940年]]) * [[8月7日]] - [[ウルリッヒ・サルコウ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1949年]]) * [[8月10日]] - [[フランク・マーシャル (チェスプレーヤー)|フランク・マーシャル]]、[[チェス]]プレーヤー(+ [[1944年]]) * [[8月15日]] - [[太刀山峯右エ門]]、大相撲第22代横綱(+ [[1941年]]) * [[8月27日]] - [[チャールズ・ロールズ]]、[[ロールス・ロイス]]共同創業者(+ [[1910年]]) * [[8月28日]] - [[池田仲博]]、華族、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、陸軍軍人(+ [[1948年]]) * [[9月2日]] - [[フレデリック・ソディ]]、[[化学者]](+ [[1956年]]) * [[9月3日]] - [[ジョージ・ストーン (外野手)|ジョージ・ストーン]]、メジャーリーガー(+ [[1945年]]) * [[9月6日]] - [[山本嘉一]]、[[俳優]](+ [[1939年]]) * [[9月9日]] - [[フランク・チャンス]]、メジャーリーガー(+ [[1924年]]) * [[9月11日]] - [[ジェームズ・ジーンズ]]、[[物理学者]]・[[天文学者の一覧|天文学者]]・[[数学者]](+ [[1946年]]) * [[9月13日]] - [[ヴィルヘルム・フィルヒナー]]、[[探検家]](+ [[1957年]]) * [[9月15日]] - [[山崎今朝弥]]、[[弁護士]]・[[社会主義|社会主義者]](+ [[1954年]]) * [[9月26日]] - [[アルフレッド・コルトー]]、[[ピアニスト]](+ [[1962年]]) * [[10月21日]] - [[オズワルド・アベリー]]、[[医師]](+ [[1955年]]) * [[11月9日]] - 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[[木戸孝允]]、幕末の志士・政治家(* [[1833年]]) * [[6月3日]] - [[ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル]]、[[ケッヘル番号]]創始者(* [[1800年]]) * 6月3日 - [[ゾフィー・フォン・ヴュルテンベルク]]、[[ウィレム3世 (オランダ王)|オランダ王ヴィレム3世]]の妃(* [[1818年]]) * [[6月13日]] - [[ルートヴィヒ3世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ3世]]、第3代ヘッセン大公(* [[1806年]]) * [[6月26日]] - [[山田方谷]]、[[儒学者]]・[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]士(* [[1805年]]) * [[8月2日]] - [[池田慶徳]]、[[因幡国|因幡]][[鳥取藩]]第12代藩主(* [[1837年]]) * [[8月24日]] - [[小林虎三郎]]、[[越後国|越後]][[越後長岡藩|長岡藩]]大参事(* [[1828年]]) * [[9月2日]] - [[和宮親子内親王]]、徳川家第14代将軍・[[徳川家茂|家茂]]の妻(* [[1846年]]) * [[9月3日]] - [[アドルフ・ティエール]]、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]](* [[1797年]]) * [[9月5日]] - [[クレイジー・ホース]]、北米[[インディアン]][[スー族]]酋長(* [[1849年]]) * [[9月12日]] - [[ユリウス・リーツ]]<ref>{{cite journal|title=Dr. Julius Rietz.|journal=Dwight's Journal of Music: A Paper of Art and Literature|pages=113|date=October 27, 1877|volume=37|issue=15|last=Dwight|first=John Sullivan |url=https://books.google.co.jp/books?id=anE_AAAAMAAJ&pg=PA113&dq=%22julius+rietz%22+dwight+john&ei=pk8RR5ySH4P06wLBq-XQBw&redir_esc=y&hl=ja}}(『[[ミュージカル・タイムズ|ロンドン・ミュージカル・タイムズ]]』誌の訃報欄からの抜粋)</ref>、[[指揮者]]・[[チェリスト]]・[[作曲家]](* [[1812年]]) * [[9月17日]] - [[ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット]]、発明家・[[写真家]](* [[1800年]]) * [[9月23日]] - [[ユルバン・ルヴェリエ]]、天文学者(* [[1811年]]) * [[9月24日]] - [[西郷隆盛]]、明治維新の元勲(* [[1828年]]) * 9月24日 - [[桐野利秋]]、幕末の志士(* [[1838年]]) * 9月24日 - [[別府晋介]]、西郷軍独立大隊連合指揮長(* [[1847年]]) * 9月24日 - [[島津啓次郎]]、西郷軍佐土原隊隊長(* [[1856年]]) * [[9月30日]] - [[大山綱良]]、[[鹿児島県]][[県令]](* [[1825年]]) * [[10月2日]] - [[ルートヴィヒ・カール・ゲオルク・プファイファー]]、[[医師]]・[[植物学者]]・貝類学者(* [[1805年]]) * [[11月1日]] - [[オリヴァー・ハザード・ペリー・スロック・モートン]]、第14代[[インディアナ州知事]](* [[1823年]]) * [[11月8日]] - [[カレル・サビナ]]、作家・ジャーナリスト(*[[1813年]]) * [[12月30日]] - [[松平頼胤]]、第10代[[高松藩|高松藩主]](* [[1811年]]) * [[12月31日]] - [[ギュスターヴ・クールベ]]、[[画家]](* [[1819年]]) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1877|date=2011年7月}} * 年月不明 - [[レイジレーサー]]に登場する架空の自動車メーカー、アージュ社の創始者であるルイ・アージュが誕生した。 * 2月(日は不明) - [[三浦綾子]]の長編小説『[[塩狩峠 (小説)|塩狩峠]]』の架空な登場人物である、主人公・永野信夫が誕生した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1877}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1877ねん}} [[Category:1877年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1877%E5%B9%B4
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ラオス
ラオス人民民主共和国(ラオスじんみんみんしゅきょうわこく、ラーオ語: ສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ、英語: Lao People's Democratic Republic)、通称ラオスは、東南アジアのインドシナ半島に位置する共和制国家。ASEAN加盟国、フランコフォニー国際機関参加国である。通貨はキープ、人口約733万人、首都はヴィエンチャン。 ASEAN加盟10カ国中、唯一の内陸国。面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、西はミャンマーと国境を接する。計画経済から社会主義市場経済に移行したが、ラオス人民革命党による一党独裁が続いている。 1353年にラオ人最初の統一国家であるランサン王国が成立。18世紀初めに3王国に分裂。1770年代末に3王国はタイに支配されたが、1893年にフランスがタイにラオスへの宗主権を放棄させて植民地化し、1899年にフランス領インドシナ(仏印)に編入された。この時に現在の領域がほぼ定まった。第二次世界大戦中の日本軍による仏印進駐や第一次インドシナ戦争などを経てインドシナ半島におけるフランス植民地体制が崩壊過程に入る中で1949年にフランス連合内でラオス王国として独立、ついで1953年に完全独立した。その後パテト・ラオなどの左派と王政を支持する右派、中立派に分かれてラオス内戦が発生したが、ベトナム戦争後に右派が没落し、1975年に王政は廃され、社会主義体制のラオス人民民主共和国が成立した。 その政治体制はラオス人民革命党(パテト・ラオの政党)による一党独裁体制である。『エコノミスト』誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は世界155位と下位で、「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも172位と下位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。 人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、人民の基本的自由が著しく制約されていること、労働権が不在であること、薬物使用の疑いがある個人を起訴しないまま人権侵害が横行する薬物常用者拘留センターに拘禁していること、活動家を強制失踪させていることなどを問題視している。 経済面では1975年以降、社会主義計画経済のもとにあったが、ソビエト連邦のペレストロイカやベトナムのドイモイの影響を受けて1986年から「新思考」(チンタナカーン・マイ)政策と呼ぶ国営企業の独立採算制、民営企業の復活など市場経済化への経済改革を行っている。しかし経済状態は厳しく、国連が定める世界最貧国の一つである。また、中華人民共和国が主導する経済圏「一帯一路」に参加しており、中国ラオス鉄道に代表されるインフラ建設などが進んでいるが、債務を返済できなくなる「債務のワナ」に陥ることも懸念されている。 外交面では王政時代の1955年に国連に加盟し、1997年に東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟。1975年に社会主義体制になって以降ベトナムとの外交を軸にしてきたが、2009年以降中華人民共和国との外交を強化している。 軍事面では徴兵制度が敷かれており、ラオス人民軍の兵力は2.9万人(2020年)ほどであり、軍事費は日本円にて約30億円(2016年)ほどである。正規軍の他にも、地方防衛用の民兵である自衛隊が10万人いると言われる。 人口は、2018年のラオス計画投資省の発表によれば701万人。住民はタイ諸族の一つであるラオ人が半数以上を占め、最も多いが、他にも少数民族が多数暮らしており、ベトナム人や中国人なども住んでいる。 地理としてはASEAN加盟10か国中唯一の内陸国で、面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。その間をメコン川とその支流が流れている。国土は南北に細長く、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、北西はミャンマーと国境を接する。 正式名称はラーオ語でສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ,(ラテン文字転写: Sathalanalat Paxathipatai Paxaxon Lao 発音 [sǎː.tháː.laʔ.naʔ.lat páʔ.sáː.thiʔ.páʔ.tàj páʔ.sáː.són.láːw] 読み: サーターラナラット・パサーティパタイ・パサーソン・ラーオ)。サーターラナラットが「共和国」、パサーティパタイが「民主主義」、パサーソンが「人民」、ラーオが「ラーオ族」を意味する。 公式の英語表記は Lao People's Democratic Republic(ラウ・ピープルズ・デモクラティック・リパブリック)。ビザなどでは「Lao P.D.R」と略される。通称は Laos(ラウス、または、ラオス)。 日本語表記はラオス人民民主共和国。通称はラオス。日本での漢字表記は羅宇、老檛。一方、中国国内では「老撾(簡体字: 老挝, 拼音: Lǎowō)」と表記し「老」と省略するが、台湾、香港、マレーシア、シンガポールでは「寮國(簡体字: 寮国, 拼音: Liáoguó)」と称し、「寮」と省略する。ラオス華人の間では「寮」が広く使われており、ヴィエンチャン市内には中国語学校の名門「寮都学校」がある。また、日寮や寮華などの略称を冠する団体・企業は、ラオス国内外を問わず多数存在する。 ラオスの歴史は、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔)の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まる。王国滅亡後の1353年に、ラーオ族による統一王朝ランサン王国がファー・グム王(英語版)により建国。1551年に即位したセタティラート王の時代には、首都をヴィエンチャンに移し、その勢力は現在のタイ北東部やカンボジア北部にまで及んだ。ラーンサーンとは「100万のゾウ」という意味である。昔、ゾウは戦争の際に戦車のように戦象として使われていたので、この国名は国の強大さを示し、近隣諸国を警戒させた。 17世紀には西欧との交易も開始し、ヴィエンチャンは東南アジアでも有数の繁栄を誇った。しかし18世紀にはヴィエンチャン王国、ルアンパバーン王国、チャンパーサック王国の3国に分裂。それぞれタイやカンボジアの影響下に置かれ、両国の争いに巻き込まれる形で戦乱が続いた。 19世紀半ばにフランス人がインドシナ半島に進出し始めたころには、ラオスの3国はタイの支配下にあった。が、ラオスの王族はフランスの力を借りて隣国に対抗しようとし、1893年に仏泰戦争が起こる。その結果、ラオスはフランスの保護国となり、1899年にフランス領インドシナに編入された。ルアンパバーン王国は保護国、それ以外の地域は直轄植民地とされた。 第二次世界大戦中は日本が仏ヴィシー政権との協定によりフランス領インドシナを占領した(仏印進駐)。大戦末期の1945年3月には日本がラオスの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、ラオスは1945年4月8日に日本の協力下で、独立を宣言をした。 だが大戦後、フランスは仏領インドシナ連邦を復活させようとしたことが原因で、1946年に第一次インドシナ戦争が勃発。1949年、ラオスはフランス連合内のラオス王国として名目上独立した。 1953年10月22日、フランス・ラオス条約により完全独立を達成した。独立後、ラオスでは右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)によるラオス内戦が長期にわたり続いた。ベトナム戦争にも巻き込まれ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われた。1973年にベトナム戦争の一方の当事者であったアメリカ合衆国がベトナムから撤退。1974年、三派連合によるラオス民族連合政府が成立したが、1975年に南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落すると、同年12月に連合政府が王政の廃止を宣言。社会主義国のラオス人民民主共和国を樹立した。 東西冷戦と中ソ対立という国際情勢下で、ラオス人民民主共和国は内政・外交両面でベトナムと、それを支援するソ連の影響下に置かれた。 憲法の前文で「人民民主主義」を謳い、第3条では「ラオス人民革命党を主軸とする政治制度」と規定されているなど、マルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による社会主義国型の一党制が敷かれている。政府の政策決定は、9人で構成される党の政治局と、49人で構成される党の中央委員会において決定される。特に重要な政策に関しては、さらに大臣の会議で審議される。 国家主席を元首とする社会主義共和制国家であり、国家主席は国民議会で選出され、任期は5年。職務の補佐・代行のために国家副主席がいる。 行政府の長は首相である。国家主席に指名され、国民議会で承認を受ける。任期は5年。副首相が3人。各省大臣、省と同格の機関の長により構成される。首相は、副大臣、県副知事、中央直轄市副市長、郡長を任免する権限を持つ。2006年7月、首相と政府を補佐し、閣議を準備し、政府に資料を提供する機関として、政府書記局が設けられた。 立法府は一院制の国民議会。132議席で、民選、任期5年。休会期間中には国民議会常務委員会が国政監視などの権限を代行する。議席数は、1992年選挙では85、1997年選挙では99、2002年選挙では109と増やされてきた。 2018年12月6日、日本の国際協力機構(JICA)の法整備支援を受けて起案された民法が成立し、2020年に施行した。 ラオスは宗主国であったフランスから民事法制度を継承している。司法権は最高人民法院長官に委ねられている。 最高人民法院長官は常務委員会の勧告に基づき、国会によって選出されることとなっている。 国防の中心はラオス人民軍が担う。他には民兵組織がある。2006年の国防予算は1,330万ドル。徴兵制で陸軍25,600人、空軍3,500人から成る。車輌・航空機などの装備は旧ソ連製のものを多く保有している。歴史的にベトナム人民軍と関係が深いが、近年は中国人民解放軍との交流が活発化してきている。 ラオスは、海と接しない内陸国である。国土の多くが山岳で占められており、隣国に比べて比較的森林資源が多く残っていた地域であるが、急激な森林破壊が問題となっている。国土面積の61%は二次林(2006年)。そして、この森林地帯でも多くの人々が生活している。原生林は、国土面積の6%である。 ビア山(標高2817メートル)が最高峰である。 メコン川周辺には小さく平地が広がっている。メコン川はラオスを貫いて流れており、ミャンマーと、またタイとの国境をなしている。タイとの国境線の3分の2はメコン川である。また、国境として隔てるだけでなく、人や物が行き来する河川舟運にも利用されている。1866年にフランスは、雲南とサイゴンを結ぶ通商路としてメコン川を利用しようと探検隊を派遣した。探検隊は中国まで到達はしたが、カンボジアとラオスとの国境にあるコーンパペンの滝が越えがたかったので、通商路としての可能性は否定された。それでも今日(2000年代)、ヴィエンチャンと雲南・景洪(中国とラオスの国境にある)との間で物産を満載した船が行き来し、大切な交通路となっている。 メコン川の乾季と雨季の水位の差は、ヴィエンチャンで10メートルを超えることもある。乾季の終わりの4月ごろには最低の水位になり、小さな支流では水がほとんどなくなってしまい、メコン川本流でも驚くほど水位が下がってしまう。しかし、5月の雨季とともに水量が増し、8 - 9月には自然堤防を越えるほどの水量になり、低地を水で覆うほどになる。 メコン川は栄養塩類が少ないが、雨季に洪水となる後背地・氾濫原の底土からの栄養塩類を受けられる。そのため藻類やプランクトンなどが多く発生し、草食性・プランクトン食性の魚類の藻場になっている。このようなことから川には魚が多く、周囲の人たちの漁場になっている。 ラオスは森林破壊による環境の悪化が懸念されている国の一つに数え上げられる。 ラオスは熱帯地域の一つであり、モンスーン(季節風)の影響により、同国には明瞭な雨季と乾季がある。気候は基本としてサバナ気候である。 地方に議会を設置しないで、県知事は国家主席が、郡長は首相が、それぞれを任命するという中央集権的地方行政制度をとっている。 首都ヴィエンチャンを含む、広域ヴィエンチャン行政区であるヴィエンチャン都(ナコーンルアン・ヴィエンチャン/Prefecture)と17県(クウェーン/Province)から構成される。以前はサイソムブーン特別区(ケートピセート・サイソムブーン)が治安上の理由から首相府の直轄下に設けられていたが、2006年に廃止された。その後、サイソムブーン特別区は県に昇格して復活した。 ヴィエンチャン都と県の下には100前後の村(バーン)から成る郡(ムアン)がある。ムアンにはラーオ語で「郡」の他に「街」という意味もあり、日本の市町村に相当するものだと考えられる。ヴィエンチャン都を除き、全ての県には県庁所在地となる郡があり、そこが県都とされている。 県都とされる郡の名称は「ポンサーリー郡」や「ルアンナムター郡」のように県の名前と合致する場合、「サイ郡」や「サマッキーサイ郡」のように県の名前とは全く異なる場合があるが、ラオス人の多くは他県のことであれば県の名称=県都(チャンパーサック県など一部例外はあるものの)であり、一般人で県都の名称を全て正確に覚えている人は少ない。 ラオスの首都はヴィエンチャンで、主要都市にルアンパバーン、サワンナケート、パークセー(パクセー)などがある。 都市部以外の地域においては、幹線道路の多くが舗装されていない。 首都ヴィエンチャンにあるワットタイ国際空港には、タイ国際航空や中国南方航空などが国外から乗り入れている。国内の航空会社では、ラオス国営航空がワットタイ国際空港を拠点に国際線と国内線を運航している。過去にはラオス初の民間航空会社としてラオ・セントラル航空も事業に参入していたが、2014年に運航を停止した。 主要産業は、国内総生産(GDP)の34%を占める農業である。 2021年のラオスのGDPは190億ドル。一人当たりのGDPは2,595ドル。 国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている。2018年時点で1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の18.3%。 1975年12月にラオス人民民主共和国が樹立され、急速な社会主義化を行ったものの、タイからの国境封鎖や、1975年と1976年の旱魃などにより、激しいインフレと農産物・日用品の不足を引き起こし、1979年には社会主義建設のスピードが緩和された。 1983年に再び社会主義化を目指すが、ソ連のペレストロイカの動きと呼応して1986年には市場原理の導入、対外経済開放を基本とする新経済メカニズムが導入された。 この間、ソ連やベトナムを中心とする東側諸国からの多大な援助に依存する経済構造であった。そのため、1989年から1991年にかけて東欧諸国で起こった共産政権の瓦解は、ラオスにとっても危機であった。この時期に価格の自由化を行ったことによって、激しいインフレと通貨キープが大幅に下落するなど経済は混乱した。 ラオス政府はIMFのアドバイスの下、経済引き締め政策を実施した。また、西側先進国との関係を改善し、国際機関や西側先進国からの援助が増大した結果、1992年には経済が安定した。 1997年7月に隣国タイで始まったアジア通貨危機はラオスにも大きな影響を与え、キープは対ドルだけでなく、対バーツでも大幅に減価した。 国内ではタイバーツが自国通貨のキープと同じように流通し、バーツ経済圏に取り込まれている。米ドルも通用するので、ホテルやレストランから市場や街の雑貨屋まで、この3つのどの通貨でも支払いができる。中国国境近くでは、人民元も通用する。 1997年にルアン・パバンの町が、2001年にはチャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群がそれぞれ世界遺産に公式登録されたほか、政府が1999年から2000年にかけてをラオス観光年として観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。 観光のほか、国土の約半分を占める森林から得られる木材、ナムグム・ダムを始めとする水力発電の隣国タイへの売電、対外援助などが主な外貨源となっている。この中でも特に水力発電によってラオスは東南アジアのバッテリーと呼ばれている。 21世紀に入り、外国企業の投資促進のため、国内に経済特別区が設けられ、2012年には10か所となった。南部パークセー郡には日系中小企業向けの特区も開設されている。中国やタイなどの賃金水準が上昇する中、安い労働力を求める企業の注目を集めている。海外からの援助や投資により、2008年には7.8%の経済成長を実現している。 とりわけ隣の大国である中国の進出は目覚ましく、官民挙げて中国から業者や労働者がラオスに流入している。2007年には、ヴィエンチャンに中国系の店舗が集まるショッピングモールが出来た。また、首都には中国が建設した公園が完成し、ダム工事など主に日本が行ってきたインフラ整備にも進出している。 2012年の世界貿易機関(WTO)加盟により関税引き下げの動きが進んでおり、また、2015年にはASEAN経済共同体のメンバーとして域内の貿易が自由化することで、物流リンクの拠点としての位置づけを高める政策がとられている。 少ない人口が満遍なく分散して暮らすラオスでは、大部分の人は稲作を基盤とする農業を営んでいる。まず、自給米を確保して余剰分を販売し、現金収入とする。ラオス人の主食はもち米である。自給農業を基盤とした分散型社会である。ラオスでは、毎年約220万 - 250万トンの米が生産されている。雨季には稲作を、乾季には野菜などの栽培を行っている農家が多い。2005年の生産高は、米57万トン、野菜類77.5万トンである。労働人口の約8割が農業に従事しており、GDPは低いが食料は豊富で、飢餓に陥ったり物乞いが増えたりするといった状況にはない。「貧しい国の豊かさ」と言われるゆえんである。 稲作は、平野部で行われる水田水稲作と山地の斜面を利用した焼畑陸稲作とに大きく分けられる。水田は、小規模な井堰で灌漑し、親から子へと相続し、人々はそこに定着している。焼畑は太陽エネルギーと水循環がもたらす森林植生回復力に依存した農業であるため、土地への執着は少なく、集落内外での移住を人々はいとわない。近年は、現金収入を得やすいパラゴムノキの栽培をする地域が現れている。 メコン川流域は降雨量に恵まれて土壌が肥沃なため、葉菜類の栽培も多い。パクセー市郊外のボーラウェン高原は良質なコーヒー、キャベツ、ジャガイモの産地であり、コーヒーはラオス最大の輸出農作物となっている。また、近年まで農薬や肥料の使用がされてこなかったことから、無農薬栽培の作物を育てて輸出する動きもある。 ラオスの山林にはマホガニーやチークなどの木材が豊富だが、19世紀からフランスが徹底的に伐採した。現在ではマツが主に日本に輸出されている。ラオス高地のマツは樹齢数百年という巨大で良質なものが多く、年間3万立方メートルの山林が伐採されて日本へ送られる。2, 3級のクズ材は、ラオス国内とベトナムのバイヤーに売られる。マツとともに常緑森林が根こそぎ伐採されるため、保水機能が大きく損なわれて大きな問題となっている。 ラオスの鉱業資源は未開発な段階にある。例えば、肥料の原料などに利用できるカリ岩塩の大規模な鉱床が発見されており、面積は30kmに及ぶ。スズ鉱床の埋蔵量は100億トンに及ぶと見積もられている。アンチモン、硫黄、金、タングステン、鉄、銅、鉛、マグネシウム、マンガンの鉱床も発見されている。 しかしながら、険しい山脈が縦横に広がる国土、未整備な交通インフラなどのため、2003年時点では、石炭(29万トン)、スズ(300トン)、塩(5000トン)に留まっている。唯一開発が進んでいるのは宝石であり、1991年にはサファイアの生産量が3万5000カラットに達した。 ラオスは落差が大きい河川が多い割には人口が少なく、工業の発展が遅れている。このため水力発電所の建設が相次ぎ、タイなどに電力を輸出している。ただ国内の送電網整備が遅れているため、売り先のタイから電力を輸入する矛盾も抱えている。 内陸国であり、外洋に面した港を持っていない。メコン川は大型船も航行できる川幅はあるが、ラオス南部にコーンパペンの滝群があるため、外海から遡上できない。こうした物流面でのハンディは、外海に面した港湾を持つ周辺諸国との道路・鉄道整備により克服されつつある。このため、賃金上昇や人手不足に直面しているタイに比べて労働力が豊富で人件費が安い「タイ+1(プラスワン)」の対象国として、カンボジアやミャンマーともに注目されている。ただ現状では製造業は発展途上で、市場に並ぶ工業製品の大半はタイ製か中国製である。 かつて近代的な設備を備えた大きな工場は、ビールや清涼飲料水などを生産する国営のメーカー「ビア・ラオ」が目立つ程度であった。ラオスの酒と言えば米を原料とする焼酎ラオ・ラーオがあるが、生産は家内制手工業レベルにとどまる。伝統的な織物も名高いが、多くは農家の女性たちの副業として手作業により作られている。 1986年のソ連のペレストロイカの影響を受け、ラオスでもチンタナカーン・マイ(新思考)と呼ばれる市場経済導入が図られた。これは、中国の改革開放、ベトナムのドイモイ(刷新)と同様の、社会主義体制の中に資本主義のシステムを取り入れようという試みである。共産主義政権樹立以降ほぼ鎖国状態にあったラオスであったが、チンタナカーン・マイ以降自由化と開放が進み、上記の経済の項目にある通り、政府がラオス観光年を設定しプロモーションを行って観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。ルアン・パバンの町とワット・プーなどの2つの世界文化遺産や、ジャール平原、多くの仏教寺院などが年間300万人を超える外国観光客を呼び、外貨獲得の大きな産業となっている。プロモーションのため、日本では2007年9月23日-24日、東京の代々木公園でラオスの魅力を紹介する第1回ラオスフェスティバル2007が開催された。 2021年時点での人口は733万人であり、2000年以降は年10万人ペースで右肩上がりに着実に増加している。 人口密度は、1km辺り24人。ちなみに、ベトナムは256人、タイは132人、中国・雲南省は114人、カンボジアは82人、ミャンマーは74人であり、ラオスは人口が少ないことが分かる。ラオスには、大きい人口を抱える広大な地域がない。たとえばベトナムの紅河デルタ、メコンデルタ、タイのチャオオプタデルタ、ミャンマーのイワラジデルタのような政治・経済の中心地になる地域がない。最大の人口を抱える首都ヴィエンチャンでも人口71万人である。 一番多いのは人口の半分以上を占めるラオ族(ラーオ族)であり、それに50程度の少数民族が続く。しかし、ラオス政府はラオス国籍を持つ者を一様にラオス人として定義しているため、公式には少数民族は存在しない。 1950年以降は次のように大きく3つに分けられており、それぞれの人口比率は60対25対15である。その区分の有効性は疑わしいが、この区分が国民の間に広まっている。 ラオス政府の定義するラオス人は住む地域の高度により、低地ラーオ族(ラーオルム、国民の約7割、ラオス北部の山間盆地)、丘陵地ラーオ族(ラーオトゥン、国民の約2割、山麓部に居住、水田水稲作と焼畑の両者を組み合わせ)、高地ラーオ族(ラーオスーン、国民の約1割、山深くに居住、陸稲・トウモロコシを焼畑で栽培)に分けられる。 実際には、フアパン県にカム族、タイデン族、タイダム族、モン族、青モン族、黒モン族、ヤオ族が、ウドムサイ県にはモン族が、 ポンサーリー県にはアカ族とタイダム族が、ルアンナムター県にはランテン族、黒タイ族、タイルー族、タイダム族、アカ族、イゴー族、ヤオ族、モン族が住んでいる。 このような標高による住み分け分布ができたのは、紀元前からモン・クメール系の人々がこの地域に暮らしていたが、9世紀ごろからタイ系の人々が南下してきたことに端を発する。その後、清代末期の19世紀後半からモン・ミエン系やチベット・ビルマ系の人々が中国南部から移住してきた。漢人の支配・干渉を嫌い移住してきたと言われている。 各民族語が話されているが、公用語に定められているのはラオス語(ラーオ語)である。ラーオ語とタイ語は同一言語に属する個別の地域変種の関係(平たく言えば、ラーオ語とタイ語はそれぞれが互いに方言関係)にあるが、ラオスではタイからの影響力を遮断するため、ラーオ語の独立性を強調する傾向にある。 英語は、ホテルや旅行者向けのレストランなどではほぼ通じる。また、フランス式教育を受けた者や政府幹部、エリートなどにはフランス語も通用する。 ほとんどの女性が夫の姓に改姓する(夫婦同姓)が、改姓しない女性もいる(夫婦別姓)。また、一夫多妻制が事実上公認されている。ラオスでは憲法と家族法では一夫多妻制の法的承認を禁止しており、一夫一婦制がこの国の主要な結婚形態であると規定している。しかし、一夫多妻制自体は違法とされているものの、一部のモン族の間では一夫多妻制が今でも慣習として残っていることから、罰則は軽いものとなっている。 宗教は上座部仏教が60%、アニミズムやその他の宗教が40%であるが、しばしば仏教とアニミズムが混同されて信仰されていることがある。その他ラオス南部ではキリスト教も信仰されている。 19世紀まで続いていたラーンサーン王朝では仏教が国教とされていた。しかし、ラオス人民民主共和国成立後、仏教は特別な保護を受けなくなった。ただし、農村の地域コミュニティーと仏教寺院は密接な関係を保ち続けている。そのため、ラオス人民革命党も「党の理念・思想と一致する」と明言するなど、仏教との関係を意識している。 ラオスの人口の大部分は農村部であることから、衛生への投資が困難となっている。 1990年には、改善された衛生設備を利用できる農村人口が僅か 8% にしか満たなかった。2014年に実施された世界銀行調査のデータによると、ラオスはユニセフとWHOの共同監視プログラムに基づく『水と衛生に関する「ミレニアム開発目標(MDG)」』の目標数値を達成しているが、2018年の時点では、同国人口の内 約190万人が改善された給水を利用できず、240万人が改善された衛生設備を利用できない状態となっている。 黄金の三角地帯の一ヶ所である点から、薬物犯罪(英語版)に絡む問題が根深い面を遺している。 2023年04月17日時点で外務省は、「近年、首都ビエンチャン等の都市部を中心に、ひったくり、強盗、置き引き、侵入盗等の一般犯罪が多発しています。また、日本人が被害者となる空き巣、昏睡強盗、夜道でのひったくり事案も発生しています。また、2022年5月に、新型コロナウイルス防止対策によるラオスの入国制限が大幅に緩和されてから、日本人旅行者が被害者となるひったくりや睡眠薬強盗も発生していますので、注意が必要です。」としている。また、ラオスでは汚職が問題となっており、政府は汚職の抑制に努めて来ているものの、2012年におけるトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)の腐敗認識指数によれば、合計 176ヶ国中160位にランクされている。 ラオス公安省(英語版)が主体となっている。公安省の管轄下にあるラオス国家警察は、かつての王国時代に設立されたラオス王立警察(英語版)が前身となっている。 ラオス政府は、同国の少数民族であるモン族へ対し大量虐殺を行なったとして非難されている実情がある 。 NGOや人権活動家の報告によると、現地では個別の人権侵害事件が多数発生しているという。 一例としては、反体制的な政治的見解を表明したことによる投獄が国際人権団体によって大々的に報道されていた2人の元政府高官の不当な扱いを巡る事件が知られる。この人物らは3名で政府の政策に懸念を表明し、経済・政治改革を主張したとして1990年に逮捕されていた。 なお、元政府高官2人は2004年10月に釈放されているが、彼らと共に有罪判決を受けた3人目の反体制派の人物は1998年に獄中で死亡した。 また、1999年10月時点では、ラオス国内で平和的な経済、政治、社会の変革を求めるポスターを掲示しようとしたとして30人の若者が拘束された。その内5人は逮捕され、後に反逆罪で最長10年の懲役刑を言い渡されている。その後、1人は看守らの暴行により死亡し、1人は釈放された。生き残った3人は2009年10月までに釈放される筈であったが、行方不明の侭となっている。 2017年2月20日、裕福な中国人との偽りの結婚話で騙され、売春をさせられる女子高校生が増加していると地元メディアが報じた。以前より結婚や就職を隠れ蓑にしてタイへ少女を売る被害が報告されていたが、このタイルートに加え、近年は中国ルートが増加していることが人身売買を調査しているNGO団体職員により判明している。被害少女の多くは高校2、3年生が主体で、結婚のために学校を中退する。中国人は首都ヴィエンチャンを含むラオス全土で少女らに声をかけており、ラオス政府も事態を把握している。旧来から存在するタイルートでは役人への賄賂が常習化し、一つのビジネスとなっているが、中国ルートも同様になっている可能性が高い。ラオス国内の人身売買の実態は公式の調査が行われず、正確な被害数すら把握されておらず、人権団体の調査も政府機関の不透明な対応で妨害されがちであるという。 ラオスの新聞は、英語新聞『ヴィエンチャン・タイムズ』(Vientiane Times) およびフランス語新聞『ル・レノヴァテュール』(Le Rénovateur) を含めて全て政府機関発行である。更に、公認通信社カオサン・パテート・ラオ (Khaosan Pathet Lao, Lao News Agency) が同名の英仏語版新聞を発行している。主なラーオ語新聞としては『パサション』(Pasaxon)、『ヴィエンチャン・マイ』(Vientiane Mai Newspaper) がある。 ラオスでは、ラオス国営ラジオ (Lao National Radio, LNR) の放送が中波、短波、FMにて行われている。テレビは、ラオス国営テレビ (Lao National Television, LNTV) が2つのチャンネルで放送されている。また、タイのテレビ放送を視聴している人も多い。 一方で国境なき記者団が発表している世界報道自由度ランキングの2009年版では、中華人民共和国に次いで低い169位に選ばれている。 メッセージのやり取りにはWhatsAppやLINEといった外国製アプリの利用者が多いが、ラオスの通信会社シリチャルーンサイと政府が共同開発した「LoudChat」(ラウドチャット)のサービスが2022年4月に始まった。言論への監視・統制が行なわれているが、SNSでは政府批判が投稿されることもある。 ラオスの音楽文化は、カンボジア音楽やベトナム音楽など近隣諸国の音楽文化と多くの類似点が存在する。特にタイ音楽との類似点が多いことが知られる。 一般的な伝統衣装にはシュアウト・ラオ(英語版)と呼ばれるものが存在する。シュアウト・ラオはラーオ語で「ラオスの衣装」を意味する、文字通りの名称である。他にはスアパット(英語版)という漢服に似通った形状の衣装があり、この衣装は長袖の仕様となっている。 ラオスを代表する歴史的建築物には仏教寺院であるワット・シェントーンが知られている。 ラオス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。 ラオスには「ムエラオ(フランス語版、英語版)」と呼ばれる伝統的な格闘技が存在する。 ムエラオはタイのムエタイやカンボジアのクン・クメールの原型とされている。 ラオス国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1990年にサッカーリーグのラオス・リーグが創設され、2013年にプロ化された。ペプシコーラがリーグに協賛しており、「ペプシ・ラオ・リーグ1」と呼ばれている。ラオスサッカー連盟(LFF)によって構成されるサッカーラオス代表は、これまでFIFAワールドカップやAFCアジアカップには未出場である。東南アジアサッカー選手権には12度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ラオス人民民主共和国(ラオスじんみんみんしゅきょうわこく、ラーオ語: ສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ、英語: Lao People's Democratic Republic)、通称ラオスは、東南アジアのインドシナ半島に位置する共和制国家。ASEAN加盟国、フランコフォニー国際機関参加国である。通貨はキープ、人口約733万人、首都はヴィエンチャン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ASEAN加盟10カ国中、唯一の内陸国。面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、西はミャンマーと国境を接する。計画経済から社会主義市場経済に移行したが、ラオス人民革命党による一党独裁が続いている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1353年にラオ人最初の統一国家であるランサン王国が成立。18世紀初めに3王国に分裂。1770年代末に3王国はタイに支配されたが、1893年にフランスがタイにラオスへの宗主権を放棄させて植民地化し、1899年にフランス領インドシナ(仏印)に編入された。この時に現在の領域がほぼ定まった。第二次世界大戦中の日本軍による仏印進駐や第一次インドシナ戦争などを経てインドシナ半島におけるフランス植民地体制が崩壊過程に入る中で1949年にフランス連合内でラオス王国として独立、ついで1953年に完全独立した。その後パテト・ラオなどの左派と王政を支持する右派、中立派に分かれてラオス内戦が発生したが、ベトナム戦争後に右派が没落し、1975年に王政は廃され、社会主義体制のラオス人民民主共和国が成立した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その政治体制はラオス人民革命党(パテト・ラオの政党)による一党独裁体制である。『エコノミスト』誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は世界155位と下位で、「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも172位と下位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、人民の基本的自由が著しく制約されていること、労働権が不在であること、薬物使用の疑いがある個人を起訴しないまま人権侵害が横行する薬物常用者拘留センターに拘禁していること、活動家を強制失踪させていることなどを問題視している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "経済面では1975年以降、社会主義計画経済のもとにあったが、ソビエト連邦のペレストロイカやベトナムのドイモイの影響を受けて1986年から「新思考」(チンタナカーン・マイ)政策と呼ぶ国営企業の独立採算制、民営企業の復活など市場経済化への経済改革を行っている。しかし経済状態は厳しく、国連が定める世界最貧国の一つである。また、中華人民共和国が主導する経済圏「一帯一路」に参加しており、中国ラオス鉄道に代表されるインフラ建設などが進んでいるが、債務を返済できなくなる「債務のワナ」に陥ることも懸念されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "外交面では王政時代の1955年に国連に加盟し、1997年に東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟。1975年に社会主義体制になって以降ベトナムとの外交を軸にしてきたが、2009年以降中華人民共和国との外交を強化している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "軍事面では徴兵制度が敷かれており、ラオス人民軍の兵力は2.9万人(2020年)ほどであり、軍事費は日本円にて約30億円(2016年)ほどである。正規軍の他にも、地方防衛用の民兵である自衛隊が10万人いると言われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "人口は、2018年のラオス計画投資省の発表によれば701万人。住民はタイ諸族の一つであるラオ人が半数以上を占め、最も多いが、他にも少数民族が多数暮らしており、ベトナム人や中国人なども住んでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "地理としてはASEAN加盟10か国中唯一の内陸国で、面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。その間をメコン川とその支流が流れている。国土は南北に細長く、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、北西はミャンマーと国境を接する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "正式名称はラーオ語でສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ,(ラテン文字転写: Sathalanalat Paxathipatai Paxaxon Lao 発音 [sǎː.tháː.laʔ.naʔ.lat páʔ.sáː.thiʔ.páʔ.tàj páʔ.sáː.són.láːw] 読み: サーターラナラット・パサーティパタイ・パサーソン・ラーオ)。サーターラナラットが「共和国」、パサーティパタイが「民主主義」、パサーソンが「人民」、ラーオが「ラーオ族」を意味する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は Lao People's Democratic Republic(ラウ・ピープルズ・デモクラティック・リパブリック)。ビザなどでは「Lao P.D.R」と略される。通称は Laos(ラウス、または、ラオス)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本語表記はラオス人民民主共和国。通称はラオス。日本での漢字表記は羅宇、老檛。一方、中国国内では「老撾(簡体字: 老挝, 拼音: Lǎowō)」と表記し「老」と省略するが、台湾、香港、マレーシア、シンガポールでは「寮國(簡体字: 寮国, 拼音: Liáoguó)」と称し、「寮」と省略する。ラオス華人の間では「寮」が広く使われており、ヴィエンチャン市内には中国語学校の名門「寮都学校」がある。また、日寮や寮華などの略称を冠する団体・企業は、ラオス国内外を問わず多数存在する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ラオスの歴史は、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔)の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まる。王国滅亡後の1353年に、ラーオ族による統一王朝ランサン王国がファー・グム王(英語版)により建国。1551年に即位したセタティラート王の時代には、首都をヴィエンチャンに移し、その勢力は現在のタイ北東部やカンボジア北部にまで及んだ。ラーンサーンとは「100万のゾウ」という意味である。昔、ゾウは戦争の際に戦車のように戦象として使われていたので、この国名は国の強大さを示し、近隣諸国を警戒させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "17世紀には西欧との交易も開始し、ヴィエンチャンは東南アジアでも有数の繁栄を誇った。しかし18世紀にはヴィエンチャン王国、ルアンパバーン王国、チャンパーサック王国の3国に分裂。それぞれタイやカンボジアの影響下に置かれ、両国の争いに巻き込まれる形で戦乱が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "19世紀半ばにフランス人がインドシナ半島に進出し始めたころには、ラオスの3国はタイの支配下にあった。が、ラオスの王族はフランスの力を借りて隣国に対抗しようとし、1893年に仏泰戦争が起こる。その結果、ラオスはフランスの保護国となり、1899年にフランス領インドシナに編入された。ルアンパバーン王国は保護国、それ以外の地域は直轄植民地とされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中は日本が仏ヴィシー政権との協定によりフランス領インドシナを占領した(仏印進駐)。大戦末期の1945年3月には日本がラオスの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、ラオスは1945年4月8日に日本の協力下で、独立を宣言をした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "だが大戦後、フランスは仏領インドシナ連邦を復活させようとしたことが原因で、1946年に第一次インドシナ戦争が勃発。1949年、ラオスはフランス連合内のラオス王国として名目上独立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1953年10月22日、フランス・ラオス条約により完全独立を達成した。独立後、ラオスでは右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)によるラオス内戦が長期にわたり続いた。ベトナム戦争にも巻き込まれ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われた。1973年にベトナム戦争の一方の当事者であったアメリカ合衆国がベトナムから撤退。1974年、三派連合によるラオス民族連合政府が成立したが、1975年に南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落すると、同年12月に連合政府が王政の廃止を宣言。社会主義国のラオス人民民主共和国を樹立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "東西冷戦と中ソ対立という国際情勢下で、ラオス人民民主共和国は内政・外交両面でベトナムと、それを支援するソ連の影響下に置かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "憲法の前文で「人民民主主義」を謳い、第3条では「ラオス人民革命党を主軸とする政治制度」と規定されているなど、マルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による社会主義国型の一党制が敷かれている。政府の政策決定は、9人で構成される党の政治局と、49人で構成される党の中央委員会において決定される。特に重要な政策に関しては、さらに大臣の会議で審議される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "国家主席を元首とする社会主義共和制国家であり、国家主席は国民議会で選出され、任期は5年。職務の補佐・代行のために国家副主席がいる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "行政府の長は首相である。国家主席に指名され、国民議会で承認を受ける。任期は5年。副首相が3人。各省大臣、省と同格の機関の長により構成される。首相は、副大臣、県副知事、中央直轄市副市長、郡長を任免する権限を持つ。2006年7月、首相と政府を補佐し、閣議を準備し、政府に資料を提供する機関として、政府書記局が設けられた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "立法府は一院制の国民議会。132議席で、民選、任期5年。休会期間中には国民議会常務委員会が国政監視などの権限を代行する。議席数は、1992年選挙では85、1997年選挙では99、2002年選挙では109と増やされてきた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2018年12月6日、日本の国際協力機構(JICA)の法整備支援を受けて起案された民法が成立し、2020年に施行した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ラオスは宗主国であったフランスから民事法制度を継承している。司法権は最高人民法院長官に委ねられている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "最高人民法院長官は常務委員会の勧告に基づき、国会によって選出されることとなっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "国防の中心はラオス人民軍が担う。他には民兵組織がある。2006年の国防予算は1,330万ドル。徴兵制で陸軍25,600人、空軍3,500人から成る。車輌・航空機などの装備は旧ソ連製のものを多く保有している。歴史的にベトナム人民軍と関係が深いが、近年は中国人民解放軍との交流が活発化してきている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ラオスは、海と接しない内陸国である。国土の多くが山岳で占められており、隣国に比べて比較的森林資源が多く残っていた地域であるが、急激な森林破壊が問題となっている。国土面積の61%は二次林(2006年)。そして、この森林地帯でも多くの人々が生活している。原生林は、国土面積の6%である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ビア山(標高2817メートル)が最高峰である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "メコン川周辺には小さく平地が広がっている。メコン川はラオスを貫いて流れており、ミャンマーと、またタイとの国境をなしている。タイとの国境線の3分の2はメコン川である。また、国境として隔てるだけでなく、人や物が行き来する河川舟運にも利用されている。1866年にフランスは、雲南とサイゴンを結ぶ通商路としてメコン川を利用しようと探検隊を派遣した。探検隊は中国まで到達はしたが、カンボジアとラオスとの国境にあるコーンパペンの滝が越えがたかったので、通商路としての可能性は否定された。それでも今日(2000年代)、ヴィエンチャンと雲南・景洪(中国とラオスの国境にある)との間で物産を満載した船が行き来し、大切な交通路となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "メコン川の乾季と雨季の水位の差は、ヴィエンチャンで10メートルを超えることもある。乾季の終わりの4月ごろには最低の水位になり、小さな支流では水がほとんどなくなってしまい、メコン川本流でも驚くほど水位が下がってしまう。しかし、5月の雨季とともに水量が増し、8 - 9月には自然堤防を越えるほどの水量になり、低地を水で覆うほどになる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "メコン川は栄養塩類が少ないが、雨季に洪水となる後背地・氾濫原の底土からの栄養塩類を受けられる。そのため藻類やプランクトンなどが多く発生し、草食性・プランクトン食性の魚類の藻場になっている。このようなことから川には魚が多く、周囲の人たちの漁場になっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ラオスは森林破壊による環境の悪化が懸念されている国の一つに数え上げられる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ラオスは熱帯地域の一つであり、モンスーン(季節風)の影響により、同国には明瞭な雨季と乾季がある。気候は基本としてサバナ気候である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "地方に議会を設置しないで、県知事は国家主席が、郡長は首相が、それぞれを任命するという中央集権的地方行政制度をとっている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "首都ヴィエンチャンを含む、広域ヴィエンチャン行政区であるヴィエンチャン都(ナコーンルアン・ヴィエンチャン/Prefecture)と17県(クウェーン/Province)から構成される。以前はサイソムブーン特別区(ケートピセート・サイソムブーン)が治安上の理由から首相府の直轄下に設けられていたが、2006年に廃止された。その後、サイソムブーン特別区は県に昇格して復活した。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ヴィエンチャン都と県の下には100前後の村(バーン)から成る郡(ムアン)がある。ムアンにはラーオ語で「郡」の他に「街」という意味もあり、日本の市町村に相当するものだと考えられる。ヴィエンチャン都を除き、全ての県には県庁所在地となる郡があり、そこが県都とされている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "県都とされる郡の名称は「ポンサーリー郡」や「ルアンナムター郡」のように県の名前と合致する場合、「サイ郡」や「サマッキーサイ郡」のように県の名前とは全く異なる場合があるが、ラオス人の多くは他県のことであれば県の名称=県都(チャンパーサック県など一部例外はあるものの)であり、一般人で県都の名称を全て正確に覚えている人は少ない。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ラオスの首都はヴィエンチャンで、主要都市にルアンパバーン、サワンナケート、パークセー(パクセー)などがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "都市部以外の地域においては、幹線道路の多くが舗装されていない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "首都ヴィエンチャンにあるワットタイ国際空港には、タイ国際航空や中国南方航空などが国外から乗り入れている。国内の航空会社では、ラオス国営航空がワットタイ国際空港を拠点に国際線と国内線を運航している。過去にはラオス初の民間航空会社としてラオ・セントラル航空も事業に参入していたが、2014年に運航を停止した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "主要産業は、国内総生産(GDP)の34%を占める農業である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2021年のラオスのGDPは190億ドル。一人当たりのGDPは2,595ドル。 国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている。2018年時点で1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の18.3%。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1975年12月にラオス人民民主共和国が樹立され、急速な社会主義化を行ったものの、タイからの国境封鎖や、1975年と1976年の旱魃などにより、激しいインフレと農産物・日用品の不足を引き起こし、1979年には社会主義建設のスピードが緩和された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1983年に再び社会主義化を目指すが、ソ連のペレストロイカの動きと呼応して1986年には市場原理の導入、対外経済開放を基本とする新経済メカニズムが導入された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この間、ソ連やベトナムを中心とする東側諸国からの多大な援助に依存する経済構造であった。そのため、1989年から1991年にかけて東欧諸国で起こった共産政権の瓦解は、ラオスにとっても危機であった。この時期に価格の自由化を行ったことによって、激しいインフレと通貨キープが大幅に下落するなど経済は混乱した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ラオス政府はIMFのアドバイスの下、経済引き締め政策を実施した。また、西側先進国との関係を改善し、国際機関や西側先進国からの援助が増大した結果、1992年には経済が安定した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1997年7月に隣国タイで始まったアジア通貨危機はラオスにも大きな影響を与え、キープは対ドルだけでなく、対バーツでも大幅に減価した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "国内ではタイバーツが自国通貨のキープと同じように流通し、バーツ経済圏に取り込まれている。米ドルも通用するので、ホテルやレストランから市場や街の雑貨屋まで、この3つのどの通貨でも支払いができる。中国国境近くでは、人民元も通用する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1997年にルアン・パバンの町が、2001年にはチャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群がそれぞれ世界遺産に公式登録されたほか、政府が1999年から2000年にかけてをラオス観光年として観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "観光のほか、国土の約半分を占める森林から得られる木材、ナムグム・ダムを始めとする水力発電の隣国タイへの売電、対外援助などが主な外貨源となっている。この中でも特に水力発電によってラオスは東南アジアのバッテリーと呼ばれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "21世紀に入り、外国企業の投資促進のため、国内に経済特別区が設けられ、2012年には10か所となった。南部パークセー郡には日系中小企業向けの特区も開設されている。中国やタイなどの賃金水準が上昇する中、安い労働力を求める企業の注目を集めている。海外からの援助や投資により、2008年には7.8%の経済成長を実現している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "とりわけ隣の大国である中国の進出は目覚ましく、官民挙げて中国から業者や労働者がラオスに流入している。2007年には、ヴィエンチャンに中国系の店舗が集まるショッピングモールが出来た。また、首都には中国が建設した公園が完成し、ダム工事など主に日本が行ってきたインフラ整備にも進出している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2012年の世界貿易機関(WTO)加盟により関税引き下げの動きが進んでおり、また、2015年にはASEAN経済共同体のメンバーとして域内の貿易が自由化することで、物流リンクの拠点としての位置づけを高める政策がとられている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "少ない人口が満遍なく分散して暮らすラオスでは、大部分の人は稲作を基盤とする農業を営んでいる。まず、自給米を確保して余剰分を販売し、現金収入とする。ラオス人の主食はもち米である。自給農業を基盤とした分散型社会である。ラオスでは、毎年約220万 - 250万トンの米が生産されている。雨季には稲作を、乾季には野菜などの栽培を行っている農家が多い。2005年の生産高は、米57万トン、野菜類77.5万トンである。労働人口の約8割が農業に従事しており、GDPは低いが食料は豊富で、飢餓に陥ったり物乞いが増えたりするといった状況にはない。「貧しい国の豊かさ」と言われるゆえんである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "稲作は、平野部で行われる水田水稲作と山地の斜面を利用した焼畑陸稲作とに大きく分けられる。水田は、小規模な井堰で灌漑し、親から子へと相続し、人々はそこに定着している。焼畑は太陽エネルギーと水循環がもたらす森林植生回復力に依存した農業であるため、土地への執着は少なく、集落内外での移住を人々はいとわない。近年は、現金収入を得やすいパラゴムノキの栽培をする地域が現れている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "メコン川流域は降雨量に恵まれて土壌が肥沃なため、葉菜類の栽培も多い。パクセー市郊外のボーラウェン高原は良質なコーヒー、キャベツ、ジャガイモの産地であり、コーヒーはラオス最大の輸出農作物となっている。また、近年まで農薬や肥料の使用がされてこなかったことから、無農薬栽培の作物を育てて輸出する動きもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ラオスの山林にはマホガニーやチークなどの木材が豊富だが、19世紀からフランスが徹底的に伐採した。現在ではマツが主に日本に輸出されている。ラオス高地のマツは樹齢数百年という巨大で良質なものが多く、年間3万立方メートルの山林が伐採されて日本へ送られる。2, 3級のクズ材は、ラオス国内とベトナムのバイヤーに売られる。マツとともに常緑森林が根こそぎ伐採されるため、保水機能が大きく損なわれて大きな問題となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ラオスの鉱業資源は未開発な段階にある。例えば、肥料の原料などに利用できるカリ岩塩の大規模な鉱床が発見されており、面積は30kmに及ぶ。スズ鉱床の埋蔵量は100億トンに及ぶと見積もられている。アンチモン、硫黄、金、タングステン、鉄、銅、鉛、マグネシウム、マンガンの鉱床も発見されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "しかしながら、険しい山脈が縦横に広がる国土、未整備な交通インフラなどのため、2003年時点では、石炭(29万トン)、スズ(300トン)、塩(5000トン)に留まっている。唯一開発が進んでいるのは宝石であり、1991年にはサファイアの生産量が3万5000カラットに達した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ラオスは落差が大きい河川が多い割には人口が少なく、工業の発展が遅れている。このため水力発電所の建設が相次ぎ、タイなどに電力を輸出している。ただ国内の送電網整備が遅れているため、売り先のタイから電力を輸入する矛盾も抱えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "内陸国であり、外洋に面した港を持っていない。メコン川は大型船も航行できる川幅はあるが、ラオス南部にコーンパペンの滝群があるため、外海から遡上できない。こうした物流面でのハンディは、外海に面した港湾を持つ周辺諸国との道路・鉄道整備により克服されつつある。このため、賃金上昇や人手不足に直面しているタイに比べて労働力が豊富で人件費が安い「タイ+1(プラスワン)」の対象国として、カンボジアやミャンマーともに注目されている。ただ現状では製造業は発展途上で、市場に並ぶ工業製品の大半はタイ製か中国製である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "かつて近代的な設備を備えた大きな工場は、ビールや清涼飲料水などを生産する国営のメーカー「ビア・ラオ」が目立つ程度であった。ラオスの酒と言えば米を原料とする焼酎ラオ・ラーオがあるが、生産は家内制手工業レベルにとどまる。伝統的な織物も名高いが、多くは農家の女性たちの副業として手作業により作られている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1986年のソ連のペレストロイカの影響を受け、ラオスでもチンタナカーン・マイ(新思考)と呼ばれる市場経済導入が図られた。これは、中国の改革開放、ベトナムのドイモイ(刷新)と同様の、社会主義体制の中に資本主義のシステムを取り入れようという試みである。共産主義政権樹立以降ほぼ鎖国状態にあったラオスであったが、チンタナカーン・マイ以降自由化と開放が進み、上記の経済の項目にある通り、政府がラオス観光年を設定しプロモーションを行って観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。ルアン・パバンの町とワット・プーなどの2つの世界文化遺産や、ジャール平原、多くの仏教寺院などが年間300万人を超える外国観光客を呼び、外貨獲得の大きな産業となっている。プロモーションのため、日本では2007年9月23日-24日、東京の代々木公園でラオスの魅力を紹介する第1回ラオスフェスティバル2007が開催された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2021年時点での人口は733万人であり、2000年以降は年10万人ペースで右肩上がりに着実に増加している。 人口密度は、1km辺り24人。ちなみに、ベトナムは256人、タイは132人、中国・雲南省は114人、カンボジアは82人、ミャンマーは74人であり、ラオスは人口が少ないことが分かる。ラオスには、大きい人口を抱える広大な地域がない。たとえばベトナムの紅河デルタ、メコンデルタ、タイのチャオオプタデルタ、ミャンマーのイワラジデルタのような政治・経済の中心地になる地域がない。最大の人口を抱える首都ヴィエンチャンでも人口71万人である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "一番多いのは人口の半分以上を占めるラオ族(ラーオ族)であり、それに50程度の少数民族が続く。しかし、ラオス政府はラオス国籍を持つ者を一様にラオス人として定義しているため、公式には少数民族は存在しない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1950年以降は次のように大きく3つに分けられており、それぞれの人口比率は60対25対15である。その区分の有効性は疑わしいが、この区分が国民の間に広まっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ラオス政府の定義するラオス人は住む地域の高度により、低地ラーオ族(ラーオルム、国民の約7割、ラオス北部の山間盆地)、丘陵地ラーオ族(ラーオトゥン、国民の約2割、山麓部に居住、水田水稲作と焼畑の両者を組み合わせ)、高地ラーオ族(ラーオスーン、国民の約1割、山深くに居住、陸稲・トウモロコシを焼畑で栽培)に分けられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "実際には、フアパン県にカム族、タイデン族、タイダム族、モン族、青モン族、黒モン族、ヤオ族が、ウドムサイ県にはモン族が、 ポンサーリー県にはアカ族とタイダム族が、ルアンナムター県にはランテン族、黒タイ族、タイルー族、タイダム族、アカ族、イゴー族、ヤオ族、モン族が住んでいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "このような標高による住み分け分布ができたのは、紀元前からモン・クメール系の人々がこの地域に暮らしていたが、9世紀ごろからタイ系の人々が南下してきたことに端を発する。その後、清代末期の19世紀後半からモン・ミエン系やチベット・ビルマ系の人々が中国南部から移住してきた。漢人の支配・干渉を嫌い移住してきたと言われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "各民族語が話されているが、公用語に定められているのはラオス語(ラーオ語)である。ラーオ語とタイ語は同一言語に属する個別の地域変種の関係(平たく言えば、ラーオ語とタイ語はそれぞれが互いに方言関係)にあるが、ラオスではタイからの影響力を遮断するため、ラーオ語の独立性を強調する傾向にある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "英語は、ホテルや旅行者向けのレストランなどではほぼ通じる。また、フランス式教育を受けた者や政府幹部、エリートなどにはフランス語も通用する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ほとんどの女性が夫の姓に改姓する(夫婦同姓)が、改姓しない女性もいる(夫婦別姓)。また、一夫多妻制が事実上公認されている。ラオスでは憲法と家族法では一夫多妻制の法的承認を禁止しており、一夫一婦制がこの国の主要な結婚形態であると規定している。しかし、一夫多妻制自体は違法とされているものの、一部のモン族の間では一夫多妻制が今でも慣習として残っていることから、罰則は軽いものとなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "宗教は上座部仏教が60%、アニミズムやその他の宗教が40%であるが、しばしば仏教とアニミズムが混同されて信仰されていることがある。その他ラオス南部ではキリスト教も信仰されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "19世紀まで続いていたラーンサーン王朝では仏教が国教とされていた。しかし、ラオス人民民主共和国成立後、仏教は特別な保護を受けなくなった。ただし、農村の地域コミュニティーと仏教寺院は密接な関係を保ち続けている。そのため、ラオス人民革命党も「党の理念・思想と一致する」と明言するなど、仏教との関係を意識している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ラオスの人口の大部分は農村部であることから、衛生への投資が困難となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1990年には、改善された衛生設備を利用できる農村人口が僅か 8% にしか満たなかった。2014年に実施された世界銀行調査のデータによると、ラオスはユニセフとWHOの共同監視プログラムに基づく『水と衛生に関する「ミレニアム開発目標(MDG)」』の目標数値を達成しているが、2018年の時点では、同国人口の内 約190万人が改善された給水を利用できず、240万人が改善された衛生設備を利用できない状態となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "黄金の三角地帯の一ヶ所である点から、薬物犯罪(英語版)に絡む問題が根深い面を遺している。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2023年04月17日時点で外務省は、「近年、首都ビエンチャン等の都市部を中心に、ひったくり、強盗、置き引き、侵入盗等の一般犯罪が多発しています。また、日本人が被害者となる空き巣、昏睡強盗、夜道でのひったくり事案も発生しています。また、2022年5月に、新型コロナウイルス防止対策によるラオスの入国制限が大幅に緩和されてから、日本人旅行者が被害者となるひったくりや睡眠薬強盗も発生していますので、注意が必要です。」としている。また、ラオスでは汚職が問題となっており、政府は汚職の抑制に努めて来ているものの、2012年におけるトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)の腐敗認識指数によれば、合計 176ヶ国中160位にランクされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ラオス公安省(英語版)が主体となっている。公安省の管轄下にあるラオス国家警察は、かつての王国時代に設立されたラオス王立警察(英語版)が前身となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ラオス政府は、同国の少数民族であるモン族へ対し大量虐殺を行なったとして非難されている実情がある 。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "NGOや人権活動家の報告によると、現地では個別の人権侵害事件が多数発生しているという。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "一例としては、反体制的な政治的見解を表明したことによる投獄が国際人権団体によって大々的に報道されていた2人の元政府高官の不当な扱いを巡る事件が知られる。この人物らは3名で政府の政策に懸念を表明し、経済・政治改革を主張したとして1990年に逮捕されていた。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "なお、元政府高官2人は2004年10月に釈放されているが、彼らと共に有罪判決を受けた3人目の反体制派の人物は1998年に獄中で死亡した。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "また、1999年10月時点では、ラオス国内で平和的な経済、政治、社会の変革を求めるポスターを掲示しようとしたとして30人の若者が拘束された。その内5人は逮捕され、後に反逆罪で最長10年の懲役刑を言い渡されている。その後、1人は看守らの暴行により死亡し、1人は釈放された。生き残った3人は2009年10月までに釈放される筈であったが、行方不明の侭となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2017年2月20日、裕福な中国人との偽りの結婚話で騙され、売春をさせられる女子高校生が増加していると地元メディアが報じた。以前より結婚や就職を隠れ蓑にしてタイへ少女を売る被害が報告されていたが、このタイルートに加え、近年は中国ルートが増加していることが人身売買を調査しているNGO団体職員により判明している。被害少女の多くは高校2、3年生が主体で、結婚のために学校を中退する。中国人は首都ヴィエンチャンを含むラオス全土で少女らに声をかけており、ラオス政府も事態を把握している。旧来から存在するタイルートでは役人への賄賂が常習化し、一つのビジネスとなっているが、中国ルートも同様になっている可能性が高い。ラオス国内の人身売買の実態は公式の調査が行われず、正確な被害数すら把握されておらず、人権団体の調査も政府機関の不透明な対応で妨害されがちであるという。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "ラオスの新聞は、英語新聞『ヴィエンチャン・タイムズ』(Vientiane Times) およびフランス語新聞『ル・レノヴァテュール』(Le Rénovateur) を含めて全て政府機関発行である。更に、公認通信社カオサン・パテート・ラオ (Khaosan Pathet Lao, Lao News Agency) が同名の英仏語版新聞を発行している。主なラーオ語新聞としては『パサション』(Pasaxon)、『ヴィエンチャン・マイ』(Vientiane Mai Newspaper) がある。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ラオスでは、ラオス国営ラジオ (Lao National Radio, LNR) の放送が中波、短波、FMにて行われている。テレビは、ラオス国営テレビ (Lao National Television, LNTV) が2つのチャンネルで放送されている。また、タイのテレビ放送を視聴している人も多い。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "一方で国境なき記者団が発表している世界報道自由度ランキングの2009年版では、中華人民共和国に次いで低い169位に選ばれている。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "メッセージのやり取りにはWhatsAppやLINEといった外国製アプリの利用者が多いが、ラオスの通信会社シリチャルーンサイと政府が共同開発した「LoudChat」(ラウドチャット)のサービスが2022年4月に始まった。言論への監視・統制が行なわれているが、SNSでは政府批判が投稿されることもある。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ラオスの音楽文化は、カンボジア音楽やベトナム音楽など近隣諸国の音楽文化と多くの類似点が存在する。特にタイ音楽との類似点が多いことが知られる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "一般的な伝統衣装にはシュアウト・ラオ(英語版)と呼ばれるものが存在する。シュアウト・ラオはラーオ語で「ラオスの衣装」を意味する、文字通りの名称である。他にはスアパット(英語版)という漢服に似通った形状の衣装があり、この衣装は長袖の仕様となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ラオスを代表する歴史的建築物には仏教寺院であるワット・シェントーンが知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ラオス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ラオスには「ムエラオ(フランス語版、英語版)」と呼ばれる伝統的な格闘技が存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ムエラオはタイのムエタイやカンボジアのクン・クメールの原型とされている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ラオス国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1990年にサッカーリーグのラオス・リーグが創設され、2013年にプロ化された。ペプシコーラがリーグに協賛しており、「ペプシ・ラオ・リーグ1」と呼ばれている。ラオスサッカー連盟(LFF)によって構成されるサッカーラオス代表は、これまでFIFAワールドカップやAFCアジアカップには未出場である。東南アジアサッカー選手権には12度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。", "title": "スポーツ" } ]
ラオス人民民主共和国、通称ラオスは、東南アジアのインドシナ半島に位置する共和制国家。ASEAN加盟国、フランコフォニー国際機関参加国である。通貨はキープ、人口約733万人、首都はヴィエンチャン。 ASEAN加盟10カ国中、唯一の内陸国。面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、西はミャンマーと国境を接する。計画経済から社会主義市場経済に移行したが、ラオス人民革命党による一党独裁が続いている。
{{Other uses|国名の羅宇|喫煙具部品の羅宇|煙管}} <!--{{redirect|羅宇|煙管の部品|羅宇 (煙管)}}--> {{基礎情報 国 | 略名 = ラオス | 日本語国名 = ラオス人民民主共和国 | 公式国名 = {{lang|lo|'''ສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ'''}} | 国旗画像 = Flag of Laos.svg|100px | 国章画像 = [[ファイル:Coat_of_arms_of_Laos.svg|100px|ラオスの国章]] | 国章リンク = ([[ラオスの国章|国章]]) | 標語 = {{lang|lo|'''ສັນຕິພາບ ເອກະລາດ ປະຊາທິປະໄຕ ເອກະພາບ ວັດທະນາຖາວອນ'''}}<br /> (ラーオ語: 平和、独立、民主主義、統一、繁栄) | 国歌 = [[ラオスの国歌|{{lang|lo|ເພງຊາດລາວ}}]]{{lo icon}}<br />''ラオス国歌''<br />{{center|[[ファイル:National Anthem of Laos.ogg]]}} | 位置画像 = Laos on the globe (Asia centered).svg | 公用語 = [[ラーオ語]] | 首都 = [[ヴィエンチャン]] | 最大都市 = ヴィエンチャン | 最高指導者等肩書 = [[ラオス人民革命党|党書記長]] | 最高指導者等氏名 = [[トーンルン・シースリット]] | 元首等肩書 = [[ラオス人民民主共和国主席|国家主席]] | 元首等氏名 = トーンルン・シースリット | 首相等肩書 = [[ラオス人民民主共和国首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ソーンサイ・シーパンドーン]] | 他元首等肩書1 = [[ラオス人民民主共和国副主席|国家副主席]] | 他元首等氏名1 = [[パニー・ヤートートゥー]]<br />{{ill2|ブントング・チットマニー|en|Bounthong Chitmany}} | 他元首等肩書2 = [[国民議会 (ラオス)|国民議会議長]] | 他元首等氏名2 = {{ill2|セイソムフォン・ポムウィハーン|en|Saysomphone Phomvihane}} | 面積順位 = 79 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 236,800 | 水面積率 = 2.5% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 104 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 7,276,000<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/laos/data.html#section1 ラオス人民民主共和国(Lao People's Democratic Republic)基礎データ][[日本国外務省]](2022年7月17日閲覧)</ref> | 人口密度値 = 31.5<ref name="population" /> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 170兆4726億2900万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=544,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-13}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 113 | GDP値MER = 188億2000万<ref name="imf2020" /> | GDP MER/人 = 2586.78<ref name="imf2020" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 110 | GDP値 = 589億2800万<ref name="imf2020" /> | GDP/人 = 8099.419<ref name="imf2020" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 = [[フランス]]より<br />[[1949年]][[7月19日]] | 通貨 = [[キープ (通貨)|キープ]](キップ。Kip) | 通貨コード = LAK | 時間帯 = +7 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = LA / LAO | ccTLD = [[.la]] | 国際電話番号 = 856 | 注記 = }} {{共産主義のサイドバー}} {{社会主義}} [[ファイル:Fa Ngum-Vtne1.JPG|thumb|190px|[[ラーンサーン王国]]の創設者[[ファ・グム]](1316年-73年)の像。]] [[ファイル:Satellite-laos.jpg|thumb|240px|ラオスの衛星写真。]] '''ラオス人民民主共和国'''<ref name="日本国外務省" />(ラオスじんみんみんしゅきょうわこく、{{lang-lo|ສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ}}、{{lang-en|Lao People's Democratic Republic}}<ref name="日本国外務省" />)、通称'''ラオス'''は、[[東南アジア]]の[[インドシナ半島]]に位置する[[共和制]][[国家]]。[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]加盟国、[[フランコフォニー国際機関]]参加国である。通貨は[[キープ (通貨)|キープ]]、人口約733万人<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/laos/data.html#section1 |title=ラオス基礎データ |access-date=2023年6月18日 |publisher=外務省}}</ref>、首都は[[ヴィエンチャン]]。 [[東南アジア諸国連合|ASEAN]]加盟10カ国中、唯一の[[内陸国]]。面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である<ref>[http://www.lao.jp/about_laos.html ラオス情報文化観光省 ラオスについて]</ref>。北は[[中華人民共和国|中国]]、東は[[ベトナム]]、南は[[カンボジア]]、南西は[[タイ王国|タイ]]、西は[[ミャンマー]]と国境を接する。計画経済から社会主義市場経済に移行したが、[[ラオス人民革命党]]による[[一党独裁制|一党独裁]]が続いている。 == 概要 == [[1353年]]に[[ラーオ族|ラオ人]]最初の統一国家である[[ラーンサーン王朝|ランサン王国]]が成立<ref name="mypedia">{{Cite Kotobank|word=ラオス|encyclopedia=百科事典[[マイペディア]]|accessdate=2021-01-28}}</ref>。[[18世紀]]初めに3王国に分裂<ref name="obun">{{Cite Kotobank|word=ラオス|encyclopedia=[[旺文社]]世界史事典 三訂版|accessdate=2021-01-28}}</ref>。[[1770年代]]末に3王国は[[タイ王国|タイ]]に支配されたが<ref name="obun"/>、[[1893年]]に[[フランス]]がタイにラオスへの[[宗主権]]を放棄させて[[植民地]]化し、[[1899年]]に[[フランス領インドシナ]](仏印)に編入された<ref name="obun"/><ref name="nipponica">{{Cite Kotobank|word=ラオス|encyclopedia=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|accessdate=2021-01-28}}</ref>。この時に現在の領域がほぼ定まった<ref name="mypedia"/>。[[第二次世界大戦]]中の[[日本軍]]による[[仏印進駐]]や[[第一次インドシナ戦争]]などを経てインドシナ半島におけるフランス植民地体制が崩壊過程に入る中で[[1949年]]に[[フランス連合]]内で[[ラオス王国]]として独立、ついで[[1953年]]に完全独立した<ref name="nipponica"/>。 その後[[パテート・ラーオ|パテト・ラオ]]などの左派と王政を支持する右派、中立派に分かれて[[ラオス内戦]]が発生したが、[[ベトナム戦争]]後に右派が没落し、[[1975年]]に王政は廃され、[[社会主義]]体制のラオス人民民主共和国が成立した<ref name="obun" />。 その政治体制は[[ラオス人民革命党]](パテト・ラオの政党<ref name="obun"/>)による[[一党独裁]]体制である<ref name="asahi1"/>。『[[エコノミスト]]』誌傘下の研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]による[[民主主義指数]]は世界155位と下位で、「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)<ref> [https://www.eiu.com/topic/democracy-index EIU Democracy Index - World Democracy Report]</ref>。また[[国境なき記者団]]による[[世界報道自由度ランキング]]も172位と下位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)<ref>[https://rsf.org/en/ranking/ 国境なき記者団公式ホームページ]</ref>。 人権状況について[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は、人民の基本的自由が著しく制約されていること、[[労働権]]が不在であること、薬物使用の疑いがある個人を起訴しないまま人権侵害が横行する薬物常用者拘留センターに拘禁していること、活動家を強制失踪させていることなどを問題視している<ref name="hrw">{{Cite web|和書|title=ラオス:人権状況 改善なし 強制失踪や基本的自由の組織的抑圧を 速やかに停止すべき|url=https://www.hrw.org/ja/news/2014/06/10/254043|work=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]|accessdate=2021-01-23}}</ref>。 経済面では[[1975年]]以降、社会主義[[計画経済]]のもとにあったが、[[ソビエト連邦]]の[[ペレストロイカ]]や[[ベトナム]]の[[ドイモイ]]の影響を受けて[[1986年]]から「新思考」([[チンタナカーン・マイ]])政策と呼ぶ国営企業の独立採算制、民営企業の復活など市場経済化への経済改革を行っている<ref name="obun"/><ref name="nipponica"/>。しかし経済状態は厳しく、国連が定める世界最貧国の一つである<ref name="nikkei1">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66724810X21C20A1FFN000/ 「米スターバックス、ラオス進出 2021年夏にも1号店」][[日本経済新聞]](2020年11月27日)2022年7月17日閲覧</ref>。また、中華人民共和国が主導する経済圏「[[一帯一路]]」に参加しており、[[中国ラオス鉄道]]に代表される[[インフラストラクチャー|インフラ]]建設などが進んでいるが<ref>{{Cite web|title=中国ラオス鉄道12月に開通へ、最終調整が順調_中国国際放送局|url=http://japanese.cri.cn/20211122/d2e4e996-9216-3390-991f-bd2c4dc9b18f.html|website=japanese.cri.cn|accessdate=2021-11-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ラオス・中国鉄道は何をもたらすのか?――両国にとっての意義|url=https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2021/ISQ202120_030.html|publisher=[[アジア経済研究所]]|accessdate=2021-11-25|language=ja}}</ref>、債務を返済できなくなる「[[借金漬け外交|債務のワナ]]」に陥ることも懸念されている<ref name="nikkei2">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM112G20R10C21A1000000/ ラオスに迫る「債務のワナ」、初の高速鉄道も中国頼み] 日本経済新聞(2021年1月15日)2022年7月17日閲覧</ref><ref>{{Cite web|和書|title=米民間調査機関、ラオスの中国への隠れ債務をGDPの35%相当と指摘(中国、ラオス) {{!}} ビジネス短信|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2021/10/8926f898a35ed654.html|website=ジェトロ|publisher=[[日本貿易振興機構]]|accessdate=2021-11-25|language=ja}}</ref>。 外交面では王政時代の[[1955年]]に[[国際連合|国連]]に加盟し、[[1997年]]に[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)に加盟<ref name="日本国外務省"/><ref name="nipponica"/>。1975年に社会主義体制になって以降ベトナムとの外交を軸にしてきたが<ref name="obun"/>、2009年以降中華人民共和国との外交を強化している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/laos/data.html#section3 |title=外交・国防 |access-date=2023年6月18日 |publisher=外務省}}</ref>。 軍事面では[[徴兵制度]]が敷かれており、[[ラオス人民軍]]の兵力は2.9万人(2020年)ほどであり、軍事費は[[円 (通貨)|日本円]]にて約30億円(2016年)ほどである<ref name="gaimu2">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/laos/data.html#section2 外務省 ラオス人民民主共和国(Lao People's Democratic Republic)基礎データ]</ref>。正規軍の他にも、地方防衛用の[[民兵]]である自衛隊が10万人いると言われる<ref name="nipponica"/>。 人口は、2018年のラオス計画投資省の発表によれば701万人<ref name="gaimu1">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/laos/data.html#section1 外務省 ラオス人民民主共和国(Lao People's Democratic Republic)基礎データ]</ref>。住民はタイ諸族の一つであるラオ人が半数以上を占め、最も多いが、他にも少数民族が多数暮らしており<ref>{{Cite Kotobank|word=ラオス|encyclopedia=[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典|accessdate=2021-01-28}}</ref>、[[ベトナム人]]や[[中国人]]なども住んでいる<ref name="mypedia"/>。 地理としてはASEAN加盟10か国中唯一の[[内陸国]]で、面積は[[日本]]の約63%に相当し、国土の約70%は[[高原]]や[[山地|山岳地帯]]である<ref>[http://www.lao.jp/about_laos.html ラオス情報文化観光省 ラオスについて]</ref>。その間を[[メコン川]]とその支流が流れている<ref name="mypedia"/>。国土は南北に細長く、北は[[中華人民共和国|中国]]、東は[[ベトナム]]、南は[[カンボジア]]、南西は[[タイ王国|タイ]]、北西は[[ミャンマー]]と国境を接する。 == 国名 == 正式名称は[[ラーオ語]]でສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ,([[ラテン文字転写]]: ''Sathalanalat Paxathipatai Paxaxon Lao'' {{IPA-lo|sǎː.tʰáː.laʔ.naʔ.lat páʔ.sáː.tʰiʔ.páʔ.tàj páʔ.sáː.són.láːw|pron}} 読み: サーターラナラット・パサーティパタイ・パサーソン・ラーオ)。サーターラナラットが「[[共和国]]」、パサーティパタイが「[[民主主義]]」、パサーソンが「[[人民]]」、ラーオが「[[ラーオ族]]」を意味する。 公式の[[英語]]表記は {{lang|en|Lao People's Democratic Republic}}(ラウ・ピープルズ・デモクラティック・リパブリック)。ビザなどでは「Lao P.D.R」と略される。通称は '''Laos'''(ラウス、または、ラオス)。 [[日本語]]表記は'''ラオス人民民主共和国'''。通称は'''ラオス'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|日本での漢字表記]]は'''羅宇'''<ref>[[新村出]]編、『[[広辞苑]]』第4版([[岩波書店]]、1991年)</ref>、'''老檛'''<ref>新村出編、『広辞苑』第6版(岩波書店、2008年)</ref>。一方、中国国内では「'''老撾'''({{簡体字|老挝}}, {{ピン音|Lǎowō}})」と表記し「老」と省略するが、[[台湾]]<ref>[[中華民国|中華民國]][[国立編訳館 (台湾)|國立編譯館]]編、『外國地名譯名』、台灣[[商務印書館]]、[[1997年]]、[[台北市|台北]]、ISBN:9570511850</ref>、[[香港]]、[[マレーシア]]、[[シンガポール]]では「'''寮國'''({{簡体字|寮国}}, {{ピン音|Liáoguó}})」と称し、「寮」と省略する。ラオス[[華人]]の間では「寮」が広く使われており、ヴィエンチャン市内には[[中国語]]学校の名門「寮都学校」がある。また、日寮や寮華などの略称を冠する団体・企業は、ラオス国内外を問わず多数存在する。 == 歴史 == {{main|ラオスの歴史}} === ラーンサーン王国 === ラオスの歴史は、中国南西部(現在の[[雲南省]]中心)にあった'''ナンチャオ王国'''([[南詔]])の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まる。王国滅亡後の[[1353年]]に、[[ラーオ族]]による統一王朝[[ラーンサーン王朝|ランサン王国]]が{{仮リンク|ファー・グム王|en|Fa Ngum}}により建国<ref name=歴史>{{Cite web|和書|url= https://www.asean.or.jp/ja/tourism/guide/laos/guide/|title=ラオス(概要)歴史|publisher=国際機関日本アセアンセンター|accessdate=2020-8-9}}</ref>。1551年に即位したセタティラート王の時代には、首都をヴィエンチャンに移し、その勢力は現在のタイ北東部やカンボジア北部にまで及んだ<ref name=歴史/>。ラーンサーンとは「100万の[[ゾウ]]」という意味である。昔、ゾウは戦争の際に戦車のように[[戦象]]として使われていたので、この国名は国の強大さを示し、近隣諸国を警戒させた<ref name="nationalgeographic">ナショナルジオグラフィックス世界の国 ラオス([[ほるぷ出版]] 2010年6月25日)</ref>。 17世紀には西欧との交易も開始し、ヴィエンチャンは東南アジアでも有数の繁栄を誇った<ref name=歴史/>。しかし[[18世紀]]には[[ヴィエンチャン王国]]、[[ルアンパバーン王国]]、[[チャンパーサック王国]]の3国に分裂<ref name=歴史/>。それぞれタイやカンボジアの影響下に置かれ、両国の争いに巻き込まれる形で戦乱が続いた<ref name=歴史/>。 === フランス植民地支配 === [[19世紀]]半ばにフランス人が[[インドシナ半島]]に進出し始めたころには、ラオスの3国はタイの支配下にあった。が、ラオスの王族は[[フランス]]の力を借りて隣国に対抗しようとし、[[1893年]]に[[パークナム事件|仏泰戦争]]が起こる。その結果、ラオスはフランスの保護国となり、[[1899年]]に[[フランス領インドシナ]]に編入された。ルアンパバーン王国は保護国、それ以外の地域は直轄植民地とされた<ref name="nipponica"/>。 [[第二次世界大戦]]中は[[日本]]が仏[[ヴィシー政権]]との協定により[[フランス領インドシナ]]を占領した([[仏印進駐]])。大戦末期の1945年3月には日本がラオスの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、ラオスは[[1945年]][[4月8日]]に日本の協力下で、独立を宣言をした<ref name="nipponica"/>。 だが大戦後、フランスは[[仏領インドシナ連邦]]を復活させようとしたことが原因で、[[1946年]]に[[第一次インドシナ戦争]]が勃発。[[1949年]]、ラオスは[[フランス連合]]内の[[ラオス王国]]として名目上独立した。 === 独立と内戦=== [[1953年]][[10月22日]]、フランス・ラオス条約により完全独立を達成した。独立後、ラオスでは右派、中立派、左派([[パテート・ラーオ]])による[[ラオス内戦]]が長期にわたり続いた。[[ベトナム戦争]]にも巻き込まれ、北ベトナム([[ベトナム民主共和国]])による[[南ベトナム解放民族戦線]]への補給路(いわゆる[[ホーチミン・ルート]])に使われた。[[1973年]]にベトナム戦争の一方の当事者であった[[アメリカ合衆国]]がベトナムから撤退。[[1974年]]、三派連合によるラオス民族連合政府が成立したが、[[1975年]]に[[ベトナム共和国|南ベトナム]](ベトナム共和国)の首都[[ホーチミン市|サイゴン]]が[[サイゴン陥落|北ベトナム軍により陥落]]すると、同年12月に連合政府が王政の廃止を宣言。[[社会主義国]]のラオス人民民主共和国を樹立した。 [[冷戦|東西冷戦]]と[[中ソ対立]]という国際情勢下で、ラオス人民民主共和国は内政・外交両面でベトナムと、それを支援する[[ソビエト連邦|ソ連]]の影響下に置かれた。 === ラオス人民民主共和国 === *[[1977年]]12月、在ラオス日本大使館[[杉江清一]]書記官夫妻殺害事件が発生。反政府派による政治的犯行を示唆する発表がラオス国営放送から成された<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=108504889X00119781013 衆議院会議録情報 第085回国会 内閣委員会 第1号]</ref>。 *[[1979年]]、[[中国共産党]]と関係断絶。 *[[1980年]]、[[タイ王国|タイ]]と国境紛争。 *[[1986年]]、新経済政策(チンタナカンマイ)を導入。 *[[1987年]]、タイと国境紛争(タイ空軍機1機が撃墜される)。 *[[1988年]]、タイとの関係正常化。 *[[1989年]]、[[カイソーン・ポムウィハーン]]首相が中国公式訪問、翌[[1990年]]の中国・[[李鵬]]首相のラオス公式訪問で、対中関係の改善。 *[[1991年]]、[[憲法]]制定。[[ラオス人民革命党]]の一党体制維持を確認。 *[[1992年]]2月、タイと友好協力条約を締結。7月、ベトナムとともに[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) にオブザーバーとして参加。[[11月21日]]、[[カイソーン・ポムウィハーン]]国家主席(ラオス人民民主共和国の初代最高指導者)死去。 *[[1997年]][[7月23日]]、東南アジア諸国連合(ASEAN)に正式加盟<ref>[https://www.jetro.go.jp/world/asia/la/trade_01.html アセアンとしての地域協定] JETRO「ラオス WTO・他協定加盟状況」2020年02月02日閲覧</ref>(ミャンマー加盟と同日)。 *[[2006年]][[4月30日]]投票の第6期国民議会(一院制、任期5年)選挙の結果選出された国会議員115人のうち114人はラオス人民革命党の党員で、非党員は1人。同年6月に招集された第6期国民議会第1回会議において、ラオス人民革命党書記長で軍出身の[[チュンマリー・サイニャソーン]]が国家主席に、ラオス人民革命党政治局員の[[ブアソーン・ブッパーヴァン]]が首相に選出された。 *[[2007年]]6月、アメリカ合衆国に[[亡命]]した[[ミャオ族]]の元王国軍将軍と[[アメリカ軍]]退役少佐による[[クーデター]]計画が発覚。関係者はアメリカ司法当局により、局外中立違反で逮捕された。 *[[2010年]][[12月23日]]、第6期国民議会第10回会議の閉会式において、ブアソーン首相は任期途中で辞任し、国民議会議長の[[トーンシン・タムマヴォン]]が新首相に就任した。 *[[2016年]]3月、第8期国民議会総選挙により、[[ブンニャン・ウォーラチット]]国家主席、[[トーンルン・シースリット]]首相体制となった。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|ラオスの政治|fr|Politique au Laos|en|Politics of Laos}}}} [[憲法]]の前文で「[[人民民主主義]]」を謳い、第3条では「[[党の指導性|ラオス人民革命党を主軸とする政治制度]]」と規定されているなど<ref>[[Portable Document Format|PDF]]:[https://www.moj.go.jp/content/000010380.pdf ラオス人民民主共和国憲法(日本語訳)][[法務省]]『ICD NEWS』第13号</ref>、[[マルクス・レーニン主義]]を掲げる[[ラオス人民革命党]]による[[社会主義国]]型の[[一党制]]が敷かれている。政府の政策決定は、9人で構成される党の[[政治局]]と、49人で構成される党の中央委員会において決定される。特に重要な政策に関しては、さらに大臣の会議で審議される。 === 元首 === {{main|ラオス人民民主共和国主席}} [[ラオス人民民主共和国主席|国家主席]]を[[元首]]とする[[社会主義]]共和制[[国家]]であり、国家主席は[[国民議会 (ラオス)|国民議会]]で選出され、任期は5年。職務の補佐・代行のために国家副主席がいる。 === 行政 === {{main|ラオス人民民主共和国首相}} [[行政府]]の長は[[ラオス人民民主共和国首相|首相]]である。[[ラオス人民民主共和国主席|国家主席]]に指名され、[[国民議会 (ラオス)|国民議会]]で承認を受ける。任期は5年。副首相が3人。各省大臣、省と同格の機関の長により構成される。首相は、副大臣、県副知事、中央直轄市副市長、郡長を任免する権限を持つ。2006年7月、首相と政府を補佐し、閣議を準備し、政府に資料を提供する機関として、政府書記局が設けられた。 === 立法 === {{main|国民議会 (ラオス)}} [[立法府]]は[[一院制]]の[[国民議会 (ラオス)|国民議会]]。132議席で、民選、任期5年。休会期間中には国民議会常務委員会が国政監視などの権限を代行する。議席数は、1992年選挙では85、1997年選挙では99、2002年選挙では109と増やされてきた。 2018年12月6日、日本の[[国際協力機構]](JICA)の[[法整備支援]]を受けて起案された[[民法]]が成立し、2020年に施行した<ref>[[西川恵]][https://mainichi.jp/articles/20181214/ddm/003/070/032000c 【金言】ラオスで民法成立]『[[毎日新聞]]』朝刊2018年12月14日(3面)2019年2月1日閲覧</ref>。 === 司法 === {{main|{{仮リンク|ラオスの法律|en|Law of Laos}}}} ラオスは宗主国であったフランスから民事法制度を継承している。[[司法]]権は最高人民法院長官に委ねられている。 最高人民法院長官は常務委員会の勧告に基づき、国会によって選出されることとなっている。 {{節スタブ}} == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ラオスの国際関係|en|Foreign relations of Laos}}}} === 日本との関係 === {{main|日本とラオスの関係}} === 中国との関係 === {{main|中国とラオスの関係}} === フランスとの関係 === {{main|{{仮リンク|フランスとラオスの関係|fr|Relations entre la France et le Laos}}}} == 軍事 == {{main|ラオス人民軍}} 国防の中心は[[ラオス人民軍]]が担う。他には[[民兵]]組織がある。2006年の国防予算は1,330万ドル。[[徴兵制]]で陸軍25,600人、空軍3,500人から成る。車輌・航空機などの装備は旧ソ連製のものを多く保有している<ref>International Institute for Strategic Studies(IISS),''The Military Balance 2008''</ref>。歴史的に[[ベトナム人民軍]]と関係が深いが、{{いつ範囲|近年は|date=2022年2月}}[[中国人民解放軍]]との交流が活発化してきている。 == 地理 == [[ファイル:LaosCarte.gif|right|thumb|200px|ラオスの地図]] [[ファイル:Laos 2003 CIA map.jpg|right|thumb|200px|ラオスの詳細拡大地図]] [[ファイル:Laos location map Topographic.png|left|thumb|200px|ラオスの地形図]] {{main|{{仮リンク|ラオスの地理|fr|Géographie du Laos|en|Geography of Laos}}}} ラオスは、海と接しない[[内陸国]]である。国土の多くが[[山|山岳]]で占められており、隣国に比べて比較的[[森林]]資源が多く残っていた地域であるが{{Efn2|国土面積に占める森林面積の割合「森林率」は69%(2005年の時点)、[[ブータン]]68%、マレーシア64%、カンボジア59%。}}<ref name="takeda2010_31-34">竹田晋也「森の国ラオス」『ラオスを知るための60章』([[明石書店]]、2010年)pp.31-34</ref>、急激な[[森林破壊]]が問題となっている。国土面積の61%は二次林(2006年){{efn2|二次林とは、原生林が伐採によって荒廃し、災害によって被災した後、自然に再生、人為的に植林などされた森林をいう。}}<ref name="takeda2010_31-34" />。そして、この森林地帯でも多くの人々が生活している。原生林は、国土面積の6%である<ref name="takeda2010_31-34" />。 [[ビア山]]([[標高]]2817メートル)が最高峰である。 === メコン川 === [[ファイル:Phou si - Mekong River - Luang Prabang Laos プーシーの丘、メコン川 ラオス・ルアンプラバーン DSCF6782.jpg|thumb|200px|right|ルアンプラバーンを流れるメコン川([[プーシーの丘]]より)]] [[メコン川]]周辺には小さく平地が広がっている。メコン川はラオスを貫いて流れており、ミャンマーと、またタイとの国境をなしている。タイとの国境線の3分の2はメコン川である。また、国境として隔てるだけでなく、人や物が行き来する[[河川舟運]]にも利用されている。[[1866年]]にフランスは、[[雲南省|雲南]]と[[ホーチミン市|サイゴン]]を結ぶ通商路としてメコン川を利用しようと探検隊を派遣した。探検隊は中国まで到達はしたが、カンボジアとラオスとの国境にある[[コーンパペンの滝]]が越えがたかったので、通商路としての可能性は否定された。それでも今日(2000年代)、[[ヴィエンチャン]]と雲南・[[景洪市|景洪]](中国とラオスの国境にある)との間で物産を満載した船が行き来し、大切な交通路となっている<ref>阿部健一「母なる川、メコン」『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010年)40-41ページ</ref>。 メコン川の[[乾季]]と[[雨季]]の水位の差は、ヴィエンチャンで10メートルを超えることもある。乾季の終わりの4月ごろには最低の水位になり、小さな支流では水がほとんどなくなってしまい、メコン川本流でも驚くほど水位が下がってしまう。しかし、5月の雨季とともに水量が増し、8 - 9月には自然堤防を越えるほどの水量になり、低地を水で覆うほどになる<ref>阿部健一、「母なる河、メコン」『ラオスを知るための60章』、42ページ、2010年、東京、明石書店</ref>。 メコン川は[[栄養塩]]類が少ないが、雨季に洪水となる[[後背地]]・[[氾濫原]]の底土からの栄養塩類を受けられる。そのため[[藻類]]や[[プランクトン]]などが多く発生し、草食性・プランクトン食性の[[魚類]]の[[藻場]]になっている。このようなことから川には魚が多く、周囲の人たちの漁場になっている<ref>阿部健一、「母なる河、メコン」『ラオスを知るための60章』、40-43ページ、2010年、東京、明石書店</ref>。 === 環境 === {{main|{{仮リンク|ラオスの環境|fr|Environnement au Laos}}}} ラオスは森林破壊による環境の悪化が懸念されている国の一つに数え上げられる。 {{See also|{{仮リンク|ラオスにおける森林破壊|fr|Déforestation au Laos}}}} {{節スタブ}} ==== 気候 ==== [[ファイル:Koppen-Geiger Map LAO present.svg|thumb|200px|ラオスのケッペン気候区分図]] {{main|{{仮リンク|ラオスの気候|fr|Climat du Laos}}}} ラオスは[[熱帯]]地域の一つであり、[[モンスーン]](季節風)の影響により、同国には明瞭な[[雨季]]と[[乾季]]がある<ref>[http://www.dtac.jp/asia/laos/traveltips.php dtac]ラオス観光情報局「旅の準備-旅のシーズン、服装」2020年2月2日閲覧</ref>。気候は基本として[[サバナ気候]]である<ref name="climate">{{cite web|title=Laos – Climate|url=http://countrystudies.us/laos/45.htm|access-date=09 June 2023|publisher=Countrystudies.us|archive-date=20 May 2011|archive-url=https://web.archive.org/web/20110520154327/http://countrystudies.us/laos/45.htm|url-status=live}}</ref>。 * 暑季は2月下旬ごろから5月。4月から5月の平均気温は30[[セルシウス度|度]]近くあり、最高気温が40度を超える日もある。 * 雨季は6月から10月。年間総雨量のほとんどは雨季に集中する。ただし1日中雨が降り続く日は少なく、短時間に大雨が降ることが多い。 * 乾季は11月から2月下旬。北東の季節風が吹き、降雨はほとんどない。12月から1月ごろには気温が下がって冬になる。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Map of Lao PDR provinces numbered.png|thumb|250px|ラオスの行政区分]] {{main|ラオスの地方行政区画}} 地方に議会を設置しないで、県知事は国家主席が、郡長は首相が、それぞれを任命するという[[中央集権]]的地方行政制度をとっている。 首都[[ヴィエンチャン]]を含む、広域ヴィエンチャン行政区である[[ヴィエンチャン都]](ナコーンルアン・ヴィエンチャン/Prefecture)と17県([[クウェーン]]/Province)から構成される。以前はサイソムブーン特別区(ケートピセート・サイソムブーン)が治安上の理由から首相府の直轄下に設けられていたが、2006年に廃止された。その後、サイソムブーン特別区は県に昇格して復活した。 ヴィエンチャン都と県の下には100前後の村([[ムーバーン|バーン]])から成る郡([[ムアン]])がある。ムアンにはラーオ語で「郡」の他に「街」という意味もあり、日本の市町村に相当するものだと考えられる。ヴィエンチャン都を除き、全ての県には県庁所在地となる郡があり、そこが県都とされている。 県都とされる郡の名称は「ポンサーリー郡」や「ルアンナムター郡」のように県の名前と合致する場合、「サイ郡」や「サマッキーサイ郡」のように県の名前とは全く異なる場合があるが、ラオス人の多くは他県のことであれば県の名称=県都(チャンパーサック県など一部例外はあるものの)であり、一般人で県都の名称を全て正確に覚えている人は少ない。 === 北部 === # [[ウドムサイ県]] - ([[サイ郡]]) # [[サイニャブーリー県]] - ({{仮リンク|サイニャブーリー郡|en|Sainyabuli}}) # [[シエンクワーン県]] - ([[ポーンサワン郡]]) - (軍事基地:[[ロンチェン]]) # [[フアパン県]] - ([[サムヌア郡]]) # [[ボーケーオ県]] - ([[フアイサーイ郡]]) # [[ポンサーリー県]] - ({{仮リンク|ポンサーリー郡|en|Phongsali}}) # [[ルアンナムター県]] - ([[ルアンナムター郡]]) # [[ルアンパバーン県]] - ([[ルアンパバーン郡]]) === 中部 === <ol start="9"> <li> [[ヴィエンチャン県]] - ({{仮リンク|ヴィエンカム郡|vi|Viengkham, Viêng Chăn}})(ヴィエンチャン県はヴィエンカム県に改称する決定がラオス国民議会で決議された) <li> [[ヴィエンチャン都]] - (首都:[[ヴィエンチャン]]) <li> [[カムムアン県]] - ([[ターケーク郡]]) <li> [[サワンナケート県]] - ([[カイソーン・ポムウィハーン郡|サワンナケート]], 旧称:カンタブーリー郡) ラオス第二の街 <li> [[サイソムブーン県]](元特別区) <li> [[ボーリカムサイ県]] - ({{仮リンク|パークサン郡|en|Pakxan}}) </ol> === 南部 === <ol start="15"> <li> [[アッタプー県]] - ({{仮リンク|アッタプー郡|en|Attapeu}})([[ホーチミン・ルート]]) <li> [[サーラワン県]] - ({{仮リンク|サーラワン|en|Salavan (city)}}) <li> [[セーコーン県]] - ({{仮リンク|ラマーム郡|en|Lam Mam District}}) <li> [[チャンパーサック県]] - ([[パークセー郡]]) ラオス第二の街([[ボーラウェン高原]]・[[シーパンドン]]) </ol> === 主要都市 === {{main|ラオスの都市の一覧}} ラオスの首都はヴィエンチャンで、主要都市に[[ルアンパバーン郡|ルアンパバーン]]、[[サワンナケート県|サワンナケート]]、[[パークセー郡|パークセー]](パクセー)などがある。 == 交通 == {{main|ラオスの交通}} === 道路 === 都市部以外の地域においては、[[幹線]]道路の多くが舗装されていない。 === 鉄道 === {{main|ラオスの鉄道}} {{seealso|中国ラオス鉄道}} === 空運 === {{main|ラオスの空港の一覧}} 首都ヴィエンチャンにある[[ワットタイ国際空港]]には、[[タイ国際航空]]や[[中国南方航空]]などが国外から乗り入れている。国内の航空会社では、[[ラオス国営航空]]がワットタイ国際空港を拠点に国際線と国内線を運航している。過去にはラオス初の民間航空会社として[[ラオ・セントラル航空]]も事業に参入していたが、2014年に運航を停止した。 == 経済 == [[ファイル:Vientiane Street.jpg|thumb|200px|right|首都ビエンチャンの街並み]] [[ファイル:Kuang Si Waterfalls Luang Prabang-Laos ラオス・ルアンパバーン・クアンシーの滝 DSCF6349.jpg|thumb|200px|right|[[ニューヨーク・タイムズ]]で“世界で一番行きたい国”第1位に選ばれたこともあり、東南アジア最後の秘境とも呼ばれる。世界中から多くの観光客が訪れる観光立国でもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.travel.co.jp/guide/matome/445/|title=トラベルjp 東南アジア最後の秘境!ラオスのおすすめ観光スポット10選|accessdate=2022-01-29}}</ref>。]] {{main|{{仮リンク|ラオスの経済|fr|Économie du Laos|en|Economy of Laos}}}} 主要産業は、[[国内総生産]](GDP)の34%を占める[[農業]]である<ref name=":0" />。 2021年のラオスのGDPは190億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]。一人当たりのGDPは2,595ドル。 [[国際連合]]による基準に基づき、[[後発開発途上国]]と位置づけられている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/ohrlls/ldc_teigi.html 外務省 後発開発途上国]</ref>。2018年時点で1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の18.3%<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/laos/#economy |title=Population below poverty line |access-date=2023年6月18日 |publisher=CIA}}</ref>。 [[1975年]]12月にラオス人民民主共和国が樹立され、急速な[[社会主義]]化を行ったものの、タイからの国境封鎖や、[[1975年]]と[[1976年]]の旱魃などにより、激しい[[インフレーション|インフレ]]と農産物・日用品の不足を引き起こし、[[1979年]]には社会主義建設のスピードが緩和された。 [[1983年]]に再び社会主義化を目指すが、ソ連の[[ペレストロイカ]]の動きと呼応して[[1986年]]には市場原理の導入、対外経済開放を基本とする新経済メカニズムが導入された。 この間、ソ連やベトナムを中心とする[[東側諸国]]からの多大な援助に依存する経済構造であった。そのため、[[1989年]]から[[1991年]]にかけて東欧諸国で起こった共産政権の瓦解は、ラオスにとっても危機であった。この時期に価格の自由化を行ったことによって、激しいインフレと通貨[[キープ (通貨)|キープ]]が大幅に下落するなど経済は混乱した。 ラオス政府はIMFのアドバイスの下、経済引き締め政策を実施した。また、西側先進国との関係を改善し、国際機関や西側先進国からの援助が増大した結果、[[1992年]]には経済が安定した。 [[1997年]]7月に隣国タイで始まった[[アジア通貨危機]]はラオスにも大きな影響を与え、キープは対ドルだけでなく、対バーツでも大幅に減価した。 国内ではタイ[[バーツ]]が自国通貨のキープと同じように流通し、[[バーツ経済圏]]に取り込まれている。[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]も通用するので、ホテルやレストランから市場や街の雑貨屋まで、この3つのどの通貨でも支払いができる。中国国境近くでは、[[人民元]]も通用する。 [[1997年]]に[[ルアン・パバンの町]]が、[[2001年]]には[[チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群]]がそれぞれ[[世界遺産]]に公式登録されたほか、政府が[[1999年]]から[[2000年]]にかけてをラオス観光年として観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。 観光のほか、国土の約半分を占める森林から得られる木材、[[ナムグムダム|ナムグム・ダム]]を始めとする[[水力発電]]の隣国タイへの売電、対外援助などが主な外貨源となっている。この中でも特に水力発電によってラオスは'''東南アジアのバッテリー'''と呼ばれている。 21世紀に入り、外国企業の投資促進のため、国内に経済特別区が設けられ、2012年には10か所となった。南部[[パークセー郡]]には日系中小企業向けの特区も開設されている<ref>[https://pjsez.com/ パクセー・ジャパン日系中小企業専用経済特区](2018年3月14日閲覧)</ref><ref>「レンタル工場に日系2社/ラオス工業団地 西松建設、中小進出を促す」『[[日刊工業新聞]]』2018年2月6日(建設・エネルギー・生活面)</ref>。中国やタイなどの賃金水準が上昇する中、安い労働力を求める企業の注目を集めている。海外からの援助や投資により、[[2008年]]には7.8%の経済成長を実現している。 とりわけ隣の大国である中国の進出は目覚ましく、官民挙げて中国から業者や労働者がラオスに流入している。2007年には、ヴィエンチャンに中国系の店舗が集まる[[ショッピングセンター|ショッピングモール]]が出来た。また、首都には中国が建設した公園が完成し、ダム工事など主に日本が行ってきたインフラ整備にも進出している。 2012年の[[世界貿易機関]](WTO)加盟により[[関税]]引き下げの動きが進んでおり、また、2015年には[[ASEAN経済共同体]]のメンバーとして域内の貿易が自由化することで、物流リンクの拠点としての位置づけを高める政策がとられている。 === 農業 === [[ファイル:Markt Luang Prabang.jpg|thumb|[[ルアンパバーン郡|ルアンパバーン]]の市場]] {{main|{{仮リンク|ラオスの農業|en|Agriculture in Laos}}|ラオスにおけるコーヒー生産}} 少ない人口が満遍なく分散して暮らすラオスでは、大部分の人は[[稲作]]を基盤とする農業を営んでいる。まず、自給米を確保して余剰分を販売し、現金収入とする。ラオス人の[[主食]]は[[もち米]]である。自給農業を基盤とした分散型社会である<ref name="kono2010">河野泰之「人はどこに住む?」『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010年)14-15ページ</ref>。ラオスでは、毎年約220万 - 250万トンの米が生産されている。雨季には稲作を、乾季には野菜などの栽培を行っている農家が多い。2005年の生産高は、米57万トン、野菜類77.5万トンである<ref>ラオス統計局 {{Cite web|和書|url=http://www.nsc.gov.la/ |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2010年12月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101210081549/http://www.nsc.gov.la/ |archivedate=2010年12月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }} {{Cite web|和書|url=http://www.nsc.gov.la/ |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2010年12月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101210081549/http://www.nsc.gov.la/ |archivedate=2010年12月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。労働人口の約8割が農業に従事しており、GDPは低いが食料は豊富で、飢餓に陥ったり物乞いが増えたりするといった状況にはない。「貧しい国の豊かさ」と言われるゆえんである。 稲作は、平野部で行われる[[田|水田]][[水稲]]作と山地の斜面を利用した[[焼畑農業|焼畑]]陸稲作とに大きく分けられる。水田は、小規模な井堰で[[灌漑]]し、親から子へと相続し、人々はそこに定着している。焼畑は太陽エネルギーと水循環がもたらす森林植生回復力に依存した農業であるため、土地への執着は少なく、集落内外での移住を人々はいとわない<ref name="kono2010">河野泰之「人はどこに住む?」『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010年)14-15ページ</ref>。{{いつ範囲|近年は|date=2022年2月}}、現金収入を得やすい[[パラゴムノキ]]の栽培をする地域が現れている。 メコン川流域は降雨量に恵まれて土壌が肥沃なため、[[葉菜類]]の栽培も多い。パクセー市郊外の[[ボーラウェン高原]]は良質な[[コーヒー]]、[[キャベツ]]、[[ジャガイモ]]の産地であり、コーヒーはラオス最大の輸出農作物となっている。また、{{いつ範囲|近年まで|date=2022年2月|post-text=まで}}農薬や肥料の使用がされてこなかったことから、無農薬栽培の作物を育てて輸出する動きもある。 === 林業 === ラオスの山林には[[マホガニー]]や[[チーク]]などの[[木材]]が豊富だが、[[19世紀]]からフランスが徹底的に伐採した。{{いつ範囲|現在では|date=2022年2月}}[[マツ]]が主に日本に輸出されている。ラオス高地のマツは[[樹齢]]数百年という巨大で良質なものが多く、年間3万立方メートルの山林が伐採されて日本へ送られる。2, 3級のクズ材は、ラオス国内とベトナムのバイヤーに売られる。マツとともに常緑森林が根こそぎ伐採されるため、保水機能が大きく損なわれて大きな問題となっている<ref name="shiina">[[椎名誠]]『メコン・黄金水道をゆく』p.60-</ref>。 === 鉱業・エネルギー === {{main|{{仮リンク|ラオスの鉱業|en|Mining industry of Laos}}|{{仮リンク|ラオスのエネルギー|en|Energy in Laos}}}} ラオスの鉱業資源は未開発な段階にある。例えば、[[肥料]]の原料などに利用できる[[カリ岩塩]]の大規模な[[鉱床]]が発見されており、面積は30km<sup>2</sup>に及ぶ。[[スズ]]鉱床の埋蔵量は100億トンに及ぶと見積もられている。[[アンチモン]]、[[硫黄]]、[[金]]、[[タングステン]]、[[鉄]]、[[銅]]、[[鉛]]、[[マグネシウム]]、[[マンガン]]の鉱床も発見されている。 しかしながら、険しい山脈が縦横に広がる国土、未整備な交通インフラなどのため、[[2003年]]時点では、[[石炭]](29万トン)、[[スズ]](300トン<!-- 万トンではない -->)、[[塩]](5000トン)に留まっている。唯一開発が進んでいるのは[[宝石]]であり、[[1991年]]には[[サファイア]]の生産量が3万5000[[カラット]]に達した。 ラオスは落差が大きい河川が多い割には人口が少なく、工業の発展が遅れている。このため[[水力発電|水力発電所]]の建設が相次ぎ、タイなどに電力を輸出している。ただ国内の送電網整備が遅れているため、売り先のタイから電力を輸入する矛盾も抱えている<ref>{{Cite news|url=http://globe.asahi.com/feature/side/2017042300001.html|title=発電大国ラオス、国内電力は「輸入頼み」外資主導で「二重構造」送電網整備がカギに|work=|publisher=[[朝日新聞グローブ|朝日新聞GLOBE]]|date=2017年4月23日}}</ref>。 === 製造業 === 内陸国であり、外洋に面した港を持っていない。メコン川は大型船も航行できる川幅はあるが、ラオス南部に[[コーンパペンの滝]]群があるため、外海から遡上できない。こうした物流面でのハンディは、外海に面した港湾を持つ周辺諸国との道路・鉄道整備により克服されつつある。このため、賃金上昇や人手不足に直面しているタイに比べて労働力が豊富で人件費が安い「タイ+1(プラスワン)」の対象国として、[[カンボジア]]や[[ミャンマー]]ともに注目されている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20151228/k00/00m/020/068000c 「ASEAN共同体 300兆円市場、統合進む…31日発足」]『毎日新聞』朝刊2015年12月28日</ref>。ただ現状では製造業は発展途上で、市場に並ぶ工業製品の大半はタイ製か中国製である。 かつて近代的な設備を備えた大きな工場は、[[ビール]]や[[清涼飲料水]]などを生産する国営のメーカー「[[ビア・ラオ]]」が目立つ程度であった。ラオスの酒と言えば米を原料とする[[焼酎]]ラオ・ラーオがあるが、生産は[[家内制手工業]]レベルにとどまる。伝統的な[[織物]]も名高いが、多くは農家の女性たちの副業として手作業により作られている。 === 観光業 === {{main|{{仮リンク|ラオスの観光|fr|Tourisme au Laos|en|Tourism in Laos}}}} 1986年のソ連の[[ペレストロイカ]]の影響を受け、ラオスでも'''チンタナカーン・マイ'''(新思考)と呼ばれる市場経済導入が図られた。これは、中国の[[改革開放]]、ベトナムの[[ドイモイ]](刷新)と同様の、社会主義体制の中に資本主義のシステムを取り入れようという試みである。共産主義政権樹立以降ほぼ鎖国状態にあったラオスであったが、チンタナカーン・マイ以降自由化と開放が進み、上記の[[ラオス#経済|経済]]の項目にある通り、政府がラオス観光年を設定しプロモーションを行って観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。[[ルアン・パバンの町]]と[[チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群|ワット・プー]]などの[[ラオスの世界遺産|2つの世界文化遺産]]や、[[ジャール平原]]、多くの[[仏教]]寺院などが年間300万人を超える外国観光客を呼び、[[外貨]]獲得の大きな産業となっている。プロモーションのため、日本では[[2007年]]9月23日-24日、東京の[[代々木公園]]でラオスの魅力を紹介する第1回ラオスフェスティバル2007が開催された<ref>[http://laos-festival.info ラオスフェスティバル 公式サイト]</ref>。 == 国民 == [[ファイル:Laos-demography.png|thumb|250px|ラオスにおける人口統計の推移]] {{main|{{仮リンク|ラオスの人口統計|fr|Démographie du Laos|en|Demographics of Laos}}}} 2021年時点での[[人口]]は733万人であり、2000年以降は年10万人ペースで右肩上がりに着実に増加している<ref name="jibunnshi">[http://ecodb.net/country/LA/imf_persons.html ラオスの人口・雇用・失業率の推移 世界の経済ネタ帳]</ref>。 <!-- ''詳細は[[ラオスの国民]]を参照'' --> 人口密度は、1km<sup>2</sup>辺り24人<ref name="toukei">ラオス国家統計センター、2006年</ref>。ちなみに、ベトナムは256人、タイは132人、中国・雲南省は114人、カンボジアは82人、ミャンマーは74人であり、ラオスは人口が少ないことが分かる。ラオスには、大きい人口を抱える広大な地域がない。たとえばベトナムの[[紅河デルタ]]、[[メコンデルタ]]、タイの{{要検証範囲|チャオオプタ|date=2022年2月|title=Google での検索結果: チャオオプタ に一致する結果は見つかりませんでした}}デルタ、ミャンマーの{{要検証範囲|イワラジデルタ|date=2022年2月}}のような政治・経済の中心地になる地域がない<ref name="kono2010">河野泰之「人はどこに住む?」『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010年)14-15ページ</ref>。最大の人口を抱える首都ヴィエンチャンでも人口71万人<ref name="toukei" />である。 === 民族 === [[ファイル:Phuan Girls.JPG|thumb|伝統衣装である[[シン (民族衣装)|シン]]を着たラオスの女性]] [[ファイル:Hmong girls in Laos 1973 2.jpg|thumb|モン族の少女たち(1973年撮影)]] 一番多いのは人口の半分以上を占めるラオ族<ref name="日本国外務省"/>([[ラーオ族]])であり、それに50程度の[[少数民族]]<ref name="日本国外務省"/>が続く。しかし、ラオス政府はラオス国籍を持つ者を一様に[[ラオス人]]として定義しているため、公式には少数民族は存在しない。 1950年以降は次のように大きく3つに分けられており、それぞれの人口比率は60対25対15である<ref name="takeda2010_31">竹田晋也「森の国ラオス」『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010年)31ページ</ref>。その区分の有効性は疑わしいが、この区分が国民の間に広まっている<ref name="kono2010">河野泰之「人はどこに住む?」『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010年)14-15ページ</ref>。 ラオス政府の定義するラオス人は住む地域の高度により、低地ラーオ族(ラーオルム、国民の約7割、ラオス北部の山間盆地)、丘陵地ラーオ族(ラーオトゥン、国民の約2割、山麓部に居住、水田水稲作と焼畑の両者を組み合わせ)、高地ラーオ族(ラーオスーン、国民の約1割、山深くに居住、[[陸稲]]・[[トウモロコシ]]を焼畑で栽培)に分けられる。 ; 低地ラーオ族 : 川の流域の平野、平地に住む人々、[[国勢調査]](2005年)8民族。[[タイ族]]系民族。ラオスの先住民ではない。メコン河沿いのルアンパバーン、サワンナケート、チャムパーサックの平野、シェンクワンやカムムアンの高原などに居住し、人口を増やしていった。水田水稲作、[[高床住居]]、[[天秤棒]]で運搬、[[母系制]]、[[上座部仏教]]信仰<ref name="yasui2010_21-22">[[安井清子]]「居住地の高度による民族分類」『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010年)21-22ページ</ref>。 ; 丘陵地ラーオ族 : 産地の中腹、丘陵地に住む人々、[[モン族 (Mon)]]・クメール系民族。ラオスの[[先住民族]]。北から南の山の中腹(300 - 800メートルくらい)にラオス中に広く居住。特に南部に多い。山の斜面で焼畑、狩りに長じる森の民族。国勢調査(2005年)32民族。最多がクム族の61万人、最少はクリー族が500人未満(1995年統計よりさらに減少)。存亡が危惧される民族も多い。南部の世界遺産[[プラーサート・ワット・プー]]その他のクメール遺跡を残す<ref name="yasui2010_21-22" />。 ; 高地ラーオ族 : 山の高地、頂上近くに住む人々、[[モン族 (Hmong)]]・ミエン(Mien, メオ・ヤオ)系民族、チベット・ビルマ系民族。ラオスで一番新しい住民たちで、18世紀から19世紀にかけて、中国の[[雲南省]]や[[四川省]]などから移住してきた人々である。中国[[清]]朝時代の少数民族に対する圧政に耐えかねて逃れてきた人々も多い。中国、ベトナム、タイ、ミャンマーなどの国境の山岳地帯にまたがって、広がって住んでいる民族である。これらの民族は、焼畑で[[粳|うるち米]]やトウモロコシを作って生活している。文字を持っていない<ref name="yasui2010_22">安井清子「居住地の高度による民族分類」『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010年)22ページ</ref>。 実際には、[[フアパン県]]に[[カム族]]、[[タイデン族]]、[[タイダム族]]、[[モン族 (Hmong)|モン族]]、[[青モン族]]、[[黒モン族]]、[[ヤオ族]]が、[[ウドムサイ県]]にはモン族が、 [[ポンサーリー県]]には[[ハニ族|アカ族]]とタイダム族が、[[ルアンナムター県]]には[[ランテン族]]、[[黒タイ族]]、[[タイルー族]]、タイダム族、アカ族、[[イゴー族]]、ヤオ族、モン族が住んでいる。 このような標高による住み分け分布ができたのは、紀元前からモン・クメール系の人々がこの地域に暮らしていたが、9世紀ごろからタイ系の人々が南下してきたことに端を発する。その後、清代末期の19世紀後半からモン・ミエン系やチベット・ビルマ系の人々が中国南部から移住してきた。[[漢民族|漢人]]の支配・干渉を嫌い移住してきたと言われている<ref>富田晋介「村の成り立ち」『ラオスを知るための60章』(明石書店、2010年)52-53ページ</ref>。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|ラオスの言語|fr|Langues au Laos}}}} 各民族語が話されているが、[[公用語]]に定められているのはラオス語<ref name="日本国外務省"/>([[ラーオ語]])である。ラーオ語と[[タイ語]]は同一言語に属する個別の地域変種の関係(平たく言えば、ラーオ語とタイ語はそれぞれが互いに[[方言]]関係)にあるが{{Efn2|タイ (Tai) 系言語にラーオ語、黒タイ語、タイヌア語、ルー語、ブータイ語、セーク語などがある。}}、ラオスではタイからの影響力を遮断するため、ラーオ語の独立性を強調する傾向にある。 [[英語]]は、ホテルや旅行者向けのレストランなどではほぼ通じる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.arukikata.co.jp/country/asia/LA_life.html |title=ラオス 現地情報 |website=地球の歩き方 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081026053744/http://www.arukikata.co.jp/country/asia/LA_life.html |archivedate=2008-10-26 |accessdate=2022-02-24}}</ref>。また、フランス式教育を受けた者や政府幹部、エリートなどには[[フランス語]]も通用する。 === 婚姻 === ほとんどの女性が夫の姓に改姓する(夫婦同姓)が、改姓しない女性もいる([[夫婦別姓]])<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/lao-culture/naming-22efe782-3f82-4aaa-b9af-e8dbdeef0ce1#naming-22efe782-3f82-4aaa-b9af-e8dbdeef0ce1 Lao Culture], Cultural Atlas.</ref>。また、[[一夫多妻制]]が事実上公認されている。ラオスでは憲法と家族法では一夫多妻制の法的承認を禁止しており、[[一夫一婦制]]がこの国の主要な結婚形態であると規定している<ref>{{cite web |title=Social Discrimination in the Lao People's Democratic Republic|author=<!--Not stated--> |url=https://www.genderindex.org/wp-content/uploads/files/datasheets/2019/LA.pdf|access-date=09 June 2023|archive-date=8 March 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210308025704/https://www.genderindex.org/wp-content/uploads/files/datasheets/2019/LA.pdf |url-status=live }}</ref>。しかし、一夫多妻制自体は違法とされているものの、一部のモン族の間では一夫多妻制が今でも慣習として残っている<ref>{{cite web|url=http://genderindex.org/country/Lao-PDR|title=Lao PDR: Family Code |publisher=Genderindex.org|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110309115646/http://genderindex.org/country/Lao-PDR|access-date=09 June 2023|archive-date=9 March 2011}}</ref>ことから、罰則は軽いものとなっている。 === 宗教 === [[ファイル:Luang Prabang Takuhatsu ルアンパバーン 托鉢 DSCF7017.JPG|thumb|180px|right|19世紀まで続いていたラーンサーン王朝では仏教が[[国教]]とされていた。ルアンパバーンでは現在でも毎朝、僧侶による[[托鉢]]が見られる。]] [[ファイル:Pha That Luang, Vientiane, Laos.jpg|thumb|180px|[[タート・ルアン]]はラオスを代表する仏塔の一つである。ラオスのシンボルであり、[[ラオスの国章|国章]]にもタート・ルアンが描かれている。]] {{main|{{仮リンク|ラオスの宗教|en|Religion in Laos}}}} 宗教は[[上座部仏教]]が60%、[[アニミズム]]やその他の宗教が40%であるが、しばしば仏教とアニミズムが混同されて信仰されていることがある。その他ラオス南部では[[キリスト教]]も信仰されている。 19世紀まで続いていたラーンサーン王朝では仏教が[[国教]]とされていた。しかし、ラオス人民民主共和国成立後、仏教は特別な保護を受けなくなった。ただし、農村の地域コミュニティーと仏教寺院は密接な関係を保ち続けている。そのため、ラオス人民革命党も「党の理念・思想と一致する」と明言するなど、仏教との関係を意識している<ref>『諸外国の行政制度等に関する調査研究』No.14「[https://www.soumu.go.jp/main_content/000537348.pdf ラオスの行政]」(平成18年9月、[[総務省]]大臣官房企画課)pp.4-5</ref>。 === 教育 === [[ファイル:National University of Laos(NUOL)ມ.ຊ - panoramio.jpg|thumb|180px|right|[[ラオス国立大学]] <br> この大学は首都ヴィエンチャンに在る]] {{main|{{仮リンク|ラオスの教育|en|Education in Laos}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ラオス国立図書館|en|National Library of Laos}}}} === 保健 === [[ファイル:VientianeHospital.jpg|thumb|180px|right|{{仮リンク|マホソット病院|en|Mahosot Hospital}} <br> この病院は首都ヴィエンチャンに在る]] {{main|{{仮リンク|ラオスの保健|en|Health in Laos}}}} {{節スタブ}} ==== 衛生環境 ==== {{main|{{仮リンク|ラオスにおける給水と衛生|en|Water supply and sanitation in Laos}}}} ラオスの人口の大部分は農村部であることから、衛生への投資が困難となっている<ref>Department of Statistics, Ministry of Planning and Investment, 2009</ref>。 1990年には、改善された衛生設備を利用できる農村人口が僅か 8% にしか満たなかった<ref>O'Meally, Simon (2010). [http://www.developmentprogress.org/progress-stories/lao-pdrs-progress-rural-sanitation Lao PDR's progress in rural sanitation] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120117181104/http://www.developmentprogress.org/progress-stories/lao-pdrs-progress-rural-sanitation |date=17 January 2012 }}. London: Overseas Development Institute</ref>。2014年に実施された[[世界銀行]]調査のデータによると、ラオスは[[国際連合児童基金|ユニセフ]]と[[世界保健機関|WHO]]の共同監視プログラムに基づく『水と衛生に関する「ミレニアム開発目標(MDG)」』の目標数値を達成しているが、2018年の時点では、同国人口の内 約190万人が改善された給水を利用できず、240万人が改善された衛生設備を利用できない状態となっている<ref>{{Cite web|url=http://documents.worldbank.org/curated/en/295731467999376153/pdf/100892-WSP-P131116-AUTHOR-Susanna-Smets-Box393244B-PUBLIC-WSP-SERIES-WSP-LaoPDR-WSS-Turning-Finance-into-Service-for-the-Future.pdf|title=Water Supply and Sanitation in Lao PDR|website=www.worldbank.org|access-date=09 June 2023|archive-date=20 August 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20190820000057/http://documents.worldbank.org/curated/en/295731467999376153/pdf/100892-WSP-P131116-AUTHOR-Susanna-Smets-Box393244B-PUBLIC-WSP-SERIES-WSP-LaoPDR-WSS-Turning-Finance-into-Service-for-the-Future.pdf|url-status=live}}</ref>。 == 社会 == [[黄金の三角地帯]]の一ヶ所である点から、{{仮リンク|薬物関連犯罪|label=薬物犯罪|en|Drug-related crime}}に絡む問題が根深い面を遺している<ref>{{Cite web|url=https://www.lepoint.fr/monde/le-laos-communiste-plaque-tournante-du-trafic-de-drogue-en-asie-du-sud-est-09-05-2017-2125994_24.php|title=Le Laos communiste, plaque tournante du trafic de drogue en Asie du Sud-Est|newspaper=Le Piont|date=2017-05-09|access-date=2023-06-09}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ラオスの麻薬政策|en|Drug policy of Laos}}}} {{節スタブ}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|ラオスにおける犯罪|en|Crime in Laos}}}} 2023年04月17日時点で[[外務省]]は、「近年、首都ビエンチャン等の都市部を中心に、ひったくり、強盗、置き引き、侵入盗等の一般犯罪が多発しています。また、日本人が被害者となる空き巣、昏睡強盗、夜道でのひったくり事案も発生しています。また、2022年5月に、新型コロナウイルス防止対策によるラオスの入国制限が大幅に緩和されてから、日本人旅行者が被害者となるひったくりや睡眠薬強盗も発生していますので、注意が必要です。」としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_020.html#ad-image-0|title=ラオス 危険・スポット・広域情報|accessdate=2023-06-09|publisher=外務省}}</ref>。また、ラオスでは[[汚職]]が問題となっており、政府は汚職の抑制に努めて来ている<ref>{{cite web|url=http://www.unodc.org/laopdr/en/stories/anti-corruption-experts-visited-laos-for-uncac-implementation-review.html |publisher=United Nations Office on Drugs and Crime|title=Anti-corruption experts visited Laos for UNCAC implementation review|access-date=June 09, 2023}}</ref>ものの、2012年における[[トランスペアレンシー・インターナショナル]](TI)の[[腐敗認識指数]]によれば、合計 176ヶ国中160位にランクされている<ref>{{cite web|url=http://www.ey.com/Publication/vwLUAssets/2012_TI_CPI/$FILE/2012%20TI%20CPI.pdf|title=Transparency International Corruption Perceptions Index 2012 |publisher=Ernst & Young|access-date=June 09, 2023}}</ref>。 {{節スタブ}} === 法執行機関 === {{仮リンク|ラオス公安省|en|Ministry of Public Security (Laos)}}が主体となっている。公安省の管轄下にあるラオス国家警察は、かつての王国時代に設立された{{仮リンク|ラオス王立警察|en|Royal Lao Police}}が前身となっている。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ラオスにおける人権|en|Human rights in Laos}}}} ラオス政府は、同国の少数民族であるモン族へ対し大量虐殺を行なったとして非難されている実情がある<ref>{{cite web| url=http://www.unpo.org/article/5095| author=Unrepresented Nations and Peoples Organization|access-date=09 June 2023|title=WGIP: Side event on the Hmong Lao, at the United Nations|archive-date=3 May 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20190503153605/https://unpo.org/article/5095|url-status=live}}</ref> 。 {{See also|{{仮リンク|モン族紛争|fr|Conflit hmong}}}} NGOや人権活動家の報告によると、現地では個別の人権侵害事件が多数発生しているという。 一例としては、反体制的な政治的見解を表明したことによる投獄が国際人権団体によって大々的に報道されていた2人の元政府高官の不当な扱いを巡る事件が知られる。この人物らは3名で政府の政策に懸念を表明し、経済・政治改革を主張したとして1990年に逮捕されていた<ref>{{cite web|url=http://portal.unesco.org/en/ev.php-URL_ID=4836&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html|title=UNESCO - UNESCO appeals for release of Laotian policial prisoner Latsami Khamphoui|access-date=09 June 2023|archive-date=3 March 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160303180042/http://portal.unesco.org/en/ev.php-URL_ID%3D4836%26URL_DO%3DDO_TOPIC%26URL_SECTION%3D201.html|url-status=live}}</ref>。 なお、元政府高官2人は2004年10月に釈放されている<ref>{{Cite web |url=http://www7.nationalacademies.org/humanrights/Latsami_Khamphoui_Released.html |title=Committee on Human Rights: Former Laotian Officials Latsami Khamphoui and Feng Sakchittahong Released after 14 Years in Prison |access-date=2023-06-09 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080908003851/http://www7.nationalacademies.org/humanrights/Latsami_Khamphoui_Released.html |archive-date=2008-09-08|url-status=dead }}</ref>が、彼らと共に有罪判決を受けた3人目の反体制派の人物は1998年に獄中で死亡した。 また、1999年10月時点では、ラオス国内で平和的な経済、政治、社会の変革を求めるポスターを掲示しようとしたとして30人の若者が拘束された。その内5人は逮捕され、後に反逆罪で最長10年の懲役刑を言い渡されている。その後、1人は看守らの暴行により死亡し、1人は釈放された。生き残った3人は2009年10月までに釈放される筈であったが、行方不明の侭となっている<ref>{{cite web|url=https://www.amnesty.org/en/documents/asa26/003/2009/en/|author=Amnesty International|date=May 2010|title=Submission to the UN Universal Periodic Review: Eighth session of the UPR Working Group of the Human Rights Council|access-date=2023-06-09|archive-date=2018-11-30|archive-url=https://web.archive.org/web/20181130202121/https://www.amnesty.org/en/documents/asa26/003/2009/en/|url-status=live}}</ref>。 {{節スタブ}} ==== 人身売買 ==== [[2017年]][[2月20日]]、裕福な[[中国人]]との偽りの結婚話で騙され、[[売春]]をさせられる[[女子高生|女子高校生]]が増加していると地元メディアが報じた。以前より結婚や就職を隠れ蓑にしてタイへ少女を売る被害が報告されていたが、このタイルートに加え、{{いつ範囲|近年は|date=2022年2月}}中国ルートが増加していることが[[人身売買]]を調査している[[非政府組織|NGO]]団体職員により判明している。被害少女の多くは高校2、3年生が主体で、結婚のために学校を中退する。中国人は首都ヴィエンチャンを含むラオス全土で少女らに声をかけており、ラオス政府も事態を把握している。旧来から存在するタイルートでは役人への[[賄賂]]が常習化し、一つのビジネスとなっているが、中国ルートも同様になっている可能性が高い。ラオス国内の人身売買の実態は公式の調査が行われず、正確な被害数すら把握されておらず、人権団体の調査も政府機関の不透明な対応で妨害されがちであるという<ref name="globalnewsasia">[https://globalnewsasia.com/article.php?id=4123&country=5&p=2 グローバルニュースアジア 2017年11月15日 - ラオス少女の人身売買が急増ー裕福な中国人との結婚と騙され] 配信日時:2017年2月20日 9時00分</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ラオスにおける性的人身売買|en|Sex trafficking in Laos}}}} == メディア == {{main|{{仮リンク|ラオスのメディア|en|Mass media in Laos}}}} ラオスの[[新聞]]は、英語新聞『[[ヴィエンチャン・タイムズ]]』(''Vientiane Times'') およびフランス語新聞『[[ル・レノヴァテュール]]』(''Le Rénovateur'') を含めて全て政府機関発行である。更に、公認通信社カオサン・パテート・ラオ (Khaosan Pathet Lao, Lao News Agency) が同名の英仏語版新聞を発行している。主なラーオ語新聞としては『パサション』(''Pasaxon'')、『ヴィエンチャン・マイ』(''Vientiane Mai Newspaper'') がある。 ラオスでは、[[ラオス国営ラジオ]] (Lao National Radio, LNR) の放送が[[中波]]、[[短波]]、[[超短波放送|FM]]にて行われている。テレビは、[[ラオス国営テレビ]] (Lao National Television, LNTV) が2つのチャンネルで放送されている。また、タイのテレビ放送を視聴している人も多い。 一方で[[国境なき記者団]]が発表している[[世界報道自由度ランキング]]の2009年版では、中華人民共和国に次いで低い169位に選ばれている。 {{see also|{{仮リンク|ラオスにおける報道の自由|en|Freedom of the press in Laos}}}} === インターネット === {{see|{{仮リンク|ラオスのインターネット|en|Internet in Laos}}}} メッセージのやり取りには[[WhatsApp]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]といった外国製[[モバイルアプリケーション|アプリ]]の利用者が多いが、ラオスの通信会社シリチャルーンサイと政府が共同開発した「LoudChat」(ラウドチャット)のサービスが2022年4月に始まった<ref>「ラオス初の国産対話アプリ 公共料金支払い機能も追加へ 政府主導で開発、監視に懸念も」『[[日経MJ]]』2022年6月3日アジア・グローバル面</ref>。言論への監視・統制が行なわれているが、[[ソーシャルネットワークサービス|SNS]]では政府批判が投稿されることもある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB277ZX0X20C22A6000000/ 「デフォルト迫る社会主義ラオス SNSで政府批判強まる」]日本経済新聞/NIKKEI Asia(2022年6月28日)2022年7月17日閲覧</ref>。 == 文化 == {{main|ラオスの文化}} === 食文化 === [[ファイル:Kuang Si Waterfalls Luang Prabang-Laos ラオス・ルアンパバーン・クアンシーの滝 DSCF6527.jpg|thumb|300px|right|どの街でも屋台文化が盛んである。]] {{main|ラオス料理}} {{節スタブ}} === 文学 === {{main|{{仮リンク|ラオス文学|fr|Littérature laotienne|en|Literature of Laos}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|ラオスの音楽|fr|Musique laotienne|en|Music of Laos}}}} ラオスの音楽文化は、カンボジア音楽やベトナム音楽など近隣諸国の音楽文化と多くの類似点が存在する。特にタイ音楽との類似点が多いことが知られる。 {{節スタブ}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|ラオスの映画|en|Cinema of Laos}}}} {{節スタブ}} === 芸術 === {{main|{{仮リンク|ラオス美術|fr|Art lao|en|Lao art}}}} {{節スタブ}} === 被服・服飾 === [[ファイル:Xoutlao.jpg|thumb|200px|right|シュアウト・ラオを着たラオスの女性たち]] 一般的な伝統衣装には{{仮リンク|シュアウト・ラオ|en|Xout lao}}と呼ばれるものが存在する。シュアウト・ラオはラーオ語で「ラオスの衣装」を意味する、文字通りの名称である。他には{{仮リンク|スアパット|en|Suea pat}}という[[漢服]]に似通った形状の衣装があり、この衣装は長袖の仕様となっている。 {{節スタブ}} === 建築 === [[ファイル:Vat Xieng Thong.JPG|thumb|200px|right|ワット・シェントーン <br> ルアンパバーン群に位置する仏教寺院の代表格となっている。]] [[ファイル:Vat Nong Sikhounmuang.jpg|thumb|200px|right|ワット・ノン・シクムンアン <br> ルアンパバーン群の仏教寺院の一つで、古くから残存する仏教建築の一部として知られる。]] ラオスを代表する歴史的建築物には仏教寺院である[[ワット・シェントーン]]が知られている。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{main|ラオスの世界遺産}} ラオス国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件存在する。 * [[ルアン・パバンの町]] - (1995年) * [[チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群]] - (2001年) * [[シエンクワーン県]][[ジャール平原]]の巨大石壺遺跡群 - (2019年) === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ラオスの祝日|en|Public holidays in Laos}}}} {| class="wikitable" |+ ラオスの祝日一覧 |- ! 日付 ! 日本語表記 ! 現地語表記 ! 備考 |- | 1月1日 | 新年 | | |- | 1月20日 | [[ラオス人民軍|国軍]]記念日 | | [[ラオス人民軍#歴史|ラオス人民革命軍]]設立記念日 |- | 2月9日 | [[マーカブーサー]] | | [[仏陀]]が死後のあり方を予言した日 |- | 3月8日 | 女性の日 | | 3月8日、国際女性の日 |- | 4月14日 - 16日 | [[ピーマイラーオ]](ラオス[[正月]]) | | |- | 5月1日 | 労働日 | | [[メーデー]] |- | 5月8日 | [[ビサーカブーサー]] | | [[釈迦]]の誕生日 |- | 6月1日 | 子供の日 | | 国際子どもの日、植樹の日 |- | 7月7日 | [[カオパンサー]] | | 「[[安居|雨安居]]入り」の儀式 |- | 8月15日 | 憲法記念日 | | |- | 8月20日 | [[お盆]] | | |- | 9月4日 | [[ブン・カオサラック]] | | 先祖供養 |- | 10月4日 | [[安居#タイ仏教|オークパンサー]] | | 「雨安居明け」の儀式 |- | 10月5日 | ボート祭り | | |- | 10月7日 | 教師の日 | | 国際教師の日は10月5日 |- | 10月12日 | 独立宣言記念日 | | |- | 11月2日 | [[タート・ルアン]]祭り | | 「タート」は「塔」、「ルアン」は「大きい」の意味で、<br />首都ヴィエンチャンにある黄金の[[仏塔]]のこと。 |- | 12月2日 | 建国記念日 | | ナショナルデーとして国民の休日 |- | 12月13日 | [[カイソーン・ポムウィハーン]]誕生日 | | ラオス人民民主共和国成立の功労者 |} == スポーツ == {{Main|ラオスのスポーツ}} ラオスには「{{仮リンク|ムエラオ|fr|Muay Lao|en|Muay Lao}}」と呼ばれる伝統的な[[格闘技]]が存在する。 ムエラオはタイの[[ムエタイ]]やカンボジアの[[クン・クメール]]の原型とされている。 {{節スタブ}} === オリンピック === {{See also|オリンピックのラオス選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ラオスのサッカー|en|Football in Laos}}}} ラオス国内では[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[1990年]]にサッカーリーグの[[ラオス・リーグ]]が創設され、[[2013年]]にプロ化された。[[ペプシコーラ]]がリーグに協賛しており、「ペプシ・ラオ・リーグ1」と呼ばれている。[[ラオスサッカー連盟]](LFF)によって構成される[[サッカーラオス代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]や[[AFCアジアカップ]]には未出場である。[[東南アジアサッカー選手権]]には12度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。 == 著名な出身者 == {{Main|{{仮リンク|ラオス人の一覧|en|List of Lao people}}|Category:ラオスの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em|refs= <ref name="日本国外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/laos/data.html#section1 ラオス人民民主共和国(Lao People's Democratic Republic)基礎データ][[日本国外務省]](2022年7月17日閲覧)</ref> <ref name="asahi1">[https://web.archive.org/web/20220425200709/https://www.asahi.com/international/reuters/CRWKBN29K14Z.html 「ラオス人民革命党、トンルン首相を新書記長に選出」][[朝日新聞デジタル]]2021年1月15日配信の[[ロイター]]記事(2022年7月17日閲覧)</ref> <ref name="population">{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/la.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> }} == 参考文献 == * [[菊池陽子]]・[[鈴木玲子]]・阿部健一編著『ラオスを知るための60章』2010年、東京、[[明石書店]] {{ISBN2| 978-4-7503-3309-0}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|東南アジア|[[ファイル:SE-asia.png|45px|Portal:東南アジア]]}} * [[ラオス関係記事の一覧]] * [[ラオス人民革命党]] * [[ラオス人民軍]] * [[日本とラオスの関係]] * [[駐日ラオス大使館]] * [[在日ラオス人]] * [[一党独裁制]] == 外部リンク == {{Commons&cat}} {{Wikinewscat}} {{Wikivoyage|Laos|ラオス{{en icon}}}} {{Wiktionary|ラオス|老檛}} ; 政府 法律 :* [https://www.moj.go.jp/content/000010380.pdf 憲法(日本語訳)] - [[法務省]][[法務総合研究所]]国際協力部のウェブサイト内。 :* [https://www.moj.go.jp/content/000010256.pdf ラオス法制度の概要] - 法務省法務総合研究所国際協力部のウェブサイト内。[[法整備支援]]を通じて得られた知見を整理したもの。統治機構、司法制度、法体系、立法手続など。 :* [https://www.moj.go.jp/content/000069004.pdf ラオス民法教科書作成支援について] - 法務省法務総合研究所国際協力部のウェブサイト内。法整備支援の展望のほか、ラオス民法の概要や特色を解説。 :* [https://www.moj.go.jp/content/000010332.pdf ラオス民事判決書マニュアル及び附属判決例1-4(日本語訳)] - 日本の法整備支援を受けて作成された。従前のラオスの判決の特色や支援の経過などは、 [https://www.moj.go.jp/content/000010331.pdf ラオス法制度整備プロジェクト-民事判決書マニュアル-]を参照。 :* [http://www.lao.jp/ ラオス政府観光局] {{ja icon}} :* [https://www.lao-airlines.jp/ ラオス国営航空] {{ja icon}} ; 日本政府 :* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/laos/ 日本外務省 ラオスの情報] {{ja icon}} :* [https://www.la.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ラオス日本国大使館] {{ja icon}} ; その他 :* [https://www.jetro.go.jp/world/asia/la/ ジェトロ - ラオス] :* [https://www.asean.or.jp/ja/tourism/guide/laos/guide/ 日本アセアンセンター - ラオス] :* [http://www.vientianetimes.org.la/ ヴィエンチャン・タイムズ] :* [http://www.lerenovateur.org.la/ ル・レノヴァテュール] :* [http://www.kpl.net.la/ カオサン・パテート・ラオ] :* [http://www.pasaxon.org.la/ パサション] :* [https://lnr.org.la/ ラオス国営ラジオ] :* [http://laos-festival.info/ ラオスフェスティバル公式サイト]{{ja icon}} :* {{Osmrelation|49903}} :* {{wikiatlas|Laos}}{{en icon}} :* {{Curlie|Regional/Asia/Laos}}{{en icon}} :* {{Googlemap|ラオス}} :* [https://m.arukikata.co.jp/country/LA/ 地球の歩き方 - ラオスの旅行・観光ガイド] :* [https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/asia/lao_people's_democratic_republic/sp_index.html JTB - ラオス観光ガイド] :* [https://www.laodijp.com/ LAODI - ラオス産の世界的無農薬クラフトラム酒] {{共産主義}} {{アジア}} {{ASEAN}} {{OIF}} {{各国の社会主義}} {{Normdaten}} {{Coord|17|58|N|102|36|E|region:LA_type:country|display=title|name=ラオス}} {{デフォルトソート:らおす}} [[Category:ラオス|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:社会主義国]] [[Category:フランコフォニー加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:後発開発途上国]] [[Category:東南アジアの社会主義]]
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Garnet OS
Garnet OS(ガーネットOS)は、ACCESS Systems(旧PalmSource)が開発・ライセンス提供するPDA用オペレーティングシステム (OS)。旧称Palm OS。 Palmデバイスを提供している(いた)メーカーと、製品ブランドの一覧。
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Garnet OS(ガーネットOS)は、ACCESS Systems(旧PalmSource)が開発・ライセンス提供するPDA用オペレーティングシステム (OS)。旧称Palm OS。
'''Garnet OS'''(ガーネットOS)は、[[ACCESS Systems]](旧PalmSource)が開発・ライセンス提供する[[携帯情報端末|PDA]]用[[オペレーティングシステム]] (OS)。旧称'''Palm OS'''。 == 概要 == *1996年に[[パーム (企業)|パーム]]が開発し、Palm OSの名前で自社の[[Palm (PDA)|Palm]]機の搭載用OSとして世に出した。 *[[グラフィティ (Palm)|グラフィティ]]と呼ばれる独特の手書き入力法を採用したほか、起動などの待ち時間が短い軽快な動作と使い勝手の良さからPalmデバイスは大ヒット。 *その後、[[ハンドスプリング (企業)|Handspring]]や[[ソニー]]など多くのメーカーがPalm OSを採用した互換機を発売した。 *OSの開発はその後、Palm本社から分離独立したPalmSource(現ACCESS Systems)社が担当することとなり、[[2004年]]2月には'''Palm OS Cobalt'''と'''Palm OS Garnet'''に分化した。 *Palm OS Cobalt([[コバルト]])はもともとPalm OS 6として開発されてきたバージョンで、[[ハイエンド]]向け。Palm OS Garnet([[ガーネット]])は従来のPalm OS 5の進化系で、エントリーモデルに窓を開きつつ機能の強化を図っている。 **数字でなく[[元素]]や[[宝石]]の名前をつけたのは、後者が前者の下位システムという位置づけではなく、それぞれ独自に発展していくことを示す狙いがあるとされる。 **実際、ACCESS SystemsによればCobaltはその[[ソースコード]]の大半が書き直され、Garnetとは別物に仕上がっているという。 *[[2007年]][[1月25日]]に、ACCESS Systemsは、Palm OSの名前をGarnet OSに変更すると発表。Palm OS搭載機に刻印されていた「Palm Powered」のロゴも「ACCESS Powered」に改められた。 == 製品シリーズの一覧 == [[ファイル:PalmPilot5000.jpg|120px|right|thumb|PalmPilot 5000]] [[ファイル:Palm Zire 72.JPG|120px|right|thumb|Zire 72]] [[ファイル:Handspring visor edge.triddle.jpg|180px|right|thumb|Visor Edge]] Palmデバイスを提供している(いた)メーカーと、製品ブランドの一覧。 *[[パーム (企業)|パーム(旧・palmOne)]] **PalmPilot(この名称は[[パイロットコーポレーション|パイロット]]の商標権を侵害していたので使えなくなった<ref>{{Cite web|和書|[email protected]|date=1998-04-22|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980422/pilot.htm |title=パイロット、3Comと「Pilot」に関する商標権侵害で和解|work=PC Watch 【業界動向】|publisher=[[インプレス]]|accessdate=2013-03-29}}</ref>。) **Palm **Tungsten **Tungsten T5(フラッシュメモリーを搭載) **Zire **Treo(Handspring を買収) **LifeDrive(4GBのMicroDrive搭載) *[[ハンドスプリング (企業)|Handspring]] **Visor **Treo *[[ソニー]] **[[CLIE]](2005年7月販売終了) *[[IBM]] **[[WorkPad]](PalmのOEM) **[[WorkPad 31J]]([[PHS]]内蔵) *TRG **TRGpro **HandEra 330 *Tapwave **Zodiac1 **Zodiac2 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Palm OS Powered|Palm OS 搭載機}} * [[パーム (企業)]] * [[ACCESS Systems]] (旧称・PalmSource) * [[Palm WebOS]] * [[ハンドスプリング (企業)|Handspring]] * [[CLIE]] {{モバイルオペレーティングシステム}} {{Computer-stub}} [[Category:モバイルオペレーティングシステム]] [[Category:組み込みオペレーティングシステム]] [[Category:携帯情報端末]] [[Category:1996年のソフトウェア]]
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OCaml
■カテゴリ / ■テンプレート OCaml([oʊˈkæməl] oh-KAM-əl、オーキャムル、オーキャメル)は、フランスの INRIA が開発したプログラミング言語MLの方言とその実装である。MLの各要素に加え、オブジェクト指向的要素の追加が特長である。かつては Objective Caml という名前で、その略として OCaml と広く呼ばれていたが、正式に OCaml に改名された。 もとはCamlという名前の、MLの方言の処理系実装、および言語であった。この名前はcategorical abstract machine languageの頭字語に由来する(en:Categorical abstract machineも参照)。やがて、categorical abstract machineよりも効率の良い抽象機械ベースに書き直され、クラスや継承などクラスベースオブジェクト指向の言語機能が追加され Objective Camlという名前になり、その後、略称だったOCamlを正式な名前とした。ウェブサイトの概要説明では「OCamlはCaml派生の言語の中で最も知られたものである」としている。もとの処理系も配布され続けており、Caml Lightという名前になっている。英語ではCamlはcamel(ラクダ)と同様に発音されており、アイコン等にもラクダを使っている。 MLの特徴の他に、関数型とオブジェクト指向の両方を併せもつことが特徴的である。ただしそのため、オブジェクト指向を利用した破壊的操作を伴うプログラムがかなり容易に書けてしまう。また、多相バリアント型という特殊なバリアント型により(通常のバリアント型については代数的データ型を参照のこと)、サブセットとスーパーセットの関係になっているバリアント型などを記述できるなどといった特徴もある。 処理系としての特徴は、関数型言語としてはかなり高速に動作することが挙げられ、gccでコンパイルされたC言語と互角かやや遅い程度と言われる。 関数型言語としては比較的アプリケーションの数が多く、例えばMediaWikiにおいてTeXの記述からHTML、MathMLおよび画像の数式を生成するプログラムもOCamlで記述されている。 Caml は OCaml の前身であるMLの方言とその実装である。現在も Caml Light という名前で配布され続けている。 MinCamlは、ペンシルベニア大学(当時)の住井英二郎がOCamlで実装した、Caml似のMLの小型版である。同作者により、コンパイラが OCaml 自身で書かれている。MinCaml は、2004年度の未踏ソフトウェア創造事業に採択された。 MinCaml コンパイラは教育目的での利用を主眼としている。わずか2000行前後のコードで書かれており、実装されている機能はMLのサブセットである。バックエンドはSPARCとx86に対応しており、ある程度の学習をすれば比較的容易に改造を行うことができる(実際、有志によってPowerPC用に出力できるバージョンも提供されている。バックエンドをLLVMに置き換えた例も報告されている。)。実際に東京大学理学部情報科学科などで教育目的に利用され、国内における OCaml および関数型言語の普及と理解に一定の役割を果たしている。 CamlやOCamlのような方言ではなく、SML(Standard ML)の処理系の実装にCaml Light利用している。完全なSMLを実装する。 OchaCaml など、研究用の改造のベースとして、規模の大きくなった OCaml ではなく Caml(Caml Light)を利用する例がみられる。 以下の例は、プログラム自体としてはMLと比べ特別なものでもないし、オブジェクト指向を活用したものでもないが、OCaml を含む Caml では旧来のMLや Standard ML からの記法や演算子や名前の変更が多く、簡単なプログラムでもそのままではエラーになるものが多いので、ここでは OCaml のコードを示す。 特徴として、型推論の活用により、多くの場合に型の宣言が必要なく、一部の静的型付き言語にありがちな煩雑さがないことが挙げられる。 Hello world の例を示す。以下のプログラム hello.ml は、 以下のようにしてバイトコードにコンパイルされる。 以下が実行結果である。 クイックソートのコード例を示す。MLは多くの関数型言語と同様、再帰処理に秀でる。また、Haskell などにも見られるパターンマッチの機能がここでも使われている。 以下は、ラムダ計算の教科書などに見られる、自然数のチャーチ符号化(英語版)のコード例である。 チャーチ数nは、高階関数として表され、関数fと値xを受け取りxにn回fを適用する関数として定義されている。チャーチ数nを自然数nに変換するには、チャーチ数(実体は関数)に、インクリメントする関数と初期値0を渡せばよい。MLは関数型言語であるため、数学的なプログラミングの理論そのままに、記述することができる。
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OCaml( oh-KAM-əl、オーキャムル、オーキャメル)は、フランスの INRIA が開発したプログラミング言語MLの方言とその実装である。MLの各要素に加え、オブジェクト指向的要素の追加が特長である。かつては Objective Caml という名前で、その略として OCaml と広く呼ばれていたが、正式に OCaml に改名された。
{{混同|GNU Octave}}{{Infobox プログラミング言語 | fetchwikidata = ALL | onlysourced = false | name = OCaml | released = {{start date and age|1996}} | typing = 強い[[静的型付け]] | implementations = OCaml | influenced = [[F Sharp|F#]]、[[Scala]]、[[Haxe]] | website = {{ConditionalURL}} }} {{プログラミング言語}} '''OCaml'''({{IPAc-en|oʊ|ˈ|k|æ|m|əl}} {{respell|oh|KAM|əl}}、オーキャムル、オーキャメル)は、フランスの {{lang|fr|[[INRIA]]}} が開発した[[ML (プログラミング言語)|プログラミング言語ML]]の方言とその実装である。MLの各要素に加え、オブジェクト指向的要素の追加が特長である。かつては Objective Caml という名前で、その略として OCaml と広く呼ばれていたが、正式に OCaml に改名された<ref>https://caml.inria.fr/ocaml/name.en.html</ref>。 == 概要 == もとはCamlという名前の、MLの方言の処理系実装、および言語であった。この名前はcategorical abstract machine languageの頭字語に由来する([[:en:Categorical abstract machine]]も参照)。やがて、categorical abstract machineよりも効率の良い抽象機械ベースに書き直され、クラスや[[継承 (プログラミング)|継承]]など[[クラスベース]][[オブジェクト指向]]の言語機能が追加され Objective Camlという名前になり、その後、略称だったOCamlを正式な名前とした。ウェブサイトの概要説明では「OCamlはCaml派生の言語の中で最も知られたものである」<ref>{{lang-en-short|OCaml is the most popular variant of the Caml language.}}</ref>としている。もとの処理系も配布され続けており、Caml Lightという名前になっている。英語ではCamlはcamel(ラクダ)と同様に発音されており、アイコン等にもラクダを使っている。 MLの特徴の他に、関数型とオブジェクト指向の両方を併せもつことが特徴的である。ただしそのため、オブジェクト指向を利用した破壊的操作を伴うプログラムがかなり容易に書けてしまう。また、多相バリアント型という特殊なバリアント型により(通常のバリアント型については[[代数的データ型]]を参照のこと)、サブセットとスーパーセットの関係になっているバリアント型などを記述できるなどといった特徴もある。 処理系としての特徴は、関数型言語としてはかなり高速に動作することが挙げられ、[[GNUコンパイラコレクション|gcc]]でコンパイルされた[[C言語]]と互角かやや遅い程度と言われる<ref>{{cite book | author=OCaml-Nagoya | year=2007 | title=『入門OCaml』 | publisher=毎日コミュニケーションズ | isbn=9784839923112 | pages=p.17}}</ref>。 関数型言語としては比較的アプリケーションの数が多く、例えば[[MediaWiki]]において[[TeX]]の記述から[[HyperText Markup Language|HTML]]、[[MathML]]および画像の数式を生成するプログラムもOCamlで記述されている<ref>[https://www.mediawiki.org/wiki/Texvc Texvc - MediaWiki]</ref>。 == Caml == Caml は OCaml の前身であるMLの方言とその実装である。現在も Caml Light という名前で<ref>正確には名前だけでなく、新しい手法で再実装されたもので、OCaml より Caml Light のほうが古くからある。</ref>配布され続けている。 ===MinCaml=== MinCamlは、[[ペンシルベニア大学]](当時)の[[住井英二郎]]がOCamlで実装した、Caml似のMLの小型版である。同作者により、[[コンパイラ]]が OCaml 自身で書かれている。MinCaml は、[[2004年]]度の[[情報処理推進機構|未踏ソフトウェア創造事業]]に採択された。 MinCaml コンパイラは教育目的での利用を主眼としている。わずか2000行前後のコードで書かれており、実装されている機能はMLのサブセットである。バックエンドは[[SPARC]]と[[x86]]に対応しており、ある程度の学習をすれば比較的容易に改造を行うことができる(実際、有志によって[[PowerPC]]用に出力できるバージョンも提供されている。バックエンドを[[Low Level Virtual Machine|LLVM]]に置き換えた例も報告されている<ref>https://mzp.hatenablog.com/entry/2013/05/08/214712</ref>。)。実際に[[東京大学]]理学部情報科学科などで教育目的に利用され、国内における OCaml および関数型言語の普及と理解に一定の役割を果たしている{{要出典|date=2016年3月|}}。 *[http://min-caml.sourceforge.net/ 速攻MinCamlコンパイラ概説] - MinCamlの配布・解説(<code>SourceForge.net</code>) ===Moscow ML=== CamlやOCamlのような方言ではなく、SML([[Standard ML]])の処理系の実装にCaml Light利用している。完全なSMLを実装する。 ===その他=== OchaCaml など、研究用の改造のベースとして、規模の大きくなった OCaml ではなく Caml(Caml Light)を利用する例がみられる。 ==プログラム例== 以下の例は、プログラム自体としてはMLと比べ特別なものでもないし、オブジェクト指向を活用したものでもないが、OCaml を含む Caml では旧来のMLや [[Standard ML]] からの記法や演算子や名前の変更が多く、簡単なプログラムでもそのままではエラーになるものが多いので、ここでは OCaml のコードを示す。 特徴として、型推論の活用により、多くの場合に型の宣言が必要なく、一部の静的型付き言語にありがちな煩雑さがないことが挙げられる。 === Hello World === [[Hello world]] の例を示す。以下のプログラム <code>hello.ml</code> は、 <syntaxhighlight lang="ocaml"> print_endline "Hello world!";; </syntaxhighlight> 以下のようにして[[バイトコード]]に[[コンパイル]]される。 <syntaxhighlight lang="sh"> $ ocamlc hello.ml -o hello </syntaxhighlight> 以下が実行結果である。 <syntaxhighlight lang="sh"> $ ./hello Hello world! $ </syntaxhighlight> ===クイックソート=== [[クイックソート]]のコード例を示す。MLは多くの関数型言語と同様、[[再帰]]処理に秀でる。また、[[Haskell]] などにも見られるパターンマッチの機能がここでも使われている。 <syntaxhighlight lang="ocaml"> let rec quicksort = function | [] -> [] | pivot :: rest -> let is_less x = x < pivot in let left, right = List.partition is_less rest in quicksort left @ [pivot] @ quicksort right </syntaxhighlight> ===チャーチ数=== 以下は、[[ラムダ計算]]の教科書などに見られる、[[自然数]]の{{ill|チャーチ符号化|en|Church encoding}}のコード例である。 <syntaxhighlight lang="ocaml"> let zero f x = x let succ n f x = f (n f x) let one = succ zero let two = succ (succ zero) let add n1 n2 f x = n1 f (n2 f x) let to_int n = n (fun k -> k+1) 0 let _ = print (add (succ two) two) </syntaxhighlight> チャーチ数''n''は、[[高階関数]]として表され、関数fと値xを受け取りxにn回fを適用する関数として定義されている。チャーチ数''n''を自然数''n''に変換するには、チャーチ数(実体は関数)に、[[インクリメント]]する関数と初期値0を渡せばよい。MLは関数型言語であるため、数学的なプログラミングの理論そのままに、記述することができる。 == OCaml で書かれたソフトウェア == * [[FFTW]] – [[離散フーリエ変換]]を高速に行う[[高速フーリエ変換]]の[[ライブラリ]]。[[C言語]]のコードを出力する<code>genfft</code> という OCaml プログラムが使われている。 * [[Unison]] – 二つのディレクトリのファイルを比較し同期をとるプログラム。 * [[Mldonkey]] – [[EDonkey network]] 用の [[P2P]] クライアント。<ref>http://mldonkey.sourceforge.net/Main_Page</ref> * [[GeneWeb]] – マルチプラットフォームの、フリーの家系図ソフトウェア。<ref>http://cristal.inria.fr/~ddr/GeneWeb/en/index.html</ref> * [[Haxe]] – [[オープンソース]]のプログラミング言語およびコンパイラ実装。 * [[Frama-c]] – [[C言語]]のプログラムを解析するためのフレームワーク<ref>https://frama-c.com/</ref>。 * [[Coq]] - [[INRIA]]で開発されている定理支援証明系言語。 * Flow - [[JavaScript]]の静的型チェッカー。[[Facebook]]により開発されている。<ref>https://flow.org/</ref> * fbinfer - [[Java]]、[[C言語]]、[[C++]]、[[Objective-C]] 向けの静的解析チェッカー<ref>https://fbinfer.com/</ref>。[[Facebook]]がオープンソース化した。 * [[Tezos]] - 自己進化型のスマート・コントラクト プラットフォーム。XTZ を仮想通貨とする。 == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = OCaml-Nagoya |year = 2007 |month = 5 |title = 入門OCaml - プログラミング基礎と実践理解 |publisher = 毎日コミュニケーションズ |location = 東京 |isbn = 978-4-8399-2311-2 }} *{{Cite book|和書 |author = 五十嵐淳 |year = 2007 |month = 12 |title = プログラミング in OCaml: 関数型プログラミングの基礎からGUI構築まで |publisher = 技術評論社 |location = 東京 |isbn = 978-4-7741-3264-8 }} ==脚注== {{reflist}} ==関連項目== * [[HDCaml]] * [[F Sharp]] == 外部リンク == *{{Official website}} *[http://www.fos.kuis.kyoto-u.ac.jp/~t-sekiym/classes/isle4/mltext/ocaml.html Objective Caml 入門] *[http://www.i.kyushu-u.ac.jp/~bannai/ocaml-intro/intro.html OCaml プログラミング入門] *[http://web.yl.is.s.u-tokyo.ac.jp/~ganat/ocaml/ocaml.html {{lang|ja-Latn|Akihito Nagata}}{{lang|en|'s Page}}] *[http://ocaml.jp/ <code>OCaml.JP</code>] <!-- 上のサイトからたどれるのでとりあえず消しておきます *[http://wiki.ocaml.jp/] --> *[http://www.ocaml-tutorial.org/ja OCamlチュートリアル] *[http://ocamldt.free.fr/ ODT: OCaml Development Tools] *[http://pleac.sourceforge.net/pleac_ocaml/index.html PLEAC-Objective CAML] {{プログラミング言語一覧}} {{Normdaten}} [[Category:関数型プログラミング言語]] [[Category:オブジェクト指向言語]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/OCaml
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Eiffel
Eiffel(アイフェル、エッフェル)は頑健なソフトウェアの生産に注力したオブジェクト指向プログラミング言語である。 1985年にバートランド・メイヤー(Bertrand Meyer)によって考案された。その文法はPascalを連想させるものである。Eiffelは静的な型指定を強く指向しており、かつ動的なメモリ管理(一般的にガベージコレクションにより実装される)を備えている。 少し前、オブジェクト指向の教科書的言語といえば、SmalltalkかEiffelか、という状況で、手続き型言語でのPascalのような存在であった。多重継承、ガベージコレクションといった特徴があるが、設計者によってライブラリのメンテナンスが重視されており、契約による設計(Design By Contract)の概念が全面に打ち出されている。同じくオブジェクト指向を取り入れた言語であるJavaほどは普及していない。Assertionなど、Javaが追いかけているところもあるが、インタフェースによる継承、GCあり、とかぶるところが多い。 また、C/C++のようにネイティブコードを直接生成するのではなく、C言語やJavaのコードを生成する、という特徴ももっている。 言語名の由来は、エッフェル塔ではなく、その設計者ギュスターヴ・エッフェルである。 Eiffel のソースは以下のように記述する。 Eiffel は「クラスとはオブジェクトの生成機である」という考え方が徹底しており、このため両者の概念を混同するようなクラス変数やクラスメソッドの機能は存在しない。このことは「クラスもオブジェクトの一種である」と考える Smalltalk とは対照的である。 また「クラス」に対する考え方も独特で、例えば Java ではソースファイルをコンパイルすると「クラスファイル」というファイルを作るのを見てわかるように、一般的には「ソースコード」は「クラスの設計図」という概念であるのに対し、Eiffel では「クラス」とは「ソースコードそのものである」という考え方である。コンパイルして生成されるファイルは「クラス(ソースコード)によって作られたインスタンス」という考え方であり、このため Eiffel ではメインルーチンに相当する処理をコンストラクタで行う。 コンストラクタはcreation下で宣言されたメンバ関数が使用される、このメンバ関数はどんな名称でも構わないが慣例的にmakeとする場合が多い。作成したクラスを使用する場合は でインスタンスを作成する(コンストラクタが指定されているクラスは上記の構文中で必ずコンストラクタを呼び出さなければならない)。 クラスの継承を省略した場合は ANY というクラスの継承クラスとして扱われる。入出力などのグローバルな機能は ANY クラス内で定義されており、各 Eiffel のクラスではこれらの機能の実装に関して考慮をする必要性がないようになっている。 なお、Eiffelはクラス名は全て大文字で書かなければならないという命名規則がある。 Eiffel の特徴の一つとして、継承における細かい指定が可能ということが挙げられる。例えば というコードがあるとする(ioは標準入出力を扱うインスタンスで、ANYクラスのメンバである)。これは A というクラスを継承した B というクラスに同じ名前のメソッドがある場合である。このとき というコードを実行したとき。b.method1 はおそらく B で定義されたメソッドが動くと誰もが期待するだろうが、a.method1 で実行されるメソッドは A と B どちらで定義されたものだろうか?この場合の処理は言語によって異なっており例えばC++の場合は A で定義されたメソッドが実行され、Javaの場合は B のメソッドが実行される。すなわち言語によって動作が違うため作成者の勘違いなどによって混乱を招くおそれがある。 Eiffelでは実のところ、どちらが実行されるか以前に上記のような例ではコンパイルすることができないことになっている。すなわち Eiffelのメソッドは全てデフォルトでは継承不可である。しかしこれでは、あまりに制約が強すぎるため、同名のメソッドを定義する必要性があるときは、継承クラスの作成者がどちらを実行するかを指定することが出来る。 具体的には rename と redefine という機能があり、上記の例では A で定義されたメソッドを実行したい場合は とする。この場合クラス B では A のメソッドを method2 という名前に改名させて、名前の衝突を防いでいる。B のインスタンスでも、クラス A のインスタンスとして扱われた場合(上記の例のような場合)は A の method1 が実行され、クラス B のインスタンスとして扱われた場合は B のmethod1 が実行される。B のインスタンスとして扱われた状態で A の method1 を実行するには上記の例では b.method2 とすればよい。これらの改名による効果は継承先と継承元の他、多重継承時のメソッド同士の衝突にも使用できる。 逆に A のインスタンスとして扱われる場合でも B の method1 を実行したい場合は以下のようにする。 この場合、クラス B はクラス A の method1 を継承時に破棄しクラス B で再定義することを示している。クラス B のインスタンスは A、B どちらで扱われても method1 はクラス B のものが実行され、クラス A の method1 はもはや実行されることは無い。なお再定義を宣言された method1 は必ずクラス B で再定義しなければならず、再定義していない場合はコンパイルエラーとなる。 このように、Eiffel ではクラスの継承時に継承クラスの作成者がメソッドの扱いを自由に設定することができる。 Eiffel の特徴の一つとして多重継承をサポートしていることが挙げられる。 多重継承時に問題となるものの一つとして、継承した二つの(あるいはそれ以上)のクラスのどちらにもコンストラクタが定義されている場合、二つのクラスのどちらのコンストラクタが実行されるか?というものがある。Eiffel の他に多重定義をサポートしている C++や Python では継承元のコンストラクタの実行順に複雑な規則が導入されている。 Eiffelではコンストラクタは継承されないことになっている。このためコンストラクタの実行手順といったものは原理的に存在しない。どうしても継承元のコンストラクタを使用する必要がある場合は、継承時に rename でコンストラクタとして宣言されているメソッドを改名し、改名したメソッドをコンストラクタ内で実行することで実装できる。
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Eiffel(アイフェル、エッフェル)は頑健なソフトウェアの生産に注力したオブジェクト指向プログラミング言語である。
{{Infobox プログラミング言語 |名前 = Eiffel |パラダイム = [[オブジェクト指向プログラミング]] |設計者 = [[バートランド・メイヤー]] |型付け = 強い[[静的型付け]] | latest_release_version = [[EiffelStudio|EiffelStudio 22.12]]<ref>{{cite web|title=EiffelStudio 22.12 Releases|url=https://dev.eiffel.com/EiffelStudio_22.12_Releases |accessdate=2023-08-07}}</ref> | latest_release_date = {{start date and age|2022|12|22|df=y}} | typing = [[静的な強い型付け]] | implementations = [[EiffelStudio]], [[LibertyEiffel]], [[SmartEiffel]], [[Visual Eiffel]], [http://www.gobosoft.com/eiffel/gobo/gec/index.html Gobo Eiffel], [http://www.sourceforge.net/projects/tecomp "The Eiffel Compiler" tecomp] |影響を受けた言語 = [[Ada]]、[[Simula]] |影響を与えた言語 = [[Sather]]、[[Ruby]]、[[Java]]、[[C Sharp|C#]]、[[D言語|D]] }} '''Eiffel'''(アイフェル、エッフェル)は頑健なソフトウェアの生産に注力した[[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向]][[プログラミング言語]]である。 == 概要 == [[1985年]]に[[バートランド・メイヤー]]({{Lang|en|Bertrand Meyer}})によって考案された。その文法は[[Pascal]]を連想させるものである。Eiffelは静的な型指定を強く指向しており、かつ動的なメモリ管理(一般的に[[ガベージコレクション]]により実装される)を備えている。 少し前、オブジェクト指向の教科書的言語といえば、[[Smalltalk]]かEiffelか、という状況で、[[手続き型言語]]でのPascalのような存在であった。[[多重継承]]、[[ガベージコレクション]]といった特徴があるが、設計者によって[[ライブラリ]]の[[メンテナンス]]が重視されており、[[契約プログラミング|契約による設計]](''[[契約プログラミング|{{Lang|en|Design By Contract}}]]'')の概念が全面に打ち出されている。同じくオブジェクト指向を取り入れた言語である[[Java]]ほどは普及していない。[[表明|Assertion]]など、Javaが追いかけているところもあるが、[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]による[[継承 (プログラミング)|継承]]、[[ガベージコレクション|GC]]あり、とかぶるところが多い。<!--ちなみに[[Sather]]はEiffelの構文を[[C言語]]らしくしたもの。 --> また、C/[[C++]]のようにネイティブコードを直接生成するのではなく、C言語やJavaのコードを生成する、という特徴ももっている。 言語名の由来は、[[エッフェル塔]]ではなく、その設計者[[ギュスターヴ・エッフェル]]である。 == 基本構成 == Eiffel のソースは以下のように記述する。 <syntaxhighlight lang="eiffel"> -- コメント class クラス名 inherit 継承元のクラス(継承しない場合は省略可) creation コンストラクタの宣言(コンストラクタが必要ない場合は省略可) feature{アクセス権限} メンバ変数、メンバ関数の記述 end </syntaxhighlight> Eiffel は「[[クラス (コンピュータ)|クラス]]とは[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]の生成機である」という考え方が徹底しており、このため両者の概念を混同するような[[クラス変数]]や[[メソッド (計算機科学)#静的メソッド|クラスメソッド]]の機能は存在しない。このことは「[[メタクラス|クラスもオブジェクトの一種である]]」と考える Smalltalk とは対照的である。 また「クラス」に対する考え方も独特で、例えば Java ではソースファイルを[[コンパイル]]すると「[[Javaクラスファイル|クラスファイル]]」という[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]を作るのを見てわかるように、一般的には「[[ソースコード]]」は「クラスの設計図」という概念であるのに対し、Eiffel では「クラス」とは「ソースコードそのものである」という考え方である。コンパイルして生成されるファイルは「クラス(ソースコード)によって作られた[[インスタンス]]」という考え方であり、このため Eiffel では[[エントリーポイント|メインルーチン]]に相当する処理を[[コンストラクタ]]で行う。 コンストラクタは<code>creation</code>下で宣言された[[メンバ関数]]が使用される、このメンバ関数はどんな名称でも構わないが慣例的に<code>make</code>とする場合が多い。作成したクラスを使用する場合は <syntaxhighlight lang="eiffel"> x :(クラス名) !!x.(コンストラクタ名) </syntaxhighlight> でインスタンスを作成する(コンストラクタが指定されているクラスは上記の構文中で必ずコンストラクタを呼び出さなければならない)。 クラスの継承を省略した場合は ANY というクラスの継承クラスとして扱われる。入出力などのグローバルな機能は ANY クラス内で定義されており、各 Eiffel のクラスではこれらの機能の実装に関して考慮をする必要性がないようになっている。 なお、Eiffelはクラス名は全て大文字で書かなければならないという命名規則がある。 == rename と redefine == Eiffel の特徴の一つとして、継承における細かい指定が可能ということが挙げられる。例えば <syntaxhighlight lang="eiffel"> class A feature method1 is io.put_string("Hello from A") io.new_line end end </syntaxhighlight> <syntaxhighlight lang="eiffel"> class B inherit A feature method1 is io.put_string("Hello from B") io.new_line end end </syntaxhighlight> というコードがあるとする(ioは標準入出力を扱うインスタンスで、ANYクラスのメンバである)。これは A というクラスを継承した B というクラスに同じ名前のメソッドがある場合である。このとき <syntaxhighlight lang="eiffel"> class C creation make feature a : A b : B make is do !!b a := b b.method1 a.method1 end end </syntaxhighlight> というコードを実行したとき。b.method1 はおそらく B で定義されたメソッドが動くと誰もが期待するだろうが、a.method1 で実行されるメソッドは A と B どちらで定義されたものだろうか?この場合の処理は言語によって異なっており例えば[[C++]]の場合は A で定義されたメソッドが実行され、[[Java]]の場合は B のメソッドが実行される。すなわち言語によって動作が違うため作成者の勘違いなどによって混乱を招くおそれがある。 Eiffelでは実のところ、どちらが実行されるか以前に上記のような例では[[コンパイル]]することができないことになっている。すなわち Eiffelのメソッドは全てデフォルトでは継承不可である。しかしこれでは、あまりに制約が強すぎるため、同名のメソッドを定義する必要性があるときは、継承クラスの作成者がどちらを実行するかを指定することが出来る。 具体的には rename と redefine という機能があり、上記の例では A で定義されたメソッドを実行したい場合は <syntaxhighlight lang="eiffel"> class B inherit A rename method1 as method2 end </syntaxhighlight> とする。この場合クラス B では A のメソッドを method2 という名前に改名させて、名前の衝突を防いでいる。B のインスタンスでも、クラス A のインスタンスとして扱われた場合(上記の例のような場合)は A の method1 が実行され、クラス B のインスタンスとして扱われた場合は B のmethod1 が実行される。B のインスタンスとして扱われた状態で A の method1 を実行するには上記の例では b.method2 とすればよい。これらの改名による効果は継承先と継承元の他、多重継承時のメソッド同士の衝突にも使用できる。 逆に A のインスタンスとして扱われる場合でも B の method1 を実行したい場合は以下のようにする。 <syntaxhighlight lang="eiffel"> class B inherit A redefine method1 end </syntaxhighlight> この場合、クラス B はクラス A の method1 を継承時に破棄しクラス B で再定義することを示している。クラス B のインスタンスは A、B どちらで扱われても method1 はクラス B のものが実行され、クラス A の method1 はもはや実行されることは無い。なお再定義を宣言された method1 は必ずクラス B で再定義しなければならず、再定義していない場合はコンパイルエラーとなる。 このように、Eiffel ではクラスの継承時に継承クラスの作成者がメソッドの扱いを自由に設定することができる。 == コンストラクタの非継承 == Eiffel の特徴の一つとして[[継承 (プログラミング)#多重継承|多重継承]]をサポートしていることが挙げられる。 多重継承時に問題となるものの一つとして、継承した二つの(あるいはそれ以上)のクラスのどちらにもコンストラクタが定義されている場合、二つのクラスのどちらのコンストラクタが実行されるか?というものがある。Eiffel の他に多重定義をサポートしている [[C++]]や [[Python]] では継承元のコンストラクタの実行順に複雑な規則が導入されている。 Eiffelではコンストラクタは継承されないことになっている。このためコンストラクタの実行手順といったものは原理的に存在しない。どうしても継承元のコンストラクタを使用する必要がある場合は、継承時に rename でコンストラクタとして宣言されているメソッドを改名し、改名したメソッドをコンストラクタ内で実行することで実装できる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{プログラミング言語|lang=オブジェクト指向言語|cat= }} *[https://www.eiffel.org/ Eiffel.org] *{{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/8632/advanced.html |title=Eiffel: 一歩進んだ入門 |date=19991008171232}} *[http://smarteiffel.loria.fr/ SmartEiffel The GNU Eiffel Compiler] - SmartEiffel ([[GNUプロジェクト]]によるフリーのEiffel[[コンパイラ]])配布ページ {{プログラミング言語一覧}} {{authority control}} [[Category:形式仕様記述言語]] [[Category:オブジェクト指向言語]] [[Category:エポニム]]
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Sather
Satherはカリフォルニア大学バークレー校(UCB) と提携し、ICSI(International Computer Science Institute)によって開発されたオブジェクト指向プログラミング言語である。 言語仕様は、初期にはEiffelのサブセットであり、言語の基本的な枠組みや構文や表記もEiffelから大きく影響を受けている。Satherの名称もEiffel Towerに対し、カリフォルニア大学バークレイ校の構内にある、同校のシンボル的存在「Sather Tower」からとっている(塔つながり)。しかし、後には独自の拡張・工夫が、特に効率の面で多くなされている。 Satherは、ガベージコレクションを持ち、強く型付けされた、多重継承をベースにしたオブジェクト指向言語である。パラメータ化されたクラス、インタフェースの継承と実装の継承(include)の分離、動的ディスパッチ、イテレータ、高階手続き、例外処理、契約プログラミングなどの機能を持つ。 SatherはEiffelと同様にC言語にコンパイルされる。 pSatherはSatherの並行処理拡張版であり、分散処理にも対応する。
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{{出典の明記|date=2023年1月2日 (月) 06:46 (UTC)}} '''Sather'''は[[カリフォルニア大学バークレー校]](UCB) と提携し、ICSI(International Computer Science Institute)によって開発された[[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向]][[プログラミング言語]]である。 言語仕様は、初期には[[Eiffel]]のサブセットであり、言語の基本的な枠組みや構文や表記もEiffelから大きく影響を受けている。Satherの名称もEiffel Towerに対し、カリフォルニア大学バークレイ校の構内にある、同校のシンボル的存在「Sather Tower」からとっている(塔つながり)。しかし、後には独自の拡張・工夫が、特に効率の面で多くなされている。 == 特徴 == Satherは、[[ガベージコレクション]]を持ち、[[強い型付け|強く型付けされた]]、[[多重継承]]をベースにした[[オブジェクト指向言語]]である。[[総称型|パラメータ化されたクラス]]、[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]の[[継承 (プログラミング)|継承]]と[[実装]]の継承(include)の分離、[[動的ディスパッチ]]、[[イテレータ]]、[[高階関数|高階手続き]]、[[例外処理]]、[[契約プログラミング]]などの機能を持つ。 SatherはEiffelと同様に[[C言語]]にコンパイルされる。 [[pSather]]はSatherの[[並行処理]]拡張版であり、[[分散処理]]にも対応する。 == 外部リンク == *[http://www.gnu.org/software/sather/ GNU Sather] *http://www.icsi.berkeley.edu/~sather/ [[Category:オブジェクト指向言語|SATHER]]
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Prolog
■カテゴリ / ■テンプレート Prolog(プロログ)は論理プログラミング言語の一つであり、該当分野で最もよく知られている論理型言語の代表格である。主に人工知能研究や計算言語学との関連性を持つ。定理証明、エキスパートシステム、自動計画、自然言語処理とも繋がりが深い。一階述語論理と形式論理を基礎にして、事実群と規則群の表現および関係の観点に立った宣言型パラダイムに準拠しており、その関係に則った質問によって計算が開始されるという性質を持つ。 Prologは、1972年にマルセイユ大学のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ラッセルによって開発された。フランス語の「programmation en logique」がその名の由来である。Prologの誕生にはエディンバラ大学のロバート・コワルスキが考案したホーン節が大きく寄与している。カルメラウアーによる元祖版はマルセイユPrologと呼ばれている。その後、コワルスキの門弟のデヴィッド・ワーレンが1977年に改訂開発したエディンバラProlog(DEC-10 Prolog)が標準になってPrologは広く普及した。 1972年ごろにフランスのアラン・カルメラウアーとフィリップ・ルーセルによって考案された。 成立の事情から、Prolog プログラムは論理式とみなされ、その実行は述語論理によって述語が定義された環境における定理証明に擬して解釈されることが多い。利用者は論理プログラミングの枠組みを、取り分け述語論理を学習することで、この枠組みに極めて忠実なこの言語の基礎的な構造のほとんどを理解できる。その言語仕様はこの枠組み以外には考案者たちも含めてそれ以上の拡張をほとんど行っていないため、他のプログラム言語とは異なり、学習しなくてはならない概念や用語もまた、述語論理のものだけでこと足りる。基本的に計算機科学の新しい概念や新しい手法とは無縁である。ただし、SWI-Prolog等の処理系では様々な機能拡張の試みが行われている。一階述語論理は型理論や操作的意味論の研究論文で多数用いられており、今後、再注目される可能性がある。 Prolog のプログラムは一階述語論理に基づいてデータ間の関係を示す命題として記述され、処理系がそれらに単一化(ユニフィケーション)と呼ばれるパターンマッチングを施しながら、与えられた命題が成立するか再帰的手続きによって探索している。 プログラムの実行は述語集合が定義された環境の元で、質問することによってなされるが、これは反駁という述語論理的な証明過程を模して、処理系が用意する導出木と呼ばれるグラフをたどって解を得る過程である。 Prolog のもととなるこの演繹手法は導出と呼ばれ、自動定理証明の研究において Prolog 開発以前からよく知られていた。Prolog は、導出において節を頭部が一つの命題からのみなるホーン節に限定したもので、この場合の導出をSLD導出(Selective Linear resolution for Definite clause)と呼ぶ。ホーン節に限定しているということは、つまり、Prolog は任意の述語をそのまま扱えるわけではない。Prolog が述語の形式をホーン節に限定した理由は、もし頭部に項の連言を認めるならば、導出時の計算量が爆発的に増大して、全ての解を得ることの保証が難しくなることが必至だからである。 述語論理を論理的な背景に持つことによって、Prolog のプログラムはその正しさを確認することが比較的容易である。同時に、プログラマは Prolog でプログラミングすることが何を意味するかを明確に理解した上で、プログラムを書いていくことができる。 上記は Prolog の一つの解釈である。一方、Prolog というプログラム言語を述語論理という枠にはめないで捉える立場もある。導出、単一化、非決定性、双方向性、関係データベースといったこの言語に独特の機能とその表現力、記述力に着目し、そのプログラム言語としての可能性を率直に評価しようとするものだ。 新たに Prolog を学びたいと思う人は、他のプログラム言語を全く知らなくても、ソフトウェア科学的な予備知識や概念に不通であっても、単一化という単純なルールをほとんど唯一の基軸として、パズル的な、あるいはゲーム的な感覚にだけ導かれて、プログラムを簡単に書き進むことができる。さらに、どの言語にも比して平坦で、平明な言語構造を持つ Prolog はラベル名(アトム、関数名、述語名)に適切な意味性を付与することにより、自然言語の領域にも接近したプログラミングが期待できるほとんど唯一の言語でもある。 十分述語論理的な教養を持った上で Prolog を学び、そのプログラムを書くならば、短期間で高度で安定したプログラムを書くことができる。しかし、それを前提としないでも、Prolog は冒険的で、未知の領域に満ちたプログラム言語なのである。 実はこれらの主張は、述語論理的な主張に隠れて、これまであまり強調されたことがなかった。 このような立場や主張が生まれる背景には、Prolog が期待されたほどにはソフトウェア革新の担い手になり得ていない理由が、その後の数理論理学の学問的な評価をもって、プログラム言語としての可能性を十分検証することを放棄して、定理証明といった狭い目的へ封じ込めようとする風潮を生んだことにある、という反省がある。そのことを踏まえて、Prolog が述語論理から成立したことにこだわらず、実在するプログラム言語として自由な視点からこの言語を見直そうとするものである。 Prolog は LISP の資産の多くを継承して間違いなく記号処理用の言語であるが、人工知能言語として分類されることも多い。これは、人工知能の世界では述語論理が古くから理論的な柱の一つとなっているからである。述語論理を基礎とするトップ・ダウン式の問題解決と同じく述語論理を基礎とする Prolog の駆動機構の相性は当然良いため、人工知能研究に広く利用されてきた。特にエキスパートシステムで多用されるプロダクションシステムにおいては、ルールを自然に自ら動的に変更できる能力を持つことと、後ろ向き推論と呼ばれる推論が Prolog の導出過程そのものであることから、その最も主要な記述言語の位置を占めてきた。 Prolog は一階の述語論理に対応することから論理型言語に分類される汎用言語であるが、その主張の一行一行を独立して論理式とほとんど等価な表現で行うことから、最も代表的な宣言型言語と見なされている。Prolog のプログラム単位である述語の各節の本体に現れる質問単位である副目標数は平均5個以内と極めて少ない。この副目標と各節の頭部に現れる引数の組み合わせによって得られる関係が述語の意味を構成している考えられる。これが宣言型とされるゆえんである。 単一化は1960年代の述語論理理論の発展の鍵となった概念であるが、Prolog が述語論理に導かれて機械による自動証明を実現するためのプログラム言語として成立したことから、必然的にこの言語の必須の最も重要な機構となった。単一化は副目標(質問)と対応する定義節の頭部のパターンが完全に一致するか、調べることで、節の選択を可能にする。さらに、Prolog の実行順序等の制御は単一化のからくりを利用してプログラミングされる。 簡単なからくりでかつ極めて強力な単一化であるが実行コストも大きい、すなわち実行速度が遅くなる原因となる。さらに、パターンとして認識することと引き換えに、引数での関数評価は不可能になった。独立して節の本体で式評価を記述しなくてはならないため、数値計算ではやや冗長になる。 これらの点は、単一化の強力さとのトレードオフの関係になっている。 型付けは動的型付けに分類できるが、言語仕様の中に型概念は登場しない。上記の単一化、バックトラッキング、と論理変数の束縛においては独特のものがあり、その実行は型推論の実行過程に酷似している。既に Prolog はその引数の引渡し時に単一化という厳密なパターンマッチングを施すことに多大なコストを掛けた。単一化だけでプログラムをコントロールできる言語が Prolog であるといっても過言ではない。この単一化のみによる簡素で強力なプログラムコントロールの足を引っ張ることに成り兼ねない、型付けの強化は、Prolog 言語とその支持者によって受け入れられることはないだろう。 Prolog は言語による思考をモデル化して主語・述語といった意味での文中の述語を特に重視して記述する系である。この一点からも、対象物を中心に記述していくオブジェクト指向とは距離が大きい。述語論理以前にオブジェクトありきとする立場を一般には取らない。 いくつかの処理系では、オブジェクト指向言語としての拡張が行なわれているが、オブジェクトを中心に設計されることは、論理プログラミングを重視して記述される限りほとんどない。分類するならば、非オブジェクト指向言語に分類される。オブジェクト指向に拡張された言語としては が存在する。 後に述べるが Prolog の述語はその構造が頭部と本体と分かれていて、本体はルールを意味するため、全体として、ルールを持ったデータベース、演繹データベースとして捉えることができる。これはPrologプログラム全体がデータベースであるということだから、データベースの表現としては最強のクラスに属する。一方、事実を表す本体のない(強制的に真)頭部のみの定義節による述語は関係データベースとその集合論的な性質で一致する。収集した情報を一つの述語に対して多数の頭部のみを持った節の集まりとして定義することにより、オンメモリ関係データベースを構築することが可能である。しかし、Prologをデータベース管理システムとして捉えた場合、 assert、retract、setof、bagof、findall という組込述語を持つこと以外には、管理機構としての特別の組込述語が用意されている訳ではなく、ディクショナリ管理などのための述語定義をユーザが追加する必要がある。 関数型言語等、他のプログラミング言語と比較しての Prolog の特長は、上記、一階述語論理に基づくこと、単一化、データベース言語的性格の他に、非決定性と双方向性が挙げられる。 非決定性は、解が唯一とは限らない場合、処理系側から見てひとつの解に決定できない場合、外部からの選択の余地を与える。そういうことが当然可能なこととして述語は定義されていく。インタプリタトップではなく、導出を繰り返すプログラム内部にあっては、処理系側とした所を述語と置き換えて考えると、非決定性の述語の解を決定するのは、前方または後方に連接する質問(副目標)である。前方の副目標群から引数経由で与えられる情報によって副目標は一つの解を作り出すが、この解が真であるとするのは最終的に後方に連接する副目標である。この後方に連接した副目標が全て真となった場合に限り副目標は真となる。後方に連接する副目標のどれかが真にならなかった場合は、それが存在すればであるが別解を用意しなくてはならない。ここでも非決定性の述語、ここでは副目標から見ての解の決定権は、外部にあるということになる。 非決定性は導出の過程、取り分けバックトラックアルゴリズムと一体化しており、Prolog プログラムの制御の根幹のひとつである。ただ、非決定性述語実行時に見られる論理変数の 束縛→解放→再束縛という遷移、すなわち一度束縛されたものが別のものに再度束縛されるということを好ましくないとする見方もある。 双方向性は、述語が実行された場合の返り値は真または偽だけであり、その代わりとして引数内の変数で値の授受を終始するのだが、このとき、入力として使われた変数が出力に、出力として使われていた変数が入力として使うことのできる述語となることがある。この性質を双方向性という。多くの場合、双方向性を持つ述語はそれ自体多義性を持つ。例えば append という3引数の述語は第一引数と第二引数に具体的なリストが来て呼ばれた時は、リストを結合する意味でよいが、第三引数がリストで第一引数と第二引数が変数の状態で呼ばれた場合その意味は、リストを分解する、がふさわしい。既に存在するリストを、それが結合されて存在したものと考え、それではどのように結合されていったか、あるいは、どのような組み合わせで結合されていったのかを、示していると解釈できる。 このような、双方向性は Prolog の述語自らがリバースエンジニアリング的開示能力を持ち、それを示していると捉えることができる。この性質は、Prologを含む論理型プログラム言語の持つ際立った特徴であり、プログラム作成時はもちろん、テスト、デバッグなどの検証の各段階でプログラムコードに対する見通しを向上させる。 プログラマは引数の単一化、再帰/失敗駆動等のプログラムパターンの選択、非決定性、双方向性といった特長をできる限り生かすことなどに配慮しながら、述語の骨格を決めプログラミングを進める。しかし、これらの特長、性質は複合した場合には相当に複雑であり、制御上相反する部分も多々ある。Prolog では、述語論理を逸脱して計算量/資源量/制御の調整に当たる述語「!」(カット)を導入してこの問題に対処しているが、Prolog プログラミングの難しさはこの調整部分に集中している。 Prolog の性格上、その歴史には定理の自動証明の研究が大きく関係している。1930年にジャック・エルブランは自動定理証明やPrologのベースとなる数理論理学上の基本定理であるエルブランの定理を発表した。エルブランの論文には Prolog で必須の単一化アルゴリズムもすでに含まれていた。 1950年代以降、計算機上での定理証明の研究が活発になり、ギルモアのアルゴリズム(1960)やデービス・パトナムのアルゴリズム(1958,1960) 、プラウィツによる定理証明への単一化アルゴリズムの導入(1960)などを経て、1965年のロビンソンによる導出原理 や1960年代後半のラブランドによるモデル消去の証明手続きの成果からひとつの結実期を迎えた。その数年後の1971年マルセイユ大学のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ルーセルのグループは自動定理証明システムとフランス語の自然言語解析システムとを組み合わせたコンピュータとの自然言語対話システムを作成していた。この際に自然言語解析システムも自動定理証明システムと共通の論理式という枠組みで構築できることに気が付き、論理式をそのままプログラムとして実行できる最初の Prolog を1972年に完成させた。これは数千年に及ぶ人類の叡智である論理学の成果をプログラム言語に置き換えたものと言えるが、現在の Prolog でプログラムの制御に使われるカットオペレータに相当する機能が最初から導入されるなど、現在の Prolog と同様、単なる定理証明システムではなくプログラミング言語として設計されたものだった。以下にその当時の Prolog プログラムの一部を示す。論理変数名の最初の文字が "*" で始まるなど、現在の Prolog とはシンタックスが異なる。 彼らグループに理論的な助言を与えていたエジンバラ大学のロバート・コワルスキとデービッド・H・D・ウォレンは汎用機 DECsystem10 上にマルセイユ大学とはシンタックスが異なる処理系を作り上げた。これは後に DEC-10 Prolog と呼ばれることになるが、ISO 標準規格を含む今日動作する Prolog 処理系はほとんどがこの系統のシンタックスに従っている。 コワルスキはその後、インペリアル・カレッジ・ロンドンに移り、1979年に集大成ともいえる「Logic for Problem Solving」を著し、その後のこの言語と論理プログラミングの研究に決定的な影響を与えた。 コワルスキの活動と DEC-10 Prolog の存在によって、英国は Prolog 研究の中心地となった。エジンバラ大学のW・F・クロックシンとC・S・メリシュの著わした「Programming in Prolog」は長く Prolog のバイブル本として利用された。エジンバラ大学からSRIインターナショナルに転じたディビッド・ウォレンは1983年 Prolog の仮想マシンコードであるWarren's Abstract Machine(英語版)(WAM)を発表した。この後の Prolog 処理系の実装は、一旦C言語などでこの仮想マシンコードを実装して、その上で Prolog のソースコードをこのマシンコードに変換するコンパイラを用意するという手順を踏むことによって、開発を簡素化し実装上の標準化を図ることが普通になった。日本の新世代コンピュータ技術開発機構の Prolog マシン PSI は1987〜1988年頃に開発された PSI2 からこれを採用したし、その後開発された Prolog 処理系の多くはこの方式に従った。 1976年にSRIに留学していた古川康一はカルメラウアーらの Prolog 処理系のリストを見つけ帰国時に電子技術総合研究所に持ち帰った。当時電子技術総合研究所で推論機構研究室長をしていた渕一博はこのリストを解析して Prolog 処理系を走らせ、ルービックキューブを解くプログラムを作成するなど論理プログラミングに対する理解を深めていった。 1978年MITに留学中の中島秀之が「情報処理」誌に紹介記事を寄稿して、Prolog は日本でも広く知られるようになった。 1970年代終り頃、日本では通産省の電子技術総合研究所の渕一博を中心とするグループが論理プログラミングの重要性を認識して、日本のコンピュータ技術の基礎技術としてこれを取り上げることを提案する。これが最終的に1980年代の新世代コンピュータ技術開発機構の発足と活動につながった。総額約570億円の国家予算を約束されて1982年に新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)は活動を開始する。Prolog を含む論理型言語はこの研究の核言語と位置づけられ世界的な注目を浴びることとなる。約10年間の研究活動中に Prolog と論理プログラミングの研究は急激に深化した。実際1980年からの20年間に Prolog をメインテーマにした日本語の書籍は約50冊発刊された。ICOT の研究員は積極的に Prolog の啓蒙に努め、講習会、チュートリアル、ワークショップを年に一度ならず開催した。ICOT が主催したロジック・プログラミング・コンファレンスは1983〜1985年頃をピークに若い研究者達を刺激した。研究活動前半の期間では論理型言語の実用性を証明するために、Prologマシンが設計され、三菱電機と沖電気によって製作され、ICOT の他大学等研究機関に配布された。この個人用逐次推論マシン PSI の機械語 KL0 は単一化やバックトラックなど Prolog の基本的特徴を完全に備えていた。この KL0 によって、PSI のマイクロコードを制御した。KL0 を基礎として、オペレーティングシステム SIMPOS が設計され、これを記述するために、Prolog にオブジェクト指向プログラミングを取り入れた ESPが近山隆により設計されて使われた。ESPは多重継承を特徴とする当時としては先鋭のオブジェクト指向言語であったが、後にカプセル化の不備などが指摘されて、今日あまり話題となることはない。しかし、OSを記述するという課題を通じて、論理型言語にオブジェクト指向言語的要素を加えることによって、可読性が高まりプログラム管理がしやすくなることが確認された。その反面、Prolog のみでオペレーティングシステムを完全に記述してみる絶好の機会を逸したことも確かである。ESPはPSIを前提にせずに利用できるように、C言語で書き直したCESPが開発されたが、これが普及への起爆剤になることはなかった。後に述べるように、PrologのISO標準規格のモジュール仕様としてESPの採用が否決された1995-6年頃以降はほとんど利用されることはなくなった。 ここまで述べたように、Prologは ICOT によって持ち上げられた言語 Prolog との印象が強いが、Prolog というプログラミング言語から見ての ICOT の影響は実は限定的だった。淵所長ら ICOT の主研究テーマは並列論理型言語にあり、研究後半では Prolog そのものからは離れて行くことになる。PSI に使用した電子基盤を利用して並列推論マシン PIM が製作されて、Guarded Horn Clauses(GHC)に基づく並列演算処理を追加した KL1 が設計された。この環境に依存する形で、並列論理プログラム言語のKL1は知識プログラミング全般の研究に利用された。PSI と SIMPOS を使った研究も続けられはしたが、割り当てられた研究員の数は極めて少なかった。 ICOT の活動を総括して、知識プログラミング各課題において準備不足からくる未消化を指摘する向きが強いのだが、こと Prolog から見ての前半期の活動は、今日語られることも少ないが、極めて充実したものであったといえる。 ICOT の活動盛期の1984年京都大学の学生3名が研究課題として製作した Prolog-KABA がその性能の高さとアセンブラで記述されたことからくる高速性で世界を驚かせた。この処理系は MS-DOS 上で製品化されて Prolog の普及に大きく貢献した。Successful pop や末尾再帰の最適化など高い安定した性能で黎明期のパソコン上のビジネスソフトの基礎言語としての展開も期待されたが、16ビットの整数しか持たず、浮動小数点数も扱えない仕様であったため、この分野への展開は起こらなかった。この点はアセンブラで記述されて簡単には拡張できない点が裏目に出た。結果としてこの仕様の乏しさが、日本のビジネスソフトが知識プログラミングの水準との間に横たわる分水嶺を越えることができなかった原因の一つとなった。 1990年代に入ると制約論理プログラミングが注目され処理系が多数誕生した。これは Prolog から見ると引数の論理変数間の関係(制約)を記述可能に拡張したものである。制約論理型言語は、変数評価に遅延実行などを持ち込むことが必要となるが、連立方程式をはじめとする多くの課題で Prolog より記述が柔軟になる。Prolog の組込述語には引数が変数で渡るとエラーとなるものが多く、このため Prolog プログラマは変数が具体化されるように副目標の記述順序に気を配る必要がある。結果としてプログラミングに逐次性が生じる。制約論理プログラミングにおいては、後に変数が具体化されたときに検査されるための変数の間の制約を記述するだけで、この逐次性の拘束を解決して通過することができる。実はこの制約はPrologから見ても自然な拡張であり、むしろ Prolog の単一化が制約論理プログラミングの制約を「=」のみに限定したものだと解釈することができる。しかし、簡素で逐次的な性格を強く持つ Prolog の処理系に慣れた利用者が、制約論理プログラミングの述語中に更に変数制約の宣言を追加しなくてはならない負担を、受け入れているとは言い難い。制約論理プログラム処理系が Prolog のそれに置き換わる気配は、2013年11月現在においてもない。 ISO の標準化作業は1987年頃から作業委員会(WG17)が作られ、日本委員も情報処理学会から15名ほどがこれに加わった。1995年 ISO標準規格がISO/IEC 13211-1 Prolog-Part 1: General Coreとして制定された。さらに、2000年にはISO/IEC 13211-2 Prolog-Part 2: Moduleとしてモジュール仕様が追加して規格化された。モジュール仕様については日本委員から、ICOTによって作成されたESP(Extended Self-contained Prolog)を以てその標準とする案が出されていたが、これは否決された。 ISO標準規格はエジンバラ仕様 DEC-10Prolog を基調に既に一家をなしていた Quintus Prolog など有力ベンダと主としてヨーロッパの学者を主体にこれに日本などの委員が参加して作成された。この規格は現在 Prolog 処理系の製作者に指針を与え、大きな逸脱を心理的に妨げる役割を果たしているが、組込述語の個々の仕様ではベンダの意向が強く反映されたものの、全体としては最初に述べた論理学的立場を尊重して保守的で極めて小さな仕様となっている。そのため多くの Prolog 処理系はこの規格の述語を搭載しつつ、独自の拡張部分を修正したり削除することに消極的である。結果として個々の処理系の互換性の乏しさは残り、それは Prolog の弱点として認識されている。 JIS規格も一旦は2001年にJIS X 3013:2001が、"標題 プログラム言語Prolog―第1部:基本部"が要約JISとして発行されたが、2012年1月に何ら実効を見ること無く、「周知としての目的は終了した」として廃止された。 日本において、ICOT の活動時期から1990年代前半に掛けては、いわゆる人工知能ブームの時期であり、人工知能研究への期待はこの時期再び異様に高まった。LISP マシンによる医療情報エキスパートシステムでの成果は、人工知能の研究の成果の一部は情報処理に於いても利用可能なのではないかとの夢を抱かせた。このような評価の中で Prolog は人工知能のアセンブリ言語的な位置づけを期待された。知識情報処理はこの水準の言語を基礎にその上側に築かれるべきだとの意味である。手っ取り早く利用可能な人工知能技術としてエキスパートシステムが選別され、これを支えるナレッジエンジニアの存在とそれを養成するための教育が必要とされた。Prolog はその中心に存在した。日本も例外ではないが、日本以外の国では特に、Prolog の名著は1990年代前半に刊行されている。これは、ICOT の活動とは若干のタイムラグがあるが、この時期社会的に 人工知能向き言語としての Prolog に大きな期待が寄せられていたことの証しである。エキスパートシステムはビジネス分野において広範囲に応用可能な基礎技術であったが、このような低水準な分野への適用はあまり試みられず、この分野からの Prolog 言語への要請はほとんど見られないまま終った。 機械翻訳などの自然言語処理もまた人工知能の一翼を担う分野であるが、歴史的経緯から人工知能ブーム以前から、この言語に最も期待が掛けられた分野であった。しかし、左再帰問題の回避でトップダウン解析の明解さをいきなり殺がれた。さらに句構造文法への適用においては、Prolog が得意とする、句構造に分解して意味に相当するグラフを形成することの他に、極めて膨大な辞書を構造体として定義する必要が展望された。この辞書作成は Prolog とは直接関係しないタスクであることから、次第に Prolog は句構造文法によるアプローチの前線から後退してしまった。統計的言語処理のアプローチでは、単一化等に多くの計算量を費やす Prolog は大量データを扱うのに不向きとされて、利用されることはほとんどない。自然言語処理のテキストの多くが Prolog を用いて解説されているにも関わらず、期待が大きかった割に実務的には、表面に現れている成果はIBM社のワトソン程度にとどまり、自然言語処理はむしろ Prolog 評価の足を引っ張る傾向にさえある。 日本においては、ICOT 解散後数年を経て、論理プログラミングと Prolog は急激に下火となる。先にあげたコワルスキの成果があまりにも完成されたものでその研究成果の範囲を越えることが難しかったこと、歴史的にプログラム言語でありながら論理学からの逸脱を厳しく制限され、自由なアイデアによるプログラミング言語としての発展・展開が困難に見えたことも研究者・技術者を離れさせた。そして、人工知能ブームもまた去って行った。企業等で続けられた研究開発も発表される機会がProlog産業応用シンポジウム(INAP)などに限定され、人々の目に Prolog の成果が触れることは極端に少なくなった。ICOT の多大な研究成果がネット上に閲覧可能な状態で置かれたが、Prolog 言語の処理系はインターネット時代の技術・流れに乗れず、初心者・初学者が利用するためのネット上での情報も他の有力言語に比べて少なく、新しい利用者を惹きつけることができなかった。パソコンのオペレーティングシステムとして Microsoft Windows が一般に普及し始めると、初心者教育にウィンドウの部品の展開を題材とするのに適したオブジェクト指向言語に人気が集中し、Prolog は動作の遅い外れた言語のイメージを持たれるようになる。さらに21世紀に入ると Prolog がクラス概念を持たないため、マイクロソフト社による .NET アーキテクチュアの共通言語基盤(CLR)の対象言語から外され、この傾向に拍車をかけた。ついには枯れた言語というニュアンスを含んでではあるが、「化石言語」と揶揄されるまでに至ったのである。 盛時の勢いは失ったものの、Prolog は各教育機関で主として論理学の教材として利用され続け、今日まで数万人の人が Prolog の講座を受講している。実務的に利用される機会が少ないにも関わらず、その素養を持つ人が大量に存在するという特異な位置にあるプログラム言語となっている。また、多くのプログラミング言語でその言語上にPrologインタプリタを制作してみることが難度の高い学習課題の一つとして採用され、その結果としてもPrologを理解しているプログラマは増加する傾向がある。 多くの処理系は Prolog の基本機能以外に、制約プログラミングや並行プログラミングのための拡張機能や Constraint Handling Rules などの各種言語をライブラリとして含んでいる。
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"paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "実はこれらの主張は、述語論理的な主張に隠れて、これまであまり強調されたことがなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "このような立場や主張が生まれる背景には、Prolog が期待されたほどにはソフトウェア革新の担い手になり得ていない理由が、その後の数理論理学の学問的な評価をもって、プログラム言語としての可能性を十分検証することを放棄して、定理証明といった狭い目的へ封じ込めようとする風潮を生んだことにある、という反省がある。そのことを踏まえて、Prolog が述語論理から成立したことにこだわらず、実在するプログラム言語として自由な視点からこの言語を見直そうとするものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Prolog は LISP の資産の多くを継承して間違いなく記号処理用の言語であるが、人工知能言語として分類されることも多い。これは、人工知能の世界では述語論理が古くから理論的な柱の一つとなっているからである。述語論理を基礎とするトップ・ダウン式の問題解決と同じく述語論理を基礎とする Prolog の駆動機構の相性は当然良いため、人工知能研究に広く利用されてきた。特にエキスパートシステムで多用されるプロダクションシステムにおいては、ルールを自然に自ら動的に変更できる能力を持つことと、後ろ向き推論と呼ばれる推論が Prolog の導出過程そのものであることから、その最も主要な記述言語の位置を占めてきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "Prolog は一階の述語論理に対応することから論理型言語に分類される汎用言語であるが、その主張の一行一行を独立して論理式とほとんど等価な表現で行うことから、最も代表的な宣言型言語と見なされている。Prolog のプログラム単位である述語の各節の本体に現れる質問単位である副目標数は平均5個以内と極めて少ない。この副目標と各節の頭部に現れる引数の組み合わせによって得られる関係が述語の意味を構成している考えられる。これが宣言型とされるゆえんである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "単一化は1960年代の述語論理理論の発展の鍵となった概念であるが、Prolog が述語論理に導かれて機械による自動証明を実現するためのプログラム言語として成立したことから、必然的にこの言語の必須の最も重要な機構となった。単一化は副目標(質問)と対応する定義節の頭部のパターンが完全に一致するか、調べることで、節の選択を可能にする。さらに、Prolog の実行順序等の制御は単一化のからくりを利用してプログラミングされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "簡単なからくりでかつ極めて強力な単一化であるが実行コストも大きい、すなわち実行速度が遅くなる原因となる。さらに、パターンとして認識することと引き換えに、引数での関数評価は不可能になった。独立して節の本体で式評価を記述しなくてはならないため、数値計算ではやや冗長になる。 これらの点は、単一化の強力さとのトレードオフの関係になっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "型付けは動的型付けに分類できるが、言語仕様の中に型概念は登場しない。上記の単一化、バックトラッキング、と論理変数の束縛においては独特のものがあり、その実行は型推論の実行過程に酷似している。既に Prolog はその引数の引渡し時に単一化という厳密なパターンマッチングを施すことに多大なコストを掛けた。単一化だけでプログラムをコントロールできる言語が Prolog であるといっても過言ではない。この単一化のみによる簡素で強力なプログラムコントロールの足を引っ張ることに成り兼ねない、型付けの強化は、Prolog 言語とその支持者によって受け入れられることはないだろう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Prolog は言語による思考をモデル化して主語・述語といった意味での文中の述語を特に重視して記述する系である。この一点からも、対象物を中心に記述していくオブジェクト指向とは距離が大きい。述語論理以前にオブジェクトありきとする立場を一般には取らない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "いくつかの処理系では、オブジェクト指向言語としての拡張が行なわれているが、オブジェクトを中心に設計されることは、論理プログラミングを重視して記述される限りほとんどない。分類するならば、非オブジェクト指向言語に分類される。オブジェクト指向に拡張された言語としては", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "後に述べるが Prolog の述語はその構造が頭部と本体と分かれていて、本体はルールを意味するため、全体として、ルールを持ったデータベース、演繹データベースとして捉えることができる。これはPrologプログラム全体がデータベースであるということだから、データベースの表現としては最強のクラスに属する。一方、事実を表す本体のない(強制的に真)頭部のみの定義節による述語は関係データベースとその集合論的な性質で一致する。収集した情報を一つの述語に対して多数の頭部のみを持った節の集まりとして定義することにより、オンメモリ関係データベースを構築することが可能である。しかし、Prologをデータベース管理システムとして捉えた場合、 assert、retract、setof、bagof、findall という組込述語を持つこと以外には、管理機構としての特別の組込述語が用意されている訳ではなく、ディクショナリ管理などのための述語定義をユーザが追加する必要がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "関数型言語等、他のプログラミング言語と比較しての Prolog の特長は、上記、一階述語論理に基づくこと、単一化、データベース言語的性格の他に、非決定性と双方向性が挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "非決定性は、解が唯一とは限らない場合、処理系側から見てひとつの解に決定できない場合、外部からの選択の余地を与える。そういうことが当然可能なこととして述語は定義されていく。インタプリタトップではなく、導出を繰り返すプログラム内部にあっては、処理系側とした所を述語と置き換えて考えると、非決定性の述語の解を決定するのは、前方または後方に連接する質問(副目標)である。前方の副目標群から引数経由で与えられる情報によって副目標は一つの解を作り出すが、この解が真であるとするのは最終的に後方に連接する副目標である。この後方に連接した副目標が全て真となった場合に限り副目標は真となる。後方に連接する副目標のどれかが真にならなかった場合は、それが存在すればであるが別解を用意しなくてはならない。ここでも非決定性の述語、ここでは副目標から見ての解の決定権は、外部にあるということになる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "非決定性は導出の過程、取り分けバックトラックアルゴリズムと一体化しており、Prolog プログラムの制御の根幹のひとつである。ただ、非決定性述語実行時に見られる論理変数の 束縛→解放→再束縛という遷移、すなわち一度束縛されたものが別のものに再度束縛されるということを好ましくないとする見方もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "双方向性は、述語が実行された場合の返り値は真または偽だけであり、その代わりとして引数内の変数で値の授受を終始するのだが、このとき、入力として使われた変数が出力に、出力として使われていた変数が入力として使うことのできる述語となることがある。この性質を双方向性という。多くの場合、双方向性を持つ述語はそれ自体多義性を持つ。例えば append という3引数の述語は第一引数と第二引数に具体的なリストが来て呼ばれた時は、リストを結合する意味でよいが、第三引数がリストで第一引数と第二引数が変数の状態で呼ばれた場合その意味は、リストを分解する、がふさわしい。既に存在するリストを、それが結合されて存在したものと考え、それではどのように結合されていったか、あるいは、どのような組み合わせで結合されていったのかを、示していると解釈できる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このような、双方向性は Prolog の述語自らがリバースエンジニアリング的開示能力を持ち、それを示していると捉えることができる。この性質は、Prologを含む論理型プログラム言語の持つ際立った特徴であり、プログラム作成時はもちろん、テスト、デバッグなどの検証の各段階でプログラムコードに対する見通しを向上させる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "プログラマは引数の単一化、再帰/失敗駆動等のプログラムパターンの選択、非決定性、双方向性といった特長をできる限り生かすことなどに配慮しながら、述語の骨格を決めプログラミングを進める。しかし、これらの特長、性質は複合した場合には相当に複雑であり、制御上相反する部分も多々ある。Prolog では、述語論理を逸脱して計算量/資源量/制御の調整に当たる述語「!」(カット)を導入してこの問題に対処しているが、Prolog プログラミングの難しさはこの調整部分に集中している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "Prolog の性格上、その歴史には定理の自動証明の研究が大きく関係している。1930年にジャック・エルブランは自動定理証明やPrologのベースとなる数理論理学上の基本定理であるエルブランの定理を発表した。エルブランの論文には Prolog で必須の単一化アルゴリズムもすでに含まれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1950年代以降、計算機上での定理証明の研究が活発になり、ギルモアのアルゴリズム(1960)やデービス・パトナムのアルゴリズム(1958,1960) 、プラウィツによる定理証明への単一化アルゴリズムの導入(1960)などを経て、1965年のロビンソンによる導出原理 や1960年代後半のラブランドによるモデル消去の証明手続きの成果からひとつの結実期を迎えた。その数年後の1971年マルセイユ大学のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ルーセルのグループは自動定理証明システムとフランス語の自然言語解析システムとを組み合わせたコンピュータとの自然言語対話システムを作成していた。この際に自然言語解析システムも自動定理証明システムと共通の論理式という枠組みで構築できることに気が付き、論理式をそのままプログラムとして実行できる最初の Prolog を1972年に完成させた。これは数千年に及ぶ人類の叡智である論理学の成果をプログラム言語に置き換えたものと言えるが、現在の Prolog でプログラムの制御に使われるカットオペレータに相当する機能が最初から導入されるなど、現在の Prolog と同様、単なる定理証明システムではなくプログラミング言語として設計されたものだった。以下にその当時の Prolog プログラムの一部を示す。論理変数名の最初の文字が \"*\" で始まるなど、現在の Prolog とはシンタックスが異なる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "彼らグループに理論的な助言を与えていたエジンバラ大学のロバート・コワルスキとデービッド・H・D・ウォレンは汎用機 DECsystem10 上にマルセイユ大学とはシンタックスが異なる処理系を作り上げた。これは後に DEC-10 Prolog と呼ばれることになるが、ISO 標準規格を含む今日動作する Prolog 処理系はほとんどがこの系統のシンタックスに従っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "コワルスキはその後、インペリアル・カレッジ・ロンドンに移り、1979年に集大成ともいえる「Logic for Problem Solving」を著し、その後のこの言語と論理プログラミングの研究に決定的な影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "コワルスキの活動と DEC-10 Prolog の存在によって、英国は Prolog 研究の中心地となった。エジンバラ大学のW・F・クロックシンとC・S・メリシュの著わした「Programming in Prolog」は長く Prolog のバイブル本として利用された。エジンバラ大学からSRIインターナショナルに転じたディビッド・ウォレンは1983年 Prolog の仮想マシンコードであるWarren's Abstract Machine(英語版)(WAM)を発表した。この後の Prolog 処理系の実装は、一旦C言語などでこの仮想マシンコードを実装して、その上で Prolog のソースコードをこのマシンコードに変換するコンパイラを用意するという手順を踏むことによって、開発を簡素化し実装上の標準化を図ることが普通になった。日本の新世代コンピュータ技術開発機構の Prolog マシン PSI は1987〜1988年頃に開発された PSI2 からこれを採用したし、その後開発された Prolog 処理系の多くはこの方式に従った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1976年にSRIに留学していた古川康一はカルメラウアーらの Prolog 処理系のリストを見つけ帰国時に電子技術総合研究所に持ち帰った。当時電子技術総合研究所で推論機構研究室長をしていた渕一博はこのリストを解析して Prolog 処理系を走らせ、ルービックキューブを解くプログラムを作成するなど論理プログラミングに対する理解を深めていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1978年MITに留学中の中島秀之が「情報処理」誌に紹介記事を寄稿して、Prolog は日本でも広く知られるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1970年代終り頃、日本では通産省の電子技術総合研究所の渕一博を中心とするグループが論理プログラミングの重要性を認識して、日本のコンピュータ技術の基礎技術としてこれを取り上げることを提案する。これが最終的に1980年代の新世代コンピュータ技術開発機構の発足と活動につながった。総額約570億円の国家予算を約束されて1982年に新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)は活動を開始する。Prolog を含む論理型言語はこの研究の核言語と位置づけられ世界的な注目を浴びることとなる。約10年間の研究活動中に Prolog と論理プログラミングの研究は急激に深化した。実際1980年からの20年間に Prolog をメインテーマにした日本語の書籍は約50冊発刊された。ICOT の研究員は積極的に Prolog の啓蒙に努め、講習会、チュートリアル、ワークショップを年に一度ならず開催した。ICOT が主催したロジック・プログラミング・コンファレンスは1983〜1985年頃をピークに若い研究者達を刺激した。研究活動前半の期間では論理型言語の実用性を証明するために、Prologマシンが設計され、三菱電機と沖電気によって製作され、ICOT の他大学等研究機関に配布された。この個人用逐次推論マシン PSI の機械語 KL0 は単一化やバックトラックなど Prolog の基本的特徴を完全に備えていた。この KL0 によって、PSI のマイクロコードを制御した。KL0 を基礎として、オペレーティングシステム SIMPOS が設計され、これを記述するために、Prolog にオブジェクト指向プログラミングを取り入れた ESPが近山隆により設計されて使われた。ESPは多重継承を特徴とする当時としては先鋭のオブジェクト指向言語であったが、後にカプセル化の不備などが指摘されて、今日あまり話題となることはない。しかし、OSを記述するという課題を通じて、論理型言語にオブジェクト指向言語的要素を加えることによって、可読性が高まりプログラム管理がしやすくなることが確認された。その反面、Prolog のみでオペレーティングシステムを完全に記述してみる絶好の機会を逸したことも確かである。ESPはPSIを前提にせずに利用できるように、C言語で書き直したCESPが開発されたが、これが普及への起爆剤になることはなかった。後に述べるように、PrologのISO標準規格のモジュール仕様としてESPの採用が否決された1995-6年頃以降はほとんど利用されることはなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ここまで述べたように、Prologは ICOT によって持ち上げられた言語 Prolog との印象が強いが、Prolog というプログラミング言語から見ての ICOT の影響は実は限定的だった。淵所長ら ICOT の主研究テーマは並列論理型言語にあり、研究後半では Prolog そのものからは離れて行くことになる。PSI に使用した電子基盤を利用して並列推論マシン PIM が製作されて、Guarded Horn Clauses(GHC)に基づく並列演算処理を追加した KL1 が設計された。この環境に依存する形で、並列論理プログラム言語のKL1は知識プログラミング全般の研究に利用された。PSI と SIMPOS を使った研究も続けられはしたが、割り当てられた研究員の数は極めて少なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ICOT の活動を総括して、知識プログラミング各課題において準備不足からくる未消化を指摘する向きが強いのだが、こと Prolog から見ての前半期の活動は、今日語られることも少ないが、極めて充実したものであったといえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ICOT の活動盛期の1984年京都大学の学生3名が研究課題として製作した Prolog-KABA がその性能の高さとアセンブラで記述されたことからくる高速性で世界を驚かせた。この処理系は MS-DOS 上で製品化されて Prolog の普及に大きく貢献した。Successful pop や末尾再帰の最適化など高い安定した性能で黎明期のパソコン上のビジネスソフトの基礎言語としての展開も期待されたが、16ビットの整数しか持たず、浮動小数点数も扱えない仕様であったため、この分野への展開は起こらなかった。この点はアセンブラで記述されて簡単には拡張できない点が裏目に出た。結果としてこの仕様の乏しさが、日本のビジネスソフトが知識プログラミングの水準との間に横たわる分水嶺を越えることができなかった原因の一つとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1990年代に入ると制約論理プログラミングが注目され処理系が多数誕生した。これは Prolog から見ると引数の論理変数間の関係(制約)を記述可能に拡張したものである。制約論理型言語は、変数評価に遅延実行などを持ち込むことが必要となるが、連立方程式をはじめとする多くの課題で Prolog より記述が柔軟になる。Prolog の組込述語には引数が変数で渡るとエラーとなるものが多く、このため Prolog プログラマは変数が具体化されるように副目標の記述順序に気を配る必要がある。結果としてプログラミングに逐次性が生じる。制約論理プログラミングにおいては、後に変数が具体化されたときに検査されるための変数の間の制約を記述するだけで、この逐次性の拘束を解決して通過することができる。実はこの制約はPrologから見ても自然な拡張であり、むしろ Prolog の単一化が制約論理プログラミングの制約を「=」のみに限定したものだと解釈することができる。しかし、簡素で逐次的な性格を強く持つ Prolog の処理系に慣れた利用者が、制約論理プログラミングの述語中に更に変数制約の宣言を追加しなくてはならない負担を、受け入れているとは言い難い。制約論理プログラム処理系が Prolog のそれに置き換わる気配は、2013年11月現在においてもない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ISO の標準化作業は1987年頃から作業委員会(WG17)が作られ、日本委員も情報処理学会から15名ほどがこれに加わった。1995年 ISO標準規格がISO/IEC 13211-1 Prolog-Part 1: General Coreとして制定された。さらに、2000年にはISO/IEC 13211-2 Prolog-Part 2: Moduleとしてモジュール仕様が追加して規格化された。モジュール仕様については日本委員から、ICOTによって作成されたESP(Extended Self-contained Prolog)を以てその標準とする案が出されていたが、これは否決された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ISO標準規格はエジンバラ仕様 DEC-10Prolog を基調に既に一家をなしていた Quintus Prolog など有力ベンダと主としてヨーロッパの学者を主体にこれに日本などの委員が参加して作成された。この規格は現在 Prolog 処理系の製作者に指針を与え、大きな逸脱を心理的に妨げる役割を果たしているが、組込述語の個々の仕様ではベンダの意向が強く反映されたものの、全体としては最初に述べた論理学的立場を尊重して保守的で極めて小さな仕様となっている。そのため多くの Prolog 処理系はこの規格の述語を搭載しつつ、独自の拡張部分を修正したり削除することに消極的である。結果として個々の処理系の互換性の乏しさは残り、それは Prolog の弱点として認識されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "JIS規格も一旦は2001年にJIS X 3013:2001が、\"標題 プログラム言語Prolog―第1部:基本部\"が要約JISとして発行されたが、2012年1月に何ら実効を見ること無く、「周知としての目的は終了した」として廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本において、ICOT の活動時期から1990年代前半に掛けては、いわゆる人工知能ブームの時期であり、人工知能研究への期待はこの時期再び異様に高まった。LISP マシンによる医療情報エキスパートシステムでの成果は、人工知能の研究の成果の一部は情報処理に於いても利用可能なのではないかとの夢を抱かせた。このような評価の中で Prolog は人工知能のアセンブリ言語的な位置づけを期待された。知識情報処理はこの水準の言語を基礎にその上側に築かれるべきだとの意味である。手っ取り早く利用可能な人工知能技術としてエキスパートシステムが選別され、これを支えるナレッジエンジニアの存在とそれを養成するための教育が必要とされた。Prolog はその中心に存在した。日本も例外ではないが、日本以外の国では特に、Prolog の名著は1990年代前半に刊行されている。これは、ICOT の活動とは若干のタイムラグがあるが、この時期社会的に 人工知能向き言語としての Prolog に大きな期待が寄せられていたことの証しである。エキスパートシステムはビジネス分野において広範囲に応用可能な基礎技術であったが、このような低水準な分野への適用はあまり試みられず、この分野からの Prolog 言語への要請はほとんど見られないまま終った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "機械翻訳などの自然言語処理もまた人工知能の一翼を担う分野であるが、歴史的経緯から人工知能ブーム以前から、この言語に最も期待が掛けられた分野であった。しかし、左再帰問題の回避でトップダウン解析の明解さをいきなり殺がれた。さらに句構造文法への適用においては、Prolog が得意とする、句構造に分解して意味に相当するグラフを形成することの他に、極めて膨大な辞書を構造体として定義する必要が展望された。この辞書作成は Prolog とは直接関係しないタスクであることから、次第に Prolog は句構造文法によるアプローチの前線から後退してしまった。統計的言語処理のアプローチでは、単一化等に多くの計算量を費やす Prolog は大量データを扱うのに不向きとされて、利用されることはほとんどない。自然言語処理のテキストの多くが Prolog を用いて解説されているにも関わらず、期待が大きかった割に実務的には、表面に現れている成果はIBM社のワトソン程度にとどまり、自然言語処理はむしろ Prolog 評価の足を引っ張る傾向にさえある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本においては、ICOT 解散後数年を経て、論理プログラミングと Prolog は急激に下火となる。先にあげたコワルスキの成果があまりにも完成されたものでその研究成果の範囲を越えることが難しかったこと、歴史的にプログラム言語でありながら論理学からの逸脱を厳しく制限され、自由なアイデアによるプログラミング言語としての発展・展開が困難に見えたことも研究者・技術者を離れさせた。そして、人工知能ブームもまた去って行った。企業等で続けられた研究開発も発表される機会がProlog産業応用シンポジウム(INAP)などに限定され、人々の目に Prolog の成果が触れることは極端に少なくなった。ICOT の多大な研究成果がネット上に閲覧可能な状態で置かれたが、Prolog 言語の処理系はインターネット時代の技術・流れに乗れず、初心者・初学者が利用するためのネット上での情報も他の有力言語に比べて少なく、新しい利用者を惹きつけることができなかった。パソコンのオペレーティングシステムとして Microsoft Windows が一般に普及し始めると、初心者教育にウィンドウの部品の展開を題材とするのに適したオブジェクト指向言語に人気が集中し、Prolog は動作の遅い外れた言語のイメージを持たれるようになる。さらに21世紀に入ると Prolog がクラス概念を持たないため、マイクロソフト社による .NET アーキテクチュアの共通言語基盤(CLR)の対象言語から外され、この傾向に拍車をかけた。ついには枯れた言語というニュアンスを含んでではあるが、「化石言語」と揶揄されるまでに至ったのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "盛時の勢いは失ったものの、Prolog は各教育機関で主として論理学の教材として利用され続け、今日まで数万人の人が Prolog の講座を受講している。実務的に利用される機会が少ないにも関わらず、その素養を持つ人が大量に存在するという特異な位置にあるプログラム言語となっている。また、多くのプログラミング言語でその言語上にPrologインタプリタを制作してみることが難度の高い学習課題の一つとして採用され、その結果としてもPrologを理解しているプログラマは増加する傾向がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "多くの処理系は Prolog の基本機能以外に、制約プログラミングや並行プログラミングのための拡張機能や Constraint Handling Rules などの各種言語をライブラリとして含んでいる。", "title": "処理系" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "", "title": "参考書籍" } ]
Prolog(プロログ)は論理プログラミング言語の一つであり、該当分野で最もよく知られている論理型言語の代表格である。主に人工知能研究や計算言語学との関連性を持つ。定理証明、エキスパートシステム、自動計画、自然言語処理とも繋がりが深い。一階述語論理と形式論理を基礎にして、事実群と規則群の表現および関係の観点に立った宣言型パラダイムに準拠しており、その関係に則った質問によって計算が開始されるという性質を持つ。 Prologは、1972年にマルセイユ大学のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ラッセルによって開発された。フランス語の「programmation en logique」がその名の由来である。Prologの誕生にはエディンバラ大学のロバート・コワルスキが考案したホーン節が大きく寄与している。カルメラウアーによる元祖版はマルセイユPrologと呼ばれている。その後、コワルスキの門弟のデヴィッド・ワーレンが1977年に改訂開発したエディンバラPrologが標準になってPrologは広く普及した。
{{Otheruses|プログラミング言語|同人誌|Prolog (同人誌)}} {{複数の問題 | 独自研究 = 2016年2月 | 言葉を濁さない = 2016年2月 | 出典の明記 = 2016年2月 }} {{Wikibooks|Prolog/言語仕様|言語仕様}} {{Wikibooks|Prolog|プログラム例}} {{Infobox プログラミング言語 |名前 = Prolog |パラダイム = [[論理プログラミング]] |登場時期 = 1972年 |設計者 = Alain Colmerauer 他 |型付け = [[動的型付け]] |処理系 = AZ-Prolog, BProlog, Ciao Prolog, ECLiPSe, GNU Prolog, K-Prolog, Open Prolog, Poplog, Prolog Cafe, Prolog.NET, P#, SICStus Prolog, Strawberry Prolog, SWI-Prolog, YAP-Prolog |方言 = |拡張子 = .pl, .pro, .P |影響を与えた言語 = [[Erlang]], KL0, [[ESP]], [[Guarded Horn Clauses]], [[KL1]], [[Concurrent Prolog]], [[PARLOG]], {{仮リンク|Mercury (プログラミング言語)|label=Mercury|en|Mercury (programming_language)}}, [[Oz (プログラミング言語)|Oz]], [[Strand]], {{仮リンク|Visual Prolog|en|Visual Prolog}} |プラットフォーム = [[クロスプラットフォーム]] }} {{プログラミング言語}} {{lang|en|'''Prolog'''}}(プロログ)は[[論理プログラミング|論理プログラミング言語]]の一つであり、該当分野で最もよく知られている論理型言語の代表格である。主に[[人工知能]]研究や[[計算言語学]]との関連性を持つ。[[定理証明系|定理証明]]、[[エキスパートシステム]]、[[自動計画]]、[[自然言語処理]]とも繋がりが深い。[[数理論理学|形式論理]]である[[一階述語論理]]を基礎にして、事実群と規則群の表現および[[関数 (数学)|関係]]の観点に立った[[宣言型プログラミング|宣言型パラダイム]]に準拠しており、その[[関数 (数学)|関係]]に則った質問によって計算が開始されるという性質を持つ。 Prologは、1972年に[[マルセイユ大学]]のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ラッセルによって開発された。フランス語の「''{{lang|fr|'''pro'''grammation en '''log'''ique}}''」がその名の由来である<ref>Alain Colmerauer, Philippe Roussel. ''The birth of Prolog'', p.2.</ref>。Prologの誕生には[[エディンバラ大学]]のロバート・コワルスキが考案した[[ホーン節]]が大きく寄与している。カルメラウアーによる元祖版はマルセイユPrologと呼ばれている。その後、コワルスキの門弟のデヴィッド・ワーレンが1977年に改訂開発したエディンバラProlog(DEC-10 Prolog)が標準になってPrologは広く普及した<ref name="Kowalski1974">Robert Kowalski. ''The Early Years of Logic Programming'', p.38.</ref>。 == 概要 == [[1972年]]ごろに[[フランス]]のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ルーセルによって考案された<ref name="Kowalski1974"/>。 成立の事情から、{{lang|en|Prolog}} プログラムは[[論理式 (数学)|論理式]]とみなされ、その実行は[[述語論理]]によって述語が定義された環境における定理証明に擬して解釈されることが多い。利用者は[[論理プログラミング]]の枠組みを、取り分け[[述語論理]]を学習することで、この枠組みに極めて忠実なこの言語の基礎的な構造のほとんどを理解できる。その言語仕様はこの枠組み以外には考案者たちも含めてそれ以上の拡張をほとんど行っていないため、他のプログラム言語とは異なり、学習しなくてはならない概念や用語もまた、[[述語論理]]のものだけでこと足りる。基本的に計算機科学の新しい概念や新しい手法とは無縁である。ただし、SWI-Prolog等の処理系では様々な機能拡張の試みが行われている。一階述語論理は型理論や操作的意味論の研究論文で多数用いられており、今後、再注目される可能性がある。 === 述語論理と論理プログラミング === {{lang|en|Prolog}} の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]は[[一階述語論理]]に基づいてデータ間の関係を示す[[命題]]として記述され、処理系がそれらに'''単一化'''([[ユニフィケーション]])と呼ばれる[[パターンマッチング]]を施しながら、与えられた命題が成立するか[[再帰]]的手続きによって探索している。 プログラムの実行は述語集合が定義された環境の元で、質問することによってなされるが、これは反駁という述語論理的な証明過程を模して、処理系が用意する導出木と呼ばれるグラフをたどって解を得る過程である。 {{lang|en|Prolog}} のもととなるこの[[演繹]]手法は[[導出]]と呼ばれ、[[自動定理証明]]の研究において {{lang|en|Prolog}} 開発以前からよく知られていた。{{lang|en|Prolog}} は、導出において節を頭部が一つの命題からのみなる[[ホーン節]]に限定したもので、この場合の導出を'''SLD導出'''(Selective Linear resolution for Definite clause)と呼ぶ。ホーン節に限定しているということは、つまり、Prolog は任意の述語をそのまま扱えるわけではない。Prolog が述語の形式をホーン節に限定した理由は、もし頭部に項の[[連言]]を認めるならば、導出時の計算量が爆発的に増大して、全ての解を得ることの保証が難しくなることが必至だからである。 述語論理を論理的な背景に持つことによって、Prolog のプログラムはその正しさを確認することが比較的容易である。同時に、プログラマは {{lang|en|Prolog}} でプログラミングすることが何を意味するかを明確に理解した上で、プログラムを書いていくことができる。 === 非述語論理的な立場 === 上記は {{lang|en|Prolog}} の一つの解釈である。一方、{{lang|en|Prolog}} というプログラム言語を[[述語論理]]という枠にはめないで捉える立場もある。導出、単一化、非決定性、双方向性、[[関係データベース]]といったこの言語に独特の機能とその表現力、記述力に着目し、そのプログラム言語としての可能性を率直に評価しようとするものだ。 新たに {{lang|en|Prolog}} を学びたいと思う人は、他のプログラム言語を全く知らなくても、ソフトウェア科学的な予備知識や概念に不通であっても、単一化という単純なルールをほとんど唯一の基軸として、パズル的な、あるいはゲーム的な感覚にだけ導かれて、プログラムを簡単に書き進むことができる。さらに、どの言語にも比して平坦で、平明な言語構造を持つ {{lang|en|Prolog}} はラベル名(アトム、関数名、述語名)に適切な意味性を付与することにより、自然言語の領域にも接近したプログラミングが期待できるほとんど唯一の言語でもある。 十分述語論理的な教養を持った上で {{lang|en|Prolog}} を学び、そのプログラムを書くならば、短期間で高度で安定したプログラムを書くことができる。しかし、それを前提としないでも、{{lang|en|Prolog}} は冒険的で、未知の領域に満ちたプログラム言語なのである。 実はこれらの主張は、述語論理的な主張に隠れて、これまであまり強調されたことがなかった。 このような立場や主張が生まれる背景には、{{lang|en|Prolog}} が期待されたほどにはソフトウェア革新の担い手になり得ていない理由が、その後の数理論理学の学問的な評価をもって、プログラム言語としての可能性を十分検証することを放棄して、定理証明といった狭い目的へ封じ込めようとする風潮を生んだことにある、という反省がある。そのことを踏まえて、{{lang|en|Prolog}} が述語論理から成立したことにこだわらず、実在するプログラム言語として自由な視点からこの言語を見直そうとするものである。 === 記号処理用言語・人工知能言語 === {{lang|en|Prolog}} は {{lang|en|[[LISP]]}} の資産の多くを継承して間違いなく記号処理用の言語であるが、[[人工知能]]言語として分類されることも多い。これは、人工知能の世界では述語論理が古くから理論的な柱の一つとなっているからである。述語論理を基礎とするトップ・ダウン式の問題解決と同じく述語論理を基礎とする {{lang|en|Prolog}} の駆動機構の相性は当然良いため、人工知能研究に広く利用されてきた。特に[[エキスパートシステム]]で多用されるプロダクションシステムにおいては、ルールを自然に自ら動的に変更できる能力を持つことと、後ろ向き推論と呼ばれる推論が {{lang|en|Prolog}} の導出過程そのものであることから、その最も主要な記述言語の位置を占めてきた。 === 宣言型言語 === {{lang|en|Prolog}} は一階の述語論理に対応することから[[論理型言語]]に分類される汎用言語であるが、その主張の一行一行を独立して論理式とほとんど等価な表現で行うことから、最も代表的な[[宣言型言語]]と見なされている。{{lang|en|Prolog}} のプログラム単位である述語の各節の本体に現れる質問単位である副目標数は平均5個以内と極めて少ない。この副目標と各節の頭部に現れる引数の組み合わせによって得られる関係が述語の意味を構成している考えられる。これが宣言型とされるゆえんである。 <syntaxhighlight lang="prolog"> <頭部> :- <本体>. % Prologの節は頭部と本体によって構成される。 % 述語定義は複数の節からなる。本体は幾つかの副目標からなる。 % 副目標の全てが真となった時に節の宣言は成立する(節は真となる)。 述語名(引数_1,引数_2) :- <副目標_1>,<副目標_2>. 述語名(引数_1,引数_2) :- <副目標_3> ・・・ </syntaxhighlight> === 単一化 === 単一化は1960年代の述語論理理論の発展の鍵となった概念であるが、{{lang|en|Prolog}} が述語論理に導かれて機械による自動証明を実現するためのプログラム言語として成立したことから、必然的にこの言語の必須の最も重要な機構となった。単一化は副目標(質問)と対応する定義節の頭部のパターンが完全に一致するか、調べることで、節の選択<ref group="注">{{lang-en-short|resolution}}、融合</ref>を可能にする。さらに、{{lang|en|Prolog}} の実行順序等の制御は単一化のからくりを利用してプログラミングされる。 簡単なからくりでかつ極めて強力な単一化であるが実行コストも大きい、すなわち実行速度が遅くなる原因となる。さらに、パターンとして認識することと引き換えに、引数での関数評価は不可能になった。独立して節の本体で式評価を記述しなくてはならないため、数値計算ではやや冗長になる。 これらの点は、単一化の強力さとのトレードオフの関係になっている。 === 動的型付け === 型付けは動的型付けに分類できるが、言語仕様の中に型概念は登場しない。上記の単一化、バックトラッキング、と論理変数の束縛においては独特のものがあり、その実行は型推論の実行過程に酷似している。既に {{lang|en|Prolog}} はその引数の引渡し時に単一化という厳密なパターンマッチングを施すことに多大なコストを掛けた。単一化だけでプログラムをコントロールできる言語が {{lang|en|Prolog}} であるといっても過言ではない。この単一化のみによる簡素で強力なプログラムコントロールの足を引っ張ることに成り兼ねない、型付けの強化は、{{lang|en|Prolog}} 言語とその支持者によって受け入れられることはないだろう。 === 非オブジェクト指向言語 === {{lang|en|Prolog}} は言語による思考をモデル化して主語・述語といった意味での文中の述語を特に重視して記述する系である。この一点からも、対象物を中心に記述していくオブジェクト指向とは距離が大きい。述語論理以前にオブジェクトありきとする立場を一般には取らない。 いくつかの処理系では、オブジェクト指向言語としての拡張が行なわれているが、オブジェクトを中心に設計されることは、論理プログラミングを重視して記述される限りほとんどない。分類するならば、非オブジェクト指向言語に分類される。オブジェクト指向に拡張された言語としては * [[Visual Prolog]] * [[Logtalk]] が存在する。 === オンメモリデータベース === 後に述べるが {{lang|en|Prolog}} の述語はその構造が頭部と本体と分かれていて、本体はルールを意味するため、全体として、ルールを持ったデータベース、演繹データベースとして捉えることができる。これはPrologプログラム全体がデータベースであるということだから、データベースの表現としては最強のクラスに属する。一方、事実を表す本体のない(強制的に真)頭部のみの定義節による述語は[[関係データベース]]とその集合論的な性質で一致する。収集した情報を一つの述語に対して多数の頭部のみを持った節の集まりとして定義することにより、'''オンメモリ関係データベース'''を構築することが可能である。しかし、Prologをデータベース管理システムとして捉えた場合、 <code>assert</code>、<code>retract</code>、<code>setof</code>、<code>bagof</code>、<code>findall</code> という組込述語を持つこと以外には、管理機構としての特別の組込述語が用意されている訳ではなく、ディクショナリ管理などのための述語定義をユーザが追加する必要がある。 === 非決定性と双方向性 === 関数型言語等、他のプログラミング言語と比較しての {{lang|en|Prolog}} の特長は、上記、一階述語論理に基づくこと、単一化、データベース言語的性格の他に、'''非決定性'''と'''双方向性'''が挙げられる。 '''非決定性'''は、解が唯一とは限らない場合、処理系側から見てひとつの解に決定できない場合、外部からの選択の余地を与える。そういうことが当然可能なこととして述語は定義されていく。インタプリタトップではなく、導出を繰り返すプログラム内部にあっては、処理系側とした所を述語と置き換えて考えると、非決定性の述語の解を決定するのは、前方または後方に連接する質問(副目標)である。前方の副目標群から引数経由で与えられる情報によって副目標は一つの解を作り出すが、この解が真であるとするのは最終的に後方に連接する副目標である。この後方に連接した副目標が全て真となった場合に限り副目標は真となる。後方に連接する副目標のどれかが真にならなかった場合は、それが存在すればであるが別解を用意しなくてはならない。ここでも非決定性の述語、ここでは副目標から見ての解の決定権は、外部にあるということになる。 非決定性は導出の過程、取り分けバックトラックアルゴリズムと一体化しており、{{lang|en|Prolog}} プログラムの制御の根幹のひとつである。ただ、非決定性述語実行時に見られる論理変数の 束縛→解放→再束縛という遷移、すなわち一度束縛されたものが別のものに再度束縛されるということを好ましくないとする見方もある。 '''双方向性'''は、述語が実行された場合の返り値は真または偽だけであり、その代わりとして引数内の変数で値の授受を終始するのだが、このとき、入力として使われた変数が出力に、出力として使われていた変数が入力として使うことのできる述語となることがある。この性質を双方向性という。多くの場合、双方向性を持つ述語はそれ自体多義性を持つ。例えば <code>append</code> という3引数の述語は第一引数と第二引数に具体的なリストが来て呼ばれた時は、リストを結合する意味でよいが、第三引数がリストで第一引数と第二引数が変数の状態で呼ばれた場合その意味は、リストを分解する、がふさわしい。既に存在するリストを、それが結合されて存在したものと考え、それではどのように結合されていったか、あるいは、どのような組み合わせで結合されていったのかを、示していると解釈できる。 このような、双方向性は {{lang|en|Prolog}} の述語自らがリバースエンジニアリング的開示能力を持ち、それを示していると捉えることができる。この性質は、Prologを含む論理型プログラム言語の持つ際立った特徴であり、プログラム作成時はもちろん、テスト、デバッグなどの検証の各段階でプログラムコードに対する見通しを向上させる。<!--プログラマが意図して双方向性を確保することもできるが、意図せずにあるいは思いがけずこの性質が現れることもある。この点を {{lang|en|Prolog}} の醍醐味とする人は多い。双方向性は意味的に、逆関数的な性質を持つ場合もあるが、非決定性とも複雑に関係して、集合論的な性質を強く示す場合やそれぞれが全く異なった意味と解釈した方が理解しやすい場合など、多様である。--> === {{lang|en|Prolog}} プログラミングの難しさ === プログラマは引数の単一化、再帰/失敗駆動等のプログラムパターンの選択、非決定性、双方向性といった特長をできる限り生かすことなどに配慮しながら、述語の骨格を決めプログラミングを進める。しかし、これらの特長、性質は複合した場合には相当に複雑であり、制御上相反する部分も多々ある。{{lang|en|Prolog}} では、述語論理を逸脱して計算量/資源量/制御の調整に当たる述語「<code>!</code>」(カット)を導入してこの問題に対処しているが、{{lang|en|Prolog}} プログラミングの難しさはこの調整部分に集中している。 <!-- これは「歴史」などの章を作って移動してください 移動できない場合はコワルスキの業績と新世代コンピュータ技術開発機構の発足と{{lang|en|Prolog}}の関係について解説を追加して下さい --> == 歴史 == === 誕生 === {{lang|en|Prolog}} の性格上、その歴史には[[自動定理証明|定理の自動証明]]の研究が大きく関係している。1930年に[[ジャック・エルブラン]]は自動定理証明やPrologのベースとなる[[数理論理学]]上の基本定理である[[エルブランの定理]]を発表した。エルブランの論文には {{lang|en|Prolog}} で必須の[[単一化]]アルゴリズムもすでに含まれていた<ref name=Buss1995>Buss, Samuel R., "On Herbrand's Theorem".</ref>。 1950年代以降、計算機上での定理証明の研究が活発になり、[[ギルモアのアルゴリズム]](1960)や[[デービス・パトナムのアルゴリズム]](1958,1960) 、プラウィツによる定理証明への[[単一化]]アルゴリズムの導入(1960)などを経て、1965年のロビンソンによる[[導出原理]] や1960年代後半のラブランドによるモデル消去の証明手続きの成果からひとつの結実期を迎えた。その数年後の1971年[[マルセイユ大学]]のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ルーセルのグループは自動定理証明システムとフランス語の自然言語解析システムとを組み合わせたコンピュータとの自然言語対話システムを作成していた。この際に自然言語解析システムも自動定理証明システムと共通の論理式という枠組みで構築できることに気が付き、論理式をそのままプログラムとして実行できる最初の {{lang|en|Prolog}} を1972年に完成させた<ref>Alain Colmerauer and Philippe Roussel, ''The birth of Prolog'', p.6.</ref>。これは数千年に及ぶ人類の叡智である論理学の成果をプログラム言語に置き換えたものと言えるが、現在の {{lang|en|Prolog}} でプログラムの制御に使われるカットオペレータに相当する機能が最初から導入されるなど<ref>Alain Colmerauer and Philippe Roussel, ''The birth of Prolog'', pp.14-15.</ref>、現在の {{lang|en|Prolog}} と同様、単なる定理証明システムではなくプログラミング言語として設計されたものだった。以下にその当時の {{lang|en|Prolog}} プログラムの一部を示す。論理変数名の最初の文字が "*" で始まるなど、現在の {{lang|en|Prolog}} とはシンタックスが異なる。 <syntaxhighlight lang="prolog"> READ RULES +DESC(*X,*Y) -CHILD(*X,*Y);; +DESC(*X,*Z) -CHILD(*X,*Y) -DESC(*Y,*Z);; +BROTHERSISTER(*X,*Y) -CHILD(*Z,*X) -CHILD(*Z,*Y) -DIF (*X,*Y);; AMEN </syntaxhighlight> === コワルスキと{{lang|en|DEC-10Prolog}} === 彼らグループに理論的な助言を与えていた[[エジンバラ大学]]のロバート・コワルスキとデービッド・H・D・ウォレン<ref group="注">{{lang-en-short|David H.D.Warren}}</ref>は汎用機 {{lang|en|DECsystem10}} 上にマルセイユ大学とはシンタックスが異なる処理系を作り上げた。これは後に {{lang|en|DEC-10 Prolog}} と呼ばれることになるが、ISO 標準規格を含む今日動作する {{lang|en|Prolog}} 処理系はほとんどがこの系統のシンタックスに従っている。 <syntaxhighlight lang="prolog"> desc(X,Y) :- child(X,Y). desc(X,Z) :- child(X,Y),desc(Y,Z). brothersister(X,Y) :- child(Z,X),child(Z,Y),dif(X,Y). </syntaxhighlight> コワルスキはその後、[[インペリアル・カレッジ・ロンドン]]に移り、1979年に集大成ともいえる「{{lang|en|Logic for Problem Solving}}」を著し、その後のこの言語と論理プログラミングの研究に決定的な影響を与えた。 コワルスキの活動と {{lang|en|DEC-10 Prolog}} の存在によって、英国は {{lang|en|Prolog}} 研究の中心地となった。[[エジンバラ大学]]のW・F・クロックシン<ref group="注">{{lang|en|W. F. Clocksin}}</ref>とC・S・メリシュ<ref group="注">{{lang-en-short|C. S. Mellish}}</ref>の著わした「{{lang|en|Programming in Prolog}}」は長く {{lang|en|Prolog}} のバイブル本として利用された。エジンバラ大学からSRIインターナショナルに転じたディビッド・ウォレンは1983年 {{lang|en|Prolog}} の仮想マシンコードである{{仮リンク|Warren's Abstract Machine|en|Warren Abstract Machine}}(WAM)を発表した。この後の {{lang|en|Prolog}} 処理系の実装は、一旦[[C言語]]などでこの仮想マシンコードを実装して、その上で {{lang|en|Prolog}} のソースコードをこのマシンコードに変換するコンパイラを用意するという手順を踏むことによって、開発を簡素化し実装上の標準化を図ることが普通になった。日本の'''[[新世代コンピュータ技術開発機構]]'''の {{lang|en|Prolog}} マシン PSI は1987〜1988年頃に開発された PSI2 からこれを採用したし、その後開発された {{lang|en|Prolog}} 処理系の多くはこの方式に従った。 1976年にSRIに留学していた古川康一はカルメラウアーらの {{lang|en|Prolog}} 処理系のリストを見つけ帰国時に[[電子技術総合研究所]]に持ち帰った<ref name="名前なし-1">古川 康一, p.5.</ref>。当時電子技術総合研究所で推論機構研究室長をしていた[[渕一博]]はこのリストを解析して {{lang|en|Prolog}} 処理系を走らせ、ルービックキューブを解くプログラムを作成するなど論理プログラミングに対する理解を深めていった<ref name="名前なし-1"/>。 1978年MITに留学中の中島秀之が「情報処理」誌に紹介記事を寄稿して、{{lang|en|Prolog}} は日本でも広く知られるようになった。 === 新世代コンピュータ技術開発機構と{{lang|en|Prolog}} === 1970年代終り頃、日本では通産省の電子技術総合研究所の[[渕一博]]を中心とするグループが論理プログラミングの重要性を認識して、日本のコンピュータ技術の基礎技術としてこれを取り上げることを提案する。これが最終的に1980年代の新世代コンピュータ技術開発機構の発足と活動につながった。総額約570億円の国家予算を約束されて1982年に新世代コンピュータ技術開発機構('''{{lang|en|ICOT}}''')は活動を開始する。{{lang|en|Prolog}} を含む論理型言語はこの研究の核言語と位置づけられ世界的な注目を浴びることとなる。約10年間の研究活動中に {{lang|en|Prolog}} と論理プログラミングの研究は急激に深化した。実際1980年からの20年間に {{lang|en|Prolog}} をメインテーマにした日本語の書籍は約50冊発刊された。ICOT の研究員は積極的に Prolog の啓蒙に努め、講習会、チュートリアル、ワークショップを年に一度ならず開催した。{{lang|en|ICOT}} が主催したロジック・プログラミング・コンファレンスは1983〜1985年頃をピークに若い研究者達を刺激した。研究活動前半の期間では論理型言語の実用性を証明するために、'''{{lang|en|Prolog}}マシン'''が設計され、三菱電機と沖電気によって製作され、{{lang|en|ICOT}} の他大学等研究機関に配布された。この個人用逐次推論マシン '''PSI''' の機械語 '''KL0''' は単一化やバックトラックなど {{lang|en|Prolog}} の基本的特徴を完全に備えていた。この KL0 によって、PSI のマイクロコードを制御した。KL0 を基礎として、オペレーティングシステム '''{{lang|en|SIMPOS}}''' が設計され、これを記述するために、{{lang|en|Prolog}} にオブジェクト指向プログラミングを取り入れた '''ESP'''<ref group="注">{{lang-en-short|extended self-contained Prolog}}</ref>が近山隆により設計されて使われた。ESPは多重継承を特徴とする当時としては先鋭のオブジェクト指向言語であったが、後にカプセル化の不備などが指摘されて、今日あまり話題となることはない。しかし、OSを記述するという課題を通じて、論理型言語にオブジェクト指向言語的要素を加えることによって、可読性が高まりプログラム管理がしやすくなることが確認された。その反面、{{lang|en|Prolog}} のみで[[オペレーティングシステム]]を完全に記述してみる絶好の機会を逸したことも確かである。ESPはPSIを前提にせずに利用できるように、C言語で書き直したCESPが開発されたが、これが普及への起爆剤になることはなかった。後に述べるように、PrologのISO標準規格のモジュール仕様としてESPの採用が否決された1995-6年頃以降はほとんど利用されることはなくなった。 ここまで述べたように、Prologは {{lang|en|ICOT}} によって持ち上げられた言語 {{lang|en|Prolog}} との印象が強いが、{{lang|en|Prolog}} というプログラミング言語から見ての {{lang|en|ICOT}} の影響は実は限定的だった。淵所長ら {{lang|en|ICOT}} の主研究テーマは並列論理型言語にあり、研究後半では {{lang|en|Prolog}} そのものからは離れて行くことになる。PSI に使用した電子基盤を利用して並列推論マシン PIM が製作されて、{{Lang|en|[[Guarded Horn Clauses]]}}(GHC)に基づく[[並列処理|並列演算処理]]を追加した [[KL1]] が設計された。この環境に依存する形で、並列論理プログラム言語の[[KL1]]は'''知識プログラミング'''全般の研究に利用された。PSI と {{lang|en|SIMPOS}} を使った研究も続けられはしたが、割り当てられた研究員の数は極めて少なかった。 {{lang|en|ICOT}} の活動を総括して、知識プログラミング各課題において準備不足からくる未消化を指摘する向きが強いのだが、こと {{lang|en|Prolog}} から見ての前半期の活動は、今日語られることも少ないが、極めて充実したものであったといえる。 {{lang|en|ICOT}} の活動盛期の1984年[[京都大学]]の学生3名<ref name="Prolog-KABA">萩野達也,桜川貴司,柴山悦哉</ref>が研究課題として製作した '''{{lang|en|Prolog-KABA}}''' がその性能の高さとアセンブラで記述されたことからくる高速性で世界を驚かせた。この処理系は {{lang|en|MS-DOS}} 上で製品化されて {{lang|en|Prolog}} の普及に大きく貢献した。{{lang|en|Successful pop}} や末尾再帰の最適化など高い安定した性能で黎明期のパソコン上のビジネスソフトの基礎言語としての展開も期待されたが、16ビットの整数しか持たず、浮動小数点数も扱えない仕様であったため、この分野への展開は起こらなかった。この点はアセンブラで記述されて簡単には拡張できない点が裏目に出た。結果としてこの仕様の乏しさが、日本のビジネスソフトが知識プログラミングの水準との間に横たわる分水嶺を越えることができなかった原因の一つとなった。 === 1990年代とISO標準規格 === 1990年代に入ると[[制約論理プログラミング]]が注目され処理系が多数誕生した。これは {{lang|en|Prolog}} から見ると引数の論理変数間の関係(制約)を記述可能に拡張したものである。'''制約論理型言語'''は、変数評価に遅延実行などを持ち込むことが必要となるが、連立方程式をはじめとする多くの課題で {{lang|en|Prolog}} より記述が柔軟になる。{{lang|en|Prolog}} の組込述語には引数が変数で渡るとエラーとなるものが多く、このため {{lang|en|Prolog}} プログラマは変数が具体化されるように副目標の記述順序に気を配る必要がある。結果としてプログラミングに逐次性が生じる。制約論理プログラミングにおいては、後に変数が具体化されたときに検査されるための変数の間の制約を記述するだけで、この逐次性の拘束を解決して通過することができる。実はこの制約はPrologから見ても自然な拡張であり、むしろ {{lang|en|Prolog}} の単一化が制約論理プログラミングの制約を「<code>=</code>」のみに限定したものだと解釈することができる。しかし、簡素で逐次的な性格を強く持つ {{lang|en|Prolog}} の処理系に慣れた利用者が、制約論理プログラミングの述語中に更に変数制約の宣言を追加しなくてはならない負担を、受け入れているとは言い難い。制約論理プログラム処理系が {{lang|en|Prolog}} のそれに置き換わる気配は、2013年11月現在においてもない。 ISO の標準化作業は1987年頃から作業委員会(WG17<ref>https://www.complang.tuwien.ac.at/ulrich/iso-prolog/SWI7_and_ISO</ref>)が作られ、日本委員も情報処理学会から15名ほどがこれに加わった。1995年 '''ISO標準規格'''がISO/IEC 13211-1 Prolog-Part 1: General Coreとして制定された。さらに、2000年にはISO/IEC 13211-2 Prolog-Part 2: Moduleとしてモジュール仕様が追加して規格化された。モジュール仕様については日本委員から、ICOTによって作成されたESP(Extended Self-contained Prolog)を以てその標準とする案が出されていたが、これは否決された。 ISO標準規格はエジンバラ仕様 {{lang|en|DEC-10Prolog}} を基調に既に一家をなしていた {{lang|en|Quintus Prolog}} など有力ベンダと主としてヨーロッパの学者を主体にこれに日本などの委員が参加して作成された。この規格は現在 Prolog 処理系の製作者に指針を与え、大きな逸脱を心理的に妨げる役割を果たしているが、組込述語の個々の仕様ではベンダの意向が強く反映されたものの、全体としては最初に述べた論理学的立場を尊重して保守的で極めて小さな仕様となっている。そのため多くの {{lang|en|Prolog}} 処理系はこの規格の述語を搭載しつつ、独自の拡張部分を修正したり削除することに消極的である。結果として個々の処理系の互換性の乏しさは残り、それは {{lang|en|Prolog}} の弱点として認識されている。 JIS規格も一旦は2001年にJIS X 3013:2001が、"標題 プログラム言語Prolog―第1部:基本部"が要約JISとして発行されたが、2012年1月に何ら実効を見ること無く、「周知としての目的は終了した」として廃止された。 === 人工知能ブームと{{lang|en|Prolog}} === 日本において、{{lang|en|ICOT}} の活動時期から1990年代前半に掛けては、いわゆる人工知能ブームの時期であり、人工知能研究への期待はこの時期再び異様に高まった。{{lang|en|LISP}} マシンによる医療情報エキスパートシステムでの成果は、人工知能の研究の成果の一部は情報処理に於いても利用可能なのではないかとの夢を抱かせた。このような評価の中で {{lang|en|Prolog}} は人工知能のアセンブリ言語的な位置づけを期待された。知識情報処理はこの水準の言語を基礎にその上側に築かれるべきだとの意味である。手っ取り早く利用可能な人工知能技術としてエキスパートシステムが選別され、これを支えるナレッジエンジニアの存在とそれを養成するための教育が必要とされた。{{lang|en|Prolog}} はその中心に存在した。日本も例外ではないが、日本以外の国では特に、{{lang|en|Prolog}} の名著は1990年代前半に刊行されている。これは、{{lang|en|ICOT}} の活動とは若干のタイムラグがあるが、この時期社会的に 人工知能向き言語としての {{lang|en|Prolog}} に大きな期待が寄せられていたことの証しである。エキスパートシステムはビジネス分野において広範囲に応用可能な基礎技術であったが、このような低水準な分野への適用はあまり試みられず、この分野からの {{lang|en|Prolog}} 言語への要請はほとんど見られないまま終った。 機械翻訳などの自然言語処理もまた人工知能の一翼を担う分野であるが、歴史的経緯から人工知能ブーム以前から、この言語に最も期待が掛けられた分野であった。しかし、[[左再帰]]問題の回避でトップダウン解析の明解さをいきなり殺がれた。さらに[[句構造文法]]への適用においては、{{lang|en|Prolog}} が得意とする、句構造に分解して意味に相当するグラフを形成することの他に、極めて膨大な辞書を構造体として定義する必要が展望された。この辞書作成は {{lang|en|Prolog}} とは直接関係しないタスクであることから、次第に {{lang|en|Prolog}} は句構造文法によるアプローチの前線から後退してしまった。統計的言語処理のアプローチでは、単一化等に多くの計算量を費やす {{lang|en|Prolog}} は大量データを扱うのに不向きとされて、利用されることはほとんどない。自然言語処理のテキストの多くが {{lang|en|Prolog}} を用いて解説されているにも関わらず、期待が大きかった割に実務的には、表面に現れている成果はIBM社の[[ワトソン (コンピュータ)|ワトソン]]程度にとどまり、自然言語処理はむしろ {{lang|en|Prolog}} 評価の足を引っ張る傾向にさえある。 === {{lang|en|ICOT}}以後の日本における衰退 === 日本においては、{{lang|en|ICOT}} 解散後数年を経て、論理プログラミングと {{lang|en|Prolog}} は急激に下火となる。先にあげたコワルスキの成果があまりにも完成されたものでその研究成果の範囲を越えることが難しかったこと、歴史的にプログラム言語でありながら論理学からの逸脱を厳しく制限され、自由なアイデアによるプログラミング言語としての発展・展開が困難に見えたことも研究者・技術者を離れさせた。そして、人工知能ブームもまた去って行った。企業等で続けられた研究開発も発表される機会が{{lang|en|Prolog}}産業応用シンポジウム(INAP)などに限定され、人々の目に {{lang|en|Prolog}} の成果が触れることは極端に少なくなった。{{lang|en|ICOT}} の多大な研究成果がネット上に閲覧可能な状態で置かれたが、{{lang|en|Prolog}} 言語の処理系はインターネット時代の技術・流れに乗れず、初心者・初学者が利用するためのネット上での情報も他の有力言語に比べて少なく、新しい利用者を惹きつけることができなかった。パソコンのオペレーティングシステムとして {{lang|en|[[Microsoft Windows]]}} が一般に普及し始めると、初心者教育にウィンドウの部品の展開を題材とするのに適したオブジェクト指向言語に人気が集中し、{{lang|en|Prolog}} は動作の遅い外れた言語のイメージを持たれるようになる。さらに21世紀に入ると {{lang|en|Prolog}} がクラス概念を持たないため、マイクロソフト社による {{lang|en|.NET}} アーキテクチュアの[[共通言語基盤]](CLR)の対象言語から外され、この傾向に拍車をかけた。ついには枯れた言語というニュアンスを含んでではあるが、「化石言語」と揶揄されるまでに至ったのである。 === 今日 === 盛時の勢いは失ったものの、{{lang|en|Prolog}} は各教育機関で主として論理学の教材として利用され続け、今日まで数万人の人が {{lang|en|Prolog}} の講座を受講している。実務的に利用される機会が少ないにも関わらず、その素養を持つ人が大量に存在するという特異な位置にあるプログラム言語となっている。また、多くのプログラミング言語でその言語上にPrologインタプリタを制作してみることが難度の高い学習課題の一つとして採用され、その結果としてもPrologを理解しているプログラマは増加する傾向がある。 * 2011年夏 ブルース・A・テイト<ref group="注">{{lang-en-short|Bruce A. Tate}}</ref>著『7つの言語 7つの世界』が出版され、その7つの言語の一つとして {{lang|en|Prolog}} が紹介されたことから、多くの人々の関心を呼び起こし、この言語は突然に息を吹き返した。ダニエル・ジャクソン<ref group="注">{{lang-en-short|Daniel Jackson}}</ref>著『抽象によるソフトウェア設計』も翻訳されて述語論理に基礎を持つ形式記述言語 {{lang|en|alloy}} が注目されるなど、{{lang|en|Prolog}} に極めて親近した領域での議論がようやく活発になった。 * 2012年 イワン・ブラトコ<ref group="注">{{lang-en-short|Ivan Bratko}}</ref>著「{{lang|en|Prolog Programming for Artificial Intelligence}}」の第四版が11年ぶりに刊行されて、人々に {{lang|en|Prolog}} は今でも活火山的な存在であることを印象付けた。また、世界的に利用されているアプリケーション自動生成ツール {{lang|en|GeneXus}} が {{lang|en|Prolog}} によって書かれてからそれを他の利用言語に変換されて製品化されていることや、IBM 社のワトソンの根幹部分である言語解析部分と質問の生成部分を現在も {{lang|en|Prolog}} が担っていることなどが次々と喧伝されて、応用面でも現役言語であることが改めて認識されつつある。さらに世界的な関数型言語への急激な関心の高まりによって、関数型言語と類縁性の高い論理型言語の盟主であり、人気関数型言語 {{lang|en|[[Erlang]]}} の原像でもある {{lang|en|Prolog}} への関心は再び強まってきた。 * 2013年 [[IBM]]はワトソンの商用化を積極的に進めることとし、研究開発要員を2000名に増強することを発表した。さらに2014年秋、[[ソフトバンク]]との間でワトソンの日本語化で提携することが発表された。ソフトバンクは既にADSLの故障診断をPrologで開発して利用してきた実績があり、既に公開され、2015年春出荷が予定されている感情認識パーソナルロボットPepperでも中核部にPrologを採用することが予想されている。同社がワトソンと強く結びつくことによって、Pepperが将来ワトソンから情報を受け取ることによって、どのように強化されて、変化していくのかということが俄然興味深い問題に浮上した。同時に、その二つのシステムに跨って、Prologがどのような関わりを持つのか、役割を担うのかということも注目されている。 *2021年8月4日に発表された"TIOBE Index for August 2021"で19位にランクされた。この指標は検索数や記事数などの指標であり、20位以内の復帰は2003年以来となる。世界的に話題性を取り戻しつつある証だろう。 === 今後 === * 2016年 FLOPS で Ki Yung Ahn と Andrea Vezzosi の論文 Executable Relational Specifications of Polymorphic Type Systems で Prolog による Let多相の型推論器が発表された。あまり話題にはなっていないが、昨今の型理論には一階述語論理が用いられており、型システムの実装実験において極めて簡略に記述出来るため、利用されていく可能性がある。 * Prolog向けの集合論的型システムが実用化されれば、関数型言語学会において古くから用いられてきた数式をより形式的にできるようになるかもしれない。 == 処理系 == 多くの処理系は {{lang|en|Prolog}} の基本機能以外に、[[制約プログラミング]]や[[並行プログラミング]]のための拡張機能や {{lang|en|[[Constraint Handling Rules]]}} などの各種言語をライブラリとして含んでいる。 {|class="wikitable" !処理系!!オープンソース!!有償・無償の別!!準拠規格!!備考 |- |[http://www.amzi.com/ {{lang|en|Amzi!Prolog}}]||{{N/A}}||有償||ISO規格|| |- |[http://www.az-prolog.com/ {{lang|en|AZ-Prolog}}]||{{N/A}}||個人/学術は無償||{{lang|en|ISO/DEC-10 Prolog}}||日本語対応 Prolog-KABA互換(グラフィックスを除く) |- |[http://www.probp.com/ {{lang|en|B-Prolog}}]||{{N/A}}||学術は無償||{{N/A}}|| |- |[http://www.clip.dia.fi.upm.es/Software/Ciao {{lang|it|Ciao}} {{lang|en|Prolog}}]||align=center|○||{{N/A}}||ISO規格|| |- |[http://www.gprolog.org/ {{lang|en|GNU Prolog}}]||align=center|○||{{N/A}}||ISO規格|| |- |K-Prolog<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.kprolog.com/ | title = K-Prolog について | accessdate = 2021-09-11 | publisher = | archiveurl = https://web.archive.org/web/20200110170544/https://www.kprolog.com/ | archivedate = 2020-01-10 }} </ref>||{{N/A}}||有償||ISO規格||日本語対応 |- |{{lang|en|micro-Prolog}} ||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}||学術研究用 <ref>https://www.researchgate.net/publication/277325585_Aspects_of_Prolog_history_Logic_Programming_and_Professional_Dynamics</ref> CP/M80 上で動作 |- |[http://www.ifcomputer.co.jp/MINERVA {{lang|en|MINERVA}}]||{{N/A}}||有償||ISO規格||業務用、{{lang|en|[[Java]]}} ベース |- |[https://www.cs.tcd.ie/open-prolog/ {{lang|en|Open Prolog}}]||{{N/A}}||無償||ISO規格||{{lang|en|[[Mac OS]]}} 用 |- |[http://kaminari.scitec.kobe-u.ac.jp/PrologCafe/ {{lang|en|Prolog Cafe}}]||align=center|○||{{N/A}}||{{N/A}}||{{lang|en|Prolog}} プログラムを {{lang|en|Java}} プログラムに変換 |- |[http://prolog.hodroj.net/ {{lang|en|Prolog.NET}}]||align=center|○||{{N/A}}||{{N/A}}||{{lang|en|[[.NET]]}} で {{lang|en|Prolog}} を使用できる |- |[http://homepages.inf.ed.ac.uk/stg/research/Psharp/ {{lang|en|P#}}]||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{lang|en|Prolog}}プログラムを[[C Sharp|C#]] プログラムに変換 |- |[http://www.itee.uq.edu.au/~pjr/HomePages/QuPrologHome.html {{lang|en|Qu-Prolog}}]||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}||マルチスレッド処理系 |- |{{lang|en|Rebol Prolog}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}|| |- |[http://www.sics.se/sicstus/ {{lang|en|SICStus Prolog}}]||{{N/A}}||有償||ISO規格||多くのオペレーティングシステムに対応。{{lang|en|Java}} や {{lang|en|.NET}} での[[ウェブアプリケーション]]開発可能。 |- |[http://www.zogotounga.net/comp/squeak/prolog.htm {{lang|en|Prolog for Squeak}}]||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{lang|en|[[Squeak]]}} に統合された {{lang|en|Prolog}} 環境 |- |[http://www.dobrev.com/ {{lang|en|Strawberry Prolog}}]||align=center|○||{{N/A}}||{{N/A}}|| |- |[http://www.swi-prolog.org/ {{lang|en|SWI-Prolog}}]||align=center|○||{{N/A}}||ISO規格||多くのオペレーティングシステム、[[Unicode]]に対応 |- |{{lang|en|TuProlog}}||{{N/A}}||{{N/A}}||{{N/A}}|| |- |[http://www.visual-prolog.com {{lang|en|Visual Prolog}}]||{{N/A}}||個人は無償||{{N/A}}||Windows専用 |- |[http://xsb.sourceforge.net/ XSB]||align=center|○||{{N/A}}||{{N/A}}|| |- |[http://www.dcc.fc.up.pt/~vsc/Yap/index.html {{lang|en|YAP Prolog}}]||align=center|○||{{N/A}}||ISO規格||{{lang|en|Prolog}} コンパイラ。 |- |[https://github.com/mthom/scryer-prolog Scryer Prolog]||align=center|○||{{N/A}}||ISO規格|| Rust によるモダンな {{lang|en|Prolog}} 実装。2016~ |} == 国際会議 == *[http://www.dcc.fc.up.pt/INAP-2013/ {{lang|en|INAP}}] &mdash; {{lang|en|International Conference on Declarative Programming and Knowledge Management}} *FLOPS ー International Symposium on Functional and Logic Programming == 脚注 == === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == {{refbegin}} *William F. Clocksin, Christopher S. Mellish: ''Programming in Prolog: Using the ISO Standard''. Springer, 5th ed., 2003, ISBN 978-3540006787. *Leon Sterling, Ehud Shapiro: ''The Art of Prolog: Advanced Programming Techniques'', 1994, ISBN 0-262-19338-8. *D.L. Bowen, L. Byrd, F.C.N. Pereira,L.M. Pereira and David H.D. Warren: [https://userweb.fct.unl.pt/~lmp/publications/online-papers/DECsystem-10%20PROLOG%20USER%27S%20MANUAL.pdf ''DECsystem-10 PROLOG USER'S MANUAL''], University of Edinburgh,1982. *''ISO/IEC 13211: Information technology &mdash; Programming languages &mdash; Prolog [https://www.iso.org/standard/21413.html Part 1: General core] [https://www.iso.org/standard/20775.html Part 2: Modules]''. International Organization for Standardization, Geneva. *Robert Kowalski. [http://www.doc.ic.ac.uk/~rak/papers/the%20early%20years.pdf ''The Early Years of Logic Programming''], CACM January 1988. *[[:fr:Alain Colmerauer|Alain Colmerauer]], [[:es:Philippe Roussel|Philippe Roussel]]. [https://dl.acm.org/doi/10.1145/234286.1057820 ''The birth of Prolog''], in ''The second ACM SIGPLAN conference on History of programming languages'', p. 37-52, 1992. *[[:en:David H. D. Warren|David H D Warren]], Luis M. Pereira and Fernando Pereira, [https://dl.acm.org/doi/10.1145/872736.806939 ''Prolog - the language and its implementation compared with Lisp'']. ACM SIGART Bulletin archive, Issue 64. Proceedings of the 1977 symposium on Artificial intelligence and programming languages, pp 109 - 115. *[[:en:Samuel Buss|Buss, Samuel R.]], "On Herbrand's Theorem", in Maurice, Daniel; Leivant, Raphaël, Logic and Computational Complexity, Lecture Notes in Computer Science, Springer-Verlag, pp. 195–209. 1995. *古川康一:[https://www.ai-gakkai.or.jp/jsai2014/wp-content/uploads/2014/05/413fefda6830ad81ebda8b5491323b22.pdf ''第五世代コンピュータからスキルサイエンスへ - 論理プログラミング・アプローチ''],特別講演資料, 2014. {{refend}} == 参考書籍 == {{百科事典的でない|date=2016年2月|type=IINFO|section=1}} * 『プログラムの理論 コンピュータ・サイエンス研究所シリーズ』 Zohar Manna 著/ 五十嵐滋 訳、1975年、日本コンピュータ協会 * 『人工知能の基礎 知識の表現と理解』 Daniel G.Bobrow Allan Collins 共著 渕一博 石崎俊 板橋秀一 太田耕三 大谷木重夫 黒川利明 桜井彰人 佐藤泰介 島田俊夫 田中穂積 田村浩一郎 溝口文雄 元吉文雄 山口喜教 横井俊夫 横山昌一 訳、1978年、代科学社 * 『日常言語の論理学』 オールウド・アンデソン・ダール 著/公平珠躬 野家啓一 訳、1979年、産業図書、ISBN 4-7828-0011-8 * 『日本語の文法と論理』 坂井英寿、1979年、勁草書房 * 『人工知能 岩波講座 情報科学-22』 白井良明 辻井潤一 共著、1982年、岩波書店 * 『人工知能の原理 コンピュータ・サイエンス研究書シリーズ26』 Nils.j.Nilsson 著/白井良明 辻井潤一 佐藤泰介 訳、1983年、日本コンピュータ協会 * 『最適化 岩波講座 情報科学-19』 西川偉一 三宮信夫 茨木俊秀 共著、1982年、岩波書店 * 『言語工学 人工知能シリーズ2』 長尾真、1983年、昭晃堂、ISBN 4-7856-3042-6 * 『Prologプログラミング』 W.F.Clocksin C.S.Mellish 共著/中村克彦 訳、1983年、マイクロソフトウェア * 『機械知能論 人工知能シリーズ1』 志村正道、1983年、昭晃堂、ISBN 4-7856-3043-4 * 『Prolog』 中島秀之、1983年、産業図書 * 『PROLOG入門 ソフトウェアライブラリI』 後藤滋樹、1984年、サイエンス社、ISBN 4-7819-0352-5 * 『Prolog入門』 太細孝 鈴木克彦 伊藤ひとみ 佐藤裕幸 共著、1984年、啓学出版、ISBN 4-7665-0146-2 * 『人工知能2 マグロウヒル コンピュータシリーズ』 E.リッチ 著/廣田薫 富村勲 訳、1984年、マグロウヒル、ISBN 4-8950-1172-0 * 『知識表現とProlog/KR』 中島秀之、1985年、産業図書 * 『Prologプログラミング入門』 安部憲広、1985年、共立出版、ISBN 4-320-02237-8 * 『エキスパート・システム ソフトウェア サイエンス シリーズ』 フレデリック ヘイズーロス レナルドA.ウォーターマン 編 ダグラスB.レナート 著/中島秀之 白井英俊 田中卓史 中川裕志 鈴木浩之 松原仁 寺野隆雄 斎藤康巳 平賀譲 片桐恭弘 訳、1985年、産業図書、ISBN 4-7828-5002-6 * 『Prologとその応用2 プログラム作成支援 エディタ設計 自然言語設計 データベース』 溝口文雄 武田正之 畝見達夫 溝口理一郎 共著、1985年、 総研出版、ISBN 4-7952-6307-8 * 『人工知能の世界 コンピュータに関心あるすべての人のために』 田村隆一 柳原圭雄 唐沢博 共著、1985年、技術評論社、ISBN 4-87408-168-1 * 『日常言語の推論 認知科学選書2』 坂原茂、1985年、東京大学出版会、ISBN 4-13-013052-8 * 『PROLOGデータベース・システム』 D.リー 著/安部憲広 訳、1985年、近代科学社、ISBN 4-7649-0106-4 * 『Prologのソフトウェア作法 岩波コンピュータサイエンス』 黒川利明、1985年、岩波書店、ISBN 4-00-007681-7 * 『Prologと論理プログラミング』 中村克彦、1985年、オーム社、ISBN 978-4-275-07266-5 * 『新世代プログラミング』 井田哲雄 尾内理紀夫 黒川利明 竹内彰一 外山芳人 渕一博 共著 、1986年、共立出版、ISBN 4-320-02259-9 * 『micro-PROLOGプログラム コレクション 人工知能のための』 山田眞市一、1986年、サイエンス社、ISBN 4-7819-0435-1 * 『知識ベース入門』 石塚満 上野春樹 大須賀節雄 奥野博 小山照夫 白井良明 辻井恭一 速水悟 共著 、1986年、オーム社、ISBN 4-274-07287-8 * 『知識の学習メカニズム 知識情報処理シリーズ2』 国藤進 有川節夫 篠原武 北上始 原口誠 武脇敏晃 堀浩一 共著 、1986年、共立出版、ISBN 4-320-02262-9 * 『知識指向言語Prolog 人工知能プログラミングへの序曲』 小谷善行、1986年、技術評論社、ISBN 4-87408-827-9 * 『協調型計算システム --分散型ソフトウェアの技法と道具立て--』 R.E.フィルマン D.P.フリードマン 共著/雨宮真人 尾内理紀夫 高橋直久、1986年、マグロウヒル、ISBN 4-89501-030-9 * 『BASICで学ぶPROLOGシステム 言語と構造理解のために』 市川新、1986年、啓学出版、ISBN 4-7665-0294-9 * 『Prolog-KABA入門 岩波コンピュータサイエンス』 柴山悦哉 桜川貴司 萩野達也 共著 、1986年、岩波書店、ISBN 4-00-007687-6 * 『Prolog入門』 古川康一、1986年、オーム社、ISBN 4-274-07308-4 * 『自然言語の基礎理論』 石川彰 松本裕治 向井国昭 安川秀樹 安食敏宏 共著、1986年、共立出版、ISBN 4-320-02264-5 * 『Prolog 人工知能用言語シリーズ 1』 新田克己・佐藤泰介 共著、1986年、昭晃堂、ISBN 978-4-7856-3601-2 * 『micro PROLOGはじめてのプログラミング』 ヒュー・ド・サラム 著/倉田和彦 山田和美 訳、1986年、啓学出版、ISBN 4-7665-0306-6 * 『知識情報処理 知識工学講座1』 大須賀節雄、1986年、オーム社、ISBN 4-274-07321-1 * 『知識工学 人工知能シリーズ10』 小林重信、1986年、昭晃堂、ISBN 4-7856-3068-X * 『RUN/Prolog入門 データベースとしての活用と述語解説』 小島政行、1986年、アムコインターナショナル、ISBN 978-4-8705-0034-1 * 『エキスパート・システム入門』 安部憲広 滝寛和 共著 、1986年、共立出版、ISBN 4-320-02297-1 * 『エキスパートシステム --知識工学とその応用--』 上野晴樹、1986年、オーム社、ISBN 4-274-07318-1 * 『エキスパート・システム 基礎概念と実例』 J.L.アルティ M.J.クームス 共著/太原育夫 訳、1987年、啓学出版、ISBN 4-7665-0312-0 * 『知識の表現と利用 知識工学講座2』 上野春樹 小山照夫 岡本敏雄 松尾文雄 石塚満 共著 、1987年、オーム社、ISBN 4-274-07331-9 * 『RUN/PROLOG ばじめての人工知能言語』 斎藤孝、1987年、CBS出版、ISBN 4-8337-8511-0 * 『論理による問題の解法 ---Prolog入門 情報処理シリーズ8』 R.コワルスキ 著/浦昭二 山田眞市 菊池光昭 桑野龍夫 訳、1987年、培風館、ISBN 4-563-00788-9 * 『知識の獲得と学習 知識工学講座3』 大須賀節雄 佐伯胖 小橋康章 大槻説乎 北橋忠宏 田中譲 篠原武 宮原哲浩 原口誠 共著、1987年、オーム社、ISBN 4-274-07346-7 * 『Prologプログラミング入門 RUN/Prologを用いた』 鑰山徹、1987年、工学図書株式会社、ISBN 4-7692-0163-X * 『人工知能コンピュータ 判断・推論のしくみ』 秋田輿一郎、1987年、電気書院、ISBN 4-485-57102-5 * 『Prologランニングブック RUN/Prolog演習プログラム 上』 横井与次郎、1987年、ラジオ技術社、ISBN 4-8443-0180-2 * 『Prologランニングブック RUN/Prolog演習プログラム 下』 横井与次郎、1987年、ラジオ技術社、ISBN 4-8443-0185-3 * 『AI入門』 矢田光治、1987年、オーム社、ISBN 4-274-07355-6 * 『はじめてのRUN/PROLOG』 成田佳応 谷田部賢一 共著 、1987年、ナツメ社、ISBN 4816307001 * 『論理プログラミングの基礎』 J.W.ロイド 著/佐藤雅彦 森下真一 訳、1987年、産業図書、ISBN 978-4-7625-5003-4 * 『プログラム変換 知識処理シリーズ7』 佐藤泰介 二木厚吉 玉木久夫 二村良彦 竹内彰一 安村通晃 吉田紀彦 共著、1987年、共立出版、ISBN 4-320-02267-X * 『並列論理型言語GHCとその応用 知識情報処理シリーズ6』 竹内彰一 上田和紀 野田泰徳 松本裕治 杉本勉 田中二郎 太田由紀子 共著、1987年、 共立出版、ISBN 4-320-02266-1 * 『はじめてのProlog Prolog-KABAによる人工知能へのアプローチ』 舟本奨、1987年、ナツメ社、ISBN 4-8163-0712-5 * 『TURBO PROLOGトレーニングマニュアル』 小林鉾史、1987年、JICC出版局、ISBN 4-88063-335-6 * 『RUN/Prologとその応用』 杉原敏夫、1987年、工学図書株式会社、ISBN 4-7692-0176-1 * 『Prologプログラミング入門 RUN/Arity』 大原茂之、1988年、オーム社、ISBN 4-274-07401-3 * 『コンピュータ言語進化論 思考増幅装置を求める知的冒険の旅』 Howard Levine Howard Rheingold 共著 椋田直子 訳、1988年、アスキー出版局 、ISBN 4-87148-301-0 * 『[https://www.az-prolog.com/books/prolog%E3%81%A7%E5%AD%A6%E3%81%B6ai%E6%89%8B%E6%B3%95/ Prologで学ぶAI手法 推論システムと自然言語処理]』 高野真、1998年、啓学出版、ISBN 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玉井浩、1989年、サイエンス社、ISBN 978-4-7819-0539-6 * 『新しいプログラミングパラダイム』 相場亮 井田哲雄 大須賀昭彦 加藤和彦 柴山悦哉 田中二郎 富樫敦 横内寛文 横田一正 共著、1989年、共立出版、ISBN 4-320-02493-1 * 『制約論理プログラミング』 坂井公 佐藤洋裕 田中二郎 相場亮 川村十志夫 橋田浩一 丸山文宏 渡辺俊典 佐藤由美子 森文彦 戸沢義夫 昭尾雅之 森下真一 共著、1989年、共立出版、ISBN 4-320-02469-9 * 『自然言語解析の基礎』 田中穂積、1989年、産業図書、ISBN 4-7828-5127-8 * 『定性推論 知識処理シリーズ別巻1』 渕一博 溝口文雄 古川康一 安西祐一郎 田中博 西田豊明 本田一賀 開一夫 堂下修司 清水周作 大木優 元田浩 共著、1989年、共立出版、ISBN 4-320-02468-0 * 『人工知能』 志村正道、1989年、オーム社、ISBN 4-274-07506-0 * 『人事情報エキスパートシステム』 三重野博司、1989年、オーム社、ISBN 4-274-07521-4 * 『Prologプログラミング入門 KE養成講座』 黒川利明 田中直之 共著 1989年、オーム社、ISBN 4-274-12857-1 * 『データベースと知識ベース 新しい情報システムを目指して』 大須賀節雄、1989年、共立出版、ISBN 4-274-07520-6 * 『わかる:-Prolog』 塚本龍男、1989年、共立出版、ISBN 4-320-02337-4 * 『入門TURBO PROLOG』 ダン・シェーファー 著/北脇和夫 北脇庸子 訳、1989年、啓学出版、ISBN 4-7665-0990-0 * 『TURBO Prolog エキスパート・システム設計入門』 Carl Townsend 著/玄光男 佐々木正仁 訳、1989年、HBJ出版局、ISBN 4-8337-8030-5 * 『OA実務家の書いたエキスパート・システムの本』 三菱商事(株)システム企画部OA技術チーム編 、1990年、日本能率協会、ISBN 4-8207-0664-0 * 『法律家のためのコンピュータ利用法 論理プログラミング入門』 加賀山茂、1990年、有斐閣、ISBN 4-641-07541-7 * 『Prologへの入門 PrologとAI』 I.Bratko 著/安部憲広 訳、1990年、近代科学社、ISBN 4-7649-0165-X * 『パソコン言語による人工知能(AI)プログラミング PC-9800対応 Prolog/LISP/Smalltalk/C/FORTRAN/COBOL/BASIC』 舟本奨、1990年、ナツメ社、ISBN 4-8163-1035-5 * 『作品としてのプログラム』 黒川利明、1990年、岩波書店、ISBN 4-00-005403-1 * 『自然言語理解と論理プログラミング』 Y.Dahi P.Saint-Dizier 共著/西田豊明 松本裕治 上原邦昭 訳、1990年、近代科学社、ISBN 4-7649-0163-3 * 『Prologで作る数学の世界 Prologそして集合-位相-群』 飯高茂、1990年、朝倉書店、ISBN 4-254-11054-5 * 『Prolog詳説 対話形式によるアプローチ』 ラマンチャンドウン・バラス 著/斉藤重光 舟本奨 訳、1990年、啓学出版、ISBN 4-7665-1078-X * 『Prologユーティリティライブラリ』 ボグダン・フィリビッチ 著/中原誠 伊藤哲郎 訳、1990年、海文堂出版、ISBN 4-303-71700-2 * 『SF的Prologの世界 コンピュータウイルス盛衰記』 福田敏宏 田村三郎 田中正彦 共著、1990年、現代数学社、ISBN 4-7687-0195-7 * 『Prologによる論理プログラミング入門』 小川束、1990年、啓学出版、ISBN 4-7665-1081-X * 『人工知能における知識ベースシステム』 ランドール・デービス ダグラス・B・レナート共著/溝口文雄 諏訪基 実近憲昭 平井成興 仁木和久 豊田順一 上原邦昭 河合和久 山口高平 溝口理一郎 訳、1991年、啓学出版、ISBN 4-7665-1100-X * 『情報の論理数学入門 ブール代数から述語論理まで』 小倉久和 高濱徹行 共著、1991年、近代科学社、ISBN 4-7649-0180-3 * 『自然言語処理入門 情報・電子入門シリーズ』 岡田直之、1991年、共立出版、ISBN 4-320-02434-6 * 『エキスパートシステム MARUZEN Advanced Technology 電子・情報・通信編』 石塚満 小林重信 薦田憲久 竹垣盛一 寺野隆雄 山崎知彦 共著 丸善株式会社、1991年、ISBN 4-621-03622-X * 『人工知能概論』 荒屋真二、共立出版、1991年、ISBN 4-320-02605-5 * 『Prologの冒険 アドベンチャーゲームを作りながらPrologをマスターしよう』 Dennis Merritt 著/岩谷宏 訳、1992年、ソフトバンク、ISBN 4-89052-344-8 * 『Prologマシン』 金田悠紀夫、1992年、森北出版、ISBN 4-627-80810-0 * 『Prolog入門 図解コンピュータシリーズ』 江村潤朗監修 瀬下孝之、1992年、オーム社、ISBN 4-274-07723-3 * 『楽しいプログラミングⅡ記号の世界』 中島秀之 上田和紀 共著、1992年、岩波書店、ISBN 4-00-007755-4 * 『Prologを楽しむ』 松田紀之、1993年、オーム社、ISBN 4-2740-7749-7 * 『Micro-PROLOG ロジックプログラミングによる問題解決』 K.L.クラーク F.G.マッケイブ 著/溝口文雄 大和田勇人 訳、1993年、啓学出版、ISBN 4-76651-165-4 * 『人工知能最前線 財務エキスパートシステム』 D.E.オゥレアリ P.R.ワトキンス 共著 佐伯光彌 光村司 西ヶ谷邦正 斎藤孝一 三藤利雄 訳、1993年、学友社、ISBN 4-7620-0483-9 * 『Prologを楽しむ』 松田紀之、1993年、オーム社、ISBN 4-274-07749-7 * 『情報学概論 Prologプログラミング』 吉田要、1993年、八千代出版、ISBN 4-8429-0874-2 * エキスパートシステムII 技術の動向 朝倉AIらいぶらり 溝口理一郎、1993年、朝倉書店、ISBN 4-254-12623-9 * 『意思決定支援システムとエキスパートシステム シリーズ・経営情報システム』 飯島淳一、1993年、日科技連出版社、ISBN 4-8171-6162-0 * 『自然言語 情報数学セミナー』 郡司隆男、1994年、日本評論社、ISBN 4-535-60811-3 *『Prolog入門. 例題演習』 塩野充、1995年、オーム社、ISBN 4-274-07642-3 * 『Prologを学ぶ 文化とその実践』 杉崎昭生、1995年、海文堂、ISBN 4-303-71690-1 * 『知識処理論 知識・情報メディアシリーズ』 萩野達也、1995年、産業図書、ISBN 4-7828-5302-5 * 『スケジューリングとシミュレーション』 田中克己 石井信明 共著、1995年、コロナ社、ISBN 4-339-08357-7 * 『形式言語と有限オートマトン入門 例題を中心とした情報の離散数学』 小倉久和、1996年、コロナ社、ISBN 4-339-02339-6 * 『AIプログラミング PrologとAI I.Bratko 著/安部憲広 訳、1996年、近代科学社、ISBN 4-7649-0254-0 * 『エージェントアプローチ 人工知能』 スチュワート・ラッセル ピーター・ノーヴィグ 共著/古川康一 訳、1997年、共立出版、ISBN 4-320-02878-3 * 『関数プログラミング 情報数学セミナー』 萩谷昌己、1998年、日本評論社、ISBN 4-535-60817-2 * 『自然言語・意味論・論理』 赤間世紀、1998年、共立出版、ISBN 4-320-02908-9 * 『形式言語の理論 情報科学コアカリキュラム講座』 西野哲朗 石坂裕毅 共著、1999年、丸善株式会社、ISBN 4-621-04626-8 * 『人工知能の基礎 情報科学コアカリキュラム講座』 西田豊明、1999年、丸善株式会社、ISBN 4-621-04646-2 * 『新しい人工知能 発展編』 前田隆 青木文夫 共著、2000年、オーム社、ISBN 4-274-13198-X * 『計算論理に基づく 推論ソフトウェア論』 山崎進、2000年、コロナ社、ISBN 4-339-02373-6 * 『知的エージェントのための集合と論理 インターネット時代の数学シリーズ6』 中島秀之、2000年、共立出版、ISBN 4-320-01645-9 * 『人工知能の基礎理論』 赤間世紀、2000年、電気書院、ISBN 4-485-66246-2 * 『Interlog コンピュータ言語』 吉川永一、2002年、東京図書出版会、ISBN 4-434-03554-1 * 『帰納論理プログラミング Inductive Logic Programming』 古川康一 尾崎知伸 植野研 共著 、2001年、共立出版、ISBN 4-320-12014-0 * 『知識と推論 Information Science & Engineering-T1』 新田克己、2002年、サイエンス社、ISBN 4-7819-1008-4 * 『法律人工知能 法的知識の解明と法的推論の実現』 吉野一、2002年、創成社、ISBN 4-7944-4030-8 * 『人工知能 IT Text』 本井田真一 松本一教 宮原哲浩 永井保夫、2005年、オーム社、ISBN 4-274-20106-6 * 『組み込みソフトウェアの設計&検証 組込み動作からRTOSを使った,ツールによる動作検証まで』 藤倉俊幸、2006年、CQ出版社、ISBN 978-4-7898-3344-8 * 『言語・知識・信念の論理 知の科学』 東条敏 人工知能学会 共著、2006年、オーム社、ISBN 4-274-20211-9 * 『論理と計算のしくみ』 萩谷昌己 西崎真也 共著 、2007年、岩波書店、ISBN 978-4-00-006191-9 * 『コンピュータプログラミングの概念・技法・モデル Concepts Techniques and Modelsof Computer Programming』 ピーター・ヴァン・ロイ セイフ・ハリディ 共著 羽永洋 訳、2007年、翔泳社、ISBN 978-4-7981-1346-3 * 『On Lisp』 Paul Graham 著/野田開 訳、2008年、オーム社、ISBN 978-4-274-06637-5 * 『数理論理学 コンピュータサイエンス教科書シリーズ 18』 古川康一 向井国昭 共著、2008ねん、コロナ社、ISBN 978-4-339-02718-1 * 『新 人工知能の基礎知識』 太原育夫著、2008年、近代科学社、ISBN 978-4-7649-0356-2 * 『Prologで学ぶAIプログラミング I/OBOOKS』 赤間世紀、2008年、工学社、ISBN 978-4-7775-1402-1 * 『メディア情報学入門』 鈴木昇一、2010年、東京図書出版会、ISBN 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Tate 著/まつもとゆきひろ監訳 田和数 訳、2011年、オーム社 ISBN 978-4-274-06857-7 * 『入門 自然言語処理』 Steven Bird Ewan Klein Edward Loper 共著/萩原正人 中山敬広 水野貴明 訳、2010年、オーム社、ISBN 978-4-87311-470-5 * 『アルゴリズム設計マニュアル上』 S.S スキーナ 著/平田富夫 訳、2012年、丸善、ISBN 978-4-621-08510-3 * 『知識基盤社会のための人工知能入門 計測・制御テクノロジーシリーズ 16』 国藤進 中田豊久 羽山徹彩 共著 2012年、コロナ社、ISBN 978-4-339-03366-3 * 『プログラミング言語温故知新―人工言語の継承を学ぶ』 土屋勝、2014年、カットシステム、ISBN 978-4-87783-328-2 * 『イラストで学ぶ 人工知能概論』 谷口忠大、2014年、オーム社、ISBN 978-406-1538238 * 『数理論理学-合理的エージェントへの応用に向けて』 加藤暢,高田司郎,新出尚之 共著、2014年、コロナ社、ISBN 978-4-339-02489-0 * 『知能の物語』 中島秀之著、2015年、公立はこだて未来大学出版会発行 近代科学社発売、ISBN 978-4-7649-5552-3 == 関連項目 == * [[論理プログラミング]] * [[制約論理プログラミング]] * [[並行論理プログラミング]] * [[並行制約プログラミング]] * [[命題論理]] * [[述語論理]] * [[ホーン節]] * [[導出原理]] * [[ユニフィケーション]] * [[失敗による否定]] * [[Planner]] * [[第五世代コンピュータ]] {{プログラミング言語一覧}} {{authority control}} [[Category:論理プログラミング言語]] [[Category:計算機科学における論理]] [[Category:ユニフィケーション]]
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地球外生命
地球外生命()とは、地球以外の惑星や宇宙空間など、地球の大気圏の外に生存している(またはそこ由来の)生命をいう。地球外生命体()、地球外生物()ともいう。 知能の高低は問わず、知的生命でないものも含む。また、大気圏外にあって生存してはいても地球由来の生物(宇宙飛行士や宇宙船内の実験用生物)はこれを含まない。 英語(事実上の国際共通語)では、"extraterrestrial(日本語音写例:エクストゥラティレストゥリアル、日本語慣習読み:エクストラ テレストリアル)" 、"extraterrestrial being" 、"extraterrestrial biological entity" 、"extraterrestrial life" 等々、様々な名称が用いられるが、日本語の「生命」「生命体」「生物」のもつ語意のようなものがそれぞれに異なるのと同様、少しずつニュアンスが異なる。ET(イーティー)という略語も頻用されるが、これは extra-terrestrial の頭字語である。EBE(イーバ)も略語で、こちらは extraterrestrial biological entity の頭字語。また、それが知能の低くない異星人(ヒトと相似する、異星の知的生命)であれば、"alien life" ともいう。 1970年代から天文学者が主に電波望遠鏡を用いて地球外の知的生命の活動の兆候を探索しているが、未だに地球外生命体の存在は確認されていない。 1787年ころ、イタリアの神父で博物学者のラザロ・スパランツァーニが、「そもそも地球の生命は地球外から来た」とする説を唱えていた。生命の起源が地球外にあるとする説は「パンスペルミア説」というが、こうした説(仮説)は、DNAの二重らせん構造を発見したフランシス・クリックも表明している。 アメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェル(1855-1916年)は、火星を観測した結果、その表面に「運河」などの人工的な建造物に見える巨大構造があると信じ、火星に文明が存在する証拠だと著作で述べた。サイエンス・フィクションの分野では火星に棲むタコ状(イカ状)の生命体(たこ型火星人)がさかんに描かれたが、これはイギリスの作家H・G・ウェルズが1898年に発表したSF小説『宇宙戦争』によるイメージの定着が発端であるとされる。 1959年、イタリアの物理学者ジュゼッペ・コッコーニ(英語版)とアメリカの物理学者フィリップ・モリソンが、地球外生命に言及する論文を学術誌に初めて発表し(※誌は『ネイチャー』)、「地球外に文明社会が存在すれば、我々は既にその文明と通信するだけの技術的能力を持っている」と指摘した。また、「その通信は電波で行われるだろう」と推論した。この論文は自然科学者らに衝撃を与え、一般人も知的生命体がこの宇宙に存在する可能性について大真面目に語り、様々な憶測、様々な空想が語られるようになっていた。 1960年にはフランク・ドレイクがオズマ計画に着手した。 1961年にアメリカの天文学者フランク・ドレイクがドレイクの方程式を示し、画期的なことに、可能性・確率について具体的に数値で論ずることを可能にした。我々の銀河系に存在する通信可能な地球外文明の数を仮に「N」と表すとするならば、そのNは次の式で表せる、と述べたのである。 ただし、各変数は下記の通りである。 1961年にこの式を発表した時、ドレイクは各値に関する推測値も併せて示し、 と計算してみせた。つまりそうした文明の数を10個だと推定してみせたのである。これがまた自然科学者らに大きな衝撃を与えた。SFに登場する「タコ状の火星人」などのイメージの影響(悪影響)で、地球外生命を頭ごなしに否定していた自然科学者でも、この理詰めの式を見せられて、自分たちが思っていた以上に存在の可能性があるのかも知れない、とりあえず調べてみる価値はあるのかも知れない、論理的に考えても存在の可能性を期待してもよいのかも知れない、と考えるようになったのである。このドレイクの式の持つ説得力が、賛同者を増やし、地球外生命の探索のための政府予算を組むことにつながった。 生命の起源に関するパンスペルミア説では、そもそも宇宙には生命の種が満ちており、宇宙のあちこちで生命が誕生している、と考えている。 ジョヴァンニ・スキアパレッリの火星観測に関する論文が発表された時代(1879年、1881年)から今日に到る長きに亘って、地球以外の太陽系内惑星にも生命が存在する(あるいは、存在した)のではないかとの推測が絶えたことはない。温度や大気の組成や引力の大きさなどを考慮したところ、特に生命体が棲んでいる可能性が高いと考えられていたのが火星であった。「火星に知的生命が棲んでいて地球にまでやってくる」といったストーリーのSF作品も盛んに創られた。 火星を観測した天文学者パーシヴァル・ローウェル(1855-1916年)は、スキアパレッリがイタリア語で "canali"(※『運河』の意もあるが、ここでは自然地形としての『溝』の意)と呼んだ地表面の直線的地形を英語で "canal"(運河)と解釈し、「人面岩」など人工建造物に見える巨大な構造体があるのにも気付き、これらがスキアパレッリの言うような自然地形ではなく人工物に違いないとの認識の下、文明の存在を示すものであろうとの説を、1894年にボストン科学ソサエティで行った講演で初めて唱え、次いで、1895年の自著 "Mars "(和題:火星)、1906年の自著 "Mars and Its Canals " 、1908年の自著 "Mars As the Abode of Life "(和題:火星 生命のすみか)にも記した。しかしながら、後世に行われたマリナー計画(1962-1973年)による探査と研究により、パーシヴァルの見ていたものが自然地形であった事実が判明し、火星人工物説を巡る論争は完全否定される形で決着した。知的生命の火星での現生は確認できず、パーシヴァルが指摘した文明の痕跡も否定されたことから、太陽系内における地球人以外の知的生命の存在可能性は限りなく低いと見做されるようになった。 地球にも熱水噴出孔付近など、摂氏400度を超え、太陽光も届かない過酷な環境でも生物が生きているという事実から、エウロパなど宇宙の星々にも、微生物などの地球外生命が存在するのではと語るNASAの研究者もいる。 火星に知的な生命はいないにしても、原始的な生命に関しては、火星はかつて大気と液体の水を持っていたと考えられているので(という証拠とされるものが見つかっているので)、生命が発生していた可能性もある、と考えられている。 1970年代にNASAが送り込んだ火星探査機バイキング1号および2号は火星表土のサンプルを採取し、そこに生命活動の兆候が見られるか確認する試験を行ったが、結果は生命の存在を肯定するものではなかった。 1996年にギブソンらが行った報告では、火星由来の隕石に化石状の構造が認められ、生命の痕跡と考えられるとしている。ただしこの見解は統一見解には至らず、論争の的になっている(詳細はアラン・ヒルズ84001を参照)。 2003年にESAが火星に送り込んだビーグル2号はバイキング以来はじめての生命探査を目的とした着陸機だったが、大気圏突入後に交信が途絶えて失敗に終わった。 火星以外では、木星の衛星であるエウロパやガニメデ、土星の衛星であるエンケラドゥスなどが、原始的な生命がいる候補として注目されている。これらの天体は主に氷や岩石から出来ているが、地下には液体の水の層が存在しているのではないかと考えられている。水中にはバクテリアがいるかもしれない。また、土星の衛星タイタンも、厚い大気圏を持ち、表面に液体の炭化水素が存在していることなどから、生命の存在する天体の候補に挙げられている。 原始的生命に関しては太陽系内での探索が続けられているが、知的生命に関しては太陽系内は望み薄と判断されるようになり、太陽系外での探索が続けられている。 NASAなどによって地球外知的生命体がいるのかどうかの探査(地球外知的生命体探査、頭字語:SETI)が行われている。現在行われている探査・研究活動はいくつかの手法がある。ひとつは、宇宙空間を通じてやってくる電波のパターンを受信し解析することで地球外の知的存在の活動を発見しようという試みである。特に近い星を絞り込んで行う手法もある。他の手法としては、地球から近い恒星の中から、生命の生まれる可能性がありそうな惑星を持つものを見つけ、その惑星に対して電波をこちらから送信してやり、反応があるかどうか調べる、という方法である。地球に最も近い恒星・惑星群の中には、地球から(わずか)数光年~数十光年程度の距離にあるものもあるので、実験として現実的な年数の間に生命からの反応・返信が得られるかも知れないという期待とともに探査が行われている。受信方式の探査を「パッシブ」、送信方式の探査を「アクティブ」と呼んでいる。
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地球外生命とは、地球以外の惑星や宇宙空間など、地球の大気圏の外に生存している(またはそこ由来の)生命をいう。地球外生命体、地球外生物ともいう。 知能の高低は問わず、知的生命でないものも含む。また、大気圏外にあって生存してはいても地球由来の生物(宇宙飛行士や宇宙船内の実験用生物)はこれを含まない。 英語(事実上の国際共通語)では、"extraterrestrial" 、"extraterrestrial being" 、"extraterrestrial biological entity" 、"extraterrestrial life" 等々、様々な名称が用いられるが、日本語の「生命」「生命体」「生物」のもつ語意のようなものがそれぞれに異なるのと同様、少しずつニュアンスが異なる。ET(イーティー)という略語も頻用されるが、これは extra-terrestrial の頭字語である。EBE(イーバ)も略語で、こちらは extraterrestrial biological entity の頭字語。また、それが知能の低くない異星人(ヒトと相似する、異星の知的生命)であれば、"alien life" ともいう。
{{Redirect|E. B. E|『[[X-ファイル]]』のエピソード|E.B.E (X-ファイルのエピソード)}} {{Unsolved|天文学上|地球外生命は存在するか。}} {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = {{font color|white|地球外生命の探査}} | header_align = center | header_background = #000080<!--#008000--> | footer = 活動領域と稼働区域が大きく異なる3つの例を挙げる。<br />1. 宇宙空間を航行しながら[[太陽系外惑星]]の探査を続ける[[宇宙探査機]]。画像は探査機[[ケプラー (探査機)|ケプラー]]。<br />2. 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{{r|"英辞郎_Extra-Terrestrial"}}等々、様々な名称が用いられるが、[[日本語]]の「生命」「生命体」「生物」のもつ語意のようなものがそれぞれに異なるのと同様、少しずつニュアンスが異なる。'''ET'''(イーティー)という[[略語]]も頻用されるが、これは extra-terrestrial の[[頭字語]]である{{r|"英辞郎_Extra-Terrestrial"}}。'''EBE'''(イーバ)も略語で、こちらは extraterrestrial biological entity の頭字語{{r|"英辞郎_Extra-Terrestrial"}}。また、それが知能の低くない[[異星人]]([[ヒト]]と相似する、異星の知的生命)であれば、"'''alien life'''" ともいう。 == 概要 == [[ファイル:1967 CPA 3549.jpg|thumb|200px|[[1967年]]に[[ソビエト連邦]]が発行した16[[ルーブル#補助通貨カペイカ|カペイカ]][[切手]]は、[[宇宙人|異星人]]の[[宇宙船]]を画題とした珍しいもの。当時のソ連ではこのようなテーマが持て囃されており、これは切手バージョンといったところ。]] 1970年代から[[天文学者の一覧|天文学者]]が主に[[電波望遠鏡]]を用いて地球外の知的生命の活動の兆候を探索しているが、未だに地球外生命体の存在は確認されていない。 1787年ころ、[[イタリア]]の[[神父]]で[[博物学者]]の[[ラザロ・スパランツァーニ]]が、「そもそも地球の生命は地球外から来た」とする説を唱えていた。[[生命の起源]]が地球外にあるとする説は「[[パンスペルミア説]]」というが、こうした説(仮説)は、[[デオキシリボ核酸|DNA]]の[[二重らせん]]構造を発見した[[フランシス・クリック]]も表明している{{Sfn|Crick|1981}}{{Sfn|クリック|2005}}。 === 十九世紀の観測 === [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[天文学者]][[パーシヴァル・ローウェル]](1855-1916年)は、[[火星]]を観測した結果、その表面に「[[運河]]」などの人工的な建造物に見える巨大構造があると信じ、火星に文明が存在する証拠だと著作で述べた。[[サイエンス・フィクション]]の分野では火星に棲む[[タコ]]状([[イカ]]状)の生命体(たこ型火星人)がさかんに描かれたが、これは[[イギリス]]の[[作家]][[H・G・ウェルズ]]が1898年に発表した[[サイエンス・フィクション|SF]][[小説]]『[[宇宙戦争 (H・G・ウェルズ)|宇宙戦争]]』によるイメージの定着が発端であるとされる。 1959年、イタリアの[[物理学者]]{{ill2|ジュゼッペ・コッコーニ|en|Giuseppe Cocconi}}とアメリカの物理学者[[フィリップ・モリソン]]が、地球外生命に言及する論文を学術誌に初めて発表し(※誌は『[[ネイチャー]]』)<!--※元の「『Nature』で初めて地球外生命体に言及する論文を発表」では誤解を生む可能性が付き纏うので。-->、「地球外に文明社会が存在すれば、我々は既にその文明と通信するだけの技術的能力を持っている」と指摘した。また、「その通信は電波で行われるだろう」と推論した。この論文は自然科学者らに衝撃を与え、一般人も知的生命体がこの宇宙に存在する可能性について大真面目に語り、様々な憶測、様々な空想が語られるようになっていた。 1960年には[[フランク・ドレイク]]が[[オズマ計画]]に着手した。 === ドレイクの方程式 === {{Main|ドレイクの方程式}} 1961年に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の天文学者[[フランク・ドレイク]]が[[ドレイクの方程式]]を示し、画期的なことに、可能性・確率について具体的に数値で論ずることを可能にした。我々の銀河系に存在する通信可能な地球外文明の数を仮に「N」と表すとするならば、そのNは次の式で表せる、と述べたのである。 <math>N = R_* \times f_p \times n_e \times f_l \times f_i \times f_c \times L</math> ただし、各変数は下記の通りである。 {|class=wikitable !変数!!定義 |- |<math>R_*</math>||人類がいる銀河系の中で1年間に誕生する星(恒星)の数 |- |<math>f_p</math>||ひとつの恒星が惑星系を持つ割合(確率) |- |<math>n_e</math>||ひとつの恒星系が持つ、生命の存在が可能となる状態の惑星の平均数 |- |<math>f_l</math>||生命の存在が可能となる状態の惑星において、生命が実際に発生する割合(確率) |- |<math>f_i</math>||発生した生命が知的なレベルまで進化する割合(確率) |- |<math>f_c</math>||知的なレベルになった生命体が星間通信を行う割合 |- |<math>L</math>||知的生命体による技術文明が通信をする状態にある期間(技術文明の存続期間) |} 1961年にこの式を発表した時、ドレイクは各値に関する推測値も併せて示し、 <math>N = 10 \times 0.5 \times 2 \times 1 \times 0.01 \times 0.01 \times 10,000 = 10.</math> と計算してみせた。つまりそうした文明の数を10個だと推定してみせたのである。これがまた自然科学者らに大きな衝撃を与えた。SFに登場する「タコ状の火星人」などのイメージの影響(悪影響)で、地球外生命を頭ごなしに否定していた自然科学者でも、この理詰めの式を見せられて、自分たちが思っていた以上に存在の可能性があるのかも知れない、とりあえず調べてみる価値はあるのかも知れない、論理的に考えても存在の可能性を期待してもよいのかも知れない、と考えるようになったのである。このドレイクの式の持つ説得力が、賛同者を増やし、地球外生命の探索のための政府予算を組むことにつながった。 [[生命の起源]]に関する[[パンスペルミア説]]では、そもそも宇宙には生命の種が満ちており、宇宙のあちこちで生命が誕生している、と考えている。 == 太陽系内 == ===太陽系内の知的生命への期待と観測・探査=== [[ジョヴァンニ・スキアパレッリ]]の[[火星]][[観測]]に関する論文が発表された時代(1879年、1881年)から<ref name="NatGeo_20161123 p. 2">{{Harvnb|ナショナルジオグラフィック 2016年11月23日}} p. 2</ref>今日に到る長きに亘って、地球以外の太陽系内[[惑星]]にも生命が存在する(あるいは、存在した)のではないかとの推測が絶えたことはない{{r|"NatGeo_20161123 p. 2"}}。[[温度]]や[[大気]]の組成や[[引力]]の大きさなどを考慮したところ、特に生命体が棲んでいる可能性が高いと考えられていたのが火星であった。「火星に知的生命が棲んでいて地球にまでやってくる」といったストーリーの[[サイエンス・フィクション|SF]]作品も盛んに創られた。 [[ファイル:Lowell Mars channels.jpg|thumb|270px|[[パーシヴァル・ローウェル|ローウェル]]が描いた[[火星]]の“[[運河]]”]] 火星を観測した天文学者[[パーシヴァル・ローウェル]](1855-1916年)は、スキアパレッリが[[イタリア語]]で "[[wikt:en:canali|canali]]"(※『[[運河]]』の意もあるが、ここでは自然地形としての『[[溝]]』の意)と呼んだ地表面の直線的地形を[[英語]]で "[[wikt:en:canal|canal]]"(運河)と解釈し{{r|"NatGeo_20161123 p. 2"}}、「[[火星の人面岩|人面岩]]」など[[人工]][[建造物]]に見える巨大な構造体があるのにも気付き、これらがスキアパレッリの言うような自然[[地形]]ではなく人工物に違いないとの認識の下{{r|"NatGeo_20161123 p. 2"}}、[[文明]]の存在を示すものであろうとの説を、1894年にボストン科学ソサエティで行った講演で初めて唱え{{r|"NatGeo_20161123 p. 2"}}、次いで、1895年の自著 "''Mars'' "({{small|和題}}:火星){{Sfn|Lowell|1895}}、1906年の自著 "''Mars and Its Canals'' " {{Sfn|Lowell|1906}}、1908年の自著 "''Mars As the Abode of Life'' "({{small|和題}}:火星 生命のすみか{{r|"NatGeo_20161123 p. 2"}}){{Sfn|Lowell|1909}}にも記した{{r|"NatGeo_20161123 p. 2"}}<ref group="注">[[2020年]]頃でも同様の説が、[[超常現象]]を扱う[[雑誌]]や[[Web]]で唱えられた。</ref>。しかしながら、後世に行われた[[マリナー計画]](1962-1973年)による探査と研究により{{r|"NatGeo_20161123 p. 2"}}、パーシヴァルの見ていたものが自然地形であった事実が判明し{{r|"NatGeo_20161123 p. 2"}}、火星人工物説を巡る論争は完全否定される形で決着した{{r|"NatGeo_20161123 p. 2"}}。知的生命の火星での現生は確認できず、パーシヴァルが指摘した文明の痕跡も否定されたことから、太陽系内における地球人以外の知的生命の存在可能性は限りなく低いと見做されるようになった。 [[地球]]にも[[熱水噴出孔]]付近など、[[セルシウス度|摂氏]]400度を超え、[[太陽光]]も届かない過酷な環境でも[[生物]]が生きているという事実から、[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]など[[宇宙]]の星々にも、[[微生物]]などの地球外生命が存在するのではと語る[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の研究者もいる<ref name=CNN_20141124>{{Cite news |date=2014-11-24 |title=深海エビ、地球外生命体の鍵を握る? NASA研究 |url=http://www.cnn.co.jp/fringe/35056956.html |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |newspaper=日本版CNN |accessdate=2014-12-12 }}</ref>。 === 太陽系内の原始的生命 === [[ファイル:ALH84001 structures.jpg|thumb|[[アラン・ヒルズ84001]]から見つかった生命の痕跡とされる構造。]] 火星に知的な生命はいないにしても、原始的な生命に関しては、火星はかつて大気と液体の水を持っていたと考えられている(その証拠とされるものが見つかっている)ので、生命が発生していた可能性もある、と考えられている。 [[1970年代]]に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が送り込んだ[[火星探査機]][[バイキング1号]]および[[バイキング2号|2号]]は火星表土のサンプルを採取し、そこに生命活動の兆候が見られるか確認する試験を行ったが、結果は生命の存在を肯定するものではなかった。 [[1996年]]にギブソンらが行った報告では、火星由来の[[隕石]]に化石状の構造が認められ、生命の痕跡と考えられるとしている。ただしこの見解は統一見解には至らず、論争の的になっている(詳細は[[アラン・ヒルズ84001]]を参照)。 [[2003年]]に[[欧州宇宙機関|ESA]]が火星に送り込んだ[[ビーグル2号]]はバイキング以来はじめての生命探査を目的とした着陸機だったが、大気圏突入後に交信が途絶えて失敗に終わった。 火星以外では、[[木星]]の衛星である[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]や[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]、[[土星]]の衛星である[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]などが、原始的な生命がいる候補として注目されている。これらの天体は主に氷や岩石から出来ているが、地下には液体の水の層が存在しているのではないかと考えられている。水中にはバクテリアがいるかもしれない。また、土星の衛星[[タイタン (衛星)|タイタン]]も、厚い大気圏を持ち、表面に液体の炭化水素が存在していることなどから、生命の存在する天体の候補に挙げられている。 == 太陽系外 == 原始的生命に関しては太陽系内での探索が続けられているが、知的生命に関しては太陽系内は望み薄と判断されるようになり、太陽系外での探索が続けられている。 [[ファイル:Kepler442b(comp).jpg|thumb|270px|[[ケプラー442b]](想像図)と地球の比較]] [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]などによって地球外知的生命体がいるのかどうかの探査([[地球外知的生命体探査]]、頭字語:SETI)が行われている。現在行われている探査・研究活動はいくつかの手法がある。ひとつは、宇宙空間を通じてやってくる電波のパターンを受信し解析することで地球外の知的存在の活動を発見しようという試みである。特に近い星を絞り込んで行う手法もある。他の手法としては、[[最も近い・遠い天体の一覧|地球から近い恒星]]の中から、生命の生まれる可能性がありそうな惑星を持つものを見つけ、その惑星に対して電波をこちらから送信してやり、反応があるかどうか調べる、という方法である。地球に最も近い恒星・惑星群の中には、地球から(わずか)数[[光年]]~数十光年程度の距離にあるものもあるので、実験として現実的な年数の間に生命からの反応・返信が得られるかも知れないという期待とともに探査が行われている。受信方式の探査を「パッシブ」、送信方式の探査を「アクティブ」と呼んでいる。 {{Main|地球外知的生命体探査}} ; [[ケプラー442b]] : [[ハビタブルゾーン]](生命居住可能領域)内に惑星が存在する可能性が高く、生命が存在することが期待されている[[太陽系外惑星]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="kb_泉">{{Cite web|和書|title=地球外生命 |url=https://kotobank.jp/word/地球外生命-565431 |publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]]『デジタル[[大辞泉]]』|accessdate=2020-04-01 }}</ref> <ref name=kb_Nipp>{{Cite web|和書|title=地球外生命 |url=https://kotobank.jp/word/地球外生命-565431 |publisher=コトバンク |author=横尾広光 (''cf.'' [https://researchmap.jp/read0031034/ researchmap])、小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』|accessdate=2020-04-01 }}</ref> <ref name="英辞郎_Extra-Terrestrial">{{Cite web |title=Extra-Terrestrial |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=Extra-Terrestrial&ref=wl |publisher=[[アルク]] |website=[[英辞郎]] on the WEB |accessdate=2020-04-01 }}</ref> }} == 文献一覧 == === 参考文献 === *<!--くらたに-->{{Cite book |和書 |author=倉谷滋(''cf.'' KAKEN[https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000000178089/]、日本の研究.com[https://research-er.jp/researchers/view/165890])|authorlink=倉谷滋|date=2019-11-15 |title=地球外生物学 SF映画に「進化」を読む |publisher=[[工作舎]] |oclc=1132274261 |ref={{SfnRef|倉谷|2019}} }}ISBN 4-87502-515-7、ISBN 978-4-87502-515-3。 *<!--クリック-->{{Cite book |和書 |author=フランシス・クリック|authorlink=フランシス・クリック |translator=[[中村桂子]] |date=2005-07 |title=生命 この宇宙なるもの |origdate=1981 |edition=再装版 |publisher=[[新思索社]] |oclc=676509361 |ref={{SfnRef|クリック|2005}} }}ISBN 4-7835-0233-1、ISBN 978-4-7835-0233-3。 **<!--Crick-->原著:{{Cite book |last=Crick |first=Francis |author=Francis Crick |authorlink=フランシス・クリック |date=1981 |title=Life itself : its origin and nature |location=[[ニューヨーク|New York City]] |publisher=Simon & Schuster |language=en |oclc=1145196451 |ref={{SfnRef|Crick|1981}} }}{{spaces}}ISBN 0-671-25562-2, ISBN 978-0-671-25562-6. *<!--クロウ-->{{Cite book |和書 |author=マイケル・J・クロウ |translator=鼓澄治・吉田修・山本啓二{{space}} |date=2001-03-01 |title=地球外生命論争1750‐1900 ―カントからロウエルまでの世界の複数性をめぐる思想大全 |origdate=1988-02-26 |publisher=工作舎 |oclc=835080841 |ref={{SfnRef|クロウほか|2001}} }}ISBN 4-87502-347-2、ISBN 978-4-87502-347-0。※3分冊・続きページ形式。 ** <!--Crowe-->原著:{{Cite book |last=Crowe |first=Michael J. |author=Michael J. Crowe |authorlink= |date=26 February 1988 |title=The Extraterrestial Life Debate 1750-1900. The Idea of a Plurality of Worlds from Kant to Lowell |url= |location=[[ニューヨーク|New York City]] |publisher=[[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]] |language=en |oclc= |ref={{SfnRef|Crowe|1988}} }} *<!--さくらい-->{{Cite book |和書 |author=桜井邦朋|authorlink=桜井邦朋 |date=1997-05 |title=地球外知性体―宇宙物理学、探査40年の到達点 |publisher=クレスト |oclc=675095356 |ref={{SfnRef|桜井|1997}} }}ISBN 4-87712-053-X、ISBN 978-4-87712-053-5。 * <!--やざわ-->{{Cite journal |和書 |editor=矢沢サイエンスオフィス編 |date=1993-03-01 |title=最新地球外生命論 : 銀河系に「知的生命」を探す |url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN08641321 |publisher=学習研究社(現・[[学研ホールディングス]])|journal=最新科学論シリーズ |volume=21 |issue= |ncid=BN08641321 |ref={{SfnRef|矢沢サイエンスオフィス|1993}} }} *<!--Lowell-->{{Cite book |last=Lowell |first=Percival |author=Percival Lowell |authorlink=パーシヴァル・ローウェル |date=November 1895 |title=Mars |edition=1st |location=[[ボストン|Boston]], [[マサチューセッツ州|Massachusetts]] |publisher=[[:en:Houghton Mifflin Harcourt|Houghton Mifflin Harcourt]] |language=en |ref={{SfnRef|Lowell|1895}} }} ** [[Wikisource:en:Mars (Lowell)]] ** 復刻版の一例:{{Cite book |last=Lowell |first=Percival |date=23 May 2010 |title=Mars |location=Whitefish, [[モンタナ州|Montana]] |publisher=[[:en:Kessinger Publishing|Kessinger Publishing]] |language=en |oclc= }}{{spaces}}ISBN 1161441565, ISBN 978-1161441567. * {{Cite book |last=Lowell |first=Percival |date=1906 |title=Mars and Its Canals |edition=1st |location=[[ニューヨーク|New York City]] |publisher=[[マクミラン出版社|Macmillian Company]] |language=en |asin=B0006AESDY |ref={{SfnRef|Lowell|1906}} }} ** 復刻版の一例:{{Cite book |last=Lowell |first=Percival |date=24 August 2010 |title=Mars and Its Canals |location=[[チャールストン (サウスカロライナ州)|Charleston, South Carolina]] |publisher=[[:en:BiblioBazaar|Nabu Press]] |language=en |oclc= }}{{spaces}}ISBN 1177666103, ISBN 978-1177666107. * {{Cite book |last=Lowell |first=Percival |date=1909 |title=Mars As The Abode Of Life |edition=1st |location=New York City |publisher=Macmillian Company |language=en |ref={{SfnRef|Lowell|1909}} }} ** 復刻版の一例:{{Cite book |last=Lowell |first=Percival |date=12 September 2013 |title=Mars As The Abode Of Life |edition=1st |location= |publisher=TheClassics.Us |language=en }}{{spaces}}ISBN 123086170X, ISBN 978-1230861708. === 関連文献 === *<!--ウルムシュナイダー -->{{Cite book |和書 |author=P・ウルムシュナイダー |translator=[[須藤靖]]・田中深一郎・荒深遊・杉村美佳・東悠平{{space}} |date=2012-08-01 |title=宇宙生物学入門 |origdate=2006-06-15 |publisher=[[丸善出版]] |series=World Physics Selection |oclc=802326937 |ref={{SfnRef|ウルムシュナほか|2012}} }}ISBN 4-621-06178-X、ISBN 978-4-621-06178-7。 **<!--Ulmschneider-->原著:{{Cite book |last=Ulmschneider |first=Peter |author=Peter Ulmschneider |authorlink= |date=15 June 2006 |title=Intelligent Life in the Universe: Principles and Requirements Behind Its Emergence |edition=ver.2006 |location=[[ベルリン|Berlin]], [[ニューヨーク|New York City]] |publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer]] |series=Advances in Astrobiology and Biogeophysics |language=en |oclc=873667585 |ref={{SfnRef|Ulmschneider|2006}} }}{{spaces}}ISBN 354032836X, ISBN 978-3540328360. *<!--カウフマン-->{{Cite book |和書 |author=マーク・カウフマン<!--Mark Kaufman--> |translator=[[奥田祐士]] |date=2011-09-15 |title=地球外生命を求めて |origdate= |publisher=[[ディスカヴァー・トゥエンティワン]] |series=[[DIS+COVERサイエンス|Dis+Cover Science]] 9 |oclc=755701903 |ref={{SfnRef|カウフマン・奥田|2011}} }}ISBN 4-7993-1045-3、ISBN 978-4-7993-1045-8。 *<!--さとう-->{{Cite book |和書 |author=佐藤勝彦|authorlink=佐藤勝彦 (物理学者) |date=2011-12-14 |title=ますます眠れなくなる宇宙のはなし─「地球外生命」は存在するのか |edition= |publisher=[[宝島社]] |oclc=768731556 |ref={{SfnRef|佐藤|2011}} }}ISBN 4-7966-7795-X、ISBN 978-4-7966-7795-0。 *<!--みやま-->{{Cite book |和書 |author=観山正見|authorlink=観山正見 |date=2002-02-15 |title=太陽系外惑星に生命を探せ |publisher=[[光文社新書]] |series=[[光文社新書]] 029 |oclc=674835431 |ref={{SfnRef|観山|2002}} }}ISBN 4-334-03129-3、ISBN 978-4-334-03129-9。 == 関連項目 == {{Wiktionary|:sv:地球外生命体}} === 内部リンク === * [[生物学上の未解決問題]] * [[日本宇宙生物科学会]] * [[極限環境生物学会]] * [[緩歩動物]] - 宇宙空間で生存が可能な唯一の動物。 * [[宇宙人]] {{Seealso|Category:地球外生命体を題材とした作品}} === 外部リンク === * {{Cite web|和書|last=Mason |first=Betsy |author=Betsy Mason |translator=三枝小夜子{{spaces}} |date=2016-11-23 |title=火星地図200年の歴史、こんなに進化した15点 {{small|観測・探査の進歩とともに、未知の地形があからさまに}} |url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/112100446/?P=1 |publisher=日経ナショナルジオグラフィック社 |newspaper=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]](公式ウェブサイト)|pages=1-4 |accessdate=2020-04-02 |ref={{SfnRef|ナショナルジオグラフィック 2016年11月23日}} }}<!--ref:NatGeo_20161123--> {{地球外生命}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちきゆうかいせいめい}} [[Category:宇宙生物学]] [[Category:地球外生命体|*]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:宇宙探査]] [[Category:天文学の未解決問題]] [[Category:科学関連の論争]]
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20世紀
20世紀(にじっせいき、にじゅっせいき)とは、西暦1901年から西暦2000年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最後の世紀である。漢字で二十世紀の他に、廿世紀と表記される場合もある。 20世紀の人類の科学の発展は著しかった。飛行機、潜水艦、宇宙ロケットの開発により、人類の行動可能な範囲は、空へ深海へ宇宙へと拡大した。そして、北極点、南極点への到達などにより、地球上での人類未踏の地はほぼなくなった。科学の発展は産業の発展をもたらし、大量生産、大量消費の社会を生み出し、人々の生活を豊かにした反面、環境問題など多くの解決しなければならない、諸問題をも生み出した。さらに高度な科学技術は、極めて破壊力の大きい兵器をも作り出し、現在では人類を何度も滅亡させることの出来るほどの核兵器、化学兵器が存在する。 また、産業革命以降に増加のペースが早くなっていた世界人口は、20世紀に入り人口爆発とも呼ばれる急激な増加を見せた。20世紀初頭に約15億人だった世界人口は第二次世界大戦終結後の1950年に約25億人となり、それからわずか50年しか経ってない20世紀末には2倍以上となる約60億人にまで膨れ上がっている。 20世紀は、2度の世界大戦とその後の冷戦、植民地の独立などにより、何度も政治的なパワーバランスの大きな変化が訪れた。19世紀までの西欧列強による植民地争奪競争と市民革命の流れは終了し、20世紀の初頭には列強による本国と獲得した植民地保護(帝国主義体制)を維持するために、勢力均衡による安全保障が図られるようになり、また市民革命や人権問題(白人至上主義等)などにおいては後まわしとされがちだった、社会改革・改良への要求が強まった。また日本の近代化の成功や日露戦争の勝利に刺激され、中国では辛亥革命 が起き、またイスラム圏の民族運動が盛んになった。 列強による勢力均衡が破れた時、第一次世界大戦が勃発した。この大戦は総力戦となり、ヨーロッパは疲弊し国際的な影響力が弱まった。また厭戦気分と専制政治への反感から、ロシア帝国では史上初の社会主義革命が発生し、世界最初の社会主義国家であるソビエト連邦が成立した。この大戦において敗戦国となったオーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国もまた、ロシア帝国同様に崩壊し、ローマ帝国以来およそ1900年以上の長きにわたって続いてきたヨーロッパにおける帝国支配の歴史は、名実共に崩壊の時を迎えた。その後の1930年代には世界恐慌が発生し、ここで行き詰った枢軸国と、植民地大国である連合国との間で第二次世界大戦が勃発した。 第二次世界大戦が終わると、2度の世界大戦を勝ち抜いたアメリカ合衆国は超大国となり資本主義国を勢力下においた。さらに黒人の公民権運動などによりアメリカの民主主義はより高度なものに発展した。一方、これまで数百年の間欧米諸国、それも第二次世界大戦の勝戦国の植民地となっていたインドや東南アジアでは独立運動が高まり、インドネシア独立戦争を火種に次々と独立していった。東南アジアでの独立運動は同じように、欧米の植民地だった中東やアフリカ大陸にも波及しアフリカの世紀と呼ばれる時期が訪れる。ソ連も大戦中に東欧諸国を衛星国化して超大国となった。両国は対立し冷戦と呼ばれる時代となった。 ヨーロッパ諸国は、アメリカや日本の経済力に対抗するため、EEC(欧州経済共同体)を発足し、さらにEC(欧州共同体)、EU(欧州連合)へと統合を進めた。ナショナリズムの高まりと西欧諸国の弱体化にともない、植民地の大半は独立し、第三世界と呼ばれるようになった。その後、東西の緊張緩和(デタント)の時期も存在したが、再び米ソ間は緊張状態に陥った。ソ連ではゴルバチョフがペレストロイカをすすめるとともに軍縮と緊張緩和につとめ、1989年12月、マルタ会談でジョージ・ブッシュ大統領と冷戦の終結を宣言した。しかし1991年にはソ連共産党の支配体制のゆるみが抑えきれなくなり、ソ連の崩壊を迎えた。東欧諸国ではソ連の支配が緩むと東欧革命がおきて自立し、冷戦時代は過去のものとなった。しかし、冷戦時代に表に現れなかった民族間の対立が露呈し、アフリカやバルカン半島などの各地で民族紛争が発生した。 アメリカ合衆国や、イギリスをはじめとした欧州諸国では、世界恐慌による経済危機を克服するため、公共事業による雇用確保や景気回復を図ったり、社会保障制度を構築する社会政策に力が注がれた。市場メカニズムを活用しながら、国家が経済に介入することによって、矛盾の克服が目指された(混合経済、大きな政府)。戦後、混合経済政策は社会自由主義政党や社会民主主義政党だけでなく保守政党にも採用されて各国に未曽有の経済成長をもたらし、世界的に経済規模は拡大を続けたが、オイルショック以降、国家にかかる財政的な負担が目立ち始め、多くの国では不況とインフレーションに見舞われた(スタグフレーション)。 そのため、英国や北米、日本などでは1980年代から民間の自発的な活力を期待して、各種の法的な規制を緩め(規制緩和)、公営企業の民営化による解体を行う新自由主義もしくは小さな政府と呼ばれる政策が新保守主義と結びついて推進された。一方、北欧などでは自発的な住民自治を期待して1980年代から政府機関の分権化をすすめ、環境などの新たな価値を取り込んで、福祉国家の再編成がはかられた。ソ連の崩壊で唯一の超大国となったアメリカは、世界をリードしグローバル化を進めることとなった。 20世紀科学の特徴としては、以下のような点があげられる。 ほか多数
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20世紀(にじっせいき、にじゅっせいき)とは、西暦1901年から西暦2000年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最後の世紀である。漢字で二十世紀の他に、廿世紀と表記される場合もある。
{{otheruseslist|西暦における20番目の世紀|梨の品種|ナシ#二十世紀|日本テレビ系列で放送されたドキュメンタリー番組|二十世紀 (テレビ番組)|吉本興業所属のお笑いコンビ|20世紀 (お笑いコンビ)|ジャニーズ事務所所属のグループ|20th Century (グループ)}} {{出典の明記|date=2012年3月}} {{centurybox}} {| class="infobox" style="font-size:80%" | align="right" | '''日本の[[元号]]:''' | align="center" | [[明治]] - [[大正]] - [[昭和]] - [[平成]] |} [[ファイル:Metlife_building_from_empire_state_building.jpg|right|thumb|220px|'''未曽有の経済的繁栄'''([[マンハッタン]]の[[超高層建築物|摩天楼]]群)]] '''20世紀'''(にじっせいき<ref group="注">[[広辞苑]]、[[大辞林]]など。</ref>、にじゅっせいき)とは、[[西暦]][[1901年]]から西暦[[2000年]]までの100年間を指す[[世紀]]。[[2千年紀]]における最後の世紀である。[[漢字]]で'''二十世紀'''の他に、'''[[20#その他 20 に関連すること|廿]]世紀'''と表記される場合もある。 : ''20世紀の詳細な出来事([[年表]])については、「[[#関連項目|20世紀の十年紀と各年]]」より各年代、各年の記事を参照のこと。'' == 歴史概説 == 20世紀の[[人類]]の[[科学]]の[[発展]]は著しかった。[[飛行機]]、[[潜水艦]]、[[ロケット|宇宙ロケット]]の開発により、[[人類]]の行動可能な範囲は、空へ深海へ宇宙へと拡大した。そして、[[北極点]]、[[南極点]]への到達などにより、地球上での人類未踏の地はほぼなくなった。科学の発展は産業の発展をもたらし、[[大量生産]]、[[大量消費]]の社会を生み出し、人々の生活を豊かにした反面、[[環境問題]]など多くの解決しなければならない、諸問題をも生み出した。さらに高度な[[テクノロジー|科学技術]]は、極めて破壊力の大きい[[兵器]]をも作り出し、現在では人類を何度も滅亡させることの出来るほどの[[核兵器]]、[[化学兵器]]が存在する。 また、[[産業革命]]以降に増加のペースが早くなっていた[[世界人口]]は、20世紀に入り[[人口爆発]]とも呼ばれる急激な増加を見せた。20世紀初頭に約15億人だった世界人口は[[第二次世界大戦]]終結後の[[1950年]]に約25億人となり、それからわずか50年しか経ってない20世紀末には2倍以上となる約60億人にまで膨れ上がっている<ref>[http://venturestory.jp/news/kigyoka/20120803_4.html 【緑の地平5】世界人口70億人突破が発する“地球の危機”/千葉商科大学名誉教授 三橋規宏](企業家倶楽部2012年2月号:VENTURE STORY)</ref>。 == 政治経済史 == === 帝国主義の崩壊 === [[ファイル:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|250px|right|thumb|'''[[ヤルタ会談]]'''(中央ソファー左から[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]・[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]・[[ヨシフ・スターリン|スターリン]])]] 20世紀は、2度の[[世界大戦]]とその後の[[冷戦]]、[[植民地]]の独立などにより、何度も政治的なパワーバランスの大きな変化が訪れた。19世紀までの西欧列強による植民地争奪競争と[[市民革命]]の流れは終了し、20世紀の初頭には列強による本国と獲得した植民地保護([[帝国主義|帝国主義体制]])を維持するために、勢力均衡による安全保障が図られるようになり、また[[市民革命]]や[[人権問題]]([[白人至上主義]]等)などにおいては後まわしとされがちだった、社会改革・改良への要求が強まった。また日本の近代化の成功や[[日露戦争]]の勝利に刺激され、中国では'''[[辛亥革命]]'''<ref group="注">辛亥革命:これにより[[清朝]]は内部崩壊、現在までにおける中国最後の統一[[王朝]]となっている。</ref> が起き、また'''[[イスラム圏]]の民族運動'''が盛んになった。 列強による[[勢力均衡]]が破れた時、'''[[第一次世界大戦]]'''が勃発した。この大戦は[[総力戦]]となり、[[ヨーロッパ]]は疲弊し国際的な影響力が弱まった。また厭戦気分と専制政治への反感から、[[ロシア帝国]]では史上初の[[社会主義革命]]が発生し、世界最初の[[社会主義国|社会主義国家]]である'''[[ソビエト連邦]]'''が成立した。この大戦において敗戦国となった[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[ドイツ帝国]]、[[オスマン帝国]]もまた、ロシア帝国同様に崩壊し、[[ローマ帝国]]以来およそ1900年以上の長きにわたって続いてきたヨーロッパにおける帝国支配の歴史は、名実共に崩壊の時を迎えた。その後の1930年代には[[世界恐慌]]が発生し、ここで行き詰った[[枢軸国]]と、植民地大国である[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]との間で'''[[第二次世界大戦]]'''が勃発した。 === 冷戦体制 === [[ファイル:Cold War Map 1959.svg|thumb|320px|'''東西冷戦'''(赤が[[共産主義]]陣営、青が[[資本主義]]陣営)]] 第二次世界大戦が終わると、2度の世界大戦を勝ち抜いた[[アメリカ合衆国]]は'''[[超大国]]'''となり[[資本主義]]国を勢力下においた。さらに黒人の[[公民権運動]]などによりアメリカの[[民主主義]]はより高度なものに発展した。一方、これまで数百年の間欧米諸国、それも第二次世界大戦の勝戦国の植民地となっていた[[インド]]や[[東南アジア]]では'''[[独立運動]]'''が高まり、[[インドネシア独立戦争]]を火種に次々と独立していった。東南アジアでの独立運動は同じように、欧米の植民地だった中東やアフリカ大陸にも波及しアフリカの世紀と呼ばれる時期が訪れる。ソ連も大戦中に東欧諸国を[[衛星国]]化して超大国となった。両国は対立し'''[[冷戦]]'''と呼ばれる時代となった。 ヨーロッパ諸国は、アメリカや日本の経済力に対抗するため、EEC([[欧州経済共同体]])を発足し、さらにEC([[欧州共同体]])、EU([[欧州連合]])へと統合を進めた。[[ナショナリズム]]の高まりと西欧諸国の弱体化にともない、[[植民地]]の大半は独立し、[[第三世界]]と呼ばれるようになった。その後、東西の緊張緩和([[デタント]])の時期も存在したが、再び米ソ間は緊張状態に陥った。ソ連では[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]が[[ペレストロイカ]]をすすめるとともに軍縮と緊張緩和につとめ、[[1989年]]12月、[[マルタ会談]]で[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ジョージ・ブッシュ]]大統領と冷戦の終結を宣言した。しかし[[1991年]]には[[ソ連共産党]]の支配体制のゆるみが抑えきれなくなり、'''[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連の崩壊]]'''を迎えた。東欧諸国ではソ連の支配が緩むと'''[[東欧革命]]'''がおきて自立し、冷戦時代は過去のものとなった。しかし、冷戦時代に表に現れなかった民族間の対立が露呈し、アフリカや[[バルカン半島]]などの各地で[[民族紛争]]が発生した。 === 世界経済の発展 === アメリカ合衆国や、[[イギリス]]をはじめとした欧州諸国では、[[世界恐慌]]による経済危機を克服するため、[[公共事業]]による雇用確保や景気回復を図ったり、[[社会保障]]制度を構築する[[社会政策]]に力が注がれた。市場メカニズムを活用しながら、国家が経済に介入することによって、矛盾の克服が目指された('''[[混合経済]]'''、'''[[大きな政府]]''')。戦後、混合経済政策は[[社会自由主義]]政党や[[社会民主主義]]政党だけでなく保守政党にも採用されて各国に未曽有の[[経済成長]]をもたらし、世界的に経済規模は拡大を続けたが、[[オイルショック]]以降、国家にかかる財政的な負担が目立ち始め、多くの国では不況と[[インフレーション]]に見舞われた([[スタグフレーション]])。 そのため、英国や北米、日本などでは[[1980年代]]から民間の自発的な活力を期待して、各種の法的な規制を緩め([[規制緩和]])、公営企業の[[民営化]]による解体を行う'''[[新自由主義]]'''もしくは'''[[小さな政府]]'''と呼ばれる政策が[[新保守主義]]と結びついて推進された。一方、北欧などでは自発的な住民自治を期待して1980年代から政府機関の分権化をすすめ、[[環境]]などの新たな価値を取り込んで、[[福祉国家論|福祉国家]]の再編成がはかられた。ソ連の崩壊で唯一の超大国となったアメリカは、世界をリードし'''[[グローバル化]]'''を進めることとなった。 == 重大なできごと・発明 == === 科学・技術 === 20世紀科学の特徴としては、以下のような点があげられる。 * 科学とその応用としての技術が緊密に結びつき、'''[[テクノロジー|科学技術]]'''という語がよく用いられるようになった。 * 20世紀前半は[[物理学]]、後半は[[生物学]]がとくに際立って著しい発展を遂げた。 * 科学研究者の数が非常に増え、科学研究が国家プロジェクトとして推進されるようになった。 ; 理学分野 * [[物理学|現代物理学]] - [[相対性理論]]、[[量子力学]]、[[素粒子物理学]]、[[宇宙物理学]]など ** [[光量子仮説]] ** [[特殊相対性理論]]と[[一般相対性理論]]の提唱 ** [[中間子理論]]の提唱 * [[化学]] - [[高分子化学]]の確立 ** [[化学合成]]の発展。[[合成繊維]]の普及 ** [[創薬]]技術 ** [[フラーレン]]と[[カーボンナノチューブ]]の発見 * [[生物学]] - [[分子生物学]]、[[遺伝学]]、[[生理学]] ** [[デオキシリボ核酸|DNA]][[二重らせん]]構造の発見。[[ゲノム]]研究のはじまり ** [[タンパク質]]研究の発達と[[プロテオーム]]研究のはじまり * [[地球科学]] - [[地球物理学]]の発展 ** [[プレートテクトニクス]]理論の確立、地球内部構造の推定 ** [[気象学]]、[[海洋学]]の発展 ; 医学・[[バイオテクノロジー]]分野 * [[遺伝子工学|遺伝子組み換え]] * [[化学療法]]の発達 ** [[抗生物質]]、[[抗がん剤]]などの合成・発見。 * [[放射線診断学|画像診断]] - [[コンピュータ断層撮影|CT]]、[[核磁気共鳴画像法|MRI]]、[[ポジトロン断層法|PET]]などの発明 * [[移植 (医療)|臓器移植]] * [[精神医学]] - [[向精神薬]]の発見。 ; 工学分野 [[ファイル:Aldrin Apollo 11.jpg|thumb|right|240px|'''月面着陸'''([[月面]]でポーズをとる[[エドウィン・オルドリン]]''〈[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]〉'')]] * 原子力の利用 ** [[原子炉]]の実現、[[原子力発電]]の普及 ** [[核兵器]]の製造と[[核実験]] ** [[放射線医学]] * 輸送機器の飛躍的進歩 - [[宇宙開発]]、[[飛行機]]、[[自動車]]、[[高速鉄道]]など ** 飛行機・[[ヘリコプター]]の発明と発展 ** 宇宙[[ロケット]]の登場、[[人工衛星]]の登場と[[宇宙開発]]のはじまり ** [[宇宙探査機|宇宙探査]]、[[有人宇宙飛行]]や[[アポロ計画|有人月探査]]の実現 * 情報技術の飛躍的発展 ** 電子式[[コンピュータ]]の実現と爆発的発展 ** [[トランジスタ]]や[[集積回路]]の発明、[[情報工学]]の発達 ** [[有線通信]]・[[無線通信]]技術の発達 ** [[通信衛星]]、[[インターネット]]による世界的通信網の発達 ほか多数 === 戦争 === [[ファイル:British Mark I male tank Somme 25 September 1916.jpg|thumb|240px|right|[[戦車]](1916年、[[ソンムの戦い|ソンム]]に於ける[[マーク I 戦車|Mk.I戦車“雄型”]])]] [[ファイル:B29.maxwell.750pix.jpg|thumb|240px|right|[[戦略爆撃機]]([[B-29 (航空機)|B-29]])]] [[ファイル:Atomic cloud over Hiroshima - NARA 542192 - Edit.jpg|thumb|210px|right|[[広島市への原子爆弾投下|広島原爆]]の[[キノコ雲]]]] * [[日露戦争]]([[1904年]] - [[1905年]]) * [[バルカン戦争]]([[1912年]] - [[1913年]]) * [[第一次世界大戦]]([[1914年]] - [[1918年]]) * [[ロシア内戦]]([[1918年]] - [[1922年]]) * [[シベリア出兵]]([[1919年]] - [[1924年]]) * [[日中戦争]]([[1937年]] - [[1945年]]) * [[スペイン内戦]]([[1936年]]-[[1939年]]) * [[冬戦争]]([[1939年]] - [[1940年]])・[[継続戦争]]([[1941年]] - [[1944年]]) * [[第二次世界大戦]]([[1939年]] - [[1945年]]) * [[第一次中東戦争]]([[1948年]] - [[1949年]]) * [[朝鮮戦争]]([[1950年]] - [[1953年]]) * [[アルジェリア戦争]]([[1954年]]-[[1962年]]) * [[第一次インドシナ戦争|インドシナ戦争]]([[1946年]] - [[1954年]]) * [[第二次中東戦争]]([[1956年]]) * [[ベトナム戦争]]([[1963年]] - [[1975年]]) * [[ビアフラ戦争]]([[1967年]] - [[1970年]]) * [[第三次中東戦争]]([[1967年]]) * [[第四次中東戦争]]([[1973年]]) * [[中越戦争]]([[1979年]]) * [[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガン侵攻]](1979年-1989年) * [[イラン・イラク戦争]]([[1980年]] - [[1988年]]) * [[ルワンダ紛争]] ([[1990年]]-[[1994年]]) * [[湾岸戦争]]([[1991年]]) * [[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]([[1992年]]-[[1995年]]) === 政治 === * [[1911年]] - [[辛亥革命]]勃発 * [[1917年]] - [[ソビエト連邦]]成立。 * [[1920年]] - [[国際連盟]]成立。 * [[1922年]] - [[オスマン帝国]]解体。 * [[1928年]] - [[張作霖]]爆殺 * [[世界恐慌]]([[1929年]]) * [[1931年]] - [[柳条湖事件]]、[[満洲事変]]勃発 * [[1932年]] - [[満洲国]]建国、[[五・一五事件]] * [[1933年]] - 日本が国際連盟脱退。 * [[1936年]] - [[二・二六事件]]、[[日独防共協定]]締結。 * [[1937年]] - [[盧溝橋事件]] * [[1939年]] - ドイツの[[ポーランド侵攻]]。 * [[1940年]] - [[日独伊三国軍事同盟]]結成。 * [[1941年]] - [[真珠湾攻撃]]。 * [[1945年]] - [[広島市への原子爆弾投下|広島]]と[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]への[[原子爆弾]]投下。[[第二次世界大戦]]終結。[[国際連合]]成立。 ; [[冷戦]]([[1945年]]〜[[1989年]]) * [[1946年]] - [[国際連盟]]解散。 * [[1955年]] - [[アジア・アフリカ会議]] * [[1961年]] - [[ベルリンの壁]]建設。 * [[1962年]] - [[キューバ危機]] * [[文化大革命]]([[1966年]] - [[1976年]]) * [[1973年]] - [[オイルショック]] * [[1989年]] - [[六四天安門事件|天安門事件]]、[[東欧革命]]、[[ベルリンの壁崩壊]] ; 冷戦終結後(1989年〜) * [[1990年]] - [[ドイツ再統一]] * [[1991年]] - [[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦崩壊]]。 === 文化 === * [[アルフレッド・ノーベル|ノーベル]]の[[遺言]]により[[ノーベル賞]]の設立([[1901年]]) * [[共産主義]]、[[ファシズム]]、[[市民運動]]、[[エコロジー]]、[[新保守主義]]などの台頭 * 現代芸術([[ダダイスム]]、[[未来派]]、[[シュルレアリスム]]、[[キュビズム]]、[[表現主義]]などの諸潮流) * 社会主義圏における[[ロシア・アヴァンギャルド]]と[[社会主義リアリズム]] * 現代文学([[モダニズム文学]]、[[マジックリアリズム]]、[[現代詩]]、[[実存主義]]、[[革命文学]]、[[ポストモダン文学]]などの諸潮流) * [[現代音楽]]、[[電子音楽]]の出現。 * 写真・映画が芸術表現として確立する。 * [[ジャズ]]や[[ロック (音楽)|ロック]]などの[[ポピュラー音楽]]、[[映画]]などの映像メディアによる文化の大衆化 * [[1920年代]]のアメリカから、[[大量生産]]・[[大量消費]]の[[生活様式]]が広まった * [[ラジオ]]・[[テレビ]]、[[社会政策]]による国民文化の形成 * [[近代オリンピック]]や[[FIFAワールドカップ]]に代表される、国民的・国際的な大規模スポーツイベントの開催 * 人・モノ・サービスの国境を越えた移動、[[海外旅行]]の一般化、文化のグローバル化 === その他 === * [[衛星放送]]、[[国際電話]]、[[インターネット]]の普及による情報の即時化・全世界化 * [[石炭]]から[[石油]]への[[エネルギー革命|エネルギー源の転換]]、[[電力]]の大量消費 * [[環境問題]]の世界化、それに対する意識の向上 * [[世界人口]]のかつてない急増(1901年の16億人から2000年には61億人に) == 人物 == === 首脳・君主 === * [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]([[オーストリア=ハンガリー帝国]]皇帝、在位1848年 - 1916年) * [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](ドイツ帝国皇帝、在位1888年 - 1918年) * [[愛新覚羅溥儀|宣統帝(溥儀)]](清朝皇帝、在位1908年 - 1912年。満洲国皇帝、在位1932年 - 1945年) * [[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]](ロシア帝国皇帝、在位1894年 - 1917年) * [[メフメト6世]](オスマン帝国スルタン、在位1918年 - 1922年) * [[昭和天皇]](大日本帝国及び日本国天皇、在位1926年 - 1989年) * [[佐藤栄作]](日本国内閣総理大臣、在任1964年 - 1972年) * [[エリザベス2世]](イギリス女王、在位1952年〜2022年) * [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]](ローマ教皇、在位1978年〜2005年) * [[アドルフ・ヒトラー]](ナチスドイツ総統、在任1934年 - 1945年) * [[ベニート・ムッソリーニ]](イタリア首相、在任1928年 - 1943年) * [[ネヴィル・チェンバレン]](イギリス首相、在任1937年 - 1940年) * [[ウィンストン・チャーチル]](イギリス首相、在任1940年 - 1945年) * [[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズベルト]](第32代アメリカ大統領、任期1933年 - 1945年) * [[ハリー・S・トルーマン]](第33代アメリカ大統領、任期1945年 - 1953年) * [[ドワイト・D・アイゼンハワー]](第34代アメリカ大統領、任期1953年 - 1961年) * [[ジョン・F・ケネディ]](第35代アメリカ大統領、任期1961年 - 1963年) * [[リチャード・ニクソン]](第37代アメリカ大統領、任期1969年 - 1974年) * [[ロナルド・レーガン]](第40代アメリカ大統領、任期1981年 - 1989年) * [[ジョージ・H・W・ブッシュ]](第41代アメリカ大統領、任期1989年 - 1993年) * [[シャルル・ド・ゴール]](フランス大統領、在任1959年 - 1969年) * [[コンラート・アデナウアー]](西ドイツ連邦首相、在任1949年 - 1963年) * [[ネルソン・マンデラ]](南アフリカ大統領、1994年 - 1999年) * [[ウラジーミル・レーニン]](ソ連、1917年 - 1922年) * [[ヨシフ・スターリン]](ソ連最高指導者、1922年 - 1953年) * [[ニキータ・フルシチョフ]](ソ連最高指導者、1953年 - 1964年) * [[ミハイル・ゴルバチョフ]](ソ連共産党書記長、在任1985年 - 1991年) * [[ヨシップ・ブロズ・チトー]](ユーゴスラビア首相・大統領、在任1945年 - 1980年) * [[マハトマ・ガンディー]](インド) * [[ジャワハルラール・ネルー]](インド首相、1947年 - 1964年) * [[毛沢東]](中国共産党中央委員会主席、中華人民共和国の初代指導者、1949年 - 1976年) * [[周恩来]](中華人民共和国の初代国務院総理、1949年 - 1976年) * [[蔣介石]](中華民国総統、中国国民党総裁、中国時代:1927年 - 1949年、台湾時代:在任1950年 - 1975年) * [[蔣経国]](中華民国総統、中国国民党主席、1975年 - 1988年) * [[鄧小平]](中国共産党中央顧問委員会主任、中華人民共和国の第2代指導者、1978年- 1989年) * [[ホー・チ・ミン]](ベトナム、1945年 - 1969年) * [[マハティール・ビン・モハマド]](マレーシア首相、1981年 - 2003年) * [[リー・クアンユー]](シンガポール首相、在任1959年 - 1990年) * [[ラーマ9世|プミポン]](タイ国王、在位1946年 - 2016年) * [[フィデル・カストロ]](キューバ国家評議会議長、在任1959年 - 2008年) * [[チェ・ゲバラ]](キューバなど) * [[ルーホッラー・ホメイニー]](イラン最高指導者、1979年 - 1989年) * [[サッダーム・フセイン|サダム・フセイン]](イラク大統領、在任1979年 - 2003年) === 産業と科学 === [[ファイル:Albert Einstein Head.jpg|thumb|right|225px|アルベルト・アインシュタイン<br />Oren J. Turnerによる1947年の写真]] * [[アルベルト・アインシュタイン]](物理学者、相対性理論) * [[トーマス・エジソン]](発明家) * [[ライト兄弟]](飛行機を発明<ref name="WDL">{{cite web |url = http://www.wdl.org/en/item/11372/ |title = Telegram from Orville Wright in Kitty Hawk, North Carolina, to His Father Announcing Four Successful Flights, 1903 December 17 |website = [[World Digital Library]] |date = 1903-12-17 |accessdate = 2013-07-22 }}</ref>) * [[ヘンリー・フォード]](フォード自動車を発明) * [[ジョン・フォン・ノイマン]](数学者) * [[ヴェルナー・フォン・ブラウン]](ロケット開発) *[[セルゲイ・コロリョフ|セルゲイ・コロリョフ(]]ロケット開発) * [[ユーリイ・ガガーリン]](宇宙飛行士) * [[ニール・アームストロング]](宇宙飛行士) * [[ニコラ・テスラ]](発明家) * [[バックミンスター・フラー]](建築家、物理学者、数学者) * [[安藤百福]](日清食品会長) * [[盛田昭夫]](ソニー会長) * [[アラン・ケイ]] (コンピュータ科学者、教育者) * [[ビル・ゲイツ]](マイクロソフト会長) === 人権運動 === * [[ヘレン・ケラー]](アメリカ) * [[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]](アメリカ) * [[ダライ・ラマ14世]](チベット) * [[マザー・テレサ]](インド) === 文化 === [[ファイル:Steven_Spielberg_1999_3.jpg|thumb|200px|right|スティーヴン・スピルバーグ]] * [[パブロ・ピカソ]](画家) * [[サルバドール・ダリ]](画家) * [[アンリ・マティス]](画家) * [[チャーリー・チャップリン]](映画監督・俳優) * [[フランツ・カフカ]](小説家) * [[マルティン・ハイデッガー]](哲学者) * [[エルンスト・ユンガー]](小説家、思想家) * [[ウォルト・ディズニー]](レジャー) * [[アーサー・C・クラーク]](小説家) * [[マリリン・モンロー]](映画俳優) * [[オードリー・ヘプバーン]](映画俳優) * [[ロバート・デ・ニーロ]](映画俳優) * [[フランク・シナトラ]](歌手・俳優) * [[ポール・ヴァレリー]](作家) * [[スティーヴン・スピルバーグ]](映画監督) * [[黒澤明]](映画監督) * [[三船敏郎]](映画俳優) * [[宮本茂]](ゲームクリエイター) * [[フレッド・アステア]](俳優、ダンサー、歌手) * [[ガリーナ・ウラノワ]](バレリーナ) === 音楽 === * [[クロード・ドビュッシー]](1862年 - 1918年) * [[ヘルベルト・フォン・カラヤン]](1908年 - 1989年) * [[モーリス・ラヴェル]](1875年 - 1937年) * [[アルノルト・シェーンベルク]](1874年 - 1951年) * [[アントン・ヴェーベルン]](1863年 - 1945年) * [[イーゴリ・ストラヴィンスキー]](1882年 - 1971年) * [[ホアキン・ロドリーゴ]](1901年 - 1999年) * [[アラム・ハチャトゥリアン]](1903年 - 1978年) * [[ジョン・ケージ]](1912年 - 1992年) * [[ジョージ・ガーシュウィン]](1898年 - 1937年) * [[カールハインツ・シュトックハウゼン]](1920年 - 2007年) * [[ルイ・アームストロング]](1901年 - 1971年) * [[エルヴィス・プレスリー]](1935年 - 1977年) * [[ビートルズ]](1957年 - 1970年) ** [[ジョン・レノン]](1940年 - 1980年) ** [[ポール・マッカートニー]](1942年 - ) ** [[ジョージ・ハリスン]](1943年 - 2001年) ** [[リンゴ・スター]](1940年 - ) * [[マイケル・ジャクソン]](1958年 - 2009年) * [[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]](1932年 - ) === スポーツ === * [[ベーブ・ルース]](野球選手) * [[アベベ・ビキラ]](マラソン選手) * [[カール・ルイス]](陸上選手) * [[モハメド・アリ]](ボクサー) * [[山下泰裕]](柔道選手) * [[ディエゴ・マラドーナ]](サッカー選手) * [[ペレ]](サッカー選手) * [[マイケル・ジョーダン]](バスケットボール選手) * [[アイルトン・セナ]](カーレーサー) * [[ナディア・コマネチ]](体操選手) * [[双葉山定次]](大相撲力士) === その他 === * [[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア皇女]] * [[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ・スペンサー]] * [[アル・カポネ]] == 架空のできごと == * 半ば - 欧州某国で通常生物にない[[塩基]]を持つ生物が捕獲される。その後の実地踏査と研究により世界各地で同種の生物が発見され、「特異遺伝因子保持生物」を略して「特遺生物」、日本では「怪」と総称されるようになる。(小説『[[ダブルブリッド]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 中村恵里加|authorlink=中村恵里加 |title = ダブルブリッド |publisher = [[メディアワークス]] |year = 2000 |pages = 28,126,162 |isbn = 978-4-8402-1417-9}}</ref> * 後半 - 突然、謎の生物「イペリット」が多数出現し、地球環境を己の生存に適したものへ造り変え始める。その過程で、人類はイペリットによる殺戮と放出されるガスによって排除され、21世紀にはガスの届かない高地などの極地でわずかに生き残るのみとなる。(漫画『[[Thisコミュニケーション]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 六内円栄|authorlink=六内円栄 |title = Thisコミュニケーション 1 |publisher = [[集英社]] |year = 2020 |pages = 10-14,38,87 |isbn = 978-4-08-882393-5}}</ref> * 末 - 大型隕石の落下を引き金として、怪獣出現や他の惑星からの地球侵略などが連続して発生。これを受け、[[国連軍]]はロボット専門防衛チーム「テデロス(TDRS)」を発足させる。(玩具・特撮テレビ番組『[[20世紀未来ロボット防衛隊テデロス]]』)<ref>[http://www.tederos.com/story/opening.html MARUSAN MOVIE] - 『20世紀未来ロボット防衛隊テデロス』公式サイト([[マルサン商店|マルサン]]公式サイト内)。2018年3月20日閲覧。</ref> * 末 - 異星人「スプ・トラ」の宇宙船が地球に到来。地球近傍で米ソの乗組員を乗せた[[スペースシャトル|シャトル]]とファーストコンタクトを果たした後、小型の船で[[ネバダ州|ネヴァダ州]]の砂漠に着陸する。これは機密とされ、[[極軌道]]上のスプ・トラの宇宙船はソ連の膨張型風船反射衛星だと発表される。(小説『[[エンベディング]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= イアン・ワトスン|authorlink=イアン・ワトスン |title = エンベディング |publisher = [[国書刊行会]] |year = 2004 |pages = 105-108,120-135,139,162-173,268 |isbn = 978-4-336-04567-6}}</ref> * 末 - 宇宙飛行士イムボボを乗せて[[木星]]を目指していた弾道船が、ジャイロの故障によって遭難し[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]に着陸。イムボボはガニメデで異星の種族「アンシル」の都市の遺跡と無尽蔵のエネルギー源「スターコア」を発見する。(小説『[[星の秘宝を求めて]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= キース・ローマー|authorlink=キース・ローマー |title = 星の秘宝を求めて |publisher = [[早川書房]] |year = 1979 |pages = 233,248-254,272-274 |isbn = 978-4-15-010366-8}}</ref> * 末 - [[ユーラシア大陸]]中央部などに生じた異次元空間「ネスト」から未知の敵「イクシス」が出現。防衛線の確立には成功するが、その後も世界各地に小規模なネストとイクシスが発生するようになる。(プラモデルほか『[[リトルアーモリー]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= おかざき登|authorlink=おかざき登 |title = リトルアーモリー —だから、少女は撃鉄を起こす— |publisher = [[実業之日本社]] |year = 2016 |page = 5・6・287頁・裏表紙 |isbn = 978-4-408-41451-5}}</ref><ref>[https://www.littlearmory.jp/world/ WORLD] - 『リトルアーモリー』公式サイト。2019年3月1日閲覧。</ref> * 19××年夏 - 太陽に大黒点が生じ、そこから発せられた放射線の作用によって、メトロポリス市のチャールズ・ロートン博士が人造細胞を作り出すことに成功。これを狙う秘密組織「レッド党」がロートン博士を脅迫し、人造細胞を用いた超人「ミッチイ」を作らせる。(漫画『[[メトロポリス (漫画)|メトロポリス]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 手塚治虫|authorlink=手塚治虫 |title = メトロポリス |publisher = [[角川書店]] |year = 1995 |pages = 11-13,20-31,47-49,90 |isbn = 978-4-04-185120-3}}</ref> * 19××年 - 「来訪」発生。異星の超文明からの「来訪者」により、ハーモント市を始めとする地球上の6ヵ所に内部で様々な異常が発生する「来訪ゾーン」が生じる。その後、この「ゾーン」の研究を目的として国際地球外文化研究所が創設される。(小説『{{仮リンク|ストーカー (小説)|label = ストーカー|en|Roadside Picnic}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アルカジイ&ボリス・ストルガツキー|authorlink=ストルガツキー兄弟 |title = ストーカー |publisher = 早川書房 |year = 1983 |pages = 7-13,63,184-204 |isbn = 978-4-15-010504-4}}</ref> * 19××年 - 「大いなる存在」によって天からもたらされた石「メダリオン」を巡り世界大戦が再燃。文明が滅亡に向かう中、4人のパイロットが争いの元凶であるメダリオンを破壊するために飛び立つ。(ゲーム『[[ギガウイング]]』)<ref>[[アーケードゲーム|アーケード]]版『ギガウイング』チラシ [[カプコン]]、1999年、2頁。</ref><ref>[[ドリームキャスト]]版『ギガウイング』取扱説明書 カプコン、1999年、2・3頁。</ref> * 19××年 - 宇宙空間の各所に生じたワークスポットの調査に向かった[[スペースシャトル]]が、異次元空間に進入し地球に似た環境を持つファゾム星に漂着。ファゾム星の住人であるチハリア人と接触する。(プラモデル『[[スペースオペレーションシリーズ]]』)<ref>『スペースオペレーション シリーズ オペレーションオメガ』組立図 [[ハセガワ]]、2007年、1頁。</ref> * 19XX年 - 世界平和維持機構と兵器結社「アウターリミッツ」の間での局地戦が世界各地で頻発する中、終焉兵器(ドゥームズ・ディ・ウェポン)の開発を進めるアウターリミッツに対し、世界平和維持機構は2機の戦闘機による反抗作戦を開始する。(ゲーム『[[19XX -THE WAR AGAINST DESTINY-|19XX THE WAR AGAINST DESTINY]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = |title = 最新特だね情報!! 19XXひみつ大図解 |publisher = カプコン |year = 1996 |pages = 3,6 |isbn = }}</ref> * 19XX年 - 東京に巨大隕石が落下し、その直後に謎の銀色の飛行物体による攻撃が開始される。日本政府のSOSを受けた国連は、これに対して米ソが共同開発した戦闘機「バイプレーン」および「ミニプレーン」の使用を決定し、[[国会議事堂]]地下からバイプレーンが緊急発進する。(ゲーム『[[スクランブルフォーメーション]]』)<ref>[[MSX2]]版『スクランブルフォーメーション』プレイマニュアル [[タイトー]]、1987年、3・5頁。</ref> * カーンバ種族を始めとする異星の種族の通信が、星間宇宙の探査を目的とした電波探知機によって探知される。これを受け、地球上での争いは沈静化し始める。(小説『[[バーサーカー (セイバーヘーゲン)|バーサーカー]]』シリーズ)<ref>{{Cite book |和書 |author= フレッド・セイバーヘーゲン|authorlink=フレッド・セイバーヘーゲン |title = バーサーカー 赤方偏移の仮面 |publisher = 早川書房 |year = 1980 |pages = 9,10 |isbn = 978-4-15-010387-3}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ; 注釈 {{Reflist|group=注}} ; 出典 {{Reflist}} == 関連項目 == * [[短い20世紀]] * [[アメリカの世紀]] * [[年表]] * [[明治]] * [[大正]] * [[昭和]] * [[平成]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20160918060240/http://www.c20.jp/index.html クリック20世紀] * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 20 | 年代 = 1900 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:20せいき}} [[Category:20世紀|*]] [[Category:ポストモダニズム]]
2003-02-14T03:40:19Z
2023-09-19T13:02:41Z
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